タマツバキ(仮) (にゃあたいぷ。)
しおりを挟む
0.あのころにもどりたい
何時の時代であっても飢饉というのは起こり得る。
自然を相手にしているのだ。天候を完全に御することができなければ、不作というものは何時か起こり得るものであるし、蝗の大量発生により田畑が駄目になってしまう例もある。そのせいで食い扶持をなくした農家が家族を身売りする悲劇が起こり、果てには守る存在を失った者達が賊へと成り下がる不幸が起きる。しかし、ただ一度きりの不作であれば、国家が傾くような事態にまで至らないはずなのだ。
新たな賊徒と流民を生み出さないために被災者の救済を行ったり、地元の有力者に協力を求めて民間による救済を促すとか、国家の一大事を好機を見做した商家に釘を刺して食料の高騰を防ぐといった対策は取れる。それに常日頃から非常用の備蓄を蓄えることで飢饉に備えておけば、復興までの時間を稼ぐことはできるのだ。
それができなかったのは今の漢王朝である。
非常時の備蓄は横領によって数を減らしており、必要数に足りなかった。
漢王朝が動かなければ、地方で独自に動かざる得ない。
その結果、漢王朝に対する求心力が低下し、図らずも地方軍閥が力を得ることになる。
とはいえだ、いくら地方で各々が動くにも限界はある。食い扶持をなくした賊が近場の村を食い漁り、今日の食い扶持も得られない民草が未来を生きるための種籾に手を付ける。そうして未来を失った者達が新たに賊へと身を落として、近場の村々を襲いかかった。最早、漢王朝に商家を抑えることはできず、食料を高騰させることで惨状を助長させるが、あまりに賊の多さに交易を続けることは叶わず、備蓄を削ることで辛うじて生き長らえていった。
漢王朝は何も行動を起こさず、起こせず、ただ指を咥えて見つめるばかり、官僚達は身の保身を図るばかりで誰も民草には手を差し伸べない。
中央集権は崩壊し、地方分権は加速する。
民草を賊徒から守るのは国家ではなくて地方の有力者、なれば民草が讃えるのは地元の英雄達となる。
「……いやはや、はらひれ、私はただの農家なのですよ? 今でこそ一端の豪農を気取っていますが、洛陽の謀略術数に巻き込まれて追い出され……晴れて荊州襄陽郡の地にて、政争とはかけ離れた晴耕雨読の平穏な毎日を得るに至ったのです! それがどうしてこうなった!?」
姓は劉、名は表。字は景升。真名は
椿は今の時代では珍しくない荘園経営者の一人だった。書籍よりも重い物を持ったことがないような典型的な学者型の人間であり、その気質は剣を握るどころか包丁すらも持ったことがない程の極めて平和的な人間と云える。
それがどういう訳か、今、彼女は馳ける馬に跨り、柔らかい尻を痛めながら敵陣に向かって突撃を仕掛けているところであった。
何処で運命が悪戯してしまったのか……良くて政治屋、今は農家の彼女は一軍を率いる立場にある。
「ええい、落ち着け、落ち着きなさい私。えっと、ええっと……先ずは深呼吸、ヒーフーヒーフー……敵は賊徒化した民衆が三十人程度、味方の手勢は五十人きっかり! その内、騎馬が全部で六騎だけど、内一騎は私なので戦力として換算することはできない! そもそも私は儒家ですよ、仮にも儒家思想を信仰する身ですよ! 暴力を振り翳すのはいけないと思います、やっぱり私が戦場に出るのは絶対に間違ってますよ!」
落ち着きを取り戻しかけた思考によって、椿は現在の異常性を正しく認識して再び錯乱状態へと逆戻りを果たした。
これはもうずっと前から繰り返している奇行であり、現代人が見れば、躁鬱が激しい女だと思って冷ややかな視線と共に黙って距離を置くこと請け合いだ。しかし幸か不幸か彼女の周りの人間は「初陣の新兵が良く起こすアレだろう」と生暖かい目で見守られるばかりで誰も彼女のことを咎めようとは思わなかった。むしろ錯乱状態にありながらも正しく戦局を分析しており、なんだかんだで逃げ出す素振りを見せない主人の姿に心強く感じている程だ。さあ剣も扱えない主人がなけなしの勇気を振りしぼって指揮を執っている、これに奮い立たずして何が劉表自警隊だ! 五十人の兵卒が気炎を上げながら、更に進軍を早めて賊徒に目掛けて突貫する。
そうなのだ、見るからに分かる文系引きこもり女子の常識はこの戦という場所では通用しないのだ。
「劉表様、流石です。敵陣を見ても臆さない姿に自軍の士気も上がっています」
そう告げるのは薄紫色の長髪を風に靡かせる長躯の女性、馬を駆けさせながら背中に下げていた弓を手に取る。
彼女の名は黄忠、字は漢升。立場的に椿の食客、しかし荘園を守るために結成した自警隊の武術指南役を務める人物でもある。武術は勿論、その弓の腕前は荊州一と呼ぶに相応わしい実力を備えている。そんな彼女もまた虫も殺せぬ気性の主人が、初陣であるにも関わらず、戦場に狂乱せず、恐怖に竦みあがらない胆力の強さに感心していた。
このことを当の本人が知れば「何処を見ればそうなる!?」と文句の一つも出てきたところであったが、生憎なことにそれを云える余裕が今の彼女にはない。既に戦局は動き出しており、敵陣との衝突はもう間近だ。現在の心境を言い表すとすれば、小舟で急流すべりをしている気分、なるようになるしかないと激流に身を委ねる他に取れる手段がない。
この戦、椿は最初から指揮を放棄している。自分には軍才はないからと彼女は配下に全権を委任していた。
「先ずは私の矢で先陣を切ります!」
そして本陣を纏め上げているのが先述した黄忠である。
宣言と共に放たれた矢は、まるで流れ星の如く敵陣に目掛けて飛んでいった。そして悲鳴をあげる間もなかったのか、眉間に矢を受けた賊が無言のまま地面に転がり落ちた。敵陣の勢いは落ちない。間髪入れずに二の矢、三の矢が賊との眉間を貫いたことで漸く敵陣から悲鳴が上がり始める。
特に喜ぶ訳でもなく、涼しい顔のまま敵陣を見つめる黄忠。その姿を横目に見た椿は、矢を数本放つだけで敵の気概を削いでしまう彼女の弓術は中華全土から見ても一番ではないかと思った。
その怯んだ瞬間を狙い定めて、自警隊から一等輝く星が飛び出した。
「霍篤、行きますッ!」
自警隊を統括する立場にある少女は姿勢を低く保ったまま、土を蹴り上げて敵陣目掛けて突っ込んだ。
味方の誰よりも早く、そして速く、孤立するのも構わずに敵陣に斬り込み、片手に持った直刀で血飛沫を撒き散らした。その一撃は敵陣を点で穿つが如し、一番星の彼女に続くように陣形を組んだ歩兵隊が敵陣へと一気呵成に雪崩れ込んだ。その圧力に耐え切れず、たった一度の衝突で敵陣は無残なまでに崩れてしまった。散り散りになった賊徒を五騎の騎兵が逃げ切る前に命を刈り取った。
その光景を見た
こうなっては最早、戦闘と呼ぶには程遠い。正に一方的な虐殺、蹂躙と呼ぶに相応わしい惨状だ。噎せ返る血の臭いに、目を背けたくなるのを堪えて、賊徒が討ち取られる様を見届ける。
確かに奴等は慈悲を与えるべき存在ではない、と椿も認めている。賊に成り下がった時点で死んで当然と呼ぶべき相手であり、情状酌量の余地を見出したとしても精々その生涯を獄に抱かせながら汚れ仕事や土木作業に従事させることで奴隷の如し働かせるのが関の山である。
とはいえ、こうも一方的になると同情してしまうのが人の性というものだ。甘いと言われるかもしれないが、そもそも
儘ならない、一端の儒者に戦場は凄惨で過酷すぎる。
「これでまた一つ、劉表様の武名を世に知らしめる結果となりますね」
黄忠が最後の一人を頭部で撃ち抜きながら告げるのを見て、椿は引き攣った愛想笑いを向ける。
そして雲ひとつない晴天の大空を憎しげに眺める。嗚呼、速く屋敷に帰って土を弄りたい、読書でも構わない。自分の荘園を守り切れれば良かっただけの人間が、どうしてこうも賊退治に勤しまなくてはならないのだろうか。こういうのはもっと戦好きの方々に良いのだ――そう椿は嘆くが、地元有力者から支援金や物資を頂戴し、太守や県令からは頭を下げられることも少なくないので心底嫌がりながら泣く泣く戦場に出る嵌めとなるのだ。
もういっそ霍篤と黄忠に全て任せたら良いんじゃないかな、と椿は提案したこともあるが「劉表様が居なければ意味がありません」と低い声色で圧を掛けられて以来、あまり強く言い返せなくなっていた。
「どうしてこうなったのでしょう」
ポツリと零された言葉は誰の耳にも届かず、虚空に霧散する。
理由や経緯は分かるが理解ができない、したくもない。
あの頃は良かった、と椿は目を逸らすように過去を振り返るのだった。
投稿する感覚を忘れたので初投稿です。
次回は三日後、暫く恋姫がメインで出てこないです。
Ps.
むらまつ様。
返信を削除しようとして間違えて感想を消してしまいました、申し訳ありません。txtファイルに保存させて貰っています。
この場を借りて返信を置かせて貰いますが、
感想ありがとうございます。
理不尽な暴力を振るうんじゃない、大義名分こそが大事なのよ!
と雑に解釈した部分をそのまま出してしまっていたようです、申し訳ありません。
ちなみに劉表の解釈は、
私欲による侵略や暴力は許されるべきものではなく、基本は非暴力を貫くべきではある。しかし相手が暴力を振り翳して、他者の尊厳を理不尽な踏み荒らす場合に限り、これに対抗するために武器を持つことは許される。
それはそれとして、やっぱり暴力は基本、忌避すべきものですよ!だって怖いじゃん、痛いの嫌じゃん!見るのも嫌じゃん!暴力が好きとかお前ら儒家じゃねえ、暴力に喜びを感じるとか人間の心はおありですか!?思いやりは何処行った!る積極的平和主義とかなんぞそれーっ!?
といったものでした。
作中でも違和感なく表現できるように精進します。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
雌伏編
1.逃走
幼い頃から争い事は苦手だった。
劉表、つまり
太学とは、官僚を養成するための施設のことだ。 入学者の大半は家柄の良い者達で固められており、出世街道を目指す若者達が一心不乱となって勉学に励んでいた。 その中で椿は好奇心の赴くまま、自分の知りたいことだけを知識として取り込んでいった。この時から彼女は学歴や出世に興味を持っておらず、ただ純粋に学問に没入したいという欲だけを胸に抱いていたのである。
そんな椿が研究する内容は主に儒学が中心となる。しかし片手間に農耕や治水、土建に関する知識を仕入れることも多く、法律や税収に関する研究する者達から相談される機会も多かった。そうして手広い知識を得ることになった椿は、洛陽の知恵袋、と称される存在となり、以後も太学の研究内容から恋愛事情に至るまで多くの相談を受けることになる。以上の事もあって、この時期に提出された研究論文には、連名で劉表景升の名が刻まれていることが多い。
好きなことを好きなだけ勉強できる環境に不満のなかった椿は、むしろ出世を拒むようになった。
年に一度行われる官僚試験。
これを椿は最初の二年間を仮病を使って休み、三年目も同じく仮病を使って試験を休む腹積もりであった――が、漢王朝から出仕しろと直々に辞令が届けられたので断念する。こうなっては仮病を言い訳にすることもできず、椿は渋々と官僚の一人として漢王朝に仕えることになる。
官僚となった後も椿が地位と名声に興味を示すことはなかった。
滞らない程度に仕事を熟し、空いた時間には太学へ足を運ぶ毎日を送る。あまり宮中に身を置きたがらなかったのは、政争に巻き込まれたくなかったためだ。同じ理由で賄賂も受け取ろうとせず、渡すこともしなかった。任された仕事にだけは忠実であった彼女は、とんとん拍子で出世が決まり、あれよあれよという間にそれなりの地位を与えられる。
そして、どうしてこうなった、と椿は首を傾げてみせるのだ。
これは本人の預かり知らぬことになるが、
官僚になった後も太学で在学生の研究を手伝い続けて来た椿には相応の信奉者が多く存在している。
政争などの理由によって空いた役職の後任を誰にするか、という話になった時に、椿の信奉者がとりあえず彼女の名を挙げてしまうことが多々あった。そして派閥争いを続ける者達も「中立派の劉表であれば、まあ……」といった感じで承諾し、落としどころにされ続けてきたのが今の地位だった。
いずれにせよ、本人にとって過分な地位を得た彼女は否が応でも政争に巻き込まれることになる。
椿にとって、地位が高くなるということは面倒が増えるということだ。
仕事が増えるのは勿論のことでだが、それよりも清流派を自称する人間から熱烈な勧誘を受けることに椿は辟易していた。かといって清流派を対する宦官勢力――つまりは濁流派――に靡くこともせず、政務を口実にして、ただひたすらに引き籠ることを選択する。
このことがまた彼女を窮地に追い込むのだが、それはもう少し後のことだ。
さて、ここで少し話を整理する。
清流派とは宮中にある派閥のことだ。
その名の由来は「宦官と繋がりを持たず、汚職に手を出さない人物」ということになっている。逆に宦官と強い繋がりを持つ人物のことを、清流派を自称する人間は「濁流派」と呼んで蔑んでいる。まあ尤も清流派を自称する人間は外戚勢力と強い繋がりを持っており、汚職に励んでいたりするので、椿からすればどっちもどっちの五十歩百歩に過ぎなかった。
どちらにも正義がないのであれば、自分の出る幕はない。
元より椿には漢王朝を変える度胸もなければ熱意もなかったので、持ち前の事なかれ主義を駆使することで中立の立場を維持し続けることになる。
宮中情勢は複雑怪奇、真面目に解説しようとすれば小難しくて仕方ない。
さておきだ、
どっちつかずの椿に痺れを切らした宦官達は、どうせ取り込めない相手であれば中立派として置いておくよりも、清流派にしてしまった方が扱い易いと考えるようになった。対して清流派は未だ太学に強い影響力を持つ椿を、どうにか取り込みたいを考え続けている。
この両者の思惑は妙なところで噛み合うことになり、政務室に引き籠り続ける椿の知らぬところで事は動き始める。
椿は何時の間にか清流派の一人として認識されるようになっていた。
そして、これまた気付かぬ内に八及の称号まで与えられてしまっていたのである。この太学関係者から与えられた寝耳に水の情報に「えっ、なにそれ、いらないんですけど」と椿は困惑し、「肩書きなんて帝から貰った分だけで充分です」と今までと同じように無視を決め込んだが――その身は既に火中に放り込まれている。
椿は本人の望まぬまま、望まぬ形で政治の沼に足を踏み入れていた。
繰り返すが、椿は地位や名声には興味がなかった、それどころか官僚という立場すら望んだものではない。
言葉一つ、文字一つに至るまで気を配り続けるのは疲れるし、そんな気の張った人生の何が面白いのか分からない。許されるならば、今すぐに地位も政務も投げ出して、太学を寝床に引き籠りたいくらいである。
それがどうして命を担保に政争を題材にした賭博に参加しなくてはならないのか、これがよく分からない。
そう思いはしても、椿は責任感から目の前の政務を放り投げることもできなかった。
政争に巻き込まれたくないと願うには、もう手遅れである事実から目を逸らし続けている内に、事は致命的な段階にまで発展する。
つまり、党錮の禁。宦官勢力による清流派の排除が始まったのだ。
そんなことも露知らず、この時の椿は呑気に太学へと足を運んでいた。
†
椿は太学の学生から好かれていた。
彼女が足を運ぶと、いつも彼女の周りには学生達が集まり、学問談義に華を咲かせるのである。
宮中のドロドロした政争を知る椿にとって、まだ汚れを知らぬ若者達と対話することは癒しであった。その夢と希望に満ちた瞳を見る度に、彼らのためにもう少しだけ頑張ろう、という気にさせてくれるのだ。
正直なところ、国の行く末なんてどうでも良かった。
大事なのは今ある日常だ。目の前の光景を守るために、自分は今を生きていると云っても良い。
「
椿が学生達との談話を楽しんでいると、朝服を着込んだ男が研究室に乗り込んで来た。
唐突な役人の登場に萎縮する学生達、その中心には椿が膝上に幾つかの菓子を置いたままキョトンとした顔を浮かべている。
その瞳に驚きはあっても恐れはない、それもそのはずで彼と椿はよく知った仲であった。
彼の名は蒯越、字は異度。真名は
椿が宮中で友達と認める唯一の存在だ。よく菓子折りを持って来てくれる事から椿は彼のことを慕っていおり、今となっては真名を交換する程の仲になっている。その二人が仲良くなる経緯を知った学生達は是非とも餌付けしようとした結果、彼女の膝に置かれた菓子群になるのだが――真名を交換した時に山藤が「菓子如きで真名は交換するべきものではない」と言い付けていたこともあって、新たに椿と真名を交換できた者はいなかった。
椿は研究室に飛び込んできた友人に「どうなされました?」とあざとく首を傾げてみせる。
すると山藤は両手を拡げて、「ようやく見つけたぞ!」と大きくて濃い顔を椿に近づけてきた。このことに椿は強張った笑みを浮かべながら「まあまあ落ち着いてください」と彼の胸に両手を添えて、今にも抱き締めてきそうな彼を優しく押しのける。
自分よりも頭二つ分も大きい体と押しの強い性格を持つ山藤のことが椿は少しだけ苦手だったりする。とはいえ彼は押しは強いが引きの早いので、こうやると彼は慌てて謝罪しながら距離を取ってくれるのだ。
しかし今日に限り、彼の様子は違っていた。
椿は彼に手首を掴まれると、自身の華奢な体を引っ張り上げられた。
「緊急事態だ、ついて来い」
そして山藤は説明もなしに自分のことを連れ出そうとするのだ。
この不躾な態度に椿は文句の一つも言ってやろうと思ったが、彼の切羽詰まった顔を見て口を閉ざした。
――山藤は意味もなく、こんなことをする男ではない。何か理由があるはずだ。
椿は山藤のことを信じることにしたが、その強引な態度に学生達は不安な顔を浮かべている。
中には山藤に飛び掛かろうとしている者もいる程で、椿は「大丈夫ですよ」と手で制して微笑みかけた。
そして、そのまま山藤に連れ去られるように研究室を後にする。
太学の門前には馬車が用意されており、その御者席に椿は座らせられる。
山藤が椿の隣に座ると、手綱を握り馬を走られた。見る見るうちに太学は小さくなっていった、未だ沈黙を保つ友人に椿は漠然とした不安を感じる。ここまで彼が強引な手段を取るのは珍しかった、少なくとも椿の記憶の中にはないことだ。その彼の表情は最初に見た時から変わらず険しい、その様子から自分の知らないところで何かが起きている、と椿は察する。
問いかけるべきか、身を委ねるべきか。
「山藤、これから何処に向かうつもりなのでしょうか?」
少し悩んだ結果、椿は直接的な質問を避けて探りを入れることにした。
「……洛陽から出る。迎えは用意させているから、彼女と一緒に荊州まで行って欲しい」
「荊州へ? えっと私、まだ仕事が残っているのですが……」
「構わん、放っておけ。今はお前の身の安全を確保する方が先決だ」
身の安全? と椿は首を傾げる。
「党錮の禁だ。清流派が宦官の専横に対する罪を告発しようとしたが、逆に宦官が朝廷を誹謗したと告発し、それが帝に受け入れる流れとなった。そして清流派の逮捕者一覧には椿、お前の名も入れられている可能性が高い」
「私ってそこまで大した人物ではありませんよ。そもそも清流派の方々って、強引だから好きじゃないですし……」
むしろ清流派とは距離を取っていたくらいですし、と椿は口先を尖らせる。
「お前は生き方が下手過ぎるのだ。賄賂なんてものは適度に受け取り、渡しておけば良いのだよ。それを面倒だのなんだのと言って、全部を投げ出したりするから宦官から睨まれて、清流派からも不信感を持たれることになるのだ」
「宦官も嫌いなんですよね、賄賂を寄越さないなら体を差し出せと要求してきた奴も居ましたし……あの方々、本当に去勢済みなのでしょうか?」
「あいつら絶対に許さない……」
めらりと山藤の氣が燃えるのを感じ取り、まあまあ昔のことですので、と椿は彼を宥め続けた。
馬車に揺られること四半刻、まだ手回しは充分でなかったのか城壁の門を簡単に突破することができた。そのまま更に馬を走らせること半刻、道から少し外れた場所にある大きな木の下まで辿り着く。その木の陰には商人の身なりをした女性が腰を下ろしており、こちらの姿に気付くと彼女は立ち上がって姿勢を正した。
年齢は二十歳には届かないといったところか。まあ氣の使い手だと思うので、見た目の年齢は信用できない。小柄な体をしており、腰まで届きそうな髪を後ろで馬の尻尾のように纏めている。
なんとなしに雰囲気から若そうだな、って印象を受ける。
「彼女の名は霍篤、私に仕える者の一人だ。此処から先は彼女に任せる、信頼できる者だから安心して欲しい」
それだけを告げると山藤は馬車から飛び降りた。
代わりに椿の隣に座るのは先程紹介を受けた霍篤という女性であり、軽く会釈を交えるだけで手綱を手に取った。
山藤は彼女が乗ってきたらしき馬に跨っている。
「山藤、貴方はどうするのでしょうか?」
「私にはまだ宮中でやるべき仕事がある。椿、お前は先に荊州へ向かっておいてくれ」
「……貴方が何をしてしようとしているのか分かりません。政争に疎い私には今起きていることすらも分かりません」
椿は小さく溜息を溢した、そして自らの友人を見据える。
「信じていますよ。先に、と言ったからには私のことを迎えに来てくれるのでしょう?」
「ああ、事が済めば、いずれ荊州に向かうと誓おう」
「それでは約束ですね」
椿は戦地に戻る彼に向けて小指を立てる。
山藤は少し呆然とした後、はっと何かに気付いた様子を見せてからおずおずと小指を差し出してきた。
お互いに小指を絡めて、ゆびきりげんまんと軽やかに歌って指を切った。
「御武運を」
「必ず、迎えに行く」
山藤が馬を走らせる、遠のく背中を見送っていると馬車が緩やかに動き始めた。
「我が主人も良い人を巡り会いましたね」
霍篤が話しかける。
「良い人だなんて、そんなのではありませんよ」
「いえいえ、そんなことはありません。きっと貴方のような方と出会えて主様も幸せに違いありません」
「むしろ私の方が彼の世話になっているくらいですよ……本当に良い友人を持ちました」
「友人?」と彼女が不思議そうに問い返すので「親友と呼ぶべきかもしれませんね」と椿は訂正しておいた。
「……少し宜しいでしょうか?」
「はい、なんでしょう」
「なにかこう、主様に惹かれるような点とか、あれば教えて頂きたいのですが……」
恐る恐る問いかける霍篤に、山藤も隅に置けませんね、と椿は一人納得するように頷いてみせる。
「山藤の良いところはいっぱいありますよ。例えば、そうですね、毎回菓子折りを持って来てくれるところとか……そういえば彼、甘いものが好きなのですよ、結構な酒飲みなのに珍しいですよね」
「いや、主様は確か辛党……」
「そんなことありません。だって私、よく彼に甘味処まで付き合わされてますもの」
私も甘いのが好きなので構いませんけどね、と得意顔で語る椿に彼女は徐々に顔を蒼褪めさせていった。それを横目に見た椿は「あっ、別に私と山藤とは何にもありませんよ!」と慌てて否定する。
「山藤とは太学時代からの友達でして、彼は誰にでも面倒見が良いのですよ。何時も研究に付き合ってくれましたし、必要な資料を用意して頂いたこともあります。本当に優しい方ですよねえ、憧れるのも分かりますよ」
「おお、主様……言ってはなんですか、なんと、なんという…………」
手綱を握り締めたまま項垂れる霍篤に、椿は慰めるように弁明を繰り返す。
椿とて浮いた話が一つも出てこない親友の恋路を応援したい気持ちはあるのだ。云っては悪いが、あの濃くて厳つい顔を持つ彼を好む女性はそう多くないと思っている。この好機を逃せば次はない。これはもう彼の良さを知る私が二人の仲を取り持つしかないでしょう、と鼻息を荒くして意気込んだ。
しかし椿が熱弁を振るえば振るう程に、霍篤は意気を消沈させていくのである。
何故だろうと首を傾げる椿、溜息を零す霍篤、そんな二人を乗せた馬車はゆったりとした足取りで荊州を目指すのであった。
・劉表景升:
儒家思想の持ち主、清流派の一人として知られている。本質は学者。
・蒯越異度:
劉表の親友、官僚の一人。
・霍篤:?
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
ps.
以下、落書きです。
色とか塗るのは面倒なのでないです、主に自分用。
イメージが伝われば良いや、って感じのやつです。
・劉表1(バストアップ)
【挿絵表示】
・劉表2(立ち絵)
【挿絵表示】
psps.
上記で色々と察した方向け、書く予定はあるんや……
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
2.始動
儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:?
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・蒯越異度:
劉表の親友、官僚の一人。
此処、荊州襄陽郡。
予め親友である
洛陽から荊州までの旅路は期間にすると一ヶ月以上にもなったが、その道中は旅の供を務めてくれた霍篤のおかげで覚悟していた以上の苦労を強いられることはなかった。むしろ霍篤が献身的に尽くしてくれたおかげで荊州までの道のりを楽しむ余裕すらあった程だ。とある日の朝にちょっとした我儘のつもりで着替えさせて欲しいと云えば、霍篤は嫌な顔一つ見せずに手早く着替えさせてくれた。まるで御姫様気分、「苦しゅうない」と椿が御満悦で答えてみせると「お褒め頂き光栄です」と霍篤は苦笑混じりで頭を垂れる。他に身の回りの世話も霍篤が全てやってくれたし、野営の準備も宿の手配も彼女が率先して動いてくれる。正に良い旅夢気分、こんなにも気分が良いのは何時ぶりか。洛陽で官僚をしていた時は仕事に追われるばかりで心に余裕を持つことはできなかった。
嗚呼、なんて楽なのだろうか。何か行動を起こす度に根回しをする必要もなければ、誰かと会う度に段取りを組む必要だってない。責任を丸投げできる相手がいることが、ここまで幸福なことだとは思ってもいなかった。あの時に感じていた苦労を思えば、旅の不便なんて些細なことだと笑い飛ばせる。
ただ一つの気がかりは、霍篤は
屋敷も自分のものではない。今、自分に与えられているものは親友からの無償の好意であることは自覚している。山藤は優しいから今直ぐに自分をどうこうするつもりはないという事は分かっている。だからといって彼の好意に甘え続けるのも間違っていると椿は思うのだ。心配性な友人を安心させるためにも早く自立する手段を確立しなくてはならない。
一度は面倒見ると決めたのだから最後まで面倒見るべきだ、と何処ぞの国士無双のような図々しさを椿は持ち合わせていなかった。
茶を啜る、喉を潤せれば良いと片手間に茶を淹れてきた自分とは根本的に違っている。
美味しかった、香りも良かった。濃くもなく、薄くもない、丁度良い渋みが脳を刺激する。そして湯気立つ茶の熱さが喉を通った後、鳩尾の辺りから心地良い温もりが体全身に染み渡る。本当に良い腕をしている。昨日、屋敷に着いた時から掃除を続けている霍篤に想いを馳せる。
此処は余りにも心地よ過ぎる、早く行動しないと駄目になってしまいそうだった。
熱の篭った吐息が漏れる、そして思考を切り替える。
自立する術は幾つか思い付いていた。官僚として身を粉にして働いてきた身の上だ、何処かしらに仕官することは難しくないと考えている。気楽な暮らしを求めるのであれば、太学で培った知識を元に家庭教師を務めるのも悪くない。四書を諳んじる程度のことはできるので、取引相手に困ることはないと思っている。
では、それらが自分のしたい事か、という話になると微妙なところであった。
椿の本質は学者である。
事務処理に頭を働かせることでもなければ、詰め込んだ知識を周りに教え込むことでもない。それは官僚として働いていた時期から変わっていなかった。太学に足を運び続けたのは研究という分野に関わり続けるためである。実際、椿は官僚を辞めたことには後悔もなければ、欠片ほどの未練も感じていない。むしろ太学との関係が断たれてしまったことの方が辛かった。
これから先も何かしらの形で研究を続けていきたいと考えているが、それと金が結びつく手段が思いつかなかった。
やはり研究は趣味と割り切るべきなのだろうか。
まあ、いざとなれば金を稼ぐ手段はあるのだ。
これは今後の人生を左右する大事な問題、性急に決めることではない。官僚として休みなく働いていた事もあり、今暫く楽な生活を堪能していたいという気持ちもある。
のんびりと暇を暇なまま時間を潰していると霍篤が文を一つ持って、部屋に入ってきた。
どうやら山藤からの手紙のようだ。
用件だけが簡潔に纏められた内容に、山藤らしい、と椿は口元を綻ばせる。そして最後の追伸にある一文、「体は大丈夫ですか?」という妙に丁寧な言葉遣いを可笑しく思いながら胸の奥が心温まるのを感じる。
さて、手紙の内容になるが、洛陽の屋敷にあった家財は山藤が確保してくれたようだ。そのほとんどが返品拒否の押し付けられた賄賂になるので、あまり執着をしていなかったが――身一つで洛陽を出た今となってはありがたい。情勢が落ち着いたら荊州の屋敷まで送り届けてくれるとのことだ。
それを読んだ椿は霍篤に紙と筆を用意させると、親友へ手紙の返信を
先ずは感謝の気持ちを書き連ねて、近況を綴り、最後に家財を全て売り払って欲しいと書き記した。それで得られた金銭を半分だけ送って欲しいと願い出る。最後に癖のある書体で、椿、と真名を刻んで手を止める。そして「追伸」と思い出したように書き足して、少ない余白に「おかげさまで健康です、そちらこそ体に気を付けて」と付け足しておいた。
丁寧に手紙を封筒に包み――後は霍篤に頼んで届けて貰えば良い、と椿は背凭れに体重をかける。
生き急ぐことはない、考える時間は充分にあるのだ。
今後の身の振り方に関しては、じっくりと考えてみようと思った。
†
霍篤に手紙を預けてから一ヶ月が過ぎた。
荊州の屋敷に来てから暇を持て余すようになった
きっかけは屋敷の隣に建っていた蔵に足を運んだ時のことだ。なにか書籍でも保管されていないかな、と思っての行動であったが、本棚どころか書籍の一冊も見つけることはできなかった。代わりに見つけたのが釣り道具一式であり、どうせ他にやることもないからと見つけた釣り道具を持って、近くの小川まで赴いたのである。
そして嵌った、それはもう物の見事に。
釣れる魚は日に一匹か二匹、三匹も釣れた日には大漁旗を掲げる腕前であり、お世辞にも上手いとは言えない。それでも釣りは椿の性に合っていた。
時間に追われる事もなく、ぼんやりと時間が過ぎていくのを感じているのが好きだったのかもしれない。
洛陽の喧騒は人の営みだった。
あの都市では誰もが生き急いでおり、何かに追い回されているようであった。その光景を初めて見た者は圧倒される、そして否応なしに気持ちが急かされてしまうのだ。まるで立ち止まれば死んでしまうとでも云うような――そんな強迫観念に似た感覚に陥ってしまうのだ。
洛陽には魔力がある、宮中は魔窟と呼ぶに相応しかった。
宮中の官僚が登る出世の階段は細く、手摺がない。出世欲に目の眩んだ者達が前を進む者を背後から突き上げる。その圧力に押し負けて足を滑らせようものであれば、地の底まで身を落とすことになる。二度、這い上がることは難しい。政治生命は瞬く間に尽き果てる、運が悪ければ肉体に宿る命そのものが失われる。まるで蠱毒、生存競争、自分自身が生き残るために他者を蹴落として糧にする。
宮中では人と獣で何が違うのか嫌でも考えさせられた。
その空気に馴染めなかったからこそ、自分は宮中での出世に興味を持てなかったのかもしれない。
落ち着いた空間、穏やかに時間が流れる。
のんびりとすることを好む椿であったが、その価値観は洛陽のものに染まっている。
何もせずにはいられない、手持ち無沙汰では落ち着かない。考えずにはいられない、疑問を挟まずにはいられない。疑問を持てば追求せずにはいられず、情報を得れば整理せずにはいられない。何故、どうして、が頭の中にこびり付いている。
要は考えることが好きなのだ。
繰り返される思考実験、だからといって何もしないのは落ち着かない。なので待つことに意味がある今の状況を椿は歓迎する。
魚を待つという大義名分の下、椿は気兼ねなく自らの思考に没入することができた。
荊州に入ってからは人以外が出す音が耳に入るようになった。
枝葉が擦れる音、川が流れる音、水流によって運ばれる寒気が肌を撫でる。空では小鳥が囀った。草叢から虫の鳴く音が少し煩わしく思える。風を感じることができた。空気は綺麗で澄んでいる、都会特有のさまざまなことが入り混じった臭いを感じない。臭いには圧力というか、質量というか、そういうものを感じさせる。空気が美味しいという感覚はきっと、喉越しの良さだ。それは即ち、余計な臭いが空気に混じっていないことなんだと椿は考える。
思考する、強く意識するのではなく漠然と。なんとなしに頭を働かせる。穏やかな自然の流れの中に身を置いて、感じるまま、思い付くままに思考する。靄がかった輪郭を遠目に眺めるように、意識せずとも頭は働いた。
すると意外にも、こんな時に今までずっと悩んでいたことがあっさりと解決される。
それは――荘園の運営なんてどうだろう? という軽い気持ちの思い付きだった。
洛陽ではやりたいことも満足にできず、やるべきことばかりが積み重なる毎日だった。
そう考えると今回の件はいい機会だったのかもしれない。もとより権力や名誉に興味がない癖に、政に関わっていたことが間違いだったのだ。洛陽から離れることで太学の研究に関われなくなったことは残念に思っているが――本当に自分がやりたかったことを思えば、惜しむ気持ちも少しは晴れる。
椿は研究と関わり続けたかった訳ではない、それは妥協の結果なのだ。本心では自分自身の手で研究を推し進めてみたい、と思い続けていた。
釣りも誰かにやらせて指示を出すよりも、自分でやった方が面白いに決まっている。
そんなことを考えている内、ふと気付いたことがある。
農耕や治水、土建と知識を仕入れているが実際に試してみたことはなかった。今まで数字を睨みつけながら机上の計算を繰り返してきただけに過ぎないのだ。実践してみることで初めてわかる事もあるに違いない。例えば、今やっている釣りのように。
幸いにも太学で手伝ってきた研究論文は全て頭の中に入っている。
今まで詰め込んできた知識を活用しながら研究を続ける。その上で資金を稼ぐ手段が荘園運営だった。
それは漠然と考えていたものが唐突にまとまったかのような感覚、ばらけていた点が全て線で繋がってしまったかのような錯覚。考えれば考える程にこれしかないと思える、理由は後から幾らでも付いてきた。好きなことを思う存分に楽しまなければ、人生を生きている意味がないとすら考えるようになっていた。
まだ小川に垂らされた釣り糸に反応はない、しかし穏やかな時間だけが流れ続けている。上機嫌な気分とは裏腹に、今日は魚が釣れそうにない。
それで良かった、今は思考を邪魔されたくなかった。
「劉表様、よろしいですか?」
どれだけの時間が過ぎたか。
次々と湧いてくる発想に椿が没入していると、ふと後ろから声をかけられた。
振り返ると霍篤が困惑を隠しきれない顔で立っていた。
「
どうやら疑われているようだ、と椿は苦笑する。
余裕を持っていられるのは霍篤の視線から敵意を感じなかったためだ。疑念を持たれている、何かしらの理由があるとも思っている。それでも目を瞑ることができなかったのは、彼女の主人――
此処で敵対はない。何故ならば、それはやましい金ではないのだから。
「洛陽の屋敷にある家財を
椿は手紙を受け取りながら答える、そして中身に目を通してから霍篤に手渡した。
「近々、此処を離れるためには纏まった資金が必要でしたので先に売って貰いました。手数料分は受け取って貰うように書き残しておきましたよ」
「それにしては量が多すぎる気が……」
いえ、と霍篤は首を横に振り、受け取った手紙に目を通す。
「確かに、貴方様が言った通りのことが手紙に書かれていました。余計な詮索をして申し訳ありません」
「いえいえ、貴方が疑われるのも仕方ありません」
霍篤には良くしてもらっているが、いずれ山藤の下に戻る日が来るのだと実感する。
彼女が仕えているのは自分ではなく山藤、分かっているつもりなのだが彼女の好意に身も心も慣れてしまっていた。事のついでにと椿は霍篤に何時戻るのか問いかけると「貴方様を守ることが今の私の御役目です」という答えが返ってきた。過保護だな、と椿は苦笑する。「屋敷の方もいつまでも居てくれて構わないとのことですよ」と霍篤が付け加えるように申し出たが、そこまで世話になることはできない。あまり甘えすぎると、きっと自分は駄目になる。
できるだけ早い内に自立しなくてはならない、そうしないと彼らの好意に溺れてしまいそうだ。
山藤も霍篤も、少し優し過ぎる。
「本当に居てくれて構わないんですよ、むしろ居てくれた方が……」
「私は山藤と対等な友人でありたいと思っているのですよ」
その答えに霍篤はとても複雑そうに眉を顰めて、天を仰いだ。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
3.荘園と奴婢
儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:?
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・蒯越異度:
劉表の親友、官僚の一人。
初期投資に費やせる資金があるというのは良いものだ。
これだけの金額が送られてくれば、
洛陽にある
直接、手渡される物に関しては丁重にお断りするが、屋敷から離れた隙を狙って門前に贈り物が積み重ねられていることがあった。押し付けられた贈り物を差出人に送り返そうにも受取拒否、換金して民草に還元しても良かったが――それをするには官僚時代の自分は多忙過ぎた。
それで家財を片っ端から蔵に押し込んでいたのだが、どうにも彼らは存外に良い物を贈ってくれていたようだ。
もうちょっと話くらいは聞いた方が良かっただろうか?
それはそれで余計な面倒を抱える事になりそうだ、と椿は数秒もせずに思い改める。
ともあれだ、
蔵の肥やしにし続けるくらいであれば、有効活用させて貰った方が良いに決まっている。美術品の数々だって芸術に興味のない自分が持つよりも、そういうのが分かる人の手に渡った方が美術品も嬉しいはずだ。
そう言い訳することで椿は自らに折り合いを付ける。
別に清廉潔癖を気取るつもりはない、善人でありたいとも思わない。もちろん進んで悪人になるつもりもない。ただ自分には資金が必要だった、そして資金になる物が手の届く場所にあった。だから活用する、それだけの話だ。それに贈られてきた物品そのものに罪はない、そもそも贈り物には「より良い縁を紡ぐため」という大義名分が込められている。
基本的に資金はあって困るものではない。
荘園を運営すると決めた時、椿は資金を惜しむ事なく注ぎ込んだ。
まずは洛陽で仕事をしていた時の伝手を頼り、襄陽郡の主要都市から少し外れた場所の土地を確保する。そこに屋敷を新たに建てさせて、更に少し離れた場所に奴婢用の宿舎を用意した。労働力を確保する為に奴隷商から奴婢を五人、ついでに牛一頭を購入する。これとは別に子供の奴婢を一人購入していたりするが、それは労働力として買った訳ではないので今は数えない。
それから家具や農具、着替え等を買い込んでいる内に経費が嵩み、初期資金の半分以上が消し飛んでしまったが――丸一年だけであれば、今の環境を維持できるだけの貯蓄はまだ残っている。逆に云えば、この猶予期間が残されている内に自分達の食い扶持を稼げるようにならなくてはいけない、と云うことでもある。
最初から黒字運営をできるとは思っていない。
荒地を耕すところから始めることを考えると少しだけ億劫になる。しかし自分でやると決めたことだ、やりたいと思ったことだ。自分にできることは何でもやっていこうと決意を固める。
まだ荘園とは呼べない小さな規模であるが、やることは多く休んでいる暇はない。
此処から始まるのだ。
心なしか胸が踊る、洛陽に居た時よりも気分が高揚しているのがわかった。
荘園を運営する上で、椿を最も悩ませたのは奴婢の中に農業経験者は居ても専門家と呼べる人物はいなかったことだ。
そういった能力を持つ奴婢は高値が付くので買い込めなかったことは仕方ない。しかし椿自身が机上演習しかして来なかった身の上である、誰にも相談できずに農作業の指揮を取らなくてはならない事は椿が想像していた以上に困難を極めることになる。
まずは奴婢に荒地を耕かせることから始めて、田畑から細かな木屑や小石を取り除いて貰った。そうして稼いだ時間で椿は詳細な農耕戦略を立てるのだが――これは細か過ぎて奴婢に伝わらなかったので没となる。他にも太学で溜め込んできた様々な知識を椿は持っていたが、現実的ではないという理由で取り下げた。というよりも太学の研究で効果的と思われた手法の数々を、現場で有効的に使うことが椿にはできなかったのだ。
正直なことを云ってしまえば、基本的な栽培方法というものが椿にはよく分からなかった。
苦悩する椿に「主様も人一人養うくらいの甲斐性はありますよ」と霍篤はとても気持ち良い笑顔で告げる。
絶対に上手くやってやる、と決意を改めた椿は情報集めに奔走した。
近場の農家に酒を振る舞うことで農作の手法を教えて貰った。豪族に取り入って農業に強い人物を教えて貰って、足を運んで色んな話を仕入れる。そして地元では有名な私塾である水鏡女学院に足を運んで、書物庫の鍵を開けて貰う代わりに礼儀作法の講師を勤めることもした。
女学院の書物庫に詰め込まれた資料は種類が豊富で、数も多い。有名なものは粗方、抑えてあった。その中で最も参考になったのは詳細の書かれた研究論文や資料集ではなく、とある豪農が書き綴ったという恋愛小説であった。これは気晴らしに読んだもので、中身は御世辞にも面白いとは云えなかったが、農業に勤しむ描写がやけに詳細に書き記されていたのだ。実際に農耕に従事する者では分からない視点、思考――それが丸一年分、要所を切り出しているとはいえ、随分と参考にさせて貰うことになる。
愛読書となった小説を机に置いて、椿は荘園の運営が一段落ついたら農作業の指南書でも執筆しようかな、と少し思った。
現場を介さずに得た知識は、現場では役に立たない。
そのことに若干のやるせなさを感じるが、結局のところは試行錯誤、農耕とは挑戦と失敗の繰り返しなのだ。
そして、それは研究という分野と何が違うのか。
椿は、荘園運営の初年度を経験を積む年と割り切った。
収穫量は最低限、所持金の半分が尽きる。記録は日誌という形で残しており、この情報を基に翌年の農業に従事する。
また二年目からは思考回数を増やす為に更なる奴婢を購入した。田畑の面積は前年度の倍以上、その甲斐あってか収穫量も倍以上に増やすことができた。ただ経費も増やした奴婢の分だけ増えてしまったので、所持金は更に半分、初年度の四分の一にまで減ってしまった。翌年、農作業用の牛を追加で一頭、購入する
三年目ともなると知識と経験が上手く混じりあって、知恵になっていた。
漸く農業が面白くなってきた頃合い――しかし夏の中頃に運営資金がそこを尽きる。
晴れやかな笑顔を浮かべる霍篤を余所に、椿は書籍を売り払って資金を増やし、尚足りない分は借金を抱えることで補った。
幸い、まだ種籾は手元に残っている。
過去二年間で得られた情報を統合して、土弄りに没入する毎日を送る。成功した、と呼べる手法を幾つか組み合わせてみたが――だからといって成功する保証はないし、天候によっても収穫量が左右されてしまうことは過去の二年間で学んでいる。収穫期が近付くにつれて痛みを増す胃に耐える毎日、そして運命の時、三年目の収穫期を経た時に漸く荘園は赤字経営から脱却することができた。
また来年も借金を負う必要はあるが、再来年度には自前で運営資金を賄うことができる見込みだ。
まだ安心して良い段階ではない――しかし、とりあえず一区切りが付いたことに椿は胸を撫で下ろした。
この三年間で椿を支え続けてきた霍篤は「主様、貴方様の御姫様は意外と逞しい」と何処か遠くを眺めており、「いやしかし来年こそ借金を建て替えれば、あるいは……」と決意を新たに両拳を握り締める。そんな彼女の姿を横目に見る椿は触れるべきではないと判断した。
余談になるが、翌年度もまた平穏無事に黒字経営となり、荘園の将来は安泰となった。
未だ山藤の所に戻らない霍篤は「主様がへたれなのがいけないんじゃないですかねぇ?」と何処か投げやりになることが増えた。
†
多少、時系列を前後させる。
上記が荘園の経過報告とすれば、これはとある奴婢の成長記録だ。
荘園運営の初年度に
元より椿が奴婢の子供を購入した要因は、霍篤と共に過ごした旅にある。
自分自身が指一本動かさずとも根回しと段取りを済ませてくれる優れた従者、それだけに留まらず身の回りの世話までしてくれるというのだから文句の付けようがない。
だが霍篤は椿の従者ではなく、
つまり
だから椿は奴婢の子供を購入した。
何時、失うのか分からない霍篤に頼り続けるよりも、新たに仕事を仕込むことで自分だけの忠実な従者を作ろうと試みた。子供を選んだのは、奴婢の大半は読み書き算盤ができない者ばかりなので、どうせ一から育てるのであれば若い方が覚えが良いという単純な発想から来ている。
手違いだったのは、購入した子供の奴婢が男だったことだ。
最初、椿は同性である女を買うつもりで商品を見て回ったのだが――当時、目に被さる程に前髪を伸ばしていた彼のことを椿は女と勘違いしてしまったのである。そのことに気付いたのは屋敷に持ち帰った後の話、風呂に入れるために服を剥いだところで彼が男だと判明した。
まだ可愛らしく皮の被ったソレが股間で揺れるのを見つめながら思い悩んだ椿は、とりあえず浴室に突っ込んで全身を綺麗に洗ってやることにした。そして、そのことを知った霍篤にこっ酷く叱られることになる。隠部は自分で洗うように指示を出したと言い訳して、細かい部分まで丁寧に洗うように逐一確認しながら教えたと伝えたら、より一層に叱られることになった。解せない。
さておき、買ってしまったものは仕方ない。
買い換えるだけの余裕もなかったので、彼を側仕えとして育て上げることになった。
その決定に霍篤は渋った、それはもう椿がうんざりする程に渋った。
「子供とはいえ異性を部屋に上げるなんて認められません、それに子供なのは今の内だけですよ」
と霍篤は最後まで反対したが、椿の中ではもう彼を育てる事は決定している。
貴方が何時までも私の側に居てくれるなら考えもするけども――と椿から見れば、霍篤には到底飲めそうもない話だったので口にはせず、女性向けの
そんな彼の女装姿が似合っていることを思い出した椿は折衷案のつもりで「対外的には女性として育てましょう」と少年の頭を撫でながら告げる。
これには霍篤は呆れを通り越して唖然としていたが、椿は彼女の意見を聞き入れるつもりはなかった。今まで世話になった事情から霍篤の意見を耳に入れる義理はあっても、それを採用しなくてはならないという決まりはない。
最低でも読み書き算盤の習得はさせる。ゆくゆくは書類仕事を任せられるように鍛え上げたいと思った。
嗚呼、でも、今の姿も可愛いから肉体を維持するために房中術を教える必要もあるだろう。
体内の氣を充実させることは肉体の劣化を抑えることに繋がる。それは即ち肉体の維持であり、肉体を若い姿のまま保たせることができるのだ。氣の扱いに長ければ長けるほどに劣化するのが遅いとされている。椿は年齢相応の外見をしているが――そろそろ若さを保つために房中術の嗜み始めなければならない。
その相手となる人物がいないのが目下の悩み、しかし懐に収まる幼子が椿の相手を務めることはない。
奴隷商に売り出されてから屋敷までの道中、そして今に至るまで。気を休める時なんて、ほとんどなかったに違いない。霍篤との話が終わった時には、女装姿の奴婢は椿の豊満な胸を枕に可愛らしい寝息を立てていた。これはもう決めたことです、と椿は少年を優しく抱き上げて、自分の寝台まで連れて行こうとした。
「待ってください。子供とはいえ、それは看過できません!」
面倒臭いな、と椿は考えて、ああそれなら、と軽い思いつきを口にする。
「貴方が彼の代わりを務めてくれますか?」
結論だけ告げる、霍篤は驚くほどに初心かった。
†
荘園運営を始めてから五年目になる。
もうすぐ収穫期、
初めて借金を抱えた三年目は、きちんと返済できるのか戦々恐々としながら過ごす毎日を過ごし、四年目も計算上は返済できると分かっていたが順調に野菜が育ち切るのか不安に苛まれながら生きてきた。その時に比べると今年は借金を抱えていないので気が楽だ、あれだけ胃を痛めていた毎日が嘘のように感じられる。
昨年の貯蓄を使い切ることなく、収穫期を迎えられそうな事に
椿は眉を顰めた後、パンパンと両手を叩いてみせる。
少し時間を置いて部屋の外からトタトタと可愛らしい足音を立てながら誰かが駆け寄ってくる。
「御主人様、お呼びしました?」
幼い声と共に扉が開けられた。
その向こう側には女物の着物に袖を通した見た子供が立っており、少し眠たそうに垂れた目で椿のことをじっと見つめている。首には奴婢の証である首輪が付けられており、彼が椿の所有物であることを証明していた。椿が湯呑みを持ち上げて軽く振ってみせると女装姿の少年はハッと何かに気付いた素振りで慌てて台所の方へと向かって行った。
あの可愛らしい奴婢は初年度に買い込んだ奴隷の一人、いずれ
暫くすると少年が両手の盆に急須を乗せて馳せ参じ、湯呑みに緑色の液体を注ぎ入れた。
椿は茶の啜ると、うっとりとした顔で熱い吐息を零す。
「美味しいわ、ありがとう」
言いながら彼の頰と顎下を撫でると、女装少年は目元を蕩けさせて小刻みに身を震わせた。
彼に姓名はない。とはいえ名前がないのは不便なので、周りには彼のことを
それは主人と奴婢の間では当たり前の事であり、明確な上下関係を意識付ける意味合いが込められている。
「少し肌寒いわね」
椿はこれ見よがしに彼を見つめる。
少年は頰を赤くして、生唾を飲み込んだ。おずおずと惹き寄せられるように椿の体に身を寄せて、「失礼します」と椿の豊満な胸に顔を埋めるようにして抱き締める。気を落ち着けるためか、それとも欲求に正直なためか、少年は椿の胸に顔を押し付けたまま大きく息を吸い込んだ。緊張しているのが分かる、十歳を迎えた辺りから彼が異性を意識するようになったことを椿は知っている。寝台の布団の裏に隠されていた自分の下着を見つけた時はむず痒く思った。そういう対象として見られている事に不思議と不快感はなく、むしろ嗜虐心が擽られた。丁寧に畳んだ下着を元の場所に戻した翌日、見ていて可哀想になるほどドギマギする彼の姿は面白くって仕方なかった。下着のことが気になるようだけど言及して来なかったので、以後も気が向いた時に下着を畳んであげている。その度に不自然に体を強張らせる彼を見るのが楽しんだ。
今、自分の胸の中に顔を埋めながら深呼吸を繰り返す彼は愛おしい。耳まで真っ赤にする彼の体は温かくて、心地良く、だから静かに抱き寄せる。まだ成熟前の体は抱き心地がとても良かった。伸ばさせた髪を手櫛で梳かしながら、もう片方の手で背中を優しく撫でる。なにかを堪えるように、ふるふると震え出す彼の姿は愛くるしくて仕方ない。つい虐めたくなる、つい可愛がりたくなる。
太腿で彼の股間を擦ると、少年は小さな悲鳴を上げて、椿の着物の裾を強く握り締める。
「あらあら、いけない子ねえ。皺になりますよ」
優しく彼の手を解きながら冷たく告げる。顎に手を添えると彼は自ら進んで顔を上げる、潤んだ瞳で椿の顔を見据えている。恐怖が半分、期待が半分、昔はあれだけ怖がっていたのに、今となってはお仕置きを悦ぶようになってしまった。下着を見つけて以来、遠慮する必要はないと思ってからの方が彼は堕ちるのが早かった。
「その前にご褒美をあげないといけませんね」
だから焦らす、この言葉で無自覚に気落ちする彼は全くもって救いようがない。
彼の耳元で囁くように、
彼の頭や頰を撫でながら自らの胸に顔を埋めるように椿が誘導すると、彼は椿の太腿を両足で強く挟みながら涙目で椿の誘導に従ってみせる。その目を伏せた時、目尻から涙が溢れる。スンスンと鼻を鳴らす姿は、まるで子犬のようであった。教育の一環で初めて全裸に剥いてから鞭打った後、しおらしく無言で甘えてきた時によく似ている。
背筋にゾクゾクとした悦楽のようなものが駆け巡った。虐めたい気持ちを堪えて、先ずはご褒美を与える。
「今一時に限り、私の真名を呼ぶ事を許しましょう」
「つ……ばき、さま……ッ!」
腕の中で常夏が身悶えする、小動物のように体を震わせながら歯を食い縛っていた。
そして情欲に濁りきった目が見開かれて、あっ、という切なくも短い悲鳴が部屋に響き渡る。ビクンと身を強張らせる、最初は大きく、断続的に……跳ねる体は徐々に弱まっていった。こんな時、普通の感性を持っているならば嫌悪感を示すべきであり、事実、椿も塵を見るように懐に収まる女装少年を見下した。しかし口元は堪え切れない嘲笑が浮かび上がっており、その心は愉悦感で満たされていた。
ただ一時の快楽から理性を取り戻した常夏は、罪悪感から顔を青褪めさせる。幼い体を震わせているのは相変わらず、しかし恐怖を感じているのか小刻みに歯を打ち鳴らしていた。情欲に汚れていた瞳は絶望の色に染め上がる、しかしその瞳の奥底には黴のように情欲がこびり付いていることを椿は読み取る。そして彼の口元が僅かに吊り上っていることを椿が見逃すことはなかった。
できる限り優しい手付きで彼を体から引き離し、「仕事に戻りなさい」と冷たく言い放った。
常夏は名残惜しげに椿を見つめて、「畏まりました」と残念そうに頭を下げる。
「ああそれと今日、貴方の着替えはないですよ」
「……えっ?」
常夏が頭を上げる、呆気に取られたような可愛らしい顔だった。
「貴方の替えの下着はない、と言いました。粗相のないようにお願いします」
唖然とした顔、理解が思考に追いついた時に常夏は目を見開きながら引き攣った笑みを浮かべていた。
度し難い程に救いがない。喉の奥から堪えようもない笑い声が溢れる、椿は手で口元を抑えながら肩を揺らす。どうしてそんなにも可愛いのか、どうしてこんなにも愛おしいのか。理解ができない、もっと虐めたくて仕方なくなる。「万が一の時は、自戒に必要なお仕置きを考えておいてください」と囁きかけると彼は生唾を飲み込んで「失礼します」と部屋を出ていった。
部屋に残された椿は、熱の込められた吐息を零す。
正直な事を言ってしまえば、常夏に加える加虐的な劣情を抱くことはあっても恋愛感情を抱く事はない。椿の好みは同世代か歳上の男性であり、歳下は恋愛の対象にはならなかった。そもそも常夏は手違いで購入してしまった奴婢だ。本来であれば傍仕えの奴婢は女性を選ぶ予定であり、彼を女性と見間違えて購入したのが事の始まりとなる。今も女装をさせているのは仮にも未婚の女性である椿に、異性と二人きりで部屋に居るのは外聞が悪い、と霍篤が助言した結果で、対外的には常夏を女性として扱うようにしているためだ。それも最初の頃は考えすぎだと椿は思っていたが――今の有様を思えば、確かにこれは外聞が悪いと認めざる得ない。
繰り返すが、椿は常夏に恋愛感情を抱かない。それ故に椿が常夏に体を許したことは今までに一度もなく、そしてこれからもないと思っている。そもそも椿の認識として、奴婢は人間ではない。生物としては人間かもしれないが、彼らには人権がないのだ。舌を交わらせることもなければ、唇を重ねることもしない。あるのは所有者として彼を管理できる権利であり、抱く感情も愛玩動物を愛でるのに似ている。
もし常夏が人間であったならば、今の扱いは道徳倫理に反することだと椿は自覚している。しかし歓迎すべきことに彼は人間ではない、彼は椿の所有物であった。そうであるからこそ彼の純情を弄ぶことが許されると考えるし、彼の初恋を揶揄うことは当然の権利だと思っている。決して成就することがない恋心を抱き続ける彼の姿は余りにも哀れで、実に愉快で弄り甲斐のある玩具だった。
今日はどのようなお仕置きをおねだりしてくるのか、椿は楽しみに思いながら目の前の書類を片付けるために筆を握る。
ふと手に取った報告書に「商隊が賊徒に襲われる事件が多発している」と書かれているのを椿は見つける。
この時はまだ重要視することはなく、確認するだけで記憶の隅に追いやった。被害が大きくなれば官軍が動き出す、それに商隊が目的ならば荘園は安全だろう――そんな感じの楽観視、その甘い見込みを後悔したのは更に一ヶ月後のことだ。定期的に訪れていた商隊の足がパタリと止み、そして噂の賊徒が椿の荘園に向けて移動をしているという情報が耳にする。
あと二週間で収穫時、椿は背筋にヒヤリとした汗が流れるのを感じた。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
4.危機と助っ人
儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:?
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・?:
仮の名は
・蒯越異度:
劉表の親友、官僚の一人。
これまでの五年間で世界は確実に悪化していた。
これはまだ
しかし政治中枢に居座る外戚と宦官は権力闘争に忙しく、寒冷化問題には見向きもしなかった。
これに呆れた有志達は寒冷化対策を地方向けに改案したものを地方の豪族に配り、地元を守りたいと願う者達の手によって問題の解決に乗り出すことになる。とはいえ国家権力と地方豪族では地力に差がありすぎた。寒冷化対策は国体を保つ最低限の成果を上げたが、それでも多くの民草が土地を捨て、北から南、つまり華北から華南へと流れてしまった。
華北に比べて田舎と称される華南の土地、まだ発展途上にある土地では流民の負担を受け止めきれなかった。急激に人口が増えたことによる食糧不足、これによって寒冷化による食料問題は大陸全土へと広まることになる。
悪い時には悪い事が積み重なる、崩れてしまった均等を元に戻すことは難しい。事態が人の手には負えなくなった時、事態は行き着くところまで行くしかなくなるのだ。
当然だが、食料が不足すると飢饉が発生する。
自前で食料を用意できなくなった人間は、道徳や倫理で飯が食えるものかと賊徒化する。誇りもなければ信念もない、守るべき家族は賊徒に襲われ、食料や衣服、雨風凌げる家屋すらも失ってしまえば、もう人生なんてどうでも良くなってくる。こんな御時世では神なんて敬うどころか恨む対象だ、どうせ救いも得られない祈りを捧げるくらいなら悪魔に魂を売った方が幾らかましである。救ってくれるならばなんでもいい、助けてくれるならばなんだっていい。人は人として生きているから人である。金にならぬ誇りは犬に喰わせろ、腹も満たせぬ信念は投げ捨てろ。家族も守れぬ正義に価値なんてない。そうして人は犯罪に手を伸ばし、頗る妖しい宗教に嵌るのだ。
そして、この現象が大陸全土で起きているのが今の御時世であり、この状況に至っても尚、権力闘争に明け暮れるのが宮中の外戚と宦官であった。
こんな有様では老若男女問わず誰も彼もが口を揃えて、お決まりの台詞を吐くに違いない。
世も末だ、と。
未だに賊討伐の軍を編成されておらず、
賊徒は規模を大きくするばかりの状況にあってはどうしようもなく、治安維持は地方努力に委ねられた。
漢王朝を見限った――というよりも呆れ果てた者達の手によって地方は統治されるようになり、軍閥の力が急速に強くなったことは説明するまでもないことだろう。今や交州と揚州では豪族が幅を利かせており、漢王朝の統治が行き届かなくなってしまっている。そして荊州南部、長江の南でも同様の問題が発生し、荊州四天王を名乗る者達が各地で勝手に自治を始めているという始末である。
この事態を重く見た荊州刺史の王叡は、孫堅とかいう何処ぞの馬の骨と共に荊州南部の再統治に乗り出したという話を聞いているが――いやはや、はらひれ、上手くいくと良いね、と椿は他人事な感想を抱いている。王叡では荊州南部の豪族を抑えることは難しいだろうな、というのが正直なところだ。
閑話休題、
此処まで語ったことで重要なのは、二つだけだ。
大陸全土が慢性的な食糧不足に陥っている点、そのせいで大陸全土で大規模の混乱が起きている点。
華北から荊州に流れてきた流民、ないし賊徒が暴れた結果、荊州の生産力は全体的に落ちている。その中で安定して生産力を向上させ続けてきた椿の手腕は、当人の知らないところで評判になっていた。
となれば当然、賊徒の耳に入る。
やり手の新参者ではあるが、まだ防備は手薄である。
健気に生産力を伸ばし続けてきた椿の荘園は、食料に飢えた賊徒にとっては格好の的。何よりも荘園の持ち主である椿の美貌は――顔というよりも主に胸だが――地元でも有名な話で、夫も居ないことから処女ではないかという噂もある。更に彼女の従者二人も器量が良いとのことだ。片や貧乳、片や未成熟との話だが、これはむしろ三者三様で楽しめるという話でもある。
これはもう襲うしかない、略奪して陵辱するしかない。むしろ襲わなかったら賊徒じゃない。
鼻息を荒くして全速前進、ヒャッハーと掛け声が上がる。
夢と希望、浪漫を追い求めて、賊徒達は行軍する。目指す先は理想郷、欲望の限りを尽くした酒池肉林。そうだ、自分達は報われるべきである。あれだけの苦労をしたのだから、少しくらい報われたっても良いじゃないか。世の中にはもっと極悪な奴らがいる、もっと悪どい輩で満ちている。ならば、自分達がしてはいけないという道理はない。田畑を耕したところで意味はない、足りないものは奪って補えば良いのだ。
進め、進め、進みに進め。
腹一杯の飯と溜まりに溜まった性欲を発散するために、この腐った世の中に拳を振り上げるのだ。
世の中、奪ったもの勝ち、やったもん勝ちである。
世は正に大賊徒時代だ。
収穫期まで後二週間、収穫を待って襲撃する。
それまでは男の尻でも掘って性欲を我慢してやるさ。
俺達、皆、穴兄弟で竿兄弟。掘って掘られた絆がある。
†
荊州襄陽郡、
週に一度という契約で荘園まで足を運んでくれていた商隊の足取りが消えてから二週間、契約先の商家に事情を聞きに向かうついでに物資を調達しようと思った椿は護衛を二人連れて都市部まで足を運んでいた。護衛の一人は何時もお馴染みの霍篤、椿の親友である
そんな二人を従える椿は茶店で、大きな溜息を零しながら頭を抱えていた。
「どうしましょうか?」
思わず、溢れた言葉に二人の付き人は答えない。
霍篤は武芸に長けているが軍事や政治といったことには疎く、常夏は基本的に家事以外のことは役に立たない。いや、護衛を務められる程度には武芸の腕を上げているが、知識面で彼に期待することは何もない。そして椿は学者であるが軍事は専門ではない。基礎的なことは教養として知っているが、それは二人よりも幾らかましといった程度で知恵として頭が働くことは決してない。元より争いごとは忌避する身の上だ、軍事関連の書籍なんて目に通すだけで読み込むはずがないではないか。
それでもまあ楽観視することはできる。近場まで賊徒が移動しているからと言って、自分の荘園が襲われるとは限らないではないか。近場の山に賊徒が身を潜めており、その近場にある目ぼしい荘園が自分のところ以外にはないという点に目を瞑れば、完全に楽観視することはできる。収穫時まで二週間、それが終わってから悠々と攻め込む気であることは十中八九で明らかだが、その事実から目を背けることで泰平の未来を幻視することが可能だ。問題の先送り、棚上げした牡丹餅が棚ごと地面に落ちてしまいそうな現実から逃避することで精神の安定を図ることができる。
うふふ、あはは、と椿は奇妙な笑い声を零し、付き人の二人は気の毒そうに互いの顔を見合わせる。
そして見るに見かねたのか、霍篤が一歩前に出て優しい声色で告げる。
「別に逃げても良いのではありませんか?」
その言葉に椿が顔を上げる、常夏も驚きに霍篤の顔を見ていた。
「できないことはできない、これはもう仕方ありません。それに前にも言いましたが貴方には逃げ場があります、主様は貴方一人を養う程度であれば負担になりません。荘園を続けたければ支援だってしてくれるでしょう――むしろ、その方が主様も安心されると思います」
諭すような言葉使い、自分のことを思って言ってくれていることが椿には理解できた。
ただ同時に諦めてもいる。霍篤はそうなることを願っているにも関わらず、そうなることを諦めているかのようであった。呆れとも、蔑みとも、読み取れるような微妙な表情、ただ貶している訳ではないことが嫌でも見て取れた。
そして事実、椿は彼女の差し伸べた未来を受け取ることを考えていなかった。
「逃げません、逃げて良いはずがありませんよ」
何故ならば、これは自分が始めたことだからだ。
椿は椅子から立ち上がり、そして大きく深呼吸を繰り返した。
椿は行動には責任が伴うと考えている。それは行動には必ず結果が付随するものであり、自分が起因で発生した結果には責任を負う必要があると考えているためだ。その結果から逃げることは無責任と呼ぶ他にない。とはいえ、これが自分だけの話であれば逃げることも吝かではない。しかし五年間だ、洛陽から荊州に逃げ延びて五年間、新たな土地で紡がれた縁は多く、少なからず愛着も持っている。華北から流れてきた民草を受け入れて、衣食住を提供する代わりに田畑で働いて貰ったりもしている。奴婢も買ったからには面倒を見る責任はあると思っている、彼らは人間ではないが一個の命であり、手前勝手な理由で見捨てることはできない。
思考が駆け巡る、逃げ出すべきという合理的な発案もある。それ以上に荊州から離れたくなかった、嫌だった。自分の築き上げてきたものが余所者の理不尽な暴力に晒されることが許せなかった。それは未練と呼ぶべきものかも知れない。世に名だたる英傑達であれば、真っ先に切り捨てるべき感情と云うだろう。だが生憎なことに椿は凡人であった、それで良いと思っている。人間味を失ってまで超人になりたいとは思わない。
つまるところ、それが全てだった。未練を投げ捨てることはできない。何故ならば、これは自分が始めたこと、やりたいと思ったことをして、それが結果に出ている。捨てたくなかった、捨てられる訳がない。
ならばもう答えは決まっている。
「逃げたくは、ありません」
どうすれば良いのかわからない、名案なんて都合よく浮かぶものでもない。
それでもだ、逃げたくはない。だからも何故もない、それだけが結論として出てしまっていた。
霍篤が差し伸べてくれた手を無視して、じっと彼女のことを睨みつける。
「……私の御役目は貴方様の安全を確保することにあります」
霍篤も負けじと椿のことを睨み返し、そして大きく溜息を零した。
「しかし私には策がない。御存知の通り、私は頭の出来が良くありません」
そこで霍篤は心底嫌がるように言葉を切り、椿が沈黙を以て待ち続けると彼女は渋々と続きを口にする。
「かといって当てがない訳でもありません。策をなければ、策を授けてくれる人に頼りましょう……まあ実際に策を授けてくれるかは話が別ですけどもね」
と投げやり気味に告げてから「勝算がなければ気絶させてでも連れ去りますよ」と付け加えた。
これが彼女にとって精一杯の譲歩なのだと思って、ありがとう、と言葉にする。本来、霍篤は
それが私の御役目です、と彼女は頰を赤くした顔で素っ気なく返す。その姿がいじらしくて好ましく感じられた。
「さてはて、はらひれ、ほれいろは……兎にも角にも、貴方が当てにできると云う人物に合わなくては話が始まりませんね」
揶揄いたくなる想いを抑え込み、霍篤に先導するように促した。
余談になるが、初めての街に浮かれていた常夏のことを椿は会話中、ずっと後ろから抱き締め続けていた。これには他にも理由があり、いつも重いと感じている胸が丁度、彼の頭に乗るので良い感じに楽ができるのだ。問題なのは常夏が顔を真っ赤にしている――のは何時ものことなのでどうでも良いが、周囲の視線を妙に集めてしまうことにあった。
街ではやめてください、とほんのりと顔を赤くした霍篤に注意されて、渋々と彼を抱き締めるのをやめる。
「……大きな胸は凶器です」
常夏が逆上せあがったような顔で呟いてみせる。
とりあえず屋敷に戻ったら御仕置きすべきだろうか、それとも教育すべきだろうか。調教してやるのも良いかもしれない。
どれも大差ないが、どれもしようと椿は結論付けた。
主人の勝手気儘の思いつきに付き合わされるのは奴婢の特権である。
常夏は人知れず身を震わせる、歓喜から。
†
がたんごとんと馬車が揺れる、ゆっさゆっさと胸が揺れた。
何時かと同じように椿は馬車の御者席に座っており、その隣では霍篤が手綱を握って馬を操っていた。あの時と違うのは椿の膝上には女装をした少年が座っていることであり、椿は彼のことを逃さないように後ろから抱き締めている。伸ばさせた髪は徹底的に手入れをさせているので、髪の触り心地は嫉妬してしまう程に良い。その後頭部に唇を落とすように顔を乗せて、大きく息を吸い込めば髪に染み込んだ石鹸の香りが鼻腔を満たした。
先程から
彼の顎下を指先で擽れば、くぅん、と切ない声が零れて楽しかった。
「虐めるのも程々にしてくださいね。此処には替えの下着も、着替える場所もありませんよ」
仄かに顔を赤らめる霍篤に、はいはい、と椿は空返事で答える。
しかし椿の手は女装少年のお腹を撫で続けており、常夏は快感に身を震わせながら霍篤に潤んだ瞳で助けを求めた。それを霍篤は口笛を拭くことで雑に無視する。この程度の触れ合いはいつもの事だ、口を出せば切りがないと霍篤は椿との長い付き合いから学習している。
前屈みで必死にナニかを堪えている奴婢のことよりも、今はもっと他に話すべきことがある。
「これから会いに行く人物は、頭は切れますが性格の方に難がある御方ですね、正直疲れます」
「疲れる? 貴方が云うのであれば、余程ね」
そう云う椿は前に屈んだ常夏の後ろ髪を三つ編みに結び始める。
手が空いた椿が常夏の肉体を弄るのは、この五年間で染み付いた彼女の癖のようなものだった。これが屋内になるともっと扱いが酷くなる。言及はしない、明らかに度が過ぎた行為も含まれているので言及することができない。
これで一度も間違いを犯していないというのだから詐欺だ、と霍篤は密かに思っている。
「ところで名前はなんという御方なのでしょうか?」
小さく喘ぎ出した常夏を無視して、椿の問いに霍篤が答える。
「姓は劉、名は巴。字は子初。今は江夏太守を務める劉祥の一人娘です」
幼い頃は神童の名を欲しいままにした逸材、今は家庭教師として名家を渡り歩いていると霍篤は聞いている。
家庭教師としての腕は良い。その評判は荊州にある名家の間では有名であり、刺史や太守、県令から度重なる招聘を受け続けているが――何が気に入らないのか、どれだけ好条件を提示しようとも招聘を断り続ける変わり者でもあった。
幼い頃の彼女は野心家だったと記憶しているが、これはもう会って確かめてみないことには分からない。
「さあ、そろそろ着きますよ」
と霍篤は小振りな屋敷を指で差し示す。
移動中、その身を弄ばれ続けた常夏は口の端から涎を垂らして光悦の表情を浮かべながら小さく痙攣していた。生臭くはないので、出してはいないと思われる。この達し方は恐らく女の子の方だ。
それが分かってしまう程度には、見慣れた光景である。
†
劉巴の屋敷は大きいとは云えなかった。
庭があり、塀もあるが屋敷そのものは一階建て、部屋数は多いようには見えない。独りで暮らすには充分過ぎる広さがあるだろうが、家族が暮らすには少し手狭かもしれない。
霍篤や
「ここに貴方が云う人物が住んでいるのですね」
椿が豊満な胸を常夏の頭に乗せながら問いかけると、二人の様子に半ば呆れながら霍篤は首肯する。
とはいえ急な訪問に対応してくれるのかまでは霍篤にも分からない。それでも劉巴に話を通す程度のことはしてくれる根拠が霍篤にはあった。その思惑を知らぬ椿は、横目に見やる霍篤の顔が心なしか機嫌良さそうに思えた。
霍篤が塀の門を叩く、トントンと。
それは屋敷の中に居る者を呼ぶには、あまりに小さな音だった。それで通じる確信が霍篤にはあった。
「はいはい、どなたで……あれ?」
少女が塀の上からひょっこりと顔を覗かせた。二つ結いに纏めた髪、くりっとした大きな目で一点を見つめている。
そんな彼女の顔を見て、椿は直感する。よく似ている、と。第一印象も、纏う雰囲気も、身の振る舞いも、まるで違っているのに――それでも椿は彼女の姿に自身の護衛を務めてくれる従者に似ていると感じた。
少女は塀の上によじ登って跳躍、くるっと宙で一回転してから霍篤の前に両手を広げた華麗な着地を見せる。
そして満面の笑顔で大きく口を開いた。
「
霍篤のことを姉と呼んだ少女は、全身から好意を溢れ出しながら告白した。
「
紹介してくれませんか、と椿が問いかけると霍篤は苦笑いのまま答えてくれた。
「彼女は私の妹の――」
「――霍峻です! よろしくお願いします!」
二つ結いの少女が元気よく名乗ると、くるりと霍篤に向き直る。
言葉を遮られた霍篤は困ったように笑っている。端から見れば微笑ましい光景、ちょっと姉が好き過ぎるのが問題な気がしないでもないが、当人同士が気にしないのであれば、あえて横槍を入れるような真似をすることもない。
というよりも、もう霍峻の目には自分が写っていないように見える。
「菊姉様の御主人様って蒯越様じゃありませんでしたっけ?」
どうやら存在は認識してくれていたようだ。
「いや、今も私の主様は変わっていないよ」
と霍篤が返す。その砕けた言葉遣いに椿は少し胸の奥が疼いたが、その想いを飲み込んで代わる言葉を口にした。
「姓は劉、名は表。字は景升。貴方の御姉様は山藤から借りているのですよ」
そう椿が答えると「へー、なるほどー」と霍峻は大した興味もない様子で返事した。
それでもう彼女は椿に対する興味を失ったようで「今日は何の御用でしょうか!」と霍篤だけにむけて笑顔を振り撒いた。
霍篤が気まずそうに椿を見やり、構いませんよ、と椿は笑みを深めることで応じる。
鼻息荒く興奮する霍峻を、霍篤が宥めること数分、門の脇にある潜戸が開かれた。
「あー、五月蝿い輩だな。門前で叫ぶな、騒ぐな。礼儀がなってない。蓮葉、お前は何時になれば礼儀を覚えてくれるのか?」
そんな気怠げな言葉と一緒に姿を現したのは、如何にも肉体労働よりも頭脳労働が好きですといった格好の女性であった。
その雰囲気は学者というよりも、文官に近い。その鋭く吊り上がった両目は極端に黒目の部分が小さい三白眼、彼女の面倒臭そうな仕草からそうするつもりはないと分かっているのに、その目付きの悪さから睨まれているように感じさせられる。身長はあまり高くない、自分よりも頭一つ分小さな霍篤と同じくらいである。とはいえ筋肉質な身体を持つ霍篤と比べると、華奢で少し小柄にも見える。ゆったりとした足取りで自分達の方へと近づいてくる、背中まで覆い隠すほどに長い髪が彼女が歩く度に柔らかく揺らされる。
霍峻が急に畏まった姿勢を取る。霍篤が自分に視線を投げてきたことで、彼女が目的の人物だと察する。
「貴方は私の名前を知っているだろう。しかし初対面の相手には名乗るのが礼儀だ、だから名乗らせて貰うよ」
そう云うと彼女は姿勢を正して、自らの胸に手を当てる。
「姓は劉、名は巴。字は子初。水鏡女学院で歴代最高の成績を収める英才で、在学期間は僅か二年。秀才揃いと知られる女学院の先輩方をごぼう抜きした結果、これは手に負えぬと水鏡先生から特別に飛び級での卒業を許された稀代の天才とは私のことだ」
そこまで言い切った後、とはいえ、と劉巴と名乗った少女は困ったように肩を竦めてみせる。
「それは周りが付けた評判で私個人は凡百の人物に過ぎない、ただのしがない家庭教師だよ。ちなみに、馬鹿でもできる、が私の教育方針だ」
ここで劉巴が横目に霍峻を見やり、こんなでも読み書き算盤程度は仕込んである、と告げる。
霍峻は褒められたと思ったのかドヤ顔で胸を張ってみせた。
「……育てて欲しいという教え子がいれば、まあ都合が付く限り面倒を見よう。なんせ貴方は霍篤君の紹介だからね。もう教え子を抱えるつもりはなかったが多少の融通は利かせるよ」
でないとあいつが五月蝿い、とまたも霍峻に視線を向ける。霍峻は首を傾げるばかりでよくわかっていないようだ。
「いえ、家庭教師の話では……」
「詳しい話は中で聞く、客に茶の一つも出さぬとあっては礼儀に反する」
劉巴は霍峻に向けて、茶を淹れろ、と指示を出して屋敷に戻った。
どうにも癖が強い人物のようだ、と椿は霍篤を見つめる。だから言ったでしょう、と霍篤は苦笑で答えた。
この間、ずっと胸置き場になっていた常夏は少し首を辛そうにしていた。
今回で書き溜め分、なくなりました。一週間以内を目標にします。
・霍篤:
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・劉巴子初:?
水鏡女学院が誇る英才、今は家庭教師をしている。
・霍峻仲邈:
霍篤の妹、劉巴に仕える。
ps.
劉巴さん
【挿絵表示】
霍峻ちゃん
【挿絵表示】
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
5.劉巴子初
儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・?:
仮の名は
・劉巴子初:?
水鏡女学院が誇る英才、今は家庭教師をしている。
・霍峻仲邈:
霍篤の妹、劉巴に仕える。
今生きていることに価値を見出せなかった。
生命活動を続ける為に生産的な行動を取らざる得なかったので家庭教師として働いているが、惰性で人生を過ごしていると言っても過言ではない。まだ二十歳にもなっていない御身分で言うべきことではないが、昔はもっと精力的で活動的だったと認識している。まだ見ぬ未来には輝かしい名誉と地位があったはずで、それは順調に登っていけば手に入れられていたものだった。
それがどうしてこうなってしまったのか、自嘲せずにはいられない。
手が届いたはずの輝かしい未来は掴む前に指の隙間から零れ落ち、気付いた時には黄金色に輝く水溜まりに興味を持てなくなっていた。
勿体ないという気持ちはある、あの時もっと利口に生きていればという想いもある。しかし、もう自分は、地位と名声、金銭に嘗てほどの興味を持てなくなってしまっていた。自分の興味が変わる前に根付いた価値観が、お前は間違えたのだ、と訴えてくる。まったくもっての正論で、その通りだとも、と苦笑する他に術がない。
控えめに云って、自分は天才の一人だ。そう評さなければ、世に蔓延る凡愚諸君に失礼だった。地べたを這いずるように研鑽を積み重ねている者達に申し訳が立たない。才能の壁に阻まれると分かっているのに、それでも努力し続ける者達には敬意を抱かずにはいられない。天才の自分には無駄なことに人生を費やせる者達の気持ちが理解できなかった。
世の中には超えられない壁というものがある。
そして己の才能に胡座をかくばかりで努力をして来なかった自分は、壁を前にした時、早々に努力することを諦めてしまうことになった。優れた頭脳が立ち向かっても無駄だと結論付ける、確かにそうだ、と心が納得する。否定もせずに壁から目を背けた結果、嘗て抱いた情熱と野心は失われていった。そして家庭教師を続けている内に、今の生活も悪くないと感じ始めている。
満足はしていない、でも仕方ないと納得はしている。まだ心の奥底で何かが燻り続けているのを感じるが、湿った落ち葉が火種を蓋して表に出てくることはない。落ち葉の隙間から煙が上がって心の内側を窮屈で埋め尽くそうとしても、軽く息を吸い込んでから吐き捨てるだけで気持ちは落ち着いた。
夏が終わり、秋真っ盛り、ふと焼き芋が食べたいと思って、従者に落ち葉を集めさせる。
うぅ、寒い。と身を震わせて背中を丸めること数分ほど――騒がしくなってきた外の様子を感じて、のっそりと体を持ち上げる。
自分の姓は劉、名は巴。字は子初。真名は
まだ湿り気の残る心では燻る熱意は燃え上がらない
†
此処は荊州襄陽郡、その都市部。
自らの荘園が賊徒に狙われていると知った
部屋に上がる時、
目的の人物である劉巴に促されるまま椅子に腰掛けると、あまりの座り心地の良さに驚いた。見開いた目の端で、劉巴がにんまりとした笑みを浮かべてみせる。いやしかし、これはどや顔しても許される出来栄えだ。腰を痛めずに何時間も読書を窘めてしまいそうだった。使うべきところにお金を費やす、そのことを改めて思い知らされる気分だ。
とりあえず、後で何処で手に入れられるのか聞いてみようと決意する。
「どうぞ」と、霍峻が四人分の御茶を机に並べる。
劉巴、椿、霍篤、常夏――椅子の腰掛ける四人に白い湯気の立つ茶が配られた後、茶請けの砂糖菓子が小皿に並べられる。それを見た劉巴が咎めるように従者の霍峻を見つめたが、当の本人は素知らぬ顔で雑に口笛を吹いてみせる。その従者らしかぬ態度に劉巴が大きく溜息を吐き捨て、茶を啜る。そしてまた横目に霍峻を見つめるも、その頃にはもう霍峻は姉の霍篤を見つめるのに必死で主人の視線に気付くことすらなかった。
そんな主従の様子を眺めながら茶を啜る。そして、成程と納得する。香りの時点で想像できたことだが、茶葉は最高品質の物が使われているようだった。茶の淹れ方も素晴らしい、少なくとも官僚時代から一度も味わったことのない美味しさだ。この分では砂糖菓子の方も高価なのだろうと思った。
横目で隣に座る常夏を見ると、とても幸せそうに口元を綻ばせてる。
「良い趣味をしています」
素直な感想を零すと「まあね」と劉巴はぶっきらぼうに返してきた。
さてはて、
自分の目の前に座る女性、劉巴は家庭教師として名を知られている。
襄陽郡では最も腕のある教師という評判を持つが、その履歴よりも注目すべきは水鏡女学院を二年で卒業したという点だ。まだ荘園の経営が軌道に乗る前、農業に関する資料を得るために同女学院で講師を務めた経験を持っているが、その生徒達の学力は決して低いということはなかった。洛陽の太学でも充分にやっていけるだけの実力があり、その中には今すぐにでも官僚として働けそうな者もいるほどだった。
その水鏡女学院では入学から卒業まで六年間の勉学に励むのが通常であるが、それを彼女はたったの二年間で卒業したと云うのだから彼女が規格外であることがよく分かる。そんな彼女が凡百の範囲にあるとは、とてもじゃないが認められない。
ともあれだ、今この場で大事なのは彼女が心に闇を抱えていることではない。それだけの能力を持っている事が重要である。
茶を啜る、口を濡らして滑りを良くする。頭を切り替える。
その頭脳を借りるために今日は訪れたのだ。
「今回、劉巴様のところに伺ったのには……」
「そうだな、そろそろ話を煮詰めるとしようか」
劉巴は大袈裟に両手を広げると満面の笑顔で椿の言葉を遮った。
「さあ私が見る新しい教え子は誰かな? 見たところ、そこの可愛らしい少女かな? それとも、この場に居ない? 言い難い手合いの相手かな? 安心してくれて良い、どんな問題児だろうが人格から矯正、もとい教育してやるし、頭の悪い奴の扱いには慣れている」
にやりと角度を上げた口から早口で捲し立てるように告げられる言葉の数々、されども相手を見下すような両目は笑っていない。その姿に「またか」と呆れる霍篤とは別の印象を椿は得る。これは恐らく忠告で、踏み込むならば相応の覚悟を持てと挑発している。そして自分は止まれない、何故なら背負っているものがあるためだ。だから彼女も
「いや、用件は家庭教師ではありません」
踏み込んだ。
「……ほぉう?」
劉巴が片目を見開き、相手を見定めるような視線を向けてくる。
きっと彼女は性格の良い人物ではない。この短いやり取りでも理解はできた、それでも悪人ではない。何故ならば霍篤が彼女のことを嫌悪していない、霍峻が彼女を慕って仕えている。そして奴婢で悪意に敏感なはずの常夏が拒絶などの反応を見せていなかった。
ならば何も問題はない、何故ならば彼女には他人の話を聞く意思がある。
大事なのは礼儀作法、
相手の家に入れてもらう時に失礼しますと言うように、食事の前にはいただきます、食事の後にはごちそうさまと言うように、誠心誠意を込めて事に当たれば良い。
彼女にはそれが頗るよく効くはずだ、そして自分のやり方でもある。
「私は……」
「ああ、分かっている。分かっているとも。貴方が私に求めるのは、この頭ということだね?」
笑顔はそのまま、劉巴は自らの頭をトントンと指で叩いてみせる。
「色々と言いたいことはあるが……まあ、良いよ」
劉巴は仕切り直すように茶を啜り、とはいえ、と口を開いた。
「私が貴方に礼儀を払っているのは、霍篤の知り合いだからという点にある。霍篤が貴方に私を紹介したのは見れば分かる、だから私も霍篤の顔を潰さないために歓迎している」
その上で、と彼女は語気を強めた。
「君は私に何を願い出る?」
問いかけられる。
声色は冷たく凍り、その三白眼は細められた。薄っすらと浮かべる笑みは挑発的で攻撃的、ひぅっと隣に座る常夏が小さく悲鳴を上げた。霍篤は相手の様子を窺うように無言で睨み返している。その急な主人の変化に対して、気にも止めずに姉の霍篤を幸せそうに見つめているのが霍峻である。さあ渾身の茶を一杯、ぐいっと冷めない内に飲んでください、と期待いっぱいの眼差しを向けていた。
明らかに一人だけ空気を読めていないが、あれは無視して構わないと椿は劉巴を見定める。
「……どうか私に賊徒から荘園を守る手立てを授けてください」
礼儀に則るならば、頼み事をする時は誠意を見せるべきだ。
そう考えて机に両手を着き、頭を下げること数秒――えっ? という間の抜けた声が耳に入った。
ゆっくりと顔を上げると三白眼が訝しげに
「そういうことならば、私の頭脳なんて必要ないではないか」
溜息混じり、呆れた顔で劉巴が告げる。
「
その言葉に霍篤の方を振り返ると彼女は困ったような顔で首を横に振る。
「そこまで私の武は高くありませんよ。森の中であれば、あわよくば……といった程度ですね。
「そりゃもう
菊姉様のためならば、と両手をバッと広げた霍峻が悦に浸る。
そんな妹の姿に霍篤は苦笑いを浮かべていた。
「此奴は馬鹿だが、荒事は得意だから安心すると良い」
劉巴が補足すると「ああ、少し待って欲しい」と何かを思いついたように棚から紙と筆を持ってきた。
そして丁寧で読みやすそうな文字で文章を書き綴り、最後に独特な字体で自らの名を刻んだ。そして「ついでだ」と悪戯っ子のような笑みを浮かべた彼女は小さな紙に単語を一つだけ記して丁寧に折り畳んでみせる。
「霍峻は勝手に付いて行くだろうが……」
「当然ですよ」
「……まあ私は君達に付いて行くつもりはない、その代わりと云ってはなんだが知恵袋を紹介してあげるよ。これが紹介状だ、小さい方の紙は奴がどや顔を決めた時に手渡してやって欲しい」
二枚の紙が椿に手渡される。小さな紙に書かれた単語も彼女が言っている意味も椿には理解できなかったが、まあ劉巴の楽しそうな顔を見る限り、特に深い意味はないと思って快く頷き返した。
「それで何処に行けば良いのでしょうか?」
紹介状を含めた紙二枚を振袖に入れながら問いかけると「黄家は知っているな?」と劉巴が確認を取り、椿が首肯する。
黄家とは襄陽三名士の呼ばれる名家の一つだ。現在の当主は黄承彦、荘園を始めたばかり頃に農業が上手くいかなくて頼った相手である。水鏡女学院の存在を教えて貰って、紹介してくれたのも彼女だった。
荘園の経営が上手くいってからは足が遠のきつつあったなあ、と椿は罰の悪そうな笑みを浮かべる。
「黄承彦様とは知った仲です。もしかして知恵袋というのは彼女のことでしょうか?」
彼女は自分よりも年上の存在であり、年齢相応の経験によって裏打ちされた知恵にはよく助けられた。
しかし劉巴は首を横に振る。
「今回、頼るのは黄承彦殿ではなくて、その娘だよ」
その言葉に「はて?」と椿は首を傾げてみせる。
彼女の年齢を考えれば、娘の一人や二人、居たとしてもおかしくないが屋敷で見たことがない。そもそも子供が居ないのか、屋敷から出て自立しているのか、まあ大して興味を持っていなかったので気にも留めたことがない。ただ居ると知れば、どういう子なんだろう、と思う程度には知人に興味を持っていない訳でもなかった。
先を促すように劉巴に視線を向けると、彼女は頃合いを見計らったように話を進める。
「アレの名は月英と云う、見てくれは悪いし、性格にも問題を抱えているが才知は確かだ。私が見てやった生徒の中では最も優れているよ」
しかし、と劉巴は付け加える。
「アレは所謂、引き篭もりと呼ばれる人種でな。世間を知らないが故に視野が狭いところがある、是非とも表に連れ出してやって欲しい。私程とは云わずとも、それなりの役には立つはずだよ」
それにあれば軍師というよりも学者だからね、と劉巴は椿を見つめる。
この時に漸く最初から相手は自分のことを知っていたと気付いた。考えてみれば、霍篤と霍峻の繋がりがある以上、自分の情報が伝えられていても可笑しくはない。なんとなく面白くないな、と思いながら霍篤を横目に見ると、彼女は茶請けの砂糖菓子を口にしながら不思議そうに自分を見返してくる。次に霍峻を見ると露骨に目を逸らされた。
「でもでも御主人様って、近頃は週に二日しか仕事をしていませんよね?」
話題を切り替えるように霍峻が声を上げると「蓮葉は何も分かっていないな」と劉巴が得意顔で答える。
「私は常日頃から生徒の教育方針や内容について、考えているのだよ。つまり今も仕事中ということだ」
郎らかに述べる劉巴を、霍峻は胡乱げに見つめる。
丁度、茶請けを食べ終えた頃合い。ここまで助言を与えてくれた劉巴に椿は深々と頭を下げて感謝を述べた。すると劉巴は「礼なら霍篤に言うんだな」とにべなく答える。それでもやはり彼女に感謝をするべきだと思って、改めて頭を下げると「何度もやめてくれ」と劉巴は困ったように笑ってみせた。
それから椿達三人は霍峻の案内で屋敷から出る。
「私は少し準備をしたら荘園の方に直接、向かいますよ」
門前で霍峻と別れて、次の目的地である黄家まで足を運ぶことになった。
†
「行ったか」
門の閉まる音を耳にした劉巴こと
自分に智謀を求めて、屋敷に訪れる輩は少なくない。今回のように知恵だけを貸す時もあれば、県令や太守、荊州刺史の王翳から仕官を望む申し出を受けている。それも結構な好条件、本格的に家庭教師を続けていた時と比べても、十倍以上の給金を提示されたこともある。しかし、その悉くを自分は断り続けている。
それは理由と呼ぶには余りに陳腐な感情が足を止めさせるためだ。
「行きたいなら行けば良いのに、そういうのが好きな癖にね」
つい先程まで劉表達を送り出しに向かっていた小生意気な従者は何時の間にか居間まで戻ってきていた。普段は足音を立てずに動くので急に現れることが多くて心臓に悪い。その癖に街中では人混みに紛れる時は気配を絶たず、足音や布擦れの音を立てるのがなんとも小憎たらしかった。
「今回は私の出る幕ではないだろう」
「まあね、私が行ってチャチャっと退治して来ますよ。他で暴れるならまだしも
「お前の姉好きは昔からだが……まあ、なんというか極まってるよ」
呆れ混じりに告げてやると、当然、と
「世の中、姉が嫌いな妹がいるものですか」
「いや、それは結構、居ると思うけどな」
最初、
このまま姉に付いて行かれても不思議ではない、使い勝手が良いので少し残念に思うだけだ。
「まあ御主人様が面倒臭いのは知っていますけどね。それじゃ出掛ける準備をして来ますよ」
そういうと蓮葉は嘲りながら部屋から出ていった。
私の出番はまだ先だよ、と強がりながら湯呑みの底で僅かに残った茶を飲み干した。
自分が家庭教師を始めたのは最初、お偉い様に渡りを付けるためだった。
あの時はまだ野心を胸に抱いていたし、自分が天下を差配する程の傑物であると信じていた。実際、自分は天才であるし、戦国乱世の御時世であれば、国家方針に意見を出すことが許されるだけの才覚はあると自負している。
ただ才能だけを支えに生きてきた自分は思っていた以上に軟弱者だったようで、自分以上の才覚を前にした時に心が折れてしまった。
それからはもう駄目だ。上を目指すことに対して、情熱を燃やせなくなった。意欲よりも先に諦めが出る。才覚で劣る者が努力をしたところで、より才覚がある者が努力を始めたら追いつけなくなるのは当然の道理だ。そう言い訳をしてから数年が過ぎている。一芸に特化すれば生き残る道もあるかもしれないが、そういう生き方を良しとする程、自分は人間ができる訳でもなければ割り切りも良くなかった。かといって野心が完全に失われた訳でもない。
胸の奥に燻り続ける情熱、霧状の小粒な雨が降り続ける心象世界。霧雨に阻まれながらも太陽は空にある、しかし世界を乾かすには程遠い。
未だに湿り続ける心では、如何なる想いは燻り続けることになる。
書き直し、そして時間がかかってしまい申し訳ありません。
文章が書けない時は本当に書けない、思っていた以上に時間がかかってしまいました。
徐々に調子を取り戻していきたいと思います。
あと三話で一章が終わる予定です。
近頃、恋姫二次の黒狼伝を楽しませてもらっています。
わんわんお、わんわんお!
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
6.襄陽黄家
儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・?:
仮の名は
劉巴から受け取った紹介状を懐に入れた
隣には手綱を操る霍篤が腰を下ろしており、膝上には
今、向かっているのは襄陽黄家の屋敷になる。黄家とは地元で有力な豪族であり、抱える荘園の規模は荊州で最も大きいと言われている。それ故に抱えている奴婢も多く、その数は千を下ることはない。新参者の椿とは文字通りに桁が違っており、彼女が住む屋敷も椿の五倍以上と比べ物にならない。
そんな格上を相手にすることは正直、気後れしてしまうのだが――でもまあ官僚時代に霊帝や大将軍と同じ場所にいた時のことを思えば、この程度の事で臆すわけにもいかない。ましてや襄陽黄家の当主である黄承彦とは、よく知った仲である。荘園を運営する上で色々と御世話になることが多く、そのことに対して、まともな恩返しができていないことに気を病むことが増えた。おかげで前に顔を見せてから三ヶ月以上も間が空いてしまっており、そのこともあって尚更に顔を合わせ難かった。
とはいえだ。行かない、という選択もない。決して会いたくないという事はないが、ただひたすらに会い難かった。
悶々とした想いが胸の奥に疼き出した。それを少しでも抑え込むために椿は常夏を後ろから抱き締める。
時間は過ぎる、距離は縮まる。世は無情なり。
目的地に近付くにつれて、憂鬱な気持ちが募るばかりだった。このまま延々と辿り着かなければ良いのに、という本心からは望んでいないその場凌ぎの考えが脳裏を埋め尽くすが――運良く事故が起きることもなく、無事に襄陽黄家の抱える荘園まで辿り着いた。
此処は椿の抱える荘園とは比べられない程に広大であり、草木を開拓した田畑は見事な地平線を形成している。道すがらで見かける奴婢の数も多く、皆が精力的に働いており、痩せ細っている者なんてほとんど居なかった。その奴婢達の手に持つ農具が金属製であることから襄陽黄家の財力の膨大さには驚嘆する他なく、また武具としても活用できる金属製の農具を奴婢に扱わせている度量や人望には感心する他にない。川辺では野菜や衣服を洗っている光景がよく見られる、新鮮な野菜に丈夫な衣服、それだけでも下手な良民よりも彼らが良い暮らしをしていることが分かった。
ここに来る度に思うことであるが、襄陽黄家の荘園はそれだけで一つの小さな国であるように感じられる。
田畑の横にある道を少し歩き続けると大きな屋敷が見えてくる。
玄関前では侍女が箒を手に掃除をしているところであり、彼女は椿達の姿を確認すると慌てた様子で屋敷の中へと駆け込んでいった。その間に馬車を玄関前に付けて、椿達は馬車から降りる。「劉表様、ようこそおいでくださいました」と頃合いよく侍女長が出迎えてくれて、屋敷の中に入るように促される。霍篤は馬車を厩近くまで送ってから追いかけるとのことであり、椿と常夏の二人が先に屋敷に上がることになった。
屋内は全面板張りで土足厳禁だ。玄関口で内履きに履き替えて、客間までの案内を受ける。
通された客間には素人目にもわかる高価な調度品の数々が飾られており、床には毛皮の絨毯が敷かれている。膝上程度の高さしかない質の良い机、その側に置かれた長椅子に腰を降ろすと座面が沈み込んだ。確か、中には羽毛が詰め込まれているだったか、相変わらず不思議な感触だった、お尻を優しく受け止めて包み込んでくれているかのようだ。家にある敷き布団よりも柔らかく、寝やすい気がする。
右を見ても、左を見ても、高級感に溢れた部屋に改めて格の違いを思い知らされる。
客間というのは御家の格を分かりやすく示すものだ。そのため地位を持つ者は交渉事で相手に見縊られないようにすつために見栄でも客間を飾り立てる必要が出てくる。おかげで客間と玄関は豪華であるにも関わらず、実際は生活費を切り詰めるような貧相な暮らしをしている豪族も珍しくない。しかし襄陽黄家の財力は文字通り桁が違っており、あるもので適当に揃えた、と屋敷の主人である黄承彦が云っているのだから木っ端豪族とは根本的に感覚が違っている。
劉巴の屋敷で淹れて貰ったものと遜色ない茶を頂きながら、その襄陽黄家当主の登場を待った。
「私が来たっ!」
バンッと唐突に客間の扉が開け放たれた。
見た目は十二歳程度の少女が両手を突き出したまま、ふんすと楽しそうに鼻息を立てる。
ただ威勢が良かったのは最初だけで「やっほー、元気してた?」と眠そうな目を椿達に向けながら緩い調子で問いかけた。
彼女こそが襄陽黄家の当主、黄承彦その人である。
ええ、まあ、と椿が曖昧な笑顔で返すと、黄承彦は数瞬の間を置いて「久しぶりだねえ、顔が見れて嬉しいよ」と椅子に腰を沈める。数ヶ月ぶりに見る彼女の姿は、もう実年齢が三十路近いと云うのに相も変わらず若過ぎる。
「むぅっ……今、失礼なことを考えたでしょ?」
黄承彦が眠たげな目を細めてギラリと光らせる。
「いえいえ、若さの秘訣を教えて欲しいなあと思っただけですよ」と愛想笑いで嘘ではない言葉を返した。
黄承彦は胡乱げに椿を見つめた後、「まあ良いんだけどね、事実だし」と溜息を零した。
「若さの秘訣が知りたければ、閨でも共にする? 今の私は未亡人だから構わないよ」
あっけらかんと問われる。
幼い見た目ではあるが、その落ち着き方は外見不相応なので年齢差による違和感は少ない。ただ常夏の方には効果があったようで、あわあわと不安げに視線を黄承彦と椿で行き来させていた。数年前ならいざ知らず、それなりに経験を経た椿は特に慌てるようなこともせず、「今日中には戻らなくてはならないので」と丁重に断りを入れる。
あ、そう? と黄承彦は素っ気なく答えると顔を真っ赤にした常夏に視線を向けた。
「
「私も若いままではいられませんので」
「近頃は顔を見せてくれないし……君の御主人様は可愛くなくなったよね?」
「あ、はい」
オロオロしながら御主人様に救いを求める常夏。気不味くて二人から視線を逸らすと、黄承彦はケラケラと悪戯っぽく笑ってみせた。
「なにはともあれ近くまで来たのなら、用事がなくっても顔くらいは見せて欲しいな。今の御時世、何が起きてもおかしくないんだからさ。連絡が途絶えるとおばちゃん心配だよ?」
黄承彦は振袖から紙に包んだ飴を取り出しながら告げる。
耳が痛いばかりの言葉に椿は項垂れる他になく、対して黄承彦から飴を頂いた常夏は満面の笑みを浮かべていた。
それからも黄承彦からの質問は続き、御飯はちゃんと食べてるの? 身体の調子は悪くないの? 読書が好きだからって夜は寝れないと駄目だよ? と何処の母親のような心配事に椿は「ええ、はい、大丈夫ですよ」と苦笑混じりに相槌を打ち続ける。
こんな感じになってしまうから顔を合わせ難かった。でも心配されることに疲れはしても嫌ではないのだ。身から出た錆ではあるが心苦しいので、ついつい後回しにしてしまうだけの話である。
軽い尋問のような質問攻めが十分近くも続き、漸く黄承彦が運ばれてきた茶を啜って一息吐いた。
「で、今回の用事は?」
その咎めるような声色に、椿は息が詰まるのを感じた。
用事はない、と此処で言えたならば気も晴れるのだろうが、それを今する訳にもいかずに申し訳なさだけが積もり続ける。
常夏は飴の虜になっているので、役に立たない。
「あ〜あ、
「……近い内にまた寄らせてもらいます」
「うんうん、是非そうして頂戴。こう見えても私って寂しがり屋なんだよ?」
それで漸く溜飲を下げてくれたのか、黄承彦は満足げな笑顔を浮かべてみせた。
「もし来なかったら、お仕置きがご褒美になるくらいお仕置きして、自分から来たくなるようにしてあげるからね」
此処は荊州でも有数の豪族、襄陽黄家の荘園。つまりは治外法権だ。
木っ端豪族の一人や二人、この土地で消息を消したところで誰も動いてはくれない。
故に椿は冷や汗を流しながら、必ず、と振り絞るように答えるしかなかった。
「合意を得たところで用事を済ませちゃおうか。良い歳した女が説教で耳に
合意ではない、と訂正したくなったが押し黙る。代わりに彼女の言う通り、用件を伝えようと口を開いた。
「今回は黄承彦様にお願いがあって来ました」
椿は姿勢を正しながら真っ直ぐに相手を見つめる。
「いつも言っていることだけども私個人で協力できる範囲なら手伝うけど、黄家の力が必要な時は応相談だよ」
黄承彦もまた椿を見つめながら応じる。
彼女相手に小細工は通用しない、話術を弄するような間柄でもない。今に限らず、騙すような真似は得策ではなかった。
だから素直に真正面から切り出すことに決める。
「ええ、大丈夫です。して欲しいのは、とある人物との顔合わせです」
その言葉に黄承彦は「んー?」と渋い顔をしてみせる。
「景升ちゃんのことは信用しているけどねえ……どうするかは相手と内容によるよ?」
「そこは大丈夫ですよ。黄家の当主としてではなく、黄承彦様個人にお願い申し上げています」
「えー、んー……?」
黄承彦が年不相応、外見相応に首を傾げてみせる。
「ちょっとわからないかな、とりあえず誰を紹介して欲しいの?」
彼女には珍しくまだ困惑しているようだった。
これまでの話の流れを考えると、椿の荘園が賊徒の脅威に晒されているのかもしれない。だが黄家の支援を受けるつもりは最初からない、というよりも黄家は私兵をほとんど抱えていなかった。都市部付近に荘園を抱えた襄陽黄家は襄陽太守や県令との仲が良く、襄陽黄家が外敵に脅かされると襄陽の正規軍が優先して派兵される手筈となっている。その代わりに襄陽黄家が軍隊を維持するのに必要な食料の半分以上を肩代わりしている。
という事情を持っていることから戦力という点で黄家に頼ることは得策ではなかった。精々、太守や県令に意見を具申してくれるのが精々であり、そのための対価を支払えるだけの能力が今の椿にはない。
椿は小さく息を吐くと、自らの要望を伝えるために改めて口を開いた。
「どうか私に貴方様の娘である月英を紹介してください」
「ん? んん? んー、えーっと? えぇー……」
黄承彦は表情豊かに困惑すると、じっとりとした目で椿を見つめた。
「娘婿が娘よりも自分の方が年齢近いってのは、ちょちっと複雑なんだけど?」
「はい?」
いやいや、と椿は首を横に振る。
確かに、今の御時世においては同性同士での結婚は珍しいことではない。
陰茎を生やすことができる不思議な蜂蜜を使った薬が市場に出回っており、ある程度の資金力を持った存在であれば入手することは難しくない。また男性が子供を孕む薬がまだ開発されていないことから、富裕層の間では男性よりも女性の方が優れているという認識があり、女性同士の婚約が忌避されることはなかった。元より漢王朝の成り立ちからして、男性の項羽を女性の劉邦が打ち破ったとされているので、古い家柄であればある程に女尊男卑の思想は根強く残っている。
逆に庶民の間では、その薬を入手する困難さによって庶民が手に入れることは難しいことから女尊男卑の思想は薄れている。氣を習得しなくては、女性は男性と比べて体力が劣る。そして氣とは所謂、特殊技能に位置付けられるものであり、誰も彼もが簡単に扱えるものではなかった。そうなると体力がある男性の方が仕事場では重宝されるようになるし、庶民から兵を募る軍隊では男性主体で構成されるようになるのも必然となる。そうなると必然的に女性は家を守る存在になるというものだ。
そういう事情があって、庶民では異性同士の結婚が多かった。
さておき、と椿は冷静になった頭で口を開いた。
「違います」
いくら同性同士の結婚が珍しくないからといって、それは発想の飛躍というものだ。
「劉巴様に貴方様の娘を紹介して貰いました。これがその紹介状になります」
さっさと話を進めようと振袖から紹介状を取り出して、黄承彦に差し出した。
「
彼女は訝しげに受け取ると、ふんふん、と紹介状に目を通すと「あい分かった」と頷いた。
「娘を連れて行ってもいいよ、偶には外の空気も吸わせてあげないとね」
そう言うと黄承彦は、パンパンと手を叩いてみせた。すると扉の向こう側で待機していたと思しき侍女が客間に姿を現して「お呼びでしょうか?」と侍女然とした仕草で問いかける。
「景升ちゃん達を離れまで案内してあげてよ」
黄承彦は紹介状を侍女に手渡して、答える。
それから椿達の方を見つめると「無理に引っ張り出しても良いからね」と軽い調子で付け加えた。
そういえば引き篭もりと言われていましたっけ、と椿は思い出しながら頷き返す。
侍女に案内された離れは椿達が住む屋敷と同じほどの大きさがあった。
財力の違いをまざまざと見せつけられたような気になるも、今の生活に満足をしている椿に嫉妬はない。というよりも研究のために取れる時間と環境を確保することができれば、それ以上の財力なんて不要だった。私用では研究以外に資金を費やせるものはなく、仕事に追われる人生は官僚時代で事足りている。
さておき、途中で厩に馬車を預けに向かった霍篤と合流した椿達は侍女に連れられて屋敷の中へと入る。
その時、侍女が扉を叩いたが屋内からの返事はなかった。
「いつもの事です」
侍女は慣れた様子で外から鍵を開けた。
中は母屋と同じ板張りの床が敷き詰められている、玄関口で内履きに履き替えてから屋敷に上がり込んだ
それから廊下を歩いているとカチャカチャと何かを弄る音が聞こえてきたが、侍女は特に気にした様子はない。この音に薄気味悪く思ったのか、常夏は合流したばかりの霍篤の服の裾を摘んで挙動不審に辺りを見渡している。
月英が居るという部屋は屋敷の奥の方で、部屋の前まで来ると音は扉の先から聞こえていることが分かった。
侍女が数度、扉を叩いたが返事はない。小さく溜息を零して、侍女は勢いよく扉を開け放った。篭った空気が部屋の中から噴き出した。顔を顰めながら部屋の中を覗き込むと床一面には何かの部品のようなものが乱雑に置かれており、壁には等身大の人形が三体も掛けられている。他にも小さな人形が幾つも棚に並べられており、所狭しと置かれた台座の上には見たこともない工具が置かれている。
そして部屋の奥には、少女がボサボサの髪を揺らしながら机に向かって、齧りつくように何かの作業を行なっていた。
「御嬢様、御客様ですよ!」
侍女の張り上げた声に「ああ、うん……」と漸く少女が反応を見せる。
「……誰?」
のっそりと体を起こして振り返ると「えっ、うえっ!?」と少女は驚きに目を見開き、「ふぎゃっ!」と椅子と一緒に地面へと転がり落ちてしまった。
「ひ、ひぇっ……どうして? なんで? 知らない人が居るの? 連れてくるなら前もって言ってよぉ……」
少女は情けない声を上げながら四つん這いで寝台まで体を引き摺って、くるんと布団に丸まる。
その様子を見守っていた霍篤は呆気に取られており、その彼女の服の裾を摘んでいた常夏は呆然としている。椿自身もまた目の前の光景に付いて行けていなかった。
その中で侍女だけは見慣れた光景なのか、溜息を吐くばかりで動じる様子はない。
「……劉巴様はどのように彼女の交流してたのでしょうか?」
思わず侍女に問いかけてみる。
「一度、劉巴様が布団に火を付けられてからは、二度と彼女の前で布団に逃げ込むことはなくなりましたね」
何食わぬ顔で返された言葉に、どう反応すれば良いのか分からなくなってしまった。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
7.黄月英 ―黄月英
黄承彦の娘。引き籠り。
私にはこれしかなかった。
どう控えめに見ても私が屑という事実に変化はなく、何をやったとしても及第点に届くことはあり得ない。
愛想を振りまくことも気恥ずかしくてできないし、相手に合わせるなんて器用なことも難しかった。人間関係が面倒と思うようになったのは何時からだったか、親の目に怯えるようになって顔を合わせることすらもできなくなったのは何時からだったか。呼吸をしているだけでもしんどくて、心臓の鼓動は心の軋む音のように思えて仕方なかった。生きている、ただそれだけが辛かった。
また私は天からも見放されているようで運もない、何をやっても上手くいかない。どれだけ準備をしていても何処かで必ず綻びが生じて失敗してしまうのだ。奮起しても、改心を試みても、結果として現れたことは一度もない。努力を褒められたこともあるけども、結果を出せない努力に何の意味があるのか分からない。
こんな私ではあるが信心深くはあるようで、神の存在は認めている。それは認めたところで損はなく、認めなかったところで得はない、という極めて消極的な思考が起因となっている。やっぱり私は信心深くはないかもしれない。まあ神が存在していたとしても、神が誰か個人を救うために動くことはないと思っている。何故ならば、神は人間という種に興味を持っていても、個人としての人間を認識することはないためだ。地図上から眺めた光景に人の営みが映らないように、頭上遥か高くから見下ろす神の視点は誰か一人を追いかけることに向いていないのだ。それ故に神が木っ端人間の一人に救いを与えるなんてあり得るはずもない。あったとしても気紛れに過ぎず、たまたま目に付いたからとかそんな理由だ。そんな訳で神が何もしないからといって、八つ当たりするのも間違えていると思ったりする。だからまあ私の人生は私だけのものだと思いはするのだ。
人生どん底なのは当たり前、心は何度も折れている。地べたを這いずるように生きている。それは不幸と呼ばれるものかもしれないが、それは決して不幸と呼ぶに相応しくない。だって、何故ならば、それは私にとって当たり前なのだ。心が折れて、膝を付き、胸が苦しいのは日常に過ぎない。
私がどれだけ苦しもうが、辛かろうが、世界は変わらずに回り続ける。もしも仮に私自身に価値があるとするならば、きっと世界は無様な生き方をしている私を許しはしない。こんな生き方をしている私は大なり小なり世界へ悪影響を与えているはずなのだ。それなのに世界は何事もなく回り続けている、そうある時点で私には価値がないのは証明されたようなものだった。
私は私のことを人間として終わっていると考えている。人間であることに資格が必要というわけではないだろうけども、少なくとも私が私自らを評価するに辺り、人間失格の烙印を押すことに躊躇することはない。だって、何故ならば、私は人間として欠陥を抱えている。周りの皆が意識せずにできていることが私にはできないのだ。誰かと目を合わせるだけで辛い、対話なんて吐きそうになる。同じ部屋に誰かがいるなんて目眩がする。
こんな私が真っ当に生きることは難しい、いやできない。できるはずがないのだ。試みる気すら起きやしない。
だから薄暗い部屋に閉じ篭って、部品を弄り続ける毎日を送っている。目の前の壁には設計図、右手の壁には絡繰人形が三体吊ってあり、その直ぐ側には調整用の工具を詰め込んだ箱を置いている。私の指先は傷付き火傷の痕も残っている。連日連夜の不規則な生活に肌は荒れる、髪も傷んでる。こんな有様では嫁の貰い手もいるはずもなく――いや、しかし待て、そもそも私のような欠陥人間、失格者に嫁ぎ先なんてあるはずがないのだ。だから、この身が傷付き荒れようとも気にしない。
見てくれが悪い、ついでに性格も悪い。陰険で陰湿、口下手に挙動不審、そして情緒不安定と数え役満も待ったなしだ。こんな私を愛してくれる者なんて、世界中の何処を探したっていないに決まっている。というよりも私が私自身を愛していないというのに誰が私を愛するというのか。
嗚呼、嫌になる。人生、生きているだけで嫌になる。呼吸をするだけで億劫で、気が滅入る。きっと空気には毒が詰め込まれている。人間に成れた者だけが抗体を持ち、人間失格者だけを殺す毒が散布されているに違いない。
それでも手元の部品を弄り続けるのは、それしか私にはないためだ。
こうすることに価値なんてあるとは思わないけども、こうしていると他の余計なものを考えずに済んだ。人形作り、これ一つに没頭できる、没入できる。御飯を食べることすらも必要とせず、睡眠を貪ることも必要としない。ただ一つ、目の前の作業を黙々とこなすことに意味がある。そうしていられる内は嫌なことは思い出さない、思い付かない。この作業をしている時だけ私は慢性的な不幸から抜け出すことができた。
だからこそ今日も今日とて人形弄りに精を出す、人知れず、独りきり、延々と。
†
姓は黄、名は月英。真名は
突然の危機に直面した彼女は今、頭から布団を被って震えていた。
幼い頃から極度の人見知りであった彼女は誰かと面を向かって話すと吃ってしまう癖があり、何時しか誰かと言葉を交わすことを恐れるようになってしまった。それは誰かが悪いという訳ではなく、ただひたすらの申し訳なさから対話することを避け続けてきた結果、誰かと顔を合わせるだけでも緊張で気持ち悪くなるといったものだ。そして、そうなってしまうから相手に対して、より一層に申し訳なく感じて喉奥から酸っぱい胃液が込み上がってくる。
自分は欠陥を抱えている。それ自体が親に対しても申し訳なかった、毎日を生きているだけでも親の負担になっている事実がもう申し訳なさすぎて死にたくなる。自分を変えなきゃいけないと思っている、でもできないのだ。部屋を出るだけでも胸の動悸が激しくなるし、離れを出ようとすれば目眩がして、まともに立っていられなくなる。変えようとして変えられないのであれば、もういっそ死んでしまいたいし、殺して欲しいと思っている。
でも、駄目なのだ。死にたくって、何度か首を吊ろうとしても自分は臆病者で自分自身を殺しきることができなかった。何度も手首を切り裂こうとしても浅い傷を付けるばかりで死ぬには至らない。どうして自分は生きているのか、どうして自分は生かされているのか、これがもうよくわからなかった。生きているだけで不良債権、産まれてきたことが間違いだった。こんな駄目で欠陥を抱えた自分だから
もっと幸福に生きられたのに、自分のせいで不幸になっている。
「……月英さん、であっていますでしょうか?」
布団の中、真っ暗闇の中で下唇を噛んで震えていると声が聞こえてきた。
大人っぽい声がする。母様のように落ち着いた声で安心感がある、でも知らない声という事実が胃を圧迫して吐き気を催した。何時しか布団に火を点けられたことを思い出して、今回も強硬手段に出るのではないかという恐怖で涙が溢れ出す。あの人、絶対に可笑しいんですよ。布団に火を点けられたことは勿論、屋敷の入り口を土壁で塗り固めても火を放たれるし、屋内外に仕掛けた罠を見破るのは……まあ良いけど、それをわざわざ解体して拷問に活用してくるんですよ。
生み出してきた絡繰の数々は、拷問のために作ったんじゃない。もっと平和的目的のために――いや、別にただの手慰みだけど、少なくとも自分に心身を痛めつける為に作ったものではなことは確かだ。ちなみに屋内外の罠は、間違えて母様が引っかかって以来は外してある。
うー、うー、と唸りながら身を震わせていると「これは何でしょう?」とカタッと何かに触れる音がした。
「触らないでっ!」
思わず布団から顔だけ出して睨みつける。
部屋にいるのは母様の侍女の他に三人、先ず目に入ったのは背が高くて髪も長い女性だった。衣服や仕草、立ち位置からして彼女が最も立場が高い人間のようだ。そして彼女の母性の塊を頭に乗せているのは可愛らしい顔付きの少年、何故か女物の衣服を着込んでいるために一見するだけでは女性と見間違えてしまいそうだが、体付きと骨格が男性だった。それから自分の大事な工具に触れようとしているのは、小さい方の女性。馬の尻尾のように纏めた髪を揺らしながら驚きに目を見開いている。
そして、その片手には既に自分の命と同義、いや自分自身よりも価値のある特製の工具があった。
「あー、あーっ! あーっ!!」
「え、あ、いや……えっと……職業柄、気になって……」
「返せ! 私の返してっ!! 勝手に触らさないでよぉっ!!」
近くにあった頭程度の大きさのある人形を片手に取り、その背中から十個の指輪を抜き取った。
指輪には糸が付けられており、それぞれが人形と繋がっている。それぞれを指に付けると人形は生き物のように動き出した。そのまま十本の指を器用に動かして、小型人形を馬の尻尾の女性に飛び掛からせる。絡繰人形。なんとなしに嵌り、今ではもうこれしかないと思えるほどに人生を費やしてきた代物だ。
彼女の手から工具を奪い取って、それから流れるような動作で再び布団に丸まった。
護衛代わりに先程の人形を布団の前に立たせている。
「まあ可愛らしい人形ですね」
ゆったりとした声が聞こえる。先程、感じた落ち着いた声、足音で近付いてくるのが分かったから絡繰人形にシュッシュッと殴る仕草をさせて威嚇する。しかし、効果はあんまりなかったようで絡繰人形の頭を撫でられたのが糸越しに伝わった。
「男の子かしら? この子に名前はあります?」
絡繰人形が優しい手付きで頭を撫でられているを感じる。
こんな対応を取られては傷付ける訳にもいかず、ペチペチと優しく彼女の手を振り払う動作を人形にさせた。
それから、ふんっと不機嫌そうに彼女から顔を逸らす仕草を取らせる。
「あらあら、お気に召さなかったかしら?」
少し残念そうな声がした。そのことに申し訳なさを感じたが――でも、それは仕方ないことだった。この子は撫でられて嬉しいと感じるような性格をしていないのだ、そういう設定である。代わりに胸を張り、ドンと片手で叩かせた。
「……こ、この子はか、絡繰夏侯惇将軍……弐式。し、しし試作で作った小型絡繰人形……」
「からくり? かこうとん、将軍?」
「夏侯惇というのは今、頓丘県令を務める曹操の配下武将のことですね。巷では結構有名ですよ」
馬の尻尾の女性が横から口を挟んできたので、絡繰人形を操って威嚇するように拳の素振りを始めさせる。
「駄目、そうやってすぐ暴力で訴えるのは将軍のすることではありません。それに無闇矢鱈に威嚇していると小物に見えて仕方ないですよ」
そう嗜められて、少し不機嫌に思いながらも威嚇をやめさせる。代わりに腕を組んで仁王立ちさせた。
「劉表様の手にかかれば、将軍も形無しですね」
「あまり挑発しないで頂戴、それで夏侯惇っていうのはどういう人物なの?」
「最近になって名を上げた猛者ですね。曹操の逸話を相まって、その武勇が民間にも広まっているのですよ。まあ曹操の代わりに兵を率いることはあっても所詮は県令、とても将軍と呼べるものではありませんが……」
「夏侯惇将軍は……夏侯惇将軍、ですッ!」
ガバッと立ち上がりながら布団を両手で打ち上げた。
「夏侯惇将軍は弱きを助けて、強きを挫く正義の味方ですッ! 賊徒を相手にすると千切っては投げて、千切っては投げてを繰り返し、悪事を前にすれば悪即斬と斬り捨てるッ! 普段は曹操閣下に跪いて絶対の忠誠を誓う純白の騎士、巨剣を両手に巨悪を切り裂き、正義の道を切り開く……それはもう素晴らしい正義の味方!! 決め台詞は“またつまらぬものを切ってしまった”。武勇を誇らない素っ気ない態度が格好よくて素敵で惚れちゃう! 貴方の視線で私の心を鷲掴みィッ!! キャーッ!」
両手を顔で覆ったところで打ち上げた布団が頭上に落ちてきて、「ふぐっ!?」とそのまま寝台の上に丸まった。
「……あー、そっちですか」
「そっち、というのは?」
「民間伝承に伝わっている方の夏侯惇将軍ですね。夏侯惇は紙芝居といった創作の主役として扱われることも多いのですよ。それでまあ物語上の彼女――いや、彼の印象が大体、さっき彼女が言った通りです」
庶民の間では正規軍を率いていれば将軍ですし、と呆れ混じりに答える。
「曹操って女好きで有名だったわよね? 夏侯惇って男なの?」
「いえ、本人は女ですよ。ただ庶民の間では同性愛ってあんまり理解されないので、分かりやすく異性にしてあるだけだと思いますね」
「実在する人物の性別を変えるなんて、随分と思い切ったことをするわねえ。本人から怒られないのかしら?」
「夏侯家も古い家柄ですからね。たぶん怒ると思いますよ」
私が知らない世界だわ、と背が高い女性が呟いた。
自分だって現実と妄想の違いくらいは分かっている。でも現実なんて基本的に夢も希望もないんだから、妄想の中でだけでも夢や希望を見ても良いじゃないかって思うのだ。というよりも現実があまりにも辛いから妄想の世界に逃げるのだ。でもちょっと言い過ぎてしまった、張り切り過ぎてしまった。やってしまった、やらかしてしまった。いつもは舌が回らず、吃る癖にこういう時だけ、流暢に口が回るのだ。嗚呼、死にたい。恥ずかしいし、辛いし、申し訳なくて胸がぎゅうっと締め付けられる。ぎりりと胃が痛み出した。もう放っておいて欲しい、さっさと出て行ってくれないだろうか。これ以上は死にたくなる、もう死にた過ぎて死んでしまいそうだ。死にたいという想いだけで死ねてしまいそうだった。
うー、うー、と涙目になりながら呻いていると布団越しで誰かに頭を撫でられる。
「この人形、素晴らしいですよ」
唐突に優しい声で褒められてしまったものだから「ほ、ほほ、褒められても嬉しくなんてないやい!」と怒鳴り声を上げてしまった。
折角、褒めてくれたのになんてことを言ってしまったのだろうか。褒められて嬉しい気持ちもあり、でも気恥ずかしい気持ちもあり、こんな程度で褒められてもっていう気持ちがあり、もっと自分はできるのだと言ってみたい気持ちもあり、嗚呼もう死にたい、とっても死にたい! 悶え苦しんで死にそうだ、死んでしまいたい。殺して欲しい、拷問だ。神や仏に慈悲があるならば、今すぐに心臓麻痺でも起こして欲しかった。布団の中で気持ち悪い笑みがこぼれて、その度に死にたくなる。今、きっと自分は最高に気持ち悪いのだ!
もうこんなの自分は死ぬしかないじゃないか!!
「とりあえず、布団の中から出てきてくれないかしら?」
「死ねと、私に死ねと!? 死刑宣告ですか!?」
こんな気持ち悪い顔を晒せるはずがないじゃないか、外から布団を引っ張られるのを全身全霊で拒絶する。亀が甲羅に籠る時のように耐え忍ぶのだ。
「……劉表様、いっそ燃やしますか?」
そんな冷たい言葉と同時に、カッカッと石を鳴らす音を幻聴した。自分の被っていた布団に火を点けられた時のことが脳裏に思い返される。
「ひぅっ!」
本能的に布団を投げ出して、部屋の端っこに駆け寄って三角座りで縮こまる。
ガタガタと体が震えて、カチカチと奥歯が鳴った。自然と涙が込み上げてきたけども、体全身が恐怖に縛られて涙を拭うこともできない。両手で庇うように頭を抱えたまま、「もうやめてよ……お願いだよぉ……」と懇願する。それが通じる相手ではない、あの鬼畜は泣けば泣くほどに口の端を釣り上げて、くつくつと愉悦を込めて嘲笑うのだ。なにを言っても許してくれず、なにをしても止まることはない。あの鬼畜と顔を合わせるのが嫌過ぎて、屋外へと逃げ出したこともあって、洞窟の中に逃げて時は入り口で火を炊かれて、煙で燻り出された。何処にいても追ってくる、何処に逃げても見つけ出される。もう駄目だ、おしまいだ、と絶望が心を覆い尽くす。世界に神や仏に慈悲があるとするならば、どうして目の前の鬼畜が悠々と生きているのか理解できない。手が伸ばされる。今度はどんなことをされるのか、どんな嫌味を言われるのか。
目をギュッと閉じると柔らかく頭に手が乗せられた。
「大丈夫ですよ。意地悪なお姉さんは今、退治されているところです」
背の高い女性の後ろでは、女装した少年の手によって組み伏せられていた。その少年が何処となく申し訳なさそうな顔をしており、床に這い蹲った馬の尻尾の女性が不本意な顔をしているのを見て、これが演技であるということを見破る。
「そそそんな子供騙しでわわ、んっ……ぷ……わ、私が騙されると思って……ッ!!」
「大丈夫、貴方を虐める者はここにはいませんよ」
ぎゅうっと抱き締められた。母性を具現化した二つの塊を顔に押し付けられては押し黙る他になく、母様にはない柔らかい感触に心地よさを覚えた。ついでに良い匂いもする。抵抗する意思が削がれるようで、全身を脱力させて為すがままになった。
「……大きな胸って凶器ですよね」
馬の尻尾が何かを呟いたが聞こえないふりをして、その柔らかい感触を顔全体で堪能する。
そういえば母様が言っていた――胸は脂肪の塊に過ぎない、と。でも違ったのだ、胸には夢と浪漫が詰まっている。
それは現実世界における唯一残された希望のようにも思えた。
†
黄月英、つまり自分が豊満な果実に囚われてから
すっかりと戦意を消失してしまった自分は椅子に座らせられており、まるで尋問するように三方向から見つめられていた。ちなみに侍女はもう母屋の方へと戻ってしまったので今、この場に自分の味方はいなかった。
そんな自分の姿を見かねてか、真正面に座る胸の大きなお姉さんが困ったように溜息を零した。別に困らせようとしているわけではないんです、あうあうと口から情けない声が溢れるだけで言い訳一つもできやしない。嗚呼、もう死にたい。今すぐに死にたい。どうして生きているだけで、こんな辛い目に合わなきゃならないのかわからない。大丈夫なんて言われても全然大丈夫じゃなかった。死にたいからといって、今すぐに死ぬ勇気もないから辛いことが延々と続くのだ。どうして創作上の間者達が秘密を守るためにあっさりと自害できるのか理解できない。
喋ろうと思えば涙声、呼吸をするだけでも震えている。過呼吸で酸欠になりかける、それでも頭は嫌でも回り続けている。
胸に顔を埋めている間に自己紹介は終えている。
先ず目の前に座っている巨乳のお姉さんの名は劉表であり、寝台に陣取る馬の尻尾の女性は霍篤。そして下手な少女よりも可愛らしい顔をした少年は
思わず、じぃっと見つめていたせいか――撫子が不思議そうに首を傾げたので慌てて視線を逸らした。目の前には嫌でも意識してしまう巨乳があり、もう一方には怖いお姉さんである霍篤がいるので顔を向けることはできない。
必然、顔を俯けざる得なくなる。
「そ、そそそれでわた、わたっ、私、に、なななになになにをををを……!?」
「まずは落ち着きましょう」
はい深呼吸、と劉表に言われたので二人で大きく息を吸い込んで吐き出した。
なんだか、とても情けない気持ちになる。ここまでして貰わないと話一つもできやしない。やっぱり自分は欠陥人間で今すぐにでも死ぬべき人間だ。というよりも死にたい、さっさと死んでしまいたい。自己防衛なのかなんなのか、意思に反して、えへへ、ふひっと気持ち悪い笑い声が零れる。自分でも気持ち悪いと感じるのだから他者から見れば、より一層に気持ち悪いに違いなかった。
もう終わった、気持ち悪くてごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。来世はミミズでお願いします。
「えっと、その……本当に彼女で大丈夫なんですか?」
馬の尻尾が呆れたよな声に反応して、大丈夫なはずがない、と心の内側だけで叫んだ。声には出さない。だって霍篤とかいう奴は好きじゃない。話が合う気がしないし、おそらく性格的にも合わないはずだ。顔を合わせるだけでも劣等感で気持ち悪くなる。そもそも自分がこんな目に合っている原因は彼女達にあるのだから、さっさと帰って欲しかった。
「そんなことを言ってはいけませんよ」
それに比べると劉表はなんとなしに穏やかな雰囲気がある。
奴婢を抱えていることから、それなりに良い身分の人物のようだ。ただ彼女が身に纏っている装飾品を見る限り、
何気ない仕草や立ち振る舞いが様になっていることから察するに、ここ数年で襄陽にやってきた豪族辺りを推測している。商家はありえない、何故なら彼女には隙が多すぎるためだ。そういう意味では元官僚という線もない訳ではなさそうだ。洛陽の政争に敗れたか、巻き込まれたか――まあ彼女の気質から考えると巻き込まれたと考えるのが正しいはずだ。
劉表の従者と思われる霍篤が真面目なのも、きっと彼女には抜けているところが多いせいかと思われる。
「私達は劉巴様の紹介で貴方に会いに来ました」
「劉巴……先生……?」
聞いたことのある名前に思わず布団から顔を出して、周囲を確認する。良かった、火は点けられていないようだ。
「ええ、そうです。貴方ならば、きっと力になってくれると――」
「……あのど畜生でど鬼畜など腐れ先生が私になにを?」
「えっ?」
涙を流せば愉悦の笑みを零し、泣き叫べば嗜虐的な笑みを浮かべる彼女のことだ。
普段はお便りの一つも寄越さないくせに不気味すぎる。絶対、嫌がらせをするために自分に遣いを寄越したに違いない。今回、どんなことをさせられるのか、どんな嫌味を言われることになるのか。どんなお仕置きが待ち受けているのか。嗚呼、考えただけでも体が震えてくる。胸が苦しくなる、泣きそうになる。どうして皆、自分のことを放っておいてはくれないのか。自分はただ絡繰を弄り続けれさえすれば良いのだ。それなのに何故、皆して自分の邪魔ばかりをするのだろうか。
こんな人間なのだ、好かれるなんて思っていない。嫌われるってわかっているのに誰とも付き合いたくない、誰かと会話を続けるのはとても疲れるし、苦しくなる。だから誰とも話したくない。どうせ話が合うなんて思っちゃいないのだ、それに自分は自分から見ても変わっている。魅力的ではない、人間的に終わっている。周りに迷惑をかけることでしか生きていけない、同じ空気を吸っているだけでも申し訳なくなる。
来世があるならば貝になりたい。殻に篭って何も考えず、時間を無為に費やし続けて死にたかった。
「さっきの人形、凄かったわ」
急に話題が切り替わる。
言葉にしたのは劉表であった――がしかし、これは自分の興味を惹くために告げられた言葉であることはすぐに分かった。だから自分の心には届かない、響かない。むしろ警戒心を高める結果になるだけで、此処から如何様に話を持ってくるのか身構える。しかし劉表は自分から目を逸らした。その瞬間、意識に隙間が生じるのを感じる。そして劉表の視線の先に居たのは撫子、女の子よりも可愛らしい男の子だった。
主人からの視線を受けた撫子は頷き、答える。
「すごい」
……なんだろう、これはなんだろう。
「凄い」
馬の尻尾が揶揄うように言葉を重ねてきたので、咄嗟に絡繰人形を飛ばして殴りかからせた。
腕を振るった一動作、その時に動かした指は超絶技巧、幾度と行ってきた反復練習で体が覚えている。歩くのと同じように、箸を使うのと同じように、呼吸すると意識せずに行えるように、ただ殴るという意思のみを以て体が動くまでに感覚は昇華されている。突発的な行動に霍篤は無防備な頭を叩かれて、涙目になった。
周囲に気を張り続けるのは護衛の証であるが、しかし明らかに格下な自分を見て油断していたに違いない。そうでなければ此処まで綺麗に攻撃が入るとは思えない。やけに足音や布擦れの音が小さかったことや、特製の工具に興味を示していたことから間諜出身の可能性も考慮していたが――もし仮にそうであったならば、ここまで間抜けなはずがない。むしろ間諜としての素質がなかったから護衛をしているのだろうか。
まあとりあえず彼女の頭に人形を乗せて、カタカタと笑わせてみる。
うん、怖い。まるで呪われているかのようだ。
「……すごい」
目を輝かせて呟いた撫子の顔は日陰者の自分には眩しすぎて見ていられなかった。代わりに人形を操って、簡単な舞踏を披露してみせる。この程度は手馴れたもので見ていなくてもできる。というよりも指先に伝わる糸の感覚で、人形が今どのように動いているのか手に取るように分かった。最後には撫子の膝上に絡繰人形を座らせる。
「貴方はもっと自分に自信を持っていいですよ」
劉表が感心するように告げる。
いやはや、しかし簡単にできるとまでは言わないが、この程度のことは誰でも練習をすればできることだと思っている。自分には才能がない、才覚がない。底辺の人間、いや、欠陥人間であるからに底辺以下の存在だ。だからこそ自分にできることは誰でもできることだと思っている。絡繰仕掛けの人形だって、今まで誰もして来なかっただけで自分と同じように時間を費やせば、いずれ誰かが開発していたに違いない。自分は特別ではない、他と比べて欠陥がある。だから人並み以下の存在でなければ理屈が合わない。あのど腐れ先生も頭の出来は良いと言っていたが、あれはきっと自分を上げて落とす策略に違いないのだ!
しかし、すぐ隣には無邪気に輝かせた瞳が自分を照らしつけている。どうにか、あれを否定する材料を見出そうとするが、しかし勘違い以外の言葉で否定する材料が思いつかなかった。そして勘違いというのは、勘違いするだけの材料があったという事実の他ならない。そう感じたことは嘘偽りない彼の感性であり、自身すら自信を持てない自分が他者の感性を否定できるはずもなかった。
だから思考を閉じ込める、彼のような瞳にまで猜疑心を向ける自分はなんて愚かなのだろうと自身を貶める。
期待なんてしないで欲しい、感心なんてしないで欲しい。その輝かせた目を自分に向けないで欲しい、自分の欠陥を暴かれているかのようだ。こんなにも自分は惨めなんだって、突きつけられているように感じる。
吐きたくなる。慈悲があれば、さっさと部屋から出て行って欲しかった。
「……協力してくれたら常夏、つまり撫子を貸してあげても良いですよ」
えっ? と顔を上げると劉表が黙って頷き返した。
ゆっくりと隣に視線を向けると、絡繰人形を撫でながら驚きに目を見開いている撫子がいる。
そんな仕草も可愛い、と思いながら視線を劉表に戻すと、彼女は楽しそうに目を細めていた。
してやられた、と察するも既に時遅し。
「言葉通り、文字通り、なんでも好きにして良い。壊さない程度に、ですが」
それって、つまり、えっと……あんなことや、こんなことを!?
「その反応を見る限り、この条件で良さそうですね」
顔が熱くなっているのがわかる。そして撫子は困惑したまま、視線を自分と劉表で行き来させている。
「霍篤、私達の現状を説明をしてあげて」
「……はい、わかりました」
不機嫌そうに霍篤が承諾して、彼女達が置かれた状況についての説明を始める。それを耳にしながらも思考は何処ぞへ上の空、官能小説で蓄えてきた知識が駆け巡っていた。
「ちゃんと話を聞いています?」
「えっ、ふえっ!? ふひひ、ふへっ……」
状況が悪くなると愛想笑いをしてしまう癖は抜けない。気持ち悪い、そんな気色悪いところを撫子に見られていると思うと鬱になる。頭は回らず、思いついたことを片っ端から口に出した。
「とりあえず荘園の見取り図を……いや、やっぱり現場を見ないことにはなんとも……武器を扱った訓練もできないし、陣地構築するしか道はなさそうだし……えっと、それで接敵されたおしまいだから、その前に数を減らさないといけなくて……罠は此処に沢山あるから持っていけば……あと、投石用の石とか集められるよね? 河の石に手をつけてないっぽいし、手拭い程度もあれば簡単に……真っ直ぐに投げる程度なら三日もあれば……あと武器の調達は農具を加工すれば…………」
「待って、待って待って、ちょっと待ってください。霍篤、紙と筆はある!?」
「あ、はい! こちらに!」
「こ、こここんな思い付きを書き留められても意味はないから、ないです。……ああ、また余計なことを言った。生意気でごめんなさい、来世では人の手の届かない森の中にある木になりたい。でもやっぱり、周りを同族で囲まれるのは辛いのでやめます……」
「面倒くさいやつだなあ……」
「霍篤!」
「生きていてごめんなさい、生まれてきてごめんなさい……うへへっ、ふひゅっ……」
「……常夏、どうにかできないかしら?」
「えっ? ええっと……がーんばれ、がーんばれ♪」
「自分よりも幼い子に応援される始末、辛い。死にたい。可愛い、今死んだら私、幸せなまま死ねると思うんです……」
ぎゅっと両手を握りしめながら真剣な顔で応援してくれる撫子を前に成仏したくなった。
こう幽霊が召されるように、すぅっと蒸発するような感じで。何故か劉表の手引きで撫子が自分の膝上に座ったので、とりあえず後ろから抱きしめておいた。良い洗剤を使っているのか髪の匂いも良かった。すんすんと鼻を鳴らしながら抱きしめること数秒、もしくは数分、冷静になった頭で今の状況を考えてみると――自分は今、かなり恥ずかしいことをしているのではないだろうか。ああもう穴があったら入りたい、そのまま墓穴として埋めて欲しい。そのために墓穴を掘る為の絡繰を作らなきゃ……
てんやわんや、なんやかんや、小型の絡繰人形を胸元に抱える撫子を自分が後ろから抱えたままでいると、気付いた時には馬車に載せられて出荷されていた。見送りに来てくれた母様は凄く良い笑顔をしていたことだけ覚えている。まるで身売りされる子供の気分、身内に裏切られるってこんな感じなんだなと漠然と思った。
馬車が揺れる度に自分が今、外に居ることを意識させられたが、その度に撫子を強く抱きしめることで現実逃避を繰り返した。抱き締められ慣れているのか撫子は大人しくて、むしろ何処か安心している顔で身を預けてくれている。終いには寝息まで立て始めるほどだ。ちょっと警戒心が足りていないのではないだろうか、この子の将来が少し不安になる。
ただまあ寝てくれていた方が気を遣う必要がなくなるので、そういう意味では都合が良かった。
・黄承彦:
母様。襄陽黄家の当主。
・劉表景升:?
母性の塊を胸に抱えるお姉様。
・霍篤:?
馬の尻尾。劉表の護衛。
・撫子:
劉表の奴婢、女の子よりも可愛い男の子。
・劉巴子初:
ど腐れ先生。
ps.
久々に筆の調子が戻ってきた感覚があります。勢いのままに、書きたいことがかけた気がする。
たぶんきっと、これは、私が個人的に愛読している「悪辣毒舌孔明ちゃんの姉、諸葛瑾子瑜ちゃん!」の更新があったからに違いありませんね!
「黒狼伝」も更新来てんじゃん、よし執筆頑張ります。
わんわんお!
psps.
からくり夏侯惇将軍。からくりサーカスのアレ。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
8.防衛前夜
儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・?:
仮の名は
・霍峻仲邈:
霍篤の妹、劉巴に仕える。
・黄月英:
黄承彦の娘。引き籠り。
荘園に戻ってから黄月英の働きは著しかった。
荘園の周辺地ずができる上がるまで期間、次に月英が取り掛かったのは陣地構築になる。
実力で自軍を大きく上回る相手を敵に回した時、素直に真正面から戦っているようでは万に一つの勝ち目もない、というのが月英の言だ。事実、
それでも百を超える賊徒を追い返せるという霍姉妹の武勇があれば、賊徒に勝つことは難しくないかもしれない。だが霍姉妹の武勇が個人技である以上は限界がある。精々同時に相手にできるのは三人が限度、姉妹二人を合わせても六人だ。そうなると単純に考えても二人の防衛網から漏れた残り五十四人の賊徒が荘園に襲いかかってくる計算になる。無論、霍姉妹も早々に賊徒の首を刎ね飛ばしてくれるだろうが、数的優位を得るにも最短で三十人だ。それまで椿達は奴婢だけで自らの数を上回る賊徒を防ぐ必要があった。
賊徒との戦闘に勝つだけでも、これだけの困難が待ち受けている。
「かか……か、勝つだけだと難しくありません……!」
劉巴から紹介された有望な知恵袋は頼り甲斐のあることを口にしてくれる。
その言葉に椿は満足したが、しかし月英の顔色は良くなかった。常夏を後ろから抱きしめる腕に力が込められる、それに常夏は苦しそうに唇を真一文字に結んだ。
月英は申し訳なさそうに視線を宙に漂わせており、ふへっと歪な愛想笑いを浮かべている。
「むむ、む、難しいのは戦略的目的のたっ達成……しょしょ……んぐっ、荘園を存続可能な範囲で戦いを終えることがむ、難しい……」
つまり月英が云うには荘園の被害を出さずに勝利することが難しいとのことだった。
奴婢は専業軍人ではない。彼らは荘園の労働力であり、奴婢の損失はそのまま荘園の生産力に影響を与える。そして椿の荘園に仕える奴婢の半数が三年以上も農業に従事してきた経験豊富な奴婢であるために替えは効かず、残りも荘園に仕えてから一年以上が過ぎている。失ったからといって、直ぐに補充が効く存在ではない。そして、まだ豪族と呼ぶには新米も良いところの椿に補充できるだけの財力もなかった。
頼りの資産は田畑に実っている作物のみ、換金前で持ち出すことは不可能。これを失うことは荘園の破産を意味している。
また田畑そのものを荒らされることは来期の収穫にも影響が出てくる。
「い、如何に被害を少なくして勝利するのか……これが大事、肝心……」
そこまで云うと月英は常夏の後頭部に顔を隠してしまった。
キョトンとした顔をする常夏と見つめ合った椿は溜息を零し、とりあえず牛車と納屋の解体を命じる。陣地構築をするために資材は必要であり、今から木材を調達しているようでは遅いためだ。田畑の収穫作業と並列しながらの陣地構築、ついでに近場の河で投石用の石の運搬、更には投石と最低限の武芸を仕込ませる。この辺りの運用は元官僚である椿の得意分野であり、事細かに
その途中、地図の作成から戻ってきた霍篤は、複製した地図に印を付けられたものを月英に手渡されて、風呂敷いっぱいに詰め込まれた罠を授けられる。そして今度は罠を設置するために山や森を駆け回ることになった。
そうしている内に、あっと言う間に二週間が過ぎる。
戦いの鼓動はもう目の前まで来ていた。
†
時は少し遡り、劉表達が荘園に辿り着いてから三日後の話になる。
人を使う事に長けた劉表の活躍もあり、必要最低限の準備が整いつつあった。とても万全とは言い難いが、今回は時間が足りない。あと数日でも準備に取り掛かるのが遅れていれば、自分達が戦場という舞台に立つ前に全てが決していた可能性もあった。その事を思えば、賊徒と対峙できるだけの準備を整えられただけでも僥倖と思うべきだ。
黄月英、真名は
どうしてこうなったのか、よくわからない。自分は何処までも落ちぶれた人間失格者であり、誰かに指示を出しても良いような人間ではない。ましてや、誰かの人間の命を背負って良いはずがないのだ。胸が苦しくなる、自分の発想一つ、意見一つが誰かの命を握っていると思うと胃が締め付けられるようだった。それでも何もしなければ、より多くの人間が死ぬ事になる。
吐いた、毎日のように吐いた。夜になれば、厠で延々と胃液を垂れ流し、昼間は屋敷の裏で吐き続ける。その傍に何時も居るのが
何時からか、気付けば彼に依存していた。少なくとも彼が一緒の時は外を出歩ける、相変わらず吐き気に苛まれることになるが、それでも取り乱す事をせずに済んだ。年下に頼るような駄目過ぎる自分に嫌気が指すが、しかし今一時、自分は倒れるわけにはいかなかった。吐いて、吐いて、吐き続けて、水以外のものを胃が受け付けなくなっても立ち続ける。幸いにも頭は回っている、それだけあれば他は無視しても構わない。
四日目の夜、何故か
それから添い寝してくれるようになり、たったそれだけで夜中に三時間も眠られるようになった。
一週間が過ぎた頃、陣地構築の進捗に遅れが生じている事を知る。
どうやら賊徒の足を止めるために作らせていた堀の進捗が著しくないようであり、上手く土を掘ることができていないようであった。実家から持ち出してきた万能農具の
この事態を前に月英こと菫は告げる――私がなんとかします、と。
菫には現場で働いた経験がない。故に頼れるのは数字のみであり、それ故に全てを計算でどうにかする他に術がない。そして菫は現実の辛さを知っており、自分の思い通りに事が進むなどとは最初から考えていなかった。絶対に何処かで齟齬が生じる、絶対に何処かで自分は失敗している。その自虐的な思考故に慢心できず、余裕も持てず、常に最悪と失敗を想定して生きている。
今、目の前にある問題も菫からすれば想定内、であればこそ対応する方策も考えてある。しかし、それは菫にとってはあまり使いたくない手だった。だからこそ、こういう事態が起きるのだと菫は諦める。彼女は自分の運の悪さをある意味で信頼している、それ故に動揺はない。常に最低、最悪であることは彼女にとっては当たり前なのだ。
自室に戻った撫子は人間大の絡繰人形から十個の指輪を取り出して、自らの指に付ける。
実家から持ち出した絡繰人形は一体、最も信頼ができる人形を連れてきた。
それは菫が最も信じる対象、そんなのは言うまでもなく決まっている。演義で最高に格好良くて、最高に強くて、最高に頼り甲斐のある存在だ。
それ故に菫は心の中で声高らかに叫びながら絡繰人形を駆動させた。
――助けて、夏侯惇将軍ッ!
その想いに応えるようにギギギと絡繰人形、いや絡繰夏侯惇将軍が動き出した。
糸繰りした結果、と言えば、それまでかも知れない。しかし人形に意思はなくとも自分の指示に応えてくれるのだ。自分が絡繰夏侯惇将軍を操っていることに優越感がある、歓喜がある。そして自分が最も夏侯惇将軍を扱えるという自負がある。人間大の大きさをした絡繰夏侯惇将軍の正式名称は“絡繰夏侯惇将軍・参式”、壱式と弐式は共に
とはいえ絡繰夏侯惇将軍は戦闘用として造られたものではない。何故ならば、菫にとって夏侯惇将軍は万能超人であるためだ。それ故に絡繰夏侯惇将軍は如何なる運用にも対応できるように汎用性を重視していた。扱える装備に制限はなく、だからこそ絡繰夏侯惇将軍の操縦は複雑を極めたが――そこは底尽きない愛で補填した。そして余りにも複雑過ぎる操縦系統故に扱える者は月英の他にいない。事実上、絡繰夏侯惇将軍は黄月英だけが扱える絡繰人形、即ち夏侯惇将軍は月英の他に誰にも仕えることがない。
その事が堪らない、だからこそ月英は胸を張るのだ。
――私が最も絡繰夏侯惇将軍を扱えるんだ!
両手に大型の円匙を携えて、いざ出陣。
外に出ようとすると無意識に体が震えてくる、胃液が込み上がってくる。大丈夫、と自らに言い聞かせる。何故ならば隣に夏侯惇将軍が居てくれている、そして傍には今も撫子が居てくれていた。だから大丈夫と震える声で自らに言い聞かせて、涙目で前を見据えた。歪んだ視界、それでも自分の成すべきことの為に白日の下に身を晒す。
何故、自分が此処まで頑張らなくてはならないのか――それは怖いからだ。このままでは皆が死ぬ、それを知っていて見過ごすことが怖かった。それに夏侯惇将軍は理不尽を許さない。弱きを助けて強きを挫く、そういう存在として絡繰夏侯惇将軍を菫が作ったのだ。だったら、今この時に動かなければ絡繰夏侯惇将軍は嘘になる。絡繰夏侯惇将軍は、夏侯惇将軍足り得ない。夏侯惇将軍は絡繰夏侯惇将軍なのだ!
……正直なところ、理由なんてなんでも良かった。
自分を奮い立たせる理由があれば、なんだって良かった。正義や理念なんて、なんでもいい、なんだって構わない。惨めで臆病で欠陥を抱えた人間ではあるし、何時だって死にたいと思うくらいに自分は自分のことが大嫌いだった。目の端から涙が溢れる、それでも歯を食いしばって堪える。ただ一歩、それが果てしなく重たい。たった一歩、それだけでどうしようもないほどに負担だった。変えたいと思っている、でも変えられない。もっとまともで居たかった。ちゃんと話をしてみたいし、自分の好き勝手に外を出歩いてもみたい。それでもだ、それでも駄目なのだ。生理的に受け付けない、体全身が拒絶する。魂が臆病風に吹かれている。吐きそうだ、吐いてしまいそうだ。今すぐにも逃げ出したい、布団に包まって何事もなかったかのように現実から逃避していたい。
でも、それでは何も変わらない。
この時、傍にいた撫子が囁いてきた。
もし仮に、これが激励だったとしたならば自分は今きっと、この場には立てていない。もうどうようもない程に逃げ出して、布団の中に丸まって出て来れなくなったはずだ。
しかし撫子は優しかった、それはもう頸動脈に刃を添える程に優しすぎる言葉だった。
――無理をしないで、後は私が頑張るから。
その時、彼が自分を見つめる瞳は心配だったのだと思った。
だが穿った自分には軽蔑と落胆が込められているように感じられたのだ。
歯を食いしばる、何度でも。
自分には価値がない。自覚している、だからこそだ。価値がないことに劣等感がある。
どうして自分には普通のことが普通にできないのか、これがよく分からない。
「私が、頑張る……!」
何故ならば――理由はなんだって良い! 私が夏侯惇将軍を最も上手く扱えるんだっ!
両手には指輪、夏侯惇将軍に大型の円匙を握らせて、身を震わせながら外に赴いた。
今から菫が行うのは陣地構築、自分で定めた場所に円匙の先端を地面に突き刺して持ち上げる。その土の量は菫の小柄な体では本来、持ち上げることは不可能な量であった。それもそのはずで絡繰夏侯惇将軍は数多の歯車を駆使した精密絡繰であり、その
時折、撫子分を補充しながら時期が来るまで菫は土を掘り進める。
精神は摩耗し、肉体は疲弊し続けても頭だけは何時迄も回り続けた。
あまりに回り過ぎる頭脳に、今では逆に独りでいることが不安になる。無論、誰かと一緒に居ても負担になる。
結局、決戦当日まで吐き続けることになり、味がある物を口にすることができなくなった。
†
何時もそこにあったものがなくなるというのは不思議と寂しい気持ちになるものだ。
黙っていれば、姉の霍篤と見た目の雰囲気は似てる。しかし性格は似ても似つかぬ彼女は、
どうして家庭教師の従者をやっているのか分からない。そのことで理由を問えば、「働きたい時に働いて、休みたい時に休めるから」という身も蓋もない答えが返ってきた。
劉巴もよく雇っているなあ、と思いはするが霍俊は首を振って答える。
「こんな条件で雇ってくれるのが劉巴だけだったからね」
彼女もまた地位や名誉に興味がない人物のようだ。
そのことがなんとなしに心地良い。この世に生まれたからには何かを成し遂げなければならない、というような暑苦しい理念も理解できない訳ではないが――しかし、やりたい事は人それぞれだと思うのだ。強い意志や信念がなくとも人間は生きていられる。短くても太く生きていくだけが人生ではない。それは確かに格好いいとは思うが、必ずしも全員にとっては魅力的なものではない。むしろ長く細く穏やかな人生を送りたいと考える者の方が世の中には多いのではないだろうか。
誰かに何かを強制されることもなく、過度な期待を受けることもせず、好き勝手とは言わないが気ままな人生を送っていたい。やりたいことをただ一つ、それだけで人生は充実すると思うのだ。無論、衣食住が確保されている前提ではあるが。
必要以上の責任は負いたくない、だから力を持つことを忌避している。
「とはいえ力を持たなくては駆逐されるだけってね」
嗚呼、嫌になる。
人間は本質的に闘争を求める生き物であると云うが、それは決して違うと自分は思っている。弱肉強食は自然界の掟であり、人間だからこそ適用されるものではない。人類は文明を築き上げることで大規模な集合体を構築した。これは人類が人間だからこそ成し遂げられた事であり、それでもなお闘争という本能に身を委ねることは自然界への帰化に他ならない。ただ他の獣よりも上手に闘争ができる獣だったというだけの話だ。
いくら礼節を重んじたとして、「こんにちは、死ね!」と隣人に殴りかかるのは蛮族のそれに他ならない。
「だからといって武力を持たないことは生存する意志を放棄することと同じ……」
自分はきっと闘争を忌避している。
だから自分から殴りかかろうとしないし、武力を振り翳す時も専守防衛に務めている。そういう意味で自分は事なかれ主義なのかもしれない、基本的に降りかかる火の粉以外には興味を持てないのだ。近場で火種になりそうなものがあれば、消火活動に勤しむこともあるが、戦争をなくす為の戦争、恒久的平和の為といった大義名分のために争いを起こしたいとは思わない。
それは必要なことなのかもしれない。しかし、闘争に身を投じることを感情が許してくれないのだ。
きっと自分は甘いと呼ばれる人種に違いない、そう言われることを否定するつもりはない。でもきっと平和というのは人類だけが成し遂げることができる世界なのだ。平和という環境は人類が見出した新たなる世界観、人類だけが築き上げることができる叡智の結晶なのだ。後世の歴史家が聞けば、こぞって批判してしまいそうな甘ったるい理想である、そんなことは分かっている。
それでも自分、
「私はこう思っている」
ふと霍俊が口を開いた。
「平和っていうのはね、全ての生物が望んだ理想郷なんだよ。この大地が生まれて、生存競争に揉まれながら誰もが戦いに明け暮れて、戦いに飽いてきた。そして願うんだ、闘争のない世界を、と。生物が誕生した時から誰もが安寧を望んできた。その積み重ねが何千年、何万年、もしかすると何億年という昔から続いて、親から子に魂を受け継ぎ受け継がれて今がある。闘争は全生物が持つ本能かもしれない。だからこそ全ての生物が望み続けてきた安寧、その根源的な願いを形にした世界が平和なんだと私は思っている」
だから、と彼女は手を差し伸べる。
「戦うべきなんだよ。私達は私達の守るべき何かの為に」
目を伏せる。そして、ゆっくりと開き直した。
結論は何時だって単純だ。自分には守りたいものがあって、それを誰かが奪おうとしている。
だから、戦う。それで良い、それだけで良い。
自分が戦うことに壮大な大義や名分なんていらないのだ、分不相応にも程がある。
椿は微笑み頷き返した。
「こんなところで死にたくはありませんからね」
戦おう、と改めて決意を固めた。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
9.開戦
儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・?:
仮の名は
・霍峻仲邈:
霍篤の妹、劉巴に仕える。
・黄月英:
黄承彦の娘。絡繰士で人形操り。
森の中を駆け回るのは御手の物だ、と霍篤は木の上を飛び移っていた。
地面を駆けるよりも木々の枝を頼りに跳び移った方が慣れており、出会い頭で敵と遭遇する危険性を抑えることができる。枝葉が風で擦れる音に合わせて跳躍し、常に地面に写る自身の影を意識し続ける。
こうしていると故郷でよく鬼ごっこをさせられていたことを思い出す。それは遊び等という生温いものではなかったが、今となっては良い思い出だ。足跡を残さないように地面を枝葉で擦るのは常識――されども鬼側は足跡を消した痕跡を見つけたり、消すのに使った枝葉、もしくは枝を折った跡を頼りに追跡する。
今回は賊徒が相手だから、そこまで注意深くなる必要はないと思うけど。
そうやってすぐに油断する癖がある、と教官に何時も叱られていたことを思い出して苦笑する。あまり自分は故郷での成績はよくなかった。得意分野で漸く並程度、他は辛うじて赤点を逃れる程度であり、苦手分野で落第点を取っている。妹の
おかげで妹には劣等感を抱き続けている――嫉妬の段階は疾うの昔に通り過ぎ、今は諦観している。
荊州に来てから、どれだけの年月が過ぎただろうか。
数えてみると五年以上の年月も劉表の護衛を務めており、主人の蒯越の側に居た時よりも長い時間を彼女と共にしている。最早、知らぬ仲とは言い切れない。最初に出会っていたのが劉表であれば、きっと自分は劉表に仕えているだろうし、真名だって交換していたに違いない。それでも真名を交換しないのは、自分が蒯越の配下であるためだ。
主人の知らぬ場所で、主人以外の者と真名を交換することは不義理に感じられた。してもいないのに浮気したような気分になる。いや、別に主人とは恋仲ではないし、そんな感情を抱いたこともない。精々が良い人止まりである。
主人以外と真名を交換しているのは姉妹の
できるだけ主人の預かり知らぬところで真名を交換しないように務めている。ただ五年以上も同じ屋根の下で寝食を共にする劉表と真名を交換しない事は――それはそれで不義理なのではと思うようになってしまった。今が主従に似た関係でなければ、きっと今頃自分は真名を交換してしまっている自信がある。その事で延々と気に病んでいるくらいであれば、小難しいことを考えずにさっさと真名を交換してしまえば良いと思いもする。
でも、やはり主人に対する後ろめたさから真名を交換することを躊躇してしまうのだ。
この葛藤を解決する手段を自分は知っている。
主人と劉表がくっつけば良い。主人の身内になってしまえば、自分も心置きなく劉表と真名を交換できるというものである。だから、さっさと主人には荊州に引っ越して貰って、劉表と婚姻を結んで欲しいと思っているのだが――何をしているのか、主人は未だに洛陽から出てこようとしていなかった。なんでもまだ宮中の掃除が終わってないとか、なんとか。想い人が何時までも待ってくれると思っているのだろうか、そもそも劉表は主人のことを恋愛対象として見ている気配すらない。
こんな有様では劉表と真名を交換するのは何時になるのか――霍篤は一人、溜息を零してのける。
賊徒が通ると思しき場所に罠を仕掛けて回っている最中のことだ。
木の上から二人の賊徒が無防備に歩いているところに見つける。無視するべきか、襲うべきか。逡巡した後、情報を収集しようと木の上から飛び降りた。頭を下にしたままの垂直落下、その先にある賊徒の頭を逆さまのまま両手で掴み、そのまま両足を広げて、グルンと竹とんぼのように振り回した。その反動を利用しながら体全身を捻り、落下の勢いを重ねてゴキャッと賊徒の首を捩じ切ってやる。
悲鳴を上げる暇もない――片手と両足で地面に着地して、間髪入れずに驚きに目を見開く賊徒に向かって飛び掛った。大きく一歩踏み込んだ後、後ろ回し蹴りの要領で相手の首を刈って、そのまま地面に叩きつける。後頭部を打った衝撃による意識混濁、その復帰までの僅かな時間を突いて、賊徒の首筋に刀を添える。
「質問に答えてくれたら殺しはしないけどね」
ここまで五秒足らず、囁きかける言葉に賊徒は全身の力を抜いた。
そして、既に賊徒達が拠点を出て、荘園に向けて動き出したという情報を得た自分は、その事を劉表に伝えるために全速力で荘園へと駆け出す。
尚、賊徒は身包みを剥いだ後に簀巻きにして、河に流しておいた。
†
姉
霍俊――つまりは自分、
とはいえ戦力は武装民兵、ないし農民以上が三十名である。どうせ農民を搔き集めるのであれば、農奴一揆を起こすように数だけは揃えて欲しいものだがないもの強請りをしたところで意味はない。ここ二週間の鍛錬で指示だけは聞いてくれるようになっただけ、ただの農民よりも幾らかましと言った程度だ。ちなみに彼らが両手に持っているのは襄陽黄家の御厚意で頂いた
よし、これから屍体を埋めに行きましょう。ざっと百人程度――そんな小粋な駄洒落も顔色が死んでいる民兵一同の前では意味がない。事前情報よりも四十名ほど多いのは菊姉様から伝えられたことであり、たぶんきっと周辺に潜んでいた賊徒が合流してしまったせいかと思われる。この不景気、就職氷河期とも呼べる時代とあっては「きつい、汚い、危険」という“き”の三拍子が揃った山賊に人が集まってしまうのだ。ぶっちゃけ正規軍に討伐される危険を背負うくらいであれば、大きな荘園に行き、自ら奴婢墜ちしてる方がいいと思うんだけどね。だって襄陽黄家とか下手な良民よりも良い暮らししてるし、同じ荘園の奴婢仲間であれば恋愛も自由だったりするんですよ。
閑話休題、
広場に集めた奴婢達の顔は恐怖に怯えていた。今から賊徒との戦いを控えているにも関わらず、既に死相が見えている彼等の状態は頂けない。これでは生き残れるものも生き残れなくなる。人間死ぬ時には死ぬものだが、絶望は確実に死を惹き寄せるものだ。
なのでまあ、小粋な駄洒落とまでは云わないが、ちょっとした発破をかける程度はしてやろうと思った。
「はいはい、注目、ちゅうもーく!」
パンパンと両手を叩いて、意識を自身に向けさせる。
「君達はよく頑張りました。古くは五年前から劉表様に仕えて、若くとも一年以上も田畑を耕し、作物の世話をし続けてきました。それから忙しい収穫期にも関わらず、生きるための努力を二週間も続けてきたのです」
言いながら予め用意していた箱の中から鮮やかな赤色をした果実を取り出した。
これは劉表の荘園で栽培した作物であり、名称は
少し話が脱線するが、劉表の凄いところは収穫量という目に見える指標だけを目的にしていない点だった。
彼女の学者気質の性格は、とにかく拘ることに特化している。自覚あってか無意識なのか分からないが、彼女は研究と称して気になったことをとことん追求する癖があった。作物の収穫量は勿論、採れた作物が収穫方法によって味も変わることに気付いた彼女は頻繁に食べ比べを行なってきたようで、作物が育つ土の手触りを確認することもあれば、口に含んで味を確かめることもある。水に塩を混ぜているという話を聞いた時は、正直、こいつ頭が可笑しいんじゃないかって思いもしたが、それで実際に美味しい赤茄子を栽培しているのだから何も云えない。劉表に言わせると赤茄子は被虐体質、甘やかすと駄目になり、虐めると美味しく実るのだそうな――ちなみにやりすぎると簡単に枯れるようで、その栽培量は極端に少ない。良い関係を続けるためには虐める側にも愛が必要なのは人間と同じですね、としみじみとした顔で
その劉表の叡智と努力の結晶とも呼べる赤茄子を総勢三十名の奴婢に配り、彼等の目の前で赤茄子に噛り付いた。
「ん〜、甘いなあ……幸せを感じるなあ」
甘味に身を震わせながら、集めた奴婢にも食べるように促した。
その赤茄子は他所で収穫できる作物とは、もはや別物だ。希少であるが故に今まで奴婢の口には行き渡らなかったソレを、今初めて口にした彼等は驚きの表情を浮かべていた。戸惑いながら二口目を口にし、三口目はもう止まらない。そして半分を食べきったところで名残惜しむように食べる早さが落ち始める。最後には皆、べとべとになった手を舐め取るほどだ。
その様子を満足げに眺める。そして騒めきが落ち着き始めたのを見て、ゆっくりと口を開いた。
「これは君達の努力の結晶だ」
赤茄子に限って云えば、劉表個人の努力になるが――そんな野暮ったいことは今は抜きだ。
「甘いよね、美味しいよね。私は幸せだよ、こんな美味しいものが食べられるなんてさ。この荘園が生まれてから五年の年月が過ぎて、みんなの毎日の努力、流した汗が形になった一つが今の作物だ。今はまだ数が少ないから君達は口にできていないだろうけども……近い将来、きっと皆も当たり前に食べられるようになる」
此処で言葉を区切り、奴婢達が全員、自分の言葉を聞いていることを確認する。
それから改めて口を開いた。
「私が保証する、これを食べられるのは此処だけだよ。これを作れるのは君達だけだ。君達が田畑を耕し、作物を世話してくれたから、私達は今これを食べることができた」
広場には個人でも鍛錬できるように、打ち込み用の杭が何本も差してある。
その内一つに近付き、何時も携帯している直刀を鞘から抜いた。
「皆が育んできた成果を横から掻っ攫おうとする者がいる」
直刀を振るった、杭の先っぽ
「許せないよね。何年と築き上げてきたものを何の努力もして来なかった屑共が、暴力にものを云わせて理不尽に奪い取ろうとするなんて許せないよね? 君達が築いてきたものを獣のように食い荒らして、更地にして何もかもをなかったことにする……まるで蝗のような輩だ。いんや、虫以下だね。あんな奴ら」
何度も直刀を振るった、上から順々に杭を輪切りにする。ほとんど力を入れず、一寸ずつ均等に切り飛ばした。感情は見せない。淡々と粛々と切り刻み、その自分の姿に奴婢達が怯え始めるのを感じる。畏怖は充分、次の段階に移行する。
「そんな奴らのために君達が死ぬ必要はない、暴力に屈する必要もない。抗おう、戦おう、君達が築き上げたものを守り切ろう」
根元まで杭を全て輪切りにした後、もう一つの杭まで歩み寄る。
その先に右手を乗せる。軽く深呼吸、体内の氣を循環させる、右手に氣を集める。
そして、充分に氣が高まったところで彼等に笑顔で語りかける。
「大丈夫、殺すのは私に任せて頂戴。私が君達の剣になる」
言って、右手に溜め込んだ氣を解放した。
縦に亀裂が入ったかと思えば、杭が一瞬だけ膨れて、真ん中から弾け飛んだ。
奴婢達が騒めいた。
霍俊は、さも当たり前のことのように落ち着きを払って言葉を続ける。
「君達は生き残ることを第一に考えて欲しい」
口元を引き締めて、真顔で奴婢達を見つめる。
「こんな輩に殺されるほど君達の価値は安くない。生き残れ、生きて抗え、耐えて耐え忍んで……」
そしたらさ、と言いながら口元を緩めた。そして、なるべく軽い調子で告げる。
「私が君達の敵を全員、殺しきってあげる」
その言葉に奴婢の誰もが言葉を失っていた。
もう怯えはない、気圧されてもいない。高鳴る想いを吐き出せずに苦しんでいるように見えた。
だから自分は彼等に背を向ける、そして号令をかける。
「今から始まるは劉表麾下三十名による防衛戦、私が剣! 君達が盾だ! 負けたら終わり、勝つだけでも終わりだ! 生き残れ、それが至上命令っ! 死ぬなよ、お前ら!! 返事ッ!!」
「応ッ!!」
威勢の良い声が背中から聞こえてきた、そのことに笑みを零す。
「行くぞ、此処から先は死地ではない! 明日を掴み取るための活路だ、くれぐれも忘れるなッ!!」
「応ッ!!」
これで戦える、最低限の準備は整った。
後は周りを信じるだけだ。これで駄目なら仕方ない、人事は尽くしてある。
そう思える段階には、辛うじて持ってくることはできた。
†
初めて戦場の空気に触れた。
今から行われることは生存を賭けた命の奪い合いであり、それを目前にした時の緊張は想像を超えている。
張り詰めた空気は息苦しく、舌は乾いて言葉を発することができなかった。
自軍の主戦力は総勢三十名の奴婢。片手には手拭いを改造した簡易投石機を握りしめ、その足元には投石用の石を最低五つ、そして代用武器である
霍姉妹の個人技ありきの戦い方、とても作戦とは呼べない代物。しかし自分では、これ以上の作戦は思い付かないし、月英と霍俊も現状では最も勝率の高い作戦と言っていた。ならまあ後は二人を信じるだけだ。どうしても不安は残るが、最後まで二人を信じることは決めている。
それでも再確認を怠らないのは用心深いというよりも、初心者であるが故だった。
本陣の最後方に椿はいる。
その傍に控えるのは二人、
その異様さに不気味さを感じながらも一先ず、無視を決め込んだ。
もしもの時は常夏に月英を戦場から連れ去るように告げている。
月英は襄陽黄家の客人であり、本来、戦場に立たせるべきではない人物なのだ。本来ならば危険に晒す訳にはいかない、自分には月英を無事に黄承彦の屋敷まで帰らせる義務がある。道理で語れば、この場で優先されるべきは自分よりも月英の方であった――そうか、いざという時には自分も戦う必要があるかもしれないのか。
僅かに震える手で椿は円匙を握りしめる。
ふと、遠くの方で人影が見えた。
どうやら斥候に出していた霍篤のようだ。彼女が自陣に戻り、いち早くに情報を受け取る。
月英の表情が僅かに怯んだ。常夏も緊張しているようで落ち着きが消える。自分の胸の鼓動が早まる。自分も緊張をしているのか体が動かしにくい、呼吸の仕方を体が忘れてしまったかのように意識してしまう。
開戦は、もう目の前だ。
その時が早く来て欲しいような、やっぱり来て欲しくないような、そんな曖昧な気持ち、決意や覚悟なんて簡単に綻びが生じる。自分を律し続けることは難しい。生き急いだ新兵が錯乱したように飛び出してしまう気持ちがわかったような気がした。先を結んでいない紐のように、決意の柱に縄を巻いたまま抑えつけ続けていないと自分も突飛な行動を起こしてしまいそうだった。
その点、常夏は落ち着いているように見えた。月英の目から感情の色が消え失せる。
数分後、
自陣左翼から甲高い音の口笛が吹き鳴らされる。
遠方、遥か遠くに敵の姿が見えた。
「号令を」
短く告げられた言葉は聞き覚えのない声、それもそのはず、ここまで彼女が端的に短く言葉を発したことは今までにない。妙に冷めた声色の月英に促されるように椿は息を吸い込んだ。
「生き残りましょう。生き残って、また皆で明日を生きましょう」
気が利いた言葉なんて言えないのはわかっていた。
せめて、と思ったことをそのまま口にした結果がこれである、格好が付かない。
それで滑ったのか、どうなのか、皆の顔が僅かに綻んでいた。
「さあ、無礼な輩にはお帰りを願いましょう! 此処には無法者の居場所はない、それでも理不尽を押し通すというのであれば――私達を見縊った奴らに目にものを見せてやりませうッ!!」
左翼にいる霍俊から大きな声が上がる。
「応ッ!」という威勢の良い声が蒼天に響き渡った。
・霍篤:
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
ps.
終わらなかった(白目
テンポ良く進めようと努力はしました。でも、世の中には努力だけでは超えられないものがあるようです。
次回で一章、終わると思います。
ps.ps.
莫名灯火の次話は投稿されていました、やったー!
みんな、これだけは言っておきます。香風は良いぞ、この子だけで革命を買う価値はあるぞ。
あと個人的に革命で追加されてる子は好きな子が多いですねえ。
まあ恋姫に嫌いな子なんて居ませんよね?(同調圧力
やばい、好きな子と特別に好きな子しかいない……
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
10.返り討ち
儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・?:
仮の名は
・霍峻仲邈:
霍篤の妹、劉巴に仕える。
・黄月英:
黄承彦の娘。絡繰士で人形操り。
遠目に見える賊徒は――百人と聞いていた割には少し少ないように思えた。
霍篤に仕掛けてもらった罠が機能してくれたおかげだと推測する。何故ならば敵陣の賊徒は疲弊しており、士気も低く思えたためだ。自軍の兵がまともであれば突撃させていたところだ。抱えている戦力が雑兵未満の弱兵なので、そんなことをすれば返り討ちに合うので自重する。まともに訓練を受けていない兵士では、戦場で策を弄することなんてできなかった。
それに最初から柔軟性を維持したまま臨機応変に対応するなんてことは、大凡策を弄する立場の人間が考えることではない。大事なことは目的を一つ一つ達成することだ。勝ちへの道筋を踏破する。無論、全てが上手くいくことはあり得ないと云える。そんなことは最初から分かっている。人生なんて上手くいかないことは身を以て知っている。机上では予測しきれない出来事が戦場では必ず起こり得る。そんな時のために柔軟性を維持する必要があり、不測の事態を臨機応変に対応するのだ。
何が起きても可笑しくない。現実は何時だって、予想を超えた絶望で叩き落としてくるのだ。
それは当たり前のことであり、決して特別なことではない。
黄月英、つまり
彼女は追い込まれやすく、落ち込みやすい。心情は常に負の方向へ振り切れていると云っても良い。しかし彼女は自分では処理しきれない程に追い込まれてしまった時、その負荷を足切りする。合言葉は“自分の人生が最低なことなんて最初から分かっている”。常日頃から強迫観念に似たなにかを感じている彼女は、生きているだけでも窮屈で息苦しい思いをしてきた。そのため彼女は幸福に関して、不感症とも呼べる症状に陥っている。彼女の瞳に写る全ては、彼女自身が不幸足ると感じられる材料に変換される。つまり
精神が過負荷に耐えきれなくなった時、「何時だって自分は不幸だった」と彼女は目の前にある全てを受け入れる。
その時、菫は人間性を切り捨て、目先の問題を処理するだけの絡繰になるのだ。
そこに感情の介入は許さない。ただ只管に合理を追求する、病的なまでに効率を追求する。思考は絡繰的に機能させる、個人意思は不純物だった。狼狽することは悪だ、恐慌に陥ることは悪だ。そして、こう思っていることすらも邪悪であった。
怖がるのも、怯えるのも、哀しむのも、全ては後回しでしてしまって、今はただ機能的に頭を働かせる。
「……まずは投石で相手を牽制します。もうちょっと引きつけて、本陣を厄介に思わせたら……きっと相手は散開して真正面から最短経路で突撃してくるはず……その時に霍姉妹を左右から放って外から削ります……」
目測でも大凡の距離は測ることはできる。
男性の平均身長、自分の人差し指の長さ、この二つを知っているだけで相手との距離は簡単に計算で弾きだすことができるのだ。
「今です」と菫が合図を出せば、劉表が号令を出し、それを受けた霍峻が“い”の一番に投石を開始する。青空に放物線を画く一番星、それに続くように掌大の流星群が敵陣目掛けて放たれた。投擲の精度は、良くはない。百人未満の賊徒の内、地面に倒れたのは二、三名だけだった。命中率は一割程度、まあ最初から投石で倒しきることは期待していない。あくまでも牽制と割り切っているのは、期待できるだけの精度がないためだ。
でも牽制としての効果は充分に期待している。当たれば、大の大人を一撃で倒しきる程の威力を持った投石だ。無視できるはずがない、恐怖を感じずにはいられない。抱えた兵士を人的資源と割り切る思考回路の持ち主でなければ、冷静な思考を維持することは難しい。そこに投石が二度、三度と続けば、敵陣は更に急かされて、まともな判断をできなくなる。
戦巧者というのは、如何に相手の思考を読み取り、相手の思考を逆手に取ることが上手い者のことではない。
真の戦巧者とは、如何に相手を相手の土俵に立たせないまま、自らの土俵に引きずり込んで逃さない者のことを云うのだ。
此処での敵側の最適解は、投石の被害を抑えるために兵を散開させながら突撃することだった。
接敵すれば勝てるのだ、ならば賊徒達は形振り構わずに突っ込んでいけば良い。
だが、その行動は
敵陣がばらける予兆を見せた時、霍峻が左翼から飛び出し、遅れて霍篤が右翼から飛び出していった。
散開した敵陣は二人にとって鴨だ、次々と孤立した敵兵の首を狩り取ってくれるに違いない。
この時、敵に最も取って欲しくない行動は一纏まりになって突撃を仕掛けてくることである。
そうされると霍姉妹で削れる敵兵の数が少なくなり、奴婢達にも少なくない被害が出ていたはずだ。とはいえ、それでも勝てる。霍姉妹が賊徒を狩り尽くすまでの時間を稼ぐ手段は幾つも用意してある。結局のところ、勝つだけならば難しくなかった。難しいのは被害を減らすことだ。そして荘園の被害を減らす為の策は幾つも講じてある。
先ず敵陣に散発的な攻撃を仕掛けさせないために奴婢三十名で陣形を組ませる必要があった。そして敵の標的を田畑や倉庫に向けさせないために荘園から出て、迎え討つ必要があった。相手を一箇所に集めた上で、敵軍の陣形を崩す為に投石を集中的に浴びせる必要があった。作戦というのは、ただ一つの行動だけを取り上げるものではない。全ては繋がっている。作戦とは幾つもの小さな課題を順序よく解決していき、その道筋の先にある勝利を目指して掴み取るためのものだ。
此処までは上手く行っている、本番は此処からにになる。
菫は小さく息を吐くと、十本の糸を操った。
いつか自分の出番はきっと来る。それが自分にとって最も嫌なことだから、きっと来る。
静かに絡繰夏侯惇将軍が起動する。
†
抜き放った直刀を片手に地面を蹴り、敵陣を削ることに全神経を研ぎ澄ませる。
流石に陣形を敷いた敵を相手にすることはできないが、散開して孤立した敵を斬り殺すことは訳なかった。突出する自分に目掛けて振り落とされる剣を余裕を持って回避し、そのすれ違いざまに頚動脈を切って駆け抜ける。この多人数を相手に死んだか死んでいないか確認する余裕はない。足を止めることが許されない状況下でできることは、反撃を受けないように相手との距離を取ることだ。
二人目も易々と斬り殺して、三人目は槍を突き出す動きに合わせて、片手首を切り落とすことでやり過ごした。左右から同時に攻撃を仕掛けられた時は、片方の目元に小石を飛ばして怯ませ、先に切りかかってきた方を対処する。そして、もう遅れて攻撃を仕掛けてきた方を易々と切り伏せる。
そして三方向からの攻撃に対しては――幾度かの金属音が鳴り響いた後、血飛沫が飛んだ。
崩れ落ちる三つの体。未だ、返り血一つも浴びていない蓮葉のみが立ち残った。
相手が怯んでいる。逃しはしない、と蓮葉は悠々と走り始める。
どの分野においても最高近い成績を収める才覚の持ち主であり、欠点は訓練に対する気概のなさだけと云われる程である。
同じ里で敵う者なし、歴代で最高傑作の一人。その出自から蓮葉は隠密行動を得意としたが――真正面から戦闘が苦手という訳ではない。里を抜けた時、追い忍を全て殺しきった経歴を持っている。相手の数が二人だろうが、三人であろうが、それよりも多かろうが、蓮葉は大きな怪我を負うことなく切り抜けてきた。その結果、彼女の故郷は致命的な忍び不足に陥ることになり、裏世界での影響力を著しく落とすことになる。
そして何時しか蓮葉のことを追いかける忍びは誰もいなくなっていた。
蓮葉は駆ける、影のように。音を立てず、血飛沫だけを撒き散らす。
そして十五人目を絶命させた時、自分が致命的な失敗をしていたことに気付いたのだ。
余りにも活躍しすぎたという事実、怯えた敵は蓮葉を避けようと動いている。
「やってしまった……菊姉様ッ!」
つまるところ、彼女は大好きな姉の前で張り切りすぎたのだ。
†
多方面からの攻勢に攻めあぐねていると、急に賊徒の圧力が増したのだ。
その原因が反対側にいる妹のせいだとは
二度、三度と刀身を打ち合わせることで相手の隙を作って確実に仕留める。
そんな悠長なことをしていれば、敵が二方、三方から攻めてくるのは道理であり、必然的に菊花は身を退かざる得なくなる。そうすれば更に敵が殺到することが分かっていながら一歩、二歩と引きながら手や足先を狙って、斬りつけるしかなかった。それでも辛い、それでも苦しい。相手は賊徒、戦闘慣れをしているとはいえ素人に毛の生えた程度、一対一であれば余裕を持って勝てる。相手が二人であっても遅れは取らない。しかし三人同時となると分が悪い。これが四人ともなれば、お手上げだった。
だから囲まれないように立ち回っていると必然、後退が多くなる。そうなれば策は成り立たない、だが自分が死んでしまっても策は成り立たない。踏み止まろうとすれば、多人数による怒涛の攻撃が押し寄せてくる。それで結局、後退する以外に術がない。
口惜しく思いながらも、活路を見出すために直刀を振るい続ける。
そもそも菊花は真正面からの戦闘は苦手だった。
かといって暗殺が得意かと聞かれれば、それはそれで違う気がする。真っ向勝負よりも幾らかましといった程度に過ぎない。気配を消す術だけは教官に褒められていたが、それも蓮葉の前では意味をなさない。「菊姉様の匂いだったら直ぐに分かるよ」と感覚的な解答を貰ったことから、きっと自分が理解できない領域の気配とか痕跡が残されていたのだと思っている。才能の違いを思い知らされる。
他の分野でも及第点が良いところ、幾らか落第点を取っている項目もあった。
里を抜けてから追っ手と戦っている内に最低限、自衛できる戦闘力は持っているつもりであるが――いや、しかし多人数との戦闘は慣れていない。それに耐え忍ぶ戦いには慣れているが、自分から攻めるというのも苦手だった。そしてなによりも自分は一点集中型、広く視野を保ち続けることも難しい、精神力がガリガリと削られていくかのようだ。
このままではいけない――と半歩だけ退き、その直後に極端な前傾姿勢で突っ込んだ。緩急極まった動きに賊徒達は釣られて飛び出している、距離感を崩された彼らはもう反応が間に合わない。先ず最も近い一人の首を切り、その次に飛びかかってきていた男の手首を切り落とした。そして三人目に移ろうとして――眼前まで迫っていた狂刃を咄嗟で受け止める。動きを止められた、倒れる二人の後ろから更に賊徒が集まってくる。そして三方向からの攻撃になす術なく、咄嗟に後ろに下がることで致命傷だけは逃れる。鮮血が飛んだ、胸元と太腿を斬られてしまったようだ。動きを阻害されるほどの怪我ではない、しかし流れる血は確実に体力を消耗させる。
これが妹であれば、全てを捌いた上で返り討ちにしていたはずだった。
妹との実力の差に歯噛みしつつ、菊花は前を睨みつける。
気を引き締め直したところで戦闘力が大きく向上する訳でもなく、劣勢に立たされ続けていることに変わりはない。頭の出来が悪いので機転を利かせることもできない菊花は精神論を振り翳す他に術がなかった。
息を吐かせる暇なく賊徒達が殺到してくる、それを菊花は直刀を大きく横に振ることで牽制する。
菊花が月英から与えられた役割は、敵兵が必要以上に散らばらないように押し留めておくことだ。
散開で突出した敵から順番に削って、敵戦力を削ぎ落とす。あんまり纏まり過ぎても困るが、散らばり過ぎても対処することができない。そのため連携できない程度に散らせた上で一箇所に押し留めておく必要があった。しかし、このままでは後ろを抜かれる。そして食い止めていられる時間も長くはない。それでも気力を振り絞る他に取れる手段がなかった。
その時、ヒュッと風を切り裂くような音が耳に入る。
菊花は勘だけを頼りに身を翻して、飛来する投石群を咄嗟で回避した。敵の何人かが被弾している。投石が地面に突き刺さる音、相手に動揺が広がるのを見て、考えるよりも早くに直刀が閃いた。血飛沫が上がる、頸が落ちる。それを視界の端だけで確認し、今が攻め時と駆け出した。
もう一度、何かが飛来してくる気配を感じ取って――感謝します、と菊花は軽く身を捩るだけで投石群を避ける。
†
基本的に
暴力沙汰に関しては本能的に忌避感を抱き、戦争を前にすると恐怖で身が竦む程度の精神性の持ち主だ。
故に今も身を震わせている、しかし
椿は窮地に陥った時、全ての行動が理屈で塗り固められる。理屈に沿わない行動は容赦なく切り捨てる。
ただ目的の定め方に関してだけは、感情の影響を受けることが多かった。
霍篤を助ける、その想いに貴賎なし。霍篤なら大丈夫、その信頼が彼女を巻き込んだ投石に踏み切らせた。
自軍右翼、つまり霍篤の方面が押し返したことに椿は胸を撫で下ろす。
そして直ぐ近くまで迫って来ている賊徒共に目を向けた。投石の効果があってか敵隊列は乱れており、霍姉妹の活躍のおかげで大きく散らばることもない。敵戦力は全て真正面に集めることができている。
漸く、漸くだ。漸く策が成る。
ここまで解決すべき課題は多かった。味方が民兵未満の練度しかないので自在に動かすことはできない、かといって敵を真正面から受け止めては鎧袖一触で壊滅させられる。下手に敵を散らせても練度不足の自軍では多方面からの攻撃には対処できないし、将を付けずに各個で行動させることもできなかった。元より数で劣るのだから、ある程度は敵兵の数を減らす必要もある。
相手の衝突力を削ぐことは必須、そして相手を散らばらせないことも必須。敵を自軍の真正面に集めることも必須。その上で敵戦力を削ることも必須。
繰り返す、解決すべき課題は多かった。ここまでの道程は全て綱渡りのようだった。
手を頭上高くに振り翳した。
そして万感の想いを込めて、今です、と手を振り落とす。
最前列の奴婢達が足元の草叢から膝上程度の高さがある柵を起こして、それを予め彫ってあった穴に突き刺した。
足を止められたら良いという程度の代物だ。乗り越えるには大きく足を上げて跨ぐ必要があり、運動神経が良ければ走りながら跳び越えることもできる。故に賊徒は足を止めず、むしろ跳び越えようと加速する。
それで良い、それが良い。
賊徒の一人が「一番乗り!」と柵を跳び越えようと足を踏み込んだ時、体が沈んだ。足元には溝が彫られており、家畜の餌用である藁が柔らかく詰め込まれている。深さは膝下程度、走りながら柵を跳び超えるには丁度良い踏み込み位置に溝は掘られていた。先陣切った賊徒は柔らかい藁に足を取られて、足首を捻りながら前のめりに転んでしまった。そこを柵の向こう側で待ち構える奴婢が
溝に敷き詰められていた藁の存在に気付いた者は多い、しかし溝に嵌った賊徒の数は少なくなかった。溝の前から跳んでは柵を乗り越えることはできない、かといって溝を超えてからでは柵が近過ぎて勢いを付けたまま飛び越えることができない。そして柵の向こう側には奴婢達が円匙を両手に待ち構えていることも重なって、賊徒達は柵を乗り越えるのに手間取ってしまった。
柵を乗り越えられない仲間が前に居るせいで、溝を越えられずにいた者達に後続が押し寄せる。そのせいで多くの者が溝に落ちる。更に付け加えるならば、溝には罠が仕掛けられており、足を負傷して地面に転ぶ者が数多く発生した。
となれば、まあ後ろから勢いのままに押し寄せてきた賊徒達が仲間の屍を乗り越えろと言わんばかりに転んだ賊徒の背中を踏み越える。それで絶命した者が何人いるか、あまり考えたくない。
この惨劇を見た作戦立案者の月英は「えげつなぃ……」と顔を蒼褪めさせながら零している。
椿は、まるで攻城戦のようね、と呟いた。
溝は最低限、柵も最低限、練度も最低限。
満足な資源も労働力も得られず、準備期間は二週間という短さで最低限の防衛線を築き上げた月英の手腕は素晴らしいものがある。実際、彼女が居なければ、もっと被害は大きかったはずだ。勝つことすらできなかったかもしれない。
とはいえ全てが足りない中で築いた防衛線である、綻びはある。柵の強度が足りない、もしくは溝が浅すぎた。敵を押し留めておくには奴婢の練度が足りていない。不安要素を数え上げると切りがない。その中のどれが原因だったのか、あるいは全ての要素が合わさった結果だったのか――柵が壊れて、防衛線の一角が突破される。
そのことに椿は動揺してしまった、真っ先に動いたのは絡繰人形を操る黄月英であった。
†
此処が正念場だ、と
絡繰夏侯惇将軍を操りつつ走りながら「どいて!」と人生の中で最も大きな声を張り上げていた。
壊れてしまった柵、その原因を追求しない。何故だとか、どうしてだとか、そんな無意味なことは考えない。何故ならば、不運が起きることは当たり前なのだ。人生は常に最悪で最低だ、ならば最低に備えておくことは当然だ。柵が壊れた、その事実のみを受け入れて行動する。
まだ三分も経っていないのに奴婢が数名、地面に倒れていた。
流れ込んでくる賊徒達、歯を食い縛って堪えようとする奴婢達、まだ霍姉妹が敵を倒しきるまでは時間がある。絡繰夏侯惇将軍に持たせた大きな円匙を振り被らせて、先頭に居た賊徒を目掛けて振り抜いた。指先の糸から伝わる抵抗――それが無くなった時、賊徒の胴は真っ二つに両断されていた。指先に嫌な感触が残る。それを無視して絡繰夏侯惇将軍を操り、次の相手に向けて襲いかからせた。
そこから先のことは、あまり記憶に残っていない。
兎に角、一心不乱で敵を倒し続けた。胴体を抉り、頭蓋を砕き、四肢を切り落とし、臓腑を引き摺り出し、何分が過ぎたのか、それとも何十分が過ぎたのか。
糸を操る手が重くなり、腕に痛みを感じるようになった頃合だ。
「菊姉様ァッ!!」
叫び声と共に横合いから霍峻が賊徒達を蹴散らしていった。
その有様はまるで暴風雨、振り回される直刀は鎌鼬、巻き込まれた賊徒は原型を留めず、肉を削がれて、撒き散らされる鮮血が血飛沫となる。気付けば、辺り一面が血溜まりになっていた。元が人間と分かる肉塊が散乱している。そして絡繰夏侯惇将軍も血で真っ赤に染まっており、自分の足元も血肉に塗れていたことに気付いた。
思考が冷静さを取り戻す、麻痺していた感覚が戻ってくる。
どうやら呼吸すら忘れていたようで、大きく息を吸い込もうとすると生温い空気の不快感で噎せ返った。血と糞尿の混じった臭いが鼻に突いた。殺した、と。殺してしまった、と。奴婢達からの視線で、自分が殺したのだと自覚する。何人殺したのか分からない、数えきれない程度には殺していた。
嗚咽に体が膝から地面へと崩れ落ちる。
だが、吐き気が催す前に気を持ち直す――世の中が最低なのは当たり前だ。
「す、少し休んだら……土に埋めないと……疫病が…………」
頭は正常に働き続けている。
絡繰夏侯惇将軍はまだ動いてくれる。丁度、巨大な円匙を持たせている。そして絡繰夏侯惇将軍の採掘能力は極めて高い。
さて、どのくらい掘れば良いのか……頭の中で計算する。あれ、少し可笑しい。
頭の働きが鈍い、ような。体が気怠い、ような?
思うように体が動いてくれない。
「休みましょう、少し休んでいてください」
後ろから抱きしめられる。
この感覚はきっと劉表、知った声と温もりで急に眠たくなった
全身から力が抜ける、ゆっくりと瞼を閉じる。
戦いは終わったようだ。意外と、あっさりと、一方的に返り討ちにする形で。
完勝と云っても良いのではないだろうか、自分にしては珍しい。
次回、戦後処理。
たぶん次で終わります、きっと終わります。
4/25 9:40
ひっそりと最後、ワンシーン追加する。
霍峻が追加されるだけです。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
11.一難去って
元官僚、荘園経営者。
・黄承彦:
襄陽黄家の当主。
・黄月英:
黄承彦の娘。絡繰士で人形操り。
被害は奴婢三名、いずれも軽傷。対する戦果は賊徒が百人程度、全員を土に埋めた。
戦って得たものは当面の平和と粗悪品を少々、逆に消費したものは労力と時間、経費、作ったものは劉巴と黄承彦への多大な貸しである。仕方ないことだが頭が痛い、小規模とはいえ軍事行動はするべきものではない。そもそも戦争なんてものは膨大な消費行動だ。損をするのは当事者ばかりであり、得をするのは戦争に直接参加しない部外者であった。
そうでなくとも暴力沙汰は好きではないのだ。今後、二度とこういうことがないように心がけていきたい。
あれから一週間が過ぎている。
賊徒との戦いが終わった後、霍峻は早々に劉巴の所へと帰った。霍篤は仕掛けた罠の回収に山中を駆け巡った後、今は従者兼護衛として元の立ち位置に戻っている。黄月英はまだ荘園に残っていた。賊徒を埋葬する穴を掘った後は部屋で引き篭もり続けており、夜になると
自分、つまり
ちなみに日常の仕事が二週間分以上も溜まっていたりする。戦争で大変なのは事前準備と戦後処理、最も大変なのは日常業務である。その遅れを取り戻すのにどれだけかかるのか、あまり考えたくはなかった。戦争というのは負ければ全てを失う癖に、勝っても労力が増えるばかりで旨味がない。後で溜まった仕事を処理する為に自分自身で指揮を執り、分刻みの時間管理で奴婢達を働かせ続けることは確定している。戦争が好きだとかいう連中はきっと戦闘しかしていないのだろうと今なら思うのだ。
防衛を正規軍に丸投げする黄承彦のやり方が、今は羨ましくて仕方ない。
さてはて、
襄陽の都市部から離れた場所に荘園を持つ自分には彼女と同じことはできない。
ある程度は自衛する必要がある。そのために奴婢達にも日常的に鍛錬を付ける必要があるし、防衛する為の備えも用意しておく必要があった。まあこれは前者に関しては霍篤、後者に関しては月英に相談しながら決めればいいことだ。
もう二度と賊徒達に攻め込まれないように鉄壁の荘園を築き上げる、そのためにはもっと戦力が必要だ。もっと防衛設備が必要だ、賊徒達が戦う前から心を折ってしまうような荘園を築き上げてやる。
虚ろな瞳、椿は目元には立派な隈がこさえてあった。
†
姓は黄、名は承彦。真名は
襄陽黄家の当主である彼女は、基本的に面倒な事は嫌いであった。軍隊とか面倒なものを抱えたくないので官僚に丸投げ、荘園の経営も面倒だからと信頼できる者に投げつける。奴婢の管理すらも奴婢に階級を与えることで管理させる徹底っぷりだ。
そんな彼女が唯一、自分の手で管理しているのが暗部になる。
「へえ、
萩乃は侍女に扮した暗部から受け取った手紙を燃やしながら呟いた。
娘も元気にやっているようで何よりだ。家から出て行くのは寂しいが、自立して欲しいとも願っている。相変わらず引き篭もりがちではあるようだが、外に出れなかった今までと比べると大きな進歩である。
やっぱり親の自分だと甘やかしてしまうのだろうなあ、と萩乃は複雑そうに頷いた。
「それにしても、こっちはどうにかなんないのかな?」
萩乃は装飾の施された巻物を面倒そうな顔で手に取る。
これは襄陽太守からの招聘状であり、数年前から執拗に送られてきているものだ。内容は配下として迎え入れたいというもので、現地登用としては破格の条件が書き記されている。それによって得られる利権は大きいに違いない。だが萩乃自身が彼の下で働きたいとも思えなかったので、仮病や居留守を使いながら適当に聞き流している。
別に現太守の何が悪いと云う訳ではない。能力は並程度にはあるし、見た目も悪くはない。賄賂や不正の数も、今の腐りきったご時世では控えめと云える。これといった不満はないし、あえて太守の座から引きずり落とそうとは思わない。地元の為に動いてくれる分には、ちょっとした手助けをしてあげることもある。
そんな彼の悪い点を挙げるとするならば、地味なことだ。
此処、襄陽郡は地元豪族の力が強い。特に襄陽三名家と呼ばれる豪族の力は強く、その発言力は太守をも上回ると言われる。襄陽郡で何かしらの問題が起きると
ただ惜しむらくは現太守には武才がなく、彼には武に長けた優秀な配下がいなかったことだ。
そのせいもあってか彼は暗愚ではないが無能に近いと云われており、今の襄陽郡を支えているのは三名家の尽力があってのことだと言われている。それで満足に地元民の支持を得られずにいる彼は、元から地元の支持を得ている三名家を引き込もうと企てているのだ。他二人にも招聘状を送っているようだが、常日頃から兵糧の支援などをしている自分には特に多いようだった。この数ヶ月で招聘状を送りつける頻度が増えており、娘月英に対して縁談話を持ってくることもあることから彼もなかなか切羽詰まってきたと見える。
そろそろ次を考える時かな、と萩乃は思い耽った。
正直、好きでもない相手から執拗に手紙が送られてくるのは面倒臭くて仕方ない。
「――よし、蔡瑁と鳳徳公に連絡を取ろっか」
萩乃は軽い調子で頷くと侍女に扮した暗部に墨と紙を用意させる。
宴席を設けるから来て欲しい、と云った内容。身内だけの小規模なものを企画していると伝えれば、他に大事な用事でもない限り二人は必ず足を運んでくれる。そして劉表には、戦勝を祝いたいから屋敷まで来て欲しい、と日付を添えて雑に書き記す。
他にも数名、信頼できる者に宛てた手紙を用意して暗部に手渡した。
「宴席には、うん、そうだね。美味しい酒と美味しい料理、他で凝ったものはいらないよ」
そう告げると暗部は頷き、黙したまま部屋を出て行った。
†
内容は至って単純なもので、戦勝を祝いたいから屋敷まで来て欲しい、と云ったものである。そういえば前に顔を合わせた時から一ヶ月もの日にちが過ぎている。月英も屋敷に送り返さないといけないので丁度良い頃合かもしれないと思った。それで月英の部屋まで赴いて、手紙を見せながら黄家の屋敷まで送ることを伝えてあげる。
すると彼女は途端に顔を蒼褪めさせたのだ。
「あ、ああ、あの、あのあの、あ、ああ……あの! そのっ!」
「はい落ち着いて、深呼吸。うん、ゆっくりと喋ってくれて構わないわ」
「み、みみ、身嗜みを整えて! そして、えっと……これ、やばい! やばいやつ、です!」
彼女の吃り癖はいつものことだが、その戸惑い方はいつもとは違っているように感じられた。
とりあえず落ち着かせようと試みるが、なにを急いているのか彼女は焦ったまま必至に言葉を口にしようとした。
「こ、こここれ、さ、さん、三名家が待ち構えてます! 三名家との談合です、はい!」
襄陽三名家、実質的に襄陽を牛耳っている豪族の名称だ。彼女達に目を付けられると郡単位で村八分を受けて、別の州への立ち退きを余儀なくされる。その実質的な権力の強さは太守ですらも抗うことは許されない程だと云われている。
「……宮中に跳梁跋扈する魑魅魍魎と、どっちが厄介かしら?」
ふっと遠くを眺める。
なぜ、どうしてこうも問題が次から次にやって来るのか。
劉表景升は安寧が欲しい。
これで第一章「雌伏編」は終わります。
第二章「黎明編」。漸く恋姫を出すことができます。
長かった、本当に長かった。
本当はもっとじっくりと書くべき内容が多いと思いますが、
恋姫が出せない状況にモチベが尽きそうなので気が向いた時に間幕として書き足したいと思います。
主に月英周辺。月英と劉表で視点別に整理するかもしれないです。
しかし、これでやっと下地が整いました。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
黎明編
12.かがやけるひのために
意識が覚醒する、それは私にとって新たなる世界の始まりだった。
何度繰り返しても始まり方は変わらない。
気付けば、寝台の上に寝かされており、まだ若い母様に世話をして貰っている。
この時にはもう二本足で立てるようになっていることが多く、多少前後はあるが五歳程度の年齢で徐々に意識が覚醒してくる。とはいえ、意識が覚醒した頃はまだ自分の意思で肉体を動かすことができない。最初は肉体の中に二つの魂があるといった感じであり、予め存在していた私が肉体の主導権を握る。
それから何年もの年月をかけて、二つあった魂が少しずつ同化し、八歳になる頃には私達の境目が失われる。
この肉体に最初からあった魂も私であるし、前世から流れ込んできた魂も私だ。
幾重にも折り重なるのではなくて、同化して一つになる。だから魂の幼い部分が母様に甘えたい気持ちが萎えることはなかったし、そうした部分が成熟した魂を覆い隠してくれた。違和感はあるに違いない。それでも他と比べて少し成熟が早いだけと思ってくれるのは、子供に対する愛情から来るものだと思っている。
毎度、意識が覚醒する度に母親の愛情に感謝していながらも、それを裏切っているような罰の悪い想いに胸を痛める。
さて、母様は名家の出身である。
家系図を辿れば襄陽黄家の親族となっているが、奴婢一万人を抱える本流とは比べるまでもなく廃れている。そんな時に母様の御家は嘗ての栄華を取り戻す為に躍起となり、母様を政略結婚の道具として使おうとしたのだ。別に政略結婚が悪いというつもりはない。しかし既に恋を知っていた母様は政略結婚に反発し、そのまま御家を飛び出して駆け落ちをしたのだとかなんとか。あの頃は若かったわ、と頰を赤らめながら告げる母様を思い返される。
私は父様の顔を知らない、私が意識を取り戻す頃には死んでしまっている。屋敷とは呼べないような質素な掘っ建て小屋で田畑を耕して食い繋ぐ日々、主な収入源は母様が弓矢を用いて狩ってきた獣の毛皮や骨だったようだ。それでも父様のことを語る母様の顔は何時も穏やかだったから、きっと二人の生活は幸せだったのだと思っている。
まだ意識にズレが生じていた頃、母様は掘っ建て小屋を引き払って旅に出る。
人が乗れないほどに小さな馬は私専用、パカラパカラと荷物と一緒に体が揺れる。この時、母様は狩猟で路銀を稼ぐことを考えていたようだったが――母娘の二人旅、賊徒に目をつけられないはずがなかった。そして、その悉くを返り討ちにし続ける母様は流石と云う他になく、賊徒から剥ぎ取った武具や金品が主な収入源となっていた。次第に賊退治の武勇が民衆に知れ渡るようになり、様々な豪族と面識を持つようになる。そうして黄忠の名は知る人ぞ知ると云った感じで荊州に広まっていった。
おかげで根無し草の親子旅でありながら飢えた記憶がない。
肉体年齢は巻き戻っても精神年齢は着実に積み重ねているせいか、昔は見えなかったものがよく見える。寒冷化による被害を受けている華北と比べると比較的、荊州は豊かな土地だ。そのため都内で飢えている人は少ない、元から荊州に住んでいる者達の顔には笑顔があった。ただ華北からの流民に笑顔はない。荊州とて少なからず冷害の影響は受けており、他州の民草を受け入れるだけの余裕はなかった。そのため自分達の食い扶持を守るために荊州――というよりも華南全体が排他的な傾向にある。
路地裏や道端で、死んだ目をしながら座り込んで身動きを取らない者をよく見かける。こういう仕事もなく見窄らしい見た目をしている者の大半は華北出身だった。母様からは近寄らないように言い付けられている。可哀想だとは思うが助けたいという気は起きなかった。それに荊州にいる賊徒の七割方が華北出身者であることを思えば、あまり良い感情を抱くことはできない。
部屋の隅に溜まった埃から目を逸らすように、母様に手を引かれる。
八歳になった頃、三年間の旅路に母様は心身共に疲れを感じるようになっていた。
まだ幼い私を連れ回していた負い目もあったのかも知れない。とにかく母様は地に足を付けた生活を望むようになると嘗て、築いた豪族との縁を頼って良い仕官先はないかと聞いて回った。ただ条件が噛み合わず、就活を続けながら旅を続けること更に数ヶ月が過ぎる。雪が降り始めた頃に漸く、めぼしい仕官先を紹介して貰えることになった。
その手を差し伸べてくれた相手が襄陽黄家の現当主、黄承彦だった事は皮肉と云うべきか――さておき、この時に強い違和感を感じたのだ。
(この人、こんなに存在感があったっけ?)
荊州を故郷に持つ者として、黄承彦の名は前世でも聞いた覚えがある。
しかし顔を思い出すこともできなければ、どのような人物だったのか分からない。まるで有象無象の一人として認識されていたような強い違和感、前世まで認識を阻害するお面を被っていたような気さえする。それ程までに彼女の容姿は特徴的で、彼女の性格は個性的であった。
母様と黄承彦の会談中、私は違和感の正体を探ろうとした
「う〜ん、どったの? 私の顔になにか付いてるかな?」
そのことに必死になり過ぎて、黄承彦に話しかけられてしまった。
機嫌を損ねてしまったかもしれない、と私が慌てて頭を下げると「良いよ、良いよ」と黄承彦は軽い調子で告げる。「あまり同年代の者と接することが少ないので珍しかったのかも知れません」と母様は穏やかに答えた。確かに彼女は幼い見た目であり、母様と同年代とは思えなかった。どう見ても生理が来るか来てないかの娘でしかない。
ふぅん、と黄承彦は鼻を鳴らすと、のんびりとした顔で口を開いた。
「君、何歳なの?」
「……えっと、八歳です」
黄承彦は暫し私を観察すると、母様に視線を向ける。
今、私が浮かべている惚けるような顔は今世での年相応な私が作ったものであり、彼女に見つめられた瞬間、内心では心臓が張り裂けなそうな程に苦しかった。私の事情を知らない母様は黄承彦の探るような視線の意味に気付けず、動じてしまっていた。
それが功を奏したのか黄承彦は「ん、ごめんね」と緊張を解き、ずずっと茶を啜ることで話を切り直す。
「私の知り合いがね、自警隊ってのを組織しようとしているのだよ。貴方には、その手伝いをして欲しいんだよね」
詳しい話は娘の月英に聞いてね、と黄承彦は侍女に墨と紙を用意させると手紙を
彼女に紹介されたのは大きくもないが小さいとも云えない荘園、武術指南役として母様が仕える予定の相手は劉表だった。前世では母上と縁深い相手であり、私自身も彼――いや、彼女? と何度も面識があった。彼女と会うことで違和感の尻尾を掴むことができるのではないかと期待半分、怖さ半分で彼女が居るという屋敷に訪れた。
そして霍篤と名乗る侍女に案内されて、客間に通される。
「話は既に聞いております、黄忠様。お待ちしておりました」
そこで出会った女性は母様と負けず劣らずの美貌の持ち主、そこに座っているだけでも絵になる程の人物だった。
困惑する、私は彼女を
劉表は私のことを見ると微笑み、優雅に手を振った。
「黄忠様の娘さんでしょうか?」
私に問わず、母様に問いかける。母様は微笑みながら首肯し、「黄敍と申します」と私の代わりに答えてくれた。
その隙に私は深呼吸をして、乱れた心を整える。私の記憶には曖昧なものが多い。前世までの劉表の顔が分からない、黄承彦の顔が分からない。そして民草の顔は全て同じものに見えていた気がする。見慣れていないと猫や馬の顔に見分けが付かないのと同じように、誰も彼もが同じような顔に見えていた。勿論、記憶に残っている者達もいる。桃香、鈴々、愛紗、星……蜀漢の主要な人物達の顔ははっきりと思い出せる。これは、つまり、どういう事なのだろうか。まるで作為的なものを感じるような気さえしてくる。
ただ分かるのは、この世界には私の知らない英傑がいる。それが希望になるのかも知れない。何度、世界を巡っても救えなかった故郷を救えるかも知れない。
私は年相応に笑って、「八歳です!」と元気よく告げるのだ。
荊州のことを故郷だと、私は今でも思っている。
実際に過ごした期間は益州の方が長いけども、生まれ育った水の味は忘れられないものだ。それに空気の匂いも違っているし、建造物の形や住んでいる人も違ってくる。益州、というよりも蜀漢は第二の故郷とも云えるが、それは蜀漢が自分にとっての特別という意味であり、故郷は何処かと聞かれると迷いなく荊州と答えられる自信がある。それは幾巡かの世界を巡った今でも思うことであり、新しい世界で目覚める度に帰ってきたんだと実感する。
だから気持ちを改める――今度こそ私の故郷を壊させない、と。
姓は黄、名は敍。真名は
後に五虎将軍の一人として数えられる猛将、黄忠の一人娘。
そして私は幾つもの世界を巡ってきた逆行者である。
・黄敍:
黄忠の一人娘。逆光者。
【挿絵表示】
ps.
UAが10000突破していました、やっほい!
ここまで恋姫が出て来なかったにも関わらず、お付き合い頂きありがとうございます
これからもひっそりと頑張っていこうと思います
ps.ps.
漸く、念願の恋姫が出ました
とはいえ璃々の精神は成熟済み、焔耶の出番はまだ先……
紫苑さんで生き長らえるのです
目次 感想へのリンク しおりを挟む