黒いチューリップ 3 (castlehill)
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88 - 100 final

 

  88  一ヵ月後 1999年 4月 新学期

   

 「遅っせえな、こん畜生」少年は癇癪を起こしたいところを堪えて、小声で悪態をつくだけにした。「何をやってんだろう、あのバカは」

 人が行き交う五井駅西口の真ん前だった。知った人間が近くにいないとも限らない。しかめっ面で汚い言葉を使うのを見られて、誰からも好かれる優等生という評判にキズがついてはマズかった。せっかく順調に滑り出したビジネスがやり難くなる。

 素直で勉強が出来る少年という印象が人の心に植え付くように努力してきた。必ず目上の人には挨拶をする。無視されても続けた。扱い易い少年と思って誰もが気を許して接してくれたら、こっちの思う壺だ。

 あれっ、このガキ、なかなか狡賢いぞ。

 そう気づいた時は、もう手遅れ。弱みを握って、相手を意のままに操れる立場に立っている。こっちは一枚も二枚も上手だ。オレは誰にも指図されたりしない。指図するのは、このオレだ。 

 四十分も前から駅の西口ロータリーで父親の帰りを待っていた。

コンビニが店先で流し続ける『団子三兄弟』の曲が耳障りでならなかった。もう二度と食ってやるもんか、という団子に対する嫌悪感すら芽生えてくる。しつこいんだよ、同じ歌ばっかり聞かせやがってよ。

 携帯電話をポケットから出して見ると午後二時前だ。三時までは父親を絶対に家に入れることはできない。だから約一時間はカトーヨーカドーで買い物させたり、ラオックスでパソコンのカタログを貰いに付き合わせたりで、なんとしてでも時間を潰さなくてはならなかった。

 父親が会社から自宅に電話を掛けてきたのが昼前だ。少年が受話器を取った。もしかして約束した人物が予定を変更するのかな、と思ったからだ。

 「おい、オレだ。あれ、……お前か、学校はどうした?」

「あっ、お父さん」畜生、こんな時間に何で父親が電話してくるのか。何がマズいことになりそうな予感が走る。「うん。あのね、今日は緊急の職員会議があるとかで午前中で終わったんだよ。それよりさ、どうしたの?」

「だったら、母さんは居るか?」

「え、……どうして?」

「どうして、じゃない。母さんと話がしたい」

「今は、……無理だけど」

「何で?」

「だって……さ、出掛けてるもん」

「どこへ行った?」

「サンプラザのプール……」

「何時ごろ帰ってくる?」

「一時間ぐらい後じゃないかな。……何で?」

「急に出張が決まったんだ。明日の朝早くに新幹線に乗らなきゃならない。その用意があるから今から帰る」

「……」

「おい、聞いてんのか」

「今すぐに帰ってくるの?」

「これから簡単な打ち合わせをして、その後だ」

「だいたい何時ごろの電車で帰ってくるの?」

「たぶん一時半ごろかな、そっちに着くのは。母さんが帰ってきたら、そう伝えてくれ」

「わかった、そう言うよ」

「じゃあ、切るぞ」

「うん」

 やばい。間もなく今日の客がやって来るというのに。こっちからキャンセルしようか。少年にとっては前金で手にした七万円を返す義務が生じる。ところが、ほとんど使ってしまって幾らも残っていなかった。それとも予定通りにプレーさせてやろうか

 午後二時半までは客が家に居るだろう。つまりキャンセルしないならば一時間から一時間半は、どこかで父親を足止めさせないといけない。

 よりによって今日かよ。急に出張が決まるなんて。せっかく上手く行き始めた少年のビジネスが存続の危機に直面していた。

 どうしようか。

 しばらく考えて、お客には連絡しないことに決めた。前金で貰っている手前もある。父親を三時近くまで外で連れ廻してやるしかない。

 電話で言った事は全て嘘だ。学校で緊急の職員会議なんかなかった。仕事の段取りがあるからサボっただけ。母親もプールへは行っていない。ちゃんと家にいた。お客を迎えるために、その仕度をしているところだった。

 第一、今日は月曜日でサンプラザ自体が休みだ。慌てたので、つい簡単にバレるような嘘をついてしまった。まだ甘いな、オレも。

 客は父親が通う近所の床屋、そこの主人だった。中年太りで、いつも脂ぎった顔をニヤニヤさせている。愛想はいいけど頭の中ではスケベなことばかり想像しているに違いなかった。

 こいつは客になる、と少年は直感した。自分の母親の姿に、嘗め回すような視線を送っているのを何度も見ている。

 母親は三十三歳になるが若作りでスタイルも良く、人目を惹くほど色気があった。高校生の娘と中学生の息子がいると知らされると、誰もが驚きを隠さない。

 一ヶ月前だ、少年が散髪に行くと都合がいいことに他に客は誰もいなかった。床屋の椅子に座って髪をカットしてもらいながら、それとなく誘いを掛けてみた。

「僕の母さんがオジさんのことを、男らしくて素敵だって言ってたよ」

「……」ハサミを持つ床屋の手の動きが止まる。間を置いて笑い出した。「わっはは。ボク、冗談が上手いなあ。あはは」

 予想通りの反応だ。こいつは満更でもない。それが事実であって欲しいと願っている。常識的に考えれば、こんな不恰好なデブを素敵だなんて言う女がいるわけがなかった。だけど不思議なことに本人だけは、そう思わない。

 自分がブスだと思っている女は、まずいない。それと同じように、自分が不細工でバカだと思っている男もいないのが事実だ。どこかに、たとえば鼻とか口元に長所を見つけ出すか、それとも太鼓腹を恰幅の良さと解釈したりして、人並みだと愚かに信じている。このデブも例外じゃなかった。

 「冗談じゃないよ。本当だってば」

「キミのお母さんみたいな綺麗な人がそんなことを言うわけないだろう。あはは」

「男の人は外見で判断できないって言ってたよ。こういう店を一人で経営しているなんて立派だってさ。それにね、内緒だけど母さんは離婚したがっているんだ」

「……それって、本当かい」

「うん。ずいぶん前から父親とは別々の部屋で寝ているしね」

「へえ、信じられないなあ。仲が良さそうな夫婦に見えたけど」

「離婚は時間の問題じゃないかな。お母さんが寂しそうにしているから、早くボーイフレンドでもできたらいいなと思っているんだ」

「……」

 さっきとハサミを動かすリズムが全然違う。まるで素人の手付きになっている。「オジさん、その気ない?」

「ま、まさか……キミのお母さんは俺なんか相手にしてくれるもんか」

「そうかなあ。オジさんみたいな人が友達になってくれたら、きっと母さんは喜ぶだろうな」

「あはは。そう言ってくれるだけでも嬉しいよ」

暑くもないのに奴が額の汗を袖口で何度も拭うのを見て少年は本題に入る。「どうする? ぼくが上手く話をまとめてみようか」

 

 そこからはトントン拍子だ。友達になるための御膳立てから、売春の斡旋に話が変わっても床屋のオヤジは何も言わなかった。ヤりたくて、ヤりたくて堪らないらしい。ただ何度か念を押すように訊いてきた。「本当に出来るのかな、そんなことが。大丈夫なんだろうね。君を本当に信用していいのか」

その度に、こう答えてやった。「任せてよ、上手くやるから。ただし幾らかの手数料は欲しいなあ」と。

 手数料と聞くと床屋のオヤジは僅かに首を立てに振って見せた。タダでは出来ないことは承知しているが、子供に小遣いを渡す程度で済ませようとしているのは見え見えだ。

 奴の休みは月曜日だ。その日の午後に家まで来てもらうところまで話を煮詰めてから、やっと金を要求した。七万円という金額に、さすがに床屋のオヤジは身を引く。

 「そ、そりゃあ、高いよ。相場っていうモノがあるだろう。千葉に栄町っていう遊ぶところがあるんだが、そこの方がずっと安い。それにだ、キミの母さんよりもずっと若い子が相手をしてくれるんだから」文句を並べ始めた。「そんな大金を何に使うんだ。君みたいな中学生が小遣いにする金額じゃないぞ。もう少し、まともな数字を出しなさい」

「……」少年は反論しない。相手に好きなだけ言わせて、ただ黙って聞いていた。

 ソープランドの女なんて、いくら若くても所詮は商売女じゃないか。近所に住む美貌の人妻を相手に遊ぶ方がどれほどスリルがあるか想像してみろってんだ、このバカ。そう思っても少年は口には出さない。

 「いや、勘違いするなって。金を出さないと言っているわけじゃないんだ。どうだろう、三万円ぐらいで……。すぐに払うから」

 無言に不安を覚えたらしく、直ぐに奴は譲歩してきた。「ほら、三万円だ。受け取りなさい」

「……」床屋のオヤジが財布から取り出した札に少年は目もくれない。その代わりに用意してあった台詞を口にした。素直に床屋のオヤジが七万円を出すとは最初から想定していないぜ。「わかった。それじゃあ、いいよ。この話は無かったことにするから」

「……え」

「オジさん、時間を無駄にして悪かったね。忘れて下さい」

「ま、待てよ。そ、そんな気の短い――。そしたら一銭も手に入らないことになるぞ。せっかく、ここまで話は進んだのに。すべてが水の泡になってしまうじゃないか」

「いや。そんなことはないと思う」

「どうして。オレは一銭も払わないぞ」

「別にオジさんに払ってもらわなくてもいいから」

「どういう意味だ」

「駅前にあるスーパーの店長にも話しをしてみるさ」

「何だって?」

「ほかにも何人か母さんと仲良くなりたがっていそうな人がいるんだよ」

「……」

「どうする、オジさん」

「おっ、お前ってガキは……、そいつらにも同じ話を持ち掛けてたのか?」

「違うよ。オジさんに断られたら、そっちに話を持って行こうかなって考えただけさ。だって、母さんのお気に入りはオジさんだったからね。でも、あのスーパーの店長も四十歳を過ぎてるけど独身らしいよ。買い物に行く度にさ、ニヤニヤしながらオレの母さんに声を掛けてくるんだぜ」

「……」

「じゃあ、失礼しました。そろそろ帰ります」

「ま……待て」

「え?」

「待てと言っているんだ。帰らなくていい」

 

 そこで見せた床屋の表情は今でも忘れられない。顔いっぱいに苦々しさが浮かんでいた。たかが中学生の小僧に手玉に取られた悔しさだ。やっとオレの狡賢さに気づいたみたいだった。

 

 「話はオレがつけた。月曜日に床屋のオヤジに抱かれろ」 

 こう告げた時、母親は何も言わなかった。ただ食器を洗う手の動きが僅かに止まっただけだった。何を言われても素直に従うしかない、そう観念しているらしい。

 母親が自分の息子に違和感を覚えたのは、産んで間もなくだったようだ。まだ産婦人科病院から退院もしていなかった。

 小学校六年の二学期が終わるころ、私立の有名中学校から特待生として受けると通知が届いた時に、父親が洩らした。

 「お前は自慢の息子だ。素晴らしい。だけどな、お母さんは産婦人科病院で起きた事件のショックからだと思うけど、お前を自分の子供じゃないと言い出した時があったんだ。あっはは。今じゃ笑い話だ」そこで父親は真剣な表情になった。「もう中学生になるんだから話してもいいだろう。実はな、お前が産まれた病院で悲惨な事件があったんだ。気が狂った看護婦が、お前が寝ていた隣の赤ん坊をピンセットで刺して殺してしまったのさ。たまたま近くに父親がいて止めたから、それ以上の犠牲は出なかった。その看護婦は我が子を殺されて逆上した父親に殺されたけどな。俺は病院に着いたところだった。新生児室へ行ってみると、お前は血まみれで殺されたのかと思ったぐらいだ。大変な事件だった。バカな看護婦を殺してくれた、その父親に感謝したい。そうしなかったら、お前も殺されたかもしれないんだ。学校の成績は優秀だし、スポーツは万能で絵の才能もある。俺にとって宝のような息子なのに」

 言われてみると頭の片隅にそんな記憶が残っているのに気づく。しかし聞かされた話とは少し違う。その父親は最初に看護婦を殺したんじゃなかったか。それから隣に寝ていた赤ん坊を抱き上げて、その首に何かを突き刺した。真っ赤な血がほとばしった。少年は血を浴びせられ続けた。生暖かくて心地良かった。 

 

 息子が能力を発揮すればするほど父親は溺愛するようになった。

「お前はオレの全てだ。お前は間違いなく成功する。お前ならオレが出来なかった夢を実現できる。そのための援助は惜しまないからな」

 小学校六年になるころには、はっきりと息子中心の家庭になった。 

少年は家でしたい放題だ。まず三つ年上の姉に手をつけた。思春期を迎えて色気を帯びてきたところを頂いた。初めっから無抵抗。弟には逆らえない、そんな気持ちがあったようだ。彼女には中学校から付き合っていたボーイフレンドがいたが、結局それまで。高校二年の姉は、たちまち少年の性欲の虜になった。

 日中に姉弟が裸で抱き合う姿を母親が目にするのは時間の問題だった。父親の方は姉弟の仲がいいと喜んでいただけかもしれないが、女だけに何か怪しい雰囲気があると気づいていたのは確かだ。もちろん姉は性行為を秘密にしたがっていたが、少年の方は逆にバレることを期待していた。

 その日、いつも通りに学校へ行く振りをして家を出た姉弟は、母親が自転車でカトーヨーカドーへ買い物に出かける時間を待って、こっそり戻ってきた。

 誰も居ないはずなのに姉の部屋から物音が聞こえる。家に帰った母親が不審に思ってドアを開けた時は、まさに自分の娘が全裸で跪いて、弟の勃起したペニスを美味しそうに頬張っているところだった。

 少年が意図した通り、強烈なショックを与えた。金縛りにあったように母親は動かない。何秒かすると、その場に腰を落として手をついた。呼吸が荒い。

 少年は姉から離れると、苦しそうにしている母親の横に立った。放心状態で何の気力も体力も残っていないことを確かめてから、おもむろに膝を突き、勃起したままのペニスを今度は母親の口に捻じ込んでいった。

 

 「亭主を失望させたいのか? 家庭を打ち壊したいのか? お前が黙って我慢している限り、うちの家は平和なんだ」

 この言葉で母親を服従させた。しばらくの間、高校生の瑞々しい女体と三十代の成熟した女体を交代で犯す日々が続く。そのうち母親の方を他の男に抱かせて、小遣いを稼いでやろうと考えた。

 最初の客は父親が通う床屋のオヤジ、二人目は駅前にあるスーパーの店長だ。どんどん、お得意を増やしていくつもりだった。田所とかいう金払いのいい、君津に住む米屋を紹介してくれたスーパーの店長は、次回は割引き料金でプレーさせてやってもいいだろう。

 但し、あの床屋のオヤジには追加料金を請求したかった。少年も呆れるぐらいの性欲の持ち主なのだ。

 約束した二時間は、休むことなしに母親の裸体を弄ぶ。手錠とロープを使って自由を奪い、あらゆる手段で女を辱めるのが趣味らしい。母親の消耗が激しすぎた。

 「あの人だけは許して。とても体が持たないわ」二度目のプレーが終わると母親は訴えた。

「もう少しだけ我慢しろ。他に楽な客を見つけたら、あいつは断ってやるから」そう言って少年は宥めた。

 しかし女っていうのは不思議な生き物だ。あれほど嫌がっていたのにプレーが七度目を越えるころには、すっかり母親は床屋のオヤジに順応して喜びを覚えるまでになってしまう。

 客との性行為は隠しカメラで記録してあるので少年には母親の変化が一目瞭然だ。「どうしたんだよ、お前? 今では床屋のオヤジに抱かれるのが楽しいみたいじゃないか」

「……」母親は恥ずかしそうに下を向いたままで、否定はしなかった。

 

 その床屋のオヤジが今日の客だ。この時間、あのデブは様々な道具を使って母親を悶えさせているはずだった。

 少年は追加料金として幾ら請求してやろうかと考え始めた。トータルで十万円ぐらいは貰いたい。ただ、あのケチのことだから素直に支払いに応じることは絶対にない。納得させられるだけの何か言い訳を作り出さなくてはならなかった。

 何がいいだろうか。父親が現れるまでにアイデアが浮か--。

 「うへっ」少年は吹き出した。

 いきなりだ。思考も中断するほど野暮ったい格好をした中年女の姿が目に飛び込んできた。

 女は数十メートル先の駅の階段の入り口に立っていた。誰かと待ち合わせでもしているのか、そこから動こうとはしていない。

 なんて派手な服装だよ、あのババア。恥ずかしくねえのか。

 ピンクのスエット・シャツに緑のトレーニング・パンツだ。ここは駅前だぞ。お前ん家の自宅の居間じゃねえ。さらに人目を引いて滑稽なのは頭に巻いた大きな白い包帯だ。階段から転げ落ちるみたいな、よっぽど酷い怪我でもしたらしい。通り過ぎる誰もが一目見るなり、汚いモノを避けるようにババアから距離を取ろうとした。

 いつからそこに突っ立ってんだろうか。つい、さっきまではいなかったのに。階段から降りてくる一人ひとりに注意してたはずなんだが気づかなかった。まったく幽霊みたいに――。

 ……おい、嘘だろ。

 戦慄を覚えた。その中年の女が、じっとこっちを見ていることに気づいたからだ。何で? どうして? 失礼なババアだな。お前とオレとじゃ身分が――。や、やばい。鳥肌が立ってきた。中年女の視線を浴びて少年は不安に駆られ始めた。

 友達の母親にあんなのがいたか? いや、覚えがない。それに、もしそうだとしても、あんな表情でオレを見たりするもんか。こんなことは生まれて始めてだ。オレを見るなっ、見るんじゃない。

 逆に睨み付けてやった。この野郎、オレ様から視線を外――。でも中年の女は見るのを止めない。

 呼吸が荒くなっていく。怖い。頼むから、オレを見るのを止めてくれないか。少年も中年女から目が離せない。あっ。その女の口元が僅かに動く。な、何か言う。

 「拓磨っ」女が呼んだ。

 えっ、なに。……タクマ、だって? バカヤロー。オレは、そんな名前じゃないぜ。人違いじゃ――いや、女は確かにオレに声を掛けた。このオレが誰なのか、ハッキリと知っている自信が窺える。なぜだ。

 「行くよ」

 それだけ言うと女は振り返り、改札口へと続く駅の階段を上がっていく。すぐに姿が見えなくなった。

 少年は汗びっしょりだ。もう中年女はいない。助かった思いだった。

 あっ、……そうだ。

 去年の十月ごろだった、同じようなことが起きたじゃないか。そのときは、これほど慌てはしなかったけど……。

 久しぶりにドクター・ペッパーでも飲もうかと、家の近くにある自動販売機の前で自転車を降りたところだった。「ねえ、君」そこで父親と同じ年ぐらいの男に声を掛けられたのだ。

 「五井駅の近くにあるラオックスに行きたいんだけど、道が分からないんだ。教えてくれるかい?」

 ウソだろ、おじさん。オレと話をする口実にすぎない、と分かっていた。なぜなら、その男の姿はすでに二回ほど見ていたからだ。学校からの帰り道と公園で友達とサッカーをしている時だった。距離を取って遠くからオレを観察している様子が窺えた。この日は、とうとう話し掛けてきた。案の定だ、こっちが道順を説明しても上の空でしか聞いていない。

 それどころか、「この辺にキミは住んでいるのかい?」とか「今は何年生なんだい?」、「どこの学校に行っているのかな?」とか全くラオックスに関係のない事ばかり聞いてくる。

 変なオヤジだなあ、と思ったが付き合ってやることにした。態度からオレと仲良くしたがっていることが明らかに分かるからだ。悪いヤツじゃなさそうだし。

 「実はさ、お昼を食べていなくて、お腹を空かしているんだ。良かったら、どうだろう。一緒に食事をしてくれないか?」と言われると素直に応じた。どうしてだか分からないが強い親近感を覚えていた。この人と一緒にいたいと感じていた。 

 「いいよ。だったら、この近くにデニーズがあるんだけど、そこへ行かない?」と言うと、知らないオジさんは満面の笑みを浮かべた。

 しかし、この人の言う事は全部がウソみたいだ。『お腹を空かしているんだ』って言わなかったっけ? スパゲッティを注文したくせに、ほとんど食べない。反対に「もっとフルーツ・パフェは欲しくないかい? アイスクリームはどうだい?」とか、どんどんオレに食べさせようとする。

 時々コーヒーを飲みながら、ずっとこっちを見ていた。不思議なのは左の耳の傷を嬉しそうに見ていることだ。ほとんどの人たちが意識的に見ることを避けるのに。

 そして気になる一言を口にする、「そっくりだ」と。すぐにオレは反応した。「え? どういうこと」

「あっ、すまなかった。忘れてくれ、別に何でもないんだ。ごめんよ」

「……」その否定の仕方は、何か意味があるというふうにしか受け取れなかった。

 ひょっとしたら、この人はオレの正体を知っているのかもしれない、と思い始めた。『そっくりだ』って、一体このオレが誰にそっくりなんだ? 教えてくれ。両親と姉に全く似ていないのは、どうしてなんだ。それに、ずっと周囲の人間と自分は何か違うと感じていた。それらの疑問に答えてくれそうな気がした。バナナ・パフェを食べながら待った。でも世間話をするだけで、聞きたい事は何も教えてくれなかった。一時間ほどしてデニーズを出たが、苦しいぐらいに腹いっぱいになっただけだった。

 「オジさん,ありがとう。すごく美味しかったよ」お礼を言って自転車に跨った。返事はない。愛情に溢れた笑顔を見せて頷くだけだった。

 少年は相手の名残惜しそうな態度から、この人とは二度と会えないことを悟った。交差点を曲がる時に後ろを振り返ったが、もう姿はない。オジさんが帰りにラオックスに寄ったとも思えなかった。

 それから半年が経って、今度は野暮ったい中年女が現れてオレを惑わす。

 だけど……だけど、行くよって、どういう意味だ。勝手に行けって。さっさと行ってくれ。オレに構うな。まったく、わけが分からない。呼吸を整えようと深く息を吸う。早く落ち着きたかった。

 父親が帰ってくるのを待たないと。

 どうする、……どうしよう。何事もなかったように、また父親の姿が現れるのを待ち続けていいものか、疑問が浮かぶ。

 オレってタクマなのか? いや、……まさか。

 えっ、もしかして――。

 その時、不意に気がつく。半年前にデニーズで一緒に食事をしたオジさんは、産まれたばかりの新生児室で隣に寝ていた赤ん坊を殺した父親と同じ人物じゃないのか? 「ああーっ」 

 人が行き交う五井駅の前なのに無意識に声が出てしまう。きっとそうだ。十四年も経って会いに来たんだ。この事実に少年は背筋が震えるほど衝撃を覚えた。どうしてなんだ? 赤ん坊を殺した理由はオレに関係があるのか? たぶん、……いや、きっと、そうらしい。何かの運命に導かれていると確信した。

 無視できそうにない。

 あの野暮ったい中年女に声を掛けられたことで、少年の中で何かが崩れ去った。生まれてから今まで築き上げた様々な事が無意味に感じてきた。学校の成績も、周囲の評判も、始めたばかりのビジネスですらどうでもよくなった。

 オレはオレじゃなかったらしい。ずっと自分は周囲の連中とは違うと不思議に感じてきたが、その答えが見つかろうとしているようだ。 

 父親を引き止めないで、まっすぐ家に帰せば大変なことになる。自分の愛する女房が床屋のオヤジに裸を縛られて弄ばれているのを目にすることになるんだから。息が止まるほど父親は驚くはずだ。明日の出張はキャンセルかもしれないな。期待を掛けた息子が黙って姿を消したら、もう立ち直れない可能性が強い。それに追い討ちを掛けるように、たぶん一ヶ月もしないで愛娘の妊娠が明らかになる。姉は双子を身籠っているんだった。

 出来ることなら家庭の崩壊を自分の目で見て楽しみたい。絶望に打ちひしがれて、苦悩する父親の姿を知らずに立ち去るのは辛かった。問い詰められ、責められて母親が苦しむ様子も見たかった。

 決心した。

 少年は見ず知らずの中年女の後を追って五井駅西口の階段を上り始めた。コンビニの店先では,相変わらず『団子三兄弟』の歌が流れていた。

 

   89

 

 君津南中学校の三年A組の生徒全員が、体育の授業で校庭に集まっていた。男子も女子もサッカーの予定だったが、担当する森山先生が職員室からなかなか出てこない。生徒たちは暇を持て余し、お喋りをしたり、ふざけ合ったりしていた。こりゃ、いい。休み時間の延長だ、そんな気分だった。

 しばらくして校舎の方から体育の教師が、二人の灰色のスーツを着た男を連れて歩いて来るのを認めると、生徒たちの喋り声は次第に消えた。明らかに場違いな感じのする男二人だ。いつも朗らかな森山先生の顔に浮かぶ緊張した表情。生徒たちは異様な雰囲気を感じ取った。

 側まで来ると体育教師は立ち止まって、一人の男子生徒を指差した。二人の男が、その生徒に近づく。体操着姿ではなくて学生服のままの秋山聡史だった。体調不良を訴えて見学者リストに入っていた。回りにいた生徒が自分は関係ないという感じで一斉に身を引くと、そこに黒いスーツの男二人と秋山聡史だけの空間が出来上がった。何が始まるのか生徒たちは固唾を呑んで見守る。いい事じゃないことは間違いなさそうだった。何か大それた悪いことであって欲しいという期待感。その目撃者になれるかもしれないという幸運。他のクラスにいる友達に自慢気に話せるという優越感。全員が一言も発しないでショーが始まるのを待った。

 「秋山聡史くんだね」

「……」声を掛けられた生徒は訝しげに頷く。

「警察の者だけど――」

「い、いやだっ」

 背広の内ポケットから黒い手帳を出して、男が口にした警察という言葉が耳に届くと生徒たちに衝撃が走った。一瞬の静寂。「え、何だって?」聞こえなかった生徒が他の生徒に問う声が上がる。

 「警察だってさ」

「え、マジで?」

「うん、そう聞こえた」

「警察だって」

「警察だってよ」

「警察らしいぜ」あちこちで同じ言葉が繰り返される。当事者の秋山聡史にしては、相手に最後まで言わせない。後退りして拒否の言葉を張り上げた。

「ちょっと、話を聞かせ――」警察官が続ける。

「いやだっ、いやだっ」

「落ち着こう、秋山く――」

「火、火はつけたけど……、く、黒川くんに言われて﹃祈りの会﹄には出ました。そこで、ちゃんと祈りました。だ、だから……、警察には捕まりません。警察には行かない、絶対に。いやだーっ」そう言うなり逃げ出した。

 慌てて追いかける警察官二人。「待ちなさい」

 秋山聡史は大声で怒鳴りながら校舎の中へと消えた。「いやだーっ」体調不良のはずなのに足は速く、小柄ですばしっこい。姿を隠してしまう。自殺する可能性も否定できない。すぐに身柄を確保する必要があった。教職員も総出で逮捕に協力するしかない。警察官は署に応援を求めた。突然すべての授業が中止。全校生徒は教室で待機、各自で自習することに。トイレに行くのも制限された。何人もの警察官が廊下を駆けて行く。一体何が起きているのか。騒々しくて教科書なんか、とても手につかない。外に首を出して校庭に集まっている三年A組の連中から何かを聞き出そうとする生徒。窓を閉めなさいと手振りで指示を出す体育教師を完全に無視。こういう状況では情報を持っている者が人気者になれる。

 「誰かが警察に逮捕されるらしいぜ」三年A組に仲のいい友達がいたB組の男子生徒が、経緯を聞いて教室で待機する生徒たちに告げた。

「え、何で?」クラスでリーダー的存在の生徒が訊く。

「たぶん万引きじゃねえの」

「万引きした程度で何人もの警察官が学校に押し寄せるかな」

「そうだな。じゃあ、テロか」

「生徒の中にアルカイダの戦闘員がいたってことかよ、まさか」

「きっとイスラム原理主義者が三年A組の中に潜んでいたんだぜ」

「あのクラスにアラビア系の顔つきっていたか? 待てよ、北朝鮮の工作員ていう可能性は考えられなくないか」

「有り得るな。だけどさ、こんなところで破壊活動って何かしょぼくねえか? たかが田舎の中学校だぜ」

「そこが狙い目なのさ。盲点を突いているっていうか」

「なるほど」

「ところで逃げてるのは誰なんだ?」他の生徒が訊いてくる。

「山岸じゃないかな。あのグループの誰かだぜ、きっと」

「違う。奴らは校庭にいるぜ。よく見ろよ」

「あ、本当だ。じゃあ、分からねえな。誰だろう、テロを計画してた奴なんて」

「ひょっとして高木教頭だったりして」

「え、あのハゲが? がっはは。笑えるぜ。だから好きだよ、お前って」

 君津南中学校は大混乱になった。

 秋山聡史が一人で家に戻ることも考えられたので、自宅の前には一台のパトカーが派遣された。

 父親は夜勤明けの休日で朝から酒を飲んでいた。ここ数日間はクレーンの重心が取れていないまま荷を吊ったとか、フォークリフトの爪が狭いまま長尺物の荷を運んだとか、口うるさいリーダーから注意されることが多くて気分は最悪だった。今朝は今朝で女房がスーパー富分のパートを休んでパチンコの新装開店に行った結果として、今月分の家賃が払えそうにないことを知って苛立ちは更に募った。これ以上はサラ金から借りられそうもない。浴びるように酒を飲んで現実から逃避することしか思いつかなかった。そこへ二人の警察官が現れて、息子が中学校で何か大変なことをしでかしたと伝えられると、とうとう堪忍袋の緒は切れた。おもむろに皮のベルトを手に取ると、横にいた女房に向けて勢いよく振り下ろす。

 「いいか。てめえの教育の仕方が間違っているから、こんなことになるんだ」

「い、痛いっ」妻は腰を落とし、肩を手で押さえた。

「あっ、ご主人。止めて下さい。暴力は――」慌てる警察官。

「畜生っ、やりやがったな。このヘボ亭主」妻は立ち上がった。

 父親の暴力を止めようとした警察官だったが、反撃に出た妻が投げた灰皿を側頭部に受けてしまう。「あっ」耳が裂傷を負って鮮血が噴出す。痛みに屈みこむと、そこに皮のベルトが飛んでくる。もはや泥酔いした父親は相手の判別がつかないらしい。目の前にいる者すべてが敵だった。真っ赤な返り血に興奮して我を忘れる。無我夢中で皮のベルトを叩きつけた。「いいか、よく聞け。指紋認証の時間が一分、二分早くてガタガタ言うんじゃねえ。そもそも終業ベルとタイム・レコーダーの時間が一致してないからダメなんだろうが。お前ら、みんなしてオレを悪者にしようって気なんだ」意味不明な言葉を口にしながら皮のベルトを振り回し続けた。「あれ、この虫は何だ? おい、見ろ。部屋が虫だらけじゃねえか。畜生っ。お前が掃除しねえから、こんな――」

 もう一人の警察官がパトカーの無線を使って君津署に応援を求めた。家の前には近所の人たちが集まって、中から聞こえてくる騒ぎの音に耳をそばだてていた。窓ガラスが割れる音、家具が壊れる音、罵倒と悲鳴。「ご主人、落ち着いて下さい。どこにも虫なんかいないでしょう。これ以上騒ぐと逮捕しますよ」

 「うるせいっ。今月の家賃をどうすりゃいいんだ、バカ野郎」

「奥さん、お願いですから何か服を着て下さい。今は、そんな事をする場合じゃ――う、痛てっ」

 耳に飛び込んできた警察官の最後の言葉に集まった人たちは思わず、お互いの顔を見てしまう。ねえ、今の聞いた? 一体、何が起きているのかしら。ああ、見てみたい。想像するだけなんてもどかしい。

 ここも君津南中学校に負けないぐらい大混乱になりつつあった。

 三時間後、逃げ回るのに精根尽きた秋山聡史が見つかったのは二階の女子トイレの中だ。よっほど暑かったのか、学生服を床に脱ぎ捨て、チューリップがプリントされた女性の下着姿だった。 

 

   90

 

 いつ、映画『メリーに首ったけ』を観に行くんだろうか?

 その後は奥村真由美から何の連絡もなかった。早くしないと上映が終わっちまうんじゃないのか。そんな不安が鶴岡政勝の心に芽生えていた。

 誘われた直後は鮎川の交通事故あって、罪悪感から積極的な行動が取れなかった。それと、のぼせ上がった姿を曝け出して自分が安っぽい男と見られるのが嫌だった。

 鶴岡政勝は頻繁に女の子から電話がある男子生徒という印象を、奥村真由美には持ってもらいたい。舞い上がった気持ちを知られたくないので、こっちから電話をすることは避けた。彼女から連絡が来るのを辛抱強く待つ作戦だ。

 鮎川の交通事故で富津中学との試合は出場できたが、内容は散々だった。0-5のスコアで大敗。一方的だった。ボールを支配されて、シュートを打たれ放題だ。鶴岡政勝だけじゃない、チームの全員が精彩を欠く。不思議だったのは、惨めな試合が終わっても誰も悔しがっていなかった。帰りのワンボックス・カーの中で口を利く奴はいない。ボーッと景色を見ているか、携帯のゲームに集中しているかだった。付き添いの森山先生だけが、「お前ら、どうしちまったんだ」と一人で息巻いていた。

 救いは、奥村真由美がサッカー部のマネージャーを辞めていたことだ。無様なプレーを見られなくて済んだ。オレに対する好意に傷がつくことはなかった。翌日の朝に彼女から試合の結果を訊かれた時は、「ダメだった。やっぱり佐野隼人がいないと、チームの連係が上手く行かない。板垣じゃ代わりは務まらないよ」と、敗戦の責任は板垣順平にあるように仄めかした。

 もうサッカーなんて、どうでもいい感じになっていた。写真の撮影の方が楽しい。綺麗に撮ってあげて、女の子から喜ばれるのが嬉しかった。カメラを構えて美人に見える絶妙な角度を探す。そして光を調節して影を巧みに使う。本人よりも美しく写真に収めるのは高度なテクニックが必要だ。難しいだけに遣り甲斐があった。

 奥村真由美ガールフレンドになってくれたら、絶対にモデルになってもらう。あのスタイルの良さだ。セクシーな水着の写真を撮りたい。早く一緒に映画を観に行きたかった。

 日時の打診が来たら、ちょっと間を置いて、手帳なんかを調べる様子を装いながら、「あー、良かった。丁度その日は空いてる」と答えるつもりだった。

 しかし彼女から二度目の電話はなかなか来なかった。とうとう痺れを切らした。鶴岡政勝は自分から電話をすることにした。

 「今さっき思い出したんだけど、一緒に映画を観に行く約束はどうなった?」こう切り出そう。

 携帯電話を開くと、不思議なことに彼女から着信履歴が消えていた。間違って消してしまったか? まさか、あり得ないぜ。不思議に思ったが、仕方なくサッカー部の連絡表を見ながら彼女の電話番号を押した。緊張で体が震えそう。

 「もしもし」奥村真由美の美しい声。

「鶴岡だけど」もう喉がカラカラ。だけど悟られてはならない。

「え、鶴岡くん? あら、どうしたの?」

「あのさ……」ちぇっ。奥村の奴、すっかりデートのことを忘れているみたいな感じだ。すっげえ、がっかり。

 (あっ、ゴメンなさい。いろいろと忙しくて、いつ映画に行こうか決められなかったの)

 こんな言葉が返ってくるのを期待していたのに。失望を声に表さないようにして鶴岡政勝は考えていたセリフを口にした。

「え、……どういうこと?」困惑気味の奥村真由美だった。

「どういうことって? 一緒に映画を観に行く約束をしたじゃないか?」なんか話が噛み合っていない。すっげえ、焦る。

「あたしが?」

「そうだよ。電話で『メリーに首ったけ』を観に行こうって誘ってくれたじゃないか」どうなってんだよ。一から説明しなきゃならないなんて。悲しくなってくるぜ。

「それって、あたしじゃないよ。だって『メリーに首ったけ』は、先週だけど鮎川くんと行ったもん。退院したら一緒に映画でも観ようって約束したのよ。すごく面白かった」

「……」もはや死刑宣告に等しい言葉。もう絶望的だ。最悪のシナリオ。「なあ、その鮎川が交通事故に遭った日だよ、電話してくれたじゃないか?」ここまで詳しく説明すれば思い出してくれるか。

「知らない。あたし、電話なんかしていないから」

「マジかよ」そこまでシラを切る奥村真由美という女が信じられなかった。そんな奴じゃないと思っていた。「でもな、黒川だって知っているんだぜ」仕方なく証人の名前を出した。こっちは第三者が証言くれるんだから。もし法廷に立てば損害賠償だって請求できるはずだ。オレの精神的苦痛を考えたら十万円でも足りないぜ。畜生。せめて、いきなり電話した正当性だけは認めさせたい。

「え、誰? 黒川って」

「おい、おい。黒川拓磨は……、あのさ……」

「うん。誰よ、その人」

「……ちょっと、待って」……お、思い出せない。

「どうしたの?」

「いや、……」どうなってんだ?

「え?」

「わからない」

「どうしちゃったのよ、鶴岡くん?」

「す、すまない……」

「なによ。もう切るよ、忙しいから」

「う、うん」

 一方的に通話を切られても、鶴岡政勝は携帯電話を持ったまま動けなかった。奥村真由美とは恋人同士にはなれそうにない。それが明らかになった。しかし衝撃を受けているのは、黒川拓磨という生徒を名前のほかは全く何も思い出せないことだった。顔や体型も分からない。そいつがいつから二年B組の生徒になったか、そして何で今は存在しないのか、それらの理由がハッキリしない。黒川拓磨って一体誰なんだ? 鶴岡政勝の方が訊きたいぐらいだった。

 

   91  1999年 10月

 

 「しくじったのは、あんただけだよ。どうするのさ。アバズレの五十嵐香月だって、ちゃんと双子を産んだのにさ」

「……」

「やっぱり、あんは呪われた女らしいね。妊娠したことが間違いだったんだ」

 東条朱里は産婦人科病院に見舞いに来て、産まれた双子の一人が死産だったことを初めて知った。失望と怒りに駆られて、同僚だった美術教師に辛辣な言葉を浴びせ続けた。「子供が一人じゃ意味ないでしょうが。ろくでもない普通の子にしか育たないわ、きっと」

「ごめんなさい」

「謝って済む問題じゃないよ」

「……」

「せっかく、こうして――」

「なんとかする」相手は言葉を搾り出すように言った。

「え?」

「なんとかするわ」

「なんとかするって、……どうすんの」東条朱里は疑いの目を隠さない。

「考えたの」

「あんたが?」

「ええ」

「……ふうむ」どれほど相手の決心が強いか推し量ろうとして、しばらく東条朱里は何も言わなかった。「きっと大変なことになるでしょうね」

「わかっている」

「覚悟は出来ているの?」

「……」元同僚は無言で頷く。

「あんたに出来るの? 誰も助けてくれないよ」

「大丈夫」

「じゃあ、任せていいの? でも失敗は絶対に許されないよ」

「ええ」

「そう。それなら安心したわ」不安がなくなると東条朱里は態度を一変させた。「よかった。あんたなら、きっと上手くやれる。あたしね、信じているから」

「……」

「ねえ、聞いてくれる」本来の、お喋り好きな女に戻っていく。「あたし、本郷中学に転勤することが出来たんだけどさ。それが傑作なのよ。教頭の高木に頼みにいったんだけど、それがバカみたいに、『あのなあ、転勤は地区の教育委員会が決めることなんだ。キミが行きたいからと言っても自由にはならん。それに第一、そんな権限は私にはないから』、なんて真面目くさって言うのよ。だから、あたし言い返してやったんだ。『もちろん、そんな事は知っています。でも、どうしても本郷中学へ転勤しないと困るんです。何が何でも教頭先生には協力してもらいますから』って。あたしもこの時とばかりに、思いっきり強気に出てやったんだ。『この件については、あたしの指示に従ってもらいます』って傲慢な態度で付け加えたの。そしたら、さすがに怒り出したわ。『何だって? おい、言葉に気をつけないか。立場を考えなさい』だって。あたしの思う壺よ。そこでポケットから、あの虫の死骸を幾つか出して机の上にバラ撒いてやったの。高木のバカったら椅子から飛び上がって後退りしたわ。あははっ。笑えるでしょう? そのあとは子供みたいに身体を震わせて泣いてんのよ。ざまあみろって」

「……」

「あんた、ねえ、人の話を聞いてんの?」相手が期待した反応を見せないので、東条朱里は居心地の悪さを感じ始めた。

「……」

「いいわ。そろそろ帰るから」

 東条朱里は椅子から立ち上がった。「そうだ。あんたの決心が揺るがないように、これを置いていくわ」そう言うと、バッグの中から白いチューリップを取り出し、飲み水が入ったコップに差した。「きっと二度と会うことはないかも、あたしたち。うふっ」

 

   92

 

 万引きから始まって窃盗、詐欺、恐喝、傷害と多くの犯罪を犯してきた十七歳の少女が女子少年院に送られてきた。一ヶ月の考査期間を終えて単独室から集団室へと移り、一週間が過ぎた。新入りだったが先輩たちに頭を下げることはしない。挨拶も教官が見ていなければしなかった。いずれ近いうちに前から集団生活をしていた十一人を支配する気でいた。当然だろう。犯してきた犯罪の数では誰にも負けていない。暴力団との繋がりを仄めかす為に左肩には刺青が彫ってあった。無口で態度は大きく、周囲を恐れさせようとしていた。ここを仕切るのは自分だからな、と宣言するのも時間の問題だった。

 三度目の点呼が終わり、部屋の鍵が外から閉められて数十分は経っていた。これから長い夜の始まりだ。

 「起きな。お前に話があるんだ」と枕元で十七歳の少女は呼ばれた。明かりは消されて部屋は薄暗い。馴れ馴れしい言葉遣いにムカッときて、勢いよく布団から上半身を起こした。「おい。てめえ、誰に向って口を利いて――」

 少女は最後まで言葉を終わらせることが出来なかった。いきなりタオルで後ろから顔を巻かれてしまったからだ。咄嗟に逃げようとしたが、多くの手に抑えられて身動きは取れなかった。「うむっ、うう」息が出来ない。苦しい。

 「騒ぐんじゃない。大人しくしていないと殺すよ」

 その言葉に十七歳の少女は抵抗を止めた。「あっ」罠だった。相手はタオルで巻かれた頭の上にビニールを被せてきた。完全に空気が遮断される。頭の中が真っ暗。どんどん意識が遠くなっていく。下半身が漏れた尿で生暖かく感じたのが最後だった。

 「うっ」頬を引っ叩かれて少女は意識を取り戻す。先輩たち十一人に取り囲まれていた。その場に正座するように言われた。後ろにいる何人かは顎まで下げられたビニールの端を手にしていて、いつでも少女を窒息させる準備ができているのが分かった。恐怖が身体を包む。あんなに苦しい思いは二度としたくない。

 「お前、どうしてこんな仕打ちをされるのか分かっているだろ?」

 少女は素直に頷く。「すいません」謝罪の言葉が口から出た。

「あたしたちを甘く見るんじゃないよ」

「……」部屋の連中は、何も出来なくて大人しくしていたわけじゃなかったらしい。自分に制裁を加える機会を窺っていたのだ。

「ここには、ここのルールってもんがあるんだ。それを今から教えてやろうじゃないか」

「……」

「起床から消灯時間までは施設のルールに従う。一番偉いのが所長で二番目は教官、その次が部屋のリーダーだ。分かるな?」

「はい」

「消灯時間からは部屋のルールに変る。つまり、あたしが一番偉くなるのさ。それを忘れるんじゃないよ」

 十七歳の少女は目の前に立つ、あどけない顔をした大柄な女を見つめた。

 意外だった。体こそ大きいが年下のはずだ。数日前に教官から、入所して三ヶ月も経たない新人だと紹介してくれた女じゃなかったか。へんてこな眼鏡を掛けているので気持ち悪い奴だと完全に無視していたのだ。それがどうして一番偉く……。名前は……えーと、確か……小池? そうだ、小池和美とか言った。十四歳だ。思い出した途端だ、その年下の女が飛び掛ってきた。正座の姿勢だったので避けられずに攻撃をまともに食らう。「ぐうっ」彼女の太い左腕が顎に当たると、十七歳の少女は再び気を失った。

 

 小池和美はジャストでの万引きで警察に補導された。友達の古賀千秋が捕まりそうになって、後ろから女の警備員を階段の下へ突き落とす。仲間が上手く逃げてくれるのを見届けようとして、自分が逃走するチャンスを失った結果だ。

 男の警備員に押さえられて店の事務所に連れて行かれた。名前や学校を聞かれたが何も言わない。警察署での取調べでも一貫して黙秘を続けた。証拠はない。盗った物は何も持っていない。黙っていれば家に帰れると考えたからだ。

 口を閉ざしながら和美は勝利感に酔っていた。古賀千秋を助けられたことが本当に嬉しかった。

 突き飛ばした女の警備員が階段の踊り場に頭を強く打った音に、千秋は気づいて振り返った。一瞬で何が起きたのか理解すると、和美に向って笑顔で頷く。同時に右手の親指を立てて見せた。(ありがとう)という合図だ。

 やった。

 古賀千秋に恩を売ることが出来た。あたしの存在価値を認めてくれたはずだ。これからは対等な立場で接してくれるかもしれない、そう小池和美は期待した。

 勝利の喜びは、取調べで古賀千秋も捕まったことを知らされると一変に消えた。それでも黙秘は続く。義務感からだ。何か喋れば千秋に不利に働く、と思った。

 女の警備員は重傷を負ったらしい。意識が朦朧としたまま救急車で病院へ運ばれたと聞かされた。悪いことをしたという思いは和美の頭に浮かばなかった。友達を捕まえようとした警備員の方が悪いんだ。余計なことをしやがって。

 警察から鑑別所へ送られて、長期少年院送致が決まる。えっ、マジで? ああ、早く家に帰りたい。一体いつまで掛かるのかしら、と思っていたら最悪の結果だ。黙秘を続けたことが反抗的と見なされる。決定的だったのは突き落とした警備員が半身不随の障害者になったことだったらしい。

 僅か数日だけど誕生日が過ぎていたことも悪い結果に繋がった。十四歳未満だったら、児童自立支援施設とかいう、もっと楽な場所へ行けたのだ。畜生、もう何もかもが最悪。

 この世の終わりだ、という気持ちで女子少年院に送られたが、自分の担任になった若い教官は、それまでとは違うタイプだった。黙っていても頭ごなしに怒鳴ったりはしない。いきなり机を強く叩いて威嚇したりもしなかった。ジャストでの万引き事件についても無理に触れることはしない。あたしを犯人扱いしないところが嬉しかった。

 そりゃ、そうだ。自分は古賀千秋が店の商品を盗むのを見張りしたり、大きな身体を利用して死角を作ってやったりしただけなんだし。半身不随になった警備員にしたって、ちょっと後ろから押しただけじゃないか。階段から転げ落ちて首の骨を折ったからといって、自分に責任を追及されても困る。上手に落ちなかった警備員の過失なんだ。ざまあみろ。あたしの人生をぶち壊しやがって。

 女子少年院の若い教官は綺麗で優しかった。頭の回転も早くて、動作も優雅だ。君津南中学の加納久美子先生に似ているところがあった。一緒に過ごす時間が長くなるほど、その魅力に引き込まれていく。ああ、こんな女性になりたい、と思わせてくれた。

 閉ざしていた口が次第に開いていく。この人なら何を話してもいいかもしれない。味方になってくれると信じた。小池和美の大きな体に激震が走ったのは、万引き事件のことを話し出してすぐだ。それは、「どこの女子少年院に古賀千秋は入っているんですか」という問い掛けに対する答えだった。

 「彼女は君津南中学の三年生になって、今まで通りの生活を送っているわよ」

 若くて美しい教官の言葉に、和美は頭をハンマーで横殴りされたような衝撃を覚えた。「えっ、ど、ど、……どうひって」気が動転して舌を噛みそうになった。理解できない。そんな不公平な処分が何で下されたのか?

 教官は話してくれた。古賀千秋は捕まると警察署で、涙ながらに

万引きは初めてで、小池和美にそそのかされてやったと白状したらしい。

 そんなバカな。ウソだ。なんて女だろう。助けてやろうとしたのに。信じていたものが崩れていく思いに、全身から力が抜けた。ああ、悔しい。あたしは裏切られたんだ。

 黙秘を続けた自分が、知らない間に主犯にされてしまう。家庭裁判所の判断は、学校での成績の良し悪しも大きく影響したらしい。それを考えたら、あの女は学級委員長で自分は書記だ。不利は否めない。

 「それは違います。すべてウソです」と教官に訴えたが、返ってきた言葉は「もう遅いわ。今となっては家裁の判断は覆らない」だった。失望と後悔。再び小池和美は口と心を閉ざした。身体の中で古賀千秋に対する怒りがメラメラと燃え上がった。

 数日後には事実を確かめたくてクラスメイトだった、奥村真由美に電話を掛けた。特に仲が良かったわけではないが、彼女ぐらいしか思いつかない。やはり教官の言葉に違いはなかった。あたしを裏切った女は自由の身だった。美味い娑婆の空気を吸っている。

 「あいつ、生徒会長になったの?」最後に訊いた。入学した時から古賀千秋は、三年生になったら絶対やりたいと言っていた。二年生の三学期までは誰もが認める最有力候補だった。

「みそぎ選挙にするとか言って立候補したわ」

「やっぱり」万引きで捕まっても生徒会長に立候補するなんて、あの女らしい。あつかましさは称賛に値する。「それで?」

「落選したの。六人の中で最下位の得票だった」

「そりゃ、良かった」君津南中学にも、それだけの良識が存在するということだ。嬉しかった。

「かなりショックだったみたい。体育館で当選した子に殴りかかったのよ。教室に戻ってからも窓から飛び降りようとしたりして」

「へえ」

「みんなで止めたの。その後は学校に来なくなって、久しぶりに登校したら茶髪だった」

「やけになって、グレだしたんじゃないかしら」ざまあみやがれ。落胆した古賀千秋の様子を、この目で見たかった。「で、誰が生徒会長になったの?」どんな奴がなろうが、もう関心はなかったが、話の流れで訊く気になった。まさか受話器を落としそうになるほど驚かされるとは思わなかった。

 「手塚奈々」

「えっ。だ、誰?」聞き間違いに決まってる。そんな……。

「あの脚の長い奈々ちゃんよ。ほら、二年B組で一緒だった」

「うそっ」

「本当よ」

「し、……信じられない」

「男子の応援が凄かったの。学校にファン・クラブまで出来ちゃってさ。鶴岡くんが撮影した水着の写真集を――」

 もう最後まで聞く気になれなかった。バカらしい。将来はAV女優にしかなれそうにないバカ女が生徒会長だなんて。オナペット・ランキング一位の勢いが、そのまま選挙結果に反映されたということらしい。君津南中学の良識なんて、やっぱりそんな程度か。オナペットを選ぶ基準で生徒会長を選んじゃいけないのに。それが理解できない連中の集まりだった。さようならも言わずに小池和美は電話を切った。 

 長い女子少年院生活を続けるしか選択肢はなかった。もう死にたい。だけど死んだら古賀千秋に復讐するチャンスがなくなる。口うるさい教官に耐えながら、退屈な毎日を送り続ける気力を支えたのは自分を裏切った女に対する怒りだ。いつか絶対に仕返ししてやろう。

 体は大きく、無口で無愛想。集団室で前から生活している十人にしてみれば、態度がデかいクソ生意気な新人としか思えなかったようだ。

 「起きな。お前に話があるんだ」と夜中に枕元で呼ばれた時も、怒りで目は覚めていた。上半身を起こしたところで、後ろから顔をタオルで巻かれた。抵抗しなかった。多くの手で体を押さえられてしまう。息が出来なくて、だんだん苦しくなっていく。

 「騒ぐんじゃない。大人しくしていないと殺すよ」

 何だと、この野郎。ふざけやがって。あたしに命令する気かよ。その言葉に小池和美の怒りは一気に爆発した。何人かの手に体を押さえられたままだったが、後ろでタオルを握っていた女の横面に、上半身を捻ってエルボー・ドロップを放つ。「ぐうっ」命中。気を失って布団の上に倒れるのが見えた。驚いて連中が身を引く。

 これで自由だ。残りは九人、全員が和美にとって憎き古賀千秋に見えた。目の前に立つリーダー格の女に飛び掛った。先手必勝。相手の出方を待つなんてことはしない。身体が勝手に動く。そして無意識にも、スタン・ハンセンのラリアットを見舞っていた。女が後ろに仰け反って倒れ込む。そのまま身動き一つしない。まさに秒殺だった。目にした光景に残りの八人が凍りつく。

 父親が見ていたプロレスのビデオのお陰だ。知らずにプロレスの技が身についていた。小池和美は次々と女たちにラリアットを浴びせた。四番目のデブが反動で柱に頭をぶつけて血を流すと、興奮に油を注ぐ結果をもたらした。

 お前ら、全員を血祭りに上げてやる。こうなったら、もう皆殺しだ。一人も生かしておくもんか。

 小池和美は残りの連中にドロップ・キックを浴びせた。逃げようとした奴には後ろから。そいつは前のめりになって机の角に顔面から突っ込んだ。ざまあみろ。

 布団に倒れたままの女たちには、その場で飛び上がってニー・ドロップで止めを刺す。落下する勢いで和美の膝頭には100キロ近い重さが集中しているはずだった。骨が折れるような音と感触を味わった。意識を取り戻して起き上がった奴らには、また強烈なラリアットを食らわせた。

 ああ、楽しい。こんなに自分が強いとは気づかなかった。もう楽し過ぎて気が狂いそう。気分はスタン・ハンセン。あたしは最強。もっと、もっと、暴れ捲くってやろうじゃないか。

 無抵抗の連中に次々と襲い掛かる。やりたい放題。プロレス技を思い出しては、身体が覚えるまで何度も練習。今夜たった一晩でズブの素人から世界タイトルを狙えるぐらいの立派なプロレスラーになってやろう、という意気込みだ。様々な状況の中で反射的に手足が動いて、プロレス技が出てくるようにならなきゃダメだ。時間を忘れて無我夢中。窓の外が明るくなるまで続く。全員を叩きのめして一息つこうかと思ったところだった、部屋の隅で小柄な女が身を潜めているのに気づく。朝日のお陰だった。

 ブルブルと震えていた。獰猛なライオンでも見るような目で和美を警戒している。動物園に来て、何かの間違いか、飢えたライオンの檻に一緒に閉じ込められてしまった小学生みたいだ。

 あはっ。こりゃ、愉快。 

 和美の視線に気づくと、もうこれ以上は小さく出来ないというところまで身体を縮こます。首を激しく横に振って、こっちに来ないでと合図を送ってきた。無傷のままで、ひっそりと隠れていたらしい。ただし一部始終を見ていて小池和美の凶暴さは目に焼きついている。

 獲物だ。まだピンピンしてる。たっぷり遊べそう。

 女は恐怖で泣いていた。目で慈悲を訴えてる。無理に怖がらせたりはしない。ゆっくり小池和美は笑顔で近づく。「お願い、許して」その言葉に優しく頷いてみせた。と、急に身体を反転させて、勢いよくローリング・ソバットを女の左脇腹に炸裂させた。「ぎゃっ」

 痛みに身を屈めて倒れそうになる女を、パジャマの襟を掴んでリングの中央まで引っ張ってきた。抵抗しなかった。もう、されるがままだ。そいつの首根っこを掴むと、腰を支えながら身体全体を空中に垂直になるまで持ち上げた。効果を高めるために滞空時間を長くする。そして豪快にブレーン・バスターを見舞う。小柄な女は布団の上に頭から落ちて気を失ったようだった。それを無理に立ち上がらせる。うしろに回り、痩せた背中を抱えて、次はジャーマン・スープレックス・ホールドを決めた。ジョー樋口の代わりを務めてくれるような気の利いた奴がいないので、カウント3はなし。どこまでやるかは和美の気持ち次第だ。もう乗りに乗っていた。真っ赤なGOサインしか見えない。とことんやってやろうじゃないか。

 小柄な女は体重が軽いのでプロレス技の掛け放題だ。練習するにはうってつけ。倒れたまま動かなくなると、ジャンピング・エルボー・ドロップを何度も何度も何度も連打で浴びせてやった。咳をしながら口から真っ赤な血を吐き出しても容赦はしない。こいつが死のうが構うもんかい。あたしが一人前になることの方が大切なんだから。この時の小池和美は元NWA世界ヘビー級チャンピオン、テキサス・ブロンコこと、あのドリー・ファンク・ジュニアになりきっていた。

 その小柄な女は出所が間近で、和美に制裁を加えることには強く反対した一人だったと後になって聞かされる。これでもかと色々なプロレス技を掛けられて、二度と自宅には帰れない体になってしまう。

 ストレート・ヘアで細面だった顔は、陰毛が生えたジャガイモみたいになった。変わり果てた姿に、病院に駆けつけた八度目の離婚調停中の母親も、「うちの娘じゃありません。知らない子です」と言い張る始末だ。おぞましい異様な姿に、近づいて良く見て確かめようともしない。

 女は流動食しか受けつけず、呼吸は酸素ボンベの助けが必要だった。顎の骨が砕けて泣くことも満足に喋ることもできない。しばらくして病院から障害者施設へと移って行く。

 この乱闘で小池和美は自信と勇気を得た。やってみたかったプロレスの技をすべて試す。ジャイアント・スイング、四の字固め、コブラツイスト、パイル・ドライバー、アルゼンチン・バックブリーカー、ダブルアーム・スープレックス、ランニング・ネックブリーカー・ドロップ等だ。どの技が自分にしっくりくるか、少しでも意識のある女を無理やり起こして、プロレスレごっこを続けた。結果として十八番技と言えるのが、やはりラリアットとエルボー・ドロップだった。

 翌朝、女子少年院は大騒ぎとなった。小池和美を除いて部屋の全員が重傷を負っていたからだ。自力で起き上がれるのは一人も居ない。内出血で全身が紫色の斑点だらけ。骨折、内臓破裂、重度の打撲と酷い裂傷。ほとんどが人間としての原型を留めていない。首や手足は考えられない方向へ曲がっている。何台もの救急車が駆けつける事態となった。

 施設は県や家庭裁判所への報告義務があった。しかし真相が明らかにならない。多くが口を閉ざす。説得すると何人かは口を開いたが、「あたし達が仲間割れを起こして、夜中には大喧嘩になったんです。小池和美さんは関係ありません」という腑に落ちないものだった。

 若くて美しい教官が無傷の和美を個室に呼んで問い質すことになった。

 「夜中に何があったのか教えて」

「知りません。あたしは疲れて寝ていましたから」いつもと違って教官の口調はきつかった。和美は身構えて話すことにした。

「嘘だわ。みんながあれほどの大怪我をしたっていうのに眠っていたなんて」

「あたし、熟睡するとなかなか目が覚めないんです」

「……」教官は信じていない。和美のことを見つめながら核心を突いてきた。「あなた一人で皆に大怪我を負わせたの?」

 小池和美も真剣に見つめ返して、ゆっくり落ち着いて答えた。「いいえ、違います」そのとき、ラリアットで連中を叩きのめした感触を思い出して、僅かに笑みがこぼれた。

「……」それで十分だったらしい。教官は事実を理解したみたいだった。一瞬だが机から身を引く。その目に畏敬の念が宿ったのを和美は見逃さない。この子って凄い、そう読み取れた。

 嬉しかった。初めて人から認められた気分だ。教官みたいな素敵な女性になりたいという気持ちは消え失せた。あたしはあたしだ。これからは女スタン・ハンセンとして生きて行く。

 女子少年院は居心地のいい場所になった。歳は関係なく誰もが小池和美を恐れて、媚を売るようになった。ここでは女王だ。あたしが一番偉い。

 よく同じことを訊かれた。「和美さん、あの凄い技は何て言うんですか?」いつも答えは決まっている。「カズミ・ラリアットって言うのさ。あたしが考え出したんだよ」そして相手から賞賛の言葉を全身に浴びるのだ。

 この施設にずっと居てもいい。そんな気持ちにもなったが、やはり復讐という大きな仕事が頭から離れない。それなら早く娑婆に出ないと。

 じゃあ、どんな方法で実行するか。

 殺しはしない。古賀千秋は生かしておく。死んだら、それで御仕舞いだ。それじゃ面白くない。ただし苦痛を伴って、だ。

 娑婆に出たら、まず格闘技を本格的に習う。女子プロレスに入門しよう。あたしのラリアットに磨きを掛けたかった。

 きっとプロレスラーとして世界チャンピオンになれるだろう。もしかしたら女子プロレスに限らないで、男の団体でも十分にやっていけるかもしれない。あのスタン・ハンセンと互角に戦える自信があった。

 リング・ネームはどうする。小池和美じゃ、迫力がない。アントニオ猪木の由来はアントニオ・ロッカだ。じゃあ、プロレスの神様と称えられるカール・ゴッチにちなんでカール小池なんてどうだろう。

 ……いや、ダメだな。どこかのスナック菓子と間違えられそう。           

これは、じっくり考えるべきだ。下手なリング・ネームをつければ笑い者になる恐れがあった。時間をかけて慎重に選ばないといけない。

 goodなリング・ネームが決まれば実力はあるのだから、きっと人気者だ。雑誌の取材、インタビュー、テレビのコマーシャル、どんどん高収入のオファーがやってくる。セレブだ。テレビ朝日の﹃徹子の部屋﹄に呼ばれちゃったりして、超有名人の仲間入り。君津南中学校からも講演依頼が来て地元に凱旋。女子少年院へ送られた生徒が、その後の努力で大成功を掴む。あたしの話に誰もが拍手喝采。そうだ、その時はサングラスをして真っ赤なメルセデス・ベンツで行ってやろう。

 準備が整ったところで古賀千秋に連絡する。再会しても、女子少年院に入れられた恨みは一切口にしない。これまで通り下手に出てやるつもりだ。近況を聞きながら、いつどこで待ち伏せすればいいかを探る。夜に人気のない通りで後ろから襲う計画だ。警察に捕まりたくないし、千秋にも顔を見られたくなかった。付き合いは続けたい。

 まずラリアットで気を失わせよう。そしてカミソリを二枚刃にして、あの女の顔にCKのイニシャルを描いてやる。二枚刃にするのは病院で皮膚の縫い合わせを難しくさせる為だ。顔の傷は太く、ハッキリと残したい。みんなが目を背けるように不気味に仕上げる。誰もが古賀千秋と目を合わせて話をしなくなるのだ。

 CKは、あいつの名前とは別の意味がある。

 中学二年の夏休みだった。古賀千秋はカルバン・クラインのTシャツを着て待ち合わせ場所に現れた。「これって、あたしと同じイニシャルなんだ」と言う。その後も何度も「今,流行っているの」と自慢するので、こっちも相槌を打つつもりで「カッコいいね」と言葉を返す。すると透かさず、「じゃあ、売ってあげてもいい。あたしには少し大きめだから」と、無理やり四千円で買わされた。

 数日後にルピタで同じTシャツを着た山田道子と遭遇する。「しまむらで二千円で見つけた」と聞かされた時はショックだった。お前が、売った金で白と黒の二枚のTシャツを手に入れたと知ったのも間もなくだ。でも何も言えない。文句を言えば友達でなくなる恐れがあった。自分の居場所、自分の存在が脅かされるのだ。

 奢らされるのは毎度のこと。一緒にマクドナルドへ行けば支払いは、いつも自分だ。嫌われたくないから金を出す。でも有難うの言葉は聞かない。あいつがしてくれた事と言ったら、篠原麗子から貰ったサラミを食べきれないからと一つ分けてくれただけだ。それも賞味期限の切れたやつを。何かに何度も何度も擦られたみたいで、包装してあるビニールの色は褪せて商品名すら消えかかっていた。どうしてだろう。太くて固くて長いから食べ難いし、全然おいしくなかった。

 その積もり積もったツケを支払わせてやろうじゃないか。

 お前の顔にCKの文字を刻み込む。それでカルバン・クラインのTシャツを着て君津の街を歩いてもらいたい。顔にも胸にもCKの文字だ。これって究極のお洒落じゃないだろうか。

 もう満足な仕事には就けないのは明らか。そこで付き人として、あたしが雇ってやるんだ。散々こき使ってやるよ。『徹子の部屋』では、生活苦の同窓生を雇って世話していると美談を披露しよう。それで人気はウナギ登りだ。女スタン・ハンセンとして、小池和美の想像は果てしなく膨らんでいく。君津南中学では書記でしかなかった少女が、地位と名声そして富を得るのだ。サクセス・ストーリー。

 あ、そうだ。気が変わった。転校生に貰ったメガネは掛けることにしなきゃ。知らない奴は、見てバカする。そこが狙い目だ。ラリアットで思い知らせてやる。身につけたプロレス技が出所するまで錆びないように時々は使わないといけないことに気づく。

 待ってなよ、古賀千秋。

 

   93  

 はあ、はあ……あ、……。あうっ、……い、いや。

 いやらしい男の舌が太股からじわじわと上がってきて敏感な部分を舐めるたびに、篠原麗子の口からは甘い喘ぎ声が漏れた。

 はあ、はあ……いや、……お願い、許して。

 どんどん高まりへと追い詰められていく。お気に入りの赤いチューリップ柄のベッドシーツは、身をくねらしているうちにしわくちゃになっていた。左右に振っていた首が無意識に後ろに仰け反る。あ、……あう。

 また恥ずかしい狂態を義理の父親だった男に晒してしまうことになりそうだ。いや、あ、……あ、許し――。

 あ、いやっ。

 途端に愛撫が止まった。な、……なんで? 深い失望感が麗子を包む。

 「ねえ、一休みしようか」

 麗子の太股の間に顔を埋めていた中年男が布団から這い出てきて言った。夜の暗がりの中でも、そいつの太って弛んだ醜い体は隠しようがない。首から下は男なのか女なのか分からないほどだ。こんな不細工な奴に愛撫されて自分は感じている。いいや、それだけじゃない。こいつに女の喜びを教えられたんだ。そう思うと麗子は情けなかった。どうして波多野くんじゃないのよ。

 はあ、はあ、……はあ。

 しばらくは何も言えない。呼吸が整うまで時間が掛かる。返事をする代わりに麗子は布団をはいで片方の脚を高く上げると、その膝を大きく曲げた。こんな格好をすれば陰毛が生えた淫らなところが丸出しになるのは分かっている。思った通りで、男の視線が自分の下腹部に釘付けだ。その隙を突いて奴の肩を思いっきり蹴ってやった。

 半年前に母親と離婚した男はベッドから転げ落ちた。両手は後ろで固定されているので床に直撃だ。

 「い、痛いっ。な、何をするんだ」

 麗子は上体を起こすと床に転がった男を見下ろした。「誰が休んでいいって言ったの?」

「そ、そんな……麗子ちゃん」

「せっかく、いいところだったのに。早く上がってきて続けな」

「待ってくれ。もう、たっぷりサービスしたじゃないか。それに麗子ちゃんが、いや、いやって言う――」

「ばかっ。あたしの口癖じゃないの、知っているくせに。トボけるんじゃないよ、まったく。ほら、まだ二時間ぐらいしか経っていないじゃないの。あたしが満足するまでは休んじゃダメよ」

「勘弁してくれよ。もう前みたいな体力はオレにない。いくら土曜日の夜でも朝までなんて無理だ。それにノドがカラカラに渇いている。舌だってヒリヒリして痛いし、アゴもシビれて感覚が無くなってきているんだ。頼むから少しだけ休ませてくれ。そしたらまた続けるから、な?」

「だめ。早くしないと大声出して騒ぐわよ」

「そんな……」 

「また警察の厄介になりたい? 今度は前みたいに穏便に済ませたりしないからね。犯されそうになったって訴えてやる」

「そ、そんなのウソじゃないか。あの事件の後で、今度は麗子ちゃんの方から誘って――」

「あっはは。お前の言葉なんか誰が信じるかしら。あたしは警官の前で大泣きしてやるからね。夜中に忍び込まれてパンティを脱がされましたって」

「……本気じゃないだろう? そんな事をされたらオレは――、もう市役所で働けなくなる」

「その通り。だから言うことを聞くしかないのよ、お前は」

「もう十分に償ったじゃないか。家も土地も、あのグリーンのベンツも譲った。オレに残っているのは仕事だけなんだ」

「ばか言わないで。それは全部あたしの母親の名義じゃないの。あのスケベ女が全て自分のモノにしたの。あいつったら、最近は店の客だった若い兄ちゃんと付き合っているみたいよ。先週だった、その堅くて長いチンポコを一生懸命にしゃぶっているところを覗き見しちゃったもんね」

「ほ、本当か?」

「そうよ。あのスケベは男にハメてもらわないで十日も過ごしたことないの。お前と結婚してた時だって浮気は頻繁にしてた。そう、そう、集金に来た新聞配達のオジさんとも玄関で二度、三度ヤッてたんじゃないかしら」

「……信じられない」

「だけどさ、それが現実なのよ。お前は家や土地とか車を差し出すことなかったの。あの女にも弱みがあったんだからね。あたしと直に話をつけるべきだった」

「……」

「落ち込んでいる暇なんかないよ。早くベッドに上がってきて続けなさい。お前の務めは終わっていないの」

「……待ってくれ、麗子ちゃん」そう言うと男は首と肩を使って不自由な体を起こし、その場に正座した。

「だめよ。早くしないと大声出すわよ」

「なあ、勘弁してくれないか。こんな関係は止めたい。……もう疲れたよ。今の話を聞かされて生きる気力も無くなりそうだ」

「なに言ってんの、お前」

「また逢いたいって麗子ちゃんから電話があった時は……」男は派手な柄のトランクスに視線を落として続けた。「もしかしたらオレ

の能力が回復してくれるかもしれないと期待して承諾したんだ」

 しかし八ヶ月前に十四歳の少女によって激しく傷つけられた男の股間は二度と元に戻らなかった。性欲はあるが挿入できるように上手く勃起しないのだ。

 麗子は気にしていない。こんな不細工な中年男、――ましてやスケベな母親が散々使い古したボロ雑巾みたいな男じゃないか――その汚らしいチンポコを自分の大切なアソコに突っ込む気は更々なかった。こいつの舌がヌルヌルと動いてくれたら、それでいい。いつの日か波多野くんと結ばれる時が来るまでは処女のままでいるつもりだ。

 あたしが今度は主導権を握る。だから再び自分の部屋に入れてやる時は、暴力を振るう恐れを無くす為に、義理の父親だった男の両手は後ろで手錠を掛けることにした。

 「あら、そう。つまりオッ立たなくなったのは、あたしの所為だって言いたいのかしら」

「い、いや。……そうじゃないけど」

「じゃあ、聞くけど。あたしの身体をこんな風にしたのは誰よ?」

「……」

「今じゃ、頻繁に疼いちゃって勉強も手につかないの。高校受験は目の前だっていうのに」

「悪かった」

「言葉だけじゃダメ。舐めて。あたしのアソコをもっと舐めて。しっかり心を込めて舐めるの」

「麗子ちゃん、……遅くなったけど償わせてくれ」

「はあ?」

「出来ることなら何でもする。して欲しいことを教えてくれ」

「……」こいつって馬鹿なのかしら? さっきから言っているじゃないの。舐めろって。

「高価な服でもアクセサリーでも、海外旅行だって……そうだ、運転免許が取れたら好きな自動車を買って――」

「じゃあ、ここに寝てよ」

「え?」

「ベッドに横になれって言ってるのよ。あたしが今度は上になるから」

「……」男は途方に暮れた様子だ。

「早くしなさいよ、ばかっ」

 これから何をされるのかと、両手を後ろで縛られた中年男が怯えていた。その顔には以前に見せた好色な表情はない。なんて愉快なんだろう。相手に言うことを聞かすのに麗子は、ただ膝を曲げて足蹴にする格好をするだけでよかった。「さあ、上を向いて寝てよ」

 男がベッドに仰向けになると、麗子は大胆にもその顔を跨いだ。「そのまま動いちゃダメ」腰を沈めていく。「じっとしていなさい」

 あ、……う。

 鋭い快感が麗子の身体を下から貫いた。あ、……あう。こっちの方が全然気持ちイイじゃないの。何で気が付かなかったんだろう。お尻の穴に男の鼻が当たって身も心も溶けてしまいそう。腰を前後に動かすともっとイイ。ベッドで横になって股間を舐められるだけで満足していた今までの自分が馬鹿みたい。

 「れ、麗子ちゃん、ま、待――」

 聞こえない振りをして続けようとした。波多野くんに丸裸で抱かれているところを想像しようとしているところだ。

「お、お願いだから――ちょっと」

 仕方なく腰を少し持ち上げてやった。「何よっ、うるさい」

「くっ、苦しい。これじゃあ、息ができない」

 知らずに股間を男の顔に強く押しつけていたらしい。気持ち良すぎて、生きている人間の上に跨っているのを忘れてしまう。深呼吸

して大きく吐き出された男の息が麗子の熱く濡れた部分を冷ましてくれる。

 「やっぱり、オレが上に――」

「なに言ってんの、ばかっ。息が出来ないなんて、そのくらい我慢しなさいよ、男でしょっ」

 つまらないことで波多野くんとの愛の営みを途中で打ち壊されて腹が立つ。また初めから想像しないとダメじゃないの。頂上まで登りつめるには、そのプロセスが大切なのに。頭にきた麗子は豊かな腰を持ち上げると、全体重をかけて思いっきり尻餅を突いてやった。

 むぐっ。

 義理の父親だった男は返事すら出来ない。何か言おうとして息を吸い込んだところを、女子中学生の丸い尻に鼻と口を完全に塞がれてしまったからだ。歳こそ十五才だが、一年前から性の快楽を貪ってきた下半身は、すっかり女らしく成熟していた。息をする隙間を与えないほど相手の顔に密着するのだ。

 下敷きにしてやった男の頭が苦しそうに左右に逃れようとしていた。空気を求めて藻掻いているのだ。その必死な動きが女の敏感な部分に伝わってきて、すっごく気持ちイイ。

 「たっ、助け――」

 両方の太股を男の顔に強く押し当てて黙らせた。ざまあみろ。しばらく呼吸なんかさせてやるもんか。あたしの命令に素直に従わないと、どんな目に遭うか思い知らせてやる。波多野くんの人差し指が、疼く股間の奥へ侵入したところで想像を中断された。その御仕置きをしてやらないとね。

 うふっ、楽しい。

 両目を瞑り、キッスされながら優しくオッパイを揉まれる最初の場面を頭に描いていく。朝までたっぷり時間はある。篠原麗子のエッチで長い夜はこれからが始まりだった。

 

   94   

 

 加納久美子は本郷中学の駐車場に愛車フォルクスワーゲン・ポロを停めると、さっそく携帯電話のメールをチェックした。着信音が鳴ったのは運転中で、すぐに開いて読むことが出来なかったのだ。

 『おはよう。きっと素晴らしい一日になる』

 うふっ、やっぱりだ。思わず笑みがこぼれる。メールをくれたのは君津署の波多野正樹刑事だった。

 久美子は返信した。『メール、ありがとう。勇気もらった』

  

 あの事件から半年が過ぎて季節は秋になっていた。異様な出来事であると地区の教育委員会も判断して、加納久美子には特別に年内の休養を認めてくれた。と同時に君津南中学からの移動も決まる。本来ならば本郷中学には来年の三学期から赴任すれは良かった。二学期の途中から教職に戻らなければならなくなったのは、引き継ぐ予定だった三年Α組の担任教師が急に体調不良を起こして仕事を続けられなくなったからだ。

 外に出てフォルクスワーゲンのドアを閉めたところで、本郷中学の教頭先生が歩いて近づいて来るのに気づいた。白髪のオールバックが似合う初老の紳士だ。女子生徒に人気があると評判らしいが、まったく不思議じゃない。

 

   95

 

本郷中学の教頭は朝一番に学校に来て、教職員たちの当日のスケジュールを確認するのが常だった。校長に次ぐ地位に就いて初めて赴任した学校でもあり、この本郷中学を愛していた。

 海と山が近くにあって自然には恵まれている。ほのぼのとした教育をするなら、ここしかないと言えた。教師に反抗したりする生徒は一人もいない。イジメの報告もなかった。これまで大きな問題や事件は何も起きていない。平和な田舎の中学校といった感じだ。

 今日は新しく加納久美子先生が赴任してくる日だった。教育委員会が催す地域の会合で何度が彼女とは顔を合わせている。

 彼女に対する教頭の印象は良かった。知性的な美しさに惹かれていた。話し方や態度で独立心の強い女性であることも窺えた。新しい考え方を持っている人に違いない。きっと気が合いそうだ。同僚として迎えられることが嬉しかった。

 自分が若ければ彼女を恋愛の対象として見ただろう。だけど現実では歳は倍近くも違う。父親が娘を思う気持ちで接してやろうと思っていた。

 教頭は加納先生が使うことになっている机の前に立った。掃除が行き届いているか確かめたかった。本郷中学の第一印象が悪くなっては困る。

 無意識にも、この席を使っていた三年Α組の担当だった教師のことを思い出して、すぐに後悔した。あいつのことは早く忘れたい。

 あの男が職場を離れる表向きの理由は体調不良だったが、それは

教育委員会が決めたことで、問題を大きくしたくないという意図が

ありありとしていた。事実は言葉ひとつで言い表せるほど簡単なものではなかった。いろいろと世話をしてやった思いがあるだけに、教頭は裏切られたという気持ちが強かった。

 どうしてあんなことになったのだろう、と考える教頭を現実に引き戻したのは聞き慣れない自動車のエンジン音だ。駐車場にダークブルーの小型車が入ってくるのが窓越しに見えた。加納先生の車に違いなかった。左ハンドルのマニュアル車と聞いたが、そんな自動車をサングラスで運転する女性教師なんて初めてだ。イカしてる。年甲斐もなく心が浮き浮きしてきた。

 駐車場まで迎えに行こうか。だけど、こちらの好意を見透かされそうで恥かしいな。いいや、構うもんか。今日は初日だ。特別な日なんだ。

 職員室から出て行こうと体の向きを変えたところで、机の引き出しから白い紙が一枚はみだしているのに気づく。嫌な予感が過ぎった。まさか。教頭は手を伸ばして、その紙を取り出す。胃に痛みが走った。やっぱりだ。

 

 『カラスが見ている。カラスが見ている。カラスが見ている。カラスが見ている。カラスが見ている。カラスが見ている。……』

  

 同じ文句が幾つも紙一面にぎっしりと書かれていた。あれほど処分したのにまだ残っていたのか。それとも誰かが保管していて、わざと一枚を机の引き出しに戻したのだろうか……。

 いいや。

 そんな悪戯をしそうな職員は一人もいなかった。いや、待てよ。新しく養護教員として赴任した東条朱里という女はどうだろう。なんとなく掴みどころのない人物だ。しかし彼女は事の経緯を知らないはずだった。

 わからない。何が、どうなっているのか。浮き浮きした気分は一変に吹き飛んだ。この学校に続く平穏無事な日々が崩壊していくような気がしてならなかった。

 三年Α組の担任だった男性教師は早稲田大学を卒業していて、将来は校長の椅子が約束されたようなものだった。性格は良く、誰からも好かれた。そんな男が、ある日突然だが別人になる。

 その朝、顔を合わせても挨拶がなかった。どこか具合でも悪いのか、と誰もが思う。ところが彼は自分の席に座ると一心不乱に何かを書き始めた。授業にも出ない、食事も取らない、声を掛けても返事をしない。夕方五時過ぎまでレポート用紙に向かっていた。

 何かが職員室で起きているらしい、と生徒たちが気づくのに時間は掛からなかった 一人の教師の奇行が職員室、いや、学校全体を異様な雰囲気に包んだ。

 夕方、男性教師が何も言わずに自宅に帰ると、すぐに同僚たちの視線が教頭に集まった。どうなっているんですか、全員が無言でそう問い掛けていた。ふざけんな、オレが知るわけないだろう、と言い返したいところを我慢して教頭は立ち上がり、恐る恐る彼の机を調べに行く。男性教師が一日を通して書き続けたレポート用紙数枚が散乱していた。文面を読もうとした教頭の背筋を悪寒が貫く。

 すべてのレポート用紙に同じ文句が連続して、ぎっしりと余白がないほど書かれていた。「狂っている」教頭は思わず口にした。

 男性教師の奇行は続く。職員室で机に向かって同じ文句を書き続けた。大声を出すわけでもなく、また凶器を振り回すわけでもなかった。表情のない蛇のような目が、もはや彼が別人であることを物語っていた。

 職員室にペンが紙面を滑る音が途切れなく続く。同僚たちは彼と目を合わせたくないので物音を立てまいとする。ストレスは大変なものだった。体調不良を訴える者が日を追うごとに増えていく。

 こういう事態に校長は全く役に立たなかった。普通の人間に対しては偉そうな言葉を並び立てるが、狂人を前にするとどう対応していいのか分からず、ただオロオロするばかりだった。教頭は一人で教育委員会と掛け合い、男性教師を自宅待機という形に落ち着かせたのだ。本郷中学に平和を取り戻したと同僚達からは感謝された。

 その甲斐あって素敵な女性教師を後任として迎えられる。今日がその日だった。教頭は気を取り直して職員室から外へ出て行く。

 ブルーの小型車から降りた加納久美子先生が、こちらに気づいて笑顔で会釈してくれた。

 「おはようございます、加納先生」

 白いブラウスに紺色のタイトなスカート姿だった。すごく似合っている。スタイルもいい。ああ、若い女性っていいな、と心から思ってしまう。これから毎日、出勤するのが楽しくなりそうだ。さっきまでの不安だった気持ちが、すっかり癒される。

 教頭は歩調を速めた。ところが何だろう。加納先生の顔から笑みが消え、懸念の表情へと一変する。どうかしたのか。

 「危ないっ、教頭先生」

 え? と思った瞬間、何かが自分の頭をかすめて勢いよく飛んでいった。ボールでも当たりそうになったのだろうか。その場に教頭は頭を抱えてしゃがみ込んだ。幸いにも痛みはなかったが。

「大丈夫ですか」加納先生が駆け寄ってきてくれた。

「ああ、何でもない。一体、何が飛んできたんだ?」

「カラスです」

「……」この言葉に教頭の身は竦んだ。

「いきなりカラスが教頭先生に向かって急降下してきたんです」

「……そ、そうか」

「気がつくとカラスが教頭先生の頭上を旋回――」

 教頭は急いで立ち上がった。「加納先生、もう大丈夫だ。もう、何でもない」声が大きくなってしまう。苛立ちが隠せない。早く彼女を黙らせたかった。その鳥の名前を口にしないでほしい。

 「だけど、あのカラスったら――」

「うるさいっ。もう、わかったから」

「……」

「もういい」

「そ、……そうですか」

 彼女の顔から親しみが消えた。態度の豹変に戸惑っているに違いない。すべてがぶち壊しになったと教頭は悟る。「怒鳴ってしまって悪かった。すまない。ちょっと驚いてしまったものだから」それでも、こう続けないではいられなかった。「加納先生、今の事はここだけの話にしてほしい。絶対に誰にも言わないでくれないか」

 ほかの教職員に知れたらどんな噂話が立つやら。それが怖い。 

 「わかりました」

 彼女の返事には意に逆らって従う不満の響きがあった。当然だろう。もはや加納先生と仲良くなることは難しいかもしれない。きっと自分との距離を置くはずだ。取り返しはつかない。本郷中学の教頭にとって最悪の朝になってしまった。

 

   96

 

 訳が分からない。あの教頭先生の態度は理解に苦しむ。あんなにも簡単に感情を露わにする人とは思わなかった。たかがカラスが飛んで来たぐらいで。それもだ、カラスと聞いた途端に震えだしたりして。

 これから三年Α組の生徒たちと初めて顔を合わすというのに、加納久美子は本郷中学に居心地の悪さを感じた。

 同僚の先生たちは普通に挨拶をしてくれて歓迎の言葉も添えてくれた。しかし何か腑に落ちない。何か大事なことを隠されているような気がしてならなかった。

 時間になって加納久美子は教頭先生に連れられて自分が担任を務める教室へと向かう。足取りは重かった。二人の間に会話はない。

 クラスは三階にあって窓からは校庭の隅々まで見渡せた。最初に教頭先生が紹介してくれたが言葉数は少なかった。この場から早く立ち去りたいという気持ちが窺えた。

 教頭先生が教室から出て行って教壇に一人になると少し気が楽になった。「みなさん、おはようございます。今日から三年Α組の担任になりました加納久美子です。よろしく」

 一呼吸して生徒たちの顔を見る。みんなが笑顔だ。このクラスはまとまりがあって教えやすいと聞いていたが、その通りらしい。「みなさんの顔と名前を一致させたいので、さっそく出欠を取ります」

 静かだ。意味のないジョークを飛ばして注意を引こうという生徒はいない。久美子は名簿を開き、あいうえお順になっている名前を読み始めた。「青木大輔」

「はい」

 久美子は声のした方向に目をやり、生徒の顔を確認する。「伊藤信行」

「はい」

「石橋涼」

「はい」

「植木哲也」

「はい」

 十五人いる男子生徒の名前が終わりに近づいたときだった、窓の外で物音がした。バサっという紙の束が地面に落下したみたいな響き――。「あっ」A組の生徒たちを前にして久美子は驚きの声を上げてしまう。

 見ると、窓の外側にある手すりに黒い鳥が一羽とまっていた。久美子は瞬時に思った。教頭先生を襲ったカラスに違いない、と。これって、どういうこと? まさか、――そんな。教頭先生に急降下したのは偶然じゃなかったの。

 次の瞬間、加納久美子の全身が凍りつく。

 生徒たちは笑顔のままだった。誰一人として窓に振り向いた者がいない。物音は聞こえたはずだ。ど、どうして? 何人かの女子生徒が軽い悲鳴を上げても不思議じゃないのに。全員が新しい担任教師に顔を向けて無言で先を促していた。

 これは、……どうして。久美子は次第に息苦しくなっていく。つらい。身体に力が入らない。無理そう。これが終わったら早退したい。せめて出欠だけは最後まで……。

 「渡辺」やっと次の男子生徒の苗字を口から搾り出す。が、すぐに声が出せなくなった。先が続けられない。まさか……、これも偶然じゃないのかもしれなかった。力を振り絞って名前を呼んだ。「拓磨」

「はい」

 不安は的中。声には聞き覚えがあった。悪寒に包まれながらも返事をした生徒を目で捜す。息苦しさと共に心臓の鼓動が早くなっていく。窓側の最後列、そこに半年前に加納久美子を犯そうとした少年の姿があった。取り逃がした獲物を再び見つけたような目で笑っていた。

 う、嘘でしょう? ……信じられない。

 

   97  5年後 2004年 アテネ五輪 4月                       

 

板垣順平は来月で二十一歳になる。まだ若いが親が所有する中古車販売店『板垣モータース』の経営を一切任されていた。父親が体を壊して、ほとんど会社に出てこられないからだ。この商売に入って五年が経つ。体格が大きいので若造に見られてバカにされることもなく、最近では経営者としての風格さえ漂わせていた。仕事には好都合だ。

セールスをするのに学歴は関係ない。大切なことは頼りになりそうな外見と説得力ある話し方だ、そう確信していた。

 扱う車種は出来るだけ国産の人気車種に限った。利幅は小さくなるが商品の回転は早くなる。同じ車が長々と展示場に置いてあるのは客にいい印象を与えない。外車は極上モノが安く仕入れられるときだけ買い取る。現在、店にはブルーと紫のBMWが二台あった。

 板垣モータースのサービスとして、お客が買ってくれた自動車が車検になれば、午前中に勤務先まで取りに来て、夕方の終業時間前には全ての手続きを終えて,洗車までして返しに来るというのがある。これは順平のアイデアだった。別料金でエンジン・オイルやATFの交換もする。整備工場まで車を持って行く必要がないので好評だ。もう何人かの客が、なかなか融通の利く店だと言って親戚や友達を紹介してくれた。ほかに従業員二人とアルバイト一人を雇うだけの小さな会社だが、同業他社が厳しい経営を強いられる中でまずまずの売り上げをキープしていた。

 今日も近くの児童養護施設で働く保母さん――正確には保育士と言うらしいけど――の車検がきたスターレット・ターボをピックアップに行くところでスバルの軽自動車を走らせていた。

 このヴィヴィオはビニール・シートが早くダメになるところ以外は気に入っている。特にCVTがいい。この軽自動車が客の代車となる。当然だが常に満タンにしてあった。お客が代車を使おうとした時にガソリンが少ないと印象は悪くなってしまう。小さいことだが、ここが肝心。商売とは基本的に人と人の繋がりだ。愛想の良さと、細かいところに手が届くことを心掛けていた。

 中学時代の友達と顔を合わせば、みんなが同じことを何度も繰り返して言う。「お前、ずいぶん変わったなあ」

 無理もない。あの頃の自分はサッカー部のストライカーとして大威張りで、周りの連中を恐れさせていたほどだ。少しぐらい自分勝手な行動を取っても、試合でゴールを決めれば許される雰囲気すらあったのだ。気に入らない奴は徹底的にイジめてやった。

 ところが今は違う。お客に頭を下げて中古の自動車を買って貰わなければならない。その利益で愛する家族を養うことが出来る。この歳で順平は、妻の連れ子だけど一児の父親だった。

 結婚を決めたのは中学三年の一学期で早かった。クラス・メイトだった五十嵐香月からプロポーズされたのだ。「ねえ、あたしと結婚してくれない?」

 突然だった。場所は教室、時は放課後の掃除当番をしている最中だ。箒と塵取りを両手に持ったまま、しばらく動けなかった。しかも彼女には、その一年前に日本代表がワールド・カップでジャマイカに1―2で敗れた翌朝、一方的に捨てられていたのだ。散々、デートで小遣いを使わされた挙句の果てに。

 五十嵐香月と付き合って、たった二ヶ月間で八十万円近くあった貯金は全て消えた。小学生の頃から少しづつ、百万円を目標に貯めてきた金だった。何か欲しいモノを買ってやればヤらしてくれると信じたからだ。Tシャツから始まって、ポロシャツ、ワンピース、水着へと進んで、ブラジャーとパンティの代金まで支払わされた。

 売り場でセクシーな下着を身体に合わせて、「これって可愛くない? あたしに似合う?」と訊かれれば、それを身につけた姿を拝ませてくれると思って金を払ってしまう。

 香月にアダルト・ビデオを借りてきて欲しいと言われた時は、これでヤらせてくれるんだと確信した。オレとラブホテルへ行くのに何か起爆剤というか、背中を押してくれる刺激が必要なんだろうと思った。そのAV女優のビデオを何度も何度も繰り返し見た。実際にヤるときは、同じ行為を香月が期待すると考えたからだ。見終わっても一人、布団の上で体の動きを練習したりした。

 佐野隼人が佐久間渚とヤるよりも早く自分が香月とできるのが嬉しかった。「オレ、五十嵐香月とヤったぜ」と親友に報告するのが楽しみだった。ところがキスもしないまま、一方的に別れを告げられたのだ。

 女の気持ちっていうのは永遠に理解出来そうにないな、そう思った。

 それに結婚の申し込み方にしても、なんか、すっげえ素っ気なくないか? 人生に関わる大切な問題だろうが。なのに妻の香月ときたら、なんか、ちょっと其処のゴミを箒で掃いてくれない? なんて調子で言ってのけた。オレの両親ですら、富津岬の花火大会でオヤジの方から焼きトウモロコシをかじっていたオフクロに申し込んだって聞いた。火薬の爆発音がうるさくて、四、五回ほど慣れない台詞を言い直して舌を噛みそうになったらしいけど。

もう少し時間と場所を選んで欲しかったなあ、という香月に対する不満は今でも残っている。

 次の言葉が耳に届いて、ようやく金縛りから解放された。「やっぱり、あんたが一番すてき」順平は無意識に返事していた。「そうだろう、やっぱり」

 また付き合ってみたいじゃなくて、もう結婚したいだった。それも二人は、まだ中学三年生なのに。何でそんなに急ぐ必要があるのか?

 順平の疑問に香月は答えた。「あたし、妊娠しているの。来年の初めには産まれる予定なのよ」

 「ええっ」

「きっと男の子」

「だっ、誰なんだ、その相手は?」

だったら、もしかして、まさか……もう処女じゃないのかよ、お前は。順平はガッカリした。オレの方は、まだ童貞だぜ。でも、ここで不満を口には出すのは我慢した。

「そんな事どうでもいいの。もう別れた男なんだし、さ」

「じゃあ、いつ別れたんだ? そんな奴なら、その子供は堕胎した方が良くないのか?」

 ふざけた野郎じゃないか、オレのあとに香月と付き合って、しっかりセックスしてから別れたなんて。すげえ羨ましい。

「いやよ。あたし、絶対に産みたい。それに、もう手遅れなの」

「マジかよ。じゃあ、結婚したら法律的にオレが父親ってことになるのか?」

「もちろん、そうよ」

「……」セックスもしたことがないのに父親になってくれと頼まれて順平は戸惑う。

「どうしたのよ? あたしと結婚したくないの」

「いや、そ、そうじゃないけど……さ」

「いいわよ。だったら他の男子に当たってみるから」

「ま、待ってくれ」

 そんな冷たい言い方はないだろう。まるで小銭を貸してくれそうな奴を捜すみたいな口調じゃないか。「分かった、父親になるよ。だけどさ、オレの親に何て言えばいいのかなあ」

 処女でなくても構わない。子連れでもいい。五十嵐香月と結婚できるなら何でも受け入れられる。

 「バカねえ、そんなこと簡単じゃない」

「え、そうか?」

「うん。オレの子供だって言えばいいのよ。女を孕ましたから結婚しなきゃならない、って」

「なるほど」

 こいつは、なかなか頭がいいなあと感心した。美人でスタイルがいいだけじゃない。こんな女は他に見つけられないだろうな、きっと。

 「じゃあ、お前の方は大丈夫なのか? 香月の両親はオレとの結婚を許してくれるのかな」

「まったく問題はないわ」

「すっげえ自信だなあ」

「もう話をして、許しを貰ってあるもの」

「マジかよ?」えらく手回しの早い女だぜ、こりゃあ。

だけど一体どんな両親なんだろう? 一度も会ったことがないのにオレと一人娘との結婚を許可するなんて。それにオレ達まだ中学生だぜ。

「うん。それとね、言っておくけど子供は双子なのよ」

「えっ。……ふ、二人も?」いきなり四人家族かよ、まだセックスもしたことないのに。

「そう」

「どうして、そんなことが分かるんだ? まだ産まれてもいないじゃないか」

「あたしには分かるの、母親だから。だけど安心して。育てるのは一人だけよ」

「はあ? じゃあ、もう一人の子は」

「人に預けて育てて貰うの」

「誰に?」

「説明するから、よく聞いて」

香月の話は順平の理解を遥かに超えていた。ホラー映画か小説のストーリーを聞かされている思いだった。「そ、それをオレにやれって言うのか?」

「そうよ。あんたなら出来るわ、きっと」

「犯罪じゃないのか、……そんなことしたら」

「バレなきゃいいのよ。あんたなら上手くやれる」

「子供を取り替えるってのは何とか……。だけどさ、その他人の子を……」 

「何よ。したくないって言うの?」

「いや、そうじゃないけど。でも、どうしてもやらなきゃならないのか? そんなヒドイこと」

「そう」

「わからねえな」

「別に順平に理解して貰いたいと思っていないわ。ただ実行してくれたらいいの」

「……」

「怖気づいたの、あんた」

「だって、きっと警察が黙っていないぜ」

「まあね。事情聴取は当然でしょう。だけど、そこが頑張りどころじゃないの」

「どう頑張ればいいのさ? 警察なんかを相手にして。オレ、まだ中学生なんだぜ」

「歳なんて関係ないでしょう。上手く事故を装うのよ。しっかり計画を立てれば警察なんて誤魔化せるわ。悲しみに打ちのめされた父親を演じてしどろもどろに答えていれば、きっと向こうだって深くは追求してこない。もしも最悪の場合に刑務所へ行くことになっても、あたしはずっと順平を待っているから安心して」

「……」なんか恐ろしいことを言う女だなあ。

「あっ、動いた」

「えっ」

「お腹の子よ。ほら、触ってみて」

 香月は立ち上がると横に身体を密着させるように座り直した。そして順平の手を取ってセーラー服の中へと導き、下着の上から自分の下腹部へ当てた。分かり易いようにと思ってか、スカートのフックさえも緩めてくれる。うわあ、なんて柔らけえ。初めて触る憧れの異性の肉体だった。それも、もう少しで彼女のエッチな部分に届きそうなところ。女の甘酸っぱい香りにも包まれて目の前がクラクラしてきた。

 「どお? 分かる、動いているの」

「う、……うん」そんな事どうでもよかった。順平の関心は、ただ香月の身体に一秒でも長く接していたいだけ。

「あんたの子よ」

「うん」でも実感は全然ない。

「やってくれるわね?」

「わかったよ」逆上せてしまっていて他に答えようがない。

「もう離して」

「どうして。まだいいじゃないか」

「なに言ってんの。結婚したら好きなだけ触っていられるじゃないの。だから今はお預け」

「ちぇっ」

 ところが、あれから五年経った今でもお預けは続いている。

 中学三年の冬休みから順平の家で同棲を始めたが、そうなる前には予想した通り両親との間で一悶着あった。

 「オレ、結婚したいんだけど」

 この言葉が宣戦布告になった。オヤジが応援する中日ドラゴンズが十一年ぶりにセ・リーグの優勝を決めた日を選んだのだが効果はなかった。

 「何だって? バカ言ってんじゃないよ、お前は」と母親。

「いくつだと思ってんだ、お前。そんな言葉を口にするのはなあ、十年は早いぞ」父親が続く。

「実は子供が産まれるんだよ。それも来年の初めぐらいに」香月に入れ知恵された通りに言ってみた。

「……」

「……」

 これは効果があったみたいだ。おい、今の聞いたか? そんな感じでオヤジとオフクロが顔を見合した。「だから責任を取らなきゃならない。お願いだよ」

「相手は誰なの?」母親だ。

「五十嵐香月。クラス・メイトなんだ」

「えっ、同じ年の女か? どっかの薄汚い商売女かと思った」と、父親。

「そんなんじゃないよ、父ちゃん」

「いつ、ヤッたんだい? お前」

 この母親の質問にはたじろぐ。何も考えていなかった。「せ、先週だったかな……よく覚えて――」

「バッカだねえ、お前は。騙されているんだよ。そんなに早く妊娠が分かるわけないじゃないか。来年には産まれそうだって? それは絶対に、お前の子なんかじゃない」 

「じゃ、じゃあ、もっと前だったかもしれない」

「いつだ?」親父の口調は強い。

「よく覚え――」

「馬鹿野郎。そんなこと忘れる奴がいるか? 父ちゃんだって、しっかり初体験は覚えて――」

「プレイ・ガールとかいう風俗店を無断欠勤でクビになった年増のデブだろ」透かさず母ちゃんが口を挟んだ。

「……な、なんで、お前,そんな事まで――」

「うちでアルバイトしていた磯貝洋平が教えてくれたよ。あれは、おだてれば何でもペラペラ喋ってくれたからね」

「あ、あの野郎。……畜生、信じていたのに」

「そんな話は、どうでもいいよ」母親は父親に勝ち誇ったような表情を見せてから順平の方へ向き直った。「五十嵐香月だって? あの見掛けだけのアホ娘だろ」

「お前、知ってんのか?」気を取り直して父親が母親に訊く。

「うん。授業参観とかで何度か見たことがある。背が高いから目立つ子だけど、性格は意地汚さそうだった」

「そうだろうな。うちの息子を金が目当てで誘惑するくらいなんだから」

「見るからに、ふしだらな娘だよ。男だったら誰でもいい。すぐに自分から股を開きそうな、セックスすることしか頭にないって感じの子さ」

「母ちゃん、そんな酷い言い方はないだろう。よく知りもしないでさ」

「いいか、順平。お前はそのアバズレに騙されているんだ」父親は母親の言葉で完全に五十嵐香月という人間を理解したようだった。

「違うよ。本当に結婚したいんだ」

「何を言ってる。まだ十五歳だろ。これから幾らでもイイ女は見つかる。お前は板垣モータースの後継ぎ息子なんだ、それなりのしっかりした娘じゃないと困る。そんなスケベで、男にだらしない売女のことは忘れろ」

「だけど、もう約束しちゃったし」

「よし。だったら、そのアバズレをここに連れて来い。俺が話をつけてやるから」

「そうだ。お前の手に余るんだったら、お父さんに任せなさい。その方が母さんも安心だよ」

「……」

 順平の力では両親を説得できそうにない。翌日、とてもじゃないが結婚は難しいと香月に打ち明けるしかなかった。

 「あ、そう。じゃあ、いつ?」

「えっ」

「いつ、順平の家へ行けばいいのよ?」

「ほ、本気なのか?」

「そうよ。あんたの父親と話をつければいいんでしょう」

「お前、そう簡単に言うけどなあ。うちのオヤジとオフクロを知らないから――」

「だったら今週の日曜日に伺います、って伝えてくれない」

「マジかよ? どうなってもオレは知らないぜ。お前が傷ついて泣く姿だけは見たくないんだ」

「いいから、あたしに任せて」

 香月は、順平が心配だから迎えに行くと言うのを聞かず、たった一人で板垣家まで歩いて来た。長い髪をアップにして、タイトな水玉模様のワンピースに白のハイヒールという大人びた姿だった。これが同じ人物かよ? 玄関のドアを開けた順平は言葉を失う。それに、こんなにセクシーで綺麗な女は今まで見たことがなかった。

 居間のソファに座って待ち構えていた両親も戦意を殺がれてしまった様子だ。「初めまして、五十嵐香月です。どうぞ、よろしくお願いします」と、言われるまで固まったまま動かない。

 ぎこちない挨拶が済むと母親だけは気を取り直して、あんたの話は辻褄が合わないとか言って攻撃を始めた。しかし父親の援護射撃がない。順平と同じで、ソファに腰掛けて露わになった瑞々しい色気を発散する十五歳の太股に目が釘付けだった。

香月の方は、まるで聞こえなかったみたいに天気の話から始めて中日ドラゴンズと福岡ダイエー・ホークスで戦う日本シリーズへ話題を飛ばす。「どっちが優勝するかしら?」

 「そりゃあ、もちろん中日ドラ――」横から母親に肘で突かれて父親は途中で黙り込む。

「お母さま、その黄色いポロシャツが素敵だわ。すごく似合ってらっしゃる」

「あ、これかい? うふ、これはねえ、去年グアムへ行った時に免税店で見つけたんだ。あたしの大好きなラルフ・ローレンが空港で三割引なん――あっ、バカ。そんな話してんじゃないだろ。あんたのお腹の中の子供だけど――」

「わたし達、冬休みから一緒に住むつもりなんです。婚姻届は順平くんが十八歳になるまで待たなければなりませけど」

 香月は都合の悪い話はのらりくらりとかわし、言いたい事は問答無用という感じでハッキリ口にした。一時間ぐらい家に居ただろうか、その間ずっと両親を手玉に取った。冬休みから同居するなんて順平だって、たった今聞かされたところだ。

 「そんなに思ったほど悪い娘じゃなさそうだ。なかなか、しっかりしてる」

 香月が帰ったあと、すぐに父親は順平の方を向いて言った。横で母親が裏切り者でも見るような目で睨みつけるが顔を合わそうとしない。これで決まりだった。

 母親が反対するのを押し切って、クリスマスの日から同棲を始めた。順平は期待に胸をふくらませて初夜を迎えたが、香月に妊娠中なのでセックスが出来ないと、ダブル・ベッドに入ろうとして初めて言われて深く失望する。そんな事ぜんぜん知らなかった。直前じゃなくて、もう少し早く教えてくれたら良かったのに。堅くなった下半身をどうすりゃいいのさ。さらに、就寝中にお腹の子供を蹴る恐れがあるので、あんたは床に布団を敷いて寝てくれとも言ってきた。ところがだ、無事に男の子が生まれても、産後の日経ちが悪いとかで相変わらず身体に触れることを拒み続ける。

 何の為に結婚したのか分からねえ。これじゃあ、新婚からセックスレス夫婦と同じじゃねえか。不思議なことに丁度その頃から母親の健康が日を追って悪くなっていく。入退院を繰り返した。順平は看病で忙しくなって、夫婦間の問題を話し合って解決するという時間がなかなか見つけられない。

 募る欲求不満を解消してくれたのは、中学で香月の仲間だった山田道子だ。順平にとっても彼女は幼馴染みで話し易い相手でもあった。ちょくちょく家に遊びに来てくれたので、思い切って相談してみた。「なあ、聞いてくれ。香月の奴ったら、オレに一度もセックスさせてくれないんだぜ」

「あら。……やっぱり、そう」

「それ、どういう意味だ?」何か知っているような口振りだな。

「香月の性格じゃないかしら。セックスに対しては淡白だと思った」

「どうして」

「あたしらと佐久間渚の三人でセックスの話をする時だけど、いつも香月ったら興味なさそうにしてたから」

「へえ」

「ああいう子って結構多いらしいわよ」

「ああいう子って、どんな?」

「つまり外見は凄くセクシーで魅力的なんだけど、実際に抱いてみると手応えがなくてガッカリさせられるっていうのかな」

「お前、なかなか詳しいな」

「うん。それなりに本を読んで知識を得ているからね」

「どんな本だよ?」

「主に『女性セブン』かな」

「えっ、……それって週刊誌じゃねえの?」

「そうよ。だけど記事の内容は濃くてシッカリしている。ほかには兄貴がたまに買ってくる『週刊宝石』なんかも読んでいるし」

「……」お前が言う本は、その程度かよ。「だったら、その反対の女も存在するってことなのかな?」こいつに相談するんじゃなかったと後悔し始めたが、ふと疑問に思ったので訊いてみた。

「その通りよ、もちろん」と、言うと山田道子は片手を腰に当て、横を向いた意味あり気なポーズを取って見せた。さらにウインクまでして、「どう、あたしを試してみる?」ときた。

 断る理由はない。しかし驚いたことに、その大胆な誘い方とは裏腹に山田道子は処女だった。

 ラブホテルまでは自分のマウンテン・バイクに荷台が無いので、オフクロの買い物カゴ付き自転車を借りて二人乗りして行った。だけど、いざ部屋に入って行為に及ぼうとすると道子は身体を震わせて、怖い、怖いと言いながら泣き出しそうになる。勃起した先端が彼女の股間に接触するだけで、いやっ、いやっと叫んだ。仕方なく身を引くと今度は、止めないで、止めないで、だった。それを何度も繰り返す。わけの分からない女だな、こいつ。結局、一回目は裸を見せ合っただけで終わる。挿入しようとすると順平の背中に爪を立ててしがみつくからだった。血は流れてくるし、痛くて、それどころじゃなくなった。

 やっと一週間後の二回目で結ばれたが、その後は会うたびにセックスするのが苦痛になっていく。もっとイイ女とヤりたい。逆に山田道子の方は頻りに順平の体を求めるようになる。 

 成り行き上、無下に断ることも出来ないのでホテルには行くが、順平は目を瞑り、頭の中では妻である香月のヌードを想像しながら行為に及んだ。そうでもしないと勃起しなかった。香月が脱いだ下着に顔を密着させて一人でエッチしていた方がどんなに楽しいだろうか。

 数ヶ月も経つと、いつ別れ話を持ち出そうかと考えるようになった。出来るだけ相手を傷つけることはしたくない。女房に気づかれそうなので友達の関係に戻ろうぜ、と言うつもりでいた。そのセリフを口に出す覚悟で、いつものラブホテルで二人だけになった。今日が最後だ。

 だけど、その日に限って山田道子の服の脱ぎ方が違った。隆起の少ない身体をくねらせながら、見せびらかすようにスカートを下ろす。少しでもセクシーに振る舞って雰囲気を出そうという気らしいが。止めろ、無理だ。反対に萎えてくるぜ、こっちは。

 ところが、「お、お前、どうしたんだ? そ、それ……」ぶったまげた。

 「うふっ」

 驚いたことに、山田道子は妻の香月と同じチューリップ柄の下着を身に着けていた。その姿は見たことがないが、洗濯物として干してあるのを順平は何度も見ていた。周りに誰も居ないことを確かめてから、そっと顔を近づけて匂いを嗅いだことも少なくない。洗剤の香りしかしなくてガッカリしたが。  

 「香月が貸してくれたの。今さっきまで彼女が身に着けていたモノよ。まだ温かいし、匂いだってついているの。さあ、あたしを香月だと思って抱いて」

 どうなっているんだ、一体。しかし訊くのは後でも構わない。とにかく匂いが消えていかないうちに、という思いで順平は山田道子の体に飛びついた。

 燃えた。射精しても香月の下着の匂いを嗅ぐだけで、また強くすぐに勃起する。目を瞑り、想像力を働かせながら続けて五発。六度目になると匂いが山田道子の汗でほとんど消されてしまい、さすがに自分の行為が空しく感じ始めた。

 「なあ、どういう事なんだよ」

 ベッドの横で山田道子は、はあ、はあ、とまだ腹部を波打たせていたが順平は訊いた。性欲が満たされて、疑問を解き明かしたいという欲求が強くなった。

「え、なに? もうダメよ……あたし、もう出来ない。ヘトヘトなの」

「そうじゃない。どうして、お前が香月の下着を身に付けているんだよ?」

「順平くん、すごかったあ。これ、またヤろうね」

「おい、教えてくれ。どうして香月の下着なんか――」

「またしてくれるって約束するなら言うわ」

「……」

「どうするの」

「分かったよ」こんなのが続くのかよ、これからも。気が重くなっていく。

「これ着てみたらって香月の方から言ってきたのよ」

「どっ、どうして」意外な答えだった。思わず上半身をベッドから起こした。「何で、あいつが知っているんだよ? お前とオレのことを」

「あたしが言ったから。順平くんたら、香月のことを想像しながらエッチしていたでしょう」

「ばっ、馬鹿野郎。なんでバラしたんだ? そんな事まで」

「だって事実じゃないの。それに親友だもの、あたしたち」 

「親友?」

「そうよ」

「……」いや。香月の方は、お前のことを全然そう思っていない。それだけは確信が持てた。

 香月はオレの浮気を知っていたのか。それなのに怒るどころか山田道子に自分が着ていた下着まで渡したとは……。

 いつかはセックスさせてもらえると期待していたが、これでその可能性も消えたようだ。なんて女だろう。セックスする気もないのにオレと結婚したのか、あいつ。

 「ねえ、今度いつ会える?」

 山田道子が起き上がって甘えるように順平の体にもたれ掛かる。 

「……」自分が置かれた状況を考えると、答えてやるどころじゃなかった。

「ねえ、順平ちゃん、たら」

「お前、香月を孕ました男が誰か知っているか?」

 親友と言うくらいなら、もしかして付き合っていた男の話をしているかもしれない。そう思って訊いてみた。

 「うん」

「誰だ? 上級生かよ」

「ううん。クラス・メイトよ、二年生の時だった」

「えっ、じゃあB組の男子なのか、もしかして?」そ、そんな香月の気を引くようなイカす奴がいたか?

「そう」

「誰なんだ」

「黒川くん」

「えっ、誰だって?」

「黒川拓磨よ」

「し、知らねえ。そんな奴いたか、B組に?」

「うん。でも一月に転校してきて、もう三月には学校に来なくなったから印象は薄いかもね」

「どんな奴だった?」

「普通の男子よ」

「なんで、そんな奴と香月は寝たんだろう?」

「その時の勢いじゃないかしら。気がついたらセックスしていたって感じかな」

「……ふうむ」それが何でオレと付き合っていた時には起きてくれなかったんだ。「で、そいつは転校して行ったのか?」

「あたしは詳しいこと知らないけど、多分そうじゃないかしら。順平くん、本当に覚えていないの?」

「うん。どうしてだか分からないけど、中学二年の三学期のことは何も思い出せないんだ。気がついたら三年生になっていたっていう感じさ」

「でも順平くんは、教室の前の廊下で転んで病院に運ばれたじゃない。それも覚えていないの?」

「オレが?」

「そうよ。たしか土曜日なんだけど、二年B組の生徒のほとんどが教室に集まっていたらしいの」

「土曜日なんかに、どうして?」

「知らない」

「お前もいたのか?」

「……いたかも」

「どういう意味だ、それ」

「そこまで覚えちゃいないわ。一年近くも前の土曜日に何してたなんて。日記を付けているわけじゃないし」

「……」

「あんた、大丈夫?」

「ああ。だけどオレが病院に運ばれたなんて初めて知ったよ」

「そう……」

寄り添っていた山田道子が身体を離し、まじまじと順平の頭部を見る。何と思っているのか明らかだ。この人、中学二年のときの転倒で脳に障害が残っているんじゃないかしら、と疑っているのだ。見下すような目つきだった。

もしかして、これがチャンスになるか。わざと馬鹿を装えば、こいつは呆れて別れてくれるかもしれない。

しばらく二人はベッドの上で黙っていた。痺れを切らして口を開いたのは彼女だった。「ねえ、今度いつにする?」

「……」やっぱりか。しつこい女だ。さっきから、そればっかり訊いてくる。

 

 山田道子との関係は中学三年の三学期から始まり、五年経った今でも、どんなに順平が別れたいと願っていても続いていた。

 妻の香月とは形だけの夫婦だ。しかし彼女の美貌とスタイルの良さは板垣モータースという会社に箔を付けた。商売が上手く行っているのは順平の頑張りだけでなく、彼女の存在も大きかった。

 「きれいな奥様ですね」と誰からも順平は羨ましがられる。悪い気はしなかった。そこで香月には、中学校でクラスメイトだった篠原麗子の母親から買い取ったグリーンのベンツ E320 アバンギャルドを使わせることにした。妻の美しさに一層、磨きがかかった。

 産まれた子供はやっぱり男の子で、香月が一方的に拓也と名付けた。自分の子ではないから、もちろん似てはいない。

必ずやってくれと強要された『血の儀式』は、頭の弱い小僧を探し出して実行した。従業員として雇って、前後不覚になるほど酒を飲ませてから産婦人科病院へ連れて行く。新生児室で酔いつぶれて、目を覚ました時には殺人犯だった。

 父親に似ていないので、順平の両親も初めは、なかなか孫として認めようとはしなかった。しかし子供は驚くほど賢く、表情が豊かで愛嬌があった。板垣家が孫中心の生活に変わるのに時間は掛からなかった。

 理性で考えれば順平の精子で賢い子が産まれるわけがない。子供は言葉を覚えるのが早かった。絵も稚拙ながらも見事に描いて才能を窺わせるものがあった。板垣家の血筋では芸術に秀でた者は皆無だ。目鼻立ちも父親とは違う。それなのに順平の両親は孫を溺愛した。人に自慢できるということが不都合な事実を全て無視させてしまうのだ。

 「拓也は必ず立派な人物になるぞ。あの幼さで、もうすでに強い意識を持っているような感じがしてならない。きっと出世する。俺は協力を惜しまないからな」

 そこまで父親に言われてしまうと、「本当は自分の子じゃないんだ」と順平は告白できなかった。

 両親は家や土地の権利書を妻である香月の名義に変えてしまう。そんな大事なことを手続きが終わってから知らされる。更には、会社の代表取締役も香月にさせたいようだった。それら全てが孫の拓也の為と思っての行動だ。

 板垣家の一人息子という存在感がどんどん薄れていく。不安を覚えた順平は、セックスした後で山田道子にさり気なく言ってみた。こういう大切な問題を話す相手が自分の身近には、『女性セブン』と『週刊宝石』で得た知識がすべてだと信じている女しかいないと実感したときは辛いものがあった。友達や仕事の仲間はいるが、どいもこいつも人に言い触らしそうな奴ばかりだ。最も親しく付き合っているのは、うちの会社で働いていた磯貝洋平だったが、こういう場合こそ最も信用してはいけない男だっだ。弱みを見せたら最後、そこからどんどん甘い汁を吸おうとしてくるのだ。

 別に大したことじゃないという態度を装って言ったつもりだが相手の反応は大きかった。

 「えっ、嘘でしょう。あんた、それってヤバいよ。もし香月に捨てられたらどうするの? あの家から出て行かなきゃならなくなるよ。へたすりゃ、会社にもいられないから」

「まさか、そんなことには……」反射的に言葉が出てきただけで自信はなかった。

「バカ言ってんじゃないよ。あんたたちの間にはセックスがないんだよ。つまり愛情っていうものがないんだ。もし香月に好きな男ができたらそれまでだよ……、きっと」

「……」

 その通りだった。

 

 もし香月に捨てられたらオレはどうなるんだろう。この家から追い出されてしまうのか。

 ほとんど愛情を感じない、飾りだけの存在である妻の香月に家の財産を握られていると知ると、さすがに不安を感じ始めた。

 人生なんて何が起きるか分からない。

 最近、切実にそう思える。中学時代にクラスメイトだった連中が殺人事件を二つも起こしてからは、順平は将来に対して楽観的ではなくなった。

 君津南中学校二年B組から二つの殺人事件だ。

 一人は篠原麗子で、母親と別れた義理の父親を正当防衛という理由で殺している。

 事件を知ったときは信じられなかった。野良猫にエサをやったりする優しい娘という印象しかなかったからだ。大人の男を殺すほどの腕力の持ち主とは、とても見えない。 

 聞いた話では――順平は仕事柄いろいろな人との付き合いがあって沢山の情報が入ってくる――彼女は中学二年の頃に義父から性的虐待を受けていたらしい。毎晩のように寝ているベッドの中に手を入れられて体を触られ続けた。思春期の女子中学生にとって悪夢の毎日だったに違いない。とうとう耐え切れなくなって反撃に出る。義父は股間に大怪我を負い病院に運ばれた。治療した医者が通報して警察沙汰となり母親は離婚した。

 ところが義父だった男は、それで初々しい処女の肉体を諦めるような奴じゃなかった。一年も経たずに、夜の仕事をしている麗子の母親の目を盗んで、再び彼女の部屋へ忍び込んだのだ。

 パジャマを脱がされた篠原麗子は抱きつかれて無我夢中で抵抗した。もみ合いになって、気がついたら義父だった男は窒息死していたという。

 現場には証言とは辻褄が合わない不自然なところも少なくなかったらしい。死んだ男の手首には手錠が掛けられていた痕があったりと。警察が問い詰めると彼女は涙声で、「ものすごく怖かったので何も覚えていません」と答えるだけだった。 

 なかなか事件の検証が終わらない。過剰防衛を疑われ始めた娘を守るために母親は弁護士を雇うことを決めた。その費用を捻出しようと、男と離婚する際に譲り受けたグリーンのベンツを板垣モータースに売却したのだった。

 もう一つは山岸たち三人が起こした事件で、殺されたのは中学時代にクラスメイトだった土屋恵子だ。実は彼らは二年B組のときから彼女に恐喝されていたらしい。家が全焼して彼女が袖ヶ浦市へ引っ越すまで続いた。これで解放されたと山岸たちは安心する。ところが木更津市にある私立中央学園高校に進学して再び同じクラスで顔を合わせてしまう。土屋恵子は途切れた一年前までさかのぼり、それに利息まで付けて一括請求した。とても高校生三人が支払える金額ではなかった。また悪夢の日々が始まる。もはや彼女を殺すしか自分達は自由になれないと結論した。

 日曜日の夕方、袖ヶ浦公園に誘い出した土屋恵子を、三人は金を支払う代わりにバットで殴りつけた。積もった鬱憤を晴らすかのように痛めつけて息の根を止める。死体の身元を分からなくする為に彼女の顔に灯油をまいて火をつけた。ところがだ、まだ死んではいなかった。気を失っていただけだ。土屋恵子は激しく身体を回転させ、燃える顔面を押さえながら断末魔の叫び声を上げる。山岸たちはパニックになり、結局その場で三人が駆けつけた警官に逮捕された。

 考えてみると二年B組に在籍していた生徒に、いい話はほとんどなかった。

 これから自動車を引き取りに行く、その相手もクラスメイトの一人で、学級委員長をしていたほどの頭のいい女子生徒だった。ところが中学二年の三学期に富津のジャストでワコールの下着を万引きして補導されてしまう。警察では一緒にいた友達の小池和美に唆されたと涙ながらに供述した。小池和美の方は警備員を突き飛ばして大怪我を負わせた上に取調べでは一貫して黙秘を続けた。

 警察から連絡を受けた両親は慌てた。何とか穏便に済ませたい。

同じ二年B組にいる新田茂男の母親とは家族付き合いで、彼女は養護施設の園長をしている関係で、教育委員会や警察に知り合いが多くいた。家の恥を忍んで助けを求めた。

 結局、補導歴は残さないという形で落ち着いたが、噂は学校中に広まった。それを境に、将来を期待されていた女子生徒の成績が落ちていく。委員長も辞めた。三年生になって生徒会長を決める選挙に立候補してカムバックを計ったが、結果は惨敗だった。勉強はしなくなり、ボーイフレンドを作っては遊びまくる生活になった。卒業すると商業高校へ進み、その後は、新田茂男の母親の計らいで養護施設で勤務しながら保育士の免許を取得した。

 中学の時あれほど子供は大キライだと公言していた女、その古賀千秋が保母をしている。人生なんて分からねえな、と順平はしみじみ思う。

 「あれっ」

 養護施設に着くと、すでに門のところで古賀千秋が待っていてくれた。幼い子供と手をつないでいる。車検の白いスターレット・ターボも横に停めてあった。

 順平が思わず驚きの声を漏らしたのは、その子供の姿を目にしてだ。

 どうして、ここに拓也がいるんだ?

 おかしい。息子は妻の香月と一緒に家にいたはずだ。今日は千葉の三越へ買い物に行くとか言っていたのに。

 順平は軽自動車のヴィヴィオを停めてドアから降りるところで声が出なくなった。お前、こんなところで何をしている、と息子に言うつもりだったのが――。

 「板垣くん、おはよう。今日は、どうも有難う」

「……」

「おはよう。板垣くん、どうかしたの」

「い、いや。な、何でもない……おはよう」

「あら、元気ないじゃないの。板垣くんらしくない」

「ちょっと……、その、……風邪気味なんだ」

 息子じゃなかった。そっくりだが息子の拓也ではない。どこかが違う。

 幼い子供であるはずなのに順平を睨みつけていた。威圧するような鋭い視線。お前は何も言うな、そんなメッセージが伝わってきそうだった。

 姿こそ人間だが、何か違う存在に思えた。不気味な力を持ていそうだ。それが敵意を剥き出しにしている。順平の防衛本能が警告を発した。その子供に近づくな、危険だ。

 「へえ、めずらしい。早く治しな。ところで、昨日なんだけど、小池和美から電話があったのよ。びっくりしちゃった」

「え、あの、……少年院送りになった?」

「そう。その、小池和美よ。やっと出所したらしいの。あたしと話がしたい、だって」

「へえ。やっと出られたのか。で、どうするんだ?」

「会ってやるつもりよ。あの子って、なかなか使い道があるんだ。何でも言う事は聞くし、あたしには絶対に逆らわないから。ダサい女だけど、パシリとして付き合ってやるには申し分ないの」

 え、でも……ちょっとヤバくないか、それって。お前ら二人が中学二年の時に万引きで補導されたのは、同窓生なら誰でも知っている事実だ。だけど古賀千秋は自由の身なのに、小池和美の方は主犯格として長期少年院へ送られた。その結果に彼女は納得しているんだろうか。また以前と同じように付き合うなんて、普通じゃ考えられない。会わない方がいいと思うけどな。しかし順平の口から出てきた言葉は逆だった。「そうだな。それがいい」

 自分の気持ちを正直に伝える余裕はなかった。この場から早く立ち去りたい。「悪いけど、ちょっと急いでいるんだ」車検の代金と彼女の車の鍵を受け取る。なんとか手が震え出すのを堪えた。

 「三時過ぎには戻って来られると思う。じゃあ、失礼します」言葉は事務的で、いつもの愛想の良さはなかった。

 お客の車に乗り込んでエンジンを掛ける。アクセルを踏む前にウンドウを下げて古賀千秋に会釈したが、努めて幼い子供を見ないようにした。

 養護施設から遠ざかり国道へ出るまで落ち着かなかった。気がつくと汗びっしょりだ。このスターレット・ターボを返しに来るのはイヤだ。あの子供に二度と会いたくない。従業員の誰かに行かせよう。

 このことは妻の香月には黙っているべきだと思った。息子の拓也とそっくりな子供が養護施設にいたなんて言ってみろ、きっと見に行きたいと言い出すに決まっている。何か面倒なことが起きるに違いないのだ。

 そうなると従業員を養護施設へ行かせるのはマズかった。拓也くんにそっくりな子供を見ましたよ、なんて得意になって香月に報告する様子が目に浮かぶ。しかし誰かに車検を取ったスターレット・ターボを返しに来させないといけない。

 運転をしながら、身の周りにいる仲間で仕事を手伝ってくれそうな奴を頭で探す。最初に浮かんだのは磯貝洋平だが、すぐに排除した。一緒に遊ぶには楽しいが、弱みを握られたら面倒なことになりそうだ。

 他に何人かの名前が挙がったが、よく考えると、すべてが妻の香月に媚を売ろうとする連中だった。安心して任せられるのは一人もいない。

 携帯電話が鳴った。うわさをすれば何とやら。磯貝からだった。「もしもし」

「おい。今日、どうする」いきなり訊いてくる。あいつらしい。

「え、どうするって?」

「決まってんだろ。『ショー・ガール』だよ」

「ウソだろ。金曜日に行ったばっかりじゃないか」

「それがさ、マリアンから電話があって、また会いに来てくれって言うんだ」

「そんなの当たり前だろ。向こうは商売なんだから」

「いや、オレに気がありそうな雰囲気だったぜ。分かるんだ、なんとなく、彼女の口調でさ。うふ。で、お前、どうする」

「行かない。今日はダメだ。ほかに用事があるんだ。売り上げの伝票とかも整理しなきゃならないし」

 本当のところは、見たいテレビ番組が二つ同じ時間帯で放送するのだ。『渡る世間は鬼ばかり』をビデオで録画して、『世にも数奇な女の人生 愛と憎しみの芸能界 女の羅朱場SP』の方は見るつもりでいた。こういうゾクゾクするタイトルは見逃せない。

 「そうか」

「誰か他の奴を当たってくれ。オレは行けない」

「わかった。そうする。でも考えが変わったら電話してくれ」

「うん。だけど期待はしないでくれよ」

 呆れた奴だ。携帯電話を閉じるなり順平は思った。ちょっとポロシャツの上からオッパイを触らせてくれただけなのに、もうフィリピンの女に夢中になっていやがる。『オレに気がありそうだ』って、バッカじゃねえのか、あいつ。

 いや、……待てよ。付き合ってやる代わりに、仕事を手伝ってもらうってのも悪くない考えかもしれない。

 恩を売った形にすれば、もし息子とそっくりな子供を見たとしても、真っ直ぐ香月のところへ行ったりしないはずだ。まずはオレに言ってくるだろう。また、その子供と顔を合わせない可能性だってある。それを期待したいが。

 コンビニに寄ったりして少し時間を潰す。直ぐに電話を掛け直したりすれば、あいつはヘンだなと思って疑う。そういう奴だ。

 会社に着くまで待った。駐車場にスターレット・ターボを停めると助手席のシートから携帯電話を取り上げ、順平は着信履歴の一番上のところを押した。

 

   98

 

 若い保育士が黒いツナギ服の男に車検の費用や自動車のキイを渡すところを、児童養護施設の園長が事務室の窓を通して見ていた。不安は募るばかりだ。その思いが自分の痩せた体を更に貧弱に見せているらしい。最近よく、「どこか具合でも悪いんですか」と人から訊かれる。

 私用で中古車の業者が施設内に入ることは知らされていた。それは問題ない。園長を悩ませていたのは保育士の五歳の子供に対する愛情の注ぎ方だ。まるで普通じゃなかった。今もそうだが、いつも一緒にいる。溺愛と言っても過言じゃない。それが毎日どんどん酷くなる。いくら忠告しても彼女は聞く耳を持たなかった。

 園長は十九歳になる我が子のことを考えた。口に出して言うことはないが、自慢の息子だと心の中では常に思っている。自分なりに一生懸命に愛してきた。それ故に叱ったり、喧嘩したりすることも数多い。だけど、それが普通じゃないだろうか。あの若い保育士の接し方は、どこか変だった。

 中学では息子のクラスメイトで優秀な生徒だ。それが友達に唆されてやった万引きを切っ掛けにして成績が落ちていく。結局は君津商業へ進むのが精一杯だった。卒業すると駅前のパチンコ店で働き始めた。半年もしないで夜の仕事に移る。金遣いが荒くて、とうとう高収入が期待できる風俗店へ面接に行く。娘の素行に困り果てた両親が相談に来て、手を差し伸べることにした。いい子だっただけに立ち直ってもらいたい。物欲に囚われないで自分を大切にして生きることを諭した。この施設で二年間勤務させてから、保育士の免許を受けさせた。

 合格してくれて良かったが、保育士として相応しくないぐらいに男友達が多かった。いつも仕事が終わると外に誰かが待っていてデートに行く。毎回のように人が変わった。他人のプライベートに口出しはしたくなかったが、注意すべきだと判断した。あまりにも男女関係が激しい。

 ところが手遅れだった。その前に事件が起きてしまう。写真撮影を許した男に乱暴されたのだ。大声を上げてレイプされるまでには至らなかった。スターレット・ターボの頭金を出したのに抱かせてもらえなかった男の欲求不満が爆発した形だ。近くのローソンへ、全裸に近い姿で逃げ込んで助かった。中学の頃からカメラが趣味だった男は警察に強制猥褻で逮捕されて懲役刑に服している。

 これからは生活態度を改めるように、しっかり注意した。そして護身用のボールペンを買って持つべきだと助言を与えた。普段は筆記用具で、いざとなれば車の窓ガラスを割れるし、強力な武器にもなる便利な品物だ。他の職員、特に若い女性スタッフには強く勧めていた。

 反省した表情の保育士の口からは、もう一度に付き合う男性は三人以内にします、という言葉が出てきた。

 呆れてモノが言えない。じゃ、これまで同時に何人の男と付き合ってきたの、と聞き返したかった。  

 男の子は五歳になって乳児院からこの児童養護施設へ送られてきた。何か問題があって両親に育ててもらえない幼児が辿る通常の移動だ。しかし園長だけは、その子供に関係する書類には記載されていない事実を聞かされていた。なんて、おぞましい。

 あの子の母親は中学校の美術教師だった。魅力的な女性で、大勢の生徒たちから慕われていたらしい。ボーイフレンドも何人かいたようだが、未婚のまま双子の男児を出産。しかし一人は死産。傷心だったには違いないだろうが、その後に彼女が起こした行動とはどう考えても結びつかない。

 産婦人科の保育室で赤子に母乳を与えていたのが、母親が最後に見せた正常な姿だ。近くにいた助産婦が電話で呼び出されて――イタズラ電話だったらしい――戻ってくると、その母親は隣に寝ていた他人の赤ん坊の首を鋭利なナイフで切り裂き、逆さに吊るして流れ落ちる鮮血を自分の子供に浴びせていたと言うのだ。書類では、母親は心神喪失で施設へ収容としか書かれていなかった。

 次は何をしでかすか分からない。危険なので母子は直ちに引き離された。彼女の几帳面だった性格も一変して、移送される際でも身の回りの整理は全く出来なかった。ただ奇妙なことは、知り合いの女が見舞いで持ってきた白いチューリップの花――飛び散った血で赤黒い染みがついていたにも関わらず――を、母親は大切そうにずっと手にしていたらしい。

 ああ、恐ろしい。

園長は聞いてしまったことを後悔した。忘れようと努めれば努めるほど、頭の中に鮮明な絵が浮かんでくるのだ。

 シーツが乱れたベッドの横で椅子に腰掛けて空を見つめる放心状態の母親。かつては美しかったが、その面影は残っていない。老婆のようだ。ただ痩せ細った手で赤黒く汚れたチューリップを大事そうに握っている。そんな夢を見ては夜中に何度も目を覚ました。

 もしかして呪われた子なのだろうか? 高い教育を受けたはずの園長の脳裏に、最近そんな非現実的な言葉が頻繁に現れる。その度に理性で否定するが、保育士とその子供の異常なほどに親密な関係を見ていると徐々に自信が無くなっていく。今では子供の方が相手を操っているようにも窺えたし、世話をする保育士の顔には恋をしている女の表情さえ浮かぶ時があった。日報にしては、あの子のことしか書いていない。

 子供が普通の子であってほしい、と切に願う。特別に聡明でなくていい。何かに秀でていなくてもいい。無邪気に遊んだり泣いたりする五歳の幼児の姿を期待した。

 この児童養護施設で自分がコントロールできない何かが進行している思いが消えない。あの子が施設に来て以来、不安で園長の体重は減り続けている。

 お昼近くだった。その保育士が画用紙を片手に、前年度分の領収書を整理していた園長の前までやって来た。足音からして何か急いで知らせたい事が持ち上がったのだろう。ところが彼女は無言で、しかも一方的に子供が描いた絵を机の上に広げたのだ。仕事中の上司に対する態度じゃない。年齢だって親子ほど離れているのに。せっかく束ねた領収書が散らばってしまうじゃないの。ムッ、と腹が立った。何も説明しない方が相手に強いインパクトを与えると、彼女が勝手に判断したのが明らかだ。だから敢えて、すぐには画用紙に目を落としてやろうとはしなかった、ところが--。

 「えっ」思い通りにはなるまいと身を構えた園長だったのに、反射的に驚きの声を漏らしてしまう。

 絵そのものは五歳ぐらいの子供がクレヨンで描いた稚拙なものだった。花壇に咲いた花を写生したに違いない。特徴的な形だから種類も分かる。ところが、その植物は異様にも全体が真っ黒に塗り潰されていたのだ。

 なんで、一体どうして? チューリップが真っ黒なの。 

 保育士の声には相手の反応に満足した響きがあった。すっかり自分の発見に興奮しているらしく、まるで我が子を友達に自慢する口調に聞こえた。「あの子ったら、地面に映ったチューリップの影を描いたんだって。どう、凄くない? ねえ」

園長の女は若い保育士の言葉遣いを窘める気にも、また子供の非凡さに感心する彼女に同調しようという気持ちにもなれなかった。それどころか、いきなり頭から冷水を浴びせられたみたいに戦慄が全身を貫いた。

 

   99

 

古賀千秋は勤務時間が終わって、白いスターレット・ターボが停めてある駐車場へ向かっていた。日報を書くのに時間が掛かってしまい、養護施設を出ると辺りは薄暗くなっていた。

また明日になれば会えると分かっていても、あの子と別れるのが辛い。引き取って自分の子にしたいという気持ちが、日々どんどん強くなっていく。

バッグからウォークマンを取り出して、イヤフォンを両耳に着装する。本体のONスイッチを押すと反応がなかった。音が出ない。

え、やだ。これって、またソニータイマーかしら。保証期間が過ぎたと思ったら……。

ON/OFFのスイッチを押し直そうとして、身を屈めたところだった。後ろから誰かが駆け寄ってくる気配を感じた。緊張が走った。以前にレイプされそうになった恐怖が蘇る。

あいつだ。鶴岡の野郎だ。間違いない。え、もう刑務所から出てきたの? 早すぎない? 脱獄したんだ、きっと。そんなにヤりたいのか、あたしと。ふざけんじゃねえ。お前みたいなチビには意地でも体を触らせてやるもんか。

自動車の頭金を出してもらう交換条件として下着姿の写真を撮らせてやったんだ。サービスのつもりで悩殺ポーズを取ったら、バカの鶴岡は興奮して抱きついてきやがった。

今回は仕返ししてやるからな。襲われっぱなしの古賀千秋じゃないんだ。咄嗟にポケットに入れてあった護身用のボールペンを握った。

これを買ったときから早く使ってみたかった。チャンス到来。背中を丸めてウォークマンを確認したお陰で、相手の一撃をかわすことができた。反撃だ。正当防衛だから何をやっても問題ない。

「てめえ、ぶっ殺してやる」前につんのめった童貞男に向かって、古賀千秋は後ろから護身用のボールペンを思いっきり振り下ろしてやった。命中。しっかりした手ごたえを感じた。えっ。

「こ、こいつ、……女じゃないの?」

 

   100   

 

 女は病院の白いガウンを脱ぐと、男の服に着替えた。サイズは思った通りピッタリ。この貧相な中年男を選んだ唯一の理由が、それだ。その場しのぎだが、これで自由に外を歩ける。

 男は気を失っていた。そいつの財布を取り出して中身を確認してみる。まあ、これっぽっち。千円札が数枚しか入っていない。出来るだけ早く次の協力者を見つける必要がありそうだ。

 

 女は黒い軽自動車の横に倒れている中年男に助けを求めたとき、下着を取って白いガウンだけを着て小声で言い寄った。うっすらと乳首が見えていたはずだ。

 「ねえ、お願いがあるんだけど……」

 男は中年で明らかに独身。病院の警備員として働いていた。これまで女性と親密に話したこともないような感じだ。こいつは利用できる。不健康に痩せてる感じ。体の大きさも同じぐらいで、こいつの服なら着られそうだ。

「何だよ」

「子供を預けてある養護施設を見に行きたいの」

「どうして? 無理だぜ、ここから勝手に出て行くなんて」

「夜だったら何とかなるんじゃないかしら。朝までには戻れば誰にも知られないで済むでしょう」

「そうかもしれないけど、難しいぜ。それに子供の施設を見たって何の意味もないだろう?」

「いずれ引き取りに行くんだけど、場所が分からないのよ。どんな所に住んでいるのかも知りたいし」

「ふうむ。でも俺は手伝えないぜ。やったら犯罪だ」

「見つからなければ大丈夫よ」

「そりゃ、そうだけど。俺は嫌だ。やらない。ほかの奴に当たってくれよ。何も聞かなかったことにしてやるから」

「あなたに頼みたいの。お願いだから」

「どうして、俺なんだ?」 

「信頼できそうだから」

「よく言うぜ。俺のことなんか何も知らないくせに」

「あなたの仕事ぶりを見てれば誰でも分かるわよ、しっかりした人だって」

「うふ、本当かよ。嬉しいことを言ってくれるぜ」

「だから、お願い」

「いや、待ってくれ。俺には出来ない。いくら頼まれても、それだけは出来ない。この仕事を失うわけにはいかないんだ。やっと雇ってもらえた身なんだから。それに、やったとしても、俺に何の利益があるんだい?」 

「あたしを自由にしていいわ」

「……」

「好きなように料理してほしい。好みのタイプなの、あなたが」

「……マジかよ」

「だから頼んでいるのよ。あなたと親しくなりたいの、あたし」

「……」

「もう少しで退院できると思う。そしたら一緒に暮らしてもいい」

「本気で言ってるのか?」

「当たり前でしょう。初めてよ、こんな気持ちになったの」

「ふうむ」

「子連れの女だけど、それでも良かったら、あなたに尽くすわ」

「ちょっと考えさせてくれないか」

「いいわ」

「朝までには絶対に帰ってくるんだったよな」

「もちろん、当然でしょう」

 バカな奴だ。この世に、お前みたいな男に股を開く女がいるかしら。ちょっと煽てただけで、すっかり信じて本気になってる。呆れて物が言えない。男なんて騙すのは簡単。それも不細工な奴になるほど特に。

 当日の夜中、トイレの窓から外に出ると警備員の黒い軽自動車のトランクに身を隠して施設を出た。しばらく走って停車すると、トランクから出してもらう。男の茶色いコートを白いガウンの上に着て助手席に座った。久しぶりに外の景色を見る。すごく新鮮に感じた。

 トイレに行きたいと言って人気のない公園まで走らせた。車を降りたところで、隙を見て男の後頭部を病院から持ち出した懐中電灯で思いっきり殴った。気絶させるのが目的だったが、死んでも構わない。あたしが自分の目的を達成する為には、何人か犠牲者が出るのも仕方ないことだから。

 死んじまったかしら。倒れている男の口元に、屈んで耳を近づけた。生きている。呼吸をしていた。こいつ目が覚めたら、どうするだろう。警察に直行するか。それとも黙って自宅へ帰って頭の傷の手当をするんだろうか。そうして欲しい。いくらバカでも、警察へ行けば患者の逃走を助けたと罪に問われるのは分かるはずだ。しばらくは黙っていてほしい。病院は翌日から大騒ぎだ。警察が来て患者の逃走経路が判明するまで数日は掛かるだろう。女としては遠くへ逃げる時間が稼げるのだ。

 騙されたと知った中年男の落胆する姿を見てみたいが、それは出来そうにない。いい気味。お前の損害は頭の傷と財布から抜き取られた数千円だ。それで現実の厳しさを教えてもらえたんだから安いもんよ。女患者の色仕掛けに唆されて脱走を助けたなんて、恥ずかしくて誰にも言えない。せいぜい悔しい思いを味わいなさい。あはは。

 幸せな家庭を持ちたい。それが女の願望だった。十四歳で両親を失う。成人してからは理想の男性を求め続けたが、裏切られてばかりだ。悪魔の子まで産ませられた。でも諦めてはいない。きっと幸せな家庭を築く。

 女は悪魔の子供を出産する代わりに永遠の美貌を手に入れた。それが取引きだった。今は病院から逃走したばかりで悲惨な姿だが、すぐに元に戻ることを確信していた。それも以前よりも美しく。この痩せ細った身体も、男たちが目を丸くするぐらいの色気を発散するように蘇るのだ。

 子供は引き取りに行かない。愛情を感じなかった。無理やり産まされたんだから当然だろう。あれがいては理想の男を掴まえるのに障害になる。

 まだ復讐も終わっていなかった。父親の不倫相手だった女の娘、以前は親友だった女を捜し出すのに失敗していた。そいつの娘を失明させたいと考えていたのに、間違った女生徒にペナルティの白い粉末を飲まし続けてしまう。佐久間渚じゃなかった。もう一人の女子生徒だったのだ。母親の良子という、在り来たりの名前に翻弄されてしくじった。 

 男の服に着替えた女は公園から歩いて国道へ出た。街灯の下に立つと、通り過ぎていく車に向かって、長い髪を風になびかせながら手を挙げ続けた。ヒッチハイクだ。タクシーは金がないし、足がつくから使わない。

 夜の空気は冷たかったが気持ちよかった。思いっきり吸い込む。

そして体に残っていた病院の嫌な臭いを吐き出す。次第に希望が湧いてきた。今度は上手くやろう。いい男を見つけて絶対に幸せを掴むんだ。

 何台目かで若者が乗るようなクーペタイプの青い乗用車が停まってくれた。女は運転席に急いで近づくと言った。「悪い男に追われているのよ。お願いだから助けて」

 助手席に座ると、期待通りに車は急発進。背もたれに痩せた身体を預けると、ハンドルを握る二十代らしき男に微笑んで見せた。「ありがとう。なかなか素敵な車じゃない」相手の嬉しそうな反応を見て、すでに自分の美貌が蘇りつつあるのを知った。この若い男は使えそうだ。

 安藤紫は自由を取り戻す。

 進行方向の遥か遠く、黒い空に白さが滲んでくるのが見えた。まるで希望の明日に通じる扉が開こうとしているみたいだった。

 

                  

                    END

 

but continued to 

 

       黒いチューリップ the final 『中古車』                            

 



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