焼けるような痛み
―――――いつしかそれも分からなくなり
永遠に感じた暗闇
―――――すでに思うものもなく
嗜虐の業と刃物の冷たさ
―――――とうに日常の断片になった
変わらぬものだった
終わらぬものだった
あの日、至極の月を背負うあなたを見るまでは―――――
「おーい! ミツキ! 薪ってこれで足りっかな」
「……ええ、よろしいかと…。夕餉も、これで足りましょう」
深い、深い、人の気など感じられないほどの山奥に、明るい子供の声としわがれた老人のような声が響く。
子供は身の丈の何倍もあるような丸太を玉乗りの玉のように操りながら、しわがれ声の持ち主を仰ぎ見た。
それは青年だった。声に似合わぬ射干玉と藤の髪を持ち、夜空の月を思わせる瞳を持った、耽美な美貌の持ち主だった。
青年、ミツキは、たどたどしくも感じるようなゆっくりとした口調で少年に同意し、自分の手にある戦利品を見せる。
握りしめられていたのは大きな魚。丸太よりも太くたくましい魚が、白魚のように繊細な指で尾を引きずられている。
少年はそれを見て目を輝かせた。
「でっけェ~~!! 旨そうだなあ、最近は肉ばっかだったから、魚は久しぶりだ! 昨日は熊だったしさ」
「ええ、……では、悟空さまは先に、お戻りください……何か付け合わせの果実でも…見繕って、まいりますゆえ…」
「じゃあ魚はオラが持ってくよ」
悟空は気負いなく手を差し出した。それに対し、ミツキ幾ばくか慮るように押し黙る。
幼い体で丸太と魚を運べるのか―――――そんなことを心配しているわけではない。少年…悟空なら丸太も魚も無事持って帰れるだろうということは承知のうえで、躊躇う。
無言で頭を回すミツキ。その沈黙を、悟空は静かに待った。
「しからば…」
結局ミツキは魚を悟空に渡し、果物探しを優先した。ただ、本来は今まで探索していないルートを探しに行くつもりだった予定を変更し、安定して果実のなっている辺りを探索することにした。
少しでも早く予定を済ませ、悟空に合流するというミツキの苦肉の折衷案である。
―――――どこかで聞こえぬ開幕のベルが鳴る
■
「(壱、弐、参……壱拾(とお)つ。これだけあれば、悟空さまの腹も満ちよう)」
ミツキは腕に抱えた果物を見て、小さく息を漏らした。自身が現状お仕えする悟空はとてもよく食べる。―――――そんなことは、生まれる前から知っていたことではあるが。
食べることは問題ではない。ただ―――――悟空の齢は12。まだまだ育ち盛りだ。これから食べる量も増えていくだろうし、もちろん健やかに育っていただくためにも、たくさん食べていただきたい。できれば、バランスよく。
しかし、こんな山奥で安定してバランスの良い食事をとるのは不可能に近い。ゆえに山菜や果物などを献立に混ぜることで調整を図ってみてはいるが、専門に勉強したわけではないミツキにはそこが限界である。
「都に………出るべきか……」
―――――それはもうずいぶんと前から頭の中にあった選択肢だった。償いきれぬ我が身の失態、そして、恩人であり悟空の唯一の家族である孫 悟飯の死。都に出れば十分な食事を提供できる。清潔な環境で暮らしてもらえる。必要な金子などどうにでもなる。……機会は何度もあり、そのたびに先送りにしてきた。
未だ幼い悟空を祖父の思い出の残る山から出し、慣れぬ都会に連れて行くのも酷だろう。そう口にすらしなかった選択肢。―――――そんな理由は、ただの建前だとよく理解している。自身の我が儘だろうと、ミツキの胸を締め付ける。
「(今は、まだ……)………そろそろ、」
一度首を振り、思考を切り替える。それがまた先延ばしにしただけだと分かっていても…ミツキは誰に言うでもなく、戻るか、と呟いた。
―――――同瞬
パンッ!! パンッ!!
「―――――!!!」
突如森に響き渡る乾いた破裂音。―――――瞬時に、駆け出す。
―――――銃声だ。ミツキの頭は冷静に判断する。音からしてハンドガンの類だろう。冷静に判断しながらも、わずかに気がざわめく。銃声が聞こえた方向―――――そこには、悟空がいるはずではなかったか。
「密猟者か………!?」
うめき声のようなつぶやきを落とすと同時に、力の限り蹴った木の枝が音をたて折れ、落下した。
普段のミツキであれば痕跡を残すような真似はしないが、今ばかりは速度を優先した。
もし、万が一悟空の身に何かがあれば―――――その時は。
速度は上昇する。もはや残像すら残さず、ミツキは駆ける。
―――――奥方様がおっしゃった
―――――名が無いのなら与えようと
―――――あのお方がおっしゃった
―――――しからばお前の目を選ぼうと
―――――満ちた月のようなその瞳。ゆえにお前はミツキだと。
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2話
月は、彼らにとって特別なものだった。
その名を頂くことの、なんと恐れ多いことか。
―――――ブルマは今までの人生で、これほど命の危機を感じたことはないだろうと思った。
組み敷かれた体。背中に当たる地面がごつごつとしていて痛い。
首筋に冷たさを感じる―――――刃物だろうか。そこから血の気がどんどん引いていくように体が冷える。
目の前には、自分を組み敷いている男がいる。男が女を組み敷いている構図だというのに、そこにいやらしさは感じられない。あるのはただ、底冷えするような殺気―――――
「女……きさま、己が何をしたか、分らぬなどと……ほざくわけではあるまいな……」
しわがれた声が恐怖心をあおる。
―――――なぜこんなことになったのか。
事の始まりは、ブルマの運転する車が悟空を轢いてしまったことだ。悟空は怪我一つないが、見たこともない『車』という機械を『怪物』とし、目的を自分の持っている魚の横取りだと判断した。
「これはミツキがとってくれたオラたちのメシだぞっ!!」
ゆえに反撃に転じる。車を持ち上げ―――――放った! 悟空からしてみればこれは当然のこと。しかし、ブルマからしてみれば納得がいかない。
確かに人を轢いた自分に罪はあるだろう。しかし、急に怪物呼ばわりされ投げ飛ばされたとあれば―――――どう考えたって向こうが悪いに決まっている!!
破天荒とはいえお嬢様育ちのブルマは、ここまで乱雑な対応をされたことがない。初体験のフラストレーションは我慢するまでもなく爆発した。
―――――だいたい、車に轢かれて怪我一つもないどころか身一つで車を投げ飛ばすなんて、どっちが怪物だってのよ!!
感情はそのまま護身用のハンドガンに指をかけさせ―――――発砲。
―――――甲高く響いたその銃声は、数km離れたところにいた『殺意』を呼び出すこととなる。
もちろん悟空の体には銃弾は効かない。現状ブルマの最有力攻撃手段であった銃撃でも死なない悟空に、自分の不利を悟ったブルマは必死に弁明を試みることにした。とりあえず、妖怪と呼ばれたので自分が人間であるということを。
疑り深い目はなかなか信じてはくれなかったが、自分が女であると言えばコロリと態度を軟化さる。祖父に女には優しくしろと言われたのだと身を引く悟空に、ブルマは事がうまく転んだことを悟ったのだ。
順風満帆じゃない、と自分の機転の良さに上機嫌になったブルマは、薄く笑みを浮かべる。
―――――しかしここで、『殺意』が運命に追いついた。
■
突如反転した視界。打ち付けた頭の痛みを叫ぼうとして―――――気づく。
頭の上で拘束された両手。体には誰かが馬乗りになっていた。そして、目の前には男の顔―――――
「んなぁっ!?」
「黙れ」
思わず出た声は鋭く切り捨てられた。そのしわがれた声に思わずゾッとして、黙る。
ブルマはとりあえず必死に現状を理解しようとした。―――――組み敷いてきた男は、不思議な格好をしていた。顔は口元を隠しておりよく見えないが、その目元は涼やかで、長いまつげが見て取れる。かなりの美形だろう。顔にかかる前髪は黒く艶があり、しかし垂れてくる顔サイドの髪や一本に結ってあるは紫で、こんな山奥に随分センスのいい男がいると、現状を忘れて思わず呆けた。
―――――そして冒頭の会話である。
何だろう、何をしたんだろう。自分の命の危険に、ブルマは必死にその天才的な頭脳を回転させた。
この男と会うのは初めてのはずだ。では逆恨みだろうか。もしくは間接的に何かしてしまったんだろうか。
そういえば。あの子供を轢いたときに、「『ミツキ』がとってくれた」だのと言っていなかっただろうか。
―――――思考のピースが埋まっていく。
つまり、あの子供は『ミツキ』という動物か人間と同居・共存していると捉えられるはずだ。そして、おそらくきっとこの男が『ミツキ』だろう。
そこまで当てはめて、なら『何をしたか』とは何か。―――――私はあの子に、発砲している。
最悪だ、と声もなく呟く。つまりこの男は、聞こえてきた銃声で自分が悟空に発砲したということを認識している。身内が銃で撃たれたとなれば怒りも湧こう!
だって、結局銃は効いてないじゃないのよ!! ブルマはそれが理不尽と分かっていても怒鳴りたくなった。しかしそれをしないのは、単純に目の前のミツキが怖いからだ。
―――――どうしようどうしようどうしよう! 私こんなところで殺されちゃうのーーーっ!?
もはや絶望しかない。
「おいミツキ、やめろよっ!」
―――――しかし、ブルマと言う少女は恐ろしいほどのラッキーガールである。その幸運は後の未来でたびたび発揮されるのだが、今この瞬間にも遺憾なく発揮されることとなる。
「悟空さま、しかし」
「やめろって、そいつ女だぞ! じいちゃんに女には優しくしろって言われたじょねぇか」
ブルマを殺さんとばかりに睨み付けていたミツキを止めたのは、悟空だった。
―――――例えば、ミツキが悟空のもとに駆け付けたのが、悟空がブルマを『人間の女』だと認識する前だったとしよう。きっと悟空はミツキを止めなかった。……『怪物』を操っていた『妖怪』をミツキが仕留めたのだと、気にもしなかったかもしれない。
けれど、悟空はブルマが『人間の女』であると知っている。そして、悟空にとって孫 悟飯の教えは『守るべきもの』である。
ゆえに、ミツキの行動を咎め、制止する。
それは間違いなく、ブルマが生き残るにあたって現状の最善手だった。
ミツキは悟空の言い様に、躊躇いを見せた。初っ端から『女』と呼んでいることから分かるように、ミツキは別にブルマを『妖怪』などと思ってはいない。『人間の女』が自分の至上に害をなした判断したからこその行動だったのだが―――――悟空は完全に誤解している。
そしてブルマは悟空と違いそのミツキの躊躇いに気付いた。伴う感情はわからないが、この二人のヒエラルキーを瞬時に理解のである。そういう抜け目ないところがブルマをラッキーガールたらしめる所以でもあった。
「ご、ごめんなさいっ! わたしびっくりしちゃって……も、もうしないから許して~っ!」
できる限り悲壮感のある声を出す。悟空のミツキに対する目つきが少し鋭くなった。
悟空は別に、ミツキを非難しているわけではない。ただ、祖父の言いつけを破ろうとしている(ように見える)ミツキを咎めているつもりなのだ。
ミツキもそれはよく分かっている。
孫 悟飯の言いつけか、悟空の安全か―――――
数秒の間があく。―――――結局、折れるのはミツキだ。
「女」
「ひゃいっ」
「目的を聞こう。―――――次は、ない」
―――――ブルマは思わず渾身のガッツポーズを決めた。ミツキに睨まれたためすぐに解いたが。
とりあえず命の保証がされたブルマは、喜びのまま悟空に飛びついてキスでもしてやろうと思ったが、ブルマと悟空の間にはしっかりミツキが体を潜り込ませているので不発に終わる。
ミツキの視線、その態度にはいまだ警戒は解かれていないことが、あからさまに主張されており、ブルマの興奮は一気に冷めた。
「あーっああああの、わたし、ドッドラゴンボールを探してて!」
「ドラゴンボール…?」
「こ、こーゆーの! 知らない!?」
「! あっ、じいちゃん! じいちゃんだ、なんでおめぇじいちゃん持ってんだ!?」
ブルマがあせあせと取り出したオレンジのボールふたつ―――――それを見た瞬間、悟空が飛びついた。
それは祖父の形見と瓜二つだった。一瞬、悟空はブルマが形見を盗んだのかと思い―――――けれど、ふたつあるそれに首を傾げた。
よく分からない。だから、ミツキを仰ぎ見る。悟空にとってミツキは自分よりうんと頭がよくて物知りな男だ。悟空の知らないことはだいたいミツキが知っている、ということを悟空は知っている。
その視線を受けながら、ミツキも思考する。ミツキから見てもブルマの手にあるものが、住処においてある形見に瓜二つにみえたからだ。
―――――女はあれを『ドラゴンボール』と呼んだ。つまり、悟飯氏の形見もまたそれに連なるもの、ということだろう。複数作のか連作の宝玉の類だったのか? しかし……
ミツキはもう一度ブルマをまじまじと見た。悟空の急な「それはじいちゃん」発言に困惑していたブルマは、ミツキの視線を受けて思わず顔を赤らめる。
殺されかけたが、ブルマから見てミツキは十分いい男なのだ。そんな男からまじまじと見つめられれば『もしかして私に気があるのかしら』となる。普通はならないが、ブルマはなる。
ミツキのすらっとした長身に、涼やかな目元や艶のある長髪は大変魅力的だ。しいて減点するなら声だろうか。せっかくの美形があんなしわがれた声というのは何とももったいない。あの声で愛をささやかれてもときめけないだろう。
やはり天は二物を与えないというのだろうか。それに比べて自分は顔も声もスタイルも頭も性格も満点で、まったく罪な女だわ、とブルマは最終的に自己陶酔に入った。自分を殺しかけた男に対する判定としては何とも図太いものである。
―――――脅威にはなり得まい。
ミツキは目の前でくねくねし始めたブルマを見、静かに思う。万が一抵抗されようと、悟空にばれないように始末するのはたやすい。そう判断した。
「―――――いかにも、貴殿の手にある、その宝玉と、同じものを……形見とし、所有している」
「…っは! え、ええ! それを譲ってほしいの!」
「いいっ! ダメダメ、ダメだよ! じいちゃんの形見だぞ、いくら女でもダメだ!」
「悟空さま、しばしお待ちを………そも、ドラゴンボールとは、なんでしょう」
「え? えっと、」
悟空の急な猛反発にムッとしたブルマだが、ミツキの問いを優先することにした。両手にドラゴンボールを掲げ、ひとつひとつ説明する。
始まりは自分の家の倉にあったドラゴンボール。誰に聞いても正体がわからない。―――――そこでただのガラス玉だと思わないところがブルマの抜け目ないところである。
ブルマはあっちこっちの文献をひっくり返し、とうとうその正体にたどり着いたのだ。
「ボールは全部で7つあって、入ってる星の数で呼び方が違うの。家にあったのは二星球。星ふたつのやつよ。で、こっちの星が5つの五星球が10日くらい前に北の谷で見つけたやつ」
「じいちゃんの形見は星が4つあったぞ」
「そうなの? じゃあ四星球ね」
ブルマは話を続ける。
「ドラゴンボールの神髄はこっからよ。なんと、7つ全てを集め呪文を唱えると竜の神『神龍』が現れて、どんな願いもひとつだけ叶えてくれるの!」
「ほぇーっ!」
ブルマの興奮した声に感化されたように悟空も感嘆の声を上げる。『今はバラバラになって世界中に散らばっちゃってるらしいのよね~』と続けたブルマに、ミツキは静かに口を開く。
「いきさつは、理解しました。しかし……なぜひとつが、ここにあると…分かったので?」
「あっ! それはね、んっと、ジャジャーーッン!!」
―――――その声はあまりに静かだった。まるですべての感情をそぎ落としたかのような声だった。
悟空は感じた違和感に、少し首をかしげミツキを見る。しかし、ミツキは応えなかった。
ミツキの違和感など何も気づいていないブルマは、興奮そのままに丸い機械を取り出す。
……最早先ほど殺されかけたことなど忘れたらしい。あまりの図太さにミツキは内心引く。
そんなミツキに気付かず、ブルマは高揚した顔で機械を見せびらかし、胸を張った。
「調べてるうちにドラゴンボールからは微弱な電波が出てるって気づいたのよね! それをもとに、その電波をだけを拾い上げるレーダーを作ったの! ドラゴンレーダーよ!」
掲げられたそれに、ミツキは少し目を見開く。ミツキは機械に詳しいわけではない。しかし、目の前の女が言った技術は非常に高度な技術なのではないか、と驚く。
なるほど、才あるゆえの傲慢か、などとだいぶ失礼な感想を抱くが、もちろんおくびにも出さない。
「して、貴殿。その神に、何を願うという」
ミツキから見てブルマは確かに卓越した才能を持っているが、本人の戦闘力は下の下の下だ。ひとひねりで殺せる小娘。しかし、この女がドラゴンボールによこしまな願いを託し、それが叶えられたとしたら。それが、悟空に害をなすのなら―――――
「決まってるじゃない! 『ステキな恋人』! これに限るわっ」
―――――ミツキは『この女は脅威にはなり得ん』と理解した。
食べきれないイチゴも捨てがたいけど、などとぼやくブルマを放置し、ミツキは片膝をついて悟空と視線を合わせる。
女の願いはどうでもいいが、形見の所有権は悟空のものだ。なら、判断は悟空がすべきであるのだから。
「悟空さま。ご判断を……」
「ええ~…でもよう、いくら女でも、じいちゃんの形見はやりたくねえな」
「じゃあ貸して! 終わったら返す、それでいいでしょ? てゆーか、アンタも一緒に来たら? こんな山奥なんて何にもないじゃない。一緒にドラゴンボール探しに行きましょ! アンタ強いみたいだし、ボディーガードになってよ!」
―――――思わず、ミツキは体を固くする。『悟空がここを出ていく』……それは、ミツキの懸念していたことだった。口に出さない不安が渦巻く。もし、もし、もし………
「オラも一緒に?」
「そう! ね、貴方もどうかしら、えーっと、ミツキさん?」
「………悟空さま、ご判断を」
―――――しかし、これは運命なのではないだろうか。
きっと、いずれはこうなるのではなかったのだろうか。
なにより、世界に出れば悟空は様々な経験を積むことができる。そして、それは悟空を必ず成長させるだろう。
ドラゴンボールとやらが本物であろうとまがい物であろうと、『世界を見た』という経験が期待できるのなら、それは非常に魅力的な選択肢だ。
ならば、これは望ましいことではないだろうか。
……けれど、それでも。
―――――ミツキは恐ろしいのだ。悟空は、生まれも育ちも性質も能力も、おおよそ一般的とは言い難い。一般人と比べれば異常と言ってもいい。
それは悟空の尻から生える尻尾ひとつとっても、大衆のもとでは浮いてしまうだろう。
人は自分と違うものを排除したがる。多数決で勝ったものが強いのだ。―――――もし、心無い者の言葉や態度が悟空を攻撃したら……
ミツキは、ずっとそれが怖かった。
攻撃をされること自体が恐ろしいのではない。その攻撃を受けた悟空のリアクションが恐ろしかったのだ。
多くの人から後ろ指を指され『お前は異物だ』とのけ者にされれば、悟空がどう思うのか。
傷つくことなく流すかもしれない。そういう意味では自分本位な人間性だから。
けれど、彼は自分が無知である自覚がある。ゆえに人々にそう言われれば、『自分は異物である』と思い込んでしまわないだろうか。結果として、周囲から一歩引いてしまわないだろうか。
悟空は確かに異質な子供だ。―――――しかし、ミツキは只の子供として育ってほしかった。
好きなことを好きなだけやってほしいという思いがある。のびのび育てば十分だ。ゆえに、そうやって悟空が自ら身を引いてしまうようなことになりえないか………それは、ミツキが悩み続けた根本だった。
数刻前に見ないふりをしたはずの選択肢が、今度は確実な選択を迫ってくる。
ミツキは決めることができなかった。ゆえに、悟空にすべての選択を託す。―――――それを卑怯だと分かっていながらも。
―――――悟空は目の前のミツキをじっと見た。なんだか様子が変だなぁ、と思った。しかし悟空ではなんで変なのかまでは分からない。
分からないから、とりあえず考えることを止めた。そしてブルマの言っていたことを少し考えてみる。ボディーガードというのは何なのか。世界中を旅すると、強い奴がいっぱいいるのだろうか。じいちゃんもたくさん修行しろって言ってたし、いろんな奴と戦えればもっと強くなれるだろうか。
けれど、じいちゃんの墓がある山から出るのは―――――
「―――――ま、いっか」
要するに、帰ってくればいいのだ。じいちゃんがいるこの山に。旅をして、強くなって、じいちゃんに報告する。―――――それはすごく良いことのように思えた。
「ミツキも一緒なら、オラは行ってもいいぞ」
「ほんと? ねねね、じゃあミツキさんは?」
「―――――悟空さまが、そうおっしゃるのでしたら」
ああ、やはり。―――――ミツキは小さく息を吐いた。
やはり、この時が来たのかと。
―――――これより、運命が始まる。
しかし彼らは笑っておっしゃる。
お前によく似合う。そう笑っておっしゃる。
しからば私は、決してこの名を裏切りません。
決してこの名を穢しません。
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3話
犬と呼ばれる。不快ではない。
もとより下賤の身。畜生にも劣るもの。
なにより、私はあの時から、あのお方のものなのですから。
あのお方の犬と呼ばれることに、何の不満がありましょう。
―――――方向性の決まった一行は、次なるドラゴンボールを目指し1200km先の西の方角を目指すこととなった。
ブルマは悟空に壊された車の代わりを出すため、ホイポイカプセルの入ったケースを取り出し考える。
悟空は割かし能天気な野生児だということが分かった。しかし、ミツキはいまだ謎だ。
……根本は悪い奴ではないと思うけど、と唸る。
ついさっきのことだ。結局食べなかった魚を森の動物に渡してくると言って消えたミツキ―――直前まで『余計なことするなよ』とばかりにブルマを睨み付けていた―――を待つ間、悟空と自己紹介をしたとき。
ブルマは、自分の名前を言い渋った。正直、『ブルマ』なんて名前は恥ずかしくって好きじゃない。今までどれだけ笑われからかわれたことか! 悟空もまた指をさして笑ってきた。
もちろんブルマは怒った。―――――けれど、どこか諦めもある。こんな名前じゃしょうがない、という気持ちだ。笑われるのは仕方ない。きっと自分が悟空でも笑っただろう、と。
しかし、ミツキは違った。
帰ってきたミツキは笑い転げる悟空を見、理由を聞き、悟空をたしなめたのだ。
「悟空さま。名とは、親が、子に授ける……一等特別な、祝福にございます。名を、笑うことは…そこにある思いを、笑うことにございます。………悟飯氏が、貴方に『悟空』と…名を、与えたように、……『ブルマ』もまた、ご両親の……無償の愛の、形そのものなのです」
悟空が理解できるようにと静かに重ね伝える言葉は、同時にブルマの心にも響いた。―――――そうだ。名前はセンスがないから気に入らないと言っても、両親を嫌いになったことはなかった。だってあの二人に名前を呼ばれるたびに、そこには温かい愛情を感じていたから。……あのふたりに呼ばれること自体は、嫌いではなかったから。
恥ずかしがるから恥ずかしかったのだろうか。
「名を笑うのは、その者が、名に、ふさわしくない場合………誇りもなく、みじめであることを、受け入れるさまを、笑うのです」
だったら、この大天才ブルマ様に、名を笑われる謂れがあると? ―――――あるわけないじゃない、そんなもの!
「ねえ、わたし、ブルマよ! あなたの名前、聞かせてちょうだい!」
―――――ミツキ、と短く答えたその男と、ブルマは仲良くなりたくなった。だから唸るのだ、彼を知りたくて。
結局その後、悟空はずいぶんと素直にブルマに謝罪したため話は掘り下がることなく、実は礼も言えていない。機を見て、とブルマは意識にとどめておく。その時は、礼をして、いろんなことを聞いてみようと。
というのも、ブルマに誤った悟空が―――実際ミツキが言ったことをどこまで理解できたのかは疑問だが―――それ以降、ふと思い立ったようにミツキの名を呼ぶのだ。「ミツキ」「はい、いかが、されましたか…悟空さま」「ん~なんでもねえや」「左様でございますか」バカップルか。急にふたりの世界になるため、さすがのブルマも割り込みにくいのだ。
「ん~んんん……あ、どいてどいて!」
ボムッ!!
ブルマは9番のカプセルを放り投げた。煙が舞う―――――まあ、これから時間はたくさんあるのだから、少しつ仲良くなればいい。
「て、あちゃーっ!」
「うわーっ! なんだこれ!? おまえやっぱ妖術使いだろ!!!」
「悟空さま、これは、都の技術でございます」
出てきたバイクを見て、思わずブルマは頭を抱えた。今は悟空の喚き声も、世間知らずと思いや意外や意外、ミツキの知識も気にならない。
もともとこの旅、一人旅の予定だったのだ。―――都会育ちのお嬢様がよくぞ思い切ったなと言われそうだが、ブルマは図太く抜けているので『多分何とかなる』くらいにしか考えていなかった。―――とりあえず、一人旅だったブルマはもちろん乗り物も大人数で乗ることを計算しておらず、出てきたのはバイクだ。流石に3人は乗れない。手持ちの陸上移動のできる乗り物で唯一3人以上乗れたのは悟空の壊した車だけだった。
いくらブルマでも、初対面のイケメンと密着二人乗りはちょっとハードルが高い。―――――実は神龍への願いが『素敵なコイビト』であると打ち明けた時、ブルマはちょっとミツキでもいいかな、なんて思っていた。殺されかけた(忘れてなかった)が、実際随分と美形だし、たぶん腕っぷしも強いだろう。声は非常に残念だが、まあ妥協してもいい。
―――――けれど、ブルマの女の感がストップをかけたのだ。
今までの一連の流れでブルマはあえて一度も指摘しなかったが、ミツキの悟空に対する敬い方は普通ではない。もしや悟空はボンボンか、とも思ったが、こんな山奥でボンボンも何もないだろう。けれど『悟空さま』なんて呼び方からしてミツキが悟空に対して仕える立ち位置というのは分かった。言っていることは教育係のようだが、しぐさや態度は従者に近い。
悟空があっけらかんとしているのは恐らく、今まで比較対象がいなかった分普通が分からず、違和感を覚えていないからだろう。
―――――閑話休題。
とりあえず、そんな一連の態度からミツキの優先順位の頂点に悟空がいるというのは窺い知れた。そして、きっと、それ以上に成れる人はいない。
ブルマは二番手なんてごめんだ。ゆえに自らの女の勘を信じ、ミツキをコイビト候補から除外したのだ。
―――――が、イケメンはイケメン。密着するのは役得でありながら恥ずかしい。
ブルマが悶々と悩んでいる間、悟空をなだめすかしたミツキは出されたバイクを見、ブルマの悩みに気づいていた。
―――――しばし考え、嘆息する。悟空を信用のおけない人間のそばに長時間置くのは気が進まないが、ブルマを利用し世界規模の旅をするのだから多少友好的にするべきだろう。それがミツキの結論だった。
「お―――――」
女、と言いかけ、止める。先ほどブルマの名を笑った悟空をたしなめたばかりだ。だのにミツキがブルマの名を呼ばず『女』と呼ぶのは道理にあらず。悟空も不信感を持つだろう。
「ブルマ嬢」
「ぎゃあっ!」
ブルマがひっくり返った。考え事をしていた上に名前を呼ばれるなんぞ思いもしていなかったからだ。ついでに言えば『ブルマ』と『嬢』の組み合わせの悪さが留まるところを知らない。
なにはともあれ、少なくとも他人に名を呼ばれたリアクションとしては最低の部類に入るだろうブルマの態度も、ミツキは気にしていなかった。
そもそもミツキは忍だ。―――――『悟空を守る』という大義名分があるがゆえに尊大な態度をとってはいるが、本来はブルマのような良家に『使われる』立場である。実際の身分など一般市民に劣る存在。そんな忍が不遜な態度をとられたところで、当然の扱いであるのだから。
「私は、その、カバーの上で結構……」
「えっ! え、そんなとこ乗る場所じゃないわよ!? 危ないじゃない」
「……貴殿は、運がいい……本来、この山道を…獣に会わず、通り抜けるなど、不可能に近い。……即座に、対処が可能なように、…用心をするだけ、でございます……」
嘘だ。実際獣に会わないというのはあり得る。なにせ、パオズ山は緑が豊かでエサに困らないのだ。それなら見たこともない鉄の塊にわざわざ襲い掛かる必要がない。テリトリーに入られようが、あまりに未知な風貌、においである。通り過ぎるだけなら様子見をするだろう。
下りにいたってはミツキと悟空が付いていく。この山でふたりにわざわざ向かってくる獣はもう少ない。わざわざ用心しなくても、実はそこまで危険はないのだ。
それでもそういう言い回しをしたのは、ある意味ブルマへの気遣いだった。年頃の娘の葛藤くらい察せるものである。―――――それに、繰り返すようにミツキは忍である。本来であれば、手が触れるどころか視線が合うだけでも処分を受けるような身分である。ゆえに、触れる事を極力避けるべき、という忍としては当然の思考があった。
たとえ仕える者でなくとも。たとえ一度仕える相手に危害を加えられたことがあったとしても。少なくとも、悟空とブルマが敵対しておらず且つブルマが利益をもたらすのなら、ミツキもまたブルマに対し多少身分を弁えた態度をとることにしたのだ。
ミツキの思惑など知らず、ブルマは身震いした。悟空たちに会うことなく猛獣に食べられた未来があったかもしれなかったのだと、わが身の行く末に血の気が下がる。
不安はあるが、とりあえずここはわが身可愛さにミツキの言うことを聞こう。そう決めた。
「ん? ん?」
「ほら、えーっと、孫くん! 早く後ろに乗って。落ちないように私につかまるのよ」
「なんだ、乗ればいいんか? ヘンテコなやつだな~ほんとうにダイジョブなんか…」
「グダグダうるさいわね~! 男でしょ? 早く乗りなさい!」
「いいっ!? わ、わかったよ」
―――――まるで姉弟のような会話だ。そんな感想を抱きながらミツキは卵のように丸い形状をしたカバーの上に乗る。……カバーといっても、正確には屋根のようなプロテクトだ。風よけでもあるだろうそれはつるつるとしているが、ミツキはなんの振動もたてず静かに飛び乗った。
ブルマはやはりまだ不安そうにミツキを見るが、ええい成るように成れっ、とエンジンをかける。ドゥルルン、唸るバイクに悟空の興奮も高まっていき、何度もバイクや上に乗るミツキを交互に覗き込んだ。
―――――バイクが走りだす。速度はおよそ時速40km。
「ブルマ嬢。…速度を、上げていい、…倍は、差し支えない」
「ええーっ、う、うう、もう! 知らないんだからね!」
上に乗るミツキを気づかったそれも、本人に両断されてしまえば行く当てがない。ブルマはやけになってハンドルを回し、スピードを上げた。
ギュオオン!!
「いやっほー! 早ぇえ早ぇえ!! これオラが走るより早ぇえぞ!」
「当たり前でしょ機械なんだから!」
「ミツキよりも早ぇえかな!?」
「知らないわよそんなの!」
「なぁミツキー!!」
「ちょっと叫ばないでようるさいわね! それにこんだけスピード出してりゃ声なんて聞こえないわよ!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ声が森に響く。動物たちは驚き隠れたが、そんなことは気にしない一行は、現在時速82kmという高速で山を下って行った。
■
走り始めて5分ほど。すでに山道を抜け少しなだらかな平原地に出たころ。ブルマは運転に集中し、悟空は今まで来たことのない範囲の景色にワクワクと辺りを見渡し、ミツキはただ不動だった。
正直、走り始めの悟空の問いかけは聞こえていた。あえて沈黙を貫いたのは別に風圧により口を開けなかったわけではない。
―――――ただ、考えに没頭したかったのだ。そして、その顔を見られたくなかった。
ミツキは忍であるからして、普段感情を表情に出すことがない。無表情にの鉄仮面で動くのは眉くらいで、ブルマを睨みつけた時とてそこまで表情に動きがあったわけではない。
感情のコントロール、表情のコントロールは忍の基礎。しかし、ミツキはこの思考の間、自身がどんな表情をしているのか……コントロールできているのか自身がなかった。だからあえて誰にも見られぬ頭上を選んだのだ。
「(ドラゴンボール……)」
―――――どんな願いも、ひとつだけ叶えるという竜の神。
たとえば、世界の支配だとか。
たとえば、不老不死だとか。
たとえば、億万長者だとか。
願いの規模はどこまで許されるのだろうか。たとえば、たとえば、
―――――死人を蘇らせるだとか。
「(否)」
もはや再び会いまみえること叶わぬお人を、うつし世に
「(それは)」
温かいお人。優しきお方。『彼ら』が、ここに蘇り
「(―――――理を超えている)」
『3人』……否、『4人』で暮らしていただくことは?
「(………叶うのだろうか)」
あまつさえ、おそばに置いていただけるのなら―――――
「(許されるのだろうか)」
―――――もう一度、名を呼んでいただけるのなら
「否」
つぶやいた言葉は風にさらわれ、誰にも届くことはない。
「所詮はただの自己満足」
ゆえにその声は揺蕩い、
「道理に逆らう名分がない」
静かに、融ける。
■
出発からおよそ20分が過ぎたころ、些細なハプニングに襲われた。なんてことはない、急こう配の坂道を勢いをつけて下った結果、車体が浮き空を舞ったのだ。
行きは上りであったためさほど意識になかっただろうが、下りとなれば支障も変わる。行きはよいよいでも帰りは恐いのだ。
着地の衝撃にブルマは思わずブレーキを利かせ、停車する。悟空は凄い凄いとはしゃいでいるのでブルマも見栄を張って胸も張ったが、正直めちゃくちゃ肝が冷えた。二度と味わいたくないタイプの浮遊感だ。
「あ!」
「ん?」
「ミツキさんは!? 落ちた!!?」
「いいっ!?」
「―――――なんら支障はない………」
「ヒェッ」
「ミツキ!」
後ろから聞こえてきたしわがれ声に、ブルマは思わず鳥肌を立てて前のめりになった。
どれだけスピードを出そうと、あまりに喋りもしなければ身じろぎもしないミツキに正直存在を忘れかけていたところでの大ジャンプだ。さすがに振り落とされたのでは、と慌てたところで、返答は真後ろから来た。
テンションが上がっている時ならともかく、いまだ慣れないしわがれ声は不意打ちで聞けばだいぶ心臓に悪い。
あわあわとしているブルマを一瞥にとどめたミツキは、そっと悟空の安全を確認した。ニコニコしている。大いに元気、花丸だった。
「あ!」
「……今度は何でしょう」
「あ、お、おほほ! ちょ、ちょっと失礼するわね!」
「えっなになに! どうしたの!?」
「おしっこようるさいわね! 察しなさいよ!!」
なんだ小便か、素直に言えばいいのに、だなんてのたまう悟空を見て、ミツキは少し考えた。
―――――思い返せばこういったデリカシー云々について細かくお教えしたことはなかった。やはり第三者がいることにより欠落が見えるものだ……転じて思えば、渡りに船。このままブルマ嬢には犠牲になっていただこう。
なんとも非道。要は生贄である。しかし教育にあたり『実例』を用いるのは非常に効率がいいのは明白であり……なるほど、旅のメリットがまた増えた。―――――ブルマはこれより、悟空のデリカシーのなさ、突拍子のなさ諸々に散々苦労させられる羽目になるのだが、もちろん知る由もない。
■
「小便するのが恥ずかしいって、変な奴だな~」
「『小便』とは、ある種、身の穢れで…ございますゆえ……。行為が、恥そのもの、ではなく、…行為を、名を、あけすけに晒すこと、が…恥とされるのです……」
「ふぅん、じゃあさ、オラも小便って言わねぇほうがいいんかな?」
「さようですね……呼び方としましては、便所、厠、トイレ、がございますが、……トイレ、が無難でしょう」
「『ぶなん』ってなんだ?」
「他を選ぶより、安全…もしくは、他よりは正しい、という意味で、ございます…」
「ふうん、便所とか、か、かわや? はだめなんか」
「便所は、品がございません……厠は、言いようが、古いので……使うものが、少ないでしょう…」
「へぇ~…ところでさ」
「はい…」
「アイツ遅くねぇか?」
「左様ですね…」
ぽつぽつと続く会話は、はたから見れば非常に淡泊。しかしこれがブルマに会うまでの二人の基本会話ペースだったのだ。先ほどまではブルマのテンションに悟空が引きずられていた面が大きい。
これは後の悟空にも見られることだが、悟空は基本的に『見て学ぶ』『経験して学ぶ』という段階の踏み方をする。その点でいえば破格の才覚を見せる。今まではゆっくり穏やかに、しかし時に挑発的な表現をする孫 悟飯に育てられてきたゆえのベースがあり、そこに長い間、話の拙いミツキと暮らしてきた会話スタイルが悟空を形作っていた。
―――――しかし、あまりに唐突に、あまりに驚異的な異分子が現れた。要するにブルマだ。
深い山奥の穏やかな環境で育まれていた悟空の脳は、強烈な外的刺激を受けたことにより爆発的に活性化されることになる。
つまり現状、誰も気づいていないが今、悟空は精神的な成長期を迎えているのだ。
「 びえええええええええっ !!! 」
「………今のは」
「なんだなんだ? チンチンをヘビにでも噛まれたんか?」
―――――唐突に、おおよそ女の悲鳴とは呼べないような絶叫が響いた。
確認せずともわかる。まったく帰ってこなかったブルマの悲鳴だ。ミツキと悟空は同時に駆け出した。
しかし、一瞬ミツキの足が止まりかける。―――――悟空は今、何を言ったのかと。
「(しまった……悟空さまは、男女の性差をあまりご存じない。女のそれが男とどう違うかも、ご存じなかったのだった)」
どのタイミングでお教えしようか。今のミツキには、ブルマの悲鳴よりそちらの方が重大だった。
■
「なんだ貴様はー! こいつの仲間か!?」
「あり? 誰だおめぇ、そいつん知り合いか?」
ブルマのもとにたどり着いた悟空とミツキが見たものは、プテラノドンに酷似した喋る恐竜と、その恐竜に捕獲されているブルマだった。ブルマはあまりの恐怖に凍り付いて痙攣している。
現れたふたりにギョッとしていた恐竜は、しかし悟空の能天気そうな声を聞いてニヤリと笑う。
「がはは! そうだ、俺様はこいつとちょっと話があるんでな、借りるぞ!」
「悟空さま、あれは、肉食獣でしょう。…ブルマ嬢を、喰らう…腹積もりかと…」
発言は同時だった。知人を装う恐竜と、看破したミツキ。そして悟空にとって、恐竜の発言はミツキの言葉に勝る信ぴょう性を持たない。
「たっ、たっ、たっ、助けてぇーーっ!!」
―――――恐怖に凍り付いていたブルマがやっとのことで叫んだセリフも相まって、悟空の意識は戦闘に切り替わった。
悟空の表情を見た恐竜は自身の作戦が失敗したことを悟る。ならばさっさとエサを持って逃げるに限る、と上空に飛び立とうとした。
確かに、翼を持つ者相手に地を駆ける者が空中戦で勝ることはあり得ないだろう。しかし、恐竜がステージを空に移すには決定的な問題があった。
それは相手が悟空やミツキでなければ些事だったかもしれない。しかし、どうあがいても相手は悟空とミツキ。ゆえにそれは決定的な問題となりえたのだ。
「棒よっ、伸びろーーっ!!」
「グギャァーッ!」
繰り出されるは真紅の如意棒。それは悟空の言葉の通りに勢いよく伸び、飛び立とうとした恐竜を打ちのめした。
腹部への強烈な一撃に恐竜はなすすべもなく意識を落とす。―――――問題とは、非常に単純。遅いのだ。
恐竜が飛行するためには数度翼をはためかせてからでなくては浮けない。そこから高度を上げ空に君臨するのだ。しかし、そのタイムラグを実力者である悟空とミツキが捉えられないはずがない。といっても、ミツキは端から手を出すつもりはなかったが…
吹き飛ばされた恐竜の手から零れ落ちたブルマが地面に転がり込む。それを横で見たミツキは、まあ多少は灸になっただろう、と息を吐く。ブルマは尊大な態度のくせにあまりに無防備だ。そのうち殺されそう、というのがミツキの考えである。
ゆえに、まあ今回の経験で多少は自重すれば御の字だろう。
―――――そこまで考えたところで、新たなハプニングが起こった。
「あれ、おめぇ、」
「悟空さま。さすがに……」
「う、う、うわぁあああんっ! 漏らしちゃったじゃないのよぅ~~っ!!」
ブルマの泣きじゃくる声が響く。
もともと尿意を感じて草陰に駆け込んだブルマは、用を足す前に捕まってしまったために済んでいなかったのだ。そして一件での恐怖からの解放。気の緩んでしまったブルマは、同時に地面に転がった衝撃で―――――漏らしてしまった。
指摘しようとした悟空の口をふさいでミツキが止める。流石に口に出すのは哀れだった。
ミツキはひんひんと泣きわめくブルマに近づき、転がっていたカバンからカプセルが入っているケースを取り出した。
「……家の、カプセルは」
「い、いちばん~~~~うええええ~~~ん!!」
「悟空さま、お離れください……」
カプセルを構えるミツキに、意図を察した悟空が離れる。放たれたカプセルから現れたのは一軒家だ。―――――その家をみておおよそのグレードを推察したミツキは、やはりブルマは良家の娘か、と感想を抱く。どう考えても小娘一人が所持できる金額のものではない。
悟空はと言えば、まさか家まで出てくるとは、と呆然としていた。これで取り出したのがブルマであれば「やっぱおめぇ妖術使いだろ!」と喚いたかもしれないが、カプセルを放ったのはミツキだ。都ってすげぇんだな…という感想で終わった。
「身を清め、着替えを、済まされよ……」
「腰抜けて動けないのよバカァ~っ!」
ミツキは沈黙したまま頭に手を当てた。だからミツキは忍なんだってば。おもらしした年頃の娘になにしろってんだ。ミツキは生まれて初めて心労で頭痛を感じた。
結局、泣きわめくブルマをミツキが抱きかかえバスルームに運んでやった。シャワーを浴び終わることにはブルマも自力で動けるようになっており、汚れた服を洗濯するくらいには回復した。
服が乾くまでの間、ブルマは自分の服の中からミツキの着れそうな服を探す。ブルマを運ぶために抱きかかえたことで、ミツキの服も汚れてしまったのだ。「洗う」といったブルマに、ミツキは「自分でできる」と譲らなかった。服にも仕込みがあるのだ。そうそう人の手に触れさせるものではない。
ミツキは長身で筋肉もあるが、どちらかというとスラっとしたモデル体型だ。ブルマのロングTシャツとスキニーを7分丈履きすれば事は済んだ。ちなみにその際、ブルマはミツキの腰の細さに若干打ちひしがれた。
―――――家から出てきたミツキの姿を見た悟空は、キョトンとする。普段のミツキの風貌とはかけ離れていたからだ。家に入っていったふたりを見送って昼寝をしていた悟空はとんだ寝起きドッキリをされた気分である。
首元にマフラーのように巻かれた布はそのまま、元々着ていた黒のハイネックインナーの上に濃い紫のTシャツを纏い、下はダークグレーのダメージスキニーだ。履いていた靴は格好に似合わないとブルマが騒いだため、裸足である。まあ、ミツキは裸足であろうと問題はないのだが……
「……町に行ったら靴、買いましょ」
「必要ありません」
「買うの。……お礼よ」
ブルマはミツキの後ろで駆け寄ってくる悟空を見ながら小さく呟いた。その手は小さくミツキのTシャツをつまんでいて、まだ精神的な動揺が残っていることを示す。
これが悟空だけだったならばともかく、年齢は分からないが十分『男』であるミツキの前で『おもらし』をしてしまったのだ。ショックは計り知れない。幸いにもミツキは騒ぎ立てたりせず、余計なことも言わずにフォローしてくれたのでまだ傷は浅かった。むしろ適切な対応だっただろう。実際、ブルマは精神の揺らぎをミツキで支えようとしている。
そんな様子を見ながら、さすがに引き離すの酷かとミツキも許容した。正直な話、こうやって接触されることに慣れていないミツキは随分と落ち着かない気持ちはあるのだが、その感情は自分の中で黙殺した。
「ミツキー! 変なかっこだな!」
「変じゃないわよ! おしゃれなの!」
「ふうん?」
寄ってきた悟空の言い様にブルマが即座に噛みついたが、悟空は特に気にした様子もなくニコニコとミツキを眺めた。いつもと違う姿が面白かったのだ。
そんな悟空の様子にため息をひとつ吐いたブルマは、気を取り直す。いつまでもウジウジなんてしてられない。そういう切り替えが早いところもブルマの持ち味だった。
「よし! 出発しましょ。あと孫くん、助けてくれてありがと!」
「ん? いいよおめぇ弱っちいからな仕方ねぇさ」
「一言余計なのよ!」
可憐な乙女が逞しくてたまるもんですか! と怒りながら家を回収しバイクのもとに向かうブルマと、それに笑いながらついていく悟空に、ミツキは案外相性が良いのかもしれない、と思い直した。
ブルマはなんだかんだ人が良く、悟空が物を知らないと分かると文句を言いながらも積極的に教えている。悟空は本来の素直さでそれを受け入れる。なるほど相性は悪くないだろう。
―――――ミツキはこの旅に想定以上の収穫を予感し、ひとり息を吐いた。
ああ願わくば、と。
ミツキと呼ばれる。名を呼ばれる。
何という幸福だろうか。
苦労とは思わなかった。不幸とは思わなかった。
それは当たり前のことであったから。
しかしあれを苦難と呼ぶなら。
ここにたどり着くためのみちしるべであったのだ。
そんなことすら思ってしまう。
―――――浮かれてしまうほどに、満たされていた。
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4話
幸福が永遠だと、いつから勘違いしていたのだろうか。
―――――たのんだ、と、言われてしまった。
そう言われれば、私に否とは言えません。
腕の中のぬくもりを抱きしめる。どうか勘違いであってほしいと。
ああ、お守りしなければ。ああ、私が、このミツキが、必ずお守りいたします。
彼らがあなたをお迎えに来られるまで、我が身に代えても。
ブルマ復活後、一行は再び西を目指しバイクを起動する。
しかし、1200kmとあれば先はひたすらに長い。―――――ちなみに、悟空は恐竜を倒した後30分ほどで眠たくなってしまった。バイクに慣れ、受ける風に心地よくなってしまったと思われる。
うとうとし始めた悟空に焦ったブルマとミツキ。寝たままバイクから転げ落ちればいくら悟空でも一大事だ。ブルマは運転で手が離せないのでミツキがどうにかするしかない。しかしさすがに悟空を抱えたままバイクの上に乗るのははばかれる………結局、寝落ちた悟空がバイクから落ちないようにミツキが悟空を支えることにしたのだ。
つまり、悟空を抱いたミツキがブルマの後ろに乗る体勢になる。
小型バイクのシートは狭い。いくら身をよじろうとも、ブルマとミツキは悟空を挟んで密着する羽目になった。
結局密着することになった成り行きに、ブルマはそれなりに動揺した。けれど、当初ほどでもないのは少しずつミツキに親しみを感じ始めている表れだろう。
対してミツキは、普段から人との身体接触が少ない分ずいぶんと違和感を覚えていた。悟空ですら抱きあげたことなど、必要に駆られた時くらいしかないのだ。それを長時間抱きかかえて、さらにはブルマとの密着である。顔にも態度にも出さないが、精神的疲労は大きかった。
■
悟空はバイクの乗り心地が気に入った。ずっと座っているのでお尻は痛くなるが、バイクのカバーとブルマ越しにあたる風が気持ちいいのだ。ビュンビュンと動く景色もおもしろい。
うとうとし始めたのは速さにも慣れたころだった。ブルマの人肌と程よい風に気持ちがよくなってしまったのだ。
ふと、意識が途切れて―――――戻った時、悟空は妙な窮屈さを感じる。挟まれている感覚。身動きが取れない。…でも、さっきより温かくていい気持ち。寝ぼけた悟空は小さく唸った。
「悟空さま……お目覚めに、なられましたか」
頭の上から聞きなれた声が聞こえてくる。―――――ああ、ミツキの声だ。途端、目の前から強くミツキの匂いがすることに気が付いた。反射的に思い切り鼻で息を吸う。……ほとんど無臭の、それでもわずかに感じる、悟空のたった一人の家族の匂いだ。
―――――わかったぁ、ミツキ、オラんこと抱っこしてんのかぁ……
ふわふわとした思考が導き出した答えに、悟空の頭の中はもっとふわふわし始めた。
「ん………ミツキ…?」
「ええ、……御身を、抱えさせて、いただいて、おります……ご容赦を、」
しわがれ声は抱えられている悟空には届きにくい。けれど、ミツキの声が聞こえる。悟空はそれだけで悟空は満足だった。めったにないミツキとの密着を堪能しながら、二度寝に入る。
―――――今度はもっとよく寝れる気がした。
■
二度寝に入った悟空が起きたのはおよそ1時間後。狭いから降りろと言うブルマと、ミツキに抱えられた状態が気に入っている悟空が拒否する騒ぎ声が響く、なんとも騒がしい一行はそれからさらに2時間ほどして足を止めた。
先は長くとも1日は24時間。結局この日は移動で1日が終わることとなった。
「日も暮れてきたし、今日はここまでにしましょ」
「まだ明るいじゃねぇか」
「あんたは寝てたから気にならないでしょうけど、わたしは運転しっぱなしなのよ! 明日も移動するんだから、しっかり休まないと」
「じゃあオラが変わってやろうか?」
「ジョーダンじゃない! まだ死にたくないわ」
ミツキの腕の中で不満そうする悟空を、ブルマは一刀両断した。会話を片手間にバイクから降りカプセルケースを取り出す。どうせミツキが窘めるだろうと思ったから、無駄に相手をする必要がないと判断したのだ。ブルマの見立てでは、ミツキは慇懃無礼に見えて非常に常識的で合理的だ。不思議な男だけれどそこまでは分かった。
今日の移動はここまで。ならすべきは、寝泊まりの準備だ。―――――手に取ったカプセルは1番。……思わず苦い顔になったブルマを横目で見たミツキは、しかし何も言わずに抱えていた悟空を窘めながら地面に下ろす。
「絶対一生忘れないわよねあんなの……人生の恥部よ……」
心なしかげんなりとした声でカプセルを投げれば、昼にも見た一軒家が出る。
「ほら! 早く入って。ご飯食べないの!?」
「えっ、メシ!? 食べる食べる、なあミツキ、メシだって!」
「ええ、聞こえて、おります……」
「わたし、夜は軽くパンとサラダとコーヒーだけど、ふたりとも好き嫌いある?」
「ぱ…?」
きょとん、と悟空は虚を突かれたような顔をした。パン? サラダ? コーヒー? なんだそれ。それらは悟空が今まで一度も聞いたことのない名前だった。
うーん、でも、メシの名前だよなぁ多分。じゃあ食えんのかな? そんなことをぼんやりと考えた。
対してブルマも、当たり前のことを言ったはずなのにそんなリアクションをされたものだからきょとんとしてしまう。さすがにこの数時間で悟空の俗世離れレベルを把握しきるのは難しかった。都会育ちのブルマには、こんなことも知らない人がいる、という発想がなかったのだ。
場に奇妙な沈黙が落ちる。
唯一両方のリアクションを理解できるミツキだけが、小さく息を吐いた。
「……ブルマ嬢、悟空さまは、育ち盛り。…それだけ、では……足りますまい。…なにより、今日は、昼を召し上がって、いらっしゃらない、ゆえに」
「え、あ、そっか、男の子だしね」
「……食料の、蓄えは」
「うーん、そこそこあるけど…途中で補給した方がよさそうね」
ブルマは手持ちの食料を思い出しながら唸った。何度も繰り返すが一人旅の予定だったブルマは、自分の好きなものしか持ってきていない。悟空がどれほど食べるかはわからないが、ミツキと悟空の二人分を賄えるとは思わなかった。
「金子は、必ず、返しましょう…」
「きんす…? あ、お金のこと? 良いわよそれくらい」
律儀なことを言うミツキに、ブルマは胸を張った。なにせ世界的な大企業の一人娘だ。旅をするにあたり手持ちのお金は多ければ多いほどいいと、抱えるくらいは持ってきた。今は食料が足りないが、お金がない訳じゃない。男と子供ひとり養うくらいなんてことはないのだ。
しかし、ミツキは緩く首を振る。
「覚えて、いるかは……分かりませんが。パオズ山で……悟空さま、が…抱えていた魚。―――――あれはほぼ、悟空さま、おひとり分の…食料。……いち度分の、です」
「え、魚って………え!? あの大きいやつ? 一人で食べるの!?」
―――――ブルマは急に不安になった。学校の休みを利用した旅のつもりだから、残り日数はおよそ50日ある。……50日分を、この手持ちで賄えるだろうか。抱えるほどのお金がありながら、心もとなくなってきた。
「あの……ミツキさん……あ、あたしお金はけっこうあるけど、足りるかしら……」
「……食料は、なるだけ、こちらで…調達しましょう。………調理場を、借り受けたい」
「う、うん、それくらいなら………」
神妙な顔つきの二人を首をかしげて眺める悟空だけが、能天気な顔をしていた。
■
「あ! ねえちょっと、ミツキさんが帰ってくる前に前にあんた風呂に入っちゃいなさいよ。あんたけっこう臭うわよ………あれ、風呂は知ってるわよね?」
「風呂? そんくらい知ってるぞ、あのドラム缶とかゆー奴だろ?」
「ドラム缶風呂? 古臭いわね~…ま、いいわ。都会のお風呂ってのを教えてあげる」
ミツキが食料を調達に行ってすぐ、ブルマと悟空はハウスの中に入った。ハウス自体は昼にも見た悟空だが、内装は知らなかったためにまず「夜なのに明るい」だのと騒ぎ、それを面白がったブルマにテレビだのラジオだのの文明の利器を見せつけられて大騒ぎすることとなった。
しかしバイクすら『ヘンテコ』だと思っていた悟空からしてみれば『ヘンテコ』なものに囲まれたハウス内はまさに摩訶不思議。興奮気味にあっちこっちを覗きまわり散らかすので、ブルマは揶揄ったことを後悔する羽目になった。
そして一通り満足したところで、ブルマは悟空を風呂場に放り込んだ。子供というのは代謝がよく汗をたくさんかくものだ。悟空も例外ではない。もちろん悟空の身体能力や体力はけた外れなので、そうそう汗だくになることはないが、なにせバイクの後部座席で爆睡していたのだ。寝ている間にかいた汗がある。
わずかに匂うそれと、走り回っていた森の土臭さなどを感じ取ったブルマは、食事の前に身を清めることを思いついたのだ。
「ほら、ここで服脱いで! その服も臭いわね、洗っちゃいましょ!」
「わわ、引っ張んなよ~!」
「チンタラしないの! で、ここがお風呂場よ。浴槽に入って! そこよ、そこ……そうそう。で、―――――今からシャワー出すけど、暴れないでよ」
「しゃわ?」
「いくわよー」
キュキュッ
ジャーーーーっ!
向けられたシャワーノズルを見て不思議そうにしていた悟空は、突如そこから噴出した水に驚いて飛びのいた。
「うわわーっ! なんだそれ!」
「あ、ちょっと!」
―――――しかしここは風呂場である。そして悟空の立っていたところは浴槽だ。濡れた浴槽はよく滑る。…悟空は飛びのいた拍子に足を滑らせ、ひっくり返った。
ゴンッ!
「い゛っ!」
「ちょっと危ないわよ!」
「おーぃちちちち! いってぇ~」
「いい? これはシャワー。水とかお湯が出てくるの! もう、だから暴れないでって言ったのに」
どう考えてもブルマの説明不足のような気がするが、当たり前のように上から言うブルマに悟空はぶつけた頭を撫でさすりながら何も言い返さなかった。
ブルマは「もう!」と少しいらだった様子で、ふと、悟空の尻尾に気づく。
「ちょっと、全部脱いでって言ったじゃない! ほんとに人の言うこと聞かないわね」
「ん? オラちゃんと服脱いだぞ」
「これよこれ、この尻尾のアクセサリー! 変な風に色気づいちゃって、おしゃれの方向性間違ってるわよあんた」
―――――そう言って、その尻尾を取り外そうと握りしめた。
「」
瞬間、響く悟空の絶叫! 唐突なそれに、ブルマは驚いた。
「えっ、な、なによ!」
「い、痛ってぇなー! 尻尾握んなよ、オラ尻尾弱いんだからよーっ!」
「い、痛い? このアクセサリーが?」
初対面の時の剣幕に近い勢いで怒られたブルマは、しどろもどろになった。自分は悟空のアクセサリーを外しただけ。なのに、痛い? 尻尾は弱い? どういうこと???
なんとなく浮かんできた結論は、さすがに常識に阻まれて答えにならない。―――――しかし、悟空の尻尾が、ブルマの目の前で不満を訴えるように地面を叩く。意志を持って動く姿を見てしまった。
―――――まさか、まさか、まさか、まさか!?
「」
先ほどの悟空より大きな絶叫が響いた。
「―――――何事だ、いったい……」
浴室の入り口で、帰ってきたミツキが困惑していた。
■
「じゃ、じゃああんたのその尻尾、本物なの?」
「そうだってば。男には生えてんだぞ知らねえのか?」
「ご、悟空さま、それは」
「う、うそ…生えてるのは前だけだと思ってた……」
「ブルマ嬢」
シャワーノズルを落とした手で悟空を指さし、わなわなと震えながら問うブルマに、悟空は全裸のまま尻尾を動かしつつあっけらかんと答えた。もちろん男全員に生えてなどいない。しかしミツキが訂正する前にブルマはすっかり信じてしまった。目の前で実際に生えているのを見たショックが後押ししたのだろう。しかしあんまりな言い方である。ミツキは咎めるが、ブルマにはもう聞こえていなかった。
「あ、でもじいちゃんにもミツキにも生えてなかったよな~」
「!!! そ、そうよね! やっぱ生えてないわよね!!?」
「でもふたりともちょっと変わってっからな~」
「変わってんのはあんたよあんた!!!!」
ハ、とミツキの呼吸が止まる。『変わってる』―――――それは、ミツキの懸念そのものだった。悟空はブルマに親しみを感じ始めている…そう思っていたミツキにとって、ブルマが悟空を否定することによって起こる悟空の感情の揺れは想像ができなかった。
「ええ~~……ま、いっか」
それはどういう意味なのだろうか。悟空は単純そうに見えて、心の内が読めない。いまの『ま、いっか』に込められていた感情を、ミツキは測り切れなかった。
悶々とするミツキを置いて、けれどブルマはブルマで、悟空は悟空だった。
「って、ミツキさんもう帰ってきちゃってんじゃないのよ! まだお風呂終わってないのに…」
「おめぇが尻尾つかむから悪いんじゃねえか」
「おだまり! あ、そうだ! せっかくだから、ふたりでお風呂入れば?」
きゃんきゃんと言い合うブルマと悟空は、尻尾の件の前とどう変わったのだろうか。悩んでいたミツキはブルマの急な提案にすぐ反応できなかった。
「ミツキ一緒に入れんか!?」
「、え……」
「じゃあお湯溜めましょ。孫くんちょっとそこから出てよ」
「ん! やった、ドラム缶はさ~狭めぇから、一緒に入れなかったもんな!」
―――――ああ、あのように喜ばれて、誰が否と言えようか。
誰にも届かぬ声で言いましょう。彼らへの裏切りを呟きましょう。
―――――最期だというのなら、私も共に消えてしまいたかったのです。
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ギャルのパンティーは要らない
本当は、気づいていた。
けれど、知らぬふりをしていたかった。
「(ぜぇえっっっっったい、無理だろォーーー!!!)」
ウーロンは変化で生えた蝙蝠の羽をはためかせ、必死にスピードを上げる。少し先では黄金の光を背負った雄々しい竜が天からこちらを見下ろしていた。
悟空があけた小さな穴から変化で飛び出したウーロンとプーアルは、ピラフ一味が願いを叶えることを何とか阻止するためにも必死に飛んでいる。しかしすでに神龍は呼び出され、願いを言われるまで秒読みといったこの現状―――――詰みでしかない。
唯一の救いが目の前の神龍に圧倒されピラフがなかなか願いを言えていないことだが、それも誤差の範疇だろう。現状は絶望的。このままでは世界はあの青いチビのものになってしまう……。
ウーロンは正義の味方ではない。むしろ小悪党な面を持つ筋斗雲に乗れないタイプの豚だ。けれど、さすがのウーロンとて、ピラフのような間の抜けたチンピラに世界がいいようにされるのは癪に障るのだ。
「くそくそーーーっ!」
「間に合えーーーっ!」
ウーロンが叫ぶ。プーアルも叫ぶ。必死にスピードを上げ、追い付かんとする。
しかしふと、ウーロンは気づいた。追い付いたとして、どうすれば願いを叶えるのを阻止できるのか。
気づいてしまったウーロンは愕然とした。悪党三人を相手に勝てるわけがないからだ。銃やナイフなどの武器を持っているかもしれない。恐ろしい化け物に変身できても、実際の戦闘力まで変えることのできないウーロンではどうしようもない。
例えば捨て身でピラフを止めたとして、周りにいる二人が願いを言ってしまえばどうしようもない。相手は三人。対してこちらは変化だけが取り柄の豚と猫。絶望的だ。
―――――どーすんだよどーすんだよどーすんだよォ!! 願いを言われちまったら、あんな奴の言いなりにならなきゃいけないのかよ!? それより、世界の王様になったあいつらに反逆者として殺されちまうかもしれない!! チクショ~こんな旅ついてくるんじゃなかったぜ、最悪だ!! 何とか、何とか願いを言われるのを阻止しなくっちゃ……!!
願いを、
願いを、
願いを……!!
「ん…?」
奇跡が起こった。ウーロンの小さな脳ミソで、超新星爆発のような『ひらめき』が起こったのだ。
神龍はどんな願いも『ひとつ』だけ叶えてくれる龍だ。そして、いま必要なのは『ピラフの願いを叶えさせないこと』―――――なら、ピラフより先に別の願いを叶えてもらえば、それは為せるのではないか?
戦闘力ではなく、スピードの勝負なら…!!
「そうだ、そうだ! っこれなら…!」
神龍は目前。ピラフはまだ願いを言っていない。最後の賭けだ。これで神龍が呼び出した人間の願いしか聞いてくれないのならどうしようもないが、まだ希望はある。―――――逆に、これしか希望はない。
願いを言えばいい!―――――何を?
「(えーっとえーっと、ブルマの奴は『ステキな恋人』とか頭の沸いたこと言ってたよな。冗談じゃない! こんな頑張ってんのにそんなことで願いを使えるかっての! 俺の願い、俺の願いは~~~『好きにできるピチピチギャル』! いや、『ギャルのパンティー』でも……!)」
―――――なあ、ウーロン
ふいに、旅の途中での悟空との会話を思い出す。下卑た思考が停止し、脳があの時の記憶を思い返す。そう、あれは、神龍が『どんな願いもかなえてくれる』ということについて話していた時だったはずだ。
―――どんな願いもかなえてくれんならさ、『ミツキの喉を治してくれ』って言ったら治してくれんのかな
―――喉? そういやあいつ、しわくちゃの爺さんみたいな声だよな
―――なんかさぁ、喉がやけどしてんだって。ミツキはオラが気付いてんの知らねぇだろうけどさ、たぶん、ちょっと喋っただけでも喉がすっげぇ痛ェんだ。
そういう悟空は、ちょっと寂しそうだった。少なくとも、ウーロンにはそう見えた。
―――ふーん。それにしてはあいつ、結構喋るよな。
―――ん……ちゃんといっぱい『会話』しないと、自分の気持ちを伝えられないヤツになっちまうからって、オラんために、いろんなこと教えてくれんだ
―――へえ、仲いいんだなお前ら
―――そりゃ、オラとミツキは『カゾク』だかんな!
泣いた烏がもう笑ったと言わんばかり。満面の笑みで嬉しそうにウーロンに語る悟空の姿。その、自分はまぎれもなく『幸せだ』と胸を張って伝える様が、あまりにも強くウーロンの脳裏に焼き付いた。
―――――だから言えなかったのだ。
―――なあ、ミツキと悟空は一緒に暮らしてたんだろ? じゃあミツキは悟空の兄貴なのか? なんか家族にしては、悟空に丁寧すぎるよなぁ、お前。
―――否、恐れ多い……私は、ただの影が故。…私のようなものが、家人に名を、連ねるなど……
一歩引いた場所で目を伏せるミツキのことを、言えなかった。
極限の状態では、意識が研ぎ澄まされることによってすべてがスローモーションに見えることがあるという。そんな世界で、ウーロンは走馬燈を見た。満面の笑みの悟空と、静かに目を伏せるミツキ。二人の姿が何度も何度も、頭の中でグルグルと回る。
「(俺の願いは…!)―――――『す』、!!」
ウーロンが変化を解く。プーアルが驚いた顔でウーロンを見た。
「(俺の、願いは…!!)―――――『ギャ』っ…!!」
長時間の変化で消耗した体力のことなど関係ないとばかりに、疲労でもつれる足を叱咤し、全速力で駆ける。
「(俺のォっ、願いはァっ!!)―――――『ミ』!!!!!!」
そして―――――跳躍。
「私を世界のプギャァ!!」
「 ――――― 『 ミ ツキ゛ の 喉を 』 ォ゛ オオッ ッ ! !! 」
より近くに。
よりそばに。
声が届くように、願いを叶えてもらえるように。
豚足の跳躍力などたかが知れている。しかし、だからどうした。
火事場の馬鹿力。飛べない豚はただの豚―――――この瞬間、ウーロンは神話になった。
跳躍の先、願いを唱えかけたピラフを踏み潰すことで妨害し、そのままピラフの頭を踏み台にもう一度―――――跳ぶ!!
「――――― 『 治゛っ 、 し て、 っく れ゛』、 ェ エ゛エ ッ ッ!!!! 」
―――――ウーロンの声が響く。獣の咆哮を思わせるほどの声量だった。
あらん限りの声で吠えたそれは、ウーロンの頭の中にあった彼の願いではない。それはある意味、無価値な願いだった。―――――なぜならこの願いが叶ったところで、ウーロンに恩恵があると言われれば、否であるのだから。せいぜい連中に恩を売れる程度だろう。
それは、短い間共に過ごした友人の願いだった。おとぎ話のような冒険を共に潜り抜けた仲間の願いだった。
ウーロンは小悪党である。
幼稚園では先生のパンツを盗んで追い出された。
変化を悪用し、無辜の民から金銭や若い娘を巻き上げた。
ピンチになったら悟空たちを置いて逃走するし、セクハラするし、ヤムチャに襲われた際には長い物には巻かれろとばかりに裏切ろうとした。
ウーロンは小悪党である。
―――――悪党にはなれない豚である。
先生のパンツは盗んでも、結局狙ったのはパンツだけだった。
金銭を巻き上げても、人々の生活が困窮しない程度しか奪わない。たくさんの金が欲しければ、奪う相手を増やした。連れ帰った娘たちだって、ウーロンの正体を知って横暴な態度をとっても逆上して傷つけられることはなかった。それどころか、望むままにずいぶんと裕福な暮らしをさせてやっていた。
逃げても結局気まずそうに戻ってくるし、セクハラはしても女の子のトラウマになるようなことはしないし、ヤムチャが再襲してきたときは、睡眠薬で爆睡する悟空とブルマを捨てて逃げるのではなく、ミツキが不在の中銃を持って不寝番をした。
ヘタレといえばそこまでかもしれない。それでもけしからん奴だというのならその通りだ。
ウーロンは小悪党である。
―――――だからウーロンは、悪党にはなれない豚である。
少なくとも、
少なくとも、
ウーロンはあの時の悟空の笑顔が、願いが、尊いものだと知っていた。
少なくとも、
少なくとも、
ウーロンはあの時のミツキの言葉が、表情が、寂しいものだと感じていた。
―――――ウーロンは自分がかわいい。自分の命が大事だ。正義の味方にはなれないような、小悪党である。
けれど、
少なくとも、
少なくとも、
友の願いが叶えばいいな、と思った。
そうして、友が喜ぶのはいいな、と思った。
あのひんやりとした顔の男が、もしかしたら喜ぶのかな、と思った。
そうしたら、そうしたら―――――
少なくともこの時、ウーロンは自分の命のことは全く頭になかった。損得勘定なんて欠片も考えていなかった。ただ必至で、ただ、我が身を焼き焦がすような激情があった。
「(俺、チャーシューになっちまうかもな…)」
頭の片隅で馬鹿なことを思う。呆然とした顔のピラフ一味など視界に入らなかった。圧倒的な存在感と身震いするような威圧感を持つ神龍と目が合った。―――――けれどウーロンは、恐怖を感じない。
―――――願いをかなえてくれ。それだけが頭にあった。叶わない願いなのか? そんな神龍への不信感もあった。こんな願いもかなえられないのか! 挑発のような憤りを抱いていた。
だって、友達の願いなんだ。家族を大事に思う気持ちなのだ。あんな青いハゲチビの、世界征服なんて馬鹿みたいが願いが叶えられて、こんな真っ直ぐな願いが却下されてたまるか。
後悔が無かった。迷いは忘れてしまった。体が動いていた。
ウーロンは小悪党である。正義の味方に何ぞ到底なれないような豚である。―――――だからこの豚は、悪党になんぞ到底なれやしないのだ。
いまだ地面は遠い。豚足の跳躍にしては滞空時間が長く感じた。どうやら世界は今だスローリィなようで、だからウーロンには神龍の様子もよくわかる。
『いいだろう』
―――――だから神龍の声も、よく聞こえる。
ウーロンは無様に地面に落っこちた。着地ができなかったからだ。着地なんてしている場合ではなかったからだ。
ウーロンが呆けている間に神龍が消えた。『いいだろう』と言って、『願いは叶えた』と言って、『さらばだ』と言って消えた。―――――つまりウーロンの願いは聞き入れられたということだ。
ピラフやその部下がめちゃくちゃに喚いている。プーアルが必死に呼びかけてくるが、よく聞こえない。しかし分かるのは―――――あいつらが、願いを叶えられなかったということだ。
呆けていたウーロンはいとも簡単に捕まり、プーアルと共にまた檻に入れられた。
ピラフが怒りを携えた声で懇切丁寧に説明をしてくる。天井がガラス張り? 陽が昇ると焼け死ぬ? さっきの場所が可愛く見えるような、地獄のような部屋だ。
「ちーくしょー!! こんなところで死ぬのはごめんだぜ! やっぱりギャルのパンティー頼んでおくんだった!!」
ウーロンが吠える。ブルマやヤムチャが、呆れたような顔をした。「とんでもないやつだな…」「なーによ! ちょっと見直したかと思えばこれだもの!」
そんな二人に、プーアルが首を振った。「ウーロンがいいことをするなんて、やっぱりおかしかったんですよ。きっと緊迫した場面だったから、頭がこんがらがってたんだ!」
「うるせー! ちぇっ、なんだよなんだよ!」
命を懸けたウーロンに対してひどい言い草である。―――――それでよかった。
ウーロンは小悪党である。馬鹿なことばかりして、怒鳴られるばかりの人生だった。だから、檻に戻された時の、あの英雄を見るような、『実は良い奴だったのか!』みたいな視線が居心地が悪くて仕方なかった。
だからこれでいいのだ。
少なくとも、口に出すほど不満は感じてなかった。死ぬのはごめんだしギャルのパンティーは惜しかったけど、びっくりするほど後悔はない。
「ウーロン!」
友達が呼ぶ。直接友達と言ったことはないけど、とんでもない目にも合わされたけど、仲間になった友達だと思っている奴が、心底嬉しそうにウーロンを呼ぶ。―――――それがとんでもなく素敵なことだというくらい、ウーロンは知っていた。
クサいことを言うなら、これこそが命を懸けた褒賞かもしれない。
―――――自分で考えて、ウーロンはちょっと鳥肌が立った。
ウーロンは小悪党である。自分のことばかり考えて生きてきた。だから、こんな気持ちになる相手は初めてだった。少なくとも、少なくとも。ウーロンにとって悟空は初めての友人だった。
飛びつくように駆け寄ってきた友達を見る。その背後に、優しく横たえられた男も見える。
男の話では、浴びせられた毒はもう少しで解毒できるということだった。ならばもう少しで、あの涼しげな男の声が聞けるということだろう。しわがれた老人の声ではなく、男が本来持つ声を。それこそ、何も痛い思いをすることなんてないまま。
ウーロンは根っからのスケベなので、女にしか興味が無い。男の声なんて聞いていたって楽しくない。それでも、命を懸けて取り戻したのなら、冥途の土産として聞いておくのもいいかもしれない。
―――――そういやあいつ、女に成れんるんだったよな。なら死ぬ前にちょこっとパフパフさせてもらうくらい、許されるんじゃないかな。
ハッと気づいた。それは本人からしてみれば、ピラフの邪魔をする方法をひらめいた時より素晴らしい気付きだった。なにせウーロンは根っからのスケベなので。
死ぬのは嫌だ―! と叫んでみた。こんな旅ついてくるんじゃなかったー! と喚いてみた。両手で顔を覆って泣くふりまでしてみた。全部本心である。涙だってちょっと出てる。
それでもウーロンの中には、達成感があった。
ウーロンは小悪党である。それでも、『誰かのための誰かの願い』を叶えたことに、後悔はなかった。なにせ相手は友達なので。
泣き声にほんの少し笑い声が混じってしまったかもしれない。幸運にも誰にも気づかれなかった。
友達が空腹を堪えてる。昔の知り合いも叫んでる。いけ好かない男は暴れてる。友達の家族はぐったりしてる。性格の悪い女も喚いてる。
地獄絵図だ。こんなやかましいところで死ぬのか。…ちょっと悪くないかもしれない、と思った。死にたくないけど、全然、死にたくないけど、まあ、一人で死ぬよりは。
はやくあいつも起きねえかな、とウーロンは泣きまねをしながら考えた。もちろん本心からの涙だ。ちゃんと涙も出てる。それでもやっぱり、少しだけ笑いそうだった。
ウーロンは小悪党である。だから悪党にはなれなかった豚である。ウーロンの中には達成感があった。―――――それは、たとえ地獄に落ちても失われないものだろう。少なくとも、少なくとも。
明るい夜だ。
―――――今日は月が満ちている。
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