この小さな世界で愛を語ろう (3号機)
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Chapter1「失われたもの」

しばしお付き合いいただけましたら幸いです。


 三年前――、

 

 愛知県名古屋市。

 

 

 

 

 

 胸元に、震えを感じた。

 

 目線を落とすと、ネック・ストラップの先端にくくりつけておいた社用の携帯電話が、着信の知らせに震えていた。

 

 キーボードを叩く作業を中断し、電話機を手に取ってフリップを開く。

 

 四・二インチの液晶画面に表示された名前を見て、鬼頭智之は思わず顔をしかめた。

 

 伊藤謙介。

 

 四年前に別れた、元妻の父親だった。

 

 ――今更、何の用だ……?

 

 我知らず、電話機を握る手に力が篭もる。離婚の直接の原因は、妻の不倫だった。メッセージ・アプリを使った間男とのやり取りの履歴や、興信所の調査報告書など、彼女の有責を示す証拠は事欠かなかったにも拘らず、義理の両親はわが子に味方し、鬼頭を攻撃した。離婚は認めてやる。だが慰謝料はお前が払え。娘が別の男に走ったのも、どうせお前が寂しい思いをさせたからだろう。娘が不貞行為に及んだのは、お前の不甲斐なさが原因だ。

 

 それから、孫たちの親権は娘に渡せ。こういうものは、母親が優先されて当然なのだ。娘も、お腹を痛めて産んだわが子と離れたくない、と言っている。間男くんも、離婚後は娘と再婚して、自分の家族として彼らを迎えたい、と言ってくれている。新しい父親に早く慣れてもらうためにも、面会は許さない。孫たちにとって、お前は邪魔なんだ。どこかに消えてくれ。ただし、養育費は毎月きちんと納めるように。それぐらいの義務は果たせ。

 

 不倫の事実を知った日から、鬼頭の腹は離婚の方向で決まっていた。しかし、慰謝料の問題と、子どもたちの親権については納得しかねた。妻と間男の関係は婚前どころか鬼頭と出会う以前から続いていたし、相手の男との逢瀬のために、彼女はしばしば子どもたちを犠牲にした。

 

 あるときなどは、インフルエンザに罹り、高熱に苦しむ六歳の息子をひとり家に置いて、間男とのデートに嬉々として向かったという。後からそれを知って、自分と彼女を殴りたくなった。当時の自分は、きっと妻が献身的な看病をしてくれている、と思い込み、一刻も早い帰宅を、と仕事に励んだ。残業を断り、飲みの誘いも断って真っ直ぐ家に帰ると、妻は少し疲れた様子で息子の枕元に座っていた。そのときは、

 

 ――つきっきりで看病してくれていたのか。俺はなんと幸せな男だ。こんなにも素晴らしい女性を妻に持てたのだから……。

 

 などと、感動したが、真実は違った。妻が疲れた顔をしていたのは、間男との行為で疲弊したからであり、家に帰ったのも、鬼頭が到着するほんの十分前のことだった。狡猾にも彼女は、息子と、彼の妹にきつく口止めをしていた。その際に、暴力を振るったという。これも後から知ったことだ。このときは、

 

 ――俺はこんな女に、大切なわが子を任せていたのか。なんて愚か者なんだ!

 

と、後悔から頭を抱えた。

 

 こうした理由から、鬼頭は慰謝料の支払いも、親権の譲渡も拒んだ。こんな女に子どもたちは任せられないし、慰謝料だって払いたくない。そもそも、有責なのは向こうの方だ。慰謝料についてはむしろこちらに要求する権利があり、親権だって渡したくない。

 

 両者の意見は真っ向から対立した。話し合いでは解決せず、鬼頭夫婦の問題は、ついには裁判へと持ち込まれた。鬼頭が雇った弁護士は、「不倫の証拠も、育児放棄の証拠もこちらにあります。絶対に勝てますよ」と、力強く豪語した。

 

 しかし、鬼頭はこの裁判に敗れた。

 

 当時、日本でも台頭し始めていた女尊男卑の思想が、絶対に勝てるはずの裁判を必敗のものとした。

 

 鬼頭夫婦の問題を聞きつけた女性権利団体が、妻の支援をする、と表明したあたりから、歯車が狂い始めた。人権団体と個人的なつながりを持っていると噂される裁判長は、妻の有責を認めた上で、鬼頭に慰謝料の支払いと、親権の譲渡を命令した。判決を言い渡されたとき、頭が真っ白になった。背後で弁護士が激高し、裁判長の判断を痛烈に批判した。法律の正当性という軸で語る彼に対し、彼女は「奥様のこれからの生活を考えると、お金は必要です」、「やはり子どもは血のつながった母親のもとにいるべきでしょう」、「お子様たちの今後を考えると、面会も認められません」など、感情論をもって応じた。当然、鬼頭たちは上訴したが、裁判所はこれを棄却した。その一報を知らされた日、弁護士は落涙し、「すまない……。すまない、鬼頭さん!」と、鬼頭の肩を抱いた。鬼頭は多額の慰謝料と、子どもたちを奪われた。

 

 それ以来、彼女たちとはまともに連絡を取れていない。こちらからのアプローチは一切が拒絶され、唯一、養育費の振込の催促だけが一方的に送られてくるのみとなった。そんな日々が、もう四年も続いている。

 

 鬼頭にとって、かつて妻と呼んだ女性と、その家族は、もう二度と顔を合わせたくない、声も聞きたくない存在だった。

 

 そんな相手からの電話だ。彼の表情が忌々しげに歪むのも、無理からぬことだった。

 

 反射的に電源ボタンを押そうとする親指を、寸前のところでなんとか止める。二度と話したくない相手ではあるが、子どもたちの面会について考えを改めてくれたのかもしれない、という一縷の希望が、彼の親指を通話ボタンに誘った。

 

「どうした、鬼頭?」

 

 隣のデスクで書類を整理していた同僚の桜坂が、訝しげな表情で自分を見つめていた。

 

 はっ、として、「いや、なんでも……」と、答える。「ちょっと電話してくるよ」と、離席した。人気のない場所を求めて、廊下を彷徨う。相手が相手だ。通話中、感情をきちんとコントロール出来る自信がない。やがて非常階段に辿り着いた。人の気配はない。

 

 携帯電話は、ここに到着するまでの間にすでに三十コール以上、鳴らされていた。

 

 本当に何の用だろうか、と鬼頭は通話ボタンを押した。

 

「鬼頭ですが……」

 

「と、智之くんか!? よかった、やっとつながった。わたしだ。伊藤謙介だ!」

 

 受話口から聞こえた声に、思わず息を呑んだ。かつて父と呼んだ人の声は、たった四年でずいぶんと変わり果てていた。記憶よりも、ずっと老いている。たしかまだ六十歳を迎えて間もないはずだが……まるでいまにも消え入りそうな声ではないか。

 

「伊藤さん、いったい、どうしたのです? 」

 

「……鬼頭くん。落ち着いて聞いてくれ。いま、陽子ちゃんがウチにいるんだが……」

 

 ウチ、とは三重県伊賀市にある、元妻の両親が暮らす家のことだろうか。

 

 それよりも、聞き捨てならない名前に、鬼頭の胸が高鳴った。陽子。四年前に親権を奪われた、鬼頭の子ども。大切な双子の、妹のほう。今年で一二歳になる愛娘。

 

 まさか本当に面会について考え直してくれたのか。

 

 落ち着け、と胸の内で呟く。

 

 まだ、そうと決まったわけではない。そうじゃなかったときの落胆に備えて、平静さを保たねば。

 

「陽子が、どうかしましたか!?」

 

 予想していたよりもずっと浮かれた声が口から飛び出した。やはり人気のない場所を選んで正解だった。いまの自分はきっと、期待からとんでもなくだらしない顔をしているに違いない。事実、鬼頭の相好は崩れていた。

 

 しかし、そんな彼の表情はすぐに凍りついた。鬼頭の質問に、謙介はこう答えた。

 

「陽子ちゃんが、襲われた。相手は、いまの父親だ」

 

「…………」

 

 人気のない場所を選んで、正解だった。

 

 自分がいま、どんな顔をしているのか、考えたくもない。

 

「すまない! すまない、鬼頭くん! 四年前、きみにあれだけの暴言を叩きつけておいて、私は……私たちは……! 孫を、きみの娘を、守れなかった!」

 

 謙介の声に、嗚咽が混じり始めた。いまの父親、ということは、あの、間男か。いま、通話している人物が、娘との再婚を喜んだ、あの男か。

 

 携帯電話を握る手に、力が篭もる。今度は、意図して強く握った。

 

「……先ほど、ウチ、とおっしゃいましたが、そこは、伊賀上野のご実家ですか?」

 

「ああ、ああ、そうだ!」

 

「晶子は、いまはそちらに?」

 

「いいや、娘はいない。陽子ちゃんは、誰にも行き先を言わずに、私たちのところに来てくれたんだ。お母さんには自分の居場所を教えないでほしい、と言っている」

 

 離婚後、元妻は間男と再婚し、彼の実家のある三重県四日市市に子どもたちを連れて引っ越していった。

 

「晶子には、陽子がそちらに伺っていることは伝えましたか?」

 

「いいや。まだ、連絡も取っていない。陽子ちゃんからそうお願いされた、というのもあるが、私と妻とで話し合って、娘に連絡するのはやめたんだ。陽子ちゃんの話によれば、晶子は、彼女が父親に襲われたことを知っている。知った上で、彼女を家から追い出したらしい。よくも人の男を寝取りやがって、なんて言いながら、暴力を振るったそうだ」

 

「……分かりました」

 

 いつの間にか、電話に応じる鬼頭の声も震えていた。ただし、謙介のそれが悲しげなものなのに対し、彼の唇は憤怒から激しく震動していた。

 

「陽子がそこにいることは、絶対に、晶子には教えないでください」

 

「勿論だ。陽子ちゃんは、お父さんに……きみに会いたい、と言っている」

 

 面会権のことが思い浮かんだのは一瞬のことだった。娘の一大事だ。そんなもの、知ったことか。

 

「分かりました。すぐ、そちらに向かいます。ところで、智也は?」

 

 鬼頭は陽子の双子の兄の安否について訊ねた。父親が、娘を襲う。母親が、その娘を泥棒猫となじり、暴力を振るって家から追い出す。まともな環境とは到底言いがたい。可能ならば、彼も伊賀上野の実家に避難させたいが……。

 

「と、智也君は……」

 

 続く言葉が耳膜を叩いた瞬間、鬼頭は絶叫した。

 

 全身、これ炎と化した烈火の怒りで、鼻腔から、ばっ、と鮮血が迸った。鞏膜の毛細血管が音を立てて切れ、目尻から幾条もの血が流れ落ちる。

 

「……すぐにそちらに向かいます」

 

 阿修羅の形相で、言葉短く答えると、通話を切った。

 

 もはや人の目を気にする心の余裕など、彼にはなかった。

 

 廊下を駆ける彼とすれ違った者は等しく悲鳴を上げ、恐怖から身をすくませ、いったい何事か、と茫然と立ち尽くした。

 

 オフィスに戻ると、最初に、女子社員たちが悲鳴を上げた。パソコンの画面と睨み合いをしていた部長が異変に気づき、顔を上げる。血まみれの顔面の鬼頭を見て、絶句した。

 

「鬼頭、お前、それ、どうした!?」

 

 同じくパソコンとの睨み合いをしていた桜坂が立ち上がった。

 

 指摘され、鬼頭はようやく自分の顔が朱色に濡れていることに気がついた。しかし、いまはそんな些末なことに構っている暇はない。

 

 彼は真っ直ぐ部長のデスクを目指した。大学時代にアメフト部でラインマンを務めたという部長は、いまでも身長一八五センチ、体重九十キロになんなんとする、堂々たる体躯の持ち主だ。その彼が、怒れる鬼頭の迫力に圧倒され、身を縮まらせていた。

 

「……部長、申し訳ありませんが、今日はこれで早退させていただけないでしょうか?」

 

「き、鬼頭? いったいどうしたんだ?」

 

 思春期の少女の、繊細な部分に関わる話だ。詳細についてはぼかしながら、鬼頭は事情を説明した。すると、部長の一八五センチの体躯にまた活力が漲った。彼もまた、二人の子を持つ父親である。部下たちの手前、怒りの感情を表に出すまい、と腹に力を篭め、喉奥をぐっと締めて、なんとか平静さを保った声で鬼頭に語りかけた。

 

「分かった。お前はもう、帰っていい。いますぐ、娘さんのところに行ってやれ」

 

「鬼頭!」

 

 かたわらで鬼頭の話を聞いていた桜坂が、険しい表情で肩を叩いた。こちらも部長に劣らぬ六尺豊かな大男だ。

 

「途中やりの仕事と、今日中に終わらせなきゃいけない仕事、可能な限り俺に回せ」

 

「桜坂……、すまない」

 

「いいって。……伊賀上野だと、電車より、車のほうが早いな」

 

 地図上では百キロメートル程度しか離れていない名古屋と伊賀上野だが、電車を使うと三時間近くかかる。JRを最低でも二度乗り換えねばならない。これに対し、自動車なら高速道路を使えば一時間半程度で辿り着ける。勿論、渋滞状況にも左右されるが。

 

「お前、いま、マイカー通勤じゃなかったよな?」

 

「ああ」

 

「一旦、家に戻って車を出すのも時間が勿体ない。俺のカムリを使え」

 

 そう言って、桜坂は鬼頭の掌にスマートキーを握らせた。

 

「従業員駐車場の八番にとめてある」

 

「鬼頭さん」

 

 今年、新卒で入社したばかりの桐野美久が濡れタオルを差し出した。

 

「娘さんとお会いになるんですよね? なら、せめて顔の血を拭いていってください」

 

「ああ。……桐野さんも、桜坂も、本当にありがとう」

 

「恩に感じてくれるなら、今度、虎屋の羊羹でも奢ってくれや。……急げ、鬼頭」

 

 同僚たちに見送られて部屋を出た。地下駐車場の従業員用エリアへ急ぎ、八番のスペースを探す。同僚の愛車はすぐに見つかった。鋭い目つきの青いカムリが、主の帰りを静かに待っていた。

 

 コクピットに乗り込む。カムリを運転するのは初めての経験だが、鬼頭の普段の愛車はプリウスだ。同じメーカー製とあって、内装の基本レイアウトは大差ない。スイッチ類の操作で迷うことはなかった。スタートボタンを押し込む。システム総出力二一一馬力の心臓が、静かに鼓動を再開した。二眼メーターの間に設けられたインフォメーション・ディスプレイに火が灯る。

 

 伊賀上野までの道のりは憶えている。かつては、一年のうちに七、八回は通った道だ。

 

 ハンドルを握ると、その頃の記憶が否応なしに甦る。

 

 当時の愛車はアクアだった。助手席に智也を、後部座席に晶子と陽子を乗せて義理の両親の家へと向かう道程は、それは楽しい時間だった。早くお爺ちゃんに会いたいなあ、と笑いかけた智也の顔は、いまはかたわらにない。

 

 ――どうしてだ……? どうしてこんなことに……!?

 

 愛娘の待つ家へと急ぎながら、鬼頭は妻と離婚することになった経緯……彼にとっての屈辱の記憶を思い返した。

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

 

 

 

 

 鬼頭智之は一九八一年、時計ディーラーの鬼頭大作と、その妻清香の間に生まれた。

 

 鬼頭の姓が示すように、一族はみな名古屋生まれの名古屋育ち。修行のため二、三年他の土地で暮らすことはあっても、結局はみんな故郷に戻ってきてしまう。この件について、父・大作は、「典型的な名古屋人の血族なんだな」と、少年時代の鬼頭によく笑って聞かせた。

 

 祖父の鬼頭浩は時計職人だった。一九一五年生まれの彼は、旧制中学校を卒業するやすぐに上京。当時の服部時計・精工舎の門を叩き、そこで時計作りのノウハウを学んだ。終戦後、名古屋に戻った浩は自分の店……鬼頭時計店を開いた。小さいが工房を併設した店で、時計の販売だけでなく、修理や、オーダーメイドも請け負った。

 

 大作は幼い頃から父の工房に入り浸り、長じてからは自らも時計作りを飯の種にしたい、と志向するようになった。しかしながら、彼は父の手先の器用さを受け継いでいなかった。それでも時計に携わる仕事がしたい、と願った大作は単身渡米し、アメリカ流の最新のマーケティング理論とマーチャンダイジング論を学んだ。帰国後、父に鬼頭時計店の経営を任せてほしい、と請うた彼は、それが認められるや、時計店の売上を指数関数的に拡大させていった。

 

 そんな父と、祖父の背中を見て育った鬼頭は、当然、自らも時計の世界を志向した。隔世遺伝によるものか、祖父の手先の器用さを受け継いでいた彼は、一五歳のある日、将来は時計職人になりたい、と語った。

 

 しかし、父と祖父は揃って反対の意を示した。父は経営者の視点から、祖父は時計職人としての経験則から、時計産業の将来について暗い見通しを語って聞かせた。

 

「他ならぬ日本人が時計産業を駄目にしてしまった。クォーツ時計のせいで、アメリカの時計職人はみんなお払い箱だ。このムーヴは、いずれ日本にも返す刃となって、振り下ろされるだろう。

 

 それから、携帯電話だ。いまは流行り物が好きな連中や、ビジネスマンだけの玩具だが、近いうちに、日本人みんなが持つようになる。それぐらい、便利な代物だ。携帯電話が普及したら、時計はいらなくなる」

 

「そもそも、時計産業の将来は、広島に原爆が落ちたあの日に決まってしまったんだ。アインシュタインは時間の相対性を唱えた。分かるかい、智之? 時間が不確かなものなら、時計にいったい何の意味がある?」

 

 一五歳の鬼頭の目の前で、二人の暗い面持ちで嘆いた。自分たちは、そのことに気づくのが遅かった。今更、この生き方は変えられない。けれどお前には、時代遅れの道を歩んでほしくない。二人は鬼頭の手先の器用さを褒め、その才能をもっと別な道で活かすよう提案した。

 

 一八歳のとき、鬼頭は父と同じ道を進んだ。海外への留学だ。時計職人の道を諦めた鬼頭だったが、手先の器用さを武器に、何かモノ作りを生業としたい、と考えた彼は、工学の分野で世界最高峰の大学の一つであるマサチューセッツ工科大学に進学した。いまだ具体的な将来像を持てぬ自分だが、どんな世界でも通用する、最高レベルの技術と知識を得たいと考え選んだ道だった。

 

 後に同僚となる桜坂とは、大学の入学式のとき出会った。彼もまた、モノ作りを志向し、そのための技術と知識を得るべく海を渡ってきた男だった。初めての一人暮らしが海外という心細さも手伝って、鬼頭はこの同じ日本人留学生に親近感を抱いた。二人は親友となり、やがて一つの部屋で暮らすようになった。今風に表現すれば、ルームシェアというやつか。

 

 二〇〇一年九月九日、新聞を読んでいた桜坂が悲鳴を上げた。何事かと訊ねると、「マスード将軍が殺された!」という返答。それは誰かと重ねたて問うたら、「アフガニスタンの政治家だよ」。

 

「アフガンの最後の希望だった。その人が暗殺されたんだ。近いうちに、何か起こるぞ」

 

 桜坂の予言は、僅か二日後、成就した。

 

 二〇〇一年九月十一日、未曾有の悲劇がアメリカを襲った。三千人が犠牲になり、世界のどこかで、血濡れた手を天高く突き上げる者たちの歓声が響き渡った。

 

 事件の翌日、二人はワールドトレードセンターがあった場所へと車を走らせた。野次馬根性が半分と、自分たちにも何か出来ることはないか、と若き義侠心に突き動かされて、彼らは周りの反対を振り切ってニューヨークに向かった。当然、途中の検問で引っかかり、現地の土を踏むことは出来なかった。とぼとぼ、とアパートに帰宅した二人が、テレビのチャンネルをひねると、灰色の空を仰ぎながら、懸命に救出作業を続ける、世界で最も勇敢で、偉大な男たちの姿が映じていた。

 

 ああ、と得心した。自分の進むべき道、真に作りたい物の形が見えた。

 

 救助活動の現場で、彼らの助けとなるパワードスーツ。

 

 勇壮なる男たちに、死の恐怖に怯える人たちの所在をいち早く把握する目と、どんな悪路もものともしない機動力、そして何十トンもあろう瓦礫を軽々はねのけるだけの膂力を与えるシステム。

 

 桜坂にそれを語ると、「奇遇だな」と、同調してくれた。

 

 二人はそれまで以上に勉学に励んだ。MITという世界最高の環境で学び、研究し、実験して、形とした。二人が共同で作ったパワードスーツの試作型は、いま振り返ってみると玩具のような代物だったが、当時においてそれは、二十歳そこそこの学生が、限られた予算と資材の中で作ったとは思えぬほど革新的で、洗練されていた。二人はその功績をもって、学年首席と次席の栄誉を得た。

 

 大学卒業後、鬼頭と桜坂は米国の数多の企業からの勧誘を蹴って帰国した。鬼頭は名古屋に。桜坂も故郷の千葉県は九十九里に。しかし二人は帰国後も連絡を取り合い、やがて二人一緒に、名古屋市名東区に本社を置くロボットの総合メーカー……〈アローズ製作所〉の門を叩いた。就職先にロボット産業を選んだ理由は勿論、二人の夢であるパワードスーツを開発し、世に広く普及させるため。あえて日本のメーカーにこだわった理由は、パワードスーツの技術を軍事転用されないためだ。

 

 アメリカ留学時代、二人を勧誘した企業の多くは軍需産業とのつながりを持っていた。予算の規模や環境は断然、あちらの方が秀でていたが、それと引き換えに、彼らは二人の研究成果を軍事の分野にも提出するよう求めた。9・11の衝撃からパワードスーツ開発を志した鬼頭らだ。自分たちの作ったパワードスーツ――たとえ技術の一部にすぎなかったとしても――が、誰かを傷つけるために使われる未来を想像すると、首肯することは出来なかった。

 

 〈アローズ製作所〉の当時の社長は、鬼頭らの志を認めつつも、「実績がない現状では、会社の予算で、そんなパワードスーツの開発をやらせてはあげられない」と、二人の履歴書を突き返した。米国アカデミーでは有名な鬼頭たちも、日本のビジネスの世界ではまだ無名だった。

 

 翌日、二人は例の試作型パワードスーツの技術を応用した介護用ベッドのスケッチを持参して、再び会社の門を叩いた。

 

 スケッチに目を通した社長は驚いた。二人のデザインしたベッドは、競合他社の主力商品よりもずっとハイ・パワーでありながら、変形時の振動と静粛性にも優れ、おまけに、底部に搭載したロボットが寝ている人間のバイタル・チェックまでしてくれる、という画期的な商品だった。それでいて、部材のほとんどを〈アローズ製作所〉の既存の生産ラインで製造可能な物としており、製造コストの増加を最小限に抑える配慮までなされていた。

 

「このベッドなら、五年保証を付けた上で、三モーター式で二十万円前後での販売が可能です」

 

 工学の他に、趣味で経済学――特にマーケティング理論――を学んだ桜坂は、自信に満ち満ちた表情で言い放った。当時、介護用ベッドは他社の三モーター式ベッドの高級モデルが二五万円前後だったから、十分、勝負出来る価格帯と踏んでいた。

 

 社長は苦笑しながら、二人の履歴書を受け取った。

 

 めでたく〈アローズ製作所〉の社員となった二人は、いずれパワードスーツの開発を自由にやらせてもらえる日を夢見て、様々な製品の開発・設計に励んだ。

 

 鬼頭が伊藤晶子と出会ったのは、入社後四年目……彼が二六歳のときのことだった。

 

 きっかけは、高校時代の知人が主催する合コンだった。員数合わせのつもりで参加したテーブルに、彼女がいた。

 

 晶子は、美しい女だった。当時二一歳の女子大生。切れ長の双眸と、圧倒的なボリュームのバストにまず目を奪われた。店内が暑いから、とカーディガンを脱いだ際に露わとなった細い肩は透き通るような白さで、鬼頭はまだ料理も並べられていないうちから、思わず喉を鳴らしてしまった。容姿だけでなく、所作の一つ一つまでもが可憐であり、男心をくすぐる魅力に満ち満ちていた。

 

 いま思えば、それらは彼女なりの生存戦略によるものだったのだろう。結婚してから気づいたことだが、晶子は自立心に乏しく、反対に依存心の強い女だった。実際の年齢よりも大人びた美貌も、愛玩動物としての愛らしさを演出するためのものにすぎない。彼女は、自分が一人では生きていけないことを知っていた。だから、庇護者を求めた。

 

 晶子は自分を護ってくれる男性の存在を探す嗅覚に優れ、また、彼らの気を惹く手練手管に長けていた。

 

 当時の鬼頭はまんまとその色香に惑わされた。一目で恋に堕ちた。知人が不注意からビールを彼女の左手にこぼしてしまったのを見て、彼は胸の内で快哉を叫んだ。よくぞやってくれた。これで、彼女とお近づきになれるかもしれない。

 

 鬼頭は晶子の左手首に巻かれたプロミネンテ・クラシコを指差して、「直せるかもしれない」と言った。職業としては時計の道を諦めた鬼頭だったが、趣味の範疇で時計弄りは続けていた。学生時代、彼が最もはまった玩具は、バルジューの7750ムーブメントだ。汎用ムーブメントが相手なら、大抵の物は完璧な修理をこなせる自信があった。

 

 当時の鬼頭は、恋の熱病に冒され、正常な思考力を失っていた。ちょっと考えれば、「学生が身につける時計にしては少し高価すぎないか?」とか、「誰からもらった時計なんだ?」など、疑問点はいくらでも見い出せたはずなのに……。

 

 とにかく、鬼頭は晶子と一ヶ月後にまた会う約束を取り付けた。それからの彼は毎日、仕事が終わるとすぐ実家に足を運び、祖父の時計工房に入り浸った。ETAのムーブメントは繊細な造りで、修復には苦労したが、なんとか、完璧に仕上げることが出来た。約束の日、彼は時計を渡すと同時に、彼女をデートに誘った。

 

 およそ二年間の交際の後、鬼頭は晶子と結婚した。この頃になると、鬼頭も晶子の身に纏わりつく別の男の匂いに気づいていた。しかし、結婚を機に、そうした過去は精算してくれるだろうと信じていた。そんなくだらないことに固執するよりも、前を向こう。二人のこれからの生活のため、そして親友との夢のために、いっそう気合いを入れて頑張ろう。己自身に、そう、強く誓った。

 

 だが、晶子にとって“彼”は、終わってしまった過去などではなく、いまなお続く現在だった。彼女の立場からしてみれば、自分を護ってくれる男は、一人よりも、二人のほうがよかった。晶子は結婚後も、間男との関係を続けていた。

 

 

 結婚して一年後、鬼頭夫婦は新たな家族を迎え入れた。双子を産む痛みに、晶子はよく耐えてくれた。澎湃と涙しながら抱き上げた小さな命に、智也、陽子の名を贈った。

 

 三十歳になる年の三月十一日、東日本大震災が起こった。炎の舌にしゃぶられる家々、津波に蹂躙される街並みをテレビモニターで眺めながら、そっと家族を抱きしめた。腕の中のぬくもりを、愛おしく思った。

 

 三・一一から四年後、篠ノ之束という十四歳の少女がISを発表した。正式名称“インフィニット・ストラトス”。宇宙空間での活動を想定して開発された、マルチフォーム・スーツだ。もっとも、あれから七年経った現在では、そうカテゴライズする者は少ない。一般には、飛行パワードスーツと分類されている。

 

 発表直後、桜坂と二人、「やられた!」と、嘆いた。自分たちの夢……災害用パワードスーツ開発の先を越されてしまった、と感じた。しかしすぐに気を取り直した。篠ノ之束が得意げに披露したISの性能は、よくぞこれほどのものを、と技術者として嫉妬を禁じえぬほど素晴らしいものだったが、その有り様は、自分たちの理想とはかけ離れていた。

 

 特に気に入らなかったのは、女性にしか使えない、という汎用性のなさと、発表当時の篠ノ之束の紹介の仕方だ。彼女は、『現行兵器全てを凌駕する』と、言った。開発者自ら、ISを兵器と位置づけたのだ。

 

「鬼頭……」

 

「ああ……。これは、俺たちの作りたいものじゃない」

 

 二人はISに使われている各種の技術については絶賛したが、存在そのものについては嫌悪した。

 

 IS発表から一ヶ月後、白騎士事件が起こる。この日、世界はたった一人の少女の前に敗北した。世界の有り様が、変わり始めた。

 

 IS発表から二年後の二〇一七年、祖父の浩が亡くなった。享年一〇二歳の大往生だった。

 

 さらに一年が経った二〇一八年、鬼頭は晶子の不倫の事実を知った。

 

 その日、鬼頭はいつもよりも早く仕事を切り上げ、帰宅の途についていた。新たに発足した義肢装身具の開発プロジェクトの進捗は順調だった。この日も、可動部に組み込むベアリングの値下げ交渉が上手くいったことで、彼は晴れやかな気持ちで家路を急いだ。

 

 近道をしようとホテル街に立ち寄ったのがいけなかった。妻が、見知らぬ男と親密そうに身を寄せ合い、ホテルの中に消えていく姿を目撃した瞬間、めまいがした。

 

 すぐに妻の携帯電話に電話をかけるも、応答はなかった。電子メールや、メッセージ・アプリを使っても反応はなし。仕方なく、鬼頭は帰路を急いだ。一時的な低血圧状態に陥ったのを自覚しながら、もつれる足で、家族の待つ家へと急いだ。

 

 ――あれは見間違いだ。他人の空似だ。きっとそうだ。晶子のわけがない。だってそうだろう? この時間、彼女は子どもたちと一緒に、家で夫の帰りを待っているはずなんだから。

 

 自分で自分を誤魔化しながら辿り着いた我が家に、しかし、妻はいなかった。腹が空いたと訴える双子の兄妹に晶子の所在を訊ねると、買い物に行っている、とのこと。

 

「いつもこの時間なんだ。今日はもう、二時間ぐらい家にいないよ」

 

 智也の言葉に、また視界が暗くなった。近所のスーパーまでは、歩いて七、八分の距離だ。二時間も留守にする理由はない。それに、いつも、とは……。そんなに頻繁に、二人は会っているのか。

 

 それでも妻を信じたい鬼頭は、彼女の帰りを待った。晶子は普段通りの態度で、「ただいま」と、鬼頭に笑いかけた。彼女の入浴中、悪いとは思いながらも、携帯電話を検めた。幸いというべきか、迂闊となじるべきなのか、ロックはされていなかった。失望した。

 

 翌日、会社に一本電話をかけた。どうにも体調が優れない。病院に行ってから出社します。部長は快く受け入れてくれた。フリーになった午前中に、興信所を探した。

 

 探偵たちの仕事ぶりは素晴らしかった。彼らはものの一ヶ月で不貞の証拠を入手し、相手の男の素性について調べ上げた。とある運送会社の課長職。結婚はしておらず、両親とはすでに死別している。鬼頭よりも五歳年上で、晶子とは十歳もの年齢差があった。

 

 おぞましいことに、彼が晶子を見初めたのは、彼女が十三歳のときだったという。彼女が彼にあらゆる初めてを捧げたのは、十四歳の誕生日を迎える前日の晩のこと。これらの事実は、探偵たちでも調べきれなかったことだ。後に彼女自身の口からそれを聞かされて、吐き気を催した。強い憤りを感じた。このロリコン野郎め、と。プロミネンテ・クラシコをプレゼントしたのは十六歳の誕生日だったと聞いたときは嘲笑った。酷い趣味だ。ティーンエイジャーには似合わないだろう、と。

 

 間男との不義密通、さらには子どもたちに対するネグレクトを証明するのに十分な質・量の証拠が集まったと踏んだ鬼頭は、離婚のため具体的に動き出した。興信所から、離婚問題に強いと評判の弁護士を紹介してもらうと、妻の有責を明らかにした上での離婚と、子どもたちの親権をこちらで掌握出来ないか相談した。

 

「離婚については九九パーセント、親権についても九十パーセントの確率で、鬼頭さんの願う結果になると思いますよ」

 

 弁護士歴十五年の堂島剛一は力強く言ってくれた。間男の家と会社、妻の実家に内容証明郵便を送った。晶子に対しては直接、鬼頭と代理人に立てた堂島氏の口から不倫を糾弾し、離婚と親権を求めた。慰謝料は、晶子と間男に対して各々三〇〇万円。不倫の期間が十年近くに及んでいたことを踏まえると、これでも安すぎるぐらいだろう、と思った。

 

 晶子は、夫を激しく罵った。鬼頭も妻を厳しく罵った。なぜ、こんなことをしたのか。結婚以前についてはともかく、妻となった後もなんで……。晶子は、「だって、選べなかったんだもの。二人のことが好きだったんだもの」と、応じた。呆れた。

 

 晶子は、離婚には納得してくれた。しかし、慰謝料と子どもたちのことについては、どう考えてもおかしい、と調停での解決を拒否した。彼女の両親もそれに同調し、彼らの問題は家庭裁判所へと持ち込まれた。

 

 愛知県で最も有力な女性権利団体が晶子に接触してきたのは、この頃のことだ。

 

 白騎士事件の以前、フェミニスト団体の多くは、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの思想の強い影響下にあった。ボーヴォワール以前、各フェミニスト団体の間にはフェミニズムという概念の解釈について隔たりがあった。ある団体は、“違いを前提とした平等”を支持し、ある団体は、“男女は完全に同じ扱いを受けるべき”という具合だ。ボーヴォワールはそうした十九世紀型の第一波フェミニズムを過去のものとした。ボーヴォワールは自著『第二の性』において、“男性と女性が協力することでのみ、男女の役割を定義し直すことが出来る”と説いた。

 

 しかし、白騎士事件以降の女性解放運動の高まりは、こうした第二波フェミニズム以降の運動を過去のものとし、侮蔑の対象と唾を吐きかけた。ISは現代兵器全てを凌駕する。そのISを扱える女性は偉い。この考え方を前提とする新世代フェミニズム運動の影響下にある現代の女性権利団体は、力をもって男性から権利を奪ったり、自由を制限するといった特徴があった。鬼頭夫妻の問題は、そんな組織に目をつけられた。

 

 晶子は両親や彼女たちの同情を誘おうと、不倫に走った理由を、鬼頭が相手をしてくれず寂しかったから、と訴えた。団体は鬼頭を強く非難した。団体とのつながりが噂される女性判事は、鬼頭に慰謝料の支払いと、親権を晶子に渡すよう命令した。鬼頭たちが提出した不倫やネグレクトの証拠は、「興信所を使って得た証拠なんて信憑性に欠けるし、第一、こそこそ隠れてやるなんて男らしくないし卑怯」と、黙殺された。裁判の傍聴席に座る探偵も、唖然としていた。

 

「何が卑怯だ! いったいいつから、この国の司法はこんなにおかしくなった!?」

 

 堂島弁護士の怒声も虚しかった。

 

 子どもたちの、「お父さんと一緒に暮らしたい」という言も無視された。

 

 結局鬼頭は、晶子への慰謝料として五〇〇万円を支払わされた挙げ句、子どもたちの親権を奪われた。間男とは結婚することが決まり、晶子のこれからの生活を思えば、というふざけた理由で、間男への慰謝料の請求権を放棄させられた。この上さらに面会権まで取り上げられ、彼は身も心も大いに傷つけられた。

 

 裁判の後、彼は一時期自殺を考えた。

 

 愛した女に裏切られ、最愛の子どもたちまで奪われ、生きる希望を失っていた。

 

 かたわらで支えてくれる者がいなかったら、きっといま、自分はこうして生きていなかっただろう、と思う。

 

 当時、鬼頭は家庭の問題だから、と会社には離婚の話を伝えていなかった。しかし、日々顔色が悪くなっていく彼の異変に気づいていない者はいなかった。裁判の判決が下されて二日後の夜、自らは何も語ってくれない鬼頭の態度にとうとう痺れを切らした桜坂が、怒号とともに問いただし、真相を知って、涙ながらに彼を抱きしめた。気づいてやれなくてすまない。お前が辛い思いをしているときに、そばにいてやることが出来なかった。本当に、すまない……。彼がいなかったら、自分はきっと潰れていた。

 

 

 

 ……あれから、四年が経った。

 

 この四年間、鬼頭は晶子とのことを忘れたい一心で仕事に励んだ。その甲斐あって、いまでは部内でもそこそこの地位にあり、次の部長候補第一位と目されている。年収は飛躍的に上がったし、桜坂との夢の実現にも、着実に近づいている実感を得られた。

 

 ただ、子どもたちのことは常に胸の内にあった。もしかしたら向こうが面会権について考えて直してくれるかもしれない、という僅かな希望から、毎月十六万円の養育費の支払いも欠かさなかった。

 

 ――それなのに、晶子……! お前は、また……ッ

 

 俺を苦しめるのか。

 

 いや、俺ばかりではない。

 

 お前は、自分の血を分けたわが子さえも、苦しめるのか!

 

 カムリのハンドルを握る鬼頭は、まさしく鬼の形相で伊賀上野を目指した。

 

 

 

 

 晶子と、間男だったあの男が暮らす家では、気の休まる時間が皆無だったのだろう。

 

 精神的な疲労に加えて、今回の肉体的な苦痛。双方に苛まれた彼女は、祖父母に事情を伝え、「お父さんに会いたい」と訴えた後、眠ってしまったという。

 

 伊賀上野の伊藤家に到着した鬼頭は、案内された客間の戸をそっと開くと、中に踏み入れぬまま、廊下から室内の様子をうかがった。

 

 十六畳はあろう和室の真ん中に布団が敷かれ、小柄な少女が穏やかな寝息を立てている。

 

 四年ぶりに見る愛娘の寝顔を、鬼頭は哀しそうに見つめた。陽子の頬は紫色に腫れていた。

 

「頬だけじゃないんだ……」

 

 かたわらに立つ謙介が、震える声で言った。

 

「ここに来たとき、陽子ちゃんの服は汚れていたんだ。何日も洗濯していなかったみたいで……それで妻が、着替えさせようと服を脱がしたんだが……」

 

「他にも、アザが?」

 

 謙介は首肯した。四年前にはわが子に味方した彼だったが、孫を酷い目に遭わされて、正気に戻ったか。

 

「日常的に暴力を振るわれているみたいだった。それに」

 

「それに? それに、何ですか?」

 

「妻がね、言うんだよ。陽子ちゃんの体は、痩せすぎているって。ご飯もろくに与えられていなかったんじゃないかって」

 

 鬼頭は音を立てぬよう気をつけながら客間に入室した。陽子のそばまで歩み寄ると、その場でしゃがみ、粛、とした動作で毛布をめくる。ピンク色のパジャマに身を包んだ陽子は、なるほど、十二歳の子どもと思えぬほど小さく、そして痩せていた。鬼頭はそうっと毛布をかけなおした。

 

 ゆっくりと立ち上がった鬼頭は、謙介を見た。

 

 白髪混じりの老人が、ううっ、と怯えた表情を浮かべ、後ずさる。

 

「……それで、智也はどこに?」

 

 

 

 

 

 

 智也は、陽子よりもさらに小さかった。

 

 僅か十歳でこの世を去った少年の墓碑は、霊園でも特に日当たりのよい場所に建てられていた。

 

 冷たい墓石をそっと撫でながら、鬼頭は背後の謙介に訊ねた。

 

「智也の死因は?」

 

「事故死、ということになっている。家の階段から落ちたんだ」

 

「なっている?」

 

「旦那さ。あいつは智也君に日常的に暴力を振るっていた。突き飛ばした先に、階段があったんだ。虐待の末の殺人だよ。でも、晶子がそれを許さなかった。あの子が嘘の証言をしたせいで、智也君は、事故死として処理された」

 

 酒の席であいつ自身がそう言っていた、と謙介は補足した。

 

 なるほど、晶子は自分が護らなければならない存在より、自分を護ってくれる存在を優先したのか。そうか……。

 

「智也の墓は、なぜここに?」

 

「墓を建てるのは、晶子たちが嫌がったんだ。お金がかかるから、とね。共同墓所か、海でも散骨しよう、って言っていた。それを、私と妻で止めたんだ。私たちがお金を出すから、墓を建てさせてくれ、と。そうしたら、二人ともそっちに建ててくれ、って。四日市よりも、伊賀上野のほうが土地が安いだろうから、って」

 

「……結局、お金ですか」

 

 鬼頭の唇が、冷笑に歪んだ。

 

「こちらに連絡が来なかったのも、養育費の減額を恐れてのことか。結局、カネか!」

 

「すまない……すまない、鬼頭くん!」

 

「ッ!」

 

 炯々と輝く双眸が、兇暴な匂いを漂わせる。

 

「……この四年間、辛い思いをしてきました。愛した女に裏切られ、子どもたちを奪われて、何度も死にたいと思いました。自殺を考えたこともありました。それでも、今日までなんとか踏みとどまってこられたのは、支えてくれる仲間の存在と、なにより、子どもたちはいま幸せに暮らしていると思えばこそでした」

 

「鬼頭くん……」

 

「晶子は、俺の妻であることばかりか、智也たちの母親であることまで放棄しました。裏切られました。もう、あいつらに陽子を任せることは出来ません」

 

 鬼頭はスーツのジャケットのポケットに手を突っ込むと、プライベート用のスマートフォンを取り出した。電話帳から親友の名前を呼び出し、電話をかける。一コールが鳴り終わるよりも早く、受話口から聞き慣れた声が聞こえた。

 

「鬼頭か!? 陽子ちゃんの様子は!?」

 

「桜坂……」

 

 何よりもまず娘の身を案じ、訊ねてくれた親友には、感謝の念しかない。と同時に、悲しい気持ちになる。血のつながりなどない赤の他人は、娘のことを真っ先に心配してくれた。それなのに、母親であるはずのあの女は……。

 

「陽子を取り戻したい。頼む。協力してくれ」

 

 百キロメートルを隔てた向こう側で、息を呑む音が聞こえた。

 

 四年前、晶子と別れたときには口に出来なかった言葉。

 

 桜坂の声音が、嬉しさを孕んだ。

 

「応よ」

 

 その短い返答の、なんと力強く、頼もしいことか。

 

 彼の声を聞いていると、自然と目頭が熱くなる。

 

「お前は明日、有給を取れ。会社には俺から連絡しておく。いまは陽子ちゃんのそばにいてやれ」

 

「ありがとう」

 

「四年前にお世話になった弁護士は……」

 

「堂島剛一という方だ」

 

「分かった。連絡先を調べて、そっちにも一本、電話を入れておくよ。リベンジ・マッチだ。きっと、その人も乗ってくれる」

 

「今回は人が一人死んでいる……」

 

 口にして、彼とはもう二度と会えないことを改めて確認し、気分が落ち込むのを自覚する。屈託を放り捨てる気持ちで、かぶりを振った。この先に待つのは、戦いだ。落ち込んでなんかいられない。

 

「単なる親権の奪い合いじゃない。権利団体の連中も、口出しできまい。いや、させない」

 

「命題は、向こうの家庭は陽子ちゃんを育てるのに好適な環境ではない、ということの証明だ。いちばん手っ取り早いのは、彼女に病院に行って、診断書をもらうことだが……」

 

 沈痛そうな声に、鬼頭も頷いた。

 

「それは、最終手段にしておきたい。勿論、病院には連れて行くし、診断書も作ってもらう。いつでも、交渉のカードに出来るようにな。だが、使うかどうかは別問題だ」

 

「ああ。義理の父親からの性的暴行の立証なんて、十二歳の子どもには辛すぎる」

 

「出来れば、それ以外の虐待行為を理由に親権を取り上げたい」

 

「あとは養育費の不正受給だな。智也君が死んだ事実を知らせないで、二人分の養育費をせしめとったことを立証出来れば……」

 

「勝機はある」

 

 鬼頭はそこで一旦、言葉を区切ると、低い声で言い放った。

 

「あいつらには、地獄に堕ちてもらう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter1「失われたもの」 了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰も認めてくれない。

 

 こんなにも素晴らしい発明をしたのに、誰も褒めてくれない!

 

 なんで?!

 

 何がいけないの!?

 

 誰か、わたしを認めてよ。

 

 よく頑張ったね。すごいね、って褒めてよ!

 

 もっとわたしのことを、見てよ……!

 

 

 

 

 

「ISか……」

 

「素晴らしいな、これは」

 

「ああ」

 

「見ろよ、この細いシルエット。なんでこんなスマートななりで、超音速飛行が可能なんだ?」

 

「パワープラントもどうなっているのやら……。見たところ、エンジンに相当する部分や、バッテリーの類いは見受けられないが……」

 

「コア、ってやつから、直接供給されているのか?」

 

「そうだとしたら、いったいどれほどの出力なんだ!?」

 

「常にエネルギーフィールドを展開していて、超音速飛行も可能で、おまけに荷電粒子砲などのエネルギー兵器の運用も可能……。うん。とんでもない出力だわ」

 

 

 

 

 

 ……いた!

 

 わたしの発明を認めてくれる人がいた!

 

 嬉しい! 嬉しい!

 

 この二人なら……、

 

 この二人ならきっと、わたしのことを……!

 

 

 

 

 

「……だが、これは違うな」

 

 

 

 

 

 ……え?

 

 

 

 

 

「ああ。これは、俺たちの目指すモノじゃない」

 

 

 

 

 

 なんで……?

 

 

 

 

 

「モノは素晴らしいんだがなあ……」

 

「ああ。惜しいなあ。でも、デザイン・コンセプトというか、哲学がなあ……」

 

 

 

 

 

 ……ふうん。

 

 そっかそっか。

 

 わかったよ。

 

 あなたたちがそう言うのなら、

 

 

 

 

 

 絶対に認めさせてあげる。

 

 

 

 

 

 



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Chapter2「眼差しの先に」

第二話です。
最後に本編キャラが顔見せ程度に登場。
本格的な活躍は次話以降の予定です。


2019/4/26 修正。
現在執筆中のChapter3の内容と整合性を取るため、最後のシーンを 一ヶ月と一週間前 → 一ヶ月前 に変更しました。



 一ヶ月と三週間前――

 

 愛知県名古屋市。

 

 

 

 

 

 

 

 左手首のボーム&メルシェが、午前六時の到来を知らせた。

 

 二月の早朝にも拘らず、新幹線のホームには多くの人の姿があった。ほとんどはビジネスコートを着込んだ企業戦士たちだが、学生服を着た少女らの姿も目立っている。彼女たちのかたわらには、例外なく何人かの大人が立っており、親しげに言葉を交わしていた。頑張ってきなさいよ。大丈夫、きみならきっと受かる。そんな声を耳にする。

 

 ――彼女たちも、そうなんだろうな。

 

 中学校三年間の総決算。高校受験最後の戦い。そんな一世一代の大勝負に挑むに少女たちと、その見送りに駆けつけた大人たちだろう。

 

 鬼頭智之はそんな彼らを微笑ましい気持ちで眺めた後、さて自分も親の務めを果たさねばな、と自身のかたわらに寄り添う少女を見た。

 

 学校指定の紺色コートにオレンジ色のマフラー、毛糸の手袋と完全防備の陽子は、険しい面持ちでホームの電光掲示板を睨んでいた。

 

 東海道新幹線ひかり500号の到着まで、あと二十分ほどもある。いくら睨んだところで新幹線の発着時刻が縮まるわけもないが、まだかまだか、という急く気持ちから、そうせずにはいられないのだろう。

 

「緊張しているか?」

 

「少し……。ううん、ごめん、嘘。かなり緊張してる」

 

 鬼頭のほうを向かぬまま、陽子は応じた。

 

 震えの理由は寒さばかりではあるまいと思っていたが、やはりそうだったか。よく見れば、顔色も優れない。

 

 無理からぬことだ。陽子がこれから挑む相手は、凡百の学校ではない。最強兵器ISの操縦者の育成を主目的とする、世界で唯一の教育機関……特殊国立高等学校〈IS学園〉の入学試験なのだ。

 

 十年前に篠ノ之束がISを発表し、その一ヶ月後に白騎士事件が起こって以降、世界のあり方は急速に、そして大きく変わった。ISの発表時に開発者が口にした、「ISは現行兵器全てを凌駕する」ことが証明され、世界の軍事バランスは崩壊した。それに伴い、人々の価値観・思想さえもが変革を余儀なくされた。

 

 最強兵器ISは、女性にしか扱えない。すなわち、女性こそが明日の世界を牽引する主体となるべき存在である。現在の女尊男卑社会は、ISの存在があってこそ成り立っている、と評しても過言ではない。それだけに、IS操縦者は現代社会において他のどんな職業よりも崇敬されている。

 

 IS学園は、そんなISを扱うための知識と技術を専門的に学べる、世界で唯一の教育機関だ。世界中の才媛が我も我もと殺到する上に、国立ときている。その運営費は日本国民から巻き上げられた税金によって賄われており、それゆえ、教育に妥協は一切許されない。ちょっとでも資質に欠ける者、僅かでも努力を怠る者のために、国民の血税を無駄遣いするわけにはいかない。

 

 当然、入学すること自体が狭き門であった。その倍率は、記念受験を除いてなお、二百倍といわれている。安易な励ましの言葉は、口にするのも憚られるほどの、強大すぎる相手といえた。

 

「正直、吐きそう。すっごく、逃げたい」

 

 受験生とは孤独な生き物だ。周りがどんなに手厚くサポートしたところで、結局、試験当日は我が身一つをもって、未知なる敵に立ち向かわなければならない。

 

 はたして自分は勝つことが出来るだろうか。もしも相手に、これまでの積み重ねが一切通用しなかったとしたら……。

 

 恐怖から身がすくんでしまう彼女を、いったい誰が咎められようか。

 

「……懐かしいな」

 

 無責任な励ましの言葉は、いまの彼女には何の慰めにもならない。

 

 そう考えた鬼頭は、自分の経験を語ることにした。かつて自分も同種の問題と対峙し、苦しんだこと。それをどう乗り越えたかを語ることで、ちょっとでも彼女の気が楽になれば、と思った。

 

「もう二十年以上昔のことだ。父さんも、入学試験の当日の朝は、同じだったよ。もっとも、父さんの場合は大学受験のときだったが……」

 

 ISの登場は学問の世界にも大きな影響を及ぼした。大学ランキングの上位陣の顔ぶれは軒並み変更され、文系の分野では女性解放運動の研究に熱心な大学が、理数系の分野ではISに関連する技術の研究・開発に力を入れている学校の名前が常連となった。

 

 そんな時勢の中でも、鬼頭の母校は、高名かつ難関校という評価を堅持することに成功していた。

 

 MITはいまでも世界屈指の理工系の大学であり、倍率は十三倍という高水準を維持し続けている。海外からの留学生のみに限っていえば、倍率は二六倍超。毎年四千人が受験して、合格するのは僅かに一五〇人以下。

 

 勿論、高校受験と大学受験とでは状況が異なるし、IS学園とMITとでは、学校としての色が違いすぎる。とはいえ、父もまた自分と同様難関校に挑んだという事実は伝わっただろうし、その姿もぼんやりとイメージ出来たはずだ。

 

「当時の俺は若く、血気盛んで、自分は万能の存在である……みたいな、何の根拠もない自信を抱いていた。よせばいいのに、どうせこれから通う大学だ。ちょっくら学友になるかもしれない奴らの顔を見てやろう。なんて浅はかに考えて、入試は現地で受けることを選んでしまったんだ」

 

 試験当日、鬼頭の顔面は蒼白に彩られた。

 

 世界最高峰の大学。その狭き門をくぐらんと、アメリカ中から、そして世界中から集まった数千からの若者たちが隊伍をなしていた。

 

 ――俺はこいつらと戦い、勝たねばならないのか!

 

 数の暴力という圧倒的なビジュアル・インパクトに頭を殴られた。

 

 前日までの自信は一瞬で消失し、全身の血流が乱れ狂うのを自覚した。

 

 急に気分が悪くなり、何度もトイレに駆け込むはめになった。

 

 糞尿のへばりついた便器に向かって嘔吐しながら、鬼頭はこの上ない惨めさを感じた。

 

「それでどうしたの?」

 

 自分と同様、体調を崩してしまうほどの不安と恐怖に襲われた過日の父。けれど、目の前に立つこの人はそれらに打ち勝ち、見事、世界屈指の難関校の校門をくぐる権利を手に入れた。いったい、どうやって恐怖を克服したのか。荒れ狂う心の手綱を、どう制御したのか。

 

 期待の篭もる眼差しに見つめられた鬼頭は、しかし、ゆっくりとかぶりを振った。

 

「べつに何も。恐い気持ちは抱えたまま、試験に挑んだよ」

 

 恐怖を克服するための裏技なんてものは存在しない。薬物やアルコールの力を借りて、一時的に忘れることは出来ようが、そんなのはただの誤魔化しだ。本当の意味で勝ったとは言いがたい。

 

 自分の中の恐怖という怪物を真に殺しうるのは、唯一、勇気という剣だけだ。

 

 そして勇気は、恐怖を認め、素直な気持ちでそれと向き合うことの出来た者だけが手にできる宝物だ。自らの恐いという感情を否定し、目をそむけ、逃げようとする者には、決して手に入らない。

 

「人は苦境に立ったとき、恐怖や不安を感じてしまうが、だからこそ生き抜こうと力を発揮するんだ」

 

 だから、と鬼頭は陽子の頭に手を置いた。優しい手つきで撫でさする。八歳から十二歳までの間、満足に食事を得られなかった後遺症からか、彼女の身長は同年代の平均と比べてもうんと低い。一七五センチの鬼頭とは、三五センチもの差がある。

 

「いま感じているその恐いという気持ちを、恥と思わないことだ。その緊張の震えが、お前に力になってくれるさ」

 

 強がる必要はないし、無理に緊張を殺そうと努力する必要もない。恐いという感情を認めた上で、自然体でぶつかっていけばいい。鬼頭はそう呟いて、微笑んだ。陽子は「ん……」と、小さく頷いて、鬼頭の手をしばらく受け入れていた。

 

 左手首のボーム&メルシェが、午前六時十分を示した。あと十分ほどで、新幹線がやって来る。列車に乗り込んで二時間後には東京駅だ。そこからIS学園の試験会場までは、バスに揺られて十分程度とのこと。

 

 そのとき、鬼頭たちが立つホームに、六尺豊かな大男が慌てた様子で飛び込んできた。鬼頭の親友の桜坂だ。二人の姿を見つけるや、ぱあっ、と破顔し、近づいてくる。

 

 彼の笑顔がたまさか視界に映じてしまったか、新幹線を待つ女子中学生たちの何人かが、怯えた表情を浮かべるのが見て取れた。

 

 これまた無理からぬことだな、と鬼頭は苦笑した。親友の顔の造作は、精悍なれどかなりの強面だ。本人曰く、一族のルーツは薩摩隼人にあるそうで、日本人としてはかなり彫りの深い顔立ちをしている。そんな彼の笑顔とは、まるで仁王様が無理矢理笑っているかのよう。気の弱い者や見慣れていない人間の目には、とんでもなく恐ろしいものと映じてしまう。

 

「いやあ、遅くなって申し訳ない」

 

「桜坂さん、来てくれたんですね!」

 

 強面の桜坂を陽子は満面の笑みをもって歓迎した。親友の父親との付き合いは、それこそ彼女自身が産まれて間もない頃からのこと。仁王様の笑顔など、とっくに見慣れていた。

 

「勿論」

 

 桜坂は小さくウィンクしてみせた。鬼頭と同様、海外留学の経験がある彼は、こういった仕草を一切の照れなくこなせてしまう。

 

「赤ん坊の頃から知っている陽子ちゃんが、一世一代の大勝負に挑むって日だ。応援せにゃな」

 

「ありがとうございます」

 

「本当に来てくれたんだな」

 

 陽子がIS学園を受験することはずっと以前に彼に話していた。試験の会場は東京なんだ、と伝えたところ、ならば自分も見送ろう、と。そのときはリップサービスの類いかと考えたが、まさか本当に来てくれたとは。ありがたいことだ。

 

「まあな。本当は、こんなギリギリじゃなく、もうちょっと早めに来るつもりだったんだが」

 

 桜坂はそこで顔面を硬化させた。苦々しい表情の彼に、陽子が訝しげに訊ねる。

 

「何かあったんですか?」

 

「うん、まあ……。前提条件の共有から始めようか。俺はいま、東区にある十二階建てのマンションで、一人で暮らしているんだ」

 

 今年で四五歳になる桜坂は、いまだに独り身だ。鬼頭とは違い、結婚歴そのものがない。

 

「玄関はオートロック式で、部屋も十階にあるから、外部の人間が忍び込むのは難しい」

 

「はあ、それは知ってますけど」

 

 いまいち得心のいかぬ様子で陽子は頷いた。桜坂の部屋には、父親と一緒に彼女も何度か足を運んだことがある。

 

「今朝のことさ。五時半ぐらいだったかな。目覚ましのアラームで目を覚ますと、なんでか、味噌汁の良い匂いがしたんだ」

 

「……一人暮らし、ですよね?」

 

「うん」

 

「……ああ、そっか。昨日の晩ご飯の残りとかですね? 鍋の中に入れたまま、うっかりコンロの火をつけっ放しにしちゃったとか? もう、気をつけてくださいよ~」

 

「昨晩は取引先との付き合いで外食だったんだよなあ」

 

「あ、分かりました。きっと、目覚ましが鳴る前に一回起きて、そのときに無意識に作ったけど、その後すぐまた寝ちゃったんですよ。寝ぼけてて、忘れちゃったんですね、きっと。この、うっかりさんめ」

 

「キッチンからは、味噌汁の匂いと一緒に、楽しげな鼻歌が聞こえてきた」

 

「ええと、桜坂さんって、たしかご家族は……」

 

「うん。両親はとうの昔に亡くなっているし、俺が寝ている間に部屋に入って朝ご飯を用意してくれるような、奇特な親戚もいない」

 

「……もしかして、桐野さんか?」

 

「ははは、鬼頭、ご名答」

 

 三年前に〈アローズ製作所〉へ新卒入社を果たした桐野美久の顔を想像し、鬼頭は溜め息をついた。入社当初こそ、物静かな性格だが仕事ぶりが丁寧で、よくぞ採用してくれた! と、みな人事部の判断を絶賛したものだったが。半年ほど経った頃から、目の前の男に対する態度が、ちょっとおかしな方向に進み始めた。

 

「台所にさ、桐野さんが立っていたの。当然、何をやっているんです? って、訊ねたのね。そしたら、にっこり笑って、『朝ご飯出来ていますよ』って。重ねてさ、どうやって入ったんです? って訊いたの。微笑むだけで、何も答えてくれなかった。……勿論、俺は彼女に合鍵なんて渡してないぞ。玄関のオートロックの暗証番号だって教えていない」

 

 付け加えれば、二人は恋仲にある、とか、そういう事実もない。

 

「ソファの方を見るとさ、クローゼットから引っ張り出した覚えのない着替えが、すでに用意されているのよ。皺一つないのよ。袖を通すと、すんごい良い香りがするの。うん。知らない洗剤の匂いがしたの。よく嗅いでみると、桐野さんの服と同じ匂いがしたのよね。これどうしたの? って、訊いたらね、『もうたくさん使わせてもらったので、お返ししに来ました。あ、ちゃんと洗っているので、安心してくださいね』って。どうやらね、以前、ウチのクローゼットからくすねていたらしいのね。うん。いったい、何に使ったんだろうね? その後、顔洗って、髭剃って、とりあえずご飯食べたんだ。うん。すんごい、美味しかった。俺好みの味だった」

 

「……彼女がやって来るのは、今週、何回目だったか?」

 

「三回目」

 

 ちなみに今日は火曜日だ。

 

「ところでさ、話は変わるけど、昨日、鍵を取り替えたばかりなんだ」

 

 鬼頭親子は気の毒そうに彼を見つめた。

 

 桜坂は遠い目で空の彼方を見つめた。奇っ怪な容姿のスパイラルタワーが、こちらを見下ろしている。

 

「なんとか言い聞かせて帰ってもらったが……たぶん、明日も来るな、これ」

 

 べつに桐野美久のことが嫌いというわけではない。好きか嫌いかで言えば、むしろ好感を抱いている相手だ。とはいえ、それはあくまで仕事上の付き合いに限ったときの話、恋愛感情に由来する好意ではない。二十歳近い年齢差もある。桜坂の好意は、会社の先輩が有能な後輩に向けるものでしかないし、それ以上にもなりえない。

 

 そしてそのことについては、桜坂自身の口から、何度も彼女に言い聞かせていた。にも拘らず、桐野美久は変わらぬ慕情を桜坂に寄せ続けていた。

 

 そんな不屈の人物によるストーカー行為と不法侵入、おまけに窃盗。被害者側の心労はいかばかりか。本来なら警察などに相談し、早期に解決するべき事案だが。

 

「会社のことを考えると、あまり大事にも出来ないしなあ」

 

 この場合、被害者も加害者も同じ会社の人間ということが、問題をややこしくさせていた。実は警察沙汰にしたくない理由がもう一つあるのだが、いまはあえて伏せておこう。

 

 また、何よりも厄介なのが、桜坂自身が桐野美久を憎みきれないということだ。桐野美久という女性は不思議な人物で、やっていることはどう斜め見ても犯罪なのに、それを深く追求させない雰囲気を身に纏っている。

 

「わたしの応援なんてしている場合じゃないんじゃ……」

 

 陽子が呟いたとき、ホームにひかり500号の到着を予告するアナウンスが鳴り響いた。

 

 少女の顔が、緊張で引き締まる。

 

 かつてMITに合格した大人たちはそんな彼女に笑いかけ、

 

「まあ、色々言いはしたが……思いっきりぶつかってきなさい」

 

「ファイト、だよ」

 

 ホームに、新幹線が滑り込んできた。

 

 陽子は二人の顔を交互に見て頷くと、可憐に微笑み、腰を折って言った。

 

「それじゃあ、行ってきます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 織斑一夏の名前がテレビやネットニュースのヘッドラインを飾るのは、その六時間後のことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 伊賀上野の伊藤家で陽子と再会を果たしたあの日――、

 

 智也の墓前で晶子たちへの復讐を誓った鬼頭は、改めて陽子の親権を取得するべく、墓参りの後、すぐに行動を開始した。

 

 四年前の離婚の際に世話になった堂島弁護士に電話をかけると、すでに桜坂から連絡がいっていたらしく、応答する声は暗く沈んでいた。

 

「鬼頭さん……このたびは、なんと申し上げたらよいのか……」

 

「堂島さん、もうこれ以上、あいつらに陽子を任せておけません。フェミニスト団体が何を言おうと、構うものか。陽子を取り戻したいんです。力を貸してください」

 

「……私で、よろしいのですか?」

 

 堂島弁護士の声からは深い懊悩が感じられた。四年前、自分の力が及ばなかったせいで、電話の相手は家族を奪われ、挙げ句、一つの小さな命がこの世界から失われてしまった。そんな非力な自分を、あなたはまた頼ってくれるのか。

 

「あなたでなければいけません。四年前、妻とのことで一緒に立ち向かってくれたあなたを、私は勝手ながら、戦友のように思っておりました。もう一度、私とともに、戦っていただけませんか?」

 

「……分かりました」

 

 四年前の裁判の結果について悔しい思いをしたのは、鬼頭だけではない。リベンジ・マッチの機会を与えられて、弁護士歴十九年の男の語気に闘争本能の火が灯った。

 

「その依頼、お引き受けしましょう」

 

 堂島弁護士と電話にて今後の打ち合わせを終えると、鬼頭はカムリを走らせ、伊藤家に戻った。陽子はすでに目を覚ましていた。鬼頭の姿を見るなり、大粒の涙をこぼして抱きついてきた。

 

 腰に回された両腕の細さと力のなさに、強い衝撃を受けた。あいつらめ……! と、怒りの感情が噴出しそうになるのを、なんとか堪える。いけない。ここで憤怒の感情を表に出せば、ただでさえ恐い思いをしてきた陽子を、余計に怯えさせてしまう。唇の端から血の糸が滴るほどに奥歯を噛みしめながら、鬼頭は愛娘の背中を優しく抱き、そして撫でさすった。

 

 やがて陽子が泣き止んだところで、鬼頭は、「お父さんと一緒に暮らさないか?」と、訊ねた。陽子は目を赤く腫らしながら、うん、と頷いてくれた。その晩、彼はおよそ四年ぶりに、娘と手をつなぎながら床についた。

 

 翌日、鬼頭は有給を取り、その日の夕方まで伊藤家で陽子と一緒に過ごした。彼は伊藤夫妻も交えた席で、今後の予定について説明した。

 

「陽子の親権を取り戻したいと思います。再審の裁判が終わるまで、陽子を預かっていていただけませんか?」

 

 四年前の裁判で下された接触禁止命令のことを考えると、いまはまだ陽子と一緒には暮らせない。緊急事態かつ本人の要請があったとはいえ、こうして伊賀上野に足を運んだことさえ鬼頭の立場を危うくする行為なのだ。かといって、晶子のもとに送り返すなど論外である。

 

 児童相談所での一時保護は陽子が嫌がった。お父さんと一緒に暮らすのがまだ無理なら、お爺ちゃんたちの家がいい。謙介は快く応じてくれた。四年前は鬼頭のことを非人のごとく扱った彼だが、孫の死をきっかけに、娘夫婦の異常性にようやく気づいたか。絶対に二人には渡さない、と力強い口調で鬼頭に宣誓した。

 

 伊藤家で夕食をご馳走になった後、鬼頭は謙介夫婦に、地元の児相と警察に相談実績を残すよう伝えてから名古屋へと戻った。翌日、出社した彼は部長に、「家族のことで、少し慌ただしくなるかもしれません」と、これからしばらくの間、休みがちになってしまうかもしれないことを謝罪した。部長の返答は、「ゴタゴタが片付いたら、目一杯こき使ってやるからな!」と、諧謔を孕んだ口調で鬼頭を応援してくれた。

 

 名古屋に戻った鬼頭は早速、堂島弁護士の事務所を訪ねた。親権を取り戻すにあたって具体的にどんな手続きをすればよいか。その詳細の確認と、今後の方針を決めるためだ。

 

 戦略会議には桜坂も同席した。四年前、自分は親友の異変に気づくことが出来なかった。一番辛いときに、側にいてやれなかった。力になってやれなかった。この四年間、悔恨の念に苦しみ続けた彼は、今度こそは、と意気込み十分。「俺に出来ることなら、何だってするからよ」と、協力を申し出てくれた。

 

「四年前、我々は戦略を誤りました」

 

 会議の席上、堂島弁護士は鬼頭の顔を見て言った。

 

「お二人の問題を夫婦間のものと位置づけたために、フェミニスト団体が介入する余地を与えてしまいました」

 

 権利団体の構成員の大部分は勿論、女性だ。彼女たちが離婚というテーマに対し、同じ女である“妻”の側に立ったのは、当然の帰結といえる。

 

「今度は、そうはさせません。あくまでも鬼頭さんと陽子さん……親子の問題として捉え、裁判もその方向で進めましょう」

 

 権利団体の構成員の大部分は女性である。すなわち、これから母となる、あるいはすでに母である存在だ。彼女たちにとって、子どもを害する行為とは、他のどんな行いよりも邪悪で、卑劣な、許しがたい悪行である。

 

 陽子や謙介の話によれば、晶子たちはわが子に対して日常的に暴力を振るっていたという。これだけでも、権利団体からすれば怒髪天を衝くような事案だが、間男にいたっては、虐待の末に智也の命を奪い、陽子に対してレイプまでしている。女尊男卑社会の風潮にすっかり染まり、冷静な判断力を失って久しい権利団体の連中も、さすがに今回は晶子らの味方にはつけまい。彼らは子どもを傷つけた。権利団体の“母親”たちが許すはずもない。

 

「さすがに男性である我々の味方にはなってくれないでしょうが……最悪、介入を防げるだけでも、上出来でしょう」

 

「……四年前の裁判って、そんなに酷かったんですか?」

 

「ええ。そりゃあ、もう、酷いものでした」

 

 司法の現場で法律が無視される。白騎士事件以後、女性絡みの裁判ではこうした事態が急激に増加しているが、その中でも、四年前の裁判は特に酷いものだった、と堂島弁護士は語った。

 

「裁判についてですが、陽子のことを考えると、あまり長引かせたくありません」

 

「そうだな。いま、陽子ちゃんはとても傷ついているはずだ。一日でも早く、鬼頭と一緒にいられるようにしてあげないと」

 

「それなら、まずは智也君の死や、虐待のことで刑事裁判に持ち込みましょう。然る後に、改めて民事で裁判を起こし、親権を取り返すのです」

 

 二方向から攻め立てて疲弊させ、早期のギブアップを狙うのです。鬼頭はこの考えに賛意を示した。

 

 戦略についての基本方針は決まった。次にやるべきは、戦いに必要な武器を集めることだ。

 

「あとは証拠集めです。鬼頭さん、失礼ですが、陽子さんは……」

 

「……陽子とは、昨日、病院に行って、診断書を作成してもらいました」

 

 鬼頭はなるべく感情を表に出すまいと、腹に力を篭め、平坦な口調で応じた。

 

「病院の医師が、気を利かせてくれました。体中のアザの診断書と、レイプ痕跡の診断書を分けて作ってくれました。勿論、本人からは、どちらも好きに使ってくれ、と承諾を得ています。……親としては、アザの診断書はともかく、レイプのほうは裁判の証拠として挙げたくありませんが」

 

「分かりますよ」

 

 堂島弁護士は悲壮な面持ちで頷いた。

 

「私にも、十五歳の娘がいます。お気持ちは、よく分かります。ですが……」

 

「分かっています。少しでも勝率を上げるために。早期解決のためには必要なもの、とは、分かっているんです」

 

「鬼頭、智也君については?」

 

 桜坂が鬼頭の態度の変化に気づかないふりをして訊ねた。二人と違って、彼は四年前の裁判には直接関係していない。感情移入の余地が狭い分、彼らよりも冷静にこの問題を見ることが出来た。

 

「俺に智也の死を知らせなかったのは養育費の減額を恐れてのこと。智也が死んだのは間男の暴力のせい。この二点について、伊藤さんに証言を頼んである。念のため、録音も取らせてもらった。その際、カムリに積んであったドライブレコーダーを使わせてもらったんだが……」

 

「おう。そういうことなら、じゃんじゃん使ってくれ。あと問題なのは、間男夫婦がいまどんな暮らしをしているのか、と、陽子ちゃんはどんな環境に置かれていたか、を証明出来る、客観的な証拠を得ることだな」

 

「ある程度は伊藤さんの証言で立証出来るだろうが……」

 

「松村さんにお願いしてはいかがでしょう?」

 

 堂島弁護士が獰猛な冷笑を浮かべながら提案した。四年前にも世話になった興信所のオーナーの名前だ。警察OBという経歴の持ち主で、探偵としての腕前は抜群。四年前の騒動の際には、何の手がかりもない状況から僅か一ヶ月で、間男についての詳細を突き止めてしまった。鬼頭は迷わず頷いた。

 

 松村探偵の調査は一週間でほぼ終了した。

 

 調査結果についての報告書を精読した後、鬼頭は堪えきれずに落涙した。読み進めるにつれてどんどん気分が落ち込んでいく。

 

 鬼頭との離婚後、晶子はすぐ間男と再婚し、彼の実家のある三重県四日市市へと引っ越した。

 

 親子四人による新生活の始まりは、しかし、順風とは言いがたかった。再婚後間もなく、間男は勤めていた会社から依願退職を強いられた。

 

 四年前、鬼頭は妻と間男に対する先制打として、各所に二人の不貞を示す内容証明を送った。その中には、当時間男が勤めていた建築会社も含まれており、晶子との不適切な関係はすぐ社内に知れ渡ってしまった。

 

 不倫の末の略奪婚など、世間体は最悪だ。いくら裁判に勝利したとはいえ、社内での白眼視は避けられない。会社内でどんどん立場を失っていった間男は、やがて居心地の悪さに耐えかね、自ら辞表を提出した。会社の上役たちは、笑顔でそれを受け取ったという。

 

 間男はすぐに再就職先を探したが、その就職活動は失敗に終わった。元いた会社からのリークにより、彼の非道な行いについては、地元の建築業界では有名な話となっていた。業界での再就職を諦めた間男は、他業種に目を向けるも、こちらもことごとく失敗。なんとか地元のファミレスで契約社員として雇ってもらうも、当然、収入は激減した。この頃から、彼は子どもたちに暴力を振るうようになった、と近隣住民からの証言を得ている。

 

 新たな夫を支えるべく、晶子も働きに出た。しかし、社会人経験の浅い彼女に高給を支払ってくれる職場はなかった。

 

 白騎士事件の後、日本は国策として女性優遇制度を推進しているが、それでまず優先されるのは有能な女性だ。能力はあるのに、女性というただ一点をもって、従来の男性社会では光り輝くことを許されなかった女性たちを救うことが最優先。晶子のような女は後回しにされた。彼女もまた、パートとしての採用がせいぜいで、四人家族を支えられるほどの稼ぎは生めなかった。

 

 勝者の愉悦から一転、苦境に立たされた晶子たちにとって、頼みの綱は鬼頭からの慰謝料五〇〇万円と、毎月十六万円の養育費だった。やがてその五〇〇万円を使い潰すと、いよいよ養育費頼みとなった。寝取られた側からの施しが生命線という現状を惨めに思ったか、苛立つ間男の暴力はどんどんエスカレートしていった。仕事で疲れた、というふざけた理由から、晶子はその光景を前にしても何も言わず、子どもたちをかばおうともしなかった。

 

 智也が亡くなった後、間男の不満はすべて陽子にぶつけられた。彼女が成長するにつれて、彼の虐待行為は性暴力の匂いも孕んでいった。間男が陽子の性器に初めて触れたのは、彼女が十一歳になって間もなくのことだったという。そのあたりまで読んで、鬼頭は嘔吐した。かたわらにいた桜坂は、大振りの双眸に怒りの炎を灯しながら報告書を睨みつけた。

 

「反吐が出る」

 

 陽子が十二歳になったある日、間男は晶子がパートで留守にする日を狙って、一線を越えた。学校の保健体育の授業や少女漫画などで得た知識から、自分のされていることの意味を知っていた陽子は、どうしよう、どうしよう、と激しく動揺しながら、母親に父親からレイプされたことを相談した。晶子は、身も心も傷つけられた愛娘の頬を張った。「この泥棒猫!」と、怒声一喝。陽子は絶叫し、泣きながら家を飛び出した。

 

「よう、こっ……」

 

 報告書を読み終え、澎湃と涙する鬼頭の背を、桜坂は優しく撫でさすった。彼もまた、そのときの陽子の心情をおもんばかり、泣いていた。

 

「桜坂、俺はやるぞ! 絶対に、今度こそ陽子をこの手に……」

 

「ああ、ああ! 勝とう、鬼頭!」

 

 証拠は出揃った、と判断した鬼頭たちは、三重県の警察と児童相談所に連絡、告訴した。伊賀上野の謙介氏が、地元の両機関にあらかじめ相談実績を残してくれていたおかげで、彼らの対応はとてもスピーディだった。晶子と間男は児童虐待の容疑で拘束された。

 

 鬼頭たちは三重県警への協力を惜しまなかった。事前に用意していた証拠のうち、すべて提出した。あまりの用意周到さに警察ははじめ鬼頭たちにも疑いの目を向けたが、彼らの抱える事情を知って納得した。「速やかに検察へ送ってみせる」。その力強い言葉通り、二人が留置場に押し込まれた僅十二時間後には書類送検がなされ、ほどなくして、検察からは逮捕状が送られてきた。

 

 晶子が逮捕されたことを知って、四年前に鬼頭の敵に回った女性権利団体は、警察・検察の動きを後押しした。彼女たちの意外な行動に、はじめは鬼頭らも戸惑った。男性である自分たちをなぜ援護してくれるのか。堂島弁護士を代理人に立てて訊ねたところ、回答は、「お嬢様の心情を思えばこそ」とのこと。なるほど、と得心した。男性の鬼頭の味方になったわけではない。女性の陽子の味方になってくれたわけか。こうした動きもあり、裁判は異例の速さで開廷した。

 

 刑事裁判は検察側の圧勝だった。児童虐待に強姦罪、智也の死を事故と偽証したこと、そしてその事実を鬼頭に伝えず、養育費を不正に騙し取っていたこと。それを裏付ける証拠の数々……。これらが形作ったポーカーハンドを見て、二人の側についた国選弁護人はゲームへの意欲を失った。なにより彼らのやる気を削いだのは、法廷に立った晶子の言い分だった。

 

「あの娘はわたしから夫を奪おうとした。いなくなってせいせいするわ」

 

 傍聴席に座す鬼頭は膝の上で拳を強く握りしめた。閉廷後、開いて掌を確認すると、血まみれだった。

 

 刑事裁判の結果が出てすぐ、陽子の親権を取り返すための民事裁判が開かれた。心の傷を刺激しかねない、と陽子不在のまま行われた裁判の結果はこちらも圧勝。智也の死後、彼の分の養育費を不正受給していたことも問題となった。鬼頭は無事、愛娘の親権を取り返し、二年分の養育費の返還も決定。ほんの少しだけ、溜飲を下げることに成功した。

 

「あんな淫売を押しつけるなんて……こっちが慰謝料を欲しいぐらいよ」

 

 こともあろうに、法廷の場でそんな暴言をのたまった晶子を、鬼頭は冷ややかな眼差しで見つめた。やはり陽子を連れてこなくて正解だった、とこっそり安堵の溜め息をついた。

 

 

 裁判の後、再び一緒に暮らせるようになった鬼頭親子は、名古屋市千種区に新たな住まいを求めた。従前、鬼頭は守山区に部屋を借りていたが、家族の新しい再スタートということで心機一転、環境を、がらり、と変えようと考えたためだ。首尾よくマンションの一部屋を手に入れた彼は、伊賀上野の伊藤家より譲ってもらった智也の仏壇を運び入れ、陽子と二人、新しい生活を始めた。

 

 陽子が、「IS学園を受験したい」と、鬼頭に告げたのは、彼女が中学二年生に進級してまだ間もない頃のことだった。自らの意思を告げる際、彼女の口調は、おそるおそる、といった感じだった。父のISに対する嫌悪感とその理由を知っていたためだ。

 

 反対されるかもしれない、という彼女の懸念は、すぐに否定された。鬼頭は優しく微笑んで「応援するよ」と、言ってくれた。

 

「……反対しないの?」

 

「どうしてそう思ったんだい?」

 

「だって、父さんってIS、嫌いじゃない」

 

「ううん、たしかにその通りなんだが……」

 

 鬼頭は思わず苦笑した。彼がISを嫌う理由は、自分や桜坂の目指すパワードスーツの理想形と比べたときに限っての話だ。陽子はそのあたりを誤解している。

 

 災害用パワードスーツの話が絡まない領域では、むしろ好感さえ抱いていた。実際、ISに使われている技術はどれも素晴らしい。特に、日本の倉持技研が開発した第二世代機・打鉄。あれを設計した人物とは是非一度、夜通し語り合いたいと思っている。

 

「父さんがIS嫌いかどうかはともかく、自分がそれを嫌っているからといって、そんなことを理由に、娘が進みたいという路を否定するなんてしないさ」

 

「でも、お母さんは……」

 

 この時点で、親権を取り戻して一年以上が経過していた。にも拘らず、陽子にとって晶子の存在はいまだ大きい。どれほど過酷な環境に置かれれば、こんな従順さを身につけてしまえるのか。

 

 不安そうな彼女の顔を見ていると、鬼頭まで悲しい気持ちになってくる。彼は娘の肩を抱くと優しい声音で囁いた。

 

「いいんだよ。お前は、自分のやりたいと思うことをやれば。それが人道にもとるものであったり、自分自身をないがしろにするようなものだったりしない限り、父さんは、お前の夢を全力で応援するから」

 

 その日から、陽子の受験勉強が始まった。まだ中学二年生の一学期。ちょっと早すぎるんじゃないか、という意見は其処彼処より寄せられたが、志望校の名前を告げると、みな納得して押し黙った。IS学園は世界一の難関校だ。受験者の中には、小学校の頃より対策を始めている者もいるという。それを考えれば、むしろ遅いぐらいだった。

 

 陽子は、もともと勉強のできる娘だった。背が低い上に小柄な体格なため体育だけは苦手としていたが、その分、他の分野で頑張りを見せた。IS学園を目指すと決めてからはいっそう勉学に打ち込むようになり、通信簿の評価はほとんどオール5、全国模試でも、上位ベスト50の常連となった。

 

 彼女の努力は学問だけにとどまらなかった。

 

 IS学園では、一般教養よりもISに関する授業での成績のほうが優先して評価される。ISについて学ぶ場所なのだから当然だ。ゆえに、受験者はみなISについての予備知識をある程度叩き込んだ上で試験に臨む。合否判定が出てから学んだのでは遅すぎる。ISは誕生してわずか十年の兵器だが、それだけに知識は体系化されておらず、雑然としていた。

 

 ISは人類が宇宙へと進出するのを促す目的で誕生し、白騎士事件で兵器としての強さを見せつけ、現在は競技スポーツで使うユニフォームと位置づけられている。ISの予備知識とはすなわち、宇宙開発の歴史であり、兵器開発の歴史であり、競技スポーツの歴史だ。陽子は、これらの知識の修得にも果敢に立ち向かった。

 

 そして――、

 

 

 夕方、東京から帰ってきた彼女は、鬼頭に向かってVサインをした。

 

 手応えあり。

 

 あとは結果を待つばかり。

 

 鬼頭は優しく微笑んで、「お疲れ様」と、彼女をねぎらった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一ヶ月と二週間前――

 

 

 

 

 

 〈アローズ製作所〉は名古屋市名東区に本社を置く、ロボットの総合メーカーだ。八階建ての本社ビルはフロアごとに、重作業用ロボット部門、介護用ロボット部門といった具合に棲み分けがなされており、鬼頭と桜坂のデスクは現在、三階の災害用ロボット部門の一室に揃って置かれていた。部屋の名前は、災害用パワードスーツ開発室。各々の肩書きは、鬼頭が設計主任で、桜坂が室長だ。

 

 二人が災害用ロボット部門に配属されたのは、〈アローズ製作所〉に就職して十年目の春のことだった。それまでの献身が認められた結果のご褒美人事で、異動の辞令が下ったその日の晩、彼らは馴染みの居酒屋で祝杯を傾けた。これでまた一歩、夢の実現に近づくことが出来たと、充足感から、いつものビールをやけに美味しく感じた。

 

 部内に災害用パワードスーツ開発室が発足したのは、さらに十年後のことだ。

 

 部署を移った後も会社に献身的に尽くす二人を長年見続けてきた社長は、ある日、彼らを三階の空き部屋へと案内した。ゆうに八十坪はたっぷりあろう、がらん、とした部屋を示しながら、社長は完爾と微笑み、こう言った。

 

「今日まで会社のためにありがとうございます。これからは、会社が、あなたたちの夢を応援する番です」

 

 パワードスーツ開発室は、二人のために設けられたセクションだった。

 

 災害用パワードスーツの開発と量産化を成功させ、世界中に普及させて一人でも多くの人命を救う。二人の長年の夢を叶えるための部屋だ。

 

「開発室はあなたたちの物と考えてもらって構いません。チームの人選や役割分担、予算や機材など、すべてあなたたちに一任します」

 

「ようし、鬼頭、室長は俺にやらせてくれ」

 

 社長の背中を見送ってすぐ、桜坂が言った。

 

「その代わり、設計主任はお前に任せる。技術者としての腕や知識は、俺よりもお前のほうがずっと上だからな。開発に必要なものがあれば、じゃんじゃん、言ってくれ。予算だろうが機材だろうが、どんな手を使ってでも用意してみせる」

 

「それならまずは人だな」

 

 鬼頭は力強い口調で断言した。どんなに高性能の機材に恵まれたところで、使いこなせる人間がいなければにっちもさっちもいくまい。

 

「俺たちの夢を、一緒に手伝ってくれる人を探そう」

 

 桜坂は有能なプロデューサーだった。開発室が発足してまず一ヶ月ほどで、若手を中心に十人の精鋭を集めた。次の一ヶ月間は、パワードスーツの研究・開発に必要な機材や資料の手配に奔走した。三ヶ月が経つ頃には、八十坪の空間に最新の機材が機能的に並べられ始めた。

 

「とりあえず、これでスタートが切れるな」

 

 本格的に稼働を始めた開発室の様子を示して、桜坂は得意気に笑った。しかし、その笑顔は翌日すぐに凍りついた。開発室に、桐野美久のデスクが置かれたためだ。

 

「なんで? 桐野さん、なんで?」

 

「あ、ありのまま起こったことを話すぞ。朝、出社したら、桐野さんが社長の承諾印が押印済みの異動嘆願書を持って、桜坂室長がやって来るのを待っていた!」

 

「今日からお願いしますね、桜坂室長」

 

 ちなみにアローズ製作所の社長の姓は、桐野、である。桜坂はこの頃からすでに、かなり追いつめられていた。

 

 ともあれ、新たに桐野美久を加えた十三人をもって、開発室の活動は本格化した。

 

 その目的は、最高の災害用パワードスーツを完成させ、世界中に普及させること。そして当面の目標は、試作機を完成させ、様々なテストを行い、その度に改良を加え、徐々に洗練させて、最高のパワードスーツを世に生み出すことだ。

 

 開発室が発足して半年が経ったある日、鬼頭はチームのみなを集めると、段階を踏むべきだ、と提案した。

 

「アローズ製作所はこれまで様々なロボット開発・製品化してきました。しかし、パワードスーツを作るのは初めてのことです。いきなり完成品に近い物を作ろうとしても、上手くいくはずがありません。まず、試作一号機では、どんな性能でもいいからパワードスーツを完成させることから目指しましょう」

 

 学生時代にパワードスーツ製作の経験がある二人は別として、スタッフの大半はパワードスーツの実物を見たことすらない。まずは一着、開発を通して、基礎技術の習得から始めよう、と鬼頭は唱えた。

 

 早速、チーム内で活発な意見交換が行われた。

 

 どんな性能でも、と鬼頭は口にしたが、部下の技術者たちはそれを許さなかった。彼らは、「出来るだけ次につながる物を作ろう!」を合い言葉に、試作一号スーツの開発にいそしんだ。

 

「最終的なスーツの形がどうあれ、オートフィット機能の搭載ははずせないでしょう」

 

 滑川雄太郎の提案に、鬼頭と桜坂は同意した。当時、中途採用二年目の三一歳。以前いた会社では、自動車のエンジン回りの開発と製造に携わっていた逸材だ。

 

 開発室の最終目標は、自分たちのパワードスーツを世界中に普及させることだ。現時点で想定しているエンドユーザーは、世界中の消防士やレスキュー隊員たち。身長、体重、体格みな異なる彼らが、大がかりなフィッティング作業なしにすぐ着用出来るスーツが望ましい。装着者の体格に合わせてサイズを自動調整するオートフィット機能の搭載は必須だった。

 

「我々の目指す災害用パワードスーツは……」

 

 滑川に続いて有用な意見を口にしたのは金髪の田中・W・トムだった。日本人の父と、アメリカ人の母を持つ当時二六歳。鬼頭たちと同様、MITの卒業生で、その縁からアローズ製作所に就職した経緯がある。

 

「すでに実用化がなされている介護用や、重作業用の物と異なり、過酷な環境での連続した運用が想定されます」

 

 地震の現場では瓦礫が散乱し、いつ倒壊するやも知れぬ建物の中に身を投じねばならないだろう。火災現場では高熱が総身を襲うだろうし、付近に工場があれば人体に有害な化学物質にも立ち向かわねばならない。

 

「身体の一部が露出するような造りは危険です。全身を覆う、フル・アーマーと呼べるような物が望ましい」

 

 トムは、インナー・スーツとアウターのフル・アーマーからなる二重構造を基本形にしてはどうか、と提案した。

 

 構想しているのは、インナー・スーツには繊維にマイクロ・センサーを編み込み、装着者の生体パルスを読み取って、アウターに組み込んだアクチュエータなどを動かすというシステムだ。

 

「そうなると、アウター・スーツの素材に何を使うかが問題だな」

 

 桜坂はトムの言葉に賛意を示しながら呟いた。

 

「ケブラーはどうでしょう?」

 

 それに素早く反応したのは、チーム最年長の酒井仁だった。当時すでに勤続三十年の大ベテラン、部材や素材のエキスパートだ。

 

 ケブラーはアメリカのデュポン社が開発した特殊なポリマーだ。引っ張り強度と耐熱姓に優れており、防弾ベストや消防服、溶接工のエプロンなどに採用実績がある。

 

「良いアイディアですね」

 

 酒井の提案に鬼頭も同意した。高強度・高耐熱性という点は勿論だが、すでに多分野で応用されているケブラーは、費用面での優位性も魅力的だ。世界中での普及を目指すなら、コストの問題は避けられない。予算を管理する桜坂も、安くはないが、高すぎるといこともあるまい、と太鼓判を押した。

 

 パワーユニットをどうするかについては、主に鬼頭と桜坂の間で話し合われた。

 

 人間が身に纏って動かす、という形態を取る都合上、パワードスーツにエンジンを積むのは難しい。エンジンそのものもそうだが、燃料タンクや冷却システムなどを積み込むだけのスペースの確保が出来ない。必然、バッテリー駆動方式を採用せざるをえないが、問題は、どの程度のサイズの物をどこに配置するか、だ。

 

 鬼頭はMIT時代の記憶を頼りに口を開く。

 

「ベターなのは、背中に大型の物を一個背負わせる形だろう。いちばん、スペースの確保が容易だし、活動の邪魔になりにくい」

 

「しかし、一個だけだと、その一個に何か問題が生じたとき、パワードスーツの全機能が失われることになってしまう。サブは必須だ」

 

「予備のサイズとレイアウトは……」

 

「こう考えるのはどうだろう? 予備ではなく、補助バッテリーと考えて、小型の物を各部に分散配置するのは?」

 

「なるほど。それなら、普段はメイン・バッテリーの電力が不足するような局面に陥ったとき用の補助として、緊急時には予備としても使えるな」

 

「その代わり、エネルギー・マネジメントのシステム構築がたいへんだが」

 

「そこは、プログラマーの腕の見せ所だな。配置はどうしようか?」

 

「小型とはいえ、当然、場所は喰うからなあ」

 

「……多少、本体重量が増えることになるが」

 

「んう?」

 

「外装部分の一部を装甲化して、その内側に収めるのは?」

 

「……そのやり方なら、生命維持装置や各種センサーをどう内蔵するかの問題も解決出来るな!」

 

 それらの機器をどう内蔵するかについては、本来は試作二号機以降の課題とする予定だったが。

 

「バッテリーの数と配置はどうする?」

 

「とりあえず、背中に大型一つ、胸部を装甲化して小型を一つから始めてみよう」

 

 試作一号機を開発する目的は、パワードスーツの開発に必要な基礎技術を、製作を通じて習得することにある。まずは最低限の数だけを積んで様子見し、最適な個数を探っていこう、と鬼頭は提案した。

 

 パワーアシスト装置とその機構にいては、高分子素材を使った人工筋肉で作ることにした。

 

 モーターや空圧ないし油圧式のシリンダーを積んだロボットアームも考えなかったわけではない。すでにある程度完成された技術だから、システムをフレキシブルにデザイン出来るし、コスト面でも優れている。その一方で、動力装置を複雑に組み合わせる必要性から大型化を招きやすく、消費電力も多いという短所もある。これらの点が、バッテリー駆動式で、また大きさに制限を課さねばならないパワードスーツには採用しにくい、と判断された。

 

 人工筋肉には、高分子素材を使う方式の他に、圧電式や空圧式などいくつかのタイプがある。いずれの方式も一長一短を孕んでいるが、その中でも長所が特に目立ち、短所に目をつむることが出来るのが、高分子方式だった。他の方式に比べ耐久性に優れ、装着者の動きに対する応答性に秀で、システムのコンパクト化が容易で、コスト面でも優位だった。

 

 不測の事態が頻発するであろう災害の現場においては、パワーアシスト機構にはどんな状況でも安定して稼働し続けられる信頼性(=耐久性、機械としての寿命)がなによりも求められる。出力などの性能はその次。コストについては、優先順位の三番目といったところか。

 

 

 こうして、試作一号機の基本仕様がまとまった。

 

 特に重要視された項目を整理すると、次のようになる。

 

● 身長一六〇~一九〇センチメートル、体重五十~一二〇キログラムまでのどんな体型にも対応したオートフィット機能を備えること

 

● 頭部や手足のつま先をも含む、全身を被服するフル・アーマーであること

 

● 外装には引っ張り強度と耐熱姓に優れるケブラー繊維を使うこと

 

● 装甲部分にはアルミ合金を使うこと

 

● 動力装置はバッテリー方式とし、大型一個、小型一個を搭載すること

 

● パワーアシスト機構は高分子素材を用いた人工筋肉で作ること

 

● パワーアシスト装置は最大稼働時でベンチプレス八〇〇キログラム、時速五十キロでの走行を可能とすること

 

● スーツの重量は一五〇キログラム以内にとどめること

 

 

 装甲材質をアルミ合金としたのは桜坂の考えだ。求めたのは軽くて丈夫で安価な素材だが、それらの条件をバランスよく満たしていたのがアルミニウムだった。ここでいう強度とは、単純な硬さや引っ張り強度だけでなく、耐熱性や、化学的に安定しているかどうかなども含まれる。

 

 出来上がった仕様書に目を通して、いきなり欲張りすぎじゃないか、と鬼頭は不安に思った。しかし、技術者たちの炯々と輝く眼差しを見て、彼の懸念は即座に霧散した。一流の知識と技術を持つ彼らが、やる気に満ち満ちているのだ。鬼頭はかたわらに立つ親友を見つめた。桜坂は無言で頷くと、数日のうちに、必要なモノをすべてかき集めた。

 

 およそ二ヶ月の後、パワードスーツの試作一号機が完成した。

 

 頭頂高二・五メートル、スーツ総重量一四八キログラム。まるでハインラインの小説から飛び出してきたかのような大柄で、野暮ったいデザインを見た彼らは、むしろこれぐらいのほうが洗練のしがいがあると喜んだ。

 

「いずれはソルブレイバーのようにしよう」

 

「そこはまずクラステクターだろ?」

 

 鬼頭が子どもの頃に好きだった特撮ヒーローの主人公の名前を呟くと、同世代の桜坂もその前番組に登場したレスキュー用の強化スーツの名前を口にした。マニアックすぎて、開発室の誰もコメント出来なかった。

 

 パワードスーツの試作機に、鬼頭たちはXI-01のコードネームを与えた。XIはExperiment Ironman の略だ。勿論、有名なアメコミヒーローを意識したネーミングである。アメリカ留学時代は鬼頭たちも、かの雑誌を愛読したものだ。

 

 XI-01が完成した時点で、開発の目的であった技術の修得については、半分は達成されたと評してよいだろう。残る目標は、テストを行ってデータを採り、改良を加えてまたテストを実施……これを繰り返して、技術の完成度を高めることだ。

 

 早速、XI-01を使ったテストが始まった。

 

 テストの項目は多岐に渡った。単純な歩行などの動作確認に始まり、実際の災害現場を再現した環境下での運用試験も行われた。そうした数々のテストによって得られたデータは、鬼頭たちの研究を飛躍的に進歩させた。単に技術の完成度を高めるというだけでなく、災害用パワードスーツに必要な性能とは何か、何があると便利か、その基準値を見定める上でも役に立った。

 

 XI-01の運用試験が始まって半年ほど経った頃、鬼頭の頭の中では、早くも試作二号機……XI-02の姿が、ぼんやりとだが形をなし始めた。

 

 目指すコンセプトは、現在の技術で開発可能な最高値の性能を備えたスーツだ。XI-01の運用データを基に弾き出した理想値を、現在の技術でどれだけ実現出来るか。それを見極めたい。鬼頭はXI-01の運用試験と並行して、試作二号機開発計画の提案書を書き進めた。

 

 二週間後、設計主任から手渡された提案書を精読した桜坂室長の表情は硬かった。

 

「現在の技術で開発可能な最高のスーツを作る……これ自体は俺も賛成だ」

 

「じゃあ……」

 

「けど、これだけじゃあゴー・サインは下せない」

 

 桜坂は計画の中に、パワードスーツを効果的に運用するための仕組み作りを盛り込むよう注文した。

 

「いくら高性能でも、パワードスーツ単体じゃ出来ることは限られている。パワードスーツの性能を一〇〇パーセント発揮するためには、それを可能とするシステムが必要だ」

 

 桜坂は一つの例として、中型ないし大型トラクタ&トレーラのトレーラ部に、指揮所やバッテリーの充電器など、パワードスーツを運用する上で必要不可欠な各種の設備を搭載した移動基地を開発してはどうか、と提案した。

 

 やけに具体的な内容に、鬼頭は怪訝な表情を浮かべた。

 

 桜坂は苦笑しながら、「地元の友人が運送業をやっているんだが……」と、口を開いた。

 

「この間、車輌の保有数を整理したとかで、いらなくなった車輌の処分に困っている、って話を聞かされたんだよ。それで、もしかしたらパワードスーツ開発に使えるんじゃないかと」

 

「車種は?」

 

「プロフィア」

 

 『とんとん、とんとん、日野の二トン』のテレビCMでおなじみの、日野自動車の大型トラクタだ。燃費性能に優れる九リッター・エンジンを搭載し、その積載量は十三トン超。

 

「走行距離はまだ一万五千キロちょいって話だから、状態に問題はないはずだ。むしろ、部品が馴染みきった、ベストな状態じゃないかと思う」

 

「そんな良い状態の車輌を、よく譲ってくれる気になったな」

 

「それはアレだ。昔、ジャンボ機がJALの財政を圧迫していただろ? それと同じ」

 

 一度に大量の荷物を運べる大型車輌は便利だが、その輸送力を十全に活かせるような注文が殺到してくれなければ、収益性は低い。小型ないし中型の車輌に比べて、運用・維持コストともに高く、免許取得というハードルの高さからドライバーの確保も困難だ。必要以上の保有は、会社の財務体質の悪化へとつながりかねない。

 

「そいつの会社も、最近は業績がちょっと苦しいらしくてな。いまは耐え忍ぶときと、まだ体力のあるうちに車輌を整理したいんだと」

 

「なるほど。それで大型なら状態問わず、というわけか」

 

「いや、さすがに古い車輌から優先してはいるよ」

 

 桜坂はかぶりを振った。

 

「一万五千キロは、完璧、向こうの厚意だ」

 

 移動基地の必要性は鬼頭も考えていたことだ。このまま開発を進めていけば、いずれ必要になるだろう、と。ただ、そのスケジュールが少し早まっただけのこと。唯一懸念されるのはプロフィアの購入と改造にかかる費用だが、そのあたりの悩みは、目の前の男に任せておけばよい。桜坂の提案を、鬼頭は二つ返事で受け入れた。

 

 早速、鬼頭たちはXI-02の開発に取りかかった。二〇二五年は七月のことだ。XI-01のテストで得られたデータを基に仕様を決め、どう実現していくか頭を悩ませる日々は、苦しいが楽しい時間でもあった。

 

「今度こそソルブレイバーを目指そう」

 

「いやだからそこはまずクラステクターだろう、って」

 

 鬼頭も桜坂も、XI-02はより人間に近いシルエットでの完成を目指そう、という方向で意見は一致していた。その際、課題となるのは、各種システムを、性能を低下させることなく、かつコストを抑えながら、いかに小型化・軽量化するか、だ。

 

 特に問題となったのはパワーアシスト機構だった。単純に小型化するだけでは、大幅なパワーダウンを招いてしまう。出来れば、XI-01で達成した、ベンチプレス八〇〇キログラム・オーバーという数値は維持したいが。

 

 悩む鬼頭らのもとに、革新的な技術をもたらしてくれたのは、〈アローズ製作所〉の介護用ロボット部門だ。

 

 鬼頭たちが入社時に提供した介護ベッドは、いまや介護部門の事業の柱の一つとなっていた。さらなる高性能化・利便性の向上を目指して日夜研究を続ける彼らが、強力な合成繊維の開発に成功した、という情報を耳にした。早速、件の研究者たちのもとを訪ねて、彼は大いに驚いた。

 

 介護部門が開発した新素材は、XI-01に採用した合成繊維と比べて、五分の一の太さで八倍もの引っ張り強度を持ち、五〇〇度までの熱に耐えられるという、画期的な代物だった。それでいて、その精製は既存の生産ラインの仕組みをほんの少し変更するだけで対応可能という、驚きの生産性をも併せ持っていた。いまは誕生して日が浅く、製造原価には研究開発費が上乗せされてしまうが、それも量産体制が整えば次第に落ち着くだろう。

 

 見学にやって来た鬼頭と桜坂は顔を見合わせ頷き合った。この新素材なら、性能を落とすことなく、人工筋肉の小型化・軽量化が出来るはずだ。その場で介護部門の部長に頭を下げ、新素材の使用許可を請うた。鬼頭たちより五つ年上の部長は、快く首肯してくれた。

 

 早速、XI-01の人工筋肉を新素材で作り直した。結果は驚くべきものだった。ボディサイズの大きな変更なしに四倍ものパワーアップを果たしたばかりか、システム総重量で五キログラムもの軽量化を達成したのだ。これならばいける、と鬼頭たちは確信した。

 

 最大の難問に解決の目処を見出したことで勢いづく開発チームは、その後も襲いくる数々の問題を次々と捌いていった。

 

 スーツの基本設計は、パワーユニットとパワーアシスト機構のレイアウトをはじめに決め、次いでその他の装備の搭載箇所を決めていく、というふうにデザインしていった。

 

 基本的な機能はXI-01と変わらないが、XI-02ではより実戦向けの装備の数々の搭載を目指した。有毒ガスや化学物質に対する防御機構、低酸素空間での重作業を可能とするための酸素ボンベ、要救助者をいち早く発見するための各種センサーに、連携行動には必須の無線通信装置などだ。装備を増やすと、その分だけバッテリーのエネルギー管理が難しくなるが、そこは滑川技師が頑張ってくれた。彼は以前勤めていた自動車会社で、ハイブリッド・システムの設計にも携わっていた。有限のエネルギーをどう分配すれば最高率に到達しうるか、その探求にかけては社内の誰よりも優れているという自負が、彼にはあった。

 

 優れた部材に優れた技術、そして有能なスタッフという武器をもって、XI-02の開発は進められた。

 

 開発計画が始動して一ヶ月後には例のプロフィアが納車されたが、まずはパワードスーツ本体の完成を目指した。これは桜坂の提案だ。

 

「旧海軍の九六式艦上戦闘機は傑作機と評判高いが、あれは先に戦闘機のほうを作って、その後に九六式を運用する上で最適化された空母を作ったからこその評だと思う。俺たちもそれを範としよう」

 

 プロフィアで運用するためのXI-02であってはならない。XI-02のためのプロフィアでなければ。結局、プロフィアはその後四ヶ月もの間、倉庫で埃と戯れる日々を過ごした。

 

 二〇二五年十二月、XI-02は完成した。頭長高二・一メートル、スーツ総重量九十キログラム。装甲部分にミルク色のコーティング塗装を施した、フル・アーマー仕様のパワードスーツだ。四角い箱をいくつも組み合わせたようなのっぺりとした見た目で、幼い頃に憧れた特撮ヒーローほどに洗練された姿には仕上げられなかった。しかし、隣に置いた宇宙時代の機動兵士……XI-01と比べれば、ずっと人間に近いサイズとシルエットを達成している。

 

「こりゃあメタルヒーローっていうよりも、モビルスーツに近い見た目だなぁ」

 

「まるでヘビーガンのようです」

 

「あぁ……たしかに、似ているかも」

 

 桜坂が苦笑し、アニメ好きだというトムも頷いた。モビルスーツとは、日本のロボットアニメの金字塔『機動戦士ガンダム』シリーズに登場する人型ロボットのカテゴリーだ。ヘビーガンはそのうちの一つだが、二人ほどにアニメに詳しくない鬼頭は、首を傾げるばかりだった。

 

 試作一号機のときと同様、完成したXI-02は早速、性能テストに用いられた。と同時に、プロフィアの改造もスタートした。改造は発電装置の搭載から始まり、次いでXI-02のバッテリーを充電するための設備の取り付け、その後は、性能テストの結果をフィードバックしながら進めていくこととなった。

 

 立ったり座ったり、歩いたりジャンプしたり、といった基本的な運動の動作や、搭載した装備がちゃんと動くかどうかを確認するためのテストは、十二月中にほぼ完了した。

 

 翌年一月からはより高次の性能テストが始まった。例えば、パワーアシスト機構を最大出力で稼働した際にバッテリーにどれだけの負担がかかるか。その負担を減らすことは可能か。負担を減らすためには何が出来るか…………といった具合に、XI-02のその時点における性能限界をテストで探り、その打破を目指して討議を重ね、改良を加え、またテストを行ってデータを採り、分析する。この工程を繰り返して、完成度を高めていくのだ。

 

 素晴らしいアイディアが降りてきたのは、一月半ばのことだった。鬼頭は桜坂に、「災害用パワードスーツにも武器が必要だと思うんだ」と、言った。

 

「勿論、戦うための兵装じゃない。俺たちが作りたいのは災害用であって、軍事や、警察用じゃないからな」

 

「それは分かっているが……」

 

「災害の現場において、緊急事態というものは必ずやって来る。洪水で流される車の中に取り残された人を救い出すいちばん手っ取り早い手段は、窓ガラスをぶち破ることだ」

 

「ネタはあるのか? XI-02のテストはすでに進行中なんだ。その兵装を搭載するためだけに、改修作業に一ヶ月も二ヶ月もかかるようじゃさすがに許可出来ないぞ。それに、計画外の新装備を取り付けるとなると、かなりの重量増につながるんじゃ……」

 

「重量増については、ない、と断言出来る。改修期間についても、〈アローズ製作所〉の設備なら、そう時間はかからないと踏んでいる。材料さえ揃えることが出来れば、三週間で完成させてみせる。だから、開発の許可をくれ」

 

「いったい、何を作る気なんだ?」

 

「エネルギー・ブラスト」

 

「ビーム兵器か!」

 

 鬼頭の言に、桜坂は思わず唸った。いまから二十年以上前、MITでの記憶がよみがえる。実は当時も、二人はパワードスーツにビーム兵器を搭載出来ないか考えたことがあった。そのときは資金不足に加えて、機材の性能不足を理由に断念したが、いまの自分たちにはその両方がある。予算は勿論、工作機械などの設備についても、国内屈指のロボット・メーカーが保有する最新の物が使える。

 

「ガラス・レーザーなら、システムをコンパクトに、そしてフレキシブルにデザインすることが可能だ」

 

「重量増大にもならないか。よし、分かった」

 

 桜坂は鬼頭の提案を快諾した。ただ、ビーム兵器の開発・製造にはかなりの資金が必要となるだろう。「出来る限り安く作ってね(震え)」と釘を刺すことだけは忘れなかった。

 

 二月に入り、エネルギー・ブラスト・システムが完成した。すでに人工筋肉が集中している腕部に搭載可能なほどコンパクトなシステムで、改修作業に要した日数は僅か二日に過ぎなかった。エネルギー・ブラストを搭載したことによる重量増は、三キログラム以内に抑えられた。

 

 エネルギー・ブラストの最終調整は、IS学園の入学試験の日に行われた。

 

 

 

 

 

 

 IS学園の入試があった日から、一週間が経った。

 

 鬼頭たちパワードスーツ開発室のメンバーは、〈アローズ製作所〉本社ビルの隣に建てられたドーム型の試験場に集まっていた。どのような悪天候に見舞われてもテストを遅滞なく行えるようにと、およそ三十年前、東京ドームを参考に建てられた施設だ。大型のロボットや、小さくとも可動部位の多いロボットなどは、みな例外なくここでのテストを経て製品化されていた。

 

 東京ドームを参考にしているだけあって、試験場の造りは万事が広く、大きい。基本的な構造は野球場と大差なく、主には運動場と観客席に相当するエリアから構成されている。勿論、この場合の観客とは、開発したスタッフたちのことだ。観客席に相当する部分は、実際には椅子はほとんどなく、モニター用の機材をつなぐための電源ポイントが配されている。

 

 選手たちの待機所に相当する場所は、最新の監視装置と分析用の機材が集積されたモニタールームだ。いまは勿論、鬼頭たち開発室の面々が詰めている。

 

 モニタールームは二十坪ほどもある広々とした部屋だった。しかし、床面積のほとんどを機材が占拠している上、壁面には薄型ディスプレイが何十枚とタイルのようにはめ込まれているため、数字ほど間取りに余裕は感じられない。機械の排熱により、室内はサウナもかくやというほどに暑く、鬼頭たちに季節感というものを忘れさせた。部屋のエアコンの設定は、まだ二月だというのに冷房に切り替えられている。

 

 それでも額に浮かぶ玉の汗を拭いながら、部屋の中央に置かれたデスクに腰掛ける鬼頭は、左手首のボーム&メルシェを見て、

 

「時間です。今日のテストを始めましょう」

 

と、室内を見回した。

 

 モニタールームには現在、鬼頭の他に開発室のメンバー六人が詰めている。滑川技師やトムたちだ。残る六名のうち四名は、観客席で記録用カメラの動きを監督しているはずだった。そして、あとの二人は……、

 

 机の上に置いていたヘッドセットを装着し、手元のラップトップパソコンとの接続を確認した鬼頭は、ゆっくりと口を開いた。

 

「桐野さん、お願いします」

 

『はい』

 

 部屋の四隅に設けられたスピーカーから、桐野美久の声が奏でられた。

 

 一同の目線が、壁面ディスプレイのうちの一つ……グラウンドへの入場ゲートの様子を映している画面へと集中する。

 

 試験場のゲートは、大型の作業機械の出入りも容易いようにと、本物の東京ドームよりもたっぷり余裕をとって築かれている。チーム最年長の酒井曰く、当時の社長が業者に発注した内容は、「戦車が並んで入れるゲートを作れ」だったそうな。

 

 入場ゲートから、ゆっくり、とプロフィアが進入する姿が映じた。勿論、桜坂の知人が譲ってくれた、例の車輌だ。アルミ製のウイングコンテナを積載したトレーラを牽引している。

 

 ハンドルを握るのは、なんと桐野美久だ。XI-02の開発計画がスタートして間もない頃に、プロフィア導入の件を伝えたところ、僅か一ヶ月で免許を取得してしまった。

 

 改造プロフィアはモニタールームのすぐ近く……野球でいう、ホームベースのあたりで停車した。エンジンはまだかかったままの状態だ。

 

「ウイングを展開してください」

 

 ヘッドセット越しに指示を出す。運転席の美久は頷くと、コンテナの開閉スイッチを操作した。改造プロフィアではコンテナは勿論、トレーラ部の動作すべてをコクピットで行うことが出来る。アルミ・コンテナの右側壁が、静かに傾き、開いていった。

 

 ホームベースに向けられた六台のモニター・カメラが、白亜の機動戦士の姿を捉えた。XI-02だ。メインの大型バッテリーが搭載された背面ユニットが、ケーブルで給電装置とつながっている。

 

 ラップトップのキーボードを叩き、ヘッドセット・マイクの送信先を変更。冷笑を浮かべる鬼頭は、「気分はどうだ?」と、囁いた。

 

『最高だ』

 

 室内に、この場にはいない桜坂の声が響いた。本日のテスト・パイロットだ。

 

 鬼頭たちの最終目標は、自分たちの作ったパワードスーツを世界中に普及させることだ。性能やコストは勿論、適切な訓練さえ受けていればどんな人間でも扱える簡便さが求められる。そういう事情から、テスト・パイロットは開発室のメンバーが持ち回りで務めていた。

 

『前回のテストで課題とされた、防塵フィルターの性能が上がっているんだな。綺麗な空気が美味い! この先の人生、ずっと着ていたいぐらいだ』

 

『あら、それは困ります』

 

 諧謔を口にすると、美久が通信に割り込んできた。こちらも声が笑っていたが、不思議と、悪寒を禁じえない口調だった。

 

『桜坂室長のお顔が二度と見られないなんて……私、寂しくてどうにかなってしまいます』

 

『……ずっと着ていたいぐらいだ』

 

 XI-02を着用している限り、少なくとも物理的にどうにかされることはあるまい。

 

 美久の言葉を聞いた親友がいまどんな表情になっているのか想像して、鬼頭は彼を気の毒に思った。

 

「それでは、テストを始める。準備はいいか、桜坂?」

 

『ああ』

 

「よし。桐野さん、バッテリーとの接続を解除してください」

 

 プロフィアの移動基地への改造はまだ完了していない。いずれはコンテナ内部に管制コンピュータを置き、オペレーターに操作をしてもらう予定だが、いまはすべての操作を運転手が行う必要があった。

 

『はい』

 

 美久が応答し、給電装置とバッテリーの接続が解除される。ラップトップの画面に、携帯電話などでおなじみのバッテリー残量を示すアイコンが大きく表示された。XI-02の動力が、内蔵バッテリーに切り替わったサインだ。現在の残量は当然、一〇〇パーセント。

 

 コンテナのXI-02が、静かに歩き出す。インタースーツに縫い付けられたセンサーが、筋肉が動き出す前兆運動を拾い、ヘルメットに搭載された高性能AIが最適なエネルギー配分を算出、パワーアシスト機構を駆動させた。スーツの重さをまったく感じさせない軽やかな、そして自然な足取りでコンテナの縁まで進むと、小さく跳躍。すかさず、足首、膝、大腿部に搭載されたショック・アブソーバーが駆動し、見事な着地でグラウンドに降り立った。幼少より古武術をたしなんでいる桜坂は、身長一八四センチ、体重八十キログラムという堂々たる体躯の持ち主だ。スーツを着込んだときの自重は一七十キログラム・オーバー。これだけの質量が一メートル近い高さから跳び降りるとはちょっとした事件だが、見守る鬼頭らの表情から動揺は見出せない。

 

 大地に立ったXI-02は一塁側二五メートル先に顔を向けた。防護用のアイ・シールドの下で高感度カメラがピントを素早く自動調整。装着者のヘッド・マウント・ディスプレイに、最適な視野と精度の映像を提供する。

 

 一塁のあたりで、黒い山が出来ていた。長短厚みも様々なH型の鉄骨が、うずたかく積み上げられている。その総数、きっかり百本。今日のテストのために、XI-01まで動員して用意した物だ。

 

『目標を確認した。いまからテスト項目一番を開始する』

 

「わかった。皆さん、モニターを」

 

 室内を見回し、みな等しく頷いたのを見て、鬼頭は桜坂にスタートの合図を送った。白亜のXI-02が、軽快な足取りで鉄骨の山へと歩み寄っていく。人間の手と同様、五本の指に範をとったマニュピレータが手近な鉄骨を掴み、軽々と持ち上げ、放り捨てた。二本、三本と、どんどん持ち上げては、放り投げていく。その間、鬼頭らの目は壁面ディスプレイに映じるXI-02の姿、そして手元のラップトップに表示される各ステータスの変動に釘付けとなった。

 

 パワーアシスト機構にまつわる、エネルギー・マネジメントの精度を高めるためのテストだ。

 

 介護部門開発の新素材の採用により、XI-02はこの大きさ、この重量で、ベンチプレス二トンを達成した。しかし、常に二トンものパワーを発揮し続けては、バッテリーがあっという間に干上がってしまう。五十キログラムの力でも必要十分なとき、百キログラムの力が必要とされるときという具合に、状況に応じた適切な出力の管理、エネルギー供給の管理が重要だ。

 

 そこで考案されたのが、鉄骨の山を崩していくこのテストだ。長短に加えて太さもまちまちな鉄骨は、同じ重量の物は二つと存在しない。五十キログラムの鉄骨を持ち上げるのに必要なパワー、百キログラムの鉄骨を持ち上げるのに必要なパワー、といったふうに、エネルギー供給の弁をせわしなく動かす必要がある。

 

 二週間前に同様のテストを行ったときは、百本の鉄骨をすべて放り投げるのにかかった時間は十五分三四秒。バッテリーの残量は八十パーセントを切っていた。たった十五分程度の全力稼働で二割以上のエネルギーを消耗したことは、鬼頭たちに衝撃を与えた。これでは商品となりえない。

 

 鬼頭たちはただちに改良を加えた。エネルギー・マネジメント・システムの洗練を目指すとともに、バッテリー容量の改善にも努めた。大活躍を果たしてくれたのは滑川技師で、彼は以前勤めていた自動会社で学んだハイブリッド・システムを参考に、非常にクレバーなプログラミングを成功させてくれた。机上の計算では、いまのXI-02なら鉄骨の山を崩すのに十分未満、バッテリーの消耗は十パーセント以内に抑えられるはずだが、はたして……、

 

「五十本目の鉄骨をクリアしました。タイムは三分五四秒!」

 

 室内に、歓呼の声と、膝を叩く音が響く。滑川技師だ。机上計算よりも圧倒的に短いタイムだった。鬼頭は手元のラップトップを見る。バッテリー残量は、なんと九六・二パーセント。勿論、桜坂は軽い鉄骨ばかりではなく、ちゃんと重い鉄骨も運んでいる。それなのに、ほとんど減っていない。鬼頭の唇が、自然、微笑を作る。

 

 勿論、装着者のバイタル・チェックは怠らない。いかな好成績も、装着者や機体に無理を強いての結果では意味がない。鬼頭たちが作りたいのは、人を救う機械なのだ。室長の体調管理を任されているトムに訊ねると、「呼吸、脈拍、血圧、体温、すべて安定しています」との返答。彼らはそこでようやく笑い合った。

 

 XI-02が、百本目の鉄骨を移動させた。黒い山は跡形もない。時計のカウントが停止し、八分二三秒という好成績を示す。バッテリー残量は、九三パーセントちょうど。改修の結果は、成功と評してよいだろう。鬼頭はヘッドセットのマイクに向かって言う。

 

「お疲れ様。いいデータが採れたよ」

 

『そいつは何より』

 

「次のテストの前に休憩を……」

 

『挟む必要はない。このままやろう』

 

「しかし、」

 

『実際の災害現場では、休憩なんて取る時間はないぞ』

 

「分かった。項目その二……エネルギー・ブラストのテストを始める」

 

 XI-02は二塁側へと身体の向きを変えた。年季の入った様子のマネキン人形が、仰向けに横たわっている姿をカメラが捉えた。右足の上に、鉄骨が乗っている。

 

「見ての通りだ。要救助者は右足を鉄骨の下敷きにされていて、自力での脱出は困難だ。しかも鉄骨は他の建材と複雑に絡まっていて、下手に動かすと一気に崩れてしまいかねない」

 

『了解した。ビーム・カッターで鉄骨を切断し、対象者を救出する』

 

 XI-02はマネキン人形のそばに駆け寄った。カメラの映像をモニタールームの鬼頭たちに転送、兵装の使用許可を求める。

 

『対象者に接近した。エネルギー・ブラストの使用が必要だ。使用許可を』

 

 エネルギー・ブラストは使い方を誤れば重篤な事故につながりかねない強力な兵装だ。安全装置の解除キーは、装着者ではなく後方の指揮所に委ねるようにしていた。今回のテストでは、鬼頭たちモニタールームがそれにあたる。

 

「分かった。エネルギー・ブラスト・システムの安全装置を解除する」

 

 手元のラップトップを操作し、装置への通電を妨げていたブロック・プログラムを解除する。桜坂の目元を覆うディスプレイに、緑色の蛍光色でunlockの文字が表示された。

 

『エネルギー・ブラスト、アクティブ』

 

 音声操作で、右腕に内蔵されたブラスト・ユニットを起動させる。背部のメイン・バッテリーだけでなく、胸部及び大腿部の装甲板の下で眠っていた計四個のサブ・バッテリーも叩き起こして、システムへの給電が開始された。

 

 ビームの発射口は、掌に穿たれた直径五ミリメートルの穴の中だ。普段は、カメラの絞りを最高にした保護壁で覆われているが、桜坂の発言に応じて、いまは開口している。これも例のアメコミヒーローに敬意を表してのレイアウトだ。

 

『リパルサー、出力四十パーセント』

 

「……おい」

 

『冗談だよ。ブラスト、出力四十パーセント』

 

 リパルサーの意味が分からずに困っている音声認識機能を一旦キャンセルし、改めて指示を口にする。ヘッド・マウント・ディスプレイに、エネルギー・ブラストの出力ゲージが表示され、四割の位置まで満たした。掌の穴から、ぼんやり、と黄色い光芒が漏れる。

 

 一九六〇年代に始まったレーザービームの研究は、今日、様々な方式が実用化されている。鬼頭たちがXI-02に採用したのは、ガラス・レーザーだ。ケイ酸ガラスの結晶を母体に、ネオジムなどを溶解して光線を生み出す技術だ。最大の利点は、システムをコンパクトかつフレキシブルにデザイン出来ることだが、高出力化が容易というのも、採用した理由の一つ。欠点は屈折率の高さだが、鬼頭はリン酸ガラスを母体とすることで、その増加を抑えることに成功した。

 

『モード・ストレート』

 

 鬼頭はエネルギー・ブラストに、三つの発射モードを組み込んでいた。ストレートはレーザー光線を絶え間なく発射し続けるモードだ。

 

 人形の足を圧迫している鉄骨に、掌を向ける。ビーム発振器そのものの発射試験はすでに実施し、良好な結果を得ているが、パワードスーツに搭載してから発射するのは、これが初めてだ。はたして、

 

『ブラスト』

 

 直径五ミリの穴から、黄色い光線が飛び出した。壁面ディスプレイに映じた光景を見て、鬼頭は、無事に作動してくれたか、と安堵の吐息を漏らす。次いでラップトップを見て、頬の筋肉を強張らせた。

 

「桜坂!」

 

『……ああ。想定よりもバッテリーの減りが早い』

 

 のみならず、機体の温度も上がり始めている。冷却機構が追いついていない。

 

『こいつは早いところすませたほうがよさそうだ』

 

 用意したH型鉄骨の寸法は、縦二〇〇ミリ、横二〇〇ミリ、Hのつなぎの部分の太さは、一二ミリだ。一メートルあたりの重さは五十キログラム近い。

 

 光の糸ノコギリは、分厚い鉄骨を、すすすっ、と抵抗感なく溶断していった。二十センチを焼き切るのに要した時間は二秒未満。XI-02に搭載されたレーザー・ユニットは、小型・軽量でありながら、最大で二メガワット級の出力を誇った。

 

 鉄骨を切断すると、桜坂は即座にエネルギー・ブラストの発射を止めた。装置が稼働していた総時間は四秒二一。メイン・バッテリーのエネルギー残量は八五パーセントだが、サブのほうはすべて五割を切っている。

 

『……だいぶ減ったな』

 

 呟きながら、桜坂は短くなった鉄骨を放り捨てた。マネキン人形を抱き上げ、プロフィアへと戻っていく。要救助者の救出に成功。しかし、モニタールームでその様子を眺める鬼頭たちの表情に、喜色は薄い。

 

「たった四秒間の稼働で、しかも四割の出力で、この消耗とは……」

 

『最大出力で発射したときの消費電力は、単純計算で二・五倍か。フル充電状態でも、十秒撃てればよいほうか』

 

「俺たちが作りたいのは、災害用のパワードスーツだ」

 

『ああ。高出力レーザーを長時間照射し続けられる必要はない。だがよ、緊急時に備えての装備が、燃費の悪さのせいで、そのいざという時に使えないのはさすがに不味いぞ』

 

 XI-02が、マネキン人形をプロフィアにそっと載せた。自らもへりに両手をついて力を篭め、地面を蹴ってコンテナに乗り込む。本日のテストは終了だ。アームチェアの形をした充電器に背中を沈め、背面バッテリーと接続、給電を開始する。

 

「サブ・バッテリーの数を増やしたり、メインをより大きな容量の物に取り替えるのはどうでしょう?」

 

 滑川技師が口を開いた。パワーユニットの管制は主に彼の担当だから、その顔は真剣だ。

 

『ナイス・アイディア! ……と、言いたいところですが』

 

「多少の拡張や、一、二個程度の増設では、大した効果は得られないでしょう。その案でいくなら、もっと本格的にやる必要があります」

 

『だな。バッテリーの大きさは最低でもいまの二倍以上、サブ・バッテリーの増設数も七個、八個と必要でしょう』

 

「しかし、それだけの規模になると……」

 

『うん。XI-02のキャパシティじゃ、とても対応出来ない』

 

 より人間に近いシルエットを目指して開発されたXI-02だ。XI-01よりも小型な分、拡張性には限界がある。バッテリーの大きさを二倍にしたり、サブの数を三倍に増やしたり……とは、バケツに容量以上の水を注ごうとするようなもの。改修はまず不可能だ。もしそれをやるとしたら、バケツをより大きな物に交換する……すなわち、スーツのデザインを根本的に変える必要がある。

 

「しかしそれは、まったく新しいスーツを、一から設計するのと変わりません」

 

「では、XI-01にエネルギー・ブラストを搭載してテストしては? XI-01の大きさなら、バッテリーの大型化や増設も容易なはずです」

 

「たしかに、その通りです。ですが私としては、このままXI-02でのテストを続けたい」

 

 鬼頭は、災害用パワードスーツの量産モデルはXI-02の大きさを基準として設計したい、と考えていた。大型機はたしかに高性能化しやすいが、調達・運用・維持すべての面でコスト的な不利を抱えてしまう。自分たちの作るパワードスーツは、売れる商品でなければならない。顧客に、買いたい、という衝動を催させる性能と価格のバランスを提示しなければならない。

 

 エネルギー・ブラストも、XI-02の大きさで運用可能かつ実用的な装備として完成しなければ意味がない。XI-01への先祖返りは出来るだけ避けたかった。

 

「それに、機体の大型化は燃費問題の根本的な解決とはなり得ません。機体が大きいということは、重い、ということです。重いスーツを動かすためには、より強力なアクチュエータが必要となります。当然、電力の消耗も増えてしまう。そうなると、さらに大きなバッテリーが必要に……という具合に、悪循環に陥りかねない」

 

「レーザーの出力を下げるわけにもいけませんしね」

 

 エネルギー・ブラストについて、現在、使用を想定している状況は、先ほどのテストのような場面だ。すなわち、鉄骨などの障害物を短時間で数百、あるいは数千度まで温度を上昇させる必要がある。本来ならばギガワット級の出力が仕事だ。これ以上、パワーは下げられない。

 

 この燃費問題、さてどう解決したものか、と鬼頭は険しい面持ちで考え込む。せっかく作ったエネルギー・ブラストだが、どうしても良策を見出せなかった場合、取り外すことも考えねば。

 

『なあ、鬼頭……皆さんも……』

 

 モニタールーム内に、桜坂の声が響く。口ぶりから察するに、プロフィアの運転席に座る美久や、観客席のみんなにも聞こえるように、通信マイクを操作したか。語られる言葉に、落胆や諦観は感じられない。

 

『一つ、提案がある』

 

「何だ?」

 

『ああ。上手くいくかどうかは未知数だが……どうだろう? IS学園に技術協力の要請をする、というのは?』

 

 桜坂の提案に、モニタールームは騒然となった。なるほど、その手があったか! と、滑川技師が膝を叩く。

 

 IS学園はIS操縦者や整備士の育成だけでなく、ISについての技術研究も行っている。ここで得られた研究データは、ISの運用制限を定める“IS運用協定”に参加している国々の共有財産と扱われ、原則、無償での公開と提供が、学園には義務づけられていた。勿論、日本もIS運用協定の加盟国だから、〈アローズ製作所〉にも、データの開示と提供を要請する権利がある。

 

『荷電粒子砲を含む強力な兵装をいくつも搭載し、かつ同時に運用することが出来る。戦闘時は超音速飛行が当たり前で、防御面はエネルギーシールドを常に展開可能。ISが最強兵器と呼ばれる所以はパワーユニットにある、というのが、俺の持論だ』

 

 ISのパワーユニットは、動力源、伝達装置、管制システムの、主に三つの要素から構成されているという。その中でも特に重要なのが、動力源たるコアの存在だ。ISにはエンジンがなく、機体を駆動させるためのパワーはこの機関が生み出している。ISに使われている技術の中でも特に機密性の高い部分で、勿論、鬼頭らは現物を見たことがない。しかし、巷間出回っているISの写真などから、かなり小さな装置と推測された。このコアに使われている技術を入手することが出来れば、バッテリーを大型化せずに大容量化出来るかもしれない。

 

 また、コアの生み出したエネルギーを、各部に効率よく分配する管制システムの技術も大いに参考となろう。いくらバッテリーの大容量化に成功したところで、有限のエネルギーだ。上手く差配しなければ、あっという間に枯渇してしまう。

 

『パワーユニットだけじゃない。ISの操縦系はイメージ・インターフェースといって、なんでも、思考だけで機体や兵装の操作が可能らしい』

 

「……それなんてネオ・サイコミュ?」

 

 トムの呟きに、桜坂の声が苦笑を孕む。

 

『イメージ・インターフェースの技術をフィードバックすることが出来れば、機体の応答性を向上させられるはずだ。ISの技術を学ぶことで得られる成果は多いと思う』

 

「なるほど」

 

 IS学園を頼る、とは盲点だった。鬼頭は壁面ディスプレイに映じた、二十年以上の付き合いになる親友に、尊敬の眼差しを向ける。

 

『勿論、せっかくデータの提供を受けても、肝心の俺たちが理解出来ない、アローズ製作所の設備では再現出来ない、という可能性はある。それにIS学園側だって忙しい。俺たちみたいに技術提供を求める声は、様々な組織が連日行っているだろうからな。IS学園が俺たちの要請に応じてくれるまで、どれくらいの時間がかかるか分からない。けれど、そういう問題は、やってみなければ分からないことだ』

 

「そうだな。なら、まずはやってみることが肝要だ。……桜坂室長」

 

『おう』

 

「早速、IS学園にコンタクトを取ってください」

 

 鬼頭の立場はあくまで設計主任、開発チームのリーダーは桜坂だ。どのような手段で連絡を取るにせよ、責任者たる彼にやってもらったほうが効果的だろう。

 

 桜坂は、『任せろ』と、応じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一ヶ月前――

 

 

 午前十時二十分。

 

 三月第一週の日曜日、グレイスーツをりゅうと着こなす鬼頭智之は、IS学園の正面ゲート前で茫然と立ち尽くしていた。

 

 飛行パワードスーツであるISを思う存分動かせる場として、IS学園は横浜市沖の人工島に築かれている。防犯上の問題から、島へのアクセス手段は限られており、今回鬼頭は、唯一、一般人にも開放されているモノレールに乗ってやって来た。

 

「……噂には聞いていたが」

 

 モノレールの駅からIS学園の学び舎までは徒歩で十分ほどかった。遠くから眺めていたときにも思ったことだが、だんだんと近づくにつれて、その偉容に圧倒された。なんて巨大な校舎なのだ。学校というよりも、東京都庁や名古屋駅のツインタワー、アベノハルカスといった複合施設を思わせる大きさだ。これが自分たちの納める税金が形を変えた姿と思うと、なんとも言えない気分にさせられた。

 

 IS学園のカリキュラムは三期制を採用している。

 

 三月頭のいま時分はまだ三学期の途中。日曜日とはいえ、校舎に足を運ぶ生徒も多いらしく、正面ゲートは開放状態だ。しかし、ゲート脇の監視所には警備員が待機しており、鬼頭の様子を訝しげに睨んでいる。一応、入館許可証は事前にもらっているが、一人きりで門をくぐることは許してくれそうにない。大人しくエスコート役を待つとしよう。

 

 左手首のボーム&メルシェが、十時半を示した。

 

 事前に交わした約束の刻限きっかりに、校舎のほうから、ぱたぱた、とせわしない足取りで、カナリア色のワンピースをだぼっと着た女性がやって来た。背が低く、肩幅も狭い。全体的に華奢なシルエットをしているが、バストの部分だけが豊かなラインを描いている。髪は、ゆるり、ふわり、といった印象の、くせのあるショート。黒縁眼鏡の向こう側で、子鹿のように大振りな瞳が申し訳なさそうにしていた。まだあどけなさを残す顔立ちから察するに、二十歳そこそこか。

 

 鬼頭の前までやって来た彼女は、「遅れてすみません!」と、腰を折った。「いえ……」と、応じて、彼女の呼吸が落ち着くのを待つ。弾む胸を押さえながら、眼鏡の女性は顔を上げた。

 

「この学園で教員をしている、山田真耶です。本日は、アローズ製作所の皆さんの案内役を務めさせていただきます」

 

「鬼頭智之です」

 

 鬼頭は会釈すると、右手を差し出した。

 

「本日は私たちの要請に応えていただき、ありがとうございます」

 

 二週間前に送ったラブレターに対するIS学園側の返答は、三月の第一日曜日に学園まで来てほしい、という好意的なものだった。これには、鬼頭をはじめ、開発チームの全員が驚いた。これまで、アローズ製作所がIS学園と関わりを持ったことは一度としていない。そんな相手からの申し出に、これほどスピーディに対応してくれるなんて……。

 

 はじめ、IS学園側の意図が不思議でしょうがなかった彼らだったが、すぐに桜坂が一つの答えを導き出した。曰く、「織斑一夏くんのことがあったからではないか」と。

 

 世界で初めてISを動かした男性の名前が、新聞や報道番組のヘッドラインを飾るようになって、まだ日が浅い。各国の政府、様々な組織の思惑から、件の少年は来年度よりIS学園に通うこととなった。当然、IS学園には織斑少年に関する問い合わせが、連日寄せられていることだろう。

 

 とはいえ、IS学園側もいまはまだ、世界初の男性IS操縦者をどう扱うべきか、答えを出せずにいるだろう。学園側がそんな状況では、各国からの情報請求に応じられるはずもない。しかし、まったく応じないのも不味い。IS運用協定違反になってしまうからだ。

 

 そこでIS学園が目をつけたのが、アローズ製作所からの技術提供の打診だったのではないか、と桜坂は考えた。IS運用協定参加国である日本の企業からの要請だ。しかも、提供してほしいと打診されたデータは、織斑一夏の“お”の字もない内容。IS運用協定違反という糾弾を封じたい学園にとって、これほど魅力的な案件はなかったのではないか、と桜坂は推理した。

 

「今日はよろしくお願いします」

 

 差し出された右手を、真耶はおずおずと握った。思いのほかやわらかい感触。兵器とはいえ、ISは手足の先まで被服するタイプのパワードスーツだ。銃を直接手に取るわけではないからだろう。

 

「事前の連絡では、今日、見学に来るのは二人とおうかがいしていましたが?」

 

 握手を交わしながら、真耶が訊ねてきた。鬼頭は苦い表情で溜め息をつく。

 

「実は、今日になって急に来られなくなってしまいまして……」

 

 今日の見学は桜坂室長と二人で見て回る予定だった。ところが、とある事情から桜坂が急に来られなくなってしまった。

 

 具体的には、今朝、桐野美久との間で以下のようなやりとりがあったらしい。

 

「桜坂室長……」

 

「……うん。もう、ナチュラルに俺の部屋にいて、朝食を作っていることについては、突っ込むのをやめるよ。うん。それで、なんだい、桐野さん?」

 

「今日のIS学園への見学についてなんですが……」

 

「うん。なんだい、どうしたんだい?」

 

「IS学園ということは、女子校じゃないですか」

 

「そうだね、女子校だね」

 

「年頃の女の子しかいない空間じゃないですか。そんなところに行くんですよね」

 

「うん。何を言いたいかは、だいだい想像がつくよ、うん。でも安心してほしい。JKは俺の守備範囲外だから。そんなロリコンじゃないから。うん。俺のストライクゾーンはむしろ四十~六十前後の熟女だから。鼻の下を伸ばすなんてことはありえないから! だから、その包丁を下ろして! 下ろして!」

 

 桐野さんを落ち着かせないといけないので、今日は行けない。そう力なく口にした親友に、鬼頭は、「そのう、頑張れ」と、気休め程度の言葉しかかけられなかった。

 

「そういうわけで、今日は私一人だけになってしまいました。連絡が遅れてしまい、申し訳ありません」

 

 一応、見学者が一人欠席せざるをえなくなってしまったことは、IS学園にも事前に伝えようと努力した。しかし、何度電話をかけてもつながらなかった。やはり織斑一夏少年絡みの問い合わせで、回線はパンク状態なのか。

 

 真耶は「いいえ」と呟いて、かぶりを振った。

 

「こちらこそ、鬼頭さんたちにはご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんし……」

 

 何のことを言っているかはすぐに分かった。やはり、桜坂の推理は正しかったらしい。

 

 今回、IS学園は、各国政府や名だたる軍需産業からの熱烈なラブコールをすべて蹴って、アローズ製作所からの依頼にのみ応じた。いったい、この会社はいかなる組織なのか、と邪推する者も出てこよう。最悪の場合、冷戦時代にダーティな手ぐちと活躍で名を馳せた諜報機関などから、痛くもない腹を探られることになるやもしれない。

 

 ――とはいえ、悪いことばかりじゃない。会社の名前を売る、良い機会かもしれないな。

 

 いまは日本の一企業にすぎぬアローズ製作所だが、ロボット産業の分野でさらなる高みを目指すならば、いずれは世界に打って出なければならないだろう。災害用パワードスーツのこともある。様々な国、様々な組織から注目を集めるこの状況だが、むしろ前向きに捉えようと、鬼頭は努めた。

 

「この先、何が起こるのかについては、いまは一旦、考えないようにしましょう。今日は、一技術者として、ISを存分に楽しみたいと思います」

 

 ISのあり方は自分たちの理想とはかけ離れている、としながらも、使われている技術に対する興味は尽きない。鬼頭の双眸は好奇と探究心から、炯々と燃えていた。

 

 ISは女尊男卑社会を生み出した元凶として、世のほとんどの男性から複雑な眼差しを向けられている。ISの名を楽しげに口ずさむ鬼頭のような人間は珍しい。

 

 ――私たちのISを、そんなふうに言ってくれる男の人がいるなんて……。

 

 真耶は楚々とはにかんだ。

 

「満足していただけるよう、しっかりエスコートします。ようこそ、IS学園へ。私たちはあなたを歓迎します」

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter2「眼差しの先に」 了

 

 

 

 

 

 



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Chapter3「風が吹いてしまった日」

第三話です。

ようやく、原作キャラと絡ませることが出来ました。

あと、間接的ながらIS初戦闘シーン。


 一ヶ月と二週間前――

 

 

 

 

 

 織斑一夏の存在が発覚して以来、IS学園に勤務する職員はみな、一人の例外もなく多忙を極めていた。

 

 ISという存在が世に生まれて、まだたったの十年でしかない。当然、IS学園自体の歴史も浅く、生徒たちの育成や、学園を運営していくのに必要なノウハウの蓄積は、十分とは言いがたかった。日々の業務を普通にこなすことさえ負担は大きく、そこに加えて、今回の織斑一夏の一件だ。各国の政府、企業、マスコミからの問い合わせが嵐のごとく殺到し、職員たちを苦しめた。

 

 特に対応に苦慮したのが、織斑一夏に関する情報請求だ。

 

 ISを動かせるのは女性のみ。現在の女尊男卑社会が成立する上での、前提条件であるこの大原則を覆してしまった彼のデータは、どんなに些細なものであれ、喉から手の出る代物とされた。彼らはIS学園に、IS運用協定に定められた情報公開の義務をはたすよう要請した。

 

 ところが、IS学園側には、織斑少年について開示するほどのデータがまだない。

 

 彼の存在が発覚し、学園側でその身柄を確保してからまだ一週間しか経っていないのだ。

 

 データを取得する暇などなく、そもそも、前例のないことだけに、何から調べればよいかも判断しかねていた。要請に応じたくとも、必要な資料を用意出来ない。

 

 そうした事情を伝えたところ、日本以外の協定参加国――特にG7――から猛烈な抗議が返ってきた。

 

 情報開示に応じないのは、日本政府の指示でデータを隠匿しているからではないのか、とか。請求には応じられない、とは運用協定違反ではないのか、など……。

 

 IS学園は、また新たな頭痛の種を抱えることになってしまった。

 

 そんな状況の中、アローズ製作所なるロボット・メーカーからの技術協力の打診は、IS学園にとって非常に都合の良い依頼といえた。

 

 織斑一夏の名前を一切出さず、しかも、欲している技術の使い道は、災害用パワードスーツの完成度を高めるためだという。IS学園とはこれまで関わりのなかった企業だ。構成員や関連子会社などに、非合法な武装勢力や各国の政府機関と通じている者がいないか調査の必要はあるが、それさえ問題なければ、すぐにでも引き受けたい事案だった。いまはアローズ製作所の依頼に応じているため手が回せないと、IS運用協定違反という批判をかわしつつ、織斑一夏に関する要求に対して時間を稼ぐことが出来る。

 

 早速、IS学園は件の企業について調査を開始した。日本政府にはたらきかけ、暗部組織の人員にも動いてもらって調べえた結論は、非常に信用の置ける優良企業だということ。IS学園はすぐに彼らとコンタクトを取った。電子メールやFAXなどを駆使して何度かやりとりを重ねた後、三月の第一日曜日に、アローズ製作所から技術者が二人、見学に来ることになった。

 

 今日、ISはスポーツ競技の一種と定義されているが、その本質は兵器だ。少なくとも、IS学園はこの飛行パワードスーツを、世界のミリタリー・バランスを一変させてしまった危険極まりない存在と捉えている。電子の海でデータのみやりとりすことは、最新の軍事技術が流出してしまう危険性から憚られた。学園側はアローズ製作所に、直接足を運んでISを見てほしい。目で見て、技術を盗んでほしい。その足でデータを持ち帰ってほしい、と要請した。先方からの返答は、「最高の技術者たちを派遣します」だった。

 

 対するIS学園側は、いずれやって来る二人のエスコート役に、年若い山田真耶を任命した。IS学園のOG。学生時代には日本の代表候補生に選ばれたほどの実力者だが、教育者としてはまだ新人の部類。みなが多忙を極めるいまのIS学園にあっても、比較的手の空いている立場だからと抜擢された。

 

 真耶はアローズ製作所に、事前に誰が来るのか教えてほしい、と名前と顔写真の提出を求めた。

 

 表向きには、入館許可証を発行したいから、という理由だが、いちばんの筋合は、素性のさらなる追求をするためだ。IS関連技術の情報は、国防や世界情勢を左右しかねないだけに、こういった調査は繰り返し行い、精度を高める必要があった。

 

 

 一日と経たずに送付された二枚の顔写真を見比べて、真耶は、名前と顔が逆ではないか、と苦笑した。鬼頭などという、いかにもな姓のほうが、細面に切れ長の双眸という、知性の匂いを漂わせる容貌なのに対し、桜坂という、舌触りのやわらかな姓のほうが、鬼瓦のように厳めしい顔つきをしている。

 

 IS学園の調査部と、日本政府の暗部組織がまとめ上げた資料によれば、ともにMITを首席と次席のツー・トップで卒業した天才的な頭脳の持ち主だという。

 

 天才的……というフレーズを目にして、真耶は表情を曇らせた。個人的な経験に基づくイメージだが、いわゆる天才、鬼才などともてはやされる人間には、変人・奇人と評せざるをえない人物が多いような気がする。真耶の知る実例でいえば、IS開発者の篠ノ之束がそうであり、IS学園を除けば国内最大のIS研究施設である倉持技研の篝火ヒカルノがそうだ。

 

 ゆえに、写真の二人もそういった人格面での欠陥があるのではないか。そんな相手をどう案内すればよいのか。真耶は不安にかられてしまった。

 

 はたして、彼女の懸念は実現することなく終わった。

 

 ――この人が、鬼頭智之さん……。

 

 二週間後の三月の第一日曜日。廊下を歩く山田真耶は、隣を行くグレイスーツの男性の横顔を一瞥して、ひっそりと安堵の溜め息をこぼした。

 

 顔を合わせてまだ数分、交わした言葉も片手で数えるほどでしかないが、驚くほどに普通の人という印象だ。なるほど、たった数言の発言からも、頭脳の明晰さはうかがえる。しかし、篠ノ之束や篝火ヒカルノといった人物らに特有の、会話をするにあたって共有されるべき前提条件の不一致というものが感じられない。鬼頭の持つ常識や倫理といったものの価値観は、真耶の抱いているそれらと大差なく、話していて疲れないし、非常に心地が良い。

 

 学園内の施設を案内するにあたって、真耶は鬼頭に、「私に着いてきてください」と、お願いした。彼は了承し、自分の側を離れずくっついてくれている。これが篝火ヒカルノあたりなら、「いいや、それには及ばない。そんなことで山田先生の手を煩わせるのも心苦しいからね」なんて、軽薄な口調でもっともらしい台詞を口ずさみながら、勝手にそこらを歩き回った挙げ句、立ち入り禁止区域にも平気で進入していくに違いない。その結果、自分は先輩教員たちからこっぴどく怒られ、かえって手を煩わすことになるだろう。というより、実際にそういうことが過去にあった。

 

 翻って、隣を歩くこの男はどうだ。

 

 自分の言葉にちゃんと耳を傾け、言の葉に託された想いを汲み取って対応をしてくれる。自分のことを考えて、言動に気をつけてくれる。

 

 調査報告書に目を通したときとは一転、鬼頭の隣を歩く真耶の表情は明るかった。

 

「……では、まずISバトルを観戦させてもらえるのですね?」

 

「はい。ISのことを知るのに、これ以上の教材はありませんから」

 

 鬼頭の問いに、真耶は楚々と微笑み頷いた。

 

 事前にアローズ製作所が送ってきた見学内容の要望リストによれば、最優先で知りたいのはISの動力関連に使われている技術ということだが、個々の技術の前に、まずISという存在の全体を見てほしい、と彼女は考えた。

 

 鬼頭としてもそれは望むところだ。

 

 ISは現在実用化されているパワードスーツの中でも、最高の性能と完成度を誇る。使われているネジ一本々々の素性にさえ、彼は学ぶべき価値を見出していた。

 

 鬼頭は意気揚々と真耶に付き従った。

 

 

 

 

 

 

 一ヶ月前――

 

 

 

 インフィニット・ストラトスは元来、宇宙空間での活動を想定し設計されたマルチフォーム・スーツであった。しかし、制作者〈篠ノ之束〉の想いとは裏腹に、彼女が夢見る宇宙時代は到来の気配を一向に見せず、結果、スペックを持て余したこの機械は兵器へとカテゴライズされた。さらにその後は各国の思惑からスポーツへと落ち着き、今日、ISで戦闘をするといえば、戦場での槍働きではなく、専用アリーナ内で行われる、レギュレーションによって定められた試合のことを指した。

 

 そのISアリーナだが、IS学園内には、主として行われる競技種目ごとに、仕様が微妙に異なる施設が複数建てられていた。真耶の先導のもとやって来た第三アリーナは、そうしたうちの一つだ。ピットルームに案内された鬼頭は、リアルタイムモニターでアリーナ内の様子をうかがい見ていた。

 

 第三アリーナは、超音速飛行が当たり前のIS同士が、空戦機動を取りながら激しくぶつかり合うことを想定して造られている。その面積はアローズ製作所のドーム型試験場の比ではなく、サッカーの試合を複数同時に行えそうなぐらい広い。

 

 授業の一環か、第三アリーナではいままさに、一年生同士がISバトルを繰り広げていた。それぞれ、異なる形状のバトル・ドレスで、可憐なその身を鎧っている。

 

 一方の少女が着ているスーツは、鬼頭にも見覚えがあった。欧州情勢を解説する報道番組などで、お馴染みの顔だ。たしか名前は、

 

「ラファール・リヴァイブというISです」

 

 隣に立つ真耶が、手元の端末を操作して、空中投影ディスプレイに機体データを表示してくれた。

 

 ラファール・リヴァイブ。フランスのデュノア社が開発した第二世代型の量産機。第二世代機の中でも最後発に開発された機体で、その基本性能は無改造でも初期型の第三世代機と肩を並べうる。最大の特徴は腰部のスラスターベースで、ここには様々な機能を持った拡張ユニットを六~八基搭載することが出来た。作戦に応じて拡張ユニットを適切に組み合わせることにより、様々な状況に対応可能な汎用性の高さが最大の強み。軍用ISとしては、開発国のフランスだけでなく、十二ヶ国で制式採用されている。

 

「この、第二世代というのは……?」

 

「ISの世代区分のことです」

 

 「そこまで厳密に定義されたものじゃないんですけれど」と、前置きして、真耶は続けた。

 

「誕生して僅か十年の間に、ISは様々な形、様々な機能を持ったものが作られました。これらを分類する上で、主に使われている技術水準を判断基準にして設定されたのが、第一世代、第二世代といった区分です」

 

 曰く、第一世代のISは、ISそのものの完成を目指して作られた機体群だという。天才・篠ノ之束が最初に完成させたIS……〈白騎士〉に準ずる性能を目標に開発された。各国の企業、研究機関の尽力により、ISの基本フォーマットはこの時点で完成を見た。

 

 第二世代はこれに加えて、後付兵装による多様化を目指して生み出された。兵装そのものは勿論、それらを使いこなすための管制システムの質が飛躍的に向上したのが、この時期のISだ。

 

 そして、

 

「現在、日本を含むIS製造国では、第三世代機の実用化を目指した研究が進められています。実は第四世代機というのもあるんですけど……これはまだ机上の妄想話のレベルですね」

 

「なるほど。第三世代機の特徴は?」

 

「イメージ・インターフェースを利用した特殊兵装の実装が目的の機体です」

 

 イメージ・インターフェースとは、主にISの操縦システムに使われている技術だ。操縦者の思考……すなわち、イメージによって、ロボットアームを動かしたり、バーニアを噴かしたり、といった機体制御を行う。第三世代機ではこの技術を応用して、たとえば、操縦者の思考によって誘導されるミサイルなどの実装を目指しているという。

 

「ちょうどほら、いま、ラファールの娘と戦っている相手の機体が、その第三世代機ですよ」

 

 端末を操作し、モニターの画角を変更する。ラファールの少女の対戦相手……空色の髪と、ルビーの眼差しが印象的な娘の顔がアップで映じた。

 

 空間投影ディスプレイのほうに、データが表示される。

 

 一年生、更識楯無。

 

 IS登録名、ミステリアス・レイディ。

 

 リアルタイムモニターに目線をやって、まず抱いた感想は、目のやり場に困るな、だった。

 

 激しい空中戦を展開するISは、二機ともXIシリーズのようなフル・アーマー・タイプのパワードスーツではなく、アーマーは身体の一部しか覆っていない。ミステリアス・レイディの方は特にその被覆面積が狭い上に、ISスーツの水着のようなデザイン上の特性から、女性らしいボディ・ラインがどうしても強調されてしまっていた。

 

 しかし、照れの感情に一旦蓋をしてじっくり眺めているうちに、鬼頭の眼差しは鋭さを帯びていった。

 

 ミステリアス・レイディのアーマーは狭く、そして小さい。エネルギーシールドによる防御システムがあるとはいえ、戦闘の役に立つとは思えぬほど華奢な造りをしているように見える。しかし、すぐにその考えは誤りだと気づかされた。あのデザインは、意味があってのものだ。装甲部分の各所に取り付けられた球形の装置、そして全身にまとわりつく黒いリボン状のフレームが、ファンタジー小説さながらの現象を起こしていることに気がついた。

 

 対戦相手のラファールが、小脇に抱えたアサルト・ライフルで牽制射撃を叩き込みつつ突進。四基あるマルチ・スラスターのパワーを一方向に揃えた猛加速をもって、肉迫を試みる。接近戦で仕留める腹積もりだ。

 

 対するミステリアス・レイディは、周囲を浮遊する球形の独立可動ユニット……クリスタル・ビット三基を正面に移動。三角形を描くように展開するや、球形ユニットの隙間から透明な液体を噴射し、液体の三角シールドを形成した。

 

「あれは、水ですか?」

 

「はい。正確には、ナノ・マシンを混入した水ですが」

 

 空間投影ディスプレイの表示情報によれば、このナノ・マシンがISのエネルギーを水分子に伝達し、自由自在の運動を可能としているとのこと。球形の装置は、ナノ・マシンと水をプールし、ときに大気中の水分から水を作り出すウォーター・サーバ。リボン状のフレームは、水の運動制御を補助するための装置。なるほど、これがミステリアス・レイディを第三世代機たらしめている特殊兵装か。

 

 ラファールの放った弾丸は、水のヴェールで形成された三角シールドに行く手を阻まれ、その威力を失った。

 

 ラファールが抱えている小銃は、五五口径の〈ヴェント〉アサルト・ライフル。銃口初速は音速の三倍近くにも達し、弾丸質量もおよそ七十グラムもある。他方、ミステリアス・レイディのウォーター・シールドの厚みは、映像から判別する限り、一センチにも届いていないように思われた。水は重い物質だが、この薄さでは、正面きって飛び込んだ五五口径弾の運動量を止めることは不可能だ。それを可能にしたのは、やはりナノ・マシンの作用なのだろう。水のヴェールを激しく震動させた際に生まれる運動エネルギーをもって、弾丸の運動エネルギーを相殺したか。

 

 牽制射撃を完封してみせたミステリアス・レイディは、突撃するラファールを悠々迎え撃つ。四連装ガトリング・ガンを内蔵した騎兵槍を中段にとり、近接ブレードを振りかぶる相手に向けて突き出した。高周波振動する水が形作った螺旋槍……ドリルランス〈蒼流旋〉。

 

 疾風少女は咄嗟の機動で右へと避ける。すれ違いざまに斬撃を叩き込むも、今度は左腕部アーマーの肘部分から噴出した水のヴェールがこれをブロックした。受け止めた姿勢のまま、ミステリアス・レイディは右回転。柔術の要領で相手を放り投げ、体勢を崩した瞬間をランスで衝いた。激水流のドリルがラファールのエネルギーシールドを削る、削る、削る……。

 

 ISバトルの基本は、シールドエネルギーの削り合いだ。先にこれをゼロにした方が勝者となる。

 

 強烈な一撃をまともに食らってしまい、ラファールのエネルギー残量は見る見る減っていった。あっという間に、四割を切る。

 

 これ以上のダメージは受けられない、と、ラファールは必死に離脱をはかった。

 

 近接ブレードでランスを弾くや、マルチ・スラスターのパワーは全開、ミステリアス・レイディを正面に捉えたまま、全速力で後退する。そうはさせじ、と追いかける霧纏の淑女。

 

 ラファールはスラスターベースにマウントされた拡張ユニットの一つから武装を展開、箱形のユニットが上下に開き、リボルバー・タイプの連発式グレネード発射器が姿を現す。八連発グレネード発射器〈ディフェンダー〉が、ポンッ…ポンッ……、と火を噴いた。四十ミリ榴弾が、ヒュルヒュル、と風切り音を引き連れて飛んでいく。

 

 その弾速は、銃弾に比べれば圧倒的に遅い。しかし、威力は桁違いだし、制圧面積も広い。

 

 ミステリアス・レイディは前進の勢いを殺さぬまま、ランスに内蔵されたガトリング・ガンで迎撃を試みた。

 

 一発目、信管の作動前に撃ち落とす。

 

 二発目も撃墜に成功。

 

 三発目は失敗。信管が作動し、榴弾の破片が短水路プール半分もの面積にわたって爆散する。たまらず、水のシールドを展開しながら回避機動。追撃の足が鈍る。

 

 間合いを定義し直したラファールは、逃走の足を止めて拡張コンテナをさらに展開、ありったけの火力を動員する。七五ミリ対戦車砲一門、四連装対空ミサイル・ランチャー二基、ブルバップ式アサルト・ライフル二挺、二五ミリ七砲身ガトリング・ガン一門、そして〈ディフェンダー〉グレネード発射器が一基に、手持ちの〈レッド・バレット〉アサルト・ライフル一挺……。圧倒的火力をもって、水の防御を突破する作戦か。

 

 モニターに映じるラファールを見て、鬼頭は思わず唸った。

 

 あれほどの兵装を同時に運用出来るとは……いったい、どんな火器管制システムを積んでいるのか!?

 

 ラファールがミサイルを発射した。赤外線誘導式のIS用小型対空ミサイル〈ヴァイパー〉。二基のランチャーに積載された八発すべてを、まったく同時に切り離す。

 

 ヴァイパー誘導弾は高性能の赤外線シーカーを搭載しており、全方位からの攻撃能力を持っている。また、新型燃料とISの重力制御技術を応用した推進装置により、小さいながらも高機動と、最大十六キロメートルという長射程を実現していた。勿論、運動性も高い。

 

 正面から押し寄せるミサイルの群れを、ミステリアス・レイディは後ろに退きながら上昇、激しい空戦マニューバで回避する。しかし、誘導弾はすぐに反転、次々に追尾を再開した。八発のミサイルに追い立てられながら、前へ、前へと、相手への接近を試みるミステリアス・レイディ。

 

 ラファールは、そんな彼女の逃げ道を潰すべく、拡張ユニットの銃火器を一斉に発射した。鋭い嘶きを率いて殺到する銃弾の嵐の中を、ミステリアス・レイディは四肢のアーマーに積まれたウォーター・サーバから水のシールドを展開し、ブロックしながら突き進む。何発かの弾丸は水の防御をすり抜け、シールドエネルギーと前進の勢いを削っていった。遅速。背後のミサイルとの間合いが、徐々に煮詰まっていく。

 

 更識楯無の表情が、悔しげに歪んだ。

 

 クリスタル・ビットの一つを後方に投射。ミサイル群の前で、三六十度全方向に向かってスプリンクラーのように水飛沫を噴射した。

 

 直後、ミステリアス・レイディは爆発の衝撃音を背負った。パンパンに膨らんだ風船に針を刺したときに生じるような甲高い炸裂音が、百発、二百発と連続して鳴り響く。水滴の一つ一つに宿るナノ・マシンすべてが、内包するエネルギーを一気に解放、急激な温度の上昇により、水蒸気爆発を起こしたのだ。

 

 彼女が顔をしかめるのも無理からぬことだ、と鬼頭は同情した。

 

 かつてはSF映画や小説の中だけの存在であったナノ・マシンは、ISの登場による技術革新の恩恵の一つとして、昔と比べてかなりの低コストで大量生産が可能となった。とはいえ、これはあくまでISの登場より前の時代と比較しての話だ。いまだ製造コストが高いことに変わりはない。

 

 水蒸気爆発作戦では、水滴に混入させたナノ・マシンすべてを、ことごとく駄目にしてしまう犠牲を伴う。はてさて、いまの爆発でいったいいくらぐらいが失われてしまったのか。

 

 もっとも、損失に目をつぶった末のリターンは大きい。

 

 突如として空間中に出現した熱源の数々と、その消失。

 

 ミサイルの赤外線シーカーは幻惑され、コンマ四秒の間、行き先を見失う。

 

 ISにとって、コンマ四秒の猶予は大きい。

 

 ミステリアス・レイディはスラスターを全開、多少のダメージは覚悟の上で、火線の中を真っ直ぐ切り込んでいった。後方に投げたクリスタル・ビットを素早く手元に引き寄せ、三角シールドを展開、ランスのガトリング・ガンを叩き込みながら接近する。

 

 ミステリアス・レイディの放った銃弾が、ラファールのガトリング・ガンの機関部に命中した。爆発の警告表示。ラファールの少女は慌てて拡張ユニットごと装備をリジェクト。次の動作が、僅かに遅れる。肉迫。

 

 ミステリアス・レイディが、ランスを突き出した。脇を締め、腰の回転運動の勢いも十分に乗った重い一撃。

 

 場内に、試合終了のブザーが鳴り響いた。

 

 リアルタイムモニターに、『勝者 更識楯無』と表示される。

 

 試合の結果を見届けて、鬼頭は思わず、ほぅっ、と熱の篭もった溜め息をついた。

 

 モニターに次々と映じた魅力的な技術の数々、そして手に汗握る試合展開に、我知らず夢中になっていた。

 

「良いものを見せてもらいました」

 

 素直にそう思う。ミステリアス・レイディの特殊兵装は勿論だが、ラファールのほうも、素晴らしい性能を見せてくれた。ランスの突きに対して、あれほどの素早さで反応してみせた機体の応答性。あれだけの数の兵装の同時運用を可能とする火器管制システムの完成度……どれも素晴らしい技術だ。叶うことなら、どういう仕組みなのか分解してでも調べたいところだが。

 

 そんなことを考えていると、鬼頭たちのいるピットルームに、熾烈な戦いを終えたばかりのラファールが戻ってきた。

 

 二人がこの部屋にやって来たのは、試合が始まった直後のことだ。いままで気がつかなかったが、こちら側のピットからの出撃だったらしい。

 

「あ~! 負けた、負けた!」

 

 言いながらも、悔しさはあまり感じられない。むしろ、負け悔いなし、といった清々しささえうかがえる口ぶりだった。

 

 試合が終わったことでセンサーの機能を大幅にカットしていたのか、ラファールを纏った一年生の少女は、ピット・インをはたしてようやく鬼頭らの存在に気がついた。

 

「あれ、山田先生?」

 

「お疲れ様です、黛さん」

 

 ラファールを着込んだままの少女を見上げて、真耶が微笑む。

 

 黛と呼ばれた娘は気恥ずかしそうにロボットアームのマニュピレータで頬をかく仕草をしてみせた。

 

「さっきの試合、見てたんですか? うっわっ、情けないところを見られちゃったなあ~」

 

「そんなことありませんよ。良い試合でした」

 

 素直にそう思う。黛も、更識も、一年間の上達ぶりが嬉しい、見応えのある良い試合だった。

 

「成長しましたね、黛さん」

 

 万感の思いを託して呟いた。二人とも入学したての頃とは雲泥の差だ。

 

 真耶が彼女たちの前で教鞭を執った回数は多くはない。しかしながら、その指導に少しでも関われたことが、彼女には誇らしく、また嬉しかった。

 

「ありがとうございます。……でも、たっちゃんにはこの一年、結局勝てずじまいだったしなぁ」

 

 たっちゃん、とは、先ほど対戦した更識楯無のことだろう。真耶と違って二人のことをよく知らぬ鬼頭だが、愛称を口ずさむ声の優しさから、彼女たちがいかに親密な関係にあるのか察せられた。

 

「自分じゃあ、強くなった、って実感は湧いてこないや」

 

「黛さんは、たしか来年は……」

 

「整備科に進みます。たっちゃんはパイロット科だから、二年生になったら別々のクラスですね。だから今日の試合が、公式戦では最後の対決だったんですけどねぇ……」

 

 力及ばず、負けちゃいました。黛は無念そうに溜め息をついて、真耶の後ろに立つ鬼頭を見た。

 

「……ところで、さっきから気になっていたんですけど、そちらの方は? もしかして、山田先生の彼氏?」

 

「な、ち、違いますよぅ!」

 

 からかい口調の黛に対し、真耶は頬を紅潮させ、慌てた口調で否定した。どちらが年上か分からなくなる光景だ。真耶は鬼頭を示しながら、

 

「こちらは企業からの見学者の方です」

 

「鬼頭智之です。名古屋にある、〈アローズ製作所〉というメーカーからやって来ました」

 

 企業戦士の嗜みとして、名刺入れはすぐに取り出せるようスーツの内ポケットに忍ばせている。咄嗟に懐中へと手を伸ばし、すぐにやめた。女子高生相手に名刺を出し渋ったわけではない。ラファールを着た状態で名刺を渡されても、扱いに困るだろうと思ってのことだ。

 

「生徒の皆さんの邪魔にならないよう努めますので、今日はよろしくお願いします」

 

 鬼頭の名乗りに、黛は得心した表情で頷いた。

 

「企業の人でしたか」

 

 道理で。山田先生の彼氏にしては、オジサンすぎると思った。そんな胸の内が聞こえてくるような表情だ。

 

 鬼頭は思わず苦笑した。己がこの世に生を受けて、今年で四五年になる。今更、オジサン呼ばわりされたところでショックはないが、こう気遣われると、かえって気分が落ち込んでしまう。

 

「一年生の黛薫子です。IS学園にようこそ。握手は……ちょっとだけ待っていてくださいね」

 

 機体のダメージ・チェックを行うため、薫子はラファールをピットルーム内の診断装置のもとへと移動させた。すべてのISには自己診断機能が搭載されているが、試合の後など、より詳細なチェックが必要と思われる場合は、専用の機械を使うことになっていた。

 

 診断装置の見た目は、卵形の巨大なカプセルといった印象だ。ラファールを卵の中へと移動させた薫子は、昇降しやすいよう機体をその場に屈ませると、装着を解除し、床へと降り立った。操縦者が着たままだと、チェック・マシーンが誤作動を起こしかねない。

 

 機体から離れる際、「今日はありがとうね」と、薫子はラファールの脚部アーマー・ユニットの膝頭を優しく撫でた。

 

 その様子を見て、鬼頭は思わず悲鳴を上げた。真耶と薫子は揃って肩を震わせる。慌てて薫子のもとへと駆け寄り、「黛さん、手を離すんだ!」と、手首を掴んで機体から離した。少女の表情が苦悶に歪む。

 

 このラファールは先ほどまで音速前後の速度域で激しい空中戦を繰り広げていた。機体表面は空気との摩擦で、とんでもない温度になっているはずだ。素手で触れれば大火傷は必至――、

 

「……なに?」

 

 薫子の掌を見て、鬼頭は唖然とした。皮膚のただれどころか、赤くすらなっていない。これはいったい……。

 

「き、鬼頭さん。ちょっ、痛いです!」

 

 はっ、として、手首から手を離した。「す、すみません!」と、頭を下げる。咄嗟のことで慌ててしまい、かなり強い力で掴み、振り回してしまった。

 

「てっきり、火傷をしたのではないかと思いまして……」

 

「火傷って……ああ!」

 

 薫子は得心した様子で頷いた。

 

「それなら大丈夫です。ISは稼働中は常に、機体の表面に薄いエネルギーフィールドを展開しているんです。このフィールド層が断熱材の役割も果たしてくれるので、ISの機体表面は常に一定の温度が保たれているんです」

 

 そういえば、こんなにもラファールに接近しているのに、いささかの熱気も感じられない。リアルタイムモニターでの観戦がなかったら、試合直後の機体とは思えないだろう。

 

「そうだったんですか……」

 

 安堵の溜め息。額に浮かんだ脂汗をハンカチで拭い、鬼頭は深々と腰を折った。

 

「そうとは知らず、無駄に痛い思いをさせてしまいました。申し訳ない」

 

「いいえ。私のことを心配しての行動だったわけですし……、謝ってももらいましたしね。気にしていませんよ」

 

「……本当に申し訳ない」

 

 薫子の返答に、鬼頭はますます恐縮してしまう。愛娘とさして変わらぬ年齢の少女になんてことをしてしまったのか、と奥歯を噛みしめた。

 

「……それにしても」

 

 これ以上の失敗は犯すまい、と気持ちを切り替える。改めてラファールの偉容をしげしげと眺め、鬼頭は熱の篭もった口調で呟いた。

 

「ものすごい技術ですね」

 

 機体の温度を常に一定に保つ。ISに用いられている冷却システムの技術をXIシリーズにフィードバックすることが出来れば、稼働時間や最大出力の持続時間を大幅に延長出来るはずだ。

 

「触ってみても?」

 

 実際に触れて温度を確かめたくなった鬼頭は、かたわらの薫子、そして真耶に訊ねた。首肯を受けて、ラファールの膝頭へと手を伸ばす。国宝級の九谷焼にでも触れるかのように、おずおず、と指先でアーマーを撫でた。

 

「グゥッ!」

 

 耳の奥で、硬質感のある音が鳴り響いた。

 

 突如として意識のうちに流れ込んできた膨大な情報の奔流に、鬼頭の頭蓋は打ちのめされた。

 

 数秒前は知りもしなかったISの操縦方法や、現在装備している兵装、エネルギー残量といった情報の数々が、急速にインプットされていくのを自覚する。

 

 脳への強烈な負荷はやがて痛みを伴うようになり、苦悶の表情を浮かべた鬼頭は、目眩から思わずよろめいた。かたわらに傅くラファールを支えに、なんとかその場で踏ん張ってみせる。

 

「き、鬼頭さん!?」

 

 慌てた表情の真耶が駆け寄ってきた。

 

 うめき声を発する彼の背中をさすりながら、茫然とラファールを見上げる。

 

「う、嘘……ISが、鬼頭さんに反応して……!?」

 

「まさか、二人目の……」

 

 鬼頭とラファールを交互に見て、薫子も茫然と立ち尽くした。

 

 自分の身にいったい何が起こったのか。自分は何をしてしまったのか。苦痛から上手く頭がはたらかない鬼頭は、それでも事態を把握せねば、と顔を上げる。

 

 真耶たちの顔を見て、驚いた。

 

 見える。

 

 見えすぎている。

 

 こちらを心配そうに見つめる真耶の顔。薄化粧で隠された毛穴の蠢き、顔面細胞の内部構造、染色体の離合集散の様子さえもが、はっきりと見て取れる!

 

「ハイパー……センサー……?」

 

 視覚野に接続されたセンサーが直接意識にパラメータを浮かび上がらせ、周囲の状況を数値で表した。

 

 ハイパーセンサーと名付けられた機能の感度と精度が最大まで高められている、と“IS”自身から教えられて、鬼頭はようやく、我が身に何が起こったのかを悟った。

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter3

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 鬼頭智之はIS学園校舎内の応接室のソファの上で目を覚ました。

 

 昨日は帰宅を許してもらえず、携帯電話やモバイルPCといった外部との連絡手段を取りあげられた上で、この部屋で過ごすことを強制された。

 

 軟禁の理由は勿論、昨日、真耶たちの目の前でラファールを動かしてしまったためだ。

 

 IS学園は三週間前に織斑一夏少年を発見したときにもそうしたように、ISを起動させた鬼頭の身柄をただちに拘束した。ひとまず応接室に押し込め、今後の扱いについては、学園の理事会や日本国政府と相談した上で、結論がつき次第伝えるからと、それまでは部屋を出ないよう請うた。申し訳なさそうに腰を折る真耶の言葉に、彼は「仕方ありませんね」と、渋々従った。彼女の背後では、機関拳銃の安全装置をこれ見よがしに解除する女性教員が二人、こちらを睨んでいた。

 

 薄い毛布をはねのけた鬼頭はソファから起き上がると、部屋の壁に取り付けられたオーバル形の鏡をチェックした。

 

 各国政府の要人や企業の上役たちが頻繁に訪れるためか、IS学園の応接室に置かれた調度品はすべて、上質感と高級感を併せ持っている。ソファも同様で、ストレッサーな状況や慣れない寝具だったにも拘らず、彼が疲労感や倦怠感を自覚することはなかった。鏡に映じる顔も、無精髭のせいで疲弊しているように見えるが、顔色自体は悪くない。

 

「……髭を剃りたいな」

 

 己の顔を検めて、鬼頭は呟いた。顔も洗いたいし、口の中も粘ついているから歯も磨きたい。しかし、生憎、この部屋には洗面台がない。

 

 仕方なく、鬼頭はテーブルへと視線をやった。傷一つ見当たらない分厚い一枚板の上に、五〇〇ミリリットルのペットボトルが何本も並んでいる。昨晩、自由に飲んでよいと部屋に持ち込まれた物だ。鬼頭は未開封のミネラルウォーターを手に取ると、口の中に含み、転がして、飲んだ。口腔内環境の洗浄という意味ではあまり意味のない行為だが、気分的に口の中がさっぱりした。

 

 左手のボーム&メルシェを見る。現在の時刻は午前六時半。いつもならその日の朝刊を読んでいるか、朝食を作っているかしている時間帯だが、応接室に新聞配達のサービスなどあるはずなく、また食事も決まった刻限に持ってきてもらえることになっていた。それまでの間、どう過ごせば閑居と戯れずにすむかを考えて、鬼頭はビジネス鞄に手を伸ばした。昨日、名古屋駅の売店で購入した中古車情報誌を引っ張り出す。IS学園までの道中の暇潰しのために買った雑誌だ。

 

 クルマは時計弄りに次ぐ鬼頭の趣味だ。こういう雑誌は、ぱらぱら、とページをめくっているだけで、楽しい気持ちにさせてくれる。

 

 いまの愛車であるプリウスは、所有してから今年で五年目になる。走行距離は四万キロ弱で、エンジンはすこぶる快調。しかし、良さそうな物件があれば、買い換えるのも良いだろう。

 

 愛車選びの際に燃費性能やラゲッジスペースの広さといった実用性を重視するようになったのは、晶子と結婚し、子どもを得てからのことだ。それ以前は、走りの楽しさや、スタイルの流麗さなどを判断の基準としていた。離婚してもう八年になる。陽子も大きくなったし、いまのところ再婚の予定もない。久しぶりに自分の趣味全開で、クルマを選ぶのも良いかもしれない。

 

 そこまで考えたところで、鬼頭は自らを嘲笑した。

 

 そうした自由意志が許されたのは、昨日までの話だ。今日からの自分に、そんな贅沢は許されまい。

 

 二人目の男性IS操縦者。その存在を公表するか、否か。IS学園や日本国政府がどちらの対応を取るにせよ、鬼頭の自由が脅かされる未来が待っていることは間違いない。

 

 それが分かっていながら、なにを暢気に中古車選びなどしているのか。自分で自分に、呆れてしまう。楽観的に考え、悲観的に備え、楽観的に行動せよ、とは経営の神様・稲盛和夫の言葉だが、それにしたって、気楽に構えすぎだろう――。しかし、鬼頭はページをめくる手を止めなかった。止めてしまうと、よくないことばかり考えてしまいそうで、それが彼には恐かった。不安に心を支配されてしまうのを恐れた。

 

 そのとき、応接室の戸がノックされた。「鬼頭さん、起きていますか?」と、真耶の声。はて、朝食を持ってくる予定の時間まであと一時間近くあるが……。鬼頭は雑誌をテーブルに置いて、どうぞ、と応じた。

 

 ドアを入室した真耶は、顔色は悪く、目の下にはくっきりと隈が出来ていた。着ている服は昨日見た物とまったく同じ。おそらく、鬼頭がラファールを動かしてしまった後も帰宅せずに学園で業務に励んでいたのだろう。もしかすると、徹夜したのかもしれない。自分が原因だろうなあ、と鬼頭は彼女の美貌の衰えを見て心苦しく思った。

 

「どうしました、山田先生?」

 

 やって来た真耶は手ぶらだった。やはり、食事を持ってきてくれたわけではなさそうだ。もしかすると……と、悪い予感から表情を硬化させた鬼頭が訊ねると、案の定、彼女は次のように答えた。

 

「鬼頭さんの今後について、お話があります。私に着いてきてください」

 

「仕方ありませんね」

 

 この部屋に来ることになったときと同様、鬼頭は渋々頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 案内された部屋は、まるで刑事ドラマに登場する取調室のようだった。さほど広くない灰色の室内に、鉄格子を嵌めた窓が一つ。仮にも高等学校を名乗る機関の施設とは思えない息苦しさに満ち満ちていた。

 

 取調室の中央には、引き出しなど一切ない簡素な造りのデスクが置かれている。背もたれつきのパイプ椅子が二脚、机を挟むように配置されており、そのうち一つにはすでに先客が腰掛けていた。切れ長の双眸が鬼頭の顔を鋭く射抜く。知っている顔だ。鬼頭は思わず息を呑んだ。

 

「織斑、千冬! ブリュンヒルデ……!?」

 

 第一世代IS操縦者の元日本代表。オリンピックのIS競技版と評される世界大会〈モンド・グロッソ〉の第一回優勝者。世界最強の女傑……。思わぬ人物の登場に、鬼頭は度肝を抜かれてしまった。そんな彼に、織斑千冬は涼やかな声をかける。

 

「どうぞ、おかけになってください」

 

 動揺しながらも、着席した。鬼頭と一緒に入室した真耶は、千冬のかたわらへと移動。同時に、取調室の戸が自動で閉まった。次いで施錠音。状況から察するに、内側からは解錠出来ない仕組みだろう。

 

「知っているかもしれませんが、織斑千冬と申します。このIS学園で、教師をしています」

 

「……鬼頭智之です。ロボットメーカー・アローズ製作所で、パワードスーツの設計主任をやっています」

 

 何年か前にドイツで開催された第二回モンド・グロッソの決勝戦を、目の前の人物は突如として棄権、試合会場にさえ姿を現さなかった。その後は一年近い空白期間を経て突然の現役引退発表。以降行方をくらまし、世間ではちょっとした騒ぎにもなっているが、まさかIS学園の教員を務めていたとは……。そういえば、例の一人目の男性IS操縦者の姓も織斑だった。珍しい名字だし、親戚かもしれない。

 

 状況を把握するにつれて、鬼頭は平静さを取り戻していく。

 

「それで、私の今後について話がある、ということですが……」

 

「はい」

 

 織斑千冬は首肯した。つり上がった眦は、そこだけ切り取ると怒っているようにも見えるが、鬼頭の目にはなぜか、彼女が自らに強面でいることを課しているように映じた。

 

「単刀直入に申します」

 

 余計なエクスキューズに時間を取られずにすむのはありがたい。

 

「三日後、IS学園と日本国政府は、鬼頭さんがISを動かした事実を世界に向けて公表することになりました。公表後、鬼頭さんの身柄は、IS学園が預かることとなります」

 

「そうですか」

 

 自分でも奇妙に思うほど、平坦な声が唇からこぼれた。

 

 己を見る真耶の顔が、悲痛そうに歪む。

 

「あまり、驚いていないように見えますが?」

 

「そうですね。そうなるかもしれないな、とは考えていましたし、織斑一夏くんという前例もありましたから」

 

 驚きはないし、学園と政府の判断は妥当だと思う。

 

 織斑少年のIS学園への入学が決まったとき、学園はすぐにその事実を公表した。

 

 この報道がなされたとき、鬼頭は「やるなあ」と、学園とその背後に控える日本国政府の手腕を賞賛した。

 

 その時点では世界でたった一人しか見つかっていない男性IS操縦者の存在は、貴重なサンプルだ。織斑一夏はなぜISを動かすことが出来るのか。その謎に迫りたい、解明のため織斑少年の身柄を手元に置いておきたい、と思う輩は大勢いるだろう。その中には、暴力的な手段や、親しい人間を人質に取って言うことを聞かせるなど非人道的な狡知の駆使に躊躇いのない者どもも少なくないはず。

 

 そうした連中に向けてIS学園が投じた牽制球は、抜群の威力を発揮したに違いない。

 

 史上初の男性IS操縦者の身柄は、IS学園が保護することになった。学園自ら発信したこの情報により、官民問わず、世界中の様々な組織がIS学園へと熱い眼差しを向けるようになった。勿論その中には、アメリカのCBSやイギリスのBBCといった、世界屈指の放送局も名を連ねている。いわば世界中から監視の目を向けられている状態だ。

 

 このような状況の中で、織斑一夏に手を出せばどうなるか。拘引に動いた組織には、その成功に関わらず世界中から非難が殺到するだろう。最悪の場合、ISを使った報復作戦の標的とされかねない。自分が彼らの立場であったなら、少なくともいまは手出しを控えたいところだ。

 

 それでなくても、IS学園自体が要塞と呼んで差し支えのない防御力を有する組織だ。陽子の受験に際して、鬼頭もIS学園の受験案内のパンフレットには目を通していた。それによれば、IS学園では常に三十機以上のISが稼働状態にあるという。オーストラリア大陸を一日で灰燼と帰せる戦力だ。まともな神経の持ち主であれば、危ない橋をわざわざ渡ろうとは思うまい。

 

 孫子曰く、戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり、だ。相手に行動を起こさせない、行動を起こしづらい状況を作り出したIS学園のやり方は、この状況では最善策だろう、と鬼頭は評していた。二人目の男性IS操縦者に対しても、同様の措置を取ったとしてなんら不思議はない。

 

「IS学園と政府の判断は、正しいと思いますよ。ただ、私には家族がいます。織斑一夏くんと違い、会社勤めでもあります。そのあたりの事情をどうするのか、そこをはっきりさせないうちは、私も、はい分かりました、と応じるわけにはいきません」

 

 世界でたった二人しかいない男性IS操縦者の親類や友人、知人に同僚たちだ。鬼頭に言うことを聞かせるための人質に取られかねない。自分の身は勿論だが、彼らの安全についての保障はどうなっているのか。

 

「当然ですね」

 

 己の身辺調査については、すでにある程度終えているのだろう。千冬は疑問を口にすることなく頷いた。

 

「まず確認させてください」

 

「はい」

 

「IS学園が私を預かるとおっしゃりましたが、具体的にはどういう扱いになるのでしょう?」

 

「織斑一夏同様、IS学園の生徒として、籍を置いていただくことになります。いまのあなたの立場では、今後、ISと関わりなしに生きていくことは不可能でしょう。鬼頭さんには、当学園で三年間、ISの扱い方について学んでいただくことになります。

 

 ただ、鬼頭さんはすでに大学をご卒業された身ですので、一般教養は原則免除、IS関連の授業だけを受けていただく、という特例措置を取る予定です」

 

「なるほど。では、そうなった場合、家族とはどうなります?」

 

「まず、お嬢様についてですが……」

 

 千冬はそこで一旦言葉を区切ると、手元の小型端末を操作し、空間投影ディスプレイを呼び出した。入学試験の際に使ったデータだろう、陽子のパーソナルデータが表示される。

 

「……今年、当校を受験してくれていたとは思いませんでした。お嬢様には、来年度からIS学園の生徒になってもらいます。ただし、お嬢様に対しては最終学歴の問題で、特例措置は適応出来ません。お嬢様には一般教養の授業にも参加してもらうことになります」

 

 当然ですね、と鬼頭は頷く。むしろ、そんな手抜きをされようものなら、親としては学園の指導方針について国に訴えを起こさねばならぬところだった。

 

「お嬢様以外の親族については、政府の要人保護プログラムの対象になってもらいます」

 

「要人保護プログラム?」

 

 初めて聞く単語の並びに、鬼頭は怪訝な表情を浮かべた。

 

 証人保護プログラムなら知っている。アメリカ留学時代に、何度か耳にした言葉だ。米国の法廷や議会では、証言者を暗殺などの報復措置から護るために、しばしば発動する制度だ。制度の対象となった人間は裁判の期間中、合衆国連邦政府の国家機密として、住所の特定が難しい場所で、別人としての身分を用意された上で暮らすことになる。似たような制度だろうか。

 

「例えば、IS開発者である篠ノ之束の家族など、主に日本の国益上の重要人物と見なされた相手に適応されるプログラムです」

 

「具体的な内容は?」

 

「まず、いまの名前と立場を捨ててもらいます。その後は、友人・知人のいる可能性が低い土地に移動してもらい、政府が用意した、別人の名前と立場を使って暮らしてもらいます。勿論、住居や生活費は政府が用意しますし、身辺警護には警視庁選りすぐりのSPを着けます」

 

 なるほど、そいつは頼もしい、と安堵すると同時に、鬼頭は胸の内でこの場にいない彼らに謝罪する。自分がISを動かしてしまったせいで、不自由な生き方をさせてしまうな、と胸が痛んだ。

 

 特に申し訳なく思うのは両親だ。父・大作は今年で七五歳、時計ディーラーとしては引退してすでに久しく、鬼頭時計店も看板を下ろして七年になる。母の雪菜は七二歳、二人ともこの年齢で見知らぬ土地へ移り住むなんて、相当な負担になるだろう。老後のプランだって考えていただろうに。

 

 子どもとしては、両親には少々不自由な思いをさせてしまってでも、長生きしてほしいが……これは、子どもの側の傲慢にすぎない。

 

 思わず溜め息をつく鬼頭だったが、彼以上に沈痛な面持ちなのが千冬だった。彼女の言葉は、「ただし……」と、続いた。

 

「すべての親族を全員一度に、というふうには出来ません」

 

 別人の身分を用意する。言葉にするのは簡単だが、容易な仕事でないことは鬼頭にも想像出来る。パスポートや運転免許証、マイ・ナンバーなど、普通に使える物を、正規の手続きを経ずに作らねばならないし、経歴だって相当しっかりと造り込んでおかなければ、ふとしたきっかけで正体の露見へとつながってしまう。これを十人分、二十人分と用意する……たいへんな事業だ。

 

 SPの人選の問題もある。射撃の技術や捜査の手腕だけでなく、人格面にもこだわらなければならない。もともと、政府の要人というわけでもない鬼頭一族だ。彼らと好相性の人物を見つけ出す作業は難航するだろう。

 

「まずは一親等、次に二親等といった具合に、順次プログラムを適応させていく形になります」

 

「つまり、後回しにされた親族はプログラムが適応されるまでの間、常に怯えて過ごさねばならない、ということですか……」

 

 苛立たしげな口調を叩きつけられて、千冬は続く言葉を見失ってしまった。

 

 彼女の悲しげな顔を見て、鬼頭は、しまった、と唇を噛む。咄嗟に口にしてしまった言葉で、彼女の心を傷つけてしまった。

 

 織斑千冬はあくまで、IS学園と政府がよこしたメッセンジャーだ。彼女が口にした言葉はすべて、彼女自身の考えではない。目の前の女性に怒りをぶつけるのは筋違いだ。

 

「……失言でした。続けてください」

 

「最後に、勤め先の会社……アローズ製作所についてですが」

 

「はい」

 

「学園と日本政府としては、鬼頭さんにはいまの会社を都合退職してほしい、というのが本音です」

 

「……でしょうね」

 

 貴重な男性IS操縦者が、民間企業の一社員という現状は、日本政府の立場を考えると都合が悪いといえる。単純にデータ収集のためというだけでなく、外交上の強力なカードにもなりうる存在だから、常に身軽な立場でいてほしい、というのが彼らの本音だろう。すなわち、どこの国にも、そしてどこの組織にも所属してくれるな、ということだ。

 

 日本政府の支援下にあるIS学園も、基本的な考え方は政府と同じだ。むしろ直接警護する彼らの方が、鬼頭の退職をより強く望んでいた。行動原理に社則や業務命令などが含まれてしまう企業戦士よりも、そういったものに囚われない自由人の方が、警護がしやすい。

 

 問題は、IS学園や日本政府に対する世論だ。

 

 国家権力による民間企業への関与は最低限にとどめる、というのが、戦後わが国が採り入れた欧米型資本主義の考え方だ。

 

 政府側がアローズ製作所に圧力をかけた結果、鬼頭は会社を辞めさせられた、という構図になるのは不味い。少なくとも、表立って動くわけにはいかない。

 

 鬼頭には、なんとしても自主退職してもらわねばならなかった。

 

「……正直、どれも応と頷きたくない案ばかりです」

 

 家族に迷惑をかけ、親戚たちにも迷惑をかけ、おまけに二十年以上勤めている会社を辞めねばならない。この胸の内で、二十年以上育ててきた夢を、諦めねばならない。

 

 つくづく、なんということをしてしまったのだと、過去の行動を悔やんだ。

 

「ですが、いまや私に、自由意志など許されない」

 

 これからも、陽子と一緒に暮らしていくためには。家族や友人、同僚たちの身の安全を望むのなら。政府らの提案を、受け入れるしかない。

 

「分かりました。IS学園と日本政府の配慮に感謝します」

 

「鬼頭さん、では!」

 

「はい。来年度より、IS学園でお世話になりたいと思います。娘と両親への説明は……」

 

「勿論、こちらで行います」

 

「ありがたいが、私からも事情を説明します。学園へ通ってもらうことや、保護プログラムのことなど、納得して受け入れてもらえるよう口添えしましょう」

 

「助かります」

 

「ただ、会社のほうは、いまこの場では確約出来ません。退職願を提出しても、つき返される可能性があるので」

 

 日本政府やIS学園による姿なき介入があるかもしれぬことを考えれば、それは考えづらいが。

 

「いまはそのお返事だけで十分です」

 

 千冬の表情が、一瞬だけ変わった。肩の荷が少しずつだが軽くなっていく実感から生じた、安堵の気持ち。険を帯びた美貌が、はにかむ。こんな状況にも拘わらず、見とれてしまった。

 

 千冬は、すぐに表情を引き締めると冷淡な口調で言う。

 

「会社への説明ですが、学園からも人を派遣しましょう。鬼頭さんの口からは、なかなか言いづらいことでしょうから」

 

「助かります」

 

 二人は今後の具体的なスケジュールについて話し合った。陽子や家族への説明はいつにするか。会社への説明はいつにするか。IS学園は全寮制だ。入寮日はいつ頃を目処に引っ越し作業を進めていくか……。

 

 やがて一通りの話を終えた千冬は、疲弊した溜め息を一つこぼした後、

 

「私からは、今日のところは以上ですが、鬼頭さんの方は、何か?」

 

「……では、一つだけ」

 

「なんです?」

 

「これは、陽子の父親としての質問なのですが……」

 

 彼女から陽子の処遇について聞かされたときから、ずっと抱いていた疑問。それに付随して鬼頭の胸を苦しめる、不安。

 

 これだけははっきりさせておかねば、と鬼頭は面差しも険しく訊ねた。

 

「陽子は、IS学園の入学に必要な合格点に達していたのでしょうか?」

 

 もしかすると本来は不合格で、自分のことがあったから、特別に合格扱いとなったのではないか。

 

 もしもそうなのだとしたら、陽子には絶対に真実を知られるわけにはいかない。

 

 この数年間の努力は、いったいなんだったのか、ということになってしまう。

 

 はたして、千冬はかたわらに立つ真耶と顔を見合わせ、ともに微笑んだ。

 

 「安心してください」と、これまでに見たことのない――モンド・グロッソの優勝記者会見のときでさえ見せなかった――優しい顔で、鬼頭を見つめた。

 

「たとえ今回のことがなかったとしても、お嬢様には、IS学園に通ってもらうつもりでした」

 

「さすがに点数や順位まではお教え出来ませんが」

 

 それを聞いて、鬼頭はこの部屋に入室してからはじめて破顔した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter3「風が吹いてしまった日」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……う~ん。

 

 予定では一人だけじゃなくて、二人一緒に起動してもらうつもりだったのに……。

 

 あのメンヘラ・ストーカー女のせいで台無しじゃんか~っ。

 

 

 

 

 

 ああ、もうっ! ムカつくなぁ、あの女!

 

 あの人の優しさにつけ込んで、行動の自由を奪うなんて……同じ女として、許せないよ!

 

 

 

 

 

 ……まあ、でも! うん。ここはもっとポジティブに考えるべきだよね。

 

 少なくとも、鬼頭さんは、こっち側に引っ張ってこられたわけだし!

 

 

 

 

 

 

 さあ、鬼頭さん、舞台は整えてあげましたよ。

 

 そのIS学園には、最高の機材と、部材と、データと、その他諸々、全部……ぜ~んぶっ、があります!

 

 コストだとか、生産性だとか、誰が使うかとか、そんなくだらないことはもう、考えなくてよいのです!

 

 あなたは、あなたが作りたいと思ったものを、その欲望に従って作ればいいんです!

 

 あなたが最高だと思うパワードスーツを、作っちゃっていいのです!

 

 

 

 

 

 

 ……だから、見せてください、鬼頭智之さん。

 

 私の憧れの人。

 

 私と同等の頭脳を持っているかもしれない人。

 

 あなたの本気を、私に見せてください!

 

 あなたの存在を、世界に見せつけてください!

 

 

 

 

 

 

 




オリジナル兵装

G.E. Model 22〈ディフェンダー〉グレネード・ランチャー

口径  40mm×53
全長  1,050mm
重量  11,600g
装填数 8発

 アメリカのG.E.社が開発したIS用のリボルバー・タイプ・グレネード・ランチャー。

 ピストル式のグリップとライフル銃を思わせるストック、砲身下面にバーティカル・グリップを備えており、回転式弾倉は全長が300mmにも及ぶ。

 発射メカニズムは基本的にポンプ・アクション式で、バレル下面のグリップを前後にスライドさせると回転式弾倉が回るという仕組みだが、IS用の武器ということで重量制限が緩いため、自動回転機構(グリップのスライドが全自動化)も併せて搭載。実質、フル・オート射撃が可能である。

 NATOスタンダード・グレネードである、40mm×46ハイ・ロー・プレッシャー・グレネード弾、あるいは40mm×53ハイ・ベロシティ・グレネード弾を最大8発装填可能。




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Chapter4「信託の日」

第四話です。

ハイスピード学園バトルラブコメの二次創作にも拘わらず、遅々とした展開で申し訳ない……。



 一ヶ月前――、

 

 

 

 昼休みの到来を告げるチャイムが、室内に鳴り響いた。

 

 名古屋市名東区にある、アローズ製作所本社ビル、パワードスーツ開発室。

 

 鬼頭智之らの理想に賛同し集まったライト・スタッフのほとんどは独身だ。弁当持参者は少なく、昼休みが始まれば社員食堂や外の定食屋などに向かう者たちのため、室内は閑散としてしまうのが常だった。

 

 しかし、その日ばかりは少々事情が異なっていた。昼休みが始まったにも拘わらず、誰もその場から動こうとしない。

 

 技術者たちの眼差しは、等しく二人の男に向けられていた。

 

 鬼頭智之と、桜坂室長。

 

 パワードスーツ開発室の発起人たる二人は、室長用の事務机を挟んで対峙していた。仁王の怒れる眼差しを、鬼頭が真っ直ぐ受け止めている。そのかたわらでは、IS学園の山田真耶が立ち尽くしていた。全身これ怒りの化身と化した、六尺豊かな大男が身に纏う圧倒的な迫力を前に、気持ちが萎縮している。

 

 デスクの上には、一通の白い封筒が置かれていた。表側に、退職願、としたためられている。勿論、たったいま鬼頭が提出した物だ。桜坂の怒りの所以である。

 

 IS学園に行ったきり連絡の取れなかった親友が、今朝、学園の教師と思しき女性を連れて出社したとき、桜坂は詰問こそしたが、その語気に怒りの感情は薄かった。

 

 いったい何があったんだ。どうして連絡をくれなかったんだ。自分も陽子ちゃんも、心配したんだぞ。……しかし、ともかく、無事でよかった。

 

 不安と、それ以上に親友の壮健な姿を我が目で確認出来たことへの安堵で、彼の語調はむしろ優しかった。

 

 それが阿修羅の形相へと変貌を遂げたのは、鬼頭が退職願を取り出してからのことだ。二人の口からIS学園で何が起こったのかを聞かされた桜坂は、もう二十年以上もの付き合いになる友の顔を睨みつけた。

 

「……事情は分かった。IS学園で何があったのか。政府がお前に何を求めているか。この退職願が、俺たち開発室のみんなや、会社のことを思っての行動だということも、理解した」

 

 ドスを孕んだ声で、桜坂は呟いた。平素、作業現場で彼の怒鳴り声を聞き慣れている開発室のメンバーでさえ、胴震いを禁じえない。

 

「たしかに、会社のことを思えば、政府やお前の下した判断は正しいと思う。いまの立場のまま、お前の存在が公表されれば、マスコミ連中以外にも、色々な奴らがアローズ製作所に接触してくるだろう」

 

 その中には、非合法な暴力的政治団体や、冷戦時代に名を馳せたスパイ組織の末裔らも含まれよう。

 

 残念ながら、アローズ製作所に彼ら全員と戦える力はない。

 

「だから、退職っていう手段は、ベストな解答だろうとは思う」

 

 マスメディアからの問い合わせに対しては、「すでに会社を辞めた人間なので詳しいことは分かりません。個人情報保護法にも引っかかるので、在籍時のこともお話し出来ません」と、突っぱねることが出来る。

 

 スパイ連中に対しては、標的に選ばれにくい効果が期待出来るだろう。

 

 鬼頭智之にとって、アローズ製作所は、さほど重要な存在ではなかった。そうでなければ、こんなにもあっさり退職したりしないだろう。この会社から採れるデータは高が知れている。会社の人間を人質に取ったところで、大した効果はあるまい……。そんな誤診が期待出来る。

 

 仮にそう思ってくれなかったとしても、少なくとも時間は稼げるはずだ。たとえば人質作戦を実行する場合、誰をターゲットとするのが最も効果的か。会社との縁が切れている状態では、分析には時間がかかる。その間に、政府と連携して防備を固めることも出来るはずだ。

 

 会社のみんなを守るため、鬼頭が職を辞することの有用性は、桜坂も疑いようがなかった。

 

 しかし――、

 

「なあ、鬼頭……」

 

「ああ」

 

「俺はな、勝手ながらお前のことを、親友だと思っている」

 

「……俺だってそうさ」

 

 単に付き合いが長いから、というだけではない。この男とはともに青春時代を過ごし、夢を語り、肩を並べて戦った。

 

 今日まで生きた日々のうちで、最も辛かったあの時期……。晶子と離婚し、何もかもを奪われ、絶望していた自分を、常にそばで支えてくれたのも、この男だった。

 

 何が、勝手ながら、だ。

 

 お前は、

 

 お前は、俺の……、

 

「俺も、お前のことを親友だと思っているよ」

 

「ありがとうよ。それで、だ。同時に俺はいま、パワードスーツ開発室の室長で、お前の直属の上司の立場にある。俺はお前に、親友としての立場から、そして上司としての立場から、言わなければならないことがある。まずは、友人として、言うぞ」

 

 鬼頭を見つめる桜坂の眼差しが変わった。怒りの炎は消沈し、黒炭色の瞳は憂いで潤んだ。

 

「お前、大丈夫か?」

 

「……どういう意味だ?」

 

「辛そうに見えるんだよ。俺の目に。いまのお前は。無理をしているように見える」

 

「無理なんて……」

 

「誤魔化すなよ」

 

 毅然と言い放ち、続くはずの言葉を遮った。

 

「俺とお前の仲だ。嘘や隠し事はすぐに分かる。

 

 鬼頭、俺にはお前が、自分の本当の気持ちを押し殺して、無理に強気に振る舞っているように見えるぞ」

 

「……」

 

 返す言葉を見失ってしまった鬼頭の横顔を、真耶が心配そうに見上げた。正体もなく取り乱すといった無様こそさらさなかったが、表情からは明らかな動揺が窺えた。

 

「勿論、会社のことが心配っていう気持ちも、まごうことなきお前の本音だろう。けれど、それとは別に、隠している本当の気持ちがあるよな?」

 

 会社に迷惑をかけたくない、と鬼頭は言った。この発言から読み取れるのは、他者へ愛と諦めの気持ちだ。鬼頭自身に対する自己愛はまったく感じられない。自分の気持ちを第一とした、隠された本音がまだあるはず、と桜坂は考えた。

 

「教えてくれ、鬼頭」

 

「……たしかに、お前の言う通りだ。しかし、それを口にすることは……」

 

「鬼頭、頼む」

 

 鬼頭は、深々と溜め息をついた。これは、無理だ。十八歳のときに出会った頃からそうだった。この男には、一度“こう”と決めたら、たとえ相手が大統領であったとしても譲らない頑固さがある。彼のそうした気質は、社会で生きていく上でときに弱点にもなったが、自分はむしろ愛おしく思った。

 

 桜坂自身が豪語した通り、下手な誤魔化しは通用するまい。鬼頭は諦めた表情で口を開いた。

 

「辞めたくないさ。二十年以上、勤めた会社だ。こんな形で、辞めたくはない。俺たちの夢だって、諦めたくない!」

 

 十九歳のあの日、ケンブリッジの安アパートの一室で、目の前の男と夜通し語り合った夢。

 

 自分たちの作ったパワードスーツで、世界中の人々を助けたい。

 

 自分たちの作ったもので、世界を変えたい。

 

 やっと、だ。

 

 やっと、実現に向けて動き出したところなのだ。

 

 こんな理由で、こんな形で、諦めたくはない!

 

「そいつを聞いて、安心したぜ」

 

 仁王の顔立ちに安堵の微笑を浮かべて、桜坂は机の上の封筒を手に取った。周りのみなが、あっ、と声を上げる暇も与えずに、中身ごと真っ二つに千切り裂く。

 

 驚愕に目を剥く鬼頭に、桜坂は慈愛に満ち満ちた語調で言った。

 

「お前はまず、俺たちのことよりも、自分のその気持ちを大切にしろ」

 

「桜坂! しかし……」

 

「大体なあ、辞めるにしても、まず俺たちに相談してからにするべきだろうが。一人で勝手に突っ走ってくれるなや。……鬼頭智之設計主任!」

 

 優しい表情から一転、桜坂は語気鋭く言い放った。

 

 役職名で呼ばれて、反射的に背筋を伸ばす。

 

「友人の立場から伝えるべきだと思ったことはすべて言いました。ここから先は、あなたの上司の立場からの言葉です。

 

 私はこれから社長室に向かいます。いま聞かされたことをすべて報告するつもりです。」

 

 鬼頭がISを動かしてしまったこと。IS学園と日本政府がその事実を公表と決めたこと。それによる会社への迷惑を考えて、本人自ら辞表を提出してきたこと。その後の聞き取りで、彼が本心では会社を辞めたくない、と思っていること。

 

「その上で、社長にこう提案します。鬼頭主任を、来年度より三年間、IS学園へ技術研修のため派遣したい、と」

 

「桜坂……!」

 

「勿論、いまの段階ではまだ私個人の考えにすぎません。ですが、社長の承認を得、IS学園側の説得に成功した暁には、鬼頭主任、あなたにはアローズ製作所の社員として、IS学園に出向してもらいたい。我々パワードスーツ開発室のために、ISの技術を学び、盗み取ってきてほしい」

 

「そんな……そんなことが、出来るはずが……!」

 

「鬼頭!」

 

 狼狽する鬼頭に、桜坂は完爾と微笑みかけた。

 

「パワードスーツ開発室が発足したとき、社長は俺たちに言ってくれたよな。全部、俺たちに任せる、ってよ。それに、俺自身こうも言ったはずだ」

 

 開発に必要なものがあれば、じゃんじゃん、言ってくれ。予算だろうが機材だろうが、どんな手を使ってでも用意してみせる。

 

「お前がXIシリーズの開発に専念出来る環境を整えるのが、室長である俺のいちばんの仕事よ。それが必要ならば、社長の説得も、IS学園側への手配も、日本政府との交渉も、全部、やってやる。アメリカのNSA、イギリスのMI6、ロシアのGRU……なにするものぞ! 連中への対抗策も、俺が全部用意する。安心しろ。これでも、MITを二番の成績で卒業した男だ。俺の持てる、全能力を駆使して、お前の行く手を遮る問題はクリアしてやる。だから、な? 鬼頭……」

 

 親友のもとへと歩み寄り、その肩を抱いた。

 

「辞めるなんて、寂しいことを、言うなよ」

 

「桜坂、俺は……」

 

 友の名を呼ぶ鬼頭の声は、震えていた。

 

「頼むよ、鬼頭。この会社にいてくれ。アローズ製作所には、俺には、お前が必要だ」

 

 喉奥を締め、声を押し殺しながら、鬼頭は澎湃と泣いた。男泣きだった。

 

 友の背中を撫でさすりながら、桜坂はパワードスーツ開発室のスタッフ全員の顔を見回した。

 

「みなさん、こんな状況に陥ってしまって本当に申し訳ありません。チームを抜けたい思った人は、いまこの場でも、後でも構いませんので教えてください。止めはしません。みなさんの自由です」

 

 鬼頭がアローズ製作所に籍を置き続けるとなれば、現在の所属部署であるパワードス-ツ開発室は特に注目を浴びよう。いくら桜坂が「なんとかする」と豪語したところで、いまの段階ではただの口約束。近く待ち受けている未来について考えた末の結論が、チームから去ることだったとしても、咎めるつもりはなかった。

 

 結局、その場では誰も名乗りを上げなかった。後から言ってくるかもしれないが、その場合はそのとき考えることにしよう。

 

 桜坂は、おろおろ、と事態の推移を眺めていることしか出来なかった真耶に目線を向けた。IS学園が説得役として派遣したであろう彼女は、鬼頭につられもらい泣き、子鹿のように大振りな双眸を潤ませ、六尺豊かな仁王様を見つめた。

 

「パワードスーツ開発室としては、いま言った通りの考えです。これから社長室に行きますが、IS学園の望む方向には進まないだろうと覚悟しておいてください」

 

「……はい。仕方ありませんね」

 

「なるべく、そちらにもご納得いただけるような形には、したいと思いますので」

 

 冷然と言い放ち、桜坂は開発室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 五日後、IS学園と日本国政府は、一人の男の名前を全世界に向けて発信した。

 

 彼らはその男を、国内有数のロボット・メーカーが誇る企業戦士として紹介した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter4

 

 

 

 

 

 

 

 

 IS学園への出向が決まってから新学期が始まるまでのおよそ一ヶ月間を、鬼頭は後に、人生四五年のうちで、最も忙しい時期だった、と評した。

 

 アローズ製作所の社員という立場を堅持したまま、IS学園への入学を認めてもらう。この難業を成功させるべく、鬼頭は桜坂と二人、関係各所を何度もハシゴする羽目に陥った。これに加えて、周囲への説明や引っ越しの準備、ISについての事前勉強、設計主任不在の期間に備えた引き継ぎ作業なども同時進行でこなさねばならず、その上で通常業務の完璧な遂行まで求められた。いかに働き盛りの四十代とはいえ、連日これはさすがにこたえた。肉体的な疲労は勿論のこと、精神的にも酷く消耗させられた。

 

 特にストレッサーとなったのは、四六時中つきまとうSPの存在だった。

 

 鬼頭の存在が世間に公表された翌日から、日本政府は彼ら親子に、二四時間体制でSPのチームをつけた。

 

 勿論、鬼頭らの身の安全を考えての措置だろうが、拳銃を隠し持った屈強な男たちが常に側にいるという状況は、思春期の娘を抱える家庭を大いに苦しめた。守られていることへの頼もしさ以上に、息苦しさを感じてしまう。

 

 彼らはまた、鬼頭たちの行動を大きく制限した。警護のためには仕方のないこととはいえ、SPたちは、自分たちの仕事のために、親子の都合をしばしば無視した。たとえば、移動時の送迎がそうだ。移動距離によらず、どこへ行くにしてもリムジンに押し込まれる生活というのは、苛立ちの募るものだった。

 

 ――しかし、そんな生活ももうすぐ終わりだ。

 

 四月になると、鬼頭の周囲はいっそう慌ただしさを増した。

 

 四月一日の時点で、織斑千冬と事前に打ち合わせた入寮日までの猶予は残り一週間。

 

 すでに引っ越しの準備は一通り終えていたが、鬼頭の日常に閑居が入り込む隙はなかった。むしろ、名古屋にいられる時間がいよいよ残り少なくなったことへの焦燥から、彼はXI-02の完成度を少しでも高めるべくいっそう精力的に働いた。IS学園で見たもの、事前学習で得た知識を、わが子同然のパワードスーツに少しずつ落とし込んでいった。

 

 最大の成果は、ISの量子格納技術の応用による部品の小型化に成功したことだった。

 

 すべてのISには機体本体や武装を量子化し、特殊なデータ領域に保存、任意で召喚する機能が備わっている。これにより、ISは質量保存の法則をある程度無視した、重装備を可能としていた。人間より少し大きい程度のサイズでしかないISに、超音速飛行を可能とするほどの機動性や、戦車中隊一個を五分で殲滅しうるほどの火力を持たせられるのも、この技術によるところが大きい。

 

 ――もし、量子格納機能をXI-02に搭載することが出来たなら……。

 

 たとえば、稼働時間の問題について大きな前進が期待出来るだろう。あらかじめ複数個のバッテリーを量子化して保存しておき、いま使っている物の充電が切れたら新しい電池を取り出して交換する、といった運用が可能となる。

 

 パワードスーツ開発室は早速、量子格納技術の研究を開始した。そしてすぐにXIシリーズへの実装を断念した。

 

 物体を量子単位に分解して保存する。再使用時にはデータを読み込み、質量を再構築する。言葉にするのは簡単だが、実際の作業は困難などというレベルではない。量子一つ一つが持っている小宇宙にも等しい莫大な情報量を、速やかに処理しなければならないのだ。

 

 XIシリーズ及び指揮車プロフィアに搭載されたコンピュータでは、性能が絶望的に不足していた。いや世界中のスーパーコンピュータをすべてかき集めたとしても、実用的な領域まで処理速度を押し上げることは不可能だろう。

 

 天才、篠ノ之束博士だけがそれを可能とした。彼女の開発したISコアの性能は常軌を逸していた。世界最高峰のスーパーコンピュータを千台連結させたとしてなお一ヶ月は要するだろう作業を、コンマ数秒でこなしてしまう。

 

 量子化技術はISコアの性能があってはじめて成立するもの。XI-02への実装は諦めざるをえなかった。

 

 その代わり手にしたのが、部品の小型化技術だ。

 

 量子化技術を研究する過程で得られた副産物で、鬼頭たちはこれを〈遼子化技術〉と名付けた。文豪、司馬遼太郎にならったネーミングだ。すなわち、量子化に遼(はるか)に及ばざる技術、の意。

 

 とはいえ、新技術の開発によって、XI-02の性能は飛躍的な向上を果たした。

 

 量子化技術のように、格納時は質量をほぼゼロに出来る……とまでは、さすがにいかないが、遼子化技術の導入により、性能を落とすことなく部品の小型化に成功したのだ。

 

 たとえば、メイン・バッテリーは従来の四分の一の大きさ、重量にいたっては十分の一以下という軽量化を達成した。これにより、ボディ・サイズの大きな変更なしに、バッテリー容量の拡大に成功、稼働時間の大幅な延長につなげることが出来た。

 

 遼子化技術の強みはもう一つある。それは、既存の生産設備でも導入可能な点だ。新たな設備投資をする必要がないため、製造コストの増加を抑えることが出来る他、アローズ製作所の他の製品にも適応出来る利点が見出せた。

 

「名古屋にいる間に成果を挙げられてよかったよ。XI-02のことだけじゃなく、会社にも奉公が出来た」

 

「来年度の人事査定を楽しみにしていろよ。確実に給料が上がるよう、進言しておくからな」

 

 内部構造を改めたXI-02のジュラルミン装甲を撫でながら、鬼頭は満足げに、桜坂は誇らしげに笑った。

 

 そして――、

 

 

 

 入寮日前日の夜、鬼頭は桜坂をマンションの自室に招いた。

 

 明日からはしばらく、自分はIS学園で預かりの身となる。気軽に顔を合わせられるのは今夜が最後だろうと、彼は親友を酒席へ誘った。

 

 酒宴の場に自分の部屋を選んだのは、勿論、SPたちの仕事の利便を考えてのことだ。どこかの料亭で一席設けるとなれば、彼らには大きな負担を強いてしまうだろうし、店側にも迷惑がかかってしまう。自分はもう、無名のピーター・パーカーではない。聴衆の前でマスクを脱いだスパイダーマンなのだ。桜坂は、「紅のうま酒を持っていくよ」と、快く応じてくれた。

 

 化粧箱に入った葡萄酒のボトルを大切そうに抱え持ちながら、桜坂はやって来た。

 

 玄関で出迎えた鬼頭親子、そしてSPたちは目を丸くした。

 

 スーパーの買い物袋を二つも手に提げた桐野美久が、ぴったりと寄り添っている。はて、自分は親友一人だけを誘い、SPたちにもそのつもりで警護を頼んだのだが。

 

「来る途中で一緒になったんだ。事情を話したら、ぜひ、私も相席させてください、ってさ。つまみ、作ってくれるそうだよ」

 

「ぜひ、ご一緒させてください」

 

「うん。おかしいね。鬼頭の家と、桐野さんの家、まったく別方向なのにね。来る途中で会う、とか、どんな偶然だろうね? まるで俺の今日一日の予定をあらかじめ知っていたかのようじゃないか!」

 

 可憐に微笑む美久と、目線で「断れ、断れ」と懸命に訴えかける親友の顔を交互に見比べて、鬼頭は、「どうぞ」と、彼女を手招きした。

 

 せっかく、会社に残ることを許してもらえたのだ。桐野社長の敵に回るようなことは出来ない。

 

 親友の裏切りに愕然とする桜坂の背中を、陽子が慰めた。間男との一件以来、男性を苦手とする彼女だが、彼に対してだけは普通に接することが出来た。

 

 鬼頭は桜坂たちをリビングへと案内した。

 

 寮生活に必要な荷物はすでに発送済みだ。

 

 がらん、と寂しい空間は、しかしすぐに、男たちの笑い声で賑やかになった。

 

 酒盃を傾け合う男たちの話題の中心は、もっぱら、MIT在籍時代の思い出話だった。特に、卒業制作で作ったパワードスーツにまつわる話が多い。どちらかといえば、技術的なことへの言及は少なく、研究に対する往時の自分たちの態度についての苦言が過半を占めていた。

 

「あの頃の俺たちは……」

 

「お互い、未熟だったな。知識も、技術も半端で、カネもなかった」

 

「それでいて、自分たちは万能の存在であると、根拠のない自信を少しも疑わなかった」

 

「世界の広さを知らない糞餓鬼だったな。……いや気づいてはいたのか。世界の広さ、そして何より、自分たちの見識の狭さについて、見て見ぬフリをしていただけだった」

 

「やってみたいアイディアはたくさんあったのに……」

 

「ああ。自分たちの未熟さを棚に上げて、カネがない、設備が悪いとケチをつけて諦めた」

 

 いまの自分たちは、あの頃とは違う。違うと、確信出来る。

 

 アローズ製作所。自分たちの夢を叶えるための最短ルートとして選んだ就職先。ここで働きながら、パワードスーツの設計に必要な知識と技術を学び、同時に資金も貯める。十年ほどで独立し、あとは自分たちの興した会社で勝手気ままに夢に向かって邁進する……。それが、当時二二歳の鬼頭らが思い描いていた青写真だった。

 

 いまにして思えば、なんと浅はかな将来像か。

 

 アローズ製作所は、そんな未熟者二人に現実を教えてくれた。

 

 知識と技術を学ぶ? 資金を貯める? 愚か者めが! たったそれだけの努力で、世界を救う、なんて大きな夢を叶えられると思うな!

 

 自分たちの作ったパワードスーツを世界中に普及させ、一人でも多くの命を救う。立派な夢だ。ぜひとも、実現に向けて頑張ってほしい。そう思えばこそ、お前達の考えの浅さはいただけない。

 

 どんなに素晴らしい製品も、それ一つだけでは世界を変えることは出来ない。数を売る必要がある。そのためには、生産システムと販売システムの両輪を上手く連動させなければならない。いまのお前達に、その構築が出来るか? システムの構築に必要なものは何か、理解しているのか?

 

「せめて二十年、この会社で社会というものを勉強していきなさい」

 

 当時の社長の言葉が、いまの自分たちを作ってくれた。

 

 会社の存在が、自分たちを鍛えてくれた。

 

 いまの自分たちには、知識や技術の他にも、数多くの強力な武器が備わっていると胸を張って言える。

 

「いまの俺たちなら、あの頃、諦めたアイディアも、きっと実現出来る」

 

 鬼頭の呟きに、桜坂は頷いた。

 

 事実、遼子化技術の導入によってバッテリー容量の問題が解決されたことで、学生時代には実装を諦めたエネルギー・ブラスト機構は実用化の目処が立った。それ以外にも、XI-02には当時諦めざるをえなかったアイディアがいくつも採用されている。

 

 のみならず、あの頃の自分たちでは思いつきもしなかっただろう機構も、XI-02には数多く搭載されていた。そのうちのほとんどは、開発室の他のスタッフから得られた発想の産物だ。

 

「それ以上のことだって可能さ。いまの俺とお前、そしてパワードスーツ開発室のみんながいればな」

 

 結局、チームからは一人の離脱者も出なかった。ありがたいと思う一方で、無用の苦労をかけてしまうことを申し訳なく思う。そしてまた、なんとしても彼らの身の安全と生活を守る手立てを講じなければ、と強く決意した。

 

「これからだ、桜坂。これからだよ」

 

 酒盃を唇に寄せる。口の中いっぱいに広がる、苦い味。古のペルシア詩人も愛飲したとされる葡萄樹の娘は、男たちの胸の内からこの一時だけ、不安を取り除いてくれる。

 

「俺たちの夢は、これからだ」

 

「おう」

 

「XIシリーズはもう、俺とお前だけの夢じゃない。開発室のみんなの夢でもある」

 

「ああ、その通りだ」

 

「俺のいない間、開発室を頼んだぞ。俺たちの夢を、守ってくれ」

 

「ああ、任せろ」

 

 力強く頷いて、桜坂は酒盃を空にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、前日――、

 

 

 

 

 

 親友との酒宴から一夜明けて、鬼頭親子は当初の予定通り、IS学園の学生寮入りを果たした。

 

 混乱を防ぐため、生徒たちが学生食堂へと足を運ぶ昼時を狙っての入寮だ。

 

 真耶に案内された部屋の番号は1122号室。離婚歴のある自分への嫌がらせか、と部屋番号を示すプレートを見て、鬼頭は思わず苦笑した。

 

 ドアを開けると、広々とした空間が親子を出迎えた。ベッドが二つ置かれた相部屋だが、それを踏まえても、学生寮という言葉が相応しからぬ広さだ。設備も充実しており、冷暖房完備の上、シャワールームや洗面台、システムキッチンまで用意されている。調度品の備えも完璧と言え、学習机やクローゼットといった家具だけでなく、冷蔵庫や洗濯機などの家電も一通り揃っていた。すべてIS学園側で用意された物だ。さすがは国立と評すべきか。

 

 リビングの中央では、名古屋の自宅からあらかじめ送っておいた段ボール箱が小さな山を築いていた。衣料品や食器などの生活用品を詰めた箱だ。陽子と二人、まずは各々の私物を梱包した箱から開けていく。

 

 引っ越しの作業はスムーズに終わった。学生寮の寮長だという千冬と真耶が、開梱などの仕事を手伝ってくれたおかけだ。彼女たちは作業が一段落ついたところで、「鬼頭さんに渡す物があります」と、告げた。

 

 千冬は学習机の上に、プラスチック製のリングケースと、一冊の本を置いた。広辞苑を思わせる大きさと分厚さで、表紙には、『IS起動におけるルールブック』と、印字されている。

 

 千冬はまず、リングケースの方に手を伸ばした。蓋を開け、中の様子を見せてくる。スエードの谷間に、金色の指輪が挟まっていた。アームの部分が太い、男物の指輪だ。台座にはダイハツのブランドマークのような三角形状の飾りがついている。

 

「これは?」

 

「待機状態のISです」

 

「これが……」

 

 鬼頭は得心した表情で頷いた。事前に渡された参考書にも記述のあった内容だ。ISは量子格納技術を駆使することで、ペンダントやピアスといったアクセサリー状の待機形態をとることが出来る。通常は装身具として持ち歩き、有事の際には即座に機体を召喚……というのが、ISの基本的な運用方法だという。

 

「日本政府からの要請で、鬼頭さんには専用機を与えることになりました。機体は第二世代機の〈打鉄〉です」

 

「父さん、すごいじゃん!」

 

 陽子が興奮した声を発しながらで背中を叩いた。

 

 無理もない。ISの中枢装置たるISコアは現在、世界に四六七個しかなく、しかも開発者である篠ノ之束博士にしか作れない。そして篠ノ之博士は、四六八個目以降の製作を拒否しており、かつ行方不明という現状だ。

 

 すなわち、この世界には現在、ISは四六七機しか存在出来ない。その中から貴重な一機を、特定の一個人に与える専用機という制度は、IS学園の生徒ならば誰もが憧れる栄誉といえた。

 

「本来であれば、IS専用機は国家や企業といった組織に所属する人間で、かつ技量に優れる者にしか与えられません。しかし、鬼頭さんの場合は立場が立場ですので。何かあったときに備えての護身用と、データ取りのために、専用機を持ってもらうことになりました」

 

「なるほど……」

 

 鬼頭は、おずおず、とリングケースに手を伸ばした。

 

 金色の指輪を手に取り、しげしげと眺める。一見した限り、何の変哲もない指輪だ。センターを除けばシンプルな造りをしており、アームは加飾のない、つるり、としたデザインをしている。

 

「嵌めてください。それだけで、そのISは鬼頭さんの専用機として登録されます」

 

 真耶の言葉に従い、指輪を右手の中指に通した。するり、と入ったのは束の間、どういう理屈か、アームの部分が伸縮し、鬼頭の指の太さに、ぴったり、馴染むサイズへと変形した。軽く手を振ってみる。指輪は、かっちり嵌まって動かない。日常生活中のふとした弾みで抜け落ちるといった心配はなさそうだ。

 

「これでユーザー登録は完了です」

 

「もうですか?」

 

「はい。これ以降この子は、鬼頭さんの許可なしには誰も動かすことが出来なくなりました。勿論、パワードスーツとしてのフィッティング作業は、別途行う必要がありますけど……」

 

「そちらの方は明日、機材の整った場所で行いましょう」

 

 次いで、千冬は机の上の広辞苑を示した。

 

「こちらは、ISを起動する際のルールブックです。基本的な取り扱い方法や、運用上の法的制約も載っているので、空いている時間に目を通しておいてください」

 

 簡単に言ってくれるなあ、と内心苦笑した。試しに最初の数ページをめくってみるが、どのページにも文字がびっしりと敷き詰められており、しかも紙は一枚々々が昔のわら半紙のように薄い。これは読破に時間がかかりそうだ。

 

 ――しかし、必要なことだ。

 

 最強兵器の扱いのすべてを、個人に委ねるのだから当然だ。

 

 たとえば、拳銃の扱い方をろくに知らない人間が、常日頃から持ち歩けばどうなるか。暴発事故で自分が傷つくだけならまだよい。下手をすれば、まったく無関係の他人を傷つけてしまいかねない。

 

 もし、ISで同様の事故を起こせばどうなるか。ISの火力は、拳銃の比ではない。その何十倍もの被害を、周囲にもたらしかねない。

 

 なるべく早く読み終えねばな、と鬼頭は決然と頷いた。

 

 

 

 

 

 ISの受け渡しを終えた千冬たちは、明日の予定について二三の伝達事項を伝えた後、早々に鬼頭たちの部屋を退室した。

 

 親子の団欒のひとときを邪魔してはならない、という配慮は勿論あるのだろうが、それ以上に、寮母としての仕事が忙しいのだろう。

 

 二人とも、寮長を務めるのは初めてではないとのことだが、今年度はイレギュラーな存在が二人もいる。平年よりも多忙であろうとは、容易に想像が出来た。

 

 千冬たちの退出によって二人きりとなった鬼頭親子は、とりあえず遅めの昼食を摂ることにした。

 

 「今日一日はなるべく部屋の外に出ないようにしてください」という、真耶からの忠告を守って、早速、部屋のシステムキッチンを使ってみた。といっても、荷解の作業で疲れていたことから、こしらえたのはコールド・ミートとサラダ、蜂蜜をたっぷり塗った食パンという、簡素な食事だったが。

 

 食事を終えると、鬼頭は温かいコーヒーをお供に、新しく手に入れた玩具をいじり始めた。ここに来る以前に渡された、IS学園の授業でも使われる教科書に目線を落としながら、右手の指輪を、コツコツ、と左手の人差し指で突く。

 

「……ディスプレイ展開」

 

 低く呟くと、鬼頭の目の前に空間投影式のディスプレイが出現した。金色の指輪が呼び出したものだ。教科書によると、ISには操縦者の思考を読み取り、システム全体に反映する機能があるのだとか。扱いに習熟した者であれば、わざわざ発声せずとも、念ずるだけで出来るようになるらしい。

 

「機体ステータスのチェックをしたい。ディスプレイに情報を表示」

 

 自分はまだ初心者だ。やりたいこと、使いたい機能のイメージを、口に出すことで補強しなければ、ISはその気持ちに応えてくれない。

 

 鬼頭の呟きに応じ、空間ディスプレイに機体情報が表示された。

 

 強化外装・六一式。

 

 和名を、〈打鉄〉。

 

 日本が開発した、第二世代を代表するISの一つだ。

 

 第二世代最高の防御能力と汎用性の高さ、運用面での扱いやすさなどから、量産ISとしては世界第二位のシェア率を誇る。

 

 鬼頭の機体には、日本政府の要請で若干の改修が加えられているらしく、主には次の五点が原型機から変更されていた。

 

 一つ、装甲部分の面積増大。

 

 二つ、安全装備の拡充。

 

 三つ、非常時に備えた、バックアップ用の大容量シールドエネルギーの搭載。

 

 四つ、データ収集用の観測装置の積載。

 

 五つ、上記四点の改修による、量子格納領域の減少。

 

 ――なるほど、この打鉄は、IS競技で勝つための機体ではない、ということか。

 

 要するに、世界にたった二人しかいない貴重なサンプルをなんとしても守るため、防御性能と安定性に秀でる打鉄の強みをさらに向上させる改修を施したわけだ。

 

 その結果、本来、第二世代機の特徴であるはずの、後付け兵装を積載するための量子格納領域が侵食されてしまっている。また、改修によって重量が増しているにも拘わらず、動力装置やパワーアシスト機構などには手を加えた様子がないため、運動性や機動性も僅かに低下していると考えられた。

 

 過日見学したミステリアス・レイディとラファール・リヴァイブのISバトルの様子を思い出す。あの激しい空中機動戦を鑑みるに、これら二要素の性能が低下しているこの打鉄は、IS競技で勝つための機体とは言いがたかった。

 

 もっとも、鬼頭はこれでよいと思っている。

 

 ――俺は今年で四六歳になる爺さんなのだ。ティーンエイジャーに混じってISバトルをするのは無理がある。日本政府も、俺にIS競技者になれとは望むまい。

 

 であれば、自分の専用機はIS競技向けの機体でなくとも構わない。

 

 はじめに千冬が口にした通り、緊急時の護身に役立つ機体でありさえすればよい。

 

 この打鉄を改修した設計者は、そのことをよく理解していたのだ。

 

 ――叶うなら、会って話をしたいものだ。

 

 一ヶ月という短い期間で、これほどの機体を仕上げてくれた。顔も名前も知れぬ人物に対し、鬼頭は感謝の気持ちと、それに倍する尊敬の念を抱いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter4「信託の日」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し前――、

 

 

 

 二人目の男性IS操縦者が見つかった!

 

 件の人物またしても日本!

 

 彼の名は、鬼頭智之!

 

 大手メディアを中心とした記者会見の場で、日本政府とIS学園の代表者たちが口にしたその言葉は、世界を震撼させた。

 

 記者会見が始まったのは、日本時間で午前八時のことだ。日本人だけでなく、東アジア全域に暮らす多くの人々が、歴史の動く瞬間を、リアルタイムで目撃していた。

 

 各種端末から流れる緊急生放送の様子を目にした、あるいは耳にした人々が、最初にとった反応は様々だった。男性がISを動かしたという事実にただただ驚愕する者。その事実を忌々しく思い憤る者。その事実に男性復権の希望を見出して歓呼の声を上げる者……。

 

 しかし、次いで生じた反応は、多くの者たちの間で一致していた。

 

 すなわち、この鬼頭智之なる人物は何者なのか? とりあえず調べてみよう、と検索サイトにアクセスしたのだ。その人数、日本国内だけで推定三千万人超。海外からのアクセスも含めれば、二億人をゆうに超えていた。

 

 彼らがほぼ一斉に“鬼頭智之”の名前を検索バーに打ち込んだ結果、ネットワーク回線は軒並みダウンした。

 

 通信インフラの不調は記者会見が終わった後も二時間以上続き、あらゆる産業分野に対し深刻なダメージを与えた。特に損害を被ったのは投資家たちで、新規の注文はおろか、損切りの決済注文さえ受け付けてもらえぬ事態を受けて、市場は大混乱に陥った。一連の騒動によって生じた経済的損失は、調査機関によって数字の変動が多少あるものの、おおむね二千~四千億円の間だろうと推測された。

 

 さて、落胆の熱波は、長いリードタイムを経てなんとか検索サイトに辿り着いた者たちにも襲いかかった。

 

 “鬼頭智之”と名前を打ち込んでも、望む結果がヒットしない。電子の大海原よりサルベージ出来たのは、同姓か同名のまったく無関係な人たちの情報ばかりで、これは検索条件にどんな工夫を凝らしても変わらなかった。SNSの類いをやったことがないのかもしれないが、それにしたって、不自然なぐらいに情報が集まらない。

 

 事件は、そんな知的好奇心が満たされない日々の中で起こった。

 

 その道の者たちの間では高名なとあるハッカーが、鬼頭某が籍を置いているというアローズ製作所のコンピュータに侵入を試みたのだ。結果として、彼は会社のファイアウォールを突破出来なかったばかりか反撃に遭い、居場所を特定され逮捕されたのだが、その際に、

 

「あんなに強固な防御は一民間企業ではありえない。国の支援を受けているのではないか?」

 

という言葉を口にした。

 

 日本政府とIS学園が鬼頭智之に関する情報の統制を行っている、という推論が人口に膾炙するのに、そう時間はかからなかった。

 

 

 

 鬼頭の存在を明かすと決めてからこの一週間、日本政府とIS学園は、彼にまつわるありとあらゆる情報の把握とコントロールに努めた。

 

 記者会見の日を迎えれば、鬼頭は世界中から注目を集める重要人物となるだろう。

 

 世界中の誰もが、この男はどんな来歴と人格の持ち主なのか、と関心を寄せる違いない。

 

 それが一時の好奇心に行動原理を支配されたミーハーばかりであればよいが、悪意を抱える人間だった場合、たとえば、小学生時代の卒業文集に載せた『将来の夢』といった些細な情報を手がかりに、彼の心身を傷つけないとも限らない。

 

「記者会見の当日までに、なんとしても情報統制の仕組みを整えておく必要がある!」

 

 鬼頭智之の扱いをどうするべきか。その対策会議の席上で、当時の官房長官が言い放った言葉だ。これを受けて、日本政府とIS学園は即座に行動を開始した。

 

 まず、インターネット上にうっすら残っていた鬼頭の痕跡を、目についたものから次々消去していった。

 

 次いで、鬼頭がこれまで歩んできた歴史をつぶさに調べ上げ、彼が過去に関係したあらゆる組織に対し口をつぐむよう協力を要請した。これは海外の教育機関であるMITとて例外でなく、彼らは日本の国家権力には屈しないという態度を取りながらも、卒業生の身の安全を守るために、と快く応じてくれた。

 

 日本政府らが最後に行ったのは、人の口を塞ぐことだった。鬼頭が過去に知り合った友人知人を探し出し、一人ずつ沈黙を守るよう請うたのだ。

 

 勿論、四十年以上も生きている男の、過去の交友関係すべてを洗い出して、その全員にコンタクトを取るなど現実的には不可能だ。鬼頭の情報は、彼が過去に知り合った誰かの口から、世間へといずれ発信されることになるだろう。

 

 しかし、時間稼ぎにはなる。その間に、鬼頭の情報が広く拡散した場合の備えを完璧なものとすればよいと、彼らは考えた。

 

 政府のエージェントらは、まず、アローズ製作所に関わる者たちから接触を開始した。社員は勿論、取引先企業の人間一人々々に対して、ときになだめ、ときにすかして、といった交渉術を駆使して、説得を試みた。併せて、彼らは鬼頭の学生時代の卒業アルバムに記載された名前を、一つ一つ丹念に調べていった。小学六年生のとき担任を務めた教師など、すでに故人も少なくなかったが、七割方と会う算段をつけられた。

 

 高校時代のクラスメイトだったという加藤耕作は、居場所をつかめなかった三割のうちの一人だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 加藤耕作にとって、二〇一一年は人生における転機の年といえた。

 

 この年の三月十一日、東日本大震災が起こった。

 

 地震発生当時、福島県にある福島第一原子力発電所では、六基ある原子炉のうち、一~三号機の三基が運転中という状況だった。これらの原子炉は、地震の揺れを感知するや安全確保のため即座に自動停止。次いで生じた停電により外部電源を喪失するも、すぐに非常用のディーゼル発電機が起動して、原子炉内の核燃料の安定化に努めた。

 

 ところが、地震発生からおよそ五十分後に、十三メートル超という高さの大津波が発電所を襲い、地下に設置されていたディーゼル発電機を海水で侵した。津波は非常用電源以外にも様々な設備を使い物にならなくし、核燃料の温度はどんどん上昇。ついには炉心融解……福島第一原子力発電所事故が発生した。

 

 先の戦争での経緯から、核エネルギーに対し過剰なアレルギー症状を持つようになった日本人である。福島の事故について報道がなされると、国内の其処彼処で脱原発、再生可能エネルギーの拡充が叫ばれるようになった。

 

 加藤はこの機運に商機を見出した。

 

 ――再生可能エネルギーの需要は、きっとこれから高まる。商売を始めるなら、いま、だ。

 

 当時、大手家電メーカーに勤務していた彼は、いずれは己も勤め人などではなく、一城の主になってやる、と大いなる野望を抱いていた。

 

 加藤は震災の一ヶ月後には会社を辞め、貯金を元手に事業を興した。太陽光発電の肝というべき太陽電池を製造する会社だ。もともと、加藤は勤めていたメーカーでその分野の仕事をしていたから、製造技術に関するノウハウはすでに持っていた。

 

 操業一年目の業績は好調だった。震災の翌年に政府が創設した固定価格買取制度も、太陽光発電の普及を後押しした。国内総発電量のうち、太陽光が占める割合は、二〇一一年時点で一・六パーセント。それが翌年には三・二パーセントまで伸ばしていた。

 

 歯車が狂い出したのは、創業二年目……二〇一二年の中頃のことだ。太陽電池の製造に欠かせない原材料の一つ……ソーラーグレードシリコンの価格が、ゆるゆると値上がりし始めた。

 

 加藤の会社を含む先達の成功を受けて、太陽光ビジネスは儲かる! と、新たな競合相手の参入や、もともと太陽電池を製造していた大手メーカーが増産といった事態が相次いだ。需給バランスのシーソーが一方に傾き始めたことにより、シリコンの価格は上昇。太陽電池の製造原価を押し上げた。

 

 原価が上がれば、当然、利益率は下がる。これは、加藤たちのような新興の企業にはかなりの痛手だ。収益性を維持する最もシンプルな手法は値上げをすることだが、それをやると、他社製の安い太陽電池との競争に勝てない。

 高価格・高品質を売り出す戦略も難しい。加藤が会社を興して、まだ一年と少々でしかない。他社製品を圧倒するほどの技術力の蓄積はまだなく、会社は、企業としてのブランド力に乏しかった。顧客に、高い金を払ってでも欲しい! と思わせることは難しいだろう。

 

 値下げにいたっては論外だ。大手のメーカーは大量生産によるコスト・ダウンを得意としている。彼らと同じ土俵に上がって、勝てるわけがない。

 

 値上げも値下げもしづらい状況の中、シリコンの価格はゆっくりと、しかし確実に上昇していった。

 

 日々変動するシリコン価格のチャート表を眺めながら、加藤は焦りを募らせた。

 

 ――このままシリコンの価格がどんどん上がっていったら……。

 

 自分たちの会社が生き残る道はなくなってしまう。なんとか収益性を保てているいまのうちに、何か手を打たなければ。

 

 焦った加藤は、事態打開の策として、シリコンの調達に関して十年もの長期契約を結ぶ、というカードを切った。

 

 要するに、先物取引に手を出したのだ。

 

 太陽光ビジネスの発展と拡大を信じて疑わない加藤は、シリコン価格は今後長期的に上昇していくだろう、と予想した。安いいまのうちに長期契約を結んで、リスク・ヘッジを目論んだのだ。

 

 ところが、シリコン価格は加藤が長期契約を結んだ二〇一三年の二月以降、またゆっくりと値下がりしていった。供給量が需要に追いついてしまったためだ。

 

 もともと太陽光電池用のシリコン価格は二〇〇九年以降、長期的には下落基調が続いていた。

 

 いくつものファンダメンタルズ要素が複雑に絡み合い、相互に作用し合った結果で、特に大きな原因としては二つ挙げられる。

 

 一つは、世界経済の減退による需要減だ。世界金融危機により、太陽光ビジネスの牽引役だった欧州市場の成長が鈍化、ソーラーグレードシリコンの需要が消失してしまった。

 

 もう一つの原因は、景気減退以前から計画されてきた多結晶シリコンの生産体制が完成したことだった。

 

 シリコンの価格は、二〇〇八年まではむしろ高騰していた。需給バランスのシーソーは需要の側に傾いており、一キログラムあたり五〇〇ドルもの値がついていた。供給量の不足をなんとかせねばと考えた人々の投資により、二〇〇九年頃から、生産設備は本格的な稼働を開始した。

 

 供給量の増大と、需要減。この二つの要因が相乗効果をもたらし、シリコン価格は下落した。特に最初の二年は暴落と評せるほどで、一キログラムあたりの価格は五十ドルまで下がった。

 

 原発事故に端を発する太陽光ビジネスの活性化という不測の事態は、太陽電池市場に、シリコンの一時的な品不足をもたらした。しかし、シリコン・メーカー各社はこれにすぐ反応。いまや持て余し気味の生産能力を存分に活かせる機会が到来した、と増産に励んだ。その結果、価格の上昇はすぐに頭打ちし、後はゆるゆると下がっていった。

 

 シリコン価格の下落は、加藤たちの会社を大いに苦しめた。

 

 長期契約を結んでしまったことで、彼らは十年もの期間、相場よりも割高な買い物をし続けねばならなくなってしまった。

 

 その他方で、ライバルたちは安い値段で原料を仕入れ、製品化の際にはその安さを販売価格に反映させた。

 

 競合他社の製品よりも販売価格が高く、それでいて品質や性能面で圧倒的に優れているというわけでもない。

 

 熾烈なシェア争奪戦が繰り広げられる中、加藤の会社の太陽電池は、顧客からの支持を得ることが出来なかった。

 

 

 

 長期契約が終了した二〇二三年の三月、加藤の会社は、すでに死に体と化していた。

 

 割高な買い物による十年間の損失は一三〇億円にも達し、この損を少しでも取り返すため販売価格の据え置きをせざるをえず、結果、他社との競争に敗北。二〇二〇年には三期連続で赤字を計上してしまい、銀行や投資家たちから、倒産の危険がある会社と見なされるようになった。不良債権化を恐れた彼らは、資金を出し渋るようになったばかりか、貸付を早期に返済するよう要求してきた。収益性はますます悪化し、借金返済のためには資産の売却を避けられなくなっていった。資本金はどんどんと痩せ細り、業績はいっそう悪化していった。

 

 二〇二三年度の上半期決算で、会社が債務超過の状態に陥っていることが判明した。その額、二五億円。もはや自力での経営再建は不可能と判じた加藤は、一縷の望みを託し民事再生法を申請。しかし、これは提出された再建計画に具体性がないと棄却され、結局、二〇二四年の一月、彼の会社は倒産した。債務超過の分については、加藤の個人的な資産と、太陽光電池の製造に関する特許の数々を売り払うことでなんとか完済した。

 

 

 

 会社倒産後の加藤は、日ごと困窮していった。

 

 借金の支払いが終わったのは、会社としての借りた分のみの話。彼個人としての借入は、いまだ返済の義務が残っていた。主には、会社の業績がまだ好調だった頃に購入した家のローンなどだ。会社の債務超過を少しでも解消出来ればと、件の邸宅はすでに手放していたが、代金の請求だけは毎月欠かさずやって来た。

 

 ――とにかく、仕事を探さなければ!

 

 急ぎ探して得た再就職先は、家電の修理業者だった。四十代を迎えてからの中途採用だったが、月収は手取りでおよそ三十万円とまずまずの給与が保証された。知識と経験だけがものを言う修理工たちの世界で、加藤の技術は燦然と輝いていた。

 

 それでも、以前に比べれば収入ははるかに減ってしまった。三十万円の給与も、その半分以上が借金の返済で消えていった。ここからさらに、アパートの家賃や水道光熱費、携帯電話の利用料金といった固定支出を差し引くと、毎月の生活費は六万円ほどしか残らない。

 

 四十代の独り暮らしで、この予算は正直、苦しい。勿論、貯金など出来ようはずがない。不意の病気一発で、生活はあっという間に破綻するだろう。

 

 病気に罹ってはならない。怪我をしてはならない。会社を、一日とて休んではならない。

 

 加藤は、そんな気の休まらない怯えの日々を、もう二年近くも続けていた。

 

 この苦しみから解放される方法は、一つしかない。

 

 ――カネだ。もう一度経営者になりたい、なんて贅沢は言わないから、せめて、心の平静を保てる程度のカネが欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『週刊ゲンダイ』の現編集長……古沢貫一は、来週発売予定の最新号の校正刷りを精読して、満面の笑みを浮かべた。

 

 我ながらよく出来ている。特に、巻頭記事の特集が素晴らしい。ライター自身も、この十年でいちばん筆のノリが良かったと自賛していただけに、読者の目線を誌面に釘付けにする魅力に満ち満ちている。独自ルートで入手した写真の印刷映えもバッチリだ。

 

 ――今回の号は実売も期待出来そうだ。

 

 電子書籍が年々発行部数を増やし、国民の活字離れが懸念されている現在のわが国の出版業界は、内外から不況の状態にある、と見なされている。特に酷いのが雑誌で、出版業や書店業に携わる者たちの間では、出版不況というよりは雑誌不況、というのが共通の認識だった。古沢が編集長を務める『週刊ゲンダイ』も、かつては発行部数一五〇万部を誇る雑誌だったが、昨年は五十万部を大きく割り込み、実売数にいたっては、四十万部にぎりぎり届かぬほど、売れ行きは低迷していた。

 

 『週刊ゲンダイ』は、五十年代に起こった出版社系週刊誌ブームの中で創刊した、古株の週刊情報誌だ。ホワイトカラーのサラリーマン向け週刊誌のパイオニアで、後発の週刊誌はすべて、ゲンダイの影響を少なからず受けているといっても過言ではない。政治スタンスはその時々の編集長によって変わり、右寄り、左寄りと、一概にはカテゴライズ出来ない複雑性を持っている。

 

 九十年代末から二〇一〇年にかけて、『週刊ゲンダイ』は、歴代の編集長の独善と暴走により、発行部数を大きく減らしてしまった。この十数年の間には七人の編集長がいたが、彼らは一様にして前任のやり方を批判し、先任者が長い時間をかけて築き上げた仕組みを同じぐらいの時間をかけて壊し、その上で自分のやり方を編集部のみなに押しつける……ということを繰り返した。ただでさえ外部環境が悪い中、上司に翻弄されてばかりの編集部は疲弊し、必然、売上は低迷していった。一時は発行部数が三十万部を割り込み、廃刊の危機にさえ瀕した。

 

 こうした現状を憂いた者たちが立ち上がったのは、二〇一〇年代以降のことだ。この年から就任した編集長たちは、まず、先の十数年で消耗しきっていた編集部の立て直しを行い、次いで発行部数の回復に励んだ。古沢が編集長に就任したのは二〇二三年のことで、この前年の発行部数は四二万三〇〇〇部。彼は自分が編集長を務めている間に、五十万部までもっていくぞ、と目標を掲げた。

 古沢は硬派路線での誌面作りを得意としていた。メイン・ターゲットであるサラリーマン層が好む政治や企業ネタに強く、逆に芸能ゴシップなどは不得手としている。最新号の巻頭特集は、どちらかといえば芸能ゴシップ寄りの内容で、古沢にとっては冒険だったが、印刷所から上がってきた校正刷りの出来栄えは、そんな彼を満足させるものだった。取り上げたネタそのものの集客力、そして記事の完成度……。新規の読者を呼び込めるかもしれぬ、と期待が募る。

 

 ――今号については、増刷りも期待出来そうだな……!

 

 週刊誌や月刊誌といった刊行形態を問わず、通常、雑誌というものは重版がかからない。時折、付録が特集記事の内容などが人気で版を重ねることもあるが、ほとんどが少部数印刷の例外だ。

 

 しかし、今度の最新号に限っては、発売前からその期待が募った。なにせいま、いちばんホットな話題の男に関する特集記事を組んだのだ。

 

 彼については、サラリーマン層どころか、世界中の老若男女が注目している。

 

 いま世界で最も有名な男。

 

 それでいて、世界中の誰もが、彼のことをよくは知らず、知的好奇心を満たされぬ苦しみに苛まれている。

 

 この状況で、売れないはずがない。

 

「儲けさせてくれよ、鬼頭智之さんよぉ」

 

 二ページ見開きで掲載された、世界で二番目に発見された男性IS操縦者の顔写真を眺めて、古沢はにんまり微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 鬼頭の情報を欲する世間と、鬼頭の情報を持ちカネを欲している加藤。そして、両者の橋渡し役となりうる、週刊誌の編集長。

 

 彼らが出会ったとき、鬼頭の身の回りはまた、慌ただしさを増していくのだった。

 

 

 

 

 

 




オリジナルIS

打鉄 Ki ver.1.00

型式 強化外装・六一式 鬼頭智之仕様
世代 第二世代
国家 日本
分類 近接両用型
装甲 耐貫通性スライド・レイヤー装甲
仕様 防御シールド高速修復
主な兵装 近接ブレード〈葵〉
     アサルト・ライフル〈焔備〉
     その他、後付兵装多数……

 IS学園と日本政府が鬼頭に与えた専用機。

 貴重な生体サンプルであり、国家の重要人物でもある鬼頭の身の安全を最優先とし、第二世代最高の防御性能を誇る量産IS〈打鉄〉に改修を施し、使用している。

 ベースとなった打鉄はIS学園所有の訓練機で、標準仕様の機体。主な差異は、

● 装甲部分の面積増大。胸部、上腕部に新造アーマーを増設。
● 安全装備の拡充。
● バックアップ用の大容量シールドエネルギーの搭載。競技用が切れてもシールドの展開が可能。
● データ収集用の観測装置の積載。
● 上記改修による、量子格納領域(=搭載可能な後付兵装)の減少。

 といった具合で、操縦者の保護と稼働データの取得を目的に、防御性能と生存性が高められている。

 その一方で、パワーアシスト機構やスラスターなどの足回りには一切手を加えていないため、装甲の増設や装備の追加による重量増から、運動性・機動性は若干ながら低下している。また、量子格納領域の拡大なども行われていないので、第二世代機の特徴である後付兵装の多様さを自ら捨ててしまっている。これらは手抜きではなく、納期まで一ヶ月未満という状況の中で完成を急がせたための妥協である。ただし、鬼頭本人は気に入っている。

 鬼頭曰く、IS競技で勝つための機体ではないが、いまの自分にはこれで十分。










 ……そう、いまの自分には。

 いずれこの機体に満足出来なくなったとき、自身技術者である彼がさらなる改修、改造を加える可能性は、極めて高い。





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Chapter5「少年たち」

今回は短めです。

キリのいいところまで、としたら、こうなりました。





 その日――、

 

 

 

 

 

 誤って女性専用車輌に乗り込んでしまった男性が感じる居心地の悪さとは、こういうものなのかもしれない。

 

 IS学園の入学式当日。式典を終え、これから一年間世話になる教室へとやって来た鬼頭は、学習用の椅子に着座するや、四方八方より注がれた視線の集中砲火に、早くも胃を痛くしていた。

 

 世界中でいまだ二人しか見つかっていない男性IS操縦者。色々な意味で注目の的となろうことは覚悟していたが、 

 

 ――さすがにこれは、想定外だったな……。

 

 両の頬、そして背中に向けられた炯々とした眼光の“圧”を感じながら、鬼頭はひっそりと溜め息をついた。

 

 男性IS操縦者という存在に対し、好奇の眼差しが向けられることは勿論、想定していた。

 

 今年で四五歳になる自分は、彼女たちにとって父親世代にあたる。そんな男が教室内にいることへの異物感からくる、奇異の目線も予想していた。

 

 なぜお前がここにいるのだ。男のお前がなぜ……!? といった、排他の感情をぶつけられる未来も覚悟していた。

 

 しかし、これは予想外だった。

 

 まさかこんな……、

 

 こんな、攻撃的な目線の圧力にさらされるとは……!

 

 試みに、右隣の席に座る少女を見た。嫌悪感も露わな表情で、きつく睨み返される。女の敵め。ぼそり、と呟かれた。鬼頭は肩をすくめ、目線を教壇のほうへと戻した。教室内に充満する険悪な雰囲気を察して、このクラスの副担任だという山田真耶が、おろおろ、としている。

 

 ――……この反応は、やはり、読んだんだろうな。

 

 今朝早く、慌てた様子で寮の自室を訪ねてきた千冬との会話を思い出す。

 

 午前五時という時間に、戸をけたたましく叩いてこちらの起床を促した彼女の手には、一冊の週刊誌が握られていた。

 

 寝ぼけ眼をこすりながら、差し出された雑誌の表紙に目線を落とすと、眠気は一瞬で霧散した。

 

 雑誌のタイトルは、『週刊ゲンダイ』。号立ては、四月一五日号。本日発売したばかりの新刊だ。表紙のど真ん中に、今週号いちばんの見所……巻頭特集についてのキャプションが記されている。キャプションには、以下のように書かれていた。

 

『男性操縦者K氏の本性!? 元学友が語るDV男の離婚騒動』

 

 週刊ゲンダイらしからぬ見出しに、まず驚いた。次いで、K氏とは自分のことかと気づいて、また驚いた。嫌な予感に顔を強張らせながらページをめくり、記事を精読する。そこには、晶子との馴れ初めから彼女と離婚にいたるまでの経緯が、事細かに書かれていた。

 

 一通り読み終えた鬼頭は、深々と溜め息をついた。きついコニャックでも一杯やりたい気分だが、いまから三時間後には入学式だ。さすがにアルコールが抜けきれないだろう、と我慢した。

 

「……よく出来た記事ですね」

 

 鬼頭はうんざりとした口調で呟いた。

 

 たしかに、書かれている内容のうち七割が嘘と想像で補われた捏造であることに目をつぶれば、読者の意識を紙面に引き込む魅力に満ち満ちた、良い文章だと思う。特に、離婚の原因は自分が妻に振るったDVだったというくだりや、離婚成立後、親権を取られた事実に納得出来ず、かなりダーティな手段を用いて取り返した、というくだりなどは迫真の描写がなされており、読み物としてはとても面白い。

 

 それにしても気になるのは、本誌記者の独占取材に応じてくれたという元学友なる人物の存在だ。

 

 上手な嘘の鉄則は、嘘の中にも真実を混ぜ入れること。こうすることで嘘は真実味を格段に増す。この記事にしても、七割は捏造だが、残りの三割はすべて実際にあった事実に基づき書かれている。晶子との出会いのきっかけが合コンだったことや、離婚の際に陽子たちの親権を向こうにとられてしまったこと、そしてその結果に対し自分が不満を抱いていたことなどだ。こういったリアルな描写があるおかげで、嘘の文章からは圧倒的な説得力が感じられた。事情を何も知らぬ者が読んだならば、十人中の七、八人は信じてしまうかもしれぬ、と危機感を覚えるほどに。

 

 しかし、そうなると、三割の真実を知っていたこの元学友なる人物の正体が気になってくる。

 

「この、元学友というのが誰なのかは、分かっているのですか?」

 

 鬼頭の問いに、千冬はかぶりを振った。彼女を含むIS学園の教師たちは、鬼頭の離婚原因と四年前の親権奪還事件についての詳細を知らされている。

 

「現在調査中です。鬼頭さんの方に、心当たりは?」

 

「……一人、思い当たる男がいます」

 

 特に注視したのは二人の馴れ初めである、合コンについての描写だ。十九年前、あの場に実際にいなければ知りえぬはずの情報まで網羅されている。あの合コンの参加者で、自分の学友だった人物は、一人しかいない。高校時代のクラスメイトで、合コンの主催者だった加藤浩三だ。

 

「合コンの席には、加藤も一緒にいました。特別、親しい間柄ではありませんが、縁をつないでくれた恩義から、結婚式にも呼びましたし、離婚の際には報告もしました。彼が情報提供者なら、この記事のクオリティも納得出来ます」

 

「なるほど。早速、その加藤さんについて調査を日本政府に依頼します」

 

「お願いします」

 

「出版社に対しては……」

 

「名誉毀損で訴えたいと思います。“K氏”などと書いていますが、男のIS操縦者が二人しか見つかっていない現状では、私のことを指しているのは誰の目にも明らかですから」

 

「分かりました。弁護士への依頼は? もし、依頼なさるのなら、IS学園の顧問からも紹介出来ますが」

 

「とりあえず、以前、晶子と離婚した際にお世話になった方の事務所と、今日にでも連絡を取ってみます」

 

 堂島弁護士には毎度々々厄介な依頼をしてしまうなあ、とひっそり溜め息をついた。

 

 出版社と情報提供者と思しき人物への対応は決まった。残る問題は、この記事を読んでしまった者たちへの対応をどうするかだ。

 

 ゲンダイは比較的流通量の多い雑誌だ。単に発行部数が多いというだけでなく、コンビニや駅の売店といった、書店以外の取扱店も多い。その分、相当な人数の目に触れてしまうことが予想された。

 

 版元に圧力をかけるよう日本政府に依頼したとして、デジタル版の配信停止や、商品の回収といった指示が徹底されるまでにはかなりの時間を要するだろう。その間に、どれほどの数が売り捌かれてしまうか……。実際、日付が変わってまだ五時間と少々しか経っていないにも拘わらず、デジタル版のDL数は、IS学園がざっと調べた限りで三十万部を超えているという。

 

 週刊ゲンダイは本来、サラリーマン向けの雑誌だ。しかし、今週号に限っては、普段とは違った層の購入も予想される。なんといっても、いま世界で最も注目されている男についての記事が掲載されているのだ。とりわけ、件の男とはこれから一緒に学園生活を送ることになるIS学園の女子生徒たちが欲しがる公算は高い。

 

「IS学園の教員としては、こんな信憑性不確かな雑誌の記事なんかに惑わされる生徒はいないと思いたいところですが……」

 

「少なからず、信じてしまう娘は出てくるでしょうね。それほどに、よく出来た記事です」

 

 女尊男卑の考え方が幅を利かせるこの時代、DV男に対する女性からの心証は最悪だ。たとえその背景にどんな理由があったとしても、決して許されない。

 

「あと三時間もしたら、そういった敵意の眼差しを受け止めねばならないのですか……」

 

 ベッドサイドのミニテーブルに、ケースに入った状態で鎮座するボーム&メルシェを一瞥して、鬼頭は溜め息混じりに呟いた。

 

「いったい、どれくらいの娘たちが記事を読むでしょう?」

 

「正直、予想がつきません。鬼頭さんのようなケースは、前例がないので……。最悪、学園の生徒全員が読むことになるかもしれません」

 

 インターネットとSNSの発展・普及が著しい世の中だ。実際に雑誌を購入せずとも、今週号の内容について調べるのは難しいことではないし、情報共有のためのツールも便利なものが揃っている。そして、そういった道具の扱いは、総じて若い子の方が上手い。全校生徒に知れ渡る、とは十分考えられる事態だった。あとは、そのうちの何人が、記事の内容を信じてしまうかだが。

 

「二年と三年の生徒たちについては、過剰な心配は不要でしょう。みな、自分である程度ものを考えられる連中ばかりです」

 

 というより、自分たちIS学園の教師陣が、一年以上をかけてそのように鍛え上げた。

 

 もとより、いくつもの難所を見事踏破してIS学園への入学を果たした才女たちばかりだ。不足しているのは様々な分野における知識と、人生経験だけ。それらが補われたいまの彼女たちならば、記事の内容をそのまま鵜呑みにはするまい。文章に論理的な破綻や矛盾がないか、記事の内容のどこまでが事実で、どこからが筆者の想像によるものなのか、丹念に精査した上で、信じるか否かの結論を下してくれるだろう。千冬個人としては、記事の内容を一〇〇パーセント信じ込む者は、全体の一割未満と信じていた。

 

「問題は、今年入学してきた一年生たちです」

 

 つい先日まで中学校に通っていた娘たちだ。彼女たちもまた才媛なれど、上級生たち比べて、情報の捌き方についての経験が圧倒的に不足している。かなりの人数が、記事の内容を素直に受け入れてしまうものと考えられた。

 

「全体の四分の一ぐらいは、覚悟しておいたほうがよいかもしれません」

 

 毎年、新入生の中に少なからずいる女尊男卑主義者たちだが、年々その割合が増えているように思う。千冬の見立てでは、今年の新入生のうち五分の一程度は、大なり小なりそのような傾向があるように思われた。彼女たち全員プラスアルファで四分の一とは、決して大げさな数字ではない。

 

 

 

 はたして、鬼頭を見つめる彼女たちの目つきは、彼らが想像していたよりもずっと険しく、刺々しく、そして数多かった。

 

 入学式が始まる以前から、まるで親の仇を見つけたかのような険しい目線を四方八方より注がれ続けている。ちらり、とうかがい見たその顔には、視界に映じる男への嫌悪感がありありと浮かんでいた。勿論、みな初対面の相手だ。悪感情を向けてくる理由は限られている。男の身でISを動かした事実が気に入らないか、例の週刊誌を読んだかのどちらかだろうと、容易に想像出来た。

 

 視線の集中は、入学式を終えて教室へ移動した後も変わらなかった。目線の数自体は減ったが、狭い空間の中に押し込まれたことで、その圧力はかえって増したように思える。もしも、視線というものに物理的なエネルギーがあったとしたら、自分は今頃、重圧による息苦しさから窒息していたに違いない。

 

 ――ざっと見渡した限り、クラスの半分近いお嬢さん方からきつい眼差しを向けられている。さて、どうしたものか……。

 

 鬼頭は教室内を、ぐるり、と見回し、深々と嘆息した。

 

 結局、朝の短い時間だけでは、生徒たちへの対応について良いアイディアは思い浮かばなかった。

 

 すでに人口に広く膾炙してしまったエピソードや、根付いてしまった認識を打ち消したい、あるいは改めたいという場合、とれる手段は少ない。

 

 最もオーソドックスな戦い方は、まったく新しい話題や考え方、そしてそれらを成立させうる論拠を彼女らに呈示し、きみたちの信じているその認識は間違っている、と認めさせることだ。しかしこの作戦は、よほど上手くやらねば成功しないし、用意した証拠の精度によっては、かえって既存の認識をより強固なものとしかねない危険性さえ孕んでいる。論理性を無視した、ヒステリックな反撃に遭う可能性もある。

 

 かつての西洋世界において、天動説とそれに基づく自然の捉え方は、大多数の人々にとって当たり前の常識だった。コペルニクスの著作『天体の回転について』が発表されたのは、彼が死んだ一五四三年のこと。そこから地動説が一般大衆へと定着するまでには、二百年以上を必要とした。コペルニクスはその著作において、人々を納得させられるだけの証拠を呈示することが出来なかった。ガリレオ・ガリレイは地動説に有利な証拠をいくつも発見してみせたが、戦い方を誤った。結果として、地動説が市民権を得るには、アイザック・ニュートンやエドモンド・ハレーといった人物らの登場を待たねばならなくなった。

 

 今回の週刊誌記事の場合、記事の内容は間違っていると証明出来る証拠は、すぐにでも用意可能だ。当時の裁判記録を取り寄せればよい。恣意的にか、週刊誌ではやたら存在感の薄い間男と、多情な部分が控えめに書かれていた晶子の二人が、一つの家庭をいかにして壊していったのか、克明に記録されているはずだ。

 

 しかし、この証拠を用いて戦うことは、気が進まなかった。間男との一件に触れるということは、智也の死や、陽子への性的暴行について触れるということでもある。鬼頭にとって、そして陽子にとっても忌まわしい記憶だ。好んで開示したい過去ではない。

 

 自身の身の潔白を証明出来る最大の証拠が使えない。このことは鬼頭らの行動を大きく制限した。

 

 次善の策として、千冬は、まったく関係のないセンセーショナルな話題を呈示することで、みんなの意識をそちらに向けさせよう、という作戦を提案してくれた。しかし、その作戦では根本的な解決にはならないし、そもそもそんな話題をすぐに用意出来るのか、話題に釣られなかった者たちへの対応はどうするか、といった問題が残る。結局、すぐ実行に移せる作戦ではない、と却下せざるをえなかった。

 

 これら以外にも、ああでもない、こうでもない、と頭を悩ませているうちに、いつの間にか太陽は天高く、入学式まであと一時間を切ってしまった。教員である千冬は、式の準備のため部屋を立ち去らねばならず、その後も良案が思い浮かばぬまま、鬼頭は入学式に臨んだ。

 

 その結果が、現在、自分を取り巻く状況だ。

 

 自分の娘と同じ年齢の少女たちより向けられる、敵意を孕んだ視線。視線。視線……。ストレスで胃潰瘍になりそうだ。

 

「じゃ、じゃあ自己紹介をお願いします。えっと、出席番号順で」

 

 教壇に立つ真耶も、生徒たちが身に纏う異様なプレッシャーに怯えている。なんとかSHRを進めようとしているが、震える声は教室の隅々まで届いたとは言いがたかった。後ろの方の席に座っている娘など、最前列の席の娘が立ち上がってやっと何が始まったのかを察したぐらいだ。

 

 ――ご苦労をおかけします。

 

 鬼頭は胸の内で彼女に謝った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……織斑一夏です。よろしくお願いします」

 

 最前列、ど真ん中の席。

 

 立ち上がり、教室内を、ぐるり、と見回した織斑一夏少年の第一印象は、年齢のわりにしっかりとした体つきだな、だった。

 

 いまの時代、十五歳で身長が一七〇センチ以上ある男の子は珍しくないが、体つきまで大人びているというのはさすがに少数派だろう。すらり、としたスマートな長身で、肩幅はそれほど広くない。しかし、真新しい制服は皺が、ピン、と伸びるほど張っており、胸板の厚さや腕の太さなどを想像させた。

 

 その立ち姿は背筋が自然に伸びており、美しい。何かスポーツをやっていたのでは? と鬼頭は想像した。

 

 自らの名を名乗った後、深々と腰を折り、頭を上げた織斑少年は、端整な顔立ちを緊張で強張らせていた。やたら目線が窓際のほうへと泳いでいるが、はて、そちらに何かあるのか。

 

 ふと、目が合った。なんとなく、顔の強張りがほんの少し和らいだように見えた。察するに、自分と同じ境遇の男性の姿を認めて、安堵の気持ちを得たか。どうやら彼は、例の週刊誌を読んでいないらしい。

 

 さて、織斑一夏は自分とは別種の緊張感と静かな戦いを繰り広げている様子だった。

 

 周囲を見渡せば、教室にいる生徒たちの大半が、もっと喋ってよ、と熱烈な目線を彼に送っている。その中には、左隣の席に座る陽子の姿もあった。男性が苦手な彼女でも、さすがに彼のことは気になるか。

 

 勿論、鬼頭も織斑一夏には関心を寄せていた。自分と同じく、男性の身でありながらISを操ることの出来る人物。いったいどんな為人をしているのか、興味は尽きない。

 

 そんな期待の眼差しを一身に集める織斑少年は、はじめ、どうしたらよいのか、と途方に暮れた様子だったが、やがて決然とした表情を浮かべた。みなの知的欲求を満たさんと、深く息を吸ってから、口を開く。

 

「以上です」

 

「潔いな!」

 

 思わず、口をついて出てしまった。

 

 話すことが思い浮かばなかったから、自己紹介を切り上げた。その思い切りのよさに感心していると、教室の戸が、静かに開いた。黒のスーツを、バシッ、と着こなした織斑千冬だ。女子生徒たちはみな一夏のほうに目線を集中させており、彼女の入室に気づいた者は少ない。

 

 千冬は一夏の背後に立つや、小脇に抱えていた出席簿を少年の頭へと落とした。

 

 パアンッ! と、人体を叩いたものとは思えぬ、甲高い音。

 

 一夏少年が頭を抱えてうずくまるのと、千冬を見る鬼頭の眼差しが鋭さを帯びるのはまったく同じタイミングの出来事だった。

 

「げえっ、関羽!?」

 

 おそるおそる、振り向いた一夏の頭上で、二度目の打撃音。切れ長の双眸がいっそう険しさを増し、嫌悪感を宿す。

 

「誰が三国志の英雄か、馬鹿者」

 

 鬼頭が、はじめて耳にする口調だった。もしかするとこちらの方が、彼女の素なのかもしれない。粗暴な言葉遣い以上に、言葉選びのセンスに眉をひそめてしまう。

 

「あ、織斑先生。もう会議は終わられたんですか?」

 

「ああ、山田君。クラスへの挨拶を押しつけてすまなかったな」

 

「い、いえっ。副担任ですから、これくらいはしないと……」

 

 優しい声音に、真耶の表情が明るくなる。助かった、と緊張状態から解放されて、可憐にはにかんだ。

 

 千冬は教壇に立つと、教室内を鋭い眼差しで見渡した。これも、鬼頭がはじめて見る顔つきだ。世界最強の女傑、ブリュンヒルデの眼光に射抜かれ、女子生徒たちは息を呑む。必然、教室内は静まりかえった。

 

「諸君、私が織斑千冬だ。君たち新人を一年で使い物になる操縦者に育てるのが仕事だ。私の言うことはよく聴き、よく理解しろ。出来ない者には出来るまで指導してやる。逆らってもいいが、私の言うことは聞け。いいな」

 

 鋭く言い放たれた声は、空気を震わす波というより、断ち切る刃といった印象だ。

 

 粛、とした空気が教室内を支配していたのは、束の間のことだった。

 

 誰かが口を開いたのをきっかけに、黄色い声援が鳴り響く。

 

「キャ――――! 千冬様、本物の千冬様よ!」

 

「ずっとファンでした!」

 

「私、お姉様に憧れてこの学園に来たんです! 北九州から!」

 

「わ、わたしは名古屋から……」

 

 ぼそり、とした呟きが、隣の席から聞こえた。昨日、千冬と会ったときには口にしなかった言葉だ。そうだったのか、娘よ……。

 

「あの千冬様にご指導いただけるなんて嬉しいです!」

 

「私、お姉様のためなら死ねます!」

 

 きゃいきゃい、と騒ぐ女子たちを、千冬は鬱陶しげに見た。

 

「……毎年、よくもこれだけの馬鹿者が集まるものだ。感心させられる。それとも何か? 私のクラスにだけ馬鹿者を集中させているのか?」

 

「きゃあああああっ! お姉様! もっと叱って! 罵って!」

 

「でも時には優しくして!」

 

「そしてつけあがらないように躾をして~!」

 

 千冬は辟易とした様子で溜め息をついた。茫然とした様子の一夏を冷淡に睨みつける。

 

「で? 挨拶も満足にできんのか、お前は」

 

「いや、千冬姉、俺は――」

 

 三度目の打撃音。

 

「織斑先生と呼べ」

 

「……はい、織斑先生」

 

 順番が逆だろう、と鬼頭は内心吐き捨てた。織斑一夏と千冬の間には、血の繋がりがあるのでは、とは以前から考えていたことだ。このやりとりに対する驚きは少ない。それよりも、言葉よりも先に手が出たことに驚いた。

 

 学校教育に体罰を採り入れているなんて時代錯誤が過ぎる……とは、鬼頭は思わない。

 

 一人の人間を育てるのは大変なことだ。綺麗事だけでは成り立たぬことも多いし、ときには体罰が有用と思われる場面もある。自身、智也と陽子を育てる過程で、何度もその誘惑にかられたものだ。

 

 問題は、千冬が言葉を使った指摘よりも先に手を挙げたことだ。

 

 体罰は、あくまでも“罰”として機能しなければならない。まず、本人に悪いことをしてしまった、と自覚させ、その上で、悪いことをしたらこういう罰を課せられる、という形で行われるべきはずだ。そして、悪いことをしてしまった、という自覚は、言葉をもってなされるべきはずだ。

 

 ところが、千冬の振るまいはどうだ。織斑少年を――少なくとも本人にとっては――いきなり三発も叩き、そうしてからようやく口を開いた。もはやこれは、単なる暴力だ。後に続いた言葉も、自分の暴力を正当化させようとする言い訳にしか聞こえない。

 

 もはやどうにもならぬことだが、鬼頭は陽子にIS学園への受験を認めたことを後悔し始めていた。

 

 そのとき、教室の壁面に設置されたスピーカーから、本日の始業を告げるチャイムが鳴った。

 

「む。もうこんな時間か。SHRは終わりだが……」

 

 千冬の目線が、三列目の真ん中に座る鬼頭の姿を捉えた。

 

「鬼頭さんについては、早めの自己紹介が必要でしょう。手短に、お願い出来ますか?」

 

「……わかりました」

 

 立ち上がると、先ほどまで千冬に向けられていた陶酔の眼差しが、敵意へとその質を変えて、こちらに集中した。中には、好奇や憐憫、いたわりといった感情も見て取れるが、少数派だ。

 

「……鬼頭智之です。アローズ製作所という、ロボットのメーカーに勤務しています。趣味は時計とクルマ。隣に座っている陽子とは、親子の関係です。皆さんとは、それこそ親子ほども年齢が離れていますが、気安く話しかけてやってください」

 

 深々と腰を折る。その間も、注がれる目線の鋭さは変わっていないように感じられた。

 

「鬼頭さんはすでに大学を卒業されている。授業にはIS関連のものだけ強制参加、一般教養は自由参加という、少し特殊な扱いなる。急にいなくなっても、驚かないように。……鬼頭さん、もう結構です」

 

 促され、着座する。視線の集中砲火は依然として激しいが、唯一、織斑一夏少年のみ、きらきら、と輝いた眼差しを向けてくれていた。いま口にした内容の中に、彼の好感に響く要素があったのか。

 

「それでは、授業を始める」

 

 千冬が、ぴしゃり、と言い放ち、IS学園での生活初日、最初の授業が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一限目の授業の内容は、ISの基礎理論についてだった。

 

 これが本当に高校生の授業なのか? と、思えるほど、難解な内容だったが、いまのところはなんとかついていけている。

 

 やがて濃密な五十分間の終了を告げるチャイムが鳴り、千冬と真耶は速やかに退室していった。

 

 途端、騒然となる教室内外。というのも、教師たちの監視の目がなくなったことで、廊下には他クラスの女子や二、三年生の先輩らが詰めかけ、教室内ではクラスメイトたちが、たった二人しかいない男子生徒を眺め、ひそひそ、と話し合っているためだ。「あなた話しかけなさいよ」とか、「ちょっと抜け駆けする気じゃないでしょうね」といった言葉が聞こえる。……抜け駆けとは、なんのこっちゃ?

 

「……さて」

 

 学習机を使うのは久しぶりのことだ。二十数年ぶりにとった姿勢のため凝り固まった筋を伸ばしながら、鬼頭はゆっくりと立ち上がった。

 

 隣に座る陽子も、ぐぐぐっ、と両腕を前に伸ばしながら起立する。

 

「陽子、父さんはちょっと、織斑君に挨拶をしてくるよ」

 

 社会人の常識だ。挨拶はこちらからするもの。相手に先手を取られては、それはただの返事にすぎない。

 

「うん。じゃあ、わたしもついて行く」

 

 二人並んで、織斑少年の席へと向かう。先ほどの授業内容で理解の及ばぬ箇所があったのか、一夏は、ううん、と悩ましげな表情を浮かべノートを睨んでいた。

 

 さて、第一声はどうするか。とりあえず彼の前に回り、にこやかに笑って話しかける。

 

「いま、話してもいいかな?」

 

 彼が顔を上げた。こちらの姿を認め、慌てて立ち上がる。

 

「え、あ、き、鬼頭さん……ですよね?」

 

「ああ。鬼頭智之だ。こちら、私の名刺です」

 

 懐から名刺を取り出し差し出した。どう受け取ればよいか戸惑う一夏。かたわらに立つ陽子が呆れた口調で言う。

 

「父さん、相手、高校生、高校生」

 

「む。そういえばそうだったな。いやあ、すまない。つい、癖で」

 

「い、いえ」

 

「それじゃあ、改めて。鬼頭智之だ。会えて嬉しいよ」

 

 名刺を引っ込め、代わりに、半歩踏み出して右手を差し出す。握手に慣れていないのか、一夏は、おずおず、と手を重ねてきた。硬い掌。苦労を知っている男の手だ。

 

「お、織斑一夏です。こちらこそ……」

 

「父さんの娘で、鬼頭陽子です。よろしく、織斑君」

 

「お互い、この学園では肩身の狭い立場だ。協力し合える関係を築きたい」

 

 努めて優しい口調で語りかけると、一夏は嬉しそうに微笑んだ。

 

「あ、俺も、鬼頭さんとは仲良くなりたいなって思ってました! あの、さっきの名刺、もらっても?」

 

「ああ、勿論」

 

 再び名刺を差し出す。一夏はなけなしの知識を総動員して、両手で恭しく紙片を受け取った。株式会社アローズ製作所。その社名を、しげしげ、と眺めていた。

 

「アローズ製作所って、ロボットを造っている会社なんですよね?」

 

「ああ、そうだよ」

 

「どんなロボットを造っているんですか?」

 

「色々さ。それこそ、工場で使われているようなアーム型ロボットから、重作業用の戦車みたいなやつまでね」

 

「スゲェ……カッケェなぁ……!」

 

 興奮した呟き。ロボットという言葉の響きに、ある種のロマンティシズムを感じているのか。男の子だなあ、と鬼頭は微笑ましげに見つめた。

 

「織斑君は……」

 

「すみません。ちょっといいですか?」

 

 今度は自分が彼に話題を振る番だ。そう思い口を開いたところで、別方向から声をかけられた。

 

 見れば、長い墨色の黒髪をポニーテールに結わえた少女が、一夏を睨み、立っている。たしかクラスメイトの娘だ。名前は、自己紹介が中断されてしまったため、分からない。

 

「……箒?」

 

 驚いた様子で一夏が呟いた。彼女の名前だろうか。

 

「織斑君の知り合い?」

 

 陽子が訊ねると、一夏は首肯した。

 

「あ、ああ。こいつは篠ノ之箒といって、俺の幼馴染みなんだ。……まあ、会うのは久しぶりなんだけど」

 

「久しぶり、とは?」

 

 今度は鬼頭が訊ねた。

 

「俺たちが小四のときに、箒のやつは引っ越しと転校をして、それっきりだったんですよ。IS学園を受験していたとかも知らなくて、俺も、入学式のときに箒だって、気づいたところなんです」

 

「なるほど」

 

 鬼頭は箒の顔を見つめた。ふむ。表情や雰囲気から察するに、久しぶりに再会した幼馴染みと二人きりで話したい、といったところか。

 

 ならば、と彼は、そして左手首のボーム&メルシェに目線を落とす。

 

「まだ時間はあるな。織斑君、彼女はきみと二人だけで話したいらしい。私のことは気にせず、行ってくるといい」

 

「え、でも……」

 

「私とは次の休み時間にでも話せばいいさ。小四のときに別れてきりというと、五、六年ぶりの再会だろう? お互い、積もる話があるはずだ。旧交を温めてきなさい」

 

 一夏は鬼頭と箒の顔を交互に見て、戸惑い気味に頷いた。「廊下でいいか?」と、訊ねる彼女にも頷いて、歩き出した彼女の背中を追う。

 

「……あれ、たぶん、箒さんも読んでいるね」

 

 教室から出て行く二人の後ろ姿を見送りながら、陽子が呟いた。

 

 箒は一度も鬼頭に目線を向けなかった。極力、彼の姿が視界に収まらぬよう努めていたように見えた。

 

 織斑君は久しぶりに再会した幼馴染みの久闊を叙するにいたった。

 

 他方、自分といえば周りの女子生徒たちの態度に胃を痛くしている。

 

 同じ男性操縦者なれど、学園生活の前途は対照的だな、と鬼頭はひっそり嘆息した。

 

 

 

 まだ一限目が終わっただけだというのに、早くも疲労感の滲み出る中年男性の背中を、冷ややかな眼差しが見つめていた。

 

「ちょっと、よろしくて?」

 

 若い人たちの間で流行りのフレーズなんだろうか、と背後からの声に反応し、鬼頭は振り向いた。

 

 白人特有のブルーの瞳が、鬼頭を冷たく睨み上げる。知っている顔だ。といっても、こちらが一方的に知っているだけ、という相手。セシリア・オルコット。イギリスの代表候補生だ。一ヶ月ほど前に目を通したIS関連の雑誌に、英国期待の新星と、顔写真つきで紹介されていたのを覚えている。鮮やかなブロンドの髪は、二ヶ月以上前に撮影されたときよりも長く、腰のあたりまであった。

 

「構いませんよ、ミス・オルコット」

 

 腕を組み立っているセシリアに、鬼頭は愛想よく微笑んでみせた。

 

「こちらも、あなたには早めに挨拶しておこうと思っていましたので」

 

 己と同じ境遇にある一夏の次に、友好的な関係を築きたいと思っていたのが彼女だった。

 

 代表候補生とは、国家代表IS操縦者の候補生という意味だ。世界中から才媛を集めたIS学園にあって、その能力は傑出していると考えてよいだろう。彼女からはたくさんのものを学べるはず、と鬼頭は考えていた。

 

「あら、わたくしのことはご存知でしたのね」

 

「国家代表や代表候補生のみなさんは、全員チェックしていました。同じクラスになるとは思いませんでしたが……お会いできて光栄です」

 

 宝石のような青い瞳を真っ直ぐ見つめ、半歩踏み出しつつ右手を差し出した。西欧人にとっての握手の文化は、日本人にとってのお辞儀に相当する。西洋のマナーブックには“正しい握手のやり方”という項目があるほど重要なコミュニケーション手段で、これに応じない場合、相手に対し敵意を持っていると解釈されてもおかしくはない。

 

 はたして、セシリアは両腕を組んだまま。差し伸べられた右手に対しては、冷たい一瞥を向けるのみだった。態度から察するに、彼女もまた、例の週刊誌を読んだのだろう。セシリアの鬼頭を見つめる眼差しは険しいが、彼女を見る陽子の目つきも鋭かった。

 

 行き場を失った鬼頭の右手が、やおら下ろされていく。

 

 鬼頭は努めて平静を装いながら口を開いた。

 

「それで? 私に何か、ご用でしょうか?」

 

「ええ。世界にたった二人しかいない男性IS操縦者にご挨拶を、と思いまして。それともう一つ……」

 

 形の整った唇から紡がれる口調は丁寧だが、声音は攻撃的だ。

 

「あなたに、お訊ねしたいことがあります」

 

「なんでしょう?」

 

「『週刊ゲンダイ』という雑誌は、ご存知かしら?」

 

 鬼頭たちの様子を遠巻きに眺める女子生徒たちが、等しく息を呑んだ。週刊誌記事の内容を信じている者たちも、不信感たっぷりの者たちも、まさか本人に直接、真偽を確認するつもりなのか、と驚きを隠せない。

 

「……ええ」

 

 セシリアの問いに、鬼頭は深々と頷いた。

 

「よく、知っています。毎週欠かさず購読しているわけではありませんが、気になる特集が載っているときなどに買っていますよ。たとえば、今日発売したばかりの最新号とか」

 

「あら、すでに読んでいたのですね」

 

「ええ」

 

「それなら、話は早いですわ。あの記事の内容は、本当のことですの?」

 

 返答するまでに、一秒ほど時間を必要とした。セシリアの意図がどうあれ、クラスメイトらが聞き耳を立てている状況だ。ここは慎重に言葉を選ばなければならない。

 

「三割は本当のことです。私に離婚歴があることや、一度目の裁判では元妻の側に親権を取られてしまったこと、その後取り返したことなどは、事実です。残りの七割……たとえば、私が元妻に対しDVをはたらいていた、という部分などは嘘……というより、雑誌記者による捏造ですね」

 

 さて、この言を聞いたクラスメイトたちは、どう反応するのか。自分の言葉を信じてくれるか。それとも、いまの発言こそ嘘である、と断じるか。そして目の前の少女は? セシリア・オルコットは、どんな反応を示す……?

 

 鬼頭の耳目は、周囲のどんな些細な変化も見逃すまい、聞き逃すまい、と奮い立った。

 

「いま、あなたの言ったことを、証明する術は、ありますの?」

 

 自分を見つめるセシリアの眼差しは、変わらず冷たい。というより、変化がない。鬼頭はここで、おや? と、彼女の態度の不自然さを訝かしむ。

 

 自分から質問し、それに応じた。何らかのリアクションをとって然るべきはずなのに、この変化の乏しさはいったい……。もしや、週刊誌に書かれていたことの真偽は、彼女が本当に知りたいことではないのか? 彼女にとって、記事の内容が正しいかどうかは、本当はどうでもよいことなのでは? 関心の薄い事柄についての返答だったから、リアクションも薄かったのか? そうだとすると、彼女が本当に知りたいこととは、いったい何だ……?

 

 セシリアを見る鬼頭の顔から、とうとう笑みが消えた。かつてMITを首席で卒業した男の頭脳が、少女の真意を探らんと高速で回転する。

 

「勿論です」

 

「なら、その証拠を示してくださいます」

 

「それは……」

 

 ちらり、とかたわらの陽子を一瞥した。鬼頭は切れ長の双眸に強い意志の炎を灯し、毅然と言い放つ。

 

「出来ません」

 

「……いま、なんと?」

 

「出来ない、と言いました。週刊誌の内容のうち三割は本当で、七割は捏造。それを証明する手段は、たしかにあります。しかし、その証拠を呈示することは出来ません」

 

「週刊誌は、お読みになったのですよね?」

 

「はい」

 

「とても酷い書かれようでしたわ。あなたの人格を否定し、これまでの行いを侮辱し、あなたの名誉を傷つける内容でした」

 

「読んでいて吐き気がしましたよ」

 

「それでも、ですの?」

 

「はい」

 

「身の潔白を証明したいとは、思いませんの?」

 

「思いますよ、そりゃあね。ですが、出来ないものは、出来ないのです」

 

 正確には、やりたくない、だが。

 

 裁判資料の取り寄せと公開は、陽子を傷つけることになる。親として、それだけは出来ない。

 

「なるほど」

 

 束の間、瞑目し、セシリアは得心した様子で頷いた。

 

「あなたという人間が、少しだけ、分かったような気がしますわ」

 

 落胆。失望。再び見開かれた双眸は、鬼頭に対する嫌悪感に満ち満ちていた。

 

「情けない男」

 

 言い捨てて、踵を返した。

 

 教室内に設置されたスピーカーが、二時限目の到来が迫っていることを知らせる予鈴の鐘を鳴らす。

 

 若者は難しいなあ、と鬼頭はほろ苦く笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter5「少年たち」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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Chapter6「怒れる女たち」

最後にネタをぶっ込んでしまった。

好き嫌い別れるかも。


 IS学園での生活一日目。

 

 事件が起こったのは、三限目の授業が始まってすぐのことだった。

 

 その端緒を作ったのは、教壇に立った千冬の、次の発言だ。

 

「授業を始める前に、再来週行われるクラス対抗戦に出る代表者を決めないといけないな」

 

「織斑先生、クラス対抗戦とは?」

 

 はじめて聞く言葉の意味を知りたいと、鬼頭は質問のため挙手、指名され、疑問を口にした。

 

「入学時点での各クラスの実力推移を測るための競技大会です。各クラスから選抜された、クラスの代表者が参加して行われます」

 

「なるほど。では、クラス代表とは文字通り、その組の代表選手という意味になるわけですね?」

 

「その通りです。ただ、クラス代表には対抗戦以外にも、生徒会や委員会の各種活動にも参加してもらいます。そういう意味では、代表選手というよりは、一般の学校でいうクラス長や学級委員長に近い役職です。原則として、一度決まると一年間は変更ができません」

 

「決め方は?」

 

「基本は立候補式で考えています。自薦他薦は問いません」

 

「なるほど……。織斑先生」

 

 鬼頭は申し訳なさそうに硬い表情を浮かべた。

 

「たいへん申し訳ありませんが、私については、そのクラス代表への選出を免除してはいただけませんでしょうか?」

 

「……どういうことです?」

 

「知っての通り、いまの私の立場は、このIS学園の生徒であると同時に、アローズ製作所の社員でもあります。クラス代表としての仕事と、会社の仕事がバッティングしてしまった場合、どちらを優先するべきなのか……。そういった煩わしさを避けるため、この身はなるべく身軽にしておきたいのです」

 

 性質のまったく異なる二つの組織に、同時に所属するというのは、色々と不都合なことが多い。

 

 IS学園の生徒としての立場を優先するのか、それとも、アローズ製作所の社員として行動するのか。もともと日本政府は、そういった場面を懸念して、鬼頭に会社を辞めるよう要請していた。

 

 しかも、アローズ製作所での自分には、パワードスーツ開発室の設計主任という役職まで、いまやついている。

 

 役職を得るとは、責任を負う、ということだ。自分の双肩には、己や、己の家族のみならず、パワードスーツ部門にたずさわる者たち全員の未来がかかっている。IS学園か、アローズ製作所か、と選択を迫られた場合、自分は迷わず、後者を取るだろう。

 

 そんな立場の上に、クラス長なんて役職をさらに賜った暁には、自分を取り巻く状況はいっそう複雑怪奇なことになってしまう。鬼頭自身は勿論、IS学園にも、アローズ製作所にも、メリットが一切ない事態だ。

 

 ――色々な人へ迷惑をかけてしまうのを承知で、我が儘を通して会社に残させてもらっているんだ。これ以上、厄介はかけられない。

 

 彼にとってクラス代表への就任は、なんとしても避けねばならぬ事態といえた。

 

「なるほど、鬼頭さんの考えはよく分かりました。では、クラス代表には鬼頭さん以外から選ぶことにしましょう」

 

「ありがとうございます」

 

 鬼頭の切々とした訴えに頷くと、千冬は改めて教壇の上から生徒たちの顔を、ぐるり、と見回した。

 

「……それで、誰かいないか? もう一度言うが、自薦他薦は問わないぞ」

 

 そのとき、一人の女子生徒が右腕を元気よく掲げてみせた。先のSHRで、自己紹介の番が回らなかった一人だ。千冬が指名すると、最前列の席に座る一夏を見て言う。

 

「はいっ、織斑くんを推薦します!」

 

「お、俺!?」

 

 まさか自分が指名されるとは思わなかった一夏は、驚いた様子で立ち上がった。クラス中の視線が彼に集中し、うおっ、とたじろぐ。

 

 この人選には、鬼頭も驚きを隠せない。先ほどの千冬の言によれば、クラス代表とはその学級における代表選手のような立場でもある。操縦経験の浅い彼を選出した理由とは、いったい何なのか。

 

 あるいは、学級委員に必要な事務処理能力を見込んでの推薦だろうか。いや、それにしたってこの人選はおかしい。このクラスが結成されてまだ三時間弱でしかない。鬼頭が把握している限り、彼が皆の前で事務に強いという一面を示したことは、一度もないはずだ。

 

 仮にそうだとして、その才能を知っているということは、彼とは以前から付き合いのある人物ということになるが。

 

 ――織斑君の反応を見る限り、それも考えにくい。

 

 自分を推薦してきた少女を見る一夏の表情は茫然としている。これがかねてよりの知り合いなどであれば、もっと違う反応を見せるはずだ。ということは、推薦者の少女は、織斑一夏の能力や才能について、よくは知らないということになる。

 

 ISの操縦技術が未熟なことは明らか。事務処理能力についても未知数。にも拘わらず、一夏を推薦した彼女の思惑が分からない。

 

 さすがに、物珍しさからクラスの広告塔になってくれ、などという無責任な発想から生じた発言ではない、と思いたいが。

 

 一夏に目線を向ける。困惑の様子から察するに、クラス長への就任は彼にとって、望ましい出来事ではないらしい。己自身、この人選には疑問を感じている。ここは助け船を出すべきだろう。鬼頭は再び挙手をしようとして、バンッ、と、机を叩く音に驚き、発生源を振り返った。

 

「待ってください! 納得がいきませんわ!」

 

 立ち上がり、声を荒げたのはセシリア・オルコットだった。可憐な美貌が険を孕み、戸惑う一夏を睨みつける。ちなみに彼とは、二限目が終わった後の休み時間の間に、お互い自己紹介をしていた。

 

「そのような選出は認められません! 大体、男がクラス代表だなんていい恥さらしですわ! わたくしに、このセシリア・オルコットにそのような屈辱を一年間味わえとおっしゃるのですか!?」

 

 セシリアを見る鬼頭の面差しに、悲しげな表情が浮かんだ。彼女とは一限目と二限目の間の休み時間に少し話したが……。そうか、自分に対してやけに攻撃的な態度を取っていたのは、女尊男卑主義者だったからか。

 

 ISが登場して十年。女尊男卑の思想が権勢を得るようになって七、八年。若い娘たちの中には、女性だから偉い、男性だから卑しい身分で当然、という、恐ろしくもシンプルな行動原理を持つようになった者が少なくない。セシリア・オルコットも、そういった人間だったか。

 

 推薦者の真意が奈辺にあるにせよ、男性である一夏がクラス代表へ推薦された事実が、彼女には気に入らなかったのだろう。ましてや、セシリアはイギリスの代表候補生だ。自分の名前がいの一番に挙げられなかったことは、彼女の競技者としてのプライドを大いに傷つけたに違いない。ヒステリックになるのも、無理からぬことといえた。同情の気持ちを禁じえない。

 

 とはいえ、

 

「実力から行けばわたくしがクラス代表になるのは必然。それを、物珍しいからという理由で極東の猿にされては困ります!」

 

 ――これは、不味いな……。

 

 個人の主義主張は自由だ。しかし、仮にも英国の代表候補生という立場の人間が、声高に、性別や、人種について差別的な発言をしているのは問題だ。

 

 セシリアも、難関IS学園を突破するほどの才女である。冷静な状態であれば、自身の信条を公言すればかえって自分の身を危うくすると承知しているはず。

 

 おそらく、彼女自身は男性差別主義者であっても、レイシストではあるまい。そうでなければ、ISのことを学ぶためとはいえ、日本には来なかっただろう。極東の猿云々は、織斑少年を罵倒するため、ついつい口から出てしまった言葉と考えられる。

 

 口から出た言葉は音として耳の奥に残り、また新たな罵倒の言葉を想起させるきっかけとなる。彼女の本来の信条とは別に、次々と、汚らしい語彙が勝手に舌先からこぼれ落ちる。

 

 いまの彼女は、極度の興奮状態にある。自分の発言をコントロール出来ない、あるいは、自分が何を口にしているのか、分かっていない可能性がある。

 

「大体、文化としても後進的な国で暮らさなくてはいけないこと自体、わたくしには耐えが難い苦痛で――」

 

「ミス・オルコット、それ以上はおよしなさい」

 

 止めねばならない。鬼頭の静かな呟きが、セシリアの怒濤の剣幕に差し込まれた。

 

 瑠璃石の瞳に強烈な敵意の炎を灯し、彼女の目線はターゲットを変えた。

 

「あなたは……っ!」

 

「ミス・オルコット、あなたの考えはよく分かりました。要するに、クラス代表は実力で選ぶべきと、そうおっしゃりたいのですね? であれば、それ以外の言葉は不要です。それ以上、ご自身の立場を悪くするような発言はおよしなさい」

 

 男性の身である自分からの注意は、彼女の心に大きな屈辱感をもたらすだろう。かえって激昂の呼び水となりかねないが、誰かが言ってやらねば。

 

 決然と言い放った鬼頭に、セシリアは苛立った口調で応じた。

 

「……たしかに、その通りですわね。いまのわたくしの発言は、わたくしの立場を危うくする上に、日本のみなさんにはたいへん不愉快な思いをさせてしまうものでしたわ」

 

 セシリアは教室内を見回した。彼女を見る同級生たちの眼差しは、等しく険しい。

 

「申し訳ありません。みなさんに、不快な思いをさせてしまいました」

 

 日本式に、深々と腰を折る。留学に際して、日本の文化についてある程度勉強してきたのだろう。

 

 顔を上げた彼女は、眦をつり上げ、鬼頭を睨んだ。

 

「ですが、それをあなたに指摘されるなんて……本当に、不愉快ですわ」

 

 発言の内容に、違和感を覚えた。男性全般というよりは、自分個人に向けられた嫌悪感。はて、先ほどの休み時間に話したときもそうだったが、なぜ、彼女は自分に対し、こうも敵意を向けてくるのか。

 

「……失礼ながら、私たちは以前、どこかでお会いしたことがあったでしょうか?」

 

「どうしてそのような質問を?」

 

「私の勘違いかもしれませんが、ミス・オルコットは私に対して、特に強い敵意を持っているように見受けられます」

 

 鬼頭の言葉に、セシリアは応とも、否とも答えなかった。

 

 ただただ、怒れる眼差しを男の顔に突き立てる。

 

「しかし、私にはあなたからそのような感情を向けられる理由について、覚えがありません。もしかして私に記憶がないだけで、以前、私たちはどこかでお会いし、そのときに、あなたに嫌われる理由を作ってしまったのか、と思いまして」

 

「……たしかに」

 

 セシリアは両腕を組み、忌々しげに言い放つ。

 

「わたくしは、あなたのことが嫌いです。ですがその理由は、あなたからしてみれば、とても理不尽なものでしょう」

 

「というと?」

 

「わたくしたちの間に、過去の接点などありませんわ。あなたのことを知って以来、わたくしが一方的に嫌っているだけですもの。……例の週刊誌の記事」

 

 教壇に立つ千冬、そのかたわらに控える真耶の表情が硬化した。二人の様子を、おろおろ、しながら眺めているクラスメイトたちの面差しも、一様に緊張で張りつめる。唯一、一夏だけが、何のことか分からず、鬼頭とセシリアの顔を交互に見比べていた。

 

「元妻にDVをはたらく最低な男。それだけでも印象は最悪でしたのに、あなたは先ほど、こう、おっしゃりましたわね。記事の内容は捏造だ。自分はそれを証明する手段がある。でも、その証拠を開示することは出来ない」

 

 そんなことを言ったのか!? 自分の横顔を見つめる千冬の眼光が、険を帯びる。

 

「情けない男ですわね。記事にされて傷ついたのは、あなただけじゃありません。あなたの娘……陽子さんだって、深く傷ついているはずなのに」

 

 セシリアは、鬼頭の隣に座る陽子に、いたましげな視線を向けた。

 

「あなたには、戦う義務があるはずです。親として、娘のために。陽子さんのことを思えばこそ、あなたは、身の潔白を証明する手段があるのなら、そうしなければならないはずです」

 

「…………」

 

「週刊誌で書かれたことに反論をする。たいへんな戦いです。きっと、いま以上に傷つくことになるでしょう。それでも、あなたは戦わなければならない。陽子さんのために、立ち上がらなければならない。それなのに、あなたは……!」

 

 そういうことか、と得心する。セシリアの目に己は、これ以上自分が傷つくことを恐れるあまり、娘のために行動を起こさない情けない父親、と映じていたか。

 

 ――そりゃあ、嫌われても仕方ない。

 

 ただでさえ女尊男卑の考え方が行動原理という人物だ。男性というだけでも嫌悪の対象なのに、父親としてもそんな醜態では、憎しみは一入だろう。

 

 さて、自分のことをそんなふうに思っている相手に、いったいどう返答するべきか。

 

 ふうむ、と考え込む鬼頭は、このとき、意識をセシリアに向けすぎていた。

 

 彼女のことばかり考えていたせいで、すぐかたわらの愛娘の変化に、気づくのが遅れてしまった。

 

「何も……」

 

「……陽子?」

 

 唐突に口を開いた陽子に、目線を向けた。

 

 八歳から十二歳まで、両親から満足に食事を与えられなかったことが原因でいまだに華奢なその肩が、ぶるぶる、と、怒りに震えていた。

 

 先ほどのセシリアと同様、学習机の天板を、バンッ、と叩いて立ち上がり、蒼の瞳を睨みつける。

 

「わたしたちのことを何も知らないやつが、父さんのことを悪く言うな!」

 

「なっ……」

 

「陽子!」

 

「さっきから黙って聞いていれば、あなた、何様のつもりだ!? 何の権利があって、他人の家庭の事情に口出しするんだ!?」

 

 陽子は、きっ、と千冬を睨んだ。

 

「織斑先生っ! わたしも、クラス代表に立候補します!」

 

「陽子! 何を言って……」

 

「オルコットさんは、クラス代表には実力のある人がなるべきだ、と言っています。ここは、ISバトルで試合をして、勝った人がなるべきだと思います」

 

「陽子、よしなさい」

 

 腹立ちは分かるし、自分のために怒ってくれているのだ、と思うと、父親として嬉しい気持ちになる。

 

 しかし、その考えは無謀すぎる。おそらく陽子は、試合の中でセシリアに怒りをぶつけ、痛い目に遭わせてやる、と考えているのだろうが、相手は、イギリスの代表候補生なのだ。対して陽子は、ISの操縦経験は入学試験のときも含めて片手で数えられる程度。知識面も、ISについての勉強は中学二年生からようやく始めたという有り様だ。知識。技術。経験。そのすべてにおいて、実力差は歴然としている。勝てる公算は、ほとんどない。

 

「父さんは黙っていて!」

 

 制止の言葉を、はたして、陽子は退けた。

 

「父さんのことも、わたしのことも、智也兄さんのことも……何にも知らないのに、あんなふうに父さんのことを馬鹿にして、侮辱して……絶対に、許さない!」

 

 一度こうと決めたら、梃子でも動かない。この強情さ、いったい誰に似たのやら。

 

 鬼頭は千冬にすがるような眼差しを向けた。こんな私情まみれの立候補など、認めてくれるな。蹴ってくれ。しかし彼女は、陽子の発言に呆れた表情を浮かべるだけで、それ以上のことはしてくれなかった。

 

「……では、候補者は織斑、オルコット、鬼頭の三人だな」

 

「お、俺も入っているのかよ!?」

 

「自薦他薦は問わないと言った。他薦された者に拒否権などない。どんな理由であれ、選ばれた以上は覚悟をしろ」

 

「そ、そんな、千冬ね……」

 

 千冬が出席簿を振りかぶったところで、慌てて口をつぐむ。ちっ、と舌打ちした千冬は、出席簿を教壇の上に静かに置くと、教室内を見回した。

 

「試合の経験を積む良い機会にもなる。代表者決めの方法は鬼頭の提案通り、ISバトルとする。オルコット、異論はないな?」

 

「ええ、勿論ですわ」

 

 セシリアは一夏、そして陽子に好戦的な笑みを向けた。

 

「イギリスの代表候補生、このわたくし、セシリア・オルコットの実力を示す、またとない機会ですもの。男の分際で、動かせるというだけでこの学園に入学してきたお猿さんや、勘違い娘に、わたくしの力、存分に見せつけてあげましょう」

 

「は、はい! 織斑先生、はい! 俺はあります! 異論、あります!」

 

「黙れ。さっきも言ったが、他薦された者に拒否権はない」

 

 マジかよ……。がっくり肩を落とす一夏を無視し、千冬は鋭く言い放った。

 

「勝負は一週間後の月曜、放課後、第三アリーナで行う。試合に参加する三人はそれぞれ、用意をしておくように。それでは、授業を始める」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後、鬼頭陽子は自身の机の上で頭を抱えていた。

 

「……どうしましょう? お父様。たいへんな約束を交わしてしまいました」

 

「娘よ、わりと自業自得の結果だと思うぞ」

 

 隣の席に座る父親からの返答からは優しさが感じられない。あんたのために怒ってやったのに……! とは、さすがに自分勝手な考え方だろうが、もうちょっとこう、感謝とは言わずとも、慰めの言葉ぐらいかけてくれたっていいじゃないか。

 

 鞄の中に教科書をしまう父を横目で睨む……が、厳めしい顔つきは長続きしなかった。それどころか、思わず笑い出しそうになるのを必死にこらえねばならなかった。智之はいま、IS学園の学生服に袖を通しているが、年齢のせいか、コスプレにしか見えない。まるでそういうサービスを行う店か、男たちの夢がいっぱいに詰まったいかがわしいビデオを見ている気分だ。

 

「……とはいえ」

 

 教科書をしまい終えた鬼頭は、あ~、とか、う~、とか呻きながら机に突っ伏する陽子の背中を優しく撫でさすった。

 

「俺のために怒ってくれたんだ。父さんは嬉しいよ。ありがとうな」

 

「……どういたしまして」

 

 顔を上げずに、呟いた。きっと照れた顔をしているだろうから。

 

 鬼頭は苦笑しながら、目線を前方の席へと向ける。

 

「織斑君も、すまなかったな。巻き込むようなことになってしまって……」

 

「いえ……」

 

 陽子とは違う理由から机の上でぐったりしている一夏は、力なくかぶりを振った。

 

「千冬姉は、一度口にしたことは絶対に覆さない人ですし……。それに、あのオルコットさん、たぶんですけど、鬼頭さんたちが口を挟まなかったとしても、なんやかんや文句をつけて、試合することになっていたと思いますしね。……そういえば」

 

「うん?」

 

「ええと、お二人のこと呼ぶときって、どうすればいいですか? 二人とも、鬼頭さんだし……」

 

「私のことは、智之と呼んでくれて構わないよ」

 

 即答だった。男性に対して苦手意識のある陽子だ。異性から下の名前を呼ばれることに、苦痛を感じるかもしれない。彼女のほうも、「じゃあ、わたしのことを鬼頭と呼んで」と、応じた。

 

 そのとき、授業を終えて退室したはずの真耶が、書類を片手に戻ってきた。

 

「ああ、織斑くん。まだ教室にいたんですね。よかったです」

 

「はい?」

 

「えっとですね、寮の部屋が決まりました」

 

 真耶はそう言って顔を上げた一夏の手に部屋の番号が書かれた紙とキーを握らせた。

 

 手の中の鍵を眺めながら、一夏が訊ねる。

 

「俺の部屋、まだ決まってないんじゃなかったんですか? 前に聞いた話だと、一週間は自宅から通学してもらうって話でしたけど」

 

「そうなんですけど、事情が事情なので一時的な処置として部屋割りを無理矢理変更したらしいです。……織斑くん、そのあたりのことって政府から聞いてます?」

 

 最後の部分は一夏たちにだけ聞こえるよう声をひそめて言った。

 

 一夏が申し訳なさそうに、「いいえ」と、応じと、真耶は困った様子で溜め息をついた。

 

「ううん……連絡に不備があったみたいですね。まあ、そういうわけで、政府特命もあって、とにかく寮に入れるのを最優先したみたいです。一ヶ月もすれば個室の方が用意できますから、しばらくは相部屋で我慢してください」

 

「山田先生、ちょっと待ってください」

 

 鬼頭は険を帯びた表情で声をかけた。

 

「いま、相部屋とおっしゃりましたが……、まさか、女子生徒と一緒の部屋、ということですか?」

 

「……はい。実はそうなんです」

 

「うえっ、マジですか……」

 

 真耶自身、納得がいっていないらしい返答に、鬼頭たちは驚いた。

 

「それは……その、色々と、不味いのでは……」

 

 自分と陽子が一緒の部屋で暮らすのとは、わけが違う。

 

 思春期の男女が二人きりで、一つの部屋の中で寝食をともにする。日本政府も、IS学園も、過ちが起こる可能性を考慮しなかったのだろうか。

 

「そう、ですよねえ……。やっぱり、不味い、と思うのが、一般的な反応ですよねえ……」

 

 鬼頭の言葉に、真耶は深々と溜め息をこぼし、頷いた。

 

「ですが、それが政府からの要請なんです。とにかく、織斑くんの身の安全を最優先にせよ、と」

 

「……この国の政治家や官僚たちは、たまに、とんでもなく阿呆になることがありますね」

 

 大人二人で政府の決断を嘆く。

 

 他方、当事者たる一夏といえば、事の重大さを認識していないのか、別ベクトルの悩みを口にした。

 

「部屋は分かりましたけど、荷物はどうすればいいんですか? 一回家に帰らないと準備できないですし……」

 

「あ、いえ、荷物なら――」

 

「私が手配をしておいてやった。ありがたく思え」

 

 真耶の言葉を遮って、一緒に入ってきた千冬が言った。

 

「ど、どうもありがとうございます……」

 

「まあ、生活必需品だけだがな。着替えと、携帯電話の充電器があればいいだろう」

 

「いえ、それはさすがに……織斑君」

 

 鬼頭は一夏の肩を叩いた。

 

「後で私と陽子の部屋に来るといい。オジサンの使っている物で悪いが、髭剃りの道具とか、男性用のシャンプーとか、貸せる物は貸そう」

 

 IS学園には購買部もあり、そちらには肌ケア用品なども置いてあるが、そのラインナップは基本的に、女性向けの製品ばかりだ。鬼頭たちの入学により、今後はその品揃えも多少変わるだろうが、いまのところは、自分たちで独自の入手ルートを開拓していくしかない。

 

 鬼頭の提案に、一夏は破顔した。自分の髭は薄いほうだが、それでも、朝晩二度のシェービングを怠ってしまうと、顔面は無精髭でたいへんなことになってしまう。

 

「ありがとうございます。……って、あれ? 後で、って?」

 

「うん。私はこれから、用があってね。すぐには寮に向かえないんだ」

 

 愛娘の嘆きにつれない反応しか示せなかったのも、この後、予定が詰まっていればこそ。しかも自分以外にも多くの人間が関わることだから、相手を待たせるわけにはいかない。

 

 結果として帰り支度がいそいそとしたものになってしまった。

 

「予定って、何です?」

 

「山田先生たちとね、ISのフィッティング作業をするんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 IS学園に複数あるIS用アリーナの中でも、第八アリーナは特殊な位置づけの施設だ。このアリーナは通常、一般の生徒たちには開放されておらず、国家代表や企業の専属パイロットなどの限られた一部の者たちだけが、特別な手続きを踏んだ上ではじめて利用を許可される。というのも、第八アリーナは、国家や企業の開発した新装備の試験場、実験施設として機能することを目的に建てられた施設だからだ。

 

 最強兵器ISの新装備とは、今後十年、あるいは二十年間の、軍事的優位性を決定づける要素となりかねない。当然ながら、その情報を欲している者は多い。許可なき者の立ち入りを禁じているのは勿論、機密性を高めるためであった。

 

 鬼頭は第八アリーナに設けられたピットルームの一つにいた。かたわらには千冬の姿があり、二人は四人がけ用の小さなベンチに並んで腰掛けていた。手にはともに紙コップが握られており、コーヒーの良い香りが漂っている。

 

 鬼頭の右手に、金色の指輪はない。

 

 待機状態から鎧武者然とした本来の姿に戻った打鉄は、ピットルーム内に設けられた簡易整備用のハンガーで鎮座している。

 

 その回りでは、真耶の指導のもと、二年生整備課から選抜された、六人からなるチームが、これから行うフィッティング作業のための最終調整を行っていた。

 

 フィッティングという言葉は、たとえばファッション・アパレル業界では着付けや寸法合わせなどと翻訳されるが、ISの分野においては、最適化処理と解釈されるのが一般的だ。

 

 千冬たちの説明によると、ISの中枢装置であるISコアには意識のような存在があり、これには自己進化プログラムが設定されているという。これは、経験を重ねることで自らを随時アップ・グレードする、という機能で、ISを他の兵器とは一線を画す存在たらしめている所以の一つだ。関節部に流れるエネルギーの効率を改善する、といったソフト面の高性能化は勿論、装甲の形状を変更したり、まったく新しい兵装を作り出したり……、といった具合に、ハード面での進化すら可能だという。自らが自らを作り替える機能を持った機械。こんな特性を持つ兵器は、他にない。

 

 さて、この自己進化プログラムが引き起こす現象のうち、機体の見た目すら変わるほどの劇的な変化については、形態移行(フォームシフト)と、呼ばれている。フィッティングはこの形態移行の一つ……一次移行(ファーストシフト)を行う上で、欠かせない工程の一つだ。

 

 一次移行をしている機体とそうでない機体との間には、たとえば同じ打鉄でも、性能には著しい差が生じてしまう。素の状態では十秒かかる仕事が、一次移行済みの機体であれば七、八秒でこなせる、という具合だ。鬼頭の身の安全を何よりも優先したい日本政府が、「彼の専用機に一次移行の処置をせよ」と、学園側に要請するのは当然のことといえた。

 

 一次移行は、フォーマットとフィッティングという二つの作業を経て実行される。まず、搭乗者のデータを打ち込むフォーマット作業を行い、次いで、操縦者にISのシステムを適合させるフィッティング作業を行う。フィッティングが完了すると、一次移行が始まる、という流れだ。現在はフォーマット前の下準備をしているところで、鬼頭は、きゃいきゃい、と騒ぎながら作業する少女らの手元を、興味深く眺めていた。彼女たちをこの場に呼んだのは千冬だ。なんでも、IS整備の教材として使えるのでは、と考えたそうな。ここに来る途中で整備課の教室に立ち寄り、特に勉強熱心と思った六人を選んだのだという。

 

 それゆえか、隣に腰掛ける鬼頭とは打って変わって、生徒たちの一挙一動を見つめる千冬の表情は厳しかった。彼女たちをここに招聘したのは自分だし、その腕を信用してはいるが、万が一の事故が起きては困る、と監督する眼差しは真剣だ。また、彼女たちの中に鬼頭への害意を抱く者がいる可能性を考慮して、不審な行動をとろうとしていないか睨みをきかせたい意図もあった。

 

「あれはよした方がいいと思います」

 

 目線を少女たちの作業風景へと置いたまま、鬼頭は静かに呟いた。若い娘たちの手前、表情こそ穏やかではあったが、その声音は冷厳としている。

 

「あれ、とは?」

 

 応じる千冬の口調も硬質的だった。二人は互いの横顔すら見ないまま、言葉の応酬を続けた。

 

「織斑君への態度のことです。あの出席簿で叩く行為、あれはやめた方がいい」

 

「……生徒たちへの体罰をやめろ、と?」

 

「そうではありません」

 

 鬼頭は小さくかぶりを振った。このリアクション。まさか無自覚だったとは……。呆れから、思わず溜め息がこぼれてしまう。コーヒーを一口すすり、唇を湿らせてから舌鋒鋭く続けた。

 

「織斑先生にとっては体罰のつもりだったのかもしれません。ですが私の目には、先生が織斑君に対し、不当な暴力を振るって悦に浸っているようにしか見えませんでした」

 

「……どういうことでしょう?」

 

 怒気を孕んだ声が、耳膜を叩く。鬼頭はしかし、涼しげな表情のまま応じた。

 

「体罰という言葉の意味をよく考えてみてください。体罰が“罰”として成立するのは、それが正当な懲戒行為として機能している場合のみです」

 

 要点は三つだ。一つは、懲戒の理由が正当なものであるかどうか。二つ目は罪の重さに対して妥当な量刑か否か。そして三点目が、相手の心に、罪の意識と罰則による不快な経験の記憶を植えつけ、再犯防止へとつなげられるかどうかだ。罰という行為の目的の一つは、同じ過ちを二度と繰り返させないことである。

 

 鬼頭の知る限り、千冬は今日一日だけで一夏の頭を、少なくとも五回は叩いている。すべて彼の目の前で行われた蛮行で、どういう状況だったかはよく覚えていた。

 

「一度目の懲戒理由は、まともな自己紹介も出来ないのか、でしたね。二度目は織斑君が口にした、関羽、というよく分からない発言に対して。三度目は、学校では織斑先生と呼び方を改めろ。四度目は、二限目の始業のチャイムが鳴ったにも拘わらず、織斑君が着席していなかったから。そして五度目が、教科書を間違えて捨ててしまったことを理由としたものでした」

 

 このうち、鬼頭の目に正当な理由と映じるのは、四度目と五度目だけだ。自己紹介で何を話すかなんてことは当人の自由であるべきだし、二度目と三度目については、頭を叩くほどの理由だったかと、疑問を抱いてしまう。学校では公私の区別をつけろ。こんなのは、口で伝えればすむ内容だ。二回目のときの関羽云々については、あの発言のどこに指導の必要性を見出したのかさえ分からない。

 

「そして何よりも問題なのが、懲戒の理由について、頭を叩いた後に口にしていることです。普通、この順番は逆であるべきです」

 

 刑事裁判では、まず罪状を読み上げ、己の犯した罪の内容とその重さを自覚させてから、罰を言い渡す。罪の意識と、その報いとしての記憶があればこそ、人は同じ過ちを繰り返さないよう気をつけようとする。

 

 この順番を逆とした場合どうなるか。今日の一夏の例で考えてみよう。彼からすれば、訳も分からずいきなり頭を叩かれて茫然としているところに、それらしい理屈を聞かされた、という形だ。これでは、先に口で言ってくれよ、と不満を抱くばかりで、自省を促せるはずがない。

 

 また、罰を課した後でその理由を述べても、それは暴力的措置を正当化するための言い訳にしか聞こえない。

 

「個人的には、体罰はその人の人格を否定し、その尊厳を著しく傷つける卑劣極まりない行為だと思います。教育指導のやり方としては、最低最悪の手法といえるでしょう。私も基本的には、そこにいかなる理由があろうと体罰は行われるべきではない、という考えですし、逆に体罰を良しと考える人間のことは信用出来ません」

 

 四日市で暮らしていた頃、陽子と智也は、晶子と間男から日常的に暴力を振るわれていた。このことについて、彼らは後に裁判の被告席で、「あれは躾だった。一種の体罰だった」と、言い訳した。以来、鬼頭は体罰という言葉に対し、並々ならぬ嫌悪感を抱くようになった。

 

 その一方で、彼は、実社会においては、ときに体罰が有効と思われる場面があることも認めていた。

 

 たとえば軍隊の世界では、懲戒理由が正当なものである場合に限っては、体罰も仕方がないと思う。

 

 昔、『コンバット!』という、アメリカのテレビドラマの再放送を見たときの記憶が鮮烈だ。新兵が訓練中に手榴弾の扱いを誤り、安全ピンがはずれた状態のまま手から滑り落とす、というシーンがあった。指導を担当していたサンダース軍曹が慌てて放り投げことなきを得たが、もし投擲が一秒でも遅れていたら、確実に二人死ぬ、という場面だった。こういうときは、体罰も仕方なし、と思う。もっとも、画面の向こうの軍曹は冷静で、新兵を叱るときも手は上げなかったが。

 

「私は、体罰否定論者ですが、その考えを他者に押しつけようとは思いません。織斑先生が指導に体罰を採り入れることに対し、思うことはあっても、それをやめろ、とは言いません。ISは兵器です。兵器を扱う際に、ふざけた気持ちでいてもらっては困る。生徒たちの気を引き締めるため手段として、体罰の有効性は認めましょう。ですが、織斑君に対するあれは、違う。あれは、体罰ですらない。ただの傷害だ。子を持つ一人の親として、やめてほしい、と言わずにはいられません」

 

 コーヒーを飲み干し、鬼頭はようやく千冬に目線をやった。彼女はうつむき、カップを満たす褐色の液体をじっと見つめていた。唇を真一文字に結び、心情の読み取れぬ表情を浮かべている。

 

「……ずいぶんと、好き放題に言ってくれましたね」

 

 刺々しい口調。怒りを向けられても仕方がない。自分はそれだけの指摘をしたのだ、と鬼頭は黙ってその言の葉を受け止める。

 

 しかし、千冬はすぐに語気を改めた。コーヒーを一口飲んで、彼女は苦しげに続けた。

 

「ですが、ありがたく思います。体罰のことも含めてですが、これまで私に、そういう指摘や苦言を呈してくれた人は、いませんでしたから」

 

 おや、と鬼頭は眉をひそめた。千冬の発言の内容に、違和感を覚えたためだ。IS学園の他の教員とは、そういう話をしないのだろうか。

 

「ですが、それでも私は、これからもこのやり方を続けようと思います。体罰のこともそうですが、織斑……一夏に対しても、鬼頭さんが言うところの、ただの暴力を振るい続けてしまうと思います」

 

「織斑先生……」

 

「私は、このやり方しか知らないのです」

 

「それは……、どういう?」

 

「ご承知の通り、ISが発明されてまだ十年程度でしかありません。当然、IS学園の歴史も浅い。私も含めてですが、この学園には若い教師しかいません」

 

 要は、たたき上げのベテランがいない、ということか。だんだんと、彼女の言いたいことが見えてきた。

 

「IS学園の教員のほとんどは、もともと教育者を目指してこの道を選んだ者たちではありません。若い頃にIS競技者として優秀な成績を収めた。引退後、政府から後進の育成に努めてほしい、と打診された。そこでIS学園で働くため、教員免許を取った。私自身も含め、そんな連中ばかりなんです」

 

 高い理想を胸に抱いて教師になったわけではない。周りからそうあるべきと望まれ、その思惑に流されるままに、この職業に就いた。教育書の類いに目を通した回数は両手の指で数えられる程度でしかなく、プロ意識の醸成も不十分なまま、教鞭を握ることになった。

 

 その上で、経験さえ乏しいという有り様だ。まともな指導方針など策定出来るはずもなく、結果自分は、体罰という安易な手段に頼らざるをえなかった。

 

「……昔、ちょっとした事情から、一年ほど教師の真似事をすることになりました。そのときの生徒たちにいちばん有効な手段が、体罰でした。そのあと、IS学園で教鞭を執るようになったとき、生徒たちにどう接してよいか分からなかった私は、昔有効だった体罰指導に走りました」

 

 自身も含め、若い教師ばかりという環境だ。方法論について相談出来る相手は皆無だった、と千冬は呟いた。自分の体罰指導に苦言を呈してくれる者はなく、また己もそれ以外のやり方を知らないがゆえに、何年も何年も、同じことを繰り返す羽目に陥ったという。

 

「一夏についてもそうです。これも、詳しい事情は話せないのですが、私と一夏には、両親がいません。一夏がずっと幼い頃に、私たちを置いて家を出て行きました」

 

 そういえば、と鬼頭は過去を振り返った。

 

 ブリュンヒルデとして名を馳せていた現役時代、千冬のもとには各種マスメディアからの取材が殺到していたが、彼女の家族構成について報道されることはついぞなかった。彼女自身が隠そうとしていたのは勿論、日本政府による報道機関への圧力もあったのだろう。

 

「幼い一夏を、私は必死に育てました。でも、当時の私は所詮子どもで、出来ることには限界があって……。一夏にはこうあってほしい、こういうふうに育ってほしい、と思っても、上手くいかなくて……。苛立ちから、手を上げてしまうことも多かった。その上、子どもの私には、さらに幼い一夏を納得させるだけの言葉が思い浮かばなくて、いつの間にか、口よりも先に手が出るようになっていました」

 

 陽子や智也が幼かった頃のことを思い出す。大人の自分たちですら、彼らを育てるのには手を焼いた。当時、小学校の高学年か、中学に入ったばかり頃の千冬にとって、それは辛い日々だっただろう。

 

 人間は環境によって作られる。思春期の最も多感な時期より体罰指導と親しく付き合ってきた千冬は、大人になって、それに頼るようになってしまった。自身、このやり方はいけない。このままではいけない、と思い悩みながらも、周囲へ相談することも出来ず、自分はこのやり方しか知らないから、と自分自身に言い訳しながら、この指導方針を貫き通してきた。

 

 凄惨な過去を聞かされて、鬼頭は束の間、かけるべき言葉を見失ってしまった。

 

 慰めの言葉をかけるべきか。いや、それでも自分は千冬のやり方を認められない、と追い打つべきか。あるいは――、

 

「……よく、頑張りましたね」

 

 色々と思うことはあるが、ひとまず、彼女のこれまでの努力を認めてやるべきか。

 

 気づけば唇からこぼれ落ちた言葉に、鬼頭自身、一瞬、戸惑った。

 

 考えがまとまるよりも先に、自然と、舌先が言葉を選んでいた。そうか、と得心した表情で頷く。いまの話を聞かされた、自分の素直な気持ちが、これだったか。

 

 顔を上げ、茫然とこちらを見つめる千冬に、鬼頭は微笑みかけた。

 

「先ほども言いましたが、私は、体罰が嫌いですし、先生の織斑君への態度には、強い嫌悪を感じます。ですが、そういった気持ちとは別に、いまの話を聞かされて、思ったのです。この目の前の女性の、今日までの頑張りをねぎらいたい。決して、手放して褒められるやり方ではないけれども、あなたが頑張ってきたということだけは、認めたい。そう思いました」

 

 何様のつもりだ、と反撃されるのは覚悟の上。鬼頭はあえて千冬を、自分よりも二十歳近く若い、未熟な若者として扱った。この学園において、自分は生徒で、相手は教師。つまり目上の人間だが、そんな立場の違いについていちいち考えながら言葉を選んでいては、自分の気持ちは伝わらない、と思った。

 

「織斑先生、あなたの一夏君を想う気持ちは、十分、伝わりました。あなたは本当に、弟さんのことが大切なのですね」

 

 大切に想えばこそ、手を上げてしまった。それが癖になり、いまでもまだやってしまう。

 

「ただの暴力ではなかった。その裏には、しっかりと愛情があった。そのことが知れて、よかったです」

 

「鬼頭さん……」

 

 そのとき、打鉄の調整をしていた一団から、一人の女子生徒が飛び出し、こちらに向かってきた。黛薫子だ。鬼頭とは一ヶ月ぶりの再会である。

 

「織斑先生、鬼頭さん、フィッティングの準備が整いました」

 

「ありがとうございます、黛さん」

 

 薫子は一ヶ月前にはじめて顔を合わせたときと変わらぬ態度で鬼頭と接してくれた。

 

 聞けば、彼女も週刊ゲンダイの記事には目を通したという。にも拘わらず、態度を変えないでくれたのはなぜか。打鉄を委ねる際、鬼頭が訊ねると、彼女は快活に微笑みこう言った。

 

「週刊誌の記事を読むよりも先に、鬼頭さんと会っていましたからね。鬼頭さん、私が戦闘を終えたばかりのラファールの装甲に手を触れたとき、火傷したんじゃないか、って、すごく慌ててくれたじゃないですか。そんな、人の痛みについて想像出来る人が、DVなんてするわけない。すぐに捏造だって分かりました」

 

 記事を読んでも、鬼頭への嫌悪感は生じなかった。むしろ、週刊誌が出回ったことで彼が心を痛めてはいないか、と心配になった。IS整備の実習の機会を逃したくない、という思いは勿論本物だが、それとは別に、鬼頭のことを元気づけたい、という考えから、整備員に志願したという。それを聞かされて、鬼頭は思わず目元を覆った。年齢を重ねるほどに、涙もろくなって困る。

 

 鬼頭はベンチから立ち上がり、白亜の学生服の上着を脱いだ。次いでベルトをはずし、スラックスを脱ぐ。

 

 群青色のISスーツが露わとなった。IS操縦時に着用が推奨されている、特殊なフィットスーツだ。肌表面の微弱な電位差を検知することによって、操縦者の動きをダイレクトにISに伝える機能を備えている。これを着ているのと、そうでない状態とでは、機体の追従性に大きな差が生じるという。

 

 鬼頭が着用しているのは、腹の部分が露出したツー・ピース仕様。被覆範囲は、トップスが胸板から首回り、肩から手首まで。ボトムスは腰から下全域という具合だ。フィットスーツというだけあり、ボディ・ラインがくっきり浮き出ている。

 

 四十半ばの男の肉体を前に、薫子は、はあっ、と溜め息をこぼした。彼の身長は一七五センチ、現代日本においては、雲を衝くような大男とは呼べぬ身の丈だ。

 

 しかし、鬼頭の身体は大きかった。首は太く、胸板は分厚く、両腕はロダン彫刻のような逞しさを宿していた。着痩せするタイプだったんだな、と薫子は胸の内で呟いた。

 

「……とても、四十代の体とは思えませんね」

 

 ベンチに座ったままの千冬が言った。鬼頭ははにかんで、

 

「ISスーツを着ると、腹を見せねばならないということは分かっていましたから。この一ヶ月間で、絞り込みました」

 

「……思った通り、いい体してるじゃねえか」

 

 照れくさそうに、薫子が呟いた。

 

 耳の奥でやけに残る、ねっとりとした口調に、既視感を覚える。

 

 はて、どこかで聞いたことがあるような……。過去の記憶を掘り起こし、ああ、と得心する。

 

 一時期、陽子がはまっていた、インターネット上の動画投稿サイトだ。ヘッドホンをつけた彼女が、スマートフォンの画面を食い入るように見つめていたのを覚えている。ヘッドホンの隙間から、聞こえてきた男性の声。たしか、この後続いた言葉は、

 

「……やはりヤバい、だったか」

 

「!?」

 

 なにやら衝撃を受けた様子で、薫子が、びくり、と胴震いした。

 

 おや、違ったかな、と小首を傾げながら、鬼頭はこれから相棒となる機体のもとへと歩み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter6「怒れる女たち」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名古屋市名東区にある、アローズ製作所本社ビル。

 

 その地下駐車場で、桜坂はパワードスーツ開発室の部下である田中・W・トムと、一台のスポーツカーを挟んで向き合っていた。

 

 マツダ自動車の、ロードスターRSだ。ボディ・カラーはソウルレッド。トムが二週間前に、中古車市場で手頃な価格かつ状態良好な車両を手に入れたらしい。

 

 親友の鬼頭と同様、クルマ好きの桜坂は、ある日の昼休みの際にその話を聞かされて、「いいなぁ、俺も乗ってみたいなぁ」と、呟いた。すると、トムは「なら、今度会社帰りにドライブでもしましょうか?」と、提案してくれた。そのドライブ当日が、今日というわけだ。

 

「せっかくですし、屋根ははずした状態で走らせましょう」

 

 幸い、本日の名古屋は雲一つない快晴。仕事を終えた午後六時現在は、月明かりが優しい空模様だ。オープンカーであるロードスターの魅力を、存分に味わうことが出来よう。

 

 トムの提案に桜坂は嬉々とした表情で頷いた。今日のドライブでは、まずトムがハンドルを握り、その後少しだけ、桜坂が握らせてもらう手はずになっている。

 

 二人はコクピットに乗り込むと、早速、エンジンを始動させた。最高出力一三二馬力、一・五リッターのエンジンが、快音を奏でる。聞いているだけで胸がわくわくする、男心をくすぐるエンジン音だ。桜坂の期待は膨らんだ。

 

「それじゃあ、出発!」

 

 サイドブレーキを解除し、クラッチペダルを緩めながら、アクセルを踏み込む。スムーズに走り出したところで、

 

「桜坂室長!」

 

と、地下駐車場に、酒井仁が駆け込んできた。パワードスーツ開発室の最年長、部材や素材のエキスパートだ。桜坂たちの姿を認めるや、慌てた様子で駆け寄ってくる。

 

「酒井さん、どうしました?」

 

 トムに車を止めさせ、桜坂はロードスターを降りた。顔面蒼白の酒井を見て、すわ何事かっ、と、仁王の顔つきを厳しく硬化させる。

 

「たったいま、開発室の電話に警察から連絡が入りました。滑川君が、帰宅中に襲われたそうです!」

 

「なんだと?!」

 

 相手が年上だということも忘れて、桜坂は目を剥いた。

 

「いったい、どういうことです!? 滑川さんは無事なんですか!?」

 

「私もまだ、詳しくは聞いていません。滑川君はいま、東区の警察署で保護されているようです。警察からは、責任者と話がしたい、と言われました」

 

「分かりました」

 

 桜坂は運転席のトムを見た。金髪の青年の顔つきも、険しいものになっている。

 

「トム、行き先変更だ。頼めるか?」

 

 自分は今日、トムのロードスターに乗せてもらうつもりだったから、愛車を連れてきていない。頼れる部下は、「任せてください」と、快く応じてくれた。

 

 頷き、桜坂は酒井の顔を見た。

 

「私はこれから、東区警察署に向かいます。電話で伝えられる情報には、限界がありますから。直接、状況を確かめてきます」

 

「分かりました。お気をつけて」

 

 助手席のドアを閉める。赤いロードスターはスムーズに走り出し、地下駐車場を後にした。

 

 とんだドライブになってしまったなあ、と、桜坂は奥歯を噛みしめた。

 

 

 

 

 

 



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Chapter7「タスクフォース」

十年近く愛用しているマウスが不調。

そろそろ買い換え時かなぁ、としんみりしながら書きました。





 

 入学一日目、放課後。

 

 IS学園第八アリーナ、ピットルームにて……。

 

 

 

 フォーマット作業に必要な準備をすべて終えて、鬼頭の搭乗をいまかいまかと待ちわびる打鉄の姿は、まるで五月人形のようであった。源平時代の鎧甲冑を思わせる、大柄で、無骨なデザインは、このスーツが本来は、まさしく防人のための装備であることを静かに物語っている。

 

「それでは鬼頭さん、搭乗をお願いします」

 

 かたわらに立つ真耶に促され、ISスーツ姿の鬼頭は、鎮座するISを椅子のように扱った。

 

 ほんの少し腰をかがめて着座しやすい姿勢を取っている鎧武者に、背中から体を預ける。先端部に五本指のマニピュレータが付いた籠手状の腕部アーマーに腕を通し、傾斜装甲で正面からの打撃を受け流す意匠が凝らされた脚部アーマーに足を通した。かしゅっ、という空気の抜ける音とともに、アーマーが、ぴたり、と肌に吸いつく。まるで、生まれたときから我が身の一部であったかのような一体感が得られ、打鉄とつながっていく感覚に酔いしれた。

 

 以後、装甲は自動的に鬼頭の身体を覆っていった。胸板を守る胴鎧。二の腕と肩の防具。分厚いスカート・アーマーに、耐貫通性スライド・レイヤー装甲製の浮遊シールドが二枚。機体の準備は完了した。

 

「おおっ」

 

 ハイパーセンサーが起動し、三六〇度全方位に向けて、視界が開けた。思わず唇からこぼれた感嘆の吐息に、苦笑せずにはいられなかった。

 

 どこかで聞いた覚えのある声だ、と思ったら、中学一年生のときに、はじめてポルノ雑誌で大人の女の裸体を見たときにこぼれた溜め息と、まったく同じ響きを孕んでいた。

 

「気分は悪くありませんか?」

 

 真耶が心配そうに訊ねてきた。はじめて、ISを起動させてしまったときには、ハイパーセンサーの索敵範囲の精度、外部刺激に対する感度を最大にしてしまい、激しい頭痛に苛まれた。あの場には真耶と、薫子がいた。過去の嫌な記憶のせいか、その声は微妙に震えていた。

 

「……大丈夫です」

 

 鬼頭は彼女を安心させるよう、完爾と微笑んだ。

 

 事前に教科書で予習していたおかけだろう。あのときはどうすればよいか分からなかったハイパーセンサーの調整が、いまは、こう、と思うだけで、いとも容易く出来る。

 

「それどころか、良い気分です。こんなにも広い視野は久しぶり……いや、生まれて初めてのことだ」

 

 四十歳になったばかりの頃、視界に、ほんの僅かな違和感を覚えた。病院で診てもらったところ、緑内障と診断された。幸い、すぐに処置してもらったおかげで、それ以上の進行は防ぐことが出来た。しかし、失われてしまった視界は戻らなかった。

 

 ハイパーセンサーを起動している間は、かつてなくした視界をも取り戻すことが出来た。爽快感を覚えぬはずがない。

 

「立ちます」

 

 屈んだ状態から、すっ、と立ち上がる。数百キログラムにも及ぶ質量物を身に纏っているとは思えぬほど軽やかに、そして力強く動くことが出来た。機体の追従性は、鬼頭の知るXIシリーズの比ではない。

 

「歩きます」

 

 宣言し、薫子たちが遠ざかるのを認めてから、ゆっくりと歩き出した。こちらも、動作に問題はない。アリーナへと続くゲートに向かっていく。フォーマットとフィッティングには、ある程度の稼働データが必要だ。作業はアリーナ内で行われる手はずになっていた。

 

 開放状態のゲートに近づくにつれ、鬼頭は歩調を速めていった。

 

 一歩踏み出すごとに、打鉄が持つすべての要素が、自分という人間に適合していくのを実感する。機体は、急速に動かしやすくなっていった。

 

 ゲートを抜け、アリーナに出た。

 

 第八アリーナは直径が二〇〇メートルもある円形の闘技場だ。ここならば、思う存分、運動することが出来る。

 

『では、鬼頭さん。打鉄で走ってみてください』

 

「分かりました」

 

 千冬からの通信内容を受諾し、鬼頭は打鉄の足を振り上げた。ステージの外縁部分を、ランニングの要領で進んでいく。初めは機体の動作の具合を確認しながらゆっくりと、しかしすぐにペースを上げていく。

 

 十何歩目かで、よろめいてしまった。鬼頭の身体の動きのクセに、打鉄がまだ適合しきれていないがために生じたアクシデント。あわや、転倒! ……というところで、

 

「……ッ!」

 

 咄嗟に、空間投影方式のディスプレイとキーボードを呼び出した。打鉄の姿勢制御系につなぎ、情報を呼び出す。キーボードを素早く叩き、新たな制御方式を機体に導入。脚部アーマーの駆動を無理矢理変えることで、なんとか踏みとどまった。安堵の溜め息が、唇からこぼれる。いまの自分は数百キロからの重量がある。こんなのが倒れたら、たいへんな事故だ。

 

『き、鬼頭さん……』

 

 真耶の、茫然とした声が、耳膜を叩いた。

 

 鬼頭はゆっくり立ち上がり、

 

「申し訳ありません。危うく、転んでしまうところでした。すぐに再開しますので」

 

『い、いえ。お怪我がないようで、何よりです』

 

『鬼頭さん』

 

 真耶に代わって、今度は千冬が話しかけてきた。こちらも真耶ほどではないが、声が僅かに震えている。何をそんなに、動揺しているのか。

 

『いま、何をされましたか?』

 

「何を、と言われても……」

 

 鬼頭は訝しげな表情を浮かべ、訥々と口を開く。

 

「倒れそうになったので、打鉄の姿勢制御系に新しいプログラムを打ち込み、立て直しました」

 

『いつ、そんなやり方を?』

 

「昨日、教科書を予習していたら、機体の姿勢制御に関する項目にぶち当たりまして、どういう仕組みかは知っていました。制御系のどこに問題があるかを調べ、それを改善するプログラミングをしました。ディスプレイとキーボードは、なんとなく、こう、とイメージしたら、出てきてくれました。間一髪でしたよ」

 

『…………』

 

 無言。しかし、ハイパーセンサーが拾い上げたかすかな呼吸音から、感情がかなり揺れ動いているな、と察する。いったい何に対してそんなに……。

 

 はた、と気がついた。よくよく考えてみれば、いまはフォーマットとフィッティングの作業中だ。余計なデータを打ち込むのは不味いか。

 

「……申し訳ありません、織斑先生。どうやらまた、余計なことをしてしまったようですね」

 

 ISについて、自分は失敗をしてばかりだ。一度目はラファールの装甲板が熱くなっていると思い込み、薫子に苦痛を味あわせてしまった。二度目はそのラファールを動かしてしまい、周囲にたいへんな苦労を強いることになってしまった。そして、今回で三度目。自分はいつになったら懲りるのか。

 

 ――今後は好き勝手行動するのは控えよう。

 

 自戒の言葉を胸に刻み、鬼頭はランニングを再開した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フォーマットとフィッティング、そしてその後の一次移行は滞りなく完了した。

 

 すべての仕事を終えた鬼頭は、金色の指輪を再び右手の中指にはめて、学生寮の1122号室に戻った。

 

 部屋の戸を開けると、まず愛娘のだらしのない姿が目についた。肌着姿でベッドにうつ伏せで寝転がり、苛立たしげに足をバタバタさせている。皺にならぬようにと脱いだ白亜の制服もハンガーにかかっておらず、あまり意味がないように思われた。

 

 娘の気持ちが荒れている原因は明白だ。昼間交わした、セシリアとの決闘の約束について、思い悩んでいるのだろう。

 

「勝てるビジョンが思い浮かばない……」

 

 どうかしたか、と訊ねれば、案の定の答えが返ってきた。

 

 我が身のことを想って沈黙の道を選んだ父の勇気を侮辱され、頭にきてしまった。冷静さを失っていたとはいえ、なんであんな約束を交わしてしまったのか。相手は英国が選んだ代表候補生だというのに。

 

「どう戦えばいいかな……」

 

 ベッドの上に放りっぱなしの女子の制服をハンガーにかけ、埃を払いながら鬼頭は、

 

「お前さえよければ、電話してみるか?」

 

「電話って?」

 

「忘れたか?」

 

 自身も制服を脱ぎながら、鬼頭は笑った。

 

「俺たちには、こういう荒事や、鉄火場で頼りになる友人がいるじゃないか」

 

 幼少の頃から古流武術を嗜み、六尺豊かな体格にも恵まれた、まさしく金剛力士の如き、その男。

 

 彼の名を口にすると、陽子は得心したように頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……事情は分かったよ』

 

 ラップトップパソコンのディスプレイいっぱいに顔を映しながら、桜坂は重苦しい溜め息をついた。仕事が終わってまだ間もないのか、やけに疲れた顔つきをしている。

 

 インターネット回線を通じてのテレビ通信だ。機密情報満載のIS学園ではあるが、こういった外部とつながる手段を持つこと自体は、生徒たちにも許されていた。国家代表や企業所属の生徒の場合、政府の役人や所属企業の人間と、頻繁に連絡をとる必要があるためだ。勿論、外部に漏れては不味い情報もあるから、盗聴は常にされているが。

 

『……とりあえず、だ。陽子ちゃん、たぶん、お父さんにも言われていると思うことだけど、まず、言わせてほしい。それはちと、無謀だと思うぞ』

 

 仁王の顔つきの桜坂は、険しい面持ちで言った。

 

 パソコンの画面をのぞき込む鬼頭親子の表情も硬化する。

 

『聞けば対戦相手のオルコットさんは、イギリスの代表候補生というじゃないか。対してきみは、IS操縦時間が一時間にも満たない初心者だ。それで勝とうだなんて、無謀というか、もう、相手に対するある種の侮辱だよ』

 

 幼少より古武術をたしなんでいる桜坂の言葉だけに、説得力はすさまじい。「やっぱり無理かあ」と、肩を落とす陽子に、しかし、父の親友はそこで口調を改めた。彼女の軽挙を咎める語気は一転、いたわりを孕んだものになる。

 

『とはいえ、まったくの無理、とも俺は思わない』

 

 武芸を修めるこの男は知っている。ISに限らず、スポーツの世界においては稀に、思いもよらぬ番狂わせが起こることがある。

 

 一九九〇年二月、全盛期のマイク・タイソンをリングに沈める男が現われるなんてことは、誰一人予想していなかった。

 

 二〇一五~一六年のサッカープレミアムリーグが開幕する以前に、レスター・シティ優勝の未来を予想出来た者はほとんどいなかった。

 

『そういう番狂わせの中には、素人同然のアマチュアが、歴戦のチームや強豪選手を破った事例も多い』

 

 世界最強の呼び声も高かったイングランド代表が、全員アマチュアのアメリカ代表に敗れたサッカーワールドカップ、一九五〇年のブラジル大会。

 

 大学生の寄せ集めチームをもって、当時無敵を誇ったソ連の男子アイスホッケーチーム“ステート・アマ”を破った、一九八〇年のレークプラシッド大会など。

 

 鬼頭の中で特に印象深い記憶は、二〇〇七年の夏の甲子園の決勝戦だ。野球の世界ではほとんど無名の県立佐賀北高校が、広島の強豪校・広陵を破った、あの試合。八回裏、起死回生の逆転満塁ホームランが左翼席に叩き込まれ、後にセ・リーグで最多勝利と最高勝率のタイトル・ホルダーとなる広陵の野村祐輔投手を茫然とさせた。あのときは会社のテレビで試合の様子を眺めていたが、大人げないと自覚しながらも、モニターの向こうにいる親友と熱中して見入ってしまった。

 

『過去にはそういう実例もあるんだ。初心者のきみが、代表候補生に勝つ。非常に困難なことだろうが、絶対に不可能とは、俺は思わない。

 

 ……もう一度確認するが、陽子ちゃんの相談内容は、どうすればセシリア・オルコットに勝てるか? だったね』

 

「は、はい」

 

『何度聞いても無謀極まりないと思ってしまう内容だ。けれど、そこにコンマ・数パーセント程度でも勝算があるのなら。そして、きみ自身に、苦難の道を進む勇気があるのなら。その可能性を信じ、伸ばすための筋道を作るのが、俺たち大人の仕事だよ』

 

 悄然とした声に対し、桜坂は好戦的に笑った。大振りな双眸、黒炭色の瞳に闘争心の炎が灯る。

 

『よし、分かった。相談に乗ろう』

 

「本当ですか!?」

 

『ああ。ただし、俺が相談に乗ったからといって、絶対に勝てる、というわけじゃない。当然、厳しい試合になるだろう。そのことだけは、覚悟しておいてくれな』

 

「ありがとうございます、桜坂さん!」

 

 陽子は可憐に微笑んだ。母親譲りの美貌の持ち主だ。やはり笑っているほうが美しいな、と感想を抱く自らを、鬼頭は嘲笑した。とんだ親馬鹿だ。

 

「もし、試合に勝つことが出来たら、お礼にデートしてあげますね。現役女子高生とデートですよ!」

 

 人によっては、お金を払ってでもやってみたい経験だという。勿論、熟女好きを公言してはばからない桜坂にそんな趣味はないし、陽子としても冗談のつもりで口にした言葉だろうが。

 

『……うん。冗談で言っているのは分かるんだけど、あの、それ、やめてね。うん。あの、さっきからね。お話の邪魔になっては悪いですからってね。その、部屋の隅でね、桐野君が、この会話、聞いているのよ、うん。あの、いまね、すごいっ、顔でっ、睨まれているんだっ、うん。お願い。それ以上はやめて。うん。ほんと、お願い。桐野さんもね、その昏い水底のような瞳はやめて。うん。恐いから。やめて』

 

 仁王様の顔が、それはそれは辛そうに変貌した。

 

「その……なんていうか、すみません」

 

 鬼頭親子は顔を見合わせ、そして気の毒そうに彼を見つめた。

 

 

 

 その後たっぷり五分ほどをかけて、桐野美久の静かなる熱情をなんとか落ち着かせたらしい桜坂は、三者の間に漂う雰囲気を払拭するべく咳払いを一つ。気を取り直し、『それじゃあ早速、作戦会議を始めようか』と、鬼頭親子に向けて言った。

 

 クラス代表決定戦の日まで、あと一週間しかない。一秒たりとて時間を無駄には出来ぬと、桜坂は今夜中に対セシリア・オルコット戦略の基本方針だけでも決めてしまおう、と二人に提案した。

 

 当事者たる陽子は勿論、鬼頭も否とは口にしなかった。愛娘があんな約束を交わしてしまったそもそもの原因は、自分にある。

 

「その作戦会議だが、俺も参加していいか?」

 

『当然だ。今度の試合で実際に戦うのは陽子ちゃんだが、その勝率を少しでも上げるためには、お前の協力も不可欠だ。手伝ってもらうぜ、お父さんよ』

 

 諧謔を交えた言葉。しかし、鬼頭親子を見据える桜坂の眼差しは真剣だ。

 

『孫子曰く、敵を知り、己を知れば百戦危うからず、だ。まずは彼我の戦力分析から始めよう』

 

 単に武芸者というだけでなく、この男は古今の戦史に精通する戦史マニアでもある。これまでに三千以上もの過去の戦例を調べあげた経験から、およそ戦いと名の付く行為は、実際に干戈を交える前の準備こそ肝要である、という理合を見出していた。

 

 繰り返しになるが、決戦の日まで残された時間はそう多くはない。

 

 効率的な準備のためには、適切な作戦計画が不可欠だ。そして、計画を練るためには、考え方のベースとなる情報が不可欠である。

 

 すなわち、セシリア・オルコットと陽子との戦力分析だ。両者のデータを判明している限り洗い出し、比較し、評価する。そうして得られた評価をもとに、どんな戦い方で挑むかを決める。そしてその作戦に必要な準備を考えていく、という具合だ。

 

『まずは、セシリア・オルコットについて判っている限りのことを挙げていこう』

 

「まず、イギリスの代表候補生ということだな。一ヶ月前に読んだIS関連の雑誌によれば、英国期待の新星だとか」

 

『ああ、その雑誌は俺も読んだ。たしか英国政府から、イグニッション・プランのトライアル機を一機、専用機として与えられているんだったか』

 

 イグニッション・プランとは、欧州連合の間で進められている統合防衛計画の通称だ。連合加盟国で使われる装備を共通の物とすることで、兵站上の負担や、軍事費の高騰を抑えよう、というねらいの計画である。これまでに、戦車などの主に陸軍向けの装備の共通化を図った第一次計画、戦闘機など空軍向け装備を対象とした第二次計画が完了しており、現在は次期主力ISを選定する第三次計画が進行中だった。選定方法は各国からのトライアル方式で、英国からは第三世代機ティアーズ型が参加している。

 

「ティアーズ型の特徴は……」

 

『射撃戦特化、だったかな? あとは、第三世代兵装として、BT兵器を採用しているんだとか』

 

 画面の向こうで、桜坂がボールペンを走らせるのが見えた。手帳か何かに、口にした事柄を次々書き出しているらしい。クリップ部分の特徴的な矢羽根状のデザインから察するに、パーカーのボールペンだろう。イギリスづいているなあ、鬼頭は苦笑した。

 

「BT兵器?」

 

 陽子が疑問を口にした。鬼頭はこの一ヶ月間で詰めに詰め込んだISの知識を披露する。

 

「イメージ・インターフェースによって遠隔操作される、無人攻撃端末のことだ。IS本体から射出された後は独立可動する、飛行ユニットらしい」

 

 BT兵器に使われている技術のうち、鬼頭が特に画期的と思うのは、究極的には微弱な生体電流にすぎない脳波の出力を、無人兵器の無線誘導が可能なほどに増幅する技術を確立させたことと、相手の未来位置についてかなり精度の高い予測を可能としていることだ。

 

 ISは総じて動きが速い。重量級とされる機体や、機動性に難ありとされる機体でさえ、超音速での三次元空戦機動が可能だ。目線で相手の動きを追いながら誘導していたのでは、攻撃を命中させるのは難しい。そこで重要となるのが、相手の未来位置を予測する操縦のテクニックと、そのための補助演算装置の存在だ。BT兵器が実用化できた背景には、これらの未来予測に関する総合的技術の飛躍的な向上があった。

 

「未来位置を高い精度で予測出来る、ということは、BT兵器に限らず、他の射撃武器の命中精度も高い、ということだ」

 

『ゆえに射撃戦特化型。その時々の兵装にもよるだろうが、主に長距離戦に強い機体だろうな。ざっくりしたイメージでいうと、ファンネルを搭載したジム・スナイパーⅡって、感じ』

 

「……なんだ? その、ファンネルだとか、ジム・スナイパーⅡというのは?」

 

「なるほど」

 

「分かるのか、陽子!?」

 

 得心した様子で頷く陽子を、鬼頭は愕然とした表情で見た。

 

 確認したところ、『機動戦士ガンダム』というロボットアニメのシリーズに登場する人型兵器の一体らしい。その旨を聞かされて、そういえばXI-02完成時にもトムが似たようなことを言っていたな、と思い出した。『機動戦士ガンダム』。世間の風評からマニア向けの作品と思い込んでいたが、存外、人口に膾炙したメジャーな作品なのかもしれない。

 

 自分一人だけ会話についていけないというのは寂しい。件のロボットアニメについて、自分も勉強しておくべきなのか、と鬼頭は思い悩んだ。

 

『俺たちが件のIS雑誌を読んだのは、一ヶ月前のことだ』

 

「取材の時期を考えると、少なくともいまから二ヶ月以上前には、オルコットさんは専用機を与えられていた、と考えられる」

 

『一日三時間、週五日の頻度でみっちり訓練していたと仮定すると、操縦時間は最低でも一三五時間だ。機体の扱いに不慣れ、という楽観は捨てた方がいいだろうな。……セシリア・オルコットさん本人については? 代表候補生という以外に、判っていることはないか?』

 

「入学試験の成績はトップだったと聞いている」

 

『優秀だな。他には?』

 

「女尊男卑主義者で、なんでか、父さんのことをやけに嫌ってます」

 

『昔、鬼頭に似た男に惚れて手ひどく振られたとか、そんな感じかなあ』

 

 自分に対するあの敵意は八つ当たりか。万が一、そうだとしたら、後日に控えたクラス代表決定戦は、低俗なコメディショーと化してしまうが。

 

「あとは……そうだな、年齢のわりに、胸が大きかった」

 

 鬼頭の横顔を、陽子は冷ややかな眼差しで見上げた。そういえば、この男、あの女に一目惚れしたときも、豊満なバストにまず目線を奪われたとか、ほざいていたな。彼女は自然、自身の胸元に目線を落とした。つるり、としている。目頭が熱くなった。

 

『それは……重要な情報だな!』

 

 ブルータス、お前もか。大人たちを見る陽子の目つきは冷然としている。

 

『胸の垂れ具合はどうだった?』

 

「ブラを着けているだろうから断定出来ないが……わりと上向きだったと思う」

 

『なるほど。つまり、乳房の下の大胸筋はかなり発達している、と』

 

「おそらく。何かスポーツを恒常的にやっているんだと思う」

 

『体力にも優れているわけか。こいつは、ますます手強そうな相手だ』

 

「…………」

 

 少し、ほっとした。なるほど、外見上の身体的特徴に注目した理由は、相手の運動能力を探るためだったか。そうか、そうか。……よかった。大切な父親と、その親友を軽蔑せずにすみそうだ。

 

「ミス・オルコットについての情報は、現在判っている限りでは、こんなものか」

 

『それじゃあ次は、陽子ちゃんについてだね』

 

 為人についてはある程度判っている。問題は、IS関連の能力だ。

 

『オルコットさんは入試の成績トップを誇っていたらしいが、陽子ちゃんは? 差し支えなければ、教えてほしいんだが』

 

「……二六位です」

 

 悪くはないが、誇るほどでもない順位と、陽子は思っている。セシリアの首位と比べれば、口にするのも恥ずかしい数字だ。彼女の声は悄然としていた。

 

 しかし、桜坂はたいそう感心した様子で頷くと、鬼頭の顔を見て破顔した。

 

『お宅のお子さんは優秀ですな』

 

「自慢の娘だよ」

 

「二人とも、お世辞なら……」

 

『お世辞なんかじゃない』

 

 桜坂は力強い語調で断言した。

 

『いまや小学生から受験対策を始めるのが普通と言われるIS学園だ。陽子ちゃんはたしか、中二のときに、受験を決めたんだったよね? それでその成績なら、大したもんだ』

 

 努力の質、そしてそのひたむきさは、代表候補生のセシリアにも負けていない、と桜坂は考えている。そんな努力家だからこそ、ジャイアント・キリングが可能なのだ、と励ました。

 

『ISの操縦経験は?』

 

「入学試験の実技審査のときに一回、一般受験生応援企画とかのイベントのときに二回の、計三回だけです。たぶん、操縦時間のトータルは一時間くらいじゃないかな?」

 

『そのとき搭乗したISの名前は?』

 

「入試のときは、打鉄っていう、国産の第二世代機でした。イベントでは打鉄と、ラファール・リヴァイブっていうフランスの第二世代機に各一回ずつです」

 

『クラス代表戦でどんなISに乗るかはもう決まっているのかい?』

 

「……そういえば、教えてもらってなかったですね」

 

 一緒にあの場にいた父を見る。鬼頭もかぶりを振った。彼の記憶にも、千冬がそのあたりの取り決めについて口にした覚えはない。

 

「学園に配備されている機体数から考えて、打鉄か、ラファールのどちらかを貸し出してくれるだろうな」

 

 どちらもクセのない操縦特性で、扱いやすいISと聞いている。初心者の陽子には、ぴったりの機体だろう。過去に一度でも操縦経験がある、というのも良い。

 

『ちなみに、まだ一時間ちょっとしか乗っていないわけだけど、陽子ちゃん、どっちが乗りやすかったとか、得意な戦い方とか、好きな武器とかって判る? もし、あるんだったら、それを中心に戦術を決めようと思うんだけど?』

 

「すみません。判らないです」

 

『そっか。まあ、一時間と少しじゃ、仕方ないな』

 

 特に気にした様子もなく、桜坂は続けた。

 

 ここまでの情報をまとめると、やはり陽子とセシリアとの間には大きな隔たりがある、ということになる。専用機のティアーズ型もかなり強力な機体のようだ。打鉄もラファールも優秀な機体だが、一人の人間のために最適化された第三世代機が相手では、さすがに分が悪い。

 

 その一方で、わが方には向こうにはないアドバンテージが二つある、と桜坂は結論づけた。

 

『一つは、情報戦ではこちらが圧倒的に優位な立場にある、ということだ』

 

 英国の代表候補生たるセシリアと、鬼頭智之の娘という一点を除いては、特筆するべきことの少ない一般生徒の陽子。セシリアがこちらの情報を得る手段は少なく、逆に有名人の彼女に関する知見を得る方法は多いだろう。幸運にさえ恵まれれば、愛機のより詳細なデータや彼女自身の得意な戦い方といったことも知れるかもしれない。

 

『もう一つのアドバンテージは……、陽子ちゃん、きみには世界最高の頭脳が二人もバックアップについているということだ』

 

 自信に満ち満ちた力強い口調で、桜坂は自らを親指で示した。もう一人が誰のことを指しているのかは、わざわざ言葉にするまでもない。

 

 身贔屓を抜きに考えても、強烈な援護射撃だと思う。普段の言動や態度から忘れがちだが、彼らはMITの卒業者、それも首席と次席の座を争った二人だ。世界最高の頭脳という自賛も、過大な誇張ではない。

 

 そんな二人からの支援を隠しながら、クラス代表戦に向けた準備が出来る。なるほど、これは大きなアドバンテージだろう、と陽子は感心した。問題は、その優位生を自分が活かせるかどうかだが。

 

「それで、どう戦うべきでしょう?」

 

『オルコットさんがどんな戦い方を得意としているかの情報がないから、強力な操縦者を乗せたティアーズ型と戦う、という想定で、とりあえず考えてみようか』

 

 ティアーズ型は遠距離からの射撃戦が得意な機体だ。このような相手と戦う場合、定石は射撃を凌ぎながら間合いを詰め、相手の苦手な近接格闘戦に持ち込むことだろうが。

 

『いや、それはやめた方がいいだろう』

 

 相手の土俵には上がらず、相手が苦手とする戦術で挑む。一般に有効とされる戦い方を、桜坂はあえて推奨しなかった。

 

『近接戦の技術を学ぶのは難しい。たとえば剣の世界では、何十年と稽古を続けていてなお、免許皆伝を許されない者の方が多い。クラス代表戦まで残り一週間しかないんだ。よほど格闘センスに恵まれているか、経験者でもない限りは、近接戦をメインに挑もうなんて考えは、捨てた方がいいだろう』

 

 相手は代表候補生だ。ティアーズ型の特性は別として、セシリア自身の格闘技能はかなりのものだろう。

 

 他方、陽子はといえば、桜坂の知る限り格闘技の経験はなく、また小柄な体つきのせいで、運動全般を苦手としている。近接格闘戦主体の戦い方への拘泥は、かえって彼女の足を引っ張るだろう、と予想された。

 

 また、相手との間合いをどうやって詰めるか、という問題もある。セシリア・オルコットがティアーズ型を受領して二ヶ月以上が経過している。自身の愛機の強みと弱みはすでに把握済みだろう。敵の接近をいかにして防ぐか。対策は万全のはずだ。僅か一週間足らずで身につけた付け焼き刃の空戦機動をもってこれを突破するのは難しいだろう。

 

「格闘戦が駄目、となると、射撃戦で挑むことになるが……」

 

 鬼頭の問いかけに、ラップトップの中の桜坂は首肯した。

 

 射撃戦が得意なティアーズ型に、射撃戦で挑む。一見、相手との力量差をわきまえぬ無謀な試みのように思えるが。

 

『むしろその方が勝算は高いと思う。たとえば銃なら、銃の種類や弾丸の種類で、腕前をある程度カヴァー出来る』

 

 フル・オート射撃による弾幕形成が容易なマシンガンや、複数の弾丸をいっぺんにばらまく散弾銃などは、“当てる”技術の未熟さを補うことが可能だ。牽制射撃で相手の動きが鈍ったところに、ミサイルなどの強力な一撃を叩き込む、といった作戦も取りやすい。

 

『勿論、最低限の知識と技術は必要だ。けれど、訓練に割ける時間が限られていることを考えると、射撃メインの戦術以外の選択肢はないと思うんだよ』

 

「なるほど、お前の考えは分ったよ。しかし、射撃対射撃では、こちらが不利になるのでは?」

 

『そりゃあ、な。射撃に力を入れるのは、初心者の陽子ちゃんでも、代表候補生を相手に“なんとか”戦えるようにするためだ。勝つための方策は別にある。そして鬼頭よ、それには、お前の協力が不可欠だ』

 

「なんでも言ってくれ、桜坂」

 

 鬼頭はパソコンの画面に顔を寄せた。

 

「陽子がこんな苦境に立たされているのは、元をといえば俺のことを想って怒ってくれたからなんだ。この娘のために出来ることがあるのなら、俺は何だってやるぞ」

 

『頼もしい言葉だ』

 

 桜坂は冷笑を浮かべた。

 

『それなら、鬼頭、お前は今日からしばらくの間、父親としての立場を忘れろ。アローズ製作所が誇る、世界最高の技術者として、陽子ちゃんに協力するんだ。お前が技術者の本分を果たすこと。それこそが、勝利の鍵だ』

 

「……なるほど」

 

 鬼頭もまた好戦的な冷笑を浮かべた。

 

 この男はやはり頼りになる。彼のおかげで、陽子のために何が出来るか、そして何をするべきなのかが、はっきりと見えた。

 

「分ったぞ、桜坂。俺は明日から、学園の整備室に篭もればいいわけだな?」

 

『流石、親友。言葉にせずとも分ってくれるか』

 

「ええと、わたしはどうすれば?」

 

 二人だけで通じ合う彼らの様子に、今度は陽子が疎外感を覚えることとなった。彼女は父の横顔と、パソコンの画面と交互に見つめ、怪訝な表情で訊ねた。

 

『陽子ちゃんには訓練に集中してほしい。内容については、後でメールなりするからさ。とにかく、ISの操縦経験を積んでほしいのと、射撃についての知識と技術を習得してほしい』

 

「分りました。明日の朝一番に、訓練機の貸出申請書を出してきます」

 

 そこまで口にしたところで、陽子は表情を曇らせた。

 

 学園に配備されている訓練用のISの数は限られている。一般生徒が自主トレ目的でそれら訓練機を使いたいときには、まず貸出の申請を行い、それが通った場合に限り、先着順で順次使用許可が下りていくという仕組みだ。

 

 IS学園に通っている生徒はみな、ISのことを学ぶためにこの学園の門を叩いた娘ばかりだ。放課後の訓練機の使用を巡る争奪戦は苛烈を極めるだろう。椅子取りゲームの参加人数次第だが、クラス代表決定戦までに自分の番が回ってこない可能性も十分にあった。

 

「なかなか使用許可が下りないときには……」

 

『そのときは、通常の射撃訓練を行ってくれ。特に銃の扱いを覚えてほしい』

 

 IS学園には銃火器の扱いを訓練するための射撃練習場が屋内に二箇所、屋外に四箇所の計六箇所設けられている。

 

 兵器であるISの操縦者を訓練する機関とは、すなわち、将来のエリート軍人候補を育てる機関ともいえる。IS以外の兵器にも早いうちから慣れてもらいたいと、学園内にはこうした軍事訓練を行うための施設と設備が充実していた。他にも、爆発物の取り扱いを学ぶため特殊な防火壁で築かれた実験室などがある。

 

 以前、ISの専門誌にそうした旨が紹介されていたな、と思い出し、桜坂は陽子に言った。

 

 さて、陽子とセシリアの試合については、今後の戦略方針をなんとかまとめられた。あとは以降も情報収集と分析を怠らず、計画に随時修正を加えていけばいい。

 

 それはそれとして、鬼頭は、パソコンを起動させたときから気になっていた疑問を、液晶ディスプレイに映じる親友に向け口にする。

 

「ところで桜坂」

 

『んう?』

 

「先ほどから気になっていたんだが、お前、いつもよりも疲れた顔をしているな」

 

 液晶画面の端の方で表示されているデジタル時計を一瞥する。いまは午後八時を回ってすぐの時間帯。アローズ製作所の就業時間は、とっくに過ぎているはずだが。

 

『仕事が長引いたか? それに、いま、パソコンで話しているその部屋、自宅ではないみたいだが?』

 

 親友の背後に映じる景観は、鬼頭も見慣れた、彼の自室のものではない。アローズ製作所本社ビル内の、パワードスーツ開発室でもないようだ。室内にいることは確かなようだが。

 

『ああ、うん……。ちょっとな。色々あって』

 

 桜坂はうんざりした様子で溜め息をついた。

 

『捜査上の守秘義務とかで、まだ詳しくは話せないんだが、俺、いま、警察署にいるのよ』

 

「警察に?」

 

『おう。実は……、帰宅中に立ち寄った本屋でね、万引き捕まえてさ。その供述調書取られているのよ』

 

 嘘だな。口を開く直前、一瞬だけ目が泳いだ。何か上手い言い訳を探そうとして、たまたま視界に映じた万引き防止用の啓発ポスターでも読み上げたに違いない。

 

 しかし、なぜ嘘をつくのか。二十年以上もの付き合いになる自分に、嘘をつく理由は何か? 自分に聞かせたくない理由は何だ……?

 

「それは……大変だったな」

 

 鬼頭は表情硬く応じた。自分に対し、意地悪で嘘をつくような男ではない。その理由は、自分を慮ってのことだろう。とすれば、彼が自ら話してくれるまで待つのが得策だ。実際、彼は、「まだ話せないんだが」と、口にした。まだ、ということは、本当は伝えたいが、いまはそのときではない、という言外のメッセージだ。

 

 あるいは、この場に陽子がいることがネックなのかもしれない。自分には聞かせたいが、彼女の耳には入れたくない内容なのかもしれない。

 

 鬼頭はとりあえず、この場は話を合わせることにした。

 

 そんな大人たちの顔を、陽子は唇をとがらせ、見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の午前七時半、鬼頭親子は一年生学生寮の食堂にやって来ていた。

 

 二人とも、この施設を使うのは今日が初めての経験だ。あらかじめ受験用のパンフレットなどでかなり快適な空間造りがなされていると知ってはいたが、

 

「……ここ、本当に学生寮?」

 

「ウチの会社の社食よりも広いな」

 

と、口にせずにはいられなかった。一年生一二〇名全員が一度に食事を始めたとしても、窮屈さを感じさせない広さを誇っている。それでいながら、テーブルの配置はまるで高級ホテルのレストランのようで、衝立によってちょっとしたボックス席まで出来ていた。

 

 この時間、食堂を利用する生徒はまだ少ない。もう三十分もすればがやがやと賑やかになるだろうが、いまは閑散としていた。

 

 静けさは、鬼頭たちにとっても、また他の生徒たちにとっても、ありがたいことだった。

 

 鬼頭親子は悠々ボックス席を選ぶことが出来たし、他の生徒たちは彼ら二人を避けて席取りをすることが出来た。昨日、出回った週刊誌の内容や、三限目のセシリアとのやりとりは、すでに学年全体に広まってしまっていた。お互いに相手を避けられる環境というのはこの際ありがたい。

 

 IS学園の食堂のメニューは基本的に日替わりで、配膳はバイキング形式だ。各自が好きなものを好きな分量取ればよい。勿論、暴飲暴食や偏食で体調を壊しても、すべては自己責任だが。

 

 鬼頭は銀シャリに納豆、鮭の切り身と味噌汁、浅漬けを少々という和食セットを載せた盆を手にボックス席へ着座した。陽子の選んだメニューもおおむね一緒だ。いかに米を美味しく食べるかを追求した陣容といえる。

 

 鬼頭は箸を手に取り、鮭の切り身をほぐして、唇に寄せた。良い塩加減。やはり米が進む。味噌汁。汁の旨みをたっぷり吸った大根が美味い。ご飯がもりもり進む!

 

 あっという間に一膳平らげ、鬼頭はお椀を持って再び配膳台へ。おかわりをよそい、ボックス席に戻ったところで、

 

「父さん、糖尿病が恐いから、ご飯は二膳までね」

 

 四十過ぎには痛烈な言葉をぶつけられ、鬼頭は、ぐぅっ、と呻いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 IS学園における三限目とは、特別なイベントに恵まれやすい不思議な力でも宿しているのだろうか。

 

 学園生活二日目にして、鬼頭は早くもそんなことを考えていた。

 

「織斑、お前のISだが準備まで時間がかかる」

 

 三限目の始業を告げるベルが鳴り終えると同時に、教壇に立った千冬が、最前列の弟に向けてそんなことを言った。

 

 言葉を投げかけられた一夏は、しかしその意味するところが分からず、「へ?」と、呆けた表情を浮かべている。千冬は呆れたように溜め息をついて、言葉を重ねた。

 

「予備機がない。だから、少し待て。学園で専用機を用意するそうだ」

 

 昨日、千冬自身が口にしていたことだが、IS学園には若い教師しかいないというのは本当らしい。

 

 つい先日までISのことをほとんど何も知らずに過ごしてきた一夏に対して、その説明では何も伝わるまい。

 

 ちんぷんかんぷんといった様子の彼を見かねて、鬼頭は口を開いた。

 

「簡単に言えば、学園側から一機、ISを専用機としてきみに預けるってことさ」

 

「はあ……」

 

「私もそうだが、世界でたった二人しかいない男性操縦者の身の安全を守るためと、データ収集用だろう。ただ、IS学園にはいま、きみのために貸し出せる予備機がない。だから、機体が用意出来るまで少し待ってほしい、と織斑先生は言っているんだと思うよ」

 

「ああ、なるほど」

 

 得心がいったと頷く一夏。しかし、その後すぐ生じたざわめきのため、彼の表情はまた困惑で彩られた。

 

「せ、専用機!? 一年の、しかもこの時期に!?」

 

「つまりそれって政府からの支援が出てるってことで……

 

「ああ~。いいなぁ……。私も早く専用機欲しいなぁ」

 

「え? あ、えぇ?」

 

「みんなが大騒ぎするのも無理はないよ」

 

 鬼頭は周りの反応を見て苦笑した。

 

「ISの中枢装置であるISコアは、現在、世界に四六七機分しかない。そんな貴重な物を一人の人間に委ねるんだ。驚きや羨望は仕方のないことだよ」

 

「はあ……。あの、なんでISコアは四六七機分しかないんですか?」

 

 そこからか。若い子と話すのは難しいな、と鬼頭はひっそりと嘆息した。

 

「篠ノ之束博士が、四六八機目以降の製作を拒否しているからさ。ISコアの内部構造は超高度なブラックボックスだ。現状では、篠ノ之博士以外には造れない。その上で、博士は現在行方不明だからね」

 

 ゆえにISコアは貴重。そしてこのIS学園の門を叩いたということは、ほとんどの生徒たちの目標は専用機を得ることだろう。そこまで口にして、一夏はようやく己の立場を自覚したらしい。近い将来手にするであろう専用機に思いを馳せ、どんな機体だろうかという期待と、どう扱えばいいんだという不安から頭を抱えた。

 

 そのとき、二人の会話を聞いていた一人の女子生徒が、おずおず、と挙手した。ちらり、と窓際の席に座る箒に目線をやる。

 

「あの、先生。篠ノ之さんって、もしかして篠ノ之博士の関係者なんでしょうか……?」

 

「そうだ。篠ノ之はあいつの妹だ」

 

 即座の返答に、二つの意味でぎょっとした。

 

 一つは、昨日少しだけ言葉を交わした箒が、篠ノ之博士の実妹だった事実に対する驚きだ。篠ノ之なんて苗字は珍しい。十中八九、関係者だろうとは予想していたが、まさかそんなに近い関係だったとは。

 

 いま一つの理由は、千冬があっさりとその事実を認め、公言したことについて。自分でも勘づいたぐらいだ。篠ノ之箒と束博士の関係が白日の下にさらされることは、いずれは避けられぬ事態だっただろう。しかし、教師の口から明かすのはいかがなものか。

 

 言語というものは人類が発明した最も偉大なコミュニケーション・ツールだが、同時に、いくつもの致命的な欠陥を抱えている、と鬼頭は考える。ちょっとした言い間違いや、口にしたときの表情などのために、本来伝えたいはずの意図が通じないばかりか、まったく別の解釈をされてしまうことがしばしばある。また、同じ内容の話でも、口にする人間が違うだけで、受け取られ方はやはり変わってしまう。

 

 いまにしたってそうだ。

 

 篠ノ之束は、箒の姉。本人の口から語られるのと、他者の口から語られるのとでは、受け取る側の解釈は異なってしまう。一般には、他者の口から語られる方が、インパクトは大きくなりがちだ。個人情報の問題だってあるのに。

 

 ――これは大騒ぎになるぞ……。

 

 案の定、教室内の喧噪はいっそうやかましさを増した。授業中だというのに、何人もの女子生徒が箒の元へ集まる。

 

「ねえねえっ、篠ノ之博士ってどんな人!? やっぱり天才なの!?」

 

「篠ノ之さんも天才だったりする!? 今度、ISの操縦教えてよっ」

 

 箒の柳眉が、逆立つのが見えた。

 

 不味い、と、鬼頭は慌てて柏手を打った。その昔、芸大の道に進んだ友人から教えられた、掌の中の空気の破裂音が最大となる叩き方を再現した。

 

 バン、と肉と肉を打ち合わせた音とは思えぬ音圧が、教室内を席巻した。耳の奥に、ずん、と響く音だ。教室内のほとんどの者が、びくり、と肩を震わせ、音の発生源へと目線を向けた。

 

「……いまは授業中ですよ」

 

 唖然として静まりかえった教室に、四十半ばの男の乾いた声が響いた。

 

 盛り上がっていたところに冷水をかけられた形の女子たちは、めいめい、困惑や不愉快そうな眼差しを鬼頭に向けていた。

 

 鬼頭は素知らぬ表情でそれらをかわし、千冬を見た。内心では、また悪い評判が広まってしまうな、と胃を痛くしていたが。

 

「織斑先生、授業を進めてください」

 

 表情こそ穏やかで落ち着いているが、その声音は硬い。付き合いの浅い一夏たちは気づけないだろうが、隣の席の陽子だけは、父が感情を表に出さぬよう己を律していることを察していた。

 

 父親の横顔を見つめる彼女の眼差しは、悲しげであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後、教室を出た陽子は一人、第三アリーナ近くにある第一射撃場へと向かっていた。先晩、桜坂との作戦会議で想定した通りの事態が起こったためだ。やはり訓練機を使いたい生徒は陽子の他にも多く、彼女の順番が回ってくるのは三日後となってしまった。

 

 いきなり出鼻をくじかれてしまったが、落ち込んでいる暇などいまの自分にはない。気持ちを切り替えた彼女は、射撃訓練はみっちりこなそう、と意気込み十分、勇ましい足取りで廊下を進んでいった。

 

「いま向かっている第一射撃場は屋外型で、拳銃とライフル銃、それからショットガンの練習が出来るみたいです」

 

 スマートフォンのテレビ電話機能を使いながら歩く陽子は、小さな液晶画面に映じる桜坂の姿を見て言った。

 

 アメリカ留学中の趣味はシューティング・レンジに通うことだったと語る彼は、

 

『なら、まずは拳銃の練習からだね』

 

と、一切の迷いなく応じた。当然、陽子はこの返答に対し疑問を抱く。

 

 究極的にはパワードスーツであるISの武装は、一般的な陸軍における歩兵の装備と同じように考えることが出来る。すなわち、主兵装はライフルやマシンガンといった長物で、ハンドガンはサイドアームに過ぎない、という考え方だ。

 

 まずメイン・ウェポンとなりうるライフルやショットガンから触れるべきではないのか。

 

 陽子の問いに、桜坂は『構造が複雑すぎる』と、返した。

 

『過去にちょっとでも銃に触れたことのある人なら、それでもよかったんだけどね。陽子ちゃんの場合は、今日が初めてなわけだから、まずは銃という武器がどういうものなのか、知ってもらう必要がある。そうなると、ライフルやショットガンは仕組みが複雑すぎて、いきなり説明されても理解するのに時間がかかってしまうと思うんだ。それに比べて、拳銃の造りはシンプルだ。まずは拳銃の扱いを通して、銃とはこういうものだ、ってことを知ってもらってから、ライフル銃やショットガンへステップ・アップしてもらおうと思っている』

 

 PDCAサイクルという考え方がある。主に品質管理の分野などで使われる継続的改善手法で、Plan(計画)、Do(実行)、Check(確認・評価)、Action(改善)のサイクルを繰り返すことによって、仕事の精度や生産性、効率を高めよう、という考え方だ。

 

 マツダ自動車の元会長……金井誠太氏は、このPDCAに対する考え方をさらに発展させ、PDマネジメントと、CAマネジメントという概念を生み出した。

 

 すなわち、問題が起きないように先に考えるPDマネジメントと、問題が起きたところで考え、解決を図るCAマネジメントだ。

 

 仕事は先に進めば進むほど、まずいところを見つけやすくなる。PDCAもそれと同じで、PやDの段階では、どこに問題の芽が潜伏しているかを見抜くのは難しい。一方、先に進めば進むほど、発生した問題の解決は難しくなる。仕事の“手戻り”が発生するためだ。

 

 この事実に気がついた金井氏は、PDマネジメントと、CAマネジメントという着想にいたった。

 

 Pの時点でなんとかこらえて、目標設定が妥当かどうか、起こりそうなトラブルは何かを考え、問題の発生自体を抑えようとする“PDマネジメント”を重視し、とにかく仕事を進め、出てきた課題はその都度、力業で解決してしまえ、という“CAマネジメント”に割く時間を減らそうと試みたのだ。

 

 金井氏の考え方はこうだ。マツダ自動車という物作りの現場で問題が起こっているということは、その時点で最初の計画は失敗している。現場の技術者たちは、本来ならばやらなくてもいいはずの仕事に時間とエネルギーを奪われ、疲弊している。勿論、間違いゼロのプランなんてものはあり得ない。これから起こるであろう事態を完璧に読み切ることは不可能だ。

 

 大切なのは、根拠を明確にして、決めることだ。いつ、誰が、どういう理由で決定したのか。責任を問うためではない。誤った決定にいたったのは、どの前提が変わったからなのかを、すぐに分るようにするためだ。こうしておけば、問題発生時に修正するポイントも明確になる。

 

 桜坂も、金井氏のこの考え方には賛成だ。ましてや今回は、クラス代表決定戦までの日数が少ない。

 

 時間は一秒とて無駄に出来ない。CAマネジメントに費やす手間を嫌った彼は、無理な一足飛びは絶対にさせない。一歩ずつ着実に、段階的に学んでいく訓練計画を練っていた。

 

『これから射撃場へ向かうにあたって、守ってほしい約束が三つある。射撃場は、お互いに武装した、見知らぬ人間が出入りする場所だと思ってほしい。端的に言って、とても危険な場所なんだ。自分と、自分の隣で銃を撃っている誰かを危うくしないためにも、いまから言うことを絶対に守ってほしい』

 

「はい」

 

『一つ目、絶対に銃口を標的以外に向けないこと。二つ目、弾丸の装填の有無を必ず確かめること。三つ目、不発弾や、装弾不良といったアクシデントが発生したら、射撃場のインストラクターか、俺に指示を仰ぐこと。決して、自分で解決しようとしないでほしい』

 

 話しているうちに、射撃場の姿が見えてきた。第三アリーナから少し離れた場所に建てられた、かまぼこ型の屋根を頂く体育館のような建物だ。近づくにつれて、ターン、ターン、と銃声が大きくなっていく。

 

 開放された正面出入り口から入館すると、鉄と油、そして火薬の三重奏が織りなす独特な臭いが陽子の鼻腔を犯した。自然と、顔の表情筋が強張るのを自覚する。

 

 館内を、ぐるり、と見回して、カウンターを探した。デパートでよく見るようなショーケースをいくつも並べたカウンターに、ベージュのスーツをきっちり着こなした女性教諭が座っていた。射撃場には交代制で、学園の教師が誰か一人と、日本政府の用意したインストラクターが一箇所につき最低でも二名常駐している。勿論というべきか、外部からのインストラクターもみな女性だ。

 

「あの……」

 

 陽子はスマートフォンを一旦、鞄の中にしまうと、女性教師に話しかけた。ショーケースにはこの射撃場で使用可能な銃の一覧が、パネル展示されている。

 

「拳銃の練習をしたいんです。はじめてなんですけど」

 

「ああ、はい」

 

 二十代半ばと思われる女性教師はカウンター後ろの戸棚から、タブレット端末を引っ張り出した。

 

「このタブレットに、ここの射撃場に置いてある銃の詳細と、貸出状況が表示されるから、まず選んでちょうだい。銃を持つのもはじめてなら、最後に、インストラクター希望、ってボタンを押してね」

 

 差し出されたタブレットをのぞき込む。銃の貸出状況を管理する専用アプリケーションのホーム画面には、まず銃の種類を選ぶボタンが縦に三つ並んでいた。上から、ハンドガン、ライフル、ショットガンの順番。陽子はいちばん上をタップする。

 

 次の画面へと移り、何十挺という銃の名前が、ずらり、と表示された。銃に詳しくない彼女は、内心、悲鳴を上げた。いったい、どれを選べばいいのか。

 

「撃ってみたい銃とかってある? もしないなら、初心者にはこれとか、これなんかがお薦めね」

 

 ベレッタM85FS。九ミリ・ショート弾を八発装填可能な、中型の自動拳銃だ。いわゆる軍用銃ではないが、日本の麻薬取締官などの、軍以外の公的機関での採用実績が多い。九ミリ・ショート弾の名前は、今日、最もポピュラーな拳銃弾である九ミリ・パラベラム弾に対して短いことからついた俗称だ。短小な分、威力は九ミリ・パラベラム弾に劣るが、反動も小さく、女性の細腕でも御しやすいだろう、と考えてのセレクションだった。

 

 もう一挺選んでくれたのは、同じく中型自動拳銃のザウエルP230だ。ドイツのザウエル&ゾーン社が製造する中型ピストルの傑作で、こちらも日本の機動捜査隊など、軍以外の公的機関での採用実績が多い。口径は通常、九ミリ・ショート弾で装弾数は七発だが、日本警察用のJPモデルは、七・六五ミリ弾が八発という仕様だ。この射撃場に置かれているのはJPモデルだ。ベレッタといい、ザウエルといい、日本警察からの借り物だろうか。

 

「じゃあ、ベレッタの方をお願いします」

 

 陽子は迷わず、M85の貸出ボタンをタップした。銃の種類についてはともかく、弾丸の口径については、桜坂から事前に指示を受けていた。

 

「それと、二二口径の銃でお薦めって、あります?」

 

「二二口径……」

 

 現在、製品化がされている拳銃弾の中でも、最小の部類に入る口径だ。主に護身用のポケット・ピストルか、スポーツ射撃用の拳銃に採用されることが多い。

 

 IS学園に射撃場が存在する理由は、未来のエリート軍人を育てるためだ。当然、常備している銃のラインナップも、そのねらいに則した内容となっている。

 

 今日、二二口径の拳銃を制式採用している軍隊はない。

 

 はて、二二口径の銃なんてあったかな、と画面をスクロールすること数秒、女性教師は安堵の溜め息をこぼした。

 

「二二口径だと、これね。コルト・ウッズマン」

 

 その名前は、聞いたことがあった。陽子の好きなライトノベルの登場人物が、愛用している銃だ。

 

「これでお願いします!」

 

 タブレット端末のボタンを力強くタップした。

 

 「ちょっと待っていてね」と、言い残し、女性教諭はカウンターの奥へと消えていった。カウンターの奥には、銃が保管されていると思しきロッカーが並んでいる。やがて戻ってきた彼女の手には、プラスチック製のトレイが握られていた。トレイの上には、自動拳銃が二挺と、弾薬の入った紙箱が二個、防塵ゴーグルとヘッドセット型のイヤー・プロテクターが載っている。

 

「じゃあ、はじめての射撃訓練、頑張ってね」

 

 体育館の中には更衣室も備わっている。硝煙の臭いが制服に染みついてしまうのを嫌う女心に配慮しての設備だ。トレイを受け取った陽子は、真っ直ぐそちらに向かった。

 

 空いているロッカーを探し、白亜の制服からえんじ色のジャージに着替える。中学時代に使っていた物だ。これなら、いくら汚しても、傷つけても、問題ない。

 

 着替えを終えた陽子は、いよいよシューティング・レンジへと移動した。レンジではすでにインストラクターの女性が待ち構えていた。迷彩服を着込んだ彼女は、元自衛官だと自己紹介した。

 

 案内されたのは、畳四畳分ほどの個人用ブースだった。道具を置くためのテーブルと、休憩用の椅子が置かれている。テーブルの向こう側へと目線を向ければ、弾丸をストップするための砂の山が彼方に見えた。そしてその手前に、簡素なベニア板造りのマン・ターゲットが立てられていた。

 

 インストラクターはまず自動拳銃の基本的な構造について解説し、次いで、自分の銃がいまどんな状態なのか、その見方について説明してくれた。トレイの上の二挺の銃口は、いまどちらを向いているか。銃口を向けてよい安全な方向はどちらか。ハンマーは起きている? それとも寝ている? 安全装置はちゃんとオンになっている? スライドは閉じているか、開きっぱなしか。そこまで確認して、はじめて銃を手に取る。そして実弾が装填されていないかどうかを検めるのだ。自動拳銃の場合はまずマガジンを抜き、スライドを引いて、機関部に弾が残っていないかどうかを見る。念のため銃口を標的に向けながらドライファイアし、安全と、トリガー・プルの感触を確かめる。

 

 インストラクターは自らも拳銃を手に、陽子の目の前でそうした安全確認の手続きを実演してみせた。陽子もベレッタM85を教材に、示された手本を真似てみる。手元のM85は安全と結論づけた彼女は、インストラクターの顔を見た。元自衛官の女は、「はじめてとは思えないくらい、手際が良いわね」と、評してくれた。

 

 安全確認を終えた次は、装填のやり方を教わった。銃弾の入った紙箱をカッターナイフで、ざくざく、切り開き、くしゃくしゃに丸められた緩衝材の油紙を取り払う。黄銅色の九ミリ・ショート弾五十発が、発泡スチロールのケースの中で整然と並んでいた。おそるおそる、の手つきで、一発だけつまむ。思っていたよりも、ずっと軽いことに驚いた。こんな小さな、そして軽い物体が、人を殺すほどの威力を発揮するというのか。

 

 弾箱から、銃弾を八発取り出した。M85のマガジンに、一発々々、装填していく。最初のうちは、銃弾が自ら吸い込まれていくように箱型弾倉へと収まっていったが、終盤にさしかかると、弾倉底部のスプリングが存在感を主張し始めた。一発押し込むごとに、指が痛くなってくる。なんとか八発をマガジンに装填し、M85本体へとインサートした。これでスライドを引けば、最初の一発目が機関部へと移動し、発射可能な状態となる。

 

「まだ、スライドは引かないで。安全装置も、オンにしたままで」

 

 待望の、射撃の技術に関する講義が始まった。拳銃の正しい握り方、構え方、照準のつけ方など、基本中の基本を教えてもらう。

 

 映画などによるイメージから、拳銃とは屈強な男たちにのみ許された玩具と思い込んでいた。しかし、実際に握ってみると、M85は陽子の小さな掌に思いのほかよく馴染んだ。M85は全長が一七二ミリ。扱いやすい大きさで、シングル・カラム・マガジンを採用したグリップはほっそりとしており、女の小さな手でも握りやすい。また、銃自体の重量も六二〇グラムと比較的軽く、射撃姿勢を長時間保持したままでも、手首への負担は少なかった。両腕を前へと伸ばしたアソセレス・スタンスを数秒眺めて、インストラクターは「それじゃあ、撃ってみましょう」と、言った。心臓が早鐘を打ち出す。

 

 銃声は射撃場の其処彼処で響いていた。雷鳴のような嘶きに最初こそ驚いてしまったが、インストラクターの説明に耳を傾けているうちに、ちょっとだけ不快な環境音程度の認識へと成り下がっていた。しかし、いよいよ自分も銃声を奏でる側に回ると自覚した途端、周りの銃声が急に大きくなって聞こえた。

 

 防塵ゴーグルをはめ、イヤー・プロテクターを装着する。

 

 額汗ばむ陽子はM85のスライドを引っ張り、放した。スライドが前進し、マガジンの一番上で出番を待ちわびていた一発目を機関部へと叩き込む。おもむろにハンマーが起き上がり、雷管の尻を叩く瞬間を心待ちにしていた。セフティ・レバーを解除。これでいつでも撃てる状態だ。

 

 グリップを握り直し、改めて射撃姿勢を取った。右手の人差し指を、トリガーに引っかける。

 

「じゃあ、まずは一発、撃ってみて」

 

 ジェスチャーを交えながら、インストラクターが言った。

 

 小さく首肯。慎重に、慎重に、人差し指に力を篭めていく。引き金を引き絞るほどに、中のメカニズムが駆動する僅かな振動が掌を撫でた。

 

 その瞬間は、唐突に訪れた。突然、トリガーが軽くなったかと思うと、ハンマーが物凄い速さで振り下ろされていった。パンッ! と、火薬の爆発音。親指の付け根を殴打する、ビシリ、という痛み。掌の中で拳銃が暴れ、銃口がぶれる。マン・ターゲット後方の砂の山で、小さな噴火が起こった。陽子は目をぱちくりさせて、手の中の銃と、砂の山、そして無傷の標的を交互に見つめた。

 

「……これが、銃」

 

 呟き、言葉の意味を噛みしめる。イヤー・プロテクターを着用しているため、自身の声は聞こえない。しかし、興奮で唇が震えているのは分かった。

 

 銃を一旦、テーブルに置き、自分の胸元に手を添えた。心臓が、ばくばく、とやかましい。落ち着くまで、ちょっと時間がかかりそうだ。

 

「さて!」

 

 インストラクターが、両手を叩いた。

 

「撃ち方は分かったわね? あとは練習あるのみよ」

 

 

 

 インストラクターの元自衛官は、陽子がマガジン二個分を撃ち終えたところで、もう安全上の問題はないな、とその場から離れていった。射撃場を利用するのは、陽子一人ではない。他の生徒たちも危険な撃ち方をしていないか見回らねばならないそうだ。

 

 陽子としても、そうしてくれたほうが都合がよかった。

 

 インストラクターが十分離れていったのを確認して、彼女はジャージのポケットからスマートフォンと、ワイヤレス・イヤーホンを取り出した。

 

 通話履歴の画面から、今一度テレビ電話で桜坂を呼び出す。

 

 数秒とせぬうちに、父の親友の仁王様は出てくれた。

 

『あいよ、陽子ちゃん。いま、どんな状況?』

 

「桜坂さん、いま射撃場です。インストラクターの人から基本的なことを教わって、いまは自由に撃ってよい、と言われたところです」

 

『なるほど。いまは、拳銃の練習中?』

 

「はい」

 

『銃の種類は?』

 

「ベレッタのM85っていうのと、コルト・ウッズマンという拳銃をお薦めしてもらいました」

 

『お、どっちも良い銃だね』

 

「そうなんですか?」

 

『M85は各国の警察機関の第一線で活躍する優秀な実用拳銃だし、ウッズマンはもともとスポーツ射撃用に開発された拳銃だ。扱いやすさと命中精度はお墨付きよ。……それで、どう? はじめての拳銃射撃は?』

 

「……とりあえず、M85でマガジン二個分撃ってみました」

 

『結果は? ……って、まあ、その顔を見れば、なんとなく察しはつくけれど』

 

 陽子は無言でスマートフォンをテーブルに置き、画面を標的のある方へと向けた。画面の桜坂が、「最近のスマホはすごいなぁ。あんな遠くまで、よく見える」などと、感心している。

 

 ベニア板のマン・ターゲットは綺麗なままだ。十六発中の七発が標的に命中せず、残りの九発も、かろうじて当たっているというぐらいで、十点どころか七点のゾーンにさえ穴は穿たれていない。

 

『……狙いのつけ方とか、銃の握り方とかは当然教わったんだよね?』

 

「はい」

 

 陽子はスマートフォンを自分へと向けた。

 

『なるほど……たぶん、原因はトリガー・プルと、反動だろうね』

 

「反動は分かりますけど、トリガー・プル?」

 

『ああ。トリガーを引き絞るときの指の力が、適性じゃないんだと思う。無駄に力みすぎているか、それとも怖々やって弱すぎるか。トリガーにはね、適切な力を、適切な向きから、適切な速度で加えてやらないと、銃が手の中で動いてしまう。ほんの一ミリの傾きが、十メートル先のターゲットを狙う際には、十センチの誤差につながってしまうんだ。

 

 しかも、最近の拳銃はダブル・アクション・トリガーといって、トリガーの動きだけで発射から次弾装填までを行える機構が組み込まれていることが多い。でも、ダブル・アクション式は、トリガー・プルまでの距離が構造上どうしても長くなってしまうんだ」

 

 古いタイプの拳銃は、親指でハンマーを起こすと同時に機関部に次の銃弾を装填し、トリガーを引いて発射するシングル・アクション機構を採用している物が多い。次弾装填の手間が一工程多い分、速射性ではダブル・アクション式に劣るが、命中精度では一般にこちらの機構の方が有利とされる。トリガー・プルの距離が短いため、引き金を引き絞りやすいのだ。手の中で暴れ出す余地が少ないため、安定した射撃をしやすい。

 

『あと、M85はグリップが細くて握りやすいから、かえってトリガー・プルが難しかったりするね』

 

「そうなんですか?」

 

『うん。拳銃を握るときはさ、人差し指が、こう、弓なりにカーブを描きながら、指の腹だけがトリガーに引っかかっている、っていうのが理想なんだ。そういう状態じゃないと、指の力が上手くトリガーに伝わらないばかりか、右方向に余分な力が加わって、銃が動いてしまうんだよ』

 

 陽子は実際にベレッタを握り、人差し指の状態を確認した。指は弓なりにはなっておらず、拳銃のフレームに、ぴたり、と接してしまっている。これでは、トリガーを引っ張るのは指の腹ではなく第二関節だ。弾が装填されていないことを確認した上で、ドライファイア。案の定、横方向に余計な力がかかっていた。

 

 陽子はさらに空撃ちを繰り返した。トリガー・プルの練習だ。トリガーをどれだけ引き絞ればハンマーが落ちるか。そのタイミングの感覚を、掌にすり込む。スムーズに引き絞れるようになるまで、何度も、何度も繰り返した。

 

『あとは反動だね。こいつとどう付き合うかが、銃を扱うときの鍵になる』

 

 重要なのは、力づくで無理に制御しようとしないことだ。あくまで自然体で受け流す技術を身につけねばならない。

 

『というわけで、銃を替えて撃ってみよう』

 

 何が、というわけで、なのか、いまいちピンとこないが、陽子は言われるままベレッタをテーブルに置き、今度はウッズマンを手に取った。優美なシルエットのM85とは打って変わって、前時代的で、無骨なデザインをしている。斜めに傾いたグリップ。肉厚で四角い箱のような銃身。スライドは短く、バレルをカバーしていない。百年以上も昔の哲学による設計だ。

 

 先ほど、インストラクターのお姉さんが教えてくれたことを思い出しながら、銃の状態を確認する。安全と認めた後は、マガジンにピーナッツのような二二口径弾を詰めていった。スプリングの抵抗は、九ミリ・ショート弾のときほど感じない。

 

 陽子の準備を見守りながら、桜坂は説明を続けた。

 

『九ミリ・ショート弾の弾頭質量は約六グラム。M85で発射した場合の銃口初速は、秒速三〇〇メートルってところだ。発射直後のパワーは、二七・六キログラム重。当然、反作用である反動も同じぐらいの力になる』

 

 精確には、スライドの後退速度やマズル・ブレーキなどの反動抑制装置があるため、このパワーのすべてが反作用として襲ってくるわけではないが。

 

『M85の銃身長は十センチもない。秒速ゼロメートルの状態にある銃弾が、銃口を出るときには秒速三百メートルになっているということは、加速度は単純計算で四六〇キロメートル毎秒毎秒オーバー。機関部から銃口までの移動に要する時間は、一万分の六・五秒程度に過ぎない。二七・六キログラム重のパワーがそんな短時間に集中した場合、反動の力は瞬間的に四二トンにもなるんだ』

 

 M85の本体重量は六二〇グラム。銃の重さだけでは、それだけのパワーを殺しきるのは難しい。シューター自身が、技術をもって受け流さねば、銃弾は明後日の方向へと突き進んでしまう。

 

 翻って、ウッズマンの場合は、

 

『二二口径弾の質量は二・六グラム。銃口初速は秒速三七〇メートル。発射直後のパワーは、およそ一八・二キログラム重。ぱっと見た感じ、そのウッズマンはバレルが六インチのモデルだね。ということは、銃弾が通過するまでの時間は一万分の八・二秒。反動の威力は、瞬間最大でも二二・一トンにとどまる』

 

 加えて、ウッズマンの重量は一〇二〇グラム。M85に比べれば、反動の吸収率は高い。

 

 陽子はマガジンに十発をフル・ロードすると、スライドを引っ張った。重い。いかにも鉄の塊、といった印象だ。この重さが、反動を軽減してくれるのか。ウッズマンを両手で支え、真っ直ぐ構えた。

 

『ウッズマンの反動は小さい。驚くほど小さい。だから、当たる。いいかい、陽子ちゃん。きみの腕が当てるんじゃない。ウッズマンが当ててくれるんだ。トリガーに指を置いたら、静かに、ゆっくり引いてみるんだ』

 

 トリガーを引き絞った。コトリ、と手首が僅かに震える。パアン、と乾いた銃声が鳴り響き、マン・ターゲットの九点ゾーンを、ぽつ、と撃ち抜く。

 

 陽子は目を丸くして、小さな桜坂を見た。

 

『ね? 当たるでしょ? ウッズマンは、当たるのよ』

 

 残りの九発を、ゆっくりと撃った。九点、九点、八点、九点、九点、十点、十点……。無心に撃ち続けた。スライドがストップし、弾切れを知らせる。マガジンを抜き、また二二口径弾を十発ロードした。夢中だった。すっかり、射撃の魅力の虜となっていた。楽しい。楽しい! あれほど嫌われていた高得点ゾーンに、弾の方が吸い込まれるように当たる、当たる、当たる……。

 

「桜坂さん! ウッズマン、最高ですね!」

 

『お、おう』

 

 満面の笑みを浮かべる陽子に、桜坂は驚いた表情で頷き返した。こいつはちょっと、意外な展開だ。まさかこんなに夢中になってしまうとは……。鬼頭に何と言おう?

 

 自身もまた射撃の楽しさを知る桜坂は、しかし年頃の娘の趣味としてはどうなのか? と思い悩み、複雑な心持ちで苦笑した。

 

 やがて二本目のマガジンを撃ち終えたところで、桜坂は彼女に言った。

 

『今日の射撃訓練でいちばん伝えたかったことが、反動の影響についてだった。反動をちゃんと制御出来ているときと、そうでないときとでは、命中精度に格段の差が生じてしまうのは、これで分かっただろう?』

 

「はい」

 

『反動への対処は、火薬を使っている銃であれば絶対に避けては通れない問題だ。勿論、ISにはパワーアシスト機構や照準補正装置なんかがあるから、ある程度は無視することも出来るだろう。でもそれは、反動そのものがなくなったわけじゃない。

 

 相手は代表候補生だ。照準の自動補正機能なんかのクセを踏まえた上で、防御行動に取ってくるだろう。そんな試合巧者に射撃を命中させるには、陽子ちゃん自身のスキル・アップが必要だ』

 

「そして、目下いちばんの課題が反動の制御、ってことですね?」

 

『その通り』

 

 最初に九ミリ口径を撃たせ、次いで二二口径を持たせたのも、反動の強さを印象づけるためだった。

 

 陽子は最高の相棒コルト・ウッズマンをテーブルに置いた。寂しげにたたずむM85を再び手に取り、シルエットを眺める。ベレッタ社の拳銃に特有の、上部を大胆にカットしたスライドが目にとまった。クローズの状態でさえ、バレルがかなりの面積露出している。

 

 スライドを引っ張った。ウッズマンのときと比べて、手応えが軽い。この軽いスライドの前後運動だけでは、九ミリ・ショート弾の反動は相殺しきれまい。次いで、トリガーに注目する。二種類の拳銃を撃ち比べた後だからそこ分かる、ウッズマンとの違いを発見した。トリガー・プルの距離が、ベレッタの方が圧倒的に長い。ウッズマンの細い爪状トリガーは初期位置でさえ後ろに下がっているのに、ベレッタの方は前へと突き出している。

 

 実用拳銃たるM85と、競技用ピストルとしての性質を持つウッズマンとの差だった。実用拳銃であるM85は、必要なときにすぐ撃てる速射性と、容易には弾が発射されない安全性の両方が求められる。その結果が、長いトリガー・プルだ。他方、ウッズマンはスポーツ競技向けの拳銃。射撃の精度を高めるために、トリガー・プルは短く設計されている。

 

 握りやすすぎるグリップに、長いトリガー・プル。そして鋭い反動。

 

 これらのことを念頭に、陽子はみたびM85のマガジンに九ミリ・ショート弾を八発装填した。グリップに叩き込み、スライドを引く。カシャン、と小気味の良い音。やはり、スライドは軽い。

 

 グリップの握る指の力を、ほんの少しだけ緩めた。人差し指の腹が、鋭くフックしたトリガーを真っ直ぐ捉える。握り方を変えたことで生じた違和感は、左手を補助とすることで埋めた。

 

 標的に狙いを定める。ウッズマンのときと同様、ゆっくりと、トリガー・プルの感触を意識しながら、人差し指に力を篭めた。ある場所で、突然、ハンマーが落ちた。この場所か。そう思ったときには、手首を鋭い反動が殴打した。着弾は八点ゾーン。

 

 もう一度、引き金を引き絞る。やはり同じ場所で、ハンマーが落ちた。間違いない。ここだ。この位置だ。次からはこの位置まで引っ張ったら、反動に備えればよい。

 

『二七・六キログラム重ものパワーだ。力で押さえ込もうとしても、無駄だ。自然体で受け流すんだ』

 

 グリップから手首へ。手首から肘へ。肘から肩へ。伝導する反動のエネルギーを素直に受け入れ、流す。無理に押さえ込んだり、逆らおうとしたりしない。

 

 トリガーを引き絞る。

 

 来る。

 

 襲いくるノック・バックを、受け止める。

 

 あらかじめ、そう、と気構えてさえいれば、九ミリ・ショート弾の反動は、さほど強烈とは感じなかった。

 

 パン、という火薬の嘶き。

 

 十点圏のやや右側に命中。

 

 手元に目線を戻せば、M85は長年の親友面をして、手の中に収まっていた。

 

『お見事』

 

 桜坂の賞賛に、陽子は照れくさそうに笑った。

 

「ありがとうございます」

 

『あと、そっちのお嬢さんにもお礼言っときな。さっきから、ずうっと心配そうに見つめていたよ』

 

「え?」

 

 スマートフォンに映じる桜坂は、陽子の背後を示した。

 

 銃をテーブルに置き、振り返って、驚いた。

 

 思わぬ人物の姿に、息を呑む。

 

 イヤー・プロテクターをしていたせいで、その存在にまったく気がつかなかった。

 

「お見事ですわ」

 

 ブロンドの髪が美しいセシリアが、上品な微笑みを浮かべながら拍手をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter7「タスクフォース」 了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時計の針を、少しだけ巻き戻す。

 

 

 

 

 

 IS学園で入学式があった日の翌日の午前七時。

 

 始業二時間前に名古屋市名東区のアローズ製作所本社ビルに到着した桜坂は、三階のパワードスーツ開発室へと真っ直ぐ向かうと、早速、書類仕事を開始した。前日の時点で今日やるつもりでいた案件から順に目を通していき、物凄い速さで処理していく。室長という役職のいちばんの仕事はチームのマネジメントだ。いつどんな要請があってもすぐに行動をとれるよう、なるべく身軽でいたい意図から、彼はほとんど毎朝この時間に出社し、片付けられる仕事を処理していた。

 

 やがて始業の一時間ほど前に桐野美久がやって来たのを皮切りに、他のメンバーも、ぽつぽつ、とやって来た。

 

 出社した彼らは、本日の業務をスムーズに始められるよう準備を進めるかたわら、昨日の野球の試合はどうだったか、とか、三日前に不正献金が発覚した大物政治家の今後はどうなるだろうか、など、世間話に花を咲かせていた。その間も、桜坂は黙々と紙面と対峙していた。人懐っこい性格の室長が会話に参加してこないなんて珍しいな、とほとんどの者が不思議がった。例外は美久と開発室最年長の酒井、そして先日ロードスターを買ったというトムだ。この三人は、仕事に没頭する室長の横顔に、痛ましげな眼差しを向けていた。

 

 そして、始業の五分前になって、最後の一人……滑川技師がやって来た。

 

 このとき、すでに出社していた十一人のうち、桜坂と先述の三人を除いた七人は、またも揃って怪訝な表情を浮かべた。

 

 いつもは十五分前には出社している滑川なのに。今日は珍しいことだらけだな。しかし、滑川技師の右手へと目線を向けた途端、彼らの表情は一様に硬化した。滑川の右手は、包帯でぐるぐる巻きになっていた。

 

 滑川がやって来たのを見て、桜坂はようやく目線を書類からはずした。

 

「滑川さん、怪我の具合はどうです?」

 

「桜坂室長、昨晩はご心配をおかけしました。まだヒリヒリとした痛みがありますが、薬を飲めば耐えられないほどではありません」

 

「あまり無理はしないでくださいね。不味いな、とか、これじゃあ仕事にならない、と思った時点で、早退していただいて結構ですので」

 

 桜坂は滑川にいたわりの言葉をかけると、室内にいる十一人全員を見回した。

 

「始業まであと三分ありますが、少し早めに、朝礼を始めたいと思います。滑川さんの右手のことで、みなさんにお伝えせねばならないことがあるので」

 

 その言葉に、開発室の精鋭たちは桜坂のもとへと集まった。すでに事情をある程度聞かされているらしい美久、酒井、トムの三人は、滑川の身体を気遣う言葉を口にする。

 

「いったい、何があったんですか?」

 

 口を開いたのは、勤続十年目の中堅社員、安藤裕太だった。パワードスーツ開発室では主に、アクチュエータ部分を担当している。

 

 質問を投げかけた安藤は、しかし、すぐに自身の発言を後悔した。うむ、と頷いた桜坂が、とても恐い表情を浮かべていたためだ。仁王の顔つきが、怒りで歪んでいた。

 

「昨晩のことです。会社からの帰宅中に、滑川さんが襲われました。犯人は女性で、道を訊ねるふりをして近づき、液体を引っかけてきたそうです」

 

 液体は酸性の薬品だった。咄嗟に右腕で顔をかばったおかげで最悪の事態は免れたが、盾とした腕は広範囲にわたって火傷を負ってしまったのだという。

 

 酸性の薬品と聞かされて、安藤は思わず胴震いした。もしもその液体が目に入っていたら……。彼ら技術者にとって、視覚を失うことは死刑宣告に等しい。そうならなくてよかった、という安堵。自分が滑川の立場だったら、という恐怖。そして犯人への怒りで、安藤の表情は複雑に歪んだ。

 

「それで、その女は?」

 

「一応、捕まりました。犯人の女は、薬品をかけるとすぐにその場から逃走。滑川さんは痛みに苦しみながらも警察に連絡をしました。警察官二人が現場に向かう途中で、近く公園の水道で薬瓶を洗っている不審な女を発見。職務質問をかけたところ、滑川さんを襲った犯人と判り、現行犯逮捕となりました」

 

 桜坂はそこで一旦言葉を区切った。

 

「問題は、この後です。取り調べを進めているうちに、この女と滑川さんの間には何の接点がないことが判明しました」

 

「それは、どういう意味です?」

 

「つまり、滑川さんを襲う動機がない、ということです。そのあたりの事情について、彼女はこう語ったそうです」

 

 アローズ製作所の社員であれば誰でもよかった。たまたまあの男が一人で人通りの少ない道を使っていたから襲った。鬼頭智之を雇っている会社に、世の女たちがどれほどの怒りを抱えているのか、教えてやりたくてやった。鬼頭智之は悪魔のような男だ。あんな男が、いや、そもそも男の分際でISを動かせるなんて許せない。

 

「…………」

 

 唖然。そして、絶句。安藤だけでなく、他のみなも等しく同様の反応を示した。

 

 なんだ、その理由は?

 

 なんなのだ、それは!?

 

「……つ、つまり、こういうことですか? 犯人の女は女尊男卑主義者で、男の身でありながらISを動かせる鬼頭主任のことが気に喰わなかった。だから、その勤め先の社員に、八つ当たりをした、と?」

 

「あとは、昨日発売した『週刊ゲンダイ』の内容についても言及していたそうです。ほら、あの、鬼頭が前の奥さんにDVをはたらいていた、って記事。あれで義憤にかられたそうです」

 

 言葉遣いこそ慇懃だが、その口調は怒りの感情に満ち満ちている。

 

 親友のことを悪し様に言われたばかりか、そんなくだらない理由で部下を傷つけられたのだ。仁王様の怒りは爆発寸前だった。

 

 しかし、桜坂は怒りを堪えた。一度深呼吸をし、悄然とした面持ちで、自分が選んだライト・スタッフの顔を見回した。

 

「……こんなことになってしまって、みなさんには申し訳なく思います。まさかそんなくだらない理由で傷害事件を起こすような人間が現われるなんて、想像すらしていませんでした。私の思慮が足らなかった。申し訳ありませんでした!」

 

 桜坂は深々と腰を折った。

 

「以前、鬼頭に開発室への残留を願ったときにも言いましたが、この事件を受けて、改めてチームから抜けたいと思った方は、いまこの場ででも、後からでも構いません。教えてください。異動先の部署、あるいは再就職先については、ご心配なく。私の進退を懸けて、みなさんの望む好条件を達成してみせます。……ですが!」

 

 仁王の大振りな瞳が、闘争心の焔で燃えていた。

 

 彼は炯々と燃え盛る眼光でみなを見つめ、切々と訴えかけた。

 

「もしも、もしも! 熟慮の末に、このチームに、そしてアローズ製作所にいていただけるのであれば! 今度は……、今度こそ! みなさんを守ってみせます! この私の、全戦闘力を駆使して、あらゆる敵を排除してみせる!」

 

 女については、いまだ不可解な点がある。すなわち、薬品の入手ルートだ。

 

 警察から聞き出したところ、女の現在の職業はスーパーの店員。過去にそうした危険物を取り扱った経験や、専門知識を学んだ経歴はないという。そんな人間が、どうやって薬品を入手したのか。

 

 ――誰かいるに違いない。女に薬品を渡した、誰かが……!

 

 あらゆる敵を排除すると、心に定めた。

 

 パワードスーツ開発室のみなはもとより、アローズ製作所に勤める全社員、彼らの家族、鬼頭の親類、友人、知人……そのすべてを守るために。

 

 彼らに害意を向けるすべての存在を敵と見定め、排除すると決めた。

 

 さしあたって叩き潰さねばならないのは、今回の犯人の女と、それに連座する誰かだ。女の方はすでに逮捕されているが、女尊男卑の思想が蔓延する現代社会において、司法制度がアテにならないことは親友の件でさんざん思い知らされた。いつ釈放されるか、という態度でいるべきだろ。

 

 ――もう二度と同様の事件が起こらぬよう、見せしめもかねて、徹底的に、叩き潰さねば!

 

 強い決意の炎を胸の内に灯しながら、桜坂は改めて本日の業務について連絡事項を口にし始めた。

 

 

 

 

 

 ……結局、チームからも会社からも、離脱者は一人として現われなかった。

 

 

 

 

 




反動計算について指摘できる方がおられたら、ご教示いただけるとありがたいです。

私、基本的には文系人なもので。

以下、今回やった反動計算のやり方。


① 銃弾のマズル・エネルギーを求め、9.8で割って、単位をkgfにする

② 銃身長、銃口初速から等速加速度を求める

③ ②で求めた等速加速度を使って、銃弾が銃身内を通過するのに要した時間を求める

④ ①で求めたkgfを、③で求めた時間で割る。瞬間最大時の力が求められる


……自分で書いておいてなんだけど、コレジャナイ感がすごい。

ちなみに、最初はWikipediaの自由反動の項目に載っている公式を使おうかとも思ったけど、発射薬の質量と燃焼速度のデータが手に入らなかったので断念。





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Chapter8「少女たちの聖戦」

セシリア絡みのお話しは、これ含めてあと二、三回で終わらす予定です。

あ、あとマウス買い換えました。超快適です。




 入学式翌日の放課後――、

 

 

 

 

 

「IS整備室の使用許可ですか?」

 

「はい」

 

 本日最後の授業が終わって、すぐのことだ。

 

 一年一組の教室から職員室へ戻ろうとする真耶を呼び止めた鬼頭は、IS整備室を利用するためには、どんな手続きが必要なのか、彼女に訊ねた。

 

 IS整備室は各アリーナに隣接する施設で、文字通り、ISを整備するための設備が整った場所だ。工作機械の類いも置かれているそうで、生徒たちの若々しいアイディアによる新兵装や、場合によっては、機体そのものの設計・製造さえ可能だという。本来は二年生から始まる“整備科”コースの生徒たちのための施設だが、手続きさえ踏めば、一年生や“パイロット科”の者でも利用は可能と、生徒手帳に書いてあった。

 

「ええと、職員室で申請書の書式をお渡ししますので、そちらに利用目的などを書いて学年主任の先生に提出してもらえれば、空き状況を見て案内しますけど」

 

「なるほど。それなら、いまからその書類を取りにお伺いしても?」

 

「ええ、大丈夫ですよ。わたしも職員室へ戻るつもりでしたし」

 

 二人は廊下に出ると、肩を並べて歩き始めた。

 

 鬼頭も真耶も、一ヶ月にもこうやって並んで歩いていたな、と思い出し、苦笑した。

 

 あのときは互いに、この出会いはこの場限りのものだろうな、と信じて疑わなかった。それがいまや教師と生徒。まさかこんな関係になるとは……。

 

「利用目的について、いまのうちにお窺いしても?」

 

 道すがら、真耶が訊ねてきた。

 

 べつに隠すようなことではないので、鬼頭は饒舌に答える。

 

「来週のクラス代表決定戦に向けて、陽子に協力するためです。私は技術者です。技術屋としての視点を活かして、何か出来ることはないかと思いまして。

 

 ……世界にたった二人しかいない男性操縦者という立場を考えると、特定の級友に肩入れをするのは不味いのかもしれません。ですが、クラスメイトという以前に、私はあの娘の、父親なので。出来る限りのことはしてやりたいのです」

 

 それにはIS整備室の使用許可が必要だ、と鬼頭は語った。

 

 なるほど、整備室には歴代の整備科生徒たちの努力の結晶……ISに関する様々なデータが蓄積されている。技術者の彼にとってはまさに宝の山だろう。初心者の陽子でも扱いやすい武器や、来週の試合に使えそうなデータがないか探すつもりか。

 

 真耶は優しく微笑みかけた。

 

「素敵なお父さんですね」

 

 ISが登場し、女尊男卑の考え方が世に蔓延するようになって以来、家庭内で娘への接し方が分からず困っている父親が増えているという。そうした事例があると踏まえた上で、鬼頭親子の関係に目を向けると、とても温かい気持ちにさせられた。昨日、陽子が口にした、父への愛。そしていま、目の前の男が見せた、娘への愛情。お互いがお互いを想い合っている。理想的な親子だな、と思った。

 

「よしてください」

 

 鬼頭は照れくさそうに笑った。

 

「今年で十六歳にもなる娘から、いまだに子離れの出来ない、困った父親ですよ」

 

 職員室に到着すると、真耶は自身のデスクの引き出しから白紙の整備室利用申請書を取り出し、鬼頭に手渡した。早速、どんな記入項目があるかその場でチェックする。申請者名、申請者の学年とクラス、利用目的、利用内容、利用期間……、他にも、たくさんの記入欄がある。

 

 特に多いのは安全管理にまつわる項目だ。これはISという兵器の扱いを一般生徒に任せる以上、当然の配慮だろう。爆薬や推進剤といった危険物の取り扱いをしくじれば、本人は勿論、周りの人間をも傷つけかねない。

 

 紙面の隅々まで目を通した鬼頭は、これならばすぐに書けるな、と小さく頷いた。

 

 さすがにこの場で机を借りるのは図々しすぎると、真耶に一言ことわってから一旦退室する。

 

 三十分後に戻ってきた彼は、六限分の日報を書き終えてほっと一息つく真耶に、記入済みの申請書を手渡した。実直な性格を表しているかのような角張った字体が、びっしりと並んでいる。

 

 真耶は無言で精読を始めた。毎年この時期は、訓練機の貸出や整備室の利用などを求めて、たくさん新入生が各種の申請書を提出してくる。しかし大抵の場合、必要事項の記入漏れといった内容の不備が原因で、一度目は弾かれてしまうことが多い。

 

 せっかく頑張って書いた書類が、推敲不足のせいで無駄になってしまうのは悲しいことだ。学年主任の千冬へ提出する前に、自分がチェックしてやらねば。

 

 文字を読み進めていくうちに、ある項目で、真耶の表情が硬化した。銀縁眼鏡の向こう側で、子鹿のような瞳が険しさを宿す。

 

 これは……本気か?

 

 本気で、こんなことが出来ると思っているのか?

 

 もしそうなのだとしたら、正気の沙汰とは思えない。この内容を、たった一人で、しかもこんな短い期間でなんて……。

 

 真耶は顔を上げ、鬼頭の顔を睨んだ。

 

「鬼頭さん、この、利用目的と、具体的な内容についてなんですが……ええと、本気ですか?」

 

「はい」

 

 自信に満ち満ちた表情で、鬼頭は真耶の問いかけに対し頷いた。

 

「先ほども言いましたが、私は技術者です。技術者の私が、陽子に対してしてやれるいちばんの協力は、それ以外にない、と考えています」

 

「で、ですが、この利用期間のところを見ると、たった五日間で、それもお一人だけで、だなんて……」

 

「大丈夫です」

 

 鬼頭は力強い口調で応じた。

 

「実を申しますと、アローズ製作所ですでに経験済みのことなんです。そのときは三週間ほどかかりましたが、IS学園の最新の設備を使わせていただければ、大幅に時間を短縮出来る自信があります」

 

 真耶は目線を申請書へと戻した。終始にわたって、読み手のことを気遣った、非常に読みやすい文章で書かれている。利用内容について気になる点がある以外は、特に不備は見当たらない。この完成度であれば、自分の赤入れなど加えずとも、千冬も受け付けてくれるだろう。

 

 真耶は深々と溜め息をついた。申請書を鬼頭に突き返す。

 

「あまり無茶なことはしないでくださいね」

 

「勿論です」

 

 鬼頭は微笑した。

 

「扱う人間のことを考えてデザインするのも技術者の仕事です。陽子を危険にさらすような物は用意しませんよ」

 

 いまのは陽子さんではなく、あなたに向けた言葉だったんだけどなあ。

 

 真耶はもう一度溜め息をこぼし、彼に千冬の居場所を伝えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、第三アリーナ近くの射撃場では、鬼頭陽子とセシリア・オルコットが隣り合うブースで拳銃射撃にいそしんでいた。

 

 陽子が握る拳銃は、射撃場を管理する教師より薦められた、イタリア製のベレッタM85。かたやセシリアが握るのは、オーストリア製のシュタイアーM9ピストルだ。同じオーストリアの銃器メーカー、グロック社の製品に対するカウンターとして設計された大型自動拳銃で、最大の特徴として、グリップとフレームの素材に、新世代のポリマー系プラスチックを採用している。全金属製の拳銃よりも軽く、携帯に便利な拳銃だ。トリガーはダブル・アクション・オンリーで、口径は九ミリ。九ミリ・ショート弾よりも強力な九ミリ・パラベラム弾を、十四発も装填出来る。

 

 陽子もセシリアも、イヤー・プロテクターは装着していない。安全装備は防塵ゴーグルをはめているのみだ。互いに会話を成立させるためとはいえ、テーブルの上に置かれたスマートフォンの中の桜坂の胸中ははらはらだ。不意の排莢が耳元をかすったりしないか、冷や冷やしながら二人を眺めていた。

 

「ここには何をしに?」

 

 ベレッタを撃ちながら、陽子は隣のブースのセシリアに訊ねた。口を開きながらも、目線は真っ直ぐ、前方のマン・ターゲットへと向けられている。トリガー・プルの感覚、ハンマーの落ちるタイミング、反動の受け流し方など、急速に射撃の腕を上げていく彼女の次なる目標は、狙ったところに当てていく、射撃精度の向上だ。いまや十点圏、九点圏への命中は珍しくないが、まだまだ集弾性が悪い。

 

「あなたと同じですわ。射撃の練習をするためです」

 

 セシリアも目線を前に向けたまま応じた。M85よりも迫力ある銃声が、ドスドスドス、とリズミカルに鳴り響く。ちら、とそちらに目線をやれば、マン・ターゲットは十点ゾーンに大穴を開けていた。複数の銃弾によって穿たれた穴がつながっている。

 

『トリガー・プルの難しいダブル・アクション・オンリーの拳銃で、しかも反動のきつい九ミリ・パラベラム弾で十点ゾーンを百発百中とは……さすがは代表候補生といったところか』

 

「…………」

 

 くそう。

 

 負けるものか、と陽子はM85を撃った。射撃の神様は、そういう邪念を持った人間から好成績を奪うのが常だ。九点、八点、八点、九点と、十点を逃すことが続いた。

 

「専用機持ちなんだから、ISの練習をしていればいいじゃない」

 

 なんでわざわざ射撃場で、しかもこちらに自分との実力差を見せつけるようなことをするのか。なんて性格の悪い女なのだ! ……いいや、違う。見せつけられている、とは自分の勝手な思い込みだ。

 

 代表候補生たるセシリアと自分との力量差は、戦う前から歴然としている。彼女にとって自分ごときは、歯牙にもかけぬ相手という認識だろう。射撃場に足を運ぶという手間をかけてまで、示威に明け暮れる必要性は薄い。

 

 セシリアとの技量差を、標的に穿たれた穴という動かぬ形で思い知らされ、卑屈になっていた。彼女に対して抱かずにはいられない劣等感が、わが目を曇らせている。歩き方、話し方といった所作の一つ一つまでもが嫌みと映じ、セシリアに対する心象を酷いものにしていた。

 

 そして、そうと自覚しながらも、セシリアに向ける口調が険しいままなことに、陽子は気づいていた。隣に立つ女は、衆目の前で父を辱めた。嫉妬や羨望の感情とは関係なしに、憤りを感じずにはいられない。

 

「専用機持ちだからこそ、生身での射撃訓練が重要なのです」

 

 セシリアは語気猛々しい陽子の様子には少しの関心も示さず、前を向いたまま続けた。

 

「生身での射撃が下手では、ISを身に纏ったところで、高が知れていますもの」

 

 ISには射撃を補助するための様々なシステムが搭載されている。しかし、そうした便利機能に頼ってばかりいる者に、代表候補生たる資格はない、とセシリアは考えていた。

 

「ですので、腕が鈍らないよう、そしてさらなる高みへと到達するために、こうやって定期的に、生身での練習をする必要があるのです」

 

「……射撃、上手いね」

 

「当然ですわ! ……と、言いたいところですが、ここは素直にお礼を言っておきましょう。ありがとうございます」

 

 十四発を撃ち終えて、シュタイアーM9はスライド・ストップ。親指でマガジン・リリースボタンを押し込み、箱型弾倉を引き抜いた。弾箱から九ミリ弾を取り出し、次々と篭めていく。

 

「……あとは、そうですわね。この第三アリーナのそばの射撃場を選んだのは、陽子さんが入館するのを見かけたので」

 

「わたし?」

 

「ええ」

 

「……え? ストーカー?」

 

 スマートフォンの中の桜坂が、びくり、と胴震いするのが見えた。桐野美久のストーカー行為に日々悩まされながらも、桐野社長との関係性から強く言えない彼だった。

 

「違います」

 

 セシリアが、僅か怒気を孕んだ。むっとしているらしい。

 

「陽子さんとは一度、二人きりでお話ししたかったので。これはチャンスだな、と思ったのです」

 

 陽子のM85もスライド・ストップ。マガジンを引き抜き、こちらも弾篭めを始めた。

 

「……誤解しないでほしいのですが、陽子さん、わたくしはべつに、あなたのことを嫌ってはいません。……勿論、クラス代表決定戦にあなたも出る、と口にされたときは、代表候補生を相手に何を言っているのか。まさか勝てるつもりでいるのか、この勘違い娘め! などと、憤りもしましたが。それを別とすれば、わたくしはあなたに対してむしろ、勝手ながら好意さえ抱いています」

 

「……わたし、そっちの趣味はないんだけど?」

 

 二人で並んで射撃を開始してからはじめて、陽子はセシリアの顔を見た。同年代の他の娘よりも幼さを残す顔立ちが、忌避の感情に歪む。

 

「ですから、違いますってば!」

 

 十四発をフル・ロードし、シュタイアーの銃口を再び標的へと向ける。トリガーを引き絞る。銃声。十点圏ど真ん中にヒット。精神の動揺も、彼女の指先を狂わすにはいたらない。

 

「とにかく、わたくしはあなたのことを嫌ってはいません」

 

「……わたしは嫌いだけどね、オルコットさんのこと」

 

「ええ、そうでしょうね」

 

 M85の装填数はフル・ロードで八発。シュタイアーの半分ほどだが、陽子自身、まだ弾篭めという作業に慣れていないために、射撃を再開するまでの時間は、セシリアよりも長い。

 

「わたくしはあなたに対して、そう思われても仕方のないことをしましたもの。クラスのみなさんの目の前で、あなたのお父様に恥をかかせた。嫌われて当然だと思っています」

 

「それが分かっているのなら、あんなこと言わないでほしかったんだけど」

 

 あんなこと、とは勿論、鬼頭を、情けない男、と評した発言についてだ。

 

「それとこれとは話が別です」

 

 セシリアは毅然とした態度で、ぴしゃり、と言い放った。

 

「わたくしはあなたに対しては好感を抱いていますが、あの男……あなたのお父様のことは嫌っていますもの」

 

「……そういうことを言うから、わたしはオルコットさんのことが嫌いなんだけどなあ」

 

 ベレッタを撃つ準備が整った。スライドを引き、最初の一発を機関部に装填。拳銃を構え、狙いをつける。

 

「ねえ……」

 

「はい」

 

「なんで、そんなに父さんのことを嫌うの? 例の週刊誌を読んだから?」

 

「……それもあります」

 

 M85の銃口が火を噴いた。結果は、十点ゾーン。よっしゃ、と心の中でガッツポーズ。

 

「奥方に暴力をはたらき、一度は妻のものとなった親権を無理矢理奪った最低の男……たしかに、第一印象はそれでした」

 

「それは……」

 

「ええ。週刊誌の捏造だとおっしゃるのでしょう? わたくしもそう思います」

 

 意外な返答に、陽子は射撃の手を止め、セシリアを見た。代表候補生の少女は、十メートル先の標的に向けて、銃を撃ち続けている。

 

「教室でのあなたたち親子のやりとりを見ていましたから。母親のもとから無理矢理引き離した加害者と被害者とは思えないほど、あなたたち親子の仲は良好と見えた。週刊誌の内容……少なくとも、DV云々や、親権を無理矢理奪い返した、といった部分に関しては嘘だと、すぐに分かりました。そして、だからこそ、あなたのお父様のことが許せなくなりました」

 

 週刊誌に好き放題書かれて、傷ついたのは鬼頭ばかりではない。父親のことを悪く書かれ、それを世間のほとんどの人が信じてしまっている。そんな状況に心を痛めているのは、むしろ娘の方だ。

 

 それなのに彼は、

 

 あの男は――、

 

「週刊誌の記事は捏造。それを証明する手段が自分にはある。でも、その証拠を開示することは出来ない。……何を考えているのだ、この男は。陽子さんのことをどう思っているのだ、と軽蔑しました」

 

 自分のためにも、娘のためにも、立ち上がらない。立ち向かおうとしない。

 

 かくして、鬼頭智之に対するセシリアの心象は定まった。男としても、父親としても情けない男。自分がいちばん嫌いなタイプの男性だ。

 

「そう、それで……」

 

 なるほどな、と思う。たしかに、自分たち家族の事情について詳しいことを知らぬ者の目には、父の態度は情けない、と映じても仕方ないだろう。

 

 でも、

 

 でも、それには、ちゃんとした理由が、

 

 自分に対する、愛があるのに……!

 

「でも、でもそれは……!」

 

「勿論、あなたのお父様にも、証拠を開示出来ない理由というものがあるのでしょう。ですがそれは、あなたを……陽子さんの苦しみを長引かせるに足る理由なのでしょうか!? そんな理由が、あっていいのでしょうか!?」

 

 違う。

 

 あの人は、

 

 父さんは、わたしを苦しめたくないからこそ、証拠を開示しない。自分が我慢する、という道を選んだのに……!

 

『……セシリア・オルコットさん』

 

 そのとき、いままで二人の射撃を眺めるばかりで、会話には参加しようとしなかった桜坂が、突如として口を開いた。スピーカー・モードだから、その声は隣のブースの彼女にも届く。

 

 セシリアは射撃を中断し、テーブルの上のスマートフォンを睨んだ。

 

「あなたは……」

 

『鬼頭の上司で、アローズ製作所パワードスーツ開発室の室長を務めている、桜坂という者です』

 

「はあ……その桜坂さんが、いったい何のご用で?」

 

 女尊男卑思想の信奉者たるセシリアは、桜坂に話しかけられたことに対する不快感を表情露わに訊ねた。

 

『いえね、いまの二人の話を聞いていて、ちょっと言っておこうかな、と思いまして』

 

 小さな液晶画面の中の桜坂は微笑んだ。

 

『男の俺の口から、鬼頭はきみが思っているような人間ではない、と言っても、考えを改めてはくれないでしょう』

 

 昨晩の作戦会議の席において、九ミリ口径の大型自動拳銃を易々と使いこなしているこの少女が、女尊男卑主義者だとは聞いている。

 

『だから、これだけ言わせてください。目を見開いて、素直な気持ちで、鬼頭智之という男の、ありのままを見てほしい』

 

「……どういう意味です?」

 

『言葉通りの意味ですよ』

 

 桜坂は微笑した。

 

『週刊誌の記事や、世界にたった二人しかいない男性操縦者だということ、陽子ちゃんの父親であるということ、そういうフィルターを全部取っ払った上で、鬼頭智之という男、単体をしっかりと見てほしいのです。そして感じ取ってほしいのです。鬼頭智之がどういう男なのか、あなたの、素直な気持ちから生じたセンス・オブ・ワンダーで、感じてほしいのです』

 

「…………」

 

 セシリアは無言でスマートフォンの画面を睨んだ。

 

 応じる仁王様は、きつい眼差しを浴びせられても飄然としている。

 

 先ほどまでとは異なり、今度は陽子がおろおろと両者の間に漂う雰囲気に狼狽えていた。

 

「……その言葉」

 

 やがて、セシリアは形の整った唇を、静かに開いた。

 

「一応、胸にとどめておきましょう。下々の言葉に耳を傾けるのも、ノブレス・オブリージュ……高貴なる者の務めですから」

 

 スマートフォンの中の桜坂が、おや、と怪訝な表情を浮かべた。

 

 いまのセシリアの口ぶり……もしかすると、彼女は名家の生まれなのか。

 

 来週の試合に役立つかもしれない。これは調べてみる必要があるな、と桜坂は胸の内でひっそりと呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところで、わたしに話したいことって、結局、何だったの?」

 

「いえ、なんであんな情けない男のことをそんなに慕っているのか、ちょっと訊ねてみたくて」

 

「……わたし、やっぱりオルコットさんのこと嫌いだあ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter8

 

 

 

 

 

 翌週の月曜日……クラス代表決定戦当日の放課後――、

 

 

 

 第三アリーナのAピットに、鬼頭親子と一夏、千冬と真耶、そして篠ノ之箒の六人が集まっていた。言うまでもなく、セシリア・オルコットとの試合に臨む二人と、その見送りと応援のため駆けつけた者たちだ。千冬と真耶は教師としての立場から。鬼頭は父親として。そして箒は、なんでもこの一週間、一夏の根性を鍛え直していたとかで、指導役兼幼馴染みとして、この場にやって来たという。

 

 さて、その六人は揃って困った表情を浮かべていた。

 

 今日の試合では一対一の戦闘を計三回行い、合計勝利数が最も多い者がクラス代表になる、という決まりだ。

 

 試合の順番は事前にくじ引きをし、第一試合は一夏とセシリア、第二試合が陽子とセシリア、最後に一夏と陽子が対戦することになった。

 

 しかし、ここで問題が生じた。

 

 肝心の一夏の専用機が、まだ到着していないのだ。

 

「ええと、今日までには間に合わせる、という話だったと記憶しているのですが……」

 

 鬼頭の問いに、千冬は重苦しい溜め息をこぼし、頭を抱えた。

 

「ええ、そのはずでした。……ですが開発者本人から、『あの人に見せる機体なんだから手抜きなんてできない! 装甲の磨き具合とか、ブレードの鍔の形とかが納得いかないから、もうちょっとだけ待っていて!』と、連絡が来まして」

 

「……ええと、私の理解力不足でしょうか? その方が何を言っているのか、よく、分からないのですが」

 

「大丈夫、あなた一人だけではありません」

 

 平素、常に毅然とした態度が頼もしく、また学園の女子生徒たちから絶大な信頼を集めている千冬にしては珍しい、くたびれた様子で呟いた。

 

 対する鬼頭の表情もまた険しい。納期を守れないのは仕方がないにしても、その理由にまったく納得がいかなかった。

 

 自分とて製造業に携わる身の上だ。製品のクオリティ・アップのため、出荷を先延ばしにしたいその気持ちはよく分かる。しかし、“あの人”なんて、そんなどこの誰だか分からない存在を持ち出されても、困惑するばかりだ。こちらを納得させる気などさらさらない、と解釈せざるをえない。

 

「えっと、千冬姉、俺は結局、どうすればいいんだ?」

 

 疲れた表情の千冬に、一夏が話しかけた。鬼頭に与えられた物と同様、腹を出したデザインのツーピース・タイプのISスーツを着ている。

 

 何度指摘してもいまだ改められない、公的な場での姉の呼び名。

 

 千冬は出席簿を振りかぶり、しかし、すぐに下ろした。自分を睨む鬼頭の視線に気づいたためだ。

 

「……何度も言っているだろう。織斑先生と呼べ、馬鹿者」

 

 言葉遣いこそ乱暴だが、それでも、手をあげるよりはずっと穏当な叱り方だ。

 

 以前、口にした指摘について千冬が覚えていてくれたこと、そして自分の意見を聞き入れ実践してくれたことが嬉しくて、鬼頭は完爾と微笑んだ。

 

 険しい眼差しから一転、にこにこと優しい笑顔の面差しに気恥ずかしさを覚えたか、千冬は、ぷい、と彼のほうから顔を背けた。

 

 一方、一夏は予想していた衝撃が来なかったことに驚き、茫然とした表情を浮かべていた。なまじ顔の造作が整っているだけに、間抜け面がいっそう滑稽に見えてしまう。鬼頭の後ろで、陽子がひっそりと吹き出した。

 

 千冬は咳払いを一つして、一夏の問いに答えた。

 

「アリーナの使用時間は限られている。織斑の機体の到着がこれ以上遅れるようなら、鬼頭対オルコットの試合を先に行うべきだろう」

 

 千冬は鬼頭の後ろに立つ陽子を見た。こちらは、ワンピースタイプの水着のようなデザインのISスーツを着用している。

 

「鬼頭、行けるか?」

 

「バッチ来い! ……です!」

 

 陽子は自らを奮い立たせるように大きな声で応じた。

 

「本当に代表候補生と戦うんだな、って思うと、正直、恐くて震えが止まりませんが……」

 

 陽子はかたわらに立つ父親の顔を見上げた。世界最高の頭脳の持ち主は、彼女の顔を見て、粛、と頷いた。無言のやりとりが、立ち向かう勇気をくれた。

 

「女は度胸! なんでもやってみるものです!」

 

 言い放つや、千冬の背後で真耶が、ぶふぅ、と噴出した。いったい何事か、と一同揃ってそちらを振り向き、目を丸くする。ただ一人、陽子だけが、何かを察したように、ニヤニヤと笑い始めた。適度に緊張がほぐれたのを自覚し、彼女は胸の内でひっそりと真耶に感謝の言葉を贈った。

 

 

 

 AピットのISハンガーに、無人のISが鎮座していた。打鉄。今日の試合で陽子が搭乗する機体だ。

 

 クラス代表決定戦当日、IS学園側が陽子の搭乗機として提案したのは、鬼頭らの予想通り、フランス製のラファール・リヴァイブと、国産機の打鉄だった。陽子たちは両者の性能や特性の違いをよく吟味し、最終的に打鉄を選択した。

 

 打鉄とラファールはどちらも汎用性の高さと扱いやすさが魅力的な機体だ。

 

 機動性と運動性ではラファールが勝り、防御性能では打鉄のほうが秀でている。扱える武器の種類はどちらも大差ないが、後付け兵装の搭載量で勝る分、総合火力はラファールの方がやや上回る、といったところか。

 

 今回の対戦するティアーズ型は第三世代のISだ。運動性や機動性の勝負では、どちらを選んでも優位生は得られない。となれば、防御力を取るか、火力を取るかが判断の基準となる。

 

 陽子はいまだISの累計操縦時間が五時間に満たない初心者だ。大量の火器を積んだところで、扱いきれる腕はない。むしろ、第二世代最高の防御性能をもって持久し、反撃のチャンスが到来するまでじっと堪える、といった戦術もとりやすい打鉄の方が、使い勝手はまだよいように思われた。

 

 陽子は背中を預けるように打鉄に搭乗した。操縦者の存在を認識したISが、セミ・アクティブ状態へと速やかに移行する。ISコアからあふれ出るパワーが、ジェネレーターを仲介して機械鎧の隅々まで行き渡った。小柄な陽子の体型に合わせて、装甲が微細に変形し、彼女の身体へと密着していく。スカート・アーマーに電磁ボルトで固定されていた浮遊シールドがはずれ、源平武者の肩鎧のように、陽子の両側へと移動した。

 

 打鉄を身に纏った陽子は、機体の動作具合を確かめながら、ゆっくりと立ち上がる。人間の五指をかたどったマニピュレータを何度か開閉。グー・パー、グー・パーを繰り返し、問題がないことを確認した。

 

「気分はどうだ?」

 

「大丈夫、問題ないよ」

 

 鬼頭の問いに、陽子は可憐に微笑み応じた。

 

 空間投影ディスプレイを起ち上げ、機体の情報を呼び出す。まずは機体の状態をチェック。……うむ。エラー項目は一つもない。続いて搭載兵装をチェック。……こちらも大丈夫だ。今日の試合に向けて、事前に申請しておいた後付け兵装は一つも欠けることなく積まれている。

 

「打鉄の方も問題ないみたい」

 

「そうか」

 

 鬼頭はゆっくり頷いた。それから彼は、少し困ったように表情を歪めて、

 

「陽子、手を」

 

 陽子は右手を鬼頭のほうへと差し伸べた。超高分子特殊ポリエチレンでできた関節部をカーボンファイバー配合のチタン合金で覆ったマニピュレータは、指の一本々々が、ニンジンかナスのように太い。鬼頭はそのうちの一本……人差し指を両手でそっと握ると、自らの頬にすり寄せた。

 

「……勝ってこい、とは言わない。ただ、無茶だけはしないでくれ」

 

 慈愛の念に満ち満ちた口調。

 

 陽子は優しく微笑んで、うん、と頷いた。

 

 ピット・ゲートへと顔を傾け、床を小さく蹴るイメージ。大鎧を着込んだその身が、ふわり、と宙に浮いた。慣性力制御装置……PICの作用によって、ISは反作用や揚力といった力に頼らず飛行が可能なのだ。

 

「それじゃ、行ってきます」

 

 鬼頭らに手を振り、彼女は闘技場へと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アリーナの中央ではすでにセシリアが待機していた。

 

 身に纏っているISは、近世はバラ戦争の時代の、イングランドの騎士を想起させるデザインの甲冑だ。通称、イングランド・ゴシック。左右に浮かぶ浮遊ユニットには、それぞれ二枚ずつ、優美なシルエットのフィン・アーマーが取り付けられており、それを背後に従えたそのいでたちからは、なにやら気品のような雰囲気が感じられた。機体色は、鮮やかな青色。

 

 ゲートをくぐって闘技場へと、文字通り飛び出した陽子は、空中で、ぴたり、と静止するセシリアを見て、口を開いた。

 

「それが、オルコットさんの専用機……」

 

「ええ。わがイギリスが誇る第三世代機、ティアーズ型の一番機、ブルー・ティアーズですわ」

 

 セシリアは誇らしげに自らの愛機の素性を明かした。

 

 打鉄がISコア同士を結ぶ通信網……コア・ネットワークから情報を呼び出し、陽子の意識に直接情報を送り込んだ。

 

 ISネーム、ブルー・ティアーズ。登録されている操縦者名セシリア・オルコット。戦闘タイプは中距離射撃型。特殊装備有り。

 

 武装はすでに展開済みだ。全長が二メートルを超す長大な銃器を握っている。即座にコア・ネットワークから情報を検索。六七口径特殊レーザー・ライフル()()()()()()()()()と判明する。ライフル・スコープを標準で搭載した狙撃銃だが、バトル・ライフルとしても十分運用可能な性能を持つ銃だという。

 

 対戦相手はすでに武器まで準備を終えている。こちらも、試合開始の合図が鳴る前に武装を呼び出さねば、先手を取られてしまう。

 

 量子格納状態にある武装を実体化させることを、展開、と呼ぶ。

 

 陽子は右手に意識を向けた。搭載兵装の一覧からアサルト・ライフルを選択し、コール。手の中で光の粒子が繚乱し、やがて形をなした。

 

 ショルダー・ストックと機関部とが独立した造りの、オーソドックスなデザインのアサルト・ライフルが実体化した。五一口径アサルト・ライフル、《焔備》。重機関銃用の強力な銃弾を、一分間に一〇〇〇発という発射速度で相手に叩き込める、IS専用の突撃銃だ。全長は約一・五メートル、重量は一五・四キログラムで、標準仕様の箱型弾倉一個あたり四五発を装填出来る。

 

 陽子の召喚した《焔備》は、オプション兵装としてさらに、銃身下部にグレネード発射器を装備していた。砲口が横に二個並んだ連装式のグレネード・ランチャー《大文字》。牽制のライフル射撃を叩き込みつつ、四十ミリ・グレネードを二発連続で発射できる優れ物だ。

 

 両者はおよそ二十メートルの距離を隔てて向かい合った。セシリアも陽子も、銃の安全装置は解除ずみだ。狙いをつけるや、即座に撃ち放てる状態にある。

 

『二人とも準備はいいか?』

 

 Aピットにいる千冬の声が二人の耳膜を叩いた。セシリアは、「ええ」と、頷く。一方の陽子は「もうちょっとだけ待ってください」と、呟いて瞑目。深呼吸を二三度繰り返した後、瞠目し言い放った。

 

「もう大丈夫です。お願いします」

 

 うむ、と頷いた千冬は、手元に空間投影式のキーボードを展開。パネルを操作するや、アリーナ内に、試合開始を告げる鐘が鳴り響いた。

 

『試合開始!』

 

 開幕を告げるゴングが鳴り響くや、二人はまったく同時に、まったく同じ行動をとった。

 

 セシリアは《スターライトmkⅢ》を、陽子は《焔備》を抱き寄せて照準。両者の脳幹を、甲高いロック・オン・アラートの警告音が激しく殴打する。

 

 トリガーを引き絞る動作は、セシリアの方が速かった。狙撃銃の機関室内の温度が急激に高まり、銃口より一条の光線が撃ち放たれる。

 

 光の矢は狙いたがわず打鉄の左足を射抜いた。シールド・エネルギーに大きなダメージ。レーザービームそのものに質量はないが、エネルギー・バリアを突破された際の衝撃に揺さぶられ、陽子は思わずバランスを崩した。そのときになって、彼女はようやくトリガーを引き絞ることに成功した。ポンッ、と小気味の良い音を引き連れて、四十ミリ・グレネード弾が発射される。

 

 ――やはり素人ですわね……。

 

 セシリアは内心陽子を嘲笑った。

 

 グレネード弾は強力な武器だが、弾速が遅い。超音速域での空戦機動を軽々とこなすISに命中させるのは、至難の業だ。普通は、ライフルなどで牽制射撃を叩き込み、相手の足が鈍ったところで投下するのがセオリーとされる。それを開幕初手で発射するなんて……っ!

 

 セシリアは悠々回避運動をとろうとし、しかしすぐに、その美貌を凍りつかせた。

 

 ブルー・ティアーズのISコアが、発射されたグレネード弾の種類を即座に特定。スタン・グレネード。音と光で相手の行動力を奪う非致死性兵器。不味い、と思ったときにはもう、グレネード弾は炸裂していた。

 

 一八〇デシベルの爆発音と一〇〇万カンデラの超閃光が解き放たれ、セシリアの視聴覚を奪った。といっても、スタン・グレネードが直接もたらした被害ではない。咄嗟にハイパーセンサーをカットしたおかげで、彼女の感覚野は健常なままだ。

 

 問題は、センサーの機能をいきなり絶ってしまったことによる視覚と聴覚の一時的な喪失だった。センサーの復旧までにかかる時間はコンマ・〇八秒。その間、セシリアはほとんど無防備な状態になる――!

 

「くぅっ!」

 

 ロック・オン・アラート。次いで、衝撃。陽子の《焔備》が火を噴き、《スターライトmkⅢ》を保持する右腕を大柄な五十一口径弾が襲った。はじめから初手はスタン・グレネードと決めていた彼女は、ハイパーセンサーのモードを最初から偏光状態にしていたのだ。打鉄のFCSの支えもあって、銃弾は次々と吸い込まれるように命中していった。着弾の度に、装甲から火花が迸り、シールド・エネルギーにダメージ。

 

 視界の復活したセシリアは、敵の攻撃が右腕に集中しているのを認めるや、相手の狙いは武器を潰すことだと判断。身を翻し、左へ、左へと、火線の猛威から逃げようとした。

 

 対する陽子は追撃の手を休めない。相手は代表候補生だ。いまは奇策スタン・グレネードの影響下で自分が優位な立場にあるが、態勢を整えることを許せば、猛烈な反撃に翻弄されるのは必至。セシリアの背中を追いかけながら、ショルダー・ストックを肩に添えた飛行射撃姿勢で、《焔備》を撃つ、撃つ、撃つ。

 

 逃げるセシリアと、追いかける陽子。試合開始早々に展開された思わぬ試合運びに、観客席の一年一組の生徒たち、さらには、今日の試合の噂を耳にし駆けつけた他クラス、他学年の生徒たちの多くがどよめいた。

 

 彼女たちの中には、陽子がIS学園に合格できたのは父・鬼頭智之の存在があったから、と思い込んでいる者も少なくなかった。陽子は本来、IS学園に入学できるような成績ではなかった。しかし、鬼頭がISを動かしたことで、彼の家族を守らねばならない、とIS学園への入学を許可されたのだ、という噂だ。

 

 しかし、目の前で繰り広げられるこの光景を見せられては、陽子の実力は本物だった認めざるをえない。

 

 鬼頭に対する不満から、娘の陽子に対しても色眼鏡をかけて見ていた生徒たちは、等しく悔しげな表情を浮かべていた。

 

 そんなギャラリーからの熱い眼差しを自覚しながら、しかし、陽子は焦燥を感じていた。セシリアを追いかける側に回ってからというもの、銃撃が、一発も命中しない。そればかりか、射撃のタイミングさえつかめない。

 

 セシリアは相手からのロック・オンを避けるため、上下左右への不規則なフェイント機動を加えながら逃走をはかった。打鉄のFCSが相手を補足するためには、不可視の照準ビームの範囲内に一定時間、相手の姿を捉え続ける必要がある。陽子の打鉄は先ほどからこれに失敗していた。それでも、牽制ぐらいにはなるはず、と浅慮からノー・ロックで放った銃撃は、そのことごとくが回避されてしまった。

 

 ――これが、代表候補生!

 

 陽子は口の中でその言葉の意味を噛みしめた。やはり、操縦技術の一つ一つ、試合運びのセンスは、圧倒的に向こうが上だ。

 

 ――このままじゃ……。

 

 陽子は、逃げるセシリアの狙いに、すでに見当がついていた。

 

 やがて、そのときが訪れる。

 

 《焔備》のマガジンが空になった。

 

 セシリアにとって、待望の瞬間だった。

 

 マガジンを交換するにせよ、新たな武器を展開するにせよ、銃撃の一切ない時間が到来する。

 

 陽子は苦し紛れに《大文字》からグレネードを一発投射。今度もスタン・グレネード弾だ。再びグレネード弾に気をとられている間に、マガジンを交換する作戦。

 

 しかし、同じ手が二度も通用するほど、代表候補生は甘くない。

 

 突如として身をひねり、振り返ったセシリアは《スターライトmkⅢ》を発射。音響閃光弾が爆発する前に、空中で撃墜する。

 

「さあ、反撃開始でしてよ!」

 

 セシリアの手の中で、《スターライトmkⅢ》が火を噴いた。

 

 一発の威力と有効射程を優先した高出力スナイパー・モードから、バトル・ライフル仕様へと射撃モードを選択。連続で、光線を発射する。

 

 陽子は咄嗟に浮遊シールドを二枚とも前面へと移動。正面からの攻撃をブロックするが、その隙にセシリアは彼女の頭上へとさらに移動、上空から銃撃を浴びせかける。

 

「ぐっ、こんっ、のぉお……!」

 

 ロック・オン・アラートは先ほどから鳴っていない。先ほどの陽子同様、セシリアも、空戦機動中はノー・ロック射撃に頼らざるをえない。しかし、その命中精度は段違いだ。左足に二発、右上腕部に一発をもらってしまう。

 

 特に、右上腕部へのダメージは痛かった。ISには《絶対防御》という安全装置が搭載されており、これは一定レベルのダメージを超える攻撃とISが判断した場合に作動する。通常仕様の打鉄の場合、上腕部は装甲で覆われていないため、この部分への攻撃に対しては大抵の場合、《絶対防御》が発動してしまう。《絶対防御》はシールド・エネルギーを極端に消耗する機能でもあるため、ISバトルの最中にこれが作動してしまうと、一気に不利な立場に立たされてしまうのだ。

 

 たまらず、陽子は正対のまま後ろへと退く。距離を稼ぎながら、《焔備》のマガジンを交換。グレネードを撃ち尽くし、いまやデッド・ウェイトでしかない《大文字》を切り離す。勿論、その間にもセシリアの銃撃は続いた。左右へのジグザグ機動も、代表候補生の鷹の目の前には、むなしい抵抗でしかなかった。

 

 《焔備》を構え、反撃のノー・ロック射撃。セシリアは余裕の表情でこれを回避。仕方ないこととはいえ、距離が開いてしまった。自分の腕では、この間合いで当てることは難しい。なんとか接近しなければ。

 

 陽子はPICの全リソースを前進運動へと傾けた。スカート・アーマーに取り付けられた単発式のマイクロ・ロケット・ブースターをも併用。推力を一方向に集中させた猛加速をもって、上空のセシリアへと挑みかかる。

 

 そのとき、ブルー・ティアーズの背後で、何かが射出された。二基の浮遊ユニットに取り付けられていた、四枚のフィン・アーマーだ。羽根の一枚々々に、PICの制御装置が積んであるらしく、めいめい、直線的な機動だが機敏に姿勢を変えつつ、陽子のもとへ殺到する。

 

「まさかあれが!?」

 

 噂のBT兵器か。

 

 その問いに答えるように、けたたましいロック・オン・アラートの音が、陽子の脳を袋だたきにした。

 

 右から。左から。後ろから。頭上から。まったく同時に、ロック・オンされている!

 

 陽子を取り囲むように配置された四機の独立機動兵器が、一斉にレーザービームを浴びせかけた。

 

 右肩。左脚部の装甲。スカート・アーマー。浮遊シールド。ほとんど同時に着弾。前後左右より立て続けに襲いくる衝撃波に、陽子は姿勢を大きく崩した。その間にも、スカート・アーマーのロケット・ブースターは最大稼働で推進力を吐き出し続けているため、彼女はあらぬ方向へと吹き飛ばされる。その隙を、今度は《スターライトmkⅢ》が襲った。ノー・ロック状態で撃ち放たれた四発のうち、二発が命中! シールド・エネルギーの残量が、残り半分を切った。

 

「……っ!」

 

 そこまでのダメージを許したところで、陽子は機体の制御をなんとか取り戻した。ロケット・ブースターへのエネルギー供給をカット。PICの機能を、通常モードへと戻し、安定した飛行姿勢へと復帰する。

 

 そこに、四枚の恐るべき羽根がまた襲いかかった。今度は一斉発射ではなく、時間差で、連続してレーザーを発射する。鳴り響くアラート音に従って、回避とシールドでの防御に努めた。防戦一方。しかも、巧妙な位置取りから放たれるレーザーのすべてをブロックすることは、陽子の技量ではまだ難しい。一発、また一発と命中し、シールド・エネルギーが削られていく。

 

 搭載されている発振器のサイズの問題からか、BT兵器のレーザーに、《スターライトmkⅢ》ほどの威力はない。そのため、一発々々のダメージは軽微なものだが、一発受けて動きが遅速すると、その後何発も殺到し、トータルのダメージは凄まじいことになる。

 

 ――まずはあの羽根をなんとかしなきゃ駄目だ!

 

 陽子は《焔備》の銃口を自分を取り巻くフィンのうち一枚へと向けた。トリガーを引き絞るも、ひょい、と避けられてしまう。アサルト・ライフルでは命中は難しいか。それならば――、

 

 陽子はアサルト・ライフルを放り捨てるや、武装一覧を表示、新たな武器を選択、コールする。その間にも、BT兵器のレーザーを二発もらうが、そんなもの、気にかける暇はない。

 

 すかさず召喚したのは、ポンプ・アクション式の散弾銃だった。銃身下面のフォア・グリップを握り、これを前後に動かすことで、ボルトの開閉を行う仕組みのショットガンだ。ライオット・ショットガン《コメディアン》。一番径という、重さが一ポンドもある銃弾を十発装填可能な、IS専用のショットガンだ。

 

 陽子は右方向より襲いくるフィンに《コメディアン》の狙いを定めた。腰だめで、撃つ。発射された銃弾はしばらくまとまった状態で飛んでいき、やがて散開、百発近いチルド弾が広がりながら、フィンを飲み込んだ。

 

 散弾一発々々の威力は小さい。しかし、無数の弾に殴打されるうちにどこか飛行制御装置を破損したか、運動性が、目に見えて低下した。この隙を逃してはならぬ、と陽子はフォア・グリップを前後させながら接近。間合い八メートルの近距離で、ロック・オン射撃! まとまった数の散弾を浴びせられ、ついに沈黙、ゆるゆると墜落していった。ようやく一枚を撃墜――。

 

「ブルー・ティアーズはまだありましてよ!」

 

 《ブルー・ティアーズ》。機体名と同じだが、それがこのBT兵器の名なのか。

 

 残る三機の《ブルー・ティアーズ》が陽子に牙を剥く。レーザービームの嵐。陽子は地表すれすれまで高度を下げるや、回避し、防御しながら、ショットガンを撃つ、撃つ、撃つ。

 

 ポンプ・アクション式の強みは、弾の装填と排莢が確実に行える信頼性の高さだ。反対に弱みは、一回々々フォア・グリップを前後させねばならないため、発射速度が遅いこと。一発はずしてしまうと、次の弾を装填している隙に、レーザービームで狙われてしまう。一弾一墜を期さなければ。

 

 《ブルー・ティアーズ》の放ったレーザービームの一発が、スカート・アーマーに命中した。ロケット・ブースターを直撃。推進剤が引火し、轟然と爆発する。衝撃で地面を転がる陽子の身体。それでも、ショットガンは手放さない。転がりながら、フォア・グリップをスライドする。立ち上がると同時に発射。二機目の《ブルー・ティアーズ》を撃墜。観客席では、またどよめき!

 

「残り二つ!」

 

 素早くフォア・グリップをスライドし、《コメディアン》を空へと向け、陽子は当惑した。

 

 残る二機の《ブルー・ティアーズ》が、頭上ははるか彼方のセシリアのもとへと戻っていく。

 

 エネルギー補給のためか。いや違う。浮遊ユニットには接続されない。彼女のかたわらで、いつでもレーザービームを撃てる態勢のまま、ふわふわ、とたたずんでいる。

 

「まさかここまで粘るとは……」

 

 スターライトmkⅢを構えながら、セシリアが呟いた。陽子も《コメディアン》を油断なく構えながら、その言の葉に耳を傾ける。

 

「認識を改めなければいけませんわね。鬼頭陽子さん、あなたは代表候補生を相手取れるだけの実力を持った、素晴らしいお人ですわ」

 

 一週間前のあの日、代表候補生の自分に対し、無謀にも挑戦状を叩きつけた彼女のことを、セシリアは内心、軽蔑していた。しかし、蓋を開けてみればどうだ。自分は初手のスタン・グレネードに翻弄され、《ブルー・ティアーズ》も二機喪失してしまった。相手は、ISの操縦経験も浅い初心者で、かつ搭乗しているのは第二世代機だというのに……。素晴らしい戦果ではないか!

 

「……ですが、その快進撃も、もうここまでです。気づいていますか? いま、あなたのISがどんな状態なのか」

 

「…………」

 

 陽子は悔しげに歯がみした。

 

 シールド・エネルギーの残量は、残り八十ちょっと。全身くまなくレーザーを浴びせられたせいで、機体のコンディションは中破相当という状態だ。特に機動性は、ロケット・ブースターを破壊されたため、著しく低下している。いまの状態でスピード勝負となったら、自分はセシリアに追いすがることさえ出来ないだろう。……そう、自分のISがこの体たらくなのに対し、セシリアのブルー・ティアーズは、シールド・エネルギーを多少削られたのと、右腕がほんの少し損傷したぐらいで、ほとんどダメージを受けていない。

 

「わたくしはただシールド・エネルギーを削るために、攻撃していたわけではありません。シールド・エネルギーと同時に、あなたのISからパワーを、そしてスピードを奪わせてもらいました。もはやあなたと、あなたの機体に勝ち目はありません」

 

 ですから、と呟き、セシリアはそこで一瞬だけ瞑目した。ISバトルの最中に隙をさらす、危険極まりない愚挙。しかし、陽子は撃たない。《コメディアン》の射程と自分の技量、そして機体のいまの状態を鑑みるに、撃ったところで命中は期待出来ない。むしろ避けられ、反撃の一発を浴びる公算の方が高い。

 

 ……それならば、

 

 それならば、ここは、

 

 ここは、起死回生の一打を叩き込むための、別の準備を――、

 

「これ以上の戦いは無用です。降参してください」

 

 セシリアは、酷薄なる口調で陽子に向けて言い放った。

 

 対する陽子は、好戦的に微笑み、

 

「絶対に嫌!」

 

と、力強く応じた。

 

 セシリアは束の間、驚いた表情を浮かべた後、破顔した。

 

「その誇り高いお姿……やっぱり、わたくしはあなたのことが好きでしてよ」

 

 《スターライトmkⅢ》の銃口から、光芒があふれ出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter8「少女たちの聖戦」了

 

 

 

 

 

 

 

 




オリジナル兵装


栄和工業 二〇式アッド・オン・グレネード・ランチャー《大文字》

口径  40mm×53
全長  500mm
重量  5,200g
装填数  2発


 陸上自衛隊向けに主に銃火器を納品しているメーカー栄和工業が開発、製造を行っているグレネード・ランチャー・ユニット。自衛隊制式のIS用兵装、五一口径アサルト・ライフル《焔備》の銃身下部に装着できる。

 砲口が水平に二つ並んだ連装式で、装填数は二発と少ないが、武器を持ち替える必要がない、ライフルで銃撃を加えながら発射可能といった利点がある。

 NATOスタンダード・グレネードである、40mm×46ハイ・ロー・プレッシャー・グレネード弾、あるいは40mm×53ハイ・ベロシティ・グレネード弾を装填可能。




ハミルトン・モデル2500 ライオット・ショットガン

口径  1番径(=1ポンド弾を発射可能)
全長  1,420mm
重量  12,200g
装填数 10発

 アメリカの老舗ショットガン・メーカー……ハミルトン社が、自社のベストセラーM500ライオット・ガンをIS用に再設計したコンバット・ショットガン。

 その見た目は前から銃口、フォア・グリップ、機関部、トリガー、ショルダー・ストックと並んだオーソドックスなデザインで、勿論、装填メカニズムはポンプ・アクション方式。

 一番径という、1ポンド(=約454グラム)もの銃弾を発射するため、フレームにはハイ・スチールが採用されている。





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Chapter9「激昂する銃」

作者はFGOでマスターやっています。

2019年の水着イベントが始まりました。

水着おっきー狙いで、4周年のときに貯めた石を投入し80連したところ、殺おっきーが来てくれました(一人目)。


……お前だけど、お前じゃない。


本話にはそんな私のやり場のない感情もほんの少しぐらい入ってしまったかもしれません。

少女たちの激情をご覧あれ。



 クラス代表戦当日――。

 

 IS学園、第三アリーナ。

 

 

 

 地上で《コメディアン》散弾銃を構える陽子と、その頭上はるか彼方より《スターライトmkⅢ》レーザー・ライフルの銃口を向けるセシリア。

 

 かたや身に纏うISは装甲の大部分が損傷し、推進装置にいたってはPIC以外大破の状態という、まさに満身創痍といった風体。

 

 他方、ブルー・ティアーズはといえば、BT兵器を二機喪失したものの、機体そのものはほとんど無傷。シールド・エネルギーの残量も、まだ八割以上残っている。

 

 両者の間には、ただでさえ機体性能に一世代分の格差がある。ダメージの蓄積によって、いまやその差はさらに広がってしまった。戦力差は、当事者たちは無論のこと、観客席に座る誰の目にも明らかだ。

 

「これ以上の戦いは無用です。降参してください」

 

 そんな絶望的な状況を相手に突きつけた上で、セシリアは酷薄なる口調で陽子に降伏を勧めた。

 

 もとより彼女は、極東の島国で出会ったこの小柄な少女に対し、同族意識から生じた親近感と好意を抱いていた。

 

 かつてとある事情から、自身の父親を憎むようになったセシリアにとって、父親のせいで懊悩を抱える羽目に陥った陽子の存在は、他人事とは思えなかった。自分に何かしてやれることはないか。そんな気持ちからお節介を焼こうとした。しかし、かえってそれが陽子の反感を買ってしまい、今日の試合で対決することになってしまった。

 

 織斑一夏とはともかく、陽子とも戦わなければならないこの決定を、セシリアは不満に思った。初心者の彼女と、代表候補生たる自分との実力差は歴然としている。こんな勝敗のわかりきった試合を、する意味があるのか。

 

 だが、セシリアにとって不本意なまま実施が決まってしまった試合は、蓋を開けてみれば、とても幸せな時間となった。

 

 いま、地上より自分を睨みつけているあの小さな少女は、初心者にも拘わらず、代表候補生たる自分を一時的にせよ追いつめ、虎の子のBT兵器を二機も撃墜してみせた。素晴らしい戦果ではないか。父親絡みの好感とは別に、セシリアはIS操縦者として、陽子に対し敬意を抱いた。そして、だからこそ彼女は、陽子に降伏を勧めたのである。

 

 陽子はよく頑張った。訓練機の打鉄で、代表候補生が駆る最新鋭機と互角に戦ってみせたのだ。その活躍ぶりを見て、IS学園の生徒で胸躍らない者はいないだろう。

 

 だが、その快進撃もここまでだ。かくも機体を損傷した状態では、もはや勝ちの目はない。これ以上戦っても、無様をさらすだけだ。強い彼女の、そんな姿は見たくない。

 

 相手の身を思えばこそ口にした降伏勧告を、しかし、陽子は、

 

「絶対に嫌!」

 

と、不敵に微笑み、語気も力強く蹴った。

 

 驚愕。なぜ、降伏勧告を蹴ったのか?

 

 困惑。まさか、この状況でまだ勝てると信じているのか!?

 

 怒り。それとも、捨て鉢になっているのではあるまいな。もしそうだとしたら、その態度は自分たちのこれまでの時間を侮辱するものだ。今度こそ自分は、あなたのことを軽蔑せねばならないが……。

 

 陽子の言葉を受けて、セシリアの美貌は一瞬のうちに、様々な感情で彩られ、変化した。

 

 そして最後に、彼女は歓喜の気持ちから破顔した。

 

 自分を睨む、陽子の眼差し。いまだ闘志を失わない、不屈の眼光。あの眼は、まだ、勝ちを諦めていない。鬼頭陽子はこの状況にあって、希望を捨てていない。

 

 状況判断を誤っているわけではない。その瞳からは冷静なる知性の輝きがうかがえる。

 

 自暴自棄になっているわけでもない。その瞳には強い意志の輝きが宿っている。

 

 まだ何か作戦があるのか? きっとそうなのだろう。その瞳は、自身の勝利を疑っていない。

 

 自身が圧倒的に不利な立場にあることを認めた上で、しかし、勝敗は結果を得るまでは分からない、と。最後の瞬間が訪れるまで、勝利を信じ、戦い抜く覚悟を決めている。

 

 なんと美しい姿なのか。なんと気高い志なのか!

 

 祖国を離れ、はるばる訪れたこの極東の地で、素晴らしい女性と出会うことが出来た。鬼頭陽子。強い意志を宿す瞳を持った女性。同じ女として惚れ惚れする。セシリアはますます陽子のことが好きになった。

 

「その誇り高いお姿……やっぱり、わたくしはあなたのことが好きでしてよ」

 

 かくも敢闘精神旺盛なる相手に対し、降伏勧告はむしろ侮辱だ。自分がやるべきは、次の一射に全身全霊で敬意を篭め、この試合を終わらせることだろう。

 

 セシリアは《スターライトmkⅢ》のトリガーに指をかけた。

 

 レーザー・ライフルの銃口から、光芒があふれ出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これ以上の戦いは無用です。降参してください」

 

 セシリアが降伏勧告を口にしている間、地上の陽子はこの窮地を打開しうる新たな武器を展開するべく、準備を進めていた。意識を集中し、いまはライオットガンを握る右手の中に、新たな武器の姿をイメージする。掌の中で、きらきら、と光の粒子が踊り、少しずつ質量を形成していった。

 

 量子格納状態にあるISの武装を展開する手段には、主に二通りある。一つは、この試合中に陽子が何度もやった、武装一覧ウィンドウを開いてコールする初心者向けのやり方だ。これは、機械に直接命令を入力するため、確実なレスポンスが期待出来る反面、ウィンドウを開いたり、そこから武器を選んだりと行程が多い分時間がかかり、即応性に欠けるという短所がある。

 

 そして、もう一つの手法が、いま陽子がやろうとしている、イメージ・インターフェースを駆使した中級者以上向けのやり方だ。すなわち、使いたい武装をイメージすることで実体化する、という方法で、こちらはイメージさえしっかりしていれば、武器を即座に展開出来る利点があった。もっとも、肝心のイメージがしっかり定まっていないと、初心者向けの手法よりもかえって時間がかかったり、思っていたのとはまったく違う武器を展開してしまうなどの危険もあるが。

 

 この水面下での工作に、セシリアはまったく気づいていない。

 

 ライオットガンで右手を隠しているから、というのも、勿論理由の一つだが、それ以上に、彼女はすっかり油断していた。陽子はこの試合中、武器を展開する際には必ず武装一覧ウィンドウをいちいち展開し、初心者向けの手法を相手に繰り返し見せつけ、印象づけた。そのためセシリアは、陽子はそのやり方でしか武装を展開出来ないのだ、と思い込んでしまった。

 

 実際のところ、それは間違いではない。操縦経験の浅い陽子は、いまはまだ、基本的には初心者向けの方法でしか武装を展開出来ない。

 

 しかし、“これ”だけは例外だ。この武器は、数あるIS用兵装の中でも、自分ただ一人のためにこしらえられた、特別な武器。その性能、そのフォルム、構成要素のすべてが、自分に合わせて作られた武器なのだ。ゆえに、初心者の彼女でも、精確なイメージが可能だった。

 

「絶対に嫌!」

 

 降伏勧告に対し、好戦的に笑って、言い放った。

 

 右手の中の光は、すでに確かな質量を得ていた。

 

「その誇り高いお姿……やっぱり、わたくしはあなたのことが好きでしてよ」

 

 陽子は、《コメディアン》を放り捨てた。

 

 突然の奇行に驚くセシリアの美貌が、次の瞬間、慄然と凍りつくのが見えた。

 

 ライオットガンを捨てたことで、陽子の右手の光は、上空のスナイパーの目にも露わとなった。

 

 自分の対戦相手は、初心者向けのやり方でしか武装を展開出来ない。そう、思い込んでいたセシリアは、その光景にほんの一瞬……コンマ三秒ほどの時間、茫然とし、《スターライトmkⅢ》のトリガーにかけた指の力を、緩めてしまった。

 

 その隙に、陽子は動いた。

 

「《トール!》」

 

 最後の仕上げとして、武装の名を呼んだ。

 

 打鉄の手の中で、光の粒子が形をなした。

 

 ISサイズの、ハンドガン。全体的なフォルムは、陽子が射撃場で絶賛した、コルト・ウッズマンによく似ている。その口径は……いいや、この銃に、口径などという概念はない。なぜならば、この銃は――、

 

 陽子はウッズマンの姿をしたハンドガン……レーザー・ピストル《トール》のトリガーを引き絞った。

 

 銃口から放たれたガラス・レーザーが、狙いたがわず、セシリアの持つ《スターライトmkⅢ》の銃口へと吸い込まれていった。機関室に、強烈な熱量。プラズマ・チャンバーが暴走し、ブルー・ティアーズの火器管制システムが、警告音を鳴らす。爆発の前兆を感知。

 

「っ!」

 

 セシリアは即座に《スターライトmkⅢ》を投棄した。機関室に致命的な損傷を叩き込まれたレーザー・ライフルが、数瞬の後、爆発する。至近距離での爆風に揉まれ、シールド・エネルギーに若干のダメージ。

 

「まだ、そんな武器を隠していたとは……!」

 

 地上の陽子を睨みつけるや、即座にブルー・ティアーズのISコアを、コア・ネットワークに能動接続。陽子の持つ武器について、情報を検索する――、

 

「……なんですの、それは?」

 

 茫然とした呟きが、セシリアの唇からこぼれた。

 

 レーザー・ピストル《トール》。全長四六〇ミリ、重量三・二キログラム。レーザービームの出力は二・六メガワット。ビームを照射し続けるストレート・モード、弾丸のようにパルス状に発射するバレット・モード、霧吹きのようにビームを広範囲に拡散させるスプレー・モードの、三つの射撃モードを備える。ストレート・モード時の連続発射可能時間は十六秒、バレット・モード時の発射可能数は十六発。

 

 ブルー・ティアーズが瞬時に調べ上げた情報を、セシリアは愕然と受け止める。

 

 ……知らない。こんな武器を、自分は知らない!?

 

 代表候補生の自分が知らない武器を、初心者の陽子が使ってくるなんて……!

 

「……オルコットさんが知らないのも、無理はないよ」

 

 《トール》レーザー・ピストルを構えながら、陽子は、ゆっくりと浮上した。ロケット・モーターが壊れているため、PICの作用のみで飛翔する。

 

「だってこの武器が完成したのは、昨晩の午後一一時のことだもの」

 

「……はい?」

 

「ISバトルの公式レギュレーションに違反していないかのチェックを終えたのが、今日の午前十時三十分。コア・ネットワークに武装データの登録をしたのが、午後二時のこと。今日、ISバトルで使えるようになったばかりの武器なんだ、これ。セシリアさんが知らなくても、おかしくない」

 

「陽子さん、あなたは……」

 

 そんな武器を、どうして彼女は知っているのか。そんな武器を、なぜ彼女は扱えているのか。

 

「これは、父さんが作った銃だ」

 

 セシリアのいる高度と、同じ高さに到達した。およそ六〇メートルの彼方で、少女の美貌が、驚愕に彩られていくのが見えた。ふと目線を向ければ、観客席も騒然としている。

 

「初心者のわたしでもイメージしやすいように、って、わたしがいちばん気に入った銃の姿にしてくれた。わたしの射撃の癖に合わせて、照準器の調整をしてくれた。世界にたった一つしかない、わたしのための拳銃……それが、この《トール》」

 

 拳銃の銃口を、セシリアに向けた。彼女は咄嗟に、残った二機のBT兵器……《ブルー・ティアーズ》を陽子へと差し向ける。陽子は落ち着いた様子で、トリガーを二度引き絞った。バレット・モードでの射撃。金色に輝く高温のパルス光弾が二発、それぞれ二枚のフィンを貫いた。一機は二枚ある姿勢制御翼のうち一枚を中程のところで溶断され、ガクッ、と運動性・機動性を落とした。もう一機は当たり所が悪かったのか、そのまま力なく墜落。BT兵器三機撃墜。残る一つを潰せば、相手は丸裸となる。

 

「……この銃は、父さんが作ってくれた銃」

 

 初心者の自分でも最高のパフォーマンスを発揮出来るようにと、難しい調整に挑んでくれた。

 

「……戦い方は、桜坂さんが教えてくれた」

 

 初手のスタン・グレネード作戦や、武器の選定なども、すべて彼が頭を悩ませてくれた。

 

「この戦いは、事実上の三対一。これで負けたら協力してくれた二人に申し訳ない。勝たせてもらうよ!」

 

 浮遊シールドを前面へと移動し、陽子はセシリアに向かって猛然と突撃した。

 

 セシリアはすかさず予備のレーザー・ライフルを展開。接近は許さぬ、と応射した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter9

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うおお! 頑張れ、頑張れ、鬼頭さん!

 

 Aピットルーム。リアルタイムモニターで戦況を眺める一夏は、浮遊シールドで攻撃を凌ぎながら《トール》を撃つ陽子の勇姿に、腕を振り上げ、エールを送っていた。初心者の彼女が、代表候補生で、しかも専用気持ちのセシリアを倒す。そんなジャイアント・キリングが現実味を帯び、彼の精神は高揚していた。

 

 一夏のかたわらでは箒も、応援の言葉こそ口にしないが拳を握り、固唾を呑んで熾烈なる戦いを見守っている。陽子が被弾する度に辛そうに表情が歪み、反対にセシリアに一撃叩き込む都度、ようし、と頷いていることから、その心がどちらに寄せられているかは明らかだった。

 

 そんな若者二人の様子に苦笑しながら、真耶はやはりかたわらで食い入るようにモニターを見つめる鬼頭に話しかけた。

 

「まさか本当に完成させてしまうとは、思いませんでした」

 

「まったくだ」

 

 真耶の隣に立つ千冬も頷く。彼女もまた、六日前に鬼頭から整備室の利用申請書を提出された際、記載されていた内容を達成出来るかについて、懐疑的な表情を浮かべた一人だった。

 

「鬼頭さんから整備室の利用申請書を提出されたときは正直、この人は何を考えているのだ、と思ってしまいましたが」

 

「まさかたった五日で、本当にあんなレーザー兵器を開発してしまうなんて」

 

「納期は守るものですから」

 

 目線を画面から千冬たちへと向け、鬼頭は答えた。そんな彼の返答に、千冬の口元がほろ苦そうに歪む。

 

「……どこかの天才に聞かせてやりたい台詞です」

 

「はい?」

 

「いえ、なんでも」

 

「はあ……。それに、エネルギー・ブラスト・システム自体は、まだ名古屋で暮らしていた頃に、一度作った経験がありましたから」

 

 勿論、XI-02の右腕部に搭載したガラス・レーザーのことだ。レーザー・ピストル《トール》に組み込まれているレーザー発振器は、XI-02の物をベースに設計されていた。

 

「あとはそれを、ピストルサイズにまで小型化し、構造を見直すことで高出力化と、照射可能時間の延長を達成しただけです。大したことはしていませんよ」

 

「いえ鬼頭さん、それ、十分、大したことですからね」

 

 鬼頭の横顔を眺めながら、真耶は呆れた表情で言った。口ぶりから察するに、この男は自分が成し遂げた偉業について、真実、そう認識しているらしい。

 

 大人たちの会話を耳にし、一夏が彼らの方を振り返った。

 

「千冬ね……じゃなくて、織斑先生、智之さんの作ったレーザー銃って、そんなにすごい物なんですか?」

 

「……はっきり言って、革新的な兵装だ」

 

 千冬は空間投影ディスプレイを起ち上げ、そこに今日登録したばかりの《トール》の諸元を表示した。

 

「IS用のビーム兵器の開発は、日本も含めて世界各国で行われている。しかし、いまのところ実用化出来た国は少数だ。実用化を阻んでいる理由はいくつかあるが、特に大きなものは二つ」

 

 一つは、発振器のサイズと出力の問題だ。

 

 レーザーに限らず、ビームと呼ばれる物理事象の出力は、一般に発振器の大きさに比例する。たとえば、日本の大阪大学には最高出力二ペタワット(=二〇〇〇兆ワット)という世界最強のビーム発振器があるが、その全長は一〇〇メートルにも達する。反対に、子ども用の玩具などとして販売されている、掌サイズのレーザーポインターの出力は、〇・二ミリワット(=一万分の一ワット)も満たない。

 

 いかにISの防御性能が優れているとはいえ、二ペタワットものレーザーを浴びれば、シールド・エネルギーは一瞬で空になるだろう。しかし、直径が二〇〇メートルしかないISアリーナの中で、全長が一〇〇メートルもある武器を振り回すのは現実的ではない。かといって〇・二ミリワットの出力では、ISに搭載された最新の測定器をもってしても計測出来ぬほど微少なダメージしか、シールド・エネルギーに刻めないだろう。

 

 取り回しの良いサイズと、シールド・エネルギーにダメージを与えられるだけの出力の両立。出来れば全長は四メートル以下で、システムの総重量は二百キログラム以下、出力は最低でも、一メガワットは欲しい。

 

 命題は単純だが、実現は恐ろしく困難だ。現在、IS用ビーム兵器の実用化に成功しているのはアメリカやイギリスといった一部の国、一部の組織に限られていた。

 

 いま一つの理由は、稼働時間の問題だ。

 

「効率一〇〇パーセントのシステムなんてものはありえない。一〇〇ワットのレーザーを発射するためには、当然、一〇〇ワットよりも大きなエネルギーが必要だ。そのエネルギーをどうやって用意するか。これが、ビーム兵器の実用化を妨げる第二の要因だ」

 

 先の大阪大学所有のビーム発振器を例に考えてみよう。二ペタワットとは、全世界で一時間のうちに消費される電力の一千倍に相当するエネルギーだ。仮に一秒間撃とうと思ったら、全世界の人々が最短でも四二日以上節電を心がけ、蓄電に努める必要がある。大阪大学も当然、こんな出力の電源は用意出来ないから、発振器の稼働時間はかなり短かった。最高出力二ペタワットを照射していられる時間は、たった一兆分の一秒にすぎない。

 

 二ペタワットもの出力があれば、一秒間の照射でおよそ三〇〇〇トンもの鉄を溶かすことが可能だ。しかしそれだけの出力をもってしても、照射時間がたった一兆分の一秒しかないのでは、鉄塊の表面をほんのり温めるぐらいが関の山。これまた、実用的な武器とは言いがたい。

 

 単に高出力というだけでは、ビーム兵器として失格だ。ある程度の連続照射可能時間、あるいは発射回数が必要だった。

 

「現在、実用化されているビーム兵器のほとんどは、IS本体から電力を送ることで、その問題を解決している。しかしこの方式は、欠点も多い」

 

「本体からエネルギーを供給する方式では、ビーム兵器の使用中は、他の機能のパフォーマンスが少なからず低下することになります。またこの方式では、射撃の度にシールド・エネルギーが少しずつ減ってしまうため、長期戦になるほど、不利を抱え込むことになってしまいます」

 

 攻防走のすべてを一つのエネルギー系で管理しているISならではの弱点だ。実際、この試合中にセシリアが負ったシールド・ダメージのほとんどは、自らの射撃が原因で生じた傷だった。

 

「それから、いちばんの短所は、扱える機体が限られてしまう、ということですね。IS本体から給電する場合、IS側に、エネルギー送信用の特殊バイパスが必要なんです。たとえば、オルコットさんのIS……ブルー・ティアーズは、このバイパスを持っています。反対に、陽子さんの乗っている打鉄には、バイパスがありません。バイパスがあるブルー・ティアーズは《スターライトmkⅢ》を扱うことが出来るけど、打鉄にそれは出来ないんです」

 

 千冬の説明を、真耶が引き継いだ。一夏は、なるほど、と頷き、同時に訝しげな表情を浮かべた。しかし、モニターに映じている陽子は、右手の光線銃を、バンバン、撃っているが。

 

「だから、《トール》はすごいんだ」

 

 一夏の疑問に、千冬は空間投影ディスプレイに表示されている《トール》の諸元のうち、全長と出力、そして稼働時間に関わる項目をピックアップして、拡大表示した。

 

「ハンドガン程度の大きさで二・六メガワットもの出力を達成している。これだけでもすごいことなのに、この銃は電源をIS本体からの給電に頼っていない。銃単体で完成されたシステムになっているのだ」

 

「ええ……。これは本当にすごいことです。この《トール》は、特殊バイパスを持たない機体……極端な話、五本指タイプのマニュピレータを装備しているISならどんな機体でも扱えます。驚くべき汎用性の高さですよ、これ」

 

 一夏は千冬たちのかたわらに立つ鬼頭へと目線を向けた。愛娘の戦いを心配そうに眺める彼は、面はゆそうに苦笑した。

 

「アローズ製作所には、遼子化技術という、ISの量子格納技術を研究する過程で発見した部材の小型化技術があるんだ。それをちょいと応用してね。性能を落とすことなく、発振器を小さくすることが出来たんだ。電源も、遼子化技術を使って小型化した大容量バッテリーを、火薬式の銃でいうマガジンのように搭載することで、本体からの給電に頼らないシステムとして完成させることが出来た。すべて、遼子化技術あってこそだ。私がすごいというより、アローズ製作所の技術力がすごいのさ」

 

「でも、その遼子化技術を発見したのは鬼頭さんだと聞いていますよ?」

 

 横から真耶の口出しを受け、鬼頭は閉口した。自分を見る一夏の眼差しに、尊敬の念が宿るのを見て取る。

 

「……しかし、」

 

 そのとき、姉弟のやりとりの様子を黙って眺めていた箒が口を開いた。

 

「それほどの武器ならば、なぜ始めから使わなかったのだ? こんな追いつめられてから引っ張り出すなんて……」

 

 たしかに、と一夏も頷いた。千冬たちの説明のおかげで、《トール》がすごい銃だということはよく分かった。それならばなぜ、始めから使わなかったのか。初手で《トール》を展開していれば、相手の知らない武器ということで意表をつき、その後の試合の主導性をこちらが握れたかもしれないのに。

 

 一夏の問いに、鬼頭はかぶりを振って答えた。

 

「代表候補生はそんなに甘い相手じゃないさ。想定外の武器が出てきたとしても、動揺はきっと一瞬。試合の展開を決定づけるほどの精神的衝撃は与えられないだろう。

 

 ……それに、織斑先生たちは絶賛してくれたが、究極、《トール》は開発期間たった五日の、急ごしらえの武器なんだ」

 

「ええと、つまり……?」

 

「予備バッテリーの製作が間に合わなかった。十六秒、あるいは十六発撃ったら、それで打ち止めだ」

 

 計算上では、《トール》のレーザー・バレット十六発を全弾叩き込むことが出来れば、ブルー・ティアーズのシールド・エネルギーはエンプティ状態となる。しかし、実際の戦闘では、百発百中などまずありえない。代表候補生のセシリアでさえ、初心者の陽子を相手に何発かはずしているのだ。

 

「たとえば相手のシールド・エネルギーが半分以下になったときとか、足回りに致命的な損傷を与えて百発百中も期待出来るようになったときとか、そういう状況か、もしくはどうしようもない窮地に陥る一歩手前ぐらいの状況で使うように、とね。我らが軍師に言われていたんだよ」

 

 軍師、という言葉に首を傾げる一夏たちから目線をはずし、鬼頭は愛娘たちが繰り広げる試合へと意識を向けた。

 

 リアルタイムモニターの両端に、両者の機体に関する情報が表示されている。

 

 陽子の打鉄は、ほぼ全身が損傷していた。各部のパフォーマンスは、試合開始時と比べて明らかに劣化している。特に顕著なのが機動性で、ロケット・モーターを失ったことにより、打鉄の推力は本来の三分の一以下にまで低下していた。シールド・エネルギーの残量も、残り少ない。

 

「試合開始と同時に展開しても、最初は驚いてくれるかもしれないが、すぐに射撃の癖を覚えられて凌がれ、あっという間に弾切れを起こしていただろう。

 

 BT兵器を射出したときもそうさ。私は《トール》の照準システムを、陽子に合わせて調整した。十六発、あるいは十六秒もあれば、BT兵器を四機撃墜することぐらいはわけない。けど、そこで終わりだ。残りの弾数で、オルコットさんを討ち取るのは難しいだろう……。

 

 いまをおいて他になかった、と、私はそう思うよ」

 

 いまこそが桜坂の口にした最悪の一歩手前だ、と鬼頭は現在の状況をそう認識した。

 

 こちらも満身創痍だが、相手もシールド・エネルギーの残量は八割以下、虎の子のBT兵器は四機のうち三機を喪失し、レーザー・ライフルも一挺失っている。精神的動揺は、それなりに大きいはずだ。その隙を、衝くことが出来れば……!

 

「まだ、勝つチャンスはある」

 

 自分の作った銃が、その起死回生の一助となってくれればよいが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レーザー・ピストル《トール》を両手でしっかりと保持しながら、陽子は打鉄をセシリアに向けて突進させた。その足行きは、ロケット・モーターが健在だったときと比べれば、はるかに遅い。

 

 主推進装置を喪失したいま、打鉄の空中機動はすべてPICによってコントロールされていた。慣性力を自在に操る機能で、熟練者が扱えば超音速での複雑な空戦機動さえ可能だが、初心者の陽子の技量では、小型のレシプロ機程度の速さが精一杯。速度計は時速四〇〇キロメートルを叩き出しているが、ISのハイパーセンサーにとってこの程度のスピードは、軽めの駆け足程度にしか映じない。代表候補生の射撃技術をもってすれば、余裕で撃ち落とせる速度だ。

 

 《トール》の確実な着弾を期して接近を試みる陽子を、セシリアは後退しながらレーザー・ライフルで迎撃した。残り一機となった《ブルー・ティアーズ》は一旦機体に再接続し、エネルギーを補給する。安定翼を一枚欠いた状態だ。あまり無理はさせられない。

 

 レーザー・ライフルの猛襲を、陽子は二枚の浮遊シールドを駆使してなんとか凌ぎ続けた。シールドを自機の推進方向へ移動させ、縦に二枚、水平に傾けた状態で、正面からの攻撃を受け止めながら、少しずつ、じりじりと間合いをつめていく。頃合いよし、と見るや、盾の隙間からレーザー・ピストルの銃口を突き出し、スプレー・モードで発射した。

 

 威力は低いが、散弾のように放たれたレーザーを回避するのは困難だ。被弾したセシリアは、怒りで柳眉を逆立てる。

 

「見損ないましたわ!」

 

「何が!?」

 

 これ以上被弾してはたまらぬ、とブルー・ティアーズは横へ横へと逃げる。逃げながら、レーザー・ライフルを撃った。シールドに着弾。陽子の視界の片隅で、黄色信号が点灯した。浮遊シールドはすでに、各々十発以上のレーザーを受け止めている。耐久限界が近づいている、という警告だ。

 

「わたくしは、あなたの実力を認めていました! 代表候補生のわたくしと、こうまで戦って見せたあなたの技量と努力を、尊敬していました!」

 

「上から目線で気にくわないし、自慢にしか聞こえない!」

 

「わたくしは、そんなあなたと戦っているこの時間を、とても幸せに感じていましたのに……」

 

「また自慢!? こっちは必死に食らいついているのに、自分には心の余裕がありますよって自慢!?」

 

 浮遊シールドのうち一枚が、レッド・アラート。同時に、スプレー・モードを発射。こちらの射撃に慣れてきたのか、直撃はならず。されど、左足に被弾し、束の間、バランスを崩す。一気に畳みかけるべく、バレット・モードに変更し、三連射。二発命中。うち一発は、装甲の覆っていない左下腹部! 絶対防御が発動し、シールド・エネルギーが一気に、一割以上激減した!

 

「この時間は、わたくしとあなた、二人だけの時間のはずでしたのに!」

 

「だから、わたしにはそんな趣味はないって……!」

 

「よりにもよってあの男が作った武器を持ち出すなんて! あなたを傷つける、あの男の……!」

 

 怒れる瞳のセシリアは、不安定な姿勢のまま、レーザー・ライフルで反撃した。

 

 攻勢へと意識を傾けていたせいで、防御がおろそかになっていた。

 

 一条の閃光が浮遊シールドの合間を縫って左手のアーマーに着弾。シールド・エネルギーの残量は、残り十三! 直撃弾はもとより、かすっただけで致命傷となりかねない。

 

 しかし、陽子は自機の負ったダメージを歯牙にもかけなかった。

 

 あと一発。

 

 あと一発、攻撃を食らった時点で、自身の敗北が決定するというのに、彼女は構わず、前進し、《トール》を撃つ。トリガーにかけた指先に、燃えたぎる怒りの激情を篭めて、撃つ!

 

「前にも言ったけど……!」

 

 着弾。相手のシールド・エネルギーは、残り半分! しかし、快哉の雄叫びは上がらない。それどころか、唇からこぼれる呟きは、怒りで震えていた。

 

 言いたい放題。そして、言われたい放題。目の前の女からも。世間の連中からも。いい加減、頭にきた。

 

「何の事情も知らない人間が、父さんのことを悪く言うな!」

 

 地上へと逃げるセシリアを追って、こちらも地表へ。途中、先ほど投棄した《焔備》を拾い、残弾心許ない《トール》のバック・アップとして、左腕で片手撃ち。アクチュエータの機能低下が著しい左腕アームのマニュピレータの中で、五一口径の反動から、アサルト・ライフルが激しく震えた。セシリアは悠々避けるが、逃れた先で、《トール》の閃光に襲われた。身をひねり、直撃は回避。光線はほんの少しだけ機体を擦過し、シールド・エネルギーを僅かに削った。

 

「セシリア・オルコット! わたしは、あなたが嫌いだ! あなただけじゃない。世界中にいる、あなたみたいな女たちが嫌いだ!」

 

 女尊男卑。自分の大切なものを、ことごとく奪い、蹂躙し、壊した。この世界に蔓延する、最悪の思想。セシリアの、そしてこのアリーナにつめかけた女子生徒たちのほとんどの中に存在するであろう、その考えに、陽子は、怒りを叩きつけ、吼えた。

 

「あなたが、あなたたちみたいな考え方の女が……っ!」

 

「ッ!」

 

 《焔備》で牽制射撃を叩き込み、動きが遅速した瞬間を、《トール》で衝く。初心者らしからぬ戦法を、苦悶の表情のセシリアは曲線的な回避運動でなんとか凌ぐ。

 

「わたしから父さんを奪ったんだ! 智也兄さんを殺したんだ!!」

 

「……え?」

 

 智也。兄。殺した。

 

 それらの言葉を理解するまでに、コンマ五秒、たっぷり時間を要してしまった。

 

 悲鳴とともに放たれた、二・六メガワットの光弾が、茫然とし、束の間、動きを止めてしまったセシリアの右腕を射抜いた。

 

 衝撃を自覚し、はっ、と我を取り戻す。見れば、《スターライトmkⅢ》の銃口を向けたその先で、陽子の頬は涙で濡れていた。

 

 驚愕に背骨を撃ち抜かれたのは、セシリアばかりではない。

 

 観客席に座る生徒たちや、ピットルームの箒も、そういえば、と表情を凍りつかせていた。

 

 週刊ゲンダイの例の号には、元妻と離婚した際、鬼頭の二人の子どもたちの親権は、向こう側のものとなった、と確かに明記されていた。

 

 特集記事は、鬼頭がいかに悪辣な男であるのかをメイン・テーマに編集されており、子どもたちの詳細については紙幅をあまり割かれていなかった。

 

 鬼頭がISを動かせることが判明し、彼もまた娘と一緒にこのIS学園に通うことになった。では、もう一人の子は? 陽子の双子の兄……すなわち、自分たちと同年代のはずの彼は、いま、どこで何をやっている? いまも母親と一緒に、暮らしているのか? ……いや、暮らしていてくれ! 母親と二人、幸せに暮らしていると言ってくれ! 鬼頭智之のごときろくでなしから離れられたことで、幸福な毎日を送っている、と誰か言ってくれ!

 

 少女たちの願いは、しかし、叶わない。

 

 怒りと、悲しみから、顔をくしゃくしゃにしながら、陽子は《焔備》を、《トール》を撃った。

 

 戸惑うセシリアに向けて、撃った。

 

「父さんはわたしを助けてくれたんだ! 智也兄さんを殺したあの家から……、あの二人から!」

 

 晶子は、自分の身がいちばん大切、という女だった。

 

 あの女は、自分があの男に襲われたときでさえ、母親として、娘のこと守ろうとはしなかった。

 

 それどころか、自分から最大の庇護者を奪い、己の安寧を脅かす存在として、陽子を罵り、攻撃した。

 

 新たに父となったあの男も、自分を愛してはくれなかった。陽子をレイプしたのも、歪んだ愛情ゆえの行為ではなく、ただ、自身の性欲と攻撃欲を満たしたいだけだった。

 

「父さんだけだった! 智之父さんだけが、わたしを愛してくれた!」

 

 そんな父を、悪人と評した週刊誌。週刊誌の記事を鵜呑みにし、鬼頭に攻撃的な眼差しを向けるクラスメイトたち。そして、彼のことを……、陽子の、いちばん大切な人を、情けないと侮蔑し、あまつさえその理由に、自分を使った、目の前の女!

 

 今日この瞬間まで、陽子は鬼頭に心配をかけまいと、社会に対する不満をすべて自らの内に溜め込み、父たちの前ではそうした話題を決して口にしなかった。

 

 しかし、もう、我慢の限界だった。

 

 限界いっぱいまで水を溜め込んだダムが決壊するように、陽子は莫大な感情の奔流を舌に載せ、叫んだ。

 

「わたしはっ! お前たちが嫌いだ! お前たちを許さない!」

 

 セシリアを、正面に捉えた。

 

《焔備》を撃ち尽くす。放り捨て、《トール》を両手で構えた。

 

 陽子が引き金を引き絞るよりも先に、《スターライトmkⅢ》が火を噴いた。

 

 浮遊シールドでブロック。耐久限界をとうとう超過したスライド・レイヤー装甲が、レーザーの命中した部分から融解する。

 

 遅れて、陽子も《トール》を発射。と同時に、手の中の拳銃のエネルギーがエンプティ状態になったことを示すサインが、意識の中に直接送り込まれた。

 

 ――当たれ!

 

 最後の一発は、正面きってセシリアを襲撃した。狙いは装甲で被覆されていない腹部。シールド・エネルギーがまだ五割近くある相手を、一発で仕留めるには、絶対防御を発動させるしかなかった。

 

「その射線は……!」

 

 そんな目論見を、見抜けぬ代表候補生ではない。文字通り光の速さで発射された光弾を防御するのは困難だが、あらかじめ射線が分かっていて、備えることが出来たならば――、

 

「読んでいましてよ!」

 

 セシリアは《スターライトmkⅢ》を発射直後に放り投げていた。

 

 《トール》の銃口より放たれた光弾が、落下するスナイパー・ライフルの機関部を穿つ。レーザーの熱エネルギーはその大半をライフル銃を焼くために費やされ、貫通後、ブルー・ティアーズに命中するも、シールド・エネルギーへのダメージは微少にとどまった。

 

 陽子の顔が苦渋に歪み、セシリアの美貌が会心の笑みでほころんだ。

 

 ブルー・ティアーズの背後で、最後のBT兵器が射出される。片翼をもがれた《ブルー・ティアーズ》は弱々しく飛行した後、こちらに砲口を向けた。

 

 陽子は《トール》を放り捨て、残る一枚の浮遊シールドを右手で、むんず、と掴むや、引き寄せる。

 

「これで、終わりですわ!」

 

 《ブルー・ティアーズ》から、連続して光線が発射された。

 

 一発、二発とシールドを焼き、やがて耐用限界を迎えた装甲板が、力なく溶解していった。

 

 盾で隠れていた陽子の姿が、露わとなる。

 

 セシリアの笑みが凍りついた。

 

 反対に、陽子の口元には冷笑が浮かんでいた。

 

 陽子の左手の回りで、光の粒子が踊っていた。

 

「誰も、一挺しかない、なんて言ってないよ!」

 

 鬼頭がこの試合に間に合わせられなかったのは、予備のバッテリーのみ。

 

 シールドで手元を隠しながら展開した二挺目の《トール》の射撃モードを、ストレートに設定。

 

 左腕を前に突き出し、トリガーに指をかけた。

 

 やや遅れて、セシリアも《ブルー・ティアーズ》にさらなる射撃命令。

 

「そっちこそ、これで終わりだ!」

 

 そのとき、打鉄の左腕アームから、大粒の砂を噛むような嫌な音が軋み鳴った。

 

 ダメージの蓄積が許容量を超過した左腕のパワーアシスト機能が、急にダウンした。

 

 指先から、掌から、力が抜け、陽子は、レーザー・ピストルを取り落としてしまう。ストレート・モードで、トリガーを引き絞った後の拳銃を。

 

 《トール》はレーザーを発射しながら落下した。

 

 一条の光線が打鉄の右足をかすめ、シールド・エネルギーの残量が、ゼロに。

 

 試合終了のブザーが鳴った。

 

 『勝者、セシリア・オルコット』という自動音声によるアナウンスが場内に響き渡ったのは、遅れて放たれた《ブルー・ティアーズ》のビームが、陽子の胸を焼いた直後のことだった。

 

 陽子の口から悲鳴が上がった。

 

 即座に絶対防御が発動するも、この機能はとにかくエネルギーを喰う。激しい戦闘の直後でガス欠寸前の打鉄はあっという間にエネルギーを使い果たし、全機能が、停止した。鎧具足を着込んだまま、陽子の身体が落下する。

 

 今度はセシリアの口から悲鳴が迸った。

 

 ISには操縦者の身体を防護するための様々な機能が備わっているが、斯様にエネルギーを消耗している状態では、それもちゃんと発動してくれるかどうか……。もし、発動しなかった場合、陽子は数百キログラムもの重りを着込んだ状態で、地面に衝突することになってしまう!

 

 慌てて助けに向かおうとするセシリアは、しかし、地上へと目線を向けて、動きを止めた。

 

 陽子が墜ちていくその先ではすでに、打鉄を纏った鬼頭が立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『これで、終わりですわ!』

 

 試合に熱中するがあまり、自身の機体がいまどんな状態にあるのかすっかり忘れている陽子とは違い、ピットルームで状況を冷静に客観視していた鬼頭は、その瞬間がやってくるずっと以前に、不味い! と、表情を硬化させた。

 

 千冬たちが止める間もなくピットゲートへと駆け込むや、制服姿のまま打鉄を展開。事故防止のため降りている防護シャッターを、ISの腕力をもって無理矢理こじ開けた。

 

 第三アリーナ内に侵入した彼は陽子たちの姿を求めて目線をさすらわせ、愛娘の体を、《ブルー・ティアーズ》のレーザーが叩く瞬間を目撃した。

 

「陽子ぉ!」

 

 猛スピードで、落下が予測される地点へと打鉄を繰り出した。スカートアーマーに搭載されたロケット・モーターは最大噴射。その推進力を、PICの制御で一旦、機体に取り込み、圧縮し、噴射する。爆発的な加速を得た彼の体は、砲弾のように落下予測地点へと到着した。顔を上げる。娘の体は、まだ空にあった。

 

 ふわり、と宙へ飛び上がり、戦装束に身を包んだ愛娘の体をしっかりと抱きとめる。

 

 懐かしい感覚。

 

 彼女がまだ幼かった頃に、何度もしてやった。

 

 抱っこの姿勢で陽子を支える鬼頭は、だらり、と四肢を力なくぶらぶらさせている彼女の脇の下に右腕を通し、腰から支えた。

 

「……父さん?」

 

 耳元で囁かれた声は、疲弊していた。セシリア・オルコットとの試合は、それほどの消耗を彼女にしいていた。

 

「ああ、そうだよ。お父さんだ」

 

 なぜ、アリーナ内に鬼頭がいるのか。疑問に思う陽子に、鬼頭は優しく語りかけた。

 

 彼女は鬼頭の腕の中で辺りを見回し、自分がいまどういう状況にあるのか、試合はどうなったのかを悟って、悄然と呟く。

 

「……ごめん。負けちゃった」

 

「なんで謝る必要がある?」

 

「オルコットさんに、父さんのこと、ちゃんと謝らせるつもりだったのに……負けちゃったから」

 

「気にしないよ。それよりも、お前が父さんのために戦ってくれたこと、それ自体が嬉しいよ」

 

「あと、情けない姿も見せちゃったし……桜坂さんと二人で、あんなに協力してくれたのに」

 

「何を言うか。代表候補生を相手に、お前は正面から堂々と戦い、互角以上に渡り合ったんだ。立派だったぞ。この場に桜坂もいたなら、きっと、お前の健闘ぶりを褒めてくれるさ」

 

「……嬉しいな」

 

「うん?」

 

「父さんと桜坂さんは、ちゃんとわたしのことを見てくれる。わたしのことを見て、褒めてくれる。頑張ったね、偉いね、って、わたしのことを認めてくれる。それが、すごく、嬉しいの」

 

「……そうか」

 

 ゆっくりと降下しながら、優しく、優しく、何度も背中を撫でさすり、小さく叩いた。

 

 地上へと降り立った鬼頭は、彼女をそうっと下ろして、パワーアシスト機能を喪失した打鉄をその場に座らせた。

 

 改めて陽子の体をしげしげと眺め、バイタルに異常がないか検分する。何の異常サインも出ていないことを認めて、鬼頭はようやく安堵の溜め息をついた。と同時に、先ほどからやかましいピットルームからの通信の呼びかけに、応答する。

 

「……こちら鬼頭ですが」

 

『鬼頭さん! あなた、いきなり何をやっているんですか!?』

 

 通信マイクを握っていたのは、意外にも山田真耶だった。はて、千冬はどうしたのか。

 

「申し訳ありません。モニターを見ていたら、陽子の打鉄が異常な反応を示していることに気づきまして、その、陽子が危ない! と、思ったら、体がほとんど勝手に、動いていました」

 

『い、いくら娘さんのことが心配だからって、戦闘中のアリーナに強行突入するだなんて……流れ弾でも当たったら、どうするつもりだったんですか!?』

 

 通信機越しに耳膜を叩く真耶の声は震えていた。怒りと、悲しみと、そして安堵。自分のことを心配してくれたのか、と知って、鬼頭は、叱られている立場にも拘わらず、嬉しくなった。

 

「本当に申し訳ありませんでした。ピットゲートの修繕費については、後日、必ずお支払いしますので」

 

『鬼頭さん』

 

 今度こそ、千冬の声だった。こちらも声が震えているが、真耶ほどではない。震えの原因たる感情も、どんなものなのかうかがえない。

 

『お嬢様の様子は?』

 

「打鉄のハイパーセンサーで検めた限り、外傷などは認められません。試合直後なので、疲れてはいるようですが……」

 

『そうですか……。よかった』

 

「ええ。本当に。……一旦、通信を切ります。すぐ、陽子を連れて、そちらに向かいますので」

 

 通信を切った鬼頭は、上空を睨みあげた。宙に浮かぶ蒼騎士の少女が、びくり、と胴震いする。鬼頭の表情は怒りで禍々しく歪んでいた。細面の彼だが、怒りの形相は阿修羅のように恐ろしい。

 

「……ミス・オルコット、念のため、確認しておきたいのですが」

 

「な、なんです?」

 

 聞き返すセシリアの声は震えていた。鬼頭に対する嫌悪感を忘れてしまうほどに、地上に立つ男の発する怒気に怯えている。

 

「BT兵器による最後の一発は、試合終了のブザーが鳴った後に発射されました。打鉄のシールド・エネルギーが空っぽになったのは、左腕が突然停止するという、不意の事故が原因です。タイミング的に、射撃中止の命令が間に合わなかったのでしょう。あの一発は事故だった、と私も思います。

 

 しかし、です。もしも、ミス・オルコットがエネルギーを切らした相手に対しわざとそうしたのだとしたら、私は陽子の父親として、あなたを許すわけにはいかない」

 

 目の前で娘をさんざん痛めつけてくれたことに対する憤りは、当然ある。しかし、それも試合中の出来事であれば、渋々だが納得出来る。

 

 セシリアの攻撃は最後の一発を除いて、すべて公式レギュレーションが定めるルールの範囲内のものだった。ましてや、今回の試合は、平静さを欠いていたとはいえ陽子自ら望んだ対決だ。痛みや苦しい思いは覚悟のうち。これに対し文句を口にすれば、モンスター・ペアレントなどと呼ばれても仕方ない。

 

 しかし、試合終了後に放たれた攻撃については別だ。明らかなルール違反であり、自身と対戦相手のみならず、試合に関わった人間全員を侮辱する行為といえる。陽子の父親だから、というだけでなく、一般論として、卑劣な行動に走った相手を許せない。

 

 だが、今回は判定が難しい状況だ。《ブルー・ティアーズ》の銃口が火を噴いたタイミングを考えると、イメージ・インターフェースを介して発射命令が下されたのは、ブザーが鳴り始める前だったと考えられる。ブザーが鳴り始めたときにはもう、レーザーは発射された後で、止めたくても止められなかった、と推理するのが自然だろう。

 

 問題を複雑化しているのは、セシリアが鬼頭に対して悪感情を持っていることだ。憎い男の作った発明品に追いつめられた事実に腹が立ち、悪意をもって、射撃中止の命令を下さなかった。プライドの高いセシリアの性格を鑑みるに、その可能性は低いが、万が一、そうだとしたら――、

 

 ――絶対に許さない。俺のすべてを懸けて、この女を叩き潰す!

 

 ISに搭載されているイメージ・インターフェースは、操縦者の思考を読み取り、脳が生み出す信号の出力を増幅し、機体の動きに反映させる、という仕組みだ。

 

 セシリアに対する怒りを読み取った打鉄のイメージ・インターフェースは、その莫大な感情のエネルギーを、ハイパーセンサーの機能へと反映させた。鬼頭の目には、宙に浮かぶ少女の顔が、かつて誰よりも陽子を手酷く傷つけた女……晶子のそれと映じていた。

 

「どうなのです、ミス・オルコット!?」

 

「……いまから口にすることは、オルコットの家名に懸けて、嘘偽りない本当のことだと、誓いましょう。最後のレーザー攻撃は、止めなかったのではなく、止められませんでした。わたくしの技術が、未熟だったせいです。そのせいで陽子さんに、味わう必要のない痛みを与えてしまいました」

 

 観客席が、また騒然とするのが見えた。あのプライド高いセシリア・オルコットが、自らの未熟さを認め、不明を恥じた。その事実に、一同驚きを隠せない。

 

 鬼頭は眉一つ動かさない。硬い表情のまま、「そうですか」と、呟いた。

 

 セシリアは機体を降下させ、地上に降り立った。鬼頭のもとへ歩み寄ると、日本式に、深々と腰を折る。

 

「本当に、申し訳ありませんでした」

 

 観客席の生徒たちは、重ねて襲いかかる衝撃に、とうとう発するべき言葉を見失ってしまう。

 

 セシリアは顔を上げ、鬼頭の顔を見つめた。

 

「……わたくしからも、確認させてください」

 

「なんでしょう?」

 

「鬼頭智之さん、あなたは、陽子さんのことを愛していますか?」

 

「当然です」

 

 愚問だったな、とセシリアは自省した。彼女のために、こんな顔が出来る男だ。愛していないはずがない。

 

「では……、ではなぜ! 週刊誌の記事は捏造だと、声高に訴えないのです!? 陽子さんを愛しているのなら、なぜ……!?」

 

 鬼頭は束の間、沈黙を挟み、ほんの少しだけ、頬の筋肉を緩めた。

 

「そんなの、決まっていますよ」

 

 微笑。

 

 その優しい笑顔に、観客席の女子生徒たち、ピットルームの千冬ら、そしてセシリアは、目を奪われた。

 

「陽子を、愛しているからです」

 

 アリーナ内の大型電光掲示板に、『セシリア・オルコットは試合後の射撃により失格。勝者 鬼頭陽子 に変更』のアナウンスが表示された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter9「激昂する銃」了

 

 

 

 

 




オリジナル兵装

鬼頭智之製作 レーザー・ピストル《トール》

出力  2.6MW
全長  460mm
重量  3,200g
動力  大容量バッテリー・マガジン方式
    連続照射可能時間はマガジン一個で最大16秒間
    発射弾数は16発

 鬼頭智之が娘・陽子のために製作したレーザー・ピストル。

 その形状は銃身が六インチ・モデルのコルト・ウッズマンをISサイズに拡大したような見た目で、火薬式拳銃でいう機関室と銃身部に、レーザー・ユニットを搭載している。

 レーザー・ユニットはXI-02に搭載されたエネルギー・ブラスト・システムを、戦闘目的用に洗練した物で、遼子化技術の採用と構造の見直しにより、高出力化と扱いやすさの向上を達成している。IS本体から電力を供給する方式ではないため、エネルギー送受信用の特殊バイパスを持たないISでも運用が可能。IS用ビーム兵器としては破格の汎用性を誇る。

 射撃モードは、レーザー光線を照射し続けるストレート、光線をパルス光弾として発射するバレット、霧吹き状に発射するスプレーの三つを備えている。

 銃自体にも簡易的なセンサーが搭載されており、ISのハイパーセンサーと連動させることで、初心者でも高精度の射撃を可能としている。なお、照準器の調整には陽子の射撃データが使われており、彼女が手にした際に最も性能が発揮される仕様となっている(見た目がウッズマンなのも、陽子が気に入った銃だから)。

 出力は二・六メガワット。照射面積は直径九・七ミリ。この出力をこの面積に集中させると、中心温度は五万度近くに達し、一秒間の照射で厚さ六メートルの鉄板を貫通する。実はわりととんでもない兵器だったりする。

 《トール》という名前はダイハツのトールから。




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Chapter10「この小さな世界で家族の愛の形について考えよう」

普段とはちょっと投稿時間を変えてみました。

反応の違いなんかを見てみたかったので。



ところで信じられるか?

20万字以上も書いて、まだ一巻の半分ぐらいなんだぜ?

ちなみに手元のオーバーラップ版の文庫は一ページあたり17行、一行最大40字。

一巻の半分というと130ページぐらいのところさ。

つまり、全行40字で換算したとしても9万字に届かねえんだ。

……文章構成力低スギィ!


 クラス代表決定戦当日。

 

 IS学園、第三アリーナ――、

 

 

 

 

 織斑一夏とセシリア・オルコットの試合は、陽子との対決が終わって三十分後に開始された。

 

 Aピットから闘技場内に飛び出した一夏は、最新の第三世代機をその身に纏っていた。XX-01。和名を、白式。左右の肩部に展開稼働する高出力スラスターを装備した、機動性に優れる近接格闘型のISだ。和名が示す通り、打鉄を全体的に大型化したようなシルエットの鎧具足には、白を基調としたカラーリングがなされている。武装は近接ブレード一振のみという割り切った仕様で、二基のスラスターが生み出す圧倒的推進力をもって速やかに接近、一撃を叩き込み、離脱するという、ヒット&アウェイ戦法に最適化された機体と考えられた。

 

 対するセシリアは、休憩時間中に機体のエネルギー補給と、消耗した兵装を予備の物と交換し終えた、万全の状態のブルー・ティアーズで、一夏のISを迎え撃つ。

 

 両者はISアリーナの中央まで移動し、睨み合った。

 

 やがて試合の開始を告げるブザーが鳴り響き、二人はほとんど同時に動き出した。

 

「おおおっ!」

 

 刀身だけで一・五メートルはあろう近接ブレード《雪片弐型》を八相に振りかぶり、一夏はブルー・ティアーズに向かって突進した。猛烈な加速力! 対するセシリアは、冷静に軌道を読み解き、これを、ひょい、と避けた。円弧を描く回避機動の勢いを殺さぬまま背後に回り込み、急停止・急加速の技術を習得していない少年の背中を、狙撃モードのレーザー・ライフルで撃つ。高出力のレーザーはシールド・バリアーを貫通し、胴鎧の背面部に実体ダメージを叩き込んだ。一夏の端整な顔立ちが苦悶に歪み、ただでさえふらふらと安定しない飛行姿勢が大きく乱れた。追い撃ちを仕掛けるには絶好のチャンス。間髪入れずに、《スターライトmkⅢ》の射撃モードをバトル・ライフルへと変え、連射した。

 

 アリーナ内に、少年の絶叫が轟いた。

 

 

 

 

 

 

 Aピットルームでは、陽子、千冬、箒の三人が、両者の試合を観戦していた。

 

 陽子はこの次、戦うことになるかもしれない相手の手の内を探るべく、箒は、幼馴染みの少年の身を案じる気持ちから、リアルタイムモニターを食い入るように眺めている。

 

 モニターの中で、一夏は苦戦していた。白式の間合いの外から銃撃の嵐を浴びせてくるセシリアに対しなす術なし、防戦一方の試合展開から、抜け出せないでいる。

 

 そもそも、近接格闘型の白式と、中距離射撃型のブルー・ティアーズとでは相性が悪い。一夏が有効打を叩き込むためには、相手に近づかなければならないが、セシリアの方は間合いを一定以上保つよう努めているだけで、優位生を得ることが出来る。加えて、操縦経験の浅い一夏には、接近戦に持ち込むための技術がまったく足りていなかった。

 

 一夏の操縦技術は、はっきり言って未熟だ。空中を移動する際の飛行姿勢はふらふらと安定せず、素人目にも、無駄な動きが多い、とはっきり判るほど。白刃を煌めかせながら突撃していく姿は勇ましいが、機動は直線的で、読みやすかった。肩の高出力スラスターにしても、常に全開か、アイドリング状態かの二択なので、相手は加減速を織り交ぜたフェイントを警戒する必要がない。結果、一夏の突進は難なく避けられ、その度に反撃の射撃を浴びせられる、という光景が、試合が始まって以来、何度も繰り返されていた。

 

「織斑先生」

 

 モニターに目線を向けたまま、陽子が口を開いた。画面の両脇に表示されている、白式のステータスのうち、武装一覧の欄を示して訊ねる。

 

「……これ、織斑君に勝ち目はあるんでしょうか?」

 

 モニターの表示によれば、白式の武装は、近接ブレードが一振のみという、思いきった仕様だ。牽制用の射撃兵装は勿論、予備のブレードさえ搭載されていない。

 

 近接格闘戦の難しさは、一週間前の作戦会議の場で、桜坂から何度も指摘されたことだ。こんな玄人向けの機体を初心者の一夏にいきなり与えたところで、性能を十全に発揮出来るとは思えない。

 

 機体の相性で不利を抱え、操縦技術でも相手に劣り、おまけに待望の専用機は扱いづらい仕様という三重苦。こんな重荷を背負った状態で、一夏に勝ち目なんてあるのか。

 

 はたして、千冬からの返答は残酷だった。

 

「十中八九、負けるだろうな」

 

 身贔屓を一切感じさせない物言いに、陽子の隣に立つ箒が驚いた表情を浮かべた。姉として、弟の勝利を信じていないのか。

 

 千冬は公私の分別を徹底した、冷然とした声で続ける。

 

「実力で勝る方が勝つ。ISバトルに限らず、あらゆる競技スポーツに共通する真理だ。剣道家のお前なら、理解できるはずだが?」

 

「それは……しかし……!」

 

「でも、スポーツの世界には番狂わせ、っていうのがあるじゃないですか?」

 

 憤る箒の言葉を遮って、陽子が言った。

 

「少なくともわたしは、そういうこともある、って信じながら、今日まで準備してきました。……結果は、相手のミスに救われた形でしたけど、一応、勝ちは勝ちです。織斑君だって、それは同じはずです。織斑君に、ジャイアント・キリングのチャンスはないんですか?」

 

「……そうだな。だからこその、十中八九だ」

 

 千冬はリアルタイムモニターに表示された白式の諸元のうち、武装一覧、近接ブレード《雪片二型》の項目を示した。

 

「白式の近接ブレード《雪片弐型》には特殊攻撃が設定されている。バリアー無効化攻撃《零落白夜》。これを当てることが出来れば、織斑にも勝機はある」

 

「バリアー無効化攻撃?」

 

「それって、織斑先生が現役時代に使っていた……」

 

「そうだな。私のIS暮桜のワンオフ・アビリティーだ」

 

 目の前の女性をかつて世界最強の座に君臨させた特殊攻撃が、バリアー無効化攻撃《零落白夜》だ。

 

 文字通り、ISのシールド・バリアーの存在を無視した打突を可能とする機能で、これはISバトルという競技スポーツにおいて、絶大な威力を発揮する。シールド・バリアーが無効化されれば必然、『絶対防御』が発動する。この状態で攻撃が命中すれば、シールド・エネルギーは大幅に削がれることになるからだ。軽い一当てで一気に勝負が決まるという、まさに必殺の切り札といえた。

 

「勿論、弱点もある。《零落白夜》は強力だが、それだけに燃費が悪い。発動には多くのシールド・エネルギーが必要だ。初心者の織斑では、そういった細かいエネルギー管理は難しいだろう。それに、発動母機が近接ブレードだ。攻撃を当てるためには、相手に近づかなければならん。これも、扱いの難しいところだな」

 

「なら、安心ですね」

 

 箒はほっと胸をなで下ろした。

 

「一夏はこの一週間、わたしと剣の稽古に励みました。はじめはどうしてこんなにも弱くなってしまったのか、と頭を抱えましたが、いまでは昔の感覚をそれなりに取り戻せています」

 

 次々と明かされる新情報を、陽子は頭の中で整理していく。

 

 二人の会話から察するに、一夏と箒は剣道経験者で、箒は現役、一夏の方は、彼女と別れて以来、鍛錬を怠っていたということか。そしてこの一週間は、昔の感覚を取り戻すために連日、剣道の稽古に励んでいた、と……おや? ISの稽古は?

 

「それに対し、オルコットの体捌きからは格闘戦が得意という印象を受けません。いまの一夏の技術なら、オルコットに一当てするぐらい簡単でしょう」

 

「馬鹿者。それは近接格闘戦に持ち込めれば、の話だろう」

 

 接近戦をこなす技術と、接近戦に持ち込むための技術は、両方が揃ってはじめて威力を発揮する、いわば自転車の両輪だ。片方だけであっても、自転車は前に進むことは出来ない。

 

「十中八九と言ったのは、つまり、そういうことだ。織斑には一撃必殺の武器があって、それを当てることが出来れば、オルコットにも勝てるだろう。しかし、いまのあいつには、それを当てるための手段がないんだ」

 

「織斑君は、運も悪かったですね」

 

 ピットルームに設けられたIS用ハンガーで、先ほどの試合で陽子が着ていた打鉄のダメージ・チェックをしていた鬼頭が、三人のもとへやって来た。どうやら作業が一段落したらしい。かたわらでは、真耶がタブレット型端末を操作し、情報をまとめている。

 

「専用機の到着が遅れたために、この一週間、ISを用いての訓練が出来なかった。たとえ一時間……いや三十分でも、操縦経験があるのと、ないのとでは、実戦での動き方に大きな違いが出たでしょう」

 

「運が悪いと言えば、試合順もですよね」

 

 鬼頭の後に、真耶が続いた。

 

「鬼頭さんとの試合では、オルコットさんには明らかな油断がありました。所詮、相手は初心者にすぎない、と侮りからくる慢心があったのだと思います」

 

 そういえば、と陽子はこれまでの試合経過を振り返り、得心した様子で頷いた。

 

 目線の置き方や言葉遣いといった態度の端々から、舐められているな、とは感じていた。悔しいと思う反面、だからこそ、初心者の自分でも、代表候補生を相手に互角以上の戦いを演じられたのだ、と彼女は先の試合を分析していた。

 

 桜坂仕込みの作戦や、父謹製のレーザー・ピストルが効果的に作用したのも、セシリアがそういう心持ちでいてくれたからこそ。相手は初心者と油断しきっていたところに、強烈なパンチをもらって心の動揺が生まれた。そうしてできた精神の隙を上手く衝けたからこそ、自分ごときの腕でも、あそこまで追いつめることが出来たし、相手の反則によるものとはいえ、勝ちを拾うことも出来た。

 

「ですが、織斑君と戦っているいまのオルコットさんの態度からは、そういった慢心の類いは一切感じられません」

 

 セシリアとはまだ短い付き合いだが、プライドの高い人物だろうとは容易に想像出来る。あのような形とはいえ、初心者相手に敗北したことは、彼女にとってさぞや屈辱的な体験だったろう。一夏を睨む眼差しからは、素人相手に二度と無様をさらすまい、という強い意志がうかがえた。

 

 先の自分との試合では、あんなに多弁だったのに、一夏との対決では不気味なほど寡黙なままだ。余計な会話に気を回してなどいられない、ということか。

 

「試合の順番が入れ替わったのは、白式の到着が遅れたという予期せぬアクシデントのためでした。それさえなければ、織斑君も初心者相手で油断しているオルコットさんと戦っていたでしょう」

 

「山田先生、鬼頭さん」

 

 千冬は真耶の手の中のタブレット端末を示して訊ねた。

 

「鬼頭の打鉄ですが、ダメージの方はどうでした?」

 

「率直に言って、次の織斑君との試合は無理ですね」

 

 鬼頭は眉間にくっきりと深い縦皺を刻みながら言った。真耶も、手元のタブレットに打ち込んだ情報を改めて精読し、溜め息をつく。

 

「オルコットさんとの試合で、ダメージを受けすぎましたね。学園の設備をもってしても、修理には二日はかかるでしょう」

 

「……ということは、次のわたしと織斑君の試合は?」

 

「このままだと、織斑君の不戦勝だな」

 

 鬼頭は渋面を作る千冬を見た。

 

「織斑先生、他に貸出可能なISは?」

 

「残念ですが。すぐに用意出来る機体はありません」

 

「そうすると、厄介な事態になりそうですね」

 

 鬼頭は溜め息をついた。リアルタイムモニターに映じる二人の戦いぶりに目線をやる。相変わらず一方的な展開が続いていた。白式のシールド・エネルギーの残量は、三割を切っている。

 

「このままだと……」

 

 鬼頭が言いかけたそのとき、試合が動いた。

 

 このままでは埒があかぬ、と焦れた一夏が、多少のダメージは覚悟の上で、ブルー・ティアーズに向けて正面より突撃を敢行した。長大な《雪片弐型》は脇にとり、肩の高出力スラスター・ユニットを盾としながら向かっていく。

 

 これを迎え撃つセシリアは、ついに虎の子のBT兵器《ブルー・ティアーズ》を四機射出。砲弾と化した少年の身をあっという間に取り囲むと、前後左右に上下を加えた様々な方向から、光線を吐き出した。

 

「……やっぱ、ずるいよなあ、あれ」

 

 陽子が辟易とした表情で、うへぇ、と溜め息をついた。

 

 かたわらに立った鬼頭は対照的に、「やはり素晴らしい技術だ」と、知的好奇心に満ち満ちた輝く眼差しを向けた。

 

 《ブルー・ティアーズ》の低出力レーザーに焼かれながらも、一夏はセシリアとの間合いを詰めるべく、すべてのエネルギーを前進のため費やした。ここで防御や回避に意識を向ければ、その分だけ動きは遅速し、セシリアとの距離がまた開いてしまう。それを嫌ったがゆえの判断だ。

 

 カタログ・スペックによると、白式の機動性は四機の《ブルー・ティアーズ》をはるかに凌駕している。包囲網さえ突破出来れば、後ろから追いつかれる心配もないだろう。改めて、正面のセシリア一人に集中出来るはずだった。

 

 問題は、セシリアとの間合いを詰めるまでに、必殺の『零落白夜』を発動するだけのシールド・エネルギーを残せるかどうかだが、はたして……、

 

『――獲った!』

 

 なんとかBT兵器の包囲網から抜け出し、セシリアを自らの間合いの内におさめた一夏は、会心の雄叫びを上げた。

 

 脇に構えた《雪片弐型》の刃を立て、地擦り一閃。《スターライトmkⅢ》の砲口を切り落とす。対IS装甲用の白刃の切っ先が宙で円弧を描き、一夏はブレードを上段へと振りかぶった。一・五メートルの刀身が、白熱した輝きを宿す――――ワンオフ・アビリティー『零落白夜』。かます切っ先が振り下ろされんとした寸前、

 

 ブルー・ティアーズのスカート・アーマーから、何かが、射出された。

 

「五機目のBT兵器!?」

 

 陽子が、自分との試合では使われなかった切り札の姿に目を剥いた。

 

 しかもこのBT兵器は、先ほどまでの低出力レーザー・タイプではない。

 

 『零落白夜』の機能では無力化出来ない、実体弾……ミサイル・タイプだ。

 

 一夏の姿が、爆発の炎に包まれた。

 

 闘技場内に大型電光掲示板に、『勝者 セシリア・オルコット』の表示がなされた。

 

 千冬はそれを忌々しげに眺め、

 

「これで鬼頭が一勝、オルコットが一勝、そして次の試合で織斑が不戦勝だから一勝だな」

 

 三人の勝ち星の数が、揃ってしまった。

 

「クラス代表、どうしましょうか?」

 

 隣に立つ真耶も、困った表情を浮かべている。鬼頭が懸念した厄介な事態が、現実のものとなってしまった。

 

「……ところでお父様」

 

 教師二人が悩ましげに頭を抱えている他方で、陽子は鬼頭にひっそりと声をかけた。

 

「オルコットさんのことなんだけど……」

 

「どうした?」

 

「ほら、わたし、試合中にさんざん酷いことを言ってしまったじゃん」

 

 いま冷静に振り返ってみると、己を恥じずにはいられない。頭に血が上り、冷静さを失っていたとはいえ、彼女が知るわけもない智也のことまで口にして、罵声を浴びせてしまった。自分とて、彼女のことをよく知らないのに、他の女尊男卑主義者たちと、十把一絡げに扱ってしまった。

 

 セシリアにしてみれば、自身の理解が及ばぬことで罵られ、暴言を叩きつけられ、さぞや理不尽に感じたことだろう。

 

「それでオルコットさんに謝ろうと思うんだけど……」

 

 鬼頭に対し、数々の暴言を浴びせた彼女のことは許せないが、少なくとも、このことについては謝るべき、と陽子は考えた。

 

「そのときにさ、オルコットさんには、言っておこうかな、って思うんだ」

 

「……まさか」

 

「うん」

 

 表情を硬くした鬼頭を正面から見上げ、陽子は微笑んだ。笑いながら、華奢な肩が震えていた。

 

「父さんのこと、智也兄さんのこと、そして、わたしのこと、話せるだけのことは、話しておこうと思うんだ」

 

 なぜ、あんなにも罵られねばならなかったのか。謝罪の言葉を口にすれば、当然、相手はそれを疑問に思うだろう。自分はその問いに対し、答えを用意しなければならない。それをしないのなら、はじめから謝ろうなどと考えるべきではない。

 

 鬼頭は沈痛そうな面差しで愛娘を見下ろした。

 

 彼ら親子にとって、晶子との離婚が決まったあの日から鬼頭が再び親権を取り戻すまでの期間の記憶は、なるべくなら思い出したくない、いわば介抱に向かっている途中の心の傷だ。不用意に触れれば痛みに苛まれ、せっかくよくなり始めていたのがまた悪化してしまう。

 

 ――特に、陽子は……。

 

 自分と、陽子とでは、心に負った傷の深さが違う。己もまた妻と子を失ったが、彼女の場合はそれに加えて、義理の父に襲われた事実、実の母から見捨てられたショックがある。記憶の掘り起こし作業にともなう痛みは、己の比ではないだろう。

 

「それで、それでね……」

 

 事実、陽子の声は震えていた。過去の記憶を思い出すだけで、辛そうな表情を浮かべていた。

 

「その、オルコットさんと話すのは、わたし一人で、するからさ……お父さんには、そばにいてほしいんだけど」

 

「陽子。ああ、わかったよ」

 

 鬼頭は、硬い声音で話しかけた。

 

「父さんが、ずっと、そばにいてやるからな」

 

 せめて、この古傷の痛みが癒えるまでは。

 

 万感の想いを込めて、鬼頭は呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter10

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、一年一組のクラス代表については一旦、保留として、その日のお祭り騒ぎは解散となった。

 

 二試合を立て続けにこなしたセシリアは、さすがに疲弊した様子で第三アリーナはBピットルームに併設された更衣室を後にした。

 

 愛機ブルー・ティアーズは、待機状態たるイヤー・カフスの姿で、彼女の左耳を飾っている。

 

 ――今日はもう、部屋に帰ったらすぐにでもベッドに飛び込みたい気分ですわ。

 

 激しい運動による汗は更衣室に備え付けのシャワーですでに流し終えていたが、疲労感までは拭えない。

 

 夕食はどうしましょうかしら、などと考えながら、彼女は寮へと続く道のりを歩き出そうとして――、

 

「……あ、あら?」

 

「……どうも」

 

 いったい、いつからそこで待っていたのか。

 

 セシリアの行く手を遮るように、廊下のど真ん中で、鬼頭陽子が両腕を組み、仁王立ちしていた。

 

 フンス、と鼻息も荒々しい立ち姿は、本人としては迫力を出しているつもりなのかもしれないが、小柄な体格と童顔のせいか、小動物じみた愛らしさの演出の一助にしかなっていない。

 

 ――あら、可愛らしい……。

 

 つい先ほどまで熾烈な戦いを繰り広げた相手だということも忘れ、セシリアの口角は緩んだ。しかし、すぐに表情を引き締める。陽子のかたわらでは、彼女の父親が困惑した表情で立っていた。

 

「なあ、陽子……その、両腕を組む仕草なんだが……」

 

「父さん、何も言わないで。これは己の中の勇気を奮い立たせる、我々の業界では伝統のポーズなのです」

 

「我々の業界、って、いったい……」

 

「詳しくは『トップをねらえ』というアニメを見てください。そしていつの日かその技術力をもってわたしにバスターマシンを作ってください」

 

「う、うん。……ううん?」

 

 鬼頭は怪訝な表情で愛娘の顔を見た。件のバスターマシンとやらが何なのかは分からないが、なにやら、とんでもない頼み事をされたような気がする。

 

「というわけでオルコットさん!」

 

「ええと、何が、というわけ、なんですの?」

 

「ミス・オルコット、お気持ちはよく分かりますが、どうか、娘がいまから言う頼み事を聞いてはくれないでしょうか?」

 

「はあ……頼み事?」

 

「そう、長いお時間は、とらせないはずですので」

 

「はあ……」

 

「寮の夕ご飯の時間までには終わらせます。いざとなればわたしたち名古屋人のソウル・フード……エビフリャーを振る舞います! ……父さんが!」

 

「……娘よ、自分で作らないのか」

 

「わたしの料理スキルを侮るなぁ! わたしは、電子レンジでゆで卵を作ろうとして卵を爆発させたことのある人間だぞ!」

 

「……父さんはお前が嫁入りするときが心配でならないよ」

 

「そういうわけで!」

 

「……だから、何が、そういうわけ、なんですの!?」

 

「オルコットさんに、お話しがあります」

 

 陽子は、一転して神妙な面持ちと口調でセシリアに話しかけた。

 

 ようやく本題か。さっきまでの茶番はいったい何だったのだ、とセシリアも聞く姿勢を取る。

 

「さっきの試合で、わたし、オルコットさんにたくさん酷いことを言ってしまいました。そのことを謝りたいのと……それから、それから……」

 

「……陽子さん?」

 

 突然、舌の動きが鈍くなった陽子を怪訝に思いながら、セシリアはその先の言葉を促した。

 

 やがて彼女の前に立つ小さな少女は、決然とした口調で言った。

 

「父さんがなんで週刊誌の記事に対して反論しないのか、そのあたりの事情を、話しておこうと思って」

 

 セシリアの表情が硬化する。

 

 発言の内容に驚いたから、ではない。真実を語る。そう口にした陽子の額に、大粒の脂汗が浮いていたためだ。こころなしか、息づかいも荒い。堂々と胸を張っているように見えて、肩も震えている。

 

 ――なるほど、両腕を組んだそのポーズは、虚勢を張るため、ですか……。

 

 おそらくは、彼らが抱える事情とやらについて話すことは、彼女にそんな生理反応を催させるほどに精神的な負担を強いるのだろう。

 

 それなのに、なけなしの勇気を振り絞って、自分に話しかけてきたのか。

 

 セシリアの中で、目の前の少女に対する好意はますます募った。

 

「分かりましたわ」

 

 セシリアは頷いた。

 

 陽子の表情が、ほっ、と安堵から緩む。

 

「場所は、ここでいいですか?」

 

「……出来たら、わたしたちだけになれる場所がいいな」

 

 廊下では誰がやって来るか分からない。出来れば、この件については、余人を交えたくはなかった。

 

「でしたら……」

 

 セシリアは、一旦、離れることにしたBピットルームの扉を示した。

 

「あちらで、お話ししましょう」

 

 

 

 

 

 

 ピットルームの基本的な構造は、どの部屋も大差ない。

 

 セシリアはBピットルームの鍵をかけると、ISハンガーの脇に置かれたベンチに腰掛けた。拳三つ分ほどを隔てて、その隣に、陽子も腰を下ろす。鬼頭は、二人から少し離れた場所で、背中を壁に預けた。

 

「……お父上は、あれでいいのですか?」

 

「うん。父さんには、そばにいてもらうだけ。話自体は、全部わたしから、って約束なんだ。……わたしが謝るんだし、そうじゃないと、意味がないから」

 

 陽子は隣に座るセシリアに体を向けた。

 

「まずは最初に謝らせてください。セシリア・オルコットさん、わたしは先ほどの試合であなたに、酷い言葉をぶつけてしまいました。ごめんなさい」

 

 陽子はセシリアに向かって頭を下げた。英国人の彼女に、日本式の謝罪が通じるかどうかは分からないが、自分にはこれしか思いつかなかった。陽子なりの、精一杯の誠意の示し方だ。

 

 陽子が顔を上げると、セシリアの表情に、怒りの色はなかった。いやもともと、彼女は先の試合中における陽子の発言に対し、怒ってさえいなかった。

 

 彼女の中にあるのは、疑問だけだ。なぜ、鬼頭は週刊誌の記事は捏造である、としながらもそれを証明しようとしないのか。あの試合が終わった直後、彼は、陽子のため、と言っていたが、それはいったいいかなる理由なのか。セシリアは続く言葉を待った。

 

「そして、謝った以上は、答えなきゃならないよね。オルコットさんが思っているであろう、疑問に」

 

「ええ」

 

 セシリアは頷いた。

 

「そうしてくれると、助かります。そもそも、今日、わたくしたちがああして戦ったのは、それが原因なわけですし」

 

「うん。そうだよね」

 

 陽子は、目線をセシリアからはずし、鬼頭を見た。

 

 壁に背を預ける父は、声は発さず、唇だけ動かして、がんばれ、と言ってくれた。

 

 陽子は頷いて、訥々と、口を開いた。

 

「正直、わたしは父さんみたいに頭、良くないからさ。要点をかいつまんで、とか無理だと思う。だから、一から十まで、全部話すね」

 

「ええ。あなたの話しやすいようにしてくださいな」

 

「うん。ありがとう」

 

 陽子は、目線を床へと向けた。あの忌まわしい日々について思い返すとき、自分はきっと、酷い顔をしているだろうから。セシリアに、そんな表情を見せたくなかった。

 

「……まず、週刊誌の内容についてだけど、父さんと、あの女が離婚した、っていう部分は、本当のことだよ」

 

 あの女。実の母をそう呼んだ陽子の横顔を見て、セシリアは息を呑んだ。憎悪の篭もった面差し。顔を背けられてよかった、とひっそりと安堵する。

 

「でもね、離婚の原因は違うんだ。週刊誌には、父さんのDVなんて書かれていたけど……そんなことは、一切なかったよ」

 

 一口にDVといっても、色々なパターンがある。最もオーソドックスなものは暴力に訴えることだが、それ以外に、言葉で相手の尊厳を著しく傷つける、経済面で相手の行動を縛る、などだ。当時のことを思い返すが、少なくとも陽子が知る限り、鬼頭がそうした行為を母に迫った事実はない。

 

「離婚の直接の原因は、あの女の不倫だった」

 

「不倫、ですか……」

 

「……驚かないんだ?」

 

「まあ、ありふれた理由ではありますし……でも、なぜ、週刊誌ではDVなんてことになっているのでしょう?」

 

 火のないところに煙は立たない。直接、言葉にすることはなかったが、陽子を見つめるセシリアの瞳は言外の意図を雄弁に語っていた。

 

「さあ? 大方、いまみたいな女尊男卑の世の中じゃ、女の方を被害者にした方が、ウケがいいから、とかそんな理由じゃない?」

 

 問いに対し、陽子は素っ気ない口調で言う。

 

「あの女と、間男との関係はね、父さんと結婚する前から続いていたんだ。結婚してからも、あいつらは父さんが仕事をしているときとかに密かに、会っていた。わたしや、智也兄さんが生まれた後も、それは変わらなくて……酷いときには、まだ幼かったわたしたちを家に置いて、デートに出かけていたよ。……これはわたしも後で知ったことだけど、まだ生後六ヶ月とかのわたしと智也兄さんを背負って、ラブホに行ったこともあったみたい。あ、ラブホって分かる? 英語圏にはない文化って聞いているけど」

 

 次々と語られる衝撃の内容に、セシリアは、返す言葉を見失ってしまう。

 

 なんということだ。家庭内暴力の被害に遭っていたのは、むしろ、彼女たちの方だったとは……。しかし、それならば、どうして――、

 

「あの女の不倫と、ネグレクトの事実を知った父さんはね、その証拠を慎重に集めた上で、離婚と親権獲得のための手続きを始めたんだ。そうしたらあいつらは、自分たちのしたことも忘れて、そんなの認められない! って、裁判を起こしたの。……そして、父さんは、その裁判に負けたんだ」

 

「それは、なぜ……!? だ、だって、証拠があったのでしょう!?」

 

「うん。担当してくれた弁護士さんも、絶対に勝てる裁判だ、って太鼓判を押してくれていたよ。でも、父さんは負けた。あの女のもとに、予想外の援軍が駆けつけたせいで」

 

「援軍?」

 

「女性権利団体」

 

 淡々とした口調で紡ぎ出された言の葉に、背筋が震えた。感情の篭もらぬ呟きは、かえって恐ろしい響きを宿していた。

 

「それも、愛知県でもとびきり過激な思想を持った連中がね。わたしたちの裁判の話を聞きつけたんだ。そしてあいつらは、あの女に味方した。女の方が慰謝料を払うなんておかしい。子どもは母親と一緒にいるべきだ。そう言ってね。わたしたち家族を、滅茶苦茶にしていった」

 

 勝てるはずの裁判を、奴らは必敗のものとした。その結果、自分たち兄妹は鬼頭と引き離され、彼もまた慰謝料という形で、夫としての尊厳を著しく傷つけられた。

 

「でも、これは始まりにしかすぎなかったんだ。わたしたちにとっては、離婚した後の方が、地獄だった。父さんとの離婚が決まった後、あの女はね、間男と再婚したんだけど……」

 

 晶子が親権を欲したのは、陽子たちのことを愛していたがゆえ、ではない。二人に対して払われる、養育費が目的だった、と告げたとき、セシリアは絶句した。

 

「……なんなのです? なんなのですそれは!?」

 

「養育費目的で引き取ったあいつらに、わたしと智也兄さんへの愛情なんてなかった。あいつら……特に、男の方はね、仕事が上手くいかなかったり、無性にいらついたときとかに、わたしや兄さんに、暴力を振るったんだ」

 

 殴る。蹴る。叩く。突き飛ばす。

 

 父と引き離された後、智也は、これからは父に代わって自分が妹を守るのだ、と自らに誓いを立てた。幼い兄妹に降りかかる理不尽な暴力、そのほとんどを、彼はすすんで受け止めた。

 

「そんな生活が、二年ぐらい続いた頃に、ね。兄さんが、死んでしまったの。あの男に突き飛ばされたときに頭を打って、階段から落ちて。死に際に、陽子、陽子、ってわたしの名前を何度も呼びながら、息を引き取っていった」

 

「そ、それは……でも、それなら……!」

 

「行き過ぎた虐待の果ての殺人、とはならなかったよ。あいつら夫婦が二人で口裏を合わせてね。智也兄さんの死は、事故死として処理された。その上、あいつらは養育費の減額を恐れて、父さんには智也兄さんの死を伝えなかった」

 

 凄惨なる告白は、なおも続いた。

 

 智也の死後、二人の暴力は陽子一人に向けられるようになった。

 

 そして、

 

 そして――、

 

「一二歳のときにね、わたし、あの男から、レイプされたんだ」

 

 何かを叩く大きな音がして、びくり、と胴震いした。

 

 音のした方へと目線を向ければ、憤怒の形相の鬼頭が無言で、歯を食いしばりながら、壁を叩いていた。セシリアの目線に気づくと、はっ、として顔を覆い隠す。「すまん。続けてくれ」と、力のない呟きを耳にして、喉の奥が苦しくなった。

 

「……あのときは、本当に辛かったなあ。うん。人生でいちばん辛い時期だったね」

 

 なんとか平静を保とうとするも、声が震えてしまうのを、止められなかった。

 

 陽子を見つめるセシリア自身もまた、奥歯が、ガチガチ、と軋み鳴るのを自制出来ない。英国よりやって来た少女の面差しは、怒りと、悲しみとが同棲する、複雑怪奇な表情と化していた。

 

「痛くて、恐くて、あいつの気がすんだ後も、恐くて……。ほら、一二歳にもなると、もう初潮も来てるし、自分が何をされているのか、とか、分かっちゃうんだよね。だから、本当、慌てたよ。子どもができたらどうしよう、って。あいつ、ゴム使わなかったから」

 

「陽子、さん……」

 

「それでさ、慌てて、パニックになったわたしは、こともあろうにあの女に相談してしまったのです。お父さんにレイプされた。子どもができたらどうしよう!? って。そうしたらね、あの女ってば、こう、泥棒猫! って、グーで殴ってきたんだよね! 信じられる? 実の娘を、よりにもよってグーだよ、グー!」

 

 諧謔めいた口調は、言葉を重ねるほどに萎縮していく自分の心を、少しでも奮い立たせるための虚勢にすぎない。

 

 その証拠に、陽子の目尻からは大粒の涙が滲み出ていた。落涙を自覚し、喉をしゃくり鳴らしながら、それでも彼女は、懸命に言葉を紡いでいった。

 

「いま、振り返るとさ、あの瞬間が、いちばん、辛かったなあ……くぅ。よりにもよって、実の親から……それも、同じ女から、この泥棒猫、って。お前なんて、いらない、って拒絶っ、されたん、だ。本当、辛かったよ」

 

 晶子は、陽子を何度も殴打した。頬を叩き、腹を殴り、髪を鷲掴んで、顔を壁に叩きつけた。たまらず、着の身着のまま、財布も持たずに家を飛び出した陽子は、スカートのポケットの中に僅かに残っていた十円玉三枚を握りしめ、近所の公衆電話から、伊賀上野にある、加藤家と連絡をとった。

 

 智也の死をきっかけに正気を取り戻していた祖父たちは、事情を聞くとすぐ迎えにきてくれた。彼らは鬼頭と連絡をとり、かくして、事態は彼の耳にも入ることとなった。

 

 そこまで聞かされて、ああ、とセシリアは得心する。

 

 そうか。だから彼は、親権を取り返したのか。

 

 陽子を、

 

 愛する彼女を、守るために、かつて愛した女から、週刊誌に書かれたように、無理矢理、親権を奪い返したのか。

 

「その後起きたゴタゴタについては……正直、わたしはよく知らないんだよね。親権取得の再申請にまつわるあれこれとか、あの女たちへのお仕置きとか……刑事裁判の仕組みとか、当時のわたしにはよく分からなかったし、わたし自身、色々あって、それどころじゃなかったからさ。だから、結論だけ言うと、わたしはまた、父さんと暮らせるようになったの。そしてあの鬼畜どもは、兄さんを殺した罪と、養育費を不正に受け取っていた罪で、いまはムショ暮らしってわけです」

 

 それが、いまから三年前にあったこと。週刊誌に書かれていた内容の、真実。

 

 陽子は、そこで一旦舌と喉を休めた。目元に浮かぶ涙をハンカチで拭い、二度三度と深呼吸。いくらか気持ちが落ち着いたところで、再び口を開いた。

 

「週刊ゲンダイの内容のほとんどは捏造だってことを明らかにするのは、簡単だよ。いま言った裁判の資料や記録を取り寄せて、公開すればいいんだからね。でも、父さんはそれをしない。理由は……」

 

「……口にせずとも、よろしくてよ」

 

 沸々と湧き上がる怒りの感情が声に載らないよう気をつけながら、セシリアはかぶりを振った。

 

「裁判資料や記録の公開は、あなたがレイプされた事実を広く知らしめることになる。あの男……いえ、あなたのお父様は、それを嫌ったのでしょう?」

 

 セシリアは、壁際に立つ鬼頭の顔を見た。

 

 過日、射撃訓練場で聞かされた、桜坂なる男の言葉を思い出す。

 

 ――目を見開いて、素直な気持ちで、鬼頭智之という男の、ありのままを見る。

 

 そして、得心した。

 

 自分の過ちを認めるというのは忌々しいが、これは、認めざるをえない。

 

 情けない男などと呼んだのは、いったい誰だったか。

 

 陽子のことを本当に愛しているのならば、などと声を荒げたのは誰だったか。

 

 彼は、

 

 鬼頭智之は、

 

 陽子のことを、誰よりも愛している。

 

 そして彼女を愛するがゆえに、自身に架けられた汚名をそそぐという、安易な選択を良しとしなかった。

 

 自らが傷つき、陽子もまた傷つく。

 

 それを分かっていながら、それでも、その方が傷は浅いはずだ、と。痛みは軽いはずだ、と。信じて。茨の道を、歩むことを、選んだ。

 

 そんな勇気ある決断を下した男を、自分は何と罵った? 何と嘲笑した? セシリアは、自らを恥じずにはいられなかった。

 

 ベンチから立ち上がると、彼に向かって深々と腰を折った。日本式の謝罪。かたわらで座る陽子が、息を呑む。

 

「……ごめん、なさい」

 

 セシリアの声に、震えはなかった。感情を押し殺した声だった。

 

 鬼頭は壁から背中を離し、一歩、また一歩と、彼女のほうへ歩み寄っていった。

 

「あなた方がそんな事情を抱えていたなんて知らず……いえ、知ろうともせず、それでいながら、わたくしは、あなたたちに、たくさんの暴言を……。本当に、ごめんなさい」

 

「……ミス・オルコット、顔を上げてください」

 

 言われるがままに、顔を上げた。

 

 手を伸ばせば届く距離に、彼は立っていた。

 

 切れ長の双眸を間近で眺めているうちに、セシリアの美貌は悲しげに歪んだ。

 

 彼の瞳は、燃えていた。心の中が火事になっているのが分かった。こんなにも悲しそうで、こんなにも怒りに燃える瞳を、セシリアはこれまで見たことがない。

 

 これが、

 

 これが、鬼頭智之。

 

 そして、父親というものなのか。

 

 静かな感動に打ち震えるセシリアに、鬼頭は硬い声音で語りかけた。

 

「正直言って、腹が立っていない、と言えば嘘になります。よく知りもせずに好き放題言いやがってこの小娘が! ……という憤りは、いまもこの胸の内にあります。我ながら大人げないとは思いますが、許せるか、どうかで言えば、そんな謝罪の言葉一つでこの気持ちをなかったことには出来ません」

 

 厳しい言葉の雨。当然の仕打ちだな、とセシリアは黙ってそれらを受け止める。しかし鬼頭は、そこまで口にしたところで、一転して優しい……驚くほど優しい口調で、言の葉を続けた。

 

「ですので、新しく、始めていきましょう」

 

 鬼頭は、セシリアに向けて、そっと右手を差し出した。握手を求めるジェスチャー。一週間前にも彼から求められたが、そのときは一顧だにせず、断ってしまった。

 

 セシリアは茫然とした表情で、鬼頭の顔と、差し出された右手を交互に見た。

 

 鬼頭は涼しげにはにかんだ。

 

「そちらは、日本式で誠意を見せてくれました。今度は、こちらが、そちらの流儀に合わせる番でしょう」

 

 欧米文化においては、握手なしに人間関係は始まらない。

 

 過去の発言を許すことは出来ないが、新たに関係を構築していくことは出来るはずだ。

 

 なんといっても自分たちは、まだ始まってさえいなかったのだから。……鬼頭が彼女に見せる、精一杯の誠意だった。

 

「…………」

 

 セシリアは、自らの右手を、鬼頭のそれへ、おずおず、と伸ばした。

 

 指先が触れる。巌のように硬い掌の感触。この男手一つをもって、愛娘との生活を、ずっと守ってきたのか。これが、父親の手なのか。

 

「……ミス・オルコット?」

 

 鬼頭の声が、驚きから上擦ったものになった。

 

 はて、どうしたのか、と問いかけようとして、気がついた。

 

 涙だ。

 

 気がつけば、自分は落涙していた。

 

 どうして。なんで。自問に対する答えは、すぐに見つかった。

 

 陽子に好感を抱いていた理由。

 

 鬼頭を嫌っていた理由。

 

 こうではないか、と自分では思い込んでいた。

 

 しかし、違ったのだ。

 

 いま、鬼頭の手に触れて、それを思い知らされた。

 

 自分は、

 

 自分は、本当は……、

 

 ――わたくしは陽子さんに、嫉妬していたのですね……。

 

 

 

 

 

 セシリアが生を受けたオルコット家は、今日、イギリス国内では名門中の名門と扱われる、貴族の家名だ。その歴史は古く、起源はなんとノルマン朝の成立からさほど遠くない時代まで遡れるという。十四世紀に頻発した農民一揆や英仏百年戦争、十六世紀の宗教改革といった、歴史上の転換期の中でも名声と勢力を堅持し続けた力強い家系であり、産業革命の以後は、時代の流れを上手く読んで領主から資本家へと華麗に転身。いまや二十近い大企業を所有する、一種の巨大な財閥を形成するにいたっていた。

 

 セシリアの亡き母は、先々代のオルコット家当主――セシリアの祖父――に男児がなかったため、彼の死後、オルコット家の家名と爵位を相続することになった。

 

 母は、気性の激しい人だった。女尊男卑社会の到来以前から、女だてらにいくつもの会社を経営し、成功を収め、オルコット家の勇名をさらに響かせた傑物だった。家庭内では厳しい人だったが、セシリアはそんな母に憧れていた。

 

 対照的に、幼い日のセシリアは、父のことを蔑んでいた。名家に婿入りした彼は、母に対し多くの引け目を感じていたのだろう。とはいえ、それにしたって、との思いを抱かずにはいられぬほど、父は母の顔色ばかりうかがって生きていた。IS発表後、彼の弱々しい態度はますます顕著になっていき、母はそれがどこか鬱陶しそうで、いつの頃からか、彼との会話自体を拒むようになっていった。セシリアはそんな父の姿を情けなく思い、嫌っていた。

 

 幼少の頃からそんな二人の関係性を見せつけられてきたセシリアは、将来は父のような男とだけは結婚するまい、という自戒を胸に、今日まで生きてきた。思春期を迎え、彼女も人並みに恋愛というものに関心を抱くようになってからは、理想の男性像は? と、訊かれれば、父とは正反対の人、と答えるようにしている。

 

 セシリアの両親が亡くなったのは、彼女が一二歳のときのことだった。

 

 原因は越境鉄道の横転事故。いつもは別々に過ごすことの多かった両親が、なぜ、その日に限って一緒にいたのかは、いまだに分からない。ともかく、四十人近い死者たちのリストの中に、両親の名は刻まれてしまった。

 

 ジュニアスクールを卒業したばかりのセシリアに、二人の死を悲しむ暇は与えられなかった。

 

 母の死と同時に、オルコットの家督は長女であった彼女に委ねられることとなった。手元には莫大な遺産と、オルコットの資本を頼る企業の従業員たちの生活を保障しなければならない責任が残った。

 

 セシリアを取り巻く時間の流れは、それからは慌ただしく過ぎるようになっていった。

 

 オルコットの家を守るため、ありとあらゆる勉強に励んだ。その一環で受けたIS適性テストで、A+という成績をたたき出した。英国政府から国籍保持のために様々な好条件が出された。両親の遺産、そしてオルコットに関わるすべての人たちを守るため、彼女は即断した。第三世代装備ブルー・ティアーズの第一次運用試験車に選抜された。稼働データと戦闘経験値を得るため、日本のIS学園へとやって来た。そこで、彼女と出会った。

 

 鬼頭陽子。

 

 一目見た瞬間、自分と同じだ、と親近感を抱いた。

 

 情けない父親の存在のために、娘の尊厳が傷つけられている。

 

 鬼頭のことを許せない、と思った。陽子のことを放っておけない、と思った。彼女を助けることは、自分自身の魂の救済にもつながると思い、セシリアは鬼頭を憎み、攻撃した。

 

 しかし、それは誤りだった。

 

 いまになって、ようやく気がついた。

 

 本当は、とうの昔に理解していたのだ。

 

 鬼頭智之がどんな人物なのか。

 

 彼がいかに陽子を愛し、彼女から愛されているか。

 

 一目見た瞬間から、気づいていたのだ。

 

 でも、気づきたくなかった。

 

 陽子に対する嫉妬心を認めたくなくて、気づいていたけど、現実から目をそらし、認識を歪めた。

 

 セシリアは、本当は亡き父のことが好きだった。彼を愛し、彼に愛される。本当は、そんな親子になりたかった。けれども、なれなかった。母への憧憬が高じるがあまり、父の悪い部分ばかりが目についてしまい、彼との関係を良くしていこうなんて考えが、幼い日のセシリアの中には生まれなかった。父に対し、こうあってほしい、もっと強くあってほしい、と、望みを口にすることさえしなかった。彼との会話を嫌っていたのは、母だけではなかった。自分もまた、父との会話を避けていたことに、いまようやく気がついた!

 

 そして、どんなに焦がれたところで、もう、それは叶わない。父はもう、この世にいない……!

 

 陽子は、セシリアが理想と思う親子像の体現者だ。

 

 優しくて、愛に満ち、そして強い父親と、彼を慕う娘。

 

 セシリアが、本当はなりたかった親子の姿、その幸福に対する喜びを、全身で表していた。

 

 一目見た瞬間に抱いたのは、親近感などではなかった。セシリアは、自分が本当は欲しかったものを持っている陽子に、嫉妬心を抱いていたのだ。鬼頭に対する怒りもそうだ。彼に対してはむしろ、どうして自分たちはこう“あれ”なかったのか、と。その愛を自分にも向けてくれないものか、と憧れさえ抱いていた。

 

 ――自分にそんな黒い感情があるんだなんて、認めたくなくて、わたくしは、自分で自分の認識を歪めた……。

 

 陽子への嫉妬心は好感に。

 

 鬼頭への尊敬と憧れは憎しみに。

 

 この一週間、ずっと疑問に思い、そして憤っていた。

 

 どうして陽子は自分の気持ちを分かってくれないのか。なぜ自分の気持ちは伝わらないのか。伝わるはずがない。だってそれは、自分の、本当の気持ちではなかったのだ。

 

 そして、彼女への嫉妬心を自覚したとき、セシリアは思わず落涙した。

 

 自分の狭量さに対する情けなさ。いやそれ以上に、指先が触れたそのぬくもりの心地良さが、彼女に、在りし日の父と過ごした時間を、思い起こさせた。

 

 ――お父、様っ……。

 

 父が死んで以来、彼女ははじめて、彼のために涙を流した。

 

 

 

 

 

 突然、涙で頬を濡らすセシリアを前にした鬼頭親子の動揺は大きかった。

 

 この短い時間のうちに、彼女の中で、いったい何があったのか。

 

 互いに顔を見合わせ、さてどうしたものか。お父様、人生の先輩として慰めてあげてください。いやいや娘よ、同年代のお前の方が、繊細な乙女心を理解出来るのではないか。などと、アイコンタクトを交わす。

 

 しかし、そうしている間に、セシリアは端整な美貌を汚す滴りを指で拭うと、今一度鬼頭の顔を真っ直ぐ見つめて、今度こそ差し出された右手をしっかりと握り返した。

 

「はい! こちらこそ、よろしくお願いしますわ」

 

 可憐に微笑む。年甲斐もなく、陶然と見惚れてしまった。

 

 愛娘からの射るような目線に気づいた鬼頭は、軽く咳払い。崩れかけた相好を引き締め、こちらも完爾と微笑んだ。ところが、その表情はすぐに凍りつく。

 

「ところで、鬼頭さん。不躾ながら、二つほど、お願いしたいことがあるのですが?」

 

「なんでしょう?」

 

「まず、わたくしのことはセシリアと、名前で呼んでいただけませんか? 出来れば、呼び捨てでお願いしたいのですが」

 

「ええ、構いませんよ」

 

 アメリカへの留学経験を持つ鬼頭だ。ファーストネームで呼び合うこと自体に、抵抗感は薄い。

 

 問題は、次いで口にされたお願いの内容であった。セシリアは鬼頭に、次のように求めたのだ。

 

「それから、その……わたくしと陽子さん、それから鬼頭さんの三人でいるとき、もしくは鬼頭さんと二人きりでいるときに、その、お父様、と呼ばせていただけないでしょうか?」

 

「……はい?」

 

「ファッ!?」

 

 鬼頭が唖然とした表情を浮かべ、陽子がクッソ情けない悲鳴を口にした。

 

「な、ななな、何を言っとりゃあすか!?」

 

 ベンチから飛び上がった陽子が、思わず地元名古屋の方言を口にした。普段は周囲との会話をスムーズにこなすため、標準語で話すよう努めているのだ。

 

 彼女ほどではないが、鬼頭も困惑した様子で訊ねる。

 

「セシリア、ええと、それは、どういう……?」

 

「言葉通りの意味ですわ。周りに人がいない状況で、この三人だけか、鬼頭さんと二人きりでいるときに、鬼頭さんのことをお父様と呼ばせてほしいのです」

 

「プレイ!? どういうプレイなの、それ!?」

 

「……陽子、後でお父さんと二人で、普段、お前がどんな本を読んでいるかとか、どんなアニメを見ているかとか、お前の好きな動画投稿サイトの内容について、一緒に相談しような」

 

 驚きのあまり発言の内容がおかしなことになっている陽子に、ぴしゃり、と注意して、鬼頭はセシリアの顔を見つめた。

 

 この見目麗しい代表候補生の少女が、どういう考えから、先の発言を口にしたのか、MITを首席で卒業したこの男の頭脳をもってしても、理解出来ない。

 

「セシリア、どうして、そんなことを?」

 

「そこまで深い理由ではないのですが……その、陽子さんと、鬼頭さんの関係を見ていて、羨ましいな、と思いまして。それで、そうお呼びしたくなってしまいましたの」

 

「新しい関係を始めようと提案された後にこれ……はっ、まさかわたしから父さんを奪うつもりか!? や、やらせはせん! やらせはせんぞぉぉ!」

 

「陽子、少しの間、静かにしていなさい」

 

 鬼頭はセシリアの目を見た。真っ直ぐな眼差し。嘘を言っているようには思えないが。

 

「……セシリア」

 

「はい」

 

「私は、あなたの父親にはなれません。あなたの父親は、三年前の事故でお亡くなりになった、ただ一人しかいません」

 

「……ご存知でしたか」

 

「ええ。……私の友人の、桜坂という男が、調べてくれました」

 

 射撃場でのやりとりから、相手は名家の出身かもしれない、と思った桜坂が調べてくれた情報だ。目の前の少女は、いまから三年前に列車の事故で、二親を同時に失っているという。その境遇には同情するが。

 

「甘えの対象として、手近な大人を父親代わりにしたいという考えならば、他をあたっていただきたい」

 

「……甘える対象が欲しいという気持ちがあるのは、認めます」

 

 セシリアは、首肯した。

 

「ですが、決して手近な大人だから、という理由ではありません。鬼頭智之さん、わたくしはあなたをお慕いしています。そうであればこそ、あなたに、無理を承知でお願いしているのです」

 

 ついさっきまであなたのお父様のことが嫌いです云々言っていたのは誰でしたっけねぇ。

 

 セシリアの後ろでぶつぶつ呟いている陽子を無視し、鬼頭は切れ長の双眸を三白眼へと変え、なおもセシリアを見つめる。

 

 ……ふむ。やはり、嘘をついているようには思えない。

 

 この短時間のうちにどんな心境の変化が生じたのかは分からないが、彼女は本心から、自分のことを、父、と呼びたいと願っている。

 

 さて、自分はこの願いにどう応じるべきか。

 

 実のところ、鬼頭はセシリアのことをさほど嫌ってはいない。彼女は陽子のために怒ってくれた。前提となる情報には誤りがあったし、どういった理由から娘の味方になろうとしてくれたのかはいまだに分からないが、それだけは確かな事実だ。嫌えるはずがない。

 

 問題を自分とセシリアの二者間に絞って言えば、断る理由はなかった。あとは陽子がどう考えるかのみ。

 

 続く鬼頭の返答に、セシリアの表情は、ぱあ、と華やぎ、対照的に、陽子は、うへぇ、と溜め息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter10「この小さな世界で家族の愛の形について考えよう」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 愛知県名古屋市。

 

 東区は筒井町にある、東警察署――。

 

 

 

 刑事課へ続く廊下を、貝塚道夫巡査部長は肩を怒らせながら歩いていた。

 

 五年前に刑事課に配属された二八歳。身長一七六センチ、体重六四キロの、すらり、とした長身の持ち主だが、その実、合気道の達人として知られる人物だ。二十歳のときに警察官となって以来、これまでに十六人もの聞き分けの悪い犯罪者たちを、その腕っ節をもって制圧してきた武勇は、署内では有名な話だった。

 

 貝塚巡査部長は、自らの根城でもある刑事課の部屋に入室すると、一目散に課長のデスクへと向かった。

 

 大島洋二警部は、貝塚が憤怒の形相で自分のもとを訪ねてくるのをあらかじめ予想していたのだろう、特に慌てた様子もなく、彼を迎える。

 

 警察学校を優秀な成績で卒業した身ながら、誰に対しても良い顔をする悪癖が過ぎてどの派閥からも敬遠され、四六歳という年齢にも拘わらずいまだ警部どまりの人物だ。彼は息づかいも荒々しくデスクの前に立った貝塚に、人懐っこい笑みを向けた。

 

「貝塚くん、そろそろ来る頃だと思っていました」

 

「大島課長、先ほど、私の携帯電話に連絡があったのですが、先日起きたアローズ製作所の社員に対する傷害事件の捜査資料が、検察から突き返された、とはいったいどういうことなんですか?」

 

「いまあなたが口にした通りです」

 

 大島課長は淡々と告げた。

 

「我々は先の傷害事件の犯人を現行犯逮捕し、すぐに検察に送りました。加害者の自供を基に作成した供述調書、彼女が所持していた、薬品反応のあった瓶などの証拠も三日と開けずに提出しました。検察はこれらの捜査資料をよく吟味した上で、加害者の女性を不起訴処分としたのです。不要になったから、突き返してきた。それだけのことです」

 

「納得がいきません。なぜ、不起訴処分なのです!? 我々の捜査に、落ち度があったとでもいうのですか!?」

 

 およそ一週間前に起こった、名東区に本社ビルを持つアローズ製作所の会社員を襲った、傷害事件の加害者についての処遇の話だ。事件のあらましは、以下の通り。

 

 一週間前、アローズ製作所に勤める会社員の滑川雄太郎が、会社から帰る途中で、突然、見知らぬ女に声をかけられた。道を訊ねるふりをして近づいた彼女は、いきなり、持っていた薬瓶に入っていた液体を滑川に向けてぶっかけた。液体の正体は強酸性の薬物で、咄嗟に顔をかばった右腕が、重度の火傷を負ってしまった。女はそのまま現場から逃走した。滑川は無事な方の腕で携帯電話を操作し、一一〇番通報。警察官二名が現場に急行したところ、近くの公園の水飲み場で、薬瓶を洗っている怪しい女を発見した。職務質問をかけると、犯行を認めたため、現行犯逮捕にいたった次第だ。

 

 東警察署に移送された犯人は、そのまま貝塚たち刑事課に引き渡され、供述調書の作成や、所持品の調査などが行われた。

 

 被害者の滑川技師とその上司の桜坂某が被害届を提出したこと、傷害事件の起訴に十分な証拠が揃っていたことから、貝塚たちは犯人逮捕から二四時間と置かず、犯人の女を検察へ送致した。その後は検察へ提出するための捜査資料を、じっくり時間をかけて完成させ、提出。貝塚たちの仕事は終わり、あとは検察の処分を待つばかり……と、そう、思われた。

 

 ところがたったいま、とうの検察から、送ってもらった捜査資料が不要になったので返却したい、という旨の連絡が、貝塚の携帯電話にかけられた。

 

 当然、彼は電話の相手を追及した。

 

 不起訴処分とはどういうことだ。なぜ不起訴処分と判断を下したのだ? まさか自分たちの作った資料に不備があったから、などとは言うまいな!? しかし、担当の検察官は申し訳なさそうに謝罪を繰り返すばかりで、不起訴処分の理由を決して語ろうとはしなかった。

 

 そこで貝塚は、大島課長を訊ねることにしたのだ。

 

 自らを東警察署・刑事課のエースと自負する彼だが、所詮、自分は一兵卒にすぎぬとも自覚していた。しかし、指揮官の立場にある大島ならば、己の立場では得られぬ情報を入手出来るやもしれぬと、そう考えてのことだった。

 

「先に結論から言っておくと、たしかに、私は不起訴処分の理由について、検察から事の真相を教えてもらっています。ですがこれは、貝塚くん、あなた方現場の捜査員に伝えるには、あまりにも残酷すぎる真実だ。現場の捜査員の頑張りを、馬鹿にしているとしか思えない。口にするのも、おぞましい言葉だ。……ここまで言ったんだ。察してくれたまえ」

 

 貝塚巡査部長は忌々しげに表情を歪めた。

 

「……今回の傷害事件の犯人は、女でした」

 

「そうだね」

 

「つまり、そういうことですか」

 

「ああ、そうだ」

 

 女性権利団体。

 

 あの連中が、犯人の女を守るために介入してきたか。

 

 なるほど、課長が言葉にするのを嫌がったのも頷ける。現場の捜査員たちが汗水垂らして作成した調書や資料が、警察組織とは本来関わりのない人権団体の抗議で使われなくなる。馬鹿にしているにも、程がある。

 

「弁護士から電話があったらしいよ」

 

 大島課長は、疲れ切った口調で言った。

 

「加害女のために、はるばる大阪からやって来たらしい。今日、面会をして、今夜中にまた帰るそうだ」

 

 

 

 

 

 




捏造オルコット家の設定でした。




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Chapter11「得たもの」

今回、人によってはだいぶ不快に感じる描写を書いてしまいました。

具体的には、ちょっときつめの暴力と性描写があります。

この部分に関して、R-18タグの追加も考えましたが、司馬遼太郎などの一般小説でも普通に描写されることではあるので、タグの追加は見送りました。

本話を読んで、不快感を催された方がいましたら、申し訳ありません。

拙作に登場するとある人物の悲しみと苦しみを読者に伝えるためには、絶対に不可欠だ、と判断し、書きました。



件の部分は本話冒頭にあります。

もしも、そういったシーンを読みたくない、という場合は、

PC環境であれば、キーボードの「Ctrl+F」か、ブラウザ機能から「ページ内の検索」を、

スマホ環境であれば、ブラウザ機能から「ページ内の検索」を実行し、「目を覚ました」と、入力してください。

該当部分を飛ばして読むことが出来ます。



全文を読んでいただけるのであれば、作者にとって、これ以上の喜びはありません。

前置きが長くなりましたが、それでは、どうぞ。



 男の腕は太く、そして力強かった。

 

 対する女の腕はあまりに細く、必死の抵抗は虚しかった。

 

 男は逃げようとする女の背中に躍りかかると、後ろから首に腕を巻きつけた。喉を圧迫された女の唇から、押し潰されたような悲鳴が漏れる。それを無視して、男は奥の六畳間へと、小柄な彼女を引きずり込んだ。

 

「チクショウが! チクショウが!」

 

 男の顔は、怒りで歪んでいた。毛むくじゃらの手が女の下肢を襲い、物凄い力で下着を引き裂いた。女は、今度こそはっきりと悲鳴を上げたが、助けを求める悲痛な叫びは、「うるせぇぞ!」と、男の怒声にかき消された。ひぃっ、と怯えから硬直したその瞬間をつき、男の手が、今度はブラウスの胸元へと伸びる。ボタンがはじけ飛び、薄い乳房が露出した。女は、まだ十代も前半と思しき子どもであった。

 

 男の粘り気の強い唾液が、少女の顔に降りかかった。野獣のように変じた顔面を、夢中で殴りつけるも、男は構わず子どもの胸にむしゃぶりついた。

 

「やめて! やめて、お父さん!」

 

 少女は泣いていた。男は彼女の体を突き飛ばすと、フローリングに倒れ込んだ小さな体の上にのしかかった。左手で首を絞め、右手で露わになった乳房を掴んだ。男の爪が食い込み、糸のような血の筋が白い肌を伝った。

 

「陽子っ、陽子っ」

 

 陽子は両足をばたつかせた。男の右手が股間に落ちて、薄らとした茂みを引きちぎった。激痛が陽子の下肢を襲い、彼女は意識が遠のくのを覚えた。男が、苛立ちながらトラウザーズを下げる。

 

 醜悪な形の男性器が露わになった。

 

 男は、陽子の体を割ると、喉をゴロゴロ鳴らしながら腰を振った。男を知らない少女の体が、陵辱から逃れようと無意識のうちに悶えた。男は、乳房にむしゃぶりつくと、腰を律動させた。花が散り、鮮血が、幼女の体からしたたり落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悲鳴とともに、目を覚ました。

 

 IS学園の学生寮。

 

 ベッドの上で跳ね起きた鬼頭陽子は、周囲を見回し、部屋の照明が落ちて暗いことや、汗に濡れた毛布の不快感から、先ほどまで見ていたのは夢で、いま自分の意識がある場所こそが現実だと認識する。

 

 荒い呼吸を整え、安堵の溜め息をついたところで、ぶるり、と胴震いした。

 

 身の内と外とでのたうち回る悪寒から自らを抱きしめ、細い肩を撫でさする。

 

 大丈夫。ここに、あいつはいない。あいつはいないんだ、と、自身の心と体に言い聞かせるように、何度も呟いた。

 

「陽子……」

 

 声のした方を見れば、隣のベッドに横たわる父が、心配そうにこちらを見つめていた。

 

 いまの悲鳴で起こしてしまったか、と陽子の表情が強張る。

 

「あ、と、父さん……そ、その、ごめんね。起こしちゃったよね」

 

「いや、それは構わないんだが……」

 

 鬼頭は上体を起こし、ベッドに腰かけた。枕元のスタンド照明を操作して、常夜灯をつける。娘の顔を見て、表情を硬化させた。灯りの乏しい空間でなおはっきりと分かるほどに、陽子の顔色は悪かった。

 

「どうした? 恐い夢でも見たか?」

 

「う、うん……」

 

 陽子は悄然と頷いた。

 

「その、あのときのことを、夢に見てさ」

 

 愛娘を見つめる切れ長の双眸が、険しさを宿した。あのとき。目の前の少女が、自身の悲鳴で目を覚ますほど衝撃を受け、思い出しただけでいまでも震えが止まらぬほどの恐怖を伴った体験。鬼頭の知る限り、それは一つしかない。

 

「……あの男のことか?」

 

 これ以上、彼女を過去の記憶に対する恐怖を刺激してはならぬと、鬼頭は舌先で言葉を選びながら、慎重に口を開いた。

 

 はたして、陽子は「うん」と、小さく首肯した。

 

「今日、セシリアにあんな話をしたせいかな。久しぶりに見ちゃった」

 

 義理の父からレイプされたときの記憶。

 

 四年前に自分と再会した直後は、毎晩のように悪夢にうなされ、苦しめられた。心療内科に足繁く通い、投薬治療に努めた甲斐あって、最近はその頻度も減っていたが、セシリアへの事情説明が、また呼び水となってしまったか。

 

「馬鹿だよね。こうなるかもしれない、って分かっていたのに、意地張ってさ。セシリアに、事情を説明したいだなんて。あんな……」

 

「父さんはそうは思わないよ」

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。

 

「父さんのことで、セシリアにいつまでも誤解したままでいてほしくない。そんなふうに考えて、お前は行動してくれたんだろう?」

 

 過去の記憶を掘り起こすことは、陽子にとって、辛い行為だったはずだ。現にいま、彼女は過去のトラウマ体験の記憶を自ら刺激したがために、悪夢に苦しめられている。

 

 しかし、それでも彼女は行動してくれた。こうなるかもしれない、と承知の上で、自分のことを想い、セシリアに、自分たちの過去について話す決心をしてくれた。

 

「そんなお前のことを、父さんは誇らしく思うよ」

 

 鬼頭は自身のベッドの毛布をはだけた。

 

「久しぶりに、一緒に寝ようか?」

 

「……もう高校生にもなるのに、恥ずかしいんですが」

 

「父さんからすれば、お前はいくつになっても可愛い赤ん坊のようなものだよ」

 

 おいで、と鬼頭はベッドを軽く叩いた。

 

 深々と溜め息をついた後、陽子は、おずおず、と隣のベッドに移動した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クラス代表決定戦の翌日。

 

 一年一組の教室、朝のSHRの時間――。

 

 

 織斑一夏は茫然とした表情で、黒板に白いチョークで書かれた文字列を眺めていた。『クラス代表 織斑一夏』。教室の後ろの方からでも見やすいように、と大きな字で記述された情報の内容を理解するのに、たっぷり二秒はかかった。文字を書き終えた山田真耶は、チョークを粉受けの部分に置くと、嬉々とした表情で教え子たちのほうへと振り返った。

 

「では、一年一組代表は、織斑一夏くんに決定です。あ、一繋がりでいい感じですね!」

 

 真耶がそう宣言すると、クラスの女子たちの口からは黄色い歓声があがった。ほとんど者が、この事態を歓迎している。暗い面持ちなのは、とうの一夏のみだ。

 

「先生、質問です」

 

 挙手をした一夏を、真耶は指名した。

 

「はい、織斑くん」

 

「昨日の試合では三人とも一勝ずつで、代表決めは一旦保留になったはずですが、なんで俺がクラス代表に決まっているんでしょうか?」

 

「それは――」

 

「それはわたくしと陽子さんが辞退したからですわ!」

 

 真耶の言葉を遮ったのはセシリアだった。がたん、と騒々しく立ち上がる。教室の隅でその様子を眺めていた千冬の米神が、一瞬、ひく、と動揺した。それに気づいた鬼頭が、まあまあここはひとまず話を聞きましょう、と苦笑しながらジェスチャーを送る。

 

「昨日、試合が終わった後、クラス代表をどうするべきか、二人で相談しましたの」

 

 その相談の席に自分も入れてほしかったなあ。一夏は胸の内でひっそりと溜め息をついた。

 

「それでですね、クラス代表には織斑さんが相応しいのではないか、と二人で結論づけまして」

 

「はあ!? な、なんで?」

 

「まず、わたしが相応しくない理由についてなんだけど……」

 

 セシリアの言葉を、陽子が引き継いだ。こちらは、粛、とした所作で立ち上がると、一夏への期待と申し訳なさが同居した、複雑な微笑を彼に向ける。

 

「ぶっちゃけ、わたしがクラス代表決定戦に参加した理由って、セシリアを痛めつけてやる! って、理由だったからね。もともとクラス代表になりたくて、立候補したわけじゃなかったし、そんなやる気のない人間が、そういう責任ある立場になっちゃいけないと思うの」

 

 教室内の何人かが、おや? と、怪訝な表情を浮かべた。セシリア。はて、昨日まで陽子は彼女のことを、オルコットさん、とファミリーネームで呼んでいたはずだが。いつの間に、ファーストネームで呼び合う仲となったのか。

 

「それに、わたしは専用機持ちじゃないしね。月末のクラス対抗戦もそうだけど、そういうイベントのときに、少しでも勝率を上げようと思ったら、クラス代表は専用機持ちである方がいいと思うの」

 

 責任感云々でいえば、自分だってそんなものないぞ! と、一夏は内心情けなく胸を張る。それに、専用機持ちというのなら、

 

「専用機持ちなら、オルコットさんだってそうだろ?」

 

「……そのことについてなのですが」

 

 陽子の説明を、セシリアが引き継いだ。端整な美貌が、寂しげな表情を作っている。

 

「実はわたくし、専用機や代表候補生の資格を、失うかもしれないのです」

 

「なっ!」

 

 驚愕から顔を強張らせたのは、一夏だけではない。三人のやりとりを眺めていたクラスメイトたちも、茫然と彼女の顔を見つめた。

 

「覚えておいででしょうか? 一週間前、わたくしは日本国や、この国に住む皆さんに対して、差別的な発言をしてしまいました。それだけでなく……」

 

 セシリアは鬼頭親子に目線をやった。近い将来への覚悟について、すでに昨日のうちに聞かされていた二人は、沈痛な面持ちで誇り高き少女の眼差しを受け止めた。

 

「陽子さんたち親子に何度も酷い言葉をぶつけてしまいました。自分の勝手な思い込みで、智之さんの人格を否定するような発言までしてしまいました。イギリス国の代表候補生という立場にある身で、不適切な言動だったと思いますし、それ以前に、人として、最低な行為をしてしまったと思います。

 

 ……わたくしは今回の出来事における自分の一連の行動について、英国政府に対し、包み隠さず報告するつもりです」

 

 決然と口ずさまれた宣言に、教室内は騒然となった。

 

 代表候補生という責任ある立場でありながら冷静さを欠き、衆目の前で他国の文化を乏しめ、挙げ句、人種差別ととられかねない発言までしてしまった。そればかりか、世界でたった二人しかいない男性操縦者とその家族に対し、数々の罵詈雑言を浴びせた。

 

 そんな報告を受けた英国政府が、この代表候補生の少女に対しどんな処分を下すか。ここにいるのはみな、IS学園の入試を突破してきた才媛らだ。容易く想像できた。最悪の場合、数々の特権的待遇をことごとく剥奪された上での、強制送還も考えられる。

 

「そういうことですので、わたくしはクラス代表になるわけにはいけませんの。たとえば明日、この学園からいなくなるかもしれない人間を、そんな立場には置けないでしょう?」

 

 こう言われては、一夏も閉口せざるをえない。再来週のクラス対抗戦の当日になって突然、強制送還が決まる、という事態も考えられる。そんな無責任なことは出来ない、というセシリアの気持ちは理解出来た。

 

「……オルコットさんは、それでいいのかよ?」

 

 反論をやめたのは、クラス代表就任についてのことだけだ。これについてはもう、諦めた。仕方がないと、納得しよう。

 

 しかし、こちらの問題については得心出来ぬ、と一夏は声を荒げた。

 

「オルコットさん、自分で言っていたじゃないか。自分は代表候補生、六十億人の中から選ばれた、エリート中のエリートだ、って。俺はまだ、ISのことはよく分からないけど、その立場になるために、オルコットさんがとんでもなく頑張ったんだろう、ってことぐらいは分かる」

 

 昨日の試合で思い知らされた、自分とセシリアの技量の差。あれほどの力を得るために、彼女はどれほどの汗を流してきたのか。セシリアがこれからやろうとしていることは、そうしたこれまでの努力を、自ら無為にしかねない行動だ。自分で自分を傷つける、自傷行為とさえとれる。端から見ていて、気分の良いものではなかった。

 

「わたくしのことを、心配してくれているのですか」

 

 セシリアは可憐に微笑んだ。女尊男卑の思想に染まっていても、自身に向けられる好意や憂慮の気持ちを曲解するほど、性根を腐らせてはいないつもりだった。

 

 ――わたくしは彼についても、誤解していたのかもしれませんね。

 

 ISを動かすことの出来る男性という、物珍しさから、このIS学園の門を叩くことを許された人物と蔑んでいた。彼の存在のために、IS学園で学びたいと願い、何年も何年も勉学に努めてきた、顔も知らない誰かの入学枠が一つ潰されたのだ、と思うと、怒りを覚えずにはいられなかった。

 

 かつて鬼頭智之という男性に対しそう抱いていたのと同様、セシリアの織斑一夏への心証は、会う前から最悪だった。

 

 しかし、

 

 ――目を見開いて、素直な気持ちで……。

 

 事前情報を一旦、思考の外に追いやった上で、改めて、織斑一夏という少年を見る。

 

 なかなかどうして、気遣いのできる紳士ではないか。彼からのいたわりの眼差しを、セシリアは心地よく思った。

 

「ありがとうございます、織斑一夏さん」

 

 ですが、とセシリアは決然とした眼差しで彼を見つめ返した。

 

「もう決めたことなのです。あなたのおっしゃる通り、わたくしも、ようやく手に入れた代表候補生の立場や、専用機を失うのは辛いです。ですが、我が身の可愛さから、自分のそういう駄目だった部分、いけないことをしてしまった事実から目をそむけ、曖昧なままにしておくことの方が、わたくしは嫌なのです」

 

 イギリス政府と連絡をとらなければ、自分の立場は守られよう。しかし、そうすることによって、鬼頭たちに対する屈託を胸の内に抱えたまま過ごすことの方が辛いと、セシリアは感じていた。

 

「イギリス政府への報告は、わたくしが今後もこのIS学園で胸を張って生活するために必要な、ケジメなのです。わたくしの決断を、尊重してくださいな、織斑さん」

 

 一夏はなおも翻意を促す言葉を口にしようとして、束の間、唇をもごもごとさせた後、諦めた表情で溜め息をついた。自分ごときの頭では、このエリート様を変心させられそうな言葉が思いつかない。

 

「……分かったよ。納得出来ないけど、納得する」

 

「よし。では、クラス代表は織斑一夏で決定とする」

 

 教室の隅に立つ千冬が、凜、とした声で言い放った。教え子たちの顔を見回して、「異存はないな」と、睨みを利かせる。ほぼ全員が、はーい、と返答した。

 

 クラス一丸となった唱和が鳴り響く中、鬼頭親子だけが、セシリアの笑顔を辛そうに見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 一限目の授業が終わった。

 

 イメージ・インターフェースの仕組みを学んだ鬼頭は、事前学習では得られなかった充足感から、ほくほく顔で、新たに仕入れた知識の使い道について思いを馳せた。教科書を片付けた彼は、代わって机の上に広げたノートに、思い浮かんだアイディアを次々書き込んでいく。イメージ・インターフェースの技術を災害用パワードスーツに転用することは可能か否か。実現が難しいとすれば、それはなぜなのか。技術的なハードルには、どんなものが考えられるか。様々な角度から、その実現性について検証する。

 

 隣の席に座る陽子は、そんな父の仕事の邪魔をしては悪い、と立ち上がり、セシリアのもとへ向かった。昨日の話し合いの後、彼女たちの心の距離感は、急激にその隔たりを埋めていた。

 

 談笑を始めた二人を一瞥した鬼頭は、こちらも会話の邪魔をしては悪いな、と手元のノートに意識を集中する。XI-02のスケッチを素早く描いた後、イメージ・インターフェースの搭載に必要な機器をどうレイアウトするか、楽しげな様子で頭を悩ませた。

 

「あ、あの……!」

 

 ひとり思考実験を楽しんでいると、遠慮がちに声をかけられた。

 

 顔を上げた鬼頭は、怪訝な表情を浮かべた。例の週刊誌が発刊されて以来、このIS学園で、自分に話しかけてくれる者は限られている。しかし、目の前に立っていたのは、彼が想像したどの人物とも違っていた。ショートヘアーが活発そうな印象を抱かせる彼女は、たしか……、

 

「……相川清香さん、でしたか」

 

「あ、はい。そうです」

 

 名を呼ぶと、彼女は、緊張した面持ちで頷いた。一年一組の出席番号一番、スポーツ観戦とジョギングが趣味だと、入学式の日に行われたSHRで、自己紹介していたのを覚えている。陽子より頭一つ分以上背が高く、IS学園の派手な意匠の制服を、りゅう、と着こなすプロポーションの持ち主だった。表情筋が強張っているのは、週刊誌に書かれたDV男を前にしたことによる恐怖からか。いやしかし、それならばそもそも話しかけないのでは……? と、鬼頭は訝しげに口を開いた。

 

「私に何かご用でしょうか?」

 

「え、ええと、用というほどのことでもないんですが、ちょっと、聞きたいことがありまして……」

 

 年上の男性を相手取ることに、慣れていないのか。丁寧な言葉選びに懸命になるあまり、たどたどしい口調になってしまうのを、鬼頭は微笑ましく思った。彼はようやく口元に微笑をたたえ、

 

「何でしょう? いやそれよりも、私と話していて、大丈夫ですか?」

 

「大丈夫、とは?」

 

「ほら、例の週刊誌の記事のことで、私と話していて、気分を害してはいないかと思いまして」

 

「あぁ……」

 

 相川清香は得心した表情で頷くと、小さくかぶりを振った。

 

「平気です。わたし、あの記事の内容、信じていないので」

 

 意外な返答だな、とひっそりと驚いた。

 

 入学初日の様子から、クラスの半数以上が週刊誌の情報を信じ、自分に対する敵意を抱いていると考えていたが。

 

「そりゃあ、入学式のときはお二人のことをよく知りませんでしたし、もしかしたら悪い人なのかな、って少し警戒してしまいましたけど……、この一週間、お二人の様子を眺めているうちに、週刊誌に書かれていたことは嘘だな、って確信しました」

 

「それは、ありがたいことですが……なぜ?」

 

「だって二人とも、すごく仲良いじゃないですか」

 

 清香は、ころころ、と笑ってみせた。

 

「DV男が元妻から無理矢理親権を奪い返した、なんてお話、二人を見ていたら、信じられませんよ」

 

 それを聞かされて、鬼頭はようやく破顔した。娘との仲が良い。うむ。良い響きだ。

 

「なるほど、それは……嬉しいですね」

 

「それで、おうかがいしたいことがあるんですが……」

 

「はい」

 

 いまの自分は機嫌がいい。大抵のことには答えよう。

 

「昨日の試合で、娘さん……陽子さんが使っていた、レーザーピストルなんですけど」

 

「《トール》のことですか」

 

 その名を口にした途端、教室内の幾人かの目線が、自身に向けて集中するのが分かった。どうやらみな、何気ないふうを装ってその実、自分たちの会話に聞き耳を立てていたらしい。そうしているところに、聞き捨てならない単語が話題にのぼったことから、思わず演技を忘れてしまった、といったところか。

 

 鬼頭は一旦、彼女たちの存在は意識の外に置き、清香との会話を続ける。

 

「あれがどうかしましたか?」

 

「はい。あの、《トール》って、今後、わたしたちが訓練機を借りるときとかでも、貸し出しされるんでしょうか?」

 

「……なるほど」

 

 鬼頭は得心した様子で頷いた。

 

「たしかに、昨日の陽子の言い方では、みなさんに誤解を与えてしまったかもしれませんね」

 

 昨日の試合中、陽子は《トール》を指して、自分のためにこしらえられた銃だ、と称した。この発言、たしかに間違いではないが、聞く人によっていくつも解釈が生まれてしまう、上手い日本語ではなかった。

 

 たしかに自分は、《トール》を陽子のための銃として設計した。彼女がグリップを握ったときに百パーセントの性能が発揮出来るよう調整し、彼女が試合で搭乗する訓練機でも扱えるよう、汎用性の高い武器として設計した。しかしこれらの要素は、彼女にしか扱えない、ということではない。

 

 陽子は専用機持ちではない。当然、彼女のために作った《トール》は、専用機用武装としての登録が出来ない。実際、鬼頭が昨日までに完成させた二挺は現在、IS学園の武器庫にて、貸出申請さえ通れば、誰でも借りられる状態で保管されていた。

 

「……ですから、貸出申請さえ通すことが出来れば、みなさんでも使うことが出来ますよ」

 

「でも、いまのところ二挺しかないんですよね。倍率高いだろうなあ……」

 

 清香は小さく溜め息をついた。

 

 昨日の試合を観戦していた者の多くは、初心者の陽子が代表候補生のセシリアと互角に渡り合えたのは、《トール》の性能によるところが大きい、と考えている。

 

 あれを使えば自分たちも代表候補生と戦えるかも! という期待から、拳銃の奪い合いが生じるのは必至と、彼女はにらんでいた。

 

「智之さん……」

 

 そのとき、二つ前の席で二人の会話を聞いていた一夏が声をかけてきた。

 

「あの、《トール》、もうちょっと数を増やすことって、できないですか? 俺もクラス代表になった以上、来週末のクラス対抗戦、やるからには勝ちたいですし、そのときに《トール》が使えたらな、って思うんですけど……」

 

 一夏の言葉に、清香も、うんうん、と首肯した。彼女としても、《トール》の絶対数が増えることは大賛成だ。

 

「……作ってあげたいのは、山々なんだが」

 

 鬼頭は深々と溜め息をついた。

 

「それはちと難しいのだ」

 

「ええと、理由を聞いても?」

 

 清香の問いに、鬼頭は「情けない話なんだが」と、重たげに口を開いた。

 

「相川さん、織斑くん、私は現在、アローズ製作所という、企業の所属だ」

 

「はい。全国レベル有名な話ですよね」

 

「ロボットのメーカーでしたよね」

 

「しかしこのアローズ製作所は、ISを商品として扱う企業ではない。つまり、私がこのIS学園で作るIS用の装備の開発費用は、アローズ製作所からはびた一文たりとも捻出されていないんだ」

 

「……え? まさか、あの……え?」

 

「も、もしかして《トール》って……」

 

「製造にかかった費用はすべて、私のポケット・マネーから捻出されている」

 

 切々とした呟きに、教室内の空気が凍った。クラスメイトの何人か――鬼頭に対して敵意を抱いている者たちでさえも――が、気の毒そうな眼差しを彼に向ける。

 

「実を言うと、予備バッテリーの製作が間に合わなかったのは、時間がなかったから、というだけじゃない。二挺作った段階で、予算が尽きたんだ」

 

「ち、ちなみにあの二挺だけで、おいくらかかったんですか?」

 

「具体的な金額については、きみたち子どもの前でしたくないなあ」

 

 不意に、鬼頭は窓の外へと目線をやった。雲量が一分以下の快晴。青々と晴れ渡った空のまぶしさも、己の心を慰めてはくれぬ。

 

「とりあえず、名古屋に置いてきたプリウスと、時計のコレクションをいくつか、来月中に処分しなければならなくなったよ。……苦労して貯金して買った物だったんだけどなあ、パテックフィリップのカラトラバ……」

 

 お気に入りの時計を手放さねばならない未来を憂い、鬼頭はまた、げんなりと溜め息をこぼした。

 

 落ち込む彼は、自身に向けられていた同情の眼差しのうち、幾人かのそれが、愕然としたものへと変じたことに気がつかなかった。

 

 

 

 

 

 

 その日の放課後。

 

 昨日、一夏たちとの試合が行われた第三アリーナでは、ブルー・ティアーズを身に纏ったセシリアが、ひとり訓練に励んでいた。

 

 訓練の内容は、BT兵器を用いたコンバット・シューティングだ。空間上に投影したコンピュータ・グラフィックの仮想標的を、BT兵器のみを駆使して何分で全滅させられるか、そのタイムを計測するというもの。

 

 英国空軍の研究チームが、ティアーズ型専用に開発した訓練プログラムだ。BT兵器の扱いについての習熟度を、計測タイムという形で定量化し、その短縮をもって、操作技術の向上と見なす。およそ一年前、セシリアは《ブルー・ティアーズ》のプロトタイプを使ってこの訓練プログラムに挑み、他の誰よりも優れた成績をたたき出した。訓練の様子を見ていた空軍の高官らは、大喜びで彼女の肩を叩くと、ブルー・ティアーズの第一次運用試験者への推薦状をその場でしたためた。

 

 ブルー・ティアーズのOSには現在、標的の種類や数に応じて、三十六段階の難易度に分けられた訓練プログラムが登録されている。プログラムを走らせると、ハイパーセンサーの視界に仮想標的の姿が映じ、タイムの計測が始まるという仕組みだ。最も簡単なステージの内容は、この種の射撃訓練では定番の風船標的が十二個というシンプルなもの。他方、いちばん難しいステージでは、標的の数は八十にも達し、しかもそのすべてが、機動パターンも運動性も異なる動体という仕様だった。

 

 第三アリーナにやって来たセシリアは、まずはウォーミングアップだ、と上から十六番目の難易度の訓練プログラムを開始した。時速四百キロで空中を徘徊する小型の無人攻撃機十六機を三分足らずで沈黙させると、今日は調子が良いですわね、と一気に難易度を上げる。

 

 選択したのは上から三番目の難易度のステージだった。標的の数は全部で六十個。実際にイギリス軍に配備されている兵器群から、選りすぐりのデータが次々出現し、セシリアに襲いかかることになっている。

 

 まず出現したのは、小型の無人攻撃機二十機と、中型機四機からなる大編隊だった。直径が二百メートルしかないISアリーナの空を瞬時に埋め尽くし、機銃やロケット弾、ミサイルをぶっ放しながら、セシリアのもとへと殺到する。

 

 仮想標的は、ただ撃たれるだけの存在ではない。隙あらば攻撃し、ブルー・ティアーズのシールド・エネルギーを削ろうとするよう行動設定されている。勿論、実体を持たないCG画像のため、攻撃を受けたところで、実際のダメージはない。しかし、訓練プログラムの走査中は、被弾箇所の機能が低下するよう設定されているため、セシリアは攻撃と同時に、防御についても気を回さねばならなかった。

 

 セシリアのブルー・ティアーズは、まず機銃とロケット弾の嵐を三次元垂直移動で悠々かわした。回避後はすぐに水平飛行へと移り、BT兵器《ブルー・ティアーズ》の一番機から四番機までを射出。背後に回り込もうとするミサイルの群れへと差し向ける。

 

 無人機の装備するミサイルは、総じて小型だ。推進装置のパワーは小さくとも、軽量だから素早く、そしてよく動く。

 

 しかし、セシリアの放った《ブルー・ティアーズ》はそれ以上に機敏だった。

 

 四機のBT兵器は、五十発近い誘導弾の群れに向かって、正面からぶつかっていった。糸のような細さの低出力レーザーを連続で発射し、四発、八発と、一射ごとに、確実に脅威の芽を摘んでいく。半数近くまで撃ち落としたところで、ミサイルの群れとすれ違った。即座に散開、反転し、誘導弾の炎の尻尾を追いかける。追いかけながら、レーザーを撃った。四発、八発とまた数が減っていく。

 

 やがて最後の一発を処理すると、セシリアはBT兵器の矛先を上空の無人機群へと向けた。今度はさらに、ミサイルを搭載した五番機、六番機も追加で射出する。低出力レーザー・タイプが四機と、誘導弾装備型が二機の、合計六機。これが、ブルー・ティアーズが装備するBT兵器のすべてだ。

 

 二四機もの大編隊は、その四分の一の数しかない《ブルー・ティアーズ》によって、あっという間に駆逐されていった。まず中型機四機に低出力レーザー・タイプが群がり、殺到し、瞬く間に炎上させた。残る小型機たちは必死に回避運動をとったが、PICにより完全な三次元機動を可能としているBT兵器が相手では、逃げられるものではなかった。二十機を全滅させるのに、三分とかからなかった。

 

 無人機をすべて撃ち落とした直後、間髪入れずに、今度はアリーナ内にストーマー戦闘車輌が四輌と、最新モデルのランドローバーが八台出現した。どちらも英国陸軍で制式採用されている兵器だ。

 

 ストーマーは一九五〇年代に開発されたスコーピオン軽偵察車を改良した装甲車輌だ。もとは工兵部隊向けの装備として開発されたが、手頃で扱いやすいサイズだったことから、様々なバリエーションが生まれた。スターストリーク対空ミサイルを八発搭載した対空モデルはその一つで、六角柱状の車体上部に積まれた発射装置が異彩を放つデザインをしている。ランドローバーはすべてトラック・タイプ。荷台には対空機銃を積み、四輌の対空仕様ストーマーを守るように輪形陣を形成していた。

 

 突如として出現した戦闘集団は、早速、上空のセシリアに向けて攻撃を開始した。

 

 銃弾の風を切る音が、ブルー・ティアーズを飲み込む。

 

 合計三二発もの対空ミサイルがつるべ撃ちされ、蒼の少女を追いかけた。

 

 セシリアは一旦、BT兵器を呼び戻すと機体に接続し、しばし回避行動に専念した。

 

 BT兵器の制御には多大な集中力を要する。いまのセシリアの技量では、BT兵器で攻撃を行いながら、同時に自らは回避運動を取る、というような器用な真似は難しかった。

 

 下方より襲いくる銃弾の嵐の中へと、セシリアはあえて機体を突っ込ませた。何発かの銃弾が命中し、シールド・エネルギーを削り取るが、致命的なダメージにはいたらない。地表すれすれの高度まで到達すると、水平飛行に移行。ランドローバー軍団が射角の変更に手間取っている間に、《ブルー・ティアーズ》六機を射出した。一番から四番機までを、ストーキング行為をはたらく不埒なミサイルどもの迎撃にあて、五番機と六番機で、陸戦部隊を叩き潰す。

 

 炎上、炎上、また炎上! 火力を集中させるため、なまじ密集隊形をとっていたことがむしろ被害を拡大させた。炎の舌が隣の車輌へと伸びて誘爆。動揺から身動きとれずにいるところを、《ブルー・ティアーズ》の五番機と六番機が容赦なく追い撃つ。先にランドローバーを片付け、次いでストーマーを始末した。労せずして地上の目標十二個を壊滅させた彼女は、残るミサイルの処理に専念した。

 

 ミサイルをすべて処理し終えたところで、新たな標的が出現した。小型無人機の編隊が、またもセシリアの頭上に現われる。と同時に、今し方全滅させたはずの地上部隊も復活した。十二機の小型無人機と四輌のストーマー、そして八台のランドローバーが、空と陸の両面攻撃を仕掛けてくる。

 

 ――いつもながら、デタラメな光景ですわね。

 

 上空より降り注ぐ機銃掃射をホバリング移動で避けながら、セシリアはひっそりと溜め息をついた。

 

 この訓練を行う度に思うことだ。直径が二百メートルしかないISアリーナ内に、これほどの戦力が集結している光景は、現実感に乏しい。

 

 寡兵でもって多数の敵を相手取る場合、まず考えなければならいのが、優先して叩くべきはどの敵か、ということだ。より脅威と思われる方から先に叩くのか、それとも弱い方から叩くべきなのか。今日のセシリアは前者を選んだ。地上の標的は同士討ちを避けるため、火力を集中しきれないでいる。他方、空中の無人機どもは、機銃、ミサイル、ロケット弾と、持てる火力のすべてを、お構いなしに撃ち放ってきた。セシリアは上空に向けて、《ブルー・ティアーズ》たちを飛ばした。六機の武装妖精たちは、無人機の周囲を機敏に飛び回り、レーザー、そして誘導弾を撃った。たちまち、頭上で十二個の花火が花開いた。

 

「これで……終わりですわッ!」

 

 号令一過、十二機の無人機を撃破した《ブルー・ティアーズ》たちは反転し、地上の標的を撃ち抜くべく急降下した。

 

 

 

 最後に残ったストーマーの動力装置を、《ブルー・ティアーズ》三号機の放ったレーザーが撃ち抜いた。

 

 機関部を熱線でズタズタにされた装甲車は、ガガガガガン、と激しい胴震いをした後、機能を停止した。

 

 これにより六十個の標的すべてを撃破。タイマーの針が静止する。

 

 記録を見たセシリアは驚いた。十分二四秒。自己ベストを三十秒近くも短縮出来ている。はて、前回同じコンバット・シューティングをやったときの自分と、今日の自分。いったい何が違うのか。

 

 原因について考えを巡らし、セシリアは思わず苦笑した。

 

 そうだった。今日の自分は、このブルー・ティアーズを、乗り納めのつもりで駆っている。

 

 鬼頭への態度についての一件で、明日にはこの機体をイギリス政府より取り上げられてしまうかもしれない。ブルー・ティアーズを操縦出来るのは、これが最後の機会かもしれぬ。そう不安に思えばこそ、いまのうちに思う存分動かしておこう、普段以上に機体の挙動に気をつけた丁寧な操縦を心がけよう、という心持ちで、セシリアは今日の訓練に臨んでいた。

 

 イメージ・インターフェースに代表されるように、ISの性能は操縦者の精神活動次第で大きく化ける。

 

 近く待ち受けている将来への不安から生じたそんな気の持ちようが、コンバット・シューティングの成績に反映された公算は高かった。

 

 ――思えば、この子とも決して短い付き合いではありませんものね。

 

 自身の周囲に浮かぶ《ブルー・ティアーズ》たちを、セシリアは愛おしげに撫でた。

 

 オルコットの家を守りたいという一心で手に入れた、代表候補生という立場。そのために費やした努力が、形をなして自分のもとにやって来てくれたのが、このブルー・ティアーズだとセシリアは思っている。いわば自身の半身のような存在と捉えていた。

 

 そんな彼女と離れ離れになってしまうかもしれない。セシリアにとってこれは非常に辛いことだった。しかし、他ならぬ自分でそうすると決めた道だ。

 

 せめて悔いが少なくすむように、と乗り納めのつもりで今日、この場にやって来たわけだが……まさか、ここに来て自己ベストを更新してしまうとは。

 

 ――これでは、余計に離れづらくなってしまうじゃないですか……!

 

 セシリアは小さく溜め息をついた。

 

 そのとき、閉めっぱなしの状態だったBピットのゲートが、ゆっくりと開いていった。アリーナ内にやって来たのは、ISスーツの上に灰色の打鉄を纏った鬼頭だ。セシリアの姿を認めると、真っ直ぐこちらに向かってくる。

 

「ここにいたのか、セシリア」

 

「お父様? わたくしを探していたのですか?」

 

 セシリアは昨日許されたばかりの呼称で、鬼頭の名を呼んだ。

 

 陽子以外の娘からそう呼ばれることにまだ慣れていない彼は、面はゆそうに苦笑する。

 

「ん、ああ。そうなんだ。実は、きみに渡したいものがあってね。いまから控え室に戻れるだろうか?」

 

「あ、はい」

 

 セシリアは可憐に微笑んだ。

 

「ちょうど少し休憩を取ろうかと思っていましたの」

 

 二人は並んでBピットルームへと向かった。その飛行中、セシリアは隣を飛ぶ鬼頭の姿を一瞥して、内心、驚いていた。

 

 初心者にも扱いやすい打鉄とはいえ、専用機を受領してまだ一週間しか経っていないはずなのに、ずいぶんと様になる飛び方をしている。そういえば昨日の試合でも、落下する陽子のもとへと駆けつける際、彼はイグニッション・ブーストと思しき空戦機動技術を使っていた。本来は中級者向けの、急加速の技術なのだが。

 

 ――MI6の調べでは、MITを首席で卒業した天才的な頭脳の持ち主、ということでしたが……。

 

 なるほど、この覚えのよさは、たしかに天才と呼んで差し支えないかもしれない。

 

 ピットルームに到着した二人は、揃ってISを待機モードへと移行させる。光芒が彼らの体を包み込んだかと思うと、一瞬にして戦闘用の装甲が消失した。各々二・五メートルはあろう高さにいきなり放り出された鬼頭たちだったが、IS解除時に生じるPICの特殊な力場のおかげで、落下速度は非常に緩やかだった。ほぼ同時に、ふわり、と着地する。

 

 ピットルームで二人が来るのを待っていた陽子が、そんな彼らのもとに歩み寄った。

 

 ISによる生理機能のサポートがなくなったことで、どっ、と汗が噴出し始めたセシリアに、純白のハンドタオルと、スポーツドリンクの入ったペットボトルを手渡した。

 

「はい、これ。お疲れ様」

 

「あら、ありがとうございます」

 

 玉の汗をタオルで拭い、ボトルの封を切って一口含む。こく、と小さく喉を鳴らして、一つ深呼吸。セシリアは自分が落ち着くのを待ってくれている鬼頭に向き直った。

 

「それで、渡したい物というのは?」

 

「ああ……陽子」

 

 ISスーツには、ポケットなどの収納スペースがない。あらかじめセシリアへの贈り物を鬼頭から預かっていた陽子は、学生鞄のポケットをまさぐった。リップクリームくらいの大きさの、黒くて四角いスティックを引っ張り出す。はい、と差し出されたスティックを見て、セシリアは目を丸くした。

 

「これは、USBメモリ?」

 

 ISが発明される以前の世界において、比較的ポピュラーな規格だった記録媒体だ。渡したい物とは、これのことか。中にはいったい何が?

 

「この中身を、イギリス政府の人間……あるいは、きみをこの学園に送り込んだ、直接の上司のような人物でもいい。とにかく、政府にコンタクト出来る人間に、渡してほしいんだ」

 

「中にはいったい何のデータが入っているんですの?」

 

「一つは暗号化されたデータだ。もう一つは、まあ、言うなれば嘆願書だな」

 

「嘆願書?」

 

「そう。鬼頭智之はたしかにセシリア・オルコットに無礼な態度を取られた。しかし、そのことについてはもう、怒っていない。だからセシリア・オルコットに対しては、寛大な処置をお願いしたい。……そんな感じのことを書いておいた」

 

「お父様……!」

 

 セシリアは茫然と鬼頭の顔を見つめ返した。故国イギリスを離れて一万四千キロ、極東の島国で出会った新たな父は、完爾と微笑んだ。

 

「勿論、安っぽい同情心から書いたわけじゃないぞ。セシリアにはこれからもずっと、この学園にいてほしいから書いたんだ」

 

「わたしも」

 

 鬼頭の隣に立ち、陽子はしかめっ面でセシリアを見た。

 

「セシリアには、まだこの学園にいてほしい。あんたとは色々あったけどさ、全部、わたしのことを思ってくれての行動だったわけだし……。それに昨日の試合、あんな勝ち方じゃ、わたしが納得できない」

 

 陽子は好戦的に笑ってみせた。

 

「わたしがいまよりもずっと強くなったとき、改めて再戦させてもらう。そんでもって、誰からも文句があがらないくらい、完膚なきまでにたたきのめしてあげる。そのときのために、セシリアにはIS学園にいてもらわなきゃ困るし、ブルー・ティアーズが相手じゃなきゃ、意味がないの」

 

「そういうわけらしい」

 

 鬼頭は、USBフラッシュメモリを受け取ったセシリアの手を、そっと両手で包み込んだ。

 

「ごっこ遊びとはいえ、私はきみの父親になったんだ。娘が大切に思うものを、私にも守らせてくれないか」

 

 セシリアが彼の前で、代表候補生という立場に懸ける想いや、ブルー・ティアーズの存在をどう捉えているかなどを語ったことはない。しかし、普段の態度や言動から、彼女がそれらをとても大切に思っているであろうことは、容易に推察できた。

 

 ――この人たちは、あんなにも憎々しい態度をとっていたわたくしのことを、ちゃんと見ていてくれたのですね……。

 

 感極まったセシリアは、思わず涙ぐんだ。

 

 受け取ったUSBメモリを、大切そうに抱きしめ、

 

「ありがとうございます、お父様。必ず、お渡ししますわ」

 

と、朗らかに笑って応じた。

 

 

 

 

 

 

 IS学園の学生寮の部屋は、寮長室などの一部の例外を除いて、基本的に全室が二人で一部屋を使う相部屋の仕様となっている。

 

 訓練を終えたセシリアが学生寮の自室に戻ると、室内にルームメイトの姿はなかった。

 

 学習机に貼り付けされていた書き置きのメモによると、夕食を摂るために寮の食堂に向かったらしい。ちょうどよかった、と内心ほくそ笑んだ彼女は、自身のクローゼットの中から、黒革のブリーフケースを取り出した。学習机の上にそっと置き、ケースの蓋を開けて、中身を取り出す。

 

 出てきたのはメーカー・ロゴのないモバイル・パソコンだった。英国本国との連絡用に、と空軍より支給された特別製の端末だ。OSにはなんとブルー・ティアーズの機体制御用に使われているのと同一の物が積まれており、緊急時のバックアップ用としての役割も与えられていた。勿論、ハードの性能に合わせて、リミッターをかけてはいるが。

 

 イギリスの首都ロンドンと、日本の首都東京との間には、およそ八時間の時差がある。

 

 電源ボタンに指を引っかけたセシリアは、ちら、と枕元の置き時計に目線をやった。

 

 関東地方の人工島群に建設されたIS学園にある時計の針が、午後七時を差し示している現在、ロンドンの隣町……ノースウッド近郊にあるイーストベリー公園に設置された時計の表示は、午前十一時となっているはずだ。そしてイーストベリーには、英国の陸海空三軍を指揮する、ノースウッド統括司令部がある。

 

 パソコンを起ち上げたセシリアは、早速、テレビ通信用のアプリケーションを起動した。データ通信の相手は、ノースウッド司令部に勤務する、空軍の軍人だ。十秒ほどのコールの後、モバイル・パソコンのディスプレイに、鷲鼻が特徴的な四十半ばと思しき男性の顔が映じた。空軍大佐のジョージ・ハミルトンだ。フォークランド紛争があった一九八二年生まれの四四歳。セシリアをブルー・ティアーズの運用試験者に推薦した軍人たちの一人で、IS操縦者を予備役と見た場合の、彼女の直接の上司にあたる。

 

「一週間ぶりですわね、ハミルトン大佐。そちらはいま、こんにちは、の時間帯でしょうか」

 

『こんにちは、だね。オルコットくん。どうしたんだい? まだ定時連絡には早い頃だが』

 

 セシリアは一週間に一度、ブルー・ティアーズの運用データを報告するため、ハミルトン大佐への定時連絡が義務づけられている。前回、彼とコンタクトを取ったのは、射撃練習場で陽子と会話した翌日のことだ。なるほど、定時連絡には一日早い。

 

『何か、緊急の要件だろうか?』

 

 ハミルトン大佐の顔は緊張していた。予定外の連絡の理由を、何かよからぬことでも起こったのか、と想像したためだ。そんな彼の顔をじっと見つめながら、セシリアは内心申し訳なく思った。すみません、中佐。あなたのご想像の通り、わたくしにとって、そしてイギリス政府にとって、よくないことが起こって……いえ、起こしてしまいました。

 

 言いづらさから重たく感じる唇をゆっくり開き、セシリアは意を決して言った。

 

「申し訳ありません、大佐。問題が発生しました」

 

『……ふむ』

 

 ハミルトンの目つきが険を帯びた。ヨーロッパ屈指の空軍力を誇る英空軍にあって、特に精強と誉れも高き第九飛行隊のファイター・パイロットの出身。聡明な彼は、セシリアの様子からすぐに、何かただならぬ事態が生じている、と察した。

 

『詳しく話してくれ』

 

 悄然と頷いたセシリアは、入学初日から今日までにあった出来事を子細に語った。代表候補生という、いまの地位と名誉が失われてしまう恐怖に怯えながらも、衆目の前で公然と他国の文化を批判したこと、人種差別ととれる発言をしてしまったこと、イギリス政府も関心を寄せる男性操縦者二人とは険悪な仲となってしまったことなど、自身の立場を危うくしうる情報をすべて、あますことなく説明してみせた。

 

「……以上が、わたくしと鬼頭智之さんたちとの間に起こったすべてです」

 

 懺悔を終えたセシリアは、それっきり口を閉ざし、ハミルトンの言葉を待った。

 

 大佐はセシリア以上に重たそうな唇を、ゆっくりと動かした。

 

『大変なことをしでかしてくれたな!』

 

 大佐の口調は忌々しげだった。よくも推薦者の俺の顔に泥をかぶせやがって、と顔中の筋肉が怒りで震えていた。

 

 国家代表や代表候補生といった存在は、文字通りその国を代表する人物、所属国のアイコンだ。少なくとも世間はそう見るし、国としてもそうした役割を期待して、人選には力を入れている。そんな立場にある人間が、他国の文化を侮辱したり、極東の猿などと人種差別と解釈できる発言を口にしたりすればどうなるか。彼女に対する批判は、転じて、彼女を代表候補生に任命した国へと波及しかねない。そして国は、いったい誰が彼女を代表候補生、さらにはティアーズ型一号機の試作運用試験者に推薦したのか、と犯人捜し始めるだろう。

 

『英国の代表候補生ともあろう者が、なんということを……しかも、よりにもよって例の男性操縦者たちとの間で問題を起こすとは!』

 

 ハミルトンが特に問題視したのがそこだった。

 

 イチカ・オリムラの存在が明らかとなって、もう一ヶ月以上が経過している。彼ら男性操縦者たちに対し、英国政府としてはどのような態度で接するべきなのか、英国議会ではいまだに結論を出しあぐねていた。

 

 国家が何か政治を行うとき、行動の基準となるのが、損得の概念だ。その政策を実施することにより、どんな利益が生まれ、どんな損失が発生するか。その利益は、損失を上回るのか否か。これが、あらゆる政治の基本だ。

 

 そういった観点から男性操縦者たちへの対応を考えた場合、英国の利益を最大化するためには、どう接するべきか。友好的な態度でもって接近し、数々の特権的待遇をチラつかせた上で、彼らに英国籍を取得してもらうべきか。いや彼らには日本人のままでいてもらい、一定の距離感を保った状態で、しかし付き合いには親密さを求めるべきか。前例のないことだけに、議員たちの誰もが納得のいく結論を得るには、長い時間が必要だろうと考えられていた。それなのに、セシリアは……!

 

『議員たちの出す答えがどう転ぶにせよ、そのときのために、男性操縦者たちとは、少なくとも敵対だけはしてはならない。この国を発つ際に言われたことを、よもや忘れたわけではあるまい。この件は、議会で取り上げられることになるぞ』

 

 ハミルトンは歯噛みした。

 

『最悪の場合、きみは専用機の剥奪、代表候補生の立場を失うことになりかねん』

 

「……覚悟の上です」

 

『その覚悟に巻き込まれる我々のことも考えてくれたまえ!』

 

 セシリアをブルー・ティアーズの試験運用者に推薦したのは、己一人だけではない。空軍大学のグランビル校長や、陸軍のフォスター第一装甲師団長らにも、累は及ぶだろう。

 

 ハミルトンは溜め息をついた。まだ陽の高い時間だが、スコッチを一杯やりたい気分だ。

 

『報告は以上かね?』

 

「いえ、実はもう一つありまして……」

 

 まだあるのか、とハミルトンは辟易とした表情を浮かべる。しかし、その面差しはすぐ怪訝なものへと変わった。

 

「トモユキ・キトウから、わたくしの上司にあたる人物に渡してほしい、と電子データを預かっております」

 

『トモユキ・キトウから?』

 

 クラス代表決定戦の後、セシリアとは和解したと聞いているが、はて、自分にいったい、何用なのか。

 

 セシリアはモバイル・パソコンのUSBスロットに、鬼頭から手渡されたフラッシュメモリを挿入した。中を検めると、テキストファイルが二つ入っている。セシリアはモバイル・パソコンにインストール済みのアプリケーションから、電子メールの送受信を管理する特殊なソフトウェアを起ち上げた。英国情報部が開発した、通信暗号化ソフトだ。このソフトを用いて送受信された電子メールは自動的に暗号化され、二四時間ごとに変更される解除コードを適用しなければ、メール本文は勿論、添付ファイルの閲覧も出来なくなる。

 

 「いま、送りますね」と、セシリアが呟いてから一分ほどの後、ハミルトンが操作する端末に電子メールが届いた。暗号ファイルになっていることを確認し、解除コードを適応、メールを開く。添付ファイルはやはり二つ。二つともテキストドキュメント・ファイルで、世界中のありとあらゆるパソコンで閲覧可能なファイル形式で保存されている。一つは誰でも閲覧可能なフリーの状態だが、もう一つは暗号化処理が施されており、いまのままでは中身を知ることが叶わない。

 

 ハミルトンは念のためセキュリティ・ソフトを起動させ、二つのファイルを走査した。安全性を確認した後、とりあえずフリー状態のテキストファイルを開く。

 

 中身は全文が英語で書かれた嘆願書だった。作成者の名前は、トモユキ・キトウ。内容は要約すると、セシリア・オルコットとは色々あったが、自分たちはもう怒っていないので、彼女への処分は寛大な心でもって実施してほしい、というもの。

 

 本物だろうか? という考えが、ハミルトンの頭の中に一瞬浮かび、すぐに消えた。セシリア・オルコットが我が身の可愛さから偽の嘆願書を用意したとは、時間的に見て考えにくい。また、嘆願書を構成する英語はすべて、米語の作法に則って使われていた。日本の英語教育の主流は、第二世界大戦の以後はアメリカ式になったと聞いている。日本人たる鬼頭の書いた文書だ、と言われても違和感はない。

 

 そしてなにより、嘆願書の最後の方に書かれた、この文章……。これは、セシリアでは書けないものだ。

 

『……オルコットくん、きみはこの嘆願書の中身を読んでみたかい?』

 

 セシリアはかぶりを振った。

 

「いいえ。これは鬼頭さんが大佐にあてた文章です。わたくしが勝手に読んでいいものではない、と思いましたので」

 

『では私が許可する。読んでみたまえ』

 

 その言葉に従い、セシリアは嘆願書と銘打たれたテキストファイルを読み始めた。読み進めるにつれて、鬼頭がいかに自分のことを想ってくれているのかを感じ、嬉しさから目頭が熱くなるのを自覚する。しかし、目線がやがて端末書の末尾のあたりでとまると、セシリアの美貌は硬化した。

 

「こ、これは……!?」

 

『以上のことから、セシリア・オルコットに対しては寛大な処分をお願いしたい。彼女から代表候補生の地位、そして専用機を取り上げないでほしい。この後に続く、文章が問題だ。……オルコットくん、トモユキ・キトウという男は、政治というものを理解しているようだな』

 

 鬼頭からの嘆願書は、次のように続いていた。

 

【――勿論、こちらもタダでそうしてほしい、などとは申しません。あなた方が抱え持つ事情は、分かっているつもりです。

 

 セシリア・オルコットを代表候補生に推した、あるいは任命した責任から、あなた方は彼女を厳しく罰しなければならない立場にあるはずだ。そうしなければ、信賞必罰という観点から、組織が成り立たなくなってしまう。そんなあなた方に、セシリアへの処分を減免してほしい、と聞き入れがたいお願いをする以上、こちらも相応の対価を支払うべきだ、と考えております。

 

 そこで私は、あなた方に取引を持ちかけたい。

 

 イギリス政府はセシリア・オルコットに対して、代表候補生資格や専用機の剥奪といった処分を下さない、と約束していただけるのであれば、今度は私が、あなた方に対してお約束しましょう。

 

 現在、貴国が第三次イグニッション・プランの主力機候補の座を目指して開発を進めているティアーズ型。その最大の特徴にして最強の武器である特殊兵装……BTシステムを完成させるためのお手伝いをする、と――】

 

 そこまで読み終えて、セシリアは喉を、こくり、と囁かせた。

 

 鬼頭の持つ技術力の凄まじさは、昨日の試合で実証済みだ。自分も彼の作った武器で戦えるのか、彼が手を加えたブルー・ティアーズをこの身に纏えるのか、と思うと胸が高鳴った。

 

 嘆願書をおこすのに際して、鬼頭はこの手紙を読むのはどんな人物だろうか、と想像力をたくましくさせたに違いない。

 

 嘆願書の続きは、ハミルトンのような《トール》の存在を知らない者たちへのメッセージから始まった。

 

【――ご存知かもしれませんが、私はアローズ製作所という、ロボットのメーカーに、技術者として二十年以上勤めています。これまでに、災害用ロボットを中心に、当社の様々な製品の開発に携わってきました。現在は、災害用パワードスーツの開発チームで、設計主任の立場にあります。貴国のお役に立てるだけの力はある、と自負しております。

 

 ……そうは言っても、あなた方からすれば私はどこの馬の骨とも知れぬ身。日本政府の保護の下、徹底した情報管理により、あなた方の目には、経歴不詳の怪しい人間と映じていることでしょう。そんな相手から、最新兵器の開発のお手伝いをします、などといきなり言われても、よろしく頼む、とは応じられないでしょう。

 

 そこで、私の技術者としての実力を証明するため、資料を作成しました。この嘆願書と一緒に送られた、テキストドキュメントの中をご覧ください。暗号化処理を解除するためのパスワードは、“Jaguar XJ”。貴国で生産されている車の中でも、私が最も好きなメーカーと車種の名前です】

 

「ハミルトン大佐、テキストファイルの暗号化を解いても?」

 

『うむ。許可する。私はもう開いている。……先に言っておくが、驚くなよ』

 

 セシリアはモバイル・パソコンのキーボードを操作し、ジャガーXJと、入力した。イギリス車を代表するロイヤルサルーンの名が錠前を解錠し、テキストファイルが開かれる。

 

 まずディスプレイに映り出されたのは、二次元的に描かれた何かの図面だった。どうやら何らかの機械装置の内部構造を表しているらしく、この部分にはこの部品を使う、その部品の寸法はこう、といった情報が細かく書き込まれている。二、三秒、画面とにらめっこをしていたセシリアは、やがて息を呑んだ。図面が表している機械の正体に気づいた彼女は、動揺した眼差しをハミルトン大佐に向けた。画面の中の小さな大佐は、粛、と首肯した。

 

「た、大佐……まさかこれは……!」

 

『そうだ。これはBTシステムの中枢装置……イメージ・インターフェースの中核部分の内部構造図だ』

 

「どうして……、どうしてこれをお父様が……!? まさか、ブルー・ティアーズの情報が盗まれたのでは……!」

 

『お父様?』

 

 セシリアの口から飛び出した発言を訝しく思うも、ハミルトンはそれ以上の追及をしなかった。彼は動揺する彼女に向けて、『落ち着きなさい』と、語りかけた。

 

『図面をよく見たまえ。たしかに、イメージ・インターフェースの内部構造を示す物だが、よく見ると細部が異なっているだろう』

 

 言われて、セシリアはモバイル・パソコンの小さなディスプレイに映じる図面を子細に眺めた。

 

 ……なるほど。たしかに、ハミルトンの言う通りだ。自分も見慣れたブルー・ティアーズに搭載されているイメージ・インターフェース装置とは、使われている部品の寸法などが微妙に異なっている。基本的な構造こそ共通しているが、脳波誘導に不可欠な脳波増幅装置の造りが色々と粗い。この装置でも、BT兵器を動かすことは可能だろうが、同時に動かせる最大数は四基が限界だろう。

 

『ページをスクロールしてみなさい。恐るべきことが書いてあるから』

 

 大佐の言葉に従い、次のページへとジャンプした。……なるほど、たしかに、ハミルトンの言う通りだった。

 

【――この図面は、先日行われたクラス代表決定戦の際に見たBT兵器の動き方から、おそらくこういう構造になっているのではないか、と想像して引いた物です。これをもって、私にはこの図面を作成する能力がある。ISのことやBT兵器についての知識と技術があることの証明になればな、と思います】

 

 たった二試合、見ただけで。これほどの精度の図面を、しかもたった一日で書き上げたというのか。キーボードを叩くセシリアの手が、じんわり、と汗ばむ。

 

『この想像で書き上げたという図面と、実際のブルー・ティアーズに搭載されている装置の図面。詳細な分析はコンピュータにかけねばならないだろうが、ざっと目を通した感じでいうと、一致率は七十パーセント前後といったところであろうな』

 

 英国でも選りすぐりの技術者たちが何十人と集まり、三年以上に及んだ基礎研究の末にようやく試作品の完成までこぎつけ、昨年の暮れにやっと機体に搭載することができた、BTシステムの試作一号機。しかし鬼頭智之は、僅か十数分程度の試合を二回、観戦しただけで、自分たちの研究にもう追いつこうとしている。

 

『恐るべき男だ。そして、これほどの頭脳と技術を持った人物と判った以上、我々はこの取引に応じざるをえん!』

 

 鬼頭智之は、イギリスが第三次イグニッション・プランに向けて開発を進める虎の子、BTシステムについて、もうかなりの部分を理解してしまっている。そんな彼が、第三次イグニッション・プランで競合する国……たとえばドイツあたりと、この先友誼を結ぶようなことがあれば……、

 

『わが国の最重要軍事機密であるBTシステムの詳細が、競合する相手国の開発陣に、筒抜けとなってしまう。それだけは、絶対に避けねばならない!』

 

 ハミルトンが、鬼頭智之は政治というものをよく理解している、と評したのは、つまり、そういうことだった。

 

 取引を提案しつつ、しかし実際にはすでに逃げ道を塞いでいた。取引という形態にこだわったのは、こちらの面子を守るため。こちらに借りを作らせ、心理的にも物質的にも優位な立場に立つため。

 

 なんと強かな男なのか、とハミルトンは内心舌を巻く。英国政府という巨大な、そして強力な組織を相手に、たった一人で、こんな戦い方を挑み、しかもわが方を翻弄するとは……。単に気力と体力に秀でているだけの人物では、ここまでのことは出来まい。これほどの傑物は、ジョージ・ソロス以来ではあるまいか!? 

 

 ――トモユキ・キトウ……、いったい、どんな男なのか……。

 

 叶うならば自分も日本へ赴き、彼と会ってみたい。彼と話し、どんな為人をしていて、どんな哲学を持っているのかを知りたい。

 

 と同時に、ハミルトンはこうも思った。それほどの男が、なぜ、セシリア・オルコットにこうも執心しているのか。件のクラス代表決定戦の後、鬼頭ら家族とは和解した、とこの代表候補生の少女は言っているが、その際に、彼と彼女の間で、何かあったのではないか……?

 

 理由はどうあれ、これで自分たちは迂闊にセシリアを罰せられなくなってしまった。

 

 鬼頭智之の能力が判明してしまった以上、彼とはなるべく友好的な関係を保つべきだ。鬼頭が執心するセシリアの扱いには、慎重を期さねばなるまい。

 

 ――おそらくは我々がそういうふうに考えて行動せざるをえなくなるだろう、と思い、あの嘆願書とBTシステムの図面を送ってきたのだろう。

 

 やはり恐るべき男だ、とハミルトンは胸の内で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter11「得たもの」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間は少し遡って、クラス代表決定戦の日の夜。

 

 愛知県名古屋市、東区は白壁町にある、名古屋拘置所――、

 

 

 

 

 

 

 弁護士の東山紀子は曇り気味の夜空を仰いで小さく舌打ちした。

 

 西の空に夕日が沈みきって、もう久しい時間帯だ。思ったよりも面会時間が長引いてしまい、拘置所の玄関を出るが遅くなってしまった。この分だと大阪へ帰るのは何時ぐらいになるだろうか、と彼女は表情を忌々しげに歪めた。

 

 ――あの女、無駄話ばかりして、面会を長引かせて……。

 

 一週間前に東区内で起きた、アローズ製作所勤務の会社員、滑川雄太郎に対する傷害事件の加害者として収監されている女囚の顔を思い出し、紀子はまた舌打ちした。

 

 女囚は、大阪で強い影響力を持つ女性権利団体『カキツバタの会』の末端構成員だった。同じく会員の紀子とは、過去に二回だけ一緒に食事に出かけた間柄。普段の生活圏から遠く離れた名古屋の地で、犯罪者として拘束される。そんな状況の中で心細さを覚えていた彼女は、知り合いの顔を見るなり歓呼の声を上げた。緊張から解放された彼女は、それまで感じていた不安の反動から、とにかく紀子に話しかけた。口ずさまれた言葉のほとんどは、拘置所の食事は不味いだの、女の私を逮捕するなんて警察はどうかしているだの、生産性に乏しい内容であり、紀子としては、現状を改善していくための話し合いをするつもりで臨んだ面会は、蓋を開けてみれば三時間以上、無駄話に付き合わされただけの時間という形で終わってしまった。

 

 ――頭の弱い人間というのは、これだから困る。

 

 無駄口ばかり多くて、話が先に進まない。こちらの時間を無自覚に奪い、悪い感情ばかりをあおり立ててくる。

 

 洗脳をするにはそちらの方が都合がよかったとはいえ、人選にはもっとこだわるべきだったな、と紀子は過去の自分を罵った。

 

 

 

 東山紀子が弁護士といういまの生き方を意識するようになったのは、小学六年生のときのことだった。

 

 幼い頃より成績優秀だった彼女は、自身の将来のあり方について、比較的早いうちから、こう、と決めていた。弁護士の道を選んだのは、収入は勿論のこと、社会的に高い地位が約束されている、と感じたためだ。やがて関西大学の法学部に入学した彼女は、そこでも優秀な成績を修め、弁護士試験にも難なく合格、首席で卒業するにいたった。

 

 紀子の将来設計が狂い出したのは、この直後のことだ。

 

 大学を優秀な成績で卒業する一方で、彼女は就職活動に失敗してしまった。はじめのうちは弁護士事務所に狙いを定め、有名無名問わずその門を叩いたが、一つも内定が取れず。大学四年生も十月に差し掛かると、なりふり構わなくなり、一般企業の面接も受けた。しかし、ここでも惨敗。結局、無職のまま大学卒業の日を迎えてしまった。

 

 自分はなぜ就職に失敗したのか。どうして誰も自分を必要としてくれないのか。思い悩んだ紀子は、あるとき、何気なしに眺めていたテレビの画面から、答えを見出した。第二回モンド・グロッソ準決勝戦の生中継。画面に映じるイタリア代表のアリーシャ・ジョセスターフと彼女のISを見て、はた、と気がついた。

 

 そうか。自分が就職活動に失敗した原因は、これだったのか。自分が女だから、彼らは採用を拒んだのか。

 

 白騎士事件の後、世界は急速に女尊男卑の考え方を受け入れていった。しかしこの時代はまだ、変わりゆく常識に対し抵抗する者たちも少なくなかった。そうした旧時代の考え方に固執する愚者どもが、優秀な女である自分を採用することで、自分たちの立場が脅かされる、と警戒したがために、己はふるい落とされたのだ。紀子はそう確信した。

 

 実際のところ、紀子のこの考えは、半分正解で、半分誤っていた。たしかに、大いなる変革の波にさらされた企業たちはこの頃、日ごと地位が向上していく女性の扱いをどうするべきか悩み、その対応に追われていた。新卒女子社員を採用することで、新たな悩みの種を抱え込むことを嫌った彼らは、紀子に限らず、女子社員の採用に関して慎重になっていた。

 

 しかしそれ以上に、企業たちは紀子の人格面での重篤な問題に注目し、それゆえに採用を見送ったのだった。紀子には思い込みの激しいところがあり、よく言えば気骨稜々、悪く表現すると、他人の意見を聞き入れない、融通のきかなさがあった。一般企業においては、彼女のこうした性格はチームの和を乱すことになりかねないし、弁護士の世界においても、自分の考えよりもまずクライアントの気持ちを優先せねばならないことから、紀子のような人物は扱いづらい、と判断された。 

 

 自分の受けた仕打ちの本質を理解した(と思い込んだ)紀子は、怒りに燃えた。こんな世の中は間違っている。この私が、変えてやらねば、という考えに支配された彼女は、当時大阪府内で勢力を拡大しつつあった『カキツバタの会』の門を叩いた。

 

 カキツバタの会の会長は、紀子と同様、女であることを理由に社会から虐げられた者だった。彼女は、女性はもっと社会に出て輝くべきだ、という信念を胸に、ISの登場以前から女性の地位向上を目指して活躍する人物だった。紀子はこの考えに共感、彼女の活動を手伝いたいと思った。

 

 『カキツバタの会』に入会した紀子は、早くも不満を抱える羽目になった。

 

 入会したばかりの紀子は、当然ながら組織の人間としての実績がまだなく、組織内での地位は低かった。任される仕事は雑用がほとんどで、自分は優秀な人材である、と自負する彼女にとって、この待遇は我慢ならなかった。なんとか手柄を挙げることは出来ないか、と思い悩んだ彼女は、ある日、恐るべき企みを思いついた。

 

 自分と同様、『カキツバタの会』の中でも末端の構成員で適当な人物を言葉巧みに操り、何か事件を起こさせる。その後、弁護士の自分が彼女を助け、『カキツバタの会』に対しては、組織の人間を守ったことをアピールする。この自作自演により功績を挙げ、組織内での地位向上を目論んだのだ。

 

 はたして、紀子の計画は上手くいった。上手くいってしまった。味をしめた彼女は、その後も同じことを何度か繰り返し、その度に組織内での立場を強くしていった。古参の会員たちも次第に紀子のことを頼るようになり、いまや彼女は、法律を武器に『カキツバタの会』を守る、組織の顧問弁護士のようなポストに収まっている。

 

 

 

 織斑一夏と鬼頭智之に関する報道がなされたとき、紀子は、またも自作自演作戦が使えるチャンスだ、と感じた。

 

 世界中が注目している男性操縦者たち。彼らの近しい人を、『カキツバタの会』の人間が、心ならずも傷つけてしまう。警察に捕まってしまう彼女だが、そこに自分が颯爽と登場し、救い出す。これによる地位の向上は、これまでの比ではあるまい。

 

 そう思って、会員たちの中でも特に頭が悪そうで、男性という存在に対し敵意を抱いている人物とにらんで、あの女を焚きつけたのだが。

 

 ――本当、馬鹿との会話は疲れるわね。

 

 紀子が密かに打ち立てた作戦計画の予定では、今日の面会で今後の方針をある程度かため、一週間のうちに彼女を無罪放免、釈放させるつもりだった。しかし、肝心の彼女が一向に話を前進させてくれず、不起訴処分こそ勝ち得たものの、いまだ拘置所からは出してあげられないでいる。

 

 ――無駄話に時間を費やせば、その分だけ収監される時間が長引くだけだってことに、どうして気づかないのかしら?

 

 思ったよりも長丁場になるかもしれないな、と紀子は深々と溜め息をついた。

 

 名古屋拘置所のある白壁町は、名古屋の繁華街……栄にほど近い。流しのタクシーも相当な数が走っており、紀子は手を上げて路肩に停めさせた。後部座席へと乗り込む。

 

 運転手が前を向いたまま、「どちらへ?」と、訊ねた。無愛想なしゃべり方だ。

 

「名古屋駅へ」

 

と、紀子が応じると、タクシーは静かに走り出した。名古屋市は日本が世界に誇る大企業、トヨタ自動車のお膝元だ。タクシーもハイブリッド自動車化が進んでおり、走行音は実に静かであった。

 

 紀子を乗せたタクシーが走り出すと、まるでその瞬間を待っていたかのように、近く路肩でハザード・ランプを、ちかちか、と点滅させていた青いカムリが、ウィンカーを右へ出し、ゆっくりと追跡を始めた。

 

 カムリのコクピットでハンドルを握る桜坂が、「見つけたぞ」と、ドスを孕んだ声で、小さく呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




たぶん、ISの登場によって世界中の軍隊の軍備が、現実世界のそれよりも歪んでしまっていると思います。

具体的には、ISという新兵器の調達・運用・維持・研究開発コストが増えたことで、その分のしわ寄せが他の装備だったり、福利厚生の部分だったりにいっていると思われる……。

古い兵器を長く使うことで有名なイギリス軍も、まさか1960年代開発のスコーピオンファミリーを2020年代になっても第一線兵器として使い続けることになろうとは思うまいて。


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Chapter12「新たに始める」

今回はつなぎ回。

物語が本格的に進むのは次のChapter13から、ということで、いつもよりも短めです。

その代わり、次回の投稿をちょっと早めにやれればな、と思います。

棚卸しも終わりましたんでね。



あと、今回は基本オリキャラしか登場しません。

原作キャラとの絡みを期待されていた方々、申し訳ない……。




 セシリアがハミルトン大佐と連絡を取っていた、ちょうどその頃。

 

 IS学園学生寮の1122号室では、鬼頭もまた、自身の直接の上司と、パソコンを介してのテレビ通信による連絡をとっていた。通信の相手は勿論、パワードスーツ開発室の桜坂室長だ。

 

 パソコンのテレビ通信機能を起ち上げ、相手を呼び出すこと十数秒……、ディスプレイに映じた親友の顔は、一週間前に同様の手段で連絡をとったときとはまた違った意味で、疲労の色が濃かった。

 

 はて、どうしたのかと訝かしむ鬼頭は、仕事を終えていまは自宅にいるんだ、という桜坂の背後に、洗濯物を畳む桐野美久の姿を早くも認めてしまい、なんとも形容のしがたい面差しを彼に向けた。

 

「桜坂……その、背後に桐野さんの姿が見えるんだが?」

 

『……見んでくだせえ』

 

 仁王の顔の桜坂は悄然と呟いた。曰く、鬼頭が名古屋を離れてからというもの、彼女からのアプローチは、日を追うごとに、情熱的かつ過激になっているそうな。以前は、桜坂の就寝中に部屋に忍び込み、洗濯籠の中から汚れ物を拝借し、その代わりに洗濯済みの衣服をクローゼットにしまった後、朝食を作って彼の目覚めを待っている、という程度だったが、最近は日中普通に活動している時間帯にも、ひそかにこしらえた合鍵をもって、堂々と侵入してくるのだという。

 

『なんかもう、普通に部屋にいるぐらいじゃ、感情が動かなくなっている自分がいるのよね、うん。平然と部屋に侵入してくる桐野さん以上に、彼女に対する自分の認識が変化しつつある事実の方が、すんごく恐いわ。うん』

 

「気をしっかり持て、桜坂! お前、それは洗脳されているぞ!」

 

 日常的にパーソナルスペースを侵犯され続けたことで精神が摩耗し、狂気を孕んだ現状に対し抗う気力を失ったか、桜坂の黒炭色の双眸からは諦観の念がうかがえた。

 

『……まあ、俺のことはさておきだ。それで、今日はどうしたんだ、鬼頭?』

 

 暗くなりつつあった雰囲気を払拭するように、桜坂は努めて明るい声音で訊ねた。空元気なのは明白だが、場の空気を気遣う親友の配慮を尊重し、鬼頭は言及しなかった。

 

「ミス・オルコットとの件についてだよ。陽子との試合の結果がどうなったか、とか。試合の後、彼女との関係がどうなったか、などをな。お前には話しておこうと思って」

 

『試合の結果は、もう、陽子ちゃんから、メールで第一報をもらったよ』

 

 鬼頭は水音がかすかに聞こえてくるシャワールームの方を一瞥した。「今日はお風呂じゃなくてシャワーで軽くすませたい気分」と、陽子がシャワー室の戸を閉めたのは、五分ほど前のことだ。

 

『現役女子高生らしい、絵文字満載のメールだった。勝つには勝ったが、不満の残る内容だった、と複雑な心境がよく表われていたよ』

 

 だろうな、と鬼頭は口の中で呟いた。

 

 昨日の試合について、終了直前の様子を思い返す。あのとき、セシリアは二挺目の《トール》の存在をまったく想定していなかった。陽子の打鉄が、よりにもよってあのタイミングで故障さえしなければ、《トール》の銃口から放たれたレーザーは狙いたがわずブルー・ティアーズの胸部を貫き、シールドエネルギーの残量を空にしていただろう。陽子も今頃、堂々と胸を張って、自身の勝利を喜べたに違いない。

 

 しかし、実際に起こった出来事は、右腕部のパワーアシスト機能が、突然、停止するというアクシデント。これにより、陽子はレーザー・ピストルのグリップを保持出来なくなり、レーザーが発射されたままの状態で、銃を取り落としてしまった。その際にレーザー光線を自身が喰らってしまい、打鉄のシールドエネルギーはエンプティの状態になってしまった。その瞬間、試合終了のブザーが鳴り響き、陽子の敗北を告げた。

 

 ところがその最中に、試合終了のブザーが鳴る直前にセシリアが発射していた《ブルー・ティアーズ》のレーザーが、陽子に炸裂してしまった。これを試合終了後の攻撃という反則行為ととられたセシリアは、なんと失格の扱いとなり、試合は陽子の勝ちという、当人らはもとより、観客たちにとっても、なんともすっきりしない結末となった。

 

 陽子から試合の詳しい経過を聞かされていなかった桜坂は、鬼頭から説明を受けて得心した様子で頷いた。

 

『ああ、その内容じゃあなぁ……。陽子ちゃんが気持ち悪く思うのも分かるよ』

 

「不慮の事故が原因で敗北した、というだけでも、受け入れがたい事実だろうに」

 

『しかもその裁定が、相手の反則のせいで、すぐひっくり返るとか! 急なことすぎて、気持ちの整理が追いつかないだろう、それ』

 

「実際、感情を持て余しているように見えるよ」

 

 眉間に深い縦皺を作る鬼頭は、深々と溜め息をついた。

 

「勝ったことはたしかに嬉しい。しかし、その理由に納得がいかないから、素直に喜べない。事故については誰を恨むべきなのか。技量未熟な自分か、それとも打鉄を整備した名も知れぬ誰かなのか。試合終了後の攻撃については、セシリアを恨んでいいものなのか。考えれば考えるほどに、答えが見出せず、苦労している様子だ」

 

『真面目な娘だからなあ』

 

 桜坂は優しい表情で苦笑した。

 

『心のもやもやを消化するには、時間がかかりそうだ。……ところで、』

 

「うん?」

 

『さっき、セシリア、ってミス・オルコットのことを呼び捨てにしていたが?』

 

「ああ。クラス代表決定戦の後にな、彼女とは和解することが出来たんだよ」

 

『そいつはよかった』

 

「それで、その際に、呼び捨てで呼んでほしい、とお願いされたんだ」

 

『なるほど』

 

「あと、お父様、と呼ばせてくれ、と」

 

『なるほど。……え?』

 

 厳めしい仁王の形相に、険が宿った。

 

『え? そういうプレイ? 女子高生相手に。ドン引きなんだけど』

 

「違うわ! ええいっ、そんな目で見るのをやめろ、やめろ! 画面の奥のほうでちらちら映る桐野さんも、やめてくれ!」

 

 二人からの蔑みの眼差しを受け止めながら、鬼頭は彼らに、試合後に設けられた、セシリアとの和解の場で行われたやりとりについて詳しく説明した。桜坂は勿論だが、美久も陽子が義理の父親から襲われた事実については知っている。誤魔化しの必要がないから、三人の間であった会話の内容を包み隠さず話すことが出来た。

 

「――というわけだ」

 

『それは……辛かっただろうな』

 

「ああ」

 

 沈痛な面持ちの桜坂に、鬼頭は悄然と頷いた。あのときの陽子の胸中を思うと、目頭を熱くせずにはいられない。

 

 性犯罪は別名を魂の殺人ともいう。被害に遭ったときのことを思い起こす度に、往時の恐怖や痛みの感覚が蘇り、被害者の心は殺されることになるからだ。

 

 陽子の場合も例外ではなかった。義理の父親にレイプされたときの記憶は、彼女にとって最悪のトラウマだ。被害に遭ってから三年以上が経過しているが、心の傷はいまだに癒えていない。いまでも、何かのきっかけで思い出してしまう度に、体の震えは止まらず、張られた頬の痛みが蘇り、下腹部にも鈍痛を覚え、その夜は悪夢にうなされる、といった症状が生じてしまう。

 

 そんな最悪の記憶を、自らの意思、自らの口をもって、他人に語って聞かせる。自殺も同然の行為だ。心と体をバラバラに引き裂かれるような痛みが、彼女の胸中で暴れていたに違いない。

 

「どんなに辛かったことか……! あいつは、俺の心を救うために、自分自身の心を殺したんだ。どれほどの、痛みを……」

 

『陽子ちゃんだけじゃないだろう』

 

 桜坂は、鬼頭の言葉を途中で遮った。

 

『お前だって、辛かったはずだ』

 

 父に対する誤解を解くために、陽子は自身の辛い過去をセシリアに明かした。彼女のこの献身を、モニターの向こう側にいる親友は嬉しく思うと同時に、心苦しいとも感じているはずだ、と桜坂は確信していた。

 

 智也亡きいま、鬼頭にとって陽子の存在は人生のすべてだ。そんな大切に想う彼女が、自分のために傷つき、苦しい思いを強いられている。その事実は、この男の心をさぞや痛めつけたことだろう。

 

『俺の目には、お前が泣いているようにさえ見えるぜ? 俺の耳には、お前の声なき悲鳴が聞こえる。痛え、痛え、って、苦悶の声がよ』

 

 陽子に気取られてはならない、と表に出さぬよう努めていた胸中をあっさりと看破され、鬼頭は束の間、返すべき言葉を見失ってしまう。

 

 しばしの沈黙を挟んだ後、降参、とばかりに両手を上げるジェスチャーを取った。

 

「流石は、親友だな」

 

 鬼頭は照れくさそうに苦笑した。

 

「俺という人間を、よく理解してくれている」

 

『前にも言っただろうが』

 

 他方、桜坂は、ニヤリ、と不敵な冷笑を唇にたたえた。

 

『俺とお前の仲だぜ? 長い付き合いだし、お前の考えていることくらい分かるさ』

 

 そのとき、ディスプレイの向こう側から、ぴゅううう、と蒸気の噴出する音が聞こえてきた。どうやら、火にかけていた薬缶の中の水が沸騰したらしい。洗濯物を畳んでいた美久が立ち上がって、キッチンの方へとスリッパの踵を鳴らしながら歩いていく。桜坂のために、コーヒーでも淹れてくるつもりか。

 

『……俺の余計な一言のせいで、話が脱線しちまったな』

 

 キッチンの方へと目線をやりながら、桜坂は呟いた。

 

『それで、その後はどうしたんだ? ミス・オルコットの父親役を務めることになった、なんてことを報告するためだけに、わざわざテレビ通信を開いたわけじゃないだろう?』

 

 クラス代表決定戦の結果や、セシリアとの和解が成立したことなどは、電子メールにでも書いて一通送ってくれればよい内容だ。しかし鬼頭は、相手の顔が見え、リアルタイムでの会話も行えるテレビ通信という連絡手段にこだわった。いったい、その理由は何なのか。上述の二項の他にも、伝えたいことがあるのか。それはテレビ通信でなければ伝わらない、あるいは、伝えにくい内容なのか。桜坂の問いかけに、鬼頭は首肯した。

 

「勿論だ。むしろ本題は、セシリアと和解した後の話にあるんだ」

 

 鬼頭親子との和解後、セシリアは彼らに、一連の騒動における自身の無礼な態度や発言をすべて、英国政府に包み隠さず報告する腹積もりである、と自らの胸の内を明かした。

 

 少女の決意の言葉を聞かされた鬼頭は驚いた。今回の一件において、セシリアが口にした言葉といえば、他国の文化批判をはじめとして、人種差別ととられかねない失言や、自分に対する人格否定の暴言と、聞き苦しいものばかりだった。少なくとも、一国のシンボルとしての役割が求められる代表候補生が口にしていい台詞ではなかった。それらを報告するとなれば、よくて専用機の没収、酷くて代表候補生の地位の剥奪、最悪の場合にはこれらに加えて、英国への強制送還など処分が考えられた。

 

 ――代表候補生の立場や専用機は、欲しいと思って手に入るものではない。才能に恵まれた人間が、血を吐くような努力を長年積み重ねて、ようやく手に入るものだ。絶対に専用機持ちになってやる! 絶対に代表候補生になるんだ! ……そんな強い想いなしには、得られないもののはずだ! そうやって手にした栄誉を、この娘は自らの意思で手放そうというのか!?

 

 鬼頭からの又聞きでセシリアの考えを聞かされた桜坂も、遠くは名古屋の地で息を呑んだ。

 

 過日、陽子に拳銃射撃の手ほどきをしてやった際に、思いがけず言葉を交わした彼女の、可憐な美貌と優美な所作を思い出す。プライドの高そうな人物だな、とは思ったが、まさかここまでとは……!

 

『……おそらくだが、ミス・オルコットは、自分の行いを誰かに裁いてほしかったんだろう』

 

 鬼頭親子の真実を知ったセシリアは、自身のこれまでの行いや態度を大いに恥じたに違いない。鬼頭や陽子に対して、なんて酷い言葉を叩きつけてしまったのか。こんなにも互いのことを想い合っている親子に対し、なんて愚かなことを……。セシリアはすぐにその場で腰を折ったというが、涙ながらの謝罪を、しかし二人は受け入れなかった。いや、受け入れられなかったという。

 

 鬼頭たちの気持ちはよく分かる。

 

 暴言の数々を浴びせられたにも拘らず、鬼頭も、陽子も、セシリアのことを嫌ってはいないはずだ。彼らの性格を鑑みるに、このプライド高き代表候補生の少女に対し、むしろ好感さえ抱いているのではないか、と桜坂は推測していた。

 

 思い違いをしていたとはいえ、彼女が陽子のために怒ってくれたのは、揺るがぬ事実だ。セシリア・オルコットには、他人の痛みをわがことのように想像出来る共感力が備わっている。自分以外の誰かのために、怒りの炎を燃やすことの出来る優しさもある。そんな人物を、この二人が嫌いになれるはずがない。

 

 しかし、行いについては別だろう。

 

 目の前で頭を垂れる女は、二人がそれぞれ最も大切に想う人を傷つけた。自分たちのことをよく知りもしないのに、親子の関係を勝手に、こう、と決めつけ、言葉のナイフで滅多刺しにしてきた。堪忍袋の緒は、とうに切れていたはずだ。そう易々と、許してはやれない。

 

 かといって、何かしらの罰を与えてそれで手打ちにする、というのもやりづらい。繰り返しになるが、セシリア自身のことは好きなのだ。ただでさえ自身の行いに対する後悔で胸を痛めている彼女に、これ以上の仕打ちは無用だろうし、自分たちも辛い、と彼は考えた。

 

 セシリアに対する好意と、彼女の行いに対する嫌悪感。矛盾する二つの感情が、鬼頭の次なるアクションに影響を及ぼしたであろうことは、想像にかたくない。彼は、代替案として、新しく関係を築いていこう、と彼女に握手を求めたという。

 

 いまの自分たちではまだ、セシリアからの謝罪を受け入れることは出来ないし、罰を課すのも心苦しい。だから、この問題については一旦、脇に置いておく。コレまでの経緯にはひとまず目をつむり、この三人で改めて友好的な関係を築いていこう。鬼頭のこの提案に、セシリアは差し伸べられた手を握り返したというが、これは彼女の心の救済とはならなかったのではないか、と桜坂はにらんでいた。

 

 自分の見たところ、セシリア・オルコットという女性からはプライドの高さの他に、潔癖症のきらいが見受けられる。いまや鬼頭親子の真実を知ってしまった彼女にとって、自身のこれまでの行いは、とても汚いものと映じているのではあるまいか。この心の汚濁を洗いそそがぬうちは、自分は今後、このIS学園で笑っては暮らせない、とそう考えたのではないか。

 

『たぶんだが、ミス・オルコットさんはお前たち親子に、自分の過去の行いを裁いてもらいたかったんだと思う。最終的にどんな結論が下されるにせよ、裁きを受けることで、少なくとも過去の清算だけは出来ると、そう考えたんだろうな。勿論、謝罪を受け入れてもらえれば、それがいちばん嬉しいだろうが、いいや許せない。お前には罰を受けてもらう、って、冷たく言われたとしても、それはそれで満足だったんだと思う』

 

「しかし、そんな彼女に対して俺たちは……」

 

『ああ。許しを与えず、罰も課さず、ミス・オルコットの心は汚濁にまみれたまま。これじゃあ、フラストレーションが溜まる一方だ。彼女はそういう、宙ぶらりんの状況が、我慢ならなかったんだろう』

 

 鬼頭親子からは裁いてもらえぬ、と悟ったセシリアは、次いで、英国政府にすがった。いまの彼女には、とにかく、誰からかの裁定が必要だった。

 

「……その点に関しては、彼女には悪いことをしてしまったな、と思っているよ。セシリアが本当に求めているものに、俺たちは気づくことが出来なかった」

 

 鬼頭が重苦しい溜め息をついたとき、ディスプレイに映じる桜坂の手元に、コーヒーカップがそっと置かれた。カメラの範囲外にいるらしい美久に礼を述べる姿を見届けた後、鬼頭は苦い表情のまま続けた。

 

「……今度は、俺のせいで話が脱線しかけてしまったな。話を戻すぞ」

 

『ああ』

 

「セシリアが何を考えて、俺のことを父と呼びたい、なんて言ったのかは分からない。しかし、彼女の求めを受け入れた以上は、俺はあの娘の父親役に徹するべきだと思うんだ」

 

『つまり?』

 

「親として、娘が自分のことを傷つけようとしているのを、黙って見てはいられない」

 

『なるほど。ミス・オルコットに対する英国政府からの処分が、なるべく軽くなってほしい、と』

 

「そういうことだ」

 

『お前のことだ』

 

 桜坂は呆れた表情で呟いた。

 

『どうせ、もう、動いているんだろう? 英国政府に対して、オルコットさんの処分を軽くしてくれ、って、はたらきかけをさ』

 

「セシリアに、直属の上司に対して手紙を渡してくれ、と頼んだ」

 

『手紙の内容は?』

 

「嘆願書さ。セシリアへの処分は、どうか寛大な心をもって行ってほしい。彼女から専用機や代表候補生の地位を、奪わないであげてほしい。もし、その約束をしていただけるのであれば、私は見返りとして、貴国が現在開発中のBT兵器について、完成のためのお手伝いをいたします。……そんなことを書いてやったよ」

 

『なるほど』

 

 桜坂は、不敵な冷笑を浮かべた。

 

『つまり、それが今日の本題か』

 

 アローズ製作所に所属する身でありながら、他国のプロジェクトへ協力したい。

 

 聞いた限りでは、そんな大切なことを、パワードスーツ開発室のみなへの相談なしに勝手に決めてしまったことに対する報告と謝罪が、今宵、彼がいちばん伝えたかったことのように思える。しかし、彼との付き合いが長い桜坂は、いいやそうではあるまい、と確信していた。セシリアのことを助けたい、という気持ちは勿論あるだろうが、それとは別に、BT兵器の開発を手伝いたいと思う理由があるはずだ、と勘づいていた。

 

「勘違いしている人も多いが……」

 

 案の定、続く鬼頭の言葉は、謝罪ではなかった。

 

「BT兵器の強さは、無線誘導式攻撃端末によるあらゆる方向からの攻撃を可能としたことにあるのではない。このシステムのいちばんの強みは、攻撃端末にあれほどの繊細な動きを可能たらしめている、その仕組みにある」

 

 鬼頭は昨日の試合の録画映像を、桜坂が操作するパソコンに送った。四方八方より襲いくる《ブルー・ティアーズ》の動きを見て、仁王の口から感心した声が漏れる。

 

『たしか、イメージ・インターフェースによって、動くんだったか?』

 

「そうだ。こう動け、ああ動け、といったイメージ……つまりは思考波だな。この脳波によって、誘導コントロールされている」

 

 本来、人間の脳波に、物を動かすなどの物理的な“力”はない。ISに搭載されているイメージ・インターフェースは、この脳波を強化・増幅することで、機体を動かす、武器を展開する、といった動作を可能としている。

 

 そうした中でも、イギリスが開発したティアーズ型に搭載されている技術は、群を抜いて素晴らしい。なにしろ、あの大きさの攻撃端末を自由自在に、しかも六機同時に、無線をもって動かすことが出来る。脳波の増幅は勿論、思考ノイズの除去といった補助機能にも優れている、と考えられた。

 

「《ブルー・ティアーズ》にはレーザーや誘導弾といった攻撃のための装置の他に、各種のセンサーや、機体の運動を制御するためのPIC、エネルギー貯蓄用のタンクなども搭載されているはずだ。あの小さな筐体に、これらの装置を組み込むとなれば、イメージ・インターフェースの脳波受信装置は当然、超小型かつ、余計な機能を一切排した、シンプルな物とせざるをえない。それでいて、あれほどの動きを可能としているんだ。俺は陽子との試合を観戦して、感動したよ。いま、欧州では第三次イグニッション・プランの主力機選定が白熱しているというが、ことイメージ・インターフェースの完成度において、イギリスは他国に対し、大きなアドバンテージを得ていると思う」

 

『……逆に言えば、だ』

 

 鬼頭の言わんとすることを察した桜坂は、浮ついた口調で言った。

 

『ティアーズ型に搭載されているイメージ・インターフェースのリソースを、攻撃端末といった余分な物には割かず、純粋に機体の運動制御のみに費やしたならば!』

 

「ああ、そうだ。そのISの運動性は、飛躍的に向上する!」

 

『そしてその技術を、俺たちの災害用パワードスーツに導入することが出来れば……!』

 

「ああ、そうだ!」

 

 鬼頭は犬歯を剥き出しにする、好戦的な笑みを浮かべた。

 

「ISを除けば、世界で最も機敏に、しかも、あらゆる悪環境の中でも動くことの出来るパワードスーツが誕生する!」

 

『それだけじゃないな、鬼頭! 自分の脳波を強化・増幅出来るということは……』

 

「ああ! 応用すれば、他者の脳波を強化・増幅することも出来るはずだ!」

 

 ブルー・ティアーズに搭載されているイメージ・インターフェースは、未完成の状態のいまでさえ、驚異的な性能を誇る。それを完成させ、その技術を自分たちのパワードスーツにフィードバックすることが出来たなら、

 

『倒壊した家屋の瓦礫の下で!』

 

「大波によって転覆した船底で!」

 

『助けを求める人たちの!』

 

「声なき声だって、聞き取れる!」

 

 他者の脳波を増幅し、受信することが可能となれば、救助を求める人々の位置を、いち早く特定することが出来るようになる。生還率を、ぐっと上げられるはずだ。

 

「そのためにも、俺はイギリスのBT兵器の開発を手伝いたい。手伝いを通して、かの国が開発した、世界最高峰のイメージ・インターフェースの技術を学びたいんだ!」

 

 これこそが、今宵、鬼頭が桜坂に伝えたかった本題だ。

 

 セシリアのことを助けたいという気持ちと同じぐらい、彼は英国が開発したBT兵器に使われている技術を、学びたいと思っている。

 

 事後報告という形になってしまったが、自分のこの考えを認めてほしい。目線でそう訴えかける鬼頭に、桜坂室長は完爾と微笑んだ。

 

『分かったよ、鬼頭。満足のいくまで、勉強させてもらってこい』

 

 この男に限って、遼子化技術などの会社の特許を渡してしまうような下手は打つまい。会社に生じる損は少なく、得るものの方が大きいとなれば、背中を押してやらない理由はなかった。

 

 直接の上司より自身の独断専行を認めてもらえたことで、鬼頭は安堵の表情を浮かべた。

 

 残る懸念事項は、英国政府が自分の申し出に対しどんな返答を寄越してくるかだが、まあ、無碍にはされないだろう、と確信していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter12「新たに始める」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……ところで、俺の方からも二つ、報告したいことがあるんだが』

 

 英国政府との今後の付き合い方について意見交換を終えた後、頃合いよし、とばかりに桜坂が話題を変えた。

 

 自分が彼に対してそうだったように、親友もまた、自分に何か伝えたいことがあるらしい。いつ切り出そうか、とタイミングを見計らっていた様子だ。

 

「何だ?」

 

『まず一つ目』

 

 桜坂はカメラの前で右手の人差し指を立ててみせた。

 

『ほら、お前が陽子ちゃんのために作った、レーザー・ピストルだよ。あの、《トール》のことをな、パワードスーツ開発室のみんなに話したら、彼らから素晴らしいアイディアが上がってきたんだ』

 

「へえ……」

 

 屈託のない笑顔で語る桜坂に、鬼頭は身を乗り出して訊ねる。

 

「いったい、どんなアイディアなんだ?」

 

『遼子化技術を開発した俺たちは、まず、XI-02に搭載するバッテリーの小型化に挑んだよな? これは無事成功し、XI-02の稼働時間を、大幅に伸ばすことが出来た。これはこれで素晴らしい成果だと思うが、先日、滑川さんからな、こんな意見が上がっていたんだよ』

 

 鬼頭主任はレーザー・ピストルを作ったことで、遼子化技術を上手く駆使すれば、バッテリー以外の装置も、性能を落とさず小型化出来ると証明してみせた。ならば、そもそもバッテリー駆動方式にこだわる必要はないのではないか。

 

 桜坂が口にした言の葉に、鬼頭は思わず息を呑んだ。

 

『目から鱗の気分だったよ。どうやら自分でも知らぬうちに、視野狭窄に陥っていたらしいな。滑川くんから言われるまで、まったく思いつかなかったよ』

 

 鬼頭たちがXIシリーズの動力源にバッテリーを選んだ理由は、パワードスーツの大きさでは、エンジンを中核とするパワーユニットを積むのは難しいと判断したためだ。エンジンそのものは勿論、燃料をプールするためのタンクや、エンジンが生み出す“力”を電気エネルギーに変換するためのジェネレータ、エンジンの過熱を防ぐための冷却装置などを、限られたスペース内に納めるのは至難の業。無理に納めようとすれば構造上の余裕がなくなってしまい、結果、別の問題を生じさせてしまうだろう、と、遼子化技術を開発する以前の鬼頭らは考えた。

 

『しかし、遼子化技術を上手く使えば、その前提を崩すことが出来る。パワードスーツのサイズでは収納出来ない? だったら、収納可能なサイズの、小型のエンジンを作ってしまえばいい。滑川くんはそう考えたんだ』

 

 早速、桜坂はコンピュータ・シミュレーションのプログラムを走らせた。滑川技師の意見をベースに、とりあえず、火災に強いディーゼル・エンジンを中核としたパワーユニットの3Dモデルを製図する。縦三四センチメートル、横二十センチメートル、奥行きにいたっては僅か十三センチメートル。シミュレーション・プログラムによれば、遼子化技術を駆使することで、たったそれだけのサイズに、パワーユニットに必要な最小限のコンポーネントを凝縮出来る、という試算がなされた。この条件でシミュレーターを動かしてみて、滑川技師ともども驚いた。

 

『あくまで、コンピュータ・シミュレーション上の数値にすぎないんだが、とんでもないスペックをたたき出しやがった』

 

 最高出力六〇〇馬力。

 

 その数字を聞かされて、鬼頭は思わず絶句した。たっぷり二秒をかけて数字の持つ意味を咀嚼すると、唸り声に喉を鳴らした。

 

「メルセデス・ベンツのCクラスのディーゼル搭載モデルの最高出力が、たしか一九四馬力だったはずだ。つまりこのエンジンは、メルセデス三台分のパワーを持っているということか!」

 

 Cクラスの車重はセダン・タイプでおよそ一・六四トン。実用セダンとしては、比較的高めのパワーウェイトレシオも魅力の一つという車種だ。これに対し、XI-02の場合は、潤滑油などの消耗品も含めたシステム重量で一〇〇キログラム未満しかない。桜坂の弁によれば、バッテリーをすべて取り外し、このエンジンに換装した場合でも、一一〇キロを大幅には超えないだろう、とのことだ。それなのに、馬力では三倍以上もの開きがある。パワーウェイトレシオは、Cクラスの約四八倍だ。勿論、自動車とパワードスーツとでは構造がまったく違うから、パワーウェイトレシオによる単純な比較はあまり意味を持たないが。

 

『これだけパワーに余裕があると、その有り余るエネルギーを使って何か出来ないか? って、考えてしまうのが、人情ってモンよ』

 

 次いで提案を口にしたのはトムだったという。彼は、遼子化エンジンの搭載が前提になりますが、と前置きした上で、XI-01建造時に一度諦めた、ロボットアームの採用を再考してはどうか、と口にした。XIシリーズは01型も、02型も、パワーアシスト機能には人工筋肉を採用している。これはロボットアームに比べて、装置全体をコンパクトにデザインでき、電力の消費量も抑えられるからだ。しかし、これに関しても、遼子化技術を駆使すれば、その前提を覆すことが可能だ。

 

 遼子化技術を使えば、ロボットアームの採用を見送った理由の一つである、装置全体の大型化という問題を克服出来る。また、六〇〇馬力もの出力があれば、ロボットアームの可動に必要な電力を、十分確保出来る。ロボットアームは人工筋肉と比べ、ハイ・パワーかつ高トルクだが、その分、電力の消耗も激しい。バッテリー駆動方式では採用を見送らざるをえなかった理由が、ここにあった。

 

 滑川技師とトムの提案は、開発室の他のメンバーを大いに刺激したという。彼らはその後も、遼子化技術を使えばXI-02の性能を格段に高めることが出来るのではないか、と議論を活発化させた。その都度、生み出されるアイディアは、実現性に乏しいもの、いますぐにでも実行可能そうなもの、実現は難しいだろうが、成功すればノーベル賞すら狙えそうなものなど、膨大な数に昇った。桜坂はそうしたアイディアの数々をすべて聞き取り、魅力的なものとそうでないものとに整理した。彼はさらに、魅力的と判じた案の中から一五〇ほどを選択し、XI-02に導入するための予算組みを開始した。

 

『というわけで、一つ目の報告だ。設計主任不在の時期にどうかとも思ったが、勝手ながら、XI-02二号機の製作を開始することにした』

 

 無論、二号機製作の目的は遼子化技術をふんだんに採り入れた、XI-02の性能を検証するためだ。もともとXI-02は、XI-01の運用データを基に算出された、理想の災害用パワードスーツの性能に、現在の技術でどこまで近づけるか、その限界を測るために作られた。遼子化技術の導入により、その技術水準が上がったとなれば、それに応じて新たな実証機を作る必要がある。

 

『悪いな。お前がいない時期にこんな重要なことを、勝手に決めてしまって』

 

「それは構わないが……」

 

 鬼頭は訝しげな表情を浮かべた。設計主任不在のいま、いったい誰が、件の二号機のデザインを考えるのか。

 

『設計図面は、俺が引くことになったよ』

 

 表情から親友の考えていることを先読みした桜坂が、溜め息混じりに呟いた。

 

 それを聞いて、鬼頭は得心と同時に安堵する。この男が図面を引くのなら安心だ。滑川技師らが口にしたアイディアは、いずれもいまは未完成のものばかり。実際に作ってみてはじめて、想定よりもダウンサイジングが上手くいかないなど、思わぬ問題が噴出しよう。しかし、桜坂ならば、そうした問題も含めて、万事上手くまとめ上げてくれるはずだ。なんといってもこの男は、かつて自分と、MIT首席の座を争ったほどの男なのだから。

 

『んで、二つ目に伝えておきたいことだが……』

 

 桜坂は人差し指と中指を立てたVサインをカメラに突きつけた。

 

『これまた《トール》に関することだ。こいつを作るために、お前に貸した金について、言っておきたいことがある』

 

 レーザー・ピストル《トール》の製作にあたっては、最終的に、鬼頭自身の個人的な資産のうちから費用を捻出することになった。しかし、IS学園にいながらでは、たとえば愛車を売って現金化する、といったお金の調達が難しい。そこで彼は、桜坂からの借金により資金を調達、これを制作費にあてていた。

 

「申し訳ないが、返済は来月まで待ってくれ」

 

 おそらくは返済スケジュールについての話だろう、と当たりをつけた鬼頭は、カメラの前で両手を合わせた。

 

「色々と試してみたが、やはりIS学園にいる間は、資金の調達が難しい。来月中には一度、名古屋に戻って、なんとか用意するから」

 

 資金の調達計画の中には、愛車の処分や、お気に入りの時計コレクションを売り払う、といった内容も含まれている。近い将来を憂いてか、溜め息をつく鬼頭の表情は険しかった。

 

 しかし、予想に反して、桜坂が口にしたのは、返済の催促に関する言葉ではなかった。

 

『そのことだが、別に、無理しなくてもいいからな? ゆっくりで、全然構わないぞ』

 

「ありがたい申し出だが、それは……」

 

『友人同士であればこそ、こういうお金の貸し借りについては、きっちりやっておきたい、って気持ちはよく分かるよ』

 

 桜坂は苦笑した。

 

『けどな、そのために自分に無理を強いる友人の姿を見せられるこちらの気持ちも、よく考えてほしい。以前、そろそろ買い換え時かな、って言っていたプリウスはともかく、時計コレクションは、お前が俺と出会う以前……高校時代から、コツコツ集めた、思い出深い品ばかりだろう?』

 

 たとえばタグ・ホイヤーのアクアレーサーは、鬼頭がはじめて自分のお金で買った時計だ。中学三年生の春、父の経営する時計店で一目惚れした。時計とは我のことである! と、言わんばかりの、シンプルさが美しいフォルムに、心臓を撃ち抜かれた。以来、アルバイトに明け暮れて、高校一年の冬に、ようやく手にすることが出来た、と聞いている。鬼頭の所有するコレクションにはすべて、そういった思い出が詰まっている。

 

『手放してほしくはないよ』

 

「桜坂……その、ありがとう」

 

 完爾と微笑む桜坂に、鬼頭は感謝の言葉しかない。

 

 と同時に、時計コレクションの処分以外の手段で、なるべく早く金を工面にしなければな、との決意を新たにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 成田国際空港は、千葉県成田市の南東部に位置する、日本最大の国際拠点空港だ。

 

 一九七八年の開港以来、国際線の利用客は日本第一位を誇り、航空貨物の取扱量もまた日本第一位。日本の貿易総額の、およそ一四パーセントをこの空港が支えている。

 

 そんな成田空港が整備する滑走路は、全長が四〇〇〇メートルにもなるA滑走路と、二五〇〇メートル級のB滑走路、三三六〇メートルのC滑走路、二五〇〇メートルのD滑走路の計四本。このうちB滑走路については、二〇一六年に計画された三五〇〇メートル級への延伸工事の開始が諸々の事情によって遅れ、昨年よりようやく着工。現在は二五〇〇メートルあるうちの、二〇〇〇メートルしか使えないという状況だった。

 

 午後八時一二分。

 

 そのB滑走路に、大連周水子国際空港発、中国国際航空のエアバスA320がランディング・アプローチを仕掛けた。欧州五カ国が一九七〇年に設立したエアバスインダストリー社の、近・中距離向け旅客機の大ベストセラーだ。中国国際空港では通常、ビジネスクラス八席、エコノミークラス一五〇席の計一五八席で運用されている。

 

 しかし、今回やって来たA320の座席構成は、通常仕様とは異なっていた。

 

 なんとビジネスクラス八席をすべて取り除いて、ファーストクラス相当の部屋を一つ追加している。通常、移動速度の速い飛行機では、長距離向けの大型機でもない限り、ファーストクラスは作らないものだ。ましてや、この機体は大連から飛び立っている。A320はマッハ〇・八二で巡航可能な快足機だ。大連から成田までは、二時間少々でしかない。斯様に短い時間の快適さのために、わざわざファーストクラスを設けるのは、ナンセンスというほかない。ビジネスクラス八席の費用対効果には、及ばないだろう。

 

 しかし、今回、中国国際航空には、そうしなければならない事情があった。

 

「きみたちにはある人物を日本まで無事に、かつその間の道中が快適に過ごせるよう、送り届けてほしい。党の人間ではないため、党専用機は使えない。また軍人でもないため、軍用機を使うわけにもいかないのだ」

 

 前日の夜遅く、大連周水子国際空港の所長のもとを訪ねたのは、中国共産党の重役だった。

 

 かの国はいまだ共産党が支配する国だ。党からの指示命令は、絶対なのである。

 

 かくして、A320の大改造が行われた。作業は夜を徹して行われ、完了したのは翌朝の午前十時のことだ。その後はファーストクラス相応のサービスが提供出来るよう、態勢を整えることに尽力した。そして午後五時三十分、空港の駐車場に、黒塗りのBMWがやって来た。後部座席から降り立ったのは、小柄な少女だった。彼女は、空港職員らの最敬礼による出迎えには一瞥さえくれず、真っ直ぐ搭乗ゲートへ向かっていった。

 

 それからおよそ二時間後、A320は日本の羽田空港に到着した。十分な距離の滑走を経て減速すると、マーシャラーの誘導に従って、ゆるゆるとスポットへ向かっていく。適性位置で停止すると、早速、作業員たちがランディング・ギアに輪留めを取り付けた。飛行機自体もエンジンをカット。余韻の残響が、夜の空気を攪拌する。タラップ車やベルトローダーといった作業用車輌が、ゆっくりと近づいていった。

 

 最初に、エコノミークラスの乗客たちがタラップ車を使って地上に降り立った。着陸位置がターミナルから離れているため、降りた後は少しの間、バスで移動しなければならない。やがてエコノミークラスの乗客全員をバスが運び終えた後、ファーストクラスの少女はようやく腰を上げた。タラップ車の階段を、一段々々、踏みしめ、降りていく。

 

 地上へと降り立った。

 

 場所が空港だけに、四月の夜風が四方八方より吹きすさぶ。風になびく黒髪は、左右それぞれを高いところで結んでいた。

 

 深呼吸を一つ。

 

 日本の空気を肺の中へと落とし込み、少女は感慨深そうに呟いた。

 

「……懐かしい味」

 

 日本の、空気の味だ。

 

 懐かしさに、目頭が熱くなった。

 

 ようやく帰ってこられたのだな、と実感が湧いてくる。

 

 少女のもとに、白いクラウンがやって来た。彼女のためだけにしつらえられた、ターミナルへの移動手段だ。運転席側のドアが開き、スーツ姿の長身の女性が顔を見せた。こちらに向かって、一礼してくる。

 

「凰鈴音(ファン・リンイン)さん、ですね」

 

 中国語で問われた。頷くと、女性は微笑した。

 

「日本へようこそ。こちらの車に乗ってください。ターミナルまで、お連れいたします」

 

 女性は助手席側のドアを開いた。ファン、と呼ばれた少女はクラウンに乗り込むと、ドアを閉め、運転席へ腰を下ろした女性へと声をかけた。

 

「ねえ、窓を開けていい?」

 

「構いませんが……ここは空港ですよ? 騒音や、風が、わずらわしくはありませんか?」

 

「いいの。久しぶりの日本だもの。もっと、この空気を感じていたいの」

 

 窓の外へと視線をやる少女の横顔を怪訝な表情で眺めながら、女性はパワー・ウィンドーの操作パネルへと手をやった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter12「新たに始める」了

 

 

 

 




成田空港に関して描写少ないのは、意図的にやっています。

自分、ここ、利用したことないもんで。

ネットから知り得た以上のことが書けない上、専門的な施設すぎて想像で補うのも難しい……。

他の作家さんたちは、どうやって書いているでしょうねえ?




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Chapter13「不器用者たち」

セカンド幼馴染み参戦。

ところで、ジャンプ・システム的に考えると、彼女は二番目のライバルということで、天津飯でいいのかな?






 桜坂と英国政府への対応について相談した翌日の午後七時半、鬼頭親子が暮らすIS学園学生寮の1122号室を、セシリアが訪ねてきた。

 

「こんばんは、お父様。いま、お時間はよろしいでしょうか?」

 

 ノックとともにかけられた声に応じて戸を開けた鬼頭は、思わず陶然とした溜め息をこぼした。

 

 セシリアは見慣れたIS学園の制服ではなく、私服を着込んでいた。フリルをふんだんにあしらえた、薄水色のワンピースだ。スカートの裾の長さは膝より高く、ゆったりとしたデザインの袖の長さは七分丈。肩のところが大きく開いて露出しており、スタイリッシュさとムーディーな雰囲気が上手く両立された意匠をしている。スタイルの良いセシリアが、りゅう、と着こなす姿は、まるでモデルのようだった。

 

 セシリアは右手で折り畳み式のモバイルPCを抱え持っていた。一瞥した限り、覚えのないデザインだ。メーカーのロゴなども見受けられない。ノーブランド品か、それとも自作などの特注品か。

 

「こんばんは、セシリア。こんな時間にどうしたんだい?」

 

 一昨日の和解以来、自分や陽子に対するセシリアの態度は急激に軟化していた。学校で顔を合わせればにこやかに挨拶を交わし、授業の合間の休み時間にはおしゃべりに華を咲かせるようになった。今日も学校では、それなりの時間を彼女とともに過ごした。話をする機会は、いくらでもあったはずだ。それなのに、わざわざ、この時間に自分たちの部屋まで足を運んできた理由は何なのか。

 

「昨日の手紙の件で、お礼を言いたくて」

 

「ああ」

 

 この時間、この場所でなければならない理由を悟り、鬼頭は得心した様子で頷いた。この二人の間で、昨日の手紙と言われて、思い当たる節は一つしかない。英国政府へ宛てた、セシリアへの処分についての嘆願書。英国政府との取引に関わる内容だ。余人の耳目を排せる場所、除ける時間を、と鬼頭の部屋を選んだのか。

 

「思いのほか、早かったね」

 

 礼を言いに来た、というのは勿論、目的の一つだろう。しかし、それだけではあるまい、と鬼頭は推察した。

 

 セシリアの美貌は緊張から強張っていた。表情を見るに、彼女も嘆願書の内容や、一緒に託した添付ファイルの資料には目を通したのだろう。BT兵器の開発に協力する代わりに、セシリア・オルコットへの処分を軽くしてほしい。鬼頭が英国政府に対して突きつけた取引に対する返答を、携えてきたとためと思われた。

 

「私の直接の上司が、議会の皆さんに急遽集まるようはたらきかけてくれたのです。……中に入れてもらっても?」

 

「ふむ……」

 

 鬼頭は部屋の散らかり具合と、陽子の様子を思い浮かべた。想像の中で、もう部屋の外に出るつもりはないから、と化粧を落とし、すっぴん状態の陽子が、ぶんぶん、かぶりを振っている。鬼頭はにっこり微笑んだ。

 

「どうぞ」

 

 想像の中の陽子が、「お父様!?」と、愕然とした表情を浮かべた。

 

 数秒後、ベッドの上で、だうーん、とだらけていた陽子は、部屋に入ってきたセシリアの姿を認めて、想像通りの反応を示した。セシリアは同性だが、美人だ。素の顔を見られて生じる恥ずかしさは、ある意味で異性からの目線よりも酷い。ぎゃー! とか、わー! とか、悲鳴を上げ、彼女は、顔を隠しながらシステムキッチンの方へ逃げてしまった。

 

 そんな陽子の後ろ姿を、セシリアは気の毒そうに眺めていた。

 

「……お父様、陽子さんがお化粧を落としていることを忘れていたのですか?」

 

「いいや。覚えていたとも」

 

「それなのに私を部屋に招き入れるなんて……なんて血も涙もないことを!」

 

「そこまで言われるようなことかな?」

 

 この男が奥方と上手くいかなかったのは、存外、こういうところに理由があったのではないか、とセシリアは鬼頭を軽く睨んだ。

 

 気を取り直して、鬼頭は彼女に椅子を勧めた。学習机とともに、あらかじめ部屋に備えつけられてあった物だ。自身はベッドに腰かけたところで、キッチンの方に引っ込んでいた陽子が、お盆を抱えてやって来た。……どういうわけか、ホッケーマスクをかぶった姿で。

 

「……お待たせ」

 

 マスクをつけているため、くぐもった声だ。

 

「アイスティーしかなかったんだけど、いいかな?」

 

「娘よ。いくらすっぴんを見られたくないからって、そのマスクのチョイスはどうかと思うよ、父さんは」

 

「いえ、あの、お父様……それとは別に、もう一つ、指摘しなければならないところがあるような……」

 

「安心して、セシリア。ちゃんとお砂糖は、サーッ、って入れておいたから」

 

「確信犯ですわね、陽子さん!?」

 

「……二人とも、いったい何の話だい?」

 

「いえ、お父様は知らなくてもよいことです」

 

 アイスティーで満たされたグラスを受け取り、一口含み、飲み下す。ホッケーマスクからのぞく野獣の眼光。後で聞いたところによると、昨年のハロウィンのときに買った物らしい。無視して、セシリアは鬼頭との会話を続けた。

 

「まずはお礼を申し上げます。お父様、この度は私のためにあのような嘆願書を書いてくださり、ありがとうございます」

 

「少しは、役に立っただろうか?」

 

「はい」

 

 セシリアは可憐にはにかんだ。

 

「それはもう。お父様のおかげで、私は代表候補生の地位も、専用機も失わずにすむことになりました」

 

「よかったじゃん、セシリア」

 

 ホッケーマスクをかぶった陽子が、我がことのように喜んだ。「ありがとうございます、陽子さん」と、返すセシリアだが、相手の異容ゆえに、こちらはそのいたわりを素直に喜べない。

 

「……ということは、英国政府は私からの申し出を、受け入れてくれるということかな?」

 

「そのことについてなのですが……」

 

 セシリアはそこで、抱え持っているモバイルPCを示した。

 

「先ほども申し上げました私の上司が、自分の口でお父様に直接伝えたい、とおっしゃっておりまして」

 

 なるほど、だからモバイルPCを持っているのか。察するにあれは、イギリスと連絡をとるための特殊な端末だろう。イギリスには映画の『ダブル・オー・セブン』シリーズでお馴染みの、世界屈指の情報機関……MI6がある。さすがにボンド・カーはフィクションだろうが、データ保護機能満載のパソコンぐらいは、自分たちで作る技術もあるだろう。

 

「テレビ通信機能かい?」

 

「はい」

 

「いまは七時四十分だから……」

 

 鬼頭は左手のボーム&メルシェに目線を落とした。イギリスとの時差を計算し、なるほど、そういった事情もあって、この時間を選んだのか、と得心した。

 

「きみの上司は、どんな方なんだい?」

 

「イギリス空軍の、ハミルトン大佐です」

 

「空軍の大佐か。英語だと、Colonel だったか?」

 

「それはアメリカでの呼び方ですわね。イギリスでは、Group Captain と呼ばれます」

 

 このあたり、英語と米語の違いはややこしい。基本的にはどちらもまったく同じ文法、まったく同じ語彙を持つ言語だが、時折、同じ意味の言葉なのに、発音もアルファベットの形もまったく異なる語句が現われる。

 

 セシリアはモバイル・パソコンをテーブルの上に置くと、早速、通信用アプリケーションの準備を始めた。その間に、鬼頭はかたわらの陽子に、ホッケーマスクをはずすよう説得を試みる。押し問答の末、カメラに映さないことを条件に、なんとかはずさせた。

 

 セシリアが通信用アプリを起ち上げると、ディスプレイに、鷲鼻が特徴的な四十半ばの男性の顔が映じた。

 

「ハミルトン大佐」

 

『オルコットくん、約束通りの時間帯だね。ミスター・キトウとは、話はついたかい?』

 

「はい。いま、彼の部屋にいます」

 

 セシリアはパソコンごとカメラを鬼頭の方へ傾けた。「鬼頭さん」と、自分と陽子以外の人間がいるときの呼び方で話しかけられる。

 

「こちら、私の上司のジョージ・ハミルトン大佐です」

 

「鬼頭智之です」

 

 鬼頭は英語で話しかけた。IS学園に通うにあたって、セシリアは日本語を勉強してきたらしいが、上官までそうとは限らない。

 

『イギリス空軍のジョージ・ハミルトン大佐です。空軍参謀本部に勤めております』

 

 わが国でいえば航空自衛隊の航空幕僚監部に相当する組織か。そんなセクションにいるということは、まさしく中堅の将校。十年後の将軍たる人材に違いない。

 

「お会いできて光栄です、大佐」

 

『私もです、ミスター・キトウ。……オルコットくんから、話は?』

 

「うかがっております。代表候補生の地位と専用機は、安堵されたとか。私の頼み事を聞いてくださり、ありがとうございます」

 

『いやいや』

 

 ハミルトン大佐は不敵な冷笑を浮かべた。

 

『オルコットくんは世界的に見ても貴重な、BT適性Aランクの持ち主です。彼女を処罰なんて出来ませんよ』

 

 白々しいなあ、と鬼頭は内心で相手のことをせせら笑う。

 

『さて、オルコットくんからある程度の事情説明を受けているのなら、話は早い。ミスター・キトウ、わがイギリス国は、あなたからの申し出……BT兵器完成のために協力したい、というあなたの純粋なる善意の申し出を受け入れることにしました。今後は、私があなたと軍の開発チームとの連絡役となります。後日、通信用のモバイル・パソコンを送りますので、それまではオルコットくんを連絡役としてください』

 

「分かりました。……ああ、そうです」

 

 鬼頭はまさしくたったいま思い出した、とばかりに口を開いた。勿論、これは演技だ。イギリス政府に対し伝えたいことについて、鬼頭の頭の中ではすでにまとまっていた。

 

「我々の協力関係について、具体的な内容を決める前に、一つ、申し上げておきたいことがあります」

 

『なんです?』

 

「ご存知かもしれませんが、私は大学時代をアメリカで過ごしました」

 

『……そう、聞いております。たしか、MITを首席で卒業されたのだとか』

 

 訝しげな表情を浮かべながら、ハミルトン大佐は呟いた。かたわらに立つセシリアも、いったい何を話すつもりなのか、と困惑した眼差しを鬼頭の横顔に注ぐ。

 

「そうです。私と、親友たちとで作り上げたパワードスーツの出来栄えをもって、首席の座を得ることが出来ました。……ところで、私たちは卒業後の進路について、当時、さんざん頭を悩ませましてね」

 

『はあ』

 

「アメリカの名だたる企業たちがね、卒業後はぜひ我が社に来てほしいと、こぞって勧誘してきたのです。多くは重工業の分野で目覚ましいご活躍をされている会社でした。卒業後もパワードスーツを作り続けていきたい、いつの日か、自分たちの作ったパワードスーツを世界中に普及させたい、と考えていた私たちの目に、彼らの存在はとても魅力的と映じました。パワードスーツの研究、開発、製造をする上で、最高の環境が整っていましたし、呈示してきた給料の額もよかった。ですが、私は彼らの勧誘をすべて断りました。……なぜだか分かりますか?」

 

『……いえ』

 

 少し考え込む仕草をしてから、ハミルトン大佐はかぶりを振った。

 

 鬼頭ははるか遠方の地にいる大佐に向けて、にこやかに笑いかけた。

 

「彼らはみな、軍需産業とつながりがありました。自分たちの技術を軍事目的には使われたくない、という理由から、勧誘を断ったのです」

 

 鬼頭はそこで一旦言葉を区切ると、炯々たる眼光でモバイル・パソコンのカメラを睨みつけた。

 

「私は、そういう男です。本来であれば、兵器開発への協力など、したくはありません。先のクラス代表決定戦における、《トール》にしても、内心は忸怩たる思いで作っておりました。娘のためでなければ、そもそも作ろうという気持ちさえ、湧いてこなかったでしょう。……そんな私が、自身の信条をねじ曲げてまで貴国のBT兵器開発には協力する意味、その理由を、ぜひ、忘れないでいただきたい」

 

 鬼頭は、ちら、とかたわらに立つセシリアに目線をやった。彼女のためでなければ、こんな仕事、誰がやるものか! しかしその一方で、鬼頭のことを父と呼ぶ少女は、「お父様……」と、小さく呟きながら、彼の横顔に熱い眼差しを向けていた。自分のために、彼はやりたくもない仕事に挑もうとしている。それを心苦しく思うと同時に、嬉しいとも思った。自分に対する彼の愛情が感じられた。

 

 さて、ハミルトン大佐というと、表情筋を強張らせていた。昨晩、自分に宛ててしたためられた嘆願書の内容からも薄々感じていたが、これではっきりとした。鬼頭智之がセシリア・オルコットに並々ならぬ執心をよせていることは、いまの態度からも間違いない。その理由は分からないが、これで自分たちは、彼女を軽くは扱えなくなってしまった。

 

「……話を、元に戻しましょう」

 

 知らぬうちに荒々しくなっていた語気を、一旦、舌先を休めることで改めた。

 

「まず、前提条件の共有と確認からいたしましょう」

 

『と、おっしゃいますと?』

 

「私はこれまでに様々な製品を作ってきましたが、兵器を作る経験には乏しいのです。そこで、兵器開発の基本原則などを確認しておきたい。私が思うに、兵器とは単に強力なだけでは駄目だ。第一に、運用目的に即した機能を有していなければならず、第二に、実際に扱う人間のことも考えて作られていなければならない、と思うのです」

 

『……その通りです』

 

 ハミルトン大佐は自身のこれまでの経験から首肯した。

 

 彼はファイター・パイロット出身の佐官だ。現役時代の乗機は、トーネードGR4戦闘爆撃機だった。ロジーマスに拠点を置く第十四飛行隊の出身者で、二〇一五年に始まった、テロ組織・イスラム国掃討作戦にも参加している。

 

 この頃、イギリス空軍では新型の戦闘機であるユーロファイター・タイフーンの配備が進められていた。英・独・伊・西の欧州四ヶ国が共同で開発したマルチロール機だが、開発計画の遅延から対地攻撃能力は限定的なレベルにとどまっており、英空軍の対地攻撃任務の主役は、いまだトーネードGR4が務めていた。

 

 イギリス空軍はシリア領内で活発に蠢くテロ組織に対し、第十四飛行隊を含むトーネードGR4攻撃部隊と、試験的にタイフーン部隊を投入し、空爆を行った。ハミルトンたちのトーネードが着実に戦果を挙げる一方で、タイフーン部隊は出撃すること自体にさえ苦慮していた。タイフーンは繊細な機体で、整備が難しかったのだ。タイフーンが導入されたばかりの頃、ハミルトンは新型機を早々にあてがわれた他の飛行隊のパイロットを羨ましく思ったが、このとき、兵器には強さよりも優先されるべき性能がある、ということを学んだ。

 

「そうであれば、BTシステムの最終形態とは、誰でも扱える物でなければなりません」

 

 鬼頭の見たところ、現状のBT兵器は、セシリアのような、BT適性と呼称される空間認識力が特別優れた一部の者でなければ、満足に動かすことも出来ない欠陥品と映じる。彼はそれを、機械の補助によって特別な才能がなくとも運用出来るようにしたい、と考えていた。

 

『その通りです! それこそ、我々が望んでいる姿です』

 

 ハミルトン大佐は声高に首肯した。

 

『欧州の全軍が、ティアーズ型を採用する将来像とは、つまり、そういう未来です』

 

「なら、いますぐ欲しいものがあります」

 

『なんでしょう?』

 

「現時点までにおけるBTシステムの開発データ、そのすべてを送っていただきたい。それから、現在、稼働状態にあるBTシステム搭載機の中でも、稼働データが最も豊富に蓄積されているティアーズ型の一号機……セシリアさんの、ブルー・ティアーズへのアクセス権も欲しいです」

 

『ふむ。当然ですな』

 

 ハミルトン大佐は頷いた。

 

『研究データについては、早速、用意しましょう』

 

 即答だった。勿論、英国軍の最重要機密が外部へと漏洩してしまう危険は承知の上での返答だ。というのも、ハミルトンは、この男に対しては、情報をどんなに厳重に秘匿したところで、いずればれてしまうだろう、と諦観していた。

 

 鬼頭智之はわずか十数分、ブルー・ティアーズの動く姿を眺めていただけで、BTシステムのおおよその構造を見抜いてしまった。研究データの提供などなくとも、いずれは自力でBTシステムの詳細を完璧に把握してしまうだろう。それならばいっそのこと、彼の頭脳と能力を、思いっきり利用させてもらった方が建設的だ、と彼は考えた。

 

『ただ、ブルー・ティアーズへのアクセス権については、制限をかけさせてもらいます』

 

 鬼頭が協力を申し出たのは、BTシステムの開発のみ。それ以外の部分にまで、知的好奇心の触手を伸ばしてもらっては困る。

 

 勿論、彼の能力をもってすれば、アクセス制限のコードなど簡単に解除されてしまうだろう。

 

 無意味な牽制ではあるが、それでも一応、建前として言っておかねばならない。

「当然ですね」

 

 鬼頭も頷いた。言葉では表せない、大人同士の機微が、両者の間にはあった。

 

「アクセス権については、可能な範囲で構いません」

 

『助かります。それから、データ以外にもこちらから提供させていただきたいものがあります』

 

「それは?」

 

『まずは研究用の予算ですね』

 

 兵器開発には、とにかくカネがかかる。アメリカのF-22ラプター戦闘機など、機種選定用のトライアル機の開発だけで三八億ドル(当時の対円レートでおよそ四六〇〇億円)もかかっている。勿論、選定試験の終了後には、制式量産型への再設計と研究がスタートしているため、トータルの開発費はさらに上乗せされている。ISは最新技術の塊だから、開発費は戦闘機以上となる。

 

 とはいえ、自分が担当するのはBTシステムのみ。そうそう高額にはなるまい。とりあえず一〇〇〇万円くらいはもらえるかな、などと、ぼんやり、考えていると、

 

『当座の予算として、英国議会はあなたに二〇〇万ポンドをお預けすることになりました』

 

 日本円でおよそ二億六〇〇〇万円か。フェラーリが十台買えるな、と素早く計算して、鬼頭は目眩を覚えた。馴染みのない桁の数字に、気が遠くなるのを自覚する。

 

「……え? え、それ、本当に?」

 

『申し訳ない。あなたの計画への参加は急なことなので、すぐには、これだけしか用意出来ませんでした。不足があれば、次月以降に用意しますので』

 

「い、いやいやいや。これで十分です」

 

 自分の言葉を、真逆の意味で捉えたか、悄然と肩を落とすハミルトン大佐に、鬼頭は慌ててかぶりを振ってみせた。

 

 二億円以上を、これだけ、とは……。兵器開発に携わっている者の金銭感覚は、狂っているとしか言いようがない。

 

『そう言っていただけると、ありがたいです。……気を遣わせてしまいましたね』

 

 いや、だから、違うってば。

 

『それから、もう一つ、あなたに提供したい物があります』

 

「な、なんでしょう?」

 

 鬼頭はおっかなびっくり訊ねた。二億なんて数字が飛び出したいま、今度は何が出てくるのやら、と戦々恐々としてしまう。

 

『そう身構えなくても結構ですよ。お渡ししたい物とは、計画参加に対する、お礼のようなものです』

 

「と、おっしゃいますと?」

 

『ミスター・キトウ、先のクラス代表決定戦で、あなたはご息女のために、レーザー・ピストルを作ったと、オルコットくんから聞いています』

 

「え、ええ」

 

『そしてその開発資金を捻出するために、来月、愛車を手放すことになってしまったとか』

 

「ええ、はい。その通りですが」

 

『IS学園にいるうちは、車がなくても不便は感じないでしょう。ですが、帰省の際など、足がないとやはり不便でしょう?』

 

「……まさか」

 

『はい。英国政府からあなたに、車を一台、差し上げることになりました。車種は、ジャガーXJ、グレードはスーパースポーツです』

 

 鬼頭は思わず絶句した。イギリスの高級車ブランドの名門、ジャガーが誇るロイヤル・サルーンだ。スーパースポーツは現行モデルの中でも最上位のグレード。ターボチャージャー付きの五リッター・V8・エンジン六〇〇馬力を搭載している。新車価格は二千万円オーバー。また、鬼頭が最も好きなイギリス車でもある。

 

 憧れのXJが手に入るのか!? 感動の衝撃のあまり、返す言葉を見失ってしまった……わけではない。途端、顔つきを険しくした彼を訝しく思いながら、ハミルトン大佐は続ける。

 

『例のあなたからの手紙に、わが国の車で最も好きな車種と書いてありましたので。ジャガーの重役と懇意にしている議員の一人が、手配出来ないか、とはたらきかけてくれたのです。都合の良いことに、ミスター・キトウのご実家のあるナゴヤシティには、ジャガーの正規販売店もあるとのこと。おかげで話を、トントン拍子に進めることが出来ました』

 

 鬼頭は、くぅぅっ、と悔しげに呻いた。

 

 なんということだ、なんということだ、と胸の内で、何度も呟いた。

 

『……あの、どうかされましたか?』

 

 いきなり奇声を発した鬼頭を、さすがに変だと思ったか、ハミルトン大佐が訊ねた。

 

 鬼頭は、慚愧の念が篭もる声で応じた。

 

「XJが好き、とたしかに書きました。ですが、好きな車と、乗りたい車はまた別なのですよ」

 

『……あっ』

 

 何かを察したらしいハミルトン大佐は、途端、気の毒そうな眼差しを彼に向けた。ここまでのやりとりから、鬼頭がクルマ好きなのは明らかだ。ということは、

 

「こんなことなら……こんなことになると分かっていたならば! 嘘でも、Fタイプが好き、と書いておけば……!」

 

 名門ジャガーが誇るピュアスポーツカーだ。ダイナミックな走りとルックスの良さは、鬼頭の心を捕らえて放さない。しかし、金を払ってまで欲しいか、と問われると、首を縦には振れない。外国車ということを考えても大柄な全幅一九二五ミリのボディは日本では持て余してしまうだろうし、なによりも安全装備に乏しいのがマイナス・ポイントだ。ただし、運転自体はさぞや楽しかろう。

 

 それに対して、XJは金を払ってでも乗りたい車、いや金を払いたい車だ。汗水垂らして稼いだ自分のお金で買うからこそ、所有欲を満たしてくれる車だ。好きな車だからこそ、自分のお金で手に入れたい。

 

 どうせタダで貰えるのならFタイプの方がよかった……!

 

 鬼頭はがっくりと肩を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter13「不器用者たち」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四月下旬。

 

 遅咲きの桜の花びらが、はらはら、となくなりきってしまった頃。

 

 

 

 

 まるで七十年代の特撮ヒーロー番組にでも出てきそうな、ヒーローたちの秘密基地然とした偉容のIS学園校舎。

 

 その正面に広がる運動場で、一年一組の生徒たちが整列していた。鬼頭を含む全員が、ISスーツを身につけている。生徒たちの視線の先には千冬と真耶の姿があり、こちらはともにジャージを着ていた。各々のパーソナルカラーなのか、千冬の方は白を基調としたスポーティなデザイン、真耶の方は薄緑ベースで、学生が着ていそうな野暮ったい意匠をしている。

 

「ではこれよりISの基本的な飛行操縦を実践してもらう。専用機持ちは列の外へ」

 

 千冬の指示に従い、一年一組に籍を置く専用機持ち三名が、列を離れた。勿論、鬼頭智之、織斑一夏、セシリア・オルコットの三人だ。彼らは他の生徒たちからたっぷり距離を取ると、各々待機状態の愛機へと意識を集中させた。

 

「全員、ISを展開しろ」

 

 千冬の声は凛としていて、拡声器を使わずとも、よく通る。一団から離れた鬼頭らのもとにも、その意は届けられた。

 

 最初にISを展開したのはセシリアだった。左耳のイヤー・カフスから放出された光の粒子が、彼女の身体を一瞬で覆い隠し、弾け、ブルー・ティアーズへと姿を変える。展開に要した時間は僅かに〇・三秒。千冬の言によれば、熟練のIS操縦者は待機状態からの展開に一秒もかからないらしいが、その水準よりも、さらに速い。

 

 さすがは代表候補生だ、と口の中で呟きながら、次いで、鬼頭が灰色の打鉄を身に纏った。一年一組の生徒たちが、彼のISをじっくり眺めるのは初めてのことだ。通常仕様の打鉄との違いを、ああでもない、こうでもない、と話し合う姿を、ハイパーセンサーが捉えた。こちらの展開時間は、およそ〇・五秒。

 

 最後にISの展開を終えたのは一夏だった。待機形態の白式……右腕のガントレットを前へと突き出し、左手で掴んだ。白式を手にして以来、様々な試行錯誤の末に、このポーズが最も集中してISの姿をイメージ出来ると学んだのだ。初動が遅かっただけで、展開に費やした時間自体は短かった。約〇・七秒で、白亜のISを身に纏った。

 

「よし、飛べ」

 

 命令一過、最初に行動を起こしたのは、やはりセシリアだった。あっという間に、遙か頭上へと移動してしまう。

 

 次いで飛び発ったのは一夏だ。しかし、ブルー・ティアーズの後を追う上昇速度は、セシリアと比べてかなり遅い。遅れて地面を蹴った鬼頭にも追い抜かれてしまう。

 

「何をやってる。スペック上の出力では、その三機の中では白式がいちばん高いんだぞ」

 

 通信回線越しに、千冬の叱咤が飛んだ。

 

 ようやく二人の待つ高度へと到達した一夏は、そんなこと言われたって、と内心ぼやく。大体において、空を飛ぶ感覚自体、まだあやふやなのだ。急上昇、急降下のやり方にいたっては、昨日習ったばかりの技術。教科書によれば、自分の前方に角錐を展開させるイメージで行うといいよ、とのことだが。

 

 ――それってどういう感覚だよ!?

 

 イメージ・インターフェースによって機体を制御するISにおいて、ものの感じ方、とらえ方、認識の仕方、といった感覚は重要だ。一夏はそれが上手くいかず、白式の高性能を持て余していた。

 

「織斑君」

 

 内心頭を抱える一夏のもとに、鬼頭が近づいてきた。灰色の打鉄を着込んだ姿は、まるで源平時代の鎧武者のようだ。

 

「教科書に載っているからといって、正しいとは限らない。教科書の記述は参考程度にして、自分のやりやすいやり方を模索していくのは、どうだろうか?」

 

「そう言われても……」

 

「たとえば、織斑君は『ドラゴンボール』という漫画を読んだことはあるかい?」

 

 日本が世界に誇る偉大な漫画作品だ。一夏も友人の家の本棚に、ずらり、と並んでいるのを、読んだことがある。

 

「あの作品の登場人物たちは、空を飛んで戦うだろう? たとえば、そういう姿をイメージするのはどうだろうか?」

 

 なるほど、それは分かりやすいかもしれない。漫画にはお話しの流れがある。バックボーンがしっかりしているから、その時々のキャラクターたちの心情が想像しやすい。

 

 ――ドドリアさんから逃げる、クリリンの気持ちになれば……いいや、我ながらどうよ、それ。

 

 数ある飛行シーンの中からその場面が反射的に思い浮かんだ自分に、思わず呆れてしまう。よりにもよって、なぜ敵に追われるシーンなのか。そんなハラハラする場面ではなく、もっとこう、胸がわくわくするシーンではいけなかったのか。

 

 自問する一夏はふと目線を地上にやって、ああ、と得心した。

 

 ジャージ姿でさえ画になる美貌の姉上が、きつい眼差しで己を睨んでいる。彼女に対する恐れのイメージと、作中に登場する強敵のイメージとを、無意識のうちに重ねてしまっていたのか。

 

「……織斑、私に対して、なにか失礼なことを考えているだろう?」

 

 ……お姉様、なにゆえ、ぼくの心が読めるのでしょう?

 

「あとで降りてきたら説教だ」

 

 酷薄なる宣告に、はあ、と溜め息一つ。悄然と肩も落としてしまう。

 

 極めて近い将来に待ち受ける、残酷な仕打ちから一旦、意識をそらしたい、と一夏は鬼頭との会話を続けた。

 

「ちなみに智之さんはどんなイメージで飛んでいるんですか?」

 

「私かい? 勿論、角錐のイメージだよ」

 

「教科書通り!?」

 

「教科書にこだわる必要はない、と言っただけで、教科書の内容を尊重するな、とは言っていないよ」

 

 教科書とは、先達者たちの知識や経験の集大成だ。拘泥しすぎるのも問題だが、敬意をまったく払わないというのもまた不味い。

 

 世界でたった二人しかいない立場の男同士、そんな会話を口ずさんでいるかたわらでは、セシリアが笑いをこらえながらその様子を眺めている。

 

 鬼頭も一夏も気づいていないみたいだが、彼らのやりとりはまるでコメディ・ショーだ。しかも、二人とも周囲を笑わせる意図をもって言葉を交わしているわけではないから、こみ上げてくる笑いもまた自然なもの。我慢するのが大変だった。

 

「三人とも、急下降と完全停止をやって見せろ。目標は地表から十センチだ」

 

 千冬から、また指示が飛んだ。

 

 今度もいの一番に行動を起こしたのはセシリアだ。「では、お二人とも、お先に」と、優雅な仕草とともに微笑むや、すぐさま地上へ向かっていった。ぐんぐん小さくなっていく姿を見て、鬼頭と一夏は揃って感嘆の溜め息をこぼす。

 

「うまいもんだなぁ」

 

「さすがは代表候補生」

 

 完全停止も、難なくこなしてみせた。停止位置は、千冬の指定した地上十センチぴったり。ブレーキのタイミングや深さが完璧だった証左だ。

 

「ようし、俺も」

 

 威勢良く言い放ち、今度は一夏が急降下を開始した。

 

 鬼頭のアドバイスに従い、漫画の登場人物になったつもりで、白式のウィング・スラスターを噴かす。猛然と発進っ! 先ほどの急上昇時よりも確かな手応えに、一夏の口角は自然と緩んだ。

 

 今回は上手くいくかも、などと思った矢先、はたと気がつく。

 

 ――って、あのときのクリリン、ブレーキのこととか考えられる状況じゃあ……!

 

 気づいたときにはもう、遅かった。

 

 急停止をかけるタイミングやその深さについて、まったく忘れていた一夏は、白式の高性能スラスターが誇る推力の勢いのままに、地表へと突撃した。すさまじい衝撃音。土煙が、もうもう、と舞い上がる。

 

「織斑君!」

 

 遅れて地上へとやって来た鬼頭は、粉塵煙の中心地点へと打鉄を移動させた。地面に突っ伏する一夏を後ろから抱え持ち、ゆっくりと上昇する。地上一メートルの高度で解放してやった。

 

「と、智之さん、ありがとうございます……」

 

 感謝の言葉を口にする一夏を、鬼頭はしげしげと眺めた。……うむ。どうやら怪我はないようだ。普通、あの速度で地面に激突しようものなら、骨は粉塵レベルで砕け、内臓破裂は確実だが、ISの生体保護機能が、しっかりとガードしてくれたらしい。白式自体も、シールドバリアーの作用により、目立った損傷はない。

 

「馬鹿者。誰が地上に激突しろと言った。グラウンドに穴を開けてどうする」

 

 砂埃が落ち着いたのを見計らって、千冬が近づいてきた。次いで、一夏を助け起こした鬼頭に対し、厳しい目線を向ける。

 

「鬼頭さんも、あまり織斑を甘やかさないでください。彼のためになりません」

 

「すみません」

 

 IS学園の教師として、生徒の成長を望むがゆえの厳しい言葉に、鬼頭は素直に謝罪の言葉を返した。

 

「ISには搭乗者を保護する機能が完備されている。頭では理解しているつもりですが、地面に倒れる一夏君を見て、つい、体が動いてしまいました」

 

「以後、気をつけてください。……それから、ありがとうございます」

 

 後半部分は、IS搭乗者たちにのみ聞こえるよう、ぼそり、と小さな声音で呟かれた。これは姉としての言葉だな、と察した鬼頭は完爾と微笑みながら、こちらも小さな声で「どういたしまして」と、応じた。

 

 気恥ずかしさを誤魔化すためか、千冬は、ふん、と鼻息も荒々しく、鬼頭の眼差しから、ぷい、と顔をそむけた。

 

 先輩教師の一連の言動をかたわらで見ていた真耶が、思わず苦笑する。彼女は空間投影ディスプレイを呼び出すと、一夏墜落のどさくさの中、ひっそりと急降下・急停止をこなした鬼頭の動きをリプレイ再生した。急降下時……スカート・アーマーのロケット・モーターだけでなく、PICをも併用した、素晴らしい加速だ。次いで急停止……これは、減速を仕掛けるタイミングが、やや早かった。鬼頭の最終的な停止高度は、地表十五センチメートル。トータルの操縦時間がまだ十時間にも満たない初心者のスコアとしては、驚異的な数字だ。

 

「PICの制動力は、鬼頭さんが思っている以上に強力です。出力のすべてを減速に回した場合、時速一千キロメートルの状態から完全停止にいたるまでは、一秒もかかりません」

 

「つまり、もっと踏み込んでからでもよかった、と?」

 

「はい」

 

 首肯する真耶を見て、鬼頭は思わず唸り声を発した。やはり、ISの搭乗者保護機能の性能は素晴らしい。普通、それほどのスピードで減速しようものなら、減速時のGにより、やはり体はとんでもないことになってしまう。

 

「二人とも、授業を進めますので、そのあたりで」

 

 鬼頭の真耶の間に、千冬が割って入った。「次は生徒たちの前で武装を展開してもらいます」との指示に、鬼頭は頷く。

 

「織斑、武装を展開しろ。それくらいは自在にできるようになっただろう」

 

「は、はあ」

 

「返事は『はい』だ」

 

「は、はいっ」

 

「よし。では始めろ」

 

 一夏は周囲に人がいないことを確認した後、白式を呼び出したときと同様、再度右腕を突き出した。左手を添えた集中姿勢で、白式に唯一搭載された武器……《雪片弐型》の姿をイメージする。右手から放出される、光の粒子。

 

 ――来い……!

 

 やがて集中力が極限に達したとき、離散集合を繰り返す光の粒は一つの形へと集束した。全長一・五メートルにもなんなんとする長大な刀剣を手にした一夏は、安全への配慮から、かます切っ先を地面へと下ろす。

 

 ――よし。必ず出せるようになったぞ。

 

 この一週間の訓練の成果だ。はじめのうちは、どんなに集中しても光の粒子すら出てこなかった。

 

 一夏は得意気に笑って、千冬を見た。どうだよ、俺も成長しただろう? という目線に、彼女は淡々と応じる。

 

「遅い。〇・五秒で出せるようになれ」

 

 ぐあ、と一夏は顔をしかめた。苦労の末にようやく得た技術を、褒めるどころかけなされた。先生からのありがたいお言葉が身に沁みて、目頭が熱くなってしまう。

 

 そんな姉弟のやりとり眺めながら、鬼頭は、不器用な人だなあ、とひっそり嘆息した。

 

 一夏に向けて千冬が発した言葉は、これだけだとひどく冷たい印象を感じてしまう。しかし、弟のことを見つめる彼女の眼差しから、鬼頭は期待と信頼の気持ちを見て取っていた。

 

 一夏、お前は私の自慢の弟だ。やれば出来る子のはずだ。そんな程度で満足してくれるな。慢心をしてくれるな。お前ならもっと高みに行ける。もっと成長出来る。だから頑張れ。……大方、そういったことを考えているのだろうが、その気持ちも言葉にしなければ相手に伝わらない。現に一夏は、苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべている。

 

 そういえば彼に対する体罰も、一部については彼女なりの愛情表現だったな、と思い出す。お前のことを愛している。言葉でそう伝えればよいことなのに、それが上手くいかず、使い慣れた手段に頼ってしまう。その結果、一夏からは怖がられてしまっている。

 

 ――気持ちを伝えるのが苦手なんだ。相手のことを想っているのに、それが伝わらない。本当は人懐っこい性格なのに、人付き合いを深めようとすればするほど、損をするタイプの人間だろう。

 

 難儀な性格だなあ、と思う。せめて好きか嫌いかの気持ちくらいは、相手に伝わる術を身につけてほしいものだが。

 

「オルコット、次はお前だ。武装を展開しろ」

 

「はい」

 

 セシリアは左手を肩の高さまで上げると、真横に腕を突き出した。一夏のときのように、光の奔流を放出することはない。一瞬、光が弾けたと思った次の瞬間にはもう、レーザー・ライフル《スターライトmkⅢ》の召喚を完了させていた。

 

 驚くべきは、その速さだ。展開に要した時間は僅か〇・四二秒。しかも、機関部にはすでに冷却剤が充填されたマガジンが接続されており、安全装置もセシリアの目線一つで解除出来る状態になっている。武装展開から射撃可能なコンディションにもっていくまでの時間を加えても、トータルで一秒もかかっていない。

 

「さすがだな、代表候補生」

 

 これには千冬も高評価を下すだろう、と思われたが、

 

「ただし、そのポーズはやめろ。横に向かって銃身を展開させて、誰を撃つ気だ」

 

 指摘され、セシリアは慌てて銃口を向けたその先……遠くからこちらを眺めるクラスメイトたちを、守るように物理シールドを構えている鬼頭を見た。一夏は《雪片弐型》を呼び出す際、周囲の安全を確認してから展開した。それを見ていた彼は、セシリアが安全確認を怠っていることに気がつき、念のために、とひそかに移動していたのだった。代表候補生ともあろう者が、安全装置のロック解除を誤るとは考えにくいが、万が一ということもある。

 

「理解したな? 理解したなら、正面に展開出来るように直せ」

 

「は、はい……」

 

 悄然と頷くセシリア。さすがにこれは、反論の余地がない。

 

 千冬は最後に鬼頭を見た。

 

「鬼頭さん、お願い出来ますか?」

 

「はい」

 

 鬼頭は頷くと、物理シールドを体側へと移動させた。

 

 さて、何を呼びだそうか、と考えたところで、そういえば一夏もセシリアも、中級者以上向けのやり方でしか武装展開をしなかったな、と気づく。まだISの搭乗に慣れていないクラスメイトたちのためにも、初心者向けのやり方を実践するべきではないか、と考えた。

 

「織斑先生」

 

「なんです?」

 

「クラスの皆さんのために、超初心者向け、初心者向け、中級者以上向け、と三連続で展開してもよろしいでしょうか?」

 

 千冬は少し考え込んだ後、

 

「分かりました、それでお願いします。……気を遣わせてしまいましたね」

 

「いえ、これも年長者の仕事です。では、超初心者向けのやり方から」

 

 先のクラス代表決定戦で陽子が多用していた方法だ。空間投影ディスプレイに武装一覧ウィンドウを表示し、武器を選択。五一口径アサルト・ライフル《焔備》を、右手に召喚した。安全装置はかけたまま、銃口を地面へと向ける。桜坂のように趣味にすることはなかったが、鬼頭もアメリカ留学時代に、銃器を扱った経験があった。

 

「続いて、初心者向けのやり方」

 

 鬼頭は遠巻きに眺めているクラスメイトたちにも分かりやすいよう、左腕を天高く突き上げた。掌からはすでに、光の粒子が放出し始めている。

 

「《葵》」

 

 名づけという行為は偉大だ。たとえば、はさみという道具に名前がなかったら、我々はこの道具について言葉をもって説明する場合、相当な苦労を強いられるだろう。そしてそれは、ISを扱う上で必須の、何かをイメージする技術においても同様だ。二枚の刃で挟むようにして物を切る道具の姿をイメージするのは難しいが、はさみという名詞を思い浮かべ、そこから、それがどういう姿をし、どんな機能と性能を持っているのか、想像を波及させるのは比較的容易だ。

 

 鬼頭は打鉄の標準的な装備の一つである近接ブレード《葵》を左手で掴むと、その切っ先を地面へと下ろした。

 

 両手に携えた武器を、彼はしかし、即座に光の粒子へと変換した。量子領域への収納(クローズ)。開きっぱなしだった武装一覧ウィンドウに目線をやると、先ほどまで展開が可能な状態にあるかどうかを示すランプが消えていた《焔備》、《葵》の項目が、それぞれ復活していた。

 

「最後に、中級者以上向けのやり方を」

 

 言い放つや、鬼頭は打鉄を着地させると、右足を前に出して立った。左手を腰元に添え、右手のロボットアームを開いた状態のまま、左手の方へと寄せていく。

 

 鬼頭の姿を眺める千冬が、おや、と眼差しを鋭くした。

 

 鬼頭は一瞬だけ横目で笑いかけると、目線を前へと置いた。

 

 IS学園には、海外からの留学生も多い。彼女たちに対し、少しくらい、日本流のサービスをしてやろう、という茶目っ気を胸に、鬼頭は意識を手元へと集中した。光の粒子が弾ける。一夏が、あっ、と声を上げた。

 

 〇・五秒で展開した近接ブレード《葵》を、鬼頭はすかさず、肩の高さで横一文字に振り抜いた。

 

 短い刃音。

 

 武具の性質上、鞘こそ差していないが、まごうことなき、居合の抜き打ちであった。

 

 抜き付けの一太刀で空を断つや、上段に振りかぶる。左手を柄尻に添え、手の内を練った。真っ向、振り下ろす。

 

 その切っ先は、音を置き去りにし、振り抜ききった後に、風を切る音を轟かせた。ロボットアームの膂力と、確かな技術から繰り出された、超音速の上段斬りだ。

 

「……お見事です」

 

 千冬が感心した声を発した。かたわらに立つ真耶も、うんうん、と首を縦に振る。

 

「居合の心得が?」

 

「まさか」

 

 鬼頭ははにかんだ。

 

「大昔に、友人から手ほどきを受けたことがあるくらいです。ちゃんとした師に学んだことはありません」

 

「それにしては、堂に入っていましたが」

 

「娘に格好良い姿を見せてやろう、と張り切ってやったら、思いのほか上手くいきました」

 

 微笑みながら呟き、クラスメイトたちの一団を見た。

 

「あ、あれ……?」

 

 こちらを見る陽子は、苦々しい顔をしていた。また、悪目立ちして……と、ハイパーセンサーが唇の動きを捕捉する。

 

 ままならないものだ。これでは、千冬のことを言えないじゃないか、と鬼頭は溜め息をこぼした。

 

 そのとき、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。

 

「時間だな。今日の授業はここまでだ」

 

 千冬はそう言って生徒たちの顔を見回した。最後に、一夏を見て、

 

「織斑、グラウンドを片付けておけよ」

 

と、指示を口にする。先ほどの急停止失敗の際に、地面に穿ってしまった穴を埋めておけ、ということだ。IS学園では、今日の失敗のように、グラウンドが荒れてしまうのは日常茶飯事だ。グラウンドを補修するための土は、体育倉庫に常にストックされていた。

 

 ――それにしても、この大きさの穴を一人でやらなきゃならないのか……。

 

 一夏は自身が地面に開けてしまった穴の深さを見て溜め息をついた。自業自得とはいえ、こいつはちょっとしんどそうな大きさだ。休み時間中に終わるだろうか? 誰か手伝ってくれる人はいないか、と周りを見回すも、薄情なクラスメイトたちはすでに教室に戻るため移動を開始していた。

 

「……わかったよ。一人でやれって言うんだろ」

 

「いや、私たちも手伝うよ」

 

 打鉄の装着を解除し、ISスーツ姿の鬼頭が、一夏に声をかけた。

 

 いつの間に体育倉庫へ向かったのか、両手にシャベルを三本抱えている。そのかたわらでは、同じくISスーツ姿の陽子とセシリアが、土嚢袋を載せた台車を引っ張り立っていた。

 

「四人がかりでなら、休み時間中に終わるさ」

 

「みんな……ありがとうございます!」

 

 礼儀正しく頭を垂れる一夏に、鬼頭はシャベルを渡した。セシリアが土嚢袋の口を開き、穴に向かって中身を落とし込む。陽子はシャベルでそれをならしていき、一夏と鬼頭の二人は、墜落時の衝撃で周囲へまき散らされた土をかき集め、地面が平らになるようならしていった。

 

「あ、そうだ」

 

 穴埋め作業に汗を流していると、不意に、一夏が口を開いた。

 

「三人とも、今日の放課後って、空いていますか?」

 

「今日か……」

 

 シャベルを動かす手を止めぬまま、鬼頭は頭の中に、今日一日のスケジュールを思い浮かべる。

 

「うん。特に用事はないよ。会社から急ぎの案件が送られた、とかもなかったしね」

 

「わたしも特には。射撃場に行こうかな、ってぼんやり考えていたくらい」

 

「私もこれといってはありません」

 

「あ、じゃあ、もしよかったらなんですけど、放課後、俺のISの訓練を見てくれませんか?」

 

「ISの訓練を?」

 

「はい。実は俺、オルコットさんとの試合があった日から、放課後は箒と二人で、ISの訓練をしているんです。箒のやつが、ISのことを教えてくれる、っていうんで……」

 

 ははあ、さすがはISの生みの親、篠ノ之束博士の妹だ。まだ入学したての一年生で、専用機や、国家代表候補生といった特別なライセンスも持っていないというのに、もう人に教えられるほどの技術と知識を持っているとは!

 

 しかし、そんな鬼頭らの感心を、一夏はかぶりを振って否定した。

 

「いや、そうでもないんですよ。箒の説明は、なんというか……擬音が多すぎて、分かりづらくて」

 

 曰く、ぐっ、とする感じだ、という。

 

 曰く、どんっ、という感覚、らしい。

 

 曰く、ずがーん、という具合だ、とのこと。

 

 鬼頭らは顔を見合わせた。彼女が何を伝えようとしているのか、さっぱり分からない。

 

 おそらく、篠ノ之箒という人物は、頭で考えて理解するよりも、体でぶつかって感覚で理解する方が得意、というタイプの人間だろう。ただ、そのセンスというのが少々独特で、感じ方、捉え方、認識の仕方を言語化するのが、本人でさえ難しいと感じているに違いない。ために、ぐっ、とか、どんっ、など、聞き手側の解釈に依存するところの大きい、曖昧で抽象的な表現になってしまうのだろう。あるいは、単なる語彙力不足か。それとも、本当のところは分かっていないのか。

 

「それで、他の人だったら、どう説明してくれるのか、気になったので。それに、今日の授業でもそうだったけど、智之さんも、オルコットさんも、俺よりもずっと操縦が上手いし。動きを見て、参考にさせてもらえたらな、って思いまして」

 

「私は構いませんわよ」

 

 空っぽの土嚢袋を丁寧に折りたたみながら、セシリアが言った。

 

「織斑さんにはクラス代表の地位を押しつけるようなことをしてしまいましたし、お役に立てるのなら、喜んで協力しますわ」

 

 英国政府からセシリアに対し、いまの立場とブルー・ティアーズを安堵するとの連絡がもたらされた後も、クラス代表の地位には一夏が就いていた。初日の授業中に千冬が言及していたが、一度決まると、向こう一年間は動かせないポジションだ。

 

 就任時の一夏の態度から、クラス代表になることは彼にとって好ましい事態ではない、というのは明白だった。あの時点では不安定な立場ゆえ仕方がなかったとはいえ、結果的にセシリアは、やりたくもない役職を彼に押しつけてしまったことになる。放課後の訓練に協力することで、その負い目を少しでも払拭出来るのならば、とセシリアは快く応じた。

 

 鬼頭親子もまた頷き合い、揃って「いいよ」と、返答する。陽子はセシリア同様、彼にやりたくもない仕事を押しつけてしまった負い目ゆえに。鬼頭はこの世界でたった二人しかいない特別な立場の男同士、仲良くなれたらな、という思いから。

 

 三人の返答に、一夏は表情を明るくした。

 

 これでようやく、ISの訓練らしいことが出来るかもしれない、と安堵した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜。IS学園の正面ゲートを、一人の少女が訪ねていた。

 

「ふうん、ここがそうなんだ……」

 

 小柄な体には不釣り合いな大きさのボストンバッグを背負い持っている。

 

 まだ暖かな四月の夜風になびく黒髪は、左右のそれぞれを金色の留め金でもって高い位置で結んでいた。長さは肩甲骨のあたりまであり、やや童顔気味の顔立ちと相まって、小動物じみた愛らしさの演出に一役買っている。

 

「えーと、受付ってどこにあるんだっけ」

 

 羽織っているカーディガンのポケットから、一切れの紙を取り出して呟いた。くしゃくしゃになった状態から広げ、目線を落とす。

 

「本校舎一階総合事務受付……って、だからそれどこにあんのよ」

 

 文句を口にしながら、少女は苛立たしそうに上着のポケットへと紙を戻した。中から、くしゃ、という音が聞こえたが、気にした様子はない。かなり大雑把な性格の持ち主のようだった。

 

「自分で探せばいいんでしょ、探せばさぁ」

 

 ぶつくさ言いながらも、その足はすでに動いていた。考えるよりも行動、というタイプの人間らしい。併せて、静かな環境というのが苦手らしく、自らの独り言をもってひとり寂しい耳を慰めている。

 

 ――ったく、出迎えがないとは聞いていたけど、ちょっと不親切すぎるんじゃない? 政府の連中にしたって、異国に十五歳を放り込むとか、なんか思うところないわけ?

 

 少女は、つい先日、中国からひとりこの国にやって来た。目的はIS学園に転入するためで、入国や日本で暮らしていく上で必要な諸々の手続きが今日の昼頃にようやくすべて完了したので、こうして学園へとやって来たのだ。ただ、例年と違って今年は二人もイレギュラーを抱え込むことになったIS学園側には、彼女の来訪に応対するだけの余力がなかった。結果、少女は転入の手続きを受け付けてくれるという総合事務受付の窓口を求め、暗い学園内をさまよい歩くことになってしまった。

 

 ――誰かいないかな、生徒とか、先生とか、案内できそうな人。

 

 学園の敷地内をわからないなりに歩きながら、きょろきょろと人影を探す。時刻は午後八時過ぎ。どの校舎も灯りが落ちており、生徒の大半は寮にいるはずの時間帯だ。人っ子ひとり、見つからない。

 

「あーもー!」

 

 面倒くさいなあ。いっそ、空を飛んで探そうか。

 

 一瞬、名案ではないか、と思う少女だったが、すぐに思いとどまった。訪日前に学園から送られてきた、学園内重要規約書に、私的なISの使用は特別な許可がある場合を除いてこれを禁じる、と明記されているのを思い出したためだ。これを破った場合、最悪、外交問題に発展しかねない。少女と軍、そして中国政府の間をつなぐ連絡役の政府高官の、(それだけは)やめてくださいよ本当に! と、懇願してきたときの顔を思い出し、彼女は意地悪く微笑んだ。少しだけ、気分が晴れるのを自覚する。

 

 ――ふっふーん。まあねー、あたしは重要人物だもんねー。自重しないとねー。

 

 自分の倍以上も歳のある大人がへこへこ頭を下げるのは、ちょっと気分がいい。昔から、歳をとっているだけで偉そうにしている大人、という存在が嫌いなのだ。

 

 だから、ISが登場して以来の世の中は、少女にとって非常に居心地が良かった。誰も彼もが、最新型のISを使いこなす自分に対し、媚びを売ってくる。これがとても気持ちいい。

 

 男の腕力は児戯、女のISこそ正義。この考え方もまた、気分がいい。少女はかつて、男というだけで偉そうにしている子ども、が大嫌いな子どもだった。

 

「――でも、アイツは違ったなあ」

 

 とある男子のことを思い出した。彼だけは、他の男子とは違っていた。いたずらに腕力を振りかざさず、自分に対し、優しかった。

 

 その男の子のことは、彼女が日本へとやって来た最大の理由だった。少女はかつて、この日本で暮らしていたことがある。政府の連中の考えはともかく、自分個人としては、彼との再会を期待して、日本へ戻ってきたと称しても過言ではない。

 

 ――元気かな、アイツ。

 

 まあ、元気なんだろうけど。元気のない姿を見たことがない。疲れを知らない、などと形容される子どもだったから、というわけでもない。そういうやつなのだ。

 

「だから……でだな……」

 

 不意に、声が聞こえてきた。あたりを見回すと、訓練用のISアリーナの側までやって来ていた。どこの国でも、IS関係の施設は似たような形をしている。どんな施設なのか、どこが出入口なのか、すぐに分かった。どうやらアリーナ・ゲートから、訓練を終えた生徒たちが出てくるところらしい。

 

 ちょうどいい。総合受付の場所を訊くチャンスだ。少女は小走りに、アリーナ・ゲートへと向かう。

 

「だから、そのイメージがわからないんだよ」

 

 思わず、肩を震わせ、足を止めてしまった。

 

 聞こえてきたのは、男の声だった。IS学園では本来、聞くはずのない声。それも、知っている声にとてもよく似ている。いや、おそらくは同一人物。だって自分が彼の声を聞き間違えるはずがない。なぜなら彼は、自分にとって初恋の……。

 

 予期していなかった再会の機会の到来に、少女の心臓は早鐘を打った。どきどきと、わくわくと、ほんの少しの恐怖から、胸が張り裂けそうだ。

 

 ――あ、あたしってわかるかな? わかるよね? 一年ちょっと、会わなかっただけだし……。

 

 不安。自分だと分からなかったらどうしよう、という恐怖が、少女の表情を強張らせる。

 

 ――……ううん! 大丈夫。大丈夫! それにわからなかった、それだけあたしが美人になったからだし!

 

 しかしすぐに、思考を前向きなものへと切り替えた。こうやってすぐに気持ちを切り替えられるところが、自分の長所だ。幼い頃から、ずっとそうやって生きてきた。えばりん坊の男子たちにいじめられたとき、日本を離れ、中国での苦しい訓練の日々につい弱音を呟いてしまったとき、心が弱ったときには、いつもこうやって、スイッチを押すように、気持ちを切り替え、凌いできたのだ。

 

 気持ちを新たにした少女は、強張る太腿を、えいや、と軽く叩いた。再び、歩みを再開する。

 

「いち――」

 

 声をかけようとしたところで、少女の喉は凍った。

 

 アリーナ・ゲートから姿を現した一団の姿を認めて、また、歩みを止めてしまう。

 

 最初にゲートからから出てきたのは、やはり彼だった。織斑一夏。自分が日本に帰ってきた理由。自分の初恋の人。そして、いまもまだ想っている人。

 

 次いで姿を見せたのは、炭色の長い黒髪を黄色いリボンでポニーテールに結わえている少女だ。自分よりも、頭一つ分くらい背が高い。足は、すらり、と長く、プロポーションも良い。むかつく。顔も美人だ。すごくむかつく。なによりも、制服越しにも大きさがうかがえてしまうほど、胸元が張っている。すこぶるむかつく!

 

 そして、二人の後に続いて姿を現した男の姿を見て、少女の眦が、つり上がった。さらにその後ろに続く、金髪碧眼の白人や、自分よりもさらに小柄な少女の姿は、目に入らない。四十半ばと思しき男の横顔を、目線で射殺さんばかりに睨みつける。

 

 先刻までの胸の高鳴りは霧散し、苛立ちとともに、ひどく冷たい感情が、腹の底から込み上がるのを自覚する。

 

「……鬼頭、智之!」

 

 小さく、低く、そして厭悪の感情を孕んだ呟きは、夜の風に吹き流されて、一団のもとへは届かない。

 

 彼らは少女の存在には気づくことなく、その場から立ち去っていった。

 

 ひとり残された少女は、

 

「……ふざけるんじゃないわよっ」

 

 一団とともに歩き去って行った男の顔を思い出し、憎々しい呟きをこぼす。

 

「なに、ヘラヘラ、笑っているのよ、あんた……!」

 

 一夏と、ポニーテールの少女の後ろで、彼は笑っていた。前を歩く二人のやりとりを、微笑ましそうに眺めていた。その笑顔が、腹立たしくて、仕方がない。

 

「あんたみたいな大人に、そんな楽しそうに笑う資格が、あると思ってるんじゃないわよ!」

 

 少女……凰・鈴音(フアン・リンイン)はその白い背中をいつまでも睨んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter13「不器用者たち」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時計の針を、数日分、巻き戻す。

 

 

 

 IS学園でクラス代表決定戦が行われた日の夜。

 

 大阪府大阪市北区、天神橋の近くに建つ、六階建てのマンションの最上階にある自室で、弁護士の東山紀子は熱いシャワーを浴びていた。

 

 彼女が名古屋拘置所を後にして、四時間ばかりが経っている。

 

 彼女を乗せた新幹線が大阪駅に到着したのは、午後九時過ぎのことだ。

 

 この時間じゃ開いているスーパーを探すのも面倒ね、と夕食を外で済ませてきた彼女が、天神橋のマンションに戻ったのは午後十時半。

 

 帰宅するなりスーツを脱ぎ捨てた彼女は、とにもかくにも一日の疲れと汚れを洗い流したい、と真っ直ぐシャワールームへ向かった。コックをひねり、じょうろから勢いよく飛び出す熱い滴を浴びているうちに、ようやく帰ってきた実感が湧いてきた。化粧を落とし、顔を洗い、髪を洗って、体を洗う。やがてシャワーのコックを反対側へとひねった彼女は、バスタオル一枚を体に巻き、バスルームを出た。

 

 リビングへ戻った紀子は、出入口近くの壁面に設けられた室内照明の操作スイッチを、パチン、と弾いた。次の瞬間、彼女はぎょっとして立ち尽くした。十六畳ほどの広々としたリビングのソファに、見知らぬ男が腰かけていた。黒いトラウザーズに、長袖黒のポロシャツ。体は大きく、顔の造作は精悍だが、仁王のように凶悪な面魂をしている。顔立ちから察する限り、年齢は四十半ばといったところか。

 

 男は左手でワイングラスを傾け、右手でピンク色のスマートフォンをいじっていた。どちらも、見覚えのある姿形をしている。ワイングラスはキッチンの食器棚にぴかぴかに磨かれた状態で鎮座しているはずの物だ。メタリックな光沢が艶やかな最新型のiPhoneは、先月買い換えたばかりの物。端末には顔認証によるロックをかけていたはずだが、ディスプレイを這う指使いからは、不便さを感じている様子は見受けられなかった。

 

 ふと足下に目線をやると、コルク栓を抜かれた状態のワインボトルが床で屹立している。シャトー・カロン・セギュールの二〇〇三年もの。あれはたしか、三ヶ月ほど前に買ったのだったか。一本三万円もする赤ワインを、仁王の顔の男は、美味そうに飲んでいる。

 

「やあ」

 

 バスタオル一枚のみといういでたちの紀子に目線を向け、男はにこやかに笑いかけた。馴れ馴れしい呼びかけで耳朶を撫でられ、彼女は、びくり、と胴震いする。

 

「……あなたは、誰です!?」

 

 動揺を悟られまい、と努めて平静な声で話しかけた。

 

 早鐘を打つ心臓を押さえ込もうと、バスタオルを押さえるふりをしながら、右手を胸元に置く。

 

 男は質問には答えず、「良いワインだな」と、呟いて、グラスを掲げ持つと、紀子に見せつけるように揺らした。グラスを満たす葡萄酒が、静かに波打つ。

 

「シャトー・カロン・セギュール。ボルドーワインの格付けでは、たしか2級だったか。しかもこいつは、その年のベスト・ワインにも選ばれた二〇〇三年もの。ワインセラーの中にハートの描かれたラベルを見つけて、思わず手に取ってしまった」

 

 紀子は、ちら、とテーブルの上の固定電話に目線をやった。すまなそうに、男が口を開く。

 

「申し訳ないが、電話線は切らせてもらった。警察に……いや、警察じゃなくとも、いま、外部と連絡をとられるのは、俺にとってすこぶる都合の悪い事態なんだ。予防線を張らせてもらった。あと、大声を出すのもやめた方がいい」

 

 ポロシャツの男はスマートフォンをトラウザーズの尻ポケットに突っ込んだ。右手の動きを追っているうちに、いつの間にか左手からはワイングラスが消えていた。空の状態で床に転がっている。

 

「いまきみが立っている位置と、俺が座っている位置。距離は六メートルといったところだが、この間合いなら、俺は、きみが大声を発するために思いっきり空気を吸い込み、喉奥を締めて溜め、エネルギーを一気に解放するまでの間に、五発はパンチを叩き込み、意識を刈り取ることが出来る。……嘘だと思うのなら、試してみようか?」

 

 男は目の前で拳を握ってみせた。ポロシャツの袖口からのぞく手首の筋肉が、隆々と躍動する姿が見て取れた。巌のような拳は、野生の熊だって殴り殺してしまいそうな、異様な威圧感を纏っている。紀子は、怯えた表情でかぶりを振った。それを見て、男は満面の笑みを浮かべた。

 

「そいつは良かった。俺も、無駄な暴力は好まない。可能な限り平和的に、かつスマートな手段で、この問題に取り組みたいと思っているんだ」

 

「問題……?」

 

 紀子は思わず聞き返した。男の発言からは、たまたま偶然、紀子の部屋に侵入したわけではなく、何か目的をもってこの部屋にやって来たことが察せられた。それも、わざわざ紀子の在宅中を衝かねばならない理由が。

 

 ――空き巣の類いじゃない。この部屋は六階にあるし、忍び込みやすい部屋は他にもあるはず。

 

 ということは、自分に対して害意を抱いている人物、という公算が極めて高い。

 

 これまでに自分が裁判で打ち負かした係争相手の関係者が、逆恨みから執念でもってこの部屋の住所を特定し、襲撃してきたのか。

 

「あなたは、誰なんですか!? どうやってここへ!?」

 

 天神橋に建つマンションを我が家と選んだのは、セキュリティがしっかりしていることが最大の理由だった。弁護士という商売柄、彼女には敵が多い。そのため、防犯カメラの設置場所や設置数、エントランス以外にもオートロックが各部屋に完備されているのかなどをよく吟味した上で、この部屋を選んだのだ。

 

 それなのに、目の前の男はそれら妨害装置の数々を、軽々と突破してきた。

 

 何か特別な道具を使ったのか。いや、一見した限りでは、彼は手ぶらだ。ということは、己の知力と体力のみを駆使して、厳重な防犯システムのすべてかわしたことになってしまうが。いったい、この男は何者なのか。

 

「いったい、何のために……!?」

 

 再び男の素性について訊ねた紀子に、彼は平坦な口調で応じた。

 

「残念だが、何者か、という問いには答えてやれない。その代わり、どうやって、という質問には応じよう」

 

 男はソファから立ち上がると、ベランダへ続く窓の方を見た。

 

「地上六階……およそ二十メートルの高さだ。これくらいの高さなら、俺はジャンプひと跳びで登れるんだ。この方法なら、エントランスで立ち往生しなくてすむし、ベランダ側には防犯カメラも設置されていないから、なにかと好都合なんだ」

 

 

「ふざけないで!」

 

 紀子はヒステリックな声で叫んだ。

 

 二十メートルの高さをジャンプひと跳びで登った? 馬鹿々々しい。そんなこと、出来るわけがないだろうに。

 

「嘘をつくなら、もっとまともな……」

 

「嘘じゃないさ」

 

 しかし、男は紀子の怒りなど屁でもない、とばかりに、平然と戯れ言を続ける。

 

「俺はね、きみたち普通の人間とは、遺伝子の造りがちょっぴり違うのよ。……細胞レベルで、スペックが違うんだなあ」

 

 「証拠をお見せしよう」と、男は言った。彼はきょろきょろと室内を見回すと、本棚の空きスペースに置かれていた一キログラムの鉄アレイのペアを認めて、ニンマリ、と笑った。

 

 鉄アレイのうち一本を手に取り、両端部の重りを左右の手でそれぞれ掴んだ。両の手首を、それぞれ反対方向に回転させる。金属のねじ曲がる嫌な音が、低く響いた。やがて、バキンッ! と、甲高い音が鳴る。見れば、鉄アレイは持ち手の部分のちょうど真ん中あたりで、ねじ切れてしまっていた。紀子は唖然とし、声も出ない。

 

「……な?」

 

 仁王の顔が、笑いかけた。よくよく見れば、能面のようなアルカイック・スマイルだ。口は笑っているが、目が笑っていない。

 

「普通の人間は、こんなこと、出来ないだろう?」

 

 鉄アレイの構成部材は鋳鉄だ。持ち手の部分はいちばん太いところで、直径が三センチもある。これを寸断するには、二十トン以上もの力を必要とする。そんな凄まじい圧力を、素手でもって実現してみせた。なるほど、普通の人間ではない。

 

 紀子は恐怖から後ずさった。大きく身じろぎしてしまったことで、バスタオルがはだけ、その裸身が露わとなる。

 

 しかし、羞恥は覚えなかった。

 

 裸を見られていることに対する意識は、いまや彼女の頭の中にはなかった。

 

 ――どうすればいい? どうすればこの化け物から逃げられる!?

 

 鉄を素手で寸断するほどの腕力を持ち、本人曰く、跳躍力は垂直跳びで二十メートル以上。六メートルの間合いなど、一瞬のうちにつめ、五発は鉄拳を叩き込めると豪語している。

 

 こんな怪物から、いったいどう逃げればよいのか。

 

 いやそもそも、なんでこんな化け物が、自分を……!?

 

「最後の質問に対する答えだ。何のために、だったな? 簡単に言えば、意趣返しのためさ」

 

 恨みを返す。やはり、過去の事件で自分のクライアントたちと敵対した、係争相手の関係者か!?

 

「一週間前、名古屋市の東区で、アローズ製作所に勤務する会社員が、通り魔に襲われた」

 

 紀子の喉が凍りついた。それは……、その事件は……!

 

「襲われたのは、俺の部下だ。同じ会社で働く、大切な仲間だ。……東山紀子、通り魔の背後に、あんたがいるってことはもう分かっている。薬に関する知識をまったく持たないスーパーマーケットの店員に、強酸性の薬品を手配してやったこと。その店員を言葉巧みに操って、犯行をそそのかしたこと。そしてその理由が、権利団体内における自分の地位向上のためだってこと。全部、分かっている。東山紀子、あんたには、俺の部下が味わった以上の苦痛と恐怖を、感じてもらう」

 

 紀子は悲鳴を上げて踵を返した。

 

 裸なのも構わず、外に飛び出そうとした。

 

 ポロシャツの男は本棚から残る一本の鉄アレイを掴むと、紀子の背中に向かって投げた。

 

 鉄アレイはまるでブーメランのようにくるくると回転しながら、紀子の背中を打った。

 

 背骨の砕ける音。

 

 たまらず、もんどり打って転倒する。

 

 男は素早く身を躍らせると、うつ伏せに倒れた女の背中にのしかかった。

 

「さっきも言ったが、俺は無駄な暴力は嫌いだ」

 

 ドスを孕んだ声が、紀子の耳朶を打った。裸の女弁護士は、激痛に対する苦悶と、男に対する恐怖とで、顔をくしゃくしゃにした。涙と、鼻水と、涎を振りまきながら、必死に哀願した。

 

「お願い! 許して、許して!」

 

「最小限の暴力で、スマートにやらせてくれよ、な!」

 

 耳の後ろを、軽く叩いた。紀子の視界で火花が弾け、彼女は意識を失った。

 

 

 

 意識を取り戻したとき、紀子はもう、耳後ろの鋭い痛みも、背中の鈍痛もまったく感じられなくなっていた。気を失っている間に、そこら中に局所麻酔を注入されたらしく、体の感覚がおかしくなっていることに気づいた。

 

 陽子は裸の状態で手首と足首とをアームチェアに縛られていた。口にはガムテープが貼られ、言葉を発することは叶わない。もっとも、唇や歯茎にも麻酔を打たれたらしく、まともに喋れるかどうかは怪しかったが。

 

 首を動かすことは出来た。きょろきょろと辺りを見回して、紀子はすぐに落胆した。

 

 見覚えのない空間だった。天井が高く、室内は広い。床は剥き出しのコンクリート製で、窓は壁の高いところに、等間隔で小さな物が並んでいる。おそらく、どこかの空き倉庫の中だろう。部屋の中は、がらん、としており、照明は裸電球が二個、配線も露わな天井からコードでぶら下がっていた。どうやら、目の前で椅子にのんびり腰かけている黒ポロシャツの男によって、連れてこられたらしい。

 

「ああ、起きたか」

 

 仁王の顔をした男は、キャンプで使うような折りたたみ式のテーブルと椅子を広げていた。紀子との位置関係は、テーブルを挟んで正対している状態だ。見るからにプラスチッキーで、安っぽい天板の上には、黒革のブリーフケースと、丸い形の目覚まし時計、その他様々な品物が整然と並べられていた。目覚まし時計の文字盤は、紀子の方を向いており、時刻は午前一時五分を示している。紀子が自室で男と遭遇して、二時間近くが経っていた。いったい、ここはどこなのか。

 

「目は見えるな? 声も聞こえるな? 聞こえたら、うん、と頷いてみろ」

 

 怯えた表情の紀子は頷いた。

 

 男は満足そうに笑うと、テーブルの上に並ぶ品物から、一つ選んで手に持った。裸電球だけが頼りの薄暗い空間だが、これだけの近距離だ。どんな形をしているのか、細部まで見て取れた。長さ十センチ、太さが二センチくらいの、両端が斜めに面取りされた金属管だ。男はそれを真ん中でひねると、横に割れて半分になった。男は中の空洞を紀子に見せた。

 

「昔のスパイ映画なんかに、わりとある描写なんだが……」

 

 男は平坦な声で呟いた。

 

「スパイが敵の組織に捕まって、身ぐるみ剥がされ、ああっ、危うし! って場面で、どこからともなく秘密道具を取り出して、敵のアジトから脱出! っていうのがある。子どもの頃、あの秘密道具はどこから取り出しているんだろう? って疑問を抱いた。長じてから答えを知って、知らなければよかったと後悔したよ。なんと、ああいう秘密道具は、防水カプセルに入れて、肛門の中……つまり、直腸内に隠しているんだってな。アメリカ留学時代に、ワシントンD.C.の国際スパイ博物館に立ち寄って知って、そりゃあ驚いたもんだ」

 

 紀子は顔を青くした。尻の感覚がなくなっていることに、今更ながら気がついた。

 

 男は金属管を机の上に置いた。代わって手に取ったのは、ジップロック式の小さなビニール袋だ。中には、黒くて砲丸状のペレットの粒が大量に入っていた。

 

「こいつは黒色火薬。名前は聞いたことがあっても、実物を見るのは初めてなんじゃないか?」

 

 男は袋の封を開けた。テーブルの上に置いてあったピンセットを使って、直径一ミリほどのペレットを一つ々々、丁寧につまんでは、一方の金属管の空洞に押し込んでいった。やがて金属管の中は、ペレットの粒でいっぱいになった。男は金属管とピンセットをテーブルの上に置いた。

 

「これは雷管。弁護士先生なら、名前くらいは聞いたことあるだろう?」

 

 起爆剤を充填した火工品だ。軍用や工業用の爆薬は、万が一の暴発事故を防ぐために、低感度な方が望ましい。これを爆発させる際には、熱や衝撃に敏感な火薬を起爆剤として少量だけ使う、というやり方が一般的だ。雷管はそうした高感度の危険物を安全に運び、かつ確実に動作させるための装置である。

 

 男が手にした雷管は、小さな丸い金属のボールだった。一箇所から、細長い針のような突起が飛び出している。男はその針を、黒色火薬でいっぱいの金属管の穴に突き刺した。

 

「そしてこいつは時限装置」

 

 今度も丸い金属製の物体だった。二本の針が突き出していて、男は雷管のソケット部分に差し込んだ。ここまでを終えたところで、男は金属管の片割れ同士を元通りにくっつけた。

 

「はい。これで時限爆弾の出来上がり」

 

 男は金属管を親指と、人差し指とでつまみ上げた。太い指だった。

 

「これと同じ物を、お前の尻の中にねじこんでおいた。午前二時にセットしておいたから」

 

 紀子は恐慌状態に陥った。汗、涙、鼻水、涎、小水と、様々な体液が、どっ、と体外に流れ出た。彼女は暴れようとしたが、拘束されている上に、麻酔を打たれた体は、思うように動いてくれなかった。椅子ごと倒れることすら出来なかった。腹に力を篭めようとするも、上手くいかない。情けない放屁の音だけが、倉庫内に無様に響いた。

 

「滑川君は、帰宅途中を襲われた。突然、見知らぬ女から声をかけられ、道を訊ねると同時に、強酸性の液体を顔面に向けてぶっかけられた」

 

 男は、そんな紀子の醜態を真正面から、じぃっ、と見つめていた。怒りの眼差しだった。

 

「幸い、腕でのブロックが間に合って、最悪の事態は免れたが……それでも、被害は甚大だ。分かるか? 俺たち、技術者にとって、視力を奪われることが、どんなに恐ろしいことなのか。右腕が使い物にならなくなるという事態が、どんなに絶望的な状況なのか」

 

 男はテーブルの上のブリーフケースを開けた。ケースの中には、外科医が使うような道具が詰められていた。小型の外科用鋸、麻酔用の注射器、電気焼灼鏝……。この後、自分の身に起きることを想像して、紀子は発狂した。

 

「東山紀子、お前には、俺の部下が感じた以上の恐怖と、絶望を味わってもらう。その上で死んでくれや、な?」

 

 右手の五本の指は、呆気なく切り落とされた。道具の性能と、男の技術と腕力とが合わさった結果だ。痛みはなかった。男は、紀子に強力な麻酔を投与してくれた。おかげで彼女は苦痛を感じずに、指が一本ずつ切り落とされていく光景を、眺めていられた。

 

「本当は目をくりぬきたいところなんだがな」

 

 反対側の手の指を切り落としながら、男は酷薄な冷笑を浮かべた。

 

「目を潰すと、いまが何時か分からないだろう? だから、代わりに耳をそぎ落すだけで、勘弁してやるよ」

 

 男の手際は素晴らしかった。刃物の扱いに習熟している様子だった。彼はあっという間に両の耳を切り落とした。銀色のトレイに置かれた自分の耳たぶや指を、ぼう、と眺める紀子は、わたしの体ってあんな形をしていたのね、と、どういうわけか、思わず笑ってしまった。

 

 午前一時四二分。両手の指を全部と、両の耳を切り落とした男は、それらをやはりジップロック式の小袋の中に丁寧に封入していった。彼はそれから、テーブルの上の品物を片付け始めた。

 

 午前一時四五分。目覚まし時計以外を片付け終えた彼は、時計を床の上に置いた。テーブルを畳み、椅子を畳む。

 

 午前一時四七分。ブリーフケースとテーブルと椅子を抱え持った男は、放心状態の紀子をしばらく眺めた後、踵を返し、ドアの方へ向かった。重たげな金属製の引き戸を軽々と開き、外に出て、扉を閉めた。

 

 午前一時五十分。遠くの方から、車の走り去る音が倉庫内に響いた。しかし、両耳を失ってしまったいまの紀子では、その音を聞き取ることは出来なかった。

 

 午前一時五三分。紀子は床の上の目覚まし時計を、じぃっ、と眺めていた。

 

 午前一時五五分。どこかから女の笑い声が聞こえたような気がしたが、いまの自分に聞こえるはずがない、と無視をすることにした。

 

 午前一時五七分。紀子の精神は砕け散った。

 

 午前二時。東山紀子の下半身はばらばらに崩壊した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あはっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あははっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あははははははははっ。

 

 

 

 そうです。

 

 それでこそですよ、桜坂さん!

 

 あなたはやっぱり、“そう”でなくちゃ!

 

 

 

 桜坂さん、あなたはきっと、わたしと同じタイプの人間です。

 

 

 

 顔も知らない人間なら、百万人だって平気で殺せる。

 

 

 

 その一方で、愛する人のためならば、自分の身がどんなに危うくなろうと構わない!

 

 

 

 そういう、両極端な面を併せ持って生まれてしまった人、それがあなた。

 

 

 

 唯一、わたしと違うところは、あなたは自分自身に対して嘘をつける人間だってこと。

 

 あなたは自分の能力や考え方が、社会性動物である人間が支配するいまのこの星では、人類社会にとってのガン細胞のようなもの、と自覚している。

 

 自分のあり方次第で、いまの社会を壊してしまいかねないことを知っている!

 

 

 

 だからあなたは、自分に対して嘘をつく。

 

 自分はモラリストだ、って、自分自身に言い聞かせて、本当にやりたいこと、欲しいもの、愛する人たちのためにしてあげたいこと、そういう気持ちを全部、押し殺している。

 

 

 

 でも、そんな嘘の仮面は長続きしません。

 

 ふとしたきっかけで、簡単に剥がれてしまう。

 

 

 

 それが今夜のあなた。

 

 大切な人を傷つけられて、烈火のごとく怒り狂い、復讐のため、人道にもとる行為へと走った。

 

 それでいて、そうしたことに一切の迷いも、後悔も感じていない。

 

 それこそが、あなたの本性。ありのまま姿。美しいあり方。

 

 

 

 ……待っていてくださいね、桜坂さん。

 

 

 

 いまの世界はきっと、あなたにとって、とても生きづらいものでしょう。

 

 

 

 でも、すぐにわたしが変えてあげますからね。

 

 

 

 この世界を、わたしや、あなたや、鬼頭さんみたいな人間が、自由に動ける世界に、作り替えてみせますからね!

 

 

 

 

 

 そのときは、ぜひ、あなたが隠している、すべての能力を見せてください!

 

 

 

 わたしと一緒に、未来を作っていきましょう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……この小さな世界のどこかで、狂った笑いが鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 




桜坂、コラ、仮面ライダーなんだろ、お前(台無し)



ジャガーXJ スーパースポーツ はいまだ登場していない最新モデルを想定しています。

現行型(2010年デビュー)がそろそろモデル末期じゃないか、と囁かれているので、拙作ではもう新型がデビュー済みということで、ひとつ。





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Chapter14「猛る中年」

天才たちにも、未熟な時代があった。





 時計の針を、ほんの少しだけ、巻き戻す。

 

 放課後の第三アリーナで、ISスーツを身に纏い、竹刀を握る篠ノ之箒は、茫然とした表情を幼馴染みの少年に向けていた。

 

「……これはいったい、どういうことだ?」

 

「ええと、何が?」

 

 箒の言う、“これ”が何を指しているのか。さっぱり分からない一夏は、訝しげな表情で幼馴染みの少女の顔を見つめる。

 

 箒は、きっ、と憤りの眼光も鋭く、少年の背後に立つ一団に目線を向けた。箒と同様、ISスーツを着込んだ鬼頭、陽子、セシリアの三人が、何をそんなに昂ぶっているのか、と不思議そうにこちらを見つめている。

 

「だから、後ろの人たちは何なのだ、と聞いている!?」

 

「ああ、俺が頼んだんだよ。ほら、クラス対抗戦も近いし、智之さんやオルコットさんに、訓練を見てほしい、って」

 

 みんな快諾してくれたんだ、と嬉しそうに語る一夏に、箒は恨めしげな眼差しを向けた。

 

「お、お前は、“私に”ISのことを教えてほしい、と言ったじゃないか」

 

 私に、の部分をやけに強調した口調で、箒は言った。

 

 あれ、そうだったか、と一夏は過日の記憶を掘り起こす。

 

 セシリアとの試合が終わった直後のことだ。敗北を悔しがる一夏に、箒の方から提案し、彼も、応、と頷いた。彼女はIS開発者の妹だし、なにより昔馴染みとあって気を遣わずにすむ。そのときは、教師役にこれ以上の適任者はいない、と考えた末の、首肯だった。

 

「……いや、私に教えてほしいのだな? って、箒が訊ねてきたんじゃないか」

 

「しかし、お前はそれに頷いただろう?」

 

「ま、まあ、そうだけど……」

 

「それなら、なんで……!?」

 

「いや、先生役が多いに越したことはないだろう? 智之さんも、オルコットさんも、ISの操縦、上手いし。それに二人とも専用機持ちだから、模擬戦とかも出来るし」

 

「くっ」

 

 箒は悔しげに歯噛みした。IS開発者の妹とはいえ、学園における彼女の現時点の立場は、他の多くの者と同様、一般生徒にカテゴライズされる。当然、専用機は持っておらず、放課後の自主訓練にISを使いたい場合には、いちいち貸出申請を提出し、通さねばならない。

 

「……模擬戦の必要性は分かった」

 

 しばし無言で一夏の顔を睨んでいた箒は、やがて諦観の溜め息をついた。ひっそりと声量を抑え、一夏にしか聞こえぬように言う。

 

「だが、それなら教師役はオルコット一人でいいじゃないか。よりによって、なんで鬼頭さんを……」

 

「智之さんが一緒だと、何か問題があるのか?」

 

 眉間にくっきりと縦皺を刻みながら、一夏は訊ねた。こちらも、箒に合わせて声のボリュームは控えめだ。少し後ろに離れて立つ三人を、ちら、と一瞥して、

 

「前から思ってたけどさ、箒って、智之さんのこと、避けているよな」

 

 思い出すのは先日のクラス代表決定戦のときのことだ。同じピットルームにいたにも拘らず、鬼頭と箒が言の葉を交わしていた記憶がない。それどころか、鬼頭の方は話しかけているのに、箒の方が聞こえていないふりをする、という光景さえ見られたほどだ。自分の幼馴染みは人見知りする方ではあるが、剣道の有段者とあって、目上の人間に対する礼儀作法は心得ているはずなのに。

 

「あれ、なんでなんだよ? 智之さんのこと、苦手なのか」

 

「……そういうわけではない」

 

 箒も、束の間、鬼頭の方へと目線をやり、

 

「ちょっと来い」

 

と、一夏を誘って、鬼頭たちからおよそ五メートル、さらに距離をとった。一団と十分、離れていることを認め、彼女は言葉を重ねた。

 

「その、鬼頭さん本人には言うなよ」

 

「ああ」

 

「……私の姉がどういう人なのかは、知っているだろう?」

 

 一夏は粛と頷いた。篠ノ之束。十年前、若干十四歳という年齢でISを開発した、おそらくは地球上最高の天才。箒の実姉というだけでなく、千冬の同級生でもあり、一夏も何度か顔を合わせたことがある。

 

 その為人はなんと表現するのが適切なのか……とにかく、ものすごい人格の持ち主だ。

 

「その姉さんがな、以前、口にしたんだ」

 

 白騎士事件の後、間もない頃だったと記憶している。五十個目だったか、六十個目だったかのISコアを完成させた姉が、「今日は一日休憩タ~イム!」と、居間でテレビを観ながらくつろいでいるときのことだった。何か面白い番組はやっていないか、とチャンネルを切り替えているうちに報道番組に行き着いた姉は、「今年のノーベル賞はどうなるんでしょうね?」、「篠ノ之束博士が候補に挙がるのは間違いないでしょう」と、語り合うアナウンサーとコメンテイターの姿を見て、侮蔑の表情を浮かべた。

 

「こいつら馬鹿だよねぇ~。私たちみたいな天才を、お前たち凡人が正当に評価出来るわけないのに」

 

 そのとき、自分は彼女の発言に違和感を覚えてしまった。よせばいいのに、「私たち、ですか?」と、訊ねてしまったのだ。

 

「そうだよ、箒ちゃん」

 

 姉はテレビに向けていた表情とは一転、柔らかな笑みを浮かべながら言った。

 

「この世界にはね、少なくともあと三人、束さんと同等か、それ以上の天才がいるの」

 

 一人は、名前を出されずとも分かる。織斑千冬。姉とはまた違った方向性の天才だ。しかし、あとの二人は分からない。箒は興味本位から、「あとの二人は誰ですか?」と、訊ねた。

 

「……そのときに言っていたうちの一人の名前が、鬼頭智之、だったんだ」

 

 一夏は茫然とした表情で鬼頭を見つめた。〈トール〉のことといい、今日の授業で見せた操縦技術といい、すごい人だとは思っていたが、まさかそれほどの人物だったとは……!

 

 ――“あの”束さんに匹敵するって……。

 

 彼女の性格上、過大評価からくるリップサービスとは考えにくい。彼女はいわゆるステレオ・タイプな天才で、人付き合いを苦手としている。それだけに、他人を査定する際の観察眼がとても厳しいのだ。

 

 ――それって、その気になれば世界をぶっ壊せるほどの天才ってことじゃないか!

 

 自分はとんでもない人に指導を求めてしまったのかもしれない。一夏の首後ろを、冷や汗が流れた。

 

「そういうわけだ」

 

「な、なるほど……あれ? でも、それって避ける理由にはならないよな」

 

 姉に匹敵するほどの天才と言われて、気後れしてしまう気持ちは分かる。しかし、無視をしたりするほどの理由ではないような。

 

 なおも訝しげな一夏に、箒は「馬鹿者!」と、応じた。

 

「あの姉さんに匹敵するほどの天才だぞ!? ということは……!」

 

「ということは?」

 

「姉さん級の変人奇人の可能性が高い!」

 

「……はあ?」

 

 一夏はまた違った意味で茫然とした面差しを箒に向けた。

 

 やだ、この子ってば、六年も会わないうちに人見知りが高じて、人を見る目が駄目になってしまっているわ。

 

「お前、いままで、智之さんの行動とか発言とか、思い出してみろよ? あの人のどこが変人なんだ」

 

「わからんぞ! ああいう、人の良さそうな人物に限って、実は……ということもある!」

 

 人の良さそう、って、分かっているじゃないか。なぜ、その印象を大切に出来ないのか。

 

「とにかく、鬼頭さんは油断のならない相手だ。お前も気をつけろ」

 

「絶対、箒の思い違いだと思うけどなあ」

 

 一夏は鬼頭たちの方を見て、溜め息混じりにぼやいた。

 

 

 

 他方、そんな二人のやりとりを眺める鬼頭たちは、

 

「……二人とも、何、話しているんだろうね?」

 

「察するに、どうやら織斑君は篠ノ之さんに、私たちが来ることを伝えてなかったみたいだな」

 

 いかんなあ、と鬼頭は口の中で呟いた。報連相はビジネスの場のみならず、あらゆる人間関係の基本だというのに。

 

「ところでお父様、篠ノ之さんのあの態度ですが」

 

「うん。十中八九、織斑君に対し、ホの字だろうね」

 

「父さん、表現が古い……」

 

 微笑ましげに呟いた鬼頭に、陽子は「オジサンみたいだよ」と、言った。一九八一年生まれ、今年で四六歳になる正真正銘のオジサンは、思わず苦笑した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter14「猛る中年」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……それで、普段はどんな訓練をしているんだい?」

 

 篠ノ之箒との話し合いを終えて一団のもとに戻ってきた一夏に、鬼頭は話しかけた。

 

 彼からは訓練を見てほしい、と請われているが、具体的な方針を決めておかねば、効率が悪い。

 

「最近はもっぱら、近接格闘と、空中機動の訓練ですね」

 

 鬼頭の問いに、一夏は訥々と答えた。

 

 セシリアとの試合の後、自分なりに白式の仕様を調べてみたが、やはり己の愛機には、近接ブレード一振以外の兵装はないらしい。その上、後付け兵装を搭載するための拡張領域の容量にまったくと言ってよいほど余裕がなく、石を拾って投げる、くらいのことは出来るだろうが、まともな射撃戦は諦めた方がよさそうだった。

 

「拡張領域がまったくない機体、ですか。ずいぶんと、思いきった仕様ですね?」

 

「なんか、その分のリソースを全部、機動力と、攻撃力に割り振った感じなんだよな」

 

「攻撃力というと……例の《零落白夜》か」

 

「本来はワンオフ・アビリティー相当の機能ですものね」

 

 鬼頭の言葉を、セシリアが継いだ。さすがは代表候補生、ISに関する専門的な知識は、この場にいる誰よりも豊富だ。

 

 ワンオフ・アビリティーとは、文字通りそのIS固有の、唯一仕様の特殊能力のことだ。篠ノ之束の開発したISコアという機械には、驚くべきことに、自我意識のようなものが存在するという。そんな特性を持つISコアと、IS操縦者との相性が最高の状態に達したときに、自然発生する能力だそうな。通常は、第二形態(セカンド・フォーム)から発現するが、第二形態自体が誰でも発現出来るものではないため、世界的にも発現例は少ない。

 

 ちなみにセシリアの『ブルー・ティアーズ』をはじめとする第三世代機の定義には、そうした特殊能力を、誰でも扱えるよう兵装化してあることも、条件の一つとして含まれている。

 

「たぶんですが、織斑さんのISは、その《零落白夜》を第一形態で使用するために、拡張領域のリソースすらそちらに回しているのでしょう」

 

「あの攻撃力だもんね」

 

 セシリアの考察に、陽子も同意の頷きを示した。バリアー無効化攻撃。ISバトルにおいて、まさに一撃必殺を可能とする機能だ。例えるならば、すべてのパンチが一発K・Oものの威力を持ったボクサーのようなものだろうか。

 

 しかし、どんなに強力な一撃も、当たらなければ意味がない。

 

 そのための近接格闘の訓練、そして空中機動の訓練だった。

 

「先日のセシリアとの試合を観戦していたときの印象で言うと、織斑君は、近接戦闘そのものは得意な方なんだろうね」

 

 なんでも、剣道の嗜みがあるらしい。通っていたのは篠ノ之箒の父親が経営する道場で、彼女の引っ越しとほぼ同時期に、一旦、竹刀を置いてしまったそうだ。しかし、セシリアとのクラス代表決定戦の開催が決まった後、またぞろ始めたのだという。

 

「となれば、目下いちばんの課題は、高速で機動する敵のISに近づくための技術、敵のISの攻撃から逃れるための技術、ということになるね」

 

 重ねて、今日の授業で彼は、いまだに“飛ぶ”という感覚がよく分からない、と口にしていた。

 

 来週末に控えるクラス対抗戦のことを考えても、空中機動の訓練への注力は、最優先で行うべきだろう。

 

「ふむ。それなら、こういう訓練はどうだろう?」

 

「何です?」

 

「ISを使って、空中で鬼ごっこをするんだ」

 

「何ですの、それは?」

 

 イギリス人のセシリアが、聞き慣れない単語に訝しげな表情を浮かべた。日本語は学んでいても、こういった、細かい文化についての勉強はまだ不足気味のようだ。

 

「日本の子どもの遊びだよ。誰か一人、鬼と呼ばれる親役を決めて、それ以外の者が子役だ。

親役は何秒か数え終えた後、逃げる子役を追いかける。子役は制限時間内に親役から逃げ切れれば勝ち、というルールだ。ただし、親役は子役にタッチした瞬間、交代となる。だから、より正確な言い方をすると、制限時間がいっぱいになった時点で親役を押しつけられている者が負け、というゲームだね」

 

「なるほど、私たちの国でいう、狐とがちょう、のことですね」

 

「アメリカでは、タグ、とも呼ばれるね」

 

 鬼ごっこに類似する遊びは世界中に存在する。シンプルなゲームだけに、地域ごとの追加ルールも様々だ。ものの本によれば、日本だけでも基本形が五百種類、バリュエーションも含めると、二千種類はくだらないという。

 

「良いアイディアだと思いますわ。それなら、鬼役のときは相手に接近するための訓練、子役のときは、相手から逃げる訓練になります」

 

「織斑君の『白式』の機動性は、おそらく、現在、稼働状態にあるあらゆるISの中でも、トップ・クラスに位置している」

 

 鬼頭は一夏を見た。

 

「自機の特性を把握するための訓練でもある。どうだい、やってみないか?」

 

「面白そうですね」

 

 一夏は好戦的に微笑んでみせた。

 

「早速、やってみましょう」

 

 言い終えるや、一夏は白亜の装甲を身に纏った。鬼頭とセシリアも、各々の愛機を呼び出す。

 

 専用機を持たない箒と陽子の役割は、データ収集と分析だ。

 

「ISバトルは原則一対一の戦いだ。しかし、クラス対抗戦まであまり時間がない。様々な状況への対応力を磨くためにも、鬼役が二、子役が一でいこう」

 

「最初は、私と鬼頭さんの二人が鬼役を務めましょう。制限時間は、一ゲームあたり、十分くらいが適当でしょうか」

 

「そうだな。……一応、言っておくが、二対一の状況でも、ハンデとしては不十分だよ。きみがその『白式』の機動性を、フルに発揮出来たなら、私やセシリアの機体では、触れられもしないだろう」

 

「分かりました」

 

 一夏は決然と頷いた。

 

「全力で、逃げてみせますよ」

 

 

 

 ところが、一夏の全力の逃げは、ゲーム開始後、早々に破られてしまった。

 

「あ、あれ……?」

 

「ふむ。これで次の鬼は織斑くんだね」

 

 「今度は私が全力で逃げる番だね」と、一夏の胸板をタッチした鬼頭は、灰色の打鉄で空を駆け、離れていった。

 

 いつの間に肉迫されたのか、まったく見えなかった。

 

 正面からゆるゆると突き進んできたのを左右に避けようとした瞬間、鬼頭の上体が急に前後に揺れ動いたかと思うと、もう、胸部装甲を触られていた。突然の急加速。一夏は茫然と、空で立ち尽くす。

 

『織斑さん!』

 

 そんな一夏を、セシリアがプライベート・チャネル回線から叱咤した。いつの間にか、一夏の隣を飛んでいる。

 

『カウントはもう十秒経ちました。ぼさっとしていないで、お父様を追いつめますわよ!』

 

『あ、ああ。……お父様?』

 

『私が右から攻めます。織斑さんは、左から挟み込んでください』

 

 一夏の疑問に答えず、指示を飛ばすや、セシリアは鬼頭の背中を追いかけた。遅れて一夏も、左から、彼の進むルートを塞ぐように接近する。

 

「鬼役、交代です!」

 

「……残念だが」

 

 鬼頭は不敵な冷笑を浮かべた。

 

「子どもの頃のことだが、鬼ごっこでは負けなしなんだ」

 

 左右に、小刻みな高速フェイント。一夏は翻弄され、あっ、と思った瞬間には、もう、抜かれていた。

 

「嘘だろ? あれ、本当に第二世代機なのかよ」

 

「スペックでは、この三機の中でも、最低の機体なのに」

 

「カタログ・スペックだけが、機械の性能のすべてじゃないさ」

 

 自身、技術者でもある鬼頭は、必死に追いかけてくる二人に向けて言い放った。

 

「数字に表われない部分にもこだわるのが、我々技術者の仕事だよ」

 

 鬼頭は、打鉄最大の推進機関であるロケット・モーターをカットしていた。ロケットの推力は素晴らしいが、加減が利かないため、緩急をつけた動きをしたいというときには不便だ。

 

 事実、一夏たちは鬼頭の変幻自在な機動に翻弄されていた。これが単純な推力の勝負だったなら、ゲーム自体が成り立たなかっただろう。

 

 鬼頭は空中で立ち止まると、余裕の笑みを二人に向けた。

 

「さあ二人とも、時間はまだたっぷりあるぞ。オジサンともっと遊んでおくれ」

 

 挑発の言葉に、一夏とセシリアは猛追という形で応じた。

 

 

 

 制限時間十分の鬼ごっこは、最終的に十ゲーム行われた。

 

 トータル百分間のゲームの結果は、鬼頭が八勝、セシリアが二勝、一夏は全敗という成績だった。

 

 

 

 

 

 

 夕食後の自由時間、IS学園にある一年生用の学生寮の食堂では、鬼頭を含む一年一組の生徒たち全員が集まっていた。各々飲み物を手に持ち、やいのやいのと盛り上がっている。

 

「……というわけでっ!」

 

「織斑くん、クラス代表決定おめでとう!」

 

「おめでと~!」

 

「いえ~い、おりむー、いえ~い」

 

 食堂のテーブルを複数組み合わせて作った主賓席に腰かける一夏の目の前で、ぱん、ぱん、ぱん、とクラッカーが乱射される。色とりどりの紙テープが頭上から降り注ぎ、少年の視界はたちまち塞がれてしまった。体中に引っかかってしまったテープを鬱陶しそうに払いのけ、顔をのぞかせた一夏はげんなりと溜め息をついた。

 

 ――めでたくない。俺にとっては、ちっともめでたくないぞ!

 

 ちら、と背後の壁に目線を向ける。壁面には、『織斑一夏クラス代表就任パーティー』と、A4コピー用紙一枚につき一文字ずつ、黒のマジックペンで大きく書かされた物が、べたべた貼られている。余白の部分にカラーペンで絵を描き加えて煌びやかに飾っているのは、女子ならではの発想といったところか。

 

 一夏はコピー紙一枚々々をじっくりと眺め、口の中で呟き、その意味を噛みしめてまた溜め息をついた。

 

 ――就任……、そう、就任パーティーなんだよな、これ……。ははっ、もう、逃げられないな。

 

 理由はともかく、他薦によって選出されたという事実。先のクラス代表決定戦における、不戦勝の勝ち星一つ。セシリアと陽子の立候補取り下げ。そして、今日の就任パーティー。こうも丁寧に既成事実を積み重ねられては、もはや逃げ道はない。

 

 ――クラス代表、やるしかないかぁ……。

 

 一夏は目線をテーブルの上へと戻した。お菓子や軽食の載った皿が、ずらり、と並んでいる。今夜のパーティーのために、クラスメイトたちが購買部で買ったり、自分たちで包丁を握ったりして用意したものだ。そのうちの一つ……姉を慕って北九州からわざわざやって来たというクラスメイトが持ち込んだ、地元の銘菓、《くろがね羊羹》に手を伸ばす。

 

 事ここにいたっては、パーティーを楽しんだ方が建設的だろう。開き直った一夏は、ガラスコップにお茶を注ぎ、羊羹の美味さに舌鼓を打った。訓練の疲れを癒やしてくる、がつん、とした力強い甘み。これはいいな、と自然と相好が崩れた。

 

 他方、少し離れた席からそんな彼の様子を眺めていた陽子は、幸せそうに羊羹にぱくつく微笑みを見た瞬間、どきり、と心臓を高鳴らせた。

 

 一夏の顔の造作は、さすがに姉弟だけあって、千冬とよく似て端整だ。唇をほころばせたときの顔は可愛らしく、少女の未成熟な母性本能でさえ、えらく刺激させられた。

 

 料理の才能がない自分が恨めしい。あんな笑顔を見せてくれるのなら、自分も何か用意してやりたかったが。

 

「……お父様、わたしたちも何か名古屋銘菓を用意するべきだったのでしょうか? たとえば、そう、ういろうとか」

 

 陽子は一夏に目線を向けたまま、左隣の席に座る鬼頭に訊ねた。糖尿病が心配だから、と、テーブルの上の菓子類に手を伸ばすことを娘から禁止されてしまった彼は、ウーロン茶で満たされたコップをちびちびやりながら、憮然とした表情で応じた。

 

「娘よ、ういろうは若いお嬢さん方にはウケが悪いかもしれん。こういうパーティーの席ではやはり、見た目も愛らしい、《カエルまんじゅう》あたりの方が相応しいと思うぞ」

 

 名前の通り、皮の部分がデフォルメされたカエルの顔の形をしているまんじゅうだ。明治十二年創業の『青柳総本家』の定番商品の一つで、名古屋の土産物界の重鎮といえる。

 

「……というか陽子、父さんも、たまには甘いあんこが食べたいよ。具体的には、その大皿の上のどら焼きを食べたいよ」

 

「駄目。去年の会社の健康診断の結果、血中糖度、思い出して」

 

 鬼頭は、がくり、と項垂れた。

 

 陽子の右隣に座るセシリアは、そんな彼を気の毒そうに見つめた。

 

「はいはーい、新聞部でーす」

 

 そのとき、パーティー会場の食堂に、一人の女子生徒が駆け込んできた。夜遅い時間にも拘らず、学園の制服に袖を通し、左腕には赤地に白糸で『PRESS』と刺繍された、腕章を付けている。学年色でもある制服のリボンの色は黄色。どうやら、二年生の生徒のようだ。黒髪に加えて、眼鏡の奥には黒い瞳。新聞部と名乗った際の発音からも、日本人で間違いないだろう。

 

 ドライバーグローブをはめた手には、一眼レフのデジタルカメラが握られている。ボディに刻印されたメーカーのロゴはCanon。相当使い込まれた様子で、部の備品ではなく、彼女個人の私物ではないかと思われた。

 

 一夏をはじめ、一年一組の生徒たちは見知らぬ顔の登場に困惑の表情を浮かべた。ただ一人、鬼頭だけが、「おや、黛さん」と、声をかける。

 

「こんばんはです、鬼頭さん」

 

「ええ、こんばんは。ははあ、黛さんは、新聞部の方でしたか」

 

 鬼頭は麦茶の入ったコップをテーブルに置き、左腕の腕章を、しげしげ、と眺めた。

 

「察するに、パーティーの噂を聞きつけて、これは噂の新入生たちに取材をする絶好のチャンスと、駆けつけた次第かな?」

 

「さすがMIT首席卒、抜群の推理力ですね」

 

 二年生で整備科クラスに籍を置く黛薫子は気さくに笑いかけた。彼女が鬼頭と顔を合わせるのは、これで三度目だ。一度目は彼がはじめてISを動かしてしまったあの日。二度目は打鉄のフォーマット作業を手伝ってくれた日のことだ。

 

「というわけで、話題のお二人に特別インタビューをしに来ました。じゃあ、まずは織斑一夏君から」

 

 薫子は上座の一夏のもとへと移動した。名前を名乗り、自作の名刺を手渡す。新聞部副部長の肩書きの隣に並んだ三文字の漢字を見て、彼は、名前を書くときが大変そうだなあ、と感想を抱いた。

 

「それじゃあまずは簡単な質問から。とりあえず、中学校時代のこととかから、聞いてみたいんだけど、いいかな?」

 

「え、ええ」

 

 頷くと、ボイスレコーダーを、ずずい、と突き出された。あまり乗り気ではない一夏だったが、周りの生徒たちの、わたしたちも聞きたいなあ、という期待の眼差しによる圧力にさらされ、首肯せざるをえなかった。

 

 宣言通り、薫子の質問は一夏の中学時代の記憶を掘り起こすことから始まった。どんな学校だったのか。どんな学生生活を送っていたのか。部活はやっていたのか。どんな友人と付き合いがあったのか。恋人はいたのか……。いなかったです、と応じたとき、視界の端で箒が安堵の表情を浮かべたように見えたが、はて、あれは何だったのだろう? 訝かしむ一夏に、薫子は「じゃあ本題」と、語調を強めた。

 

「ではずばり織斑君! クラス代表になった感想をどうぞ!」

 

 なるほど、本命の質問はこれだったか。一夏は何か気の利いた台詞でも、と考え込むが、何も思い浮かばず、結局、無難な答えを口にする。

 

「まあ、なんというか、がんばります」

 

「う~ん。もうちょっと、頑張ってコメントしてよ~。俺に触ると火傷するぜ? とかさ~」

 

「……えらく前時代的な台詞ですね」

 

 そういう感じでいいのか。それならば、と彼は昔、テレビの記録映像で見た高倉健の顔を思い浮かべて言う。

 

「自分、不器用ですから」

 

「うわ、前時代的!」

 

 そっちはよくて、こっちは駄目なのか。彼女の基準がよく分からない。

 

「う~ん、もうちょい、インパクトが欲しいなあ。今度の校内新聞の見出しに使えそうな、キャッチーなやつ」

 

「そんなこと言われても……」

 

「織斑君、織斑君」

 

 ふと、椅子から立ち上がった陽子が彼に向けて紙飛行機を投げ飛ばした。受け取った一夏は、訝しげに彼女を見る。

 

「えっと、鬼頭さん?」

 

「カンペ。よかったら使って」

 

「え、あ、ああ!」

 

 ありがたい。一夏は紙飛行機を丁寧に開いていった。なるほど、たしかにボールペンで文章が殴り書きされている。誰か、歴史上の偉人の名言だろうか。やけに胸を打つ言葉だ。口に出して呟きたい衝動にかられてしまう。

 

「……父さん、母さん、ごめん。俺は……行くよ!」

 

「それ、ガンダムの台詞じゃん」

 

 不思議と熱を帯びた口調の一夏に、薫子は思わず突っ込んだ。有名なアニメ作品の台詞ではないか。その作品を代表する、いわゆる名台詞の類いで、たしかに、秀逸なコピーではある。見出しに採用すれば、インパクトは絶大だろう。しかし、元ネタを知っている者の目にとまれば、一夏の人格が誤解されかねない危険をも孕んでしまう。さすがに採用ははばかられた。……っていうか織斑君、ものまね上手いな。あの作品の主人公そっくりじゃないの。

 

「……ううん、仕方ない。見出し文はこっちでなんとか考えてみるわね」

 

 一瞬、捏造という言葉が思い浮かんだが、さすがに我慢した。

 

 いまこの空間には、とある週刊誌の捏造記事によって苦しむ親子がいる。

 

 新聞部の部員として、面白い記事を書きたいとは思うが、自分の書いた文章が原因で、一夏を彼らのような立場に追い込むわけにはいかない、と自制した。

 

 手持ちの情報のみをもって、なんとか紙面を完成させよう。

 

 薫子は次いで鬼頭の方を見た。

 

 世界でたった二人しかいない、ISを動かすことの出来る男の一人は、隣に座る愛娘に、「こ、これなら糖質量も少ないし、父さんが食べたっていいんじゃないかな?」と、醤油味のせんべいが入ったビニール袋の裏面の成分表を見せていた。

 

 陽子は、炭水化物の項目を見て、「う~ん、まあ、たしかに、これくらいなら……」と、頷きかけたが、隣に座るセシリアが、「陽子さん、騙されてはいけません。その成分表の表記をよく見てください。一袋あたり、と書いてあります。百グラム換算だと、そのおせんべいの糖質量は八十グラムもありますわ!」と、MIT首席卒業者ならではの、高度な交渉術を台無しにする真実を告げた。

 

「お父さん、やっぱり、それ駄目」

 

 がっくり肩を落とす鬼頭に、薫子は苦笑しながら話しかけた。

 

「ええと、鬼頭さん、新聞部のインタビュー、いいですか?」

 

「黛さん。織斑君へのインタビューは終わったみたいですね。ええ、構いませんよ」

 

 陽子が立ち上がり、自分の座っていた椅子を薫子にすすめた。「ありがとうね」と、後輩の少女に礼を言って腰を下ろすと、ボイスレコーダーのスイッチを入れる。デジタルカメラも録画モードに切り替えて、鬼頭のバストアップがよく映るよう角度と位置を調整した上で、テーブルに置いた。

 

「それじゃあ、改めてご挨拶から。新聞部副部長の黛薫子です。今日はよろしくお願いします」

 

「鬼頭智之です。こちらこそ、よろしく」

 

「では早速。鬼頭さんの経歴についてですが……」

 

 この男については、ある面では一夏以上に、日本政府による情報統制や報道規制が徹底されている。民主主義国家においては、本来ならばあってはならない事態だが、男性操縦者という存在が世界に及ぼす影響力を考えると、その必要性も十分理解出来る。

 

 日本政府を刺激しないぎりぎりのラインの情報を聞き出す。薫子は舌先で慎重に言葉を選びながら訊ねた。

 

「まず、鬼頭さんは名古屋のご出身なんですよね?」

 

「ええ。生まれも育ちも、生粋の名古屋人ですよ。……そもそも鬼頭という名字は、愛知県に多いんです」

 

 古来より、愛知県は交通の要所であったため、人の移動が多かった。そのため、愛知県にのみ集中している名字というのは意外に少なく、鬼頭姓はそうした例外の一つだ。なんと、全国の三分の二が愛知県在住な上に、その半分が名古屋に集中している。一族のルーツは、源平合戦の時代に猛将とうたわれた鎮西八郎為朝の妾の子……尾頭次郎義次にあり、彼が紀州の鬼賊退治の勅命を受けた際、手柄に対する恩賞として、鬼頭の姓を賜わったとされる。

 

「小中高とすべて名古屋の学校に通っていました」

 

 さすがに校名までは口にしない。日本政府の意向もあるが、鬼頭としても、自分のことで出身校の関係者に迷惑をかけたくはなかった。ただ、大学については別だ。MITを主席で卒業した、という情報は、週刊ゲンダイの紹介によって、人口に広く膾炙してしまった。

 

「高校を卒業した後は、アメリカのMITに留学しました」

 

「工学系の大学の最高峰ですよね。どうして、アメリカに?」

 

 工学系の大学なら日本にだってたくさんある。なぜ、わざわざ渡米という道を選んだのか。十代の女子にとって、進路の問題は深刻だ。新聞部の部員という立場は勿論だが、再来年の今頃にはこの学園を卒業している生徒の一人として、先達者の考えを聞いておきたかった。

 

「それは私の子どもの頃の夢に関係しますね」

 

「夢?」

 

「はい。私はね、子どもの頃、時計職人になりたかったんですよ」

 

 言葉の応酬を重ねるごとに、みなの目線が、二人に集中していく。週刊誌に書かれた内容を信じている者たちでさえ、男性操縦者の過去には興味津々な様子だった。

 

「私の祖父は、時計職人でした。父は技師の道こそ歩みませんでしたが、ディーラーとして時計業界で働いていました。そんな二人の背中を見て育った私は、自分も将来は、時計を扱う世界で生きていきたい、と漠然と考えていました。ところが、時計産業へ進むことは、その二人から猛反対されてしまいましてね」

 

「ええと、それは何ででしょう?」

 

「当時、祖父と父は、時計産業の未来について悲観していました。若い皆さんには馴染みのない言葉だとは思いますが、二人が生きた時代には、クォーツ・ショックという、時計業界にとっての大事件がありましてね。その影響と、あとは携帯電話などのデジタル機器がどんどん発達していくのを見て、いずれ誰も時計を身につけなくなるんじゃないか、と不安にかられてしまったんです。『……趣味として時計をやる分にはいいだろう。だが、仕事にするのは反対する。智之、お前にはおじいちゃん譲りの手先の器用さがある。その才能を、もっと別な分野で活かしてみてはどうかな?』なんてことを言われましたよ」

 

 結果を述べると、時計産業の未来は、明るいとは言いがたかったが、二人が予想したほど暗いものにもならなかった。クォーツ・ショックの後も、機械式時計は工芸品・芸術品としての地位を確立し、携帯電話が普及した後も、ステータス・シンボルとして時計を愛する者は多かった。

 

「時計業界への憧れを捨てた後、私は途方にくれました。この手先の器用さを活かせる分野はないか、様々な業界に目を向けましたが、どれも時計ほど私の心を熱くさせてはくれない。さて、どうしたものか、と悩んでいるうちに、高校卒業後の進路を選ばねばならない時期が来てしまい……、私は悩んだ末に、MITへの留学を決めました。

 

 黛さんのおっしゃる通り、あそこは工学系大学の最高峰です。もの作りの道には進みたいな、とは漠然と考えていたので、どんな職業に就いてもいいように、と最高の知識と技術を習得したいと考え、MITを選びました」

 

「な、なんかすごい話ですね……」

 

 MITに入りたい。MITでなければ駄目なんだ! そういった強い意志を胸に抱いて門を叩く受験生が大半を占める中で、鬼頭のような考えから、世界最高峰の大学の入学試験に挑む者は少数派だろう。それでいて、並み居るライバルたちを蹴落として無事に入学、果ては首席卒業という偉業を達成しているのだからすさまじい。感心するよりも、呆れの気持ちが勝ってしまうほどの成果だ。

 

「卒業後に、日本のロボット・メーカーを選んだのはなぜなんですか? MITの首席卒業者ともなれば、アメリカ中の企業から、引っ張りだこだったと思うんですけど」

 

「……そうですね。G.M.やフォード、ボーイングやレイセオンといった、アメリカの名だたる企業からオファーがありました」

 

 しかし、と鬼頭はかぶりを振った。

 

「すべて、断りました。理由は二つあります」

 

 鬼頭は右手の人差し指と中指を立てた。薬指を飾る金色の指輪が、きらり、と光る。

 

「一つは、卒業時点ではもう、私も新たな夢、やりたいことを見つけていたためです」

 

「夢? よかったら、教えていただいても?」

 

「災害救助用のパワードスーツの開発です」

 

 鬼頭は力強い語調で言い放った。

 

「大学三年生のときのことです。九月十一日に起こったあの悲劇を、私は、あの国で体験したんです」

 

 九・一一同時多発テロ。世界が変ってしまったあの日。

 

 世界貿易センタービルのあったニューヨークから、僅か三百キロメートルしか離れていない、マサチューセッツのぼろアパートで、テレビを通して、彼は目撃した。

 

「……テレビの画面には、世界で最も勇敢な男たちの姿が映っていました。自らの危険を顧みず、一人でも多くを、と懸命に救助活動を続ける消防士や、警官たちの姿です。私は彼らの勇姿を見て感動しました。彼らの手助けをしたいと思いました。そのための、災害救助用パワードスーツです」

 

「それって……EOSのような?」

 

「EOS?」

 

 薫子の言葉に、遠巻きに眺めていた一夏が首をかしげた。

 

 それを見て、セシリアが「国連が開発中のパワードスーツのことですわ」と、説明する。

 

「外骨格攻性機動装甲Extended Operation Seeker 。これを略して、EOS(イオス)と呼ばれています。このIS学園から発信された、IS研究のデータを基に、ISコアに頼らないパワードスーツとして、開発が進められています」

 

「ざっくり説明すると、ISの劣化コピー品だね」

 

 一夏の隣に立つ女子生徒が補足した。週刊ゲンダイに掲載された内容を鵜呑みにし、鬼頭のことを嫌っている生徒の一人だ。もともと女尊男卑の傾向があり、ISコアを持たない……すなわち、男女の別なく使えるEOSのことを、馬鹿にするような口調だった。

 

「EOSとは、少し違いますね」

 

 鬼頭は苦笑しながらかぶりを振った。EOSのことは鬼頭もよく知っている。いつか自分たちの作ったパワードスーツを世界中に普及させてみせる! という大いなる野望を胸に秘める彼だ。ISやEOSに限らず、世界のパワードスーツ開発の動向には常に目を光らせていた。

 

「EOSはIS登場以降に作られた概念です。ですから、技術的にも、見た目的にも、ISとの共通点が多い。私の作ろうとしているパワードスーツは、ISが生まれる、二十年以上も前の考え方の産物です。見た目も、ベースになっている技術も大きく異なります。……もっとも、ベースの技術が古いからといって、EOSのごとき、誕生して僅か数年ぽっちの若造機械に劣っているつもりはありませんが」

 

 好戦的に笑ってみせると、目の前で薫子は息を呑んだ。

 

 挑戦的な言葉に篭められた、自分たちの技術に対する絶対の自信を感じ取る。自身もまた整備科に進み、技術者としての道を歩もうとしている少女は、その顔にしばしの間見惚れてしまった。

 

「もう一つの理由は」

 

「あ、はい」

 

「ISやEOSにも、少し関係します。パワードスーツの技術はその性質上、軍事転用されやすい。私が作りたいのは、あくまでも災害救助用のレスキュー・スーツです。戦争のためのバトル・アーマーではない。当時、私たちに声をかけてきた企業は、そのほとんどが、軍需産業とつながりを持っていました。ボーイングやレイセオンなどは、それこそ露骨に、軍用のパワードスーツを作る気はないか? と声をかけてきました。私は自分たちの技術が、軍事目的で使われることを嫌ったのです」

 

「なるほど。だから、日本に」

 

「はい」

 

 鬼頭は首肯した。

 

「日本にも勿論、防衛産業はあります。三菱グループが、その代表格でしょう。しかし、彼らはアメリカの企業ほど、軍需の分野には熱心ではない。日本では防衛産業は儲かりませんからね。しかも、あの当時はまだ“防衛装備移転三原則”がありませんでした。軍事の分野に積極的な投資をする企業はほとんどなく、だからこそ、私にとっては都合がよかった。設備や予算ではアメリカの企業に劣るでしょう。しかし、日本の企業でなければ、屈託を抱えながら仕事をすることになる。私は帰国し、日本で職を探すことにしたのです」

 

「なるほど。そして、いまの会社に入ったわけですね?」

 

「はい」

 

「会社では、やはりパワードスーツの研究を?」

 

「いまはそうですが……会社の社長の方針でね。入社してからしばらくの間は、色々な部署でこき使われましたよ」

 

 入社当初、当時の社長であり、現在の会長でもある桐野秋雄は、鬼頭と桜坂に、「まずは立ち止まって、社会のことを勉強しなさい。夢に向かって走り出すのは、それからだ」と、言った。

 

 桐野社長は二人を様々な部署で働かせた。介護部門に始まり、食品部門、医療部門、重作業部門……と、三年ごとに次々転属させた。当初はなんでこんな回り道をさせるのか、と、社長のことを恨んだが、いま振り返ってみると、二十年近い寄り道の日々は、得がたい経験をさせてもらったと感謝している。

 

 おかげ様々なことを学ぶことが出来た。

 

 知識や技術だけでなく、社会人としての能力や品格を磨かせてもらった。

 

 なによりありがたかったのが、配属された各部署で、太い人脈を作らせてもらったことだ。現在、自分が籍を置くパワードスーツ開発室のスタッフたちは、桐野美久を除いては全員、鬼頭たちが過去に所属したことのある部署から引き抜いた人材だ。彼らは既知の間柄にある鬼頭らからの協力要請に、快く応じてくれた。また、社内の人間だけでなく、社外の人たちともつながりを持つことが出来た。XIシリーズの開発が順調なのも、彼らが高品質な部品を可能な限り安く供給してくれるおかげだ。

 

 若さと勢いに任せて突っ走っていたならば、いまほど上手くはやれなかっただろう。

 

「入社してからはじめて作ったのは、介護用のベッドでした」

 

「ベッド、ですか?」

 

「ええ。ただし、寝ている人間のバイタル・チェック機能と、起き上がり電動補助機能を管理するロボットを搭載したベッドです」

 

「なるほど。ちなみにそれは売れたんですか?」

 

「最終的にはそこそこ。しかし、売り始めた当初はまったく」

 

「それは、なんでだったんでしょう?」

 

「私たちの思慮が足らなかったんですよ」

 

 鬼頭はほろ苦い笑みとともに、過去の蹉跌を語った。

 

「ベッドは私と、同期入社した友人の二人で完成させました。ロボットの性能は勿論、リクライニング機能を支えるモーターの数や品質、マットレスの寝心地にもこだわり、それでいて価格は競合他社の主力製品と十分渡り合える値段を実現してみせました。これは売れる! と二人してハイになっていたところ、社長から、『せっかくだからお前たちが売ってみろ。技術者は普段、エンドユーザーと触れ合う機会を得にくい。そのせいか一人よがりなもの作りをしがちだ』と、言われましてね。じゃあ、どうしようか、と二人して悩んで、まずは介護施設に売り込もう、と商品の説明会を開いたんです」

 

 平成十二年より介護保険制度が始まって以来、福祉介護施設は急激にその数を増していった。

 

 鬼頭たちが介護用ベッドを売り出し始めた当時は、制度を導入してすでに三年が経ち、入居希望者が殺到する施設と、そうでない施設との差……すなわち、サービスの質の差が顕在化し始めていた。鬼頭たちは彼ら背中を追う者、前をひた走る者、双方に需要があると睨んだ。

 

 ところが、説明会にやって来た彼らの反応は芳しくなかった。鬼頭たちは自分たちの作ったベッドの機能性や価格の安さを必死にアピールしたが、

 

『自分たち介護士は医者ではない。国の定めたルール上、入居者に対して医療行為をするのは禁じられている。だから、どんなに優れたバイタル・チェック機能を搭載していたとしても、自分たちでは使いこなせない』

 

『他の会社のベッドと比べてもかなり安いが、その安さの理由はなんだ? 価格がどんなに魅力的でも、品質に問題があっては困る』

 

などの意見が相次いだ。

 

 鬼頭たちは一旦、介護施設への売り込みを諦めた。一般家庭で使ってもらうべく、家具小売の会社を数軒回り、十軒目でようやく店に置いてもらえることになった。名古屋市の東に隣接する尾張旭市にある、大型の複合商業施設の中のテナント店だ。ディベロッパーの責任者曰く、休日には一日あたり五千人が来店するという。これは多くの人の目につくぞ、と鬼頭たちは期待した。しかし、一ヶ月経っても、二ヶ月経っても、一向に売れる気配がない。

 

 これはおかしい、と現場の店で聞き取り調査を行った鬼頭たちは、そこで客たちの声を聞いて愕然とした。彼らは鬼頭たちの作った介護ベッドを指差して、一様に「大きすぎる」と、不満を口にした。二人にとって、まったく予想外の意見だった。

 

 たしかに、 鬼頭たちの介護ベッドはロボットを搭載したことにより、他社の電動式介護用ベッドよりも大きく、重かった。飾らない言い方をすると、国土の狭い日本の住宅事情をまったく無視した、無神経な大きさをしていた。おまけに、ロボットを搭載したせいで電力の消費量も多い。導入コストは安くても、維持コストが高くつくと嫌がられていた。

 

 そして、そうした数々の不満点を承知の上で買ってくれた僅かなお客様からも、後にクレームがよせられた。曰く、『バイタル・チェック機能のセンサーが過敏すぎて、ちょっと咳き込んだだけでも異常検知アラームが鳴ってしまう。これじゃおちおち寝られない』とのこと。よかれと思って取り付けたセンサーの感度が、ユーザーにとってはむしろ、ありがた迷惑となってしまっていたのだ。モーターの力が強すぎて、リクライニング時の振動が酷い、という意見もあった。

 

 鬼頭たちはすぐに店の在庫を買い取った。家具屋の店主に対しては、桜坂と二人、肩を並んで深々と腰を折った。申し訳ありませんでした。お店の貴重なスペースを、自分たちの作ったベッドのために、二ヶ月も腐らせてしまいました。たいへんなご迷惑をおかけしてしまい……。

 

 二人はそこで言葉をつまらせた。泣き出したい気持ちを、ぐっ、と堪え、申し訳なさと悔しさ、そして雪辱に燃える眼差しを店主に向けて言い放った。

 

 恥を承知でお願いします。どうか我々に、もう一度チャンスをください。二週間で、今度こそユーザーの心を掴む商品を開発してみせます。

 

 家具屋の店主は苦笑しながら、「落ち着け。一ヶ月でいい」と、応じた。二人は地面に額をこすりつける勢いで、いっそう頭を垂れた。

 

 買い取ったベッドを会社に持ち帰った二人は、早速、改良を施した。まずとりかかったのはダウン・サイジングだ。彼らは競合他社の製品を参考にすることは勿論、住宅情報誌を何十冊と買い込んで、日本の住宅事情の把握に努めた。その結果、一般家庭やアパート暮らしでも使いやすいサイズを発見することが出来た。

 

 次いで取り組んだのは、診断ロボットの機能の見直しだ。侃々諤々の議論の末、彼らはロボットのバイタル・チェック機能にリミッターをかけることにした。一般家庭用、介護施設用、医療機関用とリミッターにより機能を制限することで、ユーザーごとの使いやすさの向上を目指した。彼らはさらに、診断ロボットに、リクライニング時のモーターの駆動を制御するプログラムを組み込んだ。マットレスの裏側に、体重の分散具合を感知するためのセンサーを仕込み、寝転んでいる人間の体格に応じた、無駄のない動きを、モーターに可能とさせた。これにより、体重六八キログラムの鬼頭が横になった場合も、体重八十キログラムの桜坂が寝転んだ場合でも、変わらぬシームレスな駆動を実現した。

 

 二人は三週間後に家具屋を訪ねた。これ以上は迷惑をかけられない、とディスプレイ用のベッド一台のみの納品で、配送用のトラックのハンドルは、鬼頭たち自らが握った。荷台から下ろす際も、桜坂と二人、慎重に行った。店内のディスプレイスペースに運び入れた二人は、開店後、そのかたわらで声を張り上げ、自分たちの商品を宣伝した。介護用ベッドという特殊な仕様の製品の前で足を止めてくれる人はなかなか現われなかった。

 

 開店二時間後、車椅子に乗った初老の男性が、二人のベッドの側にやって来た。彼の顔を見て、鬼頭たちは、はっ、とした。三週間前に聞き取り調査を行った際、『大きすぎる』との意見を口にした一人だった。

 

 彼は車椅子に乗っている自分の目線の高さまで屈んだ鬼頭たちに、「試していいかい?」と、訊ねた。二人は勿論、快く応じた。彼は車椅子から静かに立ち上がった。完全に歩けないというわけではないらしいが、その歩みはよろよろとしていて、危なっかしい。慌てて、二人が左右からフォローした。初老の男性は、リクライニング機能で起立した状態のベッドにまず腰かけた。ゆっくりと体を動かし、両足のつま先を、フットボード側へと向けた。ベッド柵に取り付けられた、リクライニング機能の制御スイッチを操作する。ベッドは静かに、沈んでいった。百八十度水平状態のベッドに横たわりながら、男性は、「ああ、気持ちいいなあ」と、鬼頭たちに笑いかけた。二人はその場で落涙した。若き日の天才たちの男泣きだった。

 

「……あのときは嬉しかったなあ」

 

 昔を懐かしみながら、鬼頭は完爾と微笑んだ。優しい面差しに、正面に座る薫子だけでなく、インタビューの様子を眺めるみなが、思わず見惚れてしまった。

 

「自分たちの作った製品で……自分たちの技術で、誰かを笑顔にすることが出来た。自分たちの選んだ道は、間違ってはいなかった、と確信したよ」

 

「素敵な、お話しですね」

 

 薫子は噛みしめるように呟いた。鬼頭の笑顔を眺め、いつか自分も、まだ見ぬ誰かを笑顔にさせられたらな、と思った。

 

「仕事のことは、これくらいにしておきましょう。続いて、鬼頭さんのプライベートについてですが」

 

「こんな四十過ぎのおじさんのプライベートに、需要はあるんでしょうか?」

 

「それは読者が決めることなので。……さて、鬼頭さんの私生活を語るうえで、まずはずせないのはお嬢様……陽子さんのことだと思いますが、あなたにとって、娘さんはどういう存在なんですか? 一言では表せないと思いますが」

 

「宝物です」

 

 鬼頭は一言で表現した。かたわらの陽子が、羞恥から顔を赤くする。セシリアがにやにや笑いながら見ていることに気づき、「み、見んでくだせえ」と、両手で顔を覆った。

 

「それ以外には考えられません」

 

 言葉を重ねた後、鬼頭は、おや、と訝しげに目を細めた。

 

 上座に座る一夏が、自分のことを羨ましそうに見つめている。はて、いまの発言にそんな要素があったか。

 

 どうしたのか、と声をかけようとするも、「親子仲が良いって、微笑ましいですね」と、薫子に話しかけられ、口をつぐむ。

 

「じゃあ、他に趣味とかはあります?」

 

「まず時計ですね。職人の夢こそ諦めましたが、いまでも趣味として、時計はよくいじるんです」

 

「なるほど。ちなみに、いま腕にはめているのは……」

 

「ボーム&メルシェのボーマティックという時計です。いわゆる、スイス時計ですね」

 

 鬼頭は左手首の相棒のケースを指で、トントン、と軽く叩いた。

 

 一八三〇年に創業開始。確かな品質と独創的な意匠が人気のブランドで、時計業界のトレンドセッターともいえる存在だ。ボーマティックは二〇一八年に誕生したばかりの比較的若いモデルで、同社初の自社開発のムーブメントを搭載している。時計の名と同様、ボーマティックと名づけられたこの機械式自動巻きキャリバーは、パワーリザーブが通常の時計の三倍近い一二〇時間もあり、対磁性などの耐久面にも秀でていた。勿論、時計にとって最も大切な計時の制度は折り紙付きだ。

 

「良い時計ですよ。造りがしっかりしているわりに、機械式の時計としては比較的価格が抑えめで、なにより見た目がエレガントだ。機械式時計の入門用には、おすすめの一本です」

 

「ははあ……ちなみに、おいくらくらい?」

 

「税抜きで三十万円ちょっと」

 

「……なるほど。……時計好きの基準で安いとか言わないでください!」

 

「そんなに高いかしら?」

 

 貴族の娘で、資産家の両親の間に生まれたセシリアが、ぼそっ、と呟いた。隣に立つ陽子が、驚いた表情でその横顔を見つめる。そういえばこの女、イギリス政府が鬼頭にジャガーXJを与えるつもりでいる、と知っても、さして驚いていなかった。金持ちの金銭感覚は恐ろしいな、と彼女は戦慄した。

 

「他には、何かないですか?」

 

「他の趣味だと……やはり、車ですね」

 

「ああ」

 

 薫子は得心した様子で頷いた。

 

「男の人って、クルマ好き、多いですよね」

 

「乗るのも見るのも大好きですよ。ここに来る以前は、休日はレンタカー屋に行って、色々な種類の車を乗り比べていました」

 

「私たちで言うと、休日の度に、打鉄とか、ラファールとか、テンペスタを乗り比べるようなものですか」

 

 なんて贅沢で羨ましい日々だろうか、と薫子は口の中で呟いた。

 

 その後いくつかの質疑応答を経て、薫子はボイスレコーダーの残り容量を気にしながら、「最後に……」と、口を開いた。

 

「最後に、これからの学生生活に向けた、何か意気込みのようなものを頂戴出来ますか?」

 

「ふむ。さっきの、織斑君のような?」

 

「はい。あ、でも、織斑君みたいに、高倉健はやめてくださいね。いまの若い子は、『自分、不器用ですから』とか言われても、どう反応していいか戸惑っちゃうんで」

 

 上座に座る一夏が、なにやらショックを受けている様子が見えた。

 

 鬼頭は少し考え込んだ後、静かに両手を合わせた。瞑目する。

 

 いきなり何を、と怪訝な表情の薫子に、鬼頭は瞼を閉ざしたまま言った。

 

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」

 

「もっと古い!」

 

 有名な戦国武将、山中幸盛の発言だ。高倉健よりも、四百年以上古い。

 

 薫子が思わず突っ込み、鬼頭は、からから、と笑ってみせた。

 

 

 

 インタビューが終わった後、鬼頭は陽子たちに、「黛さんを二年生の寮まで送ってくるよ」と言って、パーティーを中座するべく席を立った。

 

 彼のこの発言に、陽子たちは訝しげな表情を浮かべた。たしかに、IS学園の学生寮は、学年ごとに建物が別れている。とはいえ、一年生の寮と、二年生の寮との間にある距離の隔たりは、ほんの百数十メートル。のんびり歩いたとしても、二、三分しか要さない。加えてここは、IS学園だ。世界で最も厳重な警備態勢が整備されている施設といえる。暗い夜道を送っていく必要など、ないのではないか。しかし、鬼頭はかぶりを振って、

 

「こういうのは、大人のエチケットってやつだ。若いお嬢さんに何かあっては困る」

 

と、譲らなかった。

 

 なにより、鬼頭の申し出を、薫子自身が受け入れた。

 

「じゃあ、よろしくお願いしますね」

 

 一年生たちの不思議そうな眼差しを背中に浴びながら、二人は食堂を後にした。

 

 寮のエントランスを抜け、外に出る。二人並んで歩き出すこと十数歩、周囲に誰もいないことを認めた鬼頭は、ふと隣を歩く薫子に話しかけた。

 

「今日はありがとうございました」

 

 この場に陽子たちがいたならば、先の発言と合わせて、ますます首を傾げただろう。

 

 今日の取材は、薫子の求めに鬼頭が応じる形で始まった。お願いを聞き入れてくれたことに対する感謝は、むしろ新聞部に籍を置く彼女が口にするべきもののはずだが。

 

「さっすがMITの首席」

 

 街路灯が薄らと道を照らす暗がりの中、薫子は照れくさそうに微笑んだ。

 

「私の考えなんて、お見通しでしたか」

 

「織斑君に対するインタビューと、私に対するインタビューとでは、方向性が明らかに違いましたから」

 

 クラス代表に就任しているか否かの違いはあろうが、それにしたって、自分に接するときと、一夏に接するときの態度が違いすぎていた。

 

 学内新聞という媒体の性質上、いま記事にするべきは、クラス代表対抗戦を来週末に控える一夏の方だろう。試合に出ない自分のインタビュー記事など、添え物程度の扱いでよいはずだ。それなのに、聞き取り取材に費やした時間は、自分に対しての方が明らかに長かった。質問の内容も多岐にわたり、鬼頭の内面を鮮明に暴き出そうとする企図が察せられる。新聞というよりは、雑誌の取材を受けている気分だった。これらの不審点にさえ気づいてしまえば、あとの推理は容易い。

 

「気を遣わせてしまいましたね。学内新聞の記事を使って、生徒の皆さんの私に対するイメージを、変えようとしてくれているのでしょう?」

 

「学園の外でのことについては、私にはどうすることも出来ませんから」

 

 薫子は硬い表情で言った。

 

「例の雑誌編集部に対する訴訟とか。でも、学園の中でのことについては、私にも協力出来ることがあるんじゃないか、って思ったんです」

 

 おそらくだが、みんな、鬼頭智之という人物のことをよく知らないから、週刊誌の記事などという、信憑性不確かなものを信じてしまったのだ、と薫子は考えていた。これについては、日本政府による情報統制が裏目に出てしまったといえよう。

 

 織斑一夏の存在が最初に発見されたとき、日本政府は情伝播報のコントロールに失敗した。すべてのアクションが後手に回った結果、彼の存在は世界中に知れ渡り、大きな衝撃と混乱をもたらした。この前例への反省から、鬼頭が見つかったときの反応は素早かったが、今度は彼にまつわる情報を出し渋りすぎ、ために、みなの心に週刊誌発信の情報を信じる余地を残してしまった。

 

 政治力による情報の管理は、諸刃の剣だ。上手くこなせれば国民の混乱を最小限にとどめられる一方、やり方を誤ると、いっそう大きな混乱と、時の政権に対する不信感を、大衆の心理に植えつけてしまう。

 

 たとえば、第二次世界大戦ではこんなことがあった。

 

 一九四一年の五月にドイツ海軍が発動した、ライン演習作戦のときの出来事だ。

 

 第二次世界大戦前夜、ドイツ海軍は世界中に植民地を持つ大英帝国海軍の艦隊の規模と質には、どう頑張っても追いつけないと悟っていた。彼らは開戦の以前から、英海軍とは正面からの艦隊決戦を避け、通商破壊作戦を主軸とした戦略を練り、準備を進めてきた。

 

 ライン演習作戦は、そんな通商破壊作戦の一環だ。欧州最大の巨大戦艦〈ビスマルク〉と重巡洋艦〈プリンツ・オイゲン〉、そして巡洋戦艦〈グライゼナウ〉の三隻を主力とする艦隊をもって北大西洋へ進出し、イギリス本国への輸送船団を攻撃しようという計画だった。もっとも、〈グライゼナウ〉は作戦の発動前にイギリス空軍の雷爆撃を受け、復帰は間に合わなかったが。

 

 中立国スウェーデンの情報機関よりもたらされた急報により、ライン演習作戦のことを知ったイギリス海軍の動揺は凄まじかった。敵はヨーロッパ最強の戦艦〈ビスマルク〉。これを迎え撃つべく、彼らは六隻の戦艦と二隻の空母、五隻の重巡洋艦を含む、合計四七隻の大部隊を投入することにした。

 

 五月二四日、英海軍の巡洋戦艦〈フッド〉と戦艦〈プリンス・オブ・ウェールズ〉、他に駆逐艦四隻からなる合計六隻の部隊が、〈ビスマルク〉と、〈プリンツ・オイゲン〉を補足した。先手を取ったのはイギリス海軍で、当初は、先頭をゆく〈プリンツ・オイゲン〉を〈ビスマルク〉と誤認して、砲撃を集中させた。ところが、戦闘が始まって僅かに八分後、〈ビスマルク〉の放った砲弾が、〈フッド〉の非装甲部分に直撃貫通、火薬庫に引火するという、考えうる限り最悪の事態が発生した。〈フッド〉は一六〇〇名の乗員もろとも水底へと沈んでいった。救出できた乗員は、僅かに三名。

 

 僚艦を撃沈された〈プリンス・オブ・ウェールズ〉は、怒りに燃えた。彼女は〈フッド〉の轟沈後も砲撃戦を続けたが、反撃の砲弾が彼女の艦橋に命中すると、間もなく戦意を喪失した。このとき、〈プリンス・オブ・ウェールズ〉の司令部では、艦長と一人の候補生を除いて全員が死亡という状態だった。〈プリンス・オブ・ウェールズ〉は戦場からの離脱を開始し、ドイツ側もそれを見送った。

 

 後に〈ビスマルク〉は、五月二七日に戦艦〈キング・ジョージ五世〉と〈ロドネイ〉、重巡洋艦〈ノーフォーク〉と〈ドーセットシャー〉からの総攻撃を受けて撃沈される。しかし、この五月二四日の戦闘に限っていえば、英海軍は戦艦一隻を喪失、〈プリンス・オブ・ウェールズも中破、対するドイツ側は〈ビスマルク〉が小破、〈プリンツ・オイゲン〉はほとんど無傷と、勝敗は誰の目にも明らかな結果となった。

 

 ところが、イギリス政府はこの五月二四日の海戦の結果について、次のように公表してしまう。彼らは、〈フッド〉の沈没を認めた上で、

 

『プリンス・オブ・ウェールズの損害は軽微。逆に、ドイツ戦艦は大量の煙を噴き、速力も大幅に落ちている。これらの結果から、重大な損傷を受けているものと思われる』

 

と、国民や海軍に説明した。

 

 勿論、海戦の結果は先述の通り、まったく異なっている。イギリス政府は国民にショックを与えないように、と嘘の発表をしたのだ。

 

 結果的に、この説明は悪手だった。イギリス海軍のかなりの将兵、そして国民が、この発表を受けて、〈プリンス・オブ・ウェールズ〉とその乗員に対し、非難を始めたのだ。

 

『僚艦〈フッド〉の沈没を目の当たりにしながら、なぜ重大な損傷を受けたドイツ戦艦に対し、攻撃を続けなかったのか。報道によれば、〈プリンス・オブ・ウェールズ〉の損傷は軽微ですんでいるはず。それならばなぜ、戦場にとどまり、〈フッド〉の仇を討とうとしなかったのか!?』

 

 イギリス政府と海軍は、〈フッド〉の沈没以上に、この状況に頭を抱えた。将兵や国民を動揺させないように、という配慮からの説明が、かえって国内の混乱を招いてしまったのだ。

 

 鬼頭智之について、日本政府は世間に対し、誤解を与えない程度の情報は公開するべきだった、と薫子は考えている。せめて、陽子との良好な親子関係を匂わせるくらいの発表はするべきだった。そうしていれば、週刊誌が一冊、世に出たところで、いまほどの影響力は持ちえなかっただろう。

 

 人間はその本質において保守的な生き物だ。自分の理解が及ばない存在に対しては、少なからず不審の目を向けてしまう。週刊ゲンダイの報道は、そんな心の隙を衝くものだった。だからこそ、これほどの影響力を持つにいたったのだ。

 

「だから、みんなに知ってもらおうと思ったんです。鬼頭さんがどういう人なのか。そうすれば、週刊誌の内容に疑問を持ってくれる子が、一人でも増えてくれるんじゃないか、って」

 

「ありがとうございます」

 

 鬼頭は足を止めると、深々と腰を折った。企業戦士のたしなみの一つだ。相手が二十歳以上も年下であろうと、頭を垂れることに抵抗感はない。

 

「ですが、どうしてそこまで、私たちのために?」

 

 顔を上げた鬼頭は怪訝な表情を浮かべていた。

 

 自分たち親子と、黛薫子との関係は、学園における先輩と後輩以上のものではない。強いて言えば、自分の愛機のフィッテイング作業を手伝ってくれたというくらいだが、究極、その程度の間柄でしかないのだ。それなのに、どうして彼女は、自分たち親子のためのはたらきかけをしてくれるのか。

 

「……さっきの、鬼頭さん風に答えましょうか。理由は三つあります」

 

「三つもですか?」

 

「はい」

 

 薫子は人差し指から薬指までの三本を立てた状態の右手を突き出した。

 

「一つ目の理由は、個人的な反省と贖罪のためです」

 

「反省?」

 

「はい。……実はですね、私、一年生の頃は話を盛ったり、インタビューの内容のうち、自分にとって都合の良い発言だけチョイスしたり、わりと捏造上等の精神で、紙面作りをしてきたんですよ。でも、実際に捏造記事のせいで苦しんでいる鬼頭さんたちの姿を見て、その、自分がいままで、どれだけ酷いことをしてきたのか気がつきまして」

 

 薫子は苦々しげな表情を浮かべながら呟いた。過去の自分の行いを、ひどく恥じている様子だ。

 

「……そう、でしたか」

 

 鬼頭は得心した表情で呟いた。

 

 なるほど、今回のインタビューは、自分たち親子のためであると同時に、彼女自身の心の救済のためでもあったのか。それならば、自分たちに良くしてくれるのも得心できる。

 

「幻滅しましたよね? 私も捏造記事を書いていたなんて」

 

「そうですね」

 

 消え入りそうな声に対し、鬼頭は躊躇なく首肯した。薄明かりの下でもはっきり見て取れるほど、薫子の顔色が悪くなっていく。

 

 しかし鬼頭は、かぶりをふって続けた。

 

「ですが、自らの過去の行いを恥じ、悔い改めようとしているいまの黛さんの姿は、尊敬に値するものだと思いますよ」

 

「鬼頭、さん……」

 

 薫子は鬼頭の顔を見上げた。親子ほども歳の離れている後輩は、優しい目をしていた。

 

「過去は変えられません。大切なのは、これからどうしていくか、です」

 

 起きてしまったこと、やってしまったことを、いつまでもくよくよ嘆いていても仕方がない。大切なのは、同じ過ちを繰り返さないための反省と対策を練ることだ。より良い未来を目指して、行動することだ。企業戦士として長年戦ってきた経験から、鬼頭はそう考えていた。

 

「その点、黛さんはすでに行動を始めている。とても立派だと思います」

 

「鬼頭さん……ありがとうございます」

 

 薫子は可憐に微笑んだ。鬼頭の言葉で胸のつかえが下りたか、晴れやかな表情だ。

 

「……それで、理由の二つ目ですが」

 

「はい」

 

「憶えていますか? 鬼頭さんと私が最初に会った日のこと」

 

「ええ」

 

 鬼頭はまた首肯した。薫子と出会った日とはすなわち、自分がはじめてISを動かしてしまった日でもある。

 

「忘れるわけがありません。あの日、起こった出来事は、すべて憶えていますよ」

 

「たっちゃん……更識さんとの試合を終えて、ラファールを脱ごうとした私を、鬼頭さんは本気で心配してくれましたよね」

 

 あのときの出来事は鬼頭にとって少々恥ずかしい思い出だ。当時、ISの機体表面を覆うエネルギー・フィールドの存在を知らなかった自分は、戦闘の直後でラファールの装甲が熱くなっていると思い込み、素手で触れた薫子の細腕を、乱暴に掴んで無理矢理引き剥がそうとしてしまったのだ。

 

「あのときは痛い思いをさせてしまいましたね」

 

「もう、気にしなくていいですよ。あのとき、ちゃんと謝ってもらいましたし」

 

 薫子は懐かしそうにあの日、鬼頭に捕まれた左手首を撫でさすった。

 

「あのとき、真摯に謝罪してくれた鬼頭さんの姿を見て、思ったんですよ。あ、私、この人のこと、好きだわ、って」

 

 思わぬ言葉に、鬼頭は束の間、茫然としてしまった。

 

 そんな彼の様子を見て、薫子はいたずらが成功したとばかりに、会心の笑みを浮かべた。

 

「あ、勿論、女の子として、って意味じゃないですよ。さすがにオジサンは守備範囲外なので」

 

「……ああ、よかった」

 

 鬼頭は安堵の溜め息をこぼした。恨めしげに、彼女の顔を睨む。

 

「心臓が止まるかと思いましたよ。大人をからかわないでください」

 

「すいません。でも、鬼頭さんのことが好きだ、っていうのは、本当のことですよ。

 

 ……あのとき、鬼頭さんは私が火傷をしたんじゃないか、って、とても心配してくれましたよね。誤解だって分かった後も、心からの謝罪をしてくれました。そういう態度の一つ一つを見て、思ったんです。初対面の私を相手に、なんて優しい人なんだろう。この人はきっと、私が助けを求めたら、その内容に拘らず応えてくれる。なら私も、この人に優しくしてあげたい。この人の助けになりたい、って。そう思ったんですよ」

 

「……私が優しい人間に見えたのは、黛さんご自身が、そういう人だからですよ」

 

 鬼頭は照れくさそうに笑った。

 

「私には過ぎた賛辞です」

 

「そんなことないと思うんだけどなあ」

 

「ですが、ありがとうございます」

 

 人から褒められるというのは、いくつになっても嬉しいものだ。

 

「それで、三つ目の理由は……?」

 

「はい。最後の理由は、言葉にするとしたら、見栄ですね」

 

「見栄?」

 

「はい」

 

 薫子は頷いた。諧謔混じりの口調で言う。

 

「一つ年下の後輩と、二十歳近くも年上の後輩に、先輩らしいところを、見せつけてやろうと思いまして」

 

「……なるほど」

 

 鬼頭は神妙な面持ちで頷き、そしてすぐに破顔した。

 

「そいつは、納得のいく理由だ」

 

 

 

 

 

 

 ……それは違いますよ、鬼頭さん。

 

 あの凡人社長は、あなたと桜坂さんに、二十年もつまらない寄り道をさせた、諸悪の根源じゃないですか。

 

 あなたたちの才能を見抜けなかった、愚か者じゃないですか。

 

 そんなやつに、感謝なんていりませんよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter14「猛る中年」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大阪府大阪市。

 

 北区天神橋からさほど離れていない、貸倉庫の一つ。

 

 最初に遺体を発見したのは、倉庫を所有する、四十半ばのオーナーだった。

 

 今朝方、定期点検のため倉庫に足を運んだところ、昨夕、ちゃんと施錠しておいたはずの扉の鍵が、壊されていることに気がついた。倉庫の鍵は閂式で、南京錠によってロックされる仕組みだ。いったいどんな道具を使ったのか、南京錠には傷一つついていないのに、閂の棒が真ん中でへし折れていた。

 

 オーナーの男性は慌てて扉を開けた。鍵を壊された倉庫は現在、借り手がいない物件だ。中は空っぽだが、頭のおかしいやつに荒らされてでもいたらたまらない。

 

 案の定、倉庫の中は荒れていた。下半身がばらばらに吹き飛んだ、裸の女の死体が転がっていたのだ。オーナーの男は絶句し、次いで嘔吐し、すぐに警察に電話をかけた。

 

 ただちに、大阪府警の本部から刑事課の人間が差し向けられることになった。電話で連絡をした際、オーナーは、女の死体が転がる床が黒く焼け焦げていることに気がつき、そのことも併せて伝えていた。大阪府警は爆発物が使われた可能性がある、として、テロへの警戒から、所轄の刑事課ではなく、府警本部の警官を派遣することにしたのだ。

 

 最初に駆けつけたのは機動捜査隊の警官たちだった。都道府県警の刑事部直轄の部隊で、普段は覆面パトカーによるパトロール活動を行いながら、事件発生時には真っ先に現場に急行し、初動捜査を行うセクションだ。彼らは早速現場を封鎖し、検分を開始した。

 

 初動捜査の指揮を執るのは、機動捜査隊の岡本正康警部だ。今年で三五歳になる、ベテランの警察官。大阪府警が誇る黒バイ部隊……スカイブルー隊から五年前に機動捜査隊の班長格として抜擢された逸材だ。彼が目をつけた車両は、九割の確率で違法行為をはたらく、と賞賛されるほどの観察眼の持ち主である。

 

 現場に到着するなり、彼は将棋の駒のように角張った顔をしかめてみせた。

 

 呆けた表情のまま絶命している女の目と合い、気の毒そうな溜め息をつく。

 

「これは、酷いな」

 

 長年、警察官をやっている身だ。死体を見た経験は、足の指を総動員しても数え切れない。しかし、目の前に転がる骸は、岡本が記憶しているどんな死体よりも、むごたらしい殺され方をしているといえた。

 

 女は下半身だけではなく、両手の十本の指と、両の耳もなくしていた。何か刃物のような道具を駆使して切断した後、出血を止めるために、焼かれたらしい。見るも無惨な切り口だった。

 

「殺しでしょうか?」

 

 今年、機動捜査隊に入ったばかりの若い刑事が、ハンカチで口元を押さえながら呟いた。昨年までは生活安全課に籍を置いていた人間で、死体を見ることに、まだ慣れていない。

 

「おそらくな」

 

 岡本は静かに頷いた。死体と、その周りに散乱する物、一つ一つを指差して説明する。

 

「床が焼け焦げているのに、死体に火傷の跡がほとんどない。床の焦げ跡は、炎による継続的な燃焼による結果でないことは明らかだ。何か、爆発物を使って、一瞬のうちに出来たものだろう。

 

 ……普通の人間は、自殺をするときに爆薬なんて使わない。銃刀法の厳しいこの国で、爆薬の類いを入手するのは困難だ。自殺願望を持った人間にとって、時間というのは貴重なはず。一分一秒でも早く、楽になりたいと思っているはずだ。それなのに、手段の準備にそんな手間暇をかけるなんて、ナンセンスだろう」

 

 それに、と岡本は彼女の耳と、両手を示した。

 

「これから爆薬で死のうという人間が、わざわざ両の耳や、指を切り落とすか? いや、指はまだ分かる。指が残っていると、途中で決心が鈍って、起爆装置を止めてしまうかもしれないからな。しかし、耳まで切り落とす理由はあるまい。……あとは、そうだな」

 

 岡本はその場にしゃがみこむと、死体の側に散乱する、金属や、プラスチックの破片を白い手袋越しにつまんだ。

 

「……道具が足りない」

 

「道具、ですか?」

 

「ああ。この場にはこういう、細かい破片が転がっているだけで、倉庫の閂を壊すときに使ったはずの道具が見当たらない。もし、彼女が自分の意思で、死ぬためにここにやって来たのなら、扉を開けるときに使ったペンチか何かが残っていなければおかしい」

 

「なるほど。……殺しだとすれば、犯人はいったい、どんな人物なのでしょう?」

 

「少なくとも、ガイシャに対して、相当な恨みを抱いていたんだろうな」

 

 裸の女が殺された。両手の指をすべて切り落とされ、両の耳も切り落とされ、下半身は爆薬で吹っ飛ばされた。よく見ると、体表には生々しい注射の跡が何カ所もあり、爆薬以外にも、殺害に際して何か薬物が使われたことが推察される。他には、背骨も折れている。

 

 一人の犯行にせよ、複数人によるものにせよ、犯人は被害者に対し、相当な恨みを抱く人物である可能性が高い。そうでなければ、猟奇殺人を好むサイコパスの類いか。

 

「まずはガイシャの身元をはっきりさせることだ」

 

 岡本は毅然とした態度で言い放った。

 

「そうすれば、おのずと犯人像が見えてくるだろう」

 

 被害者裸で、所持品は持っていない。いや、持っていたのかもしれないが、すべて爆発で吹き飛んでしまっただろう。

 

 しかし、上半身は無事だ。人相と歯形から、身元を突き止めるのは容易だろうと考えられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




けれど、彼らのそばには支えてくれる大人がいた。

彼女との違いは、それだけだった。






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Chapter15「エンジニア」

活動報告にも書いた資格試験が終わったと思ったら、今度は風邪を引きました。

皆さんもお気をつけて……。





 IS学園の食堂で、一年一組の生徒たちがパーティーを楽しんでいた、ちょうど同じ頃。

 

 東京都は千代田区、永田町二丁目に建つ内閣総理大臣官邸の最上階、総理専用の執務室のデスクでは、現首相の司馬周平が、険しい面持ちで突然の来訪者を迎えていた。

 

 一九六八年生まれの五七歳。大阪の豪商の次男坊として生を受け、東京大学工学部へと進学。卒業後は産経新聞の記者として十年働いた後、政治の世界に興味を抱き、三四歳で日本最大派閥の自明党に入党。一年生議員の頃より辣腕を振るい、異例の速さで出世した傑物だ。総理大臣へ任命されたのは、八年前の四九歳のときのこと。四十、五十ははな垂れ小僧、六十になってようやく一人前、七十思うことが出来るようになる、という文化を持つ日本の政治史を見回しても、かなりの若さでの就任といえる。そのため、着任当初は他の老獪な大物政治家たちの傀儡政権になるのでは、などと危惧され、国民からの支持率は四十パーセントにやや届かない低い水準からスタートを切ることになった。就任から八年が経った現在の支持率は六三パーセント台と、なかなか良い数字を叩き出している。

 

 司馬内閣が国民からの支持を集めている最大の要因は、経済政策の成功だ。

 

 司馬が総理に任命された二〇一七年、日本の経済は、はっきり言って低迷していた。バブル経済の崩壊、失われた二十年、長引くデフレに少子高齢化。これらに加えて、ISの登場後、急速に進む女性優遇制度への対応にまつわる混乱が、国民と政府を苦しめていた。

 

 組閣後の最初の記者会見の場で、司馬は全国民に向けてこう言い放った。

 

「申し訳ありませんが、日本国政府は今日より税金の無駄遣いを始めます」

 

 衝撃的な文言とともに司馬が掲げた経済政策の柱は三つ。第一に、公共事業や社会保障、教育への投資。司馬は日本経済の低調ぶりの原因は、社会全体のお金の流れが滞っているからだ、と問題をシンプルに解釈した。日本の経済活動を活性化させるためには、とにもかくにも国民に“消費”を促し、お金を循環させねばならぬ、との考えから、彼は市場に金をばら撒くことを宣言した。

 

「ケインズも言っています。公共事業というものは、無駄であればあるほど良いのです」

 

 第二の柱は、消費税を含む減税政策。

 

 徴税という行為の目的の一つは、市場に流れるお金の量をコントロールすることだ。一般に社会全体がデフレの傾向にあるときは、お金の量が少ないので、減税政策をもってその流れが滞らないようにするべきだ。反対にインフレ傾向にあるときは、お金の量が多くなりすぎないよう、増税政策をもって余剰分を回収するべきである。

 

「消費税の導入以降、日本は常にこの逆をやってきました。公共事業を減らしたことで国民から雇用を奪い、収入を減らし、増税によって皆様から“消費”を奪いました。ただでさえ回っていないお金が、さらに回らなくなるような政策ばかりです。……ならば、その逆をすればいい」

 

「総理、その政策は根本的に矛盾しています」

 

 挙手をしたのは全国紙の旭日新聞の記者だった。

 

「公共事業や福祉にお金を使うということですが、減税政策を取れば、財源が足らなくなるのでは?」

 

 司馬はここでにやりと笑った。その質問を待っていたのだ、とばかりの、会心の笑み。

 

「勿論、国債で賄うのです」

 

 旭日新聞の記者は悲鳴を上げた。

 

「つまり、またこの国の借金を増やそうというのですか!?」

 

「借金の何が悪い!」

 

 当時四九歳の司馬は、裂帛の気合いを篭めて毅然と言い放った。

 

「そもそもきみたちは、借金とはどういうことなのか、その仕組みをちゃんと理解していますか? 誰かが借金をするということは、別の誰かの手に、そのお金が渡る、ということです。誰かの借金は、イコール、誰かの資産です。そして日本の借金の場合、債権者のほとんどは国民です。政府が借金をするほどに、国民である皆さんの懐に、お金が入るのです」

 

 政府が積極的にお金を使う。その財源は国債で賄う。そして、税金については減税する。この三本の柱を中核とする司馬内閣の経済政策は、「理想論に過ぎる」とか、「上手くいくはずがない」など、周囲からの反対意見を押し切って実行された。真っ先に取り組んだのは、公共事業への投資だ。

 

 司馬内閣の実力を測る試金石となったのが、IS学園の創設にまつわる諸問題だった。各国からの要請に屈する形で設立が決まったとはいえ、司馬内閣はこのビッグ・プロジェクトを政権の力試しに相応しいチャンスと捉えていた。首都・東京からも監視がしやすい関東地区に人工島群を建設し、そこに学園を開設する。建築業界のみならず、発電設備や、本土との連絡用のモノレールなど、様々な業界に莫大な内需を提供出来ると考えたのだ。彼らの目論見は見事にはまり、経済効果は凄まじいものとなった。

 

 IS学園を首尾よく開設させた司馬内閣は、その勢いのままに、経済政策の三本柱を推し進めていった。その結果、日本はこの八年間で、GDPの成長率は平均三・六パーセント、物価のインフレ率も毎年二パーセント超という、理想的な数字をたたき出すことに成功した。また、減税政策を取ったにも拘らず、景気が上向いたことで税収はむしろ増え、その税をもってさらに社会保障などのサービスを充実させる、というこれまた理想的なサイクルも完成した。この経済政策成功に基づく支持により、司馬内閣は八年以上にも及ぶ長期政権の掌握を可能としたのだ。

 

 さて、首相官邸の総理執務室には司馬総理の他に、藤沢正太郎内閣官房長官、池波遼太郎防衛大臣、そして内閣情報調査室のトップ……叶和人内閣情報官の姿があった。いずれも、司馬内閣の屋台骨を支える重要な人材だ。特に叶情報官は、司馬総理の実質的な右腕と内外より目されている人物で、司馬内閣が何か重要な決定を下すときには必ず、彼からもたらされた情報が判断材料に織り込まれている、とされている。

 

 内閣情報調査室は、日本が世界に誇る情報機関の一つだ。その存在意義と目的は、日本政府……すなわち、日本の国益にかなうか否かを判断する為政者に向けて、判断材料となり得る様々なインテリジェンスを提供することにある。関係者の間では、“内調”と略して呼ばれることが多く、また、海外の情報機関からは、“CIRO(Cabinet Intelligence and Research Office)”とも呼ばれている。前身となった組織は総理府内閣総理大臣官房調査室で、これは一九五二年の四月、第三次吉田茂内閣のときに誕生した。

 

 当時はサンフランシスコ講和条約の発効を目前に控えていた時期で、吉田総理は、GHQ撤退後の日本の情報収集機能をどうするべきか、頭を悩ませていた。日本にも総合的な情報収集機関が必要との考えを抱いていた吉田は、GHQ参謀第二部のチャールズ・ウィロビーや、彼の腹心ともいえるジャック・Y・キャノン少佐らに助言を求めた。ウィロビーらは、日本にもやはり米国のCIAに相当する機関が必要との意見を述べた上で、その組織のトップには、吉田の秘書官の一人で、警察出身の村井順が相応しい、とアドバイスした。以来、内調のトップには、警察庁の人間が就任するならわしとなっている。

 

 発足から五年後の一九五七年、第一次岸信介内閣での組織変更により、内調は内閣官房に置かれ、名称も、内閣調査室となった。それから二九年後の一九八六年、第二次中曽根康弘内閣による内閣官房の組織再編により、内調の名称は、“内閣情報調査室”と、現在使われているものとなった。併せて、この年から各省庁の情報部門のトップたちが一堂に会する“合同情報会議”が定期的に編成されることとなる。これにより、内調の存在意義と重要性がより多くの者に認められるようになり、この頃から、内調の権力や機能が、著しく強化されていく。主だったものを挙げると、

 

 一九九六年、災害などの有事の際の情報を二四時間体制で収集して一元化する、“内閣情報集約センター”が発足する。

 

 二〇〇一年一月、中央省庁の再編に伴って組織が格上げされる。内調のトップ・ポストとして、各省庁の事務次官級と同格の“内閣情報官”の役職が誕生する。

 

 二〇〇一年四月、人工衛星からの情報収集を行う“内閣衛星情報センター”が編成される。

 

 二〇〇八年、日本初の防諜機関として“カウンターインテリジェンス・センター”が設置される。

 

 二〇一三年十二月、日本初のスパイ防止法、“特定秘密保護法”が成立する。

 

……という具合だ。

 

 叶和人が内閣情報官に就任したのは、司馬内閣が成立した二〇一七年のことだった。

 

 一九七二年生まれの五三歳。子どもの頃から、将来は国の大事を担う仕事に就きたいと志望していた。大学進学に際して、北海道の片田舎から一念発起し上京。東京大学法学部を優秀な成績で卒業した後、九五年に警察庁に入庁した。入庁後は二年間のイギリス留学を経た後、埼玉県警の捜査第二課長や、警視庁本富士警察署長など、数々のポストを歴任していく。

 

 叶が司馬と出会ったのは、彼が四十二歳のときのことだ。当時、日本の政権を担っていたのは、第二次神部晋二内閣。叶は彼の秘書官に抜擢され、この時期に司馬との親交を深めた。

 

「叶さん、私はいずれ、この国の総理になってみせますよ。そのときは、ぜひとも、あなたに内調の情報官を務めてほしい」

 

 総理主催の食事会の席で、酒が入って赤ら顔の司馬が口にした言葉は、僅か三年の後、実現した。

 

 二〇一五年、白騎士事件の際の不手際を咎められ、神部内閣は解散。新たに第一次岡田文雄内閣が組閣するも、ISの登場によって混乱する世界を戦い抜くには力不足と、国民から早々に失望されてしまい、やはり解散となってしまう。

 

 ことここにいたって、次期総理について、与野党内の意見は一致した。『年寄りは駄目だ。この時代の大変革期に、総理大臣に求められる資質は柔軟性だ。時代の変化を柔軟に受け止められる、若い人材こそが相応しい』と。そこで候補に挙がったのが、当時四九歳の司馬だった。見事、総理の座を手にした司馬は、早速、叶と連絡をとった。当時、叶は、警察庁の外事情報部長という要職にあったが、司馬の求めに二つ返事で応じた。

 

 在任して八年あまり、叶は内閣情報官として日々、司馬に国内外の様々な情報を報告し続けている。それは新聞各紙の首相動静欄を見ても明らかだ。司馬内閣が発足してからというもの、司馬総理との面会回数が最も多いのが、当代の内閣情報官だった。

 

 その叶情報官から、「緊急でお伝えしたいことがあるので、首相官邸で待機していてほしい。わが国の国防に関わることなので、出来れば、防衛大臣と官房長官も同席してもらいたい」とのメッセージが、司馬総理のオフィスに届けられたのは午後六時のことだった。司馬はただちに藤沢官房長官と、池波防衛大臣を召喚した。午後七時十四分、インテリジェンス・ペーパーを携えてやって来た叶情報官の表情は険しく、待っていた三人は、何かただならぬ事態が起こったことを察した。

 

「我々の特命班が入手した情報です。例の男性操縦者の片割れ……鬼頭智之に関することです」

 

 叶情報官はあらかじめ人数分コピーしておいた紙資料を三人に手渡した。水溶性の特殊なA4用紙を、プラスチック製の綴じ具で束ねた小冊子だ。

 

 内調の組織は現在、内閣情報官をトップに頂き、ナンバー2の次長、ナンバー3の内閣審議官の指揮の下、七人の内閣情報分析官と、四つの部門から構成される。四部門とはすなわち、国内部門、国際部門、経済部門、総務部門で、叶が口にした特命班は、このうち国内部門に所属する。文字通り、内閣情報官からの特命事項を専門に扱うチームだ。現在はIS学園の動向調査……とりわけ、男性操縦者たちに関する情報の収集と分析を命題としている。

 

 インテリジェンス・ペーパーには、過日、IS学園で行われた、鬼頭智之の娘と、イギリスからの留学生で代表候補生でもあるセシリア・オルコットとの試合の経過が、詳細に記述されていた。

 

 小冊子を一通り読み終えた司馬は、表情を強張らせた。特に気になったページ――鬼頭智之が、娘のために手作りしたというレーザー・ピストル《トール》について詳解しているページ――をもう一度開くと、ソファに座る池波防衛大臣を見る。

 

「レーザー・ピストル《トール》。池波さん、防衛大臣として、この武器をどう見ます?」

 

「……内調の入手したこの情報が正しいとすれば、恐るべき兵器です」

 

 池波遼太郎防衛大臣は、東京は浅草生まれの六二歳。長身の美丈夫で、舞台役者のように姿勢が良い。手元に目線をやると、彼も自分と同じことが気になったらしく、《トール》についてのページを開いていた。

 

「内調の調べによれば、鬼頭智之が過去にこの種の兵器開発に関わったという記録はありません。そんなまったくの素人が、一週間足らずでこれほどの武器を作ってしまうとは……正直に申しまして、信じられません」

 

「やはり、それほどの武器ですか」

 

「はい」

 

「池さん、具体的にはどんなところが優れているんだい?」

 

 藤沢正太郎官房長官が訊ねた。山形県出身の六三歳。司馬内閣の女房役だ。池波とは、大学時代の先輩後輩の間柄で、余人を介さぬこういった場では、昔馴染みの呼び方と口調がつい出てしまう。

 

「まず、この大きさのレーザー発振器で、二・六メガワットものパワーを出力出来ることがすごい」

 

 諸元表によれば、《トール》の基本構造と見た目は、アメリカの老舗銃器メーカー……コルト社の、ウッズマンというスポーツ・ピストルを参考に設計されているという。一見して古臭さを感じさせるデザインの銃の全長は四六〇ミリメートル、重量は三・二キログラム。レーザービームの最大出力は二・六メガワットにも達し、《トール》はこのパワーを、最小で直径九・七ミリメートルの円の範囲内に集中させることが可能だという。その場合、中心部の温度は五万度にも達し、一秒間の照射で、鉄の板を六メートルも貫通させてしまうというから、すさまじい。

 

「レーザーに限らず、あらゆるビームの出力は、発振器の大きさに比例します。工業用なので、あまり参考にならないかもしれませんが、たとえば自動車のボディの溶接などに使われる一キロワット級のレーザーの発振器は、全長が三十~四十センチメートル程度のサイズで、重量は五キログラム程度といわれます」

 

「この《トール》も、全長から推測するに、レーザー発振器の大きさは大体それぐらいでしょうね。重量は、少し軽いですが」

 

 司馬総理が硬い声で呟いた。彼は工学部出身という異色の宰相だ。数学や自然科学が関連する分野に対する理解力は抜群である。

 

「つまりこの《トール》は、工業用の一キロワット級のレーザー発振器と同じか、それよりも小さな装置でありながら、その数千倍もの出力がある、ということですか」

 

「そうなりますね」

 

「他のIS用ビーム兵器はどうなんだ?」

 

「私の知っている範囲内でのことですが、現在、各国で実用化されている、あるいは、研究段階にあるどのビーム兵器と比べても、圧倒的にコンパクトで、高出力です。たとえば、イギリスが第三世代機向けに開発したレーザー・ライフル《スターライトmkⅢ》は、全長が二メートルにもなります」

 

 小冊子には、鬼頭陽子が戦った相手のISが使っていた武器として、その名前と諸元の記載がある。形状から推測するに、レーザー発振器の全長が一・六メートルを下回ることはないだろう。《トール》の四~五倍の大きさだ。それでいてビームの出力は、《トール》をやや上回る程度にすぎない。

 

「武器というものは、小さくて軽いほど、取り回しが良く、扱いやすい傾向があります。その点でも、《トール》は優れた武器と言えるでしょう」

 

「他には?」

 

「次に挙げるべきは、大容量バッテリー・パックの実用化によって、完全な外部電源作動方式を確立させていることでしょうね」

 

 池波大臣は資料に掲載された《トール》の三面図を示した。モデルとなった拳銃と同様、機関部に対し斜め後ろ方向に突き出したグリップの内部には、自動拳銃でいう箱型弾倉のように、小型のバッテリー・パックを装填するためのスペースが設けられている。このバッテリーから供給される電力によって、レーザー発振器が稼働する仕組みだ。

 

「私の知る限り、完全な外部電源方式を実現したレーザー銃は、この《トール》が初めての事例です」

 

「それは、なぜです? そもそも、IS用ビーム兵器は他に、どんな作動方式があるのですか?」

 

「レーザーに限らず、IS用のビーム兵器は、発振器を動かす手段によって、二通りの方式に分類出来ます。一つは、IS本体から電力を送ることで、発振器を作動させる方法です。これは、IS本体がエネルギー切れを起こさない限り、ビーム兵器を安定的に運用出来るというメリットが得られる反面、シールドエネルギーの消耗が増えてしまう、IS側にエネルギー供給用の特殊なバイパスを設ける必要がある、などのデメリットも抱えることになります。特にバイパスの問題は、この方式のビーム兵器の汎用性を低下させる要因にもなってしまいます。

 

 もう一つが、外部電源からの給電によって、発振器を動かす方法です。このやり方は、電源をバッテリーにするか、それとも発電装置にするかによって、さらに細分化されます」

 

「先ほどの池波さんの口ぶりからすると、世界的な主流は、本体からの供給方式ということになりますね」

 

「その通りです。これには勿論、理由があります」

 

 池波防衛大臣は総理の言葉に首肯した。

 

「バッテリー式にしろ、発電装置を使うにせよ、現在の科学技術では、外部電源方式を採用した実用的な銃の開発は難しいのです。実用化を阻んでいる最大の技術課題は、外部電源の大きさと、レーザーの出力の問題です」

 

「なるほど」

 

 司馬総理は得心した表情で頷いた。

 

「高出力のビームを撃つためには、相応のエネルギーの入力が必要です。外部電源でそれを用意しようとすると、どうしても、装置全体が大型化してしまい、武器としての取り回しが悪くなってしまう、ということですね?」

 

「さすがです、総理」

 

 ISのエネルギー・シールドに有効打を与えるためには、ビームの出力は最低でも一メガワットは欲しい。また、攻撃がはずれたときのことも考えて、照射可能な時間は、十秒程度は必要だろう。これだけでも、バッテリーや発電装置に求められる電力量は十メガワット。

 

「レーザービームのエネルギー効率は、発振方法によって大きく異なりますが、入力エネルギーに対して、出力出来るのは十~四十パーセント程度というのが一般的です。勿論、高効率なシステムほど装置が大型化・複雑化してしまうため、小型軽量・単純な構造が求められる武器には向きません。実際、IS用ビーム兵器のエネルギー効率は、十~二十パーセント程度の物が多数を占めます」

 

 真ん中あたりの、効率一五パーセントのシステムで考えてみよう。先ほど例に挙げた出力一メガワットのビーム兵器の場合、十秒間の稼働に必要な電力量はおよそ六六・七メガワット。実際には、自然放電や照準装置などの稼働に必要な電気のこともあるため、外部電撃に求められる性能は、八十メガワット……およそ二二・二キロワット・アワー程度だろうか。これほどの性能となると、バッテリーにせよ、発電装置にせよ、それなりの大きさが必要となってしまう。

 

 たとえば日産の電気自動車リーフに搭載されているリチウム・バッテリーは、六二キロワット・アワーの容量を持ち、重量が三〇〇キログラムもあるという。仮に同じ技術で二二・二キロワット・アワーのバッテリーを製作する場合、単純計算で重量は百キログラム以上にもなってしまう。ISのロボット・アームの膂力ならば問題にならぬ重さとはいえ、武器としての使い勝手は確実に悪くなる。発電装置の場合、さらなる大型化は必至だ。

 

「だからこそ、現代の技術では外部電源装置は諦めざるをえない……その、はずでした」

 

 改めて《トール》に搭載されているバッテリー・パックの諸元表に目線を落とす。それによると、バッテリー・パックの重さは僅かに四二〇グラム。それでいて、最大容量はなんと六八キロワット・アワーもあるという。リーフに搭載されているバッテリーよりも圧倒的に軽量でありながら、容量でも勝っている。充電回数については、運用データが乏しいためか、詳細は不明となっているが、仮にも、ISバトルの公式レギュレーション・チェックをクリアした武器だ。最低でも一〇〇〇回程度の充電に耐えられるはず、と推測された。

 

「レーザー発振器も、バッテリーも、これほどの性能をたったこれほどのサイズに詰め込んだ、その技術力……。鬼頭智之という技術者は、まさしく、これまでの常識を覆してしまったのです」

 

 外部電源方式の実用化は、もう一つ、重要な意味を持っている。ISからの給電に頼らないビーム兵器の実用化とは、すなわち、この《トール》はIS以外の兵器でも運用が可能、ということを意味する。

 

「私が最も驚いたのは、この《トール》の製作期間と、開発予算についてです。鬼頭智之はたった一人で、これほどの銃を、僅か六日間で二挺も完成させてしまいました。勿論、これは彼自身の技術力、そしてIS学園の持つ最新の工作機器を使えたからこそ可能な数字でしょうが、それでも、生産性に優れているという事実に変わりはありません。そして、その製作費用についてですが……」

 

 池波防衛大臣はそこで叶情報官を見た。

 

 内調の調査でも、鬼頭智之が《トール》を二挺作るのにどれほどの費用を投じたのか、具体的な数字は分からなかった。しかし、彼が学内にて口にしたいくつかの発言や、資金の流れなどから、およその推測は出来ていた。

 

「愛車のプリウスと、時計コレクションを何本か手放すだけで用意出来る金額とのことです。多くとも一千万円を超えることはないと推測されます。しかもこれは、最初の一挺を作る際にかかった、研究開発費を含めての金額です」

 

「単純な割り算で考えるべきではない、ということですね?」

 

 司馬総理の言葉に、叶は頷いた。

 

「内調では、一挺あたりの制作費は二百~三百万円の間ではないかと推定しています」

 

「新車のカローラくらいの金額ですね」

 

 司馬総理は溜め息をついた。

 

 つまり《トール》は、最強兵器ISに有効打をたたき込めるだけの性能を有すると同時に、IS以外の兵器でも運用可能な汎用性の高さを持ち、さらに大衆車クラスの金額で大量に量産することが可能ということか。

 

「……これはもはや、IS用の一武装という概念を超えた存在です」

 

 池波大臣が、恐ろしい、と感想を抱いたのも頷ける。

 

 ISの存在を前提とする現在の世界のミリタリー・バランスに、一石を投じうる存在……戦略兵器にも匹敵する武装だ。

 

 そして何より恐るべきは、これほどの武器を、たった一人で作り上げた、鬼頭智之という男の存在。

 

「総理」

 

 藤沢官房長官が、険しい顔つきで口を開いた。

 

「これほどの銃を作り上げた鬼頭智之という男。これまでは男性操縦者ということで重要視してきましたが、これほどの技術力が明らかになったいま、我々は彼に対するアプローチの仕方を変えるべきです」

 

 もしも、これほどの能力を持った人物が、特定の国や組織に与するようなことになれば。仮にそれが、日本国と競合するような相手だったとしたら。

 

 現にイギリスは、鬼頭智之懐柔のための工作をすでに開始しているという。インテリジェンス・ペーパーによると、娘の試合後、イギリスの第三世代機に使われている新技術……BTシステムに関心を抱いた彼は、英国政府に対して、BTシステムを完成させるための手伝いをさせてほしい、と自ら申し出たとのこと。イギリスはこれをチャンスと捉えたらしく、彼の申し出を受け入れると同時に、研究資金について多額の援助や、高級車をプレゼントするなど、露骨な懐柔工作に乗り出したそうだ。

 

「これほどの人材を他国に奪われてはなりません。我々日本政府も、鬼頭智之に対し懐柔工作を仕掛けるべきです」

 

「藤沢さん、具体的なアイディアはありますか?」

 

「鬼頭智之は技術者で、また、研究者でもあります。こういう人間は、自身の好きなことに集中出来る環境を与えてやることが、なによりも効果的だと考えられます」

 

「なるほど」

 

「細かい作戦については後でじっくり練るとして、差し当たっては、IS学園に対して、学園の設備を鬼頭智之が自由に使えるよう、要請をするべきでしょう。IS学園の持つ最新の機材は、彼のような人間の目には宝物と映じるはずです。それが、日本政府のおかげで自由に使うことが出来る、となれば、我々に対して好感を抱いてくれる可能性は高い」

 

「総理、私も藤沢官房長官の提案に賛成します」

 

 叶情報官が言った。日本人にしては珍しい、紺碧の眼差しが司馬総理の顔を見る。

 

「重ねて、内調の情報官として進言します。鬼頭智之本人以外に、彼の娘や、彼の両親、そして彼が所属するアローズ製作所に対しても、はたらきかけを行うべきです」

 

「会社に対して、ですか?」

 

「いざというときには、鬼頭智之に対する人質として使えます。それに、《トール》がこの大きさでこれほどの高性能を得た背景には、この会社の持つ、遼子化技術と呼ばれる特許製法が関係しています。鬼頭智之と同様、この会社の持つ技術も、他国に渡るような事態は避けねばなりません」

 

「なるほど。たしかに、叶さんのおっしゃる通りですね」

 

 司馬総理は頷いた。

 

「藤沢さん、明日までに、鬼頭智之に対する懐柔工作専門のチームを起ち上げてください。人選は、あなたと叶さんにお任せします」

 

「かしこまりました、総理」

 

 藤沢は頷くと、叶情報官を見た。

 

「早速、行動を開始します」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter15「エンジニア」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クラス代表就任パーティーが開かれた日の翌日の朝、鬼頭智之とセシリア・オルコットの二人は、学生寮の食堂で朝食を摂った後、一年一組の教室へと向かう陽子らと別れ、職員室へと向かっていた。

 

 目的は、IS整備室の使用許可申請書を提出することだ。

 

 過日のハミルトン大佐との通信から二日後、鬼頭はBTシステムの開発に正式に協力することになった。その際、データ解析のため、セシリアのブルー・ティアーズにアクセスする権限を与えられたが、ISのような複雑な機械の集合体を分析するには、設備が整った環境が必要と考え、学園の整備室の使用許可を求めることにしたのだ。

 

 職員室に到着した二人は、早速、担任の千冬の姿を探した。残念ながら、彼女は職員会議を理由に席をはずしていた。代わりに、その場にいた真耶に事情を説明する。

 

「……というわけで、また、整備室を使わせてほしいのです」

 

「なるほど。この日から使いたいとかって、ありますか?」

 

「早ければ早いほど良いのですが」

 

「なるほど、なるほど……。分かりました。じゃあ、今日は第二アリーナの整備室を使ってください」

 

 鬼頭とセシリアは困惑した表情で顔を見合わせた。申請書を書く必要はないのか。しかも、当日のうちに利用許可が降りるなんて。

 

「山田先生、申請書は……」

 

「あ、書いてもらわなくても結構ですよ」

 

 念のため問いかけると、真耶は顔の前で右手を軽く振りながら応じた。

 

 訝しげな表情の鬼頭に、「実は……」と、言葉を重ねる。

 

「実は今朝、日本政府から、鬼頭さんの要求にはなるべく応えるよう努めてほしい、と要請があったんです」

 

「日本政府から、ですか?」

 

「はい」

 

「なんで、また……」

 

「さあ? 理由については、教えてくれませんでした。……逆にこちらが訊きたいくらいですよ」

 

 今度は真耶が、鬼頭に怪訝な表情を見せた。

 

「鬼頭さん、日本政府に対して、何かしました? 鬼頭さんへの接し方について、政府に新しい方針を決めさせるようなこと」

 

「お上からこんな好意的な対応を取られるようなことをした覚えはないのですが……」

 

「……もしかして、私たちのせいでしょうか?」

 

 真耶と二人、頭を悩ませていると、かたわらに立つセシリアが不意に呟いた。

 

「セシリア?」

 

「鬼頭さんがBTシステムの開発に協力してくれることになったのを知って、日本政府は危惧したのかもしれません。このままでは、鬼頭さんのような優秀な人材をイギリスに盗られてしまう! と。だからこそ、今朝になって突然、学園にそんな要請をしてきたのでは?」

 

「なるほど! それなら納得です」

 

「……こんなオジサンに、そこまでする価値があるでしょうか?」

 

 セシリアの推測に感心する真耶に、鬼頭は呆れた表情で呟いた。技術屋を始めてかれこれ二十年以上、この腕一つで食ってきた。勿論、技術力にはそれなりに自信があるが、されとて、自分にそこまでの価値があるとは思えない。

 

 すると、今度は真耶とセシリアの二人から、呆れた表情を向けられた。

 

「鬼頭さん、あなた、何を言っているんですか?」

 

「《トール》のような素晴らしい武器を作るだけの技術があって、無価値だなんてありえませんわ!」

 

「あれの性能を知ったら、誰だって鬼頭さんを欲しいと思いますよ」

 

「私が女王陛下であったなら、爵位を授けてでも、わが国に引き込もうとしたでしょう」

 

「そ、そうですか」

 

 静かな口調に篭められた物凄い迫力に、鬼頭は思わずたじろいだ。

 

 二人から向けられるきつい眼差しから逃れたい一心で、顔をそむけ、目線を泳がせる。ちょうど、会議を終えて職員室に戻ってきた千冬の姿を認め、ほっと安堵した。よかった。これで彼女たちからの追及をかわすことが出来る。

 

「織斑先生」

 

「む、鬼頭さんと、オルコットか。二人とも、どうしたのです?」

 

 声をかけられた千冬は、彼らのもとへやって来た。

 

「セシリアのブルー・ティアーズ解析の件で、整備室を使いたく、使用許可の申請をしに来たのです」

 

「なるほど。ということは、日本政府からの要請については?」

 

「聞きました。ありがたいことではありますが、突然のことなのと、向こうの意図が判らないせいで、喜んでいいやら、不気味に思うやらで、少し、戸惑っています」

 

 鬼頭の言葉に頷いてみせた後、千冬は束の間、悩ましげな表情を浮かべた。目の前の男に対し、これを話すべきか否か。たっぷり三秒、黙考した後、彼女は意を決して口を開く。

 

「実は、今朝の職員会議の議題のが、まさにそれに関することでした」

 

「というと?」

 

「日本政府はなぜ、今朝になってあんな要請をしてきたのか。IS学園はこの求めにどう反応するべきなのか。侃々諤々の会議でしたよ」

 

「それはまた……お手数をおかけしまして」

 

 ちら、と周りを一瞥すれば、己に対し、何やら恨めしげな眼差しを向けている教員の姿がちらほら認められた。一ヶ月半前にラファールを動かしてしまったあの日から、彼女たちには迷惑をかけてばかりだ。そろそろ、菓子折の一つでも振る舞うべきか。

 

「私には美味い酒をお願いしますよ」

 

 諧謔を口にした後、千冬は声をひそめた。応じて、鬼頭たちも声量を落とす。

 

「……先ほどの会議で、鬼頭さんについてあることが決まりました。正式な通達は明後日になりますので、いまはまだ、ここにいる人間以外には秘密にしておいてください」

 

「はい」

 

「鬼頭さんに対し、学園の施設の利用に関する、クラスBの専用パスカードが発行されることになりました。このカードがあれば、整備室など、いちいち許可申請をせずとも利用することが出来ます」

 

 パスカードは学園の施設の利用に関する特権だ。クラスBは本来、上級の教職員や、国家代表など一部の生徒にのみ与えられているライセンスで、整備室の他に、より専門的な機材が完備されている工作室や耐久試験室、解析室などを自由に使うことが出来る。

 

 千冬の言葉に、鬼頭とセシリアは顔を見合わせた。

 

 解析室にはデータ解析のための設備が整備室よりも圧倒的に充実している。これを使わせてもらえるのなら、BTシステムの研究が一気に進むことだろう。

 

「分かっているとは思いますが、これは日本政府からの要請に対する、IS学園側の回答です」

 

「はい」

 

 千冬の念押しに、鬼頭は頷いた。彼女の立場では言いづらい言外の意図を察し、彼は冷笑を浮かべながら言った。

 

「なるべくたくさん使って、IS学園はよくしてくれている、ということを、政府の方々に示してみせますよ」

 

「助かります」

 

「あと、もう一つお訊ねしても?」

 

「なんでしょう?」

 

「工作室や耐久試験室の利用が許可された、ということは、そういう意味と捉えて、構いませんか?」

 

 工作室はその名の通り、各種の工作機械を取り揃えている、学園最大のIS製造施設だ。収蔵されている機材の質は整備室の比ではなく、《トール》のような武器は勿論、技術者の能力と予算さえ十分にあれば、ISそのものを作ることさえ可能という施設である。

 

 一方の耐久試験室は、整備室や工作室で組み上がった部材を、耐熱性や荷重特性といった各種の耐久試験にかけるための部屋だ。同時に、生徒たちが作った新しい武器やパーツが、ISバトルのレギュレーションに違反していないかどうかをテストするための部屋でもある。鬼頭は《トール》の件ですでに、この部屋のお世話になったことがあった。

 

 専用パスの発行は、この二つの施設を自由に利用してよい、ということを意味する。技術者の自分に、これらの施設の使用権限を与えるということは、すなわち、

 

「学園長からの言葉です」

 

 千冬は鬼頭の質問には答えずに、事務的な口調で続けた。

 

「思う存分、やってください」

 

 それを聞いて、鬼頭は好戦的に微笑んだ。

 

 

 

 その後も専用パスの使い方についていくつか確認の質問をしているうちに、始業五分前の予鈴が鳴った。

 

 せっかくですし、一緒に行きましょうか、という真耶の言葉に応じた鬼頭たちは、教室に向かって、四人並んで歩き出した。

 

 やがて一年一組の教室に近づくにつれて、鬼頭とセシリアは、あっ、と声を上げた。

 

 予鈴が鳴って一分以上経っているにも拘らず、教室がなにやら騒がしい。教室の入り口を、見覚えのない背中が塞いでいる。どうやら他クラスの生徒が、入り口から教室内の誰かに向けて話しかけているようだ。応じる声から察するに、相手は一夏か。他にも、ざわざわとした戸惑いの声が多数聞こえる。大半のクラスメイトが、着座していないことは明白だった。

 

 繰り返しになるが、いまは予鈴が鳴って、教室で教員の到着を大人しく待っているべき時間だ。そして運悪く、自分たちの担任教師は、そういう規律の乱れている状態を、許せないたちだった。

 

 二人は、おそるおそる、千冬の顔を見た。世界最強の女傑は、案の定、険しい面持ちをしていた。鬼頭は慌てて口を開く。

 

「織斑先生」

 

「分かっています、鬼頭さん。あなたから指摘されて、私だって反省したんです」

 

 言いながら、千冬は出席簿で軽く素振りしてみした。

 

「体罰は、あくまで最終手段です。まず先に、口で言って聞かせます」

 

「……小声でこっそり、静かにしろ、とか、どけ、とかはなしですからね? それで言うことを聞かなかったから体罰というのは、駄目ですよ」

 

「……ちっ」

 

「織斑先生!?」

 

 わざとらしく舌打ちする千冬の反応に、セシリアが悲鳴を上げた。かたわらで眺めていた真耶は、コメディ・ショーを見ている気分になって、思わず苦笑した。

 

 かなり大袈裟に騒いでみせたにも拘らず、話に夢中になっているのか、入り口を塞いでいる少女は、鬼頭らの接近にまったく気づいていない。

 

 千冬は再度の舌打ちの後、わざと踵を鳴らしながら近づいていった。少女はなおも、気がつかない。

 

「何格好付けてるんだ? すげえ似合わないぞ」

 

「んなっ……!? なんてこと言うのよ、アンタは!」

 

 一夏の声に、少女が応じた、その瞬間だった。

 

「おい」

 

「なによ!?」

 

 聞き返すと同時に振り向き、愛らしい表情が硬化した。柳眉を逆立てた千冬の顔を、視界のど真ん中に捉えてしまった。

 

「ち、千冬さん……」

 

「織斑先生と呼べ。もうSHRの時間だ。いますぐ教室に戻れ。そして入り口を塞ぐな。邪魔だ」

 

「す、すみません……」

 

 すごすごと道を空ける。千冬の迫力に呑まれ、完全に気勢を失っていた。

 

 千冬が教室に入ったのを認めて、鬼頭たちもあとに続いた。セシリア、鬼頭、真耶の順番で入室する。

 

「あ……」

 

 鬼頭とすれ違った瞬間、少女が小さく声を上げた。

 

 はて、どうしたのか、と鬼頭は目線を彼女に向けた。すると、悄然としていた態度から一転、きっ、と睨み返される。入学式以来、お馴染みの態度。ああ、と彼は得心から小さく頷いた。彼女も、例の週刊誌の記事を読んだのか。

 

 せっかく静かになったのに、無駄な火種を起こして、千冬の機嫌を悪化させるのは不味い。鬼頭は気づかないふりをして、そそくさと自分の席へ向かった。

 

「またあとで来るからね! 逃げないでよ、一夏!」

 

 去り際、少女は言い捨てて、隣の教室へと駆けていった。その背中に、「廊下を走るな!」との声。鬼頭は名も知らぬ彼女のことを思い、無言で合掌した。千冬の「いますぐ教室に戻れ」という指示に対し、捨て台詞を残してから退室していくという、反骨精神あふれる対応に加えて、廊下を走る、というマナー違反。近い将来待ち受ける仕打ちを思うと、憐憫の情を抱かずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 午前中の授業をすべて終えた昼休み。

 

 一夏のもとを訪ねた鬼頭が確認すると、今朝の少女は彼の昔からの知り合いらしい。名前は凰・鈴音(ファン・リンイン)。中国からの留学生で、かの国の代表候補生だという。

 

「なんでも、学園には今日、転校してきたんだそうです」

 

「この時期にかい? 珍しいな」

 

 鬼頭は怪訝な表情を浮かべながら呟いた。

 

 IS学園は世界有数の難関校だ。転入試験は、入試以上に難しいと聞いている。どうせ四月に入るのなら、わざわざ狭き道を選ぶ必要はないと思うが。

 

「やっぱり、そう思いますよね」

 

「もしかしたら、機体の調整に手間取ったため、この時期の編入になってしまったのかもしれません」

 

 凰の転入時期について、セシリアがそう推測を述べた。一夏たちの言によれば、彼女はセシリアと同様、専用機持ちの代表候補生だという。なるほど、それならば入学の時期が遅れてしまい、転入という形をとらざるをえなかったのにも納得がいく。この時期に調整中ということは、やはり第三世代機か。

 

 ――中国の第三世代機というと、たしか……。

 

 空間圧作用兵器なる新技術を搭載した、近・中距離両用型のISと聞いている。二組のクラス代表は彼女に替わったというから、クラス対抗戦では一人、強力なライバルが増えた形だ。

 

 もっとも、クラス対抗戦を実際に戦う一夏の顔に、気にした様子は見られない。むしろ、思わぬ再会を果たした友人とのこれからの学生生活を思って、はしゃいだ気持ちさえうかがえた。

 

「……それで一夏、結局、あの女とはどういう関係なのだ?」

 

 不機嫌そうな態度を隠すことなく、ぶっきらぼうな口調で箒が訊ねた。

 

 鬼頭の見たところ、彼女は一夏に懸想している様子。見知らぬ少女と思い人とが親しげに話しているのを見て、悋気を覚えたらしい。

 

 そんな幼馴染みの態度に戸惑いながら、一夏は訥々と口を開く。

 

「小・中時代の友達だよ」

 

「小学生の頃から? 私たちの小学校に、あんなやつ、いたか?」

 

「転校してきたんだよ。ちょうど、箒と入れ違いみたいな形で。ほら、箒が引っ越したのは、小四の終わりぐらいのときだっただろ? 鈴が転校してきたのは、小五の頭だよ。で、中二の終わりぐらいの時期に、帰国したから……会うのは、一年ちょっとぶりだな」

 

「……冷静に考えてみると、すごい人間関係だね」

 

 一夏の説明を聞いて、陽子は思わず苦笑した。

 

 姉は世界最強のIS操縦者で、幼馴染みはIS開発者の妹。そして旧友は、中国の代表候補生で専用機持ち。いったい何の漫画の主人公だと言いたくなるほどに、彼を中心として見た人間関係はものすごいことになっている。

 

「そうか、ただの友達か」

 

「ああ。……いや、女子の中ではいちばん仲の良い友達だった、か?」

 

 眠っていた記憶を呼び覚まし、彼女と過ごした日々を思い返して、うむ、と頷く。箒が転校して以来、同年代の女子生徒のうちでいちばん仲が良かったのが鈴音だった。特に中学時代は、男友達の五反田弾や、御手洗数馬らと四人でよくつるんだものだ。そのときのことを思い出し、一夏は懐かしさから微笑した。

 

「まあ、それ以上の詳しいことは、メシ食いながら話すからさ」

 

 自身の返答にまた何か言いたげな様子の箒を、片手を突き出して制しながら、一夏は椅子から立ち上がった。

 

「とりあえず、学食行こうぜ。今朝の様子だとたぶん、鈴のやつ、俺たちが来るのを待っているだろうし、早いとこ行かないと、席が埋まっちまう」

 

「む、むぅ。たしかに、そうだな」

 

 黒板の上に取り付けられた円盤形の時計を、ちら、と一瞥して、箒も頷いた。

 

「智之さんはどうします?」

 

「私は、今日はちょっと、遠慮させてもらうよ」

 

 今朝、凰鈴音が自分に対してとった態度を思い出し、鬼頭は申し訳なさそうにかぶりを振った。

 

 一夏の言う通り、彼女が食堂で待ち受けているとすれば、悪感情を抱いている相手が食卓に同席してしまうことになる。それは彼女にとって、そして周りの人間にとっても、好ましくない事態だろう。

 

「BTシステムのデータ分析を、少しでも進めておきたくてね」

 

 これは方便ではなく本当のことだ。

 

 昨日、鬼頭親子が暮らす部屋に、国際便で小包が届いた。送り主はイギリス空軍のハミルトン大佐で、中身は連絡用のモバイル・パソコンだった。防諜機能を完備した、特別仕様の端末だ。中のデータをチェックすると、通信用のアプリケーションの他に、暗号化されたデータファイルが収められていた。

 

 鬼頭は早速、通信用アプリを起ち上げた。ノースウッドの、英軍の統合司令部と連絡をとる。ハミルトン大佐は、「そろそろ連絡のある頃だろうと思っていました」と、通信用端末の前であらかじめ待機してくれていた。彼から暗号化を解除するためのパスワードを教えてもらい、適用すると、現われたのはBTシステムの開発データだった。過日の通信の際に、大佐が、英国政府が提供出来るもの、として挙げた資料だ。鬼頭は早速、目を通し始めたが、なにしろ、英国屈指の技術者たちによる一年以上もの戦いの記録だ。到底、一晩で読み終えられる量ではない。

 

 今朝以降も、授業と授業の合間の休み時間など、空いた時間を見つけては、打鉄の記憶領域にコピーしたデータを検めているが、まだ半分以上も残っている。

 

「昼休みみたいにまとまった時間は貴重だからね。今日は、そのために使わせてもらうよ」

 

「私も、本日は遠慮させていただきます。鬼頭さんのお手伝いをしなければなりませんので」

 

「そっか。それじゃ仕方ないよな」

 

 一夏は残念そうに呟くと、次いで陽子を見た。

 

「鬼頭さんはどうする?」

 

「わたしはご一緒しようかな」

 

 陽子は、ちら、と父の顔を一瞥して頷いた。

 

「そういう専門的なことだと、わたしがいるとかえって邪魔になるだろうし。織斑君たちと、ご一緒させてよ」

 

「わかった。箒も、それでいいよな?」

 

「わ、私はべつに、それで構わない」

 

 思い人と二人きりになれぬことを残念に思ってか、頷きながらも、箒は小さく溜め息をついた。

 

 もっとも、同行の意思を示した女子は陽子以外にも多数いたため、どちらにせよ、一夏と彼女が二人きりになるのは難しかっただろうが。

 

 

 

 

 

 

 放課後、鬼頭とセシリアはブルー・ティアーズの稼働データの解析のため、第二アリーナ隣の整備室へとやって来ていた。この場所を指定したのは真耶で、なんでも、クラス対抗戦の準備のために、第二アリーナでの自主練習は今週いっぱい禁じられているのだという。必然、第二アリーナの整備室を使いたいという者は少なく、余人の目を気にすることなく作業に集中出来るはずです、との気遣いからの指示だった。

 

「やはり今度、山田先生たちには何か差し入れをせねばならないな」

 

「お菓子選びの際にはぜひ、私にも声をかけてくださいな。日本のお菓子に、興味があるので」

 

 整備室の戸を開けると、案の定、利用者は鬼頭たちの他に一人しか見当たらなかった。空中投影ディスプレイに映じる3Dモデルを凝視しながら、一心不乱にメカニカルキーボードを叩いている。ディスプレイに次々と出現するウィンドウ情報から察するに、スラスター関連の調整作業を行っている様子だ。

 

 ――邪魔をしては悪いな。

 

 鬼頭とセシリアは足音に気を配りながら、彼女から二ブロックほど離れた区画で作業を開始することにした。イヤー・カフスをはずしてもらい、外郭プレートの一部を剥がしてアクセス・ポイントを露出させる。解析用のコンピュータからのびる細いケーブルを二本接続し、データの吸い上げを開始した。

 

「セシリアはブルー・ティアーズに乗り始めて、どれくらいになるんだ?」

 

「稼働時間はざっと三〇〇時間は超えているかと」

 

 自身もまたコンピュータを操作しながら、セシリアが応じた。三〇〇という数字を聞かされて、鬼頭は思わず息を呑む。今更ながら、陽子はとんでもない相手と戦ったのだな、と実感した。

 

 鬼頭は空間投影ディスプレイを起ち上げると、データの抽出に要する時間を表示させた。

 

 三〇〇時間超もの稼働データの抽出は、IS学園が所有する最新の機器をもってしても、三十分はかかる見込みだ。その間に、データ解析に必要なソフトを起ち上げる。

 

「昨日、ハミルトン大佐からもらったデータだが」

 

「はい」

 

「まだすべてに目を通したわけではないが、BTシステムの基本構造については理解した。要するにBTシステムは、流動性エネルギーBTとイメージ・インターフェース、そしてBTエネルギーを媒介する攻撃端末の三要素からなるシステムなわけだ」

 

 イギリスが流動性エネルギーの存在をはじめて発見したのは、三年前のことだった。

 

 当時、英国のトップIS操縦者は、専用機のセカンド・シフトに成功。と同時に、ワン・オフ・アビリティーとして、発射後にビームを曲げるという、偏向射撃の能力を開花させた。英国は、次の第三次イグニッション・プラン用の第三世代機には、彼女が発現させたこの能力を武器として再現し、誰にでも扱えるようにして搭載することを目指した。その研究過程で発見されたのが、流動性エネルギーBTだ。

 

 BTエネルギーは、生物の意思の力によって形を変えたり、その場から移動したり、といった、流動性と表せる不思議な特性を持っていた。イギリスはイメージ・インターフェースの研究を進めることで、BTエネルギーにパラメータを入力する技術を確立。操縦者の意思一つで、IS本体にプールしているBTエネルギーを無人攻撃端末に移し、低出力レーザーの発振や三次元機動の動力源とすることを可能とした。

 

「肝の部分はやはり、イメージ・インターフェースだろう。資料を見ると、BTエネルギーは人の意思にかなり敏感だ。ちょっと気を散らしただけで、制御が効かなくなってしまう」

 

 資料によると、初期の頃などは《ブルー・ティアーズ》の試作モデルで急上昇する敵を追尾中に、視界に、ちらっ、と太陽が映じただけで、もうコントロールを失ってしまったという。改良に改良を重ねた現行型でさえ、BT兵器の操作中は、他の行動がほとんど取れない有り様だ。

 

「まずはIS本体の機動と、BT兵器の操作を同時に行えるように改良したいね」

 

 ポイントは思考ノイズの除去と、柔軟性の付与だ。BT兵器を動かしつつ、他の動作も可能にする。そんな仕組みを用意してやる必要がある。

 

「ですが、そんなことが可能でしょうか?」

 

 頷きながらも、セシリアは不安そうな表情で訊ねた。いかにこの男の頭脳が優れているとはいえ、これまで、母国の技術者たちが成し遂げられなかったことが、はたして可能だろうか。

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。

 

「やる前から諦めるのはよくない。かの経営の神様も言っている。楽観的に構想せよ。しかし、準備は悲観的にせよ。そして実際に行動するときは、楽観的な気構えでいろ」

 

 こういう技術的な課題に直面したときの基本姿勢は、いつの時代も変わらない。後ろ向きな考え方は捨て、前向きな考え方を胸に抱いて、問題にぶつかっていく。

 

「ISはもともと、宇宙開発用のマルチプラットフォーム・スーツとして開発された」

 

「はい」

 

「宇宙開発……ということは、基本はロケットと同じさ。アメリカに留学していた頃、ヴェルナー・フォン・ブラウンと一緒に、アポロ計画に従事したというエンジニアと、二時間ほど、会談の機会を得たことがある」

 

 かつて人類を月へと到達させた、偉大な技術者だ。第二次世界大戦中はドイツのためにV-2ロケットを開発し、大戦後はアメリカ合衆国のためにジュピター・ロケットや、サターン・ロケットを開発した。この変節がために、批判されることも多い人物だが、技術者として己の欲に忠実な生き方を貫き通したことに、鬼頭はある種の畏敬の念を抱いていた。

 

「彼によると、フォン・ブラウンはロケットの本質を次のように認識していたそうだ。ロケットとは、ロケット・モーターではない。外装でもない。プログラミングなのだ、とね」

 

 噴射を制御し、燃料をコントロールし、大気圏を脱出し、再突入角度を計算し、着陸地点を選定する。ロケットの本質とはなるほど、プログラミングなのだ、と大いに納得させられた。あとは、入力したプログラムを実行する上で最適なハードウェアを作るだけだ。

 

「同じ宇宙開発用を源流とするISの技術もそうさ。まずはプログラミング、次いでハードウェアの開発。やるべきことははっきりしている。あとは、出来る、と信じて、やるだけだよ」

 

 ブルー・ティアーズからのデータの抽出が終わった。空間投影ディスプレイに、三〇〇時間オーバーのデータが次々と表示される。鬼頭はそれらを、楽しげに眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter15「エンジニア」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時計の針は、狂う。

 

 これは過去起きた出来事なのか、それとも未来に待つ災厄なのか。

 

 あるいは、いま現在起こっている、事件なのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大阪府大阪市、中央区は大手前にある、大阪府警察本部本庁舎は、他県の県警本部が置かれている建物と比べて、一風変わった見た目をしている。大阪城公園南西角の馬場町交差点に面する形で建てられたこの建物は、南東部分が内側に弧を描くようなカーテンウォールで出来ており、交差点の対角線側からその全容を眺めてみると、なんともユーモラスなセンスを感じさせるのだ。二〇〇七年竣工という、比較的新しい庁舎。大阪万博東芝IHI館のデザインを担当したことで知られる建築デザイナー……黒川紀章の、晩年の作品だ。

 

 都道府県警本部刑事部の直轄という扱いの機動捜査隊のオフィスも、大阪府警の場合は当然、この本庁舎内に置かれている。

 

 この日、第一機動捜査隊で班長の立場にある岡本正康警部は、自身のデスクで捜査資料と睨み合いをしていた。

 

 いま目を通しているのは、先日、北区天神橋近くの貸倉庫で発見された、女性の変死体についての死体検案書だ。第一発見者である貸倉庫のオーナーからの連絡でまず岡本の班が現場に駆けつけ、初動捜査を担当したあのヤマの女性だった。事件はその後、刑事課に任されることとなり、彼らは女性の死因を他殺によるものと判断、現在は殺人および死体遺棄事件として捜査している。

 

 機動捜査隊は通常、初動捜査のみを担当し、本格的な捜査は他の専門の部署に任せることになっている。天神橋の変死体の件は、すでに岡本の手から離れた案件だが、彼は個人的な興味から、事件を担当する刑事課の同期に頼み込んで、捜査資料のコピーを手に入れたのだった。というのも、今回発見された死体は、岡本がこれまで見てきたどの他殺体よりも、無残な殺され方をしていたためだ。

 

 彼女は、全裸の状態で倉庫内に放置されていた。全身に注射針の生々しい痕があり、両耳と両手の指をすべて切断され、そして下半身がなかった。何か爆発物を使って吹き飛ばされたらしく、現場には下肢を形作っていたであろうパーツが無残に飛び散り、転がっていた。普通、殺しの道具に爆発物を使うにしても、こんな殺し方はしない。こんなにもむごたらしい殺し方をわざわざ選んだ犯人は、どのような人格の持ち主なのか、岡本は気になってしまった。

 

 資料のコピーを譲ってくれた同期の言によると、刑事課ではいまだ、犯人像の特定さえ出来ていないという。現場に選ばれた倉庫から回収出来た証拠品は少なく、また手がかりに乏しかった。女の口を塞いでいたガムテープ。手足を拘束していた粘着テープ。廃材置き場から拾ってきたかのようなボロボロのアームチェアーの破片群。ナショナル・ブランドの目覚まし時計の部品……。いずれも、犯人の特定に役立つ物ではない。念のため、科学捜査研究所に鑑定を依頼したとのことだが、向こうの担当者も、あまり期待しないでほしい、との返答だったという。

 

 証拠品から犯人に辿り着くことが難しいとなれば、残る手段は、被害者の身元と、死体の状況から、一歩々々近づいていくしかない。このうち、被害者の身元については、刑事課の精鋭たちが、歯形や顔写真を手がかりに、市内の歯科医を片っ端から回っているというから、近いうちに特定されるだろう。ならば自分は、と岡本は死体検案書を読み解くことにしたのだった。

 

「死亡時刻、四月十五日の午前零時から午前三時の間」

 

 岡本は病理学者の報告を声に出して読んだ。

 

「死体の損傷部位は、両耳、両手の十指、背骨、頭蓋骨の右側頭部、心臓と肺、鳩尾から下の下半身全部と多数見られるが、このうち、内臓と下半身の損傷以外はすべて、血液凝固の具合から、死亡する二時間前以内に負った傷と推定される。また、被害者の体内からは、多量の麻酔薬の成分が検出された」

 

 つまり、被害者の女性は死の直前まで、手酷い拷問を受けていたわけだ。資料を握る岡本の拳が小さく震えた。

 

「直接の死因は、爆傷による心肺の停止と、内臓損傷による大量失血の複合と推測される」

 

 岡本は頭の中でその光景を組み立てていった。犯人はまず、被害者に対し後ろから襲いかかった。何か鈍器を使って背中を叩いて背骨を砕き、倒れたところを、今度は右側頭部を叩いて気絶させた。気を失っている間にアームチェアーに縛りつけ、全身に麻酔薬を注入した。被害者は触覚をほとんど奪われた状態で、まず右手の親指から小指までを順番に切り落とされた。犯人はしかし、失血による死を許さなかった。相手は指を一本切り落とすごとに、高温の物体を押し当てて傷口を焼き塞いだ。おそらくは、焼きごてのような道具を使ったのだろう。犯人は右手の指を全部切り落とした後、次いで左手お親指から小指までを順番に切り落とし、そして被害者の両耳を削ぎ落とした。勿論、傷口にはすべて、焼きごてを押しあてた。十分、気がすんだところで、最後に爆弾を使って、彼女の下半身を吹き飛ばした。

 

 問題は、どんな爆発物を、どのように使ったかだ。岡本の関心は、続く記述に寄せられた。

 

「犯行現場より回収された被害者の小腸の一部から、不完全燃焼状態の火薬が検出された。科学捜査研究所に鑑定を依頼したところ、黒色火薬と判明する。このことから、被害者は直腸内に、黒色火薬による爆弾を詰め込まれて殺害された、と推測される」

 

 まともな神経の持ち主ではない。普通の人間は、そんな想像力を持ちえない。この事件の犯人は異常者だ。これは、狂人の手による犯行だ。……そう思う一方で、岡本は、「今回の事件は、冷静なる狂気をもって実行されたのだ」とも、思った。

 

 問題は、犯行に使われた爆発物だ。黒色火薬は、言うまでもなく最初期の爆薬だ。今の時代、もっと高性能な火薬はたくさんある。たとえばTNT。トルエン酸を主成分とし、爆轟速度は黒色火薬の十七倍超、ガスの発生量も、三倍近い開きがある。確実な殺害を期するのなら、こちらを使った方がよい。犯人はなぜ、黒色火薬にこだわったのか。考えられる可能性は二つ。

 

 一つは、黒色火薬しか入手出来なかったという可能性だ。銃刀法や火薬類取締法など、各種の法整備が充実しているこの日本で、火薬類を非合法に調達したり、材料を揃えたりするのは難しい。それは高性能火薬ほど顕著で、TNTなどは、限られたごく一部の業者を除くと、アンダーグラウンドかつダーティな組織の手助けが必要だ。

 

 しかし、そんな日本でも、黒色火薬だけは例外だ。火薬そのものはともかく、材料だけならば、比較的容易に取り揃えることが出来てしまう。調合も、高校卒業程度の化学の知識があれば、危険は伴うが出来てしまう。また、時間はかかるし、威力も弱いが、市販の花火などから火薬をかき集め、量をもって殺傷力を増す、という手段もある。今回の事件の犯人も、本当は高性能火薬が欲しかったが、その入手が出来なかったために、黒色火薬で妥協したのか。

 

 もう一つは、高性能火薬を入手することは可能だったが、警察の捜査を攪乱するため、あえて黒色火薬を選んだという可能性だ。先述の通り、日本で高性能火薬を非合法に入手するのは難しい。正規の業者をだまくらかすにせよ、非合法な組織の協力を仰ぐにせよ、そういった入手ルートは大抵の場合、公安警察の監視下にある。悪用すれば即、足がついてしまう。

 

 その点、黒色火薬は調達手段が豊富なために、警察も徒手空拳では入手ルートの特定がしづらい。先述の市販の花火からかき集める、という可能性まで考慮した場合、それこそ、ネット通販を含めた世界中の花火取扱店を捜査対象とせねばならない。

 

 ――警察の捜査を遅らせるために黒色火薬を選んだのだとしたら……狂人の発想力と、高度な知性を併せ持った人間ということになる。

 

 たとえるならば、トマス・ハリスのミステリー小説『羊たちの沈黙』に登場する、ハンニバル・レクターのような人物か。岡本は、将棋の駒のように角張った顔を強張らせた。もしも犯人が、本当にそのような人物であったとしたら、

 

「恐るべき相手だ。大阪府警の総力をもって立ち向かわねば、この事件は迷宮入りになる」

 

 そんなことは許さない、と岡本は決然とした眼差しで、死体検案書を睨みつけた。

 

 

 

 

 

 

 




SF日本社会が舞台で、日本政府に与する立場の暗部組織が登場するのなら、内調との関わりへの言及は、避けては通れないと思うの。


なお、内調の人たちはまったく気づいていないけど、クルマ好きの鬼頭を懐柔するのは、結構、簡単だったりします。

目の前でGT-Rのキーをちらつかせれば、彼、ホイホイ着いてきます(笑)。




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Chapter16「青い約束」

いつもよりちょい短めのお話。

あと、今回、一夏の行動を原作とはちょっと変えてみました。

彼の性格上、あそこで彼女を追いかけないというのは、なんか違うよなあ~、と思ったので。






 IS学園第二アリーナ隣の整備室で、更識簪は、作業台の上に置かれたメカニカル・キーボードを一心不乱に叩いていた。

 

 今年、IS学園に入学したばかりの、一年生の娘だ。くせっけの強い空色の髪を、肩甲骨のあたりまで伸ばしている。身長は一五四センチと、この年頃の女性の平均身長と比べて、そこまで低くはないが、華奢な体つきや、美人なれどまだ幼さを残す顔立ちなどから、実際の数字よりもいくぶん小柄に見えた。長方形型のレンズの向こう側で、真紅の宝石が二つ並んでいる。

 

 キーボードを叩く簪の眼差しは、手元に向いていなかった。

 

 赤い双眸が見つめるその先には、空間投影式のディスプレイが浮かんでいた。表示されているのは、現在開発中のISの、進捗状況に関するデータだ。強化外装・九十八式。和名を、〈打鉄弐式〉という。その名からも明らかなように、第二世代機の傑作……〈打鉄〉をベースに開発された第三世代機だ。本来ならば、IS学園の入学と同時に受領していたはずの、彼女の専用機だった。簪の入学時の席次は次席。日本の代表候補生の一人なのだ。

 

 簪の専用機の完成は、当初の予定よりも大幅に遅れていた。〈打鉄弐式〉の開発が始まったのは、いまから一年以上前のことだ。

 

 当時、各国で第三世代機の開発が着々と進む中、日本でも、新世代機の開発計画がスタートした。国内で唯一、ISそのものの開発能力を持つメーカー……倉持技研へ機体の開発を依頼すると同時に、その操縦者の選定が始まった。半年前の選抜試験で優秀な成績を収めた簪は、IS学園への国家政府推薦枠を獲得すると同時に、新世代機の運用試験者の栄誉も手に入れた。機体は三月中には完成し、完成後の諸検査をパスした後、学園の入学式の日に彼女に渡される、そのはずだった。

 

 二月下旬に織斑一夏が、そして三月初旬に鬼頭智之が発見されたことで、計画のスケジュールが狂い始めた。

 

 前例なき男性操縦者の保護とデータ収集のため、日本政府は急遽、彼らのための専用機を用意する必要に迫られた。司馬総理は首相官邸で緊急の国家安全保障会議を開いた。当初は、叶情報官の意見――IS学園か自衛隊から、標準仕様の〈打鉄〉を二機貸与する――が尊重され、話がまとまりかけたが、議決を採る直前、倉持技研から技術的なことについてのオブザーバーとして招聘した篝火ヒカルノが、待ったをかけた。

 

「彼らは男性操縦者という過去に前例のない存在です。普通の〈打鉄〉では、データ収集機として性能が不足しています。ここはやはり、二人に合わせて一から作るべきです」

 

 篠ノ之束を例外とすれば、彼女は日本のIS開発の先頭をひた走る存在だ。そんな第一人者の言葉に、国家安全保障会議は揺れた。最終的に、予算や期間の問題から、織斑一夏に対しては新規開発、鬼頭智之に対しては、〈打鉄〉の改修機をあてることになった。

 

 この議決により、新たな問題が発生した。すなわち、織斑一夏の専用機の開発を、どこに依頼するかだ。先述の通り、日本にISの開発能力を持っている企業は一社しかない。その倉持技研は、現在、簪の専用機に全精力を傾けている真っ最中だ。とてもじゃないが、そんな余力はない。

 

 かといって、国外のメーカーに依頼するのは論外だ。男性操縦者のデータが海外に流出するような事態は避けたい。

 

 政府はやむなく、倉持技研に対し打鉄弐式の開発を一時中断して、織斑一夏の専用機開発を優先するように指示を出した。倉持技研はこの要請に応じた。会社が抱えている技術者たちを総動員し、昼夜を問わぬ突貫工事をもって、作業にあたった。その結果、一夏の〈白式〉はクラス代表決定戦の日に間に合ったが、逆に簪の機体は、今週末のクラス対抗戦までに間に合わないことが確定してしまった。

 

 この仕打ちを、簪は当然、不満に思った。〈白式〉の完成後、倉持技研は、「これで開発作業を再開出来る」と、声をかけてきた。しかし簪は、「私はもう、あなたがたのことを信用出来ません」と、彼らの申し出を断った。彼女は、開発途中の〈打鉄弐式〉を倉持技研から強引に引き取ると、なんと自分の手で機体を完成させてみせる、と言い出したのだ。

 

 倉持技研のスタッフたちは、当然、反論した。

 

「更識さん、あなたが優秀な人間だということは我々もよく承知している。しかし、いくらあなたでも、たった一人でISを完成させるなんてことは、無茶が過ぎる。そんなことが可能なのは、篠ノ之束博士くらいのものだ。

 

 今回の件については、我々からも謝罪します。だからどうか、もう一度、あなたの専用機を、我々に預けてほしい」

 

 しかし、簪は意固地だった。彼女はかぶりを振ると、

 

「私の姉は、たった一人で専用機の〈ミステリアス・レイディ〉を完成させてみせました。姉に出来て、私に出来ない道理はありません」

 

 簪は倉持技研のスタッフたちとの議論を打ち切った。彼女は学園に事情を説明し、整備室などの施設を優先的に扱える特権を得た。以来、昼休みや放課後は勿論、授業合間の休み時間すらすべて費やして、日々開発作業に努めていた。

 

 二月に織斑一夏の存在が発覚した時点で、打鉄弐式の機体そのものはほぼ完成していた。残るは固定兵装と、機体制御用のOSや火器管制機能といったソフトウェア部分で、総合的には、完成度は七割といったところだろう。

 

 武装や火器管制については、目下、勉強中だ。

 

 四月半ばのいまは、機体制御用OSの完成を目指している。

 

 この日も、六限目の授業が終わるとすぐ第二整備室にやって来た簪は、かれこれ三時間ばかり、プログラミング作業に没頭していた。今日の目標は、腕部ユニットの挙動を制御するためのプログラムを組むことだ。三時間かけてやっと、右腕分のプログラムを用意出来た彼女の顔には、明らかな疲労の色が見て取れる。

 

 ――一旦、休憩しよう。

 

 簪は空中投影ディスプレイを一旦、クローズした。スクエア型の眼鏡をはずし、目の周りの筋肉を優しく揉む。と同時に、首や肩も回した。長時間、同じ姿勢で作業をしていたため、すっかり凝り固まっている。

 

 外の自販機でジュースでも買ってこよう、と再び眼鏡をかけた彼女は、踵を返し、そのときになってようやく、第二整備室に、自分以外の人間がいることに気がついた。

 

「……っ!」

 

 眼鏡の奥で、簪の双眸が大きく見開かれた。

 

 自分の作業区画より二ブロック離れたその場所に、彼女の専用機開発が遅れてしまう原因の端緒を作った男がいた。鬼頭智之。たった二人しかいない男性操縦者の片割れ。空中投影ディスプレイを同時にいくつもオープンにした状態で、かたわらに座るセシリア・オルコットとともに、何やらキーボードを叩いている。距離の隔たりがあるため、話し声はほとんど聞こえてこないが、なにやら白熱した議論が行われている様子だった。

 

「……」

 

 鬼頭を見る簪の眼差しは、険を帯びながらも、どこか複雑そうだった。

 

 〈打鉄弐式〉の開発が遅れた原因が彼にもあるのは間違いない。しかし、彼に悪意があったわけでもない。織斑一夏にせよ、鬼頭智之にせよ、彼らはたまさかISを動かせただけで、こんな事態になるとは予測出来なかったはずだ。

 

 だから、彼を恨むのはお門違い。簪とてIS学園に入学するほどの才媛だ。そんなことは分かっている。

 

 けれど、理屈と、感情は別だ。

 

 どうしても、彼らに対するこの八つ当たりじみた感情を捨てることが出来ない。

 

 そして同時に、そんな自分に対し嫌悪感を覚えてしまう。

 

 ――やめよう。

 

 これ以上、彼のことを見ていても辛いだけだ。

 

 そう思い、簪は整備室から退出するべく歩き出した。扉の位置関係上、どうしても鬼頭たちの側を通り抜けねばならないから、足音を立てぬよう、静かに歩を進めていく。

 

 鬼頭たちが作業する区画の前まで差し掛かった。簪の存在に気づき、二人が会釈してくる。簪は小さく「どうも」と、こちらも小さく会釈して、

 

 ――……え!?

 

 一瞬、視界に映じたディスプレイに表示されている情報を見てしまい、瞠目した。

 

 ――なに、あれ……?

 

 BTシステム管制用OS改良プラン。

 

 そう、銘打たれている。

 

 問題は、その中身だ。

 

 これは、

 

 このシステムは……!

 

 簪は、ぶるり、と思わず胴震いした。

 

 突然、立ち止まって茫然とした表情を浮かべる彼女の様子に、鬼頭は怪訝な表情を浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter16「青い約束」

 

 

 

 

「今日はひとまず、これくらいで切り上げよう」

 

 〈ブルー・ティアーズ〉のBTシステムの解析が一段落ついたとき、左手首のボーム&メルシェは、午後六時五十分を指していた。

 

 学生寮の食堂は、夜八時で閉まってしまう。これ以上、整備室で作業をしていると、夕食を食べ損なってしまいかねない。鬼頭の提案にセシリアも頷き、二人は整備室を後にした。その足で、学生寮の食堂へ向かう。

 

 今日は頭をすこぶる使った。体が糖を求めている、と担々麺とデザートのごま団子を注文しようとしたところ、

 

「お父様、陽子さんの目がないからって、糖質量の多いものは厳禁ですわよ」

 

「……セシリア、後生だ。見逃してくれい」

 

「ダメです。昨年の健康診断の結果は、私も陽子さんから聞きました。血糖値の数字がぎりぎりだったそうで」

 

「ぐぅっ。小うるさいのが増えた!」

 

 鬼頭は泣く泣く、炭水化物は担々麺のみにとどめた。

 

 夕食を終え、食後のコーヒーブレイクも済ませると、彼はセシリアと別れて自室の1122号室を目指した。時刻は八時二十分。新たに出現した厄介な監視の目をいかにやりすごして糖分を摂取するか、頭を悩ませながら歩を進む。やがて、1122号室の戸が見えてきたところで、

 

「っ……!」

 

「おっと!」

 

 T字路になっている曲がり角から急に飛び出してきた小柄なシルエットと、ぶつかってしまった。予期せぬ衝撃にバランスを崩しそうになるも、相手が華奢だったおかげで、尻餅をつくことだけは免れる。

 

 他方、ぶつかってきた少女はさすがに若いだけあって、運動神経と反射神経が素晴らしい。こちらはさほど動揺もなく、踏ん張ってみせた。

 

「わっ、あッ、その、ごめ……って、アンタは!?」

 

「いや、こちらこそ。そちらは、怪我は?」

 

 顔を見て、驚いた。ぶつかってきたのはあの凰鈴音だった。頬が紅潮し、目尻には涙の滴が浮かんでいる。

 

「きみは……」

 

 鬼頭は相手が自分に対し悪感情を持っているであろうことも忘れて、口を開いた。

 

「どうしたんだい? どこか、痛めてしまったかい?」

 

「べ、べつにそういうわけじゃ……」

 

「おーい、鈴!」

 

 そのとき、曲がり角の向こう側から、聞き慣れた声が響いてきた。一夏の声だ。察するに、彼女を追いかけきたらしい。

 

 一夏の声を耳にするや、鈴音は途端、慌て始めた。近づいてくる声と足音に対し、怯えたような眼差しを向ける。鬼頭は、ふむ、と頷いた。その場から走り出そうとする彼女の手首を、むんず、と掴む。

 

「えっ、な、何を……!?」

 

「こちらに」

 

 鬼頭は1122号室へと彼女を引っ張った。幸い、陽子は在室中らしく、ドアに鍵はかかっていない。タイムロスなく戸を開けると、室内に鈴音を押し込んだ。

 

「ちょっと待っていなさい」

 

 茫然とした眼差しで見つめてくる彼女に完爾と微笑みかけ、鬼頭はそっとドアを閉じた。

 

 ちょうどそのタイミングで、T字路から一夏が飛び出してきた。

 

 かぶりを振って左右見て、鬼頭の姿を認めて近づいてくる。

 

「智之さん、あの、鈴のやつを見ませんでした?」

 

「凰さんを?」

 

 鬼頭はかぶりを振った。

 

「いや、私は見ていないが……」

 

「くそっ。あいつ、どんだけ足速いんだよ」

 

 一夏はがっくり肩を落として溜め息をついた。どうやら彼女の部屋の番号を知らないらしく、それ以上の追跡は諦めた様子だ。

 

「凰さんと、何かあったのかい?」

 

 よくよく考えてみると、自分とぶつかる前から、彼女は泣いていたように思う。あの頬の紅潮ぶりは、ぶつかってどこかを痛めたから、では説明がつかない。

 

「えっと、その、実はさっきまで、俺と箒の部屋を、鈴が訪ねてきたんですけど、そのときに、俺があいつを怒らせてしまって」

 

「怒らせてしまった原因は? 差し支えがなければ、教えてもらえるかな?」

 

「ええと、小学校時代に、あいつとちょっとした約束をしたんですよ。それを俺が間違えて覚えていたみたいで、鈴にはそれがショックだったみたいで……」

 

「なるほど、それで謝ろうと思って追いかけていた、と」

 

「そうです」

 

「なるほど……」

 

 鬼頭は一夏の顔を、じぃっ、と見つめた。

 

 一見したところ、いまの彼は感情が先走りすぎているように思う。鈴音を怒らせてしまった。自分の無神経な言葉で、大切な友達の心を傷つけてしまった! そんな罪悪感に、行動のすべてを支配されているように見える。その気持ちはよく理解できるし、大切にしてほしいとも思うが、そのせいで、本当にやるべきことを忘れてしまっているように思える。

 

「それで、覚え間違いをしていた約束については、ちゃんと思い出せたのかい?」

 

「それは……」

 

 一夏は返答に窮してしまった。この反応を見て、鬼頭は険を帯びた口調で、重ねて問う。

 

「ちゃんと思い出せてはいない、そうだね?」

 

「はい」

 

「つまり、彼女が何に対してショックを受けたのか、どうして怒りという反応が起こったのか、ちゃんとは理解していないわけだ?」

 

「うっ……その、はい」

 

「それなら、いまは時間を置くべきかもしれないな」

 

 鬼頭は小さく溜め息をついた。

 

「怒りの原因についてちゃんと理解していないのに、謝ったりなんてしたら、かえって話をややこしくしかねない。自分のせいで相手が傷ついてしまった。原因は分からないが、とにかく謝ろう! ……そういう心理状態から生まれる謝罪の言葉は、軽いよ」

 

「でも、俺があいつを傷つけてしまったことに、変わりないですし。せめて、そのことだけでも謝らないと!」

 

「その気持ちは素晴らしいと思うがね」

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。少年の左肩に、そっと右手を乗せる。

 

「いま、きみが凰さんのためにやるべきことは三つあると思う。一つは、覚え間違いをしていたという約束について、しっかりと思い出すことだ。いまは凰さんを怒らせてしまったことに対する罪悪感で、頭の中がいっぱいだろう。そんなカッカした頭では、冷静な判断は下せない。一旦、頭を冷やしてから、ちゃんと考えてみるといい。

 

 二つ目は、凰さんを怒らせてしまった原因は、本当に約束の覚え間違いなのか、改めて考えてみることだ」

 

「ええと、それは、どういう?」

 

「怒りの原因について、約束以外の可能性も考えておきなさい、ということだよ。こちらは約束が原因だと思っている。向こうの認識は違う、ではどんなに誠意のこもった謝罪も、相手の心には届かない」

 

「な、なるほど」

 

「もしかすると、織斑君が覚えていたという、約束の内容自体は間違っていなかったのかもしれない。でも、その解釈が、きみと、凰さんとでは違っていたとしたら? そういうことも、考えておくべきだろうね。

 

 そして三つ目。約束について、ちゃんと思い出せなかった。他の原因についても、まったく見当がつかない。それでも、謝りたい。そうなったときのための謝り方を、しっかりと考えておくことだ。相手のことを想ってちゃんと考え抜かれた謝罪の言葉というのは、気持ちが伝わるものだよ。

 

 ……人間関係においては、とにかく感情を優先した、思いつきの行動は厳に慎むべきだ。まずはよく考えてみることだね」

 

 どの口が言うのか、と内心ひっそりと自嘲する。実際、己ほどこの言葉が似合う男も珍しいだろう。つい最近も、セシリアとの試合で陽子が墜落していくのを見て、感情を暴走させてしまった。一刻も早く彼女のもとへ駆けつけねば、とピットゲートの扉を壊し、千冬や真耶たちに多大な迷惑をかけてしまった。

 

 とはいえ、自分がそうでないからといって、若い一夏に対し、言うべきことを言わないのは大人として問題だ。

 

「これは、履歴書にバツが一個ついているオジサンからの、人生についてのアドバイスだよ」

 

 諧謔めいた言葉で締めくくるも、一夏は苦笑さえしてくれなかった。自分の言葉について、真剣な表情で考えてくれている。

 

「……分かりました。今日のところは、一度、部屋に戻ります」

 

「ただ、先ほども言ったが、すぐに謝りたい、と思って行動を起こしたことは、とても素敵なことだと思う。私も、もし、彼女のことを見かけたら、織斑君が謝りたがっていたよ、とは伝えておこう」

 

 鬼頭が言うと、一夏の表情が、ぱあっ、と明るくなった。「お願いします」と、深々と腰を折る。剣道をやっていただけあって、こういう礼儀作法についての所作は堂に入っている。眺めていて気持ちがいい。

 

 一夏がその場から離れていくのを見送った後、鬼頭は、そうっ、とドアを開いた。

 

 案の定、ドアにへばりついて耳をすませていたらしい鈴音が、前につんのめりそうになりながら出てくる。

 

「わっ、と、ととっ……!」

 

「IS学園のドアや壁は分厚い」

 

 カネをかけているだけあって、その遮音性は素晴らしい。静寂性のみでいえば、室内環境はちょっとしたオーディオルーム並みだ。

 

「頑張っていたみたいだが、聞こえなかっただろう? 大丈夫、彼と何を話していたか、ちゃんと教えるさ」

 

 言いながら、鬼頭は彼女の目元を見た。涙こそ拭い去られていたが、いまだ赤く腫れている。こんな顔のまま放置するのもはばかられる。

 

「きみさえ嫌じゃなければ、少し、私の部屋で休んでいきなさい」

 

「あ、その……ありがとう、ございます」

 

 ぼそぼそ、と小さな声によるお礼。助けてくれたことは感謝しているし、一夏との会話の内容についても知りたい。しかし、自分に対する悪感情から、素直には口に出来ない、といったところか。

 

 やはり若者は難しいなあ、と鬼頭は苦笑し、

 

「……お父様」

 

 部屋の奥からやって来た陽子の顔を見て、彼の表情は硬化した。

 

 愛娘は、すでに化粧を落として、すっぴんの顔をさらしていた。口角がひくついている。かたわらの鈴は、気遣いからか、なるべくそちらに目線を向けないようにしている。

 

「またですか?」

 

「あの、その、ええと……ご、ごめんなさい」

 

 一度ならず、二度までも。他人に素顔をさらさせられた陽子の怒りの眼光が、鬼頭の心臓を射抜いた。

 

 

 

「何か飲むかい?」

 

 悄然とする鈴音を自身の学習机とセットの椅子に座らせた鬼頭は、キッチンから彼女に問いかけた。

 

 以前、セシリアがこの部屋を訪ねた際、もてなしにアイスティーを出したところ、なぜか不評だった。以来、また彼女が訪ねてきてもいいように、と、いまや1122号室のキッチン戸棚や冷蔵庫には、紅茶やコーヒーなど大抵の物が揃っている。

 

「えっと、特には、いいです」

 

 鈴音は、ふるふる、とかぶりを振った。一夏と接していたときと比べて、その態度は借りてきた猫のように大人しい。

 

 鈴音の返答に鬼頭は、ふむ、と少し考え込んだ後、やがて完爾と微笑んだ。

 

「私はいま、紅茶を飲みたい気分でね」

 

 言いながら、水をたっぷり注いだ薬缶をコンロにかけた。湯を沸かす間に、ポットとカップを食器棚から用意する。

 

「ポットの大きさ的に、湯を三杯分くらい注ぐと、中で茶葉がほどよく踊って、良い感じの味が出るんだ。付き合ってもらえると助かるよ」

 

「……そういう、ことなら」

 

 我ながらずるい駆け引きだなあ、と苦笑する。

 

 湯が沸いて、まずはカップとポットに注ぎ、器を十分、温めたところで湯を捨てた。その後、ポットに茶葉を四杯分投じて、改めて湯を注いだ。茶葉の分量は、先日、英国出身のセシリアから教えられたゴールデンルールに則ったやり方だ。なんでも、人数プラス一杯分多く入れるのがコツなんだとか。試しにやってみて、美味かったので、以来、鬼頭もそうしている。

 

「角砂糖は何個がいい?」

 

「えっと、二個でお願いします」

 

「わたしも二個で。あ、お父さんは一個までね」

 

「……ちっ。了解」

 

 おたまの上に、角砂糖を五個載せた。キッチン戸棚からレミーマルタンを取り出し、ほんの少し、角砂糖に垂らす。コンロの火をつけて、おたまをあぶった。コニャックのアルコール分を飛ばす。

 

「おい、そこの不良学生。寮にお酒を持ち込むんじゃないよ」

 

 キッチンにやって来て作業を眺める陽子が唇をとがらせた。鈴音の位置からは見えない角度で、急いで最低限の化粧を施している。過日、セシリアを接待したときと同様、ホッケーマスクを持ち出そうとしたのを、鬼頭がやんわりと制止したのだった。

 

 愛娘からの厳しい指摘に対し、「織斑先生たちには内緒で頼むよ」と、応じながら、鬼頭はカップに紅茶を注ぎ、角砂糖を落とした。ブランデーは気付けの薬にも使われていた酒だ。これでいくらかでも、気分が落ち着いてくれればよいが。

 

 ソーサーに載せた状態で、カップを鈴音のもとへ差し出した。彼女はおずおずと手をのばし、紅茶で満たされたカップをつまむと、唇に寄せ、傾けた。こくり、と喉が動いたのを見届けて、自身のベッドに腰かけた鬼頭は、自らも紅茶を口に含んだ。舌の上で、フルーティな味わいが転がる。

 

 紅茶を飲む鈴音に目線を向けた。味はどうだい、などと答えづらい質問は口にしない。代わりに、「そろそろ、話しても?」と、訊ねた。

 

 鈴音はカップをソーサーの上に置き、さらに両の拳を膝の上に置いたしゃっちょこばった姿勢で、強張った表情を頷かせた。

 

「まず、織斑君と何を話したのかだが……」

 

 鬼頭は先ほどの一夏との会話の内容をかいつまんで伝えた。勿論、一夏がいまだ約束についてちゃんとは思い出せていないことなど、彼の不利益になりそうな情報は取捨選択した上で、言葉を選ぶ。

 

「……そういうわけで、謝りたがっていたよ。大切な幼馴染みのきみを傷つけてしまったことを、心から後悔している様子だった」

 

「そう、ですか」

 

 鈴音はうつむきながら、自分の口にした内容について、なにやら考え込んでいる様子だ。

 

「あの……」

 

「うん?」

 

「年長者の意見を、おうかがいしたいんですけど……」

 

「うん」

 

 鬼頭が頷くと、しかし、鈴音はしばらくの間、口を閉ざしてしまった。自分から言い出したにも拘らず、とは思わない。先ほどの一夏もそうだったが、この年頃の若者というのは、理性よりも感情が優先しがちだ。自分にも、覚えがある。

 

 鬼頭は最初の首肯以外に、彼女の言葉を促すようなアクションは起こさず、相手が口を開くまで、じっと待ち続けた。

 

 やがて考えがまとまったか、鈴音はゆっくりと言の葉を紡いでいった。

 

「もしも、鬼頭さんが女の人から、これから毎日酢豚を作ってあげる、と言われたら、どういう意味だと思いますか?」

 

「プロポーズの定型文の一つだね。日本流でいうのなら、味噌汁を作ってあげる、といったところか」

 

 鬼頭は紅茶をひとすすりしてから頷いた。なるほど、一夏が覚え間違えていた約束の内容とはそれか。しかし、なんとも古式ゆかしい愛の言葉だ。四十代の自分たちでさえ、実際に使ったことはない。

 

「きみのように若いお嬢さんからそんな言葉を聞くとは、思わなかったが」

 

「ええと、父さん、どういう意味?」

 

 化粧を終えてキッチンからやって来た陽子が訊ねた。

 

 そうだよなあ、いまの若い子の場合、分からない方が当然だよなあ、と、鬼頭は内心呟きながら、同性の陽子が口にした言葉に愕然としている鈴音を見ながら口を開く。

 

「たしかに、いまの若い子たちにはわかりにくいかもしれないな。昔――といっても、昭和の頃の価値観だが――、日本の朝食といえば、炊きたてのご飯に熱々の味噌汁というのが定番だった。そんな毎朝の味噌汁を作ってくれ、というのは、二アイコール、僕と一緒に暮らしてください、結婚してください、と同義語だったんだ」

 

「なるほど。……ええと、それで、なんで酢豚に?」

 

 陽子は訝しげな表情を浮かべながら、今度は鈴音を見た。彼女たち二人は今日の昼食を一夏らと一緒に摂り、その際に互いに自己紹介をしている。

 

「あ、あたしなりのアレンジってやつよ。その……、そのまんま伝えるのは、さすがに恥ずかしかったし」

 

「はあ、伝える……」

 

 今朝、一年一組の教室にやって来たときや、昼食時の様子を思い出す。およそ一年ぶりに再会した幼馴染みと、久闊を叙したい気持ちは勿論あっただろう。しかし、それにしたって、一夏に対し懐きすぎのような……。ひょっとして、目の前の少女は、

 

「……もしかして、織斑君と昔、交わした約束ってそれ?」

 

「う、うん」

 

「ははあ、なるほど」

 

 恥ずかしそうに頷く鈴音を見て、陽子は得心した様子で頷いた。ようやく、一夏とも彼女とも言葉を交わしていない自分にも、状況が見えてきた。そうか。目の前の少女もまた、彼に対し恋慕の情を抱いているのか。

 

「ええと、つまり、こういうこと? 織斑君と凰さんは小学生のときに約束をした。内容は、凰さんが織斑君に対して、毎日酢豚を作ってあげる、っていうプロポーズの言葉。その当時、織斑君がそのことに気づいていたかどうかは分からないけど、一応、彼も了承した。

 

 で、ついさっき、織斑君が約束をちゃんと覚えているかどうか確認した。そしたら、覚え間違いをしていた。それで、悲しくなって、彼に対して攻撃的な態度を取ってしまった上、彼の前からも逃げ出してしまった、と」

 

「……あんた、すごいわね」

 

 紅茶を一口すすった後、鈴は感心した様子で呟いた。落涙を禁じえぬほどの感情の昂ぶりは去っていった様子だが、表情はまだ暗い。

 

「まるで、その場にいたみたい」

 

「これでも、父さんの娘なので」

 

 陽子はちょっと誇らしげに言うと、「っていうことは、やっぱり?」と、話の続きを促す。

 

「まあ、大体、あんたの想像通りの感じよ。あたしね、小学生のときに、一夏に言ってやったの」

 

 話しているうちに怒りがぶり返してきたか、鈴音の語調は次第に荒々しくなっていった。

 

「料理の腕が上達したら、毎日、酢豚を食べさせてあげる、って。それで一年ぶりに再会して、ドキドキしながら約束を覚えているか、って確認したら、あいつ、何て言ったと思う? 『酢豚を奢ってくれるんだったよな?』よ。奢るって何よ、奢るって!」

 

「うわ、それは……」

 

「織斑君……」

 

 鬼頭親子は顔を見合わせた。なにしろ子どもの頃に交わした約束だ。詳しい内容について、記憶違いが生じたとしても無理からぬことだが、それにしたって、この間違い方は酷い。

 

 一夏の言によれば、鈴が彼の通う小学校にやって来たのは、小学五年生のときのことだという。とすれば、二人が約束を交わしたのは、小五か、小学六年生のときということになる。それくらいの年齢の少女にとって、告白とは相当な勇気を要する行為だったはずだ。そんな幼き日の勇気を、かくのごとく扱われたとなれば、鈴音が怒るのも当然だろう。

 

「たしかに、それは酷いね。……でもさ」

 

 とはいえ、一夏ばかりが一方的に悪いとも、陽子には思えなかった。

 

「今回のことに関しては、凰さんにも、悪いところがあると思うんだけど」

 

「あたしにも?」

 

「うん。まず、酢豚を作ってあげる、ってプロポーズだけど、……正直、わかりにくい」

 

 父が口にした味噌汁のたとえでさえピンのこなかったのだ。酢豚云々言われても、何のことやらさっぱり。

 

 ましてや、一夏は当時小学生だ。自分と同じで、彼女の言葉がプロポーズだとは思いもせず、ために、奢る、なんて解釈が生まれてしまった。そしてそれが、そのまま記憶として定着してしまった。そんなところではないか、と陽子は推理した。

 

「わたしはいまのところ、誰か男の子を好きになるって経験がないから、あんま大きなことは言えないけどさ。そういう愛の告白って、好きです、って気持ちが相手に伝わらないと、意味ないわけじゃん。変にアレンジしたり、そもそも味噌汁定型文なんて使わずに、もっと分かりやすい言葉で伝えるべきだったと思う」

 

「だ、だからそれは……!」

 

「うん。恥ずかしかったから、って気持ちも分かるよ。告白って、勇気のいることだと思うもん。でもさ、そのせいで変な誤解を招いたんだとしたら、凰さんにとっても、織斑君にとっても、不幸なことだよ」

 

 好きという気持ちが伝わっていないばかりか、子どもの頃の約束を変なふうにとらえられている鈴音は勿論、今回の件における最大の被害者だろう。しかし、一夏の方もまた被害者といえる。彼の立場からすれば、仲の良かった幼馴染みの少女と久しぶりに再会し、嬉しい気持ちで胸がいっぱいのところ、突然、その彼女から理不尽に怒鳴られ、泣かれてしまった状態なのだ。

 

 一夏の視点から今回のことを改めて考えてみて、鈴音は顔を青くした。そんな彼女を見て胸を痛くしながらも、陽子は努めて平坦な口調で続ける。

 

「あともう一つ。織斑君が記憶違いを起こしていると知ったとき、なんで、約束の内容について訂正したり、改めて気持ちを伝えなかったの?」

 

 二人が約束を交わしたのは、最低でも四年は昔の出来事だ。今更、そのときの言葉を撤回することは出来ない。しかし、改めて想いを伝えることは可能だったはずだ。彼女はなぜ、それをしなかったのか。

 

「子どもの頃の約束を間違って覚えられていた。すごくショックなことだと思うよ。幼い日に振り絞った勇気を、踏みにじられたようなものだもの。悲しくて、悔しくて、腹立たしくて、つい暴言を浴びせてしまったり、ひっぱたいてしまったりするのも、よく分かる。じゃあさ、それならそれで、さっきは叩いてしまってごめん、酷い言葉をぶつけてしまってごめん、と謝った上でさ、改めて、気持ちを伝えればよかったじゃない。織斑君の記憶は間違っている。本当はこういう約束だった。そしてわたしは、いまもあなたのことを想っています、って伝えればよかったじゃない」

 

 自分と一夏との付き合いは短く、そして浅い。彼の為人については、知っていることの方が少ないが、それでも、彼が人の気持ちをないがしろに扱って悦に浸るような人格の持ち主ではない、ということだけは、はっきり断言出来る。気持ちを素直に伝えれば、少なくとも無碍には扱わないはずだ。彼女の気持ちと、自分の気持ち。その両方をよく考えた上で、何らかの結論を出してくれる、出そうとしてくれるはずだ。それを、なぜしなかったのか。

 

「織斑君も悪いけど、凰さんにも悪いところがあった。わたしはそう思うよ」

 

「何も知らないやつが、好き勝手に……!」

 

「うん。そうだね。わたしは織斑君と凰さんについて、何も知らない」

 

 怒気を孕んだ眼差しを、陽子は真っ向受け止める。彼女は毅然とした口調で応じた。

 

「二人がどんなふうに出会って、どんなふうに一緒の時間を過ごしたのか。凰さんはどうして織斑君を好きになったのか。何も知らない。だから、客観的に物事を語れる。事情を知らないからこそ、こうやって好き放題、口に出来る」

 

 一夏と、鈴音。二人のことをよく知らないからこそ、どちらの側にも肩入れすることなく、事態を客観視し、語ることが出来る。

 

「父さんは織斑君に、よく考えてから謝るように、って言ったみたいだけど。凰さんも、一旦、頭を冷やして、気持ちを伝えるにはどうすればいいか考えた上で、改めて彼と話してみたら? 怒鳴ってしまったことや、叩いてしまったことをちゃんと謝って、その上で、今度こそ、ちゃんと自分の言葉で、告白しちゃいなよ」

 

「で、でも、それでもし、断られたりしたら……」

 

 不安がる彼女に、陽子は優しく微笑みかけた。

 

「そのときは、わたしごときのこんな真っ平らな胸でよければ、貸しましょう。思う存分、泣き叫んでくださいな」

 

 ここまで深く事情を知ってしまった上に、アドバイスに近い発言までしてしまったのだ。それくらいのことはしてやらねば、と陽子は自らの胸元を叩いてみせた。

 

 鈴音は陽子の顔をじっと見据えた。デスクの上のカップに手をのばし、たっぷり一口、飲み込む。紅茶はすでにぬるくなっていたが、唇を湿らせたいだけだったから、飲みやすくて、かえってよかった。

 

「あんたさ」

 

「うん」

 

「昼休みのときに、自己紹介していたけど、もう一度、名前、聞かせてよ」

 

「鬼頭陽子だよ。お日様の子どもって書いて、陽子」

 

「陽子って呼んでいい?」

 

「うん」

 

「あたしのことは、鈴って呼んで」

 

「わかった」

 

「ねえ、陽子」

 

「うん」

 

「あんたの言ったこと、考えてみるわ。もう一度、一夏と話してみる」

 

 カップをソーサーの上に静かに置いて、鈴音は鬼頭を見た。

 

「紅茶、ごちそうさまでした。美味しかったです」

 

「そいつはよかった」

 

「最後に」

 

「うん?」

 

「一つ、お伺いしてもいいですか? これまでの話とは、まったく関係のないことなんですけど」

 

「私に答えられることならば」

 

 ベッドに腰かける鬼頭は姿勢を正した。

 

 対する鈴は、舌先で言葉を選びながら、慎重に口を開いていった。

 

「その、週刊ゲンダイの例の記事を読みました。鬼頭さんは奥さんと離婚しているとか」

 

「その通りだよ。しかし……」

 

「ああ、誤解しないでください。離婚の原因はDV云々のくだりは、あたし、端っから信用していないので。そもそも、あたし、お二人が離婚した原因とか、まったく興味ないですし」

 

 反論しようとする鬼頭の言葉を遮って、鈴は彼の顔を睨んだ。言葉の端々から、そしてなにより、面差しから感じられる凄絶な憤怒の感情に、鬼頭は表情を硬化させる。

 

「あたしが知りたいのは、陽子のことです」

 

「わたし?」

 

「それは……どういう?」

 

「お互い好きだったから、結婚した」

 

「うん?」

 

「そして、嫌いになったから離婚した。そんな大人の勝手に、子どもを巻き込んだことを、どう思っているんですか? 大人の都合に振り回される、子どもの気持ちを考えたことがあるんですか!?」

 

「……っ!」

 

 急速に、口の中が干上がっていくのを自覚した。

 

 言葉のナイフに、心臓を、真っ直ぐ貫かれたと感じた。

 

 鬼頭は眦が裂けんばかりに、鈴の顔を見つめる。その目線は、なんとしたことか、怯えていた。

 

「わ、私は……」

 

 口を開いてみるも、言葉が、まったく思いつかない。

 

 心が、そのことについて深く考えようとするのを、拒んでいた。

 

 脳への血流量が一気に低下し、目眩となって、鬼頭を襲う。

 

 まるで見えない手に後ろから突き飛ばされたかのように、鬼頭はベッドに腰かけたまま、前へと倒れそうになった。なんとか床を踏みしめて、こらえる。

 

 頭の中で、陽子の顔と、晶子の顔、そして智也の幼い笑顔が、浮かんでは消えていた。耳の奥で、鈴の質問が何度もリフレインし、彼に吐き気を催させた。

 

「……うっ、ぐぅ……っ」

 

 鬼頭は咄嗟に口元を押さえた。指の隙間から、くぐもった呻き声が漏れ出てしまう。声にならない、悲鳴だった。かたわらに立つ陽子が、父の異変に驚きながら、その背中を撫でさする。

 

「……答えられないんですね」

 

 そんな彼の醜態を、鈴は椅子から立ち上がり、冷然と見下ろした。

 

 額に大粒の脂汗を噴出させながら、鬼頭は顔を上げて、彼女を見た。

 

 真一文字に結ばれた唇の奥で、歯が、カチカチ、と震え、鳴いている。

 

「あたし、鬼頭さんみたいな大人の人、大嫌いです」

 

 怒れる語調で言い放ち、鈴は鬼頭親子の部屋を後にした。

 

 彼女が出ていった扉を見つめながら、鬼頭は、

 

「……なあ、陽子」

 

「うん」

 

「父さんは、彼女について、勘違いをしていたらしい」

 

「うん。わたしも」

 

 震える父の背中をさすりながら、陽子は溜め息をついた。

 

「鈴が父さんのことを良く思っていないだろう、ってことは、わたしも気づいていたよ。でも、その原因は、週刊ゲンダイの例の記事だと思っていた」

 

「父さんもだ」

 

「でも、違った」

 

「ああ」

 

 ようやく、まともに頭が働き始めた。鬼頭は愛娘の慈愛の手を制止して、再び姿勢を正す。

 

「週刊ゲンダイの記事は、たぶん、きっかけにすぎない。彼女はもっと別な理由から、私のことを嫌っているんだ」

 

 大人の都合に振り回される、子どもの気持ちを考えたことがあるのか。彼女はたしかに、そう言った。

 

 勿論ある。いやむしろ、晶子と離婚してからというもの、そのことを考えなかった日はない。

 

「……智也」

 

 いまは亡き息子の名を呟く声には、自然と、嗚咽が混じってしまう。

 

 自分と、晶子と、そしてあの男。

 

 大人たちの都合に振り回された挙げ句、失われてしまった命のことを思い、鬼頭は、奥歯を強く噛みしめた。

 

 

 

 

 翌日、生徒玄関前廊下に一枚の紙が大きく張り出された。

 

 表題は、クラス対抗戦日程表。

 

 第一回戦の対戦カードは、一年一組・織斑一夏 対 一年二組・凰鈴音 だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter16「青い約束」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 石川県金沢市。

 

 日本海に面するこの街の夜は、太平洋側の都市と比べて、往々にして暗い。その夜もまた、分厚い雲の天蓋に覆われた市内は暗く、スイートルームの大きな窓から見下ろせる煌びやかな夜景も、どこか活気が薄いように思えた。

 

 加藤耕作は金沢ニューグランドホテルのスイートルームにいた。

 

 ホテルに泊まるなんて経験は、会社が倒産して以来、久しぶりのことだ。週刊ゲンダイ編集部より追加報酬として振り込まれた金額はかなりの額で、こうした贅沢に費やしてもまだ使い切れぬほどだった。古沢貫一編集長曰く、自分の提供した情報を基に執筆した例の記事が掲載された号の週刊ゲンダイは、この出版不況の時代にも拘らず、飛ぶように売れたという。「鬼頭智之について、第二、第三の特集を考えています。また、よろしくお願いしますよ」と、貴重な情報源を手放したくない思いから振り込まれた追加の報酬を、加藤は湯水のごとく使っていた。久しぶりに大金を手にしたことで、彼はすっかり、自制心を失っていた。

 

 スイートルームを手配した加藤は、そこに女を呼んだ。出会い系サイトを利用して知り合った相手だ。割り切った関係を希望する彼女に、加藤は前金で三万円を払った。

 

「後ろを向け」

 

 加藤の求めに応じて、女はうつ伏せになった。彼女は最初のうちは彼の要請に従順に従っていたが、すぐに激しい抵抗を示し始めた。加藤が、尻の穴に入れようとしたためだ。

 

 「くそっ」と、加藤は吠えた。

 

「前金で、三万も払ったんだぞ」

 

「それをやるなら、あと三万はちょうだいよ」

 

 女の素っ気ない返答に、加藤は渋々頷いた。彼はまた女の背中にのしかかろうとしたが、女もまたもがき逃れた。

 

「三万を、いま渡して」

 

 加藤は女の態度を罵りながら、ベッドを下りた。クローゼットの中の鞄から財布を探し、一万円札を三枚抜く。

 

 女は尻を上げてうつ伏せになった。左手を開く。その手に、彼は万札を握らせた。女は、最初の三万円に対しそうしたように、一枚々々、丁寧に調べた。

 

「いいよ。やって」

 

 加藤は、今度こそは、と女の上に乗りかかった。彼の腰遣いは荒々しかったが、長くは続かなかった。彼の女の扱い方には、ひとかけらの優しさも見出せなかった。己ひとり、満足すると、呻き声とともに、体を離した。女の体が、するり、と逃げていく。

 

 女は素早く衣服とハンドバッグをつかみ、バスルームへ姿を消した。五分後にすっかり服を着込んで出てくると、彼女は加藤を見向きもせず、真っ直ぐラウンジを抜けて廊下へと出て行った。後ろ手で締められたドアが、ガタン、と苛立たしげな音を立てる。

 

「ちっ、大した女でもないくせに」

 

 加藤はベッドの上から女が姿を消したドアをしばらく見つめた後、忌々しげに言い捨てた。それから、バルコニーの方を振り返って、表情を凍りつかせた。栗色のカーテンが押し開けられ、そこに、六尺豊かな大男が立っていた。

 

 加藤は室内を明るくした状態でセックスをするのが好きだった。彼はすぐに男が何者なのかを見分けた。黒いスラックスに、黒長袖のポロシャツ。顔の造作は精悍だが、仁王のように厳めしい。男は茫然とする加藤のもとに歩み寄り、にこり、と微笑んだが、その目は笑っていなかった。お手本のような、アルカイック・スマイルだ。

 

「やあ、加藤さん」

 

 ベッドの上の加藤を、男は冷然と見下ろした。

 

「その様子だと、俺のことは、覚えていてくれたみたいだな。いやあ、嬉しいなあ。俺とあんたは、あいつの結婚式のときにたった一度、顔を合わせただけという間柄にすぎないというのに……。こっちはあんたのことを、あの週刊ゲンダイの例の記事を読むまで、すっかり忘れていたよ」

 

 加藤はたっぷり一分もの間、ベッドの上ですくみ上がっていた。やがて、そろそろと起き上がり、半分ほど上体を起こした。

 

「そういえば、これも思い出した。あんた、たしか俺と鬼頭から、カネを借りていたよな? たしか、太陽電池を製造する事業を興したいから、とか言って、出資者を募っていた。鬼頭から五百万を借りていたが、あのカネの一部はね、実は俺のお金でもあったんだよ。その後、あんたの会社は倒産し、あんたは行方をくらませた。俺と鬼頭が、借金の取り立てをする間もなくね。ちょうど良い機会だから。あのとき貸したカネの……そうだな、全額とは言わないから、利息分だけでも、返してもらおうか?」

 

「な、なんで、ここが……どうやって、俺の居場所を……!?」

 

「愚問だね、加藤さん」

 

 男は右手の人差し指を立てると、米神のあたりを軽く叩いてみせた。

 

「これでも、MITを次席で卒業した男だよ、俺は。普通の人よりも、頭のスペックが、ちょいと優れているんだ。本気を出せば、あんた一人見つけることぐらい、わけないさ。それで、用件なんだが……」

 

 男はブリーフケースのロックを開けると、金属製の輪っかを二つ、鎖でつないだ道具を取り出した。手錠だ。

 

「例の、週刊ゲンダイの記事にも書かれていた、情報提供者についてなんだが……」

 

「き、鬼頭のことについては、謝るよ!」

 

 加藤はベッドの上で頭を下げた。

 

「あいつの親友であるあんたが怒るのも、無理ないよ。あの内容は俺も、いくらなんでも酷い、って思っていたんだ。週刊ゲンダイに情報を提供したのは俺だって、名乗り出る。あの記事の内容のうち、ほとんどがデタラメの捏造記事だってことも、証言する。だから、その、許してくれ……!」

 

「……加藤さん、あんた、何か勘違いしていないかい?」

 

 黒いポロシャツの男は、呆れた様子で溜め息をついた。

 

「あの週刊ゲンダイに掲載された捏造記事については、たしかに俺も怒っているよ。けれど、捏造云々や、身の潔白の証明云々なんてのは、鬼頭のことだ。そのうち自分で、なんとかするだろうさ。俺がここに来たのはね、あいつの性格上、あいつには出来ないことをやってやるためなんだよ」

 

 ポロシャツの男は加藤の目の前で拳骨を作って見せた。手首の血管が、りゅう、と盛り上がり、巌のような鉄拳が、彼の心を静かに威圧する。

 

「あいつは、根っこの部分が、善人だからな。どんなに憎い相手でも、こういう手段は取れないからな」

 

 加藤は、悲鳴を上げながら男に飛びかかった。

 

 男の右手から、閃光が放たれる。

 

 右フックが頬骨をへし折ると同時に、六五キログラムの肉の塊を、宙へと弾き飛ばした。加藤の体は、玩具の人形のようにくるくると回りながら、数メートル離れたクローゼットの角に頭をぶつけてしまった。加藤はしばらくの間呻き、もがいていたが、やがて骨折の痛みから、失神してしまった。

 

 黒ポロシャツの男は無言で彼の側に歩み寄った。左手にのみ手錠をかけると、今度はブリーフケースからガムテープを取り出し、口と、目を塞いだ。そうしてから、彼は全裸の加藤を軽々と担ぎ上げた。左肩で背負い、右手でブリーフケースをつかむ。カーテンの揺れている、バルコニーへ向かった。

 

 スイートルームは、地上六階に位置している。

 

 バルコニーのへりから眼下をのぞくと、暗い夜の闇によって、地上までの距離は、実際の高さよりも遠くに感じられた。

 

 男は一切の躊躇なく手すりに足をかけ、加藤と、ブリーフケースを持ったまま、飛び降りた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ちなみに鬼頭たちは鈴が女尊男卑のいまの世の中を心地よく思っていることを知りません。

そして鈴は、世の中が女尊男卑である方が好ましいとする大人たちの都合に振り回された結果、とある家族が不幸をしょいこむことになった経緯を知りません。




あ、そうだ(唐突)。

オリキャラがたくさん登場する本作品、そろそろ、簡単な登場人物一覧を載せようかと思うのですが、ああいうのって、いちばん頭にもってくるべきなんですかね?

それとも、”その時点における最新の情報”という意味で、最新話の次とか、そのあたり置くべきなんでしょうか?

上手いアイディアがあったら、教えてほしいです(露骨な感想・メッセージ乞食行為)。

お読みいただき、ありがとうございました。





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Chapter17「大切な人」


一夏、本作初の主人公ムーヴ……?






 

 

 

 

 

 二〇一〇年の八月二十日は、鬼頭智之にとって、人生の転機と評せる出来事のあった日だった。

 

 その日の午後一時、会社で働く鬼頭のもとに、一本の電話がかかってきた。

 

 妻が入院している病院からで、電話口に立つ看護師曰く、晶子が産気づいたという。

 

 それを聞き、鬼頭は顔面蒼白となった。掌の携帯電話をあやうく取り落としそうになってしまうのをなんとかこらえ、ぶるぶる、と震える唇で、必死に、声を絞り出す。

 

「い、いますぐ、そちらに向かいます」

 

 通話を切った彼は、当時の上司である工作機械部の部長の顔を見た。

 

 電話がかかってきたのは、現在開発中の工作用ロボットアームについて、保守部品の調達コストをもっと安くできないか、会議をしている最中のことだった。上座に座る部長は、鬼頭の突然の変貌ぶりに驚きながら、「どうしました、鬼頭さん?」と、訊ねた。

 

「部長、会議を中断させてしまい、申し訳ありません。いま、病院から連絡がありまして、妻が、産気づいたらしいんです」

 

「それはたいへんだ!」

 

 部長は思わず腰を浮かせた。

 

「すぐ、病院に向かいなさい。奥様のもとへ、急いで」

 

「ありがとうございます」

 

 鬼頭はただちに荷物をまとめ始めた。今日の会議のために作ってきた資料や、明日までに仕上げねばならない報告書の草稿など、手当たり次第にわしづかみ、鞄の中へ突っ込んでいく。

 

「おい、鬼頭」

 

 同じく会議に出席していた桜坂が、動転した様子の親友に声をかけた。

 

「お前、そんな精神状態で病院まで運転するつもりか?」

 

 当時、鬼頭はマイカー通勤者だった。

 

 桜坂の目に、いまの親友の姿は危ういと映じていた。晶子のもとに一刻も早く駆けつけたい思いから、危険な運転行為に走りかねない。

 

「タクシーを呼べ、タクシーを」

 

「あ、ああ、そうだな。……すまない。すっかり失念していた」

 

「おいおい、しっかりしてくれや!」

 

 桜坂は鬼頭の肩を引き寄せると、その背中を軽く叩いた。

 

「お前はこれから、父親になるんだからよ。うっかり交通事故でぽっくり逝くなんて、子どもためにも、やめてくれよ。……父親のいないさみしさを、子どもに、味あわせてやるな」

 

 自身、両親を交通事故で失っている桜坂は、完爾と微笑みながら言った。衝撃とともに、掌から伝わってくるこの男の優しさに、鬼頭はようやく落ち着きを取り戻す。

 

「あ、ああ……。そう、だな。その通りだ、桜坂。ありがとう」

 

「まずは落ち着いて、荷物をまとめろよ。タクシーは、俺が呼んでおくから」

 

 黒塗りのクラウン・マジェスタがアローズ製作所本社ビルの駐車場に到着したのは、桜坂が配車サービスを依頼する電話をかけてから、十五分後のことだった。やって来たタクシーに勢いよく飛び乗ると、鬼頭は運転手に、妻の待つ病院へ急ぐようお願いした。病院までの道は、まるで彼の到着を拒むかのように混雑していた。携帯電話で情報収集をしたところ、なんでも、乗用車三台がもみ合いになるほどの事故が起こったらしい。ええいっ、こんなときに、と鬼頭は焦った。早く、一刻も早く、妻のかたわらで寄り添ってやりたいのに……!

 

「お客さん、ちょっと落ち着いて」

 

 後部座席で苛立ちから膝を揺らしている鬼頭の様子を見かねて、壮年の運転手が声をかけてきた。

 

 鬼頭は顔を上げると、バックミラー越しに、運転手の顔を睨んだ。

 

 人の気も知らないで、と返す語調は荒々しい。

 

「しかし……!」

 

「子どもが生まれるっていうんでしょう? タクシーの依頼をした桜坂っていう方から、事情は聞いていますよ。おめでとうございます」

 

 対して、運転手の声は喜色から弾んでいた。

 

「早く奥さんのそばへ駆けつけたい。駆けつけて、懸命に戦っている奥さんを励ましたい、っていうその気持ち、分かりますよ。……でもね、だからこそ、旦那さんのあなたが落ち着かないと。そんな不安そうな顔を見せられたら、奥さんも不安になってしまいます。出産どころじゃなくなってしまうかもしれません」

 

 運転手の言葉に、鬼頭は返す言葉を見失う。この人の言う通りだ、いまは落ち着くべきだ、と瞑目し、深呼吸を一つ。再び瞼を開けたとき、膝の震えは止まっていた。

 

 およそ一時間後、病院へとやって来た鬼頭を最初に出迎えたのは、母の清香だった。鬼頭との通話後、妻の危急を知らせてくれた看護師は、今度は彼の実家と連絡をとったらしい。自分が到着する十分も前から、母は病院のロビーで待っていた。

 

「母さん」

 

「智之! あんた、よかったねえ」

 

 自分の姿を見るなり駆け寄り、抱きしめてきた。当時五七歳の母の顔は、晴れやかな陽気で明るかった。

 

「二十分ぐらい前にね。男の子と、女の子の双子だったよ」

 

 鬼頭は母の腕を振りほどくと、一目散に分娩室へと向かった。産褥の間へと続く廊下を駆けていると、赤子の泣き声が、鬼頭の耳に飛び込んできた。父となった男の五体に、活力が漲った。分娩室の前に立つと、ちょうど、助産を担当した女性の看護師が扉を開けて出てくるところだった。鬼頭と目が合い、上気した顔を微笑ませた。

 

「おめでとうございます、お父さん」

 

 急速に、目頭が熱を帯びていくのを自覚した。震える声で、「妻と、子どもは?」と訊ねると、「中で休んでいますよ」との返答。

 

「まずは手を洗って。それから、会ってあげてください」

 

 看護師の指示に、鬼頭は大人しく従った。流行る気持ちを必死になだめすかしながら、消毒用の石けんで、いっそ肘の近くまで腕を洗った。

 

 分娩室の中に入ると、すでにお産の片付けは終わっていた。分娩台からキャスター付きのベッドへと移動させられた晶子のかたわらに、新生児用の小さなベッドが二つ並んでいる。

 

 妻は眠っていた。出産に際して、相当な体力を費やしたのだろう。鬼頭は脂汗に濡れた彼女の額をそっと撫でた。それから、枕を並べる二つの小さな命へと目線を向ける。双子の妹は、すよすよ、と安らかな寝息を立てていた。双子の兄の方は、まあるい双眸をせわしなく動かし、これから自分が生きていく世界を、興味深そうに観察していた。赤子と、鬼頭の目が合う。新たに入室してきたこの男が誰なのか分かっているかのように、彼は笑ってみせた。鬼頭の頬を、大粒の涙が滑り落ちた。嬉しさに、胸が震えた。

 

 そっと手を伸ばす。

 

 頬に、触れる。

 

 指先から全身へ、じんわり、とぬくもりが伝わってきた。

 

 くすぐったそうに、彼が身じろぎする。

 

 ――……俺はいま、世界でいちばん幸福な男だ。

 

 強い確信とともに、鬼頭は決然と頷いた。

 

 ――守るんだ。俺が、晶子と、この子たちとの、これからの日々を……!

 

 父になったばかりの男は、胸の内で、若い決意の炎を灯した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter17「大切な人」

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼頭親子が凰鈴音の口から、彼女と一夏が小学生のときに交わしたという約束について聞かされた、その翌日の放課後。

 

 空がかすかに橙色に染まっていくのを眺めながら、一夏と箒は第三アリーナへと向かっていた。今日は他に、付添人の姿はない。鬼頭とセシリアは昨日同様、BT兵器のデータ解析のため整備室に向かい、陽子は射撃場へ足を運んでいた。なんでも、クラス代表決定戦のために拳銃射撃の練習をして以来、はまっているらしい。

 

「IS操縦もようやく様になってきたな」

 

 一夏の隣を歩く箒の口調は、こころなしか浮ついていた。

 

 想い人の少年と二人きりという状況が相当嬉しいらしく、足取りも軽い。

 

「どうだ? 剣を振るう感覚も、だいぶ、取り戻せてきたんじゃないか?」

 

「どうだろうなあ」

 

 そう応じる一夏の口調は、対照的に硬い。訓練のためにISアリーナを目指しながらも、彼はいま、別のことを主に考え、ために、返答がぞんざいなものになっていた。

 

 頭を悩ませているのは、小学六年生のときに鈴と交わした約束の内容についてだ。幼馴染みの少女が昔、口にした言の葉をなんとか思いだそうと、彼は一日中、そのことを考えていた。

 

 ――料理の腕が上達したら、毎日酢豚を作ってあげる。……うん。約束の内容は、たぶん、これで間違いないはず。

 

 努力の甲斐あって、幼馴染みが昔、なんと口にしたかまでは、思い出すことが出来た。

 

 問題は、その意味だ。毎日酢豚を作ってあげる。やはり、奢ってくれる、という解釈しか思いつかない。一瞬、プロポーズの言葉ではないか、という考えも思い浮かんだが、

 

 ――鈴が俺のことを、とかありえないだろう。

 

 彼女とともに過ごした四年間を思い、一夏はかぶりを振った。女友達の中では仲の良い方だとは思うが、そういう恋愛感情を想起させるような甘酸っぱい雰囲気になった記憶は一度もない。

 

 それに、と一夏は口の中で呟く。

 

 ――それに、鈴のやつは感情をストレートに表現してくるやつだ。仮に俺のことを好きだったとしても、そんな毎日味噌汁を……みたいな遠回しなやり方は、あいつの好みじゃないだろう。

 

 プロポーズではなく、奢ってくれるという意味でもない。とすれば、幼き日に交わした言葉の意味とは何なのか。

 

 それとも、やはり鬼頭に指摘されたように、鈴が腹を立てた原因は、約束のことではないのか。そうだとすれば、自分のいったい何が、彼女の気分を害してしまったのか。

 

「……おい、一夏。わたしの話を、ちゃんと聞いているか?」

 

 ううむ、と眉間に縦皺を刻む一夏の顔を見て、隣を歩く箒が不機嫌そうに声で訊ねた。

 

 せっかく二人きりになれたのだから、もっとわたしを構え。わたしを見ろ。少年の横顔に、そんな感情を託した眼差しが突き刺さる。

 

 耳朶を打つ幼馴染みの声に険が宿ったことに気づいて、一夏は慌ててそちらを振り返った。不味い。箒はこれで存外、気難しい人間だ。一度怒らせると、機嫌が直るまでたいへんな時間を要してしまう。

 

「ちゃ、ちゃんと聞いているって」

 

「本当か? じゃあ、わたしがいま何と言ったのか、繰り返してみろ」

 

「俺の剣のことだろ? 昔の感覚を取り戻せたんじゃないか、って」

 

 ひとまず鈴のことは忘れて、目の前の幼馴染みとの会話に集中する。

 

「でもさ、自分じゃ正直、分からないんだよな。昔の感覚を取り戻せたかどうかなんて。そもそも、昔の俺がどれくらいの強さだったのかも、分からないし」

 

 一夏はかつて、箒の父が運営する剣道場に通っていた。彼女の父が修める篠ノ之流剣術は、土地の神様に奉納する神楽舞に組み込まれている剣舞の技術を、体系化・発展化する過程で成立したとされる、古流の剣術だ。神職の文化に由来するという意味では、日本最古の剣術である、関東七流に似た流儀ともいえる。現代剣道はもとより、他の古流剣術と比べてもいっそうマイナーな流派で、一夏が道場に通っていた頃の門下生は、彼自身の他には千冬と箒の二人しかいなかった。そのため、同年代との撃剣稽古の経験に乏しい彼は、当時の自分の腕前がどの程度のものだったのか、いまいち理解出来ていなかった。

 

「どうだろうなあ、っていうのは、そういう意味で言ったんだよ。話を聞いていなかったわけじゃない」

 

「そ、そうか。それなら、よいのだが」

 

 ちょっとむっとした表情の一夏に睨まれ、箒は小さく、「すまなかったな」と、口にした。

 

 話しているうちに、第三アリーナのAピットのドアまでやって来た。ドア脇の壁に設置されたタッチパネル式の解錠用センサーに手をかざす。諮問・静脈認証によって解放許可が下りると、特殊軽合金製のドアは圧縮空気の作用で勢いよく開いた。

 

「待ってたわよ、一夏!」

 

 入室するなり、声をかけられた。

 

 ピットルームで不敵な微笑を浮かべて待ち構えていたのは鈴だった。腕を組み、ふふん、と胸を張っている。

 

 一夏ははじめ、そんな幼馴染みを茫然と眺めていたが、すぐに、ぎくり、と顔の筋肉を強張らせた。かたわらに立つもう一人の幼馴染みが、顔をしかめている気配がした。

 

「貴様、どうやってここに……? ここは関係者以外立ち入り禁止のはずだ」

 

「はんっ」

 

 鈴は挑発的な笑いを浮かべ、箒を見た。

 

「あたしは関係者よ。一夏関係者。だから問題なしね」

 

 いや、その理屈はおかしい。そんな拡大解釈が許されるのなら、それこそ、全校生徒全員の出入りが自由になってしまうじゃないか。一夏は思わず、溜め息をついた。鈴って、こんな強引なやつだったけ? と、記憶の糸をたぐり寄せる。

 

「ほほう、どういう関係かじっくり聞きたいものだな」

 

「はいはい、それはまた今度ね」

 

「なっ、貴様――」

 

「あたしはいま、一夏に話しているの。ファースト幼馴染みだかなんだか知らないけど、邪魔をしないで」

 

 箒からすれば、彼女の方が邪魔をしているんじゃないだろうか。一夏はこの傍若無人な振る舞いに、また溜め息をついた。

 

「一夏、昨日のことだけど――」

 

「ごめん、鈴」

 

 一夏は幼馴染みの前に立つと、彼女の言葉を遮って頭を垂れた。顔を上げ、鈴の顔を、じぃっ、と見つめると、なぜか頬を赤らめ、目線をそむけられた。

 

 一夏はそんな彼女の反応を怪訝に思いながらも、言葉を続ける。

 

「昨日、お前が部屋を出て行った後、ずっと考えたんだ。なんで鈴は怒ってしまったんだろう。自分の何が悪かったんだろう、って。でも、どうしても、原因が分からなかった」

 

「あんたねえ……自分のどこが悪かったのか、ちゃんと分かってないのに、謝ったりしたの?」

 

 自分を見つめる眼差しに、明らかな険が宿る。

 

 ううっ、と怯みながらも、一夏はここが踏ん張りどころだ、と臍下丹田に気合いを篭め、ぐっとこらえた。

 

「そうだよ。だから、教えてほしい」

 

「お、教えて?」

 

「ああ。俺のどこが悪かったのか、何がいけなかったのか。約束の内容について覚え間違いをしていたのか、それとも意味を間違えていたのか、全部、説明してくれ」

 

 なぜか動揺する鈴に、一夏は畳みかけた。

 

「ちゃんと謝らせてくれよ。嫌なんだよ。せっかく、こうやって再会出来たのに。幼馴染みのお前と、ギクシャクしているのはさ。仲直りしたいんだ」

 

 昨日、鬼頭に言われた後、ずっと考えていた。鈴を怒らせてしまった原因について、どうしても分からなかったときの謝り方。しかし、それさえも、自分の頭では思いつかなかった。

 

 だからそのときは、いっそ鈴に訊ねてみよう、と思った。原因が分かっていないのに謝るなんて不誠実なことはしたくない。だから、彼女の口から説明してもらおう、と。そうしてもらうことで、自分の何がいけなかったのかを反省する。その上で、彼女に対し改めてちゃんと謝ろう。一夏はそう作戦を立てた。

 

「ふ、ふうん。一夏はあたしと、仲直りしたいんだ」

 

 一夏の言葉に、鈴の相好が崩れた。にやけ顔になる彼女を、少年の隣に立つ箒が、むっ、とした表情で睨む。

 

「あんたがそこまで言うのなら、うん。説明してあげる」

 

 鈴はにまにま緩む口角を真一文字に引き締め結んだ。

 

「でも、その前に……。あたしの方こそ、昨日はごめん。突然、叩いたりして」

 

 鈴は昨晩、自らが平手を浴びせてしまった少年の左頬を見つめた。

 

「あの後、あたしも一旦、頭を冷やして、考えてみたの。約束の意味を間違えて覚えられていたことは、たしかにショックだった。でも、その約束自体、すごく分かりにくい内容だったな、って。だから、ごめん」

 

「鈴……。ああ、俺の方こそ」

 

 一夏が完爾と微笑むと、つられて、鈴もまた微笑んだ。懐かしい感覚。まるで、中学時代に戻ったみたいだな、と彼は思った。

 

 幼馴染みの少女との間に漂う、晴れやかなこの雰囲気。なんとか、仲直り出来そうだ。やはり、鬼頭の助言に従って正解だった。

 

「……智之さんにも、後でお礼しないとな」

 

 胸の内で呟くだけのつもりだった感謝の言葉が、思わず、口をついて出た。

 

 すると、喜色に満ち満ちた表情から一転、鈴は「は?」と、不愉快そうな顔になった。

 

 彼女の突然の変化に、一夏は、そして隣に立つ箒も怪訝な表情を浮かべる。

 

「なんで、そこであの人の名前が出てくるわけ?」

 

「いや、昨日、鈴が部屋を出ていった後、俺、お前のことを追いかけたんだよ。結局、見失ったわけだけど、そのときに、智之さんと会って、鈴のことで、アドバイスを受けたんだ。まずは鈴のことをしっかり考えてから、謝り方を考えろ、ってさ。それで言う通りにしたら、ほら、お前といま、こうやって上手くいきそうな雰囲気になったから」

 

 「あの人には感謝だよ」と、一夏は破顔した。

 

 対照的に、鈴の機嫌はどんどん悪くなっていく。

 

 それに気づき、一夏は慌てた。

 

「ど、どうした、鈴」

 

「一夏、幼馴染みとして忠告しておくけど、あの人のこと、あんま信用しない方がいいと思うよ」

 

「なっ!?」

 

 一夏は驚きから瞠目した。鬼頭に対し、警戒心を抱いている箒さえもが驚いた表情を浮かべる。

 

「な、何言ってんだよ、お前……」

 

「あんたさあ、週刊ゲンダイの例の記事は、知ってる?」

 

「……智之さんのDVが原因で、奥さんと別れることになった。別れた後に、陽子さんの親権を無理矢理奪い取った、っていう、あの記事だろ?」

 

 一夏は顔をしかめて答えた。

 

「お前、まさか、あの記事を信じているのかよ? あれこそ、信用ならない物だぞ。智之さんたち親子と、一日でも一緒に行動してみたら分かる」

 

 一夏の目に、鬼頭親子の仲は良好と映じていた。あの週刊誌に書かれていたように、親権を無理矢理奪ったというのが真実であれば、ああも仲良くは出来まい。

 

 嫌悪感も露わな口調で言い放つ一夏に、鈴はかぶりを振ってみせた。

 

「違う。そっちじゃない。あたしが言いたいのは、あの人は、理由はともかく、奥さんと離婚しているってことよ」

 

「それが、何なんだよ?」

 

「陽子のことよ。あの人、陽子のことを、何も考えていないじゃない。離婚でいちばん傷つくのは子どもなのに……。しかも、あの人は、一度は奥さんの方に渡した親権を、四年後に取り戻している。それって、陽子、振り回されっぱなしじゃない。子どもの気持ちをないがしろにしているとしか思えない。そんな大人、信用出来るはずないでしょ」

 

「鈴、お前、どうしちゃったんだよ……?」

 

 一夏は、茫然とした表情で鈴を見つめた。目の前の少女はかつて、中国人であるということを理由に、同年代の子どもたちからいじめを受けていた。そんな過去の経験から、彼女は人見知りの激しい人格を形成してしまった。人間関係における快不快、あるいは好き嫌いの感情の落差が著しい。

 

 そんな彼女だから、鬼頭とは性に合わなかったとしても、不自然ではない。

 

 しかし、この態度は明らかに異常だ。少なくとも、中学時代の彼女は、よく事情を知りもしない相手に対し、こんな悪感情をぶつけるような人物ではなかった。

 

 ――中国に帰っている間に、何かあったのか? どうして、こんな……。

 

 一夏は悲しげな表情で彼女を見つめた。

 

 そのとき、不意にある考えが、彼の脳幹を揺さぶった。

 

 昨晩見せた怒りの態度から一転して、さきほどの殊勝な謝罪の言葉。僅か一晩でのこの変わりようは、自分と同様、誰かからのアドバイスを受けたからではないのか。そうだとすれば、それはいったい誰なのか。一夏は自然と、昨夜、鬼頭と交わした言葉を思い出した。私も、もし、彼女のことを見かけたら、織斑君が謝りたがっていたよ、とは伝えておこう。たしか彼は、そう言っていた。

 

「鈴、お前、もしかして、昨日、智之さんと会ったのか?」

 

「ええ、そうよ」

 

「そ、そのときに、何か言ったのか?」

 

「ええ。言ってやったわ」

 

 鈴は会心の笑みを浮かべて言い放った。

 

「離婚なんて、そんな大人の勝手に、子どもを巻き込んだことを、どう思っているのか。大人の都合に振り回される、子どもの気持ちを考えたことがあるのか。そう言ってやったわ」

 

 一夏は愕然とした表情で幼馴染みの顔を見つめた。かたわらの箒も、「なんてことを……」と、震える声で、小さく呟く。

 

 耳の奥で、クラス代表決定戦の最中に陽子が口にしていた言葉が蘇る。

 

 過日、彼女は対戦相手のセシリアを指して、『お前のような女たちが、智也兄さんを、殺した』などと言っていた。

 

 一夏たちは、鬼頭夫婦がいかなる経緯のために、二人の今後の関係について離婚という決断を下したのか、詳しくは知らない。しかし、試合中の陽子の言動や、鬼頭の普段の態度から、何か複雑な事情があったのだろう、とは察していた。

 

 鈴の態度からは、彼女がその事情について、何か情報を得ているとは感じられない。まさか彼女は、鬼頭夫婦が往時抱えていた問題について、なんら理解してもいないのに、彼のことを糾弾したのか。

 

 一夏は、目の前の少女のことが急に恐くなった。昔からよく知っているはずの幼馴染みなのに、その存在を、遠くに感じてしまう。

 

「それでさ、一夏、約束についての説明なんだけど――」

 

「悪い、鈴」

 

 一夏は、幼馴染みの言葉を遮った。重たい唇を動かして、目の前で手を合わせる。

 

「そういえば、今日は用事があるんだった。説明は、また今度な」

 

「なっ! ちょ、ちょっと、それ、どういう――」

 

「ホント、ごめんな。ほら、箒も早く行こうぜ」

 

「い、一夏? いったい、何を……」

 

「箒!」

 

 これ以上、いまの鈴の姿を見ていたくない。

 

 一夏は、隣に立つ箒の手首をつかんだ。戸惑う彼女の目を、真っ直ぐに見据える。

 

 一夏の顔を見て、箒は驚いた。幼馴染みの少年の表情からは、怯えの色が見て取れた。一刻も早く、この場から離れたい、と思いが感じられる。

 

「な? ほら、早く、行こうぜ」

 

 一夏は箒の手を強引に引きながら、入室したばかりのピットルームから飛び出した。

 

 少年たちの背中に、「こら、待ちなさいよ!」と、怒鳴り声。

 

 背中にかかる声を振り切って、一夏は逃げるようにその場から立ち去っていった。

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、第二アリーナ隣の第二整備室では、鬼頭とセシリアが、BTシステムの改良案について話し合っていた。ブルー・ティアーズのISコアから抽出した運用データと、ハミルトン大佐がよこした研究データを基に、二人でアイディアを出し合い、それを煮つめていく。

 

「ブルー・ティアーズに搭載されているイメージ・インターフェースは、高性能だが、ちと造りが繊細すぎると思うんだ」

 

「それは私も思います。俊敏な動きが可能なのは良いのですが、そのためには途轍もない集中力を必要としますもの」

 

「たとえば、こう、えいやっ、と大雑把なイメージだけでも、精密な動きが可能となればいいんだが……」

 

 鬼頭は空間投影ディスプレイに映じるBTシステムの構造図を眺めながら言った。おとがいを撫でながら、思い浮かんだアイディアを口ずさむ。

 

「どうだろう? イメージ・インターフェースの補助に、人工知能を使うのは?」

 

「と、おっしゃりますと?」

 

「たとえばセシリアが、前へ進め! と、大雑把にイメージしたとする」

 

「はい」

 

「しかし、単純にそのまま真っ直ぐ進んでは、敵の迎撃で撃ち落とされてしまう公算が高い。そういう状況の判断を、人工知能にやってもらうんだ。この場合は、真っ直ぐ飛んでいっても撃ち落とされる危険が高いから、ジグザグな機動で進む! とかね」

 

「良いアイディアだと思います」

 

 そう口にしながらも、セシリアの表情は暗かった。

 

「ですが、それほどの高度な判断能力を持った人工知能となると、装置が大型化してしまい、BT兵器の端末に搭載出来ません」

 

「遼子化技術を使えば……いや、駄目だな。あれは一応、アローズ製作所の特許技術だ。他国の企業の製品に、使ってやるわけにはいかない。……いや、待てよ」

 

 鬼頭は空間投影式のキーボードを手元に呼び出すと、タイピングを始めた。ディスプレイの表示が、めまぐるしく変わっていく。

 

「ちょっと、遠回りなやり方だが」

 

「はい」

 

「どうだろう? 私の打鉄で試すというのは?」

 

「それは……つまり、お父様の打鉄にも、BTシステムの装置一式を、組み込むということですか?」

 

「そうだ」

 

 鬼頭は首肯した。

 

「遼子化技術を使えば、小型の人工知能を作ることが可能だ。しかし、先ほども言ったように、遼子化技術はアローズ製作所の特許技術。ブルー・ティアーズのためには使ってやれない。しかし、私の打鉄には使うことが出来る。なにせこの打鉄は、アローズ製作所の社員であるこの私の、所有物という扱いだからね。わが社の持ち物ともいえる。この打鉄にならば、遼子化技術を思う存分、投入出来る」

 

 タイミングのよいことに、自分には明日、クラスBの専用パスカードが発行される予定だ。整備室よりも改修用の機材が充実している、工作室や開発室などが使えるようになる。打鉄の改造も、ずっとやりやすくなるだろう。しかも学園長からは、思う存分に、というお言葉まで頂戴している。

 

「私の打鉄に、改良型BTシステムを搭載し、運用データを採るんだ。そして、そのデータから、ブルー・ティアーズにもフィードバック可能な仕組みを考える、というのはどうだろう?」

 

「……素晴らしいアイディアですわ」

 

 しかし、セシリアの表情はやはり晴れない。

 

「ですが、お父様のBT適性の問題があります」

 

 BT適性とは、流動性エネルギーBTの運動を制御するためのイメージ・インターフェースとの相性を数値化した指標だ。適性の高さはアルファベットで表され、AランクからEランクまで設定されている。

 

 BT計画への協力が決まった時点で、鬼頭もBT適性について調べる簡単なテストを受けていた。結果はCランクの中でもやや上の方という成績。ブルー・ティアーズに搭載されている現状のBTシステムでは、同時に三基を動かすのが限界とされた。しかもこれは簡易テストの結果だから、より詳しく調べた場合には、より低い判定となる可能性が高い。

 

「打鉄にBTシステムを搭載しても、お父様がそれを動かせないのでは――」

 

「欲しいのは、BT兵器をどうやって動かすか、というデータだ。搭載する攻撃端末は、ブルー・ティアーズのように、六基である必要はない。極端な話、一基でも十分さ。Bランクの私が使いこなせるだけの数――神経への負担を考えると、二基が妥当かな――を搭載し、そのデータを調べよう」

 

 それに、と鬼頭は胸の内で付け加える。イギリス政府が鬼頭らに託したBT兵器の完成形とは、適性の有無に拘らず、BTエネルギーを自由自在に操れる技術を確立させることだ。むしろ、BT適性の低い自分だからこそ、有益なデータが採れるのではないか、と彼は考えた。

 

「二基……それなら、お父様でも、なんとかなりそうですわね」

 

「これでもクルマ好きだ」

 

 鬼頭は朗らかに笑ってみせた。

 

「空間認識能力には自信がある」

 

 BT兵器の運用には、BT適性のほかに空間認識能力がとても重要な意味を持つ。自分と敵、そしてBT兵器を搭載した攻撃端末の位置関係について、精確にイメージ出来るかどうかで、攻撃端末の運動性が大きく変わるからだ。

 

 空間認識能力は自動車の運転においても重要な能力だ。自分がいま乗っている車のタイヤがどの位置にあり、どこを向いているのか。車のフロント部の最先端は、どの位置にあるのか。バンパーの位置はどこか。他の車両や歩行者の位置と速度は? どの方向へ向かおうとしている……? といった具合に、空間の中で何がどのように動いているかを精確に把握していればこそ、安全かつ楽しいドライブを堪能出来る。

 

 IS学園にやって来る以前、鬼頭の休日の過ごし方は、もっぱらレンタカー屋に足を運ぶことだった。色々な種類の車を乗り回してきた経験から、普通の人よりは、空間認識能力は高いと、自負している。

 

「二基くらい、上手く扱ってみせるさ」

 

 そのとき、整備室の自動扉が開く音がした。

 

 圧縮空気の抜ける音を耳にして、鬼頭は、おや? と怪訝な表情を浮かべた。はて、真耶からは、クラス対抗戦が近いこの時期、会場となる第二アリーナに隣接する整備室を使う者は少ないだろう、と聞いていたが。

 

 鬼頭とセシリアは出入口の方に目線をやり、驚いた。

 

 第三アリーナに向かったはずの一夏と箒が、こちらを見つめていた。

 

「織斑君に、篠ノ之さん?」

 

「智之さん!」

 

 一夏は鬼頭たちの姿を認めると、一目散に駆け寄ってきた。その背中を、箒が追う。

 

「どうしたんだい、二人とも? 今日は、第三アリーナで訓練のはずだろう?」

 

「さっき、ピットルームで、鈴と会ったんです」

 

「……凰さんと?」

 

 鈴の名を呟いた途端、鬼頭は脳へと向かう血流が緩慢になっていくのを自覚した。顔から血の気が引いていき、軽い目眩さえ覚えてしまう。自然と蘇る、昨夜の記憶。どうやら自分の体は、彼女に対し、すっかり苦手意識を持ってしまったらしい。

 

 とはいえ、凰鈴音は、目の前の少年にとっては大切な幼馴染みだ。彼女のことを悪く言われて、良い気分のはずがない。

 

 鬼頭は努めて平静を装いながら微笑んだ。

 

「よかったじゃないか。早々に、仲直りの機会が得られたんだね」

 

「いや、鈴とはまだ、昨日のことについて、ちゃんと話せてないんです」

 

 一夏はかぶりを振って応じた。事情を知らないセシリアが、訝しげな表情で二人の顔を交互に見る。

 

 怪訝な表情を浮かべるのは鬼頭もだ。それなら、彼女とはピットルームで何を話したのか。

 

「鈴から聞きました。智之さん、昨日、俺と別れた後、鈴と会ったんですって?」

 

「あ、ああ」

 

「そのときに、鈴から言われたことについてです」

 

 鬼頭は表情を強張らせた。セシリアの耳目を気にしてだろう、明言こそ避けているが、何を言いたいのかはすぐに分かった。

 

「……凰さんからは、どこまで聞いたんだい?」

 

 もはや彼の前で仮面をかぶるのは無意味だろう、と鬼頭は険しい面持ちで、彼を見つめた。

 

「詳しいことは、まだ何にも。でも、智之さんたち夫婦が離婚したことで、陽子さんがどれだけ苦しめられたのか、考えたことがあるのか、って。そんな感じのことを、言ってやった、って聞きました」

 

「……それを、鈴さんが口にしたのですか?」

 

 鬼頭のかたわらに立つセシリアが、震える唇で訊ねた。彼女はこの学園において現状数少ない、鬼頭親子に関する真実を知っている人間だ。

 

 セシリアは鬼頭の顔を見た。怒れる眼差しが、頬に突き刺さる。

 

「お父様、私、ほんの少しだけ、席をはずさせてもらいます。ちょっと鈴さんと、お話ししなければならないことが出来てしまったので」

 

「セシリア、落ち着きなさい」

 

 鬼頭はセシリアの肩に手を置いた。歩き出そうとするのを、強引に引き寄せ、押さえる。

 

「お父様っ、ですが!?」

 

「いいから。凰さんは、何も知らないんだ。そんなふうに思って、当然だよ」

 

 何も知らない、という言葉に、セシリアは黙ってしまった。彼女もまた、鬼頭親子の抱える事情を知らないときに、彼らに対して言葉のナイフを振りかざしてしまった過去がある。

 

 ちょっと意地の悪い言い方だったな、と鬼頭は内心心苦しく思いながら、一夏を見た。

 

「それで? 織斑君は、その話を聞いて、どうしてここへ?」

 

「……分かりません」

 

「分からない?」

 

「はい。ただ、智之さんのことを悪く言う鈴の姿を見ているのが辛くて」

 

 一夏の端整な顔立ちが、辛そうに歪んだ。

 

「鈴は人見知りするやつで、昔から、人の好き嫌いがはっきりしているやつだったけど、あんなふうに、誰かのことを、悪く言うようなやつじゃなかった。そんなあいつを、見ているのが辛くて……。あいつのことが、急に恐くなって……気がついたら、ピットルームから逃げ出していたんです。ここに、来ていたんです」

 

「一夏……」

 

 一夏のかたわらに立つ箒が、そうだったのか、と幼馴染みの少年の横顔を、沈痛そうな眼差しで見つめた。

 

 一年以上ぶりに再会した大切な幼馴染みが、悪い意味で変わり果てていた。そのショックを、彼の精神は受け止めきれなかったのだろう。

 

 彼が感じた心の苦痛を、我が身に置き換えて考えてみる。箒にとっての大切な幼馴染みとは、勿論、一夏だ。いまこうやってIS学園で再会を果たした彼が、箒の知る頃とは大きく違っていたとしたら。……なるほど。ショックのあまり、その場から逃げ出したい、と。これ以上、変わり果ててしまった彼女の姿を見ていたくない、と思った一夏の気持ちは、よくわかる。

 

「あいつ、いったい何が……!」

 

「凰さんのことは、よく分からないが……」

 

 鬼頭は険の帯びた表情で、一夏を見つめた。

 

「しかし、それにしたって、よく、私のところを訪ねようと思ったね?」

 

 変貌を遂げてしまった鈴のことをそれ以上見ていたくなくて、その場から逃げ出した。その心情は理解出来る。しかし、それでも、鈴は彼にとって、大切な幼馴染みのはずだ。彼女の言には、信用を寄せる価値があるはず。それなのに、どうしてここにやって来たのか。無意識の行動だったとしても、普通は、自分のいるこの部屋だけは、避けるのではないか。

 

「凰さんの話を聞いて……その、まったくその通りだ。鬼頭智之は酷い父親だ! とは、思わなかったのかい?」

 

「まさか!」

 

 一夏はかぶりを振った。

 

「智之さんが陽子さんの気持ちを考えないとか、ありえませんよ!」

 

「その即答は嬉しいがね」

 

 そう口にしながらも、一夏を見る鬼頭の表情は険しかった。

 

「昨夜、私が口にしたことは覚えているかい? その言葉は、感情のまま、思いつきの言葉じゃ……」

 

「違います。よく考えた上での言葉です」

 

 思わず、胴震いをさせられた。

 

 鬼頭を見つめる一夏の双眸からは、凄絶な気迫が感じられた。

 

「俺は、智之さんたち家族の事情について、よく知りません。智之さんがなんで奥さんと離婚したのか。なんで陽子さんたちの親権を手放さなくちゃいけなかったのか。みなさんの間で何があったのか、何にも知りません。

 

 でも、陽子さんと、オルコットさんの試合を見ていた! 学校や、寮で、智之さんと陽子さんが二人でいる姿を、見てきました。だから、分かるんです。お二人が、お互いのことを、どれだけ大切に想っているのか。そんな人が、陽子さんの気持ちを考えないなんて、絶対に、ありえません」

 

「織斑、君……」

 

 鬼頭は思わず目元を覆った。不覚にも、目頭が熱くなった。

 

 この少年は、昔からの幼馴染みの言葉よりも、付き合いの短い自分たちの普段の姿を、信じてくれたのだ。

 

「……さっき、この部屋に来た理由が、自分でも分からない、って言いましたよね」

 

 一夏は、熱を帯びた語調で続けた。

 

「智之さんと話しているうちに、その理由が、分かってきました。俺、智之さんに会うために、ここに来たんだと思います」

 

「織斑君、それは?」

 

「智之さんが、よければなんですが……」

 

 一瞬の逡巡。本当にこの言葉を口にしてよいのか悩んだ末に、一夏はゆっくりと唇を動かしていった。

 

「奥さんとなんで離婚したのか。それから、この間の試合で陽子さんが言っていた、智也兄さん、って人について、教えてくれませんか?」

 

「織斑さん! それは――」

 

「セシリア」

 

 小さく悲鳴を上げたセシリアを、鬼頭はまたしても制した。先ほどとは一転、炯々と輝く眼光で、一夏の顔を睨みつける。

 

「織斑君、どうして、そんなことを知りたいと思ったんだい?」

 

 晶子と別れた理由については、家庭の恥とは思うが、隠すようなことではない。しかし、智也のことは別だ。彼について語るということは、あの子の死について、父親である自分の口から説明させられるということなのだ。

 

 智也は、鬼頭自身も含めた大人たちの都合に振り回された挙げ句、命を落とした。

 

 彼が死んでしまった原因について、鬼頭は自分にも大いに責任がある、と考えている。あのとき、自分が晶子と離婚なんてしなければ。あのとき、家庭裁判所が下した判決に対して、徹底抗戦の構えを取っていれば! あのとき、司法の裁きなど無視して、二人の手を取ってどこか遠くへ逃げ出していたならば……。失わずに、すんだはずだ。

 

 智也の命が失われてしまったことを知ったあの日以来、鬼頭はずっと、深い悲しみと、彼に対する強い罪悪感を胸に生きてきた。あの子の死について言及するのは、彼にとって、たいへんな苦痛を伴う行為だ。出来ることならば、避けたいことだ。興味本位で、触れてほしい話題ではない。

 

 一夏に対する鬼頭に眼差しは、必然、厳しさを増していた。

 

 しかし、そんな彼を、少年の黒炭色の瞳は、真っ直ぐ見つめ返した。

 

「鈴のことを、嫌いたくないからです」

 

 語られた返答は、鬼頭のみならず、セシリアや箒にとっても意外なものだった。

 

 思わず訝しげな表情を浮かべた彼らの顔を、少年は見回して、言った。

 

「さっき、鈴と話していて、あいつのことを、恐いと思いました。……でも、それでも! 俺にとってあいつは、大切な幼馴染みなんです。あいつのことを、嫌いになりたくないんです。

 

 たぶんですけど、鈴は、智之さんたち家族の事情について、何も知らないのに、智之さんのことを悪く言っています。でも、あいつがそんな態度を取るのにも、何か事情があると思うんです。俺は、その事情を知らないといけない。あいつが変わってしまったのは、きっと、そのせいだと思うから。あいつのことを理解するためには、どんなに恐くても、それを知らなきゃいけないと思うんです。

 

 その上で、智之さんたちの事情も、俺は知るべきだと思うんです。鈴の事情と、智之さんたち家族の事情、両方をちゃんと知った上で、あいつへの接し方を、よく考えるべきだと思うんです」

 

 変わってしまった幼馴染みを、それでも、好きでいたい。そのために、自分たち夫婦が離婚した原因や、智也のことを知る必要がある、ということか。たしかに、鬼頭家が抱える複雑な家庭事情を知らぬだろう鈴音の言を正面から否定するのに、それらの情報はこれ以上ない武器だろう。

 

「勿論、鈴と仲良くしたい、っていうのは俺の事情で、都合です。智之さんには、直接、関係のしないことです。それに、離婚の理由なんて、進んで話したい内容じゃないってことくらい、子どもの俺にだって想像出来ます。お二人の態度からも、よほどのことがあったんだってことくらい、分かります。だから、智之さんが話したくない、っていうのなら、それでもいいです。諦めます」

 

 鬼頭は一夏の顔をじっと見つめた。姉の千冬とそっくりの、意志の強さを感じさせる形をした瞳を眺めているうちに、既視感を覚えた。はて、以前にも、こんな目をした男を見たことがある。あれはいったい、いつのことだったか……。記憶の糸をたぐり寄せ、鬼頭は、はっ、とした。見覚えのあるはずだ。彼は、四年前の自分に……陽子の親権を取り戻さんと、再び晶子たちと戦うことを決意したときの自分に、よく似ているのだ。自分にとっての大切なものを守ってみせると、決意の炎で燃えたぎる瞳が、うりふたつではないか。

 

 考えてみれば、いまの一夏と鈴音の関係は、かつての自分と晶子のようだ。違いは、進もうとしている道が対照的なことぐらいだろう。八年前、自分たち夫婦は離婚という道を選んだ。いま、一年以上ぶりに再会した幼馴染みたちは、互いにすれ違いながらも、再構築の道を懸命に模索している。

 

 ――彼らなら、あの日、俺たちが出したものとは違った結論を導き出せるかもしれないな。

 

 不意に、そんな考えが思い浮かび、鬼頭は苦笑した。

 

 突然、相好を崩した彼を、一夏たちは困惑した表情で見つめる。

 

「セシリア」

 

 鬼頭に名を呼ばれ、セシリアは、はい、と返事をした。彼はスラックスのポケットから革財布を取り出すと、千円札を一枚、彼女の手に握らせた。

 

「少し、長い話になる。これで何か、飲み物を買ってきてくれないか?」

 

「お父様……よろしいのですか?」

 

「ああ」

 

 鬼頭は優しく微笑んだ。

 

「晶子のことはともかく、智也のことを語るのは、たしかに辛い。けれど、彼には、知っておいてもらいたい、と思ったんだ」

 

 展開していた空間投影ディスプレイを、次々畳んでいく。作業机に腰かけた鬼頭は、一夏を見て言った。

 

「私たち夫婦が出せなかった答えを、きみたちは出せるかもしれないな」

 

 

 

 

 

 

 同じ頃――。

 

 東京都千代田区、永田町の首相官邸を、叶和人内閣情報官が訪ねていた。

 

 内閣情報官の日常業務の中でも、最も重要な仕事の一つが、毎週火曜日と木曜日に行われる、いわゆる総理報告(定例報告)だ。

 

 内閣情報調査室のトップである叶のもとには、各部門からの情報が日々集まっている。国内、海外、経済、そして特殊情報。内調スパイたちからの膨大なインフォメーションを、各部門を統括する立場の内閣参事官らとともにインテリジェンスへとまとめ上げ、総理に伝える大切な仕事だ。

 

 総理報告が行われるこの日、叶はインテリジェンス・ペーパーの入ったブリーフケースを携えて、官邸の正面エントランスへと入った。

 

 エントランスの脇には、叶にとってお馴染みの顔ぶれが揃っていた。官邸への来訪者を逐一チェックする、番記者たちだ。彼の姿を認めるなり、一斉に群がってくる。

 

「叶情報官、今日はどんなことを総理に報告されるのですか?」

 

 いち早く叶の前に立ったのは、民放テレビ局の若い女性記者だった。真新しいスーツにまとわりつく初々しさから察するに、今年、採用されたばかりの新卒社員か。ご苦労なことだ、と胸の内で呟きながら、叶は彼女たちを無視して歩を進めていった。いついかなる時でも、叶がマスコミ相手に気安く口を開くことはない。内閣情報官という職務上、当然の対応だ。そもそも、マスコミとの接触は唾棄すべきものとは、公安捜査に携わってきた人間ならば、いやというほど叩き込まれている。

 

 記者たちを振り切った叶は、そのままエレベータで五階へと上がった。総理大臣をはじめ、官房長官、官房副長官の執務室が一堂に会しているフロアだ。彼は真っ直ぐ総理執務室へと向かった。

 

 入室すると、司馬総理は笑顔で彼を出迎えた。執務室のソファーを勧められ、彼は腰かけた。膝の上にブリーフケースを置き、A4サイズの小冊子を二冊、総理に手渡した。

 

「本日の報告事案です。一冊はいつも通りの報告書です。もう一冊は――」

 

「例の、鬼頭智之懐柔工作チームに関する報告書ですね」

 

「はい。昨日、編制作業が完了し、稼働を開始しました」

 

「拝見させていただきます」

 

 司馬総理は、こちらの方が優先順位は高い、と早速、二冊目に受け取ったペーパーから読み始めた。沈黙の時間が一分、二分と続く。

 

 インエリジェンス・ペーパーによれば、一昨日の晩、自分が藤沢内閣官房長官と叶情報官に編制を命じた鬼頭智之懐柔工作チームは、翌朝の午前八時には人選を終え、活動を開始したという。チームは内調の国内部門から、特命班をもう一班、新たに編成する形で作られた。新たに誕生した特命班のコードネームは〈KT班〉。勿論、鬼頭智之のイニシャルからとった名前だ。

 

 インテリジェンス・ペーパーの冒頭部は、この新たに生まれた特命班の組織についての基本概要と、そのチーム・メンバーの経歴について紙幅を割いていた。勿論、KT班を構成するのは、全員が内調の職員だ。

 

 官邸直属の情報機関である内調の組織は、プロパーの他に、各省庁からの出向者たちによって成り立っている。彼らの中でも特に多いのが、防衛省と、警察庁からの出向組だ。当然、KT班も、こうした人材が多く含まれている。それだけに、防衛省・警察庁以外からの出向者というのは、かえって目立っていた。

 

「叶さん、この、城山悟という方ですが……」

 

 司馬総理の目にとまったのは、総務省出身の三四歳の職員の名前だった。特命班におけるポジションは企業担当。KT班は鬼頭智之に対する効率的なアプローチのために、本人担当、家族担当、友人・知人担当、企業担当の、四つの情報収集チームを班内に作った。企業担当とは文字通り、鬼頭智之が所属する、アローズ製作所に対する情報収集を担当する。

 

「なぜ、企業担当に総務省からの出向者をあてたのです?」

 

 KT班のメンバーを選んだのは叶情報官と藤沢官房長官だ。司馬は彼に、その人事の真意を訊ねた。

 

「その方が後で総務省の協力を要請する際に、都合が良いと考えたからです」

 

「どういうことです?」

 

「鬼頭智之は現在、アローズ製作所の、パワードスーツ開発室というセクションの設計主任という立場にあります」

 

「そう聞いていますね」

 

 司馬総理は頷いた。

 

「たしか、災害用パワードスーツの設計をしているのだとか」

 

「現在の彼の直接の上司で、パワードスーツ開発室の室長を務めている、桜坂という男がいます。彼と鬼頭智之は、大学時代からの親友で、災害用パワードスーツの開発とその普及は、その頃からの彼らの夢なのだそうです」

 

「なるほど、そういうことですか」

 

 司馬総理は得心した様子で頷いた。

 

「災害用パワードスーツということは、将来、完成した際の顧客には、まず、わが国の消防庁が考えられますね」

 

「おっしゃるとおりです。だからこそ、企業担当に、総務省出身の城山君を配しました」

 

 消防庁は総務省の外局だ。総務省の人間をKT班に抱えておけば、鬼頭智之を懐柔するにあたってアローズ製作所へのはたらきかけが必要と判断された場合に、仕事がやりやすくなると考えられた。たとえば、城山を介して消防庁の人間とコンタクトをとり、アローズ製作所のパワードスーツの採用を検討するよう、はたらきかけるなどだ。

 

「好都合なことに、城山君は三重県の出身で、隣の愛知県で働いている総務省職員や、消防署の人間ともつながりがあります」

 

 内調では人から得る情報……ヒューミントを特に重視して、エスピオナージを行う。省内に広い人脈を持つ城山は、まさに情報員にうってつけの人材といえた。

 

「彼の人脈は、アローズ製作所へアプローチする際の強力な武器となりましょう」

 

 不敵な冷笑を口元にたたえながら呟いた叶情報官に、司馬総理もまた満足げに笑ってみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter17「大切な人」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二〇一三年五月二五日、桐野美久は、天使と出会った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一九九九年、桐野美久は、後にアローズ製作所の社長となる桐野利也と、母・由美子の間に生まれた。

 

 彼女がこの世に生を受けたとき、両親の年齢は父が四二歳で、母は三七歳だった。美久は二人が結婚九年目にしてようやく授かった、待望の第一子だった。これまで長らく子を持つことの出来なかった夫婦は、その反動から、彼女のことをとても可愛がった。一度でも欲しいと口にした物は何でも買い与え、やりたいことは何でもやらせた。その結果、小学校に上がる頃には、彼女はすっかり、誰の目にも明らかな我が儘娘へと育ってしまった。

 

 

 美久が小学校に入学した年の前年、アローズ製作所の創業者にして当時の社長、彼女の祖父でもある桐野秋雄が脳卒中で倒れた。会社で仕事に従事している最中の出来事で、そばにいた社員がすぐ救急車を呼んでくれたおかげで、幸い命は助かった。病院のベッドの上で目を覚ました秋雄は、自分の身に何が起こったのかを医師の口から知ると、「とうとう、社長の椅子を息子たちに譲るときが来たか」と、呟いた。

 

 秋雄には三人の息子がいたが、次男は親の力を借りることなく独立起業、三男は公務員試験に見事合格し、外務省でキャリア官僚として働いていた。父の事業を手伝っているのは長兄の利也のみで、秋雄は彼に社長の椅子を譲ることにした。

 

 この頃、アローズ製作所は、日本に数ある中小企業から、国内有数の大手メーカーへと飛躍の時期を迎えていた。前期の売上高は五百億円を達成し、純資産も七百億円超と算定された。

 

 そんな一流企業の社長令嬢という立場を手にした美久は、入学初日から学級の女王として振る舞った。嫌なことはすべてみなに押しつけ、自分のしたいことだけをしようとした。当然、彼女の自分本位すぎる性格は学友たちから嫌われ、学校では孤立した。美久からの反撃を恐れた同級生たちは、暴力をともなうようないじめこそしなかったが、彼女のことを徹底的に無視した。

 

 一年生という、小学校生活の大切なスタートラインで人間関係についての問題を抱えることになってしまった美久のその後の六年間は、苦悶の日々となった。小学生時代、彼女のかたわらにはいつも孤独が、ぴたり、と寄り添っていた。美久は年齢を重ねるごとに、内向的な性格へと変わっていった。

 

 両親は愛娘の変化に気づいていた。しかし、会社の売上が伸びるほどに増える仕事の量に忙殺され、彼女にばかり構ってはいられなかった。結果として美久と、その周囲の生徒たちに対する心のケアは遅れに遅れ、子どもたちの仲は、もはや改善は不可能と結論せざるをえなくなるほど悪化してしまった。

 

「せめて、環境を変えてやるのはどうだろう?」

 

 美久が小学四年生のとき、利也は妻にそう提案した。

 

「このまま公立の中学校に進めば、小学生時代の人間関係を引きずったまま、進学することになる。どうだろう? いっそ、あの娘に、中学受験をさせるというのは?」

 

 利也の提案に、由美子は賛意を示した。翌日、二人は彼女に、名古屋の私立中学の名門……銀城学園のパンフレットを見せた。名古屋市東区白壁町に校舎を構える、中高六年間一貫教育を採用している私立校だ。いわゆるミッション系の女子校で、名古屋人の間ではお嬢様学校として目されている。部活動で有名なのはグリークラブ。また、日本で最初にセーラー服を制服に採用した学校という顔も持っている。

 

 いまの環境に辟易としていた美久は、両親の薦めを受け入れた。その日から、彼女は受験勉強に励み、二年後、名門校の門をくぐる権利を見事に勝ち取った。

 

 小学生のときとは一転、中学生となった美久の表情は明るかった。

 

 それまでの人間関係をリセット出来たことが幸いした。美久の過去の所業を知らぬ新しい友人たちは、彼女に対し屈託のない眼差しを向けてくれた。また彼女自身、小学生時代の反省から、他人の気持ちを慮るという技術を身につけていた。我が儘娘から一転、気遣い上手となった彼女を嫌う者は、よほどのひねくれ者か、卑屈な人間しかいなかった。

 

 とはいえ、幼い心に刻まれた傷は、そう簡単に癒えるものではない。

 

 小学生のときの過ちを繰り返したくない一心から、美久は他者の顔色ばかりをうかがうようになり、心身は日ごと疲弊していった。そうやって心が弱ってしまったときに、ふとしたきっかけで、かつての内向的で後ろ向きな性格が顔を出すようになってしまった。一種の双極性障害(躁鬱病)のような状態だ。中学時代は中学時代で、美久はまた自身の内面について悩むことになってしまった。

 

 そして――、

 

 

 

 二〇一三年五月二五日、当時十四歳の美久は、学校からの帰り道で、天使に出会った。

 

 

 

 すでに述べた通り、銀城学園はミッション系の学校だ。キリスト教の教義や聖書の逸話を紹介するなどの授業も、普通に行われる。

 

 入学一年目で聖書の内容について半ば強制的に暗記させられた美久の目に、その男の姿は、天使と映じた。

 

 

 

 先述の通り、銀城学園の中等部の校舎は、名古屋市東区の白壁町にある。最寄りの駅は名鉄瀬戸線の尼ヶ坂駅の他に、名古屋市営・基幹バス白壁バス停がある。美久は帰宅の際に、後者の基幹バスを利用していた。

 

 名古屋の基幹バスは、他県他市のバス路線にはない、ちょっと変わった造りをしている。最大の特徴は、道路のど真ん中にバス停と専用レーンを設けている点だ。

 

 一九七十年代以降、モータリゼーション化の著しい名古屋の街で、バスの表定速度はどんどん遅れていった。限られた面積しかない道路の上で無数の車がひしめき合うようになり、渋滞は慢性化、時刻表ダイヤの維持が困難になった。そこで、解決策として提示されたのが、かつての市電のように道路の真ん中を走る専用バスレーンの整備だ。これにより、時速一二・一キロメートルまで落ち込んでいたバスの表定速度は、時速二五キロメートルまで改善した。

 

 道路の真ん中にあるバス停を利用するためには、当然、横断歩道を渡って、そちらまで足を運ばねばならない。

 

 その日も、美久は学校の校門を出てすぐのところにある横断歩道を渡り、白壁バス亭へと向かっていた。

 

 

 

 ところで、名古屋市と、その近辺の住人たちの運転マナーは、一般的に悪いと目されている。運転技術どうこうではなく、運転モラルが低いために、信号無視や速度超過は当たり前。交通事故死亡件数の高さもそれを裏付けている、という考え方だ。世間ではこれら名古屋人たちの運転マナーの悪さを指して、“名古屋走り”などと揶揄している。

 

 白壁バス亭がある出来町通こと県道二一五号線の制限速度は時速四十キロメートル。しかし、この数字をお行儀よく守っているドライバーは、はっきり言って少数派だ。渋滞時はともかく、通常は時速五、六十キロメートルでの走行が当たり前となってしまっている。

 

 その日、その時間、その道を、時速七五キロメートルという猛スピードで突き進んでいたのは、ホンダのアクティバンだった。

 

 後で知ったことだが、運転手の会社員男性は当時酩酊状態にあり、正常な認知機能と判断力を失っていた。

 

 彼は自分の車両が、制限速度が六十キロメートルの下街道から四十キロ制限区域の出来町通へと左折進入したことに、まったく気づいていなかった。ほとんど朦朧とした状態で、ハンドルを握っていたという。当然、信号機の色を認識することも難しく、彼の操る商用バンは、まるで吸い寄せられるように、横断歩道の上を歩く美久の方へと向かっていった。

 

 勿論、美久はその場から逃げようとした。

 

 暴走車両の姿を視界の端に捉えた時点で、下肢の運動神経のすべてに、その場から逃げ出すよう命令を発した。

 

 しかし、逃げられなかった。

 

 よりにもよってこのタイミングでスニーカーの靴紐がほどけ、しかも、踏みつけてしまった。

 

 足がもつれ、その場で転んでしまう。

 

 すぐに立ち上がるが、そのときにはもう、白い暴走車両が、目前まで迫っていた。

 

 衝撃。

 

 美久の体は、宙へと舞い上がった。

 

 痛みは、想像していたほどではなかった。

 

 それよりも、めまぐるしく変転する視界の様子に、気分が悪くなった。

 

 ……めまぐるしく?

 

 違和感を、覚えた。

 

 自分はいま、車に跳ねられ、宙を舞っている。

 

 その、はずだ。

 

 それなのに、なぜ……?

 

 なぜ……!?

 

 ――わたしは、いま、建物を見下ろしているの……!?

 

 車に突き飛ばされ、宙を舞っているのなら、視界に映じる建物は、横に、流れるように見えてなければならないはずだ。

 

 それなのに、いま、この目に映る景色は、何だ!?

 

 建物が、

 

 地上十数メートルはある銀城学園の校舎が、眼下に映じ、しかも、どんどんと遠ざかっている、この状況は、いったい何なのだ!?

 

「……しまったな」

 

 苦み走った、男の声が、耳膜を撫でた。

 

 目線をそちらに向けて、息を呑んだ。

 

 仁王のごとき厳めしい面魂が、すぐかたわらにあった。

 

 ……ようやく、気がついた。

 

 自分がいま、どんな状況にあるのか。

 

 自分はいま、抱かれているのだ。

 

 背中と、膝の裏に両腕を回され。

 

 この男に。

 

 地上数十メートルの高さを飛ぶ、この男の腕の中に、いま、自分はいるのだ。

 

「何が、しまったなんですか?」

 

 この状況の異様さゆえか、思わず開いてしまった唇から漏れ出た声は、自分でも意外に思うほど、平静さを保っていた。

 

 互いの産毛が見えてしまうほどの至近距離で、男の唇が動く。

 

「三つ……いや、四つだな。自分のしでかしたことについて、後悔しなきゃならん」

 

「後悔?」

 

「ああ」

 

 仁王の顔立ちの男は、ほろ苦く溜め息をついた。

 

「まず一つ。きみを助けなければ、という一心で、考えなしに動いてしまった」

 

「?」

 

「咄嗟のことすぎて、周りに気を配る余裕がなかった。アスファルトを、思いっきり踏み抜いて、ジャンプしてしまった」

 

 ……なるほど、いまはそういう状況なのか。

 

 車に轢かれそうな自分の姿を見て、この男は咄嗟に地面を蹴り、歩道から自分のもとへとジャンプ。自分の身を抱きかかえるや、もう一度ジャンプして、車の突撃を避けた、と。……ははっ、なんだ、その出鱈目な話は。

 

「車道のど真ん中だというのに、アスファルトを踏み砕いてしまった。いま、あの上を車が通ったら、タイヤをとられて、事故を起こす危険性が高い」

 

 離昇速度が、だんだんと落ち着いてきた。そろそろ、最高高度なのか。

 

「二つ目。さっきも言ったが、考えなしがすぎた。夕方のこの時間帯、この道を利用する者は多い。すぐそばの銀城学園の校舎には、まだ多勢の生徒が残っているだろうし、近所のスーパーマーケットにも、百人単位のお客さんがいるだろう。そういった人たちに、俺のこの姿を、見られたかもしれない」

 

 この姿、とは、いまこうやって天高き場所を跳んでいる姿のことだろう。どうやら彼は、自身の持つこの能力を、秘密にしておきたいらしい。でも、それは――、

 

「三つ目。仮に運良く目撃者がいなかったとしても、きみについては、どうしようもない」

 

 黒炭色の双眸が、美久の顔を見つめた。なぜか、頬が熱くなっていくのを彼女は自覚した。

 

「こうして助けてしまった以上、きみについては、誤魔化しようがない。……さあて、どうしたものか」

 

 また、溜め息が一つ。美久の頬をねぶった。

 

 浮遊感が、頭打ちする。

 

 どうやら最高高度に達したらしく、今度は、ジェットコースターに乗っているかのような落下の感覚が、彼女の小さな体を襲った。

 

「あの」

 

「うん?」

 

「四つ目は?」

 

「……着地のことを考えていなかった」

 

 男は目線を地上へと向けた。つられて、美久も目線を下に向ける。落下速度が上がるにつれて、地面が近づいてきた。

 

「俺の体重は八十キログラム。きみの体重を仮に五十キロとすると、二人合わせて一三〇キログラムだ。この高さから地上に到達する頃には、俺たちの落下速度は秒速二八・五メートル。……つまり、俺たちは地上に叩きつけられるその瞬間、三七〇〇キログラムもの荷重をその身に受けるわけだよ。俺の体はその衝撃に耐えられる。でも、きみは別だ。

 

 人間の体は、たとえば筋肉なら、六〇〇キログラムの力に耐えられる。骨なら、一・六トンだ。三・七トンの荷重を、それ以下に抑えるためには、よほど膝のサスペンションを効かせて、衝撃時間が六秒以上持続するよう、調整してやらなきゃならないが、その自信がない」

 

「あの……」

 

「うん?」

 

「着地の寸前、軽く、上に放り投げてもらって、その後、あなたに抱きとめてもらうわけには?」

 

「その手があったか!」

 

 仁王の面魂が、不敵な冷笑を浮かべた。たしかに、それなら着地の衝撃は自分ひとりにかかるだけ。上に放り投げた彼女が再び自分の腕の中に戻ってくる際の負荷は、己の意思でコントロール出来る。

 

「お嬢さん、きみ、頭いいね!」

 

「ありがとうございます。……あの、それから」

 

「うん?」

 

「……わたし、そんな五十キロもありません」

 

「……そいつは失礼」

 

 唇をとがらせて言うと、彼は完爾と微笑んだ。

 

 放物線の軌道をたどる二人の体が、地上へと近づく。

 

 男は、腕の中の少女の体を、軽く放り投げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二〇一三年五月二五日、桐野美久は、天使と出会った。

 

 無事、地上へと降り立った美久は、自分を助けてくれた男に訊ねた。

 

「あなたは、もしかして、神様なんですか?」

 

「俺が神様だって?」

 

 仁王の面魂を持つ男は、自分の質問に対し、笑ってみせた。

 

「冗談がきついな。どうして、そう思ったんだい?」

 

「人間は、あんなに高く、空を跳べません」

 

 少なくとも、四十メートルは跳んでいた。地面をほんの一蹴りしただけで、これほどの高さまで跳ぶなんてことは、人間には不可能だ。

 

「たしかにね。でも、普通の人間よりちょいと優れた運動能力を持っているからって、それだけで神様扱いは、ちと早計ではないかね?」

 

「わたしを助けてくれました」

 

「それが?」

 

「この間、学校の授業で聖書の記述について学びました。神様は、人を助けてくれるものでしょう?」

 

「……俺の知っている神様とは、えらい違いだな」

 

 男は小さく溜め息をつくと、その場で身をかがめ、少女と同じ高さに目線を合わせた。

 

「とにかく、俺は神様なんかじゃないよ。……今日、きみが出会ったこの男のことは忘れなさい。こんな怪物の存在は、この世にいるという事実を知っているだけで、きっと、きみに不幸をもたらす」

 

 男はそう言って踵を返すと駆け出した。物凄い速さで、美久の視界から消え去ってしまう。

 

 その場に残された彼女は、

 

「神様じゃないとしたら……天使様?」

 

と、茫然と呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二〇一三年五月二五日、桐野美久は、天使と出会った。

 

 そして二〇一三年の六月八日、彼女は、天使と再会した。

 

 父親への用事から、母とともにアローズ製作所へと足を運んだ彼女は、そこで、彼の姿を見つけた。

 

「ゲェーッ! き、きみはぁ……ッ!?」

 

「どうした、桜坂? なぜ、マンモスマンを見て驚く正義超人のような顔を?」

 

 六尺豊かな体躯をわななかせながら、彼は茫然とした表情で自分の顔を見つめていた。

 

 その一方で、美久は男の驚く様子を前に、歓呼の笑みを浮かべていた。

 

 ――また、会えた……!

 

 この、天使様と。

 

 また、会うことが出来た。

 

 ――これは、きっと運命だ。

 

 歓喜の激情が、胸の内を満たしていった。

 

 自分のこれまでの人生、そして、これからの人生が、何のためにあるのか、彼と再会を果たした瞬間、分かったような気がした。

 

 ――わたしはきっと、この方と会うために、生まれてきたんだ……!

 

 苦悩の小学生時代も。

 

 この息苦しい中学生時代も。

 

 すべては、彼と出会うためにあった。

 

 彼とのこれからのためにあった。

 

 きっと、そうだ。

 

 そうに違いない。

 

 ――わたしの、天使様……。

 

 僅か十四歳の少女の熱視線に、仁王の顔つきの天使は、頭を抱えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二〇一三年五月二五日、桐野美久は、天使と出会った。

 

 二〇一三年の六月八日、彼女は、天使と再会した。

 

 そして二〇二六年四月――、

 

 桐野美久は、天使の暮らすその家で、彼の帰りを、待ちわびる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





たぶん、読者のほとんどは察していることでしょうが、これ書いているやつは、名古屋人です。

県道215号線の速度超過云々についてのソースは、私自身の経験です。

時速四十キロで走っている私のカローラを、後ろからやって来た、白と黒のツートンカラーをした、赤色灯がチャームポイントのクラウンが普通に追い抜いて、後ろ姿が小さくなって最後には見えなくなる程度には、速度超過は当たり前になっています。












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Chapter18「決意の日」

あの忌まわしい事件を、鬼頭目線で語ってみる。

Chapter1では語りきれなかったこと、

Chapter10の陽子の視点では語れなかったことを、




 

 

 

 

 放課後のIS学園、第二整備室。

 

 鬼頭の頼みで飲み物を買いに、部屋の外へと出かけていたセシリアが、戻ってきた。

 

 再入室した彼女は、鬼頭たちのいる作業用ブースに、足早に戻ってきた。抱えていた四本の缶飲料を、作業台の上に並べていく。

 

「皆さんの好みが分からなかったので、私の方で、適当に選ばせていただきました」

 

「ふむ」

 

 いち早く手を動かしたのは鬼頭だった。彼は真っ赤なデザインが購買意欲をそそるコカ・コーラの缶に触れようとし、寸前のところで、セシリアから、「あ、お父様はこちらで」と、『濃~い、お茶』と、銘打たれた缶を差し出された。

 

「……セシリア? お父さん、今日はたくさん頭を使ったから、脳が糖分を欲しているんだけどなあ?」

 

「陽子さんの目がないからといって、甘いものは厳禁ですわよ」

 

「ジーザス!」

 

 鬼頭は悔しげにお茶の入った缶を握りしめた。苦笑する一夏たちの前でプルタブを開け、唇を濡らす。商品名に偽りなしの味わい。うん。苦い。

 

 作業台の上の缶飲料は、鬼頭のお金で買われた物だ。スポンサーがいちばん最初に口をつけたのを見届けた後、一夏たちも礼を言いながら、めいめい好みの缶に手を伸ばした。全員の手に飲み物が行き渡ったのを見て、鬼頭は、

 

「さっきも言ったが、少し、長い話になると思う。まずは座ろう」

 

と、ブースの片隅に置かれたステンレス製の物置棚から、折りたたまれた状態のパイプ椅子を取り出した。整備室では狭い部屋の中をあちこち回遊する機会が多いと考えられることから、この種の備品は、邪魔にならないよう片付けやすさを優先したデザインの物が揃えられていた。

 

 鬼頭と一夏は作業台を挟んで向かい合う形で椅子に腰かけた。セシリアは鬼頭の隣で、箒は一夏の隣で、それぞれパイプ椅子を広げる。

 

「これから妻と……晶子と別れた理由について、話をするわけだが」

 

 お茶で喉を潤したばかりにも拘らず、鬼頭は口の中が急速に乾いていくのを自覚した。やはり、あの頃の記憶を意識して思い出すことは、彼の精神に多大な負担を強いていた。鬼頭は喉ではなく、腹の底から、絞り出す気持ちで、声を上げた。

 

「その前に、いくつかことわっておきたいことがあるんだ」

 

 鬼頭は一夏たちの前に右手を差し出すと、人差し指を立てた。

 

「まず一つ。離婚というのは、夫婦の問題という以上に、家族の問題なんだ。私たち夫婦が離婚という選択をした背景には、当然、陽子の存在も深く関わっている。あの子についての話を抜きに、当時、私たち家族が直面した問題をちゃんと理解するのは、難しいだろう。

 

 その上で、私はきみたちに、陽子が関わっていた部分については、なるべく知ってほしくはないんだ」

 

 そう語る鬼頭の表情は苦しげだった。そんな彼の横顔を、かたわらに座るセシリアが、痛ましげに見つめている。

 

 一夏に晶子との離婚の原因や智也のことを話すことにしたのは、自分の独断だ。陽子とよく相談して決めたことではない。この場にいない彼女が関わっていた部分については、話すべきではないだろうし、また話したくなかった。特に、間男に襲われた、あの忌まわしい事件については。陽子もきっと、知られたくはないだろう。

 

「陽子にも、知られたくないことがあるはずだ。あの子に関することについては、最低限にとどめさせてほしい。そして、そのせいで話に矛盾が生じたとしても、目をつぶってほしいんだ。……それでもいいかね?」

 

「勿論ですよ」

 

 鬼頭に問いかけに、一夏は頷いた。

 

「無理なお願いをしているのは、こっちなんですから。智之さんの話したいようにしてください」

 

「ありがとう。次に、二つ目だが……」

 

 鬼頭は今度は右手の中指を立てた。かたわらに座るセシリアを見る。

 

「実は、セシリアには私たち夫婦が離婚した理由について、もうすでに、ある程度説明しているんだ」

 

「なんとなく、察してました」

 

 一夏の言葉に、箒も同意するように頷いた。

 

「三人とも、急に仲良くなりましたもんね。たぶん、何かあったな、っていうのは思ってました」

 

「それで、だ。これは、セシリアにことわっておきたいことなんだが……」

 

「はい」

 

「あのときは、陽子の口から説明されただろう? しかしそれは、あの子の目線や経験、あの子の知識をもって、過去の出来事を解釈した話だ。当然、私の目線、私の経験、私の知識から語る内容とは、細部が異なってくる。それを踏まえた上で、いまからする話を聞いてほしい」

 

 セシリアが頷いたのを見て、鬼頭は薬指を立てた。

 

「三つ目。これが最後だ。三人とも……」

 

 鬼頭は一旦、そこで言葉を句切った。長年の友に切々と訴えかけるように、言の葉を絞り出す。

 

「いまからする話を聞いて、私に対して、どんな感情を抱いてもらっても構わない。しかし、私に対する感情と、陽子に対する感情は、別のものと考えてほしい。私のことを嫌いになったからといって、陽子のことまで、嫌わないでほしい」

 

「智之さん、それは、どういう……?」

 

「凰さんの言う通りなんだよ」

 

 鬼頭は悲しそうに呟いた。

 

「家族の問題とは言いながらも、結局のところ、離婚という社会制度の主体は、私たち、大人なんだ。陽子たちは究極、私たち大人の事情や都合に振り回された、被害者なんだよ。陽子や、智也が不幸に見舞われた原因は、間違いなく、私にもあるんだ。それを知って、私のことを嫌いになったとしても、構わない。……構わないから! どうか、どうかあの子とは、いままで通りに、付き合ってほしい。お願いだ」

 

 赤く充血した双眸を見て、一夏は思わず息を呑んだ。いまにも、泣き出してしまいそうな雰囲気だ。

 

 これから語られるのは、この男にとって、それほどの話なのか……。知らず、彼の背筋は伸びた。

 

「聞かせてください、智之さん」

 

 一夏は、真剣な眼差しで彼の言葉を促した。

 

「お二人に何があったのか。智也さんに、何があったのか」

 

「……ああ」

 

 鬼頭はゆっくりと頷いた。

 

「聞いてくれ。私たち家族の話を」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter18「決意の日」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼頭の説明は、別れた妻との馴れ初めについて語ることから始まった。

 

「私たちがはじめて出会ったとき、私は二六歳で、彼女は二一歳の女子大生だった。出会いのきっかけは、例の週刊誌にも書いてあったとおり、合コンだった。高校時代の学友から誘われてね。それに参加したんだ」

 

 合コンを主催者した加藤耕作には当時、狙っている女がいた。出会いの場を求める彼女の関心を引き寄せたい一心で、彼は合コンの開催を企画し、員数合わせのために鬼頭を誘った。高校時代、鬼頭は同級生たちから堅物と目されていた。彼ならば、自分の競争相手にはならないだろう、と踏んだのだ。

 

 かつての学友からの誘いに、鬼頭はふたつ返事で応じた。高校を卒業してすぐ留学のため渡米した彼は、その頃の人間関係とはそれっきり、という者たちが多い。旧友と顔を合わせる機会は貴重だ。鬼頭は合コンに参加する女たちよりも、加藤の顔を見たい気持ちから、合コンへの参加を決めた。合コンというイベントの本来の目的については、あまり興味がなかった。

 

 そんな腹積もりでいた彼にとって、晶子の美しさがもたらした衝撃は、不意打ちも同然だった。一目で心を奪われ、夢中になった。

 

「晶子は、美しい女だった。見た目だけでなく、言動の可憐さや、色気たっぷりの仕草など、男を虜にする構成要素の塊のような女だった。当時の私は、その魅力にすっかりまいってしまったんだ」

 

 いいや、いまでさえ危ういかもしれない、と鬼頭はかつて愛した女の美貌を思い出し、忌々しげに溜め息をついた。一連の騒動により、晶子という女の本性を知ったいまでさえ、往時の彼女を前にして、正気を保てる自信がない。それほどまでに、晶子の美しさは魅力的であり、蠱惑的であり、そして暴力的でさえあった。

 

「彼女に対しては、私の方から猛アプローチをかけたんだ。ライバルは多かったが、私は彼らをなんとか蹴散らして、晶子と付き合う栄誉を勝ち得た。二年ほど交際した後、私たちは夫婦となった」

 

 ということは、鬼頭が二八歳、晶子が二三歳のときの出来事か。恋人の大学卒業を待ってからの入籍だったのかもしれないな、と一夏たちは目の前の男の往時の胸の内について想像力をたくましくした。

 

「ここで少し、晶子という女の、為人について、説明しておこう。

 

 晶子は、自己愛が強く、また他者への依存心が強い女だった。自分一人では生きていけない。常に誰かに愛されているという実感がないと、不安で不安でしょうがない。彼女のあらゆる思考、あらゆる行動は、そんな強迫観念を源泉としていた。容姿の美しさや男心をくすぐる言動といったものは、愛されるための努力が生んだ、彼女の強力な武器だったんだ。私はそれに、まんまとやられてしまったわけだが……私以外にも、晶子の魔法のような魅力に、首ったけになってしまった男がいたんだよ」

 

 一夏と箒は顔を見合わせた。週刊ゲンダイの特集記事には記載のなかった、第二の男の登場に、嫌な予感を禁じえない。

 

「最初に違和感を覚えたのは、付き合い出して、半年くらいの頃だったと思う。私たちが急接近したきっかけは、彼女が愛用していた腕時計だった。合コンのときにね、加藤のやつが不注意から、彼女の時計にビールをこぼしてしまったんだ。すぐにおしぼりで拭ったが、時計の針は止まってしまっていた。私はそれを見て、しめた、と思った。私は晶子に、祖父が時計職人であることや、私自身も時計いじりが大好きなことを伝えた。安く修理出来るかもしれない、と言うとね、彼女は喜んで時計を渡してくれた。腕時計を受け取った私は、すっかり舞い上がってしまった。これで、今度、時計の返却を口実に、また会うことが出来るぞ! と、喜んだ。

 

 当時、晶子が愛用していた腕時計は、プロミネンテ・クラシコというスイス時計だった」

 

 中南米発祥のブランド、クエルボ・イ・ソブリノスの代表的モデルだ。アール・デコ様式を取り入れたレクタンギュラー型のケースは、控えめで落ち着いた外観ながら、エレガントで洗練された美しさをたたえている。

 

「いわゆる、高級ブランドの一本さ。当時の販売価格はさすがに覚えていないが、たしか、三十万円は下らなかったと思う。人気のモデルだから、中古市場でも値崩れがしにくく、本来なら学生の身分では手を出しづらい高級品のはずだった。

 

 当然、どうやって入手したのか? という疑問は、時計の修理中、頭の中を何度もよぎった。けれど、恋の炎ですっかり視野狭窄に陥っていた当時の私は、その度に、きっとアルバイトを頑張ったんだろう、とか。実家が裕福なんだな、とか。彼女に訊きもしないで、自分の中で勝手に疑問を完結させてしまった。いま思うと、彼女のことを疑いたくない、と自らの思考や行動に、無意識のうちに制限をかけていたんだと思う。

 

 しかし、二本目を目にしたときは、もう、自分で自分を、誤魔化しきれなかった」

 

 交際を始めて半年ほど経ったある日のことだ。その日は仕事が早めに終わり、夕方以降まとまった時間が確保出来た鬼頭は、晶子をディナーに誘った。デートに選んだ店は、市営地下鉄東山線・伏見駅にほど近いトルコ料理店だ。地下鉄の駅で晶子と合流した鬼頭は、彼女の左手を見て、おや? と、目を細めた。コンステレーションの上級モデルが、彼女の手首を瀟洒に飾っていた。スピードマスターで有名なオメガの、レディース時計だ。

 

「プロミネンテ・クラシコにも勝る高級品だった。さすがに、おかしい、と感じた。たった半年のうちに、もう新しい時計を……それも、高級時計を買うなんて、とね。何か怪しげなバイトをしているんじゃないか? いや、彼女の職場には自分も顔を出したことがある。そういういかがわしい店では、断じてない。ならば、三重県の実家のご両親にねだって買ってもらったか? いいや、彼女の実家は、良くも悪くも日本の典型的中産階級の家柄だ。そんな高級時計を、娘にぽんぽん買い与えられる財力があるとは思えない。……そうやって思いつく限りの可能性について吟味し、最終的に得られた結論が、自分以外の男の存在だった」

 

「浮気、ってことですか?」

 

 一夏の直接的な問いかけに、鬼頭は頷いた。

 

「私と晶子が別れることになった、直接の原因さ。間男との関係は婚前どころか、私と出会うずっと以前から、続いていたらしい」

 

 やはり、鬼頭のDVなどが原因ではなかったか。一夏と箒は得心すると同時に、頭を殴打する新情報に言葉を失ってしまった。妻の不倫が原因で離婚とは、よく聞く事例だが、まさかそんなに以前からの付き合いだったとは。だとすれば目の前の男は、いったい、どれほどの時間、彼女と、彼女の身にまとわりつく自分以外の気配に苦しめられたのか。

 

「時計の由来について、私は晶子に訊ねなかった。質問をすることで、真実を知ったり、はぐらかされたりすることが恐かったんだ。……いやなにより、晶子の気持ちが、自分から離れてしまうのが恐かった。質問により、彼女の気分を害してしまうのではないか、と、私は怯えていたんだ。それほどに、当時の私は、あれの魅力にはまっていた。私は、今度はしかと意識した上で、晶子から感じる間男の存在感に対し、見て見ぬフリを決め込んだんだ」

 

 いま思えば、あのとき、彼女の腕時計の由来について訊ねないと決断したことは、自分たち家族にとってのターニング・ポイントの一つだった。あのとき、自分に晶子を問いただす勇気があれば、不幸な兄妹が世に生まれることもなく、自分一人が失恋の痛みにのたうつくらいの犠牲ですんでいたはずだ。

 

「私は、仕事に逃げた。情けないことにね。現実を直視するのが、恐かったんだ」

 

 顔も知らない間男の影に怯えながら。そしてなにより、晶子の心変わりを恐れながら。若き日の鬼頭は懸命に働いた。晶子に相応しい男になるのだ。彼女が自分一人からの愛で十分と思ってくれるくらい立派な男になるのだ。そのためには男らしくあらねば。彼女に頼もしいと思ってもらえるような、強い男であらねば! そんな女々しい想いを胸に、日々を駆け抜けた。そして――、

 

「間男の存在感は、次第に感じられなくなっていった。私は、晶子は自分を選んでくれたのだ! と、舞い上がり、その勢いで彼女にプロポーズをした。晶子はね、笑顔で受け入れたくれたよ。結納もつつがなく終わり、私たちは結婚した。その頃には、間男の気配はまったく感じられなくなっていた。私は、晶子は間男との過去を精算してくれたのだ、と判断した。

 

 しかし、実際には違ったんだ。あいつらは、私と晶子の関係が進むほどに、いっそう、ずる賢く立ち回るようになっただけだったんだ。あいつらは結婚後も、人目を忍んで頻繁に逢瀬を重ねていた。私がそれに、気づいていないだけだった」

 

「あの……」

 

 一夏の隣に座る箒が、おずおず、と口を開いた。

 

「気を悪くしないでほしいのですが、その、晶子さんという方は、どうして鬼頭さんと結婚したんですか?」

 

 ここまで聞かされた内容を整理すると、件の二人は、婚前どころか、鬼頭と出会うずっと以前から、特別な関係にあったと推測される。高級時計を短期間のうちに二本もプレゼントしたことから、収入も申し分ないだろう。長い付き合いに加えて、稼ぎも良い。そんな優良物件ではなく、鬼頭を選んだ理由は何なのか。間男ではいけなかった理由は何なのか。

 

「もしかして、その間男も既婚者だったとか?」

 

「いいや。彼はその時点ではまだ独身だった。晶子の他には、付き合っている恋人もいなかったはずだよ」

 

「それなら、なぜ?」

 

「理由の一つは世間体だよ」

 

 鬼頭はそこで束の間、喉を休めた。まだ十五歳の子どもたちにこれを聞かせてよいものなのか、少しの時間、思い悩み、やがて彼は軽蔑した口調で言った。

 

「間男は、私よりも五歳年上で、晶子とは十歳もの年齢差があった」

 

 ということは、当時間男は三三歳か。しかし、それくらいの年齢差なら、今時、世間の目を気にするほどでもないように思うが。

 

「違う。そうだけど、そうじゃないんだ」

 

 鬼頭はかぶりを振った。

 

「問題は、晶子と、あの男が関係を持ったときの年齢なんだ」

 

 吐き捨てるように呟くと、何かを察したらしいセシリアが、思わず口元を押さえた。強烈な嘔吐感。なんとか、堪える。

 

 セシリアは陽子から、件の男がどんな人物なのか、おおよそのことを聞かされている。

 

 当時十二歳の彼女に、その男は何をしたか。その事実は、彼が子ども相手にそういう劣情を抱けることの証左に他ならない。

 

「間男が晶子を見初めたとき、彼女は十三歳だった」

 

 二三歳の成人男性が、十三歳の女子中学生に手を出した。なるほど、その事実が白日に下にさらされるようなことがあれば、世間体は最悪だ。彼女は、そのリスクを恐れたか。

 

「二つ目の理由は、晶子は間男のことを愛していたが、同じくらい、私のことも愛してくれていたからさ」

 

 繰り返しになるが、晶子は自己愛が強く、依存心の強い女だ。常に、自分を庇護してくれる男の存在を求めている。自分を愛し、そして守ってくれる男の人数は一人よりも二人の方が良い、と考える彼女は、鬼頭のことも、間男のことも、等しく愛していた。同じだけ愛している二人を秤にかけ、婚姻関係を結ぶ上での障害がより少ないと思われる方を選んだのだ。

 

「奇妙に思うかもしれないが、あれはそういう女だった。あれは自分が愛されるために、私のことも、間男のことも、本気で愛してくれていた。私を結婚相手に選んでくれたことも、究極、私のことが好きだったから、と本人が言っていたよ」

 

 愛されるために、人を愛す。晶子という女の行動原理は、いたってシンプルだった。そしてその単純さゆえに、鬼頭夫婦の関係は、少しずつ壊れていった。

 

 晶子と結婚した翌年の八月、智也と、陽子が産まれた。

 

「子どもたちのことはね、私の方から、晶子に欲しい、と言ったんだ」

 

 自分の申し出を、彼女は快く受け入れてくれた。そこには、彼の求めに応じれば、自分に対しいっそう深い愛情を向けてくれるだろう、という打算があった。

 

 そうして智也と、陽子の二人が産まれ、ほどなくして、彼女は腹を痛めて産んだわが子を、憎むようになっていった。

 

「ま、待ってください!」

 

 箒が声を荒げた。

 

「おっしゃっていることの、意味が分かりません。どうして、そんなことになるんですか!?」

 

「晶子は、私に愛してもらうために、私の求めに応じて、子を産んだんだ」

 

「それは……はい。分かりたくはありませんが、分かります」

 

 子どもを、いったい何だと思っているのか。子どもは、親の道具なんかじゃないはずなのに。鬼頭を見つめる箒の瞳は憤っていた。

 

「それが理由さ」

 

 対する鬼頭は、箒の顔を悲しげに見つめた。

 

「自分のことをより愛してくれると思い、子どもを産んだ。けれど、そうはならなかった。誤算が生じたんだよ。……少なくとも、晶子にとってはね」

 

 智也と、陽子。そして、彼らとのかけがえのない時間を自分にプレゼントしてくれた、愛妻たる晶子。鬼頭は彼ら三人を等しく愛した。彼らとの幸福な日々を守ることこそが、これからの己の使命なのだ、と強く思った。しかし晶子は、そんな自分の有り様を、不満に思ったのだ。

 

「私は子どもたちのことも、妻のことも、全身全霊で愛した。しかし晶子は、子どもたちのことよりも自分のことを最優先に愛してほしい、と考えていたんだ。

 

 晶子はね、わが子に対し、強烈な嫉妬心を抱いたんだ。いま二人に向けられている男の愛は、本当ならば、自分一人が独占するはずだったもの。自分一人に対し、向けられていなければならないもののはずだ。それなのに、どうして……? とね。彼女は智也たちのことを、夫からの愛を横取りした憎い相手と、だんだん、疎ましく思うようになっていったんだ」

 

 一夏たちは唖然とした。

 

 以前、陽子から大体のあらましを聞かされていたセシリアでさえ、目の前の男に対し、かけるべき言葉を見失ってしまった。

 

 それほどまでに、鬼頭が口にした言の葉は子どもたちの心に衝撃と動揺をもたらした。

 

 親が子を憎む。家族という集団単位の有り様が複雑化して久しい現代日本において、それ自体は珍しいことではない。また、父親にとっては息子が。母親にとっては娘が。それぞれ配偶者からの愛情を奪い合う競争相手ともいえる。そういったことも踏まえると、親が子に対し敵意を抱くなんて経験は、大なり小なり、誰しもに起こりうることといえるだろう。しかし、まさかそんな子どもみたいな理由で、親が子を憎むなんてことが、起こりうるのか……!?

 

「智也たちに……そして、私に対し、不満を抱くようになった晶子は、間男への依存を深めていった。私に隠れて頻繁に連絡をとり、逢瀬を重ねたんだ」

 

 子どもたちが赤子のうちは、さすがの晶子も間男とのデートを控えたという。しかし、どうしても我慢できなくなったときは、間男と二人、ベビーカーを引いてホテルにしけこんだこともあった、と聞いている。

 

 ――さすがにこれは、織斑君たちには言えないな。

 

 十代半ばの少年少女に対し、行為を連想させる直接的な表現を口にするのははばかられた。

 

 それならば、と鬼頭は晶子の過去の所業について、別な一例を記憶の引き出しから引っ張り出す。

 

「子どもたちがある程度成長すると、晶子たちは二人を家に置いて、デートに出かけるようになった。ある程度、とはいっても、智也たちがまだ二、三歳の頃のことだ。自宅とはいえ、そんな年齢の子どもだけを残して、長時間留守にする。これがどんなに恐ろしいことなのか、ちょっと想像してみてほしい」

 

 少年たちは等しく表情を強張らせた。

 

 認知機能はもとより、感覚器や四肢といった肉体機能の発達も未成熟な幼児にとって、家の中は危険でいっぱいだ。椅子に座ろうとして失敗し、転んで床に頭を打ちつけてしまったり、お腹が減ったから、と母親の真似をして包丁を手に取り、扱いを間違えて怪我をするなどの事故は、子育ての経験なんてない一夏たちにも容易に想像できる。

 

 三人の中でも、特に険しい面持ちなのが一夏だった。眦をつり上げ、奥歯で怒りの感情を噛み殺しながら、吐き捨てるように呟く。

 

「それが、親のやることかよッ」

 

 その様子を見て、鬼頭は、ああ、そういえば、と過日の千冬との会話の内容を思い出した。

 

 彼女の言によれば、織斑姉弟には両親がいないという。なんでも、一夏が物心もつかない頃に、二人揃って姿を消してしまったらしい。

 

「親だからって、子どもに何をしたって許されると思っているんじゃねぇよ!」

 

 記憶にないとはいえ、実の両親から捨てられた経験を持つ一夏には、晶子の行いが非道と思えたのだろう。ぶるぶる、と震える手の中で、スチール缶が、べこん、と悲鳴を上げる。

 

 まるでわがことのように憤る一夏に、鬼頭は沈痛な面差しを向けた。

 

「晶子の智也たちへの仕打ちは、もはやネグレクトと評していいレベルに達していた」

 

 いくつもの意味を与えられた言葉だ。この場合は、児童虐待や育児放棄といった用法が相応しいだろう。

 

「智也たちが八歳のときのことだ。私は、ふとしたきっかけから、晶子の不倫と、ネグレクトの実態を知った」

 

 かつて、恋人の左手首に巻かれた腕時計について訊ねる勇気を持てなかった男は、この十年ほどの間にすっかり変貌を遂げていた。

 

 いまや自分は、父親なのだ。優先するべきは我がことよりも、家族の幸せであり、なにより子どもたちの未来を守ることだ。これまで正視するのを避けてきた、晶子という女の本質が、子どもたちを、はては家族の幸せを傷つけるというのなら、心を鬼と変えて、彼女と戦わねばならぬ。

 

 妻の不義を知ってしまったその日の晩、鬼頭は子どもたちとよく話した。八歳の彼らに伝わる言葉で愛を囁き、今後のことについて話し合った。父さんと母さんは離れ離れになってしまうかもしれない。二人は、どうしたい? 泣きそうな顔で訊ねた彼に、二人は、これからもお父さんと一緒にいたい、と、そう言ってくれた。鬼頭は破顔し、二人を優しく抱きしめた。

 

 翌朝から、男の戦いは始まった。興信所に連絡をとり、ひそかに証拠を集め始めた。弁護士のもとへ足を運び、二人で戦略を練った。鬼頭の依頼を請け負ってくれた堂島弁護士は、「絶対に勝てる戦いだ」と、豪語してくれた。

 

「不倫の証拠はすぐに集まった。ネグレクトがあった事実を証明するための資料も完璧な物ができた。私はすぐに、妻と間男に話を持ちかけた。こちらの要求は、不倫に対する慰謝料と離婚への同意、そして親権をよこすことの三つだ。

 

 私からの申し出に対し、晶子は激しく抵抗した。弁護士の先生とともに、何度も話し合いを重ね、なんとか離婚することだけは同意してくれたが、慰謝料と、親権についてはなおも拒んだ。

 

 慰謝料については、こちらも心の整理をするためのケジメとして、何か一太刀浴びせてやろう、という考えから要求したものだ。減額や、分割での支払いを求めてきた場合には、ある程度、譲歩するつもりだった。けれど、親権については、こちらも譲れない」

 

 結局、鬼頭と晶子が合意できたのは、話し合いでの解決は不可能だ、という結論を下したことについてのみだった。大人たちの戦いの舞台は法廷へと移った。

 

 家庭裁判所への道すがら、堂島弁護士は強気だった。

 

「絶対に勝てるはずの裁判だった。離婚の原因を作った責任はどちらにあるのか、誰の目にも明らかな精度の証拠を集めることが出来た。こちらからの要求についても、弁護士の先生と何度も話し合い、行き過ぎたものではない、と太鼓判を押してもらった。裁判の結果は自分の望んだ通りのものになる、と、私は信じて疑わなかった」

 

「でも、たしかその裁判は――、」

 

 一夏は言いづらそうに口を開いた。週刊ゲンダイの記事によれば、その裁判の結果は、鬼頭の望むものではなかったはずだ。

 

「うん。そうだね」

 

 鬼頭はうつむいた。

 

「私は、裁判に負けた」

 

 捏造部分が大半を占める件の特集記事にあって数少ない、実際にあった事実の一つだ。しかし、正しいのは鬼頭が敗北したというその一点のみで、あとのことは原稿執筆者の想像力の産物だった。勿論、勝敗を分けた要因も、夫からのDVなんて理由ではない。

 

 では、勝てるはずの裁判に、この男はなぜ負けたのか。

 

「女性権利団体さ」

 

 その名を呟く声には、凄絶な憎悪の念が感じられた。顔を傾けた理由に気づいた一夏たちは、思わず息を呑む。

 

「それも、愛知県でもとびきり過激な思想をもった団体だ。私たちの裁判は、彼女たちに目をつけられた」

 

 篠ノ之束博士のIS発表から、三年が経っていた。

 

 世界中で急速に広がる第三次フェミニズム・ブームという嵐の中で生まれた、女尊男卑という考え方に取り憑かれた過激派たちは、自分たちの住むこの国が法治国家だということも忘れ、感情論をもって、鬼頭たちに牙を剥いた。

 

 有責者とはいえ、なぜ、女の側が慰謝料を払わねばならないのか。

 

 母親と子どもが離れ離れになるなんて、あってはならないことだ!

 

 法の正当性と証拠を武器に、自分たちの望む結果を目指して積み木を一つ一つ並べていく鬼頭たちに対し、彼女たちは乱暴に腕を振るってそれを崩した。

 

 勝てるはずの裁判の結果は覆り、鬼頭は慰謝料を支払うことになったばかりか、親権まで晶子たちに譲らねばならなくなってしまった上、面会権まで取り上げられた。当然、納得のいかない鬼頭たちは上告したが、その訴えは権利団体との個人的なつながりが噂される女性判事によって退けられた。

 

 一夏たちは絶句した。目の前の男に対し、なんて声をかければよいのか、分からない。

 

「おそらくだが、あのときこそが、私の人生における、いちばんのターニング・ポイントだった。上告が退けられたとき、なぜもっと抗議をしなかったのか。法律など知ったことか! と、なぜ子どもたちを連れて逃げなかったのか。そうしていたなら……」

 

 いまよりも苦しい未来が待っていたかもしれない。しかし、それでも、失うことだけはなかったはずだ。

 

 彼の命だけは、守れたはずだ。

 

「裁判の後、晶子は間男と籍を入れた。依存心の強い彼女は、夫という庇護者を失ったことで、新たに寄りかかれる存在を求めて焦っていたんだろう。裁判の過程で、間男の幼女趣味は白日の下にさらされてしまっていたから、もはや世間体など気にする必要もない。なりふりなど構っていられない、という感じだったよ。

 

 夫婦となった彼らは、間男の実家がある四日市へと引っ越していった。勿論、智也と陽子も一緒だ」

 

 中学生の頃、学校の授業で聞いた覚えのある地名だ、と一夏は過去の記憶を掘り起こした。たしか、公害病の蔓延が社会問題となった街だったか。そういえば愛知県と、四日市市を抱える三重県は県境を共有する位置関係だったな、と頭の中で地図を思い描く。それなら、なおのこと辛かったに違いない、と当時の鬼頭の心境を想い、一夏は胸が苦しくなった。名古屋から四日市なんて、すぐの距離じゃないか。それなのに、法律が原因で会えないなんて。

 

 他方、一夏の隣に座る箒もまた、うつむく鬼頭を前に胸を痛めていた。

 

 今日、世界中で猛威を振るっている女尊男卑の思想は、ある意味で、彼女の姉によってもたらされたものといえる。姉がISなんて物を開発しなければ、フェミニスト団体がこうも勢いづくことはなかっただろうし、その活動によって鬼頭親子が苦しめられることもなかったはずだ。

 

 ――この人は、姉さんの発明のために、不幸になったのだ……。

 

 姉の発明品が世界の仕組みを変え、そのために不幸になった人間がいる。

 

 話には聞いていた。

 

 しかし、実際に目にするのは、これがはじめての経験だった。

 

 箒は目の前の男に対し、哀れみとも、罪悪感ともとれぬ、複雑な感情を抱かずにはいられなかった。

 

「私が、次に、陽子と再会を果たしたのは、離婚成立から四年ほど経ったときのことだった」

 

 違和感から、一夏たちは怪訝な表情を浮かべた。

 

 なぜ、陽子一人だけの名を呟いたのか。

 

 もう一人、双子の兄だという、智也はどうしたのか。

 

「晶子の実家は同じ三重県の伊賀上野市にあるんだが、そちらからね、連絡があったんだ。陽子のことを預かっている。彼女は私に、会いたい、と言っている、とね。私はすぐに伊賀上野へと向かった」

 

 この先の展開を知るセシリアが、いまにも泣き出してしまいそうな顔になった。

 

「四年ぶりに会った陽子は、記憶にあった姿よりも、ずいぶんと痩せていた。……分かるかい? 当時十二歳の少女が、八歳のときよりも、痩せていたんだよ!」

 

 明らかな栄養失調状態。よく見れば背丈も、ほとんど伸びていなかった。

 

「それだけじゃない。陽子の体には、無数のアザがあった」

 

「それって……」

 

「ああ、そうだ。私との離婚後、虐待はますます酷いものになっていったんだ。陽子は私に、助けを求めてきたんだよ」

 

 晶子との結婚後ほどなくして、間男は当時勤めていた建設会社を辞めさせられた。四年前の騒動に際して、鬼頭は間男を追いつめるために、関係各所に二人の不貞を示す証拠を同封した内容証明郵便を関係各所に送っていた。その中には彼が勤務していた会社も含まれており、晶子たちの不適切な関係は、社内に知れ渡ってしまった。

 

 鬼頭との裁判に勝った彼らではあったが、法によるお墨付きを得ても、世間からの目は厳しかった。なにしろ、不倫の末の略奪婚。しかも、最初に手をつけたのは十三歳のときときている。会社内で間男は白眼視され、遠回しないじめに遭い、どんどん立場を失っていった。やがて居心地の悪さから、彼は自らの意思で退職願をしたためた。

 

 再就職先を探すのには難儀した。彼ははじめ、同じ建築業界内で就職先を探したが、その就職活動は失敗に終わった。元いた会社からのリークにより、彼らの非道については業界内で有名な話として広まっていた。やむをえず、彼は異業種へと目を向けたが、こちらもことごとく失敗。なんとか地元のファミレスで契約社員として雇ってもらうも、当然、収入は激減した。

 

「子どもたちへの暴力は、この頃から始まった、と聞いている。あの男は、仕事が上手くいかないなんてストレスのはけ口に、あの子たちを利用したんだ!」

 

 間男からの暴力は日ごとエスカレートしていった。

 

 彼らは、収入が減じてしまったにも拘らず、生活の質を落とそうとしなかった。

 

 そんな彼らにとっての頼みの綱は、鬼頭からせしめとった慰謝料五〇〇万円と、毎月十六万円の養育費だった。寝取られた側からの施しが生命線という現状を惨めに思ったか、間男はどんどん苛立ちを募らせ、暴力を振るう回数は増えていった。

 

「そんな暴力をともなう虐待の日々の中で、智也が、死んだんだ」

 

 一夏は、過日行われたクラス代表決定戦のときに陽子とセシリアの間で交わされた言葉を思い出した。

 

 お前達のような女が、智也兄さんを、殺した。

 

 あのとき、彼女ははっきり、そう口にしていた。

 

 あれは、

 

 あのときの言葉は、そういうことだったのか。

 

「智也は、親の贔屓目かもしれないが、優しい子だった。そして強い子だった。あの子と、陽子は、双子で、兄と妹の立場の差なんてあってないようなもののはずなのに、四日市へと引っ越す前日の夜、あの子は私に、宣言してくれたんだ」

 

 これからは、自分が父さんに代わって、妹のことを守ってみせる。

 

「智也は、自らが口にしたその言葉を守り続けた。あの子は、間男の暴力から陽子をかばったんだ。暴力の嵐を、自分一人で受け止めた。そして、死んだ。あいつらに、殺されたんだ」

 

 女尊男卑の思想を信奉する女たちの介入によって歪められた、司法の場。下された判決によって親子は引き裂かれ、挙げ句、双子のうちの、片方が亡くなった。

 

 陽子が女尊男卑思想の原理者たちを憎むのも当然だろう。直接、手をくだしたのは間男だが、彼女たちがその背中を押したも同然だ。

 

 一夏たちはようやく、あの試合で彼女が見せた、怒れる眼差しの意味を理解した。

 

「智也が亡くなったことを、私は知らなかった。知らされなかったんだ。後に晶子たちに確認したところ、養育費の減額を恐れて、私には言わなかったんだそうだ。しかもあの二人は、互いに口裏を合わせることで、あの子の死を事故に見せかけた。本当は、間男に背中を突き飛ばされた際に階段から転げ落ち、頭を打ったことによる、脳挫傷が原因だった」

 

 一夏たちは茫然とした。

 

 鬼頭が語る晶子と間男が、自分たちと同じ人間とはどうしても思えない。まるで、違う星の生き物について、聞かされている気分だ。それほどに、二人の行動は、少年たちの理解の範疇を超えていた。養育費を減額されるのが嫌だったから、息子の死を実の父親に伝えない? そんな決断をした心理が、想像できない。

 

「智也が亡くなった後、間男たちの暴力は、今度は陽子一人に集中することになった。そんな生活がさらに二年続き、耐えかねたあの子は、私に助けを求めてきたんだ。智也のことも、そのとき、知らされた」

 

 深い悲しみと、激しい怒りが、鬼頭の身の内で暴れ出した。

 

 もう一秒たりとも、陽子のことをあいつらに任せておけぬ、と、彼は再び、晶子たちとの対決を決意した。

 

 当時の上司や親友の桜坂に協力を要請し、さらには、堂島弁護士や松村探偵といった、四年前にも世話になった方々と連絡をとって、雪辱を晴らす気はないか、と声をかけた。

 

 かくして、四年ぶりにチーム・アップした彼らは、晶子たち夫婦を、殺人と児童虐待、そして養育費の不正受給の罪科で訴えた。こんな二人のもとでは、まともな生育は期待出来ぬと、改めて陽子の親権をこちらに譲る決定を下すよう、裁判所に求めた。

 

「つまり、それがあの週刊誌にも書かれていた……」

 

「そうだ。親権を、無理矢理に奪い返した、という記述の元ネタさ」

 

 鬼頭たちはまず警察に晶子たちの非道を訴えた。二人はすぐに逮捕され、まず刑事裁判が開かれた。

 

 四年前、鬼頭らの敵に回った女性権利団体は、今度はこちら側の味方となってくれた。女性権利団体の構成員は、当然ながら、大部分が女性だ。間男の暴力により、女性である陽子が傷ついたという事実は、彼女たちを奮い立たせる十分な動機となった。彼女たちの援護射撃もあって、裁判はつつがなく進行した。

 

 他方、親権を巡る民事訴訟については、被告人不在という状況の中で、裁判が行われた。今回、鬼頭たちの問題を担当してくれた判事は、彼らに好意的だった。彼は一日でも早く、親子が一緒に暮らせるように、とすみやかに裁定を下してくれた。かくして、父と娘は、ともに暮らせるようになったのである。

 

「……これが、かつて私たち家族の身に起きた出来事さ」

 

 顔を上げ、鬼頭はすっかりぬるくなってしまったお茶を飲み干した。

 

 空の缶を机に置き、涼しげな冷笑を口元にたたえる。しかし、その目は笑っていなかった。明らかな作り笑顔。こちらに気を遣わせないためだろう、とすぐに分かった。

 

「すまないな。聞いていて、気持ちの良い話ではなかっただろう?」

 

「……いいえ」

 

 一夏はかぶりを振った。真摯な声が、鬼頭の耳朶を打つ。

 

「俺の方から、望んだことですから。俺の方こそ、辛い記憶を、思い出させてしまって、すいませんでした」

 

 一夏は深々と頭を下げた。顔を上げると、腹の底から絞り出したかのような、気迫に満ち満ちた語気を、唇から迸らせる。

 

「それから、ありがとうございます。辛い思いをしてまで、俺のお願いを、聞いてくれて」

 

「少しは、役に立ったかな?」

 

「はい」

 

 一夏は力強く頷いた。

 

「智之さんたちのことを、よく知ることが出来ました。この話を聞けて、よかったと思います」

 

「うん」

 

「それと、」

 

 一夏は、そこで束の間、喉と舌先を休めた。

 

 脳裏に、鈴の顔が思い浮かぶ。

 

「いまの話を聞いて、確信しました。やっぱり、鈴は智之さんたちの事情を、よく知らないんだと思います。知っていたんだとしたら、あんな酷いこと、口に出来るはずがない」

 

 人付き合いを苦手としている娘ではある。しかし、人の気持ちが分からない娘ではない。目の前の男が、死んでしまった息子のことでいまなお塗炭の苦しみにのたうつ日々をしいられていることを知っていたなら、そんな罵るなんてことは出来ないはずだ。

 

 かといって、よく知りもしない人物のことを、悪く言うような娘でもなかった。

 

 やはり、顔を合わせなかったこの一年ほどの間に、彼女の身に何かが起きたとしか考えられない。

 

 次にするべきは、その何かを知ることだが。

 

「智之さん」

 

「なんだい?」

 

「もう二つ、お願いしてもいいですか?」

 

「ふむ。まずは、話を聞こうか」

 

「まず一つ。今度のクラス代表対抗戦のことです。一回戦目の俺と鈴の試合ですけど、観客席じゃなくて、ピットルームから、観戦してもらえませんか?」

 

「それは構わないが……」

 

 鬼頭は怪訝な表情を浮かべた。

 

「いったい、なぜ? ピットルームでなければならない理由は、何なんだい?」

 

「二つ目のお願いに関わることです。ピットルームで打鉄を展開して、プライベート・チャネルの回線を白式に合わせた状態で、俺たちの試合を見ていてほしいんです」

 

「……なるほど」

 

 鬼頭は得心した様子で頷いた。

 

 プライベート・チャネルとは、およそすべてのISに標準装備として搭載されている通信機能で、要するに秘匿回線だ。他人の耳目を気にすることなく、音声会話や、文書データなどのやり取りを行うことが出来る。そんな機能を起動させた状態で、試合を観戦してほしい、ということは――、

 

「つまり、私に、きみと凰さんの会話を聞かせたいわけだね?」

 

「さっきも言いましたけど、俺にとって、鈴は大切な幼馴染みです」

 

 一夏は力強い語調で宣言した。

 

「大切な友人だからこそ、詳しい事情なんてほとんど知らないのに、智之さんに酷い言葉をぶつけたことが、許せないんです。だから……!」

 

「分かったよ」

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。

 

「きみの言いたいことは、分かった。きみの望む通りにしよう。……凰さんは、果報者だな。きみのような優しい子を、友人とすることが出来たんだから」

 

 鬼頭が言うと、一夏は照れくさそうに微笑んだ。気恥ずかしい思いを誤魔化そうと、まだ中身がたっぷり残っている缶を唇に寄せる。直後、少年は顔をしかめた。気がすっかり抜けてしまったコーラは、やたら甘いだけの汁へと成り果てており、一夏の嗜好からははずれてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter18「決意の日」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





かくして鬼頭たちは、少しずつ理解者を増やしていくのであった。



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オリキャラ設定集

とりあえずオリジナルキャラのみ。

オリジナルISやオリジナル武装、

パワードスーツなどはまた別に作ります。


鬼頭家の皆さん

 

 主人公一家。愛知県名古屋市に昔から暮らす一族で、手先の器用な者が多い。

 

 鬼頭姓はリアルに愛知県に在住者の多い姓で、全国の鬼頭さんのおよそ三分の二が愛知県で暮らしている上、さらにそのうちの半分が名古屋市在住。そのルーツは、源平合戦の時代に猛将とうたわれた鎮西八郎為朝の妾の子……尾頭次郎義次にあるとされる。

 

 源為朝といえば、日本史上最強の鋼弓の使い手とされる武将。つまり、鬼将軍の血筋。怒らせると恐いって、はっきりわかんだね(風評被害)。

 

 主人公の鬼頭智之、その愛娘・陽子。彼の心の傷であり、生きる理由である智也。両親、祖父などを紹介する。

 

 

 

鬼頭 智之(きとう ともゆき)

 

所属 アローズ製作所・パワードスーツ開発室及びIS学園一年一組

身長 176cm

体重 64kg

容姿 この年齢の男性としてはかなり引き締まった体つき。これはIS学園への入学に際して、体のラインが出てしまうISスーツを着ることを想定し、絞り込んだ結果。切れ長の双眸の持ち主。

天才性 科学技術に関しては世界最高クラスの頭脳。驚異の観察眼と分析能力。複雑な内部構造をしているはずのISを、僅か十数分、動いている姿を観察しただけで、それがどんな仕組みで動いているのかを見抜き、かつ再現出来てしまう。

趣味 時計、車

裏テーマ・ヒーロー トーマス・ウェイン(「フラッシュ・ポイント」)+マドカ・ダイゴ(「ウルトラマンティガ」)

 自分のためではなく、家族のために立ち上がる男。自らの頭の良さを自覚しながらも、自分一人で出来ることなど高が知れている、と考えている。たとえ力が強くても、一人きりでは戦えない。どんなに夢を追い求めても、一人きりでは届かない。だからこそ、最高のパワードスーツを作ることではなく、その普及を夢としている。また、その不屈の闘志は、どんな絶望の中にあっても、決して光を見失わない。

 

人物 本作の主人公。46歳。アローズ製作所・パワードスーツ開発室の設計主任。かつてマサチューセッツ工科大学を首席の成績で卒業した、天才的頭脳の持ち主。留学時代に遭遇した、9・11同時多発テロにショックを受け、以来、『自分の作った災害用パワードスーツを世界中に普及させる』ことを夢としている。

 

 上述の通り、天才的な頭脳とモノ作りの才能の持ち主で、製品の性能を落とすことなく小型化を可能とした《遼子化技術》、世界のミリタリー・バランスを変えかねないレーザー銃《トール》などを、作中ではすでに発明している。

 

 0から1を作り出す能力は低いが、すでにある1をさらに洗練させる、誰でも使える技術として標準化する、1同士を組み合わせる、などにより、10の品質の製品、技術を開発する能力に長けている。また、驚異の観察眼と分析能力を持っており、どんな機械もたちどころにその構造や仕組みを見抜き、理解し、再現することが可能。

 

 反面、身体能力は普通人の範疇を大きく逸脱はしない。40代としては鍛えている方なので、それなりに高い、という程度。会社の健康診断では、血糖値の高さが指摘されているほど、肉体面は常人と大差ない。そのためか、自分のことを、『他人よりもちょっとだけ頭が良い』というくらいにしか考えておらず、世界のあり方を危うくするほどの超人とは自覚していない。

 

 過去に離婚歴のあるバツイチ。離婚の原因は、元妻による不倫。子どもは双子の兄妹がいたが、離婚後、親権を獲得した元妻のもとで、兄の方は亡くなっている。自分のあずかり知らぬところで息子が死んでいたこと、そして元妻たちがその事実を自分には伝えなかったことは、彼の中で相当ショックな出来事として、決して癒えない心の傷となっている。

 

 息子を失った反動からか、娘への溺愛ぶりはかなりのもので、はっきり言って親馬鹿。先述の《トール》などは、娘がISバトルで英国の代表候補生と戦わなければならなくなったため、初心者の彼女でも扱いやすい武器として作った(製作費用は数百万円規模)。

 

 離婚にいたった経緯が経緯だけに、再婚への意欲は薄い。しかし、女性への関心がまったく消えてしまった、というわけではなく、良い人に巡り会えたなら、とは考えている。ボインが好きな、むっつりすけべ。

 

 過去に友人から居合の技を教えてもらったことがある。ちゃんと師事したことはない、と言いながらも、その腕前は織斑千冬が感嘆するほど。流儀は香取神道流。

 

 趣味は時計とクルマ。時計は、普段はボーム&メルシェのボーマティックを愛用し、車はトヨタ・プリウスを愛車としている。クルマ好きからすると、プリウスは面白味の薄い選択といえるが、これは燃費やラゲッジスペースなど、家族で使う際の利便性を優先したため。その代わり、休日にはレンタカー屋で色々なクルマを乗り回すことを楽しんでいた。憧れのクルマはポルシェ911カレラ。

 

 彼がIS学園を見学した際に、ラファールに触れてしまったことで、物語は大きく動き始めた。

 

たぶん、表に出ないであろう設定 実はロボット産業界においては、ISを動かせることが判明する以前から有名人だった。なにしろ、どんな複雑な機械も、一目見ただけでその仕組みを看破されてしまうため、他社からは産業スパイ的な意味で非常に危険視されていた。展示会など、出禁扱いされることもしばしばあったそうな(若い頃のスティーブ・ジョブズも同じような扱いをされていたらしい)。

 

 

鬼頭 陽子(きとう ようこ)

 

所属 IS学園一年一組

身長 140cm

体重 37kg

スリーサイズ ぺたん・ぽよっ・つるり

容姿 実年齢よりも幼い顔つきと体つき。これは過去の虐待により、成長期に十分な栄養を与えられなかったばかりか、強烈なストレスをかけられ、生育が阻害されたため。

趣味 ネットサーフィン、動画漁り、淫夢、射撃訓練

裏テーマ・ヒーロー 孤門一輝(「ウルトラマンネクサス」)

 どんな絶望に打ちのめされたとしても、決して諦めない。たとえ転んだとしても、ゆっくりと、しかしいつかは絶対に立ち上がれる、勇気の人。

 

人物 16歳。鬼頭智之の娘。彼と元妻との間に生まれた、双子の妹の方。父親ほどではないが、彼女もまた優れた頭脳の持ち主で、いまや世界一の難関校、IS学園に、一年ちょっとの受験勉強と対策で合格してみせた。

 

 8歳のときに母親の不倫が原因で両親が離婚し、そのときは母親に引き取られた。不倫相手と結婚した母親たちとともに、三重県四日市市に引っ越すが、新天地で両親から虐待を受ける。12歳のときに義父からレイプされ、そのことを母親に伝え助けを求めるも、彼女からの返答は「この淫売が!」。両親に絶望し、実の父である鬼頭に助けを求めた。現在は鬼頭と二人で暮らしている。

 

 義理の父親からのレイプという最悪の経験から、男性に対して苦手意識を持っている。本人の努力と周囲のサポートにより、会話くらいは普通にこなせるまでに回復したが、身体の接触は原則タブー。たとえば、拾ってもらった消しゴムを受け取るときに指がちょっと触れた、というだけでも、恐慌状態に陥りかねない。いまのところ例外は、父親の鬼頭と、その親友で昔から知っている桜坂の二人だけ。IS学園を受験したのも、そこが女子校だったから、というのも理由の一つだった。

 

 よりにもよって成長期に両親からの虐待に遭い、身体の生育は著しく阻害されてしまった。単に身長が低いというだけでなく、体つきもかなり幼げ。そのため、勉強は出来るが、運動は苦手である。ただし、物覚え自体はよくISの操縦技術は、近接格闘戦を除けば、初心者としてはなかなか上手い方。

 

たぶん、表に出ないであろう設定 淫夢との出会いは、鬼頭のもとに引き取られて以降、男性に対する苦手意識をちょっとでもなくせればな、と動画投稿サイトを漁っている中で見つけ、そしてはまってしまった。えっ、なにそれは……(ドン引き)。

 

 

鬼頭 智也(きとう ともや)

 

人物 故人。享年10歳。鬼頭と元妻、晶子の間に生まれた双子の兄のほう。鬼頭夫婦の離婚後、親権を得た元妻の側に引き取られ、そこで暴力を伴う苛烈な虐待を受けた。その末に死亡するも、その事実は養育費の減額を恐れた元妻たちによって秘匿され、しかもその死因まで彼らの都合の良いように偽装された。悲劇の少年。

 

 妹の陽子に対しては、双子にも拘らず、兄(=すなわち、年長者。庇護者)として接することが多かったという。母親たちからの暴力も、陽子をかばって自分一人で受け止めていた。

 

 

鬼頭 浩(きとう ひろし)

 

人物 故人。享年102歳。鬼頭智之の祖父。優れた時計職人で、そのあり方に鬼頭は憧れ、彼の人生に大きな影響を及ぼしている。

 

たぶん、表に出ないであろう設定 先の大戦では1943年に、名古屋に本拠地を置く、第三師団・歩兵第六連隊に徴兵された。1944年の大陸打通作戦に参加した際に、砲弾の破片が頭部に当たって死にかけるも、二日後には完治し、戦線に復帰した。鬼頭の超人遺伝子は、彼に由来する可能性が高い。

 

 

鬼頭 大作(きとう だいさく)

鬼頭 清香(きとう きよか)

 

人物 鬼頭の両親。それぞれ75歳、72歳。父の大作は元時計ディーラー。本当は時計職人になりたかったが、祖父ほどの手先の器用さに恵まれなかったこと、それでも時計に関わる仕事がしたい、と販売の道を選んだ。現在は引退している。

 

 鬼頭がISを動かしてしまったことで、要人保護プログラムの対象となった。

 

 

 

 

 

アローズ製作所

 

 愛知県名古屋市に本社を持つ、国内屈指のロボットの総合メーカー。主人公たちの勤務先。資本金二百億円超、売上金およそ八千億円、従業員総数七千人の大企業。

 

 作中では小型でかつ高出力なレーザー・ユニットの開発、遼子化技術の開発などの功績が目立っているが、鬼頭らが理論を完成させてから製品化するまでの期間の短さなどから明らかなように、そもそもの基礎研究技術のレベルが異常に高い。

 

 主人公と関わりの深いパワードスーツ開発室のメンバーの他、主要な役員について紹介する。

 

裏テーマ 特捜チームXIG(「ウルトラマンガイア」)

 最高のプロフェッショナル集団。社員一人々々が組織としての目的を理解している上で、己のなすべきことを把握し、行動に移せる仕組みが整備されている。

 

たぶん、表に出ないだろう設定 年末の忘年会では、男性社員たちが裸でくんずほぐれつするローション相撲大会が恒例行事となっている。参加自由の催しだが、なんとこの戦績が翌年度の賞与査定に関わってくるため、基本、全員参加。ちなみに桜坂は過去六回の優勝経験を持つ現横綱。

 

 

パワードスーツ開発室

 

 2022年にアローズ製作所内に新設された開発部門。文字通り、パワードスーツの開発と量産、その普及を目的として発足した。

 

 長年、会社に貢献してきた鬼頭と桜坂のために用意されたご褒美部署。彼らの夢を叶えるための場。

 

 桜坂が室長を務める。彼はここに、考えうる最高の設備と、人材を揃えた。現在のスタッフは室長自身を含めて11名。

 

 

 

桜坂 (さくらざか)

 

所属 アローズ製作所・パワード開発室室長

身長 184cm

体重 80kg

容姿 六尺豊かな堂々たる体躯と、仁王象のごとき強面の持ち主。憤怒の表情を初対面の女子供が見ればまず泣く。大振りな双眸。目力強し。

天才性 強靱な肉体。高速計算能力。

趣味 ミリタリー、戦史研究、歴史・時代小説、サブカル全般

裏テーマ・ヒーロー クラーク・ケント(DCコミック各誌)+藤宮博也(「ウルトラマンガイア」)

 作中最高クラスの身体能力を持った鋼鉄の男。地上につながれた神。天より授けられた強大な力の使い方に頭を悩ませる、暴走の危険性を孕んだ、危うい男。

 

人物 46歳。アローズ製作所・パワードスーツ開発室の室長。鬼頭とは大学時代からの親友で、彼とともに、『自分たちの作った災害用パワードスーツを世界中に普及させる』という夢を叶えるため、日夜仕事に励んでいる。MIT卒業時の成績は次席。

 

 パワードスーツ開発室では、技術者としての腕前は鬼頭に劣るとして、室長職を自ら希望。上司としての立場から、彼のサポート役を買って出ることが多い。しかし、これは比較対象が悪いというだけで、周囲からすると、彼の実力も相当なもの。一般には、彼もまたMITを優秀な成績で卒業した天才的頭脳の持ち主と認識されている。特に、複雑な物理計算を頭の中だけで瞬時に解いてしまうなど、計算能力はかなりのもの。

 

 しかし、頭脳面以上に驚異的なのが、凄まじいまでの身体能力。手首の回転運動だけで二十トン以上の力を発揮し、四十メートルの高さを軽々とジャンプする。幼少の頃から古武術をたしなんでおり、その凄まじい運動能力を十全に活かす術まで心得ている。

 

 当人はそうした肉体面での強さや自身の頭脳を、世界のあり方を危うくするもの、と認識しており、滅多なことでは表に出さない。だが、親しい人間の身が危うくなったときや、目の前で子どもが車に轢かれそうになっているといった緊急事態に遭遇した場合などには、自身の能力を道具として、躊躇いなく使う思いきりの良さも持っている。

 

 この年齢まで結婚歴はなし。女性との交際経験は少なからずあるし、結婚願望がないわけでもないのだが、いかんせん、女性の好みが特殊すぎる。ストライクゾーンは30代後半~50代中ぐらいの熟女。しかし、そのガキ大将的性格から生じる面倒見の良さのため、言い寄ってくる女性は若い年下ばかりという、周りからすれば「羨ましい。死ね!」、彼自身からすれば「畜生が!」な、ことが多い。

 

 作中のオリキャラで数少ない、ファーストネームが明かされていない存在。これは伏線とかではなく、作者にその勇気がないため。

 

 ぶっちゃけるとコイツ、作者が別名義で活動していた頃にエタらせてしまった過去作の主人公のifとして作ったキャラクター。そして2020年1月現在、桜坂●●と、フルネームでグーグル検索かけると、いまだにその作品が検索候補の上位にくる。つまり、下の名前を明かすと、これ書いているヤツが、かつて何という名前でどんな作品を挙げていたかが、高確率でばれる。

 

 もともとリハビリがてら始めた「この小さな世界で~」。以前の調子を完全に取り戻したと判断出来たときに、過去作についても再開したいな、と考えているが、まだその勇気はない。

 

たぶん、表に出ないであろう設定 実は結構な資産家。鬼頭が〈トール〉を開発した際には、IS学園にいるため資産を思うように動かせない彼に、数百万円からの資金を、ポン、と貸している。

 

 

桐野 美久(きりの みく)

 

所属 アローズ製作所・パワード開発室

身長 157cm

体重 50kg

3サイズ たゆんっ・きゅっ・ぷりっ

容姿 整った顔立ち。黒髪セミロング。見た目だけなら深窓の令嬢といった雰囲気。桜坂曰く「ほの暗い水底のような瞳」の持ち主。

天才性 尋常ならざる鍵開けの技術。相手のパーソナルスペースに深く踏み込んでも嫌がられないという、独特な雰囲気。

趣味 深夜二時くらいに桜坂の暮らすマンションの部屋に忍び込んで彼の寝顔を、じぃっ、と眺めていること。桜坂が着古した衣料品に顔を押しつけ、スーハー、スーハー、すること(白目)。

裏テーマ・ヒーロー ウォルター・ジョセフ・コバックス(「ウォッチメン」)

 不屈の精神を持った妥協なき狂信者。目的のためならば手段は選ばない。信仰する者の悪い部分は見ない。だからいつだって迷わず、思いきった行動がとれる。あと、鍵開けの達人。桜坂とダニエルは泣いていい。

 

人物 27歳。アローズ製作所・パワードスーツ開発室の一員。技術者ではないが、主に営業や、他スタッフの業務負担の管理など、サポート面で活躍している。桜坂パートにおけるヒロイン(桜坂「ファッ!?」)。

 

 アローズ製作所創業者一族の娘で、いわゆる社長令嬢。14歳のときに“天使”との邂逅を果たし、自分の人生は彼を助けるためにある、と(勝手に)悟る。以降は、いつでも天使様の力になれるように、と様々な分野での研鑽を重ね、大学卒業後は父が社長を務める会社に入社。パワードスーツ開発室発足後は、多忙な天使様の身の回りの世話を(勝手に)焼いている。たとえば、マンションの部屋に(勝手に)上がって炊事・洗濯・掃除などしている。

 

 性格および行動のぶっ飛び具合が目立つが、それはあくまで桜坂が絡む場合においてのこと。彼が絡まない場面では、人懐っこく、気遣い上手な為人が好感を呼ぶ、可憐という言葉がこの上なく似合う人物。また、所属部署に優秀な人材が多いため目立っていないが、彼女自身、その頭脳は明晰である。

 

 桜坂への想いは、恋愛感情や性愛というよりは、もはや信仰の域に達している。この人の役に立てるのなら何でもしてあげたい。この人のためならば、死さえ受け入れる。

 

たぶん、表に出ないであろう設定 方向性が違うだけで彼女もまた天才、あるいは超人と評せる人物だったりする。

 

 

滑川 雄太郎(なめかわ ゆうたろう)

 

人物 34歳。パワードスーツ開発室のメンバー。アローズ製作所には中途で採用された。以前勤めていた自動車会社では、自動車のエンジン回りの開発と製造に携わっていた。文字通りのエンジニア。

 

 パワードスーツ開発室でも、主にパワーユニット関連を担当している。会社には電車で通っている。

 

 

田中・W・トム(たなか うぃろびー とむ)

 

人物 29歳。パワードスーツ開発室のメンバー。日本人の父と、アメリカ人の母を持つ金髪の青年。鬼頭たちと同様、MITの卒業生で、その縁からアローズ製作所に入社した。

 

 漫画やアニメが好き。特撮はあまり詳しくないらしい。嘆かわしい。

 

 会社にはマイカーで通勤している。最近、中古でマツダのロードスターを購入した。

 

 

酒井 仁(さかい ひとし)

 

人物 57歳。パワードスーツ開発室の最年長メンバー。勤続三十年超の大ベテランで、部材や素材のエキスパート。開発室では数少ない既婚者。

 

 

桐野 秋雄(きりの あきお)

人物 94歳。桐野美久の祖父。アローズ製作所の創業者で、現会長。社長時代に鬼頭と桜坂を採用した。

 

 

桐野 利也(きりの としや)

桐野 由美子(きりの ゆみこ)

 

人物 それぞれ69歳と64歳。桐野美久の両親。利也はアローズ製作所の現社長で、若き日の鬼頭と桜坂を上司として鍛えた。娘の美久のことを溺愛している。

 

 

 

日本政府の皆さん

 

 日本国の国益と国民の未来を守るために日夜戦い続けている皆さんを紹介する。

 

 なお、後々本編でも詳しく書くつもりだが、本作における白騎士事件以降の日本の政治は以下のようにイメージしている。

 

2011~2014年……第96代内閣総理大臣・神部晋二が在任。第二次神部内閣時代。

 

2015年……白騎士事件発生。ミサイル迎撃システムが上手く作動しなかったこと、他国の軍事勢力による領海内への侵犯および白騎士との戦闘行為を止められなかったことについての責任を取らされる形で、神部内閣は解散。97代総理大臣として、岡田文雄が就任する。

 

2016年……白騎士事件後、政治・経済・文化・思想といったものが、急激に変化していく時代に突入。この動乱の時代を戦い抜くには、岡田内閣では力不足とされ、組閣後一年少々で解散。98代総理大臣として、司馬周平が就任する。

 

2016~2020年……第一次司馬内閣

 

2020~2023年……第99代内閣総理大臣・司馬周平が就任。第二次司馬内閣

 

2024年~現在 ……第100代内閣総理大臣・司馬周平が就任。第三次司馬内閣の治世

 

 

 

司馬 周平(しば しゅうへい)

 

人物 57歳。第100代内閣総理大臣。日本の総理としては珍しい、東京大学工学部出身という理系の宰相。経済政策で成果を挙げ、国民の支持を集めている。名前の由来は、勿論、あの一平二太郎から。

 

 

池波 遼太郎(いけなみ りょうたろ)

 

人物 62歳。第三次司馬内閣における、防衛大臣。長身の美丈夫。名前の由来は、勿論、あの一平二太郎から。

 

 

藤沢 正太郎(ふじさわ しょうたろう)

 

人物 63歳。第三次司馬内閣における内閣官房長官。総理の女房役。池波防衛大臣とは、大学時代の先輩後輩という間柄。名前の由来は、勿論、あの一平二太郎から。

 

 

 

内閣情報調査室

 

 日本の情報機関。日本の三大スパイ機関の一つで、国内外のあらゆるインテリジェンスを扱う。

 

 その目的は、日本の国益にかなうかどうかを判断する為政者に向けて、判断材料となり得る様々なインテリジェンスを提供することにある。

 

 

 

叶 和人(かのう かずと)

 

人物 53歳。北海道出身。内閣情報調査室の最高責任者で、日本の国益のために司馬内閣を陰から支える男。警察庁からの出向者で、司馬総理との付き合いは、第二次神部内閣のときに、当時の首相の秘書官を務めていた頃から。

 

 IS学園にもスパイを送り込んでおり、彼らからの連絡で、イギリスが鬼頭智之の懐柔に乗り出したことを知ると、わが国も懐柔工作チームを結成し、彼に対しアプローチをかけるべき、と司馬総理に進言。特命班KT班を組織した。

 

 

城山 悟(しろやま さとる)

 

人物 34歳。総務省から出向している、内調の職員。KT班のメンバーに選ばれ、班内ではアローズ製作所へのアプローチを担当している。

 

 

 

日本警察の皆さん

 

 日本の治安維持のために日夜戦い続けている皆さん。

 

 

 

貝塚 道夫(かいづか みちお)

 

人物 28歳。愛知県警・東警察署の刑事課に所属する巡査部長。身長176cm、体重64kgの、すらり、とした長身の持ち主。合気道の達人で、これまでに16人もの犯罪者を、その腕っ節をもって制圧している。

 

 滑川雄太郎が襲われた傷害事件について捜査を担当した。

 

 

大島 洋二(おおしま ようじ)

 

人物 46歳。東警察署・刑事課の課長。階級は警部。風見鶏のような日和見主義者。

 

 

岡本 正康(おかもと まさやす)

 

人物 35歳。大阪府警本部・刑事部・機動捜査隊の班長。階級は警部。元スカイブルー隊の隊員で、オートバイの運転技術はかなりのもの。

 

 大阪市北区天神橋近くの貸倉庫で発見された女性の変死体について調査を行っている。

 

 

 

 

 

その他

 

伊藤 謙介(いとう けんすけ)

 

人物 鬼頭の元妻……晶子の父親。八年前の離婚騒動のときは、愛娘を可愛がるあまり晶子の味方をしたが、智也(彼にとっては孫)の死をきっかけに、正気を取り戻す。陽子の親権を巡る裁判では、終始、鬼頭に味方した。

 

 本作は彼が鬼頭に電話をかけるところから始まる。

 

 

堂島 和夫(どうじま かずお)

 

人物 弁護士。八年前の離婚騒動、四年前の親権争奪戦で鬼頭に味方した。

 

 

松村 祐輔(まつむら ゆうすけ)

 

人物 探偵。元警察官で、現在の仕事にもその経験を活かしている。八年前の離婚騒動、四年前の親権争奪戦では鬼頭の依頼を受け、晶子たちが有責であることを示す証拠を集めた。

 

 

加藤 耕作(かとう こうさく)

 

人物 46歳。鬼頭の高校時代のクラスメイト。鬼頭が晶子と知り合うきっかけとなった、合コンの主催者。

 

 東日本大震災の後、再生可能エネルギー需要の高まりを見込んで、太陽光発電事業を始める。しかし、太陽電池の原材料であるシリコンの調達に失敗し、会社は倒産。以降は苦しい日々を送っている。……送っていた。

 

 

東山 紀子(ひがしやま のりこ)

 

人物 弁護士。関西地方で影響力を持つ女性権利団体『カキツバタの会』の一員。滑川雄太郎襲撃事件の犯人の弁護を担当している。……していた。

 

 

ジョージ・ハミルトン

 

 44歳。イギリス空軍の大佐。イギリス三軍を統括する、統括司令部に勤務している。セシリア・オルコットの直接の上司で、ブルー・ティアーズ開発計画の主要メンバーの一人。

 

 ファイター・パイロット出身で、2015年のイスラム国掃討作戦などに参加している。当時の愛機はトーネードGR.4。

 

 

 

 

 

晶子 (しょうこ)

 

人物 鬼頭の元妻。鬼頭親子をいまなお苦しめる、過去からの脅威。

 

 

 

 



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Chapter19「試合開始」

結果的につなぎ回になってしまいました。

詳しくはあとがきにて


 

 クラス対抗戦の当日の朝、試合会場となるIS学園第二アリーナは、第一試合開始の三十分も前から、喧噪で満たされていた。

 

 第一試合の対戦カードは、織斑一夏対凰鈴音。かたや世界にたった二人しかいない男性IS操縦者と、かたや中華大陸が送り込んできた次代の超新星。第三世代機のプロトタイプを任されるほどの猛者という組み合わせだ。全校生徒どころか、学外の学園関係者も注目する好カード。噂の新入生同士の対決を見るために、アリーナの観客席は人、人、人の群れで埋め尽くされていた。全席満員だ。

 

「これは……すごい光景だな」

 

 第二アリーナのAピット。一年一組のクラス代表と、そのサポーターたちが利用する控え室にと用意されたその部屋で、鬼頭智之は、ははあ、と溜め息をついた。

 

 目線の先には空間投影ディスプレイが浮かんでおり、会場の様子を映し出している。六畳ほどもあろう大画面にも拘らず、視野の八割ほどが、人間の姿に占有されていた。

 

「自分たちは世界中から注目を集める存在だと自覚していたつもりだったが……認識不足だった。まさか、これほどの人が集まるとはなあ」

 

 ディスプレイに映じる彼女たちのいちばんの関心事は、男性操縦者の戦いぶりだろう。ということは、今日の試合で戦うのが鬼頭だったとしても、同じように人が集まった可能が高い。

 

 もしも、試合に出場するのが自分だとしたら……。鬼頭は思わず、ぶるり、と胴震いした。この衆人環視の中で戦わされる者の気持ちを想像し、げんなりとしてしまう。

 

「……織斑君、白式の調子はどうだい?」

 

 鬼頭は待機状態の白式を検査装置にかける一夏に声をかけた。試合開始前の最終点検だ。ISは最も強力な兵器であると同時に、最も繊細な造りをした精密機器。高いパフォーマンスを保つためには、こうした保守点検の作業が欠かせない。

 

 検査機器による走査の結果は、十六インチ・サイズの空間投影ディスプレイに出力された。内容をしっかりと読み込み、機体のコンディションに問題がないことを認めた一夏は、「問題なし、です」と、応じる。

 

「鬼頭さんが整備してくれたからですかね? 数値的には、いつもより調子が良いくらいですよ」

 

「そいつはよかった」

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。ここ数日はイギリス政府と約束したBTシステムの開発研究に係りきりで、クラス対抗戦に向けて準備を進めるクラスの活動に、あまり関わることが出来なかった。そこで、せめてこれくらいのことはやらせてほしい、と対抗戦の前日に、試合前の最終整備を請け負ったのだ。

 

 白式の開発元は、鬼頭の愛機でもある打鉄を設計したことで有名な倉持技研。同じ会社の製品とあって、設計上の共通する部分も多いだろう、と踏んでの申し出だった。案の定、白式の基本構造は打鉄と非常によく似ており、経験の浅い鬼頭の腕でも十分な整備を施すことが出来た。

 

「今回、白式をいじっていて気づいたんだが」

 

「はい」

 

「高機動型の機体だけに、スラスターをよく噴かすだろう? たぶん、そのせいだと思うんだが、推進系の消耗が、他の部位よりも著しかった」

 

 今日の試合に向けて、放課後の特訓をみっちりこなした結果だろう。昨晩、鬼頭が白式を預かった時点で、その推進機器はISの自己修復機能だけでは修繕が追いつかなくなり始めていた。出力調整を管理する部品の消耗が特に酷く、このまま放置すれば、必要なときに十分な加速を得られず、それが原因で勝機を逃したり、敗因になってしまうのではないか、と懸念されるほどだった。前日とはいえ、機体を診断することが出来てよかったと、鬼頭は昨晩、整備室で一人安堵の溜め息をこぼした。

 

「本当は新しい部品と交換するのがいちばんなんだろうが、新品のパーツを組み込むと、機体に馴染むまでに、少なからず時間がかかってしまうからね。翌日に試合を控えていたし、ならし運転をする暇はない。だから、今回は同じ部品を使っていて、推進器よりは傷みの少ない別の部位の物と交換することで対応させてもらった。パワーを絞るときの感覚に違和感を覚えるかもしれないが、それも最小限に抑えられたと思う」

 

「ありがとうございます、智之さん」

 

 機動性は白式というISの戦闘能力の核となる性能だ。推進機器がいざ重要な場面で十全に機能しないというリスクを避けられるのなら、多少の扱いづらさは我慢するべきだろう。

 

 そのとき、観客席を映すディスプレイと連動しているスピーカーから、わあっ、と歓声が出力された。振り向けば、観衆の目線はみな一様に闘技場へと向けられている。

 

 いったい何事かと、鬼頭は空間投影ディスプレイをタッチして、カメラのチャンネルを変更した。アリーナ会場の中央を撮影しているカメラに接続すると、巨大スクリーンいっぱいに、見知らぬISの姿が映し出された。東洋の龍を模した意匠が施された、棘付きの大型アンロック・ユニット二基の存在感が目を惹く機体だ。円筒形を基調としたデザインのアーマーが覆うのは、両腕と両足のみという、かなりシンプルな構成。ほっそりとした印象のスカート・アーマーには、球形の補助スラスターが二基くっついている。

 

「あれが、鈴のIS……!」

 

「中国の第三世代機、甲龍(シェンロン)か」

 

 世界でたった二人しかいない、特別な立場の男たちは大画面に映じた鈴とそのISの姿を、食い入るように見つめた。

 

 今日の試合に備えて、クラスメイトたちが手分けして収集してくれた情報によれば、近接格闘戦を得意とする、パワーに優れる機体だという。第三世代機にカテゴライズされる所以たる特殊兵装は、空間圧作用兵器《衝撃砲》。なんでも、“見えない砲弾”を撃ち込むことが可能なんだとか。

 

「……なんか、やたら攻撃的な見た目をしたISですね」

 

 自信に満ち満ちた表情の鈴をしげしげと眺めていた一夏が、ふと呟いた。

 

 隣に立つ鬼頭も、「そうだね」と、彼の意見に同意を示す。

 

「三国志を題材にしたビデオゲームにでも出てきそうなデザインだ」

 

「ああ、たしかに。呂布とか、関羽とかが着てそうなイメージですね」

 

「イメージといえば」

 

「はい」

 

「甲龍(シェンロン)という名前、どうしても、あの漫画の龍の姿が、思い浮かばないかい?」

 

「……智之さんもですか?」

 

 一夏はしぶい顔になった。

 

「提案なんですけど」

 

「うん?」

 

「俺たちの間だけでも、あのIS、甲龍(こうりゅう)って呼びません?」

 

「……そうしよう」

 

「織斑、白式のチェックが終わったのなら、さっさと展開して、会場へ向かえ」

 

 男二人で頷き合っていると、ブック型の情報端末を抱えた千冬が背後から声をかけてきた。Aピットルームには現在、この三人の他に、箒、セシリア、陽子、真耶の七人が詰めている。

 

 「了解です、織斑先生」と、応じて、一夏は検査台の上に置いていたガントレットを右腕に装着した。みんなから距離を取ったところで、右腕を前へと突き出し、精神を集中する。

 

 ――来いっ、白式!

 

 右腕のガントレットから、青白い輝きの光の粒子が迸った。少年の体を包み込むと、白亜の鎧へと変質し、その身を覆う。下肢。腕。肩。胸。装甲の形成が完了し、パワーアシストやPICといった各種の機構が動作を開始する。展開に要した時間は〇・六二秒。自己ベストを更新。白式だけでなく、自分自身のコンディションも好調だ。

 

「一夏」

 

 ISの展開により、目線が高くなった一夏の顔を、箒が見上げた。

 

「勝ってこい……とは言わない。大切な、幼馴染みなんだろう? なら、お前のやりたいように、やってこい」

 

「箒……、ああ。わかった!」

 

 力強く頷くと、一夏は勇ましい笑みを浮かべた。機体を傾け、ピット・ゲートへと向かう。

 

「それじゃあ、みんな、行ってくる」

 

 出撃の間際、一夏は箒らに振り向くと、白式のロボットアームでサムズアップをして見せた。

 

 ピット・ゲートが開放され、白い流星が飛び出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter19「試合開始」

 

 

 

 

 

 

「……さて」

 

 一夏の出撃を見送った後、鬼頭はおもむろに、制服の上着を脱ぎ捨てた。ネクタイをはずし、ワイシャツも脱ぐ。あらかじめ着込んでおいた群青色のISスーツが姿を現したところで、彼はかたわらに立つ千冬を見た。

 

「では、織斑先生?」

 

「……試合中、プライベート・チャネルで交わされるだろう二人の会話を聞くために、ISを使わせてほしい」

 

 険しい面持ちの千冬は小さく溜め息をついた。

 

「そんな理由でISを展開するなんて、本来、規約違反なのですが……。日本政府からの要請のこともあります。私の監視のもとで、ということで、特別に許可します。絶対に私のそばから、離れないでください」

 

「はい」

 

 鬼頭は頷くと、右手の中指でひっそりと輝く、黄金色の指輪に目線を落とした。意識を集中し、灰色の打鉄を身に纏った己の姿をイメージする。三角形の台座の部分から光の粒子が溢れ出し、鬼頭の体を鎧った。現代科学の粋を結集して作られた、機械仕掛けの鎧武者が顕現する。

 

 一連の光景を間近で眺めていた箒は、おや、と怪訝な表情を浮かべた。

 

 打鉄を身に纏う鬼頭の姿に、違和感を禁じえない。

 

 はて、彼の愛機はこんな形だったかと、箒は首を傾げた。

 

 

 

 

 試合開始の十分前。

 

 Aピットから勢いよく飛び出した一夏は、闘技場の真ん中で対戦相手の到着を待っている鈴の目の前に降り立った。二〇〇八年に公開された実写映画が有名なアメコミヒーローを意識した、腰を落とし、右手を地面に突き立てた独特な着地姿勢。顔を上げた彼が、ニヤリ、と勇ましい笑みを向けると、鈴もまた好戦的な微笑を浮かべた。

 

「へぇ……上手いもんじゃない」

 

「だろ?」

 

「ISに乗り始めて、まだ二週間ちょっと、って聞いていたけど?」

 

「練習したんだよ」

 

 不敵に応じながら、一夏はゆっくりと立ち上がった。右手に意識を集中させ、《雪片弐型》を展開する。片手正眼に構えると、彼はその切っ先を鈴に向けた。

 

「かっこよく着地するための練習と、お前を倒すための練習をな」

 

『それでは両者、規定の位置まで移動してください』

 

 闘技場内に、今回のイベントを運営する本部がある放送室からのアナウンスが響いた。一夏と鈴はほとんど同時に地面を蹴り、ふわり、と浮かび上がる。五メートルの距離を隔てた後、空中で向かい合った。

 

「鈴、プライベート・チャネルを。周波数は、白式に合わせてくれ」

 

 開放回線で呼びかけると、鈴は怪訝な表情を浮かべながらも頷いた。ほどなくして、白式のISコアが、対峙するISのコアからの呼びかけを受信する。胸の内で、通信を許可、と呟くと、頭の中に、鈴の声が響いた。

 

『これでいい?』

 

『ああ』

 

『それで、どういうつもり?』

 

『試合開始まで、あと五分もあるからさ。お前とちょっと、話がしたくて』

 

『奇遇ね』

 

 鈴の細腕を覆う右腕ロボットアームの掌が、淡い光を放った。量子格納領域から大型ブレードを展開。すかさず、白式のISコアが、相手の武装についてコア・ネットワークから情報を収集する。刀身が鈴自身の身の丈ほどもあろう、異形の曲刀《双天牙月》。柄の長さが拳四つ分もあり、左右の手をそれぞれつば元、柄尻へ持っていくことで、薙刀のように腰を入れた苛烈な一撃を可能とする近接兵装だ。

 

 鈴は《双天牙月》の切っ先を、一夏の喉の高さへと掲げ、対戦相手の少年を威嚇した。

 

『あたしも、あんたとはずっと、話したいと思っていたわ』

 

 鈴は一夏の顔を睨んだ。

 

『あんた、いったい、どういうつもりなのよ? 約束の意味について教えてくれ、って、あんたの方から言ってきておいて、あの日以来、あたしのことを避けてきたでしょ』

 

 あの日とは、自分が鈴の前から逃げ出した、あのときのことだろう。その指摘通り、一夏はあの日以来、幼馴染みの彼女との接触を避けるよう努めていた。姿を見かければ相手が気づいていないうちにその場から立ち去り、向こうから話しかけられれば、いまは忙しいだの、クラス代表としての仕事があるだの言って、煙に巻いてきた。

 

 中学時代に交わした約束の本当の意味について教えてほしい、とはこちらが頼んだことなのに、その自分が斯様な態度を取るのでは、彼女が腹を立てるのも当然だ。勿論、こちらとて何の理由もなしに、そんな不愉快な行動を取ったわけではないが。

 

『……それについては、悪かったな』

 

 一夏は素直に謝罪した。自分の行動のために、友人に不快な思いをさせてしまった。そのことについては、謝るべきと判断したためだ。

 

『ただ、俺にも事情があったんだよ。それについて、いま、話させてくれ』

 

『事情?』

 

『なあ、鈴、確認しておきたいんだけどさ、お前、智之さんたち夫婦が何で離婚したのか、詳しい事情、知っているか?』

 

『……またあの男の話?』

 

 鈴は忌々しげに顔をしかめた。

 

『そんなの知らないし、知りたくもないわよ』

 

『……そうか。知らないのか』

 

 知らないのに、あんな言葉を叩きつけたのか。

 

 彼のことを知ろうともせずに、一方的に攻撃したのか。

 

 一夏は悲しげな表情で嘆息した。彼女自身の口から、こうもはっきりと言われては、これまで、いいやそんなはずがない、と、胸の内で否定し続けてきたことを、認めざるをえない。

 

 彼女は、やはり、変わってしまった。

 

 互いにまだ中学二年生だったあの日、自分のかたわらで微笑んでいた彼女は、もういないのだ。

 

 鬼頭智之には離婚歴がある。

 

 いまや鈴は、たったその一事のみをもって、彼がどうしてそんな決断を下すにいたったのかその事情を知らないくせに、また知ろうともしないくせに、彼のことを悪し様に罵り、その顔が昏く落ち込んだ表情になったのを見て、溜飲を下げる。そんな女になり果てた。

 

 その態度はまるで、

 

 まるで――、

 

 ――……ああ、そうか。

 

 一夏は、得心した様子で頷いた。

 

 過日、自分と鈴が、まともな会話を最後に交わしたあの日、己は、目の前の少女を恐いと思った。

 

 変わってしまった幼馴染み。自分の理解の及ばぬ存在と化した彼女に対し、得体の知れなさから恐怖の感情が生起した、と思い込んでいた。

 

 しかし、違った。

 

 そう、違ったのだ。

 

 いま、ようやく気がついた。

 

 あのとき感じた、恐怖の由来。

 

 それは、目の前の幼馴染みが変わってしまったことに対する失望などではなかった。

 

 彼女自身が、かつてあんなにも嫌っていた存在にどんどん近づいている事実こそが、恐かったのだ。

 

『なあ、鈴』

 

 プライベート・チャネルを使った通信では、伝えたいことをわざわざ口に出す手間は必要ない。伝えたい言葉をただ念じるだけで、イメージ・インターフェースがその思念を拾って、気持ちとともに、相手のISコアへと送信してくれる。

 

 鈴は困惑した表情で一夏を見た。頭の中に響く少年の声からは、悲しみや寂しさといった気持ちが感じられた。いったい、なぜなのか。戸惑う彼女に、一夏は言う。

 

『小学生の頃のことだけどさ、憶えているか? お前、クラスの男子とかからさ、執拗にからかわれたり、いじめられていたよな』

 

『う、うん』

 

 突然、話題を変えてきた一夏を訝かしみながらも、鈴は頷いた。

 

『忘れるわけ、ないじゃない』

 

 その頃の記憶は、鈴にとって忌まわしくもあり、大切な思い出でもある。日本に来たばかりの頃、まだ日本語の扱いに不慣れで、新しい環境になかなか馴染めなかった。小学校ではクラスの男子生徒たちから、中国人であるということや、日本にはない独特な発音をともなう名前のことでよくからかわれ、やがてそれは、いじめへと発展していった。

 

 いま振り返ると、その多くは子どものいたずら程度のことではあった。しかし、当時の自分には、それがとても苦痛に感じられたし、ときには、長じたいまでさえ酷いと思うような仕打ちもされた。

 

 そんな自分を助けてくれたのが、《双天牙月》の切っ先を向ける、目の前の少年だった。

 

 特に印象深い記憶は、出会ってまだ二週間くらいのときのことだ。クラスメイトの男子四人が、揃ってニヤニヤ笑いながら、「リンリンって、パンダの名前だよなあ」と、名前のことと、鈴が中国人であるということ、そして日本では有名な中国からやって来たパンダの名前を引き合いにして、からかってきた。いつものことだったので無視していると、そんな態度が癇にさわったのか、一人の男子が後ろから彼女を羽交い締めにし、別の男子が、その辺りに群生していた雑草をむしって、「ほら、パンダなら笹食えよ、笹」と、無理矢理食べさせようとしてきた。鈴が涙ながらに、嫌だ、やめて、と訴えると、加虐心を刺激されたらしい彼らはいっそういやらしい笑みを浮かべて、土のついた雑草の根を押しつけてきた。

 

 そんなとき、いじめっ子を後ろから殴りつけたのが一夏だった。彼は四人を相手にたった一人で大立ち回りを演じた。いじめっ子たちはよってたかって一夏を蹴ったり叩いたりしたが、彼の反撃の方がいっそう苛烈だった。いじめっ子たちは、最後には等しく泣きわめいていた。

 

 小学生男子の形成する独特な社会文化において、腕力の強さは重要な要素だ。凰に手を出すと、織斑がやばい。この事実を知らしめたことで、以来、鈴に対するからかいやいじめは激減していった。

 

 両親の他に、この国には自分の味方なんていない、と思い込んでいた時期だけに、一夏が示してくれた強さと優しさは、幼い鈴の心に強い印象を残した。いじめを受けていたという記憶は消し去りたい思い出だが、同時に、あの苦い経験があったからこそ、その苦境から救い出してくれた一夏と仲良くなるきっかけが得られたもまた事実。鈴にとって当時の記憶は、忌まわしさと尊さが両立する、忘れがたい思い出だった。

 

『いじめに遭っていたあたしを、あんたが助けてくれた。あんたにとっては、当たり前のことだったのかもしれないけど、当時のあたしは、あんたがしてくれたことが、すごく嬉しかった。忘れられるはずが、ないじゃない』

 

『そうか。……なあ、鈴。お前、気づいているか?』

 

 あの頃のことを、ちゃんと憶えている。何があったのか、という事実だけではなく、その頃に感じていた痛みや苦しみ、解放されたときの喜びも、しっかり憶えているという。

 

 それなら、なぜ、

 

 なら、なんで――!

 

『智之さんのことを、悪く言うときのお前……、あのとき、お前をいじめていた男子と、そっくりな顔をしているぞ!』

 

 凰鈴音は中国人である。

 

 たったその一事のみをもって、鈴がどんな人物なのか知らないくせに、また知ろうともしないくせに、彼女のことをからかい、いじめていた、あのいじめっ子たち。

 

 そうだ。いまの鈴は、あの連中に、そっくりなのだ。

 

 だから、恐れた。

 

 鈴が、いちばん嫌っているやつらと、同じ存在へ成り果てた事実を認めたくなくて、しかも、彼女がすすんで“そう”あろうとしていることが、恐くなった。

 

 これ以上、幼馴染みのそんな姿を見ていたくなくて、だから自分は、あの日、その場から逃げ出したのだ!

 

『なあ、鈴! お前、どうしてそんな――――っ』

 

 切々とした感情を託し伝えられた一夏の言葉を、鈴は愕然とした表情で受け止めた。

 

 指摘されて、ようやく気がついた。

 

 たしかに、その通りだ。

 

 いまの自分は、あのとき、自分をいじめていた男子たちと同じ……。

 

 ――……違う。

 

 《雪片弐型》を正眼に構える一夏の表情が、恐怖に凍った。

 

 自分を睨む鈴の顔つきが、憤怒の形相へと化していく。

 

『……あたしは、悪くない。あたしが、そうせざるをえなくなったのは、全部、あの男みたいな、大人たちのせい!』

 

『鈴……!』

 

『あたしは、悪くない!』

 

 頭の中に、がんがん、と響く怒声。

 

 しかしそれは、一夏には悲鳴のように思えた。

 

 試合開始のブザーが鳴り響いた。

 

 その音が途切れぬうちから、スラスターの出力を最大まで振り絞った甲龍が、牡丹色の砲弾となって白式へと突っ込んでいく。左手を鍔元に、右手を柄尻へと添えて、双天牙月を逆八相に振りかぶると、渾身の力をもって叩きつける。

 

 対する一夏は、雪片弐型を下段にとり、体を斜めに傾けながら、刃渡り一・五メートルの大太刀を刷り上げる。

 

 異形の青竜刀は白式の右肩のアーマーをかすめていった。見た目よりもずっと大質量の武器だったらしく、かすっただけなのに、物凄い衝撃が一夏の体を揺さぶった。

 

 ――ぐっ……この!

 

 気を抜くと振動で暴れ出しそうになるロボットアームを、手首を締めてなんとか押さえる。手の内を崩すことなく放たれた下段からの斬り上げが、甲龍の右腕へと炸裂した。シールドバリアーを突破。実体ダメージ。たまらず、鈴は後ろに飛び退いた。そうはさせじ、と一夏も追う。

 

 白式と甲龍とでは、単純な機動性は前者の方が勝る。両者の間合いは、あっという間に煮詰まった。

 

 後退しながら、鈴は《双天牙月》をもう一振、量子格納領域から引っ張り出した。もう一本の双天牙月と柄尻同士を連結させ、ダブルセイバー・モードへと形態変更。バトンのように回しながら、追い打つ一夏の打ち込みの連打を、上下左右に弾き、防いだ。連続攻撃をいなされたばかりか、高速回転の運動量に翻弄され、雪片弐型が上へと弾かれてしまう。がら空きになる胴体。鈴の双眸が、ギラリ、と残忍な眼光を灯した。

 

 肩部アーマーのかたわらで浮かぶアンロック・ユニットが、ばかっ、とスライドし、開いた。龍の顎の中で、中心部にはめ込まれた球体状のモジュールが、剣呑に輝く。

 

 直後、衝撃が、白式の上体を襲った。

 

 鈴の放った“目には見えない拳”が、一夏の体を打ちすえる。

 

 一瞬、ぐらり、と暗闇に傾きかける意識。イメージ・インターフェースによってその稼働を制御されているスラスターから急速に勢いが失われ、遅速する。

 

 鈴はその隙に、一夏の間合いから、するり、と逃れていった。

 

 白式よりも高高度に身を置くと、また、アンロック・ユニットの球体を光らせて、“見えない拳”を発射した。

 

「ぐあっ」

 

 どん、どん、どん、と滅多打ち。悲鳴を迸らせながら、一夏は地表へと叩きつけられた。うつ伏せの背中に降り注ぐ、不可視の追い撃ち。くそっ、と吐き捨てて、一夏は横転して攻撃の雨あられを避けると、回転運動の勢いを利用し立ち上がった。

 

 上空の鈴を、鋭く睨む。

 

 ――いまのが……。

 

 鈴の甲龍が、第三世代機に分類される理由の一つ。

 

 空間自体に圧力をかけて砲身を生成し、余剰で生じる衝撃それ自体を砲弾として撃ち出す、特殊兵装《衝撃砲》!

 

 ――見えない砲弾……厄介な武器だな。

 

 武装は近接ブレードが一振のみという割り切った仕様の白式だ。攻撃を叩き込むためには、とにもかくにも相手との間合いを詰めねばならない。ただ接近することでさえ難しいというのに、その上、見えない攻撃を凌ぎながらやらねばならないとは!

 

 しかし、鈴を睨む一夏の顔に、想像していた以上の脅威に対する驚きはあっても、臆した様子はなかった。

 

 敵ISが保有する戦力については、クラスのみんなが情報収集に協力してくれたおかげで、試合前からおおよそのことを把握出来ていた。勿論、《衝撃砲》なる兵装への対策も用意している。問題は、いざ実戦でそれが通用するかどうかだが。

 

 いいや、と一夏はかぶりを振った。

 

 《雪片弐型》を、脇に取る。

 

 ――通用する、しないじゃない。通用させるんだ!

 

 今日の試合のために協力してくれた、みんなの顔を思い出す。情報収集に尽力し、未知なる兵器への対抗策まで一緒に考えてくれたクラスメイトたち。その特訓に付き合ってくれた箒とセシリア。自分も忙しい中、白式の整備に時間を割いてくれた鬼頭。自身の努力に加えて、彼らの助力を得ているのだ。通用させなければ、申し訳が立たぬ。

 

 決然と頷くや、一夏はハイパーセンサーのモードを切り替えた。

 

 

 

 

「私たち、大人のせい、か」

 

 Aピットルーム。

 

 打鉄を展開した状態の鬼頭は、悲しげに呟いた。

 

 タブレット型の情報端末で試合をモニターする真耶が、その横顔を心配そうに見つめている。緊急時への備えから、プライベート・チャネルによる通信は、教員たちに限って、専用の情報端末を使うことで傍受することが出来る。当然、先ほどの一夏と鈴の会話も聞いていた。

 

 会話の内容から察するに、どうやら鈴が変わってしまった原因は、自分のような大人にあるらしい。

 

 自分たち大人がなした仕打ちのせいで、不幸を背負うことになった。

 

 いまだ全容は見えてこないが、これまでに得られた僅かな情報を頼りに鈴の境遇について想像すると、以上の答えが導き出せる。

 

 すなわち、彼女は陽子や、智也と同じ――、

 

「……何をやっているんだ、俺たちは」

 

 短い言葉に篭められた、万感の想いを察して、幼い教員は泣きたい気持ちになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter19「試合開始」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クラス対抗戦の、一週間前――。

 

 名古屋市名東区、アローズ製作所本社ビル。

 

 パワードスーツ開発室に与えられた専用のオフィスで、強化服開発の指揮を執る桜坂のもとに、一本の電話がかかってきた。

 

 室長用のデスクに置かれている内線機器の受話器を手に取り耳に押し当てると、『お疲れ様です。総務の河合です』と、甲高い女性の声が耳膜を震わせた。総務部部長の河合晴美だ。桜坂よりも五つ年上の五一歳。勤続二八年の大ベテランだ。熟女好きの桜坂は、彼女の声を聞いて思わず相好を崩した。

 

「お疲れ様です。パワードスーツ開発室の桜坂です」

 

『桜坂室長、いま、お時間よろしいですか?』

 

 桜坂はオフィス内を、ぐるり、と見回した。開発室の精鋭たちは、各々自身の業務に集中している。この様子なら、いましばらくの間は、通話中に彼らから声をかけられるようなこともないだろう。

 

「ええ、大丈夫ですよ。それで、どうされました?」

 

『先ほど消防庁から広報課宛てに電話がありました』

 

「消防庁から?」

 

 思わず口に出してしまったその呟きに、室内にいる何人かが反応して顔を上げた。消防庁といえば、将来、災害用パワードスーツを売り込もうと考えている最も有力な顧客候補の一つだ。はて、室長はいま、誰と、何の話をしているのか。

 

『はい。消防庁と総務省の職員何名かで、わが社のパワードスーツ開発室を見学したい、という申し出でした』

 

 桜坂の大振りな双眸が、ギラリ、と光った。仁王の顔に険が宿る。

 

『いま、詳しい内容についてのメールを、室長の専用端末に送ったので、確認しておいてください』

 

「分かりました。わざわざありがとうございます」

 

 受話器を置いて、早速、個人用端末にインストール済みの電子メール・ソフトを起ち上げた。受信フォルダをチェックすると、なるほど、たしかに総務課から未読であることを示すマークのついた電子メールが届いている。中身を検めると、そこには、名古屋市消防局の総務課課長の名前で、千種消防署の署長や、特別消防隊の隊員を含む消防庁の職員八名と、総務省の役人二名、そして警察庁の職員一名からなる一団での、見学申請に関する問い合わせが記されていた。一分ほど黙然と読み込んだ後、桜坂は立ち上がり、みなの顔を見回した。

 

「皆さん、そのままでいいので聞いてください」

 

 朗々たる声が、広いオフィスの四隅にまで行き届いた。

 

「いま、総務部より連絡がありました。先ほど、広報課のところに、名古屋市の消防局から電話があったそうです。用件は、我々パワードスーツ開発室の仕事を見学させてほしい、との依頼でした」

 

「見学ですか?」

 

 訊き返してきたのは開発室最年長の酒井仁だった。桜坂は頷くと、メールに記載されていた文面を読み上げる。

 

「そうです。ほら、昨年の十二月に、東京ビッグサイトでやったじゃないですか? 国際ロボット展」

 

 一般社団法人・ロボット工業会と、日刊工業新聞社が主催する、ロボット専門の展示会だ。一九七四年の初開催以降、二年に一度の頻度で開催されている。二六回目を迎えた昨年の展示会では、アローズ製作所を含む九百以上の企業・団体が出展し、四日間の開催で来場者は二十万人突破という成功を収めた。

 

 昨年のロボット展で、アローズ製作所は新型の重作業用ロボット二種類の他に、現在開発中の災害用パワードスーツの試作品として、XI-01のお披露目をしていた。当時、XI-02は組み立て作業が完了したばかりの頃で、とてもではないが、そんな規模の展示会に出展出来るような状態ではまだなかった。

 

 XI-02と比べた場合、あらゆる性能が大きく劣るXI-01だが、それでも、ベンチプレス八百キログラムというパワーは、来場者たちの心に強いインパクトを刻んだ。

 

 車両重量六五〇キログラム、スズキのアルトを軽々と持ち上げてみせるパフォーマンスに対する観客の反応は上々。桜坂が「このスーツは災害用パワードスーツの開発に必要な基礎の技術を修得するための物で、自分たちは現在、より高性能で実戦的なスーツの開発を行っている」と、口にすると、拍手喝采が巻き起こった。投資家たちからも、期待しているよ、との言葉を引き出すことが出来、室長と設計主任者はその晩、二人仲良く祝杯を傾けたという。

 

「あのときのパフォーマンスを、消防庁の職員も見ていたらしいんです。それで、我々の災害用パワードスーツに、強い関心を抱いたんだとか」

 

「やったじゃないですか!」

 

 期待に満ち満ちた歓声を上げたのは金髪のトム・W・田中だった。

 

 大口の発注や、世間への口コミ効果も期待出来る公的機関が、自ら、御社の製品に興味がある、と申し出てきた。

 

 災害用パワードスーツの商品化は勿論のこと、自分たちの作った強化服を世界中に普及させる、と大望を抱く彼らにとって、消防庁からのアプローチは、まさに棚からぼた餅が落ちてきたようなものだった。

 

 なにしろ、災害用パワードスーツの導入に、はじめから前向きな姿勢を見せている相手だ。マーケティングを挑む上で、これほどやりやすい相手はいない。見学会の結果如何によっては、日本中の消防車に、自分たちのパワードスーツが積み込まれる未来にかなり近づけるだろう。また、消防庁がアローズ製作所で開発中の災害用パワードスーツを高く評価した、となれば、国内外への宣伝効果も見込める。たとえば、日本の自衛隊などだ。もっとも、自分たちのパワードスーツの技術が軍事利用されることを嫌って、わざわざ日本の企業の門を叩いた鬼頭たちだ。軍事組織である自衛隊への売り込みは、いまのところ考えていないが。

 

「これはなんとしても見学会を成功させないといけませんね!」

 

 そう言って張り切るトムだったが、険しい面持ちでパソコンのディスプレイを眺める室長を見て、彼は怪訝な表情を浮かべた。はて、自分たちにとってこれは喜ばしい事態のはずなのに、なぜ、そんな顔を?

 

「気分が乗らなさそうですね?」

 

 室長の態度を不審に思ったのは、トムばかりではない。今度は滑川雄太郎が話しかける。

 

「室長は、見学団の受け入れに、反対なのですか?」

 

「いえ、そういうわけではないのですが……ちょっと、気になることがありまして」

 

「気になること?」

 

「見学を希望しているという十一人なんですが……」

 

 桜坂はパソコンのディスプレイを回転させると、みなに画面を示した。

 

「消防庁から派遣される八人の目的は明らかです。将来、災害用パワードスーツを導入したとして、実際に運用するのは彼ら消防庁のスタッフですからね。技術ショーでその存在を示唆された新型のスーツが、どんな性能を持ち、開発がどこまで進んでいるのか、自分たちの目で確かめたい、と思ったのでしょう。

 

 総務省から役人が送られてくる、というのも、まあ分かります。消防庁は総務省の外局ですから。消防庁が導入を検討している装備が、はたして、お金と時間をかけてまで採用するほどの価値がある物なのか見極めるために、人を送ることにしたのでしょう。

 

 分からないのは、警察庁の職員とやらです。消防庁の見学会に、なぜ別組織の人間が関わってくるのか。その目的は何なのか。そのあたりのことが分からないというのが、どうも、ね。引っかかるんですよ。なんというか、すっきりしない。妙な気持ち悪さがある」

 

「では、見学の申し出は断るつもりなので?」

 

「いやあ、それはそれで、勿体ない気がするんですよねえ」

 

 桜坂は悩ましげな溜め息をついた。

 

「向こうから見学を希望したい、と言ってくれている。こんな機会、そうそうありません。

 

 それに、トムの言ったように、彼らを受け入れることで得られる利益は大きい。商売上の理由もそうだし、なにより、実際に消防や災害の現場ではたらく消防士たちから、ナマの意見を聞き取れる、また、とない機会です」

 

 いま現在、パワードスーツ開発室ではXI-02二号機をどんな仕様とするか、デザインしている最中だった。これに、現場ではたらく人間の経験知を反映させることが出来れば、災害用パワードスーツとして、より完成度の高いスーツが作れるだろう。

 

「警察庁の職員とやらが何を考えているのかが不気味なだけで、見学会そのものを実施するメリットは大きいといえる。私個人としては、賛成ですよ」

 

「では!」

 

「ええ。日程の調整と、何を見せるか、計画を練りましょう」

 

 室長の号令を受けて、オフィス内のライト・スタッフたちは慌ただしく動き始めた。

 

 その様子を眺めながら、桜坂は、

 

 ――警察官が一人……まさかとは思うが、公安警察か、内閣情報調査室か……? もし、そうだとしたら、狙いは鬼頭絡みか、産業スパイ対策か……。

 

などと、渋い表情を崩さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――それとも、あれの所在について調べているのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




またもやらかした捏造設定。

小学生の鈴に行われた“からかい(原作表現)”を拡大解釈しまくった結果、この有り様よ!



さて、当初の予定ではもっとバトル・メインの回でした。

しかし、一夏と鈴の会話のシーンを書き始めたら、キーを叩く指が止まらなくなり、その部分だけでも結構な文章量に……。

この上、バトルまで突っ込んだら3~4万字いきそうだったので、キリのよいところで区切りました。






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Chapter20「この小さな世界で、大切な幼馴染みに愛の言葉を贈ろう」

実はまともな試合の方が少ない原作の描写から、妄想を爆発させてみた。

たぶん、isバトルってこんな単純なものじゃないだろうけど、俺にはこれが限界だった。




 クラス代表対抗戦より、二日前の放課後。

 

 IS学園の第四アリーナでは、一夏、箒、セシリアの三人が、明後日の試合に向けて話し合いをしていた。作戦会議の最初の議題は勿論、第一回戦の相手である、鈴への対抗策についてだ。まずセシリアが、ブルー・ティアーズのISコアをコア・ネットワークへとつなぎ、情報を収集する。

 

「調べてみたのですが、織斑さんのご友人が中国の代表候補生に選ばれたのは、つい最近のことのようですわね」

 

「そうなのか?」

 

「はい。公開されている情報によれば、代表候補生への正式な就任は、今年の一月ということになっています」

 

 セシリアの返答に箒は驚いた。一夏の言によれば、凰鈴音が祖国へ帰っていったのは、中学二年生の終わり頃のこと。当時の鈴はまだ、ISとの関わりはほとんどなかったというから、それから僅か一年足らずで、代表候補生の栄誉をつかんだ、ということになる。

 

 単一の国家としては、中国はいまだ世界最大の人口を誇る国だ。人材難は考えにくい。並み居るライバルたちを、僅かな期間で押し退けてその座にある鈴の能力は、相当なものと察せられた。

 

 そんな強敵と、幼馴染みは戦わねばならないのか。一夏の横顔をうかがう箒の表情は不安げだった。

 

「IS操縦者として、天与の才があったのでしょう。勿論、代表候補生の座は、それだけで得られるものではありません。才能を磨くための努力も、相当なものだったと思います」

 

「昔から、負けん気の強いやつだったからなあ」

 

 一夏は昔を懐かしんだ。自然と、中学時代によくつるんだ、五反田弾や、御手洗数馬といった友人たちの顔が思い浮かぶ。

 

「テストの点数とか、俺や弾のやつよりも低かったりすると、すごく悔しがってさ。次は負けないぞ、って猛勉強していたよ」

 

 言いながら、はて、と一夏は怪訝な表情を浮かべた。

 

 そういえば、鈴が何か一つのことに打ち込むときは、いつも何かと戦っているときだった。いま口にした例でいえば、その相手は自分や弾だ。そんな彼女が、代表候補生の座を目指すほどの努力。当時の彼女は、いったい何と戦っていたのか。

 

「話を戻しますわね」

 

 セシリアの言葉に、一夏は、はっ、として頷いた。

 

「最近、代表候補生に就任したばかりの鈴さんには、公式試合の記録がほとんどありません。得意な戦法や、戦い方のクセなどから対抗策を練るのは、難しいでしょう」

 

「つまり、鈴の対策というよりは……」

 

「ええ。鈴さんのIS《甲龍》への対策を練る、ということになりますわ」

 

 セシリアは空間投影式のディスプレイを呼び出すと、そこに中国製最新鋭機の詳細なデータを出力した。イギリスの情報機関が、公開情報を主な情報源として分析し、弾き出したデータだ。勿論、世界屈指の情報収集能力を誇る英国のスパイ機関のこと、非合法な手段を用いて入手した情報をベースとした分析結果もブルー・ティアーズのISコアには保存されているが、さすがにそちらは、二人には見せられない。

 

「第三世代機《甲龍》か……」

 

「クラスのみんなが集めてくれた情報と同じだな。近・中距離両用型と分類されているが、どちらかといえば、近接戦闘の方が得意なようだ」

 

 箒は円筒形のロボットアームのトルクの数値に注目した。ほっそりとした見た目に反して、ラファールの倍近いパワーだ。こんな怪力で大質量の棍棒でも振り回されたら、直撃時の大ダメージは必至だろう。

 

 しかし、それ以上に警戒しなければならないのが――、

 

「特殊兵装《衝撃砲》か」

 

 一夏は顔中の筋肉を強張らせながら呟いた。

 

 空間に圧力をかけることで目には見えない砲身を形成し、その際に発生した余剰エネルギーを、やはり目には見えない砲弾へと変えて発射する。白式のような近接戦闘に特化したISとは、相性最悪の武器だ。白式が効果的な一打を叩き込むには、見えない砲撃をかわしながら、間合いを詰める必要がある。

 

 しかも、鈴の甲龍は、この衝撃砲を二種類四門も装備している。威力と射程に優れる大型の衝撃砲《龍砲》が二門と、速射性に優れる小型の衝撃砲《崩拳》が二門だ。これら性能の異なる二種類の衝撃砲を撃ち分けることで、機関銃のように濃密な弾幕の形成を可能にしているという。

 

 さて、この武器をどう攻略するか。眉間に皺をよせる一夏に、セシリアが話しかける。

 

「見えない砲撃とはいっても、ハイパーセンサーの機能を駆使すれば、空間の歪み値や大気の流れから、砲弾の軌道を算出することは可能です。ですが、それだけでは、砲撃を凌ぐことは困難でしょう」

 

 セシリアの指摘に、一夏は頷いた。

 

 ハイパーセンサーがそれらの情報を捉え、弾道計算を弾き出すまでには、僅かに時間がかかってしまう。見えない砲弾の弾道や速度を知ったときにはもう、攻撃は目前まで迫っていることだろう。

 

 すでに発射された砲弾を防いだり、かわしたりするのは難しい。最低でも、砲弾発射の直前にはもう、動き始めていなければ。

 

「しかし、そんなことが可能なのか?」

 

 セシリアの言葉に、箒が疑問を呈した。

 

 箒の学ぶ剣道には、目線の動きから相手の行動を先読みするテクニックがある。しかしこれは、厳格に規定されたルールのもと、行動の種類やその幅が狭い剣道だから可能なこと。空を飛ぶことに始まり、銃火器や光学兵器の使用など、行動のオプションが豊富なISバトルという競技で、そんなことが可能なのか?  予知能力でもなければ、難しいのでは。

 

「ポイントは、衝撃砲が空間圧を利用した兵器だということです」

 

 はたして、セシリアは箒の不安を払拭するかのように優しい声で答えた。

 

「空気を圧縮するためには、相応の力が必要です。たとえば、気体を半分の体積にするためには、二・六気圧の力が必要です。このときに投入されたエネルギーの大部分は、熱力学の第一法則によって、熱へと変換されます」

 

「……つまり、衝撃砲を起動させると、相手の周囲の空気の温度が急上昇する?」

 

「そういうことですわ」

 

「なるほど!」

 

 一夏は得心した表情で頷いた。

 

「ハイパーセンサーの、赤外線探知機能を使えば、衝撃砲が発射されるタイミングの先読みが出来る、ってことか!」

 

 もともと宇宙空間で重作業に従事することを前提として開発されたISだ。そのハイパーセンサーには、可視光線以外にも、様々な電磁波を捉える機能が備わっている。勿論、物体から発せられる熱……赤外線を補足する機能もある。

 

 一夏の言葉に、セシリアは頷いた。

 

「少なくとも、衝撃砲を使おうとする気配と、発射の予兆は読めるはずです」

 

 空間に圧力をかけて砲身を形成する瞬間と、砲身内に圧力をかけて砲弾を生成する瞬間には、赤外線の急激な放出が伴うと予想された。

 

 発射のタイミングが先読み出来れば、その分だけ、防御行動に避ける時間も増える。発射の予兆をとらえ次第、とにかく動き回って、狙いを定めさせない、といった作戦も可能だろう。

 

 難敵と思われた特殊兵装について、攻略の糸口が見えたことに、一夏はほっと安堵の表情を浮かべた。

 

 しかし、彼に解決策を提示したとうのセシリアは、むしろ、と口調を改める。

 

「私個人の印象ですが、衝撃砲は、ツボさえ押さえることが出来れば、攻略はそう難しいことではないと思います。むしろ、気になるのは、衝撃砲を攻略した、その後のことです」

 

「その後?」

 

「首尾よく、衝撃砲を攻略出来たとして、織斑さんの白式がダメージを与えるためには、相手に近づかなければなりません。そうなると、鈴さんの機動戦や格闘戦の技量が未知数なことと、甲龍がパワー型のISということが、ネックになってきますわ」

 

 どうやって近づくか、と、近づいた後どうするか。

 

 相手は代表候補生だ。衝撃砲の有無に関わらず、間合いを詰めることは困難だろう。また、運良く懐に肉迫出来たとして、無策のまま挑めば、その脅威の膂力により返り討ちに遭う公算が高い。

 

「……それについては、俺も考えているさ」

 

 一夏は神妙な面持ちで頷いた。

 

「ほら、前に、俺と、オルコットさんと、智之さんの三人でやっただろ? 鬼ごっこ」

 

 BTシステムの研究が本格化する以前、鬼頭に、みんなとの訓練に付き合う時間的な余裕がまだあった頃のことだ。白式最大の武器は機動性、とにらんだ彼は、一夏に、まずはその活かし方を学んではどうか、とISを身に纏った状態での鬼ごっこを提案したのだった。鬼役のときは相手との距離を詰めるための訓練に、子役のときは相手の追跡から逃れるための訓練になるはず、との考えだった。そのときは、十ゲームやって、一夏の全敗という散々な結果に終わったが、

 

「あの後、ずっと考えていたんだ。どうして俺は、二人に一勝も出来なかったのか、って。前に、千冬姉も言っていたけど、白式の機動性は三機の中でもダントツだ。それなのに、なんで追いつくことも、逃げ切ることも出来なかったのか。色々考えてみて、たぶん、こういうことなんじゃないか、って思うんだけど」

 

 一夏はセシリアに、過日の訓練における敗因についての分析と、それを踏まえた上での作戦を聞かせた。やがて、彼女の顔がほころんだのを見て、安堵から彼もまた微笑む。

 

「……近づくまでの作戦は分かったが」

 

 想い人の少年が自分以外の異性と通じ合い、微笑み合う姿が気にくわないか、箒が険を帯びた口調で言った。

 

「近づいた後はどうするつもりだ? 甲龍とやらのパワーは、かなりのものだぞ」

 

「まあ、なんとかなるだろう」

 

 楽観的な返答に、箒は訝しげな表情を浮かべた。いったい、どこからそんな自信がくるのか。

 

 一夏は好戦的に冷笑を浮かべ、言った。

 

「忘れたか、箒? 俺も、もとは篠ノ之流の剣士だぜ?」

 

 柔よく剛を制してみせるさ、と一夏は、からから、と笑ってみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter20「この小さな世界で、大切な幼馴染みに愛の言葉を贈ろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時計の針は戻って、現在。

 

 IS学園、第二アリーナ。

 

 見えない砲弾によって地上に叩きつけられた後、なんとか立ち上がった一夏は、相棒刀の《雪片弐型》を正眼にとると、頭上はるか彼方に浮かぶ鈴を睨みつけた。

 

 特殊兵装《衝撃砲》。一昨日の作戦会議でも話し合った通り、なるほど、厄介な武器だ。しかし、

 

 ――オルコットさんが言っていたように、戦いようはあるはずだ。

 

 一夏は無言のうちに、ハイパーセンサーの機能を切り替えた。

 

 可視光線のほかに、物体から放出される赤外線を探知するサーモグラフィー・モード。基準となる温度を設定し、それよりも高い熱源から発せられる赤外線を、オレンジ色や黄色といった光として視界に出力されるようにする。走査を開始。鈴の左右の肩のすぐそばの空間が、黄色く燃えていた。東洋の龍の顎をモチーフにしたと思しきアンロック・ユニット……大型衝撃砲《龍砲》の上顎と下顎が、何か筒のような形をした熱源を咥えている。

 

 ――あの黄色の光っている筒が、衝撃砲か……!

 

 警戒心から身を硬くした瞬間だった。

 

 黄色い光の筒の内側が、一瞬、赤く色づいたかと思うと、次の瞬間、物凄い衝撃が一夏の右肩を揺さぶった。見えない砲弾のクリーン・ヒット。肩アーマーが吹き飛ぶ。

 

「ぐぅ……っ」

 

 たまらず、苦悶の声が迸った。

 

 一箇所にとどまっているのは不味い、と一夏は低空ホバー移動を開始。ときにNの字、ときにSの字といった具合に、基本的な回避機動を複雑に組み合わせることで、相手の照準が定まらないよう努める。

 

 ――黄色の筒が赤く光ったら、見えない砲弾が襲ってきた。赤い光が、発射のサインか!

 

 赤い光は、黄色い光よりも強力な熱エネルギーの放出を意味している。黄色い筒の内側で、一瞬、それが生じたということは、さらなる空間圧がかかったということだろう。すなわち、赤い光の出現は、砲弾の生成を意味する……?

 

 追試の必要がある、と一夏は肩部の大型スラスターを噴かした。

 

 上昇を試みた瞬間、鈴の両肩で、またも赤い光が発生した。すかさず、スラスターをカットし、地上へと戻る。ISバトルでは一般的に、より高高度に位置した方が優位生を得られるとされる。上昇など許すものか、と発射された見えない砲弾が、頭上を通過していった直後、白式の弾道予測システムが、いまの砲撃について計算が完了したとの知らせをよこしてきた。

 

 ――遅ぇよ……。

 

 一夏は胸の内で嘆息した。それから、闘志に燃える眼差しを、幼馴染みの少女へと叩きつける。

 

 ――これではっきりした。赤く光ったら、防御か回避だ!

 

 鈴の両肩が、連続して八回、赤く輝いた。見えない砲弾のひとりつるべ撃ち。白式に搭載されている高性能コンピュータですら、弾道予測に際してオーバーフローを起こす。やはり、セシリアの言う通りだった。弾道予測システムは、もはやあてにならない。

 

 とにかく、動き回った。一発、二発と、地面を叩き、土煙が舞い上がる。三発、四発、五発……、六発目が、僅かにウィング・スラスターをかすめたが、気にするほどのダメージではない。七発目、八発目は空振りに終わった。

 

『どういう理屈かは知らないけど……』

 

 頭の中に、鈴の声が響いた。

 

 お互い、プライベート・チャネルの回線は開いたままだ。

 

 彼女にはまだ、話しておきたいこと、投げかけたい言葉がある。

 

『《龍砲》の発射タイミングが、分かっているみたいね!?』

 

『言っただろ!』

 

 直径二百メートルの闘技場を、スケートリンクさながらにホバー疾走しながら、一夏は吼えた。

 

『お前を倒すために、練習してきた、って』

 

『そう。だったら……!』

 

 両肩のそばで浮遊するアンロック・ユニットが、砲口部を閉じた。代わって、鈴は両腕のロボットアームを、一夏のいる方へ向けて伸ばす。手の甲のあたりを中心に、黄色い光!

 

 ――小型の衝撃砲……!

 

『こっちはどう!?』

 

 ロボットアームに固定された、小型の衝撃砲《崩拳》。砲弾一発あたりの威力や射程は《龍砲》に劣るが、その分、マシンガンのような発射速度に優れるタイプの衝撃砲だ。

 

 発射のサインが分かったところで関係ない。サインを認めた瞬間にはもう、見えない攻撃は、何十発と発射されているのだ。黄色い光が赤く変色し、見えない銃撃の嵐が、一夏のもとに殺到する。

 

 まずは足下に着弾。土煙。応じて、遮二無二動き回って照準をかき乱そうと試みるも、鈴は両腕を振り回しながら《崩拳》を連射することで弾幕を形成。狙い澄ました一発ではなく、銃弾を大量にばら撒く確率論に頼った銃撃をもって、一夏の企みの上をいった。

 

 地上を疾駆する幼馴染みに向けて、鈴は右腕を一文字に振り抜いた。腰部に二発被弾。シールドエネルギーが、僅かに減じた。やはり小型の衝撃砲、その一発には、ISのエネルギーバリアーを突き破るほどの威力はない。

 

 しかし、塵も積もれば、だ。しかも、一夏が身に纏う白式は、大型スラスターによる高機動性と、バリアー無効化攻撃という、どちらも強力だがシールドネルギーを大量に喰う高燃費の武器が戦力の要となる機体。被弾が積み重なれば、いざというときに、これらの機能が使えないかもしれない。そうなってしまえば、挽回は難しいだろう。

 

 ――シールドエネルギーが、取り返しのつかないところまで減らされる前に、状況を打開しないとな。

 

 じりじりと目減りしていくシールドエネルギーの残量を気にしながらも、一夏の胸中に、焦りの気持ちは薄かった。

 

 むしろ、焦っているのは鈴の方だ、と考える余裕さえ、いまの彼にはあった。

 

 そうだ。鈴はいま、精神的に動揺している。試合開始の直前に交わした会話を引きずっているというだけでなく、初心者のはずの自分が、思わぬ試合運びを披露したことで、冷静さと判断力を失いつつある、と感じられた。《崩拳》ではなく、あのまま《龍砲》で攻め立てるべきだった。

 

 《崩拳》はたしかに速射性能に優れ、ディフェンスの難しい、厄介な武器だ。しかし、弱点も多い。特に目立つのは二つ。

 

 まず一つは、やはり一発々々のダメージが軽微なことだ。《龍砲》の一発は重く、直撃弾をもらった暁には、シールドエネルギーを一気に一割近くも削り取られてしまう。そのため、こいつを喰らうわけにはいかない、と警戒心から、行動を大幅に制限されてしまう。

 

 しかし、《崩拳》は違う。二、三発程度の被弾なら大したダメージでもないから、大胆に行動することが出来る。

 

 そう、例えば、

 

 ――上昇だ!

 

 繰り返しになるが、ISバトルでは一般に、より高高度に位置した者がエッジを得るとされる。射撃を例に考えてみよう。地上から上空を自在に舞う相手を狙うよりも、上空から地べたに這いつくばっている相手を狙った方が、攻撃をあてやすい。

 

 ましてや、白式は機動性の高さが強みというISだ。迎え撃つ鈴の側からすれば、飛行ルートが限定される低高度にいてもらった方が制圧しやすい。ゆえに、彼女は試合開始早々に一夏を地上へとたたき落とし、以後は上昇を許さなかったのだ。ちょっとでも高度を上げようとする素振りを見せれば《龍砲》をぶっ放し、その牽制に努めたのだった。

 

 しかし、いまならば、

 

 《龍砲》ではなく、《崩拳》での射撃に集中している、いまならば――!

 

「おおおっ!」

 

 裂帛の気合いを発しながら、一夏は今一度、両肩のウィング・スラスターを翩翻とひるがえした。より道なしの直線コース。フル・パワーで、一気に加速し、駆け上る。当然、鈴は一夏の未来位置に向けて弾幕を展開するが、被弾などお構いなしに、パワーを振り絞った。秒とかけずに鈴と同じ高度に到達し、直後、さらにその上をいく。雪片弐型を脇に取り、降下の勢いも上乗せしながら、鈴のもとへと突き進んだ。

 

 自身の失策に気がついた鈴は、そこでようやく、《龍砲》を再起動した。

 

 両肩まわりの空間に、再び黄色い光が集束し、砲身を形成していくが、遅い。白式のスピードなら、砲弾が発射されるよりも先に、相手に肉迫出来るはず!

 

 それならば、と鈴は向かってくる幼馴染みを正面にとらえた状態で後退しつつ、一夏に向けて《崩拳》をぶっ放す。与えるダメージは少なくとも、少しくらいは前進の勢いを削げるはず。そうして稼いだ時間で、《龍砲》のチャージを終わらせる作戦だった。

 

 そのとき、向かってくる一夏の上体が、急に前後に揺れ動いた。

 

 さらなる猛加速のための予備動作か。

 

 それとも、上下左右へ方向を転身するつもりか。

 

 警戒心から、鈴は身を強張らせる。

 

 一夏がどの方向へ動いても追えるように、と身構えるための予備動作から、《崩拳》の照準が、僅かに乱れた。

 

 その隙を、一夏は衝いた。

 

 一夏が選んだのは、そのまま真っ直ぐ前進。加速も、減速もしない、スピードを維持したままでの、馬鹿正直な突貫。上体を前後に揺らしたのは、鈴の心をかき乱し、迎撃の構えを崩すための、フェイントだったのだ。

 

 ――あの鬼ごっこで、なんで俺が負け続けたのか。

 

 過日の鬼ごっこ訓練に参加した三機のうち、白式の機動性は、他の二機を大きく上回っていた。それなのに、一夏は二人を捕まえることも、二人から逃げ切ることも出来なかった。なぜか? 悩み抜いた末に、彼が出した答えが、フェイントだった。

 

 超音速域での空戦機動を可能とするIS同士の戦いにおいて、相手の機動の先読み……未来位置の予測は、重要な技術だ。たとえば、銃口初速が秒速一〇〇〇メートルという銃をもって、一〇〇メートル先のISを狙い撃ちしたとしよう。空気抵抗を考えない場合、銃弾が相手に届くまでの時間は〇・一秒。仮に件のISがマッハ一のスピードで機動していた場合、それだけの時間があれば、その場から三十メートル以上も移動することが出来る。射撃側は、〇・一秒後の敵の位置を予測して銃を撃たなければ、攻撃を命中させることは出来ない。

 

 このことは同時に、先読みを乱すフェイントの技術の有効性も証明している。右に飛ぶと見せかけて左に飛べば、引っかかった相手は対応が遅れ、隙が生じる。その瞬間を攻め立てる、といった作戦がこの上なく有効となる。

 

 鬼ごっこ訓練では、それをやられた。代表候補生のセシリアは勿論、その技術を習得していたし、自分と同様初心者のはずの鬼頭も、子どもの頃、さんざん鬼ごっこで遊んだ経験則から、その技術の有効性を知っていたのだ。

 

 ――俺の白式は、近接戦闘に特化したISだ。攻撃を叩き込むためには、相手に近づかなきゃならない。その際に、フェイントはかなり有効なはず……!

 

 目論見通り、一夏は鈴との間合いを詰めることに成功した。

 

 あっという間に相手の眼前へと迫るや、大刀《雪片弐型》を鋭く刷り上げた。

 

 慌てて鈴も、ダブルセイバー《双天牙月》を振りかぶり、迎え撃とうとするが、その動作は、一夏と比べても、遅い!

 

 ――《崩拳》の弱点、その二!

 

 小型の衝撃砲《崩拳》は、ロボットアームに固定されている武装だ。すなわち、これを使用している間は、腕の動きに大きな制限がかかってしまう。

 

 ある意味では衝撃砲以上に厄介な武装……《双天牙月》を振り回す動きが、制限される!

 

 一条の光線が、地から天へと躍り上がった。

 

 ロボットアームの膂力によって振り抜かれた、超音速の斬り上げが、鈴の内股を襲う。

 

 これを上から圧殺せん、と異形の青竜刀が打ち込まれるも、勢いがのりきらぬうちに、刀勢十分なる白刃と激突し、両の腕ごと、押し返されてしまった。

 

 がら空きとなる、鈴の胴。

 

 《双天牙月》を払い上げた《雪片弐型》の物打ちが、さらに上方へと伸びていった。

 

 頭上高くで円弧を描くや、切っ先を、下へと返した。

 

「《零落白夜》!」

 

 念だけでなく、発声をも駆使して、相棒刀の秘められた機能を奮い起こした。刃渡り一・五メートルもの刀身が、鎬の部分より放出された白色光に包まれる。白式のシールドエネルギーが、急速に減っていく。

 

 返す刀を、袈裟懸けに振り抜いた。

 

 たしかな手応え。

 

 鈴の体が吹き飛ばされ、地上へと墜ちていった。

 

 

 

 

 

 

「やった!」

 

 第二アリーナのピットルーム。

 

 一夏と鈴の試合を大型モニターで観戦する陽子は、光り輝く白刃が対戦相手の胴に叩き込まれたのを見て思わず歓声を上げた。

 

 一夏の訓練には、自分も少なからず協力している。彼が試合で活躍すると、自分も嬉しい。

 

 また、このクラス対抗戦で優勝したクラスには、賞品として、学生食堂のデザートのフリーパスが半年分配られることになっている。うら若き乙女たちにとって、これはたいへん魅力的な賞品だ。いま、一夏が繰り出したのは一撃必殺の威力を誇る『零落白夜』。これでこの試合は決まりだろう。フリーパス獲得に、一歩近づけた。

 

「これでこの試合は織斑君の……」

 

「いいえ、陽子さん。まだですわ」

 

 喜色満面の陽子の隣に立つセシリアは、険しい面持ちでかぶりを振った。

 

「まだ、試合は終わっていません」

 

 セシリアが呟いた直後、モニターの中で、鈴の体が地上に激突した。もうもうとあがる土煙。仰向けに倒れた鈴は、やがて、のろのろとした動作で起き上がると、《双天牙月》を支えに立ち上がった。モニターの左脇に表示されている相手のシールドエネルギーの残量に目線をやると、まだ一割弱残っている。

 

「織斑さんの攻撃を避けられないと悟った瞬間、体の力を抜くことで、わざと吹き飛ばされたのです。そうやって、『零落白夜』との接触時間を、可能な限り、短くしてみせた。シールドエネルギーを、一割残してみせたのです。さすがは、中国の代表候補生ですわ」

 

 セシリアは次いで、モニターの右脇に表示されている一夏のシールドエネルギー残量を見た。

 

「対する一夏さんも、いまの『零落白夜』の発動で、シールドエネルギーを大幅に消耗してしまいました」

 

「残り、五割……」

 

「シールドエネルギーの残量だけでいえば、どちらが優勢で、どちらが劣勢なのかは明らかです」

 

 ですが、とセシリアは表情を暗くした。

 

「織斑さんは、やはりまだ初心者なのです。それに対して、鈴さんは代表候補生。シールドエネルギーが一割も残っていれば、十分、挽回は可能でしょう。勝負はまだ、これからです」

 

 セシリアの言葉に、陽子の表情からも楽観が消えた。彼女は再び、真剣な眼差しをモニターに向けた。

 

 

 

 

 

 

『……さすがだな』

 

 《双天牙月》を支えに立ち上がってみせた鈴を見下ろしながら、一夏は硬い声音で呟いた。

 

 ひっそりとした言の葉は、プライベート・チャネルによって拾い上げられ、こちらを睨む少女の顔にいっそうの険が宿る。

 

『俺は、いまの一撃で決めたつもりだった』

 

『……はっ』

 

 《双天牙月》をゆっくりと振りかぶり、その切っ先を、地上三十メートルの位置に浮かぶ一夏へと向けた。口元に、不敵な微笑をたたえながら、彼女は言う。

 

『これでも、代表候補生だからね。ついこの間、ISに乗り始めたばっかりのルーキーに、負けるわけにはいかないのよ』

 

『……そうか』

 

『あんたこそ……』

 

『うん?』

 

『あんたこそ、初心者のくせに、よく動くじゃない』

 

『……何度も言わせるなよ』

 

 鈴の両肩で、また黄色い光の筒が形成されていく。今日、見てきた中でも、特大に大きな砲身。フル・パワーの衝撃砲で、起死回生を狙うつもりか。チャージ・タイムを稼ぐためと承知の上で、一夏は会話を続けることにした。

 

『お前を倒すために、かなりの練習をしてきたんだ。オルコットさんや智之さんたち……みんなにも、協力してもらった』

 

『……また、あの男の! あんな大人の名前を!』

 

 鬼頭の名前を口にした直後、鈴は表情が怒りに歪んだ。

 

 胸の内で生じた激情が、イメージ・インターフェースに影響を及ぼしたか。黄色い光の収束スピードが、僅かに遅速する。

 

『……なあ、鈴』

 

 他方、怒れる鈴とは対照的に、一夏は、哀れみの篭もった眼差しを幼馴染みの少女に向けながら、粛、とした声で呟いた。

 

『中国に帰国した後、お前、いったい何があったんだよ?』

 

『はあ?』

 

『智之さんに、酷い言葉をぶつけた、って聞いたとき、最初は、智之さん個人に、何か思うところがあるのかと思った。でも、いまの発言や、試合開始前の、お前の口ぶりからは、別な気持ちが感じられるぞ』

 

 鬼頭のような大人のために、自分は、変わらざるをえなかった。

 

 試合開始の直前、彼女は、そんなようなことを口にした。

 

 この発言からは、鬼頭個人に対する憎しみの感情は見受けられない。むしろ、鬼頭のような、と形容された、別な大人たちに対する恨み辛みが感じられる。もしかすると、彼女の鬼頭への悪感情は、そういった連中に対する代替的なものなのではないか。

 

 では、それはいったい誰なのか。過日、鈴はこうも口にしていた。

 

『子どもの気持ちを考えない。自分たちの都合ばかりで、子どものことを振り回す、そんな大人。……お前、そんな大人と、関わったことがあるのか? 中国に帰った後、そんな大人に、何かされたのかよ?』

 

『……ええ、そうよ』

 

 一瞬、鈴の表情が悲しげに歪んだのを、白式のハイパーセンサーは見逃さなかった。

 

 首肯の後、彼女はわざとらしげに猛々しい態度で、言い放った。

 

『あたしの両親よ』

 

『……なに?』

 

『あたしの両親が、そんな大人だった』

 

『り、鈴……お前、何を……』

 

 鈴の口にしたことが信じられなくて、また信じたくなくて、一夏の声は動揺した。

 

 《雪片弐型》を取る手の内が、ほんの僅かに、乱れる。

 

 その隙を、代表候補生の炯眼は見逃さなかった。

 

 両肩で光り輝く黄色い大筒の中で、莫大な熱量が生じた。赤白い光が、鮮烈に輝く。

 

「っ!」

 

 咄嗟に、左へと飛んだ。

 

 真っ直ぐに撃ち放たれた、特大の衝撃砲弾が、コンマ二秒、直前までいた位置を通過していく。ハイパーセンサーに頼らずとも見て取れる、空間の歪み。相当な威力だ。

 

 鈴の両肩で、赤い閃光が何度も爆ぜた。《龍砲》の連続射撃。一発とてもらうわけにはいかぬ、と一夏は回避運動に努める。

 

 ――鈴のやつ、この局面で……!

 

 シールドエネルギーが残り一割を切った、この圧倒的不利な状況にあって、空間圧作用兵器を連発してくるとは!

 

 白式の『零落白夜』ほどではないだろうが、衝撃砲も、シールドエネルギーを消費して発射する武器のはずなのに……!

 

 自棄を起こしたのか。

 

 いや、違う。

 

 自分を睨む鈴の眼差しには、まだ力強さがある。

 

 あの瞳は、試合を諦めた目ではない。

 

 特大の衝撃砲による、一発逆転を狙う目だ。

 

『ねえ、一夏。あたしの両親さあ……』

 

 衝撃砲弾の嵐をかいくぐりながら、なんとか接近を試みる。

 

 左右に大きなN字を描きながら、地上の鈴に近づこうとする最中、一発の砲弾が、左脚をかすめていった。物凄い衝撃。シールドエネルギーも、五十以上のダメージ! かすっただけでこの威力……やはり、直撃弾を喰らうわけにはいかない。

 

『離婚しちゃった』

 

『……なに!?』

 

 残酷な告白とともに、連結状態の《双天牙月》を投擲してきた。くるくる、と回転しながら迫りくる暴力の塊を、高度を僅かに上げることで回避する。直後、逃げた先の高さに向けて、特大の衝撃砲弾が放たれた。猛然と向かってくる赤い光の塊。咄嗟に、両腕をクロスして受け止める。

 

「ぐっ、あああっ!」

 

 苦悶の絶叫。エネルギーバリアーを突破するほどの威力! 実体ダメージにより、ロボットアームの装甲が砕け散り、内部のメカニズムが火花を迸らせた。

 

 痛みが、集中力をかき乱す。集中の乱れを敏感に感じ取ったイメージ・インターフェースが、PIC、そしてスラスターの動作を不安定なものとした。

 

 相手の動きが鈍ったいまこそ好機とばかりに、鈴は再び空中へと躍り出た。

 

 予備の《双天牙月》を展開するや、白式に急接近。二刀流で振り回し、攻め立てる。

 

 一夏も必死の形相で《雪片弐型》を振り回した。

 

 上下左右に斜め方向と、あらゆる方向から殺到する打ち込みを、ときに受け、ときに流す。

 

 乱打の嵐を懸命に凌ぎながら、叫ぶ。

 

『離婚って、なんで!?』

 

『知らないわよ!』

 

『はあっ!? 知らない、ってどういうことだよ!?』

 

『教えてくれなかった! 父さんも、母さんも、あたしには何も、教えてくれなかった!』

 

 プライベート・チャネルを介して、鈴の声が、悲鳴が、悲しみの感情が、一夏へと伝わり、彼の脳幹を揺さぶった。

 

『あたしは当然、訊いたわ。なんで離婚するの? って。あたしは当然嫌がったわ。三人一緒がいい、って。でも、二人とも、何も教えてくれなかった。何も応えてくれなかった! あたしの……子どもの意見なんて無視してっ、勝手に離婚して! 勝手に、親権を母さんのものにして! 勝手に、帰国しなきゃならなくなった、って! 勝手に、勝手に……!』

 

 打ち込みの嵐が、不意に、やんだ。

 

 プライベート・チャネルとはいえ、さんざん喚き散らしたことで疲れたのか、二振の《双天牙月》を、だらり、と提げ、俯き、荒々しく胸を上下させている。

 

 同じく荒い息づかいの一夏は、いったいどうしたのか、と訝しげな眼差しを幼馴染みの少女に向けた。

 

 やがて彼女が顔を上げると、一夏は、ぎょっ、とした。

 

 鈴は、

 

 一夏の幼馴染みは、目尻に大粒の涙を浮かべていた。

 

『ねえ、一夏ぁ……』

 

『り、鈴……』

 

『なんで、父さんは理由を教えてくれないの? なんで、母さんは、何も話してくれないの? あたしは、二人の子どもじゃっ……家族じゃなかったの!?』

 

『……』

 

『寂しいよ、一夏ぁ。あたし、あたし……!』

 

 ようやく、腑に落ちた。鈴が変わってしまった理由。鬼頭に対し、悪感情を向ける理由。

 

 鈴は、寂しい、と口にした。

 

 自分の気持ちをまったく無視して。自分の意見をまったく聞き入れず。自分たちの都合ばかりで離婚したという、彼女の両親。彼らへの、憎しみ。けれども、鈴はそれでも……。そんな彼らのことを……。

 

 ――鈴は、親父さんたちのことを、それでも愛しているんだ……!

 

 子どもの気持ちを無視して、自分たちの都合で振り回す、大人。

 

 そんな両親を憎む一方で、彼女はまた、彼らのことをいまなお愛しているのだ。

 

 そして、その愛ゆえに、両親に対する憎悪の念を、けれども、彼らには向けたくないという、そんな複雑な感情を、抱くはめになった。そんな複雑な感情が、彼女を変えてしまった。

 

 本来、彼女の両親に向けられたはずの憎しみは、その両親を愛するがゆえに、別の存在へと向けられた。感情のはけ口……何の気兼ねもなく、憎しみをぶつけられる相手、ぶつけていい相手を、彼女は求めた。

 

 それが、週刊ゲンダイで離婚の事実を報じられた鬼頭だった。

 

 彼女の両親と同様、子どもを不幸にした親。離婚という、大人たちの事情で、子どもを振り回したと思われる男。しかし鈴は、彼の……いや彼らの事情を知るのを拒んだ。

 

 知ってしまえば……。鬼頭智之がどんな人物なのか。離婚という決断を下した背景には、どんな想いがあったのか。そのとき、子どもは何を想っていたのか。それらの事情を知ってしまえば、彼のことを、憎めなくなってしまうかもしれない。彼が優しい父親で、離婚のことや、一度は譲った親権を再び奪い返したのはすべて子どものためだったりしたら、きっと、憎めなくなる。彼女はおそらく、それを恐れた。だから、興味がない、なんて口ずさみ、知ろうとしなかった。詳しい事情を知ろうとせず、きっとこうに違いない、とその為人を決めつけた。

 

 両親へぶつけるはずの憎しみを、鬼頭に向け続けるために、彼のことを、知ろうとしなかったのだ。

 

「鈴……」

 

 まるで両親に捨てられた幼子のように泣きじゃくる鈴を、一夏は、悲しげに見つめた。

 

 

 

 

 

 

 第二アリーナ、Aピットルーム。

 

 打鉄を身に纏った状態で大型モニターを見つめる鬼頭は、険しい面持ちで拳を強く握っていた。

 

 彼は怒っていた。

 

 鈴に対する怒りではない。

 

 自分自身に対し、憤怒の激情を感じていた。

 

 ――あれは……彼女は、陽子や、智也だ。

 

 自分たち大人のせいで、不幸を抱え込むことになった子どもたち。

 

 鈴が口にした怒りと嘆きの悲鳴は、死んだ智也、そして陽子が普段は口にしてくれない、心の声だ。

 

 二人の意識が彼女に乗り移って恨み節を自分に聞かせている。

 

 そうとしか、思えない。

 

 ――私は……俺は……!

 

 晶子との離婚を決意したとき、あれは、本当に子どもたちのためを思ってのことだったか? 本当は、彼女への憎しみゆえの決断ではなかったか!?

 

 陽子の親権を改めて取り返したときもそうだ。本当は、己の自尊心を満たすための決断ではなかったのか!?

 

 子どものため、子どものためと口ずさみながら、本当は、自分の都合しか考えていなかったのではないか。子どもの気持ちを考えず、自分の感情ばかりを優先して、不幸にさせただけではないのか。現に、そのために、彼は――、

 

 ――智也、俺は……。

 

『……馬鹿野郎っ』

 

 そのとき、頭の中に、一夏の声が響いた。

 

 怒りに震えた、これまでに聞いたことのない声。

 

 思わず、千冬の方を向くと、彼女も意外さからか、表情からは戸惑いがうかがえた。

 

『この、馬鹿野郎がぁっ』

 

 モニターの中で、一夏は《雪片弐型》を八相に取った。

 

 猛然と打ち込まれたその一撃を、鈴は分割状態の《双天牙月》を十文字に結んで受け止める。

 

『なっ、一夏! アンタ……!』

 

『親父さんたちのことで、悲しい思いをした!』

 

『っ!』

 

 大刀を引き戻し、今度は一文字に振り抜いた。

 

 左手の《双天牙月》を垂直に立てて受け止めるも、あまりの刀勢に押し込まれ、思わず、得物を取り落としてしまう。残された一振を両手で握り、今度は、鈴が一夏の打ち込みの嵐を受け止める側となった。

 

『親父さんたちのことで、苦しい思いをしている! そのことは同情する! けど……けどっ』

 

『くっ……ああっ!』

 

『それで、他人に当たり散らしているんじゃねぇよっ!』

 

 飛び込みと同時に、必殺の胴斬りを放った。鈴は《双天牙月》で受け、反対に、一夏の懐に入り込もうとする。しかし、一夏はその動きを読んでいた。存分に腰を沈めるや、地擦りから険を跳ね上げた。青竜刀も呼応して、肩先へと振り下ろされる。

 

 一瞬の遅速。

 

 先に相手の右腕へと打ち込まれたのは、《雪片弐型》の一撃だった。

 

 円筒形のロボットアームは先端部の五本指のマニュピレータを、手首こと切り落とされた。

 

 左腕一本で支えることになった《双天牙月》の打ち込みは、虚しく空を打つ結果に終わった。

 

 追撃を恐れた鈴は、大きく後ろへと飛び退いた。

 

 一夏も、それを追う。追いながら、叫ぶ。

 

『みんな同じだ! 誰だって、大なり小なり、悲しい経験をしていて、苦しい思いを抱えていて! それでも、他人に当たり散らしたい気持ちを必死に我慢して!』

 

 甲龍と白式とでは、単純な機動力の勝負では、後者の側に軍配が挙がる。

 

 あっという間に最接近を果たした一夏は、大刀を大上段に取った。

 

『自分の中の辛い気持ちと戦って、生きているんだ!』

 

 真っ向、振り抜く。

 

 防御のために水平にとった《双天牙月》ごと押し込まれ、地上へと叩き落とされた。

 

 背中を打つ。

 

 鈴の唇から、悲鳴が迸った。

 

 甲龍、残りシールドエネルギーは、僅かに二ポイント。もう、一発の衝撃砲も撃てまい。

 

『いまのお前は、そういう人たちを馬鹿にしている。智之さんや、千冬姉たちを……』

 

「織斑、君……」

 

 モニターの中で、一夏はゆるゆると高度を下げていった。

 

 鈴のそばに降下すると、仰向きに倒れる彼女の顎先に、《雪片弐型》の切っ先を突き立てる。

 

 悲しげに自分を見下ろす一夏に、鈴は、激昂し、叫んだ。

 

『じゃあ……じゃあ、どうしろっていうのよ!? こんな……こんな辛い気持ちと、八つ当たりもなしに、どう向き合っていけばいいっていうのよ……』

 

『……そんなのわかんねえよ』

 

『はあ!?』

 

『みんな抱えている事情は違うんだ。辛い気持ちとの向き合い方に、模範解答なんてあるわけない。……けど、一緒に考えることは出来るはずだ』

 

 鈴を見下ろす一夏は、完爾と微笑んだ。

 

『鈴、俺はさ、お前のことを、大切な幼馴染みだと思っている。お前がそんな辛い気持ちを抱えているなんて知って、俺も悲しい』

 

『一夏、アンタ……』

 

『力にならせてくれよ。一人で抱え込まないでくれ』

 

 既視感。

 

 どこかで聞いたことのある言葉だな、と考えて、ああ、と鬼頭は得心した表情で頷いた。

 

 同じだ。

 

 晶子との裁判に敗北し、絶望のどん底にいた自分に、桜坂が話しかけてくれたときと、まったく同じ言葉だ。

 

「……織斑先生」

 

「はい」

 

 モニターを見つめたまま、かたわらに立つ千冬に話しかけた。

 

「あなたのことを尊敬します。よくぞ、お一人で織斑君を育てましたね。あんな素晴らしい子に……」

 

「私にも、愚弟にも、過ぎた褒め言葉です。……それに、その言葉は、そちらにそっくりお返ししますよ」

 

 二人のやり取りを眺めていた真耶が、小さく微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

『力にならせてくれよ。一人で抱え込まないでくれ』

 

 第二アリーナの闘技場。

 

 地面に倒れる鈴に優しく笑いかけた後、一夏は《雪片弐型》を懐へと引き寄せた。

 

 二人の関係がこれからどうなるにせよ、まずはこの試合を、終わらせねばなるまい。

 

 一夏は最後の一撃を繰り出そうとして、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 “ズドオオオオンッ!!!”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天上より振ってきた嘶きに、驚愕の表情を浮かべた。

 

「な、なんだ!?」

 

 すさまじい衝撃が、アリーナ全体を揺さぶった。巨大な質量を持った何かが、高速でこのアリーナのステージ中央部に降ってきた、と白式のコンピュータが分析の結果を伝えてくる。思わずそちらに目線をやれば、なるほど、土煙がもくもくと上がっていた。

 

 ――……って、ちょっと待てよ! アリーナに降ってきたってことは、遮断シールドを突き破ったってことか!?

 

 ISバトルの際、競技空間を限定するため、一見、吹き抜けに見えるアリーナの天井部には、透明な遮断シールドが展開される。ISのエネルギーバリアーと同出力のもので、当然、通常の兵器が突破出来るものではない。それを、突き破っただと!?

 

 大質量の隕石か。いや、それだったら、もっと早くにISのハイパーセンサーがその存在を探知して、警報を鳴らしていたはずだ。そもそも、そんな巨大な隕石が落下してくる兆候を、日本政府やIS学園が見逃すはずがない。今日の試合は、中止となっていたはずだ。ということは……、

 

『一夏、そこ、早くどいて!』

 

 プライベート・チャネルで、鈴の悲鳴。

 

 反射的に跳び退くと、鈴は素早く立ち上がった。

 

 と同時に、白式の警報装置が、緊急通告を発する。

 

 ――ステージ中央に熱源。所属不明のISと断定。ロックされています。

 

 その声に、背筋が凍った。

 

 アリーナの遮断シールドを貫通するほどの攻撃力を持った機体が侵入、こちらをロックしているだって!?

 

「まずいっ!」

 

 シールドエネルギーが残り少ない鈴を、咄嗟に抱えて、ジャンプした。

 

 直後、いまだもうもうと立ちこめる土煙の中から、一条の光線が飛び出し、先ほどまで一夏たちが立っていた空間を焼き払った。

 

 熱線。白式のコンピュータが、荷電粒子砲と分析結果を知らせる。

 

 陽子や電子に高電圧を加えることで、秒速数千キロメートルといった超々スピードで撃ち出すビーム兵器の一種だ。白式が弾き出した計算によれば、いまの一発は秒速一万四千キロメートルの速度で撃ち出された陽子一グラムとのこと。射出されたエネルギーの総量は九八ギガジュールと、TNT火薬二十トン超をぶん投げられたようなものだ。ぞっとした。

 

 ――こんな高出力のビームを、いったい、どんなISが!?

 

 いまのビームによって、土煙が晴れていく。

 

 発射された荷電粒子は粉塵とぶつかり合い、威力を大いに落としながらも、射手の姿を露わにしていった。

 

「……なんなんだ、こいつ」

 

 一夏は思わず呟いた。

 

 異形。まさにそんな形容がしっくりくる見た目をしている。深い灰色のボディ。二メートルもあろうかという長い腕。首がなく、肩と頭が一体化したような見た目は、まるで古い特撮作品に登場する怪獣のようだ。

 

 しかし、それ以上に一夏が特異と感じたのは、件のISが全身装甲(フル・スキン)の機体だということだった。

 

 通常、ISは部分的にしか装甲を形成しない。鈴の甲龍などが、その典型だろう。なぜかというと、必要がないからだ。防御はほとんどエネルギーバリアーによって賄われるため、見た目上の装甲というのはあまり意味をなさない。せいぜいが、内蔵メカニックを保護するカバーとしての役割でしかない。

 

 勿論、打鉄のような防御特化型のISというのもあるが、それにしたって、肌が一ミリも露出していないISというのは存在しない。

 

 尋常なISではない。

 

 そのことは、巨体からも見て取れる。白式や甲龍と比べて二回り以上も大きな体を支えるためか、全身に姿勢制御用の小型バーニアの噴出口が見受けられた。頭部には剥き出しのセンサーレンズが複数輝いており、まるで昆虫のようだ。ロボットアームは前腕部が太い造りで、先端部のマニュピレータは、掌の部分にビームの発射口が四つのぞいていた。あの腕の太さは、粒子加速器を内蔵しているためか。

 

「……お前、何者だよ?」

 

 《雪片弐型》を正眼に構えながら誰何した。

 

 相手からの返答はなかった。

 

 代わりに、右腕をゆっくりと持ち上げて、荷電粒子砲の発射口をこちらに向けてきた。白式のハイパーセンサーが、相手の前腕部で莫大な熱量が発生したことを感知。ビームに対する、警報を鳴らす。

 

「鈴っ!」

 

「分かってる!」

 

 もはや試合どころではない。

 

 一夏と鈴は反対方向へと飛んだ。

 

 その直後、秒速一万四千キロメートルという超スピードで、およそ六千垓個もの荷電粒子が発射された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter20「この小さな世界で、大切な幼馴染みに愛の言葉を贈ろう」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同日、朝。

 

 名古屋市名東区、アローズ製作所本社ビルの来客用の駐車場に、一台のマイクロバスがゆっくりと滑り込んできた。トヨタ自動車の新型コースターだ。シルバーの車体側面部に、“名古屋市消防局”と、緑の文字でペイントがされている。どうやら公用車らしく、開放的なフロント・ウィンドーの向こう側では、運転手を含め、厳つい顔の男たちが座していた。全員がスーツを着ている。

 

 やがて、大型車両用の駐車スペースへと移動し、停止すると、プーッ、というお馴染みの警告音を鳴らした後、戸が開いた。

 

 ぞろぞろ、と降りてきたのは、十一人の男たちからなる一団だ。年齢にばらつきがあり、いちばん若い者でも二十代後半、最年長は五十代はじめといったところか。それほど長時間の移動ではなかったらしく、ストレッチなどで体の凝りをほぐそうとする者の姿はない。

 

「ここがアローズ製作所の本社か」

 

 三十代半ばと思しき男が、駐車場のわきにそびえ立つ八階建てのビルを仰ぎながら呟いた。事前に会社のホームページなどでその偉容は知っていたが、こうして間近に立つと、その大きさに圧倒されてしまう。

 

「業界内でも一流の企業というのは、本当らしいな」

 

 その呟きに一同頷いていると、彼らのもとに、本社ビルの方から、一人の男が駆け寄ってきた。

 

 グレイスーツを、りゅう、と着こなした、六尺豊かな大男だ。仁王のように厳つい顔立ちに、彼らは思わず息を呑んだ。

 

「いやあ、お待たせしました」

 

 男の声は明るく、にこやかだった。年齢は、四十半ばといったところか。男たちの顔を見回して、訊ねる。

 

「名古屋市消防署からの、見学団の皆さんですね?」

 

「ええ。そうです」

 

 四十手前と思しき男が、代表して応じた。

 

「私は名古屋市消防局総務部総務課の、青山と申します」

 

 青山邦彦、三九歳。名古屋市消防局総務部総務課の課長職だ。過日、アローズ製作所パワードスーツ開発室に、見学についての問い合わせを行った当人だった。

 

 青山の返答を聞くと、男は完爾と微笑んだ。ははあ、と一同揃って溜め息をこぼす。金剛力士のような顔の造作に比して、優しく笑う男だ。思わず見惚れてしまった。

 

「お待ち申し上げておりました。私はアローズ製作所パワードスーツ開発室の、桜坂と申します。開発室では、室長職を任されております」

 

 互いに名刺を取り出し、交換する。

 

 名刺交換の後、桜坂はヤスデの葉のように大きな右手を相手に向かって差し出した。青山が握手に応じると、力強く握り返す。

 

「アローズ製作所にようこそ。我々は、みなさんを歓迎しますよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地上二万メートルの上空から、男たちが結んだ固い握手の様子を、見つめる者がいた。

 

 彼女は、

 

 いや、彼女に搭載されたハイパーセンサーをもって、その光景を遠方より眺める彼女は、陶然と微笑んだ。

 

『……いよいよですよ、桜坂さん。わたしが、あなたを陽の当たる場所へ、連れて行ってあげますからね』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







原作12巻だとあっさり流されていたけど、たぶん、鈴は両親のことで相当苦しんだし、悩んだと思うのです。


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Chapter21「この小さな世界に、その愛の言葉は響く」

ようやくここまで辿り着きました。

本作の構想が思い浮かんだとき、いちばんに書きたいと思ったシーン、

彼に言わせたいと思った言葉。

ようやく、披露できる……。


 

 第二アリーナ・Aピットルーム。

 

 突如として闘技場内に侵入した正体不明のISが、一夏たちに向けて攻撃を開始したのを見て、山田真耶は、自身の顔から血の気が引いていくのを自覚した。

 

 闘技場内の各所に仕込まれている観測機器によれば、謎のISが発射したビームは、荷電粒子砲の一種とのこと。秒速一万四千キロメートルものスピードで発射された陽子の奔流は、アリーナの遮断シールドをも突き破るほどの威力を有しているという。そんな恐ろしい武器が、自分の生徒たちに向けられている。その事実を認めたくない気持ちから、体が脳への血流を鈍らせているものと考えられた。

 

 しかし、真耶はこのIS学園の教師だ。どんなに受け入れがたい現実でも、生徒たちを守るために、直視する必要がある。

 

 臍下丹田に、えいやっ、と力を篭め、真耶は抱えていたタブレット端末を起ち上げた。この機器には、ISのプライベート・チャネルとまったく同じ機能、同じ性能の通信装置が搭載されている。回線の周波数を織斑機、凰機に合わせると、彼女は黙然と話しかけた。

 

『織斑くん! 凰さん! 今すぐアリーナから脱出してください! すぐに先生たちがISで制圧に行きます』

 

『――いや、先生たちが来るまで、俺が食い止めます』

 

 やや間を置いてからよこされた返答の内容に、真耶は思わず息を呑んだ。

 

 応答の最中にも、謎のISは連続して荷電粒子砲をぶっ放し、一夏たちを追いつめている。

 

『あのISは遮断シールドを突破してきました。それほどの攻撃力を持った相手です。先生たちが来るまでの間、誰かが相手をして足止めをしなきゃ、観客席のみんなが危ない!』

 

『お、織斑くん!?』

 

『い、一夏、アンタ何言って!?』

 

『それよりも、鈴を! 白式はまだ、シールドエネルギーが二割くらい残っています。けど、甲龍は!』

 

 一夏の言う通りだった。

 

 つい今しがたまで、一夏の白式と激しい試合を繰り広げていた鈴のISは、シールドエネルギーの残量が僅か二ポイントしか残っていない。機体自体も損傷著しく、右腕のロボットアームにいたっては、手首から先を切り落とされてしまっている。兵装も、エネルギー残量の問題から、衝撃砲はもう使えないだろうし、近接武器の《双天牙月》も、予備を含めて非連結状態の青竜刀が一振のみという有り様だ。戦力未知数の相手と戦えるような状態ではない。

 

 しかも、謎のISは心なしか、甲龍の方を狙ってビームを発射することが多いように見えた。白式に向けて一発撃つ間に、甲龍の方には三発は撃ち込んでいる。いまのところ、なんとか命中せずにすんでいるが、このままではジリ貧だろう。

 

『さっきからピット・ゲートにアクセスしているのに、反応がないんです! なんとかして、鈴を!』

 

『織斑』

 

 真耶のかたわらに立つ千冬が口を開いた。真耶が、ちらり、と振り向いたその横顔には、彼女にしては珍しい、焦燥の色がうかがえる。タブレット端末を操作して、白式と甲龍にデータを送信した。

 

『いま、そちらに第二アリーナのステータス情報を送った。確認しろ』

 

『……受け取りました!』

 

 袈裟がけに振り抜かれた豪腕の一打を、《雪片弐型》を斜に構えることで受け止め、流しながら、一夏が応じた。大型モニターに映じる少年の顔が、忌々しげに硬化する。

 

『遮断シールドが、レベル4にロック!? 館内の扉も全部、解除不能って……千冬姉っ!』

 

『織斑先生だ。そうだ。おそらく、そのISの仕業だろう』

 

 千冬は苛立たしげな口調で応じた。

 

 外部からのハッキングにより、遮断シールドのみならず、ピット・ゲートを含む館内すべての扉が閉鎖されてしまった。これでは、闘技場内の二人は勿論、観客席の生徒たちの非難も出来ない。教員部隊による、救援を送り込むことも……。

 

『現状、凰をその場から非難させることは不可能だ。現在、三年生の精鋭がシステムクラックを実行中だが、それが終わるまで、なんとしても凰をまもっ――』

 

「織斑先生」

 

 千冬の言葉は、途中で遮られた。打鉄を身に纏った鬼頭が、硬い表情のまま声をかけたためだ。

 

「何です、鬼頭さん?」

 

「つまり、遮断シールドと扉のロックを解除すればよいのですね?」

 

「え、ええ」

 

「なるほど。では、私に、第二アリーナの管制システムにアクセスする許可をください」

 

「……解除、出来るのですか?」

 

 千冬は鋭い眼差しで鬼頭の顔を見上げた。かたわらの真耶も、驚いた表情で男の顔を茫然と見つめる。

 

「システムの状況を見てみないことにはなんとも」

 

「……分かりました」

 

 千冬は小さく頷いた。

 

 いまでこそ、スポーツ競技としての立場を確立したISだが、その本質は兵器であり、軍事力だ。兵器の扱い方を教えるこのIS学園は、準軍事組織といえる。そして学園では現在、非常時の指揮権を世界最強の女傑、ブリュンヒルデへと委ねる仕組みが構築されていた。

 

「許可します」

 

 千冬は、有事における最高責任者としての立場から、鬼頭の申し出を聞き入れることにした。第二アリーナを管制するシステムの構造をさらすことは、防犯上問題だが、いまは非常時だ。人命には変えられない。

 

 それに対し、鬼頭は「ありがとうございます」と、小さく頭を下げ、ロボットアームから両腕を引き抜き、空間投影式のディスプレイと、キーボードを出力した。キーボードを軽やかに叩きながら、打鉄のISコアを、この第二アリーナの管制システムに同期させる。ディスプレイに表示させた情報を読み込むこと、たっぷり十秒。鬼頭は、ゆっくりと口を開いた。

 

「三十秒、時間をいただけますか?」

 

 千冬からの返答を待たず、鬼頭の指先は、クラッキングに向けて早くも動き始めていた。

 

 その問いかけに、教師二人だけでなく、セシリアや陽子も驚く。IS学園の精鋭プログラマーたちが、総掛かりで挑んで、解除に苦戦しているのを、まさか、そんな短時間で……。

 

 空間投影式ディスプレイに視点を固定したまま、鬼頭は言う。

 

「状況としては、第二アリーナの各種設備のコントロール権が、我々から外部の何者かへと移っている状態です。原因は、管制システムに打ち込まれた、ウィルス・プログラムのせいですね。これを駆逐するためのワクチン・ソフトをいまから作り……いえ、作りました」

 

 ここまでで十八秒弱。作成したワクチン・ソフトを、打鉄のISコアを介して、第二アリーナの管制プログラムへとばら撒いた。空間投影式ディスプレイに、コンマ・〇〇〇〇〇一秒ごとに増殖していくウィルス・プログラムを、それ以上の速さでワクチン・ソフトが除去していく様子が映じた。慌てて、千冬と真耶は各々手元のタブレット端末に目線を戻した。館内の非常扉、防火壁、消火装置などのコントロールが、次々と千冬たちのもとへ戻っていく。

 

「あと、十秒お待ちください」

 

 タブレットの画面を食い入るように見つめる二人に、鬼頭は言った。

 

 その宣言通り、十秒後には、館の全設備のコントロール権が取り戻された。

 

「織斑先生」

 

「ええ。鬼頭さん、ありがとうございます」

 

 千冬は頷くと、タブレット端末の通信装置をアリーナの中継室へとつなげた。

 

『こちらピットルームAの織斑だ。中継室、聞こえるか? 聞こえたら応答しろ』

 

『あ、は、はい。こちら中継室ですっ』

 

 本日の試合の審判役を務める教員の声。心なしか、安堵しているように聞こえるのは、つい先ほどまでは通信機能すら使えなかったためだろう。それが復旧したということは……。よし、と頷き、千冬は彼女に指示を出す。

 

『館内のコントール権はこちらが取り戻しました。全館放送で、生徒たちに対して避難指示を出してください』

 

『わ、分かりましたっ』

 

「……さて」

 

 千冬が中継室に指示を出すのを見届けた後、鬼頭はディスプレイとキーボードを閉じた。両の腕を再びロボットアームへと通し、さも当然のように、ピット・ゲートへと向かう。

 

「き、鬼頭さん!?」

 

 それに気がついた真耶が、慌てて彼に声をかけた。

 

「どこへ行くつもりですか?」

 

「決まっているでしょう」

 

 打鉄を着込んだ鬼頭は、ロボットアームの人差し指でピット・ゲートを示した。

 

「闘技場内へ。二人を助けに行かなければ」

 

「だ、駄目です! 危険すぎます!」

 

「そうです、鬼頭さん。さすがにそれは許可出来ません」

 

 中継室との通信を終えた千冬が、鬼頭を睨んだ。

 

「あなたのおかげで、ピット・ゲートのコントロール権もこちらに戻りました。織斑たちについては、隙を見てゲートを開き、避難させればいいだけのことです。わざわざ、あなたが向かう必要はありません」

 

「……先生方の部隊の準備が整うまで、あとどの程度かかりますか?」

 

 鬼頭の鋭い問いかけに、千冬と真耶は揃ってばつの悪い顔をした。

 

 彼の言う通り、教員たちが突入部隊を編成し終えるまでには、最低でもあと八分、時間が必要だろう。

 

「あのISは、試合中で最大強度まで出力を高めた遮断シールドを突き破るほどの攻撃力を持っています。アリーナの外に出て、暴れられたりしたらたいへんだ。二人をアリーナから脱出させた後も、誰かが中に残って、足止めをするべきです」

 

「お父様っ、それなら、私が」

 

 待機状態のブルー・ティアーズを耳元で輝かせながら、セシリアが言った。最近、ISに乗り始めたばかりの鬼頭よりも、代表候補生で、専用機との付き合いも長い自分の方が適任だ、という判断からの発言だ。

 

 また、イギリス国において、代表候補生は軍の士官候補生と同じ扱いを受ける。こうした非常時に備えた訓練も、日頃から積んでいるという自負があった。

 

 しかし、鬼頭はセシリアの申し出に対し、あえてかぶりを振った。

 

「セシリア、きみはここにいなさい」

 

「な、なぜっ!?」

 

「誤解しないでくれ。べつに、きみの力量や、立場を軽んじているわけではないよ。ただ……」

 

 鬼頭は完爾と微笑むや、ロボットアームから右腕を引き抜いた。その場にかがみ込み、セシリアの頭を、そっと撫でさすった。

 

「きみにとってはごっこ遊びの類いなのかもしれないが、いまの私は、きみの父親役だ。娘のきみを、危地には送り込めない」

 

「お、お父様……」

 

 鬼頭はかがんだままの体勢で、千冬と真耶を見た。身長差が縮まったことで、二人の顔が先ほどよりもよく見える。二人とも、彼が口にした論理の正しさを理解しつつも、感情が納得出来ないといった、不満と不安の入り混じった顔をしていた。そんな彼女たちに、鬼頭はもう一度、深々と頭を垂れた。

 

「織斑先生、山田先生、お願いします。私に、子どもたちを助けさせてください」

 

「……わかり、ました」

 

 千冬は、苦渋に満ち満ちた、忌々しげな表情で頷いた。

 

「救出と足止めを、許可します」

 

「ありがとうございます」

 

「ですがっ、危ないと思ったときには!」

 

「ええ。勿論、分かっています」

 

 ちゃんと戻りますよ、と言葉短く応じて、鬼頭は立ち上がった。みたびロボットアームに腕を通し、今度こそ、と一同に背中を向ける。

 

「父さん!」

 

 いくさ場に向かおうとする男の背中に、愛娘が声をかけた。ハイパーセンサーのおかげで、振り返らずとも、どんな顔をしているのかは見えていた。

 

 彼女は、泣きそうな顔をしていた。

 

 あの扉の向こう側に待つ戦いの激しさと、厳しさを思い、不安から、泣き出しそうになっていた。けれど、

 

 ――さっき、父さんは、子どもたちを、って言った。織斑君や鈴の名前を呼ばずに、子どもたちって……。

 

 二人のことをそう呼んだ父の心情を理解しているがゆえに、彼女は、鬼頭の歩みを止めようとはしなかった。

 

 陽子は拳を握った右腕を前に突き出すと、親指……俗にお父さん指と呼ばれる指を立てて、声援を送った。

 

「思う存分、やっちゃって!」

 

「……勿論だ」

 

 鬼頭は力強く頷いた。

 

「スーパーマンの出番だ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter21「この小さな世界に、その愛の言葉は響く」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日の物理学の定義によれば、物質とはすべからく原子でできており、原子は、陽子、中性子、電子によって構成されている。このうち、陽子はプラスの電気を、電子はマイナスの電気を持っており、こうした電気を持っている粒子のことを、荷電粒子と呼ぶ。荷電粒子には、電圧をかけると高速で運動するという特徴があり、例えば、陽子におよそ百万ボルトの電圧をかけると、音速の四万倍以上ものスピードで飛び出すことが判っている。こうした荷電粒子の特徴を最大限に活かした兵器が、荷電粒子砲だ。いわゆる粒子ビームの一種で、荷電粒子の高速運動に一方向への指向性を持たせ、発射するのである。

 

 数あるビーム兵器の中でも、荷電粒子砲の魅力はその破壊力だ。僅か一グラムの陽子でも、音速の四万倍の速さ……秒速一万三六〇〇キロメートルの速度で発射されれば、その運動エネルギーの総量は、およそ九二ギガジュールにもなる。今日、最もポピュラーな拳銃弾といえる九ミリ・パラベラム弾の銃口初速時の運動エネルギーがおよそ五〇〇ジュールだから、その一万八五〇〇発分に相当するエネルギーだ。TNT火薬で換算した場合では、およそ二二トン分が爆発したときに発生するエネルギーに相当。爆弾倉をめいっぱいにしたB-29爆撃機が二機、超スピードで突っ込んでくるようなものだ。

 

 また、物質の“もと”である原子をさらに構成する“もと”である以上、当然のことだが、陽子は小さい。一グラムの陽子とは、およそ六千垓個だ。これを粒子ビームとして発射するということは、物凄く小さな弾丸を恐ろしい速さで撃ち出す散弾銃のようなもの。“点”ではなく、“面”に対する破壊効果が期待出来る。

 

 このように破壊力に優れる荷電粒子砲だが、兵器として見た場合、欠点もある。大きなものは、主に二つ。

 

 一つ目の問題点は、粒子加速器の小型化が非常に難しいことだ。荷電粒子には磁場の影響により偏向してしまう、という厄介な特性がある。そのため、地球上では地磁気が、宇宙空間では太陽風などの荷電粒子束が、ビームの直進を妨げる要因となる。これを防ぐためには、質量の大きな荷電粒子を用意すればよいが、その実現には、粒子加速器に最低でも十ギガワットの給電能力が必要だ。十ギガワットといえば、世界最大の原子力空母ニミッツ級に搭載されている原子炉が、百秒近く発電に努めてようやく用意できるほどのエネルギーである。このことが、荷電粒子砲の小型化を困難にしていた。

 

 二つ目の問題点は、射程の短さだ。荷電粒子砲を地球上で使用すると、ある一定距離まではエネルギーの減衰がほとんどないのに、ある距離を超えると、急激に勢力が失われてしまい、ついには完全に停止してしまう、ブラッグピークと呼ばれる減退の問題が発生する。いかに強大な破壊力を有していようとも、発射の際に十ギガワットものエネルギーを費やしておいて、射程が数百メートル程度では、費用対効果は低いと評さざるをえない。

 

 これら二つの問題点のために、従来、荷電粒子砲の分類は、実際の戦場には持ち込みづらい、実験室止まりのSF兵器とされてきた。

 

 そんな状況を一変させたのが、ISの登場という大事件だった。

 

 ISの動力源たるISコアの出力は、荷電粒子砲の運用に必要とされる給電能力の問題を、あっさりとクリアしてしまった。また、篠ノ之束博士が開発したナノマシンの技術は、粒子加速器の小型化という問題をもある程度解決に導いた。射程の短さも、IS自体がマッハ一とか、マッハ二といった機動力を持っているために、運用法の工夫により、問題にならなくなった。射程が短いのならば、届く距離まで近づいて撃てばよい、というわけだ。事実、いちばん最初に開発されたISとされる『白騎士』も、荷電粒子砲をそのように扱っていた。

 

 こうした理由から、荷電粒子砲はISが運用する場合に限り、実戦的な兵器としての地位を確立させた。

 

 その圧倒的火力は、ISバトルにおいても猛威を振るう、危険極まりない武器とされていた。

 

 

 

 ――そんなヤバい武器を、あのISは二門も装備して、しかも連発してきやがる!

 

 第二アリーナ闘技場。

 

 突如として現われた謎のISより放たれた砲火の嵐をなんとか避けながら、一夏は、この場から鈴を逃がすにはどうすればよいか、懸命に頭をはたらかせていた。

 

 自分との試合の結果、鈴のISのシールドエネルギーは、たった二ポイントしか残っていない。荷電粒子砲の直撃を一発でも受ければ、大ダメージは必至だ。絶対防御も、シールドエネルギーがエンプティの状態では、どこまでアテに出来るか分からない。最悪の場合、操縦者が死ぬことだってありえるだろう。

 

 ――鈴が死ぬ? そんなこと、させてたまるかよ!

 

 一夏は直径二〇〇メートルの闘技場をいっぱいに使って、白式を縦横無尽に機動させた。見た目が派手々々しい、アクロバティックなマニューバを多用することで、相手の意識を自分に集中させようと努める。

 

 しかし、謎のISはその誘いをことごとく無視した。彼女は一夏に向けて一発撃つと、彼がその対処に手間取っているうちに、鈴に対しては三発発射、というように、甲龍のことを執拗に狙った。いまのところ上手くかわしてくれているが、このままではいずれ……、

 

 ――クソッ!

 

 撃たれてばかりでは埒が明かぬ、と一夏は敵性ISに向けて斬り込んでいった。

 

 ウィング・スラスターを断続的に噴かすことで、緩急のついた、かくかく、とした変則的なマニューバをとる。照準を定めさせない動きで迎撃の砲火を翻弄しながら、じりじりと間合いを詰めていった。地上に棒立ち状態の敵のもとまで、あと五メートルに距離に迫る。スラスターの力を振り絞り、相手の左斜め前方より突進をかけた。地擦りにとった大刀で、相手の左脚を鋭く払い上げる。

 

 これに対し、敵ISは、その巨躯からは想像しがたい機敏な動きで、一夏の接近を、するり、と、一夏から見て左に避けた。全身に搭載された姿勢制御用スラスターがなめらかに駆動し、巨体が、一夏の非利き手側へと回り込む。一夏は咄嗟に刀を引き戻し、胸元をガード。すれ違いざまにぶん回された右腕による、鞭のような打撃をブロックする。白亜の鎧武者の体は衝撃で吹き飛び、地面を転がった。追い撃ちへの警戒から、一夏は身を硬くする。しかし、予想した攻撃は、いつまで経ってもやってこない。当然だ。一夏を吹っ飛ばしたことで、その脅威はひとまず除かれた、と判断したらしい敵ISは、こちらに背を向け、両腕の荷電粒子砲を鈴へと向けていた。

 

 ――アイツ……ッ! 

 

 PICによる制動力を振り絞って立ち上がる。《雪片弐型》を八相にとり、背後から袈裟懸けに襲いかかった。

 

「鈴を、やらせるか!」

 

 後方からの攻撃に反応し、敵ISが振り返る。回転と同時に振り抜かれた長い両腕が、振り下ろし途中のブレードの横っ面を連続して引っぱたく。刀を弾かれ、がら空きになった胴体めがけて、鋭いフックが二発、炸裂した。内臓を圧迫する強烈な痛み。またも吹っ飛ばされた一夏を、今度はその軌道上に回り込んでいた鈴が受け止めた。掌の部分を失った状態でも、抱き留めるくらいのことは出来る。

 

「一夏っ、大丈夫!?」

 

「ごほっ……あ、ああ。……これくらい、大したことないさ」

 

 鈴の腕の中で咳き込む。苦悶に痙攣する表情筋を一喝し、なんとか、微笑んでみせた。微笑んだつもりだった。幼馴染みの少女に心配をかけまいと、まだまだ余裕だぜ、という演出のために浮かべたつもりの微笑は、実際にはいびつな表情としてあらわれ、鈴の胸をかえって苦しませた。

 

 ――あたしのせいで、一夏は、こんな……!

 

 甲龍の各種センサーを駆使して、腕の中の白式と、それを着る一夏の状態を走査する。

 

 幼馴染みの少年と、彼が纏うISは、外傷こそ目立っていないものの、その内側はすでに激しく疲弊していた。先の試合における見えない攻撃に引き続き、秒速一万四〇〇〇キロメートルという超々スピードの射撃を避けるため、短時間のうちに幾度も無理な連続稼働を強いられたスラスターは、いつ不具合を起こしてもおかしくないというほどに、高熱を帯びていた。それでも避けきれず、何発かの被弾を許した結果、機体全体のパフォーマンスは、平常時の六割程度にまで低下している。シールドエネルギーも、残り六〇ポイントを切ってしまった。

 

 操縦者の一夏自身の疲労も濃い。謎のISを睨みつける眼光からは、はじめに見られた力強さが徐々に失われつつあった。息づかいも荒々しい。肉体の疲労を、ISの生体保護機能だけではカヴァーしきれていない証左だ。

 

 ――こんなに、傷ついて……。

 

 シールドエネルギーがエンプティ寸前の自分を守るために、一夏は無理をしている。

 

 自分の存在が、幼馴染みの少年の負担になっている。

 

 その事実は、少女の心を深く傷つけていた。しかも彼は、ISに乗り始めてまだ一ヶ月弱の初心者だ。代表候補生としてのプライドも、もうズタズタだった。

 

 いまにも泣き出しそうな彼女に、一夏は、痛みから苦しげに歪んだ残酷な微笑を浮かべながら囁く。

 

「……そんな顔、するんじゃねえよ」

 

 両肩を支えてくれている腕を、そっと振りほどいた。

 

 《雪片弐型》を、正眼に構える。

 

 肉体も、機体も、疲弊していたが、戦う意思は、まだ潰えていなかった。

 

「待っていろ、鈴。すぐに、終わらせてやる」

 

 シールドエネルギーの残量からいって、バリアー無効化攻撃を使用出来るのはあと一回。次こそは、と決然と意気込み、一夏は背後の幼馴染みに向けて言い放った。

 

 やれるものならやってみろ、とばかりに、異形のISは、そのタイミングで荷電粒子砲を二門同時に発射。一夏と鈴は、左右に別れてこれを避けた。

 

 右へと飛んだ一夏が、謎のISめがけて、正面から、猛然と突進する。応じて、敵ISも両腕を振りかぶり、身構えた。

 

 左へと飛んだ鈴は、せめて援護を、と残り少ないエネルギーを振り絞り、左腕の衝撃砲《崩拳》を起動させた。素早く砲身を形成し、照準を定める。小銃弾ほどの大きさの衝撃弾を十発、フル・オート射撃で発射した直後、『シールドエネルギー残量ゼロ。試合終了、試合終了。あなたの負けです、マスター』と、シールドエネルギーが空っぽになったことを知らせる警報音が頭の中に鳴り響いた。そういえば“試合中”という設定のまま、変更するのを忘れていたな、と思わず苦笑した。シールドエネルギーがエンプティとなったことで、甲龍は省エネ・モードへと移行。全機能が消沈する。

 

 甲龍の左腕より発射された見えない拳が、敵ISのエネルギー・バリアーを連続で殴打した。

 

 残り僅かなシールドエネルギーから必死に絞り出しただけあって、衝撃弾一発あたり威力は、対人用のライフル弾程度でしかない。当然、シールドエネルギーに対するダメージは少なかったが、もう打ち止めだと思われた見えない攻撃が突然襲ってきたことに驚いたか、一夏を迎え撃とうとしていた敵ISの動きが、僅かに遅速する。

 

 ――鈴のやつ、無茶を……でも、これで!

 

 目標まであと五メートルの距離に迫った一夏は、そこで、上体を小さく前後に揺らした。

 

 先ほどの試合で鈴にもしてやった、フェイント機動。一瞬、動きが遅滞したと思った次の瞬間、猛然と急加速! 相手の内懐へと、一気に間合いを詰める。

 

 ただでさえ鈴の射撃によって反応が鈍っていたところに、急減速からの急加速という、タイミングずらしのテクニック。急に目の前に現われた一夏の動きに、敵ISは、即座に対応出来ない。自慢の長い腕も、目的を見失い、宙で遊ぶばかりだ。

 

「おおおっ!」

 

 裂帛の気合いとともに、光り輝く大刀を、一文字に振り抜く。

 

 零落白夜の一撃が、相手の胴をしたたかに打ち据える……その、はずだった。

 

 ――緊急警報。味方機、ロックされています。

 

 白式のハイパーセンサーが、緊急警報を知らせた。

 

 自機の危機を知らせる警報ではない。

 

 仲間の危機を知らせる声だ。

 

 そしてこの場において、自分の味方は、一人しかいない。

 

 ――鈴!?

 

 敵ISは、必殺の打ち込みについて防御も回避も不可能と判断するや、ならば最期の一矢とばかりに、鈴のISに向けて、右腕の荷電粒子砲の砲口を傾けたのだった。

 

 シールドエネルギーが空っぽで、回避運動のためのスラスター稼働もままならない、いまの甲龍に向けて。

 

 ――クソッ!

 

 非常用エネルギーを少しでも節約するためだろ、鈴は機体を地上に降ろしていた。

 

 一夏はまだ打ち込みの中途にある《雪片弐型》の軌道を、強引に変えた。

 

 荷電粒子砲の射線を変えるべく、下から上へ、相手の手首を狙う。

 

 方針の急な転換についていけないロボットアームが、手の内を乱した。

 

 大刀からは刀勢が失われ、のみならず、バリアー無効化攻撃を可能とする白銀の光さえもが霧散する。

 

 鈴を助けるにはどうすればよいか。一瞬の迷いに費やした時間が、零落白夜の発動に必要なエネルギーを食い潰してしまったのだ。

 

 構わず、一夏は《雪片弐型》を擦り上げた。

 

 伸びやかさを喪失した太刀行きが、酒瓶のように膨らんだ手首を打ち据えた。

 

 上方へと押し上げられ、向きを変えられた砲口から、陽子の奔流が迸る。開放状態の天井めがけて発射された粒子ビームは、射線上の荷電粒子と次々に衝突、エネルギーを喪失しながら細い糸のように成り果て、やがて消失した。

 

 幼馴染みの窮地をひとまず救えたことに安堵する一夏だったが、次の瞬間、彼の表情は硬化した。

 

 敵はもう『零落白夜』を使えない、と状況の急変を認識した敵ISが、左腕を鞭のように振り抜いて、一夏の胴体を鋭く殴打した。

 

「っ! ごっ」

 

 肺を押し潰される圧迫感。生体保護機能がはたらいていてなお感じる痛みに、思わず苦悶の呻きが漏れた。

 

 体を“く”の字に曲げた状態で動きを止めてしまった一夏の側頭部に、今度は右腕が振り下ろされる。咄嗟に、両腕でブロック。運動量を殺しきれず、弾き飛ばされてしまった。またしても地面を転がり、滑る。

 

 追撃への警戒から、一夏はすかさず立ち上がろうとした。しかし、出来なかった。パワーアシスト機能が、十分なはたらきをしてくれず、起き上がりの動作は、IS同士の戦闘の最中とは思えぬほど、緩慢なものになってしまっていた。いったい、どうして……? まさか、故障だろうか?

 

 疑問に対する回答は、白式のISコアが教えてくれた。現在のステータス情報をチェックして、愕然としてしまう。シールドエネルギーが、僅かに五ポイントしか残っていない。

 

 ――エネルギー不足による、パワーダウン!?

 

 一夏は普段からシールドエネルギーの分配管理を、コンピュータによる自動制御機能に任せていた。

 

 残り少ないエネルギーを効率的に運用するため、白式のISコアは、いま現在いちばんパワーが必要とされる機能にリソースを集中させていた。すなわち、絶対防御をはじめとする、各種の操縦者防護システムだ。そのため、パワーアシスト機構へのエネルギー供給が滞っていた。

 

 慌てて、パワーアシスト機構とPIC、スラスターへのエネルギー供給を優先するよう手動で操作するも、そのときにはもう、敵ISは地面を蹴り、宙へと飛び立っていた。

 

 ――やられる!?

 

 警戒感から、身を硬くしてしまった。

 

 咄嗟の反応が、次の動作を遅らせた。

 

 敵ISは一夏ではなく、鈴の方へと向かっていった。

 

 尋常ならざる執着だった。

 

 ――不味い!

 

 シールドエネルギーが僅かに残っている状態の白式ですら、パワーアシスト機能のパフォーマンスの低下が著しい。

 

 シールドエネルギーがエンプティ状態のいまの甲龍では、敵の攻撃を凌げない!

 

 これまで何度も荷電粒子砲を防がれた反省からか、異形のISは鈴に対し白兵戦を挑んだ。

 

 スラスターを使えない甲龍では、あっという間に間合いを詰められてしまう。

 

 鈴の目前まで迫ると、左右から、フックの連続攻撃。

 

 代表候補生の意地か、一振のみの《双天牙月》を左右に素早く振ってぶつけ、初撃をなんとか耐え凌ぐ。

 

 しかし、抵抗もそこまでだった。

 

 エネルギー不足のロボットアームの膂力では、連続攻撃の勢いを完全には受け止められず、衝撃で、青竜刀を取り落としてしまう。

 

 この隙を逃すまい、と、三発目のフックを叩き込むべく、敵ISの右腕が弓のように引き絞られた。

 

「鈴、逃げろ!」

 

「いいやッ!」

 

 そのとき、一夏の悲鳴を、臍下丹田より絞り出された気合いの一喝がかき消した。

 

「そこを動くな!」

 

 異形のISが右腕を振り抜かこうとしたその直前、灰色の砲弾が、マッハ一・六の速さで、右側方より飛びついた。

 

 超音速領域からの体当たり攻撃。ISにしか出来ない技の一つだ。

 

 謎のISの巨躯をもってしても吸収しきれぬほどの衝撃が全身を駆け巡り、その身を突き飛ばす。闘技場内と観客席とを隔てるエネルギー・バリアーに激突、墜落、もうもう、と、土煙が上がった。

 

「二人とも、無事かい?」

 

「智之さん!」

 

 鈴のもとに降り立ったのは、灰色の打鉄を身に纏った鬼頭だった。ようやくパワーアシスト機能の調子を取り戻した一夏が、慌てて駆け寄ってきた。

 

「どうして、ここに?」

 

「決まっているだろう? きみたちを、助けに来たんだ」

 

「……余計な、お世話です」

 

 助けられた鈴が、苛立たしげに言った。

 

 一夏によって、鬼頭個人に対する悪感情を実は持っていないことが明かされた彼女だが、一度、あんな態度をとってしまった気まずさからか、すぐには態度を改められない様子だ。いや、もしかすると、本当は自分に対し、何か思うところがあるのかもしれないが。

 

「あんたみたいな大人の手なんかなくたって、あたしと、一夏の二人で……」

 

「凰さん」

 

 鈴とまともに言葉を交わすのは、一週間ほど前に学生寮の自室で会話したとき以来のことだ。あのとき、自分の心にすっかり根付いてしまった彼女への苦手意識を自覚しながらも、鬼頭は努めて平静な口調で話しかけた。

 

「いまは、そういった個人的な感情は抑えるべき場面だよ。代表候補生のきみなら、いまがどういう状況なのか、分かるはずだ」

 

「……」

 

 鈴は鬼頭の顔を睨みつけた。

 

「きみの甲龍はシールドエネルギーが空っぽの上、近接武器を喪失。ロボットアームも片方、掌を失っている。織斑君の白式も、シールドエネルギーはほぼ空に近い状態だ。必殺の『零落白夜』も、その状態では発動出来まい。

 

 翻って、敵のISはシールドエネルギーがまだたっぷり残っている。アリーナの遮断シールドを破るほどの攻撃力を持つ、荷電粒子砲も健在だ。他にも、未知の兵装といった戦力を隠しているかもしれない。こんな相手に、いまの状態の君たちが挑むことの無謀さが、分からないきみではないはずだ」

 

「鈴、智之さんの言う通りだ」

 

 鬼頭と鈴の間に、一夏が割って入った。

 

「俺の白式もヤバいけどよ、お前の甲龍はそれ以上だ。ここは、智之さんにも協力してもらって、三人で……!」

 

「いいや、君たち二人は、ピットルームに戻りなさい」

 

「なっ!?」

 

 鬼頭の言葉に、一夏は目を剥いた。かたわらの鈴も驚いている。

 

 まさか、たった一人であのISと戦うつもりなのか。

 

「む、無茶ですよ。智之さんだって、見たでしょう? あのISの火力は、半端じゃない! 三人がかりで……」

 

「そうよ! それに、逃げろ、って言ったって、ピット・ゲートが……」

 

『織斑、凰』

 

 Aピットルームにいる千冬から、プライベート・チャネルによる通信が入った。

 

『鬼頭さんのおかげで、アリーナの管制権がこちらに戻った。いまからピット・ゲートを開放する。お前達はすぐに飛び込め』

 

『千冬姉! でも、鬼頭さんは……』

 

『織斑先生、だ。……教員部隊の準備には、もう少し時間がかかる』

 

 その言葉を耳にして、一夏は、はっ、とした。

 

 淡々とした口調にも拘わらず、彼には姉の声が悲鳴のように聞こえた。彼女にとっても、鬼頭一人を送り出したのは苦渋の決断だったのだ。

 

『その間、誰かが、あのISをこの場に拘束する必要がある。……その先は、言わせないでくれ、一夏』

 

『千冬姉……ああ、分かった』

 

 一夏は悔しげに頷くと、鬼頭の顔を見た。

 

 あのISを頼みます。そう口にしようとして、おや、と怪訝な表情を浮かべる。

 

 鬼頭の打鉄の姿を最後に見たのはIS実習の授業でのことだが、はて、こんな姿だったか。なにやら、違和感を覚えてしまうが……。

 

「織斑君」

 

 自身の顔を見つめたまま黙ってしまった一夏の様子を不審に思った鬼頭が口を開いた。「どうかしたかい?」と、訊ねると、一夏は少し慌てた様子でかぶりを振った。

 

「あ、い、いえ、なんでも……。その、智之さん」

 

「うん」

 

「あのISを、頼みます」

 

 一夏はいまだ土煙が立ちこめる中、ゆっくりとした所作で立ち上がった謎のISを睨んだ。いったい何が彼女の琴線に触れたのか、自分たちの会話する様子を、興味深い、とばかりに眺めている。

 

「うん。任せなさい」

 

「……どこから、その自信が来るんですか?」

 

 力強く頷いてみせた鬼頭に、鈴が刺々しい口調で言った。重ねて、胡散臭そうに訊ねる。

 

「っていうか、鬼頭さん、そもそも、ISで戦えるんですか?」

 

「私の技量について、不安が?」

 

「当然でしょ。だって、鬼頭さん、つい一ヶ月前にISを動かせることが分かったっていう、はっきり言って素人じゃないですか。放課後の自主トレとかも、あんまりやってないみたいだし、公式戦の記録もない。そんな人の技量を、信用なんて出来るはずないでしょ」

 

「ふむ。たしかに、その通りだね」

 

 はっきり言う娘だなあ、と鬼頭は思わず苦笑した。

 

「そして残念なことに、きみの不安は的中している。IS操縦者としての私の力量は、代表候補生のきみは勿論、織斑君にも、きっと負けているだろう」

 

 稼働時間がものを言うのがIS競技者たちの生きる世界だ。技術者としての研究と解析にばかりかまけ、ISを身に纏っての訓練は最小限にとどめている自分と彼らとでは、経験値が違う。

 

 肉体面においても、十代半ばの彼らと、今年で四六歳になる自分とでは、体力の差が大きい。与えられている機体も、第二世代機と第三世代機とでは、文字通り隔世の差がある。

 

「まず間違いなく、ここにいる三人のうちで、いちばん弱いのは私だ」

 

「それなのに、なんでそんなに自信あり気なんですか? ……ううん、そもそも、何であなたが?」

 

 Aピットルームには、イギリスの代表候補生もいたはずだ。なぜ彼女ではなく、鬼頭が出張ってきたのか。

 

「簡単なことさ」

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。

 

「きみたちが子どもで、私が大人だからだよ。大人には、子どもを守る義務がある。……それにね」

 

 言い放つや、彼は異形のISを鋭く睨みつけた。かたわらに立つ子どもたちは、その横顔を見て、ぶるり、と胴震い。鬼頭の双眸は、怒りに燃えていた。一夏たちが初めて見る、鬼の形相だった。

 

「……あのISは、きみたちを傷つけた」

 

「と、智之さん……」

 

「この鬼頭智之の目の前で、子どもを傷つけたんだ!」

 

 激昂。普段の彼からは考えられない、荒々しい口調と、爛々と兇暴な輝きを宿す眼差し。

 

「二度と失うものか。二度と、間違えるものか!」

 

 脳裏に、智也の顔が浮かんだ。

 

「やつは、俺の手で、スクラップにしてやる!」

 

 鬼頭は吼えた。牙を剥いて吼えた。悲憤の咆哮だった。

 

 

 

 

 

 

 このとき、鬼頭は一つ、失念していることがあった。

 

 ピットルームにいる陽子や箒にも自分たちの会話が聞こえるように、と、彼はこれまでの会話をすべて、オープン・チャネル回線を使って流していた。

 

 ところで、第二アリーナの闘技場は、つい先ほどまで一夏と鈴が激しい試合を演じていた場所だ。

 

 トラッシュ・トークも立派な戦術の一つと、本日の第二アリーナでは試合中に限って、

闘技場内でオープン・チャネルを使って交わされた会話の内容はすべて、観客席や廊下に設けられたスピーカーからも出力されるよう設定されていた。そして、その設定でロックされた状態のまま、謎のISによる管制システムのハッキングを受けたのである。

 

 その後、鬼頭の作ったワクチン・プログラムによって、第二アリーナのコントロール権はIS学園側に戻ったが、中継室にいる教員たちは、このとき、小さなミスを犯していた。館内の生徒たちに向けて避難指示を発することを優先するあまり、スピーカーのモードを、“試合中”の設定から変更するのを忘れてしまったのだ。廊下に設置されたスピーカーから、闘技場内にいる鬼頭たちの声が聞こえてきたとき、彼女たちはようやく、自分たちのミスに気がついたが、そのときにはもう、手遅れだった。

 

 まだ避難途中の生徒たちが多く残る館内に、彼の声は、高々と鳴り響いてしまったのだ。

 

『この鬼頭智之の目の前で、子どもを傷つけたんだ!』

 

『二度と失うものか。二度と、間違えるものか!』

 

『やつは、俺の手で、スクラップにしてやる!』

 

 鬼頭智之という男に対して好意的な者も、嫌悪感を抱いている者も、はては無関心の者の耳にも、その声は届けられた。

 

 悲しみに満ち満ちた、憤怒の咆哮は、少女たちの胸を、等しく苦しくさせた。

 

 

 

 

 

 

「さあ、二人とも、行ってくれ」

 

「智之さん……はい!」

 

 一夏は鬼頭の言葉に頷くと、かたわらに立つ鈴を抱えて、上昇を開始した。千冬からの指示に従い、一路、Aピット・ゲートへと急ぐ。

 

 さすがにそれは見過ごせない、とばかりに、それまで三人の会話を黙って眺めていた敵ISが、右腕の荷電粒子砲の砲口を一夏たちに向けた。

 

 ビール瓶のように膨らんだ前腕部の内側で、百万ボルトの電圧がスパークする。猛加速を余儀なくされた荷電粒子の奔流が、少年たちの背中めがけて発射された。

 

「やらせん!」

 

 打鉄の物理シールド二枚を手にした鬼頭が、荷電粒子砲の射線上にその身を割り込ませた。

 

 超高速で運動する荷電粒子の大軍が、第二世代機最高の防御力を誇るシールドに炸裂する。すさまじい運動エネルギーの衝突と高熱により、耐貫通性スライド・レイヤー装甲製の盾は、急激に防御力を喪失していった。

 

 鬼頭は両腕の盾を体ごと僅かに傾けた。

 

 ごくごく小さな物質とはいえ、荷電粒子もまた、質量を持った存在だ。盾の傾きに沿ってビームは流れ、地上へと着弾した。

 

 その間に、一夏たちはピット・ゲートの向こう側へと退避に成功した。

 

 ハイパーセンサーの作用により、謎のISを正面にとらえたまま、背後で起こった出来事を把握した鬼頭は、まずはこれで一安心、と安堵の微笑を浮かべた。

 

 しかしすぐに表情を引き締め、眼下の敵ISを油断なく見据える。と同時に、目の網膜に直接ステータス・ウィンドウを投影、攻撃を受け止めた物理シールドの状態をチェックした。

 

 ――第二世代機最高の防御力を誇る打鉄のシールドが、一発でこのザマとは……!

 

 物理シールドは二枚とも、損耗率八割超という無残な状態だった。打鉄のシールドは、破壊される前に修復することで継続戦闘能力を高める、というコンセプトのもと、設計されている。自己修復機能を限界まで高めたナノマシンの集合体……耐貫通性スライド・レイヤー装甲十六層を、他の装甲素材と重ね合わせたチョバム・アーマー構造としていた。それが、十三層目まで突破されている。ナノマシンの復元機能も、完全に止まっていた。

 

 見た目上のダメージも酷い。熱線を受け止めて間もない装甲板は赤銅色に焼けただれ、荷電粒子の突撃によって、微少な大きさのへこみが無数に生じてしまっていた。

 

 ――もう一発の攻撃も受け止められそうにない。恐るべき攻撃力だ……!

 

 警戒しなければならないのは、荷電粒子砲だけではない。

 

 第二アリーナのコントロールを取り戻すためのワクチン・プログラムを作っていた間も、鬼頭は一夏たちと、謎のISとの戦いを観察していた。

 

 機動性の高さが強みの白式から接近戦を挑まれても、ひょい、と身をかわしてしまう、巨体に似合わぬ運動性の高さ。リーチの長い両腕は、鞭のように振り回すことで、鋭い打撃を叩き込んでくる。荷電粒子砲を抜きに考えても、非常に恐ろしい相手だ。

 

「……ふむ、困ったな。いまのままでは、勝てそうにない」

 

 己がアリーナのコントロールを取り戻そうと動き始める以前から、一分以上も観察させてもらった。

 

 やつに対する作戦は、頭の中ですでに出来上がっている。

 

 問題は、そのプランを実行に移すには、自分と、自分のISの性能が不足していることだ。

 

 鬼頭の打鉄は、男性操縦者の保護を最優先にした改修が施されている。標準仕様の機体と比べて防御力に優れる反面、運動性や機動性が僅かに劣っていた。拡張領域の容量も小さいため、たくさん武器を積んでの火力増強も難しいという、およそ競技向けではない機体だ。加えて、操縦者の自分は経験に乏しく、年齢も四六歳と、体力面でも不安を抱えている。

 

 このまま正面からぶつかっていっても、勝てる公算は低い。教員部隊の到着まで、時間を稼ぐことも出来まい。

 

「……やむをえんな」

 

 鬼頭は、しかし好戦的な冷笑を浮かべてみせた。

 

 彼我の戦力差について冷静に分析をし、自らの不利を正しく理解してなお、切れ長の双眸は、闘争心に満ち満ちていた。

 

「ぶっつけ本番なんて、技術者としては恥ずべきことだが……新装備の、実験台になってもらうぞ!」

 

 

 

 

 

 

 Aピットルームへと退避した一夏と鈴は、すぐにISの展開を解除すると、大型モニターに険しい面差しを向けている千冬たちのもとへと駆け寄った。

 

「千冬姉っ、智之さんは!?」

 

「……織斑先生、だ。安心しろ。無事だ」

 

 千冬は弟の顔を、じろり、と一瞥した後、目線をモニターに戻した。闘技場内の各所に設置されている記録カメラのうち、十六台とつなげられた大画面には、鬼頭と謎のISの姿を、それぞれの向きからとらえた映像が同時に映し出していた。そのうち、鬼頭の姿を正面からとらえているカメラの映像を見て、一夏は、うぅっ、と息を呑む。荷電粒子砲の直撃を受け止めた物理シールドが二枚とも、無残な姿へと変わり果てていた。

 

『……ふむ、困ったな』

 

 壁に直接取り付けられたスピーカーから、鬼頭の声が響いた。

 

 オープン・チャネルを有効にした状態での呟きだ。

 

『いまのままでは、勝てそうにない』

 

「織斑先生、突入部隊の準備はいつ終わるんですか?」

 

 一夏のかたわらで寄り添うように立つ鈴が訊ねた。ISの装着を解除したことで試合の疲れが一気に襲ってきたか、顔色が悪い。

 

 千冬はタブレット端末を操作した。謎のISを鎮圧するため、着々と準備を進める同僚たちの状況を画面に表示させる。アリーナの遮断シールドを易々とぶち抜くほどの火力への警戒から、防御力重視の装備をラファールにインストールしているところだった。彼女は誰にも聞かれないように、とひっそり溜め息をついた。

 

「あと五分はかかる」

 

「そんな!」

 

 千冬の返答に、一夏は悲鳴を上げた。物理シールドが使い物にならないいまの状態の打鉄で、あの脅威のISを相手に、そんな、五分ももたせられるのか!?

 

 青い顔をする一夏の隣では、鈴も辛そうな表情を浮かべている。千冬たちの邪魔をしてはならぬ、と少し離れた場所からモニターを見つめる陽子と目が合い、泣き出したい気分に襲われた。鬼頭が闘技場内に駆けつけたのは、自分や一夏を助けるためだ。彼女の父親の身がいま危ういのは、自分たちのせいだといえた。

 

 鈴は急に、陽子の視線が恐くなった。

 

 彼女の眼差しから逃れたい一心で、慌てて顔をそむけた。

 

 そむけたその先に、モニターをじっと見つめるセシリアの横顔があった。人種の壁を感じずにはいられない、彫りの深い端整な美貌に、こんな状況にも拘わらず、自然と目線を吸い寄せられた。けれども、眺めているうちに、だんだんと腹が立ってきた。

 

 イギリスからやって来た代表候補生の少女は、この緊急事態にあって、ひどく落ち着いているように見えた。打鉄の盾がぼろぼろになったのを見ても、頬の筋肉が、ぴくり、ともしない。鬼頭との付き合いは、自分よりも長いはずなのに……。仮にもクラスメイトだろう。心配じゃないのか。この薄情者め。

 

 いやそもそも、この女はなんでここにいるのか。IS操縦者としては初心者に過ぎない鬼頭が危険な戦場へと赴いているのに、代表候補生の彼女が、なんでこんな、安全な場所で! 同じ代表候補生の自分は、助けに行きたくても、行けないのに……!

 

「ねえ……」

 

 険を帯びた声が、自然と唇をついて出た。

 

 そんな声をかけられてなお、振り向いた彼女は、相変わらずの澄まし顔。鈴は、これは八つ当たりだ、と自覚しながらも、言の葉を紡ぐことをやめられなかった。

 

「はい?」

 

「アンタ、イギリスの代表候補生よね? なんで、こんな場所にいるのよ? なんで、あの人のところに行かないのよ!? なんで、そんな平気そうな顔を……!」

 

「……平気そうに、見えますか?」

 

 それまで不変の顔つきを保っていたセシリアの表情が、静かなる怒りから軋んだ。端整な美貌の持ち主だけに、柳眉を逆立て、こちらを睨むその顔は、背筋が凍るほど恐ろしかった。鈴は息を呑み、口をつぐみ、失言だった、と己を恥じた。

 

「鈴さんには、いまの私がそう見えたのですか。……私の演技力も、なかなかのものですわね。バフタ賞を狙えるでしょうか?」

 

「あ、その……ご、ごめん……」

 

 セシリアは鈴のことを軽く睨むと、目線をモニターに戻した。

 

「いえ……私も、失礼な態度を取ってしまいましたわね。すみません」

 

 セシリアは面差しをモニターへ向けたまま鈴に言った。

 

「私が行かなかったのは、第一に、お父様に止められたからです」

 

「お父様?」

 

「鬼頭さんのことです。鬼頭さんと、陽子さんと、私の三人だけのときには、そう呼ばせてもらっておりますの」

 

 「今日、織斑先生たちにはばれてしまいましたが」と、セシリアは付け加え、苦笑した。

 

「ですが勿論、それだけが理由ではありません。最初、お父様からここにいるように言われたとき、私は反発しました。どう考えても、IS操縦者としての技量は、お父様よりも私の方が上ですし、お父様はいまだ世界でたった二人しか見つかっていない男性操縦者。万が一のことあっては、困ります。だから、ここは私が行くべきだと……。でも、その後、思い直したんです」

 

 セシリアは、鈴と一夏を交互に見た。

 

「織斑さん、鈴さん、改めて述べますが、お父様は……鬼頭智之は、まぎれもなく、天才です」

 

「オルコットさん? いったい、何を……」

 

「特にその観察眼は、鋭い、とか、優れている、といった言葉では言い表せないほど、恐ろしいものがあります。そんなお父様が、ご自身の戦力と、あのISの戦闘力、彼我の戦力差について、見誤るなんてことは、考えられません。お父様は、自分と、相手の力の差をよく理解した上で、闘技場に飛び込んでいったのです」

 

「……ええと、悪い。俺の頭じゃ、理解出来ない。結局、何が言いたいんだよ?」

 

「つまり、絶対に勝てる、との確信を抱いた上で、飛び込んでいった、ということです」

 

 セシリアは力強い口調で断言した。なおも不安そうな顔をする一夏が、「で、でも、智之さんはいま、勝てない、って……」と、応じると、彼女は自信たっぷりに言った。

 

「織斑さん、よく思い出してください。お父様は、こう言いましたわよ」

 

 そのとき、壁面のスピーカーからの鬼頭の声と、セシリアの声が、奇しくも重なった。

 

「いまのままでは、勝てそうにない」

 

『……新装備の、実験台になってもらうぞ!』

 

 反射的にモニターへと目線を向けた一夏は、ああっ、と驚き、瞠目した。

 

 モニターに映じる、鬼頭の打鉄。先ほど闘技場内で覚えた違和感の由来について、いま、ようやく気がついた。

 

 鬼頭の打鉄は、過日、IS実習の授業で最後にその姿を見たときから、外見がやはり変わっていた。彼の打鉄には、標準仕様の機体にはない装備として、ブレスト・アーマーがあるが、その背面部分が、以前と比べてごちゃごちゃしている。まるでランドセルを背負っているかのように、縦長の四角い箱のような装置が三基、横に並んでいた。

 

「オルコット」

 

 モニターに映じる鬼頭の顔を見つめながら、千冬が口を開いた。

 

「鬼頭さんのBTシステムの研究は、どの程度進んでいる?」

 

「……昨晩、BTエネルギーによって稼働する攻撃端末と、その運動を制御する特別なOSの試作品が、完成したところです」

 

「テスト運用は?」

 

「まだです。昨日は、装置とOSを完成させてすぐ、織斑さんのISの整備を始めましたので、テストをする時間がありませんでした。一応、コンピュータ・シミュレーションくらいは、行いましたが」

 

「そのときの結果は?」

 

「まずまず、といったところでしょうか。BT適性がさほど高くないお父様ですが、開始十五分で、タイフーン戦闘機を撃墜してみせましたわ」

 

『……BT・OS《オデッセイ》、レベル1、アクティブ!』

 

 あらかじめ打鉄にインストールしておいたOSプログラムを、音声入力でもって起動させる。

 

 背中の箱の中に閉じ込めておいたBTエネルギーが解き放たれ、打鉄の全身へと流入、隅々にまで行き渡っていった。エネルギーの急な流入により、灰色の装甲が光り輝く。

 

 流動性エネルギーは、やがて落ち着きを取り戻した。

 

 発光現象がおさまり、再び露わとなった打鉄の姿を見た一夏たちは、思わず唸り声を発した。

 

 BTエネルギーが全身に満ち満ちた結果がもたらした、副次的な効果だろう。薄墨色に近かった機体色が白みを増して、シルバーグレイへと変わっていた。のみならず、機体の各所に施されていたストライプの色も、すみれ色へと変色し、ほのかに発光している。

 

『さあ、オジサンと遊んでおくれ』

 

 モニターの中で、鬼頭が微笑んだ。

 

 好戦的な笑みだった。

 

 謎のISが、荷電粒子砲を内蔵した右腕を鬼頭へと向ける。

 

 あふれ出した光芒が、第二ラウンドのゴングとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter21「この小さな世界に、その愛の言葉は響く」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名古屋市消防局の職員たちを中心とした見学団の受け入れを決めたその日、桜坂たちパワードスーツ開発室のメンバーは、では彼らに何を見てもらうか、ということについて、侃々諤々の議論が交わされた。消防庁は将来のお得意先候補の第一位だ。受け入れを決めた以上は、わが社の製品について好印象を胸に帰っていただきたい。彼らが見たいと考えているものと、自分たちが見てほしいと思うもの。それを徹底的に分析し、両者のギャップを埋めてやらねば。

 

「消防局の方々は、昨年の国際ロボット展でのXI-01のパフォーマンスを見て、我々の仕事に関心を持ったんですよね?」

 

 会議の席で最初にそう確認したのは、チーム最年少の土居昭だった。最近になってようやく作業着姿が板につくようになってきた二六歳。開発室における主な仕事は、パワーアシスト機構の調整作業だ。高校、大学と、器械体操に励んだスポーツマンで、体力は抜群。パワードスーツのアクターを任されることも多い。

 

 土居の問いかけに対し、チーム・リーダーの桜坂は頷いた。これから活発な意見交換をするにあたって、まずは前提条件の確認と、共有をする必要がある。

 

「そうです。おそらく、先方のお目当ては、ロボット展で私が口にした、XI-02の方でしょう。いま開発中のXI-02の性能は、このXI-01をはるかに上回る予定です、と言ってやりましたから」

 

 昨年の十二月に国際ロボット展が開催された時点では、XI-02はまだ組み立て作業を終えたばかりで、とても展示出来るような状態ではなかった。桜坂は代わりにXI-01を会場に持っていき、観客たちの前で、スズキのアルトワークスを持ち上げてみせる、というパフォーマンスを行った。アルトワークスは軽自動車規格のスポーツカーに分類されるクルマで、比較的軽量な部類だが、それでも、車重は六五〇キログラムもある。XI-01がそれを軽々と持ち上げたとき、観衆は等しく、どっ、と沸き立ち、重ねて、桜坂が前述の言葉を口にすると、まだ見ぬXI-02への期待から目を輝かせたのだった。

 

「展示会で見たXI-01と比べて、XI-02がどれほどの性能を持っているのか。そこが気になっているに違いありません」

 

「どうします? XI-01と02とで、相撲でも取らせますか?」

 

 右手に包帯を巻いた滑川雄太郎が、諧謔混じりに言った。たしかに、そのやり方ならば、どちらがより優れた強化服なのか、勝敗という形で一目瞭然だろうが。

 

 桜坂は苦笑しながら、

 

「良いアイディアだと思いますが、さすがに、大切なスーツを傷つけるようなプランは避けたいですね」

 

「それに、消防局の方々が興味を持ってくれたのは、災害救助用のパワードスーツです。相撲に強い強化服ではありません」

 

 チーム最年長の酒井仁の言葉に、二人は頷いた。酒井はみなの顔を、ぐるり、と見回し、言葉を重ねる。

 

「まずは彼らがパワードスーツにどんな性能を求めているのかを考えましょう。その次に、我々が見せたいと考えている性能について洗い出しをし、合致するものを見せる、というふうに、見学プログラムを考えては?」

 

 まず顧客のニーズについて考え、それに対し、自分たちは何を提供出来るかを考える。あらゆる商売の基本原則だ。桜坂も、「それでいきましょう」と、応じた。

 

「我々のパワードスーツを日本の消防局が購入する場合、まず、配備先はどこか考えられるでしょうか?」

 

「そりゃあ、レスキュー隊だろう」

 

 土居の言葉に、彼よりも三つ年上の田中・W・トムが反応した。

 

 レスキュー隊とは、正式名称を特別救助隊といい、人命救助活動を主要な任務とする消防の専門部隊のことだ。全国の消防本部や、消防署などに配置されている。その活動範囲は広く、火災や交通事故、労災事故といった、日常生活の中で起こる災害や、洪水や土砂崩れなどの自然災害、水難事故、山岳救助、そして震災などの大規模災害まで、あらゆる人命救助事案を担当している。

 

「俺たちが作っているのは、災害“救助”のための、パワードスーツなんだからな」

 

「さらに付け加えるのであれば……」

 

 トムの言葉を、桜坂が引き継いだ。

 

「パワードスーツの生産数が少ないうちは、特別高度救助隊から優先的に配備されるでしょうね」

 

 特別高度救助隊は、ハイパーレスキュー隊とも呼ばれる、より高度な救出救助能力と機材を有する、人命救助の精鋭部隊だ。全国の政令指定都市に配置されており、愛知県の場合は、ハイパーレスキューNAGOYAの愛称で知られる部隊が五個、置かれている。これら第一から第五までの各方面隊は、それぞれが異なる災害への装備・任務を与えられていた。

 

「実際、見学団の中には、ハイパーレスキュー隊の隊員も含まれる予定だそうです」

 

「ハイパーレスキュー隊の任務は……」

 

「第一方面隊が震災や水難救助、第二方面隊が低所災害と地下災害、第三方面隊が高所災害、第四方面隊が交通災害、そして第五方面隊が、NBC災害や船舶火災、石油コンビナートなどの施設で発生した災害に対応しています」

 

「いま挙げられた災害状況のうち、XI-02の装備がまだ対応していないのは、水難救助と高所災害、そして船舶火災ですね」

 

 滑川技師が言った。主にスーツのパワーユニットの設計を任されている彼は、設計主任の鬼頭や、室長の桜坂を除けば、この部屋にいる他の誰よりも、自分たちのスーツの性能限界を熟知している。

 

「これらの環境への対応は今後の課題にするとして、今回の見学会では考えないものとしましょう」

 

「これらの環境でまず共通するのは、足場の悪さでしょうね」

 

 そう言ったのは、銀縁めがねをかけた細面の男だった。松村陽平、三五歳。勤続十三年目の中堅社員で、開発室では、ショック・アブソーバーなど、パワードスーツの足回りの造りを任されている。

 

「地震の被災地や、火災の現場では、窓ガラスが割れたり、建物が倒壊するなどして、足元には大小形も様々な障害物が、其処彼処に散乱している状況が考えられます。また、地下災害の場合は、地上と違って光源の乏しい環境下での運用が考えられますから、見通しが悪い、という意味で、足元には注意が必要でしょう。そして山岳救助などの任務は、そもそも人を寄せつけない環境で求められることが多い」

 

「つまり、悪路踏破性を中心とした機動力をまず見せるべきと、そう言いたいわけだね?」

 

 最年長の酒井仁が訊ねると、松村は首肯した。

 

「ハイパーレスキュー隊がパワードスーツにまず何を求めるか。彼らの立場から考えると、機動力ではないかと私は考えます」

 

「なるほど、ハイパーレスキュー隊の立場で考える、か」

 

 金髪のトムが、良いアイディアが思い浮かんだ、と膝を叩いた。

 

「それなら、耐久性なんかのサバイバビリティも重要ですよね。ハイパーレスキュー隊の出動が求められる状況って、たぶん、普通のレスキュー隊では対処出来ないような、特殊な状況か、過酷な環境だと思いますし。そういう環境下でも、装着者の命を確実に保障する、防護に関する性能は、良いセールス・ポイントになると思います」

 

「通信機能の充実ぶりなんかも見せたいところですよね」

 

 今度は土居が難しい顔をしながら呟いた。

 

 たしかに、どんなに優れたパワードスーツも、一着だけでは、出来ることには限りがある。他のパワードスーツや、強化服を着ていない一般の消防隊員、後方の指揮車やポンプ車、はしご車といった支援車輌との緊密な連携が、スーツの性能を実質二倍にも、三倍にも高めてくれることを考えると、それを可能にするための手段として、通信機能が充実していることは、先方にとって重要な要素と考えられた。

 

 ただ、これはXI-01との比較を見せる、という意味では難しい。XI-01は、パワードスーツ開発に必要な基礎技術の修得を第一の目的に開発されたスーツだ。量産化を視野に入れたXI-02と違い、通信機器については、必要最低限の装置しか積んでいない。この性能についてXI-02と比較することは、市販の乗用車とF1カーの乗り心地を比べるようなもの。比較という試み自体が、ナンセンスといえた。口ずさんではみたものの、土居が難しい表情を浮かべてしまうのも当然のことだろう。

 

「XI-01との比較を見せる、というのは、あくまでも一案ですよ」

 

 いまの時点で、見せ方まで考え出したら、活発な議論は成立しない、と考えた桜坂が、すかさず土居に声をかけた。

 

「見せ方については、後でいくらでも工夫のしようがあります。いまは、向こうが何を見たいか、そして我々は何を見せたいか、あるいは、見せられるのか。それだけを考えて、発言してください」

 

 桜坂の言葉に勇気づけられたか、土居は頷くと、続けて発言した。

 

「では、稼働時間の長さはどうでしょう? 現場の隊員にとって、パワードスーツがどれくらいの時間、活動出来るかは、死活問題だと思うのですが?」

 

「良いアイディアだね」

 

 主にパワーユニットの設計を担当している滑川雄太郎が言った。

 

「それなら、パワーアシスト機構と絡めた演出も可能だろうし」

 

 遼子化技術の導入によって、XI-02に搭載されているバッテリーは、従来の製品よりも大幅な小型化・大容量化が果たされている。加えて、XI-02のパワーアシスト機構は、新素材を使った人工筋肉により、XI-01よりもハイ・パワーだ。それなのに、稼働時間は延びているとなれば、見学団に対して、好印象を与えられるだろう。

 

 その後も、開発室の精鋭たちの唇からは、有用な意見が様々に口ずさまれた。

 

 桜坂はその一つ々々を丁寧に聞き取り、手元のノートにメモしていった。やがて、アイディアの数が二十個を超えたところで、ストップをかける。

 

「あまり数が多すぎても、見学プログラムにまとまりがなくなってしまう。アイディア出しはここらで終わりにして、次はこの中のうち、何を、どのように見せるかを考えましょう」

 

 XI-02の現状の完成度を踏まえた上で、先方が見たいと思う性能のうち、何を見せられるか。どういうふうに見せていくか。基本方針はXI-01との比較を見せることだが、最も効果的な見せ方は何か。比較をさせづらい性能については、データを示すことになるだろうが、その際に、工夫を凝らすことは出来ないか。

 

 もの作りを得意としながらも、マーチャンダイジングは苦手としている技術者たちは、しかし、かえってそれが自由な議論を生んだ。日が暮れる頃には、見学プログラムの骨子が出来上がり、あとは細かい肉付けをするのみ、というくらいまで進んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 IS学園でクラス対抗戦の第一回戦が繰り広げられている、まさにその頃。

 

 名古屋市名東区のアローズ製作所の本社ビルでは、桜坂が名古屋市消防局からの見学団十一名を出迎えていた。互いに自己紹介を終えると、彼は一行を、本社ビルの隣に建つ、球場ドーム型の試験場へと案内する。アローズ製作所自慢の全天候対応型の試験場ではすでに、改造プロフィアが待ち構えていた。

 

「細かいデータについて、口頭で長々と伝えるよりも、まずははじめに、パワードスーツの動いている姿を見てもらうのが効果的だろう、と思いましてね」

 

 一行を野球ドームでいう観客席の場所へと案内したグレイスーツの桜坂は、あらかじめその場で待機していた酒井にも手伝ってもらいながら、彼ら全員に一冊の小冊子を手渡した。XI-02の持つ機能や性能、将来の運用例についてまとめられた資料だ。早速、一同、揃って目を通し始める。その間に、桜坂は酒井の手からモバイルPCとヘッドセットを受け取った。端末を起動させ、モニタールームへと通信をつなげる。本日、モニタールームで指揮を執るのは滑川技師だ。

 

「滑川さん、こちらの声は届いていますか?」

 

『こちら滑川です。桜坂室長、感度は良好です』

 

「いま、見学団の皆さんを観客席にお連れしました。そろそろ始めましょう」

 

『了解です』

 

 ヘッドフォンから聞こえてきた声に頷くと、桜坂は消防局よりやって来た男たちの顔を見回した。

 

「では皆さん、そろそろ始めようかと思うのですが?」

 

「はい」

 

 名古屋市消防局総務部の青山課長が一同を代表して頷いた。

 

「よろしくお願いします」

 

「では……滑川さん、プロフィアの桐野さんに指示を」

 

『了解です』

 

 モニタールームの滑川から、プロフィアの運転席に座る桐野美久へと指示が下される。ウィング・タイプのコンテナの右側面部が、ゆっくりと開いていった。給電装置と接続された状態のXI-01とXI-02の姿が、吊り下げ式の全般照明の下、露わとなる。見学団は口々に、おおっ、と感嘆の溜め息を漏らした。その様子を満足げに眺めながら、桜坂は口を開く。

 

「七年前、千葉県市原市の消防隊に、スクラムフォースが配備されましたよね?」

 

 令和元年五月二四日、千葉県市原市消防局で、新たな特殊装備小隊が発足した。通称を、スクラムフォース。無人の消防ロボット四機を、指令システムを搭載した指揮車輌から操作し、消防活動にあたらせるという、まったく新しい消防システムの運用を任された部隊だ。

チーム結成の契機となったのは、平成二三年に起こった東日本大震災。このとき、市原市消防局の管内にある石油コンビナートで、LPG貯蔵施設が爆発炎上するという事案が起こった。ただちに消防隊が消火活動に赴いたが、あまりの放射熱のため、火点になかなか接近出来ないという事態と遭遇した。この教訓のもと、生身の人間では近づきづらい場所には、消防ロボットを送り込む、という研究がスタートした。

 

 完成した消防ロボット・システムは、それぞれ役割の異なる四機のロボットを、指令システムを積んだコンテナから操縦する、というものだった。コンテナを搬送するのは、いすゞ自動車の“ギガ”トラックで、勿論、ロボット・システムの運用に必要な改造を施されている。シングルキャブの後方に発動発電機を装備し、その後ろにコンテナを積載するという構造上、若干、オーバーハング気味になっているのが、外見上の特徴だ。

 

「あれを参考にしましてね。スクラムフォースのギガと同様、あのコンテナ内には、パワードスーツを運用するための装備全般が搭載されているのです」

 

 まずXI-01が、次いでXI-02が、ぶるり、と胴震いをした。給電装置との接続を絶ち、コンテナから地上へ、ゆっくりと移動する。スーツアクターは、XI-01がトムで、XI-02が土居だ。

 

 XI-02が地面に着地したとき、見学団の男たちは等しく目つきを鋭くした。以前、展示会で見たXI-01よりも、ずいぶん小型で、人型に近い、洗練されたフォルムをしている。はたして、あの小柄な見た目のスーツに、どれほどの性能が与えられているのか。

 

「この試験場は東京ドームに範をとって設計されています。みなさん、一塁のあたりをご覧ください」

 

 桜坂の声に従って、一同は目線をそちらに向けた。二台の自動車が、二メートルくらいの間隔を開けて駐車している。片方は、先の展示会でXI-01のパフォーマンスに使われた、八代目のアルトワークスだ。軽量化に命を懸けている、などと揶揄されるスズキの軽自動車の中でも、特に軽量な車で、車重は僅かに六七〇キログラムしかない。ボディ・カラーは赤。開発室所有の社用車だが、ベースマシンのアルトではなく、スポーティ・モデルのワークスなのは、設計主任が室長を、研究に必要なんだ、と口説き落とした結果だった。

 

 直線基調の顔つきがいかついもう一台は二代目プロボックス。トヨタ自動車が製造する商用車のベストセラーで、アローズ製作所本社ビルも、八台を所有している。白いボディの車体側面には、緑がかったペンキで、“アローズ製作所”と記されていた。

 

「まずは以前の展示会のときのおさらいです。あれを持ち上げる姿を見てもらいましょう」

 

 パワードスーツを装着した二人は、少し変わった形をしたバーベルのもとへと向かった。ずしん、ずしん、と地面を鳴らすXI-01のかなり前方を、軽快な足取りのXI-02が進んでいく。

 

「歩行速度にはだいぶ差があるな」

 

 そう呟いたのは、ハイパーレスキューNAGOYA第一方面隊から派遣された田神忠昌だった。一昨年、特別高度救助隊に配属されたばかりの二六歳。若さと勇敢さを併せ持つ俊才は、己があのパワードスーツを着たところを想像しながら、その挙動に目を光らせる。

 

「パワーアシスト機構には、新素材を使った人工筋肉を採用しているということだが、それだけで、あんなに差がつくものなのか?」

 

「良いところに気づきましたね」

 

 田神の呟きに、桜坂は完爾と微笑んだ。

 

「XI-02の開発にあたって、我々は特に、足回りの設計に力を注ぎました。なにしろ、XI-02の重量は、スーツだけでも九二キログラム。いまスーツを着ている土居さんは、身長一七八センチ、体重六四キログラムの美丈夫です。トータルの重量は一五六キログラム以上にもなります。これだけの体重による運動を支えねばなりません。

 

 単に人工筋肉の出力が優れている、というだけでは、パワードスーツは俊足を得られません。強力なパワーで地面を蹴った際にかかる衝撃を殺すショック・アブソーバー。一歩ごとに崩れる姿勢バランスを瞬時に調整するオート・バランサー。これらの装置が、XI-02に軽快かつ滑らかな足取りを提供しているのです」

 

 二人が、自動車のもとへと歩み寄った。まず、XI-01を纏ったトムが、プロボックスの前に立つ。ハインラインのSF小説から飛び出したかのような巨体がその場にしゃがみ込み、バンパーの部分を、両手で、むんず、と掴んだ。パワーアシスト機構の出力を最大に振り絞り、持ち上げようとする。車体の前半分が宙に浮き、次いで後ろ半分を浮かせようとするが、なかなか持ち上がらない。

 

「XI-01のパワーアシスト機構は、ベンチプレス八〇〇キログラムの膂力を誇ります。それに対し、プロボックスの車重は一トン・オーバー。勿論、時間さえかければ、一瞬、持ち上げることくらいは可能でしょうが、一分一秒を争う救助の現場で、そんな悠長なことは言っていられません」

 

 モニタールームの滑川から、やめ、と指示があったか、XI-01はプロボックスのリフトアップを諦めた。車体前半分をゆっくりと地面に下ろし、場所を、XI-02へ譲る。先輩スーツに比べれば、圧倒的にスリムなシルエットの強化服が、プロボックスの前に立った。

 

 土居は先ほどのトムと同様、その場でしゃがみ込んだ。バンパーを両手で掴むと、えいやっ、と持ち上げてみせる。観客席から、野太い歓声。XI-02は両腕と肩を使って、車重およそ一・二トンのプロボックスを垂直に立ててみせた。

 

「XI-02に使われている人工筋肉は、二トン重のベンチプレスを可能としています。プロボックス程度の重量であれば、あの状態のまま、ヒンズースクワットが出来ますよ」

 

 XI-01が、隣でアルトワークスを抱え上げた。持ち上げることこそ成功したが、こちらはそれだけでも苦しそうだ。ヒンズースクワットなどのパフォーマンスは、とてもじゃないが望めない。

 

「二塁側をご覧ください」

 

 一塁の位置から二塁へと続く道のりには、ひしゃげた鉄骨やコンクリート片、ガラスの破片や樹皮といった、大小様々、また形状様々な、瓦礫に見立てた障害物が、ところ狭しと散乱していた。震災の直後をイメージして作られた悪路が、実際の野球場よりも長大な、二十メートルほど続いている。コースの中程には高さ三十センチほどの瓦礫の山があり、ここで足を取られると、かなり危険と考えられた。

 

「重量物を抱えた状態で、あの悪路を何秒で走破できるか、タイムを計測してみましょう」

 

 まず、アルトワークスを抱えた状態のXI-01が挑んだ。全身の人工筋肉を悲鳴で軋ませながら、すり足気味の挙動で悪路に挑む。

 

 最初の一歩を踏み出してすぐ、つま先が、瓦礫に引っかかった。人工筋肉のパワーで強引に蹴り上げ、進もうとするも、なかなか速度が上がらない。それでもなんとか、十メートルを突き進み、最大の難所、高さ三十センチの山に辿り着いた。コンクリート片を蹴り除けながら右足を高く上げ、山の頂上を踏む。一トン近い荷重により、山が崩れ、足を取られた。たまらず、XI-01は尻餅をつく。衝撃でアルトワークスを取り落としそうになるも、慌てて両腕の人工筋肉を収縮させ、なんとか、その事故だけはこらえた。

 

「いまのは、パワードスーツの操縦に馴れている、うちの社員だからこそ、落とさなかったのです」

 

 悲鳴をあげた見学団の顔を、桜坂は見回した。

 

「装着者の訓練が不十分な場合、あの状況ではほぼ確実にアルトワークスを取り落とし、大きな事故を起こしていたでしょう」

 

 雪崩を起こした斜面に尻餅をつくトムは、車輌を抱えたままの状態では、立ち上がるのは困難と判断した。一旦、アルトワークスをゆっくりと下ろし、まずはパワードスーツを起立させることを優先する。それから、改めてアルトワークスを抱え上げ、コースの残り半分を進んだ。二十メートルを歩ききったのを見て、モニタールームの滑川たちが、ストップウォッチを止めた。

 

『室長、タイムは四三秒です』

 

「……四三秒だそうです」

 

 モニタールームからの声を、桜坂はそのまま伝えた。

 

「では、次にXI-02の動きをご覧ください」

 

 モニタールームから、ストップウォッチのボタンを押し込んだことを知らせる合図。プロボックスを垂直に持ったままの状態で、XI-02を身に纏った土居は地面を蹴った。

 

 一歩目から、観客席からは動揺の声が上がった。膝を高く掲げ、振り下ろす、まるで短距離走のような走法。たしかに、あの走り方なら速いだろうが、その分、足裏が接地した際の衝撃は、XI-01のすり足とは比べ物になるまい。それなのに、

 

「見ろ! すいすいと進んでいるぞ!」

 

 不安定な足場など、ものともしない。高性能なショック・アブソーバーとオート・バランサーの賜物だ。肩で抱えるプロボックスも、安定している。

 

 やがて、コース中腹の小山に差し掛かった。ハイパーレスキュー隊の田神の口から、ああっ、と悲鳴が迸る。

 

 XI-02はプロボックスを抱えたまま地面を勢いよく蹴ると、ぴょん、とジャンプして、山を乗り越えた。さすがに今回ばかりは、着地時に僅かに腰を沈めて衝撃を殺すのに時間をかけるも、ロス・タイムはコンマ数秒程度。プロボックスを取り落としそうになることもなく、平然と走行を再開する。二十メートルを走りきり、ストップウォッチのタイマーが止まった。

 

『タイムは六・九秒です!』

 

「六・九秒! ご覧いただけましたか!」

 

 仁王の顔の桜坂が、完爾と微笑んだ。

 

「一・二トンもの重量を抱え持った状態で、しかもあんな走法で、あの瓦礫の道を走りきるのに、七秒もかかっていないのです!」

 

「プロボックスを抱えた状態で、あの速さなら……」

 

 千種消防署の署長、四八歳の室井隆が呻いた。一・二トンもの重量を抱えた状態で、二十メートルの悪路を走破するのに要した時間が六・九秒ということは、時速十・四キロメートル。もし、プロボックスを持っていない、フリーハンドの状態であれば、どれほどの機動性を見せてくれるのか!?

 

「今回は、わが社の開発したパワーアシスト機構の性能も見てもらうために、こんな派手なパフォーマンスをしましたが……」

 

 桜坂は微笑した。

 

「以前、フリーハンドの状態で同様のテストを行った際には、XI-02は、一・五秒のタイムをたたき出してみせました。時速四八キロメートルの速さです」

 

「……ちょっと待ってください」

 

 声を荒げたのは田神忠昌だった。彼は手元の資料をめくりながら言う。

 

「この資料には、XI-01が、整地された水平な道で、最高速度が時速五十キロメートルとあります。XI-02は、悪路でそれに近い数字がたたき出せるということですか!?」

 

「その通りです」

 

「では、同様に、整地された水平な道では!?」

 

「最高、時速一〇四キロメートル!」

 

 桜坂は力強く応じてみせた。

 

「これが、我々の開発したパワードスーツです!」

 

 あえて芝居がかった所作で言い放った桜坂を前に、見学団は色めき立った。二トン重ものパワーを持ち、整地された道ならば時速一〇〇キロメートル・オーバーの速さで疾走出来る。圧倒的な性能だ。現在、国連が開発中だというEOSよりも優れているのではないか。

 

 そんな中、ひとりだけ渋い顔をしている男が挙手をした。

 

「一つ、よろしいでしょうか?」

 

 右手を掲げたのは、総務省職員の城山悟だった。今回の見学団には、消防庁の予算がよくよく考えてみれば不要な買い物に費やされるのではないか、という懸念から同行しているようだ。

 

「何でしょう、城山さん?」

 

「資料によれば、XI-01、02ともに、装甲には超々ジュラルミンが使われているということですが……」

 

 一九三六年に日本の住友金属工業が開発した、強靱なアルミニウム合金だ。第二次世界大戦の名機、ゼロ戦に採用されたことで有名な素材でもある。

 

「装甲材料にこれを採用したのはなぜでしょう?」

 

「軽量かつ強靱な金属素材と考えたからです」

 

 城山の質問に、桜坂は、さらり、と応じた。

 

「スーツの重量を少しでも軽くするためには、装甲には軽量な金属素材を使うべきと考えました。超々ジュラルミンは高い引っ張り強度と耐圧力性を持った素材で、また、比較的安価に調達が可能です。スーツの製造コストを抑える意味でも、これ以上の素材はない、と考えました」

 

「桜坂室長、皆さんは、アルミニウムが、熱に弱い金属だということはご存知ですか?」

 

「それは勿論、知っていますが……」

 

 桜坂は怪訝な顔をした。城山は重ねて言う。

 

「アルミニウムの融点は約六六〇度。超々ジュラルミンの場合、強度などの性能を維持出来るのは、一五〇度くらいまで、とされています。ところで、皆さんは火災の現場の温度が何度くらいになるのか、ご存知でしょうか?

 

「……いいえ」

 

 城山の言わんとすることを察して、桜坂は硬い表情でかぶりを振った。

 

「何が燃えているのかにもよりますが、建物が全焼するような火事の場合、温度は六〇〇~九〇〇度にもなります」

 

「そんなになるんですか!?」

 

 桜坂は隣に立つ酒井と顔を見合わせた。かなりの高温なんだろう、とは薄ら想像していたが、まさかそれほどとは……!

 

 驚く桜坂に、城山は言う。

 

「誤解しないでいただきたいのですが、私は何も、XI-02にケチをつけたいのではありません。実際、御社が開発したパワードスーツの性能は素晴らしい! ですが、それだけに、装甲素材の選定というただその一点、ただその一点だけに問題があるというのは、惜しいと思わずにいられないのです」

 

「……酒井さん」

 

 桜坂は、かたわらに立つ酒井の顔を見た。彼は開発室でいちばん素材に詳しいエキスパートだ。

 

「いま、城山さんから寄せられた意見を加味した上で、災害救助用パワードスーツの装甲に相応しい金属素材は、やはり、チタンでしょうか?」

 

「……そうですね」

 

 チーム最年長の酒井は、硬い表情で頷いた。

 

「アルミほどではないですが、チタンも軽金属の一種で、しかも、アルミよりも強度に優れています。化学的にも安定した性質を持ち、腐食などにも強い。融点も、一六六八度あります。……活性金属なので、あまりにも高い温度と高圧にさらされると、強度低下を起こしてしまいますが」

 

 チタニウムを主材料とするチタン合金は、もともと航空宇宙用に開発された。航空機の外板によく使われるジュラルミン合金は、先ほど城山が指摘した通り、熱に弱いという欠点がある。これが民間の旅客機などであればあまり問題にならないが、戦闘機のような超音速が求められる飛行機では、この弱点が浮き彫りになる。すなわち、音速を超えるような速度域では、空気との摩擦熱がものすごい高温となり、アルミ合金では耐熱性が不足してしまうのだ。たとえば、マッハ二・七の速度域では、機体表面の温度は二百度にも達し、アルミ合金だと急激に強度が劣化してしまう。

 

 その点、チタンならばその心配がいらない。そもそも融点が高い上に、熱伝導率の低い金属なので、熱くなりにくいのだ。金属疲労も起こりにくく、亀裂が生じても、それ以上拡大しにくい。航空宇宙用としては勿論、災害救助用パワードスーツの外板としても、理想的な金属素材といえた。

 

 ただし、欠点もある。アローズ製作所のような、営利団体では無視出来ない、とても重大な欠点が。

 

「ただし、チタンは高い」

 

「ええ」

 

「昔に比べれば、技術進歩によってだいぶ安く、生産出来るようになりましたが、それでも、アルミに比べればかなり高価な素材です。これを装甲板に使うということは、当然、製造原価が上がってしまいます」

 

「そうなんですよねえ」

 

 桜坂は重苦しい溜め息をついた。

 

「チタンを使うと、スーツ一着あたりの単価が、一千万円を超えかねない」

 

「……ちょっと待ってください」

 

 先ほど質問を口にした城山が、今度は震える声で言った。

 

「私の聞き間違いでしょうか? いま、チタンを使うと、一着あたりの単価が一千万円を超える、とおっしゃったように聞こえましたが……」

 

「……ええ、そうですよ」

 

 訝しげな顔で頷くと、城山は息を呑んだ。

 

 彼が何に対してそんなに驚いているのかが分からない桜坂は、ますます怪訝な表情を深める。

 

「ま、待ってください。あなた方は、あれほどの性能を持つパワードスーツを、一着いくらで売るつもりだったのですか!?」

 

「……我々の夢は、我々の作ったパワードスーツを世界中に普及させることです」

 

 城山に胡乱げな眼差しを向けながらも、桜坂はしっかりとした口調で応じた。

 

「とはいえ、我々も商売ですからね。普及のみを考えて安く売っては、たちまち破産してしまう。損益分岐点を考えると、一着あたり、八百万円ちょいくらいを理想と考えていましたが……」

 

 桜坂の発言に、城山のみならず、見学団の十一人全員が絶句した。

 

 あれほどの性能のパワードスーツが、プレミアムカーくらいの値段でしかないだと!?

 

 驚く一同の顔を見て、桜坂はしかめっ面になる。

 

「……やはり、高すぎますかね?」

 

 販売価格が高額すぎると、パワードスーツ普及の妨げになることを理解しながらも、自身の呈示した値段がすでに法外に安いと気づいていない桜坂は、溜め息をついた。

 

 ドームの屋根が外から、荷電粒子砲の一撃によって突き破られたのは、その直後のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




本作の主人公、鬼頭智之は大人です。

大人なので、十代の一夏たちとは友達にはなれませんし、彼の方から恋愛関係になりたいと思う可能性も低いです。

あくまでも大人として、子どもである彼らに接します。

だから、大人として彼らを守ろうとします。

子どもを傷つけるものに、彼は容赦なく牙を剥きます。




さて、次回はいよいよ主人公の初戦闘シーン。

さぁ、無人IS解体ショーの始まりや!







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Chapter22「冒険者」

BT攻撃端末《ブルー・ティアーズ》が、「機動戦士ガンダム」シリーズのビットやファンネルのオマージュなのは確定的に明らか。

本作の主人公は、BT適性の低い人間でも扱えるBTシステムの開発を研究している。

つまり、“コレ”が登場するのは、自然な成り行きなのである。




 

 

「引き算の発想が必要だ」

 

「引き算、ですか?」

 

 クラス代表対抗戦の三日前、窓から差し込む夕日がやたらと目に沁みるIS整備室で、鬼頭智之は唸り声とともに呟いた。

 

 機械系の学校らしく、いかにも頑丈そうな見た目をしている作業机にラップトップを置いて作業する彼のかたわらには、同じくモバイル・パソコンの画面とにらめっこをするセシリアの姿がある。父と慕う男の呟きに反応して顔を上げた彼女に、鬼頭はパソコンの画面を指で軽く叩きながら言った。

 

「思うに、イギリスの技術者たちはブルー・ティアーズに搭載されているBTシステムを、足し算的に構築していったと思うんだ」

 

「はあ」

 

「もともとBTシステムは、とあるIS操縦者が発現させた唯一仕様を、誰でも使えるように機械的に再現したものだと聞いている。偏向射撃を再現するために、まずBTエネルギーを開発し、その次に、流動性エネルギーの性質を活かせる攻撃端末を、その次に制御用のOSを、といった具合に、システムを造り込んでいったんだろう。

 

 問題は、そうやって足し算をするうちに、システムの最終的な構造がとんでもなく複雑化、そして多機能化しすぎてしまったことだよ」

 

 一般に機械というものは、複雑化、多機能化が進むほどに、信頼性は低下し、扱える人間が限られてくる。たとえば自転車は、練習さえすれば大抵の人間が乗りこなせるようになるだろうし、油をさしたり、走行中にはずれてしまったチェーンを直すなど、簡単な整備や修理だってこなせるだろう。しかし、これに原動機がついたらどうか。運転出来る人間は、途端に減ってしまうはずだ。整備についても、たとえば洗車などの日常的なものくらいは一般人でも可能だろうが、故障したエンジンの修理などは難しい。自動二輪ともなれば、扱える人間はさらに絞られてしまうだろう。

 

 鬼頭は現行のBTシステムについても、同じことが言える、と考えていた。

 

 特別な才能がなくとも、偏向射撃技術の恩恵を誰もが得られるように、と開発されたBT兵器が、その運用に際して、BT適性なんて特別な才能を必要としてしまうのは、まさにこの複雑化がもたらした結果だろう、と。

 

「足し算が操縦系の複雑化を招き、BT兵器を、扱いづらい武器にしてしまった。それなら今度は、引き算の発想でいくべきだと思うんだ」

 

 BTシステムを、今度こそ誰でも扱えるように再設計する。そのために必要な稼働データを集めるため、自分の打鉄にも、BTシステムを搭載する。

 

 鬼頭はラップトップ・パソコンのキーボードを軽快に打ち鳴らした。セシリアの位置からは見えないが、画面の中で、どんどんと新しいBTエネルギー制御用OSのプログラムが構築されていく。

 

「多機能化のあまり複雑化した現行のBTシステムから、不要と思われるものを取り除いていくんだ。そうやってシンプルな構造にしてしまえば、制御するOSも、簡素なものでよくなる。第二世代機の打鉄でも、十分、運用可能なシステムに仕上げられるはずだ」

 

「なるほど……。具体的には、どうするのですか?」

 

「まず、無人攻撃端末にテコ入れをしよう」

 

 鬼頭は右手の中指に嵌めた金色の指輪を、左手の人差し指で、トントン、と二回、軽く叩いた。待機状態の打鉄のISコアが反応し、マスターの求めに応じて、空間投影式ディスプレイを出力する。画面には、先のクラス代表決定戦のときに、その動きをじっくり観察させてもらった《ブルー・ティアーズ》六機の3Dモデルが表示されていた。一番機から四番機までがレーザー・タイプ、五番機と六番機がミサイル・タイプという陣容だ。

 

「最初に、攻撃手段をレーザー一本に絞る」

 

 呟きながら、ディスプレイと併せて出力した空間投影式のキーボードを叩いた。画面に表示されている六機のうち、五番機と六番機から、誘導弾の発射管が取り外され、代わりに、一番機から四番機までが装備するBTレーザー発振器が取り付けられた。BTエネルギーをレーザー光線に変換して発射する装置だ。

 

「あら? ミサイルは不要だと?」

 

「攻撃手段が二種類あるというのは、戦い方の幅が広がる、という意味では有用だとは思うがね。レーザーと、ミサイルとでは、武器としての特性が違いすぎるよ」

 

 基本的に真っ直ぐにしか飛んでいかないレーザービームと、ロックオンした相手に向かって縦横無尽に機動し追尾するミサイルとでは、攻撃を当てるために求められる技術が違いすぎる。その訓練は、レーザー・タイプを操るためのものと、ミサイル・タイプを使いこなすためのものを両方行った上で、さらにそれらを同時に運用するためのものを実施しなければならないだろう。鬼頭は二種類の武器の特性の違いが、《ブルー・ティアーズ》の操作を複雑にし、訓練の手間を増やしている、と考えていた。レーザー・タイプ一本に武器を絞れば、訓練内容を簡略化し、単位時間あたりの質を高められるはずだ。

 

「勿論、武装をレーザー・タイプのみに揃えてしまうと、対戦相手のISのレーザー対策が万全だった場合にどうするのか、という問題が生じてしまうが、それは後付け兵装でどうとでもなることだ」

 

 少なくとも、BT攻撃端末の武器が二種類でなければならない理由としては弱い、と考えられた。

 

「次に、以前にも言ったことだが、《ブルー・ティアーズ》の機数を二機に減らす」

 

 鬼頭がキーボードを叩くと、ディスプレイに映じる《ブルー・ティアーズ》の3Dモデルに、また変化が生じた。画面上の六機のうち四機の姿がたちまち消えていく。

 

「私のように、BT適性の低い人間は、これくらいが限界だろうからね」

 

 無人攻撃端末を六機同時に運用するなんて曲芸みたいなことは、BT適性に優れるセシリアだからこそ可能な芸当だ。そして、そのセシリアでさえ、BT攻撃端末を四機以上、同時に操作するためには極限の集中力を必要とし、その間はそれ以外の行動をとることが難しいという弱点を抱えている。

 

 鬼頭のBT適性は、セシリアと比べれば圧倒的に低い。そんな自分が操る打鉄に、BTシステムを搭載するとなれば、攻撃端末を減らすなどのデチューンは必須と考えられた。

 

「どんどんやっていこう」

 

 鬼頭の口調は軽やかだった。

 

「次は操作方式について手を加えたい」

 

「ということは、無線式から、有線式に?」

 

「そういうことだね」

 

 一般に有線式の通信装置と無線式の通信装置とでは、前者の方が通信強度に優れ、技術的なハードルも低いことから、製造コストや生産性の面でも有利とされる。これはBT兵装にもいえることで、現に《ブルー・ティアーズ》は、無線式を採用したことによって、自由度の高さや軽快な運動性といった強みを手に入れた反面、不安定な通信強度という問題を抱えることになってしまった。

 

 英国がBT兵装用に開発した専用のイメージ・インターフェースは、本来、微弱な生体電流に過ぎない脳波、思考波といった波動が持つミクロなエネルギーを増幅し、出力することによって、BT攻撃端末の無線操作を可能にした。実に素晴らしい技術ではあるが、出来上がった装置の稼働にはBT適性という特殊な才能が必要なうえ、攻撃端末の操作も難しいなど、洗練されているとは言いがたい代物だった。やはりこれも、打鉄への導入に際しては引き算……デチューンをしてやる必要があるだろう。

 

 鬼頭は右手一本で空間投影式のキーボードを操作した。ディスプレイに映じている3Dモデルの尾部に、直径二センチメートルのケーブルが取り付けられる。併せて、左手でラップトップ・パソコンのメカニカル・キーボードを叩いた。こちらの画面上では、攻撃端末を有線式とした場合、OSの造りをどこまで単純化出来るか、その試算を開始した。

 

「ケーブルの中に、イメージ・インターフェースの操縦索を仕込んでおくんだ。この操縦索は、BTシステム用に開発された特別な物ではなく、既存の規格品を使用する。その方が製造コストを抑えられるし、予備部品の調達も簡単だからね」

 

「……なにより、規格品の操縦索なら、BT適性の低い方でも、普通にISを動かすのと同じ感覚で、攻撃端末の操作が可能になるでしょうしね」

 

「そういうことだね。あとは、壊れた際の保守部品の調達が簡単だ」

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。ケーブルというリードを与えられた《ブルー・ティアーズ》の3Dモデルに、さらにパラメータを付け加える。

 

「ケーブルの長さは、まずは五十メートルから試作してみようと思う」

 

 一般的なISアリーナの大きさは直径がおよそ二〇〇メートル。五十メートルの長さでも、かなりの範囲をカヴァー出来ると考えられるが、実際に動かしてみなければ、使い心地は分からない。五十メートルの長さでは不足を感じたり、逆に長すぎて持て余してしまう場合も考えられる。ケーブルの長さについては、その都度、調整していくつもりだった。

 

「有線式ですと、この大きさや形状にこだわる必要もなくなりますわね」

 

 有線式を採用することによって得られるメリットは、操作系の単純化というだけにとどまらない。

 

 真っ先に挙げるべきは、BT攻撃端末を現行の物よりもずっと小型に仕上げられる、ということだろう。

 

 BT攻撃端末《ブルー・ティアーズ》は、はっきり言って大きい。ミサイル・タイプの全長はおよそ一・三メートル、長大なレーザー発振器を装備するレーザー・タイプにいたっては、二・二メートルもある。横幅はそれぞれいちばん長いところで一四〇センチと、五五センチメートルほど。ともにIS本体と比べても、かなりの大きさと評せるだろう。

 

 BT攻撃端末が大きいということは、無線式によって得られた運動性の高さというせっかくの強みが活かしにくい、ということを意味する。事実、先のクラス代表決定戦において初心者の陽子は《ブルー・ティアーズ》をかなりの数を撃墜していた。ISの高度な射撃管制システムにとって、大きい、ということは、的にしかならない、ということなのだ。

 

 なぜ、《ブルー・ティアーズ》は斯様に大型の装置として完成したのか。

 

 最大の原因は、無線方式を採用してしまったことに由来する、二つの理由が挙げられる。

 

 一つは、無線操縦用の通信装置が大型化してしまったことだ。ISは超音速域での空戦機動を当たり前のようにこなす驚異の飛行パワードスーツ。当然、これを追いかけるBT攻撃端末にも、最低でもこれに匹敵する機動性と運動性が求められる。超音速の速さで激しく動き回る《ブルー・ティアーズ》に対し確実に、そして遅滞なく思考波を送り届けるための装置は、結果としてかなり大がかりな物になってしまった。必然、これを収める筐体も大型化してしまった、というわけだ。

 

 二つ目の理由は、BTエネルギーをプールするためのタンクにあった。BT攻撃端末《ブルー・ティアーズ》の動力源は、IS本体から供給されるBTエネルギーだ。BT攻撃端末の内部にはエネルギー・タンクが収められており、IS本体と接続している間に流動性エネルギーを充填、切り離した後はそれを消費して空中を運動したり、ビームを撃ったりする、という仕組みだった。

 

 英国の技術者たちは、本体から切り離された後もある程度の稼働時間を確保出来なければ、と《ブルー・ティアーズ》のために大容量のエネルギー・タンクをこしらえた。この大きなタンクの存在が、装置全体の大型化をも招いてしまったのである。

 

 大型の通信装置と、大型のエネルギー・タンクを収容した《ブルー・ティアーズ》の大きなボディを浮かせるために、英国の技術者たちは強力なPICをその筐体に積み込んだ。強力……すなわち、大型の装置だ。ここにさらに武装を積んだ結果、《ブルー・ティアーズ》はこれほどの大きさになってしまったのだった。無線方式にこだわった結果だった。

 

「ですが、有線式ならそれらの問題を解決することが出来ます」

 

 通信装置については、思考波はケーブル内の操縦索を伝って直接届けられるため、攻撃端末側には、断線時などの非常事態用の最低限の大きさの物が搭載されていればよい。

 

 エネルギー・タンクの問題については、ケーブル内に操縦索と併せて、BTエネルギー供給用の特殊バイパスも通してやれば解決する。本体から常にBTエネルギーが供給されているため、これまたタンクは非常用の小さな物ですむ。また、供給バイパスを通すことによって、レーザーの出力向上も期待出来た。

 

「私個人といたしては、いまの《ブルー・ティアーズ》のデザインは好みなのですが、実用面を考えると、いささか不都合な点の多い形状だと思うのです」

 

「そうだね」

 

 セシリアの意見に、鬼頭も首肯した。

 

「大きさや形状は、いっそ大胆に簡略化してしまおう」

 

 存外、その方がスタイリッシュになるかもしれないぞ。諧謔めいた口調で呟きながら、3Dモデルをいじった。粘土細工をこね回すように3Dポリゴンが崩れ、変形し、新たな姿へと再構築される。生まれ変わった《ブルー・ティアーズ》たちの姿を見て、セシリアは、眉をひそめた。

 

「……よく言えばスタイリッシュ。悪く言えば、あまり面白味のないデザインですわね」

 

「《ブルー・ティアーズ》のデザインがとがりすぎなだけだと思うんだがね」

 

 鬼頭は思わず苦笑した。

 

「ただ、実用上は問題ないはずだ。むしろ、私の計算ではこれが最適解のはずだ」

 

「……この見た目では、もう、《ブルー・ティアーズ》とは呼べませんわね」

 

 セシリアは小さく溜め息をついた。

 

「私、お父様が無事にBT兵装を開発されたときには、《ブルー・ティアーズⅡ》とか、そんな感じの名前で、登録してもらうつもりでしたのよ?」

 

 IS用の兵装は原則として、ISバトルのレギュレーションに適合しているかどうかのテストをクリアした後、ISコア・ネットワークに登録する義務がある。その際の登録名は、開発者の権利として、ある程度自由に決めてよいことになっていた。

 

「私が《ブルー・ティアーズ》を、お父様が《ブルー・ティアーズⅡ》を使って連携することが、ひそかな夢でしたのに……!」

 

「そいつはすまないことをしたな……」

 

 鬼頭は苦笑した。切れ長の双眸に優しい輝きをたたえながら、セシリアの顔と、空間投影ディスプレイ、そしてラップトップ・パソコンの画面を交互に見回す。

 

「しかし、登録名か。……しまったな。どんな名前にしようか、すっかり失念していた。どんな名前がいいだろうか?」

 

「以前の《トール》は、どのようにして決めたのですか?」

 

「日本の自動車会社で、ダイハツというメーカーがある。そこが製造している、トールという車から取ったんだ」

 

 鬼頭はTHOR と、アルファベットを空間投影ディスプレイに表示してみせた。

 

「日本人はこれで、トールと発音するが、英語圏でこれは、ソー、と発音する」

 

「ソー……北欧の、雷の神の名前ですわね」

 

 北欧神話に登場する主要な神の一柱だ。北欧神話では、神々と敵対する巨人たちとの戦いで勇戦した戦の神としてのイメージが強いが、雷神や農耕神としての顔も持っている。

 

「ダブル・ネーミングってやつさ。北欧の神ソーは、雷を自在に操る金槌を持っている。レーザー・ピストル《トール》は、二・六メガワットのレーザー光線を発射する。なんとなく、似ているだろう?」

 

「なるほど……では、今度も車の名前から、取ってみてはどうですか?」

 

「ふむ……」

 

 鬼頭は顎先を撫でながらしばし黙考した。やがて良いアイディアが浮かんだか、ぱっ、と表情を綻ばせる。

 

「そうだな。この新しいBT攻撃端末には、《ミニ・ティアーズ》と、名づけよう」

 

「《ミニ》……BMWですか?」

 

「そうだけど、そうじゃない」

 

 鬼頭はやんわりとかぶりを振った。

 

 いまでこそミニはドイツのBMWのブランドだが、もとはイギリスのブリティッシュ・モーター・コーポレーション……後のMGローバーが製造する車だった。一九九四年に当時のローバー・グループが、BMWに身売りをした際、その販売権を譲り渡したのだ。BMWは二〇〇〇年にローバーを売却した後も、すでにプレミアム・ブランドとしての地位を確立していたミニだけは手放さず、現在もイギリスデザインのドイツ車として世界中で販売をしている。わが国においても、唯一無二のデザイン性から人気は高く、クーパーやクラブマンといった車種が販売されている。

 

「いまでこそプレミアムスモールカーの印象が強いブランドだが、かつてのミニは、イギリスの大衆文化の象徴だった。国民車だったんだ」

 

 アメリカにはT型フォードがあった。ドイツにはビートルが。フランスにはシトロエン2CVが。イタリアではフィアット500があのハイヒールのような形の国土を我が物顔で駆け回り、日本ではカローラがその地位を得ていた。そしてイギリスには、ミニがあった。安くて、シンプルで、小型だけど中は広々としていて、手軽で、扱いやすく、そして身近な、イギリス人の相棒だった。

 

「私はね、セシリア。ミニという車のことを、いまでもイギリスの車だと思っているんだ。そして私の作ったこの有線式BT攻撃端末を、きみたちイギリス人が、ミニのように扱ってくれることを望んでいるんだよ」

 

 相棒のように扱ってほしい、と思う。押し入れの奥の方に大切にしまっておくのではなく、がしがし使ってほしい。多少、荒っぽい扱いだったとしても構わない。使う度に汚れ、傷つき、すり減らし、ぼろぼろになった姿を見せてほしい。技術者として、心からそう思う。

 

 だからこそ、イギリス人にとって最も身近な車の名前をつけようと思った。イギリス国のすべてのIS操縦者たちが、この有線式BT攻撃端末を使って、使って、使い潰す光景を見たい、と思った。

 

「それは……素敵なお考えですわね」

 

 完爾と微笑む鬼頭に、セシリアも可憐に微笑んでみせた。

 

「では、攻撃端末についてはそれでいいとして……」

 

「うん」

 

「OSの方の名前は、どういたしましょう?」

 

 アラスカ条約の規定では、そちらについても登録名を決めねばならないことになっている。運用協定の最重要条項の一つである、IS技術の情報開示と共有をする上で、登録名の設定がないと何かと不便だからだ。

 

「これも、車の名前にしますか?」

 

「そうだね」

 

 鬼頭は頷いた。《ミニ》の名づけの際に同時に考えていたらしく、間髪入れずに言う。

 

「《オデッセイ》というのはどうだろう?」

 

「オデッセイ……どこの車ですか?」

 

「ホンダのミニバンだよ」

 

 ホンダの現行ラインナップの中では、上級ミニバンに分類される車だ。パワーユニットは、二・四リッターの直四エンジンと、二リッター+モーターのハイブリッド車が用意されている。前者は実用域でのトルクに厚みがあり、多人数の乗車でも余裕たっぷり。後者はホンダ車らしい、上質な走りを味わうことが出来る。

 

「きみたちアングロ・サクソンにぴったりの名前だと思わないかい?」

 

 《オデッセイ》の名前は、勿論、冒険を意味する英単語Odysseyに由来する。

 

 一般に冒険心にあふれるとされるイギリス人に相応しい名前と考えて、鬼頭はその名を選んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter22「冒険者」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 BTシステム管制用OS《オデッセイ》。

 

 このOSを設計するにあたって、鬼頭は、かつて桜坂と二人でさんざん頭を悩ませながら作った介護ベッドの構造を採り入れた。すなわち、BTシステムの機能の一部を制限する、四段階のリミッターを設定したのだ。

 

 二人が新入社員の頃に作った介護ベッドは、いまでこそアローズ製作所介護事業部の定番商品の一つになっているが、開発当初は高性能がすぎて、かえって扱いづらい、と不評を買っていた。たとえば、二人がデザインしたベッドのいちばんの目玉は、寝たきりの状態でも、ユーザーの詳細な生体情報を迅速に診断出来るバイタル・チェック・ロボットを搭載していたことだが、診断項目が細かすぎて、一般人の知識では活かすことが出来ない、といったクレームだ。

 

 そこで彼らは、ベッドのシステムを管制するコントロール・ロボットにリミッターを追加した。一般顧客向け、介護職向け、医療従事者向けといった具合に、ユーザーごとの知識や技術に応じて、あえて機能を制限したモードを設定することで、利便性の向上を図ったのだ。二人のねらいは見事にはまり、寝心地の良さや、リクライニング用モーターのパワフルかつ静かな動きなども評価されて、介護ベッドは急速に売上を伸ばしていった。

 

 ――BTシステムも同じだ。俺はただでさえBT適性が低い上、ISの稼働時間も短い。いくらデチューンを重ねて使い勝手を向上させたとっても、そんな男が、はじめからBTシステムの性能を十全に引き出せるわけがない。

 

 不慣れなうちは機能を制限し、習熟とともに、段階的にリミッターの封印を解いていく。

 

 この考えのもと、彼は《オデッセイ》をデザインし、プログラムを組み上げていった。

 

 

 

 先述の通り、鬼頭が《オデッセイ》に設定したリミッターの数は全部で四つ。フル・リミッター状態をレベル1とし、一つ解除するごとにレベル2、レベル3といったふうに、数字が上がっていく仕組みだ。これは車好きの鬼頭ならではの発想で、勿論、自動車の変速比の数え方に由来している。

 

 突如としてアリーナ内に現われた謎のISを前にした鬼頭は、いまのままの打鉄では太刀打ち出来ぬ、と、機体を制御するOSを、《オデッセイ》へと切り替えることを決意した。

 

 現在、彼の打鉄には、通常の機体制御用OSと、BTシステム用OSの二基が積まれており、後者の方は普段、眠らせている状態だ。《オデッセイ》が《ミニ》とともに完成したのは昨夕のことであり、当然、試運転はまだ終えていない。しかし、昨晩、一夏の白式の整備に取りかかる前に行ったコンピュータ・シミュレーションの通りのパフォーマンスを、実戦でも発揮してくれたなら、この恐るべき敵ISとも、互角以上に戦えるはずだった。

 

「BT・OS《オデッセイ》、レベル1、アクティブ!」

 

 音声入力式のコマンドをもって、封印状態にある冒険心を揺さぶり起こした。BTシステムの運用を前提に最適化された、新たなOSプログラムが起ち上がり、それまで機体の制御を担当していたOSと、バトンリレーを開始する。

 

 起ち上がり直後のモードは、当然、フル・リミッター状態のレベル1。BT攻撃端末の運用こそ出来ないが、流動性エネルギーの基本的な取り扱いを可能とするモードだ。OSの切り替えが完了すると、鬼頭は、手ずからこしらえた管制ソフトウェアに、最初の命令コマンドを入力する。

 

 ――BTエネルギーを、解放しろ。

 

 胴鎧の背面に増設された、三連の箱型モジュール。そのうち真ん中に設置したエナジー・タンクから、昨晩のうちに充填しておいたBTエネルギーを解放する。このときのために、とあらかじめ増設しておいたエネルギー供給用バイパスを通って、流動性エネルギーが打鉄の全身、隅々にまで行き渡っていった。急なエネルギーの上昇から、灰色の装甲が光り輝く。

 

 繰り返しになるが、《オデッセイ》はBTシステムを運用するために最適化された代物だ。BT攻撃端末だけでなく、IS本体の駆動系にも流動性エネルギーを伝達させることで、操縦応答性を飛躍的に高めることが出来るはずだった。

 

 やがて、発光現象がおさまっていった。

 

 BTエネルギーを解放したことで、機体に異常が生じていないか、機体情報を速やかにチェックする。思わず、おっ、と声を上がった。

 

 ――これは、予想外の結果だな。

 

 BTエネルギーが全身に満ち満ちたことによる副反応か、薄墨色に近かった機体色が白みを増して、シルバーグレイへと変わっていた。機体各所に施されているストライプの色も、すみれ色へと変色している。これはいったい……? 検めた限りでは、性能に影響を及ぼす現象ではないようだが。

 

 ――……まあ、いいさ。

 

 いまは、機体色の変化に気を取られている場合ではない。

 

 小さくかぶりを振って意識を改めた鬼頭は、地上から荷電粒子砲の砲口をこちらに向けている謎のISを鋭く睨んだ。

 

 コンディション・チェックの結果によれば、機体の異常は、見た目の変化以外には見当たらない。BT・OS《オデッセイ》も、正常に稼働してくれている。これならば。この、打鉄ならば、きっと……!

 

 鬼頭は好戦的に微笑んだ。闘争心から炯々と輝く眼光で相手を見下ろしながら、声高に言い放つ。

 

「さあ、オジサンと遊んでおくれ」

 

 言い終えるや、打鉄のハイパーセンサーが、敵ISの右腕内部で異様な高熱が発生するのを捉えた。荷電粒子砲発射の前兆サイン。鬼頭は反射的に、機体を左へと傾けようとして、

 

「う、おおおっ!?」

 

 次の瞬間、アリーナの壁が目前まで迫っていた。慌てて急制動をかけ、激突の寸前で空中に待機制止。突然の視界変転に戸惑う心臓をなだめすかしながら、敵ISの姿を探す。見つけて、唖然とした。先ほどまでは高低差を含めて三十メートルほどの距離を隔てていたはずの敵ISが、はるか百メートルの彼方にいる。荷電粒子砲の閃光が、たったいましがたまで身を置いていた空間を、鋭く焼き払っていった。

 

 視覚情報から判断するに、敵ISが移動したとは考えにくい。自分の方が、荷電粒子砲が発射されるまでの刹那のうちに、七十メートルの距離を移動したのだ。

 

 ――……すごいな。

 

 我ながら、良い仕事が出来た、と感動を禁じえない。

 

 BT・OS《オデッセイ》。左方向に向けて、こう回避運動をとる、と、動作のイメージがしっかりかたまらないうちから、自分の潜在思考を読み取って、BTエネルギーによる運動制御を即座に開始していた。いちいち命令コマンドを入力せずとも、操縦者の危機意識の高まりだけで、機体を反応させてくれたのだ。

 

 流動性エネルギーは鬼頭の意思を精確に、そして素早く、機体各部に伝導してくれた。従前の打鉄では考えがたい、素晴らしい反応速度だ。それでいて、操縦者自身が戸惑いを感じてしまうほど突然だった回避運動にも拘わらず、機体へのストレスはほとんど検知されない。OSによるコントロールが完璧だった証左だ。

 

 性能向上著しいのは、機体のレスポンス・タイムだけではない。操縦者のイメージに敏感に反応する特性を持つBTエネルギーと、専用OSの組み合わせは、機体からパワーを引き出しやすくしていた。自動車に例えれば、エンジンの馬力そのものには手を加えていないが、ギアの変速比の設定をいじることで、必要なときに、必要なだけの加速力を引き出しやすくするイメージだ。あの一瞬で七十メートルもの距離を詰める猛加速を得られたのも、その賜物だった。

 

 ――第二世代機の打鉄で、この反応速度に、このパワー……。

 

 いま自分のやったことを、機械の性能に頼らず、操縦者の技量のみをもって再現しようと思ったら、パイロットには相当な経験値が求められるだろう。IS操縦者の世界では、一般に操縦時間がものを言う。その考え方に当てはめれば、最低でも二〇〇時間程度の経験が必要なのではないか。BT・OSは、操縦者としては素人同然の自分を、たちまち経験豊富なベテラン・パイロットに変えてしまったのだ。

 

 ――……いける。これなら、いける!

 

 標的の姿が突如として視界から消えたことで戸惑いを隠せないのは、敵ISも同じだった。

 

 鬼頭と同様、きょろきょろ、と辺りを見回して、ようやく銀色に輝く打鉄の姿を認めた相手は、今度は両の掌をこちらに向けてきた。下腕内部の粒子加速器で、百万ボルトの電流がスパーク! 打鉄のハイパーセンサーが、またも荷電粒子砲発射のサインを捉えた。

 

 強力な火器を積んでいる敵に対し、こちらの保有する火力は、イコライザのアサルト・ライフルが予備を含めて二挺と、いまは封印状態のBT攻撃端末が二基のみ。必要以上に距離をとるのはかえって危険だ、と判断した鬼頭は、地上の敵に向かって、突進することにした。スカートアーマー背面のロケット・モーターに、意思の力を託されたBTエネルギーが流入する。いきなりのフル・パワー。弾かれるような加速で、敵ISに向かって真っ直ぐ、流星のように突っ込んでいった。

 

 敵ISが荷電粒子砲を二発、連続してぶっ放した。

 

 鬼頭は左に、右にと、機体を連続して傾けることで、熱線による迎撃を回避した。

 

 お返しだ、と、五一口径アサルト・ライフル《焔備》を、拡張領域から引っ張り出し、接近しながら銃撃を叩き込む。ISバトルという超高速の戦いに対応するため、一分間におよそ一千発の発射速度を与えられた機関部が、ロボットアームの掌の中で激しく振動した。重機関銃弾の嵐が敵ISの電磁バリアーを殴打し、再チャージを企てる相手の動きを遅速させる。

 

 そのために生じた一瞬の隙を、鬼頭は勿論、見逃さない。間合いを一気に詰めると、左側方をすり抜けた。相手の背後に回り込み、地上に着地。振り返るや、僅か二間半先の敵の背中へと銃弾をお見舞いしてやった。すかさずシールドバリアーが発動し、攻撃のショックを受け止める。鬼頭の薄い唇から、小さな舌打ちが漏れた。

 

 ――この近距離から叩き込んでも、本体にダメージはないか!

 

 やはり、ISのシールドバリアーの技術は素晴らしい。五十口径オーバーという、人体に炸裂すればたちまち挽肉に変えてしまうほどの威力を持った銃弾を、至近距離から撃たれたにも拘らず、運動エネルギーを完璧にブロックしている。

 

 敵ISが、後ろを振り返った。PICとパワーアシスト機能を上手く連動させた滑らかな動作ではなく、全身の姿勢制御スラスターを噴かせての強引な回転運動。いかにも鈍重そうな見た目の通り、運動性はあまり高くないらしい。

 

 鬼頭の姿を再び正面にとらえた敵ISは、四・五メートル先の敵に向かって突進した。

 

 自身の身の丈ほどもある長大な両腕を振り回し、前進の勢いをも上乗せした強烈な打撃を放ってくる。

 

 BT・OSの補助を得ている鬼頭は、連続で襲いくる打ち下ろしを、上体のみを傾ける最小限の動きで回避。地面を蹴って宙へと飛び出すと、相手の頭上を飛び越えながら、腰だめに構えた《焔備》を発射した。雷鳴のような銃声が、敵ISの頭蓋へと降り注ぐ。またしてもシールドバリアーが発動し、これを防いだ。

 

 ――アリーナの遮断シールドを突き破るほどの火力を持った相手だ。長期戦になれば、こちらが不利……!

 

 シールドエネルギーをちまちまと削り取る戦法は、相性が悪い。一気に畳みかけなければ、長引かせた時間の分だけ、こちらの被弾リスクが高まってしまう。

 

 そのまま空中で身を翻し、さらなる上空へと逃れた鬼頭は、網膜投影されたステータス・ウィンドウに、一瞬だけ意識を傾けた。BT・OS《オデッセイ》のレベル1は、正常に稼働している。よし、と頷き、彼はOSに追加の音声コマンドを入力した。

 

「第一リミッターを解除。モード・レベル2に、シフトアップ!」

 

 OSを切り替えたときのような、見た目の劇的な変化はなかった。

 

 その代わり、内部では驚くべき速さで、情報の更新が行われていった。

 

 異形のISが、地面を蹴って飛び立った。

 

 逃げる打鉄の背中を追いかけながら、両腕の荷電粒子砲を繰り返し発射した。電圧の充填に時間をかけない、初速や威力と引き換えに、発射速度を高めたビームの連続発射だ。ノー・ロック射撃は苦手なのか、鬼頭の耳膜を、ロック・オン・アラートの悲鳴がひっきりなしに殴打した。

 

 警報装置を切りたい欲求と格闘しながら、鬼頭は脅威の火線を避けつつ、背中に意識を傾けた。ブレスト・アーマー背面に並んだ三連の箱型モジュールのうち、両端の二つが、ぱかっ、と、くの字に開いた。

 

 姿を現したのは、直径三十センチメートルほどの円盤だった。厚みがあり、傍目には巨大な缶詰のようにも見える。

 

 ――行けッ、《ミニ・ティアーズ!》

 

 念を篭めると、箱の中から、二基の円盤が勢いよく飛び出していった。ケーブルの尾を引きながら、鬼頭の背後に位置取る敵ISの、さらに後ろへと回り込む。未知の装備に戸惑う敵の様子を嘲笑いながら、鬼頭は静かに、「やれ」と、呟いた。ケーブル内に仕込まれた特殊バイパスを通って供給されたBTエネルギーが、円盤内部の発振器でレーザー光線へと変換され、直径十四ミリの銃口より発射された。白銀に輝く一・八メガワットの光の矢が、異形のISの背中に襲いかかる。

 

 突然の攻撃に、敵ISは回避も、防御も間に合わない。二条のレーザー光線はシールドバリアーをいとも容易く貫通し、その背中を突き刺した。荷電粒子砲のような“面”ではなく、“点”にエネルギーを集中させた攻撃だ。

 

 戦闘が始まって以来のまともなダメージに、敵ISの巨躯が動揺した。BTレーザー光線によって姿勢制御スラスターの一基を破壊されたことで、それまでは安定していた飛行姿勢が、僅かに乱れた。

 

 この好機を逃しはしない、と鬼頭は、くるり、と身を翻し、反転した。《焔備》で牽制射を叩き込みながら、念の力をもってBT攻撃端末のケーブルをたぐり寄せる。牽制射撃により動きの鈍ったところを、左右からレーザー光線で挟み撃った。射撃は狙い通りの箇所を穿ち、相手の右肩と、左腰で火花が散った。ともに姿勢制御スラスターの噴出口が設けられている場所だ。自分の作った武器が有効打を与える光景に、鬼頭は内心快哉を叫んだ。

 

 ことここに至って、敵ISも、自分にまとわりつく円盤が、どういう性能を持った武器か理解したらしい。まずはこの目障りな武器どもを潰してやる、と相手は足を止め、荷電粒子砲の砲口を、鬼頭から《ミニ・ティアーズ》たちへと向けた。

 

 しかし、《ミニ・ティアーズ》は小さい。加えて、BT・OSの制御により、その動きは機敏だ。敵ISの頭部センサーより発射された不可視の照準用ビームは、そのことごとくが、するり、とかわされ、ロック・オンの定まらぬ敵ISは、砲口を、まごまご、と揺らすばかりで、粒子ビームを発射することが出来ず、困っていた。当然、鬼頭がそんな隙を見逃すはずもなく、二基の《ミニ・ティアーズ》の銃撃は、敵ISの総身を容赦なく撃ち貫いた。姿勢制御用スラスターを一つ々々、丁寧に潰していく。

 

 BT攻撃端末への対処に苦慮する敵ISの姿を眺めながら、鬼頭は、

 

 ――やはり……。

 

と、一夏たちと戦っていたときから薄らと感じていた疑念について、確信を深めていた。

 

 プライベート・チャネルの回線を、Aピットルームへとつなげる。

 

『織斑先生』

 

『鬼頭さん、どうしました?』

 

『アリーナの観測機器は、あのISに向けられておりますでしょうか?』

 

『勿論です』

 

 戦闘中ということを意識してか、ピットルームの千冬からの返答は短かった。

 

『いまもあのISについての情報を取得中です』

 

『なら、一つおうかがいしたい』

 

『なんでしょう?』

 

『あのISから、生体反応は検知出来ているでしょうか?』

 

『……鬼頭さんも、お気づきでしたか』

 

『では、やはり』

 

『はい』

 

 通信回線の向こう側で、千冬が頷いたのが分かった。

 

『あのISは、無人機です』

 

 このままでは埒が明かぬ、と判断したか、敵ISはターゲットを変えてきた。BT攻撃端末そのものではなく、端末とIS本体とをつなぐケーブルを狙って突っ込んでいく。最も手近な位置に浮かぶ、右手側のケーブルに向かって、二メートルになんなんとする豪腕を振りかぶりながら襲いかかる姿はなんとも勇ましげだが、むしろ鬼頭は、そんな彼女に対し、侮蔑の感情を孕んだ眼差しを叩きつけた。

 

 ――短絡的すぎるぞ。

 

 《ミニ・ティアーズ》に限らず、有線方式の誘導兵器の最大の弱点が、ケーブルの寸断だ。中の操縦索を切断することで無力化を図る、という作戦それ自体は悪くない。

 

 しかし、ケーブルが弱点というのはこちらも重々承知のこと。当然、対策は講じてあるし、向こうとしても、こちらの対応策について十分な警戒を払いつつ、いかにしてケーブルを寸断可能な状況に持ち込むか、というような、高度な心理戦に打ち勝つことが、作戦成功の鍵となるはずなのに。あんな単純な、目についた標的に向かって、とりあえず向かっていく、というような戦術では。

 

「誘われたものとも知らずに!」

 

 《ミニ・ティアーズ》を機動させる際、ケーブルの動きにわざと隙を作って、相手の攻撃をそちらに誘導する。敵の未来位置をこちらでコントロール出来るため、あとはその位置に向けて、ありったけの火力を叩き込めばよい。

 

 鬼頭は拡張領域から予備の《焔備》を展開した。二挺の突撃銃を左右の手に持ち、銃床を脇でしっかりと挟んで固定した射撃姿勢で、敵ISを迎え撃った。銃口から叩き出された十二・八ミリ弾が、嘶きとともに異形のISの身に殺到する。二挺の突撃銃がばらまく猛烈な火線を浴びせられ、たまらず、動きの止まった背中を、今度は回り込んだ《ミニ・ティアーズ》が襲った。発射されたレーザー光線は、シールドバリアーを貫通して、背面部の構造物を次々に焼き払っていった。そのうち、PICの制御に関わるユニットを破壊したか、がくん、という動揺の直後、敵ISは、ゆるゆる、と高度を下げていった。

 

 ――こんな単純な罠に引っかかるなんて……やはり、所詮は機械人形ということか。

 

 一夏たちとの戦いぶりを観察していたときから、薄々、そうではないか、と感じていた。

 

 実際に戦ってみて、おそらくそうだろう、と確信を抱いた。

 

 その上で、千冬から観測的事実に基づく判断を聞かされた。

 

 やはりそうだった。信じがたいことだが、あのISには、人間が搭乗していない。

 

『……はじめて知りましたよ』

 

 地上に着地した敵ISに銃撃を浴びせながら、鬼頭は、小さく溜め息をついた。反撃の荷電粒子砲を避けつつ、硬い声音で言う。

 

『ISコアは、人間の接触がなくとも起動するのですね』

 

 鬼頭がこの学園で学んだ知識によれば、ISの中枢装置であるISコアの起動と稼働には、人間の感情が不可欠なのだという。なんでも、ISコアにも哲学的概念としての意識のようなものがあり、操縦者の意識とのシンクロが重要なのだとか。そしてこのことは同時に、ISという兵器の無人機化は不可能である、ということも意味している。

 

『……普通は、ありえないことです』

 

 だからなのか、ピットルームの千冬の声は、どこか呆れた様子だった。

 

『ですが、現実の問題として、いま、我々の目の前に、それはいます』

 

『世界初の無人機のISですか。……こんなときに口にする言葉としては、不謹慎かもしれませんが』

 

『はい』

 

『どんな技術が使われているのか、ぜひとも、分解して調べたいところですね』

 

『……そのためには、まず、あれを無力化し、捕縛しなければなりません』

 

 楽しげに呟いた鬼頭に、千冬はまた、呆れた口調で言った。

 

 いかんいかん、とかぶりを振って、鬼頭は頬の筋肉を引き締める。

 

『では、そうするようにしましょう』

 

『……出来るのですか?』

 

『相手が無人機ならば。有人機と違って、思いきった作戦がとれますから』

 

『プランをおうかがいしても?』

 

『奴の武器を潰します』

 

 鬼頭の見たところ、敵の武器はあの長大な二本の腕に集中している。打鉄の物理シールドをたった一発で破壊しつくすほどの威力を誇る荷電粒子砲。全長二メートルという、リーチが長く、鞭のように振り回すことで重く、鋭い打撃をお見舞いしてくる豪腕。これらは恐るべき武器だが、裏返せば、腕さえ潰せば、脅威の戦闘力を半減させられることを意味するはずだ。

 

 鬼頭は二基の《ミニ・ティアーズ》に念を送った。見えない手の力でケーブルをたぐり寄せ、背中に設けた特等席へと着座させる。

 

『鬼頭さん?』

 

 ピットルームの千冬から、怪訝そうな声。鬼頭の放つ攻撃のうち、いまのところ敵に最も有効打を与えているのが、二基のBT攻撃端末より発射されるレーザー攻撃だ。それを、なぜ呼び戻したのか。有線式の攻撃端末に、再チャージの必要はないはずだが。

 

 はたして、鬼頭は不敵な冷笑を浮かべた。

 

『言いましたでしょう? 新兵装の、実験台になってもらう、と』

 

 BT・OS《オデッセイ》、モード・レベル3。こいつはまだ、コンピュータ・シミュレーションでも試していない。一応、シフトアップに伴い解放される新機能については、BT攻撃端末との同時運用も可能なよう設定しているが、本当に両立出来るかどうかは、実際に試してみるまでは分からない。

 

 念のためにBT攻撃端末を格納した鬼頭は、両手に携える二挺の《焔備》も拡張領域へと収納した。

 

 代わって取り出したのは、刀身長一・三メートルの近接ブレード、《葵》だ。近接格闘戦で、決着をつける腹積もりか。

 

 鬼頭は刃渡り四尺超という大刀の柄尻を、左手一本で掴み支えると、刀身を水平に傾けた状態で、胸の高さまで持ち上げた。

 

「第二リミッターを解除」

 

 背面部のエナジー・タンクから、BTエネルギーを絞り出す。流動性エネルギー伝達のため、特別に設けられた特殊バイパスを通じて、右の掌に、パワーを集めた。BTエエルギーのさらなる励起から、打鉄の右手が青白く輝いた。

 

「モード・レベル3、シフトアップ!」

 

 BTエネルギーを宿した右手で、水平に掲げた刀身を掴んだ。バチバチ、と電流迸る蒼光が、ロボットアームからブレードへと、伝達されていく。やがて右手の光は消沈し、代わって、刃渡り四尺超の豪剣が光り輝いた。

 

「レーザーブレード!」

 

 昂然と言い放つや、鬼頭は光り輝く大刀を天高く掲げた。

 

 

 

 

 

 

「あれは……『零落白夜』!?」

 

 Aピットルームの大型モニターで鬼頭の勇戦ぶりを見つめていた一夏は、彼が光り輝く大刀を手にしたのを見て、思わず叫んでしまった。

 

 なるほど、たしかにいまの《葵》の姿は、彼の愛機、白式最大の武器である、『零落白夜』によく似ている。《葵》も、《雪片弐型》も、日本刀に範をとった形状をしているだけに、刀身が光り輝く様子はうり二つだ。

 

 だとすればあの《葵》にもバリアー無効化攻撃が!?

 

 しかし、興奮する一夏の隣で、セシリアはゆっくりとかぶりを振った。

 

「いいえ、織斑さん。あれは『零落白夜』ではありません」

 

 セシリアはイヤー・カフスを指で軽く弾いて、待機状態のブルー・ティアーズのISコアを揺さぶり起こした。空間投影式ディスプレイを出力し、そこに、BT・OS《オデッセイ》の詳細なデータを表示する。

 

「あれは《オデッセイ》のレベル3の機能です。流動性エネルギーを、専用に設計された装備以外の武器に宿し、性能の向上を図る、という機能です」

 

「……そんなことが、可能なのか?」

 

 専用機持ちたちの一歩後ろからモニターを眺めていた箒が、驚愕の表情を浮かべた。

 

「BTシステムのことはよく分からないが、その機能は要するに、《葵》や、《焔備》といった、本来、BTエネルギーの運用を考えていない武装で、それを扱うということだろう? 元々、そういう機能のない武器で、そんなことが……」

 

「……普通ならば、不可能なことです」

 

 セシリアは呆れた口調で応じた。

 

「実弾を発射する《焔備》で、BTエネルギーのビームを発射する。究極、ただの金属の塊にすぎない《葵》の刀身に、高温状態のBTエネルギーを纏わせることで、熱による溶断の効果を持たせる。普通なら、不可能なことですし、考えもしないことです」

 

 セシリアは深々と溜め息をついた。

 

「ですが、お父様は普通の技術者ではありませんでした。普通の技術者では考えつかないことを思いつき、それを実現してみせました」

 

 セシリアは大型モニターに映じる鬼頭の勇姿を睨んだ。

 

「ISのシールドバリアーを切り裂くほどの温度です。そういう設計で作られていない《葵》のブレードが、本来、耐えられるような温度ではありません。それなのに、ブレードはその形状を保ち、かといって、BTエネルギーも低出力というわけではない。矛盾しています。その矛盾を解消するような、繊細で、複雑なエネルギーの制御を可能とするOSを、お父様は作ったのです」

 

 天才・鬼頭智之。

 

 そんな形容詞を口の中で呟いて、一夏は思わず息を飲んだ。

 

 

 

 

 

 

 摂氏二万度の高温から輝く大刀を、鬼頭は八相に構えた。

 

 柄尻に左手を、鍔元に右手を添えて、手の内を練る。

 

 切れ長の双眸が、眼光鋭く敵ISを睨みつけた。

 

 地上に着地し、じりじり、とすり足で間合いを詰めていく。敵との距離は、およそ八間。

 

 男の五体から漂う、尋常ならざる剣気に気圧されたか、異形のISは、恐慌状態に陥ったかのように、荷電粒子砲を連続発射した。

 

 鬼頭の眦が凄絶につり上がり、白銀の鎧武者の巨体が、大きく左右に揺れ動く。

 

 荷電粒子の奔流を立て続けに避けてみせるや、鬼頭は一気に加速した。

 

 BT・OSの作用により、レスポンス速度の向上著しいロケット・モーターが、最大推力でその身を前進させる。荷電粒子砲の再チャージを許さない、疾風怒濤の突進だった。一瞬で、間合いが詰まっていく。

 

 無人ISが、右腕を大きく振りかぶった。

 

 荷電粒子砲のチャージが間に合わぬ、と判じて、あの鞭のような打撃で鬼頭を迎え撃つ腹積もりだ。

 

 そのとき、鬼頭の上体が大きく前後に揺れ動いた。

 

 鬼ごっこの達人、タイミングずらしの、フェイントだ。

 

 来る、と思った瞬間に後ずさるような素振りを見せつけられ、敵ISの右腕が、一瞬、動揺し、遅速する。

 

 その隙を衝いて、鬼頭は鋭く前に踏み込んだ。相手の内懐へと、潜り込む。

 

 慌てて、姿勢制御スラスターを噴かす敵IS。しかしその多くは、すでに《ミニ・ティアーズ》によって潰されてしまっている。運動性の落ち込みは明らかで、離脱は、叶わない!

 

「しゃああッ!」

 

 裂帛の気合いが、鬼頭の唇から迸った。

 

 目の前で、子どもたちを傷つけられた。

 

 その怒りから、阿修羅の形相の鬼頭が、吼えた。

 

 咆哮とともに放たれた打ち込みが、敵ISの右肩口へと振り落とされた。

 

 金属を打つ、確かな手応え。一気に、引き斬る。斬割。切断された肩口から、まるで血飛沫のように火花が散った。

 

 隻腕となった敵は、ようやくスラスターの力で半歩後退。残された左腕を、真っ直ぐに突き出す。ストレート・パンチ。

 

 対する鬼頭は腰を落とし、姿勢を低くしてこれを避けた。

 

 全長二メートルの豪腕が頭上を通過していったのを見届けた後、返す刀を擦り上げた。

 

 敵ISの左腕が、肘のあたりで弾け飛んだ。

 

 両腕を失った敵ISが、恐れをなして後ずさる。

 

 超高温のプラズマ光に燃える豪剣を大上段に振りかぶり、鬼面般若の鬼頭は、異形のISに向けて冷笑を浮かべた。

 

「ギャバンダイナミック、と言ってやろうか?」

 

 真っ向振り下ろし。

 

 二万度に光り輝く大刀が、機械仕掛けの女の乳房を打ち割り、敵ISは、くたり、とその場に倒れ伏した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter22「冒険者」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名古屋市名東区。

 

 アローズ製作所本社ビルの隣に建つ、全天候型試験場。

 

 最初に異変に気がついたのは、超人の感覚野を持つ桜坂だった。

 

 常人の識閾では感じ取ることも難しい、大気のかすかな流れから、球場型の試験場の外で、何かただならぬ事態が起こっていることを察した彼は、直後に感じた嫌な予感に、表情を強張らせた。

 

 ――このドームの外……直上か? 局所的にだが、急に気流が乱れ始めた?

 

 さしもの超人も、乱気流の原因が、秒速一万四千キロメートルの速さで移動する、荷電粒子が原因で発生した線状の真空空間に、周りの空気が一気に流入したため、とは予想出来なかった。

 

 彼に出来たのは、試験場の外で起こっている異変に気づくことだけであり、その結果、自分たちの身に何が降りかかるのかまでは、想像することが出来なかった。

 

 不意に、球場ドームの形をした試験場の天井から、異音が聞こえてきた。

 

 一同、揃って上を向き、唖然としてしまった。

 

 試験場中央部の天井の一部がたちまち赤黒く変色を始めたかと思うと、突然、穴が開いた。超高熱物質の集中による融解現象。天井の構成部材だったものが液化し、どろっ、と滴ったかと思うと、轟音とともに、何か、が天井の穴を圧し拡げながら落ちてきた。地上に激突! 試験場のコンクリート仕立ての地面が断末魔の悲鳴を上げた。地面が揺れ、次いで、衝撃波に試験場内の空気が動揺する。グラウンドでパワードスーツを稼働させている二人はもとより、観客席側の見学団も、揺れへの備えから一様に身を低くした。

 

「な、なんだ? 何が起こった!?」

 

 ハイパーレスキューNAGOYAの隊員、田神忠昌が叫んだ。低い姿勢を保ったまま、グラウンドの方へと目線をやる。驚きから、瞠目した。グラウンドの中央……先ほどまで、二着のパワードスーツが素晴らしいパフォーマンスを演じていた瓦礫の山の頂上に、異形の女が立っていた。

 

 全身装甲型のパワードスーツだ。深い灰色のボディ。二メートルもあろうかという長い腕。首がなく、肩と頭が一体化したような見た目は、子どもの頃にテレビで見た、古い特撮作品に登場する怪獣の容姿を彷彿とさせる。剥き出しのセンサーレンズが不規則に並んだ頭部の下には、大きく突き出した乳房があり、装着者の性別をうかがわせた。女性が身に纏うパワードスーツ……。田神だけでなく、その場に居合わせた全員の顔が、硬化した。

 

「まさか……、IS、なのか?」

 

 田神は茫然と呟いた。そうであってくれるな、という願望が見え隠れする口調だった。

 

 同様の思いを抱いていた千種消防署署長の室井隆が、たまらず叫んだ。

 

「しかし、あんなISは見たことがないぞ!?」

 

 たしかに、地上に降り立ったパワードスーツは、室井たち一般の男性がテレビや新聞といったメディアでよく見かける、打鉄や、ラファール・リヴァイブといったISとは、かけ離れたシルエットをしていた。彼がISと思えぬのも、無理からぬことだろう。

 

 しかし、とかぶりを振ったのは桜坂だ。

 

「いえ、あれはISです」

 

 あんなISは、戦史マニアで、軍事マニアの自分も見たことがない。しかし、それでも、はっきりと言い切れる。あれは、ISだ。

 

「この試験場は各種の危険物を使った実験も行われることから、壁も天井も、かなり頑強に設計されています。その天井を、あれは突き破ってきました。そんな攻撃力を持っているパワードスーツは、IS以外に考えられません!」

 

 現在、国連で開発中だというEOSでも難しいだろう。以前、国連の広報部が公開したテストの様子を見てみたが、ISに比べてパワーアシスト機構も、PICの質も明らかに劣っていた。この試験場の天井をぶち抜こうと思ったら、戦車砲くらいの威力が必要なはずだが、あの様子では、運用出来そうにない。

 

「しかし、あれがISだとすると……」

 

 総務省職員の城山悟が、異形のISを睨んだ。

 

「いったい、なぜ、ここに?」

 

「機体に国籍マークがない。自衛隊機でも、米軍機でもない」

 

 城山に続いて、田神が言った。この日本国で、ISを保有し、運用している組織は限られている。

 

「ということは、IS学園の機体か?」

 

「テスト中の新型機が、事故か何かで、墜落してきたとか?」

 

「それにしては状況がおかしいです」

 

 城山の疑問に、田神はかぶりを振った。

 

「あれが落ちてくる直前、天井が赤熱化して、溶けて落ちるのが見えました。あのISは、この施設に攻撃を加えてから、落ちてきたということです」

 

 害意があってのこととしか思えない。いったい、いかなる意図による暴挙なのか。やつはいったい、何者なのか?

 

「……まさか、ファントム・タスクか?」

 

 ひっそりとした呟きが、城山の口から漏れた。

 

 あまりにもか細い声から、桜坂以外に、その声を聞き取れた者はいなかった。

 

「ファントム・タスク?」

 

 いったい、何のことかと訊ねようとして、次の瞬間、桜坂の顔は慄然と硬化した。

 

 瓦礫の山の上に立つ異形のISが、ゆっくりと、右腕を胸の高さまで掲げた。

 

 五本の指をめいっぱいに開いた掌を、駐車中の、プロフィアへと向ける。掌には、小さな穴が二つ、開いていた。超人の視力をもって穴の向こう側をのぞくと、ぼんやりと発光している様子が見て取れた。

 

 そのとき、頬に、嫌な感覚を覚えた。

 

 空気中の荷電粒子たちが、通常ではありえない動きを始めた。

 

 猛烈に、嫌な予感がした。

 

 ヘッドセットのマイクに向かって、切羽詰まった声で叫ぶ。

 

「滑川さん! 桐野さんにプロフィアを発進させるよう指示を!」

 

『な、何をするつもりだ!?』

 

 桜坂と同様、悪寒にかられたか、XI-01を纏ったトムが、正体不明のISに向かって飛びかかった。右腕へと体当たりをかまし、掌の向きを変えようとする。

 

 謎のISにとって、おそらくそれは、予想外の事態だったのだろう。

 

 全備重量二百キログラム超のパワードスーツによる突然の体当たりにより、ISの掌が五センチほど、右へと移動した。

 

 その直後、ISの掌から、光の奔流が発射された。

 

 秒速一万四千メートルの速さで射出された、荷電粒子のなれの果てだ。

 

 プロフィアのコクピットのすぐ前方、エンジンルームへと着弾する。

 

 積載量十三・九トンを誇る大柄なシャシーが激しく震え、運転席に座る桐野美久が、くたり、とセンターパネルに突っ伏した。

 

「…………」

 

 その光景を、観客席から、仁王の顔の超人が怒りの形相で見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 




イメージインターフェース・コントロール・モジュール、略して I.N.C.O.M.!

……レーザーブレードといい、やっちまった感がすごい。



設定解説は次話の後書きに、色々なものとまとめて。





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Chapter23「怒れる天使」

まさか自分のいる業界が、新型コロナでむしろ活況を得るとは思わなんだ……。

普段より接触二割増しで仕事していたら、次話投稿が遅くなってしまいました。


非力な私を許してくれ……。



 二〇一三年五月二五日、桐野美久は、天使と出会った。

 

 そして二〇一三年の六月八日、彼女は、父の経営する会社で、彼との再会を果たした。

 

 父親への用事から、母親と一緒にアローズ製作所の本社ビルを訪ねたときのことだった。要件をすませ、せっかくだから三人でどこか食べに行こう、という父の誘いに乗って親子三人、会社の長い廊下を歩き、正面玄関のエントランスホールに辿り着いたところで、ちょうど自動ドアをくぐって社屋に入ってきた彼と鉢合わせたのだ。仁王象のように厳めしい面魂を視界にとらえるや、美久の顔は薔薇色の笑みで彩られた。

 

「あなたは……!」

 

「ゲェーッ! き、きみはぁ……ッ!?」

 

 取引先への営業から帰ってきたばかりの桜坂も、ビル内に一歩足を踏み入れたタイミングで美久の存在に気がついた。六尺豊かな体躯が驚きからわななき、その場に茫然と立ち尽くしてしまう。

 

「どうした、桜坂? なぜ、マンモスマンを見て驚く正義超人のような顔を?」

 

 隣に立つ鬼頭が、訝しげな表情で親友を訊ねた。本日の営業は、彼と二人で行ってきたのだ。

 

 当時の彼らは、建設事業部で主に重作業用のロボットの開発を担当していた。

 

 二日前、岐阜県に本社を置く建設会社が、二年後に稼働を開始する予定だという風力発電所の建設計画を請け負うことになった、との情報をキャッチした彼らは、早速その会社に、高所での作業用ロボットの売り込みに向かった。先方の担当者のプレゼン終了後の反応は上々で、好感触から意気揚々と帰社した直後の事件だった。

 

 恩人との再会に嬉々とした表情を浮かべる美久とは対照的に、桜坂の顔色は悪かった。

 

 ――こ、この娘はたしか……。

 

 二週間ほど前に、銀城学園のそばで暴走車輌に轢かれそうになっていたところを助けた、あのときの少女ではないか。なぜ、こんな場所に? それに、彼女の背後に立っているのは……桐野社長に、その細君!? この二人と親密そうに寄り添っているということは、まさか彼女は――、

 

 桜坂は桐野社長の顔を見て、おっかなびっくり訊ねる。

 

「……桐野社長の、ご息女であられますか?」

 

「そうだよ」

 

 目つきの鋭い桐野利也は怪訝な表情を浮かべながら頷いた。彼は桜坂たちが入社一年目の新入社員だった頃の直接の上司の一人だ。互いに顔はよく知っていた。

 

 桐野社長は愛娘と昔からよく知る部下の顔を交互に見て、

 

「桜坂君たちと顔を合わせるのは、これがはじめてのはずだが、知り合いだったのかい?」

 

と、訊ねた。娘の態度から察するに、どうやら初対面ではないようだが、だとすれば、どんな経緯を経て出会ったのか。中学二年生の美久と、三二歳の桜坂。普通に考えて、日常生活中に接点があるとは思えないが。

 

 前年、アローズ製作所の総売上は八千億円に達し、従業員も五千人を超えた。彼らを束ねる立場にある五六歳の総帥の声は太く、堂々としており、聞く者によってはドスを孕んでいるようにさえ聞こえた。六尺豊かな大男、仁王の如き面魂の桜坂も、この男の前では、容姿の押し出しが強いだけの若造にすぎない。

 

 桐野社長の問いに対し、桜坂は、さてどう返すのが自分にとってモア・ベターな回答だろうか、と思い悩んだ。

 

 過日、出来町通で起きたかもしれない交通事故を、未然に防いだ一件を知られることそれ事態はべつにいい。立派な人助けだ。誇ることでこそあれ、人には聞かせたくない、と恥じるような行いではない。

 

 問題は、そのために、普段はひた隠しにしている自分の能力について、桐野社長に知られてしまうかもしれない危険がある、ということだ。

 

 桜坂は己の肉体に宿る脅威の身体能力について、世界のあり方を危うくするものと定義していた。この能力のことを世間に知られたら最後、たいへんな混乱を世に招きかねない、と危惧している。ゆえに、平素は普通人よりもやや優れている、という程度の運動能力をよそおうよう努めていたが、先日の一件では、それに失敗してしまった。

 

 あの日、桜坂が出来町通に面している東郵便局に立ち寄ったのは、まったくの偶然だった。取引先との商談を終え、会社へと帰るその道すがら、そういえば郵便局に用があるんだった、と思い出し、その時点で最も近くにあった店舗を目指したにすぎない。取引先が市営地下鉄今池駅の周辺にあれば、最寄りの千種郵便局を利用していただろうし、先方がナゴヤドームの周辺に会合の場を設けていたならば、やはり最寄りの茅場郵便局を使っていただろう。

 

 当時、酩酊状態にあったという運転手を乗せたホンダのアクティバンが、出来町通に突っ込んできたのは、用件をすませた桜坂が、郵便局の正面出入口から外に出た直後のことだった。目の前の道路を、一台の白い車が物凄い速さで走り抜けていったのだ。

 

 思わず後ろ姿を追いかけてしまった目線は、不快感も露わな険しいものだった。一般に運転マナーが悪いとされる名古屋人とはいえ、いくらなんでもスピードの出し過ぎだ。いまは昼間で、交通量だってそれなりにある時間だというのに。走りの良さが自慢のホンダ車には似合わない、左右にぶれぶれの走行ラインも見ていて腹が立つ。それに、暴走車輌が通過した直後に鼻腔を刺激した、ほのかなアルコール臭。酒を飲んだ上で、運転しているのか!?

 

 ――せっかくのホンダ車も、ドライバーがアレじゃあなあ……クルマが可哀相だ。

 

 もし、飲酒運転が日常的に行われていることだとすれば、あのクルマのドライバーは遠からず、たいへんな事故を起こすことになるだろう。憂鬱な溜め息をこぼし、桜坂は目線をアクティバンの尻から、その行き先へと向けた。頬の筋肉が痙攣し、引きつった。白い車の進路上にある横断歩道のど真ん中で、銀城学院中学のセーラー服を着た少女が両手を地面についた状態で蹲っていた。どうやら、暴走車輌の存在に気がつき、避けようとしたところで、転んでしまったらしい。

 

 ――いかんッ!

 

 アクティバンのテールランプが点灯する気配はない。ステアリングを左右に切る素振りもない。酒に酔いながらハンドルを握る運転手は、おそらく、少女の存在を認識出来ていない!

 

 桜坂がその事実に気がついた時点で、少女と、アクティバンとの距離はあと十メートルまで迫っていた。これに対し、彼の立つ位置からは直線距離でさえ八十メートル弱もあった。常人よりほんの少し秀でている程度の運動能力では、救出は不可能だ。このままでは、彼女が轢かれてしまう!

 

「ああっ、くそ!」

 

 反射的に地面を蹴った桜坂は、直後、舌打ちした。

 

 たった一歩を踏み出しただけなのに、視界の変転がめまぐるしい。それに全身を苛む、空気流の重い抵抗感。完全に、無意識の行動だった。気がつけば、肉体のポテンシャルを解放していた。八十メートル近い隔たりをコンマ二秒のうちに詰めると、少女を抱え上げ、咄嗟の判断でジャンプした。暴走車輌が、先ほどまで少女のいた場所を通過し、そのまま第二車線を左側に大きく逸脱。ガードレールにぶつかり、耳障りな悲鳴を上げながら走ること数十メートル、ようやく事態に気がついたか、ブレーキランプが点灯し始めた。それを見て、桜坂は安堵の溜め息をつく。しかし、すぐに表情を強張らせた。

 

 ――しまった。知られてしまった。

 

 この場に、たまさか居合わせてしまった通行人程度であれば、いくらでも誤魔化しようがあった。

 

 しかし、腕の中のこの少女については、どうしようもない。さて、どうやって口を塞ぐか。せっかく助けた小さな命、我が身の可愛さから害するなどしたくはないが。

 

 結局、その場では良案が思いつかず、どうせこの先会うはずもない相手と簡単な口止めをして別れたが、嗚呼、なんたることか!

 

 ――まさかあのときの因果がこういった形で巡ってこようとは……!

 

 ここで下手なことを口にすれば、彼女の口から、自分の秘密を明かされてしまうかもしれない。

 

 「知り合いというほどではないのですが……」と、かろうじて呟いた後、返答に窮していると、腹部に、衝撃を感じた。両腕を広げた少女が飛び込み、抱きついてきたためだ。

 

「天使様!」

 

 ほとんど跳躍と呼んで差し支えのない勢いだった。学校からの帰りだったのか、清楚なデザインのプリーツスカートの裾が翻るのも気にしない。反射的に抱き留めた桜坂の胸板に、頬をすり寄せてくる。

 

「お会いしたかったです、天使様!」

 

「……天使様?」

 

 桜坂自身よりも、かたわらに立つ鬼頭の方が怪訝な顔をした。心なしか冷然とした眼差しを、親友の横顔に向ける。

 

「桜坂、お前……普段、熟女がどうとか、トイレ清掃のおばさんがしゃがんで作業をしているときのうなじにこの上ない萌えを感じるとか言っていながら、まさか、中学せ……JCを相手にそんな特殊なプレイを……!?」

 

「ちっげぇよ! 俺だって何が起きてんのかわかんねぇよ! あと、最近覚えた言葉だからって、そんな嬉々としてJC言うな!」

 

 天才と評される彼らの頭脳をもってしても、事態の推移についていくことが出来なかった。この場にあっては、桐野美久という人間のことを誰よりもよく知っているはずの彼女の両親たちでさえ、茫然としている。

 

 とにかく、場を落ち着けてやらねば。

 

 桜坂は少女の肩にそっと手を置いた。ゆっくりと押し剥がすと、再会の喜びに涙ぐむ眼差しと目線がかち合う。

 

「え、ええと……」

 

「はい!」

 

「と、とりあえず、一旦、場所、変えようか?」

 

 

 

 二人きりで話したいことがあるので、五分ほど時間が欲しい。

 

 親友や社長夫妻からの胡乱な眼差しに、しくしく、と痛む胃をなだめすかしながら、桜坂は少女の手を取り、その場から離れた。

 

 やって来たのは、エレベーターホールを抜けたところにある階段の踊り場だ。自分たち以外に耳目のないことを確認した桜坂は、げっそり、と溜め息をつくと、頭を抱えながら少女の顔を見下ろした。

 

「……色々、訊ねたいことはあるけれども」

 

「はい、天使様」

 

「その、天使様って、何よ?」

 

「天使様は、天使様ですよ」

 

 強面の桜坂に睨まれながら、美久は可憐に微笑んだ。

 

「はじめてお会いしたとき、神様なんですか、って訊いたら、そうじゃない、って、おっしゃっていたじゃないですか?」

 

「……うん。そうだったね」

 

 地面をほんのひと蹴りしただけで、四十メートルもの高さへと舞い上がってみせた。

 

 時速七五キロメートルの速さで暴走する軽自動車よりも速く、地面を駆け抜けてみせた。

 

 これら超常の身体能力を指して、過日、彼女は己のことを神様と呼び、その言を、自分は否定した。そのことはよく覚えている。

 

「なら、神様ご本人じゃなければ天使様かな、って。神様が、わたしたちのためにこの地上に遣わしてくれた天使様かな、って。そう思いまして」

 

「神様じゃないなら天使様って……短絡的すぎるぞ、きみ」

 

 桜坂はまた重たそうな溜め息をついた。桐野社長の令嬢に、あまりきつい言葉は使いたくないが、そうと評さざるをえない。その理屈で言えば、自分とは別ベクトルで超人的な能力を持っている親友もまた、天使様、ということになってしまう。勿論、そんなことはないが。

 

「……桐野美久さん、で、よかったかな?」

 

「はい」

 

「いいかい、桐野さん。まずはっきりさせておくが、俺は神様じゃない」

 

「はい」

 

「そして、天使様でもないんだ」

 

 あえて突き放すような口調で言ってやった。

 

 自分の言葉に対し、少女は案の定、表情を暗くして、しかし、でも、と口にした。

 

「……それなら」

 

「うん?」

 

「それなら、あなたは何なのですか?」

 

「……むぅ」

 

 返す言葉を、見失ってしまった。

 

 神様でもないし、勿論、天使様でもない。しかし、普通の人間とは到底、胸を張れぬ。普通人を自称するには、自分の頭脳と肉体は逸脱しすぎている。

 

 そうかといって、超人、と称するのも違うような気がする。

 

 長い……、気が遠くなるほどに長い生物の歴史においては、まれに、現われることがある。歴史に名高き偉人や、その種の動植物では本来ありえないパフォーマンスを発揮する特異な個体。人は彼らを指して、天才や超人、突然変異種などと数多の形容詞を口にするが、己の存在は、そうした者たちとも決定的に異なっている。彼らの持つ形質や能力は、生まれ持って備わったものだ。もともとあった才能が、周りの環境や、本人の研鑽によって花開いた結果である。しかし、自分は違う。自分の持つ、この能力は、彼らが持つ偉大な形質とは、まったく違う。後天的に、それも、およそすべての生き物のあり方を侮辱するような手段でもって、得た能力だ。これを指して、天才である、超人である、などと自称することは憚られた。

 

 ――“そういう”意味では、天使と呼べるのか、俺は……。

 

 その事実に思い至り、愕然としてしまう。

 

 唇を真一文字に結んで唸り声に喉を鳴らすことたっぷり四秒、桜坂は、諦観の表情で肩を落とした。

 

「……まいったな。そうやって言われると、天使以外の適語が思いつかない」

 

「……やっぱり!」

 

 美久は嬉しそうに手を叩いた。

 

「やっぱり、あなたは天使様なんですね!」

 

「違う! ……違うけど、もう、それでいいです、はい」

 

 桜坂は悄然と呟くと、階段に腰を下ろした。他方、美久は立ったままで仁王の顔に熱い眼差しを注いだ。身長差が縮まったことで、二人の目線の高さは揃う。

 

「天使様」

 

「はい、なんざんしょ?」

 

「わたし、この再会はきっと運命だと思うんです」

 

 少女の小さな手が、そっと、男の頬に添えられた。まるで寝台の上で睦言を囁くかのように、熱っぽい口調で言う。

 

「天使様が、人には内緒にしておきたいお力をお見せしてまで、わたしを救ってくれたこと。天使様の秘密を知るわたしが、こうしてまたお会い出来たこと。これには、きっと意味があると思うんです」

 

 熱病にうなされているかのように炯々と輝く瞳を、じっと見つめ返した。ぷっくり、と愛らしい唇が、粛、と動く。

 

「ねえ、天使様。お願いがあるんですけど」

 

「……なんだい? 聞くだけは、聞いておこう」

 

「わたしを、天使様の従僕にしていただけませんか?」

 

 現代日本にあっては聞く機会に乏しい単語が少女の口から飛び出したことで、桜坂は仰天した。大振りな双眸をいっぱいに見開いて、美久の顔を見る。

 

「わたしと、天使様との出会いは、きっと、そのためのものだと思うんです。炊事とか、洗濯とか、そういう日常の煩わしいお仕事を、天使様に代わってわたしがやる。そうやって、天使様がこの地上で思う存分はたらける環境作りのお手伝いをすることが、神様がわたしに与えた、役割だと思うんです」

 

「そ、そんなわけが……」

 

「いいえ! きっと、そうに決まっています」

 

 美久はかぶりを振ると、きっぱり断言した。力強い語気に押し切られ、桜坂も思わず口を閉ざしてしまう。

 

「家事だけじゃありません。いまは子どもで、それぐらいしか出来ないわたしですけど、大人になったら、もっといろんなことで天使様のお役に立てると思うんです。だから、どうか、天使様」

 

 わたしを、おそばに置いていただけませんか。

 

 十三歳の少女が、口ずさんだ言葉に、桜坂は深々と溜め息をついた。この再会が本当に運命だというのなら、それを用意した神様とやらを、恨まずにはいられない。

 

「……好きにしてくれ」

 

 きっと、この年頃にはつきものの、例の麻疹のような病気の類いだろう。

 

 あと数ヶ月もしたら、自分のことも、こんな口約束のことも忘れてくれるさ。

 

 そう思いながら、桜坂は苦い表情で頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たった一グラムの質量でも、秒速一万四千キロメートルもの速さで射出されれば、荷電粒子砲の運動量は十四トンにも達する。

 

 異形のISの左腕より発射された粒子ビームの一撃は、プロフィア・トラックのエンジンルームの内部メカニズムを破壊し尽くすと同時に、その車体を激しく揺さぶった。

 

 ウィングコンテナの中に、パワードスーツを運用するための装置一式を積み込んだ改造プロフィアの車両重量は、およそ十六トン。車を構成する部品のうち、最も重いエンジンをコクピットの下部に置くという、重心がどっしり据わった構造と重なって、横殴りの衝撃にも、吹き飛んだり、転倒する、といった被害は免れられた。その代わり、粒子ビームに篭められた運動エネルギーは車両全体を揺さぶり、とりわけ、エンジンルームの直上に配されたコクピットに襲いかかった。

 

 センターコンソールに増設された各種の計器で、謎のISの様子をモニターしていた桐野美久は、シートから臀部へ、骨盤から背骨へと疾走する突然の突き上げに、思わず苦悶の悲鳴を上げた。反射的にステアリングを握る手に力を篭め、倒れぬように、とその場で踏ん張ろうとするも、足元からの震動がその邪魔をする。直後には、荷電粒子砲に蹂躙されたエンジンルーム内で小爆発が発生。強烈な横揺れが美久の頸椎を襲った。がっくん、がっくん、と頭部が前後に揺れ、やがて、ハンドルに額を打ちつけてしまう。「うう……っ」と、くぐもった悲鳴を最後に、美久の意識は消沈した。シートベルトで留められたままの身体が、くたり、とハンドルに突っ伏し、動かなくなってしまう。クラクションが押し込まれ、ぷあーん、と大型トラックの悲鳴が試験場内にこだました。

 

 その一部始終を観客席から見ていた桜坂は、はじめ茫然とし、しかし、すぐに顔の筋肉を禍々しく硬化させた。

 

 異形のISを睨む双眸が、烈火の怒りから、爛々と光芒をたたえている。

 

 試験場の様子を、身を乗り出してうかがうべく、最も手近なところにあった椅子の背もたれに手をかけていたが、ぶるぶる、と震える右手は、プラスチック製の背もたれをあっさりと握り砕いてしまった。飛び散った細かな破片が、掌の皮膚を引き裂く。ぐっ、と握った拳からは、細い筋のような血が滴っていた。

 

 桜坂の背後では、見学にやって来た名古屋市消防局の面々が突然の事態に同様し、狼狽えていた。いまのは、ビーム攻撃じゃないか? ビームを発射出来るパワードスーツということは、やはりあれはISか! 攻撃してきたぞ!? いったい、何が目的なんだ? いやそれよりも、トラックの運転手は無事なのか!? ……ハイパーレスキューNAGOYAの隊員、田神忠昌の呟きが耳朶を撫でさすり、桜坂は、かたわらに立つ酒井仁を見た。

 

「酒井さん」

 

「室長、こ、これは……」

 

 突然、試験場の天井を突き破って現われたISが、同僚の乗っている車輌に向けてビーム攻撃をしかけてきた。

 

 チームの最年長で、経験豊富な酒井も、さすがに斯様な事態と遭遇したことはない。土気色の顔をした彼は、狼狽した口調で応じた。

 

「酒井さん、見学団の皆さんの、避難誘導をお願いします」

 

「……室長は、どうなさるおつもりで?」

 

「私は、桐野さんを助けに向かいます」

 

 決然と言い放つや、一団に対し、背中を向けた。

 

 酒井の口から迸った制止の言葉を無視して、ひな壇を、一息のうちに駆け下りていく。

 

 酒井たちに対し、酷いことをしている、という自覚はあった。室長という、この場にいる全員の身の安全について責任を負わねばならない立場にありながら、通信指令室に向かうならばまだしも、特定の同僚のことを優先して、現場を放棄しようというのだから。見捨てられた、と思われても無理からぬことだ。背中に突き刺さる声が険しく、そして厳しいのも当然のことだろう。

 

 しかし、

 

 ――あのISは、明らかにプロフィアのコクピットを狙っていた!

 

 相手の目的は、依然として分からないが。殺人や、この施設の破壊を目論んでの襲来であれば、プロフィア以外にも、狙うべき標的はたくさんあった。すぐそばで茫然と突っ立っていた二着のパワードスーツや、観客席の自分たちに襲いかかってもよかったはずだ。だが、あのISは粒子ビーム砲の筒先を真っ先にプロフィアのコクピットへと向けた。幸い、異変に気づいたトムが飛びかかってくれたおかげで、その射線はすぐ真下のエンジンルームへと逸らされたが。あれは、間違いなく、プロフィアの運転席に座る美久のことを狙っていた。

 

 ――やつの狙いが桐野さんにあるのだとすれば、再度の攻撃の危険がある!

 

 それでなくても、粒子ビームにエンジンルームを撃ち抜かれた状態のプロフィアだ。いつ、爆発・炎上してもおかしくない。

 

 一刻も早く、無事を確認しなければ。そして、その身をコクピットから引きずり出さねば。

 

 焦燥感と、なにより、自分のよく知る人物の命が、目の前で失われてしまうかもしれない恐怖心に突き動かされて、桜坂はひな壇のいちばん下まで到達した。疾走の勢いそのままに、安全柵を跳び越える。四メートルの高さから、軽やかに着地。三〇〇キログラムの衝撃が、両足に襲いかかる。普通の人間であれば、その場で前転をしたり、膝のサスペンションを駆使するなどして衝撃時間を長引かせ、ダメージを少しでも減らそうとするところだろうが、この男は、即座に立ち上がって、プロフィアへと走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter23「怒れる天使」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 異形のISの右腕から発射された荷電粒子砲がプロフィアのエンジンルームに炸裂したとき、まさにその腕に飛びついていたトムは、背筋の凍る思いから絶句した。

 

 もし、自分が飛びかかるのが半秒遅かったなら。もし、自分がXI-01を着ておらず、生身のままであったなら。粒子ビームの奔流は、当初の目論見通り、プロフィアのコクピットを焼き尽くしていただろう。当然、運転席に座る美久も、たいへんなことになっていたに違いない。

 

 よかった……。本当によかった……。しかし、彼に安堵の溜め息をつく猶予は許されなかった。

 

 異形のISが、プロフィアのコクピットを狙って、また動き出した。

 

 

 八〇〇キログラムものパワーを誇るXI-01に引っ掴まれたままの右腕を、ぐぐぐ、

と強引に動かして、照準を、今一度プロフィアのコクピットに定める。トムはXI-01の全体重、全膂力を篭めて、必死に押さえ込もうとしたが、不意打が成功した先ほどと違い、ロボットアームはびくともしなかった。

 

「ぐっ……このっ!」

 

 それならば、とトムは自らの危険を承知で、右腕に抱きついたままの姿勢で蹴りを放った。右足の甲の部分で、異形のISの左脛を狙う。

 

 XI-01はアローズ製作所がパワードスーツ開発に必要な基礎技術を習得するために設計された強化服だ。殴る蹴る、投げたり、受け身を取ったり、といった格闘戦を想定した造りをしていない。ほとんどすり足同然のローキックでさえ、軸足をよほど安定させた上でなければ、簡単にバランスを崩し、転倒してしまうことになるだろう。XI-01は、スーツだけでも重量が一五〇キログラムもある。装着者自身を含めた全備重量は、二〇〇キログラムを軽く超える。それだけの重量が転べば、大きな事故となりかねない。

 

 いま、トムや謎のISが立っている場所は、実際の災害現場を意識して作った、瓦礫の丘の頂上付近だ。案の定、軸足とした左脚は、接地圧の急激な上昇から沈み込み、XI-01の巨体が斜めに傾く。相手の右腕を掴む両腕からは力が抜け、向こう脛を狙って放ったはずの蹴りも、空振りに終わってしまった。XI-01は完全にバランス感覚を喪失し、背中から瓦礫の地面へとダイヴした。

 

 トムにとっても、そしておそらくは、謎のISにとっても予想外の事態が起こった。

 

 二〇〇キログラム超の巨体が転んだ衝撃で、瓦礫の丘に激震が走った。異形のISの立つ足場が崩れ、伴って、照準が乱れる。咄嗟に腰を落とし、踏ん張った。荷電粒子砲の再チャージが、ほんの一瞬だけ、遅れた。

 

 そして、その一瞬のうちに、XI-02を着込んだ土居昭は、謎のISへと接近した。

 

 瓦礫の道を猛スピードで駆け抜けるや、正面から、最強兵器ISに向かって躍りかかる!

 

「お前っ、ここをどこだと思っていやがる!」

 

 右腕を引き、拳と固め、脇を締めた。

 

 地面を蹴って跳躍。

 

 前進運動の勢いさえも上乗せし、回転させながら、中腰の姿勢をとる相手の顔面めがけて拳を突き出した。

 

「なっ!?」

 

 驚愕の悲鳴が、土居の口から、そして仰向けに倒れるトムの口から迸った。

 

 センサー・レンズの配置が昆虫を思わせる異形の面覆いまで、あと五センチメートル。

 

 渾身の力を篭めて繰り出した右ストレートが、見えない壁に阻まれ、止まっていた。

 

 XI-02の温感センサーが、右拳表面の、急激な温度上昇を補足する。

 

「熱を持った、見えない壁!」

 

「シールドバリアーか!?」

 

 ISを、最強兵器たらしめる要素の一つ。戦車砲の直撃をもブロックする、強力なエネルギーバリアー。土居は舌打ちし、拳を引き戻す。着地し、どっしりと腰を据えた上で、今度は左右の拳による連続ラッシュ。どこか防御の薄い部分はないか、と狙いを一点に絞らず、様々に打ち込むも、そのことごとくが、見えない壁に弾かれてしまった。

 

 鬱陶しい、とばかりに、異形のISが、右腕を振りかぶった。右斜め上から、打ち下ろし気味に、XI-02の頭蓋へと叩き込む。土居は咄嗟に両腕をクロスし、ガードした。十文字受けごと、物凄い速さで吹っ飛ばされる。

 

 ――……ッ! 嘘だろ!?

 

 ヘッド・マウント・ディスプレイに表示された速度計の数字を見て、土居は、ぎょっ、とした。

 

 秒速七十メートル・オーバー。XI-01に比べれば軽量な02スーツだが、それでも、装着者込みのシステム総重量は一六〇キログラムはある。この質量を、斯様な速度で射出するほどの一撃……あの巨腕は、最低でも十一トンの威力があるということか!? いやそれより、こんな速さで地面に叩きつけられたら……!

 

「ぐっ、があああっ!」

 

 XI-02は、突風に吹き飛ばされる枯れ葉のごとく、地面を、ごろごろ、と転がった。接地の度に、十トン超の衝撃が、装着者の土居の身を襲う。すかさず、衝撃吸収装置が作動するも、それでも殺しきれない強烈な痛みから、彼は苦悶の悲鳴を上げた。

 

「土居く……ッ!?」

 

 異形のISの腕が、今度は後輩の身を案じるトムに炸裂した。全長二メートルになんなんとする豪腕が、地面すれすれで弧を描き、仰向けに倒れている彼の身を打ち上げた。鋭いアッパーカット。二〇〇キログラム超の巨体が、試験場の天井へと激突! そして、二十メートルの高さから、落下した。XI-01にも衝撃吸収装置は搭載されているが、その性能は02スーツに劣る。土居のものとは比較にならない、凄絶な絶叫が、ドーム内に鳴り響いた。

 

 ――トム先輩ッ! くそッ!

 

 スタジアムの壁に激突し、ようやく横転の止まった土居が、よろよろ、と立ち上がった。XI-01の落下地点へと目線をやり、歯噛みする。ヘッド・マウント・ディスプレイに表示される、アラート・サイン。XI-01の装着者の生体反応が、急速に、消沈していく……。

 

 フルフェイスの仮面の下、烈火の怒りに瞳を燃やす土居は、モニタールームへと通信をつなげた。

 

「滑川さん! エネルギー・ブラストの使用許可を!」

 

 このままでは、プロフィアの美久も、自分たちも全滅だ。起死回生の手があるとしたら、いまはこの場にいない設計主任が、非常時の備えにと用意した、ガラス・レーザーしかない。

 

『土居君、分かった。エネルギー・ブラスト・システムの安全装置を解除する』

 

 通信室でも、事態の緊急性を認識していたか、使用に際しては慎重に慎重を重ねる必要のある装備だが、使用の許可はあっさりと降りた。ヘッド・マウント・ディスプレイに、レーザー発振器のパフォーマンス・ゲージが表示される。

 

「エネルギー・ブラスト、アクティブ! 出力は百パーセント!」

 

 最強兵器ISに、出し惜しみや、様子見をしていられる余裕はない。土居はエネルギー・ブラスト・システムを、最大出力で叩き起こした。右の掌に穿たれたビーム発射口から、強烈な光芒があふれ出す。

 

 土居の視界の端で、異形のISが、右腕をプロフィアに向けた。やはり、やつの狙いはコクピットの美久か。いったい、なぜ……?!

 

 ――って、いまはそんなことを気にしている場合じゃないよな!

 

 ヘッド・マウント・ディスプレイに、パワーアシスト機能のコンディションを表示した。一瞥した限り、問題なし。やはり、XI-02は優秀なスーツだ。十一トン超の殴打は痛かったし、超々ジュラルミン装甲のダメージも酷いが、災害用パワードスーツとしてのシステムに、異常はまったく見られない。

 

「ブラスト、モード・ストレート!」

 

 土居は敵に向かって走り出した。

 

 XI-02に搭載されているガラス・レーザー発振器は、最大で二メガワットの出力を誇るが、この威力でさえ、ISのシールドバリアーに通用するかは未知数だ。威力の減衰を少しでも抑えるため、相手に近づく必要があった。

 

 XI-02の大腿部に内蔵された人工筋肉が、激しく躍動した。あっという間に最高速、時速一〇四キロメートルに到達。異形のISとの隔たりを、十メートルの距離まで一気に詰める。

 

 異形のISが、XI-02の動きに反応した。荷電粒子砲のチャージを中断し、向かってくる災害用パワードスーツのプロトタイプと正対する。また殴りかかってくるつもりだろう。さっきと同じように、返り討ちにしてやる。振りかぶった右腕が、無言のうちにそう語っていた。

 

 五メートルの間合いで、XI-02が足を止めた。予想外の行動に戸惑ったか、異形のISの動きが一瞬、遅速する。

 

 土居は照準が乱れぬようにと、真っ直ぐ突き出した右腕を、左手で支え持った。掌を、乳房の高さへと向ける。

 

 異形のISのハイパーセンサーが、XI-02の掌に穿たれた小さな穴の奥で、急激な熱量の発生の気配を捉えた。不味い、と思ったか、胴体各所に設けられた姿勢制御用の小型スラスターが一斉に火を噴いた。

 

「ブラスト!」

 

 直径五ミリメートルの穴の奥に仕込まれた、レーザー発振器が身を震わせた。黄色い光線が、左に避けようとするISの左腕に命中! 推進剤に引火したか、小型スラスターの一つが、小爆発を起こした。

 

『おおッ! バリアーを突破したぞ!』

 

 通信室の滑川が歓声を上げた。

 

 土居も、よし、と仮面の下でほくそ笑んだ。

 

 立ち止まった敵ISが、茫然とした様子で自身の破損箇所を眺める。しかしすぐに、きっ、とこちらを睨んできた。睨んだように、思えた。

 

「……そうだ」

 

 土居は、最強のパワードスーツを相手に、臆せず言い放った。

 

「そんな動かない的なんてやめてよ、俺と遊ぼうぜ、お嬢さん」

 

 ISのシールドバリアーを突破するほどの兵器を積んでいるのか。だとすれば、お前は油断のならない相手だ。あのトラックに乗っている女よりも先に、お前を、潰す。

 

 敵ISの背中で、小型スラスターが炎の尾を噴出した。

 

 XI-02に猛然と接近するや、恐るべき巨大ロボットアームを振りかぶる。

 

 豪腕が、上から下へ、相手を押し潰すよう放たれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 助手席のある左側からプロフィアのもとに辿り着いた桜坂は、早速、乗降用のステップに右足を引っかけると、ドアのウィンドーに張りついた。風防越しに中の様子をうかがい、ステアリングにもたれかかっている美久の胸が上下していることを確認する。よかった。生きている。だが、危険な状態には違いない。彼はドアノブに手をかけた。硬い手応え。鍵がかかっている。

 

 それならば、と桜坂は右手で拳を作った。ウィンドーに向けて、ハンマーのように振り下ろす。

 

 風防ガラスは一撃のもとに粉砕された。強烈な一撃により、粉微塵に砕け散ったガラス片が助手席側のシートに散らばる。穿たれた穴に腕を突っ込み、解錠ボタンを探した。指先に伝わる感触から、これだ、と睨み、操作する。カシャッ、というお馴染みの音。もう一度ドアノブを引くと、重い扉が開かれた。

 

「桐野さん!」

 

 声をかけながら、車内に足を踏み入れた。ハンドルに突っ伏する上体をそっと起こしてやると、クラクションの悲鳴が止まった。全身を、素早くチェック。ほっとした。額に腫れがある以外は、目立った外傷はなさそうだ。

 

 ふと目線を運転席側の窓の向こうにやると、異形のISに、XI-02が殴りかかる姿が見えた。

 

 敵ISの動作から、直前までまたプロフィアに荷電粒子砲の照準を合わせていたのだろう。

 

 ――やはり、ここに長く留まっているのは危険だ。

 

 桜坂は美久の身体を保持するシートベルトのロックを解除した。ベルトの拘束を引き剥がすと、右腕を背中に、左腕を両の膝の裏へと回して、そっと持ち上げる。狭い空間の中、四苦八苦しながら助手席側へと連れ込み、開けっ放しのままにしておいたドアから外へと飛び出した。いつぞやのときと同様、彼女を抱えた状態で着地する。

 

 桜坂は美久を抱いたまま、いつ爆発するとも知れぬプロフィアから離れ、入場ゲートへと急いだ。

 

 このあたりならばよいだろう、と美久の身体を下ろし、仰向けに寝かせてやる。上体を起こし、その肩を優しく揺さぶった。

 

「桐野さん……桐野さん、しっかり!」

 

「……ぁ……ぅ……」

 

 何度目かの呼びかけと、揺さぶり。やがて小さな呻き声が、その唇からこぼれた。睫毛が震え、閉じられていた瞼がゆっくりと開く。黒い宝石のような瞳が、仁王の顔を映し出した。

 

「ぁ……天使、様……」

 

「桐野さん! ……よかった、気がついてくれたか」

 

 男の唇から、安堵の熱い溜め息がこぼれた。

 

 美久は桜坂の腕の中で、小さくかぶりを振った。自分のいまいる場所が、プロフィアのコクピットでないことを認めて、訊ねる。

 

「わたし、どうして……?」

 

「分からない。突然、あのISがきみの乗っているプロフィアを攻撃してきたんだ」

 

 桜坂は異形のISを顎でしゃくった。右腕を突き出したXI-02の掌から、一条の光線が放たれ、敵ISの左腕に命中。小さな爆発が、遠目にもはっきりと確認出来た。

 

 ISの姿を見て、ようやく意識を失う直前までの記憶を思い出したか、美久は怯えた表情で身震いした。涙に濡れた眼差しが、桜坂の顔を見る。

 

「……室長が、助けてくれたんですね」

 

「ああ」

 

「……ごめんなさい」

 

「……何を謝る?」

 

 突如として飛び出した謝罪の言葉が、どんな気持ちに由来するものなのか理解出来ず、桜坂は、こんな危機的状況にも拘わらず、戸惑った声を発した。

 

「室長に、またご迷惑をおかけしてしまいました」

 

「そんなこと……」

 

「わたしは、天使様の従者なのに! あなたの、お役に立たなきゃいけないのに……! それなのに、また……、こうやって、あなたの足を、引っ張って……!」

 

 涙ながらに口にされた言の葉に、愕然としてしまった。

 

 彼女は、何を言っているのだ。

 

 そんな、

 

 そんな、十年以上も昔に交わした口約束を、いまだに、そんな……!

 

 ぞくり、と背筋が震えた。

 

 自分のことをこうも想ってくれている、彼女の狂気に。怯えずにはいられなかった。

 

「室長!」

 

 入場ゲートの奥から、聞き慣れた声が響いてきた。

 

 はっ、として顔を上げると、見学団の避難を任せたはずの酒井がこちらに向かって駆け寄ってくる。

 

「酒井さん! なぜ!? 消防局の皆さんは……!」

 

 背後へと目線をやれば、酒井は見学団一同を引き連れていた。避難誘導はどうしたのか。なぜ、自分の命令を聞いてくれなかったのか。

 

「我々が、ここに連れてくるよう、酒井さんにお願いしたのです」

 

 柳眉を逆立てた桜坂が何か言うよりも早く、酒井の前に歩み出た青山邦彦が口を開いた。

 

「我々は消防隊員です。人の命を救うことが仕事で、そのための訓練を受けています。そちらの桐野さんや……」

 

 青山は十五メートルの高さから落下して動けないでいるXI-01を見た。

 

「あちらの田中さんに、出来ることがあるのではないかと」

 

「それは、ありがたい申し出ですが、しかし……!」

 

「室長」

 

 桜坂の言葉を、酒井が遮った。

 

 美久の上体を抱く彼に合わせて、自らも膝を折り、目線の高さを揃える。

 

「桐野さんを、彼らに渡してください。青山さんたちは救急・救命・救助の専門家です。彼女のことを任せるのなら、室長よりも、ずっと適役でしょう」

 

「……いや」

 

 桜坂は、小さくかぶりを振った。

 

 自分のことを天使と呼ぶ彼女の身を、たとえそうであったとしても、余人には任せたくないと思った。

 

「いいや! 彼女は、俺が、病院へ……!」

 

「冷静になれ、桜坂くん!」

 

 怒声一喝。なおも反論しようとする桜坂の胸ぐらを掴み、ぐいっ、と顔を引き寄せた酒井が言い放った。

 

「あのMITをナンバー2の成績で卒業したきみの頭脳ならば、当然、分かっているはずだ! いま、自分が何をするべきなのか!」

 

「さ、酒井さん……」

 

「いま、きみがするべきことは、桐野さんを病院に連れて行くことなんかじゃない! パワードスーツ開発室の室長として、見学団の避難誘導や、通信室に行って指示を出すことでもない!」

 

 酒井はそこで言葉を区切ると、一転してひっそりとした口調で、耳元で囁いた。

 

「……超人として、あのISに立ち向かうことのはずだ」

 

「なッ!?」

 

 思わず、目を剥いた。反射的に腕を払いのけ、茫然とした眼差しで、彼の顔を見る。

 

「酒井さん、あ、あなたは……」

 

「私だけではありません。開発室の者はみな、とっくに、あなたが、普通の人間ではないことに気づいていました。……桐野社長や、先代の社長もです。それ以外にも、結構な数の社員が、あなたが普段隠している力の存在に、気がついています」

 

「そんな……」

 

 衝撃的な告白に、返す言葉を見失う。酒井は構わずに続けた。

 

「みんな、理解していました。あなたがその事実を知られたくないと考えていること。自分の本来の能力を、普段は隠そうとしていること。そういったことにも、気がついていました。気がついていたからこそ、みんな、そのことをあなたには伝えないできました」

 

 「ですが」と、酒井は口調を改めた。XI-02と戦う異形のISを睨みながら、切々と、訴えかける。

 

「それを承知の上で……、いまこの場に、名古屋市消防局からの皆さんの耳目があることを承知の上で! あえてお願いします。戦ってください、室長」

 

「酒井さん……」

 

「相手は最強兵器です。XI-02は素晴らしい性能を持ったパワードスーツですが、本格的な戦闘を想定した造りをしていません。XI-02では、あいつを倒すことは出来ない!

 

 ですが、あなたならそれが可能なはずだ。超人である、あなたなら……!」

 

 不意に、古い記憶がよみがえった。

 

 天使様。

 

 当時十三歳の少女が嬉しそうに口にした言葉。

 

 悲しみや、苦しみに満ち満ちたこの地上世界から、それらを少しでも取り除くために、神様が遣わした使徒である、と、彼女は自分をかつてそう定義した。

 

「お願いします、桜坂室長。戦って、そして勝ってください」

 

 桜坂は無言で酒井の顔、腕の中の美久の顔、そして、XI-02と戦うISの、不気味な面魂を見回した。

 

 己は、勿論、美久の言う、天使ではない。

 

 たしかに、考えようによっては神様と呼べるかもしれない存在から、この呪われた力を与えられた。そういう意味では、天使と呼べるかもしれないが、彼女が夢想するような、五徳を尊び、博愛精神にあふれる存在ではない。

 

 しかし、

 

 ――俺が戦うことで、彼らの痛みや、苦しみを、遠ざけることが出来るのであれば……。

 

 いま、この場に限っては、彼女の望む、天使然と振る舞っても、いいかもしれない。

 

 桜坂は、束の間、瞑目した。

 

 次に瞼を開けたとき、そこには、まさしく金剛力士そのものの、闘争心荒ぶる顔があった。

 

 普段、彼の強面を見慣れているはずの酒井でさえ、思わず息を呑んでしまう。人間とは、これほどの怒りを顔に表せるのか、そう思わずにはいられない顔だった。

 

 桜坂は美久の身体をそっと地面に横たえた。片膝を立て、ゆっくりと立ち上がる。スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイをはずした。次いで白いワイシャツの第一ボタンをはずすと、首回りの筋肉の凝りをほぐすように、二、三度かぶりを振る。

 

「酒井さん」

 

「はい」

 

「桐野さんのことを、お願いします」

 

「はい」

 

 自分のことを、新入社員の時代からよく知っている年上の部下に後を託して、桜坂は、また、彼らに背中を向けた。

 

 猛然と走り出した彼を見て、青山たちの口から悲鳴が上がる。

 

「桜坂さん!? ま、待ってください!」

 

「青山課長」

 

 慌てて追いかけようとする彼らを、酒井が両腕を広げて制した。

 

「申し訳ありませんが、少しの間、この場でお待ちください」

 

「何を言っているのですか!? 早く、桜坂さんを止めないと!」

 

「……いまから、皆さんにお見せするのは……」

 

 酒井は信じられない速さで異形のISとの隔たりを詰める桜坂の背中を示して言った。

 

「我々パワードスーツ開発室の……いえ、アローズ製作所の、最大の秘密です。どうか、他言無用でお願いします」

 

「……いったい、何を?」

 

「スーパーマンですよ」

 

 酒井は、実直な性格の彼にしては珍しく、諧謔めいた口調で呟いた。

 

「スーパーマンの、出番です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 XI-02の右腕に搭載されたエネルギー・ブラスト・システムは、ISのシールドバリアーにも有効打を叩き込める、極めて強力な武装ではあるが、その一つをもって、敵ISとの圧倒的性能差をゼロに出来るほどの装備でもなかった。

 

 たとえば、ISはPICや各種のスラスターを駆使することによって、高高度では超音速飛行が、地上であっても、時速数百キロメートルでの機動を可能としている。他方、XI-02には、これほどの速さで動き回る相手に対し、攻撃を当てるためのシステムが組み込まれていない。

 

 災害救助用パワードスーツにとって、武装は、あくまでも非常時の備えでしかない。ガラス・レーザーを効率よく運用するための管制装置……FCS(Fire Control System)の類いは、当然、非搭載だ。最初の一発目が命中したのは、敵にとっては未知の兵装であり、結果として、不意打ちの効果を得られたことに起因する、奇跡のような出来事だった。

 

 そして、奇跡は二度も三度も、立て続けに起こるものではない。

 

 標的をXI-02に改めた敵ISが、土居に対して採った戦法は、とにかく動き回ることだった。

 

 全身に配置された姿勢制御スラスターとPICを駆使することで、XI-02のセンサーでは対処困難な速度に到達。土居が、ヘッド・マウント・ディスプレイに表示された敵の映像を見て狙いを定め、ガラス・レーザーを発射したときにはもう、背後に回り込んでいるなど、翻弄しながら接近し、これを叩くということを繰り返した。

 

 殴られる度、土居はそちらを振り向き、反撃のレーザーを撃ったが、そのときにはもう、相手は射程外へと逃れている。そんな、出来の悪いコメディ・ショーのようなことを四度、五度と繰り返しているうち、ダメージの蓄積が、XI-02から俊敏な動作を急速に奪っていった。

 

 超々ジュラルミン製の堅牢な装甲も、防弾・防刃性に優れるケブラー製のインナースーツも、ISのパワーが相手では、長くはもたなかった。殴打の衝撃が装甲を突き破るようになると、最初に衝撃吸収装置が白旗を掲げた。次いでパワーアシスト機構が、通信機が、次々に機能を停止させていく。

 

 パワーアシスト機構の停止により、高性能パワードスーツはただの重たい鎧となった。

 

 九二キログラムが、元器械体操の選手、土居の身体を押し潰そうとする。

 

 背後から、敵ISの襲撃。丸太のように太い腕による、ウェスタン・ラリアットが、首の後ろに炸裂した。頭と、胴体とが引き千切られるような痛み。絶叫とともに、土居の身体が吹っ飛んだ。もんどり打って地面を転がり、何かにぶつかり、止まった。先ほど、見学団へのパフォーマンスに使用したプロボックスだ。バンパーに手をかけ、車を支えに、よろよろ、と立ち上がる。ただ立とうとするだけの動作なのに、鎧の重みがありとあらゆる関節を苛んだ。

 

 異形のISが、両膝が震えている土居の前に降り立った。相手の性能低下は著しい。もはや、スピードで翻弄する必要はない、と踏んだか。

 

 ――この野郎!

 

 渾身の力を振り絞り、右腕を、前に伸ばした。「ブラスト!」と、音声入力式トリガーを引き絞る。しかし、何も起こらなかった。何度目かの殴打の際、咄嗟に右腕を盾に頭部をかばったときに、エネルギー・ブラスト・システムをやられてしまったのだ。

 

 それならば、と拳を握り、殴りかかる。

 

 よろよろ、とした、鈍い動き。

 

 当然、シールドバリアーに阻まれ、攻撃は届かない。

 

 それでも、と万に一つの可能性を信じて、押しつけ続けていると、異形のISが、その手首を掴んだ。一六〇キログラム超の身体を、まるで玩具の人形を扱うかのように上へと引き上げ、空中で振り回す。

 

「おお、おおおおお……があッ」

 

 プロボックスのボンネットに叩きつけた。衝撃と重みでボディが凹み、エンジンルームが崩れる。陥没に腰を飲まれ、XI-02は身動きが取れなくなってしまった。

 

「うぅ……っ!?」

 

 苦悶の呻きを発した後、息を呑んだ。

 

 顔に、右手の掌を押しつけられていた。荷電粒子砲の砲口からは、淡い光が漏れ出ている。

 

 開いた指の向こうで、不気味な能面が、これで終わりだ、と無言のうちに語ってきた。

 

 頬に押しつけられた死の恐怖に、背筋が震えた。

 

「……へへっ」

 

 それなのに、自然と、苦笑がこみ上げてきた。

 

 “死”という存在を、こんなにも間近に感じるのに、そうなる未来が、まるで見えてこなかった。

 

「一分だ」

 

 傷つき、痛めつけられ、疲弊しきった声が、唇をついて出た。

 

 まだ喋る余力があったのか、と、ISの指先が僅かに動揺する。

 

「一分、もたせてやったぞ。へへへっ。……これで、お前は終わりだよ」

 

 まるでアニメ映画の世界から飛び出してきたかのようなデザインの仮面の下、相手からは見えぬと承知の上で、土居は、にやりと笑ってみせた。

 

「俺たちのボスは、ガキ大将気質だからよぉ。部下が、目の前で痛めつけられている光景なんて目にしたら、必ず、立ち上がってくれる。一分もあれば、準備を終えて、必ず、駆けつけてくれる!」

 

 異形のISに備わるハイパーセンサーが、背後からの、強襲の気配を捉えた。

 

 三十メートル後方で、地面を蹴る音。

 

 振り返り、音のした方に向けて右腕を突き出した瞬間、目の前に、鉄拳が迫っていた。

 

「うちのボスは、最強なんだ。お前は、終わりだよ」

 

 シールドバリアーを、突破された。

 

 顔面を殴られ、そのエネルギーが、五体を吹き飛ばした。

 

 姿勢制御スラスターを噴かす暇もない。

 

 PICで、慣性力を相殺する間もない。

 

 音速を凌駕する速さで吹き飛ばされ、気がつけば、スタジアムの壁に激突していた。

 

 凄まじい運動量の衝突に、分厚いコンクリートの壁に亀裂が走り、ひび割れ、崩落する。あまりの衝撃に、スタジアム全体が動揺した。コンクリート片と一緒に、ISの身体も地面へと落下する。

 

 もうもう、と土煙が上がった。

 

 姿勢制御スラスターを噴かして、機敏に立ち上がる。

 

 いったい何が起こったのか、と、プロボックスが駐車している方へと視線をやった。

 

 仁王のごとき面魂をした、六尺豊かな大男が立っていた。プロボックスの沈んだボンネットから、一六〇キログラム超のXI-02を救出している。

 

「待たせたな」

 

「来てくれる、って、信じていましたよ、室長」

 

 男は、XI-02のアルミ合金製の仮面に完爾と微笑みかけた。肩を支えながら立ち上がらせると、その姿が消えた。

 

「!!!??」

 

 慌てて、異形のISは頭部を振り回した。ハイパーセンサーの機能を総動員して、彼らの姿を探す。

 

 いた。入場ゲートのすぐそばに、何人もの男たちが集まっている。仁王の顔の男は、XI-02を彼らに任せると、ゆっくりとした所作で、こちらを振り返った。地面を蹴る。姿が、また消えた。直後、顎先に衝撃! 下方より、鋭いアッパーカットが炸裂! 頭と、胴体が、力尽くで引き千切られた。

 

 異形のISの頭部が、くるくる、と宙を舞う。

 

 天井にぶつかり、天井を支える支柱と、支柱の間で何度かバウンドし、男の背後に落着した。

 

「……思った通りだ」

 

 仁王の顔の大男……桜坂の唇から、呆れた声が漏れた。

 

 頭部を失ったISが、スラスターを噴かせながら、彼に向かって体当たり!

 

 左に跳び、難なく避けると、桜坂はその背中に向けて呟いた。

 

「なんでわざわざ全身を装甲で覆っているかと思えば……無人機であることを、悟られないためだったか」

 

 頭部を失い、異形っぷりにますます磨きをかけたISが振り向いた。右腕を前に突き出し、粒子加速器がスパーク! 荷電粒子砲が、生身の人間向けて発射された。

 

 桜坂は、動かなかった。

 

 いや、動けなかった。

 

 さしもの超人も、秒速一万四千キロメートルもの速さで射出された荷電粒子の奔流を避けることは出来なかった。

 

 出来なかった、が――、

 

「……温い」

 

 荷電粒子砲は、桜坂の胸板へと叩き込まれた。

 

 微動だに、しなかった。

 

 十四トンの運動量も、九八ギガジュールの熱量も、彼の生命活動に終止符を打つにはいたらなかった。

 

 白いワイシャツが、燃える。

 

 あっという間に燃え尽きて、男の上半身が露わとなる。

 

 ロダン彫刻のような肉体だった。

 

 勿論、脂肪が沈着して太った筋肉ではない。鍛え上げられた無数の筋肉の糸が束になって出来た、屈強なる肉体美だ。特に、肩と腕の付け根の筋肉の発達が著しい。

 

 荷電粒子砲の直撃を受けながら、平然とこちらを睨む男の姿に恐れを抱いたか、異形のISがたじろいだ。

 

「ぬるま湯のように、心地よい!」

 

 右肩の筋肉が隆起した。男が、拳を握ったのだ。

 

 彼の姿が、視界から消えた。これで三度目だ。今度の衝撃は、腹部。コンマ・ゼロ数秒のうちに間合いを詰めた桜坂は、腰を沈め、脇を締め、まるで武術の教科書にでも載っていそうな、お手本のような逆突きを、相手の胴体にお見舞いしていた。シールドバリアーを貫通し、装甲を突き破り、中のメカニズムをズタズタに破壊し、反対側の装甲さえも突き抜ける。腕を引き抜くと、女の下腹部に、大穴が穿たれていた。

 

 左脚を軸に、右足を、体をひねりながら、腰の高さで鞭のように振るった。

 

 回し蹴りが機械仕掛けの女の腰を砕き、その身をまた吹き飛ば――、

 

「……いちいち追いかけるのは、面倒だ」

 

――さない。蹴りと放つと同時に地面を滑るように動き、先回りした桜坂の左右の拳が、連続して女の右肩を襲撃した。血煙のように、火花が散る。打撃の衝撃で千切れた右腕が、プロボックスのボンネットの凹みへと吸い込まれた。落下の衝撃がガソリンを怒らせたらしく、爆発とともに、炎に飲み込まれる。

 

「社用車二台に、開発中のスーツ二着。そしてなにより、俺の可愛い部下を、三人! ……傷つけられた!」

 

 右腕を失った相手にも、桜坂は容赦しなかった。

 

 頭上で両手を結び、拳のハンマーを首の位置に、連続で叩き込む。

 

 一撃、打ち込むその度に、彼女の身体が悲鳴に悶えた。

 

「そう簡単には終わらせねえぞ! たっぷり、痛めつけてから、スクラップにしてやる!」

 

 女が、長大なる左腕を振るった。

 

 首を狙ったフックの一撃を、桜坂は手刀と変えた右手で弾き飛ばした。

 

 そちらに気をとられたその一瞬の隙を、敵ISは衝いた。

 

 胴体前面のスラスターをすべて、一斉に噴かすことで、離脱を図る。

 

 炎の奔流が桜坂を襲い、その視界を真っ赤に染め上げた。

 

「わっ、ぷっ」

 

 全精力を振り絞っての後退だった。

 

 思わず噴射炎を飲み込んでしまい、怯んでいるうちに、二十メートルのアドバンテージを得た。左腕を前に突き出し、粒子加速器にエネルギーをチャージ。マックス・パワーの一発でもって、起死回生を目論んだ。

 

 桜坂が炎に顔をしかめた時間は短かった。

 

 手団扇を振るって火の粉を吹き飛ばした彼は、左腕を構える敵の姿を認めて、好戦的に笑ってみせた。

 

「いままでより強力な一撃を撃ち込むつもりか。……いいぜ? 待ってやるよ」

 

 桜坂は、両腕を広げてみせた。ここに撃ち込んでこい、と芝居かかった所作で、心臓の糸を示す。

 

 時が、じりじり、と流れた。

 

 やがて、本社ビルの方でも試験場の異変に気づいたか、緊急事態を告げる、火災報知器の音が超人の耳膜を叩いた。

 

 異形のISの左手が、流れるように動いた。

 

 桜坂ではなく、入場ゲート付近の一団のもとへと、荷電粒子砲の砲口を向けた。

 

「……そう来るだろうと、」

 

 銃口を向けた先に、桜坂がいた。

 

 いったい、いつの間に移動したのか。

 

 ISのハイパーセンサーをもってしても、その動きを捉えられなかった

 

「思っていたぜ!」

 

 構わず、荷電粒子砲を撃った。

 

 異形のIS……ゴーレムⅠの発揮しうる、最大の火力。

 

 十グラムもの陽子を、光速の十パーセント……秒速三万キロメートルもの速さで、射出する!

 

 先ほどと同様、胸板で受け止めた。

 

 力の強さは、先ほど喰らった荷電粒子砲の二十倍。エネルギーの総量にいたっては、およそ四六倍の威力。それを、

 

 それを――、

 

 男は、平然と受け止めていた。

 

 ダメージは、見られない。

 

 攻撃を受け止めている部分の皮膚が、僅かに、赤く変色しているぐらいだ。

 

「……こんなものかよ、最強兵器」

 

 思わず、溜め息がこぼれた。

 

 荷電粒子砲の照射を受け止めたまま、一歩、二歩と、くろがねの女を目指し、前進する。

 

 応じて、異形のISも、一歩、二歩と後ずさった。

 

 七歩、八歩……十三歩目で、壁にぶつかる。逃げ場がないことを、悟る。

 

 恐慌状態に陥ったか、敵ISは荷電粒子砲の照射をやめ、一転して前へと躍り出た。

 

 左腕を振り回しながら、空中から桜坂に襲いかかる。

 

 桜坂の鉄拳が、一条の光へと変じた。

 

 襲いくる巨大な拳を、拳をもって迎撃した。

 

 拳骨と、拳骨とが正面からぶつかり合う。

 

 片方が、砕けた。

 

 破損箇所から亀裂が走り、女の左腕を、肩の付け根の部分まで、完全に破壊した。

 

 両腕を失った女に、桜坂は飛びかかった。

 

 鉄拳が、今度は乳房を打った。

 

 音の速さを置き去りにしながら繰り出された、脅威の左ジャブ。

 

 次いで、右ストレート。その繰り返し。

 

 一瞬、遅れて生じた衝撃波が、スタジアム内の空気をかき乱す。

 

 ボディを打つ度、女の体表で、オレンジ色の光芒が輝いた。

 

 やがて、女の体が、くたり、と地面に突っ伏し、そのまま動かなくなった。

 

 最強兵器ISが、生身の男に敗北した瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter23「怒れる天使」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃。

 

 IS学園、第二アリーナ。

 

 渾身の力で振るった一太刀のもと、胴を斬割され、その場に倒れ伏し、動かなくなった謎のISの骸を、鬼頭は油断のない眼差しで見つめていた。

 

 相手はこちらの常識の外の存在……世界で初めて確認された、無人なのに稼働するISだ。普通のISであれば、行動不能となるダメージであったとしても、再起動の懸念は捨てられない。

 

 ために、鬼頭は敵を切り斃した後も、教員部隊が到着するまでは、と、レーザー光に輝く《葵》を握ったまま、警戒の姿勢を取っていた。

 

【――敵ISの再起動を確認】

 

 やがて、案の定、異形のISは突然、その身を、ぶるり、と震わせた。

 

 鬼頭はすかさず《葵》を正眼に取った。中段の構えとも呼ばれる、攻防自在の、基本の構えだ。敵の次なる行動に身構える。

 

 はたして、謎のISの取った次の手は、鬼頭はおろか、アリーナをモニターする千冬たちでさえ、予想だにせぬものだった。

 

 異形のISは、倒れた状態のまま首を、ぐるり、と回して天を仰ぐと、不規則に並んだセンサー・レンズから、空間投影式のディスプレイを出力した。ディスプレイには、日本語の文字列が表示されている。単なる単語の羅列ではなく、きちんと文法に則った、意味ある文章だった。

 

「……なんだ、これは?」

 

 敵の思わぬ行動に困惑しながらも、鬼頭はディスプレイを読み、思わず目を見開いて茫然とした。

 

 ピットルームの千冬たちも、同様の顔で息を呑む。

 

 そこには、

 

 そこには――、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、名古屋市名東区にあるアローズ製作所の実験用ドームでも、IS学園第二アリーナと同様の光景が繰り広げられていた。

 

 先の一戦で桜坂が殴り千切った敵ISの頭部から、突如として、やはり空間投影式のディスプレイが出力されたのだ。勿論、そこに日本語からなる文章が表示されているのも同様。桜坂は近づいてそれを読み、忌々しげに、表情を硬化させた。

 

 そこには、執筆者の性格をうかがわせるポップな文体で、驚くべき内容が記されていた。

 

『この文章を読んでいるということは、あのゴーレムを倒したんですね。流石です! そんなあなたに、気前の良いわたしから出血大サービスのプッレッゼント♪ このISに使っているコアをあげちゃいます! このコアを使って、あなたたちの思う未来を、実現しちゃってください!』

 

「…………」

 

 これは、メッセージだ。

 

 この無人機を送り込んだ相手は、はじめから自分と戦わせるつもりで、かつ、自分の勝利を疑わなかった……己のこの能力のことを、知っていたということか。

 

 いったい、何者なのか?

 

 ――……いいや。

 

 桜坂は、小さくかぶりを振った。

 

 そうだ。

 

 何者であるかなど、もはや関係ない。

 

 このISを送り込んできた相手は、自分の可愛い部下を傷つけた。

 

 ――絶対に、許してやるものか……!

 

 かたく拳を握りしめながら、桜坂は、このメッセージの向こう側にいるであろう誰かに向けて、胸の内で、怒りの炎を燃やしていた。

 

 

 

 

 

 

 




オリジナルIS

打鉄 Ki ver.1.10

型式 強化外装・六一式 鬼頭智之仕様
世代 第二世代
国家 日本
分類 近接両用型
装甲 耐貫通性スライド・レイヤー装甲
仕様 防御シールド高速修復およびBT試作型
主な兵装 近接ブレード《葵》
     アサルト・ライフル《焔備》
     有線式BT攻撃端末《ミニ・ティアーズ》×2
     その他、後付兵装

 イギリス国からの依頼によりBT兵器の研究開発をすることになった鬼頭が、自身の打鉄にもそのシステムの試作型を搭載した機体。

 有線式BT攻撃端末と、BT兵装用の専用OSを搭載し、機体にはその運用のための改修が施されている。

 主な改修点は

● 機体全身にBTエネルギー供給用の特殊バイパスを増設
● 機体背部に有線式BT攻撃端末《ミニ・ティアーズ》二基と、そのためのウェポン・ラックを増設
● 機体背部にBTエネルギー貯蔵用のタンクを増設
● BT用OS《オデッセイ》の搭載
● 上記改修による、量子格納領域(=搭載可能な後付兵装)のさらなる減少

 これらの改修により、以前と比べて戦闘力が強化されている。



オリジナル兵装

鬼頭智之製作 有線式BT攻撃端末《ミニ・ティアーズ》

出力  1.8MW
直径  300mm
重量  4,000g
動力  IS本体からのエネルギー供給方式

 イギリス国からの依頼を受けて鬼頭智之が製作した、有線式のBT攻撃端末。

 強力ではあるものの、複雑な構造がために取り扱いの難しい《ブルー・ティアーズ》の欠点を克服するべく、構造の簡略化による扱いやすさの向上を目指して設計された。武装はレーザービーム砲のみ。

 《ブルー・ティアーズ》との最大の相違点は、誘導方式を有線式としたことで、これにより、BT適性の低い鬼頭でも俊敏な動きを可能とするほど、操縦性はマイルドになっている。また、有線式としたことで、ケーブル内にエネルギー供給用のバイパスを通せるようになったため、搭載しているレーザー砲の出力も、《ブルー・ティアーズ》より若干向上している。

 その形状は直径三十センチメートルの円盤型で、誘導用のケーブルはボビンのよう収納されている。ケーブルの長さは五十メートルだが、まだ試作段階とあって、今後延長するかもしれないことを見越して、最大で百メートルが収容可能な造りとなっている。

 ちなみに、これを見た陽子の第一声は「インコム!?」だったそうな。

 部材のほとんどを専用部品ではなく、規格品とすることで、生産性・整備性も《ブルー
・ティアーズ》より向上している。こうした、専用機械・専用部品よりも、汎用器械・共通部品を多用するやり方は、GMを手本としたもの。この男、車好きが過ぎる……!

 名前の由来は、イギリスの国民車“ミニ”から。



オリジナル・パワードスーツ

XI-01(最新ver)

型式 災害用パワードスーツ・プロトタイプ第一号
開発元 アローズ製作所・パワードスーツ開発室
装甲 超々ジュラルミン、ケブラー繊維

頭頂高 250cm
スーツ本体重量 148kg
全備重量 210kg ~ 280kg
膂力 800kgをリフトアップ可能
パンチ力 1.5t ~ 2.1t
キック力 1.7t ~ 2.2t
走力 50.2km/h(整地走行)
ジャンプ力 1.2m
連続最大稼働時間 12時間

 アローズ製作所が開発した災害用パワードスーツのプロトタイプ第一号。

 同社がはじめて作るパワードスーツとあって、後継機のXI-02と比べれば低性能だが、それでも、パワードスーツとして基本的な性能は有している。最大の特徴はオートフィット機構を標準装備していることで、これにより身長160~190cm、体重50~120kgの範囲内であれば、特別な調整なしに誰でも装着することが出来る。

 その見た目は、ロバート・ハインラインのSF小説に登場する機動歩兵そのもの。

 戦闘目的で作られていないのはもとより、災害用パワードスーツとして見ても運動性は低く、格闘戦には向かない。



XI-02(最新ver)

型式 災害用パワードスーツ・プロトタイプ第二号
開発元 アローズ製作所・パワードスーツ開発室
装甲 超々ジュラルミン、ケブラー繊維

頭頂高 200cm
スーツ本体重量 92kg
全備重量 155kg ~ 225kg
膂力 2,000kgをリフトアップ可能
パンチ力 2.8t ~ 4.2t
キック力 6.0t ~ 9.0t
走力 104km/h(整地走行)
ジャンプ力 13.5m
特殊兵装 エネルギー・ブラスト・システム(最大2.0MW)
連続最大稼働時間 10時間

 アローズ製作所が開発した災害用パワードスーツのプロトタイプ第二号。

 XI-01の運用データを基に算出した、理想の災害用パワードスーツの性能に、現在の技術力でどこまで近づけるのか、を追求する目的で開発された。いわゆる性能実証試験機だが、量産化も視野に入れて設計されており、災害用パワードスーツとして実戦を想定した装備が搭載されている。

 XI-01と比べてかなり小型だが、アローズ製作所の介護事業部が開発した新素材を人工筋肉に採用することで、むしろパワーは増している。

 最大の特徴は、右腕にガラス・レーザー発振器を搭載していることで、これは最大出力二・〇メガワットと、ISのシールドバリアーにも有効打を与えうるほどの威力を誇る。

 開発当初はこれらの新装備や高性能ぶりから稼働時間に問題を抱えていたが、後に鬼頭智之がISの量子化技術を参考に開発した遼子化技術により、バッテリーの小型化・大容量化に成功。問題は解決されている。

 唯一の決定は装甲部材。超々ジュラルミンは強度に優れるが、他の金属素材と比べて耐熱性が低い。このままでは火災現場での運用に難あり、と評されており、現在は新たな装甲材を装備した二号機の開発が検討されている。

 見た目は某機動戦士シリーズに登場する量産機のよう。



超人

桜坂

身長 180cm
体重 80kg
膂力 800tをリフトアップ可能
パンチ力 1,000t
キック力 2,000t
走力 5,000km/h(整地走行)
ジャンプ力 最大5,000m

 超人。

 彼の全力を知っているのは、この世界に一人しかいない……。




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Chapter24「謝罪とお礼」


少しずつ、少しずつ、

前へ、前へと。


鬼頭のことを、みんなが受け入れてくれるように。





 

 時計の針を、少しだけ、巻き戻す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 混乱。

 

 喧噪。

 

 停滞。

 

 怒号。

 

 そして、悲鳴。

 

 IS学園第二アリーナの廊下は、どこもかしこも、人、人、人の群れで埋め尽くされていた。

 

 多くは、学園の制服がまだ初々しい、一年生の少女たちだ。避難誘導員の役を買って出た上級生たちの指示に従って、非常用の出入口へと急いでいる。アリーナの各所に設置された、放送用のスピーカーから発せられた避難指示を受けての行動だ。『緊急事態発生! 館内にいる全生徒、全職員は、非常時対策マニュアルのCプランに従って、速やかに館外へ避難してください!』と、緊迫した声に尻を叩かれながら移動する彼女たちの顔には、等しく、怯えと焦燥、そして苛立ちに由来する攻撃性の萌芽が見て取れる。

 

 いったい何が起こっているのか。いやそれよりも、早くこの場から逃げなければ。いま、アリーナでは正体不明のISが暴れている。アリーナの遮断シールドを破壊してしまうほどの攻撃力を持った相手だ。いつ、この分厚い壁を破って、自分たちの前に現われるかも分からない。一秒でも早く、一メートルでも遠くに……! それなのに、前を歩いているあの娘の背中が邪魔だ! もっと速く走れないのか!? 先ほどからやかましい、警報装置のサイレンの音も、心臓を余計に高鳴らせて鬱陶しい。苛立ちが募って、しょうがない!

 

 一年一組の女子生徒、相川清香も、正確な情報を得られないフラストレーションに起因する混乱と、謎のISに対する恐怖から強いストレスを感じている一人だった。

 

 ハンドボール部に籍を置き、毎朝のジョギングが日課という健康的なスポーツ少女だ。文武両道の体現者たる才媛だが、さすがに、斯様な命の危機と遭遇した経験はない。彼女は冷静さを失い、気が動転していた。

 

 非常口へと先導する先輩の背中を頼もしく思う一方で、もうちょっと速く移動出来ないものか、と、恨めしく思うのを禁じえないでいる。そのうえで、自身のそうした考えが、理不尽なものである、との自覚もあり、自分はこんなにも汚い人間だったのか、とショックから顔を青くしていた。

 

 ほんの数分前まで、彼女は級友の布仏本音や夜竹さゆからと、クラスメイトの勇戦ぶりを、ハラハラしながら楽しんでいた。クラス代表対抗戦、一年生の部の、第一試合を観戦していたのだ。対戦カードは、織斑一夏対凰鈴音。ともに専用機持ちという特別な立場に加えて、かたや世界にたった二人しかいない男性操縦者の一人、かたや中国からの代表候補生という、大金を積んででも観る価値のある試合だ。当然、観客席は彼女たちの他にも多くの人で賑わっていた。一年生だけでなく、上級生や学園の教員たち、裏方のスタッフなどもほぼ全員が詰めかける、さながらカーニバル会場のごとき状態だった。

 

 肝心の試合内容も、彼女らの期待を良い意味で裏切ってくれた。

 

 専用機持ちとはいえ、一夏はつい先日ISを動かせることが判明したばかりの初心者だ。他方、対戦相手の鈴は、僅か一年であの人口大国・中国で、代表候補生の座を射止めたほどの実力者。試合は、十中八九、織斑一夏の完敗。よくて鈴の辛勝だろう、というのが、清香たちも含む大方の事前予想だった。

 

 しかし、蓋を開けてみれば、どうだ。一夏は中国の代表候補生と互角以上に戦ってみせた。衝撃砲を攻略し、《双天牙月》の連打を凌ぎ、逆に《雪片弐型》を縦横に振るって相手を追い立ててみせた。一夏の思わぬ善戦ぶりに、観客席は興奮の坩堝と化し、其処彼処から黄色い悲鳴が上がった。必殺の『零落白夜』が炸裂し、鈴のISのシールドエネルギーの残量が二割を切ったときなど、普段は物静かなさゆかが、思わず歓声を上げたほどだ。それほど間に、見る者の心を揺さぶる好試合だった。

 

 そんな闘争心を刺激する戦いも、やがて決着のときを迎えようとしていた。

 

 一夏の猛攻の前に、ついに鈴が追いつめられた。

 

 あと一太刀。

 

 どの部位でもいい。

 

 とにかく、あと一太刀、相手のボディに触れることさえ出来れば、一夏の白星が決まる。

 

 決着の瞬間を決して見逃すまい、と観客席の誰もが固唾を呑んで見守る中、不躾なる乱入者は、突然現われた。場内で激しくぶつかり合う二人が、熱中のあまり試合場の外へ飛び出さぬように、と天井代わりに展開していた遮断シールドを突き破って、異形のISが場内に降り立った。

 

 IS研究の最前線、IS学園に通う清香たちをして、はじめて見るタイプのISだった。

 

 闇色に彩られた全身装甲。異様に長く、下腕がビール瓶のように膨らんだ腕。その頭部はフルフェイス・タイプのヘルメットによって覆われ、面覆いでは、不規則に並んだ複数のセンサー・レンズが不気味に輝いている。国籍や所属団体を示すマークはどこにも見られず、まさしく正体不明の機体だった。いったい、何者なのか。観客席の清香たちが困惑していると、謎のISは、警戒の姿勢をとる一夏たちに向けて攻撃を開始した。掌に設けられた四門の開口部より、荷電粒子の奔流が撃ち放たれ、場内に取り残された二人を追いつめていく。

 

 謎のISからの害意を認めて、観客席の少女たちは等しく総毛立った。

 

 本来、非常事態の発生をアナウンスしてくれるはずの放送室はなぜか沈黙したままだが、何が起こっているのかは、誰の目にも明らかだ。間違いない。

 

 IS学園は、

 

 自分たちの通う、この学び舎は、

 

 ――攻撃されている!? まさか、このIS学園が……!?

 

 清香の驚きは、IS学園を進学先に、と選んだ少女たち全員が等しく抱いた思いだった。

 

 最強兵器ISを、常に三十機以上も保有しているこのIS学園は、世界屈指の戦闘力を誇る軍事施設でもある。そんな場所に手を出してくる相手がいるなんて……! 相手はいったい何者なのか? 敵の数は? 狙いは? いやそもそも、これは正気の沙汰なのか……? 

 

 茫然とする清香たちの耳膜を、背後からの悲鳴が激しく揺さぶった。

 

 今度はいったい何が起こったのだ!? と、慌てて振り返り、少女たちは絶句した。

 

 観客席エリアと廊下とをつなぐ横開きのドアを、一人の女生徒が必死の形相で叩いている。フランスからの留学生だ。いつまで経っても放送室からの避難勧告のアナウンスがないことに痺れを切らし、この場から逃げ出さねば、と席を立ったはいいが、肝心の扉が開かずに、困っているようだった。

 

 アリーナ内の扉はすべて、産業スパイ対策のため電子錠によって管理されている。扉脇の壁面に設けられた非接触式センサーの前に生徒手帳をかざすと、ドアのロックが解除される仕組みだが、どうやらそれが反応してくれないらしい。生徒手帳を何度掲げても、うんともすんとも言わず、早くこの場から逃げなければ、という焦りが、動揺という火縄に、パニックの火を灯した。恐慌状態に陥った彼女は、無駄だと承知の上で、特殊軽合金製の戸を激しくノックした。少女の白い手が、たちまち真っ赤に変色していく。

 

「開かない!? ねえ、なんで? なんで開かないのよ!?」

 

 見回せば、他の出入口でも同じような光景が見られた。どうやら、第二アリーナのすべての扉が、同様の不具合を見せているらしい。自然、清香たちの目線は、一夏たちと戦う異形のISへと向けられる。

 

「まさか、あのISの仕業なの……?」

 

 状況から判断するに、間違いなさそうだった。

 

 

 第二アリーナに数十とある扉のすべてが、一斉に故障を起こすなんて事態、自然な現象とは考えづらい。あのISか、その仲間が、自分たちの退路を断つために引き起こしたことだろう。

 

 おそらく、IS学園は現在、電子的な攻撃を受けている。外部からのハッキングによりセキュリティ・システムを掌握され、ために、扉の電子制御が効かないのだ。そうやって考えると、放送室がいまだ沈黙したままなのにも納得出来る。放送室にあるすべての設備の制御を奪われ、避難指示を出したくとも、出せない状況にあるのだろう。そういえば先ほどから、試合場内の一夏たちの声も聞こえない。さっきまで、オープン・チャンネルを用いての会話は、スピーカーから聞こえていたのに。

 

 閉じ込められた、と状況を飲み込んだ少女たちは騒然とした。特に、一年生の娘たちの動揺が酷い。誰かの胸の内で恐怖の感情が爆発し、その恐れが、別の誰かへと伝播する。

 

 観客席は、混乱の坩堝と化した。経験豊富な上級生たちが動揺を鎮めようと声を張り上げるも、虚しく響くのみだった。ほとんどの観客席で、一年生は一年生のグループごとに、二年生は二年生のグループごとに固まって座っていた。パニックに陥った十数人からの集団の手綱を、二、三人しかいない上級生が握るのは難しかった。

 

 変化の兆しは、突然現われた。

 

 謎のISの出現からおよそ一分の後、それまで、沈黙を保っていた館内のスピーカーが、一斉に、声を発した。

 

『っ! 放送室設備の復旧を確認!』

 

 聞こえてきたのは、今回のクラス対抗戦のアナウンサーを任されたという三年生の放送部員の声だった。彼女の呟きから、やはり放送室のコントロール権を奪われていたのか、と解答を得る。そしてそれがこちらに戻ってきたということは……、ほどなくして、放送部員の生徒の絶叫が、館内に響き渡った。

 

『緊急事態発生! 現在、当学園は正体不明のISからの攻撃を受けています! 館内にいる全生徒、全職員は、非常時対策マニュアルのCプランに従って、速やかに館外へ避難してください! また、二年生以上の生徒会執行部、防災委員は、一年生の避難誘導に従事してください! 繰り返します。緊急事態発生……』

 

 館内にいる全員に周知させるため、繰り返し述べられるアナウンスの、一回目が終わろうかというタイミングで、閉ざされていた扉の電子ロックが解除された。自動的に開き、開いた状態で、ストップ・ロックがかけられる。

 

 清香たちのいる区画に、ぞろぞろ、と上級生たちがやって来た。彼女たちは自らを、防災委員会の者です、と名乗ると、自分たちの指示に従って避難するよう、一年生の娘たちに告げた。少女らはほっと安堵の表情を浮かべたが、タイミング悪く、謎のISの荷電粒子砲が白式のウィング・スラスターに命中! 小爆発の音がスピーカーから発せられ、その脅威の火力を思い出してしまう。すぐにまた、怯えた表情になった。我先に、と逃げ出そうとするのを、上級生たちが必死になだめる。

 

「落ち着いて! 前の人を押さないで!」

 

 軍事施設としての活用も考慮されている、IS学園の校舎の間取りは、万事が広い。観客席の戸は完全武装の兵員が三人横に並んでも出入り出来るよう、余裕たっぷりに造られているが、それも整然と並んでいればの話だ。順番など関係ない。横入り上等、と詰め寄せる一年生たちの人の波の前に、出入口の排出力はあっという間にパンクしてしまう。

 

 幸い、清香とその友人たちは、機転を利かせた二年生の誘導によって、空いている別の出入口へと案内された。非常口までは少し遠回りになるが、人通りが少ないため、すいすいと進むことが出来た。

 

 ストレスフリーな状況との訣別は早かった。

 

 非常扉のあるエリアまで辿り着いたところで、一行は立ち止まらざるをえなくなってしまった。非常扉に百人からの生徒が殺到し、群れなし、ごった返している。僅かな隙間になんとか身体をねじ込み、進もうとする誰かの肘が当たって、誰かが倒れた。すかさず、三年生の上級生が助け起こすも、転倒の際に腰を打ったらしく、その顔は苦悶に歪んでいた。

 

 統制も何もなかった。誰もが、自らが助かりたい一心で、他者を顧みる心を失っていた。

 

 その有り様を醜いと思う清香だったが、傍目には自分も同じように見えるのだろう、と思うと気が重かった。

 

『そこを動くな!」』

 

 そのとき、アリーナの廊下に設置されたスピーカーから、男の、勇ましき絶叫が轟いた。

 

 有無を言わせぬ制止の声に、出入口に群がる少女たちの動きが一瞬、止まった。

 

 直後に、金属の塊同士が物凄い速さでぶつかる轟音と、圧縮された空気の破裂音。

 

 自分たちが後にした試合場で、何かが起こったと悟る。

 

『二人とも、無事かい?』

 

『智之さん!』

 

 次いで聞こえたのは、優しい口調によるいたわりの言葉だった。鬼頭の声だ。口ずさまれた言葉の内容から察するに、どうやら彼も試合場に降り立ったらしい。先ほどの轟音は、彼があの謎のISを攻撃した音か。

 

 少女たちはその場から逃げ出すことを忘れ、その声に聞き入った。どうやら放送室の者たちは、館内スピーカーの機能設定を、いまだに“試合中”としているらしい。オープン・チャネルを介して交わされる会話のすべてを、スピーカーは拾って聞かせた。

 

 清香も含め、非常扉の前に集まった一同は、会話の内容を一言たりとも聞き逃すまい、と耳目に意識を集中させた。先ほどまでの喧噪が嘘だったかのように、廊下は静まりかえっている。鬼頭、一夏、鈴、三人の声だけが、冷たい廊下に響いた。

 

 三者の会話を忍び聞く清香たちの表情は、やがて強張った。

 

 なんと鬼頭は、シールドエネルギーの消耗しきった二人を後退させ、一人であの黒いISと戦うつもりなのだという。

 

 それを聞き、廊下の清香たちはまた恐怖のどん底へと突き落とされた。

 

 口さがない誰かが、もう駄目だ、もうおしまいだ、と泣き叫ぶ。

 

 鬼頭智之は所詮、ほんの一ヶ月半前にISを動かせることが判明したばかりの初心者だ。専用機持ちとはいえ、ISの累計稼働時間は十時間もあるまい。それに対し、敵は最新鋭の第三世代機が二人がかりで挑んでも苦戦するような相手だ。きっと、歯牙にもかけずにやられてしまうだろう。

 

 鬼頭が倒れれば、あのISは野放しになる。あの脅威の荷電粒子砲を思う存分ぶっ放し、アリーナの設備を破壊し尽くし、そしてやがては、自分たちの前に現われるだろう。近い将来の想像に、少女たちは胴震いした。

 

 一夏と鈴は、鬼頭の申し出に対し、当然、反対の意見を口にした。最新の第三世代機で身を固めている自分たちでさえ苦戦する相手だ。鬼頭一人で戦うなんて、どう考えても無謀すぎる。鈴にいたっては、鬼頭の技量について信用出来ない、ときつい言葉を叩きつけてまで、彼の変心を促そうとした。

 

『ふむ。たしかに、その通りだね』

 

 鈴の指摘に対し、鬼頭は素直に頷いた。

 

 いま試合場にいる三人のうち、最も弱いのは自分である。そう認めた上で、彼はなおも、三人がかりで挑みましょう、という子どもたちの提案を拒んだ。

 

 なぜ、と、重ねて問いただす鈴に、鬼頭は、力強く言い放った。

 

『簡単なことさ』

 

 鬼頭の声は、笑っていた。

 

 少なくとも清香たちには、彼が、笑っているように聞こえた。

 

『きみたちが子どもで、私が大人だからだよ。大人には、子どもを守る義務がある』

 

 なぜか、その言の葉は、恐怖から身をすくめる清香たちの腹中に、すとん、と落ちた。

 

 子どもたちを守る。

 

 自分たちのことを、守る。

 

 鬼頭智之という男のことを好意的に思っている者も、嫌悪感を抱いている者も、はては無関心の者の胸の内にさえ、その声は、印象深く響いた。

 

『それに……』

 

 鬼頭の言葉は続いた。

 

 にこやかな口調から一転、声に、鋭い険が宿る。

 

『……あのISは、きみたちを傷つけた』

 

『と、智之さん……』

 

『この鬼頭智之の目の前で、子どもを傷つけたんだ!』

 

 激昂。普段の彼からは考えられない、荒々しい口調と、言の葉に篭められた憤怒の感情に、清香たちは、びくり、と胴震いした。

 

『二度と失うものか。二度と、間違えるものか! やつは、俺の手で、スクラップにしてやる!』

 

 鬼頭は、吼えた。牙を剥き、吼えた。少女たちがはじめて耳にする、彼の、凄絶な、怒りの絶叫だった。自分たちに向けられたものではない、と分かっていても、恐怖から身を強張らせずにはいられない、凄まじいまでの、憤怒の激情を感じた。

 

 と同時に、清香たちはその声を耳にして、急に、悲しい気持ちになった。

 

 鬼頭の雄叫びからは、怒りとともに、深い悲しみが感じられた。

 

 理由は分からないが、彼女たちは、鬼頭はいま泣いているのでないか、と思った。

 

 なぜか、過日行われた一年一組のクラス代表決定戦の際に、陽子が口にした、「智也兄さん」という言葉が、急に思い出された。

 

「……ねえ」

 

 清香は、やおら前へと踏み出した。

 

 IS競技者としての鬼頭智之の腕前に疑義を唱え、失望感に咽び泣く他クラスの女子に、声をかける。

 

「そんな落ち込んでいる暇があったらさ、早く、ここから逃げようよ」

 

 彼女は茫然とした眼差しで清香のことを見つめ返した。

 

「いまの、聞いたでしょ? 鬼頭さん、わたしたちのことを守る、って言ってくれたよ。鬼頭さんの気持ちに報いるためにも、早く、ここから避難しないと」

 

「……無駄よ。代表候補生や、千冬様の弟が苦戦するような相手に、あの男が勝てるわけ……」

 

「わたしは、信じることにしたよ。鬼頭さんのこと」

 

 清香は、相手の言葉を遮り言った。

 

「いまの言葉を聞いてさ、ああ、もう大丈夫だ、って安心した。この人は、何があってもわたしたちのことを……子どものことを守ってくれる人だ、って思った。だからわたしは、信じることにした」

 

 絶対に守ってみせる、という強い意志を感じた。

 

 勿論、清香が彼のことを信じようと決めたのは、そればかりが理由ではない。

 

 自分たちのために、あんなにも怒ってくれる人。

 

 自分たち、子どものことを思って、あんなにも悲しんでくれる人。

 

 だから、信じよう、と思った。信じたい、と思った。

 

 自分たち子どものことを、本当に、心の底から想ってくれている。

 

 そう感じたからこそ、この人に任せておけば大丈夫だ、と思った。

 

「不思議だよね。IS操縦者としてはまだまだルーキーで、持っているISだって旧式の第二世代機。信じられる要素なんて、何一つないはずなのにね」

 

 清香は苦笑した。

 

 ほろ苦く笑いながら、それでも、と胸の内で呟いた。

 

「きっと、大丈夫だよ。あの人は、わたしたちのことを絶対に傷つけないし、傷つけさせない。傷つけようとする者を、決して許さない」

 

 子どもたちのためならば、鬼となる。

 

 鬼となれる男。

 

 男性の、大人。

 

 父親。

 

 そんな彼だから、信じられる。

 

 自分たちの背中は、鬼頭が守ってくれる。

 

 そう信じていればこそ、焦ることなく、この場から避難出来る。

 

 清香は周囲のみなの顔を見回した。

 

「みんな、落ち着こう。落ち着いて、ここから逃げよう」

 

 少女たちは、互いに顔を見合わせた。直前までの自らの行動を省み、恥じ、そして頷き合うと、防災委員会の先輩の指示を仰ぐ。二列に並んで。落ち着いて。押さないで。上級生たちの指示に従い、整然と隊伍をなした。先刻までの混雑ぶりはいったい何だったのか。非常扉はすいすいと、彼女たちを飲み込み、館外へと吐き出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter24「謝罪とお礼」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無人ISとの死闘を終えて二時間後、鬼頭は以前にも世話になったあの取調室で、過日と同様、千冬から事情聴取を受けていた。話題の中心は勿論、あの謎のISとの戦闘の経過についてだ。戦いの様子は千冬たちもピットルームからモニターしていたが、実際に戦っていた本人たちにしか分からないこと、気づいたことがあるかもしれぬ、という意図から取り調べだった。彼女曰く、一夏や鈴も、別室で同様の扱いを受けているという。

 

 事情聴取は淡々と行われた。千冬が訊ね、鬼頭が質問の内容について所見を述べる、というやり取りが幾度となく繰り返される。時折、質問の主は鬼頭へと変わり、千冬が回答者となる場面も見られた。あのISは本当に無人機だったのか。一夏や鈴たちに怪我はないか。観客席の生徒たちは無事だったのか。それらの問い一つ々々に、千冬は丁寧に答えた。すると、鬼頭はほっと安堵の表情を浮かべた。

 

 取り調べが始まって半刻後、十分な情報量を得たと判断した千冬は、ブック型端末のボイス・レコーダ機能を停止させた。鬼頭に対し、「今日はこのあたりで切り上げましょう」と、提案した。

 

「また後日、こういった席を設けることになるかもしれませんが……」

 

「そのときは、勿論、協力しますよ」

 

「助かります」

 

 パイプ椅子から立ち上がった千冬は、鬼頭に向かって深々と腰を折った。その際、目線が彼の右手へと束の間、向けられる。

 

 鬼頭の右手に、金色の指輪の姿はなかった。戦闘ログの解析のため、彼の相棒はいま、別の教師のもとに預けられている。

 

「鬼頭さんの打鉄は、夜までにはお返ししますので」

 

「そいつはよかった」

 

 鬼頭は微笑を浮かべた。諧謔を孕んだ口調で言う。

 

「このところ、ずっと身につけていましたからね。先ほどから、中指が軽すぎて落ち着かないんですよ」

 

「なるべく早くお返し出来るよう努めます。……それと、」

 

「はい」

 

「今日のことや、この取調室でのことは……」

 

「承知しています。口外はいたしません」

 

「ありがとうございます」

 

「私からも、一つ、お願いしたいことがあるのですが」

 

「なんでしょう?」

 

「弟さんのことです」

 

 自身もパイプ椅子から立ち上がると、鬼頭はやや身を屈めて千冬と目線の高さを揃え、完爾と微笑んだ。

 

「あとで、お姉さんとして褒めてあげてください」

 

 機体の消耗著しい鈴を庇いながら、正体不明の敵を相手によく戦った。彼の健闘による時間稼ぎがなければ、自分のワクチン・プログラムが完成することもなかっただろう。事態が終息するまでの間に、多くの犠牲者が出ていたに違いない。彼の頑張りが、みんなの命を救ったのだ。

 

「きっと、喜ぶと思いますよ」

 

 一夏が姉の生き方やその有り様に憧れと、深い尊敬の念を抱いているのは普段の態度からも明らかだ。彼女からの褒め言葉は、彼にとってなによりの誉れとなろう。

 

 と同時に、これは千冬にとっても弟に好意を伝える好機のはずだ、と彼は確信していた。

 

 自分の見たところ、織斑千冬という人物は口下手なところがある。本当は弟のことを大切に想っているのに、言葉選びが苦手なせいで、なかなか気持ちを伝えられず、普段から苦慮しているように見受けられた。

 

 鬼頭の言葉に、千冬ははじめ渋面を作った。

 

 唇を開き、何か言おうとしては、断念して口を閉ざす、という動作を何度か繰り返した後、彼女は、ぶっきらぼうに応じた。

 

「……考えておきましょう」

 

 弟の敢闘ぶりを素直に褒めるのは気恥ずかしいらしい。渋々呟いた千冬の頬は、やや赤かった。

 

 相変わらず不器用な人だなあ、と鬼頭は苦笑した。

 

 

 

 取調室から退出した鬼頭の視界にまず飛び込んできたのは、愛娘たちの安堵の表情だった。陽子とセシリア。どうやら、鬼頭に対する事情聴取が終わるのを、廊下で待っていたらしい。

 

「父さん!」

 

「事情聴取は、終わったみたいですわね?」

 

「うん。今日のところはな」

 

 鬼頭は二人に向けて完爾と微笑んだ。それから、左手のボーム&メルシェに目線を落とす。時刻はすでに午後三時。謎の無人ISとの死闘とその事後処理、さらには事情聴取のために、昼餉を食いっぱぐれていた。

 

「二人とも、昼食は?」

 

「お父様とご一緒しようと思っていたので、まだですわ」

 

「もう、お腹ぺこぺこだよ」

 

「そいつは悪いことをしたな」

 

 謝罪の言葉を口にして、さて昼食をどうするか、と鬼頭は悩ましげに眉根を寄せた。おとがいを親指の腹で撫でながら、少しの間、考え込む。

 

 千冬の言によれば、クラス代表対抗戦は中止となったという。ということは、校舎側の食堂にしろ、学生寮の食堂にせよ、これらの施設には昼時を過ぎてなお、暇を持て余した生徒たちがたむろしていることだろう。

 

 騒動の最中、自分たちは計測機器の充実しているピットルームにいたことになっている。このまま足を運べば、彼女たちからあのISについて質問責めに遭う公算が高い。

 

 千冬から箝口令を出されていることは勿論だが、いまの精神状態で、無遠慮な質問の嵐を浴びせられるのは勘弁願いたかった。なんといっても、謎のISとの濃密な命のやり取りの直後だ。気力、体力ともに著しくすり減らされた自覚があった。千冬からの事情聴取ですら、本音を言えば避けたかったほどだ。

 

 とはいえ、

 

 ――腹が減っているのは俺も一緒だしな。

 

 がっつり食べたい気分だった。

 

 1122号室のシステムキッチンを使うことも勿論考えたが、料理をしようにも肝心の材料がない。学生生協の売店には、同様の理由から、きっと多くの生徒がいるだろう。食材を求めに足を運べば、結局、質問を集めてしまうに違いない。

 

 しばしの黙考の末、鬼頭たちは、三人並んで学生寮の食堂へ向かうことにした。寮の食堂であれば、利用者は基本的に一年生の生徒たちのみと限られている。せめて質問者の数を少しでも減らせれば、と考えてのことだった。

 

 学生寮への道すがら、三人はクラス対抗戦に乱入してきた謎のISについて話し合った。

 

 いったい何が目的だったのか。誰の手先だったのか。それにしても、無人機とは驚かされた。あのISを送り込んできた相手は、相当な技術力を持った個人か、組織だろう。

 

 やがて、話題はそんな驚異のISに打ち勝った、鬼頭の戦いぶりへとシフトしていく。

 

「それにしても父さん、さっきはすごかったね」

 

「ええ、本当に」

 

 興奮気味に口ずさまれた陽子の言葉に、セシリアも同意を示した。競技者志望でない上に、正規の入学試験も受けていない鬼頭にとって、先の一戦は実質はじめてのISバトルだったはずだ。それなのに彼はよく動き、よく戦い、自身の身に纏うISの性能を十全に発揮して、最終的に、謎の襲撃者を倒してしまった。素晴らしい戦果といえよう。

 

「《オデッセイ》や《ミニ・ティアーズ》の性能もそうですが、それを操るお父様ご自身の技術も素晴らしかったです」

 

「うん。特に、あの最後の一太刀!」

 

 天から地へ。

 

 落雷の如く振り抜かれた打ち込みの迫力を思い出して、陽子は、ぶるり、と胴震いした。

 

「すっごいインパクトだった! 画面越しでさえ、見ていて背筋がゾッとしたよ」

 

「同感です」

 

 陽子が率直な感想を口にすると、セシリアも頷いた。

 

「お父様が、居合をたしなんでいることは知っていましたが……」

 

 娘である陽子はもとより、IS学園ではそれなりに知られていることだ。

 

 少し前に行われたIS実習の授業でのこと、量子格納領域からの武装展開を実践するよう指示された鬼頭は、二回り近くも年下の級友たちの前で、見事な抜き打ちと、真っ向振り下ろしを披露した。その様子を見ていた千冬から、居合の心得があるのか、と訊ねられた際に、応、と頷いたのだ。以来、『鬼頭智之は居合の達人である』という認識は、学園内に広く知れ渡っていた。もっとも、鬼頭本人は、「達人は褒めすぎだ」と、苦々しく思っているのだが。

 

「まさかあれほどの技量だったなんて! IS学園に入学してからというもの、お父様には驚かされてばかりですわ」

 

「昔取った杵柄というやつさ」

 

 鬼頭は気恥ずかしそうに微笑んだ。

 

「居合の技は、昔、友人が遊び半分に基本を仕込んでくれたんだ。もう三十年近くも昔のことだが……まさかいまになって、あのときの経験が役立つとはな」

 

 人生、何がどこで役立つか分らないものだ、としみじみ呟く。

 

 件の友人は中学時代からの付き合いで、壮年と呼ばれる年齢を迎えてから久しいいまでも交流が続いている、鬼頭にとって希有な存在だ。職場をともにしている桜坂を除けば、最も親交深い人物だろう。自分がこういうことになったと知ったときも、真っ先に連絡をし、この身を案じてくれた。

 

 彼女-が自分に居合の技術を叩き込んでくれたのは、高校時代の三年間だけ。教えの内容も、本当に基本的なことばかりだった。しかしそれだけに、薫陶を受けた三年間は鬼頭にとって濃密な時間となった。限られた時間を一秒とて無駄にするまい、との意気込みを胸に、武芸において最も肝要な、基本中の基本、基礎の基礎を、みっちり学ぶことが出来たのだ。自分のような初心者が、あの驚異のISを相手に互角以上に戦えたのも、あの鍛錬の日々があればこそだろう。

 

「剣術もそうだけど……」

 

 誇らしげに微笑みながら、陽子が言った。

 

「わたし個人としては、父さんの度胸に感心させられたな」

 

 繰り返しになるが、鬼頭にとって先の一戦は初のISバトルだった。それも、自身の命の危機が考えられる、本当の意味での実戦だ。しかもその相手は、アリーナの遮断シールドを破壊するほどの火力を誇る脅威のIS。それに対し、父の専用機は、新型のOSやBT兵器の追加といったチューニングが施されているとはいえ、所詮、一世代前の旧型機に過ぎない。

 

 彼我の戦力差を考えると、緊張や、死の恐怖が皆無だったとは考えづらかった。自分が同じ立場であったなら、この身はきっと、未体験の怖さから萎縮し、本来の実力も発揮出来ないままやられていただろう。

 

 陽子からすると、先の一戦で父親が示した豪胆さは驚愕に値した。

 

「恐い、とか思わなかったの?」

 

「そりゃあ、恐かったさ」

 

 鬼頭は素直な気持ちのまま首肯した。陽子の言う通りだ。あの脅威のISを前にして、死の恐怖を覚えなかったわけがない。

 

「ただ、件の友人からは剣を操る術の他に、剣を握る際の、心構えといったことも教わっていたからな」

 

 戦いに赴く際の胆力の練り方。内なる恐怖に打ち克つための、勇気の奮い立たせ方。往時の彼が、自分に語って聞かせた“基本”の中には、そういった精神制御の術も含まれていた。

 

 それに、と鬼頭は言葉を重ねる。

 

「それに、死の恐怖なんかよりも、ずっと恐いことが、あのときの俺には寄り添っていたからな」

 

「自分が死ぬよりも、恐いこと?」

 

「お前のことだよ」

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。

 

「ここで俺がしくじれば、お前や、IS学園のみんなの身が危ない。きみたちを失うことの恐怖を思えば、死の恐怖なんて、いくらでも乗り越えられる」

 

「あ、う、うぅ……うん。さいですか」

 

 父親からの愛に満ち満ちた言葉を受けて、陽子は赤面しながら頷いた。胸の奥が、じんわり、とあたたかな気持ちで満たされていくのを自覚する。

 

 ふと、隣を歩くセシリアからの視線を感じて、渋面を作った。恥ずかしがる自分のことを、彼女はにやにやといやらしく笑いながら眺めていた。こちらもその美貌を眺めているうちに、だんだん、腹が立ってきた。なぜ自分が、こんな恥ずかしい思いをしなければならぬのか。

 

「あとは、そうだな……」

 

 続く呟きに、陽子とセシリアは、はっ、として鬼頭の顔を見上げた。

 

「あんなISより、ずっと恐いものを知っているからなあ」

 

 未知の恐怖云々と陽子は口にしたが、実のところ、強大な敵や、命の危機といった、この種の恐怖が、自分の身に襲いかかる経験は、はじめてではない。およそ四六年の人生のうちで、自分に対して敵意を持った相手と、命のやり取りをするはめになったのは、今回が二度目のことなのだ。

 

 そして、あのとき、己の前に立ちはだかった男の恐ろしさは、あんなISの比ではなかった。

 

 金剛力士を彷彿とさせる肉体と、面魂を持った彼が、烈火の怒りに燃えながら襲いかかるその姿は、その力は、まだ年若く、世間を知らず、己の力を過信し、向こう見ずであった当時の自分でさえ、死の恐怖を感じずにはいられなかった。

 

 ――あのときの、桜坂に比べればなあ……。

 

「あのISを恐いとは、あまり感じなかったな」

 

 鬼頭の呟きに、隣を歩く二人は揃って驚いた表情を浮かべた。

 

 最強兵器ISよりも恐ろしい存在だって!? いったい、それは何なのか? 彼女たちは問いただそうと口を開き、すぐにまた閉じた。

 

 会話に夢中になっているうちに、いつの間にか学生寮に到着していた。ここから食堂までの道程には、アリーナ内で何があったのか知りたい生徒たちが、質問を胸に数多く待ち構えていることだろう。

 

 千冬から告げられた箝口令のことを思い出し、三人は揃って表情を引き締めた。この先、この話題を続けるのは不味い。うっかり口を滑らせでもしたら、回答した自分たちだけでなく、質問者の方も、いらぬ不幸を背負うはめになってしまう。

 

 食堂までの道中は、意外なほど人の姿を見かけなかった。

 

 その反動なのか、食堂に到着した途端、三人の体は、がやがや、と喧噪に飲み込まれた。昼時はとうに過ぎているにも拘わらず、食堂はほぼ満席状態。空席自体はそれなりにあるが、すべてのテーブルを、どこかしらのグループが使っている、という状況だ。この先に待つ質問責めをどう捌くか、という懸念の前に、三人はまず、どこに座ろうか、という問題と対決せねばならなかった。

 

「鬼頭さん!」

 

 食堂内を、きょろきょろ、見回していると、出入口から少し離れた位置にある六人掛けのテーブルを、三人のグループで使っている相川清香が立ち上がって手を振ってきた。そのかたわらには、同じく一年一組の同級生である、谷本癒子と、夜竹さやかの姿がある。

 

「ここ、空いていますよ」

 

 三人は六人掛けのテーブルをL字に使っていた。清香と癒子が肩を並べ、対面にさやかが座っている。

 

 鬼頭はかたわらの二人の顔を見た。彼女たちからの同意を得て、ありがたく甘えることにする。

 

 学生寮の食堂は基本的にバイキング形式だが、いまは朝夕の食事時からははずれた時間だ。当然、その用意はなく、三人はカウンターに向かうと、めいめい注文を頼んだ。トレーを受け取り、清香たちのもとへ移動する。鬼頭と陽子が並んで座り、一つだけ空いている対面の席にセシリアが腰かけた。

 

「助かりました、相川さん」

 

 ハニーマスタードソースのたっぷりかかったチキンステーキを載せたトレーをテーブルに置き、鬼頭は対角の位置に座す清香に微笑みかけた。

 

「昼食時でもないのにこの混みようで、正直、途方にくれていました。ありがとうございます」

 

「いえいえ。こういうときはお互い様ですよ」

 

 先客の三人の前には、当然、食事を載せたトレーはない。代わりに、学生生協で調達したと思しきスナック菓子の袋や、小さめのペットボトル飲料の姿が見られた。左手首のボーム&メルシェに目線を向ければ時刻は三時半を少し回ったところ。彼女たち流の、ブレイク・タイムといったところか。

 

 そんなことを考えていると、すっ、と隣の席から熱いおしぼりが差し出された。烏の羽根の色をした黒髪が艶めかしい、夜竹さやかだ。どうやら自分たちが注文をしている間に、用意してくれたらしい。「どうぞ」と、呟く彼女に、「ありがとう」と微笑みかけ、鬼頭は受け取ったおしぼりで手を拭い、次いで顔を拭った。

 

「父さん、おしぼりで顔を拭くとか、オジサンくさい」

 

 ショック。指摘され、額を拭う鬼頭の手が止まる。同席している他の娘たちの顔を見回すと、みな鬼頭の心情を慮って口にはしないが、同意見の様子だった。

 

 しゅん、と肩を落とす父親のことを無視して、陽子が清香に話しかけた。

 

「それにしても、この時間に食堂がこんなに混んでいるって、珍しいよね?」

 

 かつお出汁のきいたうどんを一口すすり、陽子は周囲を見回した。やはり、ほぼすべての席が埋まっている。それでいて、みな食事を楽しんでいるというふうではなく、どこかそわそわと落ち着きがない。こちらの席を、ちらちら、見ている者も多い。

 

「ああ、それね」

 

 清香は周りを一瞥すると、苦笑しながら言った。

 

「みんな、鬼頭さんのことを待っていたんだよ」

 

「はい?」

 

 思わぬ言葉に、チキンステーキを切り分ける手が止まってしまった。

 

 すると、それが何かの合図であったかのように、一人の女子生徒が鬼頭たちのテーブルへと駆け寄ってきた。知らない顔だ。おそらく、他のクラスの生徒だろう。いったい、何の用か。訝しげな顔をする鬼頭のことを、束の間、じぃっ、と見つめた後、彼女はその場で深々と腰を折った。

 

「あの、ご、ごめんなさい!」

 

「…………はい!?」

 

 突然、見知らぬ女子生徒から謝罪の言葉をぶつけられ、鬼頭の唇から動揺の声が漏れ出た。

 

 陽子とセシリアを振り返るも、二人とも心当たりはないらしく、吃驚仰天している。当然、鬼頭にも、この少女から謝られるようなことをされた覚えはない。そもそも初対面な上に、名前も知らない相手だ。いったい、何に対する謝罪なのか。

 

「直接、何かをした、というわけではありません」

 

 少女は顔を上げると、鬼頭の顔を、じっ、と見つめた。

 

「ただ、どうしても謝らなきゃ、って思ったんです」

 

「はあ……ええと、それはいったい、どういう……」

 

「週刊ゲンダイの例の記事」

 

 鬼頭の顔が、僅かに強張った。なるほど、あの記事の内容を信じている生徒の一人か。しかし、それならばなぜ謝罪を? あの捏造記事を信じている彼女にとって、自分は、妻にDVをはたらき、離婚した後も、子どもの親権を無理矢理取り上げて彼女を苦しめる、最低な男という認識のはず。口をきくのも、嫌な相手のはずだが。

 

 鬼頭は彼女の言葉の続きを待った。

 

「あの記事の内容を、わたし、信じていました。鬼頭智之は最低な男だって、思っていました。でも……」

 

「でも?」

 

「アリーナで、あのISと戦う鬼頭さんの声を聞いて、気づいたんです」

 

「私の声?」

 

 鬼頭は怪訝な表情を浮かべた。

 

 はて、自分の声が聞こえたとは、いったいどういうことなのか? それに、あのISと自分が戦ったことを、なぜ知っているのか? 放送室から避難の指示が発せられたのは、自分が試合場に突入するずっと前のことのはずなのに。

 

 目線を素早くひた走らせ、同席しているクラスメイトたちの顔をうかがった。清香たちの表情に、動揺した様子は見受けられない。どうやら彼女たちも、自分があのISと戦闘を行ったことを知り、自分の声とやらを聞いているらしい。

 

 鬼頭は陽子を見、次いでセシリアを見た。ピットルームから自分の戦いを見ていた彼女たちも、困惑した表情を浮かべている。

 

 そんな三人を見て、清香が言った。

 

「あのISと戦っている最中だった鬼頭さんや、ピットルームのセシリアたちは気づいていなかったかもしれないけど、あのとき、館内のスピーカーのモードは、“試合中”の設定で固定されたままだったみたいなんです」

 

 鬼頭はようやく得心した様子で頷いた。なるほど、それならば納得だ。先の一戦の最中、自分はピットルームにいる陽子たちにも声が聞こえるように、とすべての通信をオープン・チャネル回線で行った。

 

「つまり、皆さんはあのとき……」

 

「はい」

 

 鬼頭の言葉が終わるのを待たずに、清香は頷いた。

 

「オープン・チャネルを使っての発言は、館内のスピーカーが全部、わたしたちのところに届けてくれました。それで、鬼頭さんがあのISと戦っている、って分ったんです」

 

「子どもを守るのは大人の義務だ、って、鬼頭さんはおっしゃいましたよね?」

 

 謝罪にやって来た女子生徒は、鬼頭の顔を見て微笑んだ。

 

「あの言葉を聞いて、気がついたんです。この人は、違う、って。あんな週刊誌に書かれていたような人じゃ、絶対にない、って」

 

 子どもたちを、守りたい。そんな理由のために、最強兵器ISの前へと、進んで身を投げ出せるような人物だ。

 

 子どもたちのために、命を懸けられる、そんな、強い男だ。

 

 妻に暴力を振るったり、子どもの意思を無視して、親権を玩具のように扱う、そんな弱い人物では、断じてない。ありえない。

 

「それに気づいたら、いままでの自分の態度が、とても恥ずかしくなりました。鬼頭さんに対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました」

 

 目の前の人物に対して、直接暴言をぶつけたり、陰口をたたいたりしたことはない。

 

 けれども、ふとした拍子に視界に映じた彼を見て顔をしかめたり、廊下ですれ違う彼にきつい眼差しを向けてしまったり、といった記憶はある。

 

 そうしたちょっとした態度の一つ々々が、彼の心を傷つけていたかもしれない。そう考えると、謝らずにはいられなかった。

 

「だから、ごめんなさい、なんです」

 

 他所のクラスからやって来た彼女は、そう言って、また深々と腰を折った。

 

 すると、それが呼び水だったかのように、周囲のテーブルから、多数の起立する音が次々に響いた。

 

 驚き目線を巡らせると、ほとんどは、記憶にない顔だった。しかし、幾人かには見覚えがある。みな、週刊ゲンダイの特集記事の内容を信じ、入学式の日から、鬼頭に対して嫌悪の眼差しを向けてきた者たちだ。

 

 いまやその顔は、等しく悄然としていた。鬼頭の顔を見、胸を締めつけられるような痛みに襲われて顔をしかめ、中には、目尻に涙さえ浮かべている者すらいる。

 

「ここにいるみんな、あのときの鬼頭さんの言葉を聞いて、鬼頭さんに謝りたい、って、食堂に集まったんです」

 

 対角の位置に座る清香が言った。

 

 隣の席に座るさやかが、「まだ、全員ではないんですけど」と、補足する。

 

「鬼頭さんたちのことだから、二年生や三年生の先輩たちがいるかもしれない校舎側の食堂は使わないだろう、って、みんなで予想して、待ち構えていたんですよ」

 

「私に、謝るために?」

 

「はい。……それから、お礼のために」

 

「礼?」

 

「はい」

 

「守ってくれて、ありがとうございます」

 

 さやかの言葉を、清香が継いだ。その言葉を合図に、鬼頭らを取り囲む生徒たちが、次々に腰を折る。

 

 そんな彼女たちを、鬼頭ははじめ茫然と眺め、やがて、完爾と微笑んだ。

 

「きみたちが無事で、よかった」

 

 安堵の響きを孕んだ呟きを耳にして、少女たちもまた、嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

 そんな彼らの様子を、学生食堂の出入口から、凰鈴音はじっと眺めていた。そのかたわらには、幼馴染みの一夏の姿もある。

 

「お前さ……」

 

 二十歳近く年下の同期たちに囲まれながら笑う男の顔を、無言で、食い入るように見つめる鈴に、少年は話しかけた。

 

「あれを見てまだ、鬼頭さんが、子どもの気持ちを考えない身勝手な大人だ、って言えるか?」

 

「……ううん」

 

 鈴は一夏のほうを見ずにかぶりを振った。

 

「こんなの、見せられたら、認めるしかないわよ。鬼頭さんは、違う。あたしの嫌いな大人たちとは、違うわ」

 

「よかった」

 

 鈴の返答に、一夏は安堵の溜め息をこぼした。これで今後は鬼頭への態度を改めてくれるだろう、と破顔する彼に、彼女は続けて言う。

 

「ねえ、一夏」

 

「うん?」

 

「あたし、あの人に酷いことを言っちゃった」

 

「ああ。そう聞いている」

 

「どうやって謝ればいいと思う? そもそも、謝って、許してくれるかな?」

 

「……わからない」

 

 鈴の口から謝罪の意思があること聞かされて嬉しいと思う一方、さてそれは難題だぞ、と一夏は顔をしかめた。

 

 自分はその場にいたわけではないから、詳しいことは知らないが、鈴は過日、鬼頭に亡くなった息子の思い出を刺激するような暴言をぶつけてしまったらしい。彼にとって、愛息を失った記憶は生涯にわたって自身の心を苛む傷痕だろう。知らなかったとはいえ、鈴はそこに触れてしまったのだ。

 

 そんな彼女を鬼頭が許してくれるかどうか。こればかりは、実際に謝った上で、彼からの判決が下るのを待つしかないだろう。

 

 一夏は小さくかぶりを振って、

 

「分らない、けどさ」

 

「うん」

 

「お前が、鬼頭さんに謝りたい、っていうんなら……」

 

「うん」

 

「俺も、上手くいくように手伝うよ」

 

と、セカンド幼馴染みの少女に向かって笑いかけた。

 

 鈴はそこでようやく一夏の方を向いた。

 

 謝っても、許してもらえない。

 

 近い将来に待っているかもしれない、最悪の未来を予想してのことか、鈴の顔色はひどいことになっていたが、それでも、彼女は懸命に、一夏の笑顔に応じようと微笑んだ。

 

「一夏、ありがとうね」

 

「いいって」

 

 一夏はまた小さくかぶりを振ると、

 

「鈴は、俺の、大切な幼馴染みなんだからな」

 

と、力強い口調で応じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter24「謝罪とお礼」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 IS学園で、クラス対抗戦が開かれた翌日の朝。

 

 名古屋市名東区は梅森坂にある東名古屋病院を目指して、青色のカムリが県道219号線を走っていた。

 

 運転席でステアリングを握るのは、パワードスーツ開発室の桜坂室長だ。ナビシートには、チーム最年長の酒井仁の姿がある。膝の上には大きな白い紙袋があり、中には見舞いの品と思しきフルーツや缶詰類がぎっしりと詰まっていた。

 

 昨日、アローズ製作所本社ビルのドーム型試験場を襲った謎のISを退けた後、桐野美久と田中・W・トム、そして土居昭の三人は、最寄りの総合病院で、国立の医療機関でもある東名古屋病院へと担ぎ込まれた。総務省職員の城山悟の薦めに従ってのことだ。なんでも、知り合いの医師がそれなりのポジションにいるらしく、自分が口利きをすれば、素早い診察と治療が期待出来るという。桜坂たちは彼に向かって頭を垂れた。その言葉通り、病院へと搬送された三人はすぐに診察台へと上げられ、揃って集中治療室への入院を厳命された。最強兵器ISと戦った二人はもとより、荷電粒子砲が炸裂したときの衝撃で頭を打った美久も、脳に異常がないか、精密検査の必要がる、とのことだった。

 

 翌朝、パワードスーツ開発室のオフィスで不安そうな表情を浮かべる桜坂のもとに、一本の電話がかかってきた。東名古屋病院からで、トムと土居の二人についてはひとまず治療は完了した、美久も一通りの検査が終わったので、三人とも面会を許可する、という内容だった。

 

 通話を終えると、桜坂は室内のみなの顔を見回して、「室長権限で、今日は昼休みの開始を一時間早めます! 終わりの時間はそのままで!」と、叫んだ。それから三分後、昼休憩の時間が到来し、桜坂は真っ先にオフィスから飛び出していった。そんな室長を見て、「あの様子じゃあ運転が不安だ。私も着いていきます」と、酒井もその背中を追いかけた。その後、地下駐車場で桜坂と合流し、いまは同道中というわけだ。

 

「一つ、気になったのですが……」

 

 東名古屋病院へと向かうその途中、ナビシートに座る酒井が、ふと話しかけてきた。

 

 広大な敷地面積を誇る名古屋カンツリー倶楽部ゴルフ場を右手に眺めながら、桜坂は「なんです?」と、応じる。

 

「室長の身体能力は、我々のような普通人を大幅に上回っていますよね?」

 

「ええ、そうですね」

 

「健康診断のときとかは、どうしているのです?」

 

 桜坂は毎年、会社主導の健康診断を受けている。しかしこの二十年、彼の診断結果に、異常な数字が現われたという話は聞かない。ISのビーム砲の直撃を受けてなお平然としているような肉体だ。現代医学を誤魔化せるとは考えにくいが。

 

「……もうばれているから、ぶっちゃけますけど」

 

 前方の混み具合に応じて車線を変更しながら、桜坂は答えた。

 

「酒井さんのおっしゃる通り、俺の体は、普通の人とはちょいと造りが違います。たとえば、昨日、酒井さんたちも見た通り、俺の体は荷電粒子砲の直撃にも耐えられるほど頑丈です。皮膚は硬く、その下の肉はなお硬く、骨にいたってはたぶん、古い時代の軍艦の装甲よりも強靱でしょう。普通であれば、健康診断が見逃してくれるわけありません」

 

「はい」

 

「なので、健康診断を受けるときは、普通の人間レベルまで、身体能力を落としておくんです」

 

 酒井は怪訝な表情を浮かべた。たしかに、それならば医師たちの目を誤魔化せるかもしれないが、どうやって、そんなことを?

 

「体の構造を作り替えるんですよ」

 

 桜坂は平然とした口調で言い放った。

 

「肉体を構築している細胞、細胞を構築している分子、原子、素粒子といった物を、その都度、根本から作り替えるんです。そうやって、各身体器官の出力を制御するんですよ」

 

「……出来るんですか、そんなことが?」

 

 驚く酒井に、桜坂は「はい」と、頷いてみせた。あまりにもあっさりと首肯してみせたその態度から、嘘はついていないな、と確信し、愕然としてしまう。

 

 そんな、

 

 そんな人間が、

 

 自らの肉体の構成要素を、自らの意思でコントロール出来る、そんな生き物が、いたなんて……!?

 

「こちらからも質問、いいですか?」

 

 驚きから返す言葉を見失ってしまった酒井に、今度は桜坂が話しかけた。

 

「昨日、結構な数の社員が、俺の秘密に気づいている、って言っていたじゃないですか?」

 

「え、ええ」

 

「それって、具体的に何人くらいなんです?」

 

「……そうですね」

 

 酒井はしばしの間黙考した。沈黙の時間が長引くほどに、そんなにいるのか!? と、桜坂は憂いの表情を深めていく。やがてたっぷり十秒は悩んだ末に、彼は重たげに唇を開いた。

 

「ざっと、五百人くらいでしょうか?」

 

「そんなに!?」

 

 桜坂は愕然とした。ステアリングを握る両手が動揺し、応じて、車体も左右に揺れる。慌てて姿勢を整えると、重苦しい溜め息を一つ。アローズ製作所の従業員総数はおよそ七千人だから、全社員のうちの七パーセントくらいが知っている計算だ。

 

「少なくとも、新人を除いて本社勤めの者はみな知っていると思いますよ」

 

「……上手く隠せていたつもりだったんだけどなあ」

 

「あれで、ですか?」

 

 桜坂の言葉に、酒井は胡乱な眼差しを向けた。「どういう意味です?」と、訊ねると、年上の部下は呆れた口調で答えた。

 

「きみや鬼頭くんが入社したばかりの頃、台風のせいであらゆる交通機関がストップして、取引先への納品が、期日までに間に合わない、ということがあったね?」

 

「……そんなこと、ありましたっけ?」

 

「あったよ」

 

 入社直後、鬼頭と桜坂は、介護用ロボット部門に配属された。そこで直属の上司だったのが、他ならぬ酒井だった。

 

「私も含めて、みんなで頭を抱えていたところ、『俺が届けてきますよ』って、私たちの制止の声も聞かずに、商品のロボットをプレーリーに積んで、飛び出していったよね?」

 

「…………ありましたっけ?」

 

「あったよ」

 

 酒井は溜め息をついた。応じる様子から、どうやら本当に忘れてしまったらしい。

 

 ――それだけ、彼にとっては当たり前のこと、特に印象に残るような記憶でもなかったということか……。

 

 当時の自分たちは、たいへんに驚き、いまでも忘れられないというのに。

 

 酒井は仁王の横顔をじっと睨みながら続けた。

 

「きみが飛び出して二時間後のことだよ。件の取引先から、電話がかかってきた。『商品は無事に受け取りました。助かりました。こんなたいへんなときに、ありがとうございます!』ってね」

 

「はあ……」

 

「……本当に覚えていないのかい?」

 

「すみません。さっぱりです」

 

 酒井はまた溜め息をついた。

 

「その取引先の企業は、札幌の企業だった」

 

「……ぷ、プレーリーが、頑張ってくれたんですよ」

 

「名古屋から北海道まで二時間で到着するプレーリーかあ……」

 

 さすがは技術の日産だねえ、と、真顔で呟いた。日本列島を時速五〇〇キロメートルで縦断した計算だ。GT-Rもびっくりの速さだ。

 

「そんなことが何回も、何回も続けば、さすがにみんな気がつくよ」

 

「……はい」

 

 東名古屋病院の建物が見えてきた。

 

 自分から振った話題だが、早くこの話を終わらせたい気持ちから、桜坂は病院の駐車場へとカムリを急がせた。

 

 

 

 

 




やっと……原作第一巻の内容が、終わったんやな……



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Chapter25「開かれた戸」

四ヶ月ぶりの初投稿です。

原作二巻のお話しの前に、つなぎのお話しを。

なお、本話からしばらく、おふざけ回となります。






 

 

 

 五月の大型連休期間を翌週に控えた、ある日の昼休み――。

 

 鬼頭智之はIS学園本校舎の一階にある教職員室を訪ねていた。担任の千冬か、もしくは副担任の真耶に用あってのことだ。「失礼します」と、朗々と喉を震わせながら戸を開き、切れ長の双眸でもって室内を見回すと、目当ての二人はすぐに見つかった。それぞれのデスクで書類仕事に精を出していた彼女らは、IS学園では耳にすること自体が珍しい男の声に反応して、ほとんど同じタイミングで顔を上げた。

 

 ――二人ともいてくれたのか。好都合だな。

 

 鬼頭は他の人の出入りの妨げにならぬように、と教室に入ってすぐの待機スペースへと移動した。その位置から二人に向かって会釈し、「いま、お時間よろしいですか?」と、声をかける。彼女たちは二、三言葉を交わした後、まず千冬が席を立った。ブック型の情報端末を左手で抱え持ち、こちら側には来ないでください、と右手でジェスチャーしながら向かってくる。

 

 その間に、真耶が机の上を急いで片付け出すのが見えた。おそらく、自分に見られては都合の悪い書類か何かを広げていたのだろう。後で確認したところ、案の定、三限目の授業で配られた小テストの採点作業を二人で行っていたとのこと。なるほどなあ、と得心した。

 

「鬼頭さん、どうされました?」

 

「織斑先生、実は、お願いしたいことがあって来たのですが……」

 

 待機スペースで千冬を迎えた鬼頭はそこで一旦舌先を休めると、ちら、と彼女のデスクに目線をやった。書類の束がうずたかく積み上がり、五十センチ級の山々が連なる紙の大連峰を形作っている。おそらくは何日も溜め込んでいた物を一気に片付けている最中だったのだろう、と推察した彼は、その邪魔をしてしまった意識から、「お忙しいときにすみません」と、用件よりも先に謝罪の言葉を口にした。すると、今度は謝られた千冬の方が、かえって申し訳なさそうな表情を浮かべる。

 

「鬼頭さん、いえ、それは……」

 

「ああ、鬼頭さん。それは違うんですよ」

 

 遅れてやって来た真耶が、どうにも歯切れの悪い千冬の言葉を引き継いだ。彼女の隣に並び立つと、鬼頭に向かって可憐に微笑む。

 

「山田先生、違うとは?」

 

「織斑先生の机の上が“ああ”なのは、いつものことですから。特別、忙しくしていたところに鬼頭さんがやって来たとか、そういうことではないので安心してください」

 

「山田先生、余計なことは言わないでよろしい」

 

 千冬は自分の隣に並んだ真耶の横顔を軽く睨んだ。世界最強の称号を持つ女傑の双眸より放たれた鋭い眼光線が、まだ学生らしさの抜けきれない童顔な同僚教師の頬を、じりじり、と焼く。真耶は苦笑しながら、「はぁい、織斑先生」と、頷いた。どうやらこの手のやり取りは、二人の間では頻繁に行われていることらしい。おそらくは慣れからだろう。頬に押し当てられたプレッシャーにも拘わらず、後輩教師の顔に、緊張の色は薄かった。

 

 むっつり顔の千冬はなおも何か言いかけて、鬼頭の視線に気がつき、口をつぐんだ。弟に次いで発見された二人目の男性操縦者は、自分たちのやり取りを興味深そうに眺めていた。

 

「……なんですか?」

 

「いや、失礼ながら、意外だな、と思いまして」

 

「何がです?」

 

 羞恥心から思わず刺々しい口調になってしまう千冬に、鬼頭は苦笑しながら応じた。

 

「普段の様子から、そういった部分でも自分に厳しい、隙のない方だと勝手に思い込んでいたので……。苦手だったんですね、片付け」

 

 世界最強のブリュンヒルデにも、そんな普通の女性らしい弱点があったのか。驚くと同時に、微笑ましく思った。平素の強面ぶりがすさまじい千冬だけに、普通ならば欠点でしかないそれも、鬼頭の目には愛らしいギャップと映じていた。

 

「……昔から、細々とした作業は苦手なんですよ」

 

 千冬はぶっきらぼうな口調で応じた。気恥ずかしさを振り払うように、ごほん、とわざとらしい咳払いを一つ。「それで……」と、口調を改め、切り出した。

 

「お願いしたいこと、というのは?」

 

「はい」

 

 鬼頭は頷くと、白いジャケットの内ポケットから黒革の手帳を取り出した。高橋のビジネス手帳だ。最初の方のページを開き、四月と、五月のカレンダーを二人に見せる。

 

「来週から始まる、ゴールデンウィークについてなんですが……」

 

 二〇二六年の黄金週間の期間は、国民の祝日に加えて土曜日、日曜日の休みが上手く噛み合わさったことで、人によっては最大で十二連休、IS学園でも六日連続の休みが保証されていた。鬼頭はそのうち最終日を含む四日間を示した。

 

「このあたりで、二日か、出来れば三日間、外泊の許可をいただけないかと思いまして」

 

 全寮制で、かつ人工島に校舎と寮を構えるIS学園では、プライベートな理由による島外への移動や外泊には、学年主任からの承認を得る必要がある。ISはあらゆる分野の最新技術が結集して作られた、技術情報の塊だから、アラスカ条約に定められていない違法な流出を防ぐために、教員たちは生徒一人々々の出入りに対しても、常に監視の目を光らせていた。

 

 具体的な手続きは、まず学級の担任を務める教員に申請書を提出し、記載事項に不備や問題がないか、そしてなにより、申請者の為人をチェックしてもらう。それをパス出来たら、今度は学年主任による最終的な審査を受ける、というダブル・チェック方式だ。もっとも、一年一組に在籍する鬼頭の場合は、担任の千冬が同時に学年主任も兼務しているため、ファースト・チェックの担当者は副担任の真耶となるが。

 

 鬼頭の用件を知った千冬と真耶は、途端、揃って顔の筋肉を強張らせた。目の前の男に対し、要望を叶えてやれないことへの申し訳なさと、自分の立場をわきまえてほしいのだが、というたしなめの気持ちが同居した、複雑な眼差しを向ける。

 

 他方、鬼頭は二人のそんな表情を見て、やはりな、とひっそり嘆息した。自分がこの話題を口にすれば、二人がそういう顔をするだろうとは、あらかじめ予想されたことだった。

 

「やはり、難しいでしょうか?」

 

「ええ」

 

 千冬は苦々しい口調で呟くと、申し訳なさそうにかぶりを振った。

 

「残念ですが。いまや鬼頭さんは、世界にたった二人しかいない、特別な立場にあるお方なのです」

 

 織斑一夏の発見からすでに二ヶ月が経過していた。この間、他にもISを動かすことの出来る男性がいるのではないか、という調査は世界中で実施されてきたが、鬼頭に続く第三の男は、いまだ発見の兆候さえ見られない。

 

 斯様な情勢下において、彼ら男性操縦者の存在は、物質面においても、精神面においても、世界の最重要人物といえた。彼らの身体を子細に分析すれば、他の男性でもISを動かせるようになるかもしれない。そうでなくとも、男性操縦者を自国で抱えることが出来れば、外交上の強力なカードとなるだろう。内政面においても、たとえば民主主義の国であれば、女性優遇政策を推進するほどに低下していく男性有権者からの支持を、復活させるためのカンフル剤として機能してくれるかもしれない、など……。そうした企みを懐に抱え持ち、男性操縦者たちに欲望の熱視線を向ける者たちは、各国の政府機関や国営・民間問わず様々な企業、様々な研究所、はては宗教団体と、枚挙に暇がなかった。

 

 また、そうした連中とは反対に、鬼頭らの存在を疎ましく思い、この世界から排除したいと考えている者もいる。たとえば、ある種の原理主義的思想に取り憑かれた、一部の女性権利団体などがそうだ。

 

 自らを新世代のフェミニストなどと豪語して胸を張る彼女らの有り様は、宗教結社のそれに近い。すなわち、ISの生みの親である篠ノ之束を信仰し、女尊男卑の考え方を教義とする集団だ。彼女らにとって、男女の社会的立場の天秤が一方の側に鋭く傾いているいまの時代は、まさにわが世の春。そんな女のための時代を切り拓いた篠ノ之束は、砂漠の丘に立った羊飼いも同然の存在であり、ISは神たる束が自分たちに授けてくれた、神聖なる神の鎧といえた。そしてそのために、彼女たちは、男の分際で神の鎧を身に纏うことの出来る男性操縦者のことを、不倶戴天の敵と見なしていた。

 

 神聖なる神の鎧を、汚れた血で犯したおぞましき存在。それだけでも許しがたいことなのに、有識者曰く、彼らの身体を調べれば、他の男どももISを動かせるようになるかもしれないという。そんなことは決して許されない。やつら男性操縦者は、女のための社会の存立基盤を根底から揺るがしかねない危険極まりない存在……神の築いたいまの世を討ち滅ぼそうとする、悪魔も同然の輩だ。手遅れになる前に、わたしたちの手で、打ち倒さねば!

 

 事実、織斑一夏の身柄をIS学園で引き受けることが公表されて以来、学園にはこの種の団体からの抗議と、引き渡しを要求する連絡が後を絶たないという。男性操縦者の保護だなどと、いったい何を企んでいるのか。お前達は、ようやく訪れた女のための時代を終わらせるつもりなのか。お前達には男性操縦者の身柄を任せておけない。あの悪魔の子の罪は、わたしたちの手で裁く。だから、お前達は大人しくその身柄をこちらに渡せ……といった具合だ。

 

「いまの愚弟や鬼頭さんの一挙一動は、そうした連中から常に見張られている、と考えてください。彼らの中には、暴力的な手段や、非合法な活動をも厭わないような、出自からしてダーティな組織が少なくありません。そんな輩からの注目を集めているいま、あなたが学園の外に出るのは、非常に危険なことなのです」

 

 硬い口調で言い放った千冬に、鬼頭も険しい面持ちで頷いた。もとより、自分や一夏がIS学園に通っている最大の理由は、千冬が口にしたような邪な企みの数々から身を守るためだ。学園のあるこの島から出ることの危険性は、彼も重々承知している。

 

 自分たち男性操縦者は、たとえるなら世界でたった二個体しか見つかっていない珍獣のような存在だ。世界中の誰もがその姿を一目見たいと思い、あわよくばこの手に収めたい、と考えている。そんな二人の身を守るIS学園は、いわば動物園の檻であり、この鉄柵がために、誰も手を出せずにいるのだった。

 

 それが、肝心の二人が自らの意思で檻の外に這い出てくれる、となればどうなるか。

 

 目的のためならば手段を選ばぬマキャヴェリストたちをして、IS学園に対し手を出しづらいのは、言うまでもなく、その軍事力を脅威と思うがゆえだ。なんといっても、相手は最強兵器ISを常に三十機以上も保有している組織。また同時に、最新の軍事技術を研究している機関でもある。情報の流出を防ぐため、十重二十重のセキュリティ体制が築かれていた。これらをかいくぐった上で、さらに三十機以上ものISを打ち破らねばならぬことを考慮すると、男性操縦者たちを学園の外に連れ出す作戦は、現実的ではない。しかし、鬼頭たちの方から学園の外に出てくれるとなれば、誘拐の難易度はぐっと低くなる。少なくとも、学園の保有するIS軍団との対決は回避出来る。

 

 おそらくは様々な組織が好機と捉え、誘拐の計画を練り、競って実行に移してくるだろう。

 

 しかも、相手のそういった動きに対し、IS学園側には有効な対抗手段がない。

 

 IS学園の誇る世界屈指の軍事力は、正面からの戦いには強いが、要人警護や人質救出といった、いわゆる特殊作戦の実行者としてはその強みを活かしづらい。学園の外では、アラスカ条約の定める運用規定が足枷となり、戦力の自由な展開が出来ないためだ。

 

 特殊作戦の多くは、戦闘がないか、生じたとしても小規模であったり、民間人が普通に生活しているエリアに近い場所が戦場となりがちだったりで、ISの投入は過剰戦力と見なされやすい。迂闊な使用は、現場の指揮官や操縦者自身の立場をかえって悪くする恐れがあった。

 

 だからといって、ISの存在を抜きに考えた場合、IS学園の戦闘力は半減以下にまで落ち込んでしまうだろう。そもそもIS学園は、優秀なIS操縦者を育てるための組織だ。人員も、装備も、すべてそのために用意されたもの。特殊作戦を実行可能な人材に乏しかった。

 

「敵にとっては攻めやすく、我々は守りづらい。男性操縦者が学園の外に出れば、そういう状況での戦いを強いられることになります」

 

「島の外に出るべきではないし、わたしたちも出させない。鬼頭さんの自由を奪ってしまって申し訳ありませんが、それが、いちばんの安全策なんです」

 

「……日本政府からも、そうするよう言われましたか?」

 

 鬼頭が訊ねると、真耶は辛そうに眉根を寄せながら悄然と頷いた。男の薄い唇から、残念そうに溜め息がこぼれる。

 

「やはり、そうでしたか」

 

「鬼頭さん」

 

「実を言えば、おそらく無理だろうなあ、とは予想していたんです」

 

 千冬と真耶は等しく息を呑んだ。そう口にした鬼頭の双眸に、深い悲しみの色を見出したためだ。見ているこちらの胸が締めつけられてしまうほどの、痛々しい瞳だった。

 

「ただ、それでも諦めきれなかったと言いますか、もしかしたら、という思いを捨てきれませんでした」

 

「鬼頭さん……」

 

 悲しげに強張った顔を見つめているうちに、真耶は沈痛な気持ちがいつしか自身の胸の内をむしばんでいくのを自覚した。いったい何がそんなに悲しいのか。外泊したい理由とは、それほどのものなのか。彼の表情を変えてやりたい。その悲しみを、取り払ってやりたい。そのために、自分に出来ることはないか。外泊そのものは許してやれずとも、せめて彼の気持ちに寄り添う術はないか……。真耶は舌先で言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。

 

「鬼頭さん」

 

「はい」

 

「そんなにも島の外に出たい理由って、何なんですか?」

 

「山田先生、それは……」

 

 その問いかけは答えを聞くべきではないし、そもそも口に出してよい質問でもない。中途半端に同情心を見せたところで、我々に出来ることは何もない。名を呼ぶことで言外にたしなめようとする千冬に、しかし、真耶は毅然と応じた。

 

「いいじゃないですか、織斑先生。鬼頭さんの様子を見てください。外泊したい……いいえ、外泊しなければならない、よほどの理由があるんだと思います」

 

「理由を聞いたところで、我々に出来ることは……」

 

「はい。ないかもしれません。でも、もしかしたらあるかもしれません。外泊そのものは許してあげられなくても、このIS学園の中で、それに近いことをしてあげられるかもしれません。たとえば、何か大切な買い物をしたい、というのなら、通信販売の手段を探したり、お店の人をこの学園に呼んであげたり……それくらいのお手伝いくらいは出来るはずです」

 

 そのためには、鬼頭が大型連休を利用してやろうとしていること、やりたいと思っていること、その目的、その理由を知る必要がある。

 

 真耶は柔和な笑みを浮かべながら、鬼頭に話しかけた。

 

「鬼頭さん、外泊の目的は、いったい何なのですか?」

 

「……名古屋に帰って、いくつか、すませたい用事があるのです」

 

 真耶の話し方に合わせて、鬼頭もゆっくりと言葉を選びながら応じた。

 

「細々としたものを除けば、大まかには四つあります。まず、会社の方に顔を出したいと考えておりました。建前とはいえ、私は技術研修のためにIS学園に派遣された身です。そろそろ一度、この学園で学んだことを会社のためにアウトプットしたいと思いまして」

 

 パワードスーツ開発室のメンバーとは、携帯電話やノートパソコンといった各種の通信機器を駆使して頻繁に連絡を取り合っていた。ただ、通信機を介してのやり取りでは、伝えられる情報量に限りがあるし、なにより、一度に会話出来る人数が限られてしまう。開発室以外の同僚たちの顔も見たい。やはり対面で、それもある程度一堂に会した上で意見交換の場を設けたかった。

 

 鬼頭の言葉に相槌を打ちながら、真耶は、どうすれば目の前の男の希望を叶えられるか、と頭の中で素早く算段を練っていく。いちばん現実的な解決策は、件の開発室のメンバーをこの島に呼び寄せることだろうが、はたしてそれは可能か、否か。先方の人数は? 学園に求められる態勢は? ボディ・チェックや手荷物検査はどこまで行うべきだろう? 人員だけでなく、彼のチームが開発しているという災害救助用パワードスーツの試作品といった、資材の持ち込みがあった場合はどう対応する? ……そうした、島への上陸に際して生じるだろう問題要素の一つ一つを細かく分析し、総合的に判断した上で、上陸計画の素案を練り上げる。これで上層部を説き伏せることが出来るだろうか、と自問し、いいや、これではまだ弱い、とかぶりを振った。もっと細部を煮詰めなければ。もっと説得材料をひねり出さねば……。丸い眼鏡の向こうで、むむむ、と眉尻がつり上がる。

 

 そんな思案顔を嬉しく思いながら、鬼頭は続けて、故郷に帰りたいと思う二つ目の目的について口を開いた。

 

「二つ目の理由は、堂島弁護士の事務所を訪ねるためです」

 

「堂島弁護士というと……」

 

 その名前に、真耶だけでなく千冬も反応した。たしか、鬼頭と元妻たちとの間で繰り広げられた裁判を、二度にわたって彼とともに戦った弁護士の名前だ。重ねて、そういえば、と思い出した千冬が口を開く。

 

「そういえば、週刊ゲンダイの例の記事のことで、訴訟の依頼をしていたんでしたね」

 

「ええ」

 

 鬼頭は首肯した。言うまでもなく、今月初旬に発刊された、週刊ゲンダイの特集記事にまつわる案件だ。

 

 件のバックナンバーは、自分と晶子の関係について捏造記事でもってあることないこと全国的に吹聴してくれた。これを不満に思った鬼頭は、顔馴染みの弁護士に編集部を名誉毀損で訴えるよう依頼したのだ。

 

 週刊ゲンダイ編集部に対し、鬼頭と堂島弁護士が練った作戦の基本戦略は、準備にはたっぷり時間をかけ、攻めるときは一気呵成に、というものだった。

 

 出版不況が叫ばれる昨今、年々発行部数を落としているとはいえ、相手は腐っても四大マスメディアの一角、それも全国誌を刊行出来るだけの体力を持つ大出版社だ。組織の規模や資金力、各方面への人脈といった組織力の脅威は勿論のこと、世論形成の手腕に長けている。怒り任せに吠え立てたところで勝算は低いだろうし、中途半端な態勢でつついたせいで、かえって手痛い反撃を引き出してしまう事態まで考えられた。

 

 このような相手といかにして戦うか。鬼頭たちは入念な下準備と大胆な行動力こそが勝利の鍵である、と意見を一致させた。すなわち、相手が言い逃れのしようがないほどの十分な量の証拠資料を揃えた上で、反撃の暇を与えぬよう一気に畳みかける作戦だ。勿論、ここでいう証拠とは、記事の内容には嘘偽りが含まれていること、その嘘によって鬼頭親子が精神的にも、物質的にも深く傷つけられたことを証明する、という意味だ。

 

 証拠資料の作成は難航した。週刊誌の内容は捏造だと証明しうる最も有力な証拠は、晶子たちとの間で行われた過去二度の裁判の記録だが、陽子の心情を思うと起用しづらい。

 

 そこで二人が考えた次善の策は、鬼頭の高校時代の級友だった加藤耕作の行方について調べることだった。週刊ゲンダイの特集記事に記載のあった、本誌記者の独占取材に応じてくれたという情報提供者と思われる人物だ。彼を捕まえることが出来れば、記事の内容は出鱈目であるということ、そもそも提供した情報自体が嘘だったことなどを証言させられるかもしれないと期待された。

 

 ところが、これが一向に見つからない。

 

 加藤の所在について、二人は探偵の松村祐輔に調査を依頼した。これまた、晶子との裁判のときにお世話になった人物だ。陽子の親権を取り戻して以来、連絡をとるのは四年ぶりのことだったが、向こうも鬼頭のことを覚えていてくれた。

 

 松村探偵の調査能力は相変わらず素晴らしかった。依頼をしてから僅か三日で、太陽光事業に失敗した後の加藤の足取りを調べてくれた。会社を清算した後、愛知県岡崎市にある家電修理の会社に再就職した彼は、借金の返済に追われながら、安アパートで独り細々と生活していたという。それが、最近になって突然、アパートを引き払い、行方をくらませた。

 

『この加藤耕作が、鬼頭さんたちの推理通りに情報提供者だとすれば、逃げたのかもしれません』

 

 男性操縦者たちに関する情報は、どんな些細なものであれ、日本政府の管理下にある。政府の意に反してこれを広めた場合、国家権力組織からの追及を受けることになる。……インターネット上では、そんな都市伝説のような噂がまことしやかに囁かれているという。

 

『真に受けた、とはさすがに考えにくいですが、万が一のことを恐れて、足がつかないよう住居を引き払ったのかもしれません。そうだとすれば、厄介ですよ、これは』

 

 スマートフォンのスピーカーから聞こえてきた松村の声は硬かった。元警察官の彼は、逃走中の犯人が捜査員の追跡をかわすために、一ヶ所にとどまらずホテルを転々とする手口を警戒していた。

 

 出版社編集部にとって、情報提供者は大切な金の卵だ。これを逃がすためならば、資金の提供は勿論、ホテルの手配など協力は惜しまないだろう。松村もいまは市井に暮らす一民間人。大手出版社の支援を受けながら逃走しているかもしれない一個人を探すのは難しい。

 

『全力を尽くしますが、基本的には、加藤耕作の存在なしで、訴訟プランを練った方がいいと思います』

 

 そんなやり取りを交わしたあの日から、もう二週間が経っている。その間、松村からは四度調査報告書を受け取っているが、内容はいずれも芳しくなかった。級友の行方は、依然としてつかめていない。

 

「……それで、これはいよいよ、覚悟を決める必要があるな、と。昨晩、堂島弁護士と話し合いましてね。加藤の証言は得られないものとして、作戦を考えましょう。その話し合いをしましょう。出来れば、直接お会いして。……という、話になったのです」

 

「なるほど……」

 

 鬼頭の言葉に、今度は千冬が思案顔になった。

 

 週刊ゲンダイとの係争問題は、IS学園にとっても無視出来ない話題だ。これがどう解決するかによって、学園も今後の立ち振る舞いを考える必要がある。

 

「……そういう話し合いであれば、是非とも進めてほしいですね」

 

 一転して協力的な態度を見せる千冬の横顔を、かたわらに真耶は軽く睨んだ。掌返しが速すぎませんか、と無言のうちに棘のある感情をぶつけられた世界最強の女傑は、素知らぬ顔でブック型の情報端末を操作した。

 

「それで、他に用事は?」

 

 堂島弁護士をこの島に迎えるとしたら、いつ頃が都合がよいか。カレンダーをチェックしながら、千冬は話の続きを促した。

 

「三つ目の用事は、かなりプライベートなものです。名古屋に置いてきた資産のうちいくつかを整理して、現金化したいのです」

 

「……もしかして、《トール》の開発費ですか?」

 

「はい」

 

 千冬の質問に、鬼頭は首肯した。

 

「桜坂から借りている金を、早く返さねば、と思いまして」

 

 過日のクラス代表決定戦に臨む娘のためにとこしらえたレーザー・ピストル二挺の制作費は、大半が親友の桜坂から借金をして用意したものだった。本当は全額自分の資産から捻出したかったのだが、この島から出られぬ身では資金の移動を上手く行えず、やむなく、彼に頼ることになってしまった。その金額、およそ四百万円。脅威の新兵装の開発費用としては破格の安さだが、一般人がすぐに用意出来るような額でもない。

 

「試算では、名古屋に置いてきた愛車と、時計コレクションをいくつか。それから、昔、少しばかり手を出した株券を売却すれば、用意出来るはずなのですが」

 

 言葉を絞り出す度、自身の内側で憂鬱な気持ちが膨らんでいくのを自覚した。クルマにせよ、時計にせよ、すべて思い出深い品々ばかりだ。《トール》を作ったこと自体に後悔はないが、彼らを手放すための契約書にサインする瞬間のことを思うと、気落ちせずにはいられない。

 

「そういう事情じゃ、イギリス政府からもらったお金を使うわけにもいけませんしね」

 

 がっくり肩を落とす鬼頭の顔を見る真耶の瞳は、同情心に曇っていた。

 

 内閣情報調査室が監視している彼の預金口座に、英国の複数の企業から二百万ポンドもの大金が振り込まれたのは一週間ほど前のことだ。吃驚仰天した日本政府からの要請で、いったい何事か、と訊ねた真耶たちに、鬼頭はBTシステムの研究を手伝うことになった経緯を説明した。彼曰く、二百万ポンドは当座の軍資金として、イギリス政府が用立てたものだという。当然、真耶たちIS学園は、鬼頭が代弁した英国政府の言い分について疑義を抱いた。

 

 ISを含む現代兵器の多くは、技術の進歩によって年々高性能化・多機能化が進んでいるが、それに伴って、開発費や生産に必要な設備への投資、調達費、運用費といったコストもまた増大の一途を辿っている。たとえば、ISの登場以前は世界最強の航空戦力とされた米国のF-22ラプター戦闘機は、開発費だけで二二七億ドル、一機あたりの調達費は一億五千万ドル、プログラム全体では六七三億ドルもの予算がかかっている。

 

 ISは、そんな莫大な予算を費やして開発された第五世代戦闘機すら圧倒する超兵器だ。小柄な見た目に反してまごうことなく最新技術の塊であり、当然、その開発費は高額である。最新の第三世代機ともなれば、少なくとも百億ドル単位の資金が必要だろう。

 

 これらの数字と比べると、二百万ポンドという金額はなんとも頼りない数字だ。大金には違いないが、IS開発の予算としては端金といえる。勿論、鬼頭の参入は計画外のことだから、すぐに用意出来たのがそれだけだった、というだけのことなのかもしれないが……そうではないとしたら。

 

 研究開発費というのは十中八九建前だろう、というのが、日本政府とIS学園の見解だった。二百万ポンドという数字も、貴重な男性操縦者の関心を買うための工作資金と考えれば納得がいく。事実、英国政府は大金の他に、高級車のプレゼントも約束したという。懐柔工作なのは明白だった。

 

 そうした考えを伝えると、鬼頭は苦笑しながら、「まあ、そうでしょうねえ」と、呟いた。天才と呼ばれる彼だ。二百万ポンドの贈呈に篭められた意図など、とうに見抜いていた。

 

 もっとも、彼の場合は逆に、二百万ポンドという数字を多すぎる、と感じての判断だったが。二百万ポンドもの大金を個人に預け、その使い途を託すなど、国家が下す判断としては常軌を逸している。これはきっと、そういうことに違いない、と彼は考えた。

 

 鬼頭は、なればこそこの金を研究以外のことで使うわけにはいかない、と己を律していた。それ以外の用途で使ってしまえば、その事実を根拠に、英国政府からのアプローチを拒みにくくなってしまう、と考えたためだ。

 

 イギリス政府への協力は、セシリアのことと、BTシステムに使われている技術をXI-02にも導入出来ればな、という下心からのこと。少なくとも、いまはまだ、かの国との関係について、必要以上の親密さは不要と、彼は考えていた。

 

 鬼頭の話を聞きながら、真耶は、困ったわね、と口の中で呟いた。イギリス政府からのお金が使えないとなると、やはり、鬼頭には個人資産を売却してもらう必要がある。しかし、そのためには方々に足を運ばねばならない。彼の身の安全を考えると、これは避けたいことだが。

 

「鬼頭さんが、よろしければですが……」

 

 悩ましげに眉をひそめていると、かたわらの千冬が口を開いた。何か良案が思いついたのか、と先輩教師の横顔に向ける視線には期待の気持ちが篭もる。

 

「IS学園で《トール》を買い取り、そのお金で返済する、というのはいかがでしょう?」

 

 千冬からの提案に、鬼頭は目を丸くした。

 

 たしかに、それならば大切な愛車やコレクションを手放さずにすむし、なにより、IS学園にいながら資金の都合をつけられるが。

 

「ですが……よろしいのですか?」

 

 二つの意味を篭めての発言だった。一つは、IS学園はこのことを承知しているのかどうか。千冬の独断だとすれば、彼女の立場を危うくするやもしれないし、そもそも、取引自体が成立しない公算が高いが。

 

「そこはご安心ください」

 

 はたして、千冬は毅然とした態度で応じた。

 

「《トール》の買い取りについては、以前から学園で話し合われていたことでした」

 

 真耶を見ると、彼女も小さく首肯した。

 

 先日のクラス代表決定戦では、たった一週間ぽっち特訓を積んだだけの初心者が、専用にチューンされた最新鋭機を駆る代表候補生を相手に善戦してみせた。あの試合を観戦していた者の多くは、その理由を陽子が握る武器にある、と解釈したらしい。あの日以来、学園の兵装管理部には連日、《トール》の貸出を求める声が何十件と届くようになった。しかし、肝心のレーザー・ピストルが二挺しかない現状では、そのすべてに応じることは難しい。

 

「それで対策として、先日の職員会議で、鬼頭さんに《トール》の増産を依頼するのはどうか、という提案が取り上げられました。勿論、タダでやってくれ、とは言うのではなく、ちゃんと適正な価格での買い取りを保証する取引としてです。最初の二挺についても、きちんと買い取らせていただきます」

 

 そのときの会議では、鬼頭のことをまだよく知らない一部の教員から、《トール》という銃には本当に大金を支払うだけの価値があるのか。カタログ・スペックが高いだけで、実戦では使い物にならない、欠陥品ではないのか。ISバトルのレギュレーション・テストをクリアしたとはいうが、そこに不正はなかったのか、などの反対意見があり、また契約内容も詳細が決まっていなかったことから、一旦は取り下げられたが。

 

「鬼頭さんの方も乗り気だということが分かれば、この話は一気に進むことでしょう」

 

「なるほど、そんなことがあったのですか。……しかし、よろしいのですか? 《トール》にそんな値段をつけていただいて?」

 

 二つ目の懸念事項がこれだった。自分は兵器開発についてはまったくの素人だ。そんな人物の作品に、数百万円もの値段をつけてよいものか。勿論、一技術者として、《トール》の出来栄えには絶対の自信を持ってはいるが。

 

「《トール》の性能を考えれば、当然の対価です」

 

 不安を口にすると、千冬は呆れた声で言った。

 

「むしろ数百万円は安すぎるくらいです。あの銃の性能なら、一挺につき一億円の値段設定でも、適性とは言えないでしょう」

 

「持ち上げてくれるのは、嬉しいですが……」

 

 鬼頭は思わず苦笑した。一億円といえば、アヴェンタドールを新車で買って、そのお釣りでさらにウラカンまで購入出来る金額だ。いくらなんでも、褒めすぎだろう。

 

 しかし、千冬はかぶりを振って言う。

 

「主に戦闘機などが装備しているAIM-120 空対空ミサイルは、最新版で一発につき一億円以上します」

 

「む?」

 

「より小型で、射程も短いサイドワインダーですら、一発五千万円前後します。ですが、これらの兵器では、ISを撃墜することは出来ません。それに対し、《トール》にはISのシールドバリアーを貫通し、有効打を与えるだけの威力があります。それを考えれば、一挺数百万円なんて値付けは安すぎますよ」

 

「……なるほど。言われてみれば、たしかに、その通りですね」

 

 千冬の言から自身の浅慮を思い知らされた鬼頭は、深々と溜め息をついた。

 

 最強兵器ISを傷つけられる性能の武器。我ながら恐ろしい物を作ってしまった、と今更ながら背筋が寒くなってきた。しかもそんな脅威の性能の武器に、自分は法外に安い値段をつけて満足しようとしていた。その浅はかさに、目眩さえ覚えてしまう。

 

 最強兵器ISに有効打を与えられる武器が、安く、大量に出回れば、世界にどんな影響を及ぼすか。国家転覆を企むテロリストが《トール》の性能を知り、安く手に入ると知ったら何を考えるか。そういう想像力が欠けていた。

 

 と同時に、別の理由からも目眩を覚えた。先ほどから、二百万ポンドだとか、五千万円だとか、一生のうちに何度遭遇出来るかも分からない金額ばかりが、耳の奥へと頻繁に飛び込んでくる。これが兵器開発の世界のスケールか、と思うと、やむをえぬことだったとはいえ、恐ろしい世界に来てしまったものだ、と慄然とせずにはいられなかった。

 

「……《トール》の買い取り金額については、また今度話し合いましょう」

 

 数字に対する驚きの気配を鋭敏に感じ取った千冬は、そこで話題を打ち切ることにした。ISとの関わりが長いせいで、つい忘れがちになってしまうが、軍事の世界に身を置いていない人間にとって、五千万とか、一億といった桁は、あまり耳馴染みのない数字だろう。目の前の人物も、一ヶ月前まではただの一般人だった。金額規模のあまりの大きさに打ちのめされているいまの精神状態では、正確な判断を下せないではないか、と彼女は危惧した。

 

「それで、四つ目の目的についてですが……」

 

「最後は、さらにプライベートな用事なんですが……」

 

 一度開きかけた口を、また閉じた。さて、本当にこれを口にしてよいものなのか。

 

 千冬たちが相談に乗ってくれたおかげで、これまで話題にした三件については、IS学園に身を置きながらでもどうにか出来そうだ、と解決の筋道を立てることが出来た。しかし、最後に残した望みに関してだけは絶望的だ。相談するまでもなく、IS学園にいては絶対に叶わないとわかりきっている。ために、言葉にするのを躊躇ってしまった。

 

 いま思えば、帰郷を望む理由は四つある、と素直に答えてしまったのは失敗だった。自分の力になりたい、と言う真耶の厚意が嬉しくて、つい正直な気持ちを吐露してしまったが、あそこは三つと嘘をつくべきだった。二人とも、心根の優しい人物だ。決して叶わぬ望みを聞かせれば、力になれぬことへの申し訳なさから、表情を曇らせてしまうに違いない。

 

 ――これを聞かせれば、彼女たちを傷つけることになる。ここは、前言を翻して、話を打ち切るべきだろう。

 

 顔の強張りも険しい鬼頭は少しの間逡巡し、やおら、うむ、と頷いた。

 

「……いえ、これはやめておきましょう」

 

 四つ目の用事についてだが、改めて考えてみたところ、特に必要ないと思い直した。そう口にしようとして、

 

「なんですか? ここまで聞かせてもらったんですから、教えてくださいよ」

 

 プライベートなこと、という言葉から、わたしたちには言いづらいことなのかしら、と解釈した真耶が、思い悩む背中を押してきた。隣に立つ千冬も、はじめは乗り気でなかったくせに、「この際です。懸念事項はすべて洗い出しましょう」と、言ってくる。

 

 再び口をつぐんだ鬼頭は、さて困ったぞ、と苦い表情を浮かべた。純粋な善意からの言葉なのだろうが、それだけに、こうやって逃げ道を塞がれてしまうと、非常に断りづらい。

 

 ましてや千冬は世界最強のブリュンヒルデ。その鋭い眼光が相手では、中途半端な誤魔化しや下手な嘘は通用しまい。

 

 ――場の雰囲気を悪くしてしまうが……やむをえんな。

 

 ひっそりと溜め息をこぼした後、鬼頭は重たい唇を動かした。

 

「智也の、墓参りに行きたいと思いまして」

 

 口にして、やはり言うべきではなかった、と後悔した。二人の表情が、みるみる硬化していく。

 

 陽子の親権を取り戻した後、鬼頭は智也の墓を三重県の伊賀上野市から、名古屋に移していた。以前は、祥月命日の度に、とはいかずとも、なるべく時間を作って足を運ぶようにしていたが、娘ともどもこういう立場になってしまい、いままでのように頻繁には通えなくなってしまった。そこで、次の大型連休を利用したいと思ったのだが。

 

「鬼頭さん、それは……」

 

「ええ、分かっております」

 

 気の毒そうに見つめてくる真耶が何か言いかけたのを、鬼頭はゆっくりとかぶりを振って制した。

 

 このIS学園に身を置いている限り、絶対に叶えられない望みだ。他の生徒たちも通っているこの島に、まさか墓を移転させるわけにもいかない。こればかりは、諦めるほかないだろう。

 

「いま言ったことは忘れてください。実現は困難と思っていたことが三つも、可能かもしれないと希望を得られた。本当に感謝しております」

 

 叶えられない一つではなく、叶えられそうな三つに目を向ける。二人の顔の強張りが少しでもほぐれたらな、と話題の方向性を変えようとしたところで、昼休みの終了五分前を知らせる予鈴が鳴った。タイミングが悪いなあ、と口の中で呟く。

 

 昼休み明け最初の授業を担当するのは、千冬ほどではないが、時間厳守にかなりうるさい教員だ。彼女が教室に到着した時点で着席していなければ、大目玉を食らってしまう。

 

 相談に乗っていただき、ありがとうございました。次の授業があるので、失礼します。

 

 感謝の言葉とともに会釈をして、鬼頭は職員室を後にした。

 

 去り際に、ちらり、と見た二人の表情は硬く、そして暗いままだった。

 

 

 

 職員室を退出する鬼頭の背中を見送った後、表情筋の重たい織斑千冬は、深々と溜め息をついた。長い黒髪を忌々しげな手つきでかき上げると、悄然と吐き捨てる。

 

「……まったく、自分の浅はかさが嫌になる」

 

 鬼頭が四つ目の望みを口にするのを躊躇っていた理由に今更思い至り、千冬は自らの頬を張りたい衝動にかられた。自分たちを傷つけまいとした彼の気遣いを、他ならぬ千冬たち自身が台無しにしてしまったのだ。なぜすぐに気づくことが出来なかったのか。

 

 そればかりではない。鬼頭が口にするまいとした望みの内容についても、なぜ察してやれなかったのか。

 

 少し頭を働かせれば分かることではないか。鬼頭智之という人物の来歴を思えば、当然の要求ではないか。

 

「……鬼頭さんがこのIS学園に通うようになって、もうすぐ一ヶ月になるな」

 

「はい」

 

 かたわらに立つ真耶が頷いた。

 

「娘さんと一緒にいる姿が、私の中ですっかり当たり前の光景になっていた。そのせいか、忘れていたよ」

 

「わたしもです」

 

 帰り際に男が垣間見せた悲しげな顔を思い浮かべ、真耶の大振りな双眸は暗く沈んだ。自然、胸の奥で鈍痛が芽生える。大振りな双眸を辛そうに濡らしながら、彼女は言った。

 

「あの人は、陽子さんだけの父親ではなかった。智也さんのお父さんでもあった」

 

「亡き愛息の菩提を弔いたい。父親であれば、当たり前の望みだ。なぜ気がつかなかった。なぜ見落としてしまった……」

 

 悔しげに呟いて、唇を真一文字に結ぶ。奥歯を噛みしめながら、千冬は自らを責めた。

 

 迂闊としか言いようがない。鬼頭智之という男を構成する数々の要素の中でも、最も重要なことを見落としてしまった。彼がこれまでにどんな人生を歩んできたのかなんてことは、内調をはじめとする各情報機関が用意したたくさんの資料に目を通して、知っていたはずなのに。

 

 ――これでは一夏のことを笑えないな。

 

 人懐っこい性格をしているくせに、他人からの好意となると途端、察しが悪くなる弟の顔を思い出して、千冬はまた嘆息した。もしかして姉である自分に似たのだろうか、と思い、また憂鬱な気分に襲われてしまう。

 

「織斑先生」

 

 苛立ちの原因は、もう一つある。鬼頭が口にした最後の望みに対し、力になってやることの出来ない我が身の不甲斐なさだ。無力感に打ちひしがれているのはどうやら真耶も同じようで、後輩教師の声からは覇気が感じられなかった。

 

「お墓参りの件ですけど、本当に、わたしたちに出来ることはないんでしょうか?」

 

「……智也君のお墓をIS学園に持ってくるのが、いちばん簡単な手段だが」

 

 鬼頭の性格を考えれば、そんな提案に乗るとは考えにくい。IS学園で学ぶ他の生徒たちの心情を配慮して、断ってくるに違いない。

 

「そうなると、やはり名古屋に赴くしかないが……」

 

 問題は、警護態勢をどう構築するかだ。IS学園から名古屋へ行くまでと、名古屋に着いてからの行動計画、そして再びIS学園に戻るまでの、少なくとも三段階に分けて、セキュリティ・プランを練る必要がある。当然、IS学園単独でのプラン作りは不可能だ。先刻、鬼頭にも言った通り、学園にはそのための人材が不足している。日本政府と連絡をとり、現地の警察機構や、場合によっては自衛隊などとも連携を取る必要がある。

 

 しかし、それをやると政治の問題が首をもたげてくる。

 

 IS学園の建設費や運営費用の多くは、日本政府より拠出されている。当然、学園に対する影響力は他のどの国の政府よりも強く、たとえば、学園の教職員には日本人を多く採用させたり、織斑一夏の専用機を日本の企業に作らせたりなど、学園側にしばしば便宜をはからせている。

 

 その一方で、IS学園は原則として、国家の内政や外交、国家間の係争問題には不介入の立場をとるよう、アラスカ条約で定められてもいる。ために、日本政府との蜜月関係は秘匿する必要があった。仮に、世間から日本政府の関与は明らか、という悪評が立ってしまうような事態が起きたとしても、絶対にその事実を認めてはならない。最低でも、公然の秘密程度にとどめておかねばならない。

 

 鬼頭智之の警護態勢確立のため、日本政府に協力を要請すれば、かの政府との関係を学園自らが公表する形になってしまう。在学生徒たちのうち、留学生の多くは母国の軍隊や諜報機関より、スパイ活動を命じられている公算が高い。この事実が彼女たちの耳に入れば、IS学園や日本政府の立場が危うくなってしまう。

 

 ――絶対に、それだけは避けねばならん!

 

 日本政府を頼るわけにはいかない。IS学園単独で、警護態勢を整えなければならない。しかし、それは何度も口にしたように無理な話だ。IS学園には、特殊作戦向きの人材が乏しい。そも、マン・パワーが絶対的に不足している。不足している分の人員を、日本政府の方で埋めてもらう必要がある。

 

 堂々巡りの結論に陥った千冬と真耶は、揃って憂鬱な面持ちになった。

 

 真耶にいたっては、現実の無情さに改めて打ちのめされ、途方にくれた挙げ句、普段なら絶対に口にしないような都合のよい願望を呟いてしまう。

 

「……どこかにいませんかね? IS学園とは関わりなく、日本政府にはたらきかけることが出来て、それでいて鬼頭さんに味方してくれるような人が」

 

「そんな都合のよい人間がいるわけ……」

 

「ここにいるぞぉ!」

 

 職員室の電動スライドドアがシームレスに開け放たれた。ティーンエイジャー特有の甲高い音色ながら、言葉の端々に、年齢不相応な色気を感じさせる艶っぽい声に反応して、二人揃って振り返る。二人揃って、あっ、と口を開けた。

 

 入室してきたのは、空色の髪をした女生徒だった。暦の上では間もなく初夏が到来する季節だというのに、制服の上に白緑色のベストを着ている。インナーシャツの襟を留めているネクタイの色は黄色。二年生の学年色だ。ローファーの踵を鳴らしながら二人の前に立つと、ルビー色の瞳がいたずらっぽく笑ってみせた。

 

「お前は……」

 

「お話は聞かせていただきました!」

 

 千冬が下の句を口にするよりも早く、二年生の少女は朗らかな口調で言った。

 

 どこから取り出したのか、入室時には手ぶらだった右手は、いつの間にか扇子を握っている。口元を隠すように広げると、扇面には図柄ではなく、『委細承知』と、毛筆でしたためられたと思しき四字熟語が書かれていた。

 

「鬼頭智之さんの警護の件、私たち更識にお任せください」

 

「……そういえば、彼女がいましたね」

 

「ううむ……」

 

 IS学園の生徒でありながら、学園の意思とは別な行動を取れる立場にある人物。それでいて、日本政府にも顔が利く。しかも、本人も腕っ節が立つ上に、特殊作戦全般に明るいときている。今回の件を任せるにあたって、これ以上は望みようがないというほどに、非常に都合のよい人材だ。

 

 唯一の懸念事項は、性格にややくせがあるということだが……はたして、鬼頭智之という堅物人間と会わせて、どんな化学反応が生じるか。

 

 まだ彼女に任せるかどうかも決まっていない段階ながら、そのときのことを想像し、千冬たちはまた揃って溜め息をついた。顔を見合わせ、互いに笑い合う。溜め息ばかりの一日だな、と自嘲する、鏡会わせの嘲笑だった。

 

 

「……ところで更識、お前、授業はどうした?」

 

「……アッハッハッ。……見逃してはいただけませんでしょうか?」

 

「立場上、そういうわけにもいかんのだ。ていっ」

 

 職員室内に、打撲の快音が響き渡った。

 

 脳天めがけて振り下ろされた鋭い一撃、その一部始終をかたわらで眺めていた真耶は、「相変わらず出席簿が出す音じゃないよねぇ」と、呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter25「開かれた戸」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クラス対抗戦が開かれた日の翌日――。

 

 放課後の到来とともに一年一組の教室をひとり飛び出した鬼頭は、IS解析室へと急いでいた。

 

 目的は勿論、昨日の戦闘データの解析だ。無人ISの襲撃というアクシデントは、みんなが楽しみにしていた学園の行事を台無しにしてしまったが、他方で、鬼頭に対しては《ミニ・ティアーズ》や《オデッセイ・システム》の実戦における稼働データという、貴重な資料を提供してくれた。これを子細に分析すれば、BTシステム完成のための研究をかなり前進させられるだろう。

 

 ――さんざん迷惑をかけてくれたんだ。これぐらいは役立ってもらわねばな。

 

 通学鞄を手に廊下を進む鬼頭の口角は緩んでいた。

 

 昨晩、自室にてざっと目を通しただけでも、かなり有力なデータと見て取れた。設備の整った解析室で丹念に検めれば、いったいどれほどの成果が得られるだろうか。

 

 あのISのために、一夏や鈴は傷つき、アリーナにいた多くの生徒が恐い思いをさせられた。その事実を踏まえた上でなお、不謹慎とは思いつつも、楽しみに思う気持ちを抑えられない。

 

 胸弾む鬼頭は、やがて解析室のある第三校舎への渡り廊下までやって来た。

 

 出入口に近づいたところで、はた、と立ち止まる。

 

「……しまった」

 

 苦々しい呟きが、唇からこぼれ落ちた。

 

 いまになって、忘れ物の存在に気がついた。もう十年以上愛用しているモバイルPCだ。昨晩、戦闘データの分析のために机の上で開いて、放置したまま学校に来てしまった。

 

 さてどうするか、と鬼頭は一瞬、躊躇した。

 

 所詮、IS登場以後の技術革新が起こる前に発売された旧型モデルだ。IS学園の持つ最新の機器と比べれば、天地ほどの性能差がある。なくてもデータの分析に支障はないだろうが、使い勝手の良さから十年も手放せないでいる品でもある。データ分析のような地道な作業の場合、使い慣れた道具というのは、ときに性能差を覆す武器となる。

 

 取りに戻るべきか、否か。

 

 少し考えた後、鬼頭は踵を返した。やはり、使い込んだ道具の良さというのは、何物にも代えがたい。来た道を引き返し、第一校舎の正面出入口を目指す。

 

「おや?」

 

 知った顔を見つけたのは、目的の正面出入口に差し掛かったときのことだった。

 

 手入れの行き届いた黒髪が、こちらに背を向け、揺れている。

 

 クラスメイトの夜竹さゆかだ。ちょうど、正面出入口を出るところだった。両手で文庫本を開き、紙面に目線を落としたまま、器用にも歩を進めていく。

 

 眉をひそめた鬼頭は歩調を速めた。あっという間に距離を詰めるや、後ろから声をかける。

 

「時間を惜しんで読書したいという気持ちはよく分かりますが……」

 

 IS学園では珍しい男の声に、小さな方が揺れた。立ち止まり、振り向いた彼女に、鬼頭は苦笑を浮かべてみせる。

 

「ながら歩きは感心しませんよ、夜竹さん」

 

「鬼頭さん」

 

 ちら、と手元の文庫本に目線を向けた。天の部分の裁断が粗っぽく、スピンが糊付けされている。新潮社に特有の造りだ。だとすれば、ページ上部の真ん中あたりにタイトルが記されているはず……ああ、やはり、そうだった。

 

「……河合隼雄ですか。心理学に興味が?」

 

「え? あ、は、はい。……ええと、なんで、河合隼雄の本って?」

 

「失礼ながら、本のタイトルが見えてしまいまして」

 

 鬼頭は文庫本を指差した。

 

「『こころの処方箋』、若い頃に読まされた本です」

 

「なるほど、それで。……読まされた?」

 

「入社してすぐの頃に、当時の社長から、『社会人たるものこれくらいは読んでおけ』と、三〇〇冊ばかり、本をリストアップされまして」

 

 当時のことを思い出し、鬼頭はほろ苦い微笑を口元にたたえた。

 

 先代社長の桐野秋雄は教養主義の権化のような人物だった。いわゆる昭和教養主義が最も熱を帯びていた昭和十年代に、多感な青年期を迎えた彼は、以降もその時代特有の情熱を抱えたまま大人となり、アローズ製作所を興した。先代社長の時代、社長室の書架には会社資料の他に、何百冊という古典文学、哲学書、社会学の本などが並んでいたものだ。

 

「『こころの処方箋』はそのうちの一冊だったんですよ。河合隼雄は他に、ユング心理学の解説本や、……陽子たちが産まれてから、児童心理に関する本なんかを読みましたね」

 

 懐かしいなあ、と、呟いて、鬼頭は文庫本に目線を落とした。紙の黄ばみ具合から考えるに、かなり古い版だろう。図書室で借りてきた本だろうか。

 

「夜竹さんは、どうしてこの本を?」

 

「……入学前は、こういうジャンルの本は、読んだことがなかったんですけど」

 

 目上の相手に対し、言葉遣いが失礼にならぬように、と、さゆかは慎重に口を開いた。

 

「今年は、織斑君が入ってきましたから」

 

「というと?」

 

「女子校育ちなもので。恥ずかしながら、同じ年頃の男の子と、どう接していいのか、分からなかったんですよ。それで、男女の性差からくる、考え方の違いについての本を読むうちに」

 

「色々な心理学の本を読むようになった、と。なるほど」

 

 鬼頭は得心した様子で頷いた。なんとも可愛らしい理由だ。思わず頬が緩んでしまう。

 

「これから帰って、ゆっくり読書というわけですね?」

 

「はい。……鬼頭さんは、いま、お帰りですか?」

 

 鞄を持っている姿を見ての判断だろう。鬼頭は苦笑を浮かべて、かぶりを振った。

 

「いえ。これから、IS解析室に向かうところだったのですが」

 

「ですが?」

 

「寮に、忘れ物をしてしまいまして。……いけませんねえ。年を取ると、こういうことが多くなって困る」

 

 鬼頭は小さく方をすくめた。

 

「行き先も同じ場所ですし、よろしければ、寮までの道すがら、話し相手になっていただけませんか?」

 

「私がですか?」

 

「ええ。おじさんが頭をひねりにひねって思いついた、ながら歩きをやめさせるための作戦にはまっていただけると非常に助かります」

 

「まあ」

 

 諧謔を孕んだ口調で言う鬼頭に、さゆかも口元をほころばせた。

 

「そういうことなら、私も、鬼頭さんの術中にまんまとはまってみせましょう」

 

 鬼頭とさゆかは肩を並べて、学生寮へと続く道を歩き始めた。

 

 平素はあまり接点のない二人だが、いまは読書という格好の話題がある。道すがら、話の種は尽きなかった。

 

「え!? 鬼頭さん、《ヒルガードの心理学》持っているんですか?」

 

 視界の片隅に学生寮の姿が映じ始めた頃合いで、さゆかの唇から甲高く驚いた声が漏れた。

 

 心理学入門の決定版と評される一冊だ。初版は一九五三年の出版だが、半世紀以上にわたって加筆修正が繰り返され、今日でも世界中の大学で現役の教科書として採用されている。心理学に関心を持ち始めたさゆかが、いま一番読みたいと思う本の一つだが、学園の図書室には蔵書がなく、残念に思っていた。専門書だけあって、《ヒルガードの心理学》は高額な書籍で、高校生の身では気軽な気持ちで手を出しづらい金額なのだ。しばらくは読めそうにないな、と悔しく思っていた矢先に、意外な人物の口からその名が飛び出したことで、さゆかの胸は期待に弾んだ。

 

「ええ。私が持っているのは、古い第一六版ですが」

 

 名古屋からIS学園にやって来る際に、暇潰し用にと島に持ち込んだうちの一冊だ。しかし、最近はアローズ製作所の仕事だけでなく、BT兵器の研究でも忙しくなってしまったため、肝心の余暇時間自体がめっきり少なくなってしまった。

 

 このままではせっかくの良書も棚の肥やしで終わってしまう。鬼頭は微笑とともに口を開いた。

 

「古い版でよれけば、読みますか?」

 

「いいんですか?」

 

「ええ、勿論」

 

 学生寮に到着した二人は、依然として肩を並べながら、鬼頭の自室である1122号室へと直行した。

 

 部屋の番号が示す通り、鬼頭親子に与えられた部屋は寮の上層階の奥まった場所にある。階段を上り、長い廊下を踏破してドアの前に辿り着くと、まず鬼頭が一歩前に出た。ジャケットの内ポケットから金属製の鍵を取り出すと、ノブの直上に配された円筒錠の穴に差し込む。オートメーション化が進んでいるIS学園だが、学生寮の錠前は、古式ゆかしいシリンダー・タイプが採用されている。がちゃり、と回して解錠し、次いでドアノブを握った。円筒錠の鍵穴からキィを抜き取ると同時にドアノブをひねり、ゆっくりと押し開く。

 

「お帰りなさいませ。ご飯にします? お風呂にします? それとも、わ・た・し?」

 

 物凄い速さで、鬼頭はドアを引き閉じた。ドアノブを力強く握りしめたまま、板戸に額を押し当てる。ひんやりとしていて心地よい。この冷たさが、自分にきっと、冷静な判断力を与えてくれるはず。ゆっくりと深呼吸をひとつして、顔を上げた。後ろを振り向き、唖然とした様子のさゆかに笑いかける。

 

「……いけませんねぇ。年を取って、幻覚まで見えるようになってしまった」

 

「いえ、あの……鬼頭さん、わたしにも見えました、よ?」

 

「いいや! あれは幻覚だ!」

 

 そうでなければ困る。自分と陽子の暮らす部屋に、あんな、あんな……!

 

「あんなフリルたっぷりのエプロン一枚だけを身につけた裸の女性がいるなんて、あってはならぬことだ!」

 

 そうだ。いまこの目に映じたのは幻覚だ。なぜだか、さゆかの網膜にもくっきり像が刻まれているようだが、とにかく、あれは幻覚なのだ! その証拠に、ほうら、もう一度ドアを開けてみれば消え――、

 

「お帰りなさいませ。私にします? 私にします? それとも、わ・た・し?」

 

 空色の髪がまぶしい少女が、白い素肌に、これまた白いエプロンを一枚のみという、刺激的な装いで立っていた。胸当ての端からこぼれ見えるまあるい脇乳が、なんとも扇情的である。

 

「…………はぅっ」

 

「え? あ、あら……?」

 

「鬼頭さん!?」

 

 急なめまいに襲われた鬼頭は、たまらず、その場で両膝をついてしまった。さらには両手さえも床につき、四つん這いの状態のまま、身を震わせる。すかさず、後ろに控えていたさゆかが腰を落とし、その背中を撫でさすった。

 

 鬼頭は、なんということだ……、なんということだ……、と、繰り返し、口の中で呟いた。

 

 ――なんということだ……よく見れば、陽子たちと同じ年頃の娘ではないか!

 

 おそらくは学園の生徒だろう。全体的に彫りの深い顔立ちをしているものの、よく見ればまだあどけなさを残した造作をしている。露出がまぶしい手足も、臍下丹田に、ぐっ、と気合いを篭め、しげしげと眺めてみれば、張りのある、きめ細やかな肌をしていた。若さ漲る、ティーンエイジャーに特有の肌質だ。

 

 そうと知った鬼頭の胸の内では、激しい後悔の念が湧き上がった。

 

 男の自分が暮らす部屋に、年頃の娘が、破廉恥な格好をして待っていた。

 

 これは、つまり、そういうことなのだろう。

 

 鬼頭は背中をさするさゆかに、「もう大丈夫です」と、声をかけると、ゆっくりと立ち上がった。気を抜くと倒れてしまいそうになる体を二本の足で懸命に支えながら、ほとんど全裸同然の装いの少女の顔を、真っ直ぐに見据える。

 

 鬼頭の一連の反応が予想外だったか、空色の髪の少女は、困惑した表情で彼を見つめ返した。

 

 やがて鬼頭は、喉の奥から絞り出すように、震える声で言い放った。

 

「若者たちの間で……」

 

「え?」

 

「性文化についての考え方が、乱れに乱れている、と……テレビのニュース報道や、新聞の記事などで、知ってはいるつもりでした。しかし、それは所詮、知った気になっていただけだった! テレビの向こう側で起きている出来事、自分たち家族には関係のない出来事と、心のどこかで、そう思っていた……。今日、こうして、実際にそういう若者の姿をこの目で見て、そのことを思い知らされた!」

 

「え? あ、い、いや、それは違っ……!」

 

「何が違う!? その格好のどこが違うというのだ!?」

 

 絶叫が、鬼頭の唇から迸った。学生寮の廊下に、男の悲憤の咆哮が響き渡る。直後、ざわざわ、と、喧噪が其処彼処で生じた。空色の髪の少女の顔が、みるみる青ざめていく。

 

「ちょっ、鬼頭さん! あまり大声を出さないでください……!」

 

「実際に、性についての考え方が乱れきっているきみの姿を見て、自分が情けなくなった! きみたち若者をそういうふうにしたのは誰だ? そんな世の中を生み出したのは誰だ!? 決まっている! 俺たち大人だ! 俺たち大人が、きみたち子どもと真剣に向き合ってこなかった結果が、こんな世の中を産んだんだ!」

 

 一度だけでなく、二度三度と轟く太い悲鳴を、さすがに怪訝に思ったか。いったい何事か、と、寮の自室にすでに帰宅していた何人かの生徒が、慌てた様子で戸を開けて、声のした方を振り向いた。鬼頭と、さゆかと、空色の髪の少女の姿を見て、等しく悲鳴を上げる。

 

「きゃー! 痴女よ、痴女!」

 

「鬼頭さんが痴女に襲われている!?」

 

「ええっ!? わたしのお父さんがハニートラップに遭っているって!?」

 

「あっ、おい待てぃ。昨日、鬼頭さんはみんなのお父さんって、淑女協定で決めたでしょうが!」

 

 一人の悲鳴が、呼び水となった。自分たちの生活圏に、あられもない姿をした痴女がいる。その事実を知らされて、少女たちの口からは次々に悲鳴があがった。

 

 これは不味い。いったん、この身を隠さねば。

 

 空色の髪の少女は部屋の奥へと身を翻そうとし、その手を、鬼頭に掴まれた。

 

「なっ! は、離してください!」

 

「すまない……! 本当にすまない! きみは悪くないんだ! 俺たち大人が……俺たちが情けなかったばかりに……!」

 

「……やだ、この人、意外に力強い。ああ逃れられない!」

 

 細い手首を握る男の手は力強く、振りほどくことは難しかった。

 

 少女の手を取る鬼頭の目には、眼前の彼女と、陽子の姿が重なって映じていた。愛娘は幸いにして、性について偏った考え方を育むことなく今日まで成長してくれた。しかし、もしかしたら何かのきっかけで、彼女もこうなっていたかもしれない。それを思うと、この社会に生きる大人の一人として、世にはびこる若者たちの性の乱れという問題の責任を痛感せずにはいられなかった。謝らずにはいられなかった。謝罪の言葉を聞かせたい。叶うならば、自らを傷つける前に考えを改めてほしい、という切なる想いが、鬼頭に彼女の手を握らせていた。

 

 鬼頭が自身の感情の扱いを持て余している一方で、手を掴まれている側の動揺もまたすさまじかった。

 

 名を、更識楯無という。IS学園に通う二年生の娘で、とある事情から、鬼頭親子への接触を以前から切望していた。ところが、彼女自身が彼らのもとに足を運ぶためには、それまでにクリアしておかねばならない問題が多く、その解決に今日まで時間がかかってしまったのだ。それら障害の数々に一応の決着をつけ、ようやく会いに行くことが出来ると胸を弾ませていた彼女は、しかし、よせばいいのに、ここで悪戯心に囚われてしまった。鬼頭智之を驚かせたい考えから、親子の部屋に忍び込み、水着の上に薄手のエプロン一枚という際どい格好をして息をひそめ、帰宅と同時に出迎えて、彼らの反応をじっくり見てやろう、という企みを計画したのである。

 

 企てを実行する上で最大の障害となる、部屋の鍵をどうやって解錠するかという問題は、学園内における彼女の特別な立場が解決してくれた。学園にたった一席しかないポストに由来する権限を用いることで、合鍵を比較的容易に入手することが出来た。かくして、鬼頭親子のプライベート空間への侵入に成功した楯無だったが、実際に鬼頭と顔を合せてみれば、目論見とは反対に彼女の方が驚かされるはめになった。

 

 慌てるとか、頬を赤らめる、といった、事前に彼女が予想していた反応を、鬼頭智之は一切示さなかった。切れ長の双眸を悔しげに潤ませながら、むしろ自分の身を案じてきた。いったいどういう思考過程を経てそんなリアクションに及んだのか。考え込んでしまったのが、不味かった。思索にふけった僅かな一瞬のうちに、事態はどんどんと悪化していった。

 

 鬼頭の悲痛な叫びを呼び水に、近くの部屋で暮らす生徒たちがわらわらと顔を出してきた。異性の目には扇情的で、刺激的と映じる装いも、同性の目には痛々しい姿と見えてしまう。羞恥から言葉を失っていると、今度はあろうことか痴女呼ばわり。しかも、複数人からそう認識されてしまった。これは不味い。騒ぎが大きくなりつつある。ここは一年生の学生寮だ。このままでは“彼女たち”に自分の醜態を知られかねない。そんなことになったら……。一刻も早く、この場から逃れなければ、と踵を返そうとした直後に、手首を掴まれた。

 

 当然、楯無は振りほどこうとした。ところが、押しても、引いても、びくともしない。単純な腕力では敵わぬと、日頃鍛えた武芸の体捌きをもって相手の重心バランスを崩し、その隙に抜け出そうと試みるも、それさえも素早く対応され、封じられてしまう。

 

 ――あ、あれ? これ、本格的に不味いんじゃあ……。

 

 急速に、顔から熱が奪われていくのを自覚した。血の気が引いているのだ。

 

 焦りが、四肢の働きを鈍らせる。冷静な判断力が、失われていく。

 

 こうなっては仕方がない、とエプロンの前掛け部分のポケットに忍ばせておいた扇子へと手を伸ばした。握り手の尾部にくくりつけてある、ダイヤ型のアクセサリの感触を確かめる。待機状態のISだ。これだけは使いたくなかったが、と表情に苦渋を滲ませながら、意識を集中させ――――、

 

「あ、会長だ~」

 

――ようとしたところで、間延びした声に、かき乱された。

 

 鬼頭ともどもそちらを振り返れば、鬼頭らと同じ一年一組に在籍する布仏本音の姿があった。独特な時間感覚や感性の持ち主で、いつもおっとりとした雰囲気を身に纏っていることから、一夏より、のほほんさん、とあだ名されている人物だ。かたわらに、楯無とよく似た顔立ち、よく似た髪色をした、一年生の女子生徒を連れている。眼鏡のレンズの向こう側でショックを受けた様子の瞳と目が合い、楯無は、あ、終わった、と、口の中で呟いた。

 

「ほ、本音、会長って?」

 

 鬼頭に手首を掴まれながら茫然としている破廉恥女と、彼女の素性を知っているらしい本音の顔を交互に見て、さゆかは、震える声で訊ねた。

 

 他方、たったいま寮に帰ってきたばかりで、いまがどういう状況なのか、さっぱり飲み込めていない本音は、平素ののほほんとした口調で応じた。

 

「会長は会長だよ~。IS学園の、生徒会長」

 

「……マジ?」

 

「まじまじまじ~ろ」

 

「…………」

 

 廊下に飛び出してきた女生徒たちのうち、何人かが、愕然と膝をつき、両手を床についた。

 

 肩を震わせ、声を震わせて、彼女たちは口々に叫んだ。

 

「……失敗した! 進学先選びをミスった!」

 

「IS学園に進学出来れば将来安泰じゃなかったの!?」

 

「それがこんな……こんな、痴女が生徒会長をしているような学校だったなんて……!」

 

 学生寮の廊下に、希望を胸にIS学園の門を叩いた女生徒たちの、悲痛な悲鳴が轟いた。

 

 しかし、そんな彼女たちの声も、いまや楯無の耳膜を震わせるにはいたらなかった。

 

 自身の社会的地位の失墜よりも重大事が、彼女の目の前で起こっていた。

 

 本音の背後で体を強張らせ、楯無に対し、怯えと、侮蔑の入り混じった眼差しを向ける眼鏡の少女が、小さく、口を開いた。

 

「う、嘘……」

 

 かそけき声だった。しかし、黄色い喧噪の渦中にあって、楯無だけは、その声を明瞭に聞き取ることが出来た。心理学でいう、カクテルパーティー効果だ。彼女の脳は、他のどんな音情報よりも、少女の声を最優先で処理するよう努めていた。

 

「そんな……お姉ちゃんが、二回り以上も歳の離れたおじさんに、水着エプロンなんてエッチな格好で襲いかかる、痴女だったなんて……!」

 

「…………うん。死のう」

 

 楯無は、どんな気難しがり屋も思わず微笑み返したくなるような、満面の笑みを浮かべながら呟いた。

 

 それまではどんなに力を篭めても、ぴくり、とさえしなかった鬼頭の手を、いとも容易く振りほどくと、学生寮の廊下の壁に、頭を打ちつけ始める。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 慌てて、鬼頭が後ろから羽交い締め、その愚行を制止した。

 

「待て! よすんだ! きみの気持ちはよく分かる! みんなから見られて、今更ながら、自分の行いを恥ずかしく思ったんだろう!? 自分の存在を、消してしまいたくなったんだろう!?」

 

「やだ! 小生やだ!」

 

「その恥ずかしいという気持ちは、大切なことなんだ! 自らの愚行を、恥、と思える、その気持ちさえあれば、きみは何度だってやり直せるんだ!」

 

「離して、離して!」

 

「いいや、離さない! 大人として、離すわけにはいかない!」

 

「あ゙あ゙あ゙も゙お゙お゙お゙や゙だ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!」

 

 放課後を迎えたばかりで、学生寮に戻っている生徒が少ない時間帯だったのは、彼女にとって、不幸中の幸いだったといえよう。

 

 IS学園の生徒会長、更識楯無の我を忘れた絶叫が、学生寮に轟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter25「開かれた戸」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 謎の無人ISが、アローズ製作所パワードスーツ開発室を襲った日の翌日の昼過ぎ。

 

 名古屋市名東区は梅森坂にある、東名古屋病院の廊下を、仁王の顔立ちの桜坂は部下の酒井仁とともに歩いていた。向かう先は、昨日の一件で怪我を負い、精密検査のため入院することになった部下たちの病室だ。負傷した三人は全員、別々の病室があてられており、見舞いにやって来た二人は、まず開発室唯一の女性スタッフである桐野美久が入院する部屋を目指していた。

 

 三人の治療を担当した医師たちからは、治療の経過について、すでに一通りの話をうかがっている。謎のISと直接戦ったトムと土居の二人は、重傷ではあるものの、比較的意識ははっきりしているという。他方、美久の怪我は、三人のうちでは最も軽傷ではあったが、頭を打ちつけていたため、後遺症が心配された。見舞いの品が入った紙袋を揺らす桜坂と酒井の足取りは、せかせかと忙しかった。

 

 エレベータで目的の階層に到達した後、長い廊下を歩くことおよそ三分。ようやく、美久の待つ病室が見えてきた。彼女の病室には、総務省職員の城山悟のはからいにより、脳神経外科の病棟の特別室があてがわれていた。一泊一万円以上もする個室で、一般の病室よりも広々とした間取りと、上等な内装で飾られた部屋だという。患者のプライベートを守るため、他の入院患者用の病室からは少し離れた場所にあり、見舞いにはやや不便な位置だといえた。

 

 二人並んで、ドアの前に立つ。VIP待遇者の特権で、誰が入院しているのかを示す表札を掲げていない部屋の引き戸は、なるほど、たしかに一般病室よりも上質な造りをしているように見受けられた。桜坂が一歩前に出て、ドアを三度ノックする。しばらく待ってみたが、返答はなかった。

 

 桜坂と酒井は顔を見合わせた。留守でしょうか? 中で何か作業をしていて、そちらに集中していたせいで、たまたま聞こえなかっただけかもしれませんよ。目線だけでの会話を終え、念のため、今一度ドアの方を向く。再びノックしようとしたところで、

 

「!?」

 

 超人の耳膜が、かすかな音を拾い上げた。

 

 引き戸の僅かな隙間から漏れ聞こえる、苦しげな、呻き声。まさか、頭が痛むのか!?

 

 顔を青くした桜坂は、慌ててドアノブに手をかけた。酒井が止めるよりも早く、FRP製の重い扉を、ぐっ、とスライドする。

 

「桐野さん、失礼します!」

 

 声を荒げながらドアを開き、特別室に足を踏み入れた桜坂は、そこで茫然と立ち止まった。

 

 まるで上等なホテルの一室のようだった。日当たりのよい、十六畳ほどもある広々とした部屋に、テーブルやアームチェアといったインテリアが配置されている。患者の乗降性が配慮された背の低いベッドは、向かって右側の壁に、ぴたり、とくっつけられており、その上で、桐野美久は、独り、身悶えしていた。なんか見覚えのある枕に顔を埋め、右手を股の間にしのばせながら、くねくね、と体を揺らしている。っていうかアレ、二ヶ月前になくした、俺の枕やん。

 

「室長! 室長! 室長! 室長ぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!!

 

 あぁああああ…ああ…あっあっー! あぁああああああ!!! 室長室長室長ぅううぁわぁああああ!!!

 

 あぁクンカクンカ! クンカクンカ! スーハースーハー! スーハースーハー! いい匂いでふぅ…くんくん。

 

 んはぁっ! 天使様の愛用の枕、クンカクンカしてるよお! クンカクンカ! あぁあ!

 

 ハムハムもすりゅぅ! ハムハムするのお! ハムハム! ハムハム! 室長の皮脂がくっついた枕ハムハム! ハムハムじゅるじゅる……きゅんきゅんきゅい!

 

 昨日の室長かっこよかったよぅ!! あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!! ふぁぁあああんんっ!!

 

 作者がやる気を取り戻してよかったですね、室長! また活躍できますよ! あぁあああああ! かっこいい! 室長! ドジっ子かわいい! あっああぁああ!

 

 いよいよ原作第二巻のお話しに突入ですよ…いやぁああああああ!!! にゃああああああああん!! ぎゃああああああああ!!

 

 ぐあああああああああああ!!! このお話しはただの二次創作!!! 公式じゃない!!! 小説にも、アニメにも、よく考えたら…

 

 室 長 は 存 在 し な い ? にゃあああああああああああああん!! うぁああああああああああ!!

 

 そんなぁああああああ!! いやぁぁぁあああああああああ!! はぁああああああん!! ファンタズマゴリアぁああああ!!

 

 この! ちきしょー! やめてやる!! 現実なんかやめ…て…え!? 見…てる? 部屋の出入口のところから、室長が見てる?

 

 お見舞いの品の入った紙袋をぶら下げた室長が私を見ている! 室長が私を見ている! 気の毒そうな眼差しで私を見ているわ!

 

 ああっ、室長がさめざめと両手で顔を覆ったわ!!! 私のことで、泣いているわ!!! よかった…世の中まだまだ捨てたモノじゃないですねっ! 

 

 いやっほぉおおおおおおお!!! 私には室長がいる!! やりましたよソゥ・ユート!! ひとりでできるもん!!!

 

 あ、元はエロゲー二次創作出身の室長おおおおおおおおおおおおおおおお!! いやぁあああああああああああああああ!!!!

 

 あっあんああっああんあレスティーナ様ぁあ!! ア、セリアー!! エスペリアぁああああああ!!! オルファァぁあああ!!

 

 ううっうぅうう!! 私の想いよ室長へ届け!! 龍の大地の室長へ届け!」

 

 がらがらがら。ぴしゃん。

 

 無言で引き戸を閉じた桜坂は、ドアノブを力強く握りしめたまま、板戸に額を押し当てた。ひんやりとしていて心地よい。この冷たさが、自分にきっと、冷静な判断力を与えてくれるはず。ゆっくりと深呼吸をひとつして、顔を上げた。後ろを振り向き、気の毒そうな眼差しを向ける酒井に微笑みかける。

 

「……先に、土居君たちの病室に行きましょうか」

 

「そうしましょう」

 

 来た道を引き返し、土居たちのいる整形外科のエリアへと向かった。二人についても、城山は特別室を用意してくれたという。

 

 やはり奥まった場所にある病室を目指して歩いていると、

 

「あれ、室長に、酒井さん?」

 

 途中の休憩所で、備え付けの週刊誌を読む土居の姿を見かけた。いかにもな内装の特別室ではかえって落ち着かず、ゆっくり体を休められない、と公共のスペースにやって来たのだという。

 

「土居君、横になっていなくて、大丈夫なのかい?」

 

 体中の其処彼処に巻かれた包帯や、リント布が痛々しい土居の姿を眺めて、桜坂は沈痛な面持ちで訊ねた。

 

 土居は、「じいん、とした痛みは、まだそこら中でありますけど」と、前置きした上で、

 

「歩くのもしんどい、ってほどではないんですよ。……俺たちのXI-02の装着者保護機能は優秀ですよ。最強兵器を相手にあれだけ痛めつけられても、翌日にはこうやって、自力で歩いたり出来るんですから」

 

と、快活に微笑んでみせた。強がりを感じさせない笑顔に、桜坂は安堵の溜め息をこぼす。

 

「そうか……。大事がないようで、よかった」

 

「室長たちは、お見舞いに来てくれたんですか?」

 

 二人の持っている紙袋を見ながら、土居が訊ねた。

 

 桜坂は首肯すると、

 

「本当は、先に桐野さんの方の様子を見てから、土居君たちのお見舞いをするつもりだったんだが……」

 

「だが?」

 

「色々あってね。先に、きみたちの方に顔を出すことにしたんだよ」

 

 窓の外に広がる世界へと視線を向けながら、桜坂は乾いた口調で呟いた。屈託を孕んだ眼差しで遠くを見つめる室長の様子を不審に思い、土居は訝しげな表情で酒井を見た。

 

「何があったんです?」

 

「桐野さんなんだが、その、ベッドの上で、室長が二ヶ月前になくしたという枕を抱えて、そのう、自慰を……」

 

「ベッドの上で枕を……!?(驚愕) 抱えて……!?(嫉妬)」

 

「うん。たぶん、変態だと思うんだけどね」

 

 推理するまでもなく、明らかなことだった。

 

「そ、そんなことよりも、だ」

 

 これ以上、彼女のことを考えても憂鬱な気分が深まるだけだ。桜坂は話題を変えることにした。

 

「今日、きみたちを訪ねたのは、見舞いもそうなんだが、話をするためでもあるんだ」

 

「話、ですか?」

 

 膝の上で週刊誌を閉じた土居は、険の帯びた面持ちで桜坂を見た。

 

 仁王の面魂の超人はゆっくり頷くと、

 

「昨日、きみたちが病院に運ばれていった後の話だ。あのISを撃破した後、何があったのか。俺たちパワードスーツ開発室の今後はどうなるのか。そして、日本政府との間で、どんな取り決めをしたのか」

 

「日本政府と? それは、いったい、どういう……?」

 

「昨日の見学団の中に、総務省の職員と、県警からの参加者がいただろう。どうやらあの二人は、内閣情報調査室の人間だったらしい」

 

 その名を聞いて、土居の顔が強張った。

 

 公安警察や法務省の公安調査庁と並ぶ、日本の情報機関だ。あの場に、内調からのスパイがいたということは、つまり、

 

「そうだ。俺の力のことを、日本政府に知られてしまった」

 

 忌々しげに唇を歪め、桜坂は吐き捨てるように言い放った。

 

「そのためにね、政府の連中とわが社とで、秘密の関係を結ぶことになったんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




原作の一夏たちって、わりと気軽に島の外に出ているけど、あの裏にはきっとたくさんの人たちによる影働きがあると思うの。





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Chapter26「暗部組織の女」


おふざけ回、第二回。

頭空っぽにして書いてみたゾ。

そうしたら、過去最長の文字数(約3万字)になってしまった……。






 

 

 

 

 

 クラス代表対抗戦翌日の午後六時半。

 

 黒塗りの舗装を街灯の輝きが照らしている学生寮への帰り道を、鬼頭陽子はセシリア・オルコットと二人、肩を並べて歩いていた。今日は訓練機の貸出申請が運良く通ったため、アリーナの閉館時間いっぱいまで、二人でISの操縦訓練に励んでいたのだ。時間の経過を忘れてしまうほどに集中していた彼女たちは、やがて完全退館を促す館内放送に追い立てられる形で自主練習を終えると、どうせ帰る場所は同じだとして、ともに帰路についたのだった。

 

 学生寮へと向かう二人の足取りは、疲れから重たげではあるものの、うきうきと弾んでいた。今日の訓練に、たしかな成果を見出した証左だ。

 

 はじめのうち、陽子は第三アリーナで一人、飛行にまつわる基本動作の反復練習に努めていた。しかしそこに、ブルー・ティアーズを身に纏ったセシリアがやって来て、せっかく貴重な訓練機を借りられたのだから、それだけで終わらせるのは勿体ない、と、待ったをかけた。彼女は陽子のコーチ役を自ら買って出ると、武装の展開と格納についての練習や、高速で移動する目標への射撃練習など、数々の指導を施した。

 

 セシリアの教え方は、情報量がとにかく多く、ポイントの絞られていない、お世辞にも上手いとは言い難いものだった。そのため、最初のうちは陽子もちんぷんかんぷんだったが、やはりそこは代表候補生に選ばれるほどの才媛。指導の癖にさえ慣れてしまえば、得られるものは多く、濃密な三時間を経たいま、陽子は、今日一日でずいぶん上達出来たな、という、たしかな手応えを得ていた。

 

 そしてそれは、教える側の目にも同じように映じているらしい。「最後のあれは惜しかったなぁ」と、訓練の締めにと行った、模擬戦の結果を残念がる少女の横顔に向けるセシリアの眼差しは、ほくほく、と微笑ましげだった。

 

「まさかあのタイミングで弾切れするなんて」

 

「あら、実弾を用いる武器の場合、残弾の把握は基本中の基本でしてよ?」

 

 イギリスからやって来た貴族の令嬢は、楚々と笑いながら反省点を指摘した。

 

 今日一日の成果を見せてくださいまし、と、BT兵器《ブルー・ティアーズ》の同時展開数を二基に絞ったハンディ・キャップ戦は、二十分以上に及ぶ熱戦の末、セシリアの勝利で幕を閉じた。対決が終了した時点で、ブルー・ティアーズのシールド・エネルギーの残量は残り六割を切っていたが、たしかに、最後のすれ違いさまの射撃戦で、陽子の手にしたライフル銃が弾切れを起こしていなかったら、半分は切っていたかもしれない。

 

「最後のほう、《ブルー・ティアーズ》に追い立てられっぱなしで、逃げるの必死で、そんなこと考える余裕なんてなかったんだよぉ」

 

「そういうふうに心身ともに追いつめてから、ライフル射撃でトドメを刺す。それが、今回のわたくしの作戦でしたもの」

 

「くそぅ。この性悪女め」

 

「ISバトルにおいて、性悪は褒め言葉ですわ」

 

 東の方角より吹く生温かい風が、潮の香りを運んできた。日本よりも寒冷なイギリス育ちのセシリアは、まだ四月なのに半袖を着たい衝動にかられて、少しびっくりする。潮風で乱れそうになる前髪を押さえながら、英国からやって来た代表候補生の少女は完爾と微笑んだ。

 

「とはいえ、本来の訓練目標である武器の扱いについては、だいぶ上達したと思います」

 

 過日のクラス代表決定戦では、レーザー・ピストル《トール》以外の武装を展開するのにいちいち選択画面を呼び出していた陽子だったが、セシリアの熱心な指導のおかげで、イメージによる量子格納領域からの召喚をたった一日で可能としていた。どうやら彼女は、近接武器よりも射撃武器の方がディテールを想像しやすいらしい。訓練機のラファール・リヴァイヴに標準装備として積まれていた、対装甲コンバットナイフの展開には最短でも一秒を要したのに対し、《ヴェント》アサルト・ライフルでは、自己ベスト〇・五七秒という好タイムを叩き出していた。この調子であれば、あと数日もせぬうちに、以前、IS実習の授業で千冬が一つの基準として口にした〇・五秒の壁を突破出来るだろう。

 

 上達著しいのは、武装展開の速さだけではない。武器の運用法――とりわけ、射撃の技術についても、素晴らしい向上が見られた。

 

 はじめのうち、セシリアは陽子に、IS本体と武器とのセンサー・リンクを絶った状態で射撃の練習をするようアドバイスした。ISのハイパーセンサーには、武器との情報共有機能があり、たとえば照準器とつなげることでより効果的と思われる射撃オプションを操縦者に提案したり、武器の異常を検知したり、といったことが出来る。空中を超音速の速さで自在に動き回るISに攻撃を当てるための機能だけあって、その性能はかなり優秀だが、だからこそ、最初からそれに頼るのはよくない、とセシリアは断言した。

 

「射撃の難しさを嫌というほど体に染みこませてからでなければ、センサー・リンク機能の本当の使い方も分かりませんから」

 

 その言葉に従って、陽子はライフル銃を中心に射撃練習を開始した。空間上に投影したいくつもの仮想標的めがけて、懸命に、《ヴェント》アサルト・ライフルの引き金を引き絞った。

 

 仮想標的の種類は様々だった。止まっている物、動いている物。動いている物でも、動きの素早いやつ、遅いやつ。ワンパターンで機動するやつ、ランダムな回避運動をとるやつ。特に厄介だったのが、実戦を想定したドローンタイプの標的で、こいつは高速で動き回る上に、実弾銃や小型ミサイルによる反撃までしてくる。こうした標的の数々に、陽子はハイパーセンサーなしで挑んでいった。

 

 練習を始めて最初の一時間は、さんざんな結果ばかりが続いた。静止している標的はともかく、動いている標的、こいつに当たらない。いまだ! と思ってトリガーを引き絞ったときにはもう、標的は狙った位置とはまったく別な場所に移動しているし、未来位置を予測しながらの射撃では、逆に早く発射しすぎて当たらない、ということが多かった。なまじ自機のスピードが速いだけに、標的の動きとタイミングを合わせるのが難しい。

 

 使っているライフルの問題もあった。アサルト・ライフルとはいうものの、《ヴェント》は五五口径という重機関銃用の銃弾を連続発射するための機械だ。当然、キック・バックのエネルギーは莫大であり、ロボットアームの五指の中で、銃は滅茶苦茶に暴れ、銃口は乱れに乱れた。それならば、とパワーアシスト機能がもたらす膂力でもって、反動を無理矢理押さえ込もうとしたところ、銃は機嫌を損ねたかのように言うことを聞いてくれなくなってしまった。

 

「たとえISを纏っていようと、射撃の基本は、生身のときと変わりません。射撃場での練習を思い出してください」

 

 練習を始めて二時間が経とうかという頃、コツがつかめてきた。反動を無理に押さえ込もうとせず、《ヴェント》の好きなように暴れさせてやる。そんなふうに意識しながら撃っていると、だんだん、このライフル銃の癖のようなものが分かってきた。《ヴェント》は機関部や箱型弾倉をトリガーやグリップよりも後方に配している、ブル・パップ型のライフル銃だ。前後の重量配分が、一般的なアサルト・ライフルの形とは違う。一発発射するごとに、後ろ側の重量が軽くなるから、知らず、銃口が下へ下へと向きがちになってしまう。以降、陽子は射線が心持ち上向きになるよう銃を構えながら撃った。ほんの少しではあるが、命中弾が増えた。

 

 ライフル銃の扱いに慣れてくると、今度は、自身の立ち回り方に注意を払うようになっていった。動く標的に対して照準が定まらないのなら、狙いやすい位置に、自分の体を移動させる必要がある。問題は、その速度だが。

 

 ――単に速いだけじゃ駄目だ。標的のスピードよりも、ほんの少しだけ速い。そういう動きを、意識しないと!

 

 ドローン型標的からの攻撃への警戒心から、知らず、自機の飛行速度が過剰に加速していたことに気がついた。相手のスピードレンジが時速百キロとか、二百キロメートルのときに、こちらのスピードが一〇〇〇キロメートルもあっては、かえって照準を定めにくい。こちらは追いかけやすく、敵からは逃げやすい。そんな速度域を見つけねばなるまい。

 

 あるいは、最高速状態から一瞬で急減速し、低速域に達したらすかさず射撃。終わった、らすぐにまたトップ・スピードまで急加速する、という戦法も有効だろう。いずれにしても、PICの繊細なコントロールが不可欠だ。

 

 PIC運動制御システは、ISを最強の飛行パワードスーツたらしめる最重要素の一つだ。その性能は、既存のどんな推進・運動システムよりも優れている。操縦者のIS適性や技量次第では、十Gとか、二十Gといった加減速さえ可能だが、それだけに、扱いは難しい。

 

 ――ペダルだ。父さんがいつも踏んでいる、アクセル・ペダルを思い出すんだ。

 

 ISの操縦はすべて、イメージ・インターフェースによって行われる。

 

 手指を小指から順番に握っていくとか、スラスターを五十パーセントの出力で噴かす、といった単純な行動ならばともかく、PICの制御のような複雑な動作では、直接的な表現よりも、比喩を用いた命令コマンドの方が、かえって入力しやすい場合がある。思い浮かべるイメージが強固で、かつ子細であるほど、ISの応答速度・追従の精度は増す。

 

 陽子は移動標的を追いかける際、頭の中に、父の愛車のプリウスに備わっているアクセル・ペダルの姿を思い浮かべた。父の趣味で、スポーティなデザインのアルミ製ペダルに取り替えられたそれに、右足を乗せる。ゆっくりと、踏み込んだ。猛加速。速すぎる。いかんいかん、と体重を抜いてスピードを調整。まずは攻撃が目障りなドローン型を撃ち落としてやる、と速度を合せていく。

 

 一機のドローンに、目をつけた。他のドローン型の動きにも注意を置きながら、後ろを取る。ロック・オン・ビームは発射せず、フル・オート射撃で、《ヴェント》を撃った。五五口径弾が炸裂し、ドローンの像はたちまち霧消した。一機撃墜したことで自信を得たか。それまでの苦戦ぶりが嘘のように、二機目、三機目を矢継ぎ早に撃ち落としていく。

 

 指導役のセシリアの唇からは歓声が迸った。射撃練習を始めた当初からは想像もつかない身のこなし、射撃の精度。たった三時間の練習なのに、驚異的な成長速度だ。

 

 ――リンゴは、リンゴの木から離れた場所には落ちない。

 

 日本のことわざでいう、蛙の子は蛙、に相当する慣用表現だ。ベクトルこそ違えど、彼女もまた父親と同じで、才能ある人物なのだな、と思い知らされた。学習のスピードが凄まじい。短時間のうちに、射撃の腕をめきめきと上達させていく。

 

 そのときの様子を思い浮かべ、セシリアは隣を歩く陽子に言った。

 

「わたくしたちのような専用機持ちや、代表候補生などを除けば、一年生の中でもかなり上の方にいるのではないでしょうか」

 

 少なくとも、武装展開の速さと、射撃の技術については素直にそう思う。練習機会の少ない一般生徒としては、頭一つ抜けた存在だろう、と。

 

「……よせやい」

 

 陽子は面はゆそうに苦笑した。自らをエリートと公言してはばからぬほど、自身の腕っぷしに自信を持っているセシリアだけに、賞賛の言葉がくすぐったい。

 

「照れるぜ」

 

 諧謔を孕んだ口調で呟く。冷たい潮風が頬をなぶり、温度差から、顔の火照りを嫌が応にも自覚させた。

 

 夕闇の中、学生寮の灯りが見えてきた。

 

 この数週間ですっかり見慣れた建物の姿を視界にとらえた陽子は、どこかはずんだ口調でセシリアに言う。

 

「この後どうする?」

 

 寮に帰った後も、行動をともにする前提の問いかけ。セシリアもその点については特に疑問を口にせず、「とりあえず、汗を流してさっぱりしたいところですわ」と、応じた。アリーナの閉館時間ぎりぎりまで練習をしていた二人だ。訓練機の返還手続きを終えた時点で、更衣室に併設されたシャワールームを利用する時間はなくなっていた。

 

「夕食は、それからにしましょう」

 

「だね」

 

 白亜のジャケットの内側で、べたべたと素肌に張りつくシャツの感触に顔をしかめながら、陽子は頷いた。

 

「わたしは部屋のシャワーで軽くすませるつもりだけど、セシリアは?」

 

「わたくしも、今日はそうするつもりでした」

 

「じゃあ……」

 

 陽子は左手首に巻いたアニエスベーに目線を落とした。時計好きの父の影響で、彼女も計時の際には、携帯電話の時計機能よりも、それ専用の機器の利用を好む。

 

「いまが七時ちょい前だから、八時くらいに合流する感じでいこっか?」

 

「そうですわね」

 

「じゃあ、それで決まり」

 

「お父様はどうしましょう?」

 

 セシリアは今日も解析室で頑張っているであろう鬼頭の顔を思い出した。使用後の後片付けが大変なアリーナと違い、解析室の閉鎖時間はかなり遅い時間に設定されている。叶うなら、一緒に食卓を囲みたいが、まだそちらにいるとしたら、作業の邪魔をしたくはない。

 

「……そういえば、さっきスマホを見たら、メールと着信が入っていたっけ」

 

 アリーナからの退館を促す放送が流れる中、急いでISスーツを脱いでいたときに、ちら、と覗いたスマートフォンの表示を思い出して、陽子は訝しげな表情を浮かべた。先ほどは着替えを優先するあまり、それ以上の操作を控え、そのうち忘れてしまったが。

 

 陽子は鞄からスマートフォンを取り出すと、指紋認証センサーに親指をかざして画面のロックを解除した。はじめに表示された通知の欄を見て、ぎょっとする。父親からの着信履歴が三二件、メールも二十件以上溜まっていた。

 

「うっわ、なにこれ……」

 

「どうしました?」

 

「父さんから、着信とメールが鬼のように入っている」

 

「オニ?」

 

「そういう慣用表現があるの。ええと、とりあえずいちばん直近のメールを……」

 

 メールアプリを起ち上げ、受信ボックスの中から、最新のメッセージを選択する。件名、無題。本文は、『タスケテ。スグニカエッテキテ』の二行のみ。画面をのぞき込む陽子の表情は、みるみる硬化していった。

 

「あ……」

 

「あ?」

 

「アッカーン!」

 

 突然、大声をあげた陽子に、セシリアは驚き肩を震わせた。おそるおそる問いかける。

 

「よ、陽子さん? お父様からは、いったい何と……」

 

「タスケテ、って! スグニカエッテキテ、って!」

 

「は、はあ? ええと、それはどういう……」

 

「わかんない! 書いていない! それがいちばんの問題!」

 

 あの頭脳明晰な父が、まともに文章を組み立てられないほど動揺している。あるいは、切羽詰まっている。

 

 僅か二行の短文は、自分たちの部屋でなにやら大変な事態が生じていることを想像させた。

 

「待っとってオトン! いま行くきゃーね!」

 

「ちょっ、陽子さん!?」

 

 陽子は勢いよく地面を蹴ると、学生寮へ向かって駆けだした。

 

 応じて、セシリアもその背中を追いかけ――追いかけて……、追いこしてしまう。

 

「ちょっ、待っ……セシリア、待って! 速いって」

 

 基礎体力の差と、身長差に由来する歩幅の違いが、速度差を生み出していた。たった数十メートルを走っただけで息切れ著しい陽子を、セシリアはあっという間に追い抜いてしまう。

 

 英国からやってきた貴族の少女は、十メートルばかり先行したところで後ろを振り返ると、「陽子さん……」と、残念そうに失意の眼差しを向けた。英国少女の呼吸はまったく乱れていない。

 

 立ち止まって待つことたっぷり二秒、陽子はようやく追いついた。セシリアのすぐかたわらで足を止めると、腰をくの字に曲げ、がくがく、と震える両の膝に掌を置く。こひゅう、こひゅう、と荒々しく息継ぎする度に、小さな背中が激しく上下していた。なんという体力なしか、とセシリアは呆れた溜め息をついた。

 

「……陽子さん、失礼しますわ」

 

 セシリアはおもむろに陽子の左脇へと回り込んだ。膝を曲げ、腰を落とし、右腕を、自分と同じ歳の娘のものとは思えぬほど細い腰に回した。臍下丹田に気合いを篭め、戸惑う陽子を、えいや、と持ち上げる。少女の唇から、慌てた声が迸った。

 

「えっ? ちょ、ちょっと! セシリア!?」

 

「すみません陽子さん。少しの間、口を閉じていてください。舌を噛んでしまいますわ」

 

 必要以上に頭が動かないよう、左手で、そっと支え持つ。

 

 クラスメイトの小さな体を小脇に抱えながら、セシリアは、えっさほいさ、と駆け出した。足裏で地面を蹴り飛ばす度、腕の中の陽子の両腕、両足が、ぶらんぶらん、と揺れ動く。

 

 人一人を抱えているにも拘らず、なかなかの速度だった。学生寮の建物が、みるみる大きくなっていく。

 

「……やだ。セシリアってば、意外と逞しい」

 

「これでも代表候補生。毎日の筋力トレーニングは欠かしておりません」

 

 セシリアは誇らしげに呟いた。

 

 ほどなくして、学生寮に到着する。エントランスを抜け、階段を上り、鬼頭親子の部屋がある階層へと急いだ。その途上、すれ違った生徒の何人かが、きゃいきゃい、と黄色い声を上げる。

 

「ああっ! セシリアが陽子のことをお持ち帰りしようとしている!」

 

「ええっ!? セシリアが陽子をかどわかしていやらしいことをしようとしているって!?(難聴)」

 

「あれ? でも陽子って、わりと幼児体型だよね?」

 

「百合でロリコンとは……英国貴族は業が深い(風評被害)」

 

「たまげたなあ」

 

「レズはホモ。はっきりわかんだね」

 

「違います! わたくしにそんな趣味はありません!」

 

「あっ、おい待ちゃあ(名古屋人)。誰がロリだ? 誰が!」

 

「陽子さん、つっこむべきはそこではありませんわ!」

 

「やだ、つっこむだなんて……」

 

「ナニを、ドコにつっこむつもりなのかしら……?」

 

「英国貴族は淫乱(風評被害)。はっきりわかんだね」

 

「ああん、もう!」

 

 走りながら応じているうちに、目的の部屋の前へと辿り着いた。

 

 セシリアの腕の中で、陽子は顔を傾け、友人の顔を仰ぎ見た。いかに体力自慢の代表候補生といえど、さすがに疲れたか。ついに息を切らし始めた彼女の腕を軽く叩き、陽子は、「ありがと。もういいから」と、腕の中から、するり、と抜け出した。一一二二号室のドアの前に立つ。

 

 回転式の取っ手を掴み、軽くひねった。鍵はかけられていない。やはり、父はすでに帰宅ずみか。

 

 手首はひねった姿勢のまま、しかし押し込むことはせず、深呼吸をひとつ、ゆっくりとついた。

 

 はたして、この先に何が待っているのか。あの父が助けを求めてくるほどの事態とは?

 

 こく、と喉を鳴らした陽子は、決然と頷くや、力いっぱいドアを押し開き、室内の様子を一瞥して、すぐにまた閉じた。背後に立つセシリアが目を丸くする。

 

「……陽子さん?」

 

「……ごめん、セシリア。ちょっとだけ静かにしていてくれる」

 

 陽子はドアノブを握りしめたまま、板戸に額を押し当てた。ひんやりとしていて心地よい。この冷たさが、自分をきっと、落ち着かせてくれるはず。そうだ。落ち着け。落ち着くのだ、鬼頭陽子。先ほど、この目に映じたのは、きっと間違いだ。幻覚や、白昼夢の類いに違いない。

 

 自分はいま、訓練を終えたばかりで、心身ともに疲弊している。体力なしのこの身にとって、代表候補生直々の指導は、自覚以上の負担を強いるものだったのだろう。疲れが、知らず脳の処理能力をおかしくさせた。網膜に映じた像の認知処理をする過程で、実際には存在しない光景を作り出してしまったのだ。そうだ。きっとそうに違いない。あんな光景が、現実にあるはずがない。あんな――、

 

「……うん。大丈夫。さっき見たのは、私の目の錯覚、蜃気楼、幻覚、まぼろし……その幻想をぶち殺す。そげぶ、そげぶ……」

 

「ええと、陽子さん? 現実逃避をしたくなるお気持ちは分かりますが、わたくしの目にもはっきりと……」

 

「いいや、あれはわたしにしか見えなかった! わたしの疲れた脳が引き起こしたバグ! 幻覚! だから、セシリアには見えない! いいね!?」

 

 幻覚だ。幻覚なのだ。幻覚でなければ、おかしいのだ。

 

 だってそうだろう? あんな、あんな……!

 

「ビキニ水着の上にフリルたっぷりのエプロン一枚身につけただけの女の子が、沈んだ顔で、父さんのベッドの上に座りながら、シーツにのの字を書いている! そんな光景、現実で起こるはずないでしょ! オラァ! 消えろ、幻覚めぇ!」

 

 怒声でもって自らを鼓舞しながら、陽子は再びドアを押し開けた。

 

 玄関から僅か数メートル先に見える、父のベッドの上で、ビキニ水着の上にフリルたっぷりのエプロン一枚だけを身につけた少女が、くの字に曲がった両の膝を抱えた姿勢で座りながら、沈んだ面持ちで、白いシーツにのの字を描いているのが見えた。

 

「チクショウ! 現実だった!」

 

 陽子は思わず叫んだ。その声に反応して、部屋の奥から鬼頭が顔を見せる。娘の顔を見るなり、ぱあっ、と表情を輝かせた。

 

「陽子! 助かった。ようやく帰ってきてくれたか」

 

「父さん、こりゃあ、どういう状況なん!?」

 

 靴を脱ぎ、上がり框を踏んで我が家へと入室した陽子は、ベッドの上の娘を指差した。ルビー色の双眸に昏い輝きを宿した少女は、俯きながら、自らの両膝が形作る谷間に唇を添えて、なにやら、ぶつぶつ、呟いている。

 

「簪ちゃんに見られちゃった~……。うふふふふ……。簪ちゃんに、軽蔑されちゃったぁ~……。あははははは……」

 

「ううん、説明が難しいんだが……」

 

「まさかとは思うけど、父さんが連れ込んだわけじゃないよね?」

 

「そんなわけあるか」

 

 怪訝な顔で訊ねると、鬼頭はげっそり溜め息をつき、部屋の奥を示した。目線をそちらに向けると、意外な顔を見つけて面食らう。

 

「その点については、あの二人が証人だよ」

 

「あっ、ヨーちゃん、お帰り~」

 

「お邪魔してます」

 

 クラスメイトの布仏本音と、夜竹さゆかだった。二人とも、学習机とセットで国が用意した椅子に腰かけている。さゆかは分厚い専門書に目線を落とし、本音は両の足を、ぶらぶら、させながら、テレビに夢中になっていた。陽子も視線をテレビ画面に向けて、ははあ、と頷く。古いイギリス映画だ。《ミニミニ大作戦》。IS学園への入学が決まったときに、暇潰し用にと父が持ち込んだ、お気に入りのDVDだった。

 

「あら、マイケル・ケインですか。いつ見ても、男前ですわね」

 

 陽子に続いて室内に足を踏み入れたセシリアが、テレビ画面いっぱいに映じる主演俳優の名前を呟いた。まったくだ、と頷きながら、鬼頭は彼女の顔を見る。

 

「ああ、セシリアも来てくれたのか」

 

「ええ。それでおと……」

 

 いつもの癖で、お父様、と呼びそうになるのを、寸前のところでこらえた。本音とさゆかの目線を気にしながら、セシリアは訊ねる。

 

「鬼頭さん、いったい何があったのですか? どうしてお二人がここに?」

 

「今日は授業が終わった後、解析室に行くつもりだったんだが……」

 

 鬼頭はゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。ベッドの上で落ち込んでいる彼女は何者なのか。なぜ、さゆかと本音の二人が、この部屋にいるのか。いったい、何があったのか。すべてを知ってもらうには、最初から説明するしかないが、なるべくなら手短にすませたい。最小限の言葉ですむよう、物語を組み立てていく。

 

「解析室に向かう途中、学生寮に、忘れ物をしていたことに気がついたんだ。それで寮へと向かっている途中で、同じく寮に帰るところだった夜竹さんと会ってね。せっかくだからと、一緒に向かうことにしたんだ。その道中、彼女の読みたい本を、私が持っていることが分かってね」

 

 鬼頭は一〇九四ページもある大著に挑戦しているさゆかを見た。三人の視線に気がつき、表紙を見せてくる。《ヒルガードの心理学》。いかにも、“らしい”タイトルに、陽子とセシリアは納得した。なるほど、あの本を鬼頭から借りるため、この部屋まで着いてきたのか。

 

「夜竹さんがここにいる理由はわかったよ」

 

 陽子は次いで、B級カーアクション・ムービーの大傑作を面白がっている本音に目線をやった。ユニオン・ジャックの色が鮮やかな三台のミニクーパーが、小さなテレビ画面などところ狭しとばかりに大暴れしている。

 

「本音ちゃんがいるのはなんで? そしてアレはなに?」

 

「夜竹さんと一緒に学生寮のこの部屋に戻ったら、いきなりだった。ドアを開けると、いきなり彼女が、あの格好で出迎えてきたんだ」

 

「あの格好で?」

 

 驚いた様子で聞き返す陽子に、鬼頭は頷いた。

 

「うん。あの格好で」

 

「……痴女?」

 

「日本少女はスケベなことしか考えないのかしら(偏見)」

 

「はぐあ!」

 

 ぼそり、とした呟きが心の傷を抉ったか。ベッドの上で体育座りをしている少女が悲鳴を上げた。

 

 あえて無視を決め込み、鬼頭たちは会話を続ける。

 

「勿論、私は彼女のことを知らないし、会ったこともない。そんな相手が、あんな裸同然の格好で、私たちの暮らすこのプライベートな空間に隠れ潜んでいた。その事実にショックを受けた私は、思わず、その場で大騒ぎをしてしまったんだ。すると、その声を聞きつけて、周りの部屋で暮らす子たちが、外に出てきてしまって……」

 

 ははあ、鬼頭たちだけでなく、他の生徒たちにもあの痴態を見られてしまった、と。だから、落ち込んでいる、と。にゃるほど、にゃるほど……あれ? でも、それって、

 

「自業自得じゃね?」

 

「ぐっはあ!」

 

 この様子を鑑みるに、父に対し、ハニートラップを仕掛けるつもりだった、とは考えにくい。そもそもこの部屋は、鬼頭だけでなく、自分も暮らしている部屋だ。いつ自分が帰ってくるかも分からないこの場所で誘惑するなんて、どこの手の者にせよ、考えなしがすぎる。

 

 とすれば、単に自分たちを驚かせるために、かくも破廉恥極まりない格好をしていた、ということになるが。そうだとすれば、完全な自業自得だ。

 

「勿論、それもあるんだろうが」

 

 鬼頭は自身のベッドで体育座りをする少女に対し、気の毒そうな眼差しを向けた。

 

「落ち込んでいる理由は、どうやらそれだけじゃないらしいんだ」

 

「というと?」

 

「布仏さんによれば、」

 

「え? なんでそこで本音ちゃん?」

 

「うん。どうやら布仏さんと彼女は知り合いらしいんだ」

 

「そだよー」

 

 ご近所の皆さんともども大騒ぎしていたときのことだった。悲鳴混じりの喧噪を聞きつけてのことか、混乱の坩堝と化していた廊下に、本音が顔を見せた。以下に述べることは、彼女より得た情報だ。

 

「こちらの彼女は更識楯無さんといって、このIS学園の生徒会長らしい」

 

「……え? 会長? この痴女が?」

 

「うん。らしいよ」

 

「IS学園の生徒会長というと……」

 

 セシリアは学生鞄の小物入れから生徒手帳を取り出した。生徒会組織とその執行部の活動内容について書かれたページを探しながら呟く。

 

「たしか、学園の生徒の中で、最強のISパイロットが選ばれる決まりだったはず」

 

「ってことは、この痴女がいまの学園最強ってこと?」

 

「そういうことになりますわね……ああ、ありました、ありました」

 

 目的のページを見つけたセシリアは、生徒会長の選定方法について書かれた項目を黙読した。それによると、一年に一度、生徒会長を決めるための考査があり、全校生徒の中で最も優秀な成績を収めた者が就任する決まりとされている。

 

「やはり、成績最優秀者が就任する決まりですわね」

 

「えぇ、この人がぁ……」

 

 陽子は失望から顔をしかめた。IS学園は世界屈指の難関校だと知った上で、自らの意思で進学先に選んだ彼女だ。学園最強の座に憧れる気持ちは、当然ある。自分の目指すゴールに待ち構えているのがこの痴女だと思うと、やるせない気持ちを禁じえなかった。

 

「そのときに起こった問題は二つだ」

 

 鬼頭は右手の人差し指と中指を立てると、二人の前に示した。まず、中指の方を折り畳んで言う。

 

「布仏さんは、みんなの前で更識さんのことを会長と呼んでしまったんだ」

 

「失言でした。反省してま~す」

 

 反省しているようにはまったく聞こえない口調で、本音が言った。もっとも、これは彼女の話し方の癖であり、本人は自分が原因で起こったこの事態を、しっかり受け止めている。

 

 およそ一ヶ月の付き合いで布仏本音の為人を知っているセシリアは、特に不快に思うこともなく、これまでの話を総括した。

 

「つまり、騒ぎを聞きつけてやって来た野次馬の方達に、更識生徒会長は痴女である、と認識されてしまったわけですか。……それはたいへんなショックだったでしょう」

 

 それが我が身に降りかかっていたならば、と思うと、胴震いを禁じえなかった。異性からよりも、同性から冷ややかな眼差しとともに痴女認定をされる方が、精神的にきつい。

 

「それで、もう一つの問題って?」

 

「うん。いまはこの場にいないんだが、そのとき、布仏さんは友人と一緒に、廊下にやって来たんだ」

 

「うん」

 

「はあ」

 

「その友人は更識簪さんといって……」

 

「さら、しき、さん……」

 

「まさか……」

 

「うん。更識さんの妹さんだったんだ」

 

 鬼頭、陽子、セシリアの三人は、ベッドの上で、「うふふ~……あっ。大きな星がついたり消えたりしている……。あぁ、大きい! 彗星かなぁ? いいえ、違うわ。違うわよね。彗星はもっとこう、バァーッって動くものね!」などと呟いている、学園最強の女に、同情した眼差しを向けた。

 

「それは……きついね」

 

 陽子がしみじみと呟いた。もし自分が、目の前の父から痴女だと思われ、両手で顔を覆いながら泣かれでもした暁には、悲しすぎて死んでしまうかもしれない。

 

「妹さんにこの痴態を見られたことが、相当ショックだったんだろう。その後はずっとこのありさまだ。壁に自ら頭を打ちつけるなどの自傷行為に走っていたかと思うと、突然、ベッドの上で膝を抱えて、もう、二時間もこうしているんだ」

 

「ベッドの上からまったく動いてくれないんです。それで、こんな状態の会長と、鬼頭さんを二人きりにするのは不味いと思って、わたしもこの場に残ることにしたんです。本音は状況説明に必要だろうから、ここにいなさい、って言いました」

 

 鬼頭の言葉を、さゆかが補足した。なるほど、ようやく状況が飲み込めてきた。

 

「その、本音ちゃんと一緒にいた、簪さんは?」

 

「かんちゃんは整備室に行っちゃったよ~」

 

 小型車ゆえの軽敏な動きでもって、イタリア警察のアルファロメオを翻弄する三台のミニクーパーの活躍に手を叩いてはしゃぐ本音が応じた。察するに、かんちゃん、とは件の更識簪のことだろう。彼女には名前に由来するあだ名をつけたがる癖がある。

 

「かんちゃんってば最近、放課後は整備室に篭もってばっかりだったから。それじゃあ体に悪いよ~。たまにはお日様の下でのんびりお茶でも飲も~、って。強引に連れてきたんだけど……」

 

「……お姉さんのこの姿を見て、彼女の方もショックを受けてしまったらしい」

 

 鬼頭たちが呼び止める暇もなく、その場を立ち去ったという。後で本音の携帯電話に、整備室にいる、と連絡があったから、あちらはもう落ち着きを取り戻しているようだが。

 

「問題はこちらだ」

 

 鬼頭はベッドの上の更識生徒会長を見た。いよいよ精神が崩壊し始めたか、「お兄ちゃん、さっきから変です! きっと疲れているんです! 先に帰りますか? 三人で暮らしているあの幸せな部屋に」などと、違う世界のことを話し始めた。山田真耶の方が似合いそうな発言だ。こう、緑髪的な意味で。

 

「さて、どうしよう?」

 

「お父様、もしかしてメールですぐ帰ってこい、っていうのは?」

 

「ほら、こういう、年頃の女の子のメンタルケアは、同年代のお前の方が得意だろうと思ってな」

 

「巻き込まないでよ、こんなことに……」

 

 陽子はズキズキと痛むこめかみを押さえながら、改めて更識生徒会長に目線をやった。「ウワアアアッ! タスケテ! ユルシテ! ユルシテぇぇぇぇぇ~ッッッ!!!」と、帝王トランザが栄光への道を着実に歩んでいる彼女を見て、ふうむ、と黙考。

 

 やがて名案が思い浮かんだか、システムキッチンのある部屋を見た。

 

「……とりあえず、会長にはまず正気に戻ってもらおう」

 

 鬼頭たちを驚かせるためだけに、こんな格好をしてわざわざ部屋の中で待ち構えていたとは考えにくい。きっと、何か別な目的あってのことのはず。けれでもいまの精神状態では、まともに話すこともままならぬ。

 

 それならば、と、陽子はキッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、一・四リッターサイズの冷蔵庫ポットを取り出す。

 

 ポットの中では、琥珀色の液体が、たぷたぷ、と波打っていた。食器棚からグラスを引っ張り出し、注ぎ口とフレンチキスをかわせる。なみなみと注いだところで、最後に調味料棚から怪しげな白い粉の入った瓶を取り出し、スプーンでたっぷり山盛り一杯、サッー! と混ぜ入れた。うむ。気分を落ち着かせるには、ハーブティーがいちばんだ。グラス一個だけをお盆に載せて、ベッドのある部屋に戻る。

 

「お待たせ。アイスティーしかなかったんだけどいいかな?」

 

「いいわけないでしょう!」

 

 セシリアが思わず突っ込んだ。まだ汚れていない鬼頭、さゆか、本音が、怪訝な表情で二人のやり取りを見つめていた。

 

「いったい何をするつもりですか!?」

 

「いや、とりあえずアイスティーでも飲んで、落ち着いて(眠って)もらおうかと思って」

 

 陽子はコップをうつむく更識生徒会長に差し出した。

 

「はい、生徒会長。とりあえずこれでも飲んで落ち着いてください」

 

「いけません、生徒会長! それを飲んでは駄目です!」

 

「え? え、え、え?」

 

「ほら、グイッ、と。グイッ、と」

 

 両の掌を上に向けて勧めてくる陽子に頷いて、更識はグラスに口をつけた。傾ける。こく、と喉が上下する。陽子の野獣の眼光。「あら、おいし……」と、言いかけたところで、更識生徒会長は、ぱたり、と倒れた。何事か、と腰を浮かすさゆか。陽子は動じることなく、彼女の唇に自らの耳朶をそっと寄せた。すぅすぅ、と寝息。どうやら眠ってしまったらしい。思わずガッツポーズ。

 

「……よし!(適当)」

 

「何が、よし! ですか?!」

 

「とりあえず、落ち着きはしたよ?」

 

「その代わり話しも出来なくなってしまったじゃないですか!?」

 

「大丈夫、大丈夫。二十分くらいで目を覚ます量に抑えておいたから」

 

「スプーン山盛り一杯で、二十分なのか。えらく効率の悪い睡眠導入剤だな」

 

「鬼頭さん、突っ込むべきはそこじゃないと思います」

 

 さゆかは知らぬことではあるが、つい十分ほど前に、陽子とセシリアの間で交わされたやり取りと、よく似た反応だ。この親にしてこの子ありか、セシリアは呆れた溜め息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter26「暗部組織の女」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 更識生徒会長が目を覚ましたのは、アイスティーを飲んで十分後のことだった。

 

「うぅ……頭がズキズキする……」

 

 親指と人差し指の腹で眉間を揉みながら、更識楯無はベッドに腰かけていた。そのかたわらでは、アイスティーを振る舞った陽子が、「あっれぇ? おかしいなあ」と、訝しげな表情でぶつぶつ呟いている。

 

「たしかに二十分相当の量を入れたはずなのに……」

 

「会長は生体用ナノマシンと、微量の毒物を普段から常飲しているからね~。身体が毒に慣れている上、分解も早いんだ~」

 

 薬物を使った眠りからの覚醒に特有の、気持ち悪さを伴う頭痛に顔をしかめる楯無の背中をさすりながら、本音が言った。その言葉に、鬼頭は思わず怪訝な表情を浮かべる。

 

 ISの登場がもたらした技術的ブレイク・スルーによって、かつてはSF映画の中にしか存在しなかったナノマシンの技術は、いまや医療の現場でも当たり前のものになりつつある。その一方で、ナノマシンの研究はいまだ歴史の浅い分野でもあり、それを用いての治療法は、日本においては保険適応外の高度先進医療にとどまっていた。そんな高価な医薬品を、普段から常飲出来るとは、よほどの資産家の産まれなのか。それとも、彼女自身がセシリアや鈴のような、国家代表候補生などの特別な立場にあるのか。

 

 しかし、そうだとすると、本音が次いで口にした、毒物を常飲している、という言について、合理的な説明がつかない。微量とはいえ、自ら進んで毒物を常飲しているなんて、はっきり言って異常な習慣だ。仮に資産家の娘であれば、将来その財を継ぐ立場から、そんな倒錯的な嗜好は許されぬだろうし、ましてや国家の代表や、代表候補生ともなれば尚更だろう。

 

 アラスカ条約によってISの軍事利用が禁止されている現在の情勢下では、競技スポーツ・ISバトルは、国家間の代理戦争の意味合いを与えられることが多い。国家代表などのIS操縦者の双肩には、まさに国の威信が懸かっていると形容してよいだろう。ために、その体調はいついかなるときでも万全を期しておかねばならない。毒物の摂取なんて、もってのほかだ。

 

 はたして、彼女はいったい何者なのか。本音は、毒を常飲している理由は、毒に身体を慣らすため、と説明しているが。

 

 ――まるで山田風太郎の小説だな。

 

 普段から毒物を口にすることで、あらかじめ体内に抗体を作っておく、と聞いて、鬼頭がまず思い出すのは山田風太郎の忍法帖シリーズだ。少年時代に夢中になった小説で、特に伊賀忍者達の活躍が印象深い。

 

 目の前の少女は現代に生きる忍びの末裔なのか。一瞬、突飛な考えかとも思ったが、あながち間違いではないかもしれないな、と鬼頭は口の中で呟いた。その証拠に、自分と同じ発想に思い至った陽子が、「まるで忍者みたいだね」と、口にすると、本音は「当たらずも遠からずだね~」と、応じた。

 

「会長の実家は、代々そういう家系なのだよ」

 

「本音ちゃん、それ以上は私から話すわ」

 

 背中をさする本音の手を制し、楯無が言った。ようやく気分が落ち着いてきたか。顔色はいまだ優れぬものの、瑞々しい唇から紡ぎ出される口調は明瞭としていた。

 

「まず、改めて自己紹介をさせてください。私の名前は更識楯無。二年生の生徒で、このIS学園の現生徒会長を務めています」

 

「……丁寧な挨拶、痛み入ります」

 

 この場合、どちらが目上になるだろうか、と一瞬躊躇してしまった。年齢は自分の方が圧倒的に上だが、学年の序列や、生徒会役員と一般生徒の間を隔てる立場の差でいうと、自分の方が目下となる。とりあえず相手を立てる方針でいこう、と腹に決めた鬼頭は、学習机の引き出しから名刺入れを引っ張り出すと、中から一枚取って差し出した。

 

「アローズ製作所の、鬼頭智之と申します。こちらの学園では、一年生をやらせていただいております」

 

 両手でつまんだ名刺を、同じく両手で、恭しく受け取られた。迷いのない所作に、鬼頭は、おや、と内心小首を傾げる。この年齢の少女にしては、やけに慣れた手つきだ。こういった名刺交換をする機会が多いのか。何者なのか、という疑念がますます湧いてくる。

 

 名刺を受け取ると、楯無はエプロンの前掛けに縫い付けられたポケットから生徒手帳を取り出した。表紙を開くと、カバー裏のビニールポケットに、名刺を大切そうにしまい入れる。さすがに、名刺入れまでは持ち歩いていないらしい。

 

「父さんの娘の、鬼頭陽子です」

 

 楯無が名刺をしまったのを見て、今度は陽子が自己紹介をした。セシリアとさゆかも、それに続く。既知の間柄らしい本音を除く全員の名乗りが終わったところで、鬼頭は早速、本題を促すことにした。

 

「それで、学園の生徒会長が私に、いったい何の用なのでしょう?」

 

 わざわざ部屋に忍び込んで待ち伏せしていたくらいだから、用件が驚かせることのみとは考えにくい。しかも、ここは自分と陽子の暮らす部屋だ。世界にたった二人しか見つかっていない男性操縦者を目当てにやって来たことは明らかだった。

 

「その話をする前に……」

 

 楯無は本を読むさゆかを見た。ぱんっ、と両手を打ち鳴らして合わせると、顔の前に持っていき、謝罪のジェスチャーを大袈裟にやってみせる。

 

「ごめんねー。これから鬼頭さんたち親子に大切なお話しがあるから、夜竹さんは席をはずしてくれるかしら?」

 

「はあ、それはいいんですけど……」

 

 さゆかは、ちら、と本音とセシリアに目線をやった。

 

「二人はいいんですか?」

 

「セシリアちゃんはイギリスの代表候補生として、これから私が話すことを、英国政府に伝えてもらう必要があるのよ。本音ちゃんについては、もう事情を知っているから」

 

「ふっふーん。わたしはこう見えても、生徒会の一員なのだ~!」

 

 十代半ばにしては豊満な胸を強調するように揺らしながら、本音は得意気に言った。

 

 その発言に驚きながらも、さゆかは得心した様子で頷いた。彼女もIS学園への入学を許されるほどの才媛だ。楯無たちが口にした僅かな言葉から、政治絡みの話だと察すると、読んでいた《ヒルガード》の心理学を閉じた。

 

「鬼頭さん」

 

「ええ。どうぞ、持って行ってください」

 

「ありがとうございます。大切に読ませていただきますね」

 

 ぺこり、と可愛らしくお辞儀をして、さゆかは分厚い専門書を抱えて鬼頭親子の部屋を退室していった。その後ろ姿を見送った後、楯無は改めて鬼頭に向き直った。

 

「さて、」

 

「はい」

 

「今日、私が鬼頭さんたちに会いに来たのは、お二人に、日本政府からのメッセージを伝えるためです」

 

「日本政府の?」

 

 楯無は頷くと、愛らしい形をした唇から、衝撃的な発言を口にした。

 

「私はIS学園の生徒会長であると同時に、日本政府の保有する、暗部組織の一員なのです」

 

 二つの理由から、鬼頭の心臓は動揺した。一つは、そんな組織の人間が、自分たちに直接接触を図ってきた事実に対する驚きと恐怖から。いま一つの理由は、自分の娘と大差ない年齢の少女が、そんな後ろ暗い素性の組織に属している事実に対する嫌悪から。自然、目つきの鋭さが増した鬼頭に、陽子が訊ねる。

 

「父さん、暗部組織って?」

 

「……おそらくだが、この場合は、情報機関という意味だろう」

 

 軍事マニアで戦史マニアの桜坂ほどではないが、鬼頭も日本の情報機関については、彼仕込みの知識をそれなりに持っていた。

 

「日本には内閣官房所属の内閣情報調査室をはじめとして、公安警察や法務省の公安調査庁、防衛情報本部などのスパイ機関がある。それらの組織の、いずれかに属しているということじゃないだろうか?」

 

「半分正解で、半分はずれです」

 

 楯無はほんの少しだけ口角を吊り上げた。微笑というよりも、冷笑という表現の方がしっくりくる笑みだ。

 

「いずれか、ではなく、そのすべてに。そして、それ以外の組織にも、です」

 

「……というと?」

 

「更識の家は古い家名で、代々の当主が、その時代の政権が持つ情報機関に人員を派遣し、協力することで独自の地位を築き、現代まで生き残ってきました。武家政権の時代には忍者や御庭番に。帝国時代には陸軍の中野学校や特高警察に。そして現代では、鬼頭さんがいまおっしゃられた四大情報機関や、それ以外の様々なスパイ組織に、更識家の者が出向しています。

 

 私は、更識家の当代の当主なんです。現在、内調などの組織に所属している更識の者は全員、私の命令で動いています。彼ら出向者に内調などの組織が何か命令を下す際には、私のもとにも情報が届くような仕組みになっているんです。その意味で、私は内調の職員であり、公安の警察官であり、情報本部に勤める自衛官でもあるのです」

 

「……まるで漫画みたいな話だなあ」

 

 陽子は楯無の顔を胡散臭そうに見つめた。たしかに、楯無がいま口にした内容は一から十まで突拍子もなさすぎて、すぐには信じがたいが。

 

「漫画というのは、言い過ぎだろう」

 

 鬼頭は思わず苦笑した。

 

「それを言えば、このIS学園や、そもそもISの存在自体が漫画の世界の住人のようじゃないか」

 

「……それもそっか」

 

「更識さんの言っていることは、多分、事実だろう。そういう古い家ほど、家名を残すことへの執着はすさまじいからね。たとえば戦国時代には、徳川家と豊臣家、両方に協力して生き残りを図った、真田一族のような例もある。家名の存続のため、現代にいたるまで陰働きに徹してきた一族があったとしても、おかしくはない。そして、」

 

 鬼頭は楯無の面魂をじっくりと眺めた。美人ではあるが、年相応のあどけなさがまだ残る顔つきだ。胸が痛んだ。

 

「更識さんがその若さで当主を務めているというのも、おそらく、本当だろう。そういう古い家には、現代の価値観基準では考えられないような伝統を、いまだ大切にしているところも多い。十代での当主就任も、そう考えれば頷ける話だ。

 

 ……私としては、自分の娘とさして変わらない年齢の更識さんが、そんな組織に関わっていることについて、それを許した前代の当主殿に、言いたいことがあるがね」

 

 もっとも、それを口に出せば最後、今後生徒会と付き合っていく上でしこりとなるだろうし、この場だけのことに限っても話が脱線してしまうだろうから、これ以上の言及は避けるが。

 

「それで、日本政府からのメッセージというのは?」

 

「その前に確認させてください。先日、鬼頭さんは織斑先生たちに、ゴールデンウィーク期間中の、外出許可を求めていましたね?」

 

「そうなの、父さん?」

 

 はじめて聞く話だった。驚く陽子に頷くと、鬼頭は、

 

「うん。名古屋に帰って、やっておきたいことがあってな。二日か三日ほど、外泊の許可を貰えないか相談に行ったんだよ」

 

「それで、結果はどうなったのです?」

 

「残念ながら」

 

 セシリアの問いに、鬼頭はかぶりを振ってみせた。

 

「男性操縦者を島の外に出すことは危険すぎる。その上で、私や織斑君が島の外に出るためには、厳重な警備態勢をとる必要がある。しかしIS学園には、そういう特殊作戦のための装備や人材が、圧倒的に不足している、とね」

 

「織斑先生たちの立場では、そう答えざるをえないのよねー」

 

 鬼頭の言葉を、楯無が引き継いだ。意味深な発言を受けた陽子とセシリアはたっぷり一秒、その意味するところを考えて、まったく同じタイミングで、ははあ、と得心した様子で頷いた。

 

「そっか、警護態勢の構築には、日本政府の協力が不可欠だけど」

 

「IS学園から、日本政府に協力するわけにはいかない。それをやれば、IS学園と日本政府の禁じられた蜜月関係を、学園自ら認めることになりかねない、ということですわね?」

 

「その通り!」

 

 いつの間に握っていたのか、楯無は手にした扇子を、ぱんっ、と広げた。扇面に、『ご名答!』と、楷書体で記されている。

 

「IS学園の職員である織斑先生たちは、鬼頭さんの求めに応じることが出来ません。ですが、私は違います。なにせ私は日本政府の……それも特殊作戦が得意な、暗部組織の人間ですから。政府に対し、大手を振って協力を要請することが出来ます」

 

「すると、政府からのメッセージというのは……」

 

「はい」

 

 たまらず、期待に声が弾んでしまった鬼頭に対し、首肯する楯無生徒会長の口調は落ち着いていた。

 

「この私、更識楯無に依頼してくれるのであれば、日本政府にはあなたの島の外での活動を保障する用意がある。それを伝えにやって来ました」

 

 鬼頭は唸り声を発した。薄々そうじゃないかと勘づいてはいたが、政府の大胆不敵な決断に、驚嘆せずにはいられない。いまだたった二人しか見つかっていない貴重な生体サンプルを、動物園の檻の外に出そうというのだ。しかも、その間の身の安全については、政府が全面的に責任を請け負うつもりだという。これは裏を返せば、何が起こっても対処する用意がある、という日本政府の自信の表れにほかならない。

 

 ――司馬内閣になって以来、年々、強気の姿勢が増していくな、この国は……。

 

 白騎士事件以来続いているこの混迷の時代に、日本国の舵取りを任された現首相の顔を思い出して、鬼頭は小さく溜め息をついた。彼が総理に就任して以来、日本を取り巻く内外の状況は、おおむね良い方向に向かっている、と鬼頭も思うが、その一方で、どこか向こう見ずというか、危うさのようなものも見出せるようになってしまった、とも思う。

 

「おうかがいしても?」

 

「はい。なんでしょう?」

 

「私はその道の素人ゆえ、要人警護の態勢を整えるのに、どれだけの労力が必要なのか分かりません。ですが、かなりのヒト・モノ・カネを動かさずには出来ないと、なんとなくの想像くらいはつきます。日本国にとって、少なくない出費でしょう。それを踏まえた上で、日本政府はなぜ私に好意的に接してくれるのか、その理由、そちらの目的をお聞かせ願いたい」

 

「当然の疑問ですね」

 

 楯無は頷いた。

 

「細かい理由まで含めれば、いくつもありますが、大きなものとしては三つです。一つ目は、鬼頭さんに恩を売るためです」

 

「恩、ですか?」

 

 意外な言葉に、鬼頭は怪訝な表情を浮かべた。学生寮の自室を陽子と同室にしてもらったり、専用機に打鉄をよこしてくれるなど、日本政府からはすでにかなりの援助をしてもらっている。勿論、何か目的あってのこととは分かっているが、それでも、施しに対する感謝の念が湧き上がらぬほど、性根の腐った人間ではないつもりだ。日本政府がこれまでの援助に対する対価として何か要求してきたときには、可能な限り応えるつもりだし、そもそも一人の日本人としての愛国心だってある。自分を今日まで生かし、育ててくれた日本という国に対して、何か尽くしたいという想いは、常に懐に抱えていた。

 

 そんな自分に対し、これ以上恩を着せて、どうするつもりなのか。あまりにも過剰な施しは、かえってこちらの嫌悪や、警戒心を煽ることになる、と知らぬわけでもないだろうに。

 

「鬼頭さんご自身に、その自覚は薄いかもしれませんが、いまやあなたは国家の重要人物なんですよ」

 

 天才的な頭脳を持ちながらも、自分自身のことになると理解力を鈍らせてしまう鬼頭に対し、楯無生徒会長は苦笑した。

 

「男性操縦者というだけではありません。たとえば、先日お嬢様とセシリア・オルコットさんの間で行われた、クラス代表決定戦」

 

「む?」

 

「あなたがお嬢様のために用意した《トール》は、素晴らしい性能を発揮してみせました。強力で、それでいてコンパクトで、初心者でも扱いやすく、それでいて生産性にも優れている。こんな恐ろしい武器をたった一人で、しかも一週間足らずで設計・開発し、二挺も作り上げた。この事実を知った日本政府は、鬼頭智之という技術者の腕前は尋常ではない、と判断しました。こんな優秀な人材が、他国に流出するなんてあってはならない、と」

 

「……もしかして、私たちイギリスのせいですか?」

 

 それまで黙って話を聞いていたセシリアが、神妙な面持ちで呟いた。英国はBT兵器開発への協力に対するお礼という名目で、鬼頭に対し、多額の金銭や、高級車のプレゼントを約束するなどしている。これら一連の行動が、日本政府を刺激してしまったか。はたして、楯無は「まあね」と、苦笑いした。

 

「懐柔工作としては、あからさますぎたし」

 

「……なるほど。それで、不安になった日本政府は、お父様にさらなる恩を着せようと、なりふり構わなくなった、ということですか」

 

「そういうこと。ついでに言うと、これは二つ目の理由にも絡んでくることよ」

 

 楯無は再び鬼頭に目線をやった。

 

「二つ目の理由は、他国に対して、日本政府の実力を見せつけるためです」

 

 鬼頭たち男性操縦者の動向は、世界中の国々が注視している。そんなある種の衆人環視の中で、日本政府が男性操縦者たちの護送を成功させれば、それはすさまじい示威の効果を発揮しよう。『どうだ? お前達に我々と同じことが出来るか?』と、国内外に強くアピールすることが出来る。たとえば、鬼頭智之の勧誘に努めている、イギリスなどに対して。

 

「……どうやら、わが国からの数々の施策が、眠れる獅子を起こしてしまったようですわね」

 

 セシリアは小さく溜め息をついた。なるほど、さゆかのように自分をこの場から追い出さなかったのは、牽制のためか。自分の口からイギリス政府に対して、『彼にこれ以上アプローチするようなら、ウチも黙っちゃいないよ? んん?』とでも、言わせたいのだろう。

 

「三つ目の理由は、データ収集のためです」

 

「データ収集? 何のためのデータです?」

 

「男性操縦者が島外で活動するのに、どんな警護態勢が必要なのか、その実戦データです」

 

 楯無の言葉に、鬼頭は得心した表情で頷いた。自然と、自分よりも二回り以上も年若い少年の顔が思い浮かぶ。

 

「一夏君のことですね?」

 

「それもあります。今回、外出許可を申請してきたのは鬼頭さんだけでしたが、今後は、一夏くんからも申請があるかもしれない。むしろ、申請を受け止める機会は、鬼頭さんよりも多いと考えるべきでしょう」

 

 自分以外はみな女性ばかり、という環境がもたらすストレスは、大人の鬼頭よりも、若い一夏の方がきついだろう。自分を取り巻くいまの環境から脱出したいという思いから、外出許可の申請はより多くなることが予想された。

 

「そのすべてを断り続けるのは、いくらなんでもナンセンスです。日本政府やIS学園の対応に不満を感じた彼が、他国になびいてしまいかねません。勿論、これは鬼頭さんにも言えることですが。……イギリスとか」

 

「どうしよう、セシリア? 日本政府の方々、すごく根に持っておられる」

 

「XJが不味かったのかしら? 車格を一つ落として、XFなら怒られなかった……?」

 

「いやあ、値段の問題じゃないと思うよ」

 

 親子三人顔を寄せ合い、溜め息をつく。楯無は構わず、話を続けた。

 

「それだけじゃなく、IS学園にも臨海学校や、修学旅行など、島外での活動を余儀なくされてしまう行事はあります。そういったときに、一夏くんや鬼頭さんを毎回お休みさせるのは、本人や学園は良くても、周りの生徒たちの心象が、ねえ……」

 

「なるほど、たしかに」

 

「他国から、男性操縦者たちの人権が無視されている、など抗議の口実も与えかねません。まったくの自由とは言えないまでも、お二人が島外で、自分の意思である程度自由に活動出来る仕組みを整えることは、日本政府にとって急務なんです」

 

 そのためには、実際の状況に即したデータが不可欠だ。たとえば、男性操縦者が外食をしたい、という理由で半日島の外に出たい、と言ってきたとする。ディナーの予約を入れた店に辿り着くまでと、到着してからの食事時間、食事を終えてからの帰路。この間に起こりうる、イレギュラーな事態。たとえば、事故で電車の到着が遅れてしまい、駅で一時間足止めをくらってしまった、とか。道中で偶然、知人と再会し、話し込んでしまって到着が十五分遅れてしまう、とか。そういった諸々の要素を踏まえた上で、半日間の外出中、彼の身の安全を確実なものとするには、どれだけの人員が必要で、どんな装備が適当で、地元警察などの機関にはどの程度話を通しておくか、店の安全性などの事前調査にはどれだけの時間を割くべきか、など。そういったことを判断する上での、基準となるデータが。

 

「なるほど……」

 

 鬼頭は束の間、瞑目した。楯無生徒会長の口から聞かされた一連の話を、自分なりに整理し、その意味するところを咀嚼する。やがて切れ長の双眸を、かっ。と見開いて、鬼頭は言った。

 

「そちらの事情は分かりました。日本政府としては、私に協力したい、というよりも、協力させてほしい。させてくれなければ、そちらの方が困る。と、そういう状況にあるわけですね?」

 

「ご理解いただけたようで、幸いです」

 

 おとがいを撫でさすりながら、鬼頭は、ふうむ、と考え込んだ。

 

 先述した通り、日本政府に対してはすでに多くの借りを作ってしまっている。ここらで一つ、恩返しをしてあげたい気持ちはあるが。本当に、自分の身の安全は保証されるのか。

 

「質問を重ねますが」

 

「はい」

 

「そういった裏事情を踏まえると、日本政府にとって、私を名古屋へ護送することは絶対に失敗出来ない、重要なミッションということになりますね?」

 

「はい」

 

「ということは、当然、具体的なプランは、もう考えてあるのですよね?」

 

「勿論です」

 

「どのような手段を使ってどんなルートで行くのか、といった細かいことは、情報漏洩対策で、この場ではお話し出来ないでしょう。それ以外の、大まかなことでよいので、聞かせていただけませんか?」

 

「まず外出の期間ですが、これは一泊二日を予定しています」

 

 楯無の言葉に鬼頭は頷いた。はじめに彼が千冬たちに希望として告げた日数は二日ないし三日間だが、これは仕方のないことと納得する。滞在が長期になるほど、襲撃などのリスクは高くなる。はじめての護送任務でいきなり二日も、三日もというのは、危険すぎるし、欲張りすぎだろう。

 

 同じ理由から、陽子をはじめ、他の同行者の存在も許してはくれまい。自分一人の護衛ですら、どれぐらいのリソースを割くべきなのか、実際のところはまだ分からないのだ。

 

 ただ、そうすると、当初希望していたやりたいことのうち、いくつかは諦めねばならないが。

 

「外出の間、鬼頭さんのスケジュールはすべて私たち日本政府の者が管理します。何時までに、どこへ行って、何をやってもらうか、といったことですね」

 

「当然ですね」

 

「鬼頭さんが名古屋で何をしたいのか、その希望については、織斑先生たちから事前にお話をうかがっています。その中から、我々がピックアップした内容を、予定に盛り込みました。行動計画は、それをベースに組み立ててあります」

 

 鬼頭は過日の千冬たちとの会話を思い出した。あのとき口にした希望のうち、個人資産を売却することで桜坂からの借金の返済にあてる、という件については、《トール》の買い取りという別方向からのアイディアによって、解決の道が示されている。ということは、残る二つ……アローズ製作所に顔を出したい、という希望と、堂島弁護士と週刊ゲンダイ編集部への訴訟のことで話し合いたい、という希望を、叶えてくれるのか。

 

「具体的には?」

 

「一日目は、アローズ製作所に行ってもらいます。IS学園で学んだことを、会社のためにアウトプットしたい。そう、聞いていますよ?」

 

 なるほど、一日目がそれか。ということは、堂島弁護士との話し合いは二日目か。

 

「二日目は、鬼頭智也さんのお墓参りに行ってもらうつもりです」

 

 鬼頭は驚きから目を剥いた。陽子とセシリアも、茫然とした眼差しを楯無に向ける。

 

 三人に見つめられながら、日本政府からの密命を携えやって来た暗部の女は、淡々と告げた。

 

「これが、日本政府の判断です。鬼頭智之に恩を売るのであれば、会社への訪問や、弁護士との面会時間を作るよりも、亡き愛息の墓前に足を運ぶ機会を設けた方が、効果的である、と」

 

「……まいったな」

 

 鬼頭は、これ見よがしに溜め息をついてみせた。

 

「完全に、見透かされてしまっている」

 

「では……」

 

「智也のことを、天秤にかけられては、私に否はありません」

 

 鬼頭はベッドに腰かける楯無に向かって、深々と腰を折った。

 

「名古屋への護送を、ぜひお願いします」

 

 

 

 

 

 

 四月も残すところあと三日というタイミングで訪れた、ゴールデンウィークの初日。

 

 まだ日の出を迎えたばかりで、人工島全域を朝靄が包み込んでいる、早朝のIS学園。

 

 島内連絡用に設けられた産業道路を、一台のコンパクトカーが北へと進んでいた。時間帯のせいか、他に車通りはなく、まん丸の形をしたヘッドライトの灯りが、黒灰色の路面を孤独に照らしている。その歩みはいたって静かで、タイヤと路面の摩擦がもたらすロードノイズの他は、注意して耳を澄ませてようやく、きぃん、というモーター音が聞こえてくる程度でしかない。

 

 白色のホンダeだ。二〇二〇年にデビューしたホンダのEVカーで、Bセグメント級の車体に、三リッター級のエンジンに匹敵するトルクを発揮する交流同期電動機を搭載した、新世代のシティ・コミューターである。IS学園には、学園職員の大半を占める女性でも扱いやすいコンパクト・ボディと、それでいながら大人四人がなんとか着座可能な居住性、そしてなにより、ガソリンを使わないインフラ投資への経済性から、島内の連絡移動用に四台が配備されていた。一回の充電で走行可能な距離は二五九キロメートルだが、島内でしか使わないということを考えると、必要十分な航続力といえよう。

 

 島内に四台しかないEVカーのステアリングを握る鬼頭智之の表情は、上機嫌に明るかった。自動車は見るのも乗るのも好きという彼だ。久しぶりの運転体験を、彼はほくほく顔で楽しんでいた。

 

 そのナビシートには、更識楯無が座っている。二人ともIS学園の制服は着ておらず、楯無は胸元の開いた白シャツの上に七分丈のデニムのジャケットというカジュアル・ファッション。鬼頭の方も、ネイビージャケットに白デニムのパンツという、一見、かっちりとしたシルエットながら、よくよく見ると気楽さを感じさせる装いをしている。二人の関係や事情を知らぬ者の目には、休日のドライブを楽しむ親子の姿と映じるだろうか。

 

「……楽しそうですね?」

 

 だらしなく口角を綻ばせる鬼頭の横顔を見つめながら、楯無が呟いた。

 

 メーカー、ディーラー、そしてユーザーの、国産スポーツカーへの熱意が最も激しかった八十年代、九十年代に少年・青年期を過ごした車好きの男は、「楽しいですよ」と、目線は前方へと据え置いたまま応じる。

 

「実を言うと、ホンダeに乗るのはこれが初めてなんですよ」

 

「あら、意外ですね?」

 

「なかなか運転する機会がなくて。この頃のEVカーだと、リーフや、プジョーe208には乗ったことがあるんですが」

 

 そのどちらともまったく違うハンドリングの新鮮さに、鬼頭は喜びを感じていた。同じEVカーでも、日産のリーフやプジョーe208は前方にパワーユニットを配置し、前輪で駆動するFF車。これに対して、ホンダeは後方にパワーユニットを置き、後輪で駆動するRR車。加減速のスムーズさは段違いだ。前後の重量配分も五〇対五〇と、理想的バランスを実現しており、運動性能が、まるで違う。

 

「いいですね、これ。笑ってしまうくらい、加速が速い」

 

 アクセル・ペダルを、ぐっ、と踏み込めば、ドンッ、と加速する。最大トルク三二・一キログラムを誇るモーターのパワーと、RR方式がもたらす、非常に楽しい加速だ。ハンドリングも楽しい。ステアリングをちょいと切ればクイックに反応し、まるで独楽鼠のように車体が、くるくる、と回る。ここがうねうね道の多いワインディングでないのが残念でならない。FFやFRにはない楽しさだ。

 

「走りだけでなく、乗り心地もこのクラスのコンパクトとしては素晴らしい。静かなのは勿論ですが、Cセグ……いや、下手をすればDセグ・セダン並みかもしれません」

 

 舗装の新しいIS学園の道路だから、ということもあるだろうが、サスペンション・ノイズはほとんど感じない。誤って大きな突き上げを踏んでしまったときでも、衝撃はキャビンに届くまでの間に、かなり柔らかく処理されている。

 

「ルックスや、内装の質もいいですね。この時代のEVカーがガソリン車に比べて高額なのは仕方のないことですが、少なくとも、三百万円代後半クラスの質があるように思います。作り込みが細やかだし、クルマに篭められた開発者たちの想い、世界観の統一加減や表現が非常に上手い」

 

 試乗こそ叶わなかったが、以前、モーターショーでテスラのモデル3のシートに腰かけてみたことがある。五百万円から乗れるテスラのエントリーモデルだが、塗装や内装の質感は、およそ四六〇万円のホンダeの方が勝っているように思う。もっとも、あちらは走行性能と、なによりバッテリーの温度マネジメントに重きを置いた製品造りをしているため、同じ物差しでの比較は出来ないが。

 

 温度マネジメントといえば、冷却システムに、液冷方式を使っているところもポイントが高い。空冷式の二代目リーフは、バッテリー容量が十年で三割程度劣化するという。中古車市場のことも考えて作らねばならない自動車という製品にとって、十年後のバッテリー寿命というのはかなり重要な点だ。中古車市場での価格が安定しないクルマというのは、新車市場でも選ばれにくい。

 

 総括すると、非常に良く出来たクルマだと思う。走って楽しく、所有することの満足度も高い。唯一、航続力の短さが気になるが、用途を限定するのであれば、それも気にならない。

 

「短い時間しか乗れないのが、残念ですね」

 

 二人を乗せたホンダeは、学園校舎の裏手側に設けられた、飛行場を目指して進んでいった。

 

 人工島に築かれたIS学園と日本国本土とをつなぐ、交通手段の一つだ。三五〇〇メートル級の滑走路を二本と、大型の輸送ヘリが離発着可能なヘリポートが四つ有した立派な施設で、主に海外からの軍関係者や、IS関連企業所有のプライベート・ジェットなどを迎え入れるときに使われている。

 

 やがて飛行場に到着した二人は、駐車場にホンダの楽しいEVカーを駐車すると、ヘリポートのあるエリアへとつま先を向けた。商業用の空港ではないから、上質なホスピタリティを約束してくれる案内役などはない。不親切な案内板を頼りに、目的の場所を目指す。

 

 ヘリポートではすでに、嘴を尖らせた猛禽のようなデザインのA109ヘリが待機し、エンジンを回していた。

 

 イタリアのアグスタ社が一九七五年に世に送り出した、美しき軽双発タービン・ヘリコプターだ。欧州ヘリコプターのベストセラーであり、政府機関、民間問わず、世界中の空を飛び回っている。日本では都道府県警察航空隊に配備されている、青い塗装の機体が有名で、鬼頭たちの前で、バリバリ、と音を立てているブルーの機体の側面にも、『警視庁 はやぶさ』と、明朝体で記されていた。プラット・アンド・ホイットニー・カナダ製のPW206Cターボシャフト・エンジン五六七馬力を二基搭載し、巡航速度は時速二八五キロメートル。航続力は九三〇キロメートル。関東の海に築かれたIS学園から名古屋までは一時間ほどか、燃料を節約したり、飛行ルートを工夫したりして、一時間半といったところだろう。

 

「なぜ、ヘリなんです!?」

 

 ヘリというものは軍用でなくとも騒音が大きい。鬼頭は声を張り上げて楯無に訊ねた。

 

「勿論、安全を考えてのことです!」

 

 応じる楯無も、腹の底から声を出す。傍目には怒鳴り合っているようにしか見えぬ二人だった。

 

「モノレールにしろ、地下ハイウェイを使うにせよ、陸路での移動は襲撃の危険と、その際に無関係な人たちを巻き込んでしまう危険があります! ヘリコプターで海の上を飛べば、そういったリスクをかなり減らせます!」

 

「なるほど!」

 

「仮に襲われたとしても!」

 

「はい!」

 

「高速で巡航しているヘリコプターを攻撃出来る手段は限られます! 対空ミサイルや、大口径の機関砲! そういった武器で武装している相手なら、ISを使って反撃しても、緊急事態ゆえやむをえず展開した、という言い訳が立ちます!」

 

「なるほど、スマートだ!」

 

 アラスカ条約には、ISの基本的な運用は国家の認証が必要であり、枠内を逸脱したIS運用をした場合には、その国の刑法によって罰せられる、と定められている。最強兵器ISが持つ戦闘力は強大であり、その力がみだりに振り回されたりしないよう、こうした制限が必要とされたのだ。

 

 ただし、何事にも例外はある。たとえば、操縦者の生命が危機的にさらされ、それ以外に現況を打破する手段がないと判断されるようなときには、政府の認証なしにISを展開しても処罰の対象にはならない、という正当防衛などがそうだ。しかしこれも、相手や周囲の状況次第では過剰防衛と判定されてしまい、かえってこちらが不利益を被る場合がある。素手で殴りかかってきた相手に対し恐怖を覚えた。たまらずISを展開し、銃火器で反撃した。反撃によって相手は死亡、周りの家屋や、たまたま通りがかった通行人などにも被害が出た、というような状況では、さすがに正当防衛は認められない。

 

 しかし、楯無がいま口にしたような状況でならば、どうか。音速の速さで襲いくる対空ミサイルを見て、命の危機を感じた。自分だけでなく、同乗者の楯無や、ヘリコプターのパイロットの命も守るため、ISを展開し、反撃した。これならば、正当防衛が成立する公算は高い。

 

 移動手段にヘリを選んだのはそこまで考えてのことだったか、と鬼頭は暗部家系の頭領を名乗る少女に、感心した眼差しを向けた。しかし、すぐに表情を引き締めると、重ねて問いかける。

 

「ところで!」

 

「はい!」

 

「本当に、楯無さんも着いてくるのですか!?」

 

「当然です!」

 

 鬼頭の問いに、楯無は毅然とした態度できっぱり言い切った。

 

「今回の島外活動では、基本的にお忍びの作戦を採ります! 護衛団をぞろぞろと連れ回して、周囲を威嚇するようなことはしません! 出来る限り最少の人数で、鬼頭さんのことを二四時間ガードする必要があります!」

 

「だからといって、そのボディガードを、楯無さんがする必要はないのでは!?」

 

「あら、私ではご不満ですか!?」

 

 楯無は好戦的に笑ってみせた。

 

「学園最強が護衛につくんですよ? ちょっとは信頼してくれても、いいのでは!」

 

「実力云々じゃなくて、年齢の話をしているんだけどなぁ……!」

 

「なんです!? 聞こえませんわ!」

 

 両の耳を掌で押さえながら、にやにやと笑った。聞く耳持たぬ、という意思表示だろう。

 

 鬼頭は深々と溜め息をついた。陽子とたった一歳しか違わない彼女がボディガード役というのは、彼としては受け入れがたいことだが、本人がやる気な上に、この態度では退けようがない。

 

 ――俺たち男性操縦者の存在を疎ましく思っている者は多い。

 

 たとえば、過激思想に取り憑かれた女性権利団体などがそうだ。自分の護衛に就く、ということは、彼女たちのような存在から襲われるリスクを背負うことになる。もし、そういった連中が、包丁などの刃物を持ちだしたり、投石などしてきたとしたら、娘と同年代の彼女の身が、危険にさらされることになる。

 

 ――何事もなければいいのだが……。

 

 二人はヘリに乗り込んだ。アグスタのキャビンには、すでに先客がいた。いかにも商社マンといった感じのビジネススーツを着た、それでいて、いかつい体つきが只者ではない雰囲気を醸し出している、三十そこそこの若い男だ。

 

 彼は鬼頭の姿を見るなり、人懐っこい笑みを浮かべた。右手を差し出しながら、

 

「内閣情報調査室の高品です。今回の名古屋行きで、鬼頭さんのサポートを担当する一人です」

 

と、自己紹介した。鬼頭がそれに応じて握手すると、ヘリのドアが閉じた。

 

 それ以上の会話は、名古屋に到着してからということになりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter26「暗部組織の女」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巻き戻す。

 

 時計の針を、巻き戻す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 内閣情報調査室の叶和人内閣情報官が、霞ヶ関の首相官邸で司馬総理大臣らとの会談を終えたのは、午後八時十分のことだった。

 

 一仕事を終えた開放感からか、どこかすっきりした表情の彼は、あらかじめ官邸正面の駐車場に待機させておいたクラウンのリアシートに腰かけるや、ほっと安堵の吐息をこぼした。室内長が一九八〇ミリもあるクラウンの後部座席は広い。悠々と足を組み、ネクタイを緩めていると、運転席でステアリングを握る内調職員から、「今日はこの後、どうされますか?」と、訊ねられた。叶情報官は間髪入れずに、「今日はこのまま自宅に向かってくれ」と、応じた。たったいましがたまで、侃々諤々の会議の場に身を置いていたのだ。今日はこのまま自宅に帰って熱いシャワーを浴び、汚れとともに疲れを洗い流した上で、愛妻の作った手料理に舌鼓を打ちながら、きつい酒を一杯やりたい気分だった。

 

 叶情報長官の命令一過、システム出力三五九馬力という三・五リッター・ハイブリッド・システムが静かに目を覚まし、クラウンはスムーズな滑り出しとともに日本の中枢を離れていった。首相官邸前交差点を南に進み、六本木通りへ入ったところで、胸元に震動を感じた。スーツの内ポケットへと手を伸ばす。国内メーカーが内調職員のために開発した、盗聴防止機能を搭載したスマートフォンだ。一見、普通のAQUOS携帯にしか見えないが、電話はすべて、内調専用の秘匿回線につながる仕組みになっている。

 

 ディスプレイに表示された着信相手の名前を見て、叶情報官はしかめっ面になった。《チェシャ猫》。当代の更識家当主が好んで使っているコードネームだ。

 

 通話ボタンをタップして、端末を頬に寄せる。待つこと半秒、専用回線につながり、艶やかな声が聞こえてきた。

 

「私だ」

 

『チェシャ猫です。鬼頭智之に接触し、名古屋行きの護送を依頼する言葉を引き出しました』

 

「よくやってくれた」

 

 若くして色気たっぷりな暗部組織の頭領の声に対し、叶情報官の声質は重々しく、威厳のようなものを感じさせるが、どこかくたびれていた。

 

「鬼頭智之の件については、引き続ききみが主導して、島外活動の護衛計画のプランを練ってくれ」

 

『了解しました。……少し、お疲れのようですね?』

 

 いたわりの言葉。声に含まれた疲れの気配を、鋭敏に感じ取ったらしい。

 

 叶情報官は「うん」と、首肯した。

 

「先ほどまで、司馬首相や、藤沢官房長官らと会っていた。昨日の、IS学園を襲った所属不明の無人ISと、鬼頭智之の戦闘の様子。そして……」

 

 叶情報官は、そこで一旦、言葉を区切った。ちら、と運転席に座る男の後頭部を一瞥する。バック・ミラーの角度の問題から、叶の着座位置より彼の表情を覗うことは出来ないが、なぜだか、笑っている顔が想像できた。

 

「アローズ製作所を襲った、同じく所属不明の無人ISと、かの人物との戦いの様子を報告したところだ」

 

『……首相は、何と?』

 

「詳細については、後日、報告書をまとめて、きみにも送る。……結論だけ言おう。日本政府は秘密裏に、アローズ製作所と協力体制を結ぶよう交渉する方針で話がまとまった。そして首相官邸内における、かの人物のコードネームが決まった」

 

『何と?』

 

「《ウルトラマン》だ」

 

 情報官は唇を舐めた。生身の人間がISを殴り壊すという衝撃的な映像を見て動揺する首相たちをなんとか落ち着かせようと奮闘したときの気苦労がよみがえってくる。

 

「総務省出向組の、城山君の提案だ。アローズ製作所の桜坂室長のことを、我々は今後、《ウルトラマン》と呼称する」

 

『……特撮ヒーローの名前と同じですね?』

 

「城山君曰く、地上に降りた神の名前に相応しい、とのことだ」

 

『情報部の人間が、神ですか……』

 

 通信端末に組み込まれた小型マイクが、小さな溜め息の音を拾った。

 

『ナンセンスですね』

 

「まったくだ」

 

 叶情報官は頷くと、こちらもまた、深い溜め息をついた。

 

 不信感に満ち満ちた眼差しのその先では、城山悟が意気揚々とステアリングを切っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 






ライトノベル特有の日本風SF現代ではなぜだか影の薄い、内調などの組織に前面で出てもらいました(影の組織なのに、前面とは……)。

たぶん、おふざけ回は次か、その次で終了します。














ウルトラマン

DCコミックに登場するスーパーヴィラン。

多次元宇宙における、悪のスーパーマン。











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Chapter27「懐かしき街並み」

おふざけ回3話目。

過去最大の文章量ですが、お楽しみいただければ幸いです。








 

 

 

 

 ぐるぐる。

 

 ぐるぐる、と、時計の針は回る。

 

 正しき方向へ。

 

 ときに、誤った方向へ。

 

 回る。

 

 回る。

 

 回り続ける。

 

「……不味いな」

 

 誰かの呟きが、世界のどこか、虚空にて生まれ、また虚空へと消える。

 

 すべてのものが存在せず、それでいて、すべてのものが存在する。

 

 矛盾をはらんだ空間、光を飲み込む黒と、光を灯す白とが互いに牽制し合い、繚乱している位相に、男の声が響く。

 

「こんな滅茶苦茶な動きをしていたら、そのうち、壊れるぞ」

 

 進んでは戻り、進んでは戻る。

 

 本来、一方向に向けて絶えずかかっていなければならないトルクが、気まぐれに、逆向きへとかかっている。

 

 自然の摂理に反した動きを強要された終末時計のムーブメントからは、いまや悲鳴のような異音が絶えなくなっていた。

 

「なんとかしないとなぁ」

 

 危機意識の篭められた呟きが、虚空で生まれ、虚空へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 国際IS学園とアローズ製作所の本社が、謎の無人ISの襲撃を受けた、翌日の夕刻。

 

 霞ヶ関の首相官邸、総理大臣用のオフィスでは、日本の防衛、治安維持、司法を監督する立場にある男達が、一堂に会していた。すなわち、司馬周平内閣総理大臣、藤沢正太郎官房長官、池波遼太郎防衛大臣、さらには法務大臣の上田秀彦、国家公安委員長の中島秀人の五名だ。内閣情報調査室の叶和人情報官からの要請で、彼らは閣議の後もこの部屋に留まり、情報官がやって来るまでの間、議論に花を咲かせていた。議題は、今年度に採用した、新人警官の教育にまつわる問題だ。五三歳の中島秀人国家公安委員長からの問題提起で、彼は、今年度は特に女性警官の教育が上手くいっていない、と嘆いた。

 

「女性優遇制度を推進する野党の要請に応じる形で、この数年、警察も女性職員の採用を増やしてきました。今年度の採用で、警察官全体に占める女性警官の割合は、とうとう三十パーセントの大台を超えたわけですが……」

 

「はっきり言って異常な伸び率だね、中島さん」

 

 険を帯びた表情で指摘したのは、上田秀彦法務大臣だ。居並ぶ面々の中では最も小柄で、ぎょろり、とした目つきの鋭さが爬虫類を思わせる風貌の持ち主。一九五九年生まれの六六歳で、首相をはじめ、若手の多い司馬内閣内では年長の部類に入る。

 

「平成最後の国勢調査が行われたのが二〇一五年だったね? その直後にISが登場して、女性活躍推進法がさらに強化されたわけだが、あのときの調査では、女性警察官の割合は全体の九パーセントぐらいと記憶しているよ。それがたった十年で三倍以上だ。そのペースじゃあ、それだけの女性警官が仕事をしていくための仕組み作りが間に合わないだろう」

 

「はあ、まさしくその通りで」

 

「女性隊員の増加と、それを迎えるための体制作りの問題は、自衛隊の方でも難儀していることですが……」

 

 中島委員長に同情した眼差しを向けるのは、勿論、池波防衛大臣だ。ISの存在がイコール軍事力の要とされる現代社会において、女性自衛官の社会的地位は年々向上しており、それを理由に、入隊後の訓練の厳しさなど深く考えないまま志望する者が増えている。こうした軽い気持ちで自衛隊の門を叩く者たちにまつわる問題は、ここ数年、防衛大臣の頭を常に悩ませる厄介事だった。池波の本音としては、そういった輩は入隊時の面接や身体検査などで不適格者とふるい落としたいところだが、女性優遇施策のもと改正された、新しい女性活躍促進法が定める女性採用枠の義務化の条項がために、それもままならない状況にある。

 

 それでも、警察よりはまだましだろう、と池波は考えていた。警察と比べた場合、自衛隊の任務や、兵科などの組織構造はシンプルだ。女性には明らかに不向きな仕事や兵科というのがはっきりしているから、それ以外のところにポイントを絞って、受け入れ体制を作ればよい。

 

 しかし、警察は違う。たとえば刑事課一つとっても、相手取らねばならない犯罪者の類型は多種多様。盗犯、強行犯、知能犯、暴力犯、銃器や薬物を扱う犯罪者、国際犯……といった具合だ。当然、それに伴って、職務の内容も細分化されているから、女性警察官に不向きな仕事、というのが分かりにくい。限られたリソースを要所々々に集中することが難しいため、組織全体として女性警官の受け入れ体制を整備していく必要があるが、増加ペースの方がこの動きを上回っているため、あちらこちらで破綻が生じていた。その代表格が、警察学校でのいじめ問題だと、中島は口にする。

 

「警察学校という空間は、ただでさえ高ストレス環境です。いじめの問題は昔からありましたが、ここ数年は全国的に、その認知件数が異常な伸びを見せています。詳しく調べてみると、そのほとんどが女性同士のいじめによるものでした。年々増加傾向にある女子生徒への、ケアの仕組み作りが間に合っていません。神奈川県警の警察学校など、初任科教養の進行に著しい遅れが生じるほどの大事になっているようです」

 

「警察学校内にも、いじめ相談室のようなものはあるのでしょう?」

 

 司馬総理が訊ねた。

 

 中島委員長は頷いたが、

 

「勿論です。ですが、いじめの申告件数の増加に対して、対応が追いついていません」

 

「産業保険医やカウンセラーの数を増やすというのは……」

 

「それで解決するような単純な問題でもないでしょう」

 

 藤沢官房長官の呟きに、池波防衛大臣が反応した。

 

「勿論、それも解決策の一つなのは間違いありませんが。すでにいじめという直接の問題が起こってしまっている以上、まずそれに対処するのは私も賛成です。ですが、泥縄式の対処法では、また同じことが起こるだけです。いじめが起こりづらい環境をいかに整備していくか、これこそが重要でしょう」

 

「正論だがね、池さん。それはとても時間のかかることだよ」

 

「その通りです。じっくり時間をかけてやるべきことです。女性の採用枠を増やすことも、そのための体制作りも。……本来ならばね」

 

 池波は重たい溜め息をついた。

 

 二〇一六年四月に施行された女性活躍促進法は、ISの登場をきっかけとした、女性の社会的地位の向上を目指す運動の高まりに応じる形で、一年も経っていない二〇一七年二月に改正・施行された。第一次司馬内閣が組閣する直前まで、日本の舵取りを担っていた岡田文雄内閣のときのことだ。その内容は社会に急激な変化を強いるものであり、当時の池波は、「改正をするにしてももっとよく考えてからするべきだ」と、改正法の施行開始を急ぐ与党勢力に対し、議論にかけた期間の短さを糾弾する反対の立場を取っていた。

 

「池波さん、自衛隊の方では、いじめ問題は……」

 

「こちらでも認知件数は増えていますよ。ですが、そちらほどの伸び率ではありません。訓練への影響も、最小限に留められている、と判断しています」

 

「自衛隊はまだ、女性自衛官の割合は、全体の十パーセントぐらいでしたか」

 

「はい。もっとも、二〇一八年時点で掲げていた、二〇三〇年度の目標値が九パーセントでしたから、これでも驚異的な伸び率での達成はありますが」

 

 中島委員長と池波防衛大臣が言葉のキャチボールに勤しんでいると、執務室のドアがノックされた。

 

 司馬総理が入室を促すと、「失礼します」と、背広の肩にハンガーが入ったままかと思えるほど背筋を伸ばした叶情報官が顔を見せた。かたわらに、内調職員と思しき男を一人連れている。司馬総理をはじめ、居並ぶ大臣たち全員がはじめて見る顔だ。彼の方もこれだけの顔ぶれの前に立つのは初めての経験なのか、その面差しは緊張から強張っている。

 

「総理、お待たせしました」

 

 叶情報官は踵を打ち鳴らして腰を折った。応じて、後ろで鞄持ちをしている部下の男も、しゃっちょこばったお辞儀をする。司馬総理は柔和な笑みでもってそれを迎えると、二人に執務室のソファーを勧めた。

 

「お待ちしていましたよ、叶さん。緊急で、報告したいことがある、ということでしたが?」

 

「その前に、彼のことを紹介させてください」

 

 叶情報官は一緒にやって来た部下の男を示した。

 

「内調職員の城山悟君です。総務省からの出向者で、内調では主に国内部門の仕事を担当してもらっています」

 

「城山です」

 

 城山はソファーから立ち上がるとまた一礼した。

 

「彼には、当事者の一人として今回の同行を許可しました」

 

「当事者?」

 

 池波防衛大臣が怪訝な表情で聞き返した。

 

「それはどういう意味でしょう? 今回の召集は、叶情報官の要請によるものと聞いていますが……」

 

 池波大臣は執務室に集まった面々の顔を見回した。防衛大臣の自分に加えて、警察庁のトップたる公安委員長や、法務大臣まで招聘されている。国家の安全保障に関わる重大な問題が起こったのは間違いなさそうだが、それに、一介の内調職員がどう関係してくるのか。

 

「その通りです。日本国の今後に関わる、大事件が起こりました」

 

 叶情報官のこの発言に、日本国の命運を自由に出来る立場にある男たちの顔は等しく強張った。内閣情報調査室のトップとして、平素より国防にまつわる大小様々なインテリジェンスに触れているはずの彼をして、大事件などと形容するほどの事態。いったい、どんなびっくり箱がひっくり返されてしまったのか。

 

「城山君、パソコンの準備をお願いします」

 

 叶情報官の言葉に応じて、彼の隣に座った城山悟が、持っていたブリーフケースを開けた。中から取りだしたのは、モバイルPCだ。今年の二月に発表されたばかりの最新機種で、空間投影式ディスプレイを出力する機能が備わっている。城山はデスクの上にモバイル端末を置くと、OSを起ち上げ、空間投影式ディスプレイを起ち上げた。

 

「これから皆さんには二つの映像記録を見ていただきます。どちらも、昨日撮影されたばかりの映像で、編集は一切加えられていません。

 

 一つ目の映像は、昨日、IS学園で撮影されたものです」

 

 内閣情報調査室がIS学園にスパイを送り込んでいることは、大臣たちにとって周知の事実だ。なにしろIS学園は、稼働状態のISを常に三十機以上も保有している超強力な軍事組織。そんなものが、アラスカ条約によってどこの国にも帰属することなく存立している上、日本の首都・東京にほど近い位置にあるのだ。万が一の暴走に備えて、スパイを送り込むのは当然の措置といえた。今回の映像記録も、その諜報員が送ってきたものだろう。

 

「映像を見ていただく前に、何が起こったかという、事実だけお伝えしておきます。スパイからの報告によれば、昨日の午前十時十七分のことだそうです。IS学園にアンノウンが一機侵入し、攻撃を仕掛けてきました」

 

「攻撃だと!?」

 

 藤沢官房長官が声を荒げた。驚愕の言葉を実際に口にしたのは彼一人だけだったが、他のみなも、同様の衝撃に打ちのめされている様子だった。

 

「アンノウン、ですか? しかし、そのような存在を補足したという報告は、私のもとに届いていませんが……」

 

 アンノウンとは正体不明を意味する言葉で、軍事の世界では国籍不明機を指す言葉でもある。叶情報官が口にした言葉の意味を軍事用語と解釈した池波防衛大臣は、険しい面持ちで疑いの言葉を呟いた。本当にそのようなアンノウンが現われたとしたら、航空自衛隊のジャッジ・システム(自動警戒管制システム)が反応していなければおかしい。

 

 ジャッジ・システムは航空自衛隊が運用している、日本の空を守るための強力な武器だ。強力なSS(レーダー・サイト)が日本沿岸や離島にも置かれ、日本の領空をくまなく睨んでいる。このSSが正体不明機をキャッチすると、そのデータはただちに航空方面隊防空司令部に送られ、コンピュータ処理される。解析の結果、その機体が国籍不明であり、かつこちらの呼びかけにも応じない場合は、アンノウンと認定される。なおも無線によるコンタクトが続けられ、それでも正体の判明しないときは不明機とされ、スクランブルの対象となる。ただちに待機しているスクランブル部隊に発進命令が出される、という仕組みだ。スクランブル発進に要するレスポンス・タイムは、数分から数十分単位。

 

 もっとも、十分以上かかってしまうと、要撃が間に合わないケースもある。マッハ以上の速力で飛行する機体は、あっという間に本土上空に到達してしまうからだ。

 

 これをいかにして最短時間で最寄りの基地から発進させるかが、管制群司令所にいる要撃管制官の仕事であり、腕の見せ所だといえる。

 

 中部地区――関東甲信越から近畿までを含むエリア――の要撃管制を行っているのは中部航空警戒管制団で、司令部は埼玉県の入間基地に置かれている。傘下の警戒群は八個群に分かれており、IS学園のある首都圏エリアをカヴァーしているのは、千葉県峯岡山に置かれているレーダー・サイトだ。しかし、池波の把握している限り、昨日はそんな報告はなかった。本当に、そんな存在がいたのか?

 

「池波大臣が疑問に思うのも当然でしょう。ですが、これは事実です。アンノウンは突然、IS学園上空に現われると、当時、学園のイベントで試合中の第二アリーナ内に侵入。施設に対し、攻撃を開始したのです」

 

「待ってください。もしかして、アンノウンというのは、ISですか?」

 

「そうです。詳細は、映像でご確認ください」

 

 司馬総理の質問に、叶情報官は首肯した。居並ぶ大臣達が顔を見合わせる。

 

「空自のジャッジ・システムをもすり抜けた、正体不明のIS……」

 

「高度なステルス能力を持ったISということか!?」

 

「池さん、そういう相手であれば、ジャッジ・システムが突破される可能性は……」

 

「十分にありえますね」

 

 ISは人間が身に纏うパワードスーツだ。航空機などと比べて圧倒的に小さく、もとよりレーダー反射面積が少ない。その上で高度なステルス機能を搭載されているとなれば、いかに空自の精鋭たちといえ、見逃してしまうこともあろう。

 

「なるほど、叶情報官が国防の危機と評したのも頷ける話だ」

 

 どこかの国か、あるいは企業が、極秘裏にステルス能力を持ったISの開発に成功した。その性能をテストするために、IS学園を襲撃した。もしもこのISが量産されれば、世界のミリタリー・バランスが崩壊することになる。最強兵器ISを、誰にも気づかれることなく、戦略的要地に送り込むことが出来るようになるからだ。極端な話、世界中の要人達を人質に取ることだって出来てしまう。

 

 ところが、藤沢官房長官の呟きを、叶情報官はやんわりと否定した。

 

「それも勿論ありますが、それ以外のことでも、です」

 

「というと?」

 

「アンノウンは最終的にIS学園側の反撃に遭い、撃墜されました」

 

「さすがはIS学園だ」

 

 藤沢長官は頷いた。

 

「あそこには世界最強のブリュンヒルデがいるからな。他の教員たちも、世界のトップ・ランカーたちでかためている。たとえ相手が未知のISであろうと、容易く撃退したんだろう」

 

「いいえ、そうではありません」

 

「うん?」

 

「アンノウンの迎撃にあたったのは、IS学園の教員たちではありません。例の、鬼頭智之です。城山君」

 

 すでにモバイル端末の準備を終えていた城山が、記録映像のファイルを選択して、動画の再生を開始した。一畳ほどもある大型のスクリーンに、激闘の様子が映し出される。

 

 件の第二アリーナで激しくぶつかり合う二機のIS……織斑一夏が駆る『白式』と、中国の代表候補生、凰鈴音の操る第三世代機、『甲龍』。試合ははじめ、特殊兵装《衝撃砲》で攻めたてる甲龍が優勢であったが、やがてその攻略法をものにした白式が反撃を開始。形勢が逆転したところで、第二アリーナの天井シールドが破壊された。

 

 試合場に現われたのは、異形のISだった。全身を覆い隠している分厚い装甲。人体の造りを無視したシルエット。防衛大臣の池波をして、過去に見た憶えのない姿をしていた。アンノウンはIS学園側の呼びかけに一切応じることなく、試合の真っ最中で、シールド・エネルギーを大きく減らしていた白式と甲龍に襲いかかった。そこに割って入ったのが、鬼頭智之の『打鉄』だった。

 

『大人には、子どもを守る義務がある』

 

 その言葉とともに、IS学園の子どもたちを襲ったアンノウンに向かって、挑みかかっていった。最初は苦戦している様子だった。当然だ。彼が身に纏う打鉄は第二世代機。弱っていたとはいえ、最新の第三世代機を相手に互角以上に戦ってみせたアンノウンとの性能差は、ISバトルに詳しくない者たちの目にも明らかだった。

 

 しかし、英国の第三世代機用特殊兵装を研究する過程で彼自身が開発したという、新装備を起動させたときから、状況はまるで一変した。

 

「……私の記憶違いでなければ」

 

 有線式攻撃端末を駆使した多方向からの時間差攻撃でもって、アンノウンの全身に設けられた姿勢制御スラスターを次々に破壊していく二人目の男の勇姿を眺めながら、司馬総理は呟いた。

 

「鬼頭智之がまともにISバトルをするのは、今回の戦闘が初めてのはずですが……」

 

「はい。IS学園に潜伏中のスパイからも、そのような報告があがっております」

 

「しかし、とても初めての男の動きとは思えんな」

 

 藤沢官房長官は唸り声を発した。防衛大臣の池波も頷く。

 

「スパイからの報告によれば、この打鉄の機体制御には、鬼頭智之が独自に開発したOSが使われているそうです。《オデッセイ》といって、これは英国の第三世代機……ティアーズ型の特殊兵装に採用されている、BTエネルギーの制御に特化したOSだそうです。詳しい説明は省きますが、機体制御をこのOSに切り替えることで、機体の性能をより引き出しやすくなるとのことです」

 

「というと? 具体的には、どのような?」

 

「この新型OSはまだ試作段階で、十分なデータが出揃っていないため、スパイの推測も含まれた数字になるのですが……」

 

 叶情報官は内心の動揺を悟られまいと、あえて淡々とした口調で呟いた。

 

「件のスパイは、IS学園に生徒として通っています。彼女の言によれば、ISコアとの先天的な相性といった要素を除くと、ISは稼働時間がものを言う世界だそうで、ごくシンプルに解釈すれば、パイロットの稼働時間が長いほど、ISコアのパワーや、機体の性能を引き出しやすくなるのだそうです。

 

 今回のアンノウンとの戦闘で彼が見せた動きを、我々のスパイは、最低でも二〇〇時間はISを稼働させた者でなければ発揮出来ないパフォーマンスだ、と評しました。その一方で、アリーナの使用ログなどを解析した結果、IS学園入学後の鬼頭智之のIS稼働時間は、累計でも十時間に達していないことが判明しております」

 

「つまり、その《オデッセイ》というOSが、まだ素人に毛が生えた程度の経験値しかない鬼頭智之を、一瞬にしてベテランの操縦者に変えてしまったわけか」

 

「……なるほど。叶さんがわが国の国防に関わる問題と判断した理由が、見えてきましたよ」

 

 防衛大臣の要約を受けて、司馬総理は、ははあ、と得心した様子で頷いた。

 

「以前の《トール》のときと、同じ、というわけですね? 鬼頭智之は、装置のスイッチを入れただけで、初心者を熟練のパイロットに変えてしまうOSを開発してしまった。これにより、我々はますます、彼の身柄や技術の流出を警戒しなければならなくなった。そう、おっしゃりたいわけだ」

 

「まさしくその通りです」

 

 試作段階ゆえに、細かいところではまだまだ問題だらけのシステムだという。しかし、もしも将来、この《オデッセイ》OSが実用化されれば、軍事の世界に革命が起きることになるだろう。スイッチ一つで初心者を熟練の操縦者に変えてしまえる装置。これは、訓練効率を大幅な引き上げる可能性を秘めたシステムと言い換えられるためだ。

 

 どんなに強力な最新装備も、それを扱う人間の練度が不十分な状態では、その性能を十全に発揮することは出来ない。それでいて、軍隊の装備は多機能化・複雑化が年々進んでおり、教育にかかる金銭的な、そして時間的なコストも、増大の一途を辿っている。ISなどはその典型であり、IS操縦者の数が国家の軍事力とニアイコールで結びつけられる現代において、人材育成の問題は、各国政府が最重要課題と等しく捉えていると考えてよかった。

 

 鬼頭智之の開発したOSは、その問題を劇的に改善する可能性を秘めた存在だといえた。たとえば、ある操縦技術をマスターするのに、普通ならば三日かかったとする。それが、鬼頭智之の新OSを使えば、一日で達成出来るようになったとすれば、どうか。そのOSを採用した国は、他国の三倍の速さで操縦者を育成出来るようになる。訓練期間が三分の一ですむということは、従来と同じだけ時間をかければ、他国の三倍の人数を育成出来ることを意味する。

 

「IS学園は、十六~十八歳までの若者を、三年かけて、一流のIS操縦者へと育成することを目的としています。勿論、これは知識面も含めてのことですが、鬼頭智之の新OSが完成すれば、少なくとも操縦技術については、かなりの時間短縮につながるはずです」

 

「このことが他国にも知れ渡れば……いや、もう知られてしまった、として考えるべきでしょうなあ」

 

 藤沢官房長官の呟きに、司馬総理は頷いた。

 

 IS学園の設備を使って得られた知見は、情報の開示と共有がアラスカ条約によって義務づけられている。また、それでなくとも、学園には各国情報機関の訓練を受けたスパイたちが生徒として多数入り込んでいると考えられた。鬼頭智之の新OSとその性能については、彼女たちの口から語られてしまったと考えるべきだ。鬼頭智之の勧誘合戦は、これまで以上に熾烈なものとなるだろう。斯様な状況に対し、日本政府は今後どう行動するべきなのか。司馬総理は険しい面持ちで溜め息をこぼした。

 

「鬼頭智之の件については理解しました」

 

 口を開いたのは、中島公安委員長だった。警察出身の叶情報官とは、顔馴染みの間柄だ。

 

「叶さん、もう一つの映像とは?」

 

 ステルス機能を搭載した正体不明のISに、鬼頭智之の開発した新型OS。この二つは、国防に多大な影響を及ぼす問題でこそあれ、警察庁や、法務省まで出しゃばらねばならぬような事案ではない。中島は、叶が見せたいと言ったもう一つの映像にこそ、自分や、上田法務大臣が呼ばれた理由があると推測した。

 

 叶情報官は頷いた。日本人としては珍しい、紺碧色の眼差しが重鎮たちの顔をゆっくりと見回した。叶はいつの間にか乾いていた口の中を唾で潤すと、静かに口を開いた。

 

「……二つの目の映像については、正直なところ、内調でもどう受け止めるべきなのか、判断がつきかねている、というのが実状です」

 

「内調が、ですか?」

 

 司馬総理が驚いた様子で訊ねた。情報分析の専門家たちが、どう判断してよいか分からないなんてことが、ありえるのか。

 

「はい。悔しいことに、ですが。ただ、この映像に収められていた内容についての議論を後回しにすれば、日本国の……いいえ、下手をすれば、我々の暮らすこの世界、そのいまこの瞬間が、危うくなりかねない。そう思い、今回、総理たちに集まっていただいた次第です」

 

 司馬総理たちは顔を見合わせた。内調のみならず、これまでに警察機構の要職を歴任してきた猛者たるこの男をして、この発言。いったい、自分たちはこれから何を見せられるのか。

 

「映像を流す前に、状況について、順を追って説明します。IS学園がアンノウンの襲撃を受けていたまさに同じ時間帯、ここにいる城山君は、愛知県名古屋市にある、アローズ製作所の本社にいました」

 

 アローズ製作所。その名を聞いて、疑問を口にする者はこの場にはいない。みな、国家にとって重要人物として、鬼頭智之についての基本的な情報は頭の中に収められていた。

 

 分からないのは、城山悟が鬼頭智之の勤務先になぜいたのか、ということだ。

 

 当然、その疑問については、叶情報官がすぐに晴らしてくれた。

 

 曰く、城山悟は鬼頭智之に対し懐柔工作を行う特命班……通称、KT班の一員だという。班内における主な仕事は、会社という切り口からアプローチ法を考えることで、彼は鬼頭智之が直接勤めている、パワードスーツ開発室に注目した。件の開発室では現在、災害救助用のパワードスーツを開発しており、内調ではその将来の顧客候補に、全国の消防署が選ばれるだろうと予測していた。消防庁は、総務省の外局だ。総務省出身の城山は、往時に築き上げたコネクションを駆使することで、消防庁の職員たちに、開発中のパワードスーツの見学をしたい、という欲求を抱かせることに成功した。見学会を催すことで、鬼頭智之本人や、アローズ製作所からの好感を買おうと考えたのだ。見学団には城山自身も参加し、そこで、事件と遭遇したという。

 

「後に判明したことですが、IS学園がアンノウンに襲われたのと、まさに同時刻のことだったそうです。アローズ製作所本社ビルを、IS学園を襲撃したのとまったく同型のISが襲いました」

 

「……なんですって」

 

 数々の反対意見を押し切って経済政策を押し通してきた、豪胆なる司馬総理大臣をして、顔面蒼白とならずにはいられぬ発言だった。

 

 直後に、「ありえない!」と、声を荒げたのは、中島公安委員長だ。

 

「襲われたのがIS学園であれば、防衛大臣のもとに連絡が届いていないのも納得出来ます。アンノウンは空自のジャッジ・システムをすり抜けてきた。その上、学園側で撃退に成功したため騒ぎにはならず、池波大臣のもとにも報告はなかった。そういう理屈が成り立ちます。しかし、アローズ製作所の場合は違う。

 

 私の記憶では、この会社の本社ビルは名古屋市内にあったはずです。人口密集地域の上、一民間企業に過ぎないアローズ製作所には当然、IS学園のような防衛能力はありません。そんな場所がISに襲われたとなれば、施設の大規模な破壊や、死傷者の発生は免れられないはず。自衛隊はともかく、管轄の愛知県警が気づかないはずがありません。しかし、私のもとには、そのような報告はまったく……」

 

「それが、いたのです」

 

 叶情報官は、やけに平坦な口調で呟いた。驚き、目を剥く中島に、酷薄なる言葉を叩きつける。

 

「アローズ製作所には、最強兵器ISを退けるだけの。いや、最強兵器を撃墜するほどの、戦力がいたのです」

 

「撃退したというのか!? 最強兵器を、一民間企業が!?」

 

 藤沢官房長官の言葉に、叶情報官は頷いた。

 

「最初に立ち向かったのは、鬼頭智之が設計を担当した災害用パワードスーツのプロトタイプだったそうです。アンノウンを相手に、一分以上も粘るなど善戦したようですが、最終的に、中破相当の損傷を受け、戦闘からは脱落しました。

 

 問題は、その後です。パワードスーツに代わって挑みかかったのは、生身の人間でした。パワードスーツ開発室の、桜坂室長です。彼の放ったパンチはISのシールドバリアーを貫通し、本体に届くと、先ほど皆様にご覧いただいた、あの重量級のボディを何メートルも吹っ飛ばしたとのことです」

 

 重臣達は驚きから、返す言葉を等しく見失ってしまった。

 

 到底、信じがたい話だが、インテリジェンスのプロフェッショナル集団の長たる人物の発言だ。諧謔や、嘘を口ずさんでいる可能性は低い。とすれば、彼の口にした内容は、一字一句たがわず、実際に起こった出来事なのだろう。

 

「ここにいる城山君は、その一部始終を現場で目撃した人間なのです」

 

「これから流す記録映像は、私が撮影したものです」

 

 城山悟は緊張に頬を紅潮させながら言った。

 

「内調で開発した、マイクロカメラが内蔵された特殊な腕時計で撮影しました」

 

 城山は自身の左腕に巻かれたタグ・ホイヤーを示した。一見した限り、普通のキャリバー5だが、ヒューズを回すとカメラが起動し、撮影を開始するのだという。

 

「小さい分、画質は悪いですが」

 

「……映像を流す前に、一つ聞かせてください」

 

 上田法務大臣が城山を見た。

 

「城山さん、あなたはその場所で、何を見たのですか?」

 

「……神です」

 

 城山は冷笑を浮かべながら応じた。

 

「地上に降りた、神の姿を目撃しました」

 

 記録映像は、件の災害救助用パワードスーツの性能披露会から始まっていた。災害現場に見立てた瓦礫の道を、乗用車を抱えながら力強く進んでいく、二体の機械の鎧。池波防衛大臣が感嘆の溜め息をこぼし、中島公安委員長が腰を浮かして前のめりになった直後、実験場の天井が崩落した。穿たれた大穴から現われたのは、叶情報官が事前にブリーフした通り、IS学園を襲撃したアンノウンと同型のISだった。

 

 アンノウンは実験場内に停車していたプロフィア・トラックを攻撃した。追撃を仕掛けようとするアンノウンに飛びかかる、災害救助用パワードスーツのプロトタイプたち。最強兵器の容赦のない反撃の前に、まず旧型機がリタイアし、新型機の方も徐々にダメージを蓄積させていく……が。

 

「……なんてことだ! ISを相手に、ああも戦ってみせるとは……!」

 

 藤沢官房長官の驚きは、みなに共通する思いだった。

 

 戦闘を目的に作られていないパワードスーツが、最強兵器ISを相手に、粘り強く持ちこたえている。現実離れした光景に、一同は思わず唸り声を発した。

 

「あれも、鬼頭智之の設計という話でしたね?」

 

「その通りです」

 

「……ますます、手放すわけにはいかない男だ」

 

 司馬総理が呟いた直後だった。さらなる衝撃的光景が、男達の網膜を殴打した。

 

 アンノウンの猛攻を前に追いつめられたパワードスーツを救ったのは、生身の男だった。六尺豊かな、堂々たる体躯の持ち主だ。顔の造作は彫り深く、ひとつひとつのパーツこそ精悍だが、全体としては厳めしい、仁王のような面魂を形作っている。男は憤怒の形相で異形の襲撃者を睨みつけると、かたく握った拳を、最強兵器のボディへと叩きつけた。男の鉄拳は、シールドバリアーを容易く突き破り、装甲表面に接触。オレンジ色の火花が散り、アンノウンの巨体は吹っ飛んだ。その場から三十メートル以上も離れた壁に激突する。

 

 司馬総理たちは等しく唖然とした。質の悪いアクション映画のような、説得力を感じられない映像だった。

 

 しかしこれは現実の出来事なのだ。司馬は喉を鳴らして唾を飲み込み、深々と息を吸った。頭の中に新鮮な酸素を送り込み、脳をクリアな状態にした上で、改めて映像に目線をやる。

 

 よろよろ、と立ち上がったアンノウンが、男に向けて、荷電粒子砲をぶっ放すところだった。現代に現われた仁王象は、分厚い胸板でもって、ビームの奔流を受け止めた。びくともしない。男はそのままの状態で、ずんずん、と進み、相手との間合いを詰めていった。正拳突きが、再度ボディを打つ。鉄拳は相手の装甲を粉砕し、腹部に突き刺さり、内部のメカニズムを破壊しながらなおも深度を増し、やがて、反対側の装甲をぶち抜いた。

 

 司馬内閣の重鎮たちは、卒倒してしまいたい欲求と戦いながら、臍下丹田に気合いを篭めて、記録映像を見続けた。やがて桜坂某なる人物の連続殴打により、アンノウンがまったく動かなくなる。動画はそこで止まった。映像が終わった後も、しばらくは誰も口を開かなかった。

 

「……なるほど、叶さんをして、分析に困るわけだ」

 

 映像が終わって最初に発言したのは、司馬総理大臣だった。彼は重たい溜め息をついた後、現内閣における実質的なナンバー2との呼び声も高い情報官の顔を見た。

 

「ありがとうございます、叶さん。たいへん興味をくすぐられる、情報でした」

 

 司馬は叶たちをねぎらった。すると、池波ら閣僚たちの顔つきが引き締まる。首相の発言は、この場における内調の仕事が終わったことを意味すると、察したためだ。

 

 内閣情報調査室の仕事は、日本の舵取りを任された為政者たちに、判断材料となる様々なインテリジェンスを提供すること。これに対し、自分たち閣僚の仕事は、受け取ったインテリジェンスをもとに今後の行動指針を打ち立てること。ここから先は、自分たちの職域である。

 

 司馬は閣僚たちの顔を見回した。

 

「皆さん、いま流された二つの映像を見て、各々感想や意見はあるでしょうが、まずは私に発言させてください。いまの二つの映像からは、大きく分けて、四つの問題が見て取れます。

 

 第一に、アンノウンの正体について。空自のジャッジ・システムをすり抜けるほどのステルス性能を持ったISが、同時に二機も、わが国の領空や領土を侵害した。これはたいへんな問題です。いったい誰が、何の目的で、送り込んできたのか。我々はこのISについて、性能や、正体について詳しく知る必要があります。叶さん、破壊したISの残骸は?」

 

「IS学園を襲った方の機体は、学園側で回収されたようです。アローズ製作所を襲った方は現在、我々内調で回収し、管理しています」

 

「パイロットの方はどうです? 尋問は可能な状態でしょうか?」

 

「いいえ。パイロットの回収は出来ませんでした」

 

「……死亡した、ということでしょうか?」

 

「いえ。詳細はまた後日、報告書の形で提出しますが、今回、遭遇したアンノウンは、無人機でした」

 

「……なるほど」

 

 はたして、叶情報官の発言を受けた司馬総理大臣の表情に、変化はなかった。これまた衝撃的な事実には違いないが、先ほど見た桜坂某の活躍ぶりに比べれば、驚きは少ない。

 

 ただ、危機感を煽る内容には違いなかった。どこかの国、あるいはどこかの企業が、秘密裏に無人ISの開発に成功し、わが国を脅かしている。この安全保障上の問題を解決するためにも、回収した残骸の調査は急務と考えられた。

 

「叶さん、回収した残骸の調査と分析をお願いします」

 

「了解しました」

 

「人員は足りているでしょうか? 内調はこのところ、織斑一夏や鬼頭智之のことで、急激に仕事が増えているはずですが」

 

「正直に申し上げて、十分とは言い難い状況です」

 

「総理、防衛省の情報本部から、何名か、人員を回しましょう」

 

 池波防衛大臣が言った。情報本部は防衛省の情報機関と位置づけられている組織で、定員が二〇〇〇人を超える、日本最大の情報機関だ。内調とは協力関係にあり、人材交流が積極的に行われている。実際、内調の主力部隊の陣容は、防衛省と警察庁からの出向組が大半を占めている。

 

「ISの分析であれば、内調職員よりも、我々の方が得意でしょうから」

 

「叶さんも、それでよろしいですね?」

 

「助かります」

 

「よろしい。では、第二の問題……鬼頭智之に対する政府のアプローチ方について考えましょう。

 

 以前、彼がレーザー・ピストル《トール》を開発したときもそうでしたが、今回彼は、新型OSと、ISを相手に一分以上も持ちこたえてみせた災害用パワードスーツという二つの発明品でもって、我々を驚かせてくれました。私としては、これで鬼頭智之が国外に流出することは、ますます許すわけにはいかなくなった、と考えていますが」

 

「私も総理の意見に賛成です」

 

 池波防衛大臣が言った。応じて、藤沢官房長、中島公安委員長も頷く。

 

「鬼頭智之の発明品を我々が使うかどうかはさておいて、彼の技術を、絶対に国外に流出させてはなりません。あの新型OSなど、使い方を誤れば、世界中の軍事的緊張を刺激する結果となりかねません」

 

「警察庁のトップの立場からも、総理の意見には賛成です。彼の技術は、我々日本政府が厳重に管理するべきだと考えます。もしも、軍事情報の管理にルーズな国に流出したとなれば、そこから、世界中のマフィアやテロリストたちに情報が渡り、転じて、わが国の治安維持にも大きな影響を及ぼしてしまいかねない、と考えます」

 

「では、鬼頭智之に対しては、いままで通り……いえ、いままで以上に、積極的な懐柔工作を仕掛けるべき、ということになりますね」

 

「その方がよろしいかと」

 

「では、鬼頭智之に対する基本方針は、これまで通り、ということでいきましょう。

 

 さて、三つ目の問題は、アローズ製作所へのアプローチ方についてです。これまでは、鬼頭智之が勤務する会社ということで注目してきましたが、今回のこの映像により、アローズ製作所自体にも、政府として積極的に関係を持っていくべき価値があると判明しました」

 

 最強兵器ISを相手に、一分以上も粘ってみせたパワードスーツ。現在、国連で研究中のEOSなどと比べても、明らかに高性能と見受けられる。設計を担当した鬼頭智之の頭脳は勿論だが、その考えを現実のものとしたかの会社の技術力もすさまじいの一言だ。

 

 しかもこれは災害救助用で、まだプロトタイプの段階にすぎないという。仮にこれを戦闘用に再設計し、洗練を極めたならば、いったいどれほどの性能に仕上がるだろうか。

 

 ISコアの総数が限られている現状にも拘わらず、数少ないISに軍事力のほとんどを依存しているのが、現代の軍隊だ。この歪な構造を是正するために、各国ではISに頼らない軍備の拡充に努めている。その最たる例が、国連主導の国際共同開発という形で研究を進めているEOSだろう。

 

 アローズ製作所の開発したパワードスーツは、こうしたIS依存体質の現代の軍隊のあり方を根本から変えうる可能性がある、と工学部出身の司馬総理は睨んでいた。ISの膂力による殴打を繰り返されても、一分以上も耐えてみせた耐久性。ISのシールドバリアーをも貫通するほどの、高出力のレーザー発振器。記録映像を見た限りでは格闘戦能力にも秀で、悪路走破性にも優れている様子だ。オートフィット機構に由来する、乗り手を選ばない汎用性の高さも、司馬の目には魅力的と映じる。

 

 また城山に訊ねたところ、アローズ製作所ではこれだけの性能を持ったパワードスーツを、一着一千万円ほどで販売するつもりだという。戦闘用とすることで、仮にこの値段が三倍まで値上がりしたとしても、軍用品として考えればまだ安いと感じられる単価だ。現用の一〇式戦車が一輌あたりおよそ一五億円だから、これの購入予算を二輌分転用するだけで、百着近く賄えてしまう計算になる。四輌分転用すれば、陸上自衛隊の普通科の一個中隊の全員に、スーツを着せてやることが出来る。

 

 災害救助用として設計され、かつプロトタイプのいまでさえ、あれだけの高性能だ。戦闘用に再設計した場合の、スーツ一着あたりの戦闘力は、過小に見積もっても歩兵一個小隊に相当しよう。陸自の普通科の一個中隊の定数はおよそ二百名だから、全員がスーツを着れば歩兵二百個小隊……すなわち、中隊五十個分の戦力だ。陸自では大隊は置かず、中隊が四~六個集まって連隊を構築するのが通常だから、連隊十個分の戦力とさえ、言い換えることが出来る。

 

 災害救助用というだけに留めておくのは勿体ない。アローズ製作所には、ぜひ防衛産業の仲間入りをしてもらわねば、と司馬は考えた。そのためには、政府からの積極的なはたらきかけが不可欠だ。

 

 司馬総理大臣はみなの顔を見回した。誰からも、反対意見はあがらない。アローズ製作所を防衛産業界に引き入れるメリットは勿論のこと、やはりその技術力が政府のあずかり知らぬところで流出した場合のリスクを考えると、否とは言い難かった。

 

「上田さん、日本国の総理大臣としては、アローズ製作所とは友好的な関係を結びたいと考えています。しかし、政府が表立って関係を持とうとすると、企業に対する国家権力の介入だなんだ、と野党などを刺激してしまいかねません。法務省の方で、上手いやり方を考えてもらえないでしょうか?」

 

「……やってみましょう」

 

 叶情報官が自分をこの場に呼び寄せたのは、このためだったか。上田秀彦法務大臣は力強く頷いた。日本の法秩序の維持者の面子に懸けても、法に触れぬやり方を見出してみせよう。

 

「そして最後に……」

 

 司馬総理は、そこで一旦、口を閉ざした。瞑目し、どんな言葉を使って自分の考えを口にするべきか、しばし黙考する。やがて、かっ、と瞠目し、日本国の未来について重大な責任を背負う立場にある男は、自らを奮い立たせるような語調で言い放った。

 

「アンノウンを撃破した、桜坂なる人物について、です。正直に言って、私はいまこの目で見たものが信じられない。彼のような人間が、この世に存在するなんて……だが、これは事実だ。現実に起こっている事件なのだ。現実に起きていることである以上、我々も、現実的な対処法を考えねばなりません」

 

「……前例が、ないわけでもありませんしね」

 

 藤沢官房長官の言葉に、司馬総理も頷いた。織斑千冬、篠ノ之束の名前が、自然と思い浮かぶ。

 

「とはいえ、我々はまだ、かの人物について、何も知りません。そういう状態では、有効なアプローチ手段など、思いつくはずもない。よって、内調による調査は不可欠ですが……そんな状態でも、これだけははっきりしていることがあります。彼と敵対すること、それだけはやってはならない」

 

 司馬総理の断言に、城山悟や叶情報官を含む全員が頷いた。最強兵器ISを、素手でもって破壊するほどの戦闘力。あんなものと敵対することだけは避けたい。

 

「情報の乏しい現段階では、調査をしながら様子見……監視にとどめておくのが、無難な対応ではないでしょうか?」

 

「賢明でしょう」

 

 中島公安委員長が言った。

 

「ただ、この桜坂という男の調査を、内調にばかり任せるのは負担が大きいと考えます。警察庁の方でも、信頼出来る人間を何人かあたらせましょう」

 

「恐れながら……」

 

 ラップトップ・パソコンを片付けながら、城山悟が発言した。みなの視線が、彼に集中する。

 

「城山さんと言いましたね? なんです?」

 

「総理から正式な命令が下ったからには、この桜坂氏にも、コードネームをつける必要があります」

 

「コードネームというと、たとえば、鬼頭智之をKTと呼んでいるように、ですか?」

 

 城山は頷いた。

 

「どうでしょう、この場でその名前を決めてしまうというのは?」

 

「城山君、それは内調の方でやっておくべき仕事だろう」

 

 叶情報官が城山に注意した。閣僚達の貴重な時間を割くような仕事ではない、と考えたためだ。

 

 ところが、そんな叶に、中島公安委員長が「いや」と、話しかける。

 

「この人物については、警察庁の方でも調査をする予定です。内調との情報共有の利便性を考えると、コードネームは私と叶情報官、双方が揃っているこの場で決めてしまった方が、むしろ時間の節約になる、と言えるでしょう。……城山さん、そう言うからには、もう案があるのでしょう? 言ってみてください」

 

「はい。……ウルトラマン、というのはどうでしょう?」

 

「ウルトラマン?」

 

 中島公安委員長はちょっと驚いた表情を浮かべた。その名を聞いて真っ先に思い浮かぶのは、日本が誇る偉大な映画監督が生み出した、ヒーローの姿だ。

 

「ウルトラマンというと……あの、ウルトラマンですか? 円谷プロの?」

 

「はい。人知を超越した力の持ち主という意味で、ぴったりだと思ったのですが……」

 

「ふうん。面白いじゃないか」

 

 藤沢官房長官が笑った。

 

「ウルトラマンなら、私も子どもの頃に見たことがある。我々人類にとっては、宇宙からやって来たということ以外まったく不明の、謎のヒーロー。なるほど、正体不明のこの男にぴったりの名前じゃないか」

 

「……では、今後この人物のことは、ウルトラマンと呼称するようにしましょう」

 

 司馬総理は叶情報官と中島公安委員長の顔を交互に見た。

 

「叶さん、中島さん。このウルトラマンについて、どんな些細なことでもよいので、情報を集めてください。彼がいつ、どこで生まれ、どんなふうに育ち、どんな価値観を得て、現在にいたるのか。特に価値観は重要です。彼が何を大切にし、何を軽視しているかによって、我々のとるべき行動も変わってきます」

 

 総理の指示に、叶情報官は首肯した。

 

 日本の中枢で、世間には明かせぬひそやかな蠢動が、始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter27「懐かしき街並み」

 

 

 

 

 

 

 

 鬼頭智之と更識楯無を乗せたA109ヘリコプターは、海岸線の形に沿うような飛行ルートをとりながら、愛知県を目指して巡航していた。内陸部を飛ばないのは、地上からの非発見率を少しでも減らすための配慮だ。また、襲撃に遭ったときにすぐ海上へ退避するためでもある。

 

 楯無の言によれば、高速で巡航するヘリコプターにちょっかいを出せる手段は、対空ミサイルや、大口径の対空機関砲など限られている。人口密度の高い日本の内陸部で、これらの兵器が使用された場合、周囲に甚大な被害を与えかねない。対空ミサイルなんて住宅密集地域でぶっ放された暁には、最悪、死者が出かねない。そうした観点からも、内陸部を飛行することははばかられた。

 

 A109のキャビンで、鬼頭は高品を名乗る同乗者の内調職員から、この後の予定について簡単なブリーフを受けていた。勿論、ローターの回転音などノイズがやかましいヘリの室内ゆえ、両者の会話はヘッドセットを介したものとなる。

 

『当機はこれから愛知県警の本部を目指します』

 

 ヘッドセットから聞こえてきた高品の言葉に、鬼頭は得心した表情で頷いた。これも、人目を嫌っての配慮だろう。

 

 自分たちが乗り込んだこのA109の機体側面には、警視庁、の文字がペイントされていた。愛知県警のヘリポートを利用しても、珍しがられることはあろうが、違和感は少ないはず。注目を集めずにすむだろうと考えられた。

 

『ただし、愛知県警の人間で、鬼頭さんが今回名古屋に帰郷することを知っている人間は、署長をはじめ、ごく一部の人間だけです。ヘリポートの管制官など、ほとんどの職員は、誰かは分からないが国家にとっての要人がやって来る、ということしか知りません。そこで、鬼頭さんにはこれから変装をしてもらいます』

 

『……変装、ですか?』

 

 ヘッドセットを介しての会話に特有のタイムラグのため、鬼頭が返答を口にするためには、ワンテンポ置かなくてはならなかった。

 

『生憎、化粧の類いは苦手なのですが……』

 

『……ご安心ください。変装のための道具は、こちらで用意しています』

 

 高品はそう言うと、座席の下からブリーフケースを取り出し、自らの膝の上に置いた。黒い合皮製で、ファスナーで開閉をするタイプの鞄だ。プルタブをつまみ、互い違いにくっついた無数の銀色の歯のつながりをほどくと、中に手を突っ込む。取り出したのはアルミ製の眼鏡ケースだった。蓋を開け、中に入っていた眼鏡をつまみ出す。

 

 黒色のサングラスが姿を現した。レイバンのアビエイターに似た、スマートないでたちをしている。

 

 ――変装用の小道具にサングラスとはまたベタな……。

 

 高品にサングラスを手渡された。つるを持ってみて、おや? と小首を傾げる。右側頭部のこめかみのあたりをかすめる部分に、とても小さな出っ張りが見受けられた。触ってみると、その部分だけ妙にざらついた手触りをしている。高品に目線を戻すと、彼は微笑んだ。

 

『内調で開発した、変装用の特殊なサングラスです。一部のISなどに採用されている、光学迷彩技術の応用で、そのサングラスをかけた状態で接触式のボタンに触れると、首から上に、別人の顔が投影されるようになっています』

 

『……なるほど』

 

 まるでジェームズ・ボンドの世界だな、と鬼頭は思わず苦笑した。察するに、このサングラスを作ったのは、和製Q課といったところか。

 

 鬼頭はサングラスをかけてみた。そんな特殊なギミックが内蔵されているとは思えぬほど、軽い感触。なるほど、これなら長時間の着用も苦にならないな、と感心しながら、件のざらざらボタンに触れてみた。ちちち……、と静かな駆動音。おっ、起動したかな、と思い、隣に腰かける楯無を見る。

 

 楯無ははじめ、少し驚いた素振りを見せていたが、やがてにやにやと笑い出した。嫌な予感。

 

『……うん。どう見ても、ジョージ・クルーニーにしか見えませんね!』

 

『……それは別の意味で大騒ぎになるのでは?』

 

 別人の顔を、ということで、実在の誰かをモデリングしたのだろうとは察していたが、有名人をモデルにするのはスパイとしてどうなのか。

 

『ご安心ください。ジョージ・クルーニーは、モデルの一つにすぎません。他にも何人か、別の顔データがインプットされていますので』

 

 つるの接触式ボタンをもう一度撫でると、今度は普通の日本人顔が投影されたらしい。楯無の笑いは、つまらなそうに止まってしまった。

 

 ――どんな顔になっているのか、かけている本人が分からないのは、欠陥じゃないだろうか……。

 

 時速二五〇キロメートル前後で巡航するA109は、茅ヶ崎、小田原、真鶴を通って、神奈川県を抜けた。静岡県は、伊豆半島を海岸線通りに進むと時間がかかりすぎるので、時速三百キロ・オーバーの高速で、熱海から沼津へと内陸部を横断する。その後はまた海岸線通りの飛行ルートを取り、焼津、榛原、浜岡、湖西から愛知県は渥美半島へと進入した。半島最端の伊羅胡岬に到達すると、そのまま海上を進んで知多半島へと移動する。南知多、常滑、知多と進み、金城ふ頭から、名古屋港へ至った。窓の外から見下ろす懐かしい景観に、鬼頭の口角は綻んだ。

 

 名古屋市に到達したA109は、名古屋港水族館の上空をフライ・バイすると、中川運河へと入り、そのまま川沿いに北上していった。運河の始まりである、運河町の上空までやって来たところで、高品が『ここまで来れば、県警本部までは指呼の距離です。一気に飛ばしましょう』と、言い、ヘリは再び時速三百キロの速さで県警本部を目指した。

 

 鬼頭たちが県警本部北館屋上のヘリポートに到着したのは、午前八時三十分のことだった。本来は災害などのときにしか使えない、緊急用の離発着場だが、今回の帰郷のために、特別に開放してもらったのだ。お忍びでの来訪とあって、ヘリポートには誘導員の他に人の姿はない。もっとも、地上十一階建てのビルの屋上だから、その方が普通なのだろうが。

 

 A109は高層ビルの屋上に設けられた小さなヘリポートに、ゆっくりとアプローチしていった。シャープな鼻先を若干下方に向けて着陸位置を狙い定めると、姿勢を水平にとり、ホバリングしながら、徐々に高度を落としていく。やがて、トン……、と静かな揺れがキャビンの鬼頭たちを襲い、降下が止まった。

 

『……さすがは警視庁選りすぐりのパイロットたちだ』

 

 内調職員の高品が感嘆の溜め息をこぼした。曰く、着陸時の衝撃をほとんど感じさせないのは、パイロットの腕っ節によるのだという。

 

『見事だ』

 

 高品の言によれば、ヘリはこのまま警視庁にとんぼ帰りするらしい。鬼頭は操縦席で肩を寄せ合う二人に「ありがとうございます」と、声をかけた。ヘリのパイロットたちは、上司から鬼頭とはなるべく会話しないよう厳命されているのか、一瞬、彼の方を振り返ると、にこり、と微笑みを返すのみだった。

 

 キャビンを降りた三人は、誘導員たちの脇をすり抜けると、ビル内に入った。屋上へと続く階段の踊り場には、公務員らしい、かっちりとしたデザインのスーツを着た壮年の男性が一人待ち構えていた。見覚えのある顔だ。名古屋で暮らしていた頃、地元のニュース報道や中日新聞などで何度か見たことのある、愛知県警の現本部長だった。

 

「お待ちしておりました」

 

 本部長は最敬礼でもって一行を出迎えた。「少し不便ですが、非常階段を使って、外の駐車場まで行きましょう」と、三人を、普段は人の出入りが乏しい場所へ案内する。警察官には朝も夜もない。早朝といえど、県警本部には多くの人が出勤していることから、ありがたい配慮だった。

 

 十一階層分の階段を下り、三人は本部長の案内の下、北館脇の駐車場に向かった。八台ある駐車スペースには、覆面パトカーと思われるセダン・タイプの他に、黒塗りの三代目アルファードがアイドリング状態で待機していた。トヨタの高級ミニバンで、国内Lクラスミニバン市場の頂点に長年君臨する、絶対的王者のような存在だ。クラウンなどの高級セダンの法人需要が年々減少している中、それに代わるショーファードリブンとしての価値も高い。車内空間が広く、シートも上級ミニバンらしく快適性に優れ、装備も充実しているから、車内でちょっとした会議だって開けてしまう。

 

 三代目アルファードが登場したのは二〇一五年のことだが、数次にわたるマイナーチェンジの度に、乗り心地や快適性は着実に向上している。現行の四代目がデビューして久しいいまなお、中古車市場での人気も高い車種だった。

 

 隣を歩く楯無が、「アローズ製作所まで、あれに乗って移動してもらいます」と、囁きかけた。

 

 なるほど、良い選択だな、と鬼頭は感心した様子で頷いた。要人護送ということで、センチュリーでも出張ってきたらどうしようかと警戒していたが、素直に、良いチョイスだと思う。

 

 クルマ好きとして、また一人の男として、センチュリーの後部座席に憧れる気持ちはあるが、あれは街中では目立ちすぎて、お忍びでの行動には向かない。その点、アルファードならばそこら中を走っているから目立たないし、ミニバンだからボディガードなどの人員もチーム単位で乗り込める。

 

 高品がアルファードについて説明する。

 

「見た目は普通のアルファードですが、要人護送用に、改修されたクルマです。窓は偏光仕様になっていて、外からは中の様子が見えないようになっています。

 

 窓にもボディにも、防弾処理が施してあって、九ミリの拳銃弾に耐えられます。ただし、同一箇所に銃弾が集中した場合、ボディは四発まで。窓は三発まで耐えられますが、それぞれ五発目、四発目は貫通します」

 

「走行中の車体のまったく同一箇所に銃弾が集中するような事態は考えにくいですから、非常に優れた耐弾性と言えますね。耐クラッシュ性能は?」

 

「時速六十キロメートルの速さで、硬い壁に衝突した場合で、シートベルトを使用した乗員全員が怪我をしないよう設計されています」

 

「そいつはすごい!」

 

「ただ、これらの改修のために、車両重量がかなり増加しています。市販仕様のパワートレーンではパワーが不足してしまうため、三・五リッター・エンジンに過給器を取り付け、ECUチューンを施して、馬力とトルクを高めています」

 

 市販車に搭載されているエンジンは通常、安全マージンをたっぷり確保した上で販売される。エンジン・コントロール・ユニットengine control unit(ECU)は、エンジンの動作を管制するマイクロ・コントローラーのことをいい、通常はやはり、安全性や信頼性を優先したセッティングがなされている。ECUチューニングとは、この設定を変更したり、後付けパーツによってその動作に介入することを指し、たとえば、燃費性能を優先した動作についての制御を少しだけ犠牲にしてパワーを向上させる、といったことが可能となる。

 

「……参考までに、どの程度パワーを上げたのです?」

 

「最高出力は四〇〇馬力、トルクは、五六キログラムまで高めてあります」

 

「素晴らしい!」

 

 同じトヨタのエンジンでいえば、四・七リッターや、五・〇リッターなどの排気量がある、URエンジン級のパワーだ。車輌重量二・七トンのレクサスLXに搭載されている五・七リッター・3URエンジンが三七七馬力、五四・五キログラムだったはずだから、仮にこのアルファードの車重が三トンだったとしても、それなりの加速が期待出来るだろう。

 

「特別仕様車はこの一台限りですが、市内にはこれとまったく同じ見た目、同じナンバープレートのアルファードが他に四台待機しています。市内での移動は、追跡車がいるという前提で、これらの車輌で攪乱しながら行います」

 

「なるほど」

 

 それもアルファードだから出来る作戦だと言える。同様の作戦をセンチュリーでやろうものなら、あまりにも奇っ怪な光景から一般通行人に写真を撮られ、SNSなどに挙げられ、たちどころに人口に膾炙してしまうに違いなかった。

 

 鬼頭たちの接近を認めてか、アルファードの後部スライドドアがおもむろに開いた。

 

 ぽっかりと口を開けた二列目の後部座席に腰かける、意外な顔を見て、鬼頭は思わず立ち止まる。

 

「お久しぶりです。……ええと、鬼頭主任、ですよね?」

 

 変装用の特殊なサングラスを使っているためだろう、あらかじめ聞かされていた服装の人物が本当に鬼頭智之かどうか戸惑っている松村陽平は、自信なさそうに訊ねてきた。パワードスーツ開発室の一員で、チーム内ではショック・アブソーバなどの足回りを主な担当とする技術者だ。銀縁眼鏡をかけた細面の男だが、気骨隆々たる人物でもある。

 

 鬼頭は辺りを一瞥して、自分たち以外の人影がないことを確認すると、一瞬だけ、サングラスをはずしてみせた。それを見て、松村の顔に安堵の笑みが浮かぶ。

 

「お待ちしていました、鬼頭主任」

 

「松村さん、どうしてここに?」

 

「室長から、出迎えに行くよう指示を受けたんです。併せて、会社までの道中、主任にこの一ヶ月ほど会社であった出来事について、簡単にでよいので説明するように、と」

 

「なるほど」

 

「松村さん、それ以上の話は、車内でお願いします」

 

 楯無が険を帯びた表情で松村を睨んだ。

 

 松村は、自分とは倍以上も年齢差のある少女の身の内より滲み出た凄絶な威圧の気配に驚きながら、「そうですね」と、応じた。鬼頭もサングラスをかけ直すと、粛、と頷く。

 

 松村が三列目のシートに移動して、鬼頭たちはアルファードに乗り込んだ。特別仕様車の内装は、市販モデル最上位グレードのエグゼクティブラウンジを基調としているらしい。二列目のシートに鬼頭と楯無が座り、高品は三列目に腰かけた。最前列の運転席と助手席には、すでにスーツ姿の男達が腰かけている。こちらを振り返り、一度だけ黙礼。内調職員のようだが、名乗る気はないらしい。

 

 二人とも、いかつい体格がスーツを風船のようにぱんぱんに膨らませていた。目つきもギラついている。内調には防衛庁や警察庁からの出向者も多いと聞いているが、その筋の猛者たちだろうか。スーツの下には、拳銃を隠しているに違いない。全員が乗り込んだのを見て、運転手の男が頭上に設けられている操作パネルに手を伸ばす。電動スライドドアが、ゆったりと閉まっていった。さすがは上級ミニバン、動きがいちいち上質で、静かだ。

 

 パーキングブレーキを解除する。ゲート式のシフトレバーを手前に引いて、Dの位置に合せた。改造されたV型六気筒エンジンが、重たい車体をゆっくりと動かし始める。

 

 愛知県警の本部長が、黒塗りの高級ミニバンに向かって挙手敬礼をした。彼からは見えぬと分かった上で、助手席の男、そして高品が答礼する。やはり、二人は警察出身の内調職員なのか。疑問に思う鬼頭を乗せて、アルファードは名古屋の街へと躍り出た。

 

 

 

 

 同時刻、IS学園。

 

 ゴールデンウィーク初日のISアリーナは、第一、第二といった番号問わず、賑わいを見せていた。

 

 言うまでもなく、IS学園は世界中からトップクラスの若き才能を集めた教育機関だ。生徒たちはみな向上心旺盛で、大型連休の期間といえど、学園の校舎から若者たちの声が消えることはない。むしろ、連休期間を利用して実家に帰省したり、旅行に行ったり、といった者たちが島にいない分、数少ない訓練用ISの貸出申請の競争率が低下すると見込んで、この機会こそチャンスとばかりに、足を運ぶ生徒は多かった。

 

「寮から遠い位置にあるアリーナなら、少しはましだろうと思ったのに……」

 

 そんな目論見を胸に第三アリーナにやって来た鬼頭陽子は、ピットゲートをくぐり抜けたその先に広がる光景を、ぐるり、と見回して、小さく溜め息をついた。広々とした造りのISアリーナだが、高速で空中を飛び交うISが十機近くもいると、さすがに手狭に感じてしまう。

 

「皆さん、考えることは同じ、ということですわね」

 

 陽子に続いてピットゲートから飛び出してきたセシリアが、苦笑しながら言った。訓練機の『ラファール・リヴァイブ』を身に纏った彼女のかたわらに寄り添うと、先客達の動きを見て呟く。

 

「三年生の方々ばかりですね」

 

「そうなの?」

 

「はい」

 

「それって、学年別個人トーナメントが近いからか?」

 

 背後から声をかけたのは一夏だった。かたわらに、『打鉄』を展開・装備した箒を連れている。今朝方、食堂で朝食をともに囲んだ際、「今日はこの面子で合同訓練をしようぜ」という一夏に賛同して、四人は第三アリーナにやって来たのだった。

 

 一夏が口にした学年別トーナメントは、六月の末に控えるビッグ・イベントだ。先日のクラス対抗戦とは異なり、完全自主参加の個人戦で、学年別で区切られている以外は、参加制限など特に設けられていない。とはいえ、三年生は各国の軍隊や企業からのスカウトが懸かっており、基本的には全員が参加するのだという。この時期の三年生がやたら、ぴりぴり、しているのは毎年の風物詩のようなもの、と、山田真耶が授業中にこぼしたのを覚えている。

 

 セシリアは一夏の言葉に頷きながら、

 

「学年別トーナメントは私たち一年生にとっても重要なイベントです。目端の利いたスカウトマンは、一年生の頃から、有望株を見逃さない、と言いますし」

 

「うん。わたしたちも頑張らないとね」

 

「おう。それじゃあ、始めようぜ」

 

「うむ。まずは近接格闘戦の訓練だな。一夏、刀を抜け」

 

「お待ちください、箒さん」

 

 うきうき、と一夏と刀を合わせようとする箒を、セシリアが制止した。

 

「お一人で突っ走らないでくださいな。合同訓練なのですから、何をするかは、話し合って決めませんと」

 

「む。……ならば、どうする?」

 

「私の意見としては、基本的な空戦機動の習熟を軸に、訓練プログラムを組んだ方がよいと思いますが」

 

 不満げな箒の目線を、顔を傾けてかわし、セシリアは陽子を見た。

 

「わたしはセシリアに賛成かな。アブソリュート・ターンとか、理論は分かるんだけど、実際にやれ、ってなると、あんま自信ないし」

 

「くっ。一夏はどうなのだ!?」

 

「お、俺? 俺は……そうだな……」

 

 白式のロボットアームを器用に動かして、胸の前で腕を組みながら一夏は思案した。

 

「俺も、空戦機動の練習をしたいな。白式、高機動型だし。大型スラスターの使い方とか、もっと工夫出来るようになりたい」

 

「一夏、お前はどっちの味方なのだ?!」

 

「いや、味方も何もないだろうがよ」

 

 一夏は呆れた表情で言った。白式という愛機の特性を考えた上での結論だ。箒の方が好きだから彼女の意見を支持する、というような場でもないのだし。

 

「白式には一撃必殺の『零落白夜』があるんだ。お前の場合、わーっ、と近づいて、がーっ、と攻め立てて、一撃当てればいいのだから、複雑な空戦機動なんて、必要ないだろう」

 

「いや、だからこそ相手も距離を詰められないよう逃げようとするだろうから、その、わーっ、の部分をどうするかって、わりと重要なことだと思うぞ」

 

「ええいっ。いちいち細かいことにばかりこだわりおって。男らしくないぞ、一夏!」

 

「……あれ、これってジェンダー的な考え方の問題なの?」

 

「違うと思いますわ、陽子さん」

 

 二人のやり取りを見守っていたセシリアは思わず溜め息をついた。

 

「箒さん、ご自身の思い通りにならないからって、癇癪を起こすのはやめてくださいまし」

 

「なっ! わ、私は……!」

 

「どうしても近接格闘戦の訓練から始めたいというのなら、私と模擬戦をしましょう。勝った方が今日の訓練内容を決める、ということでいかがでしょう?」

 

「……ふん。いいだろう」

 

 応じるや、すぐさま『打鉄』の設定を、仮想戦闘モードに切り替える。空間投影式の立体CGで形作られた近接ブレード《葵》が出現し、正眼に構えた。スカート・アーマー背部にマウントされたロケット・モーターを噴かしながらセシリアに肉迫。八相に振りかぶった大刀を、袈裟掛けに振り抜く。

 

 応じるセシリアも、立体CG製のショートブレードを展開し、初太刀を受け止めた。剣身を体ごと斜めに傾けて、受け流す。と同時に、剣撃の勢いを利用して間合いを取るや、右手にレーザー・ライフル《スターライトmkⅢ》を展開。素早くトリガーを引き絞り、近距離からの銃撃を浴びせかけた。レーザー光線が箒の体を貫通し、仮想シールド・エネルギーの表示を減らしていく。

 

「うわあ、始まっちゃった」

 

「セシリアも、あれで好戦的なところがあるからねえ」

 

 突如として始まったISバトルの様子を眺めながら、一夏と陽子は揃って苦笑いした。

 

「終わるまで、待っていようか?」

 

「だな」

 

「その間、どうしよう?」

 

「やりたいことをやっていればいいんじゃないかな? それとも、俺たちも模擬戦でもやるか?」

 

 口に出して、そういえば、と、一夏は気がついた。クラス代表決定戦以来、陽子やセシリアとは何度も訓練をともにしているが、彼女とISバトルをした記憶がない。この際、良い機会だからと、軽い気持ちで提案してみる。

 

「織斑君と、かあ……」

 

 一方の陽子は神妙な面持ちで彼の提案について考えた。

 

 一夏の白式は、近接ブレード一振りのみを武器とする、高機動型・近接格闘型の機体だ。戦闘となれば当然、自分に対して、猛然と突撃してくることだろう。

 

 男性たる一夏が、雪片弐型を振りかぶりながら、自分の身に、迫り来る。

 

 男が、暴力を振りまきながら、襲いかかってくる。

 

 あの男が、

 

 かつて、父と呼ぶことを強いられたあの男が、拳を握り、幼い自分の体に、にじり寄ってくる。

 

 その光景を想像した陽子は、思わず、ぶるり、と胴震いした。

 

 生体保護機能を完備したISを身に纏っているにも拘わらず、寒気を感じてしまった。

 

 陽子は、震える喉を懸命に締め上げると、硬い声で言った。

 

「……せっかくの提案だけど、遠慮しようかな」

 

「そっか。じゃあ、また機会があれば、頼むぜ」

 

「う、うん」

 

 一夏は残念そうに呟くと、武装の展開と収納の反復練習を開始した。

 

 白式に搭載された唯一の武器の展開に要する時間を、コンマ一秒でも減らしたい。鍛錬に勤しむ真剣な横顔を、ちら、と眺めながら、陽子はひっそりと溜め息をついた。

 

 ――いつか、織斑君とも戦えるようになるといいな。

 

 

 

 

 愛知県警本部を飛び出してから最初のうち、アルファードはアローズ製作所のある名東区とは、反対方向へと向かっていった。どういうことか、と隣の席の楯無に訊ねると、これも攪乱作戦の一環だという。なるほどなあ、と頷き、鬼頭は後ろの席の松村に言った。

 

「彼らは彼らの仕事を進めるようです。我々も、我々の仕事を始めましょう」

 

「そうですね」

 

 松村は頷くと、足元に置いたビジネス鞄から書類を取り出した。A4のコピー用紙の右端をホチキスで留めた、簡素な造りの小冊子だ。表題のところに、『四月期にあった出来事のまとめ』と書かれている。

 

「主任がIS学園に発った後、会社で起こった出来事を、日付ごとに簡単にまとめたものです。まずはこれに目を通してください」

 

「ふむ」

 

 小冊子を受け取り、膝の上で広げた。エンジンを強化しているにも拘わらず、エグゼクティブラウンジをベースとしたシャシーは、車内に揺れをほとんど伝えない。小さな文字を読み進めるのに、難儀は感じなかった。

 

 やがて最後のページを読み終えた鬼頭は、今度は逆向きにページをめくっていった。読んでいて特に気になった項目に辿り着くと、松村に仔細を訊ねる。

 

「四つ、お訊ねしても?」

 

「はい。なんでしょう?」

 

「このページですが、トムと土居君、そして桐野さんが入院した、とありますが、三人の容態は……?」

 

「ご安心ください。三人とももう退院して、仕事に復帰しています」

 

「……ああ、よかった」

 

 鬼頭は安堵の溜め息をこぼした。開発室の双璧たる人物の心情を思い、松村はさらに言う。

 

「三人とも後遺症はなし、と医師からも太鼓判を押されています。ただ、田中君だけは他の二人よりも怪我の程度が酷かったので、しばらくは週一での通院が欠かせないみたいですが」

 

「なるほど……。では、二つ目の質問ですが」

 

「はい」

 

「三人が怪我を負うことになった原因についてです。XI-01と02を使った実験中に、事故があった、とありますが」

 

 小冊子には、隕石がドーム型試験場の天井をぶち破って砕け散り、その破片がXI-01と02を載せた状態のプロフィアに降り注いで車内の三人を傷つけた、とある。たいへんな事件だ。それなのに、自分はこの報告書を読むまで、そんな出来事があったなんて知らなかった。毎晩のように連絡を取り合っている桜坂は、そんなこと一言も口にしなかったし、重軽傷者が三人も出た大事件にも拘わらず、メディアがこのことを取り上げた様子は、自分の把握している限りない。

 

「事故の詳細と、メディアがこんな大事件を取り扱わない理由を教えてください」

 

 鬼頭の問いに松村は頷いた。舌先で言葉を選ぶようにしながら、ゆっくりと話していく。

 

「まず、事故の詳細からお話しします。あの日、我々は本社のドーム型試験場で、XI-01と02を使った性能比較試験を実施していました。試験場内には、桐野さんが運転するプロフィアがあり、そのコンテナの中には、01スーツを着た田中君と、02スーツを着た土居君がいました。他のメンバーは、観客席と分析室に分かれて、試験の様子を見守っていました。

 

 事故が起こったのは、試験を終えた田中君たちが、給電のため、プロフィアのコンテナに戻って、スーツと充電器を接続した直後のことでした。突然、大きな音とともに天井が崩れ、試験場内に、無数の、黒い雹のようなものが降り注いだのです。後に分かったことですが、これは隕石の破片でした」

 

 ものの本によると、地球には毎日百トンもの地球外物質が流入しているが、そのほとんどは、非常に小さな、塵のような微粒子であったり、多少の大きさがあったとしても、大部分が大気圏突入時の摩擦熱で燃え尽きてしまう。ために、地表まで到達する隕石は年間五百個程度でしかなく、さらにその大部分は、地球表面の七割を占める海に落ちると考えられていた。残り三割ぽっちしかない陸地の、さらにほんの一部でしかない日本に、ある程度の質量を保った状態で落ちてきたのは、ある分野の研究に熱心な科学者たちにとってはたいへんな僥倖と言え、他方で、落下地点に社屋を構えていたさる企業の社員たちには、滅多に起こらない不幸にぶち当たってしまったな、と慰めの言葉をかけてやるほかなかった。

 

「これは後々隕石の破片を回収して分かったことですが、わが社のドーム型試験場の屋根にぶつかる直前まで、隕石は長さ十七センチ、最も長いところで横幅十二センチの、細長いピーナッツのような形状を保っていたようです。それが、試験場の屋根に衝突し、内部の構造物を貫く過程でひび割れ、内側の天井をぶち抜いた瞬間に、ばらばらに四散してしまった。その後は、室長の言葉を借りれば、クラスター爆弾のようにプロフィアに降り注いでしまったのです。ほとんどの破片は、プロフィアのボディをぼこぼこに凹ませるだけに留まりましたが、先の尖った一部の破片のうち、急な角度で進入してきたいくつかがコンテナを貫通して、バッテリー給電中で身動きの取れない二人を襲った、というわけです」

 

「……すさまじい話ですね」

 

「私はそのとき、モニター室にいましたが……死人が出なかったのが不思議なくらいの、大惨事でした」

 

 悄然と呟いた松村に、鬼頭は頷いてみせた。

 

「私に、報告がなかったのは……」

 

「室長から止められました。開発主任はいま、IS学園という慣れない環境で、心身ともに高ストレスにさらされている。そんな彼に、自分たちのことでこれ以上の心労を与えたくはない。この件については、自分たちの方で一段落つくまで、主任には伝えないように、と」

 

「その心遣いは嬉しいが……」

 

 鬼頭は溜め息をついた。自然と、仁王のように厳めしい面魂が思い浮かぶ。

 

「……それでも、私は話してほしかったです。あなたちの感じた苦痛や恐怖、苦労を、分かち合いたかった」

 

「すみません」

 

「いえ……メディアへの対処は、どうしました? 隕石落下なんて大事件を、隠し通せるとは思えませんが」

 

「その件については、私たちが協力しました」

 

 隣の席に座る楯無が口を挟んできた。なるほど、と鬼頭はまた頷いた。彼女らは情報のプロフェッショナルだ。マスコミ工作は、お手の物か。

 

 鬼頭は知らぬことだが、楯無が協力する内閣情報調査室の国内部門には、マスコミ担当と呼ばれる特命班が、新聞、出版、テレビなどのメディアごとに分かれて存在している。彼らは、各メディアに太いパイプを持ち、情報の収集だけでなく、ときにメディアを通じての情報操作を行うセクションでもある。世論形成を得意とする、内調の秘密部隊といえる。

 

「アローズ製作所はいま、鬼頭さんの勤務先として、ただでさえ世間からの注目を浴びている企業です。『これ以上、妙な目立ち方はしたくない』と、桐野社長から、協力を打診されまして」

 

 楯無の言葉を受けて、鬼頭は表情を硬化させた。彼女の語る内容に、違和感を覚えたためだ。

 

 楯無の話は一見、筋が通っているように思えるが、桐野利也という人物の性格を考えると、どうにも納得しづらい。己がISを動かせることが分かったときでさえ、自分を抱えることのリスクを承知の上で、雇用し続けるという決断を下したほどの豪胆さを持った人物だ。悪目立ちしたくない、なんて弱気な発言をするだろうか。

 

 鬼頭は楯無の赤い瞳を、じぃっ、と見つめた。応じる彼女は、にこにこと笑いながら、なおも桐野社長らしからぬ発言と態度を口にして、説明を続ける。

 

 ――この件は、後で桜坂や、出来れば社長ご自身の口から聞く必要があるな。

 

 自分の娘と同じ年頃の少女だ。彼女の言を疑いたくはないが、なんといっても暗部組織の人間。その発言は、常に本当のことを口にしている、とは考えない方がよいだろう。嘘か真かをしっかり吟味した上で、発言の意味を咀嚼しなければなるまい。

 

 ――ただ一点だけだ。いま、彼女に対して信を置けるのは、俺の身を守るために側にいてくれている。その一点だけと、考えなければ。

 

 鬼頭は再び後ろの席の松村を振り返った。

 

「三つ目です。隕石落下による、被害状況は?」

 

「田中君たちの怪我を除けば、まずドーム型試験場。屋根と天井に穴を開けられてしまいましたから、修復工事が終わるまで、しばらく閉鎖されることになりました。次に、我々開発室の損害ですが、XI-01は大破。現在、修理中ですが、新しく作り直した方が時間コストの節約になるのではないか、というほどのダメージです。XI-02は中破ですみました。そういう状況ですので、現在、開発室では、02スーツの方を優先的に修理しています。見込みでは、五月中頃には、テストを再開出来る状態に復元出来るだろう、という状況です」

 

 なるほど、だから01スーツを着たトムの方が大怪我を負ったのか。

 

「プロフィアの方はどうです?」

 

「廃車にするか、修理するかで、現在みんなで相談中です。当日は試験のため、他に社用車のプロボックスが一台と、アルトワークスが一台出ていました。このうちプロボックスの方はエンジンルームに破片が直撃し、こちらは一発廃車となってしまいました」

 

 廃車と聞かされて、表情を曇らせないクルマ好きはいない。鬼頭は小さく溜め息をつき、なんとなく窓の外に目線をやった。中央分離帯を挟んで対向車線を走る白いプロボックスと、ちょうどすれ違うところだった。無性に悲しい気持ちに襲われた。しかし、同時に思い直す。それほどの損失を被りながらも、死者が出なかったのは、松村の言う通り、まさに僥倖だった。いまはそれを喜ぶべきだろう。

 

 気持ちを切り替えた鬼頭は、「最後の質問なんですが……」と、口を開いた。

 

「この報告書ですが、作成者は桐野さんですか?」

 

「……やっぱり、分かりますか?」

 

「そりゃあ、ねえ……」

 

 鬼頭は苦笑して、小冊子に目線を落とした。その日に起きた出来事が、日付ごとによくまとめられている、かなり完成度の高い報告書だ。ただ、同じ会社に勤務する先輩社員として、百点満点を与えてやるわけにはいかない部分も見受けられる。日ごとの末尾に、彼女らしい、しかし、大多数の人間にとっては不要と思われる情報が記載されていた。この種の報告書における情報の過多は、忌むべき過飾だ。これさえなければ、百点をくれてやれるのだが……。

 

「四月七日、この日は室長と三時間三二分二五秒お話ししました。六八回、目が合いました。一緒の室内にいた時間は十二時間一五分二一秒でした。

 

 四月八日、この日は室長と二時間五一分三二秒お話ししました。八一回、目が合いました。一緒の室内にいた時間は十時間五分三秒でした。

 

 四月九日、この日は室長と四時間二九分二八秒お話ししました。九三回、目が合いました。一緒の室内にいた時間は十四時間三五分二二秒でした。新記録。……こんなことを、日付ごとに書かれては、誰が書いているのか、一目瞭然です」

 

「ですよねえ」

 

「えぇ……」

 

 隣の席で、IS学園最強の生徒が頬を引き攣らせていた。見回せば、高品や前の席の二人も、顔の筋肉が硬化している。

 

「あ、あの、その桜坂室長……さんは、そのう、同じ部署の女性社員から、ストーカー被害に遭われているのですか?」

 

 後部座席の高品が、おずおず、と訊ねた。

 

 鬼頭と松村は平然とした態度で「そうですよ」と、口を揃えて言った。

 

「警察に、相談とかは……?」

 

「……内調のあなた方であれば、とうの昔に調査済みだと思いますが」

 

 鬼頭は小さく溜め息をついた。いまもきっと、名東区の本社ビルでたいへんな思いをしているだろう親友の顔を思い浮かべて、目元を掌で覆い隠す。いかん、いかん。涙がちょちょぎれそうだ。

 

「わが社の社長の名前は、桐野利也と言います。そして、桜坂に重い愛を向けている女性の名前は、桐野美久と言います」

 

「桐野? あっ……(察し)。ふーん」

 

 会社員は辛い。給料袋を人質に取られては、出る所にも、出られないのだ。

 

「この話は、もうやめましょうか。……おっ」

 

 話題を変えようとした鬼頭は、再び窓の外に目線をやって、思わず驚嘆の溜め息を漏らした。

 

 いつの間にか隣の車線で、トヨタのWiLL Viが並走している。二一世紀の新たな消費スタイルへの適応と、新市場創出を目指す異業種合同プロジェクト……WiLLブランドの一つとして販売されたコンパクト・セダンだ。かぼちゃの馬車をイメージして作られたスタイリングが、相変わらず唯一無二の個性を醸し出している。残念ながら短命に終わってしまった車種だが、車社会の名古屋では、まだちらほら見かけることのあるクルマだった。急速に、名古屋に帰ってきた実感が湧いてくる。

 

「ふむ。眼福だな」

 

 名古屋では見かける機会もある、というだけで、全国的には、いまや珍しいクルマであることに違いはない。鬼頭は右折レーンを進んでいく愛らしいクルマに熱視線を送った。楯無たちの手前、両手を合せることこそしなかったが、拝むような気持ちだった。

 

「……やはり、名古屋は良いな。色々なクルマが走っているから、こう、ぼんやり眺めているだけで、楽しい気持ちになる」

 

「主任は相変わらずですねえ」

 

 少年のようにはしゃぐ鬼頭に、松村は微笑んだ。鬼頭は苦笑しながら、

 

「そう言うきみも、並走しているのがガンマだったら、同じようにはしゃいでいただろう?」

 

「そりゃあ、勿論」

 

 スズキがかつて生産していたレーサーレプリカだ。鬼頭がクルマ好きなように、松村はオートバイをこよなく愛する男だった。

 

 車社会の名古屋だが、実はバイクの交通量も相当に多い。そもそも、愛知県と県境を接している静岡県は、ホンダ、スズキ、ヤマハと、世界四大オートバイ・メーカーのうち三社の発祥の地でもある。戦後初のビッグレース……名古屋TTレースも、名古屋で開催された。愛知県には、オートバイ文化に対する寛容さが、長い年月をかけて醸成されているのである。

 

 松村の趣味は、ジャンク・バイクのレストアだ。休日には愛車のエブリィに乗って中古車販売店を巡り、なるべく汚いバイクを探す。気に入ったバイクはトランポして家に持ち帰り、修理して、ぴかぴかに磨き上げて、思う存分乗り回す。それを何よりの楽しみとしていた。彼は現在、四台のオートバイを所有しているが、うち三台は元ジャンク・バイクである。チョイノリ、スーパーモレ、四〇〇カタナ。新車購入は、ハンターカブだけだ。

 

 いまでこそクルマ好きを自認する鬼頭だが、自動車の免許を取得していない高校生の頃は、オートバイに乗っていた。愛車はバンディット二五〇で、当時は貧乏だったから、なるべく自分の手で整備をするようにした。機械いじりは楽しい。松村がジャンク品のレストアに入れ込む気持ちを、彼は我がことのように理解出来た。

 

 そんなことを話していると、対向車線側を、一台のバイクが鋭く走り抜けていくのが見えた。あまりにも先鋭的で、特徴的なデザイン。空気の層を切り裂く、刃のようなスタイリングに、鬼頭と松村は、目線を奪われた。男達の唇から、興奮した声が漏れ出る。

 

「いまのは……」

 

「GSX1100! しかもファイナルエディション・モデル!」

 

「WiLL Vi以上に珍しいバイクだ」

 

「はい。まさに眼福でした」

 

 鬼頭たちは顔を見合わせて笑った。日本のモーターサイクル史に燦然と輝く名車中名車、その最終生産型を目撃したのだ。興奮を抑えきれない。

 

 スズキのGSX1100が人々の前に姿を現したのは、一九八〇年に開かれた、ドイツ・ケルンモーターショーでのことだった。かつて誰も見たことのない鮮烈なスタイリングに、人々の心は真っ二つに割れた。その先鋭的なデザインを肯定的に見る者。否定的に見る者。中間はない。普段は日和見主義を信奉する者たちでさえ、どちらかにつかずにはいられない。まさに賛否両論。その鮮烈なデビューは今日、“ケルンの衝撃”と、ライダーたちの間では語り継がれている。

 

 GSX1100という名車を語る上で、やはり見た目の特徴に触れぬわけにはいかない。西ドイツの工業デザイナー、ハンス・ムート率いるターゲットデザインが図面を引いた斬新ないでたちは、二一世紀を迎えて久しいいまもなお、先端モデルと評してよいだろう。

 

 まず目を惹くのは上半身だ。それ以前のスズキ車……いや、オートバイの常識からは想像できないほど前へと鋭く突き出したアッパーカウルと、そのカウルと一体化しているかのような、やや長めのフェーエルタンク、そして一連の流れを締めくくるバックスキンタイプのシートという、デザイン上の連続性は、それだけで一つの世界観を演出している。一方、下半身はというと、最高一一一馬力を誇る空冷四ストロークDOHC四気筒・エンジンが、上半身の流線型とは反対に、無骨に露出しているのだ。一見、ミスマッチとも思える上下のアンバランスさだが、これがかえって美意識を刺激する、独特のスタイリングを演出していた。

 

「美しいねえ」

 

「はい。それ以外の言葉が、見当たらない」

 

「本当に美しい。……綺麗だ。カタナは」

 

「!?」

 

 隣に座る楯無が、驚いた表情で鬼頭の顔を見つめた。日本刀の如く美しいオートバイの後ろ姿を見送る男の横顔は、うっとりとしていた。

 

「はい。まさに日本の誇りです。カタナは」

 

「松村君の家にも、あるんだったね。カタナ」

 

「はい。四〇〇カタナですが。可愛い、可愛い、俺の嫁です。……本当に可愛いくて、良い娘なんですよ、俺のカタナは!」

 

「良いなあ……私も久しぶりに、バイクに乗りたくなってきたよ。……今度、機会があったら、カタナに跨がらせてくれないかい?」

 

「またがっ……!」

 

「駄目です。あれは、俺のカタナですから」

 

「うぇっ、うぇえ……!?」

 

「ちょっとぐらい、いいじゃないか。私も久しぶりに、この両の太腿であの可憐なボディを力強く挟んで、激しいピストンに喘ぐエンジンの音色を堪能したいんだが」

 

「ぴ、ぴぃ……」

 

「何度でも言いますが、駄目です。カタナを鳴かせて良いのは、俺だけです」

 

「独占欲が強いなあ」

 

「欲じゃありませんよ。これは愛です」

 

「愛か」

 

「愛です」

 

「カタナのことが?」

 

「大好きです!」

 

「ふふっ、妬けるなぁ。……ところで更識さん、先ほどから顔が赤いようですが、体調不良ですか?」

 

「……お二人とも、わざとやってません?」

 

 ふと目線を隣の席にやれば、頬を紅潮させた楯無が、恨めしげな目線を向けてきた。

 

 言っていることの意味が分からず、鬼頭と松村は顔を見合わせ、揃って首を傾げた。

 

「一旦、あのパチンコ店の駐車場に入ります」

 

 三列目のシートに座る高品が、フロントガラスの向こう側を見ながら鬼頭たちに言った。応じてそちらに目線をやると、段々と近づいてくる交差点の向こう側に、『新台入荷』の垂れ幕が真新しい、大人のための遊戯施設の姿が見えた。四階建ての立派な建物で、同じ背丈の立体駐車場が並んで建っている。

 

「駐車場内にはすでに、先ほどお話しした、攪乱作戦用のアルファードが一台待機しています。進入後は二台が時間差で出ていくことで、尾行者の目を欺きます」

 

 交差点を抜けてすぐ、アルファードはウィンカーを左に出した。運転手がステアリングを切り、三トン近い重量の車体が、第二車線から第一車線へと移る。男はなおもウィンカーを左に出し続け、件の立体駐車場へとまたステアリングを切った。

 

 立体駐車場の出入口はゲート式で、発券機と精算機、安全バーから構成されたオーソドックスなシステムを採用していた。運転手の男はアルファードを発券機のかたわらに寄せると窓を下げ、駐車券を引き抜いた。安全バーが上へと持ち上がり、黒塗りのショーファードリブンはゆっくりと駐車場内に進入していった。

 

「そういえば……」

 

 そのとき、松村が、唐突に思い出した、というふうに口を開いた。

 

「鬼頭主任に、個人的にお願いしたいことがあるんでした」

 

「なんでしょう?」

 

「室長のことなんですが」

 

「桜坂の?」

 

「はい。実は先日、室長が腕時計を新調したんですよ」

 

「ほほう」

 

 時計好きの鬼頭の目が輝いた。いったいどんな時計なのか、と早くも気になり出す。

 

「私は時計に詳しくないので、どこのメーカーが作った、何というモデルなのか、といったことは分からないのですが、なんというか、そのう……はっきり言って、非常に不細工なデザインをした時計なんです。それだけでなく、ケースは小さいし、ベルトも細いしで、室長の太い手首に、まったく似合っていない。あまりのミスマッチぶりに、見ていて気持ちが悪くなるほどなんですよ。出来れば元の腕時計に戻してほしいんですが、私の語彙力では、上手く伝えられそうにないんです。それで、時計好きの主任の口から、室長に注意していただきたい、と思いまして」

 

「……なるほど」

 

 松村の話を聞いているうちに、鬼頭は段々と胡乱な目つきになっていった。桐野社長といい、この松村といい、今日は“らしくない”話を聞かされてばかりだ。

 

 開発室のほぼ全員から一本気な性格の人物である、と評される松村は、たしかに、自身の考え方に対するこだわりが、ときに強すぎるきらいもある。しかしながら、自分自身がそういう人格の持ち主である、という自覚ゆえ、他者にもまた、自分と同じようにこだわりがある、ということも理解していた。自分の趣味嗜好のために、相手の趣味嗜好を否定する。そういうことを嫌う人物のはずだが。

 

 鬼頭は松村の目を、じぃっ、と見つめた。発言の内容をそのまま鵜呑みにするのは危険だと判断し、言外に篭められた意図を把握するべく、彼の言動や、態度を分析する。

 

 注目するべきは、桜坂の腕時計が新調された、という情報。そして鬼頭のことを、時計好き、と、周知の情報をわざわざ強調した点。ほどなくして、一つの推論にいたった彼は、ははあ、と得心した表情で頷いた。

 

 ――これは、桜坂と松村さんからの、二段構えの暗号メッセージだ。

 

 アローズ製作所に到着したら、まず桜坂の腕時計に注目してほしい。そこに、自分たちが本当に伝えたい情報がある。おそらくは、そういったことを言いたいのだろう。

 

 自分に何か伝えたいことがあるのに、直接、言葉で表現しないのは、他人の耳目を嫌ってのことに違いない。アルファードには自分と松村の他に、内調の職員たちが同乗している。すなわち、スパイ機関の人間だ。そういった輩の耳に入れたくない話。そのための、暗号メッセージ。松村陽平という男の為人を知り、かつ時計好きの自分だからこそ、気づくことの出来る暗号表現。

 

「……そういう事情であれば、了解しました」

 

 鬼頭は、努めて平然と微笑んでみせた。

 

「私も、桜坂の新しい時計には興味がありますから」

 

 語彙を増やせばかえってぼろが出てしまいかねない。鬼頭はあえて言葉短く言い切ると、目線を窓の外に向けた。自分たちのアルファードの隣を、同じく、黒塗りのアルファードがすれ違っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter27「懐かしき街並み」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名古屋市名東区のアローズ本社ビルを、謎の無人ISが襲撃した日の翌日。

 

 同じく名東区にある東名古屋病院の休憩室の一つで、桜坂と酒井は、入院中の土居に、彼らが病院に担ぎ込まれた後の出来事を説明した。

 

 一連の経緯を聞き終えた土居は、頭の中で桜坂たちの言葉を何度も咀嚼した後、やがて、ゆっくりと口を開いた。

 

「……室長の話を、自分なりに整理してみたのですが」

 

「うん」

 

「まず、昨日、我々を襲ったISは無人機で、その残骸は内閣情報調査室の連中が回収していった。なぜそんなことになったかというと、昨日の見学団の中に、内調のスパイが紛れ込んでいたから。内調は男性操縦者である鬼頭主任の歓心を買うための懐柔工作の一環として、わが社に接触を図った。そして昨日、あの場所で、我々とともに事件に遭遇し、その後処理を請け負うことになった。

 

 昨日のあの場所に内調職員がいたことによって生じた問題は、大きく分けて二つ。一つは、我々の開発したパワードスーツに、ISと戦う力がある程度備わっている事実が知られてしまったこと。そしてもう一つが、室長の力の存在を知られてしまったこと。

 

 我々のことや、無人ISの存在が世間に知られれば、たいへんな騒ぎになる。このことを恐れた内調は、愛知県警や消防局に連絡して、事件を秘密裏に処理した。昨日の事件による被害は、隕石の落下による事故として処理され、しかも世間には公表しないことを基本方針として話がまとまり、桐野社長もそれに納得した。……ここまでは、こういう理解でよろしいでしょうか?」

 

「ばっちりだ」

 

 仁王の顔の桜坂は頷いた。

 

「補足することもない。続けてくれ」

 

「はい。……昨日の一件で、内調は我々のパワードスーツの性能と、アローズ製作所が長年隠してきた、最大の秘密を知ってしまった。これにより彼らは、鬼頭主任のこととは関係なしに、我々アローズ製作所に関心を持つようになった。

 

 昨日の夕方以降、アローズ製作所の本社ビルには、複数の内調職員が常駐するようになった。建前としては、今回の事件でアローズ製作所と政府は秘密を共有する関係となったから、今後は連絡を密に取る必要がある。そのための連絡要員の派遣である、ということだが、実際は我々に対する監視役なのは明白。彼らは特に、パワードスーツ開発室と、桐野社長の社長室に、足繁く通っている状態にある」

 

「その通りだ。補足すると、内調は俺や、俺たちのパワードスーツに、軍事利用の可能性を見出した公算が高い」

 

 最強兵器ISを相手に一分以上も渡り合ってみせたパワードスーツと、それどころか、生身でもって戦いを挑み、勝ってしまった超人。

 

 内調の存在意義は情報収集と分析であり、その情報を基にどんなアクションを取るかは内閣の考えることだ。とはいえ、内調職員も人間あることには変わらないから、仕事の際には感情によるバイアスがかかる。彼らが現内閣の閣僚たちに対し、特に戦闘力を強調した報告をする公算は高かった。その結果が、アローズ製作所に対する、監視員の派遣だろう。

 

「日本政府からアローズ製作所に対して、正式なメッセージなどアプローチはいまのところない。現時点ではまだ、内調のみが自分たちの判断で動いている、という段階だろう」

 

「なるほど」

 

「監視員たちの目的は、第一に、俺や、俺たちのパワードスーツについて、より詳細な情報を集めることだろう。第二に、それほどの戦力を持っている俺たちアローズ製作所が、日本政府に対して、敵対的な行動を取ったり、過激な思想を持った集団でないか見ることだと考えられる」

 

「あと、多分ですが、もう一つ目的がありますよね?」

 

 土居は神妙な面持ちで言った。

 

「将来的にアローズ製作所と友好な関係を築くための、布石作りも」

 

「そうだろうね」

 

 土居の発言に、桜坂は頷いた。自分が内閣の人間だとして、内調から斯様な情報をもたらされたとしたら、少なくとも敵対だけはするまい、と思うだろう。最強兵器を素手でもって破壊した男と、驚異の性能を有する強化服を開発出来るほどの企業。敵に回せば、日本にとって大きな脅威となるに違いない。むしろここは、それほどの力を持った組織であれば、その力を上手く利用しよう、と考えて作戦を講じた方が得策だ。

 

 内調も司馬総理ならそうするだろうと考えて、アローズ製作所に人員を派遣したものと思われた。

 

「我々に、特別室をあてがったのも……」

 

「だろうね。俺たちに、貸しを作りたい思惑があるんだろう」

 

「同時に、我々を監視したい思惑もあるはずです」

 

 見舞いの品が入った紙袋をぶら下げる酒井が言った。

 

「この病院を指定したのは、見学団にも参加していた内調職員の、城山悟でした。この病院は彼らの監視下にあるものと考えた方がよいでしょう」

 

「でしょうね。我々のこの会話も、盗聴されていると考えた方がいい」

 

 そう言いながら、桜坂はスーツの内ポケットから黒革のビジネス手帳を取り出した。カレンダーのページをめくっていき、最後の方にある、自由メモのページを開いて二人に見せる。ワイシャツの胸ポケットに引っかけておいたパーカーのボールペンを握ると、メモ欄にペン先を滑らせた。

 

「俺個人としては、内調……というより、政府がパワードスーツに興味を持ってくれたことは、売り込みの大きなチャンスだと考えます。軍事利用……兵器としてのパワードスーツであれば、まとまった数が売れるでしょうから」

 

『我々が作りたいのは災害救助用のパワードスーツだ。軍事利用なんて、絶対に認められない。それでなくても、アローズ製作所を軍需産業になんて、してやるわけにはいかない。俺自身も、この力を利用させるなんて、真っ平御免だ』

 

 発言とは正反対の筆記。酒井と土居は、室長の意図を察して頷いた。酒井もポケットから手帳を取り出し、メモ欄のページを一枚千切って、ペンと一緒に土居に渡す。

 

「そうですね。内調の方々とは、我々も友好的な関係を築きたいものです」

 

『相手は政府です。我々が嫌と言っても、自分たちの言うことを聞くよう、圧力をかけてくると思われますが?』

 

「社内に外部の人間を常駐させ、その接待に励む。正直、不愉快なことではありますが、桐野社長も、大きな商談のためと考えれば、納得してくれるでしょう」

 

『面従腹背を基本方針に、水面下で反抗作戦を考えましょう。事は俺たちだけでなく、アローズ製作所の社員全員に関わる問題です。みんなの身の安全と、社会的立場を保全しながら、我々の我を通す。難しいことですが、やるしかありません』

 

「鬼頭主任には、このことは?」

 

『そうなると、鬼頭主任の協力は不可欠ですね』

 

「あいつには、必要以上のことは伝えないでおきましょう。ただでさえ現役JKに囲まれて、なにかと気苦労の多い環境だ。これ以上、心労の種を増やしたくない」

 

『そうですね。幸い、いまのあいつはアローズ製作所の外にいる。内側の俺たちには出来ないことを、あいつは出来る』

 

「必要以上のことというと?」

 

『ということは、昨日の一件や、我々の置かれている状況などは、すべて伝える?』

 

「無人ISに襲撃されたこととか、内調の監視下にあること、なんかですね。そういうネガティブな情報を排除して考えると、残るのは、政府が俺たちのパワードスーツに興味を抱いてくれている、っていう、ポジティブな情報です。あいつもきっと、喜んでくれるでしょう」

 

『そうです。滑川さんのことを伝えなかったときとは、状況がまるで違いますから』

 

「言ってしまえば、パワードスーツは鬼頭主任の子どものようなものですもんね」

 

『問題は、どうやって伝えるか、ですよね。IS学園への通信は、多分、監視の対象でしょうし』

 

「開発室の発足から今年で三年目……いよいよ、という感じですね」

 

『事の次第をデータとして保存した記憶媒体を、直接、手渡すしかないでしょう。一度、鬼頭主任をこちらに呼び戻すことは?』

 

「これからです。これからが、俺たちパワードスーツ開発室の正念場ですよ」

 

『あいつはいま、男性操縦者という立場ですから。島の外に出るのは難しいかもしれませんが、やってみましょう』

 

 桜坂の言葉に、二人は力強く頷いた。自分たちの夢を実現させるためのライト・スタッフとして、彼が選んだ男たちは、実に頼もしい面魂をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところで、なんですが。お二人とも、ゴールデンウィークの最終日あたりの予定って、もう決まっていますか?」

 

「いえ、私は特には……」

 

「俺もです」

 

「もしよろしければ、その日に、開発室のメンバーで、ちょっとした旅行に行きませんか?」

 

 提案を口にしながら、桜坂は手帳のメモ欄にボールペンを走らせた。

 

『事ここに至った以上、もう隠し事は出来ません。俺の力と、正体について、開発室のみんなには、説明をしておこうと思うのですが』

 

 メモ欄を見せられた二人は、はっ、とした。しばらく考え込むふりをした後に、

 

「ええ」

 

「ぜひ、行きましょう」

 

 その答えを聞いて、仁王の面魂が完爾と微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 





楯無さんの本名が明かされたときから、このネタをやりたくて、やりたくて、仕方なかった。

あと、アルファードについては最新型が、予定通り二〇二二年にデビュー済みということでお願いします。

……もし延期とか、計画なくなったりしたら、どうしよう(震え)。




おふざけ回は次回で終わりの予定です。

ただ、筆のノリ次第では、もう一話くらい増えるかもしれません。

この男、調子が良いと、文章量がどんどん増えてしまう悪癖を抱えておりますゆえ。

次回もお付き合いいただければ幸いです。





あ、あと、次回のあとがきの際に、なんでこのおふざけ回を挟んだのか、の説明をしようかと思います。

ギャグがやりたくなった、という理由は勿論あるのですが、いちばんの理由は勉強のための時間稼ぎをしたかったから。

原作二巻の内容に突入する前に、ドイツの歴史と、ドイツ人とは何者か、ドイツ的とは何なのか、ということについて、勉強する必要を感じたので。

この勉強の成果、活かせるといいなあ。



















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Chapter28「男たちの思惑」

 結局、筆が乗りすぎて墓参りのシーンまで辿り着けなかった……。







 

 

 

 鬼頭智之たちを乗せた黒塗りのアルファードが、名古屋市名東区のアローズ製作所本社ビルに到着したのは、午前十時半のことだった。

 

 ゴールデンウィークの初日、社屋内は閑散と静まりかえっていた。国民の祝日の上、会社も正式な休業日と定めている日だけに、好んで出社している人間はほとんどいない。平日も休日もない警備員を除くと、何か特別な事情を抱えている、ごく少数がやって来ているのみだった。

 

 平日ほど利用者のいない正面ゲートの自動式引き戸は、閉ざされた状態を基本形としていた。ゲートの脇には警備員たちが詰め所として利用している小屋があり、アクリル製の窓の向こう側では、くたくたの制服を着た若い男が暇そうに欠伸をしている。鬼頭たちのアルファードが正面ゲートのすぐ手前で停車すると、彼は、待っていました、とばかりに嬉しそうな表情を浮かべた。詰め所の外に出ると、うきうきした様子で不審車両のもとに近寄ってくる。

 

 アルファードの運転手はパワーウィンドーを開けると、彼にIDパスカードを呈示した。今日のためにあらかじめ取り寄せておいた物だ。カードにはバーコードが印字されており、ハンディターミナル端末で読み取って情報を照会。許可された車両のみが、ゲートを通れる仕組みだった。

 

 若い警備員は首からぶら下げたハンディターミナルで、カードのバーコードを赤外線スキャンした。端末の液晶パネルに、正式に許可されたバーコードであることの証明をはじめ、情報が次々と表示される。その一つ一つにしっかりと目を通した後、彼は顔を上げ、「はい、OKです」と、運転手に笑いかけた。同じく、首から提げていたリモコンを手に取り、自動扉を操作する。大柄なアルファードが余裕をもって通れるだけのスペースを確保したところでストップボタンを押し、「どうぞ」と、言った。

 

 正面ゲートを通り抜けた後、アルファードは本社ビルの地下駐車場を目指した。正門から向こうは、幅が二十メートルになんなんとする広々とした道路がのびていた。六十メートルほど進んだところで左右に別れており、運転手はステアリングを右へと切った。ここで左に切ると、アローズ製作所の最重要施設である工場の管理棟に辿り着ける。

 

 本社ビルへと向かう途中、ドーム型実験場の前を通り過ぎ、二列目シートに座る鬼頭は表情を曇らせた。松村から事前に伝え聞いていた通り、出入口の扉がチェーンで封印されている。目線を上へとやれば、屋根の一部をブルーシートが覆い隠している様子が視界に映じ、件の隕石による被害の凄まじさを実感させた。

 

 やがて到着した地下駐車場では、懐かしい顔ぶれが鬼頭の帰りを待ち構えていた。桐野社長と、パワードスーツ開発室の酒井仁だ。鬼頭たちがどんな車両でやって来るのかあらかじめ聞かされていたらしく、アルファードの姿を見るなり、顔を見合わせ話し出す。

 

 出迎えにやって来たのは、二人だけではなかった。背後に、鬼頭がはじめて見る顔を二人、引き連れている。察するに、彼らも内調の職員だろう。

 

 黒塗りのアルファードは彼らの目の前で停車してみせた。運転手の男が頭上の操作パネルに指を伸ばし、スライドドアを起動させる。まず助手席の男と、鬼頭の隣に座る楯無が降りて周囲の様子をうかがった。危険物の有無や、事前に伝えられた人数以外の人影がいないか調べていく。地下駐車場はこの日のために、内調の職員が何度もチェックしているが、こういった警戒は幾度重ねても無駄にはならない。

 

 しばし車内で待たされた後、二人はアルファードの方へ戻ってきた。問題なし、と認めた彼女たちは、次いで鬼頭と、三列目シートの二人にも下車するよう促した。

 

 鬼頭は変装用のサングラスの位置を調整しながら、ステップから地上に降り立った。すかさず、助手席の男と楯無が前後をがっちり挟んでガードする。彼女たちはその陣形のまま、桐野社長達に腕を伸ばし、掌を向けた。その場で待っているよう、ジェスチャーで伝える。万が一、桐野と酒井が武器を隠し持ち、鬼頭に襲いかかってこないかを警戒しての措置だった。

 

 二人に前後を挟まれながら、鬼頭は桐野社長たちの前に立った。酒井が、「鬼頭主任、ですか?」と、怪訝そうに訊ねた。

 

 顔を変えている鬼頭は苦笑しながら、「そうですよ」と、応じた。

 

「お久しぶりです、桐野社長。酒井さん」

 

 鬼頭は彼らの前で一瞬だけサングラスをはずしてみせた。顔に張り付いていた偽装映像が剥がれ落ち、二人もよく知る、切れ長の双眸が露わとなる。

 

 彼らはそれを見てようやく破顔した。桐野社長が一歩前に踏み出し、右手を差し出す。サングラスの位置を元に戻し、鬼頭も応じて右手を出し、握手を交わした。

 

「お帰り、鬼頭君」

 

「桐野社長、わざわざのお出迎え、ありがとうございます」

 

「久しぶりの名古屋の街はどうだったかな?」

 

「車内から外の様子を見ただけですが、相変わらず、楽しい街ですよ。ここに来るまでの間に、色々なクルマとすれ違いました」

 

「相変わらずだな、きみは」

 

 車好きを自称してはばからない部下のらしい発言に、桐野利也は苦笑した。握手をほどくと、今度はIS学園での日々について訊ねる。

 

「IS学園はどうだった? 年頃のお嬢さんばかりに囲まれている環境というのは?」

 

「……若い女性の匂いで窒息しそうですよ」

 

 学園の生徒会長である楯無の手前、鬼頭は言葉を選びながらも、諧謔を孕んだ口調で応じた。

 

「思春期の少女というのは、心身ともにとかく繊細ですから。気を遣ってばかりで、肩が凝って仕方ない」

 

「大変そうだねえ」

 

「ええ。……ですが、楽しくもあります」

 

「ほう?」

 

「陽子と……娘と、常に一緒にいられますから。それに、久しぶりの学生気分もなかなかに心地良い。女性ばかりの環境という点を除けば、学びの多い場でもありますしね」

 

「その知識は、今後の製品作りに活かせそうかい?」

 

「活かしてみせます」

 

「楽しみにしているよ」

 

 桐野さが下がり、今度は酒井が前に出た。「ご無沙汰しております、鬼頭主任」と、挨拶してきた彼に、鬼頭も応じる。

 

「私のいない間に、大変なことが起こったそうで」

 

「ええ」

 

 酒井は感慨深そうに頷いた。

 

「心臓が止まるかと思いましたよ」

 

「でしょうねえ」

 

 その瞬間の地獄絵図を想像し、鬼頭は溜め息をつきながら同意した。隕石が自分たちの勤め先に落下しただけでも背筋が凍るような出来事なのに、よりにもよって、自分たちが試験をしている最中の建物にぶつかるなんて……! 往時の彼らは、さぞや生きた心地がしなかったことだろう。

 

「それより、損傷したパワードスーツの修理のことで、早速、主任の力をお借りしたいのですが」

 

「勿論ですよ」

 

 鬼頭は力強く頷いてみせた。車内で松村より事情を聞かされたときから、今日の自分の仕事は二つと思い定めていた。一つは勿論、会社にIS学園で新たに得た知識を披露し、そこから自分たちのパワードスーツ開発に活かせそうなものを取捨選別することだ。そしていま一つは、XI-01と02について、復旧の筋道を作ること。

 

「早速、我々の仕事場に向かいましょう」

 

 社長室に向かう桐野と別れて、鬼頭は楯無たちとともに、懐かしのオフィスへと向かった。エレベータを使って三階へと上がり、災害用ロボット部門のメイン・オフィスの前を横切る。ほどなくして辿り着いた部屋の扉を開くと、開発室に与えられた八十坪の広大なスペースには、自分や酒井たちを除いたメンバー全員が揃っていた。見慣れぬ顔も一つある。やはり商社マン風にスーツを着込んだ男性だ。彼も、内調の職員なのだろう。

 

「おっ、ようやく来やがったな!」

 

 鬼頭たちの存在に最初に気がついたのはグレイスーツをりゅうと着こなす桜坂だった。戸の開く音に鋭敏に反応し、席を発って彼らのもとに歩み寄る。楯無が慌てて制止の声をかけるが、彼は構わず鬼頭の前に立った。顔の変わった親友の手を取る。

 

「待っていたぜ、兄弟」

 

「……お前、よく俺だと分かったな」

 

「うん? ……ああ、顔のことか」

 

 仁王の顔の桜坂は微笑した。

 

「大方、一部のISに搭載されている光学迷彩の応用、ってところだろう? お前の顔に、別人の顔を貼り付けて、違う人間に見せかけている」

 

「そう聞いているよ」

 

「見た目が変わっただけで、体重までは変わらない」

 

 どういうわけか、桜坂は目の前の鬼頭ではなく、彼のかたわらに立つ楯無や、高品の顔を、ちらり、と一瞥した。

 

「筋肉の量や手足の長さ。骨の形に体つき。そいつの本質自体は、何も変わっていないんだ」

 

「その心は?」

 

「足音は変わらない。お前だってことはすぐに分かったよ」

 

「相変わらず、人間離れしているなあ」

 

 親友の目線の置き方に違和感を覚えながらも、鬼頭は苦笑した。それから楯無を見て、サングラスを示しながら「もういいでしょうか?」と、訊ねる。楯無は、「……まあ、この室内なら良いでしょう」と、頷いた。

 

「でも、絶対に窓際には立たないでくださいね」

 

「ええ、分かっていますよ」

 

 素顔をさらした状態で窓際には立つな。ここに来るまでの車中で、何度も言われたことだ。鬼頭智之が名古屋にいることが第三者に知られれば、大変な騒ぎとなるのは必至。その騒動を聞きつけて、自分に害意を抱いている者どもの攻撃を誘うことにもなりかねない。

 

 狙撃の危険もある。人目につく可能性がちょっとでもあるような場所は避けるように、と楯無たちから厳命されていた。

 

 鬼頭が変装用のサングラスをはずすと、桜坂以外の者たちも彼のもとに駆け寄ってきた。事前に今日の服装など聞かされていたはずだが、やはり、まことの顔を確認するまでは、この人物が本当に鬼頭智之なのか、確信を得られなかったようだ。自分を取り囲むや、口々に「お久しぶりです」とか、「お帰りなさい」とか、話しかけてくる。

 

 それら一つ一つに応じながら、鬼頭は自分のデスクへと向かった。不在の間も、誰か掃除してくれていたのか、埃の類いは見られない。

 

「主任がいつ帰ってきても存分に働けるように、って桐野さんがやってくれたんですよ」

 

 開発室最年少の土居昭が言った。

 

 鬼頭は桜坂のかたわらでにこにこ笑っている美久を見た。礼を述べると、「いいえ、気にしないでください」と、できた回答。このやり取りだけ見れば、嫁として最高の優良物件だと思うのだが。

 

「……ところで桐野さん、そのう、いま羽織っているジャケットですが」

 

「はい?」

 

「ずいぶんと、袖が余っていますね?」

 

 美久はグレイのジャケットを着ていた。明らかに体のサイズに合っておらず、袖口から中指の先端が僅かに覗いているその様子は、IS学園の布仏本音を連想させた。彼女も、やたら、だぼっ、とした袖を余らせたファッションを常としている。

 

「肩幅も、だいぶ足りていないみたいですが?」

 

「ああ、それは当然ですよ。だってこれ、室長のジャケットですから」

 

 美久はお気に入りの洋服を披露するかのように、袖余り、肩余りのジャケットを示した。

 

 鬼頭は隣に立つ桜坂を見た。長身で胸板も分厚い体つきに、ダブルのスーツがよく似合っている。今日、この場で剥ぎ取った物でないことは明らかだ。また、しかめっ面の仁王様の態度から察するに、了解を得てのことでもないだろう。大方いつものように、気がついたらクローゼットの中から姿を消し、気がついたら美久が我が物顔で着ていた、といったところか。

 

「……似合っていますよ」

 

「ありがとうございます!」

 

 美久は嬉しそうにはしゃいでみせた。可憐な笑顔を微笑ましく思う開発室一同(一名除く)だったが、その眼差しは深い水底のように昏く、意志の光が消沈していた。

 

 美久のことは一旦置いて、鬼頭は開発室のメンバーとともに自分のことを待っていた、内調職員と思しき男の顔を見た。

 

「あなたは……」

 

「申し遅れました」

 

 男は人懐っこい笑みを浮かべながら、鬼頭の前に立った。

 

「内調職員の城山悟です。例の隕石の後処理のことで、アローズ製作所と内調とをつなぐ連絡要員として、御社に派遣されました」

 

「城山さんは、今回の主任の名古屋行きについても便宜を図ってくれたんです」

 

 開発室ではパワーユニットを担当する滑川技師が言った。聞けば、アローズ製作所側の受け入れ態勢を整えてくれたのは彼だという。

 

「それは……お手数をおかけしてしまい」

 

「礼には及びません。お役に立てたみたいで、何よりです」

 

 城山はそう言って微笑んだ。おもむろに両手を打ち鳴らしてみなの注目を集めると、開発室一同を見回して言う。

 

「さあ、時間はいくらあっても足りません。そちらの仕事を進めてください」

 

「そうですね」

 

 鬼頭は首肯した。青いジャケットの内ポケットに手を突っ込むと、スマートフォンくらいの大きさの、四角いビニールケースを取り出した。みなの前でファスナーを開け、中から黒いアルミ製の筐体を出してみせる。外付け用のHDDだ。

 

「それが、例の?」

 

「そうだ」

 

 桜坂の問いに、鬼頭は頷いた。

 

「この中に、俺がIS学園で学んだことのデータが収められている」

 

 パワードスーツ開発に使えそうなもの、明らかにそうでないもの問わず、目についたデータは片っ端から、容量の許す限り、ぶち込んできた。自分たちのような技術者にとっては、サンタクロースのプレゼント袋も同然の代物だ。

 

「島の外に持ち出すにあたって、IS学園のチェックは終わっている」

 

「つまり、この中のデータは好きなように使ってよい、と、IS学園のお墨付きなわけだ」

 

「そういうことだ」

 

 鬼頭は桜坂にHDDを差し出した。ヤスデの葉を思わせる大きな掌が、恭しくそれを受け取る。桜坂は小さな宝の山を大切そうに持ち抱えた。

 

「確かに、受け取ったよ」

 

「扱いに気をつけてくれ。持ち出し許可が下りたデータばかりとはいえ、最強兵器に使われている、最新技術のデータだ。流出すれば、たいへんなことになる」

 

「データの確認は、スタンド・アローン状態の端末に限るようにするよ」

 

「その方がいいだろうな」

 

「早速、目を通したいんだが」

 

「分かった。……ところで桜坂」

 

「んう?」

 

「松村さんから聞いたんだが、時計を新調したそうだな」

 

 鬼頭は桜坂の左手に目線をやった。時計業界の絶対的王者……ロレックスのサブマリーナが、堂々たる存在感を主張している。同社のエントリー・モデルにして、ブランドを象徴する時計の一つだ。一九五三年の登場以来、場所を選ばぬ使いやすいデザインは世界中でファンを生み出し続けている。鬼頭も一九八二年式のRef.5513を一本所有しており、往時は、ここぞという商談のときなどに身につける勝負時計として愛用していた。

 

 桜坂が左手に巻いているサブマリーナも、現行型や最近のモデルではなく、アンティーク・モデルのようだった。

 

 時計好きの習性から、鬼頭は自身の脳内に収蔵されている時計カタログを引っ張り出して、あれはいつ頃のなんという型式だったか、と、ページをめくり始めた。よく使いこまれたケースの具合から察するに、かなり古いモデルに相違ないはずだが。

 

 鬼頭の指摘に、桜坂は嬉しそうに笑ってみせた。

 

「ああ、そうだぜ」

 

「サブマリーナか。奮発したな」

 

「まあな。大須の中古ショップで偶然見つけて、一目惚れしたんだよ」

 

 桜坂は左腕を掲げてみせた。眺めているうちに知らずうっとりしてしまう、素晴らしいデザインと造り込みだ。マッシブなダイバーズウォッチだが、日本人離れした桜坂の手首にはよく似合っている。

 

 ――松村さんが言っていたのとは、まるで正反対の印象だ。

 

 やはり、車内で彼が口ずさんだのは暗号メッセージか。だとすれば、この時計のどこに、第二のメッセージが……? しげしげと眺める鬼頭は、やがてあることに気がついた。このサブマリーナ、アンティーク・モデルとしては、リューズがかなり大きい。

 

 ――これは……Ref.6538か!

 

 一九五六年~一九六四年にかけて製造された、サブマリーナとしては第二世代にあたるモデルだ。ムーブメントに世界初の両方巻き上げ式のキャリバー1030を搭載しており、防水機能も二〇〇メートルと、この時代のダイバーズウォッチとしてはかなりの性能を誇る。外見上の特徴としては、やはりリューズの大きさが挙げられ、直径八ミリの突起には、フランス語で特許を意味するBREVETという文字が刻印されているはずだった。

 

 鬼頭は、ちら、とケースの右側にひっそりとたたずむ竜頭に目線をやった。お馴染みの王冠マークを、文字列の半円が下から受け止めるように支えている。アルファベットの並びはBREVET 。間違いない。やはりこれは、Ref.6538だ。

 

 二つの理由から、鬼頭の心臓は高鳴った。

 

 一つは、いまや直接この目で見る機会なんて滅多に得られない、歴史的名機と出会えたことに対する純粋な喜びゆえ。鬼頭がRef.6538を実際に目にするのはこれが初めてのことだ。半世紀以上も昔の時計とあって、Ref.6538は中古市場での流通本数が少なく、またある理由から、希少価値とは別なプレミアが付いているため、一般庶民には手の出しづらい価格で取引されていることが多い。知り合いの好事家達も持っていない者ばかりなため、鬼頭にとってRef.6538は、長らく幻の存在だった。

 

 もう一つの理由は、腕時計に篭められたメッセージの内容に気がついたがゆえのことだ。内閣情報調査室という、スパイ機関に属する者たちの耳目があるこの場で、Ref.6538を身につけているその意味。時計好きの鬼頭は瞬時に理解し、自身の考えが正しいか実証するべく、桜坂に声をかけた。

 

「手にとって見ても?」

 

「……そう言うだろうと思っていたぜ」

 

 桜坂は不敵に笑ってみせると、バックルをはずして手首を抜き、親友に時計を差し出した。

 

 鬼頭は右手をジャケットのポケットに突っ込んだ。グレイのハンカチーフを取り出すと左の掌に広げ、サブマリーナを、そうっ、と受け取る。しげしげ、と眺めた。うむ。やはり良い時計だ。もっと色々な角度で見てみよう、とケースの裏に右手を回す。

 

 切れ長の双眸が、一瞬、ぴくり、と揺れた。ケース裏に、ぺたぺた、と指の腹にくっつく感触。次いで、プラスチッキーな硬質感。両面テープの接着面に、プラスチックか、樹脂製の薄いチップのような物がくっついている。やはりな、と鬼頭ははにかんだ。

 

「主任の時計好きも相変わらずですね」

 

 アメリカ人の父を持つ田中・W・トムがにやにやと笑いながら言った。鬼頭の微笑の所以を、珍しい時計を間近で見ることが出来た歓呼から、と、周囲に誤認させるためのアシストだろう。「いやお恥ずかしい」と、鬼頭も笑いながら応じた。

 

 鬼頭はかたわらの楯無たちから見えないよう注意を払いながら、ケースの裏側で人差し指の第一関節と、第二関節を起こした。もっと顔に近づけて見てみたい、と、左手を顔に近づけようとする動きに合わせて、指の腹でケース裏の粘着面をこする。右の掌に、黒い物が滑り落ちるのが見えた。リューズを押さえる親指の運動に追従する形で起き上がった母指球が、小さな板をはさみ取る。マイクロSDカードだ。

 

 鬼頭はSDカードを挟んだ状態のまま、右手をもう一度ジャケットのポケットに差し入れた。掌を広げ、カードを中に揺さぶり落とす。然る後、ポケットの内側にいつも忍ばせている小型ルーペを握ると、取り出して時計にあてがった。年代物のサブマリーナの仔細を、じっくりと、舐め回すように見て楽しむ。

 

「……うん。眼福だった」

 

 サブマリーナのデザインの素晴らしさを堪能することおよそ五分、鬼頭は満足げに微笑むと、桜坂に腕時計を返却した。時計を受け取る際、ケース裏を右手の人差し指でひと撫でした親友は、にやり、と微笑んだ。

 

「楽しんでもらえたみたいで何よりだ」

 

「松村さんにはすっかり騙されたよ」

 

「うん?」

 

「いや、ここに来るまでの車内でな。お前の新しい時計のことをさんざんこき下ろしていたものだから。どんな酷いセンスが出てくるかと身構えていたんだ。そしたら、これだからな。……やられたよ」

 

「主任を驚かせてやろう、と思いましてね」

 

 イタズラを成功させた松村は冷笑を浮かべてみせた。それに対し、鬼頭は「本当に驚かされたよ」と、呟いて、肩をすくめてみせる。

 

 腹の底からの発言だった。時計好きの自分であればこそ気づくことの出来た暗号メッセージ。よくぞ考えついたものだ、と驚嘆せずにはいられない。

 

 Ref.6538は、世に言うボンド・ウォッチの一つだ。イギリス製作のスパイ・アクション映画『007』シリーズにおいて、主人公のジェームズ・ボンドが劇中で身につけていた腕時計。その記念すべき初代が、ロレックスのサブマリーナ、Ref.6538だったといわれている。

 

 ジェームズ・ボンドは劇中で、イギリスの情報組織……MI6に所属している。すなわち、スパイ機関の人間だ。ボンド・ウォッチは、スパイの時計と言い換えることが出来る。そしてこの場には、内閣情報調査室という、スパイ組織の人間が数多くいた。

 

 スパイたちの耳目があるこの空間で、スパイの時計を見せびらかす。この意味するところは――、

 

 ――現在、アローズ製作所は、内調の監視下にある……!

 

 それこそが、暗号という迂遠な手段を用いてまで、桜坂たちが伝えようとしたメッセージだろう。サブマリーナのケース裏にテープで留められていたマイクロSDカードには、なぜそんな事態に陥ったかの経緯や、その仔細についてのデータが収められているに違いない。

 

 ――何かが起きている。俺の知らないところで、この会社に何かが……!

 

 松村たちに合せてひょうきんな態度をとる鬼頭だったが、ちら、と内調の者たちを一瞥するその眼差しは険しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter28「男たちの思惑」

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼頭が持ってきたHDDは、早速、桜坂室長のパソコンにつなげられた。三年前に発売された、当時としては最新のモデルで、通常の周辺機器は勿論、IS由来の空間投影技術を搭載したデバイスにも対応している優れものだ。桜坂の場合、普段はメカニカル・キーボードと筐体型のディスプレイにつなげているが、小さな画面を開発室のメンバー全員で身を寄せ合って見るのは効率が悪い、として、今回は映像出力のモードを空間投影式に設定した。カーテンを閉め切った暗い室内に、五十インチの大画面が出現する。

 

 入れられるだけ入れてきた、という無精な発言のわりに、HDDの中身はよく整理されていた。まず、鬼頭の判断で使えそうなデータと、そうでないデータとにフォルダ分けがなされ、次に、具体的にどういうことに使えそうか、カテゴリー毎に分けられている。桜坂はメカニカル・キーボードを叩いて、『操作系』と名前のついたフォルダを開いた。ISのあらゆる動作の要たる、イメージ・インターフェース制御システムについてのデータを開示する。

 

「早速メイン・ディッシュか」

 

 次々に表示されるデータを眺め見て、滑川技師が興奮した様子で呟いた。ISを最強兵器たらしめる重要素の一つ。パワードスーツとしては大柄なあの躯体に、驚くべき柔軟性と汎用性、操作に対する追従性を与えている、システムの要。その秘密に迫れるとあって、彼の頬は紅潮していた。

 

「人間のイメージなんて曖昧模糊なものを信号に変換して機械を動かす。ファジー制御の究極形だ」

 

「パワーアシスト機能だけじゃなく、武器や飛行制御システムなんかもすべて、この技術で動かしているんですもんね」

 

 滑川の言葉を継ぐ形で、土居昭が言った。認知バイアスが容易に起こりうる未熟な五感でもって世界を認識し、そこで得た情報をもとに思考する人間のイメージとは、機械を動作させるための信号としては非常に扱いづらいものだ。そんなイメージを、ISの場合は正確に解釈し、動作に反映させることが出来る。開発室の面々にとって、これは驚異的なことだった。

 

 ほんの少し体を傾ける、という言語表現について考えてみると分かりやすいだろう。“ほんの”、“少し”、という単語はそれぞれ、具体的に何度というような数字を表す語句ではない。“ほんの”が、どの程度の角度を意味するかは、その言葉を口にした人物がによって異なり、しかもその感覚は、そのとき置かれていた状況の影響を大きく受ける。狭い通路で誰かとすれ違う際の“ほんの”と、落下物から身をかわす際の“ほんの”では、同じ単語でも意味する角度は大きく異なる。“少し”もまた同様だ。そんな単語を二つくっつけた上での、この表現である。このイメージを機械の動作に反映させることの難しさが、なんとなく理解出来るのではないかと思う。

 

 人間のこうした曖昧な認識をコンピュータ処理する技術をファジー理論、ファジー制御などと呼ぶが、ISに採用されている技術はまさにその最先端、究極に位置していると評しても過言ではないだろう。しかもISの場合は、このイメージ・インターフェースを武器の運用や飛行装置の制御にまで採り入れているのだから呆れてしまう。

 

「ISコアには人間の心に似たものが宿っているというが……」

 

「その心が、人間の心を理解して、動作に必要な信号を生み出している……っていう感じだな。このデータを見ると」

 

「気持ちの通じ合いが、イメージ・インターフェースの核となる機能、というわけか」

 

「しかし、実際にそんなことが可能なのか? 人間同士だって、互いの気持ちを百パーセントは理解出来ないのに。機械に組み込んだ、擬似的な心なんかに、それが……」

 

「それがIS適性ということなんじゃないか? ISコアの心と、操縦者の心の同調しやすさ、みたいなものが、Aランクとか、Bランクというふうに、位置づけられるのでは?」

 

「ISコアも万能じゃない。操縦者との相性がある、ということか」

 

「なるほど。そう考えると、稼働時間が長い者ほどISの性能を引き出せるようになる、という現象の説明が出来ますね」

 

「というと?」

 

「人間だって、付き合いの長い方が、互いの気持ち通じるものでしょう?」

 

「ははあ、なるほど」

 

「……俺たち人類は、」

 

 部下たちの間で繰り広げられる闊達な議論の俎上に、それまで黙然とディスプレイを見つめていた桜坂が参加した。

 

「いまだに鉄腕アトムやドラえもんを生み出せてはいない。それは人間サイズのボディに搭載可能な原子炉や、秘密道具を作れないからというのは勿論だが、いちばんの理由は、“心”というものを人工的に生み出すことが難しいからだと思っている」

 

 どちらも日本の漫画に登場するロボット・キャラクターだ。フィクションの登場人物らしく、たくさんのスーパーパワーを持っているが、桜坂が特にファンタスティックだと思う設定は、両者がともに人間の持つ喜怒哀楽の感情を理解し、人と同じような“心”を持っていることだ。

 

 機械の中に“心”を再現する。人類の科学はいまだこれを可能としてないが、これは人の“心”、“魂”、そのもととなる、脳をはじめとする肉体の諸器官について、完璧には理解出来ていないためだ。

 

 分析哲学の大家、ウィトゲンシュタインは、その自著『論理哲学論考』において、『語りえぬものについては、沈黙しなければならない』と、世の真理を看破した。人間にとって“心”の存在は、いまだ語りえぬものの一つだ。“心”とはいったい何なのか。それを理解しない限り、人工の“心”なんて夢のまた夢。

 

「しかし、篠ノ之束はそれを成し遂げた。彼女は“心”とは何なのかを完璧に理解し、ISコアという機械に、それを宿してみせたんだ。まさしく天才だよ、彼女は」

 

「そのわりには……」

 

 滑川雄太郎は苦笑しながら呟いた。

 

「噂に聞くその為人は、人付き合いを苦手とし、人の心の機微に疎い、と聞いていますが」

 

「そういうところも含めて天才、ってことだろう。かのアイザック・ニュートンもステレオタイプな天才で、人付き合いは苦手だった、って伝記で読んだことがある」

 

「エドモンド・ハレーという男が数少ない友人の一人でなかったら……」

 

「万有引力の法則も、積分法も、世に広まるのはもっと遅かっただろう」

 

「そういう意味では、篠ノ之束はやはりニュートンに似ているな。彼女のそばにも、織斑千冬がいたわけだし」

 

 人類の科学史上最も偉大な書籍の一つである『自然哲学の数学的諸原理』は、ニュートンの友人で、自身もまた物理学、天文学の求道者であったエドモンド・ハレーが資金を供出して出版された。

 

 同様に、ISも篠ノ之束のかたわらに織斑千冬という女傑の存在がいなければ、これほど早く世に広まることはなかっただろう。天才の作ったISを、やはり天才が身に纏い、活躍することで、世界は驚異の飛行パワードスーツの存在を急速に受け入れていったのである。

 

 閑話休題。

 

 イメージ・インターフェースの機能と、それを下支えするISコアの性能に賞賛の言葉を口ずさんでいた開発室の面々は、しかし、その技術を自分たちのパワードスーツにどう採り入れるか、という段になって、揃って渋面を作った。

 

 イメージ・インターフェースを災害用パワードスーツの操縦装置と出来れば、性能の飛躍的な向上が望めるが、それを可能とするためには、ISコアに宿る“心”の存在が不可欠。しかしISコアはブラック・ボックスの塊であり、その製法を知る者はいまだ篠ノ之束のみ、ときている。

 

「ISコア以外のコンピュータで、ISレベルのファジー制御を成し遂げようと思ったら、スーパーコンピュータが何台必要になることか」

 

「体育館一杯分くらいは必要なんじゃ?」

 

「我々には遼子化技術があるから、そこまでのスペースはいらないと思うが……」

 

「それでも、プロフィアのコンテナいっぱいに敷き詰める必要がありそうだ」

 

「現実的じゃないなあ。それを動かすための電力だって、馬鹿にならない」

 

「となると、性能を落とす必要があるわけですが……」

 

「問題は、どこまで許容出来るか、だな。スーツに搭載出来るサイズのコンピュータの処理能力で、どれくらいの性能をキープ出来るか」

 

「性能の低下は、存外、心配するほどではないかと思います」

 

 みなの顔を見回しながら、鬼頭が言った。右手の中指に嵌めた金色の指輪を軽く撫で、空間投影式ディスプレイをもう一枚、かたわらに出力する。

 

 表示されたのは、先頃『打鉄』に積み込んだばかりの試作型BTシステムに関するデータだ。「肝要なのは、性能よりも機能を絞ることだと思います」と、前置きし、鬼頭は自らの考えを説明した。

 

「私がイギリスの第三世代機の開発の手伝いをしていることは、皆さんも承知のことだと思います」

 

 鬼頭はそう言ってみなの顔を見回した。自分のIS学園での行動については、桜坂の口から聞かされているはずだ。誰からも疑問の声が上がらぬことを認めて、鬼頭は続けた。

 

「第三世代機の定義について念のため説明しますが、ISは操縦者との相性が良いと、まれに、ワン・オフ・アビリティーという特殊な能力を発現させることがあるそうです。これはそのISコアと操縦者の組み合わせ固有のもので、同じISコアでも操縦者が違えば使えませんし、逆もまた同様です。第三世代機は、このワン・オフ・アビリティーを兵装化し、誰にでも使えるようにすることを目指して開発されています。

 

 イギリスの第三世代機の場合は、偏向射撃という技術の再現を目指しています。簡単に言えば、発射後の銃弾の軌道を自由自在に曲げる技術で、この再現のために開発されたのが、BTシステムという特殊兵装です。思考波によって形態が変わる特性を持った流動性エネルギーBTを、イメージ・インターフェースで制御しています」

 

 鬼頭は空間投影式ディスプレイに、クラス代表決定戦のときにひそかに撮影していた映像を出力した。セシリアの操る四基の《ブルー・ティアーズ》が、陽子の『打鉄』を追いつめていく。

 

「しかし、イギリスが開発したこのBTシステムは、偏向射撃を誰でも使えるようにする、という目的に反して、使い手を選ぶ兵装として完成してしまいました。多くの機能を追求するあまりシステムの複雑化を招いてしまい、これを操るためには、BT適性という特別な才能が必要となってしまったのです。しかも、このBT適性が高い者でさえ、偏向射撃の再現にはいたっていません。

 

 そこで私が考えたのは、BTシステムの簡素化でした。攻撃端末の数を減らし、誘導方式を無線から有線式とし、機能を絞ることで、構造の簡略化と、扱いやすさの向上を目指したのです」

 

 金色の指輪をまた撫でて、鬼頭は映像を切り替えた。世界で二番目に発見された男性操縦者が、愛機の『打鉄』を駆って、イギリスの第三世代機と激しい模擬戦を演じている様子が映じた。

 

 先ほどまで映じていた陽子の『打鉄』と違い、鬼頭に与えられた改修機は、胸部を覆うブレスト・アーマーを装備していた。その背面部には、縦長で箱型のモジュールが三つ横に並んでいる。

 

『《オデッセイ・システム》レベル2、シフト・アップ!』

 

 かけ声とともに、背中の箱型モジュールのうち、外側の二つが小爆発した。電磁ボルトによるロックが解除され、カバーが脱落する。中から現われたのは、ボビンのような形をした、円筒形の独立攻撃端末だ。有線式BT攻撃端末《ミニ・ティアーズ》。回転しながら射出され、操縦索とエネルギー供給バイパスを内蔵したコードの尾を引きながら、相手の背後に回り込む。

 

「その際、私はBTシステムに、イメージ・インターフェースの動作効率を高めるための、補助用のAIを搭載しました。いかにISコアの処理能力が優れているといっても、機体の動作や飛行制御、通常の武器の取り扱いに加えて、BTシステムまで同時に、となると、負担は大きいと考えたためです。搭載した人工知能は、BT攻撃端末――それも構造をシンプル化して扱いやすくした物――の制御にのみ用い、これにより、ISコアに頼らないイメージ・インターフェースの動作を実現させました」

 

 映像の中で、《ミニ・ティアーズ》はこまねずみのように、くるくる、と機敏に踊ってみせた。これほどの動きを、ISコアに頼らず実現したのか!? そしてそれほどの装置を作っておきながら、この平然とした態度……。こういうところも相変わらずだな、と開発室のみなは呆れた。

 

「この一事からも、重要なのは性能ではなく、機能の絞り込みだということが分かります。災害用パワードスーツに、ISほどの多機能は不要ですから。そこさえしっかりわきまえれば、イメージ・インターフェースの実用レベルでの搭載は、十分、可能なことだと思います」

 

 

 

 

 

 

 久しぶりに過ごす社屋での時間はあっという間に過ぎていった。

 

 IS学園から持ち出したデータの精査、XI-01、02両スーツのダメージ・チェック、溜まっていた書類の片付けなどこなしているうちに、時刻はいつの間にか午後五時を回っていた。

 

「鬼頭さん、そろそろ……」

 

 XI-01の損傷具合のあまりの酷さに、本当に隕石が原因なのか? と、首を傾げていると、楯無が声がけをしてきた。反射的に左手のボーム&メルシェに目線を落とし、もうこんな時間か、と残念に思う。

 

「桜坂、作業の途中で申し訳ないんだが……」

 

「うん? ああ、もうそんな時間なのか」

 

 桜坂もサブマリーナのクラシック・モデルを見て残念そうに呟いた。親友に許された今回の島外活動が、名古屋での行動のすべては内調がスケジュール管理をする、という約束の上に成り立つものであることは、城山の口から聞かされて彼も知っていた。仁王の男は束の間、表情を硬化させ、しかしすぐに破顔した。

 

「久しぶりにお前と一緒に仕事が出来て、楽しかったぜ」

 

「俺もだよ」

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。

 

「皆さんと一緒に仕事が出来て本当によかった」

 

「お前、この後の予定は?」

 

「詳しくは俺も聞かされていないんだが、なんでも、広報用の写真を撮るらしい」

 

「広報?」

 

「今回の名古屋行きは、俺の身柄を狙っている各国に対する牽制の意味もあるんだそうだ。日本政府には男性操縦者の島外活動を保障するだけの力がある、ということを誇示するために、内調の支援を受けた俺がプライベートを満喫している、というふうな写真を撮影するんだとさ。どうだ、お前たちにこれと同じことが出来るか? という感じの」

 

「なるほど」

 

「鬼頭さんにはこの後、今夜宿泊するホテルに移動してもらいます」

 

 鬼頭のかたわらに寄り添う楯無が言った。その横顔を見下ろして、鬼頭は、おや? と、首を傾げる。桜坂を見る彼女の目つきに、若干の険しさを見出したがためだ。相当な強面の彼を前にして、いささかも怯まぬこの力強い眼光。ほんの少しだけつり上がった眉尻から感じられる攻撃的な、しかし敵意とまでは呼べない、この感情は――警戒心?

 

「ホテルでの休憩の後、少し早いですが、夕食を摂っていただく予定です。撮影はそのときに」

 

「ははあ、なるほど」

 

 桜坂が困惑した目線を楯無に向けていた時間は短かった。黙考の末、彼女の態度についてはひとまず考えないことにした彼は、次いで羨ましそうな表情を浮かべて頷いた。

 

 話を聞く限り、今回の島外活動には日本政府の面子が懸かっていると考えてよいだろう。となれば、さぞや上等なホテルの、上等な一室が用意されているに違いない。名古屋市内のホテルでは、名古屋駅のマリオットホテルか、伏見の名古屋観光ホテルあたりだろうか。いずれにしても、僅か半日程度の滞在場所としては贅沢な話だ。

 

 もっとも、それでもって親友の笑顔を引き出せるかというと、疑問ではあったが。

 

「お前の場合、高級ホテルでのディナーよりも、レンタカー屋で面白そうな車を借りて、峠にでも連れて行った方が、よっぽど楽しそうな写真が撮れると思うけどなあ」

 

 桜坂はにやにや笑いながら鬼頭を見た。

 

「……何て会社だったっけ? たしか、名古屋駅をちょいと北上したところに、古いスポーツカーをレンタル出来る店があったよな?」

 

「ああ、あそこか」

 

「アルファのスパイダーとか、あれでワインディングを走ったらさぞや楽しいだろうに」

 

「まったく同感だが、更識さんたちの考えは正しいさ。レンタカー屋は不特定多数の人間が利用する施設だから、要人警護には向かない。ホテルなら、人の出入りもチェックしやすいだろうしな」

 

「峠でのお楽しみは、また次の機会に、ということで」

 

 はずんだ声音から、発言に比して意外と乗り気なのでは、と考えた楯無が、慌ててたしなめた。

 

「とりあえず今日だけは、こちらの指示に従ってください」

 

 名残を惜しむ開発室の面々に別れを告げ、鬼頭は再び地下駐車場のアルファードに乗り込んだ。正面ゲートから公道に出ると、来たときと同様、尾行を警戒した走行ルートで、しばしの間、市内をぐるぐると走る。やがて左手のボーム&メルシェが午後五時半を指し示したとき、隣に座る楯無が、運転席の男に向かって言った。

 

「そろそろ、ホテルの方へ向かいましょう」

 

 名古屋市から隣接する長久手市に向かって、県道六十号線を西進するアルファードが左にウィンカーを出した。アピタ長久手店の前を左折し、住宅街に進入すると、今度は名古屋市中心部に向けて針路を取る。県道六号線を使って猪高台へ至ると、そのまま直進して、よもぎ台、平和ヶ丘、平和公園、猫洞通、市営地下鉄本山駅を目指した。そうして広小路通りに入ると、改めて名古屋市中心部へと迫っていく。新栄、栄を抜けて、伏見へ。

 

 栄を通り抜けたあたりから、鬼頭はアルファードの目指す場所について、見当をつけていた。栄から名古屋駅にかけては数多くのホテルが軒を連ねているが、この中で、海外の諸勢力に対する牽制として使えそうな場所は、一軒しか思い浮かばない。

 

 やがて広小路中ノ町の交差点を右折したとき、鬼頭の自らの考えに確信を得た。一九三六年創業、名古屋観光ホテルの、古めかしくも趣を感じさせる建物が、一行を静かに待っていた。

 

 名古屋市内で最も長い歴史と伝統を誇るホテルだ。中部地方の迎賓館として創業し、これまでに国内外の賓客やVIPを多数迎えてきた。昭和、平成の両天皇陛下の宿泊や、国際会議の主会場としての利用実績も数多い、本当の意味での一級ホテルといえる。現在の館は一九七二年に建てられたもので、その見た目からはさすがに古さを感じてしまうが、創業六十周年を迎えた一九九六年に館内の大改装が実施されており、内側の設備は現代の基準で見ても上質ととれるクオリティを維持している。

 

 ――まさか観光ホテルで寝泊まり出来るとはなあ。

 

 最も安い部屋でさえ、一泊二万円以上は当たり前という高級宿だ。名古屋在住者にとっては、近くて遠い存在といえる。ひそかな感動に胸を震わせる鬼頭は、わくわくした気持ちでホテルの外観を眺めた。

 

 アルファードは観光ホテルの地下駐車場へと潜っていった。大柄なアルファードにとって、地下駐車場の通路は狭く、窮屈に感じられ、左折の際には、恐い、とさえ思った。観光ホテルの新築建て替えが決定した一九七〇年当時の乗用車といえば、七〇年一月デビューのダットサン・サニークーペの二代目の全幅一五一五ミリ、六八年九月デビューのトヨペット・コロナマークⅡで、全幅一六〇五ミリという時代だ。その頃の基準で設計されている地下駐車場は、全幅が一八五〇ミリもある三代目アルファードには狭すぎた。四苦八苦しながら、なんとか駐車スペースを探して駐車する。アローズ製作所本社ビルのときと同様、まずは楯無たちが降りて安全を確かめた。然る後、鬼頭は変装用のサングラスを一撫でしてから、硬いアスファルトの感触を靴底で確かめた。

 

 鬼頭と楯無、高品と、前席の二人。五人も乗ると窮屈な印象のエレベータのゴンドラに乗り込み、一階へと向かう。エレベータの扉が開くと、高級ホテルらしい、ラグジュアリーな雰囲気の漂う空間が一行を迎えた。世界各国主要都市の現時刻を表す壁時計の前を横切り、フロント・カウンターを目指す。カウンターで待機していた若い男性スタッフが、一同を見て笑顔で腰を折った。一流コンシェルジュならではの、見ていて気持ちの良い、洗練された所作だ。

 

 一行を代表して、高品が前に出た。「予約していた更品ですが」と、偽名を口にすると、男ははっとした表情を浮かべ、奥へと引っ込んでいった。代わって出てきたのは、総支配人を名乗る壮年の男だった。見るからにオーダーメイドと分かる、小粋なデザインのスーツを着ている。後で確認したところ、ホテルには国家にとっての要人がやって来ると伝えていたらしく、ために、失礼があってはならぬ、と、支配人が応対するよう、あらかじめ決めていたらしい。

 

「お待ちしておりました。ささ、こちらに」

 

 スーツの男は一行をエレベータへと先導した。地下駐車場から続いていた物と違い、ホテルの奥まった場所にある、人気の少ない場所に案内された。まさかな……と、嫌な予感がした。

 

「ご予約いただいておりましたのは、スイートが二部屋でしたね」

 

 げぇっ、と口から飛び出しかけた悲鳴を、なんとかこらえた。名古屋観光ホテルにはスイートの名を与えられた特別な部屋が全七室、三種類ある。これらの部屋は、国内外の賓客が利用することも多いことから、テロなどへの警戒のため、何階にあるのか、といった情報は一般には非公開となっている。

 

 スイートルームは三種類ある部屋の中でも最も下位の部屋だ。この上には八五平米のプレジデンシャルスイートがあり、さらにその上には、一七六平米のロイヤルスイートがある。いちばん下のランクとはいえ、広さは六二平米もあり、設備も充実している。宿泊費用は一泊およそ八万円。

 

 二部屋とっているのは、片方に護衛対象の鬼頭が、もう片方に高品たち内調職員が寝泊まりするためだろう。プレジデンシャルスイート以上の部屋にしなかったのも、何かあったときにすぐ駆けつけられるよう、同じフロアの隣の部屋に待機したいがために違いない。それでも、かかる費用は約十六万円。恐ろしい話だ、と鬼頭は内心呆れてしまった。

 

「部屋割りは、更品様親子で一部屋と、SPのお三方が隣室の一部屋の合計二部屋の希望でおうかがいしておりますが」

 

 鬼頭は、ぎょっ、とした眼差しでかたわらの楯無を見た。はたして、暗部組織の女は、悪戯を成功させた子どものように笑ってみせた。

 

「どうしたの、パ~パ♪」

 

「……いえ、なんでも」

 

 なるほど、そういう脚本か。日本国にとっての重要人物、更品某と、その娘によるお忍びの観光。連れの三人は、警護のSP。なんて頭の悪い設定なのか、と目眩がした。いや、それよりも、

 

「……娘よ、きみはそれでいいのかね?」

 

 年頃の娘だ。自分のような中年男と、たった一晩とはいえ寝所をともにして平気なのか。支配人の耳目がある手前で、鬼頭は言葉を選びながら訊ねた。

 

「うん? 何が?」

 

 他方、楯無はにやにやと笑って、偽りの父からの質問を受け流した。聞く耳持たぬ、という態度に、鬼頭は深々と溜め息をつく。

 

 一夏と箒を同室と定めたのも、存外、この娘ではないだろうか、と彼は疑念を抱いた。

 

 

 

 

 

 

「いや、わたしの父さんだぎゃあね!?」

 

 同時刻、IS学園第三アリーナに併設された更衣室にて、鬼頭陽子は突如として奇声を発した。両の足を肩幅に開いて踏ん張りながら、胸の前で拳を握って空へと吠える。

 

 更衣室に備え付けの簡易シャワールームで訓練の疲れを洗い流し、さあこれから着替えるぞ、というタイミングでのことだった。当然、胸から下をバスタオル一枚で隠している他には、衣類など何一つ身につけていない、裸同然の姿。そんなあられもない格好での突然の奇行に、彼女のすぐかたわらで着替えていたセシリアと箒は目を丸くした。

 

「陽子さん、どうされました?」

 

「うん!? ……ああ、いや、なんか、変な怪電波を受信して」

 

「はあ。……電波?」

 

「気にしないで。シックス・センス的なやつだから」

 

 訝しげな表情を浮かべるセシリアに言い、陽子は改めて着替えを始めた。体にバスタオルを巻いたまま下履きを手に取り、両の足を通して引っ張りあげる。その様子を見て、いまのは何だったのか、と怪訝に思いながらも、二人も自身の着替えを再開した。といっても、セシリアと箒の場合は、陽子と違って髪を長く伸ばしているため、まずはそちらの水分をよく拭き取るのに時間をかけなければならない。結果、二人の着替えの進捗は陽子と比べて遅れがちで、そのために、陽子は憂鬱な気持ちを抱えるはめになった。

 

 ――おおう、たゆんたゆん、揺れてらっしゃる……。

 

 愛用のブラトップを手にしながら盗み見るのは、左右に立つ同級生の胸元だ。自身の平坦な荒れ野に比べて、二人の胸元からはたわわな実りの存在が見て取れる。ちょっとした身じろぎでさえ、ゆさゆさ、揺れている双丘の躍動感に、羨望の眼差しを向けずにはいられない。

 

 陽子は膝を軽く曲げては伸ばす屈伸運動を、おもむろに始めた。平野は、ぴくり、とも波打たない。やらなきゃよかった、と虚しい気持ちに襲われた。と同時に、左右の揺れに対する羨望が、嫉妬へと変じていく。二人とも、十五、六歳にしては実りすぎじゃありゃしませんか!? と、目線に険が帯び出した。

 

 全体としては素晴らしい造形美なのに、一度ある部分が気になり出すと、他の部分にもケチをつけたくなるのは人間の性だ。左右の二人を見る目つきは、急激に鋭さを増していった。セシリアにしろ、箒にせよ、胸だけでなく、尻の張り出し方や、ウェストのくびれ具合など、幼児体型の我が身とは比べ物にならない、“良いもの”を持っている。うん。妬ましい。

 

 ――特に篠ノ之さんのそれは何だァッ!?

 

 セシリアはまだ良い。彼女の場合は人種の違いに由来する長身や肩幅の広さゆえ、胸の大きさがそこまで目立っていない。

 

 しかし、箒の場合は違う。

 

 身の丈は同年代の日本人女子の平均身長と大差ない。それなのに、胸元の突き出し具合がたいへんなことになっている。それでいて、剣道を通じて長年鍛えられた体つきはほどよく引き締まっており、小柄な見た目に比して、女性的なラインが作り出す全体のシルエットはモデルのように洗練されていた。俗に巨乳や、爆乳と形容されている者にありがちな、その部分だけが悪目立ちしているような、トータル・バランスの不気味さが感じられない。乳房のボリュームは圧倒的なのに、その部分がまったく浮いて見えない。卑怯だと思う。

 

「あ、あの……鬼頭? そうやって見られていると、着替えにくいのだが?」

 

 同性とはいえ、自身の裸体を、じぃっ、と凝視されるのは、居心地が悪いものだ。女尊男卑の考え方が支配的な現代では、“そういう”生き方の者が増えているとも聞く。陽子がそちら側の人間とも限らない。

 

 同級生の視線から逃れるように自らを抱く箒に、陽子は喉を引き締めた低い声音で言った。

 

「……篠ノ之さん、いったい何食べたら、そんなふうに育つのさ?」

 

「いや、寮生活なんだから、お前ともさして変わらないと思うのだが」

 

「じゃあ運動習慣か? 運動習慣がこの差を生んでいるのかあっ!?」

 

「陽子さん、落ち着いてくださいまし。……というより、気にしていたんですわね、胸」

 

「そりゃあ、気にするよ!」

 

 女性にとっての胸の大きさは、男性にとっての身長の高さと同じようなもの、という考え方がある。持つ者は持たざる者の渇望する気持ちを理解出来ないし、逆に持たざる者もまた、持つ者ならではの苦悩を理解出来ない。

 

 陽子から恨めしげな眼差しを向けられても、いまいちその心情を理解出来ないセシリアは、呆れた表情で彼女を見た。

 

「でしたら、どうしてブラを身につけないのですか?」

 

 セシリアは陽子が手に持つブラトップを見て言った。

 

「ああん!? 嫌みか!? こちとら、ブラを身につけるほど実がないんじゃコラ!」

 

「いえ、そういう意味ではなく」

 

 セシリアは故郷から遠く離れたこの地で得た姉妹に向けて、諭すように優しく語りかけた。

 

「いいですか、陽子さん。この地球上で暮らす私たちには、常に重力が上からのしかかっているわけです」

 

「うん? そうだ、ね……?」

 

 なぜこの会話の流れでニュートン物理学の話になるか。陽子は訝しげな表情でセシリアを見上げた。

 

「重力は全身にかかっています。当然、私たちの乳房にも上から下に、のしかかっています」

 

「……まあ、そうだね」

 

「ブラジャーというのは、究極的には乳房を下から支えるための物です。ブラトップは圧迫感がない分、たしかに気楽でしょうが、下支えの機能はありません」

 

「…………あっ(察し)」

 

「ブラを身につけないということは、重力に対する備えを怠るということです。乳房は脂肪の塊です。筋肉などと違って、それ自体に、重力に抗う力はありません。つまり、下から何かで支えてあげなければ、上からの力に負ける一方……どんどん垂れていきます」

 

 陽子は青い顔で自らの胸元を見つめた。ただでさえ肉付きが薄いのに、その上、垂れ下がるとなれば、つまむほども残らないのではないか。

 

「育ち方については、遺伝的な個人差が大きいので軽々しく言えませんが、いまあるものをどう守っていくかについては、努力の余地は十分にあるかと……」

 

「ひょえぇぇ……」

 

 陽子がブラトップを愛用しているのは、セシリアが言及した通り、その気楽さを気に入ってのことだったが、まさかそんな落とし穴があったとは……!

 

 相変わらず裸同然の姿で珍妙な悲鳴を口にする陽子を、箒が呆れた眼差しで見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 総支配人直々の案内のもと辿り着いたスイートルームは、リビングと寝室がドアで隔てられている、ゆったりとした洋室だった。清潔感と気品に満ち満ちた内装でまとめられており、家具も、全般的に重厚感のある意匠の物が多い。

 

 鬼頭は早速、支配人の勧めに従って入室しようとした。しかしその寸前、かたわらの楯無にジャケットの裾をつままれ、無言の制止をかけられる。何事か、と振り返ると、彼女は可憐な微笑を口元にたたえながら、背後に控える内調職員たちを示した。それを受けて、鬼頭も、「ああ……」と、得心した様子で頷く。道を空け、彼らに先に入室するよう促した。高品たち三人は部屋の中に入ると、射るような眼差しで室内を見回した。浴室やベッドの下、クローゼットの中など、盗聴器や爆発物といった危険物がないか、丹念に調べていく。

 

 支配人の男は高品たちの行動はじめむっとした様子で見つめていた。しかし、賓客の利用も多い一流ホテルにおいては、こうした警戒行動を取る客は珍しくない。すぐににこにこと微笑を浮かべ、室内に異常がないことを確認して戻ってきた三人に、「どうでした?」と、訊ねた。

 

「異常は見当たりません。入室しても大丈夫です、更品様」

 

 三人を代表して高品が応じた。鬼頭は頷くと、娘の楯無を連れ、改めて部屋の中へと入った。支配人の男もそれに続く。

 

 ツイン・ベッドの二人部屋にも拘わらず、スイートルームは大人六人が入室しても狭さを感じさせない、広々とした間取りをしていた。実際、ちょっとした会議室としての利用も想定しているのだろう。リビングには二人掛け用のソファも含めると、椅子が八脚もある。

 

 支配人の男は室内の設備やホテル側の提供するサービスについて、事細かに説明していった。その間にも、SPという名目で付き従っている内調の男たちは、設備の点検をてきぱきこなしていく。

 

「お食事は午後七時に部屋に持ってくるよう、うかがっておりますが?」

 

「それでお願いします」

 

「料理は二階の『呉竹』のシェフたちが、腕を振るってご用意いたします。存分にお楽しみください」

 

 支配人は更品親子に向かって深々と腰を折った。それから、今度はSPの一人に向かって、「皆様の部屋にご案内します」と、声をかける。アルファードを運転していた男がその言葉に頷き、鬼頭を見て、

 

「高品をこちらに残しておきます。我々もすぐに戻りますので」

 

と、助手席の男を連れて退室していった。

 

 部屋のドアが静かに閉まり、室内にいるのはこの三人だけと認めて、鬼頭はようやく、深々と溜め息をついてみせた。恨めしげな目線を、楯無と高品に、交互に向ける。

 

「……せめて、事前の説明は欲しかったところですが」

 

 勿論、更品親子という設定についてだ。親子ほども年齢差のある楯無が護衛役だなんて説明したところで、信じてくれる公算は、なるほど低いだろう。それを嫌っての設定だとはすぐに分かったが、それでも、事前の説明は欲しかった。楯無の口から“パパ”と呼ばれた瞬間など、驚きのあまり、心臓が止まるかと思ったほどだ。

 

「申し訳ありません」

 

 謝罪の言葉を口にしたのは高品だった。彼は苦々しげに表情を歪めながら、総支配人の耳目がなくなったがために、スイートルームのふかふかソファに腰を下ろして心地よさそうにしている、更識家現当主の顔を見つめた。

 

「楯無様より、鬼頭さんには黙っているように仰せつかっていたもので」

 

 高品は、どうやら更識家の従僕らしい。勤め人の立場が弱いのはどこも一緒か、と鬼頭は暗部組織の男に同情した眼差しを注いだ。

 

「……ちなみになぜでしょう?」

 

「楯無様曰く、その方が面白い反応が引き出せそうだから、とのことです」

 

 苦虫を奥歯でぎしぎし噛みしめながら、鬼頭は楯無を見つめた。学園最強を誇る生徒会長は、「あら、どうしました、パパ?」と、諧謔心あふれるにたにた笑いでこちらを見つめ返した。

 

「……なにやら、胃腸が痛くなってきましたよ」

 

「心中、お察しします」

 

「トイレに行っても?」

 

「どうぞ」

 

 鬼頭はげんなり溜め息をついてから、二人に対し背中を向けた。

 

 名古屋観光ホテルのスイートルームには、洗面台とトイレルームが二つずつ設置されている。鬼頭はそのうち、寝室とバスルームから遠い方に足を運んだ。ドアを閉め、鍵を施錠して、便座蓋を下ろしたままの便器に腰を下ろす。陶器造りの便器が、ぎしり、と鳴いた。 ジャケットのポケットに手を差し入れ、中から、マイクロSDカードを取り出す。つい先ほど、桜坂からひそかに渡された記録媒体だ。左手の指先でもてあそびながら、鬼頭は右手に嵌めた金色の指輪に、意識を篭めた。部分展開。愛機『打鉄』の籠手の部分のみが出現し、鬼頭の右腕を鎧った。

 

 マイクロSDカードを、右手に持ち替える。五本指タイプのマニピュレータ先端部に搭載されたセンサーが、SDカード内に収められているデータを素早く走査した。ウィルスの類いが仕込まれていないことを確認すると、空間投影式のディスプレイを展開。中のデータを次々に表示させる。ほとんどはテキストファイルだ。そのうちの一つには、『最初に読んでくれ』というタイトル名が、丁寧にもつけられている。

 

「……ふむ」

 

 用足しを偽ることで確保した、プライベートな時間だ。あまり長々と読みふけっていると、体調不良を疑われ、今後の行動に制限を受けかねない。詳細はまた時間のあるときにじっくり読み込むとして、アローズ製作所に何が起こっているのか、そのアウトラインだけでも、と鬼頭は、件のタイトル名を指定した。

 

 空間投影式ディスプレイに表示された文面に目を通して、鬼頭の表情はみるみる硬化していった。「……なんということだ」と、重苦しい呻き声を漏らす。

 

 テキストファイルには、過日、アローズ製作所が謎の無人ISに襲われたこと、迎撃のためXI-01と02、そして桜坂が戦ったこと、その様子を内閣情報調査室の人間に見られていたことなどが、簡潔に記されていた。詳細については別のファイルに記述されているとのことだが、概要にさっと目を通しただけでも、読み取れた問題点は多い。

 

 ――この事件によって生じた問題は、大きなもので三つある。

 

 一つは、自分たちの開発したパワードスーツが、最強兵器ISを相手に善戦してしまったこと。設計主任として、パワードスーツが素晴らしい性能を発揮したそのこと自体は誇らしく思うが、よりにもよって内閣情報調査室という政府側の人間に、その様子を見られてしまった。これは、軍事兵器としての有望性を披露してしまった、と言い換えられる。

 

 第二の問題は、桜坂という超人の存在を、やはり政府の人間に知られてしまったことだろう。もとより、自らの持つ力の存在が世間に知られれば、たいへんな混乱が生じることになる、と嫌っていた男だ。その心の動揺はいかほどだったか。いやそれよりも、政府の人間が真なる超人の存在を知って、どんなリアクションを起こすかだろうか。下手に戦力化を狙って懐柔工作をしようものなら、あの男の性格を考えると、パンドラの箱を開けるよりもよっぽど恐ろしい事態を招きかねないが。

 

 三つ目の問題点は、アローズ製作所を襲った無人ISの存在だ。桜坂たちは知らぬことだが、アローズ製作所が襲撃を受けた時間は、IS学園が謎の無人ISに襲われた時間とまったく一緒。添付されていた画像データを見ても、同型の機体であることは間違いないだろう。すなわち、これらの無人ISを送り込んだ何者かは、同一人物、あるいは同一の組織である可能性が非常に高い。

 

 いったい何者なのか。この世界のどこかで、誰にも知られることなく、世界初の無人ISを完成させたばかりか、二機も量産し、高度なステルス能力まで付与するほどの技術力と、開発力を持った存在。IS学園のみならず、アローズ製作所まで襲ったその意図は何なのか。

 

 ――技術のみに的を絞れば、思い当たる節はあるが……。

 

 無人ISを生み出すほどの技術力と聞いて、思い浮かぶのは一つの顔だ。しかし、彼女が犯人だとすれば、動機が分からない。IS学園のみならばまだしも、アローズ製作所を襲った、その理由が分からない。あの会社と彼女に、接点などないはずだが。

 

 ――桜坂は、会社の外からの援護を求めて、俺にこの事実を知らせたようだが。

 

 自分も、近いうちに桜坂たちと連絡をとる必要がある。あの無人ISを送り込んできた何者かの正体については、自分一人の知恵だけでは辿り着けそうにない。

 

 ――そのためには、なんとしても今回の島外活動を無事に終えねばな。

 

 今回の島外活動を大過なく終わらせることが出来れば、次の機会も得やすいだろう。そのときにまた、情報交換の場を設けられるかもしれない。

 

 決然と頷いた鬼頭は、便器から腰を上げた。洗浄ハンドルを回して、水を流す。洗面台で両の手を濡らし、備え付けのハンドタオルで拭ってドアを開けた。

 

 二人の姿を探して、ぎょっとする。マホガニー製の丸テーブルを挟んで対面に向かい合い、机の上で、がちゃがちゃ、と作業をしていた。スライド、バレル、ハンマー、トリガー、メインフレーム……元々組み立ててあった物を分解し、清掃し、また元通りに組み合わす。自動拳銃の分解清掃だ。警官出身らしい高品はまだしも、娘とさして変わらぬ楯無が拳銃をひそかに携帯していたことに、衝撃を受けずにはいられなかった。

 

 つい先ほどまでかたわらで寄り添っていた楯無の存在を、鬼頭は遠い存在に感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter28「男たちの思惑」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二次世界大戦の後、国際社会はアメリカを中心とする西側陣営と、ソ連を中心とする東側陣営に分かれた。九一年にソヴィエト連邦が崩壊するまでの間、両陣営は、冷戦と揶揄された長い戦争期間を過ごしたが、この時期に、フランスは西側陣営に一応は身を置きながらも、ときにソ連と提携したり、NATO軍事機構からは脱退し距離を取ったり、といった、独自路線の外交戦略を展開していた。これは、同国が二度の世界大戦で壊滅的な被害を被ったこと、また第二次欧州大戦が起こった際に、国際連盟という組織が開戦を止められなかったことと無縁ではあるまい。あの悲劇を二度と起こさぬために。自らの国は、自らの手で守る。そういった意識が、東西どちらの陣営にも過度な肩入れはしない。フランスは、フランスの国益の追求を第一に行動する。資本主義陣営の一員として西側社会に身を置きはするが、アメリカには頼らない……といった、方針の根底を支えていた公算は高いだろう。

 

 さて、東西陣営のどちらにも頼らない独自路線を貫くためには、国を守るための実際手段である軍備もまた、独力で用意せねばならないことを意味する。フランス国軍は陸海空の三軍と憲兵隊からなるが、その装備の多くを、国産兵器でかためていた。陸軍のルクレール戦車や、空軍のラファール戦闘機などはその代表格だ。この傾向は、冷戦構造が崩壊し、二〇〇九年にNATOに復帰した後も、基本的には変わらない。

 

 国産兵器を採用することのメリットはいくつも挙げられる。自国の軍需産業の育成や、兵器開発のノウハウを蓄積出来ること。エンドユーザーたる国軍の意見や要望を仕様に反映させやすいこと。兵器単体の性能だけでなく、兵站などの後方支援も含む全体の運用をデザインしやすいこと。導入に際して、他国の顔色をいちいちうかがわずにすむこと、などがそうだ。

 

 一方、デメリットとしては、完成品を輸入する他国製兵器の採用と違い、開発失敗のリスクを背負わなければならないこと。兵器の開発には時間や、莫大な資金が必要になること。その分が調達費に上乗せされてしまうこと。他国製兵器と一緒に運用する場合、規格の統一などが難しいこと、などが挙げられるだろうか。

 

 特に開発コストの問題は、科学技術が進歩し、兵器の性能が向上するほど、軍の上層部や、政権財務を担当する政治家や官僚たちの頭を悩ませるタネとなっている。先述のルクレール戦車やラファール戦闘機にしても、はじめは国際共同開発でもって調達を試みた。はじめから複数の国で機材を共用する前提で開発を進めることで、最終的な調達費用を少しでも抑えようと考えたのだ。独自路線を貫きたいフランスではあったが、新兵器の開発にかかるコストの高騰ぶりは、この誇り高き国に、方針の転換を余儀なくさせるほどの重石となっていた。もっともこのときは、いずれの開発計画においても参加国同士の調整が上手くいかなかった-―偏った見方で表すとフランスのわがまま――がために、どちらもフランスが単独で作り上げることになってしまったが。

 

 

 篠ノ之束博士がISを発表し、その驚異の性能に全世界がおののいたあの日、フランス軍では、この新時代の兵器を導入するにあたって、国産とするか、海外製品を輸入するかで、大激論が巻き起こった。

 

 白騎士事件によって明らかとなったISの戦闘力を鑑みるに、これを国軍に配備しないことは、国際社会を舞台にしたパワーゲームへの参加権を自ら手放すことに等しい。導入は必須だが、どうやって調達するべきか。フランス伝統の独自路線を堅守するためには、国産化した方が都合は良い。しかし、戦車や戦闘機でさえ、複数国での開発を目指したのだ。戦車も戦闘機も圧倒するISの開発費が、従来の兵器の比でないことは明らか。その負担に、フランスは耐えられるのか。議会は割れ、世論は揺れた。

 

 最終的に、国産化する方向で方針はまとまった。しかし、反対派の意見は方針策定後も影響力を持ち続けた。予算について厳しい制約が課せられ、メーカーの選定作業においても、彼らの発言を無視出来なくなってしまった。

 

 もとより、近年の仏軍の財政は非常に苦しい状況にあった。国防予算のおよそ半分が人件費に費やされ、残る半分も、そのほとんどが主力兵器の導入と運用のために投じられており、新兵器の開発や組織構造の見直しといった、未来のための投資に割ける余力に乏しかった。仏国のIS開発は、こうした財務状況のもと、さらに厳しい予算の中でスタートした。

 

 そうして完成した国産第一世代機は、大方の予想通り、凡作に留まる出来栄えだった。カタログ値こそ当時の他国製ISと比べても遜色なかったが、実際の運用現場からは数々の不満意見がもたらされた。IS競技の世界でも成績はふるわず、最大のビッグ・イベント……第一回モンド・グロッソ世界大会にいたっては予選敗退という最悪の結果に終わってしまった。続く第二世代機の導入にあたって、輸入派の勢力が拡大したのは、当然の成り行きといえよう。

 

 その風向きを変えるきっかけとなったのは、パリ郊外に本社を置くある中堅の企業が、イメージ・インターフェースについて、画期的な新発明に成功したことだった。フランス最大の複合企業体、ダッソー・グループ傘下の会社で、かつてラファール戦闘機の開発に携わった技術者たちが、独立後に起業したデザインワークスだった。代表取締役のファミリーネームを取って、デュノア社を名乗っている彼らは、従来の国産イメージ・インターフェースよりも優れた柔軟性と圧倒的なレスポンス・タイムを実現しながら、製造コストはおよそ三分の二という、驚異の発明品を特許出願した。

 

 フランス政府は、デュノアの技術力に希望を見出した。コストを抑えつつ、高性能なISを開発出来るのではないか、と考えたのだ。仏軍はデュノア社に、次期主力機の開発計画を委託した。開発に際して、彼らが求めた要求は一つだ。モンド・グロッソで優勝を狙える機体を作るように、である。

 

 従前、ダッソー・グループの中でも下から数えた方が早い売上規模でしかなかったデュノア社に、フランス政府は、ヒト・モノ・カネを、一気に投下した。デュノア社はあらゆる意味で指数関数的に巨大化していった。急激な規模の拡大により、社の方針を巡る権力闘争などの諸問題を抱え込むことになったものの、第二世代機の開発自体は、順調に進んだ。

 

 かくして、第二世代の傑作機ラファール・リヴァイブは完成した。先代が世界大会の舞台で屈辱的な敗北を喫したことへの報仇の念がそうさせたのだろう、その機体性能はカタログ値でも、実測値でも、世界のトップ水準を満たしていた。登場後は欧州における様々な国際大会で大活躍を果たし、リベンジ・マッチとなった第二回モンド・グロッソでも悲願のベスト八入り。仏国は雪辱を晴らしたのである。

 

 

 

 ラファール・リヴァイブを開発させた後、デュノア社は本社をパリに移した。フランス政府からの要請で、その方が連絡を取り合う上で都合が良い、との理由からだ。新社屋は凱旋門やシャルル・ド・ゴール広場で有名な第十六行政区画に置かれ、これは勿論、セーヌ川を挟んで隣接する第七行政区画の陸軍士官学校などとの連絡を考えてのことだった。

 

 パリ都心部の高層建築物は、第十五地区のトゥール・モンパルナス五九階建てが竣工した一九七二年の二年後に、条例によって建設自体が禁じられている。必然、パリ市内に建てられたデュノア社の本社ビルは、現代の一流企業の社屋としては少々小ぶりな七階建ての建築物として竣工した。

 

 その最上階、会社の代表のためにしつらえられた社長専用のオフィスルームで、顎髭をたぷりたくわえた壮年の男が、空間投影式ディスプレイと向かい合っていた。デュノア社の社長、アルベール・デュノアだ。部屋の照明をすべて落とし、カーテンを閉めきった暗闇の中、スクリーンライトの光が煌々とその頬を照らしている。

 

 ディスプレイには、IS同士の激しい戦闘の様子が映じていた。かたや、鬼頭智之の駆る打鉄。かたや、IS学園を襲った、フル・スキン・タイプの謎のIS。言うまでもなく、過日IS学園内で行われた、クラス対抗戦を中断させた戦いの記録だ。IS学園に留学中の、フランス人の二年生よりもたらされた映像だった。

 

 件の少女は、IS学園の生徒として日夜操縦技術を磨くかたわら、フランス政府からの密命により、スパイ活動に従事していた。彼女はIS学園を襲った大事件の様子を、まず仏軍上層部に報告。そのとき資料として提出された十四分三二秒間の映像が、軍との関わりを持つデュノアのところにも送られてきたのだった。

 

 アルベールがこの記録映像を見るのは、これがはじめてのことではない。動画を取得して以来、彼は社長室の大型ディスプレイでもって、記録映像を繰り返し何度も視聴していた。今日はこれで三回目の上映だ。映像は謎のISがアリーナの天井シールドをぶち破って場内に侵入したところから始まり、鬼頭智之の振り抜いた上段からの打ち込みが、相手の体を斬割するところで終わっている。今回も見事な真っ向打ちの完結を見届けると、アルベールは空間投影された操作パネルに手を伸ばした。もう一度最初から、四度目の再生を開始する。

 

「今日はこれで何度目かしら?」

 

 背後から、声をかけられた。耳によく馴染んだ、女の声。アルベールはディスプレイに目線を向けたまま呟く。

 

「四度目だ」

 

「そんなに気に入ったの? 彼のこと」

 

「ああ」

 

『この鬼頭智之の目の前で、子どもを傷つけたんだ!』

 

 応じるアルベールの声は穏やかであった。映像の中の鬼頭の怒声に、かき消されてしまう。

 

「ISの登場以来、この世界は変わってしまった。最強兵器ISを動かせるのは女性のみ。その操縦者は、運動神経や適応力の高い若い娘ほど適している。このために、大人が、大人としての役割を果たせなくなってしまった。そんな時代に彼は……トモユキ・キトーは、子どもばかりのあのIS学園で、ただ一人、大人としての役目を果たそうとしている」

 

 子どもを守るのは、大人の義務だ。

 

 映像の中で、彼はそう言い切った。

 

 最強兵器ISを身に纏う子どもたちに、言って聞かせた。

 

「子を持つ一人の親として、尊敬の念を抱かずにはいられないさ」

 

 いまや大企業となったデュノア社の、全社員の生活を背負う立場にある男だ。アルベールの容貌はいつの頃からか強面を常とするようになっていたが、この瞬間、彼は相好を崩し、朗らかに微笑んでいた。

 

「ロゼンダ」

 

「はい」

 

 名を呼ばれ、女が応じた。アルベールは相変わらずディスプレイに目線を向けたまま言う。

 

「私は、決めたよ」

 

「……あの子のことね?」

 

「シャルロットは、IS学園に送る」

 

 アルベールは決然と言い放った。

 

「勿論、最善手とは言い難い。あの子の秘密がばれたとき、IS学園側がどう動くかも分からない。しかし、いまのIS学園には彼がいる。彼ならば、これから先、あの子の身に何があろうとも、きっとあの子のことを守ってくれる。私はこの映像から、それを確信した。

 

 ……彼にとっては迷惑この上ないことだろう。自分のあずかり知らぬところで、勝手に好意を向けられ、勝手に期待されて……。しかし、それでも、私は信じたい」

 

 二度と失うものか。二度と、間違えるものか!

 

 悲憤の咆哮を迸らせる鬼頭の横顔に、アルベールは熱い眼差しを注いだ。

 

「彼は、きっと私の娘の力になってくれる。そう信じたい」

 

 同じ子を持つ親として。

 

 子どもばかりのIS学園にいる、数少ない大人の男として。

 

 ディスプレイの中の男に熱視線を向ける夫の背中を、ロゼンダは優しく抱きしめた。

 

 

 

 

 

 




 基本的に名古屋を舞台にしたお話しでは、フィールドワークというか、なるべく現地に赴いてその状況を確かめるようにしているんですが、さすがに今回の名古屋観光ホテルは敷居が高すぎて、足を運べていません。

 ただ、地下駐車場の描写については、ちょっと前に当時の愛車のカローラアクシオで利用する機会があり、そのときに狭くて恐いな、と感じたときの気持ちをぶつけてみました。

 念のために書いておくと、カローラアクシオは5ナンバー車。全幅は1,695mm。それでも狭く感じたのです。

 ちょっとでもリアリティを感じていただければな、と思います。






 前回のあとがきの続き。

 なぜ、ドイツについて勉強をしたのか。



 原作2巻の内容について、さあ書くぞ! となってすぐ、筆が止まってしまったため。

 原作未読の方がいるかもしれませんので、一応、名前を伏せておきますが、原作二巻登場の新ヒロインが……書けねえ!



 原作第2巻には新ヒロインが二人登場するのですが、そのうちの片方……ドイツからやって来た彼女について、俺、書けねえじゃん、となってしまったのです。

 というのも、彼女はそのキャラクター造形において、“ドイツ軍”という要素をはずせないため。

 彼女を書くには、あの世界のドイツ軍がどういう組織なのかを考えねばならない。これは転じて、あの世界のドイツがどんな国なのかを考えねばならない、ということでもある。そして国とは、そこに生きる人間のことでもあるわけだから、あの世界のドイツ人について考える必要も出てくる。

 IS世界のドイツ軍、ドイツ国、現ドイツ政権、ドイツ人ついて考えるためには、そも現実のドイツのそういったものについての知識が必要不可欠。

 しかしながら自分は、ドイツという国の歴史や、ドイツ人の気質、ドイツ的なもの、といったことについて、あまりにも無知!

 なんせ私がドイツについて知っている知識といえば、カール大帝と赤髭バルバロッサ、フリードリヒ大王、ビスマルク、大小のモルトケ、ナチス、シュトロハイム、スコルピオン、バルクホルンお姉ちゃんくらいのもの。

 これはアカン! となり、勉強を始めたわけです。




 さて、こう書くと、もう一人の新ヒロインについて、フランスのことを勉強しなくてよいのか、という疑問を抱かれるかもしれません。

 これについて、私の答えは、基本、必要ない。

 というのも、フランスからやって来た彼女の場合、フランス人である、という要素が活きてくる場面が、原作にあまりにないんですよ。

 それどころか、彼女の心理描写を読んでいると、どう読んでも日本人的なメンタリティで動いているなあ、と。

 彼女の場合、キャラクター造形で重要なのは、家族についてのことだと思うので、そこさえしっかりしていれば、フランス要素はあまり考えなくても書けるな、と判断しました。

 フランスについての知識が必要となる場面でも、すでに持っているミリタリー関連の本や高校時代の世界史の教科書、Wikipedia レベル――つまり、容易に調べられる範囲――の知識で十分だろう、と。


 こういう理由から、ドイツについての勉強を始めたわけです。

 おかげでなんとか、ドイツ娘を書けそうな自信が湧いてきました。

 おふざけ回は次回で終了です。

 彼女たちの登場を、楽しみにしていただければ幸いです。





























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Chapter29「黄金週間の過ごし方」




ひっそりと投稿。










 

 

 

 

 

 ゴールデンウィーク初日の夕刻。

 

 名古屋市中区は錦にある、名古屋観光ホテルのスイートルーム。

 

 寝室のベッドの脇に置かれたナイトテーブルの上で、電話機が着信を知らせる声を上げたのは、左手首のボーム&メルシェが午前七時を指し示したときのことだった。

 

 リビングルームのソファで中古車情報誌を楽しんでいた鬼頭は、受話器を取りに向かおうと反射的に腰を浮かせた。しかし、同じくリビングでくつろぐ更識楯無が、「取らないでください」と、制止する。代わって寝室に向かったのは、内調職員の高品だ。彼は受話器を取り上げると、威圧的な低い声で誰何した。

 

 電話の相手はホテルのフロントだった。「夕食の用意が出来たのでお持ちしたいのですが」という用件に、高品は一転、明るい声音で「よろしくお願いします」と、返答した。受話器を置き、鬼頭たちに会話の内容を伝える。世界にたった二人しかいない特別な立場にある男は頷いて、大柄な丸テーブルのもとへと向かった。

 

「これから鬼頭さんには夕食を摂ってもらうわけですが」

 

 リビングに戻った高品の両手には、デジタル一眼タイプのカメラが握られていた。

 

「その様子をこのカメラで撮影させてください」

 

「例の、広報用の写真ですね?」

 

「はい」

 

 確認の言葉に、高品は首肯した。日本政府には男性操縦者たちの島外活動中の身の安全を保障するだけの能力がある。お前達に、これと同じことが出来るか? と、諸勢力に対する牽制を目的とした写真だ。鬼頭が了解の旨を口にすると、高品は重ねて言う。

 

「撮影は、ディナーを運んできたホテルマンが、部屋から退出していなくなったタイミングで行います。それまでの間は、変装用のサングラスと、楯無様への配慮をお願いします」

 

「配慮?」

 

「ホテルの従業員にとって、あなた方お二人は、更品親子、という認識ですから」

 

「なるほど。親子らしく接しろ、と」

 

「よろしくお願いしますね、パパ」

 

 丸テーブルを挟んで対面に座った楯無が、からかいの悪意もたっぷりに微笑んだ。辟易とした溜め息をこぼす鬼頭を、高品ら内調の男たちが等しく同情した眼差しで見つめた。

 

 ほどなくして、部屋のドアを誰かがノックした。

 

 SP役の高品がドアの前に立って訊ねると、若い男の声が、夕食を運んできたことを告げた。念のため、ドアミラーから外の様子を確認する。観光ホテルの二階に店を構えるレストラン……日本料理の『呉竹』から派遣されたと思しき給仕係が、三階建てのサービスワゴンをかたわらに待機していた。

 

 高品はなおも慎重にドアを開けた。ボーイの一挙一動に、油断のない視線を置く。

 

 対して、給仕係の男は平然とした態度でワゴンを押してスイートルームに入室した。名古屋観光ホテルは、世界中のVIPから愛用される高級宿だ。警護人から警戒の眼差しを向けられるなんてことは、日常茶飯事なのだろう。特に気分を害した様子を見せることなく、彼はすでにテーブルを囲んでいる更品親子の前に立つと、にこやかに微笑んだ。ワゴンから食卓へ、前菜の海鮮散らしを盛りつけた皿を移していく。

 

「お飲み物は何にされますか?」

 

 三段式のワゴンの一段目に各種のアルコールが、二段目にソフトドリンクの瓶が並んでいた。鬼頭は楯無に、「好きな物を頼みなさい」と、注文を促す。

 

「じゃあ、ワインの赤を……」

 

「こら」

 

「冗談だってば。そんなに睨まないでよ、パパ。……オレンジジュースでお願いします」

 

 事前に練習しておいた小芝居をボーイの目の前で繰り広げる。可愛らしい親子のやり取りを微笑ましげに眺めながら、給仕係の男は二人の前にグラスを並べた。それぞれウーロン茶と、オレンジジュースを注いでいく。

 

 ウーロン茶を選んだのは、内調からの指示を受けてのことだ。一流ホテルが賓客のために常備しているであろう美酒の味を存分に堪能したい欲求は、無論、鬼頭にもあった。しかし、不測の事態に備えるため、と説得を受けた後では、アルコールは頼みづらい。体の中にアルコールが入ると、咄嗟の判断力や運動機能が鈍ってしまう。たとえば、ホテルからの素早い脱出が求められるような緊急事態に遭遇した場合に、足枷になるようなことは控えてほしい、というのが、彼らの弁だった。

 

「コース料理の最後、甘味についてですが、今日は抹茶の氷菓子と、柚子のシャーベットを用意しております。どちらになさいますか?」

 

「わたしは柚子がいいな」

 

「ふむ。それじゃあ私は……」

 

「あ、パパには寒天ゼリーでもつけておいてください。糖質オフで、ゼロ・カロリー的なやつを」

 

「なにッ!?」

 

 事前に用意された台本にはなかったはずの台詞。動揺する鬼頭の口から、思わず荒々しい声が飛び出す。

 

「お、おい、それは……」

 

「なによ、文句あるの?」

 

「当然だろう。こういうときくらい、好きなものをだね」

 

「昨年、健康診断の結果、血糖値」

 

「うぐっ」

 

「陽子ちゃんから聞いてるよ~。……パパの健康を守るのは、娘の務めです」

 

 陽子の名前を出されては、何も言えなくなってしまう。鬼頭は苦渋に満ち満ちた表情で、「ご無理を言って申し訳ありませんが、それで」と、ボーイに言った。

 

 若い給仕係が苦笑しながら、「料理長に、あまり砂糖を使わない氷菓を作れないか、頼んでみます」と、言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter29「黄金週間の過ごし方」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼頭が観光ホテルでコース料理の最後を飾る氷菓子の甘みに舌鼓を打っていた、ちょうど同じ頃。

 

 IS学園は一年生用の学生寮の廊下を、凰鈴音は肩を怒らせながら歩いていた。

 

 緊張に頬を強張らせながら目指すのは、鬼頭親子が暮らす1122号室だ。先日のクラス対抗戦の後、彼らに対する数々の暴言について謝罪をしなければ、と胸に誓った彼女だが、あれから数日を経たいまだに、その機会を設けられずにいた。原因は明白だった。鬼頭たちの側が、鈴からの接近を避けているためだ。

 

 過日の自分が鬼頭親子に叩きつけてしまった発言は、どうやら、彼らがひそかに抱え持つ心の傷を抉るような内容を含んでいたらしい。あの日以来、彼らは自分のことを露骨に避けるようになった。自分が話しかけると、「いま忙しいので」と、会話を打ち切ってしまうし、二クラス合同の実習などで顔を合せる機会があっても、事務的なこと以外は一切口にしない。挙げ句鬼頭にいたっては、自分の姿を見かけただけで、その場から踵を返す始末だ。対抗戦の以前はどうとも思わなかったそんな態度も、彼らに対し謝罪をしたいと思うようになってからは、見る度、触れる度に、鈴の心を苦しめた。自分は、彼らからそんな頑なな反応を引き出してしまうほどのことを、やってしまったのか。後悔の念が募った。

 

 その一方で、鈴は鬼頭親子のあからさまな態度を腹立たしく思ってもいた。先の発言については、自分が全面的に悪かった。鬼頭親子の抱える事情を知らず、関心さえ持たず、それなのに、どうせお前もそういう大人なのだろう、とその為人を勝手に決めつけ、罵り、糾弾し、傷つけた。そのことについて謝りたい。いや、謝らせてほしい――。と、自分がそんな殊勝な気持ちでいるのに、お前達のその態度は何だ!? どうして謝らせてくれない!? 自分でも理不尽な怒りとは思うが、そのようなことが何度も続くと、苛立ちを覚えずにはいられなかった。

 

 謝罪という行為の目的は、相手からの許しを得るためは勿論だが、何よりその本質は、心の屈託を少しでも軽くしたい、気持ちをすっきりさせたい、といった、快感を得ることにある。それがなかなか果たされない現状を、鈴はやがて憎々しく思うようになっていった。

 

 だんだんと辛抱たまらなくなってきた彼女は、なんとしても自らの欲求を叶えんと、相手から逃げ場を奪う作戦を講じた。これまでは、気まずさや、二人の生活をこれ以上脅かしたくない配慮からあえて避けてきた1122号室に、直接赴くことにしたのだ。あそこならば、忙しい、時間がない、などの、ふざけた理由から逃げられてしまう公算は低いだろう。夜の遅い時間帯を攻めるのも、これから外出の予定がある、などの言い訳を封じるため。残る懸念事項としては、部屋に入れてもらえるかどうかだが、幸いにして自分は専用機持ち。最悪、実力行使でもって入室させてもらおう。

 

 ――今日こそは、謝らせてもらうんだから!

 

 親子が暮らす空間を目指す鈴の足取りは、力強く、それでいて重たげだった。鬼頭親子に対する申し訳なさと、自分の思い通りに事態が進まぬことへの怒り。相反する感情が、彼女の運動動作を複雑怪奇なものにしていた。

 

 のみならず、表情も硬い。不機嫌さも露わな歩き姿は、すれ違う者を寄せつけぬ異様な雰囲気を纏っている。

 

 結果、特に障害もなく目的の部屋の前に辿り着いた鈴ではあったが、噂好きの女子高生たちの生活空間でそんな態度をとれば後日どうなるか。少しだけ憂鬱な気持ちになった。

 

 さて、部屋のドアの前に立った鈴は、まずインターフォンをプッシュした。少し待ってみるが、返答はない。もう一度押しても、やはり反応なし。留守だろうか? たしかに、この時間であればまだ寮の食堂でゆっくり過ごしていてもおかしくはないが。

 

 ――それならそれで、待たせてもらおう。

 

 ゴールデンウィーク期間中とあって、普段よりも利用者の少ない食堂が閉鎖される時間は早い。ここで待っていればそのうち戻ってくるだろう、と鈴は扉に対し踵を返し、背中を預けた。

 

 

 

「うわぁ……、これって、天蓋付きベッドってやつ?」

 

 ところ変わって、こちらは同じ一年生学生寮、セシリア・オルコットの部屋。

 

 寝間着姿で友人の部屋にやって来た陽子は、目の前に広がる光景に対し呆れた表情を浮かべた。まるで近世ヨーロッパのお城を舞台にした映画のセットをそのまま持ってきたかのような、高級感あふれるインテリアの数々。椅子も机も、学園側があらかじめ用意した備え付けの物ではなく、セシリアが英国の実家より持ち込んだ私物でかためられている。刺繍の美しいペルシャ絨毯。壁を天井近くまで覆い隠す巨大な衣装棚……。間取り自体は自分たち親子の暮らす部屋と大差ないはずなのに、ずいぶんと違った印象だ。見た目の煌びやかさ、豪華さは勿論だが、なんというか、空気が美味しい。心なしか、良い匂いさえする。

 

 特に目を惹くのが、部屋の真ん中に鎮座する、瀟洒な造り込みをした天蓋付きのベッドだ。たっぷりクイーンサイズはあろうマホガニー製の寝台の上に、見るからにふかふかそうな分厚いマットレスと、純白の羽毛布団が敷かれている。ヘッドボードには薔薇を象った意匠の彫刻が施され、素人目にも、気品のようなものを感じさせた。

 

 肝心のカーテンのデザインも、寝台そのものの偉容に負けず劣らず素晴らしい。天蓋付きベッドの起こりは、中世時代のヨーロッパ。独立した寝室という概念がなかったこの時代、上流階級層たる貴族の暮らす屋敷ですら、寝台は大広間に置かれるのが普通だった。そこで、就寝時にプライベートな空間を確保するために、寝台に天蓋を取り付けたのが始まりとされる。すなわち、寝室の概念が一般化している今日の先進諸国においては、ベッドにカーテンを取り付けるという発想は、嗜好品や、贅沢品としての側面が大きい。考えようによっては、成金趣味とさえとれてしまう物なのに、セシリアの寝台を囲う薄手のカーテンは、そういったいやらしさを感じさせないどころか、強烈な上品さを印象づけた。ところどころに施された白薔薇の刺繍が可憐である。

 

 陽子がセシリアの部屋を訪ねるのは、これが初めてのことだ。普段の言動や、会社をいくつも経営する名家の出というパーソナル・データから、日用品などさぞや高級な物を愛用しているのだろうと予想はしていたが、これは……、ちょっと、予想外だった。

 

「敷いてあるお布団とかも高級そうだし。……ああ、このクッションとか、やばいくらいふっかふかだ。絶対に、高い。うん。間違いない。なんだこれは……。たまげたなぁ」

 

「そんな……お世辞が過ぎますわ」

 

 庶民感覚から驚きの溜め息をこぼしてばかりの陽子のかたわらで、同じく、ネグリジェ姿のセシリアが気恥ずかしそうに言った。

 

「人に自慢の出来るほどの物ではありません。むしろ小さすぎて、恥ずかしいくらいなのですから」

 

「いや、これで小さいってどんだけよ」

 

 平然と言ってのける金持ち特有の感覚に、背筋が凍った。

 

 軽い目眩に頭を抱えながら、陽子は、そういえば、と室内をゆっくりと見回す。部屋の端の方に追いやられている、自分もよく見慣れた寮備え付けのベッドを見ながら言った。

 

「ところで」

 

「はい?」

 

「如月さん、本当によかったの? 突然、お邪魔して」

 

「あぁ、うん。いいよ、いいよー。……セシリアのgoing my way (強引ぐ・まい・うぇい)に振り回されるのは、この一ヶ月で慣れたし」

 

 ベッドの上でIS教本に目線を落としていた如月キサラが、顔を上げて言った。同じ一年一組のクラスメイトで、セシリアのルームメイトでもある人物だ。しかしながら、相方の英国貴族の令嬢が個人的に持ち込んだ数々の特注品によって、彼女に許されたパーソナルスペースは非常に狭かった。普段からそんな環境を強いられている上で、今夜自分までもがお邪魔して騒がしくしてしまい、相当なストレッサーになってはいないだろうか。

 

 今夜は鬼頭が不在だから、独り寝は寂しいのではないか、と心配したセシリアが、自分の部屋を訪ねたのは三十分ほど前のこと。「いや、誰かと一緒じゃないと寝られないとか、そんな年齢じゃもうないし」と、断る陽子の手を強引に引っ張り、自室に連れてきたセシリアは、どうやら、ルームメイトの許可などは取り付けないまま行動していたらしい。いつぞやのときのように小脇に、ひょい、と抱えられた陽子の姿を見て、キサラはたいへん驚いた様子で、ルームメイトの帰りを出迎えた。ちなみに、そのときの第一声は、「幼女誘拐!?」だった。おいコラ、誰が幼女じゃい。誰が!?

 

「なら、よかったけど。……嫌だったら言ってね? 私ってば、わりと口数の多い方だって自覚しているし、あんまりうるさいようだったら、出て行くから」

 

「大丈夫だってば。……そりゃあ、セシリアがまるでお気に入りのぬいぐるみを抱えているみたいに連れてきたときには驚いたけどさ、いまは歓迎しているんだよ、これでも。……私も陽子とは、一度ゆっくり話したい、って思っていたし」

 

「私と?」

 

「うん。鬼頭さんのこととか」

 

「父さんの?」

 

「うん。ほら、私たちが知っている、学園での鬼頭さんって、よそ行きの顔っていうか、娘の通っている学校の皆さんの前で、恥ずかしいところは見せられない……、みたいなさ。自然体とは、ちょっと違うと思うんだよね。普段、家での鬼頭さんのくつろいだ姿とか、どんな感じなのかな、って」

 

 キサラの言葉に、陽子は得心した様子で頷いた。父親と一緒に寝起きする、という名古屋で暮らしていた頃とさして変わらぬ環境に身を置いている自然さからつい忘れがちになってしまうが、いまや自分の父は、世界でたった二人しかいない、特別な立場の人間だ。それでいて、日本政府による情報統制の影響もあり、私生活などは謎に包まれている部分が多い。自分も外野の立場であれば、きっと同じように気になっていただろう。

 

「せっかくだから教えてよ、鬼頭さんのことも、陽子のことも。同じクラスメイトなのに、いままであんま話したことなかったしさ」

 

「そういえば、そうだったね」

 

「私も聞きたいですわ。陽子さんと二人きりのとき、鬼頭さんはどんな様子なのか」

 

「ね、気になるよね。お父さんと同じ学校に通っているって、どんな気分なの?」

 

「ううん……。毎日が、授業参観?」

 

 普段、授業を受けているときのおのが心情を思い返して、陽子は苦笑した。

 

「間違った答えを言ったりしないか、常に緊張しいしいだよ。先生、お願いだから私を指名しないで! って、しょっちゅうお祈りしてる」 

 

「うわぁ、肩こりそう」

 

「そうかしら? 父親に良いところを見せてやるぞ! って、私なら奮起するところですが」

 

 幼い頃に両親と死に別れているセシリアだ。そういう機会に恵まれなかった彼女は、陽子の発言に不思議そうに呟いた。

 

「……セシリアってば、結構、ファザコンだよね」

 

 過日のクラス代表決定戦に向けた準備の過程で、オルコット家を襲った不幸について知った陽子は、優しい面差しで友人の顔を見つめた。

 

「や、陽子がそれ、言う?」

 

と、如月キサラが呆れた表情でぼやいた。

 

 

 

「……遅い!」

 

 1122号室の扉に背中を預けることすでに一刻あまり、一向に帰ってくる気配を見せぬ鬼頭親子への苛立ちを発露したい気持ちから、凰鈴音は空に向かって吠えたてた。ただでさえ寮の奥まった場所にある1122号室の前、消灯時間が迫りつつあることもあって誰もいない廊下に、少女の声が寒々しく響き渡る。

 

 寮の食堂はとうの昔に完全閉鎖の時間を迎えていた。それなのに、鬼頭も陽子もまるで姿を現さない。いったい、どこで道草を食っているのか。自分の知る限り、IS学園の学生寮にそんな寄り道をする場所なんてないはずだが。

 

 それでなくとも、消灯時間が刻々と近づいてきている。一年生用の学生寮の寮長は、あの千冬だ。規則を守らない者に対しては、手心一切なしの罰を叩き込んでくるに違いないのに。二人とも、彼女のことが恐ろしくないのか!?

 

「ああ、もう! この私がこんなにも待っているっていうのに、あの二人……! いったい、どこほっつき歩いてるのよ!」

 

 言葉にするだけでは感情の昂ぶりを消化しきれないのか、鈴はとうとう、ゲシゲシ、と親子の部屋の戸をブーツのつま先で蹴り始めてしまう。自分でもなんて子どもっぽい八つ当たりなのか、と自覚しつつも、攻撃行動を止められなかった。

 

「こんな遅い時間まで出歩いているなんて、常識ってもんがないのかしら!?」

 

「……ほほう」

 

 蹴り込みのため部屋の扉と正対していた鈴は、背後からの接近に、声をかけられるまで気がつけなかった。耳馴染みのある声に、びくり、と肩が震えてしまう。

 

 おそるおそる振り返ってみれば、鍛えられた足運びでもって音もなく接近を果たした寮長の顔があった。不機嫌そうに柳眉を逆立て、自分のことを睨んでいる。すでに夜の遅い時間だからか、体育やIS実習の授業などで着用する姿がお馴染みの、白いジャージを着込んでいた。

 

「え、あ、う、そ、その……ち、千冬さん……」

 

「織斑先生、だ。その台詞は、そっくりそのまま、お前にぶつけやろう」

 

「ちょっ、体罰反対! それにまだ、消灯時間前でしょ!? まだ出歩いていても良い時間帯でしょ!?」

 

「たしかにな。しかしだ、凰。お前、いまが何時何分か、ちゃんと認識しているか?」

 

 ドスを孕んだ口調で指摘され、慌てて携帯端末で時刻を確認する。消灯時間まで、残り三十秒しかなかった。千冬が、にっこりと微笑む。天使のように美しい美貌だった。

 

「あと三十秒以内に部屋に戻れなければ、分かっているな?」

 

 鈴は悲鳴を上げながら自室へ向かって駆け出した。

 

 三十五秒後、一年生寮の廊下に、打突の快音が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

「本当によろしいのですか?」

 

 名古屋観光ホテルのスイートルーム。

 

 寝室のベッドに腰かける鬼頭は、明日の予定についてブリーフした後、リビングに戻ろうとする楯無の背中に声をかけた。「何がです?」と、振り向いた彼女に、彼は渋面を隠すことなく言う。

 

「皆さんが夜通しの警護をしてくれているのに、私一人だけが、ベッドで横になることについてです」

 

 内調の職員らが懐に忍ばせている黒革の手帳によれば、明日の自分の起床予定時刻は午前六時。それまでの間、彼らは交代で自分の安眠を守ってくれるのだという。一人がリビングで待機し、一人は部屋の外で不審者の影がないか見張りをする。残る二人は、交代の時間まで仮眠を取る、という役割分担だそうな。なるほど、一人あたりの負担をやわらげるべく、色々と配慮しているようだが、それでも、いつ来るとも知れぬ……いや、そもそも来るかどうかも分からない敵に対して、警戒心を持ち続けるというのは、気力体力ともに多大な消耗を強いるはずだ。

 

「そんな中で、私一人だけが暢気にいびきをかいていろ、というのは、たいへんいたたまれない気持ちにさせられるのですが」

 

「我慢してください。いまの鬼頭さんは、護衛対象の要人なんですから」

 

 楯無は諧謔を孕んだ口調で言った。

 

「明日のこともあります。ぐっすり休んで英気を養ってもらわなくては、護衛の私たちが困ってしまいますわ」

 

 何か不測の事態に襲われたときに、すかさず反応出来るよう、疲労はなるべく体に残さず、体力の回復に努めてほしい。そうしてくれなければ、自分たちが困ってしまう。

 

 古今東西、要人警護の仕事を完遂するためには、護衛する側の準備は勿論のこと、護衛される側の協力がなにより不可欠だ。その双方が不十分だった代表的な失敗例として、たとえば、一九一四年のサラエボ事件が挙げられる。

 

 事件の背景にあったのは、二〇世紀が始まる以前から存在していた、危険なまでに燃えやすいナショナリズムの考え方だった。イギリス、フランス、ポーランド、ドイツ……。ヨーロッパの其処彼処で、国粋主義、民族主義のうずみ火が燃えていた。

 

 しかし、他のどこにも増して激しい火種を抱え込んでいたのが、多言語国家のオーストリア帝国だった。主としてドイツ人とハンガリー人が支配する国だ。だが、多くの抑圧された民族グループを抱える国でもあった。セルビア人、クロアチア人、チェコ人、スロバキア人。帝国からの独立をスローガンに掲げる彼らと対決したのは、老帝フランツ・ヨーゼフの曾甥にして皇位継承予定者の第一位、フランツ・フェルディナント大公。彼は巧妙な三重連邦政策でもって、民族主義者たちの不満を軽減しようと企てた。ドイツ人とハンガリー人、そして各種のスラブ系民族集団を帝国の内部で統合し、共通の経済的利害で束縛する代わりに、それぞれに相当程度の自治を与える、という、アメとムチを準備したのだ。

 

 大公のこうした考えに対し、帝国からの完全独立を目指すセルビア人たちは拒絶の意志を示した。過激派に属する者たちなどは、大公が皇位につく前に消し去るべきだ、と、公然と言い放った。当時のセルビアは独立の王国だったが、近隣諸国のセルビア系住民も統合して大セルビア国家を再建したい、との願望が広がっていた。セルビア国家回復主義者のリーダーたちは、セルビア人統一に挺身する秘密結社『黒い手』に続々と結集していった。「本組織は知的宣伝よりもテロリズム活動をよしとする」と、公言してはばからぬ彼らは、大公夫妻のサラエボ訪問を知ると、早速、セルビアの首都ベオグラードに置かれた本部で、暗殺計画を練った。

 

 その後に起こった連鎖反応的大事件のことを思えば、彼らの企ては、仔細を知るほどに、よくぞ成功したな、と驚嘆せずにはいられぬほど、周到さからは縁遠い杜撰な計画書にもとづいて実行された。実行犯の重責を背負わされたのはたった六人の若者たちであり、その社会的背景に目線をやれば、この計画がいかに無責任なものだったかが分かる。学校からの脱落者であり、社会からつまはじきにされた、いわゆる、ろくでなしと定義される者たちであった。一人は教師を殴って学校を追われた男。もう一人の十七歳の少年にいたっては、数学で落第点を取った上に停学処分となったことを悔いて自殺を考えていたところ、この陰謀の存在を知り、愛国的自殺の絶好のチャンスと見なすような輩であった。

 

 テロリストたちのこうした動きに対し、運命の六月二八日の朝、サラエボの町にやって来たフェルディナント大公夫妻を出迎えたのは、当初の計画よりもずっと手薄で、準備不足な警備態勢だった。一行の予定ルートに沿って軍の兵を配置したい、という現地軍司令の意見は、市民感情を逆撫でするとして却下された。大公らの警護は、僅か六十人ほどの地元警察に一任されたである。警察はこの日のために、六台の車輌と、特別警備隊を準備していたが、手違いにより、そのうちの何名かは護送車に乗り込むことが出来なかった。

 

 午前十時十分、大公夫婦を乗せたグラーフ&シュティフトに向かって、時限爆弾が投じられた。爆弾はオープンカーの折りたたまれた幌に当たって跳ね返ると、路上を転がり滑り、後続車輌がその上に到達したところで炸裂した。

 

 暗殺未遂を受けて、一行はこの後の行動をどうするべきか意見を衝突させた。大公の侍従のルメルスキル男爵は、軍への応援要請を提案したが、現地総督のポティオレクは、「兵士たちは大公の警護に相応しい礼服を持っていない」として、これを遮った。行幸は、相変わらず手薄な警備態勢のまま行われたのである。

 

 非協力的だったのは総督ばかりではない。護衛対象の大公夫妻もまた、暗殺未遂の恐怖を忘れたかのように、予定通りのスケジュール管理に固執した。事前の取り決め通り、サラエボ市庁舎での式典を終えた後も、よせばいいのに、先の爆発騒ぎで負傷した者たちを見舞いたい、と予定にない行幸まで提案した。ポティオレクはなんとしたことか、その求めに応じた。一応、夫妻の安全を確保するため、車の運転手たちに走行ルートの変更を指示したが、彼の命令伝達は徹底されなかった。

 

 ポティオレクが新たに指示した走行ルートは、混雑が予想される街の中心部は避けて、病院まで川沿いの道を真っ直ぐ進むものだった。しかし、先導する二台は道をはずれて、街中へと進んでいく。大公を乗せた三台目もこれに続こうとしたため、ポティオレクは運転手に停車するよう命令した。運転手が慌ててブレーキを踏み、車輪が回転を止めたまさにその場所に、ガブリーロ・プリンチプは待機していた。かくして、プリンチプの手元で鳴り響いた銃声は、旧世界の没落を知らせる鐘の音となったのである。

 

 鬼頭にはオーストラリア大公夫妻のような振る舞いは厳に慎んでもらいたい。こちらの言うことをよく聞き、不必要な行動はしない。そうしてもらなければ困ってしまう。楯無の言うことは、いちいちもっともであった。鬼頭は不承不承、彼女の言に頷いた。

 

 楯無は満足そうに微笑むと、再び踵を返して寝室の戸を閉めた。リビングでは自分とともに最初の三時間を担当する高品が、ワイシャツの上に防弾ベストを着込んだ装いで資料を読み込んでいる。楯無の顔を見るや、「彼は納得してくれましたか?」と、訊ねてきた。

 

「ようやく、ね。ある意味新鮮だったわ。ああいう反応は」

 

「我々が警護につく要人といえば、政治家や大企業の重役など、護衛されることに慣れている方々ばかりですからね」

 

「世界でたった二人しかいない男性操縦者ってことで忘れがちだけど、あの人自身は、ちょっと前まで普通の一般人だったものね」

 

「警護任務においては、護衛される側が、護衛する側を気遣うことほど迷惑なことはない、という原則を、知らなくても当然でしょう」

 

 呟いて、高品はアームチェアから立ち上がると、丸テーブルの上に置かれたP230自動拳銃と、それを収めるためのショルダーホルスターを手に取った。ホルスターを上半身に巻きつけ、椅子の背もたれにかけておいたビジネススーツのジャケットに袖を通す。これで一見した限りは、要人警護の任をおびたSPだとは思われまい。

 

「それではお館様、外の見張りに行って参ります」

 

 鬼頭の耳目がなくなったからか、高品は内調職員ではなく、更識家に仕える従者一族の立場から楯無に言った。暗部組織の頭領たる少女は、うん、と頷き、それから「あ、そうだ」と、思い出したように口を開いた。

 

「いまのうちに聞いておきたいのだけど」

 

「なんでしょう?」

 

「経験豊富な年長者としての意見を求めます。今日一日、鬼頭智之と一緒に過ごしてみて、彼のことをどう思いましたか?」

 

「……ふむ」

 

 リビングから玄関に向かおうとしていた高品は、立ち止まってドアに背中を向けると、束の間、考え込む素振りを見せた。更識家現当主がどんな意図からこの質問をしたのか。彼女の発言を一言半句噛みしめる。

 

 更識家の当主という、楯無の立場にまとわりつく責務は複雑だ。日本政府と更識、双方の利害を追求せねばならない。この二つはときに二者闘争的な関係に陥ることがあり、たとえば日本政府に利をもたらす出来事が、更識にとっては害となる、といった具合だ。

 

 鬼頭智之についても、日本政府は彼を手なずけることが出来れば自分たちにとっての利益となる、と考えているようだが、更識家にとってはどうか。日本政府の意に沿うようなはたらきをしたがために、かえって更識の家名を危うくするような事態に陥りはしないか。彼という人物を、慎重に、見極める必要があろう。

 

 ――お館様は少しでも多くの判断材料を求めておられるのだ。

 

 得心した高品は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……人物評を述べられるほど、深い付き合いも、情報の分析もすんでおりませんので、感想程度の意見になってしまいますが」

 

「構いません。忌憚のない意見が欲しいのです」

 

「分かりました。率直に言って、普通の男、というのが、私の感じたことです」

 

 高品は寝室と居間とを隔てる扉に目線をやった。

 

「車が好きで、時計が好きで。娘を愛し、亡き息子のことをいまも愛している。自分の夢のために。家族との生活を守るために。日々仕事に励んでいる。そんな、日本のどこにでもいるような、普通の男です。ISと関わることさえなければ、こんな窮屈な環境に身を置く必要などなかったはずの男です。

 

 無論、天才的な頭脳の持ち主ではあります。たとえISと関わらなかったとしても、いずれは世界に名を馳せる功績を歴史に刻んだことでしょう。ですが、その場合でも、ここまでの扱いにはならなかったはずです。世界中の暗黒組織から、その身を狙われるような事態には」

 

「普通の男、ね」

 

 高品につられて、楯無も憂いに濡れた眼差しを寝室へと続くドアに向ける。更識の主従はしばしの間、扉の向こう側で横たわる、特別な立場にある、普通の男を取り巻く環境を思って表情を曇らせた。

 

「……もう一人の方は、どう思いました?」

 

 寝室のドアを見つめたまま、楯無がまた訊ねた。目的語をあえて具体化しない言い回し。しかし、高品には誰のことを指して言っているのか、すぐに分かった。鬼頭智之と並び立つ、もう一人の天才。最強兵器ISを、生身でもって撃破した、文字通りの超人。

 

「もう一人については、鬼頭智之にも増して接触時間が短く、また現状集められた情報も少ない。本当に、第一印象を述べる程度の感想になってしまいますが」

 

「構いません」

 

「分かりました」

 

 高品は頷くと、険しい面持ちで楯無の顔を見つめた。

 

「……危険な男、というのが、私が彼に対して抱いた、第一印象です」

 

「危険」

 

「はい」

 

「どうして、そのように?」

 

「お館様も、感じられたのでは?」

 

 高品を見つめ返す楯無の面差しも、険を帯びている。彼らは等しく、アローズ製作所のオフィスにはじめて足を踏み入れたときのことを思い出していた。

 

「パワードスーツ開発室に一歩踏み込んだ瞬間、」

 

「ええ」

 

「心臓を、見えない手で鷲づかみにされたかと思いました」

 

「……そうね」

 

 僅かに怯えを孕んだ呟きに、楯無は頷いた。

 

「正直、背筋が震えたわ」

 

「あのとき感じた恐怖の源泉がどこにあるのか。原因はすぐに分かりました。鬼頭智之に寄り添う我々のことを、彼が、ほんの一瞬だけ、睨みつけたためです。友人であり、部下でもある鬼頭智之に、我々がよからぬアプローチを仕掛けていないか、警戒心からそうしたのでしょう」

 

 もとより、仁王の如き面魂の大男だ。太く黒々とした眉を逆立て、大振りな双眸を三白眼へと変じて威圧されれば、高度に訓練された屈強なスパイたちをして、恐怖からの胴震いを禁じえない。ましてや、その人物が最強兵器を素手で撃滅しうるほどの超人と知っていれば尚更だろう。

 

 高品の言葉に頷く楯無だが、同時に、それだけでは得心しがたい、と疑問にも思った。それだけでは、恐ろしい、という感想を抱くことはあっても、危ない、という考えには至るまい。更識の従者がかの超人のことを、危険な男、と評した理由は、他にあるはずだった。

 

 事実、高品の話はこう続いた。

 

「我々に対する視線の鋭さに気がついたとき、私は、二つの理由から彼のことを恐ろしいと感じました。一つは、彼の持つ力に対する恐怖です。相手はISを徒手空拳で破壊してしまうような存在です。万が一、敵に回すようなことがあれば、ひとたまりもない。懐に忍ばせている拳銃など、何の役にも立たないだろう。……そういう、我が身に迫るかもしれない、生命の危機に怯えてしまったのです。彼の不興を買うことだけは、してはならない。強く、そう思いました。

 

 もう一つの理由は、行動の裏に潜む、彼の腹中を想像してしまったがためです」

 

 威圧の意思を篭めた眼差しを、入室してきた慮外なる部外者たちに向ける。言葉にすればたったそれだけ、実際の動作としても、せいぜいが首をほんの僅かに傾ける程度の些細な行動にすぎない。しかし、本来であればあの場所は、そんな小さなアクションさえ許されないはずの空間だった。

 

 いまやアローズ製作所は内調の監視下にある。あの場所で自分たちに反抗的な態度をとれば、最悪、内調の背後に控える日本政府を敵に回すことになりかねない。これは、今日の日本における政府と国民の関係性を考えると、国家を敵にするのと同義だ。世界有数の軍事力・経済力・技術力を持った国が、牙を剥いて襲いかかってくるのである。

 

 にも拘らず、彼はあの空間で、公然と敵意の眼差しを叩きつけてきた。日本国を相手取ることなど一切恐くない。そう言わんばかりの態度だ。そしてその姿に、高品は恐怖を覚えたのであった。

 

「日本国など恐れるに足らず。彼ほどの力の持ち主であれば、そう考えていたとしても、おかしくはないのかもしれません。しかし、仮にそうだとしても、普通であれば、いささかなりとも躊躇うはずです。日本国を敵に回せばどんなことが起きるか。想像し、恐怖し、警戒するはずです。しかし、彼の態度からはそういった躊躇の念が一切感じられなかった。この意味を考えたとき、恐怖から、呼吸が止まるかと思いました」

 

 かの人物は、すでに日本国と戦う覚悟を決めている。日本国を敵に回してもよいと考えている。だから、あの空間で、日本政府の意思の代弁者たる内調職員の自分たちに、敵対的な態度をとることに躊躇いがなかった。迷いがなかった。

 

「大国日本を相手に、ああもあっさりと立ち向かう覚悟を決められる。恐ろしい男です。しかし、それ以上に、危険な男です。彼には、常識というものが適用出来ない。いかに超常の力を持っていようと、普通の人間であればこう考えるだろう、こう行動するだろう。そんな予測が、一切通用しない。あれほどの能力を持った男が、です。これはとても恐ろしいことです」

 

 楯無の頭の中に、自然と、一つの名前が思い浮かんだ。篠ノ之束。彼女もまた、人智を超越せし能力を持ちながら、人の世の常識が一切通用しない、怪物だ。

 

 高品も同様の連想をしたのだろう。だからこそ、桜坂某を指して、危険な男と評したに違いなかった。

 

「あの男は虎です。上手く飼い慣らすことが出来れば、これ以上に頼もしい存在はいません。しかし、懐柔に失敗すれば、容赦なく牙を剥き、爪を突き立ててくることでしょう。出来ることならば、関わること自体、避けたい相手です」

 

「……それでも、彼の存在を知ってしまった以上、日本政府としては彼に関わるざるをえません」

 

「更識としては、関わるべきではないと思います」

 

「日本政府と更識の利害が競合してしまう、か」

 

 楯無は深々と溜め息をついた。望む関係が最終的にどういうものとなるにせよ、もはや日本政府は、桜坂という人物に対し、まったく無関心ではいられない。それに対して、彼とはなるべく距離を置きたい更識。こういう状況では、更識家最大の後援者たる日本政府が、自分たちの敵に回る可能性さえある。

 

 勿論、そういった事態を想定して、日本政府以外の他勢力からの協力を得られるよう、個人的なつながりを築いてはいるが。

 

「いつでも頼れるように、国家代表としてのお仕事も頑張らなきゃ、だわ」

 

 気乗りしない様子で呟いた楯無に、高品は同情した眼差しを向けた。

 

 

 

 

 

 

 名古屋市東区は、位置的に名古屋の都心部を構成する行政区画だ。全域が市街地であり、住宅街としての印象が強いが、区の南西部には主要な企業の本社・支社が建ち並ぶ商業地域となっており、日本三大経済圏の一角……名古屋圏の、中核を担う地域でもある。長年、ドーナツ化現象によって人口の減少に悩まされていたが、近年は大曽根駅周辺の再開発や、マンションの建設ラッシュなどによって、人口は着実に伸びており、名古屋十六区で最大の人口密度を記録している。

 

 桜坂が現在の住居としている賃貸マンションは、東区の中でも中央に位置する徳川町にある。尾張藩二代目藩主、徳川光友の隠居所の大曽根御屋敷があったことからこの町名が名づけられた町で、彼のマンションはまさにこの御屋敷跡……現在の徳川園からは、指呼の距離の場所に建っていた。十四階建ての高層マンションで、建物の裏手にはこぢんまりとした駐車場が設けられている。駐車場は地下にもあり、こちらの方が広々としていることもあって、比較的お金を持っている者たちの多くは、地下駐車場を利用するようにしていた。徳川町のあたりは海抜一六メートルと、東区内では比較的高い位置にある土地なので、冠水の危険も低い。もっとも、愛知県は土地の大部分がもともと海の中にあった地域だから、まったく問題がないとは言えないが。

 

 地下駐車場に愛車のカムリを駐車すると、桜坂は階段を使って一階のエントランスへと向かった。賃貸マンションのセキュリティはオートロック式だ。エントランスには風除け用の一枚目と、防犯用の二枚目の、二枚の扉があり、一枚目までは誰でも入れるようになっている。電子式の解錠パネルがある場所までやって来た桜坂は、二枚目の扉の前でにこにこ笑っている男を見て、思わず顔をしかめた。口の中で、今日もか、と呟く。

 

「今日は遅いお帰りでしたね?」

 

 声をかけてきたのは、内閣情報調査室の城山悟だった。過日の襲撃事件以来、日本政府との連絡役という建前のもと、アローズ製作所――とりわけパワードスーツ開発室――に連日入り浸っているスパイだ。ここのところ毎日、自分の帰りをエントランスで待っている。曰く、謎の無人ISを送り込んできた者たちの正体が分からない現状では、敵の狙いはアローズ製作所にあるとして行動をするべきである。社員たちの身の安全を守るためには、行き帰りの監視は不可欠である、とのこと。言い分は分かる。理があることも認めよう。とはいえ、こうも毎日続くと、さすがにストレスが溜まってしまう。桜坂はうんざりした様子で、

 

「プライベートについては詮索しない約束のはずですが?」

 

と、応じた。城山は「失礼しました」と、深々と腰を折ってみせる。洗練された所作のはずなのに、どことなく嫌みったらしさを感じさせる振る舞いに、仁王の顔が険しさを増した。

 

「……念のため、確認しますが?」

 

「はい」

 

「他の人たちの監視も、こんな感じに姿を見せてやっているんじゃあないでしょうね?」

 

 監視の対象は自分だけではない。城山の言によれば、桐野社長をはじめとする重役たちや、襲撃事件の当時現場にいた開発室のメンバー全員が、観察の対象になっているという。政府からの監視下にあるだなんて、ただでさえストレスフルな環境なのに、その上監視者が姿を見せるようなことがあれば、心労はさらに増すこととなろう。相手の姿を見えていると、自分はいま監視をされている、という事実がいっそう強調されて、自意識に刻まれることになってしまう。自分たちの置かれている状況の異様さが、いっそう際立つこととなる。

 

「まさか」

 

 はたして、城山はかぶりを振って否定した。

 

「他の方々に対しては、ちゃんと姿を見せずにやっております。私がこうやって姿をさらしているのは、相手があなただからですよ。超人であるあなたが相手では、姿を隠したところで、おそらく意味はない。むしろ姿を隠すことで、かえって余計なストレスを与えかねない、という判断からの対応です」

 

「……悔しいが、正しい判断ですね」

 

 桜坂は深々と溜め息をついた。城山の言う通り、自分の眼や耳といった感覚器は少しばかり特別製だ。建物の陰からのぞき見たり、距離を隔てた場所から機械装置を駆使して監視したり、といったことも、たちまち見破ってしまうだろう。そうなった場合には、なるほど、姿を見せぬことへの不安や不信、そして不快感から、いま以上の心的負担が襲いかかるに違いない。

 

 だからといって、目の前の男に対して感謝の気持ちはいささかなりとも湧きはしない。姿をさらしながらの監視でも、不快なことに変わりはないからだ。そういう気遣いが出来るくらいなら、いっそ監視なんてやめてほしい。

 

 そもそも、この身を超人と定義しているのならば、身の安全を保障するために監視は必要、という論理が、実は成立しないことぐらい分かっているはずだ。なんせ己は、最強兵器ISを素手でもって破壊してしまうような怪物である。他の社員たちと比して、政府が守りをかためてやる必要性は薄い。守るためなどではなく、己の能力を警戒しての監視なのは明白だ。そういう本音を正直に話さず、上辺だけの言葉ばかり口にするから、不信感が募る。不信感は不快感へと容易く転化し、ストレスとして蓄積されていく。

 

 何にも増して腹立たしいのは、自分のそういう不快情動の発生が、おそらくは内調によって仕向けられたものである、ということだ。

 

 スパイ機関の人間は、総じて人間心理にまつわる知識と技術に長けている。軍事衛星などの最新技術の採用が当たり前となって久しい現代でさえ、諜報活動の基本がヒューミントにあることは変わらない。人間に対して、どんな種類のストレスを与えればどういう反応が生起するか。この人物に言うことをきかせたい場合、どんなストレスを課すのが最も効果的なのか。彼らはよく研究し、訓練をしている。

 

 スパイ機関の者たちがストレッサーとして振る舞うとき、そこには高確率で、何らかの意味が、そして狙いがある。

 

 例えるならば、彼らは一流の園芸職人だ。トマトの栽培に際して、与える水の量をわざと減らすことでより甘い実がなることを企図するように、自分に対しても、わざとストレスを強いている公算は高いだろう。

 

 ――もっとも、この程度でまいるほど、こちらもやわではないつもりだが。

 

 不快なことに違いはない。しかし、耐えられないほどではない。今後、徐々に負担を大きくしていくつもりなのかもしれないが、だとしても、所詮は人間の思考の内より生まれし計略。“そういう”種類の攻撃をも想定して設計されているこの身が、耐えられないはずがない。

 

 それに、と桜坂は口の中で呟いた。監視役の存在は、たしかに不愉快なことだ。しかし、自分にとってのメリットも大きい。このエントランスで毎日自分が帰ってくるのを待っている、ということは、マンションに出入りする人間全員の顔を逐一チェックしている、ということをも意味するからだ。

 

 己にとって、誰が何時にこのマンションに入館しているかは、目下最大の関心事だ。すでに彼女が入館しているのか、否か。入館しているとしたら、どれぐらいの時間が経っているのか。それらがあらかじめ分かっていれば、覚悟を決めることが出来る。自室へ足を運ぶべきタイミングを、計ることが出来る。

 

「……それから、もう一つ、確認したいのですが」

 

 桜坂は神妙な表情を浮かべて言った。

 

「なんでしょう?」

 

「今日も、来ていますか?」

 

 桜坂は解錠パネルを見ながら訊ねた。あえて主語を明確化しない言い回し。しかし、誰のことを指しての質問なのか、城山にはすぐに分かった。途端、仁王の顔を見つめる眼差しが、どこか気の毒そうな、いたわりの優しさに満ち満ちたものになる。

 

 城山が桜坂の帰りを待ち受けるようになってまだ一週間程度だが、その短い期間中に、彼女の存在が与えたインパクトは絶大だった。いまや国家の重要人物となった彼の帰りを見届けるため、このエントランスに毎日立っているが、彼女の顔をこの場所で見かけなかった日は一度もない。

 

 桜坂からの問いかけに、城山は顔中の筋肉を、恐怖心を源泉とする緊張に強張らせながら頷いた。

 

「ええ。今日も、来ております」

 

「来ていますかぁ……。そうですかぁ……」

 

 桜坂はげっそりと溜め息をついた。城山が続けて言う。

 

「手慣れた様子で解錠パネルを操作すると、いとも容易く電子ロックを解除して自動ドアをくぐり、桜坂さんの部屋の郵便受けの中身をチェックした上で、エレベータを使って上がっていきました」

 

「電子ロックのナンバー、今朝、変えたばかりなんだけどなぁ」

 

「十秒とかけずに、解錠していましたが」

 

「ははあ、そうですか。……ちなみに、どれぐらい前のことです?」

 

「かれこれ二時間は経っているでしょうか」

 

「ということは……あぁ、駄目だ。最近の彼女の手際の良さから考えると、遅めの夕食と、風呂の準備と、部屋の軽い掃除までやった上で、洗濯籠の中からまだ洗っていない下着を物色しているか、もうブツの選定をすませてベッドの上ではぁはぁやっている頃合いだ。うん。駄目だ。もうちょっとどこかで時間潰してからじゃないと、最悪のタイミングで鉢合わせすることになる」

 

「えぇ…(困惑)」

 

 世界最高峰の工科大学を、二番手という優秀な成績で卒業した天才的な頭脳の持ち主だ。このまま平素の足取りでもって部屋に向かってしまえば、高確率で待ち受けているだろう未来を仔細にいたるまで想像出来てしまった彼は、怯えた表情で頭を抱えた。

 

 

 

 

 

 

「……これは予想外だったなあ」

 

 深夜のIS学園、一年生の学生寮。かたわらで目をつむるセシリアの熱い寝息に耳朶を火照らせながら、陽子は暗い室内を半眼で見回して呟いた。

 

 クイーンサイズのベッドを一目見た瞬間から、こうなるだろう、とは薄々勘づいていた。だから、「せっかくですし一緒のベッドで寝ましょう」と、言うセシリアの提案を渋々受け入れた際も、意外とは思わなかった。お嬢様育ちの彼女だが、実は存外に寝相が悪く、小柄な自分を抱き枕にして夢の世界に旅立ってしまった現状も、予想の範疇に収まる事態といえた。

 

 しかし、これは想像していなかった。たしかに、長身のセシリアと、認めたくはないが幼児体型気味の自分とでは、かなりの身長差がある。後ろから抱きつかれると、己の後頭部がちょうど彼女の乳房に押しつけられる形になってしまう。ここまでは想像していた。想像していたが、この、柔らかな感触は、予想外だった。自分の胸元にはない、この憎たらしい感触……まさか、こんな……! これほど豊満だったとは……!

 

「くそぅ。屈辱感で涙がちょちょぎれらぁ」

 

「心中、お察しするわ」

 

 照明を落とした暗闇の中、部屋の隅っこに追いやられた学園指定のベッドの上で横たわる如月キサラと目が合う。常夜灯のオレンジ光が薄らと照らし出す彼女の眉間は、同情から深い皺を刻んでいた。

 

「ふよふよで気持ちいいのが、よりムカつくなあ、もう!」

 

「ね。ホント、それね」

 

 遺伝子の違いに由来する欧米人との差を思い知らされて、日本人少女たちはひそかに嘆いた。

 

 

 

 翌朝、寝癖を梳こうとブラシを握りしめてにじり寄ってくるセシリアをなんとか退け、1122号室に戻ってきた陽子は、部屋に通じるドアを見て、茫然と立ち尽くしてしまった。床から十センチほどの高さの位置に、昨日まではなかったはずの傷や凹みが、無数に生じている。

 

「……え? これ、嫌がらせ?」

 

 最初は、出入りの業者が台車か何かの操作を誤ってぶつけてしまい、さらにこすってしまったのかと思った。しかし、それにしては傷の位置や、凹みの深さが安定していない。つま先の部分が硬い素材でできた靴で、何度も、何箇所も、蹴り込んだかのような傷跡に見えた。

 

「……織斑先生に相談しなきゃ(使命感)」

 

 二人目の男性操縦者。そして、週刊ゲンダイの捏造記事によって築き上げられた、妻にDVをはたらいた最低の屑男というイメージ。これらに敵意を抱く生徒の仕業だろうか。

 

 もしそうだとすれば、早めに対処しなければならない。

 

 この種の嫌がらせは、放置すれば過激化していくのが常だからだ。

 

 女尊男卑社会を打ち壊そうとする悪魔のごとき男、鬼頭智之。それでなくとも、女性に暴力を振るう最低の人物。そんな男を排するために、自分は正しいことをやっている。世間一般の倫理観に照らすとこれは犯罪だが、今回に限っては、正義の行いである。そういう考え方を下敷きに行動していた場合、理性という箍がはたらきにくくなっている可能性がある。

 

 今回は不在時にドアを蹴られる、という器物破損にとどまっているが、そのうち、父の身に直接危害を加えるようになるかもしれない。事故を装って階段から突き落とそうとしたり、IS実習中に流れ弾のふりをして銃撃を浴びせてきたり。もしも彼が、そのために、兄のようなことになったとしたら……。陽子は、ぶるり、と胴震いした。

 

 父の身を案じる気持ちから早鐘を打つ心臓を懸命になだめすかしながら、彼女は踵を返し、寮長室へと急いだ。

 

 

 

 

 

 

 太平洋戦争の終結後、全国で、平和公園と称する施設が増えた。文字通り、終戦の記念と、平和への祈りを篭めて整備された特殊公園で、多くの場合、墓園としての機能を与えられている。愛知県の場合、有名なところには名古屋市千種区の平和公園や、春日井市の潮見坂公園などがあり、晶子との二度目の裁判の後、鬼頭智也の遺骨は千種区の平和公園に移されていた。

 

 千種区の平和公園は、終戦後間もない昭和二二年に、戦災復興土地区画整理事業の一環として計画された。市内に点在する二七九寺が管理している墓地およそ一八ヘクタール、一八万九〇三〇基を、市内東部の丘陵地に集約・移転するという、当時としては大胆な試みで、用地には一四七ヘクタールもの広大なスペースがあてがわれた。昭和四八年から散策路などが整備された南部地区には一五〇〇本もの桜の木が植林されており、市民からは桜の名所としても長年愛されている。

 

 午前十時きっかりに名古屋観光ホテルをチェックアウトした後、鬼頭らは改造アルファードに乗って、平和公園の北部地区へと移動した。平和公園は、南部が市民の憩いの場だとすれば、北部はもうこの世界にはいないが、かつてたしかにかたわらにいてくれた、大切な人たちと対話するための空間だ。菩提寺や宗派の違いによる区画整備がなされており、運転手の男は東よりの区画に設けられた駐車場にアルファードを移動させると、シフトレバーをパーキングのところに合わせた。昨日と同様、まず楯無たちが下車して周辺の安全を確認し、それから、変装サングラスをかけた鬼頭が地面に降り立つ。その手には、プラスチック製の手桶が握られていた。柄杓の他に、色とりどりの菊花をビニールフィルムで束ねた墓花が一対分差さっている。ホテルを出る直前、観光ホテルが持たせてくれた物だ。一流ホテルだけあって、こういった雑務代行のサービスの質も高い。

 

 鬼頭智也の墓が墓園のどこにあるかは、当然、全員が頭の中に叩き込んでいる。一行はサングラスをかけた鬼頭を前後に挟む形で歩き始めた。アルファードでの移動中とは異なり、寄り道はせず、目的の墓石を真っ直ぐに目指す。無論、滞在時間を少しでも短くするための配慮だ。前述の通り、平和公園は丘陵地に築かれた墓園だから、海抜の高い位置から低い位置に向けた攻撃のリスクを背負うことになる。智也の墓標は、高さという観点でいえば、丘陵地のちょうど中ほどに位置していた。墓石のある場所で攻撃を受ければ、圧倒的に不利な状態での防御を余儀なくされてしまう。墓参りは、速やかに行い、速やかに立ち去ることが望まれた。

 

 連休期間の初日とあって、公園内には他にも墓参りを目的にやって来た者たちの姿が多数見られた。

 

 こういう人の目が多い環境においては、こそこそ動く方がかえって目についてしまう。

 

 鬼頭たちはなるべく自然体を意識しながら、ときに口を開き、足を動かすよう努めた。

 

「南の方に、ぴょこん、と、山から突き出した、塔が見えませんか?」

 

 鬼頭は自らに、ぴたり、と寄り添って歩く楯無に言った。護衛対象の心臓の位置をさりげなくかばいながら、彼女は顔を上げて、男の示す方角に目線をやった。なるほど、鉛筆のように細長い四角柱の胴体に、鋭角に突き出した四角錐の屋根を頂いた建物が、青々と茂る緑の中から飛び出しているのが見える。

 

 頭の中で、今回の護送任務に備えて暗記しておいた名古屋の都市地図を広げた。たしかあの場所には――、

 

「あれは東山スカイタワーと言って、東山動物園の、ランドマークなんです」

 

 ――そうだった。名古屋には、東京の上野動物園に次ぐ日本第二位の動植物園があるのだった。たしか、平和公園のある丘と、ほとんど向かい合うような形で小山があり、そこに拓かれた施設だったか。およそ五九ヘクタールもの広大な面積に、日本一の飼育種類数が暮らしている、と記憶している。

 

「智也は、動物の好きな子でした。動物図鑑を毎日のように眺め、休日には東山動物園によく連れて行きました。……あの子の墓を、伊賀上野から名古屋に移すと決めたとき、真っ先に思い浮かんだのが、この平和公園です。もともとここには、鬼頭家代々の墓がありました。それに加えて、あの子が大好きだった動物園に近い場所です。ここだったら、あの子もきっと気に入ってくれるだろう、と、先祖からの墓に、遺骨を移しました」

 

 途中、水汲み場で手桶の中を満たした。先頭を進む高品が、「持ちましょうか?」と、気を遣うが、鬼頭はかぶりを振って申し出を断った。護衛役の手がふさがってしまうのは不味いだろう、という考えと、智也のためのものはすべて自分の手で運びたい、という思いからの固辞だった。

 

 鬼頭家の墓は、整然と建ち並ぶ墓石の群れの、ちょうど中ほどに配されていた。伝統的な三段墓で、二つの台石の上に、細長い塔のような形をした竿石が重ねられている。墓石の表には『鬼頭家先祖代々之墓』とあり、裏や側面に、戒名と没年月日がびっしりと刻まれていた。その中に、令和二年に亡くなった童子の位号を見つけ、楯無たちは沈痛な面持ちとなる。

 

 ステンレス製の水鉢に差された菊花は、往時の美しさを失って久しい姿をさらしていた。鬼頭が陽子とともに最後に墓地を訪ねたのは、今年の二月のことだ。三月にISを動かせることが判明してしまい、政府からの監視を受ける立場になってしまったため、それ以降は訪ねたくても、足を運ぶことが許されなかった。

 

 鬼頭は水鉢から茶色く枯れた花を引き抜くと、汚れた水を排水路に流した。高品が、「水を変えてきます」と、手を差し出してくる。鬼頭は水鉢を彼に預けるのを一瞬、躊躇った。やはり、智也のためのことはすべて自分の手でやってやりたい。しかし、滞在時間を短くさせたい彼らの都合や、気持ちも分かる。

 

 ――これ以上の我が儘ははばかられる。

 

 こうして智也の墓参りに来られただけでも幸運なのだ。これ以上の高望みは、欲張りが過ぎると思った。

 

 鬼頭は高品に水鉢を預けた。水汲み場へと向かう広い背中を見送ると、自らは手桶の水で持参した手拭いを濡らし、墓石の汚れを、丹念に拭い、除いていく。

 

 丁寧な手つきを眺めているうちに、背後に立つ楯無の瞳は痛ましげに揺れ動いた。

 

 墓石を優しく扱う手つきからは、彼がいまもなお、亡くなった息子のことを愛し、彼の死を悔やんでいることがうかがい知れた。

 

 いま、自分の目の前にいるのは、驚異の頭脳と技術を持った天才でも、世界にたった二人しかいない男性操縦者の片割れでもない。仕事を愛し、家族を愛している。そんな、日本のどこにでもいる、普通の父親だった。普通の父親の背中と、優しい手つきが、そこにはあった。

 

 ――どうして彼がこんな不自由を我慢しなければならないのか……。

 

 愛する家族の墓前に花を供え、墓石を前に合掌する。そんな些細な望みさえ、政府の協力なしには叶えられない。普通の父親たる彼にとって、それがどんなに辛いことか! その心情を思い、楯無は胸の内が苦しくなるのを自覚した。

 

 ISと関わりさえしなければ……。いや、そもそもISの存在さえなければ! と、思わずにはいられない。ISの存在さえなければ、女性権利団体がいまほど力を持つことはなく、加藤晶子との裁判にも首尾よく勝利し、子どもたちの親権は、何の問題もなく鬼頭の手元に渡っていたはずだ。智也少年が命を落とすこともなかっただろう。

 

 ――この人は、ISのことをどう思っているのかしら……?

 

 技術者として、導入されているテクノロジーを称賛してくれる。

 

 災害救助用パワードスーツの普及を目指す夢追い人として、女性にしか使えないという汎用性のなさを、不満に思っている。

 

 では、鬼頭智也の父親としては?

 

 直接の原因ではないにせよ、息子の死の理由の一つである、女尊男卑の思想。それを勢いづかせた、ISという存在のことを。そして、そんなISについての研究機関である、IS学園のことを。彼はいったい、どう思っているのか。

 

 男の背中を見つめる少女の視線は、いつしか怯えを孕んだものになっていった。

 

 質問をぶつけたい気持ちが滾々と湧き上がる一方で、好奇心の赴くままに問いを投げかけてしまえば、何かとてつもない魔物を引き出してしまうような気がして、背筋が震えてしまった。

 

 高品が戻ってきたのは、鬼頭が墓石を一通り拭い終えたのとほぼ同じタイミングの出来事だった。

 

 鬼頭は彼の手から水鉢を受け取ると、左右の花立にセットし、菊花を差した。紙テープで束ねた線香の束に百円ライターで火をつけ、拝み石に供える。ジャケットのポケットから数珠を取り出し、両の手を合わせようとして、その動きを止めた。しばらくの間、墓石を、じっ、と見つめた後、かたわらの楯無たちを振り返る。

 

「……お願いがあるのですが」

 

 変装サングラスの向こう側で、鬼頭の瞳は心苦しそうに揺れていた。

 

 ついたった今し方、これ以上の我が儘ははばかられる、と自戒を新たにしたばかりなのに、もうそれを忘れたい衝動に襲われている。我慢の出来ない自分を情けなく思い、重ねて、結局、迷惑をかけてしまうのか、と楯無たちに対し申し訳なく思った。

 

「なんです?」

 

「十秒……いえ、五秒だけで構いません。このサングラスをはずすことを、許してはいただけませんか?」

 

「更品さん、それは……」

 

「高品、ストップ」

 

 険しい面持ちで口を開いた高品を、楯無が制止した。

 

 彼女は鬼頭の体に、ぴたり、と寄り添うと、小声で訊ねる。

 

「理由をおうかがいしても?」

 

「智也の前です。出来ることなら、偽りの顔ではなく、素顔で向かい合いたい」

 

 楯無は深々と溜め息をついた。鬼頭から離れ、周りの三人に指示を出す

 

「全員でパパを囲んで、壁になって。……十秒だけですよ?」

 

「……ありがとうございます」

 

 鬼頭は念のため自らも周囲を一瞥し、他の参拝者たちの視線がこちらを向いていないことを確認した後、膝を折り、その場にひざまずいた。サングラスをはずし、ジャケットの胸ポケットに引っかける。顔面にべったりと張り付いていた偽装画像が剥がれ落ち、墓の中の先祖たちにも馴染みの深い、鬼頭本来の素顔が春の日差しにさらされた。

 

 鬼頭は数珠を引っかけた両の手を合わせた。瞑目し、しばしの間、墓碑と向き合う。

 

 時が、静かに、ゆっくりと流れた。

 

 許された猶予は、僅かな時間だ。

 

 その短い時間のうちに、鬼頭は、胸の内で、百万の言葉を、想いを、愛息子に捧げた。

 

 楯無が、鬼頭の肩にそっと手を置いた。

 

「パパ、そろそろ」

 

「うん」

 

 鬼頭は頷くと、ゆっくりと瞼を開いた。墓碑に向けられた優しい眼差しを見て、楯無は、また哀しい吐息をついた。

 

 

 

 

 名古屋市千種区にある東山動植物園は、一九三七年の開園以来、東京の上野動物園や大阪の天王寺動物園などと並んで語られる、国内屈指の大動物園だ。五九・五八ヘクタールという広大な敷地内に、五百種以上の動物、七千種近い植物が生育している。園内は動物園北園エリアと本園エリア、植物園エリアの三つに分かれており、園のランドマークたるスカイタワーは、このうち北園……アルダブラゾウガメが暮らす自然動物館の側に建っている。

 

 この塔は名古屋市政百周年を記念して建てられた、全長一三四メートルの展望塔で、館内にはレストランなどの施設が入っている。目玉は五階の三六〇度パノラマ展望室で、ここからは地上一〇〇メートル、標高一八〇メートルからの絶景を楽しむことが出来た。

 

 さて、この手の展望室に欠かせない設備の一つに、コイン式の双眼鏡がある。多くの場合、架台から伸びている支柱の先端に双眼鏡が取り付けられており、支柱に設けられた投入口にコインを入れると、一定の時間、双眼鏡が使えるようになる、という物だ。

 

 この日、名古屋市北区は黒川に暮らす牧村杏子と、小学二年生になる彼女の娘は、大型連休の二日目を利用して東山動物園にやって来ていた。北園側の入口から入園した彼女は、わが子の手を引きながらアメリカバイソンやトナカイなどがいるアメリカゾーンを進み、やがてスカイタワーのあるエリアまで到着したところで、娘から展望室に行きたい、とせがまれた。

 

 エレベータのゴンドラの扉が開くなり、娘は、きゃっ、きゃっ、と相好を崩しながら飛び出し、展望室の中を元気よく走り回った。やがて、一基のコイン式双眼鏡を指差して、「あれ、見たい」という、おねだり。杏子は了承し、百円玉を投入した。娘は嬉々として双眼鏡に目をくっつけ、しかし、すぐに飽きてしまった。杏子は、仕方ないわね、と苦笑しながら、まだ残り時間があることを知って、今度は自分が顔を添えることにした。何気なく、平和公園の方に双眼鏡を向ける。

 

 杏子の喉が、こく、と鳴った。

 

 表情筋が凍りつき、レンズをのぞき込む双眸が瞠目する。

 

 双眼鏡を向けたその先に、世界で最も知られた男の顔があった。

 

 墓石を前に、手を合わせている。

 

「鬼頭、智之……!」

 

 なぜ、あの男があそこにいるのか。

 

 いつ、名古屋に帰ってきたのか。

 

 頭の中に生じたいくつもの疑問。それらは最終的に、一つの行動を促した。

 

 双眼鏡から顔を話した杏子は、かたわらの娘に、「お母さん、ちょっとだけ電話したいから、少し静かにしていてね」と、囁きかけた。ハンドバッグからスマートフォンを取り出すと、電話帳を起ち上げる。グループ分けされた名簿の中から最も馴染みのある名前を見つけるとコールした。電話機を、身元に添える。コール音が一回、二回と鳴り、三回目の途中で、ぷつ、と先方と電話がつながる。聞こえてきたのは、女性の声だった。

 

『牧村さん、どうしました?』

 

「お休みの日にすみません。大至急、長沢さんに伝えておきたいことがありまして」

 

『なんです?』

 

「鬼頭智之を見ました。あの男はいま、名古屋に帰ってきています」

 

 電話機の向こう側で、相手が息を呑む音が聞こえた。無理もないな、と杏子はその心中を察して得心する。自分たちにとっての不倶戴天の敵が、自分たちの暮らすこの街にいるというのだから。

 

 ISの登場がもたらしたこの女尊男卑時代において、女性の権利を主張する団体は、そのことごとくが支持を集め、勢いづくこととなった。

 

 その中でも、世界的に見て特に成長著しい組織が、IS誕生の地である日本にある。

 

 東京に本拠地を置き、全世界に四十万人もの会員を抱える組織の名は、『アマゾンの者』。世界で最も有力な女権団体の一つであり、また最も有名な組織として、ある者たちからは好意的な眼差しを、ある者たちからは侮蔑の眼差しを、そしてなにより、ほとんどの者たちからは怯えの目線を向けられている者たちであった。『アマゾンの者』はその強面な響きの名前の通り、女尊男卑時代にあって特に過激な団体として知られていた。牧村杏子はその会員であり、彼女が連絡をとった長沢もまた、組織の一員であった。

 

「長沢さん、私はどうすれば?」

 

『……いま、この街であの男に襲いかかるのは得策とは言えません』

 

 アマゾンの姉妹たちにとって、鬼頭智之は輝かしき女性時代におけるバグだ。速やかに排除しなければならない存在だが、信じられないことに、日本政府は彼のことを国家の重要人物として扱っている。今回の帰郷にも、屈強なボディガードたちが警護に張り付いているに違いない。

 

『まずは情報を集めましょう。鬼頭智之はなぜ名古屋にやって来たのか。その理由を知ることが出来れば、次につなげることが出来るはず』

 

「彼はいま、平和公園の墓園にいます」

 

『平和公園? 牧村さん、あなた、いまどこにいるの?』

 

「東山動物園のスカイタワーの展望室です。娘と一緒に来ていて、コイン式の双眼鏡で墓園の方を見たら、あの男の姿を目撃しました」

 

『墓参りに来ている、ということ?』

 

「たぶん、そうです」

 

『……なるほど、その様子、スマホのカメラで写真は撮れますか?』

 

「出来るかどうか分かりませんが、やってみます」

 

『お願いします。写真が撮れたら、名古屋にいる会員の皆さんにデータを送信してください。難しいときは、鬼頭智之がいまいる場所を、出来るだけ正確に憶えて、メールに書いて送ってください。……あの男がどのお墓を目的としていたのか、それが分かれば、つけいる隙を見出せるかもしれません』

 

「分かりました」

 

『よろしくお願いしますね』

 

 通話を切ると、杏子はかたわらの愛娘に笑いかけた。

 

「動物園を楽しんだら、後で平和公園に行きましょうね。緑がいっぱいで、きっと気持ち良いわよ」

 

「うん!」

 

 元気よく返事をする娘の様子に微笑むと、彼女は再び平和公園の方を見やった。

 

 墓園を見つめるその目つきには、険が宿っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter29「黄金週間の過ごし方」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ISの持つ兵器としてのポテンシャルが明らかとなった当初、各国の軍隊では等しく、この新時代の兵器をどう運用するべきか、ちょっとした議論が起こった。

 

 どこの国でも、IS運用に最適化された組織を新たに作るべき、という意見が、はじめのうちは同意を集めるも、軍隊の維持にかかるコストがただでさえ年々増大し、問題視されている近年だ。懐事情によほど余裕のある国でもない限りは、陸海空軍といった既存の組織網の中に、ISを運用するための部隊を設立する、という手段を採ることが、最終的には多かった。

 

 その際、ほとんどの国では、IS部隊を空軍組織の中に発足させた。これは主に、二つの理由に起因する。

 

 一つは勿論、ISが“飛行”パワードスーツに分類される兵器であるためだ。PICがもたらす驚異の運動性と機動性は、陸軍や海軍では手に余る。たとえば陸軍の場合、IS部隊は機動力が高すぎるために、他の部隊との連携がとりづらいだろうし、海軍の場合も、現代の海戦では、その運動性を十全に活かすことは難しいだろう。既存の軍隊組織の中では、空軍のみがかろうじてその能力を活かすことが出来る、という考えからの判断だった。

 

 もう一つの理由は、ISがもともと、宇宙開発を目的に作られたパワードスーツであることに由来する。ISに使われている技術の多くは、宇宙科学由来のもの。当然、それを扱う者たちには、宇宙に関するある程度の知識が必要とされる。そして、今日の宇宙開発技術の多くは、航空科学の延長線上に存在している。たとえば、アメリカ航空宇宙局N.A.S.A.の前身たるアメリカ航空諮問委員会N.A.C.A.は、航空工学の研究と推進を目的に設立された機関だった。N.A.C.A.の時代に得られた技術的資産の多くは、今日におけるN.A.S.A.の宇宙開発技術の基礎を担っている。

 

 さて、欧州連合E.U.の実質的な盟主たるドイツ連邦共和国の場合も、IS部隊は空軍の中に組織された。

 

 第二次世界大戦の後、東と西とに分割されたドイツでは、東西陣営のどちらからも、ヨーロッパ方面の前線基地としての役割が求められた。二度の世界大戦の原因となった国にも拘らず、軍の整備が許され、その中には勿論、空軍も含まれていた。やがて冷戦が終結し、ドイツ統一の悲願が叶うと、両国の軍隊もまた統合された。現在、連邦空軍は空軍指揮幕僚監部をケルン行政管区のボンに置き、その下に空軍式司令部と、空軍局を置くという組織体制を基本としている。

 

 空軍指揮幕僚監部が置かれているボンは、分断時代に西ドイツの首都だった都市だ。ケルンの南二十キロメートルに位置する三十万人都市で、古くからの歴史を持った文教都市として知られている。

 

 第二次世界大戦の後、ベルリンにあった首都機能の多くは東ドイツのものとなり、西ドイツは遷都の必要を迫られた。候補地にはボンの他に、フランクフルトやハンブルクなどの名も挙げられたが、これらの案は、大都市すぎる、として棄却された。西ドイツの政治家たちは、将来、東西ドイツが統一された暁には、再びベルリンが首都になるべきだ、と考えを持っており、これらの大都市が首都として発展してしまうと、再統一を果たした際に首都機能を移転出来なくなってしまうことが懸念されたのだ。

 

 ボンの街は、その意味で、大きすぎず、小さすぎずの適切な規模を持っていた。また、地理的に西ドイツの中央部に位置していたこともあり、暫定首都に適当と選ばれたのである。

 

 その後、東西ドイツが再統一を果たすと、同国の首都はベルリンに戻った。しかし、E.U.とNATOの本部が置かれているブリュッセルに近い利便性や、分断時代の首都圏として確立していた地域経済への影響などを考慮して、以降も、ボンには連邦都市として、国家の中枢機能の一部が残されることとなった。空軍指揮幕僚監部は、その一つである。

 

 空軍指揮幕僚監部は、ドイツ連邦軍内に五つある幕僚監部の一つで、連邦空軍における最高幕僚機関だ。軍人一八〇名と、文民職員によって構成された組織で、連邦軍全体の構想の実現と発展を目的に、空軍の各種の活動を統制するために存在する。その主要な任務は人員と資器材の準備であり、仕事の効率化のために、内部にはさらに三つの組織を抱え持っている。すなわち、人事や教育を管轄する第一空軍幕僚部。作戦計画や戦力の運用法、兵站についてを考える第二空軍幕僚部。そして幕僚監部で計画した作戦をいかに指導するか、運用していくかなどを統制する第三空軍幕僚部だ。

 

 現地時間で、四月二九日の午前九時。

 

 この日、ボンの幕僚監部の第一会議室では、連邦空軍の名だたる将帥たちが集まっていた。幕僚監部の中でもとりわけ重要な役職に就いている者たちばかりで、軍服の襟に縫いつけられた階級章には、大佐や、准将といった、高級将官であることを示すマークが多く見受けられる。

 

 広々とした部屋の中には三人用の長机が整然と並べられ、みな真ん中の一人分を空けて使っていた。照明を絞り、カーテンも閉め切った室内は全体として暗いが、ちちち……、と静かに駆動するプロジェクターの光と、その光を反射する、巨大な乳白色のスクリーンのために、何も見えないというほどではない。

 

 連邦空軍の幹部たる男たちの目線は、等しく険しく、そして、スクリーンに向けられていた。畳三畳を縦に並べたほどもあるスクリーンには、激しいISバトルの様子が映じている。場所は日本、国際IS学園は第三アリーナ。試合のカードは、鬼頭智之と、国籍不明の、謎のIS。学園に三年生の生徒として在学中の、スパイから送られてきた映像だった。世界屈指の軍事力を誇るあのIS学園が襲われたというだけでも驚きだが、それを迎撃したのがあの鬼頭智之と知って、幕僚監部は緊急会議を開いたのである。というのも、送られてきた映像の中に、幕僚監部が現在計画中のある任務を遂行する上で、無視しがたい音声が入っていたのだ。

 

「注目するべきは、トモユキ・キトウのこの発言です」

 

 やがて映像の再生が終わると、今回の会議の発起人であるエミール・バレニー空軍少佐は、手元のリモコンでプロジェクターを操作した。第一空軍幕僚監部で、普段は人事にまつわる仕事をしている人物だ。記録映像の再生が再び始まるが、そのほとんどは早送りされ、目当てのシーンが近づいたところで、通常速度での再生に切り替えられる。世界で二番目に発見された男の顔が画面いっぱいに映じ、その唇が動いた。部屋の四隅に設置されたスピーカーから、男の声が響き渡る。

 

『――大人には、子どもを守る義務がある』

 

 バレニー少佐はまたリモコンを操作して、映像を一時停止した。

 

「この発言の後、彼は、この時点では戦力まったく未知数の相手に向かって、果敢に戦いを挑んでいくわけですが、こうした一連の態度からは、トモユキ・キトウの子どもに対する基本姿勢、さらには、強い信念の存在を読み取ることが出来ます。トモユキ・キトウはMITを首席で卒業した経験を持つ、高度な知性を持った人物です。未知の脅威に挑みかかることの危険性を認識していなかったとは考えにくい。つまり彼は、自らの危険を十分認識した上で、それよりも、すぐそばにいる子どもたちの安全確保を優先して、行動を起こしたのです。

 

 子どもを守るために、大人が命を張る。一見、当たり前の行動のように思えますが、IS学園という特殊な環境においては、これは非常に珍しい考え方の持ち主だと言えます」

 

 ISの台頭により、子どもと、若者との線引きは年々難しくなっている。ISを操縦出来るのは女性のみ。その中でも、気力体力ともに充実している、十代半ばから二十代後半までの若い娘が、操縦者には適している。最強兵器ISの存在が社会を構築する重要素となっている現代では、そんな理由を背景とした優遇措置の一環から、十代の娘が大人同然の扱いをされる機会が増えているのだ。

 

 IS学園はまさにその先頭を進む組織だ。実際、あの場所には、鬼頭よりも腕の立ち、先頭の経験も豊富な若い娘たちが多数いた。にも拘らず、彼は適材適所という合理的判断ではなく、己のこだわりを優先して行動した。

 

「トモユキ・キトウは、IS学園の生徒たちを、ISを動かす才能を持った若者たちではなく、大人である自分が守るべき子どもたちと定義しているのです」

 

「おそらくは、彼の経歴がそうさせているのでしょう」

 

 呟いたのは、第三幕僚部で訓練指導用のマニュアル作成を担当している、四五歳のゴードン・ハートマン大佐だ。過去に、娘の一人をIS学園に留学させた経験を持つ、知日派として知られている。

 

「今月の初旬に、日本の談構社という出版社から刊行された、週刊誌の特集記事のことは、ここにいる皆さんであればご存知のことと思います。おそらくは誌面の半分以上が、悪意ある嘘によってしたてられた捏造記事でしょうが、大切なことは、残る僅かな真実の部分にあります。トモユキ・キトウは、過去にわが子を失っている。失ったも同然の事態に遭遇したことがある。そのときの辛い記憶と経験が、この高い知性をもった人物に、非合理的な判断と行動を強いてしまうような、子どもという存在への強い執着心を抱かせているのでしょう」

 

「彼の執着心が、どのような経験や感情に由来するものなのか、それはこの際、どうでもよいことです」

 

 バレニー少佐はハートマン大佐の言葉を遮ると、不敵な冷笑を浮かべた。

 

「我々にとって重要なのは、この強い執着心の存在が、我々の計画にとって、たいへん都合が良いということです」

 

 IS学園の開校以来、ドイツは国の施策として、毎年一名ないし二名の留学生を学園に送るようにしていた。IS操縦者の数が軍事力の指標として信頼される現代において、IS学園で最新の理論や技術を学んだ人材というのは、千金の価値を持つ。アラスカ条約への配慮から、建前では、本人に進学の意志があったから、ということになっているが、実際は国の支援と指名を託されての留学生たちだった。それを証明するかのように、彼女たちの卒業後の進路はほぼ例外なく、ドイツ軍のIS部隊や、国内のIS産業に関わる仕事ばかりである。

 

 さて、彼女たち留学生の人選や、試験勉強への準備は、空軍指揮幕僚監部の、第二幕僚監部に任されていた。これは勿論、ドイツ軍のIS部隊が空軍に所属していることによる。今年度、その仕事はバレニー少佐とその麾下のチームに委ねられた。当初の予定では、一月中には選定を終えて、その後たっぷり二ヶ月をかけて留学のための準備をし、今頃は日本の空の下、勉学に励んでいる、そのはずだった。

 

 ところが、今年は留学生の人選にいまだ手間取り、一人の人材も送れないでいた。これは主に、二つの理由に起因する。

 

 一つは機体の問題だ。現在、ドイツやイギリスが所属する欧州連合では、統合防衛計画『イグニッション・プラン』が進められている。世界中で軍事費の高騰が問題視されている今日、欧州連合の加盟国は軍の装備を統一化することで、運用に必要なコストを軽減させよう、という取り組みだ。現在はその第三次作業が進行中であり、今回は次期主力ISの選定も、その内容に盛り込まれていた。

 

 今年度、イギリスはIS学園への留学生に、代表候補生のセシリア・オルコットを選定した。昨年の十二月にその事実を知ったバレニー少佐たちは強い危機感に襲われた。彼女には最新の第三世代機……ティアーズ型のプロトタイプが、専用機として託されていることが判明したためだ。

 

 ティアーズ型は、第三次イグニッション・プランの候補機として、イギリスがトライアルに出している機体だ。IS学園という、各国からの注目が集まる場所にそれを投入してきたということは、ここで活躍を示して、主力機選定業務において優位な立場に立ってやる、という腹積もりに違いなかった。

 

 次期主力機選定業務には、ドイツも参加している。同じく第三世代機で、少数ながらすでに量産も始まっているレーゲン型が、その候補だ。ドイツ政府は空軍に対し、英国への対抗手段として、留学生にこのレーゲン型を専用機として託すよう命令した。これが、今年の二月の出来事だ。

 

 急な決定がもたらしたのは、現場の混乱だった。ドイツ政府が望む結果のためには、留学生にはレーゲン型を十分に使いこなしてもらわなければならない。バレニー少佐たちは、レーゲン型の性能と相性の良い人材の選定作業を、改めて行わなければならなくなってしまった。苦労の末、なんとか四名まで候補者を絞り込んだのが、今年の二月中旬のこと。しかしこの時点で、ドイツ国内で開かれた入学試験はとうに終わっていた。留学生を入学式に送り込むことは、不可能となってしまった。

 

 バレニー少佐たちに残された手段は、候補者たちを中途からの編入試験に合格させることだったが、これは入学試験よりもさらに難しい。通常の入学試験であれば、この四名全員に受験対策を施し、合格した者の中で特に成績優秀な者にレーゲン型を与える、という手段を採るところだが、編入試験が相手の場合、四名全員を平等に扱って試験対策を施すのは、かえって効率が悪い。バレニー少佐たちは、候補者をさらに一名まで絞り込み、その一人に編入試験対策を集中的に、そして徹底的に叩き込むことにした。

 

 そうして選ばれたのが、若干十五歳という年齢にも拘わらず、すでに空軍の実戦部隊で活躍しているラウラ・ボーデヴィッヒ少佐だった。能力優秀なのは勿論のこと、もともと専用機としてレーゲン型の一番機を与えられている人物でもあり、今回の任務にうってつけの人材と目されたのだ。この時点で、ときはすでに三月はじめ。そこからは機体の再調整と完熟訓練、そして編入試験対策の勉強が突貫で進められた。ボーデヴィッヒ少佐のレーゲン型は、軍の第一線部隊に配備された、ガチガチの実戦仕様。これを、競技用に調整し直し、完熟訓練を施さねばならない。これら一連の手続きに、多大な時間を要してしまったのだ。

 

 第二の理由は、留学生候補にボーデヴィッヒ少佐が選定されたのと前後して発生した。織斑一夏と、鬼頭智之。二月と三月に、日本で、ISを動かすことの出来る男性が立て続けに発見されたのだ。

 

 各国の政府や研究機関が彼ら二人をどう扱うべきか熟慮する中で、ドイツ政府は早々に結論を出した。すなわち、二人の男性操縦者は貴重な生体サンプルである。留学生には彼らと接触を図り、友好関係を結んだ後、どちらか一人、あるいはその両名を、ドイツ国に引き込むよう命令せよ、とバレニー少佐たちに新たな任務を与えてきたのだ。

 

 バレニーたちはまたも頭を悩ませることになってしまった。というのも、ボーデヴィッヒ少佐は本人の能力こそ申し分ない優秀な人材であるが、対人関係における調整能力の部分で、かなりの問題を抱えていたためだ。コミュニケーション能力に欠ける彼女の存在は、軍の統帥を乱すような事態にこそ発展したことはないが、所属する部隊からは、『何を考えているのか分からない』、『信用出来ない』などの苦情が、バレニー少佐らのもとに上がってきていた。

 

 ――いまのボーデヴィッヒ少佐を送り込んでも、男性操縦者たちからの信は得られまい。どうしたものか……。

 

 通常の軍務に加えて、機体の調整と訓練、編入試験対策の勉強。この上でさらに、対人スキルの特訓まで加えねばならぬのか、と思うと、バレニーは憂鬱な顔をせずにいられなかった。

 

 そんな折りにもたらされたのが、スパイからの記録映像だった。はじめて目を通したとき、少佐は、これは天恵である、と大喜びした。子どもを守るのは、大人の義務だ、とIS学園の子どもたちに対し、強い執着を見せた鬼頭智之の顔を見て、彼の腹中では一つの案が生じた。

 

「ボーデヴィッヒ少佐の見た目は、年齢のわりに幼げです。彼女の容姿は、トモユキ・キトウの目に、IS学園の誰よりも、子どもという印象を刻むことでしょう。そうなってしまえばこちらのもの。そんな心理状態の彼の目の前で、ボーデヴィッヒ少佐の身に危険が迫ったとしたら、どうなるか?」

 

「具体的には?」

 

 少将の階級章が輝かしい高官からの問いに、バレニーは淀みなく応じた。

 

「トモユキ・キトウの目の前で、ボーデヴィッヒ少佐のレーゲン型に事故が発生します」

 

「もしそんな事態に遭遇すれば、トモユキ・キトウは、自らの危険を顧みることなく、ボーデヴィッヒ少佐を助けようとするだろうね」

 

「ドイツは彼に、貸しを作ることになります。その礼をしたいから、という名目で、関係を築くことが出来るでしょう」

 

 この計略の優れている点は、ボーデヴィッヒ少佐の対人スキルへの依存度が低い、という点だ。彼女は鬼頭智之の前で、子どもらしい振る舞いをするだけで良い。高等な話術も、取引の術も必要ない。ただただ、彼の視界の内で子ども然と振る舞い、彼の視界の内で、事故に遭う。それだけで良い。対人スキルの訓練にかける手間を省くことが出来る。

 

「事故を起こす、と、おっしゃりましたが……」

 

 得意気に自らの作戦を語ったバレニーに、難しい表情で言葉を投げかけたのはハートマン大佐だった。

 

「ISは最新技術の塊です。ISコアが常に機体を管制し、事故の可能性を監視しています。そんなISが目の前で事故を起こす。これは不自然な事態であり、かえってトモユキ・キトウの警戒心を刺激することになるのではないでしょうか?」

 

「それは事故の種類にもよりますでしょう。たとえば、単純な飛行装置のエラーなどであれば、ハートマン大佐のご指摘通り、不自然さから警戒心を煽ることになると思われます。しかし、ISに搭載された最新のエラー検出装置でも、事前の予見は不可能と判断されるような事故ならば、むしろそんな機体に搭乗していたボーデヴィッヒ少佐への同情心を刺激してくれるのではないでしょうか?」

 

「そんな都合の良いことが……」

 

「それがあるのですよ」

 

 バレニー少佐は不敵な冷笑を浮かべた。

 

「ただし、そのためには、どこか適当なメーカーか研究機関に、犠牲になってもらわねばなりませんがね」

 

 

 

 

 

 






おふざけ回、お~しまい!



ところで、地元である名古屋を舞台にしたお話しではなるべくフィールドワークをするようにしている、とは前回のあとがきで書いたこと。

今回も平和公園の墓園から本当にスカイタワーが見えるかどうか、見に行きました。

夜中の11時に。

一人で。

墓園をドライブ&散策。


ここのところ仕事が忙しすぎて、休日は基本、寝てばかり。

明るいうちに行くことは難しい、と結論し、仕事が終わってから、一人、夜の墓園に向かいました。



……クッソ恐かった(震え)。








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Chapter30「聲」

久しぶりの初投稿です。

今回、実験的な構成を試みました。

しばしお付き合いいただければ幸いです。





 

 四月の末から五月上旬にかけての大型連休期間が終了して、二週間後の月曜日、午前五時半。

 

 普段よりも早い時間に目を覚ました鬼頭智之は、IS学園の制服に袖を通すと、まだベッドの上で夢の世界に意識を預けている愛娘を起こさぬよう、静かな動作を努めながら、そうっ、と寮の自室を後にした。そのまま真っ直ぐ学園の校舎へと向かい、午前六時の正門開放とほぼ同時に入館する。目指す場所は、教室ではなくアリーナだ。BT・OS《オデッセイ》の新機能が、ひとまずの完成を見たのは昨日の午後九時のこと。その時点で校舎の完全退館時間が近かったために、昨晩は試運転までこぎつけることが出来なかった。それを、今朝のうちにすませようという腹積もりだ。

 

 早朝から始めるのは勿論、人の少ない時間帯だからだ。事前の計算では、周囲に実害をもたらすような効果はないはずだが、なんといっても新機能。実際に動かして、はじめて分かること、気づくことは多いはず。その際、周りに及ぼしてしまうかもしれない迷惑のことを考えると、利用者の少ない時間帯を狙うのが、モア・ベターだろうと思われた。

 

 鬼頭は学生寮からだと比較的遠い場所にある第三アリーナに足を運ぶことにした。朝の時間は貴重だ。いかに向上心旺盛なIS学園の生徒たちとはいえ、寮からの移動時間が長いアリーナを、積極的に選ぶ者は稀だろうと推理してのことだ。

 

 目論見通り、第三アリーナはほぼ貸し切り状態だった。ピットルームの一つに辿り着いた鬼頭が、施設の利用状況について、室内に設けられたコントロール・パネルからアクセスすると、専用機持ちの上級生二名のみが使用中という表示。念のため空間投影式ディスプレイを起ち上げ、アリーナ内の様子をモニターしているカメラの映像を転送させても、炎と冷気、それぞれの得意技をぶつけ合う二人以外の姿は見られない。観戦席も同様だ。これならば、万が一の事態が生じたとしても、周囲への被害は最小限に留められるだろう。

 

 数少ない共同利用者が、二人とも専用機持ちというのもラッキーだ。接触機会の少ない上級生とあって、ディスプレイに映じる二人は、ともに面識のない相手。しかし、彼女たちの身を覆う機体のことは、よく知っていた。

 

 娘ともどもIS学園の世話になることが決まった日以来、ISについての知識を、とにかく何でもいいから頭の中に叩き込まねばと、IS関連の書籍や雑誌を手当たり次第に読み漁ってきた。そのうちの一冊に、彼女たちの機体と、その操縦者について紹介している特集記事が掲載されていたのを憶えている。

 

 すなわち、アメリカ製の第三世代機『ヘル・ハウンド』と、同じく第三世代機でギリシア製の『コールド・ブラッド』。操縦者はそれぞれ、三年生のダリル・ケイシーと、二年生のフォルテ・サファイア。二人とも単に専用機持ちというだけでなく、生国の代表候補生に選ばれるほどの実力者たちだ。不測の事態が起こりうる可能性大なる試運転の場においては、これほど頼もしい存在はいない。彼女たちであれば、何か異変が生じたとしても、上手く対応してくれるだろう。

 

 無論、この考え方は一方的な期待だ。いざそういう事態が起こったとして、自分の思い通りに動いてくれなかったとしても、彼女たちを責めることは出来ないが。

 

 鬼頭は満足そうに頷くと、ピットルームから、隣接する更衣室へと移動した。ずらり、と並んだスチールロッカーの中から、『26』番を選ぶ。どのロッカーにしようか、視線を、ぐるり、と巡らせた際に、真っ先に視界に映じたのがその番号だった。

 

 26という数字から、クルマ好きの鬼頭はすぐにRB26エンジンのことを連想した。R32~34型までのスカイラインGT-Rに搭載されていた、歴史に残る名機だ。奇妙な縁を感じた彼は、引き寄せられるように『26』番ロッカーの前に立った。

 

 更衣室に設置されているロッカーはすべて、電子ロック式の錠前によって開閉が制御されている。取っ手部分のすぐ側に、接触型のセンサースクリーンが設けられており、そこを指で触れると、指の静脈パターンが記憶されて、使用可能になる仕組みだ。登録されたデータは開閉二回ごとに消去され、みたび使うにはまた登録をやり直す必要がある。誤って閉めてしまったときなど面倒だが、ISという軍事機密の塊を扱う上では、こうした防犯上の措置は不可欠だ。

 

 鬼頭は右手の親指から中指までを、解錠パネルのセンサー部に同時に押しつけた。静脈パターンは、一本だけだとセキュリティの精度が落ちてしまうため、最低三本を登録する必要がある。スクリーン・パネルの裏側で、マイクロ・レーザー発振器が作動し、血管のパターンを走査した。センサーの上部に二つ並んでいる、赤と緑の小さなランプのうち、緑色の方が点灯する。ロッカーの使用許可が下りたサインだ。鬼頭は戸を引き、中に手荷物を放り込んだ。

 

 防犯装置こそ特殊な造りをしているIS学園のロッカーだが、それ以外の構造は、一般的なオフィス用のスチールロッカーと大差ない。その寸法は、縦の長さが一七九〇ミリ、横幅が三一五ミリ、奥行きはたっぷり五一五ミリもあり、大柄な学生鞄も易々と飲み込んでくれる。中にはハンガーが二個あり、鬼頭は早速上着のジャケットとカッターシャツを引っかけた。あらかじめ着込んでおいた、群青色のISスーツが露わとなる。スラックスも脱いでツーピース仕様のISスーツ一枚だけの装いとなった彼は、忘れ物がないことを確認してロッカーの戸を閉めた。センサー上部のランプのうち、緑の方が消灯し、代わって赤い方が点灯する。これにより、このロッカーは鬼頭が登録した三本指をセンサースクリーンに押しつけるまで、開かなくなった。

 

 ピットルームに戻った鬼頭は、ISハンガー前の開けた場所に移動した。一夏たちの第三世代機と比べれば小柄な『打鉄』だが、それでも、身長一七五センチメートルの自分が着込めば、二メートルを超す巨躯に加えて、身幅も相当な大きさになってしまう。ある程度のスペースを確保した上でなければ、IS展開時の衝撃で周りの物を吹き飛ばしてしまう恐れがあった。

 

 鬼頭は念のため辺りに目線を向けてクリアリングをすませると、両の足を肩幅に広げてその場に立ち、瞑目した。頭の中に、愛機たる鎧甲冑の姿を思い浮かべ、そのイメージを、右手中指の指輪に向けて集中させる。より正確に表すのなら、指輪の中で眠る、ISのコアに向かって。

 

 金色の三角形が、鬼頭の意識の高まりに応じて、ぼんやり、と発光し始めた。

 

 眠っていたコアが目を覚まし、思い描いた具足姿を顕現させるべく、男の体を量子の光で覆い隠す。

 

 ――こうしていると、まるでグリーンランタンだな。

 

 海外留学中に現地で愛読していたアメコミの主人公のことを思い出し、鬼頭は光の粒の中で苦笑した。あのヒーローも、スーパーパワーの源は不思議な力を秘めた指輪だった。

 

「In brightest day, in blackest night. No evil shall escape my sight.

 

 Let those who worship evil’s might. Beware my power… Green Lantern’s light!」

 

 輝ける日の下も、漆黒の夜の闇も。わが瞳は、悪の存在を逃さない。

 

 闇の力を崇める者どもよ。畏れよ、わが光、グリーンランタンの光を!

 

 茶目っ気たっぷりに言い放つや、光の粒子が弾けた。

 

 鬼頭の四肢を、機械造りの甲冑が覆い隠す。

 

 銀色の鎧武者の装いとなった鬼頭は、まず空間投影式ディスプレイを起ち上げた。画面いっぱいに、機体各部のステータス情報を表示させる。

 

 新機能の試運転を前に、機体に異常があっては困る。正確なデータが採れないことは勿論だが、新機能を稼働させたことによるエラーと、もともと発生していたエラーとが化学反応的事態を起こして、大きな事故につながってしまうことがいちばん恐い。

 

 鬼頭は、少しのエラーも見逃すまい、とステータス・ウィンドウを注意深く検めた。特に、新機能を追加したばかりの、OS周りのことで不具合が生じていないかを見ていく。

 

 やがて、どこにも問題はなし、と判じた鬼頭は、ひとまず安堵の溜め息をついた。しかし、すぐに顔の筋肉を引き締め、ピット・ゲートへと機体を移動させる。

 

 ゲートの前に立つや、再び空間投影式ディスプレイを召喚した。ゲートの開閉システムにアクセスして、開放を要求する。返答はすぐによこされた。きっかり五秒後。開閉を知らせる警告ブザーが、ピットルームの内と外に向かって、甲高く鳴り始めた。これからISが発進するから、ゲートの側に近づくな、と知らせる合図だ。

 

 縦に、横に、と、四重構造の隔壁シャッターが次々に開いていく。

 

ゲートが完全に開放されるや、すかさずハイパーセンサーで、進路上の安全が確保されているかを確認した。よし、と頷き、鬼頭は機体を浮遊させた。スカート・アーマー背面部にマウントされているロケット・モーターは噴かさず、PICの力のみでもって、前へと進む。急速度で変化する視界。第三アリーナ内へと、飛び出した。

 

 安全のためだろう、鬼頭が飛び出したゲートとは真向かいに位置する、別のゲート付近に退避していた先客達がこちらを振り向いた。第三世代機としては珍しい、曇天色の重装甲に身を包んだダリル・ケイシーが、驚いた表情を浮かべて身を強張らせるのが見えた。両肩部の近くで浮遊する、狩猟犬の頭部を模したアンロック・ユニットが、操縦者の心情を反映してか、鬼頭を睨んで、ぐるる、と唸る。

 

 はて、自分のなにをそんなに警戒しているのか。アメリカ政府から、自分について何か言われているのか? 鬼頭は内心首を傾げながら、自身を見つめる二人のもとへゆっくり近づいていった。やはり、PICの作用だけで距離を詰めていく。

 

 直前に見た映像の様子から、彼女たちが模擬戦をしていた公算は高い。まだ誰もいない時間帯、いまは二人だけの世界だ、と気分よく、のびのび戦っていたところを、自分の入場がために中断させてしまった可能性がある。

 

 ――新機能のテストを始める前に、一声かけておくべきだ。

 

 悪意の有無によらず、自分の行動の結果、誰かに不利益が生じてしまったのであれば、謝罪するのは当然だ。たとえ相手が気にしなかったとしても、それが筋というものだろう。

 

 またそうでなかった場合でも、自分がこれからやろうとしている実験の内容を考えると、彼女たちにも事前に話をしておくべきだ。

 

 やがて十メートルの距離まで近づいた鬼頭は、オープン・チャネル回線で話しかけた。

 

「おはようございます」

 

「お、おう」

 

「……っス」

 

 世界にたった二人しかいない、特別な立場にある男からの声がけだ。ともに緊張した様子で、かたやダリルはゆっくりと頷き、かたや、癖の強い黒髪を三つ編みに結んでいるフォルテ・サファイアは言葉短く応じた。ダリルの『ヘル・ハウンド』とは対照的に、こちらのISは装甲部の被覆面積が少ない、鬼頭のよく知る第三世代機らしいシルエットの機体だ。その代わり、特殊兵装を搭載していると思しき二基のアンロック・ユニットは、機体本体と同じくらいに大きい。氷の結晶の意匠がいくつも組み合わさって構成された、大型のシールドだ。更識楯無のミステリアス・レイディに似た容姿をしている。

 

 相手の緊張をほぐすべく、鬼頭は努めて明るい声音とにこやかな表情を心がけながら、二人の顔を交互に見た。

 

「突然の声がけですみません。私が入場したせいで、お二人のお楽しみを、邪魔してしまったのではないか、と思いまして」

 

「お楽しみ、って……」

 

 鬼頭の呟きを反芻し、なぜか頬を紅潮させるフォルテ。おや違ったか、と、鬼頭は意外そうに口の中で呟いた。二人とも活き活きと戦っていた姿から、単に技を競い合っているというだけでなく、てっきり、仲の良い友人同士のコミュニケーションも兼ねている、と感じたのだが……いや、待てよ。

 

 ――彼女たちは、海外からの留学生だ。

 

 国際色豊かなIS学園ではあるが、学園内での公用語は基本的に日本語だ。日本人の鬼頭たちは勿論、欧州生まれのセシリアなども普通に日本語を口にしている。そんな環境への慣れから、彼女たちのバックボーンに目を向けないまま、自然と日本語で話しかけてしまったが、留学生にとって、比喩表現は本来難しいもののはずだ。

 

 比喩metaphor とは、その言語を操る者たちがどんな歴史を歩んできたか、どんな風俗・文化を形成しているか、ということに起因するもの。たとえば欧米人は、キリスト教に由来する比喩をよく口にするが、非キリスト教圏の人間にとって、これは分かりにくい。同様に、日本にやって来て一年とか、二年とかの彼女たちでは、理解の及ばぬ状況はまだまだ多いと考えられた。

 

 自分が口にした、「お楽しみ」が何を示しているのか、単に分からなかっただけなのかもしれない。鬼頭は一つ一つの表現に気をつけながら、改めて言う。

 

「ここに来る直前、館内の様子をモニターしているカメラの映像を見ていたんです。そうしたら、お二人が模擬戦をしているように見えました。だから、私のせいで中断させられたのではないかと思いまして」

 

「あ、ああっ! なるほど、そういう意味だったっスか」

 

 フォルテは得心した様子で手を叩いた。かたわらのダリルも、粛、と頷く。

 

 二人は顔を見合わせ、目線のみで意思疎通。アイ・コンタクトによる相談は終わったのか、まずフォルテが先に口を開いた。

 

「それについては、そこまで気にしないで大丈夫っス。たしかに先輩とバトルしていましたけど、あれは半分、お遊びみたいなものっスから」

 

「ああ。ちゃんとした模擬戦を始める前に、お互いの機体に不調がないか、動きを確かめ合っていただけさ。軽いウォーミング・アップってところだ。いつ中断しても問題はなかった。あんたが気にすることはないよ」

 

「ははあ、そうでしたか」

 

 自分が邪魔をしたわけではないと知って、鬼頭は安堵から相好を崩した。と同時に、やはり日本語の取り扱いには注意しなければな、との思いを新たにする。二人とも、このIS学園で最低でも一年以上日本語を使い続けているはずなのに、その言葉遣いははっきり言って下手くそだ。フォルテは発言の内容如何に問わず、文末をですます調で締めくくろうとする悪癖が身についてしまっているようだし、ダリルにいたっては、傳法な男言葉に加えて、自分と相手との関係性から言い方を変える、という日本語の基本的な使い方がなっていない。これでは、先の「お楽しみ」が何を意味する言葉なのか、分からなかったのも仕方ない。

 

 今度、千冬たちに正しい日本語の使い方講座の開講を提案してみるか、などと考えながら、鬼頭は彼女たちとの会話を続けた。

 

「自己紹介が遅れましたね。私は……」

 

「知っているよ。トモユキ・キトウだろ?」

 

「ははあ、ご存知でしたか」

 

「当然だろうが」

 

 ダリルは呆れた表情で鬼頭を見た。

 

「いまや世界でいちばん有名な男だぜ、あんたは。知らない方がおかしいだろ」

 

「そういえば、そうでしたね」

 

「下手な大統領とかよりも、よく知られた顔と名前だと思うっス」

 

 世界一有名な男のらしからぬ反応に、フォルテは、くすくす、と微笑んだ。かたわらで浮遊するダリルよりも前に出て、鬼頭に対し右手を差し出す。氷晶盾で装甲化された籠手の先端で、五本指タイプのマニピュレータがゆったりと開いている。

 

「ギリシアの代表候補生、フォルテ・サファイアっス。ISの登録名は『コールド・ブラッド』」

 

「オレはダリル・ケイシーだ。こいつは『ヘル・ハウンド』」

 

 フォルテに次いで、ダリルも右手を差し出してきた。こちらも、五本指タイプのマニピュレータを備えるロボットアームだが、つま先の部分に、鋭利なブレードが取り付けられている。鉤爪。手それ自体を凶器とする構造は、白兵戦能力の高さを想像させた。

 

 鬼頭は差し出された二つのロボットアームを交互に見つめた。

 

 ともに欧米文化圏の出身者だ。人間関係を円滑にスタートさせるためには、握手が欠かせない。鬼頭もまた『打鉄』のロボットアームを前へと動かした。がっしり、と力強く、連続して組み交わす。

 

「改めて、鬼頭智之です。よろしくお願いしますよ、ケイシー先輩、サファイア先輩」

 

「あ~……その、先輩、っていうのはやめてくれよ」

 

 握手をほどいたダリルは、面はゆそうに唇を尖らせた。

 

「学年はたしかにオレたちの方が先輩だけどよ」

 

「父親世代の男の人から先輩呼ばわりされるのは、なんというか、居心地が悪いっス」

 

「普通に、ダリル、って呼び捨てしてくれればいいさ」

 

「私も呼び捨てでお願いするっス。あ、呼び方はフォルテでも、サファイアでも、どっちでもいいっスよ」

 

 日本語が拙いなりに、気を遣ってくれているのだろう。ファーストネームで呼び合う慣習に乏しい日本人にとって、フォルテの申し出はありがたい。鬼頭は微笑を浮かべながら首肯した。

 

「分かりました。ミス・サファイアに、ミス・ダリル。私のことも、好きに呼んでください」

 

「OKっス。ミスタ・トモユキ」

 

「それにしても、あんたがアリーナに来るなんて、珍しいじゃないか」

 

 男性操縦者向けの改修が施されている『打鉄』を、好奇心に満ち満ちた眼差しでしげしげと眺めながら、ダリルが言った。

 

 彼女の口から飛び出した、珍しい、というフレーズに違和感を覚えた鬼頭は、意外そうに呟く。

 

「珍しい、ですか?」

 

「二人目の男性操縦者は訓練嫌い。研究室に篭もってばかりで、アリーナには滅多に顔を出さない。暗い室内でいったい何をやっているのやら。きっと怪しい研究に没頭しているに違いない。いまに何かしでかすぞ、ってさ。生徒たちの間じゃ、結構有名な噂だぜ?」

 

「べつに訓練が嫌いというわけでは」

 

「あん? 怪しい研究ってところは、否定しないのかよ?」

 

「そこはまあ……事情を知らない方々からすれば、そう思われても仕方のないことをしている自覚はありますので」

 

 IS業界の発展を目指しての研究ではない。災害用パワードスーツの開発と普及という、個人的な野望を叶えるための研究だ。自分がISについて学ぶのは、それ自体が目的ではなく、あくまでも、夢を叶えるための手段の一つにすぎない。災害用パワードスーツを開発する上で、ISの研究以上に有効と判断される手段があるのなら、自分は迷わず、そちらを選ぶことだろう。

 

 己のそうしたあり方や行いが、IS学園の生徒たちの目に、奇異なものとして映じてしまうのは仕方のないことだと鬼頭は考えていた。なんといっても、倍率一万倍超という難関を承知で、IS学園を進学先に選んだ娘たちだ。多くは、IS中心の世界観に生きていると考えてよいだろう。そんな彼女たちにとって、ISのことをぞんざいに扱っている(ように見える)自分の振る舞いは、さぞや奇妙奇天烈と見えてしまうに違いない。

 

 週刊ゲンダイの特集記事や、女尊男卑思想を由来とする男性操縦者への悪感情もある。

 

 帷幄に篭もって謀に胸を躍らせる自分の姿が、怪しく見えてしまうのもやむなしといえた。

 

「あ、でも、安心してくださいっス。その噂、新年度が始まったばかりの頃は、結構信じている人もいたっスけど、いまじゃごく一部のミサンドリストくらいしか、信用していないっスから」

 

「そうなんですか?」

 

 鬼頭は怪訝な表情を浮かべて訊ねた。四月の始め頃と、五月の下旬に差し掛かろうかといういま時分。はて、この一ヶ月半程度の間に、少女たちの変心を促すようなことがあっただろうか。

 

 真剣に考え込む表情がおかしかったか、フォルテが苦笑しながら言う。

 

「きっかけは、クラス対抗戦っス。あのときの館内放送で、流れが変わったっス」

 

「あんたのことを悪し様に罵っていた連中のほとんどはさ、例の週刊誌の記事とか、噂話を鵜呑みにしている奴らばっかりで、実際にあんたと話したり、あんたたち家族のことをよく調べたりした上で、鬼頭智之って男は人間の屑だ、って判断したわけじゃない。情報に踊らされていただけの、馬鹿な奴らだったんだよ」

 

「みんな、あの館内放送ではじめて、ミスタ・トモユキの声を聴いたっス。それで、あれ、ヘンだな? って。噂話で語られる人物と、なんか違うな、って。そう思ったっスよ」

 

「そういう心理状態になったところで、追い撃ちしてきたのが、先週の日本政府からの発表だ」

 

 鬼頭は得心した表情で頷いた。先週月曜日に行われた、藤沢正太郎官房長官による定例記者会見での光景を思い出す。

 

 午前の部での出来事だった。冒頭発言にて「今日は国民の皆様にお伝えしたいことが三件あります」と、知らせた後、官房長官は手元のペーパー資料をゆっくりと読み上げていった。曰く、新しい法律の施行が決まりました。曰く、厚生労働省内で人事の変更がありました。曰く、鬼頭智之の、ゴールデンウィーク期間中の行動記録について説明します。記者たちは手元のメモ帳から等しく顔を上げた。官房長官は、鬼頭智之が所用をすませるため、黄金週間の初日と二日目に、名古屋にひそかに帰郷していたことを明かし、久しぶりの故郷での時間をたいへん楽しく過ごした、と説明した。

 

 藤沢長官の発言を一言一句聞き逃すまいと意識を集中させていたジャーナリストたちは、等しく総毛立った。男性操縦者の言行録について語る長官の口調が、たいへんに挑発的であったからだ。

 

 ――これは牽制だ。日本政府には男性操縦者たちの身の安全を保障する力がある。お前達に、これと同じことが出来るか!? と、男性操縦者の身柄を狙うすべての国家、組織に対して、挑戦状を叩きつけているのだ!

 

 会見では鬼頭智之が観光ホテルのスイートルームで夕食に舌鼓を打っている写真も紹介された。写真の中の鬼頭は笑っていた。非常にリラックスした様子で、夕食の席を用意した人間たちへの信頼がうかがいとれた。これもまた、日本政府と鬼頭智之は蜜月の間柄にあることを国内外に知らしめるための材料と考えられた。

 

 記者会見終了後、政府の意図を汲んだプレスリリースは、海外へと速やかに発信された。

 

 報道を受けた各国の動揺ぶりは凄まじかった。男性操縦者をどう扱うべきか、いまだ結論を下しかねている国が多い。そんな情勢下では、藤沢長官の発言は劇薬として作用した。日本政府はすでに、男性操縦者確保のために動き出し、大きなリードを得ている。この事実をどう受け止めるべきか。そして、我々はどう行動するべきなのか。各国は決断を迫られた。

 

 そんな中、いち早く反応したのが英国政府だった。彼らは緊急で記者会見を開き、日本政府がそうしたように、自分たちと鬼頭智之との親密さをアピールした。すなわち、英国の第三世代型IS『ティアーズ』型に搭載されている特殊兵装BTシステムの研究開発を、鬼頭智之と共同で進めている旨を、世界に向けて公表したのである。

 

 従前、鬼頭と英国政府が互いの心理的距離感について再定義を果たしたことを知る人間は限られていた。両国の関係者を除けば、IS学園の一部の教職員や、各国の情報機関、その背後にいる政府の人間などがそうだ。べつに隠し事をしていたわけではない。かといって、進んで公言する必要もないだろう、との認識を、関係者一同が共有していたがために発生した事態だった。聡明なはずのIS学園の生徒たちが噂話に踊らされてしまったのも、解析室や工作室に好んで篭もる鬼頭が何をやっているのか、その実際を知らなかったことが大きい。

 

 イギリス政府の発表は、世界にさらなる混乱と動揺を生じさせた。日本政府だけでなく、イギリスも男性操縦者の身柄確保に向けて本格的な動きを開始している。この事実を知った各国の政府や研究機関は、以降、自らの内から湧き出でる焦燥感との戦いを余儀なくされた。これ以上、もたもたしていると、バスに乗り遅れてしまうのではないか。我々も男性操縦者の確保に向けて、動き出すべきではないのか。確保とまではいかずとも、男性操縦者という存在に対するスタンスについて、いい加減、方針を決定するべきではないのか。織斑一夏の発見からすでに二ヶ月近くが経っているのだぞ……。

 

「まあ、そういう面倒くさい話は、いまはいいさ」

 

 代表候補生の立場から、そのあたりの詳しい事情を聞かされているだろうダリルは、心底、どうでもよさそうに言った。

 

「重要なことは、日本とイギリスの発表で、あんたが普段、研究室に篭もって何をやっているのかを、みんなが知ったってことだよ。あの発表で、噂話はトドメを刺された。いまじゃあんな噂、信じている方がおかしい、って認識だよ」

 

「とはいえ、ミスタ・トモユキがアリーナに来ることが少ないのは、事実っスから」

 

「ああ、だから、珍しい、ってさ」

 

「なるほど」

 

「で、こんな朝早くから、どうしてここに?」

 

「実験です。昨晩、この機体のBTシステムに新機能を実装させたので、その試運転に」

 

「なるほど、だからこの時間ってわけか」

 

 試運転の一言から鬼頭の意図を察したダリルは、得心した様子で頷いた。

 

 どんな機能かは知らないが、昨日、取り付けたばかりということは、コンピュータ・シミュレーションはともかく、実際に動かすのは今日が初めてのはず。不測の事態が起きた場合に、周囲への被害が最小限に抑えられるよう、人の少ない時間を狙ってやって来たというわけだ。

 

「どんな機能なんっスか?」

 

「イメージ・インターフェースの機能を拡張したものです」

 

 「これはセシリアの『ブルー・ティアーズ』を見て思ったことですが」と、鬼頭は前置きした。

 

「見た目の派手さから皆さん勘違いしがちですが、BTシステムの真骨頂は、無人攻撃端末によるあらゆる方向からの攻撃などではありません。無人端末に、そうした繊細な動きを可能とさせるほどの、イメージ・インターフェースの造り込みの精緻さにあります」

 

 人間の脳波という、二十~七十マイクロボルト程度の出力しかない電気信号を増幅して、あれほど力強く、それでいて細やかな動きを可能とさせているのだ。鬼頭が考えた新機能は、この増幅する力を、逆方向に利用出来ないか、というものだった。すなわち、

 

「自らの思考波ではなく、相手の思考波を増幅し、受信する。これにより、相手の思考を読むことが出来るようになるのでは? と、考えたのです」

 

「なっ!?」

 

「おおお~! すごいっス!」

 

 フォルテが両目を興奮に輝かせた。ISバトル競技の多くは、一対一の試合形式で行われるものが多いから、相手の考えていることが分かる、というのは非常に強力な武器となりえる。

 

 他方、そのかたわらでダリルは頬の筋肉を強張らせていた。相手の思考を読むことの出来る機能だって? 自分のような特殊な立場の人間にとって、非常に都合の悪い機能ではないか。

 

「……具体的には、どういうものなんだよ?」

 

「まず、思考を読み取りたい相手に向けて、ターゲット・ロック用のビームを発射します。これはBTエネルギー特有の流動性、可塑性を利用した不可視の光線で、物理的な破壊力は皆無ですが、壁などの遮蔽物を透過して直進する性質を持っています。この光線が人体に命中すると、その瞬間、BTエネルギーは形を変え、目には見えない細かい粒子となって、その人物の周囲で一定時間滞留します。このBT粒子が、対象となった人物の思考波を増幅し、電気的な信号として発信。信号を受け取った『打鉄』のISコアがそれを処理し、操縦者に相手が何を考えているのか伝える、という仕組みです」

 

「そのロック用ビームっていうのは、どこから発射するんだ?」

 

「どこからでも。この『打鉄』にはBTエネルギー伝達用の特殊なバイパスを、全身に増設してあります。指先からでも、足のつま先部分からでも、なんだったら背中からだって発射出来ますよ」

 

「……えげつねえな、それ」

 

「可視光線じゃない、っていうのも厄介っスね。知らないうちに喰らっていて、知らないうちに考えを読まれているとか」

 

 むぅ、と眉をひそめながらフォルテが呟いた。この男の性格からいって考えにくいが、ISバトル以外にも、色々と悪用出来そうな機能だ。

 

「ビームの速度や射程は?」

 

「スピードは光速の約二十パーセント。射程距離は、常温常圧下、遮蔽物のないクリーンな環境で、最大でおよそ四〇〇メートルといったところです」

 

 フォルテの唇から感嘆の溜め息がこぼれた。競技の種類にもよるが、多くのISバトルでは、直径二〇〇メートルの円形のアリーナ・ステージを試合の場と定義している。逃げ場はほぼないと考えられた。

 

 光速の二十パーセントという速さも脅威だ。PICの恩恵により、1G環境下での超音速機動を可能とするISだが、回避は困難だろう。

 

「あと、気になるのはどの程度思考を読めるのか、っスよね。さすがに相手の考えていること、一から十まで完璧に、ってわけじゃないでしょうし」

 

「そうですね」

 

 鬼頭は微笑を浮かべながら頷いた。

 

「この新機能で受信可能なのは、フロイドの言う、“意識”レベルの思考だけです」

 

 精神分析学の始祖と知られるジグムント・フロイドが提唱した数々の理論の中でも、特に有名なのが、局所論と、それをブラッシュアップした構造論からなる、人の心の“つくり”についての考え方だ。フロイドははじめ、人間の心には、意識、前意識、無意識の三つの領域がある、という局所論を唱えた。すなわち、普段から意識している心の部分……意識。普段は意識していないが、注意を向ければ意識に上がってくる心の部分……前意識。自分では意識出来ない、自分の知らない心の部分……無意識、という三層構造の考え方だ。これに、イド(エス)・自我(エゴ)・超自我(スーパーエゴ)という、三つの心的組織の考え方を加えたのが、フロイドの研究の真骨頂とされる、構造論である(第二局所論とも呼ばれる)。人間の心は本能エネルギーの貯蔵庫であるイド(エス)と、道徳心や良心を司る超自我(スーパーエゴ)、両者の調整役たる自我(エゴ)によって構築されており、この塊が三層領域の中に存在する、という考え方だ。

 

 構造論の詳細については、専門の書誌に譲るとしよう。

 

 とにかく、鬼頭はこの構造論の考え方をベースに、BTシステムの新機能を構築した。

 

 人間の脳内では、自覚出来ないだけで、信号の頻繁なやり取りが常に行われている。無意識下で行われているそれらの思考までいちいち拾っていては、いかなISコアの処理能力といえ、計算が追いつくまい。

 

 なにより、無意識下の思考というのはほとんどの場合、意識するほどの重要性がないからこそ、その領域にとどめられているとも言える。BTシステムの運用目的や、自分がこの機能に託した想いからすると、そこまでの深い追究は不要と考えられた。

 

「人間の思考を読む、というのは、実はBTシステムの開発にたずさわる以前から研究してきたことでした。ご存知かもしれませんが、私は日本のロボット・メーカーに勤務しておりまして、いまは災害救助用のパワードスーツの開発を担当しています。思考を読む機能は、もともとそのパワードスーツに搭載するつもりで、仕組みを作りました」

 

「災害用パワードスーツに、思考を読む機能が必要なんっスか?」

 

「少なくとも、私は必要だと考えています」

 

 たとえば大地震。地下深くで炸裂した莫大なエネルギーは地表を揺らし、そこで暮らす人々の安寧をいとも容易く脅かす。

 

 たとえば土砂崩れ。大雨によるものにせよ、人の手による開発が原因にせよ、ひとたびそれが発生すれば、一立方メートルあたり一・三トンからの質量が、恐るべき速さで牙を剥く。

 

 あるいは危険物の爆発や引火。ガソリンやりんといった物質は、正しく扱えば、我々の生活を豊かにしてくれるが、心得を知らぬ者がいい加減に取り扱えば、恐るべき反作用でもって襲いかかる。

 

 世界のどこかで、そういった災害や事故が起こる度、涙を流す者がいる。痛みに苦しむ者がいる。その中には、倒壊した建物の下敷きとなり、生き埋めの状況に陥った者もいるだろう。思考を読む機能は、そんな彼らを助けるための武器である、と鬼頭は言った。

 

「……なるほど、瓦礫の下敷きになっている人たちの、私はここにいる! 早く助けて! って、思考を読むわけっスね」

 

「生き埋め状態からの救出が難しいのは、救助する側も、される側も、情報量が限られた中で、困難に立ち向かわなければならないことがいちばんの理由だと思います」

 

 救助する側は、どこにどれだけの人数が埋まっていて、そのうちの何人が切迫した状態なのか、まだ余裕があるのか、すでに手遅れなのか、といった情報が限られている状況の中で、捜索と救出にあたらねばならない。また救助を求める側も、自分がいまどういう状況に身を置いているのか、ほとんど分からない中で、心身を蝕む心細さと戦いながら、救助の希望を信じて生にしがみつかなければならない。

 

「心の声を聞くことが出来れば、誰が、どこに埋まっているのかがすぐに分かります。加えて、この機能を搭載しているパワードスーツは、災害時の運用を前提に設計されたレスキュー用のスーツ。生存者を見つけ次第、ただちに救助活動を開始することが可能です。救助の効率を、ぐっと高めることが出来るでしょう」

 

 生存者を自ら捜索し、自ら救助出来る。レスキュー用パワードスーツの最大の利点だ。捜索用の機材と救出活動用の機材が別々だと、こうはいかない。生存者を発見できても、すぐには救助を始められない。

 

 鬼頭の話を聞いているうちに、フォルテは胸の内が、わくわく、と熱を帯びるのを自覚した。

 

 彼女が生まれ育ったギリシアは、日本と同様、地震災害の多い国だ。アフリカプレート、エーゲ海プレート、ユーラシアプレートが複雑に衝突し合う境界帯に位置している。歴史書を開けば過去の事例に事欠かず、マグニチュード六以上の大規模地震も珍しくない。フォルテ自身も、二〇二〇年のエーゲ海地震を経験している。トルコ西海岸イズミルの近くを震源とするマグニチュード七・〇級の地震で、トルコは勿論、エーゲ海対岸側のギリシアにも多大な被害を及ぼした。特に酷かったのが建物の倒壊で、死傷者の数は両国合わせて一一〇〇人を超えたほどだった。

 

 もしもあのときに、鬼頭の言う災害用パワードスーツがあれば、どれほどの人々を救えただろうか。

 

 実現したらどんなに素晴らしい未来が待っているだろう。これまでは救えなかった命が助かる未来。諦めざるをえなかった命を、諦めなくてよくなる未来。きっと、いまよりもたくさんの笑顔があふれる世界になるに違いない。

 

「試運転って、言っていたけどよ、何をするつもりなんだ?」

 

「文字通り、試しに動かしてみるだけです。どこか適当な方向に向けてBTビームを発射し、声らしいものが聞こえてきたら、すぐに機能を停止させる。そのときの様子を、後で分析する。それだけです」

 

「あれ? すぐに止めちゃうんっスか?」

 

「心の声を聞く、と表現すると、たいへんな発明のように聞こえますが、やっていることそれ自体は、相手のプライベートな部分に、無遠慮に触れる、ということですから。許可をもらっていない相手に、それ以上のことは出来ません」

 

 まずは新機能が正常に作動してくれるかどうかだけを試す。相手の思考をどこまで読み取るか、などの性能部分についての検証は、次回以降、正式な協力者を得た上で、その人物を対象に行うつもりだった。実験の内容も、ハイパーセンサーの可視範囲外で絵札を見てもらい、それを鬼頭が言い当てる、というような、思考の内容をこちらである程度誘導出来るようなものとすることを考えている。

 

 鬼頭の発言に、フォルテはなるほど、と得心した様子で頷いた。思考を読み取り、居場所を突き止める。災害現場のような有事においては有用な機能だが、平時においては悪質なストーカー行為ととられかねない機能だ。自分の知らないところで、自分のことをよく知りもしない人間に、頭の中をのぞき見られる。考えただけで、ぞっとした。

 

 と同時に、朝の早い時間帯を選んだのはこれも理由だったかと、別なところでも得心する。放課後など利用者の多い時間帯だと、鬼頭が意図しない相手にBTビームが命中してしまい、思考を読んでしまいかねない。この男もそれは本意ではなかろう。

 

「事情は分かったよ」

 

 胸の前で両の腕を組みながら、フォルテが呟いた。『ヘル・ハウンド』のロボットアームはゴツゴツとした見た目に比して意外にも小柄だ。人間がとる日常動作の多くを、そつなくこなすことが出来る。彼女は腕を組んだまま、エメラルド色の目線で鬼頭を睨んだ。

 

「それで、いまから始めるのか?」

 

「ええ、そのつもりです」

 

「そうか。……なあ、」

 

「はい」

 

「気を悪くしないでほしいんだが」

 

「なんでしょう?」

 

「オレ、場所を変えるわ」

 

「先輩?」

 

 強面で言い放ったダリルを、フォルテが憮然とした面持ちで見つめた。アメリカからやって来た代表候補生の少女は、構わずに続ける。

 

「いくらそのつもりがない、って言われてもさ、完全には信用出来ねえよ。なんせ、オレとアンタは今日が初対面なんだ。頭の中をのぞき見られるかもしれない、なんて気持ちの悪さを抱えたままじゃ、訓練に集中出来ない」

 

「……当然ですね」

 

 ダリルの言に鬼頭は同意を示した。

 

 自身に対する疑心を、不快とは思わなかった。逆の立場であれば、自分もきっと同じように感じただろうし、不安を素直に口にしてくれたことは、かえってありがたい。自分たちのような技術屋がつい陥りがちな、自らの腕っ節を過信するあまり、実際にその道具を取り扱うユーザーの事情を軽視しがち、という姿勢を牽制してくれる。

 

 勿論、ダリルがこの場からいなくなることを残念に思う気持ちはある。

 

 彼女が側にいてくれたなら、事故への警戒もほどほどに、こちらも思う存分試運転に挑めたのだが、と思う。

 

 だが、それらの打算はもとよりこちらの勝手な期待にすぎない。期待はずれに終わったからといって、文句を口にしてよい道理はない。

 

「悪いね」

 

「いえ、お気になさらず。ミス・サファイアはどうされます?」

 

「今日は先輩と一緒に、って約束だったっスから」

 

 フォルテは悩ましげに呟いた。

 

「ミスタ・トモユキの新発明は気になりますが、今日はおいとまするっス」

 

 日本語が不自由なわりに、難しい単語を知っているな、と、思わず口元がほころんだ。

 

 各々辞去の挨拶を告げて、二人は鬼頭から離れ、入場時に使ったと思われるピット・ゲートの方へと向かっていった。

 

 その後ろ姿を見送った後、鬼頭は気を取り直して機体をアリーナのど真ん中へと移動させた。それから垂直に上昇し、シールド・バリアーの天蓋すれすれの高さをとる。試合中の設定ではないため、バリアー天井は地上一五〇メートルの高さで展開されていた。眼下を、ぐるり、と見回して、自分以外の機影がないことを確認すると、意識を、背中のBTエネルギー・タンクへと傾けた。頭の中に車のキィの姿を思い浮かべ、鍵穴に差し込み、ひねる。

 

 ――BT・OS《オデッセイ》、ファースト・ギア、イン……!

 

 機体の制御OSを、『打鉄』にプリインストールされているものから、自らの手でこしらえた特別なものへと切り替えた。背面タンクにたっぷり溜め込んでいたBTエネルギーが解き放たれ、血管のように張り巡らした特殊バイパスを通じて、全身に満ち満ちていく。急激なパワーの上昇。余剰エネルギーの一部が光へと変換され、装甲表面部より、煌々と排出された。

 

 ――……ううん。やはり、色は変わってしまうか。

 

 黄金色に輝く自らを俯瞰して、鬼頭は表情筋を強張らせた。発光現象のため分かりにくいが、機体の外殻部の表面色が、《オデッセイ》を起動する前とは変わっている。それも、光の熱で塗装が剥げ落ちて、素材本来の色が剥き出しになった、とかではなく、薄墨色から、すみれ色のストライプが所々入ったシルバーグレイへと、まったく別な色に変色していた。

 

 過日の無人ISとの戦闘時にも見られた変色現象だ。コンピュータ・シミュレーション上ではなく、実際に《オデッセイ》を動かしてはじめて判明したことだが、BTエネルギーをIS本体に流すと、このような副反応が生じるらしい。鬼頭はあの日以来、《オデッセイ》を起動させる度に、この現象と遭遇していた。

 

 ――いったい何なんだろうな、これは?

 

 BTエネルギーが原因なのは間違いない。しかし、BTエネルギーがどういうふうにはたらいた結果、このような現象が起こるのか。変色現象をはじめて確認した日からもう一ヶ月が経過しているが、作用の原理については、いまだに突き止められないでいた。IS学園が保有する最新の設備が通用しないというだけでなく、BTエネルギーの発見者たち……ブルー・ティアーズの開発チームの技術者でさえ、皆目見当がつかないという。

 

 発光現象はコンマ二秒の間続き、終息した。

 

 鬼頭はステータス・ウィンドウを開くと、機体のコンディションを検めた。変色現象により『打鉄』に異常が生じていないか、入念に確かめる。結果はまったくのクリーン。見た目の変化以外に、問題点は検出されない。変色による影響がいちばん大きいと考えられる塗装さえ、性能の変化は見られない。

 

 ――本当に何なのか、これは。

 

 変色現象のことは一旦脇に置き、鬼頭は頭の中のシフトレバーを二速、三速へと叩き込んでいった。その度に、《オデッセイ》OSにかけられているリミッターが解除される。

 

 《オデッセイ》フル・リミッター……レベル1。

 

 《オデッセイ》第一リミッターを解除……レベル2。有線式BT攻撃端末《ミニ・ティアーズ》が、セミ・アクティブ・モードへと移行する。

 

 続けて第二リミッターを解除……レベル3。掌部分からBTエネルギーを放出し、武器に纏わせる機能が起ち上がる。

 

 そして第三リミッター。昨晩、完成したばかりの新機能を縛る拘束具を、解除する。頭の中のシフトレバーを、四速に入れた。

 

「これは……ッ!?」

 

 驚きの声が、唇から迸った。白銀の鎧甲冑が、再度、黄金色に輝きだしたのだ。鬼頭の総身を包み込むように、光の粒子が踊り狂う。

 

 予期せぬ二度目の発光現象だった。しかも、今度は原因が分からない。

 

 一度目の発光は、BTエネルギーの解放による急激なパワーの上昇をコンピュータが処理しきれず、持て余したエネルギーの一部が光と変じた結果だ。しかし、二度目のこれは違う。前後の状況を顧みるに、きっかけはOSのリミッターを解除したことだろうが、それ自体は、エネルギーの増大をもたらすようなアクションではない。エネルギーの総量自体は、変わっていないはずなのに。

 

 ――何が起きている? 何が!?

 

 鬼頭は再びステータス・ウィンドウに目線をやった。自己診断プログラムを走らせ、機体に変化が生じていないか調べる。切れ長の双眸に、みるみる険が宿っていった。ストライプの色が、またもや変色している。やがて光が消え、露わとなったのは、燃える夕日のようなあかね色。

 

 異変はそれだけに留まらなかった。一回目の発光現象では変色のみの変化だったが、今回は数値の上でも明確な違いが発生している。特殊バイパスを通じて『打鉄』の全身を循環しているBTエネルギーだが、エネルギー溜まりとでも表現するべき配分の偏りが生じていた。両の腕と、両の脚。BTエネルギーの集中により、四肢のトルク値に向上が見られている。

 

 ――正確には、ロボットアームの性能が機械的に向上したわけではない。思考波に敏感に反応するBTエネルギーが特定の部位に集中したことで、他の部位よりもパワーを引き出しやすくなっているんだ。

 

 その代わり、エネルギー配分に偏りが生まれたことで、他の部位への供給が薄くなっていた。その分、入力に対する反応速度が、鈍くなってしまっている。

 

 試みに、右のロボットアームで拳をつくり、前へと突き出した。腰を回し、肩を回しながらの右ストレート。気持ちの悪い手応えに、思わず顔をしかめてしまう。

 

 頭の中でイメージした動きと、実際の挙動との間に、大きな隔たりが見られた。イメージ・インターフェースの応答性が、明らかに低下している。先ほどまでは、こう動こう、と考えたら、その瞬間にはもう、稲妻の速さで機体が反応してくれたのに、動作の出だしが、ずいぶんとゆっくりになってしまった。その一方で、ロボットアーム自体の出力や動作速度は向上しているため、結果的に、イメージ通りのスピードで、イメージよりもずっと重いストレートパンチを繰り出せてしまった。この不思議なちぐはぐ感に、鬼頭は目眩さえ覚えた。

 

 ――これは、パワー重視の即席チューンが、自動的になされた、ということか……?

 

 人間の思考波に応じて姿形を変える、BTエネルギーの特性によるものか。

 

 ストライプの色が青紫色のときは、BTエネルギーが全身にバランスよく配分され、イメージ・インターフェースの応答性が飛躍的に高まった。これにより、鬼頭の『打鉄』はベテランのIS操縦者に匹敵するほどの高い運動性を獲得した。

 

 対して、ストライプの色が赤いときは、咄嗟の運動性や柔軟性よりも、直線的な機動性や、膂力が増している。変色現象と同様、BTエネルギーによる予期せぬ副反応だった。

 

 ――さて、どうするか……。

 

 診断プログラムの伝えるところによれば、ストライプ・カラーの変色と、エネルギー配分の偏り以外に異変は見られない。その二つにしても、操縦者の安全を害するような不具合とはいえない。ただ、これらは『打鉄』に搭載された簡素なセンサーによる簡単な診断結果。実際のところは、解析室など設備の整った場所で仔細に調べてみなければ分からない。

 

 ――この状況で、新機能のテストを続けてよいものか。

 

 いや、よいはずがない。開発者の自分でさえ予想外の異常が起こっているのだ。検出機器に反応がないからといって、新機能に、どんな影響を及ぼしているか分からない。こんな状態でテストを行ったところで、まともな成果は得られまい。

 

 今日は試運転を取りやめて、発光現象の影響が他にないか、じっくりと検分するべきだろう。この状況を冷静に俯瞰する、鬼頭の怜悧な部分がそう訴えていた。

 

 その一方で、しかし、とも彼は思う。自然と思い浮かぶのは、アリーナから退出していったダリルらの顔だ。彼女たちの貴重な練習時間を台無しにしておきながら、ここでテストを中断してよいものか。それに、たとえバイアスありきのデータであったとしても、それはそれで得るものがあるはず。追究をするべきではないのか。

 

 ――……究極、新機能がちゃんと動いてくれるかどうか、確かめるだけのテストだ。

 

 正常に動作してくれれば、その瞬間に終了する。動いてくれなかった場合も、そうと分かった時点で終了する。異変による影響は些少だろう、と予想される内容ではある。

 

 自己の正当化を自らに言い聞かせるためか、鬼頭は、うむ、とやや大袈裟に頷いた。

 

 右腕を前へと突き出し、掌を開く。掌底のあたりに意識を集中しながら、鬼頭はハイパーセンサーで周囲を、ぐるり、と走査した。おっ、と適当そうな人物の姿を見つけて、冷笑を浮かべる。ハイパーセンサーの人感機能が、第三アリーナと校舎とを結ぶ舗装路を箒で掃く用務員の姿を補足した。IS学園では珍しい、男性の職員だ。二、三度、学園内ですれ違い、そのときに挨拶を交わしたことがある。姓はたしか、轡木といったか。珍しい字面だったので、よく憶えていた。

 

 相手が掃除の真っ最中、というのは、鬼頭にとって都合がよかった。何かの作業中というのは、表層意識に占める思考の割合が、その作業に関連することが大部分だと予想される。相手のプライベートな部分に踏み入ってしまう危険性は、少ないだろうと考えられた。

 

 鬼頭は胸の内で、試運転の被験者たる男性用務員に向けて謝罪の言葉を述べた。

 

 かの人物に向けて、腕を伸ばし、掌をかざす。頭の中に思い浮かべるのは、例によって、全身を装甲強化服で覆ったアメコミヒーローの姿だ。

 

 ――《オロチ・システム》、起動……!

 

 全身を循環しているBTエネルギーのうち、掌の部分に集まっているものに、指令を送った。鬼頭の思考波に反応して、BTエネルギーが姿を変える。力を持たず、熱も持たず、破壊という現象を振りまかない。人の心を捕らえること、ただそれだけに特化した、目には見えないエネルギー・ブラストを形作る。

 

 並行して、鬼頭はハイパーセンサーの視覚機能に新たなプログラムを走らせた。通常の可視光線に加えて、X線や、ガンマ線に分類される波長域の光線も視認出来るよう、デジタル補正による着色が自動的になされるようにする。これにより、鬼頭だけはBTビームの軌跡を見ることが出来るようになった。

 

 最後に、彼は『打鉄』の量子格納領域にインストールされている、各種の計測機器が正常に作動しているかどうかをチェックした。仮に新機能が正常に動いてくれたとしても、そのときのデータが採れていなければ意味がない。

 

 やがてすべての準備が終わったことを認めた鬼頭は、意を決したように小さく頷くと、不可視の光線を発射した。

 

 掌から。

 

 そして、全身の、其処彼処から。

 

 上へ、下へ。

 

 右へ、左へ、と、あらゆる方向に向けて。

 

 鬼頭の視界には緑色に映じる、総数九六発ものBTビームが、無防備なる心を求めて飛び去っていった。

 

「なに!?」

 

 動揺する悲鳴が、鬼頭の唇から迸った。

 

 掌からだけのつもりが、肩やら、肘やらからの暴発。

 

 明らかに、正常な稼働とはいえない。

 

 鬼頭は慌ててシステムのスイッチを切ろうとし、しかし、すぐにもう手遅れだと悟った。つい先ほど、他ならぬ彼自身が口にしたことだ。ターゲット・ロック用のBTビームは、光速の二十パーセントという速さで飛んでいく。

 

【一番ビーム、エネルギー消失しました】

 

【二番ビーム、エネルギー消失しました】

 

【三番ビーム、エネルギー消失しました】

 

【四番ビーム、着弾しました。定義照会を開始します。……人間と認められず。ロックを解除します】

 

 耳膜を、次々と、情報の奔流が殴打した。

 

 発射された九六発の照準用BTビームには、ホモ・サピエンスについての定義があらかじめインプットされている。ある程度の大きさを持った動物に着弾したビームはその瞬間に形を変え、対象を取り巻くように滞留、いっそう細かく定義の照会を行う。そうして人間の定義を満たしていると判断された相手にのみ、新機能……オロチ・システムは反応する。

 

【一三番ビーム、着弾しました。定義照会を開始します。……人間と認められました。ロックを継続。オロチ・オペレーションを開始します】

 

【三二番ビーム、着弾しました。定義照会を開始します。……人間と認められました。ロックを継続。オロチ・オペレーションを開始します】

 

【三四番ビーム、着弾しました。定義照会を開始します。……人間と認められました。ロックを継続。オロチ・オペレーションを開始します】

 

【六六番ビーム、着弾しました。定義照会を開始します。……人間と認められました。ロックを継続。オロチ・オペレーションを開始します】

 

【八六番ビーム、着弾しました。定義照会を開始します。……人間と認められました。ロックを継続。オロチ・オペレーションを開始します】

 

 九六発のうち、八四発は標的の姿を見つけられないまま飛び続け、エネルギーを使い尽くして消滅した。

 

 九六発のうち、七発はそれなりの大きさをした動物の姿を補足するも、その後の精査の末に人間ではないと知って消滅した。

 

 九六発のうち、五発は人間に命中し、光の粒子へと変じて思考波送信のための準備を開始した。

 

 すなわち、鬼頭が試運転のターゲットと見定めた轡木用務員、まだピットルームにいるダリルとフォルテ、彼女たちと同様、早朝の空いている時間を狙ってアリーナに向かっている見知らぬ女生徒、一部の熱心な生徒たちのため、こちらも朝早くからアリーナの管制室に詰めている若い教員の、計五名だ。BT粒子は早速、彼らの頭の中を覗き込み、そうして得られた情報を、鬼頭に向けて送りつけた。

 

【草が伸びてきましたねぇ。そろそろ草刈り機を引っ張り出さないといけませんか】

 

【草刈り機。倉庫。いつ探しに行くか】

 

【あぶねえところだったぜ。ったく、なんて恐ろしいことを考えやがるんだ、あの男】

 

【天才ってやつは、どいつもこいつも……】

 

【先輩、さっきから何かヘンなんっスよね。らしくないっていうか】

 

【この様子じゃ、いちゃいちゃ、は期待できないなあ】

 

【思った通り、この時間なら空いていそうだわ】

 

【うう……、更衣室までが遠い】

 

【昨日のお見合い相手、顔はよかったけど、いちいち上から目線の態度で、話していてまったく楽しくなかった……。二度目はないわね】

 

【お母さんたちがうるさいから婚活しているけど……はあ、もうやめたい】

 

 苦悶に震える悲鳴が、鬼頭の唇から迸った。

 

 イメージ・インターフェースを介して、頭の中に流れ込んでくる、声、声、声。

 

 思考波に反応した精神感応エネルギーはみたび姿を変え、操縦者にしか聞こえない聴覚情報という形で、轟然と、そして一気に、鬼頭の脳を滅多打った。

 

 ――ぐ、ぐ、ぐ……っ。このっ、数、はぁ……!

 

 聞こえてきた声は、五人分どころではなかった。

 

 少なくとも、その倍数は脳に流れ込んでいた。

 

 フロイドの構造論が主張する、意識領域から声。

 

 それに加えて、無意識領域からの声。

 

 本来ならば、拾うはずのない声。

 

 オロチ・システムが正常に機能していない、暴走状態に陥っているのは明らかだった。

 

 想定よりもはるかに膨大な情報量に殴打され、グロッキー状態になった鬼頭の脳は、喉は、悲鳴で震えた。

 

 ――こ、れは……、こらえ、られん……!

 

 額に大粒の脂汗を浮かべながら、鬼頭は絶叫した。

 

 額に汗が浮かんでいる事実が、ISの生体保護機能を上回るほどの心的ダメージを受けている証左だった。

 

 耳の奥が痛い。

 

 頭蓋を、金槌で、幾度も、幾度も、叩かれる。

 

 けれど、頭骨は砕けず、延々と、痛みだけが、際限なく積み重なっていく。

 

 そんな苦痛が、鬼頭の脳髄を刺激した。

 

 ――し、システムを、切らなければ……!

 

 莫大な情報量に脳を揺さぶられ、激しい痛みに苛まれながら、鬼頭は、オロチ・システムの機能を停止させるべく、意識を集中させた。

 

 集中しようとして、失敗した。

 

 脳を駆け回る痛みのあまり、イメージ・インターフェースを動かすだけの集中が、出来なかった。エラー、エラーと、表示が続く。

 

 それならば、と鬼頭は目の前に空間投影式のディスプレイと、キーボードを出力した。スクリーンにはオデッセイOSの現状を表示させ、手動操作でもって、稼働状態プログラムを停止させようとする。

 

「ッ!」

 

 キーボードを叩く寸前、縦揺れが、鬼頭の体を襲った。

 

 直後に襲ってくる、落下の感覚。

 

 みるみる減少していく、高度計の数字。

 

 見れば、PICが稼働をやめてしまっている。勿論、頭部の痛みによる事態だ。猛烈な痛みは、ISを動かす上で最も重要な機能に向ける意識さえかき乱していた。

 

 ――不味いっ!

 

 浮遊力を失った機体は、このままでは墜落してしまう。

 

 体勢を立て直そうにも、そのための集中が、出来ない。

 

 万事休すか。

 

 落下の衝撃を覚悟したそのとき、

 

「コールド・ブラッド!」

 

 耳膜を揺さぶる声に反応して振り向くと、視界に、アリーナから退場したはずの、フォルテの姿が映じた。

 

 前へと突き出された右腕から、白銀に輝くエネルギー弾を射出する。

 

 ラグビーボールほどもあろう大振りの光弾は、こちらに向かって、真っ直ぐ飛んできた。

 

 相手の意図を察した鬼頭は、奥歯を噛みしめ、そちらに向けて懸命に手を伸ばした。

 

 手動操作でもってシールド・バリアーをカットし、エネルギー砲弾を、進んで受け止めにいく。

 

 白い光弾は鬼頭の右腕に炸裂し、霧散し、白い“もや”へと姿を変えて、『打鉄』の総身を包み込んだ。

 

 機体の表面を監視している温度計の数字が、減少を開始する。

 

 同時に、高度計の変化が、僅かに、緩やかなものとなった。落下速度の減速。フォルテのISに搭載された、第三世代特殊兵装の攻撃が『打鉄』のPICに作用した結果だ。

 

 『コールド・ブラッド』には、分子の運動を沈静化し、最終的に物体の運動を停止させてしまう、凍結能力と呼ばれる特殊兵装が搭載されている。レーザー核融合発電技術の研究中に、副産物的に発見された技術を兵器転用したものだそうで、研究途上の現時点でさえ、最大出力で使用すれば、時速六〇キロメートルで爆走するレオパルド2戦車を十秒足らずで完全停止までもっていけるという。

 

 フォルテが『打鉄』に向けて発射した凍結弾は、そんな最大出力にはほど遠い、咄嗟の一撃であった。

 

 おそらくは鬼頭の身に襲いかかった緊急事態を見て、慌ててピット・ゲートから飛び出したのだろう。集中もそこそこに放たれた一発には、鬼頭自身が直撃を受け入れたとはいえ、ISほどの高速運動体の落下を即座に停止させうるほどの威力はなかった。せいぜいが若干の遅速。しかし、鬼頭はそれで十分だと考えていた。

 

 フォルテが凍結弾を発射したのとほぼ同時に、ともに視界に映じるダリル・ケイシーが、イグニッション・ブーストを使用するのが見えたためだ。

 

 バック・ブラストの赤い尾を引きずりながら、『ヘル・ハウンド』は遅速の僅かな隙を衝いて鬼頭に急接近。背後に回り込むと、脇の下に腕を通し、身動きとれぬその背中をしかと抱き支えた。高度計の数値の変動が、ぴたり、と止まる。

 

「ったく、何やってんだよ」

 

「……お手数をおかけしまして」

 

 耳元で囁かれた、憤り混じりの呆れ声に、鬼頭は乾いた声で応じた。

 

「お二人は、どうして……?」

 

「ピットルームであんたのことをモニターしていたら、様子が変だったからな。念のため、もう少しこの場にいようか、って相談してたら、これだ」

 

「なる、ほど」

 

「……例の、新機能の不調か?」

 

「おそらくは」

 

「じゃあ、そんな体に悪そうなモン、さっさと切っちまえよ」

 

「そうさせてもらいます」

 

 ダリルの腕に抱かれながら、鬼頭は空間投影式のキーボードを操作した。

 

 オロチ・システムの動作を管制するプログラム・コードをモニターに表示させ、緊急停止用のコードを入力していく。その間にも、耳の奥ではみなの胸の内が容赦なく響き、彼の集中を阻害した。必然、キーボードを操作する指運びは、遅々としたものになってしまう。

 

 それでも、鬼頭は気力を振り絞り、キーを叩いた。

 

 そうしてついに、最後の一押しをするところまで辿り着く。

 

 ――ようやく……。

 

 この苦痛から、解放される。

 

 額を脂汗で光らせながら、しかし安堵に唇を綻ばせる鬼頭は、キーボードに触れ――、

 

【……父さん】

 

「……なに?」

 

 聞き覚えのある声が脳幹を揺さぶり、弾け、オロチ・システムの機能停止とともに、消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter30「聲」 了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴールデンウィーク最終日の午前八時半。

 

 「パワードスーツ開発室のみんなで日帰り旅行に行きませんか?」という、桜坂室長からの誘いに応じた滑川雄太郎が、集合場所として指定されたアローズ製作所本社ビルに足を運んでみると、従業員用駐車場に、一台のマイクロバスがアイドリング・ストップ状態で待機していた。トヨタの四代目コースターだ。上下にブラックアウトしたフロント・ウィンドーの向こうで、大型の免許も持っている、桐野美久がハンドルを握っている。車体側面に並ぶ窓は、観光バスのように広々としており、座席にはすでに、見慣れた顔ぶれが腰かけていた。どうやら、自分が最後の一人らしい。

 

「おはようございます、滑川さん」

 

 バスのステップを降りて出迎えてくれたのは、仁王の顔つきの桜坂だった。プライベートな日とあってか、分厚い胸板を黒いポロシャツで覆った、ラフな装いだ。彼は滑川のもとに歩み寄ると、彫り深い強面に柔和な笑みを浮かべてみせた。

 

「待っていましたよ」

 

「おはようございます、室長。今日は、このバスで?」

 

「ええ」

 

「バスにもレンタカーがあるとは知りませんでした」

 

 滑川はナンバープレートに、ちら、と目線をやった。いわゆる“わ”ナンバーだ。

 

「借りられるのはバス本体だけですけどね」

 

「というと?」

 

「美人の添乗員さんはいない」

 

「それは残念だ。……今日は、どちらへ連れて行ってくれるのです?」

 

 滑川は目線を左右に散らして人の姿がないことを確認した上で、なお念のため声を潜めて訊ねた。

 

 今回の小旅行は、自分の持つ超常の力の正体について、開発室のみんなには真実を伝えておきたい、と桜坂自身が企画したものだ。アローズ製作所を監視する内閣情報調査室の耳目を嫌った彼は、旅行という体でみなを連れ出し、おそらくはされるだろう追跡をかわした末、余人を交えぬ静かな環境で、胸襟開いてじっくり語る、という計画を立てた。そのため、行き先については直前まで誰にも明かしていなかった。

 

 

 無事当日を迎えたことだし、そろそろ教えてくれてもよいのでは? 目線で問う滑川に、桜坂も囁き声で応じた。

 

「千葉県の、九十九里浜です」

 

「九十九里、ですか?」

 

 千葉県東部の刑部岬から太東崎までに及ぶ、日本最大級の砂浜海岸だ。全域を千葉県立九十九里自然公園に指定されており、日本の白砂青松百選、日本の渚百選に選定されているが、それ以上に、滑川には自然と連想する事柄がある。

 

「たしか、室長の生まれ故郷の……」

 

「ええ。一応は、そういうことになっています」

 

「なっている?」

 

「ま、そのあたりの事情も含めて、現地に到着したらお伝えしますよ」

 

「はあ……しかし、行き先が千葉となると、バスではちと厳しいのでは?」

 

 名古屋から千葉までは四〇〇キロメートル以上もの距離の隔たりがある。東名高速をスムーズに進めたとしても、五~六時間はかかるだろう。日帰りバス旅行の行き先として、適当な場所とは思えない。ましてや、内調の追跡をかわしつつ、となれば、半日かけても辿り着けるかどうか……懸念する滑川に、桜坂は完爾と微笑んだ。

 

「ま、そのあたりのことは任せてください。ちゃんと考えていますから」

 

「はあ」

 

「ささ、バスの中へ。皆さん待っていますよ」

 

 桜坂は滑川の背中を軽く叩いた。室長に促されるままステップを上り、運転席に座る美久と挨拶を交わす。その段になって、あれ? と、気がついた。自分に続く足音が聞こえない。後ろを振り返ると、ちょうど桜坂がスライド式のドアを閉じようとしているところだった。

 

「室長?」

 

「滑川さん、いいんです。桐野さん、私がドアを閉じたら、ロックをお願いします」

 

 桜坂は運転席の美久を見上げて言った。彼女が首肯したのを見て、車体のわりに意外に小ぶりなドアを、えいやっ、と引きずり閉める。それから、彼はバスの乗降口に背を向けて、おもむろに歩き始めた。その後ろ姿を目線で追いかけると、マイクロバスが停車している区画から十メートルほど離れた場所に停まっている、銀色のアリオンを目指しているのが分かった。滑川が駐車場にやって来たときから停まっていた車輌だ。肩を怒らせながらの歩き姿から、ああ、そういうことか、と得心する。

 

 

 

 滑川が察した通り、アリオンには内閣情報調査室の職員たちが乗っていた。運転席でステアリングを握り締め、マイクロバスに鋭い目線を向けるのは、過日、鬼頭の墓参りを助けた高品だ。他方、助手席で暢気に新聞紙を広げてみせるのは、パワードスーツ開発室の面々もお馴染みの城山悟。彼らは朝早くからレンタカー屋で中型バスを借りた桜坂の行動を不審に思い、ずっとその背中を追いかけていた。尾行の手法は大胆不敵なもので、超人たる桜坂に気取られることなく追跡するのは難しい、として、わざと姿を見せながら、というもの。ゆえに、バスを離れた桜坂が、踵を返してこちらに向かってきたのを見ても、二人の動揺は薄かった。それどころか、彼らは追跡対象が近づいてくるのを見てこれ幸いと、ヒンジドアをわざわざ開いてみせた。

 

「今日はよい天気ですね」

 

 銀色のドアに手をかけながら雲量一分未満の快晴を仰ぎ、城山悟はにこやかに微笑んで仁王顔の超人と向かい合った。

 

「まさに絶好の行楽日和だ。……皆さんで、どちらにお出かけに?」

 

「それを、あなた方に教える必要がありますか?」

 

「あなた方の警護をする身としては、教えていただけると助かります」

 

「警護、ねえ……」

 

 桜坂は冷笑を浮かべた。

 

「私には、監視のように見えますが?」

 

「解釈はそちらにお任せしますよ。……それで、どちらに?」

 

「お教え出来ません。知りたければ、尾行でも何でも、お好きになさい」

 

 語気荒々しく言い放つや、桜坂はアリオンに背中を向けた。

 

「まあ、我々の後を、ついてこられるならば、ですが」

 

 桜坂は両腕を胸の前へと突き出した。拳を軽く握り、手首の位置で十字にクロスすると、肘を曲げて胸元に引き寄せる。瞑目し、深々と、息を吸った。呼気とともに意識を気海丹田へと深く沈め、腰を中心に、全身へと気力を漲らせる。

 

 ムン! と、念を篭めた。

 

 瞼を閉ざした桜坂とは対照的に、内調の二人の眦が、愕然と、大きく見開かれた。

 

 二人の視線が向かう先で、マイクロバスが、ふわり、と、浮き上がった。

 

 比喩ではない。まるで見えない腕に持ち上げられているかのように、乗客含めて四トンになんなんとするコースターが、地上一メートルの高さまで浮かび上がった。

 

 過日、目の前の男が最強兵器ISを素手でもって破壊したところを間近で見ていた城山も、さすがにこれには驚きのあまり言葉を見失う。その隣で、高品が唇を震わせた。

 

「なっ、あっ、こ、これは、いったい……何が!?」

 

「ううん……サイコキネシス、的な?」

 

 対して、桜坂の口調は平然としたものだ。

 

 瞼を開け、背中を向けたまま、二人に言う。

 

「もう一度言いますね。……追えるもんなら、追ってみな」

 

 超人の足裏が、小さく、地面を蹴った。

 

 六尺豊かな巨躯が、まるで重力など存在しないかのように浮かび上がり、地上四メートルの高さで静止する。

 

 足場のない空中に立ちながら、彼は右手をコースターにかざした。マイクロバスが、ゆっくりと高度を上げていく。地上六メートルの高さまで到達したところで、超人は空を踏み、僅かな密度の地面を蹴り飛ばし、コースターへと近づいた。車体の下に回り込むと、両腕で、全長六メートル超のシャシーを支え持つ。最強兵器を粉砕するパワーを秘めた両腕だ。二の腕の筋肉が、隆、と盛り上がる。

 

「それじゃあな!」

 

 眼下の二人に、露悪的な笑みを叩きつけ、超人は両腕、両足、そして心臓に、力を篭めた。

 

 マイクロバスと、それを支える桜坂は、毎秒三〇〇メートルの速さで垂直に上昇した。地上からの眼差しを遠ざける、四〇〇〇メートルの高さに到達したところで、上昇をやめる。

 

 超人の耳膜を、バス内の絶叫が叩いた。動揺する同僚たちに胸の内で謝罪しつつ、桜坂は空を駆け出した。

 

 

 

「……超人とは、聞いていた」

 

 みるみるうちに小さくなっていくマイクロバスのシルエットを仰ぎながら、内閣情報調査室の高品は茫然と呟いた。

 

「最強兵器を、素手で破壊するような怪物だと……だが、それでも、人間という生物の延長線上に位置する存在だと思っていた。ISを砕くほどのパワーを持っている。しかし、レーザービームのような攻撃は出来ない。地上を音速の速さで駆け抜けることが出来る。しかし、空は飛べない。出力が段違いなだけで、腕を伸ばしたり、足を曲げたり、身体の機能そのものは、人間と変わらない。そう、思っていた!」

 

 しかし、実際には違っていた。

 

 念の力でもって四トンもの質量物を宙に浮かせ、自らも空中を自在に歩いてみせた。人間という生物から、明らかに逸脱した身体機能の数々を、彼は有していた。

 

「超“人”なんかじゃない。あれは、人間じゃない。……何なんだ、あれは!?」

 

「……神様だよ」

 

 震える声に、城山は淡々とした口調で応じた。

 

 もはや黒点としか見えぬマイクロバスを見上げる同僚の横顔を、高品は怯えた眼差しで見つめた。

 

「だから言ったろ? あの方は、神様だ。このくそったれな世界を救うためにやって来た、神様なんだよ」

 

 熱を孕んだ呟き。

 

 天を仰ぐ眼差しに何か危険なものを感じて、高品は、思わず胴震いした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





ダリルとフォルテ、フライング登場。

この二人については、原作の描写の仕方に色々思うところがあり、かなり独自色を強めにしております。

ご不快に思われた方がおりましたら、申し訳ありません。


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Chapter31「衝撃の発言」

(第二巻の内容が)はい、よーいスタート(棒読み)






 午前六時二五分。

 

 IS学園、第三アリーナ。

 

 ダリルの腕の中でオロチ・システムを解除した鬼頭智之は、背中を抱く彼女に振り返ると、申し訳なさそうに呟いた。

 

「すみません。このまま、ピットルームまで運んでいただけませんか?」

 

「自力飛行は難しそうか?」

 

「すみません。まだ少し、頭が痛むもので、PICを動かすだけの集中が……」

 

「ん。分かったよ」

 

 ダリルは鬼頭を抱えた状態のまま、彼の指示したピットルームへと向かっていった。当然、相方のフォルテもその後ろ姿を追いかける。

 

 ピットルームに戻った鬼頭は、ダリルの腕をやんわりと振りほどくと、その身を鎧う『打鉄』の装着を解除した。操縦者の保護機能が失われ、ただでさえ疲弊している心身に、これまで感じられずにすんでいた疲れが、一気に押し寄せる。鬼頭は、ふらふら、とした足取りで、いちばん近い位置に鎮座するベンチ椅子に歩み寄った。背もたれのないロビーチェアーで、座面にはウレタン製の薄いマットが敷かれている。鬼頭はそのど真ん中に腰を下ろした。ゆっくりと息を吐き出し、同時に、四肢を脱力させる。

 

 ガタ……ガタガタンッ、と機械の振動音が聞こえた。目線をやると、ISを解除したフォルテが部屋に備え付けの自販機を操作している。排出口から緑茶のペットボトルを取り出した彼女は、鬼頭のもとへ小走りに駆け寄り、「ゆっくり飲んでくださいっス」と、それを差し出した。ありがたく頂戴し、キャップを開けて唇を濡らす。こく、と一口、喉を鳴らしてから、また深々と吐息した。その様子を見て、同じくISを解除したダリルが口を開く。

 

「それで? いったい、何があったんだよ?」

 

「先ほどお二人にも聞かせた新機能……《オロチ・システム》の暴走です」

 

 お茶の入ったペットボトルを額に当てながら、鬼頭は悄然とした口調で応じた。自身、先のアクシデントはどういう事象だったのか整理するべく、ゆっくりと続ける。

 

「最初の異常は、《オロチ・システム》を起動するために、《オデッセイ》のリミッターを解除したときです。機体が突然発光し出し、機体色が変化する、という事態が発生しました」

 

「ああ、それはオレたちも見ていたよ」

 

 ダリルは、粛、と頷いた。

 

「ああは言ったけど、やっぱり、あんたのことが気になったからな。ピットルームで、ずっとモニターしていた」

 

「あの変色は、予期せぬ動作だったんスね。あれは何だったっスか?」

 

「詳しくは後で機体を精査しなければ分かりませんが、どうやら変色に伴って、全身を駆け巡るBTエネルギーの量的配分の調整が、自動的になされたようです」

 

 『打鉄』の全身に、血管のように増設されたBTエネルギー用の特殊バイパス。ストライプの色が紫色のときは、全身を均等な量、均等な出力で流れていたのが、変色した後は、ロボットアームの下腕部分や手首などの関節部、ロケット・モーターの制御用チップ周辺など、特定部位に偏るようになってしまった。その結果、イメージ・インターフェースからの命令に対する応答性に変化が生じ、機体そのものの運動特性まで変質してしまった。

 

「機体のストライプ色がすみれ色……バイオレット・カラーのときは、どちらかといえば運動性重視のセッティングでした。それが赤色になったときは、膂力や、直線的な機動力など、パワー重視に調整されるようです」

 

「パワータイプの赤と、スピードタイプの紫ってわけか」

 

「なんか、そんな感じで変身するジャパニーズ・ヒーローがいませんでしたっけ?」

 

「さあ? 私は寡聞にして聞きませんが……」

 

 口ずさんでから、しまった、と顔をしかめた。この言い回しでは、二人には通じまい。顔を上げると案の定、異国からの留学生たちは自分の言に対し目をぱちくりさせている。

 

 疲れのせいだろう、彼女たちへのそういった配慮が出来なくなっている。いかんいかん、と小さくかぶりを振り、鬼頭は続けた。

 

「次に異常が生じたのは、《オロチ・システム》の照準用BTビームを発射したときです。私は地上に向けて、掌から一発だけ発射するつもりだったのですが、いざビームを発射してみると、全身の其処彼処から方々に向けて、百発近いビームが、私の意思とは無関係に発射されてしまったのです」

 

「暴発した、ってことか? ……それで?」

 

「光速の二十パーセントの速度です。慌てて発射中止の命令を送りましたが間に合わず、五発がこのアリーナ周辺にいた人々に命中。BTビームは見えない光の粒子となって皆さんの周りで滞留し始め、即座に、私に向けて思考波の送信を開始しました」

 

「さっき言っていた、“意識”領域の声っスね?」

 

「それだけではありません」

 

 鬼頭は苦々しく唇を歪めた。

 

「先ほどの“あれ”は、明らかに、それよりも深い領域からの声をも拾っていました。BTビームが命中したのは五人なのに、その倍近い数の声が、同時に聞こえてきたのです」

 

「つまり、“意識”領域だけじゃなく、“無意識”領域の思考をも読み取った、ってことっスか?」

 

「おそらくは」

 

 鬼頭が首肯すると、代表候補生の少女達は揃って顔をしかめた。意識領域からの声が五人分と、無意識領域からの声が五人分。合計十もの思考波が、たった一人の脳の内側で、それも当人らは思考が筒抜けになっているとは知らぬがゆえの無遠慮さでもって、暴れ回ったということか。たいへんな苦痛を伴う時間だったに違いない。よくぞ正気でいられたものだ、と鬼頭を見る視線に驚きの色が浮かぶ。

 

「十人分の“声”に脳を打ちのめされた私は、ISの操縦で最も重要な、集中力を欠いてしまいました。《オロチ・システム》の停止どころか、ISをその場に浮かすことさえ出来なくなってしまった」

 

「なるほどな」

 

 ダリルは両の腕を胸の前で組みながら呟いた。圧迫により変形し、押し上げられた乳房が圧倒的な存在感を主張している。

 

「オレたちが異常に気づいたのは、ちょうどそのタイミングだったわけだ」

 

「お二人には感謝しています」

 

「暴走の原因は、分かっているっスか?」

 

「いえ」

 

 小さくかぶりを振った後、鬼頭は右手中指に嵌めた黄金の指輪に目線をやった。二人にも見てもらいやすいよう、空間投影式のディスプレイを六十インチの大画面サイズで出力する。併せて召喚したキーボードを叩き、鬼頭は宙に浮かぶスクリーンに、《オロチ・システム》の動作を制御するプログラムのソースコードと、実際の動作履歴のデータを並列表示した。代表候補生の少女達が、開陳されたデータを興味深そうに見つめる。

 

「勿論、詳しい分析は後で行いますが。……ログを見た限りでは、《オロチ・システム》は仕様通り、正常に動作したことになっているのです」

 

「……みたいっスね。ログ上では、BTビームもちゃんと一発だけ撃っていることになっているっス」

 

「それなのに、機体はこちらの命令を無視して、仕様にない挙動をとった。いったい、何が起こったのか……」

 

「……なぁ」

 

 空間投影式ディスプレイを険しい面差しでねめつけながら、ダリルが言った。

 

「仮説というよりは、思いつき程度の考えなんだけどさ」

 

「何でしょう?」

 

「《オロチ・システム》を起動させていたこのとき、ISコアの方はどんな動作をしていたか、ログを出してもらえるか?」

 

 《オロチ・システム》のプログラムは正常に動作していた。それなのに、機体の実際の挙動は、暴走と評さざるをえない動きだった。とすれば、暴走の原因は《オロチ・システム》の内部ではなく、外部にあると考えるのが妥当だろう。そうして考えたとき、一つの可能性に思い至ったダリルは、ISというパワードスーツの中核となる部分のデータを見せるよう鬼頭に要請した。

 

「なるほど、たしかにその可能性はあるっスね!」

 

 ダリルの意図を察したフォルテが、得心した様子で両手を叩いた。

 

 鬼頭は怪訝な表情を浮かべながら、言われるままディスプレイにISコアの動作履歴を表示し、直後、ああっ、と、驚きの声をあげた。ISコアからBT・OS《オデッセイ》、そして《オロチ・システム》に対して、実際の機体挙動に影響するほどの介入があった履歴が見られたためだ。ああやっぱり、とダリルは小さな溜め息をつく。

 

「ISコアが《オロチ・システム》のプログラムにちょっかいをかけたせいで、暴走が起こった。これが真相だね」

 

「どうして、ISコアがそんなことを?」

 

「あんたも知っているだろうが、ISコアには、オレたち人間でいう意識とか、心のような存在が宿っている。その心の部分が、かえって仇になった、ってことだろう」

 

「というと?」

 

「……ええと、日本語では、何て言や、いいんだったっけな?」

 

「英語でも構いません」

 

「none of your business.」

 

「ああ、そういう……」

 

 日本語でいう、余計なお世話。当人は相手のためを思って行った言動が、かえって足を引っ張るなど迷惑をかけている状態。今回の暴走事故も、『打鉄』に組み込まれているISコアが、操縦者のためを思っての結果だったか。しかし、そうだとすると、また別の疑問が生じる。

 

「しかし、なぜそんな心理状態に?」

 

「……こっから先は、オレの想像なんだけどさ」

 

「はい」

 

「あんたの『打鉄』は、機体の制御OSをBT・OSに切り替えると、途端に動きが良くなるよな?」

 

 より正確にいえば、BTエネルギーの制御リミッターを解除したら、だ。流動性エネルギーBTは人間の思考波に敏感だ。それを血管のように全身に張り巡らせた特殊バイパスに通すことで、機体の反応速度や、感度を高めている。ああしたい、こうしたい、という鬼頭の思考波を、BTエネルギーがまず感じ取って反応、イメージ・インターフェースの操縦索を刺激し、普段の彼では難しい反応速度や、パワーの出力を実現している。

 

 しかし、そういう原理を知らない者の目には、鬼頭のIS適性や操縦技術が、突然、ベテラン操縦者並みに急成長したように見えてしまう、とダリルは言った。

 

「つまり、誤解さ。ISコアは、あんたのIS適性や操縦技術を誤解してしまったんだ。だから、余計なお節介、ってやつを焼いた。自分の操縦者はすごいやつだ。そう思い込んでいるISコアの前で、初めてのテストだから、って、あんたはあえて控えめな動作をしようとした。BTビームを一発だけ、ってな。ISコアには、それが不満だった。自分の操縦者すごいやつなんだから、もっとたくさんのビームを同時に発射しても制御出来るはずだ。“無意識”領域からの声を増やしても、処理出来るはずだ。それにその方が、有効なデータをたくさん採れるはず。その方が、あんたのためになるはず! ……そう考えたISコアは、《オロチ・システム》の動作に介入した。

 

 けど、あんたが急成長した、っていうのは、あくまで誤解だ。BT・OSのおかげでそう見える、ってだけで、あんたのIS適性や、操縦技術は、そのままだ。だから、ISコアの介入によって暴走状態に陥った《オロチ・システム》を、あんたはコントロール出来なかった。突然の事態にあんたは動揺し、平常心を失ったところに想定以上の“声”に脳を叩かれ、集中を乱すことになった。……っていうのが、オレの考えだ」

 

「なる、ほど……」

 

 鬼頭は深々と溜め息をついた。

 

「それが事実だとすれば、まさしく、余計なお世話ですね」

 

「勿論、いま言ったのはあくまでオレの想像さ。実際にどうだったかは、後で詳細な分析をしなきゃ分からないけどな」

 

「……いまは、そうだ、という仮定の下、これからどうするかを考えるべきでしょう」

 

 操縦者のためを思って暴走状態を引き起こすようなISコア。こんな代物と、これからどう付き合っていけばよいのか。テストの度にこんなことを繰り返されては、まともなデータを採れないが。

 

「ISコアにも個性がある。その個性が、操縦者との相性を生む。あるISコアとは好相性の操縦者が、別のコアが搭載された機体に乗るようになってからは成績を落とす、っていうのは、よくある話さ」

 

「その『打鉄』に組み込まれているISコアは、相当な不注意者だと思うっス。BT・OSがどういうものなのか、誰よりも近くで見て知っているはずなのに、ミスタ・キトー本来の実力を誤解するとか、普通ならありえないっスよ」

 

「あんたみたいな細かい性格のやつとは、相性は悪いだろうなあ」

 

「……ISコアの動作に、リミッターをかける、というのはどうでしょう?」

 

 おとがいを撫でながら呟かれた案に、代表候補生の少女達は残念そうにかぶりを振ってみせた。

 

「いや、そりゃあ、無理だよ。ISコアは、完全なブラックボックスだ」

 

「そうっス。開発者である篠ノ之束博士以外には、いじることは不可能っス」

 

「このときどういう動作をしていたのか、っていうデータを後から調べることは出来ても、こういう動作をしてほしいからプログラムを追加する、っていうのは無理だ」

 

「白騎士事件以来、世界中の天才と呼ばれる科学者たちがそれに挑んで、ことごとく失敗しているっス。勿論、どうにか出来ないか、研究自体は続けているみたいっスけど……」

 

「ふうむ……」

 

 空間投影式のキーボードを叩き、ISコアの内部データにアクセスを試みる。すかさずディスプレイに映じた、エラーの文字列。アプローチ自体を拒まれてしまった。

 

 調べてみると、ブラックボックスを維持するために、それぞれ性格の異なるプロテクトが一万種類以上も張り巡らされていた。その中には、強引なアクセスに対する自律破壊プログラムも含まれている。これでは、迂闊に手を出せない。ISコアの中枢部分にタッチするためには、プロテクトを一つ一つ解除していくしかないが、いずれのプログラムもパスワードの類いが設定されておらず、プログラミングの内容を一から理解した上で、解除用のコードを再設定していくしかない、という難易度の高さだ。おまけに、使用されているプログラミング言語は、篠ノ之博士の独創と思しきまったく未知のものときている。これを突破するには、最新のスーパーコンピュータを数百台並べた上で、百年単位の時間が必要な事業となることを覚悟せねばならないだろう。

 

「篠ノ之博士自身は、どうやってコアにアクセスしているのでしょう?」

 

「なんでも、プロテクトを一斉に解除することの出来る、専用プログラムを持っているらしいぜ? こっちについても、これまでに色々な機関がその複製・再現を試みているが、上手くいっていない」

 

「なるほど。ISコアにリミッターを設定するためには、プロテクトを一枚々々剥がしていくか、その解除用プログラムを作るかの二択しかないわけだ」

 

 どちらも明るい未来につながる可能性を見出しづらい選択肢だ。

 

 試しに、目についたプロテクトの一つにアクセスし、どんな構築なのか、慎重に情報を暴いてみる。ディスプレイに次々と映じる、見知らぬ形をした文字の並び。その使われ方。眺めていて惚れ惚れとしてしまう、見事なア・プリオリ言語だ。こいつを解読するのは、一筋縄では――、

 

「……うん?」

 

 切れ長の双眸が、かすかに動揺した。

 

 この文字の形、どこかで、見た覚えがあるような……?

 

 ――分かりにくいが、鏡文字になっている、な。ええと、左右を反転して直すと、この形は……この、並び、は……、い、いや、まさか、なぁ……。

 

 偶然の一致か? いや、一文字二文字の形がたまたま似ているという程度ならともかく、すべての文字の形状、その使い方が一緒というのは、偶然とは考えづらい。彼女は、その言語のことを知っていた。そう考える方が、自然だ。

 

 背骨を、冷たいものが貫いた。

 

 顔から血の気が引き、どんどん冷たくなっていく一方で、背中が、かっ、かっ、と熱を帯び始める。応じて、一斉に開く汗腺。冷たい汗が、鬼頭の心胆を寒からしめる。異様な緊張状態。呼吸すらもが、しんどく思えてしまう。

 

 ――……そんなことは、ありえない。篠ノ之博士が、あの言語を知っているはずがない! 知っているわけが、ない、が……。

 

 自然と思い出される、青春時代の記憶。アメリカ留学時代に、桜坂と二人、研究室でうんうん頭を呻かせた日々。そのときに話題に出た、とある言語。そこから生じた、文字体系。

 

 篠ノ之束の作った人工言語は、それによく似ている。

 

 いや、似ているなんてものじゃない。

 

 完全なる相似形。それ、そのもの。

 

 それが、ISコアの中枢部を守るプロテクト・プログラムの言語に、使われている。

 

 ダリルたち曰く、プログラミング言語の解読には、世界中の言語学者、数学者たちが挑戦を試みては失敗を重ねているという。自分の視界に映じているこの文字が、本当に、あの言語系から生み出されたものだとすれば、なるほど、それも仕方のないことだといえよう。

 

 言語とは、自己の内側で生じた感覚や気持ち、考えを、外側に出力するためのツールだ。先に思考があり、次いで、言語が生まれる。すなわち言語を理解するためには、それを生み出した個人あるいは社会が、その言葉にどんな気持ち、考えを託したのか、知る必要がある。

 

 しかし、今回のこれに限っては、それは困難なことだ。この言語を生み出した彼らは、自分たち地球人とは発想が違う。文化が違う。歴史が違う。そんな彼らが生み出した言語を、彼らとの接触なしに解読するのは、まず不可能だ。

 

 ――……問題は、二つだ。一つは、篠ノ之博士はなぜこの言語を知っているのか、ということ。

 

 自分の知る限り、この地球上で、この言語の存在を知り、また使いこなせる人間は、自分も含めて二人しかいないはず。彼女はいかなる経緯で、この言語を知るにいたったのか。彼女はいったい、何者なのか。

 

 そして、いま一つの問題は、

 

「……時間さえかければ、いけそうだな」

 

「はぁッ!?」

 

「うぇえっ!」

 

 自分ならば、プロテクト・プログラムの内容を理解し、解除出来てしまいそうなこと。勿論、相応の時間は必要だろうが。

 

 さらりととんでもないことを呟いた鬼頭に、ダリルたちは驚きから目を剥いた。かすかに喉を震わせながら問いかける。

 

「い、いや、いけそうだな、ってアンタ……え? マジで?」

 

「いやあ、多分。……ええ、はい」

 

「おおう、天才っていう評判は、ホントだったんっスね」

 

 このことがために、またぞろ厄介事が舞い込んでこなければよいのだが。驚く少女たちの目線を頬に感じながら、鬼頭は苦々しく溜め息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter31「衝撃の発言」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同日、午前七時半。

 

 IS学園一年生寮の食堂は、朝からかしましい喧噪で満たされていた。

 

 数人からのグループが、あちらこちらでテーブルを占拠し、美味しい料理に舌鼓を打ったり、やいのやいのとはしゃいでいる。

 

 そうした様子を羨ましげに一瞥し、俺もあっちに混ざりたいなあ、と叶わぬ願いを口の中で呟いた後、織斑一夏は正面に座る幼馴染みの仏頂面を改めて見据えた。

 

 中国から再び日本を訪れた代表候補生の少女は、甘いだし巻き卵を咀嚼した後、これみよがしに重苦しい溜め息をついてみせる。一夏は呆れを孕んだ口調で言う。

 

「……それで? 昨日は上手くいったのか?」

 

「……この顔を見れば分かるでしょ?」

 

「相変わらず、か」

 

「相変わらず、よ」

 

 クラス対抗戦が終わってからというもの、過日の暴言について鬼頭親子に詫びたいと思っている鈴だったが、あれから三週間近くが経過したいまもなお、その願いを叶えられずにいた。いちばんの原因は鬼頭たちが彼女のことを避けているためだが、一夏の見たところ、幼馴染みの側にも問題があるのは明らかだ。

 

 遡ることゴールデンウィークの初日、学校にあっては鬼頭親子を一向に捕まえられない現状に焦れた鈴は、夕方の遅い時間に学生寮の私室へと足を運んだ。寮の部屋であれば逃げられまい、と企図しての行動だったが、その日は親子それぞれ部屋を空ける用事があり、運悪く空振りに終わってしまった。この結果自体は、同情心を誘うものだと一夏も思う。しかし、彼女は訪問時にミスを犯した。鈴は部屋の前で親子の帰りを待っていたが、一向に帰宅の気配を見せない二人への苛立ちから、思わず部屋の扉を蹴ってしまったのだ。しかもその瞬間を、よりにもよって寮長の千冬に見られてしまった。その時点で消灯時間間際だったこともあり、彼女は鬼よりも恐ろしいお姉様にこってり絞られた挙げ句、寮内での鬼頭親子への接触禁止をひそかに厳命されてしまったのである。

 

 千冬曰く、鈴の一連の行動は、事情を知らない者の目に、世界にたった二人きりの男性操縦者を害そうとする危険人物という印象を与えかねないという。

 

「私やお前は、凰鈴音という人物をよく知っているから、あれの行動原理にそんな意図はない、と断言出来る。しかし、あいつのことをよく知らない、他の教員や、生徒たちは違う」

 

 彼女たちはみな、鈴との付き合いが短い。凰鈴音という人物の為人をよく知らぬがゆえに、自身の視界に映じた姿をそのまま受け入れ、その印象のまま行動の是非を評価する。

 

 例えば、鬼頭親子が暮らす部屋の扉に蹴りを入れている様子を目撃されていたとしよう。きっと、彼女が内に抱え持つ葛藤や謝罪の気持ちには気づかないまま、もっと単純に、部屋の居住者たちに対し害意を抱いている、と判断するに違いない。

 

 加えて、いまの鈴は国家の代表候補生という立場にある。言動の裏側に、中国共産党の企みの気配を見出してしまう者は少なくないだろう。仮に、鈴の軽率な行動が原因で、中国政府は男性操縦者を害するつもりだ、などという噂が立とうものならば、祖国での彼女の立場が危うくなるのは容易に想像できた。

 

「鬼頭さんたちのことだけじゃない。なにより、鈴のことを守るための措置だ。理解しろ、一夏」

 

 過日、自分一人を寮長室にこっそり呼びつけた千冬は、鈴への処分に篭められた意図をそう説明した。さらに重ねて、彼女は学校で会う場合も、一夏なり箒なり、第三者の立ち会いのもとでするよう注文をつけた。その際には鈴のやつに協力してやれ、とも。

 

 それに対し、一応は頷いてみせた一夏だったが、その内心は、不味いことになった、と頭を抱えていた。これでますます、鈴が鬼頭親子に謝罪する未来が遠のいてしまった。

 

 普段の強気な態度からも明らかなように、凰鈴音という少女は自己肯定感の強い人間ではある。しかし、他人の目や意見をまったく気にしない、というわけではない。過去のいじめ体験のせいだろう、特に、衆目に晒されて恥をかいたり、他人に弱みを見られる、というような状況を極端に嫌う傾向がある。

 

 学校のような公共の場では、限られた人間だけの空間というのは作りにくい。かといって、事情をよく知らない余人の前では、彼女の性格が謝罪行為の邪魔をしてしまう。

 

 ――ヤバいな。とても面倒くさい状況だぞ、これ。

 

 余人の存在をなるべく排した上で、鈴のことを避ける鬼頭親子をなんとか捕まえて、謝罪の場を設ける。千冬から、さらり、と告げられた要求は、一夏の目に異常に高いハードルと映じた。

 

「昨日はどんなふうにやったんだ?」

 

「いつも通り、放課後に話しかけたわ。いま、時間とれないか? ってね。そしたら、今日は工作室に用があるから、って、断られた。その後は例によって引きこもり」

 

 専用機持ちかつ代表候補生という鈴の特別な立場は、重い責任と引き換えに、学園内における様々な特権が保障されている。アリーナの優先的使用権や、整備室の自由な利用などがそれだ。

 

 工作室は、そうした特権が及ばない一種の聖域だといえる。整備室が取り揃えている機材と比べて、より細分化された、専門性の高い機器が多数置かれており、必然、その取り扱いには高度な知識と、細心の注意力が必要とされる。保有する設備はいずれも高額であり、不心得者の入室を許して壊されでもしたら大損害。代表候補生であっても、専門知識の有無について確認がとれない限りは、入室厳禁とされている。

 

 そして生憎、鈴は工作室への入室許可証を持っていない。上手い逃げ場所だな、と一夏は

内心呟いた。

 

「今日の作戦は?」

 

「まずお昼ご飯に誘う。それから、人気のない場所に連れて行く」

 

「昼飯なあ」

 

「今朝、早起きして料理したのよ。酢豚の味を見てほしい、って頼むつもり」

 

「まず、そういう和やかな会話が出来るところまで、もっていくのが大変だと思う」

 

 というより、いちばんの難所だろう、と、一夏は口の中で呟いた。鬼頭智之という人物の性格を考えるに、こちらが誠心誠意を篭めて謝罪すれば、あちらも誠実な対応をしてくれる、と思う。暴言の内容が内容だけに、許しを得ることは出来ないかもしれないが、少なくとも、鈴ばかりが一方的に傷つくような結果とはなるまい。

 

 だがそれも、謝罪の場を首尾よく設けられればこそ。

 

 今事案における最大の難事は、鈴のことを避けようとする鬼頭親子をいかにして説き伏せて、彼女が考える謝罪に適した場所へ連れて行くか、そこにある、と一夏は考えていた。

 

 それだけに、鈴の口から飛び出した返す刀に、彼はいっそう呆れた面差しを彼女の顔に向けることとなった。

 

「そこはほら、アンタが間を上手く取り持ってよ」

 

「いちばん難しいところを人任せかよっ」

 

 セカンド幼馴染みの少女は、お前の役割はもう決定事項だから、と、言わんばかり。有無を言わせぬ強気な態度で微笑んだ。

 

「頼んだわよ」

 

「いや、俺はまだ、うん、とも、嫌だ、とも言って……」

 

「協力してくれる、って、言ったわよね?」

 

 発言を途中で遮られ、一夏は押し黙った。それを言われると、こちらは何も返せなくなってしまう。

 

 一夏は過去の己に向けて憤りを覚えた。大切な幼馴染みのお前のために、出来る限りのことをしてやりたい、だなんて、よくもあんな無責任な発言をしてくれたな! おかげで、いまの俺は大変な苦労をしょい込んでいるんだぞ!?

 

「上手くいったら、アンタにも酢豚あげるからさ。ほら、アンタ前に食べたい、言ってたでしょ」

 

 一夏は苦虫を噛み潰したかのように唇を歪めた。

 

 たいへん魅力的な報酬のはずなのに、ぴくり、とも胸躍らなかった。

 

 

 

 

 第三アリーナのピットルームでダリルらと三人、ああでもない、こうでもない、と頭を悩ませていると、左手首のボーム&メルシェが、いつの間にか午前八時を示していた。

 

 会話に夢中になりすぎて、時間の経過を忘れてしまった。シャワールームで汗を流すことを考えると、そろそろ動かなければ、朝のホームルームに間に合わない。

 

 慌てて自分たちのピットルームに戻っていく二人を見送った後、鬼頭は烏の行水をすませ、制服に着替えて更衣室を出た。教科書で重たい鞄を、ぶらぶら、と揺らしながら、一年一組の教室を目指して肩で風を切る。早足の甲斐あって、予鈴が鳴り始める十分前には到着することが出来た。

 

「あ、鬼頭さん、おはようございます」

 

「鬼とーさん、オハヨー」

 

「はい。皆さん、おはようございます」

 

 入室した鬼頭に最初に話しかけたのは、教室の出入口からいちばん近い位置の席に座る谷本癒子だった。彼女の机を中心に集まっていた布仏本音や、相川清香らもそれに続いて挨拶の言葉を口にする。

 

 なお、本音が口にした鬼とーさんとは、彼女なりの親愛を篭めた鬼頭のニックネームだ。もっとも、使っているのは名付け親の本人だけだが。

 

 彼女たちは癒子の机の上でA4サイズのパンフレットを広げて、何やら談笑していた。パンフレットに目線をやると、長身の少女がISスーツを着てポーズを取り、可愛らしくはにかんでいる写真が見える。どうやら、ISスーツのカタログ本のようだ。そういえば、今日が個人用スーツの申し込み開始日だったな、と思い出す。

 

 IS学園の生徒は全員、入学時に学校指定のISスーツを渡される。これはJASPO規格に則って縫製された、ある程度万人向けに作られたウェアで、身長や体型の違いなどは、Sサイズとか、Mサイズといった基準で対応することを前提としている。しかし、ISは操縦者とISコアがどういう関わり方をするか次第で、百人百通りの仕様へと変化するもの。ISスーツについても、各人に最もフィットしたウェアの着用が望まれる、と、学園はスーツのオーダー・メイドを推奨していた。その注文開始日が、今日なのだ。

 

 教室内を、ぐるり、と見回すと、其処彼処で、同じようにカタログ本を開いてわいわいやっている姿が見受けられた。その中には勿論、鬼頭の愛娘、陽子の姿もある。箒と額を付き合わせながらカタログを覗き込み、こっちが良い、いや性能ではこちらの方が、と言の葉を踊らせていた。

 

 日本政府よりすでにオーダー・メイド・スーツの支給を受けている鬼頭は、少女らの喧噪を微笑ましげに眺めながら自身の席へと向かった。「私たちにも織斑君の隣に座るチャンスを!」と、今月初めに行われた席替えの結果、彼の机と椅子は、教壇に最も接近している、最前列はど真ん中に移動している。机のサイド・フックに鞄を引っかけると、やはり席替えの結果右隣の席となった夜竹さゆかが話しかけてきた。

 

「おはようございます、鬼頭さん」

 

「おはようございます、夜竹さん。……きみも、スーツはオーダーを?」

 

 鬼頭はさゆかの机の上のパンフレットを見て訊ねた。すでに何枚もの付箋が、ぺたぺた、と貼られているところから察するに、候補を絞りきれず悩んでいる様子だ。

 

「はい。でも、なかなか、これだ! って、いうのが決められなくて」

 

「なるほど」

 

「ハヅキ社のリジー・プリヴェとか、可愛くて好みなんですけどね。そういえば、鬼頭さんのISスーツはどちらのメーカーが作ったものなんですか?」

 

 「カタログに載っていないモデルみたいですが」との質問に、鬼頭は、「たしか」と、口を開く。

 

「防衛省の技術研究所が作ってくれた特注品だと聞いています。男性用のISスーツなんて、これまでどこのメーカーも作ってきませんでしたから。日本政府の方で、急遽用意したんだとか」

 

「ツーピース・タイプって、珍しいですよね?」

 

「はじめは、皆さんのスーツと同じで、ワンピース・タイプの物を考えていたそうですが、男女の体つきの違いが問題になりましてね。着心地と、着脱のしやすさを考えて、ツーピース・タイプになったんです」

 

 この学園に来る前に、ワンピース・タイプの試作品を試着させられたことがある。女性用ワンピース・タイプを単にサイズ・アップしただけの酷い代物で、性差に由来する骨盤の位置の違いといった要素がまったく考慮されていなかった。着づらく、脱ぎづらく、おまけに動きづらいという三重苦が鬼頭の身を苛み、その様子を見た防衛省の職員らも、これは駄目だ、と判断。改めて、男性向けツーピース仕様のスーツが開発された、というのが詳しい経緯だ。

 

 ちなみにそのとき、フィッティング作業を横で見ていた陽子の口から、ぽろり、と飛び出した、「父さん、お腹出てきたね?」という呟きにショックを受け、以降シェイプ・アップに励んでいるのは、自分だけの秘密である。

 

「諸君、おはよう」

 

 さやかの持つカタログ本を一緒に覗き込みながら、これはどうでしょう、いやこちらも捨てがたい、などと意見を交わしていると、やがてホームルームの開始五分前を告げる予鈴のブザー音が鳴り響いた。ほどなくして教室の戸が開き、担任の千冬が副担任の真耶を引き連れて入室してくる。途端、ぴりり、と引き締まる、教室内の雰囲気。雑談の声は、ぴたり、とやみ、クラスメイトたちは粛とした所作で各々の席に着いた。

 

 教壇に立ち、教卓の天板に両手をついた千冬は、教室内を、ぐるり、と見回した。一人の欠席者もいないことを確認した後、相変わらずの凜然とした口調で言い放つ。

 

「今日からは本格的な実戦訓練を開始する。訓練機ではあるが、実際にISを使用しての授業になるので各人気を引き締めるように。各人のISスーツが届くまでは学校指定のものを使うので忘れないようにな。忘れた者は代わりに学校指定の水着で訓練を受けてもらう。それもない者は、まあ下着でも構わん――」

 

 言いかけて、口を閉ざした。教卓のすぐ真ん前の席に座る鬼頭と、目が合ってしまったためだ。

 

 IS学園で唯一、生徒であり保護者でもあるという特殊な立場にある男は、千冬が下着姿で実習をやらせることも辞さないと知って、厳めしい顔をしていた。基本的には、忘れ物をした方が悪い、と鬼頭も思う。しかし、だからといって、水着や下着姿で授業を受けさせるというのは、懲罰目的だとしてもどうなのか、と彼は批判的に考えた。公序良俗に反する恰好だというのは勿論だが、そんな裸同然の軽装で、兵器としての顔も持つパワードスーツを扱わせたりして、安全性は大丈夫なのか。いかに各種の防御機構があるといっても、危険すぎやしないだろうか。そしてなにより、そんなあられもない姿を、うちの娘に強いるつもりなのか。

 

「――というのは、さすがに冗談だが。その場合は予備のスーツを貸し出す。ただし、予備スーツには限りがある。忘れた者が多かった場合は早い者勝ちだ。早めに申請するように」

 

 やりにくい。千冬は口の中で呟くと、教室の出入口の側に立つ真耶を見た。

 

「では山田先生、ホームルームを」

 

「は、はいっ」

 

 千冬からの連絡事項は以上で終わりらしい。バトンを渡された真耶は先輩教師に代わって教卓の前に立つと、おっとりとした声音で言った。

 

「ええとですね、今日はなんと転校生を紹介します! しかも二名です!」

 

「え……」

 

「「「えええええっ!?」」」

 

 突然の発表に、教室内は騒然となった。みな一様に、驚きから表情筋を強張らせている。無理からぬことだ。千冬も、真耶も、前日まで転校生の存在を匂わせるような発言や素振りを、一切見せなかった。副担任の言は、噂話が大好きな十代女子の情報網をあっさりかいくぐり、不意打気味に彼女らの心を殴打したのである。

 

 とはいえ、少女たちが動揺に費やした時間はほんの僅かであった。噂話と同じくらい流行りものが大好きな女子高生たちは、転校生という新たなテーマに一転して興味津々。双眸に、ぎらぎら、と好奇心の炎を灯らせた。鬼頭も、

 

 ――IS学園の編入試験は、入試よりも何倍も難しいと聞く。それをまったく同じ時期に二人も受験して、両方ともが突破して転校してくる、なんて事態は考えにくい。十中八九、どちらか片方、あるいは両方とも、ワケありでの転校だろう。では、そのワケとは?

 

と、考えていた。

 

 最も公算が高いのは、自分たち男性操縦者を調査するためだろう。どこかの国か、研究機関が、突然現われたイレギュラーについて調べるため、急遽人材派遣を決定した、という可能性だ。次点としては、鈴音のように、専用機持ちの新入生が機体の調整に時間がかかってしまい、入学の時期がずれこんでしまった、というパターンが考えられるか。いずれにしても、接触に当たっては注意が必要だろう。

 

「静かに」

 

 ざわざわ、と騒がしい生徒達を、千冬が厳かに一喝した。世界最強の女の眼光が教室中をねめ回し、静まりかえったのを認めて、扉の方へと目線を向ける。

 

「よろしい。では、入れ」

 

「お二人とも、どうぞ」

 

 教師二人が声をかけると、圧縮空気の抜ける音をたてながら、スライドドアが開いた。IS学園の制服に身を包んだ二人が、静かに入室する。

 

「……は……?」

 

 教室の後ろの方から、呆けた声が鬼頭の耳膜を叩いた。おそらくは、谷本癒子の声だろう。

 

 無理もない、というのが鬼頭の感想だった。

 

 自分もまた、茫然とせずにはいられない。

 

 なぜなら転校生二人のうち片方が、自分や一夏と同じ、男子生徒用の特注デザインの制服を着ていたからだ。現われた“彼”は教卓の前に立つと、にこやかな笑顔を浮かべ、

 

「シャルル・デュノアです。フランスから来ました。こちらに僕と同じ境遇の方がいると聞いて、本国より転入を勧められ、やって来ました。三人目の、男性IS操縦者になります」

 

と、日本式に一礼した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter31「衝撃の発言」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴールデンウィーク最終日の午前十時三五分。

 

 アローズ製作所パワードスーツ開発室一行を乗せた四代目コースターは、桜坂室長の生家があるとされる千葉県九十九里浜を目指して、千葉黄金道路を東に進んでいた。千葉県千葉市中央区と、千葉市の東に隣接する東金市とを結ぶ有料道路で、東金市からはさらに、国道126号線現道を経由して、東金九十九里有料道路へとつながっている。東金九十九里有料道路の終端は山武郡九十九里町真亀。ここまで来れば、九十九里浜は目と鼻の先だ。

 

 マイクロバスは時速八十キロメートルの快速で進んでいた。黄金週間の最終日とあって交通量は多いが、ありがたいことに、渋滞で二進も三進もいかない、という事態には陥っていない。名古屋を発ったのが八時半のことだから、ここまでは順調すぎる道程だと評せよう。

 

 名古屋市名東区のアローズ製作所本社を発った後、念力でもって空を飛ぶ桜坂は、同僚たちを乗せたコースターを背負いながら、まず岐阜県へ向かって北上した。最初のうちは、地上からの目を警戒して地上四〇〇〇メートルという高高度を飛んでいたが、人口密集地を抜けるにつれて徐々に落としていき、最終的には地上一〇〇〇~一五〇〇メートルのあたりをキープした。二〇〇ノットの速力で、北へ、北へと進んでいき、やがて飛騨の山々を眼下におさめた彼は、そこで東へと転進。長野、群馬、埼玉を経て、茨城県板東のあたりに到達した。人目のなさそうな適当な場所を見つけると、コースターを下ろし、以後は自らも乗員となって、千葉県へ南下するよう運転席の美久に指示を出した。この時点で九時四十分。さしもの内閣情報調査室も、この機動力の前では追跡は困難だろう、と予想された。

 

 なおその際、改めてバスに乗り込んだ桜坂は、事前のブリーフなしに突然空の旅へと招待された開発室一同より、かなり責められた。全員、シートベルトは着用していたが、本来ならばマイクロバスで味わうことのない加速Gと、地上よりも酸素の薄い環境に突然放り出されたことで、等しくグロッキー状態に陥っていた。「とりあえず三発殴らせてください」と、滑川雄太郎が力のない声で言ったのをきっかけに、暴力の嵐が吹き荒れた。「まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか」「問答いらぬ。殴れ。殴れ」「三人に勝てるわけないだろ!」「馬鹿野郎お前、俺は勝つぞお前!(超人)」いい歳した大人たちが何をやっているのやら……(呆れ)。

 

 結局、みなが復調するまで十五分間の休憩を挟んだ後、コースターは移動を再開した。桜坂は、ずったぼろの雑巾同然に、いちばん後ろの席で横たわっていた。

 

 とはいえ、そこは最強兵器ISをも生身で破壊しうる身体能力を持った超人。ほどなくして回復すると、運転席の美久のかたわらに立ち、どの道を走るべきかのナビゲートを始めた。やがて千葉市に到達し、現在にいたる。

 

「先ほどは聞き忘れてしまったのですが」

 

 上下にブラックアウトしたフロント・ウィンドーから、追い越し車線側を走るS660の艶っぽい尻を眺める桜坂に、開発室最年長の酒井が話しかけた。

 

「なぜ途中から陸路に? いや、あのまま飛んでいてほしかった、というわけではないのですが」

 

 この際、目の前の人物が飛行能力を持っていたことについては、言及しない。勿論、驚きはしたし、一体どういう原理で飛んでいたのかなど気になることは多々あるが、いまこの場で口にすることでもないだろう、と思う。この男はかつて、名古屋から札幌までをたった一時間で踏破した。それぐらいやれたとしても、おかしくはない。

 

 しかしだからこそ、なぜ最後まで飛ばなかったことの方が気になってしまう。四代目コースターに搭載されているパワートレインは、四・〇リッター、直四直噴ディーゼル・ターボ・エンジン。低回転からしっかりトルクの出る名機だが、さすがに、二〇〇ノットものスピードは出せないし、コースター自体もそんな速度域は耐えられない。あのまま飛び続けていた方がずっと早く、目的地に到着できたと思うのだが。

 

「さっきは、内調の目がありましたから」

 

 この場に鬼頭がいたら大興奮だっただろうなあ、と、軽自動車界のスーパーカーを見送った後、仁王の顔の桜坂は苦笑して振り返った。

 

「実を言うと、苦手なんですよ。空を飛ぶことも、飛ばすことも。さっきはその必要があったのでそうしましたけど、本音を言えば、あまり多用したい能力じゃない。すごい疲れるんですよ、あれ」

 

 仁王の顔の超人は小さく溜め息をついてみせた。

 

「だから、もういいだろうな、って場所まで到達したら後は陸路で、っていうのは、最初から考えていたことだったんです」

 

「なるほど」

 

「いや、本当に、疲れるんですよ。これから飛ぶぞ。進路はこうで、高度はこのぐらい、速度はこれぐらい、って考えないといけないことが多いし、集中力も使う」

 

「……ああ、だから、私のときは、ジャンプだったんですね」

 

 コースターのステアリングを握る美久が、前を見ながら得心した様子で呟いた。

 

 彼女の発言から、自分と彼女が初めて出会ったときのことを言っているな、と連想した桜坂は、頷いてみせる。

 

「うん。あのとき言っただろう? 咄嗟のことだった、って」

 

「つまり、瞬間の判断が求められるような場面では、室長は飛べない?」

 

「そうですね。これから飛ぶぞ! って、気構えを練るための時間が必要です。……これは皆さんだって、そうでしょう? 泳げるからといって、必ずしも、泳ぎが得意だとは限らない」

 

 分かりやすい例えに、酒井は得心した表情で頷いた。と同時に、胸の内で寂寥感を孕んだ風が吹きすさぶのを自覚する。超人たる自分と、普通の人間とを区別した発言に、哀しい気持ちを覚えずにはいられなかった。

 

「室長」

 

 過日の無人IS襲撃事件ではXI-02を纏って戦った土居が口を開いた。コースターが山田ICを通過して間もないタイミングでのことだ。

 

「そろそろ、今日の旅行の目的地を教えてくれませんか? 九十九里とは聞いておりますが、具体的には、九十九里のどこなんです?」

 

「そうですね」

 

 桜坂は超人の感覚野でもってマイクロバスの内外を走査した。このバスは今朝借り受けたばかり車輌だ。内調の手の者たちが、細工を施せる時間はなかったと断言出来る。それでも念のために、と盗聴器の類いがないことを確認した後、彼は口を開いた。

 

「そろそろお教えしてもよいでしょう。ただその前に、前提となる知識を知っておいてほしいのですが」

 

「はい」

 

「土居君は……いや、皆さんは、ブライス・ドウィットという名前をご存知ですか?」

 

 桜坂は運転席の美久も含めた全員の顔を見回した。多くの者が困惑の表情を示す中、唯一、サブカルチャーに明るいトムが、おずおず、と挙手をする。

 

「ブライス・ドウィットですか? 論理物理学者の?」

 

「はい」

 

 桜坂は首肯した。

 

「その人です」

 

「田中君、その、ブライスという人物は誰だい?」

 

 酒井が訊ねると、トムはどう言葉を扱えば相手の理解を得られるか、神妙な面持ちで考えながら口を開いた。

 

「ホイーラー・ドウィット方程式っていう、量子重力理論を考える上での、主要な考え方の一つを考案した人物です。ただ、僕が彼のことを知ったのは、そっちの方じゃなくて、多世界解釈論という考え方の方でなんですが」

 

「それは、どういう?」

 

「世界の時間軸は絶えず分岐している。分岐が生じる度に、この宇宙には、我々が観測出来ないだけで、並行世界が生まれている、という考え方です。僕はネット小説をよく読むんですが、あちらの界隈では、この考え方を採り入れた作品が多数存在するんですよ」

 

「多世界解釈は、よく、樹木に例えられます」

 

 トムの言葉を、桜坂が継いだ。

 

「樹木も枝分かれという形で、たくさんの分岐点がありますから。たとえば我々が暮らしているこの世界を、いくつもの枝分かれの先に存在する、一枚の葉っぱだとしましょう。そのすぐ隣には、同じ枝から枝分かれして生まれた小枝から伸びている、別の葉っぱがあります」

 

 桜坂はそう言って、スラックスの右足の裾をまくり、履いている黒い靴下を見せた。

 

「今日、私は黒い靴下を履いています。これは今朝、箪笥を開けていちばん最初に目についた靴下を手に取ったためですが、仮にここで、分岐が生じたとしましょう。今日は黒い靴下という気分ではないから、白い靴下にしよう。そうやって生まれたのが、先ほど言った、隣の葉っぱと考えてください」

 

「……つまり、こういうことですか? 我々の暮らす葉っぱと、隣の葉っぱとに、ほとんど違いはない。ただ一点、室長の履いている、靴下の色だけが違う、と」

 

「そういうことです。ただこれは、分岐した時間が今朝という、極めて近いところだったから、その程度の違いですんでいるのです。これがもっと以前……枝の根元とか、幹のあたりとか、そもどの場所で種が巻かれたのか、といった、ずっと過去の場所で分岐した場合、世界の姿は、もっと大きく違うものになります」

 

 たとえば、本能寺の変で織田信長が死ななかった場合、現代日本はどんな姿をしているだろうか。たとえば、大東亜戦争で日本が勝った場合、現代世界は、どんな勢力図を描いているだろうか。少なくとも、酒井がよく知るこの世界とは、まるで違う様相を示すことだろう。

 

「……多世界解釈が、どういうものかは分かりました」

 

 一同を代表するように、土居が言った。彼はまた、一同の胸に等しく去来した疑問を、代表して口に出す。

 

「しかし、これが前提知識として必要だというのは、どういう?」

 

「それは――」

 

 口を開いた桜坂は、ちら、とコースターの背後へ目線を向けて、冷笑を浮かべた。

 

 マイクロバスが、東金ジャンクションを通過した直後のことだ。合流車線側から飛び出した青いカムリが、コースターの背後で右へと滑り、追い越し車線側につく。そのまま速度を上げ、コースターの隣に並ぼうとした。

 

「――うん。良いタイミングだ」

 

 桜坂は、「ちょっとだけ待ってください」と、土居の質問を一旦保留し、運転席の美久を見た。

 

「桐野さん、いま、隣につこうとしているカムリですが」

 

「はい、それがどう……っ!?」

 

 サイドミラーに目線をやり、青いカムリの運転席を認めた美久の顔が驚きから硬化した。桜坂は、そんな顔の強張りをあえて無視し、彼女の耳元で淡々と囁いた。

 

「いまからあのカムリが、このバスを追い抜きます。追い越したらすぐ、こちら側の車線に移動しますから、そうしたら、その後ろを追いかけてください」

 

「えっ、あ、は、はい……。し、室長、あの、運転手の方は……?」

 

「うん。まあ、それは後で」

 

 桜坂はステアリングを握る美久の肩を、ぽん、と優しく叩いて、乗客席側の酒井たちを見た。彼らに、右側の窓を示して言う。

 

「皆さん、あちらをご覧ください」

 

 指示されて、酒井たちは各々サイド・ウィンドーに近寄り、目線を外へとやった。後ろからやって来た青いカムリが、コースターを徐々に追い抜いていく。

 

 運転席を見やった彼らは、等しく茫然とした。大振りな双眸。黒々と太い眉。仁王の如き、いかつい面魂。彼らのよく知る顔が、そこにあった。やがて青いカムリはマイクロバスを追い抜き、直後、桜坂が予言した通りに左側車線へとスライドした。その様子を見届けた後、桜坂が自分たちの夢の実現に必要な人材だとかき集めたライト・スタッフたちは、室長の方へと振り返った。たったいま視界におさめた顔とうり二つ……、いやまったくの相似形としか見えない顔立ちを、まじまじ、と見つめる。

 

 多数の注目を面はゆく感じながら、桜坂はゆっくりと口を開いた。

 

「いま、我々が暮らすこの世界……葉っぱの名前を、仮に、アース1と呼びましょうか。私が生まれた世界をアース2。そして、私がこのアース1にやって来る直前までいた世界を、アース3と仮称させてください。その方が、説明しやすいのでね」

 

「桜坂君、きみは……」

 

 酒井が、震える声で、男の名を呼んだ。

 

 別な葉っぱからやって来たと自称する超人は、にやり、と冷笑を浮かべて言った。

 

「まあ、そういうことです。私はアース3からやって来た。あなたたちにとっては、異世界人です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




なろう小説界の強力兵器「異世界召喚」を、唐突にぶっ込んでみた。




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Chapter32「転校生たち」

IS学園の教師に胃薬は欠かせないな、というお話しです。




 五月第三週の月曜日の朝。

 

 国際IS学園、一年一組の教室。

 

 フランスからやって来たという転校生が、自らを指して三人目の男性操縦者だと紹介したとき、少女たちのファースト・リアクションは様々であった。ただただ驚く者。驚きのあまり茫然とし、思考がまとまらずに素直な感想さえ口にできない者。目の前の現実を受け入れられず、挙げ句わが目を疑って目元を何度もこする者。三人目の男が存在するという事実に疑念を抱き、訝しげな眼差しをその頬に突き刺す者……。突然の転校生というだけでも驚きなのに、ましてその人物が新たな男性操縦者だと知らされた少女たちの心理的動揺は、一人の例外もなく大きい。

 

 とはいえ、そこはIS学園に通う才女たち。驚愕に心を囚われた時間は短かった。一瞬の静けさを挟んだ後、教室内は再び、わあっ、と騒然とし出す。

 

「きゃああああああ――――っ!」

 

「男子! 三人目の男子!」

 

「しかもウチのクラス!」

 

「美形! 守ってあげたくなる系の!」

 

「おー、ええやん。気に入ったわ」

 

「地球に生まれて、よかった~~~!」

 

 特に目立ったのが新たな級友が男子生徒だったことへの歓呼の声だ。IS操縦者という輝かしいステータスを得られるのと引き換えに、全寮制の女学園で三年間過ごすことを余儀なくされるという、ほとんどの者にとっては灰色の青春時代の到来が確約されている中で降って湧いた、同じ年頃の異性との出会い。しかもこの少年、かなりの美男子だ。中性的に整った顔立ちが形作る人懐っこそうな微笑みが、とてもチャーミング。年頃の乙女たちの胸は、期待で弾まずにいられない。

 

 その一方で、シャルル少年に怪訝な眼差しを向け続ける者も少なくなかった。

 

 三人目の男性操縦者の発見という大事件にも拘わらず、直前まで何の情報もなかったことがどうしても引っかかる。自分たちが個人的に知らなかっただけならばまだしも、机の陰で携帯情報端末を素早く操作した限りでは、どこの報道機関からもそんな発表はされていない。普通は今頃、一夏や鬼頭のときがそうだったように、マスコミ・ミニコミ問わない激しい報道合戦が展開されていて然るべきはずだが……。情報公開に伴う騒乱を嫌ったフランス政府が、その存在を隠匿していたのか? しかし、そうだとすればなぜこのタイミングでの転校なのか、という疑問が生まれてしまう。これまでひた隠しにしてきた存在を、いま明らかにした意図は何だ? フランス政府は、何を考えている? ……本当に、彼は“男性”の操縦者なのか?

 

 鬼頭智之も疑念から眼差しに険を宿している一人だ。最前列の席ど真ん中という好位置から、すぐ目の前に立つシャルルの顔をしげしげと眺める彼は、眉間のクレバスも深く、口の中で呟く。

 

 ――どう見ても、男装をした女の子だが……。

 

 同じ年頃で日本人の一夏と比べても、ずっと低い身長、ずっと華奢な体つき。その上、細身なシルエットの学生服越しに見て取れる体のラインは、妙に丸っこい。尻のあたりなど、特にそれが顕著だ。肉の付き方が、男のそれとは明らかに異なっている。また、目線を上へと向ければ、首の真ん中あたりに喉仏が見られない。十中八九、女性に相違ないだろう。

 

 なぜ、彼女は男子生徒用の制服を着用し、あまつさえ男性操縦者などと名乗っているのか。その目的は何だ? いったい、どういう意図を腹の内に抱えている? 鬼頭はやがて、二つの可能性に思い至る。

 

 ――トランス・ジェンダー……なのか?

 

 出生時に割り当てられた性別が、自身の性同一性や、ジェンダー表現とは異なる人々を示す包括的用語だ。性同一性とは、性自認やジェンダー・アイデンティティとも呼ばれ、要するに、自身の性(ジェンダー)をどう認識しているのかを指す言葉。鬼頭ははじめ、シャルル少年を、女性として生まれてきたが男性の性同一性を持っている、と自認している、トランス・ジェンダー男性ではないかと考えた。

 

 IS登場後の女尊男卑社会において、トランス・ジェンダーは悲惨な立場に追いやられている者が多い。お前達は男なのか? それとも女なのか? もし女だというのなら、お前達は上に立て。男だというのなら、女の下で跪いて生きろ。どちらの生き方をしたいか、立場をはっきりさせろ――。ISの登場以前は、トランス・ジェンダーに対してタブーとされてきた選択を、IS登場以後の社会は容赦なく突きつけた。

 

 自分はいったい何者なのか。男なのか? それとも女なのか? そのどちらでもないとしたら、自分はいったい……! 自らのジェンダー・アイデンティティについて、悲痛なまでに日々もがき苦しんでいる彼らにとって、男か女かの二者択一ほど、残酷で、攻撃的で、陰惨な要求はない。女尊男卑社会の圧力は多くのトランス・ジェンダーを苦しめ、絶望させ、心を殺した。

 

 そうした中でも特に酷いのが、肉体的には女性だが、男性の性同一性を持っているタイプのトランス・ジェンダー男性たちだ。ジェンダー・アイデンティティの崩壊に毎日怯えて生きている、と評しても過言ではないだろう。

 

 彼らは、肉体的には女性だから、当然、ISを動かすことが出来る。最強兵器ISを動かせるから女は偉い、という考え方に基づき成立している今日の女尊男卑社会において、その身は大切に扱われる。その一方で、彼らの性自認は男性。女尊男卑社会においては、その心は虐げられる立場にある。

 

 トランス・ジェンダーであること隠して女性として生きることを選んだ場合、肉体面では快適な日々が保障されることだろう。しかしその心は、男性として生きたいのに女性としての振る舞いを社会から求められる、というすさまじい苦しみを抱えることになってしまう。

 

 のみならず、同胞たる男性たちからも憎悪の念を向けられることになるだろう。トランス・ジェンダー男性が女として生きることを選ぶ、とは、彼らの目に、男性としての性同一性を持ちながら男を苦しめる社会システムの存続に努める裏切り者としか映じないためだ。

 

 かといってトランス・ジェンダーをカミングアウトすれば、今度はその逆の関係性の中で生きなければならない。一転して被差別民の側に追いやられ、搾取の対象とされ、挙げ句、人間性さえ否定される。そんな日々が、待っている。

 

 女として生きるも地獄。男として生きるも地獄。この事実は、世のトランス・ジェンダー男性たちの心と体をばらばらに引き裂いた。いまのこの世界に、自分たちが安心して暮らせる場所はないのか。自分たちの存在を、許してくれる場所はないのか? 自分たちはただ、自分らしく、生きたいだけなのに……!

 

 シャルル・デュノアがトランス・ジェンダー男性だとすれば、これまでに相当な苦労をしてきたに違いない。自らを“男性”の“操縦者”だと称したのは、そういった日々に嫌気がさしたがゆえの、反動的カミングアウトなのか。

 

 ただ、この想像には一つ欠陥がある。仮にシャルルがトランス・ジェンダー男性だとして、自分や一夏を指して「同じ境遇」と口にした理由は何か? という疑問に答えられない点だ。

 

「シャルル・デュノアです。フランスから来ました。こちらに僕と同じ境遇の方がいると聞いて、本国より転入を勧められ、やって来ました。三人目の、男性IS操縦者になります」

 

 シャルルは自らのことを、“三人目”と、わざわざ紹介した。この文章の構成からは、彼の言う「同じ境遇の方」というのが、一人目と、二人目のことを指しているのだろうと読み取れる。すなわち、自分や一夏のことだ。しかし、自分たちは勿論、トランス・ジェンダーではない。いや、一夏については本当のところは分からないが、少なくとも自分は違うし、そもそも今日が初対面のシャルルが、日本の男性操縦者二人がトランス・ジェンダーかどうかなど知っているはずがない。それなのに、彼は自分たちのことを「同じ境遇」と、表現した。彼が自分たちに見出した共通点とはいったい? ……この疑問に答えられなければ、シャルルがトランス・ジェンダーだという推理は成立しない。

 

 鬼頭が想像するもう一つの可能性は、シャルルが産業スパイではないか、というものだ。推理のきっかけは、彼が口にした、“デュノア”というファミリーネーム。

 

 フランスからやって来たIS関係者が、デュノアの姓を名乗る。これらの情報からまず連想されるのが、仏国最大のISメーカー……デュノア社だ。第二世代機の傑作『ラファール・リヴァイブ』を世に送り出した企業で、世界シェア第三位を誇っている。鬼頭はこの名前から、シャルルはデュノア社の親類縁者で、自分たち男性操縦者のデータの取得を企図して送り込まれてきた、産業スパイではないか、と想像した。男装をし、男性操縦者と自らを偽っているのは、同性同士だからこそ育める心理距離感を利用した情報収集を狙ってのことではないだろうか、と。

 

 しかし、こちらの推理にしても欠陥はある。シャルルの変装が、あまりにも杜撰だということだ。これでは、女の身だと気づいてください、と言っているようなものではないか。

 

 フランス政府にしても、デュノア社にしても、自分たちが送り込んだ男性操縦者が実は女性だったということが曝かれれば、たいへんな信用問題へと発展しかねない。いや、十中八九そうなるだろう。デュノア社の隆盛が許せない競合他社、欧州における仏国の影響力を失墜させたい国など、よってたかって責め立てるに違いない。下手を打てば、政権一つ、大企業の経営陣一つ吹き飛びかねない事態だ。得られる成果に比して、あまりにもリスクが大きい、と鬼頭の目には映じてしまう。当然、シャルル・デュノアの背後にいるだろう仏国政府とデュノア社の上層部が、こんな簡単な想像をしていないはずがない。

 

 それなのに、この変装は何だ? 大きすぎるリスクを踏まえた上で送り込んできたのが、これだというのか? リスクへの対策が、ほとんどなされていないじゃないか。せめてもう少し、男らしく見える措置をとるべきではないのか。フランス人どもはいったい、何を考えているのだ!? ……こちらの推理にしても、やはりこの疑問に対する解答が得られなければ成立しがたい。

 

 ――それを思うと、やはり、トランス・ジェンダーなんだろうか……?

 

 鬼頭の考えるトランス・ジェンダー説と産業スパイ説は、どちらも不自然な点が見られる想像だが、あえて片方を選ぶのであれば、より公算が高いのは前者の考え方だろう。トランス・ジェンダー説に対する疑問は、シャルル個人の内面に由来するもの。対して産業スパイ説への疑問は、国家や企業といった、巨大な社会集団の行動原理に対するものだ。この二つを並べて考えた際、どちらの方が不自然さに目をつぶれるか。

 

 三人目の男性操縦者や同じ境遇云々のくだりは、まだ日本語に不慣れなフランス人ならではの言葉の綾だった、と考えることも出来る。やはり、男装の理由はトランス・ジェンダーだからか。

 

 さて、そうだとすれば困ったことになったな、と鬼頭は内心冷や汗をかいた。これまでの人生四六年のうちで、彼がトランス・ジェンダーと関わりを持った経験はない。自分が彼と今後どんな関係を築きたいかは別として、とりあえず今日、どう接するのがモア・ベターだろうか。複雑な事情を抱え持つ繊細な人物として気を遣いすぎれば、かえって相手の気分を害しかねないだろうし。

 

 ――中身は男なんだから、男性向けの話題を振って、お互いにとっての適切な距離感を少しずつ測る。うん、方針はこれでいこう。差し当たっては何を話すべきかだが……、最近の若い男の子が好みそうな話題……、話題……。

 

「……おっぱいのことか」

 

 いや、これは年齢問わず男性が好む話題だったな。……いかん。オロチ・システム試運転時の疲れのせいか、思考が変な方向へ向かいがちになっている。

 

「鬼頭さん? いま、何か言いました?」

 

 隣の席に座る夜竹さゆかが訊ねた。ぼそり、とした呟きに対する反応だ。ただ声が小さかったために、よく聞こえなかったらしい。あぶないところだった、と鬼頭は胸の内で呟いた。もし聞き取られていたならば、自分の大人としての株価が大暴落するところだった。

 

「いえ、何も」

 

 小さくかぶりを振ってみせると、さゆかは「そうですか」と、静かに応じた。それから、自身の胸元へ目線を落とす。ささやかな膨らみを、じぃっ、と、見つめながら、「噂通り、やはり巨乳の方がいいのか……」と、こちらも、ぼそり、と呟いた。……聞こえてなかったんですよ、ね?

 

 そんなやり取りに反応したわけではないだろうが、出入口付近に立つ千冬が、教室内を見回して面倒くさそうに言う。

 

「あー、騒ぐな。静かにしろ。転校生は、もう一人いるんだ」

 

 千冬に促され、みなの目線はシャルル少年に続き入室してきた白人の少女へと向けられた。自称三人目の男性操縦者ほどではないが、こちらもかなり目立つ容姿の持ち主だ。

 

 まず目につくのが、透き通るような白い肌と、銀糸とまごう長い髪だ。腰近くまでのばしているそれは一見綺麗だが、どこかまとまりがなく、毛先も乱れ気味。おそらく伸ばしっ放しにしているのだろう。それなのにキューティクルの輝きが素晴らしいのは、若さゆえか。それとも、身だしなみへの関心が薄いせいで、かえって妙な化学成分が配合されたシャンプーなどを敬遠してこられたからなのか。どちらにしても、中年男の自分には羨ましい限りだ。

 

 顔の造作については、子どもっぽい、というのが率直な感想だった。IS学園に通うからには、彼女も十代半ばのはずだが、同年代の他の娘たちと比べても、ひときわ幼げな顔立ちをしている。小さめの唇に、ちょっぴり低い鼻。大振りな造りの目には赤い宝石のような瞳が鎮座しており、美しいが、そのうちの片方は眼帯で覆われていた。日本で主流の白眼帯ではなく、欧米圏でよく見られる黒い眼帯だ。左目の方を覆い隠している。

 

 身の丈もまた、同年代の平均と比して低い。陽子よりは上背があるが、それでも一五〇センチないだろう。そのことも、少女の持つ幼げな雰囲気の演出に一役買っているように思われた。腰の後ろで腕を組み、胸を張って屹立している姿など、童女が自分のことを精一杯大きく見せようとしているようですらあり、微笑ましいとも思ってしまう。

 

 もっとも、見た目の愛らしさに反して、教室内を、ぐるり、と見回す視線は酷薄だ。自分と同年代の少女たちを、蔑んでいるかのような冷たさが見て取れる。

 

 今度はきみの番だよ、とシャルルが後ろに下がって教壇のセンター・ポジションを空けた。しかし、その様子を見ても、銀髪の少女は動かない。そればかりか、相変わらず無言のままだ。いつまで経っても始まらない自己紹介に、教室中で当惑の表情が浮かぶ。

 

「あ、あの~……ボーデヴィッヒさん、自己紹介を」

 

 二人のかたわらに立つ副担任の山田真耶が、おろおろ、とした口調で言った。それでもなお、少女は口を閉ざしたままだ。真耶のことを、一顧だにしない。彼女の目線は、やがて教室内への一点へと定められた。出入口付近に立つ千冬を見つめている。どうやら、彼女からの言葉を待っている様子だ。千冬もそれに気がついたか、世界最強の女傑は呆れた様子で溜め息をつくと、億劫そうに口を開いた。

 

「……挨拶をしろ、ラウラ」

 

「はい、教官」

 

 たたずまいを直し、素直に返事をした。その際に、右手を米神のあたりに持っていき、挙手敬礼。鬼頭は驚きから頬の筋肉を強張らせる。

 

 ――軍隊式の敬礼とは! ……IS操縦者は十代のうちから軍属になる者も多いと聞いていたが。

 

 実際に目にしてみると、胸にくるものがある。自分の娘と同じ年頃の少女が軍人だなんて、と嘆く気持ちを禁じえない。

 

「ここではそう呼ぶな。もう私は教官ではないし、ここではお前も一般生徒だ。私のことは織斑先生と呼べ」

 

「了解しました」

 

 背筋を伸ばし、踵同士を打ち鳴らして応じた。彼女はようやく教壇の真ん中に移動すると、

 

「ラウラ・ボーデヴィッヒだ」

 

と、鋭い口調で言い放った。続く言葉を待つクラスメイトたち。しかし、肝心のラウラはといえば、名前を言ったきり、また貝のように口を閉ざしてしまう。

 

「あ、あの、以上……ですか?」

 

「以上だ」

 

 見かねた真耶がさらなる言葉を促そうとするも、ラウラは即答でもって彼女の気遣いを切り捨てた。銀縁眼鏡の向こう側で、子鹿のように大きな瞳が涙ぐむ。

 

 見ていて不憫になってきた。フォローの声かけを口にしようとして、赤い瞳と目線がかち合う。

 

「貴様は――」

 

「はい?」

 

 教壇の真ん中に立つラウラの目線と、最前列ど真ん中の席に座る鬼頭の目線が交差した。銀髪の少女は少し驚いた様子で、二人目の男に向けて口を開く。

 

「――貴様、いまいくつだ?」

 

「? 今年で、四六になりますが」

 

「……教官より二十年以上も早くに生まれた弟なのか」

 

 両の腕を胸の前で組み、驚愕の事実を噛みしめるように、ゆっくりと呟く。教室の其処彼処から、「えぇ…(困惑)」と、ぼそり、とした声があがった。

 

「……ラウラ、お前、何か勘違いしているな。その人は鬼頭智之さんだ。二人目の男性操縦者の方だ」

 

「なんと!」

 

 ラウラは真実驚いた様子で鬼頭の顔をしげしげと見つめた。

 

「道理で老けていると思いました」

 

「老けて、いる……」

 

 無遠慮に口ずさまれた言葉の刃で、胸を切り裂かれた。反論しようにも、事実、この教室にいる誰よりも老齢なのは確かだ。事実を指摘されただけなのだから、落ち込む必要はない。ない、が、とはいえ、こうも面と向かってはっきり言われてしまうと、さすがに鳩尾が痛い。「うん。まあ、うん。そうだね。たしかに、老けているね。オジサンだもんね……」と、俯き呟く驚異の天才。教壇の真耶が、慌てた口調で彼に言う。

 

「だ、大丈夫ですよぅ、鬼頭さん! 鬼頭さんの見た目は年齢相応……いいえっ。むしろ、若い、くらいです」

 

「……山田先生、気を遣わなくても、いいですよ」

 

「いや、気を遣っているとかじゃなくて本当に!」

 

「やっべ。オトンが面倒くさいモードに突入しちゃったよ」

 

 席替えの結果、教室の後ろの方に座る陽子が辟易とした様子で呟いた。この男、なまじ頭がよいだけに、一度落ち込んだり悩み出したりするととにかく長い。思考をどんどん発展させていく性質が悪い方向にはたらいてしまい、ネカティブな考えをどんどん進展させて抜け出しがたい状態に陥ってしまうのだ。往時にはこういうとき、気分転換のドライブや時計いじりといった逃げ道があったが、IS学園ではそれも叶わない。

 

 さてどうしたものか、と内心頭を抱えていると、教壇のラウラが、何か思い出したように、はっ、とした。教壇から降りて鬼頭の前に立つと、その場で傅いてみせる。着座状態の鬼頭と目線の高さが逆転した状態で、彼女は言った。

 

「失礼しました。男性操縦者は二人いると聞いてはいたのですが、顔写真までは確認していなかったもので」

 

「はははっ、左様ですか」

 

「軍からは、鬼頭智之とはなるべく友好的な関係を築くように、と申しつけられております」

 

 さらり、と口ずさまれた内容に、教室内はまたも騒然となった。発言の内容から、ラウラ・ボーデヴィッヒがどこかの国の軍関係者なのは明らかだ。それがどこの国なのかは情報が少なすぎてまだ判然としないが、その国は、二人目の男性操縦者の身柄争奪戦に、日本と英国に続き正式に参戦を表明したと考えてよいだろう。でなければ、自国を代表する立場の人間に、そんな言葉は託すまい。

 

「よろしくお願いします」

 

「うん。はい。どうも」

 

 握手を求められ、なんとはなしに、それに応じた。留学生の何人かの唇から、ひゅぅっ、と悲鳴が漏れ出る。みな、男性操縦者たちへの対応をどうするべきか、いまだ結論を出しあぐねている国々からの者たちだった。それらを耳にして、鬼頭はようやく正気を取り戻した。かたく握り合った右手を見て、ぎょっとする。これでは、ラウラが口にした友好的関係の形成に、自分も乗り気だと言っているようなものではないか。

 

 しまった、と思ったときにはもう遅かった。ラウラは握手をほどくと立ち上がり、今度は鬼頭の三つ後ろの席に座る一夏の方へと近づいていった。その様子を見て、またも何人かの生徒が、ガタタッ、と腰を浮かす。この上、一夏とまでそんな関係を築かれたら、という警戒心に突き動かされての行動だった。

 

 みなの注目を浴びながら、ラウラは、コツコツ、と軍靴の踵を鳴らして、一夏の前に立った。今度は俺に対しての挨拶か、と一人目の少年は転校生の少女の顔を見上げた。あれ? と、訝しげな表情。自分を見る少女の面差しは、険しく歪んでいた。

 

「今度こそ、貴様が織斑一夏だな?」

 

「そ、そうだけど」

 

 問いかけに対し、肯定の意を示した次の瞬間、左の頬に衝撃が走った。平手打ち。手首のスナップを利かせた鋭い打撃に、目の前が一瞬、真っ暗になる。すかさず襲いくる、ずきり、という痛み。一夏の端整な顔立ちが、苦悶に歪んだ。

 

「痛ってぇ!」

 

「一夏!」

 

 相変わらず窓際の席に座る箒が悲鳴をあげた。机の天板に両手をついて立ち上がり、突然の凶行におよんだ転校生を睨みつける。

 

「貴様っ、一夏に何を!?」

 

「……ふん」

 

 ラウラは、箒の問いかけには答えなかった。そればかりか一瞥さえよこさない。異国からやって来た少女は、一夏だけを見つめていた。無視をされた、と箒の頬が紅潮する。

 

「私は認めない。貴様があの人の弟であるなど、認めるものか」

 

 紅の隻眼が少年の顔を冷たく睨んだ。対する一夏は、いきなりのことで自分の身に何が起きたのかすぐには理解できず、叩かれた方の頬に掌を添えながら、相手の顔を茫然と見つめ返す。自分はいま、何をされた? この痛みは何だ? ……叩かれたのか? この娘に? 状況を理解するにつれてふつふつと湧き上がる、理不尽への怒り。

 

「いきなり何しやがる!」

 

 自分はなぜ、叩かれたのか。自分が叩かれねばならない理由は何だ? ラウラ・ボーデヴィッヒと自分は、互いに初対面のはず。少なくとも自分に、過去に彼女と会ったり、言葉を交わした記憶はない。そんな面識のない相手から、不躾に名を問われ、いきなり叩かれねばならない理由とは何だ? そんなもの、あるわけがないし、あってよいはずがない!

 

 一夏の眦がつり上がった。怒りの炎に燃える眼差しと、凍れる侮蔑の眼差しとがぶつかり合う。

 

 しばしの睨み合いに飽いたか、ラウラはやがて、ふい、と顔を背けた。無言のまま踵を返し、再び軍靴の歌声を教室内に響かせる。空いている席に、どかっ、と、腰を下ろすと、両の腕を胸の前で組み、目をつむった。そのまま彫像のように、動かなくなってしまう。

 

「おまっ、無視するなよ!」

 

「ぼ、ボーデヴィッヒさん、座ってください、ってまだ言っていませんよぅ」

 

 二人の顔を交互に見て、慌てた様子の真耶が言った。

 

 ラウラ・ボーデヴィッヒが一年一組の教室に足を踏み入れてから、まだ数分しか経っていない。にも拘らず、問題事の種を次々と振り撒くその姿に、新人教師の顔色は早くも疲れの色が濃かった。

 

 そんな教室の片隅では、弟たちによるやり取りの様子を見た千冬が「また問題児が増えた」と、受け持ちのクラスの前途多難ぶりをひっそり嘆いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter32「転校生たち」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 転校生たちの紹介に端を発する一悶着の後、二人に代わって教壇に立った千冬は、これ以上の遅れは次の授業の開始時間に差し支えるからと、不満そうな顔の弟たちをあえて無視し、連絡事項の伝達に努めた。やがてそれも一段落すると、ぱんぱん、と両手を打ち鳴らして、生徒達に次の行動を促す。

 

「――連絡事項は以上だ。ではこれでHRを終わる。各人はすぐに着替えて第二グラウンドに集合しろ。今日は二組と合同でIS模擬戦闘を行う。それでは解散!」

 

 ホームルーム中、ずっと不服そうなそうな面持ちだった一夏は、姉のこの発言に、はっ、とした様子で慌て始めた。そうだった。ラウラからの平手打ちのインパクトのために、いまのいままで忘れていたが、今日の一限目は、ISを実際に動かしての実習授業だった。早く教室を出て、空いている更衣室に向かわなければ。

 

 IS実習の授業は、一般の高校における体育の授業と同じで、ISスーツという専用のユニフォームを着用して行われる。つまり、着替えが必要だ。しかし、IS学園にとって男性操縦者はもともとイレギュラーな存在。男子生徒用の更衣室なんて気の利いた施設があるわけもなく、その日ごとに、空いているアリーナ更衣室を探してそちらに移動する必要があった。そしてこれらの更衣室は、次の授業で使うアリーナやグラウンドはどこか、そこまでの距離はいかほどか、といった利便性に配慮された立地を、必ずしもしていない。

 

 一夏は待機状態の『白式』に意識を傾け、空間投影式ディスプレイを机の上に出力した。IS学園のコンピュータにアクセスし、空いている更衣室を探す。本日の着替え場所候補の第一位は、第二アリーナ。一年一組の教室からはそれなりに遠く、第二グラウンドからもまた遠い。のんびりしていると、授業の開始に間に合わない恐れがある。

 

「おい織斑。デュノアの面倒を見てやれ。同じ男子だろう」

 

 千冬からの指示に頷くと、一夏は椅子から立ち上がった。机のサイドフックに引っかけておいたナップサックを手に取る。それから、転校したばかりで学園の施設の配置に不慣れだろうシャルルを見た。ちょうど彼の方もこちらを見ており、視線と視線が絡み合う。仏国からやって来た美少年は、人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「きみが織斑君? 初めまして。僕は――」

 

「織斑一夏だ」

 

 一夏はシャルルの言葉を遮って言った。手の中のナップサックを見せて言う。

 

「詳しい自己紹介は後にしようぜ。とにかく、いまは移動が先だ。ほら、案内するからさ」

 

「え?」

 

「ぼさっとするなって。それとも、女子と一緒に着替えたい、女子の着替えが見たい、って言うんなら、置いておくけど?」

 

 冗談っぽく言ってみせて、周囲を示す。気の早い生徒など、早くも制服の裾に手をかけ始めていた。このあたりも、一般の高校の体育の授業と一緒だ。ほとんどの生徒は、更衣室に行くことなく、それぞれの教室でユニフォームへの着替えを行う。

 

 周囲の女子生徒たちを一瞥して、シャルルは得心した様子で頷いた。

 

「あ、あぁ~、そっか。そうだよね」

 

「とりあえず、俺たち男子は空いているアリーナ更衣室で着替え。これから実習の度にこの移動だから、早めに慣れてくれ。ほら、行こうぜ」

 

「わっ……!」

 

 説明しながら、一夏はシャルルの手を取った。突然のことに驚いたか、転校生の少年の頬が薔薇色に紅潮する。

 

 そんな彼の反応を訝しく思いながら、一夏はもう一人の男性操縦者たる鬼頭の姿を探した。二番目の男はすでに、教室を出てすぐのところに立っていた。これから教員用の更衣室へ向かおうとしていた千冬たちを呼び止め、三人で何やら話し合いをしている。

 

 シャルルの手を掴んだまま、一夏は鬼頭の前に立った。

 

「智之さんも、急ぎましょう」

 

「デュノア君を連れて、先に行っていてくれないかい」

 

 鬼頭はやんわりとした口調でことわってから、退室しようとする千冬たちを示した。

 

「織斑先生たちに、ちょっと確認したいことがあってね。私は後から行くよ」

 

 

 

 

「私のクラスにばかり問題児が集まるのは、きっと、何かの陰謀に違いありません」

 

 教員用の更衣室へと向かう道すがら、前を歩く千冬の口から飛び出した呟きに、背中を追いかける鬼頭と真耶は揃って苦笑を浮かべた。平素しかめっ面が多い彼女にしては珍しい、諧謔を孕んだ口調。しかし、担任教師というその立場を思うと、呵々大笑するのははばかれる。自称三人目の男性操縦者に、初対面の一夏の頬をいきなり張るような娘。まごうことなき問題児たちだ。そんな彼女らがクラスメイトたちとこの先上手くやっていけるのかを思うと、不安は募るばかり。転校生二人の編入先を、一年一組に決めた学園や政府の上層部に対し、何を考えているのか、と愚痴をこぼしたくなるのも無理はない。

 

 ここが一般の高等学校であれば、学年主任という千冬の立場は、人事に口出しする上で強力な武器として機能していただろう。しかし、ここは国際IS学園。アラスカ条約の傘の下、各国政府の本音と建前が乱立する腹芸の見本市だ。両国の政府から、『ぜひ織斑一夏らと同じクラスに』という、猛烈なプッシュをひそかに受けていた学園の上層部は、二人の編入先をほぼ一方的に決定した。上役からそうした裏事情を匂わせる発言をされた後、「頼んだよ」と、千冬が肩を叩かれたのは、なんと今朝のことだったという。鬼頭たちの担任教師は、忌々しげに溜め息をつく。

 

「鬼頭さんが相手なのでお話ししますが、IS学園に外的介入は通用しない、なんていうのは、所詮、建前です。実際は交渉内容次第で、我々は首を縦に振る。鬼頭さんたち男性操縦者への日本政府からの介入を黙認していることなどは、その最たる例です。今回の件についても、フランス政府と、ドイツ政府から、要請を受け入れてもいいだろう、と思わせる“何か”の提供か、そういう即物的なものでないにしても、裏取引に何らかの利を見出したのでしょう。それが何かまでは分かりませんが」

 

「なるほど、それで、陰謀と」

 

「ええ。……むしろ、そうであってほしいですよ。そうでないとしたら、私は学園の上層部から嫌われていると判断せざるをえませんから」

 

「嫌われている、って……」

 

 つかつか、と歩みを進める千冬の背中に、鬼頭は呆れた表情を向けた。

 

「むしろ、その逆なのでは? 陰謀云々を抜きにして考えた場合、問題のある生徒達をどのクラスに配置するべきか、その判断基準は、純粋に担任教師の能力となるはずです。学園は、織斑先生の能力を買っているからこそ、転校生二人を一組に預けてもよい、と判断したと考えるべきでしょう。織斑先生なら安心して二人を託せる、という、むしろ信頼だと思いますが」

 

 ヒールの踵を鳴らして進む千冬の背中を追いながら、鬼頭はやんわりとした口調で言った。すぐ隣を歩く真耶も、ぶんぶん、と首を縦に振ってみせる。

 

「そ、そうですよぅ。学園が織斑先生のことを嫌っているなんて、そんな……」

 

「男性操縦者二人にISの生みの親の肉親。その上で三人目の男と、軍からの命令を受けた勘違い娘を押しつけられたんだ。嫌がらせ人事と疑いたくもなるさ」

 

 世界最強の女傑から、じろり、と睨まれ、真耶は返す言葉を見失う。眼光の圧力に屈したのは勿論だが、のみならず、自分も同様の仕打ちを受けたなら、きっと同じように悲観的想像をふくらませてしまうだろうな、ということが容易に想像できてしまったためだ。なんとなれば、千冬がいま挙げた者たちはみな、台風のような存在だといえる。当人にそのつもりがなくとも、ただそこにいるだけで問題を起こし、周りに影響を及ぼす。厄介事のびっくり箱そのものだ。そんな人材を何人も押しつけられたなら、千冬でなくとも、学園上層部の意思決定プロセスに、個人的な好き嫌いの感情が介在していなかったか疑いの目を持ちたくなるだろう。

 

「……まあ実際のところは、問題児は一つの学級にかためておいた方が監視をするのに都合がよいから、といった理由なのでしょうが」

 

 もっとも千冬も、学園の上層部が本当にそんな子どもじみた論理で動いているとは考えていない。陰謀の類いがないと仮定した場合に、問題児たちの集積地に自分の担当クラスが選ばれたのは、やはり鬼頭が言うように、世界最強のブリュンヒルデが見るのならば、と能力を買われてのことと想像された。

 

 三人はやがて教員用の更衣室へと辿り着いた。まず真耶がドアをノックし、誰からの返事もないことを確認してから、非接触式センサーに掌をかざす。電子ロックが解錠され、圧縮空気の抜ける音とともに、スライドドアが開いていった。念のため真耶一人だけが入室して室内を見回し、やはり誰もいないことを認めてから、背後の鬼頭を見る。

 

「大丈夫です、鬼頭さん。いまのうちに入ってください」

 

「では、失礼します」

 

 真耶に促され、鬼頭はロッカールームに入室した。直後、鼻腔を刺激する、様々な化粧品がごった煮されたえも言われぬ匂い。女性職員ばかりが利用する場所だからと覚悟はしていたが、思わず、頬の筋肉が引き攣ってしまう。

 

 いかんいかん、と、小さくかぶりを振った。二人の前で、しかめっ面は失礼だ。鬼頭は平静な表情に努めた。

 

 教員用更衣室の造りは、アリーナに設けられている部屋よりも狭く、内装からは質素な印象を受けた。一度に数十人の生徒が利用することを想定したアリーナ更衣室と違い、教員用の部屋は利用者が限られているためだろう。観葉植物や自動販売機などの快適設備はほとんど見られない。十六畳ほどの室内に置かれたインテリアで目につく物といえば、壁面に、ずらり、と並ぶ縦長のロッカーと、部屋の真ん中に四つ置かれている、背もたれのない三人掛けのベンチ、そして天井中央部に設けられた業務用のエアコンが一基という具合だ。

 

 換気装置は、壁の上の方に設置されている小窓以外に、天井の四隅に格子で覆われた空調装置の孔が設けられていた。聞けば、毒ガスなどが充満した際に、室内の空気を十秒以内に総入れ替えできる強力な装置なんだとか。さすがは軍事施設と感心する一方、稼働には大量の電気が必要だそうで、普段は節電のため電源を落としていると説明を受けて、少しもの悲しい気持ちになってしまった。

 

 更衣室に最後に入室した千冬が、電子ロック錠を後ろ手で操作して、施錠のモードを『使用中』に設定した。

 

 彼女は『織斑』と書かれたネームプレートを掲げているロッカーの前に移動すると、背中を預け、胸の前で腕を組んだ。

 

「ここなら、生徒達の耳目はありません」

 

「ご配慮、痛み入ります」

 

 鬼頭は千冬に向けて小さく頭を傾けた。

 

 数分前、教室から退出する千冬たちの背中を呼び止めた彼は、「出来れば、他の生徒達がいない場所でお話ししたいのですが」と、適当な場所がないか二人に訊ねた。ちょうど更衣室に向かうところだった彼女らは、それならば、と生徒達が絶対に利用することのない部屋に、彼を案内したのである。更衣室という場所柄、はじめは鬼頭も再考を促したが、なんとしても一限目が始まる前に話しておきたい彼と、一限目の開始に間に合わせたい千冬たちとの思惑の一致から、これ以上好適な場所はない、と最終的には納得したのだった。

 

 ちなみに道中、

 

「男の私を更衣室に連れて行くなんて、躊躇いはないのですか?」

 

「勿論、抵抗はありますよ。未洗濯のジャージやら下着やらがそこら中にある場所です。当然、その中には自分たちの物もある。それを見られるかもしれない、という恥じらいは、私にだってあります。しかしそれは、私たちが気をつければすむ話だ」

 

「いや、見る、なんてことよりも、……私が先生方の下着を漁ったり、室内に隠しカメラを仕掛けたり、そういうことの方を、警戒するべきでは?」

 

「そういうことを、するつもりなんですか?」

 

「まさか!」

 

「なら、大丈夫でしょう。私はあなたのその発言を信じます。問題ありません」

 

などという会話が、千冬との間であった。彼女は鬼頭が何を言っても「問題ない」の一点張りをごり押しし、やがて根負けした彼は、このディベート合戦に一方的敗戦を喫した。

 

「こんな論理性を欠いた意見に打ち負かされるなんて……」

 

「天才でも、言い負かされることがあるんですね」

 

 しょぼくれる背中を慰める真耶であった。

 

「それで、確認したいこと、とは?」

 

「はい」

 

 余人の耳目の遮断に成功した鬼頭は、「シャルル君のことです」と、口火を切った。その名を聞き、千冬と真耶の顔が揃って硬化する。反応から、男は、やはり、と頷いた。

 

「単刀直入にお伺いします。シャルル・デュノア君は、女性なのでは?」

 

「……鬼頭さんも、そう思いますか」

 

 千冬の口から飛び出した返答に、鬼頭の切れ長の双眸が、おや? と、鋭く輝いた。シャルル・デュノアの性別を、直接確認していないかのような口ぶりだ。転入が決まったときに、学園側で健康診断などの身体検査をしなかったのか。

 

「思う、とは?」

 

「我々IS学園も、シャルル・デュノアが三人目の男性操縦者だということには懐疑的だ、ということです」

 

「つまり、女性ではないか、と、疑っている?」

 

「ええ」

 

 首肯とともに、千冬はうんざりとした様子で溜め息をついた。かたわらに控える真耶が、言葉足らずな上司の発言を補足する。

 

「三人目の男性操縦者、というだけでも怪しさ全開なのに、あの見た目ですから。あれで疑うな、という方が無理ですよ」

 

「私や山田先生が転校生の存在を聞かされたのは、昨晩緊急で開かれた、職員会議でのことでした」

 

 そのときのことを思い出し、千冬の語気自然荒々しさを増していった。

 

「普段は滅多に顔を出さない学園の理事の一人が、珍しくこの島に足を運んできたと思ったら、突然の衝撃発言ですよ。そのときに転校生両名の履歴書を渡されたのですが、顔写真を見た瞬間、『こいつは怪しい。履歴書には男性とあるが、実際には女性ではないか?』と、職員のほぼ全員が口にしました。その上で、つい先ほど実物と引き合わされて、こいつはいよいよ怪しいぞ、と」

 

「怪しい、どまりですか。直接の確認……身体検査などは、行わなかったのですか?」

 

「行いませんでした」

 

 千冬はまたうんざりした様子で頷いた。

 

「鬼頭さんもご存知かと思いますが」

 

「はい」

 

「IS学園では新入生・転校生問わず、入学者には身体検査が義務づけられています。これは、ISの操縦をするにあたって障害となりうる基礎疾患や、五感機能の異常、身体の変形等の有無を調べるためのものです」

 

 自動車免許の取得時に視力検査を行うのと同じ理由だ。自動車よりもずっと複雑な機械であるISの操縦者には、心身ともに健康体が求められる。

 

「ところが、シャルル・デュノアに限っては、学園はそれを実施していません。というのも、身体検査はフランスにいた頃に向こうですませてきた、と、フランスの国立病院作成の検査表の提出のみで、よし、としてしまったからです。つまりシャルル・デュノアについては、身体検査は受けているが、それは学園で行われたものではない。学園側に、彼の性別を直接確認した者はいない、ということです」

 

「なるほど。ちなみに、その検査表には?」

 

「勿論、男性と明記されていました。ですが、」

 

「検査表には、私や織斑先生も目を通しました。各項目の数値に、特に不審な点は見られませんでしたが……」

 

「逆にそれが健康体すぎて、かえって不自然に感じましたよ」

 

「そうですね。まるで同年代男性の、各項目における平均値を寄せ集めたようなデータでした」

 

「……つまり、捏造された物である可能性が高い?」

 

 鬼頭の問いに、千冬ははっきりと頷いてみせた。

 

「十中八九、そうでしょう。これだけの要素が揃っていて、疑いの目を向けない、では教師失格です」

 

 鬼頭は眉間に皺を寄せ、おとがいを撫でながら考え込んだ。先ほど否定したばかりの産業スパイ説が、早くも存在感を主張し出す。

 

 シャルル・デュノアがトランス・ジェンダー男性だとすれば、身体検査のデータを偽る必要は薄いはずだ。むしろ、周囲の理解や協力を得るために、本人にとっては受け入れがたい事実であったとしても、肉体は女性のそれである、とはっきりさせておいた方がよい、と素人ながら思う。整理の問題や、ホルモン注射の問題など、周囲のサポートが必要と考えられる場面は多い。

 

 しかし、そうだとするとやはり、あの杜撰な変装が気になってしまう。加えて、千冬や真耶が一目見ただけで不審点を見出せてしまえる出来栄えの検査表の存在。産業スパイだとしたら、正体の露見を前提として送り込んでいるとしか思えない。その理由は何だ? デュノア社とフランス政府は、何を考えている……?

 

「そして、いまの鬼頭さんの発言から、はっきりと確信しました」

 

 不意に名前を呼ばれ、鬼頭は思索を中断した。訝しげな面持ちで、千冬を見る。

 

「私の?」

 

「ええ」

 

 千冬は腕組みをほどくと、鬼頭の顔を真っ直ぐに見据えた。

 

「鬼頭さんの言う通り、シャルル・デュノアはおそらく女性でしょう」

 

「……私が言ったからそう思う、というのは、短絡的すぎるのでは?」

 

「それだけ鬼頭さんのことを信頼している、ということですよ」

 

 千冬はからかう口調で言った。

 

「以前、オルコットが言っていました」

 

「セシリアが?」

 

「天才・鬼頭智之が何より優れている点は、その観察眼である。僅か十数分、稼働しているところを見ただけで、BTシステムの基本構造をほぼ正確に見抜くほどの眼力の持ち主である。そのあなたが、シャルル・デュノアを見て女性だと判断したのです。私からすれば、十分すぎる根拠ですよ」

 

「ですね」

 

 かたわらに立つ真耶も、真剣な表情で頷いた。まいったな、と鬼頭は思わず肩をすくめる。それから彼は、二人の顔を交互に見て言った。

 

「デュノア君が、女性だと仮定して話を進めますが」

 

「はい」

 

「彼女はいったい、何者なのでしょう? 私個人としては、トランス・ジェンダーか、産業スパイのどちらかだろう、と考えているのですが」

 

「おそらくは、産業スパイでしょう」

 

 間髪入れずに、千冬は答えた。レスポンス・タイムの短さから、彼女もシャルル・デュノアの正体について考察していたのだろう。

 

「あるいは、軍事スパイも兼ねているのかもしれませんが。目的はおそらく、男性操縦者たちのデータ取得と、可能ならばその身柄を仏国のものとすること。男性操縦者と偽ったのは、愚弟や鬼頭さんたちに接触しやすくするための方便でしょうね」

 

「それにしては、変装が杜撰すぎませんか? それに検査表の件もあります。スパイにしては、正体露見へのリスク管理が、あまりにも甘いように思いますが」

 

「あるいは、それこそが狙いなのかもしれません」

 

 険を孕んだ呟きに、鬼頭は怪訝な表情を浮かべた。

 

「つまり、正体がばれることを前提として送り込まれたスパイだということです」

 

「……スパイにとって、正体の露見は避けるべきことなのでは?」

 

「一般論ではそうでしょう。ですが、女性スパイの場合は、話が変わってきます」

 

 千冬は嫌悪感も露わな口調で、“女性”という点を強調した。それを聞き、鬼頭はようやく、得心した表情で頷く。

 

「なるほど、ハニー・トラップですか」

 

 古今東西、セックスを武器とするのはスパイの常套手段だ。鬼頭の言葉に、千冬は柳眉を逆立て頷いた。

 

「最初は男性操縦者として、同性ならではの距離感の近さを活かして接近する。ほどなくして正体がばれるように誘導し、『何でもするからこのことは黙っていてほしい』と、相手の立場の優位生を強調した上で、そういう関係に持ち込む。そんな作戦が考えられます」

 

「我々男の側は、こちらが優位な立場にあると思い込み、ホイホイ誘いに乗ってしまう。しかし、実際に優位な立場にあるのは相手の方。ここで迂闊に肉体関係を結べば、今度はその事実でもって、こちらが脅される立場になってしまう」

 

 女尊男卑のいまの時代、女の側にどんな事情があったとしても、それは往々にして無視される。女の弱みにつけこんで、強引に肉体関係を迫った。その事実だけが取り上げられ、糾弾の対象となる。今度はこちらが、この事実を口外されたくなければ、と脅迫されてしまう公算が高かった。ましてや、相手が妊娠などということになれば――、

 

「責任を取れ、と言ってくるのは必至ですね」

 

 この場合の責任とは、シャルル・デュノアを娶って仏国の人間になれ、ということになろう。鬼頭は苦い口調で呟いた。

 

「デュノア君に接するときは、二人きりにならないよう、なるべく注意するようにします」

 

「その方がよいと思います」

 

「一夏君に、このことは?」

 

「……伝えない方がいいでしょう」

 

 少し悩むような素振りを見せた後、千冬はきっぱりと言い切った。

 

「あれは良くも悪くも考えが顔に出るタイプです。このことを伝えれば、デュノアへの接し方が不自然な態度となり、かえって厄介事を招きかねません」

 

「スパイという考え方も、まだ推論にすぎませんしね」

 

 思い込みというのは恐ろしい。一度、一つの考え方に固執してしまうと、それ以外の可能性を一切考慮出来なくなり、間違った方向へと思考を発展させかねない。慌てて口を挟んだ真耶に、鬼頭と千冬は頷き合った。トランス・ジェンダーという可能性も、まだ十分にある。

 

「とにかく、シャルル・デュノア君については注意して接するようにします」

 

「そうしてください」

 

「一夏君についても、なるべくフォローするようにしましょう」

 

「愚弟のために、ありがとうございます。ああ、それと……」

 

 頼もしい回答を受けた千冬が、思い出したように言った。

 

「こちらからも一つ。もう一人の転校生……ラウラ・ボーデヴィッヒのことですが」

 

「ああ、はい。……私を、老けている、と言った娘ですね?」

 

「意外に引きずっていたんですね」

 

 千冬は呆れた口調で言った。

 

「言葉こそきつかったかもしれませんが、あれに悪気はありません。すみませんが、許していただけないでしょうか?」

 

「はあ、それは私も感じていましたし、怒ってはいませんが」

 

 口ぶりに、引っかかりを覚えた。ラウラ・ボーデヴィッヒがどういう人格の持ち主なのか、以前から知っていることを窺わせる内容の発言だ。訝しげな眼差しで千冬を見つめると、世界最強の女傑は、彼女にしては珍しい、やわらかい口調で答えた。

 

「鬼頭さんには、以前お話ししたことがあったと思います。昔、一年ほど教師の真似事をしたことがある、と。ラウラはそのときの教え子なんですよ」

 

 口調から、往時はラウラのことを相当に可愛がっていた様子が窺えた。先ほど教室で二人を紹介したときも、表情にこそ出さなかったが、内心では久しぶりの再会に浮かれていたのかもしれない。

 

 思えば、あのときの千冬はおかしかった。平素の彼女であれば、ラウラが一夏の頬を張ったのを認めるや間髪入れずに、出席簿による打突をお見舞いしていたはず。それがなかったということは、愛弟子の成長ぶりを目の当たりして、感慨から少しの間呆けていたのかもしれない。

 

「育ちのせいか、あれには少し、世間知らずなところがあります」

 

 ネガティブな人物評にも拘らず、過日を懐かしみながらの口調はどこか優しい。

 

「態度から、あの年齢ながら軍の関係者だとは察しています」

 

「ドイツですよ。あの国唯一の、実戦IS部隊です」

 

「ドイツ……ルフトヴァッフェですか?」

 

 鬼頭が問うと、千冬は首肯した。

 

「軍隊というところは、一種の閉鎖社会です。軍の文化や伝統に馴れきっているラウラにとって、IS学園は異世界も同然でしょう。その感覚のずれが、周囲との軋轢を生んでしまう」

 

「……本人もだいぶ、強情な性格のようだ」

 

「加えて言葉知らずです。本人に悪気はないが、とにかく誤解をされやすい。……鬼頭さん」

 

「何でしょう?」

 

「色々と気苦労の多いあなたに、こんなお願いをするのは申し訳なく思うのですが」

 

「はい」

 

「時間や、都合の良いときで構いません。出来れば、ボーデヴィッヒのことを気にかけてやっていただけませんか?」

 

「それは、ボーデヴィッヒさんが周囲と何かトラブルを起こしそうになったときに、フォローしてほしい、という意味も含んでのことでしょうか?」

 

「はい。……勿論、それについては、鬼頭さんが気がついたときだけで構いません」

 

 頬に真っ向突き刺さる健気な視線からは、目の前の女性がラウラのことをいまも大切に想っていることが感じられた。思わず口元をほころばせた鬼頭は、力強く頷いてみせた。

 

「織斑先生にはお世話になっています。私でよければ、微力を尽くしましょう」

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、男性操縦者たちが立ち去った後の、一年一組の教室。

 

 制服から学園指定のISスーツに着替えた夜竹さゆかは、同じくIS操縦のためのユニフォームへと着替えた陽子のもとへ歩み寄った。

 

「ところで陽子」

 

「うん?」

 

「同級生が母親になるって、どう思う?」

 

「いきなり何の話かな!?」

 

 クラスメイトからの突然の問いに、顎がはずれんばかりに驚く陽子であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter32「転校生たち」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴールデンウィーク最終日、午前九時。

 

 東京都千代田区、永田町一丁目にある、内閣府庁舎の六階。

 

 内閣情報調査室の長たる内閣情報官専用のオフィスで、叶和人情報官は、自身の右腕と認める部下の訪問を受けていた。デスクで資料に目を通す叶の前で、直立不動の姿勢を保持している。

 

 一七〇センチにかろうじて達しているかという身の丈ながら、体の大きな男だ。腕も首も太く、胸板がグレイのスーツを、ぱんぱん、に膨らませている。中野賢治、四四歳。内調の国内部門を指揮する、三名いる主幹のうちの一人だ。組織には、四年前から勤務するようになった。従前は警視庁刑事部捜査一課で、第二強行犯捜査係を率いる警部の立場にあったが、とある事件の捜査中に、犯人との格闘戦に突入。包丁を振り回す相手を押さえ込んだ際に、脇腹を深く刺傷してしまった。幸いにして命こそとりとめたが、後遺症から現場仕事が出来なくなってしまい、さてどうしたものかと、今後の身の振り方に頭を悩ませていた時期に、叶直々のスカウトを受けた、という経緯の持ち主だ。

 

 警察庁出身の叶は、証拠資料に対する丁寧な向き合い方から、これまでに数々の凶悪犯を捕らえてきたベテラン刑事のことをかねてより知っていた。一見、事件とは無関係に思える細かな情報も見逃さずに収集し、結果的に最短ルートで事件解決へと導く彼の捜査能力は、内調でも大いに役立つだろう、と考えられた。事実、転属してからの中野は、情報官が期待した以上の活躍を示し、たった二年で一部門の主幹のポストを自らの実力でもって掴んだのである。

 

 そんな中野に、通常業務とは別に新たな特命が発せられたのは、いまから一週間前のことだ。叶情報官から数名の部下とともにこの部屋に呼び出された彼は、指令の内容を聞いてはじめ怪訝な表情を浮かべた。指示の内容そのものへの疑問ではない。指示を口にした叶が、どういう意図を懐中に抱えているのかが分からなかったためだ。

 

 叶が口にしたのは、ある個人についての調査であった。かの人物の経歴に始まり、交友関係や現在の資産状況、普段の言動、趣味嗜好……そういった、彼に関するあらゆる情報を可能な限り収集し、分析し、自分に報告せよ、という内容。内調ではありふれた仕事だ。にも拘らず、中野が気になったのは主に二点。

 

 一つは、調査の対象となった人物についてだ。桜坂という名に、彼は聞き覚えがあった。二番目の男性操縦者……鬼頭智之の身辺調査を行っている最中に浮上した名前だ。二人目の男の直接の上司で、MIT留学時代からの親友だという。ということは、鬼頭智之に関連しての調査か。しかし、彼についてはすでにKT班という特命部隊がある。それとは別に、新たな特命チームを編成するということは、まったく別件での調査ということか。それはいったい、何だ?

 

 もう一つは、調査のやり方についてだった。ありふれた通常業務に、叶情報官は普段と異なる指示を三つ追加し、厳命した。第一に、調査に従事する人員は、いまこの場に集まっている者に限ること。第二に、この人物についての調査は、内調内でも秘密裏に遂行すること。そして最後に、調査は警察庁から派遣されてくる公安警察の者たちとチームを組んで行うこと。すべての指示を聞き終えた中野は、部下たちと顔を見合わせた。いずれも、通常ではありえない異常な指示ばかりだ。いったい、この桜坂という男は何者なのか。……誰か、政財界の大物たちとつながりのある人物なのだろうか?

 

「今後、この人物のことはウルトラマンと呼称してください」

 

「ウルトラマン、ですか?」

 

「はい。彼のコードネームです。きみの部下の、城山悟君の提案です」

 

「城山君はいま、KT班に……つまり、鬼頭智之の関係者というわけですか」

 

「その認識でも間違いではありませんが」

 

 叶情報官は言葉選びに迷うような素振りを見せながら、中野に言った。

 

「彼については、司馬首相直々に調査の指示を受けています。とにかく、よろしくお願いします」

 

 司馬首相からの指示とは! 件の人物への関心をますます深める中野たちは、早速、調査を開始した。まずはすでに既知の情報である、アローズ製作所の社員というところから、突破口を見出していく。彼の現在については同僚達への聞き取り調査から始め、彼の過去については、アローズ製作所の本社に保管されていた履歴書をコピーから調査を開始した。それから一週間が経ち、まだ不十分ながらも、収集した情報をとりあえず一つの形にまとめあげた中野は、顔面蒼白で叶情報官の執務室の戸を叩いた。

 

 中野を迎え入れた叶は、顔色の悪さを見ても表情を変えなかった。ウルトラマンについて調査を行えばそういう顔にもなろうと、事前に予想していた彼は、出来上がった報告書に早速目を通し、やはりこちらも、みるみるうちに顔色を悪くさせていった。

 

 中野の資料は、几帳面な彼らしく、学術論文の体裁を採用していた。すなわち、最初に結論を含む概要を書き、どうしてそういう考えにいたったのか、その過程を後述していくレイアウトだ。そして報告書の概要欄には、『ウルトラマンは二人いる』、『ウルトラマンは人間ではない可能性がある』などの衝撃的な結論が、はっきりと記されていた。なおも資料を読み進め、情報官は眉間の縦皺のくぼみを深くしていく。

 

 ウルトラマンは二人いる。ウルトラマンは人間ではないかもしれない。中野たち特命チームがこの驚くべき結論にいたった経緯はこうだ。

 

 人間は経験によって形作られる。ウルトラマンがどういう人物なのかを知る鍵は、彼の過去にある。そう考えた中野たちは、調査を開始して早々に、彼の生まれ故郷だという千葉県九十九里を訪ねた。ウルトラマンは幼少期をどう過ごしたのか。小中高は、どんな少年だったのか。入手した履歴書コピーの学歴欄から彼の母校を訪ね、当時の記録や関係者に当たっていく。

 

 奇妙な事態と遭遇したのは、彼の高校卒業後の行方について調べていたときだった。アローズ製作所に保管されていた履歴書には記載のない、まったく新たな生き方が姿を現したのだ。

 

 前提として、ウルトラマンと鬼頭智之は、学生時代からの親友である。工学系大学の最高峰の一つとされるマサチューセッツ工科大でともに学び、卒業後はアローズ製作所にともに入社した。履歴書の記載は勿論のこと、周囲への聞き取りからも確認がとれている、まごうことなき事実だ。しかし、高校時代の担任教師や、いまも彼と交流があるという地元の知人・友人らの口から、中野たちはまったく別な答えを聞かされた。

 

 曰く、桜坂は高校卒業後東京の大学に進み、卒業後はしばらく海外で暮らしていたが、いまは地元に戻って運送業を経営しているという。驚いた彼らは早速件の会社へと向かい、そして愕然とした。遠目にもはっきり見て取れる、まるで仁王象のような強面の大男が、社員達に指示を飛ばす姿が視界に映じた。中野はすぐに、アローズ製作所を監視する城山たちに連絡をとった。特命チームの存在については伏せた上で、ウルトラマンがいま何をしているのかを訊ねたところ、いつも通りパワードスーツの開発に勤しんでいるという返答がなされた。

 

 視界に映じる驚愕の光景をどう解釈すればよいのか、中野たちは大いに悩むこととなった。はじめのうちは、双子や親戚の可能性を考えた。桜坂家にはもともと、同じ年頃で、容姿もよく似た、名前の読みや使われている漢字さえまったく同じ男児が二人いた。自分たちは名古屋で働くウルトラマンの方を調べているつもりだったが、どこかの時点で両者の資料が混じり合ってしまい、それに気づかなかった結果、千葉で運送業を営んでいる別人の方に行き着いてしまったのだろう、と、そう考えた。

 

 しかし、この考えは早々に棄却された。二人について調べるほどに、否定材料がどんどん積み重なっていったためだ。市や県のデータベースのどこを探しても、桜坂家が兄弟を授かった記録はなく、親戚の存在もまた同様だった。それどころか、ウルトラマンは七歳のときに両親を事故で亡くして以来、天涯孤独の身の上であることを証明する材料ばかりが得られてしまった。

 

 それならば無戸籍児か。男児二人に恵まれた桜坂家、しかし何らかの事情により、そのうち片方については出生届がなされなかった。戸籍を得られなかった彼は、法的にはこの国に存在しない人間だ。だから、データベースに名前が残っていない。その後長じた彼らは、経歴の共用を思いついた。高校卒業までは二人で同じ経歴を使い回し、以後については各々別な場所で、別の道を歩んでいこう。そういう密談を交わした。推理というより、妄想の域に属する話。当然これも、すぐに否定がなされた。桜坂はわずか七歳のときに両親を失い、以後は児童養護施設の預かりとなっている。仮に無戸籍児の兄弟がいたとしても、そのときの調査で見つからないはずがない。

 

 そうなると、考えられる可能性は、いよいよ荒唐無稽なものとなる。すなわち、顔も、体つきも、名前も、年齢も、まったく同じだが、違う人間が、名古屋と千葉で、それぞれ暮らしている。そう結論せざるをえなかった。

 

 はたして、ウルトラマンは何者なのか。そして、千葉県で運送業を営む、もう一人の彼はいったい……?

 

 頭を抱える中野たちは、調査の途上でさらなる衝撃に襲われた。きっかけは、ウルトラマンの資産状況について調べている最中の出来事だ。

 

 鬼頭智之に数百万円からの資金を、ぽん、と貸与したり、ロレックスのヴィンテージ時計をあっさり買ってしまうことなどから、ウルトラマンの懐事情が豊かなのは明らかだった。では、その総資産はいかほどのものか。かの人物の経歴と並行して調べた中野らは、その過程でまた驚くべき事実を知った。

 

 結論から言えば、桜坂の潤沢な資産は投資によって形成されたものだった。不動産、株式、FX、仮想通貨、国債をはじめとする各種債券、商品など……、彼は実に様々な金融商品に資金を費やし、そのほとんどにおいて成功を収めていた。調査を開始した当初、それらの成功体験を知る度に羨ましく思った中野たちは、やがて頬を引き攣らせた。桜坂が保有する、あるいは保有していた金融商品の中に、どう考えても辻褄が合わないものが見られたのだ。

 

 たとえば一九八二年の末、桜坂は西ドイツの企業数社の株を、記録上買っている。彼はそのポジションを三年ほど保持し、その後やってきた強気相場のとき――具体的には八五年後半から八六年前半にかけて――に分散して売り、大金を得ていた。しかし、これはどう考えてもおかしなことだ。鬼頭智之と同じ年齢の桜坂は、当然、一九八〇年生まれ。一九八二年には二歳の幼児でしかない。

 

 当時はまだ存命だった彼の両親が、息子のためにと彼の名前で購入したのか。しかし、彼は一九七二年に先物市場で合板を買っている。彼が生まれる、八年も前のことだ。桜坂夫妻……いや、当時は結婚さえしていなかった二二歳の若者は、その頃から自分の息子の名を具体的に考えていたというのか。

 

 また、彼は両親が亡くなって間もない八七年の十月に、アメリカ株の空売りを行っている。強気相場から一転、弱気相場へと向かい始めた転換期のことだ。当時七歳の少年が、金融市場の未来を正確に予測していたとは考えにくい。

 

 不可解なことは、それだけではない。投資でこれほどの成功を収めている桜坂だが、いったい、どこでそんな知識を学んだのか。

 

 ヒントは思いもよらぬところからもたらされた。先述した西ドイツの株を、まったく同じ時期に買い、同じ時期に売りさばいて大金を得た人物が見つかったのだ。マーケットの大物、ジム・ロジャーズ。盟友ジョージ・ソロスとともに、一九六九年に伝説の投資ファンド……クォンタム・ファンドを起ち上げた、投資の世界では知らぬ者の方が珍しいビッグネームだ。

 

 中野はロジャーズと桜坂が、ほぼ同じ時期、同じ金融銘柄に投資し、同じような利益を上げている共通点に注目した。ロジャーズは八七年十月にニューヨーク市場で発生した、一連のヒステリックな値動きについても、予想を的中させている。このことからも、桜坂の投資手法が、ロジャーズの考え方に影響されているのは明らかだった。ロジャーズについて研究すれば、桜坂の投資哲学……ひいては、人物像が見えてくるかもしれない。中野はそう考えた。彼はロジャーズという人物について調べ始め、やがて一枚の写真を入手した。ハドソン川の見える自宅でホームパーティを開いたロジャーズが、友人らと撮影した一枚だ。いずれも名うてのトレーダーたち八人がにこやかに笑う中に、千葉県で運送業を営む男と、まったく同じ顔があった。一九八二年の夏の出来事だ。

 

 ロジャーズらとともに写っている人物がウルトラマンだとすれば、彼は現在、八十歳以上の高齢者となる。しかし、名古屋で働く桜坂も、千葉で働く桜坂も、その見た目は四十半ば。そして二人とも、十代の頃や、二十代の頃は、年齢相応の見た目をしていたことが、写真などから確認されている。これらの事実から、中野はやはり、荒唐無稽な結論にいたらざるをえなかった。すなわち、ウルトラマンは外見を自由に変えることが出来る。しかし、そんな人間はいやしない。つまり、ウルトラマンは人間ではない。

 

 報告書を読み終えた叶情報官は深々と溜め息をついた。

 

 無人ISを素手で破壊したあの映像を見たときに、そうではないか、と、薄々感じてはいた。それが第三者の視点から改めて、それもまったく別な角度から導き出された結論を突きつけられ、現実感が急にこみ上げてきた。

 

 ――ウルトラマンは超人だが、超人ではない。彼は、篠ノ之束や、織斑千冬とはまったく別な存在だ。

 

 最強兵器を徒手空拳で撃破する。これだけならば、情報官にはそれを可能とする名前が、少なくとも二名思い浮かぶ。篠ノ之束と、織斑千冬の二人だ。しかし、その彼女たちでも、これは出来ない。見た目を自在に変更する。これは、人間という生物に備わった機能ではありえない。

 

 ――ウルトラマンは、人間ではない。

 

 そう、認めざるをえなかった。

 

 彼は報告書から顔を上げ、緊張した面持ちの中野主幹を見る。

 

「中野さん、一つ、意見をおうかがいしたいのですが?」

 

「なんでしょう?」

 

「内調職員としての分析ではなく、中野さんが抱いた感想で構いません。この一週間、ウルトラマンについて調査をして、彼のことをどう思いましたか?」

 

 警視庁の捜査一課で数々の凶悪犯と対峙してきた元刑事の内調職員は、ぶるり、と胴震いした。

 

「恐ろしい、というのが率直な感想です。私も警視庁の元刑事です。人を人とも思わない凶悪犯たちの言動に、恐怖を覚えたのは一度や二度ではありません。しかし、ウルトラマンに対して抱く恐怖は、そういったものとは本質的に異なるものです」

 

「というと、具体的には?」

 

「生物としての、本能的な恐怖と言い表せますでしょうか……。犯罪者たちに対して抱く恐怖は、人として、あるいは刑事としてのそれです。こいつをこのまま放置していたら大変なことになる。こんなやつと夜道に遭遇したら恐ろしい。そういった恐怖です」

 

 恐怖とは、未来に対する不安だ。恐怖の源となる対象と、自分の人生が関わってしまったときに、将来に何が待っているのか、それを想像して、生き物は恐怖という感情を抱く。

 

 ウルトラマンは人間にあらず。他ならぬ中野自身が導き出した結論だ。そんな、人間の姿をし、人間のように過ごしている、しかし、人間ではない、何か。得体の知れない存在が、自分の人生に関わってきた。この先、自分の未来はどうなってしまうのか。想像力をふくらませるほどに、背筋を、恐怖がひた走る。

 

「この人物に逆らってはならない。この人物を怒らせれば、きっと大変なことになる。自分だけじゃなく、自分の家族、いや人間という種そのものが根絶されかねない。大袈裟に聞こえてしまうかもしれませんが、そんな、生き物としての恐れを感じてしまうのです」

 

 中野が言い終えたそのとき、叶情報官のデスクの上でスマートフォンが震えた。中野にことわり手に取ると、更識家からの出向者、高品からの通信を示すコードネームが表示される。通話ボタンをプッシュし、頬に寄せた。マイクロスピーカーが、高品の動揺した声を鮮明に出力する。

 

 高品との通話は一分ほどで終了した。通話終了のボタンを押した叶は、中野の顔を見て呆れた溜め息をついた。

 

「ウルトラマンを監視している高品君からの連絡です。あの男、彼らの目の前で、空を飛んだらしい」

 

「……それは、ロサンゼルス五輪でも使われた、ジェットパックのような?」

 

「いえ、ウルトラマン本人曰く、念力だそうです」

 

 叶の返答に、中野の目つきが鋭さを増した。

 

 その事実を、噛みしめるようにして呟く。

 

「やはり、人間ではない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ISに限らず、片方の性別を極端に尊び、逆の性別を卑下する社会って、トランス・ジェンダーにとっては地獄だよね。



あ、そうだ(唐突)。

以前のオリキャラ設定紹介のときに、多分、本編には絡まないだろう裏設定として、桜坂は資産家ってことを書いたけど、がっつり本編に出してしまった。

多分、と予防線を張っていたとはいえ、嘘ついてしまった形なので、お詫びに、ネタバレを一つ。


「パワードスーツ開発室所有のプロフィアは、千葉県の桜坂が提供したもの」


パワードスーツ開発室の活動は、二人の桜坂によって支えられているのだ。



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Chapter33「演習」



顔見せ程度ですが、オリジナルIS登場回です。


あと、桜坂の過去説明回その1。

なお、作者の自己満足1145141919%なオナニー展開なので、読み飛ばして、どうぞ。






 

 

 

 教員用更衣室での密談の後、鬼頭智之が足早に第二アリーナの更衣室に向かうと、すでにそこはもぬけの殻であった。左手首のボーム&メルシェに目線を落とせば、一限目の開始まであと五分弱。一夏とシャルルは、とうに着替えを終えて第二グラウンドへ出発したらしい。

 

 自分も急がねばな、と鬼頭は手近なロッカーの扉を開け、制服を脱いで突っ込んだ。今朝の起動実験以来、ISスーツは着たきりでいたから、着替えはあっという間に終わる。電子錠に静脈パターンを登録してロックをかけた後、彼はこの部屋にやって来たときと同様、駆け足気味に実習場所のグラウンドへと急いだ。

 

 鬼頭が第二グラウンドに到着したのは、始業まであと二分というタイミングでのことだった。

 

 グラウンドにはすでに、彼を除いた一年一組の全員と、合同で授業を受ける二組の面々が揃っていた。学級ごとに前後にかたまって、それぞれ八人からの横列を四~五段作っている。前が一組、後ろが二組という配置だ。一団の前ではジャージ姿の千冬が仁王立ちし、出欠状況を確認している。

 

 鬼頭は到着順から一組の最後列に並ぼうとして、途端、足行きを鈍らせた。一組の最後列に並ぶ一夏と、二組の最前列に並ぶ鈴とが、ひそひそと会話している姿が視界に映じたためだ。このまま隊伍の後ろにつけば、あの空間に身を置くことになってしまう。

 

 可能ならば避けたい事態であった。

 

 鬼頭は鈴の一夏に対する想いを知っている。始業前の寸暇とはいえ、二人の時間を邪魔するのははばかられる。

 

 ――いや、それは建前だ。

 

 鈴の顔に、ちら、と目線を向けた瞬間だった。心臓が、どっどっどっ、跳ね馬のように暴れ出したのを自覚する。急な血圧の上昇に、四十半ばの中年の肉体は、頭痛と、軽い目眩という形で悲鳴をあげた。苦悶から、くぐもった呻き声が唇の隙間より漏れ出る。

 

 凰鈴音に対する苦手意識は、鬼頭の中でいまだ消化しきれていない。それどころか、日を追うごとに悪化している感すらある。最近では彼女の顔を見る度に、あるいは、名前の通り鈴の音色のような声を聞く度に、陽子や智也のことで責められたときのことを思い出し、猛烈な嘔吐感と、心臓を締めつける痛みに襲われるようになってしまった。どうやら自分の脳と身体は、鈴のことをすっかりトラウマと認識してしまったらしい。

 

 クラス代表対抗戦での一件以来、鈴が一組の教室を訪ねてくる姿は珍しいものではなくなっていた。大抵の場合、一夏目当ての訪問であるが、そのうちの何割かは、自分や陽子との会話を目的としていた。しかし、鬼頭親子はフレンドリーな雰囲気を精一杯演出しながら話しかけてくる彼女を、毎回袖にしていた。あるときは用があるからと言って、鈴が本題を口にする前に会話を切り上げ彼女の前から立ち去り、またあるときは、その姿を出入口に認めるや、反対側の戸から急いで出て行くなどして、中国からやって来た代表候補生との接触を徹底的に避け続けた。理由は先述の通りだ。彼女の顔を見る度に、辛い記憶が蘇る。辛い想いをしたくないから、彼女から逃げ続けている。

 

 ――自分の娘と同じ年齢の少女にこうも怯えるなど、情けない限りだが。

 

 自分で自分が、嫌になる。情けないのは勿論だが、大人げないという自覚からも、気持ちが消沈してしまう。

 

 鈴の訪問の目的が、過日の自分たち親子に対する発言についての謝罪だろうとは、鬼頭らも気がついていた。気づいていながら、彼女と向かい合う勇気が持てないでいる。自分の娘と同じ年齢の少女が、自らの非を認め、勇気を振り絞って謝罪しようとしているのに、大人の自分はこの体たらく。まったく、情けない。

 

 それはそれとして、これからどうするか。いまから最後列に並べば、ほぼ確実に鈴から話しかけられることになるだろう。ただでさえ今朝の起動実験で疲れているこの身だ。いまのコンディションを鑑みるに、不整脈症状に耐えきれる自信はない。

 

 いっそ二組の最後列にでもしれっと紛れ込んでやろうか、と考えたところで、一組の集団最前列に立つラウラが、何かの拍子に顔をこちらに傾けた。真紅の隻眼と目線が合う。先方の顔が、ぱぁっ、と輝いた。可憐だ。

 

 目の前に立つ千冬と数言交わした後、隊列から離れてこちらに向かってくる。

 

「ヘア・キトー」

 

 一瞬、何を言っているのか理解できず、返す言葉を見つけられなかった。大急ぎで頭の中の各国敬称辞典を引っ張り出し、英語でいうミスターのことだと思い出す。

 

「フラウ・ボーデヴィッヒ、どうされました?」

 

「お待ちしていました。場所はもうとってあります。さあ、こちらへ」

 

「場所?」

 

 ラウラが示した先に目線をやれば、なるほど、一年一組の最前列に二人分のスペースが空いている。……もしかして、自分のための?

 

「来日に際して、こちらの文化のことは勉強すみです。たしか、場所取りは新入りの仕事だとか」

 

「……はい?」

 

「日本では場所取りのことをHANAMIと言って、新人の大切な仕事だと、クラリッサから聞いています。その務め、しかと果たしてみせましょう」

 

 鼻息も勇ましく、ふんす、と胸を張ってみせる。

 

 察するに、ルフトヴァッフェでの同僚だろうか。いまだ日本人の多くが髷を結っていると思い込んでいるような、日本のことを勘違いしている外国人像の典型例と思われた。今日日フィクションの世界でも珍しいタイプの人間だが、そうでなければ、この素直な少女の反応を面白がって、誤った知識をわざと仕込むような性悪な人物ということになってしまう。想像して気持ちのよいことではない。できればそうであってほしくはなかった。

 

 ラウラは鬼頭の手を取ると、一組グループの最前列へと引っ張った。幼げな容姿の彼女が自分の手を引く姿は、鬼頭の大脳新皮質を大いに刺激した。まだ小さかった頃の智也や陽子が、お菓子や玩具をねだって売り場へ自分を連れて行こうとした日々の記憶が蘇る。あのとき掌に感じた幼い握力を思い出し、男の唇は懐かしさに綻んだ。

 

 最前列に加わると、すぐ手前に立つ千冬と目が合った。

 

 付き合ってくれてありがとうございます。いえいえ、実はこちらも助かりました。

 

 目礼のみでやりとりし合い、互いに苦笑する。彼女が手を引いてくれたおかげで、鈴と向き合わずにすんだ。

 

 かたわらに目線を向ければ、自分の右隣に立つラウラは一仕事終えた達成感からか、むふー、と満足げに微笑んでいた。職員用更衣室で千冬が語ったように、やはり礼儀知らずなだけで、本質的に悪い人間ではないのだろう。対面早々一夏の頬をいきなり張ったことについても、何か事情を抱えていると思われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter33「演習」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「では、本日から格闘及び射撃を含む実戦訓練を開始する」

 

 一限目の開始を知らせるチャイムの残響を遮るように、千冬は凜然とした口調で言い放った。整列する二クラスの顔ぶれを、じろり、と見回し、セシリアと、鈴の名前を呼ぶ。

 

「今日ははじめに戦闘の実演をしてもらう。凰とオルコットは前に出ろ」

 

 名前を呼ばれた二人は顔を見合わせた。鬼頭や陽子のことを挟んで微妙な関係性にある両者だ。セシリアは好戦的に微笑み、鈴は気まずそうに面差しを伏せた。

 

「お相手は鈴さんですか。相手にとって不足はありませんわ」

 

 過日、鬼頭や陽子に暴言を叩きつけ、いまだそのことに対する謝罪がないと聞いている。そんな彼女を公の場でたたきのめしてやろう、とイギリスからやって来た代表候補生の少女はやる気に満ち満ちていた。そんなセシリアを、千冬は、ぴしゃり、とたしなめる。

 

「慌てるな。対戦相手は別にいる」

 

 そのとき、集まった一同の耳膜を、空気の悲鳴が殴打した。ロケット推進機関に特有の、高音・高圧で噴射されたガスが、大気を無理矢理に引き千切る音だ。急激に、大きくなっていく。何か高速で移動する物体が、こちらに近づいてきている……?

 

 少女たちは等しく目線をそちらに向け、思わず絶句した。西の空に小さな黒点が見えたかと思うと、それが急速にISの姿をとる。『ラファール・リヴァイブ』だ。ロケットの噴射炎の尾を引きずりながら、こちらに突っ込んでくる。

 

「ああああーっ! ど、どいてください~っ!」

 

 反射的に、鬼頭は前へと踏み出した。

 

 頭の中に思い浮かべたイグニッション・キーをひねり、電撃的速さで『打鉄』を展開する。地面を蹴り、宙へと躍り出た。紫紺のストライプも鮮烈な両の腕を広げ、高速で迫り来る運動体に、自ら向かっていく。受け止めるつもりだ。相手の運動量に負けないよう、こちらもスカート・アーマーにマウントされたロケット・モーターを猛然と噴かして肉迫した。

 

 直後に、衝突。

 

 高エネルギー体同士のぶつかり合いは轟音を生み、大気を激しく揺さぶった。地上から僅かに十メートルという、超々低高度での出来事だ。突風は地上の少女たちまで行き届き、舞い上がった砂埃から身を守るべく、彼女たちは一様に目をつむるか、手を目の前にかざすか行動をとった。

 

 最初に歓声を口にしたのは、風の勢いが最も弱くすんだ二組最後列の誰かだった。

 

 黄色い声に反応し、それより前の列に立つ少女たちも徐々に瞼を開けていく。はたして鬼頭はどうなってしまったのか。頭上を仰いだ彼女たちは、やはり、ほとんど者が、きゃあきゃあ、と歓呼の声をあげた。

 

 すでにスピードが乗っていたラファールと、ロケットを噴かしたとはいえ起ち上げてすぐの状態の打鉄だ。ぶつかり合いに押し負けてしまった鬼頭は、それでも、子どもたちだけはなんとしても守らねば、と、地上三メートルの高度でなんとか踏みとどまっていた。暴走するISを抱きかかえながら、PICで形成した力場で自らの三次元座標を固定、空中で静止している。

 

 ラファールを纏って突入してきたのは、一組副担任の山田真耶だった。胴鎧に覆われた男の上半身に密着し、顔を真っ赤にしている。

 

 はじめ両の掌で突進を受け止めた鬼頭は、手応えからロボットアームの膂力だけでは運動エネルギーを殺しきれぬと即断。すぐに腕を引き寄せて相手の体を抱えこむと、体全体で運動量を受け止める作戦へと移行したのだ。それでもかなり押し込まれてしまったが、墜落だけはなんとか防ぐことに成功した。正面から抱え込んだ真耶の背中と腰に優しく腕を回しながら、二番目の男は安堵の溜め息をこぼす。自分たちが乙女の憧れのシュチュエーションを披露している自覚はなかった。

 

「あ、あああああの、き、鬼頭さん、もう、大丈夫ですからっ。その、離していただけると!」

 

 鬼頭の頬を、慌てた口調がくすぐった。感触がないため気がつかなかったが、真耶は打鉄の胴鎧にたわわな双丘を押しつけざるをえない状況に陥っていた。背中と腰の後ろに、自分の腕が回されているためだ。あっ、と口を開けた鬼頭は、するり、とロボットアームのトルクを弱めた。真耶の体が、ゆっくりと離れていく。地上の女子生徒たちの口から、残念そうに溜め息がこぼれた。

 

「あの、その……、ご迷惑をおかけしまして」

 

 空中で腰を折り、謝られた。

 

 異性とああも密着したのは初めてだったか、体を離した後も頬は赤いままだ。

 

 両腕で乳房を抱えながら、震える声で言う。

 

「それと、粗末なものを押しつけてしまいまして……」

 

 気が動転しているのか、小鹿のように大振りな双眸を潤ませながら、言う必要のないことまで口にした。気にしていない、ということを表明するため、微笑みながら、「困ったときはお互い様ですよ」と、応じる鬼頭だったが、内心では呆れていた。生徒たちの注目が集まるこの状況で、セックスを連想させかねない話題は避けるべきではないか。

 

 それに、と鬼頭は真耶の胸元に目線をやった。水着同然のISスーツに身を包んだ真耶の乳房は、はっきり言って大きい。スーツのサポーター機能もあるだろうが、形や張りも見事なものだ。あれで粗末だなどと称されては、うちの娘はどうなるのか。事実、ハイパーセンサーが補足した愛娘の顔は、暗くやさぐれていた。

 

「……けっ」

 

「ひっ!」

 

 地上から恨めしげな視線を感じて、真耶の肩が、びくり、と震えた。

 

 先に地面に降り立った鬼頭は、ISの展開を解除すると、一組グループの中ほどにてセシリアと並ぶ陽子を見る。目線で、やめなさい、とたしなめた。愛娘はやはり恨めしげな眼差しで、さぞ心地の良い感触でしたでしょうね、と応じた。ブレスト・アーマー越しだったから何も感じなかったのだが、という弁解は、聞き入れてくれそうになかった。

 

「お見事です」

 

 真耶の突進を察して前に踏み出した鬼頭とは対照的に、身を守るべく後ろに退いていたラウラが声をかけてきた。

 

「他の者たちがただ立ち尽くしているしか出来なかったあの状況で、あなただけはすぐに行動を起こした。どうやらあなたは、他の連中とは違うようだ」

 

「……どうも」

 

 褒めてくれてはいるのだろう。ただ、言葉知らずで、礼儀知らずだ。他者を称賛する際に、別の他者をおとしめるやり方は、スマートとは言い難い。

 

 それに、と鬼頭はまた胸の内で呟く。

 

 真耶を受け止め周囲への被害を抑えたことは自分でも上首尾だったと自負しているが、それとはまた別な問題への気づきから、称賛の言葉を向けられても、素直に喜べなかった。

 

 ――さっき展開した打鉄の装甲に、紫色のストライプが入っていた。

 

 BT・OS《オデッセイ》の、レベル1を解放してはじめてなれる仕様。全身を駆け巡るBTエネルギーを、運動性や、操作に対する応答性に重きを置いて配分したモード。

 

 こちらに向かってくる真耶の姿を視認したとき、鬼頭は普通に打鉄を展開したつもりだった。今朝の稼働実験の失敗からBT・OSは起ち上げず、学園に配備されている他の打鉄と同様の、通常の機体制御用OSでもって機体を展開したはずだった。

 

 しかし、実際に起ち上がったOSは。そして仕様は。

 

 ――BT・OSが、俺の意思とは関係なしに、勝手に起ち上がりやがった。

 

 機械が、こちらの操作を無視して、意図しない動作を勝手に行った。思い当たる原因は、一つだ。第三アリーナのピットルームでダリルらと交わした会話の内容が思い起こされる。

 

 ――ISコアが、またお節介を焼いたのか……!

 

 第二世代機のベストセラーとされる打鉄の性能は、カタログ上の理論値では第二世代最後発のラファールと比べても決して負けていない。しかしそれは、高いIS適性や長い稼働時間、一流の技術があってはじめて発揮できるもの。平素の鬼頭では絞り出すことの難しいスペックだ。

 

 そして先ほどはまさに、その最高値が求められる状況だった。

 

 真耶のラファールはPICだけでなく、ロケット・モーターの推進力まで上乗せしてこちらに向かってきていた。音速にこそ達していなかったが、自分が受け止めた瞬間など、時速九〇〇キロメートルまで加速していただろう。こんな猛スピードで接近されては、以前千冬が授業中に語った、脱初心者の基準である〇・五秒での展開でも間に合わない。より短いタイムでの展開――入力に対する反応――が求められた。

 

 現状、鬼頭がISを展開するタイムの自己ベストは〇・五秒ジャストだ。しかし、BT・OSで操縦応答性を底上げした状態であれば、このタイムは〇・一秒を切る。これは打鉄に搭載されているイメージ・インターフェースの、最高速に迫るレスポンス・タイムだ。普段の鬼頭と機体制御用OSの組み合わせでは展開が間に合わないと判断したISコアが、勝手にBT・OSを展開したものと考えられた。

 

 ――今回は、その判断に助けられたが……。

 

 今朝の稼働実験で自分の身を襲った、苦悶の時間を思い出す。今回はISコアの判断に結果として助けられた。しかし、今朝はそのISコアの判断によって、自分は苦しめられた。斯様に不安定なようでは、ISコアの判断に信を寄せることは難しい。

 

 ISコアは善かれと思ってやっているのだろうが、やはり、ユーザーが入力した通りに動作してくれない機械など、欠陥品と評するほかない。今回のケースは、自動車に例えれば、ギアを一速から二速に上げたつもりが、車載コンピュータの判断でいきなり四速に入れられたようなものだ。すぐにそのギア領域の動作と速度感覚に対応出来れば良いが、普段とは異なる感覚に戸惑ってしまうと、最悪の場合、命にかかわる大事故につながりかねない。

 

 ――こいつは、早急になんとかせねばな。

 

 技術者としての危機感から硬い面持ちの鬼頭は、右手の中指で輝く黄金の指輪を睨みつけた。

 

 

 

「――ほら、小娘ども。授業を再開するぞ。口を閉じろ」

 

 鬼頭の両腕から解放された真耶が落ち着くのを待った後、千冬は、いまだ、きゃあきゃあ、とやかましい生徒たちに向けて、ドスをきかせた口調で言い放った。右手で掴んだ出席簿を大袈裟な動作で振り回し、体罰の気配を匂わせてやると、打突の重みを知る彼女らは一斉に口をつぐんだ。世界最強の女傑は満足そうに頷き、改めてセシリアと鈴の名を呼ぶ。

 

「オルコット、凰。時間が勿体ない。すぐにISを展開して、試合の準備をしろ」

 

 淡々と告げられた指示に、セシリアの双眸は困惑で揺れた。

 

 前後の流れから、真耶と戦う姿を他の生徒たちに見せろ、ということだと察せられるが、なぜ二人もの指名なのか。戦闘の実演だけなら、自分一人で十分では? 順番に行え、ということなのか?

 

 セシリアは後ろの方に並ぶ鈴を振り返った。自分と同じ推論、同じ疑問に直面したらしい彼女は、「どうする? ジャンケンでもする?」と、訊ねてきた。

 

 すると、そんな二人のやり取りを見た千冬が、「何を勘違いしている」と、言い放つ。

 

「時間が勿体ない、と、言っただろう。二対一でやれ」

 

 セシリアは怪訝な表情を浮かべた。発言の内容自体は勿論理解出来るが、その意図するところが分からない。

 

 千冬は先ほど、戦闘の実演をせよ、と言った。自分たちの戦いぶりを、授業での教本代わりに使うつもりだろう。しかし、二対一というシュチュエーションは、パースペクティブとして相応しいと思えない。わが方はどちらも最新鋭の第三世代機。対して、相手方は訓練機として学園に配備されている――つまり、複数人での共用が前提で特別なチューンなどが施されていない――第二世代機。しかも、操縦者の山田真耶は、入学試験のときに一度倒した相手だ。機体の性能だけでなく、操縦者としての技量も自分の方が勝っていると考えてよいだろう。性能差に加えて、数の上でもこちらが有利。試合展開が一方的なものになるのは必至だ。はたしてそんな塩試合から、授業に使えるデータが取得できるだろうか。

 

「安心しろ、オルコット」

 

 面差しから考えていることを察したか、千冬はセシリアを見てにやりと笑った。

 

「お前が心配しているような試合運びにはならんさ。山田先生はこう見えて、元代表候補生だ。ラファールが訓練機仕様なのは、むしろちょうど良いハンデだろう。……一方的に、やられずすむぞ」

 

 セシリアと鈴は顔を見合わせた。両者の瞳に、好戦的な輝きが宿る。

 

「織斑先生は、私たちが負けると?」

 

「そう言ったつもりだが?」

 

 冷笑しながら答える千冬に、代表候補生の少女らは苛立った眼差しを叩きつけた。ともに十五歳という若さで専用機を任された二人だ。才能は勿論、人の何倍もの努力を重ねてきたという自負がある。その研鑽の日々をこうも軽んじられては、腹を立てるのは当然だった。

 

 ぴりぴり、とした緊張感を際限なく高めていく師弟の顔を、山田真耶は、あわあわ、と交互に見つめる。

 

「お、織斑先生、そんなにお二人を煽らないで……」

 

「山田先生、上手に遊んであげなさい」

 

「織斑先生!」

 

「ムッカ! いまのはカチンと来た!」

 

 悲鳴をあげる真耶に、鈴が吠えた。瞬時に愛機『甲龍』を身に纏い、青竜刀《双天牙月》を両手に展開する。切っ先を真耶の方へと向け、好戦的な眼差しとともに威嚇した。

 

「セシリア・オルコット、いける!?」

 

「勿論です」

 

 応じるセシリアも、すでに『ブルー・ティアーズ』を展開していた。レーザー・ライフル《スターライトmk-Ⅲ》を右手に抱え、プライベート・チャネル回線で鈴に話しかける。

 

『お父様たちと鈴さんとの間にあった出来事は、いまは脇に置きましょう。私が援護しますので、鈴さんは前衛をお願いします』

 

『わかった』

 

 千冬の指名により突然結成された、即席のタッグ・チームだ。その上、連携のための訓練を日常的に行う間柄でもない。自分たちに高度なチーム・プレイが求められる作戦を遂行する能力はない、と判断した鈴は、セシリアの提案に応じた。自分が前衛で、彼女が後衛。これぐらいシンプルな作戦でなければ、いまの自分たちには難しい。

 

「では、はじめ!」

 

 千冬の号令に応じて、セシリアと鈴が飛翔した。二人が地上一〇〇メートルの高度に達し静止したのを見て、真耶も空中へと躍り出る。ラファールを同高度に移動させると、闘争心に燃える若者たちと睨み合った。

 

「手加減はしませんわ!」

 

「時間が勿体ない、って話だからね。五分で終わらせてやろうじゃない!」

 

「い、行きます!」

 

 威勢猛々しい雄叫びに続いて、聞く者に気弱な印象を抱かせる声が、蒼空へと吸い込まれた。

 

 先手を取ったのはセシリアと鈴のタッグ・チームだ。《スターライトmk-Ⅲ》の牽制射撃の支援を受けながら、《双天牙月》を振りかぶった鈴の甲龍が突撃する。それを冷静に、ひょい、と避けた真耶は、なおも接近戦を挑もうとする鈴との間合いをとりながら、五一口径アサルト・ライフル《レッドバレッド》を展開、反撃の応射を開始した。自身の未来位置に向けて精確に放たれる火線から逃れるべく、鈴は甲龍を縦横無尽にランダム機動させる。被弾は目に見えて減り始めたが、背後を守るパートナーへの配慮に欠けた動きだった。鈴が次にどう動くか読めないセシリアは、フレンドリー・ファイアへの警戒から、援護射撃を躊躇せざるをえない。二人の連携は、早くも崩れつつあった。

 

「……まさか二人とも、あんな安い挑発に乗るとは」

 

 開始早々に形勢がかたまりつつある空中での戦闘を仰ぎ見ながら、千冬は呆れた口調で呟いた。

 

「あの二人の短気さは、そのうち治してやらないといけないな」

 

「ISに限らず、機械を操作する上で短気さは悪い結果しか生みませんからね」

 

 日除けに掌をかざしながら、鬼頭は千冬のかたわらに立った。クルマ好きの彼は、運転手の短気さが原因で起こった交通事故の事例をいくつも知っている。

 

「あと、素人了見ですが」

 

「はい」

 

「怒りのせいか、凰さんは視野狭窄に陥っているように思います」

 

「……もっとざっくばらんに、自分本意すぎる、と言ってもいいですよ」

 

 千冬は苦笑しながら、空を見上げる生徒たちに目線をやった。

 

「三人の戦いぶりをよく見ておけ。いま、凰がやっていることは、手本となる悪い例だ」

 

 自分が避けることしか考えていない動きだ。なるほど、あれだけ激しいランダム機動をとれば、真耶の射撃もかわしやすいだろう。その代わり、セシリアからの援護射撃を自ら封じてしまった。これでは、二対一と言いつつも、一対一で戦っているのと変わらない。

 

「タッグ戦の基本は、自分と敵、そして味方の位置を常に意識して行動することだ。特に今回のような、相手の実力が自分を大きく上回っているようなケースではな」

 

 自分一人では到底敵わない相手だ。頼れるのは味方だけなのに、その相方への配慮に欠けていては、タッグで挑む意味がない。

 

「ちなみに、だが。この中には入学試験のとき実技試験で山田先生と戦った者もいると思う」

 

 千冬は一組、二組の少女たちの顔を見回した。

 

「そのときの経験で、山田先生はそれほど強くない、と思っている者がいるかもしれないが……その認識は誤りだ。彼女は人見知りをする性格だからな。きみたちが、弱い、と感じたのは、初対面の相手に対して緊張し、実力を出し切れなかったから。本来の力量は、IS学園の教員の中でも十本の指に入る実力者だと言っておく」

 

 《衝撃砲》による牽制射撃を叩き込みながら、鈴は独り真耶のラファールに挑みかかっていった。

 

 目には見えない砲撃を、しかし、真耶は相手の目線の置き方からおおよそどこを狙っているのか目算し、回避運動をとる。予想は見事的中した。真耶のラファールは被弾がほとんどないまま上昇すると、さらなる回避の動作と見せかけて、機体を、くるり、と反転。反撃の銃火を浴びせかけた。

 

 高位置より降り注ぐ銃撃の雨から逃れるべく、鈴は機体を急降下させる。それは真耶の作戦だった。高位置に比べて逃げ場の少ない地表付近に誘導された鈴に向けて、練習用のグレネード弾が連続して投射された。磁気検知式の近接信管が次々に作動し、ぼっ、ぼっ、と、榴弾が花を咲かせる。至近距離で連続する爆風に全身を揉みほぐされた『甲龍』のISコアは素早くダメージ判定。仮想シールド・エネルギーがエンプティとなったことをアラームで知らせた。

 

「鈴さんっ!」

 

 悲鳴をあげたセシリアに、真耶は間髪入れずに襲いかかった。鈴との戦闘で消耗した箱型弾倉を素早く交換し、アサルト・ライフルを撃ちながら飛びかかる。それに対し、接近を許すまじ、と、応射する『ブルー・ティアーズ』。BT兵器も四基射出して、相手の突進を封じ込めようとする。

 

「悪手だ」

 

 地上の千冬が、みなに言い聞かせるように言った。

 

「BT兵器は、操縦にものすごい集中力を必要とする。いまのオルコットの技量では、四基を同時に操りつつ、自分も複雑な動作をする、というのは難しい。突進を回避するために放った四基のせいで、かえって自分は回避運動がとりにくくなってしまった。山田先生ほどの実力者を前に、その隙は致命的だ」

 

 BT兵器《ブルー・ティアーズ》の操作のために、空中にあって棒立ち状態のセシリアは、懸命にレーザービームによる撃退を試みる。真耶のラファールは、外部推進器の出力は全開で突進しながら、PICを駆使して左右に横滑り移動。銃撃のことごとくを回避する。セシリアから見て左側方へと回り込むや、アサルト・ライフルの引き金を引き絞った。練習用のショック弾が左肩、そして左足に被弾。仮想シールド・エネルギーにダメージ。

 

「ついでだ。デュノア」

 

「あっ、はい」

 

「転校生のお前にISの知識がどの程度あるのかを知りたい。山田先生が使っているISの解説をしてみせろ」

 

 一夏のかたわらに立つシャルルは頷くと、よどみのない口調で説明を始めた。

 

「山田先生の使用しているISはデュノア社製の『ラファール・リヴァイブ』です。第二世代開発最後期の機体ですが、そのスペックは初期第三世代型にも劣らないもので、安定した性能と高い汎用性、豊富な後付け武装が特徴の機体です。現在配備されている量産型ISの中では、最後発ながら世界第三位のシェアを持っていて、七ヶ国でライセンス生産、十二ヶ国で制式採用されています。特筆するべきは操縦の簡易性で、操縦者を選ばないことと、マルチロール・チェンジを高い次元で両立させています。装備によって、格闘・射撃・防御といった全タイプに切り替えが可能で、参加サードパーティが多いことでも知られています」

 

「ああ、いったんそこまででいい」

 

 なおも説明を続けようとするシャルルを、千冬が制した。

 

「よく勉強しているな。その調子で励むように。……試合が終わるぞ」

 

 ラファールの特徴の一つである腰部スラスター・ベースの拡張コネクタに、四連装式のロケット・ランチャーが出現した。間髪置かずに発射されたロケット弾を撃墜せんと、四基の《ブルー・ティアーズ》がレーザー光線の雄叫びをあげる。その操作に集中するために、動きを止めたセシリアに向かって、真耶は猛然と肉迫した。量子拡張領域から対戦車用のバトルナイフを展開するや、逆手に構え、袈裟に振り抜く。怯んだところでアサルト・ライフルを胴体に接射。たまらず後退したところに、再びグレネード弾を投射した。仮想シールド・エネルギー残量ゼロのアラームが鳴り響く。

 

「……凰は四分三五秒、オルコットは八分と二十秒か。意外にもったな」

 

 千冬が呟いたところで、悄然とした様子の鈴とセシリアが地面に着地した。

 

「くっ、うう……。まさかこの私が……」

 

「あ、アンタねえ……ちゃんと援護しなさいよ……。それに、あそこはビットじゃなくてライフルで迎撃するべき場面でしょうが」

 

「り、鈴さんこそ! こっちの気も知らないであんな滅茶苦茶な機動を! ……い、いえ、あなたの言う通りですわね。あなたを援護しきれなかったこと、一対一になってからの立ち回り方、自分の未熟さを、反省しなければなりません」

 

 売り言葉に買い言葉。悔しさから、敗戦の責はパートナーの側にあると思わず口走る鈴に、一瞬、怒りのボルテージを上昇させたセシリアは、すぐに思い直して溜め息をついた。色々と言いたいことはあるが、鈴の動きについていけず、援護射撃をたたき込めなかったのは事実。射撃戦特化型のISを愛機としている以上、パートナーの動き云々は言い訳でしかない。また、一対一の状況に陥ってからの試合運びのつたなさにいたっては、言い訳のしようすらない。

 

「もっと精進しませんと」

 

 自らに向けて呟き、唇を真一文字に結ぶ。反論が襲ってくるだろうと予想していた鈴は、そんなセシリアの態度に肩透かしを食らい、居心地悪そうに目線をそらした。

 

「さて、これで諸君にもIS学園教員の実力は理解出来ただろう」

 

 ぱんぱん、と千冬が手を叩き、みなの注目を集めた。

 

「以後は敬意を持って接するように。……さて、それでは実習を始める」

 

 千冬は三人の男性操縦者を含む専用機持ちたちの名前を呼んだ。

 

「二クラス合わせて六十人、専用機持ちは六人だ。十人ずつのグループを作れ。各グループのリーダーは専用機持ちが務めろ。……なんです、鬼頭さん?」

 

「組分けはどうしましょう?」

 

 挙手をしながら鬼頭が訊ねた。ちら、と一夏に目線を送り、言う。

 

「各人の自由にさせてしまうと、特定の誰かに人気が集中してしまい、その選定だけで時間がかかってしまいそうですが」

 

「む」

 

「それから、私が担当するグループについても、陽子とは別の班にした方がよいでしょう。身内贔屓をしない自信がありません」

 

「……出席番号順にしましょう。お嬢様については特例で――、オルコット、お前のグループに入れてやれ」

 

 千冬は鬼頭親子の過去を知っている。陽子を男性操縦者がリーダーを務めるグループに入れるのは不味い、と判断した彼女は、クラスメイトたちの中でも特に親密なセシリアを指名した。

 

「よろしく、セシリア」

 

「こちらこそ、陽子さん」

 

「よし、グループを作れ」

 

 少女たちは自分の出席番号を確認しながら、それぞれ受け持ちの専用機持ちのもとへと集まった。国際色豊かなIS学園だが、出席番号の割り振りは日本人姓をあいうえお順で並べることが優先され、留学生たちはその後にファミリーネームをアルファベット順で並べて割り振られる。鬼頭のもとには、た行の谷本癒子から、や行の夜竹さゆかまでが集まった。鬼教官・織斑千冬の目にとまらぬよう注意を払いながら、彼女らは、ぼそぼそ、と班長に話しかける。

 

「鬼頭さん、よろしくお願いします」

 

「ええ、こちらこそ」

 

 幸いにして、鬼頭の班に彼に悪感情を向けてくる者は見られなかった。もしかすると胸の内に秘めているのかもしれないが、とりあえずいまは授業の進行に差し支えない範囲で隠してくれればよい。

 

「ええと、いですかー、みなさん。これから訓練機を一班一機取りに来てください。好きな機体を班で決めてくださいね。あ、早い者勝ちですよー」

 

 『ラファール・リヴァイブ』を展開したままの真耶が、ISを載せたカートを六台運んできた。それぞれに『打鉄』と『ラファール・リヴァイブ』、そして米国製第二世代機の『スプリット・クロー』が二機ずつ鎮座している。

 

 スプリット・クローはアメリカの国防総省が主導するIS部隊拡充計画のもとで開発された、第二世代型のISだ。和名を『裂爪』と言い、IS学園には訓練機として四機が配備されている。真耶が運んできた三機種の中では設計が最も古いISだが、数次にわたるアップグレードにより、基本性能は他の二機と比べても遜色ない。

 

 その開発計画の発端は、八年前の二〇一八年年に遡る。それよりさらに二年前の二〇一六年に起きた“白騎士事件“にて、アメリカはたった一機の――それも最初期に開発された第一世代型の――ISによって太平洋艦隊を壊滅させられた。このことは、我らこそ世界最強のアメリカ合衆国である、と自負するアメリカ人に強い衝撃をもたらし、アメリカの世論は、この新時代の超兵器を一刻も早く軍に導入するよう政府に求めた。かくして合衆国政府は、新兵器の開発・調達・配備・運用までを包括した一大プロジェクトをスタートさせたが、彼らはその実行役にNASAではなくペンタゴンを選んだ。この事実は、当時のアメリカ政府がISをどう定義していたのかを物語っている。

 

 すなわち、アメリカはISを、いずれ到来するだろう宇宙時代に向けた『可能性の翼』ではなく、これからの時代に欠かせない軍事力の一つ、と、みなしたのだ。そしてこの決断は、後に誕生するスプリット・クローのあらゆるデザインに反映されることとなった。

 

 建国当初の工業力が未熟な時代や、高い専門性が求められる一部の特殊部隊といった例外を除くと、アメリカ軍の制式装備は伝統的に国産品から調達される。外国製の装備が採用された場合でも、多くはライセンス生産という形で国産化がなされる。その先例に倣い、自国のIS部隊には国産ISの導入を、と企図したペンタゴンは、早速、国内のほぼすべての軍需産業に声をかけた。説明会に集まった各社からの代表者たちに、国防省の幹部らはこう告げたという。

 

「我々が求めるISは、スポーツの試合で勝てる機体ではない。宇宙の過酷な環境でも問題なく動ける、そんな堅牢さも不要だ。我々が欲するのは、戦争に勝てるISである」

 

 二週間以内に八社から草案が出され、そのうちの一つが幹部らの目に留まった。後に『スプリット・クロー』と名付けられる機体は、当時の米軍が採用していた戦略ドクトリンに則った運用――既存の戦力との連携など――を前提に、外見・機能・性能が造り込まれていった。

 

 鬼頭はカートの上で操縦者の搭乗を待つ軍用ISを観察した。彼が『スプリット・クロー』の実物を見るのは、これが初めてのことだ。

 

 全体的に平面から構成された見た目の、大柄なISだ。時速九〇〇キロメートルの速さで飛行しながらでも一二〇ミリ対戦車砲を抱えて撃ち、かつ連射しても安定した命中率を叩き出せるように、とこしらえられた手足は、『打鉄』の四肢と比べてひと回り大きい。まだシールド・バリアーの技術への信頼が薄い時代に設計されたISらしく、随所が分厚い装甲に覆われており、それがいっそう機体を巨大に見せていた。

 

 腰部を守るミニ・サイズのスカート・アーマーの背面部からは、僅かに“く“の字に湾曲したモジュールベースの板が左右に伸びている。『スプリット・クロー』を第二世代機たらしめている要素の一つで、ここに後付武装を搭載したモジュール・ユニットを接続し、様々な状況に対応する、という装備だ。今回の授業では、ビール樽のような形をした円筒型の後付けスラスター・ユニットが二基マウントされている。機動性重視のセッティングだ。

 

 ――外板に平面が多用されているのは、生産性を向上させるためだろう。ボディが大型なのは当時の技術的問題で、装置の小型化ができなかったからだろうが……見たところ、高度にモジュール化されているように見える。整備性を高めるために、わざと大きくしている部分もあるのかもしれないな。

 

 同じ米国製品で軍用機のF15イーグル戦闘機は、モジュール化によって高い整備性を獲得しているという。故障や損傷した箇所をモジュール単位で新品と交換することで、経験の浅い整備士でも容易に作業でき、かつ迅速な戦線復帰を可能にしているそうだ。兵器として設計されたISならではの機構だといえよう。近年では自動車にも使われている手法である。

 

 自動車といえば、『スプリット・クロー』の外見は、鬼頭に古いアメリカ車の姿を連想させる。平面的で角張った見た目をした大型のボディに、高出力のモーターを仕込んだ手足というデザイン・コンセプトなど、車体・排気量・馬力のどれもが大きかった、古き良きマッスルカーの特徴にそっくりだ。個人的には、好みのデザインだが。

 

 ――問題は、マッスルカー然としたこのデザインに、十代女子の美的感性に訴求する力があるかどうかだが。

 

 自分が気に入っているからといって、他の者たちまでそうとは限らない。

 

 先述の通り、三機の間に目立った性能差はない。となると、操縦特性の違いや見た目が気に入るかどうかといった点が、選定の基準となろう。鬼頭は居並ぶ少女たちを見回して、訊ねた。

 

「希望の機体はありますか?」

 

「わたしはラファールがいいです。放課後の自主練のときとかも、ラファールの方が多いですし」

 

 谷本癒子の発言を口火に、少女たちの口からは次々と意見が飛び出す。そのいずれもが、『打鉄』か、『ラファール・リヴァイブ』を希求する内容だった。『スプリット・クロー』を求める声は、ひとつもない。残念。

 

 結局、十代女子たちはアメリカン・マッスルカーや、あらゆる機能や性能がちょうど良い国産車よりも、おフランス車の瀟洒なデザインがお好みのようだった。九人中の六人が、『ラファール・リヴァイブ』を志向したのだ。

 

 『スプリット・クロー』が選ばれなかったことは残念だが、良い選択だと思う。初心者でも扱いやすいマイルドな操縦特性は、練度が不揃いな複数人が短時間共用する機体として好適だろう。

 

 自分が思いつくことは、他の人間も考えつく。ぼやぼやしていると、他の班に機体を押さえられてしまう。鬼頭は『打鉄』希望の三名を見ながら、

 

「今日はラファールにしましょう。またこの顔ぶれで班を組むことがあれば、その時は『打鉄』優先で」

 

 一年生一学期のうちは、基本動作の確認・修得・徹底がIS実習授業の基本形となる。次の機会の到来は、そう遠い未来ではないはずだ。次回の約束をこの時点で交わすことで反対意見の不満を和らげつつ、鬼頭は足早に真耶たちの方へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴールデンウィーク最終日。

 

 午前十一時半。

 

 海の駅九十九里は、九十九里浜のほぼ中央、九十九里町の片貝漁港の目の前で営業している商業施設だ。海の駅を名乗ってはいるものの、国土交通省が管轄する、いわゆる海の駅事業とは関わりのない施設で、船舶係留所としての機能は限られている。最大で一三〇台を収容する駐車場の存在からも、陸からのビジターにフォーカスを当てた施設だといえよう。

 

 海の駅とは、いわゆる道の駅事業の水上版といえる船舶係留施設だ。もともとは、大型のヨットやモーターボートなどの利用環境の整備と、情報のネットワーク化と提供を目的に整備が始まった。近年では国民の“海離れ“を背景に、国民が気軽に海に親しめるようマリンレジャーの拠点としての活躍が期待されている。二〇二二年の時点で全国に一七七駅が国交省に登録されているが、それとは関係なしに、海の駅を称する施設が国内にはいくつかあった。

 

 海の駅九十九里もそうした非登録施設の一つだ。九十九里浜で水揚げされた鰯や蛤、地元でとれた新鮮な野菜などが楽しめる、観光スポットとして機能している。施設内にはフードコートや直売所のほか、鰯漁の文化を学べる『いわし資料館』や展望設備などがあり、都心から車で一時間少々という好立地から、平日・休日問わず多くの客で賑わっていた。

 

 メインの建物は二階建てで、一階部分は主に直売所といわし資料館からなる。フードコートは二階部分にあり、屋内だけでなく、ウッドデッキのテラス席をも備えていた。テラス席はペットを連れての利用が可能で、犬好きの観光客からの人気も高い。

 

 東金ジャンクションで合流した青いカムリに先導され、海の駅九十九里に到着したパワードスーツ開発室一行は、マイクロバスを下車するや、カムリの運転手から「色々と訊きたいことはあるでしょうが、話をするにしても、何か食べながらにしませんか?」と、提案された。大振りな双眸。仁王象を思わせる顔の造作。見慣れているはずの顔を前にした彼らは、しかし一様に茫然とし、声もなく立ち尽くしてしまう。返答がないのを怪訝に思いながら、カムリの運転手は、かたわらに立つ、自分とまったく同じ顔をした、異世界からやって来た男に話しかける。

 

「おい、これ、俺たちのことを、どこまで話しているんだ?」

 

「まだほんの少しだけだ。並行世界のこととか、俺が異世界からやって来た人間だってことぐらい」

 

「お前、もう少し事情を説明してから引き合わせろよ。この後の話が大変になるだけだろうが」

 

 同じ顔、というだけではない。表情や仕草、声までもが、まったくの相似形。いち早く、正体を取り戻した桐野美久が、震える声で問う。

 

「ええと、双子、なんですか?」

 

「いいえ」

 

 カムリの運転手がかぶりを振った。見知った顔の、見知らぬ眼差しが美久を真っ直ぐに見つめてくる。

 

「双子や、親戚の類いではありません。……彼からどこまで聞いているのか分かりませんので、最初から説明しますが」

 

 カムリの運転手はパワードスーツ開発室の面々を見回して、最後に、桜坂の顔を見た。

 

「仮に、いま我々が暮らしているこの世界を、アース1と呼びましょう。あなた方の上司の生まれ故郷をアース2、直前までいた並行世界を、アース3とします。彼がアース3からやって来た桜坂なら、私は、このアース1で生まれた桜坂です」

 

 それ以降の話は、昼食を摂りながら。驚く一同に再度提案し、了承を得たアース1の桜坂は、みなを二階のフードコートに案内した。黄金週間の最終日とあって、フードコートはランチ・タイムからはずれた時間にも拘わらず混み合っていた。十一人もがかたまって座れる席を確保するのは困難かと思われたが、アース3からやって来た桜坂が「場所取りは任せてくださいよ」と、みなの返事を待たずに、ふらり、と赴くと、なんとしたことか、客たちが彼のそばを避け、広大なスペースが築かれ始めた。

 

「こ、これは、いったい……」

 

 困惑する酒井に解答をもたらしたのは、アース1の桜坂だった。

 

「人払いの結界を張ったんですよ。といっても、魔法の類いじゃない。いや、出来ないわけじゃないらしいが、本人曰く、そういう魔法は、あまり得意じゃないそうで。今回のは、いわゆる、フェロモンってやつです」

 

 主に昆虫などが生成し、分泌する、生理活性物質だ。同種の他の個体に一定の行動や発育の変化を促す、眼や耳に頼らない情報伝達手段だといえる。

 

「これから、余人には聞かれたくない話をしよう、ってんだ。密談できるスペースを確保するために、あいつを中心に、なんとなくこの場にいたくない、と周りに思わせる、密度調節フェロモンと警報フェロモンを分泌したんですよ」

 

「……あなた方は、そんなことまで?」

 

「俺たち、ではありません。あいつだけですよ、ここまで出来るのは」

 

 フードコートに出店している店は三種類。各々思い思いの料理を注文し、出来上がり次第、ひとり待つ桜坂のほうへと向かう。彼の分は、アース1の桜坂が用意した。九十九里浜自慢の鰯をたっぷりトッピングしたピザ。

 

 全員が着席したのを確認し、アース3の桜坂が言った。

 

「まずは俺たちをどう呼べばいいか、から話しましょうか。アース1の俺、アース3の俺、っていうのは、どうにも呼びにくいでしょう?」

 

「そうしていただけると、助かります」

 

 滑川技師の言葉に、全員が同意を示した。二人の桜坂は、うむ、と頷き、

 

「まず、アース1の俺の方は、リュウヤと呼んでください」

 

「リュウヤ?」

 

「俺の下の名前ですよ」

 

 アース1の桜坂が言った。

 

「並行世界の、同一人物ですから。こいつも、俺も、同じ名前なんです」

 

「それなら、室長の方を下の名前で呼べばいいのでは? りゅ、りゅ、り…………あ、あれ?」

 

 アース3からやって来た桜坂を見ながら呼ぼうとして、口の動きが、急に鈍くなった。喉を震わせて音を生み出そうとするが、どうしても、上手く動いてくれない。まるで、発声器官だけが突然、自分の身体の一部ではなくなってしまったかのようだ。何度試しても、駄目だった。リュウヤ。たったそれだけを口にすることが、どうしても出来ない。

 

 見回せば、他の者も同様の障害に直面しているらしかった。アース1の桜坂を見ながらだと普通に口に出せるのに、アース3の桜坂を見ながらでは、途端、同じ音を発することが出来なくなってしまう。

 

「フェロモンですよ」

 

 動揺する滑川たちに、リュウヤが言った。

 

「その名前を口にしたり、文字に書いたり、思い起こしたり出来ないよう、本能の部分にはたらきかけるセーフティ・ロックを、警報フェロモンでかけているんです。その名前を口にしたり、文字に起こしたりしたら、大変なことになる。無意識に、そう思うように仕向けられているんです、皆さん」

 

「……そういえば」

 

 開発室の最年長、桜坂たちとの付き合いも長い酒井が呟いた。

 

「桜坂君とはもう二十年近い付き合いになるのに、一度も下の名前を呼んだことはなかった。いや、呼ぼうという気持ちが起こらなかったんだ。社内文書でフルネームが書かれているのを見ても、下の名前を意識したことは一度もなかった。そうか、フェロモンの仕業だったのか!」

 

「色々と差し支えがありましてね」

 

 アース3からやって来た桜坂は険を帯びた表情を浮かべた。

 

「皆さんに下の名前を意識されると、俺にとって、非常に不都合な事態が起こりかねない。それを予防するための措置として、悪いとは思いましたが、フェロモンを吸引してもらいました」

 

「……その、不都合な事態というのを、話してもらうわけには?」

 

「それはご勘弁を」

 

 鰯ピザを頬張り、桜坂は言った。

 

「たぶん、皆さんにとっても、知らない方が良い情報だ」

 

「なるほど。では、きみのことは何と呼べば?」

 

「いままで通り、室長と、役職名で呼んでください。それか名字で」

 

 呼び名の問題については、ひとまず解決した。話題はいよいよ、異世界からやって来た男の来歴へと移る。

 

「俺自身のことと、俺が生まれた世界、そして戦いに生きた世界のことを、少し話しましょう。あなた方の世界である、このアース1を基準に考えます。俺が生まれたアース2が、ここアース1と枝分かれしたのは、かなり早い段階でのことだったのだろうと思います。アース2は一見、アース1とほとんど大差のない世界です。この世界と同様、太陽系には一つの恒星と、八個の惑星があり、そのうち生命の誕生という幸運に恵まれたのは、太陽に三番目に近い惑星……地球のみでした。地球はアース1のそれとほぼ同じ歴史を辿り、何度かの生物大量絶滅を経て、猿から進化した、我々ホモ・サピエンス種が支配する星となりました。その過程で育まれた文化や言語、固有名詞の発音なんかも、ほぼ同じです」

 

 サブカルに詳しいトムが、おや、と首を傾げた。並行世界は、枝分かれした時機が早いほど、最終的な姿形が違ってくる。桜坂は、アース1とアース2は、かなり早くに枝分かれした、と言った。それなのに、大差がないとは、どういうことなのか。

 

「アース2にいた頃、私は世界を隅々まで巡ったわけでも、すべての叡智を手にしたわけでもない。だから、この世界との違いについて論ずるとき、それは、私が知っている限りの、ということになります。アース2と、ここアース1の違いで、私がぱっと思いつくのは一つだけです。他にも違いはあるかもしれませんが、私が知っているのは、一つだけだ。

 

 アース2にはあったあるものが、このアース1にはない。単純に、あるなし、ではなく、存在していない、という意味で、ない。そして“それ”はアース2世界の成り立ちの、根幹部分に関わるものです。したがって、“それ”が存在しないこのアース1は、アース2とは見かけ上の差異は少なくとも、根本的に似ても似つかぬ世界、ということが言えます」

 

「それは……例えるならば、天然のダイヤモンドと、キュービックジルコニアの違いのような?」

 

 素材のエキスパートならではの例えを提示し、酒井は訊ねた。人工ダイヤモンドの代表格であるキュービックジルコニアは、見た目こそ天然のダイヤモンドとほとんど変わらないが、その組成や分子の構造式はまったく異なる。耐熱性セラミックの材料として使われる二酸化ジルコニウムに、酸化カルシウムや酸化マグネシウム、酸化イットリウムなどを混合し結晶化させたものが、キュービックジルコニアだ。見た目は似ていても、炭素のみからなるダイヤモンドとは、本質的に違う物質だといえる。

 

 酒井の言葉に、桜坂は頷いた。

 

「私の持つ超人としての能力のほとんどは、“それ”に由来するものです。したがって、まずは“それ”がどういうものなのかを説明しなければならない。……繰り返しになりますが、このアース1には“それ”が存在しません。当然、“それ”の見た目や本質を適切に、かつ一言で表現できる語彙というものが、この世界には存在しない。耳馴染みのない言葉で、呑み込むのが大変だと思いますが、今後の説明をやりやすくするためでも、ぜひ、この言葉を憶えておいてもらいたい。私の生まれ故郷のアース2、そしてアース3では、それを、《シミハオ・ラスレス・カウート》と呼んでいました。日本語を無理矢理あてるとしたら、《永遠神剣》と、なりますか」

 

 永遠を生きる、神々のためにこしらえられた特別な剣。

 

 ファンタジー小説の世界から飛び出してきたかのような言葉を、開発室の面々はゆっくりと噛みしめる。

 

「まさしくファンタジー小説に登場する、不思議な力を持ったアーティファクトのようなものですよ。

 

 《永遠神剣》は、私が知っているだけでも実に様々な属性を持っていますが、本質的には、武器にカテゴライズされるものです。その姿形は、文字通り剣の姿だったり、槍の形だったりと色々あります。機能も様々ですが、共通して、その性能は絶大。たとえば剣の姿をしている物は、剣術や剣道の心得のない者が無造作に振るった打ち込みでさえ、巨岩を断ち割ることが可能でした。ある程度剣の扱いを学んだ者が手に取れば、最新の戦車の分厚い装甲さえ、熱したナイフでバターを切るかのごとく。達人級の使い手ともなれば、富士山級の山をも斬割しうる。そういう、恐るべき性能を持った武器です。アース2やアース3における、最強兵器と呼んでも過言ではないでしょう」

 

 発言したのが目の前の彼でなければ、にわかには信じられなかっただろう。山を砕くなんて、戦略核の破壊力ではないか。いかに平行進化を遂げた別世界での出来事とはいえ、それほどの破壊力を、剣や槍といったコンパクトな武器に封入できるものなのか。

 

 しかし、いまの自分たちは知っている。アース1における最強兵器を、素手でもって破壊する。そんな非現実の極みを、軽々にやってしまえる、目の前の彼。その力の理由が、件の《永遠神剣》だとしたら、納得せざるをえない。

 

「それほどの力を持つ《永遠神剣》ですが、扱える人間は限られています。《永遠神剣》は道具であると同時に、それぞれが一個の人格を持った、生き物でもあるためです。《永遠神剣》には、我々人間のような高度な知能と感情があり、それが、使い手との相性を生む。神剣が好ましいと思う使い手、使い手が好ましいと思う神剣。その相性が良くなければ、《永遠神剣》から力を取り出すことは出来ない」

 

「……なんだか、ISみたいですね」

 

 ここまでの説明に対する感想を、桐野美久が述べた。他の者たちも、同意するように頷く。

 

 競技用、宇宙開発用と様々な属性を持っているが、現在のところ、世界はそれを、兵器としてカテゴライズしている。

 

 メーカーや仕様の違いによって様々な形態、様々な機能を持つが、共通してその性能はすさまじく、最強兵器の名をほしいままにしている。

 

 その中枢装置たるISコアには人間でいう心が宿っているとされ、それがために、操縦者との間には相性が生じている。その相性が良くなければ機体の性能を引き出すことは出来ず、逆に高相性の関係を築くことができれば、唯一仕様の特殊能力(ワン・オフ・アビリティー)の発現や、第二形態(セカンド・シフト)への移行といった、超現象さえ可能とする。

 

 なるほど、桜坂の語る《永遠神剣》の特性は、アース1世界の住人がよく知るISに特徴に非常に酷似しているといえた。

 

「それは言えますね」

 

 美久の発言に、桜坂も首肯した。

 

「あるいは、アース2やアース3世界におけるISの代わりが、《永遠神剣》なのかもしれません。アース1におけるISが、人間の社会構造の根幹部分に関わっているように、向こう……とりわけアース3では、《永遠神剣》の存在を前提とした社会を築いていましたから」

 

「アース2や3には、ISは存在しないのですか?」

 

 桜坂の回答に酒井が、おや? と、驚いた様子で訊ねた。

 

「室長のいまの口ぶりからは、そのように聞こえましたが」

 

 もしそうだとすれば、アース1と2に大した違いはない、とした先の発言は口に出来まい。いったい、どういうことなのか。

 

「その問いに対する答えは、分からない、というのが、正直なところです」

 

 対する桜坂の口調は重たげだった。

 

「分からない?」

 

「こちらの世界で篠ノ之束博士がISを発表したのが、いまから十年前……二〇一六年のことです。アース2でも世界の共通年号には西暦を採用していて、数え方に違いはありません。アース2における二〇一六年、私はすでに生まれ故郷の宇宙を離れて久しく、以降はずっと戻っていません。そのため、アース2でもこちらと同様に、ISが発明されたのかどうか、私は知らないんですよ」

 

 冷水の入ったコップを口元に寄せ、喋りっぱなしの喉と唇を潤した。

 

 いよいよここからが本題だ、と前置きし、異世界からやって来た男は再度口を開いた。

 

「アース2における、二〇〇八年のことです。私はある事件に巻き込まれ、その過程で、《永遠神剣》を手に入れました」

 

 彼が手にしたのは、《永遠神剣》たちの中でもとりわけ特殊な形態と機能を持った一振だった。個でありながら集団、全であると同時に一。マイクロメートルに満たない超極小サイズの単細胞生物が、数千数万と集まってコロニーを形成している群体生物型の永遠神剣。桜坂の肉体の其処彼処に寄生し、その血肉を超常の物質へと変貌させることで、この男の身体を超人のそれへと作り替えた。拳を握れば大地が揺れ、足を振りぬけば、圧倒的な空間圧により大気は絶叫する。いまの自分であれば、最新の装備で身を包んだ陸軍の一個軍団とも互角に戦えるだろう、とは本人の弁だ。

 

 そして、それほどの戦力を有する《永遠神剣》が持ち出される事態とは、やはり、《永遠神剣》が猛威を振るう惨事だった。

 

「事件の詳細については割愛しますが、当時、私の前に立ちはだかったのは、《永遠神剣》の中でも特に強力な一振を持つ男でした。私はそいつと戦い、敗れた」

 

 当時の自分は《永遠神剣》を手に入れたばかりで、その本領を引き出すことが出来なかった、というのは、敗因の一つにすぎない。

 

 黒き刃を自称する大男の強さは、当時の自分には……いや、あれから幾千の時を重ね、研鑽を積んだいまなお、手に余る。巨大な牛刀のような形をした《永遠神剣》に、惑星級のエネルギーを篭め、大上段に振りかぶり、真っ向振り下ろす。迎撃のために振り抜いたこちらの大刀はあっさり弾かれ、己は五体を、素粒子のレベルで分解破断させられた。

 

 桜坂が平行世界間の移動をはじめて経験したのは、その直後のことだったという。

 

「……“あれ”がどういう現象なのかは、私もよく分かりません。あの日から長い年月が経ちますが、何が原因で起こった現象なのかも、いまだにはっきりとしない。《永遠神剣》同士のぶつかり合いによって発生した莫大なエネルギーの爆発がそれを起こしたのか。それとも、私たちが知らないだけで、宇宙規模のスケールではありふれた自然現象にすぎず、我々がそれに巻き込まれたのはたまたまのことだったのか。とにかく、です。私はあの日、光に包まれた。そして気が付くと、時空の壁の境目を越えて、アース2からアース3へと、ジャンプしていたんです」

 

 荒波が踊り狂う大海に、突然、放り出されたかのような感覚だったという。すさまじい圧力に全身を揉みしだかれ、指一本々々の自由さえ奪われた状態で、延々と、光の洪水の押し寄せるままに、どこかへ流されていく。そうしているうちに、天地の感覚は失われ、自分がいま立っているのか、寝転がった状態で光の奔流に身をさらしているのか、はては逆さでいるのかさえ分からなくなった。

 

 光のトンネルの出口は、唐突に現れた。気が付くと、この身は夜の空に放り出され、眼下には鬱蒼と茂る黒い森。慌てた彼は神剣の力を開放し、落下速度の減速をはかりながら、着地の姿勢をとった。なんとか無傷で大地を踏みしめることに成功した彼は、次いで周囲の様子を注意深く観察。自分の身に、尋常ならざる事態が起きたことを悟った。

 

「その場所こそが、アース3だったんです」

 

「つまり、室長は異世界転生を?」

 

 ネット小説をよく読むというトムが興奮した口調で訊ねた。ネット小説には、現代地球人が突然異世界に召喚されて活躍する、という筋書きの一大ジャンルがある。古くは、エドガー・ライス・バローズの『火星のプリンセス』に代表される展開だ。

 

「さあて、それはどうでしょうねえ」

 

 はずんだ声のトムとは対照的に、応じる桜坂の声は硬質的だった。

 

「あれがいわゆる異世界転生と呼ばれる現象だったのか、という問いには、正直、分からない、というのが答えになります。というのも、アース3というのは、私が勝手にそう呼んでいるだけですからね。実際には異世界なんかじゃなく、同じアース2宇宙に存在する、別の銀河、別の地球型惑星だったのかもしれません。まあ、いまとなって異世界だろうと、同じ平行宇宙の他天体であろうと、大した違いではありませんが」

 

 重要なのは、そこが桜坂の生まれたアース2の地球ではなかった、ということだ。

 

「広義の意味での環境そのものに、大きな違いはありません。その場所にはまず空気があり、大気や土壌の組成は、アース1や2の地球とほぼ一緒。地球には存在しない未知の元素のせいで体調が悪くなる、ということもなく、我々地球人が非常に過ごしやすい環境だったと評していいでしょう。

 

 環境がそういう感じですから、そこに生息する動植物の生態も、目につく範囲では大差ありません。勿論、角の生えたウサギのような動物だとか、我々の地球でいう、ドラゴンのような生き物がいるなどの細かな違いはありましたが」

 

「は、ドラゴン?」

 

 滑川雄太郎が茫然と呟いた。その反応を未知の情報に対する不可解と解釈した桜坂は、両手を使ったジェスチャーを交えながら言う。

 

「あれ? ご存知ありません? こう、体の大きなトカゲというか、昔いた恐竜みたいな、地球では空想上の存在なんですが」

 

「あ、いや、それは知っていますが……え? ほんとに、いたんですか?」

 

「はい。実際に、目にしたこともありますよ」

 

 個体ごとに大きさはまちまちであったが、総じて、巨大な生物だった、と桜坂は語った。あくまでも自分が見聞きした範囲内でのことですが、と冠をかぶせた上で、両手を使ったジェスチュアもまじえて説明する。

 

「最も小さな個体でさえ、アフリカゾウの何倍も大きかった。単に大きいだけじゃなくて、鎧みたいな見た目の硬い表皮の下に、太い骨と、発達した筋肉を持っていました。運動に適した体つきをしていていましてね。力は強く、動きも素早い。おまけに背中にはコウモリみたいな膜状の羽根まで生やしていた。うん。飛ぶんですよ、向こうのドラゴン」

 

 頭部は、一般によく知られているティラノサウルスの復元図を細面にしたような見た目をしていた。顎は牛を一頭丸呑みできそうなくらい大きく、歯茎には分厚いナイフを思わせる鋭い牙が整然と並んでいた。一度、体長だけで三十メートルはあろう個体に、その口で思いっきり噛みつかれたことがあるが、そのときは皮膚の強度を鋼鉄の八倍、骨にいたっては鋼鉄の十五倍まで高めていたにも拘わらず、たったひと噛みで胴体を寸断されてしまった。間違いなく、アース3生態系の上位に位置する生き物だろう。

 

「上位、ですか?」

 

 松岡が訝しげな口調で訊ねた。鋼鉄の数倍の強度云々や、目の前の男の胴体が過去に物別れを起こしていた事実など、驚きの感情を喚起する情報は数多いが、特に衝撃的だったのがその一事だ。上位。すなわち、頂点ではないということ。それほどの力を持った生物をして生態系の頂点に君臨できぬとは、アース3とはどんな魔境なのか。そしてその頂点存在とはいったい……? はたして、桜坂はほろ苦く笑ってみせた。

 

「こっちと同じですよ」

 

「同じ、とは?」

 

「人間です」

 

 人間。そう呟いた男の顔を、正面から見つめる松岡らは、どきり、と心臓を鷲掴まれる感覚に襲われた。往時を思い出してか、仁王の面魂は忌々しげに歪んでいた。

 

「アース3にも、いたんですよ。二本の足で地面に立ち、二本の腕を器用に使って道具を操り、発達した大脳から様々な文化文明を生み出し、地上を征服していた。……少なくとも、そういうつもりになっていた。我らこそこの地上の支配者である、と。我々はこの大地を好き勝手していいんだ、と。そうやって調子に乗る、我々とまったく同じ見た目をした、くそったれな生き物がね。アース3にも、いたんです」

 

 

 

 






スプリット・クローを登場させたのは、今後、専用機持ち以外の生徒のISバトルを描写する際に、試合展開に幅を持たせるため。

テメェの力量だと、『打鉄』と『ラファール』の2機種だけじゃ遠からずネタ切れすると思われるので……。

再登場の機会を作れるかどうか分かりませんが、とりあえず、こういうのがあるよ、と設定しておくだけしておこうと思いました。

スペック等は次回登場時にでも。




桜坂の過去については、彼はもともと作者が別名義で活動していたときにエタらせてしまった作品の主人公で、その頃の設定を流用して、本作でのキャラクタを造形しています。

永遠神剣シリーズをご存知ない方には、なんだこりゃ!? な、設定ですが、桜坂が超人であるという以外に、このあたりの要素が活きることはほとんどないかと思いますので、「わあ、この作者キメェ」と、笑ってやっていただけますと幸いです。





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Chapter34「ラウラ・ボーデヴィッヒ」


IS学園の組織図と見取り図が欲しい。




 

 

 

 米国製第二世代機の『スプリット・クロー』をはじめて身に纏った鬼頭陽子が、最初に覚えたのは過去の経験に起因する違和感であった。

 

 これまでに操縦したことのある『打鉄』や『ラファール・リヴァイブ』と比べて、機体を

重たく感じる。

 

 いいや、そんなはずがない。たしかに、『スプリット・クロー』は他の二機種よりも重量級の機体だが、それを苦に感じさせないためのパワーアシスト機能やPICだ。特にPICは、重力や慣性質量の作用を打ち消し、理論上ゼロに出来る装置。こいつが正常に機能しているうちは、重い、という事実はあっても、重たさ、という感覚とは無縁でいられるはず。それなのに、なぜ……? 自分の、勘違いだろうか?

 

 訝しげな表情を浮かべながら、陽子は教官役のセシリアの言に従って、左右の足を交互に前に出した。歩行は、ISを操縦する上でも最も基本的な運動動作だ。それだけに、操縦者にその手応えをダイレクトに伝えてくる。違和感は拭えないままだ。ますます困惑する陽子の顔を見て、セシリアが訊ねる。

 

「陽子さん、どうかしまして?」

 

「いや、うん……たぶん、わたしの勘違いだと思うんだけどさ」

 

 陽子は専用機『ブルー・ティアーズ』に身を包む級友に、あるはずのない違和感について説明した。すると、セシリアはおとがいにロボットアームの指を添え、真剣な面持ちで言う。

 

「陽子さん、それは勘違いや気のせいではないかもしれません」

 

「どういうこと?」

 

「まず、PICは慣性質量そのものをゼロに出来る装置ではありません。あくまでも、その作用をゼロにする装置です。その動作について、順を追って説明すると……」

 

 まず慣性質量が発生し、次にISコアが発生した慣性質量の大きさを計測、然る後、発生した慣性質量を打ち消せるだけの出力を発揮するようPICに命令し、最後にPICが機能して慣性質量の作用を打ち消す、という行程だ。慣性質量の発生からPICが機能するまでの間にはタイムラグがあり、その時間をどれだけ短く出来るかは、操縦者の技量やIS適性による。セシリアは、このタイムラグこそが違和感の原因だろう、と推察した。

 

「PICが作用するまでの第二行程です。発生した慣性質量の計測時間は、それが大きいほど時間もかかる。同じ運動動作でも、標準的な大きさの『打鉄』と、重量級の『スプリット・クロー』とでは、発生する慣性質量には差が発生しますから」

 

「……なるほど。PICが作用するまでのタイムラグの僅かな違い……動作までの鈍さが、重たさが違う、って感覚になったわけか。それなら納得かも」

 

「注目するべきは、陽子さんが『打鉄』や『ラファール』と比べて、重い、と感じたことだと思います」

 

 天才・篠ノ之束博士が開発したISコアの処理能力は絶大だ。機体ごとにタイムラグには違いが生じるといっても、それは数千分の何秒かという、極めて短い時間のこと。常人の感覚野、まして認知機能では、補足の出来ぬ事象だろう。平素ISの操縦に馴れていて、そういう神経が発達しているはずの専用機持ちの自分ですら、ほんの些細な違和感さえ覚えまい。

 

 しかし、陽子はそれに気がついた。このことが意味するのは、

 

「……つまり、わたしは敏感肌ってことか」

 

「違いますよ」

 

 とんちんかんな返答に、セシリアは呆れた口調で言った。

 

「このことは、陽子さんがIS操縦者として優れた才能の持ち主だという証左ではないかと、私は考えます。搭乗機の特性や、些細な変化に、感覚的に気づくことが出来る。ISに限らず、乗り物を操縦する上で特に重要な才能の一つが、育ってきているのでは?」

 

「そうかなぁ?」

 

 きっぱりと言い切ったセシリアとは対照的に、とうの陽子は懐疑的な面持ちだ。自分にそんな才能があるなんて、とてもじゃないが信じられない。

 

 過日のクラス代表決定戦以来、どうも彼女は、自分の力量について過大に評価しようとするきらいがある。人の何十倍と努力して代表候補生の地位を勝ち得たセシリアの評だけに、はじめのうちは陽子も、喜んで賛辞の言葉を受け入れていた。しかし、美辞麗句に馴れてくると、言葉の端々に見え隠れする期待の気持ちに気づくようになり、ちょっと待てよ、と自制心を働かせる日々が、いまでは続いている。

 

 自分とセシリアは、いずれ雌雄を決すると誓い合ったライバル同士だ。ともに、相手には強くあってほしい、という願いがある。特にセシリアの方は、自らの実力に対する自信の高さと、クラス代表決定戦の結果を不満に思う気持ちから、その傾向がより強いように思われた。自分の好敵手ならこのくらいは出来て当然。自分の好敵手が、この程度のはずがない。自分の好敵手は、もっと高みへと登れるはず。そんな願望を連日ぶつけられているうち、ある日、陽子は自分のことが恐くなった。セシリアから称賛の言葉を浴びせられる日々の中で、だんだんと、その気になっている自分に気がついたためだ。

 

 心理学の世界で、単純接触効果と呼ばれる現象だろう、と思う。はじめはそんなつもりなどまったくなかったのに、繰り返し、繰り返し、同様の刺激を与えられ続けると、だんだんとそんな気がしてくる。あるいは、刺激に対して好意的な感情を抱くようになる。陽子は、イギリスからやって来た代表候補生の言葉を聞いているうちに、だんだんと天狗になっていく自分に気がついた。自分ならこれくらいは当然、自分ならばいずれこれくらいのことは、という具合に、調子に乗り出したのだ。

 

 これはいけない。このままでは不味い。ISのように危険な兵器を扱う上で、増上慢は大敵だ。セシリアの言に対しては、一歩退いた上で受け止めなければ。

 

「今回違いに気づけたのは、たぶん、偶然だと思うよ? わたし、IS適性はBランクだし。とてもそんな才能があるとは思えないんだけど」

 

 先天的な才能は言うに及ばず、後天的に特別な訓練を継続している記憶もない。今回、タイムラグの差を違和感という形で補足できたのは、たまたま調子が良かったとか、そんな理由だろう。そう結論づけた陽子の反論を、瞳輝くセシリアは可憐な微笑でもって斬り捨てる。

 

「適性Bランクということは、AやSにいたるだけの、伸びしろがあるとも言い換えられます」

 

 買いかぶり、ここに極まれり。陽子の表情が硬化した。

 

「入学以来、陽子さんは私との決闘をはじめ、他の一般生徒の方々よりも訓練機への搭乗機会に恵まれていました。それも特定の一機種に偏ったものではなく、『打鉄』、『ラファール』、そして今日の『スプリット・クロー』と、ばらばらです。これら経験値データの蓄積が、機種ごとの微細な違いにも気づける鋭い感覚という才能を、開花させたと考えるべきでしょう」

 

「……そうかなぁ?」

 

 過剰に修飾された称賛の言葉を、陽子は自分ではない別の誰かに対するものと努めた。わぁ、すごいですねー。代表候補生のセシリアにそこまで言わせるなんて、その鬼頭陽子さんって人は。かっくいい……そう言い聞かせればこそ、多少、気恥ずかしさを感じる程度で、彼女の言葉を受け止められる。変に気負うことなく授業に集中出来るというものだ。

 

 機体の重たさに目をつぶれば、本日の実習内容は陽子にとってクリアは比較的簡単な課題といえた。装着前の点検、装着、起動、歩行。クラス代表決定戦をはじめ、これまでに放課後の自主練習で何度も行ってきたことだ。規定の距離を踏破したところで、次の者と交代するため膝を折り、その場にしゃがむ。

 

「ひゃあっ!?」

 

 そのとき、ハイパーセンサーの音感領域が、後方からの黄色い声を拾った。首を振らずに意識だけをそちらに向けると、網膜に声の発生源の様子が映じた。『白式』に身を包んだ一夏が、クラスメイトの岸里恵子を正面から抱きかかえている。どうやら先の驚きの声は彼女の唇から発せられたものだったらしい。抱き上げられた拍子に、反射的に叫んでしまったようだ。……いや、なにゆえ抱っこを?

 

「どうやら、前の方がISの装着を立った状態で解除したみたいですわ」

 

「それが何で抱っこに……ああ、そういうことか」

 

 言いかけて、その理由に思い至り、得心した様子で頷いた。

 

 ISのコックピットが高い状態で固定されてしまったのだ。一夏たちの班が選んだ『打鉄』は、比較的小柄なISだが、それでも、直立状態では一・六メートルの高さに、コックピットが位置することになる。平均的身長の十代女子が単独で乗り込むには、かなり苦労する高さだ。ゆえに、『白式』を装着した一夏が彼女を抱え上げ、搭乗を手伝う運びとなったのだろう。

 

 一夏は、左腕を背中に回し、右腕は両膝を下から支えた、いわゆるお姫様抱っこの形で恵子を抱え上げると、一メートルの高さまで、ふわり、と上昇した。身体を、ぴたり、と預けてくる彼女を落としてしまわぬよう、慎重に、優しい手つきで『打鉄』のコックピットに連れていく。搭乗に際しての注意事項を囁き合う両者の顔は、緊張からか、あるいは密着の気恥ずかしさからか、ともに紅潮していた。

 

 ハイパーセンサーの全周囲同時視覚機能が、妙な視線の集中を知らせた。見回すと、順番待ちをしている自分の班の者たちが、みな羨ましそうに一夏と恵子のやり取りを見つめている。美男子の一夏との急接近だ。あれが自分だったらなあ、という思いを禁じえないのだろう。

 

 もしかして、と思い、ハイパーセンサーの視野を広げてみた。案の定だった。他の班でも、二人の親密そうな姿に羨望の眼差しを向ける姿がいくつも見て取れる。シャルルの班など、「デュノアくん、あれ、やって! 私にやって!」と、おねだりする者さえいた。彼も一夏とは違うタイプの美少年だ。ああいうかわいい系の男性が好みの者にとって、密着の喜びは何ものにも代えがたいだろう。

 

 父の班はどうだろうか、とそちらに目線をやった。はぁ? と、思わず声が漏れ出た。その声に反応し、セシリアもそちらを見る。端整な美貌が引き攣った。

 

 両の腕を広げた夜竹さゆかが、『打鉄』を着る父に、「抱っこして、どうぞ」と、迫っていた。

 

 おみゃあら何をやっとりゃあすか、と内心ぼやかずにはいられぬ陽子だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter34「ラウラ・ボーデヴィッヒ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 米国製第二世代機の『スプリット・クロー』を指して、古いアメリカ車に例えた鬼頭智之の目に、フランス製第二世代機の『ラファール・リヴァイブ』は、やはり、彼の知るフランス車の姿と重なって映じた。

 

 他の二機種よりもデザイン性の高い見た目でありながら、その実、非常に堅牢な造りをした、初心者でも扱いやすい機体というのが、鬼頭のラファールに対する評価だ。そしてこれは、フレンチ車一般に共通する特徴でもある。

 

 ルーブル美術館やパリ・コレクション、カンヌ国際映画祭などの存在が示すように、フランス人は芸術文化に明るい国民性を持っている。その精神性の発露なのか、フランス人の作るクルマのエクステリアは、垢抜けていておしゃれなデザインが多い。ルノーのトゥインゴなど、思わず抱きしめたくなるような可愛らしさがある。

 

 それでいて、フランス車のボディの造り込みは非常に堅牢だ。フランスは世界有数の農業大国でもある。農道の多くは未舗装であり、舗装路にしても、馬車が主要な交通手段であった時代に整備された石畳だったりするため、荒れた路面が非常に多い。また、都市部では日本では考えられないような密度での縦列駐車が横行し、バンパーの擦り傷や凹みといった破損が絶えなかった。斯様に過酷な環境での走行を前提とするフランス車は、日本人の口から語られる一般的イメージとは異なり、非常にタフである。走行時の振動や衝撃、ねじれは勿論のこと、悪路への対策として高出力のエンジンを搭載する車輌が多いため、そのパワーをいなせる耐久性が車体には求められる。世界で最も権威がある自動車衝突安全性テスト『ユーロNCP』の隠れた常連が、フランス車なのだ。

 

 走行中の安定性の高さも、フランス車に共通する特徴の一つだろう。フランスを代表する自動車メーカーといえば、ルノー、プジョー、シトロエンの三社だが、彼らはみな走行性能の追求に余念がない。モータースポーツに熱心なルノーとプジョーは、そこで得られた知見を、公道を走る市販車にも惜しみなく投入している。特にプジョーの、弾力感に優れるサスペンションと自社製部品にこだわったダンパーからなる足回りは、“猫足”に例えられるほどしっとりとした乗り心地と、抜群の安定感を担保していた。またシトロエンも、独自技術のハイドロニューマチック・サスペンションが、高い衝撃吸収性を誇っている。足元が安定していればこそ、運転手は安心してステアリングを切ることが出来る。

 

 ラファールも、高速飛行時の安定性に優れるISだ。ボディ剛性の高さも重なって、経験の浅い一年生でも思いきった操縦が出来る。一般的には、大容量の拡張領域や運動性能の高さが注目されやすい機体だが、訓練機としてより重要な性能はそちらだろう、と鬼頭は考えた。

 

 ――マイルドな操縦特性は昔乗った、ルーテシアの五速MTのシフトフィールを思い出させる。機体を構成する要素の一つ々々を考えるほどに、フランス車の集大成のようなISだ。

 

 大容量の拡張領域はカングーやベルランゴを彷彿とさせる。カスタマイズやチューニングの方向性次第では、格上の第三世代機にも引けを取らない基本性能の高さはFF最速の座を競うメガーヌのようだ。部材科学の進歩により、高い剛性を誇りながらも軽量に仕上げられたボディは、さしずめA110といったところか。コンパクトにまとまった扱いやすいサイズ感は、プジョー208を引き合いとするのが相応しいだろう。

 

 ――やはり良い機体だ。『ラファール・リヴァイブ』!

 

 谷本癒子が乗るラファールが軽快な足取りで歩を進める姿を眺めながら、自身も鎧姿の鬼頭は完爾と微笑んだ。

 

 千冬の口から班分けが告げられてはや二十分が経つ。他の班では一人目の者が悪戦苦闘している中で、鬼頭の班はすでに二人目が呈示された課題を終えようとしていた。誰が乗ってもある程度の性能を引き出せる機体。工業製品として優れている証左だ。

 

 ――谷本さんも、さっきの娘も、つまずいたのは知識が求められる起動前点検だけだった。起動後の歩行課題は、難なくクリアしている。……本当に、ルーテシアのように易しい機体だ。

 

 やがて、癒子が十二個ある歩行課題のすべてを終えた。授業開始から三五分が経過していた。実機を使ったISの授業は、二コマ分の時間を費やして行われるため、残り時間は一時間と少々。

 

 このペースならかなり余裕を持って終えられそうだ。口の中で呟いた鬼頭は、他の班の進捗具合はどうだろうかと、かぶりを振らずにハイパーセンサーの三六〇度視界を精査した。セシリアの班は二人目の陽子が起動前点検を開始したところ、一夏の班は一人目の相川清香が歩行課題を半分終えたところだった。疑惑のシャルル・デュノアの班は、一人目がそろそろ終わろうかという頃合い。鈴の班には……あえて、目線を向けないよう努めた。

 

 最も遅れているのが、ラウラの班だった。なんと、いまだに一人目の者が起動に手間取っている。他の班に比べて、いくらなんでも遅れすぎじゃないか、と、しばしその様子を眺めていた鬼頭は、そのうち得心した様子で頷いた。ラウラが、班長としての役割を果たしていないためだ。

 

 一人目の娘は装着前の起動前点検で躓いていた。どうやら事前の予習復習を怠ってしまったらしく、途中まではパズルを解くように、すらすら、進めていたのが、不明点と遭遇してしまい、その先に進めないでいる。不勉強については、本人の不明なので擁護出来ないが、問題は、そんな状況にも拘らず、ラウラが動こうとしないことだ。

 

 今回の実習は、前の者が課題を終えない限り、次の者への交代が許されない内容だ。一人目で止まってしまうと、他の者たちの点数をつけられない。

 

 この状況で専用機持ちの班長に求められる仕事は、適切な補助だ。限られた時間内に全員が課題を終えられるよう、リーダーシップを発揮する必要がある。相手の立場に寄り添い、いったい何に困っているのかを考える。助言し、手伝い、なんとか課題を終えさせたら、そこで遅れた分をどう取り戻すか。そのために次の者、さらにそのまた次の者が早く課題を終わらせられるよう、どうアプローチするべきか。次の者の段でまた遅れが生じてしまったときはどうするのか。リーダーはひたすら、考えに考え抜かねばならない。

 

 ところが、いまのラウラはといえば、他人との関わりを拒絶するかのように胸の前で腕を組み、不機嫌そうな面持ちで、わたわた、と慌て困っている彼女を眺めているだけだ。助言の一つ、よこしやしない。

 

 実習の遅れに対するフォローを怠っているだけではない。

 

 班内のムードメーカーという点でも、ラウラは班長としてまともに機能していなかった。

 

 自分のせいで実習が遅れている。自分がみんなに迷惑をかけている。その自覚からいまにも泣き出しそうな一人目の娘。作業の進捗を苛々しながら待っている他の者たち。両者の間に漂う雰囲気は、悪くなっていく一方だ。それに対しても、ラウラは何らケアを行わない。

 

 他の班は違っていた。セシリアやシャルルは班員たちの困りごとに目敏く気づくと、すかさず声をかけ、相手の話に耳を傾けていた。自分たちが手伝うべきか否かを素早く判断し、適切な接し方を常に模索している。

 

 一夏もまた同様だ。専用機持ちとはいえ、つい先日までISとはほぼ無縁の人生を送ってきた彼の知識量は、一般生徒にも大きく劣る。そんな一夏が班員たちにしてやれることは少なかったが、それでも、自身の出来る範囲内での精一杯を尽くしていた。質問に対しては、明瞭な返答を口にすることは出来ずとも、相手と一緒に考え抜き、ときには他の班員たちを巻き込んで知恵を絞り出し合い、なんとか問題解決に向けた努力をしていた。そんな彼の班は、実習に遅れこそ生じてはいたが、雰囲気自体は悪くない。自分たちのために一生懸命頑張ってくれる一夏を見て、気分を害する気難しがり屋は、幸いにしていなかった。

 

 ――自分が織斑先生の立場なら、要領よく実習を進めているセシリアたちの班には“優”、一夏君の班には、努力点込みで、“良”の点数をつけたいところだ。

 

 少なくとも、“可”の評価は得られよう。しかし、ラウラの班は違う。このままでは全員、“不可”の評価さえ与えられずに終わってしまう。

 

 鬼頭は、自らが受け持つ班員たちの顔を見回した。すでに三人目の者が、歩行課題の七割ほどを終えている。その様子を見て満足げに微笑んだ後、鬼頭はあえて首を動かし、千冬の方に目線をやった。やはりラウラの班の様子を眺めて険しい面持ちでいる彼女と、目が合う。鬼頭が頷いてみせると、千冬は小さく頭を下げてきた。よろしくお願いします。ハイパーセンサーが、かすかな声を拾って聞かせた。

 

 鬼頭はISコアのコア・ネットワークにアクセスした。ラウラの専用機について、情報を走査する。

 

 目当ての情報はすぐに見つかった。黒いIS『シュヴァルツェア・レーゲン』。ドイツが第三次イグニッション・プランのために開発した第三世代機、レーゲン型の試作一号機だ。セシリアの『ブルー・ティアーズ』と同様、最新試験技術の塊であり、特殊兵装をはじめ新機軸の装備をいくつも採用しているという。搭載されているコアのナンバーは……、必要な情報を取得した鬼頭は、早速、ラウラの機体のISコアに向けてメッセージを発信する。

 

 プライベート・チャネルの回線番号を暗号化して記載したテキストデータだ。コア・ネットワークを経由しての通信は、相手のもとへ瞬時にメッセージを届けた。鬼頭からの通信を受け取ったラウラは、一瞬、驚いた表情を浮かべてこちらを一瞥し、中身を読むやすぐにその意図を察してくれた。

 

 ほどなくして、鬼頭の『打鉄』のISコアに、ラウラからプライベート・チャネルの通信許可を求めるメッセージが届けられた。回線のロックをはずすと、透き通った声が耳膜の裏側で響く。

 

『ヘア・キトー。こちらの声が聞こえていますか?』

 

『はい、フラウ・ボーデヴィッヒ。通信感度は良好ですよ』

 

 鬼頭は小さく頷くと、班員たちに目線を向けたまま小さく呟く。

 

『突然の通信に応じていただき、ありがとうございます』

 

『いいえ、こちらこそ』

 

『うん?』

 

『ヘア・キトー自らがプライベート・チャネルの回線番号を教えてくれた。このことを伝えれば、軍の高官たちも喜ぶでしょう』

 

 なるほど、そういうことか。自身の個人情報が高値で取引されている現状をいまだに受け入れらぬ鬼頭は、ラウラの口から飛び出したお礼の言葉に苦笑いした。

 

『それで、何の用でしょう?』

 

『失礼ながら、課題の進みが悪いように見えたので』

 

 鬼頭はあえて首を振ってラウラの班に目線をやった。今日顔を合わせたばかりの浅い付き合いだ。相手の沸点がどの程度かわからぬゆえ、慎重に、言葉を選びながら言う。

 

『何かトラブルでも起きたのかと』

 

『……まったく、情けない限りです』

 

 意外な返答に、鬼頭の双眸が穏やかな輝きを発した。この現状を恥と認識しているということは、班長の自覚がないわけではないのか。それなら、まだ挽回の余地はある。そんな鬼頭の予想は、ラウラの次の言葉によって否定された。

 

『一人の無能のために、他の全員が迷惑をしている。これが世に名高きIS学園の生徒の実態だったとは……期待はずれもいいところ。これが軍であれば、決して許されぬことです』

 

 情けないとは、そちらの方だったか。鬼頭は胸の内でひっそりとため息をついた。 

 

 どう言葉を駆使すれば、この娘に自分の意図を正確に伝えることが出来るだろうか。頭を悩ませながら言う。

 

『……その娘の不勉強が悪いのは、確かに、その通りでしょうが……フラウ・ボーデヴィッヒは、それを放置したままで、よろしいので?』

 

『む? どういう意味ですか?』

 

『このままだと、授業時間内に全員が課題を終えることが出来ません』

 

『そうでしょうね』

 

『つまり、このままだとフラウ・ボーデヴィッヒの責任が問われることになりかねません』

 

「なぜ!?」

 

 ラウラの赤い隻眼が驚愕から見開かれた。思わず声を発してしまい、周囲の驚く顔を見て、慌ててプライベート・チャネル回線の向こう側にのみ音声が伝わるよう、声をひそめる。

 

『なぜ、この者のために私が責を負わねばならないのです!?』

 

 ラウラは兵装点検から先に進めないでいる女生徒を睨んだ。周囲からの険を孕んだ眼差しと、自分のせいで遅れているという罪悪感から、すっかり憔悴した面持ちだ。

 

『当然でしょう。フラウ・ボーデヴィッヒ、あなたは班長なのですから』

 

 千冬から聞かされたラウラの経歴、為人を思い出す。現役軍人の彼女には、この告げ方が適当だろう。

 

『望んでついたわけではないにせよ、あなたは班長に任じられた。であれば、あなたは班長として仕事をしなければなりません。とりあえずやってみて駄目だった、というならまだしも、はじめからそれを放棄し、与えられた課題をこなせないでは、責任追及は当然です。もっとも、この場合の責任追及とは、懲罰を受けてもらうとかそういうのではなく、成績にマイナス点をつけられる、ということになるでしょうか』

 

『ま、マイナス……この私が、また落ちこぼれに……』

 

 ISを身に纏っているにも拘らず、ラウラの顔色は蒼白だ。唇からは見る見る朱色が失われていき、声も狼狽から震え出す。

 

『フラウ・ボーデヴィッヒ、あなた自身、先ほどおっしゃったことです。ここが軍隊であれば許されない。それはあなたも同様だ。織斑先生は十人で一班を作れ、と言いました。これは軍隊でいえば分隊の規模です。班長とはすなわち分隊長、班員はあなたの部下たちだ。

 

 いま、あなたが置かれている状況はこうです。分隊の全員が一丸となってかからねば落とせない陣地を前に、部下の一人――それも強力な分隊支援火器を任された者――が、整備不良から、さあ戦闘開始だ! というタイミングでマシンガンを壊してしまった。あなたはその者を叱ることも、マシンガンの修理を手伝うこともせず、ただじっと、相手のことを睨んでいる。他の隊員たちが、その者に罵声を浴びせている光景を前にして、何もしない。マシンガンが壊れたことを受けて撤退をするか、それでもなお戦いを挑みに前進するか。その判断と指示さえ下さない。このような不和を抱えた状態のまま、分隊は敵の攻撃を受けて戦闘に突入し、結果は当然敗北。戦闘後、あなたは上官から、分隊長として何もしなかったことを糾弾された。……いま、あなたはこれと同じ状況にある、と思ってください』

 

 一人の行動のために、他の全員が危険にさらされてしまった。その意味では、マシンガンの整備を怠った隊員と、その事態に対して何の行動も起こさなかった分隊長は同罪だ。分隊支援担当が手抜き仕事をしたからといって、分隊長が自分の仕事を放棄してよい理由にはならない。

 

 軍隊組織の例えを用いたことで、ラウラはようやく事の重大さを悟ったようだった。生き延びて、責を問われるのならまだましだ。最悪、ろくな戦果も挙げられないまま、分隊全員が戦死ということさえ考えられる。その場合、隊長として部下たちに何の指示も出さず、方針さえ示さなかった自分の責任は、分隊支援担当者の比ではない。

 

 とうとう黙りこんでしまったラウラに、鬼頭は追い討ちの言葉を投げかける。

 

『それに……』

 

『む?』

 

『織斑先生が我々専用機所持者を班長に選んだのは、おそらく、みなの手本となること、それが叶わずとも、サポート役として機能することを期待したからでしょう。我々専用機持ちは、一般生徒よりもずっとISの搭乗機会が多い。その知識と経験からなる能力を期待されているわけです。ここで何もしない、ということは、織斑先生からの期待を裏切ることにもなってしまう』

 

『教官の……』

 

 これがとどめの一撃となった。ラウラは唇を噛み、『どうすれば?』と、震える声で訊ねた。

 

『いまからでも遅くはありません。班長として、みんなが時間内に課題をクリア出来るようサポートを。……いまのところ、私の班の進み具合は順調です。いまのペースを維持できれば、あと一人か二人、構う余力を残せるでしょう。どうしても間に合いそうにないときは、こちらに回してください』

 

『感謝します、ヘア・キトー!』

 

 ラウラの顔に、可憐な笑顔の花が咲いた。腕組みをとくと、彼女の隣に並び座って、高圧的な口調で訊ねる。

 

「おい」

 

「ぼ、ボーデヴィッヒさん」

 

「どこで詰まった?」

 

「え?」

 

「どこで詰まったのか、と聞いている。途中までは上手くいっていたんだろう? それが動かなくなってしまった、ということは、そこにいたるまでの貴様の操作のどこかに問題がある。どの段階で先へ進めなくなり、それまでにどんな入力をしたのか、私に教えてみろ」

 

「え、ええと、止まっちゃったのは、パワーアシスト機能の稼働率チェックの項目で……」

 

 いざ教導の様子を眺めてみると、意外にも、ラウラの教え方は非常に丁寧だった。言葉遣いこそぶっきらぼうだが、相手に原因を考えさせ、最終的には自力での解決を促す理想的な手法をとっている。あの若さで最新の第三世代機を専用機として託されるほどのエリート軍人と聞いて、いわゆる天才肌の人物、出来ない人間の気持ちなど分からないのでは? と、懸念していたが、それは杞憂に終わったらしい。

 

 もしかすると、往時の千冬が自分にそうしてくれたことをなぞっているのかもしれない。だとすれば微笑ましいことだが。

 

「……む。鬼頭さん、どこを見ているんですか?」

 

 ラウラの班に気を向けているうち、自身の班では四人目の者が課題を開始しようとしていた。いかん、いかん、とかぶりを振り、鬼頭は唇を尖らせながら見上げてくる夜竹さゆかに言う。

 

「失礼。どうも全体の進捗具合が気になってしまいまして」

 

「……陽子のことが気になるのは分かりますけど、ちゃんと私のことも見ていてください」

 

 愛娘のことを気にしていると勘違いしたらしい。拗ねた口調で言うさゆかに、まさかラウラの方を見ていたとは言えない鬼頭は、素直に頭を下げた。

 

 そのとき、グラウンドの一画にて黄色い歓声が迸った。目線をやると、『白式』に身を包んだ一夏が、同じ班員の岸里恵子を抱きかかえ、それを見た周りがはしゃいでいる。どうやら前の順番の者がISを立った状態のまま装着を解除してしまったらしく、そのままでは次の者の搭乗が困難なため、一夏が抱きかかえてコックピットまで運ぶことにしたらしい。

 

 学内における一夏の人気ぶりを顧みるに、なかなか挑発的な行動だ。朴念仁の一夏のこと、本人は自分の行動が周りにどんな影響を及ぼすか無自覚なままやっているのだろうが、止める者はいなかったのか。

 

 ――篠ノ之さんは……止める気は、ないようだな。

 

 想い人の少年が自分以外の女子と親密そうにしている。平素であれば悲しい出来事も、いまの箒は特に気にしていない様子だった。いや、一夏の腕の中の彼女を羨ましく思ってはいるようだが、あわよくば自分も、という期待の方が強い様子だ。現金だなあ、と思わず苦笑がこぼれた。

 

 とんとん、と、ロボットアームを指で叩かれた。意識を向けると、かたわらに立つさゆかが両腕を広げ、「抱っこして、どうぞ」と、見上げている。……なにゆえ?

 

 鬼頭は着座状態でさゆかの騎乗を待つラファールを見て言う。

 

「わが班の場合は、必要ないと思うのですが?」

 

「折角だから、私は鬼頭さんに抱っこされて乗るのを選ぶぜ」

 

「何が折角なのか」

 

 ハイパーセンサーの全周囲同時視覚機能でセシリア班の方を見る。愛娘の冷たい眼差しが背中に注ぐのを感じて、鬼頭は小さく溜め息をついた。

 

 

 

 多少のトラブルは見られたものの、一年一組二組合同授業は、全班全員が無事に時間内に課題を終わらせることに成功した。実習で使った訓練機を格納庫へと移した鬼頭らに、千冬が午後の実習授業の予定を告げる。

 

「午後は今日使った訓練機の整備を行う。各人格納庫で班別に集合しろ。専用機持ちは訓練機と自機の両方を見てもらうので、そのつもりで予習しておくように。では解散!」

 

 連絡事項を伝え終えると、教師たちは足早に職員用更衣室へと向かっていった。次の授業の準備で忙しいのは、教員も同じだ。二人の後ろ姿を見送った後、今度は女子生徒たちが一斉に教室へ移動を開始する。残る男子生徒三人は、さて自分たちはどうしようか、と顔を見合わせた。やおら、そういえば自己紹介がまだだったな、と鬼頭がシャルルに話しかける。

 

「今朝は時間がなくて、挨拶が遅れてしまったね」

 

 鬼頭は西洋式に右手を差し出しながら言った。

 

「鬼頭智之だ。鬼頭でも、智之でも、きみの呼びやすい方で呼んでくれ」

 

「シャルル・デュノアです。ムッシュ・トモユキ」

 

 小さな掌が、右手を握り返してきた。やわらかい。やはり、男性の手とは思えぬ肉つきだ。

 

「僕のことは、出来れば、シャルルと呼んでください。ファミリーネームで呼ばれるのは、あまり馴れていないので」

 

「知っているかもしれないが、私はアメリカで四年ちょっと暮らした経験があるんだ。大丈夫。ファーストネームを呼び合う習慣に、抵抗はないよ」

 

「助かります」

 

「世界でたった三人しかいない男性操縦者だ」

 

 男性操縦者。あえてその形容を選んだ鬼頭は、対するシャルルの反応を鋭く見つめた。かすかに動揺する双眸。ははあ、なるほど。彼は口元に冷笑を浮かべて言った。

 

「お互い助け合っていこう」

 

「智之さん、着替えに行きましょう。ほら、シャルルも。俺たちはまたアリーナの更衣室まで行かないといけないからな。急がないと、休み時間が終わっちまう」

 

「え、ええっと……僕はちょっと機体の微調整をしてから行くから、先に行って、着替えててよ」

 

「いいのかい? 一夏君は大袈裟に言ったが、少しくらいなら待てるよ」

 

 鬼頭は金色のリングを小さく叩いて、空間投影式ディスプレイを出力した。現在時刻を表示させる。

 

「どのくらい時間がかかるかわからないので。先に教室に戻っていてください」

 

 先に更衣室へ向かってくれ、のみならず、教室に戻っていろ、とは。更衣室という素肌をさらす空間から男の目線を遠ざけようとする物言いに、鬼頭は思わず苦笑を浮かべた。トランスジェンダーにせよ、産業スパイにせよ、シャルル・デュノアの肉体が女性のそれであることはほぼ間違いなさそうだ。

 

「そうかい? なら、そうさせてもらおうか」

 

 鬼頭としても、うら若い乙女の肢体をしげしげと眺める趣味はない。彼に促されたから、という形で踵を返し、やけに連帯を嫌がるシャルルの態度に不思議がる一夏を連れてアリーナ更衣室へと向かう。

 

「あっ、そうだ(唐突)」

 

 アリーナへの道すがら、隣を歩く一夏が不意に口を開いた。

 

「智之さん、今日の昼休みなんですけど、一緒に屋上で食べませんか?」

 

「すまない。今日はもう、別の約束を入れてしまったんだ」

 

 鬼頭は申し訳なさそうに言った。

 

「二年生のフォルテ・サファイア先輩と、三年生のダリル・ケイシー先輩とね。昼食を一緒にする約束をしたんだ」

 

 

 

 

 生活協同組合(生協、COOP)とは、一般の消費者が組合員となって店舗を運営する購買組織だ。家庭の主婦を中心に組織された地域生協と、大学や企業の職場が運営する職域生協の二種類があり、IS学園内にある店舗は、当然後者に分類される。

 

 人工島IS学園での生活が少しでも快適なものになるように、と、学園内に日用品を取り扱う小売店舗を設置することは、学園の建設計画がスタートして間もない構想段階の時点ですでに盛り込まれていた。当初は、店舗運営費の削減と、留学生の多い環境下でのアンテナショップの役割を期待して企業誘致が望まれたが、この案はすぐに棄却された。民間企業を島内に常駐させた場合に生じると考えられるリスク……防犯と防諜の問題を、クリア出来ないと判断されたためだ。

 

 招聘されたコンビニやスーパーマーケットの店員にスパイが紛れ込む可能性を、どうしても払拭しきれなかった。それがどこかの国の諜報機関の人間というならまだしも、国家転覆を目論むテロリストだった場合、ISに搭載されている最新の軍事技術にまつわる情報が、無秩序に世界に拡散しかねない。また、業務を通じて得た、生徒たちのプライベートな情報をネタにした脅迫や強引な勧誘の懸念もあった。

 

 そこで挙がった対案が、学内に生協組織を設けることだった。生徒や教職員が自ら店舗を運営・管理することで、外部勢力の侵入を極力防ぐ。組合員同士がお互いを監視し合うことになるため、そちらの方面でのスパイ活動への牽制にもなるだろう、と期待されてのアイディアだ。防諜目的を起点に具体化された計画は、IS学園に対して影響力は持ちたいが、責任はなるべく負いたくない、という者たちからも支持を集めた。生協組織であれば、店舗内で生じた問題の責は組合員に帰属することになり、自分たちに累が及ぶことはない、と考えためだ。

 

 プロジェクトチームは早速、小売業の店舗経営のノウハウを持った人材を探した。政府とのつながりが深い鉄道会社系の百貨店から数名をスカウトし、公務員としての役職と立場を与えた上で、彼らの意見をベースに組織像を作っていく。店舗の広さはどの程度が適当か? 品揃えをどうするべきか? 仕入れ先は? 従業員への教育は?

 

「……自分たちで運営する、とは言いますが、多忙極まるだろうIS学園の先生方や、生徒の皆さんが店先に立つのは現実的ではありません。店の従業員には、はじめからそのための人員を職員として雇い、業務にあてるべきです」

 

「お店で働いてもらう彼らについては、出資金の比率を低く設定しましょう。その分、他の教職員や生徒さんの出資金比率を、高く設定するんです」

 

「どうせ国立の教育機関です。職員への給料も、学費も、出所は一緒、税金です。好きにやっちゃいましょうよ」

 

 生協らしく、運営費は出資金という形をとりはするものの、実質的には国家予算。事実上の、無制限予算だ。無限の予算のもと、好きに店をデザインできるとあって、彼らの目は輝いていたという。

 

 かくしてIS学園内に設置された生協は、店舗部分の床面積だけでも一三〇坪超という広々とした空間に、ゴンドラ棚が整然と並ぶ立派な店としてオープンした。品揃えは日配食品や加工食品を中心に、一万品目にも達している。かなり大きな規模のスーパーマーケット並みだが、これはIS学園に留学生が多いことに起因していた。多種多様な文化へ対応しようと熟慮した結果、バラエティー豊かな商品構成となったのだ。

 

 昼休み。学生生協の店内から外へと出た鬼頭は、ほくほく顔で手に持ったクラフト袋を見つめた。紙袋の中には、本日の昼食の主役たるビッグカツサンドと、デザートのフルーツサンドが入っている。今日は織斑君たちと食べるからと、いつも血糖値が云々小うるさい陽子が別行動なのをいいことに買った品だった。たっぷりの生クリームに包まれたいちごのサンドイッチは、どんな甘いひとときを自分にもたらしてくれるだろうか。いまから楽しみな鬼頭は、にやけ面が止まらな――――、

 

「はあい、パパ、ストップ~」

 

 店の外に出てすぐのことだった。店外で待っているよ、と、出入口の付近で立っていたダリルとフォルテの間に、生徒会長の更識楯無の姿を認めた。鬼頭の表情から、口角の緩みが消える。真一文字に唇を結んだ彼に、ダリルが気まずそうに言う。

 

「ワリぃ。あんたと一緒に昼食べることを話したら、『私も一緒に!』って、聞かなくてさ」

 

「かなり強引だったっス。……ところでミスタ・キトウ。いま、生徒会長が、とても聞き捨てならないことを言ったような気がするっスが!?」

 

 鬼頭を「パパ」と呼ぶ楯無を見て、フォルテが険を帯びた眼差しを叩きつけてきた。勿論、二人は親子ではない。それなのに、パパ呼びとは……! プレイか? そういう特殊な遊びなのか!?

 

「見損なったっスよ、二人とも! 軽蔑したっス」

 

「……フォルテちゃんは何を言っているのかしら?」

 

「……さあ?」

 

 応じる鬼頭の口調は硬い。目の前の女が、暗部組織の頭目と知っているがゆえの反応だ。

 

 スパイ機関の長たる彼女が自分に接触してきた。しかも、フォルテの言によれば、かなり強引に同席を求めたという。自分への要件あってのことなのは明白だ。いったい、何の用なのか。ついにこの身にも、各国の諜報機関による暗闘の火の粉が降りかかってきたのか。嫌な予感を覚えずにいられない。

 

 鬼頭の胸騒は、ある意味では当たっていた。

 

 楯無は男が握りしめる紙袋を一瞥すると、ニヤリ、と怪しく笑い、

 

「ささ、鬼頭さん。その紙袋を出してください。糖質チェックの時間です」

 

「……いま、何とおっしゃいました?」

 

「糖質チェックのお時間です♪」

 

 鬼頭は反射的にクラフト袋を抱きしめた。紙袋を体でかばいながら、震える声で叫ぶ。

 

「なぜ、そんな、残酷なことを!?」

 

「陽子ちゃんの目がないのをこれ幸いと、砂糖ドバーっ、なモノを買っていると思いまして。ささ、鬼頭さん。袋の中身を見せてくださいな」

 

「こ、断る! どうしてきみに見せなければならないのか!?」

 

「日本政府から、男性操縦者の健康管理に気をつけるように、と命じられておりますの。それに陽子ちゃんからも、『わたしがいないときに父さんが甘い物を食べすぎないか注意してあげてください』と、頼まれていますし」

 

「それはゴールデンウィークのときだけの話では!?」

 

 にゅっ、にゅっ。学園最強の女の手が、男の持つ紙袋を狙って素早く伸びた。

 

 執拗に繰り出される貫手の連続攻撃を、右手で紙袋をがっちりホールドした鬼頭は、前へと突き出した左手で迎撃する。弾き飛ばす。たたき落とす。払い除ける。すくい上げて軌道を逸らす。総合格闘技・日本拳法の防御の基本四動作でもって、腕の中の宝物を死守した。

 

 はじめはいたずらっぽく笑っていた楯無の顔つきが、次第に変わっていった。

 

 思いのほか手強い防御に驚くとともに、気分の高揚を自覚する。だんだんと楽しくなってきた。この堅牢な守備を突破してあの紙袋を奪取出来たならさぞや痛快だろう、という思いから、自然、攻撃の手は速さと鋭さを増していく。

 

 応じて、攻撃を防ぐ鬼頭の手も加速していった。巧妙に織り交ぜられたフェイントの数々には目もくれず、本命打のみに的を絞って、襲撃をブロックする。

 

 楯無の唇が、好戦的に口角を吊り上げた。

 

 ――本音ちゃんから、鬼とーさんは目が良いとは聞いていたけど、これほどとはね……!

 

 攻撃の速度や反応の速さは自分の方が勝っている。しかし、鬼頭は攻撃がやって来る場所にあらかじめ手を配置しておくことで、速度の不利を補っていた。こちらの目線の置き方や、肩の動き出しの様子などから攻撃がくる方向を予想しているのだろう。尋常ならざる動体視力だといえた。この防御を突破するには、もっと動作をコンパクトにまとめ、攻撃の前兆を、可能な限り相手に見せないようにする必要がある。備えの猶予を、与えてはならない。

 

 ――ううん。それだけじゃ足りないわ。

 

 わずかに十数手の攻防からも明白なことだ。この男は、そびえ立つ城砦である。

 

 準備の時間を奪うだけでは、堅牢な砦を突破することは難しい。それ以外にも、つけいる隙を作らねば。

 

 ――攻撃のリズムを、ずらす……!

 

 加速ではなく、あえての減速。猛スピードの連続攻撃の中、不意に放たれた、遅い一撃。突然のことに鬼頭は反応しきれず、早すぎるガードの直後を、楯無の手は悠々すり抜けて懐中の紙袋を奪い取る……その、はずだった。

 

 男の体が大きく揺れた。攻撃の途上、この遅い貫手を防ぐのは困難だと素早く判じた鬼頭は、上体を傾け、左肩を突き出して打突を迎撃。重い肩と軽い掌とがぶつかり、必然、掌の方が弾かれる。

 

 男を見る楯無の眼差しに、険が宿った。

 

 少女を見る鬼頭は、不敵に微笑む。

 

「――よく、いまのを防げましたね?」

 

「長年、時計を眺めているとね。拍の取り方が、上手くなるんですよ」

 

 攻撃リズムの急な変化に、すぐ対応することが出来た。鬼頭は得意気に胸を張る。

 

「……なんスか? この、無駄にハイレベルなやり取りは?」

 

「学園最強と互角とか、手を叩いて褒めるべきところなんだろうけど……戦っている理由がしょーもなさすぎる」

 

 究極、菓子パンの奪い合いである。称賛の言葉を口にするのは、なんとなく躊躇われた。

 

 そのとき、呆れた様子で呟くダリルとフォルテの背後で、ぱちぱち、と、手を叩く音が鳴った。

 

 揃って振り向くと、赤い隻眼を輝かせたラウラ・ボーデヴィッヒが、やや興奮した様子で拍手喝采していた。どうやらたまたま通りがかったところで、鬼頭と楯無の攻防を目撃したらしい。脇に、透明で四角いビニールのパックと、新聞部発行の校内新聞を抱えている。

 

「すごい! お見事です、ヘア・キトー!」

 

「……どうも」

 

 小さな声で、鬼頭は礼を口にした。

 

 称賛の言葉を嬉しく思うと同時に、争いのそもそもの理由を思い出して、途端、恥ずかしい気持ちに襲われる。楯無も同じなのか、いつの間にか取り出した扇子で口元を隠し、表情を見られぬようにしていた。

 

 いったいいつから見られていたのか? 態度から察するに、糖質チェック云々のやり取りまでは見られていないようだが。

 

 これ以上の追及を避けたい鬼頭は、話題を変えるべく口を開く。

 

「フラウ・ボーデヴィッヒも、これから昼食ですか?」

 

「はい」

 

「生協で調達ですか? せっかく転校してきたのですし、学生食堂など、ここにしかない施設を利用しては?」

 

「最初はそのつもりで、食堂に向かったのですが……」

 

 ラウラは眉間に皺を刻みながら、辟易と呟いた。

 

「周りの連中が、ぎゃあぎゃあ、やかましく、とてもではありませんが、落ち着いて食べられないと」

 

「ははあ、なるほど」

 

「軍の基地にも当然食堂はありますし、そちらもかなり騒々しい空間ではありました。ここの食堂はそれ以上です」

 

 よほど耳障りだったのか、不快感を隠さない口調でラウラは言った。

 

 対照的に、鬼頭は彼女の言を聞いて完爾と微笑む。現役軍人たちよりも精気漲る生徒たちの姿を思い浮かべ、やはり子どもは元気がいちばんだ、と心を温かくした。

 

「ミスタ・トモユキ、この子は?」

 

 二人の会話が一段落したのを見て、フォルテが訊ねた。

 

 鬼頭も、ちょうどいいタイミングだなと、みなの顔を見回して言う。

 

「紹介します。こちら、クラスメイトのラウラ・ボーデヴィッヒさんです。今日、転校してきたばかりなんですよ」

 

「……ドイツの代表候補生、ラウラ・ボーデヴィッヒです」

 

 制服に結われたリボンの色を見て、ラウラは丁寧な口調で自身の名前を口にした。現役の軍人だけあって、上下関係への躾は徹底されている様子だった。授業中の態度が無礼千万だったのは、相手が同じ年齢だったからか。

 

 ラウラの自己紹介に応じる形で、楯無らも順番に自らの素性を明かした。

 

 鬼頭のときと同様、名前は知っていても顔は知らなかったらしいラウラは、相手がいずれも専用機持ちの国家代表ないし代表候補生と知って驚いた様子で頷いた。と同時に、これほどの顔ぶれが揃ってこれからいったい何をするつもりなのか、と俄然興味が湧いてくる。

 

「ヘア・キトーたちは、これから何を?」

 

「フラウ・ボーデヴィッヒと同じですよ。このメンバーで昼食を。ただし、我々も食堂で、ではありませんが」

 

「というと?」

 

「IS整備室の休憩所に向かうつもりです。実は今朝、ISコアのことで、ミス・ケイシーらとちょっとした議論になりましてね。そこで生じた疑問を解消するため、食事の後すぐ作業に取りかかれるよう、整備室で食べようという話になりました」

 

 そこまで口にして、鬼頭は、はた、と思いついた。ダリルやフォルテと同様、ラウラも専用機持ちの代表候補生だ。ISコアについての知識や、扱いの経験は豊富なはず。彼女からの意見も得られるとしたら、昼食後の時間はきっと実り豊かなものとなろう。

 

 鬼頭はダリルとフォルテに目線を向けた。二人とも、こちらが口を開くより先にわが意図を察してくれる。

 

「まあ、こっちもあんたにことわりなく生徒会長の参加を許しちまったわけだしな」

 

「私は構わないっス」

 

 二人の返答に、うむ、と頷き、鬼頭は、「もしよろしければ……」と、口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter34「ラウラ・ボーデヴィッヒ」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴールデンウィーク最終日。

 

 海の駅九十九里のフードコート。

 

 超人の口から語られた異世界アース3の情景は、パワードスーツ開発室の面々らを等しく驚かせた。

 

 桜坂の言によれば、かの世界で発生した人類種もまた、アース1や2の人類と同様、文明を武器に繁栄を謳歌していたという。農業の発明が食料の安定した確保と備蓄を可能とし、人口は飛躍的に増加。伴って、集団組織を運営・維持していく上での効率的なシステムの数々が開発され、それらはやがて村や町、国家といった社会へ発展していった。

 

「アース1や2の歴史でいう、中世の終わりぐらいから、近世頭頃のヨーロッパ社会を思い浮かべてください。俺が召喚されたアース3は、ぱっと見、そういうところでした」

 

 勿論、注意深く目を凝らせば相違点はいくつも見て取れた。

 

 特に目についた違いは、《永遠神剣》に対する考え方だ。

 

 《永遠神剣》はアース3にもあり、しかも、アース2と比べてありふれた存在であった。使える人間が限られているのは変わりないが、数の多さから人口に膾炙しており、ために、かの世界における戦争の形態を決定づけてもいた。

 

 《永遠神剣》とは、アース1におけるISのような存在だという。

 

 ISの登場によってこちらの世界の軍事力のあり方が一変したように、向こうの世界では、強力な《永遠神剣》を何振保有しているかが、軍事力の最重要素であった。そして桜坂は、不運にもその《永遠神剣》を手に入れた後に、異世界に召喚されてしまったのである。

 

「驚いたことに、地球からの転移者は私一人だけではありませんでした。異世界からの来訪者というのは、アース3では何十年かに一度くらいの頻度で起こる、わりと日常的な現象らしくってね。向こうのとある国家でつけられていた記録に残っている分だけでも、過去三百年ちょっとの間に百人以上もの地球人が召喚され、そのうちの何人かは、《永遠神剣》を握らされたそうです」

 

 奇妙なことに、地球からやって来る来訪者たちからは、《永遠神剣》の意思と心を通わせられる稀有なはずの才能の持ち主が多く見出された。

 

 三百年前にこの事実を認識して以後、アース3の住人たちは、異邦者たちの発見と捕縛に躍起になった。全員ではないにせよ、強力な《永遠神剣》を使いこなせる可能性が高い彼らは、軍事的野心旺盛な国々にとって喉から手の出る存在だった。

 

 桜坂もまた、不幸な事故によって異世界に転移させられた、後ろ盾も富も持たない哀れな難民を保護するという名目で、国家権力の庇護下に置かれた。北方の大公国を自称する者たちは桜坂の首に縄をつけた。魔法の力で作られた拘束具で、国権に対し叛意を抱いたときや、命令に従わない場合に、全身に激痛が走る仕掛けが施されていた。

 

 折しも、アース3は戦国の世を迎えていた。およそ七十年前に分裂した巨大王国の後継を名乗る諸国たちが、土地と、そこに眠る資源を巡って血で血を洗う時代だった。公国は桜坂に戦争への従軍を命じた。彼が件のドラゴンと戦ったのも、公王から指示された軍事作戦だったからだ。ドラゴンの住み処には莫大な地下資源が眠っていた。

 

「戦争は、日を追うごとに激しさを増していきました。世界の情勢は最終的に、北の大国ラキオスの陣営と、南の帝国サーギオスの陣営とに二分され、私を拾ったダーツィ大公国は、帝国陣営に与することとなった。そのうち、戦いの中で公国は滅び、私は敗残兵をまとめて帝国へと落ち延びました。ラキオスとの最終決戦時、私はサーギオスの旗を仰ぎながら、剣を振るったんです」

 

「最終決戦……ということは、戦争は、終わったんですか?」

 

「私の認識の上では、ですが」

 

 意味深長に呟き、桜坂は冷笑を浮かべた。

 

「戦争の結末を、私は知らないんですよ。なんせ、私、最後の戦いで死んでいますゆえ」

 

 ひゅっ、と誰かが息を呑んだ。頬に突き刺さる驚きの視線を面はゆく感じながら、桜坂は言った。

 

「ラキオスも、サーギオスも、互いに総力を結集しての、大いくさでした。敵も、味方も。永遠神剣を持っている兵も、そうでない兵士も、みんな、次々に死んでいった。そういういくさでしたからね。私が死んだ後、どちらが勝ったのかは分かりませんが、負けた方にはもう、戦争を続ける余力はないでしょう。たぶん、あのいくさが、最終決戦です」

 

「いや、桜坂くん。それよりも」

 

 死んだとは、どういうことなのか。異世界での戦争で戦死したというのなら、いま、自分たちの目の前にいるきみは一体? まさか、幽霊とでもいうのか!?

 

「幽霊なんかじゃありませんよ。ほら、足もありますし」

 

 表情から酒井たちの驚愕を察した桜坂は、苦笑しながら応じた。

 

 

「なぜ私がいまもこうして生きているのか? 正直言って、私自身分かりません。たしかに死んだと……殺されたと、思ったんですがねぇ」

 

 あの戦いからどれほどの歳月が流れたか。いまなお鮮明に思い出せる、好戦の欲求に支配された面魂。あの決戦の際、己の前に立ちはだかったのは、ラキオス王国の最強戦力であった。桜坂と同様、アース2の地球からやって来た来訪者。アース3に数ある永遠神剣の中でも、特に強力な一振を振りかぶり進軍する彼に、自分は挑み、敗れた。戦略核にも匹敵するエネルギーに総身を焼かれ、肉体よりも先に精神を砕かれ、六十兆個の細胞そのことごとくを破壊されたはずだった。

 

 いかなる超常の原理がはたらいたのか、しかし、自分は生き延びた。

 

 もう取り戻すことはないと思われた意識が蘇ったとき、最初に感じたのは疑念だった。

 

 なぜ、自分は生きているのか? 四分五裂したはずの肉体が、原型を保っているのはどうしてか? それにここはいったい?

 

 気がつけば、桜坂は水面に背中を預けていた。体中を揉みしだく波の勢いや、口の中に入り込んでくる焼けるような辛さから、海に浮かんでいることを自覚する。

 

 天を仰げば、夜空には見知った星があった。アース3で夜空を見上げる度、恋い焦がれた懐かしき星。まあるいお月様。地球に帰ってきたのだ、と知った。

 

「ところがですよ。帰ってきたはずの地球で過ごしているうちに、だんだん、違うな、とね。ここは故郷のアース2ではない。別の並行宇宙の地球だ、って気がついたんです」

 

 最初に覚えた違和感は、《永遠神剣》の不在だった。《永遠神剣》と契約を結ぶと、他の神剣の存在感を知覚する能力を得る。数が少ないとはいえ、アース2の地球ではたしかに感じられた彼らの気配が、念願叶って帰還してからはとんと見なくなった。

 

 この時点で、桜坂はすでに一度並行宇宙間の移動という超常現象を経験し、かつその事実を認識している。ここはかつて自分が暮らした地球ではないのではないか? 並行宇宙に存在する、別の地球ではないのか? という疑念は、すぐに思い浮かんだ。

 

 次いで目についたのは、人名や地名、出来事についての、知識と実際のギャップだった。先ほどアース1の地球と、アース2の地球とに、歴史や文化、言語、固有名詞などの違いはほとんどない、と述べたが、あくまでも、ほとんど、だ。細かい部分での差異は、厳然と存在していた。たとえば、アース2の地球儀に、ルクーゼンブルク公国の名前はない。ルクセンブルクに似た名前ゆえ、はじめてその名を耳にしたときは単に聞き間違えただけだろう、と考えたが、ルクセンブルク大公国とは別に存在する東欧の小国と知って吃驚仰天した。彼が戦史マニアなのは、アース2の頃からだ。当然、ヨーロッパ世界の歴史についても詳しい。その自分が知らぬ国名、知らぬ歴史。ルクーゼンブルク公国なんて国は、故郷の地球には存在しなかった、と、はっきり、断言できる。疑念はますます、深まっていった。

 

 そうした小さな根拠の積み重ねが、桜坂に、自分のいまいる場所は、生まれ故郷の惑星じゃないのでは? という思いを強くさせた。

 

 だが、何にも増して決定的だったのは、リュウヤとの出会いだった。

 

「アース1にやって来た当初、私は、自分は単に地球に帰還しただけでなく、併せて、時間移動にも巻き込まれた、と、考えていたんです。私がアース2からアース3にジャンプしたのは、二〇〇八年の十二月のことでした。こちらの世界にやって来てからすぐ日付と年号を確認しましたが、それよりもずっと前だったんです。このまま安易に九十九里浜に戻ると、過去の自分と鉢合わせしてしまうかもしれない。そう考えた私は、日付を覚え間違えている可能性なんかも踏まえた上で、一月まで待ちました。そうして帰った故郷に、こいつがいたんですよ」

 

 桜坂は隣の席に腰かける、並行宇宙の同一存在へと目線をやった。

 

「はじめは我が目を疑いましたよ。自分とまったく同じ顔、同じ体型、同じ名前に同じ服の趣味! そのときは知りませんでしたが、後々調べてみたら、DNAの型まで、ぴたり、と一致していやがった。そんな、自分ではない、もう一人の自分が、自分の知らない生き方をしていた。ここは自分の知る地球ではない、と。これ以上ない、否定の形でした」

 

「……こいつとの出会いが衝撃的だったのは、私も同じです」

 

 アース1の桜坂が言った。

 

「はじめは勿論、信じられませんでした。別の並行宇宙に生きる、自分ではない自分なんて、信じられるはずがない。狂人に話しかけられている、と思いましたよ」

 

 どこかの病院から抜け出してきた統合失調症の患者が、自分とよく似た顔の相手を見つけた瞬間妄想の世界に囚われ、話しかけてきた。リュウヤは最初、桜坂との出会いをそう認識していたという。

 

 しかしながら、交流を重ねるうちに、マルチバースという考え方を、信じざるをえない、と思うようになった。

 

 理由はいくつかあるが、いちばんの根拠は、物的証拠としての桜坂の存在だ。

 

 統合失調症の妄想には、細部まで凝って造り込まれた、恐ろしくリアルなものがある。とはいえ、それらは基本的に頭の中で展開されるもの。それを裏付ける実物までこしらえるのは稀なケースだ。ましてやそれが、他の誰にも真似出来ない超常の力となれば、信じないわけにはいかなかった。

 

「互いを並行宇宙の同一存在と認めた後、我々は今後どうするかを話し合いました。アース2に戻る術がない現状、彼はここアース1で生きていかねばなりません。しかし、二人が同じ場所で暮らすのは、都合が悪い」

 

「同じ容姿の二人が同じ街で暮らす。考えただけで面倒くさい。二人いるところを知り合いに見られでもしたら、上手いこと言い訳を用意せにゃならん」

 

「そういう手間を嫌って、結局、我々は互いに別の場所で暮らすことにしました。もともとアース1の住人である私は、変わらずこの九十九里で」

 

「私の方は、折角なので、しばらくの間、日本中を旅して回ることにしました。戸籍や住民票なんかのデータは、《永遠神剣》の力を使って、ちょちょい、とね。そのうち、リュウヤが高校を卒業することになりまして。そのタイミングで、私もしばらくぶりにアカデミックな空間に身を置きたくなりました。行き先はアメリカのマサチューセッツ州、ボストン。そこで私は、鬼頭と出会ったんです。そこから先のことは、皆さんも知っての通り」

 

 アメリカ留学中に9・11同時多発テロ事件と現地で向き合い、災害用パワードスーツの開発と普及という夢を得た。大学を卒業後、自分たちの夢を叶えられる場所として、アローズ製作所の門を叩いた。当時の桐野秋雄社長や酒井たちからの薫陶を受け、技術者として、また人として、大きく成長させてもらった。パワードスーツ開発室発足の許可を得て、この場にいる、彼らを集めた。

 

 桜坂は自らの選んだライト・スタッフたちの顔をゆっくりと見回した。仁王の顔は、穏やかに笑っていた。

 

「……以上です。私の持つ超常の力の正体や、私が何者で、どこから来たのか。ご理解いただけましたでしょうか?」

 

 問いに対して、パワードスーツ開発室の面々は、等しく、すぐに答えることが出来なかった。超人の口から語られた言葉をどう咀嚼し、自分の中で消化すればよいのか。誰もが戸惑っていた。しばらくの間、言葉を見失ってしまう。

 

 桜坂の左手で、ロレックスのサブマリーナーがゆっくりと時間を刻んだ。

 

 無言の時間が一分ほど続いた後、最年長の酒井が、重たい唇を開いた。

 

「……いくつか、質問をしても?」

 

「どうぞ」

 

「以前、桜坂君は、超人の力を使うときは、身体を構築している物質の構造を作り替えている、と言っていたね。それも、《永遠神剣》の力なのかい?」

 

「そうです。我々《永遠神剣》の使い手……神剣士は、神剣の力を使うときに、超スピードで肉体を再構成します。それにより、人間のボディ・サイズや形状では、本来出せないパワーや、それを出力しても自壊しないだけの身体強度を可能としています」

 

「出力や強度を変えられる、というのは理解したよ。では、その再構成によって、見た目を変化させることは?」

 

「……まあ、ある程度なら」

 

 質問の意図するところが分からず、桜坂は訝しげな表情で答えた。

 

「鳥になったり、魚になったり、みたいな、人間とは別な動物に見た目を変えることは出来ませんし、男から女へ、性別を変えることも出来ません。中にはそういうことを可能とする神剣もあるかもしれませんが、少なくとも、俺が契約を結んだ神剣は出来ない。せいぜいが、この顔、この体つきをベースに、見た目上の年齢を操作するくらいです」

 

「再構成によって、細胞の劣化や傷を、なかったことには?」

 

「出来ますよ。っていうか、それが出来ないと、神剣士同士の戦いでは、すぐにやられてしまいまうので」

 

「つまり、桜坂君は外見も、中身も、若返りや老化を自由にコントロール出来る、ということだね?」

 

「まあ、はい」

 

「さっき、きみは時間移動にも巻き込まれた、と言っていたね?」

 

「はい」

 

「アース2からアース3へジャンプしたのが、二〇〇八年の十二月。アース3からアース1にジャンプして最初に確認した日付は、それよりもずっと前のことだった」

 

「ええ、そうです」

 

 二人の問答を眺める美久たちの顔が、おや? と、動揺した。二〇〇八年。何か、違和感が……駄目だ。桜坂のファーストネームと同様、深く考えようとすると、どういうわけか思考がまとまらない。これも、彼の身体から発せられているフェロモンのせいだろう。すなわち、二〇〇八年という年号の違和感について掘り下げることは、桜坂にとって不都合な事態ということか。

 

「いったい、いつだい?」

 

「はい?」

 

「きみは、いったいいつ頃から、このアース1にいるんだい? 外見も、中身も、年齢を自由に変えられる、きみは?」

 

 酒井の問いに、美久たちは、はっ、として異世界からやって来た超人の顔を見つめた。

 

 桜坂の年齢は、履歴書によれば鬼頭と同じ四五歳となっている。しかし、彼は老化現象を自由にコントロール出来る。加えて、その戸籍データは《永遠神剣》の力によって捏造されたもの。履歴書の数字は、信用ならない。

 

 酒井の問いに、今度は桜坂が返す言葉を見失うことになった。

 

 正直に答えるべきか、否か。

 

 超人は酒井の顔を、じいっ、と見つめた。やがて、深々と溜め息をつく。入社以来、自分の面倒を見てくれた彼だ。この人に嘘はつけないし、ついたところで、騙せるとは思えない。諦念の色も濃い表情の桜坂は、ゆっくりとした口調で、嘘いつわりのない事実のみを語った。酒井の顔色が変わる。いや、リュウヤを除く、全員の顔色が変わった。ある者は興奮から頬を紅潮させ、ある者は恐怖から青ざめ、ある者は、その返答に恍惚と笑みを浮かべた。

 

 赤い顔の酒井は、やおら椅子から立ち上がると、ぶるぶる、と震える唇から、吐き出すように声を発した。

 

「きみは……あなたは……ずっと、我々を見てきた。見守って、くれていたのですか?」

 

「見守るだなんて、上からなことは言いませんよ」

 

 仁王の顔が、完爾と微笑んだ。

 

「俺はただ、あなた方のそばにいただけです。さみしがり屋なんですよ、この男は。タイム・パラドクス防止のために、少なくとも二〇〇八年の十二月までは、故郷には戻れない。しかしその間、独りきりは嫌だ。だから、あなた方のそばにいた。すぐそばで、ともに生きた。待っていたんです。あなた方が、懐かしきアース2や3の人類と、同じところに来るのを」

 

「神様……」

 

 桐野美久が、陶然とした熱い吐息を漏らした。

 

 はじめて彼女と会ったときのことを思い出し、桜坂は苦笑を浮かべながらかぶりを振る。

 

「だから、違うってば。ここにいる男は、神様なんかじゃあない。たまさか、永遠神剣なんてモンと関わりを持っちまったせいで、バケモノじみた力を手に入れてしまったが……この男は、人間だよ」

 

 哀切を孕んだ声だった。永遠神剣と出会い、人を超えた力を手に入れた。異世界へ漂流し、そこで殺し合いをしいられた。ようやく帰ってこられた、と安堵していたその場所は、実は故郷の惑星ではなかった。今日この瞬間にいたるまでの経緯を追想する仁王像の顔は、悲しげだ。だが、アース1の人間たちを見つめる石炭色の瞳は、優しい輝きを灯していた。その眼差しを真っ向受け止め、酒井はいまにも泣きそうな顔になった。顔面神経を総動員して表情筋を引き締め、涙をこらえながら、感極まった様子で、彼は超人に向けて頭を垂れた。最敬礼。美久が、トムが、土居が……みながその動きに倣う。

 

 この場で顔を上げているのは、桜坂自身を含めて三人のみだ。

 

 顔を床に向けたまま、酒井が言う。

 

「……あなたと出会えたことを、光栄に思います。あなたは我々の、アース1人類の最良の友だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






マジでIS学園の組織図と見取り図が欲しい。

今回、売店を登場させたけど、ああいう特殊な環境下で存在を許される店舗ってどんなんだろうか、とか、考えるのがすごくたいへん。

……まあ、そういう細かい設定考えるのも好きなんだけどさ。



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Chapter35「きみとの付き合い方」

伝説のインタビューが書けたので満足です。ハイ。




 

 全国紙か、地方紙か。スポーツ新聞か、経済新聞か。分類の違いはあるが、新聞という情報媒体の誌面構成に、大きな違いはない。すなわち、第一面にてその号におけるトップニュースを大きく紹介し、第二面以降の総合面にて、一面に載せきれなかった重要なニュースや、一面記事についてのより詳細な解説をする、という構成だ。

 

 IS学園新聞部発行の学内新聞もまた、基本的な造りはその形を踏襲していた。

 

 新たな赴任地の情報収集にと、生協にてバックナンバーを手に取った転校生のラウラ・ボーデヴィッヒは、第三アリーナ整備室の休憩所に到着するなり、早速、新聞を広げた。

 

 IS学園の各アリーナに併設されているIS整備室には、総じて、飲食や仮眠をとるための休憩スペースが設けられている。部屋の広さはアリーナごとにまちまちだが、大抵の場合、八人用の長テーブルが四つ並んだ飲食用スペースと、寝袋や布団を敷くための座敷スペースからなる。

 

 当初の予定より二名増えて計五人となった鬼頭らの一団は、テーブルの一つを占拠すると揃って昼食を開始した。休憩所には鬼頭ら以外の利用者の姿はなく、食事中の無作法にも、目くじらを立てる者はいない。唯一、鬼頭一人だけがラウラの行儀の悪さに眉をひそめたものの、それも束の間のことだった。そういえばと、過去の自分を省みて何も言えなくなってしまう。名古屋で暮らしていた頃、自分も食事中に新聞を広げて陽子に怒られた記憶が蘇った。

 

 学内新聞の記事はすべて日本語で書かれているが、そのためにラウラが読解に手間取ることはなかった。日本への留学にあたって、そのあたりの学習は一通りすませているらしい。

 

 ラウラが第一面を精読する隣の席では、鬼頭が面はゆそうに生協で買ったサンドイッチを頬張っていた。なんとなれば、学内新聞の第一面には、ソファに腰かけた鬼頭の写真がでかでかと掲載されていたためだ。

 

 鬼頭が新聞部部長の黛薫子から特別取材を受けたのは二週間前のことだ。過日の暮らす代表就任パーティの際に行われた、男性操縦者たちに対するインタビュー記事が好評を博したらしく、追加の取材を申し込まれたのだった。依頼に対し、一夏は忙しさを理由に断ったが、鬼頭は承諾した。取材の対価として提示された報酬のいちごタルトが、彼の目にはとても魅力的に映じたからだ。

 

 『独占取材! 男性操縦者の知られざる素顔!』という、安っぽい見出しで飾られた記事は、一面だけでなく、三~五面までをも贅沢に費やしていた。一面にはインタビュアーの薫子自身によって、記事の概要と見所、感想がしたためられ、三面からは取材の全文が記載されている。

 

 記事の目玉は、第五面にプリントされたQRコードだ。インタビューの様子を撮影した動画ファイルにアクセス出来るコードで、文章からは伝わりにくいその場の雰囲気や、表情のなどを知ることが出来る。

 

 もとより情報収集目的で学内新聞を購入したラウラだ。情報量は多いほど良いとして、早速、第五面へと新聞をめくった。目当てのQRコードを見つけると、待機状態のISを使って走査する。空間投影式ディスプレイがテーブルの上で起ち上がり、過日行われたインタビューの様子を映し出した。白い壁。ブラインドカーテンが閉められた、やや暗がりな室内。妙に、てらてら、とした茶色のビニールソファに、鬼頭が腰かけている。

 

『じゃあ、まず年齢を教えてくれますか?』

 

 姿は見えないが、薫子の声が響いた。問いに対して、ディスプレイの中の鬼頭が応じる。

 

『四五歳です』

 

『四五歳? もう働いているんですよね? じゃあ』

 

『高校生です』

 

『高校生? あっ…(察し)。ふうん……。え、身長、体重はどれくらいあるんですか?』

 

『えぇ……身長は一七六センチで、』

 

『はい』

 

『体重は六四キロです』

 

『六四キロ? いま何かやっています? スポーツ……体重のわりに、すごくガッチリしていますよね?』

 

『スポーツと言ってよいのか分かりませんが……居合を少々、たしなんでいます。あとはドライブが趣味なので。スポーツ走行にも耐えられるよう、トレーニングはなるべくするようにしています』

 

『ドライブ……愛車は何です?』

 

『いまはないです』

 

『いまはない? いつぐらいまで持っていたんです?』

 

『こ……三月くらいまでですね』

 

『はい。三月?』

 

『はい。いや、正確に言えばいまも所有はしているのですが、名古屋に置いてきたままなので。IS学園に来て以来、ずっと乗っていませんしね。愛車と呼んで、よいものかと思いまして』

 

『ふうん。レンタカーとかは?』

 

『よく利用します』

 

『どういう系統のクルマが好きなんですか?』

 

『そうですね……』

 

『はい』

 

『やっぱり私は、王道を征く、ホットハッチ系、ですか』

 

『うん。あ、ホットハッチ? 高いでしょ、でもホットハッチ』

 

『ピンキリですよね。でもね』

 

『ははあ』

 

『はい』

 

『じゃあ、公道アタック……とかっていうのは?』

 

『やりますねぇ!(大声)』

 

『やるんですね』

 

『やります、やります』

 

『ふうん。週何回とか、そういうのはあります?』

 

『週……ううん。何回という感じではないのですが、しかし頻繁にやっていますね』

 

『やっている?』

 

『はい』

 

『じゃあ、最近はいつ走ったんです?』

 

『最近は……三……日前』

 

『三日前?』

 

『はい。島内の連絡用道路をね。連絡車の、ホンダeを借りて……』

 

「……私、前にもこの動画を見たことがあるんっスが」

 

 代表候補生らしく、女性のわりに大きめの弁当箱にフォークを刺すフォルテが、ディスプレイを見上げながら呟いた。

 

「こんなインタビューまでしておいて、ミスタ・トモユキが“例のアレ”を知らないって設定には、無理があると思うんスよ」

 

「フォルテちゃん。メタ発言はやめましょうね」

 

 第四の壁を越えようとするフォルテの企てを、すかさず楯無が掣肘した。

 

 他方、話題の主役たる鬼頭はというと、二人の間で繰り広げられる会話の意味するところが分からず、怪訝な表情を浮かべている。ちょうど真向かいの席に座るフォルテに訊ねるが、返答は彼の望むものではなかった。

 

「お二人は、いったい何を言っているんでしょう?」

 

「……悪ぃ。私にもわかんねぇ」

 

『――というわけで、アルトバンや、ミニカライラあたりの軽商用車は、実質軽スポーツカー……ホットハッチと呼んでも、過言ではないと思うんだよ(真顔)。私は』

 

『はえ^~、すっごい暴論(呆れ)』

 

 インタビューは進み、ディスプレイには軽商用車の魅力について熱く語る鬼頭の姿が映じている。

 

 そういえば、最近軽自動車は楽しんでいない。給油所設置の問題からガソリン車の導入が難しいのは分かるが、IS学園も島内移動用に一台ぐらい都合してくれないかなあ、などと考えていると、隣の席に座るラウラが、感心した様子でしきりに頷いているのに気がついた。

 

「ふんふん。ヘア・キトーはホットハッチという車が好きなのか。……ホットハッチとは何だ? いかん。ヘア・キトーを懐柔するためにも、至急、クラリッサに確認しなければ」

 

 ドイツ軍の上層部より自分とは友誼を結ぶよう指示されているらしい少女は、新しい世界の扉を開こうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter35「きみとの付き合い方」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……どういうことよ?」

 

 昼休みの屋上。季節の花々が咲き誇る花壇に囲まれた休憩スペースの一画で、凰鈴音は不機嫌そうに呟いた。

 

 円テーブルを囲んで左隣に座る一夏は、幼馴染みの刺々しい視線を浴びてにんまりと微笑み、即座に頭を垂れる。

 

「おう、素直に謝るぞ。ごめんなさい。智之さんを連れてくるのは失敗した」

 

「それはまあ、いいのよ。いや、よくはないんだけども。出来れば連れてきてほしかったんだけれども!」

 

「おう」

 

「あたしが聞きたいのは、なんで箒とか、新顔の転校生とか……、イギリスの代表候補生に、その……、よ、陽子までいるのかってことよ」

 

 鈴は同卓している顔ぶれを見回した。彼女から見て左に一夏、シャルル、セシリア、陽子、箒の順に座っている。円テーブルだから、セシリアが真向かいに位置し、一夏と箒に挟まれる形だ。

 

 鬼頭への過日の暴言をいまだに謝罪できていない鈴にとって、辛い席順だといえた。主に右側から襲いくる眼光圧力が、臓腑を切々と叩いてくる。鬼頭とは親密な間柄の陽子やセシリアは無論のこと、箒までもが、柳眉を逆立ててこちらを睨みつけてきていた。

 

 鈴は知らぬことだが、箒は鬼頭自身の口から、親子の身に起きたかつての悲劇について聞かされている。彼女は鬼頭に対する鈴の態度に憤りを感じていた。なんとなれば、箒には鬼頭の苦しみが我がことのように理解出来たからだ。

 

 相手の事情をよく知りもせず。また、知ろうともせず。自分の気持ちを納得させる上ではその方が都合がよいからと、噂話や雑誌由来の信憑性不確かな情報ばかりを鵜呑みにする。しかも、それらの情報を論理的に正しいか否かではなく、自身にとって快か不快かという判断基準で分析し、糾弾のためのロジックを組み上げる。そうして作り上げた感情論の棍棒で、過去の決断についていまだ悩み苦しむ――本当にあれでよかったのか? もっと上手い方法があったのではないか? 自分も、陽子も。智也も、そして晶子すらも、誰もが傷つき、悲しまずにすむ方法があったのではないか? そうやって、答えのない問いで、いまなお自らを責め続けている――男を、躊躇なく、殴打する。そうした鈴の行いは、箒に過去の嫌な記憶を思い起こさせた。

 

 天才・篠ノ之束の実妹。その一事によって、彼女はこれまで幾度となく謂われのない暴言に曝されてきた。女尊男卑時代の到来によって大小様々な不利益を被った者たちからの恨み節が、彼女と、彼女の家族に襲いかかったのだ。お前の姉のせいで。お前たちの家族のせいで。お前たちのせいで。お前のせいで……。日に日に兇暴さを増していく怨嗟の声に、箒は抗弁した。あれは姉が勝手にやったことだ。私たちは関係ないし、私たちも迷惑に思っている。お前たちの境遇には同情するが、その怒りはただの八つ当たりだ。筋違いなものだ。私たちにぶつけられても、困る……。幼い箒の訴えは、しかし、彼らには許しがたいことだった。篠ノ之束本人が行方知れずな現状、彼らは怒りのぶつけどころをその家族に求めた。

 

 彼らの論理では、篠ノ之家の人間は全員が、篠ノ之束の共犯者であった。いや、共犯者でなければいけなかった。悪人でなければ。そうでなければ、この怒りをぶつける場所を失ってしまう。感情の行き場を失ってしまえば、そのエネルギーは身の内でくすぶり続け、暴れ続け、延々と、地獄の苦しみを味わうことになる。彼らは、それを嫌がった。

 

 人間は、自分にとって都合のよいもの、自分の信じたいものだけを信じようとする生き物だ。彼らは、自分たちの心を守るために、不快情動を喚起しかねない、真実を訴える言葉から耳を塞いだ。姉のために苦しむ家族の姿から、顔をそむけた。明後日の方を向きながら、「家族の暴走を止められなかった。それこそがお前達の最大の罪だ」などと、普通なら失笑ものの論理を必殺の武器とばかりに振りかざし、彼らはよってたかって、箒たちを責め立てた。

 

 幼い少女の目に、その姿はとても醜悪なものと映じた。耳膜を殴打する声は、とても恐ろしいものに聞こえた。鈴の鬼頭に対する態度は、あの醜い人々の姿と重なって、箒の目に映じていた。嫌悪感がものすごい。

 

 これに加えて、彼女の場合は一夏を挟んでの恋敵との意識もある。思い人の少年を取り合う相手がこんな女だったとは、という失望感は、その眼差しをいっそう険しいものにしていた。

 

 鈴は気づいていないが、この座席配置はセシリアと箒による陽子への気遣いの結果だ。陽子が男性を苦手に思っていることを知るセシリアは、一夏やシャルルと隣り合うのは辛いだろうと考え、彼女を男性操縦者たちから遠ざけるべく自分が間に座ることにした。箒はというと、こちらも鈴と隣の席は気まずいはずと考え、彼女との間に割って入ったのである。結果、鈴に対する剣呑な目線は彼女から見て右側に集中し、自然とその面差しは左側へ向きがちになった。そしてそのことが、セシリアたちの目には男性操縦者に媚びているように映じてしまい、さらなる敵愾心を煽り立てる。女尊男卑時代において、男性に過剰に頼る女は自立していないとされ、軽蔑の対象とされた。

 

「ちゃんと説明して」

 

 右頬に突き刺さる視線がますます険しくなるのを感じながら、鈴は小さな声で言った。普段は負けん気の強い彼女も、さすがにこの重苦しい空気感は耐えがたいか、あんただけはいつも通りでいてちょうだい。あたしの味方でいてちょうだいと、幼馴染みの少年に、すがるような口調だ。

 

 おいおい、それは不味いだろ。そんな声音じゃあ……ああ、やっぱり! 陽子たちからの圧が、また強さを増してしまった。一夏は口の中でひっそり呟くと、こちらも、ぼそぼそ、とした声で答える。

 

「俺だって、鬼頭さんたちまでついてくるとは思わなかったんだよ。最初に誘ったのは、シャルルだけだ」

 

「まず、それがどうして? なんであの人じゃなく、転校生を誘ってんのよ」

 

「今日は別の人たちと一緒に食べる予定があるから、って、智之さんに断られた後、一旦、教室に戻ったんだよ。そしたらシャルルが、困っているように見えたからさ。ほら、シャルルって、この見た目だろ? 昼休みになった途端、クラスの女子とか、他所のクラスの女子とか、はては上級生まで教室に押しかけて、『デュノア君! 一緒にご飯どう? どう? どう!?』って」

 

 そのときの光景を思い出し、一夏はげんなりと溜め息をついた。歪んだ恋愛欲の発露なのか、それとも国からそういう指示でも受けたのか、二人目の男子争奪戦とばかりに大挙して押し寄せる女子、女子、女子の姿。一年一組の教室はあっという間にすし詰め状態となり、シャルルは、ぎらぎら、とした熱い眼差しに取り囲まれた。彼女たちが口々に語るラブ・コールの内容は、等しく、昼食を一緒に摂らないか、というもの。フランスからやって来た美貌の少年は、はじめこそ彼女たちからの誘いをひとりひとり丁寧に断っていたが、八人目あたりから、表情に疲れが見え始めた。そんな姿が見ていられなくなり、一夏は口を挟んだのである。

 

「まずこの学園さぁ、屋上あんだけど、焼いていかない?」

 

「ちょっと待ってくれ。実はさ、シャルルにはもう、先約があるんだよ」

 

 誰からの誘いも断り続けていることから、昼食をともにしたくない事情があるのは明らかだった。それでもなお、しつこく訊ねてくる女子たちを諦めさせるには、すでに別な誰かとの約束があるからと、義理堅い姿を見せつけるのが効果的だろう。そう考えた一夏は、背後からシャルルの肩を叩いた。見上げてくる彼に、「な?」と、小さくウィンク。こちらの意図を察したシャルルは、「う、うん。実は、一夏とね」と、周りの女子たちに申し訳なさそうに言った。

 

 これが一夏以外の他の女子からの言であれば、発言の内容そのものに疑念を抱かれていただろう。抜け駆けへの懸念から、じゃあ私も、私も、と、いっそうややこしい事態に陥っていたかもしれない。

 

 しかし、発言者が同じ男性操縦者であったことが、発言内容の信憑性を高めていた。広い世界にたった三人しか見つかっていない、特別な立場の者同士だ。周りは女性ばかりというストレッサーな環境で、同性同士という仲間意識がはたらくのは、自然な流れと考えられた。一夏の思惑通り、詰め寄る女子たちは渋々身を引いていった。

 

 予想外だったのは、方便のつもりで口にした内容が現実化したことだ。

 

 気落ちする背中を見送った後、さて、自分も鈴のもとへ謝りに向かうかと、その場から立ち去ろうとした一夏の制服の袖を、つい、と引っ張る者がいた。シャルルだ。紫水晶の瞳をしっとり潤ませながら、彼を見上げて言う。

 

「あの、また女の子たちから誘われると困るからさ。……一夏がよければ、本当に、ご一緒させてくれないかな?」

 

 一夏はふたつ返事で彼の願いを聞き入れた。同性ゆえ、同じ状況に陥ったときの精神的苦痛が理解出来る、とは建前だ。実際は、シャルルの色気にやられてしまった。美少年の彼が上目遣いに見上げてくる姿からは、同性にも拘らず、妙な艶っぽさを感じてしまう。ましてや、それが小動物じみた所作を取ってきたがために、庇護欲をかき立てることこの上なかった。気がつくと、応、と頷いていたのである。無論、これは鈴には言えぬ理由だが。

 

「シャルルについては分かったけど……じゃあ、陽子たちはなんで?」

 

「悪うございましたね。ここにいて」

 

 意識して顔をそむけている方向から、刺々しい声。びくり、と肩を震わせそちらを見やると、半眼でこちらを睨む少女と目線がかち合った。童顔の陽子だが、鈴自身が彼女に負い目を感じているからだろう、威圧感がものすごい。両隣から挟む二人の怒気が、かすんで気にならないほどだ。

 

 鈴は臍下丹田に力を篭め、こちらも睨むように陽子を見た。謝りたい相手の一人にも拘らず、攻撃的な態度をとるのは、そうでもしないと気持ちが折れてしまいそうだからだ。虚勢でも張っていないと、相手の顔をまともに見ることも出来なくなってしまう。事実、陽子を見据える鈴の眼差しは、険しいながらも、明確に怯えの感情を孕んでいた。

 

 鈴は、陽子のことが恐かった。クラス対抗戦の際に一夏に看破された通り、鈴はいまでも離婚した父のことを愛している。それゆえに、大好きな父親を目の前で侮辱された陽子の怒りが、我がことのように理解出来る。出来てしまう。

 

 自分に対する彼女の怒りはいかほどのものか。想像するのが恐ろしかった。なんとなれば、自分が同じことをされたなら、目の前の女をぼこぼこに殴っているだろう確信があるからだ。自分には、それを可能にする力と手段がある。陽子にはそれがない。その違いしかなかった。

 

「い、いちゃいけないなんて、そんなこと、一言も、言っていないでしょ!?」

 

「そう言っているも同然の発言だったと思うけどな。いまの」

 

 剣呑な反駁が、下っ腹に突き刺さる。返す言葉を見失った鈴に、陽子はしかめっ面のまま言った。

 

「織斑君は悪くないよ。私たちが勝手についてきただけ。ほら、男性操縦者二人が一緒に行動してる姿なんて、肉食系女子のお姉様方からしたら、鴨が葱しょって、鍋とカセットコンロまで抱えているようなもんでしょ?」

 

 一夏の言を受けて引き下がってくれた者たちは、比較的モラルの高い人たちだ。相手にも事情があると、他者を慮る気持ちを持っている。しかし、ここはIS学園。背後にいる国家や企業から、相手の立場や気持ち、事情などは関係ない。どんな手段を使ってもいいから、とにかく男性操縦者にアプローチせよ、という乱暴な指示を受けている者も少なくないだろう。また、これから女子校で灰色の三年間を送る気構えでいたところ、突如として降って湧いた男子との接触機会に、恋愛欲求をすこぶる刺激され、周りが見えなくなっている者もいるかもしれない。そうした連中に対し、「他の女子がそばにいれば牽制になるのでは?」というセシリアからの提言に、箒とともに乗った結果が、この相席だった。

 

「鈴が待っているなんて、知らなかったんだよ。もしそうだと知っていたら、さすがに遠慮してた」

 

 二つの理由から、陽子は遠慮という言葉を選んだ。一つは、自分もそうだが、いまのセシリアや箒が鈴と顔を合わせれば、一触即発の空気感が形成されてしまうのが容易に想像出来るためだ。困ったことに、四人とも気の短い性格な上、そのうち二人は専用機持ち。ちょっとの刺激が原因で、血みどろの大喧嘩が始まりかねない。

 

 自分たちは会うべきではない。少なくとも、このわだかまりが解消されるまでは。事実、この場はいま実際に、そういう雰囲気に支配されてしまっているわけだから、この考えは正しいだろう。

 

 もう一つの理由は、鈴が一夏に寄せる恋慕の気持ちを知っているためだ。シャルルも同席しているとはいえ、長年の片想い相手と一緒にいられる時間を邪魔しては悪い、と考えてのことである。いまや互いに気まずい間柄の自分と鈴だが、それと彼女の幸せは切り離して考えるべきだろう。

 

「……今度はこっちからの質問だけど」

 

 陽子は、ちら、とシャルルを見た。鈴と鬼頭親子との間に生じた諍いを知らぬ彼の前で、ストレートな物言いは避けるべきか。彼女は慎重に言葉を選んで訊ねる。

 

「さっき、父さんのこと話してたよね? 織斑君に、父さんを呼んでもらうつもりだった云々」

 

「う、うん」

 

 鈴もまた言葉の選定に苦慮しながら応じる。もともと、鬼頭親子との関係が悪化したのは、彼女の迂闊な発言が原因だ。シャルルの存在がなくとも、これ以上の失言は避けなければ、という思いがあった。いつもの声量で、いつものように。自分の思うままに言葉を紡いで、それが、自分にそういう意図はないにも拘らず、彼女らの怒りの導火線に火をつけてしまう。それだけは、避けなければ。

 

「この間のことを、謝りたくて」

 

「それで父さんを呼びつけようとした、と」

 

 この間のこと、が何を指しているかは明白だ。

 

 クラス対抗戦以来の、鈴の様子を思い出す。休み時間や放課後の度に一年一組の教室に足を運び、あるいはアリーナで訓練中の自分たちのもとへやって来ては、父と話そうとする彼女。その意図は何なのか。こうして言葉にされる以前から、薄々は察していた。

 

 しかし、鬼頭は鈴からの接触をことごとく拒んだ。その姿が視界に映るや早々にその場から立ち去り、それが叶わず捕まってしまったときも、用事がある、約束がある、などと言を左右に彼女の追及から逃げ続けた。父は学園でも数少ない、クラスBのパスカードの所持者だ。解析室など入室制限のある部屋に立て籠もってしまえば、それ以上追いかけることは出来ない。

 

「なるほどね。それで、父さんの警戒心が薄いだろう織斑君を使って、ここに釣り出そうとしたわけだ。……残念だったね」

 

 皮肉と、運が悪かったな、という同情を篭めて、陽子は言った。

 

 本日、鬼頭が昼食をともに出来ない理由は、いつものように鈴の企みを察して逃げたから、ではない。本当に、先約があってのことだ。それも、今朝方急遽決まった約束だと聞いている。今朝偶然知り合った上級生たちと、ISコアのことで相談したい事案が生じたために、昼食がてらその話し合いをするつもりだという。この出会いさえなければ、鈴の作戦が成功していた公算は高いと考えられた。

 

「ね、もう一個訊いていい?」

 

「なによ?」

 

「鈴はさ、最終的に、父さんに謝ってどうなりたいのさ?」

 

「どう、って……許してほしいに、決まって」

 

「うん。それは分かってる。私が聞きたいのは、その後の話よ。最終的に、って言ったでしょ? 謝って、許してもらって、その後、鈴はうちのお父さんと、どうなりたいのさ?」

 

 問いをぶつけられた鈴は瞠目し、それから、茫然と黙り込んでしまった。

 

 指摘を受けて、はじめて気がついた。そういえば、とにもかくにも謝らなければ、という気持ちに焦るばかりで、その後のことをまったく考えていなかった。

 

 謝罪と、それに対する許し。これは、過去の行いを精算し、新たな関係性を築くための、予備動作だ。スタートラインに立つために必要な、準備だといえる。謝罪をした後に、鬼頭とどんな関係を築きたいのか。この考えなしには、謝罪という行為は成立しないし、いっそしない方がいいだろう。

 

 自分の浅はかさが嫌になる。鈴は悄然と肩を落として溜め息をこぼし、改めて鬼頭との理想の未来像を思い浮かべようとして、すぐに、愕然とした。

 

 ――……え? 嘘……、え?

 

 何も、思い浮かばない。想像することが出来ない。自分と鬼頭が一緒にいる未来が、何一つ、想像出来ない。

 

 原因は明白だ。想像できるほど、自分は鬼頭智之という人間のことを、よく知らない。ほとんど情報を持たない人物との未来図を、どうやって思い浮かべろというのか。しかし、自分は、そんな彼のことを、

 

 ――そんな、よく知りもしない相手を、あたしは……。

 

 言葉の暴力で、傷つけた。

 

 いや、傷つけた、らしい。

 

 らしい、というのは、知らないからだ。

 

 自分が放った言葉のどこに彼が傷ついたのか。

 

 鬼頭のことをよく知らない鈴には、当然分からない。想像さえ出来ない。

 

「ははあ……その様子だと、やっぱり、考えてなかったか」

 

 急速に顔色が悪くなっていく鈴を見て、陽子は、ああやっぱり、と口の中でひっそり溜め息をついた。クラス対抗戦以来の、何か強迫意識に囚われているような態度から、おそらくは、と予想していたが、やはりそうだったか。……その程度にしか、考えていなかったか。

 

「よ、陽子、その……あたしは!」

 

「うん。とりあえず、先にこの件について、私のスタンスを伝えておくね」

 

 震える声を制止して、陽子はあえて淡泊な口調を努めながら言った。

 

「勘違いしないでほしいんだけど、私はべつに、鈴のことが嫌いなわけじゃない。ただ、父さんへの態度や発言が、許せないってだけ」

 

「……それ、嫌いと何が違うのよ」

 

「全然違うよ。鈴が誠心誠意の謝罪をして、父さんがそれを受け入れたなら、私からはもう、何も言いません」

 

 暴言を直接ぶつけられたのは鬼頭だ。当事者の父が許すと判断したならば、自分はそれ以上、この問題について何か言うつもりはない。……内心、むかっ腹ぐらいは立てるだろうが。

 

「でもそれまでは、私は、鈴のことを許さない。そしていまの鈴を、父さんに会わせたくない」

 

 謝って、許されて、それで終わり。父とのことを、そんな程度にしか考えていないいまの鈴では、会わせたいと思えない。関係を改善したい、とかではなく、ただ自分の心の屈託をなくしたいだけ、というように、陽子の目には映じてしまう。そんな精神状態から生じる謝罪の言葉では、父の心をかえって傷つけるだけだ。

 

「正直言うとね、鈴に対するいまの父さんの態度は、情けなく思うよ。十代半ばの小娘が勇気を振り絞って頭を下げようとしているのに、大の大人である父さんは逃げてばかり。うん。情けない。情けない、けど……」

 

 大の大人が、十代半ばの小娘を怖がっている。怖がるほどの、傷を負わせた。許せない。許せるわけがない。しかも、とうの本人は、それほどの傷を負わせた相手への謝罪を、かくも軽々しく考えている!

 

「自覚しろよ、凰鈴音。私のお父さんをどれだけ傷つけたのか。自覚して、反省しろ。その上で、これからどうなりたいのかを考えろ。それだけ傷つけた相手と、どうなりたいのかを、考えろ。謝罪って言うのなら、まずは、それからだ」

 

 語気も荒々しい傳法な口調に、心臓を鷲づかみにされた気分に陥った。

 

 父親譲りの形の良い双眸が眦を吊り上げ、こちらを真っ向見据えてくる。

 

 怒れる眼差しと対峙していると、急激に、呼吸が難しくなるのを自覚した。血中酸素濃度の低下から、視界がくらみ、思考がまとまりづらくなっていく。奇しくもそれは、鈴を見る度に鬼頭を苦しめる拒否反応と同様の症状だった。たまらず俯き、正視を避ける鈴を、陽子は震える瞳で見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ねえ、一夏。何か僕に、言うことはないかな?」

 

「ごめん。本当にごめん……!」

 

 転校早々、ぎすぎすした雰囲気が支配する食卓へと放り込まれ、昼食とともに気まずい思いを噛みしめているシャルルは、自分をこの場に誘った一夏に恨み節をぶつけた。

 

 まさかここまでの事態になるとは想像出来なかった一夏は、自分の浅はかさを恥じ、平謝りするほかなかった。

 

 

 

 

 昼食を終えると、鬼頭たちは早速、『打鉄』に搭載されているISコアの動作履歴の精査を開始した。目的は勿論、今朝の《オロチ・システム》の暴走の原因を突き止めることだ。システムが予想外の動作をとったのは、ISコアによるいらぬお節介のせいではないか、というダリルの仮説を検証するために、黄金の指輪を解析装置にかける。使用するのは、水槽のような透明な四角いケースだ。中央部に台座があり、そこに待機状態のISを置くと、四隅から解析用のレーザーが浴びせられ、空間投影式ディスプレイにログ・データが表示される、という仕組み。鬼頭が慣れた手つきで装置を動かすと、畳ほどもあろうサイズの空間投影式ディスプレイが出力され、そこに動作履歴が次々と表示されていった。

 

 データの分析という点でいえば、IS学園にはより専門性の高い機器を多く取り揃えた解析室がある。一般生徒の入室を厳しく制限している部屋だが、日本政府のはからいでクラスBのパスカードを渡されている鬼頭は、自由に出入りすることが出来る。それでもあえて整備室を選んだ理由は、ダリルらの意見を聞きたいがためだ。自分よりもずっと長い時間、ISと触れ合ってきた彼女らの知見は、大いに参考になるだろう。

 

「ドイツ軍では、どのような時計が人気なんです?」

 

 ISコアが単位時間あたりに取り扱う情報量は膨大だ。今朝の簡易的な作業と違い、仔細にいたるまでしっかりテキストデータに起こすにはかなりの時間を要する。鬼頭はその待ち時間を利用して、ラウラとのコミュニケーションをはかった。とはいえ、自分と彼女は今日はじめて会ったばかりの間柄。共通の話題を探すとなると、彼女がこの若さで軍人という点に見出すほかない。

 

 時計好きで、クルマ好きの鬼頭が軍隊というフレーズからまず思い浮かべるのはミリタリー・ウォッチだ。次点で軍用車両。頭の中で両者を天秤にかけ、彼はまず前者を採ることにした。これで話が盛り上がらない場合は、メルセデス・ベンツのウニグモ・トラックあたりにご登場いただくとしよう。

 

 腕時計の歴史において、ミリタリー・ウォッチはとても重要な存在だ。実用腕時計の始祖と呼ばれるタイムピースたちが産声を上げたのは、十九世紀末の戦場でのこと。従前、貴族たちが身を飾る装身具を除くと、一般人が携帯可能な時計の主流は懐中時計だった。しかし、戦場で懐中時計を見るという行為は、出し入れの際にタイムラグが生じたり、見ている間は片手がふさがってしまったりと、不便なことも多い。そこで、懐中時計のケースにラグを溶接し、そこにベルトをくくりつけて腕に巻いたことが、実用腕時計の起源だといわれる。一八七九年にはジラール・ペルゴがドイツ海軍将校用に、史上“初”の量産腕時計を製作。そして一九〇四年に、はじめて腕時計として専用に設計された腕時計、カルティエ・サントスの誕生をもって、腕時計の歴史は始まった。

 

 一口にミリタリー・ウォッチといっても、陸海空軍のどの部隊の人間がどういう目的で、またどんな環境で使用するかによって、求められる機能・性能は異なる。ラウラが所属するドイツ連邦軍の場合、IS部隊は空軍に属しているらしいが、みながみなパイロットというわけでもあるまい。地上勤務の者とているはず。さて、どんな時計の話が聞けるか。ドイツのミリタリー・ウォッチというと、チュチマのパイロット・ウォッチやハンハルトのクロノグラフ、ジンのダイバーズなどが有名だが。

 

「……私はあまり、時計には詳しくありませんが」

 

 ラウラはそう前置きした上で、同僚たちの左手首へ思いを馳せた。

 

「部隊の者たちが普段使いしていたのは、比較的シンプルな物が多かったように思います」

 

「シンプルというと?」

 

「見た目も機能もです。クロノグラフやデイト表示は敬遠されていました。シンプルな三針や、デジタル表示の、小柄な時計が好まれていたように思います」

 

「ははあ、なるほど」

 

 小柄な時計と聞いて、鬼頭は得心した様子で深々と頷いた。IS部隊の隊員ということは、操縦者以外の後方支援要員なども多くは女性だろう。一般にミリタリー・ウォッチというと、多機能で頑丈な、大柄なデザインの物が思い浮かぶが、彼女らの細い手首に、なるほど、それらは似合うまい。

 

 ラウラの言によると、ケースだけでなく、ブレスレットも軽快な物が好まれる傾向にあるらしい。樹脂製や革製、ナイロン素材のNATOベルトの愛用者が多いという。

 

 NATOベルトが似合う軍用時計といえば、真っ先にハミルトンのカーキが思い浮かぶ。一八九二年設立のアメリカの時計メーカー。世界初の電池式腕時計ベンチュラや、同じく世界で初めてLED発光文字盤を採用した腕時計パルサーなどが有名だが、実は軍用時計メーカーとしての歴史も長い。第二次世界大戦の際には、米陸軍向けに百万本ものハックウォッチを納品している。カーキシリーズはこのハックウォッチの後継と評せる時計だ。陸海空それぞれに向けたモデルがラインナップされている。基本的には男性用の時計だが、ケース長三八ミリ、厚み十ミリの、陸軍向けモデルのフィールドなどもあり、女性兵士の左手にあっても違和感は薄いだろう。

 

 他方、樹脂ベルトの軍用時計で思い浮かぶのは、やはり、CASIO のG-SHOCK だ。いまより四十年以上も昔に、十メートルの高さからの落下に耐え、十気圧防水を備え、電池寿命は十年という、『トリプル10』のコンセプトを実現するべく開発された、最強の国産時計。強化プラスチック製のケースとウレタン素材のベルトは、軽いのは勿論、肌へのあたりが優しいことで知られる。軍隊生活では必須の、腕立て伏せなどのトレーニング時にも肌に食い込まず、邪魔をしない。いまや二十気圧まで高められた防水性能は、入浴時間さえ一分単位で管理されることの多い軍隊において、非常に重宝される機能だろう。電波ソーラー機能搭載モデルであれば、海外派兵の際にも頼もしい。そしてなにより、タフだ。ちょっとやそっとの衝撃では壊れない。またこの場合は、女性向けモデルのBABY-G や、ダウンサイズグレードのG-SHOCK “MINI”存在感も大きい。

 

 実際、ラウラとの会話をかたわらで聞いていたダリル曰く、アメリカ軍では小型のG-SHOCK が大流行しているという。もとより、G-SHOCK は世界中の軍隊で愛用されている時計だ。しかし、小型モデルにまで注目が集まるようになったのは、IS登場後のここ数年のうちのことらしい。

 

「最近はどこの軍隊も女性軍人の増加が著しいっすけど、人数比ではまだ圧倒的に男性の方が多いっスからね。時計に限らず、女性に向けた軍用品の開発は、ほとんど進んでいないのが現状っス。そうなると、男性向けの物か、少ししかない女性向けの中から、自分に合った物を選ぶわけっスが」

 

「その数少ない女向けの軍用時計を生産しているメーカーだ。人気が出ないわけがない」

 

「よく、ISが登場して女が強くなった、っていうけれど、実際に、私たちの体格や体力が男性並みに向上したわけではありませんから」

 

「小さくて、軽いことの方が、性能や機能性よりも優先される、というわけですか」

 

 部材技術の向上により、いまや軽い軍用時計は珍しい物ではない。米国はルミノックスのダイバーズウォッチなど、ファイバーグラス製のケース、ウレタン素材のベルト、クォーツ式ムーブメントの組み合わせで五十グラムを切るモデルさえある。しかし、小さい時計というのは珍しい。ミリタリー・ウォッチに求められる性能を維持したまま小型化を達成するというのは、至難の業なのだ。G-SHOCK の場合も、通常モデルでは二十気圧防水なのが、小型版では十気圧まで性能を落とされていることが多い。

 

 勿論、コストをかければそれも可能だろうが、それをしてしまうと、今度は販売価格が跳ね上がることになってしまう。趣味の時計と異なり、軍用時計は数を揃えやすいことも重要だから、調達価格は抑える必要がある。

 

「あの《トール》の開発者にそれを言われると……」

 

「いやあ、言葉の重みがエグいっス」

 

 楯無が苦笑混じりに呟き、フォルテが溜め息をつく。最強兵器ISに有効打をたたき込めるレーザー・ピストルを、およそ三百万円という破格の安さで開発した男は肩をすくめてみせた。

 

 そうこうしているうちに、ログ・データの書き出しが終わった。ディスプレイのサイズを拡大し、打ち出されたデータ群を全員で覗き込む。

 

 画面には、ISコアが《オロチ・システム》の動作に介入したときの記録にだけなく、なぜそんなことをしたのか、という、そのロジックまでもが詳述されていた。あのとき、『打鉄』に積まれたISコアは何を考えていたのか。状況を表わす文字を追うにつれて、鬼頭の切れ長の双眸は、自然、険しさを増していく。

 

 結論から言えば、ISコアがいらぬお節介を焼いた、というダリルの仮説は、半分正しく、半分間違っていた。ISコアが鬼頭のことを思って暴走したのは、間違いない。しかしその理由は、BT・OSの作用で下駄を履いた鬼頭の技量を勘違いしたからではなかった。問題は、いっそう複雑で、対処しづらいところにあったのだ。

 

「……《オロチ・システム》の導入によって、ISコアの内部に、新たな変化が生じた」

 

 ISに新しい武器や新機能を実装させるとき、まずはISコアによる仕様の精査が行われる。そのソフトウェアがいまの機体との組み合わせで正常に稼働するかどうか、むしろ不具合を生じさせやしないか、チェックするためだ。たとえば、通常仕様の『打鉄』には、機体から動力を供給する方式のビーム兵器を動かすためのエネルギー・バイパスがない。その『打鉄』にビーム兵器を持たせようとすると、ISコアがエラーを発し、量子格納空間へのインストールを拒む、というセーフティが作動する。

 

 《オロチ・システム》の場合も、BT・OSに新機能として組み込んだ昨晩、このチェックを受けている。そしてこのとき、『打鉄』のISコアは、《オロチ・システム》の仕様から人間の思考の意識領域と、無意識領域にアクセスする方法を学んでしまった。ここに、今回の暴走事故の原因があった。

 

「『この人の望むことは、私がすべて叶える』……っスか。ほんのり、地雷臭のするコアっスね」

 

「《オロチ・システム》の実装によってBTエネルギーの新しい使い方を学んだ『打鉄』のISコアは、鬼頭さんの無意識の思考にアクセスした。この新機能を、最終的には災害の現場で役立てたい。早く完成させたい。その思いを、汲み取ろうとした」

 

 科学の実験は、まず簡単なものから始め、徐々に難易度を上げていく、というのが基本であり、大原則だ。鬼頭もそれに倣い、今朝の実験では、ちゃんとBTビームが発射されるかどうか。命中したビームのエネルギーが仕様書通りに変態し、命中者の思考波をこちらに伝えてくれるかどうか。その機能が正常に動いてくれるかどうかだけを調べるつもりだった。

 

 ところが、『打鉄』のISコアは、早く完成させたい、という、主人の無意識の声に注目した。サンプル・データは多い方が完成を早めるはず、と考えたISコアは、主の役に立ちたい一心で、《オロチ・システム》の動作に介入した。その結果が、鬼頭の技量では制御困難な全身からのビーム発射、無意識領域の声まで拾うという効果だった。

 

「原因は分かったっスけど……」

 

 ともに解析データを眺めるフォルテが、呆れた口調で呟いた。

 

「これ、どうやって対処するっスか?」

 

 暴走の原因は分かった。ISコアが何を考えているのかも分かった。しかし、どうすればよいのかだけが分からない。

 

 純粋な善意からの行為である。ISコア自身に悪気はなく、悪いことをしたという自覚さえない。そんな相手の考えを、どうすれば改めることが出来るか。具体的手段は、容易には思いつかない。

 

「いちばんの手段は、ISコアに直接、暴走を抑止するためのプログラムを打ち込むことだけどな」

 

「ええ。……ですが、それは不可能だ」

 

 互いの顔を見つめながら、鬼頭とダリルは小さく頷き合った。彼が篠ノ之束博士が独自に開発した暗号プログラミング言語を解読出来るかもしれないことは、余人の耳に入れば大騒ぎになるだろうからと、当面は三人だけの秘密にしておこうと事前に話し合っている。楯無とラウラの目線を気にした二人は、IS関係者にとっては常識とされることを、あえて口にしてみせた。

 

 それに、読めるかもしれないだけで、使いこなせるかどうかは分からない。篠ノ之博士独創のプログラミング言語は、文字の形といい、使い方といい、かつて親友から聞かされた異世界の言語に非常によく似ている。読み解き方もそのとき教わりはしたが、第二の母国語同然の彼と違い、自分は知っているというだけ。自在に扱えるわけではない。解読には時間がかかるだろうし、そもそも本当に、ISコアに使われているプログラミング言語が、あの異世界語をベースに組み上げられたものかどうかもいまの時点では分からない。仮に本当だったとしても、自分が新しい命令コマンドを打ち込めるかどうか……。プログラミング言語の解読を前提にした手段は、選択肢の外に置くべきだろう。

 

 しかしそうすると、どんな対処法を取ればよいのか。そもそも対処法なんてものが、存在する問題なのか。悩む鬼頭に、楯無が声をかける。

 

「これは、あれですね。鬼頭さんがISコアに、ご自分の考えを言って聞かせて、説得するしかありません」

 

「ははあ。……言い聞かせる?」

 

 鬼頭は訝しげな眼差しを生徒会長に向けた。コアを説得とは、ISコアに宿る心を説き伏せて、勝手なことをするなと言い聞かせろ、ということなのだろうが。具体的には、どうやって?

 

「勿論、言って聞かせる、というのは比喩ですが」

 

「というと?」

 

「プログラミングだけが、ISコアに自分の考えや気持ちを伝える方法ではない、ということです」

 

「ま、普通に考えたら、それしかないわな」

 

「ミス・ケイシー?」

 

 胸の前で腕を組むダリルが、得心した表情で言った。見れば、フォルテやラウラも、楯無生徒会長が言う比喩表現の意味を理解しているらしい。怪訝な面持ちなのは、己一人のみ。

 

「つまりさ、オレたちIS操縦者が普段当たり前にやっていて、あんたが今日まで避けてきたことを、あんたもやりな、ってことさ」

 

「それは――」

 

「ISの訓練。その過程における、ISとの対話」

 

 ダリルたちのようなIS操縦者であれば、誰もが目指す、一つの到達点。セカンド・シフト。そして、ワン・オフ・アビリティーの発現。これらの現象は、IS操縦者とISコアの相性が最高に高まったときで起こるという。そのISコアと操縦者がともに歩んできた経験の蓄積から、両者にとっての最適解……最高の姿、最高の技を導き出すのだそうな。

 

 このとき肝要なのは、ISコアと心を通わせることだ。愛機に組み込まれているISコアがどんな性格をしていて、何を好み、何を嫌っているのか。何がしたくて、何がしたくないか。自分に何を求めているのか。自分は何を求めてよいのか。言語による意思疎通が出来ないISコアと、そういった相互理解を深めるには、日々の訓練、毎日をどう一緒に過ごすかが重要となる。

 

 ダリルは、「それと同じことだ」と、言った。

 

「《BT・OS》とか、そういう機械に頼るんじゃなく、あんた自身の操縦技術で、ISコアに言うことを聞かせる。コアの挙動を、あんたの意思でコントロールするんだ。そのために、あんたは自分のISと、もっとコミュニケーションを取るべきなんだよ」

 

 ISコアに言うことを聞かせたいなら、まず、相手からの信用を得る必要がある。この男の発言ならば信を置ける、と。この男の指示には、耳を傾けるべき価値がある、と。ISコアに、そう思ってもらえるようにならなければ。

 

 そのためには、ISコアと操縦者間の相互理解が必要だ。なぜならば、信頼とは相手を理解しようとする姿勢より生じる気持ちだからだ。

 

 ISコアのことを知る。そして、ISコアに自分のことを知ってもらう。この『打鉄』に組み込まれたISコアに、自分という人間のことを理解させる。

 

 鬼頭智之とはこういう男なのだ。一足跳びの飛躍より、一歩々々、しかと地面を踏み固めながら進んでいくことを大切にしたい。そういう価値観を持った男なのだ。それを、日々の訓練の中で示す。この身を覆う鎧に、見せつける。

 

「鬼頭さんはこれまで、技術者ならでは手法で、ISにアプローチしてきました」

 

 ダリルの提言に、楯無も首肯した。

 

「今度は、操縦者としてISに触れてみてはいかがでしょうか?」

 

「私も更識生徒会長の意見に賛成です」

 

 鬼頭の顔を見上げて、ラウラも言った。

 

「私はまだ少ししかヘア・キトーの操縦ぶりを見ていませんが、補助OSの力を借りているとはいえ、その技量は素晴らしい、の一言でした。そのあなたが、IS操縦者として本格的な訓練を始める。なんとも胸躍る話ではありませんか!」

 

「ミス・サファイアも、同意見ですか?」

 

「まあ、そうっスね」

 

 鬼頭の問いかけに、フォルテは間髪入れずに首肯した。迷いのない所作からは、IS訓練に精を出すことこそが、あなたが採るべき最良の選択である、という強い確信がうかがえる。

 

 鬼頭は改めて自分を見つめる少女たちの顔を見回した。いずれも、ISコアとの相性が重要な特殊兵装を装備する第三世代機のパイロットたちだ。その言を疑う理由はない。

 

 期待の篭もる眼差しに、鬼頭は、応、と頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter35「きみとの付き合い方」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴールデンウィーク最終日の午後八時四十分。

 

 名古屋市中村区名駅にそびえ立つ、JR名古屋駅の新幹線乗り場のホームに降り立った滑川雄太郎は、半日ぶりに吸い込む住み慣れた街の匂いに、自然、安堵の表情を浮かべた。と同時に、長旅の疲れを思い出し、途端、膝の痛みに顔をしかめる。今日は本当に色々なことがあった。東京駅からの二時間近い新幹線の移動は勿論のこと、九十九里浜の海の駅では異世界云々の話までされ、肉体的にも、精神的にもたいへんな疲労を強いられた。今夜はこのまま真っ直ぐ帰って強めのウィスキーを一杯あおり、疲労感と手をつないでやって来た睡魔に身を任せてベッド・インしたい気分だが、生憎、そういうわけにはいかない。今日はまだ、桜坂室長たちとは別に、会わねばならない人がいるのだ。

 

 名古屋駅はJR東海こと東海旅客鉄道、JR貨物こと日本貨物鉄道、あおなみ線こと名古屋臨海高速鉄道、名古屋市営地下鉄の駅機能を一箇所に集約した、中部地方最大のターミナル駅だ。東海道新幹線の全列車が停車し、在来線は当駅を中心に各方面へと特急列車が発着している。市内各所を結ぶあおなみ線、直也市営地下鉄の東山線と桜通線も乗り入れているほか、名鉄名古屋駅、近鉄名古屋駅とも近接しているため、まさに東海・中部地方の交通の要といえよう。

 

 その歴史は明治十九年の名護屋駅開設に端を発する。当時の駅舎は現在よりも二〇〇メートルほど南方の湿地帯に置かれ、日本の東西の両京を結ぶ鉄道路線計画……中山道幹線建設のための資材搬入用路線が通る一駅という立ち位置にすぎなかった。転機となったのは、計画の見直しによって東海道幹線の敷設が決まったことで、路線の誘致に成功した名古屋駅は、以降、中部地方の鉄道交通の要衝として着々と成長していく。

 

 昭和十二年には高架化工事が竣工し、駅は現在の位置へと移転。このとき建てられた新駅舎は、当時の日本ではまだ珍しい鉄筋コンクリート造り。地上五階、地下一階、延べ床面積七万平方メートルという、国内最大級を誇る規模で、現在の駅舎であるJRセントラルタワーズの建設工事が始まる平成五年まで使用された。

 

 そのセントラルタワーズは、それぞれが地上二〇〇メートル超という二棟の高層タワーからなるツインタワー・タイプの駅ビルだ。中部地方で二番目に背の高いオフィス棟と、三番目に高いホテル棟、隣接するJRゲートタワーと接続している低階層部分から構成される。百貨店の高島屋やマリオットホテルなどを擁する複合商業施設で、従前は良くも悪くもターミナル駅としての位置づけでしかなかった名古屋駅周辺を、瞬く間に全国有数の商業エリアへと作り替えてしまった。勿論、食事処も多く、プロレタリア向けの懐に優しい店から、ビジネスシーンに好適な高級店まで様々な店が暖簾を掲げている。

 

 滑川は駅ビル北側にある新幹線乗り場の改札口を出ると、一階の太閤通口側に位置するレストラン街『名古屋うまいもん通り』へと靴のつま先を向けた。老舗のあんかけスパゲティ専門店に入るや、店内を、ぐるり、と見回す。

 

 待ち合わせ場所に大衆向けの店を指定したのは、滑川自身だ。技術屋としての腕っ節ひとつを武器に今日まで生きてきた自分は、腹芸が苦手だ。交渉事を進める上で、少しでも心理的なアドバンテージが得られればと、地の利を期待して使い慣れた店を選んだのだった。

 

 はたして、目当ての人物はすでにテーブル席に腰かけていた。内閣情報調査室の高品だ。謎の無人ISの襲撃以来、警護の名目でパワードスーツ開発室に頻繁に出入りするようになった内調職員の一人。滑川の目には、ゴールデンウィーク初日に鬼頭の護衛を務めていた姿が印象に残る人物だ。また、彼は知らぬことだが、暗部機関『更識』に仕える身でもある。

 

 滑川が相手の存在に気づいたのと同時に、高品もこちらの姿を認めた。軽く会釈し、手招きする彼のもとへ向かう。

 

 目線をテーブルの上に向けると、ボリューミーで知られる名古屋めしはすでにぺろりと平らげられていた。滑川が対面の席に座ったのを見届けて、すぐにやって来た店員がお冷やとおしぼりを彼の前に置く。

 

「ご注文が決まりましたらお呼びください。空いたお皿をお下げしますね」

 

と、滑川と高品を交互に見て、店員はあんかけパスタが盛られていただろう空の皿を持って厨房の方へ向かった。

 

 夜遅くにも拘わらず、がやがや、とやかましい店内の喧噪をむしろ心地よく思いながら、滑川は、まずは一口、コップに注がれた水で唇を濡らした。それから、熱いおしぼりで指先を清め、次いで額に浮かぶ脂汗を拭う。静かな口調で、彼は言った。

 

「いきなりお呼び立てしてすみません」

 

 滑川が高品に向けて軽く頭を垂れた。彼が目の前の人物に向けてメッセージ・アプリを起ち上げたのは、帰りの新幹線のぞみ59号の車内でのことだ。ちょうど、品川駅を出立した直後のタイミングで、『内調職員のあなたと、二人だけでお話ししたいことがあります。名古屋駅のうまいもん通りにある店のどこかで会えませんか?』とのメッセージを送った。『二人分の席を押さえました』という返信が送られてきたのは、その僅か三十秒後のこと。いきなりの誘いに応じ、また舞台のセッティングまでしてくれた彼に、滑川はまず謝罪と、感謝の言葉を述べた。

 

 対する高品は、愛想の良い微笑を口元にたたえながら、かぶりを振ってみせる。

 

「お気になさらず。私もちょうど、今夜は何を食べようか考えていたところでしたから」

 

 こちらの心的負担を軽減させるための方便だろうか。いや、先ほどまでテーブルの上にあった皿の様子から、本当に腹が空いていたタイミングでの連絡だったのかもしれない。スパイ機関の人間の発言をどこまで額面通りに受け取ってよいのか判断つかぬ滑川は、ひそかに、ごくり、と喉を鳴らした。

 

「旅行はどうでした? 楽しめましたか?」

 

 本題の前に軽い世間話から会話を始めるのは、スパイに限らず、交渉や営業といった会話術の基本だ。相手との雰囲気を和らげ、言葉を引き出しやすい状況を作り出すことがいちばんの目的だが、情報収集というねらいもある。当たり障りのない話題というのは、誰もが話しやすい。ために、相手の為人や趣味嗜好を知るためのとっかかりが得やすく、以降の話し合いで武器となりうる材料が豊富に見られると考えられた。

 

「ええ」

 

「差し支えなければ、どちらへ?」

 

 滑川は首肯すると、あらかじめ用意していた回答を口にした。

 

「下呂の温泉に入りに。寄り道で関の刃物会館も訪ねました」

 

 これからやろうとしている交渉の内容を考えると、桜坂の正体について九十九里浜で聞かされた内容を高品にも正直に告げるのは、不利益が大きい、と考えられた。異世界からやって来た云々なんて話、普通は信じてもらえない。それどころか、そんな法螺話を真顔で語る自分の正気を疑われかねない。そうなってしまえば、以降の発言すべてに対する信用度が著しく損なわれてしまう。狂人の言うことなど信用出来ない。狂人とは取引出来ない。そんなふうに思われることだけは、避けなければ。この男の言は信用出来る。この男が相手なら、交渉のテーブルに臨んでもよい。相手にそう思ってもらわねば。

 

 都合の良いことに、目の前の男は桜坂が自分たちを乗せたマイクロバスを念力でもって空に浮かせ、岐阜県を目指して北へと飛び立った姿を目撃している。

 

 政府からの追跡を撒くために、最初はひたすら北上したのが幸いした。滑川が口にした岐阜県下呂市という地名は、強い説得力を伴って高品の耳膜を刺激したはずだった。

 

 

 

 実際のところ、高品は滑川が嘘をついていることにすでに気がついていた。

 

 というのも、駅構内の各所に配置した内調のスタッフたちからの連絡で、彼が大阪行き方向の新幹線用の改札口から出てきたことをすでに知らされていたからだ。

 

マイクロバスで岐阜県へ向かった人間が、帰りの際は違う手段を用いた。それだけでも不自然なのに、まるで違う方向からの新幹線を利用してきた。行き先が下呂温泉でなかったことは明白だ。のぞみ59号の停車駅から察するに、横浜以東に赴いていたと考えられた。

 

 二人きりで話がしたい、という滑川の願いを、高品はふたつ返事で快諾した。本当に二人きりである必要はない。要は、話し合いの場には自分と高品の二人きりしかいない、と滑川に思い込ませればよいのだ。高品は駅構内に人員を配し、待ち合わせ場所の店内にも客として内調職員を紛れ込ませた。現在店内には、彼自身の他に二名が、マイクロカメラと小型の集音装置を懐に忍ばせている。

 

 知らぬうちに窮地へと自ら足を踏み入れたしまった滑川だが、無警戒ぶりを理由に責めることは出来ない。従前、諜報機関のごとしダーティな組織とは無縁の、基本的に善良な一般市民だった男だ。内調という組織が、自分一人のためにそこまでの監視体制を敷くという発想自体思い浮かばぬのも、無理からぬことといえよう。仮にそうした想像にいたったところで、ひそかに見張られている、という不慣れな状況へのストレスから、正常な判断力を失っていただろうことは想像にかたくなかった。

 

「ゆっくり羽根を伸ばせたようで、なによりです」

 

 あえてわざとらしさが見え隠れする口調を意識しながら、皮肉を口にした。こちらは岐阜県行きを疑っていないと、滑川に思わせるための作戦だ。結果は上々。特に怪訝な様子は見受けられない。

 

「行きはバスでしたが……」

 

 少しは追及しないと、かえって怪しまれる恐れがある。高品は相手の警戒心をいたずらに刺激しないよう、慎重に言葉を選びながら訊ねた。

 

「待ち合わせ場所にここを選んだのは、帰りが電車だったからで?」

 

「ええ」

 

 相手はこちらの虚言を信じていると思い込んでいる滑川は、ここで言葉を濁すのはかえって不自然だと言う。

 

「今朝、室長がバスを飛ばしたのをご覧になったでしょう? 向こうで少々、長居しすぎました。このままでは翌日の仕事に差し支えると、またバスを飛ばそうとしたので、それだけはやめてくれ、と」

 

 半分本当で、残りの半分は嘘で構成された説明だ。九十九里での話の後、帰りはどうするつもりだと問うアース1の桜坂ことリュウヤに、アース3からやって来た超人は「いや、こいつで帰るよ」と、コースターのボディを軽く叩いてみせた。重ねて、「陸路で?」と、問われ、「いいや、空路で」と、答える。途端、桜坂に心酔している美久を除いた開発室の面々は荒れた。また、あの地獄のような旅路を強制されてはたまらぬと、懸命なる抵抗が室長の身を襲った。

 

 呆れた表情でその様子を眺めるリュウヤが、各人に三万円ずつを握らせたのは直後のことだった。さすがは並行世界の同一存在。桜坂がどんな帰宅プランを腹中に抱えているのかを予想し、あらかじめ人数分の資金を用意していたらしい。

 

「もう一人の俺が本当に申し訳ない。とりあえずこれで、美味いモンでも食べてから、皆さんが快適だと思う手段でお帰りください」

 

 結局、美久を除いた全員がリュウヤからお金を受け取ることとなった。最初は金額が多すぎるとして、受け取りを拒んでいた者も、「こちらの懐は気にしないでください。後ほど、アレに請求しますので」と、桜坂を示され、まあ、それなら、と納得した。

 

「室長は文字通りの意味での超人です。素晴らしい能力の持ち主だとは思いますが、我々、普通人の気持ちが分かっていないときがままある」

 

 これから高品に話そうと考えている内容を思い、滑川は重たい溜め息をついた。彼がもっと自分たちの心に寄り添ってくれる人物であれば、こんなことをしなくてもすむのに、と他責思考が脳を支配する。

 

 そんな自身への嫌悪感から、滑川は話題の転換を急いだ。

 

「……本題に入りますが」

 

「はい」

 

 緊張した面持ちの滑川とは対照的に、高品の表情筋はリラックスしている。食後のコーヒーを舌で舐め、「どうぞ」と、話を促した。

 

「今日、お呼び立てしたのは」

 

「はい」

 

「あなた方を窓口に、日本政府と、取引をしたいからなのです」

 

 滑川を見る高品の双眸が、ぎらり、と剣呑に輝いた。コーヒーのカップで口元を隠し、表情を整えた上で言う。

 

「と、おっしゃいますと?」

 

「日本政府に、私たち、パワードスーツ開発室に務める全職員と、その家族の安全を保障していただきたい」

 

「……それは、いま、すでにやっていることですが」

 

「そうではない。私が言っているのは、そういう意味ではありません」

 

 滑川はかぶりを振った。どう言葉を操れば自分の考えを相手に伝えられるか、懸命に、頭と舌を働かせる。

 

「具体的には、我々に護衛をつけてもらいたいのです。いまのような、あなた方内調による護衛を建前にした監視なんかじゃなく、警察や、自衛隊といった、明確に、戦うための力と形を持った組織から、警護の人を派遣してほしいのです」

 

「いまの我々だけの態勢では不満だと?」

 

「はい」

 

「はっきりおっしゃる」

 

 高品は苦笑したが、腹立たしいとは思わなかった。むしろ、監視されている立場を自覚していながら、変におべっかを使ったりせず、はっきりと不満を口にした滑川の正直さに好感さえ覚える。

 

「そちらの要望はわかりました。それで、そちらが提供するものは?」

 

 滑川は取引という言葉を使った。一方的に要求を告げるのではなく、こちらからもそれに見合う対価を提供する。自分には、日本政府が特別な庇護をするだけの価値があると示してみせる。そんな意思が感じられる発言だ。

 

 はたして、滑川は硬い口調で言った。

 

「我々パワードスーツ開発室が研究中の、災害用パワードスーツの設計データを、あなた方に流しましょう」

 

「……それは、」

 

 高品は、たっぷりと一秒間黙考した末に、ゆっくりと口を開いた。心臓が早鐘を打ち始めたのを自覚する。脳裏で、最強兵器ISに果敢に挑みかかるXI-02の勇姿が思い浮かぶ。

 

「あの、XI-02のデータを、ということですか?」

 

「XI-02と、その前身であるXI-01。そして、この先に我々が生み出す、新たなるパワードスーツ。そのすべてのデータです」

 

 お前たちが我々につきまとっているのは、室長の監視が最大の理由だろうが、それも目的の一つなのだろう?

 

 目線で問いかける滑川を、高品はこちらも硬化した表情で見つめた。考えるための時間を長くとるべく、努めてゆっくりとした口調で言う。

 

「これは……たしかに、我々現場の一存では、判断しかねる内容ですね」

 

「はい。なので、ぜひともあなた方の上役に――それが直接の上司なのか、最終的なトップである司馬首相本人なのかは分かりませんが――お伝えしてください」

 

「かしこまりました」

 

 言いながら、司馬首相がこの申し出を聞けば否とは言うまい、と高品は予想した。

 

 現在の監視態勢を構築する際に、目の前の男の家族構成は七代前にいたるまで調べ尽くしてある。本人は結婚しておらず、子どももいない。一人息子であり、父方・母方含めて、親類縁者の総数は二十人を切る。その全員に警護の者をつけるのは、難しいことではあるが、日本警察や自衛隊、内調という組織の規模を鑑みれば、やれないことでもない。

 

 それに対し、得られる成果は莫大だ。災害用パワードスーツという、戦闘を主目的としていない機体――しかも、まだ試作の段階――にも拘わらず、最強兵器ISと一分以上渡り合うほどの高性能強化服の設計図を、その開発者の一人から入手することが出来る。

 

 高品たち末端の情報員が知るところによれば、内閣は現在、アローズ製作所に防衛産業入りをしてもらい、政府として正式にその開発を支援。その上で、商取引として自衛隊へのパワードスーツ納入を考えているという。

 

 しかし、設計データの入手が叶えば、他の選択肢を採ることが出来る。すなわち、防衛省が自らパワードスーツを作る。もしくは、日本政府とのつながりが深い他の企業に、製作を依頼する、といったオプションだ。それを考えると、滑川が提示した取引の内容は、政府にとって費用対効果に優れる、破格の商談といえよう。

 

 勿論、手放しには喜べない。

 

 パワードスーツ開発室は、アローズ製作所の持ち物だ。当然、スーツの開発を通じて得られた数々の知見は、会社の財産だといえる。そのデータを取引相手でもない他組織に横流しすることは、業務上の横領と考えられる。組織人の滑川にとって、その罪を背負うのはかなり重いことのはずだ。斯様なリスクを取ってまで、保身に走る理由は何だ? いったい、何を考えている……?

 

 美味しい話には何か裏があるのが世の常だ。滑川の二心がどこにあるのかを知るまでは、安易に取引のテーブルに着くわけにはいかない。

 

「……この話を上へ持っていくために、二つ、確認したいことがあります」

 

「はい」

 

「なぜ、私を呼んだのでしょう? 開発室に出入りしている内調職員は、城山さんなど、他にもいますが」

 

「ゴールデンウィークの初日に、」

 

「はい」

 

「鬼頭主任の警護についていましたよね? あのときに、あなたの立ち振る舞いを見て主任が言っていたんです。警察からの出向者じゃないかと」

 

 現在の監視態勢が敷かれて以来、自分なりに、内調という組織について調べてみた。主力を担うのは自衛隊か、警察からの出向者たちだという。

 

「あの人の目利きは信頼出来ますから」

 

「私の元いた組織については、置いておくとして」

 

 天才と呼ばれる男の眼力の凄まじさに内心肝を冷やしながら、平静を装う高品は言った。

 

「なぜ、警察関係者を呼ぼうと?」

 

「日本政府が、我々のパワードスーツに、軍用戦闘服としての潜在的可能性を見出していることは、薄々察しがついています。

 

 鬼頭主任は、自分の技術が軍事目的に使われるのをひどく嫌うんですよ。おそらくはあの9・11を、アメリカで経験したことが、関係しているんでしょう。

 

 私は一人の技術者として、あの人のことを尊敬しています。私のやろうとしていることは、仲間たちへの裏切りです。それなのにこんなことを言うと、偽善者ぶっているように……いや、実際に偽善者なんですが――」

 

「はい」

 

「それでも、あの人の気持ちだけは裏切りたくない。自衛隊の方には、この話を持ちかけたくなかった」

 

 空虚な言葉だった。高品のことを警察関係者だと信じ、この場には自分と彼の二人しかいないという前提を信じきっているがゆえの、無邪気な発言だ。

 

 ――いや、それ以前にそもそも……。

 

 高品は、ちら、と、他の二人に目線をやった。そのうち片方は、陸上自衛隊から派遣された軍人だ。彼は滑川の顔を一瞥し、嘲笑を口元に浮かべた。

 

「内調の最終的なトップは、当代の内閣総理大臣です。設計図データをどう扱うかは、最終的に司馬総理がお決めになることです」

 

「はい」

 

「あの方はおそらく、あなたたちのパワードスーツを軍用に再設計し、自衛隊に配備するよう命令するでしょう」

 

「ですがそれは、私があの人を裏切ったことにはならないはずです」

 

 怯えと焦りが同棲する動揺した眼差しが、高品を見つめた。

 

「私は弱い人間です。小心者で、卑怯者なんです。

 

 言い訳が欲しいんです。俺が裏切ったんじゃない、という言い訳が。本当はデータの横流しなんてしたくはない。でも、そうしなければ俺自身の身が危なかった。だから、裏切った。本当は裏切りたくなんてなかったが、仕方なく、裏切った。仕方のないことだった。そうやって自分を慰める言い訳が、欲しいんです。

 

 鬼頭主任のこともそうです。設計図のデータをあなた方に渡せば、どんな未来が待っているか。子どもでもわかることだ。だから、俺に出来る範囲のことで、なんとかしようとした。警察出身の内調職員にデータを渡すことで、軍事利用に対する警戒のポーズを示した。俺はあなたのことを信用してデータを渡した。でも、あなたはその情報を自衛隊でも使えるものとして総理に渡した。裏切ったのは、俺ではなくあなた。俺が鬼頭主任の気持ちを裏切ったんじゃなく、あなたが俺の信じる気持ちを裏切った。そういう形に、持っていきたいんです」

 

 胸の内に抱える懊悩をすべて吐き出すかのように、滑川は口早に言の葉を継ぎに継いだ。言葉を紡ぎ出すほどに、自分を見つめる高品の眼差しが、どんどん冷ややかなものになっていることには気がつかなかった。

 

 ――醜い。その一言に尽きる。

 

 自分の言動に対し、責任を背負おうという覚悟がまるで感じられない。

 

 自分で判断し、決断したことにも拘わらず、その理由を平気で外に求め、他人に押しつける。他責思考の強い人間だ。職場では嫌われるタイプだろう。斯様な人物がパワードスーツ開発室では重用されているとは。よほど、技術屋としての腕っ節に優れているのだろうか。

 

「……いま、あなたの身が危ないと、おっしゃいましたね?」

 

 滑川の弁はまだ続いていたが、高品はそれを遮り訊ねた。

 

「二つ目の質問です。どうして、このような取引を?」

 

 現状の警護態勢に不満があると、彼は言った。たしかに、前言の通り内調は直接的な武力を奮って戦うための組織ではない。人員も、装備も限られているし、法が許す活動の範囲も異なる。警護の他に、パワードスーツ開発室や超人・桜坂の監視も目的の一つだから、二つの目的が競合した場合に、どこまでのことが出来るか、してやれるか、という問題もある。

 

 とはいえ、仮想的が一般人であれば十分、強力といえる布陣だ。

 

 今回の警護任務では、内調職員たちの中でもとりわけ屈強な男たちが選抜され、参加している。目の前の人物は以前に、男性操縦者の存在を認められぬ女権団体の人間から理不尽な怒りのはけ口に利用された経験があるというが、その程度の脅威であれば、現状の態勢でも対処は可能だ。

 

 いやそもそも、パワードスーツ開発室の面々のかたわらには、あの超人がいるのだ。最強兵器を素手で打倒せしめるほどの男の庇護の下に身を置きながら、いったい何に怯えねばならぬというのか。

 

 はたして、滑川は、その最強の男にこそ原因がある、と強調した。

 

「あの無人ISを撃退し、あなた方の監視が始まった頃に、室長は、我々に言ってくれました。自分の持つすべての力を駆使して、我々を守ってくれる、と。超人の言葉です。非常に力強く、頼もしい発言です。だからこそ、失望せずにはいられませんでした」

 

「というと?」

 

「室長は超人です。人を超えた存在です。だから、我々普通の人間の気持ちが、理解出来ない。我々の気持ちに、寄り添ってくれない」

 

 桜坂は、強い。しかし、一人しかいない。この世界にただ一人きりの、本当の意味での超人だ。ゆえに、彼には限界がある。目の前の大敵を打ち払うことは出来ても、視界の外で起こる悲劇を防ぐことは出来ない。現に自分は、彼の目が届かぬ場所で襲われ、怪我を負った。

 

「強い室長には、分からないんです。会社からの帰り道、なんの備えも、気構えもしていないところに、突然、襲いかかられる……、あの恐怖が!」

 

 当時のことを思い出し、滑川は、ぶるり、と胴震いした。見通しの利かぬ夜間、突如として何かの液体が入った瓶が視界に現われ、放物線を描きながら向かってくる。咄嗟に右手を伸ばしたおかげで、軽い火傷程度の負傷ですんだが、後で警察から中身は強酸性の薬品だったと聞かされてぞっとした。もし、顔にかかっていたら。もし、目の中に入っていたら。もし、口の中に侵入し、呼吸器をずたずたに焼かれていたら……。

 

 滑川は独身者だ。妻子はいない。しかし、自分をこの年齢まで育ててくれた、年老いた両親はいる。自分がいま職を失えば、残された彼らはどうなる? 万が一、命を落としてしまったりしたら、彼らはどうなる……?

 

「ましてや、今回現われたのは、女権団体なんてちんけな相手じゃない。ISです。最強兵器です。もしまたあいつが……あいつを、送り込んだ誰かが! 二正面作戦を展開して、室長が、片方の相手しか対処出来ないときに、もう片方のが、俺たちに襲いかかってきたら……!」

 

 とてもじゃないが、安心など出来ない。桜坂の力強い言葉は、なんとも頼りない。

 

「だから、あなた方に守ってほしいのです。私を。開発室の皆さんを」

 

 滑川は立ち上がると、高品に向けてゆっくりと頭を垂れた。

 

「お願いします。なんとか、政府につないでください」

 

「滑川さん」

 

 彼を見つめる高品の双眸からは、いつの間にか険しさが抜け落ちていた。

 

 卑怯者には違いない。仲間たちを裏切ることに対する罪悪感を、他人に責任を押しつけることで誤魔化そうとしている男だ。しかし、裏切りの理由は、他ならぬ仲間たちを守るため。異世界からやって来た超人に心酔するあまり、彼はただ一人きりの存在である、という事実を見落としてしまっている、開発室の仲間たちを、守るため。

 

 仲間たちの身を想うがゆえに、仲間たちを裏切る。その決断には、共感できた。

 

 高品は。内調の職員であり、更識の諜報員でもある男は、「まずは上司に伝えてみます」と、滑川の肩を叩きながら言った。

 

 

 





今回、唐突にミリタリー・ウォッチの話題があがったのは、作者が最近、g-shockを買ったからです。
フルメタルのB5000D、いいゾ^~これ!





 以下は原作の描写から作者が考えた、本作独自の設定である。

「インフィニット・ストラトス」本編で明言されているわけではないので、混同しないよう注意を。


<ISコアとの相性とISの性能、IS適性について>

 ISコアには人間でいう心のような存在が宿っている。原作における白い少女や、操縦者を守ろうと行動した福音の意思などが、それである。この、ISコアに宿る心と、操縦者の性格的な相性の善し悪しを表わすスケールのことを、本作ではIS適性だと解釈する。

 IS適性はS、A、B、C、Dランクの五段階尺度で評定される。Dランクに近づくほど相性が悪い状態。Sランク、Aランクに近づくほど好相性な状態と評価される。IS適性が高いほど、ISコアからの協力を得やすい=機体の性能を引き出しやすい状態だといえる。

 個別のチューニングを別にして、ISメーカーは機体を開発する際、Aランクを基準に性能を造り込む。理論上、Aランクで百パーセントの性能が発揮でき、Bランクでは七割程度、Cランクでは本来の性能の半分も引き出せない、というふうなイメージ。たとえば、機体は同じ『打鉄』でも、機体AのISコアとの相性は良いが、機体Bのコアとの相性が悪い場合は、戦績に大きな差が生じてしまう(この際、操縦者には、『今日は調子が悪い』、『セッティングがかみ合わなかった』などの感覚として、手応えがフィードバックされることが多い)。

 適性Sランクの操縦者がISに搭乗すると、メーカーが想定する機体の限界を、大幅に超過した性能を引き出すことが出来る。また、Sランク適性者や、Aランク適性者の中でも特に好相性な一部の者たちは、経験の蓄積や、何らかのきっかけによって、機体形状の変化や新たな機能の発現といった現象を引き起こすことがある。これが、セカンド・シフト、ワン・オフ・アビリティーと呼ばれる事象である。

 また、IS適性は変化する。人間関係が付き合い方によって変化するように、IS適性も、最初(第一印象)は低かったのに、一緒に行動するうちに相互理解が進んで高くなったり、逆に低下したりする。DランクからSランクへの成長も、不可能ではない。

 なお、IS学園入学時に行われる適性検査は、それ専用に調整されたISコアを用いて行う。その手法も、コアごとの性格の違いによらない、一般的にISコアから好かれやすいか否かを問うような質問を行うことで、適正ランクを算定するというもの。この質問は、我々人間社会において、人の物を盗むのは悪いことだと思うか否か、というものに近い。一般に盗みは悪い行為とされるが、中にはそれを善行として評価する者もいるかもしれない。

 よって、入試で高い適正値を出したからといって、すべてのISコアに受け入れてもらえるわけではない。あくまでも、受け入れてもらいやすい、というだけ。入試では適性Aランクだった娘が、いざ専用機持ちとなった際に、あてがわれたISコアとの相性が悪く伸び悩む、というのはよくある話……と、本作ではする。



〈オリジナルIS〉
スプリット・クロー

和名:裂爪
型式:FFF-01
世代:第二世代
国家:アメリカ合衆国
分類:全距離対応強襲型
装備(基本仕様):対戦車装甲バトルナイフ《G-bar》 × 2
五一口径アサルト・ライフル《レッド・バレット》 × 1
一番径ライオット・ショットガン《コメディアン》 × 1
M134《ミニガン》 × 2
ドラム型スラスター・ユニット《ホーク》 × 2
装甲:熱衝撃吸収分散式装甲マークⅤ
仕様:ハードポイント付きモジュール・ベース
容姿:第二世代機としては大柄なIS。身体各部を直線的な平面で構成された装甲が覆っており、その見た目は六~七十年代のマッスルカーを彷彿とさせる。腰部を守る小型のスカート・アーマー背面部からは半月状のモジュールベースが伸びており、ここに後付け兵装をマウント可能。

 米国MD社製の量産型第二世代。第二世代機の中でも初期に開発された機体で、当時の技術的な洗練不足から、各部装置の大型化・総体としての機体の大型化を招いている。その巨体は同世代の『打鉄』や『ラファール』を圧倒し、同じく技術力の問題で大型化しやすい第三世代機と並べても違和感がないほど。もっとも、機体が大きいということはそれだけ内部容積に余裕があるということでもあり、結果として内部機器の更新が容易という長所にもなっている。

 その開発コンセプトは「戦争に勝つためのIS」というもの。競技用でも、宇宙開発用でもない、当時の米軍の軍事ドクトリンの中で運用して最大限に活きる機体として設計されている。IS用の装備は勿論、既存の米軍の装備を使用可能。

 ミニ・スカート・アーマー背部のモジュールベースには四箇所のハードポイントがあり、ここに後付け兵装をマウントすることが出来る。モジュールベースに搭載した兵装は同時運用が可能で、たとえば対テロ拠点強襲用装備では、ロケット発射筒二門による砲撃を叩き込みつつ、M134ガトリングガン二挺の猛烈な火線で敵兵を薙ぎ倒し、万が一生き延びた兵が玉砕覚悟で突っ込んできたときには《コメディアン》散弾銃で迎撃する、というような戦法が採れる。


 既存の米国製兵器の多くが運用可能なことから、IS開発能力を持たない親米国家での採用例が多い。商業的にも成功した機体で、異なる環境での運用実績のフィードバックにより、絶えず改修と改良型の研究が行われている。現在、米軍に配備されている現行主力機はA5型で、これは米国が新たに開発中の第三世代機『ファング・クエイク』のテストヘッド機にも用いられている。最新型のA6型は、このときの試験データを応用した、第二・五世代機とでもいうべき機体である。

 IS学園には研究用に導入した初期型が二機、機体としてはほぼ完成の域に達したA2型が四機、第三世界向けに色々と装備を省いた結果、ダウングレード版にも拘らず競技用ベースとして高い評価を得ているA3型が二機の計八機が配備されている。ただし、いずれも一般生徒からの貸出申請の人気は今ひとつで、ISコアを搭載した、常時稼働状態にある機体は三機のみ。そのうち一機は研究専用という扱い。世界的ベストセラー機も、IS学園においては不遇機だった。



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Chapter36「鍛錬開始」

作者は「頭文字D」も、「湾岸ミッドナイト」もどちらも大好きです。





 

 

 今後の訓練方針を巡って、ああでもない、こうでもない、と、議論に夢中になりすぎた。気がつけば、昼休みの終了まで五分もない。

 

 自分たちがいまいる第三アリーナ整備室から各人の教室までは、最も近いところでも早足で三分はかかる。

 

 途端、慌てた様子で後片付けをして退室する少女たちの背中を見送り、整備室に一人残った鬼頭は、改めて備え付けのワーキングチェアに深めに座り直した。

 

 切れ長の双眸が、依然として出力されたままの空間投影式ディスプレイをねめつける。画面と向き合うその顔に、授業に間に合わないことへの焦燥は一切見受けられない。一年一組に課せられた次の授業は、IS学園では数少ない一般教科の科目だ。鬼頭は特例で免除が許されているから、余裕を胸に解析作業を継続できた。

 

 解析装置の走査端末には、いまだ待機状態の『打鉄』が接続されている。鬼頭はメカニカル・キーボードを操作して、今朝の暴走事故についてのデータ・ログを画面に表示した。先刻、ダリルらと肩を並べて覗き込んだものとは異なる記録だ。ダリル・ケイシー、フォルテ・サファイア、湊美由紀、轡木十蔵、石川夕夢と、五人の名前が並んでいる。

 

 《オロチ・システム》の照準用ビームが命中してしまった者たちのパーソナル・データだ。ISコアの暴走によって《オロチ・システム》が制御不能状態に陥ったあのとき、彼女らが何を考えていたのか、その記録である。極めてプライベートかつデリケートな内容のために、少女らの前では見るのが憚られ、先ほどはあえて表示させなかった。というのも、ISコアのいらぬアシストにより、本人も自覚していない無意識の声を拾ってしまったせいで、なぜそういう思考にいたったのか、という前提にまつわる情報までもが、仔細に記録されてしまったからだ。ダリルはなぜ、あのとき、こんな考えを抱いたのか? フォルテは? 十蔵は……? その中には、当人も秘密にしておきたいだろう事柄もあった。

 

 平静であれ。平静であれ。と、口の中で呟きながら、鬼頭は悪意なく曝いてしまった秘事の数々をゆっくりと噛みしめた。

 

 用務員の十蔵がまさかこんな要職にある人物だったとは。フォルテとダリルがそんな関係にあったとは! ダリルが、そんな秘密を抱えているとは……。平静であれ、と何度も自分に言い聞かせているにも拘わらず、鬼頭は顔を青くする。

 

 だがそれ以上に、鬼頭の顔色を悪くさせる情報があった。

 

 ――……何度数えても、五人しかいない。

 

 照準ビームが命中したのは五人。揺るがしようのない事実が、彼の心を打ちのめす。

 

 思い起こすのは今朝のアリーナでの出来事だ。己の不調を察知したダリルに背後から抱き支えられながら、《オロチ・システム》を停止させるべく空間投影式のキーボードに指先を伸ばした、あのとき。小さな声に、耳膜を叩かれた。

 

『……父さん』

 

 幼い、少年の声だった。聞き覚えのある声だった。いいや、そんなはずがない。彼の声が聞こえるはずがない。きっと、自分の聞き間違いだ。何度もそう思い込もうとしたが、駄目だった。自分が、彼の声を聞き間違えるはずがないのだ。自分が、あの子の声を忘れるはずがないのだ。

 

 ――あれは、間違いなく智也の声だった。

 

 僅か十歳でこの世を去った愛息のことを思い出し、鬼頭は咄嗟に心臓の位置に手を添えた。彼のことを想うと、いまなお胸が苦しくなる。

 

 苦痛で弱った心が聞かせた幻聴と切って捨てるには、鮮明すぎた。

 

 しかし、機体に搭載されているボイス・レコーダのどこを探しても、そんな記録は見つからない。

 

 それならば、と、一縷の望みを胸に《オロチ・システム》とそれに介入したISコアの方の履歴をあたってみた。可能性は低いが、命中者の五人が、自分の知らないところで過去に智也と会っており、そのときの記憶を思い出したかもしれぬ、と考えたためだ。あるいは、あのときは心に余裕がなく気がつかなかったが、実はあの場に六人目の人物がおり、その者の心の声だったのかもしれない。しかし、こちらも結果はネガティブ。苛立ちだけが募る。

 

「……やはり、幻聴だったのか」

 

 客観的なデータからは、そう判断せざるをえない。その一方で、いいや、そんなはずがない、となおも否定しようとする心がある。直感が、ある。

 

「あの声は、いったい……」

 

 千々に乱れる心の動揺に苦悶の表情を浮かべ、鬼頭は五人の名前が並んだディスプレイを睨み続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter36「鍛錬開始」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 IS学園の学生寮は、一年生棟、二年生棟というふうに、学年別に建てられた三棟のビルから構成されている。三棟の学生寮は人工島の一画にまとまって建っており、その周囲を、ぐるり、と島内連絡用の舗装路が囲んでいた。この道路は一周がおよそ一・八キロメートルあり、適度に長いことから、生徒たちの中には体力作りのためのランニング・コースとして利用している者が多い。

 

 相川清香もそのうちの一人だ。

 

 午前六時二五分、彼女は朝のジョギングに精を出していた。学園のジャージに身を包み、履き慣らしたスニーカーの踵でアスファルトを蹴って進む。朝の透明な空気を鼻から短く二度吸い、口からまた小さく二度吐く度に、寝起き直後でまだ眠たげな、身体中の細胞が急速に揺さぶり起こされていくのを感じていた。

 

 朝の走り込みは、清香にとって日課の一つだ。中学時代にハンドボール部に所属し、全国大会に進出した経験を持つ彼女は、IS学園でもハンドボール部の門を叩いた。ハンドボールは跳んだり駆けたり運動量の激しい競技だ。レギュラーを目指すのならスタミナの醸成は不可欠である。

 

 それでなくとも、ISの操縦には体力勝負な面がある。清香は中学生の頃からの日課をここでも続けていた。学生寮区画外周の一・八キロメートルという数字は、陸上中距離競技の一五〇〇メートルや二〇〇〇メートルに近く、目標タイムの設定がしやすい。ここを九分程度のゆったりペースで終えると、全身の火照りが丁度良く、すっきりとした気持ちになれるのだった。続けて二本目を走るか否かは、そのときの気分次第だ。

 

 学園に敷設された道路は、重い軍事物資や重量級の軍用車両の通行も考慮して広く、そして平坦に造られている。地面に塗りたくられたコンクリートは分厚く、学園の生徒たちによる連日の走り込みにもまったくへこたれていない。

 

 いつもながら非常に走りやすい道だ。靴底を通り抜けて足裏に伝わる硬い感触を楽しみながら、清香は軽快な足取りで前へ、前へと風を切る。途上、自分と同じように朝の走り込みに励む者たちと、すれ違いさまの挨拶を交わす。

 

 やがて一周を走り終え、出発地点の一年生寮の正面玄関前へと戻ってきた彼女は、今日はもう一周をどうしようかと考えながら、なんとはなしに、目線を寮棟のすぐわきへとやった。

 

 学生寮のかたわらには、生徒たちの憩いの場になるようにと、ちょっとした公園が設けられている。テニスコート一面半ほどの広場の周りを、景観を整えるための草木が囲い、三人がけのベンチが六脚散らされている、かなり簡素な造りの施設だ。その広場の中心に立つ、見慣れぬ装いに身を包んだ、見知った男の姿を認めて、清香は思わずぎょっとした。

 

 和装束姿の鬼頭だ。手綱柄の袷に袖を通し、腰帯には、なんと鞘ぐるみの大刀を閂に差している。飾り気のない地塗りの拵は、IS学園という特殊な環境にあってなお異質であり、少女の動悸を自然激しくさせた。鬼頭智之は居合の達人、という学園内でまことしやかに囁かれている噂話が、脳裏をよぎる。

 

 清香は足音を立てぬよう留意しながら公園の方へと歩を進めた。鬼頭が何をやっているのか気になったためだ。

 

 近づくにつれて、自分以外にも男の様子をじっと覗う者たちがちらほらいることに気がついた。清香にとってはお馴染みの顔ぶれだ。彼女同様、朝のジョギングを日課にしている生徒たち。みな一様に息を潜め、足音を殺し、固唾を呑んで鬼頭の一挙一動を見逃すまいとしている。清香も、それに倣って行動する。なぜだか、いまこの場は静寂に支配されていなければならないという強迫感に襲われた。白い花が愛らしいシャリンバイの木をかたわらに、息を殺す。

 

 切れ長の双眸を半眼とする鬼頭は、静かな呼吸を繰り返しながら、その場に立っていた。息を吸い込む鼻孔にも、吐き出す口元にも、大仰な動きは一切見られない。両の肩からは見事なまでに力が抜けており、足の開きは肩幅よりやや狭い。腰の向きは無論正面。まさしく自然体であった。

 

 何度目かに、息を吸ったときのことだ。体側に下げていた右手が、静かに動き出した。遅れることなく、左手が鍔元に伸びていく。

 

 右手が柄に触れ、鯉口が切られた。

 

 応じて、右足が一歩、素早く、そして力強く前へと進撃する。

 

 腰を正対させたまま鞘を引き絞るや、二尺七寸の大刀が横一文字に鞘走った。

 

 短い刃音。長尺の刀身が、男の胸の高さで空を斬り抜く。

 

 眼前より殺到する仮想敵の機先を抜き付け一閃で制し、そのまま上段へと振りかぶった。

 

 運剣の主たる左手が柄尻を握り、刀勢は凄絶さを帯びる。

 

 裂帛の気合いを篭めた真っ向振り下ろしが炸裂し、幻の血煙が鬼頭の視界で迸った。

 

 しかしながら、眼前の虚空へと向けられた鬼神の眼光からは、勝利を確信した喜びは一切見受けられない。

 

 地面に倒れ伏す対手が最後の力を振り絞って躍りかかってこないか、残心をはらいながら、ゆっくりと刀を鞘に納めた。

 

 右手が柄から離れる。次いで、左手が鞘から。

 

 再び両の手を体側へと追いやった鬼頭は、また、だらり、と肩の力を抜き、深呼吸。

 

 三度目に息を吸った際に、両の手を刀に伸ばし、抜き打ち、真っ向振り下ろした。居合の基本技だ。そのまま、幾十度となく繰り返す。稽古を重ねる。

 

 剣を振るうその度に、体は熱を帯び、筋肉はほぐれ、関節の可動域は広がっていった。

 

 一太刀振るうその度に、技の冴えが明らかに増していくのが見て取れた。

 

 男の独り稽古を見つめる清香の喉が、こく、と鳴る。

 

 この瞬間、彼女は自分と、鬼頭以外の存在を忘れてしまった。

 

 いや、清香だけでなく、この場に集ったみながそうだった。誰もが、鬼頭の見せる単調な、それだけに精妙さが際立つ技に見惚れていた。

 

 清香が特に注目したのは、腰の重心がほとんど動いていないことだった。

 

 前に出ては戻り、また前に出ては戻る。まるで機械のような精緻さでもって同じ動作を繰り返す鬼頭だが、その体高はほとんど上下していない。居合はおろか、剣道のルールさえよく知らぬ彼女だが、前後左右はもとより、上下にも激しく動かねばならないハンドボールの経験から、それがいかに繊細な体捌きなのかは容易に想像がついた。普通は、相当な慎重さを胸にゆっくりと行って、ようやく可能な所作のはずだが、鬼頭の動きは素早く、また、格別に注意を払っている様子はない。長年の修練によって体に染みついた動きを、普通にやっているだけ。そんな印象を受ける。

 

 

 

 鬼頭が鍛錬を始めて、四半刻が過ぎた。

 

 時計の針は間もなく七時を示そうとしている。

 

 ちょうど百本目の型を終えたところで、鬼頭は剣を動かす手を止めた。あらかじめ、ここでやめと決めていたようだ。

 

 鬼頭はいつの間にか十数人にまで増えていた観衆をぐるりと見回した。自身に注がれる視線には、とうの昔に気づいていたらしい。やわらかく微笑むと、

 

「粗末なものを披露しました」

 

と、腰を折った。鬼頭自身の口により静寂が破られ、少女たちは口々に感嘆の呟きを漏らす。

 

 鬼頭が袷の袖で額を拭う。反射的に清香は前へと踏み出し、ジョギング時の常で首から下げていた水色のスポーツタオルを彼に差し出した。

 

「鬼頭さん、これ、使ってください」

 

「ありがとうございます、相川さん」

 

 迂闊にも手拭いの備えを忘れていた鬼頭はありがたくタオルを受け取ると、首筋に押し当てる。近くで見れば、玉の汗が噴き出していた。襟口から胸元へ差し入れたところで、はたと動きを止める。

 

「失礼。ちゃんと洗って返しますので」

 

「お気になさらず」

 

 気まずそうに言う鬼頭に、清香はにやにやと笑った。

 

「あ、それとも、洗濯の前に何か別のことに使うおつもりで? 現役女子高生の体液が染みこんだタオルを」

 

「こら」

 

 諧謔を孕んだ口調。本気で嫌悪しているわけではないとすぐに分かったから、鬼頭も苦笑しながらたしなめる。

 

「大人をからかってはいけませんよ」

 

 言いながら、汗を拭ったタオルを返す。受け取った清香の視線は、自然、角帯のこじりに差し込まれた黒い鞘に向けられた。

 

「それ、本物の日本刀ですか?」

 

「うん? ああ、これですか」

 

 鬼頭は左手を鍔元に添えると、親指だけを使って鯉口から柄の部分を押し出した。ちら、と覗くはばき。次いで、刀身。清香は、あれ、と目を見張る。いままでまったく気がつかなかった。鬼頭の剣は、竹光であった。

 

「本身の刀も、持ってはいますがね。年頃のお嬢さん方の前で振り回すのは、刺激が強すぎるだろうと思いまして」

 

 鬼頭がIS学園に持ち込んだ刀は、二尺七寸の大刀が一振。普段は衣装棚の奥の方に、大切にしまわれている。かつて自分に居合の技を教え込んでくれた友人が、高校の卒業式を迎えたその日の晩に、稽古用にと譲ってくれた思い出深い刀だ。

 

「アメリカじゃあ居合の稽古具なんて簡単には手に入らないだろうからね。餞別だよ。持っていってくれ」

 

「いや、あの、これ、税関……」

 

 友人からの心づくしを嬉しく思う他方で、これを携えて渡米せよ、と無茶を言う彼女に、MITへの入学を控えた若き日の鬼頭は小さな声で反駁した。しかし、そこは生来の気の強さ。自分の主張を曲げるということを知らぬ娘である。重ねられた強い言葉に根負けし、やむなく鞘を握らされた、という経緯があった。

 

「なるほど。でも、どうして急に居合の練習を? いつもはこの時間、やっていませんよね?」

 

 毎朝、学生寮の周囲を走っているが、二番目の男性操縦者のこんな姿を見たのははじめてだ。鬼頭もそれに頷き、独り稽古を実施するにいたった経緯を口にした。

 

 平素、鬼頭は人目につくのを嫌って、鍛錬は寮の自室にて行っている。その内容も、最低限感覚が鈍らぬように、と剣の柄を握り込み、手の内を練るにとどめていた。IS学園学生寮の部屋は広く、天井も高いが、さすがに剣を縦横無尽に振り回せるほどの空間的余地はない。

 

 その彼が、刀身を竹光に差し替えてまで独り稽古をやろうと思い立ったのは、昨晩のことだ。

 

 曰く、昨日偶然に知り合った上級生たちと、今日からしばらくの間、放課後にIS訓練をともにする約束を交わしたという。その備えとして、眠っていた体を叩き起こし、意識を研ぎ澄ませる必要があった、と彼は朗らかに語った。

 

「ここ最近は、研究のため部屋に篭もりきりでしたから。訓練に臨む前に、身体を温めておかねばと、思いましてね」

 

 運動機能だけのことだけではない。イメージ・インターフェースを駆使して機体を動かすISの操縦において、集中力というのは特に重要な要素だ。特に自分の場合は、ISコアとの対話というその目的を考えると、機体からの情報はどんな些細なものであれ、目敏く見つける必要がある。挙動の微細な変化。操縦時のかすかな違和感。そういったものが、愛機に積まれたISコアを理解するための第一歩につながる可能性がある。それらを見落とさぬために、感覚を研ぎ澄ませる。そのための独り稽古であった。

 

「刀を振るっているとね、時計弄りや、クルマを運転しているときはまた違った領域の――言葉で表わすのは難しいですが、意識の集中が出来るのです」

 

 それが、いまの自分には必要なのだ。

 

 鬼頭は完爾と微笑むと、竹光の刀身を鞘の内へと戻した。

 

 

 

 

「――ってなことがあったんだよ」

 

 午前八時十分。

 

 一年生学生寮の食堂。

 

 八人用の大型テーブルをみなで囲みながら、清香は同席する面々に今朝の公園での出来事を話した。顔ぶれは、一夏、シャルル、箒、セシリア、陽子、本音、夜竹さゆか、そして清香自身の計八人。長方形型のテーブルの、長辺側に分かれて座っている。清香の側には陽子、本音、さゆかの四人が椅子に腰かけ、残りの者たちは反対側という配列だ。

 

 朝食はほぼ全員がすでに終えている。のんびり屋の本音と、日本食の珍しさにいちいち反応しているシャルルの二人だけがまだ食べている最中だが、それももうすぐ終わるだろう。二人が手を合せるのを待っても、一限目の授業に十分間に合う時間帯だった。ために、食事を終えた六人も、お茶の味とおしゃべりをゆっくり楽しむ余裕がある。

 

 清香が鬼頭の居合術について言及したのは、そんなまったりとした雰囲気がテーブルの上を支配している中でのことだった。「そういえば今朝珍しいものを見たんだ」と、切り出した清香の話に、その場にいた全員が引き込まれた。世界でたった三人しかいない男たちの、貴重なプライベートの顔だ。関心を抱かぬわけがない。

 

「ははあ、それで父さん、今朝は早起きだったんだねぇ」

 

「陽子、気づいてなかったの?」

 

「いやあ、父さんが何やらゴソゴソしていたのは気づいたんだけど、それより眠気が勝りまして。二度寝、しちゃったぜ」

 

 二回目に目が覚めたときにはもう、父は部屋に戻った後だった。しかもそれからすぐに、放課後の訓練のことで楯無らと話し合ってくる旨を告げて退室してしまったため、何をしてきたのか聞く暇がなかったのだ。

 

 そういえば、と清香の話を聞ききながら、陽子は思い出した様子で呟いた。今朝は父の左手に、見慣れたボーム&メルシェの姿がなかった。代わりにはめていたのは、時計好きの間でカシオークと呼ばれる、八角形ベゼルを備えたG-SHOCKだ。ボーム&メルシェのボーマティック同様、父がIS学園に持ち込んだコレクションの一本。「どうしたの?」と、訊ねたところ、「今日はタフな男でありたい気分なんだ」との返答。あのときは気にしていなかったが、これも今日のIS訓練に備えた、意識の切り替え行為だったのかもしれない。

 

「一本……ってことは、他にも時計が?」

 

 フランス人らしく食後にはコーヒーを注文したシャルルが訊ねた。昨日、転校してきたばかりの彼は、鬼頭智之という人物のことをまだよく知らない。

 

「父さん、時計好きなんだよ。名古屋に暮らしていた頃は、十二本用のケースが何箱もありました。IS学園に持ち込んだのは、その中の選び抜かれた精鋭部隊」

 

 普段遣いの時計と、ビジネス用の時計。遊びのための時計に、ラフな使い方にも耐えられるタフな時計。周囲を笑わせるためのネタ時計。そして、ここぞという場面で気持ちを奮いたたせるために腕に巻く、とっておきの勝負時計の、計六本だ。彼らを選ぶ際、父が一晩かけて悩んでいた姿は記憶に新しい。

 

「カシオークは、重作業が予想されるときとか用の、タフネス時計だって言っていたなあ」

 

「へえ。カシオークっていうのは?」

 

「G-SHOCKってわかる? CASIOっていう、日本の会社から出ている時計なんだけど」

 

「うん。フランス軍にも、愛用者は多いよ」

 

「その一つでさ。公式な愛称じゃないらしいんだけど、オーデマ・ピゲってブランドの、ロイヤルオークっていう時計によく似た見た目だから、カシオのロイヤルオークで、カシオークって。父さんみたいな、時計好き界隈の人たちがそう呼んでいるらしいよ」

 

「ふうん。なんだか面白いね」

 

「……なあ、相川」

 

 清香の話が始まってからずっと険しい面持ちの箒が、会話の途切れ目を待って口を開いた。見れば、隣に座る一夏も表情筋が強張っている。

 

「確認なんだが、鬼頭さんは竹光の刀身で、居合の稽古をしていたのだな?」

 

「え? う、うん」

 

「……どう思う、一夏?」

 

「あの噂は本当だった、ってことだろ」

 

 箒の目線を受けて、一夏は硬い口調で言った。箒を除いた全員の視線が彼に集まる。

 

「おりむー?」

 

「智之さんのことだよ。ほら、居合の達人だって噂があるだろ? あれは本当のことだったんだなって」

 

「一夏、それ、どういう意味?」

 

 同じく一夏の隣に座るシャルルが訊ねた。清香からの話だけで、なぜそんな評価を下せるのか。いまの話の中に、剣道経験者の二人だから気づけた、“何か”があった?

 

「その、竹光っていうので練習していたのは、そんなにすごいことなの?」

 

「竹光っていうのは、竹とか、樫の木なんかを薄く削って、日本刀の刀身っぽく仕上げた、刀の代用品のことを言うんだよ」

 

「うん。それはさっき、相川さんが話している最中にも教えてもらったから分かるけど……」

 

「もとの素材が素材だし、本物の日本刀並みに薄く削られているから、本身の刀と比べて圧倒的に脆いんだよ。雑に扱えばすぐに割れたり、折れたりする。稽古……練習に使えるような強度は、もともとないんだ」

 

 ああっ、と、清香の唇から驚嘆の声が漏れ出た。今朝、鬼頭が握っていた竹光に、傷らしい傷が一切なかったことに今更ながら気がついた。

 

 同じ刀の代用品でも、竹光は木刀や竹刀とは異なる文脈から生まれた道具だ。撃剣稽古の安全性を高めるために開発されたこれらの稽古具は、過酷な修練の供にも耐えられるよう頑丈に造り込まれる。対して、竹光は武士が見映えを良くするために用いるファッション・アイテムの一種として開発された。本身の刀を持てない状況へと追いやられたときに、周囲の者にそうと悟られぬよう代わりに差すものとして生まれたのだ。外観を整えるための道具だから重くある必要はなく、むしろ軽い方が好まれる傾向にあり、必然、刀身は薄く削られ、強度も低いというのが一般的だ。

 

 そして、鞘からの抜き差しという動作は、熟練者の技術がなければ、刀身と鞘に強烈な負担をしいる。柄を握り込む際の指のかけ方や力の入れ具合、日本刀に特有の、反りを持った形状の刀身を引き抜く上で絶えず求められる微細な角度の変化。すべての要素が万事上手くかみ合わなければ、刀身と鞘とは激しくぶつかり、擦れ合うことになる。

 

 これが本身の刀であれば、多少荒っぽく扱ったところで大事はないだろう。鞘にしても、内側が多少削れる程度で、割れるまでには至るまい。

 

 しかし、竹光刀身の場合は事情が異なる。

 

 木をごく薄く削っただけの竹光では、手元のちょっとした狂いが刀身の破損へとつながってしまう。最悪、鞘から引き抜く途中で、ぼきり、と折れてしまいかねない。

 

「ましてや、智之さんがやっていたのは居合の練習だ」

 

 抜き打ちの一太刀で相手の機先を制するために、抜刀には速度と、勢いが求められる。竹光の刀身を損なうことなくこれを実現するには、速さの中に、正しい抜き差しという繊細な技を組み込まねばならない。一夏や箒の目に、それは至難の業と映じた。

 

「智之さんは、そんな難しい技を何十本も繰り返したんだよ」

 

「それって、刀身に、まったくストレスがかかっていない、ってことだよね? ムッシュ・トモユキは、それだけ刀の扱いが上手いってこと?」

 

「そういうことだな」

 

「付け加えると、鬼頭さんの竹光は二尺七寸という大太刀だ」

 

 一夏の説明を、箒が補足した。

 

「刀を鞘から引き抜くとき、普通は、柄を握って剣を引っ張る右手の動きと、鯉口を握って鞘を引く左手の動きを連動させるものだが、これほど長尺の刀となると、それだけでは一息のうちに抜き打つのは難しい。両手の動きに加えて、腰の回転運動が重要だ」

 

 鞘を差した左腰を、前へ向けて振り出すように回す。

 

 そこまで言った上で、箒は、「しかし……」と、清香を見ながら言った。

 

「相川が言うには、鬼頭さんは腰の高さをほとんど変えないで、前進と後退を繰り返していたらしいな?」

 

「え? う、うん。そう、見えたけど……」

 

「つまり、相川は鬼頭さんの腰の動きに特に注目していたわけだ」

 

「まあ、そうなるね」

 

「そのお前の目に、鬼頭さんの動きはどう見えた? 大仰に、腰を振るなどの様子はあったか?」

 

 記憶の海原から質問の答えを探し出そうとして、絶句した。言われてみれば、そういう意味で印象に残った動きは皆無だ。むしろ、すべての動作は無駄な力みを感じさせない、自然な振る舞いだったように思う。

 

 そんな清香の反応を見て、箒は、やはりな、と得心した様子で頷いた。前進と後退を繰り返す際の腰の高さがほとんど変わらなくて驚いた、という発言から、おそらく腰の動きを注視していたはずの彼女が、それについて言及をしなかったため、多分そうだろうと思ったのだ。

 

「腰の動きに注目していた相川の目に、違和感を覚えさせないほど微細な動きだったか。もしくは、違和感を覚えさせない自然な動きの中に、剣の理合を織り交ぜていたのか。どちらにせよ、相当な実力者なのは間違いないだろう」

 

 当時中学生とはいえ、剣道全国大会優勝の経験を持つ猛者の発言だ。声の強張りを隠さずに紡ぎ出された言葉は、説得力に満ち満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 第六アリーナは、校舎本棟中央タワー内に管制室を持つ、学園最大の規模を誇る巨大アリーナだ。サッカースタジアムのように長方形状のグラウンドを持ち、長辺側の長さはなんとおよそ二・五キロメートルもある。その広さゆえに、普段の授業で使われる機会は少ないが、高速機動実習やISレースの練習が国内で可能な数少ない施設の一つとして、学園内でも非常に重要な役割を担っている。

 

 放課後、楯無の案内に従って第六アリーナにやって来た鬼頭は、彼女とともに訓練を見てくれるというダリル、フォルテ、ラウラの四人から、今後こなすべき課題についてレクチュアを受けていた。

 

 示された内容は、とてもシンプルなものだ。ISレースの初心者用障害物コース十周一セットを合計五本、これから毎日こなしてもらう。ISの訓練をさせられると聞いて、てっきり銃でも握らされるのかと思っていた鬼頭は、少々肩透かしを食らった気分で訓練メニューの所以を訊ねる。

 

「なぜ、ISレースの練習を?」

 

「ISバトルに強いことと、ISの操縦技術に優れることは、必ずしもイコールではありませんから」

 

 楯無は完爾と微笑みながら言った。

 

「鬼頭さんが目指すべきは、ISの訓練を通じて、コアと対話すること。ISコアとの、相互理解を深めることです。そのためには、少なくとも最初のうちは、純粋に操縦技術だけを磨いてもらった方がいい、と判断しました」

 

「というと?」

 

「対戦競技の場合は、相手という変数をどう攻略するか、ということも考えなくてはいけません。その点、ISレースのタイムアタックなら、純粋に、自分の操縦技術を磨くことだけを考えて、練習ができます」

 

 ISレースは、ISバトルの競技形態の一つで、文字通りISを使った空中レースのことだ。単機で飛んでレコード・タイムを競うタイムアタックや、複数の機体が、よーいどんっ、で一斉にスタートして一着を目指すスプリント、障害物コースを走るサバイバル、障害物コースに加えて選手間の妨害行動が許されているキャノンボールなどの種目がある。楯無たちはその中でも、障害物コースでのタイムアタックを鬼頭に課した。

 

「勿論、タイムアタックにも、厳密に言えば競争相手はいます。でも、それは一緒に出走するわけではない。キャノンボール・レースのように、相手の飛行ルートを潰すラインを選択して飛ぶ、とか。相手のスピードが乗りやすいこのポイントで射撃を叩き込む、とか。そういう、余計な作戦を考える必要がありません」

 

「シンプルに、ISの操縦が上手いヤツが勝って、下手なヤツが負ける。競争相手に勝つ最善手が、技術を磨くこと、ってわけさ。その意味で、自分の技術を磨くことだけに専念しやすいだろう、ってな」

 

「なるほど」

 

「あ、でも、勘違いしないでほしいんスが、私たちはべつに、ミスタ・キトーにISレーサーになってほしいって、言っているわけじゃないっスからね。いまのミスタ・キトーに必要な訓練はコレだ! って、選んだのが、たまたまISレースの、タイムアタックだった、ってだけスから」

 

「わかっていますよ」

 

「これから鬼頭さんにやってもらうのは、」

 

 楯無は手元に空間投影式ディスプレイとキーボードを出力した。第六アリーナの管制画面を起ち上げると、コースの詳細を設定していく。

 

「少し、変わったタイムアタックになります」

 

 鬼頭の方を向いたまま、楯無はキーボードを叩いた。初心者用障害物コース。一同の頭上で、空間投影式のCGモデルが次々出現し、群れをなす。

 

 すべてが同じ形をしたCGだ。直径三十メートルになんなんとする、巨大なリング状のオブジェクト。一つ一つに、算用数字で一から三六までの番号が割り振られている。ISレース用のチェック・ポイント・ゲートだ。これらが複雑に配置されることで、ISレースのコースが形成される。

 

 楯無の指先がコースを決定すると、CGのゲートたちは一斉にその場から飛び立っていった。スタートとゴールを兼任する一のゲートから順番に位置取りがなされ、やがて一周を形作る。見覚えのあるコース・レイアウトだ。ISレース用に距離こそ変わっているが、もしや、この形は――、

 

「……富士スピードウェイ?」

 

「あ、お気づきになりました?」

 

 さすがクルマ好き、と楯無は微笑んだ。

 

「ISレースのコースには、世界中の著名なサーキットに範をとったものが多いんですよ。富士スピードウェイはそのうちの一つです」

 

 静岡県小山町にある、日本を代表する国際レーシングコースだ。一四七五メートルものホームストレートを筆頭に、スピードアベレージの高さが特徴的な高速サーキット……と、一般には思われがちだが、実はコーナーの大半が低速~中速コーナーであり、テクニカルサーキットとしての側面も併せ持っている。コースの攻略にはあらゆる速度領域に対応した高い総合力が求められ、その意味では、なるほど、ISレースにおいても初心者こそ学びの多いコースといえよう。

 

「勿論、ISレースはエアレースですから、三次元機動を加味したアレンジが加えられていますが」

 

「それに、これは障害物レースだぜ」

 

 ダリルが言うと、空間投影式ディスプレイに初心者用の障害物、全十六種類が表示された。ミサイル・ランチャーや散弾銃など、高速移動体ISの足を鈍らせる効果を持った、嫌らしい武器の数々だ。

 

「コースのあちこちに、こいつらが設置される。どこに何が配置されるかは、すべてランダムだ。しかもそれは、一周ごとにリセットされる。次の周回では別の場所に、別の障害が出現するってわけだ」

 

「……なるほど。一周目では素通りできたポイントが、二周目ではいきなり牙を剥いてくるかもしれない。常に集中力を切らさずに飛べ、ということですか」

 

 ダリルは返答の代わりにニヤリと笑ってみせた。

 

「間違っても、陸のレースと同じに考えてくれるなよ?」

 

「このコースで、鬼頭さんにやっていただくことは二つです」

 

 ダリルの言葉を、楯無が引き継いだ。

 

「一つは、私たちが設定したタイムを目指してください」

 

 軽く手首を振り、持っていた扇子を、ばっ、と広げてみせる。扇面には、件の目標タイムと思しき数字が記されていた。

 

「目指すタイムは、これ一つです。早すぎても、遅すぎてもいけません。毎周々々のタイムを、なるべく誤差なく、この数字に揃えるよう努力してください」

 

「……周回の度に数も種類も、配置さえ変わる障害物をくぐり抜けて?」

 

「はい」

 

「それでも、すべての周回で目指すタイムは同じ?」

 

「そうです」

 

「ははあ、なるほど」

 

 鬼頭は少し考え込み、やがて諧謔混じりに微笑んだ。

 

「つまり、私に高橋涼介になれ、ということですか」

 

「たかはし……ええと、誰です?」

 

「おや、ご存知ありませんでしたか」

 

 怪訝な顔をする楯無に、鬼頭はいたって真面目な口調で言う。

 

「かつて北関東最速と呼ばれた、伝説的な走り屋の名前です」

 

 漫画の登場人物ですが、とは、胸の内でのみ呟かれた。

 

「皆さんが考えてくれた訓練の内容と、彼がホームコースを走るときによくやったというトレーニングメニューの内容が、とてもよく似ていたので。てっきり、そちらに範をとったのかと思いましたが。ただの偶然でしたか」

 

「? ヘア・キトー、走り屋とは何です?」

 

「誰よりも速く公道を走ることに命を懸ける、名もなきアスリートたちの別名ですよ」

 

「なんと! そんなサムライのような者たちが、まだ現代にいたとは!」

 

「……私も日本にやって来てまだ二年目で、日本語についてあまり詳しくはないっスけど……絶対に違うと思うっス。ボーデヴィッヒさん、騙されないでくださいっス!」

 

 感心から目を輝かせるラウラの両肩を掴み、フォルテはその身を揺さぶった。

 

 その様子を微笑ましげに眺めつつ、鬼頭は楯無との会話を続ける。

 

「ということは、もう一つのやってほしいこととは、訓練終了後のレポート提出のことですか?」

 

「え、ええ。……まさか、それも?」

 

「ええ。高橋涼介式のトレーニング法です」

 

 漫画に登場した手法と同じだからといって、馬鹿には出来ない。あの漫画や楯無たちが呈示する訓練法は、これはこれで理にかなったもの、と鬼頭は考えていた。

 

 重要なことは、データベースの構築と、レポート作業による言語化だ。

 

 常に自己ベストの更新を目指してしゃかりきになるのも大切なことには違いない。しかし、一つの規定タイムを目指してあれこれ考えながら創意工夫を凝らすのも、それはそれで学びが多いはず。

 

 たとえば、ある周回のあるポイントで障害物に引っかかり、何秒かのロスが発生したとする。当然、遅れた分をリカバリーするためにあれこれ考え、試すわけだが、そういう体験の積み重ねが、いずれは自分の中に巨大なデータベースを築くことになる。何がタイムに良い影響を与え、何がタイムに悪い影響を与えるのか。このコースのこのポイントはこの技術を駆使して飛ぶとよい。この障害物に対してはこう対処するとよい……。基準となるタイムを設定することで、そういったことが明確化される。

 

 その上で、訓練の効果をいっそう引き立てるのがレポートを起こすことによる言語化だ。どのコースをどのように飛んだか。一周目はこう飛び、こういう結果が生じた。二周目はこのポイントでこの障害物が発生したため、それを避けるべく別の飛行ラインを選んだところ、タイムはこうなった。そういった経験を一つ一つ言語化することで、乱雑に積まれただけのデータに、見出しがつくようになる。記憶の検索性は格段に向上し、似たようなコースの似たようなポイントに遭遇したときに、「あのとき試したこの技が使える!」といったことが、直感的に、引き出せるようになってくる。

 

 ――そしてそれは、ISコアに対しても同様のことがいえるだろう。

 

 人間でいう“心”に相当する世界を内包しているとされるISコアだ。このデータベースは、当然、コアの側にも構築される。こういう状況に遭遇したとき、鬼頭智之はこういう解決方法を好む。鬼頭智之はこういう飛び方が得意……。こうした蓄積は、相互理解への一助となってくれるに違いなかった。

 

「今日は最初ですし、万が一事故が起きたときにすぐフォローに入れるよう、一セットごとに、私たちの誰かが交代で伴走します。勿論、変な飛び方をしたらその都度、ビシバシ指摘するので、そのつもりでお願いしますね」

 

 胸の前で腕を組み、年齢に比して豊満な双子丘を張りながら、楯無は微笑んだ。

 

 鬼頭も完爾と微笑み、「そいつは心強い」と、応じる。四人ともが、国家代表候補生以上の立場にある専用機持ちだ。その実力はみな折り紙付き。コーチ役として、頼りがいのある娘たちといえよう。

 

「早速、始めましょう」

 

 言い放つや、楯無はその身に金色の燐光を纏った。愛機の『ミステリアス・レイディ』が展開し、ロボットアームが四肢を武装する。どうやら最初の伴走者は彼女らしい。

 

 鬼頭は頷き返すと、右手中指に嵌めた黄金の指輪に意識を傾けた。

 

 ――あらためて、よろしく頼むぞ。

 

 胸の内で囁きかけると、現代の鎧具足が男の体を覆った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter36「鍛錬開始」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三年前。

 

 ドイツ連邦共和国、ミュンヘン。

 

 待ち合わせ場所として指定されたルートヴィヒ通りの一画に、フォルクスワーゲンのミニバンがやって来たのは、約束の時刻より十分遅れてのことだった。小さく舌打ちしながら助手席側のドアを乱暴に開け、車内の顔ぶれをじろりと睨む。運転手の男はオータムの顔を見るなり肩を強張らせ、ぺこぺこと何度も頭を下げた。後部座席に座る二人の男も、「すみません。すみません」と、各々遅れてきたことに対する謝罪の言葉を口にする。等しく、見た目だけは屈強そうな男たちだ。対して、オータムはふわりと癖っ毛の強いロングヘアーが優美な、ぱっと見は華奢な女。四人の力関係を知らぬ者がこの様子を目撃していたなら、さぞかし珍妙な光景とその目に映じたことであろう。

 

 オータムは三人の容姿について、頭の先端から履いてくる靴のつま先までしげしげと観察し、やがて不機嫌そうに溜め息をついた。助手席のシートに、どかっ、と腰を下ろす。助手席のドアを閉めてやると、運転手の男はなおもぺこぺこしながら、ブラックのシャランをゆっくりと発進させた。ドイツを代表する国際都市の街並みが、オータムの視界で滑り出す。

 

 しばらくして、スモークフィルムが貼られたウィンドー越しに外の景色を眺めながら、彼女は吐き捨てるように呟いた。

 

「……最近はどこの業界も人手不足で困っているって話だけどサァ」

 

「は?」

 

 反応したのは運転手の男だ。高い鷲鼻。日焼けした浅黒い肌。顔の造りのみを語ればなかなかのハンサムだが、女の自分に怯えるその姿からは、性的な魅力を感じられない。

 

「まさか私たちの業界まで人材不足に悩むことになるなんてなぁ。……お前たち、ちゃんと仕事は出来るんだろうな?」

 

「わ、我々は……ドイツ支部から今回の仕事のために、選抜されました」

 

「そう聞いているよ」

 

「つまりは、その、ドイツ支部でも、こういう仕事に関しては、腕利きの三人が集まっていると、自負しております」

 

「腕利きねぇ……」

 

 オータムは車内の三人を小馬鹿にした様子で嘲笑した。

 

「待ち合わせの時間も守れないような奴らがか」

 

「それは、その……、道が、当初の想定以上に混んでいたからでありまして……」

 

 運転手の男は前を見ながら弱々しい声で言った。ミュンヘンの人口はおよそ一五〇万人。加えて、観光地としても有力な街ゆえに、普段から車両の数は多い。しかし、今日に限ってはいつもの何倍もの数の車列が道路でひしめき合っている。当然のことだ。いまこの街は、盛大なカーニバルの真っ最中なのだ。

 

「遅刻した学生みたいな言い訳をしているんじゃねえよ」

 

 オータムは剣呑な口調で吐き捨てた。ルームミラーに目線をやり、後部座席の二人に言う。

 

「……お前ら、頼むから仕事だけはきっちりこなしてくれよ? これ以上、私を苛立たせてくれるな」

 

 後部座席の二人は顔を見合わせた。しばらくの間、彼らはどちらが彼女に返事をするか、どんな回答をするかで揉めに揉め、最終的に、二人揃ってこう答えた。

 

「最善を尽くします」

 

 

 

 ルートヴィヒ通りにやって来たフォルクスワーゲンのシャランが、オータムを拾ってから二時間後、ミュンヘンの街を代表する高級ホテルの一つ、バイリッシャー・ホフのとある一室から、一人の少年の姿が消えた。

 

 IS操縦者の最高峰を決める世界大会、第二回『モンド・グロッソ』の、決勝戦が始まる四時間前のことだった。

 

 

 

 




IS世界のドイツ警察にとって、織斑一夏誘拐事件って、ミュンヘンオリンピックのとき以来の大失態よね。



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Chapter37「理解までの距離」

いつの間にかUA数が114514を超えていたことに涙がで、出ますよ。

これからも拙作をオナシャス!




 

 

 

 午後五時二二分。

 

 IS学園第六アリーナ。

 

 学園最大の規模を誇る闘技場の大空間を、いっぱいに使って展開された初心者用障害物コースを、鈍色の光線へと変じた鬼頭が駆け抜けていく。

 

 身に纏うISは、無論、愛機の『打鉄』だ。BT・OSは起動させず、標準の運動制御プログラムを駆使して、PIC、各部の補助スラスター、スカート・アーマー背部のロケット・モーターを連携させている。前傾気味に体が正面を向いた飛行姿勢はどっしりと腰の据わった安定感があり、コーナーを始めとするコースの突然の変化にも遅滞なく対応してみせていた。

 

 二セット目の伴走者として少し後ろを飛ぶダリルは、その背中を眺めながら、「上手いもんだ」と、口の中で呟いた。ISに乗り始めてまだ一ヶ月少々のルーキーにしては、なかなか堂に入った飛び姿だ。襲いくる障害物の数々にも、よく対処出来ていると思う。すでに一セット終わらせた後で、未見の障害物はもうなくなっているとはいえ、どこに何が配置されているのか分からないという状況は、変わらぬストレッサーのはず。それなのに集中を切らさず、冷静さを見失わず、出現した脅威の程度に応じて、その都度、適切な対応策が採れている。なんとも可愛げに乏しい、優秀な生徒だ。おかげで指導役の自分は、もう四周目を終えようかといういま時点になっても、助言らしい助言を何一つ口にさせてもらえない。

 

 ――一セット目は、まだ危なっかしさも目立ってたんだけどなあ。

 

 専用機持ちたちによるIS訓練が始まって、速くも一時間半が経とうとしていた。

 

 生徒会長の楯無が伴走者を務めた一セット目は、鬼頭も初めての経験ばかりで、低速から高速までの全速度領域への対応力が求められるテクニカルコースの攻略に四苦八苦していた。一周目から三周目までは、楯無が喉を休められた時間は僅かに過ぎず、鬼頭も額を大粒の汗で濡らしながら、一つ一つのポイントに対処していた。

 

 状況が変わり出したのは、四周目を迎えた直後のことだ。

 

 初心用コースのモデルになった富士スピードウェイは、スタートとゴールの前後に長大なストレートを持っている。同サーキットを象徴するロングストレートで、最大のオーバーテイク・ポイントだが、調子に乗ってスピードを出しすぎると、直後に待ち受けるヘアピンコーナーの攻略に苦労することになってしまう。オーバースピードで突入すればコースアウトは必至だし、逆にブレーキングのタイミングが早すぎると、その後は低速~中速のコーナーが連続するため、アクセルを開いての挽回が難しい。

 

 ISレース用のコースも同様のレイアウトを採用しており、コースを攻略する上での難所の一つとされていた。

 

 ISに搭載されているPICは、静止状態からいきなり最大速度まで加速したり、逆に最大速度から静止状態に減速したりを、理論上は、限りなくゼロ秒に近い間に行うことが出来る。イメージ・インターフェースの作用によって、こう、と意識した直後には、機体の加減速は完了している。この機能を駆使すれば、ヘアピンコーナーの攻略は、一見、難しくないように思えるかもしれない。しかし、現実にこれを行うのは、まず不可能だ。

 

 超科学の結晶たるISだが、それを操るのは人間だ。操縦者の感覚は、静止状態からの超音速、超音速からの静止といった、速度の急すぎる変化に耐えられない。

 

 高速道路を長時間運転した後に一般道を走ると、速度感覚の違いに戸惑うことがある。PICを使ってのゼロ秒減速・ゼロ秒加速は、それを何百倍にも強烈にした感覚の麻痺が、コンマ・ゼロ数秒という、気構えを練るには短すぎる時間のうちに襲いかかってくることになる。

 

 人間の適応能力は段階的に発揮される。PICの加減速機能も、現実的には十分な時間――といっても、IS基準だから、それでもかなり短い時間だが――をかけての加減速が基本だ。ゆえに、ISレースでも陸のレースと同様、ハイ・スピードを維持した状態でロングストレートからのヘアピンをパスするのは難しいとされていた。

 

 加えて、今回のレギュレーションは障害物競技。周回ごとにランダムに配置された障害の数々が、予期せぬタイミングで牙を剥いてくる。ブレーキングのタイミングを計って集中力を高めているところにロケット砲が襲いかかるなどの妨害を受ければ、集中は乱れ、必然、機体の挙動もおかしくなる。タイムへの影響は甚大だ。

 

 四周目に突入した鬼頭の身を襲ったシュチュエーションは、まさにそういう事態であった。

 

 これまでの三周の経験から、ハードブレーキングをかけ始めるポイントはここと思い定めていた彼が、目的のエリアに到達した次の瞬間、コースの両脇に対空砲の陣地が突然現われ、彼の行く手を塞ぐべく十字砲火を開始した。勿論、空間投影式のCGだ。発射される銃弾に当たっても、実際にシールドエネルギーが減少したり、機体が損傷したりといったダメージは負わない。しかし、仮想ダメージは受ける。演習モードと認識しているISコアが、命中部位とダメージ判定を即座に下し、仮想のシールドエネルギーを減少させる。ダメージによっては、その部位が損傷した仮定でパフォーマンスを低下させる。そうなると、挽回は一気に難しくなる。

 

 対空陣地の出現は、鬼頭にとって、また伴走者の楯無にとっても、まったくの不意打となった。衝突事故予防のため五十メートルの安全距離をとって後ろを飛ぶ楯無が、対処法を教示する間もなく、鬼頭は十字砲火の中に突入していった。

 

 このときの様子を見ていた外野のダリルたちは、この瞬間、この周回ついて、等しく同じ未来予想図を思い浮かべた。すなわち、十字砲火に襲われた鬼頭はPICを制御するための集中を大いに乱され、機体の挙動は不安定に。当然タイムに影響し、以後はそのロスをどう取り返すかで苦慮することになる。そんなシナリオだ。

 

 ところが、そうはならなかった。二十ミリ弾の嵐の猛威の中に飛び込んだ鬼頭は、なんと、あえて増速したのだ。アン・ロック・ユニットの二枚の盾でバイタルパートを防御しながら真っ直ぐに進み続け、危険地帯の強引な突破を試みる。

 

 専用機持ちたちの目に、その対処法は最適解とは映じなかった。しかし、不意打を受けてなお、鬼頭の集中力はいささかも動揺していないことに驚かされた。銃弾飛び交う危険地帯を最短時間で通過する。そのために、盾を操り、あえて加速する。これは、冷静な判断力なしには取りえぬリアクションだ。

 

 次いで、ダリルたちは驚きの光景を目撃した。銃火の被害を最小限に留めることに成功した鬼頭だが、そのために、ブレーキングのスタート・タイミングを逃してしまった。むしろいっそうの加速により、このままでは、コースアウトは必至。タイムどころの話ではない。

 

 コーナーへと突入した鬼頭の身体が、がく、と動揺した。直後、時速一八〇〇キロメートルから時速二〇〇キロメートルへ、一瞬で減速。ゼロ秒減速だ。男の脳神経を苛む、速度感覚麻痺の衝撃!

 

 ダリルの隣で状況をモニターするフォルテが悲鳴をあげた。

 

 画面に映じる鬼頭は、瞼を閉ざしていた。

 

 速度変化による目眩は、視覚情報によるところが大きい。なるほど、あえて視界を閉ざすことで、感覚麻痺に翻弄されることを避けたのか。しかし、それでは――、

 

「どうやってヘアピンを!?」

 

 十分な減速を果たした鬼頭は、のびやかにヘアピンコーナーを曲がってみせた。勿論、瞼は閉じたままだ。すかさず、待機状態のISたちがその飛行ラインを解析し、結果を操縦者らに伝える。直前三周目にクリアしたときと、九七パーセント以上が一致。ダリルたちは唖然とし、瞠目した。わずか三周分の経験と記憶を頼りに、頭の中にコースの姿を思い描き、PICを操作したというのか。

 

「ははあ、大体わかりました」

 

 ヘアピンを抜けた鬼頭が、目を開けた。冷笑を浮かべながら、呟く。

 

「わかってきましたよ、このコースの飛び方が」

 

 後ろを飛ぶ楯無の口数が目に見えて減り始めたのは、このときからだ。以降、鬼頭はコースの難所、障害の数々を、自らの力で突破していった。

 

 一つ一つの飛行技術は、いかにも素人くさい、粗の目立つものだ。しかし、いまの自分の技量でタイムを揃えるためにはどうすればよいか。どんなことに気をつければ上手く飛べるようになるか。障害物のいなし方。コースの攻略法。この場所でこの障害物が現われたときの対処法。この難所にこの障害物が組み合わさったとき、いまの自分の力で突破するには、何をすべきか。そういったことを、常に頭の中で考えに考えながら飛ぶ彼は、周回ごとに、着実に上手くなっていくのが見て取れた。それどころか、経験に勝るダリルたちをして、驚くような飛び方を見せることさえある。

 

 そうやって十周目を終えたとき、壮年の鎧武者はすっかり独り立ちしていた。

 

 そして二セット目。伴走者のダリルはほとんど仕事のないまま五周目を迎えようとしていた。勿論、訓練後のレポート作成の一助とするために、後ろ姿の撮影は続けているが、閑居との戯れを自覚せずにはいられない。

 

 そんな彼女が違和感を覚えたのは、五周目に突入してすぐのことだった。

 

 ――……何だ?

 

 先行する男の背中を見つめながら、アメリカからやって来た代表候補生の少女は困惑した表情を浮かべて、口の中で呟いた。

 

 ――周回ごとに、飛びやすくなっているような……。

 

 気のせいかと疑い、『ヘル・ハウンド』のログ・データにアクセスする。明らかに、タイムに有意な差が生じていた。いったいなぜ……? やおら一つの仮説に思い至ったダリルは、驚きから、こく、と喉を鳴らした。

 

 ――……まさか、ラインか?

 

 後でその効果を検証するために、伴走者はなるべく鬼頭が飛んだラインをなぞるような機動を心がけている。

 

 鬼頭のラインは周回ごとに微妙に変化していた。自分なりに、タイムを揃えるために最適なラインを探しているのだろう。このポイントで一秒遅れたときは、次のここをこのラインで飛ぶ。逆に一秒のアドバンテージを得てしまったときは、障害物避けを意識した安全なラインを選択する。そうした試行錯誤の結果が、ラインに反映されているように思う。

 

 その飛行ラインが、段々と良くなっていることに気がついた。同じ一秒を詰めるためのラインでも、新しいラインの方がいくぶん飛びやすく、突然の襲撃にも備えやすい。そんな感想を幾度も抱き、偶然ではないと確信を抱く。

 

 ――マジかよ……。この男、この短時間のうちに、ライン取りの技術まで向上し始めてやがる!

 

 飛行ラインの取捨選択なんてものは、普通、飛行技術そのものを身につけてから取りかかるものなのに。

 

 ――そういやクルマ好きって言っていたな。スポーツ走行の経験も、あるんだったか。

 

 もしかするとモータースポーツの知識がラインの取り方に気を配る、という意識を当たり前のものとしているのかもしれない。

 

 それにしてもなんと濃密な時間なのか。物覚えが良いなんて言葉では、とてもじゃないが称賛しきれない。一周飛ぶごとに、すさまじい勢いで成長している。これが、

 

 これが、天才――、

 

「天才・鬼頭智之」

 

 ゆっくりとその名を呟き、噛みしめる。噛みしめて、口角を吊り上げた。好戦的な笑み。

 

 なるほど、日本政府やイギリス政府が歓心を買おうと躍起になるわけだ。これほどの男と知った上であれば、なるほど、一ヶ月前に実家の叔母が、盗聴の危険を冒してまでわざわざ連絡してきたのも頷ける。

 

 ――可能であれば、彼を勧誘してこい、か。はじめはつまらない仕事だと思ったけど、なかなかどうして……楽しそうじゃないかッ。

 

 この男と轡を並べることが出来たなら。彼が自分たちのもとに来てくれたなら。さぞや面白い未来が到来するに違いない。世界を、しっちゃかめっちゃかに引き裂けるはずだ。

 

「なあ、キトーさんよぉ」

 

『うん? なんです!?』

 

 コースの終盤、つづら折りのコーナーが三連続するテクニカルゾーンに突入した鬼頭が、障害物の炎の柱を懸命に避けながら応答した。

 

 修羅場を掻い潜る男の背中を愉快に眺めながら、ダリルは言った。

 

「あんた、キャディラックのシートに興味はないか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter37「理解までの距離」

 

 

 

 

 

 

 

 二セット目を終えて十五分の小休止を挟んだ後、三セット目が始まった。

 

 今回の伴走者はラウラだ。ドイツからやって来た専用機持ちの少女は、第三次イグニッション・プランの有力な候補機と名高いISを展開する。先の授業ではじっくりと見る機会に恵まれなかった。出現した機械鎧を、鬼頭は興味深そうに眺め見る。

 

「ははあ、これがドイツのレーゲン型ですか」

 

 第三世代機らしい、大柄な機体だった。手足を覆う駆動肢が、ごつごつと角張った面取りがなされた装甲で武装されている。かたわらには増速用のブースター・ユニットを内蔵していると思しきドラム状のアン・ロック・ユニットが二基浮かび、炎の尻尾を揺らす未来を、いまかいまかと待ちわびている様子だった。機体のベースカラーは黒鉄。

 

 鬼頭はラウラの周りをぐるぐると歩き回りながら機体を観察した。ときに前から、ときに後ろから突き刺さる無遠慮な視線を、銀髪の少女はむしろ胸を張って受け止めている。鬼頭は『打鉄』のISコアをコア・ネットワークへとつなげた。ドイツの第三世代機、シュヴァルツェア・レーゲン。記録上のデータと、己自身の目で実機を見て抱いた感想とを比較し、考察する。

 

「かなり重厚な造りをした脚部ですね。まるで戦車のようだ」

 

「シールドバリアーを突破されたときの備えで、盾として機能するよう厚みを持たせているのです」

 

「なるほど。……ですが、それだけじゃないでしょう?」

 

「む」

 

「飛行パワードスーツのISに、こんな大きな足は本来不要のはず」

 

「では、何のためだと思います?」

 

「ううん……さては、火薬式の、大口径砲をお持ちなのでは? 大きな足は、その反動に耐えるためとか?」

 

「ご明察。さすがです」

 

「ロボットアームは、手首の部分と、肘の部分が、他の部分よりもやや大型化していますね。……プラズマ発振器と、その形状を固定する装置ですか? 近接用の、プラズマブレード・システム?」

 

「それも見ただけで分かりますか! そうです。その通りです」

 

「コア・ネットワークの記録と照らし合わせて、この見た目はそうじゃないかな、と思いまして。近接武器を、剣などの手持ち式の後付け兵装ではなく、腕部に直接固定式で実装しているのは、例の特殊兵装絡みですか?」

 

「そうです」

 

「ちょっと触ってみても?」

 

「ええ、構いませんよ」

 

「や、さすがにそれは駄目だろ。ボーデヴィッヒも構えよ」

 

 『打鉄』のロボットアームをラウラの二の腕に伸ばそうとする鬼頭を、ダリルがたしなめた。

 

「む。ミス・ダリル?」

 

「キトーさん、あんた、いま、自分たちがどういうふうに見えているか、自覚あるか?」

 

「というと?」

 

「四十半ばのおじさんが、水着同然の恰好をした十代半ばの娘をねっとりとした視線でじろじろねめ回しているんだぜ?」

 

「ふうむ……」

 

 ラウラへと伸ばしかけた手を引っ込め、鬼頭は自らのおとがいを撫でさすった。たっぷり五秒間の黙考の末、鬼頭は、かっ、と切れ長の双眸を見開く。

 

「変質者じゃないか!」

 

「そうだよ。そう言っているんだよ。その上で相手の身体に触るとか、完璧なセクハラじゃねえか」

 

「この天才、迂闊すぎる!」

 

 気を取り直して、二人は空中へとその身を置いた。前のセットと同様、鬼頭が先行して飛び、伴走者のラウラがその飛行ラインをなぞる。一周目。ホームストレートからのヘアピンをクリアし、四連続の宙返りループが求められる直線エリアへ。

 

 二つ目の宙返りを終えたところで、進行方向正面にトラップが出現した。鬼頭の唇から、「おっ」という、新鮮な驚きの声。このタイミングでは、はじめて見る障害物だ。

 

 無人戦闘攻撃機『ゴルザーⅡ』。全長四メートルという小さなボディに、《スティンガー》対空ミサイルを四発も装備する高火力機だ。イギリスの『ハリアー』戦闘機をサイズ・ダウンしたかのような見た目をしており、『ハリアー』と同様、その場にとどまってのホバリング機動や、垂直方向への上下移動が可能。その運動性は、有人タイプの攻撃ヘリをゆうに上回る。最高速度も、この大きさでなんと時速六五〇キロメートルもある。

 

 ――またいやらしいタイミングで出てきたな。

 

 無人航空機というカテゴリーにおいては、機体サイズに比して高性能な兵器だろう。しかし、自慢のスペックもISと比べれば玩具同然。通常の戦闘であれば、歯牙にもかからぬ相手だ。

 

 だが、いまはISレースの真っ最中。しかも、コースレイアウトの都合で宙返りを強制されている。飛行ラインが制限されている状態でこれを相手取るのは、ちとしんどい。攻撃される前に撃ち落とすか。攻撃を避けてスルーするか。どんな選択をしても、タイムへの悪影響は必至だ。それが一秒となるか、二秒となるか。悠長に考えている暇はない。鬼頭はこれまでの周回の経験を基に、直感で判断――、

 

「っ!」

 

 苦々しい舌打ちが、男の唇から漏れ出た。

 

 ハイパーセンサーがもたらす三六〇度視界の片隅にポップアップが出現し、機体の内側で生じた変化を知らせる。BT・OS《オデッセイ》の起動。無論、鬼頭の指示を受けてのことではない。操縦者の窮地を察したISコアが、またぞろいらぬお節介を焼き始めたのだ。

 

 第一リミッターが解除され、操縦系のはたらきに、BTエネルギーが介入を開始する。入力に対する機体の応答性が格段に増していく実感。『打鉄』の装甲表面部が一瞬のうちに煌めき、すみれ色のストライプが刻まれる……、

 

 ――そうは、させるか!

 

 機体にまとわりつく光輝を振り払うように、鬼頭は『打鉄』を左右に大きく揺さぶった。飛行姿勢が乱れて遅速。直後、『ゴルザーⅡ』の翼下パイロンからスティンガー・ミサイルが二発、連続して発射された。依然、外見に変化のない『打鉄』を駆って、鬼頭はこれを真っ向迎え撃つ。

 

 BT・OSの強制終了。PICへの意識を疎かにしてでも集中力を振り絞り、ISコアからの介入をシャット・アウトしたのだ。

 

 機体の運動制御を再び通常のOSに任せた鬼頭は、アサルト・ライフルの《焔備》をすかさず展開。マッハ二の速さで襲いくるミサイルとの間合いを定義する。ハイパーセンサーが知らせるところによれば、発射されたミサイルに搭載されているのは近接信管。目標に直接命中せずとも、至近距離にいたったとシーカーが判断した段階で爆発してしまう。

 

 三度目の宙返りに向けて機体を傾けつつあった鬼頭と『ゴルザーⅡ』との距離はおよそ二十メートル。迎撃に費やせる時間は短い。間髪入れずに、鬼頭はライフルのトリガーを引き絞った。射撃モードはフル・オート。銃口が、バババッ、と火を噴き、十二・七ミリ弾が空気を引き裂いて飛んでいく。

 

 《焔備》の最大発射速度は一分間に一六〇〇発。当然、すさまじい反動が、銃を保持する両腕を殴打する。しかし、国産ISの最高峰と謡われた機体が装備するロボットアームは、キック・バックのエネルギーを見事に受け止めていた。代わりに、精確な射撃をライフル銃に保証する。

 

 銃撃は吸い込まれるように二発のミサイルに命中した。推進装置を撃ち抜かれ、双子の飛翔体はともに失速。炎の尾を噴き出しながら落下していく。

 

 ハイパーセンサーの三六〇度視界でその様子を、ちら、と一瞥し、鬼頭は正面に位置する『ゴルザーⅡ』にも銃火を浴びせかけた。

 

 垂直離着陸能力、高速巡航能力、重武装など、小さなボディに各種の機能・性能を盛り込んだ、欲張りな機体だ。当然、これらの要素を搭載しても航空機として破綻しないよう、頑強に造り込まれている。

 

 とはいえ、十メートル未満という近距離で五十口径弾を何発も叩き込まれては、さしもの堅牢さも役立たない。垂直尾翼が千切れ飛び、くるくる、と回転しながら墜落していった。地面に激突するとばらばらに四散する。変なところでリアルなんだな、と感心した。

 

 障害を排除した鬼頭は、改めて宙返りに挑戦する。四連続の後半二回をクリアしたところで、何秒のロスだったのかを素早く確認。二・二五秒。さて、どこで挽回するか……。

 

『鬼頭さん』

 

 コース脇で障害物の動きを管制している楯無から、通信が入った。比較的スピードを出しやすいゆるやかなコーナー地帯に到達した鬼頭は、増速に意識を割きつつ応じる。

 

「どうしました?」

 

『さっき、機体の挙動が乱れたような気がしましたが?』

 

「ISコアからの介入がありました」

 

 対空機関砲の銃火を急降下で回避。と同時に、位置エネルギーを運動エネルギーへと交換した加速力で、ロス・タイムを埋めようと努める。自然、返答は言葉短く、端的となった。

 

「こちらの意思に反してBT・OSを起動させようとしたので、強制キャンセルを」

 

『なるほど』

 

 楯無は束の間、沈黙した。少し考え込んだ後、おもむろに、自分の考えを口にする。

 

『では、今度はキャンセルしないでください』

 

「む?」

 

『次の周回に限り、同じ場所に、同じ障害物を設置します。そのときにまたISコアがBT・OSを起ち上げようとしたら、今度はその動きに、逆らわないであげてください』

 

「理由をおうかがいしても?」

 

『この訓練が目指す最終目的は』

 

「はい」

 

『鬼頭さんが、ISコアのはたらきを制御できるようになることです』

 

 そのために、訓練を通してISコアとの相互理解を図る。ISコアに、鬼頭智之とはこういう男なのだ、ということを知ってもらい、自分もまた、愛機に積まれたコアの個性を知る。それをやりやすくするための、キープ・タイム・トレーニングだ。

 

 同じコースを何十周とする中で、自分ならばこう攻略する、という場面を、幾度となくISコアに披露する。それを可能とするために、同じコースを何十周と繰り返すことで、操縦技術の底上げを図る。技術が磨かれれば、より多くの選択肢が鬼頭の前に呈示される。その中から、このときはこれ、こういう場面ではこれ、というふうに、自分の嗜好を知ってもらうのだ。

 

『そしてそれは、鬼頭さんに対しても言えることです』

 

「というと?」

 

『互いが互いのことを知ろうとするから、相互理解なんです。鬼頭さんの方も、ISコアの好みを知る必要があると思います』

 

 連続宙返り地帯で『ゴルザーⅡ』に遭遇した鬼頭は、銃撃でこれを排除する、という作戦オプションを選択した。対して、『打鉄』のISコアはあのとき、BT・OSを起ち上げようとした。彼女には彼女なりの、あの状況における最適解があったのだ。

 

『鬼頭さんは、次の周回でそれを知るべきです』

 

 勿論、それは鬼頭にとっての正解ではないかもしれない。しかし、それはISコアにとっても同じこと。

 

『ISコアにとっては、さっきの鬼頭さんの銃撃こそ、正解じゃないかもしれません。だからこそ、鬼頭さんは知るべきです。あなたの機体に積まれた、その子の考えを』

 

 鬼頭の考え。ISコアの考え。

 

 二つの意見を開陳し、議論し、二人のとっての、最適解を見つけ出す。両者納得のいく答えを、探す。それこそが、相互理解というものだ。

 

 楯無の提案に、鬼頭は、応、と頷いた。

 

 一周目が終わった。ロングストレート。ヘアピンコーナー。そしてまた、四連続宙返りのエリアへと突入する。二回目の宙返りを終えたところで、またも出現する『ゴルザーⅡ』。

 

 鬼頭は視界の端を、ちら、と見た。先の反省か、BT・OSの起動を求めるメッセージ・ボックスが表示されている。

 

 ――よし、いいぞ。

 

 今度は、こちらも素直に応じた。BT・OS《オデッセイ》が起ち上がる。と同時に第一リミッターを解除。『打鉄』の装甲に、紫色のストライプが走った。

 

 ――さあ、お前ならどうする?

 

 その回答は、ハイパーセンサーに映じた。推奨される行動オプション。一瞥した鬼頭は、口元に冷笑を浮かべた。

 

「なるほど。面白い作戦だ!」

 

 平素の自分であれば、真っ先に考慮の外に捨て置く作戦だ。効果はともかく、いまの自分には、それを実行に移すだけの技術がない。

 

 しかし、BTエネルギーの補助により、機体の追従性が底上げされているいまならば。

 

 鬼頭は武装を展開しないまま『ゴルザーⅡ』へと接近した。先の自分は、銃撃でもって障害を排除したが、この戦い方は、実は時間の消耗が激しい。攻撃の動作自体も無論のこと、その準備――武装の展開や、照準を合わせるための遅速などの――時間が発生してしまう。

 

 タイム・ロスを嫌うのであれば、ここは速度を緩めることなく前進を続けながら、最小限の動きで攻撃を回避するのが正解だ。スティンガー・ミサイルの飛翔速度は最大でマッハ二・二。比較的小型のミサイルだから、運動性も高い。これをいかにして避けるか。さっきまでの自分では難しかった。しかし、いまの自分ならば。

 

 『ゴルザーⅡ』が、スティンガー・ミサイルを発射した。装填している四発全弾を、ほぼ同時にランチャーから切り離す。四基の赤外線誘導装置が、鬼頭を狙って目を輝かせた。

 

 対する鬼頭は、『ゴルザーⅡ』に向かって正面から突っ込んでいく。

 

 必然、ミサイルも正面に向かって突き進む。

 

 両者の間合いは、あっという間に煮詰まった。

 

 ハイパーセンサーが、近接信管の作動音を感知した。すかさず、ISコアが起爆までの時間を算出する。〇・〇三五秒のうちに、避難せよとの指示。鼓膜に映じた視覚情報を脳で処理し、分析し、そうしてからようやく四肢の運動神経に信号を送って、筋肉を動かす。人間の認知機能、反射速度では、到底間に合わない短すぎる猶予。

 

 だが、いま自分が操っているこの機体は。この身を包む鎧は、ISだ。あらゆる機器は、イメージ・インターフェースを中継した思考によって制御される。脳の神経細胞が情報のやり取りをする速度そのままの速さで、駆動肢やPICを起動させることが出来る。

 

 ――まして、いまのこの機体は……!

 

 人間の思考波に反応して姿形を変える流動体……BTエネルギーは、思考波に篭められた想いや感情が強いほどに鋭く反応し、激しく運動する。

 

 BTエネルギーのアシストを得た鬼頭の思考波は、電撃的反応速度で機体を動かした。

 

 直進から真上へと、スピードを維持したまま、いきなりのポップアップ。

 

 突然の方向転換に追従できないミサイルの群れは、雷管から電流火花が飛び散るのを止められないまま、『打鉄』のはるか下方で爆発した。

 

 爆風の圧力と四方八方に飛散した破片の嵐が襲いくるも、すでに十分な距離が開けている。シールドバリアーで十分受け止めきれるパワーと数だ。鬼頭は難なくこれを凌いでみせた。

 

 宙返りループの飛行姿勢へと移行する。そうはさせぬ、と『ゴルザーⅡ』が機首のチェーンガンを発射するも、むなしい抵抗だった。パープルの『打鉄』は、無人攻撃機が未来位置へと照準を合わせるよりも常に一瞬速く動き出し、攻撃のことごとくを回避してみせる。敵機の頭上を悠々飛び越えた鬼頭は、最終的に、直前の周回と比べて一・五秒以上のリードを得た状態で連続ループ地帯を突破した。

 

 間髪入れずに、次なる障害物が彼らの前に現われた。無人車輌『メルバスST』が、アンダーステアを誘う巧妙な造りのコーナーで車列を形成し、待ち構えている。ピックアップトラックの形をした装甲車輌だ。高性能の火器管制装置を積んでおり、荷台に様々な兵装を積載・運用することが出来る。今回、鬼頭の進路を阻むトラックの数は四輌。うち二輌が荷台に連装式の対空機銃を積み、二輌は対空ミサイルの発射台を積載していた。

 

 ハイパーセンサーに、またしてもメッセージ・ボックスが出現した。自分の提案を採用してくれた事実に気をよくしたISコアが、再度、彼女が効果的と考える作戦を呈示する。

 

 宙返りエリアのときと異なり、今回は敵の数が多い。先ほどのように攻撃を回避しながらの通過は、運動性の向上した紫色のいまの状態でも困難だ。無理な突破を試みれば、たちまち一斉射撃を浴びせられ、タイムに大きく影響するだろう。ここは速度を落とし、こちらも銃撃を叩き込んで、一輌々々を確実に破壊してから通過するのが最もタイム・ロスが少ない上策。なるほど、と得心した鬼頭は、

 

「それも良いが、今度は、俺の作戦を見ていてくれ」

 

 好戦的に微笑むと、鬼頭はBT・OSの第四リミッターを解除した。機体に稲妻のように走るストライプの色が、紫から赤へと変わる。膂力や直線的な機動性を引き出しやすい、パワー・モード。武装は展開しないまま、コーナー・エリアに進入する。

 

 ISコアが呈示した作戦は、障害物の攻略という点に限っていえば、いまの自分の技量に許された最適解だろう。しかし、タイム・アタックに挑戦中というバック・ボーンを考えると、適当とは言い難い。

 

 これより自分が挑むのは、富士スピードウェイのトヨペット100Rコーナーに相当する区間だ。スピードを上げすぎるとアウトに膨らみ、続くヘアピンの攻略が難しくなってしまう。かといって速度を落としすぎると、タイムへの影響が大きいという難所の一つ。精確な銃撃のためとはいえ、ここで飛行速度を落とすのは得策ではない。

 

 ――トータルで考える必要がある。障害物の攻略だけ一〇〇点でも、コースの攻略が五〇点では合計点は一五〇点だ。障害物の攻略八〇点、コースの攻略八〇点なら、一六〇点の結果が得られる。

 

 アウト・イン・アウト。スポーツ走行の基本技術の一つを意識しながら、鬼頭は赤い『打鉄』を駆って空を滑走した。スピードは落とさず、飛行姿勢だけを変える。腰を中心に体を水平へと傾け、背中を上に、腹を下に。空中でうつ伏せの姿勢を取ると、二枚の物理シールドを下方へと回り込ませ、地上からの攻撃に備えた。

 

 ――赤の『打鉄』の直線的機動力でもって、一瞬のうちに、最短時間でこの区間を突破する。多少のダメージは受けるだろうが、これが、最もタイムへの影響が少ないやり方だ。

 

 鬼頭はコースのアウト側に機体を滑らせ寄せると、コーナーを斜めに突っ切るように、一気に加速した。

 

 応じて、対空ミサイルを積んだ『メルバスST』が、天頂部に載せたロングボウ・レーダーから誘導波を放つ。

 

 ミサイルに対するロック・オン・アラートは、なんと反応しない。『打鉄』のスピードが速すぎるために、ミサイルのロック・オンがままならないのだ。この時点で、四輌のうち二輌は無力化された。

 

 残る二輌が、連装機銃をぶっ放す。最大厚一三ミリの装甲板で被覆された重たい装甲車輌が、銃撃の反動で激しく身震いする。毎分八〇〇発の発射速度を誇る五十口径銃四挺の雄叫びは、はたして、威力を発揮しなかった。レーダー・システムによる照準が有効ではない相手だ。無人機だから、ガンナーが経験と勘で未来位置を予想するということも出来ない。必然、射撃は数撃ちゃ当たるといった、頼りのない弾幕形成にとどまった。命中弾は、僅かに三発。

 

 その三発も、入射角が悪く、運動エネルギーの多くが削ぎ落とされた状態での命中だった。シールドエネルギーのダメージはほとんどない。物理シールドの方も傷一つつかないまま、鬼頭はコーナーをクリアした。

 

 ――どうだい?

 

 続くヘアピンを睨みながら、鬼頭は胸の内でひっそりと呟いた。

 

 ――こういうのも、面白いだろう?

 

 ISコアからの返答は、次の行動提案だった。見れば、ヘアピンの折り返し直後に、『ゴルザーⅡ』が二機と、『メルバスST』が二輌待ち構えている。空と陸からの両面攻撃。これに対抗するための作戦は――、

 

「……はっ」

 

 思わず、笑みがこぼれた。これまでの善戦により、タイムには相当な余裕が生まれている。ここは時間を費やしてでも、あの四機を攻撃によって沈黙させ、安全を確保してから先へ進むべきだ。鬼頭好みの、そしてISコア好みの作戦だった。

 

 

 

「……すごい」

 

 殺到する無人兵器たちの猛攻を軽々に凌ぐ鬼頭の後ろ姿を見つめながら、ラウラ・ボーデヴィッヒは茫然と呟いた。ISに乗り始めて一ヶ月少々のルーキーとは思えぬ見事な動きに、自然、背中に向ける眼差しが熱を帯びていくのを自覚する。

 

「素晴らしいです、ヘア・キトー!」

 

 IS学園への転入が決まった日の記憶が蘇った。

 

 第一空軍幕僚監部のエミール・バレニー少佐は、空軍指揮幕僚監部が置かれたボンの司令部に自分を呼び出すと、そこでIS学園への転入作戦を命令した。

 

「作戦の目的は二つです、少佐。一つは、第三世代機の開発に必要なデータ収集をすること。現状、わが国のレーゲン型の完成度は、他のイグニッション・プラン候補機に比べて数歩遅れと言わざるをえません。この遅れを解消するために、少佐にはレーゲン型の実働データの収集と、学園の保有する最新のIS技術、そして、他国の最新鋭機に搭載された技術を学んできてもらいたい。その際には、少佐もよく知る、織斑千冬に協力を仰ぐとよいでしょう。教官時代の彼女は、少佐のことを特に気に入っている様子でした。少佐が願えば、きっと好意的な返事をもらえるものと確信しています」

 

 バレニー少佐の言に、ラウラは表情を輝かせた。また千冬に会えると思うと、胸が弾んだ。

 

 しかし、彼女が明るい気持ちでいられたのは一瞬のことだった。次いでバレニー少佐が口にしたのは、ラウラにとって、心情的に、受け入れがたい内容の指示だった。

 

「もう一つは、男性操縦者たちの勧誘です」

 

 世間の動静に疎いと自覚のあるラウラだが、二人のことはさすがに知っていた。あの忌々しき織斑一夏。そして、鬼頭智之。二人とも、男の身でありながらISを動かすことが出来る、世界にたった二人しかいない特別な立場の男たちだ。

 

 率直に言って、ラウラは男性操縦者たちに良い印象を持っていなかった。織斑一夏は言うに及ばず、鬼頭智之についても、その存在を不快に思う。

 

 ラウラにとって、IS操縦者の立場とは、気力体力ともに人よりも秀でる者たちが、努力に努力を重ねてようやく手に入れられる栄光の座だ。そんな聖域を、男である、というだけで汚されてはたまらない。まして体力のピークがとうに過ぎた中年男なんて……。

 

 ところが、バレニー少佐より手渡された二人に関する資料に目を通して、その気持ちに変化が生じた。

 

 織斑一夏の方は、どうしても読む気になれなかった。だから、鬼頭智之についての資料だけを熟読した。驚いた。レーザー・ピストル《トール》。BT・OS《オデッセイ》。どちらも今後のISバトルや軍事力のあり方に一石を投じる素晴らしい発明品だ。それを開発した人物だという。

 

 ラウラは優秀な人間が大好きだ。優秀さや有能といった言葉には、価値がある。価値ある人間は、周囲からの尊敬を集め、能力の高さに相応しい社会的地位が与えられ、なにより、誰も彼もがその人物のことを愛してくれる。社会はそうあるべきだと、強い信念を抱いている。

 

 資料を読んだ限り、鬼頭智之は、ラウラの考える優秀さの条件を完璧に満たしているといえた。軍からの命令は勿論だが、それとは関係なしに、会ってみたいと思った。

 

 はたして、実際にわが目で見た鬼頭智之は、事前の期待をはるかに上回る好漢だった。

 

 技術者としての高い能力と、それを示す実績の数々。それでいて、いまの自分に決して満足していない。常に新しいことに挑戦し、鍛錬に余念のない向学心の高さは、ラウラの胸の内を好感の気持ちでいっぱいにさせた。

 

 ――そればかりか、IS操縦者としても、これほどの男だったとは!

 

 安全距離を隔てたその先にある男の背中を、ラウラはうっとりと見つめた。難所のコーナーを易々クリアする後ろ姿からは、操縦時間の合計が三〇〇時間オーバーのベテラン操縦者たちと比べても、ほとんど遜色ない飛行技術の抄が見て取れる。特別なOSの補助を受けていることを踏まえても素晴らしい技量だといえたし、そもそも、そのOSを開発した本人である。どちらにせよ、彼が有能であることの証左であった。

 

 ――技術者として素晴らしい能力を持ち、IS操縦者としても将来有望。これは、なんとしてもわがドイツに迎え入れたい人材だ。

 

 鬼頭智之という男のことを知るにつれ、ラウラはいっそうその思いを強くする。

 

 と同時に、彼の有能さを知るほどに、胸の内で、とある疑念がその存在感を増していくのを自覚した。

 

 バレニー少佐からの資料には、『鬼頭智之は娘の陽子のことをたいへんに溺愛しており、彼を懐柔する際には、併せて、彼女の方にもアプローチをかけるのが効果的である』という旨のことが書かれていた。ラウラはこの記述を懐疑的に捉えていた。軍の情報収集能力を疑うつもりはない。だが、分析については的外れではないかと思う。鬼頭の関心を誘う上で、娘にまで手を出すのが有効だとは、どうしても思えなかった。なぜならラウラの目に、鬼頭陽子は有能とは映じていなかったからだ。

 

 繰り返しになるが、ラウラは優秀な人間が好きだ。優秀な人間には価値がある。人から愛されるための理由がある。

 

 翻って、鬼頭陽子はどうだろうか。この二日間、授業中の様子をひそかに観察してみたが、知識が特に豊富なわけでも、同級生たちと比べてISの操縦がとりわけ上手いというわけでもない。平凡という評価が真っ先に思い浮かぶ、そんな程度の娘だ。

 

 入学当初の時期に、イギリスの代表候補生との試合で互角に戦ってみせた、という話も聞いてはいる。しかし、その試合を観戦していた者たちの多くは、主要因は優秀な武器の存在にあった、と評価していた。すなわち、レーザー・ピストル《トール》が高性能であっただけで、彼女自身が試合巧者だったわけではない、というわけだ。

 

 以上のことを踏まえた上で、はたして、鬼頭陽子は優秀な人間だといえるだろうか。ラウラにはそうは思えない。彼女に、鬼頭智之ほどの男から愛を向けられるだけの価値があるとは、どうしても思えない。

 

 ――ヨーコ・キトーには、ヘア・キトーから愛される理由がない。ヨーコ・キトーにもアプローチをかけよ、という軍の立案した作戦は、そもそも前提を間違えているのではないか?

 

 鬼頭智之は娘のことを深く愛している。この前提が間違っているとすれば、軍からの指示通りに動いても、彼の人物をわが国に引き込める公算は低いだろう。

 

 ならば、自分はどうするべきか。鬼頭智之という傑出した才能をわが掌中におさめるためには、何をすればよい……?

 

「簡単なことだ」

 

 前を飛ぶ鬼頭の背中を眺めながら、ラウラは破顔した。

 

「ヘア・キトーに、私の優秀さを……私という人間の価値を、見せつければいい。私が、彼から愛されるようになればいいのだ」

 

 方針は定まった。

 

 次いで考えるのは、そのための手段だ。

 

 鬼頭に、自分という人間の持つ価値を示す。最も手っ取り早い手段は何がいいだろうか?彼が、陽子よりも自分を愛してくれるには、何をすればいい?

 

「それも、簡単なことだ」

 

 ラウラは晴れやかに微笑んだ。

 

「ヘア・キトーの目の前で、ヨーコを倒す。私の方が、あの女よりも優れていることを示す。そうすれば、きっとヘア・キトーは、私を愛してくれるだろう」

 

 静かながら、確信の篭もった力強い呟きだった。

 

 熱い視線が向かうその先で、鬼頭は近接ブレードを左右に振り払った。二機の『ゴルザーⅡ』はすれ違いざまに主翼を両断され、揚力を失って墜落していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter37「理解までの距離」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三年と半年前。

 

 ドイツ連邦共和国、ボン。

 

 空軍指揮幕僚監部本部の、普段は使われていない会議室の一つに呼び出されたエミール・バレニー大尉は、上官の第一声に思わず眉をひそめた。コンラート・リーメンシュナイダー少将は、バレニーが籍を置く第一空軍幕僚監部のトップであり、士官学校時代からの恩師でもある。旧東ドイツ出身の彼は、民主主義由来のシビリアンコントロールの概念に懐疑的であり、しかもそのことを周りに隠していない。だから、少将の口から「いまから口にするのは、政治の話だ」と聞かされても、バレニーに驚きはなかった。ただ、場所をわきまえてほしい、とは思う。普段使われていない部屋とはいえ、立ち入りがまったく皆無というわけでもないのだ。軍の風紀の維持に厳しい教育課の同輩にでも聞かれて、厳しいお小言を喰らいたくはない。

 

「そこは安心しろ。今日、この部屋には誰も近づかないように知らせてある」

 

「それなら、まあ……」

 

「本題に入る前に、前提情報のすりあわせをしたい。バレニー大尉、貴官はわが連邦空軍のIS部隊と、他の欧州連合に属する各国が保有するIS部隊を見比べて、どう思う?」

 

「どう、とは?」

 

「他国と比較して、強いか、弱いか、ということだよ」

 

「……私はIS運用の専門家ではありませんので、素人意見になってしまいますが?」

 

 躊躇いがちに言うと、少将は厳めしい声で応じた。

 

「構わん。きみの思ったことを、素直に教えてくれ」

 

「それなら……」

 

 バレニーはゆっくりとした口調で、舌先で言葉を探しながら言った。

 

「率直に申し上げて、その強さは真ん中あたり、といったところではないでしょうか?」

 

「ははあ、真ん中か」

 

 リーメンシュナイダーは冷笑を浮かべた。

 

「なぜ、その位置に?」

 

「わが国は国産ISの開発能力を持っています。その点で、開発能力を持っていない国よりも優位に立っているといえます。他方で、わが国には有力なIS操縦者があまりいません。その点で、たとえばモンド・グロッソ上位成績者を擁しているイギリスやイタリアよりも不利な立場にあるといえます」

 

 篠ノ之束博士によるISの発表、そして『白騎士事件』の後、ドイツ連邦は、この新時代の超兵器の開発競争に乗り遅れてはならないと多額の資金を投入した。その甲斐あって、第一世代・第二世代機ともに、他国製のISと比べても引けを取らない機体自体は手に入ったと思う。その一方で、肝心のIS操縦者の育成には失敗した、というのが、軍の人事を監督する業務を担当するバレニーの評価だった。

 

 たとえば、三年前の第一回モンド・グロッソ世界大会では、ドイツが選出した三名の国家代表は、うち二名が予選敗退。残る一人も、本戦の第一回戦で負けるというさんざんな結果に終わってしまった。三年後の今年行われる第二回大会の予選においても、現状、わが国は大した結果を残せていない。幸い、開催国特権で一名を本戦出場にねじ込むことが決定しているが、それもその後勝ち進められるかというと、厳しいだろう、とバレニーは睨んでいる。

 

「機体の開発に力を入れすぎました。セカンド・シフトやワン・オフ・アビリティーに代表されるように、ISの運用においては、機体よりも人の育成こそ重要だということに、我々は気づくのが遅れてしまった」

 

 第一回モンド・グロッソにて覇者となった織斑千冬は、愛機『暮桜』の機体性能もさることながら、本人の技量と、なにより、彼女と『暮桜』の組み合わせが発現させたワン・オフ・アビリティーが強力だった。機体性能で上回る強豪たちを、『零落白夜』の一振で打ち倒していく姿に、当時少尉の階級だったバレニーはたいへんな感動を覚えたものだ。

 

「ISコアの総数が限られ、どこの国も簡単には機体数を増やせない現状、軍事的優位を保つためには、IS操縦者の育成が何よりも重要だといえます。この部分が弱いわが国のIS部隊の実力は、公平に見て、ヨーロッパの中では真ん中あたりといったところでしょう」

 

「的確な分析だな。私もそう思うよ」

 

 リーメンシュナイダーはバレニーの意見に同意した。

 

「だが、それでは困るのも分かるな?」

 

「はい」

 

 バレニーは首肯した。

 

「わがドイツ連邦は、EUの実質的な盟主の立場にあります。EUはもともと経済同盟としてスタートしましたが、いまや軍事同盟としての役割も担っている。その長たる我々は、経済的にも、軍事的にも、連合のどの国よりも優れていなければならない」

 

「その通りだ。その我々が擁するIS部隊の実力が、連合内でも真ん中あたりというのはいけない。早急に、改善する必要がある」

 

 「そこで本題だ」と、リーメンシュナイダー少将は険を帯びた口調で言った。バレニーも表情筋を引き締める。

 

「大尉の言う通り、わが軍のIS部隊は人材育成の点で問題を抱えている。これを改善するいちばん手っ取り早い方法は、優秀な監督、あるいは教官を招聘することだろう」

 

 軍隊に限らず、人間の営みが生み出したあらゆる形態の組織において、しばしば起こる現象だ。従前、弱体だった組織が、一人の名将が振るう辣腕によって生まれ変わり、素晴らしい活躍を世に広く示す。リーメンシュナイダーの言葉に、バレニーは得心した様子で頷いた。

 

「私もそう思います。……どうやら閣下の腹中には、すでに決まった名前がおありのようですが?」

 

「うむ」

 

「誰です?」

 

「チフユ・オリムラだ」

 

 バレニー大尉は訝しげな表情を浮かべた。世界最強のブリュンヒルデ。教官役として、これ以上は考えられぬ逸材だ。しかし、どうやって? 伝え聞くところによれば、金品の魔力が通用する相手とは思えない。それに日本政府も、彼女ほどの人材をそう簡単に放出するとは考えにくいが。

 

「日本政府に対し、貸しを作ってやるのだ」

 

 なるほど、その貸しの作り方が本題か。バレニーは耳目に意識を集中した。

 

「貴官も承知の通り、今年の第二回モンド・グロッソは欧州連合各国で開催されることになった。わが国ではワン・オン・ワンISバトルの本戦が行われる。前回大会優勝者のチフユ・オリムラは、その本戦に今年も確実に出てくるだろう。その本戦期間中に、事件が起きるのだ。

 

 本戦観戦のためにやって来た日本国の要人が、何者かに拉致される。日本政府は当然慌てるだろう。そこに、独自のルートから犯人グループの居所を突き止めた我々ドイツ軍が、協力を申し出る。日本国は最初こそ拒むだろうが、究極、異国の地での出来事だ。最終的には、我々を頼らざるをえない。かくして彼らは、わが軍に借りを作ることになった。我々はそれを理由にチフユ・オリムラの軍への出向を要請する、という算段さ」

 

「二つ、質問が」

 

 

 リーメンシュナイダー少将が語る作戦の概要を黙って聞いていたバレニーは、人差し指と中指を立てて訊ねた。

 

「日本政府からの要人を誘拐する、その犯人は何者です? まさか、わが軍の軍人を使うつもりでは」

 

「まさか」

 

 リーメンシュナイダーは冷笑を浮かべた。

 

「当然、外部の人間だ。名前は伏せるが、連邦政府の官僚が、ペーパーカンパニーを何重にも挟んだ上で、そういうダーティな仕事が得意な連中に依頼する予定だ」

 

 なるほど、政府のお偉方からもすでに承認済みか。この部屋に入室するなり、少将が政治の話だと口にした所以がだんだん分かってきた。

 

「二つ目の質問です。いま少将が口にしたシナリオでは、大会期間中に邦人誘拐を許す、ということになりますが、それについて、ドイツ警察は納得しているのでしょうか?」

 

 バレニーはリーメンシュナイダーの話の中に、連邦警察への言及がないことが気になった。

 

 スポーツの世界大会の開催中に事件が起こる。これは、ドイツ警察にとっては過去のトラウマ体験の記憶を刺激する事態のはずだ。

 

 ドイツがまだ東西に分裂していた一九七二年、ミュンヘン・オリンピック事件が起こった。パレスチナ・ゲリラの『黒い九月』が選手村に侵入し、イスラエル選手団の二名を殺害。九名を人質にとった。当時の西ドイツ政府は人質救出作戦を敢行したが、作戦は失敗し、人質九名全員が死亡。警官も一名が死亡するという、最悪の結果となった。

 

 リーメンシュナイダーの書いた脚本は、連邦警察がおよそ五十年前に負った心的外傷を抉るばかりか、事件後、二度とこのような悲劇を起こしはしないと努める彼らのプライドに、泥を塗りたくる行為だ。邦人誘拐を許すためには、警備の網をわざと緩めてやる必要がある。そんな作戦への従事に、連邦警察が承服するとは思えないが。

 

「無論、連邦警察にはこのことは伝えない」

 

 連邦警察への配慮に欠けた酷薄な言葉に、バレニーは政治の意味を完璧に理解した。軍は政府と結託して、自分たちの目的のために、連邦警察を犠牲にしようとしているのだ。

 

「悪辣な誘拐犯たちは用意周到だ。彼らは、邦人誘拐の最大の妨げとなる連邦警察の動きを牽制するために、警察幹部の家族を人質に取るつもりなのだ。誘拐が決行されるその日、会場の警備を担当する警察官の数は、ほんの僅かに減少する。その分を補うために、警官の配置は変更され、警戒網には、厚いところと薄いところの偏りが生まれるだろう。奴らはそこを衝くつもりなのだ」

 

「誘拐が成功した後は、どうなさるので? わが国の警察は優秀です。ましてや、ミュンヘン・オリンピックのときとよく似た、世界的なスポーツ・イベントの最中での事件です。彼らは異変にすぐ気づき、対策を打つでしょう。それに、わが国には、GSG-9があります」

 

 ミュンヘン・オリンピック事件の後、連邦警察が創設したカウンター・テロ専門の特殊部隊だ。一九七七年のルフトハンザ航空機ハイジャック事件では、救出作戦の実行前に殺害された機長を除き、人質九十名全員の救出に成功している。世界屈指の対テロ部隊の一つだろう。

 

「GSG-9は世界最強の特殊部隊の一つです。彼らの捜査能力と事件解決力が投入されれば、軍が介入する余地は――」

 

「GSG-9は動けない」

 

 リーメンシュナイダーは断言した。

 

「これも名前は伏せるが、軍の戦力拡充に協力的なとある政治家の方が、その動きを牽制してくれる手はずになっている。テロリストたちに対し有効にはたらけるのは、たまたま連中に関する情報を掴み、念のためにと網を張っていた我々連邦空軍だけだ。……バレニー大尉」

 

「はっ」

 

「貴官には、邦人救出作戦実行時に、日本政府との連絡係を任せたい」

 

 いざそのときにぼろがでないよう、いまのうちから演技の勉強をしておけ。

 

 諧謔めいた発言の後、淡々と述べられる作戦の仔細を聞くほどに、バレニー大尉は表情を硬化させていった。

 

 邦人誘拐作戦のターゲット。日本政府と織斑千冬に、最大限の貸しを作れる相手。織斑一夏の名前を聞かされた彼は、ブリュンヒルデと対峙せねばならないのかと、緊張から、こく、と喉を鳴らした。

 

 

 

 

 空軍指揮幕僚監部の本部でバレニー大尉とリーメンシュナイダー少将が密談を交わしていた、ちょうど同じ頃。

 

 遠く彼方は東アジアの東端、日本国、愛知県名古屋市名東区の焼き鳥店にて、野太い悲鳴があがった。

 

「ひょえあああぁぁぁああぁぁぁっ」

 

「……どういう感情を篭めた悲鳴なんだ、それは?」

 

 仕事帰りに立ち寄った焼き鳥店。一日の疲れを喉奥へと流し込んだビールの苦みで洗い流そうとしたその寸前のことだった。スーツのジャケットの内ポケットに差し入れていたスマートフォンの震えに気がついた桜坂は、端末を取り出して画面を見つめるなり、口を、あ、の形に開いた。喉蓋を塞いだ状態で吐き出された悲鳴は低音なれど妙に伸びやかで、音質からは封入された感情を察するのは難しい。

 

 カウンター席の右隣に座る鬼頭智之は、そんな彼を見て呆れた口調で呟いた。

 

「お、驚きの感情だよ。いやあ、まさか、本当に当たるとは……」

 

「当たる? なんだ、宝くじでも当たったのか?」

 

 ビールジョッキを、ぐびり、とやって、焼き上がったばかりの砂肝を頬張る。奥歯でかみしめる度に、口の中いっぱいにたれの味が広がった。

 

「ちげぇよ。ほら、今年はあるだろ? 第二回モンド・グロッソ。あれの観戦チケットだよ。ダメ元で本戦チケットの購入抽選会に参加してみた。二人分」

 

「なるほど、それが当たったと……二人分?」

 

「そそ。俺と、お前の分」

 

「なんでまた?」

 

「いや、だって、モンド・グロッソだぜ? 世界中から最新のIS――最新のパワードスーツが集まる、見本市みたいなもんだ。俺たちの目指す、夢の災害用パワードスーツの参考に出来るんじゃないかと思ってさ」

 

「……俺はドイツ語は喋れないぞ?」

 

 今年のモンド・グロッソの本戦は、ドイツ開催だったはず。英語が通じる国だとは聞くが。

 

「俺は喋れる。通訳は任せろ。な、行こうぜ?」

 

 まるで野球観戦にでも誘っているかのような軽い調子で、桜坂は言った。

 

 鬼頭は、パスポートはどこにしまったのだったか、と頭の中で家の収納棚を漁りながら、「仕方ないなあ」と、応じる。

 

「ところで、何回戦目のチケットが当たったんだ?」

 

 いまやモンド・グロッソといえば、オリンピック以上に世界中から注目を集める大イベントだ。予選会場の観戦チケットでさえ、抽選倍率は五十倍を超えると聞く。その本戦ともなれば、さぞや狭き門であろうが。

 

「決勝戦」

 

「……いま、何と言った?」

 

「いや、だから、決勝戦」

 

「……ひょえあああぁぁぁああぁぁぁっ」

 

「な? 分かっただろ? そういう悲鳴が出るの」

 

 後で調べたところ、抽選倍率は一千倍を超えていた。そんな低確率を見事に、しかも二人分もチケットを掴んだ桜坂の豪運には、驚嘆するほかない。

 

「……桜坂」

 

「なんだ?」

 

「お前、今年死ぬんじゃないか!?」

 

「超人が運に殺されてたまるかってんだ!」

 

 親友の身を本気で案じる鬼頭に、仁王の顔をした超人は憮然と答えた。

 

 

 

 

 

 

 




原作第二巻で織斑一夏誘拐事件の解決に協力したのはドイツ“軍”とはっきり明記されている。

普通、こういう事件への捜査協力って、警察がするものなんじゃ……。


原作ではさらっと流されているけど、あの事件はかなり闇が深い(確信)。


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Chapter38「やって来たもの」

今回の話では原作設定について、独自解釈を述べています。




 IS学園にシャルルたちがやって来てから四日後の金曜日。

 

 夕焼けがまぶしい第八アリーナでは、今日も鬼頭が年下の先輩たちとISレースの訓練に励んでいた。訓練の内容は、三日前に楯無から呈示されたキープ・タイム・アタックだ。ここ数日は毎日、放課後になるや誰かと一緒に飛んでいる。

 

 初日にコーチ役を買って出てくれた四人は、その後も暇を見つけては鬼頭の訓練に付き合ってくれた。四人全員が揃っていたのは初日のみで、一昨日は生徒会の仕事のために楯無が。昨日は自分たちの訓練にも専念したいからと、ダリルとフォルテの二人が不在。今日は楯無とフォルテの二人が所用により欠席している。なんでも、月末の学年別トーナメントに向けて、二年生の生徒全員を対象に大切な説明会があるのだとか。

 

「たぶん、オレも二年生のときに受けたやつだ」

 

 一セット十周を二本終えたところで挟んだ小休止の時間に、ラウラと交代で偶数回の伴走者を務めてくれるダリルが言った。愛機の第三世代機を量子格納領域へとしまい、スポーツドリンクのストローを咥えて、こく、と喉を鳴らす。額に浮き出た玉の汗を手首で拭うと、彼女は下の句を口にした。

 

「要するに、就職活動に向けての心構えの指導というか、マナー講習というか、学年別トーナメントでは、こういう戦い方は避けろ、みたいな話をするんだよ。ほら、二年生からは、軍や企業からのスカウトが解禁されるからな」

 

 生徒たちのほとんどが卒業後の進路にIS関連企業への就職を選ぶIS学園では、就職活動についての制限が、学年ごとに、段階的に解禁されるシステムを採用している。たとえば一年生のうちは、自主的な情報収集のみが許され、自分から企業へ売り込みをかけてはならない。また企業側も、露骨な勧誘をしてはならない、というふうに定められている。これらの規定は、知識や経験に乏しい一年生たちが、いわゆる悪い大人たちからの誘惑に翻弄されないようにするための措置である。

 

 全員が厳しい入学試験をクリアした才女とはいえ、ほんの数ヶ月前まで中学生だった娘たちだ。思春期の只中にあり、その精神は未熟さを抱えている場合がほとんど。狡猾な大人たちは、容赦なくそこを衝いてくる。自分はIS学園に入学するようなエリートである、という自負心をくすぐる甘い言葉に良い気分になっているうちに、いつの間にか抜き差しならない状況に追い込まれていた、などの事態を予防する必要があった。

 

 ISが誕生してまだたったの十年だ。企業の中にはベンチャーも多く、事業拡大のため、優秀な人材を欲している。人を採るためならどんな汚い手段も使う。そういった姿勢の企業は思いのほか多いですと、以前真耶から聞かされた際、生徒であり、保護者の立場でもある鬼頭は渋い顔を浮かべたものだ。

 

 二年生になると、生徒側は会社説明会やインターンシップへの参加が。企業側はスカウト活動が解禁される。ただしこれも、生徒側は一年間に何社まで、企業側は何名まで、といった制限があり、お互いに過剰な売り込み合戦を防ぐための措置が取られている。

 

 勧誘可能な人数が制限されているとあって、企業側の採用活動の基本姿勢は慎重にならざるをえない。高いコストを費やして採用した相手が、いざ使ってみたらとんだ期待はずれだった、という失敗を警戒し、スカウトマンたちには、積極的な声がけを控えるよう厳命している場合がほとんどだ。スカウトマンたちは、これだ! と思う人材を見極めるまでは、静かに目を光らせているよう求められている。

 

 対する生徒側も、二年生のうちは会社訪問などの能動的な就職活動――数撃ちゃ当たるの戦法――が取りづらい。よって、スカウトマンの目に留まりやすいよう立ち振る舞うことが、内定を取得する上での基本戦略となる。数少ないアピールの機会に十全の力を披露できるよう、普段から力を蓄えておく、という受動的な戦い方が求められる。

 

 学年別トーナメントのような学園外の人間にも解放されている催事は、生徒側と企業側の戦略が上手く噛み合う貴重な機会だ。勝ち星の数という非常に分かりやすい指標で、生徒側はアピールを。企業側は評定を下すことが出来る。

 

「問題は、そのアピールのやり方さ。学年別トーナメントで良い成績を残せれば、それだけスカウトマンの目に留まりやすくなる。だから腕っ節は勿論大事だけど、スカウトマンだって人間だ。躾のなっていない奴を好んで採ろうとは思わない」

 

 スカウトマンたちの関心を買いたい一心から、試合中に、あえて目立つ戦法を採択する者は毎年一定数いるとのことだ。それが戦略的に効果の高い戦法であるならまだしも、衆目を集めやすいだけで、何の合理性もないどころか危険を伴う行為だった場合、スカウトマンたちの心証は良くなるどころか、失望されることになってしまう。

 

「相手は人材採用のプロだ。アピールのやり方を間違えちゃいけない。アピールをするなら、よく考えてからやれ。そういったことを、過去の事例を交えて説明するんだよ」

 

「ははあ、なるほど」

 

 ダリルの説明を受けて、鬼頭は興味深そうに頷いた。

 

 IS関連企業と聞いて軍需産業を連想し、その就職活動というとおどろおどろしい雰囲気を想像していたが、そのあたりは一般の高校や大学が行う就職指導と変わらないのだな、と感心する。

 

「学年別トーナメントには、企業だけでなく、各国の軍隊からもスカウトマンが派遣されます」

 

 こちらもISスーツ姿のラウラが言った。愛機の『シュヴァルツェア・レーゲン』が大型機のため、ISを纏っているときは薄かった、小柄、という印象が、このいでたちでは強く感じる。背丈といい、華奢な体つきといい、とてもじゃないが、軍人とは思えない。

 

「軍の求める人材と、企業の求める人材は違います。そういった、相手ごとに有効なアピールのやり方の違いも、説明されるのではないでしょうか?」

 

「そうだな。あとは企業でも、ISの機体や装備の開発能力を持っているところなんかは、勝ち星の数よりも、試合の内容に注目する場合が多い、とかな」

 

「ははあ。たとえば、どんな試合内容なら高い評価を得られるのでしょう?」

 

「機体の性能を引き出しつつ、機体を大切に扱っているかどうか、とか。企業によっては、新型機や新装備のテストパイロットを求めているところもある。そういう要求を持っている会社のスカウトマンの目の前で機体を雑に扱うようじゃ、良い印象は得られない、ってさ」

 

「たしかに、そうですね」

 

 自身もロボットの開発・製造能力を持つメーカーに務めている鬼頭は、感慨深そうに呟いた。

 

「私も自分の作ったパワードスーツを預けるのなら、そういう人物に託したい」

 

「そういえば、ヘア・キトーはすでに企業に帰属しているのでしたね?」

 

 ラウラの問いかけに、鬼頭は首肯した。

 

「報道によれば、ヘア・キトーがISを動かせることが分かる以前から勤務している会社だとか」

 

「ええ。その通りです」

 

「よく考えてみれば、不思議な話だよな、それ」

 

 年上の鬼頭相手にも配慮に乏しい日本語遣いで、ダリルが呟いた。

 

「男性操縦者っていう、あんたが置かれている立場のことを考えると、ISの企業でもない会社に引き続き勤務しているっていうのは、どうも納得できねえ」

 

「たしかに」

 

 ダリルの言葉に、ラウラも同意を示した。

 

「日本政府の立場からすれば、何にも増して優先したいのは男性操縦者の身の安全の確保のはず。そのためには、ヘア・キトーに政府の息のかかった組織に所属してもらうのが一番だと思います」

 

「政府から、その、いまの会社を辞めてこっちに勤めるように、みたいな圧力とかなかったのかよ?」

 

 日本語が拙いダリルも、さすがに気まずそうにしながら訊ねた。対して、鬼頭の中でそのことはすでに消化済みの事案だ。思い出す度に胸が痛むという時期はとうに過ぎている。彼は完爾と微笑みながら応じた。

 

「そこは社長が断ってくれました。おかげでいまも、サラリーマンをやれています」

 

「それって、政府の意向に逆らったってことだろ? あんたんところの社長さん、ちょっと強気すぎないか?」

 

「それだけ、ヘア・キトーが手放しがたい人材だったということでは? 政府と敵対するよりも、そちらの方がメリットが大きいと、経営判断を下したのではないでしょうか?」

 

「そう思ってくれているなら、嬉しいですがね」

 

 苦笑しながら呟いたところで、中指に嵌めた金色の指輪がアラームを鳴らした。十五分間と定めた小休止が終了するまで、残り五分と知らせる音だ。休憩用のベンチから立ち上がると、運動の再開に備えて、ぐるぐる、と肩を回す。

 

「お二人は、今日はこのままお休みでしょうか?」

 

「たぶんな」

 

 こちらも真っ直ぐに伸ばした片方の腕を、肩甲骨を引っ張るようにして体に引き寄せるストレッチをしながらダリルが応じる。

 

「二年生全員を一つの教室に集めての説明会だったはずだ。時間はかかる」

 

「なるほど。では、彼女たちには後で連絡することにしましょう」

 

「連絡?」

 

「明日の訓練のことです。用事があって、顔を出せなくなりました」

 

「おいおい、主役が不在とか。誰のための訓練だよ」

 

「いやあ、返す言葉もない」

 

 呆れた口調のダリルに、鬼頭は苦笑した。

 

「それで、用事って?」

 

「大切な商談が一つと、その後に打ち合わせが一つ控えておりまして」

 

「商談?」

 

「《トール》ですよ」

 

 鬼頭の言葉に、二人は彼が開発した強力なレーザー・ピストルの姿を思い浮かべた。

 

「先頃、あれをIS学園が買い取ってくれることが正式に決まりましてね。ただ、二挺だけでは、生徒たちからの貸出申請の数に対して供給が追いつかないと言われてしまいまして」

 

「まあなあ」

 

 ダリルは自身も貸出の申請書を提出しに教員のもとを訪ねたときのことを思い出して苦笑した。IS学園では現在、《トール》の試し撃ちがちょっとしたブームになっている。鬼頭陽子対セシリア・オルコット。実質《トール》のお披露目会となったあの試合を見ていたほとんど者は、初心者の陽子が代表候補生で、しかも専用機持ちのセシリアと互角に戦えたのは、あのレーザー・ピストルの性能のおかげと考えていた。自分たちもそれにあやかりたいと思った生徒たちからの貸出申請が殺到し、熾烈な争奪戦が生じている。ダリル自身は試合から一週間が経った頃に、驚異のレーザー・ピストルの性能を自分も試してみたいとのんびりした気持ちで申請書を出しに行ったら、なんと五十人待ちと伝えられた。

 

「それで再設計をした上での増産を頼まれたんです」

 

「増産は分かるけど、再設計?」

 

「《トール》は究極、ハンドメイド品ですから。私の、くせのようなものが強いんですよ」

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。

 

「だから、より作りやすく、より扱いやすく、誰にでも整備ができて、その上で高性能化を図る、というふうにデザインしました」

 

 生徒たちが頻繁に借りてくれるおかげで、運用データは日ごと積み重なっている。それらに目を通しているうちに、設計図面を引いた際には見つけられなかった欠陥や、それに対する改善策が見えてきた。

 

 改良点は主に四つだ。まず、構成部品とその点数の見直し。これにより、生産性と整備性、信頼性の向上につなげることができた。次に、出力調節機能の追加。従前、《トール》のレーザー出力は二・六メガワットで固定だったが、これを自由に調節出来るようにした。

 

「これまでの運用データから、二・六メガワットはISバトルにおいて過剰出力と判断しました。シールド・バリアーにダメージを与えるだけなら、これほどの威力はいりませんし、この出力で撃ち続けては、バッテリーがあっという間に干上がってしまいます。

 

 機能として、最大出力でレーザーを発射する性能は残しておくにしても、もっと使いやすい出力に調節出来ると便利だな、と思いまして」

 

 これと併せて、バッテリーも大容量化に挑んだ。ISの量子格納技術を研究する過程で見出した遼子化技術は、使うほどに洗練されていき、サイズの変更なしに三十パーセントの容量増大を達成することが出来た。

 

「三十パーセント増ってことは、いままでの《トール》が最大出力の二・六メガワットで十六秒間の発射が出来たから……」

 

「同じ出力では、約二一秒の連続照射が可能、ということになりますね。出力を二メガワットに絞れば、単純計算で二七秒、一・五メガワットなら三六秒になります」

 

 ラウラが素早く計算し、感心した様子で唸った。実際の運用では予備のバッテリーも持つことになるだろうから、使い勝手はかなり向上したと評せる。

 

「最後の改良点は、照準装置です。《トール》はもともと、陽子のために作った銃です。照準器の標準設定は、あの子の射撃の癖に合せて調整してありますので、それをもっと万人向けというか、マイルドにしてみました」

 

 日替わりで色々な生徒が銃を握ってくれたおかげで、参考となるサンプル・データは質的にも、量的にも、満足いくものが得られた。数十人からの射撃データの平均値・中央値に寄せる形で調整した物を、今度は陽子だけでなく、箒やセシリアにも試し撃ちしてもらう。そのデータをもとにさらなる調整を加え、また試し撃ち。そのデータをもとにさらに……と繰り返し、なかなかの自信作が出来たと自負している。

 

「ISバトル用のレギュレーション・チェックも無事にクリアしたので、暇を見つけてはせこせこと増産に努めていたんですよ。それがようやく数が揃い、明日納品することになったんです」

 

「おっ、やっとか」

 

 ダリルはニヤリと笑った。大人の色気と少女の愛らしさが同棲する、魅力的な笑みだ。

 

「これで順番待ちに悩まされなくてすむぜ」

 

「長らくお待たせしてしまい、申し訳ありません」

 

「ヘア・キトー」

 

 諧謔めいた口調で応じると、ラウラが名前を呼んだ。

 

「商談は分かりましたが、その後の、打ち合わせというのは?」

 

「フラウ・ボーデヴィッヒが転校してくる以前のことです。とある週刊雑誌に、前の妻とのことについて、色々と、好き勝手に書かれてしまいましてね」

 

 二人の目線を意識して、鬼頭は微笑を努めた。

 

「それに対する反撃ですよ。本土からこちらに、馴染みの弁護士の方を呼びました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter38「やって来たもの」

 

 

 

 

 

 

 

 

 IS学園に転校生たちがやって来て六日目の土曜日。

 

 IS学園では、土曜日はいわゆる半ドン制を採用しており、生徒たちは、午前中に理論学習をすませると、後は完全な自由時間となる。寮に戻って休むもよし。モノレールに乗って学園島の外へ遊びに行くもよし。しかし、ほとんどの場合、生徒たちは学舎内に残ることが多かった。というのも、土曜日の午後は秘匿実験場の第八アリーナを除く全アリーナが開放されるため、場所を選ばなければのびのびとISの練習が出来るからだ。勿論、訓練機の総数は限られているから、全員が練習に参加出来るわけではないが、貸出申請の抽選に落ちた者たちも、整備という形でISに触れることが出来る。このためIS学園の土曜日の放課後は、平日にも増して活気づいているのが常だった。

 

「なんとも落ち着かない気分ですよ」

 

 乙女たちの黄色い声で賑やかな校舎の廊下を、二人の男が歩いていた。一人は、内閣情報調査室の高品だ。先のゴールデンウィークにて、名古屋へと帰郷する鬼頭の警護役を務めたうちの一人。もう一人の男より少し前を歩き、彼が校舎内を迷い歩かぬよう案内している。

 

 その高品の背中を追いかけるのは、金縁眼鏡をかけた白髪の男だ。美しい銀髪の持ち主だが、顔はまだ若々しく、せいぜい四十半ばを過ぎたあたりにしか見えない。いかにも頭の切れそうな、高い知性を感じさせる顔つきをしていた。かっちりと着こなしたグレイのスーツの左襟に、金メッキが剥げて地銀の見える弁護士バッジが輝いている。

 

 先の呟きは、この紳士の唇からこぼれ落ちた。

 

 堂島和夫、五五歳。名古屋市東区に自身の事務所を構える弁護士だ。八年前、鬼頭が晶子との離婚の条件で揉めた際に、父からの紹介で頼った人物。そのときは当時勢力を増しつつあった女権団体の介入により、鬼頭ともども屈辱の味を舐めることになったが、それから四年後の陽子の親権を取り戻すための戦いでは、その手腕を存分に振るってみせた。四年越しに挑んだ第二ラウンドに彼は見事勝利し、鬼頭からの信頼は絶対のものとなった。

 

 今年の四月に週刊『ゲンダイ』が捏造記事を掲載した際にも、鬼頭は堂島を頼り、名誉毀損の訴えを起こす準備を依頼していた。今日は版元の談講社をはじめとする関係各所に内容証明郵便を送る前の、最後の打ち合わせの日だ。出来れば直接会って話がしたい、と、意見を一致させた二人は、鬼頭がIS学園の職員会にはたらきかけることで、堂島の学園島への入島許可を求めた。

 

 はたして、立ち入りの許可はすぐに下りた。その際、発行された許可証の同行者の欄に、内調の高品の名前が連なることになったのは、勿論、日本政府からの介入があった結果だ。

 

 暗部組織『更識』からの連絡で、IS学園の職員が堂島弁護士と接触を図っていることを知った日本政府は、こちらも直ちに行動を開始した。鬼頭に対し、堂島弁護士の身の安全は自分たちが保障する旨を宣言するとともに、学園島への移動手段の用意を申し出たのだ。

 

『世間には男性操縦者の存在を良く思っていない者たちもいます。彼ら、彼女らが、堂島弁護士があなたの依頼を受けたことを知って、過激な行動をとらないとも限りません。少なくともこの係争問題が落ち着くまでの間は、堂島弁護士の身辺に、警護の者をつけたほうがよろしいでしょう。学園への移動も、モノレールや船などの一般ルートではなく、誰にも知られることがないよう、政府関係者にしか使えないような特別なルートを使うべきです』

 

 男性操縦者の歓心を買うための、分かりやすいアピールだった。鬼頭は気づいていないが、ここ最近の訓練の様子は、楯無の口から日本政府へと伝えられている。イギリスに加えてドイツやアメリカまでもが、鬼頭智之の獲得に本格的に乗り出したと知った彼らは、今一度自分たちの存在感を内外に示さなければ、と鼻息を荒くした。

 

 日本政府からのこうした申し出に対し、二人は相談の末首肯した。政府の顔を立てた場合と、そうしなかった場合のメリット・デメリットを十分に比較検討した上での決断だ。とりわけ、呈示された移動手段は彼らの目にたいへん魅力的に映じた。快速ヘリによる一時間ちょっとの空の旅。堂島が抱えている案件は鬼頭一人だけではないから、移動時間が節約できるのはありがたかった。

 

「落ち着かない、と、おっしゃりますと?」

 

 高品は前を向いたまま聞き返した。こちらもネイビーのスーツに袖を通しているが、ジャケットの内側にはひそかにショルダーホルスターを吊るしている。堂島に危害を加えそうな気配があれば、即座に拳銃を引き抜ける状態だ。首を振らずに、眼球の動きだけで広い廊下をくまなく警戒している。

 

「うら若いお嬢さんたちの声が、そこら中から聞こえてきてやかましいじゃないですか。これだけなら、そこらにある普通の女学校と何ら変わらないのに、」

 

 堂島は四年前にクラスメイトからのいじめ被害を訴えた女子中学生を弁護したときのことを思い出しながら言った。クライアントの少女が通う学校は私立の女子校で、事実関係の確認のため足を運ぶその度に、思春期の盛りを迎えた少女たちのパワフルさに圧倒されたものだ。とにかくよく動き、よくしゃべり、よく笑う。校舎内ではどこにいても、彼女たちのかしましい声が聞こえないときはなかった。

 

 IS学園も、騒々しさでは一般の女子校と大差ない。ただ、その喧噪には、決定的に異なる点もある。

 

「よくよく耳を澄ませてみれば、やれ起爆信管がどうの、PICがどうの……と、強面な単語が当たり前のように飛び交っている。ここが軍事施設だということを思い知らされます。いま視界に映じていないだけで、私がいまいるこの場所には、強力な兵器の存在がある。もしかすると、私が歩いているこの廊下のすぐ真下に秘密の地下室などがあって、実はすぐそばにあるのかもしれない。それを思うと、恐ろしさで冷や汗が止まりませんよ」

 

 事前に読み込んだ入学案内用のパンフレットによれば、IS学園には三十機以上のISが常時稼働状態で待機しているとか。しかもこの数字は、学園が所有するISに限り、生徒たちが個人的に保有しているISの機数はこれに含まれていない。実際には四~五十機のISがここに集結していると考えられた。世界中の軍隊を同時に相手取れる戦力だ。そんなものが、自分のすぐかたわらにあるかと思うと、

 

「緊張で、とても落ち着いてなんていられません」

 

「なるほど」

 

「高品さんは、この島には?」

 

「仕事で何度か」

 

 取り急ぎ前方に脅威がないことを認めた高品は、後方の様子の確認がてら、一瞬だけ堂島を振り返る。

 

「学園の運営予算の大部分は、日本国からの税金によって賄われているのは、堂島先生もご承知でしょう。国民の血税が正しく使われているかどうか。学園の運営に問題はないか。その監査を年に四回、総務省と防衛省、そして財務省とで合同チームを組んで行っているんです」

 

 高品はまた前を向き、堂島の先導を続けた。

 

「今回、私が堂島先生に同行しているのは、」

 

「はい」

 

「勿論、先生の護送を請け負ったからに他なりませんが、実は、もう一つ目的があってのことです」

 

「それは、いまおっしゃられた、監査業務に関わりのあることですか?」

 

「はい」

 

 前を向いたまま高品は首肯した。

 

「まさにその監査業務の一環です。今日、IS学園は鬼頭智之氏を相手に、大きな買い物をしようとしていますから」

 

 学園がその年に何の装備を何セット購入するか。すなわち、税金の使い途についての裁量は、基本的に学園側に委ねられている。レーザー・ピストル《トール》の購入に対し、口出しをするつもりはないが、あまりにも適正価格との乖離が激しい場合は、一言苦言を呈する腹積もりではいた。

 

 喉から手が出る鬼頭の才能だが、こちらが下手に出るあまり、増長されても困る。

 

「――もうすぐ、職員室です」

 

 長い廊下を歩いているうち、『職員室』と、空間投影式のCGプレートを掲げた部屋の戸が見えた。電動ドアの前に、教師と思しき女性が立っている。学生の幼さがまだ抜けきれていない童顔に丸い眼鏡をかけた彼女は、二人の姿を認めるや、ローファーの踵を鳴らしながら駆け寄ってきた。目の前で立ち止まった彼女に向けて、高品が警官時代から慣れ親しんだ挙手敬礼を取る。

 

「内閣情報調査室の高品です。堂島和夫氏をお連れしました」

 

「お待ちしていました」

 

 女性教師は楚々とした笑みを浮かべると、堂島に向かって腰を折った。

 

「この学園で教師を務めています、山田真耶と申します。IS学園へようこそおいでくださいました、堂島先生」

 

「堂島です」

 

 堂島は一歩前に出ると、懐から名刺を一枚差し出した。

 

「本日はよろしくお願いします」

 

「こちらこそ」

 

「早速ですが、鬼頭さんに会わせていただいても?」

 

 恭しく名刺を受け取った真耶に訊ねた。すると、彼女は申し訳なさそうに職員室の戸を示す。

 

「すみません。実はまだ、商談の方が長引いていまして」

 

「と、おっしゃりますと?」

 

 高品がドアを見ながら訪ねた。察するに、レーザー・ピストル《トール》の引き渡し契約は職員室内で行われているのだろう。

 

「納品された製品に、何か不具合が?」

 

「ああ、いえ。受領した《トール》自体には、何の問題もありませんでした」

 

 品質も、納品数量も、事前にしたためた契約書通りの仕様だったという。

 

「では、なぜ取引が難航しているのでしょう?」

 

「実は、《トール》の買い取り価格の件で揉めていまして……」

 

 二人は顔を見合わせた。獲物を見つけた猛禽の目で、高品が重ねて問う。

 

「揉めている、とは?」

 

「我々の考える適正な買い取り価格と、鬼頭さんの考える適正な販売価格との間に、著しい乖離があったんです。そこの摺り合わせに難航していまして……」

 

 真耶は湿っぽく溜め息をついた。

 

「もともと今回の商談は、我々IS学園側から鬼頭さんに持ちかけたものなんです。鬼頭さんが開発したレーザー・ピストル《トール》は素晴らしい性能の銃ですが、いかんせん、その時点では数が限られていました。少数しかない武器に多数の生徒からの貸出申請が集中してしまい、それを捌くのに事務上の負担が大きかったんです。そこで、学園側から増産と正式な買い取りを依頼したんですが……。これは私たち学園側の失敗でもあるんですが、今回我々は、《トール》をいくらで買い取るか、ということを決められないまま、納品日の今日を迎えてしまったんです」

 

 《トール》の開発と製造にまつわる特殊性に起因する問題だという。

 

 兵器に限らず、製品の販売価格は通常、原価に対しどれだけの利益率を上乗せするかによって決定される。しかし、《トール》はもともと、鬼頭の息女である陽子がイギリスの代表候補生との試合で勝てるように、とこしらえられた銃だ。金銭という形での利益追求を想定して設計されていない。適正な価格で、とはいうが、利益率をどの程度獲れば適性といえるのか、鬼頭もIS学園側も、判断を下せないまま今日を迎えてしまったのだという。

 

 説明を聞かされた高品は、怪訝な顔をした。《トール》の値付けが難しい理由はわかったが、こんなぎりぎりになってもまだ決めかねるほどのことだろうか。既存のIS用兵装の調達価格を参考に、平均的な利益率を上乗せすればよいだけでは?

 

「それが、そう単純には考えられない事情があるんですよ」

 

 真耶は無念そうにかぶりを振った。

 

「いちばんの原因は、鬼頭さんが天才すぎるせいなんですが」

 

「うん?」

 

「……ううん。言葉では説明しづらいなぁ」

 

 真耶は職員室の自動ドアの開閉機構の制御装置のパネルに手をかざした。自動開閉モードから、手動へと切り替えると、スライドドアにそっと指先を添える。

 

「よろしければ聞いてみますか? 商談の内容」

 

「そちらに差し支えがなければ、ぜひ」

 

 真耶は頷くと、スライドドアを十センチだけ開けた。ドアの隙間に高品が、ついで興味本位から堂島が顔を寄せる。

 

 覗き込んだ先の光景に、堂島は意外そうな表情を浮かべた。一般人が立ち寄ることの出来ないIS学園の設備という先入観から、どんな異世界が広がっているかと思いきや、存外、普通の部屋という印象だ。構造自体は、一般的な学校の職員室と大差なく、広々とした室内は職員用のスペースと、生徒たちも利用する公共スペースに分けられている。

 

 入口からは、公共スペースにパーテーションで囲われた一画があるのが見れた。真耶に確認すると、来客を一時的に応対するためのスペースだという。応接室の準備が間に合っていないときなどに、取り急ぎ案内する場所とのこと。

 

「鬼頭さんは、あちらにおいでです」

 

 《トール》の取引が上手くいくかどうかは、学園の教師全員の関心事だ。商談の結果がすぐ伝わるように、と取引交渉の場に職員室を指定したのは、鬼頭自身だったという。若い女性らの意識が向けられる中、囲いの向こう側からは、喧々囂々と、男女の激しい応酬の声が聞こえた。男の方は、堂島もよく知る人物の声だ。

 

「――まさかこうも意見が合わないとは思いませんでしたよ」

 

 鬼頭の声は、堂島にとってはお馴染みの、苛立ちを孕んだものだった。彼が自分のもとを訪ねるときは、いつもそうだ。

 

「――私も、鬼頭さんがこうも分からず屋だとは思いませんでした」

 

 対する女の声もまた、感情の昂ぶりが見受けられる。と同時に、はて、どこかで聴いたことがあるような、と小首を傾げていると、かたわらの真耶が、「お相手は、織斑千冬先生ですよ」と、教えてくれた。織斑千冬! 商談の直接の交渉役は世界最強のブリュンヒルデか! 驚く堂島の耳朶を、世界最強を前にしてもたじろがぬ、男の声が打つ。

 

「こちらとしては、最大限の譲歩をしているつもりですが?」

 

「我々とてそうです。これ以上は、一円とて譲れません」

 

「……なぜご理解いただけないのか!」

 

「そっちこそ! もっと大局的な見方でものを語っていただきたい」

 

 両者の会話を聞く高品の双眸が、訝しげに動揺した。なるほど、たしかに紛糾している。と同時に、会話の内容に何か違和感を覚える。自分たちと理解と、目の前で繰り広げられている実際のやりとりとの間に、齟齬があるような。

 

「……このままでは、どれだけ時間を費やしたところで、お互いに納得のいく妥協点を見出せそうにありません」

 

 鬼頭が硬い声を呟いた。無念さに満ち満ちた諦観の呟きが、苦しそうに唇から漏れ出る。

 

「致し方ない。もう少しだけ、譲歩しましょう」

 

「感謝します。我々も、鬼頭さんのご意向に寄り添えるよう、もう少しだけ努めましょう」

 

「今回納品させていただいた《トールA1》。銃本体が二十挺と、マガジン型バッテリーが百個。これの製造原価に、私の利益をプラスして――レーザー・ピストル一挺につき四五〇万円、バッテリー一個につき六〇万円。しめて一億五〇〇〇万円で買い取っていただきたい!」

 

「安すぎる!」

 

 鬼頭の呈示した金額を、織斑千冬の声が切って捨てた。

 

 同時に、違和感の由来を理解した高品が、呆れた表情で溜め息をつく。

 

「なるほど。折り合いがつかなかったのは、そっち方向でのことだったか」

 

「いいですか、鬼頭さん。あなたの持つ技術はたいへん素晴らしい。《トール》のような高性能火器を、こんなにも安価に作るなど、あなたにしか出来ないことでしょう。

 

 しかし、です。何度も言いますが、《トール》ほどの兵器が、高級外車のエントリークラスと同じくらいの価格帯というのはいけません。ISに有効打を叩き込めるほどの超兵器が、そんなお手軽価格で入手出来ると世間に知られれば、あなたの身が危うくなってしまう。各国の軍隊から《トール》を購入したい旨の連絡が殺到するでしょうし、取引に応じない場合はあなたの職場や家族の者に危害を加える、と脅しをかけてくるかもしれません。それはまだましな方で、最悪、どこかのテロ組織が、あなたの技術力を狙って誘拐しようとしてくるかもしれない」

 

「危うくなるのは、鬼頭さんだけではありません」

 

 パーテーションの向こう側から、千冬とは別な女性の声が聞こえた。学園に勤めている他の教師だろう。

 

「安価に調達できるというメリットは、作り手の思惑を超えて際限なく拡散するリスクというデメリットと表裏一体の関係にあります。たとえば旧ソ連が開発したAKシリーズというライフル銃は、単純な構造と生産性の高さから、一挺あたりの製造・運用・維持コストが非常に安く、その結果、違法コピーも含めて大量の数が軍以外の武装組織に拡散してしまいました。これら軍の管理を離れてしまった銃は、いまも世界のどこかで誰かの命を奪っています。あなたは《トール》に、同じような悪名を背負わせるつもりですか?」

 

「実際はどうあれ、IS学園は相応の金額を積んで《トール》を購入した、という事実を作ることが重要なんです。ここはあなたの身の安全の、世界の平和の維持のために、暴利を貪ってください」

 

「おっしゃっていることは分かりますが……」

 

 鬼頭の渋い声。苦々しい口調で、彼は続けた。

 

「それでも、銃一挺につき五〇〇〇万というのは、暴利が過ぎる。製造原価に対して、十倍近い値段だ。そんな金額で売りつけることを強いられるこちらの気持ちも、少しは汲んでもらいたい」

 

「《トール》の性能を考えれば、それでもまだ安いと思いますが」

 

 呆れた口調で千冬が言った。

 

 兵器の費用対効果なんて生まれてこの方一度も考えたことのない堂島が、かたわらの真耶に訊ねると、一発が一億円もする高価な空対空ミサイルでも、ISのシールド・バリアーを突破してダメージを与えることは難しいという。それを考えると、なるほど、学園側が最大限譲歩したというこの数字でさえ、破格の安さだと得心した。

 

「……織斑先生」

 

「はい」

 

「私はね、究極、一介の会社員なんですよ。毎月の給料日が楽しみで、今度はどんな時計を買おうか、とか。次の休日にはちょっと奮発してスポーツカーをレンタルしようか、とか。そんなことを考えながら日々を過ごしている、みみっちい男なわけです。そんな男の預金口座にね、この取引がこのまま進むと、ある日突然、十億円以上もの大金が振り込まれることになるんです。私のような小市民にとって、十億円とは、人生が下り坂へと陥りかねない、大金なわけですよ。想像するだけで、心臓に悪いとは思いませんか? あなた方、四六歳のおっさんをショック死させるおつもりか!?」

 

「一度に支払うのが健康に悪いということでしたら、分割で振り込みますが?」

 

「そういう問題じゃあにゃあのよ!」

 

「だぁめだ、こりゃ」

 

 堂島が呆れた様子で呟いた。大金を持つのがかえって恐ろしいと庶民感覚を訴える鬼頭と、大きな数字を見ることに慣れているブリュンヒルデとでは、価値観の摺り合わせが上手くいくはずもない。これはもうしばらくかかりそうだ。

 

「山田先生、もう大丈夫ですよ」

 

 高品はスライドドアをそっと閉じた。

 

「商談がまとまるまでにはもう少し時間がかかりそうですね」

 

「先に、応接室にご案内します」

 

「よろしくお願いします」

 

 IS学園の教室に設置されたスライドドアは、機密性に優れている。閉ざしてしまえば、中年男の嘆きの声はもう聞こえない。

 

 三人は鬼頭のことを一旦忘れて、来客者用の応接室へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 同時刻。

 

 職員室のある第一校舎から少し離れた場所にある第三アリーナで、一夏は級友たちと自主トレーニングに励んでいた。メンバーは箒とセシリア、陽子とシャルルの五人だ。フランスからやって来た転校生は初日以来、一夏を中心としたグループと行動をともにする機会が多い。同じ男性操縦者ということで、学生寮の部屋が同室となった一夏が、学園に早く馴染んでほしいからと、何かある度に一緒に行動しないかと誘っているためだ。放課後のIS訓練もその一環で、最近はもっぱらこの顔ぶれでチーム・メイクしている。

 

 この日の訓練は、準備運動がてらの模擬戦から始まった。一対一形式のISバトルを順番に行い、その間手が空いている者は試合内容の分析を行う。そうすることで当事者では気がつきにくい各人の問題点を指摘し合い、そこから今日の課題を設定。クリアのため、ひたすら練習に励む、という計画だ。一夏は最初にシャルルと、次いでセシリアと対決し、両方から容赦なく黒星を叩き込まれた。そのときのデータをもとに、本日の訓練内容を練り上げる。

 

 はたして、一夏に課せられた課題は、

 

「ええとね、一夏が僕やオルコットさんに勝てないのは、単純に射撃武器の特性を把握していないからだよ」

 

「そ、そうなのか?」

 

 オレンジ色のパーソナルカラーで彩られた『ラファール・リヴァイブ』を着込んだシャルルの言葉に、同じく『白式』を展開した状態の一夏はショックを受けた様子で呟いた。

 

「一応、わかっているつもりだったんだが……」

 

 この『白式』を愛機とするようになって、一ヶ月半が経つ。その間にこなした試合数は、模擬戦を含めれば百はゆうに超えているはずだ。『白式』には備わっていない射撃武器を相手取ることにも、だいぶ慣れてきたと自負しているが。

 

 そんな一夏のひそやかな自信を、シャルルはばっさり切って捨てる。

 

「うーん、知識として知っているだけって感じかな。さっき僕と戦ったときも、ほとんど間合いを詰められなかったよね?」

 

「うっ……、たしかに。イグニッション・ブーストも読まれていたしな」

 

 先ほどの試合の内容を思い返して、苦い顔つきになる。

 

 近接格闘機の『白式』で打点を得るには、とにもかくにも、相手との距離を詰める必要がある。これに対し、シャルルが採った作戦は、拡張領域から引っ張り出した豊富な銃火器を駆使して、相手の接近をひたすら妨害する、という戦法だった。一撃必殺の威力を持つ『零落白夜』も、近づけさせなければ恐くない、というわけだ。

 

 女子とまごう可愛らしい顔立ちからは想像しがたいが、シャルルは悪辣極まる戦術家だった。性質の異なる多数の銃火器を巧みに使い分け、実にいやらしい銃撃を浴びせてくる。こちらの機動の“起こり”の瞬間に牽制射撃を叩き込んで呼吸を乱してきたり、こちらの進行方向を予測してあらかじめその位置に濃密な弾幕を形成したり、といった具合だ。おかげで先の試合中、自分は終始シャルルの手の内で翻弄されてしまった。起死回生を期して試みた、フェイント機動からのイグニッション・ブーストにいたっては、騙しの仕掛け自体は成功して奇襲の効果が得られたにも拘わらず、軌道を先読みされ、あっさり迎撃されてしまった。

 

「一夏のISは近接格闘オンリーだから、より深く射撃武器の特性を把握しないと対戦じゃ勝てないよ。特に一夏のイグニッション・ブーストって直線的だから、反応出来なくても軌道予測で攻撃出来ちゃうからね」

 

「なるほど」

 

 まったくもってその通りだな、と一夏は得心した様子で頷いた。

 

 シャルルの説明は、これまでにコーチ役を買って出てくれた誰よりも言葉選びのセンスに長け、その上で丁寧だからわかりやすい。IS学園の生徒であれば誰もが当然に持っているはずの前提知識がない、という自分の特殊性を踏まえてだろう、常に平易な語彙と文法を心がけてくれる。その配慮自体も勿論のこと、細やかな心遣いに対する感謝の気持ちが、理解度を押し上げているのは間違いないだろう。以前にも教わったがそのときは分からなかったことも、こうしてシャルルの口から説明されると、腹の底から腑に落ちる。

 

「だからそうだと私が何回も説明したと……!」

 

「私の理路整然とした説明で理解出来ていなかったなんて」

 

「や、二人のあれは、説明になっていなかったよ」

 

 IS操縦者の先輩たちが何か言っているが、無視してシャルル先生の講義に集中する。あと鬼頭さん、その二人にはもっと言ってやってくれ。

 

「でもよ、一口に射撃武器って言っても、銃だったり、ミサイルだったり、色々あるだろ? それ全部をいきなり覚えろって言われても……」

 

「うん。大変だよね。だから、最初のうちは特に遭遇する機会が多い銃から勉強していこう」

 

 そう言うと、シャルルは手の中にブルパップ式のアサルト・ライフルを展開した。『白式』のISコアがすかさずコア・ネットワークから情報を引っ張り出して一夏に伝える。フランス製の五五口径、《ヴェント》アサルト・ライフル。一九七七年にフランス陸軍で制式採用されたFA-MASアサルト・ライフルの基本設計を参考に開発された、ベストセラー兵装の一つだ。銃本体に複数種類の高精度センサーが内蔵されており、射撃の適性に特化したISでなくとも、安定して高い性能を発揮することが出来る。

 

「アサルト・ライフルは初心者からベテランまで愛用者の多い銃なんだ。ISバトルでも、遭遇する機会は多いと思う」

 

 ここで一度、ライフルという言葉の意味について考えてみよう。

 

 ライフルはもともと、銃身内部にライフリングが施されている火器を表わす言葉だ。ライフリングとは、銃腔に彫られた溝のことで、その源流となる技術は十五世紀に発明された。はじめは、銃弾の発射後に銃身内に残留する火薬の燃えかすなどの汚れを、かき出しやすくするために彫られたものだが、この溝に沿って射出された銃弾は弾道が安定し、より遠くまで届くうえ狙った場所に命中させやすい、という予期せぬ効果が得られた。やがてライフリングを刻む目的は、有効射程の延伸と命中精度の向上へと入れ替わり、そのために様々な溝の形が研究されるようになった。

 

 一つの決定版となったのは、複数本を斜めに切る方式だ。ライフリングを斜めに刻むと、銃身内では螺旋の形をとる。銃弾は回転の力を加えられながら筒の内側を通り抜けて銃口より射出される。このとき、回転しながら飛ぶ弾はジャイロ効果によって、空気の抵抗や重力の影響をぎりぎりまで凌ぐことが出来た。かつてなくよく飛び、よく当たるこの銃を、人々はライフルと呼んだ。

 

 螺旋型のライフリングの技術は、工作の難易度からくるコスト面での課題や、弾込めが難しいという短所から、なかなか普及しなかった。しかしその状況も、十八世紀に産業革命が起こったことで工作機械の精度が向上したり、十九世紀前半に装弾のしやすいミニエー弾や紙薬莢が実用化されたことによって、次第に解決していった。

 

 導入ハードルの低下と製造コストの低減により、ライフリングは、小銃以外の火器にも採用されるようになった。拳銃や機関銃といった小火器は勿論、ライフル砲といって、口径が二十ミリを超えるような重火器にもどんどん刻まれるようになった。

 

 このとき、ライフルという言葉に、新しい意味が付与される。ライフリングを持った火器イコール、ライフルという考え方では、拳銃も機関銃も、迫撃砲も榴弾砲も、ライフルになってしまう。そこで、ライフルという名詞の表わす意味が再定義された。今日、一般にライフルといえば、一人の人間が両手で保持し、照準して発射する、肩撃ち銃のことをいう。日本語ではこれの訳語として、小銃、という言葉があてられている。

 

 現代の軍隊において、ライフルは兵士一個人が携行する最も基本的な武器の一つだ。近距離から遠距離までの、広い範囲の射撃をこなせる万能性を持っている。二十世紀前半までは、遊底という部品を手動で操作するボルトアクション方式の動作機構を搭載した物が歩兵銃の主流であった。第二次世界大戦が起こると、遊底の操作を自動的に行う自動小銃の有用性が認められ、末期にはさらにそれを発展させた、アサルト・ライフルが登場する。

 

 アサルト・ライフルは、セミ・オート射撃機構とフル・オート射撃(あるいは、バースト射撃)機構の切り替え機能を搭載したライフル銃だ。短機関銃が得意な至近距離での掃射能力と、従来の小銃が得意な中距離での狙撃能力の両立を目指して開発された。反動の弱い中間弾薬を用いることで、フル・オート射撃時の反動制御を容易にする工夫がなされているほか、第二次世界大戦で頻発した、市街地戦を想定した取り回しやすいサイズと重量の物が多い。また、中間弾薬の採用は兵士一人あたりが持って運べる弾薬量の増加にもつながっている。現代の軍隊でライフルといえば、一般にはこのアサルト・ライフルのことを指す。

 

 IS用兵装としてのアサルト・ライフルは、歩兵銃としてのアサルト・ライフルをIS用にサイズ・アップした銃器だ。トリガー部分に一定の電圧をかけないと引き絞ることが出来ない安全装置が組み込まれているなど、その動作は電子的に制御されている、という違いはあるが、基本的な構造自体に大きな差はない。武器としての立ち位置も同様で、数多あるIS用射撃兵装の中でも、最も基本的なものの一つ、と扱われる。

 

 十年前の『白騎士事件』によってISの兵器としての有用性が実証された後、世界は、このまったく新しい概念の新兵器が扱う武器の数々に、どんな名前をつけるべきか頭を悩ませた。最終的には、究極的には人間が身に纏うパワードスーツだから、として、運用方法や与える効果が似ている場合は、人間用の武器と同じ名前を与える、という指針を示した。たとえば、口径が二十ミリ未満の両手で保持する銃火器には、ライフルの分類名を与える、というふうだ。アサルト・ライフルの場合は、高速機動戦闘中でも取り回しが容易な、扱いやすいサイズをした連射機構を備えたIS用ライフルと定義されている。

 

「人間用のアサルト・ライフルと一緒で、IS用のアサルト・ライフルも幅広い用途に使える武器だから、愛用者はすごく多いよ」

 

「なるほど」

 

「じゃあ、早速練習してみよう」

 

「練習?」

 

「座学もいいけどね。こういうのは、実際に撃つことではじめて気づいたり、理解できることも多いよ」

 

 はい、と《ヴェント》を手渡された。両手にのしかかる、ずっしりとした重み。勿論、心因性の錯覚だ。実際にはパワーアシスト機能があるから、一夏の両腕の筋肉が鉄の重さを感じることはない。はじめて触る銃火器への、心理的抵抗感がもたらす感覚だろう。

 

「あれ? 他のやつの装備って、使えないんじゃないのか?」

 

「普通はね。でも所有者が使用許諾すれば、登録してある人全員が使えるんだよ」

 

 IS用兵装は強力な物が多い。何かの拍子に奪い取られ、再利用させた場合を想定した安全装置だ。これはすべてのIS用兵装に取り付ける義務がある。ISバトルの競技レギュレーションにも記載されている。

 

「いま、一夏と『白式』に使用許諾を発行したから試しに撃ってみて」

 

「お、おう」

 

「おっ。織斑君、ついに射撃デビュー?」

 

 セシリアらとともに自分の課題をこなす陽子が話しかけてきた。身に纏うISは、米国製第二世代機の『スプリット・クロー』だ。生徒からの貸出申請の人気がいまいちな機体だが、それだけに、抽選になったときの期待値が高い。過日の実習でそのことを知り、あえて『スプリット・クロー』の貸出申請書を提出した陽子は、見事その賭けに勝ったのだった。

 

「ああ。……えっ、と、構えは、こうでいいのか?」

 

 他の者たちが普段どのように構えているかを思い出しながら、一夏は《ヴェント》のショルダー・ストックを肩に添えてみせる。三角柱状のハンドガードを左手で下から支え、右手の人差し指をトリガーに引っかけた。

 

「ん……と、脇はもうちょっと締めた方がいいかも」

 

 陽子はロボットアームの先端に取り付けられている、五本指型のマニュピレータで小さなバッテンを作った。シャルルも頷く。

 

「そうだね。あとは、左手ももうちょっと後ろのあたりを支えた方がいいかな」

 

 シャルルは一夏の後ろに回ると、体をくっつけて彼の四肢を誘導した。

 

「火薬銃だから瞬間的に大きな反動が来るけど、ほとんどはISが自動で相殺してくれるから心配しなくてもいいよ。センサー・リンクは出来てる?」

 

「銃器を使うときのやつだよな? さっきから探しているんだけど、見当たらない」

 

「おほう。普通は、格闘専用機でも、最低限の仕様のアプリが入っているはずだけど」

 

「一〇〇パーセント格闘オンリーなんだね。じゃあ、しょうがないから、目測でやろう」

 

「初めての体験だっていうのに、なんてハンディキャップだよ」

 

「ぼやかない、ぼやかない」

 

 自身もセシリアの指導方針からセンサー・リンク機能をあまり使わせてもらえない陽子は、苦笑しながら言った。

 

「じゃあ、いくぞ」

 

「うん。とりあえず撃つだけでもだいぶ違うと思うよ」

 

 周りに他の生徒が飛んでいないか確認した後、一夏は二十メートルほど離れた場所の地面に銃口を向け、トリガーを引き絞った。ドン! と、轟然と鳴り響く発砲音。いつも敵が持っているのと対峙したときと異なり、すぐ耳元、超至近距離で起きた大事件に、吃驚仰天する。

 

「うおっ!?」

 

 驚きの声は、火薬の炸裂音によってかき消された。少し離れた場所で、土煙の噴水があがる。銃弾が地面に命中した証左だ。

 

 心臓が、早鐘を打っているのを自覚した。敵が撃っているのを見るとはまったく異なる衝撃的感覚に、動揺を抑えきれない。パワーアシスト機能で保護されているはずの右手が、じーん、と痺れているような感覚に襲われた。

 

「どう?」

 

 後ろに回ったままのシャルルが訊ねた。

 

 一夏は、ごく、と唾を飲み込んだ後も、言葉をつかえさせながら応じた。

 

「お、おう。なんか、アレだな。銃声が、いつもと全然違って聞こえた」

 

「いつも?」

 

「あ、ああ。ほら、いつもは、相手が撃っている、遠くから聞こえる音だったから。すぐ近くだと、こんなにも違うんだな、って驚いた。……それから、」

 

「それから?」

 

「速い、な。ああ、いや、銃弾の速度かなり速いっていうのは、勿論知っていたんだけど……なんか、予想以上に速かった、っていうか。教科書に書いてあった、秒速一〇〇〇メートルって数字よりも、ずっと速く感じた、っていうか……悪ぃ。上手く言えない」

 

「大丈夫。言いたいことは、なんとなくわかるから」

 

 シャルルの言葉に、陽子も頷いた。

 

「秒速一〇〇〇メートルなんて数字、実際に撃ってみないと、実感が湧かないよね」

 

「うん。本当だ。……でも、これで分かったぜ」

 

「うん?」

 

「銃弾自体は、『白式』よりずっと速いんだな、ってことがさ」

 

 銃弾の発射と『白式』の機動の開始が、よーい、ドン! で、同時に始まったら、とてもじゃないが敵わない。銃を相手に『白式』が間合いを詰めるためには、相手が撃つよりも先に動き出し、相手の照準を定めにくくするための立ち回りが重要だ。

 

「こんなに速いっていうのを考えると、イグニッション・ブーストの使い方にも、もっと工夫が必要だよな」

 

 圧縮したエネルギーを一瞬のうちに放出することにより、猛加速を得る高速機動技術だ。すさまじい加速力を得られる反面、一度発動すると軌道の修正が効かない。だから軌道が読まれてしまうと、より速い銃弾を簡単に叩き込まれ、あっさりと迎撃される。運良く命中を逃れたとしても、撃たれていることに意識が向いてしまい、加速が鈍ってしまう。

 

「命中を恐れて思いきった飛行が出来なくなるんだ。そのせいで、簡単に間合いが開いてしまうんだな。そんでもって追撃を撃ち込まれて、シールド・エネルギーは空っぽに」

 

「アサルト・ライフルが相手だと特に、ね。アサルト・ライフルは、セミ・オートで狙いすました一発を撃ち込むことも、フル・オート射撃で弾幕を張ることも自由自在だから」

 

「ああ。よく理解出来たし、納得もいった。シャルル、これ、もう少し撃たせてもらってもいいか?」

 

「うん。一マガジン使い切っちゃってもいいから」

 

「おう、サンキュ」

 

 今度は空間投影式のCG標的を出力して、そこに狙いを定めた。射撃モードはセミ・オート。五十メートル先の的に向けて、二発、三発と発射する。的に向けて撃ち込みながら、この武器を相手にどう間合いを詰めるのか、作戦を考える。

 

 撃っているうちに、はたと気がついた。

 

 地球の重力下では、弾道は放物線を描くと授業で習った。しかし、こうして自分が撃つ側に立ってみると、その軌道はほぼ真っ直ぐに見える。イグニッション・ブーストと同じ、直線の軌道だ。

 

 ――シャルルは、イグニッション・ブーストは直線的で、軌道予測がしやすいから対処も簡単、みたいに言っていた。ということは、同じように真っ直ぐ進んでいく銃弾にだって、同じことが言えるんじゃないか?

 

 勿論、イグニッション・ブーストと銃弾とでは速さが違う。しかし、直線的に進んでいく、という点に限れば、同じ理屈が当てはめられるはずだ。

 

 ――その銃撃が、どこに向けて発射されたかが分かれば……いや、もっと突っ込んで、どんなたくらみの下で発射されたかまで分かれば、対処出来るんじゃないか?

 

 必中を期して放たれた一発と、当たらずともよいから間合いを開けるために発射された牽制射撃とでは、脅威の度合いはまったく異なる。対処の容易さ、適切な対処法、その後の間合いの詰め方なども当然変わるはずだ。それを見極めることが出来れば、近接格闘機の『白式』でも、勝機を見出せる確率はぐっと上がるだろう。

 

 ただし、銃弾の動きは速い。銃口から叩き出された後に軌道予測が出来ても、対処する時間の猶予がない。

 

 ――だから、相手がトリガーを引き終える前に、相手がどこを狙っているのか、その理由は何なのかを知る必要がある。

 

 そして、そのための技術を、理合を、自分はすでに知っている。剣道の『目付』だ。

 

 剣道の世界では、一眼二足三丹四力といって、なによりも相手を見る力、技術、その心構えが重要視される。互いに竹刀の切っ先を突きつけ合う近距離で激しい攻防動作を展開することになる剣道の試合では、相手が動き出したのを見てから対処法を考え、こちらも動く、という待ちの態度では、勝利を得るのは難しい。相手の動きを先読みし、相手よりも早く動き出すことが肝要だ。

 

 『目付』は、そのための技術体系の総称である。目付とは、すなわち目の付け所の意。遠山、紅葉、観見、二つなど、流儀によって様々な考え方があるが、本質的にはみな同一のことを言っている。一部の動きに心を囚われることなく、相手の姿全体を見よ。身体の動きのみならず、心の動きをも見つめよ。かの剣豪・宮本武蔵が著した『五輪書』には、かくある。観見二つのこと、観の眼強く、見の眼弱く、遠きところを近く見、近きところを遠く見ること、兵法の専也。

 

 嬉しいことに、ISにはハイパーセンサーが搭載されている。相手のことをひっそり観察する手段には事欠かない。目のくばり方について工夫する余地はあるはずだ。

 

「――ところでさ、デュノア君のISって、ラファールのカスタムモデルだよね?」

 

 一夏の射撃練習に意識を向けるかたわら、自身の課題にも取り組む陽子が言った。

 

 彼女が本日の目標に掲げたのは、《トール》以外のビーム兵器の扱いに慣れることだ。

 

 レーザー・ピストル《トール》は、父の鬼才ぶりが十全に発揮された結果、普通の拳銃感覚で扱える武器として仕上がった。しかし、他の技術者やメーカーが開発した、既存の後付け武装は違う。一般には、ビームの出力を求めれば装置は大がかりなものとなり、携帯性を重視すれば威力は低下する。高出力のビームと小型化を両立させた《トール》とは、まったく異なる運用法を学ぶ必要がある。

 

 一夏たち専用機持ちと違い、一般生徒扱いの陽子は、いつでも好きな機体、好きな武装で訓練や試合に臨めるとは限らない。どんな機体、どんな武器でもある程度のパフォーマンスが発揮出来るよう、早いうちから色々な兵装に触れておくべきだ、と彼女は考えていた。

 

 訓練機の貸出申請書にあえて不人気な機体の名前を書いたのも、抽選になったときの期待値が高いことの他に、『スプリット・クロー』が比較的大容量の拡張領域を持っているためでもある。最大積載量こそ後発機のラファールに劣るが、それでも、単機で歩兵一個旅団相当の火力を積むことが出来た。

 

「うん、そうだよ。正確には、カスタム機をさらにいじった機体だけどね」

 

 『ラファール・リヴァイブ・カスタム』は読んで字の如く、ラファールの特別仕様機だ。普段はカタログに掲載されておらず、軍の特殊部隊や国会代表級のIS操縦者などの特別な顧客からオーダーを受けたときにのみ製造される。特定の任務や、特定の一個人の操縦適性に合わせる形で性能を造り込むというその性格上、まったく同じ仕様・性能の機体は存在しないが、一般にはベースとなったラファールの強みである、機動性の高さをいっそう伸ばす方向で調整されることが多い。

 

 シャルルが身に纏うカスタム・タイプも、一見した限りではやはり機動性と運動性に重きを置いた仕様と陽子の視界に映じていた。通常仕様のラファールは、背面部に四枚のマルチ・スラスターを備えているが、シャルル機はそれが大型化している。脚部アーマーのシルエットに大きな変更はないが、通常仕様機よりも軽量化されているらしく、いくぶんほっそりとした印象だ。マルチウェポンラックには姿勢制御用と思しき小型の推進翼が取り付けられており、軽量化との相乗効果により、運動性能は飛躍的に向上しているだろうと予想された。

 

 外見上のいちばんの変更点は、物理シールドの扱いについてだろう。通常仕様機では肩部アーマーを基点にアン・ロック・ユニットとして浮かべていた四枚の物理シールドを、すべて取り外している。その代わりなのか、左腕ロボットアームの下腕部に、小型の盾を一枚だけ装備していた。敵の攻撃は盾で防ぐよりも、避けることを前提に設計されている様子だ。

 

「もともとはデュノア社で研究中の、第三世代機のテストベッド機として用意されたカスタム仕様だったんだ。新しい技術や兵装の運用データを採るための機体だから、IS競技用としてはあまり強い機体じゃなかったんだけど、僕がISを動かせるって分かってから、急遽、競技用に総合性能の向上を目指して再設計されたんだ。だから、正確には『ラファール・リヴァイブ・カスタムⅡ』ってところかな」

 

「全体的に軽量化されている感じだよな?」

 

 マガジン一個を使い切ったところで、一夏も会話に参加した。

 

「浮いた重量の分、パワーが余っているはずだが」

 

「その分は推進系に回しているんだ。あと、拡張領域の高速化処理とか」

 

「高速化処理?」

 

「もとがテストベッド機だからね。基本装備をはずして、その分、拡張領域の容量を大きめに取っているんだよ」

 

 シャルルの言によれば、通常仕様機の二倍ほどもあるという。ただでさえ大容量なラファールが、さらに倍とは……! だが、それなら納得だ。それほどの拡張領域、十全に活かした際の重装備時には、莫大な情報量を扱わねばならない。操縦者の技量にもよるだろうが、通常仕様のラファールの処理能力では、量子変換した兵装の出し入れだけでも一苦労だろう。それを嫌っての高速化処理か。

 

「ねえ、ちょっとアレ……」

 

「ウソッ、ドイツの第三世代型だ」

 

「まだ本国でトライアル段階だって聞いてたけど……」

 

「はぇ~すっごい黒い…」

 

「お~ええやん」

 

 不意に、アリーナ内がざわつき始めた。

 

 声が聞こえた方向に目線を向けると、自分たちがいまいる場所からはかなり離れた位置にあるピット・ゲートから、一機のISが入場してきたのが見えた。ハイパーセンサーが自動で視界を補正。拡大し、ピントを合わせる。黒いIS。シャルルと同じ日にこの学園にやって来た転校生、ラウラ・ボーデヴィッヒと、愛機シュヴァルツェア・レーゲンのコンビだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter38「やって来たもの」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三年と、三ヶ月前――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二次世界大戦後の一九四九年五月、ボン基本法の制定をもって、敗戦からの再スタートを切った西ドイツの政体は、連邦共和制と決まった。その後東西冷戦が終結し、生き別れ状態だった兄弟国との悲願の統一がなされると、連邦州の数は十六となった。これらの州は、総体である連邦共和国を構成する一員であると同時に、各々一個の独立国(Land)としても扱われる。連邦州はそれぞれが州独自の政府を持ち、憲法を持ち、強力な地方自治権を持っていた。教育や文化政策、警察機構の整備なども、その権限の対象だ。

 

 これに対し、連邦政府が権限を持つのは、連邦全体の公益に関わる部分の政策だ。具体的には、外交、軍事、通貨、関税、航空輸送、郵便や電気電信、州警察の活動を補完する機関としての連邦警察の整備などが挙げられる。これらの組織は、州法に優越する連邦法によってその活動を統制され、連邦法は、経済法、労働法、社会法、交通法、民法、刑法、財政法などによって構成されている。

 

 ドイツ連邦警察は、州警察の制度では対応が難しい国境線や重要施設――連邦機関や航空、鉄道など――の警備、州警察に対する集団警備力の提供などを主任務とする、警備警察組織だ。もとの名前を連邦国境警備隊といい、文字通り国境線の警備のための組織として一九五一年にスタートした。その後、任務の範囲はどんどんと拡大し、二〇〇五年の法改正を経て現在の名前、組織体制へと改編される。首都ベルリンの隣町、ポツダムに本部を置き、全国を九個に区分した管理局のもと、七七箇所の事務所と、十個の機動隊、そして最強のカウンター・テロ部隊GSG-9を持っている。

 

 

 

 ヨーロッパを代表する工業地帯……ルール地方を擁する、ドイツの西側ノルトライン=ヴェストファーレン州。かつて西ドイツの首都であった文教都市ボンは、この州の南端に位置している。そのボンの街から北東八キロメートルの地点に、ザンクト・アウグスティンという小さな町がある。面積三四平方キロメートル、人口五万五〇〇〇人という小都市ながら、かつての首都の隣町という立地から、西ドイツ時代より政府の重要施設が集まる街だ。ドイツ統一軍の兵站施設や、ドイツ社会傷害保険労働安全衛生研究所などがそうだが、とりわけ存在感を放っているのが、連邦警察の庁舎である。

 

 ザンクト・アウグスティンに設置された警察署は、警察署本体もさることながら、広々とした駐車場や大型ヘリをも収容可能なヘリポート、広壮な造りをした訓練場などを併せ持つ巨大な施設だった。特に訓練施設の充実ぶりが素晴らしく、体力錬成のための運動場の他に、拳銃から小銃まで広範な銃火器の練習が可能な射撃場、さらにはキル・ハウス設備まで備えている。キル・ハウスとは屋内戦闘を学ぶための訓練施設のことで、警察機関が用意する場合は、立てこもり犯との攻防を想定して建てられることが多い。主に一般の住宅や商業街のビル、内部が入り組んだ工場などを模して建てられる。

 

 ザンクト・アウグスティンのキル・ハウスは、運動場わきの広場に建てられていた。連邦警察の前に立ちはだかる、考えうるあらゆる状況を再現出来るよう、一階建ての平屋から六階建てのビルディングまで、大小様々な形態の建物が立ち並んでいる。そのうちの一つ……四階建てのオフィスビルに見立てた建物を、銃で武装した、三十名からの男たちが取り囲んでいた。

 

 その姿を一言で表すならば剣呑、それに尽きた。全員が戦闘服に身を包み、その上に防弾ベストを着込んでいる。口と鼻を覆うタイプのフェイスマスクで顔を隠しているため、その表情は一人としてうかがえないが、目出し部分からのぞく双眸は等しく、ぎらぎら、と輝いていた。

 

 防弾仕様のヘルメットには射撃用のゴーグルがバンドで引っかけられている。警官たちのうち、十五人はゴーグルを下ろして建物へのアプローチを試みていた。およそ半数の八名が屋内に侵入し、残る七名は外で見張りを担当する。あとの十五人はゴーグルを鉄帽の縁の上に載せ、少し離れた場所から、同僚たちの演習の様子をじっと見つめていた。どうやら十五名で一班を構築し、交代で突入訓練に励んでいるようだ。

 

 突入する彼らの身のこなしは、総じて俊敏だった。みな、よく鍛えられた屈強な戦士と見て取れる。三キログラムあるMP5サブ・マシンガンを軽々と操りながら、八人の勇士たちは犯罪者たちが立てこもる屋内に次々に侵入していった。

 

 事前の情報活動の成果により、相手の人数とおおよその装備、どの部屋にいるかはわかっていた。問題は、敵が銃で武装していることと、人質をとられていることだ。狡猾な四人のテロリストどもは二グループに別れ、二階と三階の大部屋に、それぞれ五人の人質とともに立てこもっている。一方の部屋を先に制圧し、次いでもう一つ部屋へ、という作戦では、後回しにした部屋の奴らが逆上し、人質を殺害する恐れがあった。突入は二部屋まったく同時に行う必要がある。

 

 八人は、こちらもグループを四人ずつの二つに分けた。犯人のいる部屋からは死角となる非常階段を静かに駆け上がり、所定の位置につく。窓のない長い廊下。二メートル進んだところにある角を曲がり、そこからさらに十メートルを進めば、大部屋の出入口に到達できる位置。三階突入班のリーダー、ハンス・ブルックハルト上級巡査は、短機関銃のセレクターをセーフティから、単発射撃へと切り替えた。突入開始の合図は、三階の彼が発することになっている。ハンスはショルダー・ベルトから吊り下げているトランシーバーを手に取ると、通信スイッチを押し、低い声で、「Los! Los!」と、呟いた。

 

 男たちの大腿筋が爆発した。音を吸収するゴム底のブーツが上下に激しく躍動し、狂暴なる一団を目的地へと送り届ける。

 

 大部屋の内と外とを隔てるドアは閉まっていた。戸には縦長でスリット状の窓があり、窓にはすりガラスがはめ込まれている。

 

 班員の一人がウェストポーチから粘土の塊を取り出した。窓の存在に注意しつつ、ドアの隙間にちぎってつめる。プラスチック爆弾の代わりだ。テロリストたちがドアの開閉に反応して作動するトラップを仕掛けているかもしれないから、爆発でトラップごとドアを吹き飛ばす作戦だった。

 

 爆弾を仕掛けている間に、ハンスは革紐から手榴弾を一つもぎ取った。手榴弾といっても、非致死性のスタン・グレネードだ。レバーを握りこみ、セーフティ・リングを引き抜く。爆弾を仕掛けた男と目を合わせ、こく、と頷き合った。

 

 爆弾が爆発した。そういう想定で、彼らは動いた。素早くドアを押し開け、スタン・グレネードを放り投げる。五万ワットの閃光と、一六〇デシベルの轟音が、人質と犯人の視聴覚を一時的な機能不全へと追い込んだ。ハンスたちは姿勢を低くしながら突入した。彼らの手元で、凶悪犯たちに向けられたMP5が火を噴いた。

 

 

 

 キル・ハウスからぞろぞろと出てきたハンスたちは、外で待機していた七人を集めると、見物していた十五人の前に立った。ハンスは攻撃の全局面を事細かに説明した。突入作戦は五分間の出来事であったが、事後報告は一時間かけても終わらなかった。

 

「全体としては上手くいったと思う」

 

 ハンスは最後に突入作戦をそう総括した。

 

「しかし、いくつかの課題も見いだせた。今回の作戦では、突入班の動きが止まる場面が多かった」

 

 二階と、三階の部屋に同時に突入するために、一方がもう一方の動きを待たねばならない瞬間が何度かあった。テロリストたちからすれば、襲撃のチャンスだ。

 

「今回の設定状況では、テロリスト側の人数が少なく、館内を見回る偵察役の派遣が出来なかった。おかげで見つからずにすんだが、相手の人数が、たとえば倍の八人もいたら、三階側の突入班が配置につくのを待っている間に、二階の突入班は見つかって攻撃を受けていただろう。当然、作戦は失敗だ。人質にも被害が出た蓋然性が高い」

 

「あとはバランスの問題だね」

 

 次に突入作戦に従事する十五人のリーダー……ライナー・ブロッホ主任巡査も頷く。

 

「二階くらいの高さだと、窓から飛び降りて逃げることが可能だ。ばらばらに逃げられると、七人では追いきれない危険がある」

 

「だからといって、突入班の人数を減らすと、」

 

「そう。今度は犯人の制圧に時間がかかる。時間がかかればその分だけ人質の身を危険にさらすことになる」

 

「そうかといって、多すぎても駄目だ。屋内での銃撃戦は、同士討ちのリスクが高い。……次の演習では」

 

「ああ。大いに参考にさせてもらうさ」

 

 肝要なのは、突入作戦に直接参加しない外の見張りにも、陽動という形で援護させることだろう。ライナーはゴーグルを下ろすと、「まあ、見ていてくれよ」と、言った。背後の十四人に向けてハンド・シグナルを発し、一か所に集まるよう促す。作戦実施前の最後のミーティングを始めようとしたところで、ハンスのトランシーバーが通信波の受信を知らせた。

 

 

 

「うちの情報部隊が、気になる情報を入手した」

 

 訓練中にも拘らずハンスを監督官室に呼びつけたオスカー・ボーゼ警察監督官は、開口一番、険を帯びた面持ちでそう言った。口髭を生やした、スキンヘッドの中年男性だ。若い頃に日本の柔道で鍛えたという体も大きく、強面でこちらを睨む姿からは、威圧的な迫力が感じられる。

 

 戦闘服は着こんだまま、フェイスマスクとヘルメットだけを脱いだいでたちのハンスは、日焼けした顔に怪訝な表情を浮かべた。細面で、いくらか鷲鼻の青年だ。警官として気力体力ともに漲る三一歳。目の前のオスカーとは、ちょうど一回り歳の差がある。

 

「テロリストに関する情報ですか?」

 

「いいや」

 

 オスカーは厳しい顔つきのままかぶりを振った。

 

「隣町で、妙な動きをキャッチした、という話だよ」

 

「ボンですか」

 

 ハンスは自分たちがいまいる場所から南西八キロメートルにある芸術の街を思い浮かべた。

 

「ボンというと……連邦空軍ですか」

 

「うん」

 

 オスカーは重苦しそうに頷いた。大きな体を揺さぶって、背後の書類棚から分厚く膨らんだバインダー・ファイルを取り出す。

 

「まずは前提知識の共有から始めよう。アメリア・クンツェ総括監督官は知っているか?」

 

「勿論」

 

 ハンスは頷いた。

 

「有名ですからね。面識はありませんが」

 

 ポツダムの連邦警察本部に自身のデスクを持つ、女性警官だ。三年前に三六歳という異例の若さで、金色の階級章を肩にすることを許された、キャリア組の中でも抜きん出て優秀な超新星。三九歳のいまは総括警察監督官(Leitender Polizeidirektor)の地位にあり、再来年の今頃には局長への昇進がほぼ確実視されている、将来有望な警察官僚だ。

 

 もっとも、ハンスが有名だと評する所以は、出世の速さや能力の高さ、実績からのことではない。連邦政府が推し進める、女性の活躍推進政策の代表的成果物として、組織の内外に顔を見せる機会が多いためだ。政府は自国の施策が上手くいっている証左として、アメリアに広告塔としての役割を期待した。彼女はその要求によくこたえ、いまやドイツで最も有名な連邦警察官の地位を得ている。

 

「クンツェ監督官がどうかしましたか?」

 

 ハンスは二週間前に発行された警官向けの広報誌の表紙を飾っていた写真のことを思い出した。高い頬骨、目尻の上がった大きな目。重そうな黒髪は真っ直ぐに垂れ、先のあたりが内側にウェーブして肩にかかっている。彫刻のような美しさは顔立ちのみならず身体つきにも表れており、連邦警察の野暮ったい制服越しにも、ウェストの細さや脚の長さ、そして胸の豊満さがうかがえた。政府が彼女を積極的に起用するのは、女性という点は勿論、この美貌にも理由がある。実際、アメリアの写真を新人警官を募集するホームページのトップ画像に設定したところ、その年の採用試験の受験者の人数は男性で五パーセント、女性で十二パーセントも増加した。増えすぎて各州の州警察から、何人かこちらによこせと冗談混じりに言われた、とは人事部勤務の知り合いから、酒の席で聞かされた話だ。

 

「上の連中がクンツェ監督官を広告塔として利用したいのは知っているな?」

 

 ハンスは首肯した。

 

「彼らはそのために、監督官に出来るだけ手柄を上げさせてやりたい、と考えているわけだ」

 

「それも知っていますよ」

 

 ハンスは渋面を作った。

 

「有名な話ですから」

 

 アメリアが有名なのには、もう一つ理由がある。三年前に参事官候補生に昇進したときから、彼女には常に黒い噂が付きまとっていた。すなわち、アメリア・クンツェの有能ぶりをアピールしたい政府の意向により、活躍の場を用意されているのではないか、という疑惑だ。

 

 アメリアが参事官候補生になってひと月も経っていない時期に、こんなことがあった。彼女が指揮を執る国境警備隊の部隊が、ポーランドへ違法な出国を試みる男を捕まえた。どういうわけか、取り調べは彼女自らが行い、その結果、男が高度に組織化された自動車窃盗団の一員だということが判明した。

 

 取り調べを終えたアメリアは、独自のルートを駆使することで、翌日には各方面からの資料を手元に取り揃えた。男の証言と照らし合わせることで、やがて窃盗団と、アルバニア・マフィアを母団体とする巨大な自動車密輸シンジゲートとの相互関係を看破してみせる。ただちに州警察と合同の捜査本部が設置され、窃盗団を壊滅するための作戦が計画された。陣頭指揮を執るのは、勿論アメリアだ。窃盗団はまず販売ルートを寸断され、次いで拠点を制圧され、身動きのとれない死に体のところを、一人、また一人と捕縛されていった。総勢三一名の犯罪者集団が全滅したのは、最初の男が逮捕されてから僅か二週間後のことだった。

 

 政府はアメリアの活躍を大々的に喧伝した。国民はこの美しき参事官候補生の勇姿に熱狂し、喝采を送った。その一方で、ハンスたち警察官は、新聞の第一面で自信たっぷりに微笑む彼女の写真に訝しげな眼差しを向けた。あまりにも上手くいきすぎている。

 

 一人目の逮捕と、彼を取り調べたことで窃盗団の存在が発覚したことについては、運が良かったと納得できる。しかし、その後の動きの速さと首尾の良さは、どう考えても異常だ。資料集めに費やした時間。シンジゲートとのつながりを見出すまでにかかった時間。そこから州警察との協力体制を築き、作戦を立案、具体化し、実行した。これらのことを、たった二週間でやって見せた。あまりにも手際が良すぎる。

 

『最初から窃盗団の存在とシンジゲートとの関係を知っていた上で、以前から合同捜査本部開設の根回しを進めていなければ、不可能な速さだ』

 

 いつしか警官らの間で、一連の逮捕劇はアメリア・クンツェのために用意された脚本ではないかと噂されるようになった。さすがにマッチポンプとは言わないが、以前から内定を進めていた窃盗団をわざと泳がせ、アメリアが参事官候補生になったタイミングで、功績を上げさせるために捕えさせたのではないか、というのだ。

 

 窃盗団を壊滅させた後も、アメリアは順調すぎるほどのペースで経験と実績を積み上げ、とんとん拍子で出世していった。彼女が提案する組織の改善計画は、奇妙なまでに好意的な態度を示す上司らの、満場一致の賛成によって速やかに実行され、そのことごとくが成功していた。一方犯罪に対しては、彼女の前に立ちはだかるのはいつも凶悪な組織犯罪だったが、どういう判断なのか、彼女はいつだって下準備にかける時間を疎んだ。それでいて、彼女が主導した作戦はそのほとんどが相手のツボにはまり、数多の犯罪者たちが怨嗟の溜め息をつくことになった。アメリアが大活躍をするその度に、ハンスたちの疑念はいっそう深まっていった。口さがない者など、そもそも彼女が高級職になれたのは、昇進試験の結果に政府の連中が下駄をはかせたからだ、とまで口にする始末だ。

 

「連邦政府はクンツェ監督官を、女性のための新時代の先頭を進むリーダーとして宣伝したいのだよ」

 

 オスカーは苦い口調で言った。

 

「そのために、政府はまた、クンツェ監督官に大きな仕事を任せることにした」

 

「それは?」

 

「これはまだ、対外的には伏せられている話だ。連邦警察では、部長クラス以上の者にしか知らされていない。例外は、警察部長から直接話を聞かされた私と、いまからこの話を聞かされるお前だけだ」

 

「承知しました」

 

 この部屋で聞かされたことは、決して口外してはならない。言外の意図を正確に読み取ったハンスは、その先の言葉を促した。

 

「第二回IS世界大会『モンド・グロッソ』の、本戦大会だ。政府はクンツェ監督官に、大会期間中のミュンヘンの警備態勢の計画作成を命令した」

 

 ハンスは得心した様子で頷いた。三ヶ月後の開催を控えた世界大会は、ドイツで三番目に大きい都市で行われることが決まっている。一九七二年のミュンヘン・オリンピックの会場跡地の公園を再開発して築かれた闘技場は、著名建築家の協力を得て素晴らしいスタジアムに仕上がったと聞いている。

 

「いまから見せるのは、人員配置についての草案第一稿だ」

 

 オスカーは手にしたバインダーから、計画概要を記した書類と、付属資料として何枚もの地図を取り出した。地図はミュンヘン全域の拡大図だ。街のどの場所に何人の警官を配置するかが、事細かに記載されている。

 

 ハンスは受け取った地図を、しげしげ、と眺めた。連邦警察全職員のおよそ三分の一に相当する一万二〇〇〇人と、各州警察からの応援二万人。計三万二〇〇〇人が、無駄なく、無理なく、そして隙なく配されている。犯罪リスクの高い本戦会場の周辺や選手たちの宿泊施設、空港や、各国の要人が宿泊するだろう高級ホテルのある場所には人員に厚みを持たせる他方で、一般の国民や観光客が殺到するだろう地区には、各人の連携を前提に、連絡がとりやすい距離を意識した配置がなされていた。どこかでトラブルが発生すれば、隣接するエリアを担当する者がすぐ応援に駆けつけられる体制が整えられている。少ない人数でも死角や警備の空白地帯が生まれないようにする工夫や冗長性が、地図からは見て取れた。

 

「この地図を見てどう思う?」

 

「すごいですね、これ」

 

 率直に、感想を述べた。怪しい噂話の絶えない監督官だが、基本的には優秀な人物だ。

 

 それに、この配置図からは情熱が感じられた。ミュンヘン・オリンピックのときのようなテロリストは勿論、掏摸の一つも見逃すまい、とする断固たる決意が。

 

「まるで蜘蛛の巣だ」

 

 犯罪者だけを絡めとる蜘蛛の巣だ。ひとたび足を踏み入れたら最後、決して逃れることの出来ない警備網。

 

「これなら、少々手直しするだけで、すぐ実戦で使えるものになるでしょう」

 

「実際、部長たちの反応も上々だったよ。ところがだ」

 

 オスカーはバインダーから、別の地図を取り出した。やはりハンスに手渡して言う。

 

「ちょうど一週間前に提出された、草案第二稿だ。こいつをどう思う?」

 

「……クンツェ監督官は、風邪でも引かれたのですか?」

 

 ハンスは辛らつに吐き捨てた。先ほどと打って変わって、熱病にうなされながら描いたとしか思えない完成度だ。第一稿で見られた良さが失われてしまっている。

 

 人員の配置場所そのものは、第一稿とほとんど変わりない。変わってしまったのは、重点警護地点の数だ。観光名所を中心に、七箇所も増えている。これのために、第一稿の時点では十分な人数が置かれていた他の重点警護地点の守りが、少々手薄になってしまっている。もともとその地点を見回る予定だった警官を、新たに追加した重点地へ割いたためだ。

 

 特に、ミュンヘン中心部の高級ホテル街が酷い。ミュンヘンのホテル街は、中級からエコノミークラスが集中している中央駅の周辺と、高級ホテルが多い市中心部の二箇所ある。中心街にはホテルの他に、観光名所の新市庁舎やレジデンツ博物館、州立歌劇場などがある。

 

「バイエリッシャー・ホープなんて、新たに加えられた州立歌劇場とレジデンツに人を割いたせいで、第一稿の半分くらいの人数しかいないじゃないですか」

 

 一八五二年創業の、ミュンヘンを代表する高級ホテルの一つだ。モンゲラ宮殿など、いくつかの建物をつなぎ合わせた上で改装しており、客室の内装はアンティーク調からモダンなものまでバラエティ豊か。大会の期間中は、世界中の要人の利用が予想された。特に重点的に守りを固めねばならない場所の一つだ。

 

「何事も起きなければ、この人数でも問題ないでしょうが。……それとなによりも、第二稿では我々GSG-9の存在が、完全に無視されている」

 

 連邦警察GSG-9。ドイツ連邦警察が世界に誇る、ヨーロッパ屈指の戦闘力を持つ対テロ特殊部隊だ。戦闘中隊三個を中心に、情報部隊や装備研究部隊といった各種の支援部隊から構成される。ここザンクト・アウグスティンに本部を置き、平時は対テロ作戦の研究と訓練を。有事の際には、ドイツ警察に強力な対テロ作戦能力を提供することを、主要な任務としている。

 

 草案の第一稿では、GSG-9の三個中隊から各五名ずつを選抜し、大会期間中現地に設置する予定の、作戦司令部に常駐させる旨が記載されていた。目的は勿論、精兵を置くことによる戦力の強化と、対テロ作戦の専門家の意見をいち早く現場に反映させるためだ。テロリストの攻撃によって人員の配置を変更せねばならなくなったときなどに、彼らの発言は大きな助力となるだろう。また、現地の警察力だけでは事態の解決が難しい事件が発生した場合に、ザンクト・アウグスティンのGSG-9本隊にスムーズに連絡を取り次いでもらうための、いわば交換台としての役割も期待されていた。

 

 ところが、新たに提示された第二稿には、GSG-9の存在が排除されていた。五名ずつどころか、隊員は一人としてミュンヘン市内には置かない。代わりに下される予定の指示は、即時出撃可能な態勢は維持しつつ、ザンクト・アウグスティンで全員待機していろ、というもの。少数精鋭の特殊部隊は、一箇所にまとまっていればこそ、その真価を発揮出来る。新たな命令の根拠として紹介された酷い理屈に、ハンスは眩暈すら覚えた。

 

「クンツェ監督官は、時季外れのインフルエンザにでも罹患しましたか?」

 

「熱病よりも、もっと厄介な事態に巻き込まれているかもしれん」

 

 オスカーはハンスの言葉遊びを引用した。

 

「第一稿が提出されたのが三週間前。第二項の提出が一週間前だ。この間の二週間のうちに、クンツェ監督官の身に何があったのか」

 

「なるほど」

 

 ハンスは頷いた。

 

「ここまでが前提で、ここからが本題、というわけですね?」

 

「少し、話題を変えよう」

 

 オスカーはバインダーから一枚の写真を取り出した。街中を手をつないで歩く、若いカップルの写真だ。男は二十歳前後、女の方は十代半ば。隠し撮りらしく、二人ともカメラの方を見ていない。アングルも、右斜め前からと奇妙だ。撮影日はちょうど三週間前。撮影時間は、午後七時半と遅い時間帯。

 

「クンツェ監督官は、警察学校を卒業と同時に入籍している。彼女の家は名門で、幼い頃からの許嫁との婚姻だそうだ。彼女は二四歳と、二六歳のときに、それぞれ長女と、次男を産んでいる」

 

 これもアメリア・クンツェにまつわる有名な話だ。政府が彼女を広告塔に起用した理由の一つで、連邦警察は安心して子育てができる職場ですよ、というアピールのためだそうな。

 

「写真の娘は、クンツェ監督官の娘なんだ」

 

 ハンスは写真の二人を、まじまじ、と見つめた。なるほど、母親によく似た美しい娘だ。二四歳のときに産んだ子どもということは、いまは十四か、十五歳。まだ未成年者だ。相手の男は、それを承知で連れ歩いているのか。それもこんな遅い時間帯に。

 

「この写真はどこで?」

 

「ヴィルヘルム通りだ」

 

 オスカーは写真撮影にいたった経緯を説明した。

 

「たまたまその場に居合わせた情報部隊の、部隊長が撮った」

 

 GSG-9は自前の情報部隊を持っている。ドイツ国内外のテロリストに関する情報を収集し、分析するための補助機関の一つだ。

 

「きっかけは、まったくの偶然だった。国内に潜在しているテロリスト予備軍への対策の件でな、ベルリンの警察本部の者たちと直接話し合う必要があるからと、部隊長を向かわせたんだ」

 

 ザンクト・アウグスティンからベルリンまでは、直線距離でも四六〇キロメートル以上ある。交通手段には飛行機と鉄道の二種類あるが、鉄道はロートハール高原やハルツ山地を迂回しなければならないため時間がかかる上、乗り換えも多い。一般的には、ケルン・ボン空港からベルリン・ブランデンブルク空港へひとっ飛びするルートが選ばれる。

 

「当初の予定では、会議は四時間程度で終わるはずだった。ところが、議論が紛糾し、予定の時間を大幅にオーバーしてしまった。部隊長が庁舎を出たとき、時刻はもう一八時を回っていたそうだ。いまから急いで空港に向かっても、ザンクト・アウグスティンに到着するのは真夜中だ。ただ疲れるだけと判断した彼は、その日はホテルに一泊して、翌朝、こちらへ戻ることにした。

 

 さて、そうなると目下の課題は、夕食をどうするかだ。滅多に来ることのない街だ。せっかくだからと、ポツダム広場の方まで足を延ばした彼は、そこで、クンツェ監督官の娘が、夜の遅い時間に、若い男と一緒に行動している姿を目撃した。監督官の娘は、まだ十四、五歳だ。相手の男は、どう見ても二十歳は過ぎている。危険な匂いを感じ取った部隊長は、二人の後をこっそりつけた。二人はモール・オブ・ベルリンでショッピングを楽しんだ後、付近のバルで食事をし、その後はホテルに向かった。男の方は彼女の腰に腕を回し、いかにも親密そうな様子だった

 

 この時点で、部隊長が懸念したのは二つのことだ。一つは勿論、法律違反についてだな。わが国では未成年者を夜間に連れ歩いたり、性的関係を結んだりすることは、基本法で禁じられている。警察幹部の娘が、そんな事態に巻き込まれたと世間に知れてしまった場合に、どんな影響力を発揮するか。部隊長はまずそこを考えた。

 

 次いで考えたのは、男が相手のことを、クンツェ監督官の娘だと承知の上で手を出しているかどうかだ。つまり、一種のハニー・トラップの可能性を疑ったわけだな」

 

 何か大きな犯罪行為を計画している不逞の輩が、警察機関の情報を得るために幹部の家族を籠絡しようとしている。そんな可能性を考えた部隊長は、すぐに直属の上司であるオスカーと連絡をとった。事態を重く見たオスカーは、ザンクト・アウグスティンのボスであり、GSG-9の最高司令官でもある警察部長に、情報部隊長が見たものを報告した。そこではじめて、オスカーは警察部長の口から、クンツェ監督官が秘密裏にモンド・グロッソの会場警備の計画立案を任されていることを知らされたのである。

 

 男の狙いはIS世界大会にあるかもしれない。オスカーは部隊長にそのままベルリンに残って情報収集をするよう命令した。一ヶ月前のことだ。それから一週間後に草案の第一稿が提出され、さらにその二週間後に、第二稿が提出された。若い二人が日に日に関係を深めていく様子を聞いていたオスカーは、第二稿に目を通すや、男の狙いに対し確信を強くした。

 

「これは、部隊長が送ってきた報告書だ」

 

 オスカーはバインダー・ファイルからまた別の紙資料を取り出した。

 

「ここには、彼がベルリンで見聞きしたことが書かれている。詳細は、あとでじっくり読んでもらうとして、この場では四つ、要点を話す」

 

 要点その一。クンツェ監督官と娘の親子仲について。

 

 よくある話だ、とオスカーは最初に総評を口にした。学業優秀にして品行方正な弟と、そうではない姉。両親をはじめ、周囲の大人たちは弟ばかりを可愛がり、年齢の近い者でさえ、慕っている。そんな状況が面白くない姉は、彼らの関心を自分に惹き寄せたい気持ちから、非行に走ってしまう。

 

 普通の親であれば、気づいた時点でどうしてそんなことを、と彼女の気持ちを問いただしただろう。しかし悲しいかな、彼女の親は警察の幹部だった。アメリアは彼女が非行に走った背景や動機については触れることなく、行為に手を染めたその一点だけをなじった。親の職業を何だと思っている? お前のせいで、母さんのこれまでの努力を台無しにするつもりか!? 咄嗟に飛び出した保身の言葉にショックを受けた娘は、僅かなお金だけを手に、反射的に家を飛び出してしまった。彼女がいまの彼氏と出会ったのは、そんな家出の最中のことだったという。

 

 オスカーは次いで、部隊長が調べ上げた男の素性について語った。

 

「エットレ・ラッビアという、二二歳のイタリア人だ。ミラノ大学の医学生で、学年は四年生。ベルリンには、フンボルト大学に留学生としてやって来ている。実家が相当太いのか、滞在先のマンションは、フリードリヒ・シュトラーセ駅にほど近い、家賃十五万ユーロの高級物件だ。そこに、クンツェ監督官の娘と、二人で暮らしていた」

 

「いた、ですか」

 

「ああ。いた、だ」

 

 つまり現在、件の家に二人の姿はないということか。では、いったいどこに? オスカーは構わずに続けた。

 

「家出に至るまでの経緯から、当時、クンツェ監督官の娘の自己肯定感は非常に低い心理状態だったと考えられる。そんなときに現われた、自分に愛を囁いてくれる、しかも年上の男だ。十四歳の自分に、二二歳のエットレが夢中になっているという状況は、少女の自尊心を大いに刺激したことだろう。彼女はエットレからもっとたくさんの愛を引き出そうと、甲斐甲斐しく尽くした。二人が深い仲になるのに、大して時間はかからなかったそうだ。

 

 さて、ここまで話したエットレという男だが、部隊長の調べによって、その経歴はまったくのでたらめであることがわかっている」

 

「と、言いますと?」

 

「まず、ミラノ大学の医学部に、エットレ・ラッビアなどという学生は在籍していない。フンボルト大学が、この時期にイタリアから留学生を迎え入れた、という事実もなかった。入国管理局にも問い合わせてみたが、エットレ・ラッビアなる人物の入国記録は確認出来なかった」

 

「……その調子では、エットレ・ラッビアという名前や、イタリア人であるという国籍も、怪しいところですね」

 

「実際、私や部隊長も偽名だと考えている」

 

 オスカーは右手の人差し指から薬指までを立てた。

 

「要点その三、だ。部隊長が彼らの身辺調査を始めてからちょうど二十日後、エットレ・ラッビアとクンツェ監督官の娘が、二人揃って行方をくらませた」

 

 増員とともに二四時間体制で部屋を監視していた部隊長からの報告によれば、近隣の住人や親しい友人など、誰にも、何も告げることなく、ある日突然に、マンションの部屋を引き払ったという。午前五時という朝早い時間に、仲むつまじそうに手をつなぎながら家を出た二人は、通りでタクシーを拾うとベルリン・ブランデンブルク国際空港へ向かった。追跡できたのはそこまでで、イタリア行きのエアバスA320に搭乗後、彼らの行方はまったく分からなくなってしまった。

 

「おそらくは、我々が身辺を嗅ぎ回っていることに気がついて、急ぎ行動を起こしたのだろう。クンツェ監督官があの第二稿を俎上に載せてきたのは、その二日後のことだ」

 

 その間に、エットレ・ラッビア本人あるいは彼の仲間たちから、監督官に何らかのはたらきかけがあったのは間違いないだろう。監督官の娘に目をつけた情報収集能力や、高級マンションの家賃、さらに出国時の手際の良さから、エットレが手厚いバック・アップ態勢に支えられていた公算は高い。彼らは、組織だ。監督官の娘はそいつらの仕掛けたハニー・トラップに引っかかり、母親への人質にされてしまったと考えられた。

 

「最後に、要点その四だ」

 

 オスカーはハンスに、十数枚の写真を手渡した。どれも同じ場所、同じ被写体を、異なる時間帯、異なるアングルから撮影したものだ。写真の中心にはエットレ・ラッビアの姿があり、どこかのバルのカウンター席で酒を飲む瞬間がフィルムに切り取られている。おそらくは尾行中に隠し撮りした写真と思われた。カメラに対して目線を向けているものは一枚もない。

 

 ハンスはエットレよりも、その隣の席に注目した。どの写真にも、同じ顔の男が座っている。雰囲気作りのためだろう、店内の照明が絞られているせいで細かな顔立ちは見えづらいが、自分と同じ、三十代前半くらいの印象だ。

 

「二人がフリードリヒ・シュトラーセ駅近くのマンションで暮らしていた頃の話だ。エットレは平日の日中、家を留守にしがちだった。留学生という設定に真実味を持たせるためだろう。大学や、大学病院に行くと称して、頻繁に出かけていた。勿論、実際の行き先は別の場所だ。大抵の場合は、ベルリン市内をあちこち遊び回っていたみたいだが……その中に、かなりの高頻度で立ち寄るバルの存在に気がついた。いま渡した写真は、そこで撮影した物だ。

 

 気づいたと思うが、いつも、エットレの隣に、同じ人物が座っている。部隊長が見ていた限り、特に親しげな様子はなかったそうだが、それでも、会う度に数言、小声で会話する程度の素振りは見られたそうだ」

 

「何者です?」

 

「連邦空軍の軍人だ」

 

 ハンスは得心した様子で頷いた。監督官がはじめに言った、隣町の様子がおかしい、という言葉の意味が、わかり始めてきた。

 

「エミール・バレニー大尉だ。空軍指揮幕僚監部本部勤めの、参謀職の一人だ」

 

「……つまり、形としてはこういうことですか。エットレ・ラッビアを名乗る自称イタリア人とともに、クンツェ監督官の娘が行方をくらませた。その後、監督官の様子が明らかにおかしくなった。おそらく監督官は、娘のことでエットレ本人あるいはその仲間たちから脅されている状況だと考えられる。そしてエットレは、ベルリン滞在中に、わが国の連邦空軍の上級軍人と、頻繁に接触していた」

 

「敵の目的は不明だが」

 

 オスカー監督官は、エットレ・ラッビアらを明確に敵と評した。

 

「連中の狙いが、三ヶ月後のモンド・グロッソ開催期間中にあるのはほぼ確実だ。しかもその企みには、連邦空軍も関わっている。空軍が警察の動きの邪魔をするなんて、前代未聞の事態だ。極めて重要な、そして秘匿性の高い、“政治”目的のことと思われる」

 

「政治……」

 

「そうだ。つまりは、テロリズムだ」

 

「俺たちの敵です」

 

 ハンスは好戦的に微笑んだ。ハンサムな彼が凶暴に笑うと、喉奥が、きゅっ、とすぼまる“すごみ”が感じられる。

 

「私をここに呼び出した理由は……」

 

「現時点で、この連中に対し、我々に出来ることは少ない」

 

 連邦警察は、捜査権を持たない警備警察組織だ。いくら怪しいからといって、これから隣町に乗り込んで、家宅捜索を行うことは許されない。また、クンツェ監督官の娘の件についても、いま時点では独自に情報を掴んだGSG-9が、やはり独自の判断で調査を進めている段階にすぎない。人質救出作戦の準備と実行は、監督官自身の口から助けを求める声があがらなければ。

 

「しかし、それは望みの薄い未来だ。おそらくは娘のことで、余人に助けを求めれば彼女の命はない云々脅迫されているだろうからな。また、連邦空軍が単独で行動しているとは考えにくい。おそらくは連邦空軍に好意的な幾人かの政治家が動いているはずだ。彼らが問題が発覚しないよう、圧力をかけていると思われる」

 

「監督官からの要請は期待出来ない」

 

「うん。こちらから積極的に敵組織を攻撃することは困難だ。よって、」

 

「はい」

 

「積極的防御の作戦でもって、これを迎え撃つ。わがGSG-9は、監督官とは別に、独自の警備計画と、作戦を実行に移す。大会の開催期間中に何が起こっても即座に対処出来る態勢を構築する。……ハンス・ブルックハルト上級巡査」

 

「はっ」

 

 ハンスは戦闘ブーツの踵を打ち鳴らして姿勢を正した。

 

「大会の開催まで残り三ヶ月だ。これから三ヶ月の間に、作戦に必要な人員・物資・情報・システムを準備する。まずは戦闘中隊から十名と、さらにバック・アップ部隊から十名の計二十名を選出し、スペシャル・ユニットを編制する。ハンス、きみはその部隊の指揮を執れ」

 

「了解しました」

 

「人員の選抜は、きみに任せる。きみが最も力を発揮しやすいメンバーを揃えろ。ユニット結成後、準備が整い次第――少なくとも、モンド・グロッソが開催される二ヶ月前までには――ミュンヘンに移動しろ。現地に活動拠点を築き、現地の情報を収集し、大会に備えて訓練に励むのだ。またその際には、きみの判断で警備に必要と考えられる装備を現地に運び入れろ」

 

「武器は、どの程度まで?」

 

「スナイパー・ライフルまでは許可する。ただし、実際に発砲する際には、」

 

「勿論、細心の注意のもと、使用するべきか否かを判断します」

 

「うん。それで構わない。……ハンス」

 

 オスカーは眉間に深いクレヴァスを刻んだ顔で、憂いの篭もった口調で言った。

 

「何の因縁だろうか。モンド・グロッソの会場は、よりにもよって、あのミュンヘンだ」

 

 一九七二年、ミュンヘン・オリンピック人質事件。世界中からの注目が集まるスポーツの世界大会の場で事件は起こり、当時のドイツ警察は敗北した。そしてその結果、GSG-9は創設された。

 

 いままた、同じミュンヘンの地で開かれようとしている、あのとき以上に巨大な世界的スポーツ・イベントが、邪悪なる企みを腹中に抱え持つ者どもに狙われている。

 

「今度こそ、守るのだ。連邦空軍を敵に回すことになったとしても構わない。今度こそ、我々ドイツ警察の手で、守るのだ」

 

 惨劇は、そして過ちは、二度と繰り返させない。

 

 断固たる決意を胸にハンスは頷くと、持っていた写真の男たちを睨みつけた。

 

 

 

 

 

 

 ザンクト・アウグスティンのGSG-9本部でハンス・ブルックハルトが闘志を滾らせていた、ちょうど同じ時間。

 

 日本国、三重県伊賀上野の地で、一組の親子が再会の喜びからかたい抱擁を交わしていた。

 

 鬼頭智之と、鬼頭陽子。

 

 三年ぶりに顔を会わせ、声をかけ合い、互いの肌に触れ合った。

 

 会えなかった時間を埋めるように。

 

 一度、掌からこぼれ落ちてしまった親子愛の存在を確かめるように。

 

 父と、娘は、互いの背中に腕を回し、強く、しかし優しく、相手の体を抱き寄せ合った。

 

 

 

 

 




独自解釈要素、『ラファール・リヴァイブ・カスタムⅠ』



オーバーラップ版文庫第二巻のカラーページ部分に紹介されていた『ラファール・リヴァイブ・カスタムⅡ』の解説について。
以下引用

機動性に優れるカスタムⅠに大幅な改修を~

引用終了


……カスタムⅠって何よ?
今後登場するのかな、とも思いましたが、どうやらそんなこともなさそうな感じなので、この際、独自解釈で設定を起こしてみました。
お話しの本筋に関わる部分ではないので、さらっと書きましたが、要はトヨタ・ヤリスにおけるGRヤリスとか、ヴォクシーにおける煌とか、そんな感じのイメージ。

今後もこういった細かい設定部分で独自解釈を挟むことになるだろうと思います。
なるべく、世界観が破綻しないよう努めますが、ご容赦を。






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Chapter39「愛するということ」

ラウラかわいいよラウラ。



 

 

 

 土曜日の午後二時四五分。

 

 IS学園本校舎、応接室。

 

 レーザー・ピストル《トール》の売買契約について、なんとか話をまとめあげた鬼頭智之がこの部屋の戸を叩いたのは、当初約束した時間から三〇分以上も後のことだった。

 

 自分から呼び出しておいて、相手を待たせてしまった。罪悪感に顔の筋肉を強張らせながら入室すると、インスタントコーヒーを飲みながら待っていたらしい二人が、こちらの顔を見るなりソファから立ち上がろうとする。内調の高品と、弁護士の堂島和夫だ。右手をあげてその動きを制しながら、鬼頭は言う。

 

「お待たせしました。遅れてしまい申し訳ありません」

 

「商談は、上手くまとまりましたか?」

 

 銀糸とまごう白髪の堂島は、にこやかに微笑んだ。こちらの非については一切言及せず、遅刻の原因となった取引の結果をむしろ気遣う言葉に、鬼頭は思わず相好をくずす。

 

「ええ。おかげさまで。双方、納得のいく成果が得られました」

 

「ブリュンヒルデは、相当な強敵だったみたいですね?」

 

「……聞いていたのですか?」

 

「この部屋に案内される前に、少しだけ職員室に立ち寄らせていただきました」

 

「気の強い女性ですよ」

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。

 

「よく言えば気骨隆々。悪く言えば、融通の利かない、頑固な女です。基本的に自分の意見を、曲げるということを知らない」

 

「ですが、その気の強さこそが」

 

「ええ。彼女を、世界最強の座に導いた一因なのは間違いないでしょう。……ああ、山田先生。いま言ったことは、内密にお願いしますよ」

 

 会話の邪魔をしては悪い、と部屋の隅で小さくなっていた山田真耶に微笑みかける。苦笑しながら頷く彼女に小さく礼を言い、鬼頭は、堂島たちとはテーブルを挟んで対面に鎮座するソファに腰を下ろした。

 

「早速ですが」

 

「ええ。本題に入りましょう」

 

 堂島は持参したブリーフケースから一冊のバインダー・ファイルを取り出した。今日の話し合いのために用意した資料の数々だ。その中から数枚のA4紙を取り出し、テーブルの上に並べていく。

 

 A4紙にはタイプされた文章が印字されていた。出版業界の最大手、談講社は週刊『ゲンダイ』編集部に宛てた、抗議の手紙だ。過日の捏造記事に対し、誤った情報を世間に広めてしまったことに対する謝罪と、訂正記事の掲載を求める内容がしたためられている。勿論、こちらの要求を拒否したり、検討する等の時間稼ぎと思われる返答をした場合には、名誉毀損を理由に民事訴訟も辞さない、という意思表示の一文付きだ。

 

「事前に打ち合わせた通り」

 

「はい」

 

「週が明け次第、こちらの文書を、内容証明郵便で発送します。これにより、談講社が我々の要求を受け入れればそれでよし。受け入れなければ、裁判の手続きを開始します」

 

「よろしくお願いします」

 

 鬼頭はソファに座ったまま、両手を膝に添え、頭を垂れる。

 

 堂島は頷きながら、

 

「談講社への対応はひとまずこれでいいとして」

 

「はい」

 

「今後の動きについて、話し合いましょう」

 

 文書の内容の確認だけなら、時間を割いてもらってまで、学園島に呼び出したりはしない。直接顔を合わせたいいちばんの理由は、これからの話題にある。さあ本番だ、と鬼頭は臍下丹田に気合いを篭めた。

 

「今回の事案におけるいちばんの問題点は、すでにかなりの数の人が週刊『ゲンダイ』の捏造記事を目にし、信じてしまっていることです。仮に談講社が我々の要求に素直に応じ、訂正記事を掲載したところで、彼らの認識を改めさせることは困難でしょう。人間は、疑いようのない“事実”よりも、自分にとって都合のよい“真実”を信じたい、あるいは信じてしまう生き物です。大衆にとって、男性操縦者たちは醜聞まみれな方が都合がよい。そちらの方が、品行方正な男よりも読み物として楽しいでしょうから」

 

 堂島はそこで一旦唇を舐めた。正面に座る依頼者の男と、自分たちの会話の内容に厳しい眼差しを向けている高品、そして鬼頭の分のインスタントコーヒーを淹れている真耶の顔を見回して言う。

 

「訂正記事の掲載だけでは、パンチの威力に欠けます。訂正記事を読まない人もいるでしょうし、そもそも談講社が、我々の要求に応じない場合も考えられる。談講社の件とは別に、我々はこの問題に対処するための動きを取るべきです」

 

 真耶が鬼頭の前にコーヒーのカップを置いた。目線で礼を述べるも、二人目の男性操縦者はカップに手を伸ばさない。

 

「論点をすり替えます。人々に、男性操縦者の醜聞なんかよりも、もっと面白い娯楽を提供するのです」

 

「具体的には?」

 

「他のメディアの力を借りるのです。Aという内容の記事に対し、いいやそれは違う。実際にはこうだ、という、内容Bのカウンターをぶつけさせるのです」

 

 捏造記事に対し、当事者が「それは違う」と、声をあげても成算は薄いだろう。むしろ、そうやって必死に否定している事実こそが、記事の内容が正しい証左である、と大衆にとられかねない。

 

 しかしここに、他社メディアが介入すればどうだろうか。当事者対出版社という構図は、たちまち会社同士の戦いへと変じる。自分たちの主張こそが唯一無二の真実である、と、情報の殴り合いが始まる。娯楽に飢えた人々の目の前に、新たなエンタメが提供される形だ。どちらの発信が正解なのか、固唾を呑んで見守ることになる。

 

「鬼頭さんは、『野球と其害毒』という新聞連載の話を聞いたことは?」

 

「いえ」

 

 鬼頭はかぶりを振った。そんなショッキングな表題が振られている記事であれば、一度でも目にしていたら忘れるはずがない。

 

「はじめて聞きます。いつの、何新聞の連載です?」

 

「一九一一年。当時の、東京朝日新聞が連載していたコラムです」

 

 正確には、一九一一年八月二九日号から、九月一九日号まで、全二二回にわたって連載されていた。記事の趣旨はタイトルが示す通りで、当時米国からもたらされ、日本でも熱狂的なブームを生み出していた“野球”という新しいスポーツへの批判をまとめていた。原稿を寄せたのは『武士道』の作者として知られる新渡戸稲造や、旧陸軍大将の乃木希典など錚々たる顔ぶれで、野球自体の注目度が高かった時期だけに、世間の関心を集めることになった。

 

「注目するべきは、河野厚志という人物のインタビュー記事です」

 

 かつては早稲田大学で豪腕投手と知られた、スター選手の一人だ。後に、日本初のプロ野球リーグの創設メンバーの一人となる人物でもある。

 

「『野球と其害毒』の連載八回目の記事です。河野氏からインタビューをして聞き取った話、という体で、野球を糾弾し、選手だったことを後悔する旨の内容が掲載されました」

 

 この記事に対し、怒りともに反論したのが、他ならぬ河野厚志その人であった。東京朝日新聞に掲載された自分の発言は、事実ではない。記者からのインタビューは受けたが、掲載されたようなことは一切言っていない、といった内容の反論文を、ライバルの東京日日新聞(後の毎日新聞)に掲載させたのだ。反論文では最終的に、これと同じものを『野球と其害毒』と同ページ、同サイズの活字で載せよ。さもなくば法的な手続きをとる、と結ばれていた。東京朝日新聞の紙面に、河野氏の反論文が掲載されたのは、その二日後のことだ。

 

「我々も、これに範を取った戦い方をしましょう」

 

「私が河野選手で、談講社が東京朝日新聞。それに対抗しうる、東京日日新聞を探す、というわけですね?」

 

「実は、もう目星はつけているんですよ」

 

 堂島はバインダー・ファイルから新たなA4紙を取り出すとテーブルの上に置いた。国内の主な出版社同士の関係が、わかりやすくまとめられた業界地図が描かれている。

 

「目には目を、という兵法の原則に則るのであれば、週刊誌には週刊誌をぶつけるのが、常套手段と言えます」

 

「ということは、週刊誌を持っている出版社に?」

 

「ええ」

 

 堂島は頷くと、業界地図の一点を指差した。

 

「談講社は国内出版業界の最大手の一つです。これに対抗しうるだけの発信力を持っている会社は、一つしかありません」

 

 日本の出版業界には、君臨する二つの巨大グループがある。かたや、東京都文京区音羽に本社を置いている会社を中心とする音羽グループ。かたや、東京都千代田区一ツ橋の会社を中心とする、一ツ橋グループ。談講社は、このうち音羽グループの盟主たる存在だ。これに対抗しうる会社となれば、一ツ橋を統率するここ以外にない。

 

「一ツ橋グループの盟主、大学館。ここが刊行している週刊『ぼすと』に、カウンター記事を掲載してもらうのです」

 

 談講社の週刊『ゲンダイ』の直接的な競合誌だ。主要な購買層を始めとして、雑誌ビジネスを構成するおよそすべての要素がかぶっている。それだけに、鬼頭の独占取材記事などが載れば、すさまじい影響力を発揮しよう。

 

 堂島は隣に座る高品の横顔を、ちら、と見た。男性操縦者たちに関する情報を統制したい日本政府から派遣されている男は、自分の提案に、渋い面持ちを隠さない。

 

 堂島は構わずに続けた。

 

「勿論、鬼頭さん本人の意思や、日本政府の考えなど、クリアしなければならない課題は多いでしょうが……まず間違いなく、一定の効果が見込めます。談講社が自分たちの非を認めるタイミング次第では、さらなる相乗効果が得られるでしょう。ひとつ、前向きに検討してみては?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter39「愛するということ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 土曜日の午後二時四五分。

 

 IS学園第三アリーナ。

 

 ざわざわ、と喧噪を引き連れてやって来たラウラ・ボーデヴィッヒに対し、同じアリーナで各々訓練に励んでいた一夏たちは、揃って頬の筋肉を強張らせた。

 

 彼女が転校初日にはたらいた暴挙の光景は、みなの記憶に新しい。カツカツ、と長靴の踵を鳴らしながら一夏の前にやって来ると、いきなりの平手打ち。それ自体の理不尽さは無論のこと、突然のことに茫然とする一夏の「なぜこんなことを」という問いを無視して着席する姿の印象が最悪だった。脈絡なく暴力を振っておいて、その理由を問われても無視してくる。まともなコミュニケーションを期待してよい相手ではない。好んで関わりを持ちたい人物ではなかった。

 

 黒いISに身をかためた少女は、地上十メートルの高度をとると、闘技場内を、ぐるり、と見回した。一夏たちの思いとは真逆に、彼らの姿を認めて好戦的に微笑む。接触の気配。

 

 彼女に対し、あえて背中を向けていた一夏だが、ハイパーセンサーの三六〇度視界がたたり、こちらもその表情を見てしまった。構えていたアサルト・ライフルを降ろし、苦虫を噛み殺した表情を浮かべて振り向く。ラウラの小さな唇が、嬉しそうに開いた。

 

「私は運の良い女だ」

 

 驚いたことに、ラウラは『シュヴァルツェア・レーゲン』のマイクをオープン・チャネルにつなげていた。互いにプライベート・チャネルの回線番号を教えていないから当然ではあるが、これでは、会話の内容が第三者にも筒抜けになってしまう。

 

 ――っ!? この女……!

 

 世界でたった三人しかいない男性操縦者と、ドイツの代表候補生の会話だ。おまけに、転校初日に彼女が自分の頬を張ったことは、思春期十代女子特有の情報ネットワークにより、噂話という形で尾ひれはひれがくっつきながら校内に知れ渡ってしまっている。その注目度は抜群だ。事実、アリーナ内にいる誰も彼もが訓練の手を休め、こちらの様子をうかがっている。非常に緊張を強いる状況だ。

 

 こうもみなの耳目が集中している中では、迂闊な行動は許されない。当事者とは関わりの薄い第三者によって、自分たちの言動はすべて批評され、評価され、みなが共有すべき知的財産として広められてしまう危険が伴う。そんな危険極まりない状況を、ラウラは自ら作ろうとしている。

 

 ――この女、いったい何を考えているんだ!?

 

 一夏は訝しげな面持ちでラウラの顔を見た。

 

 この状況で不利な立場に身を置くことになるのは、彼女の方だ。身軽な自分と違い、代表候補生の立場にあるラウラへの悪評は、彼女の背後に控えているドイツ軍や、ドイツ政府に対するものへと転化しかねない。かの国はなんだってこんな女に責任ある立場を任せたのか!? という具合だ。

 

「……なに笑っているんだよ?」

 

 自身の言動も注視されていることへの警戒から、一夏は慎重に言葉を選びながら言った。本当はすぐにでもプライベート・チャネルに切り替えたかったが、ひそかに送り続けている回線番号を記載したテキスト・メッセージに、相手が応じてくれる様子はない。

 

「嬉しいからさ。獲物が両方とも揃っているのは好都合だ。一人々々探す手間がはぶけた」

 

「獲物って、お前……」

 

「貴様のことだ、織斑一夏。そして――」

 

 ラウラは赤い眼差しが向かう先を転じた。

 

「鬼頭陽子」

 

「……え? わたし?」

 

 まさかこの会話の流れから自分の名前が飛び出すとは思っていなかった。だから、ラウラの口にした文字列が自分のことを表わす言葉だと気づくのに、たっぷり一秒もの時間を要してしまった。

 

 茫然とした表情を浮かべて、かたわらの一夏、シャルルと顔を見合わせる。二人とも、かぶりを振ってきた。ラウラが陽子の名前を口にした理由に、見当がつかない様子だ。

 

「なんでわたし?」

 

 こちらも『スプリット・クロー』のマイクをオープン・チャネルにつなげて訊ねた。ハイパーセンサーの三六〇度視界が、野次馬たちの困惑した表情を映し出す。そうだよね。わけわかんないよね。わたしもだよ。

 

「っていうか、獲物って何さ?」

 

「私と戦え、鬼頭陽子」

 

 ラウラの返答は、言葉短く、そして端的だった。それゆえに、陽子はますますわけが分からない。ISバトルを申し込まれているのだろうが。

 

「いや、だから、なんでさ」

 

 陽子は少し苛立った口調で言った。

 

「わたしたちの間に戦う理由とか、ないでしょ」

 

「貴様にはなくても、私にはある」

 

「お前、いま、自分がとんでもなく理不尽なことを言っているって自覚はあるか?」

 

 もう一人の当事者たる一夏が割って入った。ラウラの視線を遮るように、『白式』を陽子の『スプリット・クロー』の前へと移動させる。少し離れた場所で各々の課題に挑んでいたセシリアと箒も、彼女をガードする布陣となるよう両脇に自然と集まった。

 

「先に私と遊んでくれるのは貴様か? 織斑一夏」

 

「なんでそうなるんだよ」

 

「鬼頭陽子の前に立った。自分の方が先だ。お前は下がっていろ。そういう意思表示だろう?」

 

「自分に都合の良い解釈をするな」

 

 一夏は眦を吊り上げぴしゃりと言い放った。ハイパーセンサーの機能で背後にいながらその顔を見た陽子は、姉弟だけあって織斑先生に似た怒り顔だな、と感じた。

 

「理由の有無とかじゃない。気持ちの問題だ。したくないから断っているんだ。俺は、お前とISバトルをするつもりはない」

 

「ふむ。貴様も同じか、鬼頭陽子?」

 

「うん」

 

 一夏の背後で、陽子も頷いた。

 

「わたしも、ボーデヴィッヒさんと戦う気はないよ」

 

「惰弱な」

 

 ラウラは吐き捨てるように呟いた。かと思うと、彼女は不敵に笑い、言った。

 

「だが、それでこそだ。貴様がそうであればこそ、私の考えはやはり正しかったという証明になる」

 

「うん?」

 

 陽子は怪訝な表情で聞き返した。

 

 対するラウラは胸を張り、誇らしげに自説を披露した。

 

「貴様は、ヘア・キトーの娘に相応しくない」

 

「……あ?」

 

 一夏の顔面が硬化した。ハイパーセンサーの三六〇度視界が、背後の彼女の表情の変化を映し出していた。

 

 ラウラは構わずに続ける。

 

「あの人は素晴らしい御方だ。技術者としては無論のこと、IS操縦者としても優れている。有能という言葉は、あの人のためにあるのだろう。そう思わせてくれる御方だ。そんなヘア・キトーの唯一の欠点……いや、汚点が貴様だ、鬼頭陽子」

 

 陽子のかたわらに立つ箒も顔色を青くさせた。はらはらとした心持ちで彼女の横顔をうかがい、ごく、と唾を飲み込む。なんと恐ろしい顔なのか。

 

「優秀な父親と比べて、貴様は何だ? 学業の成績は平凡。ISの操縦技術が突出して上手いでもない。とどめに、その弱々しい気性だ。やはり、私の考えは正しかった。貴様は、あの人の家族に相応しくない。あの人のそばにいる価値が、貴様にはない。あの人から愛される資格が、貴様にはない」

 

 陽子のことを素晴らしいライバルだと公言して憚らないセシリアの米神が引き攣った。陽子に対する侮辱は、自分への侮辱でもある。咄嗟に反論しようとして、喉奥を、ぎゅっ、と引き締めた。自分以上にラウラの言葉に傷つき、そして怒っている存在に気がついたからだ。

 

 「よ、陽子さん」と、震える声が唇から漏れ出た。横顔につきまとう、凄絶な怒気。セシリアの美貌が、今度は恐怖から引き攣った。ラウラを見上げる炭色の瞳が、怒りで燃えていた。

 

「……ボーデヴィッヒさんさぁ。さっきから、黙って聞いていれば好き勝手――、」

 

「ヘア・キトーもそう思ったからこそ、」

 

 静かに呟かれた陽子の声は、話しているうちに興奮を帯び始め、声量を増していったラウラの発言にかき消された。

 

「過去に、貴様たちを捨てたのだろう」

 

「え? それって、え?」

 

「ばっ! お前、それはっ」

 

 転校生ゆえに、鬼頭親子の過去をよく知らない。困惑した表情のシャルルの隣で、一夏が悲鳴を上げた。それ以上口を開くな。制止の言葉が彼の唇から飛び出すよりも先に、ラウラは言った。

 

「軍からの情報で知っているぞ。ヘア・キトーが過去に離婚し、貴様と、貴様の双子の兄の親権を手放したことは。ヘア・キトーはきっと、貴様ら兄妹の存在を邪魔に思ったのだろう。有能な自分のそばに、無能な貴様らの存在は不要。そう考えたからこそ、妻とは離婚し、貴様らの親権を手放したのだ」

 

 ただ一機を除いて、だ。

 

 一夏たちはもとより、このやり取りを遠巻きに眺めている生徒たちも含むすべてのISの警報装置が、一斉に反応した。陽子の着る『スプリット・クロー』の全機能が、戦闘状態へと移行したのを感知した。

 

「そうでなければ、抗ったはずだ。親権を渡すまいと、何が何でも立ち向かったはずだ。そうしなかったから、親権は妻の側に渡った。貴様の存在を邪魔に思ったから、妻に押しつけたのだ。そうに違いない。

 

 それなのに、貴様はヘア・キトーのもとに押しかけた。愚鈍にも、彼が迷惑に思っていることに気づかず、自分の気持ちばかりを優先して、彼に縋り寄った。もっとも、その気持ちは分からないでもないよ。彼ほどの人物を愛さない理由はないからな。だがその愛は、彼には不要だ。その愛は、むしろ彼にとって迷惑になる。貴様の存在は、ヘア・キトーを不幸にする。……その意味では、もう一人の方がわきまえていると言えるな」

 

「……もう一人、って?」

 

 震える声。ラウラはにこりと微笑んだ。一点の曇りもない、晴れやかな笑みだった。

 

「貴様の兄だ。貴様と同様、きっと無能な男なのだろう。貴様と違うのは、その自覚があるかないか。自分のことを無能だと知り、自分の存在が、父親の前に広がる栄光の道における障害物になると自覚していた。だから、貴様と違って押しかけるようなことはしなかった。そうなんじゃないのか?」

 

「箒!」

 

「わかっている!」

 

 陽子の四肢の動きを力尽くで押さえろ。言外の意を受け止めた箒が『打鉄』の両腕を絡みつかせるよりも一瞬早く、『スプリット・クロー』の駆動肢が動いた。

 

 今日の課題はこれと定めて、先ほどまで練習に精を出していたレーザー・キャノン。『展開』したままの状態だった長大な武器をすかさず肩に担ぎ、陽子は、躊躇いなくトリガーを引き絞った。九五〇キロワットの光線が、黒いISめがけて放たれる。

 

 あらかじめそのリアクションを予想していたラウラは、ニヤリ、と笑って左に移動し、銃撃を避けた。すでにこちらも、ISの機能は戦闘状態へと移行している。

 

「先に手を出してきたのはっ」

 

 右肩のあたりに、武装を『展開』した。大型の実弾砲。回転式弾倉を搭載した、八八ミリのリボルバー・レールガン。

 

「貴様の方だぞ!」

 

 リボルバーカノンの回転式弾倉に、電流が走った。一瞬のうちプラズマ臨界寸前まで加熱された液体火薬が爆発し、徹甲弾を電磁バレルへと叩き出す。電磁力の後押しを受けてさらに加速した砲弾は、秒速八〇〇〇メートルの速さで砲口から飛び出した。

 

 不味い。タイミング悪く、箒が背後から飛びかかり、陽子の体を組み伏せてしまった。これでは、反撃の一射を避けられない!

 

 一夏は反射的に前へと飛び出した。この上は、自分の体を盾にして二人を守るしか――、刹那の思考が奔る彼の視界の片隅で、横合いから、オレンジ色の閃光が飛び出していくのが見えた。シャルルの『ラファール・リヴァイブ・カスタムⅡ』だ。実体シールドを構えている。

 

 ゴガギン!

 

 と、砲弾の弾芯が装甲板を殴打する快音が轟いた。砲弾は、角度をつけて構えられたシールドの表面上を滑り弾かれ、あらぬ方向へと飛んでいく。

 

「……こんな密集空間でいきなり戦闘を始めようとするなんて、ドイツの人はずいぶん沸点が低いんだね」

 

「貴様……」

 

 砲弾を弾いたシャルルの右手には、アサルト・ライフルが『展開』されていた。銃口は無論、ラウラへ向けられている。

 

「貴様も見ていたはずだが? 先に手を出してきたのは、そっちの方だ」

 

「そう仕向けたのはそっちでしょ? きみの挑発は、この場にいる全員が聞いていたよ」

 

 ラウラはアリーナ内を睥睨した。一夏たちだけでなく、アリーナ中の目線が自分に集中していた。

 

 非難の眼差しが、ラウラの頬をくすぐっている。みな、事情はよく分からずとも、ドイツからやって来た転校生の発言が、陽子の心を深く傷つけた。そのことだけは、理解していた。

 

「……ちっ」

 

『そこの生徒! 何をやっている!』

 

 ラウラの唇から舌打ちの音が漏れ出たのと同時に、アリーナ内の各所に設置された館内放送用スピーカーが、一斉に吠えた。騒ぎを聞きつけた監督役の教師が、ようやく放送室に辿り着いたのだろう。

 

「……ふん。今日は引こう」

 

 二度も横やりを入れられて興が削がれたのか、ラウラはリボルバーカノンを格納すると、ピットゲートに向けて身を翻した。この場から立ち去ろうとする背中に、陽子の、喉奥からの絶叫が叩きつけられる。

 

「待て! 待てよ、ラウラ・ボーデヴィッヒ!」

 

「落ち着け、陽子! お前もこの場は銃をしまえっ」

 

「放せ! 放して、篠ノ之さん!」

 

 上から箒の『打鉄』にのしかかられ、陽子は、ばたばた、ともがいていた。拘束を振りほどこうとするも、体術の技術では、とてもじゃないが剣道中学チャンピオンの彼女には敵わない。

 

「あいつ、私だけじゃなく、父さんや、兄さんのことも悪く言った! 許せない! 放してよ!」

 

「お前の気持ちはわかる! だが、いまは! この場では!」

 

「くそっ、放せよ! 放してよぉ!」

 

 悠々と空を飛ぶラウラが、ピットゲートに辿り着いた。中に入り、アリーナから退出していく。安全用隔壁が閉まり、黒いISの後ろ姿が見えなくなった。

 

「あいつ! あいつぅ……!

 

 怒れる瞳も、言葉も、行き場を失ってしまった。

 

 オープン・チャネルによってみなの機体に共有されてしまった悔しげな声が、むなしく響いていた。

 

 

 

 

 

 

 堂島弁護士との話し合いは、彼が出版大手の大学館を利用するプランを提案した後も一時間以上続いた。

 

 議論が紛糾した原因は、高品が二人の会話に参加したためだ。男性操縦者たちに関する情報を統制したい日本政府の考えを改めて説いた上で、彼は堂島案の有効性は認めつつも、出版社と雑誌の選定には一考の余地がある、とした。具体的な会社名や誌名を口ずさむと、今度は堂島が反論を口にする。

 

「同郷通信といい、事件通信社といい、いまあなたが口にされたのは、すべて政府と協力関係にあるマスメディアばかりではありませんか」

 

 言葉を飾らずに表わせば、日本国政府の息がかかった出版社たちだ。その推薦には、打算や下心の存在が見て取れる。

 

 高品が列挙した出版社に取材の話を持ちかければ、なるほど、政府からの強力な支援を引き出せるだろう。たいへんに魅力的な提案だが、同時に、カウンター・インタビューの内容には政府の意向が反映されてしまう公算が高い。

 

 はたしてこれが、鬼頭親子にとっての最善へとつながるかどうか。

 

 弁護士の仕事は、クライアントの利益の最大化、あるいは損失を最小化することだ。政府からの支援を受け入れることで得られるメリットよりも、それによって生じるデメリットの方が上回るようでは意味がない。政府の意向に従ったがために、カウンター情報としてのインパクトが欠けてしまったり、そも政府筋の出版社からの発表ということでかえって読者の不信感を煽ってしまったり、といったリスクを、堂島は懸念した。

 

「やはりここは、政府との付き合いが薄い出版社を選ぶべきです」

 

 やおら応接室は、男三人が、ああでもない、こうでもない、と侃々諤々意見をぶつけ合う討論会の場となった。やがて高品も含む全員の意見がある程度まとまりを見せたのは、真耶が淹れてくれた二杯目のコーヒーもすっかり冷めてしまった、午後四時前のことだった。

 

「すっかり話し込んでしまいましたね」

 

 堂島弁護士が左手のロレックスに目線を落としながら言った。第六世代モデルのエクスプローラーⅠ。冒険者のための時計とされる無骨なデザインを、五五歳の紳士は自然に着けこなしている。

 

 画になるなあ、と感心しつつ、自らも愛用のボーム&メルシェを、ちら、と見た鬼頭は、「堂島先生は、この後は?」と、訊ねた。

 

「真っ直ぐ名古屋に帰ります」

 

 堂島は隣に座る高品の顔を見た。

 

「飛行場で、帰りのヘリが待ってくれているようなので。……ところで、」

 

 堂島は自らの足元に目線をやった。仕事用のブリーフケースとは別に、白い手提げの紙袋が床に置かれている。

 

「渡すタイミングを見失っていました。実は、鬼頭さんにお土産があるんですよ」

 

 堂島は白い紙袋をテーブルの上に置いた。縦横ともに三十センチ未満の、それほど大きくないサイズだが、マチの部分がかなりゆったりと取られている。何か箱型のものが入っているらしく、四隅が、ぴん、と張っていた。

 

「IS学園に引っ越されてからもうすぐ二ヶ月。そろそろ、故郷の味が恋しい頃じゃないかと思いまして」

 

 差し出された紙袋を受け取り、思わず破顔した。黄色基調の折り箱に、筆文字印刷が力強く躍っている。鬼頭にとって懐かしく、そしてお馴染みのパッケージだ。

 

「ぜひ、陽子さんと一緒に楽しんでください」

 

「重ね重ねありがとうございます」

 

 今夜の酒の肴は決まった。相好を崩しながら礼を述べ、椅子から立ち上がる。それを見て、堂島と高品もゆっくりと腰を上げた。

 

「飛行場までは?」

 

「学園側が、島内連絡用のEVカーで送迎してくれます」

 

「なるほど。ちなみに車種は?」

 

「行きは日産のサクラでした。おそらく帰りもそうでしょう」

 

「ははあ、なるほど。……お見送りしましょう。いえ、送迎しましょう」

 

「それ、鬼頭さんがハンドル握りたいだけですよね?」

 

 コーヒーのカップを片付ける真耶が、じっとりとした目つきで睨んできた。「ばれました」と、鬼頭は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。

 

 応接室を退出した四人は堂島弁護士と高品を見送るべく本校舎裏手にある荷物の搬入出場へと向かった。校舎内に物資を運び入れるための作業スペースで、大型重機の駐停車が可能な駐車場が併設されている。島内連絡用の車輌群も、普段はここに待機していた。

 

 鬼頭が見知った顔と遭遇したのは、その途上でのことだった。

 

 第三アリーナのある第二校舎との連絡路から本校舎側へとやって来る、ラウラの姿を見つけた。向こうもこちらの存在に気がついたようで、鬼頭の顔を見るなり、ぱぁっ、と嬉しそうに表情を輝かせる。カッカッ、と、軍靴の踵を小気味よく鳴らしながら走り寄ってくる。

 

「ヘア・キトー!」

 

「フラウ・ボーデヴィッヒ」

 

 堂島らにことわると、鬼頭も頬の筋肉を緩めて迎えた。見た目が幼げなラウラが自分のもとへ駆け寄ってくる姿は、彼に懐かしい日々の記憶を思い起こさせる。

 

 対照的に渋い面持ちなのが高品だ。ボーデヴィッヒといえば、楯無から報告のあったドイツの代表候補生だ。日本政府の命を帯びてやって来た男は、男性操縦者が他国の重要人物と親密そうにしている様子を目の当たりにして、必然、頬の筋肉を硬化させた。

 

「第二校舎から、ということは、訓練あがりですか?」

 

「そんなところです。そちらは、昨日言っていた?」

 

「ええ」

 

 鬼頭はかたわらに立つ堂島を示した。

 

「こちら、私がお世話になっている弁護士の堂島先生です」

 

「堂島です」

 

 堂島は少しだけ膝を折って目線の高さをラウラに合わせた。握手のために右手を差し出す。

 

「よろしくお願いしますよ、ミス・ボーデヴィッヒ」

 

「……なぜ、私の名前を?」

 

 差し出された掌を、ラウラは警戒した眼差しで睨みつけた。面識のない相手から、突然名前を呼ばれた。いったいどこから情報が漏れたのかと、一転して顔をしかめる。

 

「鬼頭さんから、あなたのことはうかがっています」

 

 対する堂島は完爾と微笑んだ。

 

「ドイツからやって来た、とても可愛らしく、とても優秀な代表候補生だと聞いていますよ」

 

「優秀……それを、ヘア・キトーが?」

 

「ええ。言っていましたよ」

 

 堂島の首肯を受けて、ラウラは破顔した。鬼頭が自分の優秀さを認めてくれている。嬉しい気持ちが胸いっぱいに広がっていくのを感じた。握手を求める右手を両手でそっと挟み込むと、ぶんぶん、と縦に激しく振るう。

 

「ラウラ・ボーデヴィッヒです。こちらこそ! よろしくお願いします、ヘア・ドージマ」

 

「え、ええ。よろしくお願いします」

 

「ヘア・キトー、商談の方は上手くいきましたか?」

 

「まあ、なんとか」

 

 最後まで渋い表情を崩さなかった世界最強の女の顔を思い出し、鬼頭はこちらもほろ苦く笑った。レーザー・ピストルを高く買い取りたい学園側と、製造コスト相応の金額で売れればよいと考える男の熾烈な攻防戦の結果は、客観的に見て、引き分けと評すべきだろう。結局、鬼頭は改良型の《トールA1》二十挺を学園側が提示した金額で売ることを受け入れた。一方で、学園側はバッテリー百個を破格の安さで買い取ることを承諾した。両者がぎりぎり合意可能な妥協案で、どちらも腹の底から納得しているわけではない。

 

「改良型の《トールA1》は、明日から学園の武器庫に配備され、貸出可能な武器のリストに載る予定です。これで、争奪戦とやらも少しは解消されるとよいのですが」

 

「私も、試し撃ちがいまから楽しみです」

 

「そのときはぜひ忌憚のない意見を聞かせてください」

 

 鬼頭は微笑を浮かべた。切れ長の双眸が、技術者としての好奇心から、ぎらぎら、と輝く。

 

「次回の改良や、次に何か作るときの参考にしますので」

 

「勿論です。レポートにして提出いたします」

 

「そこまでしっかりしたものでなくてもいいのですが。……ところで、」

 

 先ほどから、気になっていることがあった。腰近くまで伸びている、ラウラの長い髪。輝く銀糸の先端あたりに、埃の塊が絡みついている。アリーナからここまでの道すがら、どこかで引っかけてきたのだろう。

 

「髪に埃が絡んでいますが」

 

「む」

 

 指摘を受け、自らの髪を一房手に取る。つま先で引っ掻いて取ろうとするが、普段の手入れ不足がたたってか、埃は毛先の微細なささくれに引っかかってしまい、なかなか取り除けない。だんだんと眉間に皺が寄り、眉尻がつり上がっていく。苛立ちが募っている様子だった。

 

「む、む、むむむむむ……!」

 

「ちょっと失礼」

 

 このままでは怒りにまかせて髪の毛ごと強引に引き千切りかねない。

 

 見かねた鬼頭はラウラの掌に自分の手をそっと重ねた。五本の指をヘアブラシに見立て、髪の毛の流れに沿って繰り返し梳いていく。毛の表面にへばりついている埃をゆっくりと、丁寧に滑り落としていった。

 

「はい、取れましたよ。……堂島先生、どうかしましたか?」

 

「いやあ」

 

 かたわらの堂島がにやにや笑いながら自分たちを見ていることに気がつき、鬼頭は怪訝な面持ちとなった。名古屋からやって来た弁護士の男は、にやけ面のまま言う。

 

「陽子さんと同じ歳の女の子相手だからでしょうか。そうしていると、まるで親子のようだな、と思いまして。微笑ましい光景に、つい笑いがこみ上げてしまいました」

 

「親子、ですか?」

 

 今度はラウラが訝しげに眉をひそめた。眼帯で隠されていない方の右目が、堂島の顔を真っ直ぐに見上げる。

 

「私と、ヘア・キトーが、ですか?」

 

「はい」

 

 堂島はゆっくりと頷いたが、ラウラはいっそうの不可解さから頬の筋肉を硬化させた。自分の日本語が拙いせいだろうか。彼の言っていることが、理解出来ない。

 

「あの、それはどういう意味でしょうか? ああ、いや、親子、という日本語が何を指しているかは私にも分かります。しかし――、」

 

 続く言葉に、堂島の瞳が僅かに動揺した。

 

「私とヘア・キトーの間に、血のつながりはありません。それなのに、親子のように見えたとは、なぜなのでしょうか?」

 

 十五歳という年齢に比して、幼さを感じさせる問いかけだ。普通、十五歳といえば、思春期の盛り。自分自身の内なる世界の変化や、外からの刺激に対する感受性が特に高まる時期のはず。自然、その場の空気感や雰囲気から言外の意を推理し、次のコミュニケーションへとつなげる術を、僅かなりとも身につけ始めているはずだが。

 

 ましてや、ラウラは軍人だ。鬼頭によれば、ドイツ連邦空軍の大佐だという。堂島は軍隊の制度について詳しくないが、一般の会社組織でいう部長とかに相当する階級だということくらいはわかる。すなわち中間管理職だ。上司、部下、同輩と、様々な関係性の相手とのコミュニケーションが求められるし、それが出来なければ務まらない役職のはず。

 

 ところが、ラウラの言動からはそうした特別な立場に起因する対人経験の豊富さがまったく感じられない。それどころか、年齢相応の最低限のコミュニケーション能力すら身についていないように見える。これで少佐? と、思わずにはいられなかった。いったい、どういうことなのか。連邦空軍の人事評価の基準が、世間の常識と大きく乖離しているだけなのか。それとも、個人の特性に由来する、何か特殊な事情ゆえのことなのか。

 

 それはそれとして、これは少々困ったことになったぞ、と堂島は口の中で呟いた。

 

 自分はラウラの髪を梳く鬼頭の姿を見て、親子のようだ、と感じた。こうした感性のはたらきを、誰にでもわかるよう改めて言語化するのは難しい。感性とは、その人がこれまでに何を見て、どう感じ、その考えをどう評価されてきたか。そしてそれに対し、自分はどう思ったか。そういった経験の蓄積によって形作られるものだからだ。自分と同じ経験を持たない相手に、これを言って聞かせられるだろうか。堂島は重たい唇をゆっくりと押し上げた。

 

「血のつながりだけが、親子関係の証ではありませんよ」

 

 堂島は努めてやさしい言葉遣いと、ゆっくりとした口調を心がけた。

 

「むしろ、なまじ血のつながりがあるせいで、取り返しのつかないところまで親子仲が悪化したケースもあります」

 

 弁護士なんて仕事を長くやっていると、そういう理由で親子関係が破綻してしまった事例を目にする機会は多い。同じような係争問題でも、血のつながりさえなければ。最初から赤の他人であったならば、こうもこじれることはなかっただろう、と思わされる事案ばかりだ。

 

「私があなたたちを見て親子のようだ、と感じた理由は、お二人の姿から、親子愛や、家族愛に近いものを感じ取ったからでしょうね」

 

「家族愛、ですか?」

 

「ええ」

 

 堂島は首肯した。

 

「ミス・ボーデヴィッヒ、あなたの鬼頭さんを見る眼差しには、尊敬の念と、喜びの気持ちが感じられました」

 

 堂島の言葉に、ラウラは「当然です」と、鼻息を荒くした。

 

「ヘア・キトーは優れた技術者であり、操縦者です。そのヘア・キトーが気にかけてくれている。私にとっては嬉しいことです」

 

 そんな回答を期待していたわけではないのだが。返答を苦笑でもって受け止めて、堂島は、ついで鬼頭を見た。

 

「あなたを見る鬼頭さんの目からは、おさなごを見守るかのような優しさが見て取れました。これはもう、お互いに愛し合っている状態だと言えます」

 

「愛し、合う? ヘア・キトーが、私を?」

 

「あなたもですよ、ミス・ボーデヴィッヒ」

 

 堂島は完爾と微笑んだ。

 

「愛とは、与えることです。与えるというのは、何も物質的なことばかりではない。もっと精神的な、たとえば、自分自身を与える。そういったこともいいます」

 

 自分自身を与える。自分の大切なもの、自分という人間を形作っている構成要素……自分の喜び、自分の興味・関心、理解や知識、ユーモア、悲しみといった、自分の中に息づいているすべてのものを、与える。

 

「鬼頭さんはあなたに、自分の中に生まれた優しさの気持ちを与えました。やさしい手つきで髪を取り、埃を取り除くという行為は、言ってしまえば、そういう表現なのです。そしてその優しさは、あなたの内面世界に、少なからず変化を起こしたはずだ。その変化が、今度はあなたの中に、尊敬と、喜びの気持ちを生んだ。

 

 そして今度はそのあなたが、鬼頭さんに尊敬と、喜びの気持ちを贈っているのです。あなたからの贈り物もまた、鬼頭さんの中にあたたかな気持ちの変化を起こしています。気がついていますか? あなたを見る鬼頭さんの目は、だんだんと優しさを増しているのですよ」

 

 ラウラは鬼頭の顔を見上げた。切れ長の双眸に、慈しみの輝きが宿っている。

 

「愛し合うとは、そういうことです。与えることで、相手の中に変化を生み、その変化がやがて、相手からの与える、を生み出す。そうやって考えている二人が、互いに自発的に、そして能動的に与え合う。それが、愛し合うということなのです」

 

「……ヘア・キトーは」

 

 堂島が与えた言葉もまた、愛の一形態だった。彼の言葉はラウラの内面に、新しい変化を生み出していた。彼女は少しの間黙考し、鬼頭を見上げて、静かに言った。

 

「私を、愛してくれているのですか?」

 

「はい。勿論」

 

 鬼頭は完爾と微笑んだ。

 

「陽子よりもですか?」

 

「それは……比べられるものではないなあ」

 

「なるほど。そうですか」

 

 困った表情で答えた鬼頭に、ラウラは可憐に笑ってみせた。

 

「ヘア・キトー。察するに、ヘア・ドージマを送る途中だったのでは? お時間は大丈夫ですか?」

 

「む」

 

 言われて、鬼頭は左手首のボーム&メルシェに目線を落とした。堂島自身も、ステンレスモデルのエクスプローラーⅠを見て、むむ、と眉間に皺を寄せる。

 

「おっと、もうこんな時間ですか」

 

「少し、話しすぎましたね」

 

 内閣情報調査室の高品が言った。日本政府の人間としては、男性操縦者とドイツの代表候補生が親密そうにしている光景を見るのは気が気でないのだろう。ラウラの方から言ってくれたことで、こころなしかほっとしている。

 

「私のために、時間をとらせてしまいました。こちらのことはもういいですから、早く行ってあげてください」

 

「そうですか?」

 

 そう言いながらも、鬼頭の表情からはうきうきと喜びの気持ちが見て取れる。まるで遊園地のアトラクションの順番待ちの列に並ぶ子どものような顔だ。送迎車の運転が楽しみで仕方ない様子だった。呆れた目線を向けてくる真耶に微笑みかけ、鬼頭は言った。

 

「ではお言葉に甘えまして。皆さん、参りましょう」

 

 

 

 その場を去りゆく大人たちの背中を、じぃっ、と見つめながら、ラウラは不敵に微笑み、自らに言い聞かせるかのように、ひっそりと呟いた。

 

「そうか。ヘア・キトーは、私を愛してくれているのか」

 

 それは想像するだけで嬉しいことだった。彼に認められている。彼の気持ちが、自分に寄せられている。その実感に、あたたかな気持ちが、胸いっぱいに広がっていくのを自覚する。

 

「そして、私もまた、ヘア・キトーのことを愛している」

 

 堂島弁護士からの評を受けるまで気がつかなかったが、二人は相思相愛だったのだ。

 

 少なくとも、自分よりも鬼頭との付き合いは長い彼が、親子と錯覚するほどには、仲睦まじげに見えたという。

 

「……嗚呼、嬉しいことだ。幸せなことだ。あれほどの人物と、親子に見られるなんて」

 

 だからこそ、陽子のことが許せない。

 

 天才、鬼頭智之の唯一の汚点。彼にまとわりつく羽虫のような存在。血のつながりがある。たったそれだけの理由を根拠に、彼のそばにいることを許されている女。凡人のくせに。彼から、愛されてもいないのに。娘であることを認められている女!

 

 ――そうだ。ヘア・ドージマも言っていたではないか。血のつながりだけが、親子の証ではないと。

 

 奪ってしまおう。強く、そう思った。

 

 鬼頭陽子。あの女から、鬼頭の娘という地位を、奪ってやろう。

 

 鬼頭の娘には、自分の方が相応しい。自分の方が、彼に愛されているのだから。

 

「……そのためにも、やはりお前は、彼の目の前で潰さねばならん。鬼頭陽子」

 

 先ほど第三アリーナで交わした、陽子とのやり取りを思い出す。あんな安い挑発に乗るような女だ。機会はいくらでも作れるだろう。

 

 近く訪れるだろうその瞬間を想像し、ラウラはいっそう幸せな気持ちに浸った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter39「愛するということ」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三年と二ヶ月、そして二五日前――。

 

 愛知県名古屋市名東区、〈アローズ製作所〉本社ビル。

 

 

 

 

 

「……というわけで、ドイツへは一緒に行けなくなった」

 

 親友の鬼頭智之から、「始業前に話がある」と、所属部署のオフィスから休憩室へと連れ出された桜坂は、そこで事の次第を聞かされて、残念そうに溜め息をついた。

 

「まあ、予想はしていたけどな」

 

「本当にすまん。桜坂」

 

「謝るようなことじゃないさ」

 

 頭を垂れる鬼頭に、仁王の顔の桜坂は完爾と微笑んだ。

 

「むしろ、いまの状態の陽子ちゃんをほっぽって、一緒にドイツに行こう、なんて言い出したら、俺が怒っていたところだ。何を考えてやがる、ってな」

 

 義理の父によるレイプ被害。そして、そのことを伝えて助けを求めようとした母親からの、裏切りの暴力に耐えきれずに家を飛び出した陽子が、実父である鬼頭のもとで保護されるようになって五日が経っていた。

 

 心身ともに深い傷を負った娘のケアで忙しいのはもとより、堂島弁護士とともにこれから身を投じることになる、親権を取り戻すための戦いがいつまで続くか分からない現状では、とてもではないが、三ヶ月後の約束は結べない。ドイツへは、他の誰かを誘って行ってほしい。そう言って謝罪する鬼頭に、桜坂は無論、理解を示した。

 

「いまは、陽子ちゃんとそばにいてやれよ」

 

「ありがとう、桜坂」

 

「しっかし、誰を連れていこうかねぇ」

 

 桜坂が取得した『モンド・グロッソ』決勝戦の観戦券は、ペア・チケットだ。勿論、一人で観戦しても何ら問題はないはずだが、せっかく二人分の料金を払って手に入れた品だ。どうせなら、誰かと一緒に使いたい。

 

「誰かアテはいないのか?」

 

「ううん……なんといっても、場所が外国だからなあ」

 

 地元のナゴヤドーム戦のチケットが手に入ったから一緒に行こう、なんていうふうに、気軽な気持ちでは誘えない。日帰りは無理だから何泊かすることになるし、そのスケジュールを押さえるのがまず大変だ。家庭を持っている相手であれば、家族の了解を得ねばならない。パスポート取得の問題もある。声をかけてよさそうな相手は限られた。

 

「彼はどうなんだ? ほら、千葉にいるという、並行同位体の……」

 

「あいつも家庭のある身だからなあ。……ってか、この間ちょっと話したんだけどな」

 

「うん」

 

「どうやらいま、奥さんが二人目妊娠中らしいんだ」

 

「それは誘いづらいな」

 

「そうなんだよぉ」

 

「ううん。……それなら、」

 

 不意に、鬼頭は名案が思い浮かんだとばかりに目を輝かせた。

 

「桐野さんはどうだ?」

 

「……おい待て鬼頭。なんでそこで桐野さんの名前が出てくるんだよ?」

 

 親友の口から飛び出した名前に、桜坂は思わず目を剥いた。

 

「いや、ほら、彼女独身だし。誘いやすいかな、って」

 

「いや、そうだけどさあ。そうじゃ、ねぇだろ? 女の人だよ? そいでもって、俺、男の人ですよ?」

 

「何か問題が?」

 

「いや、問題しかねえだろ」

 

 桜坂は苦々しい口調で言った。夫婦どころか恋人でもない男女二人が、仲良くドイツへ旅行。倫理問題のびっくり箱のようなシュチュエーションだ。

 

「何かあったらどうするんだよ」

 

「何かあることを期待して言っているんだけどなあ」

 

「あん?」

 

「いや、実は、先日、桐野社長から、社長室に呼び出されてなあ」

 

「おう」

 

「それとなく、お前と桐野さんがくっつくよう配慮してやってくれ、と言われてしまって……」

 

「それとなく、とは!?」

 

「いや、面倒くさそうだったから、あからさまにやります、と応じたんだ」

 

「そっちを面倒くさがるなよ! くっつくよう配慮、のところを面倒くさがれ! ってか断れ!」

 

「いやあ、桐野社長の気持ちを考えると、無碍にも出来なくて」

 

 同じ娘親としての共感がはたらいた結果だった。社長室に呼び出された鬼頭は、そこで社長直々に、こんな話を聞かされたのである。

 

『想像してみてくれ。自分の娘……中学生の娘が、だ。ある日突然、年上の、それも十歳以上も年齢差のある、二十代後半の男性を好きになった、と言い始めるんだよ。年齢的に、思春期によくある、憧れのお兄さん願望というか、大人の恋愛に憧れる気持ちというか、そういうものだと思うじゃないか。数年も経てば落ち着くだろう。いずれは年齢相応に、同じ年頃の男の子との恋愛欲求を抱いてくれるだろう、って思うじゃないか。

 

 それが、何年経っても変わらないんだよ。十代どころか、二十代になっても、言っていることが変わらないんだ。桜坂さんのことが好き。あの人は天使。慕っています。あの人の役に立つことが私の人生、私の生きる意味、私の幸せだ、ってね。あ、やばいな、って思うじゃない? この気持ちは、ガチだ、って思うじゃない?

 

 もし、この恋の結末が悲劇的なものになったら、反動で、一生恋愛出来なくなるんじゃないか、って危機感を覚えたんだよ。うん。桜坂君とくっつかなかった場合、婚期を逃すどころか、結婚願望そのものが消滅するんじゃないか、ってね。うん』

 

 同じく娘を持つ親だ。切々と訴えかける桐野社長の肩を、鬼頭は涙ながらに抱きしめ、気がつくと協力する旨を口走っていたのである。なおこの二人、三年前の時点では、近い将来、美久が桜坂に対して日常的にストーキング行為をはたらくようになる事実を知らない。

 

「というわけで桜坂、お前、桐野さんと一緒に、ちょっくらドイツまで行ってこい」

 

「何がというわけなんだ!? っていうか、桐野さんの都合とか気持ちは?!」

 

「彼女が断ると思うか?」

 

「……いいや、ないな」

 

「スケジュール問題については安心しろ。社長直々に、総務部に掛け合って有給を取らせてくれるそうだから」

 

 鬼頭はにっこり笑って桜坂の肩を叩いた。

 

「だから、な? 行ってこい。あ、俺への土産はBMWのグッズで構わないぞ? たしか決勝会場が設置されるオリンピック公園のあたりには、BMWの博物館があったはずだ。会社ロゴの入った手帳とかあったら、よろしく」

 

「ずうずうしい! チクショウ、ずうずうしい!」

 

 

 

 

 三年と四日前――。

 

 羽田空港発ミュンヘン国際空港行きエアバスA350の機内にて、仁王の顔の超人は頭を抱えていた。隣の席では、嬉々とした表情の桐野美久の姿がある。

 

「天使様と一緒に旅行だなんて、私、とても幸せです」

 

「……なしてこげなことになったんや」

 

 あの後、自分の意思とは関係なしに、事態はどんどんと進んでいってしまった。

 

 気がつくと自分と美久のドイツ旅行の話は、本社どころか日本全国津々浦々、〈アローズ製作所〉の全支店、全工場に知れ渡り、周囲からは「いよいよ年貢の納め時ですか」とか、「お土産楽しみにしていますね?」と、声をかけられるようになった。もう二人で行くしかない。そんな状況に追い込まれていた。

 

「二人でたくさん思い出を作りましょうね」

 

「ははは、そうね。ソウネー」

 

 東京からミュンヘン国際空港までは、一四時間以上という空の旅となる。ドイツに到着後はミュンヘン市内のホテルにチェック・インし、現地を観光しつつ二泊。三日目に主目的たる『モンド・グロッソ』決勝大会を観戦して、四日目に帰国の便に乗り込む、という旅程だ(ちなみにBMW博物館には二日目に足を運ぶ予定)。たっぷり余裕のあるスケジュールゆえ、いつ、何が起こってもおかしくない。

 

 ――桐野社長に対し、足を向けて寝れなくなるような事態だけは避けなければ。

 

 ひそかな決意を胸に抱きながら、桜坂は隣の席の美久の横顔を、ちら、と見た。観光ガイド本を膝の上に置いて楽しそうにしている彼女の無邪気さに、ひっそりと溜め息をついた。

 

 

 

 

 

 

 





ちなみに『モンド・グロッソ』の会場設営地にミュンヘンを選んだのは、ドイツでオリンピック的なことするんだったらやっぱりここだろう、というわりと浅い理由からです。


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Chapter40「愛されるということ」

原作の一夏の語りは上の方ばかり集中して描写されていましたけど、たぶん、あのシーンって、下の方も見えてますよね。角度的に。




 

 

 

 土曜日の午後四時十分。

 

 第三アリーナよりラウラが退出してからもしばらくの間、陽子は荒れていた。

 

 体術に勝る箒が上からのしかかって押さえつけていなければ、ISを『展開』した状態のままアリーナの外へ飛び出し、ラウラに殴りかかりかねないほどの激昂ぶりだった。

 

 ISバトルや訓練目的以外でのISの使用は、厳しい処罰の対象となる。先に挑発の言葉を口にしたのはラウラでも、手を出した方が負けだ。陽子をそんな状況に追いやるわけにはいかぬ、と決然たる想いを胸に、箒は級友を組み伏せ続けた。かたわらのセシリアたちも、彼女をなだめすかそうと声をかけ続けた。

 

 十分ほどそうしていただろうか。周囲の者たちの苦心の末に、やおら陽子は落ち着きを取り戻し始めた。じたばた暴れるのをやめ、「篠ノ之さん、もう大丈夫だから。手、離してよ」と、しょげた声で呟いた。

 

「……本当に、大丈夫なのか」

 

「うん。ごめん。迷惑かけたね。さんざん喚いて、ちょっとはすっきりしたから。だから、ね? 手、離して」

 

「わかった」

 

 念のためいつでも拘束を再開出来るよう相手の動き方に気を置きつつ、箒はまず左肩の動きを制している『打鉄』のロボットアームをどかした。次いで、右肘の押さえつけている駆動肢をゆっくりと除いてやる。先に箒が立ち上がり、それから陽子が緩慢な動作で立ち上がった。アリーナ中からの注目を集めていることに気がつき、急に申し訳ない気持ちがこみ上げてきた。自分が騒いでしまったせいで、彼女たちも訓練どころではなくなってしまった。彼女たちの貴重な時間を奪ってしまった。先ほどのラウラとの会話のときからつないだままのオープン・チャネルに、声を吹き込む。

 

「あぁ、そのぅ……お騒がせしました」

 

 ぺこり、と腰を折る。顔を上げ、心配そうに見つける彼女らの顔を、かぶりを振って見回した。ハイパーセンサーの三六〇度視界を駆使すれば、首を振らずとも出来ることだが、この瞬間に限っては、手間をかけることに意味があると信じた。

 

「ちょっと、訓練を再開出来そうな精神状態でもないので、出て行きます。みんなはどうぞ、続けて、ね」

 

 はかなげに微笑むと、PICを駆使して宙へと浮かび上がる。先刻のラウラと同様、ピット・ゲートに向けてゆっくりと飛行を開始した。その背中を、セシリアが慌てて追いかける。

 

「ちょっ、お待ちになって、陽子さん!」

 

 表面上は、平静さを取り戻したように見える。しかしその内心は依然激情で荒れ狂っているはずだ。

 

 セシリアは鬼頭親子に過去何があったのか、少なからず知っている。先ほどのラウラの発言は、彼らが思い出すのすら苦痛と考えている記憶を無理矢理に揺さぶり起こす内容だった。その精神的苦痛は、憤りは、如何ほどだっただろうか。

 

 いまの陽子を一人きりにはさせられない。そう考えるのはセシリアだけでなく、一夏と箒、そしてシャルルもその後を追った。事情をよく知らない転校生の彼でさえ、いま彼女を放置するのは危険だと判断したのだ。それほどに、みなの目にいまの陽子は情緒不安定に映じていた。

 

 学園から貸し出される訓練機は、自主訓練や実習の後、整備科や技術科の生徒たちの手に預けられ、そこでまた研修の教材となる。陽子がピットルームに到着すると、すでに二年生の生徒たち八人からなるグループが手ぐすねを引いていた。その中に知った顔を見つけ、陽子はばつの悪い顔を作った。父とも縁浅からぬ相手、黛薫子だ。整備室側のモニターカメラで一連のやり取りは把握済みなのだろう、心配そうにこちらを見上げている。

 

「色々言いたいことはあるけど、陽子ちゃん、とりあえずこのカートに機体を載せて」

 

 薫子たちはIS運搬用の手押し台車を用意していた。『スプリット・クロー』を着たままその上に乗り、膝をついてから装着を解除する。鎧を脱いで地面に飛び降りた直後、どっ、と疲労感が全身に襲いかかってきた。ISの生体保護機能が長らく忘れさせてくれていた感覚だ。たまらず、唇から漏れ出る苦悶の吐息。額に浮かぶ、大粒の脂汗。もとより同年代の女子と比して体格未熟な陽子だ。消耗が著しい。ふらふら、とした足取りで手近なベンチへと腰かけ脱力していると、横合いから、ハンドタオルが差し出された。

 

「陽子ちゃん、これ、使って」

 

「黛先輩、ありがとうございます」

 

 隣に座った薫子だった。ありがたく受け取ると、額、頬、鼻がしら、首後ろと、順番に優しく押し当てていく。

 

 汗とともに、体を火照りと、気持ちの昂ぶりも吸い取らせるイメージを思い浮かべた。深呼吸を繰り返しながら、落ち着け、落ち着け、と口の中で何度も呟く。苛立つ気持ちを、必死に呑み込もうとした。

 

「ラウラちゃんとのやり取りの様子は、私たちも整備室から見ていたよ。陽子ちゃん、その、大丈夫?」

 

 身体のことは勿論だが、心の方もまた心配だ。

 

 薫子は鬼頭親子が隠したがる過去の事情を知らない。しかし、一ヶ月半前に繰り広げられたあの試合を見ていた。鬼頭陽子対セシリア・オルコット。世界が注目する男性操縦者の娘と、イギリスからやって来た代表候補生の試合。こんな面白そうな対決を新聞部の副部長が放っておくはずもなく、彼女は直接アリーナに赴いて、観客席から戦いの様子を見ていた。

 

 そして、聞かされた。あの幼げな見た目の少女が内に抱え持っている、父に対する想いを。兄に対する想いを。世にはびこる、女尊男卑主義者たちへの、激しい怒りを。

 

 翻って、ラウラの先の発言はどうだったか。陽子が大切に思う家族の、どちらともを侮辱する内容だった。

 

 傷ついて当然だ。怒りを覚えて当然だ。しかもその感情の発散は許されぬ、と周りから押さえつけられ、無理矢理封じ込められてしまった。激情家の彼女にとって、さぞかしフラストレーションが溜まる状況だったはずだ。僅か十分少々の時間では、心の動揺は収まるまい。

 

「……心配してくれて、ありがとうございます。黛先輩」

 

 わが身を気遣ってくれる言葉への申し訳なさから、陽子は消沈する心を叩き起こした。腹中から陽気さを振り絞り、懸命に笑ってみせる。心配は無用だ。自分はすこぶる元気である。そういう意思表示のつもりで返した笑顔は、しかし、かえって相手の表情を険しくさせてしまう。

 

「でも、もう大丈夫ですから。おかげさまで、ちょっとは元気、出てきました」

 

「そんな顔で言われても、説得力ないなあ」

 

 薫子は呆れた口調で言い放った。ちら、とカートを動かす同級生たちの方を見る。ちょうど、陽子が着ていた『スプリット・クロー』をピットルームの隣に併設されている整備室へと運び込んだところだった。あとは自分さえ戻れば、試合後点検の作業を開始することが出来る。

 

「みんなを待たせちゃっているから、私はもう行くけど、これだけ言わせて」

 

 薫子は立ち上がって陽子の前に立つと、少しかかんで幼い顔立ちをのぞき込んだ。

 

「私の見たところ、きみは環境に対する不満とか、人に対する怒りとか、そういう負の感情は内側に溜めて、溜めて、溜め込んで、自分一人ではどうしようもなくなったときに一気に爆発させて、その後すごく疲れちゃう、ってタイプの人間みたいだから。ラウラちゃんに対する怒りとかも、そうやって無理に押し殺そうとするんじゃなくて、もっと表に出しても、いいと思うよ」

 

 そうでなければ、きみの心がもたない。

 

「……私はもう、時間がないから駄目けど、愚痴を聞いてくれる友達にも恵まれているみたいだし」

 

 薫子はそう言って背後を見た。陽子を追いかけてピットルームにやって来たセシリアたちが、箒の『打鉄』を別の二年生グループへと引き渡している。そういえばあれも専用機ではなく、レンタル機の扱いだったなと、陽子は思い出した。

 

「あんなふうにすぐに追いかけてくれる友達なんだから。それくらい聞いてくれると思うけど?」

 

 言い放つや、ぽん、と軽く肩を叩かれた。隣室へと退室していく彼女と入れ替わるように、セシリアたちがやって来る。

 

「もう! 待ってください、と言ったのに」

 

「……ねえ、セシリア」

 

「はい?」

 

 少しの間、薫子からかけられた言葉について黙考した。陽子はやおら立ち上がると、セシリアの前に立った。俯き、彼女の顔を見上げられないまま、口を開く。

 

「最初に謝っとく。ごめん。いまからちょっとの間だけさ、胸、貸してくんない? ちょっと、誰かにすがりつきたい気分なんだ」

 

「陽子さん」

 

 英国からやって来た美貌の少女は小さく溜め息をつくと、可憐に笑ってみせた。

 

「ええ、構いませんでしてよ?」

 

「……本当にいい? 自分からお願いしておいてなんだけど、愚痴とか、理不尽な怒りとか、結構、盛大にぶつけちゃうと思うよ?」

 

「はい」

 

 セシリアは両腕を広げた。故郷を離れてこの極東の地で出会った小さなライバルに向けて、力強く言う。

 

「こういうとき、たしか日本語ではこう言うのでしたね。……どんと来い、ですわ」

 

「……うん。ありがと」

 

 身長差から、自然とセシリアの双丘に顔を埋める形となった。自身にすり寄ってくる背中にそっと両手を回し、おさなごをあやすように優しく撫でさする。

 

 形状保持力に優れるISスーツ越しにも、セシリアの胸はやわらかかった。額を押しつけながら、陽子はくぐもった声を漏らした。

 

「あいつ」

 

「はい」

 

「あいつ……ラウラ・ボーデヴィッヒ!」

 

「はい」

 

「知らないくせに。何も、知らないくせに! 父さんのことを馬鹿にしてっ、智也兄さんの死を、侮辱して!」

 

「はい」

 

「許せない! それなのに、何で止めた! みんなしてっ、何で止めたんだよ! 止めるなよ。止めないでよぉ。あいつ、あいつぅ……」

 

 セシリアは、陽子の愚痴に、いつしか混じり始めた嗚咽に、ただただ耳を傾けた。その発言を否定することも、肯定することもしない。ただ背中をさすり、話を聞き、頷いていた。その何もしてくれなさが、いまの陽子にはありがたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter40「愛されるということ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやあ皆さん、重ね重ねご迷惑をおかけしました」

 

 ピットルームのベンチに再び腰を下ろした陽子が恥ずかしそうに言うと、彼女を取り囲むように立つうちの一人……セシリアは呆れた溜め息をついた。

 

「なぜ、あなたがその言葉を口にするのですか」

 

 その言葉は、謝罪は、本来であれば、ラウラが口にするべきことのはずだ。それなのに、なぜ陽子がそんな罪の意識を感じなければならないのか。

 

「陽子さんは、何も悪いことなんて――、」

 

「や、したでしょ。思いっきり。それもたくさん」

 

 静かに憤慨するセシリアに、いまだ疲労感の濃い顔色の陽子は力のない声で言った。

 

「さっきの泣き言のこともそうだけどさ。私がボーデヴィッヒさんの挑発に乗っかったせいで、みんなに迷惑をかけた。篠ノ之さんには嫌な役をやらせちゃったし、なにより、みんなの訓練を中断させちゃった」

 

 陽子は自分を囲むクラスメイトたちの顔を見回した。セシリア、箒、一夏、シャルル。自分は彼らの貴重な時間を奪ってしまった。

 

「訓練を中断させたきっかけはボーデヴィッヒさんかもだけど、その後、みんなが手を止めざるをえなくなったのは、私が暴れたせいだよ」

 

「その自罰思考はやめろ」

 

 胸の前で両腕を組みながら、箒が言った。こちらも不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、額の筋肉が眉尻を引っ張り上げている。

 

「聞いていて不愉快だ。そもそも私は、お前から迷惑をかけられた、なんて思っていない」

 

「で、でもさ」

 

「私が好きでやったことだ。お前を止めるために、自分の訓練の手を止めて、自分の時間を使った。それは私が自分の意思でそうしようと決めたことだ。そんなことにまで、お前がいちいち罪の意識を感じる必要はない」

 

「そうだぜ」

 

 箒の意見に、幼馴染み一夏も同意した。

 

「さっきのあれは、どう考えたってラウラが悪いだろ。そりゃあ、先に手を出した、って意味じゃ、鬼頭さんにも少しくらい非はあるかもだけど、全体的に、あいつの発言とか態度の方が酷いだろ」

 

 自身も彼女が転校してきた早々に頬を張られたりした経験などから、一夏はラウラのことを辛辣に評した。

 

「俺たちに謝るとしたらさ、あいつの方だ。鬼頭さんが頭を下げたりする必要はない」

 

「それでも、どうしても私たちに言いたいことがあるというのなら、せめて感謝の言葉を口にしてくれ」

 

 箒は口角を吊り上げ、諧謔めいた口調で言った。

 

「お前を押さえ続けるのは、存外苦労した。鬼頭はISのパワーを絞り出すのが上手いのだな」

 

「篠ノ之さん……うん」

 

 陽子は束の間瞑目した。ラウラ・ボーデヴィッヒにまつわる感情の荒ぶりを一旦脇に置き、自分の身と心を案じてくれる、目の前の友人たちのことだけを考える。自然と湧き出てきた気持ちのまま、彼女は晴れやかに微笑んだ。

 

「ありがと」

 

「むっ、ぐ」

 

 真正面から笑いかけられ、なぜだか、変な声が出てしまった。

 

 相手が同じ年齢の高校生であることを時折忘れてしまう、陽子の幼げな見た目だ。それが、満開の橘の花を思わせる可憐な笑みを浮かべ、自分に笑いかけている。そう認識した途端、箒は心臓が苦しくなった。母性本能がかきむしられるのを自覚する。自然と湧き上がる庇護欲から抱きしめたくなる衝動を、懸命にこらえるのが大変だった。

 

 陽子の笑顔を正面から見続けているのが辛くなり、箒はやおら目線を右へと逸らす。隣に立つセシリアと目が合った。英国からやって来た美貌の少女は、こちらの顔を見るなりにやにやと笑い出した。

 

「わかります。その辛さ、わかりますわ、箒さん。私もたまにTPOをわきまえずに抱きしめたくなる可愛さですもの。ええ。可愛いですわよね、陽子さん。妹みたいで。自制が大変ですわよね」

 

 以前、クラスメイトでセシリアとは同室の如月キサラから、聞かされた話だ。ゴールデンウィークの期間中、陽子がセシリアたちの部屋に泊まったときのこと、彼女はこの小さな有人を抱きしめながら床に就いたという。そのときはセシリアが何を考えてそんな行動にいたったのか理解出来ず、実は同性愛者なんじゃないか、と友達付き合いの距離感の再定義の必要性を感じたものだが、なるほど、いまならば、往時に彼女が感じただろう気持ちも少しはわかる。

 

「……ふむ。陽子、ちょっと、私のことを箒お姉ちゃんと呼ぶ気はないか?」

 

「いや、ねぇよ」

 

 即答だった。笑顔から一転、胡乱なものを見る目つきで箒のことを見上げる。

 

「突然なんだよ。篠ノ之さん、頭沸いてんのかよ。私は智也兄さんの妹だよ!」

 

「ええと、会話の流れから察するに、鬼頭さんのお兄さん、ってことでいいんだよね?」

 

 フランス政府やデュノア社から、鬼頭家が抱える特殊な家庭事情を聞かされていないのか、シャルルがおずおずとした口調で訊ねた。つい先ほどのラウラとの様子を見るに、どうやら陽子にとってかなりセンシティブな話題らしい。これ以上自分が場で話を聞いていても大丈夫なのか? という確認の意味も篭めて、みなの反応をうかがいながら、慎重に言葉を選ぶ。

 

 シャルルからの問いかけに一夏たちは顔を見合わせた。そういえば彼の耳目がある場所で、彼らが鬼頭親子の過去について直接言及したことはなかった。一度だけ、鈴を交えての昼食の席で陽子が、彼女の過去の発言に対しどう思っているかを告げた際に、断片的な情報を口にしたことがあったが、いかに聡明なシャルルといえど、たったあれだけでは概要をつかめまい。

 

 一夏たちは陽子に目配せした。視線の集中を面はゆく感じながら、彼女は小さく頷いた。

 

「ごめんね、デュノア君。私が何に怒っているかとか、意味わかんなかったよね」

 

「まあ、なんとなくこうなんじゃないかな、とは思っているけど。鬼頭さんさえよければ、確認させてもらっても?」

 

「うん。……ええと、まず、智也兄さんっていうのは、私の双子の兄で……」

 

 そこで一旦、陽子は舌先を休めた。兄の現状をそのまま言葉にするのが躊躇われたためだ。

 

 正直なところ、自分とシャルルはさして仲が良いわけではない。仏国の代表候補生にして専用機持ちの彼は、共通項を多く持つセシリアと行動をともにすることが比較的多い。自分は、そのセシリアと一緒にいることが多いために、結果としてシャルルとも同席する機会に恵まれているというだけだ。究極、その程度の付き合いでしかない相手に、肉親の死を

伝えることは憚られた。そのせいで気を遣ってほしくはない。

 

「いまはちょっと、すぐには会えない場所にいるんだ」

 

 陽子は間接的な言い回しを心がけた。勘の良い相手であれば、なんとなく事情を察してくれるだろうし、そうでなくとも、男性操縦者の家族という立場からどこか世間からは隔離された場所に暮らしているんだろう、と勝手に想像力をはたらかせてくれるはず。

 

 陽子がこう言ったことで、智也のことを知っている一夏たちも以降の会話の中で彼をどう扱うべきなのかが定まった。重ねて問いかけるシャルルとのやり取りを、彼らは安堵した表情で見つめる。

 

「鬼頭さんがさっきボーデヴィッヒさんのことをあんなにも怒ったのは、そのお兄さんと、ムッシュ・トモユキを侮辱された、って感じたからなんだよね?」

 

「うっく。うん。まあ、そうだね」

 

 首肯を、少しの間、躊躇ってしまった。これに頷いてしまうと、自分がファザコンか、ブラコンであるのを認めてしまうような気がしたためだ。

 

「認めるもなにも、陽子さんは疑いようのない、ファザコンで、ブラコンだと思うのですが」

 

「うっさいセシリア。黙れ。あと心を読むなっ」

 

「おお、恐い」

 

 この学園で出会ったライバルを睨みつけると、彼女は諧謔混じりに笑いながら自らを抱きしめ、身震いしてみせた。その態度の裏側にひそむ気遣いの気配に、陽子は口の中で感謝の言葉を呟く。そうだ。兄に関する話題は、それくらいに扱ってくれた方が、シャルルのいるいまこの場ではありがたい。

 

「……鬼頭さんは、二人のことが大好きなんだね」

 

 陽子の返答に何か感じ入るものがあったか、シャルルがしみじみと呟いた。自分を見つめる紫水晶の瞳に、感情の複雑な揺らぎが見て取れる。目つきそのものは穏やかなのに、不思議と不穏な気配を感じてしまうのは、やはり、このファザコン娘め、などと思われているからだろうか。気恥ずかしさから頬を紅潮させるも、否定する理由が見当たらず、陽子は不承不承、小さく頷いた。

 

「むっ、ぐ……。そのう、はい。そう、ですね」

 

「羨ましいなぁ」

 

 その言葉の矛先は、彼女からそんなにも想われている二人に対してなのか。それとも……。眉をひそめるセシリアの隣で、シャルルの言に違和感を覚えぬ陽子は、変わらぬ口調で言った。

 

「だからこそ、許せなかったわけですよ。ええ。わたしたち家族のことをろくに知らないボーデヴィッヒさんに、あの二人を……父さんと、兄さんの生き方を、馬鹿にされた感じがして。ええ、ええ。許せなかったんだよね」

 

 特に、智也に対する発言。あれは、許せなかった。自らの非才さをわきまえていたから、鬼頭のもとに戻らなかった? ふざけるな! 本当は、戻りたかった。兄だって、また父と一緒に暮らせる日のことを夢見ていた。

 

 けれど、叶わなかった。義父と、母と、自分たちによる、四人の生活。当時十歳に満たぬ自分たちには、この牢獄を壊す術も、抜け出す術もなかった。力も、知識も、何もかもが不足していた。

 

 だから、兄は耐え続けた。双子とはいえ、自分は兄である。その一事のみを理由に、父との別れ際に誓った、妹のことは僕が守る、という幼い約束。それを果たすべく、義父からの暴力そのすべてを、小さな身体で受け止め続けた。

 

 そして、ある日、とうとう耐えられなくなった。義父はいつも自分たちにそうするように、いつもの力加減で、日常的に振われる暴力によって消耗しきった彼の背中を突き飛ばした。場所は階段の踊り場だった。兄の身体は宙を舞い、そして、ごろごろと階段の段差に身を打ちつけながら転がり落ちていった。

 

 自分がいま、こうしてここにいられるのは、兄の献身があったからだ。その兄の誇り高い生き方を、ラウラの発言は汚した。彼女の言及は的外れという以上に、往時の兄が抱いていたはずの気持ちを、踏みにじっている。願ったけど、叶わなかった。恋い焦がれたけど、手に入れることが出来なかった。本当は生きたかった。本当は、父と一緒に暮らしたかった。かつて小さな少年が胸に抱いていた想いを。自分のために文字通りすべてを投げ打ってくれた双子の、大切な兄を、馬鹿にしている。そのことが、許せなかった。

 

「わたしのことを悪く言うのは、いいんだよ。いや、正直むかっ腹は立つけれど。でも、智也兄さんのことだけは、駄目だ。父さんもだけど、兄さんのことを馬鹿にすることだけは、どうあっても許せない」

 

 二次性徴の入り口の時期における栄養の不足から、体つきだけでなく、顔つきもまた幼げな娘だ。しかし、強い憤りを口にするその顔には、成熟した意志の力が感じられた。決して揺るがぬ、強い意志の力が。

 

「……あの女、わたしのことを、獲物だって言っていたよね」

 

 鬼頭智之の娘として、相応しくない、とも。上等だ。そっちがその気なら、こっちもその気になってやるよ。陽子は好戦的に吐き捨てた。

 

「売られた喧嘩だ。買ってやるよ」

 

 一同たまらず、ごく、と喉を鳴らした。

 

 小さな陽子が口にした、凄絶なる覇気が篭もった呟きに、ぞくり、としたものを感じ、一夏たちは思わず胴震いした。

 

 

 

「そ、それにしても、ボーデヴィッヒはなぜ一夏や陽子のことを獲物だなどと言ったのだろうか?」

 

 クラスメイトの口から飛び出した剣呑な言葉に絶句すること数秒間、剣道で鍛えた精神力の発露か、いち早く我を取り戻した箒が言った。茫然とするみなの顔を見回すと、彼らもまた一人、また一人と、瞳に理知の輝きを取り戻していく。

 

「思えば一夏に対しては、転校初日からきつい態度だったが」

 

「いや、ありゃあ、きついってそういうレベルの話じゃないだろ」

 

 会って早々、平手打ちだぞ、平手打ち。当時のことを思い出し、しぶい顔の一夏が呟く。それから不本意そうに唇をとがらせて言った。

 

「まあ、俺への態度がアレな理由については、なんとなく、これじゃないか、っていうのはあるんだけどな」

 

「なに?」

 

 驚きから瞠目する箒。陽子たちもまた、一夏のことを見る。

 

「どういうことだ? まさか、転校してくる以前から、面識があったのか?」

 

「いや。けど、ラウラの方は、転校以前から俺のことを知っていただろうな」

 

「それはそうだろう」

 

 箒の呟きに、陽子たちも頷いた。

 

「いまの一夏は、世界で最も有名な男なのだから」

 

「ああ、いや、そういう意味じゃなくってさ」

 

 一夏はかぶりを振った。どう言葉を駆使すれば自分の考えを誤解なくこの幼馴染みに伝えられるか、懸命に頭をはたらかせながら言う。

 

「たぶんだけど、ラウラは、俺がISを動かせるってことが世間に知られる前から、俺のことを知っていて、俺のことを恨んでいたと思うんだ。で、その理由について、これもたぶんだけどな、心当たりがある」

 

「織斑君、その、理由って?」

 

「……これはさ、ここにいるみんなだけの、オフレコにしてほしいんだけど」

 

 一夏は渋面のまま言った。

 

「三年前の『第二回モンド・グロッソ』決勝戦の勝敗がどうなったのかは、みんな知っているか?」

 

「当然ですわ」

 

 セシリアが頷いた。

 

「ISに関わる者で、あの決勝戦のことを知らない人はいません」

 

 第二回IS世界大会『モンド・グロッソ』決勝戦。イタリア代表のアリーシャ・ジョセスターフ対、日本代表織斑千冬の戦いは、当時誰もが予想しない形での決着を迎えた。すなわち、千冬の欠場によるアリーシャの不戦勝。この結末に世界は驚き、動揺し、そして荒れた。

 

「日本政府から箝口令を敷かれていて、詳しくは言えないんだが、あの欠場の裏ではちょっとしたゴタゴタがあって、それに俺と、ドイツ軍が関わっていたんだよ」

 

 一夏にとって好んで思い出したくはない記憶だ。同時に、忘れがたい思い出でもある。

 

 あの決勝戦の日、姉の勇姿を観戦するため会場が設置されたドイツ・ミュンヘンに訪れていた自分は、誘拐された。相手の正体はいまもって不明だ。ただ、複数人の手による犯行ということだけが判っており、そのことから何らかの組織が関わっていたと思われる。

 

 被害者の自分がいま振り返っても、奇妙な事件だった。なにせ、加害者の正体どころか、いまだに誘拐の目的さえ、三年が経過したいまだに不明なままなのだ。気がつくと自分は拘束された状態で真っ暗な場所に閉じ込められていた。時計のない状況で実際にどれくらいの時間が経過していたのかはわからないが、しばらくすると、突然、自分のいる部屋が衝撃で揺れた。壁が崩れ出し、穿たれた穴から光が差し込み、暗闇に馴れていた目を強い刺激が襲った。穴はどんどんと拡大していったが、しばらくの間、向こう側で重作業に従じている誰かの顔は見えなかった。

 

 やがて視界がはっきりし始め、現われたのはISを纏った千冬だと気づいた。決勝会場で自分の誘拐の報を聞かされ、文字通り飛んで来てくれたのだ。決勝戦が始まる、数分前のことだったという。

 

 かくして、決勝戦は千冬の不戦敗となった。誰しもが彼女の優勝を確信していたために、決勝戦棄権による敗北は当時大きな騒動を生んだ。各国のマスメディアがあることないこと書き立てて千冬をバッシングし、それを読んだ、あるいは見た大衆がまた声を荒げた。日本政府はしばらくの間、その対応に苦慮することとなった。

 

 一夏の誘拐事件については、先述の通り箝口令が敷かれた。千冬が棄権した理由は世間には一切公表されず、彼女の戦績に、謎めいた不戦敗記録が刻まれることとなった。

 

 さて、この一件にドイツ軍がどう関わっていたかというと、千冬に自分の誘拐の事実を知らせたのが、彼らだったという。なんでも、独自の情報網から監禁場所に関する情報を入手した軍の関係者が、これは一大事と姉にも事件のことを告げたのだそうな。その情報のおかげで弟を助けることが出来たとして、千冬はドイツ軍に感謝の意思を示した。情報提供のお礼に一年ほど、ドイツ空軍IS部隊で教官をすることにしたのだ。

 

「そのときに出来た縁がきっかけで、千冬姉はしばらくの間、ドイツ軍で教官の仕事をしていたらしいんだ」

 

 日本政府からの箝口令と聞いて緊張から顔を硬化させているクラスメイトたちに、一夏は誘拐事件のことは伏せた上で、千冬がドイツで教鞭を振っていた事実だけを告げた。

 

「転校初日の日、ラウラは千冬姉のことを教官と呼んでいた。たぶん、そのときの教え子の一人なんだろう」

 

「ずいぶんと慕っているよね、織斑先生のこと」

 

 自身も選手としての千冬のファンであり、当時は不戦敗の事実に納得がいかずショックを受けた陽子が言った。一夏は頷きながら、言う。

 

「あのゴタゴタさえなければ、千冬姉はきっと、大会二連覇を果たしていたと思うんだよ。たぶん、ラウラはそのことで俺を恨んでいるんだと思う」

 

 師弟関係という以上に、千冬の強さに惚れ込んでいるように見えた。そんな彼女にとって、大好きな教官の戦歴に泥を引っかけた自分の存在は、さぞや憎かろう。

 

「ゴタゴタの原因の一つになった、俺の存在さえなければ、千冬姉の経歴に傷がつくことはなかったはずだ、とか、考えているんだと思う」

 

「……その仮説が正しいとしたら、完全な逆恨みだね、それ」

 

 陽子が呆れた様子で溜め息をついた。

 

「っていうか、そも、そのゴタゴタがなければ、織斑先生がドイツで教鞭を執ることはなかったわけでしょ? つまり、ボーデヴィッヒさんと出会うこともなかったわけで」

 

「一夏の存在は、千冬さんと出会うきっかけをくれた、恩人でもあるわけだが」

 

「ううん。そのへんをどう思っているかは、わからないなぁ」

 

 あるいは何も考えていないのかもしれない。現役軍人で、しかも幾人もの部下を持つ佐官だという話だが、客観的にいって、人間関係における視野は狭いように思う。自分への恨みが高じるあまり、別の側面もある、ということに気づけていないのかもしれない。

 

「一夏を恨んでいる理由は、なんとなくわかったけど、」

 

 むぅ、と眉根を寄せながら、シャルルが言った。

 

「鬼頭さんのことは、なんであんなにこだわっているんだろう?」

 

「それについてなのですが……」

 

 シャルルが呈示した疑問に、セシリアが持論を述べる。

 

「あくまで私の主観なのですが、私には、陽子さんにこだわっているというより、お父様にこだわっているように感じられました」

 

「智之さんに?」

 

 一夏が聞き返すと、セシリアは頷いた。

 

「最近、お父様はラウラさんや、上級生の方々と一緒に行動することが多いです。そのときに、お父様に何か思うところがあったのでは?」

 

「たしかにな」

 

 セシリアの言葉に、箒も同意を示した。

 

「ボーデヴィッヒは陽子のことを、鬼頭さんの娘には相応しくない、と言っていた。鬼頭陽子という個人に対して執着というよりは、鬼頭さんの娘だから、陽子にも関わってきた、というように感じる」

 

「……いや、何でよ?」

 

 陽子が怪訝な表情で呟いた。

 

「なんで、ボーデヴィッヒさんはそんな、父さんにこだわるのよ」

 

「……ドイツ政府、あるいは軍から、鬼頭さんのことを自分たちの国に引き込むよう命令を受けているからではないか?」

 

「そうだとしたら、むしろ陽子さんには親しげに接するのではなくて? 男性操縦者を自国に引き入れたいのに、その娘から嫌われるような態度をとるのは、むしろ逆効果でしょう。娘に引きずられる形で、父親の方からも嫌悪感を抱かれてしまいます。箒さんの言うようにドイツ政府などからの指示だとすれば、ラウラさんの態度は矛盾しています」

 

「……まさかとは思うけどよ、あれがラウラ流のフレンドリーな態度だって可能性は、」

 

「いや、さすがにないだろう」

 

「ええ。ありえませんわね」

 

「だよなあ」

 

「……えっと、もしかしてなんだけど、さ」

 

 表情筋の強張りも険しいシャルルが呟いた。その場にいる全員の注目が、彼に集まる。

 

「ボーデヴィッヒさんがいちばんこだわっていることって、」

 

 考える。アリーナでのラウラの発言について、ひたすら考える。

 

 あのとき、あの場所で、彼女は何と言った?

 

 無能ゆえに、陽子は鬼頭の娘に相応しくない、と彼女は言った。

 

 陽子と智也のことを、無能と断じた。

 

 有能な鬼頭のそばに、無能な家族の存在は不要。だから彼が自らの意思で切り捨てたのだ、と持論を述べた。

 

 これらの発言内容から読み取れる、無能という言葉への異様なこだわり。その対極に位置していると彼女が考える、鬼頭や、千冬へのこだわり。ここから、言葉の裏に隠された、彼女の本当の気持ちを推察する。ラウラ・ボーデヴィッヒという人間が、本当にこだわっていることは何なのかを考える。はたして、シャルルが下した結論は、

 

「ボーデヴィッヒさん自身が、有能であることを示すことなんじゃないかな?」

 

「それは……」

 

 一夏たちは顔を見合わせた。たしかに、アリーナでのラウラは有能か、無能かということに執着していた。無能な人間に価値はなく、有能な人間の目の前にのみ、栄光へと続く道が拓かれている。そういう価値観への信仰心の存在が見て取れた。

 

 そんなラウラにとって、自分が有能か否かということは、人生の何にも勝る重要事だろう。シャルルの推理からは、強い説得力が感じられた。

 

 しかし、そうだとすればまた新たな疑問が生じる。

 

 有能であることを示す。

 

 これは、手段だ。いったい誰に? そして、何のために?

 

 自らの内側に生じた疑念を口ずさもうとした寸前、一夏は、はたと気がついた。疑問に対する回答は、他ならぬラウラ自身の口からすでに述べられていたことを思い出した。

 

「……わたしに対して、父さんから愛される資格はない、って言っていたよね。あいつ」

 

 同じことに気がついたらしい陽子が、茫然とした様子で呟いた。

 

 ラウラの考え方では、誰かから愛を寄せられるには資格が必要で、それは有能であることが条件なのだろう。とすれば、彼女の目的は。自分や陽子のことを獲物だと言っていた、彼女の願いは――、

 

「千冬姉や、智之さんから愛されたい、ってことか? そのために、俺や陽子さんをISバトルで倒して、自分の有能さを、証明しようとしている?」

 

「うわぁ、ありえそう」

 

 一夏の呟きに、陽子はうんざりした様子で反応した。他のみなも、口にこそしないが同じ感想を抱いたらしい。渋い表情で頷き、同感の意を示している。

 

 ともすれば陽子よりも幼げに見えるラウラの容姿を思い出す。いま論じているのは、これまでの言動から想像力をふくらませた末の推論にすぎないが、子どものような彼女がそんな考えを腹中に抱えているという想像は不思議と違和感に乏しく、自然と受け入れてしまえた。

 

 そのとき、一夏の右手に巻かれたガントレットが、ピピピ、と電子音を鳴らした。待機状態のISに、どこからか電子メッセージが届いたことを知らせる着信音だ。

 

 その場にいるみなにことわりを入れ、一夏は左手の人差し指でガントレットを軽く叩いた。胸の前で水平に横たえた腕の上で、八インチ・サイズの小ぶりな空間投影式ディスプレイが展開される。『白式』の各種情報が格納されたステータス画面を表示し、たくさんある項目の中から、一つのアプリケーションを実行するよう指示した。届いたメッセージ・ファイルをテキストデータ化して閲覧可能にするアプリだ。いちばん最新のファイルを読み込む。

 

 メッセージの送り主はIS学園の職員室だった。『白式』の専用機登録に必要な書類が追加で発生したため、書きに来てほしい、というお呼び出し。みなにそれを伝えると、「じゃあ、今日はこれで解散しようか」と、陽子が提案した。

 

「アリーナの閉館時間も迫ってきたし」

 

「そうだね」

 

 陽子の言葉にシャルルが頷いた。

 

「鬼頭さんと篠ノ之さんは訓練機を整備班に引き渡した後だし、僕とオルコットさんだけアリーナに戻っても、いまからじゃ大したデータも採れそうにないし」

 

 のみならず、あんなことがあった直後だ。いまアリーナに戻っても、みんなから奇異の目を向けられるばかりで、訓練には集中出来まい。

 

「そっか。じゃあシャルル、ちょっと長くなるかもしれないから、部屋に戻ったら、先にシャワーを使っててくれ」

 

 同じ男性操縦者ということで、現在シャルルとは同室の一夏が言った。男子生徒は寮の大浴場が使えないため、自室に備え付けのシャワールームで汗を流すのが決まりとなっている。普段は一夏が先に浴び、次にシャルルが、という順番が二人の間ではルールとなっていた。

 

 職員室で待ち受ける書類の量がどれほどかは判らないが、今日もいつも通りの順番を厳守すると、二人ともシャワーを浴びる時間が遅くなってしまいかねない。下手をすると、寮の夕食時に間に合わない恐れがある。

 

 一夏も、シャルルも、育ち盛りの男子高校生だ。それだけは避けたかった。

 

「うん。わかった」

 

「じゃ、先に行っているぜ」

 

 シャルルが頷いたのを見て、一夏は早速男子更衣室へと向かった。ロッカーからスポーツタオルを引っ張り出して軽く汗を拭うと、ISスーツの上に制服を着込む。

 

 素早く身支度を整えると、一夏は真っ直ぐ職員室を目指した。

 

 

 

 

 

 

 IS学園、一年生学生寮。

 

 ピットルームで一夏らと別れた後、自室へと向かう陽子の足取りは重たげだった。

 

 隣を並んで付き添い歩くセシリアも、憂いを帯びた横顔を心配そうに見つめている。

 

「織斑君たちの前では言えなかったけどさ」

 

 セシリアは鬼頭家の過去の悲劇をかなりのところまで知っている。彼女と二人きりのいまだからこそ、あの場では言えない言葉も口に出来る。

 

「ボーデヴィッヒさんの、わたしの存在が父さんを不幸にしている、って指摘は、結構、くるものがあったんだよね。なんせ、わたしがいつも考えていることでもあったからさ」

 

 自分の存在は、父の重荷になっているのではないか。三年前のあの日、伊賀上野で父と再会したあのときから、ずっと抱えてきた不安だ。

 

 父と一緒に暮らせるようになったこと、それ自体は嬉しい。彼と過ごす毎日に、幸せを感じている。それもまた、嘘偽りのない素直な気持ちだ。

 

 その一方で、陽子はずっと、鬼頭に対し後ろめたさを感じてもいた。自分との生活を守るために、彼がどんどんと苦労をしょい込んでいることに気がついたためだ。

 

 母との裁判。男性恐怖症に陥った娘への精神的ケア。法廷闘争に向けての準備や、なかなか予約の取れないカウンセリングために、会社に頭を下げて平日に休みを取ったことは一度や二度ではない。それと並行して、娘に金銭面での苦労はかけられぬと、どんな仕事でもとるようにした。家族との時間を確保するため、残業を避けつつ、それでいて人事からの評価を上げる。そのために、ありとあらゆる仕事を受け付けた。結果、会社からの評価とともに給与待遇も上がりはしたが、災害救助用パワードスーツの開発という夢の実現からは遠ざかってしまった。

 

 自分さえいなければ、父はもっと気楽に生きることが出来たのではないか。自分の夢だけを目指して、邁進する日々を送れたのではないか。自分の存在さえなければ、今頃世界に、父の作ったパワードスーツが普及していた未来もあったのではないか。世界中の人たちから讃えられ、感謝される父の姿があったのではないか。

 

「ボーデヴィッヒさんから、私の存在は父さんの邪魔だ、って言われたとき、ああ、他人からもそう見えるんだ。わたしの勘違いとかじゃないんだ、って思っちゃったんだよねえ。うん。それが、こう、心臓にぶっ刺さった感じで、忘れられない、っていうのか。頭の中を、ボーデヴィッヒさんの言葉がぐるぐる回っていて、さ。その、上手く言葉に出来ないんだけど」

 

「はい」

 

「恐いんだよね。いま、父さんに会うの」

 

 あの優しい父のことだ。自分が平素からそんなことを考えているなんて知れば、きっとまた、己がなんとかしなければ、と自らのことを追いつめてしまうだろう。

 

 これ以上、彼の苦労の原因になりたくなくて、普段は懸命に、表に出ないようこらえている、この気持ち。けれどいまの不安定な精神状態では、ちょっとしたきっかけで、それが顔に出てしまったり、口から飛び出してしまったりしそうで、それが恐い。父に、この気持ちを知られてしまうのが、恐い。

 

「今日は、このままわたくしの部屋に泊まりますか?」

 

「ううん」

 

 青い顔の陽子だったが、それでも、魅力的な提案に対しかぶりを振った。

 

「ここで父さんから逃げたら、きっと、もっと辛い思いをすることになるから。このまま帰るよ」

 

 貴様は、ヘア・キトーの娘に相応しくない。

 

 耳の奥で何度も響くその声に頭を悩ませながら、やがて二人は1122号室の前に立った。スカートのポケットから部屋の鍵を取り出し、錠穴に差し込む。ひねってから、ドアノブに手をかけ押し込んだ。ガチ、という抵抗の音。鍵はすでに開いていた。どうやら父はもう帰ってきているらしい。

 

 ドアノブから手を離し、陽子は学生鞄からコンパクトを取り出した。蓋を開き、中のミラーで自分の顔を確認する。

 

 ――うっわぁ、すっごい不細工な女。

 

 まったく酷い顔色、そして顔つきだった。とはいえ、訓練でちょっとはしゃぎすぎたため、と言い訳できそうな範疇にも見える。強気に振る舞うことで、単に疲れているだけだと押し切れるように思われた。

 

 陽子はもう一度鍵穴に差し込んだままのキイに手を伸ばすと、今度は反対方向に半回転させた。セシリアからの視線を鬱陶しく思いつつ、腹をくくってドアを押す。密閉性に優れる重いドアがゆっくりと開き、途端、鼻腔を、懐かしい匂いが通り抜けた。脳の扉をノックして、故郷での思い出を揺さぶり起こす。自然、その足はふらふらと部屋の奥へと誘われた。

 

 これは。この、スパイシーな匂いは、

 

「……『風来坊』?」

 

「うん? ああ、お帰り」

 

 陽子の帰宅に気がついた鬼頭が、システムキッチンのある部屋からひょっこりと顔を覗かせた。両手に、大きな丸皿を握っている。香ばしい匂いの源が、こんもり積み上げられて茶色い小山を作っているのが見えた。手羽先唐揚げだ。いわゆる名古屋めしと呼ばれる料理の中でも、代表的なものの一つ。東海地方の人間にとって手羽先といえば、一般には具材ではなくこの唐揚げ料理のことを指す。

 

 『元祖手羽先唐揚風来坊』は、愛知県名古屋市を中心に店舗を展開している飲食店チェーンだ。その看板が示す通り、手羽先唐揚げ発祥の店として知られる。もともと、この店の看板料理はターザン焼きといって、若鶏の半身をそのまま揚げ、秘伝のタレをつける別の料理だった。ところが、ある日発注ミスによって丸鶏の在庫を切らしてしまい、ターザン焼きが提供出来なくなってしまった。仕方なく、スープの出汁とり用に大量に仕入れていた手羽先を揚げ、ターザン焼きの秘伝のタレをつけて客に出したところ、これが大好評を得た。今日、名古屋の手羽先と聞いて誰もが思い浮かべる甘辛い唐揚が誕生した瞬間だ。店の看板料理の座が、ターザン焼きから手羽先唐揚へ禅譲されるのに長い時間はかからなかった。

 

 陽子は『風来坊』の手羽先のファンだ。

 

 学習机に目線をやると、グラスと、未開封の缶ビールが準備されている。なるほど、夕食の前に一杯楽しむつもりところだったか。取り皿が二枚あるのは、おそらく、

 

「ちょうどいいところに帰ってきたな」

 

 鬼頭はにこにこと嬉しそうに笑いながら机に丸皿を置いた。陽子は父と皿の上の手羽先とを交互に見て訊ねる。

 

「父さん、それ、どうしたの?」

 

「堂島先生からのお土産さ。娘さんと二人で、久しぶりに故郷の味を楽しんでください、と、おっしゃってくれてな」

 

 手羽先唐揚げは鬼頭の好物でもある。ありがたいことだ、と呟くと、彼は茫然と立ち尽くしている愛娘を手招きした。

 

「いま温めたところなんだ。夕食に差し支えない程度に、な。一緒に食べよう」

 

「一緒に」

 

「ああ。一緒に。……どうした、陽子? 突然そんな、にやにやしだして」

 

 突然にやけ面になった陽子を見て、鬼頭は訝しげに訊ねた。遅れて入室してきたセシリアも、彼女のかたわらまでやって来ると、不思議そうに横顔を見つめる。

 

 陽子は嬉しそうにはにかむと、小さくかぶりを振った。

 

「や、大したことじゃないんだけどさ、いまの、一緒に、っていうのが、ちょうどタイムリーに、わたしの疲れた心にぶっ刺さりまして」

 

「う、ううん?」

 

「要するに、わたしってば、父さんから愛されているなあ、って実感したわけですよ。そしたら、さっきまで頭の悩ませていたことなんかが、急に、どうでもよくなったっていうか。この程度のことに頭を悩ませるとか、時間の無駄だったな。馬鹿馬鹿しいことだったな、って、思えるようになったっていうか……」

 

「……ううん、よく分からないが」

 

 鬼頭は正面から陽子の顔を見据えた。

 

「父さんは、いつだってお前のことを愛しているよ」

 

「うん。知ってる」

 

 陽子はその事実を噛みしめるように、ゆっくりと頷いた。

 

 耳の奥でまた、アリーナでラウラから突きつけられた言葉の刃が蘇る。

 

 貴様は、ヘア・キトーの娘に相応しくない。

 

 貴様の愛は、ヘア・キトーには不要だ。

 

 しかし、いまやその言葉が陽子に痛痒を与えることはない。

 

 自分は父のことを愛してよいのか。自分の存在は、父にとって重荷になっているのではないか。そんな不安がこみ上げてくることも、ない。

 

「わたしも同じだよ、お父さん」

 

 一緒に食べよう。

 

 そう言われて、安堵した。

 

 父は、自分のことを愛してくれている。

 

 自分もまた、父のことを愛してもよいのだ。

 

 その理を、一瞬のうちに理解出来た。

 

 父が口ずさんだ、短くて、でも暖かな言葉が、教えてくれた。

 

「わたしも、父さんのことが大好きだよ」

 

 陽子の言葉に、鬼頭はこれまた嬉しそうにはにかんだ。

 

 

 

 

 

「ところでお父さん、夕食前に軽く一杯ということですが、その机の上に見えるのは、」

 

「うん。ビールだな。やはり、『風来坊』の甘い手羽先にはこういう、苦くて、炭酸入りの、のどごしの良いアルコールが……」

 

「焼酎の炭酸割に変えましょう」

 

「なにゆえ!?」

 

「糖質量の問題かな。父さんには長生きしてほしいと思う娘の愛を理解してください」

 

「ちっきしょうめえ!」

 

「娘を畜生呼びとはなんたる毒親か。こうなったらなんとしても、糖質ゼロなお酒に変えなければ!」

 

 IS学園の学生寮に、中年男の悲痛な声がこだました。

 

 

 

 

「はー、終わった終わった」

 

 同じ頃、職員室での用を済ませた一夏は、自室の一○二五号室を目指して学生寮の廊下を足早に歩いていた。

 

 職員室で待ち受けていた書類は、量こそ多かったが、基本的には名前を書くだけのものばかりで、思いのほか早く終えることが出来た。第三アリーナのピットルームで陽子たちと別れてから三十分と経っておらず、この分なら、急いで帰ってシャワーを浴びても、夕食の時間に十分間に合うことだろう。自然、忙しない足取りの一夏は、あっという間に自室へと到着した。ドアのロックをはずして、押し開ける。「ただいま」の声がけとともに室内を見回して、シャルルの姿がないことに気がついた。

 

 ――ええと、シャルルは……シャワー中か。

 

 シャワー室より響く静かな水音から、状況を把握する。と同時に、昨日シャワーを浴びた際に、シャルルがボディーソープを使い切ったことを思い出した。

 

 ――しまったなあ。

 

 シャルルと一緒に暮らすようになってまだ一週間足らずだ。消耗品の保管場所など、共有しきれていない情報も多い。

 

 ボディーソープの詰め替えパックの保管場所はそのうち一つだ。案の定、クローゼットを開けて詰め替えパックの数を数えると、自分が最後に見たときから一個も減っていなかった。ということは、いまシャワールーム内にあるボトルの中身は、空のまま。

 

 今日も自分が先に使うつもりで、シャワーを浴びるついでに補充すればよいと考えていたのをすっかり忘れていた。

 

 ――悪いことしたな。届けてやらないと。

 

 きっとシャルルも困っているだろう。

 

 一夏は詰め替えパックを一つ手に取った。学生寮のシャワールームは、洗面台が置かれた脱衣所とドアで区切られている。とりあえず脱衣所まで行って、そこで声をかけよう。

 

 脱衣所に足を踏み入れると、ドアにはめ込まれた磨りガラスの向こう側に、人影の姿を認めた。シャルルだ。ボディーソープがないことに気がついたのだろう。

 

 ナイス・タイミングでの帰宅だったんだな。ガチャリ、とドアノブが回転をするのを見て、一夏は微笑み、朗らかに口を開いた。

 

「ああ、ちょうどよかった。これ、替えの――」

 

「い、い、いち……か……?」

 

「――ぼでぃ、い、い、い……そ……う、うぇえ!?」

 

 思わず、口から変な声が飛び出した。

 

 まったくの不意打だった。何の気構えも練っていなかったところを、いきなり襲われた形だ。

 

 ドアを開けて現われたのは、白い肢体だった。ぬるま湯に濡れたブロンドの髪。すらりと長い手脚。男の情欲を刺激する、扇情的な角度にくびれた細い腰つき。だが、何にも増して目線を惹きつけるのは、たわわに実った双子の乳房だ。お椀をかぶせたかのようにまあるく形が整っている。その頭頂ではこれまた魅力的な見た目の蕾がしとやかに咲いており、真っ向見つめることとなった一夏は、自然、下腹部より湧き出でる熱の存在を自覚した。

 

「え、いや、あの……、なんで、俺の部屋に……え? 裸の、女子が……!?」

 

 思考が上手くまとまらない。現実感に乏しい光景に頭を打ちのめされ、混乱しているのがわかる。

 

 それでも、インパクトから免れた生き残りの神経細胞たちを総動員して、懸命に、論理的思考をはたらかせた。

 

 いま目の前にいるのは、裸の女子。そう、裸の女子だ。このまま彼女の身体を見つめ続けているのは、非常に不味いことだ。彼女の心身を傷つける行為だし、自分もこの女尊男卑時代に性犯罪者と訴えられてしまう。視線を逸らせ。顔をそむけろ。一夏は慌てて目線を胸から下の方へと向け、そのために、今度は彼女の股間を覗き込んでしまった。生まれて初めて見る女の部分。一瞬だけ、見惚れてしまった。

 

 馬鹿かよ、俺は! 胸の内で自らを罵り、一夏は、ぎゅっ、と目をつむった。身体ごとを後ろに振り向く。背中を向けたまま、肩甲骨を可能な限り裏返して、詰め替えパックを持った手を背後へと伸ばした。

 

「こ、これ、ボディーソープの詰め替え! たしか、切れていたよな」

 

「え、あ、う、うん」

 

 混乱しているのは、彼女もまた同じらしい。生返事とともに頷き、詰め替えパックを受け取る。

 

 手の中から重みが消えた後も、一夏はしばらくの間、腕を伸ばし続けていた。

 

「え、ええっと、その……じゃ、じゃあ、身体、洗ってくる、ね?」

 

「お、おう。その、ごゆっくり」

 

 ガチャン、とドアの閉まる音。一夏はようやく腕を下ろし、深々と、溜め息をついた。ちら、とドアを見る。もたれかかっているのか、磨りガラス越しに、男のものとは思いがたい華奢なシルエットが映じていた。

 

「……シャルル、だよな。いまの」

 

 あのブロンドの髪色には、見覚えがあった。普段は縛っている髪をほどいていたため、毛先の位置が肩甲骨くらいまで下がっていたが、間違いなく、フランスからやって来た第三の男と同じ髪色だった。気が動転していて、顔の造作はよく見ていなかったが、おぼろに、よく似ていたように思う。

 

 ――いや、でも、だったら、何で、胸が。それに、股の間の、あれも!

 

 シャワールームからの水音が再開された。

 

 それを合図に、一夏は脱衣所を後にした。

 

 居間と寝室を兼任する生活空間に戻ってくると、自身のベッドに腰かける。腕を組み、特に何をするでもなく、ただそわそわと落ち着かない様子でベッドの上に転がる置き時計をしきりに確認しながら、時間が過ぎるのを待った。

 

 やがて水音が消え、一、二分ほどのインターバルを挟んだ後、今度は控えめな開閉音が脱衣所の方から聞こえてきた。それからさらに十分の後、「あ、上がったよ」と、IS学園制定のスポーツジャージを着たシャルルがやって来た。

 

 ベッドに腰かけたまま、一夏は彼の頭の先から、足のつま先までをしげしげと眺めた。シャルルの胸元はふくらんでいた。見知った顔の、見知らぬ少女がそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter40「愛されるということ」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三年と二十日と少し――、いや、事件が起こる、二十日前。

 

 

 

 ミュンヘン滞在中のハンス・ブルックハルト上級巡査のもとに、ザンクト・アウグスティンのオスカー・ボーゼ警察監督官から急報がもたらされたのは、第二回IS世界大会の開催を十日後に控えた日の夕方のことだった。『モンド・グロッソ』の期間中の備えのために、現地での活動拠点の一つとして借りているアパートで休んでいたところ、携帯電話を鳴らされた。GSG-9の隊員に配られている特別なスマートフォンで、頑丈なだけでなく、盗聴防止用の特殊な回線につなげて通話をすることが出来る。

 

『我々の敵の正体が判明した』

 

 電話に出ると、オスカー監督官は開口一番そう言った。スマートフォンを耳元で保持する右手に、自然、力が篭もる。鷲鼻のハンスは顔を強張らせ、「ちょっと待ってください」と、応じた。保留ボタンをタップすると、同居人たちに声をかける。

 

 オスカーの命を受けて編制されたスペシャル・ユニットは総勢二十名。彼らは五人ずつのグループに分かれて、市内の四箇所に点在するアパートに暮らしていた。ハンスは、「監督官から電話だ」と、言って、めいめいに休息を楽しむ四人をリビングに集めた。保留ボタンをもう一度押して応答する。

 

「お待たせしました。いま、全員を集めました。スピーカー・モードにしても?」

 

『うん。構わない。きみが情報共有に必要だと思うなら、そうしてくれ』

 

 ハンスはスマートフォンの通話モードをスピーカー・モードへと切り替えた。室内での密談のため、アパートは防音がしっかりした部屋を選んでいる。

 

 ハンスはスピーカー・モードに切り替えたスマートフォンをテーブルの上に置いた。全員でそれを囲む。

 

「切り替えました」

 

『うん。では状況を説明する。またしても情報部隊のお手柄だ。例のエットレ・ラッビアについて、正体が判明した』

 

 ハンスたちはアメリア・クンツェ監督官の娘と姿を消した自称イタリア人の顔を思い浮かべた。

 

『連邦警察のデータベースに記録のある人物ではないかと検索をかけたところ、顔認証システムで九三パーセントも顔の特徴が一致している人物がヒットした。二年ほど前、アルバニアで警察官を三人も殺害して逃亡中の国際指名手配犯だ。そのときはアメリカ人のマイケル・ローリングスを名乗っていたそうだが、まあ、それは大したことじゃない。問題は、彼が所属する組織の方だ。当時のアルバニア警察は、マイケルを捕まえることこそ出来なかったが、その正体についてかなりのところまで迫っていた』

 

「組織の名前は?」

 

『亡国機業(ファントム・タスク)』

 

 ハンスは反射的に携帯電話から顔を上げた。思いも寄らぬビッグ・ネームの登場に、全員が表情を険しくしている。

 

 ファントム・タスク。

 

 それは、国際刑事警察機構(インターポール)が、第一級の犯罪者集団として登録している、国際的な犯罪組織の名前だった。

 

 組織について、わかっていることは少ない。ハンスたちGSG-9は勿論のこと、世界中の捜査機関がその壊滅を願って行動し、必死の努力を積み重ねているにも拘わらず、いまだ全貌を知ることが出来ずにいるのだ。

 

 四年前、アメリカのCIAがかなりの人員を投入して、彼らの活動拠点と思われる国内八箇所を同時に強襲したことがあった。SWATチームを動員した大捕物だったが、逮捕出来たのは僅か六人。それも、全員が末端の構成員という有り様だった。それでも、厳しい尋問の末、なんとか口を割らせた結果、判明したことは以下の通り。

 

 その誕生は第二次世界大戦中にまで遡ること。豊富な活動資金のもと、数万人規模の人員を擁していること。世界中に活動拠点を持っており、その上で数百人を一度に輸送可能な移動手段を複数持っていること。窃盗や殺人、詐欺や放火など、あらゆる種類の犯罪の実行を可能とする能力を持ち、実際にそれをやっていること。

 

 組織の目的や存在理由、正確な規模、装備の質と量。そういったことは、末端の彼らは知らなかった。彼ら自身、自分たちが何のために働かされているのか、不思議に思いながらこき使われていたという。国家に寄らず、思想を持たず、信仰はなく、民族にも還らない。あえて言語化するなら、そんな組織だったと彼らは語った。

 

『ファントム・タスクが各国の軍隊とひそかにつながっているのではないか、という噂は、昔から捜査関係者の間では有名だった。古くから世界的に暗躍している組織にも拘らず、いまだ全容がつかめないということは、どこかから我々の動きについての情報を得て、その度に身をかわしているのではないか、という仮説だ。また、ファントム・タスクはかなりの武装化が進んだ組織だということが判明している。噂によれば、世界のどこかに秘密工場を持ち、銃や爆弾、果ては戦車などの兵器まで自前で調達する能力を持っているという。これを可能とするためには、国家規模の組織からの支援が必要だ。その役割を担っているのが、各国の軍隊というわけだな。まさかそれに、わが連邦空軍が関わっているとは思わなかったが』

 

「敵の目的は? 連邦空軍とエットレ・ラッビアたちが、『モンド・グロッソ』の期間中に、何をやろうとしているのかは?」

 

『それは依然として不明だ』

 

 オスカー監督官の声からは苦渋が感じ取れた。

 

『今回新たに判明したのは、エットレ・ラッビアはファントム・タスクの構成員である蓋然性が高いということだけだ。しかし、これは非常に重要なことだと私は思う』

 

 オスカーの言葉に、ハンスは頷いた。

 

 クンツェ監督官の娘を誘拐したこと。その結果、監督官が作成したミュンヘンの警備計画に変化が生じたこと。それはすべて、エットレ・ラッビア……すなわち、ファントム・タスクによって引き起こされた公算が高いということ。ファントム・タスクが、『モンド・グロッソ』の期間中に、ミュンヘンの街で何かを起こそうと企んでいる公算が高いということ。

 

『繰り返しになるが、ファントム・タスクはかなりの武装化が進んだ組織だ。その上で、数万人規模の人員と、世界中に実働部隊を展開可能な機動力を持っている。連中が何を企んでいるのかは判らないが、最悪、ミュンヘン市街地で激しい銃撃戦が発生する可能性さえ考えられる』

 

 噂によれば、いまやファントム・タスクはISさえその手中に収め、戦力化しているという。秘密組織を堅持していることから、連中も、街中で装甲車を走らせるような愚行はするまいが、多数の銃火器を持ち込むことぐらいは、十分に考えられた。

 

 オスカーからの通信を切った後、ハンスは同居人たちと侃々諤々の討議に身を投じることとなった。

 

 敵がファントム・タスクと判明した以上、作戦計画を根本から練り直す必要がある。

 

 主要な議題となったのは、やはり敵の狙いだ。ファントム・タスクはあらゆる犯罪をこなす組織だが、それでも、これまでに得た情報から、何をやろうとしているのかある程度絞り込むことは出来る。

 

「警備計画に介入してきたということは、いわゆる電脳犯罪を企んでいるわけでないことだけは確かだ」

 

 そう言ったのはライナー・ブロッホ主任巡査だった。ハンスより階級は下だが、同期ということもあり、彼とは互いに気を遣わない話し方を心がける協定が結ばれている。

 

「実際に手足を動かして何かをやろうとしている。だから、クンツェ監督官に命じて、警備の薄いところを作らせたのだろうからね」

 

「とすれば、やろうとしていることは殺しか、盗みか、器物の損壊か」

 

「何であれ、ファントム・タスクが相手となれば、武装したテロリストの集団が、その場所を一気に襲撃する可能性があるわけだ」

 

「問題は、それがどこかだが」

 

「クンツェ監督官の変心によって、手薄になったのは五箇所ある」

 

 ライナーはテーブルの上にミュンヘン市内の地図を広げた。

 

「いずれも、重点警備地区を増やしたことで、そちらに人をとられてしまい、見回りの警察官をへらさざるをえなくなったポイントだ」

 

「今回の作戦に、ファントム・タスクがどの程度の人員を投入してくるかがわからない」

 

 ハンスは険しい面持ちで呟いた。

 

「数名の精鋭を派遣してくるだけかもしれないし、数十人からの部隊を投入してくることも考えられる。敵の総数が未知数な状態では、この五箇所に人員を分散配置して守るのは厳しい」

 

 こちらも精鋭とはいえ、戦闘要員は僅か十人しかいない。分散配置は各個撃破の危険性を高め、相手の犯行を許してしまう公算が高かった。

 

「常に情報収集をしつつ、ヤマを張って一箇所に戦力をかためるべきだ」

 

「とすると、どこに?」

 

「俺の見立てでは――、」

 

 ハンスはミュンヘンの中心街を指差した。十九世紀中頃から二十世紀初頭にかけて建築された新市庁舎を中心に広がる、文化の発信と商業活動が盛んなエリアだ。

 

「このあたりが怪しいと思うんだ」

 

「根拠は?」

 

「ファントム・タスクがモンド・グロッソの開催期間中に何かを企んでいるのは、これまでの経緯からも明らかだ。これは、裏を返せば、世界大会期間中でなければ出来ないか、あるいは意味のない犯罪を計画しているから、と考えられる」

 

 そうでなければわざわざ警戒厳重な大会期間中を狙おうとはするまい。

 

「大会の期間中でなければいけない理由か」

 

「大会期間中のミュンヘンにあって、普段のミュンヘンにはない要素は何かを考えてみよう」

 

「各国からやって来る選手、要人、いつもより多めの観光客といったところだな」

 

「このうち、一般の観光客は除外していいと思うんだ」

 

 もとよりミュンヘンは観光都市としての側面も持っている。名高い観光名所をいくつも有しているほか、九月半ばから十月上旬にかけてのオクトバーフェスでは、毎年六〇〇万人が訪れる。一般の観光客を狙って何か犯罪を企んでいるのなら、もっと適した機会があるはずだ。

 

 選手狙いの線も捨てて良いだろう。ドイツは過去にミュンヘン・オリンピック事件で選手村を襲撃さえている。さすがのクンツェ監督官も、人質を取られてなおここの守りは徹底していた。

 

「ということは、敵の狙いは、」

 

「うん。大会を観戦しに来た、そして、そのついでに政治の話をするつもりの、各国の要人たちだろう」

 

 ミュンヘンの中心街には、最上級のホテルが揃っている。一八五八年に創業し、バイエルン王国時代には迎賓館としても使われたケンピンスキー・ホテル・フィーア・ヤーレスツアイテンKempinski Hotel Vier Jahreszeiten 。五つ星ホテルと名高いマンダリン・オリエンタルグループ。一八五二年創業、ミュンヘンを代表する美しき高級宿バイエリッシャー・ホープBayerischer Hof などが、特に有名だろう。モンド・グロッソの期間中も、世界中から錚々たる顔ぶれの宿泊が予定されている。

 

「ファントム・タスクの奴らは、これら高級ホテルに宿泊中の誰かを狙うつもりじゃないだろうか?」

 

 ハンスはそう言って、三つの最高級ホテルのある場所にペンで印をつけた。三つのホテルは、シャネルやエルメスといった高級ファッションブランドの店舗が集中しているマクシミリアン通りの側で近接し合っている。印同士を線で結ぶと、見事な二等辺三角形が形成された。

 

「この三角形エリアだ。俺たちGSG-9は、このエリアを中心に守りをかためよう」

 

 

 

 

 事件が起こる、三日前。

 

 飛行機に搭乗した直後こそ旅の同行者に内心文句を口にした桜坂だったが、ドイツの土を踏んで間もなく、その機嫌はすっかり良くなった。

 

 ミュンヘン中心部から北東へおよそ二八・五キロメートルの地点にある、ミュンヘン空港。その入国審査部で担当してくれた受付の係員が、彼好みの美熟女だったからだ。

 

「アウフ・ヴィーダーゼーエン、アレクサンドラ。四日後、帰国の際には必ず立ち寄って、きみにもお土産を渡すよ! チュス!」

 

 御年五十三歳のアレクサンドラ(既婚者)に見送られた後も、手荷物受取所、税関審査を順にパスした桜坂と桐野美久は、少し話し合った後、タクシー乗り場へと向かった。まず宿泊先のホテルに荷物を預け、然る後、身軽な装いで観光を楽しもう、と行動方針を一致させたのだ。

 

 ミュンヘン空港から市内へのアクセス手段は、近郊鉄道(Sバーン)とルフトハンザ・エクスプレスバスの他、レンタカーとタクシーがある。このうちレンタカーは、市内に一般車両の通行を制限している場所があるため、ミュンヘンの交通事情に精通していない人間には使いにくい。鉄道とバスは、駅や停留所に着いた後また別な手段での移動を強いられることになるから、それもまた面倒臭い。多少、金銭負担が重くとも、タクシーを利用して一気にホテルまで行ってしまおう、と二人は考えた。

 

 日本のタクシー会社の多くが日本車を採用しているのと同様、ドイツではドイツ車を採用しているタクシー会社が多い。日本では高級車の扱いのメルセデス・ベンツも、ここでは当たり前に乗客輸送に使われている。

 

 二人が乗り込んだのは二世代前のEクラスだった。後部座席の広さは十分、乗り心地も良い。上級車だからといって特別に料金が加算されることもないため、彼らは満足感もたっぷりに移動することが出来た。

 

 道はかなり混んでいた。IS世界大会の期間中だから当然のことだが、一般車両や観光バスの他に、青色とシルバーに塗装されたパトカーの姿が目立っている。ミュンヘンにはBMWの本社があるからなのか、パトカーも特徴的なキドニー・グリルを採用している車種が多く見られた。

 

「……鬼頭のやつが喜びそうな光景だな」

 

 タクシーはドナウ川支流のイーザル川沿いの幹線道路を主に走りながら、大会会場のあるオリンピック公園からなるべく遠ざかるルートを使ってミュンヘン市内を目指してくれた。ミュンヘン北部にあるシュヴァービングSchwabing 自治区に入ると、メインストリートのレオポルト通りに進入する。ルートヴィッヒ・マクシミリアン大学、ルートヴィッヒ協会をパスして、やがて市の中心街へと到達した。

 

 二人が宿泊予定のプラッツルPlatzl ホテルは、マクシミリアン通りにほど近い高級ホテルだ。気心の知れた男二人の気楽な旅ならばともかく、若い女性を連れての二人旅となった時点で、急遽、奮発することにしたのだった。

 

 レオポルト通りから続くルートヴィッヒ通りは、名建築家フリードリヒ・フォン・ゲルトナーFriedrich von Gärtner 設計のフェルトヘルンハレ・ロッジアのある交差点で終端を迎え、そこからは四方向に道が分かれている。プラッツルへは左方向へ進むホーフガルテン通りか、直進やや左寄りのレジデンツ通りへ進むのが早いが、ここで桜坂は、あえて遠回りとなる右方向のブリーナー通りへ進むよう運転手に指示した。

 

「せっかくだ。ちょっと、街の景観を眺めていきましょう」

 

 ブリーナー通りを東に進み、地上二九メートルのオベリスクが中央に建つカロリーネン広場Karolinen platz の大型ロータリーへと至る。一八一二年のロシア戦役での陸軍戦没者慰霊碑だ。ロータリーからは南東方向バラー通りに入ると、噴水のある歴史的な広場……カールス広場Karls platz の地下鉄の駅を前にくの字に切り返させた。バケリ通りから、今度こそプラッツルのある西側へ。

 

「おっ、桐野さん。見てください」

 

 ブティックショップが建ち並ぶプロムナーデ広場に到達したとき、桜坂は進行方向左側を指差した。宮殿のような見た目の――実際に宮殿を改装して築かれている――ホテル・バイエリッシャー・ホーフが見える。

 

「あれが有名な五つ星ホテルのバイエリッシャー・ホーフですよ」

 

「素敵なホテルですね」

 

 美久はその荘厳なたたずまいを前に陶酔した溜め息をついた。

 

「天使様との旅行が決まってから、観光ガイド本を読み漁りました。なんでも、昔は外国からのお客様を迎える迎賓館としても使われたんだとか」

 

「すぐ側に建っているばかでかいショッピングビルが、これまた有名なフェンフ・へーフェ」

 

「たしか、日本の無印良品も入っているんでしたよね」

 

「ミュンヘン観光の定番スポットですね」

 

 仁王の顔が楽しげに微笑んだ。

 

「後で一緒に見に行きましょう」

 

「一緒に?」

 

「ええ。一緒に」

 

 桜坂の返答に、美久もまた嬉しそうに微笑み、頷いた。

 

 

 

 

 





この話を書くにあたってミュンヘンの地理を調べまくっていたら、グーグルくんから「お、旅行か?」って、おすすめのプランが呈示されるようになったゾ。

そんな休みとれねーよ。


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Chapter41「嘘」


単話としては過去最大のボリュームです(3万5000字!)。


よろしければお付き合いください。



 土曜日の午後六時二十分。

 

 大皿に山のように積み重なっている手羽先を、むんず、と手づかみする。このとき、手指は当然肉の脂とタレとで汚れてしまうが、名古屋人たる者、そんなことは気にしない。両の指先で手羽先の両端をしっかりつまむと、関節の端の部分の肉を少しだけ千切ってやった。翼端部分をもぎり取った側から豪快にかぶりつき、舌と歯を器用に駆使して骨から肉をこそぎ落とす。手の引っ張り運動に合せて頬をすぼめ、ちゅるり、と吸引してやれば、口から飛び出すのは綺麗に身を削がれた鳥骨が二本だけ。哀れ口の中に取り残された鶏肉は、やおら襲いくる顎の上下運動によって噛み裂かれ、細々とすり潰されていった。ぱりぱり、とした皮の食感。次いでやってくる、筋繊維を、ぶちぶち、と引き千切る歯ごたえ。そこに時折混じる、白ごまの、ぷちぷち、としたアクセント。顎を繰り返しノックする快感に酔いしれる。

 

 奥歯を上下してやる度、口の中いっぱいにスパイシーな風味と甘辛い味わいが広がる。もくもく。もくもく。無言のうちに、噛みしめる。

 

 そして、飲み込んだ。ほどよく粗挽かれた鶏肉は食道を通過し、胃袋へ到達。なおも喉奥に残る濃厚な余韻を洗い流したい欲求から、自然、その手はテーブルの上に鎮座するグラスへとのびた。握る。持ち上げる。唇に添えて傾ける。こく、と喉を鳴らす。水割り芋焼酎の熱が、体の中を一気につき抜けた。グラスを置き、感嘆から溜め息をこぼす。

 

「くっあぁぁあ! たまらんでよ!」

 

 鬼頭智之と陽子の親子が暮らす、1122号室でのことだった。堂島弁護士がお土産にと持ってきてくれた地元の名店『風来坊』の手羽先唐揚を、アルコールとともに堪能する鬼頭は、ここが学生寮の一室だということも忘れ、すっかり呑兵衛と化していた。

 

 名古屋の手羽先は、総じて酒に合う味つけがされている。『風来坊』の唐揚は、その典型だ。食べるほどに酒が欲しくなり、飲むほどに手羽先が欲しくなる。食欲の連鎖的化学反応が止まらないし、止められない。

 

 手羽先を食べ、酒杯を傾ける。また食べては、杯を傾ける。繰り返しの動作を飽くことのない自らを指して、鬼頭はかく評す。

 

「うおォン。俺はまるで人間2ストローク・エンジンだ」

 

「落ち着いてください、お父様。久しぶりの故郷の味が嬉しいのはわかりますが、そのためにキャラ崩壊しかかっていますわ」

 

 アルコールの熱で頬を紅潮させる鬼頭を、対面の席に座るセシリアが呆れた口調でたしなめた。

 

 手づかみを厭わぬ彼と違い、こちらは手指の汚れを嫌ってフォークとナイフで骨と身を切り分けてから口に運んでいる。もくもく。もくもく。うむ。普通に美味しい。鶏肉そのものの旨みに加えて、甘みとスパイシーさとが併存している特製のたれ。複雑な味わいは、素朴でシンプルな味つけが好まれやすい英国料理にはあまり見られない珍味的な良さがある。味が濃い分、同じく味の濃い飲み物が欲しくなる気持ちもよくわかる。

 

 だが、箸が止まらない、というほどの自制心の衰弱は感じなかった。目の前の男のように、次から次に欲しくなる、という欲求の増進も感じない。料理の美味さに頬を緩めはするが、そこでおしまい。美味い、という以外に、感情を大きく揺さぶられた感覚は薄かった。

 

 おそらくは自分がイギリス人だからだろう。鬼頭にとって手羽先唐揚は故郷の味であり、また思い出の味だ。美味しさに対する満足感は無論のこと、よく知る――そして変わらぬ――味との再会に対する喜びが、旨みをいっそう引き立てていると考えられた。

 

 他方で、自分にはこの料理を食べたときに、懐かしさの源泉となる思い出それ自体が存在しない。郷愁の気持ちを駆り立てられるバック・ボーンがないから、感動の表現方法にも著しい格差が生じてしまったと考えられた。仮に、大皿に載っているのがヨークシャー・プティングであったなら、似たような反応を示していたかもしれない。

 

 その考えの正しさを証明するかのように、セシリアのかたわらでは、陽子がよく冷えたウーロン茶と手羽先とを交互に飲み食いしながら、感動に咽び泣いていた。彼女もまた名古屋人だ。落涙をこらえきれないのは、やはり、幼少期から舌に馴染んだ味に対する喜びゆえの――、

 

「んぐっ、んぐっ……、ぐっ。けっ……けほっ、こほっ……ぐっ……む……」

 

「あ、違いますわね、これ」

 

 咽び泣きには違いないが、その原因はまるで異なっていた。がっつきが過ぎて、細かく噛み裂く前の状態の鶏肉を飲み込んでしまい、それが喉に引っかかってしまったようだ。えずき混じりの咳も、目尻に浮かぶ涙の雫も、苦しさから生じたものだったか。セシリアは陽子の背中を優しく撫でさすった。

 

「ぐっ……ぐっ……んぐっ。くん。……ああっ、焦った」

 

 空気の通り道を塞いでいた塊を、ウーロン茶で強引に押し流した。生命活動の危機からの脱出の喜びに、安堵の呟きが唇をついて出る。

 

「手羽先喉に詰まらせて死んじゃうとか、智也兄さんに向こうで一生からかわれるネタを提供するところだったぜい」

 

「死んだ後に一生とはこれ如何に?」

 

「それにしても……」

 

 夕食前に一杯だけ、という先の発言はなんだったのか。すでに三杯目の酒杯を舐めている鬼頭が、熱い吐息ともに呟いた。

 

「にわかには信じがたいな。本当に、フラウ・ボーデヴィッヒが、そんなことを?」

 

 食事中の話題にと、二人に今日あった出来事を訊ねた鬼頭は、返ってきた言葉に怪訝な表情を浮かべた。

 

 およそ三時間前――自分が本校舎の応接室で堂島弁護士らと今後のことを話し合っていた、その時間帯に――、陽子たちのいた第三アリーナで事件は起こった。一夏や箒といったお馴染みの顔ぶれで訓練に励んでいたところを、突然、愛機シュヴァルツェア・レーゲンに身を包んだラウラに襲われた。彼女は一夏と陽子を名指しして、自分と戦うよう彼らに求めたという。

 

 二人ははじめ、戦う理由も、その意思もないからと相手の要求を突っぱねた。しかしラウラは引き下がらず、今度は挑発の言葉を口にして彼らの感情に揺さぶりをかけた。先に相手に手を出させ、自分は身の危険を感じたからそれを迎え撃っただけ、という形にもっていくための作戦だ。幼げな見た目の唇から次々に飛び出す暴力的な言葉の数々に、やがて陽子が耐えきれなくなる。父と、亡き兄とを侮辱する発言に激昂し、手にしていたレーザー砲のトリガーを引き絞ってしまった。正当防衛の論拠を得たラウラは喜色満面、先制射撃を悠々回避してみせると、リボルバーカノンによる応射を開始した。

 

 周囲の者たちが止めに入ったのは、反撃の一弾が発射される直前、またはその直後のことだ。体術に優れる箒が陽子を拘束するべく背後から組み伏せにかかり、電磁投射砲の射線上へと割って入ったシャルルが、ラファールの実体シールドで砲弾を弾き飛ばす。さらには、アリーナの放送席から監督役の教師が両者の行いを危険と判じて怒声一喝。他の生徒たちからも非難の視線を浴びせられ、興が削がれたらしいラウラは闘技場から退出していった。

 

 かくして事なきを得たのです。一連の経緯を聞かされた鬼頭は、はじめ青い顔をして胴震いした。話を聞いた限り、陽子もラウラも、非常に危うい状況に身を置いていたといえる。

 

 やろうとしていたことそれ自体は、子どもの喧嘩にすぎない。しかし、互いに持ち出した武器が問題だ。単機でも小国の軍事力に匹敵しうるとされるほどの最強兵器。それが、スポーツ競技として厳格なルールのもと行われるISバトルではなく、レギュレーションなんて何ら存在しない、感情が高じた末の殴り合いに投入されようとしていたのだ。シャルルたちのおかげで事なきを得たが、もしも周囲の協力を得られず、戦闘が続行されていた場合、二人とも将来に禍根を残す大怪我を負っていたかもしれない。

 

 ありえたかもしれない最悪の未来を想像し、鬼頭は恐怖から表情を硬くした。目の前で手羽先を美味しそうに頬張っている娘の姿に、よくぞ無事でいてくれたと安堵の気持ちがこみ上げる。

 

 と同時に、鬼頭は娘たちが自分に聞かせてくれた内容は、本当にあったことなのか、とも疑念を抱いた。

 

 二人がラウラの風評を貶める目的で、嘘や誇張表現を多用したとは思わない。だが、自分と一緒にいるときは素直さと愛らしい仕草が印象的な彼女が、本当にそんな暴言を? とも思う。自分の知っているラウラと、陽子たちの語るラウラ。二つの人物像が頭の中で結びつかず、あまりのギャップに戸惑ってしまう。

 

 ましてや、ラウラは現役の軍人だ。ISの持つ兵器としての側面、その危険性については重々承知しているはず。そんな彼女が、対戦競技としての枠をはみ出すような戦いを、自分から軽率に求めるなんてことがありえるだろうか。

 

 鬼頭は娘たちの顔をじっと見つめた。

 

 ドイツからやって来た少女の人物評を語る二人の態度からは、ラウラへの根深い悪感情の潜在が見て取れる。無意識の嫌悪感が認知の歪みを生み、その結果、彼女の言動を実際よりも悪質に言い表してしまった可能性は十分考えられた。

 

 それとも、二人の言っていることは本当に何ら誇張のない事実であり、当時のラウラは、そんな大切なことが頭の中からすっぽり抜け落ちてしまうほど、異常な精神状態に囚われていたのか。もしくは、挑発の果てに待ち受けている対決は危険極まりないものになる、とはっきり認識した上で、それでも、求めずにはいられないほど、彼女にとって一夏や陽子と戦うのは重要なことなのか。そうだとしたら、その理由はいったい……?

 

「わたしたちの推理では、」

 

「うん」

 

「アリーナでちょっとだけ話した際の印象だけど、ボーデヴィッヒさんって、強さとか、頭の良さとか、そういう能力の高さにすごくこだわっているみたいなんだよね。なんて言うか、優秀な人には価値があって、何でも手に入れられるし、何でも与えられる。優秀さ、イコール、正義、みたいな。逆にそうじゃない人は、この世に存在することそれ自体が悪、って感じ。そんな、極端な価値観への信仰心みたいなのを感じたよ」

 

 事件の後に一夏たちと話し合い、導き出した推論だ。陽子の言葉に、セシリアも頷く。

 

「ご自身の強さの証明に、こだわっている様子でした。織斑さんや陽子さんよりも、自分の方が強い、と。それを、誰の目にも明らかな形ではっきりさせたかったのでしょう」

 

「はっきりさせる、か。しかし、何のために?」

 

「おそらくですが、」

 

「うん」

 

「織斑先生や、お父様から愛されるためではないかと」

 

「愛?」

 

「はい」

 

「ボーデヴィッヒさん、愛される、って言葉にも、やたらこだわっていたんだよね。優秀な人間は愛されて然るべき、みたいに。無能なわたしは、父さんに愛される資格がない、みたいなことも言われたよ」

 

「自分が織斑さんや陽子さんよりも強いと証明することで、織斑先生やお父様からの愛を一身に集めることが出来る。そんなふうに考えているのではないかと」

 

「……なぜだろうな?」

 

 陽子とセシリアは顔を見合わせた。鬼頭の口にした疑問が、何に対して向けられたものなのかわからなかったためだ。目線で訊ね合い、互いに明瞭な回答を持っていないことを確認し合うと、訝しげな眼差しを父に向ける。

 

「ええと、父さん、それって、どういう?」

 

「二人の言う通り、フラウ・ボーデヴィッヒがそういう価値観の持ち主なのは、間違いないだろう」

 

 鬼頭自身、彼女と頻繁に行動をともにするようになったこの一週間のうちだけでも、思い当たる場面に何度も遭遇していた。強さに対する信仰と、その原動力たる愛されることへの渇望。娘たちが態度や発言から読み取った、ラウラの内面世界の有り様はおそらく正しい。

 

 だからこそ疑問に思う。彼女がそんな考えを持つにいたった背景には、いったいどんな経験が。そして体験があったのか。

 

 とくとく、と焼酎の瓶を傾けながら鬼頭は言う。

 

「強さというのは、ある種の魅力だ。魅力的な人間になれば愛されやすい、というのは、考え方の一つとして間違ってはいないが、フラウ・ボーデヴィッヒの場合は、それにばかり囚われすぎているように思うんだ」

 

 強ければ千冬や鬼頭から愛してもらえる。

 

 強さは、愛されるための絶対条件。

 

 ラウラが現役の軍人で、軍隊という組織では強い者ほど慕われたり、尊敬されたりしやすい傾向があるだろうことを踏まえてなお、鬼頭にはその考え方は極端なものに思えた。強さや頭の良さだけが人間の魅力ではないし、そもそも、人から愛されたいというわりに、彼女は最も大切ことを軽視しているきらいが見受けられる。

 

「大切なこと?」

 

「お父様、それはいったい?」

 

「これは私も、今日、堂島先生に言われて気がついたんだが。フラウ・ボーデヴィッヒはね、人から愛されたいという願いに比して、自らが人を愛することについては、不思議と、関心が薄いんだよ。というより、人間が、人間を愛するという気持ちがどういうものなのか、あまり理解していない様子なんだ」

 

 時系列を考えるに、第三アリーナから追い出された直後のことだろう。本土からの客人を見送る途中で遭遇したラウラと自分のやり取りを、堂島弁護士は『親子のようだ』と、評した。陽子と同じ年齢の娘で、鬼頭もラウラも、相手に親愛の気持ちを寄せ合っている。そんな二人の睦まじい姿を見て、親子のようだ、と。

 

 このとき、ラウラは堂島弁護士から噛み砕いた説明を受けるまで、自身が鬼頭に親愛や、敬愛の気持ちを抱いている自覚がまったくない様子だった。自分は、鬼頭から愛されていると聞かされてあんなにも喜んでいたのに。自分が彼のことを愛しているとは、まったく気がついていなかった。

 

 鬼頭からラウラとのやり取りを聞かされて、陽子とセシリアは絶句する。

 

「それって……」

 

「“愛”という言葉を軸にして考えたとき、フラウ・ボーデヴィッヒのあり方は、非常にいびつだ。彼女はね、愛するという心理のはたらきがどういうものなのか、ほとんど知らないにも拘わらず、人から愛されることを望んでいるんだよ」

 

 まるで小さなおさなごのようだ、と鬼頭は胸の内で呟いた。赤ん坊や幼児は、自分一人の力では生きていくことが出来ない。生きるためには、両親や周りの大人たちから愛される――与えられる――ことが絶対の条件となる。それでいて、彼らには大人に向けて渡せるものがない。ほとんど一方的に与えられるだけの存在、愛されるだけの関係だ。

 

 鬼頭は、それこそがラウラ・ボーデヴィッヒという人物の本質ではないかと考えた。子どものような容姿のラウラだが、精神面はそれ以上に幼いのかもしれない。現に、自分が接した限り、彼女からは陽子やセシリアに見られる年齢相応の情緒の発達ぶりが感じられない。

 

 この考えが真だとすれば、次いで思い浮かぶのは、ラウラをそんなふうに育てあげた生育環境に対する疑念だ。とりわけ、彼女の人格形成に大きく影響しただろう、ドイツ空軍がどんな組織なのかが気になってしまう。

 

 陽子らが一夏から聞いた話によれば、千冬がルフトヴァッフェで教鞭を執ることになったのは、三年前の第二回IS世界大会中に起きたとある事件がきっかけだったという。ラウラはそのときの教え子だというから、少なくとも、その頃にはすでに軍との強い関わりを持っていたということが推測出来る。当時のラウラは十二歳。思春期のこの時期の少女にとって、軍隊という特殊な環境が心の成長に強く影響しただろうことは想像にかたくない。

 

 はたして、そこにはどんな世界があったのか。いまのラウラを見るに、あまり自分好みの環境ではなさそうだが。

 

 酒の味を悪くする想像に険しい面持ちでいると、コンコン、と部屋の戸を外から叩く音が聞こえた。併せて、「あの、織斑ですけど、智之さんはいますか!?」と、一夏の声。鬼頭たちは自然と顔を見合わせた。声量といい、声に宿った気勢といい、なにやらただならぬ様子だが。

 

「ちょっと待っていてくれ」

 

 鬼頭はグラスを置いて立ち上がると玄関の方へ向かった。扉のロックを解除し、ゆっくりと引き開ける。

 

 もう夕方だというのに、いまだ制服姿の一夏が立っていた。鬼頭の顔を見るなり、安堵から相好を崩す。

 

「よかった。智之さん、帰ってきてたんですね。本当によかった。あのっ、ええと、なんというか、その……力を、貸してほしくて、ですね! いまから、俺たちの部屋に来てほしくって……!」

 

 一夏の口調はたどたどしく、また言葉選びのセンスにも欠いていた。要領を得ぬ言ではあるが、それでも、何かを伝えたい。いや、なんとしても伝えなければ、という懸命な想いだけは汲み取れた。どんな言葉をどう組み合わせれば自分の考えを正確に伝えられるか。その考えがまとまらないうちに、しかし、伝えたい気持ちだけが急いてしまって、口の動きを自制出来ない。そんな印象を受ける。

 

「落ち着きなさい」

 

 鬼頭は努めてゆっくりとした口調で言った。

 

「力を貸してほしい、とは?」

 

「シャルルのことで、ちょっと、助言をもらいたい事案が起こりまして」

 

「事案?」

 

「ええと、ここではちょっと、話しづらい内容で……」

 

 一夏はあたりを素早く見回した。余人の耳目がないことを確認し、小声で言う。

 

「その、これから俺の部屋に、来てほしいんですけど」

 

 それら一連の様子に、ピンとくるものがあった。シャルルに関わりのあることで、かつ、一夏のこの態度。事案とはおそらく――、

 

「織斑さん」

 

 部屋の奥からセシリアがやって来た。どうやら鬼頭たちの様子が気になったらしい。かたわらに、急いで口元と指先の鶏脂を拭ったと思しい陽子が付き添っている。

 

 思わぬ人物の登場に一夏は目を丸くした。1122号室は、鬼頭“親子”が暮らす部屋だ。陽子の存在は想定していたが、なぜ、この場にセシリアまで?

 

「オルコットさん、どうして、ここに?」

 

「お父様が知人の方からお土産をいただいたそうで。一緒に食べないかとお誘いを受けたのです。それより、織斑さん」

 

 セシリアは鬼頭の隣に立つと、一夏のことを真っ直ぐに見据えた。

 

「事案、というのは、デュノアさんのお体に関わることではありませんか?」

 

「なっ!?」

 

 こちらも第三者の存在を警戒した、具体性に欠ける言い回しだった。しかし、一夏にはそれで十分だった。驚きから瞠目する彼に、父と娘は揃って、「やはり」と、得心した様子で呟く。互いの声に反応し合った二人は見つめ合い、それから、自然と苦笑し合った。

 

「なんだ、セシリアもシャルル君のことに気がついていたのか?」

 

「お父様こそ」

 

「ううん。シャルル君には悪いが、あの着こなしではね」

 

 鬼頭はシャルルの男性らしからぬ体つきを思い出しながら呟いた。

 

「私の目には、どうぞ見破ってください、と言っているようにさえ思えたよ」

 

「お父様は、見た目で気づいたのですね。さすがですわ」

 

「と言うと、セシリア、きみは?」

 

「私の方は、デュノアさんと日々接する中で、自然と違和感が積み重なって、という感じです」

 

 同じ専用機持ちの代表候補生という共通項から、自分は他の生徒たちよりもシャルルと接する機会が多かった。そのために、気がついたことだ。

 

「デュノアさんの私たちへの接し方――女生徒の扱い方――は、あまりにも理想的すぎました。何をすれば私たちが嬉しいと感じ、何をしてしまうと不快に思うのか。それを当たり前のことと理解し、行動しているように見受けられました」

 

 それゆえに、彼の行動や態度には違和感がつきまとった。この年齢の男性が、こうも女性の扱いに慣れているなんてことが、ありえるだろうか。相手は気難しさという点で悪名高い、思春期の少女だというのに。

 

「同じ女性でもなければ、こんなスマートな接し方はありえない、と思いました。一度そう思ってしまうと、彼のことを見る目が変わりました。デュノアさんのありとあらゆる行動が、疑わしく思えてしまうようになったのです。そうして観察しているうちに、おそらくこの人は、と確信するにいたりました」

 

「ははあ。なるほどなあ」

 

「気になるのは、なぜそんな恰好をしているのか、という理由ですが」

 

 セシリアは、ちら、と一夏の顔色をうかがい見た。

 

 実のところ、彼女はシャルル・デュノアが男装をした上でIS学園にやって来た目的、転じてその正体について、おおよそ見当がついていた。すなわち、同性の乏しい環境で心細い思いをしているだろう男性操縦者たちに近づき、専用機の情報収集や、仏国への勧誘を命じられた産業あるいは軍事スパイだ。

 

 一夏がシャルルの身の上について、どこまでの情報を得ているかはわからない。

 

 しかし、つい先日までISや、それにまつわる国際政治のダーティな側面とはほとんど関わりのない人生を送っていた彼の前で、それを直接的に表わすのは憚られた。どんな言葉を口にするべきか、慎重に、選びながら言う。

 

「……どのような理由であれ、何か複雑な事情があってのことなのは確実でしょう。迂闊な指摘は、相手を不快な思いにさせてしまうかもしれないと考えて、あえて口にはしませんでしたが」

 

 加えて、お互いの立場の背後に立つ、イギリス政府とフランス政府の関係性の問題もある。代表候補生の自分がシャルルの抱える秘密について指摘してしまうと、外交上の係争問題に発展してしまう可能性が懸念された。

 

 自分が鬼頭親子を相手に問題を起こしたのはつい先月のことだ。鬼頭によるイギリス政府へのはたらきかけのおかげで、かろうじて代表候補生の立場と専用機を取り上げられずにすんだが、その記憶も鮮明なうちに、自分からまた新たな問題を起こすのは避けたかった。

 

 いまや状況は大きく変わろうとしている。他ならぬ一夏の方から、助けを求めているのだ。

 

 鬼頭のことで男性操縦者たちに恩を売りたいと考えているイギリス政府にとって、このタイミングでの自分の介入は歓迎すべき事態のはず。勇気を振り絞り、セシリアは言った。

 

「お父様、もしも織斑さんの部屋に行かれるのでしたら、私もご一緒させてくれませんか? 勿論、織斑さんがよろしければ、ですが」

 

「セシリア?」

 

「私はイギリスの代表候補生ですから。私の存在自体が、ある種の牽制として機能するはずです」

 

「ああ……」

 

 鬼頭は得心した様子で頷いた。シャルルたちが転校してきた初日に、千冬や真耶と交わした会話の内容を思い出す。彼女たちは、シャルルが自身の正体の露見をあえて利用する形で、ハニー・トラップの類いを仕掛けてくるかもしれない、と懸念していた。

 

 セシリアも二人と同じことを考えたか。たしかに、シャルル・デュノアという人物の本当の為人が分かっていない現状、彼女と二人きり、あるいは一夏も含めた三人だけで、同じ空間に長時間いるのは、好ましい状況とはいえない。鬼頭は彼女の心遣いに完爾と微笑んだ。

 

「そうだね。ぜひ、一緒にいてくれ」

 

 鬼頭はついで一夏を見た。

 

「そういうわけだ。彼女も連れて行って、構わないかい?」

 

「え? ええと……ううん……」

 

「お願いしますわ、織斑さん」

 

 セシリアは一夏を上目遣いに見上げた。美人からの懇願の眼差しに、少年の心臓が、どき、と高鳴る。頬を紅潮させていく姿に、存外初心なのだな、と意外に思いながら、セシリアは追い撃ちの言葉を投じた。

 

「デュノアさんと同じ女の私だからこそ、お手伝い出来ることがあるかもしれません」

 

「……わかった」

 

 一夏は諦念から小さく溜め息をつくと頷いた。

 

「俺からも頼むよ。俺の……いや、シャルルの力になってくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところで、陽子さんはどうします?」

 

「仲間はずれ禁止~。わたしも当然ついていくよ。ってか、一人きりにされても……」

 

 陽子は、テーブルの上の手羽先の山を、ちら、と見た。

 

「あの量を片付けるのは、さすがに無理」

 

「まあ、そうでしょうね」

 

「というわけで、父さんたちにくっついていきます。……事情は、よくわからないけど」

 

「あ、分かってなかったんですか」

 

「……陽子」

 

「うん? なに?」

 

「織斑君の部屋に到着した後、驚くんじゃないぞ?」

 

「んう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフィニット・ストラトス二次創作

 

「この小さな世界で愛を語ろう」

 

Chapter41「嘘」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼頭たち三人を連れて一夏が自室へ戻ると、IS学園制定のスポーツジャージを着たシャルルが玄関までやって来て、一同を出迎えた。

 

「お帰り、一夏。……ムッシュ・トモユキも、こんばんは、です」

 

「ああ、こんばんは」

 

 鬼頭の視線は自然と彼の胸元へ吸い寄せられた。ジャージの生地越しにもはっきりと見て取れる、やわかそうな膨らみの存在感。転校初日から彼女の実体に気づいていた鬼頭だ。女性らしさの象徴を目の当たりにして、今更驚きはしない。それでも、こうやってまざまざと見せつけられると、なかなか複雑な気持ちにさせられる。自分の娘と同い年の少女が、こんな……。

 

「お父様、女性の胸元をいつまでも凝視しているのは失礼ですわよ」

 

「む。ああ、すまないね」

 

 かたわらに立つセシリアから、じと、と睨まれ、鬼頭は慌てて謝罪した。彼女も、三人目の男の本当の性別について事前の不審があったために、この姿を見ても衝撃を受けた様子はない。

 

 問題は陽子だった。彼女はシャルルの頭のてっぺんから足のつま先まで、しげしげと無遠慮に眺めた後、顎がはずれんばかりに驚いてみせた。

 

「うぇえええぇぇぇッ!?」

 

「陽子、もうじき夜中だ。ご近所の迷惑になるから、大声は控えなさい」

 

「いや、あの、だって、父さん……え? え? うええ!?」

 

 シャルルの正体が女だとは想像さえしていなかった彼女は、目の前の少女の顔と胸の膨らみを何度も交互に見つめ、ひくひく、と頬肉を震わせた。予想外の光景に混乱し、思考がまとまらず、結果、上手く言葉を操れない。ぱくぱく、と金魚のように唇の開閉を繰り返すも、その喉が意味ある音を絞り出すことはなかった。

 

 動揺する陽子をなだめすかしてひとまず落ち着かせ、彼らは一夏たちの部屋に入室した。来客用の椅子を用意していないために、ベッドに腰かけたシャルルを中心に、取り囲むようにみなが立つ。陽子も含めた全員が落ち着いたのを見て、一夏は寝台の少女を促した。

 

「まずはみんなに状況を把握してもらおう。シャルル、辛いかもしれないけど、さっき、俺に話してくれたことを、みんなにも聞かせてあげてくれ」

 

 シャルルは頷くと、やけに淡白な口調で、自らのこと、さらには、デュノアという会社のことを話し始めた。というのも、彼女が男性操縦者としてIS学園にやって来たのは、会社からの指示を受けてのことだったからだ。

 

 

 

 シャルルの独白は、自らの出生の秘密をつまびらかにするところから始まった。

 

 彼女は、デュノア社の現社長アルベール・デュノアと、その不倫相手との間に生まれた子どもだという。

 

 もっとも、シャルル自身がその事実を知ったのは、つい最近――ほんの二年前――のことだ。

 

 従前、シャルルは赤ん坊のときからずっと、母親と二人きりの生活を送ってきた。

 

 彼女の母親は、娘を産んだ後もアルベールとは一緒になれなかった。父は妊娠を契機に愛人への関心を急速に失っていったらしく、親子から距離をとった。養育費の支払いなど、事務手続きの都合上必要なときにのみ母と会っていたらしいが、シャルルへの接触はまったくの皆無。電話も手紙も、何一つよこしてはくれなかったという。

 

 そんな父親について、母は多くのことを語ってくれなかった。どんな人物で、どのように出会い、どうやって結ばれたのか。そういった思い出は勿論、名前や、何の仕事に従事しているのかさえ教えてくれない。幼少の頃、シャルルが父親について訊ねると、母は大抵の場合、困った様子で曖昧に微笑んで、言を左右に質問をはぐらかそうとした。そんなことが何回も続くうち、やがてシャルルは、『父のことは触れてはいけない話題なのだ。この話題に触れるのは、母を困らせることになる』と学習した。以来、彼女の方から父親のことを能動的に知ろうとする意欲は失われた。

 

 転機となったのは、母親の死だった。

 

 シャルルの母親は四十代の若さで重い病に罹り、治療の甲斐なく亡くなった。彼女を見送ったばかりで意気消沈していたこの頃、ジェイムズという老紳士が自分のもとを訪ねてきた。彼は自らをあなたの父親の部下だと名乗り、父のこと、父の家、父の経営する会社のことなどを伝えた。自分が世界有数のIS企業の社長のひとり娘だと知らされたシャルルは当然驚き、デュノア家は、その心の間隙を巧みに衝いてきた。あれよという間にデュノアの屋敷に連れて行かれ、そこで、生まれて初めて自分の父親と対面した。

 

 アルベール・デュノアは、紫水晶の瞳に険しい輝きを宿しながらシャルルを見つめた。立派な顎髭をたくわえた口元がゆっくりと開き、彼は、彼女の身を引き取りたい旨を口にした。

 

 いまや世界的企業にまで成長したデュノア社の社長に、不義密通の末にできた隠し子がいる。こんなスキャンダルの芽を放置するわけにはいかぬ。いまのうちに、その身柄を確保しておかねば。アルベールはシャルルに、これまで以上の資金援助と住居を提供する見返りに、自分の目の届く範囲にいるよう求めた。母親の死によってひとりぼっちの孤独を抱えていたシャルルは、その申し出を力なく受け入れた。

 

 かくして、シャルルは父アルベールと一緒に暮らすこととなった。といっても、親子が普段顔を合わせることはない。父とその妻が暮らすデュノアの屋敷は巨大で、敷地内には本邸の他に別邸を構えていた。シャルルはアルベールから、そ別邸での生活を命じられた。

 

 父は本妻との間に、子どもを得ることが出来ずにいた。不倫相手との間にできた子どもの顔なんて極力見たくないし、妻に見せるわけにもいかない。アルベールははっきりとそう言い放ち、シャルルを自分のそばから遠ざけた。

 

 その意味では、アルベールにとってシャルルが高いIS適性の持ち主だったことは、好ましい事態ではなかっただろう。父に引き取られた際、彼女はデュノア社の保有する研究所で各種の検査を受けた。そのうちのひとつ、IS操縦者としての適性を調べるテストで、著しく秀でた数値を叩き出してしまった。

 

 研究所の所長は興奮した様子でアルベールに電話をかけた。シャルルのIS適性は素晴らしい。彼女をテスト・パイロットとして採用し、その才能を鍛え上げることが出来れば、わが社のIS開発は、二年の加速を得られるだろう。所長の絶賛に、アルベールは渋い顔をしながら、テスト・パイロットの養成計画にゴー・サインを出した。当時の彼女は十四歳。さすがに若すぎるとして、広報活動への参加は一切ない、非公式な人事だったが。

 

「僕がテスト・パイロットに就任してから、少し経った頃のことです。デュノア社は経営危機に陥りました」

 

 シャルルは、英国代表候補生のセシリアの顔を、ちら、と見てから、しかし、飾らぬ言葉でデュノア社を襲った問題について語った。

 

 直接の原因は、第三世代機の開発の遅れだという。IS開発のトレンドが特殊兵装を搭載した第三世代機へシフトした昨今、デュノア社も当然この波に乗らねばと努めていたが、その進捗は、他国の企業や研究機関と比べて芳しくなかった。

 

 その高性能ぶりから忘れられがちだが、傑作機『ラファール・リヴァイブ』は第二世代最後発の機体だ。それも、遅れに遅れた末の完成であり、その開発・運用データを基底とする次世代機開発計画は、スタート・ダッシュの時点で他と比べて大きな差をつけられていた。データも、時間も。新型機の開発に必要な何もかもが、圧倒的に不足していたのである。

 

 そんな苦戦中のデュノア社に、さらなる追い撃ちを加えたのがフランス政府だった。

 

 ISの研究開発にはカネがかかる。デュノア社ほどの大企業であっても、そのすべてを自分たちの懐から捻出するのは難しい。民間からの投資を募るのは勿論、政府からの補助金が不可欠だ。その支援予算の大幅カットを、フランス政府は通告した。

 

 欧州連合の加盟国たちが、『第三次イグニッション・プラン』のトライアル機の完成を声高に発表するそのかたわらで、独自路線に舵を取る自分たちだけが沈黙せざるをえない。この状況に焦れた仏国政府は、デュノア社への信頼を急速に失っていった。

 

 フランス政府からの仕打ちはそれだけに留まらなかった。今年に入って早々の時期に、年内にある程度の成果を呈示出来ないときは、IS開発のライセンスの剥奪を通達してきたのだ。この知らせに、デュノア社の上層部は大騒ぎ。社内の混乱を避けるため、情報は一定以上の役職者の間でのみ共有されたという。

 

 織斑一夏発見の報が世界中を駆け巡ったのは、そんなときのことだった。

 

 初めて発見された、IS適性を持つ男性。アラスカ条約の条文に従って日々発信される彼の情報に、デュノア社の幹部たちは強い関心を寄せた。やがて、一夏の身柄はIS学園が預かることになった旨の情報が公開され、アルベール・デュノアはここに、活路を見出した。すなわち――、

 

「四月を迎えたばかりの頃です。僕はあの人から本邸に呼ばれて、そこで男の子のふりをしてIS学園へ編入するように命令されたんです」

 

 実の父親を他人のように表わして、シャルルは言った。

 

「男装をすることの目的は二つです。一つは、会社の広告塔として機能すること。一夏の存在が明らかになったときは、世界中が大騒ぎになりました。男性操縦者の存在は、それだけ世間に対する影響力が強い。その影響力を利用して、融資を募る。補助金の削減分を、そうやって補うためだと、あの人から説明を受けました」

 

「なるほど」

 

 鬼頭は険しい面持ちで頷いた。

 

 数少ない男性操縦者とパートナー・シップを結んでいる企業。たしかに、出資者たちへの受けが良さそうなキャッチ・フレーズだ。他の企業よりも、男性操縦者のデータを採る機会が多いことを想像させる。それは転じて、男性操縦者たちがISを動かすことの出来るメカニズムの解明に。さらに発展して、他の男でもISを動かせるようになるかもしれない未来への期待を煽り立ててくれる。シャルルを男性操縦者として広告塔に起用することは、正体露見時のリスクという点に目をつぶれば、一定の効果があるように思われた。

 

「もう一つの目的は、他の男性操縦者たちからのデータ収集です。同じ男性操縦者であれば彼らに近づきやすいだろうからと。特に、」

 

 シャルルは一夏を見た。

 

「一夏の『白式』は第三世代機です。重点的に情報収集をするよう命令されました」

 

 第三世代機の開発が難航しているデュノア社だ。『白式』の稼働データは喉から手の出る情報だろう。

 

 かくして、二つの密命を胸中に秘めながら、シャルルは来日した。

 

 アルベールの目論見通り、一夏の同性に対するガードは甘かった。

 

 自分の他は若い女性ばかり。IS学園の環境を少なからずストレスに感じていた一番目の男は、“同じ”男性操縦者の存在にあっさりと懐を開いた。まだ学園に馴染んでいないだろうからと積極的に声をかけ、行動をともにするようにした。そしてそれは、“彼女”が秘密の仕事を遂行する上で非常に都合がよかった。シャルルは自分に向けられる笑顔に後ろめたさを覚えながらも、首尾よく任務をこなしていった。

 

 しかし、それも今日までだった。一つ一つはたいしたことのない、ちょっとした不幸が偶然に、だがいくつも重なった結果、シャルルの正体は知られてしまった。

 

 もっとも、正体が露見したことに対するショックはあまりなかったという。もしかすると自分は、心のどこかでこうなることを望んでいたのかもしれない、とシャルルは語った。

 

「一夏は僕に優しかった。ううん。一夏だけじゃなくて、箒も、セシリアも、陽子も、みんな転校生の僕に気を遣ってくれて。けど、そのせいでかえって僕が萎縮していまわないように、って、適度に肩の力を抜いた態度で接してくれた。みんなのそばは、とても居心地の良い場所でした。

 

 ……そんなみんなを、僕は騙している。僕に優しくしてくれるみんなの気持ちを、僕は裏切っている。それを思う度に、胸が苦しくなりました」

 

 秘密の露見はシャルルにとって苦しみから解放された瞬間でもあった。

 

 実は女性であると知られたことで、むしろ安堵の気持ちを覚える彼女に、一夏は当然、どうしてこんなことを、と男装の理由を訊ねた。第三の男は、鬼頭たちに聞かせたのと同じ内容を語って聞かせた。

 

「状況は大体わかったよ」

 

 鬼頭は目線を一夏にやった。

 

「それで、私の力を借りたいというのは、どういうことだい?」

 

 鬼頭の語調は優しかったが、少年に向ける眼差しは鋭かった。切れ長の双眸が、厳かな目つきを形作る。

 

「シャルルがデュノア社からの命令なんて聞かなくてもすむよう、知恵をお借りしたいんです」

 

 一夏は短い深呼吸の後、ゆっくりと話し始めた。

 

「シャルルから聞いたんです。俺に正体がばれたことで、これからこいつに、何が起こるのか」

 

 シャルルの正体が露見した場合、まず、デュノア社の前に三つの敵が立ち塞がることになると予想された。

 

 一つ目はIS学園だ。性別を偽っての転入と、学園内でのスパイ活動。どちらも学園に対する裏切りであり、敵対的行動だ。ことが明るみになれば、学園は彼女を送り込んだデュノア社に対し、厳しい態度をとるだろう。最悪の場合、賠償金の請求に加えて、『同社の製品は今後数年間IS学園での採用・研究を禁止する』などの、重たいペナルティを突きつけかねない。

 

 IS学園は世界最高にして最先端のIS研究機関だ。ここで研究資料として扱われない、ということは、将来への技術的発展性やその価値がない、と、学園から断じられたに等しい。裏事情を知らぬ国からは発注が減るだろうし、真相を知っている国からも、『あの会社は学園を敵に回した。あの会社の製品を使い続ければ、我々も学園の敵と見られかねない』として、制式採用を渋られることになるのは必至。デュノア社にとって、非常に痛いダメージのはずだ。

 

 次に、日本を含む世界の各国。IS学園に敵対するということは、学園の建設とその運営方針を決定した『アラスカ条約』に批准した国そのすべてを敵に回すということでもある。とりわけ、学園に留学生を送り込んでいる国は、烈火の如く怒るに違いない。諜報活動の対象は男性操縦者だけではなかったかもしれない。もしかしたら自分たちのところの技術もひそかに盗まれたかもしれない! 実際にどうだったかはともかく、損害賠償を求める訴状が何十通と、デュノア社の郵便受けを賑やかにしてくれることが予想された。

 

 そしてなにより、最大の敵としてフランス政府の存在が挙げられる。この場合、攻撃されるのはデュノア社だけにとどまるまい。デュノア社を監督すべき立場にあるフランス国、フランス政府に対しても、学園や各国政府から非難の声が浴びせられることとなる。そして、その声が苛烈なほどフランス政府は激怒し、その怒りはデュノア社にぶつけられる。仏国政府は、政府の権限が及ぶありとあらゆる手段を駆使して、デュノア社を潰そうとするだろう。

 

 こうなってしまえば、デュノア社に待っているのは破滅の未来だけだ。世界中に敵を作ってしまったがために、会社の体力は大きく削がれることになる。社員の大量流出。先行きについて不安を抱いた投資家たちは我先にと株を売り払い、金融機関は融資の打ち切り・回収にと動き始める。必然、資金繰りが悪化し、この事態を招いたのはいったい誰なのかと、現経営陣を糾弾する声が其処彼処であがるだろう。その結果は、良くて経営陣の総入れ替え。悪い場合で他社への身売り。最悪の場合は倒産だ。いずれの場合にせよ、“いま”のデュノア社は、地上から消えることになる。

 

 スパイ本人への処罰は、もっと凄絶なものとなろう。

 

 スパイ防止法が存在しない日本は例外だが、国際的には、スパイ行為が発覚した場合はスパイ罪という特に重い罪が適用されるのが一般的だ。多くの国では、スパイ罪の最高刑はその国の極刑が適用される。たとえばフランスの場合、刑法七二条および七三条に、無期懲役と定められている。

 

 学園内での行為を誰が裁くのかは、現時点では判然としない。男性操縦者と嘘をつかれたIS学園か。スパイの直接の被害者である一夏の実質的な後ろ盾である日本国か。デュノア社の暴走によって面子を潰されたフランスも、自分たちの国の法で裁かせろと主張してくるだろう。

 

 最悪なのが、我々も被害に遭ったと主張する国の意見が通ってしまった場合だ。中国やロシアの法律で裁かれる、なんてことになれば、シャルルは死刑を宣告されかねない。

 

「俺は、正直に言って、デュノア社のことはどうでもいいです。そりゃあ、本当に倒産とかなったら、何も知らない末端の社員とか、下請けの会社とかは、可哀相だな、と思いますけど……。俺はそれよりも、シャルルのことが心配なんです。こいつ、このままだとスパイ行為の罪を問われることになる!

 

 シャルルが男装をしてまでIS学園にやって来たのは、親にそうしろって言われたからだ。そこに、シャルルの意思はなかった。シャルルには、自由がなかった! シャルルには、拒む権利さえ、許されていなかったんだ! それなのにシャルルが裁かれるなんて、そんなの、間違っている! ……間違ってますよ」

 

 そこまで言ってから、一夏は、はっ、として自分を見るみなの顔を見た。

 

 話しているうちに感情の昂ぶりが抑えられず、つい大声が出てしまった。驚いた様子の陽子に、「あ、鬼頭さん、ごめん」と、小さな声で呟いて謝ると、彼は二度、深呼吸をして、改めて平静な語調を心がけながら続けた。

 

「それに、シャルルは良いやつです。素人の俺にわかりやすい言葉で、ISのことを色々教えてくれましたし……」

 

 ぼふ、とシャルルの隣に腰かけ、一夏は彼女を見た。シャルルも彼の方へ目線をやり、二人は互いに熱い視線を交わし合う。

 

「さっき、シャルルは、俺たちのそばは居心地が良かった、って、言ってくれたけど、それは俺も同じだ。同じ境遇の男子が転校してきてくれて。しかもそれが、友達になってくれた。俺、すごく嬉しかったんです。こいつのそばでは、気を遣わなくてもいい。男としての自分を、遠慮しなくたっていいんだ、って。嬉しかったし、ずいぶん、楽な気持ちにさせてもらいました。

 

 勿論、実は女だったとか、騙されていたことについて、思うところがまったくないと言えば、嘘になります。でも、そのときの気持ちは、本当のことだから。だから、助けたいと思ったんです。シャルルの力になってやりたい。シャルルを、父親の支配から自由にしてやりたい。シャルルが、なんとか罪に問われずにすむ方法を探さないと、って」

 

 一夏がまず思い浮かべたのは、IS学園の特記事項の一つだった。学園に入学した最初の日に、自分たちを守るルールだからしっかり覚えておくように、と千冬から言われたことを思い出した。

 

「『IS学園特記事項第二一、本学園における生徒はその在学中において、ありとあらゆる国家・組織・団体に帰属しない。本人の同意がない場合、それらの外的介入は原則として許可されないものとする』。はじめは、これが使えると思いました。この特記事項を“盾”にすれば、少なくとも在学中の三年間は誰もシャルルに手出し出来ない。それだけ時間があれば、なんとかなる方法だって見つけられるはずだ。正体云々については、当面は俺が黙っていればいいことだし……。そう考えて、シャルルにも学園に残るよう言ったんです。……けど、」

 

 すぐに、思い直した。右腕に嵌めたガントレット……待機状態の『白式』の姿を見て、はたと気がついた。

 

「外的介入を許可しないとか、これって所詮、建前だな、って気がついたんです。実際、『白式』は日本政府のはたらきかけで、俺のもとに来たって話ですし。『帰属しない』って部分についても、鬼頭さんはアローズ製作所の社員だし、シャルルもデュノア社の専属パイロットとして籍を持っている。特記事項はあくまでも“原則”で、例外はいくつもある。そう考え出したら、特記事項を過信することは出来ない、って思いました」

 

 シャルルを無理矢理に退学させる、という手段もある。フランス政府が本気でなりふり構わず介入すれば、生徒一人の学籍くらいどうとでも出来てしまうだろう。

 

 特記事項の対象は、あくまで学園の生徒のみ。学園の生徒でなくなれば、当然、適用はされない。

 

「シャルルに残された時間は、三年もないかもしれない。三年もあれば、じゃなく、いますぐにでも、シャルルを守る方法を思いつかなきゃやばい。そう思ったんです」

 

 シャルルがスパイとして裁かれないためには、どうすればよいか。

 

 最初、一夏が下した結論はシンプルだった。

 

 彼女が男装をして身分を偽ったり、スパイとしてはたらいたりしなくてもよい状況を作り出す。すなわち、デュノア社との関わりを断たせる。

 

 シャルルのスパイ行為は、会社からの指示によるもの。ということは、デュノア社――ひいてはアルベール・デュノア――との関係を断つことが出来れば、彼女はそんな命令を守る必要がなくなる。罪として裁かれる原因がなくなるわけだ。

 

 仮にいま時点までの行為を罪に問われたところで、最高刑までは適用されまい。デュノア社との関係を断った時点で、シャルルは嫌々やらされていたことが証明出来るからだ。男の恰好をすることも、友達を騙すことも、本当は嫌だった。嫌だったが、命令され、仕方なく非合法な諜報活動に手を染めた。そこに、彼女の自由意志はなかった。アルベールとの親子関係、力関係を踏まえれば、断ることは難しかった。けれど、やはり良心が勝った。彼女は己の行為を悔い、反省し、こんなことはいけないと、デュノア社との関係を断つことを決意した。こんなシナリオを成り立たせることが出来る。少なくとも、情状酌量の余地ありと判断してもらえるだろう。

 

 我ながら名案を思いついたとほそくえんだ一夏は、しかしまたすぐに思い直した。気づいてしまったのだ。デュノア社との関係を断ち切るということは、シャルルにとって、メリットばかりではないのではないか。むしろ、デメリットの方が多いんじゃ……?

 

 すでに実母を失っているシャルルは現在、アルベール・デュノアの庇護下にある。デュノア社の専属テスト・パイロットという役職も得ている。もし、これらがなくなってしまえば、後に残るのは、あらゆる寄る辺を失った一人の孤独な少女だ。専用機持ちという立場も失うことになるだろうし、当然、IS学園にもいられなくなる。フランスに帰ったところでデュノアの家にはいられないから、新しい居場所を、それも自分一人の力で見つけていかなければならない。家だけでなく、職も探す必要が生じよう。

 

 自分と同じ十五、六歳の少女に、そんな過酷な人生を歩ませてよいのか?

 

 一夏は、むむむ、と眉間に皺を寄せた。

 

 ――単に絶縁させるんじゃ駄目だ。デュノア社との最低限の関係は維持しつつ、シャルルがスパイなんてやらなくてもすむ方法を考えないと!

 

 そうして下した最終的な結論は、アルベール・デュノアやデュノア社に、シャルルへの命令を撤回させることだった。これなら、会社との付き合いは必要最低限に留めつつ、犯罪行為に手を染めなくてもすむ。シャルルが罪に問われることもなくなるだろう。

 

 問題は、そのための手段だが。

 

 一夏は、がくり、と肩を落とした。悔しげに声を絞り出す。

 

「……俺の頭じゃ、上手い方法が思いつかなかった」

 

 ある命令に対する撤回や、打ち消しの指示を喚起させるには、命令の論拠を潰すのが最善策だろう。問題Aへの解決策として、命令Bを発令した。その問題Aが、別方向からのアプローチによって解消されたため、Bという指示を続行する理由がなくなった。こういう形に持っていけるのが、一夏の考える理想形だ。

 

 しかし、今回のケースでは、原因そのものを取り除くのはまず不可能と考えられた。

 

 先述の通り、デュノア社の次世代機開発計画はそのスタートからして大きく出遅れている。シャルルの言によれば、開発に必要とされる何もかもが足りていないという。

 

 そんな状況のデュノア社で、明日にでも技術的なブレイクスルーが起こって事態が好転する、なんて都合の良い未来はありえない。技術者でもない自分がはたらきかけたところで、得られるものはないだろう。

 

 とすれば、弁舌でもってデュノア社の上層部を説得するしかないが、一夏には、それこそ第三世代機の開発に匹敵する難業に思えた。経営難に喘ぐ大企業の重役たちが、追いつめられた末に考案した、起死回生の奇策である。これを改心させるには、よほど画期的なアイディアが必要だろう。

 

 悔しいことに、自分は所詮、十五歳の子どもだ。世間を知らない。会社組織の実際や、経営のことがよく分からない。自分の何倍も経験豊富な大人たちが何を思いながら、十五歳の少女に男の恰好をしてスパイ活動をせよ、なんて命令を下したのか、その胸の内をまったく想像することができない。そんな自分ごときの発想では、大人たちの翻心を促すことは難しいだろう。

 

 誰かの手助けがいる。

 

 切に、そう思った。

 

 そしてそれは、子どもの自分とはまったく違う視座から状況を分析し、考えることの出来る人物。これから自分たちが戦うことになる相手と同じ、大人であるべきだ、とも。

 

 その考えに至った瞬間、一夏は自然と、二つの顔を思い浮かべた。

 

 一人は千冬だ。一夏の姉であり、最も身近な大人の女性。しかし、彼女にはIS学園の教師という立場がある。シャルルか、IS学園の他の生徒たちの安全を取るか、という選択を迫られる状況に陥ったときのことを考えると、安易な声がけは憚られた。

 

 そうして次に思い浮かべたのが、鬼頭の顔だった。

 

「勿論、智之さんなら巻き込んでもいいや、なんて、考えたわけじゃないぜ」

 

 陽子からの剣呑な視線を頬に感じた一夏は、少し慌てた様子でかぶりを振った。

 

「ただ、今回のシャルルの件では、千冬姉よりも、智之さんを頼った方がたぶん良いだろう、って、色々考えた上で、そう思ったんだよ」

 

 第一に、企業の所属の会社員であること。デュノア社という大企業を相手取る上で、同じような業態の会社に勤めている経験は、大きな武器となってくれるはずだ。第二に、技術者ならではの助言が得られるかもしれないことを期待して。デュノア社が苦境に立たされているそもそもの原因……第三世代機の開発にまつわる技術的な課題を、彼ならば解決してくれるかもしれない。

 

 そして第三に、なによりも、確信があった。教職の立場ゆえ、千冬を頼ろうか考えたときには得られなかった、絶対的な安心感。この人ならば。この人ならばきっと、事情を話せば自分たちに味方してくれる。この人なら絶対に、シャルルのことを見捨てない。そんな確信を、鬼頭からは得ることが出来た。

 

 だから、安心して彼の部屋を訪ねることが出来た。

 

 何の不安もなく、躊躇も覚えずに、ここまで内容を彼に話すことが出来た。

 

「頼りに思ってくれるのは嬉しいがね……」

 

 鬼頭は眉間に深々とクレヴァスを刻みながら言った。

 

「少し、しゃべりすぎじゃないかい?」

 

 少年の軽挙を咎める目的で、ほんのり語気を強めた。

 

 鬼頭の切れ長の目に、一夏の行動は軽率に映じていた。自分の協力が得られる確実な保証がないうちから、赤裸々に話しすぎだと思う。面倒事に巻き込まれるのはごめんだと、こちらが協力を拒む可能性は容易に考えられたはずだし、むしろシャルルの秘密を知ったことで、自分が悪巧みを思いつく方のリスクだってある。みんなにお前の正体をばらされたくなかったら俺の言うことを聞け、などと脅迫してくる未来を、まったく想像しなかったのだとしたら問題だ。

 

 それを伝えると、一夏ははじめ、きょとんとして目を丸くし、すぐに破顔した。

 

「そこは、心配しなかったです。……ああ、いや、心配しなかった、っていうのは、シャルルの秘密を誰かに話すことのリスクを考えなかった、ってわけじゃなくて」

 

 渋面を作った鬼頭に、一夏は慌てて言った。

 

「相手が智之さんなら、心配するだけ、無駄だな、って思ったんですよ」

 

「うん?」

 

「子どもを守るのは、大人の義務」

 

 シャルルの耳目があるこの場では、あのクラス対抗戦で起こった出来事の仔細を語ることは出来ない。

 

 端的に、あのとき、あの場所で、鬼頭が語ってくれた言葉だけを口にした一夏は、完爾と微笑んだ。

 

「あの状況で、当たり前のように、俺たちにこの言葉をかけてくれた人です。シャルルの事情を知って、見捨てるとか、ありえないでしょう?」

 

「……感心しないなあ」

 

 確信を篭めて訊ねると、鬼頭は呆れた口調で呟いた。

 

「人からの善意を前提にした算段は、多くの場合、ろくな結果にならないものだよ」

 

 鬼頭はシャルルに目線を転じた。

 

「周りのみんなは男性操縦者だなんだと持ち上げてくれるが、私は究極、一介の技術屋にすぎない。そんな私が、きみに、何をしてあげられるかは分からないが……。これからのことを考えるために、少し、おじさんとお話をしようか」

 

 

 

 鬼頭は一夏の許可を得た上で、彼のベッドに腰かけた。隣の寝台に座るシャルルと、向かい合う形で座る。

 

 フランスからやって来た少女の顔を改めて見た鬼頭は、一瞬だけ頬の筋肉を硬化させた。血の気が失せて、青白い。まるで熱病に罹患して何日も寝込んでいる傷病者のようだ。

 

 彼女の胸中を思えば無理からぬことだろう。自分の正体を、知られてしまった。自分はこれから、どうなってしまうのか。心労が体調にも影響を及ぼしているのは明らかだった。

 

 これ以上彼女の心に重荷を背負わせてはならない。

 

 鬼頭はゆっくりと、言葉を選びながら口を開いた。

 

「まずは、いくつか確認させてほしい」

 

 シャルルが小さく頷いたのを見て、鬼頭は続けた。

 

「きみのことは、何と呼べば? シャルルというのは、男の子の恰好をしているときの名前だろう? 出来れば、きみの本当の名前を教えてほしい」

 

「そう言えば、俺も聞いていなかったな」

 

 シャルルの隣に座る一夏が呟いた。彼女を元気づけるためだろうか、ボディ・タッチこそしていないが、ぴたり、とくっつき寄り添っている。箒や鈴には見せられない光景だな、と場違いな思考に内心苦笑した。

 

「ええと、僕の名前は、」

 

「うん」

 

「僕の、本当の名前は、シャルロットと言います。お母さんが、つけてくれた名前です」

 

 シャルロットCharlotte。シャルルCharle という男性名に対応する女性名だ。どうやらデュノア社の重役たちは、男装スパイをIS学園へ送り込むにあたって、名付けにはあまりこだわらなかったらしい。

 

 ――それにしてもシャルロットとは……!

 

 鬼頭は口の中で苦しげに呟いた。いまは亡き彼女の母親が、シャルロットという名前にどんな想いを篭めたのかを考えると、男装を強要した者たちへの憤りを禁じえない。

 

 近代以前、欧米圏では、女性名は男性名の語尾を変える形で作られることが多かった。シャルロットもまたその一つで、先にシャルルがあった。シャルルはシャルルマーニュCharlemagne を由来とし、これはドイツ語のカールKarl に由来を持つ。カールには自由農民という意味の他に、“男”という意味がある。すなわち、シャルルに対応するシャルロットの意味もまた、“女”。男装スパイの名前としては、皮肉が効きすぎている。

 

 シャルロットが、いまのこの状況を予想していたかのような自身の名前をどう思っているのかはわからない。なるべくなら刺激しない方がいい、と判断した鬼頭は、名前についての感想を一切排して言う。

 

「なるほど。では、シャルロットさん、と呼んでもいいかい?」

 

「はい。あ、でも、他のみんながいるところでは」

 

「安心してくれ」

 

 鬼頭は室内をぐるりと見回した。

 

「いまこの部屋にいる、みんながいるとき以外には口にしないさ」

 

 安堵から胸を撫で下ろすシャルロットに、鬼頭は重ねて訊ねる。

 

「次に確認したいんだが、きみ自身は、どうしたい? あるいは、どうなりたいと、思っているんだい?」

 

 このまま学園にいればよい、とか。スパイ命令を撤回させる、などは、あくまで一夏の考えだ。それも、シャルロットの身を守るための手段として、色々な提案を口にしているにすぎない。これらの意見に対し、彼女自身はどう考えているのか。本当に求めているのは何か。

 

 はたして、シャルロットは隣に座る一夏に目線をやった。きょとん、とする彼の顔をしばしの間じっと見つめた後、鬼頭に目線を戻し、熱の篭もった口調で言う。

 

「ぼ、僕も、その……ここにいたいと思っています。さっきも言いましたけど、ここは、本当に居心地の良い場所ですから。僕に優しくしてくれた一夏や、みんなと、離れたくないです。……みんなを騙していることも、いつかは、謝りたいですし」

 

 学園を離れることになれば、それも叶わなくなってしまう。

 

 切々と訴えるシャルロットに、鬼頭はゆっくりと頷いた。

 

「……なるほど。では、その方向で作戦を練るとしようか」

 

 目的は大別して二つだ。一つは、シャルロットのスパイ行為が罪に問われない状況を作り出すこと。もう一つは、彼女が今後も学園にいられるようになること。これを叶えるために、戦略を練る。目的実現のための目標を設定し、目標を達成するための作戦を考える。

 

「作戦というものはシンプルな方がいい。一つのオペレーションに、あれもこれもと求めすぎると複雑性が増して、冗長性が失われてしまう。安全マージンに乏しい作戦は、ちょっとしたトラブルや偶然の積み重ねが原因で、容易に破綻してしまう。……それこそ、今回のシャルロットさんみたいにね」

 

 デュノア社はシャルロットの潜入ミッションに、第三世代機の情報収集だけでなく、会社の広告塔として機能せよ、という二つの目標を設定した。この二つを同時に達成するために、作戦は男装という複雑性を孕むことになった。結局、それが原因でシャルロットの正体はばれ、彼らの企みは鬼頭らにも知られてしまった。仮に作戦目標が情報収集の一つだけで、彼女がはじめから女子生徒として転校してきたならば、スパイ行為の発覚はもっと遅れていただろうし、隠し通せていた公算も高い。

 

 もっとも、広告塔として機能すること云々という部分について、鬼頭は懐疑的に考えていた。いくつもの期待が寄せられた結果、複雑で、不意のアクシデントに弱い作戦に仕上がってしまったのは間違いないだろう。しかし、それらはシャルロットが口にした内容とは違う理由からではないと、彼は考えていた。というのも――、

 

「一作戦に一目的、一目標を心がけよう。シャルロットさんが罪に問われないための作戦Aと、今後も学園にいられるようにするための作戦Bは、別々に考えるべきだ。

 

 作戦Aについてだが、基本方針は、織斑君の『潜入命令を撤回させる』という方向性に、私も賛成だ。作戦Bについては、命令を撤回させて、男装をする必要がなくなった後に、改めて女子生徒として転校してきてもらう。これがいちばん、シンプルな形だと思う。

 

 ただし、首尾よく事が運んだ場合でも、もともと男の子としてやって来たきみが、実は女の子だった、ということになるわけだから、周りからの奇異の目は避けられないが」

 

「そこは、覚悟しています」

 

 シャルロットの紫水晶の瞳は不安に揺れていたが、口調は決然としていた。

 

 鬼頭はあえて触れずに、話を先へと進める。

 

「まずは作戦Aの方から考えよう。そのために、確認したいことなんだが」

 

「はい」

 

「私に、デュノア社のことを教えてくれないかい?」

 

「えっ、と……それは、どういう?」

 

 あまりにも漠然とした問いかけ。当然、シャルロットは質問内容を絞り込むため返答する。

 

「シャルロットさんが知っている範囲のこと、答えられる範囲のことで構わない。デュノア社という企業について、創業から現在にいたるまで、きみの知りうるすべての情報を私に教えてほしい。特に、デュノア社の現経営陣の陣容と、各人の経歴や為人。それから、会社の主力事業の内容について、なるべく詳細にお願いしたい」

 

 敵を知り、己を知れば百戦危うからず、とは東洋の思想だったか。シャルロットは得心した様子で首肯した。じゃあ、まずは社史から、と口を開こうとしたところで、

 

「ああ、その前に」

 

 鬼頭は喋り出そうとするシャルロットを制し、背後に控えるセシリアを振り返った。

 

「セシリア、きみにもお願いがあるんだが」

 

「なんでしょう?」

 

「シャルロットさんの話が終わった後に、きみの意見をもらいたい」

 

「私の?」

 

「うん。それも、イギリスの代表候補生や、専用機持ちといった視座からではなく、」

 

 鬼頭はそこで一旦、舌先を休めた。切れ長の双眸を炯々と輝かせ、口元に冷笑を浮かべながら言う。

 

「叶うならば、オルコット家の現当主という立場からの意見が欲しいんだ」

 

「……ああ」

 

 セシリアは得心した様子で破顔した。父と慕う彼が何を考えているのか。シャルロットとデュノア社について、何を“疑って”いるのか。この不肖の娘にも、少しずつ分かってきた。

 

「なるほど」

 

「? ええっと、オルコットさん? 二人とも、それは、どういう?」

 

 言外に通じ合う二人の顔を交互に見て、一夏が訊ねた。

 

「セシリアはね、この歳でオルコット家の家長なんだ。オルコットはイギリス貴族を祖とする名家で、いくつもの企業を所有し、一部については経営もしている。つまり、彼女は資本家であり、経営者でもあるわけだ。今回はそちら方面での知見を借りたいと思ってね」

 

「マジかよ。オルコットさん、俺と同い年でそんな経営とか……すげえな」

 

「そんな大したものではありませんわ」

 

 感心した様子で呟く一夏に、セシリアは可憐に微笑み謙遜してみせた。

 

「当主といっても、私は所詮、十五歳の子ども。経営者としては、お飾りにすぎません。会社経営の実務はほぼすべて、企業ごとの社長にお任せしております。私は年に数回、彼らと面談して、事業の進捗状況や、決算報告書の数字などを一緒に確認するくらいのことしかしておりません」

 

「や、それって十分立派に、経営者のお勤めを果たしていると思うけど」

 

 陽子の呟きを無視して、セシリアは鬼頭を見つめ、言葉を重ねた。

 

「経営者目線での意見が欲しいということは、」

 

「うん」

 

「つまり、お父様は疑っているわけですね?」

 

「疑っている? 何を?」

 

 またしても一夏は鬼頭とセシリアの顔を交互に見比べた。

 

 血ではなく、別な形の絆で結ばれている父と娘は、目線だけで言葉を交わし合う。ここは私から話しても? ああ、頼むよ。セシリアは頷くと、一夏を見て言った。

 

「シャルロットさんが話してくれたことについてです。お父様は、デュノア社が本当は経営危機になんて陥っていないのではないか、と疑っているのでしょう」

 

「なっ! シャルロットが、嘘をついているっていうんですか!?」

 

 激昂。眦を吊り上げ、声を荒げながら一夏は鬼頭に詰め寄った。

 

 少年の怒れる眼差しを真っ向受け止める鬼頭は、あえて冷然とした口調で、怒りの炎を鎮火せんと諭すように語りかける。

 

「そうじゃない。私も、シャルロットさんが嘘を言っているとは思わないよ。だが同時に、シャルロットさんの言うことが、正しいとは限らない、とも思っている。……シャルロットさん」

 

「は、はい」

 

「きみはさっき、デュノア社が経営危機に陥った、と言ったが、それは、きみ自身がフランス政府の人間と直接話したり、損益計算書などの社内資料を見たりして、そう判断したことなんだろうか?」

 

「……いいえ」

 

 鬼頭の問いに、シャルロットはかぶりを振った。

 

「男装スパイの命令を受けたときに、あの人からそう聞かされました」

 

「あの人というのは、アルベール・デュノア氏のことだね?」

 

「はい」

 

「つまりきみは、アルベール・デュノア氏から聞いた話をそのまま我々に聞かせてくれたわけだ」

 

「そう、ですね」

 

「ということは、だよ。仮に、アルベール・デュノア氏がきみに、デュノア社の現状について、嘘の情報を伝えていたとしたら、シャルロットさん“は”、嘘をついていないが、話の内容そのもの“は”、真実ではない、ということになる」

 

「……ちょっと待ってくださいよ」

 

 狼狽から声を震わせながら、一夏は訊ねた。

 

「シャルロットの父親は、なんだって、そんな、嘘なんて……い、いや! シャルルの父親が、本当に嘘をついているのかは、まだわからない、ですよね。智之さんは、どうしてそんなふうに!?」

 

「では、私の考えについて、時系列順に説明しよう」

 

 鬼頭は年若い彼らにもわかりやすいよう、努めて平易な言葉を心がけた。

 

「まず、シャルロットさんがIS学園にやって来た、初日のことだ」

 

 鬼頭は一夏と同様驚いた表情のシャルロットを見た。

 

「実をいうとね、私は、きみの姿を一目見た瞬間から、これは男子生徒の恰好をした女性ではないか、と疑っていたんだ。そのことをきみや織斑君たちの前で指摘しなかったのは、何か事情があってのことだろうと思ったから。年頃の女の子が、男の子の恰好をしているばかりか、男子生徒として転校してきたんだ。尋常な事態でないことは明らかだった。迂闊な発言は、藪を突くことになるような気がしてね。詳細が判然としないうちは、こちらから言及するべきではない、と判断したわけだよ。

 

 では、その事情とは何なのか? これについては、いくつかの仮説を考えた。なぜ男装をしているのか。なぜ男性操縦者と身分を偽っているのか。といった、動機についての推測だね。

 

 このとき、私が最も蓋然性が高いと考えたのは、産業あるいは軍事スパイではないか、という仮説だ。私や織斑君に対し、同性ならではの心理的な距離感や、連帯感を利用して近づき、情報を取得する。そんなことを疑ったわけだよ。

 

 ただ、このスパイ仮説は、ある一点がネックとなって、確信にまではいたらなかった。変装の杜撰さが、どうしても気になってしまったんだ」

 

 杜撰な変装との評に、シャルロットは自然と頬を強張らせた。

 

 望んで従事していたわけではないし、みなの信用を裏切っていることへの後ろめたさもあった。その一方で、みんなを騙せている事実から、自身の変装技術と演技力に、少なからず自信も抱いていた。一夏に正体が知られたのも、裸を見られてしまったからで、変装自体を見破られたわけではない。

 

 鬼頭の言は、そのプライドを酷薄にも打ち砕くものだった。「ぐ……むぅ……」と、複雑な心境が滲んだうめき声が、喉奥からこみ上げてしまう。

 

「きみなりに頑張ってはいたのだろうがね。現に、私はすぐに気がついたし、ここにいるセシリアも、わりと早い段階で女性ではないかと疑っていたそうだ。おそらくだが、他にもそれなりの人数が、きみの正体を訝かしんでいると思うよ」

 

 千冬たちIS学園の教師陣からも疑われていることを口にするのは憚られた。本題には直接関係しないことだし、下手に言及をしてはシャルロットを萎縮させてしまう恐れがある。これから彼女の言を引き出そうというのに、その唇を重たくさせるわけにはいかない。

 

「話を戻そう。スパイ仮説には、変装の杜撰さという問題が常につきまとった。男性操縦者と身分を偽っての転校なんて大それたこと、個人の力で出来ることものではない。デュノア社か、フランス政府か。誰かしらの支援を受けているのは明らかだ。しかしそうすると、その者たちはこの変装クオリティに対し、ゴー・サインを出したということになる。それが、どうしても納得出来なくてね。

 

 スパイの世界には詳しくないが、彼らにとって正体の露見は、最も避けたい事態のはずだ。スパイ本人は勿論、その背後にひそんでいる者たちへのダメージも大きい。場合によっては組織が法的に罰せられたり、多額の賠償金を請求されてしまったりする可能性だってある。だから、スパイを送り込む者たちは、正体の隠蔽に全力を尽くす。そのはずなんだ。

 

 ところが、きみを男装スパイとして送り込んだ何者かたちは、このクオリティの変装で良しとした。決して正体がばれてはいけないスパイを、素人目にも危うい恰好で送り込んできたんだ。それはいったい、なぜなのか? この矛盾に対する答えが、どうしても考えつかなかった。ゆえに私は、シャルル・デュノアはスパイに違いない、という確信を持つことが出来なかったんだよ。

 

 ……ここまでが、昨日以前に私が考えていたことだ。ここから先は、シャルロットさんのいまの話を聞いて、改めて思ったことを話すよ」

 

 シャルロットの口から事の次第を聞かされて、鬼頭が最初に感じたのは疑問だった。彼女の語った背景情報と、実際の活動との間に、著しい乖離、矛盾点が見出されたためだ。

 

「シャルロットさんはさっき、男装の目的は二つある、と言ったね? 広告塔としての役割と、私たち男性操縦者をターゲットにした情報収集。私はここに、二つの矛盾点を見出した。

 

 まず、広告塔としての役割を果たすためには、とにかく目立たなければない。広告とは衆目にさらされてはじめて機能するもの。ひっそりと目立たない広告なんてものに、意味はない。メディアからの耳目を常に意識し、自らの存在を強くアピールする。広告塔には、そういう活動が求められる。

 

 その一方で、スパイに求められるのは、目立たないことだ。周囲の景観に溶け込み、誰にも気づかれることなく、目当ての情報を集める。活動の方向性としては、まったくの正反対だといえる。

 

 これは、大きな矛盾だ。広告塔としての役割を果たそうとするほどに、スパイとしての活動がやりにくくなる。逆に、スパイとしての仕事に徹してしまうと、広告塔としてはまったく機能しなくなる。アルベール・デュノア氏や他の重役たちは、こんな素人でもぱっと思いつくような矛盾に気づかないで、きみを男装スパイとして送り込んだのだろうか? シャルロットさんの言うように、もう後がないと追いつめられている企業の上層部が、そんな冷静さを欠いた判断や決断を下したのか? 窮地のときこそ、慎重さが求められるのに」

 

 一夏とシャルロットは顔を見合わせた。互いに、相手の戸惑った顔が視界に映じる。

 

 鬼頭の言う通りだ。広告塔とスパイとでは、求められるものが違いすぎる。

 

「仮に、デュノア社上層部が冷静な判断を下せないほどに混乱しているのだとしたら、今度は、二つ目の矛盾点がこの考察の足を引っ張る」

 

 鬼頭の言葉に二人は、はっ、として、目線を彼に戻した。

 

「やはり、広告塔という点についてだ。これは、私の知る限り、という前置きをした上でのことなんだが、広告塔というわりに、デュノア社がきみをそういうふうに宣伝した形跡がまったく見られない」

 

 鬼頭は右手中指に嵌めた金色のリングを左手の人差し指で軽く撫でさすった。

 

 待機状態の『打鉄』がインターネット回線に接続。空間投影式のディスプレイを何枚も出力し、それぞれに、各種の検索ブラウザを表示する。鬼頭はそれら検索バーに、『三人目の男性操縦者、デュノア社、公式発表』と、様々な言語で打ち込んだ。結果はいずれもネガティブ。デュノア社から、男性操縦者を発見したことや、その人物を自社の専属パイロットとしているなどの情報を発信した記録は、インターネット上のどこにも見られなかった。

 

「シャルロットさんがIS学園にやって来たあの日より以前も、またそれ以後においても、そういったログがないんだよ。いま、巷間に出回っている第三の男についての情報は、この学園内を震源とするものばかりなんだ」

 

 すなわち、シャルロット自身の口から語られた内容を他の生徒がSNS上に発信したり、母国の高官に報告した内容が漏出したり、といった結果。肝心のデュノア社からの公式発表ではない。

 

「デュノア社がきみの言うように追いつめられていて、切羽詰まった挙げ句に冷静な判断が出来ない状態できみのことを送り出したのだとしたら、もっとなりふり構わず、きみのことを宣伝していなければおかしいんだよ。それをしていない。これもまた、大きな矛盾だ。

 

 矛盾点が一つだけなら、私の考えすぎ、と納得出来ないこともない。だが、二つとなると話は別だ。こんなにも不合理を抱えた話は、ありえない。

 

 ありえないということは、嘘の話だということだ。そして、話の中にたった一つでも嘘を見出してしまった以上は、シャルロットさんが聞かされたアルベール・デュノア氏の話には、他にも嘘がある可能性を疑わなければならない。例えば、そもそもの背景事情……デュノア社は、本当は経営危機になんて陥っていないのではないか、といった可能性をね」

 

 空間投影式ディスプレイを閉じると、鬼頭は右手の人差し指を立てて二人の前に突き出した。

 

「それからもう一つ。他の何にも増して、考えなければならないことがある。アルベール・デュノア氏をはじめデュノア社の重役たちが、シャルロットさんに嘘をついた理由だ」

 

 人が嘘をつく際の心理には、一般に二つの状況が想定される。一つは、誰かに知られると自分に不利益が生じてしまう“真実”がある場合。それを知られたくないから、隠すための嘘をつく。もう一つは、その嘘を相手が信じることで自分に利益が発生する場合。利益の最大化を目指して、巧妙にほら話を造形する。

 

 どちらにせよ、アルベール・デュノアらがシャルロットに何か隠し事をしているのは明らかだ。それはいったい、何なのか。

 

「アルベール氏がシャルロットさんに嘘をついた理由は、彼らの本当の目的と結びついている公算が高いと思うんだ」

 

「本当の目的?」

 

「嘘をついてまで、シャルロットさんをIS学園に送り込んできた。それも、男性操縦者と身分を偽らせてまで。彼らがそうまでしてやろうとしていること、それは何なのか? そしてそれは、何のためなのか? そういう話さ」

 

 アルベール・デュノアの真のねらいは、シャルロットが語ったような、広告塔や、第三世代機の情報収集などではない。だから、あんなクオリティの変装を見てもゴー・サインを下した。そもそもの目的が違うから、正体の露見を恐れる必要がなかった。

 

 あるいは、ばれても問題ないとさえ考えていたのではないか。確信に満ち満ちた表情で、鬼頭は言う。

 

「考察には材料が必要だ。デュノア社は本当に苦境に立たされているのか。アルベール・デュノアとはどんな人物なのか。相手の思考を読み解くには、そういった情報を集め、整理し、分析する必要がある」

 

 鬼頭は、ちら、と目線を左手にやった。ボーム&メルシエのクリフトン・ボーマティックが、夕食時を知らせている。

 

「本題に入る前に、少し話しすぎたね。続きは、夕食を摂ってからにしよう。……ああ、そうだ」

 

 鬼頭はふと思い出した様子で二人に言った。

 

「二人とも、甘辛い唐揚は好きかい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chapter41「嘘」了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事件当日――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドイツ連邦共和国第三の都市ミュンヘン。

 

 この日、ミュンヘンは朝早くから街全体が異様な熱気に包まれていた。

 

 いまから五時間後の午前十二時、街の中心部から北に五キロメートルの旧オリンピック公園に設けられた特設会場にて、第二回IS世界大会の決勝戦が行われるためだ。

 

 対戦カードは、大会二連覇が懸かる日本代表・織斑千冬と、前回大会での雪辱戦に闘志を燃やすイタリア代表・アリーシャ・ジョセスターフ。

 

 この一戦が決着する瞬間、世界最強の女傑が誕生するそのときを見るために、ミュンヘンの街には世界中から観光客が集まっていた。ミュンヘンの人口はおよそ一五〇万人だが、この日に限っては、昼間人口は二五〇万人をゆうに超えていただろう。彼らは試合が始まる何時間も前から会場への移動を開始し、街のいたるところで、渋滞や、行列を形作っていた。

 

 喧噪に叩き起こされた住人たちは、はじめのうちこそ不満の言葉を口ずさんでいた。しかし、さすがは観光都市で生きる者たち。すぐにカーニバルの雰囲気に順応した。いつもよりも早い時間に店を開き、興奮から財布の紐が緩くなっている観光客たちに向けて、普段よりも高い値段で商品やサービスを提供する。特に盛況だったのが飲食の店で、とりわけ店内に大型のモニターを持つ店には、老若男女が集まった。それらの店は、決勝戦の観戦チケットを手に入れられなかったが、試合の空気感だけでも味わいたいとこの街にやって来た者たちにとって、恰好のたまり場として機能した。

 

 ハンス・ブルックハルト上級巡査の認識下で最初の事件が起こったのは、左手首に巻いたジンのダイバーズウォッチが、午前七時十分を指したときのことだった。

 

 場所はマクシミリアン通り、市電19番線の駅のプラットホーム。突然、電車を待つ行列の中から女性の甲高い悲鳴があがり、尻を触られたと痴漢被害を訴えた。

 

 容疑者の男は懸命にかぶりを振った。突然、後ろから背中を押され、結果として触ってしまっただけだ。故意ではない。女尊男卑の時代に、彼の反論は退けられた。駆けつけた四人の警察官は、男をパトカーの後部座席へと放り込んだ。その一方で、被害者の女性に対しては、「これから試合を観戦する予定がある」という事情を汲み取り、事情聴取はその場で簡単すませて見送った。勿論、詳しい話は後でうかがうからと、連絡先は提出させたが。

 

 ともあれ、この痴漢事件のために、駅周辺からは見回りの警官が四人いなくなった。これを補うために、別の場所……バイエルン州立歌劇場の周辺を警邏していた警官が二人派遣されることになる。

 

このとき、事件の現場となった市電の駅から西に八〇〇メートルほどの位置にあるプロムナーデ広場にいたハンスは、ちょうどその付近を見回っていて事件のことを知ったライナーからの連絡に顔をしかめた。

 

 ブルーのスーツジャケットのポケットに忍ばせているスマートフォンとワイヤレスイヤホンをつなげた彼は、通りを隔てた向こう側に建つ最高級ホテル……バイエリッシャー・ホーフを睨みながら言う。

 

「どう思う?」

 

『……まだ判断は出来ない。たしかなことは、この痴漢事件のせいで、このミュンヘンの中心街から警察官が四人消え、警備の薄いポイントが二箇所発生したということだ』

 

「背中を押した相手というのは?」

 

『まだ見つかっていない。今日はどこもかしこも人混みだらけだ。発見は困難だろうな』

 

 ハンスは頷くと、ライナーに引き続き情報を集めるよう指示した。通話は切らないまま、油断のない眼差しを周囲に向ける。

 

 第二回IS世界大会も今日が最終日。『ファントム・タスク』の奴らが何か事を起こすとしたら、今日しかない。

 

 敵の狙いは試合観戦のために各国から集まった要人たちの誰か、とにらむハンスらは、彼らが利用する公算の高い高級ホテルが集中しているエリアを重点的に見回っていた。すなわち、ミュンヘンを代表する三つの最上級のホテル……ケンピンスキー・ホテル・フィーア・ヤーレスツアイテン、マンダリン・オリエンタル、バイエリッシャー・ホーフを各頂点とする、二等辺三角形の範囲だ。ハンスは自らも含むGSG-9の精鋭十名を、このエリア内に分散配置した。各頂点に二名ずつを置き、残る四名が三角形の内側を見回る防衛計画だ。ハンス自身は、別のポイントで待機しているもう一人とともにバイエリッシャー・ホーフとその周辺を見張っている。この十人はスマートフォンの同時通話アプリで常に連絡が取り合える状態を維持し、一朝有事の際には十分以内に集結出来る態勢を取っていた。

 

 ミルク色の高級ホテルを睨むハンスのもとに、二つ目の事件の知らせが届いたのは僅か五分後のことだった。ハンスのいる場所から四〇〇メートル南南東に位置するペーター教会前の広場で、連続した破裂音が鳴り響いた。

 

 すわ、爆弾テロか!? 辺りは一瞬、騒然とし、すぐに八名からの警官隊が駆けつけた。原因は即座に判明した。空き缶の中におもちゃの爆竹花火を詰めた物で、現場に転がっていた黒焦げの空き缶からは悪意が感じられた。観光客を驚かせるための悪質ないたずらだ。

 

 同じ物が他にもあるかもしれない。警官たちは現場を封鎖するとともに応援を呼んだ。教会の前にはさらに六人がやって来て、動揺著しい観光客たちへの説明と、現場検証を開始した。これで、この一四人はしばらくの間、教会の前から身動き出来なくなった。彼らの穴を埋めるため、他の方面からまた新たに警官が派遣された。

 

 二件目の報告の後も、事件は立て続いた。一件々々は数人の警察官を派遣すれば事足りる規模の事件だ。しかし、短時間のうちに連続して起こったことで、警備力は着実に衰弱していった。ハンスの時計が午前九時を示した時点で、認知件数は合計八件、捜査のために警備任務に参加出来なくなった警官は四十人に達した。

 

 四十人もの警官戦力が実質的に失われた影響は大きかった。彼らの不在をカヴァーするには、他のポイントを守っている警官をそちらへと引き抜く必要がある。しかしそうすると、その人数分だけ警備の網目は粗いものになる。二人で見回っていた場所を、以後は一人で守らなければならなくなるわけだから、一人あたりの負担は増し、その分だけ疲労も増える。そして疲労は、ミスや、注意力の欠如といったことの原因となる。

 

 ――『ファントム・タスク』の攻撃はすでに始まっている。一連の事件は、こちらの戦力をばらけさせるための陽動作戦に違いない!

 

 遠からず、本命の一撃が放たれるはず。

 

 それを決して見逃すまい、と、ハンスはワイヤレスイヤホンのマイクに向かって鼓舞の言葉を呟いた。

 

 そのとき、白亜の建物の前に一台のバンが滑り込み、駐車した。清掃業者の看板を掲げたフォルクスワーゲンだ。モップやら何やらのリース品の交換作業にやって来たのだろう。作業服を着込んだ二人組の男が運転席と助手席から降り、スライドドアを引いて、車内から大型の台車と、やはり異様に大きなポリバケツを引っ張り出す。

 

 作業の様子を見つめるハンスの目線は鋭かった。フォルクスワーゲンがホテルの正面で停まったことに、違和感を覚える。

 

 ――バイエリッシャー・ホーフは五つ星のホテルだ。こういう高級ホテルでは普通、業者の車は客の目に留まらないよう裏側とか、目立たない場所に停めるよう指示があるものじゃないのか?

 

 少なくとも、ここ数日でハンスが監視していた範囲内で見た出入りの業者はみなそうしていた。決勝戦当日の朝、この日にやって来たあのフォルクスワーゲンだけが、例外的な行動を取っていた。

 

 二人組は清掃用具一式を台車に乗せると正面玄関へと近づいていった。

 

 ハンスはワイヤレスイヤホンのマイクに向けて静かに言い放った。

 

「各員へ。緊急の事態だ。ちょっと、気になる事案が発生した」

 

『何があった?』

 

 みなを代表して、ライナーが訊ねた。

 

 ハンスは言葉短く応じる。

 

「出入りの清掃業者だ。いま、ホテルに入館したんだが、振る舞いに、どこか違和感を覚える」

 

『具体的には?』

 

「高級ホテルに出入りしているわりに、しつけがなっていない」

 

『なるほど』

 

「後を追う。俺もこれからホテルに入る」

 

『わかった。俺たちはどうしてやるといい?』

 

 見回りを担当している四人は、どう動くのがよいか。ハンスは間髪入れずに答えた。

 

「念のためこっちに来て、ホテルの周りをかためてくれ。出来れば誰か、車を持ってくるよう頼む」

 

 通話を打ち切ると、ハンスは右手で左脇のあたりを、ぽん、と軽く叩いた。厚手のジャケットの下に隠した、ショルダーホルスターに差した拳銃の感触を確かめた後、彼は二人組の背中を追って歩き始めた。歩きながら、そういえば彼らが台車に載せていたポリバケツは、膝を折り畳めば成人男性一人がぎりぎり入るくらいの大きさだったな、と考えた。

 

 

 

 

 桜坂と桐野美久がホテル・プラッツルを発ったのは午前九時を少し回ってからのことだった。目的地は勿論、第二回IS世界大会の決勝戦が行われる会場だ。試合開始は三時間後だが、会場に辿り着くまでと、辿り着いてから入場手続きをパスするまでにはきっと時間がかかるだろう、として、早めに出発したつもりだった。

 

 ホテルを出てすぐその考えは甘かったと思い知らされた。

 

 見渡す限りの人、人、人の群れ。

 

 車道では大小様々な車が隊伍を作り、ゆったりとした足取りで北の決戦場へと向かっている。

 

 この様子では、シャトルバスや地下鉄といった公共交通機関の混雑ぶりもかなりのものだろう。

 

 あたりを、ぐるり、と見回して、ベージュのトレンチコートを着込んだ桜坂は、「しまったなあ」と、溜め息まじりに呟いた。薄い唇から漏れ出る吐息が白い。ドイツは日本よりもかなり北に位置し、南部のここミュンヘンでさえ北緯四八度に達している。北緯四八度といえば北樺太のあたりだ。すなわち、一年の全期間を通して、北海道よりも気温が低い。

 

「もう少し早くから行動を起こすべきだったか」

 

「どうしましょうか?」

 

 こちらもニットのカーデガンを羽織った冬の装いの美久が訊ねた。左手のシチズンを、ちら、と見て、どんな移動手段ならば試合の開始時刻に間に合うだろかと思案する。

 

「タクシーは間に合いそうにないですし」

 

「この渋滞じゃあな。バスもちょっと厳しそうだ」

 

「では、Uバーン(地下鉄)?」

 

「ううん。それもなあ……」

 

 アリーナが建設されたオリンピック公園は、桜坂たちのいるミュンヘン中心部と地下鉄で結ばれている。地上の渋滞に悩まされない分、到着までは早いだろうが、それも首尾よく車輌に乗り込むことが出来れば、の話だ。駅構内にはすでに順番待ちの列が出来上がっているはず。いったい、どれくらいの時間待たされることになるやら。それに、無事に乗り込めたとしても、移動中は満員電車での移動を強いられることになるだろう。到着する頃には、へろへろで観戦どころではない精神状態に陥っている公算が高かった。

 

 ――会場までは直線五キロメートルちょっと。俺一人、あるいは鬼頭と二人なら、歩いて行ってもいいんだが。

 

 この寒空の下、女の美久の足腰を一時間以上も酷使させるのは憚られた。

 

 さて、どうしたものか、と仁王の顔立ちが険しさを増す。

 

 やおら桜坂は店を仰いだ。乳白色の空を眺めながら、ぽつり、と呟く。

 

「きみを担いで飛んでいくか」

 

「はい?」

 

「いや、駄目だな。今日はさすがに、空が騒がしすぎる」

 

 不意に思い浮かんだアイディアを、かぶりを振って払い捨てた。

 

 今日、この街で行われるのは、ISという飛行パワードスーツを使った大会だ。万が一の事故を警戒して、航空監視の眼差しは平時よりもいっそう厳しいと考えてよいだろう。そんな空を飛ぶ勇気は、自分にはない。

 

 そのとき、二人の目の間に広がる通りを、一台のバンが南に向かって走り抜けていった。車体の側面に清掃会社の社名と連絡先がラッピングされたフォルクスワーゲンだ。北のアリーナへ向かう道は渋滞しているが、反対方向への道は比較的空いている。バンは時速三十キロメートルほどのスピードで車体を揺らしながら進み、すぐの交差点を右に曲がって西へ姿を消していった。

 

 桜坂の顔を見上げる美久の表情が硬化した。

 

 フォルクスワーゲンが走り去っていった方向を、剣呑さを宿した眼差しで睨み続けている。

 

「天使様?」

 

「……いまのバン」

 

「はい」

 

「俺の気のせいだろうか。火薬の臭いを感じた」

 

 超人の顔つきが、そこにあった。かつて、中学生の自分を助けてくれた、天からの使者。ひと蹴りで自らを数十メートルの高空に移動させ、着地の衝撃にもひるまない鋼鉄の肉体の持ち主。人間には知覚のできない世界を正しく認識し、行動を起こせる地上唯一の男。

 

 美久の大好きな男の顔が、そこにあった。

 

「清掃業者がなんで火薬なんて持っているんだ?」

 

 ドスを孕んだ呟き。

 

 自然と思い浮かぶのは、いまより五十年の昔にこの街で起きた事件だ。あのときは、テロを起こした犯人を含む十七人が犠牲になったと記憶している。

 

 桜坂はかたわらに立つ美久を見下ろした。

 

 何かを期待するような眼差しが、真っ直ぐに自分を見据えてくる。

 

 黒炭色の双眸に、闘志の炎が決然と燃え上がった。

 

「……面倒事に発展する前に、解決しておくか」

 

 忌々しげに唇を歪めながら言うと、美久は破顔した。

 

 それでこそ私の信じる天使様です。そう言わんばかりの笑顔だった。

 

 

 

 

 

 




今回、三年前のドイツでの様子を書くにあたり、桜坂たちの服装をどうするかで悩みました。

季節をいつに設定し、その環境下でのそのキャラ“らしい”装いを考える必要があったからです。

参考になるかもと、久しぶりにアニメ版のIS第一期を視聴。さて、このときさらわれた一夏の服装は……学ランに、冬服かぁ。誘拐犯たちは、普通にビジネススーツ……うん。季節の想像がしづらい。


厳密には決めず、ふんわり秋冬のどっか、あたりを想定することにしました。






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