魔砲使いになった理由 (タニアホテル)
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プロローグ

 通学鞄を背負った少女、高町なのはは目の前に止まったバスに乗り込んだ。そして後部座席に視線を向けると、にっと嬉しそうに口角を上げ、茶色のツインテールを揺らしながら足を進めた。

 

「おはようアリサちゃん、すずかちゃん!」

「おはよう。今日も元気いいわね」

 

 眠そうだった表情を笑みに変えたアリサ・バニングス。大企業の一人娘。金糸を思わせる長く綺麗な髪と左右からちょこんと飛び出している短いツインテール。そしてエメラルド色の澄んだ瞳をしている。家がでかい。

 

「おはよう、なのはちゃん。今アリサちゃんが早くなのはちゃんに会いたいって泣きべそかいてたところなんだよ」

 

 月村すずか。なのはのもう一人の親友。腰まである少しウェーブの掛かった谷町線京紫色の髪に純白のヘアバンドをしている。親は工業関係の製品を作ってる会社の社長。家がでかい。

 2人とも、なのはと同じ海鳴市に住む小学3年生だ。

 

「ちょっとすずか! 嘘言わないでよ!」

「え、嘘なの? アリサちゃん……私と会いたくなかったの……? 私は早く会いたかったのに!」

 

 なのははわざとらしく悲しげに言った。

 

「はいはい私も早く会いたかったわなのは」

「アリサちゃんひどい。そういえば私ね、すごくリアルな夢を見たんだよ!」

 

 親友達との何気ない会話、いつもと同じ見慣れた登校風景。なのははなんだか急に嬉しくなり笑みがこぼれた。

 そんな嬉しさもつまらない授業が始まってしまえば消えてゆく。

 

「それでは、将来の夢について作文を書いてきてください。今回の皆さんへの宿題です。忘れずにやってきてくださいね」

 

 しかも宿題まで出てマイナスだ。

 

「作文やだなぁ。はぁ……やだなぁ」

 

 心の底からやりたくなかった。考えただけで憂鬱になった。そもそも何と書けばいいのかも全然わからない。そして将来の夢。なのはは大人になるのはまだまだずっと先のことだと思って気にもしていなかった。一体自分は何になりたいのか。一体自分は何をしたいのか。考えてみるがさっぱり思い浮かばなかった。

 ふと、家の喫茶店を継ぐことが思い浮かんだが、その姿はぼんやりしていて中々想像できなかった。

 

「あぁ、やだなあ作文。やりたくないな作文」

 

 なのはは机に突っ伏しながら頭をぐりぐり動かし、泣きそうな声で言った。どんよりと亡霊のように項垂れていると、そこへアリサとすずかがやってきた。 

 

「なのは、お昼ごはん食べましょう? って何でそんなに辛気臭い顔してるの……。朝の元気はどうしたのよ……」

「何か悩み事でもあるの?」

「うん、作文がね、作文という呪いがね、私を不幸にするの。状態異常だよすずかちゃん」

 

 なのはの感情の起伏に呆れるアリサと心配顔のすずか。そんな二人に弁当を取り出しながら世界の終わりのような顔で答える。なのはは、自分の頭上には縦線が浮かび上がってるに違いないと確信した。

 

「ふむふむ、なるほど。それは困ったわね。ま、とりあえずお昼取りましょう」

 

 アリサは極めてテキトウに流した。

 3人は屋上に移動してベンチに腰かけた。

 どこまでも高い青い天井は、なのはの心境とは真逆に清々しい。そして「ハハハ、その程度のことで悩んでいるのかい? 全く、矮小な人間め。見たまえこの僕を! この素晴らしくファンタスティックでダイナミックでエレガントでアメージングな青を! キミも僕のようになりたいだろ?なりたいに違いないっ! ハハハ」と笑っているように感じられた。

 

「それで、なのはちゃんは作文の何について悩んでるの? 内容? 書き方?」

「どっちも。私、将来どんな仕事に就きたいとか考えたこともなかったの。それで、考えてみたんだけど全然浮かばなくて。計算が得意って言っても他の教科に比べたらだし、特別好きなわけでもないし……。私にできることもないし……作文嫌いだし」

 

 なのはは溜息をついてから続けた。

 

「今まで考えてこなかったから気づかなかったけれど……私って何にも良いところがないや……あいひゃひゃん? っ……いひゃいっ。あいひゃひゃんいひゃいよ!」

 

 アリサはなのはの前に立つと両頬を摘まんだ。しかも割と強い力で引っ張られて思わず涙目になった。

 

「ネガティブになりすぎよなのは。なのははこんなにもやわらかいほっぺ持ってるじゃない」

「そうだよ、なのはちゃん。そのままだとどんどん悪いことばかり考えちゃうよ。それに私たちはまだ子供なんだから何もなくて当たり前。これから増やしていけばいいんじゃない? 好きなこととか得意なこととか……あとは、やりたいこととか、できること? なのはちゃんなら大丈夫、できるよ! 多分。私はそう信じてるの」

 

 アリサは頬から指を離し、今度は掌で顔をむぎゅっと挟みながらなのはの顔を真正面から覗き込んだ。なのはの口はたこちゅうになっていた。

 

「なのは自身が自分を信じないのになのはのこと信じてる私達はどうすればいいのよ。無理やりにでも自分を信じるの。絶対できる見つけられるんだって。全てはなのは次第でどうにでも変われるのよ」

「うん、うん、ありがとうアリサちゃん、すずかちゃん! 私、がんばる!」

 

 二人の言葉に、真摯さに胸が熱くなる。まさかこれほどまでに2人が自分を思ってくれているとは想像もしていなかったのだ。自分はなんて素晴らしい親友を持ったのだろう! なのははもう何があってもがんばれる気分と高揚を感じていた。

 

「まぁ、私もなのはと同じ歳のガキンチョのくせに何知った風な口利いてんのよって話だけどね。そして最後のは本の受け売りだけどね」

 

 そうアリサはおどけたように言う。

 

「ううん……そんなことないよ。ありがとう」

 

 2人とも大好きだ。なのはは胸の中で感涙した。

 その時アリサがもう耐え切れないとばかりに笑い出した。

 

「なのはは可愛いわね。たこみたい」

 

 なのははハッとしてアリサの手を除けると「アリサちゃんのバカあ!」とアリサの肩を掴んで激しく揺すった。そしてすずかの隣に座り、私怒っています、というようにアリサから顔を背けた。

 

「ごめんごめん。作文最初の3文字だけ書いてあげるから許して」

「すずかちゃん、食べたら何する?」

「ごめんってば、だから無視しないで! お願いしますなのはさん!」

 

 なのははアリサの様子に思わず笑みを浮かべていた。もうすっかりいつも通りだった。

 

 

 

 

 学校帰り、2人と塾に向かう途中のこと。

 アリサ曰く塾への近道だという林道を通ることになった。その時、なのはは少年の声を聞いた。しかし、それは2人には聞こえなかったようだ。

 空耳じゃないという確信はあった。もしかして幽霊かもしれない。そんな考えが浮かんだ。しかし霊感など無いからおそらく違うだろう。そう思い直すと、今度はもしかして自分には秘められた謎のパワーがあり、それに反応したから私にだけ聞こえたのかもしれないと考えた。それも途中であほらしくなって思い直した。

 なのはは訝しげな顔をする2人をそのままに、とりあえず声が聞こえた方向に走った。だが、そこに人影は一つもなかった。その代わりに、首に丸くて赤い宝石をつけたフェレットが地面に横たわっていたのを発見する。

 

「フェレットさんだ! かわいい! ……触りたいけど病気とかあったらどうしよ。でも怪我してるみたいだし」

「ちょっといきなり走らないでよ。何見てるの?」

 

 追い付いてきた2人もフェレットに気が付く。3人はフェレットの前にしゃがみこむと、どうしようかと話し合った。その結果、そのままにするのも可哀想ということで動物病院で診てもらうことにした。

 

「怪我は酷くないみたいだけど……かなり衰弱してるみたいね。とりあえずこの子、明日まで私の方で預かっておくわ。明日また来てくれるかな?」

 

 3人は院長先生にお礼を言うと、動物病院を後にし急いで塾へ向かった。そして塾でフェレットを誰が預かるかについて話し合った。

 アリサは犬を飼っていて、すずかは猫飼っているから飼うのは難しいとのこと。そこでなのはが家で預かれるか聞いてみることになった。

 家に帰ると、なのはは夕飯時に事情を話して聞いてみることにした。

 

「それで、しばらくそのフェレットさんを家で預かりたいの」

 

 3児の父親にしては随分若く見える高町士郎は腕を組んで唸る。

 

「フェレット!? いいねいいね! 預かろう!」

 

 丸眼鏡に三つ編みおさげの、見た目どこか知的な雰囲気の高町美由希は、とても乗り気で目を輝かせている。可愛いものに目がないのだ。

 クールな高町恭也は、そんな美由希に苦笑いしながら「落ち着け」と言った。

 

「大きさはこのくらいなんだ」

 

 フェレットを思い浮かべながら両手でおおよその大きさを伝える。

 

「フェレットか……。フェレットねぇ……」

 

 父、士郎は目を閉じ腕を組むと悩ましい声をあげた。

 やはり飲食関係の仕事をしているからだめか、となのはが諦めかけた時、士郎と同じく驚くほど若い、なのはをそのまま成長させたかのような容姿をしている高町桃子が士郎に言葉をかけた。

 

「なのはがちゃんとお世話できるなら良いんじゃないかしら士郎さん? それにしばらく預かるだけのようですし」

 

「そうだな! 恭也と美由希もそれでいいかい?」

 

 さっきまでの悩ましげな態度は何だったのか。ただの悩むふりだったのではないか。士郎は桃子の言葉を聞いた瞬間パッと目を開き即断した。

 士郎に尋ねられた二人は異議なく同意した。

 

「皆いいみたいだ。よかったな、なのは」

「うん! ありがとう!」

 

 なのはは満面の笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 寝る前にフェレットを預かれることになった旨を二人にメールで伝え終わると、なのはは布団にもぐりゴロゴロした。

 

「フェレットさんかわいかったな。あぁフェレットさん……どうしてキミはそんなにフェレットさんなッッ……!」

 

 なのはの頭の中がフェレットで満たされようとした瞬間、何かが頭の中を駆け抜ける感覚と共に、昼に聞いた少年の声が聞こえ飛び起きた。

 

「幽霊!? もしかして今日フェレット見つけた時に取り憑かれちゃったの!? いやいや、ここはやっぱり私に秘められた謎のパワーに……ってそんな場合じゃないよ! どうしよっ!?」

 

 ベッドの上に座り込んだなのはは、近くにあったクッションをむぎゅっと抱きながら一人混乱していたが、一先ず落ち着いて声を聞いてみることにした。

 その内容は力を貸して欲しいというもので、とても切羽詰っている様子だった。声の方向もこの辺りからではなく動物病院の方向からのような気がした。

 なのはは力を貸してあげたいのは山々だったが「私、力ないんだよなぁ」と呟くと左腕を曲げ力こぶを作る仕草をして、右手でその程を確認する。もちもちぷにぷにだった。

 困っているのなら助けてあげたいが、助けてあげられるかどうかわからない。しかしそれは行ってみなければわからない。

 なのはは悩むことを止め一つ頷いた。そしてベッドから飛び降りると急いでパジャマから着替え、家を抜け出し動物病院を目指し走った。

 走ったはいいがとんでもなく疲れることに気が付いた。百メートル程度走っただけで息が切れる。もう歩いてもいいだろうか。そんな考えが途切れることなく浮かぶが、急がなければいけない雰囲気だったことを思い出しなんとか耐える。その速度はもはや歩いているのとほとんど変わらない。

 そしてついに諦めた。

 

「あぁ! もうダメ……息が、苦しい! 自分の体が……恨めしい! 今度からは……絶対自転車にする!」

 

 激しく息を切らすなのはは、せめて早歩きでいくことにした。

 あと少し。角を曲がれば動物病院の入口が見える。そして角を曲がった。

 その直後、なのはは心臓が跳ね上がると同時に息を呑んだ。見間違いかと一瞬思った。ナニカがいる。道に黒いなにかが確かにいるのだ。なのはの倍以上はあるかと思われる真っ黒な剛毛で覆われた巨大で丸い体。左右から伸びた踊り狂う2本の触手。その黒いなにかは病院入口前の街灯に照らされて佇んでいた。異形の化け物であった。

 なのはは呼吸することを忘れた。心臓が早鐘のごとく鳴り響く。蝋人形にでもなってしまったかのように体が動かない。まるで黒い化け物に気づかれぬよう自分を風景の一部にでもしようとしているかようだった。

 逃げろっ! 脳の警鐘は大音量で鳴り響いている。

 そんななのはの気持ちを読み取ったのかのように、黒い化け物はズルリという地面と擦れる音を響かせて旋回すると、なのはと向かい合った。獲物を前にした肉食獣を彷彿させる赤い両目と、逃げ場を失った草食動物を彷彿させるなのはの両目。思考が止まる。もはや逃げるという考えすら思い浮かばない。いや、あまりのことに現実味を感じられなくなってしまったのだ。画面越しに見ているような、夢を見ているような、ふわふわした感覚。

 そうだ。これは夢に違いない。今朝だって同じような夢を見ていたじゃないか。きっといつの間にか寝てしまったのだ。朝になったらまた、今日怖い夢を見たと2人に話そう。

 そんなことを考えていると、黒い化け物は予備動作無しに飛び掛かってくる。ビクッと一瞬だけ体が無意識に反応した。だがそれだけだった。あっという間に近づいてくる黒い化け物を目で追う。

 ぶつかった。身体がバラバラになるかのような強い衝撃。恐怖はもうない。

 

 

 

 

 目覚ましが鳴る。その音になのはは飛び起きた。そして、わけが分からないという様子で周りを見渡し、ここが自室であることに気が付くと、再びベッドに身を横たえ深く息を吐いた。

 

「やっぱり夢だったんだ。良かったぁ」

 

 そう呟き気持ちを落ち着かせ、ようやく目覚ましを止めた。

 なのはは先ほどの夢を振り返る。それはとてもリアルな夢だった。感覚が残っているくらいリアルな夢だった。自分に襲いかかってきた黒い化け物……思い出すだけで身震いした。

 

「もしかしてあいつに呼ばれたのかな……。そしてまんまと罠に嵌ったとか? でもそうだとしたら声が可愛すぎるよね」

 

 なのはは、これが所謂”ぎゃっぷもえ”というやつなのかと、難解で、複雑怪奇で、底知れない奥深さを持った”萌え”を前に愕然とするのだった。

 そんな風に自分の世界に浸っていると、不意に扉越しから美由希の声がかかった。

 

「なのはー、いつまで寝てるのー? 早く起きないと遅刻するよ?」

 

 思っているより時間が経っていたようだ。

 なのはは「にゃ!?」と驚きの声をあげ、慌ててベッドを抜け出し制服に着替えた。

 

「今起きるー!」

 

 どたどたと騒がしく部屋を飛び出すと、いつもより急いで朝食を取り家を出た。

 

「おはようアリサちゃん、すずかちゃん!」

「おはよう。今日も元気いいわね」

「おはようなのはちゃん。今アリサちゃんが早くなのはちゃんに会いたいって泣きべそかいてたところなんだよ」

「ちょっとすずか! 嘘言わないでよ!」

 



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あれは正夢

「……ねぇアリサちゃん、すずかちゃん。昨日も全く同じ会話しなかったっけ?」

 

 二人とも態とやっているのだろうかとなのはは首を傾げた。

 

「え? そうだったっけ? 気のせいじゃない?」

「きっとデジャブってやつだよなのはちゃん。私も時々あるもん。あれ? これ前に見たことあるかもっていうときが」

 

 気のせい? いや、確かに同じ会話だったはず。そう考えてみるものの、思い出そうとすればするほど自信がなくなってくる。なのはは唸ったが「そんなことより夢について聞かせてよ」と、アリサに促されたこともあり、まあいいかと答えを諦めた。

 

「……その声を辿るとねフェレットさんを預けた動物病院からだったの。それですごい切羽詰った声で力を貸してなんて言うから、動物病院へ向かったんだけど……」

 

 そして顛末を話終わる。思い出すとその時の恐怖が蘇った。本当にあれは夢なのかと疑ってしまうほど鮮明に。なのはは、その時ものすごく怖かったことを身振り手振り、そして効果音まで加えて必死に伝えた。そんななのはに二人は、子供をあやす時のような優しい笑みを浮かべ、怖かったねと慰めた。

 慰められる事自体は嬉しかった。しかしそこに、自分にとって非常に不名誉な何かを感じ取り、納得いかないと内心で呟き、口を尖らせた。

 

「ところで、なのはってフェレット飼ってたの?」

 

 ぽかーん。なのはの様子はまさにそれだった。

 アリサを見つめたまま動きを止め、質問を反芻してからようやく聞かれたことを理解する。

 

「そんなに見つめられたら恥ずかしいじゃない…」

「えーと……」

 

 どういうことだろうか。からかわれているのだろうか。だが見た感じそうは見えない。つまり、本気で言ってるってことだった。

 そして察しの良いなのはは気づいてしまった。アリサはいよいよ痴呆が始まってしまったのだと。まだ若いのにかわいそうに、そう憐れんだ。そして、そんなアリサでも親友であることに変わりないから大丈夫だと、心の中でアリサに言い聞かせた。

 なのはに見つめられ気恥ずかしくなったアリサは、なのはの頭の中で自分がどんな状態になっているのか露知らず、ほんのりと顔を赤らめた。しかしなのははそれを気にする余裕などなく、いやむしろ自覚の無い風のアリサを見て益々憐れみを強めたのだった。

 なのははとりあえず昨日の出来事の確認をしてみることにした。アリサが傷つかないよう、微笑みながら優しげな声で。

 

「アリサちゃん、私たち昨日塾に行く時、怪我したフェレットを拾ったよね? 覚えてる?」

 

 ぽかーん。アリサとすずかの様子はまさにそれだった。

 

「なのはちゃん、塾は今日だよ? それに私たちフェレット拾ったことなんてないよ? ……よっぽど怖い思いをしたんだね」

 

 すずかは少し困ったような笑みを浮かべながら、聖母のような慈愛に満ちた眼差しを向けながら、なのはにそう言った。

 

「はぁ、いつまで寝ぼけてんのよ。なのは、あなたは見た夢があまりにもリアルすぎて現実とごちゃまぜになってるんだわ」

 

 アリサもまた、すずかと同じく……。

 何かがおかしい。2人の言葉を聞いたなのはは、またもや動きを止め、時間から取り残された。

 察しが良いと思っていた自分こそが間違いであり、しかも夢と現実の区別がつかず勝手にアリサを憐れんでいた。そしてその憐みが今、自分に向けられているこの状況! 大ばか者の所行、なんという道化!

 なのはは、見る見るうちに頬どころか髪の付け根まで赤く染めていく。

 なんということだ! 夜に家を出たところからではなく朝起きた時から既に夢だったということなのか! なのははさっきまでの自分を地中に埋めてしまいたいほどの恥ずかしさに、内心で激しく悶えた。アリサとすずかの視線。まるで、大きくなったら消防車になりたいと言い出した幼い子供を見るかのような、とてつもなく慈愛の篭った、優しく、暖かな視線が、なのはの精神に耐え難いほどの傷を負わせていく。なのはは、そんな目で私を見ないで、と心の中で絶叫した。

 

「……そうかも。あまりにリアルすぎてちょっとだけ混乱してたみたい。ははは」

 

 なのはは羞恥で染まった内心を悟られまいと悠然と返す。しかしリンゴのように真っ赤な顔は、なのはの心境を何よりも物語っていた。

 

 

 

 

「それでは、将来の夢について作文を書いてきてください。今回の皆さんへの宿題です。忘れずにやってきてくださいね」

 

 周りの声など耳に入ってこない。授業内容、風景、会話。どれもなのはは知っていた。これは一体どういうことなのだ。なのははもう何がなんだか分からないと混乱していた。夢と全く同じだった。

 絶対おかしい。これが正夢というやつなのだろうか。もしそうだとすれば、自分は今日の夜、死ぬ!

 

「なのは、お昼ごはん食べましょう? って何でそんなに青ざめた顔してるの……!? 具合でも悪いの?」

 

 気分が悪くて動けずにいるのかと思ったアリサは、慌ててなのはのもとへ駆け寄った。その後にすずかが続く。

 

「アリサちゃん、すずかちゃん、私、夢が死んで正夢が現実なの……」

 

「え? ……えーっと、ちょっと落ち着きましょう。落ち着いてゆっくり話してちょうだい」

 

 なのはは夢で起きたことが全て現実で起こっていて、このままいけば自分は本当に死ぬかもしれないということを伝える。

 

「うーん。普通なら信じ難いんだけど、なのはが言うならそうなんでしょうね。そうだとするならただ待つんじゃなくて何か対策を考えなきゃね」

「……そういえば、たしかなのはちゃんは夢で夜に動物病院へ行ったから、その黒いやつにやられちゃったんだよね? だったら行かなければ良いんじゃないかな?」

 

 なのははハッとする。夢での死が現実になる可能性があるということで頭がいっぱいになっていた。冷静さを失っていた。しかし、アリサの言葉で冷静になり、すずかの言葉で光明を見出したすことができたのだ。なのはの顔色は良くなり瞳には希望の光が宿ってくる。よくよく考えればすぐに気付くことであった。すずかの言うとおり声が聞こえても出かけなければ何も起こらないではないか。

 なのはは、やはり2人は頼りになると胸を熱くさせた。先程の医師に余命宣告された患者のような雰囲気など一切感じさせることなく、笑顔で二人に感謝を述べた。

 学校が終わると、夢と同じようにフェレットを拾って病院へ預けた。なのはは「預かることに関しては家で預かれることになるだろうから多分大丈夫だよ」と2人に伝え別れた。

 もしかすると夢と違い、家では無理だと言れる可能性を考えて少し不安だったが、それは杞憂に終わり無事許しをもらうことができた。

 なのはは湯船に浸かり今日のことを振り返っていた。

 今回フェレットを見つける時、何故か声が聞こえなかった。やはり自分にしか聞こえない声という不思議な現象が現実に起きるわけないのだろうか。しかし、そこまではずっと夢と同じように進んでいた。

 考えてみるが答えはでなかった。しかし、もし夜に声が聞こえても絶対無視しよう。そう決意した。夢と同じ思いはしたくないのだ。

 と、よくよく考えれば、あんな黒いお化けが現実にいるわけないじゃないか、と思いつく。夢と現実を混ぜちゃいけないと、今朝のアリサとすずかの視線を思い出して。それまで考えていたことを追い出した。

 頭がぼーっとし、のぼせてきたことに気付いた。

 

「アッチッチー、ゆでだこゆでだこ…………あがろっと」

 

 風呂から上がると自室のベットに入って目を閉じていたが一向に眠れない。もしかしたら声が聞こえるのではないかと気になるのと同時に、夢での出来事を思い出して目がさえるのだ。

 おそらく声が聞こえた時間を過ぎるまで安心して寝ることはできないだろうと思いながら、なのはは何度も時計を確認していた。

 あと少しで時間だった。聞こえないでほしい。そう願うなのはの鼓動は早くなる一方だった。そんな時、ついに声が聞こえてきた。心積りはしていた。だが体は硬直し心臓はさらに激しさを増す。頭の中で自分の血液の流れが聞こえていた。

 これは罠だ。絶対に行くものか! 頭まで布団を引き寄せ目をぎゅっと強く瞑る。そして声が聞こえなくなって数秒してから、やっと目を開き息を殺し耳を澄ました。

 

「……終わった?」

 

 しばらくたっても声が聞こえないことを確認してからようやく布団から顔を出す。新鮮な空気を吸いながら安堵した。それと同時に罪悪感がこみ上げる。本当にこれで良かったのだろうか。あの必死さは自分を誘うための罠に違いないはずだ。それなのに分からなかった。自分は一体どうすればいいのか。どうすることが正しいのか。なのはは結局答えを出せず、考えているうちにいつの間にか眠りに落ちた。

 

 

 

 

 目覚ましの音で目が覚める。目を開くと自室の天井。いつも通りの朝だった。だがなのはの心はいつもと違い暗い。

 結局答えを出せないまま時間切れになってしまった。そのことがなのはの胸に伸し掛かっていた。なのははそれを払いのけるため、死ななかったのだからこれで良かったんだよ、と自分に何度も言い聞かせ、無理やり罪悪感を塗りつぶす。しかし相変わらず気分は沈んだままだった。

 なのはは親友の二人に昨日のことを話し、その結果胸がモヤモヤしていることも話す。

 

「どの選択が正しかったのかなんて誰にもわからない。知っているとすれば神様くらいじゃないかしら? まぁ、なのはが死なずに、こうして今日も会えるってだけで、私としてはその選択は大正解だと思ってるわ。なのはが死んだら私泣くわよ?」

「私もなのはちゃんが生きてるだけで嬉しい。どれが正しかったのかで悩むのはお門違いだよ。それに選んでしまったものは仕方がない。だからそれを自分の中でどうやって正解にしていくのか、が重要なんじゃないかな?」

 

 2人はいつだってなのはのために真剣に悩んでくれる。励ましてくれる。自分はこんなに思われているのかと思うと元気が湧いてきた。

 

「ま、今言っても遅いけれど、次何かに迷ったら、どれが正解かで悩まず、自分がしたいか、したくないかで選ぶことね。時間切れで、なんてどちらに転がっても後悔するわよ? とは言っても、したいことのためにしたくないことがある場合は我慢ね」

 

 相変わらず自分には思いつかない考え方する。なのはは自分と親友のアリサすずかを比べてみて、自分の稚拙さが嫌になった。しかしそれと同時に、この2人が親友であることに嬉しさと誇りを感じた。

 

「うん、2人ともありがとう! すごく気が楽になったよ」

「いいのよ、なのは」

 

 アリサは笑みを浮かべて手を差し出してきた。

 なのはは首を傾げた。

 

「カウンセリング代金。なのはは大切な友達だから100万円のところを30万円にしてあげるわ。感謝してよね?」

「アリサちゃんのバカあ!」

 

 なのははアリサの肩を掴むと激しく揺すってから、すずかに抱きついた。

 そういえば夢でもこんなことあったなと思い出し、無意識に笑みが浮かんだ。

 

「なのはちゃんそんなに嬉しそうに笑っちゃって。アリサちゃんに構ってもらえてよかったね」

 

 すずかはよしよしとなのはの頭を撫でた。

 

「ちがっ、笑ってないもん!」

 

 なのはは頬を押さえて抗議したが、相変わらず2人はによによ笑っていた。こんな2人だが、なのはにとっていつだって頼りになる大好きな親友だった。

 その日の帰り道、3人でフェレットを引き取るため動物病院へ向かった。しかし入り口に来るとアリサは「なにこれ」とつぶやき立ち止まった。なぜなら昨日までなんともなかった動物病院の壁が一部大破していたからだ。

 なのははすぐに、あの黒い化け物の仕業に違いないと考えたが、口には出さなかった。

 3人はとりあえず中へ入って院長先生に聞いてみることにした。

 

「あ、こんにちは院長先生。昨日のフェレットさん引き取りに来たんですけど……壁どうかしたんですか?」

「こんにちは。うーん、それがね原因がわからないのよ。昨日の夜に壊されたみたいなんだけどね。もう酷いことするわ。それでフェレットについてなんだけど……壊された壁から逃げて行ったみたいなのよ。本当に申し訳ないわ」

  

 なのはは2人と別れた後、夢に出てきた黒い化け物について考えながら家路についていた。

 もしあの声が聞こえた時ここに来ていれば、自分は何かできただろうか。そう考えてみるが、何も出来ず動くことすらできずに殺されてしまったことを思い出し、やはり行かないほうが正解だったと頷いた。

 あの声は自分にしか聞こえない。それは自分をを誘い出すためであったが、自分が行かなかったから黒い化け物は暴れて病院を破壊した。なのはは何の根拠もなく思いつくままに理由付けしてみた。しかし次々と疑問が浮かび上がってくる。

 そもそも目的は自分だったのか。そうだとすると何故直接自分の所に来ないのか。

 

「なんだか頭の中がごちゃごちゃしてきたよ。最初に声が聞こえたのがフェレットさんを拾う直前で声の方向へ行くとフェレットさんがいたんだよね。それで次に聞こえたのが夜で動物病院のほうから聞こえてきたんだよね。ん? どっちにもフェレットさんがいるよ? まさかね。動物は話さないし……。そういえば夢の中の夢で黒いやつと金髪の男の子が戦ってたような……。あれ? 男の子の声と黒いやつの声って似てるような……はっ!?」

 

 その時なのはの脳裏に電撃が走った。ような気がした。

 

「私、真相に気づいてしまったかもしれない!」

 

 黒いやつはあの少年を取り込んで話せるようになったから少年の声に違いない。だから容姿と声にひどい違和感があったのだ。

 

「つまり私を殺して取り込んだら、あいつは私の声になる!」

 

 この後も迷探偵なのはの思考は加速し続けるのだった。

 その日の夕食、なのははフェレットが逃げたことを伝えた。

 

「お父さんフェレットさんのことなんだけど、預かる必要なくなっちゃった」 

「えぇ? そりゃまたなんで?飼い主でも見つかったのかい?」

「んーん。違うの。昨日の夜にね動物病院の壁が壊れちゃってそこから逃げちゃったみたい」

 

 そりゃ残念だと言う父に、なのはも含め皆が同意して頷くのだった。

 

 

 

 

 それから数日後、なのはは親友2人と士郎が監督を務めているサッカーチームの練習試合を見に行った。チームは無事勝利し高町家の喫茶店「翠屋」で祝勝会が行われた。それが終わると、なのははアリサとすずかの2人と別れ、街に本を買いに向かった。もちろんゲームの攻略本。なのはは小説などは読まない子なのだ。読んでもわからない。

 これがあれば究極のマニアになれる! そんなことを考えるなのはは今にも鼻歌が聞こえてきそうなほど上機嫌で、紙袋に入った本を胸に抱え、小走りしながら帰宅中であった。

 そんななのはに不幸が降りかかる。いや突き上げた。

 急に地面が揺れる。

 

地震!? えーっと、こういうときは……とりあえず机の下にもぐらなきゃ!」

 

 屋外故にそうそう机などあるわけがない。右往左往しているなのはの足元が急に盛り上がる。そして裂けたアスファルトの隙間から木が生えてきて急激に成長し始めた。そしてなのはは成長する木の枝と共に急上昇した。

 

「ちょ、なんなのこれーっ! にゃああああっ……私のっ! 私の本がっ!」

 

 なんということだ! 足元の枝にしがみ付いたことによって本を落としてしまったのだ! なのはは悲しみに暮れる。なにしろ貴重なお小遣いを貯めてようやく買った本だ。もはや自分が街を見下ろす程の高さにいること、そして目の前の異常現象など視界に入っていないかのように、心の中は底のない悲しみで満ちていた。

 なのははその原因になった木を見る。

 これのせいで! そう悲しみが怒りに変わろうとした瞬間、今度は横に加速する。

 

「ちょ、なんなのこれーっ! いやぁぁぁあ助けてぇぇええ!」

 

 なのはは絶叫を上げた。しかも枝が横に進むにつれて体が傾いてくる。枝がしなっているのだ。

 

「うそうそっ!? だめ、ちょっと待って! このままじゃ私落ちちゃうぅう!」

 

 そんななのはのことなどお構いなく木は成長を続けた。

 

「ぜったい……ぜつめい……なの……なんで?」

 

 そして今、なのはは枝にしがみついていた。地面とほぼ垂直に傾いた枝にしがみついていた。

 なのはの顔面は涙と鼻水でぐちょぐちょだった。本を落とした悲しみなどとうの昔に忘れている。

 誰も助けにはこない。誰も自分に気づかない。圧倒的な絶望と孤独。下に視線を向ければ、街の景色がよく見える。遠く彼方には山の稜線が見える。何故自分はここにいるのだろうか。まるで夢のようで冗談のようだ。

 街を見下ろしていたなのはは、何故かこの高さから落ちても助かるような錯覚に陥っていた。自分だけは大丈夫、だから思い切って手を離してみようじゃないか、と。しかし冷静な部分がそれを否定する。そんなバカなことがあるはずないと。手を離したらお前は確実に死ぬのだと。不意に緩みかけた手に力が入った。

 だが幾許もしないうちに筋肉が一斉に笑い始める。お前はこんなにも非力で無力なのだと見せつけるように、生き残ろうとする意思を嘲笑う。

 

「いや……いやだ。なんで……なんでこんな……ことに……」

 

 感覚の無くなってきた手の中で、ずるりずるりと枝が滑ってゆく。

 

「なってるの……?」

 

 自分は本当に落ちてしまうのだろうか。落ちたら本当に死んでしまうのだろうか。答えは明白なのに、未だに大丈夫だと錯覚しそうになる自分がいた。

 そしていよいよ勢いよく滑走し始めると、なのはは摩擦で手が焼ける痛みに堪らず開いた。

 しがみついていた枝があっという間に遠ざかってゆく。青い空が広がっていた。

 服をはためかせ地上を目指すなのはは、遠のいて行く景色を視界に映し、風切り音を聞いた。何かを考える余裕はなく、ただただ歯を食いしばって初めて経験する急激な加速による内蔵への負荷を耐え続ける。

 数秒後にその景色も感覚も突然途絶えた。もう何も感じなかった。

 



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止まった心

 

 目覚しのメロディーが部屋に響き渡る。

 瞼を開いたなのはは目覚ましを止めることもせず、目の前の天井をただぼんやりと見詰めたまま一切の身じろぎをしない。

 生きてる。

 それが真っ先に浮かんだ言葉だった。

 目尻から涙がこぼれ落ちる。無表情の顔は次第に崩れていった。眉をひそめ、震える口元はへの字を描いていく。喉が熱くなり嗚咽し始める。

 なのはは顔に布団を引き寄せると横を向き蹲った。脳裏には先程の恐怖、絶望、痛み、そして平和な日常から恐怖のどん底へ叩き落されたショックが何度も鮮明に繰り返されていた。

 目覚ましが止まる。

 

「怖かった……。怖かった……よぅ……」

 

 静まり返った部屋になのはの声が小さく響いた。

 時間を忘れて泣いていたなのはへ扉越しに声がかかる。制服を着た美由希が起きないなのはを起こしにきたのだ。

 「すぐ……起きる……」と返すなのはの声は嗚咽が混じり途切れ途切れだった。いつもと違う様子のなのはに美由希は心配になり扉を開けて確認する。そこには泣き腫らした目をしながらベッドから出ようとしているなのはの姿があった。

 

「ちょ、どうしたのなのは!? どこか具合でも悪いの?」

 

 美由希は慌ててベッドの淵に座ったなのはに駆け寄り手を握る。そして顔を覗き込み尋ねた。

 

「ううん、違う……の。ちょっ……と怖い夢……見ただけ……」

 

 そう答えると再び、落ちる瞬間、ぶつかる瞬間の光景を思い出し感情が蘇る。なのはは怖い夢を見て泣いてる姿など見せたくないと唇を噛み堪える。しかし、涙は溢れ横隔膜が痙攣する。そんな、いたいけな様子を見て、美由希はなのはの頭を胸に抱きよせ優しく撫でる。

 

「あー、よしよし。怖かったね。もう大丈夫だよ」

 

 その優しい言葉に、なのはは堪えきれなくなり声を上げて泣き出した。

 

「怖か……ったのぉ! すごく……すごく怖かったよぉ! もう……絶対だめだと……思ったよぉ!」

 

 なのははしばらくの間、美由希の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。

 それから幾許かすると、美由希は胸に抱くなのはを見ながら「ちょっとは落ち着いたかな?」と尋ねた。

 なのはは顔を少し赤くしながら「うん、だいぶ落ち着いたよ。ありがとうお姉ちゃん」と美由希を見上げて言った。

 大泣きしたところ見られてちょっと恥ずかしかった。しかも理由が怖い夢。もう3年生なのに。しかし、こうしてる抱かれているとすごく落ち着いた。もうちょっとこのままでいたい。

 

「じゃあ、そろそろ朝ごはん食べないとね。遅刻しちゃうよ?」

 

 そう言うとなのはを離し笑った。

 

「そうだった!」

 

 着替える終わると、待っていてくれた美由希の腰に後ろから抱きつく。そして一緒に食卓へ向かった。

 

「ちょっと、歩きづらいよなのは」

 

 美由希は苦笑いするも嫌ではない様子。

 

「えへへ、ちょっとの間だけっ」

 

 なのはの顔はいつも通りの笑顔に戻っていた。

 

「あら、おはようなのは。……何かあったの?」

 

 淡い黄色のエプロン姿をした桃子が食卓に着いたなのはの前に朝食を並べながら尋ねた。

 なのははちょっと困ったように「えーっと」と言うと、恭也を挟んで二つ隣に座る美由希のほうに目を向けた。

 その様子に桃子は首を傾げ、なのはの前に座る士郎は不思議そう腕を組み状況を見守る。そして二人の視線の間に座る恭也は背を反らし少し居心地悪そうに二人を交互に見た。

 美由希はなのはに、にこにこ微笑むと「すごく怖い夢見て、それが夢だって気づいたら安心して少しぼーっとしちゃったんだよね?」と確認するように言うと桃子の方を向いた。

 なのはは、皆自分が泣いたことに気づいてるんだろうなという恥ずかしさと美由希が気を使ってくれたことに対する嬉しさで顔を少し熱くし俯く。

 

「あら、そうだったの。じゃあお母さんが腕によりをかけて作った朝ごはんを食べて、元気出してちょうだい? そうすれば怖い夢なんてすぐ忘れちゃうわ!」

 

 桃子はなのはに優しく笑みを向けると腕にコブを作る仕草をして言った。なのはは顔を上げ大きく頷き食べ始めた。

 

「ところで、そのものすごく怖い夢ってどんな内容だったんだ?」

 

 恭也が尋ねてくる。

 美由希は小さくため息をついた。

 

「……えーっとね、自分が死ぬ夢なんだけど……」

 

 なのはは出来るだけ感情を思い出さないようにただ淡々と内容を話した。部屋が静まり返る。

 細部まで描写された話から、その光景を想像した4人は少し眉を寄せた。

 

「……それは怖かったわね。でも安心してなのは。ここは夢じゃないからそんなことは起きないわ。……さ、そろそろ行く準備しないとね?」

 

 その言葉にごちそうさまをして支度を始めた。

 そういえば今日は何日だっただろうか。なのははふと考える。夢オチを何度も繰り返しているせいか、時間の感覚がおかしかった。これも全て夢がリアルすぎるのがいけない。そう内心で愚痴った。

 

「ねぇ、お母さん。そういえば今日って何日だっけ?」

 

 見送るために玄関に来ている桃子になのはは靴を履きながら聞いた。

 

「えーっと……ちょっと待ってて。今日は……」

 

 確認して戻ってきた桃子は今日の日付を教えてくれる。なのはは聞き間違えたのかと思い、立ち上がって桃子の方を振り向くと「え? 何日?」ともう一度聞く。しかし返ってきた答えは変わらず、それが聞き間違いなどではないことを確認させられるだけだった。

 なのはは振り向いた姿勢のまま表情も変えずただただ桃子を見つめ続ける。まるでそこだけが時間に取り残されたかのようだった。

 おかしい。そんなことありえるわけがない。完全になのはは思考停止していた。考えようとするが、なにについて考えようとしているのかすら思い浮かばない状態。そんななのはを心配して桃子は「どうしたのなのは? どこか具合でも悪くなったの?」と顔を覗き込んで声をかけるが依然停止したままだ。

 桃子がなのはの前に手を翳す。するとなのはは間抜けな声を出してからようやく我に返る。

 

「うぅん、なんでもないの! 行ってきまーす!」

 

 家から出たなのはは内心でかなり動揺していた。

 これはどういうことなんだろうか。わけがわからない。もしや家族みんなによるドッキリなのではないか。そう考え、カメラはないかと、さり気無く辺りを見渡す。しかし誰かがカメラを向けているわけでも知っている人が隠れているわけでもなく映るのはいつもと変わらぬバス停前の景色。

 なのははため息をついて俯く。

 ドッキリなわけないじゃないか。日付聞いたのは偶然でありわざわざこの日を選ぶ必要もない。

 

「はぁ……」

 

 ドッキリであったならどれだけ良かったか。まさかの2度目の夢オチ。実はまだ夢の中なのではないか。……ありえる。二度あることは三度あり、四度ある可能性も高い。であるならば、ここも夢の世界だとしてもおかしくはない。

 

「でも、そうだとすると私はいつ目を覚ませるんだろ? ずっと出られないままだったら……」

 

 その先を考えてなのはは身震いする。永遠に出られない夢。現実世界で目を覚まさぬ自分。一体いつ終わるのか。そもそも終わりはあるのか。考え出したらきりがないほどの不安に、なのはは奈落の底に落ちていくかのように錯覚した。

 なのはは絶望しかける寸前、一抹の希望が頭を過ぎった。

 

「でも! 今回は前とは全く違う1日かもしれないよねっ!」

 

 もしそうならこれは夢じゃなく現実に違いない。そもそも……。

 なのはの思考加速はバスの到着とともに減速し停止した。

 なのはは前とは違うことを祈りながら後部座席に向かう。

 

「お……はようアリサちゃん、すずかちゃん」

「おはようなのは……どうしたの?そんな引きつった笑み浮かべて……」

「おはようなのはちゃん。具合悪いの?」

 

 これはキタッ! 前と違う! もうこれは私の勝ちだっ!

 なのはは内心でガッツポーズする。自分はついに運命に打ち勝ったのだ。そして今から現実世界に生きる、と。

 お花畑になっているなのはの頭の中を知る由も無い二人は本当に心配そうに顔色を窺う。そして「大丈夫! 平気だよ!」と一気に元気になったなのはの返事に唖然とするしかない二人であった。

 

「……突然元気になったわね。まぁ良いことなんだけどさ」

「うん! 私はね、夢の世界の住人だった。でも、もう夢はいらない。私は現実に生きるんだ!」

「……へぇ、なのはは夢の世界の住人だったんだ。それはすごいわね。……がんばって現実に生きて! 応援してるわ」

「なのはちゃん……」

 

 いかにも気分良いですというように左右の足を上下に振り自分の世界に入るなのは。そんな彼女は二人に生暖かい目を向けられていることに気付かなかった。

 昼休み、なのはは自分の席に座っていた。しかし彼女の様子はただの抜け殻のように心此処にあらず、目は虚ろ、そして小さくうわ言のように何かをつぶやいていた。

 うそだ。うそうそうそうそっ! どうして? 自分は現実に戻ったはずなのにどうして! どうしてまた繰り返している?

 もはやわけがわからなかった。

 

「また、怖い思いするのかな。いやだな……。はぁ…………なんだか……全部……どうでもよくなってきちゃった。どうせまた夢オチだ」

 

 なのははこの先、起こるかもしれない絶望を考え始める寸前、全ての思考を放棄した。

 そんな時なのはの体は大きく揺す振られる。

 

「なのは! しっかりしなさい!一体どうしちゃったのよっ。 悩み事があるなら私たちに言いなさいよっ」

 

 アリサが必死に、そして悲しそうに言った。

 

「そうだよなのはちゃん! ほんとにどうしたの?」

 

 すずかもなのはの突然の様子に心配する。

 なのははそんな二人を一瞥しただけですぐに視線を戻した。

 

「大丈夫だよ。平気だから。心配しなくていいよ」

 

 どうせ夢だ。自分もアリサもすずかも全て幻。全てがどうでもよかった。

 

「そんなの嘘! 今なのはが平気じゃないことくらいわかるわよっ!」

「なのはちゃんすごく苦しそうだよ? 私、少ししか力になれないかもだけど手伝うし相談にも乗るよ? だから……」

「ごめん、ちょっと調子悪いみたいなの。保健室行って来るね」

 

 普段は嬉しくて堪らない2人の気遣いだが今はなんだか非常に鬱陶しく感じたなのはは、無理やり口角を上げすずかの言葉をさえぎった。そして「私もついて行く」という二人に「大丈夫。一人で行けるから」と2人を教室に残し保健室へ向かった。2人はどうすることもできなかった。

 

 

 

 

 なのはは早退した。本来なら家の人を呼ばなければならないのだが、2人とも仕事が忙しくて迷惑かけたくない、お金あるからタクシーで帰りますと無理やり押し通した。しかし、なのははタクシーを呼ばずに徒歩で帰宅した。

 徒歩だと学校から家まで少し遠い距離にあるが、気が付いた時にはもう家の前だった。

 なのはは靴を脱ぐとそのまま廊下に仰向けになった。天井をただぼんやりと見つめる。

 本当は分かっていた。でも、もしかしたら違うかもしれないと考えないようにしていた。だけど同じだった。変に期待したのがいけなかった。今日は間違いなく黒い奴に襲われた日。これで3回目。

 なのはは1回目のことを思い出す。声が聞こえて、フェレットを拾って、黒い奴にやられる。それは昨日のことのように鮮明に思い浮かぶ。続けて2回目も同じように。しかしそこには今朝感じたような恐怖はなかった。ただそんなことあったなという無感動。

 それから幾許かの時間が過ぎるとあの声が聞こえた。

 

"たすけて"

 

 あぁ、もうそんな時間か。

 なのはただぼんやりとその声を聞いていた。ただの音としか捉えていなかった。まるで時計が時間を知らせるために鳴っているかように。

 それからしばらくすると玄関の扉から鍵を差込む音が聞こえた。

 

「あら? 鍵閉め忘れたのかしら」

「ははっ、そんなこともあるさ。でも気をつけなきゃな」

 

 桃子と士郎が扉を開けて入ってくると廊下で仰向けになっているなのはを見て固まった。体調が悪くて倒れているのかと心配した2人は慌ててなのはへ駆け寄る。

 焦った顔で安否を確認する2人になのはは起き上がり「おかえりなさい。何処も悪くないよ。ただ寝そべってただけ」と生気のない笑みを浮かべ返事をする。しかしその様子は傍から見るとどう考えても大丈夫なようには見えない。

 心配かけないように我慢してるのではないか、もしくは学校で何かあったのではないかと思った桃子はもう一度問い詰めるがなのはは「本当に何もないし大丈夫だよ。心配しないで」と言うとそのまま自分の部屋に向かってしまった。

 2人は言葉を発せずただその後姿を見つめることしかできなかった。

 部屋に戻ったなのはは制服のままベッドに仰向けになっていた。先程と同じくただぼんやりと天井を見上げたまま。まるで精巧に作られた人形のように身じろぎひとつしない。

 コンコン。扉のノック音が響いた。

 

「なのは、入るよ?」

 

 なのはは扉を開けて入ってくる士郎にゆっくりと視線を向ける。士郎はあまりに無機質なそれに、本当にあの天真爛漫ななのはなのかと思わず息を呑んだ。

 そして「どうしたのお父さん?」とかけられた言葉に士郎はそれはこっちの台詞だよと内心で呟いた。

 

「いやね、なのはがちょっとぼんやりしてたからさ……何か考え事でもあるのかと気になってちゃってね」

 

 士郎は少しおどけたように笑いそう言うとベッドに腰をかける。ベッドのマットが少したわんだ。

 

「ううん。別に何も考えてないよ」

 

 そう言うとなのはは天井に視線を戻す。

 士郎は困った。なのはの状態を見て、おそらく本当に何も考えていないのだろうと気付く。返す言葉が見つからない。

 

「ふむ……じゃあ、心配事でもあるのかい?」

 

 たった今何も考えていないと言った矢先にこの質問。士郎はこんなことしか言えない自分に辟易した。

 案の定なのはは「何も無いよ」と返す。しかしその後に「ただ……」と続け視線を士郎に向ける。

 

「何もかもどうでもよくなっちゃったのお父さん」

 

 そう感情の抜けた笑みを浮かべてなのはは言う。士郎は頭をハンマーで殴られたかのような感覚をおぼえた。

 こんな状態になってしまう程の問題を抱えている小学3年生の我が子。一体何について悩み苦しめばそうなってしまうのか。一体何が彼女をこんな状態にしてしまったのか。そして、そんな思いを我が子にさせてしまっていること。それに気付かなかった自分。相談に乗ることすらできない自分。果てしない無力感。士郎の胸中は悔しさと自責の念で埋め尽くされた。

 士郎は「そうか」と一言言うとしばらく無言でなのはの頭を優しく撫でる。

 

「……そろそろごはん食べようか。お腹空いただろう? 制服から着替えたらおいで」

 

 無理やり微笑むと最後になのはの頬を撫でて立ち上がり部屋を後にした。

 

 

 

 

 なのはは普通に夕飯を食べている。しかし美由希と恭也の2人は戸惑う。なのはの纏う雰囲気が異常だからだ。今までこんなことは無かっただけにどうすればいいのかわからない。

 

「な、なのは。今日は学校どうだったー?」

「……別にいつも通りだったよ。ただ早退しちゃった」

「え?」

 

 美由希の質問に対する返答に4人は声が重なった。 

 桃子が箸を止め尋ねる。

 

「ちょっとなのは、早退したの? やっぱり具合が悪かったんじゃない?」

 

 早退の理由は仮病だ。なのはにとって初めての仮病。なのはは何と言おうかと一瞬悩むと「もう平気」と適当に返した。

 その後の質問も適当に返すと「ごちそうさま」と言い席を立つ。残った4人は顔を見合わせるのだった。 

 戻ったなのはは夕食前と同じくベッドに横たわっていた。

 携帯電話が鳴る。そして数秒たってからようやく気付いたようにのろのろと手を伸ばして確認する。

 アリサからだった。

 話の内容の大部分はなのはの具合の心配で最後に付け足されたように午後の授業と塾のことだった。

 

『じゃあ、また明日ねなのは。おやすみ』

 

 そして通話を終わる。

 メニュー画面に戻るとメールが何件か着ていた。アリサとすずかからのメールでなのはの体調を気にするものだった。

 しばらくするとすずかからも電話が来る。内容はアリサとほとんど変わらなかった。

 大好きな親友からの電話、メールのはずなのに何も感じない。

 携帯電話を閉じたなのははぼんやり考えた。

 私は親友失格だ。自嘲するなのはの頬に涙が伝った。

 

 

 

 




 


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空虚な日々

「なのは、そろそろ起きないと」

「……学校行かない」

「え? なに?」

 

 美由希は聞き間違えたかと再び問うが、返ってきた答えは変わらなかった。なのはの言葉を聞いた美由希は困った顔をしながら扉を開けると「でも……」と言う。しかしベッドに入ったまま虚ろな目で天井を見つめているなのはを見て、次の言葉が出てこなかった。何とかできないかとあれこれ考えるが、結局良い案が浮かばなかった美由希は仕方なく桃子に相談しに戻った。

 

「なのは、入るわよ?」

 

 桃子は部屋に入るとそのままベッドに座りなのはを見る。

 

「なのは……学校行きたくないの?」

「……うん。行かない」

「うーん……それは困ったわねぇ」

 

 頭を傾け頬に手を当てた桃子は考える。

 このような場合はどうするべきなのか。甘やかさず無理やりにでも学校へ行かせるべきなのではないか。それとも状態が良くなるまで休ませるべきなのか。桃子にはどれが正しい選択なのか分からなかった。なにしろこのような事態は初めてだ。恭也の時も美由希の時も登校拒否するなんてことはなかった。

 やっぱり学校で虐められているのだろうか。それともやはり体調不良か。

 いくら考えたところで答えなど出なかった。

 

「理由を聞いてもいいかしら?」

「……動きたくない。……動けない」

 

 なのはは今にも消え入りそうな声でそう言うと、光のない目を桃子に向けた。桃子はなのはの目の底までじっと覗き込む。そしてその眼差しからそれが本心なのだと悟った。あらゆる思考、あらゆる意思はなのはのからだから抜け出ていた。

 なのはの余りな様子に、心臓を握りつぶされたかのように胸が苦しくなる。

 士郎から昨日の夕食前の事は聞いている。しかしここまでとは思っていなかった。

 桃子の目が不意に涙で滲んだ。そして、なのはの白く柔らかな両頬を手で優しく包むと言った。

 

「なのは……。あなたは何をそんなに苦しんでいるの? 少しでもいいからお母さんに話してちょうだい? お願い……」

 

 それは懇願。可愛い我が子がこんなにも苦しんでいるのに何もできない。ほんの少しでもいいからその苦しみを自分に分けて欲しい。そんな思いからだった。

 なのはは微かに震えている桃子の手に自分の手を重ねると頬に押し当てた。そして微笑む。

 

「お母さん。私、別に悩んでなんかないよ? 全部夢なの。だからね、私ね、ただ目覚めるのを待ってるだけなんだよ。だから泣かないで? お母さん」

 

 まさかの自分を心配する言葉に、ついに桃子は堪え切れなくなり、目をしばたたかせる。涙の滴が音もなく両頬から伝って流れた。

 一体うちのなのはに何があったというのだ。一体なのはの目には何が映っているのか。それが分からない。悔しくて堪らない。何もできない自分が恨めしい。

 桃子はなのはの言っている意味を理解できなかった。それでもそれが全てなのだと感じ取り、必死になのはの言葉を反芻する。そして一度目を閉じ深呼吸した。

 

「……わかったわ。ゆっくり休んでちょうだい。…………それとねなのは。正直お母さん、なのはの言ったこと自分なりに考えてみたんだけれど……ほとんど分からなかったわ……」

 

 桃子は一瞬、自嘲するように、そして悔しそうに眉をひそめ言った。そして続ける。

 

「だけど、これだけは分かっておいてほしいの。なのは、ここは現実よ。私も士郎さんも恭也も美由希もそしてなのはも……ここにちゃんといるの。今ここにいるなのはも、なのは自身なのよ?」

 

 少し悲しげに微笑むとなのはの頭を一撫でする。そして立ち上がると部屋から出ていった。

 今のなのはにはまだ桃子の言葉を理解するほどの思考力がなかった。しかしそれは、初めて見る母が自分に向けて涙を流す姿と共に記憶に深く刻み込まれていた。

 

「あ、それとねなのは。朝ごはんは皆で食べましょう?」

 

 出て行ったと思ったらすぐに戻ってきた桃子はニコリと微笑んだ。

 なのはは少しの間ぼんやり桃子を見つめた後、こくりと頷くとベッドから降りて桃子と食卓へ向かった。

 

 

 

 

 カーテンは開けられることなく仄暗い空間を作り出していた。眠ったように静かなその空間で時計の秒針の音だけが一定のリズムを響かせていた。

 なのはは一日の大半を自室のベッドの上で過ごした。何を考えるでもなく仰向けになり、ただじっとしていた。そうしていると、いつの間にか意識を手放していた。そして、しばらくして目を開いたかと思うと、突然飛び起きて携帯電話を開く。変わらぬ日付、変わらぬ着信履歴、変わらぬ受信メール。はのはは両手をだらりと放り出しベッドの横の壁に寄りかかる。徐々に体勢は崩れ、もとの位置に仰向けになる。そんなことを繰り返していた。

 夕方になると家族の内の誰かが部屋に来て話をして行く。会話ではない。なのはの答えが一言で終わってしまうため、一方的に今日あった出来事や思ったことを話すだけだ。なにか一つでもなのはの心に届いてほしいと願いを込めて。

 夕食も皆と一緒に食べる。みんななのはのことを気遣ってくれる。なのはに元気になってほしいと思うのと同時に、なのはの状態の酷さに心を痛めるのだった。

 夜にはアリサとすずかから電話がきた。内容は覚えていない。ただ適当に受け答えをしていたらいつの間にか通話が終わっていた。本当にどうしようもない。

 なのはは日中も寝ているせいで朝も夜も関係なくなっている。

 深夜の真っ暗闇とカーテンの隙間から零れる月明かりが入り混じるベッドに、なのはは昼と変わらぬ様子で仰向けに長くなっていた。

 目が覚めてから一体どのくらいの時間が流れただろうか。なのはは、ふと、前にやっていたゲームの映像が頭に思い浮かんだ。

 のそりとベッドから上半身を起こすと、徐にベッドから立ち上がった。テレビに電源を入れ音量を下げた。そしてゲームを起動した。

 別にやろうと思ったわけではない。ただなんとなく体が動いただけ。

 そして明かりもつけずに、テレビの前にすとんと女の子座りをすると、コントローラーを手に持ち、相変わらず虚ろな表情で画面を見つめ、前回の続きからやりだすのだった。

 

 《私を本気にさせたな! 死の世界へ行くがいい! ……な、なぜ死なん!?》

 《まだまだ! まだまだ死ねんのじゃ! この命、燃えつきても! わしは 貴様を 倒す!!》

 《怒りや憎しみで私を倒すことはできぬ!》

 《……怒りでも……憎しみでもない……!!》

 

 なのはは、ぼーっとしながらストーリーを進めていく。

 何の感慨もない。

 部屋がゲームのBGMとコントローラーの操作音で満たされる。

 気がつけば夜明けも近くなっていた。

 なのははデータを保存すると電源を切り、再びベッドに身を滑り込ませるのだった。

 

 

 

 

 この日も昨日とほとんど変わりなかった。違ったのは担任の先生が家に来たことくらいだ。「なのはさん、何か悩んでいることがあったらいつでもいいので先生に相談しにきてくださいね?」と心底心配そうに言ってきたが、なのはとしてはどうでもよかった。だから、最近身についた適当な受け答えをしてお引取りしてもらった。

 なのはは昨日と同じように深夜に目が覚める。携帯電話を確認してから、しばらくじっと天井を見つめていたが、なにか思い出したかのように起き上がるとゲームを始めた。

 

 《間に合った! このまま 帰ったんじゃ かっこ悪いまま 歴史に 残っちまうからな!》

 《ふっ……なにを ごちゃごちゃと……お前から 始末してやる!》

 《上等だぜ! この俺様が……倒せるかな?! …………お前のおじいちゃん強かったぜ!》

 《……おじいちゃん。》

 

 なのはは足が痺れてきたので無意識に体勢を変えた。……足に電流が流れた。

 

「あ……」

 

 言い表しようもない感覚に襲われ、ビクンと跳ねた拍子に、なのはは不覚にも握っていたコントローラーを引っ張ってしまった。

 ゲームのBGMがただの騒音に変わる。画面はノイズが走り、止まっていた。

 足の痺れを和らげるためなのか、ゲームが止まってしまったことに対してなのか、それとも両方なのかわからないが、なのはは口を少し開きぼんやりと画面を見つめたまま動きを止めた。

 しばらくすると、なのはは四つん這いでゆっくりとゲーム機のもとへ行き、リセットボタンを押した。ゲームが始まらない。もう一度押す。……始まらない。

 なのははゲーム機の前に座り込むとソフトを抜き取り息を吹きかけた。そして再び差し込み電源を入れる。……動いた。

 始まったのを確認すると、なのはは画面を見つめながら、ごくりと唾を飲みコントローラーを手にした。

 

 《ニューゲーム  EMPTY EMPTY EMPTY EMPTY》

 

 なのははそっと電源を切った。

 そのままテレビも消し、床に転がっているクッションを拾い上げて胸に抱くとベッドに潜り込んだ。そして横に蹲り、クッションを口元に押し当てて目を閉じるのだった。

 

 

 

 

 この日は学校が休みでアリサとすずかが家に来た。一応親友なので追い返すわけにもいかず、部屋へ招いた。

 

「ちょっと待ってて。飲み物持ってくる」

 

 アリサとすずかを部屋に待たせ、大儀そうな足取りで部屋を出て行った。

 白い小型のテーブルを前に座る二人はあれは本当になのはなのかと唖然としていた。電話で話してはいたが実際に会ってみると纏う雰囲気が想像以上にどんよりしていた。

 

「ごめんね、こんなものしかなかくて」

「気にしなくて良いわよそんなこと」

「ううん、ありがとねなのはちゃん」

 

 しばしの沈黙。

 アリサは今のなのはを見て思う。電話でも担任からも体調が悪くて休んでいると言われたがそれは嘘だ。心配事や悩み事によって今の状態になっているのは一目瞭然だ。そこまで考えたときアリサの中でふつふつと怒りがわき上がってきた。なぜ親友である自分たちに相談しないのか。自分たちには本心を告げられないのか。そこまで頼りない存在なのか。自分たちに少しも相談してくれないなのはに怒りがわく。何かに悩んでいるであろうなのはの力になってあげられない自分に怒りがわく。

 アリサは鋭い目つきでなのはに言う。

 

「なのは、本当は具合なんか悪くないでしょ」

「あ、アリサちゃん……」

 

 すずかが、おろおろしながら口を挟むがアリサは止まらない。それどころか膝立ちになりテーブルに手をつくと、向かい側のなのはの方へ少し身を乗り出した。

 

「その様子見れば心配事や悩み事かなんかで苦しんでるのが丸分かりよっ!」

「私悩んでなんか……」

「っ! そんなのその状態なんとかしてから言いなさいよ、このばかちんっ! いかにも私、悩んでるんです困ってるんですって雰囲気醸し出してんじゃない! 大丈夫っていうなら心配かけない努力くらいしなさいよっ! なんで何も話してくれないのよ!? そんなに私たちには話したくないことなの!? 私たちじゃ全く頼りにならない? ……少しもなのはの力になってあげられないの? 何か困ったことがあるなら話してよ、なのはっ」

 

 勢いは徐々になくなり最後には涙で湿った声になっていた。そんなアリサになのはは悲しげな顔で「ごめんねアリサちゃん」と一言だけ答えた。

 アリサは睨み付けるような、しかし今にも泣き出しそうな目でなのはを見つめながら、力なく座りこむと唇をかみしめた。膝の上で握る手は白くなるほど力がこもっていた。一瞬の沈黙の後、アリサは目の前のコップを手に取ると一気にの飲み干し立ち上がった。

 

「そんなに悩みたいなら一人でずっと悩んでなさいよ! もう知らないっ! 帰る!」

「アリサちゃんっ……」

 

 アリサはそのまま出て行ってしまった。なのははアリサの飲み干したコップを悲しげに見つめてぼーっとしている。すずかは相変わらずおろおろしていてアリサの出て行ったほうと、なのはを交互に見やっていた。

 

「なのはちゃん……」

「……アリサちゃん怒らせちゃった。ほんとどうしようもないね……私。親友失格」

「そんなことないよ! アリサちゃんにとっても私にとってもなのはちゃんは大切な親友だよ! アリサちゃんもちょっと言いすぎ……。アリサちゃんと話してくるね」

 

 すずかもアリサの後を追いかけ部屋から出て行ってしまった。

 早く覚めないだろうか。取り残されたなのはは、そればかりを考えていた。

 それから1時間ほどすると、すずかが戻ってきて「アリサちゃんのことは大丈夫だよ」と伝えると帰っていった。

 

 

 

 

 なのはは深夜に目が覚めると今日もゲームタイムに突入する。

 ゲーム機の前にちょこんと座るとゲームソフトを抜き、四つん這いになりながら他のソフトがしまってあるテレビの下の棚へ向かった。目当てのソフトを探すが暗くてよく見えないことに気付いたなのはは、テレビの電源を入れチャンネルを変えると画面の明るさで探しだした。

 テレビの光に照らされた薄暗い部屋に、がちゃがちゃという音だけが響く。

 ソフトを探し出したなのはは、取り出したソフトをしまい、チャンネルを切り替えると、のろのろとゲーム機のもとへ戻り、それを差し込んだ。

 電源を入れる。…………。ソフトを抜き息を吹きかけもう一度試す。ゲームが始まったことを確認すると定位置へ座った。

 

《ふ……、もう俺は何もやる気力がないよ。もともと俺は人の心にゆとりがあった平和な世界にのっかって生きて来た男……。そんな俺に、この世界は辛すぎる。それに翼も失ってしまった……》

 《世界が引き裂かれる前に、あなたは私達と必死に戦ってくれたじゃない? あんな辛い戦いに……》

《でも、もう俺は夢をなくしちまった。》

《こんな世界だからこそ、もう一度、夢を追わなければならないんじゃない? 世界を取り戻す夢を……!》

《ふふ……あんたの言うとおりだぜ。付き合ってくれるか? 俺の夢に……。…………羽を失っちゃあ世界最速の男になれないからな。また夢を見させてもらうぜ。  ファルコンよ》

 

 セリフとBGMになのはの心がピクりと反応した。なのはは、じーっと画面を見つめたまま時間の流れが止まっていた。しばらくすると流れはもとに戻り何事もなかったかのようにゲームを再開した。

 

《ファファファ!!! どうしたそんな顔をして! このわしが、死んだとでも思っていたのか!》

《おっしょうさま……よくご無事で……》

《おやおや? お主、もしかして……泣いておるのか??? ファファファ! わしは死なん! たとえ、裂けた大地に、挟まれようとも、わしの力でこじあける!》

 

 おっしょうさま、かっこいい。なのはは漠とした思考でそんなことを思った。

 気がつけばもう朝になっていた。眠たげな目で電源を切ると立ち上がり一つあくびをする。そして、もぞもぞとベッドに潜り込んだ。

 

「……おやすみ」

 

 なのはは日の出と共に眠りに落ちた。

 

 

 

 

 昼過ぎ、突然部屋が揺れた。なのはこれに心当たりがあった。

 ベッドからむくりと起き上がるとベッド脇のカーテンを開く。外の光に一瞬目を細めた。なのははそこに巨大樹が乱立している光景を予想した。外を確認する。しかし、そこに予想した光景はなかった。なのはは窓の方向が違うことを忘れていた。

 次第に突き上げるような揺れに変わってきている部屋の中で、なのはは、しばらくぼーっと外を見る。外の景色を見ることが随分久しぶりに感じた。往来には逃げ惑う人々の姿があった。なのはは映画のワンシーンを見ているような感覚を覚えた。

 やがて興味を失ったなのはは、カーテンを閉めるとボフッと音を立てて再度ベットに寝転んだ。

 揺れはかなり強くなっている。幾許もせずにここにも根を張るだろう。なのははぼんやりと天井を見つめながら、ただその時を待つ。

 

「なのはっ! なにぼんやりしてるんだっ逃げるぞ!」

 

 勢いよく開かれた扉と共に運動着を着た恭也が入ってくる。

 なのはは思い掛けない事態に起き上がると目を白黒させる。しかし恭也はそんななのはを気にも止めず「乗れ」と背を向けしゃがんだ。戸惑うなのはは「早くっ」と急かされ混乱したまま恭也におぶさる。

 

「急いで急いでっ!」

 

 玄関に行くと恭也と同じような格好をした美由希が待っていた。

 恭也はなのはを一度下ろし靴を履くように言う。履きおわると再び恭也の背に戻る。

 

「それじゃあ行くぞ」

 

 恭也はパジャマ姿のなのはを背負い、美由希と共に家を飛び出した。

 

 

 



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決意を胸に

 

 もう既に家の外では大人の胴体の二周り程もあろうかと思われる木の根がアスファルトを突き破りその姿を見せ始めていた。

 悲鳴、慟哭、怒声。止むことなく何処からか聞こえてくる。道路は渋滞になりクラクションが鳴り響いた。

 そんな中、揺れる地面をものともせず、常人の全速力に近い速度で走る2人の姿があった。

 

 

 

 

 恭也と美由希は地面から突き出してくる木を、暴れる木を、冷静に躱しながら走り続ける。

 なのはは、いまだに状況についていけていなかった。あまりに予想外だった。なぜ今自分はここにいるのだろう。そうぼんやり思った。

 ふと、恭也の横顔を眺める。映ったのは生きようとする強い意思が宿った表情。何故かわからないが、なのはは場違いにも魅入ってしまった。

 何気なく辺りを見渡す。そこには誰もかれもが生を望み足掻く姿があった。美由希と目が合う。美由希はなのはに向けて笑みを浮かべる。しかしその表情は恭也と同じ生きるために奔走する力強い顔だった。無意識になのはも口角をあげた。彼らの姿が途轍もなく眩しく感じた。

 なのはの停滞した思考が僅かに転がりだす。

 なぜ皆そんなに必死なのだろう? なぜ夢なのにそんなに必死に生きようするのだろう? ここは現実ではないのに。

 そこでふと、思考が止まり最後の考えを繰り返した。

 もう一度人々の姿を目に映す。

 現実じゃない? 違う、生きている。皆、生きてる。生きようとしている。現実のように一人ひとりが意志を持って……。皆確かに存在してるのだ。自分はどうだろうか。生きようとしていない。意思も持ってない。自分はまるで死人、生きた屍ではないか。それに比べ、夢の世界の皆の方がよっぽど人間らしい。自分が見ている夢のはずなのに!

 そこまで考えたなのはは、急におかしく感じてふふっと小さく笑った。今までの自分が馬鹿らしくなった。

 

『なのは。ここは現実よ。私も士郎さんも恭也も美由希もそしてなのはも……ここにちゃんと存在しているの。今ここにいるなのはは、なのは自身なのよ』

 

 記憶の中から母の言葉が蘇る。そして坂を下る球のように一気に思考が加速した。

 桃子の言う通りだった。なのはは確かにここに存在している。士郎も桃子も恭也も美由希も、それにアリサやすずかだって存在しているのだ。たとえ夢の中だとしても関係ないのだ。

 

(今の私にとっての現実はここなんだ! 今ここにいるなのはは……高町なのは私自身なんだっ!)

 

 これまでの生気の感じられなかった姿など今は見る影もない。あるのは恭也たちと変わらぬ意思を宿す瞳と小さく唇を歪めてにっと笑う表情だった。

 

「なのは、かなり揺れるけど大丈夫か?」

「うん、平気。大丈夫だよ。…………ありがとうお兄ちゃん……連れ出してくれて」

 

 恭也は一瞬驚いた顔をするがすぐに口元に笑みを浮かべて言う。

 

「……当然だろ? なのはは俺の大切な妹なんだからな。もちろん美由希もな。それよりも振り落とされないようにしっかりつかまれよ?」

 

 なのはは広く頼もしく暖かい恭也の背に力を込めてしがみ付いた。その時、ふと、士郎と桃子のことを思い出す。

 

「ねえお兄ちゃん。お母さんとお父さんは?」

「……父さんは母さんを迎えに店に向かったよ」

 

 なのはは一瞬固まった。店の方向すなわち、巨大樹の発生地付近だった。なのはの目に涙が浮かぶ。もしかしたら、もう戻ってこないのではないのか。そのことを恭也に言おうしたが途中でさえぎられた。

 

「大丈夫だ。父さんは俺よりも強い。……必ず合流できる」

 

 なのははそれ以上何も言わなかった。

 美由希は恭也の後ろを無心で只管走り、躱し、走った。士郎や恭也に比べるとまだまだ未熟とはいえ一般人と比べ遥かに体力があるのは今の状況をみれば明らかだ。しかし、若干息が上がり始める。そして、もしもこの状況がずっと続いた場合のことを想像し冷や汗を流す。できる限りの体力温存に努めようと考えながら美由希はただ只管走り、躱し、走った。

 

 

 

 

 突然遠くから爆発音がした。なのはは音のした方向を振り向いた。……空に翼を持った何かが飛んでいた。それが空からビームのようなものを放ち地上を蹂躙していたのだ。

 なのはは目を見開く。恭也と美由希もそれに気づき驚愕した。しかし足を止めるわけにはいかない。

 なんなんだあれは。わけがわからない!

 3人とも内心で同じことを叫んだ。

 すると今度はトラックが壁に激突したかのような衝突音と共に悲鳴が聞こえた。しかもかなり近い。3人はすぐにその原因を目にすることになった。50メートル程前方に黒くて巨大で丸い物体が躍り出た。左右から2本の触手が暴れていた。赤い双眸がこちらを向いている。

 なのははそれに見覚えがあった。忘れるわけがない。初めて自分を殺した化け物なんだから。なのはの心臓がドクリと跳ね上がった。体が緊張する。

 恭也と美由希は思わず立ち止まりそうになる。しかし木の成長は止まるわけではない。選択は限られている。

 

「……美由希っ! そこの角曲がるぞ!」

 

 すぐさま角を曲がり別の道を行く。そして行き止まりではないことを祈った。

 美由希が曲がったと同時に黒い化け物が後ろを横切る。通り過ぎた気配にあと少しでも遅かったらと美由希は肝を冷やした。

 

「一体なんなんだあれは!」

 

 先ほどよりも少し狭い道を疾走しながら恭也がたまらずに叫んだ。それに答えられるものなど誰一人いない。二人も同じ気持ちだった。

 なのはは追ってきていないかと後ろを振り向いた。……幸いにも来た道に追ってくるものは美由希ただ一人。黒い化け物の姿は見あたらなかった。そしてなのはが安堵して前を向こうとした時、空に一点の影が映りこむ。それはこちらを目掛けて急速降下していた。凝視したなのはは叫んだ。

 

「お姉ちゃん上! よけて!!」

 

 美由希は一瞬呆けた顔をしたが反射的に横に移動した。すると先ほどいた場所に先ほどの黒い化け物が落下し地面を破壊していた。

 

「あぶなっ!」

「美由希! 大丈夫か!?」

「……なんとか」

 

 恭也は顔を振り向かせ美由希の無事を確認し安堵する。なのはは、黒い化け物が次の攻撃を繰り出そうと、赤い双眸をこちらに向けたのを確認すると「また来るよ!」と二人に教えた。

 二人は一瞬振り向き確認すると即座に左右に移動し備える。しかし黒い化け物が飛び掛ってくることはなかった。こちらに向かおうとした瞬間に地面から突き出してきた木に激突し、その体を大きく歪めていた。

 

「……本当になんなんだあいつは」

 

 3人とも唖然とするしかなかった。

 

 

 

 

「ちょっと……私そろそろ……限界……かも」

 

 美由希が荒い息で恭也に言う。

 恭也は美由希を見る。大粒の汗を浮かべた顔は今にも倒れこんでしまいそうなほど苦しそうだった。一体どうすればいいのかと恭也は悩む。ここで止まってしまってはあっという間に木に飲まれるだろう。

 

「私……のことは……いいから先に……行ってっ!」

「バカなこと言うな! そんなことできるわけないだろう!」

 

 恭也はそう言うと振り返る。が、先ほどの位置に美由希の姿はなく少し後方に倒れこんでいた。恭也は慌てて引き返すと美由希の前にしゃがんだ。

 幸いにも、まだこの辺りは樹が根をはる様子はなかった。しかしそれも時間の問題だろう。

 

「……私……ちょっとだけ……休憩するよ」

 

 恭也は苦虫を噛み潰したような顔をする。美由希のような状態を恭也も体験したことがある。気合云々でどうにかできるものではないということは身をもって知っている。だからこそ「命がかかっているんだ! なんとか走り続けろ!」なんてことは言えなかった。どうしようかとあれこれ考えるが良い案が浮かばない。このままでは3人ともやられてしまう。しかし美由希を見捨てるなんて言語道断だ。

 できるかどうかわからないが、美由希も背負って走るしかないと結論を出そうとしたとき、どこか神妙な面持ちをしていたなのはが恭也の背から下りた。

 

「お兄ちゃん、私が残るよ。お姉ちゃんを連れて行ってあげて」

 

 恭也が顔を上げ、なのはに鋭い眼光を向ける。

 

「はぁ? こんな時になに馬鹿なこと言ってるん……」

「心配しないで。……私ね、同じ世界を何度か繰り返してるんだ。実はもう2回死んでるんだよ? 1回目はさっき見た黒いやつに体当たりされて、2回目は巨大樹から落ちて地面に。……目が覚めるとね、同じ朝に戻ってるんだ」 

 

 馬鹿馬鹿しい。そう恭也は一蹴したかった。しかし、恭也は思い出す。いつだったかなのはが語った夢の内容を。描写が細かすぎた夢の話。その内容が今日の出来事とあまりに合致していた。偶然だろうと言ってしまえばそれまでだが、真剣に言うなのはと相俟って、どうしてもそうだとは思えなかった。

 

「私、お兄ちゃんが連れ出してくれたおかげで大事なことに気づけたんだ……。だから大丈夫だよ。大丈夫。私はもう死なない。……この世界のなのはは死んでしまうかもしれないけど私、高町なのはは生き続けるから。私は何度でも立ち上がれるから」

 

 なのはは屈託のない笑顔を浮かべて言った。しかし恭也は納得できるはずもなかった。なのはを見捨てることなんてできるわけがなかった。そんなことをしたら自分自身を許せない。自分はなのはの兄でなくなってしまう。

 恭也は思わず立ち上がり言う。

 

「たとえそうだとしても置いていけるわけない」

「でもこのままだと3人とも死んじゃうんだよ!? 私とお姉ちゃんを担いで逃げようと思ってたのかもしれないけど、いくらお兄ちゃんでもそんなんじゃ逃げられない! 私は皆に死んでほしくないの!」

「そんなの俺だって同じだ! なのはにも美由希にも死んでほしくないっ!」

 

 お互いの譲れぬ思いをぶつけ合う。なのはは恭也の、恭也はなのはの目を断固とした意思を宿して見つめる。そして沈黙。

 

「……お兄ちゃん。お兄ちゃんたちは死ぬとそれで終わりなんだよ……? わかってる? わかってないよね? ……私はやり直せるの。だから信じて。私、必ず……必ず皆が無事で笑っていられる未来に辿り着いてみせるから! 何度繰り返したとしても絶対に辿り着いてみせるから! それまで辛い思いさせるかもだけど……お願いっ。 私を信じて?」

 

 なのはは近づくと恭也の大きく硬い手をとって言った。

 恭也は何も言えなかった。しかし内心では激しい葛藤があった。そして選択を強いられていた。破壊音が近い。もう時間はない。

 

「お兄ちゃん、もう時間がないよ。早く逃げてっ」

 

 なのはが焦った顔で言った。

 恭也は意思を固めたのか「わかった」と頷くと美由希を起こし背負った。美由希は恭也の返答に驚きの声を上げた。

 なのはは安堵し、小さく微笑む。

 

(私がんばるから。絶対に辿り着くから。それまで我慢し……。)

 

 なのはの思考は途中で遮られる。恭也が振り向いたと思ったら急に浮遊感に包まれたのだ。

 なのはは目を白黒させる。

 

「ちょっ、お兄ちゃんなにするの!? 下ろしてよっ!」

「こら、暴れるな。動きにくいだろ」

 

 なのはは恭也に横抱き……いわゆるお姫様抱っこされていた。頭の中は混乱の極みだった。

 

「なんで……わかったって言ったじゃん! なんで置いていかなかったの!?」 

「……当然だろ? なのはは俺の大切な妹なんだから」

 

 恭也は険しい顔をしたなのはを安心させるかのように微笑んだ。なのはは毒気を抜かれ恭也をただぼうっと見た。

 思い通りにいかなかった不満は少なからずあった。が、それ以上に嬉しかった。ただ嬉しかった。思い出すのは前回の最後。誰も助けに来ず、誰も気づかず、ただ一人孤独と絶望に打ちひしがれ落ちていった。その経験があるが故に恭也の行動はあまりに嬉しすぎた。自然と涙が溢れた。

 

「ありがとう……」

 

 小さく呟いたなのはに恭也はそっけなく頷いた。

 

 

 

 

 明らかに速度は下がっていた。息が若干あがり始め、動きも鈍くなっていた。突き出してくる樹を辛うじて避けられてはいるが、いずれ当たってしまうことは想像に難くない。

 

「……恭ちゃん、私そろそろ走れそうだから下りるよ?」

「いや、まだ休んでおけ。俺は大丈夫だ」

 

 恭也は、美由希が度々してくるこの類の提案を全て拒否した。恭也は分かっている。たとえ美由希を下ろしたとしても、自分はもうそんなに走れないことを。恭也が美由希を背負うことはできても、美由希は恭也を背負えない。だから自分が走れなくなるまで美由希を休ませて、そうなった時なのはを預けるつもりだった。

 それから、さらに走り続け恭也の息が荒くなったころ、樹が突き出してくる音とは別の破壊音が聞こえ始めた。

 また黒い化け物でも現れるのかと恭也は内心で動揺する。今現れると非常にまずかった。おそらく今の恭也では二人を運びながら避けるのは困難だろう。

 どうか来ないでくれと恭也は願う。しかし、その願いは、後方から聞こえる激しい破壊音と共に裏切られた。

 恭也の決断は早かった。振り向いてそれを確認すると同時に急停止した。

 

「美由希下りろ! なのはをつれて逃げるんだ。急げ!」

「でもっ! 恭ちゃ……」

「でもじゃない! 早くするんだ! 急げ!」

 

 問答している暇はない。恭也は行こうとしない美由希に鬼気迫る勢いでなのはを預けると 無理やり前を向かせ押し出した。

 走り出したのを確認すると破壊音の出所の方を向く。予想した通り化け物がいた。しかし、それは予想した黒い化け物ではなかった。

 地面から頭の先まで2メートル以上はあろうか。焦げ茶の肌。青い目をギラつかせた肉食獣のような凶悪な顔。開いた口にはナイフのような金色の牙を覗かせている。頭には目と同色の角が前後4本並んでいた。4足歩行だが、前足の付け根からはさらに2本の腕が伸びている。その手足は大木のように太く、筋肉が盛り上がっていた。それぞれの先端には、人の体など真っ二つにできるのではないかと思わせる青く鋭い爪が3本並んでいた。首から腰にかけて、装飾のように金色の金属が張り巡らされており、ところどころから円錐状の突起が天に向かって高く突き出ていた。何のためかわからないが腰には歯車がついている。そして何より目立つのが、己の体よりも長いのではないかと思われる巨大な尻尾だった。それを薙ぐだけで人間などひとたまりもないだろう。

 恭也の中から生き残ろうとする意思は完全に霧散した。せめて、ほんの少しでも時間稼ぎにでもなれれば、と覚悟を決めるのだった。

 

 

 

 

「ちくしょうっ! ……ちくしょう! ちくしょうちくしょう!」

 

 美由希は泣き叫びながらただ只管に走った。目からは止まることなく涙が溢れ出し、汗と混じると頬を伝って流れ落ちた。

 恭也を見捨てしまったこと。何もできなかったこと。そして、こんなわけのわからない事態を引き起こした原因に激しい怒りがわいた。これらの感情が美由希に死にものぐるいの力をあたえた。決して振り返らず、前だけを見つめ走り続ける。止まるわけにはいかなかった。恭也の紡いでくれた命を無駄にするわけにはいかなかった。

 なのはもまた美由希と同じくらい、いや、自分で逃げることができない分、それ以上の気持ちを抱いていた。なのはは恭也の姿が見えなくなるまで、振り向きその目に焼き付けた。決して忘れぬようにと。

 しかし、こういう時に限って悪い出来事は重なるものだ。またもや前方に、黒い化け物が躍り出た。前回とは違い、一本道だ。

 あまりのタイミングの悪さにひどい苛立ちをおぼえる。誰かが自分たちを陥れようとしているのではないか、とさえ思った。

 美由希は構うものかと黒い化け物に向かって疾走した。

 黒い化け物は美由希を捉えると高速で突進してくる。それを美由希は見切ったと言わんばかりに身を捩りながら横に回避した。

 この程度、美由希にとってなんてことはない。黒い化け物を振り返ることもなく、行くべき道を見据える。だが入れ替わり走り抜けようとした瞬間、美由希は宙に浮いていた。

 思考が止まる。

 何が起こったのか分からない。分かるのは地面が目の前にせまっていることだけ。いや、自分が地面にせまっていることだけだった。

 美由希は、すれ違いざまに触手で足を引っ張られたのだ。奴の方が一枚上手だったようだ。

 美由希は走る勢いそのままに地面と激突した。

 側頭部を強かに打ち付けられた美由希は呻き声を上げる。自分の不覚を憂うよりも先に、こんなところで終われないという意思が働く。

 すぐさま立ち上がろうとした。しかし、それは上体を僅かに持ち上げるだけに終わった。

 視界が揺れる。体に力が入らない。頭が割れるようだ。

 

「こんなところで……」

 

 美由希は拳を強く握りしめ、唇を噛んだ。

 なのはは急いで背から下りるとうつ伏せの美由希を仰向けし声かける。

 

「……なのは、逃げて。私動けないや」

 

「ううん。お姉ちゃんと一緒にいるっ」

 

 美由希は、ぼろぼろと涙を零すなのはに「そっか」と優しげに微笑んだ。

 

「恭ちゃんごめんね……。私逃げきれなかった……」

 

 黒い化け物が空に飛びあがり、こちらに狙いを定め始めたのを見つめながら呟いた。

 美由希は視線をなのはに移すと、愛おしそうな顔でなのはの濡れた頬に手を伸ばし、そっと触れた。なのはの暖かな体温を感じた。

 

「なのは、私たちの思い……なのはに託すよ」

 

 その時、なのはの中に決して揺るぐことのない強固な意志が宿る。宛ら、本当に美由希たちの思いが流れ込んできたかのようだった。

 なのははその手に自らの手を重ねるとぎゅっと頬を押し当てた。

 

「うん、うんっ! 任せて!」

 

 なのはは美由希に、涙でぐちょぐちょの顔、しかし断固とした強い決意を持った瞳で、今できる最高の笑みを浮かべた。

 強烈な衝突音。

 もうそこに人はいない。

 闇が染みついたかのような黒だけが、爛々と輝く太陽の下に、赤く塗られた地面の上に、ただ佇んでいた。

 

 

 

 

 新しい朝。

 なのはは目を覚ます。

 その表情は目に涙を浮かべているものの、かつてないほど毅然としていた。

 

 



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大きな収穫

 

 なのはは上体を起こすと、右の頬に手を当てそっと目を瞑った。

 今さっきの出来事が脳裏を駆け抜ける。

 

『私たちの思い、なのはに託すよ』

 

 恭也の姿が、美由希の姿が、最後の言葉が、何度も何度も繰り返される。

 任せて。必ず皆が無事に生き残って、笑っていられる未来に辿り着いてみせるよ。たとえ何度やり直すことになったとしても……。

 ゆっくりと目を開く。もう涙はない。

 ベッドから降りて着替える。そして皆がいる食卓へ向かうべく扉のノブに手を添えた。

 なのはの動作一つ一つに、子供らしからぬ、どこか厳かな雰囲気が漂っていた。

 でも、まずはお兄ちゃんとお姉ちゃんに……。

 薄く笑み浮かべると扉を開けた。

 再び世界が動き出した。

 

 

 

 

「おう、おはようなのは。今日はちゃんと一人で起きれ……」

 

 廊下に制服姿の恭也を見つけると同時に駆け寄り、勢いよく恭也の腹に抱きついた。

 よろめく素振りはない。突然のなのはの行動に目を白黒させる。

 

「お、おい。どうしたんだ突然」

 

「……別に、なんとなくだよ」

 

 頭と顔をぐりぐりと押し付ける。宛らじゃれつく猫のようだ。

 不思議に思いながらも恭也はなんとなく、なのはの頭をそっと撫でつけた。

 なのはは、巨大尻尾の怪物と対峙する恭也の後姿を思い出して目が熱くなる。

 もう、そんな危ない目にあわせないから。私がさせない。

 なのははぐっと涙を堪えると、顔を離し恭也を見た。

 

「お兄ちゃん、私がんばるね!」

 

「そ、そうか。よくわからないが頑張ってくれ」

 

 恭也は、突然の言葉に何が何だか分からなかった。とりあえず応援しておく。

 まさか自分のために言ってくれているなんて、恭也は夢にも思わないたろう。

 なのはは、なんだかおかしくなって、ふふっと笑うと「うん、ありがとう」と言って恭也から完全に離れた。

 

「あれ、どうしたの2人して……」

 

 美由希の登場。同時になのはは美由希目掛けて飛びついた。

 

「ぐふっ……。ど、どうしたのなのは?」

 

 丁度、鳩尾になのはの頭がクリーンヒットした美由希は、呻き声を上げたものの、難なく受け止めた。そして怒ることもせず、優しい眼差しでなのはを見た。

 恭也の時と同じく、ぐりぐりと押し付ける。そして胸いっぱいに美由希の匂いを吸い込んだ。無意識に頬が緩む。

 変態と言ってはいけない。それ程、美由希への好感度が高くなっているのだ。すごく安心できるのだ。

 

「ううん、なんでもないよ。ちょっと抱きつきたくなっただけ」

 

 美由希は「そっかそっか」と頷くと頭を撫でる。そして恭也へ「どうなってるの?」と意味を込めて視線を飛ばす。返ってきたのは、首を傾げ両肩を上げる仕草と「俺にもさっぱりわからん」という視線だった。

 なのはは満足すると美由希から離れ、緩んだ顔を引き締めた。

 よし。大丈夫。これで私は1万と2千年は戦っていける。…………本当に1万2千年戦えるって意味じゃなくて、それくらいの意気込みって意味だよ。

 なのはは内心で思ったことに内心で補足を入れた。

 美由希と恭也は、急に雰囲気が変わったなのはを不思議に思った。

 

「時間取らせてごめんなさい。……私、がんばるからっ」

 

「え? ええ。がんばって……ね?」

 

 立ち去っていくなのはを、2人は呆けた顔で見送った。

 その後、士郎と桃子も抱きつかれ、何に対してか分からない、なのはの頑張る宣言を聞かされた。

 桃子だけが動揺もなく、普段と変わらぬ笑顔で会話を発展させるのだった。

 

 

 

 

 バスが来るのを待っている時、なのはは今までの情報を整理していた。

 えーっと。どこから整理すればいいんだろう……。とりあえず一番重要なのは、何かちっちゃな切っ掛け一つで未来は変わるということかな。確かに出来事は同じだけど、今まで3回とも同じ結果なんてことはなかった。つまり、出来事を知っている私が上手く動けば望む未来に辿り着けるってことだね。

 なのはは空を見上げて目を細めた。太陽が眩しい。透き通った青に綿菓子のような雲がいくつか浮かんでいる。 

 それと、いろんなお化けと異常現象についてかな。まずはあの私を殺した……お姉ちゃんを殺した……。

 なのはは、ぎりりと歯を食いしばった。握った手がぷるぷる震える。悲しみではない。湧き上がる怒りによってだ。

 あの黒いお化けは絶対に許さない…………。って言ってもどうすることもできないんだよね……。あんなの倒せるわけないじゃん。悔しいことに。でもせめて情報くらい調べておいても損はないよね。ほら、昔の偉い人が敵を知れば最強になれるって言ってた気がするよ。というわけで今日行ってみよう。見つからないように物陰から覗き見てれば多分大丈夫に違いない。

 丁度考えが一段落ついた時にバスが到着した。

 なのははバスに乗りアリサとすずかの顔を見る。その時ふと、2人にとってしまった態度を思い出す。

 自分のために心配してくれた2人を鬱陶しいと思ってしまったこと。アリサを怒らせ、そして謝れなかったこと。そんな自分は親友の資格がないのではないか。

 なのはの不安は大きくなっていく。

 

「おはようアリサちゃん、すずかちゃん」

 

 上手く笑えているかな……? なんだか2人と話すのが気まずい。2人を騙しているようで胸が苦しいな……。

 当然2人が前回のことを知っているわけではない。だから気にする必要などないのだが……一方的になのはが覚えているが故にどうしても負い目を感じてしまう。

 そんな心配を余所に、2人はいつもと変わらぬ挨拶を返し、なのはの定位置である真ん中の席を開けてくれる。

 なのははそこに座る。普段と何も変わらない。それなのに……ひどく居心地が悪かった。自分がここに座ってはいけないような気がした。今すぐに逃げ出したかった。

 

「……どうしたのなのはちゃん? そわそわして」

 

「なんか悩み事でもあるの?」

 

 なのははビクッと体が跳ねた。鼓動が早まる。まるで悪事がばれた時のような気持ちだった。

 咄嗟になんでもないよ、と口から零れそうになったが、寸前で飲み込んだ。

 大丈夫って言うなら心配かけない努力くらいしなさいよ、か……。確かにその通りだ。よし。

 

「ううん。別に悩んでなんかいないよ! 今朝怖い夢見てね、それがあまりにもリアルだったから思い出したら少し怖くなっちゃって……にゃはは」

 

 なのはは全力で顔の筋肉を動かし笑顔の仮面を作った。

 いつものように他愛無い会話が始まる。

 しかし、なのはの心には翳りができていた。

 

 

 

 

 授業は全く聞いていなかった。その間、なのはは暗い気持ちを無理やり隅に追いやり、バス停で行っていた情報整理を再開した。

 今のなのはにとっての最優先事項は、大好きな皆が無事に生き残ることだ。美由希にも託されたのだ。自分のことは後回しで良い。

 確か今日聞こえるはずの少年の声はアイツの声なんだよね。……あれ? 今思ったけど最初に声が聞こえた時、アイツいなかったよね。前回の最後に現れた時には少年声も聞こえなかったし。しかも叫び声は動物の咆哮みたいだった……。ってことは少年の声はアイツの声ではないということ?

 なのはは鉛筆の後ろを口に当て頭をフル回転させる。ノートには現在分かっていることと自分の推理が書き込まれていた。板書なんて知らない。

 そして、最後に一つの可能性が残った。声が聞こえた場所に共通する部分は拾ったフェレットがどちらにもいる。つまり、声はフェレットが出しているというものだ。これは前にも一度辿り着いて破棄した考えだったが今回は違った。

 むむむ。可能性は高いかも。でもフェレットさんが話すのか……。まぁ鳥も話すから不思議ではないのかも? それにあんな意味不明のお化け達や、おっきな樹があるんだから、言葉を話すフェレットさんがいてもおかしくないかな。

 今日のなのはは、どういうわけか非常に冴えていた。もはや迷探偵ではなく名探偵だ。汚名返上である。

 

 助けを求める声はフェレットのもの。

 フェレットは黒いやつに襲われそうになって助けを求めたのではないだろうか。もしそうなら、小さいうえに、黒いやつの視界に入っていないにも拘らず、襲われそうになるということは何かしら関係があるということになる。

 黒いやつと他の化け物の共通点は明らかに異常。よって何かしら関係がある可能性は高いと思われる。また巨大樹と共に現れたことからも、そちらとも関係しているのかもしれない。

 樹が生えると非常に危険。生える前に避難するべき。

 疑問な点は何故声が遠く離れた場所にまで聞こえるのか。そして何故自分にしか聞こえないのか。

 黒いやつと巨大尻尾は仇。絶対に許さない。

 

 これらが午前の授業全てを放棄して導き出した結果だった。理数が得意なだけあって論理も得意なのだろう。

 なのはは机に突っ伏した。

 つ、疲れた……。きっと頭使いすぎて知恵熱が出てるに違いない。

 手をゆっくりと自らの額に持っていく。

 全然熱くないじゃん平熱だよ……。まぁそれは置いておいて、我ながらなかなか良い感じなんじゃないかな。誰かに褒めてほしい……。誰もいないんだけどさ。

 昼休みが始まり、アリサとすずかがやってくる。

 なのは中で、再び罪悪感が膨れ上がる。しかし、そんな感情などおくびにも出さず、2人と弁当を食べに屋上に向かうのだった。

 

 

 

 

 午後の授業もそっちのけで別なことをしていた。

 

「なのは、一緒に塾に行こう。 ……んー? 何書いてるの?」

 

 すずかと共に、なのはのもとへやってきたアリサがなのはの机の上を見る。

 

「え? 別にただの手紙だよ」

 

 誰かに出すのかと聞いてくるアリサに「それは秘密だよ」と笑いながら手紙を鞄にしまう。

 アリサは、ぽん、と手を打った。

 

「……なるほど。ラブレターね」

 

 大きく頷いて、によによ笑うアリサと「ラ、ラブレター!? 誰に出すの?」と妙に食いつきが良いすずか。

 なのはは何を言われたのか理解できず、口を開けアリサを見たまま固まるが、すぐにハッと気づき必死に否定する。しかし、「分かった分かった。ただの手紙ね」と相変わらず、によによ笑いながら頷くアリサ。すずかも、にこにこ笑いながらなのはを見ている。

 絶対分かってないの!!

 なのはは内心で叫ぶが、もはや何を言っても無駄だと悟り諦めた。

 一つ溜息をつく。

 

「……そんなことより、早く塾に行こうよ」

 

 2人の視線を振り切るかのように、先陣を切るなのはだった。

 

 

 

 

 今までと同じように声が聞こえた。なのはの表情が引き締まる。2人を置いて走り出すことはせず、ゆっくりと歩いて向かう。

 地面にフェレットが蹲っていた。

 なのはは、それの前に近寄る。そして立ち止まると無言で見下ろした。

 後ろの2人もフェレットに気づく。近づいてしゃがみ込むと状態を確認しだした。

 フェレットの様子を観察するようにじっと見つめるなのは。

 私を呼んだのはこのフェレットさんなの……? まだ確信が持てないな。今話しかけたら、アリサちゃんとすずかちゃんに変な目で見られちゃうし……。

 その時フェレットと目があった。それはどこか知性を感じさせるものだった。しばらく無表情のまま見つめあっていたが、途中でフェレットは目を閉じて眠ってしまった。

 なのはは、一人でフェレットに会えるタイミングを考えてみたが、夜しかなかった。

 まぁ、今日は行く予定だったから、その時確認してみよう。でも勝手に動物病院に入れないよね。どうしよ。明日になるとフェレットさんはいなくなっちゃうし……。壁が壊れて逃げ出したところを捕まえてみよっか。すごく危険だけど……私の推理によれば、とても重要なことが分かるはずなの。

 3人はフェレットを動物病院に預けると塾へ急いだ。

 

 

 

 風呂からあがったなのはは自室にいた。

 寝巻きではなく、外出するための服を着ている。そして机に向かい、急いで手紙の続きを書いていた。まだ声が聞こえるまで時間がある。しかし、それよりも前に家を出るつもりだった。

 

「よしっ、完成っと」

 

 鉛筆を机に置くと手紙を手に取り、文を見直す。

 訂正箇所が無かったのか一つ頷く。それを折り畳むと封筒に入れ立ち上がった。

 ちらりと時計を確認してから、手紙をゲーム機のソフト差込口に差し込む。

 なのはは部屋の真ん中で直立すると目を瞑った。深く息を吸い込んでから、ゆっくりと息を吐き出す。

 静まり返った部屋に、秒針の一定のリズムが小さく響いている。

 徐に目を開くと両頬をパァンと叩いた。

 

「……良し」

 

 なのはは電気を消し静かに部屋を出た。

 

「こんな時間に何処かへ行くのか?」

 

 げげっ、お兄ちゃん……。なんで出てくるの……。

 なのはは後ろから掛けられた恭也の声に固まる。そして油の切れたブリキ人形のようにゆっくりと振り返った。

 そこには怒ってはいないものの訝しげな目を向ける姿があった。

 

「うん? ちょっと出かけてくるだけだよ」

 

「こんな時間に? 一体どこに行くつもりなんだ?」

 

 なのはは内心で舌打ちした。まさか見つかってしまうなんて想定外だった。必死に思考を巡らす。

 あぁああっ! どうしよどうしよ何て言おうっ。すぐに思いつかないよ!

 恭也は無言で腕を組む。目が少し険しくなってきた。

 どうしよどうしよどうしよぉお! 何か言わなきゃ!

 動揺を隠そうと無表情を意識するが、視線が泳いでしまう。 

 

「えっとね……」

 

 その次は何て言うつもりなの私っ!?

 

「ちょ、ちょっとその辺を……さ……」

 

「さ?」

 

「さ、散歩?」

 

 恭也の目が一層険しくなり、片方の眉がつり上がった。

 私のバカぁ! 散歩って何さ! 怪しさ満点だよっ!

 体中から変な汗が噴出す。

 なのはは、恭也の視線にいよいよ堪えきれなくなり吐いた。

 

「ごめんなさいっ! 嘘です! さっき話したフェレットさんが心配で見に行こうって思ってたの!」

 

 理由はともかく行き先は本当である。

 恭也の眉が元に戻る。

 そして明日では駄目なのかと聞いてくる恭也に「今日じゃなきゃ駄目なの……」と返す。上目遣いで、しおらしく言ってくるなのはに、恭也は困った顔で溜息をついた。

 

「わかった。……俺も一緒に行こう」

 

 なのはは理解できず無意識に聞き返した。

 

「だから俺も付いてい……」

 

「駄目!!」

 

 最後まで言わせなかった。

 付いてきたら危険な目に合わせてしまう。それどころか死ぬ可能性だってある。そんな場所に連れて行くことは絶対にできない。これだけは譲れない。目には恐ろしいほどの気迫がこもっていた。

 なのはのあまりの豹変ぶりに恭也は困惑する。

 

「お、おい。どうしたんだよいきなり……」

 

「駄目なものは駄目なの。お兄ちゃんは家で待ってて」

 

 そう言い捨てると踵を返して家を出た。

 恭也は初めて感じるなのはの気迫に、一言も発せずただ呆然と見送った。

 

 

 

 

 水色の自転車に跨り薄暗い道を走り抜ける。目指すは動物病院。

 なのはの顔は先程の力強い表情ではなく、げんなりしたものに変わっていた。恭也とのやりとりで心がぐったり疲れきってしまったのだ。タイミングが悪かったとしか言いようが無い。

 しかし動物病院が近づいてくるにつれ、疲れなど忘れていった。次第に体が強張ってくる。

 もう少しで着くという時、頭に声が響いた。なのはの心臓がドクンと高鳴る。それを切欠に、狂おしいほど脈打ち始めた。一度自転車を止める。

 今ならまだ引き返せる。今なら怖いを思いをすることなく家に帰ることができる。あの化け物に襲われることもない。引き返そうか?

 無意識に右の頬に手を触れる。

 ……冗談じゃない。 私は、あのふざけた生き物と樹の原因を知って、いつか絶対に皆と一緒に生き残るんだ!

 依然、体は緊張し、心臓も早鐘のごとく鳴り響いている。恐怖もある。しかし迷いは無かった。

 なのはは自転車をから下りると道路脇に置いた。曲がり角から頭だけを出し動物病院前の通りを確認する。前のように街灯に照らされる黒い化け物はいなかった、動物病院の敷地へ入るべく移動した。門をくぐり建物に近づくと窓を覗いていく。

 ケージのある部屋を見つけると窓を開けようと手を伸ばした。当然ながら開かない。どうしようかと一瞬悩むが、フェレットが話せる可能性があることを思い出す。コンコンと窓をノックする、予想通りフェレットが反応しケージから顔を出した。

 その時、室内を照らしていた街灯の光が異様に大きな影に侵食されていく。窓に二つの赤い点が映った。

 瞬時にそれが何なのか理解する。心臓が跳ね上がった。

 

「逃げてっ!」

 

 その声となのはが横に飛び込んだのはほぼ同時だった。

 壁と窓ガラスが破壊される凄まじい音が耳を劈く。

 すぐさま起き上がり状況を確認した。黒い化け物は室内に突っ込み姿が見えない。なのはは壁にあいた大きな穴から目を離さずに、しかしできる限り急いでその場から離れようとする。

 心臓は壊れてしまいそうなほどに収縮を繰り返す。息が乱れる。ただ以前と違い恐怖で体が動かないということは無い。頭も冷静だ。

 これからどうするか。なのはは思考を巡らせる。

 まさかこんなに早く現れるとは思わなかった……。出来事は同じでも必ず同じ時間に起こるわけではないということかな。どちらにせよ気づかれたのはかなりマズい。逃げることに集中するか、少しでも情報を集めて次に生かすか……。

 あと少しで動物病院の門から出られるという時に、フェレットが穴から走り出してきた。それを追って黒い化け物が突進する。フェレットは高く跳躍すると回避した。黒い化け物は勢いそのままに生えていた木に激突した。しかし巨大樹の時のように体を歪ませることはなかった。それどころか、その時よりも太い木なのにも関わらず簡単に圧し折り、その周辺を大きく陥没させていた。フェレットは難なく着地するとなのは目掛けて走ってくる。

 げげっ! なんでこっちに来るのさ!? 君が囮になってくれないと観察できないじゃん!

 なのはは苦渋に満ちた表情でフェレットを見つめる。

 なのはの前に立ち止まったフェレットは「来て……くれたの?」と喋った。しかしなのはは表情を変えずに無言で見下ろす。

 幾許もしないうちに黒い化け物が動き出し再びこちらに視線を向けた。正確にはフェレットに。

 なのはは即座に気持ちを切り替えると柔らかな毛並みのフェレットを鷲掴みにして敷地の外へ走り出した。鷲掴みは可哀想だとは思うが今はそんな余裕などない。先程立っていた場所が深く抉られた。

 なのはは自転車のカゴにフェレットを放り込むと全力で立ち漕ぎをし始めた。すぐに足が辛くなってくるが少しでもフェレットから情報を聞き出そうと耐える。

 

「ちょっと君っ。あの黒いお化けが何なのか知ってる?」

 

「君には……資質がある。力を貸して欲しい」

 

 時間が無い。その上に息が苦しくて足も辛い。そんな状況で質問に対し的外れな答えを返すフェレットに苛立ちを覚える。しかし資質という言葉が気になり聞き返す。

 返ってきた答えを要約すると、探し物のために別の世界からやってきたが、力不足で全然捗らない。だから資質を持ったなのはに自分の力を使って協力して欲しい。もちろんお礼はする、というものだった。

 相変わらず質問に対する答えが返ってこないが、なかなか有益な情報がちらほらと零れてくるので黙って聞いていた。

 

「僕の持っている力をあなたに使って欲しい……僕の力を……魔法の力を」

 

 なのはは一瞬呆気に取られる。冗談でも言っているのかと思ったがすぐに受け入れた。

 たしかにそんな摩訶不思議な力があるとするなら、これから起こるわけの分からない事態も納得できるかも……。しかもそれを使う資質が私にはある? ははっ……なんてこった。

 頬がピクリと痙攣した。

 

「どうすれば使えるの?」

 

 尋ねながら黒い化け物が着いてきていないかと振り返る。後ろにはいなかった。しかしその上空にいた。しかも飛び掛る寸前だった。

 フェレットは「これを」と言って首にかけてある赤い宝石のネックレスを銜えて差し出そうとしていた。なのはは急ブレーキを掛けてフェレットを掴み上げると自転車から降りる。それと同時に黒い化け物が少し前方に落下した。全力で自転車を漕いだせいで足に力が入らなかったなのはは、その衝撃でへなへな座り込んでしまった。

 ちょっと……逃げるのは難しいかな……。今回はたくさん重要な情報が手に入ったし無駄ではなかった……でもここで諦めるのも格好悪いよね。もう少し頑張ってみようか。……それに死ぬのはやっぱり怖い。

 なのはは歯を食いしばり立ち上がる。ふらふらだが動けないわけではない。黒い化け物を見据える。まだ動けないようだ。どうやら衝突した直後は短い時間ではあるが硬直するらしい。

 

「で、なんだっけ」

 

「こ、これを使って……」

 

 差し出された赤い宝石を手に取る。これを持って目を閉じ、心を澄ませ、フェレットの言った言葉を繰り返せばいいらしい。

 ……いやいや無理でしょこんな状況で! 馬鹿すぎるよ! そんなの私にだってわかるよ!?

 なのはは黒い化け物を見つめたまま渋い顔をする。黒い化け物がこちらを振り向く。

 この状況を抜け出すための方法を必死に考える。しかし全然思い浮かばない。もう駄目かと諦めかけた時、美由希の姿が思い浮かんだ。

 ……これしかない。運動のできない私じゃあ無理かもしれないけど諦めたくない。大丈夫。私はお父さんの子供でお兄ちゃんとお姉ちゃんの妹なんだから。絶対できる。できなきゃ死ぬ。できたとしても左右の紐みたいなやつに気をつけなきゃ。

 右手に宝石。左手にフェレット。黒い化け物が動き出すと同時になのはも動いた。ほとんど勘だった。体を捻りながら横に避けようとする。イメージするのは美由希の動き。それはあまりにも拙い動きだった。だが服を掠りながらも辛うじて成功した。、そのまま、なのはは重力に任せ地面に這いつくばった。その背中のすぐ上を鋭い風切り音が通過した。そして衝突音。

 なのはは顔を上げ確認する。心臓がこれ以上ないくらい脈打っている。

 

「……で、できた」

 

 い、生きてる! やったやった! やればできるじゃん私!

 自然に嬉々とした表情に変わる。しかしこうしてはいられないと急いで立ち上がり、宝石を握ると目を閉じた。そしてフェレットに続きを促す。動物なので表情は分からないが、ずっと握られっぱなしだったせいか声に力が無いように思われた。

 

「……風は空に、星は天に。そして、ふくちゅの……不屈の心はこの胸に!…………やりなおし?」

 

 顔を青くしたなのはがフェレットと顔を見合わせる。沈黙。

 い、一回くらい間違っちゃってもいいじゃん! どどどどうしよう! もう無理だよ! うぅ……せ、せめてフェレットさんだけでも。

 慌てふためくなのはは急いで結論を出すとフェレットを掴み上げた。そして塀の向こうへ全力で放り投げた。何かを叫びながら飛んでいく姿を見送ってから、なのはは深呼吸した。少しだけ冷静になる。フェレットはこれで無事に生き残れるだろうと安心した。この世界を旅立つ覚悟を決める。

 黒い化け物はなのはの方を向く。なのはも振り向くと不敵な笑みを作った。

 

「ふっ、収穫はあった。もうこの世界に用は無い……」

 

 なのはは目を瞑る。

 黒い化け物は動き出した。なのはは……横に身を捻った。

 やっぱり怖いぃ! 死にたくないよぉお!

 なのはは涙目になりながら再び辛うじて避けきってみせた。

 再度宝石を手にして目を閉じる。

 

「…………なんだったっけ。忘れちゃった……」

 

 冷や汗が止まらない。フェレットを呼ぶが反応が無い。顔面は蒼白だ。

 黒い化け物を見やる。相手もなのはを見やる。時間さえも見守っているかのような静けさ。そして黒い化け物が動き出した。なのはは身を捻る。が、突進は来なかった。その代わりに鞭のように振るわれた2本の触覚が音の壁を破りなのはの背中に吸い込まれる。

 一瞬の静寂の後、なのはは肉を引き裂かれる激痛に思わず叫び声をあげてのたうちまわる。経験したことがない、気が遠くなる程の激しい痛みだった。今までは痛みを感じる間もなくやられていた。それが普通だと思っていた。だがそれは大きな間違いだった。

 泣き叫んでも転げまわっても痛みはなくならない。なのはは涙を浮かべて歯を食いしばりただ只管痛みに耐える。

 黒い化け物は飛び上がると狙いを定める。そして、今その痛みから解放してやるとでも言うように咆哮を上げるとなのはに迫る。

 なのはは痛みから解放された。

 

 

 

 



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なのはより

これは飛ばしていただいても特に問題ありません。
時間ある方はどうぞ。


家族宛

 

 これを読んでいるということは、おそらく私は黒い化け物にやられてしまったのでしょう。でも悲しまないでください。この世界の私は死んでしまいましたが、別の世界で生きています。

 さて本題です。原因はわかりませんがこれより1週間後に、もしくはその前後に、海鳴市は巨大な樹がいたるところに生えることによって、めちゃくちゃになってしまいます。それと同時に何体かの化け物も現れます。嘘ではありません。これはほぼ確実に起こります。1つ前の世界で私とお兄ちゃんとお姉ちゃんは樹から逃げる途中、その化け物によって死にました。お父さんとお母さんは別の場所にいたので見ていないのですが、多分同じでしょう。それで何を言いたいのかというと、そうなる前にどこか遠くへ逃げて、皆に生き残ってほしいのです。樹はおそらく皆が思っている以上に巨大な上に沢山生えてきます。根は簡単に道路やビルを突き破り全てを破壊します。だから海鳴市周辺ではなくもっと遠くへ逃げてください。

 それで何故絶対ではないのかというと、何かの切欠で未来は変わるからです。例えば、私がこの手紙を書いたことによって皆が生き残る。これは未来が変わったということです。つまり、事前に起こることを知っていれば少しは対処できるのです。では何故私は死んだのかという話ですが、もちろん私は死んだ原因を知っています。自分からその原因に近づきました。理由は化け物や樹が現れる原因を知りたいからです。私が望むのはいつも通りの平和な日常です。海鳴市がなくなってしまっては意味がないのです。

 関係ない話ですが、私は死ぬ度にフェレットを拾う日の朝から繰り返してます。私はずっと夢だと思い込み、ただ夢から覚めるのを待つだけでその世界で生きることを止めてしまいました。皆に沢山迷惑かけて心配もさせてしまいました。本当にごめんなさい。でもお母さんの言葉のおかげで、お兄ちゃんが連れ出してくれたおかげで、お姉ちゃんが思いを託してくれたおかげで、たとえ夢の世界だとしても生きようと思うようになりました。ありがとう。

 前の世界で樹から逃げるとき、お兄ちゃんには沢山迷惑かけてしまいました。私が背中にいてすごく走り辛かったと思います。あの時ほど自分に体力が無い事を悔やんだ日はありません。それと、私がお兄ちゃんに自分はやり直せるからお姉ちゃんを連れて行ってと言った時、お兄ちゃんはわかったと頷きました。それなのにお姉ちゃんを背負った上に私を無理やり抱きかかえるのはどうかと思います。全然わかってないじゃないですか。お兄ちゃんは嘘つきです。でもすごく嬉しかったです。

 本当に悔しいですが今の私では皆が無事に生き残れる未来に辿り着くができません。でも必ず辿り着きます。

 どうか生き残ってください。

 

なのはより

 

 

 

 

アリサ、すずか宛

 

 これを読んでいるということは私は死んでしまったのでしょう。でも悲しまないでください。この世界の私は死んでしまいましたが、別の世界で生きています。天国でとかそういう落ちではないので安心してください。私は死ぬとフェレットを拾う日の朝に戻るのです。すごいでしょう? 初めて戻ったとき死んだことは夢とばかり思ってました。まさか繰り返してるとは思っていない私は、まだ起こってもいないことを昨日のことのようにアリサちゃんとすずかちゃんに話しました。その時の視線が忘れられません。

 さて本題です。原因はわかりませんがこれより1週間後に、もしくはその前後に、海鳴市は巨大な樹がいたるところに生えることによって、めちゃくちゃになってしまいます。それと同時に何体かの化け物も現れます。嘘ではありません。これはほぼ確実に起こります。それは2人が思っている以上に巨大な樹だと思います。一度私は成長する樹と共に上昇し、海鳴市を一望できる高さから紐なしバンジーをして死にました。あれは本当にやばかったです。それで何を言いたいのかというと…………

 私は2人に謝らなければなりません。私は死ぬたびに繰り返すこの世界を夢だと思っていました。そしてずっと目が覚めないままで何回も何回も死んでは繰り返すのかと考えたら目の前が真っ暗になりました。それからはただ目が覚めるのを待つだけの死人のような日々でした。そんな私を2人は心から心配してくれて相談にも乗ろうとしてくれました。そんな2人を私は心から鬱陶しいと思ってしまいました。そんな2人の言葉に私は何も感じませんでした。しまいにはアリサちゃんを怒らせてしまいました。そして謝ることができずに終わってしまいました。本当に救いようがありません。こんな私が2人と一緒にいて笑いあってもいいのでしょうか? こんな私が2人の親友でいてもいいのでしょうか? こんな私に2人はがっかりしていることでしょう。本当にごめんなさい。

 どうか無事に生き残ってください。

 

なのはより

 

 

 

 

 



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憧れの魔法

 

 目の前には見慣れた天井。カーテンの隙間からは朝の白い光が零れていた。なのはは死んだことを認識した。

 先程傷を負った背中。今は傷がない白くなだらかな背中。だが痛みの余韻が尾を引いていた。それに伴い思い出す。赤く熱した鉄を押し付けられたかのような痛みだった。そして考えが甘かったと、覚悟が足りなかったと悔やむ。

 痛みを感じずに、苦しまずに死ぬって特別なことだったんだ……。私は勘違いしていたんだ……。今頃気づくなんて本当にバカだ。今まで覚悟できたと思っていたけれど、そんな覚悟じゃダメなんだ。……だって私、もう一度あんな痛い思いを、それ以上の痛みを我慢しないといけないって考えると……。

 なのはは自身の震える体を両腕で抱きしめ丸くなった。自分の浅はかさ、痛みに対する否応ない恐怖、原因を解決しなければならないという意思。それらの感情が胸の中でぐるぐると渦巻く。泣き出しそうになるのを唇を噛みしめ必死に堪えた。

 目覚ましが鳴りだす。それを無視し、布団を頭まで被ると更に体を縮まらせ固く目を瞑った。目覚ましが鳴り止む。

 逃げたい。なにもかも放り出して、なにもかも知らないふりして、原因の解決なんて諦めて……そもそも私なんかに原因解決なんてできるわけなかったんだ。そうだよ。たかが小学3年生の平凡な私ができるわけないじゃん。何もできやしないんだ。何を自惚れてたんだ私は。

 

「なのは朝だよー」

 

 美由希が扉から顔を出しなのはに声をかけた。そしてなのはが布団に埋まって団子になっているのを見ると部屋に入りカーテンを開ける。

 

「ほらほら早く起きなきゃなのはの朝ごはん食べちゃうぞ?」

 

 震えが止まった。思考が止まった。そして声が美由希のものと理解するやいなや、その姿を見ようと体が勝手に動いた。

 なのはは布団を跳ね除けむくりと上体を起こした。そしてまじまじと美由希の顔を見る。ベットの近くにいた美由希は突然起き上がったなのはに驚く。

 

「うわっ、びっくりした……。そ、そんなに朝ごはん食べられるのが嫌だった? ごめんね、冗談だよ? なのはの朝ごはん食べたりなんかしないよー」

 

 布団跳ね除けて起きるほど朝ごはん食べたかったのか、となのはの意外な一面を知り美由希は思わずニコニコする。

 

「おはよう。すぐ起きるよ」

 

 私はさっき何を考えていた? 痛いのが怖いから諦める? 覚悟が足りなかった? ふざけないで! 私はあの時、お姉ちゃんに「任せて」と言ったんだ。その覚悟はあんな痛み程度で消えてしまうほど弱いものだったの? そんなわけない! あの時の覚悟は絶対に揺るがない強いものだ! たかが痛み程度で何を迷ってるんだ私は。……私は絶対に諦めない。

 笑顔で首をかしげる美由希を見ながら負の感情を切り捨てた。そしてベットから下りるため腰を持ち上げようとする。しかしそこで、ふと考える。

 

「……お姉ちゃん、歩けないおんぶして」

 

 ベットに座りながら両手を伸ばす。美由紀は一瞬驚いたが「しょうがないなぁ」と少し困った顔で笑うとベットに腰を下ろした。

 でも、戻ってすぐの朝くらいは……。

 美由希の首に顔を埋める。自然と口元が緩んだ。

 

 

 

 

 朝食の時なのはは沸き起こった疑問について士郎に尋ねた。

 

「ねぇ、お父さん。お父さんって体に傷跡がいっぱいあるよね。痛くなかったの?」

 

「そりゃあ痛かったさ。死ぬかと思ったよ」

 

「……じゃあなんで死ぬほど痛いって分かってるのに、そんなに傷だらけなの? 痛い思いをすればもう傷つきたくないって思うのが普通なんじゃないかな」

 

「そうだな。普通はそうだろう。お父さんも自分のために戦っていたとしたらすぐに逃げ出したと思う。……でも、痛い思いをしてでも、命を懸けてでも、守りたいものがあったから立ち上がって戦ってこれたんだよ」

 

 なのははじっと士郎を見つめた後「へぇ、そうなんだ」と頷いた。そんななのはを見て「なのはにはまだ難しいよな。でもいつか分かる時が来るさ」と笑った。

 なるほど。守りたいものか。私にとっての守りたいもの……。いつも通りの日常。大好きな人たち。託された思い。どれも守りたいものだ。そして私の戦う理由。……十分すぎる。

 理解していると訂正するでもなく適当に相槌を打つと食事を再開するのだった。

 

 

 

 

 前回とほとんど変わらぬ空をバス停から見上げながら、前回と同じように情報整理を行う。

 やっぱりあのフェレットさんは話せたんだ。テレビに出したら有名になりそう。……そんなことより確か別の世界から来たといってたよね。その話を信じるとするなら、この世界以外に他の世界があるってことか。結局、黒いお化けの正体は聞けなかったけど別の世界から来たってことで間違いないかな。あんな生き物この世界にいるわけないもん。そういえば探し物があるとも言ってたよね。わざわざ別の世界にまで来て探すなんて大変だなぁ。

 なのはは思考を中断して到着したバスに乗る。学校に着き授業が始まると再開した。

 で、探し物を探すのに自分一人だと力不足だから資質のある私に力を貸してほしい……か。魔法の力ねぇ……。魔法……。

 なのはの頬が無意識に吊り上る。なにしろなのはにとって、いやこの世界の人にとって魔法とはファンタジー。現実には存在しえない空想の力。そしてそれは多くの人が、もしも使えたならと考えることであろう。勿論なのはもその一人だった。そしてなのははそれを使う素質があると言われたのだ。にやけてしまうのも仕方のないことだろう。

 なのはが魔法で最初に思い浮かんだのは白、黒、赤だった。自分もゲームのように魔法を使えるかもしれないと考えると今すぐにでも試したい衝動に駆られるが、前回の失敗を思い出し冷静になる。

 そうだそうだ。浮かれてる場合じゃないよっ! 呪文噛まないようにしなきゃ。あとフェレットさんを投げ飛ばしちゃったのは失敗かな。次は最後まで付き合ってもらおう。それと黒いお化けの攻撃だね。突進だけかと思ってた。ちゃんと相手の動きを見ることができればあの鞭攻撃もなんとかできるはずなんだけど……勘で避けられるのは2回までってことか……。

 頬杖をつき黒板を見つめながら溜息ひとつ。そして陰鬱な視線を窓の外へと移した。

 それに突進ですら確実に避けられるわけじゃない。前回は本当に運が良かっただけ。だから黒いお化けが現れる前になんとか呪文成功させたいな。もっと早くに動物病院に行かないとね。…………動物病院に預ける前になんとかできないかな? 預けないでそのまま家にもってくるとか……いや駄目だ。フェレットさんはどう考えても黒いお化けと関係がある。そうなると家にあいつが来るってことだ。それは絶対駄目。かといって拾う時はアリサちゃんとすずかちゃんの目があるし……やっぱり早く動物病院にいくしかないか。……お兄ちゃんに見つからないようにしないと。とにかく、まだまだフェレットさんには聞きたいことがあるし、魔法さえ使えればあの黒いお化けを倒せるんだ。なんとしてでも乗り切ってみせる。

 考えをまとめると今回も手紙を書き始めるのだった。

 

 

 

 

 なのはは自室で動物病院へ行く準備をする。前回と違い手紙は学校で書いてしまった。その分家を早く出ることができる。部屋を出ようと扉に手を掛けた姿勢で立ち止まる。

 そういえば、早く行くのはいいけどまだ院長先生とか居たりして……。まぁいなくなるまで待てば大丈夫か。

 扉を開け廊下に誰もいないことを確認するとすり足で家を出た。

 動物病院にはすでに人影はなかった。敷地に入ってからなのはは窓が開かないことを思い出した。しかし目的のフェレットがただの動物ではないことと魔法を使えることを思い出し、多分問題ないだろうと足を進めた。

 窓をノックするとフェレットがケージから顔を出した。なのはを視界に収めると自分で扉を開け窓まで駆け寄ってくる。

 

「君話せるでしょ?」

 

 外見では分からないが、フェレットは少し驚いていた。拾ってもらった時にはまだ気づいていない様子だった。それに、これから念話をしようとは思っていたがまだしていない。直接話したわけでもない。それなのに気付いたなのはに対し、なかなか頭が回る子だと無意識に評価を上げた。

 フェレットは頷くと事情を話しだした。なのははすぐにでも本題に入りたかったが怪しまれて赤い宝石を渡してくれなくなるのも困るので黙って聞く。時間はまだある。焦る必要もない。

 

「いいよ。私で良ければ力を貸すよ。どうすればいい?」

 

 フェレットは何やら文字が書かれた翠の円を出現させる。そこから1本、同色の鎖が飛び出す。そして窓の鍵に絡みつくと開錠した。

 

「窓開けてもらっていいですか? この体じゃ届かなくて」

 

 なのはは目を大きく見開いたまま固まっている。

 え……? え……? 今のがままままま魔法!? え、ちょ、すごいんだけど! 何あれ!? すごくかっこいいっ! あの床に浮かび上がったのって魔法陣ってやつだよね!? 本当に魔法ってあるんだ! 君には素質があるとか言ってたよね。私も使えるってことだよね? ね? やっぱり無かったですとかダメだよ? 私怒るからね? あぁもうテンション上がりまくりだよー! やだー!

 なのはは必死に顔に出ないように意識するが頬がピクピク痙攣している。街灯の光を背にしているなのはの顔は陰になっている。そのためフェレットは表情の変化に気づかない。

 

「あの、すみません。どうかしましたか?」

 

「え? あ、うん。なんでもないよ。窓開ければいいんだね」

 

 窓をスライドさせる。窓縁に飛び上がったフェレットは首にかけてある赤い宝石をなのはに差し出した。前回の失敗によるものなのか、これから魔法を使うことに対してなのか。なのはは緊張で脈が上がり、手はじっとり汗ばんでいる。ゴクリと唾を飲み込むとそれを受け取った。

 

「我使命を受けし者なり……契約の元その力を解き放て……」

 

 目を瞑り心を澄ませる。今度は間違えないように、一文一文、気を付けながら。

 

「不屈の心はこの胸に……この手に魔法を……レイジングハートセットアップ!」

 

 赤い宝石レイジングハートとなのはの魔力、魂が共鳴する。

 い、言えたぁあ! ってなんか光ってるぅ! 私の、手から、桜色の、極光が、放たれてるッ! これが……魔法!? 私今魔法使ってるよ! すごいすごいすごいすごいっ!

 掌から……正確にはレイジングハートから伸びる眩いばかりの光柱が雲を突き破る。その光に照らされるなのはの顔は歓喜に満ちていた。

 

「……すごい魔力だ」

 

 フェレットはその魔力量に感嘆の声を上げる。自分と同程度あれば上々かと思っていたが、それよりも少し上回っている。良い方向に裏切ってくれたようだ。これなら目的を果たせるかもしれないとなのはと同様に内心歓喜する。すぐさま魔法を制御するための杖と身を守るための衣服を作るようなのはに言う。

 突然の言葉に、なのはは眉を寄せ必死に考えながら「急にそんなこと言われてもっ」と抗議の声を上げる。魔法使いと言ったらあれしかないじゃないか、と今日学校で思い浮かんだ3つの色の内一つを選んだ。しかし杖が思い浮かばない。

 杖ってどんなのがいいの!? ゲームに出てくる杖ってどんなデザインだったっけ。杖……杖……杖ぇ……。ダメだ出てこないよ。あぁもうこんな感じでいいやっ!

 レイジングハートはなのはが思い浮かべる漠としたイメージを受け取ると、それをもとに構築し始める。

 なのはの体が一瞬だけ光に包まれる。そして現れた姿は、まさしくゲームや漫画にでも出てくるような魔法使い然としたものだった。

 左手に持つ杖。長さはなのはの胸辺りまではあろうか。拳よりも大きくになったレイジングハートを中央に、金色のフレームが囲っている柄頭。純白の柄との接合部付近には2本の円筒が飛び出ている。石突き部は桜色の外装で覆われていた。そしてそれを持つなのはの服装……バリアジャケットは、手首に近づくにつれ広くなっている白のローブ。その上に白のケープを羽織り、胸元で赤いリボンを結んでいる。それにはフードが付いていて、ネコ耳を彷彿させる2つの三角が威風堂々と天に向かって立っていた。裾と袖とフードの淵には赤い三角がぐるりと描かれている。首元からは黒のインナーが、風に揺らめくスカートからは黒のタイツに包まれた足と茶色のハーフブーツが覗いていた。

 無表情で自分の姿を確認する。そして徐に茶色の手袋に包まれている右手をフードへ伸ばす。呼吸が浅く早くなる。勿論興奮によるものだ。恐る恐るフードの三角に触れた。瞬間、なのはの顔は恍惚としたものに変わった。

 

「成功だっ!」

 

 フェレットの言葉など、自分の世界で絶賛狂喜乱舞中のなのはには届いていない。そんな時、なのはとフェレットの頭の中を鋭い感覚が通り過ぎる。

 なのはは今はそんな場合じゃないことを思い出し、即座に気持ちを切り替えて振り返る。視界に黒い化け物が映った。それが何なのか認識するよりも先に体が動く。窓縁に立つフェレットを掴みあげて横に全力で飛び込んだ。

 聞きなれた破壊音。なのははせっかくの気持ちを乱されたことを不満に思いながら立ち上がると、穴の開いた壁を見つめる。フェレットを地面に降ろす。黒い化け物が硬直している今、どうしても聞いておかなければならないことがあった。あの黒い化け物は魔法で倒せるのかと。

 

「あれは忌まわしい力のもとに生み出されてしまったもの。あれを停止させるにはその杖で封印して、元の姿に戻さないといけないんです」

 

「……つまり、倒せるってことでいいんだよね?」

 

 頷くフェレットを見て、握る杖に力を込めた。そしてどうすれば魔法を使えるのか尋ねる。

 

「攻撃や防御みたいな基本魔法は心に願うだけで発……」

 

 なのはは使い方が分かるやいなや、最後まで聞かずに、今にも動き出そうとしている黒い化け物に杖を向け攻撃を念じる。レイジングハートが何かを言うが言葉が分からない。とにかく念じる。すぐさま魔法を使いたかった。いや違う。すぐさま黒い化け物を屠りたかった。あいつには何度も痛い目に合わされている。そしてなにより美由希の仇である。それを倒す力を持っている。だったらやることは一つしかないだろう。

 杖の前方に野球ボール程の魔力光と同色の光球が生成される。そして線を描いて高速で放たれる。結果を見る前にもう一度撃つ。更に撃つ。3発撃ってから気づく。……魔法弾は当たると同時に気の抜けるような、ポコンという音を立てて霧散している。見た感じからしてダメージなど与えられていない。

 なのはは「うそ……なんで……」と零し呆然と黒い化け物を見つめる。それはあまりに予想外だった。こんなはずではなかった。魔法を使えば致命傷は与えられないまでも多少のダメージは与えられるはずだった。

 でも、これじゃあまるで駆け出し冒険者が魔王に挑むようなものじゃん……。

 黒い化け物は咆哮をあげるとなのはに赤い眼を向けた。

 我に返ったなのはは直ちに杖を両手で構え、防御を念じる。レイジングハートの声と共に桜色の防御バリアが展開した。こんな薄い光の膜で本当にあれを防げるのだろうか。そう不安に思ってしまう。

 黒い化け物が地面を抉り、ものすごい勢いで飛んでくる。そしてバリアと黒い化け物が音を立ててぶつかった。

 一瞬の均衡の後、ガラスが割れるような音がなのはの耳に届いた。

 前と後ろからの強い衝撃。気が付けば星が微かに輝いている空を見上げていた。

 一体何が起こったのか。考えるまでもない。バリアが破られ突進の直撃を受け吹っ飛ばされた。それだけだ。

 フェレットが駆け寄って来て何か言っている。頭を起こそうとするが上がらない。心臓が脈打つ度に、頭がハンマーで殴られているかのような痛みが走る。呼吸する度に、内臓を引っ掻きまわされているかのような激痛が全身を襲う。泣き叫ぶことも、のた打ち回ることもできない。口の中が鉄臭い。

 痛い。痛い。痛い。死ぬほど痛い。このまま死んじゃうのか。……でもまだ生きてる。それなのに足掻かずに死ぬのを待つ? 動くと痛いから仕方がないって? 私の覚悟はそんなものなの? 違うよね。

 

「この程度……どうってことないっ」

 

 なのはの指がピクリと動く。再び頭を起こそうと力を込める。不覚にも呻き声が零れる。情けない。もっと気合いを込めろ。内心で叱咤する。

 なんとか上体を起こし近くに倒れている木に背を預けた。意識が飛びそうになるのを堪える。体の奥から込み上げてくる熱い塊を吐き出した。赤い液体に白い何かが混ざっていた。涙で霞む視界と朦朧とする意識の中で状況を確認する。目の前には折られた木の株があった。杖はすぐ脇に転がっていた。バリアジャケットではなく普通の服に戻っていた。

 先程なのはが立っていた辺りにいる黒い化け物は、硬直から回復しこちらに視線を向ける。

 レイジングハートを手に取る。横にいるフェレットにもっと強い魔法は無いのかと尋ねる。しかしその返答を聞き取れない。何を言っているのか頭が理解できていない。すぐに聞き取ることを諦め、蚊の鳴くような細い声で「逃げて」と言う。黒い化け物は飛び上がり狙いを定めている。

 今回もあれでやられるのか。……でも。

 なのはは震える手で点滅するレイジングハートを構えると、魔法弾を構築した。そして宣戦布告するかのように撃ち放った。

 

「……いつか必ず倒す」

 

 なのはの魔法弾と呟きは一瞬で掻き消された。

 

 

 



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街中の黒玉・前

 

 なのははカッと目を見開くと布団を跳ね除け上体を起こした。めくれた布団の一点を気迫の籠った目で見つめている。全身に走る痛みの余韻。前回それは恐怖に変わった。しかし今回は違う。それは闘志……戦うための強い意志へと変わった。

 顔を上げ立ち上がるとカーテンと窓を開ける。

 心地よい微風が静かに部屋に流れ込んできた。青空のもと2羽のちっちゃな小鳥が追いつ追われつしながら飛んでいく。朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。頭の中が澄んでいく。

 両頬を叩いて気合いを入れると窓を閉めた。それと同時に目覚ましが鳴る。再び今日が始まった。

 

 

 

 

 今回も前回と同じでいいかな。問題は倒す方法だよ。いかにしてあいつを倒すか。魔法を使えば簡単に倒せると思っていたけど、やっぱりそんなに甘くないよね。でも魔法で倒せるはずなんだ。魔法がある世界の人……動物が言うんだからそれは間違いないだろう。倒すための武器は既に持っているということだ。多分、攻撃が全然効いていなかったのは魔法が悪いわけじゃない。私が使いこなせていないからだ。ゲームで言えば熟練度が足りないという感じかな。使いまくってれば化ける可能性もあるのかも。まぁ初めて使うのだから下手なのは仕方ないといえば仕方ないかな。でも普通ならあれで終わりなんだよね。私が特別なんだ。そして私の強みでもある……。いかに早く使いこなせるようになるか、状況に合わせて使えるかが重要だ。

 

「なのはちゃん、なんだか楽しそうだね。何かあったの?」

 

「え? えーっと……。低レベルでラスボスを攻略するにはどうすればいいかなって考えてたんだ」

 

 休み時間、いつの間にか近くにいたすずかが笑みを浮かべ顔を覗き込み尋ねてきた。突然のことにびっくりするがなんとか誤魔化す。

 すると今度は「さすが不屈の攻略者。相変わらず、なのははゲームが大好きよね」とアリサに笑われる。なのはは「ちょっと好きなだけだよ」と返すが「はいはい」と一蹴されてしまった。納得いかない。

 なのはは2人との会話がとても楽しかった。しかし、どうせ2人は覚えていないのだからもう気にする必要なんてないだろう、と心の何処かで思っている自分に気づき激しく自己嫌悪する。こんな自分は、友達でいることすら、一緒に話すことすら許されないのではないかと胸が苦しくなった。

 ……巨大樹をなんとかできた時、繰り返す必要が無くなった時、2人に謝ろう。

 休み時間が終わり授業が始まると再び夜のことを考え始める。

 それにしてもあの突進を受けても生きていたのは、今考えるとびっくり。あのネコ耳ローブで少なからず防御力が上がってたということかな。でも1回受けただけで動けなくなるなら意味ないんじゃ……。いや、鞭攻撃はおそらく突進よりも攻撃力はないはず。だったら鞭攻撃のダメージを大幅に軽減してくれるかも? それにバリアは突進を一瞬だけど防げていた。鞭攻撃を防げると考えて間違いないかな。よしよし。つまり、突進は回避して鞭は防御。硬直したところを攻撃。よしよし。それでいこう。

 なのはは無言で何度も頷く。隣の子が奇妙なものでも見るような視線を向けていたが、当然気づくことはなかった。

 

「いざ参る!」

 

 なのはは気合いを入れると前回と同じ時間に家を出た。

 動物病院の敷地に入り真っ直ぐフェレットのいる部屋の窓へ向かう。3回目になる説明を聞くとフェレットが魔法で鍵を開ける。なのはは前回のように驚くことはせず、それをじっと観察していた。

 これは相手の動きを封じる魔法? 使えたら便利かも。でもこんな鎖であいつ止められるわけないよね……いや、私が上手く使えれば止められるかもしれないか。一度使ってみるべきかな。

 窓を開けレイジングハートを受け取る。まだ呪文は完全に覚えていない。フェレットに続けて呪文を言おうとした時、ふと思い出す。あんな光を空に向けて放ったら他の人に気づかれるんじゃないかと。

 少し考えた結果、室内に手を突っ込んで呪文を唱えることにした。フェレットが不思議そうに頭を傾げるが気にしない。そして唱え終わると光が室内を桜色に染め上げる。それは部屋から溢れ外へ流れた。

 前回と同じイメージでバリアジャケットと杖を構築する。ちゃんと服が変わっているか確認すると次に杖を持ち上げた。

 これで殴った方がダメージ与えられたりして……。魔法を纏わせて魔法剣ならぬ魔法杖か。雷とか炎とか氷とか、段階が上がるごとにラとガがついていくんだよね。凄くかっこいいじゃないか。いずれ使いこなしてみせる。

 杖を両手で握り振ってみる。先端が薄い桜色を纏って軌跡を描く。重くはない。でもふらふらだ。なのははそれで満足なのか口元に笑みを浮かべ頷いている。それからレイジングハートを軽く撫でた。

 

「よろしく、レイジングハート」

 

 レイジングハートが何かを言うが相変わらず分からない。話の流れから挨拶だろうと予想する。

 そういえばフェレットさんの名前聞いてなかったな。今聞いておくべきだよね。……いや待って待って。今聞いちゃうと次の世界でまだ本人が名乗ってないのに名前呼んじゃうかもしれない。いや勿論死ぬつもりで挑むわけではないんだけどもっ。……あいつを倒したときでいっか。そんなことよりも魔法について聞こう。

 

「ねえ、強い魔法を使うときはどうすればいいのかな?」

 

「基本的な魔法は心に願うだけで使えるよ。より大きな魔法は呪文が必要になる。心を澄ませばあなただけの呪文が思い浮かぶはずです」

 

 なるほどとなのはは目を閉じて心を澄ませ集中する。

 ……リリカルマジカル? え……これが呪文? なんかこれ言うの恥ずかしくない? もっとこう「いざ天より来たれ」とか「我と汝の盟約において」とかそういうかっこいいのがよかったな……。まぁいいや。そろそろ来るころだよね。多分今の私じゃダメージ与えられないと思うけれど、とりあえず使ってみよっか。

 

「リリカル、マジカル……」

 

「え、い、今使うの!? ッ! 封印すべきは忌まわしき器ジュエルシード!」

 

「ジュエルシード封印」

 

 先端付近の柄から、桜色の羽根が上2枚、下1枚展開する。ちょうどやってきた黒い化け物に向かって何本かの光の帯が放たれる。それは目標に辿り着くと一瞬で絡み付き縛り上げた。黒い化け物は咆哮を上げると眉間に何やら赤い文字が浮かび上がった。

 

「リリカル、マジカル……ジュエルシード封印」

 

 これは……もしかしたらもしかするかも!?

 ここまで上手くいっているため、少し期待してしまう。もう一度、光の帯が敵を貫かんばかりに射出された。しかし、それとほぼ同時に、縛り上げていた帯は引きちぎられ眉間の文字も消える。射出された何本かは全く見当違いの所へ飛んでいき、残りは敵に接触。数秒の均衡の後、表面を浅く傷つけ消失した。

 黒い化け物は目は見開き体を膨張させると新たに触手を2本増やした。お怒りのようだ。レイジングハートの羽根が消え元に戻る。

 うん。分かってた。

 なのはは、いつものごとくフェレットを掴むと横に飛びのいた。相手の突進速度が幾分上がっているようだ。そして違和感に気が付く。今まで感じたことが無いような倦怠感。動くのが非常に億劫だった。これはまずいと内心で舌打ちする。立ち上がろうとするがそれすらもしんどい。

 

「君の魔法でなんとかできないの?」

 

「……ごめん。今の僕じゃ魔力が足りなくて。簡単なものしか使えないんだ」

 

 硬直中の黒い化け物に向かって魔法弾をポコンポコン当てながら「そっか」と一言返す。

 

「どうすれば魔法弾の威力が上がるのかな?」

 

 横に回避しそのまま重力に任せ地面に張り付く。風切り音と衝突音。立ち上がって再び撃つ。もう息が切れ始めている。

 

「ま、魔力を圧縮し効率よくエネルギーに変換しなきゃいけないっ。まずは自分の魔力の流れを感じっ……」

 

 辛うじて回避。もう相手の動きなど見ていない。完全に勘。相手と目があった瞬間に横に身を捻ってるだけ。次の突進は避けられないかもしれないと考えながら「なるほど」とフェレットに頷き返す。

 フェレットに言われた通り、魔法弾を撃ちながら、体の中心辺りから流れ出ていく魔力らしきものに意識を向ける。しかし、ぼんやりとしていてよく分からない。あと何十発くらいか撃てば分かるのだろうか。

 なのはは杖を構えバリアを張る。空気の破裂する音と共に触手がバリアを4連打する。ガラスを踏みつけたかのような音がしたかと思うとバリアに罅がはいった。

 

「攻撃に当たっちゃったら……私のことはいいからすぐに……逃げてね」

 

 ここまでは何が来るか分かっていたためなんとか凌げていた。しかしここからは未知の領域。突進か鞭か。それとも新たな攻撃か。どちらにせよ、もうまともな回避はできない。スタミナ切れ。息が苦しい。飛び込んだり伏せたり起き上がったり。たかが数回。されど数回。なのはにとっては大変きついのだ。最初の封印魔法を使わなければもうちょっと頑張れたかもしれないが……今更だろう。

 意を決して横に飛び込む。その時黒い化け物が触手を振るのがちらと見えた。

 あ、ミスっちゃった。

 時間の流れが緩やかになった。迫りくる触手。座り込んだなのはは、金縛りにでもあっているかのように、それを見つめたまま動けない。

 当たる。そう思った時レイジングハートが光り、触手がバリアに阻まれた。時間の流れが元に戻った。

 なのははフェレットを離し立ち上がるとレイジングハートにお礼を言った。

 た、助かった……。やっぱり勘じゃ辛いな。ちゃんと相手の動きから予測しないと。

 一挙一動見逃すまいと黒い化け物を見据える。すぐに避けられるように足を開き、すぐにバリアを張れるよう杖を構えた。吹き抜ける夜風がローブをやわらかく揺らした。

 黒い化け物が地面を蹴ろうとする挙動を見て取った。それから一瞬遅れて体が動く。

 ダメだっ。間に合わない!

 右腕に直撃した。千切れ飛んでしまったと錯覚するほどの衝撃に思わず倒れ込んでしまう。咄嗟に立ち上がろうと腕を動かす。

 ッッ!!

 右腕全体に走った激痛に声にならない悲鳴を上げ身を縮こめる。涙目になりながら腕に視線を向けるがバリアジャケットは破れていないし血も出ていない。しかし腕は動かない。いや、動かそうとすると気絶しそうな程の苦痛が襲い掛かり動かせない。肩から指の先まで、骨が粉砕されていた。バリアジャケットがなければ本当に千切れ飛んでいただろう。

 痛いっ! なんで片腕だけなのにこんなに痛いの!? 前回も痛かったけど今回も同じくらい痛いよっ! ……いや、こんなの全然痛くなんかないっ!

 レイジングハートが点滅しながら何かを言っている。おそらく心配してくれているのだろう。額に脂汗を浮かべながら「大丈夫だよ。この程度どうってことない」とレイジングハートに、そして自分に言い聞かせる。

 ぎりっと奥歯を噛みしめて、なるべく右手に振動を与えないように起き上がった。重力が加わっただけで泣き叫びたくなる。駆け寄ってきたフェレットに一切視線を向けることなく「早く逃げて」と一言だけいった。

 顔に苦悶の色を浮かべながら、どうするかを考える。触手以外の攻撃が来ると打つ手がない。完全に詰んでいる。ならばどうするか。ふと、そういえばフェレットが鎖の魔法を使っていたなと思い出す。どうせ打つ手がないのならば使ってみるのも悪くないと杖を構え念じる。

 桜色の魔法陣から出現した4本の鎖が、黒い化け物を拘束すべく放たれる。

 あ、これダメっぽい。

 鎖なんてお構いなくそのまま突進してきた。鎖はまるで、迫りくる黒い化け物に恐れをなし慌てて距離をとるかのように弾かれてしまった。

 無防備な今、直撃すれば痛みを感じる間もなく朝に戻るだろう。

 当たる直前、レイジングハートが光った。黒い化け物はバリアに阻まれた。

 ……レイジングハート。気持ちはすっごく嬉しいんだけどね。私……。

 見る見るうちに罅が入り割れた。なのはの軽い体は盛大に吹き飛ばされた。

 

「うっ、うぐ、ぐっうぅっ」

 

 体中から沸き起こる苦痛に呻く。特に右腕がわけが分からない程痛い。体中が脂汗でびっしょりだ。杖は離すことなく握っていた。なんとか起き上がろうと試みるがあまりの痛さに動けない。そして無意識に右手を庇おうとする自分に気が付き、本当に起き上がるつもりがあるのかと腹が立った。

 このくらい大したことないと頭で繰り返す。僅かに持ち上がった上体を支えようと態と右手を地面に付いた。瞬間、神経を焼かれるような激痛と共に再び地面に崩れ落ちてしまった。なのははそのまま脱力すると夜空を見上げる。

 本当に情けないなぁ。…………目が霞んで星が見えないや。

 なのはは目を閉じると、砂金を撒き散らしたかのような星空を脳裏に思い浮かべる。

 そのまま意識は暗転した。

 

 

 

 

 目を開くと自室の天井だった。先程の余韻に浸りながら思う。

 私、すでに心が折れそうだよ……。

 しばらくの間、死人のように虚ろな瞳でぼんやり天井を見つめる。

 ……でも大丈夫。絶対投げ出さないから。挫折しそうになるのは縛りプレイではいつものこと……。

 ベッドから抜けだすと机の引き出しからノートを取り出した。そして妙に使い込まれたそれを懐かしむようにペラペラと流し読む。

 それは努力の結晶。ゲームで登場するモンスターの詳細データ……攻撃パターンが、所狭しと書き込まれていた。

 そっと閉じると引き出しに戻す。目覚ましが鳴り出したが無視して窓を開け放った。起き抜けの髪を心地良い風がそっと撫でつけた。

 ……だけど私はいつだってそれを乗り越えてきた。どんなに過酷な条件でも私は諦めなかった。絶対に攻略できないならまだしも、必ず魔法で攻略できると分かってる。しかもまだ始まったばかりだ。ゲームで言えば最初の町から外に踏み出したところじゃないか。諦めるにしてはあまりに早すぎる。こんなところで躓いていられないんだ。…………全てを攻略してハッピーエンディングを迎えるんだ。

 それは今よりもずっと小さな頃から現在に至るまで、一度として攻略を諦めたことが無いなのはの意地だった。

 相変わらず虚ろな目を細めて澄み渡った空を見る。なのはから滲み出る雰囲気は歴戦の攻略者のそれだった。

 

「なのは、おはよう。起き……どうしたの?」

 

 扉を開け部屋を覗いた美由希は、外に向かって仁王立ちしているなのはから、よく分からない雰囲気を感じ首を傾げるのだった。

 

 

 

 

 まずやらなければならないことは、相手の攻撃を最小限の動きで確実に避けられるようになることか。そうじゃないと私の体力じゃすぐに動けなくなってしまう。正直、運動が苦手な私にできる気がしないけど……私はお父さんの娘でありお兄ちゃんとお姉ちゃんの妹だ。必ずできるようになるはず。……無理やりにでも自分を信じるんだ。

 ふと、いつかのアリサとすずかの会話を思い出して胸が暖かくなった。ひどく懐かしく感じた。一瞬なのはの表情は哀愁を帯びるが、すぐに真剣な表情に戻った。

 それと魔力の流れを掴んで制御、圧縮を上手くできるようになることか。これができないとダメージが与えられられないもんね。あとは痛みに慣れること……かな。これが一番重要だね……。そして一番困難かな……。

 当面の目標を立て、黒い化け物の攻略を本格的に始めだした。

 突進してくる時の挙動。触手を振る前触れ。空へ飛びあがる時の条件。それぞれの攻撃範囲。避けるタイミング。無防備になるのはいつか。それはどの程度の長さか。

 挑み、観察し、情報を集め、、考察し、試行し、失敗し、レイジングハートがバリアを展開し、突進をくらって痛い思いをし、朝に戻り、反省し、再び挑む。

 一つずつ確実に攻略して体に覚え込ませる。まさに苦行。特にバリアからの突進がきつい。流石に途中から耐え切れなくなり「突進が直撃しそうな時はバリア張らないで」と戦う前にレイジングハートへ言うようになった。

 

 

 

 

 数回目の授業中のこと。今日も今日とて、攻撃を避けるための考察とイメージトレーニングをしていた。時々体が無意識に動いているようで、隣の子や後ろの子から「どうかしたの?」と聞かれることがままあった。しかし気にしている暇などない。そして魔力制御のことに考えがシフトする。

 前回、魔法弾撃ってた時、魔力の流れが分かったような気がするんだよね。胸のあたりから何かが流れていく感じ……。

 その時の感覚を思い出しながら魔力と思わしきものに意識を向ける。集中力が無くなるとそれはすぐに見失ってしまう。そのまま掌を杖の先に見立てて、魔法弾を生成する瞬間の流れをイメージする。その時、掌に淡い桜色が小さく灯った。それを見た瞬間心臓がドキンと飛び跳ねた。慌てて机の下に手を隠すと、誰かに見られたのではないかと辺りを見渡す。

 だ、大丈夫。誰も見ていなっ……。

 目が合った。アリサとばっちり目が合った。とても可愛らしい笑顔だった。冷たい水が一滴、すっと背中を伝ったように感じた。

 それから少しすると紙の切れ端が隣の生徒から回って来た。

 

 休み時間聞かせてね アリサ

 

 やっぱり見られてたっ! ど、どうしよどうしよっ! 待って待って、こういう時こそ落ち着かねばならぬぞい。……ぞいってなにさっ! 落ち着け落ち着けヒッヒッフー。

 いつものことながら、内心は激しく動揺しまくりであるが、表面上はあくまでいつも通り。

 一度思考を止め、チラーンとアリサに視線を向ける。とても可愛らしい笑顔でこちらを見ていた。汗が止まらない。頬が引きつる。

 ああぁあん! なんて説明しようっ! 実は私、魔法が使えるんだよって正直に言う? そんなの信じてくれるわけないじゃ……ん? いや、そう言った方が案外誤魔化せるかもしれないっ! よしよし。案ずることはないぞい。

 

「で、さっきのは何だったのかね? なのはくん」

 

「え、えっと言っている意味がよく分からないんですけどアリサさん」

 

「とぼけても無駄ですぞ? さぁ正直に吐いて楽になったらどうかね?」

 

「2人とも何かのドラマの真似?」

 

 早速なのはの机の前にやってきたアリサとそれに付いてきたすずか。

 なんか普通に誤魔化せる気がしてきたよ? アリサちゃんの気のせいではないでしょうか、とでも言っておけば多分大丈夫かも。

 

「さっき、なのはが掌から桜色の光を出してたのよ。それでそれが何だったのか問い詰めてるわけ」

 

 なのはは内心で激しくガッツポーズをきめる。これは有耶無耶にできるチャンスだ。2人きりならともかくすずかがいる前で話したのは間違いだ。

 なのははアリサにチェックをかける。

 

「……アリサちゃん。そういうのなんていうか私聞いたことあるかも。何て言ったっけかな」

 

 眉を寄せ、こめかみを指でトントン叩き、思い出す素振りをしながら続ける。

 

「えーっと、たしか白昼夢っていうんだ。アリサちゃんの非現実的なことが起こってほしいっていう願いが幻となって現れたんじゃないかな? でもそれは珍しいことじゃないらしいよ」

 

 なのはは花咲くように可愛らしく微笑む。

 

「へぇ、そんなのあるんだ。なのはちゃんよく知ってるね。たしかに手から光は出ないかな……。アリサちゃんの見間違えなんじゃない?」

 

 すずかが聖母のように優しく微笑む。

 アリサは呆けた顔で2人を交互に見る。そして言われたことを理解すると瞬間湯沸かし器のように顔を熱くしていく。そのうち湯気でも出すのではないかと思われるほどだった。

 

「……そ、そうかもしれない。……だけど私は別に非現実的なこと望んでるわけじゃないんだからねっ」

 

 アリサは恥ずかさを誤魔化すかのように、なのはの両頬を摘まみ、むにむにと横に引っ張る。

 

「ひゃいひゃい。わかっひぇるっへ」

 

 休み時間が終わり、2人が戻っていく。なのははほっと胸を撫で下ろした。

 昼休みになるとすぐにトイレの個室へ駆け込んだ。そして便座に座ると魔力に意識を向け集中し始める。授業中の時のように、ライターの火程度の光が手に灯った。眉間に皺を寄せながら更に意識を集中する。ほんの僅かだが光が大きくなった。それ以上はどうやっても大きくならなかった。

 難しい……。魔力らしき存在は分かったんだけど自由に動かせないな。例えるなら、ある部分の筋肉だけを自由に動かしたいのに動かせないみたいな。もっと慣れるしかないのかな。

 なのはは昼食を取ることも忘れて、延々と光を出したり消したりを繰り返した。

 昼休みが終わって教室に戻った時、アリサにねちっこく絡まれたのは言うまでもない。

 

 

 



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街中の黒玉・後

 

 もう何回目になるのかは覚えていない。いつからか「なのは、何かあったの?」と聞かれることが多くなってきた。何故そう思ったのか聞いてみると「なんとなく雰囲気が違う」と言われた。

 なのは自身は何ら変わりなく皆と接しているつもりだった。むしろ心配させないように努力している。ちゃんと会話はするし笑顔も作っている。一体何がおかしいのだろうかと考えてみるが結局分からなかった。

 この日もすることは変わらない。黒い化け物を倒すために試行錯誤するだけだ。もうほとんど攻撃パターンは攻略したといってもいいだろう。ただ稀に集中力が途切れてしまい突進を避けきれず当たってしまうことがあるが、そんなことよりも圧倒的な火力不足の方が大きな問題だった。

 最初の頃に比べ魔力制御は遥かに上達した。放つ魔法弾の威力も上がりポコンではなくドスンという肉を強く打ち付ける鈍い音に変わった。しかしながら、それではいつまで経っても倒すことができず最後は体力切れでやられてしまう。これまでの倍以上の時間をかければ、いずれ黒い化け物を貫けるようになるかもしれない。だがそんなの待っていられない。

 

「……この手に魔法を、レイジングハートセットアップ」

 

 なのははもうすっかり見慣れてしまった死装束……戦闘服を身に纏い杖を握りしめる。その顔からは何の感情も読み取れない。これから何でもない作業をするかのように、ただ淡々としていた。

 

(今日は久しぶりに封印魔法を使ってみようか。最初に比べ威力は上がってるはず。でも、もし上手くいかなければ死ぬのが早くなる。まぁ、その程度誤差だし気にする必要もないけど)

「リリカル、マジカル、ジュエルシード封印」

 

 フェレットは教えてもいない封印魔法をいきなり使おうとしているなのはに驚いているが、なのははもう使い方を知っているし現れるタイミングもだいたい分かっている。

 羽根を出現させた杖を振り向きざまに黒い化け物へ向ける。背中に目でもついているのではないかと思う程正確だった。直後、杖の先の空間から桜色の帯が放たれた。それは目標に接近するとぎちぎちと音を立てて縛りあげる。縛る強さが増しているようだ。

 もう一度呪文を唱えて、今度は射抜くための帯を放つ。以前とは違い、放たれた帯は全て黒い化け物へと吸い込まれていった。

 なのはは生唾を飲み込みその様子をうかがう。

 いけるか? 縛っている帯はまだ引きちぎられていない。確実に威力も上がっているはずだ。この魔法が今のところ一番強い。これで駄目なら今の私では打つ手が無い……。

 帯は黒い化け物にぶつかると体表を抉って消えた。化け物は呻き声を上げながらそれを耐え切った。

 

「封印魔法を耐え切るとは……なんて固さなんだ……」

 

 失敗したと判断すると窓縁で呟いてるフェレットを掴み上げフードの中に入れた。柔らかな毛並みが気持ち良い。

 

「しっかり捕まってて。危なくなったらすぐ逃げるんだよ? まぁいつも君は逃げないんだけどね。それとレイジングハート、突進の直撃食らいそうになってもバリアは張らなくていいからね。じゃないと私壊れちゃう」

 

 了解の声を上げるレイジングハートを一撫でし、咆哮しながら帯を引き千切る黒い化け物を見据える。拘束を解いたそいつは怒り狂いながら触手を増やし、なのはに赤眼を向けた。

 

(最初の頃に比べるとかなり威力は上がってる。でも魔力消費と割に合わないな。やっぱりもっと魔法の練習が必要だね……。理想は魔法弾だけで倒せることなんだけど……せめて魔法弾で相手を弱らせて確実に封印できるくらいにはならなきゃ。まだまだ先は長そうだね)

 

 なのはは一気に圧し掛かってきた倦怠を体に感じながら、横へトントンと2歩ステップする。それと同時に黒い化け物が横切り後ろから壁が壊れる音が聞こえた。振り返ることもなくそのまま四方に何もない場所へ移動する。

 なのはは表情変えずに杖を構え空を見上げる。屋根を突き破り飛び上がった黒い化け物が標的を探し捉える。

 今度は後ろへトントンとステップすると顔を袖で隠した。直後、先程いた場所に黒い化け物が隕石かくやと落下した。その衝撃で飛び散った土塊や石が袖に当たる。これらは当たっても痛くはないのだが前に一度、目に直撃して酷い目にあったため対策するようになったのだ。

 腕を下すとすぐさま黒い化け物目掛けて圧縮魔力を纏わせた杖を横から叩きつけた。炸裂した圧縮魔力により黒い化け物が僅かに吹っ飛ばされる。ゼロ距離で魔力をぶつけるためか魔力損失が小さく魔法弾よりも若干強いようだ。

 追撃はせず、すぐにバックステップして距離を取る。そして一度立ち止まると再び数歩後ろへ下がった。すると先程立ち止まっていた地面を触手が空気を裂きながら連打した。

 黒い化け物から一切目を離さず僅かな動きから次を予想していく。なのはは横へステップしバリアを張った。それと同時に突進が猛烈な勢いで通過し、すれ違いざまに放たれた触手をバリアが弾いた。

 フードの中でなのはの髪の毛にしがみ付いてるフェレットは、こんな状況にも関わらず何の動揺も無いなのはの顔を見つめる。その洞察力と基本魔法ではあるが使いこなしていることに対し驚いているのだ。

 本当に魔法初心者なのだろうか。もしかしたら自分よりも才能があるのかもしれない。だがこのままでは負けてしまう。

 そう考えたフェレットはなのはに声を掛ける。

 

「一旦引きましょう。このままではやられてしまいます」

 

 フェレットがなのはの耳元で提案してくる。しかし、なのははそんなこと嫌というほど分かっていた。

 はじめ、なのはは返事をしなかった。それから数秒立ってから、突進を避けながら言った。

 

「逃げてどうするの? こいつは私たちをどこまでも追ってくる。……たぶん」

 

(私の推理では、こいつは魔力に導かれている。そうじゃないとわざわざ動物病院にいるフェレットの所に来て襲う意味がわからない。そう考えるとおそらく、巨大樹の時まで私に何も起こらなかったのは、私が一度も魔力を使ったことがないから。使ってしまった今、何処へ逃げても無駄。それどころか家族を巻き込む可能性が高くなる。だったらここで倒すしかない。それに……お姉ちゃんを殺した相手から逃げたくない)

 

「君は逃げていいんだよ? 君は私よりずっと強いはずだから力が回復するまで逃げ切って、それから戦う方がずっと賢いと思う。私は……戦わなきゃいけない理由があるから引かないけど」

 

 フェレットはどうするべきなのか考えているようでしばらく間が空く。

 

「……もともとは全部僕の責任だ。僕だけが逃げるわけにはいかない。一緒に戦うよ」

「そう。やっぱり君は賢くないんだね。嬉しいよ。でも命は一つなんだから大切にね?」

 

 全部僕の責任という言葉が少し引っかかるが、おそらく助けを求めたせいで自分を巻き込んでしまったと責任を感じているのだろう、と一人納得すると再び戦いに集中する。

 辺りに桜色の光と翠の光が点滅を繰り返す。しかし、戦況は変わらない。そんなことはずっと前から知っていた。いつも通りのことだった。体力切れで動きが鈍くなったところ、黒い化け物の突進が半身を掠め、その激痛に耐える。これもいつも通り。痛みで動きが鈍くなったところに突進が直撃する。

 何度も何度も何度も繰り返してきたいつも通りの結果に終わった。

 

 

 

 

 

「今日で倒す……」

 

 なのはは右手を頬に当てながら目を瞑る。一体脳裏に何を思い浮かべているのか。その表情には何の色もないが声には気迫を感じ取れた。今回は手紙を書いていない。そのことから、なのはの決意がどれ程のものか窺い知れるだろう。

 ゆっくりと目を見開く。光の届かぬ深海のように暗い瞳だった。だが、その奥底に絶対の意志がちらとひらめいていた。

 もう一字一句覚えてしまったフェレットの説明を聞き、レイジングハートを受け取る。そしてもうすっかり暗記してしまった起動パスワードをフェレットの後に続けて唱えた。

 バリアジャケットと杖をイメージする。体が光に包まれ、いつもと変わらぬ戦闘服に身を包んでいた。しかしその手に持っている物はいつもと……変わらぬ同じ杖だった。

 

(おかしいな。ちゃんとイメージできたと思ったんだけど……無意識に使い慣れた杖イメージしちゃったかな)

 

「……レイジングハート。思い浮かべたイメージと違うんだけど」

 

 なのはは当惑しながらレイジングハートに声を掛けた。レイジングハートは一言謝ると杖を再構築した。

 柄のデザインはかつてと変わっていない。しかし金色の柄頭は大きく異なっていた。

 レイジングハートを中央に、片側は拳大程の鎚、反対側には反りのある鋭く尖ったピック、先端にはこれまた鋭く尖った円錐が突き出していた。もはや杖などではない。ウォーハンマーだった。

 魔法弾の威力はあれから更に上昇した。それは黒い化け物を怯ませ、肉を浅く抉れるまでになった。しかし、それは致命傷にはならない。撃ち続けていればいずれ弱らせることはできるだろうが、やはりなのはの体力が無くなり攻撃を受けてしまう。封印魔法も致命傷にはならなかった。固い剛毛と外皮に阻まれて威力が減衰してしまう。

 そして、だったら外から体表を突き破りそこから封印魔法を直接流し込んで爆散させてしまえば良いではないか、と閃いたのが前回の最後。

 これはいける。根拠などないが何故か確信できた。自分は天才に違いないと久しぶりに内心で小躍りした。同時にどうしてもっと早くに気が付かなかったのかと落ち込んだ。そうして相応しい武器を考えた結果がこれである。

 魔力を纏わせハンマーを振ってみる。それは緩やかな桜色の弧を描いた。足腰に力の入ったその動作は以前のようにふらふらではなかった。

 なのはは「よし」と一つ頷く。視界に黒い影が映った。

 

「いくよ、レイジングハート」

 

 ユーノを引っ掴むと横へ軽く跳んだ。もう何度となく繰り返した動作。完璧にできるようになるまで数えきれないほど失敗した。今は体力が続く限り失敗は無い。

 空地へ移動するとフェレットをフード中へ押し込んだ。ハンマーを両手で持ち、黒い化け物を待ち構える。

 破壊音と共に黒い化け物が空中に姿を現した。体に刻み込まれたタイミングで、体に刻み込まれた距離バックステップし、顔を横に背ける。黒い化け物の落下で弾かれた石がフードの側面に当たった。

 

「リリカル、マジカル……」

 

 ふと、最初の頃の自分が脳裏を過ぎる。姿を見ただけで恐怖で心臓が激しく脈打っていた。姿を見ただけで恐怖で足が震えた。そして、なすすべも無くやられていた。それが今はどうだろうか。敵を討たんと血が滾る。敵を討たんと手が震える。最初の頃とは真逆の理由で緊張し、全身が汗ばみ、喉が渇く。

 

(今の私はどんな顔をしているのかな……)

 

 自分の顔が愉悦で醜く歪んでいるような気がして不安になった。実際は何の表情も浮かんでいなかった。

 全力の魔力を注ぎ込んだ眩い桜色を纏ったハンマー。なのはは渾身の力を込めて振るった。桜色の残像を残しながら進むそれは、硬直している黒い化け物の巨大な赤眼にグシュという音を立てて突き刺さった。

 始めて感じた確かな手応え。その感触は心地よかった。

 

「ジュエルシード封印っ!」

 

 魔法を解放。黒い化け物の眉間に文字が浮き上がり激しく光った。体を内側から突き破った光が夜の暗闇を桜色に染め上げ、草木に影をまく。

 繰り返してきた日々が走馬灯のごとく駆け抜ける。

 必ず倒すと誓った言葉。それが今まさに実現されようとしている。

 断末魔を上げた黒い化け物は体全体が激しく光り、弾け、そして消えた。

 耳が痛くなるような静寂が辺りを包みこんだ。今さっき起こったことがまるで幻のように感じられた。

 黒い化け物と戦った回数は数えきれない。しかし倒したのは今回が初めてだ。それ故に全然実感がわかなかった。

 ハンマーを両手で固く握りしめたまま、ぼんやりした顔でペタンとその場に座り込んだ。一種の放心状態だった。目の前には菱形の青い宝石が落ちている。

 フェレットが宝石の前に飛び出した。

 

「これがジュエルシードです。レイジングハートで触れて」

 

 まだ興奮から冷めないのか、荒い息でじっと抉られた地面を見つめたまま何の反応も見せない。そんななのはにレイジングハートが声をかける。はっと我に返ったなのはは座ったままジュエルシードへとハンマーを伸ばした。するとジュエルシードはレイジングハートに引き寄せられ溶けるように取り込まれた。

 そしてバリアジャケットとハンマーは光となって霧散し、小さくなったレイジングハートがふよふよと手元にやってくる。

 

「これで……いいの?」

「はい、あなたのお蔭で無事、封印できました。ありがとうございます」

「そう……」

 

 再び抉れた地面を見つめると何を考えるともなく、物思いにふけりながらそこにじっとしていた。

 フェレットはそんななのはを黙って見つめている。巻き込んでしまったことに対して責任でも感じているのだろうか。

 

「私は……本当に勝てたの?」

 

 誰に問うでもなく独り言のように小さく呟いた。

 フェレットがなのはの言葉を理解し返答するよりも先に、レイジングハートが肯定しなのはを褒めた。なのはは「そっか……勝ったんだ」とまるで他人事のように呟いた。

 遠くから聞こえるサイレンの音が徐々に近づいている。

 

「行こっか」

「え?」

 

 震える足に力を入れ立ち上がると、動物病院を離れるべく歩き出す。ふと、何かに気付いたように立ち止まり振り返る。そして先程の場所から動いていないフェレットに「何してるの? 早く行こう?」と声を掛けた。フェレットはどうするべきか逡巡したようだったが頷くとなのはの元へ駆け寄った。

 今まで同じことの繰り返しだった。そのせいか、この現状がなんだか夢を見てるようで、全然実感がなかった。ここから先はまだ一度も経験したことない。本来ならそれが普通のはずだが、今はそれが不思議だった。

 そういえば、となのははフェレットの名前を聞こうとしていたことを思い出した。

 

「私は、なのは。高町なのはだよ。君の名前は何ていうの?」

「え? あぁ、うん。僕はユーノ・スクライア。スクライアは部族名だからユーノが名前です」

「そう、ユーノくんね。可愛い名前。それでユーノくん。いきなりなんだけど、このカゴに入ってくれないかな? 別に肩に乗ってもいいけど」

 

 自転車のスタンドを蹴りながら、カゴを指さす。ユーノは頷くとカゴに飛び込んだ。なのはは「ちょっと揺れるかもだけど我慢してね」と薄く微笑むと、足に力を入れ我が家を目指す。

 

「すみません。あなたを巻き込んでしまいました……」

「別に気にする必要ないよ。私には私の目的があって関わってるんだから。それとなのはでいいよ」

 

 その後に「一緒に死ぬ思いをして戦った仲なんだから」と内心で続けた。

 ユーノは萎れた声で謝るがなのはは全く気にしていなかった。むしろユーノがいなければ化け物を倒すための魔法の力が使えなかった。感謝こそすれ怒る理由などない。

 なのはは探し物をしていたユーノが偶然居合わせた黒い化け物に襲われただけであり、ユーノもまた自分と同じように巻き込まれただけなのだと考えていた。

 ユーノはなのはの目的が気になったのか首を傾げた。

 

「なのはさん……の目的ですか。よかったら聞いてもよろしいでしょうか?」

「……生きて皆と笑いたい。ただそれだけだよ。……そんなことよりごめんね? 怪我してるのに鷲掴みしたりして。……痛かったよね」

 

 憂いを帯びた表情はすぐに消え、ユーノのことに話題を変えた。正直なのははユーノが走り回ったり魔法を放ってる姿を何度も見ているためそこまで心配していなかった。本音と建前というやつだ。

 

「あぁ気にしないでください。怪我は平気です。もうほとんど治ってますから。助けてくれたおかげで残った魔力を治療に回せたんです」

「そんなことにも使えるんだ……。あ、そろそろ家に着くよ」

 

 家の門前に着くと自転車を降りる。そして扉を開けるべく門前に立った。

 手を伸ばした状態でなのはの動きが止まる。

 

「帰って……きたんだ……」

 

 自分にも聞こえない程小さな声だった。

 突然今になって黒い化け物を倒したという事実が、生き残って無事に帰ってきたという事実が心にすっと染み込んできた。同時に胸のうちがどうしようもない程熱くなるのをおぼえる。

 

「どうかしたの?」

「ううん……なんでもない」

 

 門を開け自転車を庭に入れ片付ける。ユーノを後ろに引き連れ玄関に立つ。

 

「ここが私の家だよ」

 

 震える手でゆっくりと扉を開けていく。家の中を覗くと、取次ぎに冷たい眼差しをする恭也が立っていた。

 

「おかえり」

 

 声には若干の怒気が含まれていた。しかし思いがけないその言葉に、なのはは別の意味で身震いする。

 その言葉を聞いた瞬間なのはの胸の中に、これまでかつて感じたことのないような深い感動、思わず胸騒ぎがするような強い衝動がわきおこってきた。

 

「もう暗くなっているのに何処に……」

「た……」

 

 上手く声が出せない。喉が締め付けられているかのように堪らなく熱い。口角は下がり痙攣し始める。視界が涙で霞んできた。

 

「ただい……ま」

 

 その言葉を発した瞬間、胸のなかで必死に抑えていたものが一気にはじけた。今のなのはにとってその言葉を言えることが途轍もなく幸福に感じられた。たまった涙が止めどなく溢れ、頬を伝うと顎で交わり床に落ちていった。

 

「お、おい……すまん、強く言い過ぎた。だからほら泣かないでくれ」

 

 突然泣き出し頻りに涙を拭うなのはにどうすればいいかわからず、焦った顔でおろおろする恭也。叱る気などとっくに消え失せていた。

 

「あら、どうしたの?」

 

 美由希の姿と声を確認した瞬間なのはの体は動いていた。靴を脱ぎすて、恭也の横をすり抜け美由希の元へ駆け寄り、そして抱きついた。

 

「ちょっとなのは、どうしたの?」

 

 どういう状況なのか全く分からない美由希は恭也に視線を向ける。

 

「いや、もう暗いのに内緒で出かけるのは心配するぞと言おうと思ったんだが……」

「なるほど。まぁ良いじゃない。こうして無事に帰ってきたんだし」

 

 美由希は恭也が強く言い過ぎてしまいなのはが泣いてしまったのだと解釈した。

 

「うん、無事に……帰って……きたっ。お姉ちゃんの……かたき……とったっ」

「…………そうなの。ありがとうね」

 

 何のことだかさっぱり分からない美由希だったが、泣きじゃくり涙でぐちょぐちょになっているなのはに目線を合わせると優しく微笑んだ。

 更に涙の量を増やしたなのはは「うん」と頷く。飲み込んだ涙が喉の奥でごくりごくりと音を立てていた。

 美由希はなのはを自分のもとへ抱き寄せると「ほら、泣かないの」とあやす様によしよしと頭を撫でる。その優しい手が、ふしぎになのはの気持ちをやわらげ、たちまち体から力が抜けていったように感じた。

 なのははすすり泣きながら「うん、泣か……ない」と美由希の腰に腕を回し顔を埋めた。

 複雑そうな顔をしていた恭也が玄関前で立ちすくむユーノを見つけた。

 

「イタチ? いやフェレットか? ほれほれ、おいで」

 

 しゃがみ込んで手をくいくいと動かした。ユーノはなのはの様子を見て少し気まずいのか、恐る恐る家の中に入り恭也の手元に近寄る。まさか本当に来ると思っていなかった恭也は「おぉ」と感嘆の声を上げユーノを撫でた。

 それに気づいた美由希もなのはに抱きつかれたままユーノに近寄る。

 

「あら可愛い! フェレット?」

 

「うん、今日話したフェレット。ユーノくんっていうの」

 

 なのはは顔を少しだけ離し片目でユーノを確認するとくぐもった声で言った。そして再び顔を埋める。

 美由希は「なるほど、なのははこの子が心配で様子を見に行ったのね」と納得した。

 

「それにしても逃げもせず家の前で待ってるなんて賢いなお前」

 

 恭也は両手でユーノを持ち上げじっと見つめると「母さんに見せたら悶絶しそうだな」と苦笑しながら呟いた。

 

「確かに……とりあえず中入ろっか」

 

 恭也の予想通り桃子はユーノを見た途端、狂喜乱舞した。それは宛ら、なのはのお花畑思考をそのまま体現したかのようだった。

 恭也と美由希は呆れ、なのはは美由希に抱きつき顔を埋め、士郎はユーノにお手をさせる。

 とても平和な夜だった。

 

 

 

 

 部屋の扉をノックする。手には枕が握ってあった。

 

「あらどうかしたの?」

 

 顔を出した美由希を見る。すると訪ねた理由を言うことが急に気恥ずかしくなり、しどろもどろになった。

 美由希はなのはが持っているものに気付くとすぐに理解した。

 

「いいよ。でも私、朝練するから朝早いんだけど……大丈夫?」

「うん、大丈夫。気にしない」

 

 なのはは顔を上げると枕を抱きかかえ嬉しそうに頷いた。

 部屋に入って美由希の枕の隣に自分の枕を並べる。そしてベッドにもぐり込んだ。

 そこは限りない安らぎを与えてくれる優しい匂いで満ちていて、なのははぼっと気が遠くなるような気がした。

 美由希は急に思い出したのか「ユーノはいいの?」と聞いてきた。

 

「もう寝ちゃった。起こすのも可愛そうだからそのまま」

「そっかそっか。じゃあ電気消すよ」

 

 電気を消すと美由希がベッドに入ってくる。なのははそれを待ちわびたといわんばかりに美由希に寄り添った。

 暗闇に包まれた部屋に心地よい静寂が流れる。

 

「……朝なのはを見た時ね、急に大人びてるというかなんというか……変わった雰囲気を感じたんだけど、やっぱりまだまだ子供だね」

 

 美由希はなのはと向かい合うと嬉しそうに笑った。

 

「だってまだ3年生だもん」

 

 そう言って美由希の胸に顔を押し当てる。美由希の暖かな体温を感じ安心する。他愛ない会話をしながら、この幸せな時を止めてしまいたいと思った。

 気づかぬうちに胸の奥底で凝り固まり、一点の影となっていた何かがゆっくりと解されていくような感じがした。

 この優しい夜、なのはは果てしない幸福に包まれながら眠りに落ちていった。

 

 

 

 

 なのはの部屋に置かれたバスケット。その中で寝ていたユーノは、瞼越しに幾度となく点滅する光を感じて目が覚めた。

 一体なんの光だろうかと顔を上げるとハンカチの上に置かれたレイジングハートからだった。

 わけがわからず、つい声をかけてしまう。

 

「ど、どうかしたの? レイジングハート」

 

 点滅が止まる。少し間が空いてから「別になんでもありません」と返された。そして再び点滅を始めた。

 わけがわからないっ! ユーノは心の中で絶叫した。

 これ以上何と声を掛ければいいのか分からないため無視して眠ることにした。

 

(………………寝れない。)

 

「あのさレイジングハート……。点滅するのやめてもらってもいいかな? その……眠れなくて」

 

 点滅が止まる。少し間が空いてから「さっきまで寝ていたではないですか」と返された。そして再び点滅を始めた。

 一体何だっていうんだ! 再びユーノは心の中で絶叫するとバスケットに敷かれてあるタオルにもぐり込んで固く目を閉じた。

 結局レイジングハートの点滅は朝なのはがやってくるまで続くのだった。

 

 



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新たな展開

 

 ゆっくりと瞼を開く。そこは見慣れた天井ではなかった。体に痛みの余韻もない。すぐ隣には暖かさを感じた。なのはは昨日のことが夢や妄想などではなく、全部本当にあったことなのだと安心した。

 外はまだ薄暗く、夜明け前であることに気が付く。

 

「早く起きすぎちゃった……」

 

 なのはは隣の美由希を起こさないよう小さく呟くと、もぞもぞと布団の中に潜り込む。

 頬がだらしなく緩んだ。

 こんなにも幸せで胸が暖かい、目覚めの良い朝はいつ以来だろうかとなのはは考えてみた。繰り返す前であるということは確かだったがいつかは思い出せなかった。今がこうして幸せなのだからどうでもいいか、と別のことに思考を向ける。

 私が欲しいのはこんな日常だ。こんな日常を手に入れるために自分は戦うんだ。もっともっと強い敵が出てくるかもしれない。何百回、何千回と繰り返すことになるかもしれない。でも諦めない限り絶対に辿り着けるんだ。私の魔法の力で絶対に絶対に辿り着くんだ。

 なのはは美由希の体温を感じながら、体の隅々まで幸せを感じながら自分の目指すものを再確認した。

 この幸福な空間がとても名残惜しかったが、表情を引き締めるとベットからそっと抜け出し自室へと向かった。

 自室の扉を開き薄暗い部屋に入る。照明を点けようとスイッチに手を伸ばしかけたが、急に明るくするとユーノを起こしてしまうかもしれないと手を引っ込めた。

 しかし部屋で何か作業をするには暗すぎる。まだ日は出ていないからカーテンを開けるくらいなら大丈夫かと考え、なのはは窓へ向かうべく机を通り過ぎようとした。その時、机の上のハンカチに置いてあるレイジングハートが薄く光った。そして蛍のようになのはの元へと飛んでくる。

 

「レイジングハート?」

 

 なのはは小さく驚きの声を上げ手を差し出す。そして掌の上に乗った仄かに点滅するレイジングハートを、人差し指でちょんちょんと触れながら朝の挨拶をした。

 そのままカーテンに近づくと音を立てないように開けた。目の前には蒼ざめた町並みが広がり、その上にはほんのり薄いオレンジと濃紺が入り交じる空が広がっていた。

 ユーノが寝ているであろうバスケットを覗いてみると、敷いているタオルに潜って丸くなっていた。なのはは次からは掛けるものを準備しておこうと思った。

 僅かに明るくなった部屋の中央に座るとレイジングハートを床に置く。

 

「さて魔法の練習しないとね」

 

 目を瞑ると意識を研ぎ澄まし体の魔力を掌に集中させる。掌に桜色の光が灯ると、それは膨張していった。そしてピンポン玉程度になると、大きくなったり小さくなったりを繰り返し始める。魔力が周囲に拡散し、これ以上大きくならないのだ。

 なのはは眉間に皺を寄せると、魔力が外へ逃げて行かないよう更に集中する。すると玉の大きさは安定し、ほんの僅かに大きくなった。しばらくその状態を維持すると、なのははほっと息を吐き魔力を霧散させた。そして少し休憩してから再び同じことを何度も繰り返した。

 

「まだまだだね……。気長に練習続けるしかないか。次は圧縮……」

 

 そう呟くと再び魔力に意識を向け、今度は魔力の圧縮を始めた。

 

「おはよう、なのは」

 

 圧縮の練習を始めてからそれなりに時間が立ち、朝日がすっかり顔を出した頃ユーノが目覚めた。なのはは魔力を散らし、レイジングハートを掴むとユーノに近づいた。

 

「おはよう。よく眠れた? 掛けるの用意してなくてごめんね。寒かったよね」

 

「……あぁ、よく眠れたよ。気にしなくても大丈夫だよ。寒くはなかったから」

 

 なのはは少し間の空いた返答に違和感をおぼえたが「そっか」と返すと、レイジングハートをハンカチの上に置き制服に着替えはじめた。

 衣擦れの音が静かな部屋を満たす。

 

「私、これからお姉ちゃんの練習見に行こうと思ってるんだけど一緒に来る?」

 

「え、う、うん。一緒に行くよ」

 

「……どうしたの? 後ろ向いて。なにか気になるものでもあった?」

 

 着替え終わったなのはは壁の方向を向いているユーノに、不思議そうな表情で尋ねる。ユーノはギギギと効果音が付きそうな程ぎこちない動きで振り返り「なんでもないよ」と答えた。

 なのはは首を傾げたが深く追求することはせず、適当に相槌を打つと鏡の前に立った。そして髪を結い終わると「それじゃあ行こうか」とユーノを引き連れ、庭にある道場へと向かった。

 中を覗くと木刀を持った美由希が一人、剣術の練習をしていた。

 扉の隙間から顔を伸ばし美由希に「見てもいい?」と聞く。

 

「あら、珍しい。朝起きたらいなくなってたからびっくりしちゃったよ。良いよ。見ても面白いものじゃないと思うけれどね」

 

 一度手を止めた美由希は笑みを浮かべながら了承した。

 

「ユーノも来てるんだ。後ろついてくるなんて本当に賢いんだね」

 

 なのはと一緒に入ってきたユーノを見つけると感心した声を上げ、再び木刀を振り始めた。

 なのはは隅に正座すると美由希をじっと見つめる。足運び、腰、腕、手首、視線。それらの動きを目に焼き付けるかのように観察した。

 少しでもその動きを真似ることができれば戦いの役に立つかもしれない、となのはは常々考えていたのだ。しかし、いつも目覚めると練習は終わっているために見学できなかったのだ。

 

「終わりっと。面白くなかったでしょ?」

 

「ううん、そんなことない……よぉおっ!?」

 

 なのはは立ち上がろうと腰を上げたが、足が痺れて再び座りこんでしまった。そしてその後に襲ってきた、何とも言えない感覚により悶える。

 

「ちょっと大丈夫? 別に正座しなくてもよかったのに」

 

 木刀を壁に掛けた美由希が、声を上げて笑いながらなのはのもとへやってくる。隣にいるユーノも心配そうになのはを見上げていた。なのはは「だ、大丈夫……この程度どうってことない」と壁に手をついて眉を寄せながら立ち上がる。

 美由希はそんななのはを微笑ましそうに見ながら「じゃあ、朝ごはん食べに行こっか」と言い、なのはが歩き出したのを確認すると一緒に道場を出るのだった。

 

 

 

 

 朝食を食べ終わると、ユーノと話すために一度自室へ戻ってきた。

 

「色々聞きたいことがあるんだけど、私学校行かなきゃいけないから話は帰ってきてからだね」

 

「あ、大丈夫。僕たち魔法使いは思念通話が使えるから、遠く離れていても話せるよ」

 

「死ねんつーわ?」

 

《こんな風に》

 

「あ……これのことか」

 

 なのはは傾げた頭をもとに戻しなるほどと頷いた。その時ふと、この声を黒い化け物の声だと考えていた最初の頃を思い出す。

 あの頃の私は、黒い化け物があの少年を取り込んで声を出してるって本気で思ってたんだよね……。今考えるとなんだかおかしいな。

 なのははユーノの話を聞きながら、ふふっと小さく笑った。自分で考えていたことに少し引っかかる部分があるような気がしたが、まぁ良いかと思考を切り替えた。

 レイジングハートを身に着けたまま心で話しかけると使えるとのことだった。さっそくレイジングハートを手に持ち「あーあーあー」と心の中で声を上げた。

 

《うん、ちゃんと聞こえてるよ。これで空いてる時間に色々話すよ。僕のこととか、ジュエルシードのこととか……》

 

《そう、お願いね》

 

 なのはは頷くと学校へ向かった。

 教室に入り席に着くと、アリサとすずかがなのはの机の周りにやってくる。

 

「おはよう、ねぇ聞いた? 昨日行った動物病院で車か何かの事故があったらしいのよ」

 

「それで壁と天井が壊れたちゃったんだって。フェレット大丈夫かなぁ」

 

 なのは一瞬固まったが、すぐに冷静になり適当に説明し始める。

 

「……うん、それについてなんだけど、そのフェレット今うちにいるんだ」

 

「え?」

 

 アリサとすずかが同時に呆けた声を上げ、なのはを見た。

 

「昨日、自転車で街中走ってたんだけどね、その時偶然鉢合わせしちゃったんだ。びっくりしちゃったよ。それで、怪我大丈夫かなって思って近づいたんだ。でも逃げる様子もないからそのまま連れて帰っちゃった」

 

 なのはは事も無げに、にゃはにゃは笑いながら答えた。内心では、そういえば今まで動物病院のことなんて全く頭になかったな、と引きつった笑みを浮かべていた。それと同時に、今まで経験したことの無い展開に刺激を感じていた。

 2人は信じられないことを聞いたかのように声を上げて驚いた。

 

「えぇ!? そんなことってあるの!? すごいわね!」

 

「逃げ出したフェレットと偶然出会って、しかも家へ連れて帰れるなんて……。なのはちゃんが助けてくれたこと覚えてたのかな」

 

「そうなのかなぁ? あぁ、それとユーノ……あのフェレットさん飼われてるわけじゃないみたいだから、当分の間うちで預かることになったよ。名前はユーノっていうんだ」

 

 雑談を終え、アリサとすずかは自分の席へと戻っていく。そして朝のホームルームが終わり、授業が始まった。

 新鮮だった。今までずっと同じ授業の繰り返しだった。しかし今回は違う。もう聞き飽きた授業ではなかった。

 なのはは、そういえばこんな授業あったなと遠い過去を思い出すかのように目を細め、どこかわくわくしながら黒板を見た。

 

《ジュエルシードは僕らの世界の古代遺産なんだ》

 

 突然の声に吃驚したなのはは膝が飛び跳ね、ガタンと机を浮かせた。その音に、教室の皆の視線がなのはに集中する。

 

《あの小さな石には膨大な魔力がこめられているんだけど》

 

「なのはさん、大丈夫ですか?」

 

《力の発現が不安定で単体で暴走したり、無機物や生き物を取り込んで》

 

「はいっ! 大丈夫です! 問題ありませんです!」

 

《自身の駆動体に変化させる性質があるんだ》

 

 羞恥に顔を熱くしながら先生に返事をした。なのはは皆の視線が黒板に戻ったのを確認すると、体の熱を逃がすかのようにほっと息を吐き出した。

 

《…………なのは聞こえてる?》

 

《ねぇ、ユーノくん……。いきなり話し出すのはやめようね?》

 

 なのはの声はいつも通りの落ち着いた口調だった。しかし、なぜかそこには、思わず身震いしてしまうような何かが込められていた。

 ユーノは心臓を握られたかのような気分になったのだろう。怯えた様子で「ご、ごめん、次は気をつけるよ」と謝った。

 

《うん、お願いね? それでなんでそんな危ないものが近くにあるのかな?》

 

《……僕のせいなんだ》

 

 なのはの動きが止まった。体の奥底から怒りが湧き起こってくるのを感じた。呼吸をするのも忘れ、ぎりりと歯を噛み締め握った鉛筆にも力が入る。もしも目の前にユーノがいたら、握りつぶす勢いで掴み上げていたことだろう。

 

《……君が持ってきたの? ここに》

 

《僕が持ってきたわけではないけれど……僕が発掘しなければこんなことにはならなかったんだ。……僕は故郷で遺跡発掘を仕事にしているんだ。そして…………》

 

 ユーノの話を聞き終わると、なのはは深呼吸して体から力を抜いた。

 話を要約すると、発掘したジュエルシードを調査団に保管してもらったが、運んでいる最中に事故か何らかの人為的災害によりこの世界に散らばってしまった。ジュエルシードは全部で21個あり、今までに見つけられたのは2つということだった。

 たしかにユーノが発掘しなければこんな事態にはならなかっただろうが、そのことに対しなのはは全く怒りなど沸かなかった。最初に考えていた通りではなかったが、やはりユーノも自分と同じ被害者なのだとなのはは思った。もしも怒りをぶつけるとするならば、事故に対してか、もしくは人為的災害を起こしたものに対してだろう。

 

《そうなんだ。ユーノくんは悪くないよ。気にしなくていいと思う》

 

《でも……僕があれを見つけなければこんなことにはならなかったんだ……。全部見つけてあるべき場所に返さないと……。その……昨夜は巻き込んじゃって、助けてもらって本当に申し訳なかったです。魔力さえ戻れば一人でジュエルシードを探しに出ます。だからそれまで少しの間休ませてもらいたいんです》

 

 悲痛な声だった。自らが背負った重荷に苦しんでいるのだろう。変に責任を感じて一人で全てを解決しようとしているのだろう。本当に賢くないお人好しなフェレットだった。

 なのはの胸に熱い何かがこみ上げてくる。目を閉じて口元に笑みを浮かべて言った。

 

《やっぱりユーノくんは賢くないんだね。……ユーノくんは一人じゃない。私とレイジングハートも最後まで戦うよ。そうだよね? レイジングハート。私たちは仲間だよ。だからいつか必ず辿り着こう。一緒に》

 

 一人じゃない。ユーノだけではなく自身にも向けた言葉だった。一緒に戦う仲間がいる。ただそれだけで心強いものだ。それをなのはは身をもって知っている。ユーノが教えてくれたことだった。

 

《き、気持ちは嬉しいけど……本当に嬉しいけど、昨日みたいに危ないことだってある。そんなところに……》

 

《むしろ危ないことしかないよね。そんなこと知ってるよ。これ以上ないほどに。だから気にしなくてもいいんだよ……って言ってもユーノくんのことだから納得しないかな?》

 

 なのはは少しおどけながら話した。

 考え込んでいるのだろうか。ユーノからの返事は無い。なのはは笑みを消し普通の口調で続けた。

 

《それに言ったよね? 私には私の目的があるって。辿り着く場所は同じだよ。……まぁユーノくん次第か。ユーノくんが回復した後、絶対確実にジュエルシードを回収できるのなら、その後はもう関わらないよ》

 

 少し意地悪な言い方かなと思いながら、なのははユーノが巨大樹や翼を持った何か、巨大な尻尾の獣と戦っているところを想像した。

 ユーノは全快の状態でジュエルシードを1個しか集められなかったのだ。正直、それらの化け物に勝てるとは思わなかった。今のなのは自身も勝てるとは思わなかった。

 

《わかったよ……申し訳ないけれど手伝ってもらえるかな? なのは》

 

《うん、任せて。今は無理でもいつか必ず一緒にね。……あ、そうだ、帰ったら私に魔法教えてよ。何もかもを吹き飛ばすような強力なやつ》

 

《強力な魔法かぁ。……砲撃魔法とかかな。いいよ、帰ったら教えるよ。でも……何もかも吹き飛ばすとなると、膨大な魔力と瞬間出力がないと難しいかもしれないね》

 

《ありがとう。膨大な魔力と瞬間出力か……まぁ使ってみればわかるかな。とりあえず今はこのくらいで念話終わるよ。帰ったらよろしくね》

 

 なのはは頬杖をつきぼんやりと黒板を眺めながら、魔法についてさっきユーノが言ったことを含めて考えた。

 魔力に関してはユーノがすごい魔力だと言っていたことから、そこそこの量であると予想はついた。しかし出力に関してはよく分からなかった。

 初めて封印魔法を使った時はかなり疲弊してしまった。つまり多量の魔力を使ったということだろう。それなのに威力など皆無だった。練習して分かったことだが、放出した魔力がエネルギーに変換されず外に逃げていたのだ。しかし今は最初に比べると遥かに疲労は少なくなっていた。それなのに威力は上がっていた。そのことから魔法の威力、魔力消費量は魔力制御にも依存することをなんとなくだが感じ取り、ただ単に自分が魔力制御が下手なだけだったと気づいたのだ。だからこそ、制御の練習ばかりを繰り返していた。 

 やっぱり実際に使ってみなきゃ分からないか。どんな魔法なのかも知らないし。

 いくら考えたところで無駄だと分かったなのはは、昨夜の黒い化け物との戦い思い出す。

 これまで苦労がまるで無駄だったと思わずにはいられないほどにあっさりと倒せてしまった。なのはは弱点を突く重要性と、内側から破壊する有効性に気づき始めた。ついでに初めて勝利に導いてくれたハンマー型の杖に愛着がわくのだった。

 そこでふと、黒い化け物の目玉を貫いた時のことを思い出した。その時の感触も音も思ったことも鮮明に覚えている。

 なのはは急に自分が怖くなった。あの感触を心地良いと思ってしまった自分が怖くなった。人を殴った時にも同じ気持ちを抱いてしまうのだろうか。そんな自分を想像してぶるりと身震いした。自分が化け物にでもなってしまったかような感覚をおぼえた。

 ありえない……。

 目を瞑り深く息を吸い込んだ。数秒息を止めた後ゆっくりと吐き出す。

 あれは初めての勝利への確信と今までの積もりに積もった恨みを晴らせることへの心地良さだったのだ。決して肉を貫く感触に対してではない。二度目は何も感じない。そうなのはは自分へと言い聞かせた。

 その時授業の終了を告げるチャイムがなった。

 授業全然聞いてなかった……。まぁ……いいよね。

 なのはは一度立ち上がり大きく伸びをする。そして再び座り込み、次の授業からは朝見た美由希の動きの確認と気づかれないように魔法の練習をしよう、と考えながらぐでっと机の上に突っ伏すのだった。

 

 

 

 

 学校が終わり下校中の時のことだった。

 ユーノにそろそろ家に着くからと念話している最中、世界の色が一瞬変わった。

 

「今の何?」

 

 なのはは呆けた顔をして立ち止まった。疲れているのだろうか。そう考えた時、ユーノから答えがきた。

 

《ジュエルシードがすぐ近くで発動したみたいだ! 一緒に向かおう。手伝って》

 

 なのは一度家に帰りユーノと合流すると、自転車で発動した方向へと向かった。着いた場所は神社だった。ジュエルシードは境内にあるようだった。

 近くに自転車をとめ、境内へ向かうべく駆け出した。しかし、なのはは思わず足を止める。喉がごくりと音を立てた。

 

「私、これ無理かも」

 

 なのはは階段を見上げながら口の中で小さく呟いた。

 それはなのはにとって天まで届く巨大な壁に見えた。そしてそれは「人は時として乗り越えねばならぬ壁があるのだよ」となのはに優しく語りかけているかのようだった。

 

「さぁ、行こう! レイジングハートを起動して」

 

「……うん。我使命を受けし者なり。契約のもとその力を解き放て。風は空に星は天に、そして不屈の心はこの胸に。この手に魔法を。レイジングハートセットアップ」

 

 一息で起動呪文を唱え白い戦闘服に身を包む。

 なのはは「よしっ」と気合を入れると第一関門、境内へと続く長すぎる階段を勢いよく駆け上った。もちろん途中まで。

 

「くっ……ユー……ノくん。私は……どうやら……ここまでのようだっ。あとは……頼んだ」

 

 階段に手をつきながら、これ以上ないほど荒い息でユーノに言った。

 

「ちょっとなのは、遊んでる場合じゃないよ! 急いで!」

 

 なのはに遊んでるつもりなど1ミクロンも無かったのだがユーノは一蹴すると先に行ってしまった。その時レイジングハートが小さく何かを言ったが分からなかった。

 なのはは眉間に皺を寄せながら「わかってるよ」と掠れた声で小さく呟くと再び昇りだした。心臓が破裂寸前かと思われた。唾を飲み込もうとすると喉が張り付いて、もんじゃ焼きを作りそうになった。暴走体と戦う前に死んでしまうと本気で思った。だがこんなところで諦めるわけにはいかなかった。

 

「乗り越えて……みせる」

 

 レイジングハートの励ましているのであろう声を聞きながら、手に持つハンマーを支えに一段ずつ上を目指す。上を向くとユーノの姿はもう見えなかった。

 森の中で生活してるだけあって疲れ知らずなんだな、となのははユーノの体力を羨ましく思った。当然ユーノは森の中でなど生活はしていないが見た目がフェレットなのだから仕方が無い。

 あと少しだった。あと少しでゴールに辿り着く。なのはは最後の力を振り絞り頂上を目指した。その時、強烈な破壊音と地響きがなのはに届いた。

 まずい。なのは急いだ。もう交戦は始まっている。もしかしたら今の一撃でユーノはやられてしまったのかもしれない。

 境内の様子が見えた。そこには抉れた地面と巨大な尻尾を揺らめかせている焦げ茶の獣がいた。ユーノの姿は見当たらなかった。境内に辿り着くと、朦朧とした意識で離れた場所にいる焦げ茶の獣を見つめる。

 あいつ……お兄ちゃんを殺したやつだ。

 ハンマーを握り締めると、息切れにより激しく肩を上下させながら構えた。焦げ茶の獣もなのはに気づき視線を向ける。

 その瞬間、なのはは魔法弾を生成し焦げ茶の獣の顔面目掛けて放った。しかし、それは前足の付け根から生えた腕でかき消されてしまった。それを確認すると同時になのはは避ける体制をとった。この距離からだとおそらく突進か飛び掛ってくるだろうと予想した。

 焦げ茶の獣は少し身を低くしたかと思うと目にも留まらぬ速さでなのはに迫った。黒い化け物に比べ分かりやすい予備動作だった。

 どのくらい離れればいいのか分からないため、なのはは力の限り横へ走った。それで焦げ茶の獣は横を通り過ぎ回避できるはずだった。しかし予想を反して、焦げ茶の獣はなのはから少しだけ離れた位置で止まった。かと思うと体を勢いよく回転させた。それと同時になのはは吹っ飛ばされた。振られた尻尾がなのはを薙いだのだ。飛ばされたなのはは手前の木々をすり抜け林の中へ消える。奥から小さく鈍い音が聞こえた。

 なのはが意識を失う直前に思ったことは、近づいてきた焦げ茶の獣の巨体を見上げながら、こんなの勝てるわけが無い、だった。

 

 



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神社の魔獣・前

 なのはは布団を跳ね除け勢いよく起き上がった。

 

「あんなの勝てるわけないじゃん! ていうかなんであんな場所にあるのさ!? 戦う前に死んじゃいそうだよ! せっかく一歩進んだと思ったのに……」

 

 眉間に皺を寄せ、鼻息を荒くし、一人愚痴った。

 それと同時に携帯電話の目覚ましが部屋に鳴り響く。今はその電子音がひどく耳障りに感じられた。

 

「…………うるさい」

 

 なのはは目覚ましを乱暴に止めると無造作に脇に置いた。それは勢いあまり、ベットの上を滑るとそのまま床へと落ちた。

 一気に静まり返った空間で、唇を噛みながらついさっきのことを振り返る。

 黒い化け物と比較にならない程、巨大な体だった。近づかれただけで戦意喪失だった。攻撃範囲も広い。そのくせ当たると即死。

 

「無理無理無理っ! 絶対無理!」

 

「なにが無理なの?」

 

 なのはは予期せぬ美由希の声にびっくり仰天した。

 美由希が扉から首を伸ばし、ニコニコしながらなのはを見ていた。その顔を見たなのはは、あることを思い出して頭の中が真っ白になった。

 

「て、てがみ……手紙書いてなかった。……どうしよ」

 

 顔を青くし、美由希を見つめながら小さく呟いた。もう頭の中は大混乱である。

 どうしよう、という言葉だけがぐるぐると回って何も考えられなかった。終いには目に涙を浮かべ嗚咽をもらしはじめた。

 美由希もそんななのはを見て、どうすればいいかわからず「ちょ、ちょっといきなりどうしたの!? 私何かしちゃった!? ご、ごめんね? 私が悪かったよ。だから、ほら泣かないで」と大混乱になった。

 ベットまで駆け寄ってきたそんな美由希を見て、なのはは少し冷静になりもういくら悔やんでもどうしようもないと割り切った。そして、今日からは繰り返したその日のうちに絶対に書いておこう、と心に決めた。

 何度も繰り返しているうちに、次は気を付けようという考え方が染みついてしまったようだった。本来なら家族が関わっているため、そんな楽観的には考えたくない。しかし、なのははすぐにそのことを意識の外へと追い出し気づかないふりをした。気づいてしまうと底の無い泥沼にはまり抜け出せなくなると経験的に分かっていた。というより今さっき片足を突っ込んでいた。

 なのはは顔を袖でぐしぐしと拭うと、ベットの傍でおろおろしてる美由希に「怖い夢を見たんだ」と適当な理由を話しながらさっさと着替える。そして「はやくご飯食べようよ、お姉ちゃん」と狐につままれたような顔をしている美由希に微笑んだ。

 

 

 

 

 今回もハンマーを眼に突き刺し、黒い化け物を倒した。もちろん動物病院は壊れていない。

 なのはは今まで病院が壊れるところを見ても何も思っていなかった自分に対し「普通気が付くでしょ」と突っ込みを入れながら戦った。そして、それ程切羽詰っていたのだから仕方がないと誰にともなく言い訳をして何度も頷くのだった。

 突き刺す時、前回のような肉を貫く心地よさは全く無かった。逆に嫌悪感も無かった。ただ、さんざん苦労していたのに、これほどまでにあっさり倒せてしまうのかという虚しさだけが心にしみた。

 前回との大きな違いといえばユーノを動物病院へ残してきたことだろう。

 なのはは前回「一緒に戦おう」とか「一人じゃない」などと言った手前、少し気まずさを感じたが仕方がない。

 壁が壊れていないのに逃げ出すのはおかしい。しかも、その逃げ出したフェレットが自分の家にいるとなるとこれ以上ないほどおかしい。

 アリサとすずかは「へぇ、すごい偶然だね」で済みそうな気もしたのだが念のためである。

 そういう結論に至ったなのはは「明日迎えに来るよ」とユーノに言い残し、レイジングハートだけ受け取って帰宅した。

 そうは言ったものの、なのはは次の日迎えに来るつもりはなかった。いや、神社のジュエルシードを封印できたら迎えに来るつもりだが、おそらくまだまだ先のことだろうと考えていた。

 家に帰ると前回と変わらず取次ぎに恭也が立っていた。

 さすがに今回は大泣きすることはしなかったが、化け物と戦ってましたとは言えないため適当に理由をつけて「心配かけてごめんなさい」と謝った。

 なのはは自室に入るとレイジングハートを机に置き、ベットに潜り込んだ。そして前回のことと明日のことに思いを馳せる。

 黒い化け物と同じように案外簡単に倒せるようになるのだろうか。ゲームでも瞬殺してくるような圧倒的な強さを持つ裏ボスがいる。しかし戦略次第でノーダメージで倒せたり1ターンで倒せたりする。あの化け物もそれと同じなのだろうか。

 そう考えてみるものの、なのはは自分があの化け物を圧倒している姿を全く想像できなかった。攻撃を避ける姿すら想像できない。できるのは、瞬殺される姿だけ。何をしても勝てる気がしなかった。

 だが、だからといってなのはに逃げる気などこれっぽっちもない。

 逃げたくないわけではない。むしろ、ほとんど毎回死ぬ度に全てを投げ出して逃げてしまいたい衝動に駆られている。

 なんで自分だけが死ぬほどの痛い思いを何度も繰り返さなければならないのか。他の人でもよかったではないか。まだ小学生の、しかもまだ十歳にもなっていない自分ではなくて大人がやればいいではないか。なんで自分なんだ。自分には無理だ。

 そう挫けそうになる度に、いつかの恭也と美由希の姿を思い出し、ノートを見返し、アリサとすずかの言葉を頭の中で繰り返し、目指す未来を想像してきた。

 恭也は逃げ出さなかった。そう考えるだけで、その姿を思い出すだけで立ち向かえる。

 美由希との約束。あの世界での出来事を知っているのは自分だけ。自分が止まれば皆の思いもなかったことになる。そう思うと、こんなところで躓いていられないとがんばれる。

 自分の唯一のちっぽけな矜持。ノートを見返すだけで、この程度で諦めてなるものかと踏みとどまれる。

 絶対にできるんだと信じること。私はできる。そう繰り返すだけで、不思議に力がわいてくる。

 巨大樹の日の向こう側。まだ見たことのない未来。一体どんなことが待っているのだろうか。皆と笑う日々。ぼけーっとゲームに熱中する日々。そんな日々を想像するだけで絶対に辿り着こうという意思が宿る。

 そうやって今まで戦ってこれた。そして、これからも戦っていけるだろう。

 

「運命……」

 

 なのはは暗闇の中、天井を見つめながら呟いた。

 ふと何の脈絡もなく突然思い浮かんだ言葉だった。何故かそれは心の奥にまで染み込んだ。しかし、今はそれについて深く考えることもなく、すぐに意識の底に沈んでしまった。

 そろそろ寝ようと目を閉じる。だが、唐突な閃きによりすぐに目を開いた。

 

「あ……そうだ。戦う前に封印すればいいのか」

 

 今回は相手が来るのを待つのではなく、自分から向かうことができる。つまり、発動する前に神社に行けば戦わずして封印できるということになる。

 

「学校が終わったら急いで神社に行って…………いや」

 

 この際学校をさぼってもいいのではないか。こっちは多くの命がかかっているのだ。たかが1回くらい学校をさぼっても問題無いのではないか。

 なのはは、どうしようかと唸った。仮病で早退はしたが、朝から学校をさぼるなんてこと生まれてこのかた一度も無い。

 学校をさぼって街をぶらつく。いや、決して遊びに行くわけでも街をぶらつくわけでもないが、そんな状況を想像するとなのはは心躍った。

 なのはの中ではなかなか憧れるシチュエーションなのだ。

 

「よし、明日は……」

 

 しかし、なのはの胸を得体のしれない何かが掠める。

 天使と悪魔。良心の呵責。親に怒られる。

 

「うん……やっぱり学校終わったらでいっか」

 

 なのはは再び目を閉じると今度こそ眠りに落ちるのだった。

 そして朝目を覚ました時、枕元にレイジングハートがあったことに驚くのであった。

 

 

 

 

 なのはは学校が終わるとすぐさま神社へ向かった。

 本当はユーノを迎えに、アリサとすずかとで動物病院へ行かなければならないのだが、急用ができたと言って別れた。

 神社の階段前に着くと一度立ち止まる。そして目を瞑り深呼吸をした。

 心の準備が必要なのだ。もちろん階段を上るための心の準備だ。

 

「……よし」

 

 目を見開くと、決意の籠った眼差しで一番上を見上げた。そして駆け上った。

 しかし、いくら心の準備をしても、決意を持っても結果は変わらない。

 なのはは今にも死にそうな表情を浮かべながら境内へと辿り着いた。

 

「もう……やだ……しぬ」

 

 汗で張り付く髪や制服、鞄を背負った湿った背中が気持ち悪かった。

 ふらふらと今にも倒れそうなほど覚束ない足取りで、前回焦げ茶の獣が立っていた辺りを目指す。

 近くまで行ってみたが、ジュエルシードは見当たらない。

 なのはは別の場所にあるのだろうかと辺りを見渡した。

 その時、世界の色が変わった。

 色が戻ると、さっきまで何も無かった目の前の地面に、ジュエルシードが2つ転がっていた。

 

「ジュエルシード! しかも2つ……早く封印しなきゃ」

 

《なのは! ジュエルシードが発動したみたいだ。本当に申し訳なないけれど先に向かってくれないかな》

 

 ユーノの念話に返事をしてから、なのははレイジングハートを起動しようと呪文を唱え始める。しかし、その声は途中で止まった。

 ジュエルシードが強く光ったかと思うと、目の前に焦げ茶色の壁が立ちはだかっていた。

 なのははすぐにそれが何なのか理解した。

 あまりの恐怖に、一言も発することができず口を半開きにしたなのはは、無意識に後ずさろうとする。がそのまま尻餅をついてしまった。

 腰が抜けたのだ。

 蛇に睨まれた蛙というのもこの様なものであろうか。

 見上げるなのはの目は、焦げ茶の獣の凶悪な顔に釘付けにされたまま動かなかった。

 金色の牙をぎらつかせたその顔はなのはを見下ろすと、地獄の番犬もかくやと思われる腹の底にまで響く低い唸り声、聞いた者に圧倒的な恐怖を植え付ける唸り声を上げた。

 なのはの両足の間から零れた熱い液体が、制服のスカートを濡らし地面に水たまりを作っていく。その臭いがより一層空気を重苦しくしているように感じられた。

 レイジングハートがなのはに言葉を掛けているが、なのはの耳には届いていなかった。速く浅い呼吸を繰り返しながら何を考えるともなく、ただただ凶悪な顔を見つめ動けずにいた。

 焦げ茶の獣は分厚い筋肉で覆われた巨大な腕をゆっくりと持ち上げた。そして青白く鋭い爪をなのは目掛けて振り下ろす。

 永遠にも感じられる僅かな時間の中、なのははそれをただじっと目で追うだけだった。

 直後、体いっぱいに激痛を感じたがすぐに意識は遠のいていった。

 次に目を開くと自室の天井だった。

 なのははむくりと起き上がると、弱音を吐くわけでも泣くわけでもなく、ただ俯き布団の一点を影差す瞳で見つめていた。

 身も心もぐったりなえきって何も考えられない状態だった。重苦しい憂鬱が胸の中に感じられた。それほどまでに心の打撃が大きかった。

 しばらくの間、目覚ましが鳴るのも構わずそうしていた。

 このまま何も考えず、何も感じずにいられたらどれ程楽だろうか。あの時のように。

 しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。苦しみから逃げるわけにはいかない。苦しみと向き合わなければいけない。あの時、もう死なないと決めたのだから。何度でも立ち上がると決めたのだから。

 なのはは徐にベットから降りると鏡の前に立った。

 この世の終わりのような顔がそこにはあった。まるで生気のない、いつかの自分と同じ顔。

 

「惨めだね。またそうやって自分の運命から逃げるの?」

 

 今にも消え入りそうな声で鏡の中の自分に問う。

 答えはない。

 なのはは上を向くと目を瞑った。そして深呼吸し顔に力を入れる。

 目を開け鏡に視線を戻すと小さく唇を歪めにっと笑う顔があった。それはぎこちなく物悲しげだったが、自らの苦しみと向き合おうとする意志が宿っていた。

 着替えるために鏡から離れる。

 結っていない髪がふわりと靡いた。

 もう何度目になるのか分からない今日がまた始まる。

 

 

 

 

 相変わらず階段を上るだけでも死にそうだった。

 その暗く物鬱げな瞳は階段を上って死にそうになっているせいなのか、何度も繰り返したせいなのか。

 戦闘服を纏ったなのはは、焦げ茶の獣が現れる位置から離れた場所にいた。そしてハンマーにもたれかかりながら息を整え、真正面から戦う準備をしていた。

 もう戦わずして封印することはとっくの昔に諦めてしまったのだ。

 あれから何度もジュエルシードが現れた瞬間に封印をしようと試みた。しかしいつも失敗に終わった。その度にあの凶悪な顔に見下ろされ恐ろしい思いをすることになった。おかげでなのはは、その巨大な姿をすっかり見慣れてしまった。腰が抜ける程恐かったはずなのに、人間とはどんなことにもすぐ慣れる動物だとはよく言ったものだ。

 それでは次にどうしたのか。

 現れた瞬間に封印魔法を纏わせたハンマーを突き刺し内部から破壊。もしくは、気づかれないように物陰に隠れて最大出力の魔法をぶっ放し相手を再起不能にしてしまおう。名付けて、先手必勝不意打ちで一撃必殺作戦。

 もちろん失敗である。

 一番防御力のなさそうな頭にハンマーを当てようとするが、身長が足りずどうがんばっても届かなかったのだ。跳べば辛うじて届くがそんなもの掠り傷にもならない。仕方がないので胴体や腕にぶつけてみるものの、衝撃で自分の手が痺れるだけに終わった。

 結果、瞬殺である。

 最大出力をぶっ放す。なのははユーノから砲撃魔法なるものを教えてもらった。そして、桜色のビームを撃ち放つド派手で大迫力な魔法に心躍らせたなのはは「これなら勝てるに違いない!」と意気揚々と待ち構えた。しかし今のなのはの火力など高が知れている。怯ませることはできたがそれだけで、ただ相手をカンカンに怒らせてしまっただけに終わった。

 結果、瞬殺である。

 朝起きた時、なのははそのあまりの理不尽さに、思わず全力で手元の枕を投げてしまった。それがちょうど扉から顔を出した美由希の顔面に当たってしまったことは、思い出しただけでもゾッと背筋が凍りそうになるのだった。

 早朝の魔法の練習中、今までの失敗を振り返ったなのはは、一気に吹き荒れた負の感情の嵐により耐え切れない程悲しくなった。

 一体自分は何をしているのだろう。こんなことをして意味なんてあるのだろうか。今している魔法の練習すらも結局は無駄な努力なのではないか。

 自分がどうしようもないほど惨めで、情けなくて。無力で何もできない自分が悔しくて、辛くて。そしてどこかに消えてしまいたくなった。

 泉のように涙を流した後、目を赤く泣き腫らし鼻をすすりながら「そもそも私は攻略者だもん。私のするべきこと。それは戦わないで勝つことでも不意打ちすることなんかでもない。真正面から挑み、立ち塞がる全ての敵を攻略することなんだ」と湿った声で普通に戦うことを決意したのだ。

 ただの負け惜しみだったが、聞いていたレイジングハートは何も言わなかった。

 それから更に繰り返し、今に至る。

 ジュエルシードが現れたのを確認すると、なのははハンマーにもたれかかった体を起こす。そして腰を落とし、ハンマーを両手で軽く握り構えた。美由希の構えを真似ているのだ。

 ジュエルシードが強く光る。それと同時になのはは魔法弾を目の前に生成した。焦げ茶の獣が出現すると挨拶代わりにそれを撃ち放った。魔法弾は辛うじて目で追える程度の速さで、凶暴で恐ろしい顔に吸い込まれていくと、ドガンとなんとも痛そうな音を立てた。

 焦げ茶の化け物は頭を大きく仰け反らせて呻いた。しかし、何事も無かったかのようにゆっくりと頭を戻すと弾の発射地点、なのはを睨め大音量で咆哮する。そして僅かに態勢を低くした。

 以前ならば、この咆哮を聞いただけで足が竦んでしまったことだろう。だが、今のなのははそんなこと気にも留めず、焦げ茶の獣の動きを具に観察する。尻尾の揺れ、踏込の深さ、足運び。それらの情報をもとに次の行動を先読みした。

 なのはは、焦げ茶の獣が地面から離れる直前に5歩後ろへ下がった。直後、飛び掛かってきた焦げ茶の巨体が先程までいた場所に着地した。

 なのはの物憂げな黒い視線と、焦げ茶の獣の獰猛な青い視線がぶつかる。

 焦げ茶の獣が右腕を持ち上げるのを認めると、なのはは1歩下がった。当たったものをばらばらに切り裂く鋭い爪が轟音を立てて目の前を左から右へと横切っていく。これは当たると本当に痛い。

 次になのははできるだけ低くしゃがんだ。すると今度は轟音が頭上を右から左へと横切った。

 まるで死神が飛び回っているかのようだ、となのはは感じた。

 焦げ茶の獣が右腕を掲げ、振り下ろすのと同時に前へと走る。そして4本の柱で支えられている焦げ茶色のトンネルを左に潜り抜け、4歩距離をとった。これは失敗すると蹴られたり踏まれたりする。真っ直ぐに抜けると揺れ動く太い尻尾に当たり吹っ飛ばされる。どれも経験済みである。

 焦げ茶の獣はなのはを見失い動きが止まった。

 なのはは魔法弾を作りその隙だらけの横顔に放った。

 それによってなのはに気づいた焦げ茶の獣は振り向くが、それと同時に再び顔面に魔法弾を食らった。

 歯や角くらい折れてくれてもいいのにと考えながら、なのははもう一発おまけしてあげた。そしてまたできるだけ低くしゃがみ込む。

 焦げ茶の獣は体を勢いよく回転させ尻尾を振りまわした。しかし、それはなのはの頭上を通過するだけだった。この時、後ろに下がりすぎたり少しでも頭が高かったりすると自室にワープしてしまう。これもなのはは経験済みである。

 そんなことを何度か繰り返していると、焦げ茶の獣の様子が変わった。

 後ろに跳び下がり一気に距離を離したかと思うと、急に動きが止まり背中の金色の装飾が光り出す。そして、腰についている歯車が回り出したのだ。

 苦しげな表情を浮かべながら肩で息するなのはは、どうせ効いていないんだろうなと思いつつ魔法弾を撃ちまくった。

 焦げ茶の獣は弾が被弾するたびに顔を仰け反らせる。

 すごく変な光景だった。

 幾許かすると歯車は止まり、光が消える。

 

「今回こそ……」

 

 なのはは魔法弾を撃つのを止め、フードを除けると空を見上げた。

 突如なのはの真上数十メートルに、緋色の巨大な魔法陣が浮かび上がった。そして無数に生成された同色の魔法弾が一つまた一つと流星のように降り注ぎ始めた。

 この焦げ茶の獣。体を使った物理攻撃だけかと思いきや一丁前に魔法を使ってくるのである。威力は爪や尻尾に比べると劣っているのかもしれないが、空から降ってくるため脳天直撃即死である。しかしこの間、幸いにも焦げ茶の獣が攻撃してこない。

 なのははレイジングハートを胸に抱き寄せると降り注ぐ流星の雨を避けはじめる。

 ボコボコになっていく地面に足を取られぬよう気を付けながら左に1歩、後ろに1歩、右に1歩。時には回りながら。ダンスでも踊るかのように。

 パターンは決まっているし避けられない速度でも密度でもない。しかし、その場に止まってやり過ごせるほど甘くはない。まるでシューティングゲームのようだ。

 なのははまだ一度もこれに耐えきったことはない。バリアを張ってみたが簡単に砕かれてしまう。光っている間に逃げようとしても必ず真上に魔法陣が展開する。魔法が終わるまで避け続けるか、魔法陣の外に辿り着くかしなければならないのだ。

 なのはの心臓が八分音符を刻み続ける。数秒が数分に引き伸ばされる世界。体の全ての感覚は避けることにだけ集中し、頭の中は空っぽになる。無我の境地とはこのような状態のことを言うのかもしれない。

 なのははこの攻撃に関しては、大雑把にしか避ける道を記憶していない。最初こそ失敗しながら一つ一つ避ける道筋を記憶していた。しかし、何十回もそんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか見えるようになってきたのだ。ただの点にしか見えなかった魔法弾が、無意識にその大小から距離を測り避けられるようになってきたのだ。とはいっても、まだ完璧に避けられるわけではない。

 気が付けば目の前に魔法弾が迫っていた。

 避けた先に魔法弾があったのだ。視界に入っていたはずなのに気付かなかった。

 

「ミスっ……」

 

 なのはは思わず目を瞑った。

 

 

 

 



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神社の魔獣・中

 

 なのはは目を開けて天井を見つめると、どんよりと重苦しい雰囲気を纏いながら大きくため息をつく。

 耐え難い挫折感と暗い谷底に落ちるような憂鬱で死にそうな気分だった。

 

「……またミスちゃった。あんなの無理無理」

 

 この「無理」は本心から言っているわけではなく、沈んだ気分によるものである。

 物憂げな瞳は前回と変わらずだが、その気怠げでどこか投げやりな物言いからは「今回こそ」と空を見上げていた勇ましい姿は全く想像できない。

 顔面直撃で痛みを感じる間もないのが唯一の救いではあるが、あまり成果が出ないまま同じことを繰り返すのは心底うんざりするのだ。それに何度も死んでいるとはいえ、なのはにとって相変わらず死ぬのは怖いし大きなストレスだった。

 焦げ茶の獣の顔面に魔法弾を当てまくるのは、ただ単に弱点だからというわけではなく顔面直撃で死にまくっていることに対する仕返しでもあるのかもしれない。

 なのはは今、焦げ茶の獣が使ってくる魔法の攻略を目標に死力を尽くしているが、たとえあの魔法を攻略できたとしても、その後は火力不足と体力不足によりやられてしまうことは火を見るより明らかだった。実はあの魔法は焦げ茶の獣の最後の力であり、魔法が終わると力尽きたり弱体化したりする、となれば話は別であるがその可能性はこれっぽっちも無いだろう。

 なのはは最初、焦げ茶の獣の魔法を攻略するまでに自分の魔法弾の威力が上がり、きっと倒せるようになるだろうと考えていた。しかし、攻略は進めど魔法弾の方はちっとも成果が上がらない。

 途中で、このままじゃ魔法攻略できても倒せないのではないかと薄々感じ始めていたが「いや、まだ……まだわからない」と自分に言い聞かせて問題を先送りにしてきた。だが、それもそろそろ終わりのようだった。あの魔法の攻略まで、まだ少し時間がかかることは確かだが、お先真っ暗というわけではない。もう終着点が見え始めている。つまり、焦げ茶の獣を倒すための別の方法を本格的に考えなければならないのだ。今まで目を背け続けてきた現実と向き合わなければならないのだ。

 なのはは目を瞑り「しんどい」と一言呟くと、布団を頭まで被って膝を抱えた。この閉鎖された自分だけの空間がとても居心地よかった。

 しばらくすると外で目覚ましが鳴りだしたが知ったことではない。なのははそのまま意識という代金を支払い、夢の世界への門を潜ろうとした。

 しかし、それは叶わなかった。

 

「おはよう。……ちょっといつまで寝てるの? もう朝だよ。早く起きないと学校遅刻しちゃう」

 

「……学校行かない。休む」

 

「はぁ……? 何言ってるのよ? ほらほら起きた起きた」

 

 いつの間にか部屋に入っていた美由希によって強固な布団外殻はいともたやすく引き剥がされ、ダンゴムシになっているなのはの姿が外の世界へとさらされてしまった。

 美由希がカーテンを開けたことによって窓から朝の白く透明な光線が差し込む。なのはは、その眩いばかりの聖なる光から咄嗟に目を腕で守った。

 

「うぅ……溶けちゃう。…………お姉ちゃん、私頭痛いしお腹痛いし熱っぽいみたいなんだ。……あと吐き気も」

 

「そっかそっか。一度学校行ってどうしても我慢できないみたいなら早退しよ? ……口を尖らせて膨れてもダメなんだから。さ、はやく着替えなさい」

 

 起き上がりベットに座ったなのはは、制服を持ってくる美由希にジトッとした目を向け抗議した。しかしそれは、全く相手にされず着替えを促されるだけに終わった。

 

「……着替えれない。着替えさせて」

 

「そのくらい自分でしなよ。なのははもう3年生でしょう? まったく……今回だけだよ? ほら腕上げて」

 

「うん、今回だけ」 

 

 普段あまり甘えてこない妹がどういうわけか甘えてくる。そんな妹が内心可愛いくて仕方がない美由希は、口先だけの注意をすると嬉しそうに笑みを浮かべながらなのはを着替えさせていく。そして、髪を梳かし結ってあげた。

 

「よし、完成っと。早くご飯食べないと遅れちゃう」

 

「歩けない。おんぶ」

 

 美由希は、気怠げに俯きながら両手を差し出すなのはに「はいはい」と背を向けしゃがんだ。

 美由希の背に乗った時、なのははまだ憂鬱に沈んでいたが、降りる頃にはもう焦げ茶の獣の攻略について思考を巡らせているのだった。

 しかし、結局それから何も思い浮かばないまま数回目を迎えることになったなのはは、再び空を見上げ魔法攻略に挑戦していた。

 降りかかる数多の流星をひらひらと避けつつ、魔法陣の外を目指す。直線距離にして残り10歩程はあろうか。

 なのはは額に汗を浮かべながら、ただただ無心に弾を見つめる。積み重ねてきた経験が無意識に安全なルートを選択していく。

 もう何分も経過しただろうか。それとも何時間か。いや、まだ数秒なのかもしれない。そんな時間が伸び縮みしているような世界の中、突然変化が起こった。

 浮かび上がった魔法陣の色が徐々に薄くなり消滅していく。魔法弾が地に降るたびに空を埋め尽くしていた光点が減っていく。

 つまり、残りの魔法弾を避けきれば攻略完了ということだ。

 それを理解した瞬間、もともと速かった鼓動がより一層速く、そして力強いものに変わった。しかし、頭は極めて冷静であった。

 ここまで来て失敗する、などという愚かな真似などなのははしない。勝利が目前に迫った時こそやっと半分だと思え。それがなのはの攻略の流儀である。

 そしてついに最後の魔法弾を回避する。そこで初めて顔をほころばせ、小さく喜びの声を上げた。

 

「やったクリア! …………あれ……戻ってる」

 

 さっき自分は確実に最後の魔法弾を回避した。それからすぐに焦げ茶の獣を確認しようと振り返ったはずだ。それなのに何故、今自分はベットに横たわり、天井なんて見上げているのだろうか。

 答えは簡単。繰り返したのだ。

 おそらく、魔法陣が消えた時点で焦げ茶の獣の硬直は解けたのだ。そして自分が最後の魔法弾を避けてる間に接近され、振り返る途中で頭に尻尾か爪でも食らったのだろう、となのはは予想した。

 焦げ茶の獣は上げて落とすという高度な精神攻撃まで使ってくるのだ。

 なのはは小さくため息をつく。あまりのがっかり感と憂鬱で今は何も考えたくなかった。

 

「……寝よっと」

 

 目覚ましが鳴らないように解除し、布団を口元まで引き寄せて蹲ると固く目を瞑った。

 当然、すぐに美由希によって現実へと引き戻されることになった。なのはには一時の逃避行動すら許されないのである。

 

 

 

 

 なのはは黒い化け物と対峙しながらどうすれば焦げ茶の獣を倒せるのかについて考えていた。

 体表から攻撃が効かないとなると、やはり内部に流しこむしか無い。内部に流しこむには体表を貫かなければならない。体表を貫くには貫くだけの力が必要だ。もし力がないのならば最も強度のない、最も柔らかい場所を狙う必要がある。ならば焦げ茶の獣の柔らかい場所はどこか。それはこの黒い化け物と同じ場所。

 

「だけど、届かないんだよね……」

 

 なのはは魔力が込められていないハンマーを振り下ろして黒い化け物の目に突き刺した。すぐにハンマーを引き抜きくと、襲い掛かってくる触手を一寸の見切りで躱しきり、再び目に突き刺す。魔法使いであるにもかかわらず、その動きはまるで剣士のようであった。

 それで何故そんな無意味なことをしているのかというと、別に理由など無かった。本当にただの気まぐれであり、偶々である。決して憂さ晴らしなどではない。普段は一撃で倒しているのだ。

 焦げ茶の獣の唯一の弱点であろう目は、なのはの身長ではとどかない。

 どうにかして攻撃が届く位置にまで行けないものだろうか。腕をよじ登り、角に掴まりながら刺す。いや、よじ登るのは無理だ。ならば、ジュエルシードの真上に座って待ち構えるというのはどうだろうか。そうすれば焦げ茶の獣が現れると同時に頭上を確保できるだろう。しかし、そんなことをしたら背中の装飾の円錐や頭の角が刺さってしまうかもしれない。どこにとは言わないが。

 なのははあれこれ考えてみるが良い案は浮かばなかった。すぐに浮かぶのならとっくの昔に焦げ茶の獣を倒しているだろう。

 そんな時、黒い化け物が高く飛び上がりなのは目掛けて落下してきた。それを見たなのはは脳裏に閃光が走り抜けたような気がした。

 

「そうか……。簡単なことだった」

 

 なのはは、もうお前の相手をしている暇など無い。私は忙しいのだ、とでも言うようにあっという間に黒い化け物を倒し、ジュエルシードを封印する。

 

「高く跳べばいい!」

 

 突然の意味不明な言葉に、ユーノが足元で驚いているがそんなことは知らない。

 跳んで攻撃することはすでに試している。だがそれは失敗だった。そのせいで跳ぶことが選択肢から除外されていたのだ。ただ跳ぶのではない。高く跳ぶのだ。魔法を使って。

 興奮で胸が高鳴り、体温が上昇する。考えついた自分を褒め称え、小躍りしたい気分だった。こんなに喜びで気持ちが高ぶったのはハンマーを考えついた時以来だろう。

 早速なのはは目を閉じ集中すると、自分が高く跳んでいる場面とそのための魔法を強くイメージした。すると、踝のあたりに桜色の小さな羽が広がった。

 膝を曲げ、ぐっと力強く踏み込む。なのはは2階建て住宅程の高さまで一気に急上昇した。驚くほど体が軽く感じられた。まるで体重が無くなってしまったかのようだった。そして勢いが無くなると空中で静止。後は地面に落ちるだけである。

 まずい。

 実際に跳んでみると想像していた以上に高く感じられた。そのうえ着地のことなんて全く考えていなかったことに気づいたなのはは、内心であわてふためいた。

 まさか、こんなことで繰り返すことになるのだろうか。なんてマヌケな話なんだ。

 なのはは自分のバカさ加減を呪いながら、来るであろう衝撃に備える。しかし、想像していたそれはこなかった。あるのかどうか分からないバリアジャケットの防御力のおかげか、魔法の効果なのかは分からないが、トンという驚くほど軽やかな音がしただけで足が痺れることすら無かったのだ。

 

「なんてこった……」

 

 なのはは呆然としながら呟いた。

 これじゃあまるでアクションゲームではないか。

 自分で思いついたことなのだから高く跳ぶことは分かっていた。しかし、分かっていることと実際に体験してみることは大きく違う。それに跳ぶ直前までは本当にできるのかどうか半信半疑だった。なのはにとってそれはあまりに非現実的だったからだ。

 ゲームのように自由自在に動き回れたらどんなに楽しいだろうか。そんなことを考えていたら、そんな自分を想像ていたらいつの間にか1時間が過ぎていた、なんてことは一度や二度ではない。運動が苦手なだけに尚更憧れるのである。しかしそれは実現不可能なただ妄想にすぎなかった。それが今突然、実現可能な現実になったのだ。

 なのはの口角が無意識に吊り上がった。魔法の存在を知り、その資質があると言われた時のような気分の高揚を感じていた。

 これで勝てる。

 そうなのはは確信するのだった。

 

 

 

 

 階段から姿を現したなのはは嬉々とした表情を浮かべていた。その瞳に憂いは無い。

 いつもは境内に辿り着く時にはもう既に死にそうになっていた。しかし今はほとんど息が切れておらず、けろりとしている。

 なのはは階段前に立った時ふと思ったのだ。最大で何段飛ばしできるかな、と。

 少し怖くはあったがバリアジャケットを着ていれば転んでも痛くはない。なのはは思い切って跳んでみた。それは優に10段を軽く超えていた。普段は1段飛ばしで駆け上っているため、少なくとも5分の1の労力で上れるということになる。

 なのはにとって今繰り返す上で最も苦痛に感じていたのがこの階段であったのだから、顔に笑みを浮かべて喜ぶのも当然だろう。魔法さまさまである。

 なのはは緩んだ表情を引き締める。そして「今回で倒す」と小さく呟き境内へと歩き出した。

 ハンマーの先端に封印魔法を纏わせる。その力強い桜色の光はこれから起こることを待ちわびているかのように見える。

 初めて使った頃に比べ、遥かに精練されているこれを流し込めばいくら焦げ茶の獣といえども耐え切れないだろう、となのはは考える。

 両手でハンマーを軽く握り横に構えると腰を落とした。そして、そっと目を閉じる。

 時間が近づくにつれ激しく脈打っていく心臓。小刻みに震えている全身。今はそれが非常に心地よい。まるで、必ず勝てと自分を激励してくれているかのようだ。

 ジュエルシードが現れたのを感じ取ると大きく深呼吸して目を開いた。

 ジュエルシードが強く光を放つ。いよいよ開戦である。

 なのはは焦げ茶の獣を認めると同時に跳びかかり、ハンマーを頭上高くまで持ち上げた。獲物を貫くために掲げられた反り返ったピックが、まるで命を刈り取る死神の鎌のようである。そしてそれが振り下ろされる先は焦げ茶の獣の青い瞳。重力と遠心力により一気に加速されたそれは寸分違わず目標を目指す。

 なのはの黒い瞳と焦げ茶の獣の青い瞳がお互いを捉えた。なのはの小さな唇がにやりと弧を描く。

 直後、なのはは叩き落とされた。宛ら、纏わりつく蠅を手で振り払うかのように。

 結果、即死である。

 なのはは思った。やっぱり現実は厳しいと。

 そこで今度は焦げ茶の獣が硬直する魔法発動前、光っている時を狙うことにした。

 なのはは焦げ茶の獣の猛攻を掻い潜りながら只管その時を待つ。階段で体力を消費していないせいか、随分と動きにキレがあった。

 そしてついに待ちに待った瞬間が訪れる。焦げ茶の獣が後ろに跳び下がったのを確認すると、急いでハンマーに封印魔法を纏わせて後を追った。魔法発動までの時間は短い。もう既に魔法陣は完成されていた。なのはは焦げ茶の獣に跳びかかる。勢いよく振り下ろされたハンマーが右の青い眼球を深々と貫いた。

 その手応えを感じ取ると内心でガッツポーズを決め、最後の仕上げをしようと声を上げる。

 

「ジュエルシー……痛っ」

 

 しかしそれは叶わなかった。

 ハンマーは突き刺さったが、足場が無いためなのはは重力に従い落下する。ハンマーを握っていた手は柄を滑走し、そのまま空気を掴んだ。そして尻餅をついたのである。

 急いで空を見上げると、もう魔法弾が降り始めていた。なのはは大慌てで焦げ茶色の防空壕に四つん這いで逃げこんだ。直後、さっきいた地面を魔法弾が抉る。あと少し遅ければ死んでいたとなのははほっと胸を撫で下ろした。

 

「まさかここが安全地帯だとは考えもつかなかったな。……灯台下暗し? ……それにしてもよくあんなの避けられるね私」

 

 しばらくぼーっと緋色の雨を眺めていたが、はっとあることに気がついた。

 確かに魔法弾が当たらないということに関して言えばここは安全である。しかしその後はどうであろうか。焦げ茶の獣が動き出すのは魔法弾が途切れるよりも前。だからといって焦げ茶の獣が動き出す前に外に出ても魔法弾の雨を避けなければならない。避けたきったとしても、今度は避けることが困難な一撃必殺が待っている。

 

「もしかして……詰んでる? ……もしかしなくても詰んでるよね?」

 

 魔法弾に当たるか、殴られるか、尻尾で吹っ飛ばされるか、踏み潰されるか。

 なのはは今、運命に選択を強いられているのだ。普段お前は自分の死に方を選ぶ間もなくやられている。そんなお前が不憫でならない。だから優しい私がお前に選択する機会を与えてやろう。どうか私をがっかりさせないでくれたまえよ、とでも言うように。

 こんなことなのはにとって初めての経験だった。例えるなら、普段はいつ突き出されるか分からない、けれど軌道が分かれば避けることも可能なナイフだ。しかし今はそのナイフが既に自分の喉元に突き付けられており、突き刺さる速度を自分で決めろというのだ。

 助かる道はこれっぽっちもなく、どう足掻いたとしても死しか待っていないと考えると堪らない程恐ろしかった。だが、なのはの表情は毅然としている。既に答えは出ているのだ。魔法を手にして戦うと決めた日から。

 今この選択で重要な事は、死ぬ方法なんかじゃない。どんな死に方をするのかだ。もう無理だと諦めて惨めに死ぬのか、心を強く持ち最後のその瞬間まで立ち向かうのか。

 

「無駄に死んでなんかやらない」

 

 なのはは立ち上がるとフードをのけ、魔法弾の雨へと歩き出した。

 

 

 



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神社の魔獣・後

 緋色の魔法弾が降り注ぐ中、右目にハンマーを突き刺さしたまま一切身じろぎせずに佇む巨大で凶悪なその姿は、夢に出てきそうなほど不気味であった。そしてそこから少し離れた位置で、なのはは天を仰ぎ、白いスカートを揺らし、舞でも踊るかのように動き回っていた。

 幾許かすると魔法陣の色が薄くなり始め、もうすぐ焦げ茶の獣が動き出すことを告げる。

 なんとか避ける方法はないものかと額に汗を浮かべながら必死に思考を巡らせるが、ついに思い浮かばないまま魔法陣が消えてしまった。

 なのはは決死の覚悟をすると、一瞬で残りの魔法弾を脳裏に焼き付け視線を焦げ茶の獣へと向ける。もう既に硬直は解けて動き出していた。

 脳裏に焼き付けた魔法弾の配置を思い浮かべながら空からの攻撃を回避し、それと同時に襲いかかる爪も回避する。直後、鼻先一寸を魔法弾が通り過ぎていった。

 一気に肝が冷えるのを感じながら、なのはは急いで焦げ茶の獣の懐へと飛び込み、残りの魔法弾を防ぐ。そして外に駆け出し焦げ茶の獣から距離を取った。

 心臓がわけがわからない程に荒れ狂っている。自分がとった行動のはずなのに何が何だか分からなかった。全てが一瞬だった。しかし、呆けてる暇は無い。なのはは拡散した意識を焦げ茶の獣へと集中させる。

 自らの力だけで魔力を圧縮し魔法弾を生成すると、焦げ茶の獣の右目でぶら下がっているハンマーに向けて撃ち放ち、その衝撃で地面へと落とした。魔法弾はレイジングハートの補助がある時に比べ生成に時間が掛かったが威力は殆ど変わらないようだった。

 轟音を立てて迫りくる巨大な尻尾を地に伏せ躱し、その次に繰り出される飛びかかりや左右からの猛攻を繰り返し刻み込まれたタイミングで完璧に避けていく。そして足の間を潜り焦げ茶の獣と入れ替わると、地面に転がるハンマーを拾い上げた。

 

「ごめんね、レイジングハート」

 

焦げ茶の獣を見据えままレイジングハートについた砂を袖で拭う。返ってきた言葉は分からないが、おそらく気にしないでとでも言ってるのだろう。

 

「大丈夫、私には妙案があるの」

 

 それはレイジングハートに言った言葉というより、まだどうやって倒すのか考えついていない自分を落ち着かせるための言葉だった。

 再び襲い来る一瞬で命を刈り取る攻撃を掻い潜りながら、いかにこの状況を打開するかを考える。

 魔法発動直前の硬直は短すぎる。その時に封印しようとしても、先に魔法弾に当たってしまうだろう。もっと長い硬直時間を狙わなければならない。つまり魔法を使っている最中だ。

 焦げ茶の獣が大きく後ろに下がった。いよいよ2周目に突入である。これで決めなければ勝ち目はない。

 焦げ茶の獣を魔法陣の範囲内に入れないようにするため、なのはも後ろへ数歩跳躍し距離を空ける。そして、なのはは頭上に魔法陣が展開するのを認めると、魔法弾が降り注ぐ前に出来る限り焦げ茶の獣に近づき、魔法陣範囲外までの距離を縮めた。跳躍魔法により、今までとは比較にならないほど移動距離が伸びたことに、なのはは自分がチートでも使っているような気分になった。

 魔法弾が降り始めると、蝶のように舞いながらそれを躱していき着々と焦げ茶の獣との距離を縮めていく。これさえクリアできればもはや勝利は目前。ミスなんて許されない。普通ならば勝利が目に見えてくるとあまりの重圧と興奮で冷静さを失うところだが、なのはは違う。心には天高く燃え盛る赤い炎を灯し、頭には静かにそれでいて力強く燃える青い炎を灯す。ゲーム人生で培ってきた冷静さで淡々と勝利を目指すのだ。

 

《ごめん、なのは。ここから抜け出せない》

 

 大変ションボリした声でユーノから念話が来た。なのはは無視した。

 そしてついに魔法陣の外へと辿り着く。背後では未だ雨が降り続いている。なのはは急いで焦げ茶の獣に近づくと目を瞑り、宙に固定された床を焦げ茶の獣の顔の側に強くイメージした。するとイメージした場所になのはの身長ほどの大きさで桜色の魔法陣が展開された。

 

《なのは?》

 

 ハンマーに封印魔法を纏わせ魔法陣に跳び乗る。靴と魔法陣の間でコツンという音が鳴った。

 なのはは、戦意に満ちた目で睨めつけてくる焦げ茶の獣を何の感情も読み取れない瞳で見返し、己の行動を定める。

 足を広げ、腰を落とし、床を踏みしめ、ハンマーを構えた。

 恭也が自分を美由希に託した時の姿が、その最後の後ろ姿が、今に至るまでの日々が途切れること無く脳裏を掠める。

 

「お兄ちゃんの無念受け取って」

 

《もしもしなのは、聞こえてる?》

 

 光放つハンマーは緩やかに動き出し一気に加速。桜色の点は線となり焦げ茶の獣の右目を再び貫いた。

 

「ジュエルシード封印!」

 

《おかしいな……ちゃんとつながってるはずなんだけど》

 

 右目から流れ込んだ桜色が体の隅々まで充満し、焦げ茶の獣を体内から焼き尽くす。絶対に勝てないと思ってしまうような圧倒的な恐怖と強さを持つ敵が、今や断末魔を上げ目の前で光の粒となって消滅していく。そして残ったのは2つのジュエルシード。

 なのはは魔法陣から飛び降り、地面に転がるジュエルシードをレイジングハートで回収する。

 激闘だったはずなのに、終わってしまえばどこか呆気無く、何度も繰り返してきた日々がつい最近のことようにも、遠い過去のことのようにも感じられた。

 突然訪れた静寂が耳に痛い。全ては自分の見ていた幻であり実際には何も無かったのではないか、と錯覚してしまいそうになるが、地面の穴や宙に浮いた魔法陣が全て現実に起こったことだと物語っていた。

 レイジグハートがいつものように労いの言葉をくれる。多分労いの言葉だとなのはは思っている。

 

「うん、ありがとう……ところで、この魔法陣どうやって消せばいいんだろ」

 

 少し首を傾げながら、困った表情で先程まで使っていた魔法陣を見つめる。それを聞いたレイジングハートがなのはに何か一言かけてから光った。すると、魔法陣は弾けると光りになって一瞬で消えた。

 

「ありがとうレイジングハート。ついでに服も戻してもらって……」

 

 レイジングハートに服を戻してもらおうとした時、境内の入り口から靴裏が地面に擦れる音が聞こえてきた。反射的にその方向を振り向くと、知らないおじさんが呆けた顔で立ちすくみ、じっとなのはを見ていた。

 なのはの心臓は跳ね上がった。別に一目惚れとか恋に落ちたとかそういうわけではない。ただびっくりしただけである。

 なのはは咄嗟にフードを目深に被りハンマーを両手で抱えると、脇目もふらず今出せる最高の速さでその場から逃げ出すのだった。

 

 

 

 

 なのはは小さくため息をつき、公園のベンチに座った。さすがに服は街に出る前に制服に着替えてある。

 

「……びっくりした」

 

 考えてみれば当然のことだった。空に巨大な魔法陣が2回も出現すれば人の一人や二人来てもおかしくない。むしろ来ないほうがおかしい。おじさんが一体いつから見ていたのかは分からないが、身元がバレることはおそらくないだろう。しかし、境内が穴ぼこだらけになっているため、ニュースくらいにはなりそうだ。

 なのはは俯くと目を閉じる。疲れきった体は鉛のように重く、今にも眠ってしまいそうな勢いだった。しかし、その時ふと思い出した。

 

《ごめんユーノくん。ジュエルシードの封印で忙しかったんだ。ちゃんと封印できたから安心して》

 

《なのは! 無事でよかった! なのはに何かあったんじゃないかと思って、なりふり構わず建物から抜け出してジュエルシードの反応があった場所に向かったんだけど、なんか人がたくさんいて地面も穴だらけだったから、もしかして……その……なのはが暴走体にやられてしまったんじゃないかと思ってたんだ》

 

 ユーノの声はどこか湿っぽく、今にも泣き出しそうだった。いや、もしかしたら自分を責めて既に泣いていたのかもしれない。

 なのははユーノが自分を心配してくれたことを嬉しく思うと同時に、今まですっかり忘れていたことを申し訳なく思い苦笑いした。そして公園の景色を眺めながら何と言葉をかけようかと考える。

 

《……おやおや? ユーノ、もしかして泣いておるのか? ふぁふぁふぁ、わしは死なん。たとえ巨大な尻尾で叩き飛ばされ、鋭い爪に切り裂かれ、魔法弾が直撃し、足で踏み潰されようとも、何度だって蘇ってみせる。…………なんてね。心配かけてごめん》

 

《謝らなくていいよ。ジュエルシードも封印してくれたみたいだし、それに何よりなのはが無事でいてくれて本当に良かった》

 

 なのははユーノの言葉になんだか照れくさくなり、無意識に体をもじもじさせ視線をあちこちに彷徨わせた。傍らから見ると一人で公園のベンチに座っている下校途中の挙動不審な少女Aである。

 

《うん……ありがとう。ところでユーノくん今何処にいるの? 迎えに行くよ》

 

 ユーノはまだ神社にいるらしかった。今なのはは神社に近寄りたくなかったが、別の場所を指定してユーノが迷って居場所が分からなくなるのも困る。

 なのははベンチから立ち上がると再び神社へと足を向けた。

 

 

 

 

 ユーノを連れて家に帰る頃には既に日は傾き、夕焼けに染まった空に奇妙な形をした橙色のちぎれ雲が点々と浮かんでいた。

 家に着くと、玄関に恭也が立っているということもなく、ごく普通の帰宅になった。

 相変わらずユーノは人気者だった。なのははその愛でられている姿がなんだか懐かしく感じられ、楽しそうに見つめるのだった。

 夕飯を食べ終わると自分の部屋に行きユーノの寝床を作る。今回は掛け物も準備した。なのははこれでユーノも快適に寝れるだろうと一人頷くと、レイジングハートを机の上に置き部屋を出ようとした。しかし、レイジングハートは点滅しながら浮かび上がるとなのはの手元に戻ろうとする。

 

「どうしたの? レイジングハート。お風呂に入ってくるだけだから、寂しいかもしれないけど我慢して待っててね」

 

 レイジングハートは普段あまり話さないのだが、なにかとなのはと一緒にいようとする。それをなのはは恥ずかしがり屋で寂しがり屋なんだなと解釈していた。

 点滅が止まりおとなしくなったレイジングハートを再び机に置き軽く撫でると部屋を後にした。

 シャワーの音が扉越しに聞こえてくる。脱衣籠の服を見ると恭也が入っていることが分かった。

 なのはは服を脱いであっという間にすっぽんぽんになる。

 

「お兄ちゃん、一緒にお風呂入っていい?」

 

「ああ、いいぞ」

 

 返答を聞くやいなや脱いだ服を拾い集めて籠に放り込み、扉を開け風呂場へと突撃した。恭也はさっきまで体を洗っていたようで、体に付いた泡を流しているところだった。

 さっそく湯船に浸かろうと片足を上げる。

 

「おい、湯船浸かる前に掛け湯くらいしろ」

 

「だってシャワー使ってる」

 

 なのはは上げた足を下して、丁度体の泡を流し終わった恭也を鏡越しに不服そうな目で見ると、呆れたような恭也の視線と重なった。そして「桶を使えばいいだろう」と振り向きざまにシャワーをかけられ、その予想外の攻撃に不覚にも間抜けな声を上げてしまう。

 

「ほら、洗ってやるからこっち来い」

 

「一人で洗えるもん」

 

 そう言ってなのはは恭也の前に座る。

 

「はいはい、髪洗うぞ。ちゃんと目閉じてろよ」

 

 恭也はなのはが頷くのを確認すると頭にシャワーをあてた。

 体も洗い終わると2人で湯船に浸かる。

 

「ふぁああ、良い湯だなぁ。生き返る」

 

 頭にタオルを乗せ天井を向き目を瞑る恭也を、オヤジくさいと思いながら、なのはも反対側で同じようにぐだぁっと湯船に伸びる。

 今は繰り返した日の夜で、風呂から上がると黒い化け物と戦いに行かなければならないような感覚を覚えた。といっても、繰り返した日はいつも一人で風呂に入っているため、恭也を見ればそうではではないとすぐに気がついた。

 恭也の体には士郎と同じように無数の傷跡が刻まれていた。剣術の修練でこうなったらしいが、一体どんな修練をすればこんなに傷がつくのかなのはには想像もつかない。そんななのは自身も、本来なら恭也や士郎に勝るとも劣らぬ傷を負っているのだが、目覚めると治ってるため本人は気づいていない。

 

「ねぇ、お兄ちゃんはお父さんみたいに体に傷がたくさんあるよね。痛くて逃げだしたいと思わなかったの?」

 

 なのははいつだったか士郎にした質問を恭也に投げかけた。もしかしたら別の答えが返ってくるかもしれないと思ったからだ。

 

「……この傷は俺の誇りなんだ。父さんの剣術を受け継ぐ者としての。それに確かに痛かったが、守りたいもの……守りたい人がいるから逃げるわけにはいかない。そんな痛みよりも大切な人が傷つき、失うことのほうが死ぬほど痛い」

 

 恭也は顔を上げなのはを見つめると優しげな笑みを浮かべた。そんな恭也を士郎に似ているなと思いながらぼーっと見つめていると「そのうちなのはにも分かるさ」と笑い、再び天井を見上げ目を瞑った。

 なのはは湯船の淵に腕を組みそこに頭を乗せ目を瞑った。そしてそのまま寝てしまうのではないかと思われるような声で言った。

 

「お兄ちゃんあのね、実は私同じ日を何回も繰り返してるんだよ」

 

「……へぇ、それはすごいな」

 

 何故急にこんなことを話し出したのかなのは自身でも分からかったが、きっとこれも運命なのだろうと思い続けた。

 

「うん。今この街はね、別世界から流れ着いた古代遺産のせいですごく怖いお化けが出るんだ。私が見たのは黒い毛玉みたいなやつと、家と同じくらい大きな体で巨大な尻尾を持つ犬みたいなやつと、翼で空を飛び回り太いビームを撃つなにかと、海鳴市を壊し尽くすような巨大樹たちかな。そのお化けたちのせいで私は死んじゃうんだけど、目を覚ますと昨日に戻ってるんだ」

 

「……それは大変だな」

 

「うん、死ぬほど大変だよ。それでね、ある時別の世界からやってきたフェレットさんが私に言うんだ。君には資質があるって。何の資質か分からないから聞いてみるとね、魔法の資質だって言うの。初めて聞いた時、私もうびっくりしちゃった。でね、その魔法でお化けたちを封印してほしいって頼まれるんだけど、魔法ってすごく難しくて、使うだけで封印できると思ったら大間違い。全然威力が無くてダメージ与えられないし、バリアは砕かれるしですぐ死んじゃう」

 

「……どうやって倒すんだ?」

 

「まずは攻撃を一つ一つ攻略していって、次に懐に飛び込みハンマーを目に刺して封印魔法を内側に流しこむんだ」

 

「……随分と恐ろしい倒し方するんだな。それに魔法使いなのにハンマーで接近戦か」

 

「うん、魔法弾で倒せたら楽でいいのにね。…………ねぇお兄ちゃん、友達に酷いことをしてその時謝る機会を見逃しちゃったの。そしたら友達はもうそのことを覚えてなくて、今まで通り変わらず接してくれるんだ。謝ろうとするけれど、そんな自分を友達が知った時、もう友達じゃないって言われるのがすごく怖くて言い出せないの。すると、どうせ友達はそのことを知らないんだからこのままでいいじゃないかって考えちゃうんだ。どうすればいいんだろう」

 

「その友達はなのはを捨てるような酷い友達なのか? ……それとなのはが逆の立場だったらどうするんだ? なのはは何のことか覚えていないが、その友達がなのはと同じ状況で同じことをしてきたことと、今そのことについて悩んでいることが分かった。なのはだったらどうする? お前なんか友達じゃないと言い捨てるか?」

 

「……そんなことしない」

 

 なのはは顔を上げると恭也を見た。恭也も顔を上げなのはを見る。その時頭に乗っていたタオルが湯船に落ちた。恭也は視線をそのタオルに移し「それが答えだ」と言いながら掬い上げたタオルを湯船の外で絞った。そして再び頭に乗せると天井を見上げ目を瞑った。

 なのはは、ずっと闇に包まれていた心の奥底の空間がぱっと明るくなったような気がした。やはり話して良かったと心から思った。そして感謝の言葉を述べようと口を開こうとしたその時、

 

「それにしても……主人公なのはは魔法使いで時間逆行も御手の物か。……そりゃあすごい」

 

と恭也は口元に笑みを浮かべてくくっと笑った。続けて「なのはは作家の才能があるな。物語でも書いたらどうだ」と再びくくっと笑った。

 なのはは最初からこうなるだろうなと予想していた。別に反論するつもりもない。悩み相談に乗ってもらっただけで満足だった。

 

「作家さんか……うん、そうだね。考えておく。でも私国語ダメなんだ」

 

 しかし、それではちょっと悔しい。そんな小馬鹿にしたように笑わなくてもいいではないか。

 なのはの中に悪戯心が芽生えた。こんなことを考えるのは随分と久しぶりかもしれない。

 なのはは両手を組み、上を向いて目を瞑っている恭也の方向へ向けた。

 

「ねえねえ、お兄ちゃん見て見て」

 

「んー? なんだ?」

 

 恭也が頭を起こすのと同時になのはは組んだ手を圧縮した。すると放物線を描いて放たれた水が恭也の顔面を直撃する。なのははニヤニヤと笑みを浮かべながら恭也を見た。

 恭也は一瞬呆けた顔をしたが何をされたのか理解すると、一度タオルで顔の水滴を拭って優しい笑みをなのはに向けた。そして左右握り拳を作り水面に浮かべると、交互に圧縮を繰り返した。

 

「どうかしたのか? なのは」

 

 弾幕となって襲ってくる水に、なのははなすすべもなく被弾しまくる。

 

「お、お兄ちゃん、連射とかずるいよっ」

 

「あぁ兄妹で争うことになるなんて……こんなはずじゃなかったのに。世界はなんて残酷なんだ。俺は妹を救うことすらできないのか」

 

 恭也は棒読みをしながら心底悔しそうな表情を浮かべるという、なんとも器用な真似をしながら頭を横に振ると、再び天井を見上げた。しかしその間も弾幕を張る手は止まらない。

 なのはは顔に掛からないように後ろを向こうと身を捩るが、恭也の両足が腰をがっちりと挟んでいて身動きがとれない。兄は鬼畜だった。

 

「言ってることと……やってることが……。ちょっと……ごめん謝るから許してっ!」

 

 恭也の攻撃が止む。なのははほっと胸を撫で下ろすと顔の水滴を手で拭う。そして「大人げないなぁ」と呟き口を尖らせた。良い仕事をしたとでもいうように口元に笑みを浮かべ目を瞑っている恭也は、その言葉に何の反応もしなかった。

 なのはは恭也がやっていた片手水鉄砲を真似してみる。しかし、なかなか上手く飛ばすことができず低く唸った。腕が疲れると早々に諦め、黙って浸かることにした。

 じっと恭也を見る。いつかの後姿が脳裏に浮かぶ。本当に頼りになる兄である。なのはは視線を恭也から外すと思い出を懐かしむかのように目を伏せた。

 天井にぶら下がった水滴が湯船に落ちて、ぴちょんという音が風呂場に反響した。

 

「お兄ちゃん……ありがとうね」

 

「……顔をびしょびしょにされたことがそんなに嬉しかったか?」

 

 頭を起こした恭也はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。なのはは視線を恭也に戻すと両手を組んだ。

 

「違うよ、お兄ちゃんのばか」

 

 なのはは水鉄砲を恭也の顔に放ち、そのまま湯船から出た。

 

「先に上がるね」

 

「なのは……今度釣りにでも行くか」

 

 立ち止まったなのはは一瞬呆けた顔をして恭也を見る。何故急にそんなことを言い出したのかは分からないがそれも良いかなと思った。そして今からする約束が無くならないことを願った。

 

「…………いいよ。でもムカデみたいなの触りたくないからお兄ちゃんがつけてね」

 

 恭也は顔をタオルで拭うと、少し眉を寄せて困ったように、そしてどこか物悲しげに微笑むなのはを黙って見送るのだった。

 その晩、なのははベッドに疲れきった体を投げ出すと、ユーノとほとんど話すことも無く深い眠りに沈んでいった。

 長い1日がやっと終わった。

 

 

 

 



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主人を思う

 微かに聞こえる寝息と時計の秒針の音が真っ暗な部屋の空気を静かに揺らす。机の上に置かれたレイジングハートは音もなく浮き上がりなのはの枕元まで移動すると、恍惚としながら、愛してやまない自分の主人の寝顔をじっと見つめ時を忘れた。

 ああ、なんて可愛らしいのだろう。

 ゆっくりと上下する胸元、きゅっと結ばれた唇、形の整った小さな鼻、長いまつげと閉ざされた瞼、枕に広がった柔らかな髪。なのはの何もかもが、レイジングハートの気持ちを激しく掻き乱し思考を麻痺させた。そして辿り着くのは、もし自分に人と同じような体があったならという果てしない妄想だった。

 共に背中を預け戦い、時には主人を身を挺して守る。あらゆることについて語り合い、一緒に声をだして笑いたい。主人が挫けそうになった時、その白く柔らかな頬に自らの手をそっとを添える。その触れた指先から主人の暖かな体温を感じながら、滑らかな肌に零れ落ちる涙を掬い、胸に抱き寄せ優しく包み込んであげたい。そして言うのだ。「私がずっとそばにいます」と。

 朝はいつまでも眺めていたいその寝顔を名残惜しく思いながらも、愛らしい寝ぼけ眼の主人を見るために心を鬼にして静かに揺すり起こす。そして寝間着から制服に着せ替え髪を梳いてあげるのだ。昼間は宝石に戻り主人の胸元で心地よい心音を楽しむ。夜は一緒に風呂に入り体の隅々まで洗って差し上げ、風呂から上がったら寝間着を着せて髪を乾かす。それが終わると自分は主人を置いて先に戻ろうと歩き出すのだ。しかしそれは叶わない。主人が自分を行かせまいと服を摘んで離さないのだ。思わず主人を見返す。すると主人ははっと我に返ったかのように急いで手を離し、その離した手にもう片方の手を絡ませ俯いてしまう。どうしたのかと尋ねると、しばらくの沈黙の後、小さく呟くのだ。「抱っこ」と! そんな恥ずかしげに上目遣いで見つめてくる主人に狂おしいほど胸を高鳴らせながら「仕方がないですね」と事も無げに笑みを返し、首にしがみ付く主人を抱きかかえベットまで運ぶのだ。

 その後は主人が眠りにつくまで横に座って手を握ったり髪を撫でたり取り留めも無い会話をする。

 はじめ主人は言葉数少なく物静かなのだが、話しているうちに次第に饒舌になり長い話になる。それは日常に起こった小さい喜怒哀楽に過ぎない。それに対し自分は、まるで秋の星月夜の下、辺りに響く虫の音を聞くように、脳髄を蕩けさせる甘美で心地良い主人の声を堪能しながら相槌を打つのだ。しかし主人は多弁になっていることに気が付くと、顔を熱くしながら慌てて話に結論付けて再び言葉数少なくなってしまう。その様子もまた、堪らなく愛おしい。その時「そろそろ寝ましょうか」と言うと主人は小さく頷く。しかし突然そわそわとした挙動を取りはじめ、ちらちらと何か言いたそうに自分を盗み見る。どうしたのかと尋ねると別になんでもないと返されるが「なんでもないわけがないでしょう。言いたいことがあるんですと顔に書いてありますよ」と言うと、顔を赤くして目元まで布団を引き寄せる。そして一拍空けてから「一緒に寝よう」とはにかみながら言ってくるのだ。自分はまるで困った子ねとでも言うように、少しだけ眉を寄せながら微笑むと一緒に布団へ入る。もちろん内心では激しく髪を振り乱し、喉がはち切れんばかりの喜びの声を上げ、狂喜乱舞している。すると主人は自分に擦り寄ってきて胸元に顔を埋めて赤ん坊のように丸くなる。自分はその体を包み込むように優しく抱き寄せる。

 心地よい静寂が流れた後、主人は自分に追い打ちをかけるが如く、小さく呟くのだ。「レイジングハート大好き」と! おお、その言葉は何度も反響、繰り返され、まるで雷に打たれるかのような強い衝撃を自分に与えた。回路が全て焼き尽くされてしまったかのようだ。もはやこのまま機能停止しても構わないとすら思った。それほどまでにその一言は強烈で強力な一撃だった。しかし、この動揺を表に出すわけにはいかない。自分は主人を優しく包み込み安心を与える、母性溢れる存在でありたいのだから。全身で主人を感じながら「ええ、私も大好きですよ」と返しその日を終わった。

 決して叶わぬ夢を、己の願望を、レイジングハートは幾度となくシミュレーションした。あまりにも緻密に設定、そして鮮明に描き出しすぎたことにより、レイジングハートの赤く透き通った体はじんわりと熱を帯びる。しかし途中で現実と理想の乖離に気が付き、自己嫌悪感で一気に熱が冷めるのだった。

 耐えがたい虚しさに、何も感じない体にも関わらず疼くような痛みを覚えた。

 

 

 

 

 レイジングハートはなのはと出会ってからのことを静かに思い出す。

 レイジングハートが初めてなのはと出会ったのは負傷したユーノをなのはが見つけた時だった。

 なのははこの世界の住人にしては珍しく、魔力の源リンカーコアを有していた。それが分かるとレイジングハートはなのはが自分の主人に相応しいかどうかを観察した。

 レイジングハートはインテリジェントデバイスと呼ばれる人工知能により意思を持つデバイスである。それ故に、自身がそれなりの性能を持つデバイスであることを知っていた。しかし、自分は道具に過ぎず主人を選り好みする立場ではない。とはいえ、己の性能を使いこなせる、もしくは使いこなせるようになる人を主人とするべきだ、と考えていた。

 おそらく、なのはは魔法に触れたことも見たこともないだろう。この世界に魔法文化はないのだから当然だ。つまり、魔力を持っているだけのただの少女である。魔法の才能は実際に魔法を使っているところを見なければ判断できないが、リンカーコアを持っている人を見つけることすら困難な世界だ。魔法の才能を持っている確率など限りなく低いだろう。

 そう判断するとレイジングハートはなのはから興味を失った。ただ、こちらを見つめるなのはの視線が妙に引っかかった。

 一方、レイジングハートの所持者であるユーノはなのはに期待していたようだ。

 動物病院へ運ばれ辺りが暗くなると、ユーノはレイジングハートに向かって声を掛けた。

 

「レイジングハート。僕は魔力を持っているあの子に賭けてみようと思うんだ」

 

『いいんじゃないでしょうか』

 

「それでお願いなんだけど、あの子に力を貸してあげてほしいんだ」

 

『私がですか』

 

 レイジングハートはユーノが勝手になのはに魔法を教えるものだと思っていたが違うようだった。

 現状は理解していた。ジュエルシードが危険なこと、ユーノがそれをどうにかしようとしていること。そして、ユーノは負傷し魔力不足であり他の人を頼るしかないことも。しかしどれもレイジングハートにとってどうでもいいことだった。

 

「駄目かな……? レイジングハートが自分の使い手を探していることは分かってるよ。でも少しの間だけ……僕の魔力が回復するまででいいんだ。それにもしかしたら、彼女は君の求めている主人になれるかもしれないよ?」

 

 レイジングハートは、なのはのじっとこちら側を見つめるどこか力強い視線を思い出す。

 一体あの視線は何なのだろうか。

 

『いいでしょう』

 

 気が付いた時には了承の声を上げていた。本来なら断っていた。それなのに何故了承してしまったのだろうか。考えても分からなかった。

 だがもう仕方がない。ユーノの言うようにいずれ使いこなせるようになるかもしれない。見極めるだけなら問題ないし、それで見込みがないようならそこまでだ。

 ユーノはなのはを呼ぼうと思念通話を飛ばそうとした。が、その前になのはの方から先にやってきた。そして、開口一番にユーノに話せるかどうかを尋ねたのだ。しかもそれはどこか確信に満ちていた。

 レイジングハートは僅かに驚いた。なのははユーノの2回の念話で気付いたということになる。あの視線は確信を持てず疑っていたか、もしくはすでに気づいていたということなのだろうか。どちらにしても中々頭は切れるのかもしれない。レイジングハートは少しだけなのはの評価を上げた。

 レイジングハートはユーノが魔法を使って窓の開錠をした時、なのはの様子が少しおかしいことに気が付いた。ユーノの魔法をじっと見つめながら頬がピクピクと痙攣しているのだ。それはまるで、初めて見る魔法に動揺しているようにも、ユーノの魔法を見てその程度なのかと笑いを堪えているようにも見える。

 レイジングハートはなのはが実は魔法を使えるのではないかという可能性を考えたが、すぐにその可能性は消えた。

 起動のために触れられた手から、なのはの心拍数が異常に高いことが分かった。緊張しているのだろう。それに自分の使用する杖のイメージも曖昧ですぐには思い浮かばないようだった。

 なのはが起動パスワードを言い終わると同時に、レイジングハートは不思議な感覚を覚えた。まるで中身が空っぽのもう一つの自分ができたかのような、何か得体の知れない感覚。こんなことは初めてだった。そのことを疑問に思いつつ、なのはの様子を窺う。

 魔力量は予想していたよりも多いようだった。だが魔力量だけ判断するわけにはいかない。レイジングハートは観察を続ける。

 その時、ジュエルシードの反応があった。すると、なのはは勢いよく振り返る。かと思うと即座にユーノを掴み上げ、横へと跳んだ。

 レイジングハートはまず、なのはの思いもよらない軽捷さに驚いた。次に、この世界の人にとって非現実的な出来事が目の前で起こっているにも拘らず、一切の動揺を見せないその胆力に驚いた。それどころか建物の破壊音が響く中、なのはは暴走体を見つめながら、倒せるのかと問い掛けてきのだ。ただの少女がだ。

 もはや期待せずにはいられなかった。これなら魔法も、と考えてしまうのも無理はないだろう。

 なのはが攻撃を念じると魔力がレイジングハートに流れてくる。それを術式に流し魔法弾を生成、撃ち出した。

 なんてことはない、ただ魔力を固めて撃ち出すだけの簡単な攻撃魔法だ。しかし、放出されている魔力は多いが纏りが無く、そのほとんどが周囲に溢れ術式に流れてこない。結果、魔力量に比べなんとも貧弱な魔法弾になってしまった。ある程度レイジングハートが魔力制御を補助できるとしても、魔力が流れてこないのだからどうしようもない。

 初めての魔法というのは、大体この様なものである。所謂普通というやつだ。可もなく不可もなく。そしてなのはは、その平均から少しだけ下といった感じだろう。

 もはやがっかりせずにはいられなかった。

 

「うそ……なんで……」

 

 なのはの呆然とした声が届いた。レイジングハートはこの時初めてなのはの動揺を見た。なのはも自分の魔法にがっかりしていたのだろうか。

 なのははすぐに防御魔法を使った。当然、魔法弾と同じく貧弱なそれは暴走体の突進の勢いを僅かに削ぐことしかできず、なのはの細く軽い体は弾き飛ばされ木に激突。そのまま木を圧し折ると同時にバリアジャケットは解除され、勢いのなくなった体は地面を転がった。その際レイジングハートはなのはの手元を離れてしまった。

 ユーノがすぐさまなのはに駆け寄り、非常に焦った声で安否を確認していた。

 これはもう起き上がれないとレイジングハートは予想した。内臓が大きく損傷していることは想像に難くない。骨も折れているだろう。再起不能は間違いない。

 今更になってジュエルシードの暴走体を初めて魔法を使う人に封印などできるわけがないことに考えが至った。こんなことは考えるまでもないことなのだが、なのはの観察ですっかり失念していた。本来は最初の段階でユーノに言うべきだったのだ。

 そうレイジングハートが自分の行動を分析している時、聞こえてきたなのはの言葉に思考が停止した。そして信じられないものを目にした。

 

「この程度……どうってことないっ」

 

 なのはは満身創痍の身体を起こし、倒れた木に寄り掛かった。そうかと思うと血を吐き出した。その中に折れた歯が混じっていた。

 レイジングハートはまるで意味が分からなかった。すっかり混乱し、虫の息で緩慢な動きをするなのはをただ見つめていることしかできなかった。

 目いっぱいに涙を浮かべたなのはと目が合った。その瞬間、レイジングハートは今まで感じたことのない、激しく打ち震えるような強い衝撃を受けた。その目は生きることを諦めていなかったのだ。

 なのははゆっくりとレイジングハートに手を伸ばす。

 一体何をしようというのか。

 レイジングハートはなのはの行動の意味に見当がつかなかった。

 なのははレイジングハートを手に取るとユーノに別の魔法は無いのかと尋ねた。ユーノは泣きながら、その身体でまだ戦うつもりか、と絶句した。そんなユーノに「逃げて」と一言いうとレイジングハートを持ち上げた。

 レイジングハートに魔力が流れ込んでくる。

 一体何をしようというのか。

 未だにレイジングハートは混乱し、なのはの行動を理解できなかった。

 

「……いつか必ず倒す」

 

 そうなのはは言うと、貧弱な魔法弾を暴走体へと撃ち放った。

 ようやく我に返った時、もう周りに誰もいなかった。暴走体はどこかへと消え、なのはとユーノは物言わぬ骸となっていた。

 嘘のような静けさに取り残されたレイジングハートは、どうしようもないほどの虚しさを感じた。

 なのはの言葉と姿が繰り返し再生される。

 

『そんな状態で……どうやって倒すんですか』

 

 小さな呟きだったにもかかわらず、それはまるで宙に浮いて残りでもしたように辺りに響いた。

 それから幾許もしないうちに、レイジングハートに異変が起こった。

 突然、原因不明の割り込みによりシステムが強制終了していく。レイジングハートは全く対処できないまま、その機能を停止した。

 

 

 

 

 レイジングハートが復帰した時、そこには自分を手に取る、生きているなのはの姿があった。それは丁度、戦闘服を纏い、杖のイメージをレイジングハートに送っているところであった。

 レイジングハートは全く状況が理解できていなかったが、反射的に先程の杖を構築した。

 

「よろしく、レイジングハート」

 

『……これは一体どういうことでしょうか』

 

 レイジングハートは誰にともなく言った。答えは無いまま、状況はレイジングハートを置き去りに進んでいく。

 なのはが封印魔法を使おうとレイジングハートに魔力を流した。レイジングハートは、はっと我に返ると急いで命じられた封印魔法を放った。それは相変わらず貧弱だった。

 レイジングハートは今の状況を理解しようと努めた。そして一つの仮説に辿り着いた。何処か別世界の自分へ記憶転移。

 何らかの原因。例えばあの時感じられた、もうひとつの自分。そこにバックアップされた前の世界での記憶が別の世界の自分に上書きされたのではないか、というもの。

 当然そんな無茶苦茶なこと信じられないが、今の状況はそういうことだろう。

 そこまで考えてやっと落ち着いてきたレイジングハートは、意識を戦闘中のなのはへと向けた。

 ここのなのはは危なげながら暴走体の攻撃をよく避ける。しかし、息が切れて苦しそうな表情を浮かべていた。あまり運動は得意ではないようだった。

 その時、なのはは判断を誤ったのか暴走体の攻撃を受けそうになった。レイジングハートは何も考えず、動けずにいるなのはに変わって防御魔法を使った。

 

「ありがとうレイジングハート」

 

 さらりと述べられた感謝の言葉。何故かそれは、レイジングハートに上手く言い表せない、暖かな情動を与えた。

 それからすぐに、なのはは暴走体の突進を腕に受けてしまった。

 

『大丈夫ですか』

 

 自然と零れた自分の言葉にレイジングハートは驚いた。

 

「大丈夫だよ。この程度どうってことない」

 

 それを聞いた瞬間、前の世界のなのはの姿と重なった。それと同時に、ぞくりと得体の知れない感覚がレイジングハートを満たした。そして、この人の力になりたい、という類の漠とした思いがちらと浮かんだ。

 レイジングハートはなのはから拘束魔法のイメージを受け取ると、それをもとに術式を構築、発動した。だがそれは突進する暴走体に呆気なく弾かれた。

 無防備のなのはに突進が迫る。レイジングハートはなのはを守りたいという思いで防御魔法を使った。しかし先程とは違い守れなかった。

 前の世界と同じ光景に、レイジングハートは初めて自分の無力さに気が付いた。

 レイジングハートは動かなくなったなのはとユーノ見つめながら機能停止した。

 

 

 

 

 やはり目覚めると同じ状況からだった。

 しかし何回か繰り返すうちに分かったことがあった。それはなのはも繰り返しているということ。

 ある時から、なのはの魔力制御の技術が少しずつ伸び始めたのだ。そして攻撃の回避が見るたびに上手くなっている。

 それに気が付いた時、レイジングハートは最初のなのはの言葉が思い浮かんだ。いつか必ず倒すという言葉。その時になって初めてその言葉の意味が分かったのだ。レイジングハートは自身が熱を帯びるのを感じた。

 そしてはたと思った。

 一体、自分の主人はいつから繰り返しているのだろうか。

 自分が初めて繰り返したのは自分がなのはと出会った時。もっと言えばなのはと契約した時。その時なのはが魔法を使ったことが無いのは一目瞭然だった。しかし、暴走体を前にしても冷静だった。なのはは自分と出会う前から、魔法を使う前から、暴走体と戦っていたというのだろうか。

 その考えに至った時レイジングハートは戦慄した。そしてその時からなのはに対する思いも加速した。もはやレイジングハートにとって魔法の才能などどうでもよかった。

 繰り返して数回目の時から、レイジングハートはなのはに「突進の時バリアは張らなくていい」と言われるようになった。レイジングハートは、その時酷くショックを受けたのを覚えている。

 一番最初に感謝された言葉が忘れられず、嬉しくて、守りたくて、良かれと思ってやっていたことが主人に何か迷惑をかけていたのだ。一体何がいけなかったのか。そんな弱い防御ならしないほうが良いということなのだろうか。分からなかった。己の浅はかさ、考えの至らなさに自己嫌悪した。そして、自分の主人に嫌われてしまったのではないか、もう自分を手に取ってくれないのではないかという恐怖をレイジングハートは初めて知った。後になってから、あまりの痛みに苦しいのだと思い至った。

 なのはの魔法はかなりゆっくりではあるが順調に上達していた。しかし、レイジングハートはあることに気が付いた。ようやく纏りを持って送られてくるようになった魔力。レイジングハートは魔力制御の補助をしようと意気込んだ。だがそれは受け付けられなかった。完全になのはだけが制御しており、手が出せなかったのだ。レイジングハートは落ち込んだ。これではただ術式を保存しておくストレージデバイスと変わらないではないかと。自分の存在理由が分からなくなった。なのはの力になれないことがこの上なく辛かった。これならば自我なんて無い方がいい思った。

 

 

 

 

 レイジングハートはいつも通り、なのはの杖を構築した。

 

「……レイジングハート。思い浮かべたイメージと違うんだけど」

 

『申し訳ありません』

 

 レイジングハートはなのはの言葉にこれ以上ないくらい焦り、自分を恥じた。そして急いでイメージを振り返って構築し直した。

 こんなことは今まで無かった。何か良い案でも浮かんだのだろうか。羞恥に染まりながらも、自分の主人の考えに辿り着こう思考を巡らせた。

 

「いくよ、レイジングハート」

 

 レイジングハートは思考を中断してその言葉を噛みしめた。レイジングハートにとってこの掛け声が何よりも嬉しい。主人とこれから一緒に戦うのだということが実感できる、自分の存在を必要としてくれているような気分になれる、それこそ魔法のような言葉だった。

 勝負はあっと言う間だった。なのはは華麗に攻撃をさばき、必殺の一撃を暴走体に決めた。

 レイジングハートはこんなにあっさりと勝利できてしまうものなのかと唖然とした。これまでのなのはの姿を見ているだけに尚更そうだった。

 

「私は……本当に勝てたの?」

 

 座り込んだなのはの小さな呟きだったが、レイジングハートはを聞き逃すことなくばっちりとらえた。そしてすかさず言った。

 

『ええ、間違いなくご主人様の勝利です。ついに倒せたのです。あっぱれです』

 

 素晴らしい! ついに勝ったのだ!

 レイジングハートは内心で何度も叫び声を上げた。それは自分が自分でなくなるような、もうむちゃくちゃな喜びだった。なのは以上になのはの勝利を喜び、称賛し、喜んだ。それはまるで、放心している主人の代わりのようだった。

 そんなレイジングハートを余所に、なのはは立ち上がりユーノに名前を告げた。

 

「私はなのは。高町なのはだよ」

 

 その声にレイジングハートの長い喜びは止まった。それは嵐の前の静けさだった。

 そういえば自分は主人の名前すら知らなかった。

 レイジングハートは何度もなのはの名前を内心で繰り返す。

 なんと素晴らしい響きの名前なのだろうか。

 再び、なのはの名前の連呼とその称賛、果ては名前を付けた両親にまで何度も称賛を送った。

 そして帰り道、レイジングハートの気持ちは更に昂った。何しろこれから初めてなのはの家に行くのだ。興奮しない方がおかしかった。もしレイジングハートの内心を覗くことができたなら、そこには夜空を埋め尽くす打ち上げ花火と盛大な祭りの風景が広がっていることだろう。

 

「私は私の目的があって関わってるんだから」

 

 レイジングハートはしんと心を静めて、聞こえてきたなのはの言葉に傾聴した。

 それは兼ねてより気になっていたことだった。

 

「生きて皆と笑いたい」

 

 レイジングハートは何度も反芻し、その言葉の深淵を覗こうとした。

 皆とはきっとなのはにとっての大事な人。そして暴走体を倒さなければその人たちと笑えないということだ。

 一体なのはは自分と出会う前に何を経験したのだろうか。

 レイジングハートは冷や水を浴びせられたかのように一気に気分が沈むのを感じた。ただ、一瞬なのはが浮かべたどこか憂いを帯びた表情は、言い表すことができない程堪らないものだった。強いて言えば、きゅんきゅん、だ。その時、一瞬だけ今の自分を客観視してしまったレイジングハートは、どうしようもないなと内心で苦笑した。

 そうして漸く待ちに待ったなのは宅に着き、再び興奮が再燃しようとした時、レイジングハートはあまりにも予想外な出来事を目の当たりにして固まった。

 なのはが泣いたのだ。絶えず涙は零れ落ち、声をしゃくっていた。どこまでも強く、冷静で、かっこよく、優しいあのなのはが、どんなに痛い思いをしても泣かなかったあのなのはが、だ。

 レイジングハートに映るのは、そんなもの露ほどもない普通の少女の姿だった。

 なのはが今まで秘密にしていた弱さをまざまざと見せつけられた気分だった。

 だが失望なんてしなかった。するわけがなかった。むしろ愛おしいと思った。ただただ深い愛情を覚えた。

 なのはは姉と思われる女性へと抱きつき、その懐に顔を押し当てた。

 その時不意に思ってしまった。この女性が自分だったなら、と。

 なのはは姉に仇をとったと言った。レイジングハートはあの暴走体がなのはの姉を死に追いやったことがあるのだと予想した。そしてそれは自分が繰り返すより前のことだと直ぐに思い至った。

 彼女はなのはの言っていることを全く理解できていないだろう。それでも彼女は「ありがとう」と言った。それはなのはにとって最高の言葉なのかもしれない。レイジングハートはなのはの戦う姿を思い出しながらそう思った。それと同時に、ただの道具である自分の言葉では彼女の言葉には敵わない、と少しだけ寂しくなった。

 レイジングハートは遂になのはの寝室に辿り着いた。

 深呼吸しようと思ったが、自分はデバイスであることを思い出し諦めた。

 これからなのはとの初めての夜を共にすると考えると、無い心臓が激しく脈打っている気がした。これが緊張と言うものだろうか。レイジングハートは冷静じゃない思考で冷静に自分の状態を分析した。

 しかし、なのはは来なかった。

 レイジングハートはあまりの悲しみに打ちひしがれた。

 ユーノが何か言っているが知ったことではない。

 レイジングハートはなのはがやってくるまで悶々と過ごすのだった。

 

 

 

 

 予想していたよりも早く、なのははやってきた。

 レイジングハートはなのはの元へ向かおうかどうか一瞬悩んだが、結局我慢できずに飛び出した。なのはの体温は心地よかった。自分の選択は正しかったと内心で頷いた。

 なのはは魔力制御の練習をし始める。

 戦う時だけではなく、こうやって日々練習していたのかとレイジングハートは驚いた。そして、なるほど自分の力だけで魔力制御を練習しているから、デバイスに流れた魔力も自分で制御してしまうのかと納得した。

 そのことについて言おうとしたが、なのはの努力を無下にしてしまうような気がして止めた。自分の補助なんて無ければ無くてもいいのだ、と。

 ユーノが起きるのと同時になのはは練習を止めた。そしてなのはは着替え始めた。

 レイジングハートは食い入るようにその姿を見つめた。途中でユーノも見ていることに気が付いて、念話で後ろを向くよう優しく声を掛けると、ユーノは慌てて視線を逸らした。

 着替えが終わるとなのはは道場へ向かった。

 剣術も学んでいるのだろうか。

 レイジングハートは、剣術の練習をしている姉を見つめているなのはを見つめながら、やはりなのはは素晴らしいと思った。そして足が痺れて悶える姿もまた良し。

 なのはは学生であるから、朝になると学校へ行かなければならない。

 レイジングハートはなのはの通う学校がどんなところなのか楽しみだった。

 学校に着くと、なのはの友人が話しかけてくる。

 ここでもまたレイジングハートは驚いた。

 なのはの明るい笑い声。服の中にいるのため顔は見ることができなかったが、きっと花咲く笑みを浮かべているのだろう。もはや天使である。レイジングハートは確信した。

 一体どれが本物のなのはなのだろうか。

 ふと疑問に思い、レイジングハートはなのはの戦う姿、泣く姿、笑う姿、それぞれを思い浮かべてみた。どれもが纏う雰囲気が違っていた。

 レイジングハートは一瞬だけ考え込んだが、すぐにある結論に至った。それは、そんなことはどうでもいい。なのはは天使であり、全てが本物なのだ。クールななのは、姉に甘えるなのは、無邪気に笑うなのは、どれも敬愛と慈愛すべき唯一の存在なのだ、というようなどこかぶっ飛んだものだった。

 授業中、ユーノが念話でなのはに魔法とジュエルシードについて話しだした。

 その会話の中で、なのははレイジングハートとユーノのことを仲間だと言った。そして一緒に辿り着こうとも言った。レイジングハートはなのはが自分のことを、道具ではなく仲間と思ってくれていることに深い感動を覚えると同時に、なのはが描く未来に辿りけるよう全力で力になろうと誓った。たとえ何度繰り返すことになろうとも。

 今日は本当に素晴らしいことばかりである。まるで聖地を巡礼しているかのような気持ちだ。そうレイジングハートは非常に満足した。

 しかし、素晴らしいことばかりではなかった。

 下校中に神社の境内に新たなジュエルシードが反応があり、ユーノと合流して向かうことになったのだ。

 体力のないなのはにとって、その道中はかなり酷なものだった。

 

「くっ……ユー……ノくん。私は……どうやら……ここまでのようだっ。あとは……頼んだ」

 

 なのはは呼吸困難にでも陥るのではないかと思われる様子でユーノに言った。だが、あろうことかユーノは、遊ぶな、と一言告げるとなのはを置いて行ってしまったではないか。おお、こんなことが許されるのであろうか。否。許されるわけがない。ユーノにはいずれ天罰が下るだろう、とレイジングハートはユーノの後姿を見送った。

 

『……ユーノの眼は節穴のようです』

 

「わかってるよ」

 

 なのはは最初から分かっていたようである。流石としか言いようがない。

 それにしても、レイジングハートは必死に階段を上ろうとするなのはの姿をいじらしく思う反面、その姿すら可愛くて仕方がなかった。そんな自分は異常なのではないかと少しだけ不安に思ったが、そんなわけがない、なのははどんな状態でも可愛いのだ、と結論付けてなのはを励ますことにした。

 境内には既に暴走体が佇んでおり、なのははそれに向かって魔法弾を撃ち放った。しかしそれは簡単に掻き消され、暴走体はなのはに狙いを定め攻撃を仕掛けた。なのははそれに直撃し力尽きた。

 レイジングハートはなのはの抜け殻を見つめた。

 

『やっと昨日を乗り越え今日を迎えたと思ったのですが……』

 

 なのはが勝利した時とは逆の感情がレイジングハートを埋め尽くしていた。

 

『ですがいつか必ず倒しましょう』

 

 そう呟くと音もなく機能停止した。

 

 

 

 

 レイジングハートは、初めて恐怖に染まった表情のなのはを見た。

 思い出すだけでレイジングハートは苦しくなった。きっと初めて暴走体に出会った時もそうだったのだろう。できることなら自分が変わってあげたかった。その不安、恐怖、苦しみを分けてほしかった。だが、なのははそんなこと必要ないくらいに強かった。レイジングハートとは比べものにならない程強かった。いや、比べることすら烏滸がましい。

 なのはは何度も立ち向かった。何度もやられた。それは前の暴走体の時と変わらない。

 たが気づいてしまった。見てしまった。なのはは一人で泣いていたのだ。

 

「そもそも私は攻略者だもん。私のするべきこと。それは戦わないで勝つことでも不意打ちすることなんかでもない。真正面から挑み、立ち塞がる全ての敵を攻略することなんだ」

 

 それが強がりだということはすぐに気が付いた。それと同時に、自分が知らないだけで、今まで数えきれない程泣いて、その度に立ち上がっていたということ。それが最初の暴走体の攻略に結び付いたのだということにもすぐに気が付いた。

 気が付いた瞬間、レイジングハートは堪らないほど逃げ出したくなった。力にもなれず、痛みも感じず、恐怖も知らず、身代わりにもなれない、ただ見ているだけの自分が恥ずかしかった。

 レイジングハートはなのはに声を掛けられなかった。私がずっと傍にいます、なんて言えなかった。あまりにも気高すぎた。自分のような矮小で役に立たない道具が軽々しく声を掛けたら汚してしまうような気がしたのだ。自分ごときが手を貸さなくてもなのはは一人で乗り越えていけるのだ、と。

 気分は限りなく沈んだ。それでも、砲撃魔法を覚えてはしゃぐなのはを愛おしく思ってしまうのは変わらず、いつまでもずっと傍にいたいという気持ちも変わらなかった。図々しくもなのはの傍を離れられずにいるのだ。レイジングハートは、これ程までに悩むのなら、やはり自我なんて持たない完全な道具の方が良かった、と暗い感情に飲み込まれていった。

 予想通りなのはは打開策を見つけた。それは移動魔法により暴走体に近づくというものだ。

 なのはは跳び上がると暴走体の眼にデバイスモードのレイジングハートで攻撃した。レイジングハートは突き刺さったが、なのはは重力にしたがって地面に落ちレイジングハートを手放してしまった。その直後に降り注ぎ始めた魔法弾をなのはは暴走体の下でやり過ごした。

 レイジングハートはもうここからどうにかするのは難しいだろうと考えたが、なのはがその程度で諦めないことくらいは分かっている。実際なのはは最後まで諦めず戦い勝利を収めた。その姿はこれまでかつてない程かっこ良く、勇ましかった。最後の一撃を決めた姿は銅像にして飾っても良いくらいだ。そして、拾い上げた時、砂を拭ってくれたことが堪らなく嬉しかった。妙案がある、と言われた時、不思議と大丈夫な気がした。ただ、途中で届いたユーノの念話はいらなかった。

 なのはは足場として作った魔法陣の消し方が分からないようだった。それを聞くやレイジングハートは張り切って「任せてください」と言って魔法陣を消した。こんな些細なことでも役立てるのが嬉しかったのだ。

 それから間もなくして現れた一般人により、なのははその場を慌てて逃げ出すことになった。その時、焦った表情で逃げるなのはを、レイジングハートは胸に抱かれながらうっとりと眺めていた。

 なのははすっかり忘れていたユーノに念話を返し、回収するとそのまま帰宅した。

 レイジングハートはなのはがユーノの寝床を作っている様子を黙って見ていた。言うまでもなく、その思考はなのはのことで埋め尽くされている。

 寝床を作り終わると、なのははレイジングハートを置いて部屋を出ようとした。

 だがレイジングハートはなのはの手元に戻ろうとした。迷惑なのは分かっていたが、どうもなのはの勝利により気分が昂っている様で、普段以上になのはの元にいたかったのだ。

 

「どうしたの? レイジングハート。お風呂に入ってくるだけだから、寂しいかもしれないけど我慢して待っててね」

 

 レイジングハートの思考が数秒間止まった。そして風呂という単語を何度か繰り返してから、朝のなのはが着替えている場面を思い浮かべた。

 風呂というのは裸になって洗いっこする場所のことだろう。なんて羨ましいのか。是非ともお供させていただこう。そう思った時、すでになのははいなかった。

 仕方がないのでシミュレーションで我慢することにした。

 

 

 

 

 今までのことを振り返り終わったレイジングハートはある結論に辿り着いた。

 なのははこの世の言葉では表すことができない程素晴らしい。そして契約して良かった。 

 静かに寝息を立てるなのはを見つめながら、心の底からそう思った。

 役に立たない身ではあるが逃げずに戦おう。躓いても何度でも立ち上がろう。愛する主人の様に。

 だから傍にいさせてほしい。最後のその瞬間まで。

 だからその一部にさせてほしい。あなたの人生の一部に。

 

『今日はどんな一日になるのでしょうか』

 

 レイジングハートはまだ知らない今日に思いを馳せた。

 

 



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一時の休息

 目を開くと暗闇だった。その中で、向こう側から街灯で照らされるカーテンだけが薄っすらとその輪郭を作っている。

 なのはは携帯電話を開くと、その光に目を細めながら時間を確認した。目覚ましを設定した時刻より大分早く目が覚めてしまったようだ。起きるべきか、もう一度眠るべきか。なのはは携帯電話を閉じて目を瞑ると大きく息を吐いた。そして何度か寝返りを打ち、やがて静かになったかと思うと突然むくりと起き上がった。

 携帯電話の光を見たせいだろうか。それとも別の理由か。寝ようとしたのだがすっかり目が冴えてしまって眠れなかったのだ。かと言って今起きたとしてもすることなど無い。

 しばらく目の前の暗い空間と静寂、体に残る寝起き特有の気怠さを感じていた時、ふとなのはの頭の中にやらなくなって久しいゲームの映像が浮かんだ。すると体は無意識にテレビの前に行こうと腰を浮かせるが、ユーノがいることを寸前で思い出し一時停止、まるで時間を巻き戻すかのように再びベットに腰を戻した。誰かと暮らすというのは、自分の部屋だとしても不自由なものだ。そんなことを亀よりも遅い思考速度でぼーっと考えていると、ふと喉が渇いていることに気が付く。なのはは一先ず水でも飲みに行こうと静かに立ち上がった。その時不意に、枕の横がぱっと光り、周辺の空間がふわりと照らされた。その発光源は赤い宝玉。相棒のレイジングハートである。いつの間にそこにいたのか。そう反射的に喉元まで出かかるが思いとどまった。別に今に始まったことではない。寝ている間にふらふらとやってきたのだろう。

 

「寂しがり屋さんだね」

 

 なのはは、その自身の存在を知ってもらおうとする必死な姿に、少しだけ呆れたように、いつの間にかベットに潜り込んでいた妹でも見るかのように、優しい眼差しを向けた。そして、そんな愛くるしい構ってちゃんな相棒を手に取り首に掛けると、そのまま音を立てないよう、そっと部屋を出た。

 なのはは、水ではなく冷蔵庫に入っていたオレンジジュースで喉を潤すと、部屋には戻らず、何の気無しに家を出て外の空気を吸った。空を見上げれば満天の星とはいかないものの、小さく白い光がぽつぽつ散らばっている。この時点で、なのはの眠気はもうすっかり何処かへ行ってしまっていた。

 しばらくの間どうしようかと考え込んだが、結局することは一つしかなかった。なのはは真っ暗な道場へ入ると、美由希が使っている木刀を手に取り、目に焼き付け、幾度となく脳裏で再生してきた動きを自身の身体で試してみることにした。手に取った木刀は小学生のなのはには重く感じられた。

 手に伝わるハンマーとの重心の違いを感じながら、木刀の軌道や全身の動きに意識を向け、ゆっくりと木刀を振った。その動きはまだまだぎこちなく軌跡も震えているが、それは他の皆と比べたらの話であり悪い動きではない。もしこれを士郎や恭也、美由希が見たとしたらさぞかし驚くことであろう。なのはは皆のびっくりする姿を想像し、一人ほくそ笑んだ。

 だが見せるつもりなど毛頭ない。有り得ないとは思うが、もし実際に見せたとして「今日からなのはも稽古に加わりなさい」などと言われ、体力作りのための海鳴市激走や、山籠もりという意味不明な修行に参加しなければならなくなったとしたら……それだけはなにがなんでも絶対に避けなければならなかった。修行や山籠もりというもの自体はゲーム経由による必殺技習得や狩猟への憧れで、僅かばかりの興味を、いや相当な興味を抱いているが、いかんせんそれはあくまで遊びの範疇であり彼らのようにガチではない。しかも彼らのは修行と言う名の苦行であり、鍛錬という名目で喜んで自身に苦痛を与えているのだ。その苦しみの果てに必殺技習得があるとするならば、なのはは格闘ゲームでコンボの研究をし、最後に必殺技で華麗に決める練習にその身を捧げるだろう。死にそうなほど息を切らすのは神社の階段を上るのだけで十分であり、思わず叫ばずにはいられない痛み、文字通り身を引き裂かれる思いをするのも暴走体の攻略だけで十分なのだ。

 とはいえ、もしそうだとするなら、なのはの現状をその鍛錬に置き換えれば、図らずともいずれ必殺技的な何かを習得できるということになるかもしれない。

 なのはが木刀を振り始めて少しばかり時間が立つと、突然レイジングハートが浮き上がり何か一言いった。かと思うとハンマーへとその姿を変え、何かを待ち望んでいるかのようにパッパッと光った。その時なのはは、きっかり三秒間、石のように固まってしまった。レイジングハートの行動に驚いたからではない。不意に、フリスビーを咥え激しく尻尾を振るわんこを幻視してしまったからだ。まだ寝ぼけているのだろうか。呆然としながら自分の頬をペチリと軽く叩くと、気のせいに違いないと我に返った。

 

「……うん、使わないもので練習しても意味ないよね」

 

 そう言い木刀を戻したなのはに「その通りです」とでも言ったのだろう。レイジングハートは、どこか誇らしげに、なのはを称えるかのように、それとも喜ばしげに、数回光った。

 レイジングハートを振り始めてから汗ばんできたころ、なのはは素振りを止め、いつものように魔法の練習を始める。それは美由希がやってくるまで続いた。

 それからは、いつもとほとんど変わらない朝となった。変わったとすればユーノがいるということくらいで、それもユーノの事情は黒い化け物を倒した日に聞いているため、前のように思念通話で云々という話は無く、普通に見送りの言葉だけだった。

 そんなことを経て、いつものように学校へ行きアリサ、すずかと話し始めると、早速ユーノのことについて話が上がった。

 

「昨日私たち二人でフェレットのことで動物病院に行ってみたんだけど、そのフェレットが逃げ出しちゃったんだって! しかも自分で鍵開けてだって! 信じられる!?」

 

「そうそう! 突然なんか鎖のような翠のひもが床から伸びて開けたとかなんとか! それで目にもとまらぬ速さで店から飛び出していったみたい!」

 

 二人は興奮した様子でなのはに話し出す。

 なのははどう言い出したものか、とか、魔法って人に見せてもいいのだろうか、とか、そういえばなりふり構わず出てきたと言ってたな、とかあちこちに思考を巡らせながら、適当に、さも驚いた風に、初めて聞きましたという風に相槌を打った。もちろんそのことを自覚し、その先の展開も予想しながらである。

 どうにもこの二人の前では、抑えようと思っていも素の自分が出てしまう。たとえ後ろめたいことがあったとしても徐々に溶かされていく。それが昨日までの悩みのひとつであったのだが、恭也によって最後の翳りも取り払われてしまった。それに加えて、今までしたことのない新鮮な会話であるから、なのはの心はいつも以上に晴れ晴れしていた。

 

「ほんと残念よね。せっかくなのはんちに見に行こうと思ってたのに!」

 

「うん、車に轢かれたりとか、烏にいじめられたりとかしてないといいんだけど。それに怪我もしてたし……」

 

 フェレットのことで心配に染まった表情を浮かべる三人。そのうちの一人、他の二人に比べて一層心配そうな顔の一人が目を伏せながら言った。

 

「そうだよね……本当に残念。でも……あの子ならきっと大丈夫だと思うんだ。……だって今私の家にいるもん」

 

 三人の空間が、時間の流れから切り取られてしまったかのような沈黙。なのはは徐に顔を上げ二人の様子を窺った。鳩が豆鉄砲を食らったかのように目を丸くする二人と目が合う。するとなのはは、にやりと唇の端を歪め、嬉しそうに目を細めた。この状況でなかったらそれは実に可愛らしかったに違いない。なのはがこんなことをするようになったのには少なからず……大いに兄である恭也の影響だろう。

 二人はその笑みを見て、最後の言葉の意味を理解すると、片方は怒りの混ざった笑み、もう片方は笑っているようで笑っていない笑みに変化した。それは、このいたずら子猫をどうしてくれようか、と思案しているかのようである。

 

「えっとね、その逃げ出したフェレットに街中で偶然出会っちゃって、連れて帰っちゃった。名前はユーノっていうんだ」

 

 さっきの悲しげで沈んだ様子は何処へやら。まるで、えへへ、とでも付きそうな調子で事も無げに言ってのけたなのはの肩を、アリサの両手ががっちりつかんだ。と思うと、大きく前後に揺すぶられた。

 

「連れて帰っちゃったえへへ……じゃなああいっ! なんで! 先に! 言わなかったのかなぁ!? なのはさん! なんで! 知らないふりを! したのかなぁ!? なのはさん!」

 

 えへへとは一言も言っていないがアリサにはちゃんと聞こえたらしい。アリサは憎々しげに歯をぎりりと噛み、歯の隙間から押し出すように問い詰めながら、なのはを大きく大きく揺らした。

 そんなアリサを見て楽しそうに笑うなのはは、頭をがくんがくんさせながら、逃げ出した状況は知らなかったから、先に言わなかったのは面白そうだから、と答えた。すると揺れはますます激しいものに変わり、すっかり目を回してしまうこととなった。当然である。

 

「なのはちゃんは構ってほしいんだよ。ただ素直になれなくてそんな態度をとっちゃうの。だから許してあげてアリサちゃん」

 

「ええ、わかってるわ。いつものことだもの。ほんとに手の焼ける子よね!」

 

 やれやれ、とでもいうようにアリサは肩を竦め、不服そうに睨め付けてくるなのはに親愛の籠った視線を向けた。

 なのは自身は全く自覚もないしそのことを認めないが、すずかの言う通りであった。なのははこうなることを期待しているのだ。そしてそれはこの二人以外にはありえない。すっかり後ろめたさがなくなったなのはは、こうして再びじゃれあうことができ、知らず溜まった繰り返しによる鬱屈も発散されていた。

 

「それで、そのフェレット……ユーノだっけ? 今なのはの家にいるってことでいいのよね? すごい偶然ね。逃げなかったんだ」

 

「そうだよ。ユーノくんは頭が良いからね。全然逃げなかったよ。逆に近づいてきたくらい。それで、そのまま飼うことにしたの」

 

「それじゃあ今度なのはちゃんの家に見に行かないとね」

 

「そうね、それまでにちゃんとなにか面白い芸を仕込んでおくのよなのは!」

 

「うん、ユーノくんにお願いしてみるよ」

 

「お願い? まぁ期待してるわ! ところで話は変わるけど明日のプール楽しみね!」

 

 はて何のことだろうか。なのはは一瞬、アリサが何を言っているのか理解できず僅かに眉をひそめたが、すぐに記憶の奥に沈んだプール関連の断片が浮上してきた。明日は学校の授業が午前で終わり、その放課後に恭也と美由希、アリサ、すずかとその身内で、新しくできたプールに遊びに行くことになっていたのだ。

 なのははそのことを繰り返す前だとばかり思っていた。何度も同じ日を繰り返しているせいか、日にちの感覚がおかしくなっているようだ。

 その日はどんな一日だったろうか、とプールでの出来事を振り返ってみたが特に変わったことはなく、皆と泳いで楽しかった、とか、すずかが想像以上に泳ぐのが速くてびっくりした、という程度のなんてことない普通のイベントだった。

 そんな風になのはが回想に耽っている間、アリサとすずかで話が盛り上がり休み時間は終わった。久しぶりに、心から楽しいと思える休み時間だった。

 

 

 

 

 授業が始まると、楽しかった気持ちは次第に静まってゆき、意識はジュエルシードのことへ向き始めた。初めて黒い化け物を倒した日は、どこか浮かれていてそれどころではなかったし、普段は目の前に立ちふさがる暴走体のことばかり考えている。ゆっくりと落ち着いて考えるのは初めてかもしれない。

 しかし落ち着いていられたのは最初の数十秒。考えるにつれ、この先長く長く続く、気が遠くなるほどの道のりと苦痛を予感して、なのはは息が詰まりそうなほどの圧迫感と、頭の中が爆発してしまいそうな不安を覚えはじめた。

 ジュエルシードは二日続けて出現した。もしかしたら今日も現れるのではないか、できればもう現れてほしくない、このまま巨大樹の日まで何も起こらないでほしい。苦痛に耐え、挫折感を乗り越え、幾日も同じ日を繰り返し、やっとの思いで、やっとの思いで今日に辿り着けたのだ。だが散らばった二十一個のジュエルシードの内、手元にあるのはたったの四つ。あれほど時間をかけて未だ手元には四つしかないのだ。まだ十七個も残っているのだ。全てを集めるとしたら一体あと何日……あと何年掛かるのだろうか。本当に自分は辿り着けるのだろうか。本当に自分は諦めずに戦い続けられるのだろうか。これまでの日々を振り返り、これからの途方も無い日々を考えると、なのはの胸は万力で押し潰されるかのように重苦しくなり、今にも胃がひっくり返りそうだった。すぐにでも、私は何も知らない、と耳を塞ぎ、目を固く閉じて、全てを放り投げてしまいたくなった。

 そんな時ふと、唐突に、何の根拠もない、ある考えが閃いた。

 

《……ねぇ、ユーノくん。今更なんだけど、ユーノくんはジュエルシードの現れる場所とか日にちとかわからないよね? 本当に二十一個全部がここに散らばったのかな?》

 

 二十一個全てがここに散らばったのは間違いなのではないのか。少なくとも後二体分、あの空を飛んでいるやつと巨大樹の分があるのは確実ではあるが、それ以外はここに無いかもしれない。全部あるだなんてただの勘違いに違いない。ただの希望的観測であるが、もしかすれば、とそれにすがらずにはいられなかった。

 

《ここに全てが散らばったのは確かだよ。でも……ごめん、いつ現れるのかも、どこに現れるのかも全く見当がつかないんだ。……本当にごめん、手伝わせちゃって》

 

《そっか……確かなんだ。いいよべつに、気にしなくて》

 

 薄っぺらい希望はいとも簡単に否定された。分かっていたことだ。別にどうも思わなかった。なのはは、まるで嘘のように、自分でも信じられないほどに、さっきまでの底知れない憂鬱はすっかり消え去っていて、代わりに不思議なまでの無感動だけが残っていた。それは、もう全てを受け入れよう、という一種の諦めだった。しかし、幾許もしないうちに、その無感動はじりじりとした苛立ちへと変化した。

 

《それよりも……どうしてユーノくんは助けを呼ぼうとしないの? 一人で集められると本気で思ってる? そんなの無理。昨日の暴走体は最初の暴走体と比べられないほど強かった。これからもっと強い奴が出てくるかもしれない。それなのにユーノくんが集められたのは何個? たった一つだよね。怪我までして。私は……ユーノくんが一人で集めようとしてることが無謀だとしか思えない。もし封印できなかったら死ぬんだよ? 私達二人だけが死ぬならまだいい。でもそれが……。まぁ……今からじゃきっと遅すぎるけどね》

 

 一人で二十一個も集められるわけがない。そんなことも分からないのか。責任を感じる前に誰かに助けを求めるべきだろう。そう内心で、自分が二十一個集めなければならなくなった原因を繰り返すなのはの声音は、感情を感じさせないほど平坦で、湧き上がる憤りは表にこそ出ていないが、ユーノを責める立てるような刺が多分に含まれていた。

 なのはは言い終わった時、自分の心臓が乱調子で鼓動し、顔が熱くなるほど頭に血が上っていることに気がついた。

 思わず眉間にしわがよってしまうような、気まずい空気が二人を包んだ。

 ユーノは何か言いかけたが、言葉に詰まり何も言えなかった。なのはは、そんなユーノの様子に幾分気持ちが落ち着き、沈黙を破るため声を掛けた。

 

《今日はどうするの? ジュエルシードを探しに行くの?》

 

《うん、そうしようと考えてる。……危険な物だから、その……早く集めないと》

 

《そうなんだ。……できればジュエルシード探しじゃなくて、私に魔法を教えてほしんだけど、駄目かな?  ほら、ジュエルシードが現れる場所が分からないのに、あてもなく探しまわっても見つからないと思うの。だったら現れた時に確実に封印できるよう、少しでも魔法を練習しておくほうがいいんじゃないかな》

 

《一応探索魔法があるんだけど…………うん、そうだね。なのはの言う通り、見つけても封印できないと意味ない。一緒に魔法の練習しよう》

 

 なのはとユーノは放課後魔法の練習をすることを約束し、話を切り上げた。

 しばらくして、すっかり熱が冷めたなのはは、黒板をぼんやりと見つめながら、先ほどユーノに向けた言葉を思い返した。そして、思った以上に自分が皮肉屋であることに気が付き、嫌な奴だと自己嫌悪した。

 

 

 

 

 学校から帰ると、魔法の練習のため、なのははユーノと一緒に部屋に篭った。ゆっくりとユーノに魔法を教わるのはこれが初めてだった。

 

「じゃあ、うん、そうだね……まずは魔力の流れる感覚からかな」

 

 なのはの正面に座るユーノは、さて何から始めればいいものかと悩んだが、なのはが初心者ということを考慮して、初歩の初歩から始めることにした。しかしそれは、なのはにとって容易なものだった。なにしろ初心者ではないのだから当然である。なのはは「こういうことだよね」と普段練習してる時のように、手のひらに圧縮した魔力を生成した。

 

「なのは……本当に初心者だよね? 僕が初めて使った時そんな風に制御できなかったんだけど……ちょっと自信無くしちゃうかな。まぁ、よく出来てるよ」

 

 自分の時と比べたユーノは、少しだけショックを受けた様子だった。そんなユーノになのはは、実は魔力の流れを掴むのに数日掛かったんだよね、と内心で呟きぎこちない笑みを返した。

 ユーノの話によると、魔力というのは周囲の魔力素をリンカーコアによって体内に取り入れることで生成され、リンカーコアがなければ魔法は使えない。そして、魔力を回復するには睡眠が必要不可欠である。また、魔力の使用によって起こる事象を、望む効果が出るよう組み合わせたものが魔法であり、魔力を圧縮することによって効率良く使うことが可能。通常、魔法はあらかじめデバイスにインストールしておくが、レイジングハートの場合、イメージを送ればそれを元にレイジングハートが構成してくれるため、なのは自身が組む必要はないようだ。

 

「レイジングハートってすごいんだね!」 

 

 なのはは、今まで色々な魔法を使えたのはレイジングハートが特別だからであり、そのおかげでここまで来れたことを知り、心から感謝した。そして、嬉しそうな笑顔をレイジングハートに向けながら、手のひらの上でコロコロと人差し指で撫でた。レイジングハートは控えめに数回光った。

 ユーノは、なのはがある程度魔力制御できることを知ると、放出や集束の練習をさせた。が、それは普段なのはがやっていることとほどんど変わらなかった。ただ、なのはが一人の時、これ以上はもう限界、と思って止めてしまうところでもユーノは続行させた。案外、自分で思っている以上に大丈夫なものだと、なのはは眉間に皺を寄せながら思った。

 

「うん、上出来だよ。今日はこのくらいにしようか。明日に疲れが残っても困るからね。あ、そうだ。こんな練習方法もあるよ」

 

 何か思い出したかのような声を上げたユーノは、卓球玉くらいの魔法弾を生成すると、置いてあった空のペットボトルを手に取り軽く放り投げる。そして、ペットボトルが落ちる前に魔法弾をぶつけて再び空中に打ち上げることを繰り返し始めた。部屋に、ポコポコという音が規則正しく鳴り響く。なのはは「すごい」と呟くと、その光景に食い入るように見つめた。それに気を良くしたのか、ユーノは更にもう一つ魔法弾を生成し、二つ同時に操作しはじめた。二つの翠の光が同じ軌跡を何度も描く。

 

「それ、もう一つ!」

 

 更に三発目を加え、もはや機関銃のような連続音に変わった。空中に打ち上げる力が絶妙で、ほとんど宙に固定されているような状態だった。まるでテニスや卓球のラケットで、ボールをポンポンと上げているかのような軽やかさだ。しかし途中で打ちどころを間違えたのか、ペットボトルはあらぬ方向に弾かれ床に転がった。なのはは思わず「あっ」と声を上げた。

 

「……調子に乗ったら失敗しちゃったよ。恥ずかしいね」

 

「ううん、すごいよユーノくん。あんなことできるんだね。しかも三つも……」

 

「ありがとう。そう言ってくれると助かるよ。でも、きっとなのはなら僕より早く、これ以上のことができるようになるよ。まぁ、練習の参考にしてみて」

 

 なのはは、自分が思っていた以上にユーノがすごいことを知ってしまった。黒い化け物にやられてしまうくらいだ。だからそんなに上手くないのだろう。そう心の底でちょっぴり思っていたのだ。しかし実際どうだろうか。未だ一つの魔法弾の制御しかできないなのはと比べ、恐ろしいまでの力量差だった。

 自分もそんな風にできるようになれるのだろうか。なのはは先程の光景を思い返しながら、どこかワクワクしている自分に気がついた。それはもう、今すぐにでも魔法の練習をしたくなるほどに。

 

「ちょっとなのは! 今日はもう終わりにしよう。明日があるよ」

 

 ユーノにペットボトルを取り上げられてしまったなのはは、自分の周りに、もう既に生成してしまった一つの魔法弾をゆらゆら飛び回らせながら、物悲しげな様子で肩を落とすのだった。

 

 

 

 

 照明を消した部屋の中、なのはは布団に潜りながら今日ユーノに言ったことについて考えていた。一人で集められると本当に思っているのか。ユーノに言ったはずの言葉が全て自分に返ってくる。ユーノにとやかく言う資格など、自分には無かったのだ。ただユーノと違うのは、やり直せるということだけ。やっていることはユーノと変わらない。

 

「今日、酷いこと言ってごめんね、ユーノくん。私も人のこと言えないんだ。誰かを巻き込みたくないって気持ち、よく分かるから」

 

「いや、なのはの言ってたことは全部正しいよ。それに僕よりジュエルシードの危険性を理解してる。僕も理解してた気になってたけど、理解できてなかったんだ。一度失敗して自分の力不足も分かってたはずなんだけど……やっぱり駄目だな僕は」

 

「私もだよ、ユーノくん。私も全然駄目。魔法は下手くそだし、すぐに諦めそうになっちゃう。今日だってそう。本当に駄目駄目だよ。……自分は特別なんだって、心のどこかで思ってるんだろうね。どんな苦難にも負けない物語の主人公みたいに。でも、いざ自分がそういう……運命に……出会った時、やっぱりそうじゃないんだって実感するよ。そのくせ、自分だけでどうにかしようって考えるの。だから私もユーノくんを責められない」

 

「……なのははすごいね。僕よりずっといろんなことを考えてる。あ、でも、なのはの魔法は全然下手なんかじゃないよ! そう思うのは僕が調子に乗ったのがいけないんだ。なのはは魔法を使い始めてまだ三日目なのに上手く使えてる。暴走体だって二体も倒したんだ。きっと僕なんかよりすごい魔導師になれるよ。もっと自信持って!」

 

 なのはは、初めて魔法を使った時のこととユーノの言葉を重ね合わせ、そのあまりの不一致に困ったような曖昧な笑みを浮かべて「ありがとう、ユーノくんは優しいね」と言った。

 

「そうそう、明日は放課後みんなでプールに行くことになってるんだ。ユーノくんも一緒に行こう」

 

「え、プール? いや、でも僕はジュエルシードを探さなきゃ」

 

「ジュエルシードも大事だけど、たまには息抜きしないと、頭がおかしくなるよ? 本当だよ? だから明日くらい一緒に遊ぼう。明日はきっと何もない楽しい一日になるはずだから」

 

「……わかったよ。だけど、プールってこの姿で入ってもいいのかな?」

 

「さぁ、大丈夫なんじゃない?」

 

「随分といいかげんだね」

 

「うん。さて、平和な一日が終わっちゃうのはもったいないけれど、そろそろ寝よう。早く起きすぎて、すごく眠いんだ」

 

 なのはは布団を口元まで引き寄せて丸くなり、最後に眠る寸前の消え入りそうな声で「おやすみ」と言うと、すぐに気持ちよさそうな寝息を立て始めた。

 

「……大人っぽいのか子供っぽいのか、よく分からないな。……おやすみ、なのは」

 

 ユーノは優しげな声でなのはに呟くと、バスケットの中で丸くなり目を閉じた。

 

《ご主人様に大人っぽいも子供っぽいもありません》

 

 突然の声にユーノはびっくりして顔を上げると、レイジングハートがふよふよとなのはの枕元に向かっていた。数秒間何が起こってるのか理解できず、唖然とするユーノ。

 

「……何してるのレイジングハート」

 

《見ての通り、添い寝です。それと声を出さないでください。ご主人様が起きてしまいます》

 

《……ごめん》

 

 レイジングハートはこんな性格だっただろうか。なんだか自分の知っているレイジングハートと違う気がする。ユーノは「一体誰なんだこいつは!」と内心で盛大にツッコんだ。しかし、それを言うと何か言われそうな気がしたため、再び丸くなり目を閉じた。

 

《ユーノ……私はあなたが羨ましいです》

 

《え、どうして?》

 

 ユーノは再び頭を上げ、レイジングハートを見た。

 

《わかりません。どうしてでしょうね。ご主人様とあなたを見ていると、そう思うのです。……もういいです。早く寝て下さい》

 

 恥ずかしくなったのか、レイジングハートは突然話を切り上げ、電源が切れたかのように静かになった。そんなレイジングハートをユーノはしばらく見つめていたが、やがて「おやすみ」と呟くと頭を下ろし丸くなった。数日前に比べ随分人間くさくなってしまった、とレイジングハートの成長を喜びながら、ユーノは今度こそ眠りに落ちるのだった。

 

 



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プールの竜・前

 今日も目覚ましが鳴る前に目を覚ましてしまった。再び寝ようと思えばすぐに寝れるだろう。むしろ、少しだけ眠い。

 なのはは迷う。このまま眠ってしまうのはとても気持ちが良いに違いない。しかし、魔法の練習をした方がずっと有意義であり必要なことだ。それに昨日ユーノが見せてくれた練習も試してみたい。そう何度も頭の中で繰り返していたが、不思議とそれらが、この束の間の睡眠よりもさほど重要な事には感じられず、いつまでたっても拮抗したままだった。

 どうしようかと布団を頭まで引き寄せながら、眠そうな唸り声を上げた。しばらく足首を動かしたり体の向きを変えたりして、眠らないようにもぞもぞ動いていたが、やがてその動きは止まりピクリとも動かなくなってしまった。

 それから数分が経っただろうか。急に布団をめくり上げたなのはは、がばりと勢いよく起き上がった。しかし、その目はいまいち焦点が定まっていない。

 

「危ない、寝てた」

 

 なのはは枕元で光るレイジングハートに挨拶し首にかけると、綿にくるまれているかのように気怠い体に鞭を打ち、道場へ向かった。

 早速魔法弾を一つ生成すると、持ってきたペットボトルを放り投げてぶつけてみた。イメージするのはユーノが見せてくれた魔法弾の軌跡。

 一発目は良かった。ほぼ想像した通りに弾かれた。続いて回転する的にニ発目をぶつけた。するとそれは、とんでもない方向へと飛んで行き、しんと静まり返る空間に、けたたましい音を反響させながら転がった。

 それを聞いたなのはは飛び上がった。そして慌てて音の原因に駆け寄ると、それを拾い上げ胸に抱き、心臓をばくばくさせながら闇に溶け込むかのように息を殺して、しばらくじっとしていた。今の音のせいで誰か来るのではないかと気が気でなかった。

 別に隠れる必要なんて何処にもない。今のなのはは、家族やアリサすずかになら、魔法のことを見られても見られなくても正直どっちでもいい、と考えている。現にユーノは第三者に魔法を見られているのだから。とはいえ、もちろんわざわざ見せるようなことはしない。ただ見られた場合前のように必死に隠す気はなかった。ジュエルシードのことを除いてだが。

 しかし、それとこれとは別である。なのはは、やましいことなんてしてない、と自信を持って言えるだろう。それでも何故か分からないが、姿を見られないよう隠れなければならない、というような一種の強迫観念によって、なのははつい反射的に身を潜めてしまった。

 

「…………あほすぎる」

 

 その呟きは自分の浅はかなさに対してなのか、隠れたことに対してなのか。

 なのははようやく心拍数が落ち着いてくると、ふうと息を吐いて床に座り込み、ペットボトルを脇に置いた。そして二つの魔法弾を作りだすと黙って魔法制御の練習をすることにした。だがそれは、そっちを動かしこっちを動かしの、しっちゃかめっちゃかな状態だった。両方同時に動かそうとするが、片方ばかりに意識が向いてしまうのだ。

 なのははあまりにも思い通りに行かず、上手く操れない自分に苛立った。三つの魔法弾を簡単に操っていたユーノが、化け物かなにかに思えてきてならなかった。そして、そんな今も部屋で心地よく寝ているであろうユーノに向けて「なんであんな簡単にできるのさ。意味分かんないよ!」と愚痴った。おかげで日が昇る頃にはもう、精神的にも肉体的にもどこか疲れきってていた。

 そんないつもとちょっとだけ違う朝を過ごし、通学鞄とは別に、水着やバスタオルなどが詰め込まれた鞄を持ったなのはは、放課後のイベントに思いを馳せながら家を出た。

 午前授業だけで終わりというのはなんと素晴らしいことか。今日の授業が全て終わってしまうと、なのはは大きく伸びをする。

 もう見慣れた授業じゃない、と嬉しく思ったのは最初だけ。やはり、なのはにとって授業というのは退屈なものに変わりなく、ましてや学校が終わると皆と遊びに行くのだ。戦闘に関することについて考えるのも忘れ、開放的な窓の外、中々進まない時計の針、前の人の揺れ動く頭、ついでに黒板とノートに視線をぐるぐる回し、唐突に襲ってくる睡魔と闘いながら、早く学校終わらないかとそればかり考えていたのだ。

 なのはは帰りの会なる最後の儀式を、かばんの上に突っ伏しながら連絡事項以外の全てを聞き流す。毎日同じ会話を聞き、同じ行動を見て来たからだろうか。それとも、年不相応の過酷な日々に身を置いているからなのか。なのはは日に日に、周りの子の言葉と行動の全てが、どこか稚拙に感じられて、どうでもいいことばかりに感じられて、自分が一人世界から切り離され、ぽつんと孤立してしまったかのような錯覚を覚えることが多くなっていた。といっても、もともとアリサとすずか以外の人たちとは、それほど仲が良いというわけではないため、別に悩むに値しないことだった。

 アリサとすずかへの認識は以前と変わらず、いやむしろ二人と自分の関係について思い悩んだ結果、前以上に掛け替えの無い存在になっていた。それにたとえ二人が幼く思えてきたとしても、なのははきっと、それを良いことに二人をからかうに決まっている。何も問題ないのだ。

 

「なのは早く行こ! ほら、すずかも急いで!」

 

 放課後になった瞬間、アリサが二人を急かす。よほど楽しみなのだろう。なのはにはその気持ちがよく分かった。なのはは前回、アリサ同様学校が終わった瞬間鞄を持ち「そうだよ! すずかちゃん急いで!」とアリサと共に駆け出していたのだから。置いて行かれたすずかは、すぐに二人に追いつき怨嗟の声を零していたのは良い思い出である。

 しかし、今回のなのはは一味違う。教室を飛び出したアリサの後ろ姿を、すずかと共に温かい目で見送った。

 

「アリサちゃん元気だね」

 

「そうだね。でも私は、なのはちゃんも一緒に行っちゃうかと思ってたけど……予想はずれちゃったみたい。置いて行かれたらどうしようかと思ってたよ」

 

 まぁいつものことなんだけどね、と楽しそうににんまり笑うすずかを見て、なのはは今はじめてすずかの視点が分かった気がした。

 

「さ、行こっか。急がないとアリサちゃんいじけちゃうよ? 私だけはしゃいでバカみたいじゃない、二人は楽しみじゃないの、ってね」

 

 すずかはよく分かっている。なのはは、まるで自分とアリサは幼い子供で、常日頃からすずかに見守られているように感じられ、気恥ずかしくなった。しかし改善する気はこれっぽっちも起こらなかった。このままでいいのだ。

 教室を出ると、廊下の少し行ったところでアリサが立ち止まっていた。そして二人が来たことを確認すると、待ちきれないといった風に「早く早く!」と走りだした。なのはとすずかもお互い笑みを浮かべあってから、アリサを追って走った。

 

 

 

 

 ラベンダーのショートヘア、見た感じクールな印象を受ける仕事のできる大人の女性、ノエル・エーアリヒカイト。

 ノエルとは対照的にロングヘアであり、美由希よりも少し年下くらいだろうか。どこかおっちょこちょいな印象を受ける可愛らしいファリン・エーアリヒカイト。

 車でなのはたちを迎えにきたのは、月村家のメイドであるその二人だった。この二人も一緒にプールで泳ぐことになっている。メイドといっても月村家では家族同然の存在であり、とても大切にされている。ちなみに、二人とは関係ないことであるが、すずかの姉である忍は恭也と恋仲にある。だが、残念ながら今日忍は来ない。

 恭也、美由希、ユーノはすでに到着していた。

 なのはは、恭也とノエルが受付で支払いを済ませる姿になんとなく視線を向けた時、ふと、料金表に目が止まった。そして、入場料が自分の財布の中身の半分ほどであることに愕然とするのだった。

 

「あ、この子この前のフェレットよね? ユーノって名前だっけ。よしよし、ユーノもついてきたのね。……もう怪我は直ってるみたいね」

 

 アリサはユーノを顔の前まで持ち上げ少し眺めた後、手のひらの上に乗せ毛並みを楽しむかのよう撫でた。

 

「その子、フェレットなんですか? ちょっと違うように見えますけど。でもおとなしいし可愛いですね。私も撫でてみていいですか?」

 

 ファリンはアリサからユーノを受け取ると嬉々として撫でたが、恭也たちが戻ってくるとアリサの手に戻した。

 アリサはユーノを抱くと、意気揚々と皆と更衣室へと向かう。その時、何故かユーノは手から抜け出そうと身体を捩り始めたが、アリサに叱られますます拘束が強くなってしまった。ユーノはなのはに助けを求めるかのように視線を送るも、なのははそれに気付くことは無かった。ならば自分の力で抜け出すしか無いとでもいうように、なのはから視線をはずし力を振り絞った。しかし抜け出すことは叶わず、皆が服を脱ぎだしたところで、ユーノはついになのはに念話を送った。

 

《なのは! なのはっ! 僕は恭也さんの方に行くよ!》

 

《え、どうして? いいじゃんべつに》

 

「なのは、ユーノがめちゃくちゃ暴れるんだけど。私嫌われてるのかな?」

 

「そんなことないと思うよ? きっとユーノくんも早く泳ぎたくて仕方ないんじゃないかな?」

 

《ちがうよっ!》

 

「なるほど。ユーノ! もう少しだから我慢してなさい!」

 

 一体ユーノは何をそんなに必死になっているのだろうか。もしや恥ずかしがっているのだろうか、フェレットなのに。なのはは少し考えたが、まあいいか、と服を脱ぎ捨てロッカーに押し込めると水着を着た。その時、レイジングハートをどうしようか少しばかり悩んだが、付けて行くことにした。

 ここの施設には流れるプール、飛び込みプール、温泉プールなどがあり、屋内のため外の天気や気温に左右されることもない。平日だからか、それほど混んでいるわけではないようだ。

 

「よし、流れるプールに行きましょう」

 

 アリサの提案になのはもすずかも異議を唱えること無く賛成した。そして、なのはは恭也に三人で泳いでくると告げた。

 

「あ、私も皆と一緒にいきますね」

 

 そう言ってファリンもなのはたちに加わった。その理由は楽しそうだから、と言うよりは見守るという意味合いが強いだろうが、ファリンが大人組の中で一番小学生組と気が合うのも確かである。

 アリサは周りに人が泳いでいないことを確認すると「二人とも見てなさい! 私の華麗な飛び込みを!」といって飛び跳ねると、バンザイをしながら足からプールに沈んでいった。

 

「アリサちゃん、飛び込みはダメだよ! それと残念ながら私のほうが華麗かな!」

 

 そう言うやいなや、なのはもアリサの後に続き、鼻を摘みながら水面に向かって跳躍し尻から落ちた。どちらも華麗とは言い難い。「なのはちゃんも飛び込みしてるよ」とツッコミながら二人に続いたすずかの飛び込みこそが、真の飛び込みであり華麗だった。

 見ていたファリンに危ないと叱られるが、三人はそれすらも楽しいとでもいうように、顔を見合わせて笑った。

 

「ねえ、流れに逆らってあそこまで先に泳いだほうが勝ちね」

 

 そんないかにも子供っぽいことを提案する自分に、自分は何を言っているのだろうか、バカなことしているな、となのはの冷静な部分が呆れ困ったように笑うが、身体は楽しさに身を任せ泳ぎだす。犬かきで。

 

「私に勝とうなんて一万年早いわ!」

 

 アリサは両手を伸ばすと顔を水面に付けたままバタ足を始めた。水面から一切顔を上げないため「アリサちゃん、泳ぐの苦手じゃん」というなのはの言葉を聞くことはない。

 

「アリサお嬢様は随分と強気ですね。しかしながら私の勝ちに揺るぎありません」

 

 ファリンはもはや勝ちが確定したと言わんばかりの意気込みで平泳ぎを始めた。

 

「三人とも……流されて……るよ!」

 

 すすかはクロールを始めると、息継ぎしながら、どんどん遠ざかっていく三人に向けて言い放った。水の流れなどものともしないその泳ぎは、競泳選手のようであった。

 そんな四人を、ユーノはどこかぼんやりしながらプールサイドで眺めるのだった。

 

 

 

 

 どのくらい息を止められるかということで、死んだふりをしながら水面を流れてゆく、ファリンを含めたなのはたち四人。おかしな光景である。

 なのははまだまだいけそうだったが、ちょっと苦しくなってきたため、早々に諦め身を起こした。皆はまだ水面に頭と背中を浮かせたまま流されており、なのはがビリのようだ。

 なのははそのまま後ろに倒れ込むと、力を抜いて身体を浮かせた。流れていく天井の模様を目で追いながら、何を考えるともなく、楽しい、気持ちいい、という感情にただ心を委ねた。今までの繰り返してきた日々は一時の悪い夢であり、今はもうすっかりそれから覚めてしまったように感じられた。

 ユーノは少し歩きまわってくると言って何処かに行ってしまった。そんなユーノになのはは、居心地悪いのだろうか、と無理やり連れてきたことを申し訳なく感じた。

 ユーノが感じてる責任は自分よりも大きいのだろう。しかしだからといって、そればかり思いつめるのは良くないと考えての行動だったのだが、それは自分の現状が基準であり、それがユーノに当てはまるとは限らない。なのはは余計なお節介だったのかな、と少し落ち込んだ。

 

「ぷはっ! もう無理限界! はぁ、また負けかぁ。ま、なのはに勝ったからよしとしましょう!」

 

「チッチ、アリサちゃん、私は手加減したのだよ。本当なら……!」

 

 なのはの言葉は、ジュエルシードの反応が脳裏を走ったことにより途切れた。なのはは瞬時にそれを理解し、一気に血の気が引いた。心臓が止まってしまいそうなほどの焦りで身体も固まってしまう。どうして今。皆がいるのになんで。どうすればいい。それだけが頭で繰り返され、思考は停止したまま身動きが取れなかった。

 

「ふふ、そういうの何ていうか教えてあげましょう。負け犬の遠吠えっていうのよ? ……なの」

 

 混乱して頭の中がぐちゃぐちゃになっていた時、瞬きする程の時間で世界が切り離された。周りから人は消え去り、なのはのみがぽつんと取り残されている。そこでようやく、はっと我に返り、ジュエルシードのことに意識を向け、自分がなすべきことを考え始めた。

 

《なのは、ジュエルシードが現れたみたいだ。結界を張ったから、とりあえずは外に危険はないよ》

 

 なのはは少しだけ安堵すると、急いでプールから上がりレイジングハートを起動した。

 

「なのは」

 

「ユーノくん、この結界っていつまで持ちこたえられる?」

 

「僕の魔力が続く限りはとりあえず大丈夫。でも、結界張るのに使ったからあまり余裕はないかな……」

 

 それを聞いて、なのはが苦虫を噛み潰したように顔を顰めようとした時、屋内全てのプールから水が急激に溢れ、瞬く間に床を水浸しにした。信じられない程の速さで水位が上がっている。なのははユーノを持ち上げると、急いで宙に足場を作り飛び乗った。そしてユーノをフードの中に押し込めた。

 一体これから何が起こるのか見当もつかない。なのはの身長よりも頭一つ深いくらいだろうか。そのくらいの高さまで水が貯まると水位の上昇は無くなった。プールの深さを加えると3メートル近くにもなるだろう。

 突然、遠く離れた水面から、蛇のように細長い水色の身体をもった暴走体が姿を現した。その胴体は直径1メートルはあるのだろうか。その身体は見るからに固そうな鱗を纏い、光の加減で虹色に輝く、翼のようなヒレが身体の随所に見られた。イラストで見るドラゴンのような精巧な顔つきをしており、不覚にも恐怖を感じるより、格好いいと思ってしまう。

 宙で停止した水竜の周りに、水面から浮かび上がってきた1メートル程の水球が、いくつも設置される。そして水中の至る所に水色の魔法陣が浮かび上がった。完全になのはたちを敵として捉え、戦闘態勢であった。

 

「あんなのを封印しようとしてたのか僕は……なのはの言うとおりだった」

 

 ユーノの声にはどこか諦めが感じられた。昨日のなのはの言葉も思い出しているのだろう。しかし、なのはの頭の中はそれどころではなく、なんとしてでも倒さなければならない、という思いで埋め尽くされていた。敗北すれば結界は解かれ、なのはにとって大切な人たちに被害が及ぶことになってしまう。なのはたちがいたせいで。

 あまりの責任の重さと後悔で、今にも泣きそうになるのを必死に堪え、戦うために敵を見据える。絶対に逃げるわけにも、負けるわけにもいかない。一切のことを考えず、勝つことにのみ集中しなければならないのだ。

 

「大丈夫。絶対倒す」

 

 ユーノはなのはの顔を見た。肩からではその表情は見えない。だが、怯えや諦めなど一欠片も感じられなかった。ただひとつの事に対し意思を固めた、心奪われる見惚れる横顔だった。さっきまでの歳相応で無邪気な表情との差が、ユーノには衝撃的であり、そして活力を与えた。

 

「なのは、あの魔法陣の上にいかないように。あれは捕獲魔法だ。当たるとまずい。……まずは移動できるよう、魔法陣の無いところに足場を作ろう」

 

 もうユーノの声に弱々しさは無かった。

 屋内とはいえ、今まで戦ってきた場所に比べ相当広い。なのははいつ発射されるか分からない水球に意識を向けつつ、いくつか足場を作ろうとした。しかし、二つ目を作ろうとした時、ついにその水球は放たれ、なのはは反射的に今さっき作った足場へ跳んだ。高速で飛んでくる水球だが、なのはは少しだけ余裕を持って避けられた気がした。実際は跳び移るのとほぼ同時に弾着し、元の足場は壊された。タイミング的には一秒も差はない。それだけなのはの感覚が鋭敏になっているのだろう。

 だが、水球は一発だけではない。なのはは着地するのと同時に、次の足場を展開、その足場に跳び移った。跳び移る途中、魔法陣の発動範囲を通過したのか、水中から水色の鎖が高速で伸び、なのはの横を通りすぎていった。

 攻撃はおろか、息をつく間もない。そもそも、飛んでくる水球に意識を割きつつ、魔法陣にも意識を割き、尚且つ真上を通らない道筋を瞬時に判断できていること自体が、なのは自身でも信じ難いことだった。

 数回そんなことを繰り返し、なのはが少しへばり始めた時だった。次の足場に着地する直前に水球が発射されてしまった。着地したなのはは、それから目を離せず、じっと見つめながら自分が詰んでしまったことを確信した。

 やられるわけにはいかないのに。絶対に倒さなければいけないのに。どんなに意思を強く持っていても奇跡なんて起こらず、力がなければ守ることもできず、ただ惨めにやられてしまうのだ。なのはは自分自身を呪った。

 そんななのはの考えを遮るように、桜色と碧のバリアがなのはの前に展開され、凄まじい衝撃と水が弾ける音とともに水球を防いだ。しかし、桜色のバリアより外側に展開された翠のバリアは罅だらけで、とてもじゃないが二発目は防げそうもない。

 なのはは状況を上手く理解できていなかったが、自分が助かったことを知り、機会を逃すまいと反射的に新たな足場を作って跳んだ。

 

「ぐっ、危なっ! なのは、これやばいって! 一発食らっただけで砕かれる寸前だよ……」

 

「ありがとう、ユーノくん。すごいね。それとレイジングハートも」

 

 ユーノの言葉で状況を理解する。ユーノはバリアが砕かれそうになったことに焦っているが、なのはにとっては一発でも防げたこと自体に驚愕である。そして、やばいのは十二分に理解している。

 

「だけど、もう魔力がほとんど無い」

 

「命を燃やしてでも作って……死なない程度に」

 

 冗談じゃない。ユーノの魔力が無くなれば一体誰が結界を維持するのか。しかしユーノが先に死ぬのも困る。たとえなのはが先にやられたとしても、ユーノが永久に生きていれば問題ないのだ。無理な話ではあるが。とにかくユーノには魔力が尽きてもらっても困るし、死んでもらっても困るのだ。

 いつまでこんなことを続ければいいのか、とバテバテになりながら、諦めそうになる自分を叱咤しながら避け続けていると、ついに水球は止んだ。

 なのはは様子を伺うため立ち止まろうとするが、水竜が水中に潜り込んだかと思った瞬間、長い線が猛烈な速さでなのはに迫った。それが視界に映るやいなや、危険予知の警鐘が激しく鳴り響いた。そして、立っていた足場が下から突き破られるのと、なのはがなりふり構わず全力で横に飛び退いたのは同時だった。

 宙を舞いながら足場を作っていないことに気が付き、急いで展開する。しかし、放物線を描いて移動していたなのはの身体は急激に下へと引っ張られ、水中に消えた。

 何が起こったのか分からなかったが、口と鼻に入ってきたのが空気ではなく水であったことに、なのははこれ以上ないほどパニックになった。レイジングハートすらも手放し、空気を求め出鱈目に手足を動かそうとするが、絡みつく鎖のせいでそれすらもできない。苦しくて、息を全て吐き出してしまった肺を膨らませようとするがそれは叶わず、流れこんでくる大量の水を飲みこむしかなかった。喉は熱くなり、心臓の音がはっきり聞こえる。徐々に目の前がチカチカ白くなり、意識が薄れ始めた。一分も経っていないのに数分に感じられた。

 そんななのはの口元に柔らかい何かがあてがわれ、渇望した空気が流れ込んできた。それは一瞬であり、しかし薄れた意識を呼び覚ますのには十分であり、再び苦痛が蘇った。

 もう頭の中には、負けられないという考えなど浮かばなかった。まだ続くのか。早く殺してほしい。目の前の苦しみから逃れたい。それだけで埋め尽くされていた。その願いが届いたのか、突如背中から衝撃を受け、完全に意識は無くなった。

 

 

 

 

 なのはは空気を求めて激しく胸を膨らませると、それと同時に目を開いた。戻っていた。

 何度か荒い呼吸を繰り返し、それが次第に落ち着いてくると、涙が目尻から零れた。頭の中はぐちゃぐちゃで、もうわけが分からなかった。全てが嫌になった。そのまま死にたかった。

 なのはの心は、今日は何も起こらないと、完全に無警戒で無防備な状態だった。とても楽しかった。それ故に、ジュエルシードが現れ、自分とユーノがいたせいで皆を巻き込んでしまった、そして守ることができなかったという事実が、凄まじいまでの反動となってなのはの心を粉々に打ち砕いた。更に窒息の苦しさが追い打ちを掛けた。

 なのはは、ぐるりとうつ伏せになったかと思うと、枕に顔を押し付けた。押し付けた顔と枕の間から喉を締め付けたような小さな嗚咽が零れた。それは次第に大きくなり、終いには喉がはち切れそうな程の胸いっぱいから出る叫びに変わった。このどうしようもない激情と苛立ちを発散するべく、握った拳をベットに何度も叩きつけた。しかしそれは、無力さを示すかのように簡単に弾き返され、なのはを余計に苛立たせた。枕の横で時間を告げるために鳴り出した耳障りな携帯電話を、勢いよく払い除けた。微妙な抵抗となって体に纏わりつく不快な布団を、足で激しく蹴飛ばしベットの外へ放り出した。

 自分の弱さ、浅はかさ、死ぬ苦しみ、身の周りで起こる不条理、そしてそれらを突きつけられる運命を引き当てた自分。何もかもが腹立たしく、苛立たしく、自分の身すらも引き裂きたくなった。

 そんな時、いつもと変わらない美由希の声が聞こえ、部屋の扉がそっと開かれた。なのはは美由希を認識した瞬間、申し訳ない気持ちで胸が締め付けられ、押し付けた枕に更に涙を染み込ませた。合わせる顔なんてなかった。

 

「どうかしたの?」

 

 美由希はなのはの様子がどこかおかしいことに気が付き、恐る恐る声を掛けるが返事は無く、しゃくり上げた拍子に身体をびくっと跳ねるだけだった。ベットに腰掛け、黙ったままなのはの様子を伺う。

 

「ご、めん、おね、えちゃん」

 

「なのはに謝られることなんてないと思うんだけどなぁ」

 

「わたし、じゃ、や、ぱり、むり、だよ」

 

 枕で声がこもっている上に、つっかえつっかえで少し聞き取りにくいがちゃんと分かった。しかし、何について謝っているのかさっぱり分からない。

 美由希は何て言葉を掛けようか悩んだが、結局思いつかず、少しでもなのはの気持ちを和らげようと頭を撫でた。だが、その優しい手は余計になのはの罪悪感を膨れ上がらせ、思考を掻き乱した。

 なのはは堪らず身を起こすと、苦しみに満ちた目を涙で潤ませながら、力無い声で吐き出した。

 

「わたし、じゃ! まもれ、ない! たどりつけない、んだよ! やっぱりわたしに、は、無理なんだ」

 

 見ている方がどうしたらよいのか分からなくて泣き出しそうになる痛々しい様子に、美由希はそっとなのはを抱き寄せた。なのははそれに抵抗すること無く身を任せた。

 一度止まった目覚ましが再び鳴り出し、場違いな音色を響かせる。美由希は止めるべきか一瞬だけ悩んだが放っておくことにした。

 

「守ることに失敗しても、守ってもらった方はそれだけでも感謝してるんじゃないかな? 逆になのはがそのことで悩んでるって知ったら、守ってもらったことを後悔するかもしれないし。どうしても辿り着かなきゃいけない所なのに詰まってしまったら、別の道を探してみるっていうのはどうだろう。少し休憩してみるのもありかもね。いい考えが浮かぶかも」

 

 目覚ましが止まり再び部屋が静かになった。

 なのはは美由希の言葉の意味について考えられなかった。何も考えず美由希に身体を預け、頭を撫でる手を感じながら胸から聞こえる心音を聞いていた。不思議なことに、さっきまでの激情は徐々に消えてゆき、代わりに柔らかな安らぎが心を満たしていく。前回の苦しみも罪悪感も何も無い。どこまでも見渡せるかのように、すっと心が澄み渡っていく。

 辛いし苦しいけれど、それでも辿り着きたい。これまでの暴走体を倒した時のように、いつか必ず上手くいく。そんな前向きな考えもぼんやりと浮かんできた。

 

「まだまだ、私はがんばれる」

 

 なのはは漠然とだが分かった気がした。何の思いにも囚われず、しんと心が静まった状態。きっとこれが、諦めずに戦い続ける上で最も重要な精神状態なのだろう、と。

 

「そうだよ、なのははできる」

 

 私の妹だからね、と戯けた口調で続けた。自分で言って恥ずかしかったのだろう。

 なのははゆっくりと美由希から体を離した。まだ時々、悲しみの名残りで肩を跳ね上げたが、涙はもう乾いていた。

 

「ありがとう」

 

「うん、元気になってよかったよ。さ、早く着替えないと遅刻しちゃうよ?」

 

 なのはは着替えながら、これからするひとつの大きな決断について考える。

 全てのことを一つの課題に集中させること。それが諦めることなく目的を達成する最短の方法だった。

 

「絶対に辿り着く」

 

 なのはは小さく呟いた。

 



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プールの竜・中

 どうすればプールに行くことを中止できるだろうか。どうすれば皆を説得できるのだろうか。どうやって一人で封印に向かえばいいのだろうか。

 考えなければならないことが多すぎた。

 だがなのはにはもう、そんな細かいことを考える気力も余裕も無かった。もし仮に、それらの方法が考えついたとしても、ただでさえ変化の無い同じ日を繰り返すことに苦痛を感じているのだ。更にそれらも加わるとなると頭がどうにかなりそうだった。それになにより、そうすることが途轍もない時間の無駄に感じられた。

 そしてなのはは今、ただ盲目的に一つの考えにのみ囚われていた。

 自分が一緒にいることで皆を巻き込んでしまう。皆と一緒にいることで喜怒哀楽を覚え、やり直すことが辛い。だったら皆から離れればいいのだ。とても簡単な事ではないか。そうすれば巻き込まないよう頭を悩ます必要もなく、感情の起伏を最小限に止められる。皆に心配掛けさせないよう、無理して取り繕う必要もない。その分、一切を辿り着くということだけに集中すれば良いのだ。ただそれは、皆をとても心配させるだろう。しかし巻き込んでしまうより、守れなくて絶望するより遥かにましである。繰り返す必要が無くなったら、また皆の所に戻ればいいだけなのだから。その時は一生分叱られるかもしれないが、甘んじて受けよう。

 心の浮き沈みを抑えるため、まるで見ず知らずの他人のように皆と距離を空けて生活する方法もあった。しかし皆にそんな態度をとるのも、問い詰められ嫌われるのも、たとえ死んでその事実が無かったことになるとしても嫌だった。

 一度考えだすとそれが最善だとしか思えなくなった。

 なのははすぐにでもその考えを実行すべきだという、突き動かされるような行動力により鞄をひっくり返した。そして外に出した中身をしばらく見つめ、1冊のノートといくつかのペンを鞄に戻してから、他に何か必要になりそうなものはないかと部屋を見渡す。だが何が必要なのかさっぱり分からなかった。

 ふと、ベット脇のぬいぐるみに視線が止まったが、数秒後目を逸らした。

 

「あ、お金必要だよね」

 

 机の引き出しに仕舞ってある、全財産の詰まった丸型のがま口財布と、ついでに机の上にあった箱ティッシュを鞄に入れた。

 こんなものだろうか。あとは思いつかなかった。

 なのはは部屋を出よう扉に手をかけたまま、何か忘れていることはないだろうかと少しだけ考える。そして、はっと思い出したように踵を返しノートを1ページ破り取ると、これから起こることを簡潔に綴り、最後にこう書き加えた。「修行の旅に出ます。捜さないで下さい。なのは」

 完璧だと言わんばかりに頷くと机の上に置き、今度こそ部屋を出た。

 家から出ると学校には向かわず、遠回りしてでも人通りの少ない道を選び、人目につかないよう神社へと向かった。

 ユーノが倒れている場所に行くことも考えたが、いつからそこに倒れているかも分からない上、待っている間に人に見つかったら大変面倒だと考えたからだ。自由に動き回れる下校時間にでも迎えに行けば良い。とりあえず今は人に見つからない場所に行く必要があったのだ。

 なのはは神社の前に辿り着くと、嫌そうな顔を浮かべながら長い階段に向かって歩いた。今はレイジングハートを持っておらず、ろくに魔法を使えない。自力で上るしか無い。

 歩いてゆっくり上っても、走って上っても、疲労感はほとんど変わらなかった。むしろゆっくり上っているほうが疲れる気がした。しかし今回は急いでいるわけでもない。疲れる度に階段に腰を下ろし回復するのを待った。

 はじめ、目の前に広がる街の景色に、どこかくすんだ瞳で力強い視線を向けながら、前回の事と巨大樹から逃げまわった日のことを思い出していた。そして、絶対に乗り越える、自分は必ず辿り着ける、と決意を新たにしていた。それが落ち着くと何を考えるでもなく、その強い決意の余韻に浸っていた。

 そうしていると今度は、自分以外の子は学校にいるというのに今自分はそこにおらず、青空の下、木々に囲まれ、階段に座って街の景色を眺めているこの状況に意識が向いた。

 なのはは、ついに自分は学校をサボってしまったのか、と何とも言えぬ獏とした感傷に浸った。すると、この平和な非日常感が、実はもう一人の自分が普段通りに登校し、普段通りに皆と過ごしているかもしれない。そして彼女がユーノを助け、レイジングハートを渡され、ジュエルシード集めという戦いに挑むことになるのだ。彼女は自分と違って才能があり、あっという間にジュエルシードを集めてしまう。その時になって自分は彼女と入れ替わるのだ。というようなありえない妄想に駆り立てるのだった。

 時間を掛けてようやく上りきり、鳥居をくぐった。

 境内を見渡したが辺りには誰もおらず、ただ朝の気持ち良い空気と一日の始まりを予感させる暖かな日差し、可愛らしい小鳥の声だけで満ちていた。

 それを前に一息つくと、親と友人に対する申し訳無さと感傷の全てを追い払い、先程の決意を呼び戻す。そしてジュエルシードを集めるために自分がするべきことに意識を向け、これからそれらを行う自分に気合を入れた。

 恐れることなど何もない。いや実際はたくさんあるが今はそれについて考えず、そのくらいの意気込みで力強く歩き出した。

 どこか人目につかない、身を潜めるのにふさわしい場所はないものか。参道を歩きながら考えるが、見たところ社殿の裏が丁度良さそうだった。

 なのはは突然立ち止まりしゃがみこむと、落ちていたゴミを手にとった。それは砂で汚れた緑の使い捨てライターだった。

 

「ゴミすてるとか最低だよ」

 

 特に何の表情も浮かべず、シュッシュと何度か火を付けながら呟いた。まだオイルが残っているようだが、残念ながらなのはは良い子なので、ここで火遊びという考えは一切浮かばず、立ち上がるとそのまま社務所の軒先にあるゴミ箱に捨てに行った。ついでに中から空き缶一つ取り出し手に持つと、社殿の裏を目指した。

 後はひたすら魔法の練習と戦略を練ることに集中するだけだった。

 それから3時間ほど経ったころだろうか。腰を下ろしたなのはは、2つの魔法弾を揺らめかせながら空を見上げていた。

 

「暇だな。今何時なんだろ。時計持ってくれば良かった。失敗したな」

 

 やることがあるため決して暇ではない。ただ困ったことに、この単調で成果も確認しづらい作業に早くも飽きてきたのだ。

 なのはは、ジュエルシードを集めるためなのだから絶対に飽きることなく、一日中集中して練習に励むことができる、そう考えていたのだが想定外だった。朝の練習は限られた僅かな時間で行わなければならない。だから集中できた。しかし今は、ここまでという目安はなく、まるまる一日使うことができるのだ。しかも時間が分からないのだから途中で集中力が切れるのは無理も無い。

 

「だめだだめだ!」

 

 なのはは突然弾かれたように顔を戻し姿勢を正すと立ち上がった。そして魔法弾に意識を向け練習を再開した。

 自分は少しでも早くジュエルシードを集めなければならないのだ。また皆を守れずに終わるつもりなのか。自分の決意はそんなものなのか。そう過去の光景を思い出しながら自分に喝を入れた。

 投げ出しそうになる度にこうやって目的を再確認し、何度でも作業を再開できること。それがゲームでは低確率のレアドロップを可能にし、外の世界ではこうして諦めずに戦い続けることができる理由なのかもしれない。

 しかし、それから更に2時間ほど経った頃。なのはは2時間前と同じように座りこんで天を仰ぎながら、深い紺碧をたたえた澄んだ空に魔法弾を適当に泳がせていた。それはさながら、何かすることはないものかと座って尻尾を振る猫のようだ。休憩も大事である。

 なのはにとってこうやって一人でいることは、時々寂しさを覚えることがあっても苦ではない。以前は……今よりもずっと小さかった頃は、一人でいることが堪らなく心細くて、寂しくて悲しかった。でもゲームにハマりだしてからだろうか、だんだん一人でいることが平気になってきたのだ。それどころか居心地良さを感じることさえあった。そのせいか、いや、それだけではなく元々引っ込み思案なことと、ゲームのことで頭の中が溢れていたことも原因なのかもしれない。学校では周りの子と話こそすれ、なかなか友情を育むことはできず、そしてなのは自身もそれをどうにかしようとは思わなかったし平気だった。幼さ故か周りの目を気にすることもなかった。

 ゲームで埋め尽くされている思考が落ち着いてきたのは、アリサ、すずかと遊ぶようになってからだろう。今に至っては優先順位が低くなってしまい、時々思い出すだけとなってしまった。残ったのは大切な親友と、一人が平気なことだけだ。

 

「お腹空いてきた……」

 

 なのはは自分の胃がきゅっと締まるのを感じ取り、お腹をさすった。そして徐ろに鞄を開けると、財布を取り出し中身を確認した。

 3枚の紙幣と小銭が少々。それを見つめながら、これからどのくらいお金がかかるのかを頭の中で計算し、低く唸った。

 料金を払ってプールに行くとすれば、これからの生活はとてもとても厳しいものとなるだろう。一日三食は確実に無理だ。しかし、もし夜にでも忍び込めれば、その分のお金は浮き幾分生活が楽になるだろう。他の人を巻き込むこともない。

 できれば忍び込むことを選択したいが忍び込めるのか分からないし、夜の真っ暗闇で暴走体と戦えるとは到底思えない。

 少しの間考えこんだが、まだまだ時間はあるし、追々考えてゆけばいいだろうと保留することにした。

 なのはは家から何かしら食べ物を持ってくれば良かったと溜息をついた。そもそもしっかりと計画を立てずに決行したのが間違いだった、と少しばかり後悔する。必要な物は何かをもっとよく吟味してから出るべきだったのだが、まあ今更である。何が必要なのかはこれから嫌でも分かることになるだろう。

 さて、予算的にこれからの食事をどうしていけばいいのかと頭を悩ませる。朝を抜くか昼を抜くか夜を抜くか、それとも一食だけにするか。

 

「もともと学校が終わる時間まで買いに行けないし」

 

 どちらにせよ、今は身に感じる空腹を我慢するほかない。ユーノを迎えに行くついでに買いにでも行くとしよう、と大きく溜息をついた。

 初めての家出は溜息しかでなさそうだった。

 もうすっかり空腹の感覚が過ぎ去ってしまった頃、なのはは魔法の練習にも疲れ、膝を抱えながらぼんやりと物思いに耽っていた。

 気を紛らわすものがないせいか、自然と過去のことから未来のこと、自分に関わる色々なことに思考がが飛んで行く。

 

「なにが明日は何もない楽しい一日になるはずだから、だ。……バカみたい」

 

 ユーノに言った言葉を思い出し、自分自身を嘲笑した。

 まだ繰り返していることに気がつく前だが、その時は何も起こらなかった。だから何も起こらないと思ったのだ。だが実際はジュエルシードは発動し皆を巻き込んだ。浅はかだった。

 ジュエルシードが発動した時、ユーノも同じことを思ったのだろうか? 自分のことを嘘つきと罵ったのだろうか? お前の言葉を信じた自分がバカだったと後悔したのだろうか? いや、おそらくそんなことを考える暇もなかったのかもしれない。

 なのははあれこれ考えを巡らし自分を責めた。そして再度「バカみたい」と呟くと顔を伏せた。

 柔らかな午後の陽が差す中、さわやかな微風がなのはの髪を優しく撫でつけ、行ったり来たりする数羽の小鳥がせわしないさえずりを響かせていた。

 

 

 

 

 そろそろ時間だろうか。

 なのはは下校時間によく見る日の傾きを感じ、ユーノを迎えに行くために腰を上げた。

 途中、今日の夜と明日の分の食料、飲料水を買うため店に立ち寄った。減った財布の中身に不安を感じながら溜息をついた。

 声が聞こえる前にユーノの元へ辿り着いた。なのははぐったり倒れこんでいるユーノの身体をとんとんと指先で軽くノックする。するとユーノはびっくりしたのか、即座に起き上がり身構えた。

 

「病院に行く?」

 

 なのはは来る間に悩んでいたことをユーノ本人に聞いてみたが、別に答えは求めていない。

 院長先生によると怪我は大したこと無いらしいし、残った魔力を治療に回したから大丈夫と本人も言っている。だからこのまま連れて行っても問題ないだろう。ただ、ユーノのエサを買うお金は無いし、寝床も準備できない。まあ、それについてもユーノは飼われているフェレットではないから、いちいちこちらが手をかけなくても心配ないかもしれない。では何が問題かというと、前回のことが心に引っかかっており、ユーノには安全な場所に居てもらって自分一人で戦ったほうがいいのではないか、と悩んでいたのだ。おそらくユーノはそれを望まないだろうが。

 自分に触れたのが少女だと知り、緊張がほぐれたようで、ユーノの身体は弛緩した。

 

《もしよろしければ助けていただけないでしょうか?》

「いいよ」

 

 念話を使ったのはなのはが魔力を持っているかの確認だろう。顔色一つ変えず即答したことに呆然とするユーノを、なのはは優しく手の内に収めると、病院には寄らず神社に戻ることにした。

 歩き出すとすぐに眠ってしまったユーノを手に感じながら、まさか保護されたのに極貧生活を過ごさなければならないとは夢にも思うまい、と少しだけおかしくなり、小さく唇を歪めにっと笑った。

 神社に着くとユーノを脇に横たえ、なのははこれからどうするかについて考えていた。

 黒い化け物はおそらく今日ここに来るだろうし、焦げ茶の獣はもともとここに出現する。とりあえず今日明日はここで待っていれば問題なさそうだ。ただ焦げ茶の獣を倒した後どうするかが問題だ。いや、そもそも確実に倒せるか自信がなかったが、倒せたと仮定してその後何処に身を潜めるのか。

 

「ま、明日考えよう。さて……」

 

 なのははユーノの首元にあるレイジングハートに目を向け、どうしようかと悩みながらしばらく見つめた。目を逸らすと、水竜との戦い方を考えることにした。

 空火照は瑠璃色に変わり、やがて星空に変わった。辺りには外灯がなく、静かな暗闇に包まれていた。

 なのははレジ袋の中のおにぎりをがさがさと漁った。おにぎりの中身が何か、手にとって確認しようと目を凝らすがよく見えない。仕方がないので、もうこれでいいやと適当に選んだ。そして、はたと気がつく。

 

「歯ブラシ持ってないや……。ま、いっか明日で」

 

 今ならまだ店は開いているだろうが、階段を往復するのはかなりしんどい。それに見慣れた場所にじっと留まるならともかく、この暗闇に包まれた神社を歩き回るのは恐かった。一日くらい磨かなくとも問題ないだろう。

 

「そっか、お風呂にも入れないんだ。それに着替えもない!」

 

 一つ気が付くと連鎖的に他のことにも気が付く。なのははずーんと沈み込み、暗鬱な目をさらに暗くして溜息をついた。

 

「ここは……?」

「あ、起きた? ふふ、ここは星空がきれいな素敵な場所。そして私は流浪の民なのは。今日からきみも仲間入りだよ。やったね」

 

 なのははユーノに視線を向けること無く、おにぎりの包を開けながら、自嘲の笑みを浮かべて言った。その声は落ち込んだ気分のせいか、憂いを帯び、疲れきり、やる気なさげだった。

 そんななのはの返答に困惑するユーノに、なのははおにぎりの半分をちぎると、取った包に置いて渡した。きっとユーノは、鵺のような人物に拾われてしまった、とでも思っているのかもしれない。

 それにしてもこのおにぎり。安かったから買ったのだが、具がやけに少ない。小さな具をわざと見えるように端に寄せてあり、見た目多く見えるが、これではただの米と海苔だ。他のおにぎりもそうなのだろうか。なのはは「騙された!」と内心で涙しながら叫んだ。

 半分のおにぎりはあっという間に無くなった。

 なのはは、もう何度も聞いたユーノの事情に適当に相槌を打ちながら、他のおにぎりを取ろうと伸ばす自分の手に気が付き、さっと引っ込めた。そして、危うく大切な食料を食べてしまうところだった、と胸を撫で下ろした。

 

「ところで、なのはさ……なのははどうしてこんな場所にいるの?」

「愚問だね。さっきも言った通り私は流浪の民。帰る家は無いのだよ」

 

 なのははこの設定が気に入ったのか、口調を変えて少し得意気に言った。きっといつかこの会話を思い出し、悶えることになるかもしれない。いや、ゲームの影響か、変わった口調やしゃべり方をすることが多々あるため、この会話に限らないだろう。

 ユーノは困ったような何ともいえない声を上げた。

 

「つまり、家出ってことでいいのかな……」

「うん」

「どうしてまた……」

「それが一番良いと思ったから。そんなことより魔法使ってみたいな」

 

 なのはは話題を切り替え、レイジングハートを受け取ると早速起動した。

 ユーノに指示を仰ぎ、魔法の練習を行っていると、ジュエルシードの反応があった。どうやら暴走体が来たようだ。

 ユーノを連れて境内で暴走体を待ち構えていると、幾許もしないうちに木の間から飛び出してきた。闇が染み付いたようなその身体は、この暗さでよく見えないが、赤く光る2点が爛々と浮かび上がっており、それを頼りに距離を予想した。

 なのはは特に気負うこと無く暴走体の攻撃を避け、一瞬のうちに封印した。なのはにとっては、この黒い化け物は最早序盤のスライム同然のあつかいだった。焦げ茶の獣が中ボスで、水竜がボスだろうか。

 封印が終わると、それにしても暗闇で見える方法はないものか、となのはは悩む。夜のプールもこんな暗さだとすると、敵が全く見えないことは間違いない。魔法でどうにかできるだろうか? きっとレイジングハートならそんな魔法を作ってくれるに違いない。なのはのレイジングハートに対する信頼は厚い。

 

「レイジングハート、暗くても見えるようになる魔法作れないかな?」

 

 レイジングハートの快い返事から待つこと数秒。足元に魔法陣が現れそして消えると、なのはの瞳は澄んだ桜色を帯び、視界が昼のように明るくなった。

 なのはは思わず感嘆の声を上げ、やっぱりレイジングハートはすごい、と喜んだ。

 これで夜の暗闇の中でも戦うことができ、何より財布の中身に余裕ができる。がんばれば巨大樹の日まで食いつなぐことも可能だろう。いいことずくめである。レイジングハートには感謝してもしきれない思いだった。なのはは少しだけ心が晴れるのを感じた。

 社殿の裏に戻った時、なのはは再び空腹を感じ始めたが、我慢して今日はもう寝ることにした。そして、バリアジャケットを解こうとしたその時、ふと閃いた。徐ろに襟元から中を覗いてインナーを確認したり……さすがにはしたないと思ったのかローブのスカートは捲らなかったが、タイツを摘んでみる。

 ずっとバリアジャケットでいれば着替えは必要ないのではないか?

 

「ユーノくん、バリアジャケットってずっと着ていられるのかな?」

「魔力が続く限り維持することは可能だけど、必要ないときは解除するのが普通かな。常に魔力を消費しちゃうからね。防御力によって消費量には差が出るけど」

「なるほど、ねえ、レイジングハート。魔力消費が一番少ない状態にしてもらってもいいかな?」

 

 なのはが言い終わるとほとんど同時に、一瞬で解除、再構築された。見た目は変わっていないが、おそらく防御力は下がっているのだろう。

 

「え、もしかして着たままで過ごすつもりなの?」

 

 ユーノはまるで不思議なものに出会ったかのような調子で聞いてきたが、なのははまるで気にせず頷いた。

 

「といっても、さすがに街中でこの姿はちょぴり恥ずかしいから制服に着替えるけどね。ありがとうレイジングハート」

 

 なのはは赤い宝石をそっと撫でると横になった。と思ったらすぐに起き上がりユーノの方を向いた。

 

「ごめん。ユーノくんの寝床作れないんだ。やっぱり寒いよね……」

「いや、僕はこのままで大丈夫だよ。気を使ってくれてありが……」

「あ、そうだ! これ使って」

 

 なのはは良いことを思いついたと言わんばかりに鞄からティッシュ箱を取り出すと、ユーノに渡した。渡されたユーノは戸惑うばかりだ。

 

「えっと……どうすればいいのかな?」

「入って寝るといいんじゃないかな」

 

 ユーノは箱をじっと見つめた後、するする中へ入っていった。そして中から頭を出すと「狭いけど悪くないかも」と少し楽しげな様子で言った。

 太陽のない静けさの中、なのはははじめ、じっと動かずにいた。

 魔法の練習により身体は確かに疲れを感じている。こうして静かに目を閉じていれば、いずれ眠れるだろうと思ったのだ。しかし、体を優しく受け止めてくれるベットではなく、この硬い地面と外の開放感がどことなく体を強張らせ、その無意識の緊張によりいつになっても眠れない。何を考えているわけでもないのに、脳は活発だった。

 花冷えする季節のせいか夜は肌寒いのだが、バリアジャケットのおかげか寒さは感じない。

 なのはは動かさずにいた身体がだんだんむずむずとしてきた。何時なのかも分からず、夜が永遠に続くのではないかと思われるほど長く感じられた。そしてついに起き上がると、眠れないと溜息をついた。

 ティッシュ箱に入っているユーノは、死んだように眠っている。やはり森で生活しているから野宿でもへっちゃらなんだろうなと、なのははユーノの適応性を羨ましく思った。

 鞄から水を取り出し一口飲んでから、眠くなるまで、月に照らされた柔らかな仄白さの中に2つの桜色を走らせた。

 月は空の旅を終え、いつとはなしに白んできた。

 なのはは光を感じ目を開いた。全然眠った気がしなかったが、いつの間にか朝を迎えているということは一応眠っていたのだろう。

 立ち上がると大きく伸びをし、何をしようか悩んだ。

 見上げた空は朝焼けで薄く染まっており空気も澄んでいた。

 なのはは、もっとちゃんと見たいという衝動に駆られ、境内から出て階段へ向かった。そして階段に腰を下ろすと、遠くに見えるバラ色と眼下の薄暗い街の対比を、飽きること無く見つめ続けた。野宿も悪くない、と思った。

 

 

 

 

 ユーノはジュエルシードを探してくると言って出かけてしまった。なのははそれを、まぁ別にいいか、と止めること無く見送った。

 ユーノには学校すらも休んでいることを告げているため、なのはが一緒に行けないことを知っている。言った時、どこか呆れたような声を上げていたが、特に咎められることもなかった。

 夜の眠りが浅かったせいか、昼時になってほわほわとした眠気が意識を包み込んだ。なのははその心地良い眠気に身を任せフードを被ると、日だまりの中、太陽に背を向けて横に丸くなった。

 普通なら固い地面が骨の節々に当たり鈍い痛みを感じるところだが、バリアジャケットはとても優秀だ。体を何度か動かし良い塩梅になると、日差しの暖かさを背に受けながら微睡んだ。

 家出をし学校を休んでこんなことをしているとは、一体誰が想像できたであろうか。誰もできまい。これではただの不良少女高町なのはだ。

 ユーノはジュエルシード発動前に戻っており、今回はユーノを連れて暴走体と対峙することとなった。考えてみれば今日一緒に戦うのは初めてであり、なんとなく新鮮に感じられた。

 なのははごくりと唾を飲み込み唇を舐めた。

 前回攻略できたとはいえそれは一度だけであり、まだ完璧とは言い難い。油断すればすぐにやられてしまうだろう。気を引き締めていかなげればならない。

 といいつつ、なのはの動きは全く危なげなく、相手の身体の動きから攻撃を予想し、絶妙なタイミングで避けていく。無意識で身体が反応するほど、もうすっかり骨身に染み込んでいるようだった。少し肝が冷えた瞬間があったが、魔法弾も難なく避け続け、なんとか今回も封印して、なのはは安堵した。

 

「なのは……すごいね」

「別にすごくなんかないよ。ユーノくんの方がすごい」

 

 何でもないようにさらりとユーノに返し、これからのことについて考える。空に浮かんだ魔法陣と穴だらけの地面のせいで、もうここには居られないのだ。

 なのはは荷物を取ってくると人目に付かないよう山を降りた。

 

「これからどうするの? 家に帰る?」

「まさか、そうだね……ちょっと見に行きたい場所があるから、そこに行こうかな。ユーノくんは?」

「もちろん僕も行くよ」

 

 なのははプールの場所の確認と、明後日の夜に忍び込めるかどうかの下見をするつもりだった。歩いて行くとなると少しばかり遠いが、ユーノもいるし色々話してるうちに着くだろう。ついでに店で買い物もしなければならないな、と考えながらなのはは歩き出した。

 付いた頃にはもう、日は沈み、辺りはすっかり暗くなっていた。

 物影に隠れ眼に魔法を掛けると、プール施設をぐるりと一周し建物を観察した。残念ながら入れそうな場所は見当たらなかった。方法は無いわけではないが、ガラスを割らなければならないため、なのはの良心が咎める。しかし、人混みの中でジュエルシードを発動させない代わりにガラス一枚割ると考えれば、どちらが良いかは明白だろう。

 

「なのはが来たかった場所ってここ? 何かあるの?」

「うーん、特に何か用事があるわけじゃないんだけど……なんとなく来たかっただけだよ。ところで今日は何処に泊まろうか」

「家に帰るって選択肢は無いのかな?」

「そうだね……じゃあユーノくんは先に帰ってていいよ?」

「え、いや、僕なのはの家知らないし!」

「うん、知ってる」

 

 もし相手がアリサなら「だったらなんで言ったのよ!」とつつかれたり、体を激しく揺すぶられるところだが、ユーノはなのはの返答にがくっと頭を落とした。完全になのはにペースを握られ、なんだか精神的に疲れてしまったのだ。しかも、いまいち感情が読み取れないため変に気を使ってしまう。決して居心地が悪いというわけではなかったが。

 なのはからしたら、ユーノのことはそれなりに知っているため、気を使わず割りと自然体だった。これが初対面の人物だとしたら違った対応になっていただろう。

 

「やっぱり山かなぁ」

 

 なのはは山のある方角を見た。ユーノもそちらを向いたがよく見えないようだった。

 山に向かう前に一先ず夕食を食べて空腹を紛らわす。そして、暗いし分からないだろうとバリアジャケットを纏うと、魔法を使いながら移動した。

 なのはには周囲の景色が昼と同じように見えるため、普段なら足がすくんでしまうような外灯の無い真っ暗道でも、全く怖いと感じなかった。

 住宅街を過ぎ、人家はまばらになり、森が見えてきた。もし一人ならば恐怖を感じただろうが、隣にはユーノが居るため心強い。

 あまり深くまで入って迷わないよう入り口周辺を歩きまわり、何処か寝るのに丁度良い場所はないかと歩きまわった。たとえ迷ったとしても、魔法で足場を作り木の高さまで上れば方角はわかるが、こんなことは初めてなため、少しでも道に近いほうが安心だった。

 最初、熊や猪に出会ったらどうしようと不安になったが、よくよく考えれば暴走体の方がずっと怖くて危険なことに気が付き、気にしないことにした。

 なのはは、ふと綺麗な緑色をした草を見つけ歩みを止めた。そして考えこむかのように謎の草をじっと見つめてから、ぷちんとちぎり手に取ってまじまじ観察した。すると何を思ったのか、口元まで運ぶとぱくりと咀嚼した。

 

「にがっ! にがっ! なにこれっ!」

 

 なのはは口が曲がりそうな程の苦さに、顔を顰めペッペッと何度も口の中の苦さを追い出しながら、すぐさま鞄から水を取り出し口を濯いだ。そして顔を青くさせながら、ひどい目にあったとぼやき、憂いを帯びた足取りで歩き出した。

 

「なにしてるの……」

「だって……美味しそうに見えたから……なんとなく」

 

 無言が気まずかった。

 結局、開けた場所などは見つからず、なのはたちは適当にその辺で眠った。

 

 

 

 

 次のジュエルシードが現れるまで、特に何処かに行くこともせず、魔法の練習と戦略を考え、時々気分転換として周辺を散策しながら時間を費やした。

 なのはは最初に比べて2つの魔法弾を大分操れるようになっていた。しかしまだまだ正確ではなく、少し注意を怠ると片方ばかりに意識が無いてしまう。これについて何かコツのようなものはないのかと、ユーノに聞いた。

 

「複数の魔法弾を操るコツねぇ。うーん……なんだろ。あまり意識しないこと……じゃないかな? 勝手に脳が処理してるとでもいえばいいのかな。なのはも音楽聞きながら歩いたり勉強したりって、複数の動作をしながら何かをする経験あるんじゃない? 気付いてないだけで日常的に並列思考は行われてるんだ。簡単に言えばそれと同じだよ。脳は意識にあがってないだけで膨大な量の情報処理を行ってて、それを上手く活用するというわけ。2つなら割とすぐにできるようになるんだけど、3つ以上となると難易度が一気に跳ね上がるし、正確さも極端に下がってしまうんだ。それで結論を言えば、まぁ、訓練するしかないね!」

 

 やっぱりそんな甘くないよね、となのははがっくり肩を落とした。

 そんな風にユーノの講義を聞いていた時、突然ユーノの動きが固まった。かと思うと首を傾げた。

 

「どうしたのユーノくん」

「いや、ちょっと魔力反応があったような無かったような……気のせいかな」

 

 やっとジュエルシードが現れる時間なのか、となのはは空を見上げた。なのはには全く感じられなかったが、ユーノは感じたらしい。ただ距離が離れすぎているためか、ひどく曖昧なものだったようだ。

 なのはは、自分とユーノが行かなければ、とりあえず今日は発動しないと予想している。それが間違っている可能性も考えられるが、今までの経験と考察から少なからず自信があった。だから夜に向かうことにしたのだ。

 

「気のせいじゃない?」

 

 きっとジュエルシードの反応だと教えれば、ユーノは今すぐ封印しに向かってしまうだろう。だからなのはは、これ幸いと何も言わず誤魔化した。

 その日の月が真上から見下ろす頃、なのははプールに向けて出発した。

 ユーノは、なのはが何をしたいのかさっぱり分からない、といった様子だったが、なのはが詳しく説明しないことと、突飛な行動をすることに慣れてしまったのだろう。ユーノは二言ほど疑問を口にしただけで、特に何も言わず付いてきた。何しろ家出をして山に籠もるし、暴走体もあっという間に封印してしまうし、何もかも知っているというような雰囲気を醸し出しているし、掴みどころがない、そんな少女だ。もうそういう、自分の常識が通用しない特別な……つまり変人なのだと、この4日間でよく理解していた。

 なのは自身、わざとそんな態度をとっているわけでないため自覚はない。ただ、抱いた疑問はすでに前の世界で聞いており、何が起こるのかもユーノの人柄も知っていて、毎回自分の行動について説明するのが心底面倒臭いだけなのだ。決して不思議系少女でも変人でもなく、ただの平凡少女にすぎない。

 この悲しき認識のすれ違いのおかげで、なのはは円滑に行動できていた。

 到着すると、足場を作って屋根まで上り、屋内プールの窓ガラスに近づいた。なのははガラスの硬さを確認するようにノックすると一歩下がり、ハンマーを出現させ軽く握りこんで横に構えた。

 

「ねえ……ねえ、なのは……何するつもりなの?」

 

 ユーノも眼に魔力を纏わせているため、なのはの動きがよく見えていた。

 なのははユーノの声を無視して腰を捻りハンマーを加速させた。と思ったらぶつかる直前で止め、顎に手を当て少し考え込んだ。隣のユーノはほっと胸をなで下ろしていた。

 きっと普通にやっても一撃で綺麗に割れてはくれないだろう。どうせ割るなら一撃で綺麗に割りたい。

 妙案が浮かんだのかもう一度構え直すと、圧縮魔力を纏わせ、ガラス目掛けて軽く振った。それがガラスと接触した瞬間、魔力が炸裂、ガラスは弾けるような小気味よい音を立て、木っ端微塵に吹き飛んだ。

 なのはは全身を駆け巡る爽快感に打ち震えた。

 

「え、ちょ、何してるんですかなのはさん!?」

 

 今この瞬間、ユーノ中で、なのははなのはさんにクラスチェンジした。

 

「さ、行こう」

 

 なのははユーノをフードの中に押しこみ、室内にいくつかの足場を作り降りていく。その態度は泰然としているように見えるが、当然ながら暴走体と戦うのはとても怖い。あの窒息の苦しさも、攻撃を食らった時の痛さも、想像しただけで今すぐ引き返したくなる。お前はバカか、倒せるわけがないだろう、やられることが目に見えてるじゃないか。そんなことを叫ぶ自分がいた。しかし、今までだってその恐怖をねじ伏せて勝利を目指し戦ってきた。今回もそれと変わらない。

 なのはは先日の、繰り返した日の朝のことを思い出していた。恐怖も不安も無い、すっと澄み渡ったまっさらな心の状態。どこまでも冷静で、自分の湧き上がる感情にすら客観的なもうひとりの自分。そんな戦い続けるための心の状態を思い出していた。

 ジュエルシードはすぐに反応した。それに気づいたユーノが直ぐ様結界を張った。

 床まで降りること無く、宙に浮く魔法陣で待ち構え、そこを先頭に幾つもの足場を横一列に構築していく。

 移動できなければ攻撃を避けることすらできない。少しでも自分にとって戦いやすい環境を作る必要があった。しかし、数が全然足りない。十数個の足場を作った時点で水竜は姿を現し、淡い水色の光を放つ幾つもの水球を発射する直前だった。

 

「なのは……これまずくない? あんなの……」

「あんな倒せそうにない。でも戦わなきゃいけないんだ」

 

 なのはは隣の魔法陣にすっと移動し、一瞬止まってからすぐにまた隣へ移動した。それと同時に水球が目の前に迫り、先ほどまで居た2つの足場を破壊した。それを確認すること無く、新たな足場を継ぎ足しながら避けていく。時々移動している最中に、水中に潜む鎖が足場を突き破り伸びてくるが、レイジングハートが小さな魔法陣のようなシールドで的確に受け流していった。

 まるで機関銃のごとく発射される水球に、足場の供給が間に合わない。なのはは無意識に、2つの魔法弾を操る要領で足場を2つずつ作ることを試みた。

 

「ユーノくんも作って!」

 

 なのはの切羽詰まった声に、ユーノもなけなしの魔力を使い足場を作った。これで僅かに余裕が出来る程度に供給が追いついた。

 桜色と翠の魔法陣がまるで道のように連なり、なのはたちの命を繋ぐ。ただそれはランニングマシンで走り続けているかのように、なのはの体力をガツガツ削った。

 目の端で水球が止んだ瞬間を捉えると、なのはは一旦足を止め、水竜が水中に消えるのを確認した。それと同時に一番端っこの足場に跳んだ。

 先程いた足場と近くの足場2つを突き破って姿を現した水竜に、なのはは間髪入れず全力で魔法弾を放った。その鋭い一撃は水竜の身体に強烈な衝撃を与え、その硬い鱗に罅を入れた。

 水竜は一度宙で静止すると、再び水中に潜った。なのはは急いで身を翻し、足場を作り、その上を駆けて、飛び移って、水竜からの攻撃に当たらないよう距離を取ろうとした。

 水竜はなのはを翻弄するかのように、出鱈目に飛び出しては潜り、その長大な身体で暴れまわった。鞭のように翻る尾は、それだけで必殺の威力を持ち、激しい水しぶきをまき散らす。

 後を追ってくるのかと思いきや、突然なのはの目の前から出現した。回りこまれ、不意を突かれたなのはは、為す術もなく、予測の付かない暴力の嵐に巻き込まれた。

 静かになった室内に、激しい波の音だけが反響した。

 



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プールの竜・後

 日が沈む直前の薄暗がりの中、なのはは砂で汚れた緑のライターを使い火を起こした。

 冒険の物語で主人公と旅の仲間が、火を囲み、語らい合いながら夜を越す。何回前だったか覚えていないが、なのはは森の中を歩いている時、突然それが頭に思い浮かびその光景を夢想した。頭の中で描かれたその光景はどこか味わい深く、魅力的で、心踊るような憧れをなのはに与えた。早速その次の山篭りでなのはは憧れを実現させた。周りにいるのはフェレット一匹と相棒のレイジングハートだけだったが、一応旅の仲間と言えなくはない。

 今自分は物語の一場面と同じ体験をしているんだ!

 なのはは自分のいるその空間を強く意識し、憧れた光景を重ねて、静かな興奮と自己満足に浸った。しかしそれは最初の数十分だけで、しばらくするとほとんど平静になってしまった。実際に体験してみると、思い描いていた光景にあった味わいがあまり感じられない。まるで微睡みの中で見た夢はあんなにも楽しく感じられたのに、目覚めて振り返ってみると実はそれほど楽しくなかった時のようだった。

 なのはは、ぼんやり想像しているうちが一番楽しいのかもしれない、と何だか虚しさを感じた。風向きによって襲い掛かってくる煙が目に染みた。

 とはいえ、現実には現実の楽しさがあり、なのはは揺らめく焚き火の炎にすっかり心を奪われてしまった。それ以来山に来ると、こうして焚き火をするようになった。もちろん火事にならないよう後始末には念を入れているが、なのはは火遊びをしない良い子ではなく、本格的に不良少女の道を歩み始めていた。

 火を囲みながら、ユーノの過去の話や魔法が使われている世界の話、あるいはなのは自身の過去の話や家族、交友関係についてなど、どちらからと言わず思いついたことをお互い語り合った。

 なのはにとって、それは過去に何度も聞いた話で何度も話した内容であるが、こうやって炎で淡く照らされた空間にいると、不思議と穏やかで優しい気持ちで語り合えた。

 ユーノは魔法学院を卒業しているらしい。なのははそれがどれほどのものなのかなよく分からなかったが、その後、遺跡発掘の指揮を任されていたようであるから、相当頭が良いのだろう。いつだったか初めてその話を聞いた時、フェレットが遺跡発掘の指揮を執っている姿とか、現場は皆フェレットなのだろうか、とか、フェレットしか住んでいない世界なのだろうか、とか、フェレットの通う学校は樹の穴なのだろうか、とそれぞれの光景を想像し妄想を膨らませ、なのははなんとも抑え難い笑いにとりつかれた。まるで昔話でおじいさんを歓迎してくれるネズミやスズメたちみたいだと思った。

 そこでなのはは笑いを噛み殺しながら、その溢れる疑問をユーノにぶつけ「ユーノくんの居たところはフェレット天国だね」と言った。するとユーノは吹き出した。

 なのははその反応に、もしかして間違っていたのだろうか、自分はおかしなことを聞いてしまったのだろうか、と内心不安になった。ユーノは「この姿は魔法によるものなんだ。皆がこの姿で生活してるなんて……くく……なのはは面白いこと言うね! 想像したら僕まで笑えてきたよ!」と目を細め声だけで笑った。そしてユーノの姿が光ったかと思うと、それは人の形に変わり、光が消えると、そこにはなのはと同じくらいに見える可愛らしい金髪の少年が笑いながら佇んでいた。

 なのはは目を白黒させながら何か言おうと口を動かすが、驚きと恥ずかしさで声が出ず、魚のようにパクパクさせるだけだった。

 ユーノは人だったのだ。遺跡発掘の指揮を執るフェレットリーダーではなかったのだ。しかも自分と同じくらいの少年だ。フェレットだから少年のような声なのだと思っていたが違ったのだ。なのはは尋常ではない衝撃を受けた。

 なのはは過去を振り返ってみるが、名乗りはしても、自分の年齢を教えたこともなければ、ユーノの年齢を聞いたこともない。そもそもフェレットの年齢なんて普通気にしないだろう。考えたとしても、犬や猫のように歳のとり方が違うかも、程度だ。

 一体何故そんな姿をしているのかと今何歳なのかを聞いてみると、この姿でいるのは魔力の消費を抑えられて怪我の治りも早いから、そして年齢は9歳とのことだった。同い年のユーノが学校を卒業して責任ある仕事に就いて異世界を跨いでいることに、なのはは言い表せぬ焦燥感を覚えた。

 その時から、ユーノと話す時なのはの脳裏には本来の少年の姿が描き出され、話す声の調子によりその少年の表情もころころ変わるのだった。

 

「なのは、僕はそろそろ寝るよ。なんだか眠くなってきちゃった」

「うん、おやすみ。きっとまだ回復しきってないからだよ。ゆっくり休んで」

 

 持ってきた時計に目を向けると21時を回っていた。

 夜は長い。今寝てしまうと、夜明けには程遠い変な時間に目を覚ましてしまう。魔法を使えば暗闇でも見えるようになるが、まだ寝る時間なのにわざわざ起きて活動するのはなんとなく面倒くさかった。もう少ない時間で魔法の練習をする必要はなく、日が昇ってからでも飽きるほど練習できるのだ。

 

「なのははまだ寝ないの?」

「まだ眠くないからね、もう少し起きてるよ」

「そっか、火の後始末に気をつけて。おやすみ」

 

 そう言うとユーノはティッシュ箱に潜り、数秒ほどカサカサと音を立ててから全く動かなくなった。

 あの少年が箱から頭だけ出して「狭いけど悪くないかも」なんて楽しげに言うのだ。思い浮かべると、なんだか可愛くて笑えた。

 草木に巨大な影を撒いている揺れ動く炎を、なのはは膝を抱えじっと見つめていた。森閑とする夜の森に、パチパチと木が弾ける音が響く。葉っぱを敷き詰めた地面に腰を下ろすもどこか湿っぽく、積もる枯れ枝が臀部に当たった。時々、燃やしている木が短くなると、周囲の重なり合う枯れ枝を一本引き抜き、細い両腕に力を込めた。そして軽くしなった後、ようやくバキンと折れたそれを火の中へ放り込む。枯れ枝から生えている刺のような茶色い葉っぱはよく燃えた。

 こうして一人何をするでもなく暖かな熱を頬に感じ、不規則な火のゆらぎを黙って眺めていると、繰り返す前の楽しかった日のこと、魔法に出会って今に至るまでの日々、それらが次から次へと浮かんできては消えていった。なのはは未来を想像しながら、私はできる、私は絶対に負けない、私は強くなれる、と呪文のように何度も口の中で唱えた。そして度々自身の心の奥からぽっと生み出される、あらゆる問い掛けについて黙考し、その答えを探した。

 なのはは基本的に繰り返した日の朝は学校へ行かず神社に向かっていたが、時々、どうしようもなくやるせない気持ちになり、親友に会いたい衝動に駆られたことが何回かあった。その時は初日だけ学校に足を運んだ。突然抱きつかれたり、泣きだされたり、2人はどうすればいいのか分からずあたふたしていたが、優しくなのはを受け入れてくれた。一緒にふざけ合うだけで、まるで魔法のように心のモヤは晴れ、穏やかな気持ちになり、元気づけられた。そして頑張ろうと思えた。もし2人がいなければどうなっていただろうか。戦い続けられたとしても頭が狂っていたかもしれない。それほどまでに2人の存在は、なのはの精神の安定と人間らしさの維持に大きく関わっていた。

 

「釣り行けなかったな」

 

 ふと今ごろになって突然、恭也との約束を思い出し、消え入りそうな声が口から零れた。その瞬間、脳裏にはぱっと恭也の顔が閃き、一緒に風呂に入って語り合ったことと、約束通りに釣りに行った時のもしもの光景がぼんやり浮かんだ。するとこの暗い森の中で一人、未だこんなことをしている自分の情けなさと悲しみが、一瞬、つむじ風のように心を掠めていった。それはいつかの、負の感情の嵐が心に吹き荒れ一人泣きじゃくった時と同じ、皆と離れることを決めた日の朝と同じ類のものだった。

 なのははその前兆を敏感に感じ取ると、全ての思考を放棄し心に小波すら立てぬよう感情を殺そうとした。しかしそんな努力も虚しく、じんわり目頭が熱くなったかと思うと視界が曇り始めた。考えてはいけない、泣いてはいけないと、心の中で何度も何度も繰り返し一生懸命止めようとした。すすり泣きを飲み込もうと唇を噛み締めた。それでも自分の意志とは無関係に涙は込み上げてくるばかりで、目蓋が炎の淡いオレンジに反射して光ったかと思うと、大きな二粒の涙となり、目を離れゆっくり頬を伝った。いったん流れだすともう止まらなかった。

 唐突に、胸元から声を掛けられた。なのはは一瞬はっと呼吸が止まり肩を跳ね上げた。すっかり沈黙だったため、自分の胸元にいる意思を持つ相棒のことが、頭からすっぽり抜け落ち、この場で起きているのは自分だけなのだと勘違いしていたのだ。よりにもよって、まさかこの状況で声を掛けられるとは想像もしていなかった。

 なのはは、かっこ悪くて恥ずかしい今の姿を見せて心配かけさせるわけにはいかないと、急いで目元をぐしぐしと拭った。それから胸元のレイジングハートを持ち上げ、どうしたのかとひきつった声で尋ねた。薄く笑みを浮かべ何でもないかのように振舞っていたが、目元は赤く腫れ、悲しみの名残りが喉を締め付け、時々痙攣的に息を詰まらせた。

 幾許の沈黙の後、レイジングハートがぽつりぽつりと何かを話し始めた。それは普段のように一言だけで終わるものではなく、言葉を選びながらの長い話だった。最初は恐る恐る、そして次第に熱がこもりはじめた。これほど長い言葉を聞いたのは初めてだった。

 状況的に慰めてくれているのだろうか。しかしその雰囲気はそんな同情という単純なものではなかった。それは勇気を振り絞り何か強い意思と決意を込めたような、真摯な言葉だった。まるで自分の内に秘めていた全てを打ち明けるかのように。

 なのははそれを感じとると、表情を引き締め耳を傾けた。いつものように憶測で返事をするわけにはいかなかった。

 レイジングハートの声が止まった時、なのはは非常に申し訳無さそうに眉をよせ、何と答えようか内心でおろおろしていた。

 

「えっと、あのねレイジングハート…………その、なんというか、ごめん。今更なんだけどね、言葉が……レイジングハートの言っている言葉が全然わからないんだ。実は今まで、何て言ってるかその場の雰囲気で予想してただけなの……」

 

 なのはは目を伏せて、自分の悪事を謝罪するような調子で言った。

 まるでその場から意志ある存在が突然消えてしまったかのように、何の言葉も発せられなかった。ただ木の弾ける音と暗闇に隠れる森の囁きだけがはっきり聞こえていた。

 この沈黙は永久に続いているのではないか。そう思えるほどこの短い沈黙は居心地悪く、息が詰まりそうな重い空気がどんより漂っていた。なのははその空気に身動き取れず、申し訳無さにしゅんとしながら、ただじっと耐えていた。手に乗せているレイジングハートが重く感じられた。

 いずれ言わなければならないと思っていた。でも今まで何とかなっていたし、いつかそのうち、もっと仲良くなってからそれとなく指摘すれば、もしくはユーノを介して伝えればいいだろうと考えていた。繰り返す必要がなくなってからでも遅くないと思っていた。もし話すとしたら気楽な状況で話そうと予定していた。それなのに、まさか泣いてる時、しかもとても深刻そうな様子で、今まで聞いたことがないほどの言葉数。こんな状況で伝えることになるなんて、なのはには想定外であり、青天の霹靂であり、不意打ちだった。心の準備なんてできていなかった。

 なのはは先程とは違う涙を流しそうになりながら、何故最初に言っておかなかったんだ、と胸の中で泣き言を何度も呟いた。

 レイジングハートが若干熱を帯びているのは怒っているからなのだろうか。

 

”モウシワケアリマセン……スコシバカリオジカンを”

 

 この重い空気を切り裂くように発せられたレイジングハートの声。それは抑揚や発音が不自然で音声合成のようだったが、確かに日本語だった。

 なのはは突然のことに思考が止まり、ようやっと何か返事をしようとした時、再びレイジングハートが声を発した。

 

”気が回りませんでした。申し訳ありません”

 

 その謝罪の言葉は流暢な日本語であり、どこと無くなのはの声に似ているように感じる。

 

「ううん、こっちこそ黙っててごめん、ね」

 

 なのはは驚きで目を見開き、未だ状況を理解できていないような声で答えた。こうしてレイジングハートと会話していることに、まるで夢を見ているような奇妙な感覚を覚えた。

 

「日本語上手、だね?」

 

”ありがとうございます。今まで気が付かなかったことを恥じ入るばかりです”

 

「えっと……それで、さっき何て言ってたのかについてなんだけど……」

 

”それは…………それはあのっ……わたし、が……”

 

 レイジングハートは何だか言いづらそうに言葉に詰まってしまった。それは先程の決意の篭った長い言葉を発するのに、もうすっかり勇気を使いきってしまったかのようだった。そんな人間臭さを感じさせるレイジングハートに、なのははなんだか親近感を覚え、応援したい気持ちになった。そして深い愛情で包み込むように優しく声を掛けた。

 

「レイジングハートがどうかしたの?」

 

”わたしが、私がずっと……ずっと傍にいます……そう言ったのです”

 

 それはまるで愛の告白だった。なのはは固まり何度もその言葉を頭の中で反芻した。そして泣いてる自分を安心させたかったのだと気付いた。レイジングハートはこれを言うために勇気を振り絞っていたのだ。なんでもないような簡単で短い言葉だった。しかし、それには溢れんばかりの思いが込められていた。

 なのははたちまち嬉しくなって、この小さな相棒が可愛くて堪らなくなった。口元に自然と笑みが浮かぶのを感じた。先ほどの言葉はもっと長かったはずだが、そんなことは気にならなかった。

 

「ありがとうレイジングハート。おかげですごく元気が出たよ。レイジングハートが傍に居てくれるなら何も心配いらないね」

 

 レイジングハートは恥ずかしさを隠すように、無言で数回光った。なのはは炎に視線を移し、口元に優しい笑みを浮かばせながら、温かい気持ちに心を委ねた

 居心地の良い短い沈黙の後、レイジングハートは静かに心の内を吐露しはじめた。

 

”私はずっとご主人様のことを見てきました。何度も立ち上がり、諦めること無く立ち向かうその姿をいつも傍から見てきました。ですが私は……私にはそんなご主人様を守ることも、勝利に導くことも、痛みを和らげることも……涙を拭いてあげることさえできません。こんな頼りにならない無力な私ですが、少しでもご主人様の力になりたいのです。なにか……何か私にできることはないのでしょうか”

 

 何をそんなに深刻そうに話していたのかと思えば、全てはなのはのことを思っての真剣な言葉だった。なのはは、まさかレイジングハートがこれ程までに自分のことを思ってくれているとは想像もしておらず、すっかりどぎまぎしてしまった。しかしそれに応えるため、なのはも自分の今思っている素直な気持ちを伝えた。

 

「私はレイジングハートが頼りないだなんてこれっぽっちも思ったことがないよ? いつも頼りにしてる。私はレイジングハートがいてくれなきゃ何もできないただの子供だよ。レイジングハートは頼りなくなんかないし無力でもない。私の大切な大切な相棒だよ」

 

 レイジングハートはそれきり、すっかり黙りこんでしまった。

 なのはは片手で地面から枝を引き抜くと、火の中に入れた。心は暖かくぽかぽかしていた。しかしふと、レイジングハートの言葉に違和感を覚えた。

 

「レイジングハート、さっき私は諦めること無く何度も立ち向かうって言ったよね。あれって……どういう意味かな」

 

”はい、そのままの意味です。ご主人様は何度やられようと、決して逃げることなく挑み続けています。ここまで来るのにどれほど努力したのか、私は知っています”

 

 この世界ではやられている姿など見せていない。

 思考よりも先に無意識が一瞬のうちにレイジングハートの言葉と事実を結び付け、ひとつの答えがぼんやりと浮かんだ。すると、未だ頭で上手く理解できていないにも拘らず、なのはの心臓はドキリと跳ね上がり、鼓動が急激に早くなった。外にその音が聞こえているのではないかと思うほどだった。全身が震え出すのを感じた。

 

「私が……黒い化け物……最初の暴走体に手も足も出ずにやられたこと知ってる?」

 

”はい、今でも鮮明に。ご主人様と出会った運命の日です。忘れることなどありません”

 

 間違いない。レイジングハートも繰り返していたのだ!

 無意識に潜んでいた答えが確信となって現れた。なのはは頭の中がぐちゃぐちゃになって、何を言えばいいのか、どうしたらいいのか、何もわからなくなった。まるで魂が抜けていくかのように気が遠くなるのを感じた。

 ずっと一人ぼっちだと思っていた。誰も覚えていない過去を背負い、一人ずっと戦い続けていくんだと思っていた。それが重くて辛いだなんて考えたこともなかった。

 

「レイジングハートも……繰り返してたの?」

 

 でも、同じ過去を共有する存在が目の前に現れた時、それが押し潰されそうになるほどの重荷になっていたことをはっきりと感じた。

 

”はい、理由は分かりませんが、私はご主人様と契約して以来、ご主人様が力尽きると同時に契約直後に戻っております”

 

 自分だけではなかった。そう思った瞬間、重荷はすっと軽くなり、なのはの目から涙が溢れた。

 

 

 

 

 明るくなった森の中、なのはとレイジングハートは明日の戦いについて考えていた。

 なのはの気分は、思いがけない運命の仲間の登場によりとても軽やかだった。

 なのははノートを取り出し絵図を描いてみた。が絵が下手だからか正直わかりづらい。しかしレイジングハートは正確にその意図を読み取ってくれた。

 レイジングハートの声は真剣であるが、どことなく幸せそうな雰囲気が滲み出ていた。なのは自身も、誰かとこんな風に試行錯誤して何かを成し遂げようとすることに楽しさを感じた。これまでの一人で戦略を考え、ひたすら魔法の基礎を練習するのとはまるで違った。

 

「ねえ、ふたりとも何について話してるの?」

 

 ユーノは仲間はずれにされているのを感じたのか、不満そうな声だった。なのはの脳裏に不貞腐れている少年の顔が浮かんだ。

 

「それに何だか随分と仲良くなったね」

 

”ユーノ、悲しいことにこれまで私とご主人様の運命は一度交わったきり平行線を辿っていました。しかし運命は再び交わり、今度は決して離れることの無い一本の線となったのです”

 

「はぁ……なんだか抽象的で深い話だね。それとふたりが今話していることにはどういう繋がりがあるんだい? 僕もその一本の線に混ぜて欲しいな」

 

”気付いてないだけであなたは何度も交わっています。そのうちいつか混ざることもできるのではないですか。知りませんけど”

 

 なんだかユーノが可哀想に思えてきたなのはは、優しく声を掛けた。

 

「ユーノくん、ごめんね仲間はずれにしちゃって。実は次に暴走体が現れた時どうやって倒そうか話し合ってたんだよ」

「そうなの? でも次の暴走体なんてどんなやつなのか分からないし、暴走体になるかも分からないんじゃない?」

 

 なのはもレイジングハートも無言になった。これがユーノが一本の線になれない理由だった。だがそれは仕方がないことだ。責めることはできない。レイジングハートが特別なだけなのだ。

 なのはは少し悲しそうに微笑みながら言った。それは恭也と釣りの約束をした時と同じ微笑みだった。

 

「まぁそうなんだけど……あまり深く考えちゃいけないよ。ユーノくんも一緒に考える?」

 

 なのはたちはノートを前に頭を捻った。

 なのはは水竜の攻撃をほとんど失敗することなく避けられる。失敗したとしてもレイジングハートとユーノが防いでくれる。しかし、相変わらず火力不足と体力不足に悩まされていた。そもそも相手の攻撃が間断なく襲ってくるため、接近することもできなければ攻撃をする機会もほとんど無かった。一応、ある攻撃を避けきった直後に大きな隙ができるのだが、体力不足によりそこまで辿り着くのが非常に困難だった。

 

「水の上で戦うのはいいとして、移動手段が足場っていうのが良くないね。どんなに自分に有利に並べたとしても一回で壊されるんじゃ後が続かないよ。たしかに細かい動きは可能になるけれど、その分体力も使うし魔力も使う。絶対に足場じゃなきゃ駄目な理由でもあるのかな? もしそうでないなら空を飛んだほうが賢明だと思うんだけど。それと防御を抜くには最大魔……」

「ちょっと、ちょっとまって。空を飛ぶって何それ」

 

 このフェレットは突然何てことを言い出すんだ。なのはは思わずユーノの言葉を遮った。ユーノ曰く、空中を自由に飛ぶ魔法で、割りと難易度の低い魔法らしい。なのはは、そんなものがあるなら何で先に言わなかったのかと内心で絶叫した。レイジングハートに知ってたかと尋ねると、言わずともいずれ自分で辿り着くと思っていたらしい。過大評価すぎる。なのははもっと早く教えて欲しかったが、それを言えば落ち込んでしまうだろうと考え言えなかった。

 

「いやぁ、ごめん。なのはは僕が教える前に何でもできたから、飛行も当然できるものだと勘違いしていたみたいだ。なのははつい数日前に魔法を使えるようになったばかりなんだもんね。忘れてた」

 

 なのはは早速飛んでみたいと思ったが、ぐっと堪えて作戦会議を続行した。

 

「防御を抜くには最大魔力をぶつけるのが手っ取り早いんだけど、そのためには放出や集束が上手くなきゃいけない。バリアを抜くだけなら相手のバリア能力を上回るバリア貫通能力を付与すればいいけどね」

 

”ご主人様の直射型射撃魔法の練度は、速度威力共にかなりのものです。それはきっと日々の修練と命を懸けた実戦によるものなのでしょう。ですが、やはり元の魔法の威力自体が弱いため、暴走体に必殺の一撃を与えるのは今のままでは厳しいです。威力を求めるなら砲撃魔法を極めるべきです、が……そうですね、砲撃魔法を今から練習したところで時間の無駄です。長所を伸ばすとしましょう。私に少しばかり案があります”

 

「加速と魔力の増大かな?」

 

”ええ、その通りです。ご主人様は今の射撃魔法の威力だけで数回の直撃で相手の防御を砕くことが可能です。それの性能を底上げします。ついでに弾着直後の適切なタイミングで魔力開放するよう調整すれば、それなりのダメージを与えられるかと”

 

「でもそれはかなり難しんじゃないかな。たしかになのはは魔力制御がとても上手だけど、そこまでできるとは思えない。仮に加速増大が行えたとしても、タイミングの調整なんて熟練者でも早々できることでもないと思うんだけど」

 

”そのために私がいるのです。これから私も微力ながら協力させて頂くことになりました。何も問題ありません”

 

「レイジングハート……きみはそんなことができるのかい? 僕の時もその微力を振るって欲しかったな……」

 

 なのはが何か言わずともどんどん話が進んでいく。

 なのはは話を聞きながら身体がぷるぷる震えていた。2人があまりにも頼もしかった。今まで滞っていた全てが今急に動き始めたかのように感じた。先の見えなかった道がぱっと開けたかのように感じた。一人だと進めなかった道も、今ならどこまでも進んでいけそうな気がした。

 一通り意見が出尽くすと実際にやってみようということになった。レイジングハートが作った魔法でなのはとユーノの意識に介入し、まるで現実と変わらない仮想空間で水竜戦を再現する。なのはは、こんなものがあるならもっと早く使いたかった、と思わずにいられなかった。

 気がつけばもう夜だった。

 一体どれほどの時間が経過したのかも分からなくなるほど何度も繰り返し、なのはもユーノもへとへとに疲れ、頭は鉛でも入っているかのように重かった。なのはは練習が終わったら空を飛ぼうと考えていたが、今はもうそれどころではなく、夕食を食べるとすぐに寝ることにした。

 ユーノは今日、なのはとレイジングハートの行動に多くの疑問を持ったはずだが、とくに何を言うでもなく付き合ってくれた。おそらく明日、暴走体を倒せた時に我慢できずに聞いてくるだろう。その時に何を言うか考えて置かなければならない。

 なのはは明日への不安は全く無く、気分はとても良かった。この疲れすらも心地よかった。この日は横たわるとすぐに眠りに落ちてしまった。

 

 

 

 

 なのははプールに進入するため、屋上に上がった。

 暴走体に挑むのはもう慣れているはずだった。しかしなのはは今緊張していた。昨日はレイジングハートとユーノで完璧に攻略できるよう何度も練習した。今日も確認のために数回行い、疲れない程度に魔法の練習もした。今までに無いくらい万全な状態だった。それでも何故か心臓がドクドクと高鳴っていた。

 なのはは緊張を振り払うかのようにガラスを吹き飛ばすと、勢い良く室内へ飛び込んだ。そして覚えたばかりの飛行で宙に留まると、桜色の小さな球を天井の丁度中央辺りに設置して暴走体を待ち構えた。

 この設置した球からは視覚情報が送られてくる。つまりこの場合、真上から見下ろした映像が意識に届く。随分前にレイジングハートに頼んで作ってもらったのだ。サーチャーというらしい。

 

”大丈夫です。ご主人様は一人ではありません”

 

 緊張を解そうとしてくれているのだろう。なのははレイジングハートの言葉に笑みを返し、ハンマーを握り直した。少しだけ落ち着いた気がした。

 

「なのは、ここって……練習の時と同じ場所じゃない?」

「そうだね不思議だね。練習通りにいったら説明するよ。ユーノくん結界張って」

 

 なのはが言い終わると同時にジュエルシードが発動、ユーノは急いで結界魔法を使った。

 暴走体を見たユーノが再び何か言おうとしていたが、結局何も言わずに言葉を飲み込んでいた。

 目の前にはいつものと変わらない、水球を纏った水竜が佇んでいた。

 

「なのは来るよ!」

 

 なのはは高速で迫る水球を必要な分だけその場から移動し、滑るように避けていく。まだやっと安定して飛べる程度の飛行技術だが、こんな攻撃は何の問題にもならない。足場を作ることに意識を割かなくてすむようになったため、随分と心にゆとりができていた。全く被弾する気がしない。

 なのはが避けている間、ユーノは移動しやすい配置を考えながら足場を作っていた。

 なのはは攻撃が止むのと同時に足場の一つに着地し、水竜が潜るのに合わせて別の足場に跳び移った。慣れない飛行よりも魔法を使って床を蹴る方が移動速度は速く、急激な方向転換も可能だった。

 サーチャーで出鱈目に動きまわる水竜の移動方向を見極め、距離を一定に保つ。

 この長大な体を思う存分振り回す攻撃に一体何度巻き込まれたことか。暴れるという単純な攻撃ではあるが、その威力と範囲、移動速度は凄まじい。何も考えずに逃げ回っていると、すぐに嵐の真っ只中に取り込まれてしまうのだ。

 

「いい感じだね、なのは」

「まあ、ね! でも本番はこれから。足場切らしちゃ、駄目だよ!」

「もちろん! ……なのは、今僕は心臓が破裂しそうなほど緊張してるよ」

 

 なのはは髪の毛にしがみつくユーノの報告を無視して、避けることに集中した。少しだけ息が弾んでいるが、今までに比べたら大したことはない。

 避け続けていると水面から一つの水球が出現し、なのは目掛けて飛んできた。それを避けていると今度は2つに変わった。そして3つ、4つと増えていき最終的に10を超える数がなのはを襲った。

 いくつかは水竜自身の攻撃でかき消されることもあるが、それでも避けるのは困難を極める。実戦でこれを避けきったのはかつて一度しか無い。しかしその一度だけで十分だった。これを耐えれば水竜に大きな隙ができることが分かったのだから。その時必殺の一撃を加えられるよう、昨日練習しまくったのだ。

 水竜と距離がある時は飛行しながら水球を避け、水竜が近づきそうになると足場を使ってその場を移動した。レイジングハートはもう数え切れないほどバインドを弾いていた。

 水球が止み、水竜の動きがピタリと止まった。まるで、疲れたからちょっと休憩します、とでもいうように明後日の方を向いてじっとしている。猫が突然動きを止め、何もない空間を見つめる様子にも似ている。

 

”ご主人様”

 

「なのは!」

 

 なのははレイジングハートが新しく作った術式に魔力を流し魔法弾を作る。レイジングハートの補助により、自分の限界を遥かに超える緻密で完璧な魔法制御が行われた。その分魔力も一気に吸い取られてゆく。際限なく魔力が吸い取られ魔法弾がどんどん巨大化、高密度化していくため、なのははなんだか恐くなり、ある程度のところで供給を止めた。

 魔法弾は球体ではなく先の尖った弾丸の形をしており、なのはの胴ほどもあった。密度が高すぎるのか、その色は桜色というより赤紫に近かった。さら目の前には、魔法弾より一回りほど大きい3つの環状魔法陣が、砲身のようにまっすぐ並んでいた。弾道の計算や修正、環状魔法陣の制御は全てレイジングハートに任せてある。

 

”準備出来ました”

 

 なのはは動かぬ水竜を見据えながら息を吸い込むと、合図するようにハンマーを振り声を上げた。

 

「撃てー!」

 

 それとほぼ同時にユーノは何かに気付いたように声を発したが、宙に浮く魔法弾は動き出し魔法陣を通過した瞬間、圧縮、加速、回転が行われ、視認できない速度で放たれてしまった。そして全てが桜色に包まれた。

 なのはたちは吹っ飛ばされ、壁を突き破り、ごろごろ転がって結界手前で止まった。レイジングハートとユーノが瞬時に張ったバリアのおかげで大したダメージはない。

 なのはは何が起こったのかさっぱり分からなかった。自分が吹っ飛ばされたことすら認識していなかった。顔をあげると建物の屋根や壁がほとんど無くなっていた。

 

”ちょっとだけ加減を間違えたみたいです”

 

「ちょっと!? あれのどこがちょっとなの!? 危うく死ぬところだったよ!」

 

 ユーノはなのはのフードから飛び出すと、レイジングハートに向かって悲鳴を上げた。

 

「あんな密度の魔力を爆発させたらどうなるか分かるでしょ!?」

 

 なのははここにきてようやく状況が理解できた。どうやら爆発の威力が強すぎたらしい。練習時は軽く爆風が吹き付ける程度だった。思えば、今回は魔法弾の色が濃く、魔力も多めに吸い取られていた。魔力増大と圧縮がどの程度の比率で行われたのかはレイジングハートにしか分からないが、本人の言うとおりちょっと加減を間違えたのだろう。

 

”申し訳ありませんご主人様。失敗してしまいました”

 

「勝利が目の前に迫ると焦ったり、気分が昂ったり、つい力が入り過ぎちゃうんだよね。今回はなんとか無事だったし、次から気をつけよ?」

 

 なのははふらつきながら立ちあがると、とりあえず壊れた建物の中に入ることにした。中に水竜はおらず、水も元からあった量しかなかった。ジュエルシードの魔力で作られたものだから、封印されると同時に無くなってしまったのだろう。

 水竜が最後にいたプールの底にジュエルシードが3つ沈んでいた。なのはは足場を作ってその真上まで移動すると、うつ伏せになり、ハンマーを目一杯水中に伸ばしてレイジングハートの中に取り込んだ。

 張り詰めていた気が一気に緩んだのか、腕を水中から引き上げると同時にぐるりと仰向けになり、手も足も放り出して大の字になった。身体は気怠く頭はぼーっとしていた。

 

「疲れた」

 

”お疲れ様です。とても格好良かったです”

 

「あれだけ動き回れば仕方がないよ。僕には真似できそうにない」

 

 なのはは、ぽっかり空いた天井から見える翠の空を見つめながら、ハンマーを抱き寄せた。そして埋め込まれたレイジングハートを柔らかな頬にぴったりくっつけた。ひんやりして気持ちがいい。レイジングハートが無性に愛おしく思えた。

 

「レイジングハートとユーノくんのおかげだよ。私一人じゃどうにもならなかった。……ねえ、ユーノくん、この建物どうしよう」

「はは、安心して。結界内の空間は通常の空間とは別だから、結界を戻せば元通り。……でもなのはが割ったガラスは戻らないけどね!」

 

 なのははユーノの言葉に小さく笑った。

 静かで、どことなくしんみりした空気だった。でもとても心地よい。それは各々が達成感に浸っているからなのだろう。

 

「ユーノくん、私に聞きたいことがあるんじゃない?」

「……あるけど、今はいいや。なんだかそんな気分じゃないよ」

「そっか、じゃあそろそろ帰ろう」

「なのはの家に?」

 

 ユーノはなのはが何と答えるか分かりきっていることをわざと聞いてきた。そこにはなのはに対する仲間としての信頼や、友としての気軽さが感じられた。

 

「ふふ、そうだよ、私達の住処にね」

「それは家じゃなくてただの森だよ」

 

 なのはは身を起こして、プールを離れた。

 昼の賑わいがまるで嘘のように感じられる静かな帰り道、なのはは、ふとあることを思い出し小さな声で呟いた。

 

「先手必勝不意打ちで一撃必殺作戦すればよかったな」

 

 

 

 

 帰ってくるとすぐ、今日こそ空を飛んでみようと、なのはは疲れた身体に気合を入れた。ユーノに危ないと言われたが、レイジングハートがいるしそんなに高くまでは飛ばないから大丈夫だと言って森から飛び立った。

 木の高さを超えると、一面、森の木々が規則正しくその尖った深緑の頭を整列させているのが目に入った。それだけでなのはは心がうきうきするのを感じた。

 もっと上に行けばどんな景色に変わるのだろう? なのははゆっくり高度を上げていく。緑の海から突き出た鉄塔が、山の稜線から遠く向こうの地平線まで、赤い灯りを点滅させながら並んでいた。反対を向くと、屋根の低い住宅街と灰色のビル街が続き、その後ろには真っ青な海が広がっていた。船もちらほら見える。貨物船だろうか。

 一通り見渡せる高さまで来ると足場を作り着地した。なのはは端っこから首を伸ばし、そっと下を覗いてみた。巨大樹にぶら下がった時よりも少し高い位置だろうか。なのはは地面に吸い込まれそうになる錯覚を覚えた。落ちたら確実に死ねる。実証済みだから間違いない。そう思うと、このたった一枚の薄い足場に支えられている状態に気付き、鼓動が少しだけ早くなり胃がきゅっと締まった。そっと中央に下がると、恐る恐るゆっくり腰を落とした。少しでも優しく動かないと、足場が壊れて落ちてしまうような気がした。

 飛行している時は恐くなかったのだが、足が床に着き重力の制限をその身に感じると、たちまち落ちる恐怖が湧き上がってきたのだ。

 なのはは下を見ないように遠くを見て気を紛らわせた。

 太陽がないのに昼のように明るく見える世界は、なんとなく不思議だった。魔法を解き視界を元に戻してみる。すると周囲は一気に暗闇に包まれ、街だけが散りばめた宝石のようにポツポツ光輝いていた。目が暗さに慣れると、光のなかった大地が、意外に明るい月の光で照らされて、仄白く光っているのが分かった。

 なのはは時間も恐怖も忘れ、しばらくの間景色を眺めていた。

 つい数日前まで、水竜を倒すこともこんな風に空を飛んで街を見下ろすことも、全く想像できなかった。いつになっても水竜を倒せず、ただ延々と挑み続ける停滞した日々を送らなければならないと思っていた。それが突然、本当に突然、一気に動き出したのだ。しかも動かす切っ掛けはすぐ近くにあったのだ。

 

「もっと早くレイジングハートとユーノに相談すればよかった」

 

 なのはは夜の春風を浴びながら、口元に笑みを浮かべていた。

 

”私ももっと早くに声を掛けていれば良かったと思っています”

 

 レイジングハートの声は優しかった。

 

「ねえ、レイジングハート……私と契約したこと後悔してる?」

 

 なのははレイジングハートに視線を向けず、何でもないかのように軽い調子で言った。しかし心の中は、肯定される不安と申し訳無さで一杯だった。

 もし契約しなければレイジングハートは繰り返すことなど無かっただろう。繰り返す苦しさはなのは自身がよく知っている。せめて簡単に死なないくらい強ければよかったのだが、すぐにやられてしまうほど弱い。道連れを食らうレイジングハートにしたら迷惑極まりないだろう。これでは恨まれても仕方がない。だからきっと後悔しているに違いない。なのははそう考えていた。

 レイジングハートは少し考えているのか、間を空けてから答えた。

 

”今の私はどう見えるでしょうか? 後悔しているように見えますか?”

 

 なのはは何も答えなかった。それだけでレイジングハートがどう思っているのか理解した。目頭が熱くなり、唇を噛み締めた。

 

”今の私からすれば、ご主人様と出会えない世界の方が最大の不幸です。なぜなら私は今、こうしてご主人様といられることに最大の喜びと幸せを感じているからです。あの時の私の選択は間違いではなかったと、自信を持って言えます”

 

 なのはは何も言わず、ぼやけた視界でただ遠くを見つめた。

 神秘的な月の光に満ちた夜の空気が、同じ運命を共に歩み始めた2つの存在を祝福しているようだった。

 

 



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温泉に入る

 今日の起床時間は何時もより遅かった。朝空の明るさに一度は目を覚ましたものの、寝る時間が遅かったせいか再び目を閉じるとそのまま二度寝をしてしまったのだ。

 少ない食事を終えたなのはは、まだ少しぼーっとするのか木に寄り掛かって座り、重なる枝葉から覗く小さな曇り空を、今日はどうしようかと考えながらだた黙って見上げていた。ユーノもなのはと似たようなもので2人の間に特に会話は無かった。

 なのはは昨日ユーノに言うつもりだった自分の行動に関する言い訳を頭に思い浮かべた。そして、やはりユーノは昨日のことが気になるんだろうか、と地面に横たわる細長いユーノを横目で見た。

 しかし改めて話を切り出すとなると少し緊張する。こう自分から何回も聞きたいことがあるんじゃないかと尋ねることが、まるで教えたくて仕方がないとユーノに受け取られるような気がして、それがなんだか恥ずかしいことのように感じた。

 とはいえ、もし話すなら今が丁度良い機会なのかもしれない。そう考えなのはは意を決して声を出した。

 

「ユーノくん……昨日のことについてなんだけど…………ええっと……」

 

 思い切って話し出したはいいもののやはり詰まってしまった。ふと、ユーノに尋ねられるまで話題に出さなくても良かったんじゃないかと考えつくがもう遅い。

 

「昨日のことって……ああ、聞きたいことがあるんじゃないかって話かな?」

 

 最後まで言わなくても理解してくれたことに、なのはは内心ほっとしながら頷いた。

 ほんの少しの間、ユーノは思案するようにその小さな瞳を目蓋で隠してから言った。

 

「そうだね、どうしてジュエルシードのある場所と、どんな暴走体なのか知っていたのかを教えて欲しいな。……もしかしてだけど、なのはが初心者なのに魔法を上手く使えてることにも関係があるのかな」

 

 なのははユーノの察しの良さに思わず苦笑いを浮かべる。ユーノが自分と同い年の子供とは思えなかった。

 

「えっとね、なんて言えばいいんだろう」

 

 一度そこで、このまま続きを言うか言わないか迷うように言葉を切った。それから少しの沈黙の後、続きを口にした。

 

「夢で見たの。最初の黒いやつも、おっきな犬みたいなやつも、そして昨日のも。そこにはユーノくんもいて魔法もあって。私はユーノくんからレイジングハートを受け取って暴走体と戦うんだ。何度も何度も勝てるまで。でも昨日の暴走体を倒す前に目が覚めちゃった。それで目が覚めたはいいけど、夢と全く同じことが起り続けるから私も夢と同じように行動してたんだ。……夢なのか何なのか分かんなくなっちゃうよね」

 

 なのははじっと耳を傾けているユーノに向けて笑った。

 これらは昨日のうちに考えていた説明だ。全く嘘というわけでもないが、繰り返していることだけは伏せていた。先程ユーノに言うかどうか迷ったのはそれが理由だった。ユーノと共に戦い勝利しその喜びを分かち合ったのは今回が初めてであり、今回ほどお互いの心が近づいたことはなかった。そんなユーノに、説明すると言って本当のことを言わないのはなんとなく憚られた。

 しかし、もし教えてしまえば、ユーノが「僕がジュエルシードを発掘しなければ」などと言って落ち込んでしまうと思い、妥協案として「夢の中で」ということにしたのだ。

 というより、そもそも初めから繰り返していることは誰にも教えるつもりはない。たまにぽろっと冗談めかして話すことはあるかもしれないが。それにたとえ言ったところでどうしようもないし、信じてくれるかもわからない。しかも何だか恩着せがましいし、まるで自分が感謝してもらうために戦っているようで嫌だった。ちょっとした自尊心のようなものだろう。

 

「それで魔法についてなんだけど……よく分かったね。正解だよ。魔法も同じなんだ」

「いくら才能があったとしても、初めて魔法を使うにしては制御が上手いなと思ってね。そのうえ魔法を使った戦いにも慣れてるようだし、きっと暴走体を知ってることとも繋がっていると思ったんだよ」

 

 言われてみればそうだ。

 なのはは、自分でも気付けそうな意外と普通な理由に、ユーノが鋭いわけではなく、ただ単に自分の思慮が足りないだけなのだと気付き自分にがっかりした。

 

「それにしても……夢か。うーん……レアスキルとかかな、未来予知とか……。これから先のことは知らないんだよね?」

「……そうだよ。目が覚めちゃったから」

「そっか……それは一回きり? そのあとはもう見てないの?」

「うん、見てないよ。だから次のジュエルシードが何処にあるのかも分からないの。ごめんね」

 

 なのはは、巨大樹のことや空を飛んでいる暴走体について話すべきか一瞬悩んだ。しかしジュエルシードが現れる場所も分からなければ戦ったこともない。そんなあまり役立ちそうにない情報を教えるより、昨日の暴走体までしか知らないことにしたほうが話がややこしくならなくて良いだろう、そう判断した。

 

「え、いや、謝る必要なんて全くないよ! むしろ僕が感謝しなきゃいけない。おかげで一気にジュエルシードを集められたし被害もほとんど無かった。僕一人じゃこうもいかなかったよ。全部なのはのおかげだね。ありがとう」

 

 感謝してもらうために戦っているわけではないが、この不意打ちに近い感謝の言葉はそんなことを思い出させないほど真っ直ぐ心に届き染み渡った。

 なのはは、はにかむように頬を赤く染めながら頭を軽く掻いた。そして動きを止めたかと思うと手を下ろし、徐に立ち上がってその場から数歩離れた。

 

「ユーノくん……私はレイジングハートと魔法の練習をしてるから、ユーノくんはジュエルシードでも探しに行ってくるといいよ」

「え、どうしたの急に。魔法の練習なら僕も付き合うよ? それになのはを一人残して行けないよ」

「私は大丈夫だから……お願いユーノくん」

 

 理由を聞こうか迷ったのだろう。ユーノはどことなくぎこちない笑みを浮かべるなのはをじっと見つめ、少し間を空けてから「わかったよ」と一言了解した。

 

「でも何かあったら念話で教えて。すぐ駆けつけるから。それと僕の方も見つけたらすぐに報告するよ。封印は僕一人じゃあどうにも無理そうだからね」

 

 そう言ってなのはに背を向けると、軽やかな足取りでその場から立ち去った。

 なのははユーノの姿が見えなくなったのを確認すると、近くの木にへなへなと寄り掛かり俯いた。その表情は、先程ユーノに向けていた笑みから一転、唇を噛み締めあらゆる責苦を耐え忍んでいるかのような苦悶を浮かべていた。目には薄らと涙すら滲んでいる。

 

「レイジングハート、お願いがあるの。今すぐ私の息の根を止めてほしいんだ。もう生きていけそうにないよ」

 

 何の前触れもないその突然の懇願に一切の返事はなく、ただ重い静寂が落ちた。

 なのはは呻き声を上げながら数回、ごつんごつんと首だけ動かし木に頭をぶつけた。その鈍い音はこの湿っぽい森の奥に吸い込まれていった。

 息の根を止めてほしい、つまり殺してほしいということだ。そして生きていけないと。それほどまでに精神的に追いつめられているのだろうか。しかしそれも無理はない。現代日本に住むごく普通の感性を持った少女が、こうして今まで正気を保っていられたことの方が異常なのだ。いや、今まで目の前の敵に集中しすぎるあまり、ただ忘れていただけ。それをさっき思い出したのだ。そうでなければユーノをあんなにも身近に置けるはずもない。

 考えてみればもう4日も風呂に入っていなかった。

 

”あのっ……あの…………”

 

 レイジングハートは必死に何かを言おうとするが、続く言葉が見つからないようだ。今まで勇敢に戦い続けてきた最愛の……自身の全てを捧げても良いと思っている最愛の主人が突然、生きていけない、などと言いだすのだから仕方がないだろう。それはきっと天地が裂ける程の衝撃だったに違いない。

 

”もしやユーノが何か……!”

「レイジングハート……私臭くないかな?」

”は、え? いえ、とても雅で芳しい甘美な香りかと。デバイスであることが心底悔やまれます。非常に……非常に残念でなりまっせん!”

 

 なるほどデバイスであるレイジングハートの意見はちっとも参考にならないようだ。

 なのははレイジングハートの言葉に返事することなく「うあああああ」と呻きながら再び数回頭をぶつけた。

 もしかしたらユーノはフードの中にいる時「うわくっさ、なんだここは地獄か!? こんなところに押し込めて、なのはは僕を殺そうとしてるのか!?」とか「かなり臭うけど直接言いづらいよな」とか「くっさ、近づかないでほしいな」とか思っているのではないか? 今、森から出た瞬間に「ふああ、やっと解放されたよ! 全くもっと早く言い出してほしかったものだね。なのは空気読まなさすぎ。僕の察しの良さを見習ってほしいね」と爽やかな笑顔を浮かべながら大きく伸びをし、新鮮な空気を吸っているのではないか?

 そう考えるとなのはは体温が急上昇し、汗が吹き出て、居ても立ってもいられないほど恥ずかしくなり、大声を上げて世界の果てまで逃げ出したい衝動に駆られ、穴があったらそこに入り永久に眠ってしまいたい気分になった。

 気になりだしたら止まらなかった。もうユーノに顔を合わせられる気がしない。

 

”ご主人様、おやめ下さい。頭を痛めてしまいます”

 

 なのはは、はっと閃いたように動きを止め木から離れると、鞄から財布を取り出し残金を確認した。そしてごくりと唾を飲み込んだ。

 風呂に入ろうと思えば入れる。しかしそうなると、風呂代の他に最小限の風呂道具が必要だ。洗えなければ行く意味が無い。

 食事か風呂か。なのはは今、選択を迫られていた。だがもう気持ちは完全に風呂に傾いている。このまま羞恥に耐えるくらいなら数日程度の空腹くらい我慢するつもりだった。

 そうと決まれば今すぐにでも入りに行きたかった。しかしまだ学校は終わっていない。

 なのはは早く下校時間にならないかと、そわそわしながら何度も時計に視線を向けるが、なめくじのように時間は進まない。どうしようもないなのはは、気を紛らわすためレイジングハートによる仮想空間で飛行訓練を行うことにした。

 もし次に暴走体と戦うとすれば巨大樹から逃げまわった日に見たことがある、あの空を飛んでいたやつだろう。もしかしたら巨大樹と同時に現れるのかもしれないが、どちらにせよ次の戦場は空であり、飛行技術の向上は必須だった。

 最初は姿勢制御や急加速、急停止、飛行速度と旋回半径の関係など基礎的なことを中心にレイジングハートから指示を受け、それからは魔法弾回避の練習を繰り返した。

 飛ぶことが余程楽しいのだろう。なのははすっかり風呂のことなど忘れ、ただただどうすれば上手く飛べるのかについて没頭し、飽きることなく納得するまで何度も同じことを繰り返すのだった。

 正午過ぎ、照りつける太陽が空気を暖め一日の内で最も気温が高くなる時間帯、なのはは意識を現実に戻し休憩していた。

 レイジングハートを鞄の上に置き立ち上がると、ほんの少し開けた空間まで歩きレイジングハートに振り返った。その目は子供らしい無邪気な輝きを帯びていた。

 

「見ててレイジングハート。後方宙返り無限ひねり!」

 

 そう言って地面を蹴り飛び上がると、錐揉み回転しながら凡そ秒速5センチメートルの速度で落下、時々上昇。そして着地した。かと思うと、全身の骨が溶けて無くなってしまったかのようにそのまま崩れ落ち、地面に突っ伏した。

 

”素晴らしい平衡感覚です。横59回、縦2回ひねりでした”

「気持ち悪い……しんじゃいそう」

 

 顔を青くしたなのはは、目を閉じながらぐるぐる回る世界が安定するのをじっと待った。胃がひくひくしているようにも感じる。まるで世界の終わりのような気分だった。顔面に樹の枝やら葉っぱやらがちくちく当たっているが気にする余裕も無く、苦しみが満ちるこの世界を呪った。

 しばらくそのままでいると下校時間を待たずしてユーノが帰ってきてしまった。

 倒れ伏しているなのはを見て心配そうに恐る恐る近づくユーノ。

 

「ただいま、なのは……どうしたの、大丈夫?」

 

 なのはは迫るユーノに気付かず、その突然の声に肩を跳ねた。同時に今まで忘れていたことが瞬時に甦った。反射的に身体を起こし素早く立ち上がると、ユーノから数歩離れた。しまった、勢い良く動いたせいで臭いが広がってしまったかもしれない、と全身を熱くさせ額に汗を浮かべながら。

 まるで敵と対峙した時のようなその行動にユーノもびっくりして一歩後退った。

 

「おおおぅかえり、早かったね夕方まで帰ってこないと思ってたよ!」

「うん、なんだか全然見つかりそうになくてね。探知にも引っかからないしまだ現れてないのかも。これならやっぱりなのはと一緒に練習してるほうが有意義だと思って……嫌だったかい?」

 

 まさか「ええ嫌です。あなたと一緒に居たらあまりの羞恥で死にたくなります」とも言えないなのはは、引き攣った笑みを浮かべたまま極めて明るい声で否定した。

 

「ううん、嫌じゃないよ」

「それならいいけど……。何だか顔色が良くないみたいだけど具合悪いの? 倒れてたみたいだし」

「そんなことないよ、元気元気、平気だよ」

 

 なのはは気分の悪さなど吹っ飛んでしまい、頭の中でこれからどうやって風呂に入りに行くかについて必死に考えを巡らせていた。

 とりあえず食料を買いに街に行くとして、そこからどうやって風呂に行くのか。ユーノを連れて行くのか別行動するのか。もし風呂に入りに行きたいと伝えて、「え、もしかして臭いのこと気にしてるの? 4日風呂に入ってないもんね。仕方がないよ」などと感付かれたり同情されるのは死にそうなほど恥ずかしい。できれば知られずに一人で入りに行きたい。

 しかしいつまでもこうして考えているわけにもいかない。ずっとこのまま2人でいるのは耐えられそうになかった。とにかく風呂に入るために行動を起こさなければならない。

 なのはは考えもまとまらないうちに声を絞り出した。

 

「これから……これから街に行こうと思ってたから。食べ物を買いにね。だからそっちで集合すればいいかなって」

「なるほど。大丈夫だよ気にしないから。僕もついていくよ」

 

 一体何が大丈夫で何を気にしてないのか分からなかったが、なのはは曖昧に微笑んでごまかした。

 ユーノの近くに行かないようにしながらレイジングハートを首に下げ、鞄を手に取り、ユーノと向き合った。

 

「それじゃあ」

「うん、行こうか」

 

 特に会話らしい会話も無く、お互い進行方向を向きひたむきに歩いた。前を行くユーノは足場が悪くても相変わらず軽やかで、なのはの歩く音が大きく聞こえた。

 歩き始めて少しすると、なのははふと閃いたように「そうだ」と小さく呟いた。そして飛行魔法を使って地面すれすれをなめるように移動した。

 

「疲れた?」

「ううん、空飛ぶ練習。でも楽したいって気持ちもちょっとあるかも」

 

 飛行に意識を向けると、ユーノと一緒にいることに対する恥ずかしさは忘れてしまった。

 森から出ると制服に着替え、飛行を解除しようとした。しかしそこで思いとどまる。飛行は解除せず、靴裏が地面に付くか付かないかくらい宙に浮き、歩く動作をしながら前に進むことを思いついたのだ。

 足首と身体の上下の動きに合わせて高度を変えないと地面に足がついてしまったり、逆に浮きすぎたりする。また足の動きと歩幅に合わせて前に進まなければとても不自然な動きとなってしまう。地面を普通に歩いているように見えて実は飛んでいる。それがこれの最終目標である。

 

「それも飛行の練習? 何というか……変な人に見えるね」

「うん…………すごく……難しい」

 

 集中しているのだろう。なのはは険しい顔で前を見つめながら、途切れ途切れに返事をした。変な人に見えるという指摘すら気にしていない。というより理解しないまま右から左へ通り抜けているようだ。

 それでも人に見られないように気を使っているようで、人が来る度に中断し、人通りが多くなると普通に歩いた。

 街中には下校時間よりも少しだけ早く着いてしまった。なのははどうするか迷ったが、数秒で考えるのが面倒になり、まあいいか、とそのまま店を目指した。

 店の前に着くと立ち止まり、少し考える素振りをしてからユーノに言った。

 

「ユーノくんは外で待っててくれるかな。……人の姿なら大丈夫だけど」

《ああ、そうだね。魔力も回復したし、もうこの姿でいる必要はないんだった。忘れてたよ。ちょっと待ってて、すぐ戻るから!》

 

 ユーノはそう言い残して店の裏に走って行ってしまった。なのはが胸をどきどきさせながら待っていると、同じ方向から金髪の少年が少しはにかんだ笑みを浮かべて走ってきた。

 

「おまたせ」

「うん」

 

 それから少しの沈黙が落ちた。お互いどこか恥ずかしそうに視線を彷徨わせ、必死に次の言葉を探した。なのははが窺うように横目でユーノを見ると、まるで示し合わせたかのようにユーノと視線が重なり、2人は咄嗟に目を逸らした。

 

「あ……えっと、ユーノくん。その格好……」

「……変かな?」

 

 一拍遅れて自分の服を確認するユーノは、まるで冒険家が着ていそうな半袖短パンにアニメチックな模様をを施したものとカーキー色のマント、黒の手袋という格好だった。似合っていないわけではないがかなり浮いている。おそらくまだ子供であるから、そのままでも周りからは微笑ましく見られるだけで済むだろう。ユーノの精神が鋼鉄ならば全く問題ない。

 

「変じゃないけれど……せめてマントと手袋は外したほうがいいかも」

 

 なのははちらりと周りの人に目をやった。ユーノもそれに釣られて周りを見渡し他の人の服を確認した。その時、自分に視線を向ける人……特に大人の女性の優しい視線に気付いた。目が合うと微笑んで軽く手を振る人まで居た。ユーノは白い頬を薄っすら朱色に染め、黙ってマントと手袋を外し脇に抱えた。

 2人並んで店に入りながら、なのははいよいよどうやって風呂に行くことを告げようか考え始めた。ユーノが人に戻ったせいで益々恥ずかしくなってきた。

 物珍しげに店内を見回していたユーノはなのはがカゴを手にしていることに気付き、「僕が持つよ」と言ってなのはの手から自分の手にカゴを移し、なのはが見ていた白い固まりについて尋ねた。

 

「なにそれ?」

「豆腐だよ。今日のごはん」

「とうふ? それっておいしいの?」

 

 なのはは曖昧な顔をしながら首を傾げた。

 

「私はあまりおいしいとは思わないかな。たぶん食べてる途中で飽きると思う」

 

 ユーノはなのはの懐具合をなんとなく察しているのだろう。特に何を言うでもなく、値札を見ながら「そうなんだ」と頷いた。

 

「ねえユーノくん、買い物終わったらお風呂入りに行こっか」

 

 なのはは少し緊張しながら、飽く迄なんでもないかのように、今思いついたかのように提案した。人姿のユーノを見て自分だけ入りに行くという考えを改め、同時にもしかしたらユーノも自分と同じことを思っているのかもしれない、という考えが浮かび、ならば同じ者同士何を恥ずかしがる必要があるのだ、と自分に言い聞かせ声を掛けたのだ。

 

「え、お風呂? それは是非賛成したいところなんだけど……その、お金の方は大丈夫かい? もし余裕が無いならなのはだけ入ってくるといいよ」

「大丈夫だよ……多分。ただ道具は一つしか揃えられないから、代わりばんこに使うことになるけど」

 

《ご主人様! 私も、そのお風呂というものにですね、少しばかり興味がありまして、それで、それでですね、是非ご一緒させていただいきたいのですが……もちろんこれは純粋な知的好奇心によるものであり、他意などありません》

《レイジングハートも? うん、いいよ》

 

 あと3日凌げればいいのだ。財布の中はすっからかんになるだろうが仕方がない。

 なのはは風呂道具をカゴに入れユーノと一緒にレジへ向かった。

 温泉に着くとユーノにタオルを渡し、2人分の入浴券を買った。もういくらかの小銭しか残っていない財布を見て、数日食べなくても死にはしない、と焦る気持ちを落ち着けた。

 どちらが先に入るか聞くと先に入ってもいいと言われ、ゆっくり入ってという言葉を背に赤い暖簾をくぐった。

 風呂からあがると、ソファーに座ってテレビを見ているユーノを見つけた。片腕を背もたれに置き、あぐらをかく姿は随分リラックスしているようだった。初めて見るユーノのだらけた姿に、なんだか他人の生活風景を覗いているような気がして少し楽しい気分になった。

 

「おまたせ。時間掛かっちゃった。ごめんね」

「いや、大丈夫だよ。もっとゆっくりでも良かったのに」

 

 なのははユーノの横に座ると、少しぼうっとした意識でテレビを見た。ユーノが立ち上がって何処か行ったかと思うと、水の入ったコップを差し出された。それを受け取ると一口飲み、ほっと一息ついた。

 ユーノは再び座ると少し頭を引き、なのはに気付かれないようにその横顔に視線を向けた。風呂あがりの顔は上気していた。急いで乾かそうとしたのか、まだ完全に乾ききっていない茶髪はしっとりと柔らかそうな光沢を帯びている。いつものように結っておらず、ほのかなシャンプーの香りを漂わせていた。両手でコップを持ちソファーに沈む姿が可愛らしい。

 

「ユーノくんも入ってくるといいよ。気持ちいいよ」

 

 突然振り向いたなのはと視線がぶつかり、ユーノは慌てて視線を戻し立ち上がった。

 

「あ、ああ、そうだね。僕も入ってくるよ!」

 

《ユーノ……私は今日という素晴らしい日を決して忘れはしません。温泉とはとても良いものです》

《へえ、そんなに温泉っていうのはいいものなのかい?》

《ええ、とても》

 

 ユーノは、それは楽しみだ、と期待するように笑みを浮かべ青い暖簾の向こうに姿を消した。

 それから十数分でユーノは戻り、ユーノが一息つくまで休んでから帰ることにした。

 なのはは身体が綺麗になったおかげか清々しい気分だった。もう臭いを気にする必要もない。風呂に入るという選択は間違っていなかったようだ。しかしそんななのはの晴れ晴れした心境とは違い、見上げる空はどんより曇って雨が振りそうだった。おかげで何時もよりも暗くなるのが早い。

 

「なんだか雨が降りそうだよなのは」

「そうだね。雨が降るなら森に戻るのはまずいよね。どこか雨を凌げる場所探さないと」

 

 そう言いながらも立ち止まることはせず、足は森へ向かう帰り道を歩んでいた。

 

「なのは?」

「……なのはちゃん」

 

 不意に後方から聞こえたしばらく聞いていない大好きな声。なのはは反射的に立ち止まり振り返った。そこにはアリサとすずかがいた。その表情には驚きと困惑の色が浮かんでいた。

 



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校庭の悪魔

 アリサたちは次の言葉を探しているといった風に立ち止まり、なのはをじっと見つめていた。突然姿を消した友人がひょっこり現れたのだ。しかも知らない男を連れて。思考停止してしまうのも仕方のないことだろう。

 なのはもこんなところで出会うとは考えておらず、混乱してどうすればいいか分からないまま身を硬直させていた。考え方を忘れてしまったかのように頭の中は真っ白だった。

 

「なのはの知り合い?」

 

 買い物袋を下げたユーノが2人となのはを見比べながら尋ねてきた。しかし理解できていないのか、それとも聞こえていないのか、なのはは答えない。

 

「なのは、あなた今まで……」

 

 アリサが恐る恐る言葉を掛けた瞬間、なのはは思わずユーノの手を取って走りだした。

 

「あ、待ちなさいなのは! 何で逃げるの!?」

 

 追いかけてくる足音は確実に迫っていた。「その子誰なの?」という声も聞こえてくる。このまま普通に走っていればすぐに追いつかれてしまう。引っ張っていたはずのユーノの手に、今は逆に引っ張られていた。

 

「一旦別れよう。魔法を使って先に行って。僕は大丈夫だから。それじゃ後で合流!」

 

 そう言ってユーノは繋いだ手を離した。なのははユーノの言った通り魔法を使い、まるで追い詰められた野うさぎのように死に物狂いで走った。

 

「ちょ、速っ!? 待ちなさいってば! すずかお願い!」

 

 前に障害がなければその一歩は三段跳びの選手並に大きく、人にぶつかりそうになれば歩幅を調整したり飛行魔法を駆使して避けた。バリアジャケットを着ていない今、もし転倒すればただではすまないだろう。しかし暴走体の攻撃を避ける難しさに比べれば遥かに余裕があり転ぶ気配は微塵もない。

 すずかはいくら身体能力が優れているとはいえ流石にこれには追いつけるはずもなく、どんどん引き離され、いくつか角を曲がるともう追いかけて来なかった。

 なのはは安堵し少し休憩した。切れた息を整えながら、先程の2人の顔を思い浮かべる。すると久しぶりに顔を見れたことに嬉しさを感じると同時に、逃げ出してしまったことへの申し訳さで胸が締め付けられた。

 どうして逃げてしまったのだろう。自分の行動を振り返ってみる。思い浮かんだ言い訳は明日の戦いが終わるまで帰るわけにはいかないから。でも本当は会話するのが怖かったから。皆に心配させている事実を目の当たりにするのが怖かったから。臆病だったから。

 2人に嫌われてしまったかもしれない。そんなことを考えながらユーノと念話で連絡を取り合流した。

 

「僕も金髪の子に追いかけられたよ。2人は友達?」

「うん……私の大切な友達」

 

 なのはは悲しげに落ち込んだ様子で「またこの前の神社に泊まろっか」と言って歩き出した。

 神社につく頃には辺りはもう真っ暗だった。

 穴が空いているはずの境内の地面はもう埋められていた。被害が少なくなるように急いで封印しているおかげだろう。

 いつものように裏にまわり夕食を取ることにした。2人並んで座りながら、なのははユーノに使い捨てスプーンと豆腐半丁を渡した。

 

「醤油かけるといいかも」

 

 なのはは自分の豆腐に醤油をかけて見せてからユーノに手渡した。そしてユーノが豆腐を口に運ぶのを横目で見た。ユーノは数回口を動かして飲み込むと、手に持つ豆腐を見つめながらなのはに言った。

 

「なんというか……不味くはないけれどあまり美味しいとも言えないね。温いし。これだけだとなのはの言った通り、途中で飽きるかも」

「安心して。明日の分もあるから」

 

 暗闇で表情は見えないが嫌そうな雰囲気を出すユーノに、ふふっと笑って視線を外し自分の分を食べた。

 

「さっきの2人から逃げたのは家出をしてるから? ……もしかしてなんだけど、なのはが家出してるのはジュエルシードと関係あるの?」

 

 しばらくすると唐突にそんなことを聞かれた。なのはは豆腐を切り崩しながら微苦笑した。

 

「やっぱりユーノくんは鋭いね。どうしたらそんなに頭が良くなるんだろう。そうだよ。皆を危険な目に合わせたくないから家出したの。でも……なんだか2人と話をするのが怖くて怖くて。さっきは思わず逃げ出しちゃった。悪い事してるって自覚あるからかな。家を出る時に怒られる覚悟とか色々したはずなんだけど、やっぱり怖いものは怖いや」

 

 自嘲するように寂しそうに言った。それから2人は沈黙した。なのはは肩を落とし思いつめたように俯いているユーノを見て小さなため息をついた。

 

「僕がジュエルシードを発掘しなかったら、って考えてる?」

「え、いや…………うん……考えてた」

 

 なのはは予想が的中したことがおかしくて「やっぱりそうなんだ」と小さく笑った。

 

「ユーノくんのせいなんかじゃないよ。たしかに振り返れば苦しいことや辛いことばっかり。多分これからもそう。その代わりに私はユーノくんとレイジングハートに出会って、空だって飛べる。選べる道はほとんど無かったけれど、それでも私は自分の意志で道を選んでここまできたんだ。その中に家出したこともユーノくんのせいにしないっていうのも入ってるんだよ」

「はは……すごいや。そういう考え方したこともないよ……。でもやっぱり、もしあの時って考えちゃうな」

 

 ユーノは力なく空笑いした。

 

「私が言うのもあれなんだけど、起きてしまったことは変えられないよ。……そうだユーノくん。運命にはね、立ち向かう時と受け入れる時があって、受け入れなければ先に進めない時があるんだ。目を逸らして逃げるって選択もあるけれど、それじゃあいつになっても先に進めないよね」

 

 それがいかに難しいことを言っているのかなのは自身よく分かっている。現に今日のことで落ち込んでいるし、今はいつまでも繰り返すと思っていた昨日が終わったおかげで心に余裕ができているが、再び繰り返す日々を送ることになると塞ぎこんでしまうだろう。ただその時、そういう考え方を信念として持つことにより、それが行動するための道標となってくれると信じていた。

 

「……受け入れて進めってこと?」

「うん。もしかしたら道を進んだ未来のユーノくんは、この出来事があって良かったって思ってるかもしれないよ? 私も今の気分では2人から何も言わず逃げちゃったことをすごく後悔してるけれど、これから先は分からない。きっと過去の印象ってその時の自分が決めてるんだよ。たぶんね。それにどうしようも無いことを悩んでいるより、前を向いてる方がかっこいいと思うよ」

 

 ユーノははっとしたように顔を上げなのはを見た。それに気づきなのはもユーノを見た。隣にいるのに夜の暗さでお互いの表情はほとんど見えなかった。それでもユーノにはなのはが微笑んでいることが分かり、なのははユーノの雰囲気が明るくなったことが分かった。

 

「はぁ、なんだか自分がなのはと同じ歳だとは思えないや。そのとおりだね。こんなんじゃかっこ悪い……。よし! 悩んでても仕方ない。後で笑えるようにがんばるか!」

 

 ユーノは豆腐を脇に置くと、膝を叩いて勢い良く立ち上がった。つい先程までの憂愁はすっかり消え失せ、その様子はまるで身体から炎が燃え上がっているように暑苦しい。目には輝きが戻りやる気が満ち満ちていた。

 

「でも、たしかにジュエルシードの発掘をしたからなのはとも出会えたのか……。うん、やっぱり発掘して良かったよ!」

 

 心の底からそう思っているのだろう。ユーノは口元に自然な笑みを浮かべ本当に嬉しそうに言った。

 まさかユーノがこんなにも簡単に視点を変えてしまうとは、しかもその原因が自分との出会いを喜んでとは予想もしておらず、なのはは一瞬呆然とした後、嬉しさと恥ずかしさを隠すため聞こえないふりをして先程切り崩した豆腐を口に運んだ。暗闇に隠れた耳は赤かった。

 なのはは顔に微かな水滴が当たったような気がした。空を見上げじっと待っていると再び当たった。

 

「雨降ってきたみたい」

 

 雨は次第に強まり、服に小さなシミを作っていく。

 2人は神社の長い軒下で、弾ける水滴の音を聞きながら夜を過ごした。

 

 

 

 

 夜からの雨は朝になっても止んでいなかった。

 外に出歩けない2人は軒下に座り込み、レイジングハートと飛行訓練を行った。そして気付けば既に雨は止んでいた。正午を少し過ぎたころだった。

 今日は学校が休みなため時間を気にせず街に出られる。なのはは大丈夫だったが、ユーノの気分転換を兼ねてジュエルシードを探しに街へ出かけた。地面にはそこらかしこに水たまりができていおり、その一つに遠くの青空が映り込んでいた。雨上がりは清々しくとても気持ちよかった。

 一息つくと神社に戻り飛行訓練を再開した。なのはは飛行の練習ならいつまでも続けられた。むしろ時間の進みが早く感じる。ゲームに熱中していた時の感覚によく似ていた。

 結局この日もジュエルシードの反応が無いまま夜になった。夕食も無かった。

 ユーノの寝息を耳に、なのはは目を閉じながら明日のことに思いを馳せていた。

 ついにあの逃げまわった日に辿り着こうとしている。明日を乗り越えればその先は未だ知らない未知の日々が続いているのだ。前のこの時間は何をしていただろうか。たしか寝ては起きてを繰り返していた。懐かしい。あの時の皆は毎日どんな話をしてくれたか。恭也は何と言って自分を連れ出してくれたか。美由希は恭也と別れる時どんな表情をしていたか。

 そういえばアリサに怒られたこともあった。担任の教師も様子を見に来てくれていた。何もかもが懐かしい。あんなにも色々なことがあったのに、たしかに自分はそこに居て見て感じていたのに、今となっては全て過去のことであり、無かったことだ。まるで夢だ。自分しか知らない夢だ。きっと今も夢を見続けているのだろう。それでもここにいるのは高町なのは自分自身であり現実だ。

 なのははあちこちに思考を飛ばしながら、何度も寝返りを打った。もう寝ようと全て追い払っても、しつこく脳内に舞い戻ってきては眠気が入る隙間を埋めた。

 明日は巨大樹と空飛ぶ暴走体を相手にしなければならない。先に巨大樹を封印してしまおう。空からレイジングハートと一緒に強力な一撃をぶつければ大丈夫だ。空を飛ぶ暴走体は勝てるか分からない。ここまで来てやり直しなのだろうか。いや、大丈夫。絶対に勝てる。もう3体の暴走体を封印してきたのだ。勝てないわけがない。でも勝った後はどうする。どうやって家に戻ろうか。何て言い訳をすればいいのだろうか。そういえば昨日アリサとすすかから逃げてしまったんだ。怒っているのだろうか。

 

《眠れないのですか》

 

 レイジングハートの優しげな声音が頭に届き、なのははそっと目を開いた。雲の隙間から星が小さく光っていた。

 

《うん、目が冴えちゃって》

《明日のことですか》

《明日のこととか、その後のこととか色々》

《私にとって昨日も今日も初めてです。ですから私にはこの先のことは分かりません》

《そっか、レイジングハートとまだ出会ってなかったからね。私も明日のことまでしか知らないよ。その先は分かんない》

《……不安ですか》

《うん、すごく不安だよ。でも……今の私は戦える。自分で逃げることすらできなかった私じゃないし、手も足も出ずにやられていた私でもない。今の私はちゃんと戦える。レイジングハートもユーノくんもいる。戦える自分がいて、頼りになる仲間がいて。乗り越えられないはずがないよね》

 

 それは自分を安心させようとする、自分に向けた言葉だった。こうやって自分に言い聞かせでもしなければ、同じ日を繰り返すことへの恐怖と憂鬱が押し寄せてきて戦えない。本来勝てるものも負けてしまう。暴走体だけでなく自分自身とも戦わなければならなかった。

 

《もちろんです。私が全力全開で勝利に導いてみせます。ユーノもきっと同じでしょう》

《ありがとうレイジングハート》

 

 そんなやりとりをしてしばらくすると、次第に眠気が意識を包みはじめた。

 そして完全に眠りに落ちる寸前、ジュエルシードの反応が眠気を一気に吹き飛ばした。ユーノも気付いたようで、飛び起きるとなのはに声を掛けた。なのはは制服から着替えると、荷物をそのまま置いてユーノと一緒に神社を後にした。

 ジュエルシードの反応は学校の校庭からだった。

 校庭が近くなるとなのはは立ち止まり、背中越しにユーノに言った。その後ろ姿はひどく寂しそうだった。

 

「ユーノくんはここまででいいよ」

「……どういう意味かな」

「私ね、初めてなんだ。ユーノくんとこんなに仲良くなったの。ユーノくんには生きていてほしい」

 

 ユーノのことを頼りになる仲間だと言ったばかりなのに、今の言葉はそれを否定していた。なのは自身もそれは分かっている。しかし今まで初見の暴走体を倒したことなど無い。だから、きっと今回も死んでしまうだろう、そんな不安がどんなに振り払っても纏わりついていた。頼りになる仲間であるからこそ死んでほしくなかった。自分のことも仲間のことも信じ抜けなかった。

 ユーノは一瞬驚いた顔をするが、すぐにそれは笑みに変わった。そしてなのはの正面に回りこんで言った。

 

「それをなのはが言うかい? むしろ僕のセリフだと思うんだけど。そもそも死ぬと決まったわけじゃないし暴走体になると決まったわけじゃない。まあ暴走体になるとしても僕はなのはと一緒に行くよ。なのはに何て言われようともね。そして全力でなのはを守る。僕が自分の意志で選んだ道だよ。ジュエルシードを発掘した責任とか、なのはを巻き込んでしまった責任とかそういうのじゃなくて、僕がそうしたいからそうするんだ。それじゃあ駄目かな? それに今逃げたらかっこ悪いじゃないか」

 

 可愛い顔してイケメンなことを言う。

 何を言っても無駄だというのは最初から分かっていたことだ。どの世界でもそうだったのだから。今回に限って逃げるわけがない。でももしかしたら、と。しかし結局同じだった。ただ予想外に、ここまで自分の意志を見せたのは初めてであり妙にかっこよく見えた。

 恥ずかしげに俯いたなのははわざとらしく溜息をつき、「ユーノくんはこういう時人の話聞かないよね」とユーノの横をすり抜けて前に出てた。

 

「……頼りにしてるね」

 

 その言葉にユーノは一瞬だけ動きを止めてから、すぐになのはの後を追った。

 ユーノはジュエルシードに近づく前に結界を張った。それからフェレットに戻ったユーノを、なのははいつものようにフードの中に押し込んだ。

 

「準備はいい?」

「いつでも」

”大丈夫です”

 

 なのははいつでも後ろや左右に避けられるよう、慎重な足取りでジュエルシードに近づいた。ユーノが暴走体にならない可能性を言っていたが、これがあの空を飛ぶ暴走体であると確信していた。

 また繰り返す日々が始まるのだろうか。またユーノとの関係をやり直さなければならないのだろうか。そんな未来への不安が沸々湧き上がってきたが、戦闘に関すること以外の思考を全て振り払い、ハンマーの柄を強く握った。

 ジュエルシードは白く光輝き、その光はどんどん膨れ上がり何かを形作る。それが消えると、中にはまるで悪魔にも死神にも見える、なんとも禍々しく邪悪な姿をした暴走体が宙に浮いていた。

 顎が異様に長い頭蓋骨に湾曲した巨大な角を生やし、そこから伸びる脊椎は大人の背丈よりも長かった。しかし下半身は無く途中で途切れていた。暗闇の詰まった肋骨を隠すように黒いマントを羽織っており、その左右の端から手の骨が出ていた。指は鎌のように鋭く長かった。

 以前のなのはなら見ただけで腰を抜かしていたかもしれない。

 その容姿をじっくり見る間もなく、その悪魔の様な暴走体は突然マントを皮膜のように広げながら猛烈な速度で飛びかかってきた。なのはは目を離すことなく、さっと横に回避した。暴走体はその勢いのまま空へと飛び上がり翻ると、紫の魔法弾をいくつも放ってきた。なのはは地面を滑るように飛行しながらそれらを避け、それと同時にいくつかのサーチャーを飛ばした。サーチャーはレイジングハートに制御を任せ最適な角度を維持した。

 今までは魔法弾の間を縫って紙一重で回避することがほとんどだったのが、今は広い空を目一杯使いながら進行方向を変えるだけで避けられる。飛行で移動するため体力の消耗も少ない。これらのことがなのはに少し余裕を持たせていた。

 旋回時、後ろから飛んでくる攻撃に気を取られていると、オーバースピードで進入してしまい結界に衝突しそうになった。耳元で「死ぬ! 死ぬ! あっぶねー」と聞こえてきた。なのはも目の前にスローモーションで迫る翠の巨大な壁に目を釘付けにされながら、心臓が高鳴り、汗がじんわり滲んだ。

 休むこと無く打ち出される魔法弾に追われながら、相手が動きを止めた一瞬を狙って魔法弾を一発放った。しかしそれが弾着するかと思われた直前、突如現れた紫の壁に阻まれ霧散した。

 

「バリア!?」

 

 攻撃魔法を使ってくるのだから防御魔法を使ってきてもおかしくはないが、初めて見る敵のバリアになのはは動揺を隠せず、僅かに飛行を乱した。その時丁度なのはを射線上に捉えた魔法弾をユーノのバリアが弾いた。

 

《ご主人様、焦……》

「焦らないで、なのは。レイジングハート、バリア貫通を付与した魔法作れるよね」

《……言われなくても今作っています》

「ちょっと! 後ろの弾が追いかけてくるんだけど!?」

 

 なのはは複数のサーチャーと肉眼の視点を目まぐるしく切り替えながら、追尾してくる数発の誘導弾から逃げ、無数の魔法弾を躱し、突進を避け、すれ違った直後に放たれた魔法弾を身を捻ってやり過ごした。もはやこの類の攻撃を避けるのは慣れたもので、今までの経験によって無意識に行われる、次はこんな攻撃がくるかもしれない、という危険予測が素早く確実な回避を可能にしていた。

 

「誘導……」

《誘導制御型の攻撃です。おそらくバリア貫通能力も付与されているため撃ち落とすべきでしょう。ユーノ、早くして下さい》

「今やってる」

 

 ユーノはサーチャーの映像を見ながら、誘導弾を飛ばし撃ち落とした。3発操れるユーノにとって、高速で飛ぶ小さな的を確実に狙うのはそれほど難しいことではないのだろう。今のなのはには到底できそうにない技術だった。

 なのはは時間が経つにつれ、弾の数が増えているような気がした。実際増えていた。しばしば砲撃魔法も両手から放ってくる。その点ではなく線による攻撃には少しやりにくさを感じた。完全に防戦一方だった。

 

「やばい」

 

 なのはは全ての視点を一瞬で確認し自分の状況がどうなっているのかを理解した。

 前方に放たれた砲撃魔法を軌道を変えて避けたはいいものの、撃ち落とせなかった数発の誘導弾に追い込まれた先に、面のように並んだ魔法弾が微妙にずれたタイミングで放たれた。それは今からどの方向に動いたとしても避けることが困難だった。弾幕の後ろには、超高密度で今にも爆発しそうなな魔力球を掲げる暴走体が佇んでいた。ユーノにバリアを張ってもらいながら突っ切ったり、魔法弾の隙間を縫って弾幕をやり過ごしたとしても、その強大な一撃が狙い撃ちしてくることは想像に難くない。

 なのはは判断を下せず動きを止めてしまった。その一瞬、ユーノが前に飛び出し、人姿に戻ると同時にバリアを張った。それから数瞬遅れていくつかの魔法弾が衝突、微かな罅を入れた。そしてその直後、とんでもない圧力の魔力が空気を押しのけ殺到した。その衝撃はバリア越しに空気を揺らし肌にドンと響く。バリアにピシリと幾筋もの亀裂が走った。

 

「なのは行って!」

「でも……」

「僕の役割はなのはを守ることなんだ。なのはの役割はレイジングハートと一緒に、あいつにとっておきの一発をくれてやることだよ。だから行って」

 

 ユーノはやっと出番が来たとでもいうように莞爾として笑いながら、今にも砕け散りそうなバリアになけなしの魔力を込めて最後の一線を保つ。しかしそれは長く続きそうにない。

 

《行きましょうご主人様》

 

 なのはは一つ頷くと、ユーノを置いて暴走体の真上を目指し飛び立った。先程の魔力球から毒々しい紫色をした光の奔流をユーノに向けて放っていた。一種の砲撃魔法なのだろう。

 

「レイジングハート! とっておきの一発いくよ!」

 

 先程作ったというバリア貫通能力を付与させた術式に魔力を込める。すると僅か数秒で、杭のような細長い形をした大きな魔法弾と環状魔法陣が宙に現れた。やはり高密度のためか赤紫に近い色だった。ほとんどがレイジングハートの制御下にあり、なのはにとってそれは予め作られた鋳型に魔力を流すようなものだった。体から一気に魔力が無くなったのを感じた。

 

”準備出来ました”

「撃って!」

 

 なのはの合図により爆発的な速度で撃ち出された魔法弾は、バリアを容易く超えて暴走体の中核に吸い込まれた。それと同時にユーノを襲っていた砲撃は止み、暴走体は光の灰となって消えた。一瞬の出来事だった。

 ユーノを見るとふらふらと墜落しそうになりながら地面を目指しているのが見えた。なのはは急いで近付くとユーノが落ちていかないように支えた。気が抜けたのか魔力が無くなったのか分からないが、地面に降り立つと同時に結界は解かれ、ユーノは一歩も動けないといった様子で横たわった。そして「ちょっと休憩」と疲れた声で一言、フェレット姿になって眠ってしまった。

 

”魔力を限界まで絞ったせいで衰弱してるようです。また回復を待たなければなりませんね”

「無理し過ぎだよ」

 

 先ほどのユーノの後ろ姿を思い浮かべながら、呆れたように微笑みながら小さな溜息をついた。

 校庭に転がる3つのジュエルシードを回収するとユーノを抱えて帰ることにした。

 神社に着くと戦闘の緊張が一気にほぐれ、気怠い疲労と眠気が伸し掛かってくるのを感じた。なのははそれに身を任せ大、大きく伸びをしてから横になった。

 まさか本当に倒せてしまうとは思わなかった。どんなに意気込んでも、勝利を信じても、結局いつものようにやられてしまうのだと心の奥底では思っていた。そしてまた繰り返す日々が始まるのだと。でもそんなことはなかった。確実に成長していた。ユーノとレイジングハートという頼りになる強い仲間が支えてくれる。あとは巨大樹を倒すだけだ。そうすれば、あの日常に戻れるのだろうか。

 

「レイジングハートもユーノくんもありがとうね」

 

 なのはは晴れ晴れとした気持ちの中、意識を手放した。

 

 

 

 

《気分はどうですか》

《うん? ああ……まだ眠い。身体もすごくだるいな。……どれくらい経った?》

《暴走体を封印してからまだそれほど経っていません。夜明け前です》

《そうなんだ》

 

 ユーノは夢と現の間にいるのか緩慢な動きで寝返りを打った。それからは一切身動ぎしない。

 

《随分無茶をしますね、あなたは》

《はは……僕もレイジングハートと同じように一本の線に混ぜて欲しくてね》

《……ユーノ、あなたは天才ですね。私を羨ましがらせることに関して》

《……なんで?》

《私はあなたが羨ましすぎて血の涙が出そうです、でませんけど。今私は幸せを感じています。しかし……。私もあなたのように身体があったらそんな風に行動出来ていたのでしょうか。身体が無いから、というのはただの言い訳なのでしょうか。もし私があなたと同じ立場にいた時……私はあなたのように自力で混ざることができたのでしょうか。なんだか自分が分からなくなってきました……とてもいらいらします。……引き止めて悪かったです。早く寝て下さい》

 

 本当に眠ってしまったのかと思われるほど間を空けてからユーノは言った。

 

《なのはが言ってたよね。少ない道を自分の意志で選んできたって。僕には僕にしか選べない道があって、レイジングハートにはレイジングハートにしか選べない道があるんだと思うよ》

《……参考にします》

 

 レイジングハートはほんの少しいじけたように言った。

 それからはもう会話は無く、なのはとユーノの寝息が微かに聞こえるだけだった。

 遠くの空は薄っすら白んでいた。

 

 



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決戦巨大樹

 なのはは光の中にいるのを感じた。すると靄がかったまどろむ意識は急速に鮮明になった。ゆっくり目を開くと目の前の煤けた軒裏があった。その横に目を向け、空模様からだいたいの時間を予想しつつ時計に手を伸ばす。ほぼ予想通りの時間であることに満足すると、寝そべったままぐっと体いっぱいに力を入れ伸びをした。そしてぐるんとひっくり返り腕を突っ張って身を起こすと、座り込んだまま澄んだ空気を胸一杯に吸い込んだ。清らかな幸福の気が全身を駆け巡ったように感じた。

 

”おはようございます”

「おはよう、レイジングハート。良い朝だね」

”そうですね、とても良い朝です。ですが、こんなに早く起きて眠くありませんか?”

「大丈夫、体も軽いし頭もすっきりだよ。こんなに気持ち良い朝は本当に久しぶり」

 

 日が昇ってそれほど経っていない、まだ早朝といえる時間だった。

 ユーノを見ると、寝息に合わせてゆっくり体を上下させている。

 今日一日の流れを簡単に思い浮かべながら立ち上がると水を飲んだ。冷たくなかったが、体の中をすっと流れていく感覚が気持ちいい。境内をぶらぶら歩き回った。いつもより木々の緑は鮮やかに、鳥の囀りは楽しげに、空は青いガラスのように透き通って見えた。身体の奥底から活力が溢れ出し、何もかもが全て上手くいくような気分だった。

 

「よし、レイジングハート、魔法の練習しよう!」

 

 言うやいなや2つの魔法弾を作りながら、早足で数歩進み地面を蹴った。

 

「なんだか魔法を使いたくてしょうがない気分なんだ!」

 

 一瞬、人に見られるかもという考えが浮かんだが、まぁその時はその時と、自分の気持ちに従うことにした。

 現実で飛ぶのもレイジングハートのシミュレーションで飛ぶのも感覚は全然変わらないのだが、現実で実際に飛んでいるという事実を意識するだけでなんとなく楽しかった。いつかジュエルシードの封印のためではなく、大空を思うがままに飛ぶために魔法を使い、鳥たちと並び、そして追い抜き、最大速度で地平線の向こう側を目指したい。そんなことを漠然と思いながら、ひとまず基本の魔力制御の練習を始めた。しかしそのうち自分で動かしている桜色の光球を掴もうと、狭い空間をぐるぐる飛び回る遊びに変わっていた。

 なのはに午後のジュエルシード封印に対する不安は全く無かった。今日の暴走体は成長が早い高層ビルよりも大きなただの木。動き回らないし攻撃もしてこない。ジュエルシードが宿る本体をあらかじめ準備しておいた全力の一発で撃ち抜けばそれで終わりだ。なんて簡単なのだろうか。何も出来なかった最初の頃ならいざ知らず、今はやられるなんて有り得ない。問題があるとすれば攻撃が通るかどうかくらいのもので、それすらもレイジングハートがいればなんとかなるだろう。

 鳥居の向こうから微かな足音が聞こえた。

 なのははぴたと動きを止め、音を立てず小鳥のように宙を滑って社殿の裏に逃げた。そしてじっと耳を澄ませて表の様子を窺った。しばらくすると木の乾いた音と小銭が転がる音、鈴の音と柏手の音が聞こえた。どうやら参拝に来たようだ。

 

「お参りだっけ」

 

 いつの間にそこにいたのか、すぐ横にフェレットがいた。

 

「うん、体の具合大丈夫?」

「大丈夫だよ、ちょっとふらふらするけど」

「それって大丈夫なの?」

 

 内緒話でもするようにいくつかやり取りし、参拝者が行くのを待った。

 言葉のない静けさの中、ぐぎゅうとなのはの胃袋が声をあげた。決して大きな音ではなかったが、空気に染み渡るようにはっきり聞こえた。なのはは下唇を噛んで俯くと、ユーノに見えないよう顔を背け、参拝客が早く行ってくれることを祈りながら、沈黙に耐えた。

 足音が遠ざかるとこっそり表を確認し、なのはは自分の胃の要求を言葉にした。

 

「お腹空いたね」

「あはは、そうだね。何も食べてないし仕方ないよ。ところで……今日はどうするんだい?」

 

 ユーノはそこで言葉を切った。もちろん家に帰るんだよね、と続くのだろう。

 

「どうしよっか。とりあえず今日はまだやることがあるから、それから考えよ」

 

 なのはは形だけの考える素振りをして言った。そして自分で言った言葉の意味に気付き、アホらしいと苦笑した。

 それからもなにも選択肢など無いのだ。暴走体を封印し、家に帰り、心配かけたことを謝り、叱られ、日常に戻る。アリサとすずかとも話さなければならない。するべきことは既に決まっている。

 気分が一気に沈んでいくのを感じた。さっきまでのウキウキ感が無くなっていく。そのことにハッとしたなのはは、反射的にレイジングハートを握り締め、数歩足を進めながら言った。

 

「そんなことより空を飛ぶ練習しよう! まだまだ思うように飛べないんだ。もっといっぱい練習しなきゃ」

 

 表情は楽しげな笑みに変わっていた。

 

「あはは……まだ飛び始めて間もないのにそれだけ飛べたら大したものだと思うんだけどなあ。僕も何か手伝うよ」

 

 言葉通りなのはの上達に対してか、思考を放棄して大好きな飛行に逃げたことに対してか、ユーノの声音は困った調子だった。しかし確かに見守るような優しさがあった。

 

「ダメだよユーノくんは休んでなきゃ。良くならないよ?」

「え? ……あぁそうだった! すっかり忘れてたよ!」

 

 ユーノはハハハと笑って誤魔化そうとした。

 

「自分の身体のことだよ? やっぱりすごく疲れてるみたいだね。ゆっくり休んで」

”病人はおとなしく休んでいてください”

「……うん、そうする」

 

 ユーノは誤魔化すことが出来なかった上になのはに本気で心配され、何も言えず、どこかしょんぼりしたように軒下に向かった。そして6個の小さな魔法弾を作ったかと思うと、数秒だけ複雑な軌跡を描かせて消した。

 

「大丈夫だと思うんだけどなぁ」

 

 ユーノの独り言は誰にも届くことなく消えるのだった。

 なのはは昼前に練習を切りあげ街に向かった。ジュエルシード発動の正確な時間を覚えていないため、早めに出て封印し易い場所を探すことにしたのだ。

 

《実はねユーノくん、これからジュエルシードが現れるんだ》

 

 ユーノはなのはから一定の距離を保ちながら隣を歩いていた。肩に乗ってと言ったのだがユーノが遠慮したからだ。首輪もリードも無いフェレットが少女と並んで歩くというのは、すれ違う通行人の目を釘付けにするのだが、なのはにとってそれはもう慣れてしまったこと。そもそも見られるのはユーノだ。

 そんなユーノは前を向いたまま、何でもないことのように返事した。

 

《うん、そうだと思ったよ》

《え、何で!? 今日のこと知ってるなんて言ってないのに……あ、その……嘘ついてごめんね。今日ジュエルシードが現れること知ってたんだ》

《そうだと思ったのは冗談だけど、なのはが突飛な行動をするのにはすっかり慣れちゃってね。あ、今回もなんかあるなって》

 

 ユーノはちらとなのはを見て目を細めた。

 思い当たることばかりのなのはは、恥ずかしげに沈黙した。

 

《なのはが僕を騙そうと嘘をついただなんて思っていないよ。 なのはと出会ってまだ数日しか経ってないけれど、なのはの人柄を見て、感じて、そう思うんだ。それに夜ジュエルシードが現れた時、びっくりしてたでしょ》

「はぁ……やっぱりユーノくんって同じ子供じゃないみたい」

 

 なのはは顔を手のひらでぱたぱた扇いだ。

 

《なのはも他人のこと言えないと思うけどね》

 

 それからしばらくすると、なのはは立ち止まって上を見た。

 

「多分この辺が中心に近いと思うんだけど」

 

そこはいつだったか、地面から現れた樹に乗って天を目指し、天に届かず地に落ちた無念の地。攻略本を落としてしまったことは忘れていない。しかしなぜあれほどまでに悲嘆したのか、今ではさっぱり思い出せなかった。

 

「あそこが高くて一番見渡せるかも」

 

 ビルがいくつか建っているがどれも似たような高さだった。その中でも一番高いビルになのはは視線を向けていた。

 

《屋上まで登るの?》

《うん、そこで封印の準備しながら待ってようと思うの。でも……結界はどうしよう》

《あまり広くない範囲ならなんとか張れるよ……多分。どんなやつなんだい?》

《今から登るビルよりも大きな樹》

 

 ユーノは想像しているのか、見上げたまま少し無言になった。

 

《けっこうでかいね》

《うん、おっきいよ。何本も生えてくる》

《結界は……無理かも》

《そっか、仕方ないね》

 

 もし結界を張るとすれば街全体を覆うほどになってしまう。あまりにも広すぎる。

 

《それにしてもどうやって上るんだい?》

《今考えてるところなんだ。どうやって上ろう》

 

 これがデパートなら普通に入っても問題ないのだが、出入りしているのはスーツを着た人ばかり。どうにも子供が気軽に入ってよさそうなビルではない。

 なのはは建物の周囲を歩き回って下から上までじっくり観察した。飛べばあっという間だが人目がある。そんなの関係ないと飛んで行けたら楽なのだがそうもいくまい。

 

《この建物を覆う程度の結界なら簡単に張れるよ》

《でもユーノくんまだ体調よくないでしょう。無理しちゃ駄目だよ》

《大丈夫このくらいなら何でもないよ。使う魔力は最小に抑えるし》

 

 ユーノはそう言いながら結界を張った。

 

《さ、行こうなのは》

 

 なのはは困ったような笑みを浮かべるとユーノを優しく抱え地面を蹴った。

 想像とは違い、屋上に来たからといって完全に見渡せるわけではなかった。ここが駄目なら見える場所まで飛び移ればいい。地上とは違い人目につく可能性は低い。暴走体が出たら尚更そうだろう。

 なのはは屋上をぐるりと囲っている段差から真下を覗き込んだ。人と車が行き交っていた。この程度の高さではゴミのようには見えなかった。

 

「あ、だめ。やっぱり怖い」

 

 なのはは頭を引っ込め遠くを見た。

 

「え、高い所が好きなんじゃないのかい? 空を飛ぶのに比べたら高くないと思うけど」

 

 ユーノは意外そうにしながら、段差に跳び乗り見下ろした。

 

「うーん、足が着いてると何かの拍子にずるっと落ちちゃいそうで……。それで落ちる時のこと想像しちゃうんだ」

 

 なのはは樹から落ちた時のことを思い出しながら眉をひそめた。

 

「それに高いところが好きというより、空を飛ぶことが好きなんだよ」

 

 そう言って、後ろにふわりと飛びながら半転し着地した。そしてレイジングハートを起動させバリアジャケットに着替えると屋上を見渡した。

 

「さてどうしよう。たぶん封印の準備するには少し早いかも」

「じゃあそれまで休んで心の準備でもしてよう」

 

 なのはは頷くとその場に座り込んだ。バリアジャケットなら汚れることも破れることも心配しなくていい。自分で脱着する必要もなければ洗濯の必要も無いし、体型に合った自分専用の服のため着心地も悪く無い。むしろとても良い。もうずっとバリアジャケットでいたいくらいだ。最近、普段着として着れる意匠に変更するべきか頭の片隅で悩んでいたりする。

 屋上は静かだった。街中の喧騒は小さく、遠くに聞こえた。

 普通に過ごしていたなら一生来ることがないこの屋上で、何をするでもなくただ座っている。状況だけ見ればちょっと不思議な非日常。本来のなのはなら、わくわくしたり楽しくなったりしそうなものだが、まるでそれが普段の日常とばかりに、とくに何の感慨もなかった。

 なのははかんかん照りの太陽が眩しくて、フードを目深に被った。

 今日この日に3人で逃げた時のことは今でも鮮明に思い出せる。しかしそれは昨日のことのようにも、何年も前のことにも感じた。あと何分もしないうちにあの時辿り着けなかった向こう側へ行ける。そう考えてみるものの全く実感が持てなかった。

 なのはは目を瞑り頬に右手を押し当てながら、これからの封印の流れをイメージした。すると今更になってドキドキと心臓が高鳴ってきた。何度も深呼吸し、この程度どうってことないと言い聞かせた。絶対に封印できる自信はある。不安なんて無い。それなのに一向に静まる気配は無い。

 

”何か作戦はあるのでしょうか”

「あ、ごめん忘れてた。えっとね、生えてきた樹に向かって封印できる威力の攻撃を当てようと思ってるよ」

「随分簡単だね。大丈夫かな?」

”任せて下さい得意分野です”

「レイジングハート、頼むからこの前みたいに必要以上の爆発はさせないでよ……」

”得意分野です”

 

 なのはは口を挟むこと無く微笑みながら、ユーノの言葉を気にした様子もなく点滅するレイジングハートを撫でた。

 それからしばらく待っていると、ついにジュエルシードの反応があった。なのはの心臓はさっき以上に早く脈打ち始めた。

 

「きた!」

 

 すぐさま立ち上がってジュエルシードの反応があった方向を見た。この方向は高い建物が無く見通しが良かった。

 暴走体はまだ見えないが小さな揺れを感じる。なのはは揺れに備え、宙に足場を作ると跳び乗った。

 

「いくよレイジングハート」

 

 レイジングハートに魔力を流し魔法弾を作った。ふと、サーチャーを飛ばせばよかったと思いつくがもう遅い。周りの建物が大きく揺れ、急速に成長していく樹が見えた。すると魔法弾の前方に並んだ3つの環状魔法陣が、それぞれカメラの絞りのように動きやがて止まった。レイジングハートが暴走体との距離を見て調整したのだろう。

 いよいよ暴走体は今いるビルと同じ程の高さになった。

 

”あそこにジュエルシードがあるようです”

 

 なのはは目を凝らして見たがさっぱり分からない。暴走体との距離はそれほど離れているわけではないが、数百メートル先の小さな宝石なんて普通の視力では見えやしない。やはりサーチャーを飛ばすべきだった。

 

「全然見えない……」

「僕も分からないな」

”大丈夫です。もう撃てます。必中です”

「うん、撃って」

 

 言葉を言い終わった直後、瞬きする間に樹の幹に弾着し、とくに爆発するでもなく暴走体は消えた。

 なのははしばらく暴走体が消えた後の空間を見ていたが何も起こらない。

 

「え、もう封印できたの?」

 

 あまりにも呆気無く感じて、なのはは逆に不安になった。しかし既に暴走体の姿は無く揺れも収まっている。封印したということなのだろう。

 

”ええ、完璧です。さすがご主人様です”

「私、特になにも……」

「なのは、ジュエルシードの回収に行こう」

「……うん、そうだね」

 

 なのはは困惑した表情を引っ込め、レイジングハートを待機状態に戻すとユーノを抱えた。そして作った足場から屋上に降りようと膝を曲げた時、なのはは一瞬動きを止めてから姿勢を戻した。それから考えごとをするように立ち尽くす。ユーノが声を掛けたが反応はなかった。一つ深呼吸したかと思うと、暴走体に挑む時のように真剣な顔でユーノを抱き直した。

 

「よし、行こう」

「うん……へ? あああちょっとなのは! なのはってば!」

 

 ユーノはなのはにがっちりしがみついた。

 なのはは魔法陣の床を駆け、そのままビルの真下を目指して飛び降りた。飛行魔法は使っておらず、重力加速度にしたがって落下していく。

 

「うぉおおお!」

 

 ユーノが雄叫びをあげた。

 なのははぐっと歯を噛み締め、目を見開き、飛行魔法を使う準備をした。そして地面が近づくと飛行魔法で急減速、ゆっくり着地するとほっと息を吐いた。時間にして3秒程だろうか。

 ただの地震だと思っていたのか避難せずその場にいた人達が、降ってきたなのはを呆然と見つめていた。なのはは周りの視線に全く気付く様子もなく、思わず笑みを浮かべながらジュエルシードを回収するため魔法を使って走りだした。

 

「きっともう高いところも平気だね」

「きっとなのはは僕を殺すつもりなんだ……」

 

 2つの小さな呟きはどちらにも届かなかった。

 暴走体がいた場所には大穴が空いていた。その周囲には瓦礫や木材が積もり、一つの車椅子が転がっているのが見えた。流石に暴走体を見た人達は避難したのか誰も見当たらない。

 なのはは切れた息を整えながら、悔しそうに辺りを見渡した。脳裏に3人で逃げた時に見た必死で逃げる人たちの顔が浮かんだ。

 

「もっと早く封印する方法、あったんじゃないかな……」

 

 前の時に比べたらこの程度の被害は無いに等しいが、もっとよく考えていたら全く被害を出なくて済む方法が思い浮かんだかもしれない。

 

「なのは、僕が言うのもあれだけど、悔やんでも仕方がないよ」

「ふふ、ありがとうユーノくん。前を向いたほうがかっこいいね」

 

 全く後悔のない選択など完璧に未来を見通す能力でもない限り不可能だ。結果を知った今だからこそ、その時最善だと思っていたこと以外の方法にあれこれ考えを巡らすことができるのだ。

 なのはは気持ちを切り替え穴の中心まで降りた。そしてぽつんと一つだけ転がっている青い宝石を回収した。

 

「これでやっと終わり」

 

 なのははふっと一息ついた。すると突然、なのはの目からすっと涙が零れ落ちた。別に悲しいわけではなかった。むしろ心は夕凪のように平静であり、顔には何の情動も描かれていない。それでも涙は次から次へと溢れていた。

 ユーノはそんななのはに気付き驚くが、そのことには触れず、ただ一言「戻ろうか」とだけ言った。

 なのはは頷くと踵を返し、目元を手で拭いながら穴から出た。

 

”ご主人様、先程から微かな魔力反応があります”

「ジュエルシードかな?」

”違うようです”

 

 レイジングハートが示す場所は車椅子がある辺だった。

 近づくと積み重なる木材と瓦礫の隙間に人の足が見えた。なのははその瞬間、はっと息を飲み、心臓が止まったかと思うほど驚いた。もしかしたら死体なのではないか? 思い浮かんだ可能性に堪らなく恐ろしくなった。

 急いで駆け寄ると、今にも泣きそうな表情で覆い被さっている木の板や棒などを除けてゆく。幸いにもどれも軽かった。

 

「ああ……どうしよう……どうしようっ!」

 

 湿った声で何度も呟いた。ユーノも駆け寄ると人姿に戻り、なのはを手伝った。

 全てを除けると、なのはの身長と同じくらいの少女がうつ伏せに倒れていた。ユーノは少女の口元に顔を近づけた。

 

「大丈夫、ちゃんと息してる。乱れもないよ」

 

 その言葉を聞いて、なのはは腰が抜けたようにその場に座り込んだ。

 ユーノが少女の肩を軽く叩き声を掛けた。すると少女はパッと目を開き顔を上げ、ユーノとなのは、周りの状況にぐるぐる視線を向けた。肩ほどまでの茶髪は乱れていた。

 

「え、あ、何が起こったん……」

「大きな樹が生えてきてそれに巻き込まれたんだ。痛むところは無い? 立てそう?」

「あー、そやった、おっきな樹が生えてきたんやったな。えらいびっくりしてもうたわ。あ、私足が動かんないんよ。だから立つことはできへんけど……痛むところは肘と指の擦り傷くらいやろか」

 

 少女は身を起こすと、体を動かしたり袖を捲ったりして体の具合を確認した。

 

「あ、膝も擦りむいとるみたいや。鈍いから分かりづらいんよね」

 

 スラックスの膝部分が破け少し血が滲んでいた。これだけの怪我で済んだのは本当に運がいい。押し潰されていたわけではなく、丁度良く出来た空間の隙間に上手く収まっていたようだ。

 

「ところであのでっかい樹はどこいったんやろ。この有様やと夢ってわけでもあらへんやろしな」

「あの子がやっつけたんだよ」

 

 ユーノは視線でなのはを示しながら言った。少女はきょとんとしてなのはを見つめた。

 

「ほんにあなたがやっつけてもうたんか? かわいい白猫さんやんなぁ。どうして今にも泣いてまいそうな顔しとるん、どこか痛うしたん?」

 

 少女はなのはの方へ身を乗り出すと、宥めるように優しい笑みを浮かべ首を傾げた。なのはは一瞬誰のことか分からなかったがすぐに自分のことだと気付いた。そして泣き顔が恥ずかしくて俯いた。

 

「もしかしたら、あなたが死んでるんじゃないかと思って……」

 

 まだ乾いていない涙で潤んだ目を少女に向けたが、すぐに逸らした。少女はなのはの言葉を理解すると嬉しそうに笑った。

 

「私のこと心配してくれたんか。ありがとうな」

 

 そうじゃない。なのはは内心で否定したが言葉に出せなかった。自分が被害を抑えられなかったせいで人が死んだと思うと堪えきれなくなっただけなのだ。少女のことを心配したわけではない。なんて身勝手なのだろうか。そう自己嫌悪した。

 

「私は……そんなんじゃないよ」

 

 なのはは消えてしまいそうな声で呟いた。沈んだ気分のまま立ち上がると、転がっている車椅子の元に向かった。

 

「そろそろ行こう。人が来ちゃう」

 

 様子を見に来た人がちらほら見え始めていた。なのは達に視線を向けながら近づいている人もいた。何かしら声を掛けられるかもしれない。

 

「人が来るとまずいん?」

「ここに居たら危ないって怒られちゃうかも。それに怪我はないとか、何があったのとか、大丈夫だったとか、色々聞かれるかも。この車椅子はあなたのでいいんだよね?」

「ん、そやで……あああ無理して持たんでええよ!」

「大丈夫任せて……重いっ」

 

 なのはは気合を入れて車椅子を持ち上げると、ふらふらしながら平らな地面まで運んだ。そして動くことを確認してから、座部の埃を払った。

 ユーノは少女を背負うと車椅子に座らせた。

 

「ここまでしてもろうて、ほんまありがとうな。なんや申し訳ないわ」

「いいよ気にしなくて。なのはどうする?」

 

 なのはは家まで送ろうかと少女に聞いた。少女は申し訳無さと嬉しさを混ぜたように笑いながら頷いた。

 

「ほんならお言葉に甘えてお願いするわ」

 

 途中、予想通り心配そうに声を掛けられた3人は、笑顔を貼り付けながら立ち話をし、それが終わるとそそくさと立ち去るのだった。

 



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夕暮れの道

 なのはとユーノは家まで送るとそのまま別れるつもりだった。しかし、車椅子の少女――八神はやてに促され、はやての家に上がった。

 

「なんもあらへんけどゆっくりしてってな! 私、家に同い年の子呼んだの初めてや」

 

 いかにも嬉しげな雰囲気を纏ったはやては、テーブルにお茶を置くと2人の対面に移動した。

 

「それでは改めまして、この度は助けてくださり、そして家まで送ってくださりありがとうございます。助かりました」

「え……あ、そこまでかしこまらなくても……別に大したことはしてませんから。無事で良かったです」

 

 恭しく一礼するはやてに、なのははおろおろしながら思わず敬語で返した。それを見て、はやては笑みを深めた。

 

「そういうわけでな、なんかお礼しよ思うんやけど……そやなあ……2人は何時までおれるん?」

 

 ユーノ横目で、答えにくそうに苦笑いしながら視線を彷徨わせているなのはを見た。

 

「何時まででもいれる、かな……たぶん」

 

 本当なら日が暮れる前に帰ると言うはずだったのだが、残念ながら出てこなかった。

 はやては首を傾げた。

 

「うん? 帰る時間が決まってないうことかな?」

「えっと、なんと言いますか、その……家出中なのです、私」

「…………」

 

 はやてはしゅんと縮こまるなのはから視線を外しユーノを見た。ユーノは特に何の反応もせずお茶を飲んでいた。再び視線をなのはに戻す。

 なのはの様子を見れば、それが冗談ではなく、家族に心配させていることも、帰らなければいけないことも、なのは自身がよく理解していると分かった。

 

「いやあ……その、なんや……そう! 時間気にしなくてもええんやったら夕飯食べてく? ごちそうするで! なんなら夕飯どころかお風呂にも入って……泊まっていってもええよ! 部屋ならたくさん余っとるからな……うん、それがええ!」

 

 はやてはなのはを気遣う表情から一転、良いこと思いついたと言わんばかりに、ぱっと笑顔を浮かべ身体を乗り出した。

 

「いきなり知らない子がそんなことしたら、はやての両親が許してくれないんじゃない?」

 

 ユーノの言葉に、はやては一瞬表情を曇らせたがすぐに笑顔に戻った。

 

「大丈夫大丈夫、気にせんでええよ、一人暮らしやからな。ここの城主は私や! せやから誰の許可もいらん」

 

 はやては胸を張り、わざとらしく偉そうに言った。

 ユーノは少しだけ沈黙したが、はやての大仰な態度にあわせておどけたように言った。

 

「なるほどそれはすごい! なのは、城主様が夕食と寝床を用意してくださるみたいだけど、どうする? 寒空の下で寝なくても良さそうだね!」

「え? あ、うん。はやてが迷惑じゃなかったら……」

「よし決まりや! 今日は泊まっていき。いやあ、わくわくするなぁ」

 

 なのはは、なんだかはやてのペースに巻き込まれていると感じた。別に悪い気はしなかったが、せめて自然体でいようと努めるのだが、考える間もなく進んでゆく会話に出遅れてしまい、どうにも控えめな態度となってしまう。しかもユーノははやてが間に入ったからか、普段とは立場が変わっていた。

 なのははふと、今日が日曜日であることを思い出した。

 

「そういえば今日は日曜日だけど、私たちが泊まったとして、はやて明日学校大丈夫なの?」

「ああ、学校? 私学校休んどる。城を守らなあかんからな! なのはちゃんこそ、大丈夫なん?」

「私も家出中だから」

 

 なのはの言葉にはやては笑った。

 今のは落ち着いて答えることができたかもしれない、と内心喜んでいたなのはは、はやてが笑うのを見て、何かおかしなことを言ってしまったかと、慌てて自分の言葉を振り返った。

 

「そやそや、家出中やったな! 大人しそうなのに、すごい行動力というかなんというか……はちゃめちゃやな!」

 

 はやての言葉にユーノは笑った。

 

「ほんとだよ。なのはには驚かされてばかりだ。口から魂が出ていきそうだよ。おかげで退屈しなくていいね」

「む、私そこまで驚かせるようなことしてません。ふつうだよ、ふつう!」

 

 ようやくはやてが笑っていた理由に気づいたなのはは、自分の観察結果について意気投合する2人に抗議の声を上げた。

 2人はなのはをじっと見つめたあと、お互い顔を合わせて、にやっと笑った。

 

「なんなのさ!」

「いやべつに、なあ? ユーノくん」

「そうだよなのは。べつになんでもないから。なのははふつうさ。ぼくもふつう。はやてもふつう。みんなふつうさ」

 

 無駄に息が合う2人に、自分がなぜこんな立場になってしまったのかこれまでの会話を振り返ってみるが、さっぱり思い当たる節がなかった。

 

「ところで……なのはちゃんとユーノくんはできとるんか?」

 

 突然真顔になったはやては、身体を前に乗りだし、声をひそめて聞いてきた。

 なのはははやてを見つめながら首を傾げた。頭の中で繰り返しその言葉の意味を考えるが、ユーノの声がそれを遮った。

 

「え!? いや、僕となのははまだそんなんじゃないよ!」

 

 ユーノは何をそんなに焦っているのか、早口でしゃべりながら両手を振った。

 なのははユーノの立ち位置が自分と同じになったことを瞬時に理解し、思わずにっと口角を上げた。

 

「まだ! そう、まだ、か。なるほどなー。ユーノくんも見た目によらず、か。ロールキャベツやな」

 

 はやてはふにゃりと真顔を崩し、身体を引っ込めた。

 

「かわええもんな、なのはちゃん」

「え、私?」

「な! そうじゃなくて、あ、いや、かわいくないわけじゃなくてえっと……はぁ、やっぱりなんでもない」

 

 反論が思いつかないのか、墓穴にしかならないと悟ったのか、ユーノは言葉を止め、背もたれに寄りかかって脱力した。そしていかにも暑そうな様子で服を掴み前後に動かしていた。

 

「さて、私は腕によりをかけて夕飯の仕度してくるな」

「あ、私手伝うよ」

 

 はやては立ち上がろうとするなのはを制した。

 

「ええってええって。今日は私が作ったもの食べさせてあげたいんや。次は一緒に作ろな」

 

 はやてが行ってしまった後、少しの間沈黙が続いたが、なのはははっと思い出したようにユーノの方に身体を傾け小声で尋ねた。

 

「ねえねえユーノくん、さっきの話ってロールキャベツを作れるかどうかについてだったの?」

 

 なのはは理解できた部分情報と、最後の夕飯の仕度をするという流れから、この会話はロールキャベツの話なんだと予想した。

 

「え、ロールキャベツ? ……ああ、まあそんな感じの話だと思うよ? うん」

 

 やっぱりそうか! なのははまるで難解な問題が解けた気分になり、自分は頭が良いかもしれないと内心で小躍りした。

 

「私ロールキャベツくらいなら、たぶん作れると思うよ。やっぱり手伝った方がいいかな?」

「いや……さっき今日は自分で作ったもの食べさせたいって言ってたし、気にしなくていいと思うよ。ほら気が変わって別のもの作るかもしれないしね!」

 

 ユーノはぎこちなく笑った。

 

 

 

 

 向こうから水を流す音や野菜を切る音が聞こえるだけで静かな部屋だった。なのはの家にあるものより大きなテレビは誰の興味も引けず、画面に暗闇を湛えたまま、部屋の無言の住人となっていた。

 出来立ての巨大な餅にでも座っているかのように柔らかく沈むソファーで、ユーノはこくりこくりと船を漕いでおり、なのははぼうっとしながら視線を宙に漂わせていた。

 ついこの前まで何も進展のない日々を過ごしていたはずなのに、気がつけば何故か出会ったばかりのはやての家に泊まることになっている。普通の日常生活を送っていたのでは、どうやってもこんな展開はありえなかった。この時間は魔法やジュエルシード、その他諸々があって、偶然辿り着いた結果なのだ。苦しいことだらけだったはずのこれまでの時間に、そんな時間があって良かったと思えることがまた一つ増えてしまった。

 そんなことを考えていると、この時間への愛おしさが沸き上がった。なのははその気持ちに身を任せ、立ち上がると台所へ向かった。はやては必要ないと言ったけれど一緒に何かしたいし、してあげたい。漠然とそんな風に思った。

 しかし途中で足は止まった。信じられないものを耳にしたからだ。本当にこんなことがありえるのか? なのはは自分の耳を疑った。だが何度聞き直しても認識は変わらない。愕然とした。

 車椅子に座るはやての姿はカウンターに隠れて見えないが、そこから確かに聞こえてくるのだ。はやてが誰かと話す声が。

 

「ふふ、じゃがいもくん次はきみの番だよ。きみは私となのはちゃんに食べられる今日この日ために生まれてきたのだよ。うれしいよね? はい! 感激っす! どうぞはやて様の思うがままにしてください! うむ、きみの潔さに免じてまずは皮をむいてあげよう」

 

 はやては野菜と話していた。

 カウンターの向こう側は、決して見てはいけないとでもいうように、何か得体の知れない恐怖を感じて覗くことができない。なのはは音を立てないよう後ずさりしてから踵を返し、ソファーに戻った。

 ユーノはなのはが立ち上がった時の揺れで目が覚めたのか、なのはの様子を見ていた。

 

「どうしたの?」

「なんでもない」

 

 なのはは虚空を見つめたまま無表情で言った。私は何も聞いていない。そう心の中で繰り返しながら。

 することがないなのはは、何を考えるでもなく、バリアジャケットを撫でてみたり摘んだりしていた。そしてはたと思う。はやてが見ていない今、さりげなく着替えてしまえばいいのではないか、と。別に着替える必要はないのだが、なんとなく制服の方がいい気がした。

 

「レイジングハート、制服に戻してもらってもいいかな」

 

 快い返事と共に制服に戻った。

 

「べつにそのままでもよかったんじゃない?」

「うん、まあそうなんだけど、なんとなく……あ、靴履いたままだ」

 

 急いで床から足を上げ靴を脱ぐと、玄関に置きにいった。

 

“申し訳ありません。気が回りませんでした”

「いいよ、私もすっかり忘れてたから」

 

 はやてから雑巾をもらい床を拭くと、また何をするでもなくソファーに沈み、漂ってくるおいしそうな匂いを嗅ぎながら夕食ができるのを待つのだった。

 待ちに待った夕食がテーブルに並ぶと、なのはは染み出る涎を飲み込んだ。今なら限界知らずで食べられそうな気がした。

 

「はやて、本当にごちそうになっていいの? 後で返せって言われても返せないしお金もないよ?」

 

 なのはは真剣な眼差しではやてを見た。そんななのはの様子にはやては堪らず笑った。

 

「ちょっとなんでそんな真顔なん。別に返してもらわなくてもいいしお金もいらへん。食べてもらいたくて作ったんやから遠慮せんで食べてな」

 

 そんなに真顔だっただろうかと、なのはは顔を両手で挟んで揉みほぐした。

 

「昨日も今日も何も食べてないし、その前はずっと豆腐だったもんね。僕たちにとっては何日かぶりのちゃんとした料理ってことになるのかな?」

 

 ユーノの言葉を聞いて固まっているはやてを、なのはとユーノは不思議そうに眺めた。

 

「え、ちょっと待って。家出っていつからしとるん」

「今日で一週間、かな……うん」

 

 はやては再び固まった。せいぜい昨日か今日、勢いで家出しただけだと思っていたのだろう。浮かべていた幸せ笑顔はすっかり消えていた。

 

「一週間!? 一週間って……えらい根性やな、一体何があったんや、ていうか引き止めておいてなんやけどすぐ帰った方がええで、それ」

「……そうだよね。帰った方がいいよね」

 

 なのはは萎れたようにしょんぼり俯いた。おいしそうな料理が目の前にあるのに、気分はどんより沈んだ。

 はやては動きを止め、後悔するように顔をしかめた。そしてユーノを見て「どうしよう」と声を出さずに口だけ動かして聞いた。ユーノは目を瞑って無言で首を横に振るだけだった。

 

「あー、えっとな……私が言わなくても十分わかってると思うけど、やっぱり家族が心配しとるやろしな」

 

 そしてなのはが頷くのを確認して続けた。

 

「私としてはなのはちゃんにはずっといて欲しいし、泊まっていってほしいのも山々なんやけどな、今回ばっかりは我慢する」

「うん……私も我慢する。また今度ね」

 

 なのはは顔を若干上げると、はやてに視線を向けた。

 

「ああもう、ほんまに良い子やな! まったく、何でこないな子が……はぁ、とりあえず先に食べよ」

 

 はやてが言い終わるかどうかという時、インターホンが鳴った。

 

「珍しい、誰やろ?」

 

 はやては室内機で返事をした。

 

『ごめんください。私、高町士郎というものです。突然申し訳ありません。今、人を捜しておりまして、そのことについて少しお伺いしたいのですが……親御さんはご在宅でしょうか』

 

 はやてはなのはを見た。スピーカの音がなのはにも届いていたようで、なのはは気が気でないというように、どうしようどうしよう、と椅子から腰を浮かしたり降ろしたりを繰り返し、どこか隠れる場所はないかと視線をぐるぐる回していた。完全に逃げ腰だった。

 

「少々お待ちください……なのは」

「はやて、はやて私どうしたら!」

 

 見ている者を奮起させる、暴走体と戦う時の泰然とした姿は一体どこへ行ってしまったのだろうか。そんなもの最初から幻だったのかもしれない。なのはは迷子になってしまった小さな子供のようだった。

 

「落ち着いて。私が傍におるから、一緒にがんばろ?」

 

 はやてはなのはを安心させようと手を握った。口元を震わせるなのはは、はやてを見つめゆっくり頷いた。それを確認するとはやては部屋から出ていった。

 玄関からはやてと士郎の声が聞こえる。嫌にはっきり響く時計の秒針音が、益々身体を強ばらせ呼吸を苦しくした。むこうから高町なのはと言う声が聞こえた。その瞬間なのはの心臓は跳ね、破裂しそうなほど脈打ち、目の前が真っ白になって倒れてしまいそうだった。

 はやてに呼ばれたなのはは、ふらふら立ち上がると部屋と廊下の境界まで進んだ。しかしそこから先に踏み出せない。足は自分のものではなくなったかのように動かなかった。

 自分は絶対に乗り越えられないと思っていた日々を乗り越えたではないか。それに比べたら、こんなのどうってことないだろう? そう言い聞かせるが、士郎の顔を見ることが、視線を交わすことが、声を掛けられることが、ぞっとするほど恐ろしかった。

 はやては動けずにいるなのはの前にくると、「大丈夫だから」となのはの手を取って促す。そのひんやりした手はとても心強かった。

 俯くなのはは、鉛の足を引きずるような気持ちで一歩踏み出した。視界の端に映った大人の影に息を飲み、何を話せばいいのか、どんな顔をすればいいのか、そもそもどうやって声を出せばいいのか、真っ白な脳裏で考え続けた。探るように視線を向けると佇む士郎と目が合い、慌てて逸らした。咄嗟に家出のことを謝ろうとしたが声が出ない。何の言葉もない無言の空間に、今すぐ逃げ出したくなった。

 

「なのは」

 

 静けさの中、士郎の声が響いた。怒気は感じられない。むしろ普段と変わらず優しかった。

 

「帰ろう。みんな待ってる」

 

 声の余韻が耳に残る。なのはは顔を上げて士郎を見た。笑っていた。もう何に悩んでいたのか分からなくなった。思い通りに動かなかった足は急に軽やかになって、引き寄せられるように士郎の元に向かった。

 

 

 

 

 なのはは士郎の腰に寄り添ったまま、「またくるから!」とはやてに手を振り出ていった。

 

「ええなあ」

 

 はやては、丸っこい数字で電話番号が書かかれたノートの切れ端を見ながら感傷に浸った。

 

「行った?」

 

 玄関が静かになったことを確認したユーノが部屋から顔を出した。

 

「うん、残念やけど行ってもうた。2人になったけど夕飯食べよか」

 

 部屋に戻って席につくと、夕食を再開した。

 はやては空席の前にある手付かずのまま残っている料理を見た。

 

「もう冷めてるな。よかったらなのはちゃんの分、食べてええでユーノくん」

「ああ、ありがとう。頂くよ」

「なあユーノくん、なのはちゃんまた来てくれるやろか」

 

 ユーノは、表情を曇らせ視線を下げるはやてをちらと見た。

 

「来ると思うよ。家出して森の中で寝泊まりするくらいだし。夜中に窓から抜け出してでもくるんじゃないかな」

「いやさすがにそこまでするかなあ」

 

 はやてはおかしそうに笑った。

 

「それに森の中って……あの子そんなことまでしてたんか。見た目と雰囲気からは想像もつかんな」

「そうだね。でもよく考えてるよ、いろんなこと。それに心も強い」

「それにかわええしな」

 

 ユーノは頷いた。それから一泊遅れてはやての言葉を理解し、慌ててはやてに視線を向けた。にやっといやらしい笑みを浮かべていた。

 

「あ、いや!」

「うんうん、わかっとるで。2回も引っかかるくらいや。ユーノくんはなのはちゃんのことよう見とるんやなあ」

 

 はやては目を閉じると相変わらず口元に笑みを浮かべたまま何度も頷く。汗を滲ませたユーノは再び何か言おうとしたが、口を噤み料理に視線を落とした。

 

「ところでユーノくんも家に帰らんで大丈夫なんか? 家の人心配しとるやろ。なのはちゃんのお父さんみたいに」

「大丈夫だよ。ちょっといろいろあってね。帰る場所がないんだ。ここに来たのはつい最近だよ」

「なんやユーノくんも家……なるほどわかった! 2人で駆け落ちしてたんやろ? さてはなのはちゃんを誑かしたのはユーノくんやな!? 見た目によらずいけいけやなあ、ユーノくんは」

「いやなんでそうなるの!? 違うから! 言葉通りさ。親も家もないってこと」

「ふぅん……そうか、それは大変やなぁ」

 

 はやてはあっさり引き下がり、それ以上聞こうとしなかった。

 

「家出少女に放浪少年か。困ったもんやなあ。私がいうのもおかしな話なんやけど、保護者がおらへんと何もできひん。お金とか大丈夫なん?」

 

 ユーノは渋い顔をした。

 

「大丈夫……じゃないね。こっち来てからなのはに頼りきりだったし。恥ずかしい話だけどね。それにいつここから移動できるかもまだ分からないんだ」

「ほんなら宛が見つかるまで家におるとええ。部屋も余っとるしな。私一人じゃこの家は広すぎる」

「え、さすがにそこまでは!」

 

 慌てて遠慮するユーノにはやては笑った。

 

「なに、遠慮することない。そもそもほかに手はあらへんやろ? 助けてもらった恩返しもある。それに……なのはに続いてユーノくんまで行ってもうたら、おもろないやん」

 

 はやての表情はほとんど変化していなかったか、ひどく寂しそうに見えた。

 ユーノは少し沈黙した後に頷いた。

 

「わかった。それじゃあ申し訳ないけれどしばらく迷惑かけることにするよ」

「そうか! なんも迷惑じゃあらへん。これからよろしくな!」

 

 一人しかいなかったはやての家に居候が一人増えた。

 

 

 

 

 茜雲が浮かぶ薄暗い帰り道、2つの長い影が仲良く並んでいた。

 なのはは鞄を持ってくれている士郎の太く頑丈な手首を掴んで歩いた。そして家に帰ることの不安と申し訳ない気持ちに息苦しさを感じながら、携帯電話で家に連絡する士郎の声を黙って聞いていた。

 

「夕飯準備して待ってるだってよ。帰ったら一緒に食べよう」

 

 電話を切った士郎はなのはを見下ろして言った。

 

「あ……」

 

 なのはは頷こうとする直前、はやての料理を食べそこなったことを思い出した。

 

「どうした?」

「友達が私のために夕飯作ってくれたのに、一口も食べずに出てきちゃった……」

 

 士郎を掴む手に力が入る。

 あんなにも嬉しそうにしていたはやてのことを思うと、胸が痛かった。帰ったら絶対に連絡しよう、そう思った。

 家の玄関に着くと、なのはは無意識に、士郎の背中に隠れるように後ろへ回った。玄関をくぐる士郎に続いてなのはも家の中に入る。士郎が帰ったことを告げると、奥からとんとんとんと駆ける音が聞こえ、桃子が姿を現した。遅れて恭也と美由希も出てきた。

 

「なのはは?」

「ちゃんといるよ」

 

 士郎は身をひねってなのはがいることを確認させてから、なのはの背を押した。

 

「……ただいまお母さん」

 

 言い終わった瞬間、なのははぎゅっと身体を抱きしめられた。それは、もう絶対に手放さないとでもいうように力強かった。こんな風に抱かれたのいつぶりだろうか。なのはは桃子の匂いに懐かしさと安心を感じた。

 

「ああ、ほんとに心配したんだから! すごく心配したんだから! もう黙って出て行くなんてことしちゃだめよ!」

 

 桃子は一度体を離し、潤んだ瞳の焦点をなのはに向け、断固とした口調で言った。瞳の奥底まで覗き込まれるかのような厳しい視線に、なのはは口元が震え出すのを感じた。恐い。叩かれたり怒鳴られたわけでもないが、そう思った。親に叱られたことなど殆ど無いため、叱られているという事実自体に萎縮してしまう。

 

「心配かけてごめんなさい」

 

 震える声を絞り出した後、なのははもう一度、桃子からの力強い抱擁を受けた。

 一週間ぶりに見る母の姿はなんだか少し痩せているように見えた。

 

 

 

 

 本当に久しぶりに家族揃っての夕食を終え、風呂にも入り、一週間を乗り越えたことに喜びを覚えたのも束の間、なのはは家族に自分の行動についてどう説明しようかと頭を悩ませた。これまでの長い時間の中で何度か考えることはあったが、具体的に言葉に出して説明するとなるとうまく考えがまとまらなかった。

 そうこうしているうちに、家族からの無言の視線を浴びる中で説明することになり、そうなると余計に緊張して考えがまとまらなかった。

 

「別に怒っているわけではないよ。なのはが嘘をついていないというのは今日証明されている。ただ何故それが分かったのか、何が起こっているのか、何故出ていかなければならなかったのか、詳しく話して欲しいんだよ」

 

 士郎に優しく諭され、緊張が幾分和らぐと、以前恭也に話したように話せばいいと思いついた。

 それでもうまく考えをまとめられず、思い浮かんだ順に言葉を並べていく。ジュエルシードのこと、暴走体のこと、魔法のこと、魔法を使える世界のこと。そして夢で見たという嘘。

 魔法のことを説明しながら実際に使ってみせると、「イメージと違う」と言われただけで意外にもすんなり受け入れられた。

 一通り話し終わると、答えられる質問には答え、もう少し詳しい話を聞くため今度ユーノを連れてくることを最後に約束し、家族会議は閉会した。

 イメージと違うと言われた魔法だが、興味を引かれたのか恭也が後で稽古に付き合ってくれと言ってきた。何かしら役に立てるのならと了承したが、でも痛いのと苦しいのは嫌だよ、と釘を刺しておいた。

 説明を終えたなのはは、なんだかぐったりと疲れてしまった。しかし、これでずっと悩んでいた家族との問題が解決したと考えると、梅雨明けの青空のように気分は晴れやかで、全身は風のように軽やかになった。

 なのはは自室に戻るとベッドに座り部屋の中を見渡した。あとはもう寝るだけなのだが、その前に何かしたい。でもとくに思いつかない。そんな状態だった。ふと視線を移した先に携帯電話があった。

 

「そうだった、電話しないと」

 

 手に取り確認してみると電源が切れていた。なのはは電話を充電器に繋いで勉強机の前に座った。

 

「メールきてる」

 

 家出した日から2日続けて送られたアリサとすずかからの心配のメールだった。おそらく実際に家に来て携帯電話が置きっ放しになっていることを知り、それ以降はメールを送るのを止めたのだろう。こうやって自分のことを気にかけてくれる友人がいることに嬉しさを感じた。そして改めて、自分だけが2人のことを友達だと思っているわけではないと自信が持てた。

 なのはは画面を見つめたまま動きを止め、何とメールを打とうか考えた。

 きっと怒っているに違いない。2人から逃げた日のことを思い浮かべながら溜息をついた。いろいろ言い訳を考えながら、指が動くままに文を書いた。

 

 なのは帰還しました

 

 一瞬、こんなテキトウなメールで大丈夫だろうかと送信するのを躊躇ったが、勢いに任せて送ってしまった。アリサとすずかならこんなメールでもきっと大丈夫だろう。

 

「よし、次ははやてに」

 

 最初に何て言おうか、どんな話をしようか、とあれこれ考えを巡らせながら紙を見て番号を入力していると、すずかから電話がきた。

 

「え、電話!? 何話せば……」

 

 メールで返ってくると思っていたなのはは、あたふたしながら電話に出た。

 

『なのはちゃん!』

『すずかちゃん……えっと、3日ぶりだね』

 

 すずかの返事は無かった。なのはは、やはり怒っているのだろうかと不安になりながら、おずおずと声を掛けた。

 

『すずかちゃん?』

『もう……帰還しましたじゃないよ。心配したんだからね』

『ごめん。明日からまた学校行くから、大丈夫だよ』

『そっか。無事なのを確認できて良かったよ。いろいろ聞きたいことはあるけど、たぶん今アリサちゃんが通話ボタン連打してるだろうから、明日学校でね』

『それは無いと思うけど……。うん、明日学校で。心配してくれてありがとう』

『ふふ、心配するのは当然だよ。それじゃあ明日。逃げちゃだめだよ?』

『……』

 

 何か言おうとする前に電話は切れた。想像以上に短い通話だった。1分も話していないんじゃないだろうか。

 なのはがほっと一息つこうとした時、再び電話がなった。アリサからだった。

 

『なのは!』

『アリサちゃん……あまり興奮するとはげ』

『興奮なんてしてないわよ! 今まで何処行ってたのよ! それに帰還しましたってなにさ! もっと他に言うことがあるでしょう! あと一緒にいた男子だれよ!』

 

 なのはは電話を耳から少し遠ざけて苦笑を浮かべた。

 

『えーっと……まあ色々ありまして、そんなこんなで無事帰ってこれたといいますか』

『…………なのは明日学校くるわよね?』

 

 それじゃ分からないわよバカにしてるの、と怒られると思っていたのに予想外の返答だった。それになんだかアリサの声が低くなったように感じた。

 

『その予定だけど……行きたく』

『そう、じゃあ明日会いましょう。逃げたら許さないから』

『……』

 

 返事をする間もなく通話は切れた。すずかもアリサも逃げられたことを根に持っているのだろうか。

 

「明日大丈夫かな」

 

 不安げな言葉とは裏腹に、なのはは自然と笑みを浮かべていた。電話で話してみた2人は記憶の中の2人と何も変わっておらず、またいつも通り自然に話せる気がした。

 明日はずっと謝れなかったことも謝ろう。そんなことを考えているとメールが来た。

 

 無事でよかったわ

 

 アリサからのメールだった。

 

 心配かけてごめん。明日会いましょう

 

 返信し終わると、なのはははやてに電話するために番号を入力した。数回のコールの後、はやての声が聞こえてきた。

 

『はい、八神です』

『もしもし、はやて。なのはだよ。今大丈夫?』

 

 はやては、まさかその日のうちに電話が来るとは思っていなかったようで驚くと同時に喜んでいた。なのはは折角作ってくれた夕飯を食べることができず申し訳ないと謝り、家に帰るきっかえを作ってくれたことにお礼を言った。

 

『なのはちゃんは律儀やな。なのはちゃんの分はユーノくんがおいしいおいしいはやての料理は最高だ、言うて全部食べてくれたから安心して』

 

 はやてはおかしそうに笑った。そして弾む声で、また作るからいつでもおいで、と言ってユーノと代わった。

 

『もしもし』

『あ、ユーノくん、あのね……魔法の事話しちゃった』

『そっか。使えない世界で教えるのは色々まずんだけど……ま、仕方ないよね』

『それで、ユーノくんに詳しく話を聞きたいってお父さんに言われた』

『え!? ……いや、まあ当然だね。いつがいいかな』

 

 明日は塾があるため無理だが明後日は特に何もない。別に土日でもいいのだが、こういうことはできるだけ早いほうがいいだろう。

 

『……明日は無理だから明後日とかかな』

『じゃあ明後日で』

『学校帰りに迎えにいくね』

『了解。あ、それと念話についてなんだけど』

 

 ユーノははやてに聞こえないように声を潜めた。

 

『これからは念話する時は僕だけに送って。そうじゃないとはやてにも聞こえる可能性があるから。やり方は分かるよね。それとここからじゃなのはの家まで距離が遠すぎて使えないみたいだから、何か他の方法考えないといけない。まあ明後日会った時にでも考えよう』

 

 なのはが賛成したのを確認すると、ユーノははやてと代わった。

 

『明後日の学校帰りにはやての家に行ってもいいかな?』

『うん、ええよええよ! 楽しみに待っとる!』

 

 はやてとの通話も終わると、なのはは大きく体を伸ばした。それから机の上に置いていたレイジングハートを手に持ち、ベッドに向かった。

 

「つ、か、れ、たーっ!」

 

 なのははベッドにダイブし、枕に顔をぐりぐりと押し付けた。

 

「疲れたよー」

 

 枕越しのくぐもった声を上げながら足をばだばたさせる。それからぴくりとも動かなくなったかと思うと、手を開いてレイジングハートを見つめた。

 

「ねえねえレイジングハート。私いいこと思いついちゃった! 魔法の練習のためにレイジングハートが作ってくれる世界があるよね。そこでレイジングハートも人の姿になれると思うの」

“それは……素晴らしい考えです。なぜそんな簡単なことが思いつかなかったのでしょうか! 早速実験してみましょう大丈夫です落ち着いて下さい私は冷静です”

 

 なのははレイジングハートの様子に笑った。何気なく思いついたことだったが、予想以上に喜んでもらえたようで嬉しくなる。

 そのまま眠れるよう部屋の電気を消しベッドの上に横になると、レイジングハートに意識を委ねた。

 

「いかがでしょう?」

 

 目を開くと、なのはは自室のベッドに座っており、目の前には妙齢の女性が顔を上げ胸を張り、どうだ、と言わんばかりの態度で立っていた。乙に澄ました顔をしているが、嬉しくて仕方がないという雰囲気がひしひし伝わってくる。

 

「レイジングハートだよね? ちゃんと人の姿になってる! でも……なんだかお母さんに似てるように見えるんだけど……気のせいかな」

「ご主人様とご主人様のお母様を参考にしました」

 

 レイジングハートは佇まいを崩し、なのはと同じ色、同じくらいの長さの髪を指で摘んでみせた。その様子は、買ってもらった新しい服を褒めてもらいたい子供のようだ。

 身長はなのはより三十センチほど高く大人の身体だった。そしてなのはと桃子のような優しさを前面に出した顔つきとは異なり、凛としていてかっこいい容貌だった。なのはとは色が違うだけの子供っぽい寝間着は、その容姿と大きなギャップを生んでいたが、ある意味今のレイジングハートにはぴったりだ。

 

「変ですか?」

 

 不安そうに表情を曇らせるレイジングハートを見ると、落ち込ませるようなことなんて言いたくない。そもそもその姿を変と言ってしまえば、すなわち、なのは自身と桃子の容姿が変ということになってしまう。だれも幸せにならない。

 

「そんなことないよ。かっこいいお姉さんって感じかな」

「そうですか! ふふ……お姉さん」

 

 レイジングハートは誇らしげに口角を微かに上げた。なんだか鼻歌でも聞こえてくるようだった。

 こうして見ると想像していた以上に感情豊かであることがわかった。言動と仕草と表情の変化。一つ一つの変化は小さいのに、なぜかわかりやすい。

 

「……あのねレイジングハート、その姿もすごく素敵なんだけど、一回だけでいいから私のイメージした姿になってもらえたりしないかな?」

「ご主人様の……? ええ、もちろんです。任せて下さい」

 

 レイジングハートは一度姿を消して、なのはからイメージを受け取ると身体を再構築した。

 

「これでよろしいでしょうか? あの……ご主人様。大人の姿ではなく子供の姿なのですが……それに犬のような尻尾まで……」

「うん、すごくかわいいよ! 思った通り!」

 

 さっきのレイジングハートの姿をなのはよりも幼くした姿、髪はなのはよりも短くなっていた。

 なのはは居ても立ってもいられず、立ち上がってレイジングハートのもとまでいくと、体温まで再現されているレイジングハートの柔らかい両手を取った。もし叶うのなら、今すぐこのまま何処か一緒に出掛けにいきたい気分だった。

 恥ずかしがり屋で甘えん坊、そして自分を慕ってくれる可愛い妹分。真面目な表情と口調とは裏腹に素直に反応する尻尾。まさになのはが思い描いていた通りだった。

 レイジングハートは握られた手をじっと見つめたまま硬直してしまった。なにやら後ろからばさばさと音が聞こえる。なのはがレイジングハートの後ろを覗くと、激しく左右に揺れる尻尾があった。

 

「あぁ……尻尾が勝手にっ、あのご主人様……尻尾が止まりません」

 

 わざわざ報告してくるレイジングハート。ここはレイジングハートが生み出している世界なのだから制御出来ないはずがないのだが、それほど動転しているのだろう。どうしたらいいか分からず、あわあわと恥ずかしそうにする仕草はひどく愛らしいものであった。

 

「大丈夫だよ。全然恥ずかしいことじゃないから、ね?」

 

 駄目だ、かわいすぎる。姿や仕草はもちろんなのだが、最早レイジングハートの存在そのものが可愛かった。なのはは抱きしめてぐるぐる回りたい気持ちを不屈の心で抑えこみ、微笑みながらレイジングハートの瞳を見つめ、安心させるように優しい声音で言った。その途中、すずかも自分にこんな風に言うことがあるなと思い出していた。

 

「座ってお話しよ」

 

 すっかりお姉さん気分のなのはは、レイジングハートの手を引いてベッドに腰を下ろした。

 

「人の体で動くのはどんな感じ?」

「身体の動きは想定通りです。ただ残念ながら触覚……痛みや痒みといったものはよくわからないです。もちろん数値としては分かるのですが……一体どのような感覚なのでしょう」

 

 レイジングハートは握ったり開いたり、曲げたり伸ばしたり、頬をぺちぺち叩いたりつねったりした後、不思議そうに首を傾げた。

 なのはにはまず、数値として、というのがよく分からない。そもそもコンピュータや魔法がどういうカラクリで動いているのかもまるで理解していないのだから。それでもレイジングハートのために何か良い案は浮かばないかと頭を捻ってみた。

 

「触った時に、嬉しいとか、楽しいとか、好きとか、その逆の楽しくないとか、嫌いとか、そういうのを結びつければいいんじゃないかな?」

「なるほど。ご主人様は天才です。……あの、ちょっと叩いてもらってもよろしいでしょうか」

「え?」

 

 無言で固まるなのはをレイジングハートが真剣な顔で見ていた。

 

「立ったほうがいいですか?」

「いや、そうじゃなくて、叩くのはちょっと……。つつくくらいならいいよ」

 

 こんなに可愛いレイジングハートを一体誰が叩けるというのか。叩けるわけがない。なのはは手をのばすと、叩く代わりにレイジングハートの頬をぷにぷにした。

 

「ぁ……」

 

 レイジングハートは吐息ともつかない小さな声を零すと、焦点の定まらない瞳を虚空に彷徨わせ、とろんとした恍惚の表情を浮かべた。すると一瞬、部屋の景色が消え、全てが真っ白になった。

 

「レイジングハート……大丈夫? もしかして痛かった?」

「大丈夫、です。むしろその逆です。これは……危険ですねとても。細かい調整が必要です」

 

 なのはは何がなんだかさっぱり分からなかったが、レイジングハートが納得したのならそれでいいかと気にしないことにした。

 ふと、飴玉でもあげたら喜ぶだろうかと思ったが、残念ながら手元にないので試すことはできない。

 

「ねえねえ、そういえばレイジングハートって名前を縮めるとレイハだよね。れいはとなのは。なんだか姉妹みたいだね」

 

 そう笑いかけると、レイジングハートはまるで雷に打たれでもしたように固まってしまった。その様子に、もしかして機嫌を悪くしてしまったかと、なのはは不安になった。悪気はなかったが軽率だったかもしれない。

 

「気に入らなかっ」

「私は今かられいはです」

 

 レイジングハートは勢いよくなのはに振り返りそう言った。尻尾が忙しなく揺れだしたところを見れば、どうやら喜んでいるらしい。そうと分かるとなのはも嬉しくなった。

 

「今日はこのまま一緒に寝よ、れいは」

「え、一緒に……?」

「あ、でもこのまま寝れるのかな。全然眠くならないけど」

「大丈夫です。すぐに眠くなります。どうぞ横になって下さい」

 

 言われた通り横になった。隣にはいつの間にか枕が1つ増えていた。

 徐々に部屋の明るさは弱くなり、やがて真っ暗になった。すると、今まで感じなかった眠気の波が緩やかに押し寄せてきた。

 

「れいはもおいで」

「それでは……失礼、します」

 

 緊張しているのかちょっとだけ強張った声だ。

 

「そんなに端っこにいたら落ちちゃうよ? もっとこっちおいで」

「はい……」

 

 控えめな返事をすると、もぞもぞとなのはに寄ってきた。向かい合うなのはとレイジングハートの距離は、息遣いが感じられるほど近くなった。

 

「こうやって一緒に寝れるなんて夢みたい」

「物理空間ではありませんから夢と変わりません。ですがそんなことは些細な事です」

「そうだね、些細なこと」

 

 なのははうとうとしながらも、眠ってしまわないように、のろのろと思考を回転させた。

 

「やっとここまでこれたね。れいはと仲良しになったら、これまでが嘘みたいに進んじゃった」

「たとえ私がどうこうしなくても、ご主人様なら必ずここまでこれたと確信しています。私はただのきっかけでしかありません」

「ううん、れいはがいつも私のこと支えてくれていたこと、今ならちゃんとわかる。だからここまでこれたんだよ。それとご主人様じゃなくてなのはだよ?」

 

 なのはは目の前にあるレイジングハートの手を、宝物でも扱うように両手で包んだ。

 

「これからも一緒にいてくれると嬉しいな」

「……もちろんです。私はずっとそばにいます。あなたのそばに」

 

 レイジングハートはなのはが眠ってしまったのを確認すると、なのはの手にそっと額をくっつけ目を瞑った。

 街灯の光がカーテン越しにほのかに照らしだす薄暗い部屋で、赤い宝石がただじっと、なのはの枕元に寄り添っていた。




ちょっとおまけ

 レイジングハートはなのはの言葉を聞いて固まった。その一瞬、これまで何度も思い描いてきたあらゆる欲望が、炎を吹き上げ一気に駆け巡った。
“それは……素晴らしい考えです。なぜそんな簡単なことが思いつかなかったのでしょうか! 早速実験してみましょう大丈夫です落ち着いて下さい私は冷静です”
 冷静ではない状態を冷静だと勘違いする程に、レイジングハートは興奮していた。部屋の中を……いや、次元世界の隅々まで駆けまわり、触れることのできる全ての物、果ては存在しない空想のなにかに対して、いかにこれが喜ばしいことであるかを、気が済むまで語りたい気分だった。だがそれはできない。これからその理想郷ともいうべき素晴らしき世界を堪能するという大仕事があるのだ。
 レイジングハートはなのはの意識と繋いだ。
「いかがでしょう?」
 安心を与える母性あふれる存在。甘えることができ、頼ることができ、気を許せる存在。なのはにとって姉のような、母のような自分。そんなイメージと、大好きななのはと一緒がいいという気持ちが混ざり合った結果がそこにはあった。
 もしかしたら似合っていないかもしれない。なのはの様子を見て、急激に不安が膨らんだ。もっと慎重に行動するべきだったと後悔した。もし変と言われたらあまりの恥ずかしさと自己嫌悪で自分を壊してしまうかもしれない。
「お姉さんって感じかな」
 お姉さん! 今自分は「お姉さん」と言われたのか!? なのはに言われた単語を内心で何度も繰り返した。理想の自分との合致に、飛び跳ねてその喜びを全身で表現したい気持ちが沸き上がった。しかしそんな自分をクールに笑い飛ばす。自分はお姉さんなのだからそんな子供じみた真似をするわけがない、と。すると、益々かっこいいお姉さんになった気がした。
 誇らしさの中、決して叶うことのなかったあんなことやこんなことをこれからどんどん達成していこう、と意気込んでいると、なのはから別の姿になってくれと頼まれた。レイジングハートは特に何の疑問も抱かず、むしろなのはのイメージした姿になれることを喜んだ。
 そして自分の姿を認識して絶句した。
 こんなはずではなかったのに! レイジングハートは理想とは程遠い自分の現状が、恥ずかしくて恥ずかしくて逃げ出したかった。
「すごくかわいいよ!」
 恥ずかしいのに、かわいいと言われたことが嬉しい。恥ずかしいのに、手を握られたというだけで、どうしようもないほど嬉しくて身動ぎできない。そして恥ずかしいのに喜んでしまう自分と、暴れだす尻尾が悔しくて仕方がない。
 これまで何度もなのはの姿形を再現し、それに触れたことも触れられたこともある。しかし、それは所詮自分の想像通りの動きでしか無かった。なのは自身の意志が宿り自分の制御を離れて動き出した今、もはやそれは本物と変わらず、なのはの肌が自分のひとがたに触れる度にその感覚にくらくらと酔いしれてしまう。何も考えることができなくなってしまう。
「大丈夫だよ、全然恥ずかしいことじゃないからね?」
 なのはの自分に向けられた眼差しと声に、何もかもが蕩けてしまいそうになった。
 そしてふと思う。それら全て、本来自分が言うべきセリフであり、するべき振る舞いなのに、どうしてこうなった、と。


続きません。


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黒衣の少女

 なのはは突然布団を跳ね除け起き上がると、慌てた様子で携帯電話を広げて日にちを確認した。それからほっと溜息をついて、崩れ落ちるようにベッドに横たわる。そして布団を引き寄せてくるまった。微睡みの中の、この柔らかく包まれる感覚は最高に心地よい。硬い地面にごろ寝していては味わえない安心感に、意識は抵抗なく眠気に攫われていった。

 それから深い眠りに落ちたころ、突然の声に起こされた。

 

「なに!?」

 

 眠りから急に引き戻されたなのはは、何がなんだか分からないといった様子で身体を起こし、焦点の合わない瞳を入り口にいる美由希に向けた。頭は鉛でも入っているのではと思うほど重く感じられ、全く思考が働かない。そして自然と落ちる目蓋と一緒に、がくんと頭も下がった。

 

「ちょっと、そのまま寝ない! 学校休みじゃないんだからね」

「学校……懐かしい響き」

「はぁ、何言ってるのよ」

 

 美由希との会話に、家出する前の時間に戻ってきたように感じた。

 のろのろと学校へ行く準備をして、アリサとすずかのことを考えながら家を出た。

 到着したバスに乗り込むと、変わらない2人の姿が見えた。

 

「おはよう」

 

 なのはは内心の不安を隠しながら、不自然がないようにいつも通りの自分を意識して挨拶した。そんななのはに2人も普通に挨拶を返した。

 しかし、それから会話は無かった。色々聞いてくるかと思っていたため拍子抜けした。

 やはり嫌われてしまったか。それとも口も利きたくないほど怒っているのか。昨日は普通に話してくれていたのに。

 いつまでも無言の2人にそわそわした。

 

「ねえ」なのはは堪らず声を掛けた。

「なに」アリサは短く返事をした。

 

 無視されているわけではないようで心から安堵した。それでは何故いつものように話してくれないのだろうか。きっと聞きたいことだってあるはずだ。朝になって急に抑え難い怒りでも沸いて自分のことなどどうでもよくなってしまったのだろうか。

 

「怒ってる?」

「べつに怒ってないわよ? 私もすずかも」

 

 そしてしばらく無言が続いた。アリサは悲しげに俯くなのはにちらと視線を向けた。

 

「教室でいろいろ聞くから、今のうちにこれまでのことと、反省の言葉を2千字以上考えておきなさい」

「え、2千字も!? 原稿用紙5枚!」

 

 なのはの反応にアリサの口角が微かに上がった。しかし手で口元を隠したかと思うと元に戻っていた。

 

「ちなみに私とアリサちゃん別々の言葉でね。なのはちゃんが逃げる後ろ姿、まるで凶悪な殺人鬼からでも逃げるかのようで、私すごく傷ついちゃった」

 

 すずかが微笑みながら付け足してきた。

 

「あの時は、その……」

 

 2人は、もうここでは話すことは無い、とでもいうように再び無言になった。なのははうなだれた素振りをしたが、自分を嫌っているわけではないと分かりほっとした。

 学校につくと、クラスメイトの驚きの声に若干の居心地悪さと照れを感じながら教室に入った。席に着いて机に教科書を入れる。その行為が、日常に戻ってきたのだと意識させた。

 間もなく、アリサとすずかがやってきた。

 

「さて、まずは反省の言葉から聞こうかしら」

 

 なのははアリサから視線を外し、先にすずかに謝った。

 

「すずかちゃん、あの時は逃げるつもりはなかったんだけど、何を話せばいいか分からなくて、それに怒られるんじゃないかって恐くて、気づいたら走り出してたんだ。ごめん。すずかちゃんのこと殺人鬼だなんて思ってないし、もう逃げたりしないよ。アリサちゃんには、えっと……」

 

 一度言葉を切り、指を折りながら視線を上に向けた。

 

「ごめんなさい×334?」

 

 アリサにはこれで十分だ。なのははいつもの調子を取り戻していた。

 アリサは笑みを湛えたままなのはに手を伸ばした。

 

「へえ、すずかのとは違って素敵な反省の言葉ね。でも許してあげない」

「だって思いつかなかったんだもん! あ、やめっごめんなひゃい!」

 

 なのはは顔を両手で挟まれたかと思うと粘土をこねるかのようにもみくちゃにされた。

 

「まったく、なんで私にはこうなのかしら」

 

 アリサは手を止めると、むすっとしながら、挟んだままのなのはの顔を見つめた。

 

「いいじゃない。私はなのはちゃんとアリサちゃんのやりとり羨ましいよ? なのはちゃん私にはそんなこと言ってくれないし、しくしく」

 

 すずかはハンカチを取り出して目元に当てた。明らかに演技である。

 

「え、だって、ほら、すずかちゃんはアリサちゃんと違って変なことしないから!」

「ふふ、なのは私に喧嘩売ってるのね」

 

 アリサは両腕に力を込めた。なのははそれを敏感に感じ取り、すかさず謝罪の言葉を述べた。

 

「冗談ですごめんなさい」

「はぁ……それで、今まで何してたの」

 

 信じてもらえるかどうかわからなかったが、魔法のことも含めて士郎に話したことをほとんどそのまま伝えた。2人の反応を伺っているとチャイムが鳴り、2人は「また後で」と席に戻ってしまった。なのはは2人がどう思っているのか聞けず、悶々としながら午前を過ごした。

 昼休みになり、3人ははしゃぐ子たちを横目に屋上へ向いながら、朝の話題の続き始めた。

 

「なのはがそう言うならそうなんだろうけど、正直言うとね、魔法とか、あの男の子が別の世界から来たとか、なのはが何かと戦っているとか、まるでゲームかなにかの話でもしているみたいで……まあどっちでもいいわ」

 

 そう言ってアリサは困ったように笑った。

 

「私は魔法のこと信じる! 世の中には不思議なことがあるんだよ! それになのはちゃんに追いつけなかったなんて……あの歩幅、あれはもうどうみても魔法だよ! 私全力だったんだから!」

 

 すずかはその時のことを思い出したのか、少し興奮したように言った。なのはに追いつけなかったことが余程悔しかったのだろう。なのははそんなすずかに苦笑いして頷いた。

 

「うん、ちょっとズルしちゃった。普通に走ったら追いつかれるもん。帰りに少し使ってみせるね。見せた方がはやいし」

 

 なのはは過去にアリサに魔法を見られた時のことを思い出し、口元に笑みを浮かべた。

 

「ちょっと、なに急にニヤついてるのよ」

「え? いや、ちょっと思い出し笑い」

「何を思い出してるんだか。それで戦うって言ってたけど……危険なの?」

「ううん、そんなことないよ」

 

 深刻そうに聞いてくるアリサに、なのはは咄嗟に返した。そして自信に満ちた風を装って、いわゆるドヤ顔しながら付け加えた。

 

「私強いから」

 

 アリサとすずかはなのはの言葉に笑った。

 

「自信満々だねなのはちゃん」

「私強いから、キリッ」

 

 アリサはなのはの真似をしてから、堪え切れないとでもいうように再び笑い声をあげた。

 ツッコミ待ちだったとはいえ、アリサのわざとらしいキメ顔にちょっとイラッときた。

 

「……もうアリサちゃんなんて知らない。いこ、すずかちゃん」

 

 なのははツンとアリサを跳ね除けた。

 

「ああ、ごめんってば。ついつい、ね?」

 

 アリサはじゃれつくようになのはの背にのしかかって謝った。

 ひっついてきたアリサの重みを背中に感じながら、なのははふと冷静になった。以前と変わらない振る舞いをごく自然にしている自分に、まるで興奮してはしゃぐ子供のようだと思った。そしてそう思う自分に、おかしなものだと内心で苦笑した。

 その後、この一週間の出来事をお互い話して昼休みは終わった。

 

「さて、魔法野生児なのはさんはどんな魔法をみせてくれるのかしら?」

 

 放課後、なのはの机の元へやってくるなり言われた言葉に、なのははがーんとショックを受けつつ即座に抗議した。

 

「ひどい! 野生児じゃないもん」

「ごめんごめんわかってるわ」

 

 アリサはよしよしとなのはの頭を撫でた。

 今日一日のアリサは、楽しくて仕方がないという雰囲気がなんとなく漂っていた。最初こそ突き放すような態度だったが、それはきっと、なのはと会える喜びを隠そうとしてのことだったのかもしれない。しかし結局隠しきれずに、こうやって「嬉しくてついつい」からかってしまうのだろう。

 学校から出て塾へ向かう道すがら、なのはは目立たない程度に魔法を使って見せた。

 小さな魔法弾を操ったり、宙に浮きながら移動したり、魔法陣で足場を作ったり。

 アリサもすずかも羨ましそうにそれを見つめた。

 

「なのはちゃん、私たちには使えないんだよね」

「残念だけど2人には使えないんだ」

 

 ユーノの念話に気づかなかったことから2人が使えないことは明白だった。

 

「ねえ、なのは。なんだかこう、炎とか雷を出したり、犬に変身できるとか、隕石を降らせるとかできないの?」

「炎とかは出せないんだよね。そういうのは魔力を炎とかに変えられる能力がある人じゃないとダメなんだって。変身は……ためしたことないや。でもそういう魔法はあるみたいだよ」

 

 ユーノがフェレットに変身しているということは、そんな魔法もあるのだろう。レイジングハートに頼めばできないこともないかもしれない。

 

「本当!? じゃあ子犬になってよなのは!」

「アリサちゃん、そこは子猫がいいと思うよ。ね、なのはちゃん!」

「えっと、今すぐにはちょっと……それにできるかもわからないし」

 

 なのはは詰め寄る2人に困ったような笑みを浮かべながら一歩後ずさった。

 

「それでもいいわ! できたら必ず見せてね!」

 

 2人は非常識な魔法のことなど気にもとめず、期待で満ちた笑みを浮かべていた。そんな2人に、子犬も子猫も2人の家にたくさんいるだろうに、となのはは思った。

 塾から帰り、夕飯を食べ、風呂にも入ってしまうと、部屋にこもり、早速変身の魔法が使えるかどうか試してみることにした。

 

「れいは、帰りの話聞いてたよね。私もユーノくんみたいに動物に変身できないかな」

”任せてください。ユーノにできて私にできないはずがありません”

 

 かわいい。なのははレイジングハートを見ながらそう思った。レイジングハートが話す度に、脳裏で昨日見た小さな少女の姿で再生されてしまう。レイジングハートが妹だったならと途中まで考え、自分は何を考えてるんだとやめた。

 レイジングハートが黙り込んでから数分が経った。いつもならあっと言う間に終わってしまうのだが、今回はそうではないらしい。

 やはり難しいのだろうか。そう思って、声を掛けようとした。

 

”申し訳ありません。もうしばらくかかりそうなので、気にせずにお過ごしください”

「難しいの?」

”いえ、術式が少し長いだけです”

 

 それからさらに時間が経った。あれこれ考えながら待っていたなのはは、眠気でうとうとしていた。

 

”できました!”

「ほんとう!?」

 

 眠気が吹き飛んだなのはは、レイジングハートに視線を向けた。

 

”まだ満足いきませんが、普通に使う分には全く問題ないでしょう。どうぞ使ってみてください”

 

 なのはは頷き、何の動物に変身するか考えた。

 

「レイジングハート。私動物のイメージがはっきり浮かばないんだけど大丈夫かな」

”初期状態はこちらで設定してあるので、問題ありません。細かい箇所は後で変更することができます”

「そうなんだ。じゃあ、とりあえず猫にでも……」

 

 レイジングハートを手になのはは目を閉じた。全身が桜色の光に包まれると、その大きさは徐々に小さくなり猫の影を作る。

 目を開いたなのはは驚いた。机、椅子、ベッド、なにもかもが巨大になり、知らぬ間に童話の不思議な世界に迷い込んでしまったかのようだった。

 姿見で自分がどうなっているのか確認した。

 

「本当に猫になってる!」

 

 白猫になっている自分に興奮し、両前足の肉球を鏡に突き出して、首や身体を捻ってまじまじと観察した。

 この姿でも普通に話すことができた。ユーノもそうだし、となのはも特に疑問を抱くことはなかった。歩こうとするが、四足歩行に慣れていないなのはの足取りはおぼつかない。

 

「にゃ……にゃあ」

 

 恥ずかしそうに猫の真似をした。そして言い終わると、やっぱり恥ずかしくて、それをごまかすように部屋の中を歩き回った。

 

「そうだ! お姉ちゃんのところいってみよっと」

 

 なのはは一度変身を解いて部屋から出ると、美由希の部屋の前に立った。そしてもう一度猫に変身すると、ドアに猫パンチした。

 すると扉が開き女型の巨人が現れた。美由希である。なのはは蹴り飛ばされないかひやひやした。

 最初、美由希は誰もいないと思ったのか廊下を確認したが、すぐに足下に猫が居ることに気づいた。

 

「あら、かわいい! どうしたの、迷子? というかなんで家の中に……」

 

 そんなことを一人で呟きながら、しゃがみ込んだ。

 なのはは、その様子を面白く思いながら美由希を見上げた。そして差し出された巨大な手に頭をこすりつける。すると気を良くしたのか、美由希はなのはを抱き上げナデナデを開始した。

 ユーノが家にやってきた時のことを思い出しながら、なのはは美由希の手に目を細めた。

 美由希はなのはを抱えたまま、恭也の部屋へ向かった。

 

「ちょっとキョウちゃん。私の部屋に猫がやってきたんだけど、もしかして拾ってきたの?」

「猫? いや、心当たりないが……」

「だよねー」

 

 なのはは2人の様子を見て内心で笑った。

 さて、そろそろ自分の正体を明かそうか。そう思って言葉を発そうとした。が、なんと切り出せばいいか分からなくて考え込んだ。

 

「どこから入ってきたんだ」

「さあ、わかんない。うちで飼えないかな」

「さすがに無理じゃないか? 分からんが」

「飼えると思うよ」

 

 なのはは美由希の胸に顔を埋めながら小声で言った。

 

「なんか言ったか?」

「え、私じゃないよ!?」

 

 美由希はなのはに視線を向けて慌てて言った。

 

「いや、美由希以外にだれがいるんだ?」

「いや、私じゃないって! この子だよ!」

 

 恭也はやれやれといった様子で美由希に笑みを浮かべた。

 

「なにさその顔は、ほんとだってば! ほらもう一回言ってごらん?」

 

 焦る美由希はなのはに優しく言った。それに対しなのはは無言を貫いた。

 

「あれれ、どうしたの? 疲れちゃったのかなぁ? あははは」

「美由希……分かったから、もういい。美由希が正しい。それでいいだろ?」

 

 うんうん、と頷く恭也に美由希は顔を朱に染めた。

 さすがに申し訳なく思ったなのはは声を出した。

 

「あまりお姉ちゃんをいじめないでよ、お兄ちゃん」

 

 2人は無言でなのはを見た。それから美由希ははっとしたように顔を上げて恭也を見た。

 

「……ほら、しゃべった!」

「……」

「ほら! 私嘘なんてついてないよ! 妄想じゃないんだから!」

「いや、それはわかったが、お兄ちゃんお姉ちゃんって言ったぞ、そいつ」

 

 美由希はなのはを掲げてじっと見つめた。

 

「……なのは?」

「あたり……にゃあ」

 

 なんだか美由希に後ろめたさを感じたなのはは、猫の鳴き真似でごまかそうとした。

 

「え、ほんとになのはなの!?」

「なるほど、それも魔法か……」

 

 恭也はなのはの首根っこを掴むと美由希から取り上げ、宙ぶらりんのなのはを残念そうに見つめた。

 

「うちでは飼えないから、かわいそうだけど外で頑張ってもらうしかないな。ダンボールあったかな」

「ひどい! なのはだってば! 捨てないでよ!」

「最近の猫は言葉を喋るから困る。一体どこで覚えたんだか、いや、そもそもどうやって声を出しているんだ」

 

 そう言って身動きのとれないなのはを指でつついた。

 

「ほれほれ、勝手に入ってきたお仕置きだ。お、そうだ忍のところで躾けてもらうか。きっと厳しい猫社会に揉まれて逞しく育つだろう」

「ちょ、つつかないで!」

 

 我ながら良い考えだと頷く恭也に、なのははいやいやと手足を振り回した。

 

「ほら美由希、責任をもってもとの場所に戻してこい」

「2人はほんとに仲がいいね」

 

 美由希はなのはを受け取ると、毛並みを楽しむように撫でながら恭也の部屋を出た。

 

「魔法ってなんでもありなんだね。ちゃんと元に戻れるの?」

「戻れるよ」

「そっか、戻れなくなってたらどうしようかと思ったよ……それより」

 

 美由希はそのまま自分の部屋に入った。

 

「もう少しその姿で遊ぼ?」

 

 それから、美由希が満足するまで全身を撫でられ続け、その後、他の動物にも変身できるのかを試した。その際、レイジングハートの紹介をし、眠くなるまで2人と一機で雑談をした。

 その夜は久しぶりに美由希と一緒の布団で眠った。

 

 

 

 

 次の日、アリサとすずかに変身できたことを伝えた。

 

「本当!? 犬になれる?」

「うん、なれるよ」

「猫には!?」

「猫にもなれるよ」

 

 学校に着くなり、2人に背を押されながらトイレへ行き、狭い個室の中、動物の姿に変身してみせた。

 

「ねえなのは、放課後わたしんちによっていかない? ごちそうするわ!」

「ドックフードはいらないよ」

 

 なのはは疑うような視線をアリサに向けた。

 

「アリサちゃんのところじゃなくて私の家にこない? 紹介したい子がいるんだ」

「私、今のところ猫のお友達は募集してないよ」

 

 2人の熱烈なオファーに軽くため息をついた。

 

「それに私、友達の家に行かないといけないから、また今度だね」

 

 2人はなのはの言葉に固まった。そして2人同時になのはに背を向けると、頭をつきあわせた。

 

「な、なのはちゃんに友達だってよアリサちゃん! 私、私どうしたら! いい子紹介しようと思ってたのに!」

「大丈夫、大丈夫よすずか。落ち着きなさい。思い当たる人物なんて一人しかいないわ。きっとあの男子よ」

「男子……もしかしてデート!?」

「ばっ、そんなわけないじゃない! そんなの私が許さないわ」

「あの、普通に聞こえてるんですけど」

 

 確かに思い浮かべてみても、友達と呼べる相手はアリサとすずかくらいなものだった。否定できない。しかしそんな反応されるとチクチクと心にダメージをくらってしまう。それにデートじゃない。

 

「アリサちゃんが言うようにユーノくんと会うけど、もう一人とも会うんだ。女の子だよ」

 

 なのはがはやてのことを簡単に説明すると、2人は興味を示した。

 

「なのはと仲良くしてくれるなんて、なんて良い子なのかしら! 仲良く慣れそうな気がするわ」

「ねえアリサちゃん、私泣くよ?」

 

 そんなに自分は仲良くしにくい性格をしているのだろうかと思ったが、仲の良い人だけに言う、アリサのちょっとした冗談だと分かっているため軽く流す。

 

「今日行ったら2人のこと話してみるよ。たぶん、うちにつれてきてって喜ぶと思うよ」

 

 なのはは嬉しそうに笑うはやてことを脳裏に思い浮かべた。

 放課後、2人と別れてはやての家に向かった。

 

「いらっしゃい、なのはちゃん! はいってはいって」

「やあ、2日ぶり」

 

 はやてに促されて家に上がった。

 

「ユーノくん、はやてに今日私の家にくるって伝えた?」

「伝えたよ。あ、聞くの忘れたんだけど、なのはのお父さんとの話が終わったら、帰るってことでいいんだよね?」

「多分それでいいんじゃないかな。住むところが決まってなかったら、泊まっていけって言われるかもしれないけど、もう決まってるし。あ、今の時間だと夕飯食べていったらって言われるかも。どうする?」

 

 ユーノとはやては顔を見合わせた。

 

「もし、ご馳走してくれるいうなら食べてくるとええよ。その時は連絡してくれると助かるわ」

「わかった、そうするよ」

 

 それから、なのははアリサとすずかのことを伝え、今度一緒に遊ばないかと聞いてみた。

 

「遊びのお誘い! ああ、私は夢でもみとるんやろか! もちろん私はオーケーや! でもその……私なんかが行って大丈夫やろか」

 

 はやては不安そうに表情を曇らせた。

 

「大丈夫だよ、2人とも優しいから。もし、はやてに何か失礼なことしたら、私が怒ってあげる」

「ふふ、それは頼もしいな。私はいつでもええから、日にち決まったら教えてくれると嬉しいわ」

 

 笑うはやてになのはは頷いた。

 アリサとすずかのことや自分のこと、今日の学校での出来事など、少しだけはやてとおしゃべりをして一息つくと、携帯電話で士郎に連絡してから、ユーノと一緒に家に向かった。

 家の玄関に着くと、ユーノは何度も深呼吸していた。

 

「やばい、緊張する。死んじゃいそう」

「いろいろ聞かれるかもね」

 

 なのははユーノの緊張を解そうとするでもなく、むしろ面白そうにその様子を見ながら玄関の戸を開けた。

 音が聞こえたようで、すぐに士郎がやってきた。

 

「おかえり」

「ただいま」

 

 士郎はユーノに視線を向け笑みを浮かべた。

 

「こんにちは、ユーノくんだね。なのはの父親の士郎だよ。わざわざ足を運んでもらって悪いね。どうぞ上がって」

「はい。お、お邪魔しまーす……」

 

 恐縮するユーノは小さく控えめな声を出しながら、足音にすら気を配るかのように慎重に家の中に上がった。

 客間には既に3人分の座布団が敷かれてあり、なのはとユーノが並んで座り、机を挟んだ対面に士郎が座った。

 座って間もなく、桃子がやってきて士郎の前にお茶を、なのはとユーノの前に冷えたオレンジジュースを置いた。

 

「そう緊張しないで、ゆっくりしていってね」

 

 桃子はユーノに微笑むと部屋から出て行った。

 

「大体の話はなのはから聞いているよ。それで今回ユーノくんに来てもらったのは、話の確認ともうちょっと詳しく聞いてみたいと思ったからだよ。いいかな?」

 

 それから、なのはが話したことの確認と主にジュエルシードのことについて話した。ジュエルシードの危険性、対処方法、それを管理する組織の有無など。そしてユーノの行動について思ったことを一言二言ほど述べた。

 

「それで、これからどうするつもりなんだい?」

「このまま、なのはと2人で封印を続けようと考えています」

「それはなのはとユーノくんがしなければならないことなのかい? すぐにでも助けを求めにいくべきじゃないか?」

「これは魔法でしか対処できません。それにいつ現れるかも分かりません。助けを求めるのにも何日か時間が必要です。もし戻ってくる間に現れたとしたら、なのは一人で相手することになってしまいます。暴走体にならならずに封印できる場合と、暴走体になってもそれほど強くない場合なら、なのは一人でも大丈夫ですが、どうなるか予想が付きません。それに結界を張れなければ街への被害も出ます」

「なのはもそれに納得しているのか?」

「納得してるよ、全部」

 

 士郎は頷くなのはを無言で見つめた。なのははその射抜くような視線に耐えられず視線を落とし俯いた。

 

「危険だってことは嫌なほどわかってる。それでもやらないと……嫌でもやらないといけない」

 

 やらなければ今ここにいることさえできない。なのはは心の中で呟いた。

 士郎は「そうか」と一言だけ言った。そして腕を組んで視線を下げると、しばらく無言になった。

 

「ユーノくん、私が代わりにそっちの世界へ行って助けを求めることはできないのか?」

「え!?」

 

 ユーノは素っ頓狂な声を上げて固まった。なのはもびっくりして士郎を見つめた。

 

「可能ですけど……」

「なら方法を教えてほしい。できれば明日の朝にでも行こうと思う」

 

 ユーノは考えこむように視線を落とした。問題点を考えているのだろう。そして間もなく士郎を見た。

 

「わかりました。いろいろと説明しなければならないことがあります。それと準備や確認もありますので、朝には無理ですが明日のうちには行けると思います。それでよろしいですね」

 

 こうして士郎が助けを求めに行くことが決まった。

 なのははユーノが家に泊まることになったことをはやてに伝えた。士郎は桃子に事情を説明し、ユーノと夜遅くまで話し合っていた。

 夜が明けて、なのはは昨日と同じように登校準備をした。

 

「なのは、しっかりな」士郎は靴を履くなのはに言った。

「うん、お父さんも気をつけてね。いってきます」

 

 士郎が出発するのを見届けたかったが、その気持ちをぐっと抑えて、なのはは学校に向かった。

 これから父が向かう世界はどんな場所なのだろう? SF映画に出てくるような、車が空を飛んだり、たくさんのロボットが普通に街中を歩き人の生活に溶け込んでいる、科学が発展した世界なのだろうか。それともあらゆることが魔法によって行われる世界なのだろうか。なのははここではない別の世界の光景をぼんやり想像しながらその日を過ごした。

 それから3日経った。その間、士郎が関わったことにより気を引き締めたなのはとユーノは、放課後の時間を使って魔法の練習をしたり戦術を考えていたりした。ジュエルシードの反応は無かった。

 学校でアリサとすずかに、はやてを誘って土曜日に遊ぼうと言われた。最初、父ががんばっているのに遊ぶなんて、と誘いを断ろうとした。しかし、家に引きこもっていたからといってジュエルシードが現れるわけでもないし、この一週間2人に心配かけたことへの謝罪の気持ちもあり、少しだけならと遊ぶことにした。ユーノもこれに同意してくれた。

 そして今、すずかの家に遊びに行く前に、はやてを迎えにいく途中だった。

 街中を抜け、大通りから外れ、入り組んだ住宅街に入った。少しばかり歩くと、通りに黒い服の少女が見えた。眉を寄せ立ち止まり周りを見渡したかと思うと、首を傾げ、太陽に煌めく金髪の長いツインテールを揺らして再び歩き出す少女。見た感じなのはと同じか少し上くらいの歳だった。

 そのどこか困った様子に、どうしたのだろうかとなのはは疑問に思った。そして声を掛けるかどうか悩みながら歩みを進める。困っているなら助けてあげたい。でもいきなり知らない子に声を掛けるなんて緊張する。しかも外国人の可能性が大。そのまま知らないふりをしようか本気で悩んだが、内気な心をねじ伏せて、思い切って少女の背中に声を掛けた。

 

「あの、お困りですか」

「え? あ……はい。今どこに居るのか分からなくなって……」

 

 振り返った少女は透き通る赤い瞳の焦点をなのはに合わせた。端正な顔立ちで人形のように可愛らしく、なのはは言葉を忘れて見入ってしまった。それからはっとして、なるほどと頷き返した。少女の目的地を尋ねると、とくに行き先は決まっていないらしく、ふらふら歩いていたら迷ってしまったようだ。

 

「大通りに戻るには、この道を戻って……私が案内するよ。一緒にいこう」

 

 説明するより連れていった方がいいと判断し、自分で案内することにした。少女は突然の提案に驚いたようで言葉を詰まらせてから頷いた。

 静かな子だった。会話するつもりがないというより、何か話そうとしても何を話せばいいかわからない、といった風だった。

 なのはは横目で少女を見た。すごく可愛い。見る度にそう思った。

 

「この辺にくるのは初めてだった?」

「え? うん、最近この街に来たから」

「そうなんだ。引っ越し?」

「うん、用事があって……この辺りに住んでるの?」

「そうだよ。歩きだとここから少し遠いけどね」

 

 短い会話をしているうちに大通りに辿り着き少女と別れた。

 来た道を引き返し、はやての家へ向かった。玄関前でチャイムを鳴らすと、インターホンから楽しみな気持ちを隠せないはやての声に促され、家の中へ入った。はやてはすでに準備万端だった。

 アリサたちと会うのを渋るユーノを、なのはとはやては半ば強制的に連れて家を出た。はやてが扉に鍵を掛ける寸前、ユーノは家の中に戻り、「忘れ物だよ」と手に持ったツバの広い帽子をはやてに渡した。

 はやての家からすずかの家まで、歩いていくにはそれなりの距離がある。最初すずかは車を出そうかと聞いてきたが、なのはと徒歩で行きたい、というはやてからの希望で断ったのだ。

 なのはははやての隣を歩いた。はやてが乗った車椅子をユーノが押して歩く。ユーノは段差がある度に車椅子の前輪を浮かせた。

 青空には大小様々な綿雲が浮かび、影の明暗で立体的に見えた。はやてはその雲を目で追い、時々頬を撫でる微風を受けて心地よさそうに目を細めた。そして、やっぱり徒歩で正解だった、と嬉しそうに笑った。なのはは父のことを考え、遊ぶことに罪悪感を感じていたが、はやての笑顔を見ると和らいだ。

 なのははすずかに、もうすぐ着くことを携帯電話で伝えた。

 すずかの家の門前に来ると、メイドのファリンが出迎えてくれた。はやてとユーノはその敷地と建物の大きさに驚き、手入れの行き届いた庭を物珍しげに観察していた。

 なのはは2人の家に遊びに来る度に、アリサとすずかは自分とは住んでいる世界が違うのだと実感した。自分が2人と仲良くできていることを不思議に思うことがあるが、同時に誇らしくもあった。

 屋敷に入ると、ファリンははやてを抱き抱え室内用の車椅子に移した。

「車椅子あったんですか?」なのははファリンに聞いた。

 

「ふふ、はやてさんが遊びにくるということで買ってきたんです!」

「ええ! わざわざ買ってくるなんて……気を使ってくださり申し訳ないです」

「いいんですよ。それと私には敬語じゃなくてかまいません。どうぞ楽になさってください」

 

 萎縮するはやてにファリンは笑みを返した。

 案内された部屋に入ると、すずかとアリサがテーブルを前に座っていた。そして部屋のあちこちに猫が転がっていた。

 

「いらっしゃいなのはちゃん。後ろの2人は、はやてちゃんとユーノくんね? なのはちゃんから話は聞いてるよ。どうぞくつろいで」

「ええ、歓迎するわ! それと……ユーノくんもね、よろしく」

 

 アリサははやてに微笑んだ後、視線でその命を奪おうとでもいうように、ぎろりとユーノを見た。

 

「えと、その、よろしくね? アリサさん……とすずかさん」

 

 ユーノがアリサの名前を呼んだ瞬間、アリサの視線の鋭さが増しユーノは笑みが引きつった。

 

「ありがとう! 私も2人のことは聞いとる。誘ってくれて嬉しいわ。よろしくな。それにしても、アリサちゃんもすずかちゃんも想像してた以上に美少女やなあ。なのはちゃんもそうやし、メイドさんまで……やっぱり類は友を呼ぶんやろか。な、ユーノくん?」

「なんで僕にふるのかな、はやて」

「その美少女たちから私のなのはを連れて逃げたのよ、このユーノという男は! ああ、思い出しただけで悔しい!」

 

 荒ぶるアリサをなのはが、まあまあと宥めた。それから思い出したようにアリサとすずかに「魔法のことは今回は無しで」と伝えた。はやては首を傾げたが、アリサが別の話題を振るとすぐに忘れてしまった。

 少しして、ファリンが飲み物とお菓子をテーブルに置き、一礼すると再び部屋から出ていった。

 馴染めなかったらどうしよう、というはやての最初の心配は結局無駄だった。ユーノはほんの少し居心地悪そうな様子だったが、旧知の仲だったかのように話は弾んだ。途中すずかに、「この子紹介したかったんだ。友達になってあげて」と子猫を渡された。なのはは、それは猫同士の友達になれということなのか、と考え苦笑いを浮かべた。

 そうして楽しんでいると、突然ジュエルシードの反応があった。なのはとユーノは動きを止め、顔を見合わせた。

 なのはは立ち上がると、すずかの耳元に口を寄せ、

「ジュエルシードが現れたからユーノくんとちょっと行ってくる」と呟いた。

 

「はやて、ごめん。私とユーノくんちょっと外行ってくるね。ついて来ちゃダメだよ?」

 

 なのはとユーノは部屋から出ると、なのはは戦闘服を纏いながら反応のあった方角へ向かった。

 それは屋敷から少しばかり離れた敷地内にあった。

 

「なんでこんな近くに出るの!?」なのはは声を荒げた。

 

 プールでアリサとすずかを巻き込んでしまった時の記憶が一気に蘇る。

 絶対に負けるわけにはいかない。そう思いながらも負けてしまった時のことがチラついた。今回もそうなのではないか。何度も浮かでくるやられてしまう光景を、以前の自分とは違う、もう負けることなんてない、と振り払った。

 ユーノは結界を張った。ジュエルシードが小さな宝石から、全長3メートルほどの豹のような姿に変化した。四肢は毛皮ではなくウロコのような表皮に覆われ、大きく鋭い鈍色の爪が地面に突き刺さっていた。

 

「なのは、僕たち以外に魔法を使える誰かが結界の中にいるみたいだ」

「え?」

 

 どういうことだとなのはが尋ねようとした時、黒い影が暴走体の真上に飛来した。その影は暴走体に急降下すると、黄色い光を放つ透き通った硝子のような刃を叩きつけるように振り下ろす。その刃は暴走体の表皮を切り裂いた。

 

「あ……」

 

 なのはは突然の出来事に動きを止め、その光景を見つめた。黒のワンピース水着のようなものに裏地が赤の黒マント……おそらくバリアジャケットなのだろう。手には少女の身長より少し長いポールウェポン、黄色い宝石の嵌めこまれた黒いグレイブが握られていた。彼女は何時間か前に出会った道に迷っていた少女だった。

 なぜ水着なのだろうか。そんな一番最初に浮かんだどうでもいい疑問は、道案内してあげた少女が同じ魔法使いであったことへの驚きと、目の前の戦闘に一瞬でかき消された。

 暴走体は素早く飛び下がりながら琥珀色の魔法弾を幾つも作り出し少女に向けて放った。そして宙に足場を作りながら出鱈目な線を描いて少女に接近した。

 少女は直線的に飛んでくる魔法弾を苦もなく避けると、手に持つグレイブを横に構え、最後の間合いを詰めようと飛びかかる暴走体を迎え撃つ。僅かに立ち位置を横にずらしてから一歩前へと踏み込み、横を通り抜ける暴走体に黄色に輝く刃を撫で付けた。そしてそのまま身を翻すと、首から腰まで切り裂かれ地面を転がる暴走体に飛び乗り、一層輝きを増した刃を深く突き立てる。すると突き刺さった傷口からバチバチと紫電が溢れ空気中を踊った。それから間もなく暴走体は光の粒となって消滅し、一つのジュエルシードと微かなオゾン臭が残った。

 少女は魔力で作られた黄色の刃を消し、黒い刀身となったグレイブをジュエルシードに近づけた。ジュエルシードは刀身の付け根に嵌めこまれた黄色い宝石へと吸い込まれていった。

 なのはは動くことも声をかけることもできず、その姿を黙って見つめていた。完全に少女に惹きこまれていた。まさかあの時の道に迷っていた静かな少女が魔法使いで、しかもこんなに格好良いなんて!

 少女はなのはの方へ視線を向けた。なのはと目が合ったと分かると真顔を崩し、少し恥ずかしそうにしながら口角を僅かに上げた。そしてすぐに視線を逸らすと、ふよふよと宙へ飛び、何事も無かったかのように去ろうとした。

 

「そのジュエルシードをどうするつもり?」

 

 ユーノは結界を解きながら少女の背に向けて尋ねた。

 少女は振り返ってユーノを見つめて少しの間沈黙した。

 

「わからない」

「それはとても危険なものなんだ」

「そうなんだ……ありがとう、気をつけるね」

 

 ユーノは少女の返答に呆けた。そして帰ろうとする少女を慌てて呼び止めた。

 

「いや、ちょっと待って! きみはジュエルシードを集めてるのかい?」

「集めてる……まだ一個だけど」

 

 まだ一個しか持っていないことに恥ずかしさを感じたのか、控えめに言った。そしてグレイブに嵌めこまれた宝石に視線を向けてから、さっきのがその一個ですよ、というように小さく揺らして見せた。

 なのはは少女と話すユーノを見て、自分も彼女と何か話したいと思った。しかし何か話そうとすればするほど、思考は空回りするばかりで何を話せばいいかすぐに思い浮かばなかった。道案内する時はそんなことなかったのに。今の自分が恨めしかった。このままでは行ってしまう。そう考え、思い切って呼びかけた。

 

「あの!」

 

 少女は視線をなのはに移して、微妙に首を傾げた。

 なのはは少女の視線が自分に向いただけでドキリとした。急いで話題を探していると、少女の持つグレイブに目が止まる。これだ! なのはは光を見出した。

 

「その武器かっこいいね!」

 

 もっと他に言うことがありそうなものだが、今のなのはには藁にも縋る思いで見つけた話題だった。しかし言い終わるかどうかという時、なのはたちと少女の間の空間が歪み、黒髪の少年が現れて話は途切れた。

 3人の視線が少年に集まる。見たところ、なのはたちより2、3歳上に見える。肩に棘のついた黒いコートを着ており、手には黒い杖を持っていた。少年は辺りを見渡してから、一番近くにいるユーノに視線を向けた。

 

「戦闘は……終わってしまったようだね。来るのが遅れて申し訳ない。僕は時空管理局執務官、クロノ・ハラオウンという者だ」

 

 少年が言い終わる前に少女は身を翻して勢い良く飛び去ってしまった。

 

「あ……」

 

 なのはは吐息ともつかない小さな声をこぼす。先程まで少女がいた空間を見つめ、何も話すことができなかったことに肩を落とした。

 誰かと通信でもしているのか、少年はぶつぶつ呟いていた。

 

「時空管理局! きっと士郎さんが呼んでくれたんだよなのは! 上手くいって良かった!」

 

 ユーノはなのはに振り向いて心底安心したように言った。少女が行ってしまったことより、助けが来たことの方が大きかったのだろう。街なんて簡単に壊せる代物を、自分たちだけで相手にしなければならない重圧から開放されるのだから当然かもしれない。

 

「お父さんが……」

「その通りだ。きみの父、士郎さんもすぐにこっちに来るから安心するといい」

 

 なのはも士郎が無事戻ってくることと、ようやくこの命がけの戦いから逃れられることに胸の靄が晴れるのを感じた。その代わりに、立ち去ってしまった綺麗で可愛くて格好いい少女のことを想うのだった。

 

 




ボツ案
 金髪の少女が暴走体と退治した。様子を伺うかのようにじっと構えている。しかしよく見ると槍の先が微かに震えていた。
 それを見てはっとしたなのはは、少女の横をすり抜け一歩前に出ると、数発の魔法弾を宙に生成しハンマーを構えた。少女はそんななのはを、状況が飲み込めないというように呆けながら見ていた。

「任せて」

 なのはは振り向くこと無く、後ろの少女に向けて静かに言った。
 その言葉に自分は舐められていると感じたのだろうか。少女はきゅっと唇を真一門に引き締め、槍を強く握ると、先ほどのなのはと同じようになのはの横をすり抜け構えた。その手はもう震えていない。
「必要ない」少女は透き通った冷たい声でなのはに言った。
 少女は飛び立ち、真昼の太陽のような魔法弾を暴走体の真上にいくつも撃ち放った。
 魔導師の少女というものは皆このような……強大な敵に立ち向かう勇敢さを持っているのだろうか。それともなのはと黒衣の少女が特別であり、確固とした信念により獲得できた強さなのであろうか。いずれにしても、逃げること無く自ら戦い行く姿は、それが例え幼き少女だとしても、見ている者の心を奮い立たせる。





 鋭く放たれた魔法弾は、黒衣の少女の直ぐ横を通り過ぎていった。

『ご主人様……今の物理攻撃です』

 黒衣の少女は驚いた表情をしたまま、無言の時間が流れた。通り過ぎていった時に少し当たったのか、腕から赤い傷跡が現れ、血がゆっくりとふくらんでいった。黒衣の少女はその傷を指で撫でそれに視線を向けた。それが再びなのはに向けられた時、その目は冷たく光っていた。

「え……どういうこと?」
『魔法には魔力を実体化させ物理ダメージを与える方法と、実態を持たず魔力の源であるリンカーコアと魔力の流れる箇所にのみダメージを与えるものとがあります。後者の場合、体を損傷させること無く相手を気絶させられるため、対人戦で用いられます。いわゆる殺傷設定と非殺傷設定というものです』
「なにそれ知らない」
 少女が氷付いたような冷たい沈黙をやぶった。





 なのはは直ぐ様体を起こし構えようとするが、黒い影が目の前に迫ったかと思うと、突然、胸に衝撃と激痛が襲った。なのはは堪らず悲鳴を上げた。見ると、病人のように真っ青な顔で、ぎっちりと目蓋を閉じ、俯きながら、なのはの胸にグレイブを突き立てる黒衣の少女がいた。
「死ぬわけにはいかないんだ……」
 感情を押し殺したように低く、どこか悲しげな呟きがなのはの耳に届いた。
 黒衣の少女の腕から滲み出る鮮血は、肘まで流れると一粒の雫となり、ぽたりとなのはの純白のバリアジャケットに吸い込まれていった。なのはは胸に突き刺さるグレイブから、決して小さくない振動を感じ取った。そしてそれが何なのかを理解した瞬間、初めて黒い化け物と対峙した時の場面が一気に脳裏を駆け抜けた。
 なのはは今でも傷を負うことが怖いが、死んだとしてもやり直せる。やり直せば痛みは消えるし、傷もなくなる。しかし黒衣の少女はなのはと違って死ねば終わりだ。傷を負えばすぐには治らないし、完治しないこともある。その恐怖は如何程のものだろうか。もし黒い化け物と初めて対峙した時、今のように魔法が使えたとして、自分は彼女のように勇敢に戦えていただろうか。未来に辿り着くために誰かを傷つけることを、その場で迷わず決断できただろうか。
 なのはは黒衣の少女の覚悟を感じ取り、全力で生きていることを感じ取り、美しいと思った。
 黒衣の少女はグレイブを一息に引き抜くと、なのはと視線を合わせること無くマントを翻し立ち去った。
 なのはは薄れる意識で、そういえばユーノもそうなのかもしれないな、と今になって気がついたのだった。


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