ブラッドボーンー永遠の狩人ー (ローリングデブ)
しおりを挟む


1


『我ら血によって人となり、人を超え、また人を失う』

 

 

『知らぬ者よ。……かねて血を恐れたまえ』

 

 

 ―――

 

 すでに暮れ、夜を迎え始める空の下。

 灰色の世界を、みすぼらしい黒のフードを身に纏った一人の男が歩いている。

 ふらついた、明らかに衰弱した足取り。

 けれどその体からは確かに生き抜こうとする意思を感じられる。

 

「――――」

 

 彼は、不幸な男だった。

 彼は『村の生き残り』だった。

 

 誰が始めたとも知れない戦いの中で故郷を失い、家族を失った。

 しかしそうして焼け出された幼子に明るい未来などあろうはずもなく、彼は常に不遇の中で生き続けることとなった。

 

「――生きて、やる」

 

 そう、不幸だった。

 けれど、まだ若い彼は己の人生を不幸のままで終わらせたくはなかったのだ。

 

 だからこうして、彼は今そこに至った。

 

 錆びた、どこか重苦しい雰囲気を纏う門を見上げ、彼は立ち止まる。

 

「…………」

 

 そこは不吉な噂に塞がれた街。

 けれど古くから、血を利用した独特の医療が発展する街として知られる場所でもある。

 

 その街の名はヤーナム。

 

 彼はここに、特別な血を、『青ざめた血』を求めて来た。

 

 それならばきっと、自らを侵す不治の病を治すことができると信じて。

 そうすればきっと、人生をやり直せると信じて。

 

 

 だから彼は、ヤーナムへと足を踏み入れた。

 

 

―――

――

 

 

「ほう……『青ざめた血』ねえ……」

 

 それは少し高く、理知的な声。

 

「確かに、君は正しく、そして幸運だ。まさにヤーナムの血の医療、その秘密だけが……君を導くだろう」

 

 そして、なにかが軋むような音。

 車椅子の男。

 ヤーナムにはありふれたトップハットを被った男が、××××に近づいてくる。

 

「だが、それをよそ者に語るべき法もない。まずは我らの、ヤーナムの血を受け入れ給えよ」

 

 それに彼はなんと答えたか。

 分からない。少し前のことが、そのはずのことが、何もかもが分からない。

 

 ただ彼は治療の上で必要な誓約書にペンを入れて、それから寝台に寝かせられた。

 

 誓約書に目を通し、男が口を開く。

 

「よろしい、これで誓約は完了だ。それでは輸血を始めようか」

 

 針が腕に刺さり、赤が乖離した薄い色の血液が管を通して流れ込む。

 そして、それはあまりに明確だった。

 

 白に黒が混ざるような、はっきりとした異物感。

 混ざった黒が白を染めるようなおぞましさ。

 

「なぁに、何も心配することはない」

 

 叫ばなければ、そう思うのに息は虚しく吐き出されるだけだ。

 薄暗い部屋。

 板の天井。

 男の顔。

 遠ざかり、ぼやける。

 

 意識が霞む。

 

「何があっても、悪い夢のようなものさね」

 

 

 そう言って、男は笑った。

 

 これから××××が悪い夢を見ると知っているかのように、男は笑った。

 

 

 ―――

 

 

 ――血が滴る獣。

 

 ――××××に手を伸ばすそれが燃え上がる。

 

 ――それから、少しの後。

 

 ――いくつものいくつもの、しわがれたヒトガタの異形が。

 

 ――這い寄り、這い寄り、埋め尽くし、そして。

 

 

 そこでまた意識が遠のく。

 

 

 急速に狭まる視界の中、消えかけのおぞましい光景には全くもってそぐわない可憐な、どこか優しげでさえある女の声を聞いた。

 

 

「ああ、狩人様を見つけたのですね」

 

 ―――

 

 

「…………」

 

 意識が覚醒する。

 最後に聞いた男の言葉の通り、××××にとってあの光景は悪夢だったのか。

 

「…………」

 

 いや、そうとしか思えない。

 そう考えるべきだろう。

 

 気を取り直し、××××は寝台から身を起こして周囲を見回す。

 暗い、夜と言っても差し支えのないような風景。

 木造の、薬品や寝台が並ぶその建物はやはり診療所だろうか。

 

「…………?」

 

 診療所、『だろうか』?

 

 自分はなんのためにここに来て、それから……。

 

 ××××は気がついた。

 どうしても、自分のことが思い出せない。

 自分が誰で、なんのためにここに来たのか。

 そんなことさえ思い出せないのだ。

 

 空恐ろしいその事実に気がついた××××は、なにか手がかりになるだろうかと自らの衣服に目をやる。

 

 まず、顔にかかった黒いフード。

 そこからは人目を避けるような、そんな意図を感じた。

 自分はあまり、後ろ明るい生を送ってきたわけではないらしい。

 

 それから、身につけているシャツとベストと長いズボン。

 それは、唯一記憶にある先程の男の服装とは余りにかけ離れていて、それに××××自身何かを求めてこの地に旅をしてきたような気はしていた。

 

 だからきっと、自分は外から来た人間だったのだろう。

 

 そして最後に……この包帯。

 薄汚れた、あまり衛生的ではないそれにこびりついた血。

 

『それでは輸血を始めようか』

 

 男の言葉を思い出す。

 この輸血、血の医療こそが先程の悪夢と現在の自己の喪失のきっかけになったような……そんな気がしてならない。

 

 だが、今はそれよりも扉の向こうに出てみようと××××は考える。

 あの男が、なにか知っているかもしれないから。

 

「…………」

 

 ガラスがはめ込まれた木のドアを開こうとして、右手にあるランプに気がつく。

 そして、そのランプが乗った机に無造作に置かれている一枚の紙。

 

 それの、その紙に記された文字の筆跡に、××××はなんとなく気を惹かれて手にとってみる。

 

『青ざめた血を求めよ。狩りを全うするために』

 

 少なくとも、それは今の××××には理解できない内容だった。

 だから元通りにそれを置いて、××××は今度こそ扉を開ける。

 

「…………」

 

 階段を照らすのは窓から入った月の光だろうか。

 黄色みを帯びたそれにわずかに目を細め、××××は歩き始める。

 

 床が軋む音だけが響く、静寂の夜。

 そしてまたいくつかの寝台が置かれた場所に足を踏み入れ、××××はそこで吊られたランプに照らされた一つの影を見た。

 

「…………?」

 

 犬、ではない?

 

 犬にしては大きすぎるそれは、何かを漁っているようだった。

 

 釈然としないまま目線を下にやる。

 するとそこには、血たまりがあった。

 

「……っ!」

 

 獣の行為、その意味に気が付き戦慄する。

 知らず後ずさり、その足が薬品の瓶を一つ転がす。

 

 致命的だった。

 そしてこの場合、言葉通りにその過失は命を散らす運命へ繋がった。

 

 振り向いた獣の飛びかかりを、××××は紙一重でかわす。

 しかしその代償に転び、無様に腰を抜かしたところに獣は二の爪を振る。

 

 それは確かに××××の腹を裂き、こぼれ落ちたはらわたを引きずり出すようにして獣は何度も何度もまた爪を振り下ろす。

 

 ××××はその激痛にもがくが、やがては自らの血に溺れながら意識を遠のかせることとなる。

 

 

 

 急速に歩み寄る死の足音を聞きながら、××××の意識は再び閉ざされた。

 幸いなのはきっと、死を恐れる間もなく命を刈り取られたことくらいだろうか。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2

 

 

 鼻をついたのは優しい土の香り。

 自分はうつぶせに倒れているらしく、ひんやりとした感覚が腹に伝わる。

 

 ××××が目を覚ましたそこは、どこかの庭園のようだった。

 石畳で舗装されたこじんまりとした、好ましい雰囲気を漂わせる道。

 石壁に囲まれた花畑と、遠くに見える水盆。

 それから道から続く階段の上の、これまた小さな趣味のいい住居。

 

 それと最後に。

 ひっそりと置かれた美しい人形と、そこかしこに突き立てられた墓標。

 

「…………?」

 

 どこか優しげに白んだ空を見上げ、××××は思い返す。

 

 診療所で、自分は……そうだ。

 

「…………」

 

 立ち上がり、衣服を見る。

 爪で裂かれたはずのそれは、元通りに、と言うよりも最初から獣になど裂かれていないかのようにきれいなままでそこに在った。

 

 あれが夢だったと言うのならば。

 悪夢を見て目覚めて、それからまた悪夢を見たとでも言うのか?

 ならばいつ悪夢から覚めるのか?

 

 というより、これは悪夢なのか?

 

 ××××にはどうもそのようには思えなかった。

 ここは好ましく、これまで訪れたどの場所よりも満ち足りた場所に思えた。

 

 ……とは言っても、ろくに記憶などないのだが。

 

 とにもかくにもまずは状況の把握からだと、××××は足を動かす。

 石畳の道に沿って歩いて、人がいるのならなにか聞けるだろうと、そう考えて屋敷へと足を向ける。

 

「?」

 

 だがその途中で、××××は不思議なものを見た。

 

「…………」

 

 夢の中で見た異形だ。

 痩せさらばえた赤子、干からびた水子のような異形。

 しかし夢の中で見た時のように恐ろしいとは感じなかった。

 

 ここにあるものはその全てが、××××にとって好ましい。

 

 そして地から生えるようにして足元に群れるそれは、××××へと捧げるようにして何かを渡そうとしている。

 

 渡そうとしているものは二つで、その片方は××××にもなんなのかは理解できた。

 そう、それは銃だ。

 がっしりとした銃身のそれは、恐らくは散弾銃だろう。

 

 だが、問題はもう一つのものだ。

 

 湾曲した持ち手と、それから歪んだ長方形の鉄板が平行に並ぶように折り畳まれ取り付けてある。

 その鉄板はよく見ると柄に向かう内側は薄く研がれた刃であるようで、また外側は鋭い刃を並べたのこぎりになっているようだった。

 

 使い込まれた汚れを滲ませるそれは、××××には禍々しい気配を放つ武器に見えた。

 それはこの庭園にあってさえ好ましさに染まらない、消えない血の香りを纏った刃だった。

 

「…………?」

 

 くれるのか、と。

 そんな意味を込めた視線を送る。

 すると、異形たちは不吉な声を並べて笑う。

 

 不思議とそれは、嫌な気持ちがしなかった。

 

「ありがとう」

 

 そう言って、××××は武器と銃を異形から受け取る。

 ずっしりとした重みのそれは、悪夢から逃げ出してきた××××にとっては心強かった。

 

 それから階段の残りを登り、家の中へと足を踏み入れる。

 

 そこは、庭園に輪をかけてまた穏やかな場所だった。

 

 小さな机の上には丁寧な作りの銀のティーセットが置かれていて、その側にはうず高く本が積まれている。

 少しずれて敷かれた絨毯とあかあかと燃える暖炉はいかにも居心地が良さそうで、それから少し離れた場所にある武器が吊られた壁と工具が置かれた机。

 

 その前に、右足のない老人。

 ごく普通のヤーナムの服を纏った誰かが、暖炉を眺めながら杖をついて車椅子に腰を落ち着かせている。

 

「…………」

 

 車椅子、だが。

 あの輸血の男とは違うようだった。

 

 一歩を踏み出すと、そこで初めて××××に気がついたかのようにして老人は視線を向けてくる。

 

「やあ、君が新しい狩人かね。ようこそ、狩人の夢に。ただ一時とて、ここが君の『家』になる」

 

 耳を打ったそれは予想していたよりずっと優しい声だった。

 まるでこの庭園そのもののような優しさを含んだそれに、××××は気を緩めて歩みを進める。

 

「…………」

 

 それから、老人の前に立つと。

 彼はしわに覆われた顔にある、どこか夢を見ているような茫洋とした瞳を××××に向けてきた。

 

「私は……ゲールマン。君たち狩人の、助言者だ」

 

『君たち狩人』

 

 その言葉に疑問を持つが、その思いを見透かしているようにして老人……ゲールマンは言葉を重ねる。

 

「今は何も分からないだろうが、難しく考えることはない。君は、ただ、獣を狩ればよい。それが、結局は君の目的にかなう。狩人とはそういうものだよ。じきに慣れる」

「獣、とは?」

 

 問いつつも、頭によぎるのは××××のはらわたを喰い荒らした怪物のことだ。

 そして、それさえもやはり見透かしているようにしてゲールマンは語る。

 

「すでに君も見たはずだ。あるいは、何であれ君に牙を向けるものは全て獣だと、そう思ってもかまわない」

 

 穏やかに、そんなことを告げたゲールマン。

 なんとなく××××は問いを重ねることができず、するとゲールマンはまた口を開く。

 

「この場所は、元々狩人の隠れ家だった。血によって、狩人の武器と、肉体を変質させる。狩人の業の工房だよ。もっとも、今は幾つかの器具は失われているがね」

 

 家の中を見回しながら、ゲールマンはそう口にする。

 だがそれは、××××に理解させる気があるのかないのかよく分からない言葉だった。

 

 そして追いつくはずもない理解が追いつく前に、ゲールマンは続ける。

 

「だが残っているものは、すべて自由に使うとよい。……君さえよければ、あの人形もね」

 

 あの、人形?

 

 捨て置かれた美しい人形のことか。

 だが、あんなものが何に使えるというのか。

 

 それが妙に疑問で、だから眉をひそめるとゲールマンは変わらず穏やかな声で語りかけてくる。

 

「まぁ、今は何も分からなくてかまわないよ。君は獣を狩る、ただそれだけをすればよいのだから」

 

 その言葉を最後に、ゲールマンは××××への興味を全く失ったかのように暖炉へと視線を戻す。

 

「…………」

 

 ××××はしばらくゲールマンの前に立ち尽くしていたが、しかしずっとそうしているのも無為だろうと踵を返す。

 

 それから数歩歩いて振り向くと、ゲールマンの姿はその存在それ自体が幻であったかのようにかき消えていた。

 

「…………?」

 

 家を出て、登ってきた階段を降りてゆく。

 この庭園がどこなのかは全く分からないが、ずっとここに居てもいいような気さえしていた。

 

 階段を下りながら、××××は道に沿うようにして置かれた墓標を見る。

 そしてその一番奥、階段の終わりのちょうど先にある一つに指を触れた瞬間。

 

 再び××××の意識は暗転した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3

 

 薄暗い部屋。

 木造の建物。

 いくつもの寝台。

 

 静寂の夜。

 

 ああ、これは。

 

 ……診療所だ。

 

 気がつけば、またあの診療所に立っていた。

 そして傍らにはなにか道標のような、そんな雰囲気を纏う小さな灯りが。

 

「…………」

 

 よく見ると、その灯りが突き立つ根本にはあの小さな異形の姿が見えた。

 そして、その事実と……手に握る武器があの庭園での出来事が夢ではなかったと告げている。

 

 一歩を踏み出す。

 そして壁の向こう、ランプに照らされた血たまり。

 その上にはやはり、あの獣がいた。

 

 アレを殺害する。

 その事実を、恐ろしいほどすんなりと××××は受け入れられていた。

 

 けれど、やはり恐怖はある。

 ××××はきっと、後ろ明るい人生を送ってはいなかった。

 きっと殺伐とした行為も行ってきたはずで、殺害への無抵抗はその経験を通して自らに刷り込まれたものなのだろう。

 

 

 だがそれでも、××××だって人間だ。

 あの大きな獣は、どう見ても人間が立ち向かうようなものではない。

 

 生唾を飲み、忍び寄る。

 息を消え入るほどに潜め、あの『悪夢』で見たのと変わらぬ様子で肉を貪る獣に向けて武器を振り上げる。

 

 そして、渾身の力を込めて刃を叩きつけようとした。

 

 その時。

 

「…………ッ!」

 

 獣が突然、偶然のようにして身じろぎをして、そのせいで××××の刃はその肉を大きく削ぎはしたものの命を奪うには至れなかった。

 

 鋭いのこぎりが肉を削ぐ感触。

 獣が悲痛な叫びを上げる。

 

 怯みつつ振り返った獣が血走った瞳を向けて一撃。

 それはなんとかかわす。

 

 恐れに硬直した体でもかわせたのは、××××が斬りつけたせいか最初に比べて獣の動きが鈍くなっていたお陰だ。

 それにどうやら、この獣には××××がつけたもの以外にも傷がある。

 

 ならば初手で決められなかった××××にも、勝機はあるかもしれない。

 

 続く二撃目が放たれる前に、距離を取り銃を構えて引き金を引く。

 するとつんざくような音がして銃弾が放たれた。

 

 反動に慣れず、また焦りの中で放ったので××××は撒き散らされた弾丸の殆どを外してしまう。

 しかしわずかに命中したそれは確かに獣の命を……刈り取らなかった。

 

「!」

 

 凄まじい生命力だった。

 銃弾をめり込ませながらも、獣は強靭な四肢を駆動させ××××に迫る。

 

 爪を振り、それは再びあの悪夢の再現のようにして腹へと向けられる。

 転がるようにかわすが、確かに腹を抉られた。

 そして地に倒れた××××へと覆いかぶさるようにして獣が追撃を仕掛けてくる。

 

「がっ……!」

 

 絶対的な体格差。

 勝ち目などない。

 左肩に喰らいつかれる。

 

 銃を落とす。

 

「クソ……がっ……!」

 

 生きて、やる。

 

 そんな言葉が頭のどこかに響いた気がした。

 

「がぁぁぁぁぁっっ!!!」

 

 ××××は獣のように咆哮する。

 そして右手の刃を強く握り、また喰らいつこうとする怪物の首筋に刃を押し付けた。

 

 爪が食い込む。

 痛い。痛い。痛い。

 

 だが刃は離さない。

 離すものか。

 

 喰らいつこうとする獣の力それ自体を利用し、××××は深く深く刃を突き立てる。

 そして獣の拘束が緩んだところで思い切りのこぎりの刃を引き、獣の喉を掻き切った。

 

 

「はぁっ……!」

 

 獣が、後退。

 この隙を逃しはしない。

 

 立ち上がり、よろめきながらも刃を振る。

 しかし、あと一歩届かない。

 

 獣が爪を振り上げる。

 妙にゆっくりと歪んだ時間の中、渾身の力を込めて××××は届かぬと知りながらも刃を振るう。

 

 生き抜くために振るう。

 

 するとのこぎりはその軌道の中で折り畳まれていた刃を勢いよく広げ、鉈のようになって獣の首を斬り落とした。

 

「…………」

 

 血が噴き上がり、かすかに漂う赤い煙の中××××は腰を抜かす。

 勝った……らしい。

 どうも。勝てたらしい。

 

 偶然ではあったが、それでも生き延びることができた。

 

「……はっ」

 

 荒い息を一つ吐き、それから一時忘れていた痛みを自覚する。

 

「…………っ」

 

 感覚のない左腕で銃を拾うが、自分がこれをまだ撃てる体なのかは分からなかった。

 よろめきながらも歩く。

 

 外に行けば、治療を受けられるかもしれない。

 だがここは診療所だと思い返し、それならばなにか血を止めるような物だけでもと考える。

 

 いや。

 

「血の……医療」

 

 少しだけ、思い出した。

 

『生きて、やる』

 

 そんな言葉。

 恐らくは、自らの言葉。

 

 ここにある、血の医療。

 それを求めて自分は来たのだ。

 

 そして医療を求めて来たということはなんらかの患いがあったはずで、仮にあの輸血が血の医療で、それがその患いを治したのだとしたら……。

 

 一縷の望みをかけて周囲に視線を巡らせる。

 すると、すぐに目当てのものを見つけた。

 

 簡易的な注射器。

 血を注ぐもの。

 

 刃を置き、手に取る。

 そしてそれを腕に突き立て血を入れる。

 

 すると、まるで傷を負ったことが悪夢であったかのようにそれが癒えてゆく。

 体に生きる力、とでも言うべき感覚が満ち溢れ、腹のものも腕のものもそれ以外も全ての傷が塞がりきった。

 

「…………」

 

 それはまるで、魔法のような。

 こんな都合のいいことはあってはならないのではないか?

 

 本能のどこかが警鐘が鳴らす。

 しかし、それでも、これがなければ××××は生きられない。

 手負いの獣にさえ手間取る××××が生き残るためには、これは必要だ。

 

 その本質がどんなものであれ、手に取らなければならない。

 代償がなんであれ、ここで死ぬよりはずっとマシだ。

 

「……死んでたまるか」

 

 改めてそう呟き、××××はその場に残った注射器を全て腰につけた小物入れへとねじ込んだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4

 

 

 人一人とていない、不気味に静まり返る石畳の道路。

 霧のように周囲を満たす薄闇。

 馬の死体と馬車が転がり、立ち並ぶ家々はどれもあらゆるものを拒むようにして戸を閉ざしている。

 

 何もかもが死に絶えたような、けれどなにかおぞましいものの息遣いを感じるような。

 足を踏み入れたヤーナムの市街は、そんな異界めいた雰囲気に覆われていた。

 

 

「はぁ……っ」

 

 ××××の殴打された頭から流れ、顔へと垂れる血を袖で拭う。

 そして体に血を入れ、傷が治るのを待つ。

 

 三人目……いや、三匹目だった。

 

 人の姿をした獣。

 あれは獣だ。

 

 躊躇う暇などなかった。

 ××××を見た瞬間、先程の獣に比べればかなり遅いがそれでもソレは襲いかかってきた。

 

 足元の死体を見る。

 

『何であれ君に牙を向けるものは全て獣だと、そう思ってもかまわない』

 

 その通りだと思った。

 思うしかなかった。

 

 倒れているのはいかにも安っぽい汗の汚れが浮いたシャツを着た男。

 人にはあるまじき毛が顔を覆っているが、だがそれはそれでも余りに人に似ていた。

 

 折り畳んでのこぎりに戻していた鉈を置いて、その死体の持ち物を漁る。

 

「……あった」

 

 二匹目を殺した時に気がついたことだった。

 こいつら、恐らく元は人だった。

 

 そして、ここの住民はよく血を持ち歩いている。

 持ち物を漁れば、血が見つかることがある。

 

 狂っている。

 

 そんな思考を殺して、貴重な血を取る。

 殺さなければ殺される。

 奪わなければ死ぬ。

 

 今はシンプルなことだけを考えなければならない。

 

 そして、さしあたっての目標。

 まともな人間を見つけてこの異常な状況の話を聞くために××××はあたりを見回した。

 

「…………」

 

 ここはヤーナムの街。

 そして、診療所からそう離れてはいない場所だ。

 

 診療所から出てすぐに斧を持った獣が一匹。

 そして今、更に進んだ場所で農民風の格好をした二匹に襲われたところだった。

 

 だが、しかし。

 これ以上進もうにも行き止まりだし、斧の獣の近くには門があったもののこちらからは開きそうになかった。

 

 であればどうしたものかと、そう考えて××××は周囲を注意深く観察する。

 

 すると、一つレバーが目についた。

 

 もしやあの門を開けるようなものかもしれないと、自分がどこに行きたいのかすら分からないままそう考えて××××はレバーを引く。

 

 引いて、それから一秒。

 二秒。何も起こらない。

 

 だから引き返して門を見に行くと、やはり開いてはいなかった。

 仕方がなくレバーの元に戻ると、見覚えのないはしごがかかっていた。

 

「…………?」

 

 防災装置? だろうか。

 よく分からないが、この状況より訳の分からないものなどない。

 

 だから疑問に思うその行為すら無駄だと切り捨てて、××××ははしごに足をかけた。

 

 ―――

 

 はしごを登ると、そこには例の灯りがあった。

 火は灯っていないようだったが、異形が蠢く小さな灯りをあちこちに置くなどこの街の人間はどうかしているのではないだろうか。

 

「…………?」

 

 意味が分からないと思いつつも、もう疑問には思わない。

 ただなんとなくその灯りに触れると、診療所のそれと同じようにして青く幻想的な火が灯りの中にぼうっと輝き始めた。

 

「…………」

 

 それから顔を上げると、すぐ目の前に明かりが漏れている家を見つけた。

 だから話を聞けるのではないかと、××××はそう思う。

 

「…………」

 

 軽く窓を叩いて、住民に自らの存在を知らせる。

 すると家の中で誰かが重たそうな動きで身じろぎをするのを感じた。

 そして××××が少し待っていると家の窓がほんのわずかに開けられて、そこからやつれ落ち窪んだ瞳が覗く。

 

「……ああ、血の香りだ。ということは、獣狩りの方ですね。それに……どうやら、外からの方のようだ」

 

 ××××の姿を見て、やつれた瞳が細められる。

 

「私はギルバート。あなたと同じ、よそ者です。色々とご苦労でしょう。この街の住人は、皆……陰気ですから」

「…………」

 

 憂鬱そうな声が、そんな言葉を紡ぐ。

 それに××××は耳を傾けた。

 

「私は床に伏せりもう立つこともままなりませんが、

 それでもお役に立てることがあれば言ってください」

 

 そこまで言って、ギルバートは激しく咳き込む。

 彼もどうやら、××××と同じような身の上なのかもしれない。

 

「……この街は呪われています。あなた、事情もおありでしょうが、できるだけはやく離れた方がいい。この街で何を得ようとも、私には、それが人に良いものとは思えません」

「ああ。……良ければこの状況ついて、何か知っていることがあれば教えてほしい」

 

 ××××がギルバートにそう尋ねると、彼は質問の意味を飲み込むような間を置いて答える。

 

「この状況? 獣狩りの夜のことですか? 工房の武器を持たれているように思ったのですが、何もご存知ないのですか……」

「そうだ」

 

 ××××が答える。

 ギルバートは、親切な(たち)なのだろう。

 何を言うべきか吟味するように唸った。

 

「今晩は獣狩りの夜なのです。街には獣が溢れているでしょう? 狩人たちがとめどなく現れるそれを狩り、そしてそれ以外の人々は固く戸を閉ざして朝を待つのです。私も……この街に来てから二度ほど経験しました」

「その獣とは?」

「……獣とは獣の病と呼ばれる病魔に侵された人間が理性を失い成り果ててしまう存在です。それ以外のことは私には分かりません。ただ医療教会……すみません。このヤーナムで信仰されている宗教の組織は、これを根絶すべき敵としています」

 

 一息に語り終え、それからギルバートは苦しげに咳をした。

 ××××には依然分からないことだらけだが、それでも少しは事情が飲み込めた。

 

 どうやらこれは獣の病、と呼ばれる病気の蔓延による獣の氾濫を根絶する狩人、と呼ばれる者たちが武器を振るう夜であるらしい。

 

 だがどうもよそ者らしい××××にとってはなんの関わりもないことだ。

 早々に逃げ出してしまうのが賢い選択だろう。

 

「この街から出るにはどうすればいい?」

 

 ××××はギルバートの息が整うのを待ってそう質問する。

 

「街から、出る……ですか」

 

 その質問に、ギルバートは困ったように息を漏らす。

 

「恐らくは、無理だと思います」

「無理?」

「はい、そうです」

 

 ××××の問いに、躊躇いながらもギルバートは答える。

 

「医療教会によって、この街の出口は厳しく封鎖されています。城壁の門を通ってこの街に入られたと思いますが、その門は今晩決して開くことはありません」

「…………」

 

 であれば、××××はこの夜を生き延びなければ外には出られないということか。

 脱力する××××の様子に気がついたらしいギルバートは、歯切れ悪く言葉を続ける。

 

「その、この家に匿うというのも……難しいのです。……あなたはもう、獣の血を浴びてしまっているので。その……」

 

 病は血を通じて伝染ることが多い。

 そして、『獣の病』が病である以上伝染るのが恐ろしい、とそういうことなのだろう。

 ××××にだってその気持ちは分かるし、その医療教会とやらの狩人と違いこれといった防疫措置を取っていない以上病に感染した可能性もある。

 

「……獣の病とやらはどうすると防げるんだ?」

「防ぐ方法、ですか……。分かりません。ヤーナムの街は、よそ者に何も明かしませんから……」

「そうか」

 

 だが、それでもこのまま狂い死ぬのを待つつもりはなかった。

 生き抜くために、××××は足掻いてみせる。

 

 ××××が礼を言いその場を立ち去ろうとしたその時、ギルバートが呼び止める。

 

「ああ、しかし教会ではなにか『特別な血』を狩人に与えている、という噂も聞きます」

「……特別な血?」

 

 その言葉に、思い浮かぶのは。

 

『青ざめた血を求めよ。狩りを全うするために』

 

 既視感のある筆跡の、走り書きのメモ。

 

「…………」

「どうかしましたか?」

 

 黙り込んだ××××を伺うようにしてギルバートが声をかけてくる。

 

「……『青ざめた血』、というものについて知っているか?」

 

 その問いに、また唸ってギルバートは答える。

 

「……すみませんが、聞いたことはありません。けれど、それが特別な血であれば、訪ねるべきは医療教会でしょう」

「医療教会?」

「はい、そうです。先程も言いましたがこのヤーナムの地で信仰されている宗教の組織で、彼らは血の医療と、その特別な血の知識を独占していますからね」

 

 なるほど。

 思えば青ざめた血であろうがなんであろうが、獣の病のことならば獣狩りを主催しているという組織に尋ねて見るのが一番手っ取り早いだろう。

 

「場所は?」

「ここ、ヤーナムの市街から谷を挟んだ東側、大橋の先の門の向こうに聖堂街と呼ばれる医療協会の街があります。そして、その聖堂街の最深部には古い大聖堂があり……そこに、医療教会の血の源があるという……噂です」

「分かった、ありがとう」

 

 ならば、目指すべきはその大聖堂だろう。

 目的地を定めた××××はギルバートに礼を言う。

 

「いえ。幸運をお祈りします。私はもはや、なんの力にもなれませんが……」

 

 そう口にして、ギルバートは目礼をしつつ窓を閉めた。

 それから窓の向こうから激しく咳き込む音がしたが、特にできることもないのでそれを背にして××××は歩き出す。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5

 意識が覚醒する。

 ××××は目を開く。

 

 目の前にはギルバートの家。

 そして、その右。

 先に続く道へと目をやる。

 

「…………」

 

 ××××は、死なない。

 死ねば死なずにあの灯りの側で目を覚ます。

 

 まるであの診療所での時のように。

 まるで全てが悪夢であったかのように。

 

 もう何度悪夢から覚めたかは数える気もなくしたが、それでも××××は目覚める。

 

「…………」

 

 ため息を、一つ。

 

 それから××××は歩を進めた。

 そして、地を蹴って走り始める。

 

 そこら中に歩き回る獣。

 彼らは決して絶えることがない

 

 木箱の裏、そこに隠れていた鉈を持った獣の一撃をかわす。

 木箱を叩き壊しながら放たれたそれの、振り終わりに合わせて××××はのこぎりをねじ込んだ。

 

 喉元を引き裂くが、しかしまだ足りない。

 鋭いのこぎりの刃を引く過程でさらなる損傷を与えつつ、××××はまた武器を振り手首を捻る。

 

 すると遠心力により折り畳まれていた刃が開き、肉を削ぐのこぎりは切れ味鋭い鉈となる。

 そして、それによる一撃は目の前の獣の胴を深く斬り裂いた。

 

 血を流し倒れる獣の持ち物を漁り、しかし注射器は持っていないようなので早々に切り上げる。

 

「…………」

 

 幾度も死んで、その中で気がついたことは四つ。

 

 まず、のこぎりの刃は痛覚の鈍い獣にも十分有効であること。

 鋭い歯を並べるのこぎりの一撃は理性なき獣をすら怯ませる。

 

 そして、次に奴らが群れをなすこと。

 理性なき、とは言っても連中同士討ちは決してしない。

 

 まるで全員同じ幻を見ているかのようにして、連携しながら人を狩る。

 

 それから、三つ目。

 正面からでは勝てないということ。

 

 動きこそ鈍いもののやつらの腕力は絶大で、正面からやったのでは一対一でも個体によっては勝つのが危うい。

 それがまして、多対一にでもなれば今の××××には勝ち目などなかった。

 

 木箱の残骸から歩き、道の端に寝そべっていた獣をのこぎりの刃で斬り伏せる。

 その体が起き上がる前に、何度も何度も刃を叩き込む。

 

 最後に、四つ目。

 

 やつらは待ち伏せをしているということ。

 先程のような木箱や石像の影に身を隠し、××××を殺そうと待っている。

 それに今殺したような座り込んでいたり寝そべっていたりするような個体も危険で、動かないのをいいことにその横を通り抜けると確実に追いついてきて手痛い一撃を叩き込まれる。

 

 その先にもう一体、松明と盾を携えた獣がいた。

 ××××はその後ろにそっと忍び寄り、髪を掴み引き寄せ首をのこぎりでずたずたにする。

 

 それから死体を漁って階段を降りて、その角から注意深く顔を出しそっと様子を伺う。

 すると案の定、五体の獣が徒党を組んで歩いていた。

 

 奴らが発する切れ切れの言葉の断片の意味を拾うに、奴らどうも自分たちが獣狩りをしているつもりらしいのだ。

 そして、だから奴らの中で決めたのであろう巡回のルートを常に幾らかの獣が巡回している。

 

 階段の影で息を潜め、群れが通り過ぎるのを待つ。

 それからノコギリを地面に置いて、その辺りに捨て置かれている石ころを拾って群れの最後尾にいた獣に投げる。

 

「…………?」

 

 石が命中し、その獣は何者かの存在に気がついたらしく石が飛んできた方向……すなわちこちらに向けて歩を進めてくる。

 だがしょせんは獣による『獣狩りごっこ』だからか、不意に列を離れた仲間に獣たちはなんの注意も払うことなく置き去りにする。

 

 近づいてくる獣の足音を、××××は息を潜めて必死に耳で聞きその距離を測る。

 後少し、後少し……。

 

「……!」

 

 階段の壁の内側、手の届く場所に獣が足を踏み入れた瞬間。

 ××××は刃を持って立ち上がり、獣へと突進を仕掛けた。

 動きの鈍い獣はそれに反応することもできずに、首にのこぎりの一撃を貰う。

 

 鋭い痛みにか獣が怯んだ隙を逃さず、××××はさらに押して獣の体をレンガ作りの壁へと叩きつける。

 そして体を密着させ武器による反撃を許さず、こちらは首に押し付けた刃へとさらに力を加えて壁とノコの刃により獣の強靭な喉をすり潰す。

 

「っはぁ…………」

 

 最早おびただしい返り血を浴びても、なんとも思わなくなった。

 慣れた手付きで懐を探り、血がないことに小さく舌打ちをする。

 

 それからまた進み、今度は馬車の影やら家の柱に隠れて同じことを繰り返す。

 

 そうして一体一体始末して、歩を進め続けて、それから。

 

「…………」

 

 また放棄されている馬車の側、階段の下に座り込むようにしてトップハットを被った獣が一体がいる。

 ××××は先程こいつに頭を撃ち抜かれ、死んだのだった。

 

 

 立ち上がる前に接近し、鉈でその頭を叩き割る。

 ぴくりぴくりと痙攣するその腕にも刃を振り下ろし、二度と銃を握れないようにした。

 それから服の中を漁ると、この獣は銃弾を持っていた。

 

 目の前の獣の銃はライフルで、××××の銃は散弾銃だ。

 しかし、装填すれば使えることは分かっていた。

 

 どうやらこの銃の弾丸は水銀でできていて、それは銃の中で銃の仕掛けに添いその形を変え、散弾にもライフル弾にもなるらしかった。

 何度目かの悪夢の折。

 弾切れになった銃に、拾った弾丸を込めた経験から××××はそれを知った。

 

 全く都合の良い話だが、それくらいの魔法でいまさら驚くつもりはなかった。

 

 それから視線を前に戻し、先程の悪夢の中ではたどり着けなかった先の光景へと目をやる。

 

「…………」

 

 広場で、大きな焚き火を囲むようにして一、二、三、四……九。

 そして、その内二人が銃持ちだ。

 それぞれ高所と奥に陣取っていて、同時に狙撃されるようなことがあればもはや命はないだろう。

 

 それに、銃持ちが高所から見張っている以上石でちまちまと釣りだして処理するような戦い方も出来ない。

 ここはむしろ、一旦前に出て数体の獣に傷を負わせて気を引き銃の範囲外へと誘うべきかもしれない。

 

 数体の獣を相手にすることになるが、逃げつつ温存していた銃弾も使えばあるいは何とかなるかも。

 

 ……駄目ならばまた目覚めればいい。

 

 そんな捨て鉢な思考が滑り込むのを感じて、××××は歯噛みする。

 次目が覚めるとも知れないのだ。

 

 起こるか分からない奇跡に身を任せるような真似をしては生き抜くことはできない。

 命の価値を希薄にしてしまえば、いずれはこの生き抜く意志さえ失ってしまうような、そんな気がした。

 

 決意して、××××は走り出す。

 まずは駆け足の勢いを乗せたのこぎりの一撃でシャツの男の背を深々と削り裂き、さらにその体を蹴り焚き火の中へと叩き入れる。

 そして振り向きながら武器を変形させ、側にいた黒いフードを身に着けた三又槍の男の体を鉈で深く斬り裂く。

 

 それは致命傷には至らないが、視界の端でトップハットの男二人が銃を構えたのを確認して××××は逃げるために走り出す。

 奴らの動きは鈍く、それは照準についても例外ではない。

 全速力で動く相手を撃ち抜けるほどには、あの射撃の精度は高くないのだ。

 

 射撃の範囲外へと逃れた××××は、荒い息を整える暇もなく追いかけてきた獣たちへと向き合う。

 

 追いかけてきたのは、どうやら四体のようだった。

 

 まず、手負いながらも素早い動きで追いかけてきた長身の槍を持った獣。

 その突きを身をよじってかわして、反撃の鉈を叩きつける。

 だが逃げ腰で放ったその一撃は軽く、命を刈り取るには遠く至らない。

 

 それどころか肉を浅く抉るだけに留まり、大きな隙を晒すことになった。

 

 厚刃の肉断ち包丁を構えたジャケットを着た獣が大振りな一撃を叩きつけようと刃を振り上げる。

 

「!」

 

 それはどうも避けることは出来なさそうだったが、咄嗟に銃弾を放って追撃を繰り出そうとしていた槍の男ごと撃ち抜く。

 獣は頑丈で、銃撃はすぐさま死には繋がらない。

 しかし、今まさに刃を振り下ろそうとしていた包丁の男は大きく怯んで、その隙をついて××××は鋭い鉈で斬りつけた。

 

 まず、一体。

 

 包丁の男の首が落ちたのを確認して、××××は飛び退(すさ)り距離を取る。

 そして、また追いかけてきた刀を持った獣。

 武器に振り回されるようにして繰り出された突きを渾身の振りで跳ね飛ばし、こちらに突進を仕掛けようとしていた槍の獣の方へと蹴り飛ばす。

 二体はもんどりうって倒れ、槍の先端は確かに刀の獣を貫いたようだった。

 そして、奥で粗末な木の盾を構える松明を持った男。

 その盾から露出した足を斬り裂き、隙が生まれたところで追撃を仕掛ける。

 

 それから刃を折り畳んでノコギリの一撃でとどめを刺した。

 

「…………っ」

 

 初めて感じるその高揚は、なんとも形容しがたくただ全身を電流のように駆け巡る。

 ××××はそんな高ぶりに身を任せ、未だもつれ合いもがく二体の獣も処分した。

 

 それから、再び広場へと駆け戻る。

 残りの獣は四体で、その内二体が銃持ち。

 そして獣は鈍重で逃げれば追いつけない。

 

 ならば、数を減らした今無視して通り抜けるか。

 そんな考えがちらつくが、敵は減らしておいた方が後のためになると、そう考え直す。

 

 ……あるいはそれは、狩りの高揚に理性がもっともらしい理由をつけただけなのかもしれなかったが。

 

 まず、最初に殺すのは馬車の上に陣取る銃持ちだ。

 広場の階段を駆け上り、上の道へと躍り出る。

 そしてそのまま銃持ちが照準を彷徨わせるそこへと踏み込み、連撃で命を刈り取る。

 

 くずおれる銃持ちの死体を押しのけ、そのまま馬車から飛び降りて広場の奥に陣取るもう一体の銃持ちへと肉薄。

 おたおたと刀を抜くが、もう遅い。

 一撃。

 そして、散弾銃で頭を吹き飛ばす。

 

 そこでようやく追いついてきた獣が武器を振りかざすが、それはバックステップで容易くかわして反撃に出ようとする。

 

 が。

 

 悪寒を感じて、身をよじる。

 かわしきれない。腹を抉られる。

 

「……っ!」

 

 犬、か。

 毛が抜け落ち、濁った瞳でこちらを見る痩せさばらえた犬の異形。

 

 かみそりのように鋭く××××の肉を抉ったのは一体の犬の『獣』のようだった。

 まさか犬も獣の病に罹患するとは。

 

「――――!」

 

 訳の分からないことを喚きながら、残り二体の人間の獣が駆け寄ってくる。

 そしてまた追撃を仕掛けてくる犬の獣は、どうやらこちらも二体いる。

 

 とりあえず体勢立て直さなければと、××××はひたすらに逃げて広場の入り口にまで駆け戻る。

 しかし犬は素早く、逃げる××××に代わる代わる噛み付こうとし、またそれにより足が止まり獣の武器が××××の体をかすめる。

 

 なんとか隙を見て輸血液を体に入れるが、回復するそばから犬が体力を削る。

 これではどうしようもないと、傷だらけの身体でそれでも××××は攻勢に出た。

 

 まず、噛み付こうととびかかる犬にのこぎりの一撃。

 逃げるばかりだった獲物の突然の反撃に対応できず、のこぎりは大口を開けた犬の口にずさりと突き立つ。

 

 犬がのこぎりに歯を立てるが、それをものともせずに嫌な音を立てて犬の頭部の上半分を吹き飛ばす。

 そして、続くもう一体の攻撃。

 

 しかしこちらは先程の一体と違って反撃を警戒しており、ちょこまかと動く犬へと中々攻撃を当てられない。

 ならばと銃撃を放つが、それは犬を吹き飛ばしはしたものの致命打とはならない。

 

 そして、××××が銃弾を放ったその隙をついて、斧を持った獣が武器を振り下ろす。

 

「っ!」

 

 銃の反動による硬直で、かわすことはできない。

 さらに、今しがた撃った銃を速射することもできない。

 

 だから精一杯身をよじるが、その斧は××××の左腕の肉をしたたかに削ぎ落とした。

 

 激痛に呻き、銃を取り落とす。

 しかし傷だらけの身体でそれでも武器を振り一心不乱に目の前の獣に叩きつける。

 

 するとこころなしか、返り血により痛みが和らぐような、そんな気がした。

 

 ずたずたにした獣の体を蹴り倒し、もう一体の獣の身体を盾にしつつ、一拍の遅れを見せた犬の突進を転がってかわす。

 そして転がったその勢いを乗せて獣の足をのこぎりで斬り裂き、さらに動きが鈍ったそいつにもう一撃くれてやり命を絶つ。

 

 すると今度は腕が動くようになっているのに気がついて、それに疑問を覚える間もなく××××は飛びつくように銃を拾って迫る犬へと至近距離で発砲した。

 

「…………」

 

 頭がぐしゃぐしゃに潰れて死んだ犬。

 その死体を呆然と見つめて、それから自らの腕に目をやる。

 

 返り血で、傷が塞がった?

 それはあるいは、輸血液を入れる行為と似たようななにかなのだろうか。

 

 分からないが、とりあえず今は回復だと注射器を取り出そうとした、その時。

 

「…………あ」

 

 大きく肩に食い込んだ刃。

 激痛。

 

「がっ……は……!」

 

 続いて背後から獣の剛力で槍が腹にねじ込まれる。

 さらに抜かれ、再び叩き込まれる刃。

 

「なん、で……」

 

 崩れ落ちながらもなんとか首を捻じ曲げて振り向く。

 すると、そこには新手の獣が二体いた。

 

 どうやら、背後から巡回してくる獣が近づいてきているのに気が付かなかったらしい。

 

「クソ……がぁぁっ……」

 

 槍を引き抜かれた、その瞬間に地面に爪を立てよろめきながらも立ち上がる。

 

「死んで……たまるかっ……!」

 

 また獣が。松明を体に押し付けられ、絶叫する。

 体のあちこちに刃を突き入れられる。

 

 自らの体から滴る血の、水音が。

 とめどなく吐き出される血で呼吸すら難しい。

 

 銃を捨て、注射器を探る。

 それを打ち込んで、それで、反撃を。

 

 そう思った瞬間、視界が潰れて真っ赤になる。

 何も見えない中我武者羅に何度か刃を振るが、それは何も斬り裂くことはなかった。

 

 

 それからすぐに、意識は暗転する。

 

 

 




ここからオリジナル展開が入り始めます。
よろしければこの先もよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6

 あれから、どれほどの死を積んだだろう。

 

 死因は犬、銃、火炎瓶、大男の獣、果ては槍を持った奇妙な姿の獣に、松明と鉈を持った異形。

 

 死んで死んで死に続けて、××××はいつしか朦朧とした意識の中で漠然と獣を狩るようになった。

 死んだら、それまでだ。

 

 またやり直す。

 

 またあの灯りで目覚めて、××××は獣を狩る。

 その動きは鋭さを増しているが、絶望の中で最早生を渇望する意思は薄れ始めている。

 捨て鉢な特攻は、高まった練度を差し引いても十分な死亡要因になる。

 

 しかしそんな死を繰り返す地獄の中でかすかに××××を支えたのは、大橋にたどり着くという目的だった。

 幾度も迷いながらも道を探り、遥か遠くの聖職者たちの街を仰ぐ。

 

 そうして、ようやく大橋の始まりへと辿り着いたその時。

 

 ××××は、診療所で倒したあの獣が二体橋の上に陣取っているのを見た。

 

「…………」

 

 今でさえ、相手が万全なら勝てるかは分からない敵だ。

 それが、二体。

 

 ××××は濁った目でうろうろとそのあたりを歩き回る獣を見据え、それから勝つための算段を立て始める。

 

 まず、こちらの手札。

 獣共が時折落とす火炎瓶五つと、それから弾丸を十八発残した銃とのこぎり。

 これだけだ。

 

 そして、これだけを駆使して××××はあの二体に勝たなければならない。

 

「…………」

 

 大橋、目的地はすぐそこだ。

 そして、あの二体を打倒すれば橋を渡ることができる。

 全てを使い果たすつもりで、××××はまず火炎瓶を一つ投げる。

 

 それは、若干逸れながらも確かに獣へと命中。

 瞬間炎上し、炎に包まれる怪物。

 だが同時に、××××の存在にも気が付かれた。

 

 もう一つ、火炎瓶を投げる。

 突進してくるそれには容易く命中し、その体をまたさらに激しく焦がした。

 

 ××××はそこで踵を返し、今しがた登った大橋にかかる階段へと足を向ける。

 そこは狭く、追いかけてくるのであればあの巨体なら動くのに不自由することだろう。

 それに、その狭さ故に敵は数の利を活かすことができない。

 

 火を燻らせながら、半狂乱になって怪物が突っ込んでくる。

 だが、階段の段差と狭さに足を取られて上手く動けない。

 

 頭部にのこぎりの一撃。

 そして反撃を許さぬよう、斬撃の隙間に散弾を差し込む。

 大きく怯んだそこでまた斬撃を放ち、命を刈り取った。

 

 だが、まだ終わらない。

 

 煤けた死体を踏み越えて、もう一体の怪物。

 足場が悪いのは向こうだけではなく、こちらもそれは同じだ。

 だから予想の上を行く勢いの爪に肩を抉られ、腕の肉を大きく噛みちぎられる。

 

 舌打ちを一つ、階段の中の曲がり角まで引き、追いかけてきた怪物に渾身の一振りを浴びせる。

 

 すると返り血により傷が塞がり、怪物が大きく怯んだので一旦引いて輸血液を打ち込む。

 

 それからまた追いかけてくるが、その突進を予想して火炎瓶を投擲。

 モロに喰らって焦げたところで懐に潜り込み連撃を浴びせ、そのまま斬り殺す。

 

 のこぎりに貼りついた肉と血を払い、××××は死体を踏み越えて歩き出す。

 そして大橋を半ばまで渡ったところで、左に脇道があるのに気がついた。

 

「…………」

 

 暗い、その建物の中へと足を踏み入れる。

 すると闇に紛れるようにして立っていた刀を持った獣が刺突を繰り出してきて、××××はそれを胸に受ける。

 

「がっ……」

 

 痛みが刺すようにして広がり、口の端から血が漏れる。

 だが、これくらいでは死にはしない。

 

 幾度もの死を乗り越えてそれを理解していた××××はあえてその刃を抜かずに突き通し、深々と刺さったそれが引かれる前にのこぎりの刃を獣へと当てる。

 

 返り血でわずかに傷は塞がるが、突き刺さった刃が阻害する。

 

 動かなくなった獣を無造作に地に投げて、輸血液を一つ使う。

 それから獣の持ち物を探ると、輸血液を二つ見つけた。

 

 それから暗い家の階段を降り、二体ほど獣を処理して外に出るとどこか見覚えのある場所に出た。

 

 ここは、ギルバートの家の近くか。

 

 松明を持った獣を処理して、それから目についた階段を駆け上がる。

 そして、例によってまた配置されていたレバーを引くと、目の前に高くそびえていた鉄の門がゆっくりと開く。

 

 ギルバートの家の前の灯りで目覚めるのなら、ここを通ればまたすぐに大橋へと行くことができる。

 

 どうやらこれで、死ぬ度にあの広場をくぐり抜ける必要がなくなったらしい。

 久々に安堵して、それから登ってきた階段を下りる。

 

 そして暗い家の中をまた通り大橋へ戻った、その時。

 異様な気配を感じて、××××は弾かれたように左へと視線を向ける。

 

「…………」

 

 薄い、霧のような暗闇の向こう。

 淡々とした足音が聞こえる。

 

「……どこもかしこも、獣ばかりだ……」

 

 ざらつくような音を含んだ、低い声。

 闇の向こう。徐々に露わになるその姿。

 

 屈強を伺わせる長身に、どこかヤーナムとは馴染まない黒衣と帽子。

 包帯に隠された瞳。帽子の下から覗く無造作に伸ばされた白い髪。

 そして右手には大ぶりの斧を握り、左手には××××のものとは違う、短銃の銃身を長くしたようなものを握っている。

 

 獣たちが持っていた斧とは比べ物にならない、明らかに洗練された武器であるそれを握り直し、その男は深く息を吐いた。

 

「……貴様も、どうせそうなるのだろう?」

「…………」

 

 明らかに、この男は『違う』。

 それが分かった。

 だから、問いかけに答えず××××は逃げ出していた。

 

 大橋への近道も見つけた。

 獣も排除した。

 

 焦る必要などない。

 また改めて機を見い出せばよいのだ。

 

「逃げるか」

 

 せせら笑うようにして、声が漏らされる。

 発砲。

 

「!」

 

 脚を食い破った弾丸の感触に、痛みも忘れて驚愕する。

 この距離で、散弾がこの威力とは。

 

 男は銃を叩くようにして弾丸を装填し、またこちらへゆらりと近寄ってくる。

 その装填の動作は××××の銃にはないもので、恐らくは何かあの男の手で手が加えられた結果なのだろう。

 

 転がりつつ血を打ち込み、数秒後には逃走を再開する。

 だが、すでに距離を大きく縮められていた。

 

 飛びかかるようにして、斧の叩きつけ。

 

 一見隙だらけに見えるそれだが、男が放つ威圧感が反撃を許さない。

 そして、それは正解だったと分かった。

 

 ほとんど目で追えないような速度で刃が跳ね上がり、斬り上げへと繋がる。

 恐ろしいほどの伸びをもって迫るそれは××××の上半身を斜めに斬り裂いた。

 反撃など考えていれば、上半身を飛ばされていただろう。

 

 逃げ腰だったことが功を奏して、その一撃に遠く吹き飛ばされた××××は追撃を逃れる。

 

 ……いや、逃れるとは正確な表現ではないだろう。

 

 何故なら××××の目前にすでに男は迫っていて、刃を横薙ごうとしているからだ。

 

 左肩越しに大きく振り上げられたその刃が、霞む。

 ××××はなんとか刃を合わせたが、容易く跳ね飛ばされた。

 だが体勢を崩しつつも防ぐことには成功し、男が二の太刀を放つ前に××××は銃撃で威嚇する。

 

 しかし、男の体が信じがたい速度で横にずれて弾丸はかわされる。

 

「クハハッ……」

 

 いや、かわしただけではない。

 同じ動きで踏み込み、男は××××へと肉薄していた。

 そして恐怖に駆られて引き金を引いたことを見透かしたように、男は××××の目の前で鼻を鳴らす。

 

「!」

 

 放たれる斬り下げ。

 無様に横に転んでかわす。

 しかし立ち上がろうとしたその時斧の柄で頭を強打され、怯んだ瞬間を逃さず男は××××の脇腹に刃をねじ込んだ。

 

「がっ……!」

 

 せめてもの抵抗として刃を振るが、男はそれをかわしそれから二撃目は手に持つ銃の銃身で弾き飛ばす。

 しかし抵抗を興がるようにその唇が歪み、刃を引き抜かれて××××は地面に倒れ込む。

 それから転がりつつ立ち上がり、湧き上がるなにかに身を任せて脇目も振らず逃げては血を入れた。

 

 ああ。

 じりじりと、心を焼くようなその感情。

 それは恐怖だ。

 

 久しく忘れていた、恐怖だった。

 

「ぁ……!」

 

 この男は、恐ろしい。

 獣とは違うのだ。

 ××××をどう殺すかを、緻密に、冷酷に、したたかに考えている。

 

 一度死んだくらいでは逃してはくれない。

 そんな予感があった。

 決して勝つことは叶わず、延々と殺され続ける。

 

 そんな未来を幻視し、瞳を凍らせた。

 

 逃げなければ。

 背を向けて走る。

 しかしいたぶるように斧が背を撫でて、腰を抜かした××××を男が蹴り飛ばす。

 

「つまらん狩りだ」

 

 腹を蹴られ、咳き込んだ。

 男は××××を踏みつけて、それから刃を振り上げる。

 そして、それをなんの躊躇もなく肩に向かって振り下ろした。

 

「っ……!」

 

 武器を取り落として、それは男によって遠くに蹴り飛ばされる。

 

「獣には過ぎた玩具だろう」

 

 言いつつ踏みつけられ、左足を撃たれる。

 ふくらはぎから下がぐちゃぐちゃになって、だらだらととめどなく血が流れた。

 

 荒い息の中、荷物を漁り注射器を取り出そうとする。

 すると男の昏い視線が泳ぎ、××××の手の左手の先で止まる。

 

「それもだ」

 

 腰につけた小物入れが踏み砕かれ、ポーチの中にじわりと血が広がる。

 

 ああ。

 

 恐怖に目を閉じた、そこで。

 不意に目の前から重圧が消えた。

 

「みっともないねぇ、酔っ払いが。獣みたいに無様な姿を晒して……」

 

 からん、と音がして××××の前にのこぎりが投げられる。

 そして、目の前に現れたのは漆黒の羽が数え切れないほど覆う、まるで烏の翼か何かのような装束を纏った誰か。

 

「あんた、立てるかい?」

「…………っ」

 

 重ねた年月を感じさせるが、それでもなおその声は老いからは程遠い張りを漲らせている。

 どこか凄味を潜ませた、けれど静かな老婆の声が××××に背を向けたまま言葉を紡ぐ。

 

「しっかりするんだよ。もう誰も人じゃあない。自分の身は自分で守るしかないんだ」

 

 その言葉に我を取り戻して、××××はようやくのこぎりへと手を伸ばす。

 腕はうまく動かないが、それでもなんとか握ってよろめきつつも立ち上がる。

 

 左足が熱くて熱くてたまらないが、それでもなんとか立ち上がる。

 

「…………」

 

 ちらと振り返って、烏羽の女が××××を見やった。

 その、くちばしのマスクに覆われた表情は当然読み取れることはない。

 

 だがほんの一瞬、マスク越しに烏羽と視線がぶつかった気がした。

 

 それから次の瞬間には、烏羽は××××から視線を外す。

 

 そしてその右手に持った歪んだ短刀を軽く振り、左手に持った短銃をだらりと下げてガスコインに相対する。

 

「……誰かと思えばアイリーンか。狩人狩りが獣になるとはな」

 

 低く笑って、男が言う。

 アイリーンと呼ばれた老婆は、それにくつくつと笑いを返す。

 

「あたしに狩られるやつはみんな同じことを言うよ、ガスコイン。もっとも、喋れる内に狩られた奴は、だけどね」

 

 男――ガスコインは、獰猛に笑い砂埃を巻き上げるような力強い踏み込みでアイリーンへと迫る。

 そして手に持つ斧により地を削るような軌道で斬り上げを放った。

 

 だが。

 

 風に羽が舞うように音もなく飛び退き、アイリーンはそれをかわす。

 ガスコインはなおも連撃を繰り出すがその全てを流麗な身体操作で回避し、突如鋭さを増した動きでアイリーンはガスコインに肉薄。

 そして右手に持った短刀が青白く閃き、夜の中まるで星のような光を煌めかせる。

 

 澄んだ音と共に刃が振られ、そして鮮血。

 あのガスコインが、血を流した。

 

「ぐっ……!」

 

 痛みをものともせずガスコインは至近距離で散弾銃を放つ。

 しかしその一撃もかわして、アイリーンは一旦距離を取って××××の前まで戻ってくる。

 

「あんた、逃げな。新入りだろう。それによそ者だ」

「……………」

 

 しかし逃げていいものかと、そう思って立ち尽くしていると叱責するような声が××××へとかけられる。

 

「自分で動ける内に消えろって言ってるんだよ。……それに、おかしくなった狩人を狩るのはあたしの仕事さね」

 

 顎をくいと動かして、アイリーンは短銃を腰に下げて手放してしまう。

 それから何をするのかと見ていると、二本の刃が絡み合うその歪んだ短剣が二つに分かれて両手に握られた。

 

「なにしてる? 早く行きな」

「…………」

 

 ××××は踵を返し、左足を引きずりながらも橋から離れるために階段を下りる。

 するとすぐに背後からは銃と刃による戦闘の音が聞こえ始めた。

 

「はぁ……っ」

 

 しかし、逃げたはいいものの。

 入れる血がないので、傷が塞がらない。

 

 階段を降り、自分の手で始末した獣の死体が転がる小さな広場を通り抜ける。

 そしてまた階段を降り、十字路を右に。

 

 目立たないところに行って少し休むつもりだったが、これはどうも無理かもしれない。

 石造りの民家の壁に背をもたれて、××××は座り込む。

 

 それから段々と意識が遠のくのを感じながら、××××はそういえば初めてだなと、そんなことを思う。

 

 ここに来てからというもの何度も死を経験したが、突き殺されることもすり潰されることもなくまどろむようにして死ぬことができるのは初めてだった。

 

 

 そう、まどろむように。

 全て悪夢であったかのように。

 

 眠りにつくように。

 

 ……ああ。

 

 ✕✕✕✕は息をつく。

 そして目をつむり、絶望を噛み締めた。

 

 

 一体どうして、自分はこんな場所に来てしまったというのだろうか……。

 

 こんな目に遭うくらいなら、大人しく病で死んだ方がきっと安らかだったはずなのに。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7

 目覚めたのは、灯りのそばではなかった。

 暖かな暖炉の前、柔らかい絨毯の上に××××は寝かせられていた。

 

「…………?」

 

 ぼんやりと目の前の光景を確かめる。

 あかあかと燃える暖炉が照らす薄暗い部屋の中。

 それから四人がけの木の食卓に、座り心地の良さそうなこじんまりとしたソファー。

 壁際の小さな棚の中にはまばらに本が置かれていて、さらにその上には家族と思しき三人の肖像画が額に入って飾られている。

 

 先程までいたはずの血なまぐさい市街とは打って変わって、そこは柔らかな気配を纏う平凡な家族の住居に思えた。

 

「目が覚めたの? 狩人さん」

 

 嬉しそうな声でそう口にしたのは、どうもすぐそばにいる小さな女の子らしかった。

 

 白のリボンを結んだ少し長めの金髪に、柔らかそうな色の白い頬。

 こちらを見つめるその姿は細く小さく、身を起こした××××のそばにかがむと目線は少し下になるほど。

 それからぱっちりとして優しそうな青い瞳が、笑みの形に歪められた。

 

「…………」

「うちの前に倒れていたから運んであげたのよ。怪我もしてたから血もあげたの」

 

 ころころと朗らかに語る少女の、その小さな手は××××のものかそれとも輸血液によるものか赤く汚れている。

 

「狩人を家に入れてもいいのか?」

「平気よ。わたしのお父さんだって狩人だもの」

「…………」

 

 そういう問題ではない。

 幼い故に、獣の病の感染のリスクを理解していないのか。

 

「お父さんの古い服があるから着替えて。そしたらご飯にするわ。お腹が減ったでしょう?」

 

 まるで✕✕✕✕がここにいるのが決まったかのように、少女は弾んだ声でそう言う。

 

「…………」

 

 しかし✕✕✕✕がそれに首を横に振ると、少女は眉を下げた。

 

「どうして?」

 

 どうしてと言うが、十歳いくらかどうかというような幼い子供を獣にしてまで隠れていたいとは思わない。

 ……それは善意や下らない正義感などではない、ような気がするが。

 

 ともかくもう手遅れかもしれなくても、それでも✕✕✕✕はさっさとここを出てゆくべきなのだ。

 

「獣の病というものがあるんだろう? お前にそれが伝染するかもしれない」

「…………」

 

 その言葉に、少女が何を考えたのかは分からなかった。

 けれど顔を俯かせ何も答えない彼女に、もうそれ以上言葉をかけることもなく××××は腰を上げ歩き出す。

 

「ま、待って……」

 

 しかし震える声が背にかけられて、××××は振り返った。

 

「ひ、一人にしないで」

 

 その声は、もう振り向かないと決めた××××の決意を揺らがせてしまうほどにか細く弱々しかった。

 

「…………」

 

 何も言わずに振り返ると、少女はしきりに目元を擦って嗚咽を堪えているようだった。

 

「獣狩りの夜だから、お父さんを探すんだって……それからずっとママが帰ってこないの。だから私ずっと……でも寂しくって……」

「………」

 

 そう言うと、少女は堰を切ったように泣き始めた。

 手を目元に当てて後から後から流れる涙を拭い、幼い声を涙に濡らして泣き声を漏らした。

 

 

 

 ―――

 

 

「ねぇ、狩人さん。食べないの?」

 

 血に濡れた服を、獣が着ているのにも似た、けれど清潔なフード付きの黒ローブに着替え、××××はスープとロールパンの皿が置かれたテーブルを少女と共に囲っていた。

 暗い室内を照らすランタンの光が優しくて、××××は酷く場違いな場所に迷い込んだような気がしていた。

 

「お母さんのスープだもの。きっと美味しいわ」

「…………」

 

 結局居座ってしまったことへの葛藤から、××××は言葉を詰まらせる。

 しかし目の前に用意された食事は少女の言葉通り実に美味しそうで、××××は結局手を伸ばしてしまう。

 

「美味しい?」

「…………ああ」

 

 実際、それはとても美味かった。

 パンは柔らかく、バターの匂いが優しく鼻を撫で、また塩気と甘みが心地よく同居している。

 それにスープの方も、良かった。

 腸詰めと芋、それから人参などが入っているそれはコンソメと言うやつだろう。

 適度に利いた胡椒が食欲を誘う、実にいい味付けだった。

 

「お代わりもあるわ。でも、お父さんとお母さんの分は残しておいてね」

 

 楽しげにそう言って、少女は机の下で足をぶらつかせる。

 そこに泣いていた少女の弱々しい面影は最早ない。

 

「…………」

 

 よく笑い、よく話す少女。

 その言葉に受け答えをしながら、××××は自分の呑気さに苦笑する。

 

 さっきまで自分は人殺しまがいのことをしていたと言うのに、我ながら全くお気楽なものだ。

 そんなことも忘れて無関係な少女を感染のリスクに晒しつつスープなど飲んでいる。

 

 度し難い馬鹿だと思った。

 

「……どうしたの?」

 

 そんな自嘲に気がついたのか、少女は心配そうに問いかけてくる。

 それに食事の手を止めて、××××は答えた。

 

「あんたは信じるかな。……俺は、自分のことを何も覚えていないんだ。何も覚えてないのに気がついたらここにいて、獣を殺してた」

「…………」

 

 ××××の言葉に、少女は何も答えない。

 何も答えずに、ただ心配そうにこちらを見つめていた。

 

「変な話だ。悪い夢だ。何度も死ぬんだ、俺は。何度も死んで、死んで……燃やされて食い破られてでも死ねないんだ。いつも同じ場所で目覚めるんだ。俺は……」

 

 気がつけば迫り上がる衝動に任せて言葉を吐き散らしていた。

 俯いてズボンの膝を握り、何度も経験した死を思い返しながら震えを殺していた。

 

 

 するとその時、なにか温かなものが××××に触れた。

 

「辛かったのね、狩人さん」

 

 その声は涙に濡れていて、けれど先程のものとは違った。

 

 ××××の、到底誰も信じないであろう荒唐無稽な話。

 それに心を動かされたような、そんなひたすらに真摯な気配を纏っていた。

 

「もう大丈夫よ。ずっとここにいていいわ」

 

 少女は××××を柔らかに抱き留めていた。

 そして××××の背を優しく撫でて、なんとか励ましそうとしてくれているようだった。

 

「…………」

 

 ××××は何も言えなかった。

 でも少しすると震えが止まって、すると少女の手は××××から離された。

 

「狩人さん、落ち着いた? ならご飯を食べましょう。きっと元気になれるわ」

 

 そう言って少女は自分の椅子に戻って行く。

 ××××は自分より一回りも歳下の少女に慰められたのだという事実にため息を吐いて、しかしそれはそう嫌な気もしなかった。

 

 ……もしかするとかつての自分は酷く孤独な人間だったのかもしれない。

 なんとなく、そんなことを思った。

 

「狩人さん、あなた名前は覚えてるの?」

「いや、覚えていない。何も覚えていないんだ。外から来たということだけは、確かなようだが」

「名前も覚えていないの?」

 

 目を丸くする少女の様子が愉快で、××××は少しだけ笑う。

 

「そうだ。一文字だって思い出せないな」

「そうなの」

 

 パンを頬張りながら頷いて、少女は何やら思案する。

 

「なら私も名無しでいいわ」

「?」

 

 その言葉の意味するところが分からなくて、××××は首を傾げる。

 すると少女は目を輝かせて続けた。

 

「お互い名前がないってことにするの。それならなんだか……そう、スパイみたいで格好いいわ」

「……そうかな」

「そうよ。あなたは狩人さん。私は……えーっと……貴女(あなた)なんてどうかしら?」

「君(きみ)でいいだろう」

 

 茶化すようにそう言うと、少女は頬を膨らませる。

 

「酷いわ狩人さん」

「…………」

 

 それには答えず、ただ含み笑いを返す。

 すると少女はすぐに忘れたようで、また別の話を投げかけてくる。

 

「狩人さん、私のお父さんも外から来たのよ。もしかしてあなたと同じだったりするのかしら」

「どうだろうな。俺は何も覚えてない」

 

 そう言って何気なく視線を彷徨わせると、何故か暖炉の炎に目を引きつけられた。

 

 不意に、脳裏に焦げ付いたような炎。

 燃えているのは――――。

 

「狩人さん?」

「……ああ、なんでもない」

 

 少女の心配そうな声に、××××は我に返る。

 それから少女に向き直って食事を続けた。

 

 

 ―――

 

 暖炉の光が照らす、薄暗い部屋の中。

 ソファーに寝かされていた××××は身を起こす。

 

「…………」

 

 疲れているだろうから寝なさいと。

 あなたが眠るまでここにいると、そう言った少女は××××よりもずっと前に寝てしまって、ソファーにもたれるようにして眠っている。

 

 きっと父も母もいなくなり、不安に気疲れしていたのだろう。

 少女を起こさないようにそろりと足を地につけて、××××はゆっくりと歩き出す。

 

「……行ってしまうの?」

 

 ソファーに顔をつけたまま、少女がそんな問いを投げてきた。

 

「……ああ」

 

 それに××××は答える。

 嘘をつく気にはなれなかったから。

 

「そう」

 

 押し殺したような声でそう言って、それから振り返った少女は微笑んだ。

 

「大丈夫。私、待てるわ。でもきっと帰ってきてね、狩人さん」

「ああ」

「夜が明けたらお父さんとお母さんと一緒にご飯を食べましょう。きっと良くしてくれるわ」

「そうだな」

 

 ××××は、どうしても聖堂街にたどり着かなければならなかった。

 今や獣の病の魔の手に晒されているのは××××だけではないのだ。

 

 そしてこの少女をその危険に晒してしまった××××には、ここで安穏としている資格などない。

 

「……あっ」

 

 と、そこで。

 何かを思い出したようにして少女が立ち上がる。

 

「どうかしたのか?」

「狩人さん、外に出るなら少しお願いをしていい?」

「お願い?」

 

 そう尋ね返すと少女は立ち上がって、それから部屋の隅の棚の中に置いてあった何かを持ってきた。

 

「そう、お母さんを探してほしいの。それで、良かったらこのオルゴールを渡してあげて」

「…………」

 

 手渡されたこじんまりとした箱のようなそれは、確かに作りのいいオルゴールらしかった。

 

「お父さんの好きな、思い出の曲なんだって。もし、私たちのことを忘れちゃってても、この曲を聞けば思い出すはずだって」

 

 そこまで言って、少女は微笑む。

 

「……それなのに忘れて行くなんて、おっちょこちょいなお母さんだよね」

 

 よく分からないが、とりあえず彼女の母親にオルゴールを渡せばいいのだろうか。

 

「分かった。きっと渡すよ」

「本当? ありがとう、狩人さん。お母さん真っ赤なブローチをしているの。大きくて、すっごくきれいなんだから、きっとすぐに分かると思う」

「ああ」

 

 そう答えて、オルゴールを腰のポーチに入れる。

 着替える際に割れた注射器を捨てて乾かしたので、衛生的とは言えないが壊れることもないだろう。

 

「それじゃあ、行ってくる」

 

 そう言って××××は今度こそ歩き出す。

 

 外の世界へ。

 悪夢の街へと。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8

 

 

 再び訪れた大橋には、死屍累々の光景が溢れていた。

 

「ああ、あんたかい。来ると思ってたよ」

 

 大橋に溢れていた獣はその尽(ことごと)くがその身を斬り刻まれ、無惨な死体を晒していた。

 そしてそれを為したのは、恐らく目の前の烏羽の狩人――アイリーンだろう。

 

 大橋の壁に背中をもたれさせ、どうやら彼女は××××を待っていたらしい。

 ガスコインのことも気になったが、それを聞くのも躊躇われて××××は口ごもる。

 

 すると血の滴る例の短剣をだらりと下げて、壁から腰を浮かせたアイリーンは××××の方へと歩み寄ってきた。

 

「この先に用があるようだったから一つ忠告をしておきたかったのさ。……この先には大物がいる。あんたには無理だから、引き返しな」

「…………」

 

 引き返せと、この先には行けないのだと、そう言ったアイリーンを××××は無言の意思を込めて見返す。

 

「……なんだい、あんた。いい目をするようになったじゃないか」

 

 クククと喉に引っかかるような笑い方をして、アイリーンがそう言う。

 

「引けないって言うのかい? あたしもまぁ、その心意気は買ってやりたいけど、何しろ得物がこれだからねぇ。大物を狩るのには向いてない」

 

 アイリーンが血に濡れ、けれど曇りからは程遠い星の閃きを宿す刃を掲げる。

 確かにそれは、ただ人を殺すために研ぎ澄まされたような気配を纏う武器だった。

 

 ひたすらに怜悧なその光に目を奪われた××××に、不意にアイリーンが問いを投げる。

 

「ところであんた、夢は見るのかい?」

「夢?」

 

 ××××がそう聞き返すと、アイリーンは頷いた。

 

「そうさ。夢を忘れたあたしらは古狩人。それで、死してなおそれを夢とするのが狩人。……分かるかい?」

「…………」

 

 それなら分かる気がした。

 ××××は幾度も死に、それでも目覚めてきたのだ。

 全てを夢として。

 まるで悪夢から覚めるように。

 

「夢、かは分からないが」

 

 そう前置きして、××××は語る。

 

「確かに死んでも目覚める。そして、なにか庭園のような場所にも行ったことがある」

「なら間違いない、あんたは本当の意味で狩人だよ。死んで目覚め、遺志を力にする一夜の主役(えいゆう)って訳だ」

 

 遺志を力に、その意味は分からないし、そもそも死んでも死なないという事実を確認しただけで××××には何も分かっていない。

 だが、自分がアイリーンの予想した通りの人物だということは間違いなさそうだった。

 

「それでそんなあんたならもしかしたらあの化物……【聖職者の獣】も倒せるかもしれない」

「聖職者の獣?」

 

 聞き返した××××に、アイリーンは頷く。

 

「そう。そいつはそこら中にいる獣の中でもいっとうたちの悪いやつさ。この間はあれのせいでガスコインと痛み分けたし、多分まだ近くにいるだろうね」

「…………」

「無闇に体が大きくて力も強くて……おまけにやつらは中々死なない。医療教会の聖職者はそういう獣になるんだ」

 

 だから聖職者の獣という訳か。

 納得して、××××はアイリーンに問いかける。

 

「俺にそれを倒せるか?」

「…………」

 

 その問いには答えず、アイリーンはただ××××の体を上から下まで舐めるように見回す。

 それから、そっけなく口を開く。

 

「今のあんたには、無理だろうね」

 

 なるほど。

 今の、というところがこの話のキモなのだろう。

 なんとなくそれが分かって、だから××××は聞き返す。

 

「なら俺はどうすればいい?」

「ああ、死んできな」

「…………は?」

 

 余りに素早く返されたその答えに、流石に××××は絶句する。

 

「類稀れな強敵と出会った時、狩人は真実を見る力を手に入れる。……そうすれば、あんたにも全てが分かるはずだ」

「そのために、死ねと」

「要は出会えばいいわけだからね。そのまま倒せるならそれもいいけど、あんたには無理だ」

 

 くつくつとまた笑って、アイリーンはどこかにふらりと歩き始める。

 

「あたしはこれからガスコインを追う。でもまぁ、使者にあんたのことを頼んでおくさ。……【鐘】を手に入れたら鳴らしな、力になってやるから」

 

 そう言って背を向けて、アイリーンは歩き去る。

 その背中を呆然と見つめて、××××も進むことにする。

 

「…………」

 

 大橋の奥へ。

 聖堂街へ。

 

 死ぬのには慣れている。

 必要だと言うのなら、死んで見せよう。

 

 そうしなければ自分も少女も、獣になるのだから。

 

「…………?」

 

 しかし、いつまで歩いてもアイリーンの言った聖職者の獣と思しき影は見えてこない。

 門をくぐり橋の終わりが見えてきた頃。

 もしやこのまま聖堂街に行けるのではないかと××××が首を傾げたその時。

 

「っ!」

 

 甲高い、耳をつんざくような人ならぬ叫び声が聞こえて、頭上を影が覆い尽くす。

 そして不意に暗くなった視界に視線を上げた。

 

 するとそこにはなにか巨大な腕のようなものが見えて、刹那の後耳の奥にぐしゃりと、肉が潰れるような音が響いた。

 

 ××××は一瞬の激痛と衝撃に溺れる。

 そして粉々にすり潰されていく感覚の中、確かに頭の中で何かが蠢くのを感じた。

 

 

 ―――

 

 

 目覚めた時、見えた光景は夜ではなかった。

 優しげに白んだ空。

 かすかに鼻をつく土と花の香り。

 

 そして。

 

「…………」

 

 前に来た時には人形が捨て置かれていた、屋敷に繋がる階段の脇。

 そこに、人形の代わりのようにして一人の女が立っていた。

 

 白い、あまりに白いその肌と、花の飾りがついた帽子から覗く絹糸のような灰の髪。

 それに不気味なほどに整った顔立ちがどうしても造り物を思わせる、それはそんな女だった。

 

 柔らかさを伺わせる赤の肩掛けに、黒を基調にしたスカートとドレス。

 なにか愛のような温かささえ感じるほどにごく丁寧な作りのそれらを身に纏い、静謐(せいひつ)な気配を漂わせる彼女はこちらを見ていた。

 

「はじめまして。狩人様。私は人形。この夢で、あなたのお世話をするものです」

 

 どこか聞いたような気がする、優しく穏やかな声。

 そっと彼女へと歩み寄った××××に、女――人形が深々とお辞儀をする。

 それを一瞥して、××××は聞き返した。

 

「世話?」

「そうです、狩人様。どうか血の遺志を求めてください。そうすれば私がそれを、普く(あまねく)遺志を、あなたの力といたしましょう。獣を狩り……そして何よりも、あなたの意志のためにどうか私をお使いください」

 

 アイリーンも口にしていた遺志というやつが、××××の力になるというのか。

 そしてそれは、恐らく聖職者の獣を倒すために必要なのだろう。

 

「今の俺にその……遺志というものはあるのか?」

 

 ××××がそう聞くと、人形は残念そうに首を横に振る。

 

「そうか。ならどうすれば遺志が手に入るんだ?」

「ただ獣を、あなたを害するものを、退けてください。そうすれば、彼らの遺志はあなたに宿ります」

「…………」

「ですが」

 

 否定により言葉を区切った人形へと、××××は改めて視線を投げる。

 

「遺志は狩人様が命を落とせば、同時に失われます。けれどそれは、しばらくの間はあなたが流した血の中に留まっていることでしょう」

「なるほど」

「はい。遺志は血に宿り……そしてこれも、そうしたものの一つです」

「?」

 

 人形が手を開いてこちらに見せる。

 そしてその上には、小さな血の雫があった。

 

「これはかつてこの夢を訪れた方のものです。保管庫、と狩人様たちがそう呼ぶ場所に遺されていた小さな血の雫、ごくわずかな遺志ですが……」

 

 何をするのかと××××が見ていると、人形が言葉を続ける。

 

「お手を貸してください」

「……ああ」

 

 武器を置き、手を差し出し人形の手に触れる。

 その人ならぬ肌の感触に驚くが、不思議とそれ以上の感情は湧かなかった。

 

 この夢にあるものは、その全てが××××にとって好ましいのだから。

 

「では、遺志をあなたの力としましょう。少し近づきます。目を閉じていてくださいね」

 

 人形が××××ににじり寄り、押されるようにして自然と跪く形になる。

 それから人形の方を見上げると、彼女はきょとんとして首を傾げた。

 

「目を閉じていてくださいね?」

「あ、ああ」

 

 目を閉じると、当然ながら暗闇が訪れる。

 そしてその向こうで人形の穏やかな声が語りかけてきた。

 

「意志とは進むためのもの。そして遺志とはその名残です。……狩人様、どうかご自分に何が必要なのかを思い浮かべてください。なりたい自分を願えば、宿った遺志が先へ進むあなたの意志の助けとなるでしょう」

 

 その言葉を耳に入れると、××××はほとんど反射的に願っていた。

 

 ××××は……生きていたい。

 より強い命が欲しい。

 この夜を生き抜きたい。

 

 刹那、まぶたの裏で光が迸(ほとばし)った。

 そして全身を熱い血潮が駆け巡るような気配がした。

 それでなんとなくもう良いような気がしたので目を開くと、人形が見つめ返してきていた。

 

「遺志は確かにあなたの力になりました。……もう私から差し上げることのできるものはありませんが、これからもあなたに遺志が宿ればそれを力とすることができるでしょう」

「…………」

 

 正直なところ、あまり違いは分からない。

 だが、これはわずかな遺志だと人形は言っていた。

 もっと強くなるためには、獣を殺す必要があるのか。

 

「助かった、ありがとう」

 

 ××××が礼を言うと、少しだけ驚いたように目を見開いて人形が首を振る。

 

「いえ、お礼など」

 

 それから彼女は何かを思いついたようにして語りかけてきた。

 

「狩人様」

「なんだ?」

「よろしければこの夢を案内させていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

 あくまでへりくだった、まるで召使いか何かのような語り口だった。

 だが、××××にとってそれはありがたいことこの上ない。

 

 この場所は嫌いではないが、それでも右も左も分からないのだ。

 案内は助かる。

 

「よろしく頼む」

「はい。……では、こちらへ」

 

 そう口にすると、人形は××××から見て左に歩を進める。

 そして、なにがしかの水盆らしき物の前に……。

 

「!」

 

 突然、水盆の中から使者の群れが飛び出してきたのだ。

 その手には注射器だの武器だのなんだのがそれぞれ雑多に握られていた。

 

「彼らは水盆の使者。狩人様に宿る血の遺志と引き換えに、様々なものを用立ててくださることでしょう。……狩人様?」

「…………」

 

 使者が握る注射器に伸ばした手が、やんわりと人形の手で握られ、もとい押し止められる。

 

「狩人様、申し上げてもよろしいでしょうか?」

「あ、ああ」

 

 不思議な気迫を纏う人形に気圧されながらも答えると、ほんの少し咎めるような色を含んだ声が返ってくる。

 

「彼らは血の遺志を引き換えに物を用立てるのです。無闇に奪えば、きっと姿を現さなくなるでしょう」

「…………」

「ですので、それは狩人様にとってあまり良いこととは思えません。お分かりになりますね?」

「……すまない」

 

 ××××は人形に謝罪する。

 すると、彼女は深々と礼をした。

 

「狩人様、謝られることなどありません。私の方こそ出すぎたことを申しました。どうかお許しください。……それでは、次はこちらへ」

 

 導かれるままに、今度はいくつもの墓石にも似た祭壇がある道を行く。

 

「あの、使者というものはどういうものなんだ?」

 

 ××××が尋ねると、人形はクスリと笑う。

 

「ああ、小さな彼らは、この夢の住人です」

「住人?」

「はい。あなたのような狩人様を見つけ、慕い、従う……。言葉は分かりませんが、かわいらしいものですね」

「…………」

 

 かわいい、のだろうか。

 それに彼らについても結局よく分からなかったが、そういうものなのだろう。

 理解はせずとも納得はできたので××××は口を噤(つぐ)む。

 

 そしてそれから少し歩いて坂を登りきると、屋敷の前にたどり着いた。

 だがそこには入らず、人形は入り口から右に行きまた一つある水盆の前に立った。

 だが、こちらには先程のような使者の群れはいないらしかったが。

 

「…………」

「…………」

 

 水盆を覗き込む人形。

 彼女はどうやら、使者が姿を現さないのが不思議らしい。

 

「これは?」

 

 ××××がそう尋ねると、人形は申し訳なさそうに眉を下げる。

 

「これは本来、使者が宿る水盆なのです。けれど今は……姿が見えませんね」

「ここの使者も、血の遺志とやらを求めるのか?」

 

 ××××が問いを重ねる。

 すると、人形はゆっくりと首を横に振った。

 

「いいえ、狩人様。この水盆に宿る使者は、あなたの真実を見る力……とある狩人様は啓蒙と呼んだそれを求めます」

「啓蒙?」

「はい。蒙(もう)を啓(ひら)く。故に見えないものを見えるようにするそれは啓蒙と呼ぶのだと、そのお方は仰っておりました」

 

 真実を見る力、か。

 アイリーンも似たようなことを口にしていた。

 

 だが、それを手放すのは果たして良いことなのだろうか?

 

「その啓蒙とやらはなくなってもいいものなのか?」

「事によりけりだと存じます」

「事によりけり?」

「はい」

 

 人形は頷き、続ける。

 

「啓蒙が高まれば、見るべきでなくして世界から隠れているものが見えることもあるでしょう。その真実が狩人様の手に余るようならば、私は手放すべきかと」

「…………」

 

 その言葉の意味は、やはりよく分からない。

 だが、その言葉には何故かぞっとするような重みがあった。

 

 例えばそう、ここが異形の腹の中だとしたら?

 その真実が分かるとして、それを自分は喜ぶだろうか?

 

「狩人様?」

「……なんでもない、気にしないでくれ」

「…………? そうですか。では狩人様、これを」

 

 その言葉に誘われ、××××は人形の方に向き直る。

 すると、彼女の手には古びた……言葉を選ばないのなら汚らしく錆びついた鐘が握られていた。

 

 美しい人形の手にはいかにもそぐわないそれを××××が見ていると、鐘はこちらへと差し出される。

 

「この水盆に潜む使者たちが、狩人様へと。……決して意地悪をしている訳ではないと思うのですが、今はまだ姿を見せたくはないようです」

「そうか。……ありがとう」

 

 鐘を受け取って、ポーチにしまう。

 そしてその時、ポーチについていたはずの血の染みが消えているのに気がついた。

 

 ……やはりここは、不思議な場所だ。

 

「狩人様、次はこちらへ」

「ああ」

 

 水盆のすぐ横にある家の入り口から、人形は家の中に入る。

 ××××もそれに続くが、どうも以前いた老人はここにいないようだった。

 

「……ここに、老人がいたと思うんだが」

「ゲールマン様のことですか?」

「そうだ」

 

 ××××はそうだと認める。

 確かに彼はゲールマンと名乗っていたから。

 

 すると人形は周囲を見回して、それから答えた。

 

「あの方は古い狩人、そして狩人の助言者です。今はもう曖昧で、お姿が見えることもありませんが……それでも、この夢にいらっしゃるでしょう。……それが、あの方のお役目ですから……」

 

 その言葉には何故か、どこか悲しげな影があるように感じた。

 けれど××××がそれを確信し、追求する間もなく人形はいくつもの工具が並ぶ机の前に歩いていった。

 

「こちらは工房の作業台です。ゲールマン様もきっと言っておられたでしょうが、今はいくつかの道具は失われています。ですが今もあなたの武器を鍛え、また修理することはできるはずです」

「……鍛冶の心得はないが」

 

 ××××は自分のとを覚えてはいないが、それでも鍛冶職人ではないことは確かだ。

 だからそう口にすると、人形は頷く。

 

「ご心配には及びません。……狩人様、失礼ながら武器が少し傷まれているようですね」

「……ああ」

 

 なにしろ、あのガスコインに散々に痛めつけられたのだ。

 少しは武器も痛むだろう。

 

「であるならば、どうか血の遺志をお持ちください。血の遺志を狩人様の武器に宿らせれば、その損傷を塞ぐことができます。それに血の石の欠片のようなものがあればより多くの遺志を武器に宿らせ、固定し、その力を高めることも」

「なんでも血の遺志なんだな」

 

 ××××がそう口にすると、人形は少し戸惑ったようだった。

 その様子にもしかすると嫌味のように聞こえたのかもしれないと思い当たり、××××は謝罪する。

 

「……すまない。ただ外で言う金のようだと、そう思っただけだ」

 

 金と、その言葉を耳に入れて人形はほんの少し表情を緩ませる。

 

「お金ですか。……昔、狩人様から聞いたことがあります」

「その狩人様というのは、俺のことではないだろう?」

 

 先ほどからちらほらと他にも狩人がいたような台詞はあったので、いい機会だと思い聞いてみる。

 すると、人形は楽しげな表情を薄れさせ、ふと寂しそうな顔になる。

 

 

「その通りです。過去、多くの狩人様がこの悪夢を訪れました。ここにある墓石は、すべて彼らの……名残です。もうずっと前の話ばかりに思えますが」

「名残り? 彼らは死んだのか?」

「いえ、目覚めたのです」

「目覚めた?」

 

 またよく分からないことを言われ、××××は混乱する。

 

「はい。ここは狩人の夢。そして、夢とは覚めるもの。悪夢に囚われ、けれど強く在った彼らはみな目覚めて行かれました」

「…………」

 

 夢は覚める。

 それは至極当然のことだ。

 

 だが……。

 

「狩人様、次は保管庫にご案内します」

「……分かった」

 

 人形の声に思考を打ち切り、××××は歩を進める。

 すると人形は、なにやら棺のような物の前に立っていた。

 

「これは保管庫だと、多くの狩人様は呼ばれていました」

「保管庫、か。あまり広くないようだが」

「そうですが、ある程度は何でも入ります。私にも詳しいことは分かりませんが」

 

 人形はそう言うと、棺の中に手を差し入れる。

 

「……何を?」

「いえ、かつて狩人様が遺されて行かれたものがないかと。……ああ」

 

 声を漏らした人形は、どうやら棺の中で何かを手に取ったらしい。

 棺から手を抜いて、××××へとなにかの欠片を渡した。

 

 それは小さく、そして薄赤く、なにやら不思議と美しい紋様を描いていた。

 

「血の石の欠片です。これを使えば、武器の力を高めることができます。どうかあなたのためにお使いください、狩人様」

「ありがとう」

 

 礼を言い、美しい石をポーチの中に収める。

 そして人形の方に向き直ると、彼女はまた一つ礼をした。

 

「私の方から狩人様にできる案内は、これだけです。これからも何か分からないことがあればなんなりとお申し付け下さい」

 

 なるほど、案内は終わりか。

 ならばと××××は人形に問いかける。

 

「外に出るためにはどうすればいい?」

「ああ……。それは、こちらへ」

 

 人形は保管庫のそば、初めて来た時に××××が通ってきた入り口から外に出る。

 そして階段を降りて行き、立ち並ぶ墓石の、その一番奥にある物の前に立った。

 

「どうか墓石に触れ、祈ってください。狩人様が目覚める灯火たちを思い浮かべれば、その場所に下りることができます」

「分かった、ありがとう」

 

 そう口にして、それから××××は跪き墓石に触れる。

 すると、人形が声をかけてきた。

 

「行かれるのですか?」

「ああ」

「……そうですか」

 

 目を閉じて、思い浮かべるのはギルバートの家の前の灯火だ。

 すると意識がどこかに吸われるような気がして、好ましい気配が遠のき始める。

 

 そして思考が途絶えそうになるその前に、遠く人形の声が聞こえてきた。

 

「……いってらっしゃい、狩人様。あなたの目覚めが、有意なものでありますように」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9

 大橋の上。

 黒い毛並みの犬のような獣が二匹。

 まず飛びかかってきた片方の牙を避け、かわしざまに反撃の一撃を叩き込む。

 深々と肉を抉り、さらにそれはその上刃をねじ込み致命傷にできそうだった。

 

 だがもう一体の急襲を察知し、××××は身を翻す。

 爪の振りをかわされた獣はそれでは止まらず、さらに噛みつきを放とうとする。

 しかしそれを読んでいた××××は発砲。

 攻撃を潰され大きく怯んだ獣の喉をノコギリで斬り抉り一撃で仕留める。

 そして先ほど手傷を追わせた獣に向き直り、傷にもがくその頭を鉈で叩き割った。

 

「…………」

 

 狩りを重ねた今の××××には、遺志が流れ込むのが分かった。

 そして彼らの死体、その傷口に腕を突っ込み、溢れ出る血の中に固形物を探る。

 

「……あった」

 

 一体目には何もなかったが、二体目にはそれがあった。

 どこか粘性を帯びたあまり良い香りのしない血液。

 その中に、時折あの時人形から渡された血の石と同じ物が存在することがあるのだ。

 

 血の石をポーチにしまい、それから大橋の脇の家の中に歩みを進める。

 聖職者の獣の縄張りを避けて、××××は狩りを続け力を蓄えていた。

 

「…………」

 

 家の中、どうやら待ち構えていたらしい斧を持った獣の刃を軽くいなす。

 まだ力では獣には勝てないが、それでもある程度は対抗できる。

 

 それは人形の手を借りて、××××が己の能力を高め続けていたからだ。

 

 増強された筋力で獣の攻撃を跳ね除け、深い傷を与える。

 高められた持久力は、何度も何度も刃を振るうことを可能にする。

 

 そして、なによりも強くなったのは生命力だ。

 

「がっ……!」

 

 斧の獣を殺した××××の、その背後から銃撃。

 紛れもなく心臓を撃ち抜かれたが、今の××××はこの程度では死なない。

 強度を増した肉体は弾丸の貫通による破壊を極限まで抑え、また遅々としたものだが傷を塞ぎ始める。

 

 最早人間だとは言えない有り様だが、××××はそれでも良かった。

 

 膝をついて少し血を吐き、けれどすぐに立ち上がる。

 そして振り向くと、銃を持った車椅子の獣がそこにいた。

 

「悪いな」

 

 すぐに首を斬り落とし、弾丸を奪う。

 それから輸血液を体にいれると、傷は元々何も無かったようにしてきれいに塞がった。

 

「…………」

 

 そして人心地ついたところでまた歩き出し、そろそろ潮時かもしれないと、そう思う。

 この夜は体感なのかあるいは真実そうなのかは分からないが、異様に長い。

 いまだに月が登る気配すらないのだから、これからどれほど長くなるのか全く分からないほどだ。

 

 だがそれでも獣化防止の鍵となるかもしれない聖堂街に近づけるのは獣狩りの夜だけなのだ。

 ぐずぐずしていては機を逃してしまうかもしれないし、水盆の使者のお陰で血や弾丸にも余裕がある。

 そろそろ聖職者の獣に挑むことを考えてもいいだろう。

 

 そう思い立った××××は踵を返し大橋に足を向けようとして……思い留まった。

 あの少女がどうしているのか、一度見に行くのも悪くないと思ったから。

 

 

 ―――

 

 

 ××××が訪ねると、少女はすぐに出迎えてくれた。

 しかしどうも相当に気が弱っているようでもあった。

 

「……狩人さん、来てくれたのね。その……」

 

 玄関口で言葉を詰まらせ口ごもる少女の前で、××××はゆっくりと首を横に振った。

 ××××はもう随分とあちこちで狩りをしているが、それでも彼女の母親らしき人物は見つからなかった。

 

「そう、ありがとう。……でも、あなたが無事でよかった。中に入って休んだらいいわ、疲れたでしょう」

 

 そう言って気丈に微笑む少女に、××××の胸も流石に痛む。

 彼女が自分のせいで獣になるかもしれないのだから、それはなおさらだった。

 

「……どうしたの?」

 

 足を止めて動かない××××に、泣き笑いのような顔で少女が振り返る。

 ××××は答えて、玄関に武器を置いて少女について行く。

 

「なんでもない」

 

 部屋の中は特に変わりない様子だった。

 ちろちろと燃える暖炉の前。

 ソファーに腰掛けて、少女が自分の横をぽんぼんと手で叩く。

 

「今行くよ」

 

 そう答えて、それから××××は少女の横、少し離れた場所に腰掛ける。

 

 一応夢に帰ってから来たので、体はきれいなはずだった。

 けれどどうしてもなにか少女を汚してしまう気がして、××××は少し離れて座ったのだ。

 

「君の父親も狩人なのか?」

 

 ××××が尋ねると、少女はわずかに瞳を揺らす。

 

「そうよ。お父さん、すっごく強いの。……だから、生きてるよね?」

「……ああ」

 

 希(こいねが)うような色が隠しようもなく滲むその瞳を見ていられなくて、慌てて××××は目を逸らす。

 そしてなにかいい話はないかと頭の中を探るが、そこはどうしようもなく空っぽだった。

 

「……そうだ、いいものを見つけたんだ」

「いいもの?」

 

 苦し紛れにようやく絞り出せたのはそんな言葉で、我ながら呆れつつ××××は荷物を漁る。

 

「ほら、これだ」

 

 そう言って机に取り出したのは、十数枚の硬貨だった。

 金貨もあり、銀貨もあるし銅貨もある。

 けれどやはり、一番多いのは銅貨だろうか。

 

「あら、狩人さん……これはお金よ」

「流石にそれくらい。……だから君、これを小遣いにするといい」

「ほんと? これだけあればきっとケーキを買えるわ!」

 

 嬉しそうに微笑む少女を見ていると知らず××××にも笑みが漏れる。

 

「しかし、この街にもケーキなんてあるんだな。……その、なんというか、すごく陰気だからな」

 

 ギルバートの言葉と、それから狩りの途中行く先々で××××を門前払いにしてきた住人たちのことを思いながらそう言う。

 すると、少女は心外だというように頬を膨らませた。

 

「あら、狩人さん。この街が陰気なのは獣狩りの夜だけよ。血の医療のおかげで病気や怪我はすぐに治るし、それに夜さえ明けたらお祭りだってやるんだから」

「……祭り、か」

 

 なるほど。

 凄惨な夜が明けたことを祝う祭りなのか、それとも死者を悼む祭りなのか。

 

 それは分からないが、この街にも人間らしい営みはあるらしい。

 

「それより狩人さん、もっと他になにかないの?」

 

 外に出てはいけない夜。

 なにか特別なものがあるのではないかと、彼女はそんな期待を抱いているのかもしれない。

 

 年相応の好奇心に瞳をきらめかせ、少女は身を乗り出すようにして語りかけてくる。

 

「ああ、これなんかどうだ?」

 

 取り出したのは白い丸薬。

 そのあたりで拾った、何かの足しになりそうなので持ってきた薬らしきものだ。

 

「……それは、お薬よ」

「お薬?」

 

 ××××が聞き返すと、少女は少し得意そうに頷く。

 大人が知らないことを教えるのは、まだ幼い少女にとっては誇らしかったりするのかもしれない。

 

「そう! かいけつびょう? というような病気がむかーし流行ったんだけれど、その時に作られたお薬なの。でも大体なんにでも効くから、近所のおじさんは何かあるとすぐ飲むのよ。ちょっと前なんて足を擦りむいて飲んでたんだから!」

「それは……変わった人だな。血を入れるのなら分かるが」

 

 そう言って、次に取り出すものを選ぶ。

 

「薬といえば、こんなものもあった」

 

 そう言って黒い丸薬を取り出すと、少女は頬を引きつらせた。

 

「そ、それ絶対飲まない方がいいわ」

「何故?」

「……なんとなく。きっとお腹壊しちゃうもの」

「そうか」

 

 次に、瓶に入った濃厚な香りのする血液らしきものを見せてみた。

 すると、彼女はなんとも言えない表情になる。

 

「……それ、知ってる」

「どういうものなんだ?」

「下水の近くに住んでるおばさんが、気が落ち着くって言っていつも飲んでるの……」

「あまり良くないもののようだな」

 

 速やかに荷物にしまって、それから血石の欠片を少女に見せる。

 

「それ、臭いわ」

「臭いか?」

 

 紋様はきれいなので、喜ぶと思ったのだが。

 

「ええ、とても臭いわ」

「それは悪かった」

 

 後は荷物の中には油壺やら火炎瓶やらしかなく、仕方がないので××××は苦し紛れに石ころを取り出してみる。

 

「きれいな形だろう?」

「なーにそれ? なんだかそれ、目玉みたいね」

 

 口を尖らせてそう言って、少女は笑う。

 

「あなたって何でも拾ってくるのね!」

「待て、狩りの役に立つこともあるんだ」

「ふふっ」

 

 くすくすと笑って、それから少女は鼻を鳴らす。

 

「いいわ、狩人さん。私の宝物も見せてあげる」

「見せてもらおうかな」

 

 ××××の言葉に、少女は行動で答える。

 頭につけていたリボンを外して、××××に手渡した。

 

「……これは?」

「リボンよ、狩人さん。お母さんがね、私に似合うって言って昔お祭りの日に買ってくれたの」

「実際、似合ってるよ」

 

 ××××がそう言うと、少女はまんざらでもなさそうに笑った。

 

「あら狩人さん、口が上手いのね。外の人は皆そうなのかしら?」

「みんな?」

「お父さんも凄く口説き上手だったんだって。お母さんが言ってた」

 

 少し顔を赤らめて、そう言った少女はソファーの上で足をばたつかせる。

 

「そうか」

 

 父母の話題が出たことに一瞬ひやりとしたが、少女は楽しげに笑っていた。

 だからそれに安堵して、××××は口を開く。

 

「これから……その、大きな獣を倒してみようと思うんだ」

「大きな獣?」

「ああ、そうだ」

 

 そう答えて、××××は手を組んで俯く。

 それは彼女の両親を探すことよりも、××××が優先していることがあると思われたくなかったのかもしれない。

 

「大橋を塞いでいる強い獣を倒して、聖堂街に行ってみる。そこでも君の両親を探してみようと思うんだ」

「そっ……か」

 

 その言葉は嘘ではないが、偽りのない真実ではない。

 子供ならではの鋭さでそこに気がついたのか、少女は顔を伏せる。

 

「君の両親はきっと見つける。けど、それまでこんな所に一人でいるのも辛いだろう。だからもし、聖堂街に俺が安全な場所を見つけたら……一緒に来ないか?」

 

 聖堂街で獣の病の治療を受け、共に医療教会に保護されるのだ。

 そうすれば、少女と××××はこの夜を生き延びられる。

 

 ……正直な所、夜が明けた後この少女の両親がいるとは限らなかった。

 ××××としては死んだことも考えていた。

 けれど見ず知らずの自分を助け、慰めてくれたこの少女を××××もまた助けたいと思っていた。

 

 出会ってまだそんなに経たないというのに、すでに××××はなんとか彼女を支えたいと思っていた。

 

「……ごめんなさい、狩人さん」

「…………」

 

 俯いた顔をそろそろと上げる。

 すると、悲しげな表情を浮かべた少女がこちらを見ていた。

 

「あなたは優しいね、狩人さん。でも、少し考えさせてほしいの。……ありがとう」

「……いや、俺の方こそ、配慮が足りなかった。……悪かったよ、聖堂街に行けたらまた様子を見に来る」

 

 そう言って、××××は腰を上げる。

 すると少女は玄関まで見送ってくれるようだった。

 

「狩人さん、頑張ってね」

 

 髪の前にリボンを結びながら、少女が××××に微笑みかける。

 のこぎりと銃を手に取りながら、××××はそれに答えた。

 

「ああ。何も力になれなくて、すまない」

「私だって同じよ。こんな夜だもの、仕方ないわ。そうでしょう?」

「……そうだな」

 

 返ってきた言葉は存外に強く、そして温かかった。

 ××××はそれを大事に胸にしまいこんで、家を出ていく。

 

「いってらっしゃい、狩人さん」

 

 そして薄い扉の向こう、夜の闇の中へと××××は足を踏み入れる。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10

 

 

 少女の家を出て、無人の大橋を歩く。

 それから例の橋の行き止まり、聖職者の獣の領域の入り口を示す門の前に立つ。

 

 ……すると、その時。

 

「?」

 

 ××××は門の脇に赤い光を見つけた。

 そしてそこには使者がいて……なにやら鐘を鳴らしているようだった。

 

「……っ」

 

 唐突に、けれどかすかに。

 荷物の中で、何かが震えた。

 

「……これか?」

 

 誰にともなく独り言を口にして、ポーチの中からあの古びた鐘を取り出した。

 

 そしてそれはまるで、使者が鳴らす鐘に共鳴するようにしてかすかに震えていたのだ。

 

「…………」

 

 アイリーンの言葉を思い返す。

 そして鐘についてなにか口にしていた……そう、確か助けになるなどと言っていたことを思い出し、××××はそれを鳴らしてみる。

 

 すると頭の中にあった記憶や意識、そういったごく当然のもので、けれどそれらとは明確に違う何かが抜き取られたような喪失感が××××の中を駆け巡る。

 そしてそれは、今の××××には啓蒙が失われたのだと分かった。

 

 しかしそれも一瞬のこと。

 共鳴し、共に音を大きくしていく二つの鐘の音が臨界点を迎え、消失した。

 

 そして。

 

「思ったより早かったじゃあないか。……それで、狩りだね?」

 

 気がつけばそこにはアイリーンがいた。

 まるで魔法のように一瞬で現れた彼女だが、少し以前と違うところがある。

 そう、彼女の姿はかすかにほの青いオーラを纏っているのだ。

 

「なんだ、随分とバカ面じゃあないか。それは古狩人を呼ぶ鐘で、あたしはそれに呼ばれてきただけだよ」

「呼ばれてきた?」

 

 聞き返す××××に、アイリーンは呆れたように息を漏らす。

 

「その鐘は共鳴した者の精神を召喚して助けにする道具なんだよ」

「……そんなことが」

「ああ、普通はできないね。だから啓蒙を使うんだろうよ」

 

 それは一時真実を歪めるために、真実を見る目を失うということなのか。

 これもよく分からないが、彼女が助けになってくれることは確からしい。

 

「この体のあたしは死んでも死なない。元の場所に戻るだけさね。……まぁ、お互い死なないんだから気軽にやらせてもらうよ」

 

 クククと喉の奥で笑って、アイリーンは門をくぐる。

 

「さぁ、行こうか」

「……ああ」

 

 その言葉に答えて、××××も門を続く。

 すると空気を揺るがすような咆哮が聞こえて、凄まじい重量感をもって大橋に聖職者の獣が降りてきた。

 

「ったく獣狩りに付き合わされるとはね……」

 

 そう口にして、アイリーンが歪んだ短刀を双剣の形に変える。

 それから××××の方を振り向き、問いかけてきた。

 

「あんた、怖気づいてないだろうね?」

「……ああ、大丈夫なようだ」

 

 目の前に現れた聖職者の獣。

 全身を白くくすんだ毛が覆う、巨大な姿。

 肋(あばら)が浮き痩せさばらえたその上半身と、不釣り合いなほどに強靭な二本の足。

 そしてその足に比べても余りに大きく、まるで炎のように毛が波打つまるで取ってつけたように巨大な左腕。

 双腕の先から伸びる爪は鋭く禍々しく、鹿の頭にも似た角が生えた頭部は絶えず威圧を振りまいている。

 

 その全容をこうして目にするのは初めてだったが、それでも今の××××はそう怯えてもいなかった。

 それはアイリーンがいるからなのかも知れないが、××××自身の肉体が強化されたこともあるだろう。

 

「……来るよ」

「ああ」

 

 短く答えて、××××は地を蹴り横に飛ぶ。

 するとそこに、獣の左腕、歪なほどに巨大なそれが叩きつけられ、地を揺らした。

 

「…………っ!」

「なにをぼさっとしてるんだい。あたしがあいつの気を引く。あんたはそのノコギリであれをズタズタにするんだよ。足を潰して少しでも頭を近づけてくれれば……そうさね、後はあたしがやる」

 

 アイリーンのいまいち要領を得ない指示を受けて、××××は動き出す。

 敵は大きく獣毛に覆われた体も強靭なのだろうが、やれるだけやってみるつもりだった。

 

 余りに巨大な腕を獣自身扱いかねているのか、左腕を引きずるようにして××××の方へと迫る。

 そして、再び左腕による上からの叩きつけ。

 大振りなそれを軸をずらして回避すると、今度は地を割ったその腕が薙ぎ払われた。

 

 風を切るそれはノコギリを盾にしてなんとか受けるが、××××の体はなすすべもなく吹き飛ばされる。

 そして追撃を放とうとにじり寄る獣の、その前に黒い影が走った。

 

「まったく、世話を焼かせる」

 

 獣の左腕を目にも止まらぬ速さで斬り刻み、獣の右腕の一薙ぎを素早くかわす。

 そしてその回避の勢いを乗せて獣の足を幾度か斬りつけ離脱した。

 

「ほら、こいつがかっかしてる内にやるんだよ」

 

 アイリーンは次々と繰り出される獣の攻撃、そのことごとくを空振らせている。

 獣は左腕と右腕を連続で叩きつけ、薙ぎ払い、手を組み大振りな一撃を振り下ろす。

 そしてようやく体勢を整えた××××は、アイリーンの援護を無駄にしないために走り出す。

 

「っ! 堅いな……!」 

 

 ガラ空きだった獣の背後、折り畳まれた足を思いっきりのこぎりで横薙ぐ。

 この刃にはアイリーンのそれのような鋭さはないが、むしろその細かい刃は多くの肉を引き裂き抉るのだ。

 

 溢れ出る鮮血。

 それから、悲痛な悲鳴が上がる。

 

 さらに追撃を一撃。

 すると振り向きざま獣が右腕を振り払う。

 それを身をかがめてかいくぐり、××××はなおも接近して刃を突き立てる。

 

 と、そこで視界の端。

 左腕が振りかぶられるのが見えたので、足の間へと転がり後ろへと抜ける。

 強く強く振り下ろされたそれは空を叩くが、その隙を逃すアイリーンではない。

 

 かまいたちのように一瞬の肉薄で幾つもの斬撃を浴びせ、撤退する。

 そして、それに気を取られた獣の足を××××は斬りつけた。

 

 だが。

 不意に獣の足が振り上げられ、一撃。

 体重を込めた踏みつけに跳ね飛ばされた××××は、ボロクズになって地に転がる。

 

「っ! あんた……!」

 

 アイリーンが駆け寄ってくるが、その前に獣が襲いかかってくるのが早そうだった。

 

「クソっ……!」

 

 だが自分はまだ、死んでいないのだ。

 なんとか膝を立て、荷物を探る。

 そして火炎瓶と油壺を取り出し、前のめりに迫ってくる獣の顔面に両手で持ったそれらをまとめて叩きつける。

 

 刹那獣の頭部が炎上し、悶絶した獣はその頭を地に伏せる。

 

「思っていたのとは少し違うけど、やるじゃないか」

 

 そう言ってアイリーンが獣の頭部に飛び乗り、短剣の一撃を叩き込む。

 そして武器を引き抜き腰に納めたその瞬間。

 

 

 ――アイリーンの右腕が目の前の獣のそれのように鋭い爪を生やし、醜く変異した。

 

 

「っ!」

 

 鋭い気合の息と同時に、烏羽の狩人は深々と獣の頭部に腕を突き刺す。

 そして獣の内部にあったと思しき諸々の体内器官を素手で掴み、おびただしい出血と共に引き抜いてみせた。

 

「…………」

 

 凄惨、というような言葉では到底足りないその攻撃。

 鼓膜が破れるような悲鳴を上げて、聖職者の獣は倒れ伏した。

 

「はっ」

 

 血に染まった腕を軽く払い、アイリーンがこちらに歩み寄ってくる。

 それを見ているとなんだか気が抜けて、××××は膝から崩れ落ちる。

 

「いい判断だった。それに、しぶとさも中々のもんだ。普通はあれで死んでるんだけどね」

 

 そう言ってアイリーンは××××の頭をわしわしと撫でて、自分の荷物から取り出した注射器を××××の肩に打ち込んだ。

 

「あんたはいい狩人になる。これからも、頑張るんだよ。……それと、人形のお嬢ちゃんにババアがよろしくって伝えといてくれ。じゃあね」

 

 それだけ言うとアイリーンは背を向けて、徐々にその姿を薄れさせていった。

 恐らくは最初彼女がそう言ったように、元いた場所に帰ったのだろう。

 

「…………」

 

 座り込んでいた××××は、なんとかしてもう一度膝を立てる。

 けれどアイリーンに血を入れてもらったのにどうしても体が動かず、また仰向けに倒れる。

 

「……勝てた」

 

 自分の力ではない。

 ただひたすらに獣の気を引く援護と、それにトドメを刺した得体の知れないあの一撃。

 自分の力である部分など、ほとんど無いと言っても良かった。

 

 だが、それでも、××××は勝ったのだ。

 

 

 漠然と胸の中を満たす勝利の喜びと、希望を掴んだのだという確かな実感。

 もう一度血を入れて、それからガタガタになった体が再び動くようになるまで××××はじっと体を休める。

 

 

 そうしているとやがて体が動くようになったので、××××は身を起こした。

 そしていつの間にか目の前に現れていた灯火に火をつけて、それから大橋の奥へと歩き始める。

 

 最初は足を引きずり、けれどその内しゃんと歩けるようになった。

 確かな足取りで歩き、大橋の一番奥の分厚い鋼鉄の扉に手をかける。

 

 するとその扉は――――××××がいくら押そうとも引こうとも、開くことはなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11

「なるほど……。この市街から聖堂街に向かうには、大橋を使うほかないのですが、獣狩りの夜、橋門が閉じられているとなれば、そうもいきませんね……」

 

 橋の門から聖堂街に至るという希望を打ち砕かれた××××は、ギルバートの家を訪れていた。

 

 橋の門から聖堂街に入ることはできなかったと、そう伝えるとギルバートは親身に相談に乗ってくれた。

 そして、うーんと悩ましげに唸った後一つ提案してくる。

 

「……であれば、下水道はどうでしょうか?」

「下水道?」

 

 聞き返したその言葉に、ギルバートが窓の向こうで頷く気配がした。

 

「はい。大橋を挟んで市街の南側に、聖堂街への下水橋が架かっていたはずです。常であれば、よそ者が入り込むような場所ではありませんが、橋門が閉じられているとなれば、それも仕方ないでしょう……」

「……そうか、助かった」

 

 大橋の次は下水道か。

 今度は聖堂街にたどり着ければいいのだが。

 

「……ギルバート」

「はい。っ……なんですか?」

 

 咳こみながらギルバートが答える。

 だが××××はそれには答えずに、ただ窓の隙間から腕を差し込んだ。

 

「うわぁっ……」

「大丈夫だ。今は血を浴びていない」

 

 そう言って、××××はギルバートの手に白い丸薬をいくらか握らせる。

 

「友人が、色んな病に効くと言っていた。お前の病気もよくなるかもしれない」

「…………」

 

 ギルバートは何も言わず、ただ幾度か咳き込んだようだった。

 けれど少しして、柔らかな笑みの気配を漏らした。

 

「……あなたは、優しい方だ。夜が明けて、また会えたらいいですね」

「ああ。薬も、効くようならもっと持ってくる」

「ありがとうございます。どうかあなたに血の加護があらんことを」

 

 その言葉を最後に、窓はゆっくりと閉ざされた。

 

 ―――

 

「……ロクな場所じゃないな」

 

 そう呟いて、××××は自嘲する。

 この街にロクな場所なんて、そうあるものじゃあない。

 何を今更言っているのか。

 

 すえた悪臭が満ちたぬかるみの下水道。

 同じような光景が延々と続き、気を抜けば迷いそうになるその場所。

 そしてそれだけではなく、銃持ちに槍の獣、鉈を持った異形と強力な敵がこれでもかとうろついていた。

 

 実際今の××××でもこの場所の突破は難しく、幾度か敗死の憂き目に遭っていた。

 

「っ!」

 

 歩いていた所で、頭上から肥え太った烏が落ちてくる。

 そしてその不気味な底光りを宿すくちばしを××××に叩きつけようとしてきた。

 

「クソが……」

 

 よほど死肉を喰らったのだろう。

 この下水の中でさえ吐き気がするような臭いをさせる烏を斬り刻み、××××は更に先に行く。

 すると今度は上半身のみの姿で這い回るおぞましい異形の群れを見つけたが、これは動きが遅かったので無視。

 

 と、そこで。

 

 前方から、トンネルを埋め尽くすようにして巨大な豚のような怪物が近づいて来る。

 それはそう……突進でもすれば、それこそ聖職者の獣すら倒してみせるのではないかと、そんな錯覚を覚えさせるほどに重厚な存在感を持ってこちらへと歩み寄って来ていた。

 

「…………」

 

 ××××は少し考える。

 道の幅からしてアレを避けることはできない。

 だが……石を投げて気を引けば、あるいは。

 

 豚が歩いているトンネルの外の、壁に背中をつけて××××は機を待つ。

 そして、豚の足音がある程度近づいてきたそこで、物陰から石を思いっきり投擲して豚を怯ませる。

 

「――――!!」

 

 それだけは豚らしい甲高い悲鳴を上げて、いきり立った怪物はトンネルの壁を削りながら突進を仕掛けてくる。

 その衝撃に下水道の地面は揺れ、あわや崩落するのではないかと心配になったが、その様子もなかった。

 

 ただトンネルの前の壁に張り付いた××××を通り過ぎ、上半身のみで這いずる先程の怪物の群れに突っ込んだ。

 

 どうやら敵対しているらしい彼らを放置して、××××は先に進む。

 そして角を曲がりはしごを登り、また何やら橋のような場所に出た。

 

 ギルバートが口にした下水橋とは、ここでいいのだろう。

 

「…………」

 

 ふと視線を横にやると、大男と木の盾を持った獣が立っていた。

 そして盾の獣が松明を振ると、大男が目の前にある大玉を殴り……それは、燃えながら転がり下にいる複数の獣を巻き込み轢き潰した。

 

「…………?」

 

 理解しがたい行動に首を傾げ、けれど××××は先に進む。

 獣の行動に、一々理由をつけていても仕方がないのだ。

 

 行く先に見える階段を登り、道をたどってまた階段を登る。

 

 するとそこには、いくつもの墓石が立ち並ぶ……広い墓所があった。

 

 

 ―――

 

 

 その墓所は、どこか異様な雰囲気に満ちていた。

 

 冷え切った土と空気。

 どこからか絶えず漂う血の香り。

 低く呻き声が聞こえ、けれどそれは空耳のようにかき消える。

 薄く霧が覆い、また墓石が視線を遮るので少し先の場所がもう見えない。

 

 どことなく死後の世界のような、そんな不気味を纏う墓所。

 そこを××××が歩いていると、不意に肉を打つ音が聞こえた。

 

 ぐしゃり、と。

 水気を含んだそれは、最早その肉塊が原型を留めていないであろうことを容易に想像させた。

 

「…………」

 

 ぐしゃり、ぐしゃりと。

 何度も何度もそれは続けられ、やがて突然止んだ。

 

「……また会ったな、獣」

 

 霧の向こう。

 顕になったその姿はガスコイン……××××がなすすべもなく倒された狩人だ。

 

「聖堂街に向かおうとしているのが分かった。だからここに、網を張っていたと言う訳だ」

 

 含み笑いで喉を鳴らし、ガスコインは死体に叩きつけていた斧をゆっくりと上げる。

 

「だがそんなことはどうでもいい。……狩らせてもらう」

「…………っ」

 

 狩らせてもらうと、そう言ったガスコインが土を巻く踏み込みでこちらに駆けてくる。

 そしてそれに、××××は強い焦りを覚える。

 こんな状況は全く、想像すらしていなかった。

 

「ガスコイン……!」

 

 知らず一歩後ずさり、けれど××××は踏み止まる。

 

 大橋は閉鎖され、残る道はここだけだ。

 生き抜くのなら、いずれ倒さなければならないのだ。

 

 ならば……やってやる。

 ××××は、たとえアイリーンのお陰だとしても聖職者の獣を倒したのだ。

 歯が立たないなんて、そんなことはありえないはずだ。

 

「ガスコイン!」

 

 敵対の意思を込めて睨みつけ、××××も地を蹴った。

 そして数瞬の後、激突。

 

「…………っ」

 

 しかし数合斬り結び、苦しい息を漏らす。

 やはり、この男は強い。

 

 繰り出した刃はその全てが防がれる。

 そう、この男はかわしすらしないのだ。

 その場から一歩も動かず、高揚を噛み殺したような口元で××××を嬲っている。

 

 刃を防ぐのに徹していたガスコインが、手に持つ斧に力を込めた。

 そして次の瞬間、その斧の刃先がかき消える。

 

「ぐっ……!」

 

 腰から右肩にかけてを斜めに斬り上げられ、血を流す。

 それから熱が走るようにして××××の体を引き裂いた刃の、その行方も追えない内にまた一撃。

 暴風のような一撃で、腹を横一文字に引き裂かれた。

 

「ク……ソッ!」

 

 ガスコインは今、幾度でも自分を殺せただろう。

 だがどういう訳かあえて自分を生かし、楽しんでいるのだ。

 

 苦し紛れにのこぎりを振り、それに初めてガスコインはわずかに退く。

 そしてその隙を逃さずさらに銃を撃ち、距離を離したガスコインの前で血を入れる。

 

「…………」

 

 傷を塞ぐ××××の前で、ガスコインは低く鼻を鳴らす。

 嘲っているのか。

 歯ぎしりをして、また刃を握り直す。

 

「舐めるな……!」

 

 低く、折れそうな自分を鼓舞するように呟く。

 そしてガスコインが仕掛けてくるのを待つ。

 すると銃口が、動いた。

 

「!」

 

 発砲の前、墓石の裏に転がりこむようにして退避。

 それにより散弾はかわすが、ガスコインを見失った。

 

 薄霧の墓地。

 どこにもいないような気もすれば、どこにいてもおかしくないような気もする。

 

「…………っ」

 

 小さく息を漏らし、あたりを見回す。

 焦りを噛み殺して、必死に視線を巡らせる。

 

 と、その時。

 右のあたりからどしゃりと音がして、反射的に振り向く。

 するとそこには獣の死体が落ちていて、次の瞬間××××の背中に鋭い痛みが走った。

 

「なっ……」

 

 血が溢れるのが分かった。

 袈裟がけに、かなり深くやられた。

 

 急速に体から力が抜け、数秒後にはもう歩くことも適わない。

 無様に倒れ込み、残った力をかき集めて背後に立つガスコインから逃れようとする。

 

「ハッ、ハハハ……」

 

 抑えきれない愉悦を漏らすようにして、ガスコインが笑った。

 そしてその声に、××××はようやく何が起こったのかを悟る。

 

 ガスコインは獣の死体を放り投げて囮にして、自分がそれに無様にも引っかかった。

 ただそれだけのことだ。

 

 多少身体能力の差が埋まったところで、××××に勝ち目などなかったのだ。

 この男と自分では、戦闘経験の差が大きすぎる。

 

「っ……!」

 

 血を吐き散らして、××××は地面を這う。

 冷たい土に爪を立てて、なんとか進もうとする。

 

 ガスコインはまだ泳がせるつもりなのか、いくらでもトドメは刺せただろうに逃げる××××の背中を蹴った。

 

 痛みが走るが、それは無視する。

 無視して血を二本入れて、それでようやく歩けるようになる。

 荒い息を吐いて、××××は口から垂れる血を拭った。

 

「…………」

 

 刃が重い。

 勝てる気がしない。

 

 だが、あれも人ならなんとか倒す方法はあるはずだ。

 考えろ。

 

 必死に思考を巡らせ、××××は銃を背中に背負う。

 そしてのこぎりだけを持ち地を蹴った。

 

「腑抜けでは、ないようだな」

 

 わずかに口角を吊り上げ、ガスコインが迎撃の構えを取る。

 そして武器が交わされる瞬間、××××は懐から取り出した硬貨をガスコインへと投げつける。

 

「…………はっ」

 

 刹那その輝きに目を取られ、けれど男は冷静に笑う。

 奪えたのは一秒以下。

 ガスコインにとっては文字通り誤差でしかない。

 

 しかし、その一瞬。

 そして思考を束の間判断に割かせること。

 

 それこそ××××が望んだことだった。

 

 のこぎりを変形させつつ、両手で持った鉈をガスコインに叩きつける。

 そしてそれは、迎え討った斧をほんのわずかに……押した。

 

 いかにガスコインが剛力を誇るとは言え、片腕の斧では××××の鉈に多少は押し負ける。

 

 さらに踏み込む。

 一撃、二撃、力の限り続ける。

 

 その連撃はガスコインの体を幾度か退かせたが、ガスコインは並みの相手ではない。

 いっそ意外なほど流麗な斧捌きで鉈を受け流し、××××に反撃を繰り出して来た。

 

「っ!」

 

 肩を斬り裂かれて、××××は退きそうになる。

 だが退けばそこを狙って銃を撃たれる。

 そして今度こそ死ぬだろう。

 

 だから恐怖を押し殺しなおも前進。

 鉈を叩きつけ……受け止められたそれを、手放した

 

「はっ……」

 

 乾いた笑みが漏れる。

 跳ね上げられた鉈。

 そして、隙を晒したガスコイン。

 

 その腕にしがみつき、××××は斧を止める。

 

「なんのつもりだ?」

 

 冷めきった声。

 銃で頭を殴られ、けれど××××はその腕を離さない。

 そして、火炎瓶をポーチから取り出す。

 

 ――死んで目覚め、遺志を力にする一夜の主役(えいゆう)って訳だ――

 

 ××××の脳裏に、アイリーンの言葉が蘇る。

 それから次の瞬間、ガスコインの体に火炎瓶を叩きつけた。

 

「ぐぁぁぁぁ!!!」

 

 身を焦がす炎に、耐えきれず叫ぶ。

 だがなんとか意思を総動員し、荷物からさらに油壺を取り出した。

 

「死ねっ!! 死ねっ!!!」

 

 すでに引火した壺をガスコインの体に叩きつけると、さらに炎は勢いを増す。

 これでは遠からず××××も死ぬだろうが、それでも××××は死んでなお死を夢にできる。

 古狩人は……ガスコインは、死んで終わりだが。

 

「くたばれぇぇぇ!!!」

 

 また油壺を叩きつけ、××××はガスコインから手を離す。

 そして転ぶように離れて、地下墓の隅へと体を這わせる。

 

「はぁ……っ! はぁ……っ!」

 

 もう目がよく見えない。

 体は動かないし、これで生きているならもう……。

 なんとか背中に吊っていた銃を手元に持ち、薄霧の中に目を凝らす。

 闇の中、ぼんやりと見える赤に目を凝らす。

 

「ああ。してやられたな、獣……!」

「…………!」

 

 生きているというのか、これで。

 

「ク、ソが……!」

 

 銃を構える。

 闇の向こう、人影が動いた気がした。

 発砲。

 

「どうした? 手品は品切れか? ハッハハハ……!」

 

 発砲。

 発砲。

 発砲。

 発砲。

 発砲。

 

 しかし。

 

 かちり、そんな音が不意に届いた。

 かちり、かちり。

 銃弾は放たれない。

 

 そして次の瞬間、××××は首を掴み上げられる。

 

「一つ、気になっていることがある」

「かはっ……!」

 

 首を絞められ、返事すらままならない××××へとガスコインは語る。

 独り言のように語る。

 

「なぁ、獣。……それは、俺の服だろう?」

「…………」

 

 何を言っているのか分からなかった。

 ガスコインは××××の胸元に顔を寄せ、笑った。

 

「……俺の妻が、そこに俺の名を刺繍したんだ。間違いない」

 

 なにかとてつもなく嫌な予感がした。

 

「やめ、ろ……!」

 

 やめろ。

 もうやめろ。

 さっさと殺せ。

 俺はそれを、聞きたくはない。

 

「そこで問題だ。お前はそれを、どこで手に入れた?」

「違う……! これは、この服は……そうじゃない……」

「…………」

 

 何も答えずにガスコインは××××の首根を離し、地に落とされた××××は弱々しい息でそれでも咳き込む。

 

「獣が妻のフリをしていた」

 

 見上げたそこには、狂気に歪んだ表情を浮かべるガスコインがいた。

 

「お前に……獣にその服を渡した者がいるのだとしたら……どうやら家にも、まだ獣がいるようだな」

「やめろ……! ガスコイン、やめてくれ……!」

 

 懇願する。

 そして見えない目で武器を探す。

 

 しかしその手は何も掴むことはなく、頭部に鋭い痛みが走った。

 

「フン……最後まで人のフリか……」

 

 ぼやけた視界の中、ガスコインが斧を振り上げるのが見えた。

 ××××は最期に何かに手を伸ばし……次の瞬間には意識を失っていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12

 ――炎の夢を見た。

 

 木造の、みすぼらしい家。

 そんなものが燃える光景が視界いっぱいを埋め尽くしていて、その中で××××はなにもできずにただ泣いていた気がする。

 

 きっとその時××××は全てを失って、それでも生きてきたのだろう。

 家族も何もかも自分にはなかった。

 だからきっと、××××は酷く捨て鉢な生き方をしてきたのだろう。

 

 いつ死んだっていい。

 なにも感じない。

 

 そんなふうに言い聞かせて、明日をも知れない生活を続けて、それで遂に病を得た。

 

 確実に死ぬと、そう言われて××××の願いは叶ったはずだった。

 自分を傷つけるようにして生きてきたのだから、病を得たのは願ったり叶ったりだったはずだった。

 

 しかしそれでも、こんな街に来てまで××××が生き延びようとしたのは――――。

 

 ―――

 

 ギルバートの家の前。

 目を覚ます。

 

「っ!!」

 

 ――どうやら家にも、まだ獣がいるようだな――

 

 何よりも先にその言葉が脳裏に浮かんで、××××は走り出す。

 

「どうか……! 神様……!!」

 

 考える間もなく走り出していた。

 獣には目もくれず走り、邪魔する者は一瞬で斬り殺した。

 

 そうして少女の家へと向かうと、そのドアは開いたままになっていた。

 

「…………」

 

 一瞬立ち止まり、けれどまた足を動かす。

 そして武器を投げ捨てて家の中に入り、少女の姿を探す。

 

「おい! おい!!」

 

 こんな時、呼んでやる名前も知らないことをもどかしく思った。

 そんな思いも心の隅に追いやって、ひたすらに少女の姿を探した。

 

「狩人……さん?」

「君か!」

 

 弱々しい声が聞こえて、××××はその音に駆け寄る。

 するとおびただしく血を流した少女が、ソファーの背にもたれて座っていた。

 

「狩人さん……? 無事だったんだね、よかった……」

 

 泣きそうな声で呼ぶ少女に駆け寄り、××××はその手を握った。

 

「大丈夫。大丈夫だから……!」

 

 言いつつ血を取り出す。

 そして、何本も何本も少女の腕にその針を刺した。

 

「助けるから……俺が……!」

 

 しかし傷は塞がらず、流れる血は止まらない。

 その傷は、腹を裂き千切れかけてすらいるその傷は、少女の身にとってあまりに過酷だったのだ。

 

「クソっ!!」

 

 打ち込む血がなくなったポーチを捨てて、××××は祈るように少女の手を握る。

 

「なんで……どうして、こんなことに……!」

 

 震える声で呟く。

 

 ああ、俺のせいだ。

 俺が、この子を巻き込んだから。

 

 ××××のせいで少女は死ぬ。

 父親に殺されて彼女は死ぬのだ。

 

 少女はきっと、父親に出会って喜んだだろう。

 

 けれど愛する父親に飛びついた彼女に与えられたのは、抱擁ではなく血の通わない斬撃だった。

 

 墓地でガスコインを倒せていれば。

 

 いやそれ以前に、少女と出会ったあの時に××××が大人しく死んでいれば良かったのだ。

 そうすればこんなことにはならなかった。

 優しさなど、自分には所詮過ぎた代物だった。

 それに縋ったために優しい彼女を殺してしまったのだ。

 

 そんな後悔を思う。

 そしてなんの意味もないと知りつつただ手を握っていると、少女が静かに口を開いた。

 

「あのね、狩人さん。おかしな夢を見たの」

「夢……?」

「うん。おとう、さんがね……わたしのこと……獣だって……。変な夢だよね……?」

「…………っ」

 

 限界だった。

 こらえきれない涙が頬を伝い、喉からは醜い嗚咽が漏れていた。

 

「すまない……俺の、俺のせいだ……すまない、すまない……」

「謝らないで、狩人さん」

 

 優しくそう言って、少女は弱々しく手を握り返す。

 

「ねぇ、お願いがあるの」

「お願い……?」

「うん。あのね、狩人さん……獣を、やっつけてほしいの……。それで夜が終わったら……おとう、さんも……優しいおとうさんに、戻るよね……? 一匹もいなくなったらわたしのこと、獣だって……勘違いしたりしないよね……?」

 

 もはや言葉を返すこともできなかった。

 俺はこの優しい子のために何をできる? 

 いや、今はもう、そんな願いを聞いてやることしか……。

 

「ああ、わかったよ。きっと……きっと……俺がこの夜を終わらせるよ」

「ほんと? ありがとう。わたし、狩人さんにはお願いをしてばかりね……」

 

 そう言って、それから少女はその手を弱々しく動かし、自らの髪につけたリボンを解いた。

 

「お礼にこれ、あげるね。狩人さんは男の人だから、いつか……大切な人に、あげてね」

 

 リボンを渡して、それから薄く微笑んだまま少女は目を閉じる。

 

「狩人さん、まだいる……? わたし、ひとりはいやだよ」

「いるよ。ここにいるから……!」

 

 悔しくて仕方がなかった。

 優しいこの子は父親によって命を奪われ、その死を看取るのは家族でも何でもない赤の他人の男一人だ。

 どうしようもなく胸が苦しかった。

 

「……そっか。……ありがとう、狩人さん。お母さんとお父さんと……おじいちゃんの次に……大好き、よ」

 

 それだけ言って、少女はもう動かなくなった。

 冷たい小さな手は、もうぴくりとも動くことはなかった。

 

「クソっ……!」

 

 そして××××は、思い出してしまった。

 それはきっと、また失ってしまったからだろう。

 

「クソッ!!!」

 

 どうしようもない、行き場のない気持ちを床を殴り叩きつける。

 

 ああ。

 思い出した。

 

 ××××がこんな街に来たのは、こんな街に来てまで生き延びようとしたのは、不幸なまま死にたくはなかったからなのだ。

 幸せを諦めきれなかったから、何に縋ってでも生き延びようとしたのだ。

 

 

 そうだ。

 ××××は、幸せになりたくて、この街に来たのだ。

 

 

 強く強く、血に濡れたリボンを握りしめる。

 そして少女を殺した敵の名を、殺すべき獣の名を叫んだ。

 

「ガスコインッ……!!」

 

 絶対に殺す。

 幾度殺されようが、一筋(ひとすじ)ずつ傷をつける。

 必ず、必ず奴を殺してやる。

 

 

 ―――

 

 

 薄霧の墓地。

 待ち構えるようにして奴はいた。

 

「なぁ、ガスコイン」

 

 獣を殺し、血が滴る鉈を軽く振りのこぎりに変える。

 そして、振り返ったガスコインに××××は言葉をぶつけた。

 

「あんたにとって獣とはなんだ? 自分に刃を向ける者か? 夜を歩く者全てか? なぁ、ガスコイン。お前にとってあの子は獣だったのか?」

 

 低く嗤い、ガスコインが地を蹴った。

 それを見て、××××も踏み込む。

 

「あの子はお前を父親と呼んだ。それでもあんたはあの子を獣として殺したんだ。もう一度聞くぞ、ガスコイン。あんたにとって獣とはなんだ? それとももう、あんたが獣なのか?」

 

 斬り結ぶ。

 技量も筋力も、××××では遥か及ばない。

 

 しかし、そんなものは最早退く理由にはならない。

 

 刃を交わし、やがて××××ののこぎりは跳ね退けられる。

 そして斧の一撃が迫るが、それを××××は左腕で止めた。

 

「…………ッ」

 

 小さく息を漏らす。

 角度をつけて受けた左腕はかろうじて繋がっているものの、ひどい有様だった。

 

 だがそれも、どうでもいい。

 

 銃を捨て受けた左腕の先を動かす。

 そして斧の柄を握り、武器の動きを止めた。

 

「訳の分からないことばかり言うな、獣が」

「分からないか? そうか、なら分かりやすく言おう」

 

 ガラ空きのガスコインの胴へ、鉈に変形させつつのこぎりを振るう。

 腹を深く斬り裂かれ、しかし微塵も怯むことなく冷静に退いた敵へと××××は殺意の視線を向けた。

 

「俺は、あんたを、殺す」

「ハッ……!」

 

 返り血に、腕の傷はわずかに塞がりつつある。

 輸血する間をそれすら惜しんで銃を拾い××××は走る。

 

「やってみろ、獣」

 

 そう言ってガスコインは銃口を向けてくる。

 だがそれを撃つつもりならば、きっと××××の弾丸も当たるだろう。

 

「死ね」

 

 小さく呟いて、××××は銃弾を放つ。

 同時に全身に弾丸がめり込むが、それは相手だって同じだ。

 

 傷が返り血で塞がるのなら、退いた方が負ける。

 

「ッ!!」

 

 銃撃を予想していた××××と、不意を突かれたガスコインでは流石に立て直しの速さが違う。

 それは弾丸の威力の差をさし引いてもそうだった。

 

 傷つけられた体の痛みすら忘れて××××は踏み込む。

 そして肉薄し、怯むガスコインへと鉈で斬りつける……と見せかけて斬撃の途中でのこぎりに変えた。

 

 それにより迎え討とうとしたガスコインの斧は空を切り、致命的な隙を晒す。

 

「ぐっ……!」

 

 ガスコインが、初めて声を漏らした。

 三度斬り裂かれ、しかし体勢を整えてみせたガスコインが刃を振るう。

 

「…………」

 

 肩に深々と刃が埋まる。

 それを跳ね除けて反撃しようとし、けれど凄まじい衝撃に××××は吹き飛ばされる。

 

「ハッハハハ……!」

 

 狂ったように笑うガスコイン。

 その手には、長大な柄を持つ大斧が握られていた。

 

 なるほど。

 ××××のこぎりと同じく、変形すると言う訳か。

 

 一度だけ輸血をする。

 そして傷を塞ぎ、××××は地を蹴った。

 

「ッアアァ!!」

 

 荒々しい叫びと共に大斧が叩きつけられる。

 柄の伸長によりもたらされた遠心力と破壊力。

 扱いにくさと引き換えのはずのそれを、ガスコインの怪力は小枝のように振るう。

 

「…………」

 

 苛烈な、あまりに苛烈な連撃。

 巻き込まれればその瞬間に死に至るような荒々しさから身を逃し、けれどガスコインの刃は着実に××××の体を傷つける。

 

「匂い立つなぁ……!」

 

 また××××を斬り裂き、散る鮮血に狂気の笑みを浮かべた。

 

「堪らぬ血で誘うものだ。えづくじゃないか……!!」

 

 血に酔った瞳で××××を見据え、ガスコインはさらに刃を振るう。

 

 そしてそれに一瞬でも怖気づきそうになった自分を、××××は嫌悪した。

 

「舐めるなよ、獣が……!!」

 

 そう吠えて、××××は銃撃を放つ。

 それはかわされるが、連撃が止んだその瞬間に肉薄した。

 

「ハハハ……!」

 

 この距離は大斧の間合いではないはずだが、それでもガスコインは巧みに斧を操る。

 後ろの空間を利用するようにして、突きが繰り出される。

 それを腹に受け、××××はまた銃を捨てて斧の柄を握った。

 

「がァァァァァッ!」

 

 血を吐くようにして叫びながら、渾身の力を込めてガスコインを壁に押し付けその喉をかき切ろうとする。

 

「ハッ、ハハハッ」

 

 しかし、掴んでいた柄が唐突に消えた。

 

 見れば縮ませた斧を手に、ガスコインが攻撃の構えを取っていた。

 

「っ!!」

 

 斬撃は××××の肉を斬り抉り、体を吹き飛ばす。

 そして起き上がろうとしたその時、跳躍したガスコインが××××の肩から胸にかけてを深々と斬り下げた。

 

「かはっ……!」

 

 普通の人間ならすでに死んでいるだろうが、××××は遺志を力とした狩人だ。

 まだ動く左腕で血を入れて、それから跳ぶようにして銃を拾い撃つ。

 

 その弾丸はやはり当たらないが、そんなことは分かっている。

 弾幕の後に続くようにしてガスコインへと走る。

 そしてその手に握られているのは、大斧だった。

 

 まず横薙ぎ。

 しかしそれには取り合わず、××××はガスコインの横を走り抜ける。

 離れたところで火炎瓶を投げまた走った。

 

「…………?」

 

 興が削がれたような顔であっさりと火炎瓶をかわし、ガスコインが追いかけてくる。

 だが、追いかけてきたそこは墓石の群れが突き立つ場所だ。

 大斧には、やりにくかろう。

 

 ××××は振り向き、ガスコインと向き合う。

 

「…………!」

 

 斧を繰り出そうとして、墓石に弾かれた。

 そしてそれに、××××の意図を悟ったようだった。

 

「考えたな、獣」

 

 しかしガスコインは大斧を手斧に変えることはなく、あくまでこちらの思惑に乗るつもりのようだった。

 

 墓石を削りつつ斧を振り、けれどそれはやはり多少鈍る。

 ××××は肉薄し……そこで寒気を感じて退いた。

 

「なっ……!」

 

 思わず声が漏れる。

 体を捻り放たれた回転切りで、ガスコインは墓石を粉々に粉砕したのだ。

 

「化物が……!」

 

 毒づいて、銃撃。

 そして、××××も腹をくくった。

 

 一撃。

 容易く受けられる。

 

 何度も何度も斬り合い、けれど××××の方にばかりダメージは蓄積する。

 

 が、そこで。

 暗闇に紛れて、××××は油壺を投げる。

 そしてそれは、ガスコインの手元に命中した。

 

「ッ……!」

 

 あの長柄武器だ。

 握力が効かなければ、存分には振れまい。

 

 肉薄し、一撃を加える。

 そして追撃を加えるその前に素早くのこぎりに火炎瓶を叩きつけ、炎上させた。

 

「…………」

 

 腕も指も熱いが、金属ののこぎりはそれ以上炎を広げることはない。

 突然炎上したのこぎりに目を取られたガスコインに、炎纏うそれを渾身の力で叩きつける。

 

「っらぁぁぁぁぁ!!!!!」

 

 放った一撃は深々とガスコインの胸を斬り裂き、その体を大きく吹き飛ばした。

 そして地面に叩きつけられたガスコインは立ち上がり……苦しみ始めた。

 

「う……ぐ、あ、ああ……!」

 

 ガスコインの黒衣の下が蠢き、とてつもない悪意のようなものが漠然とあたりを支配する。

 そして今の内に止めを刺そうと××××が駆け出そうとしたその瞬間。

 

「グォォォォォォォォッッ!!!!!」

 

 凄まじい圧を伴う咆哮が周囲を揺るがし、××××は身を縮ませた。

 

 今、何が……? 

 

 視線を前にやると、すでにそこには醜い獣となったガスコイン……だったものが目の前にいた。

 

「がっ……!」

 

 腹を殴られ、なす術もなく吹き飛ばされる。

 そして体勢を整える前にガスコインが跳躍し、××××をさらに追撃した。

 

「ク……ソ……!」

 

 なんとか燃えるのこぎりを振るおうとして、けれど指数本を千切りながら獣の手がのこぎりを跳ね飛ばす。

 それでガスコインは武器を失った××××を一切の容赦なく鋭い爪で引き裂いた。

 

「…………」

 

 凄まじい人外の力で壁に叩きつけられ、もう指一本動かせない。

 荷物から血を取り出そうとするが手を滑らせ失敗する。

 

 それからやけにゆっくりと目の前に歩いてきたガスコインを見据え、せめて最後まで睨みつけようとした……その時。

 

 小さな音が、聞こえた。

 それは……オルゴールのような。

 

 目を見開く。

 

「ぐ……グォォォ…………!」

 

 頭を抑え、何かを思い出すように苦しむガスコイン。

 見れば××××が血を取り出そうとした拍子に転がり出たオルゴールが音を鳴らしているようだった。

 

「………………」

 

 ――お父さんの好きな、思い出の曲なんだって。もし、私たちのことを忘れちゃってても、この曲を聞けば思い出すはずだって――

 

 不意にそんな言葉が思い出される。

 それはもういない少女が××××を守ってくれたようで切なく……それでいてどこまでも腹立たしかった。

 

「ふざけるなよ、ガスコイン……!」

 

 悔し涙を流し、唇を噛む。

 

 ふざけるな。

 あの子は、最後まで自分の父親に殺されたと思っていたんだぞ。

 

「クソが……! 獣になんか……なりやがって!!」

 

 結局、獣なんじゃないか。

 あの子を殺したのは獣なのに、最後まで彼女はお前のことをガスコインだと思っていたんだ。

 

 最後に見た弱々しい笑顔を思い出す。

 

 彼女は笑っていた。

 大好きだった父親に傷つけられたと思いこんで。

 一人暗闇の中血を流して。

 

 きっと痛くて辛くて苦しくて……寂しくて寂しくてたまらなかったはずの少女は、それでも見送る××××のために微笑んだのだ。

 

 そしてそんな優しい子を置いて、こいつは獣になったのだ。

 

 涙を流しながらも憎悪に目を見開く。

 噛んだ唇が破れ、口の端から血が流れた。

 

「死ね……! 死ね死ね死ね死ねっ!!! 獣がっっ!!!!」

 

 沸き上がる怒りに突き動かされ、立ち上がる。

 そしてそれとほぼ同時にオルゴールの音を振り払った獣が爪を振るう。

 

「がっ……!」

 

 肩を深く抉られ、けれど××××は止まらない。

 半ば殴るようにして銃口を獣の口に押し込み、発砲した。

 

「グォォォォォッ!!!」

 

 痛みに叫び、大きく怯んだ獣の腹部に狙いを定める。

 そして振りかぶった右腕は……いつかのアイリーンのそれのように、黒く変異していた。

 

「ガアァァァァァァ!!!!」

 

 鋭い爪で腹を裂き、その中の臓物を握り潰し引き抜く。

 そしてその反動で吹き飛んだ獣が動かなくなるのを視界の隅で確認し、××××は意識を失った。

 

 




次の話で一段落付きます。
聖堂街編です。

基本的になろうで書いてる小説が行き詰まったときに息抜きとして一気に書く感じなので更新は完全に不定期です。
いつ終わるともしれないですが、間の話はまだ未定なのもありますが結末は決めています。

いちブラボファンとして頑張って書いていくのでよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13

 

 

「何をしてるんだい?」

「…………」

 

 墓地に立ち尽くしていた××××に、アイリーンの声がかけられる。

 だから何も言わずに振り向くと、彼女は息を呑んだようだった。

 

「……あんた」

 

 視線が合うとわずかに身を強ばらせて、けれど××××の足元を見ると張り詰めたその気配を緩ませた。

 

「そうか」

 

 それはどこか悲しく、それでいて安堵したような声でもあった。

 

「……弔って、やったんだね」

「…………」

 

 それには何も答えず、××××はただ頷いた。

 頷いて、足元の斧とオルゴールを供えて土を盛った地面をじっと見つめた。

 

 ―――

 

 ガスコインを殺した後、目を覚ました××××はこの墓地にガスコインと少女と……それから彼女の母親を埋葬した。

 ××××はガスコインを許してはいなかったが、少女なら一緒に葬られることを望むだろうと思ったのでそうした。

 そして彼女の母親、赤いブローチをつけた彼女の遺体は墓地の片隅に打ち捨てられていて、穴を掘るためのスコップを探していたところ偶然に見つけたのだった。

 

 指が欠けているので三人分の穴を掘るのは少しばかり不自由だったが、だからと言って夢に帰って出直す気にもならなかった。

 

「…………」

 

 何も言わずに盛り土を見つめる××××の横に、アイリーンが歩いてくる。

 

「……すまないね」

「なんのことだ?」

 

 ××××がそう言うと、アイリーンはため息を吐いた。

 

「あんたにやらせたことさ。狩人狩りは、あたしの仕事だからね」

「いや、こいつは俺が殺さなければならなかった」

「……そうかい」

 

 ××××とガスコインの間に起きたことなど彼女は知らないだろう。

 だがそれでもなんらかの機微を感じ取ったものか、もうそれ以上何も言うことはなかった。

 

「……あんた、知ってるかい?」

 

 不意に、アイリーンが口を開く。

 

「あたしのこの装束には、鳥の姿をすることで遠くの国の習慣、鳥葬っていう悼み方を真似る意味があるんだ」

「知らなかった」

 

 知らないので素直にそう言う。

 すると、アイリーンは続けた。

 

「それはあたしが始めた訳じゃないんだけどね。ずっと昔の狩人狩りから、この武器と一緒に伝わってきたもんだ」

「それが?」

 

 とはいえ余り長々と喋っていたい気分でもなかったので無愛想に言葉を返す。

 アイリーンはそれに口ごもり、けれど少しだけ優しげな声で語りかけてきた。

 

「……いや。ただね、ガスコインはあんたに倒されて幸運だったと、そう思っただけさ」

「幸運?」

「そうさ。あんたはあんたなりのやり方で倒れた狩人を弔った。そんなあんたに倒されて、ガスコインは紛れもなく幸運だった。狩人狩りとして、礼を言うよ」

「…………」

 

 それには何も答えず、××××はアイリーンに背を向けて歩きだした。

 何故だか無性にやるせなくて、今はここを離れたかった。

 

「どこへ行くんだい?」

 

 背にかけられたアイリーンの問いへと背中越しに答える。

 

「聖堂街に行くつもりだ」

「ああ、なら待ちな」

「?」

 

 その言葉に立ち止まり振り向くと、夜の中小さな輝きを放つ何かが投げられた。

 それを××××が受け取り、手の中で見るとそれはどうやら鍵のようだった。

 

「それを使えばそこの聖堂街に通じる門が開く。後輩への餞別だよ」

「助かる」

 

 もはや自分が聖堂街で何をするのかなど分からなかった。

 だがそれでも、獣を殺すのだろうことは間違いなかった。

 

 そんなことを漠然と考えつつ歩いていると、やがて××××は墓地の途中に灯りを見つけた。

 

「…………」

 

 指も欠けたし、武器も傷ついている。

 一度夢に帰っておくべきだろう。

 

 そう判断して灯火に触れ、強く夢の存在を思う。

 すると意識が遠のき、やがて××××の知覚は閉ざされる。

 

 

 ―――

 

 破れた服も、千切れた指も何もかもが欠けることなく元に戻っていた。

 優しげな空気に満たされた庭園に足を踏み入れた××××に、人形が声をかけてくる。

 

「おかえりなさい、狩人様」

 

 そう言って深く頭を下げた人形に一瞥をやって、それから××××はその横を通り過ぎる。

 

「ああ」

 

 階段を登り、家の中に足を踏み入れた。

 そして武器を取り出し、修理することにする。

 

 傷ついた武器は、服などと違い夢に足を踏み入れるのみでは修復されない。

 そこにどんな理由があるのかは分からなかったが、××××は武器を血の石で鍛えていることが影響しているのではないかと思っていた。

 

 血の石を武器に組み込み、その血を利用して武器に遺志を纏わせより鋭い刃を生み出す。

 であればすでにこののこぎりはただの鉄塊ではなく、遺志の刃、とでも呼べるようなものになっているのではないかと。

 

 武器の歪み、亀裂、そういったものを注意深く探して机に置かれていた工具でなぞる。

 ただなぞるだけではなく、強く修復を思うことで××××が蓄えた遺志は刃に流れ込み、それを治す。

 

「…………」

 

 武器を修復し、××××は家を出る。

 すると祭壇の群れと家の隙間に小さな道があるのを見つけた。

 

 人形も案内しなかったその道の先にほんのすこし心を惹かれて、××××は足を向けてみる。

 すると少し行ったところで、××××はかつて初めてこの夢を訪れた時に見た老人を見つけた。

 

「ん……、うう……」

 

 ゲールマンは車椅子の上で項垂れ、寝息を立てなにか夢を見ているようだった。

 

「……ああ、ローレンス…ひどく遅いじゃあないか……。私はもう、とっくに、老いた役立たずだよ……」

 

 庭園の片隅で、老人は××××の知らない誰かに語りかけている。

 

 よく眠っているのでほんの少し申し訳がなかったが、彼には聞きたいことがいくつもある。

 助言者だと言うのならば、起こされても文句は言わないだろう。

 

 そう思って眠るゲールマンに近付こうとすると、背後から呼び止められた。

 

「……狩人様」

 

 振り向くと、そこには人形がいた。

 

「もしよろしければ、ゲールマン様をどうか今しばらく夢に留めておいては下さりませんか? ……それだけが、あのお方のわずかな救いなのです」

 

 真摯に、乞い願うようにして人形が一際深く頭を下げた。

 それを見た××××は、別に無理に起こしたい訳でもないので踵を返すことにする。

 

 どうせやることは、獣を殺すことだ。

 夜の終わりまで屍を積む、それだけなのだから。

 

「……分かった。遺志を力にしたい。頼めるか?」

 

 だから××××がそう言うと、人形は頷いて歩き始める。

 

「わかりました、狩人様。ではこちらにどうぞ」

 

 人形の後を追い、庭園の片隅から外に出る。

 そして××××は屋敷の前、ぽつんと建てられた一つの墓石の前にたどり着いた。

 

「少し近づきます。目を閉じてくださいね」

 

 いつものように跪き手を差し出した××××の手に、人形が手を重ねる。

 それから一瞬の発光の後にそれは終わった。

 

「……ありがとう」

 

 立ち上がり目を開いた××××がそう言うと、人形は寂しげな、けれどほんのわずか懐かしむような表情でこちらを見ていた。

 

「狩人様……あなたから、懐かしさを感じました」

「どういうことだ?」

 

 聞き返した××××に、人形は答える。

 

「かつてこの夢を訪れた狩人様です。あなたから、そのお方の遺志を感じました」

「…………」

 

 それは古狩人……ガスコインのことだろうか。

 

 人形の目を見る。

 彼女は責めている様子ではなかった。

 ただ、寂しそうな色を浮かべていた。

 

「俺は、そいつを殺した」

「……私は」

「なぁ、そいつはどんなやつだったんだ?」

 

 ××××の言葉に、人形は戸惑ったようだった。

 けれど目を閉じて、少し沈黙して口を開く。

 

「とても、優しいお方でした」

「……そうか」

 

 それだけ答えて、××××は項垂れる。

 項垂れて、のこぎりの柄を強く握った。

 

「狩人様?」

 

 心配したように声をかけてきた人形に、××××は首を横に振る。

 

「なんでもない」

 

 それから彼女に背を向けて、××××は墓石へと向かう。

 付き従うように人形もついてきて、××××に問いを投げた。

 

「行かれるのですか?」

「ああ」

 

 そう返事をして、それから××××はふと一つ思い出す。

 

「そうだ」

 

 立ち止まり、振り返った××××に人形が首を傾げる。

 

「どうかなさいましたか?」

「一つ、伝言があった」

「伝言……ですか」

 

 きょとんと、不思議そうな顔をする人形。

 ××××は頷き、それから続ける。

 

「ババアがよろしく、と」

「…………」

 

 その意味がよく分かっていないようだったので、××××は言い足した。

 

「アイリーンのことだ」

「ああ……」

 

 どうも思い当たったらしい人形は胸に手を当て、わずかに微笑んだ。

 

「ああ、もうおばあさんなのですね……」

 

 それから今度こそ背を向け、××××は墓石に触れる。

 そして意識が薄れて消える寸前、また人形の声を聞いた。

 

 

 

「ありがとうございました、狩人様。どうかあなたの目覚めが、有意なものでありますように」

 

 




とりあえず一区切りということで、読んでくださったことに最大の感謝を申し上げます。
ありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14

 目覚めは墓地。

 薄く目を開き、いまだ破壊の痕跡が残るそこを××××は見渡す。

 そして遠く見える少女の墓に一度目をやると、そこにはなにやら瓶が置いてあった。

 

 酒のように見えるそれは、ガスコインの嗜好の品だったのかもしれず、供えたのは恐らくはアイリーンだろう。

 

「…………」

 

 感傷を振り切り、××××は歩き出す。

 

 ここより先はただ死を積む道のりなのだと、すでに心に決めていたから。

 

 どれほど思い悩んでも少女が帰ってくることはない。

 ××××が欲しかった幸せはもうどこにもありはしないのだから。

 

 墓地の外につながっていると思しき階段を登る。

 そして物々しい門の前でアイリーンから貰い受けた鍵を使い、その奥へと足を踏み入れる。

 すると薄く水に浸された細道に入り、その果てにはどこかに繋がっていると思しきはしごがあった。

 

 ××××はそれに手をかけて登り、それからこぢんまりとした書庫と思しき本棚が連なる部屋にたどり着く。

 無学なもので生憎本などには大して興味もない。

 だから一度だけ周囲を見回してなにもせずに通り抜けようとした……その時。

 

 (いかり)を翻したような形にも似た、古びた工具が部屋の片隅に転がっているのに気がつく。

 そしてそれに何故か心を惹かれて、××××は手に取る。

 

「…………」

 

 いくつかの道具は失われているとゲールマンは口にしていて、これはきっとそうなのだろうという確信めいたものが××××の中にはあった。

 そしてこれが役に立つものならば、この夜だけでも借りてもいいだろうかと誘惑めいた思いが芽生える。

 

 ××××はしばし悩むが、結局はその道具を懐に入れる。

 役に立たないのならば返すし、役に立つものでも夜が終わればきっと返そう。

 

 もっとも。

 ××××が無事に夜明けを迎えられる保証など、どこにもなかったが。

 

 ささやかな呵責(かしゃく)を押し殺し、××××は足を進める。

 そして続く長階段を登りきり、細かな装飾が描かれた大扉に手をかける。

 

 そしてそれを押し開き進むと、××××は奇妙な建物の中にいた。

 

「…………」

 

 まず、鼻をついた不思議な香り。

 あちらこちらに大量に置かれた壺が、その発生源だろうか。

 それから外の世界ではあまり見ない不気味な偶像をかたちどる彫像に、天井近くから垂れる天幕。

 しかしそれでいて片隅には折れた柱のようなものも放置されていて、がらんどうの風景も相まってそこは廃墟のような、そんな雰囲気も纏っていた。

 

「ん……あんた……もしかして、獣狩りの……狩人さんか?」

 

 不意に声がかけられる。

 それに身構えつつも声の主に振り向くと、そこには異様な風体の男がいた。

 

 痩せさばらえた体には薄汚い赤布を纏い……いや、被り、と形容するべきだろう。

 それは全くもって、まともな服には見えなかったからだ。

 そして布から覗くかさつきしわがれ黒ずんだ肌は不健康を伺わせ、その目は白く濁り焦点が合っていない。

 

「すまない、香のせいで、匂いが分からなかったよ」

「…………」

 

 匂いもなにも、××××は目の前にいる。

 だのにそう口にしたということは、この男は目が見えていないのだろう。

 

「でも、よかった。あんたが狩人なら、頼みたいことがあるんだ」

「頼みたいこと?」

 

 名乗りもせず、男は××××に頼み事を持ちかけてきた。

 市街で民家の戸を叩いた際に受けた冷徹な仕打ちを思い返し、××××はこの街の人間はみな常識がないのかと流石に呆れる。

 

 だがこの男が家主ならば、住居に勝手に足を踏み入れ、さらには工具を盗んだ負い目もある。

 聞けるものならば聞いてやろうと××××は先を促す。

 

「言ってくれ」

「あ、ああ」

 

 ××××の返答に安堵したかのように息を漏らし、男は続ける。

 

「……獣狩りの夜が始まって、まともなのは皆閉じこもってる。昔のように、いつものように、全てが終わるのを待っているんだ」

 

 そこまで言って、男の声が恐怖にかわずかに潜められた。

 

「……でも、今回は異常だよ。実際閉じこもった連中にも犠牲がではじめてる。さっきから女の悲鳴と、獣臭い呻きばかりが増えてるんだ」

「獣なら、言われなくても殺す」

 

 ××××がそう答えると、男は首を横に振る。

 

「いや、そうじゃないんだ。もしあんたがまだまともな生き残りを見つけたら、この『オドン教会』を教えてやってほしいんだ。ここは獣狩りの香もたっぷりあるし、夜が長引いても安全なんだって。だからなんとかして……ここに逃げて来いって……」

「…………」

 

 ××××は改めて教会……なのだという建物の中を見渡してみる。

 たしかに壺はいくらでもあって、香が絶えることはなさそうだった。

 

「できる範囲で、協力しよう」

 

 工具を盗んだ負い目と、それからギルバートのことを思い××××はそう言う。

 彼をここに保護できるなら、××××にとっても悪い話ではない。

 

 すると男は醜い顔に喜色(きしょく)を満面に浮かべて微笑んだ。

 

「ほ、ほんとうか? それならあとは、まともな生き残りがいてくれれば……。ああ、楽しみだなぁ……ヒヒッ……」

 

 あまり耳触りのよくない甲高い声で男は豚のひきつけのように薄気味悪く笑う。

 あまり快く(こころよく)ない様子の男だったが、悪人にも見えない。

 

 だから狩りの片手間にその願いを聞くことにして、××××は男のそばから歩き去る。

 そして道中にある灯りに触れ、火を点けた後に教会を後にした。

 

 ―――

 

 

 来た道を引き返し、墓地に戻る。

 獣を殺すための時間が失われるのは惜しかったが、ギルバートは××××にとり恩人なのだ。

 彼を救うために時間を割くことは、決して無益ではない。

 

 

 地下道の前の橋の獣を殺し、それから手前のはしごに引き返す。

 そして街に戻るために下水道の中を進んでいた、その時。

 

「あなた、あぶないですよ!」

「!」

 

 優しげな、けれど芯のある声。

 緊張に張り詰めた男のそれが耳を打ち、それから××××は不意に横から現れた男に突き飛ばされる。

 

 すると先程まで××××がいた場所を、巨大な豚の突進が横切った。

 

 そうだった。

 ここは、あの豚の縄張りだったか。

 

 突進した先で上半身のみで這いずる獣の群れに突っ込み、豚はそれらと争っている。

 既視感のある光景から目をそらし、××××は自らの身を助けた相手に視線をやる。

 

「……あんた、夢は見るのか?」

 

 その彼は、どうも狩人らしかった。

 柔らかそうな金髪に、整った顔つき。

 浮かべる表情も優しく、××××のことを人懐こい目で見ている。

 そして手に持つのはショートソードと金色の長銃。

 狩装束は灰色のマントがついた、同じ色の美しい装飾の法衣。

 

 それから、不思議なのだが。

 

 背中には用途不明の岩……のような巨大な何かを背負っていた。

 

「いいえ。今はもう夢見ることもありません。……それよりあなたは獣の狩人とお見受けしますが?」

 

 誰に任じられた訳でもなく、認められた訳でもない。

 だが××××は、獣を狩る者だ。

 その言葉に頷いても構わないだろう。

 

「そうだ」

「ああ、そうですよね。私もかつてはそうでした。……申し遅れましたが、私はアルフレート。今はローゲリウス師の教えに従い、穢れた血族を……」

「豚が、来ているぞ」

「!!」

 

 ××××の言葉に、古狩人……アルフレートが身を翻す。

 背後に飛びのき、そして同じく下がった××××とアルフレートの間を埋めるようにして豚が突っ込んできた。

 

「私は血族狩りなれど、獣狩りは貴い業だと思っています! どうです? ここは協力しませんか?!」

「ああ、そうだな!」

 

 狭い下水道に豚の叫びが反響する。

 その大音響を捻じ伏せるようにして言葉を交わし、×××とアルフレートは動き出した。

 

 まず、豚がその上体を浮かせる。

 そして汚水を撒き散らしながら叩きつけを放ち、地を揺るがすそれを××××は回避する。

 そして自重による反動で束の間動きを止めたその顔を切り裂き、また振られる顔の薙ぎ払いを避ける。

 すると豚は突進を仕掛けてきて、しかし助走がないために大した勢いのないそれを跳躍でかわしその頭部に飛び乗る。

 壁に激突して止まったところでなたの柄を豚の右目に突き刺そうと……した、ところで。

 

「――――――――!!!!!!!」

 

 豚が、凄まじい声を上げた。

 ××××は思わず耳を塞ぎ、頭から飛び下り距離を取る。

 

 すると、豚の肛門に右腕を突っ込んだアルフレートの姿が見えた。

 

「この豚がァ!!」

 

 見たくもない、あまりに凄惨な諸々を掴み出しつつアルフレートが豚の尻から腕を引き抜く。

 するとさらに激しく断末魔を上げて、豚は数秒痙攣(けいれん)した後白目を剥いてその動きを止めた。

 

「素晴らしい動きでした。あなたは腕の立つ狩人のようだ」

「…………」

 

 アルフレートは内臓攻撃のために地に突き立て手放していた剣を拾い、赤黒く濡れ染まったその右手を軽く振った。

 

「……? ああ、失礼。癖のようなものでしてね。この豚を見るとどうも、これをやらずにはいられない」

「…………」

「とはいえ悪癖ですね。臭いますし。……これをやると師にもよくロスマリヌスを浴びせられたものです」

「……いや、参考になった」

 

 アルフレートは懐かしげに目を細めて笑う。

 ××××が言葉を返すと彼はまた笑い、それからショートソードを背に吊った石の塊のくぼみに刺し、刀身を接続した。

 

「この豚は生命力が高いので。徹底的にやりましょう」

 

 剣は重々しい石鎚となり、刹那それを引きずったアルフレートは金色の銃を腰にしまう。

 そして乾いた血がこびりついたそれを軽々と持ち上げ肩に乗せて豚に向けて歩き出した。

 

「……! ……! ……!!」

 

 どしゃり、ぐしゃり、と。

 凄惨な音を立てて声もなくアルフレートは豚の頭部に石鎚を振り下ろす。

 そしてその音がべちゃりと、水っぽいものに変わった頃ようやくそれをやめた。

 

「……このくらいですかね」

「いい武器だな」

 

 剣の軽さと石鎚の重さ。

 その双方を、無論卓越した筋力なくして成立するものではないとしても両立させる。

 実に汎用性の高そうな、いい武器だった。

 

「ええ、これは教会の石鎚。あなたにも差し上げたいのですが、夜が明けてからになるでしょうね」

「そうだな」

 

 軽く言葉を交わしたところで、アルフレートは剣と銃を腰に吊って手放した。

 それを見やり××××が歩き始めると、どうやら彼もついてくるようだった。

 

「さっきは助かった。だが、夢を見ないならあまり無茶はしないでくれ」

 

 いかに××××が力を得たとはいえ、あの豚の突進を喰らってはひとたまりもなかっただろう。

 しかし、××××は死んでも蘇る狩人だ。

 いくらでも死ねるその命は、古狩人の命とは比べ物にならないほどに軽い。

 

 だからそう言うと、アルフレートは快活に表情を崩す。

 

「いえ、狩人とは助け、また助けられるもの。『狩人は、一人じゃない』。有名な言葉ですよ」

「そうか」

「そうですとも。そしてあなたは、やはり優しい方のようだ。……どうです? 対象は違えど、お互い狩人です。これから協力し、情報を交換し合うというのは?」

「それは、助かる。……だが、俺にはあんたに教えられることは何もないぞ」

「いえ、そんなことはありませんよ。……では、そうですね。お名前でも伺えますか?」

「…………」

 

 ××××は親切な彼に顔を向けて、それから束の間立ち止まる。

 

「名前は、覚えていない」

「えっ?」

「俺は自分のことさえ何もわからない。……気がついたら、獣を殺していた」

「おお……」

 

 面食らったらしい彼はしばし考え込む。

 脳喰らいだとかなんだとかぼそぼそと呟いたあと、顔を上げたアルフレートに一瞥をやり××××はまた歩き出す。

 

「しかし、それならさぞお困りでしょう。私の知っていることなら何でもお伝えします」

「……助かる」

「いえ、お気になさらず。では何からお答えしましょうか?」

「医療教会と。そう呼ばれているものについて興味がある。……話によると、血の医療を扱っているとか」

「医療教会ですか」

 

 そう聞くと、アルフレートはまた顎をさする。

 もしかすると、癖なのかもしれない。

 

「そうですね。あなたの知る通り、医療教会は血の救いの担い手です。ただ、私のような狩人は、教会の内情に詳しくはないのですが……」

「詳しくない?」

 

 ××××が問い返すと、アルフレートは頷く。

 

「ええ、その通りです。教会を取り仕切るのは医療者。とりわけ、白衣を纏う上位医療者たちです。黒衣の下級医療者や私のような狩人は、彼らの指となり働くのみです」

 

 とはいえ偉大なる教会の一員であることには変わりませんよ、と。

 

 そう言い足してアルフレートは背中のマントを××××の方に向けて微笑む。

 マントには繊細な装飾が施してあって、もしかするとそれは教会の一員の印なのかもしれない。

 

 そんなことを考えていると、アルフレートは更に続ける。

 

「血の救い、その源となる聖体は、大聖堂に祀られていると聞いています。また、聖堂街の上層は、古い教会の指導者たちの住まいです。あなたが血の救いを求め、そして許されるのであれば、訪れるのも良いと思いますよ」

「大聖堂……。上層? それはどこにある?」

 

 よく分からないが、教会について知りたければそこに向かえばいいのだろうか。

 獣の病を防ぐ、という目的もあるが……今の××××にとっては『青ざめた血を求めよ。狩りを全うするために』、という例のメモ。

 あの意味を知りたいという気持ちが強くあった。

 

 狩りを全うする、その意味が獣狩りの夜の終焉だというのならそれはなおさらだ。

 

「え? ……上層に向かいたいのですか? では我々の利害は一致しますね! 共に道を切り開くといたしましょう!」

 

 ××××の問いに対して不意に興奮を覗かせたアルフレート。

 そんな彼に、××××は困惑する。

 

「……? いや、まだそんなこと」

「今、聖堂街への道はそのことごとくが閉ざされています。しかし旧市街には、上層と聖堂街に続く抜け道を開く鍵があるのです! かの地は獣がとても多く、厄介な住人も住み着いています。ですから私も難儀していたのですが、あなたがいれば安心です。ぜひこれからすぐに……」

「待て、落ち着いてくれ」

 

 そう言うと、アルフレートは首を傾げつつ口を閉じた。

 

「どうかしたのですか?」

「俺はまだ、その旧市街というやつに行くつもりはない」

「え? 何故です?」

「やることがあるんだ」

 

 ××××がそう言うと、アルフレートは合点したように小刻みに頷く。

 

「なるほど、道理でどこかに向かっている訳ですね」

「ああ、一度市街に戻るつもりだ」

「市街に? そこであなたは何をなさるつもりなんです?」

「今回の獣狩りの夜は少し様子が違うので、まだ無事な人間を保護してきてくれと。とある教会の主にそう頼まれた」

「ああ……。それは素晴らしいことです!」

 

 なにやら感銘を受けたらしいアルフレートは、なたを握る××××の手をがしりと掴む。

 

「諸人の盾となる狩人の模範とも言える在り方です! ……あなたはやはり素晴らしいお方だ。ぜひとも、私にも手助けさせていただきたい!」

「…………それは、助かる」

 

 猛烈な勢いに押し切られるようにしてそう答えると、アルフレートは勇ましく胸を張り歩き始める。

 

「では参りましょうか!」

「ああ」

 

 それからアルフレートと二人ではしごを登って、獣が徘徊する建物の入り口へとたどり着く。

 そこは市街に入るためには通らなければならず、そしてそのために獣の群れを蹴散らそうとする直前。

 

 物陰から獣の動向を探っていた××××は、なんとなくアルフレートに声をかける。

 

「そう言えばあんた、どうして聖堂街に行きたいんだ?」

 

 ××××がそう問いかけると、刹那アルフレートの優しげな瞳に影が差し込む。

 隠しようのない酷薄と修羅が覗いたその瞳は、けれど一瞬で元の柔和を取り戻す。

 

「……追っている人物がいるのです。奴は医療教会の異端者で、忌まわしい人体実験を繰り返し……なにより、血族と関わりを持っている疑いがある」

「…………」

 

 血族。

 そう言えば、先程も聞いたような言葉だ。

 

 だがその意味について××××が問いを重ねる間もなく、アルフレートは剣に手をかけて建物の中へと駆けていく。

 

「では参りましょう!」

「ああ」

 

 ××××もそれに続きながら、なたを握り直し殺すべき獣へと視線を向けた。

 

 




この小説の中には意図的に誤釈している概念が時たまあります。
たとえばリゲイン。
こちらインタビューによると、「やり返している」という実感による狩人の意志の回復だということです。

しかしそれがよく分からないのと、難解になりそうだったので勝手に返り血によるものだと解釈しました。
すみません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15

 基本的に隠れ、分断し各個撃破する××××の狩りとは違いアルフレートのそれはあまりに荒々しかった。

 被弾をものともせず駆け、石鎚で叩き潰し溢れんばかりの返り血で傷を塞ぐ。

 

 しかしその一方で必要のない損傷は避け、あくまで冷静は手放さないその姿は洗練された古狩人の経験を感じさせた。

 

「終わりましたね」

 

 物陰から目立つアルフレートを狙っていた、銃を持った身なりのいい獣を××××は背後から斬り裂く。

 そしてくずおれたその体をまさぐり、銃弾を奪ってその言葉に答える。

 

「ああ」

 

 大部屋のほぼ向こう側、遠くに血塗れで立つアルフレート。

 彼に届けるため息を強めたその声は、重く淀んだ夜に薄く反響した。

 

「では、行きましょう」

 

 剣と銃を収め、アルフレートは血塗れのまま市街へと繋がる階段に歩き始める。

 そしてそれに合流するべく足を向けて、並んで階段を上がり始めた××××は彼に声をかける。

 

「こう暗くては、困るな」

 

 銃持ちも分かりづらいし、敵の待ち伏せにも気づきにくい。

 こうしてアルフレートと一緒でなければ、実際今の××××だってさっきの場所なら不意討ちで死んでもおかしくはなかった。

 

 ××××には、ガスコインのような強さはないのだから。

 

 けれどそんな愚痴に、アルフレートはあくまで明るく答える。

 

「そうですね。夜は、気が滅入りますしね。旧市街の方はまだ日が見えますが……あまり落ち着ける場所でもありませんし」

 

 言いつつ××××たちは建物の出口へと差し掛かる。

 外に見える星一つない市街の空を見つめつつ、また口を開いた。

 

「そう言えば夢も明るい。あんたも行けたらよかったんだがな」

「まったくです。人形さんと、ゲールマン師はお変わりありませんか?」

 

 その問いに、××××は少し考える。

 なにしろ自分は、お変わりも何も彼らのことはよく知らない。

 

 

「……変わらないだろうな、あの二人は」

 

 だが、あの二人からはなにか揺るがない不変性のようなものを感じる。

 たとえ突然にあの屋敷が燃えたとしても、人形は澄ましてゲールマンは寝ているのではないだろうか。

 

 そんなことを考えつつアルフレートに言葉を返した。

 すると彼は破顔して、何事かを口にしようとした……その時。

 

「――ッ!! ――――ッ!!!」

 

 建物の外。

 どうやら犬が……犬の獣が一軒の家に向かって吠え立てているようで、そしてそれは、早業だった。

 ××××がなにかするよりも速く、瞳を暗く研ぎ澄ましたアルフレートが銃を抜き、発砲した。

 

 散弾でありながら長射程、そして高密度。

 かわしがたい壁のように放たれたその弾丸は犬をボロ雑巾にして吹き飛ばし、アルフレートはその機を逃さない。

 

 刹那で距離を殺して倒れた犬の頸部に剣を突き立て捻り、完全に命を奪った。

 

「さて」

 

 元の柔和な表情で剣を抜いたアルフレート。

 また何か言いかけたようだが、今度はしわがれた声がその言葉を遮る。

 

「……ああ、あんた狩人なんだろう」

 

 声が聞こえてきたのは、犬が吠え立てていた家の中からだった。

 低く不機嫌そうな老婆のその声が、××××たちに語りかけているらしい。

 

「?」

 

 不思議そうな顔で家に視線をやるアルフレートに、老婆は続ける。

 

「だったら、知らないのかい? どっか安全なところをさ」

 

 老婆の意図を汲み取ったらしいアルフレートは、××××に輝くような笑顔を向けてくる。

 確かに、彼女は教会に送れるだろう。

 

「知っている。だが、まだあんたを連れて行くことはできない。少し待っていてくれるか?」

 

 ××××がそう言うと、神経質そうな老婆の声が明らかに荒立てられる。

 

「待ってろだって? あたしゃあ知ってるよ! 

 もう家の中だってダメらしいじゃあないの。あんたたち狩人が役立たずでこうなってるんだから、あたしを助ける義務があるってもんさ。さぁ、はやく。どこか知ってるんじゃないのかい?!」

「俺が助けるのはあんただけじゃあない。かといってあんたを連れ回して市街を歩き回るわけにはいかない。必ず戻るから、それまで待っててくれ」

 

 ××××はそう諭すが、老婆は吐き捨てるようにして答える。

 

「なんだい、そりゃあ。待ってろだって? そんなこと言ってあたしを置いていくつもりなんだろう? まったく、ババアに用はないってか? えぇ?!」

「…………」

 

 そんな老婆にアルフレートは肩をすくめて、××××も頷く。

 少しの間放っておいても、この分なら問題なさそうだ。

 

 

 いまだにぐちぐちと恨み言を並べ立てる老婆。

 その家から遠ざかりつつ、アルフレートが口を開く。

 

「気が立ったご婦人は手負いの獣よりも乱暴かつ理不尽と聞きます。……そっとしておきましょう」

「ああ」

 

 答えつつも、××××は上の空だ。

 何故なら目の前に、犬の獣の群れがいる。

 

 

 当然アルフレートも気がついているようで、剣を抜き銃に手をかける。

 そうして市街の奥へと、××××たちは歩みを進める。

 

 

 ―――

 

 また門前払いを喰らって、××××は小さく呟く。

 

「……駄目か」

 

 この街の住人は、よそ者である××××を全く信用しない。

 オドン教会に行くよう誘っても、基本的に罵倒を返されるだけだった。

 異邦人であるギルバートは別として、あの少女のようなヤーナムの住人は本当に珍しかったのだろう。

 

「誰か誘えましたか? ……こちらは、あまり芳(かんば)しくありません」

「こっちも駄目だ。しかし、あんたの言うことも聞かないとなると避難させるのは難しそうだな」

 

 アルフレートと合流し、そんな言葉を交わす。

 どうやら彼が誘っても、中々難しいようだった。

 

「しかしあんた、何故市街に来たんだ?」

 

 夜の中、××××とアルフレートは明かりのついた家を見繕いながら歩く。

 そして××××の問いに、アルフレートは答える。

 

「狩人狩りアイリーンをご存知ですか?」

「…………。ああ。俺も、世話になった」

 

 アイリーンのことを思い返し、××××はそう言う。

 するとそれに頷きつつ、アルフレートは続けた。

 

「私は、彼女の協力を仰ごうとしたのです」

「なんのために?」

「旧市街にて古狩人デュラと、その盟友が狂ったのです。ですから私は、狩人狩りの手を借りて旧市街を踏破するつもりでした」

 

 狩人狩りは見つかりませんでしたが、あなたと出会えたのは僥倖(ぎょうこう)でした、と。

 そう付け足してアルフレートは笑った。

 

「古狩人デュラ……」

 

 小さくその名前を呟く。

 思い出されるのはガスコインのことだった。

 臓物を掴んだ感触は、血まみれのリボンを握った感触は、今もこの手に消えがたく残っている。

 

 狩人狩り。

 できれば、やりたくはないが……。

 

「どうかしました?」

「……いや」

 

 しかし先に進む邪魔になるのなら、排除する必要があるだろう。

 そう腹を決めて、××××はまた一軒家を見つけて歩き出す。

 このあたりは、ここで最後だろうか。

 

「デュラの話はまた次の機会に詳しく聞かせてくれ。俺はあの家を見たら、それから一人でもう一つの心当たりに向かう」

「そうですか。では私はどうしましょうか?」

「……そうだな。このあたりにはもう家はないから、あのご婦人を頼む。オドン教会で会おう」

 

 そう言うと、アルフレートは苦笑した。

 

「これはしてやられましたね」

 

 目を細めてそんなこと口にするアルフレートは、『ご婦人』を押し付けられたことを嘆いているのだろう。

 そんなつもりはなかった××××は頬をかいて、それから言葉を返す。

 

「すまないな、貸しにしておく」

「ええ。大きいですよ、これは」

 

 冗談めかしてそう言って、それからアルフレートは背を向けた。

 

「どうかご無事で」

「俺は死なないからな。あんたこそ、気をつけてくれ」

 

 いくら古狩人でも、足手まといがいればあるいはということもある。

 だから気をつけるように言って、××××は半ば諦観を抱きつつも目の前の家の戸を叩いた。

 

 ―――

 

 

 薄汚いよそ者がと、さらに獣に喰われろとまで言われて流石に××××も気分が良くない。

 だが訪ねるべき家は他になく、その点で言えば少し気が楽になった。

 彼らを助ける義理もない××××としては、謂れのない罵倒を受け続ける時の終わりは単純に喜ばしかったからだ。

 彼らが死のうと、恐らく心は傷まない。

 

「ギルバート」

 

 いつもの窓を叩く。

 すると家の中で身じろぎの気配がして、それに××××は安心する。

 どうやら変わりないようだった。

 

「ああ、狩人さん。どうかしましたか?」

 

 細く窓が開かれて、ギルバートの声が聞こえる。

 窓の向こうから覗く落ちくぼんだ目に視線を合わせ、××××は口を開いた。

 

「あんた、避難する気はないか?」

「避難……ですか」

 

 返ってきた声は思いの外困ったようで、××××の胸に一抹の不安が生まれる。

 だがそれを消し去るようにして、言葉を畳み掛けた。

 

「そうだ、オドン教会という場所がある。むせるほど香(こう)が焚(た)いてある、安全な場所だ。他の人間もいるし、これからも多分増えるだろう。……どうだ? あんたも来ないか?」

「…………」

 

 ××××の誘いにギルバートは黙り込む。

 そして少しの沈黙の後、彼は静かに口を開いた。

 

「私は、行きません」

「何故?」

「私は病人です。他の人に病をうつしてしまうかもしれない。それに、どちらにせよ私は……もう長くはないのです」

「…………」

 

 その告白に、××××は言葉を失う。

 それから何も言えずに口を閉ざしていると、ギルバートはゆっくりと続けた。

 

「気にしないでください。私は、満足しています。……あとは、そうてすね。夜が明けたら、あなたと共に外の思い出についてでも語り合えたら、それで」

 

 やはり何も言えず、けれど××××はようやっと口を開いた。

 

「無理にとは言わないが、また会いに来よう」

「いえ、私のことなど気にされないでください」

「違う、あんたの力が必要なんだ。俺は、この街のことをなにも知らない」

 

 そう言うと、ギルバートは少し笑ったようだった。

 

「では、楽しみにお待ちしています」

「ああ。……そういえば、薬は効いたか?」

 

 ××××の問いを、ギルバートはきっぱりと否定する。

 

「いいえ。もはやあれでは、私の病はどうにもなりません」

「そうか。だが……」

 

 たとえ効かなくとも、飲み続けて害はない。

 万が一ということもあるので丸薬を取り出して渡そうとすると、ギルバートは窓を閉めた。

 

「おい」

 

 声をかける。

 すると、窓の向こうから咳き込みつつ語るくぐもった声が聞こえた。

 

「それは、あなたが使ってください。聞けばある種の獣は毒を使うと言います。……私などの慰めにするよりは、きっとあなたが飲んだ方がいい」

「…………」

 

 ××××を気遣ってくれた。

 だから、彼は断ったのだろう。

 

 そう思い当たり、しかしそれを口にしようとは思わなかった。

 

「分かった」

 

 ただそう言って、それからギルバートの家の横へ向けて歩きだす。

 確かそこには、例の灯火があるはずだったから。

 

「また、少ししたら来る」

「ええ、さようなら。あなたに血の加護のあらんことを」

「あんたもな」

 

 そう返して、それから青白い光に触れる。

 すると意識がどこかに吸い込まれ、××××の視界はすぐに暗転した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16

 優しい空気に包まれた庭園。

 いつも変わらぬ唐突さで、景色は移り変わる。

 

「おかえりなさい、狩人様」

 

 いつもの挨拶を投げ人形が深々と頭を下げる。

 

「ああ」

 

 それにそう答えて、××××はふと白んだ空を見上げた。

 

 ……ここには、時間の流れがないのだろうか? 

 

 けれどすぐにそんな疑問を振り捨て階段を上がる。

 それは考えても詮無いことだからだ。

 

「…………」

 

 そして屋敷の中に入り、向かうのはいつもの作業台だ。

 武器を直し、また強化するためのもの。

 そこにのこぎりをおいて、××××はポーチから例の工具を取り出した。

 

 錨(いかり)を翻した形。

 失われた工具、きっとその一つであるそれを手に取り、それからどうしたものかと考える。

 

 これをどう使えばいいのか、××××は知らない。

 

「なにか、お困りかな?」

 

 耳に届いたのは、穏やかな老年の声だった。

 つまりは狩人の助言者、ゲールマンの声だ。

 

 いつのまにか車椅子の車輪を回し、背後に来ていた彼はどうも××××を助けてくれるようだった。

 

「あんたか。これはどう使えばいい?」

「ああ、それは……」

 

 振り返り、工具を見せた××××を前にゲールマンは柔らかな息を漏らす。

 

「それは、血晶石の工房道具。君の刃に血晶石を取り付けるためのもの。そのネジを回せば武器へ石をはめ込めるだろう」

「血晶石? なんなんだ、それは……」

 

 また放たれた聞き慣れぬ言葉に、××××は顔をしかめる。

 この老人は助言者と言う割に、どうも不親切だ。

 その内分かるだのなんだのとちっともまともにモノを教えてくれはしない。

 

 そんな不満を知ってか知らずか、ゲールマンは穏やかに言葉を継いだ。

 

「血晶石とは……そう、血そのものだ。内側にあって生物の在り方を規定する、まさに血と変わりないものだよ」

「血、そのものだと?」

「その通り。血晶石とは、血石とは違う。本当に血なんだ、あれは」

「…………」

 

 その言葉に、××××はしばし考える。

 理解はできなかったが、またすぐに聞き返しては××××が間抜けのようだったからだ。

 

 血石とは武器に擦り込むことで血と同じく遺志を宿す器となるもの。

 では、血晶石とは……血そのものとはなんだろうか。

 生物の在り方を規定するというその言葉は、何を意味しているのだろうか? 

 

「ああ、分からないか。……では例えば君、強く恐ろしい敵に出会ったりはしなかったかね?」

「……した」

 

 ゲールマンは、どうも××××の内心を見透かしていたらしい。

 分かっていないことを見て取ってか、さらなる説明を続ける。

 

「血晶石というものは、なんであれ強い力の現れなんだ。力を高めるもの、神秘を与えるもの、雷光を纏うもの……数えればきりもないが、その敵の在り方を刻まれた存在の具現とも言えるものなのだよ」

「……それは、敵の特徴を反映した力が手に入る石だということか?」

 

 面倒になった××××がそう尋ねると、ゲールマンは深く頷く。

 

「その通り。血が雷光の力を持つように規定していたのならば、その力は血晶石により君のものになる。……けれど血が生物を規定するように、器もまたそれに合った血を求めるだろう。その武器にどんな血晶石をも組み込めるわけではないということは、覚えておくといい」

「よく分かった、助かる」

 

 つまりは敵によってもたらす効果の違う血晶石を落とし、また武器にははめ込めない石もあるということだ。

 それくらいシンプルな話なら、最初からそう伝えてほしいものだが。

 

「その血晶石とはどこで手に入るんだ?」

「獣……いや、あらゆる君の敵、そのすべての死体に血晶石は遺されている可能性がある。……だがより強いものを求めるというのなら、やはり聖杯に繋がる地下遺跡だろう」

「地下……。じゃあ聖杯とやらはどこで?」

 

 力が手に入るのなら、知っておいて損はないはずだ。

 だから問いを重ねると、ゲールマンは何かを思い出すように目を細めた。

 

「……その行方は多くが忘れられたが、懐かしい狩人たちの話が今もそのままであれば、聖杯の一つは旧市街にあるだろう」

 

 返されたその言葉に、××××は思わず息を呑む。

 それはまさに、これから赴こうという場所であったからだ。

 

「聖堂外の地下に通じる谷あいの市街。だが、今やそこは……獣の病が蔓延し、棄てられ焼かれた廃墟、獣の街であると聞く。……狩人に相応しいじゃあないかね」

 

 そう口にする声はやはり穏やかで、その言葉の剣呑さにはいかにもそぐわない様子だった。

 調子を崩されて頭をかき、聖杯とやらの使い道を聞こうと××××は口を開く。

 しかしそれは、ゲールマンのゆったりとした声に遮られてしまった。

 

「まぁ、今はいいじゃあないか。聖杯を手に入れたらまた来るといい」

「……それもそうだな」

 

 確かに××××は、今聞いたことすら消化しかねている。

 無為に言葉ばかり重ねてもそれは全くの無駄であろう。

 

「もう行く」

「ああ、何かあればまた声をかけてくれ。……私は君の、助言者なのだからね」

 

 一つ頷いて、それから背を向ける。

 すると背後からゲールマンの気配が消えて、それはやはり不思議なことだと思う。

 振り向いて確認することこそしなかったが、もうゲールマンの姿はそこにないのだろう。

 

 屋敷を出て、水盆の使者の元へ行く。

 そして輸血液などを仕入れるが、どうも妙だと思った。

 

「少し値が上がったか?」

「…………」

 

 ××××の問いに使者は気持ちの悪い笑い声を返すのみだったが、それでもなんとなく彼らの言わんとすることが分かるようになってきていた。

 なにしろ取引するのが遺志と言う曖昧なものなので、どれほど上がっているのかは分からない。

 しかし使者たちは、どうも××××の問いに頷いているらしい。

 

「稼げるようになったから?」

「…………」

「ならこれからも上げるのか?」

「…………」

「……いい商売だな、まったく」

 

 受け取った輸血液をポーチに入れて、それからいくらかの血を保管庫に入れておくように頼む。

 またいつ値を上げられるか知れたものではないので、なるべく買い溜めることにしたのだ。

 

「狩人様。彼らの言葉がお分かりになるのですか?」

「まぁ、なんとなくだが」

 

 買い物を終えた××××に、不意に歩み寄ってきた人形が声をかけてくる。

 このように彼女が話しかけてくるのは珍しいことだったので少したじろぐ。

 

「これも啓蒙とやらの効果なのか?」

 

 真実を見る力は、使者の真意までをも明らかにしたのかと。

 そういう意味で××××は人形に問いかける。

 

 だが彼女は首を横に振り、それを否定した。

 

「狩人様の啓蒙は狩人様のもの。そしてそれが見せるものもまたそうなのです。ですから私には、それを推し量ることなどできません」

「そうか」

 

 そう答えて、それから何を言っていいか分からなくなった××××は空を見た。

 

「ここは不思議な場所だな」

「そうでしょうか?」

 

 墓石の群れの向こう。

 天地を貫く柱が遠くそびえ、雲に覆われ果てしなく広がる空。

 

 優しい色のそれを二人並んで眺めていると、人形が呟くように声を漏らした。

 

「私は、この場所の他には何も知りません」

「…………」

「気がつくとここに立って、幾人もの狩人様を迎え、また見送っていました」

 

 ほんの少し寂しそうな色を滲ませた彼女を、××××は慰めようとしたのかも知れない。

 本当のところそれは分からないが、ともかく意識するよりも先に口を開いていた。

 

「だがここはいい場所だ。俺も、ずっとここにいるのもいいかもしれないと、そんなことを思ったこともある」

「そう、ですか」

 

 けれど返ったのは沈んだ声。

 しかしそれもそうかも知れない。

 

 ××××は『思った』だけなのだから。

 今もそう思ってはいないのだから。

 

「……もう行く」

 

 それからしばらく空を見つめて、××××は人形に声をかける。

 

「はい」

 

 そう答えた人形は、墓石に向かう××××の後についてくる。

 そしてそれに触れて夢を去るその時に、いつもの言葉が背に投げられた。

 

「いってらっしゃい、狩人様。あなたの目覚めが、有意なものでありますように」

 

 




聖杯編は予定しておりません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17

 オドン教会の灯りに戻ると、アルフレートと教会の男がなにやら話し込んでいるようだった。

 

「おい、あんた。待たせて悪かったな」

「ああ」

 

 複雑な刺繍、教会の象徴であるらしいそれが刻まれた背に声をかける。

 するとアルフレートは振り返ってこちらに微笑んだ。

 

「いえ、そう待ってはいませんよ。すぐに参りましょうか」

「そうだな」

「旧市街には私が案内します」

 

 そう言うと、アルフレートは男に軽く一礼する。

 

「では私はこれで。あなたに血の加護のあらんことを」

「あ、ああ。……ところでそこに、狩人さんもいるのかい?」

 

 相変わらずの卑屈で心地良くない声で男がそんなことを問う。

 別に存在を隠す意味も感じなかったので××××はそれに答えた。

 

「いる」

「やっぱりそうか、足音が聞こえたんだ。ヒヒッ……」

 

 気色の悪い笑い声を上げる男に、答えかねた××××は頬をかく。

 彼が何を言いたいのかがいまいち掴めなかった。

 

「な、なぁ、狩人さん」

「なんだ?」

「ありがとう。あの人に、あんたがここを教えてくれたんだろう?」

 

 それは確かにそうだったので、××××は頷いた。

 けれど彼は目が見えなかったのだと思い直し、声を出しそれを肯定する。

 

「そうだ」

「やっぱりそうなんだ」

 

 すると男は喜色を満面に浮かべて声を弾ませた。

 

「俺なんか相手にもされないけど、でもやっぱり誰かが助かったのなら嬉しいよ。それに……あんたにお願いした俺も、もしかしたら、その、ちょっとは役に立ったのかなって。そんなのは俺、生まれて初めてだからさあ……。ああ、嬉しいなあ……ヒヒ!」

「そうか」

 

 早口でまくし立てる彼に一言だけ返して××××はアルフレートの背を平手で軽く叩く。

 もう行こうと、そう促したつもりだった。

 

「また、まともな生き残りを見つけたらさ、『オドン教会』に逃げてこいって、伝えてくれよな。ヒヒッ……」

 

 背にかけられたそんな言葉。

 老婆はギルバートのついでのつもりで連れてきて、そのギルバートの保護が見込めない以上××××にはもう人を助ける理由などない。

 けれどもしかすると、人を助けられたことを純粋に喜ぶ男にほだされたのかもしれない。

 

 意識するよりも前に××××は答えを返していた。

 

「見つけたらな」

 

 何故いわれのない罵倒を受け、さらに獣狩りの邪魔になるようなそれを引き受けたのかは分からない。

 分からないが、特に深く考えることもせず××××は背を向け歩きだした。

 

 

 ―――

 

 

 聖堂街というだけあってあちこちに教会があるものなのかもしれない。

 

 教会の横から外に出て、ずっと下った先にある小さな教会の前の広場。

 焚き火の周囲にたむろしていた獣共を片付けていた時ふとそう思う。

 

「怪我はありませんか?」

 

 槍を持った獣の喉に剣を突き刺し、不意にアルフレートが声をかけてくる。

 

「ない」

 

 相手にした獣は三体。

 それに一匹犬がついた程度で、待ち伏せや銃持ちもいない。

 

 それならば××××一人でも危なげなく倒せただろう。

 

「そうですか。では、こちらに」

 

 そう言ってアルフレートは教会の中へと足を踏み入れる。

 

 しかしそこには大きな棺が一つあるばかりで、どこにも道と思しきものはなかった。

 

「……閉じられていますね」

「通れないのか?」

「いえ、あの棺を動かす仕掛けがあります。少し待っていてください」

 

 そう言ってアルフレートは教会の外に出る。

 

 ××××がそれを見送ってしばらく待っていると、教会の上からアルフレートの声が聞こえた。

 

「失礼、お待たせしました!」

「ああ」

 

 見れば彼は、教会の上に据え付けられたテラスから声をかけているようだった。

 そして大きなレバーを引くと目の前の棺が動き始め、やがて暗く口を開ける道が見えた。

 

「あの、すみません」

「なんだ?」

「……もう少しだけ、待っていてもらえますか?」

「構わないが」

 

 そう答えるとアルフレートはどこかに姿を消す。

 そしてそれから数分ほど待った後、特に変わりない様子で教会の中に戻ってきた。

 

 

 ―――

 

 旧市街に繋がるのだという通路には、ほとんど敵の姿が見えなかった。

 

「旧市街は獣の街だと聞いていたんだが」

「その通りです。しかし、医療教会は旧市街を焼き獣を封じ込めました。ですから街の外に獣が出てくることはありません」

 

 暗く狭い、埃の匂いがする木の通路。

 一見民家に見えなくもないそれはところどころ床が抜けて壊れ、時にははしごを使わなければ通れない場所もあった。

 

 また一つ、大きく避けた床をまたいで××××は歩を進める。

 

「そろそろですね」

 

 それからしばらく歩いた頃、アルフレートの言葉と同時。

 焼けた肉の匂いが鼻先をかすめる。

 

「そうらしいな」

 

 暗い道を抜けて、やがて広場……とはいえ手狭なものだが石張りの床の行き止まりにたどり着く。

 そしてその左奥からはおぼろに明かりが差し込んでいた。

 

「この先が旧市街、古狩人デュラの縄張りです。……どうかしましたか?」

 

 アルフレートの言葉をよそに、××××は手近にあった灯りに触れ火をともしていた。

 どうやら彼には、これが見えないようだった。

 

「灯火だ」

「ああ……」

 

 そう言うと険しかったアルフレートの表情が緩み、懐かしげに目を細めた。

 けれどすぐに表情を引き締め、炎燻る旧市街の街並みに視線を戻した。

 

「いけませんね。今はただ、狩りを成就させなければ」

「そうだな」

 

 灯りの前から腰を上げて、アルフレートにならって旧市街を見据えた。

 

 けれどその光景は、見れば見るほど異様だった。

 

 まず、最も目を引くのが炎だ。

 あちこちで磔にされた獣が燃やされていて、焦げ付いた死体は耐え難い悪臭を周囲に振りまいている。

 そしてかすかに日が残る空にそれらの炎が照り返したものか、旧市街の空は奇妙な赤に染め上げられていた。

 

 それから街並みの方もまさに『捨てられた街』と呼ぶにふさわしいものである。

 道を舗装する石畳はところどころ割れ、ごたついた地面には枯れ果てた木が死人の腕のように不吉にその枝を伸ばす。

 建物自体はヤーナムの市街とそう変わりはないがそれらには枯れたツタが絡まっていて、全くと言っていいほどに人気がない。

 

 だがそれでいて。

 何もいない訳ではないのだ。

 

 低く静かに、獣の唸り声がどこからか聞こえてくる。

 一つ一つは小さなそれが、おびただしくひしめき一つの悪意になって耳に届く。

 それは今でこそ潜められてはいるが、一歩街に足を踏み入れたのなら堰を切って押し寄せてくるような予感を感じさせた。

 

「……あまり良くない場所らしいな」

「はい。この街は獣の街。私も、無事でいられるかは分かりません。……そこで、なのですが」

「なんだ?」

 

 バツが悪そうに口火を切ったアルフレートに、××××は問い返す。

 すると彼は、おずおずと続けた。

 

「いえ、その。……よければ鐘を」

「ああ」

 

 確かに霊体として呼び出したのならば、アルフレートもまた死を気にすることなく戦うことができるだろう。

 そしてそれは、××××にとっても利益のあることだった。

 

「鳴らせても五回、程度だとは思うが。それでも構わないのなら」

「いいえ、気にしません。むしろ貴重な啓蒙を奪ってしまい申し訳ありません」

 

 そんなアルフレートの言葉を聞き流しつつ、××××は錆びた鐘を取り出す。

 そしてそれを改めて眺めて、今度はアルフレートへと視線を向けた。

 

 するとそのそばには、鐘を持った使者が寄り添っていた。

 

 

「……夢を失った私たちですが、狩りを続ける限り使者を見ることは叶います。そしてまた、その助けを受けることも」

 

 ××××は何も言わず軽く鐘を鳴らす。

 すると使者の持つ鐘が共鳴し、アルフレートはそれに手を伸ばす。

 

 するとその体は青い光の渦に消え、使者がいた場所に青い光をまとって霊体が現れた。

 

「では参りましょうか」

「ああ」

 

 そう答えて一歩を踏み出す。

 そして霊体のアルフレートと共に街に足を踏み入れると、突然男の怒声が耳を打った。

 

「狩人よ、引き返したまえ!!」

 

 低い声。

 怒声でありながらどこか知性を含むその声が聞こえた方向。

 街の中でも一際高い塔に視線を向ける。

 するとさらに、言葉は続けられた。

 

「旧市街は獣の街、焼き棄てられて後、ただ籠って生きているだけ。上の人々に、何の被害があろうものか。引き返したまえ!! ……さもなくば、我々が君たちを狩るだろう!」

 

 害はない?

 まぁ、それはそうかもしれない。

 だが関係なくここには用があるのだ。

 だから足を止めずに歩くと、やがて橋に差し掛かる。

 

 すると煙の向こうから三体、黒い獣毛としわがれた皮膚の獣が俊敏な動きで飛びかかってきた。

 

 

「アルフレート。右を頼む」

「ええ」

 

 右に二体、左に一体。

 さらに右の個体は手前と奥に分かれている。

 

 ××××は左から爪を突き立てようと迫る獣の首、それを退けつつ変形させたナタで斬り飛ばす。

 見ればアルフレートの方も、いっそ意外なほど流麗な剣技で獣を斬り捨てていた。

 

「耳を貸してはいけませんよ。狂人の言葉です」

「……分かっている」

 

 なにに、とは聞かなかった。

 分かりきっているからだ。

 

 橋の先の角を曲がり、幅の広い階段を下る。

 そしてアルフレートと二人獣を狩りつつ歩いていると、また男が声を投げかけてくる。

 

「……貴公、新顔か? よい狩人だな。狩りに優れ、無慈悲で、血に酔っている。よい狩人だ」

 

 薄汚い布を被った、他より体格に優れた獣。

 その一撃を受け流し、反撃より気を引くことに専念する。

 すると××××を追撃しようとしたその獣の腹に、思い違わずアルフレートの剣が突き立てられた。

 

 そして隙を晒した獣の喉をナタで斬り飛ばしつつ、塔に再び目を向ける。

 

「!」

 

 その時。

 悪寒を感じた××××は剣を抜いたアルフレートを突き飛ばし、とっさに手近な瓦礫の裏に転がり込んだ。

 

 

「だがだからこそ、私は貴公を狩らねばならん!」

 

 

 そんな声と共に、彼方で閃光が閃く。

 

「うわ、何をするんですか」

 

 押し倒され、顔を上げたアルフレート。

 しかしすぐに状況を理解したようだった。

 

「……速射砲、ですか」

 

 言葉の通り、それはそう呼ぶしかないものだった。

 塔から放たれたおびただしい弾丸が地を削り、やがては××××が隠れる大きな瓦礫を凄まじい音を立てて削り始める。

 

「あれは初めて見ました……。すみません」

「気にしなくていい。俺もあんなもの知らない」

「火薬庫が試作したという速射砲でしょうか……。それを狩人狩りに使うなど……」

 

 火薬庫、という言葉の意味は知れなかったが、それでも今それを聞くべきではないということは容易に想像できた。

 

「それよりここもそう長くは持たない。どうする?」

「ここはいっそ飛び出てみますか?」

「…………」

 

 地を削りつつ瓦礫へと向けられた銃弾。

 精密性と集弾性は中々のようだが、照準の動きを思い出すに恐らく旋回には難がある。

 こうも捕捉されては飛び出すことも難しかろうが、一瞬、たった一瞬だけでも隙を作れれば逃げることは不可能ではない。

 

 そこでふと、視線を動かした先に獣が見えた。

 そして先ほどの男……デュラの声を思い返す。

 

「アルフレート、少しどいてくれ」

「?」

 

 アルフレートの体を動かし、細い階段の先にいた小柄の獣に向けて銃を撃つ。

 散弾、それも距離が離れているので大した威力はないが、それでも獣の注意は引けたらしい。

 走り寄ってきた獣の爪を受け、アルフレートに指示を出す。

 

「こいつの喉をかっさばいてくれ。すぐには殺さない程度にな」

「…………」

 

 意図を理解したらしく、喉に剣を突き刺し血が吹き出す。

 そして××××は銃を腰に吊るし、弱々しく痙攣するその体を盾のように掲げ瓦礫の外に飛び出した。

 

「っ……!」

 

 息を呑むデュラの声が、聞こえた気がした。

 弾幕は一瞬その動きを遅らせ、すぐには××××に追いつけない。

 その隙を突いて獣がいた細い階段を下り始めると、アルフレートもついてきているようだった。

 

「止まってはいけませんよ!」

 

 それに答えることすらせず、××××は追いかけてくる銃弾から逃げ続ける。

 そして転がり込むように暗い建物の中へと逃げ込むと、今度はそこに巨大な獣がいた。

 

「ここはどうなっている……!」

 

 布を被った獣。

 それを巨人のように大きくしたそれが、××××に腕を振り下ろす。

 突然の攻撃をなんとか受けるが、受けきれずその爪は××××の胸を深く抉り吹き飛ばした。

 

「この獣がっ!」

 

 石鎚を手にしたアルフレートが即座に交戦を開始し、追撃は来なかった。

 だから血を入れ回復するが、どうにも調子がよくない気がする。

 

 アルフレートに加勢し、なんとか巨人をすり潰してしまう。

 だが何故か息が苦しかった。

 

「行こう。あの塔だな?」

「ええ」

 

 アルフレートはそんな××××の様子には気が付かずそう答える。

 

 それから建物の外に出ると、屋根が焼け落ちた部屋に出た。

 そしてそこにはいくつもの壺が置かれていて、さらに一人の男が佇んでいる。

 

 焼け焦げた狩り装束に、目深に被った黒いフード。

 ××××のものにも似た、けれど鋭いのこぎりの槍。

 ……そしてどこか、赤い光を帯びているようにも見えるが。

 

「……あれは」

「…………」

 

 アルフレートが呟き、対して男は無言。

 

「デュラの仲間か?」

 

 弾幕は追いかけてこない。

 撃とうと思えば撃てるだろうに、撃たないのは何故か。

 もしやあの男はデュラの仲間かと思いそう尋ねると、やはりそうだと答えが返る。

 

「その通りです。彼はデュラの盟友の狩人。……旧市街の狩りで、死んだと思っていましたが」

「なるほど」

 

 ではやはり仲間なのだとそう思った矢先に、部屋に銃弾が降り注ぐ。

 

 とっさに物陰に隠れるが、男の方は隠れもしない。

 壺の中身が銃弾の衝撃で引火し、次々に爆発するがその爆炎の中一人佇んだままだった。

 

「大丈夫か?」

「ええ。あなたは……」

「血で塞がる」

 

 やがて爆発が止み、アルフレートの方へと視線を向ける。

 彼は大事ないようだったが、××××の方は腹に吹き飛んだ破片を受けていた。

 

 大きく尖った石のかけらを抜き、投げ捨てて血を入れる。

 

 そして煙が晴れるのを待つと、先ほどの男は無傷のままそこに立ち尽くしていた。

 

「なるほど。……彼は侵入者ですね。穢らわしい」

 

 吐き捨てられたその言葉に、××××は問いを返す。

 

「侵入者?」

「そうです。かいつまんで言うのならあれは敵対する霊体。鐘の共鳴で現実が捻じ曲げられているのを利用して侵入者として入り込むのです。捻じ曲げている狩人の主観、いわばあなた個人の『世界』の中に」

「つまり?」

「あなたという主観、そしてそれを霊体として共有する私からの攻撃しか今の彼には通用しません。恐らく獣には、見えてもいないのでしょう」

「なるほど」

 

 つまり同士討ちもなく、銃弾と白兵による連携が成り立つということだ。

 

「アルフレート、時間を稼いでくれるか?」

「……ええ」

 

 言わんとすることは分かったのだろう。

 顔を苦くして、けれどアルフレートが頷く。

 

 すなわち彼が銃弾とデュラの盟友を相手取り、その間に××××がデュラを倒すと、そういうことだった。

 

「これも貸しにしておきましょう」

 

 こちらが時間を稼いでも良かったのだが、それだと途中で死ねばアルフレートもまた振り出しに戻る。

 アルフレートなら途中で倒されても、稼いだ時間の分は銃撃と男を引き離せるからこその役割分けだった。

 

 だが酷なことを頼んでいる自覚はあるので、××××は彼に謝罪する。

 

「すまない」

 

 そう言って××××は物陰から走り出る。

 すぐに弾幕が追いかけてくるが、アルフレートが盟友と刃を交え始めるとやがてはそちらに銃身を向けたようだった。

 

 恐らく霊体の男が見えていなくても、戦っているアルフレートは見えるのだろうか。

 

 それを置き去りに駆けて、獣には目もくれず旧市街の街を進む。

 

 そしてやがて塔の下にたどり着き、はしごを登り始める。

 だが先程から感じていた息苦しさが、徐々に増しつつあった。

 

「かはっ……」

 

 一つはしごを登りきり、××××は血を吐く。

 膝をつきつつ異変に戸惑うが、アルフレートの戦いを無駄にはできない。

 焼け石に水と察しながらも血を入れて、もう一つはしごを登る。

 

 すると果たして、そこには一人の男がいた。

 

 彼は灰色の狩装束に、さらに灰をまぶし纏っているようだった。

 どこかざらついた、色がくすんだような装束を翻し、速射砲に向かっていたデュラはこちらに振り向く。

 

 

「……どうした、顔色が悪いぞ。貴公」

 

 その言葉には答えず、××××は一言だけ返す。

 

「古狩人デュラか?」

「いかにもそうだが」

「そうか」

 

 ××××はナタをノコギリに変形させる。

 するとデュラも右手に持った巨大な杭にこれまた分厚い刃をつけたもの、それをなにやら複雑な機械に取り付けたような武器をこちらに向ける。

 それに目をやり、それから左手にも視線を向ける。

 するとそこには、××××と同じ散弾銃が握られていた。

 

「…………」

 

 何も言わず××××は踏み込む。

 殺す気はなかった。

 何故なら彼にはガスコインのような獣性を感じなかったからだ。

 

 とはいえ血で大抵の傷は塞がるので、大怪我程度で済ませるつもりもなかったが。

 

 まず斬りつける。

 喉を狙ったそれは太い杭により逸らされ、さらに刺突が返ってきた。

 

 それを身をよじりかわして幾度もナタを振るう。

 しかし素早い後退により全てすかされたので、ノコギリを変形させて追撃を仕掛けようとした。

 しかし追撃に合わせてデュラが銃撃の構えを取る。

 とっさにかわすために横に飛んだ。

 

 そしてすぐに向き直りまた踏み出そうとしたところで、不意に熱を感じて身をかがませる。

 すると頭上を火炎瓶が通り過ぎ、内心それに背筋を冷やした。

 

 そうか、敵は狩人だ。

 ならばもっと工夫をしなければ。

 

 火炎瓶をかわして体勢を崩した××××。

 間髪入れずデュラが懐に入り込んでくる。

 

 素早い振りで引き出された杭の斬撃が迫る。

 二発受け、けれど受けきれず腹を裂かれるが銃撃で立て直した。

 そしてデュラが距離を離したところで、××××は持ち物にある油を塔の際に立つ敵の足元に投げぶちまけた。

 

「っ! 貴公!!」

「…………」

 

 答えはしない。

 油はつつと地面に広がり、これでかなり動きにくくなっただろう。

 ましてはこの狭い断崖の塔だ。

 うかつには動けないし、落ちて死ぬのもありえない話ではない。

 殺す気はないが、滑り落ちて死ぬ分には仕方がないだろう。

 

 相手も殺そうとしてくるのだから。

 

 銃を撃つ。

 デュラはぎこちない動きで。

 それでも転がるようにして銃撃をかわし、斬りかかってきた杭を避ける。

 

 油の上ではないがその靴は油に汚れたはずだ。

 摩擦を失った足裏のせいか彼の動きは精彩を欠いている。

 

 さらに幾度か刃を交わし××××は火炎瓶を投げた。

 狙いはデュラではない。

 背後の油貯まりを燃やし、それに気を取られたデュラを蹴りその中に突き飛ばす。

 

「ぐぉっ……!」

 

 踏ん張りが効かず。

 なすすべなく吹き飛ばされたデュラは、燃えながらも体勢を整えようとする。

 しかしそれを許す××××ではない。

 

 すぐに追撃を仕掛けようとして……いや仕掛けつつもだ。

 その瞬間にやけに響く空砲のような音を聞いたのだ。

 

「…………?」

 

 それに気を取られるのも一瞬。

 すぐに意識を集中し、デュラに刃を叩きつけた。

 

 ナタの一撃は起き上がる前、寝たままのデュラになんとかと言った様子で防がれる。

 だが小さな燻りが身を焼き、さらにこの塔の際、落ちれば死ぬ絶壁にデュラは追い込まれている。

 あと二発もあれば片がつくだろう。

 息苦しさはますます酷くなっていたので、さっさと終わらせてしまいたかった。

 

 そう思ってさらにノコギリを振り上げるが、そこで寒気を感じて飛び退く。

 だが間に合わなかったようで、××××の腹は槍に貫かれていた。

 

「がっ……はっ……」

 

 細かい刃が動くたび激痛が走る。

 膝をついた。

 苦しい息の中振り返る。

 すると背後に立っていたのはデュラの盟友。

 そしてその身体からは、赤い光が消えていた。

 

 アルフレートが敗れたにしては登場が唐突すぎる。

 なにがどうなっているのか、全く理解が追いつかなかった。

 

「……助かった。後輩に追い詰められるとは、まったく私も焼きが回ったな」

「…………」

 

 背後の男はデュラに何も答えない。

 デュラは埃を払う仕草と共に立ち上がった。

 

 腹から槍を抜かれる。

 その機に立ち上がろうとするが、力が抜けて立てなかった。

 腹を貫かれた程度で死ぬはずもないのだが。

 

 ……足音がした。

 

「貴公、本当によい狩人だな。こんなところで時間を無駄にせず、早く上の人々の助けになるといい」

 

 がしゃり、と。

 何かがはまるような音がした。

 

 顔が上げられない。

 力が入らない。

 視界が霞む。

 

「どうしてもここで狩りをすると言うのなら、私たちは何度でも貴公らを狩るだろう。……だが、まぁ」

 

 なんとか視線だけ上に上げた。

 すると杭打ち機を振りかぶるデュラの姿がおぼろに見えた。

 

 

「貴公、まだ夢を見るのだろう? であれば、あそこでよく考え直すことだな」

 

 腕が振り下ろされ、そして次の瞬間。

 

 衝撃と共に××××の知覚は閉ざされる。

 

 

 




捕捉

僕個人の妄想としては啓蒙により現実を捻じ曲げて、ホストさんの存在?というか存在する枠に同居させるような形で霊体を呼ぶのが協力者。
だから協力者はエネミーに攻撃されるし敵対者にも見えるしホストが死ぬと帰る。
本来存在し得ないものがそうして世界に入り込んでるんだと考えてます。

それでその隙間(あるいは不吉な鐘に呼び込まれて)を利用して狩人個人に対になる、ホストさんのみに向き合う形で呼ばれるのが敵対者だと思ってます。
だからエネミーには見えないし存在を共有?する協力者には見えるというような。

多分違います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18

 狩人呼びの鐘が共鳴する。

 共鳴し続ける(・・・・・・)

 

「……はぁ」

 

 疲れ切ったようなアルフレートの声が聞こえた。

 

「まったく……あなたは酷い人だ」

 

 その言葉に、旧市街の入り口の灯火のそば。

 屋内で箱に腰掛け俯いていた××××は顔を上げる。

 

「悪い」

「いえ。私も元は狩人、死には親しんでいますから」

「そうか。ならこちらもそろそろ準備を始める」

「ええ、くれぐれもお願いしますよ」

 

 そう答えて、それから青い光を纏うアルフレートは歩き始める。

 そうしてまた、彼はデュラたちと刃を交えるのだろう。

 

「……さて」

 

 座っていた箱から重い腰を上げる。

 

 恐らくアルフレートはそう長くはもたない。

 すぐに蜂の巣にされ、あるいはのこぎりの槍で身を裂かれ死ぬだろう。

 だがそれでも、××××が鳴らした鐘は自分が死ぬまでは鳴り止まない。

 死したアルフレートはこの場に戻り、何度でもデュラたちに挑む。

 そうすれば彼らは弾丸も体力も少しずつすり減らしていくだろう。

 

 しかしそれならば、わざわざ鐘を鳴らさずとも××××が行けばいい。

 だがそれでもアルフレートを行かせたのには理由があった。

 

 すなわち疲弊し、鐘の音を止めようとするであろうデュラたちをおびき寄せるためである。

 そして速射砲に引火性の壺などのアドバンテージを奪い去り、今度はこちらが仕掛けた罠のもとで戦わせようと目論んだのだった。

 

 ××××は旧市街の外、聖堂街から通ってきた暗い通路へと足を向ける。

 アルフレートの持ち物はこちらのものとより合わせてあって、だから狩道具は有り余るほどにある。

 これを使えばそこそこの罠が作れるだろう。

 

 そんなことを考えて、それから××××は早速取りかかる。

 

 まず取り出したのは投擲用のものだという小ぶりなナイフ。

 持ち主であるアルフレートはあまり狩りには使えないと笑っていたが、この鋭さは人には脅威になるはずだ。

 そう考えて、とりあえず手に取った三本を手の平で転がす。

 

 さてどうしようか。

 

 そんなことを内心に呟き、道の途中に屈み込む。

 そして木でできた床に深くナイフを突き立てる。

 そうしていくつかの穴を作り、そこに次々とナイフの柄をはめ込んでいった。

 するとあたかも地面からいくつもの小さな杭が生えているような、そんな具合になる。

 

 しかしこれではかかるものもかからないだろう。

 

 そう考えて、それから××××は近くにあったタンスに目をつける。

 ナタと銃を手離し、両手で抱えてタンスを運ぶ。

 そして斜めに立てかけるようにして細い道を塞ぎ、通りにくくなるように配置する。

 このタンスをどけて反射的に踏み込めば、足はそれだけでボロ布のように刻まれるだろう。

 

 我ながら性格の悪い仕掛けだと思いつつ、××××は傾かせていたタンスを直立させる。

 逃げつつ悪あがきのようにして道を塞がせれば、敵も罠にかかるかもしれない。

 

 それからまたいくつか罠を仕掛けながら、××××は先ほどの戦いについて思いを馳せる。

 あれについてはすでにアルフレートと話し合い答え合わせは済んでいたが、そうして考えるとやはり完敗であったと思わざるをえない。

 

 そう、敗因は二つあった。

 

 まず一つはこちらが十分に情報を共有していなかったこと。

 旧市街の獣には毒があって、××××はそれを知らなかった。

 だからこそ毒に侵されながら戦うことになり、結果としてそれが敗北の一因になった。

 

 しかし××××がきちんとアルフレートに旧市街の獣について聞いていたなら、あるいはあの時すぐに異常を告げていれば毒には対処できただろう。

 なにせギルバートに渡していた白い丸薬であの毒は消せるらしかったから。

 

 そしてもう一つは、単純に相手の計画がこちらを上回っていたことだ。

 

 敵対者と速射砲をすら利用して二人を分断し、霊体が『元いた場所に戻る』性質を利用して鐘の共鳴を破り帰還することで瞬時に移動しあちらにとり有利な状況を作り出す。

 

 つまりは初めから張られていた網の中に、××××たちが自ら飛び込む形となったのだ。

 これでは勝てるものも勝てないだろう。

 

 だが、今度網を張るのはこちらの方だ。

 罠を仕掛け終えた✕×××はそんなこと考えつつ旧市街の入り口へと引き返す。

 

 するとその時、ちょうど来たらしい敵が言葉を投げかけてきた。

 

「……貴公ら、気でも違っているのか? 何故そこまでここに固執する?」

 

 声の方向に振り向くと、そこにはデュラとそれからのこぎりの槍の男が歩いてきていた。

 橋を渡ってきた様子はないので、どこか抜け道があるのだろう。

 

 しかし、それにしても。

 

「アルフレートはどうした?」

 

 こちらに戻ってこない以上、アルフレートの霊体は撃破されていない。

 であれば彼が二人をこちらに通すとは思えなかったのでそんなことを尋ねると、デュラは声を低くして答える。

 

「答えると思うか? だが一つ言うのなら、我々はもう貴公らに容赦をすることはない」

「よく言う」

 

 受け答えしつつ彼らの背後に視線をやるが、アルフレートが戻ってくる様子はない。

 恐らくは拘束され、動きを封じられているのか。

 

「今回は退こう。だが、必ず戻ってくる」

 

 助けは得られそうにないと判断して、××××は身を翻し罠を仕掛けた通路へと走る。

 

「っ……! 逃げるとて、やがて戻るつもりならば狩らせてもらうぞ」

 

 そんな言葉が背中にかけられて、それから××××は追いかけてくる足音を聞いた。

 

「…………」

 

 まずかねてから決めていたようにタンスで道を塞ぎ細い通路の先、階段の出口を通り抜ける。

 

「っ……!」

 

 当然すぐにそれはどかされるが、槍の男の方が足をナイフに貫かれたようだった。

 

「ふざけた真似を!」

 

 

 立ち止まり、激昂するデュラの声。

 だが彼らは熟練の狩人だ。

 

 この場所が不利だと踏めば引き返す恐れもある。

 

 だから。

 

「どうした、来ないのか? ……なら土産だ。持って帰るといい」

 

 そう言って獣の首を投げる。

 黒い毛に覆われたそれはアルフレートが戦っている間に調達(・・)したもので、苦痛に歪んだ死に顔を前にしたデュラは予想通り平静を欠いたようだった。

 

「なるほど、人狩りに相応しい男だったか! ならばよい、躊躇も不要というものよ! 獣の糧となるがよい!」

 

 殺意をみなぎらせた叫びと共にデュラが隊列を崩し階段を抜け通路に足を踏み入れる。

 だから既に距離を離していた××××は散弾銃を構え撃った。

 

「その距離で散弾銃が……」

 

 効くものかと、そう言おうとしたデュラの言葉は半ばで途絶えた。

 

 いや、あるいはかき消されたのかもしれない。

 デュラの背後へ轟音と共に大量の火炎瓶が落ち、その背後を炎で閉ざしたからだ。

 

「紐付き火炎瓶と言うらしい。便利なものだな」

 

 銃撃で吊るしていたそれを落とした××××は逃げつつ平然とそんな口上をのたまう。

 デュラはとっさに前に転がることで巻き添えを避けたようだが、木の通路は凄まじい勢いで炎を延焼させ焼け落ちようとしている。

 

「貴様……!」

 

 鬼の形相で追いかけてきたデュラは、槍の男と分断されたことも意識できてはいないらしい。

 はしごに手をかけ登る××××の足を掴み、引きずり下ろそうとする。

 だがその手を蹴り応戦し、怯んだ隙に上の階へと身を引き上げる。

 

 だがデュラもすぐに登ってきてその手に持った杭打ち機で殴りかかってくる。

 

「死者を弄ぶなど……! 貴様の性根は獣にも劣るぞ!」

「あれはもう人ではないだろう」

 

 狭い通路で幾度か刃を交わし、しかし火の手が迫ってきたのでまた身を翻す。

 

「逃げる気か!」

「そこで心中するか? 俺は構わないが、あんたは死ぬぞ」

 

 憎まれ口を言い捨ててそのまま進むと、すぐに石の階段が見えてくる。

 ××××は通路と階段の境目で軽く頭をかがめ通り抜け、それにデュラが続く。

 

「……!」

 

 しかし右の壁、そこにちょうど目のあたりを斬り裂くように設置したナイフは寸前でかわされる。

 

 思えばはしごの一部にガラス片をまぶしたトラップも避けられたし、木の床にあつらえた落とし穴も回避されていた。

 あれだけの距離から狙撃していただけあって、やはり相当にいい眼を持っているらしい。

 

 そんなことを考えつつ、デュラの銃撃から逃げるように階段を登る。

 そしてやがてたどり着いたのは、開けた石室の広場だった。

 

「…………」

 

 その半ばまで進み、無言の内にゆっくりと振り向く。

 するとデュラも追いついてきていて、その瞳でこちらを睨んでいる。

 

 それは、やはり正気の人間のものだった。

 

「ここで決着にしようじゃないか。……よもや夢まで逃げるつもりもないのだろう?」

「ああ」

 

 挑発するデュラの言葉に短く答え、××××はのこぎりを握り直す。

 そして銃撃を放ち地を蹴った。

 

「一つ、聞かせてくれ」

 

 散弾にかすりもせず、同じく距離を詰めてきたデュラにそんな言葉を投げる。

 だがデュラはそれに答えず、ただ唸るような声と共に打ちかかってきた。

 

「貴様と話すことなど何もない……!」

「…………」

 

 杭が装填された、杭打ち機でデュラが刺突を繰り出す。

 それは突く故にのこぎりに比べリーチが長く、また手数でもわずかに上回る。

 

 重い杭の連撃。

 流しきれないその圧力に××××は退く。

 しかしそれを読んでいたかデュラは一瞬で肉薄し、なおも突きを繰り出した。

 一撃、のこぎりの刃で弾く。

 二撃、身をかがめかわす。

 三撃、脇腹を抉られながらも距離を詰め刃を押し出す。

 

「……っ」

 

 浅く斬られたデュラが張り詰めた息を漏らした。

 

 恐らく彼も分かっているのだろう。

 余りに距離を殺されれば、突きの効果は著しく減衰すると。

 

 のこぎりを振るう。

 デュラはそれをかわし、距離を調節しようと後ろに下がる。

 しかしまた距離を詰めると見せかけ、××××はなたに変形させつつそのリーチで射程外からデュラを斬りつけた。

 

「!」

 

 それにかすかに目を見開き、しかし躊躇もなく彼もまた突きを繰り出す。

 だが武器を先に振ったのはこちらで、そもそもこの間合いでは杭打ち機の突きは届きはしない。

 

「…………」

 

 思い違わずデュラの肩に刃が入り、鮮血を迸らせつつ腹へと抜け……視界が霞んだ。

 

「く……」

 

 それは人を刺し、吹き飛ばしてなお余りある衝撃だった。

 杭打ち機、かの武器の本領である重い杭の射出。

 

 それをただの突きと見誤り、××××は胸部を粉砕されたという訳だ。

 

「っ……」

 

 右胸に拳ほどの穴が開き、けれど死には至らない。

 鍛えた生命力、その止血機能をもってしても止まらない流血を見やり××××は血を入れる。

 

 そして追撃を遠ざけるため無理に立ち上がり、同じく血を入れたらしいデュラに相対する。

 

 ……やはり古狩人は強い。

 奇策を用いてようやく四分か。

 

「なぁあんた。獣が人だと言っていたな。あれはどういうことだ」

 

 まだ傷の修復が終わっていない。

 もう一度血を入れて、時間を稼ぐためにそんな話を持ちかける。

 

 しかしデュラは構うことなく黙って杭を構えた。

 

「…………」

 

 小さく鼻を鳴らし、××××は血を吐き捨てる。

 そして追撃を仕掛けてきたデュラにのこぎりを合わせた。

 だがそれは当然のようにして伸長した杭に弾かれ、また刃として振るわれた杭の斬撃によるカウンターを受ける。

 

 切れ味鋭く肩をえぐり、退いた××××に存外に重いその叩きつけが追撃を為す。

 わずかに地を揺らし、ガスコインの斧を思わせるほどの一撃。

 

 だが喰らえば痛手となる故に隙も大きく、それを逃さじとなたを縮ませ反撃を仕掛けた。

 

「くっ……」

 

 デュラはかわすが大きく体勢を崩す。

 追い打ちとして銃撃を放つと、いくらかの銃弾を受けつつ転がり隙はさらにこじ開けられた。

 だから××××は飛びかかるようにして刃を振るい、千載一遇の機会を物にしようとする。

 

 しかしあと一歩というところで突如炎の塊を叩きつけられ、××××は骨を焼く熱さに悶絶した。

 そしてさらにダメ押しの刺突が叩き込まれる。

 

「紐付き火炎瓶、その本来の使い方だ」

 

 熱に焼かれ、己の血に溺れるような感覚の中。

それでも無様に転げ回りなんとか火を消した。

 

 だが焼かれ、また穿たれた痛みの苦痛が抜けきらない内にデュラはそうひとりごちて再装填した杭打ち機でとどめを刺そうと迫る。

 

「ク……ソ……!」

「はっ」

 

 ポーチを探り血を取り出した××××を嘲り、デュラが腕を踏みつける。

 そして注射器を奪い取り針を自らの首に刺した。

 

「…………!」

 

 刹那、注射器を取り落としたデュラはふらつき後ずさる。

 恐らくは先程銃弾を受けた傷を癒やそうとしたのだろうが、それは××××にすれば一か八かの賭けが成功したことに他ならなかった。

 

「貴様……なにを……!」

 

 驚愕に目を見開くデュラに、××××は何も答えない。

 

 この場所の暗さで分からなかったようだが、あの注射器には採取した獣の毒をたっぷりと詰め込んである。

 

 デュラはそれを、自ら体内に入れたという事だ。

 

 人体で最も太い道の一つ、首の血管を通じて毒は瞬く間に回り切る。

 常人の致死量、恐らくはその何倍もの量の毒を受けデュラの動きは明らかに鈍り始める。

 

 そして彼が状況を理解する頃には、××××は既に血を入れ体勢を整えていた。

 

 奇しくも初戦と逆。

 しかもあの時の××××が取り込んだ毒よりも遥かに多いそれはすでにデュラから交戦する力を奪い去っていた。

 

 のこぎりを振るう。

 丸薬を飲ませる暇を与えず、次々に攻撃を加え攻め立てる。

 

「貴様……などに……!」

 

 防戦に回るも蝕まれた体では防ぎ切れない。

 腹を裂き、肩を削り、おぼつかない足取りのデュラはやがて部屋の隅に追い詰められる。

 

「……はぁ……はぁ……!」

 

 崩れ落ち、けれど折れぬ視線で睨みつけてくる。

 古狩人の強さに内心戦慄しつつ、××××はデュラへと銃を向け語りかける。

 

 血を入れようとするか、あるいは丸薬を飲もうとすればすぐに撃つつもりだった。

 

「俺たちの邪魔をするな。手助けをしろと言うつもりはない。それだけ約束してくれれば、俺はあんたを殺さない」

「獣どもは上にはいけん、誰にも迷惑はかけないさ。……それでも貴様が獣を狩ると言うのなら、私は最期まで抗うだけだ」

「そうか。……残念だ」

 

 そう言って引き金を引こうとして、けれど××××は逡巡する。

 

『お父さん、すっごく強いの。……だから、生きてるよね?』

 

 不意に蘇ったのはそんな声だった。

 ガスコインを待っていた人がいるように、デュラにも帰りを待つ誰かがいるのではないかと、そんなことを思ったのだ。

 

「……?」

 

 ××××が銃を下ろすと、デュラも不思議そうにこちらを見つめ返してくる。

 

「とどめを……刺さないのか?」

「…………」

 

 どっと疲れが押し寄せてきて、だから言葉で答えず取り出した丸薬を投げた。

 それが答えのつもりだった。

 

「話を聞いてくれ。……獣は殺すが、人殺しは好きじゃないんだ」

 

 そう言った××××の瞳をデュラが真っ直ぐに見つめ返してくる。

 苦し気な息を漏らしながら見つめて、やがて俯き目を逸らした。

 

「……分かった。貴公の話を聞かせてもらおう」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19

 ××××が燃やしてしまった通路。

 それでもなんとか通り抜けて、今は再び旧市街に戻ってきた。

 のこぎり槍の男は××××を見ると斬りかかろうとしたが、デュラに言われて一旦は堪えてみせる。

 

 そんな訳で一応の和解を果たした××××たちは、デュラたちの隠れ家なのだという廃屋にて人心地(ひとごこち)ついていた。

 

「なんだ貴公ら、初めからそう言ってくれれば良かったではないか……」

 

 心底驚いたように、しかしどこか申し訳なさそうにも見える表情でぼろぼろの椅子に座ったデュラが言う。

 ここは日は差さないが、いくつも松明が燃えていてそれが暗い室内の貴重な光源だった。

 

「……我々が悪いとでも言うのですか?」

 

 隠れ家の入り口近く、獣を捕縛するための物と思しき強靭なロープで縛られていたアルフレート。

 今は拘束を解かれ、しかし闇討ちを警戒してか鐘の共鳴は解いていない。

 霊体のまま、薄闇の中ぼんやりと光りつつ嫌悪を顕にするその姿はどこかちぐはぐだった。

 

「いや、違うとも。本当にすまなかった……。我々もなにも獣狩りの邪魔をしようと言うのではない。上に獣がいるならそれは紛れもない脅威だからな……」

 

 本当に申し訳ないと、そう言ってデュラは頭を下げる。

 聖堂街へ続く鍵を取りに来たと言った途端こうなるのだから拍子抜けだ。

 

 今のデュラからは先程までの凄みは全く感じられず、無害で人の良い男にしか見えない。

 

「過ぎたことだ。俺は気にしない」

 

 狂っていないのならば、なにか彼なりの信念があったのだろう。

 そしてその上でこちらへの害意を収めるというのなら気にすることもない。

 だから××××がそう言うと、アルフレートは不服げにため息を吐いた。

 

「あなたがそう言うのならば、私ももう言いませんが……」

「……ありがとう」

 

 アルフレートは××××と違い何度も殺されている。

 故に納得できない部分はあるだろうが、それでも剣を引いてくれるようだった。

 

 素直に礼を言い、それから室内を見回してみる。

 

 この街にありふれた木張りの床に、タンスやテーブルやらがまばらに置かれた生活感の薄い空間。

 ふと広い部屋の奥を見れば階段が上階へと繋がっていて、その先で寝泊まりしているのだろうかなどと考える。

 

 それにしてもここはどうも元は民家のようだったが、獣の襲撃に対して十分な備えがあるようには思えない。

 

「ん? どうかしたかな?」

 

 ××××の視線に何を思ったか、デュラがこちらに意識を向けてくる。

 それに頷いて、それから彼に疑問を投げた。

 

「あんたはここでどうやって暮らしているんだ? とても安全には見えないが……」

「ああ」

 

 合点がいったように頷き、デュラは答える。

 

「獣から隠れて生きる心得には多少自信がある」

 

 そう言って、それから傍らに佇む槍の男に視線を向けデュラは小さく言い足した。

 

「それに……なぁ」

 

 その言葉を受けて槍の男は何も言わない。

 だがその言葉の意味は××××にもなんとなく分かった。

 

 つまりなにかあったら大人しく死のうと、そう決めているらしい。

 

 何故獣ごときにそこまで入れ込むのかは分からないが、それはこちらにとってどうでもいいことだ。

 だから本題に入ろうとすると、それよりも早くアルフレートが冷たい声色で口火を切った。

 

「そんなことより。鍵の場所に心当たりがあるなら早く言っていただけますか」

「ああ……これはすまない。もちろん教えるとも。だが……」

「だが?」

 

 この期に及んでまさか条件をつけるとでも言うのか。

 ××××が若干の不安を抱き警戒すると、なんとも人懐こい声でデュラは続けた。

 

「まずは食事にしよう。貴公らの先輩として、是非とも一食(いっしょく)振る舞わせてほしい」

 

 ―――

 

 隠れ家には意外なことに、調理の備えがあるようだった。

 ランプ……と言うには余りに火勢の強い、火を吹き出す小さな箱の上に三脚を置き、鉄の鍋をことことと熱していた。

 

「それはなんだ?」

 

 ××××にしてみれば見覚えのない調理器具で、木箱に腰掛けて鍋を見るデュラにそんなことを尋ねる。

 すると彼は懐かしむように低く笑い、鍋に視線を向けたまま答えた。

 

「まぁ、見ないのは仕方がないさ。これは私の友人が作った簡易調理器具でね。火炎放射器と同じ原理で動いているんだとか。……便利なものだろう?」

「そうだな」

 

 そう答えて、デュラはおたまで鍋をかき混ぜる。

 その香りは刺激的で、またスープの液面に浮く黒胡椒や油から味が濃そうなのは容易に想像できた。

 それにハムやソーセージ、果ては干し肉とかなり肉に偏るものの具が豊かで、疲れた体にはとても効きそうだった。

 

「……毒など入っていないでしょうね?」

 

 懐疑的な姿勢を隠そうともせずにアルフレートがそう言う。

 それに困ったように頭をかいて、デュラはほんの少し微笑んでみせた。

 

「そんなつもりはないが、体に良くはないだろうなぁ……。私は好きなんだが」

 

 確かに肉々しくて味も濃いとなれば体には良くないだろう。

 その答えに何を思ったか、アルフレートはこちらに向き直り問いを投げてきた。

 

「丸薬はまだありますか?」

「ああ」

「それは良かった。ではまた後で」

 

 そう言って一礼し、アルフレートは空砲を鳴らし姿を消す。

 どうやら彼も、生身で食べたいらしい。

 

 と、そこで。

 入れ替わりのようにして槍の男が入ってくる。

 

 二対一で無力化されたりはしないだろうかとわずかに身構えるが、その心配はなさそうだった。

 

「おお、まだあったのか。良かった……これで慎ましい食卓も少しは豪華にできるというものだな」

 

 槍の男はその手になにやら麻袋を持っていた。

 

「…………」

 

 男が無言のままそれをデュラに投げると、彼は喜色を浮かべつつ受け取った。

 その様子に目をやって、××××は首を傾げる。

 

「何が入っている?」

「乾パンだよ、貴公」

 

 少し浮ついた声でそう答えてデュラが袋に手を入れる。

 そして取り出したのは、小さな板のようななにか……言葉通りの乾パンだった。

 

「手を出してくれ」

「?」

 

 デュラの言葉に従い手を出す。

 すると彼が乾パンを一枚落として、食べろということだと解釈し口に入れる。

 

「美味いか?」

「まずい」

「だろうな」

 

 口に入れたそれにはなんの味もなく、しかもどこか焦げ臭いような気さえした。

 いたずらに水分を奪われたことに腹を立てていると、デュラは笑って槍の男に声をかける。

 

「すまないが水を持ってきてくれ。ほんの少しでいい」

「…………」

 

 槍の男は、どうやら頷いたようだった。

 踵を返し部屋の隅へと歩いていく。

 

「水は井戸から取っているのか?」

 

 ××××が尋ねると、デュラは難しそうな顔をする。

 

「ああ、まあ……この街の井戸ではなく、聖堂街まで行くんだが」

「? この街には……」

 

 井戸がないのかと、そう言おうとして××××は口をつぐむ。

 なにせどこもかしこも焼かれた街だ。

 

 水場は、井戸の中は、きっと焼かれて渇いた人や獣の死体が詰まっているに違いない。

 

「貴公のお陰で、やりにくくなったぞ」

「悪かった」

 

 通路を焼いてしまったのだ、これからはきっと難儀するだろう。

 だから謝ると、デュラは不思議そうに息を漏らす。

 

「貴公は優しい男だな。どうやら誤解していたようだ」

「…………」

 

 優しい男などではない。

 それは自分がよく知っている。

 

 恐らくこの街に来る前の自分は、ろくでなしの無法者だったのだから。

 そんな風に酷く荒んだ生き方をしていたことは、なんとなくだが思い出したのだ。

 

 ××××の無言にデュラが何を思ったのかは分からない。

 しかし槍の男が盆に入れた水を持ってくると、それを受け取った。

 

「ありがとう」

 

 大量の乾パン、それらを盆に入れて軽くすすぐように動かす。

 すると暗闇の中かすかに水が濁ったのが分かった。

 

「灰で汚れていたんだな。まずかったのは、そういうことだ」

「はぁ……」

 

 毒味に使われたのだと気が付き、××××は腹を立てる気すら起きなくてため息を吐いた。

 全くもって調子のいい男だと思った。

 

「しかし貴公、名は何と言うのだ? 血族狩りのアルフレートと言えば知れた名前だが、貴公のことはついぞ耳にしたことがない」

 

 乾パンを器用におたまで押さえ、汚れた水をそばにあった器へと流し込んでいく。

 その汚れた水も無駄にはせず、きっと何かに使うのだろう。

 

「俺には名前がない。というより、覚えていない。輸血を受けたらそうなった」

「それは……」

 

 それを受けて、デュラは少し考え込む。

 だがまた何か言う前に、背後で遠く何かの気配がした。

 

「戻りました」

 

 声の主はアルフレートだった。

 霊体ではない生身に戻って、改めて隠れ家に足を踏み入れたらしい。

 

「ここは暗い。光ってくれていた方が良かったんだがなぁ」

 

 笑うデュラに、アルフレートは若干殺意の籠もる視線を向ける。

 

「あ、いや、すまない……はは」

 

 茶を濁すようにして笑い、デュラはふやけた乾パンをスープに放り込んでしまう。

 そして鍋を見つめながら、誰へともなく呟いた。

 

「火薬庫がゆだ。とびきり味が濃ゆいスープに乾パンを入れて作るパンがゆだ。ドロドロで肉の味がして、それはもう美味いのだよ」

「おお……」

 

 表情を崩し、アルフレートがふらふらと鍋に近寄る。

 彼にとっても、これは好みのようだった。

 

「アルフレート、貴公の分は少し多めにしておこう。和解の証だ」

「…………」

 

 和解などしないとでも言うように、アルフレートは何も答えない。

 しかし喉は鳴らしたので、ほだされていない訳でもないらしい。

 

 それからしばらく火を当てて、すると段々乾パンはその形を失いグズグズと崩れ始める。

 それを見届けたデュラは、さてと声を上げ腰を上げる。

 

「では貴公、名無しの狩人よ。こちらに来たまえ」

「なんだ?」

「いやな、まぁ……ちょっとした贈り物だ」

 

 そう言って人懐こく微笑んで、それからデュラは槍の男に視線を向ける。

 

「すまないが鍋を頼んだ。私は彼にあれをやろうと思う」

「…………?」

 

 やはりよく分からないが、いかにも『任せろ』というような様子で右腕を掲げた槍の男。

 その彼を見て笑みをこぼしデュラは歩き始める。

 

 行き先は、例の階段の先のようだった。

 

「ほら、貴公も来ないか」

「ああ……」

 

 釈然としないながらそう言って彼に続くと、アルフレートが声をかけてきた。

 

「気をつけて、決して心を許してはいけませんよ。私は鍋を見張ります。毒など入れられないように」

「そうか」

 

 そんなことを言う鍋に夢中な彼に警戒心が残っているのかは分からなかったが、とりあえず頷いて足を進める。

 するとデュラは、階段の先で待っていてくれているようだった。

 

 

 ―――

 

「これはなんだ?」

 

 階段の先、上階にてデュラが差し出したのはなにやら焼け焦げた服だった。

 少し見た様子だと槍の男が纏っている装束にも似た……というよりそのものの見た目をしている。

 

「狩装束さ。いかに貴公とは言え、普段着で狩りというのは余りに哀れだ」

「……なるほど」

 

 デュラが差し出しているマントのついた服……いや、狩装束を手に取ってみる。

 するとそれは軽く、しかし強靭であることが手の感触から伝わってきた。

 

 また焦げてはいるがその形状をいささかも損なわないそれは、防火用としての効能も持ちそうに見える。

 これを着れるなら、きっと狩りは捗るだろう。

 

 しかし。

 

「残念だが、遠慮しておく」

「……何故?」

 

 ××××の言葉に、思いもよらないというようにしてデュラがそう言う。

 そしてさらに、説得するための言葉を重ねた。

 

「貴公、狩りにおいて何より大事なのが生き残るということだ。いくら狩人とていつまでも夢見るものでは……」

 

 しかし咎めるような色さえ含むそれを半ばで遮る。

 

「この服には、思い入れがあるんだ。捨てることはできない」

 

 少女にもらい、またそのために少女を死なせてしまった服。

 

 狩装束はいいが、これを脱ぎ捨てて行くというのは少しばかり受け入れがたかった。

 

「……」

 

 その答えを受けて、なにやら考え込む様子のデュラ。

 しかしやがて、諭すように、いっそ意外なほど優しく口を開いた。

 

「貴公になにかあったと言うことは、なんとなく分かる。あれほど獣を憎んでいるのだし、そういう狩人は少なくはない」

「…………」

「けれどな、貴公。貴公は狩人だ。狩人が倒れれば、獣は誰かを傷つける。もちろん、感傷は大切だ。だがそのために最善を尽くせなかったなら、貴公はいつか後悔することになるかもしれない」

「それは……」

 

 黒い服、フード付きのそれの袖を握り締める。

 

 あの時ガスコインを倒せれば、少女は死んではいなかった。

 恐らくそういうことをデュラは言っているのだ。

 

「…………」

 

 もう××××には守るべき人などどこにもいない。

 それでも装備を怠ったために獣を取り逃がせば、それが誰かの不幸に繋がるかもしれない。

 

 そうだ、この凄惨な夜を終わらせると誓ったのだ。

 ならばもう悲劇を増やす訳にはいかなかった。

 

 いまだ残るささやかなためらいを殺し、××××は服を脱いでデュラの手から狩装束を受け取る。

 

「ありがとう」

「気にしなくていい。ほんのお詫びだ」

 

 そして狩装束に袖を通すと、デュラは満足げに頷いた。

 

「どこからどう見ても立派な狩人だな」

「……ああ」

 

 上の空で答えつつ、抜け殻になった少女の服をぼんやりと見つめる。

 するとデュラはそんな××××を見つめていて、慰めるように声をかけてきた。

 

「まぁ、それはそれで大事にとっておけばいいさ。とりあえずは使者にでも預けておくといい」

「使者に?」

「ん? 貴公知らないのか……」

 

 そう言って眉を下げたデュラは、少し考えて口を開く。

 

「念じるだけでいい。すると我々の周りに付き従う使者が見えるようになる」

「見えるようになる……?」

 

 含みをもたせたその言葉がよく分からなくて聞き返す。

 だが彼にとってはどうも常識のようで、逆に不思議そうな表情で答えられた。

 

「使者は常に我々の周囲にいる。だが常人にはそれが見えない。我々狩人にさえ夢の外ではその姿は見えないが、彼らの存在を思う、つまり意識を向けることで見えるようになるということだ。たまに助言を持ってたりするから貴公も気にかけるといい」

「そういうものなのか……」

 

 よく分からなかったが、どうもそういうことらしかった。

 ということで早速使者の存在に意識を向けると、気持ちの悪い笑みをふきこぼす彼らの姿はすぐに見つかった。

 

「……これを頼む」

 

 おそるおそる使者に服を差し出すと、彼らはそれを受け取りどこかに溶けるように消えた。

 

「便利だ」

 

 ふと漏らした××××の言葉に、デュラは笑って答えた。

 

「ああ、全くその通りだよ」

 

 




未プレイの人、万が一いらっしゃったなら煤けた狩装束でググってください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20

 

 食事を済ませ、体の芯に熱が入ったような心地がする。

 しかし食後の休息もそこそこに、××××たちは……正確にはデュラと槍の男が、忙しい様子で街に出る用意をしている。

 

「……あれはなんだ?」

 

 ××××は隣に立つアルフレートに問いかける。

 デュラが荷物に赤く見える小さな小瓶のような物を入れていたから。

 

「酒でしょう。獣は血の酒を好み、また強く惹き付けられます。獣の多いこの街を歩くのなら、何よりの備えになるでしょうね」

「……なるほど」

 

 顎をさすりつつ答えたアルフレートの言葉に××××は感心する。

 やはり古狩人とは、多くのことを知るものだ。

 

 そのまま××××が待ち続けていると、やがてデュラたちはこちらに歩み寄ってきた。

 

「では行こう、貴公ら」

「…………」

 

 デュラのその言葉に、アルフレートは何も答えない。

 食事は摂ったとはいえ気を許したわけではないのだろう。

 ただ黙して鋭い視線で見返している。

 

 その反応に小さく咳払いをして、デュラは踵を返して歩き出した。

 向かうのは先程狩装束を譲り受けた隠れ家の上階だ。

 

 そして歩きながら、デュラはふと問いかけてくる。

 

「しかし獣狩りの夜に聖堂街に入りたいとはどういうことなのだ? 聖堂街は聖歌隊やらの聖職者たちの管轄(かんかつ)だろうに」

 

 いかにも不思議だと言うような様子でその言葉は漏らされた。

 その言葉にアルフレートと××××は顔を見合わせ、それぞれの理由を口にする。

 

「私は血族へたどり着く糸口を探すために」

「なるほどな、血族狩りの使命のためか」

 

 うんうんと頷くデュラ。

 その顔を見ながら××××も口を開く。

 

「……俺は少し、気になることがあってな」

「気になること?」

「ああ、『青ざめた血』……という言葉に聞き覚えはあるか?」

 

 それは狩りの遂行、獣の病根絶のための唯一の手がかりだ。

 だからそれを問うと、デュラはやはり分からないらしい。

 

「いや……ないなぁ。確かにそれが血だと言うなら大聖堂ではなにか分かるかもしれんが……」

 

 念の為に槍の男にも視線をやると、彼も黙ったまま首を横に振った。

 

「…………」

「そうか、すまない」

 

 それから無言のまま歩き続けていると、やがて隠れ家の片隅の壁の前にたどり着く。

 そこには焼けた板が何枚かかぶせてあって、恐らくそれをどければ外に出られるのだろう。

 

 そんなことを考えていると、デュラは思い違わず壁の板に手をかける。

 しかしそれをどける前に振り返り、××××たちへと振り返った。

 

「ところで貴公ら。封鎖された聖堂街に向かうというのなら……オドン教会の塔の鍵を求めているのだろう?」

「ええ、その通りです。我々は放棄された工房の道から聖堂街に向かいます」

「なるほどな……」

 

 デュラとアルフレートが言葉を交わし、なにやら考えの一致を得たようだった。

 ××××にはさっぱり分からないが、とりあえずそういうものだろうと黙っておく。

 

 するとデュラが小さく頷き一つ提案をしてくる。

 

「ならば貴公ら、ここは二手に分かれて探すのはどうだ?」

 

 すなわち自分と××××、アルフレートと槍の男をそれぞれ指差しそんなことを口にしたのだ。

 

「なんですって?」

 

 誰よりも早く、実に分かりやすくアルフレートが反発した。

 

「私は既に夢を見ません。生身のところを狙い謀殺でもしようというのですか?」

「落ち着け、貴公。先のことは悪かったと思っている……」

「信用しろとでも……!」

「ああ、信用してくれなくては困る。なにしろ獣を殺さずに旧市街を練り歩くのだ、あらゆる手を尽くさねばならんだろう」

「獣を殺さずに? あなたはやはり狂っている!」

 

 徐々に熱がこもる二人の言い争い。

 それを前にため息を吐き、××××はアルフレートの肩を叩く。

 

「俺はまだ鐘を鳴らせる」

 

 そうすればアルフレートが死ぬことはないと、そういう意味を込めて××××がそう言う。

 しかしアルフレートはまだ納得しないらしい。

 

「ですが……」

 

 そう言って反論しようとした彼に、デュラが静かに口を開いた。

 

「不安なら君が連れて行く、私の友も霊体にすればいい」

「…………」

 

 そう言うとアルフレートは黙り込む。

 それに頷いて、デュラはさらに言葉を重ねた。

 

「鐘で呼ばれた狩人は、互いを味方とする故に傷つけ合うことはできない。それならば貴公とて安心だろう」

 

 当然の前提のように口にされた新しい事実に××××は驚く。

 あの鐘は本当に不思議なものだ。

 

「あなたがたの方(ほう)は?」

 

 デュラの言葉に心を動かされた様子のアルフレートだが、しかし××××を慮ってのことかそんな質問を投げる。

 するとデュラは笑い、首を横に振った。

 

「鐘に共鳴できるのは二人までだ。私は霊体にはなれん」

「不吉な鐘では駄目なのか?」

 

 不吉な鐘ならば霊体になれるどころか敵にすら見つかることはない。

 だから××××がそう言うと、デュラはまた微笑む。

 

「それではいざという時貴公を守れまいよ。……とにかく、私はいいんだ。今さら裏切るほど恥知らずではないし、貴公はそれを信じてくれるからな」

 

 ××××がデュラを信じてくれると、彼はなんの迷いもなくそう言い切る。

 そう言われるとなんだか責めづらい気がしたのか、不満げに鼻を鳴らしてアルフレートはそっぽを向いてしまう。

 しかしそれでも、それ以上の不平を漏らすことはなかった。

 

「では行こうか。我々は街の下を探してくる。そちらは街の上を頼むよ」

 

 そう言ったデュラが壁を塞ぐ板に手を伸ばす。

 それを確認した××××は鐘を取り出しそれを鳴らした。

 

 ―――

 

「……あんた、本当に良かったのか?」

 

 壁の穴を出て、アルフレートたちと別れた××××はデュラと共に市街を歩く。

 人の消えた、獣の息づかいに満たされたこの街をデュラは生身で歩くというのだ。

 ……それも獣を殺さないという信条を守りながら。

 

「ああ、貴公はなにも心配しなくていいとも。私とて元はそれなりに名の通った狩人なのだから」

 

 まぁ貴公には勝てなかったがと、そう言って声を潜めつつも笑う。

 そして手のひらで転がしていた血の色の鐘……槍の男に出立の直前に押し付けられたそれに一瞥をやり、デュラは自分のポーチの中に仕舞う。

 

「では行こうか」

「ああ」

 

 答えたところでまた、耳元に獣の唸り声が聞こえた気がした。

 街を満たす濃密な殺意に気を引き締め、××××はノコギリを握り直しデュラの隣を歩き始める。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21

 

 

「……なぁ、貴公。貴公はなにか獣に勝るものを我らが持っていると思うかね?」

 

 不意に、デュラが潜めた声でそんなことを言った。

 薄暗い通路の入り口、物陰から数体の布を被った獣の様子をうかがっている時だった。

 

「…………」

 

 声を出したくはなかったので、××××は黙って首を横に振る。

 腕力もなにもかも、人は獣に及べない。

 ヤーナムの市街の獣は基本的にのろまだったが、この街の連中にはそんな弱点すら存在しない。

 

 だから否定したのだが、少し考え直す。

 考え直して、××××は自分の頭をナタを握る人差し指で軽く叩いた。

 

 するとデュラは歯を見せて笑った。

 

「知恵か。なるほど、それもそうだろう。だがもっと分かりやすい例がある」

「?」

「目、だな」

 

 そう言ってデュラは物陰から出て平然と歩き始める。

 まだ距離が遠いとはいえこちらに視線を向けている獣もいて、だから××××は言葉を失う。

 

 しかし何事もなく歩き、彼は通路の右側へとその姿を消した。

 

「…………」

 

 生唾を呑み下し、××××もおそるおそる足を踏み出す。

 するとやはり、獣はこちらに気がつくことはなかった。

 アレはもしかすると、あまり遠くは見えないのだろうか。

 

 デュラの歩いた道をたどると、××××はなにやら奇妙な場所に行き着いた。

 そこはこの建物の屋根の梁(はり)のようだった。

 

「獣の病に罹患(りかん)した者は瞳孔がとろけるのだよ。だからか獣化が進んだ者ほど目がしっかりと働かなくなる。故に最も気をつけるべきは獣がどちらを向いているかではなく、獣とどれだけ離れているかだ」

 

 追いついた××××に、デュラが得意げにそう言った。

 ××××が目の前の獣がそっぽを向かないかと目を凝らしていた間、彼は近くに潜んだ敵がいないかを探していたのだろう。

 

 素直に感心したので何度か頷き、××××は称賛する。

 

「それは知らなかった。ありがとう」

「いいや、気にすることはない。後輩に教えを伝えるのは先達(せんだつ)の義務なのだから」

 

 しかし特別に目がいいような類の獣もいるので気をつけるようにと、そう言ってデュラは梁の上を歩き始める。

 やはり彼は、ここを通って行くつもりらしかった。

 

「…………」

 

 不安定な足場を行きながら、××××はつい眼下の光景を見てしまう。

 かなり高いのは分かっていたからやめた方がいいのだろうが、思わず視線をやってしまった。

 

 すると××××は、高さよりもむしろ目に写った光景の奇妙に気を取られる。

 

 眼下にあるのは……薄暗くて定かではなかったが、祭壇のようなものもあるので恐らく聖堂なのだろう。

 

 だが聖堂とはいえ集うのは人ではなく獣であるはずなのに、確かに祈る者たちがいるのだ。

 鎖で縛られ吊り下げられた巨大な獣の死体。

 

 それに向かって、数え切れないほどの獣が祈っている。

 

「……あまり深く考えない方がいい。貴公がまだ狩人で在りたいのならな」

「…………」

 

 こういった光景に惑わされて、デュラは狩人ではいられなくなったのか。

 ××××はふとそんなことを思う。

 

 だが祈る獣たちになど、××××は人間性を見出だせなかった。

 

 なにしろこれまで見てきた獣たちはどいつもこいつもそんなものだったからだ。

 腐るほどいた人間を相手に狩りごっこをする者たち。

 

 そして今ここにいるのは、死体を相手にお祈りごっこに興じる汚物だ。

 

 そんな××××の考えがどこかで察せられたのかもしれない。

 デュラはただ悲しげに頷いて、それから梁から粗末な板の足場に飛び移った。

 そしてそれに続くと、デュラが穏やかな声で語りかけてきた。

 

「さて貴公、ここを降りるぞ」

「……どうやって?」

 

 粗末なテラスのような板の間。

 眼下の獣がよく見える、危険な道の半ば。

 はしごのような気の利いた物もなく、また降りても獣の餌食になりかねない。

 無抵抗を徹するというのならなおさらだろう。

 

 だからそう返すと、デュラは笑って荷物をまさぐった。

 

「縄ばしごだ」

 

 そう言って足場の手すりに手際よく縄のはしごを結びつけ、デュラはそれを投げる。

 そしてまた荷物を探り、何かを取り出した。

 

「それから、目と耳を奪う」

 

 そう言って手に取ったのは無骨な黒い筒のように見えた。

 五本あるそれは見たことのない狩り道具で、恐らくは手製なのだろう。

 マッチを擦り火をつけて彼は眼下の獣のもとにそれを投げる。

 

 すると数秒の空白の後に、広場を白い光と燃焼の音が埋め尽くした。

 

「さ、行くぞ」

 

 マッチを踏み消しつつそう言って、デュラはさっさと縄ばしごを降り始める。

 その手際は慣れたもので××××は光と音の洪水に戸惑いつつも、目を細めそれに続いた。

 

「…………」

 

 漂白された礼拝堂の中。

 目を抑えたり倒れ込んだりする獣を横目に、××××たちは通り抜けてしまう。

 

「あれは?」

 

 礼拝堂を出て、××××はようやっとそれを問う。

 するとデュラは周囲を軽快するように見渡しつつ語った。

 

「光と音を放つ爆弾の一種だ。獣の優れた聴覚を潰し、弱点の視覚を突く」

「そんなものが……」

「流通はしていないがね。そもそも油でもまいて火をかけたほうが余程早くて手頃だ」

 

 つまりそれは、不殺を貫く上で編み出した工夫の産物なのだろう。

 ××××が一つ頷くと、デュラはまた歩き始める。

 

「獣の最も優れた感覚は嗅覚だが、血に対して過敏になったせいか他の匂いにはあまり気が付かない。だからこそ獣から身を隠すなら、聴覚や視覚の側面から手を講じるのが良いだろうな」

「…………」

 

 なんとなく返事はしなかったし、それでいい気がした。

 デュラも特に気を悪くした様子もなく、きょろきょろと警戒しつつ街を歩いている。

 

 と、そこで。

 

 生き物を焼いた匂いのする煙が充満した、酷く視界の悪い広場に出た。

 恐らくひび割れた石畳の上に、獣を焼いた残り火が燻っているためだろう。

 

「……進むな」

 

 慎重に一歩を踏み出そうとした××××をデュラが手で制する。

 だから立ち止まると、彼は何やら耳を澄ましているようだった。

 

「……さて」

 

 そう呟いて、デュラは懐から何かを取り出す。

 見ればそれは、どうやらただの石のようだった。

 

「なにをするつもりだ?」

「聞けば分かる」

 

 そう言ってデュラは白い煙の中に石を投げる。

 すると何か金属に当たったのか甲高い音がして、それからいくつかの足跡がした。

 

「聞こえたな?」

「ああ。……足音だ。獣がいくらかいるらしい」

 

 ××××がそう言うと、デュラは嬉しそうに目を細める。

 それはどこか後輩を褒めるような色を纏っていて、何故だか××××は居心地が悪かった。

 

「その通り。獣の最も警戒すべき感覚は聴覚だが、先程貴公の言った通り獣は少し抜けている。であれば逆手にも取りやすいということだ」

 

 なにか音がしたらすぐに駆け寄ってくるからな。

 

 付け足すようにそう言ってデュラはなにやら思案し始める。

 ××××はしばらくそれを見守っていたが、痺れを切らして問いかけた。

 

「どうするんだ?」

「ああ。……それが、中々難しいのだよ」

 

 それは理解できた。

 

 なにしろこの視界の悪さだ。

 敵との遭遇を避けるのも一苦労だし、相手には聴覚と嗅覚のアドバンテージも存在する。

 

「さっきの爆弾は?」

「使えない」

「何故?」

 

 ××××の問いに、デュラは淡々と答える。

 

「煙で光は減衰する。となると、いたずらに音だけを立てれば獣を刺激するのみになる」

「…………」

 

 それは全くの正論だった。

 だから黙り込むと、やがて長く考え込んだデュラは隠れ家でも目にしたあの酒を取り出す。

 

「これを投げる。獣は血の香(ちのか)には異常な反応を見せるからな。血の酒で気を引いて、その間に通り抜けよう」

「…………」

 

 デュラが血の酒を投げる。

 すると煙の奥で瓶が割れた音がして、その座標におびただしい足音が殺到するのが分かった。

 

「行くぞ……」

 

 どこか余裕のない声でデュラがそう言って、すぐに走り出す。

 ××××もそれに合わせるが、それでも引き離されんばかりに彼は一心に走っていた。

 

「……はぁ」

 

 煙に巻かれた広場を抜けて、それからまだ走ってようやくデュラは立ち止まる。

 結局引き離されてしまった××××も少しして追いついて、それから肩で息をするデュラへと語りかけた。

 

「……あの酒、便利だな」

「ああ」

 

 一つ息を吐いて、デュラは顔を上げ微笑む。

 その表情を見つめつつ、ふと一つ気になったので問いかける。

 

「あんたは何故酒を使うのを迷ったんだ?」

 

 デュラは酷く長く考え込んでいたが、彼ほどの狩人が酒の使用を真っ先に思い浮かべなかったはずもない。

 だからきっと迷っていたのだと断じて××××はそう言った。

 

「貴重なのか?」

「それもある……が」

 

 デュラがそう言ったところで、ちょうど走り抜けた広場の方から大気を震わすような音量の奇妙な叫びが聞こえてきた。

 甲高いそれは獣のものなのだろうが、咆哮というよりはまさに叫びとしか言いようがないもので、××××には聞き覚えがない。

 

「…………」

 

 凄まじい声量、理性を失った獣が故の喉を破る叫びに××××は耳を塞ぐ。

 すると同じく耳を塞いでいたデュラが苦々しい表情でこちらに視線を送ってきた。

 それから近くの物陰を顎で指し、どうやらそこに行こうと示しているらしい。

 

 意図を察した××××はデュラと共に建物の物陰に隠れる。

 そしてその影から油断なく周囲の様子を警戒する背中を眺めていると、彼は重く沈んだ声でぽつりと呟いた。

 

「この街で血の酒を使うことは、場合によっては最も哀れな獣を呼び寄せる愚行になりかねない。……だから躊躇ったのだよ、貴公」

 

 強い、でもなくまた恐ろしいでもない。

 哀れと言い表したその意図がわからず、××××は言葉を返す。

 

「その……哀れな獣とは?」

 

 するとデュラはゆっくりとこちらへ振り向き、その獣の名を口にした。

 

 

「血に渇いた獣だ」

 

 

 




今冒険している旧市街は基本的な構造は同じですし、本編にあるものは大体全部あると思います。
でも少しだけ面積が広いのをイメージしています。

次に目云々は瞳孔がとろけている事(散瞳という病気に似ている気がしました)とゲーム内での挙動からの妄想です。
公式的根拠はありません。
また最も優れているのが嗅覚だとしたのは、血の酒に凄まじく引き寄せられるからです。
こちらも根拠はありません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22

 血に渇いた獣……とやらの存在が××××たちの鼻先をかすめてからというものの、デュラの饒舌(じょうぜつ)は全く失われてしまった。

 

 常に気を張って周囲を見渡し、時には道端に屈んで仕掛けのようなものを施している。

 

「それは?」

 

 またしゃがみ込み、渡っていた石橋にロープのようなものを張るデュラ。

 それを見やりつつ問いかけると、デュラは潜めた声で答えた。

 

「……なに、ちょっとした小細工さ」

「小細工?」

「そう。何かがロープに引っかかると起動する仕掛けで、血の酒が橋の下へ放られるようになっている。万一血に渇いた獣がこちらに来たならば遠ざけるようにしようという試みだ」

 

 なるほど。

 考え自体は分かるが、それならば他の獣がかかったりはしないのだろうか? 

 

 不思議に思って、××××はそれを言葉にする。

 

「必ずしもその獣がかかる確証はあるのか?」

「ない。……ないが、我々が離れた後に起動するのなら無駄ではない」

「……なるほどな」

 

 他の獣の手で起動したとして、ここに来ないならそれで良し。

 もし来ても酒に誘われこの橋を飛び降りればそうそう上には上がってこれないだろう。

 思い当たった××××は素直に感心した。

 

「その、血に渇いた獣とやらは強いのか?」

 

 しかし、それにしてもデュラは慎重だ。

 もしかするとかの獣は聖職者の獣あたりよりも強いのかもしれない。

 

 だから張ったロープを軽くつま弾き、確かめる背中にそんな疑問をぶつけてみた。

 

「強い」

 

 すると返ってきたのはそんな言葉だった。

 強いと、そう言い切ったデュラは腰を上げる。

 そしてまた歩き始めた彼は言葉を続ける。

 

「私と私の友が、二人で万全の用意をしてようやく確実に狩れるかという程度だろう。……まぁ、そんなつもりはないのだがね」

「そうか。……それは厄介だな」

 

 と、言ったところで。

 不意にまたあのつんざく叫びが聞こえてきた。

 

「まずいな、近いぞ」

 

 焦りをにじませた声音でそう呟き、デュラは再び走り始める。

 

「行くぞ、貴公。この先に廃教会がある。鍵があるとしたらそこだ」

「……ああ」

 

 走るデュラに続く。

 不思議と獣に遭遇することはなかったが、恐らくそれはデュラの卓越した目があってのことなのだろう。

 彼は忙しく視線を走らせ、絶えず複雑に進路を変え続けていた。

 

「! 貴公……!」

 

 唐突にデュラが立ち止まり声をあげる。

 そして××××の腕を取って引き止めた。

 

「なんだ?」

 

 物陰に引きずり込まれた××××は、潜めた声でデュラに問いかける。

 

「……なんだ?」

「見たまえ」

 

 言われた通り恐る恐る物陰から顔を出すと、先にはなにもない道があった。

 そこは通っても特に危険はなさそうで、××××は不可解に思う。

 

「一体どうしたんだ?」

「待ち伏せされている」

「は?」

 

 そう言われて、もう一度物陰から顔を出す。

 そして目を凝らすと、何軒もの家の屋根の上に合計六体ほどの獣が伏せているのが分かった。

 

「……なるほど」

「屋根の獣だけではないぞ。それにしてはこのあたりに真新しい足跡が多すぎる。恐らくだが家の影、それからあの塔の扉の中にもいるだろうな」

 

 その言葉に、××××は再三顔を出してみる。

 すると確かに隠れられそうな場所がいくつかあったが、それでも釈然としないことが一つある。

 

 デュラの言葉通り道の脇には大きな塔があって、そこには確かに入り口の扉がある。

 しかしそこに獣が隠れているなどとどうして分かるのだろうか。

 

「……閉まっていなかったんだ、あの扉は」

 

 こちらの考えを見透かしたようにして、デュラがそんなことを言う。

 

「あそこは私がよく使う抜け道でね。だから匂いが残っていたのだろう。獣にたむろされてしまったようだな」

「閉まっていなかった、とは?」

「言葉通りだ」

 

 さも当然のようにそう言って、デュラは続ける。

 

「私が前に通った時、あの扉は空いたままだった。そして獣に通った後扉を閉めるような考えはない。だというのに閉まっているのなら、それは隠れるためにしたものだ」

「そんなことまで、覚えているのか」

 

 そして見ていたというのか。

 足跡も、扉も、××××よりも早く走りながら。

 

「それくらいはしなければな。私はもう夢を見ないのだ。……貴公も気を配るといい。違和感は常に狩人へ危機を知らせてくれる」

「…………」

 

 ××××は何も答えず、ただ感嘆に唸る。

 するとデュラは短く笑って、しかし次の瞬間には険しい表情で考え込む。

 

「……ここを抜けなければならない」

「引き返すことは?」

 

 待ち伏せされているのでは、殺しつつ行っても無事で済むかはわからない。

 まして不殺ならなおさらだろう。

 

 だからそう言うと、デュラは力なく首を横に振る。

 

「できない。血に渇いた獣の方が遥かに危険だ」

 

 そちらに遭遇するリスクを避けたいということか。

 では、ならばどうするというのだろう。

 

「あの爆弾は?」

「使う」

 

 しかしデュラの表情は晴れないままだ。

 ××××は更に問いを重ねる。

 

「他に道具はないのか?」

「あるし、使う。だが無事で済むかはわからない」

「じゃあどうするんだ」

 

 そもそもデュラが殺さないなどという下らない信念を守っているからこうなるのだ。

 

 そう思うと不意に怒りが湧いてくる。

 そしてその苛立ちを噛み殺しつつ問いかけると、デュラはなんということもないような声でそれを言った。

 

「私が囮になる」

 

 その言葉に、××××は考えるよりも先に否定を返していた。

 

「駄目だ」

「いや、それでいい」

 

 いっそ穏やかな声で危険を冒すと言う彼に、××××はなおも反論しようとする。

 しかしそれを首を横に振り押し留めて、デュラはまた口を開く。

 

「獣を殺したくないというのは、私のわがままだからな」

 

 確かにその通りだ。

 だがそういう問題ではない。

 

「だからなんだ。あんたは死ぬんだ。俺は死なない。どちらが囮になるべきかなんて、考える意味もない」

「私のわがままのために、貴公を殺せと?」

「そうだ。当たり前だ。あんたは死んだらそれまでなんだぞ。冷静になれ」

 

 デュラには下らないこだわりが多すぎる。

 

 理由も状況も関係がない。

 誰しもできることとできないことがあって、これは夢を見る××××にしかできないことなのだという、それだけのことなのに。

 

「それを言うなら貴公とて、次死んだとして夢にできる保証がどこにある?」

「それは」

 

 反論しようとしてしかし、××××は言葉に詰まる。

 確かにその保証はない。

 次死ねばもう目覚めないのかも知れなかった。

 

「……それでも、俺が行くべきだ」

 

 だがたとえ保証がないとしても、死ぬべきは××××だ。

 自分には生きる価値などこれっぽっちもないのだから。

 

 そんな思いを込めて真っ直ぐにデュラを見つめる。

 そして自分が行くべきだと言うと、彼はどこか悲しげに笑った。

 それに苦虫を噛み潰して、××××は前から不思議に思っていたことを問う。

 

「何故俺のためにそこまでする」

 

 意味が分からなかった。

 最初は殺しにかかってきたかと思えば、今度は意味不明の過度な献身。

 全く訳がわからない。

 

 だからそんなことを尋ねると、デュラは答える。

 

「貴公が優しい男だからだ」

「…………」

 

 目を合わせたままそう言われたその時、××××の脳裏に追憶が巡った。

 

 

『あなたは優しいね、狩人さん』

 

 

 思い出したのはそんな声だった。

 暖炉の前、穏やかな時間。

 蜃気楼のような束の間の幸せ。

 

「貴公は優しい。きっと夜明けまで誰かのために傷つき続ける。だからな、一度くらい貴公を救ってやりたいのだよ」

 

 冗談めかしてデュラはそう言う。

 そして、その言葉を聞いて今分かった。

 

 彼は勘違いをしていた。

 あの少女と同じだ。

 だから××××を守るために生身で街に出たのだ。

 

「デュラ……違う。もうたくさんだ。俺はもう助けてもらっているんだ」

 

 かすかに震える声でそう言った。

 

 冷たい手を思い出す。

 嫌だと思った。

 デュラもあんなふうになってしまうのは。

 ××××は彼のことを深く知らないし、大して好きでもない。

 

 だが、それでも自分のせいで優しい誰かが死ぬのはもう嫌だった。

 

「あんたが一人で行ったら俺は獣を殺す。全部殺す。それが嫌なら……他の手段を考えてくれ」

「…………」

 

 睨みつけながらそう言うと、デュラは何も言わず低く唸る。

 しかしようやく、彼は考え直したらしかった。

 

 ―――

 

「…………」

「さっきからなにをしているんだ?」

 

 まずは待てと、そう言われた××××はデュラと共に物陰に座り込んでいた。

 だが待っている間なにか仕掛けをするでもなく、ただ座り込んでいるだけだった。

 時折血に渇いた獣の声が聞こえたりして、正直なところ××××としては気が気ではない。

 

 だから何をしているのだと聞くと、彼は手短に答える。

 

「風向きを見ている」

「風向き?」

「そうだ。血の酒を使うからな。なるべく血に渇いた獣に嗅ぎつけられないようにしたい」

「なるほど」

 

 それは分かったが、しかし。

 肝心の血に渇いた獣については疑問が深まるばかりだった。

 

 何故ああも血に過敏な反応を示すのか。

 そもそもあれはどういう存在なのか。

 

 ……どうせ待つのなら、気になることを聞いても構わないだろうか? 

 

「なぁ、血に渇いた獣とはなんだ?」

「……なんだ、と来たか」

 

 そう言うとデュラは考え込む。

 

「そうさなぁ……。どこから話せばいいものか」

 

 そう呟くデュラの様子からして、話はどうも長くなりそうだった。

 

「風向きが変わったら」

「分かっているよ」

 

 分かっていたらしい。

 ならば風向きが変わるまで語ってもらうとしよう。

 

「この街では昔、灰血病(かいけつびょう)という病が流行したことがあってな。あの血に渇いた獣は獣でありながらその末期罹患者(まっきりかんしゃ)なのだ」

「その、灰血病とは?」

「血が灰色になり、苦痛の中で死に至る病だよ。私は医療者ではないから詳しいことは分からないが、一つ確かなのは血の医療の産物……白い丸薬がそれを癒やしたということだ」

 

 そこまで聞いて、灰血病については少し分かった。

 だが血に渇いた獣との関連は未だ明らかではない。

 

 その病とその獣になんの関係があるのだろうか? 

 

「貴公は知らぬだろうが、血に渇いた獣は灰色の血を流す。そして灰色の血は灰血病患者の末期症状で、病による死を乗り越えるためにかの獣は獣の中でも秀でて強靭な肉体を得たのだろう」

 

 指を立て、風向きを確かめるデュラ。

 その横顔を見ながら××××はさらに聞く。

 

「血に過敏なのは?」

「苦痛を和らげるためだ。……恐らくだが」

「苦痛?」

 

 ××××が聞き返すと、彼は深く頷いた。

 

「そうとも。白い丸薬が作られる前、教会は灰血病患者に血の施しを与えた。それは荒削りだが血の医療の原型で、治癒はもたらさなかったが苦痛は和らげた。そして彼らはそれを覚えているのだろうよ」

 

 つまりは灰血病の痛みに苦しみ続けるが故に、束の間の安楽を探して死にものぐるいに血を求めているということらしい。

 

 ……ああ、なるほど。

 だからこそ血に渇いた獣なのか。

 

 納得した××××に、デュラは小さく微笑む。

 

「満足したかね? では、私はもう少し風を見ることにしよう」

 

 指を立てたままそう言う。

 そしてしばらくした頃、デュラは素早く腰を上げてこちらに目配せをする。

 

「いいか、貴公。三つ数えたら出るぞ」

 

 ××××は慌ただしく立ち上がりつつそれに答えた。

 

「ああ」

 

 ××××が立ち上がり、身構えたのを確認するとデュラは数え始める。

 

 

「三」

「二」

「……一」

 

 最後の数を数え終えた瞬間、デュラは走り始める。

 そして荷物の中に手を入れて、酒瓶と共に何かを投げた。

 

「!」

 

 すると獣たちが一斉に酒の周囲に集まるが、そこで唐突に炎上する。

 火勢からして恐らくはどうにかして酒に引火させたのだろうが、獣たちは突如目の前に現れた火に恐慌を起こしていた。

 

 

「なにを?!」

「時限式の火炎瓶で酒に火をつけた! このあたりの獣は火を恐れるし、引火させてしまえば血の匂いも長くは残らんからな!」

 

 怒鳴るように返して、それからデュラは例の爆弾を取り出す。

 

「目を閉じろ! 足は止めるな!」

 

 言い終わるかどうかの瞬間に、奔(ほとばし)る閃轟。

 

 音と光の洪水が氾濫を起こし、獣たちの知覚を塗りつぶした。

 

 そして炎と爆弾の撹乱により、××××たちは一旦獣の包囲を走り抜けることに成功する。

 

 しかし当然獣たちが追いかけてくるが、そこでデュラは小さななにかを大量に掴んでばらまいた。

 

「水銀を塗った棘(とげ)をまいた。少しの間足止めになる!」

 

 それになにか言う余裕もなく、××××は必死に走る。

 そうして通路を抜け、階段が見えてきた頃。

 

 ようやく獣の気配が遠くなってきたと……そう思ったその時。

 

 ××××の右手の崖から這い登ってきた黒い狼の獣が、唐突に爪を振りかざし飛びかかってくる。

 

「貴公!」

 

 デュラの声が聞こえた。

 

「…………!」

 

 反撃と回避、どちらを為すべきか躊躇う。

 生存と不殺の狭間で判断が遅れる。

 

 そしてその致命的な一瞬を突かれ、××××は押し倒された。

 

 

 

「が……あ……」

 

 首根に喰らいつかれた。

 目を見開く。

 力が抜けた。

 

 避けようもなく迫る死に抗おうと激痛の中でもがいていると、不意にのしかかる重圧が消えた気がした。

 

 しかし消失しつつある意識の中ではそれを確かめることもできず、なすすべなく××××は気を失った。

 

 

 




遅くなってすみません。
それから、血に渇いた獣の血は本当に灰色です。
毒液も恐らく血だと思われます。

それから寄生虫(武器)の眷属汁やアメンドーズの液体なんかも同じ色だったりします。
もしかすると灰血病は血の医療の実験やらなんやらの一環として旧市街の住民に上位者エキス的なものを摂取させたことで起こり、何らかの形で伝染したのではないだろうかと妄想しています。
これについてはいまいち確信がないので物語には絡ませません。

これからのあとがきでは主に考察の理由や補足、物語には載せられない範囲での妄想についてお話させていただければと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

23

 誰かの声が聞こえた気がした。

 意識が混濁する。

 

『けれどな、貴公。貴公は狩人だ。狩人が倒れれば、獣は誰かを傷つける』

 

 少し前に聞いた言葉が脳裏に蘇って、××××は弾かれるように覚醒した。

 そしてすぐに身を起こそうとして咳き込む。

 どうやら気道に血が入り込んでいたようで、息苦しさに倒れ込んだ。

 

「デュ、ラ」

 

 息を乱しながらも途切れる声で呼びかける。

 そして周囲を見回した。

 傷は治っていたから、血を入れてくれた人物……デュラは必ずいるはずだ。

 

 石造りの建物。

 なにかの祭壇の裏の狭い空間。

 視線を巡らせ探していると、彼はすぐに見つかった。

 

「デュラ、ここはどこだ? どうなった?」

 

 この建物は奇妙に明るい。

 黄色い明かりに照らされたここは、天井が抜け、また外壁も崩れかけているものの立派な石造りの教会らしかった。

 

 地面に寝かせられていた××××の左、建物の壁に背をつけてデュラは座り込んでいた。

 

「……デュラ?」

 

 身を起こして問いかけるも、デュラは答えなかった。

 答えずに、ただ腹を抑えて荒い息を吐いていた。

 

 そしてその手にはもう銃はなく……右手の杭打ち機は血に汚れていた。

 

「殺してはいない。だが……少し傷つけた」

 

 どうもそういうことらしい。

 やむをえず最低限の傷を与え、獣の群れを散らしながらここまで来たということか。

 そしてその代償として、彼はその身に深い傷を負っていた。

 あるいはもう血を入れて塞いだのかもしれなかったが、その狩装束は血に濡れている。

 

「まぁ、その成果はあった。ほら」

 

 そう言って笑うと、デュラがこちらに何かを投げる。

 受け取ったそれは鍵だった。

 一瞥し、荷物に入れてから改めて問いかける。

 

「あんた……怪我をしているのか?」

 

 すると彼は、弱々しく微笑んだようだった。

 

「なに、血を入れてある。安心してくれ」

「毒をもらったのか?」

「…………」

「何故治さない!」

 

 黙り込むデュラに、ついかっとして××××は怒鳴る。

 しかし彼は、思えば××××との戦いでも丸薬を飲まなかった。

 

 力尽き、座り込んだ時ならいざ知らず。

 まだ立てる間なら多少の無理をすれば飲むことはできたかもしれないし、なにより彼はそれを試みようともしなかったのだ。

 

「まさか」

「ああ、もう薬は持っていない」

「……どうして?」

 

 デュラは苦しげに、あるいは自嘲するように笑う。

 そして笑みに口を歪めたまま言った。

 

「血に渇いた獣だけではない。この街の毒を持つ獣は、その全てが灰血病により苦しんでいる。……私はなぁ、少しでも救ってやりたかったのだ、彼らを」

 

 つまりは貯蔵していた丸薬を、全て獣のために使ったと言うのか。

 

「私では救ってやれなかったけれどね。あの血に渇いた獣も、どうにかして助けてやりたいのだが……しかしどうも分かってもらえない」

「あんた……」

 

 それで、こんなになるまで放置していたというのか。

 ××××の荷物を漁るなりすればよかっただろうに、どこまでも頑固な男だと思った。

 

 荷物を漁る。

 すると丸薬の残りは二つだった。

 

「…………」

 

 一瞬訳もなく躊躇って、それからデュラへと呼びかける。

 

「おい、デュラ。俺の丸薬をやる」

 

 その言葉に、苦しげに俯いていたデュラが顔を上げた。

 

「……いいのか、貴公」

「馬鹿なことを言うな。投げるぞ」

 

 そう言って丸薬を投げる。

 するとデュラは確かにそれを受け取った。

 

 そして彼が丸薬を口に運んだその時。

 

「────────―!!!!!」

 

 つんざく叫びが近く、教会の外から聞こえた。

 ××××は声の方向に視線を向ける。

 

「……嗅ぎ付けられたらしいな」

「どうして」

「貴公も私も、血を流しながら逃げるほかなかったからな。仕方のないことだ」

 

 ごく冷静にそう言うと、デュラはまるで普段通りの声で語りかけてくる。

 

「さぁ。私を置いて行きたまえ、貴公。貴公は貴公の役目を果たすのだ」

「役目?」

「そうだ。上に戻り、人々を救う。それこそ貴公にしかできないことだ」

「…………」

 

 その言葉。

 見捨てて逃げろと、そう言っているのだ。

 ここにデュラを置いて逃げろと。

 

 確かに血に渇いた獣を振り切って逃げるのは難しいのかもしれないが、それでも××××はそんなのは御免だった。

 

 デュラに近寄ってその肩に手を回す。

 そして彼を支え歩き始めた。

 

「……貴公」

「いいから」

 

 咎めるような声を封殺して××××は歩き始める。

 祭壇の裏から出て、教会の中を歩き始めた。

 

「…………?」

 

 と、そこで。

 何か杯(さかずき)のようなものがひび割れた地面に落ちているのに気がつく。

 黒い(・・)それに気を取られ、××××は気がつくと盃を拾い上げていた。

 

「貴公?」

「……すまない」

 

 不思議そうな声で問いかけてくるデュラ。

 手に取った杯には干からびて瞳孔がとろけた人の目が埋め込まれていて、不思議と××××はそれに惹きつけられたのだ。

 

 だが、こうしている場合ではない。

 さっさと使者に預けてまた歩き始める。

 

 一歩、二歩、よろめくデュラを支えながら歩く。

 しかし中々速度が上がらず……どうやらもう、間に合わないようだった。

 

 すぐ近くで獣の叫びが聞こえた。

 

「…………」

 

 とっさにデュラと共に柱の影に身を隠す。

 

「……貴公、もう二人では逃げられない」

 

 デュラがそんなことを言う。

 

 まだ毒が抜けきっていないのか、彼の動きは確かに遅い。

 故に彼を連れて逃げられそうにはなかったから××××は頷いた。

 

「そうだな」

「分かったなら早く……」

「……いや、俺が殺す。あの獣を殺す」

 

 そう言うと、デュラは明らかに顔色を変えた。

 

「よせ、やめてくれ貴公」

「やめろと言うのならあんたの方だ」

 

 そう言うと、デュラが訝しむようにこちらを見る。

 その、何にも思い当たらないような表情に××××は内心歯がゆく思う。

 

「こんなことはもうやめろ。……狩るでもなく命を危険に晒すな。あんたには待っていてくれる人は……大切な人はいないのか?」

 

 投げた言葉にデュラは黙り込み、やがて小さく、呟くように言った。

 

「……いるとも、この街に」

「…………?」

「今も昔も、私はこの街の人々を守りたいだけだ。ただそれだけなんだ。……だから、どうか分かってくれ……貴公……獣は、彼らは……人間なんだ……」

 

 懇願するように口にされたそれに、××××は言葉を失う。

 

 デュラにとってここは、どれほど形を変えようと守るべき場所だったのか。

 だからずっと、ここを守り続けていたのか。

 

 ……しかし、それでも。

 ××××はデュラを獣の餌にしてやるわけにはいかなかった。

 

 何故なら同じだからだ。

 守るべき人だと信じていた獣に喰い殺される……それは父親と信じた獣に殺されたあの少女と同じなのだ。

 

 ××××は耐えられなかった。

 暗闇の中、たった一人で父親が元に戻るよう願い続けていた少女と同じ最期を見過ごすことなどできなかった。

 

「デュラ、もしあれが人間だというのなら……」

 

 表情を歪めたデュラを見る。

 そしてその彼の想いを踏みにじり続ける、奴らが人であるものかと思った。

 

「俺は、人殺しでいい」

 

 のこぎりを握る。

 そして立ち上がった。

 長く放置していたとはいえ、丸薬は飲んだのでいずれ毒は治癒する。

 もうデュラは大丈夫だろう。

 

 だが手早くやらなければ他の獣が集まるかもしれない。

 

 そこでふと背後に視線をやると、彼は射殺すような視線を向けてくる。

 

「貴公……。まだ間に合う。私を置いて逃げてくれ。……頼むから」

 

 震える声で彼はそう言う。

 しかしその裏には脅しすら込められていて、彼はもし回復すれば本当に××××を殺すかもしれないと他人事のように思った。

 

 だが、それならばなおさら急がなければと思う。

 ××××が殺されればデュラは無抵抗に獣に喰い殺されるはずだったから。

 

 もう振り返らず、××××は柱の影から足を踏み出す。

 そして幾本もの柱に据え付けられた巨大な燭台が放つ光の下に出ると、教会の入り口には異様な姿の獣がいた。

 

「血に渇いた獣……」

 

 まず、目に入るのは頭部を覆う穢らわしい布だ。

 元の色さえ分からぬほどに汚れきったそれは、血とも他の何かとも分からない体液を含んで濡れている。

 いや、布だけではない。

 黒い獣毛に覆われた、この街の狼の獣と聖職者の獣のちょうど中間程度の大きさのその体は濡れそぼって不気味な光沢を帯びていた。

 

 それから毛の下の体は病的にやせ細っている。

 黒い体躯は肋や四肢の骨格をくっきりと浮かび上がらせ、その下の骨が透けるほどに……いや、事実見えてさえいた。

 

 ところどころ体表の組織が削れ落ち、白い骨を覗かせる姿。

 布の隙間から時折伺える骸骨を想起させるように落ち窪んだ瞳は、まるで野ざらしの餓死死体のようだった。

 

 そしてその暗い穴の目を覗き込んだ瞬間、××××の脳内で啓蒙が蠢く。

 それにより××××は目の前の存在が聖職者の獣にも劣らぬ難敵なのだと悟った。

 

「────!!!」

 

 先手を取るために隠れる間もなく、血に渇いた獣はこちらに気がついたらしい。

 またあのつんざく叫びをあげて歩いてくる。

 地を踏みしめる四脚は、手に似た前足と足に似た後ろ足。

 それらは人の面影を残しながら、しかし人ならざる獣の爪を備えていた。

 

「…………」

 

 ある程度歩くと、唐突に血に渇いた獣は立ち上がった。

 長い長い、折り畳まれていた足で身を起こすと、教会の柱に据え付けられた明かりにより不気味な影が石の地面に伸びる。

 

 そして汚らしい布を振り乱し、前足……いや、右手を振り上げた。

 

「!」

 

 疾走した。

 骨と皮ばかりだと思っていたその肉体は強靭な筋肉を駆動させ、これまでのどの獣よりも俊敏に××××へと飛びかかってきた。

 

「クソッ……!」

 

 引き裂く右手が直撃し、吹き飛ばされる。

 放置していても死にそうなほどに病に蝕まれたその体からは想像もつかない剛力だった。

 

 地に叩きつけられ倒れつつ、激痛に腹を押さえる。

 けれど手早く立ち上がり血を入れると、流血に高ぶったようにして眼前の獣はさらに荒れ狂った。

 

 飛びかかるようにして両の手で爪を薙ぎ距離を詰め、辛くもそれをかわすとさらなる連撃が重ねられる。

 

「────!!」

 

 立ち上がり、奇妙な声を上げて腕を交互に叩きつけた。

 それから右腕を低く振り抜いて××××を捉えようとする。

 

「…………」

 

 腕に全身が振り回されているような、そんな動きで血に渇いた獣は攻撃を仕掛けてくる。

 全身を用いた攻撃の威力は察するに余りあって、事実空振った爪は石畳をバターのように引き裂いてみせた。

 

 しかしだ。

 

「……聞いていたよりも、ずいぶん弱いようだが」

 

 また繰り出された一撃を××××は前に踏み込んですれ違うようにしてかわす。

 しかし血に渇いた獣は標的が逃れたことをも意に介さず、いっそ病的なまでの狂乱で目の前の空間を引き裂いている。

 

 そしてそれを見て、××××は確信した。

 この獣は大した相手ではない。

 確かに攻撃力こそ恐ろしいもので、古狩人が正面から挑むには少々具合の悪い敵ではあるだろうが。

 

 そんなことを思いつつ××××は血に渇いた獣の背をのこぎりで斬りつけた。

 骨が堅く、切断には至らないが肉は削げる。

 獣の例に漏れずのこぎりは効くようで、苦痛に悲鳴をあげた血に渇いた獣は振り向きつつ爪を振るう。

 しかしそれは本当に見え透いた予備動作を含んでいて、一旦振るわれれば早いとはいえかわすのに苦労するものではない。

 

 退きつつ回避し、次の一撃に重ねるようにして銃撃を放つ。

 すると立ち上がり右手を振り上げていた獣は大きく怯み、落ちるような勢いでくずおれる。

 ××××はそのうなだれた頭部に全力でのこぎりを振るった。

 

「…………」

 

 返ってきたのは、今まで感じたことがないほどに嫌な手応えだった。

 それは思わず追撃をためらうほどに。

 

 細かい刃はずるりと、血に渇いた獣の顔面の肉を真一文字に引きちぎる。

 すると布の下のそこからは灰色の血がどくどくと溢れ出し、痛々しい傷を刻んだ顔が咆哮の形に歪んだ。

 

「────!!!」

 

 血に乾いた獣が悲鳴を上げる。

 そして布を振り乱し立ち上がって、またあの突進を仕掛けてきた。

 だがそれも大振りで、よく見ていれば事前にかわせてしまうような代物だ。

 

 分かっていても流石に突進を止めることなどできるわけもなく、一足早く進路の外に出て駆け抜ける背を見送る。

 そして柱に爪を食い込ませつつ血に渇いた獣が止まったところで、攻撃に転じようと××××は駆け出した。

 

 と、そこで。

 

「────────!!!!!」

 

 つんざく叫びをあげて、血に渇いた獣が咆哮する。

 ぼろぼろの教会を倒壊させてしまうのではないかと危惧するほどの大音量で叫んだ後、かの獣は全身から灰色の血液を噴き出した。

 

「…………」

 

 しとりしとりと、湿った足音が天井の抜けた教会に響く。

 今や全身に水を纏ったように灰色の血に濡れた獣は、まっすぐにこちらへ向けて歩いてくる。

 

 その病んだ血の匂いが鼻をつき、ふと××××はデュラの言葉を思い出した。

 

『この街の毒を持つ獣は、その全てが灰血病により苦しんでいる』

『あの血に渇いた獣は獣でありながらその末期罹患者(まっきりかんしゃ)なのだ』

 

 そしてそれに、もしやと思い当たった。

 この獣の本来の強みは比類なきほどに鋭く振るわれる爪などではないのではないだろうか。

 

 すなわち血に渇いた獣は、あらゆる獣の中で最も危険な毒性を持つ存在なのではないだろうかと。

 

「……クソ」

 

 冷や汗が流れる。

 丸薬はあと一つ。

 早々に思い当たれたことは幸運だったが、果たしてあの獣に勝つことができるのか……。

 

 そんなことを考えて、××××は思い直す。

 

 勝つことができるのか、ではない。

 勝たなければならないのだ。

 そうでなければデュラは殺されてしまう。

 

 改めて決意し、××××はのこぎりを強く握り直す。

 

 そして振り上げた爪から毒の血をしたたらせる獣を見据え、次の刹那に繰り出されるであろう攻撃の行方を追った。

 

 




遅くてすみません。
次回決着します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24

 毒を滴らせ、血に渇いた獣が爪を振り上げる。

 そして繰り出されるのは隙の大きな振り下ろし。

 後ろ足を浮かせ、倒れ込むような勢いで爪を振るう。

 

 ××××はそれを慎重に見極める。

 

 一撃でどれだけの痛手を受けるかは全くの未知数なのだ。

 ひとかすりで致死量を超える毒をねじ込まれるということもあるやもしれぬのだから最大限気を張らねばならない。

 

 血に渇いた獣の左、斜め前に出てすれ違うようにして爪をかわす。

 すると獣の爪は空を裂き、しかし一瞬で反転した敵がさらに連撃を重ねてきた。

 

「…………っ」

 

 思わず息を漏らす。

 動きこそ粗雑とはいえその敏捷には恐ろしいものがある。

 読み間違えれば最悪毒がなくても死ぬ。

 

 右、続けて左からも横薙ぎ。

 それから幾度か縦横に腕を振り回し、不意に構えたかと思うと飛び込むと同時にかき寄せるようにして両手で掴もうとしてきた。

 

 無秩序に繰り出される連撃をかわしながらも常に危機感は拭えない。

 飛び散る毒液の行方を無意識に目で追い、背筋にだらりと冷や汗を流す。

 

「クソ……!」

 

 だがこのままかわし続けていてもいずれ集まってきた獣たちに嬲られる未来しか待ってはいない。

 

 ならばと銃を構え、✕✕✕✕は己を奮い立たせる。

 そして爪を振るおうとする獣に向けて発砲した。

 だが防御の構えを取られ、頭部などの急所は銃弾から守られる。

 ✕✕✕✕はのこぎりで弾丸に怯んだ獣を二度引き裂いた。

 けれどそれも、削れたのは前に出た腕のみだ。

 

 それとて痛手には違いないが、もっと見極める必要があると思った。

 獣は目が悪いらしいが、反射神経だけはどうも図抜けていて撃った後でも反応して防御の構えを取ってくる。

 

「…………」

 

 ただ撃っても有用な攻撃の機会を得ることはできない。

 無駄撃ちに終わるだけだ。

 であればどうするべきかと考えたその時、つい先ほど銃弾に崩れ落ちた獣の姿が思い出させる。

 

 あの時獣は攻撃しようとしていて、銃弾を防御することはできなかったのだった。

 

「なるほど」

 

 反応されるのならば反応しても間に合わない瞬間を狙えばいいのだ。

 すなわち攻撃に注力し、防御不可になった刹那にこそ至近から散弾を叩き込めばいい。

 

「…………」

 

 負傷はできない。

 まともにやり合うことは難しい。

 ならば銃弾で隙を作り、血に渇いた獣を殺す。

 そう決めて✕✕✕✕は後方に飛び退(すさ)った。

 

「――――!!!」

 

 叫んだ獣が追撃を仕掛けてくる。

 それが分かる。

 距離を離したなら、突進を仕掛けてくるか。

 

 獣の挙動を注視する。

 すると数拍置いて、思い違わず腕を振りかぶり立ち上がる。

 それはもう二度も見た突進の予兆だった。

 

「……!」

 

 ✕✕✕✕にはあの疾走の軌道が見えない。

 そしてまた当たれば今度こそ致命傷になりかねない。

 

 故に恐れはあったが退かずに引き金を引く。

 するとぶれるほどの速さで駆動した獣が、目の前で銃撃にくずおれた。

 あと一瞬遅ければ倒れていたのは✕✕✕✕だっただろうが。

 

「死ね」

 

 緊張に干上がった口でそう呟いて、渾身の振りを首根に叩き込む。

 刃は首を叩き折るようにして深く埋まり、けれど切断には至らない。

 刃の先の感触、強い筋繊維が鋼を押し返すのを感じて✕✕✕✕はのこぎりを引く。

 

 そしてすぐに下がると紙一重で反撃の爪が振るわれた。

 それは狩装束に毒液が散るほどの距離を通り過ぎ、鼻先をかすめた死の存在を意識させる。

 この装束もあの鋭さの前には無力だろう。

 

 気を引き締め直したところで、血に渇いた獣はまた咆哮と共に毒の血を吹き出す。

 

「――――!!!!!」

 

 それから血に渇いた獣は動き出した。

 さらに毒液の量を増したその体は、さきほどまでよりもまだ速く攻撃を仕掛けてくる。

 

「なっ」

 

 彼我の距離を消し飛ばすような踏み込みから、鋭利無比の爪が振るわれる。

 ✕✕✕✕はそれを転がるようにしてかわし、攻撃ではなく防御のために銃弾を放つ。

 

 タイミングが合わずに弾丸は防御されるが、離脱の隙だけはなんとか稼げた。

 立ち上がり、柱の裏に逃れて束の間時を稼ぐ。

 

「はぁっ……!」

 

 心拍が乱れ、荒い息が漏れた。

 あんなもの、いつまでもかわせるわけが……。

 

 混乱しきった頭で策を巡らせるが、うまい考えは出てこない。

 そしてそうしている間に、隔てる柱の裏、✕✕✕✕の横へと容易に回り込んだ獣はさらなる追撃を重ねてくる。

 

 爆発的に速度を増した踏み込みと、一層激しく振り乱す布により隠れる初動。

 避け難く迫る嵐のような爪の一振りに、✕✕✕✕はついに皮一枚引き裂かれる。

 

「ぐっ……!」

 

 声を漏らす。

 だがまだ戦えるようだった。

 この狩装束はどうもよく血を吸うようで、毒もそれなりに吸い取ってくれたらしい。

 だが深い一撃をもらったのならこうもいかないはずだ。

 

 そんな危惧を噛みしめる間もなく、血に渇いた獣は苛烈な攻め手で✕✕✕✕を追い立てる。

 苦し紛れの銃撃で攻勢に隙間を作りつつも紙一重でかわす。

 

 しかしこれでは勝ち目などあろうはずもなく、一か八か全力で攻勢に出てみるべきかと考え始める。

 

 毒といえど一瞬で殺すことができるはずもなく、相手だって急所に全力の攻撃を叩き込まれているのだ。

 殺されても、それまでに首を落とせればあるいは……。

 

 そんなことを思って、けれど我に返った✕✕✕✕は即座に否定する。

 

 自暴自棄になってどうする。

 それで✕✕✕✕はガスコインに負けたのだろう。

 

 今度こそ確実に、冷静に、間違いなく息の根を止めるのだ。

 

 改めて決意すると、一度曇った頭の中が再び澄み渡り始める。

 そして巡らせた思考の中に、一つの記憶が割り込んできた。

 

『時限式の火炎瓶で酒に火をつけた! このあたりの獣は火を恐れるし、引火させてしまえば血の匂いも長くは残らんからな!』

 

 ああ。

 そうか、こいつらは火を恐れるのだったか。

 

 炎を利用する方法を考え、すぐに方針を固めた✕✕✕✕は銃を連射する。

 

「――――!!!!」

 

 暴れる散弾の反動を抑え込み、四連続で撃って血に渇いた獣を一旦退かせた。

 

 そしてポーチから一つ油壺を取り出し、それをのこぎりに叩きつける。

 それからさらにもう一つ取り出し、今度は足元の地面に叩きつけた。

 

「…………」

 

 じわりと油が広がる。

 ぼろぼろの石畳の上。

 時に土が露出しそこかしこに枯れ草が生える大地の上に、今しがた叩き割った壺のものとのこぎりから滴る油がじわじわと浸すようにして広がっていく。

 

 そこで、血に渇いた獣が駆けてきた。

 その速度はやはり目を剥くほどのものだが、あの疾走ではなかったのは僥倖(ぎょうこう)だろう。

 ✕✕✕✕は血に渇いた獣の動きを見つめ、その巨躯が目前に迫った瞬間に火炎瓶を地面へと叩きつけた。

 

「――――!!!!!」

 

 刹那大きな炎が吹き上がり、目論見通り血に渇いた獣は混乱し足を止める。

 驚いたのか、あるいは恐れているのか。

 そんなことはどうでもいい。

 

 ✕✕✕✕は一瞬の炎上の後火勢を緩めた炎を突っ切り、ノーガードのその胴を深く斬り裂いた。

 だが図に乗ることはせず堅実に横へと退避する。

 すると思い違わず先程まで立っていた場所に苦し紛れの爪が振られて、それを横目に✕✕✕✕は銃を背に吊り油壺を手に取る。

 

 そしてそれを割ることはせず蓋を外し、中身の油を燃え盛る火の縁へと振りまいた。

 すると炎は再び勢いを増し、枯れ草を媒介してさらに炎を広げる。

 

「――――!!!! ――――――――!!!!!!」

 

 血に渇いた獣が叫ぶ。

 それはこれまでにない死にものぐるいの恐れる声で、血に渇いた獣の恐怖を明確に察知した✕✕✕✕は口の端をわずかに吊り上げた。

 

 攻撃は仕掛けず、血に渇いた獣から逃げつつもさらに炎を広げる。

 炎の縁、枯れ草の近く。

 狙って油をばらまき、時に火炎瓶を投げて効率的に炎を広げた。

 そのうち空になった油壺を捨て、何度かそれを繰り返し、✕✕✕✕は血に渇いた獣に向き直る。

 

「…………」

 

 量だけはそこそこだが、しょせんは丈の短い枯れ草だ。

 今でこそ草をたどり迷路のように炎が広ってはいるが、そう時を待たずに炎は消える。

 そう踏んだ✕✕✕✕は最後の油壺を血に渇いた獣へ投げつけるのと同時、狩装束の防火性をあてにして炎を踏み越え走り出す。

 

「――――!!」

 

 炎に巻かれ、我を失っていた獣が✕✕✕✕に気がついた。

 肉薄したところで爪を振るが、なけなしの理性が吹き飛んだのか完全にタイミングが狂っている。

 ✕✕✕✕が来る前に空振って、それにより生まれた致命的な隙を縫い懐に潜り込む。

 

「…………」

 

 のこぎりをなたにしつつ振るう。

 そして伸びた刃を斜め下から振り上げ、その過程ですぐ近くの炎に刃をくぐらせた。

 すると油を垂らしていたのこぎりは炎を纏い、血に渇いた獣の肉を引き裂いてみせる。

 

「――――!!!!」

 

 再びつんざくような声で叫ぶ。

 先程ぶつけられた油のせいでその体表にも炎が燃え移り、燻る体で後ろに下がり逃げようとする。

 しかしそこで炎を踏んだのか硬直し、さらに生まれた隙をついて✕✕✕✕は畳み掛ける。

 

 その肉を斬ると、熱を恐れるようにして血に渇いた獣は退いた。

 しかし不規則に広がる炎により上手く逃げることはできず、また攻勢に出た際も自慢の速度を発揮することができない。

 燃え盛るのこぎりに斬り裂かれ、またそこかしこの炎に激突することによっても油に濡れた体は熱傷を負い続ける。

 

 勝てると、✕✕✕✕はそんなことを思う。

 

 燃えるのこぎりとそこかしこの炎を恐れてもはや血に渇いた獣は体を丸めるばかりだ。

 まるで暴力に耐える幼子のように腕を前に出し、よろよろと退きながら✕✕✕✕の攻撃を凌いでいた。

 

 そんな有様では死に至るのも時間の問題で、すでに勝利は目前にあると言える。

 しかしその一歩が存外に遠かった。

 

 なたの斬撃が堅い骨に食い止められる。

 のこぎりの一撃が獣毛により減衰される。

 

 血に渇いた獣自身防御に徹していることもあり中々仕留められず、そうしている内に段々と炎が弱まって。

 

「……!」

 

 いや、早すぎる。

 

 異様な鎮火の早さに✕✕✕✕は気がつく。

 血に渇いた獣の体液が、もはや弁が壊れたポンプのように血を噴き出すその体が、周囲の火勢を弱めているのだと。

 

「クソッ……」

 

 気づけばのこぎりの炎も消えていて、だから一旦下がることにする。

 

 奥の方ではまだ炎が燃えていた。

 なんとかそこまでおびき寄せて短期決戦を挑もうと考えた……その時。

 

「――――――――!!!!!!!!」

 

 血に渇いた獣の叫びと共に目の前が爆発した。

 衝撃により吹き飛ばされ、小さな炎が燻る地面に叩きつけられる。

 しかし飛ばされただけで大したダメージはなかったようで、即座に立ち上がり火の粉を払った。

 

 そして改めてのこぎりを構えた時、✕✕✕✕は戦慄する。

 狩装束にべっとりと灰色の血が付着していたからだ。

 

 どっぷりと濡れたそれは恐らく返り血ではない。

 血に渇いた獣が今吹き出したものだと思い当たる。

 

 つまりはなんということもない、あの爆発そのものが体液の噴射だったのだ。

 

 意味もなく躊躇って、視線を腕から血に渇いた獣へと向ける。

 すると立ち上がって咆哮したらしいかの獣は、今や全身に霧のような毒液を纏っていた。

 あの有様ではもはや、背後の残り火などなんの意味もなさないに違いない。

 

 傷つけたのにも関わらず……いや、だからこそか。

 鋭さを増した機動で血に渇いた獣が駆けてくる。

 そしてその爪をもはや盾となる火もない✕✕✕✕に向けた。

 

 瞬く間に目の前に来た獣が爪を振り上げて、それに銃を撃ち全力で距離を取る。

 皮肉にも道中で弾丸を消費していなかったことがこの局面で命を繋いだ。

 

「…………」

 

 だが当然速度で劣る✕✕✕✕は距離を詰められるが、そこには一拍の猶予がある。

 また振るわれる爪の動きを見極め、正確に銃撃を叩き込もうと構えたその時。

 

 不意に視界が滲んだ。

 そして指の力が抜け銃を取り落とす。

 

 そこでようやく✕✕✕✕は気がついた。

 あの霧を吸ったことによって毒に侵されてしまっていたのだと。

 

「ごほっ……かはっ……」

 

 身を折って咳き込み、だからといって獣は待ってはくれない。

 深々と腹を裂かれて吹き飛ばされる。

 それからまたさらに毒が入ったらしく、三秒と待たずに全身が痛みに締め付けられる。

 血に渇いた獣の毒は、以前受けた毒とは比べ物にならないほどの苦痛をもたらした。

 

「う……うあ……ああああ!!」

 

 立つことすらできずに悶え苦しんで、温存など考える暇もなく丸薬を取り出し飲み下す。

 そうすると多少マシにはなったがまだ痛みは抜けない。

 早く効き目が回るのを祈りつつ立ち上がった。

 

「はぁっ……!」

 

 血に渇いた獣が接近してくる。

 反射的に息を止め、しかし直後息苦しさに大きく息を吸う。

 すると治りかけていた痛みが少し増した気がした。

 

 さらに避けることすらできず肩口に爪が突き立てられる。

 

「クソッ……」

 

 何度目になるか分からない悪態をつく。

 肩口に深々と埋まった右の爪は✕✕✕✕の体に毒を送り込むだろう。

 やがて訪れる痛みが戦意をかき消す前に、のこぎりに渾身の力を込め突き立つ腕の肉を削り落とした。

 

「――――!!!!」

 

 血に渇いた獣が叫び、腕を離す。

 そもそも炎に巻かれていた時、散々に傷つけた腕だ。

 切断にこそ至らなかったがもはや以前のようには使うことなどできないだろうし、四つ足で歩く以上はある程度機動性も奪えただろう。

 

 しかしだ。

 

「…………」

 

 毒の痛みに、もはや✕✕✕✕は動くことすらできなかった。

 痛くて痛くて仕方がなくて、指先に力を入れようとするだけで頭が真っ白になるほどの苦痛が走る。

 

 死を予感して、なんとか血を入れる。

 するとほんの少しだけ苦痛が和らいだ。

 

 なるほど、やはり血に渇くとはよく言ったものだ…………。

 

 そんなことをぼんやりと思うと、衝撃に吹き飛ばされた。

 また毒液を撒き散らしたらしい。

 

「…………」

 

 仰向けに転がったまま、✕✕✕✕はなすすべなく死の時を待つ。

 

 体は痛むばかりで動いてはくれない。

 結局✕✕✕✕はなにもできなかった。

 もうどこにも薬はない。

 あったところで勝てる気がしない。

 

 諦めかけた、その時。

 ふと幻聴が聞こえた。

 

『そ、それ絶対飲まない方がいいわ』

 

 聞こえたのは少し慌てたような少女の声。

 どこか懐かしいような気がする声。

 しかしそれがなんに対しての言葉で、会話がいつのことだったか、死にかけの頭では思い出せない。

 

『何故?』

 

 そうだ。

 何故と自分は返したのだ。

 

 少しだけ、思考が確かさを取り戻す。

 

『……なんとなく。きっとお腹壊しちゃうもの』

 

 思い出した。

 そして無意識に指が動いていた。

 

「……ありがとう」

 

 実際それでどうなるかは分からない。

 何も起こらず、このまま死ぬのかもしれない。

 

 だが少女の声で思い立ったからこそ、✕✕✕✕はそれこそが最後の希望のように思えていた。

 故にもう一度、奮い立つことができた。

 

 薄暗い視界の中、指が目的のものを探り当てる。

 それは丸薬だった。

 白い丸薬ではなく、黒い丸薬だが。

 

「…………」

 

 躊躇いもせず、少しばかり大きなそれを無理矢理に口に入れる。

 その丸薬は弱りきった顎でも砕けるほどに柔らかく、噛むとじわりと異様に生臭い血の味が広がった。

 

 体にいいものだとは思えないが、血の味がする以上はきっと血の医療の産物なのだろう。

 それにどうせ死ぬのならこれがどんな代物であっても知ったことではない。

 一息に飲み下した。

 

「――――!!!!」

 

 そこで腕の痛みに悶えていたらしい血に渇いた獣が咆哮する。

 そして右腕を庇うようにしながらこちらへと駆け寄ってきた。

 

 速度は落ちていたものの十分に早く、死にかけの狩人を殺すには十分な余力があることを伺わせる。

 それを見て✕✕✕✕は……力が抜けて立てないはずの✕✕✕✕は、自分でも意識する前に立ち上がって地を蹴った。

 

「!」

 

 すると蹴り抜いた石畳が粉砕され、夢想だにしなかった速度で景色が後ろに流れていく。

 そして血に渇いた獣の背後に回り込んだ✕✕✕✕は、注射器を取り出し血を入れた。

 

 視界の悪化や息苦しさは改善されておらず、恐らく毒は消えていない。

 だが不思議と痛みが消えていて、おかしな高揚が精神を蝕んでいた。

 

「ぐっ……うぅ……」

 

 漏らした唸り声が、獣の声のように聞こえた気がした。

 気のせいだと切り捨ててまた血を入れる。

 どれだけ毒に体を破壊されようが、痛みがないのなら血で命を繋ぎつつ戦闘を続けられるだろう。

 

 血に渇いた獣が腕を振り上げた。

 そして例の疾走により爪を立てようと迫ってくるが、今はその動きがよく見えた。

 

「…………」

 

 横に跳んでなんなくかわし、通り過ぎた敵に追いついて背後から一撃を叩き込む。

 すると血に渇いた獣は大きく怯み、崩れ落ちたその背中にまた追撃をねじ込んだ。

 

「――――!!!!」

 

 獣が絶叫した。

 それを聞いていると全身をぞくぞくするような快感が走り抜ける。

 おかしいと思うが、なにがおかしいのかはもう分からなかった。

 

 振り向いた血に渇いた獣が右の爪を振り上げる。

 しかし負傷しているが故かその動きは間抜けなほどに遅く見えた。

 

 攻撃の隙をついて銃を撃とうとするが、さきほど落としてもう手元にはないのだと気がつく。

 仕方がないから左腕で掴んで止めて、その腹へと殴るようにしてのこぎりを叩きつけた。

 

 皮が破れ、血に渇いた獣が叫ぶ。

 もっと聞きたいと思って今度は胸にのこぎりを叩きつける。

 すると深々と埋まった刃が肋(あばら)を叩き折るような音がして、何故だか今度は獣が叫ばなかった。

 不満だからまた振り下ろそうとすると、腕がうまく動かないことに気がつく。

 面倒だと思いながら視線を向ければ、獣の左爪が右腕の肉を根こそぎに抉り取っているのが分かった。

 

「…………」

 

 仕方がないから左手に持ち変える。

 なたにしつつ肩口から腹にかけてを深々と切り裂くと、血に渇いた獣はかすれた叫びを上げて後退した。

 逃がすものかと地を蹴ろうとするが、今度は足がうまく動かない。

 確認すらせずに血を入れて、治癒を待てずに走り出す。

 すぐ前に立つと獣は毒液を撒き散らしたものの、それを跳躍で突っ切りのこぎりで首を斬った。

 

「――――!!!!」

 

 すると獣がまた叫ぶ。

 まだ叫べるじゃないかと驚いた。

 叫べないフリをして騙すとは。

 

 血に渇いた獣が両手を広げ、飛びかかってきた。

 真っ黒に染まった視界の中で動き自体はなんとか見えたが、唐突に体が動かなくなって口から血がこぼれてくる。

 

「…………」

 

 隙をつかれて地に押さえつけられて、髑髏の口が噛み付こうと迫ってきた。

 さらに掴まれた体には深く爪が突き立つ。

 

 ✕✕✕✕は即座にのこぎりを捨て、右腕で獣の喉を掴みその攻撃を押し止めた。

 そして空いた左手で血を入れたあと、少しだけ回復した視界の中でそのまま両手で喉を握る。

 

「あ、ああ……がああぁぁぁぁぁ!!!!」

 

 咆哮し、両手に渾身の力を込めて強靭な喉を握り潰した。

 すると噴き出した返り血で体の傷が塞がっていき、獣は逃れるようにして後ずさった。

 

 その隙を逃さず✕✕✕✕は立ち上がる。

 そしてのこぎりを拾う間も惜しんで右腕を振りかぶり、いつの間にか鋭い爪を得ていたそれを腹の傷へとねじ込んだ。

 

「――――――――!!!!!」

 

 それは絶叫だったが、耳で小さく弾けるような音がして何も聞こえなくなった。

 突き込んだ右手が臓物に触れているのが分かって、✕✕✕✕は温かいそれを少しでも多く掴むために慎重に慎重にゆっくりと握る。

 

「死ね……死ね、死ねッッ!!」

 

 衝動のままに叫んで✕✕✕✕は血に渇いた獣の臓物を引き抜いた。

 すると反動により血に渇いた獣は吹き飛び、もう起き上がることはなかった。

 

「う、あ……」

 

 その死体を眺めていると不意に痛みが帰ってきて、✕✕✕✕もくずおれる。

 冷たい床に身を横たえて、もう指一本動かせなかった。

 

 戻ってきたはずの毒の痛みすらもはや遠く、少しずつ意識は闇へと沈んでいった。

 

 ―――

 

 

 

 

 

 

 

 ……嫌な夢を見た。

 人を殺す夢だった。

 

 最初は小さなナイフが得物だった。

 だが成長を重ねるにつれて武器は変わっていった。

 ある時は刃物を片手に、ある時は銃器を頼りに。

 一度や二度ではなく、何度も何度も殺しを行っていた。

 理由は分からないが、恐らく身寄りのない孤児が生き残るには悪に染まるしかなかったのだろう。

 

 しかし今にして✕✕✕✕は思うのだ。

 果たして自分に、何人も他人を殺してまで生きる価値があったのだろうかと。

 

 

 

 

 

 

 ―――

 

「起きたかね?」

 

 そんな声で目を覚ます。

 かすかに光が見えていた旧市街も今は陽が落ちて、暗い夜の空が仰向けの視界に見えた。

 

「……デュラ」

 

 身を起こすと、デュラが隣に座っていた。

 そして安堵したような表情で✕✕✕✕を見下ろしていた。

 

「俺を殺さないのか?」

「……馬鹿を言うな」

 

 そう言って、デュラは顔を歪めた。

 なんとなく後ろめたくて視線を逸らし、✕✕✕✕は話題を変える。

 

「ここは?」

「旧市街にあるいくつかの隠れ家の一つだよ。見ての通り、屋根が壊れているので寝泊まりには使わないが」

「そうか」

 

 自然治癒によるものか、それとも他に理由があるのかは分からなかったが毒はもう抜けているようだった。

 ヤーナムらしからぬ涼しい夜風が頬を撫でて、✕✕✕✕は何故だか胸が締め付けられるような気がした。

 

 たとえ本人の意思を無視したエゴの結果でしかないにせよ、誰かを救えたのだという事実が嬉しかったのかもしれない。

 

 夜風に吹かれて空を見上げていると、デュラが唐突に問いを投げかけてくる。

 

「ところで貴公、先の戦いで獣血の丸薬を飲んだか?」

「……それは?」

「一時的に獣に近づく薬だ」

「…………」

 

 戦いの中で感じた狂気じみた熱を思い返す。

 確かにあの異様な感覚は人間らしからぬもので、獣のものだと言われればなんだか納得できる気がした。

 それに実際得体のしれないものは飲み下したし、恐らく✕✕✕✕はそれを飲んだのだろう。

 

「多分、そうかもしれない」

 

 ✕✕✕✕がそう答えると、デュラは怒りを押し殺すように言葉を吐き捨てた。

 

「馬鹿なことを……!」

「?」

「貴公、あれは禁忌なのだ。もう二度と口にすべきではない。いつか獣に成り果てるぞ」

「…………」

 

 その言葉に✕✕✕✕は黙り込む。

 獣になるなど御免だったし、狩人の獣……殺しても死なない獣など悪夢以外の何物でもない。

 だからできれば口にしたくはないが、あの丸薬が手元にあって、それから必要に迫られたならまた飲むかもしれないと思った。

 

 あの丸薬は攻撃性の増大と痛覚の遮断により防御力を落とすが、その欠点を補ってなお余りある力を与えてくれるのだから。

 

 しかしそれを言うのは躊躇われて、代わりにずっと気になっていたことを尋ねてみることにする。

 

「なぁ、デュラ」

「なんだ?」

「あんたは俺のことを優しいと言っていたが、どうしてなんだ?」

 

 ✕✕✕✕には分からなかった。

 さっき見た夢の中で、✕✕✕✕はまともなままで獣と同じことをしていた。

 そんな獣もどきの人間が……デュラがそれを知らないとはいえ、どうして優しく見えるのかが分からなかった。

 

「俺はこの街に来る前悪人だったんだ。どうしようもないクズだったんだ。優しくなんてないんだよ、俺は」

 

 ✕✕✕✕がそう言うと、デュラは黙り込む。

 そしてしばらくしていっそ意外なくらい優しく語りかけてきた。

 

「私は、貴公を殺しただろう?」

「ああ」

 

 確かに殺された。

 あの時はわからなかったが、恐らくは杭打ち機で頭を粉砕されたのだろう。

 とても痛かった。

 

「だが貴公はそれに痛みをもって報いることはしなかった。殺したくないから話を聞いてくれと言ったんだ」

「…………」

「妙な話だが、貴公は分かっていたのだろうな。私が死ねばもう取り返しがつかなくて、自分の死は取り返しがつくものなのだと。……自分の痛みを差し引いて他者の命を愛おしむことができる人間など、この世界にそうはいないさ」

 

 その言葉はあまりに真っ直ぐだった。

 それが何故だか申し訳なくて仕方がなくて、✕✕✕✕は拳を握りしめる。

 

「違う。俺は多分……人殺しもしたことがある。俺は……」

「なぁ、貴公」

 

 不意に言葉を遮られて、それからデュラがあまりに真剣な表情をしていて、それで✕✕✕✕は何も言えなくなる。

 

「私は貴公の過去など知らない。……しかし、それでも一つだけ言えることがある」

「…………」

「貴公は自分で思っているより、ずっといい人間だよ」

 

 もうなにも言い返す気がしなかった。

 握りしめていた拳から力が抜けて、小さなため息が一つ漏れる。

 

「帰ろう」

 

 そう言って立ち上がると、デュラも何も言わずに腰を上げた。

 ✕✕✕✕はそばに置かれていたのこぎりと銃を拾い、隠れ家の外へと歩き始める。

 

 ―――

 

 アルフレートと合流した後、旧市街の出口までデュラたちは見送りに来てくれた。

 旧市街の入り口の大きな門の前、別れの前に束の間言葉を交わす。

 

「獣を守るために残るなど、教会は認めないと思いますが」

「まぁ、監視とでも言うさ。駄目だったらまた考えるよ」

「……そうですか」

 

 まだ少し棘が残る態度で上に来るようにアルフレートが言う。

 しかし彼らは断って、二人してここに残るつもりのようだった。

 

「本当に残るのか?」

「ああ」

 

 ✕✕✕✕の問いにもそう答えて、デュラはわずかに微笑んだ。

 

「私は戻らない。……だがここにいて、それで貴公をいつでも歓迎する。夜が明けたら今度は貴公が私に食事を振る舞ってくれ」

「……俺が?」

 

 料理などろくにした覚えもないが。

 

 ……だがまぁ立ち寄ってみるのはいいかもしれない。

 無論夜が明けて、お互い生きていたらの話だが。

 

「ああ、分かった」

「楽しみにしている」

 

 今度こそ満面の笑顔を浮かべてデュラは楽しみにしていると口にした。

 

「……行きましょう」

「ああ」

 

 アルフレートの言葉を受けて、✕✕✕✕ももう行くことにする。

 すると別れを察したのかデュラがまた口を開いた。

 

「血族狩りアルフレート、使命を果たしたまえよ」

「言われるまでもありませんが、お気遣いには感謝します」

 

 親しげな色こそない声だが、もうそこには突き放すような気配はなかった。

 アルフレートも少しは彼らのことを許すことができたのかもしれない。

 夢を見ない身では、殺されたことを完全に許すのは中々難しいのかもしれなかったが。

 

「それから、貴公」

「…………」

 

 次に✕✕✕✕へと視線を向けて、デュラが語りかけてくる。

 そしてなにやら先端に布を巻き付けた棒のようなものを差し出してきた。

 

「これは?」

「これは獣狩りの松明。後輩への餞別さ。いずれにしろ、私にはもう不要なものだからな」

 

 受け取って、つぶさにその様子を確かめてみる。

 夜の狩りの中で、松明は確かに役立つものだろう。

 背中の銃を吊るベルトに挟んでおいて礼を言った。

 

「ありがとう」

「気にすることはない。貴公には二つ分の命の借りがあるのだからな」

 

 そう言ってひとしきり笑った後、おもむろにデュラは✕✕✕✕の背後を指さした。

 

「どうした? 狩人に繰言は不要だろう。……さあ、もう行きたまえ。夢見るは一夜だ。悔いのないようにな」

「…………」

 

 それには答えず、アルフレートと✕✕✕✕は踵を返す。

 そして二人並んで旧市街の外へと歩き始めた。

 

 

 




一段落つきました、お読みいただいてありがとうございました。
次は短めの墓地街になって、その次にエミーリアで月夜になります。
主人公の過去は村の生き残りベースで暴力的過去の側面もあるのかもしれません。
ステータスもそれに準じる形になるのでしょうか。 

もう気づけば連載も一年超えということで、改めてお付き合いいただいてありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

25

 旧市街から帰還して、✕✕✕✕とアルフレートはオドン教会に戻ってきた。

 

「…………」

 

 そして入り口のすぐ左、椅子に腰かけて座り込んだあの……たった一人避難させることができた老婆へと視線をやる。

 すると彼女は目を血走らせてこちらに向けて怒鳴り声を上げた。

 

「なんだい……近寄らないでおくれよ! あたしゃあ知ってるんだからね!」

 

 なにを知っていると言うのか。

 とにかく相変わらずの様子だったのですぐに目をそらしてしまう。

 関わらないのが一番だろう。

 

「あなた、これからどうなさるんですか?」

 

 肩をすくめ、教会の右手にある扉の前に立ちアルフレートが言う。

 えらく凝った装飾が施された扉だが、恐らくは旧市街で手に入れた鍵で開くのだろう。

 

「とりあえずは聖堂街に行くつもりだが……あんたは?」

 

 あんたは、と。

 そう問い返すと彼は深く頷いた。

 そして顎をさすりつつぽつりぽつりとこの先の予定を語り始める。

 

「私も聖堂街に向かうつもりです。……しかし私の使命は血族狩りで、獣の狩人の手を煩わせるわけにはいきませんからね。ここで別れることにいたしましょう」

「そうか」

 

 そう言って、✕✕✕✕は鍵を取り出してアルフレートに渡す。

 

「ならあの扉を開けておいてくれ。俺は一度夢に帰る」

 

 弾丸やら血やらが欠乏しているし、それは必要なことだったのでそう言う。

 すると鍵を受け取り、アルフレートは妙に堅苦しい礼をした。

 

「ありがとうございます。あなたには本当に助けられました」

「いや、俺も……」

 

 真摯に感謝を言葉にする彼に、少々たじろぎながらも✕✕✕✕は答えようとした。

 しかしアルフレートが懐から何かを取り出して、それで言葉が止まってしまう。

 

「それは?」

「発火ヤスリです。どうぞ、お近づきの印に」

 

 朗らかに言ってアルフレートが渡したのは、小さな火の粉が燻る紙ヤスリだった。

 

「これで武器を擦ればその刃に炎を纏わせるでしょう。獣を相手にするならば有効な狩り道具です」

「なるほど、助かる。ありがとう」

 

 先に渡してくれれば血に渇いた獣の相手がどれだけ楽だったか……。

 

 そんなことを思うが、もう済んだことである。

 だから口には出さず礼を言うと、アルフレートは表情を緩ませた。

 そして踵を返し扉へと手をかける。

 

「それでは、また。素晴らしい協力でした。あなたに血の加護がありますように」

「ああ。ありがとう」

 

 ✕✕✕✕は短く答えて引き返し、教会の中央の灯火に触れる。

 それから背後で重々しく扉が開く音を聞きながら、まどろむようにして夢へと沈んで行った。

 

 

 ―――

 

 空の白んだ優しい庭園。

 目を開くと、✕✕✕✕は狩人の夢に立っていた。

 

 破れていた装束も疲れた体も何もかもが欠けていたものを取り戻し、満ち足りた空気に心が安らいでいく。

 何度来ても不思議な場所だと眺めていると、そこで一つ気がつく。

 

 人形の姿が見えないのだ。

 

「…………?」

 

 いつも……とは言っても大した回数ではないが、それでも彼女はいつも墓石のすぐそばで✕✕✕✕を待っていてくれたものだが。

 

 別に待っていなかったことを咎める気などなかったが、少し気になって周囲を探す。

 すると遠く、緩やかな坂の上の一つの墓石の前に人形が跪いているのが見えた。

 

「…………」

 

 なんとなく足音を忍ばせて近寄ると、彼女はどうも小さな声で祈っているらしかった。

 

「夢の月のフローラ。小さな彼ら、そして古い意志の漂い。どうか狩人様を守り、癒してください。あの人を囚えるこの夢が、優しい目覚めの先ぶれとなりますように……」

 

 言葉の意味はよく掴めなかったけれど、✕✕✕✕の無事を祈ってくれているのだろうか。

 そう思うと何故だか声をかけることが躊躇われて、なにも言えないまま跪く人形の後ろに立っていた。

 

 するとやがてこちらに気がついたのか、慌てて腰を上げて人形が振り向く。

 そして少し申し訳なさそうに眉を下げて一礼した。

 

「ああ、お帰りなさい、狩人様。……お許しください、聞き苦しいものをお耳に入れてしまいました」

「いや……ありがとう」

 

 そう答えると、人形は不思議そうにこちらを見てくる。

 しかしあまりに真っ直ぐに見つめる視線がこそばゆくて、✕✕✕✕は別な話題を持ちかけた。

 

「……ところで、今はなんの神に祈っていたんだ?」

「神、ですか」

 

 呟いて、人形は瞳を伏せた。

 その様子にもしかして神様を知らないのかと思いあたり、✕✕✕✕は問いを重ねる。

 

「神を知らないのか?」

「いいえ、知っています。幾人かの狩人様から、教会の話を聞きましたので。神と、神の愛のお話を……」

 

 顔を上げ無表情でそんなことを口にする彼女に、✕✕✕✕はなんとなくの質問を投げかけてみた。

 

「それで、どう思ったんだ」

 

 ✕✕✕✕は神など信じていない。

 この街で起きている様々な異常も、神というよりは悪魔の所業といったほうが頷けるのだし。

 

 しかし先程も熱心な様子でなにかに祈っていた彼女が神についてどう捉えるのかには興味があった。

 だから答えを待っていると、人形は淡々と口を開く。

 

「神と信仰という概念は理解しています。しかし、私はそれを信じることはできませんでした」

「何故?」

 

 何故と言うと、人形は無表情の裏で少しだけ躊躇った。

 しかし幾度かの呼吸のあとに答えを口にする。

 

「私は……神はきっと、人を愛してなどいないと思うからです」

 

 どこか確信を持って紡がれた言葉。

 神の存在を否定するでもなく、その愛のみを偽りだと断じた発言の意図が理解できないでいると、彼女は更に語る。

 

「造物主はきっと、被造物を愛することなどありません。私は、あなた方、人に作られた人形です。……でも、あなた方は、私を愛しはしないでしょう?」

 

 恨みもなにもなく、至極当然のことのように人形は口にした。

 それから✕✕✕✕がなにか言う前に言葉を続ける。

 

「逆であれば分かります。私は、あなたを愛しています。造物主は、被造物をそう作るものでしょう……」

「…………」

 

 人が人形を愛さないのだから、神も人を愛さないはずだ。

 しかし人形は人を愛していて、だから人も神を愛しているのだ。

 

 どうやらそれこそが信仰の正体なのだと彼女は言いたいらしい。

 

 なにへ向けて祈るのかと、最初に尋ねた言葉すら忘れて✕✕✕✕は黙り込む。

 人ではなく、人形にとってあまりに救われない回答だったから。

 

「俺は、君にはよく世話になっていると思う」

「?」

 

 人形がまた不思議そうに首を傾げる。

 ✕✕✕✕は自分でも思いがけないことを口にしてしまったことで少し焦るが、それでもなんとか言葉を継いだ。

 

「いや……君のおかげで強くなれたし、こうして無事も祈ってもらっている。この場所の案内をしてくれたのもそうだし、きっと他の狩人だって同じように君の世話になっていたんだろう? ……だから神のことは知らないが、人が人形を愛さないとは限らない」

 

 デュラの真摯さに少し影響されたのかもしれない。

 口をついたのは、我ながら恥ずかしいセリフだった。

 一つ咳払いをして、気まずい沈黙を煙に巻いた。

 

「……すまない、妙なことを言った。ゲールマンは家にいるかな?」

 

 ✕✕✕✕は謝罪して、ゲールマンの行方について切り出す。

 人形は礼をするといつも通りの様子で答えた。

 もしや恥じているのを察して今の発言は忘れてくれるつもりなのだろうか。

 

「はい。今はおられると思います」

「そうか、助かる」

「……あの」

 

 簡潔に謝意を示し、足早に立ち去ろうとする。

 しかし不意に人形が呼び止めてきたので家の入り口で足を止め振り返った。

 

「ありがとうございます、狩人様」

「…………」

 

 無表情だった。

 だから何を考えているのかは分からないが、それでも彼女には思うところがあったのかもしれない。

 ✕✕✕✕もなにか答えようとしたのだが、この程度のことではどうも恩着せがましく感じたので小さく頷くだけに留めておく。

 

 そして家の中に入ると、車椅子に腰掛けて暖炉にあたる老人……ゲールマンがいた。

 

「聖杯らしきものを手に入れた」

 

 挨拶もなしに用件を切り出した✕✕✕✕に、車椅子の車輪を回してゲールマンがゆっくりと振り返る。

 そしてその茫洋とした視線をこちらへと彷徨わせた。

 

「これだ」

 

 床で騒ぎ立てる使者たちから預けていた聖杯を受け取る。

 きちんと保存してくれていたのはありがたいが、まぁ値上げの恨みとチャラといったところだろうか。

 

「ありがとう」

 

 しかし一応礼を言うと、また不気味に笑って使者たちは消える。

 

「……それを、どこで?」

 

 ✕✕✕✕の手にする聖杯を見て、ゲールマンは少し驚いているらしかった。

 

「旧市街の祭壇で」

「そうか、そんなはずはないのだけれどね」

 

 穏やかな声で否定めいたことを口にする意図が分からなくて、✕✕✕✕は眉をひそめる。

 

 彼が教えた聖杯のありかから✕✕✕✕が持ち帰った。

 ならばそこに間違いなどあるはずもないのに。

 

「いや、気にせずとも構わない。聖杯とは本来地下遺跡へ繋がる道だが、この聖杯はその道の先が少し違うだけなのだから」

「…………」

 

 この老人は思わせぶりなことばかりを口にするので、もう訳がわからないだのなんだのと言う気にはならなかった。

 だから『説明しろ』と、視線だけで意思を伝えるとゲールマンは笑った。

 

「まぁ、簡単に言えば今の君はこの聖杯を使えないし、使ってもあまり意味がないということだよ。助言が外れてしまって申し訳ないのだが」

「はぁ……」

 

 別に旧市街へ聖杯を取りに行ったつもりはないが、期待していなかったといえば嘘になる。

 だからか急に徒労感に襲われてため息を吐くと、ゲールマンは車輪を回して近づいてきた。

 

「しかしこれも……いや、こちらの方があるいは役に立つものかもしれない。だが今の君には無用の物であるのも確かだ」

 

 そう言ってゲールマンは✕✕✕✕の聖杯へと手を伸ばす。

 

「まぁこれもなにかの縁だ。万が一君がこの聖杯を必要とする時が来たら、私が使えるようにして返そう。どうだね? 悪い話ではないと思うのだが」

「使えないならいらない。好きにしてくれ」

 

 そう言って✕✕✕✕が渡すと、ゲールマンは受け取って頷いた。

 

「ありがとう。では代わりに一つ、先人の遺言を伝えておこう。……『オドン教会を上りたまえ』、だ」

「今度はどんなややこしい話なんだ?」

 

 少し疑いつつ返すと、ゲールマンは愉快そうに笑った。

 

「そう胡散臭い話でもないとも。君、あまり年寄りを邪険にしてはいけないよ」

「それで、どんな話なんだ?」

「ああ、そうだね。……医療教会、今やそう呼ばれる血の医療者たちは狩人の庇護者でもあり独自の工房を持ち、過去には武器を作っていた」

「なるほど」

 

 聞いた通りだろう。

 この街の医療者、あるいは教会の聖職者は武器を作り狩人を助ける使命を帯びていたと。

 

 珍しくすんなり理解できたので先を促すと、すぐに続きは語られた。

 

「……彼らの多くは、もはや狩人を忘れているようだが、それでも、工房の名残りは狩人の役に立つものだ。だから君も、その場所を目指すといい」

「目指すために、オドン教会を登れと?」

「その通りだ。理解が早くてよいね」

「鍛えられている。おかげさまで」

 

 なんにせよ思い違いというものはあるものだ。

 別に積極的に迷惑はかけられていないのだし、旧市街の間違いの件は忘れることにして✕✕✕✕は礼を言った。

 

「俺はもう行く。ありがとう」

「気をつけたまえよ。工房への道はもはや崩れているだろうからね」

「分かった」

 

 そう答えて✕✕✕✕は踵を返す。

 物資を補給したら聖堂街に向かい、この忌まわしい夜を終わらせる手段を探す必要があった。

 

 

 ―――

 

「……開かない」

 

 オドン教会の脇、アルフレートが開けていた扉を通って✕✕✕✕は確かに上へと登った。

 しかし塔の先の道は閉ざされていて、とてもじゃないが先に進めそうにはなかった。

 

「……ボケてるんじゃないだろうな」

 

 なにが登りたまえ、だ。

 内心に毒づいたところでアルフレートの言葉を思い出す。

 

 ここには上層と聖堂街に続く抜け道を開く鍵があるのだと、彼はたしかにそう言っていた。

 ではこの扉は上層への道で、聖堂街につながる道は他にあるのか。

 

「…………」

 

 上層に用はない。

 無理をして通ることも……ないだろう。

 

 思い直して、✕✕✕✕は引き返す。

 別の道を探さねばならなかった。

 

 獣の死体が点々と落ちる広間を抜け、下に降りるはしごを目指す。

 そして外に出たその時、✕✕✕✕は来るときには意識しなかった紙片の存在に気がつく。

 

『宇宙は空にある。「聖歌隊」』

 

 宇宙は空にある……なんとも身も蓋もない言葉だが、どこか気味悪さをも感じる物言いだ。

 率直にすぎるそれは狂人の気付きのような、✕✕✕✕には見えないものを覗いた誰かの言葉に思えた。

 

 ……考え過ぎだろうか。

 きっとヤーナムの、不吉な空気に当てられたに違いない。

 

 なんとなく視界の外へと消してしまいたくて、拾い上げたそれを塔の外へ向けてひらりと落とす。

 すると紙切れはすぐにヤーナムの闇の中に溶けていった。

 

 ―――

 

 道が崩れているとは甘い表現であったということを、✕✕✕✕は存分に思い知らされていた。

 見つけた道の先は、歩ける場所など一ミリもない大きな大きな縦穴だった。

 

 縦穴には建造物の残骸のような足場がいくつかあり、幸いすぐ下のそれには松明が据えられている。

 故にかすかな明かりに照らし出された足場に向け、✕✕✕✕は躊躇なく飛び降りる。

 

「…………っ」

 

 しかし内心ではやはり恐ろしい。

 何も頼るもののない空中を闇の中で落下するのだ。

 死に馴染んでいなければとてもじゃないが踏み出せなかっただろう。

 

 妙に長く感じた滞空の後、✕✕✕✕は無事に足場へとたどりつく。

 着地の衝撃でわずかに軋んだ薄い板に肝を冷やして、またそろそろと下を覗く。

 今度はもう少し近くに足場があった。

 わずかに安堵して飛び降りる。

 

「…………?」

 

 ひやりとする着地の後、✕✕✕✕は気がつく。

 ちょうど飛び降りた先になにやら道があるのだ。

 立派な扉もついていて、ここもかつてはなにか重要な場所として人々の出入りを受け入れていたのかもしれない。

 

「工房……そうか」

 

 思い当たり、扉を押し開けて歩き始めた。

 

 質のいい石造りの、これもかつての栄華の名残りを感じさせる階段を下る。

 そうして通路を抜けた先に広がっていた光景に、✕✕✕✕は思わず背筋を冷たくした。

 

「狩人の夢……」

 

 まさしく狩人の夢だった。

 空は暗く、遠くに聖堂街の景色が見える。

 心が安らぐような空気もないし、柔らかな土の庭園であったはずのそこは花が枯れて荒れ果ててしまっていた。

 

 しかしそれでも、一目見てわかるほどに外観が酷似しているのだ。

 石畳の道も、小さな屋敷も。

 すべてがぴたりと合致していた。

 

「…………」

 

 捨てられた工房を歩き、人形が立っていた場所で立ち止まる。

 しかし当然彼女はおらず、ただどこからかすすり泣くような声が聞こえるばかりだ。

 

 階段を上がり屋敷の中に入る。

 絨毯はなくなり、ささくれだった板の床がむき出しの姿を晒していた。

 炎の消えた暖炉は冷え切り、ところどころ剥げて骨組みを露わにした床の上には本が散乱している。

 

「人形……」

 

 思わず声を漏らした。

 荒れ果てた片隅にはあの夢にいた人形に生き写しの、文字通りの『人形』が無造作に転がされていたのだ。

 まるであの夢とこの工房が同じ場所だということを証明するかのように。

 

『……でも、あなた方は、私を愛しはしないでしょう?』

 

 話すことも動くこともない、ただの人形。

 その打ち捨てられた姿を見ていると、訳もなく無性にやるせなかった。

 

 汚れた人形の前に跪き、のこぎりを横に置いて肩に積もった埃を払う。

 そして絡まった髪を指ですいて慎重にほどいてやり、彼女をゆっくりと抱き上げた。

 

「…………」

 

 どこに運ぼうかと思案する。

 理由は分からないが夢に連れて行くことはできないと直感していて、だから✕✕✕✕にできることはそれだけだ。

 

「……ああ」

 

 屋敷の真ん中、暖炉のすぐ近くの出口に足を運ぶ。

 人形を横たえて、そばにあった椅子を引き寄せた

 それからまた人形を抱き上げ椅子に座らせる。

 

「…………」

 

 夜が明けていつの日か、何かの奇跡でこの場所にまた花が咲いたなら。

 きっと花を眺めながら人形はここに腰掛けていられるだろう。

 

 らしくもなくそんなことを思い、✕✕✕✕は踵を返す。

 そしてふと思い立ちすぐそばにあった棚の中を覗いてみた。

 

「……これは」

 

 そこにあったのは小さな髪飾りだった。

 美しい細工が施された優しさを纏う品物で、歯が欠けてもいないので少し汚れを払えばすぐにでも使えそうである。

 

 恐らくはそこに打ち捨てられた人形のために作られた物なのだろうが、これは夢にいる人形に渡してやるべきだと思った。

 

 この髪飾りにはどこか作り手が人形に向けた愛が宿っているように感じたから。

 だから人が人形を愛した証として持ち帰ってやるのがいいと思った。

 

 髪飾りを小物入れにしまう。

 それから他にもなにか人形にまつわる物がないか探していると、祭壇の上に干からびた……名状しがたい気配を纏う何かを見つけた。

 

 萎びた老婆の指のような質感の、ぐるぐるとうずまきをかたどる得体の知れない見た目。

 そして黒とも焦げ茶とも灰色ともつかない奇妙なくらい色合いに、生物的な印象を与える黒い球体が無数にはめ込まれている。

 

 手のひらに収まるほどに小さいが、明らかにまともではない。

 だが恐れるほどの物にも見えなくて、好奇に誘われた✕✕✕✕はつとそれに手を伸ばす。

 

 そして指が触れた、瞬間。

 

「うっ……」

 

 突如押し寄せた感覚の洪水に膝から崩れ落ちる。

 痛みでも苦しみでもなく、情報を処理しきれないことによる酩酊だった。

 

 蠢く、蠢く、脳が蠢き続ける。

 

「ぐ……あ、あ……!」

 

 揺れて縮んで広がってを繰り返すような、脳が見えざる手にかき回されているような。

 なんとも気色の悪い感覚は、段々と中枢へと収束しつつある。

 

「はあっ……! はぁっ……!」

 

 訳も分からずなんとか立とうと地面に腕をつき、しかし散乱していた本をさらに散らかすだけに終わる。

 頭を抑え、食いしばった歯の隙間から呻き声を漏らした。

 

「…………!」

 

 しかしそうして耐えていると、唐突に変化は終わりを迎えた。

 まるで幻のように脳の蠢きが消え、思わず脱力する。

 

「……なんだったんだ」

 

 寝返りを一つ打って、仰向けになり荒んだ工房の天井を見上げる。

 

 この工房には武器などなにもなかった。

 あったのはあの奇妙な物だけだ。

 

 もしやこれがゲールマンの言う役に立つモノなのだろうか。

 だとしたら彼は✕✕✕✕に何をさせたいのだろうか。

 

「…………」

 

 分からない。

 分からないが、もしかするとゲールマンは味方ではないのかもしれない。

 

 どこか肉体を変質させられてしまったような、そんな錯覚を引きずりながら立ち上がる。

 そしてのこぎりを拾い、最後にもう一度先程の何かへと視線を向けた。

 

 するとそれは跡形もなく崩れ去ってしまっていて、改めて気味の悪さを感じつつも✕✕✕✕はその場を後にする。

 

 ―――

 

 聖堂街に出た。

 縦穴の下層でやたらと強い獣に遭遇したので少し手間取ったが、あの難関を突破すれば早いものだった。

 道中の敵を始末しつつ昇降機を利用し、降りた先の足場めいた場所から飛び降りるとそこは聖堂街である。

 

 とりあえず毎回あの縦穴を通るのも億劫なので柵を開けながら街を下っていった。

 するとちょうどオドン教会の前まで来たところで、見知った人影を✕✕✕✕は目にした。

 

「ああ、あんたかい」

 

 オドン教会の横、隠れるようにして立っていた彼女……アイリーンはこちらに気がつくと声をかけてきた。

 対して✕✕✕✕は特に答えず歩み寄る。

 

「丁度いい。警告があるのさ」

「警告?」

 

 問い返すと彼女は頷いた。

 そしてまっすぐに見返してきながら✕✕✕✕へと言葉を返す。

 

「ヘンリック……古狩人が殺された」

「…………」

 

 ヘンリックとやらは知らないが、古狩人が殺されるほどの脅威だ。

 盲目的に恐れることはしないが、否応なしに気は引き締まる。

 

 すると✕✕✕✕の緊張を読んだか、喉に引っかかるような笑いを漏らしてアイリーンは続けた。

 

「あんたは賢いね。……ああ、ヘンリックは決して弱くはなかった。むしろかなり強い方さね。なのにほぼ一撃で殺された。あれほどの腕なら首を落とすのも難しくはなかっただろうに、わざわざ腹を引き裂かれてね」

 

 まるで血の中に何かを探したみたいに、死体まで壊されてさ。

 

 独り言のように続けられたその言葉を聞き届けたその時、✕✕✕✕の視線はふと虚空に囚われる。

 

「どうしたんだい?」

「いや……教会の壁になにかいるような気がしたんだが」

「なんだいそれ……大丈夫かい?」

 

 呆れたようにそう言って、それからアイリーンは一つ咳払いをした。

 

「まぁあんな殺し方をできるのは狩人だけだ。となるとあれは、私の獲物さね……。だけどあたしが始末するまでは、せいぜいあんたも気をつけるんだよ」

「獲物とは言うが、手がかりはあるのか?」

「ん? ああ……手がかりはあるし、容疑者もいる」

「容疑者?」

 

 その問いに、アイリーンは不意に噴き出した。

 そしてこらえきれないとばかりに笑い始める。

 

「クク……クククククッ」

「なんだ、どうしたんだ?」

 

 まさか自分がやったなどとは言わないだろうかと、わずかに尻込みしつつも尋ねる。

 それにアイリーンは笑いを止めて、低い声で答えを返した。

 

「それがね……あたしなのさ」

「なっ」

 

 狩人狩りの一環ならそれでいい。

 だが✕✕✕✕の知るアイリーンなら狩りの使命で殺したことをいたずらに他人を驚かせるような会話の種にはしない。

 そんな人の死へ不誠実なことはするはずもないのだ。

 

 身構えて、距離を取ろうとする。

 すると反応しきれない速度で手が伸びて、離れようとする✕✕✕✕の腕を掴んだ。

 

「……まぁ待ちな。やったとは言ってない」

「…………」

 

 その言葉に少し落ち着きを取り戻す。

 やってないというと、冤罪のたぐいだろうか。

 

「さっき狩人に襲われてね。聞けば烏羽の装束の狩人がヘンリックと……他にも数人を殺したんだそうだ。完全に犯人扱いで、殺しはしないが撒くために少し傷つけた。……あたしももう夢は見ない。殺されるわけにもいかないだろう?」

「…………」

 

 烏羽の装束の狩人が殺したと、そしてそれで犯人と決めつけられたと。

 ならば烏羽の装束は彼女の固有の特徴と見てもいいだろう。

 

「それで、手がかりとは?」

 

 しかしアイリーンがそんなことをするとは思えなかったのでさらなる情報を求めると、彼女は少し安堵したような声で答えた。

 

「下手人はヘムウィックの墓地街に向かったらしい。……向かったらしいというより、向かったんじゃないのかと聞かれたんだけどね」

「なるほど」

 

 そう言って、それから少し考えた。

 手練の狩人を容易く屠るような相手を、一人で追跡させていいのだろうかと。

 曲がりなりにもアイリーンには二度……あの橋で救ってもらった恩がある。

 

 夜明けをもたらす方法を調べる必要はあったが、墓地街とやらにも獣がいるのなら決して無駄な寄り道ともならないだろうし。

 

「墓地街に獣はいるか?」

「獣狩りの夜さ。そりゃあ、嫌になるほどいるだろうね」

「それは良かった。なら俺もあんたについていく」

 

 ✕✕✕✕がそう言うも、アイリーンは気が進まないようだった。

 

「……なぁあんた。あんまり、手を汚すんじゃあないよ。あんたは狩人。獣を狩ればいいんだ。狩人狩りなど、あたしに任せておけばいいのさ……」

「あんただって狩人狩りのくせに獣狩りに手を貸してくれただろう」

 

 ✕✕✕✕がそう言うと、彼女は実におかしそうに笑った。

 

「なんだい、上手いこと言うじゃないか。まさかあんたにやり込められるとはね」

「…………」

 

 冗談で言ったつもりはないのだが。

 ひとしきり笑い終えたアイリーンを見つめて、✕✕✕✕はため息を吐いた。

 

「気が済んだなら早く行こう。俺にも使命があるのは、あんたの言う通りなんだ」

 

 




色々とピンときた方も、多いかもしれませんね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

26

エタりません。
他の連載を十五万くらい進めたのでまた少しの間はこっち書くことにします。



 ヤーナムの街はおぞましさに満ちている。

 

 今や聖職者さえ狂ったものか。

 アルフレートが誇らしげに見せていた聖布を身に着けた者さえ狂気に堕ちた。

 そしてそうした敵に襲われつつも聖堂街を進んでいた。

 時に人外とさえ思われるような大男もいたが、アイリーンがいるせい……いやおかげであまり脅威には感じられなかった。

 

 狩人を狩り続けた彼女はきっと、古狩人の中でも特に狩りに優れているのだろう。

 

「気になるのかい? 無理についてこなくたっていいんだよ」

 

 と、そんなことを考えていた時。

 大聖堂前の階段を登っていた✕✕✕✕はそんなことを言われる。

 

 視線が無意識に聖堂へと引き寄せられていたらしい。

 実際のところ目的を目の前にして横道に逸れるのになにも思わないでもなかった。

 だが彼女には恩があるし、聞きたいことだって多くあるのだ。

 道を共にするのも今はいいだろう。

 

「……いや、気にしなくていい。行こう」

「いいんだね」

 

 あと一つ、たった一つ階段を進めば聖堂に踏み入ることはできる。

 しかし頷いてみせるとアイリーンは無言で歩き始めた。

 

 それは聖堂を前として左の道、奥まった洞窟へと続く脇道だった。

 

 階段を下りヘムウィックへと向かい始める。

 

「このあたりには銃を持った獣も多い……まぁ、今のあんたならそう心配はいらないだろうね」

「ああ」

「その装備を見るに旧市街に行ってたんだろう。少し見ない間に随分見違えたもんさね」

「…………」

 

 デュラのことを思い出しながら彼女の話を聞き流す。

 あの男にも何事もなければいいと思った。

 

 だがそんな考えに少しだけ違和感を覚える。

 なにせ✕✕✕✕は思い出したのだ。

 自分が獣のように人を殺していたことを。

 

 なのにこんな心配を巡らせて。

 善人かなにかのような振る舞いをしていると、殺めてきた顔すら思い出せない死体に責められるような気がした。

 

「考え事かい? でも獣が見えた。気をつけな」

 

 洞窟を抜けた。

 目の前にはまばらな木々が立つ広場がある。

 焚火がたかれて、獣の気配もあるようだ。

 犬の唸り声も聞こえる。

 

 しかし。

 

「待て。死体がある。誰かすでにこの場所を通ったようだ」

「……ああ」

 

 広場にはどうやら死体がある。

 徘徊している獣はほんの少数だ。

 そして死体は一筋の線上に点々と転がっていて、それが一つの道を浮かび上がらせた。

 

「ヘムウィックに行ったらしいね。となると、恐らくはあたしの獲物だ」

 

 多分そうだろうと思ったのでなにも言い返さなかった。

 すると羽が舞うような軽やかさでアイリーンが飛び出す。

 

「行くよ。なるべく早く追わなきゃならない」

 

 返事をする間もなく遠ざかっていく。

 そしてまたたく間に左の木の影にいた銃の獣を殺し、スローイングナイフで牙を立てようとした犬の脳を刺し貫く。

 

 それを見て✕✕✕✕も飛び出した。

 単に背を追うわけではない。

 アイリーンの陽動に引き寄せられ、阿呆のように銃に顔を寄せて狙いをつける獣の喉を裂くのだ。

 

「…………」

 

 あくまでアイリーンの影として。

 一つ一つ着実に射線を潰しながら彼女が切り開く道の安全を確保する。

 そうしていると先に大きな門が見えて、ヘムウィックへの道が✕✕✕✕にも分かってきた。

 

「死ね」

 

 また一匹、アイリーンの背を狙う獣の首をのこぎりでこそぎ落とす。

 さらに犬が駆けていこうとしていたので銃で撃ち抜く。

 

 道の方に目をやると彼女もすでに敵を片付けていた。

 

「……終わったか」

 

 もう脅威はなさそうなので墓地街に入れるだろう。

 そう判断して✕✕✕✕はアイリーンのもとへと坂を下り歩いていく。

 重そうな門をこじ開けているので手伝ってもいいかもしれない。

 

 しかしそんなことを考えていた時、唐突に背後でおぞましい気配を感じて反射的に振り向く。

 

「!」

 

 …………。

 

「…………?」

 

 背後には何もいなかった。

 ただ不吉な風が吹き抜けて、広場の草を弱くそよがせた。

 どうやら勘違いだったと結論づけて、✕✕✕✕はまた歩き始める。

 

 ──―

 

 墓地街には死屍累々の光景が広がっていた。

 アイリーンと✕✕✕✕が辿り着いたときにはすでにおびただしい数の獣たちが死体を晒していた。

 数にして十五はいるだろうか。

 

「……これは」

 

 あのアイリーンが声を失っている。

 こうして殺しの痕跡を目の前にすれば、✕✕✕✕にも標的の危険性が伝わる。

 

 正直なところ驚いている。

 これほどの群れを正面から抜ける人間がいるなどとは思わなかった。

 

「すまない、灯火をつける」

「ああ」

 

 それはともかく灯火があったので触れておく。

 いつものように火がついて、見慣れてきた使者たちが顔を出す。

 見た目はともかく不気味な笑い声は今でも聞き慣れない。

 

「行こう」

「分かった」

 

 歩き出したアイリーンの背中は警戒して気を張っているように見える。

 そんな彼女を尻目に、✕✕✕✕は墓地街の風景に視線を巡らせた。

 

「…………」

 

 ここは旧市街と同じようにまだ日が見える。

 とはいえ他の場所と変わりなく暗く淀んだ気配が満ちた場所なのだが。

 

 まず墓地街と言うだけあって林立する墓の群れが目を引く。

 街の外側を覆うように墓がそそり立っている。

 そして岩がむき出しになった足元の悪い道と雑草の塊。

 脇にはギロチンが放置され、右に目をやると死体が吊るされているようにも見える。

 さらにところ狭しと獣の死体が転がされていて、沈みかけの夕日が血まみれの普段着を黄色に照らし出していた。

 

「見な、銃で一撃だ。……死ににくい獣がだよ」

 

 死体の一つのそばにしゃがみアイリーンがそう言った。

 その獣は素朴な……とはいえ汚れきったエプロンドレスを着た中年の女性に見えた。

 焼けた槍を手にしたまま、頭を抉りぬかれて死んでいる。

 

 ……これは、弾丸によるものなのか。

 にしては少し不自然だった。

 

 なにせ抉られた形は微妙に円形からずれているように思えたから。

 疑念をかぎとったように言葉が続けられる。

 

「弾丸は二発だ」

「一撃と言わなかったか?」

「ああ。一撃(・・)で二発さね。教会の武器にそういうのがある。あれは本当なら同じ場所に連続で二発放たれる。……でも、これは流し撃ちで少し弾道がズレてるね」

 

 それで一撃の弾丸がくり抜いたにしてはいびつな傷がついていたようだ。

 

「なるほど」

 

 アイリーンは死体から様々なことをかぎとったらしい。

 流石に人の殺しの手法には詳しいようだ。

 

 ……かいつまんで言うならば今分かったことは三つ。

 

 まず敵の弾丸の威力は常軌を逸していること。

 流し撃ち……すなわち素早く照準を動かしながら標的が射線に入った一瞬で撃ち抜いてみせる技量もあること。

 教会の武器を使っていること。

 

 この三つだ。

 

「また教会の気狂いか?」

「……いや、そうとも言い切れない」

「どういうことだ?」

 

 ✕✕✕✕が問いかけてもすぐには答えなかった。

 他の死体にも少し視線を巡らせ、立ち上がって歩き始める。

 その横に並んで同じように歩いていると彼女はぽつりぽつりと語り始めた。

 

「あまりに銃の威力が強すぎる。不自然だ。……あれじゃ下手な狩人でも即死さ」

「…………」

 

 知識がない✕✕✕✕にはその言葉が何を意味するのかが分からない。

 同じ視点に立って考えることができない。

 

 それに気がついたのか、アイリーンは小さくため息を吐く。

 

「いいかい。普通の弾丸じゃ獣は殺せない。だからあたしたちは水銀に血を混ぜて固めた弾丸を使う」

 

 ✕✕✕✕も使っている水銀弾だ。

 ここまでは分かる。

 

「あれは血と触媒の水銀で、弾丸に仕込まれた秘儀を発動させてる。だから普通の弾丸とは比にならない威力の銃撃になる」

 

 分からない言葉もあるが、(まじな)いのようなものと解釈し聞き流す。

 要点を聞けばいいのだ。

 今は追跡のさなかで、時間はあまりないのだから。

 

「……それ自体は獣狩りの市民が持っているように広く流通してるものだ。でも血の質に優れた狩人は自分の血を弾丸に混ぜる。そうすることで威力を高められる」

「弾丸の威力から見て、聖職者よりは狩人に近いということか?」

 

 ✕✕✕✕の質問には答えが返ってこなかった。

 ペストマスクの横顔を見る。

 単に無視しているというよりは迷っているように見えた。

 まだ断定できない要素が多くあるのだろう。

 

 そんなことを思いつつ前に視線を戻した。

 階段をのぼって少し開けた場所に出る。

 すると先ほど感じた不吉な気配が、より強く、より確かにまた押し寄せてきた。

 

「…………」

「……なにかあったかい?」

 

 不意に足を止めた✕✕✕✕に訝しげな目が向けられる。

 しかしそれすら忘れて前方の一点を凝視していた。

 

「アイリーン、あれはなんだ?」

 

 今度は気のせいではなかった。

 赤い光が見えた。

 本能的な不快感を引き起こす赤が。

 

あれ(・・)? 何を言ってるんだい」

「見えないのか? すぐそこにあるだろう」

 

 思わず少しだけ声を荒立ててしまった。

 アイリーンはひたすら戸惑ったようにこちらを見ている。

 輝きはどんどん強さを増している。

 

 頭の中で騒がしい音が響き始める。

 あの光を見ていると思考が乱れて仕方がない。

 手が震え始めた。

 

「あんた……一体どうしたんだ?」

 

 そうしていると赤い光の中から細長い手が生え伸びてきた。

 真っ黒に塗りつぶされた人影が少しずつ這い出てくる。

 

 土が絡まった木の根のような質感の乱れ髪。

 光を吸い寄せるような闇色の体。

 老いさばらえた老婆のように乾ききった口元。

 けれどそれだけは異様な輝きを帯びた大きな目。

 左手に持つ歪曲した刃物。

 やせ細った手足。

 腰に巻かれた汚らわしい布。

 

 全貌が現れた時✕✕✕✕は動けなくなった。

 赤い光の中に立つその異形を見ていると正気が削られていくような頭痛がした。

 

「……っ!」

 

 前のめりになって空をかきむしるような。

 狂乱の動作でまたたく間に距離を詰められる。

 飛びかかってきた異形に首を絞められ、遅れながらも反応した✕✕✕✕はナタを振った。

 すると刃物を振り上げていた左腕に当たる。

 肉を削いだ感触はこの世のものとは思えないほどに気色の悪いものだった。

 

 続けて一撃を放つ。

 今度は首を捉えた。

 しかし同時に恐ろしい力で首元を掴まれたままねじ伏せられる。

 地面に押し倒され、頭を強打した✕✕✕✕は意識が遠のくのを感じた。

 

「────!!」

 

 アイリーンがなにかを言っているのが聞こえる。

 

 やられはしなかったが相打ちになった。

 助けに来たというのに迷惑をかけてしまった。

 ぼやついて揺れる視界の中、覆いかぶさった形の異形が目を覗き込んできた。

 もうすでに体が崩れ始めているようなのでとどめはもらわずに済むだろう。

 しかしその砂嵐のような白を見つめていると、✕✕✕✕の頭の中に狂気が満ち始める。

 

「…………」

 

 過去の罪を糾弾する声が聞こえては遠ざかり、不快な視線を押しのけようと伸ばした手は血に染まっていた。

 思わず身をすくませると異形はすぐに消え去った。

 

 だが幻覚と幻聴は消えることはなく、✕✕✕✕は幻に苛まれながら意識を手放した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

27

 ひどい雨の夜だった。

 街外れの路地裏の陰で、傘もささずに立ち尽くしていた。

 そうして人を待っているのだ。

 命を奪う相手を。

 

 雇い主が標的が乗る貸馬車の御者を買収しているので、じきにこの路地裏に来るだろう。

 

「…………」

 

 どこか遠くから楽しげな音楽が聞こえてくる。

 今日は祭りかなにかをやっていただろうか。

 ……こんな雨の中?

 しかしいずれにせよ自分の人生には関係のない話だった。

 

 近頃酷くなった病の咳に背を揺らしながらそう思う。

 息をするだけでぜいぜいと音がする。

 生きていると息苦しくてたまらなかった。

 

「ここで止まるだと?! どうなっている!」

「すみません、お客さん。馬の足の具合が良くないみたいでして。代わりの馬をやりますんでちょっと待っててくださいな」

「……まったく! 代金は払わんからな!!」

 

 足を引きずる馬を連れて御者が雨の中遠ざかっていく。

 馬は足を引きずっているが、その足は隙を見て御者が傷つけたものだろう。

 

 放置された馬車を見ていると、恰幅のいい背広の紳士とドレスを着た少女が出てきた。

 まだ小さな女の子だった。

 随分とはしゃいでいる。

 この世の不幸の味など何一つ知らないように見えた。

 

「パパ、外に出たいわ! こういうとこ初めて見るの!」

「路地裏なんぞ卑しい連中が住む場所だぞ。……だがまぁ、見たいと言うなら傘を開くから少し待ってくれ」

 

 幸せそうな親子だ。

 父親は金のある商人で、国に委託されて専売の品を売りさばく者たちの一人だった。

 だが国の許諾を振りかざして、富のために過剰に闇取引を取り締まるものだから死ぬことになった。

 

 見せしめに酷(むご)く殺すよう言われている。

 

 手の中に折りたたみナイフを隠して歩き始める。

 

「どうだい、お姫様。この場所は気に入ったかね。気に入ったなら引っ越そうか」

「ひどい。パパの意地悪」

 

 傘をさして寄り添った親子は路地裏の汚い家々を物珍しそうに見て回っている。

 背後につけて、足音を殺した。

 

「でもなんだか怖くなってきちゃった。早くお馬さんが来てくれないかな」

「大丈夫だよ。いざとなったらパパはピストルを持っているからね」

 

 楽しそうに笑っている。

 もしかすると祭りにでも向かうつもりだったのかもしれない。

 こうして近づくととても着飾っていることが分かる。

 

 踏み込んだ。

 

「ぐっ……」

「パパ!」

 

 背後から肝臓を突き刺す。

 

「貴様……!」

 

 傘が落ちた。

 手が懐に伸びる。

 ピストルを持っていることは分かっていた。

 撃たれる前に首をへし折る。

 銃が落ちた。

 

「パパ! パパ!! いやっ! やめて!!」

 

 少女の悲鳴が聞こえる。

 人払いは済ませてあるので問題はない。

 力なく倒れた死体にナイフを突き立てた。

 何度も突き刺す。

 とはいえ渾身の力で突き立てる訳ではない。

 

 首などの太い血管がある場所を目立つように簡単に傷つけるだけだ。

 そうすれば大した手間もなく、見た目に恐ろしい惨殺死体ができあがる。

 

「パパ!!  やめて! やめてよ!!」

 

 少女の声が聞こえる。

 構わず作業を続けた。

 もしピストルを拾おうとするようなら殺さなければならないが。

 

「やめて……! お願い、やめて……やめてよぅ……」

 

 背後から聞こえる声は泣き声に変わっていた。

 しゃくり上げる声が壊れたようにやめてと繰り返す。

 

 しかし。

 

「……もうやめて。狩人さん」

 

 その声にはっとして刃を振り下ろす先を見る。

 紳士はガスコインの姿に変わっていた。

 振り向くと、少女の姿は見知ったあの子のものだった。

 

 そして彼女の瞳に映る殺人者の姿は、肉が肥大した醜い獣の異形だった。

 

「…………!」

 

 動揺して隙を晒す。

 少女が泣きながら飛びつくようにピストルを拾った。

 雨の音がする。

 震える手が、小さな手がたどたどしく獣の頭に照準を合わせてくる。

 涙に濡れた目が幼い殺意をぶつけた。

 

 爪の間合いだったから、撃たれるより先に振り下ろした。

 

 ──―

 

「しっかりしな!! くたばっちゃいないんだろう!」

 

 意識が戻った。

 随分荒々しく起こされたようだった。

 壁に寄りかかって座らされていた✕✕✕✕は、化け物に掴まれていた首を軽く擦る。

 

 まだ違和感があるが、血を入れてくれたのか随分マシになっていた。

 頭を振ってはっきりさせる。

 あれは一体なんだったのか。

 

「ああ、起きたね。揺さぶってやった甲斐があったよ」

 

 珍しくほっとしたようにアイリーンが言った。

 ✕✕✕✕は鼻を鳴らす。

 

「優しく起こしてもらったようだ。おかげでいい夢を見た」

「軽口を叩けるなら大丈夫さね。さぁ、立つんだよ」

 

 急かされたから立ち上がる。

 尻を叩かれたから走ることにする。

 随分急いでいるようだった。

 

 ……それもそうか。

 ✕✕✕✕のせいで遅れたのだから。

 

「すまない、アイリーン」

「……いいんだよ、明らかに普通じゃなかった」

 

 走りながら彼女はそう答えた。

 ✕✕✕✕は目をそらす。

 

 すると一瞬の間をおいてまた話し始めた。

 

「昔、若い頃にね。狩人が突然浮き上がって死んだ話を聞いたことがある」

「なんだそれは。笑えばいいのか?」

 

 冗談だとしか思えなかった。

 だからそう言うと、アイリーンはくつくつと喉を鳴らした。

 

「そうじゃない。でも死体にはなにかに掴まれた跡が残っていたらしい。だからそいつも案外、見えない何かに掴みあげられたのかもっていう話さ」

「……そうか」

 

 聞くともなく話を聞きながら先に進む。

 話の着地点が見えないからあまり取り合わず周囲を見ていた。

 

 やはり目に入るのは殺された獣ばかりだったが。

 

「まぁ、つまり。見えない何かはいるってことさね」

 

 アイリーンに目を向ける。

 彼女もこちらを見ていた。

 マスクをつけているのに息も切らさず走りながら、彼女は笑いの息を漏らして話を続けた。

 

「私には見えないが、斬ってやることはできるかもしれない。次見かけたらなんとかしてあげるよ」

「……ありがとう」

 

 そんな風に言葉を交わして先に進む。

 街を抜け、頼りない板の橋を渡って一軒の家の中に入る。

 

「道は合っているのか?」

 

 いくらなんでもこんな獣道をわざわざ通るか疑問だった。

 

「死体がある限りは通ったってことだろうさ」

「……なるほど、確かに」

 

 そう答えて家の中のはしごを登る。

 そうして二階にたどりつくと、またあの悪寒が背を撫でた。

 

「アイリーン」

「またかい?」

「ああ」

 

 異形が這い出してくる。

 

『啓蒙が高まれば、見るべきでなくして世界から隠れているものが見えることもあるでしょう』

 

 思い出したのは人形の言葉だった。

 もしこれが啓蒙により映し出された真実だというのなら恐ろしいと思った。

 

 この世界の表面の薄皮一枚下。

 見えないだけでずっとこのような存在がいるのだと思うと漠然とした恐怖に襲われる。

 

 気がつかないだけであの白い視線はいつも✕✕✕✕を覗き込んでいたのかもしれない。

 

「腰が引けてるよ。どこだい?」

 

 知らず怯えを見せていたらしい。

 はっとして✕✕✕✕は異形がいる場所を指さす。

 薄暗い家屋の中、血のように赤い光はひたすらに異質だった。

 

「すぐ前だ。机のそばにいる」

 

 家の中の机のそばから現れた。

 ✕✕✕✕にその姿が見えていることに気がつけばすぐにでも襲いかかってくるだろう。

 

 そんな風に思っていると、アイリーンは示した場所に火炎瓶を投げた。

 今にも飛びかかって来そうだった異形に、広がった炎が命中した。

 苦痛にか暴れた拍子に、いくつかの家具が音を立てて倒れる。

 

 すると彼女はその場所に一瞬で踏み込み、虚空に向けて刃を振った。

 空振りだ。

 だがもう一度刃が振るわれる。

 流星のような残像を残して、美しい隕鉄の刃が異形を斬り裂いた。

 

「手応えありだ。……なんだ、案外やれるもんだね」

 

 異形が崩れ落ちる。

 アイリーンが笑った。

 思わずほっとして息を吐いた自分を恥じた。

 

 本当なら見える✕✕✕✕が仕留めなければならないのに。

 

「……すまない。次は自分で倒す」

「ああ。でもあたしにも倒せるのが分かってよかった。……行くよ」

 

 そう言って残り火をまたいで歩き始める。

 慌ててその背を追いかけた。

 また走り出している。

 

 家を抜けて外に出た。

 どうやら崖の上に出たようだった。

 切り立つ断崖の横を見ると、遥か下に大きな湖が見える。

 落ちれば命はないだろう。

 

「……ここもやられてる」

「ああ」

 

 アイリーンの言葉に答える。

 獣たちは屍を晒していた。

 あるものは斬殺され、あるものは弾丸に穿たれて。

 

 全く歯が立たずに殺されたように見えた。

 

「行くよ。急ごう」

 

 さらに走る。

 そうして小さな塔を下っていると、階段の下には狩人の姿があった。

 塔の壁に背を預け座り込んでいる。

 

「……ヘンリエット。一人で追ってたのか」

 

 アイリーンが呟いた。

 彼女の名はそういうらしい。

 そしてヘンリエットは血にまみれて倒れている。

 狩装束を身に着けて、紳士が身につけるようなハットを被った女だった。

 武器と思しき石鎚が傍らに転がされている。

 

「あんた、しっかりしな!」

 

 アイリーンが駆け寄る。

 だが狩人の息は絶え絶えだった。

 腹を斬り裂かれて内臓が露出している。

 銃撃を受けたか左腕と右の太ももが破裂していた。

 

 しかし奇妙なのは彼女のそばに注射器がいくつも散らばっていることだった。

 傷が塞がった様子もないのだ。

 

「今助けてやる。まだ血を入れれば間に合う。気を確かに持つんだよ!」

 

 ヘンリエットの腕を取り血の注射器を手に持つ。

 そして針を突き刺すが、やはり回復には至らないようだった。

 

「だめ、霧……血は……効か、ない……」

 

 切れ切れの息で。

 かぶりを振りつつヘンリエットがそう言った。

 見上げる右目は刃により抉られていた。

 

「逃げ……つよ、すぎる……勝てない」

 

 なんらかの要因により血が効果を発揮しない。

 それを分かっていてもなお何もしないわけにはいかなかった。

 

「アイリーン。なにかできることはないのか?」

「止血……」

 

 しかし言いかけてやめる。

 これほどに傷つけられているのに今さら止血もなにもあるものか。

 無念にか歯を食いしばる音が聞こえた。

 注射器を持っていた腕が下がる。

 力なく首が横に振られた。

 

 すると突然ヘンリエットが苦しげな悲鳴を上げる。

 

「どうしたんだい? ヘンリエット!」

 

 焦りをにじませた声でアイリーンが膝をつき寄り添う。

 すると声を震わせながらヘンリエットが涙を流した。

 

「劇毒で……体が。あいつは、逃げて、何度も血を入れる私を……ずっと、ずっと……そこで、見てた……」

 

 笑いながら。

 

 本当に悔しそうにそう言ってまた苦痛に呻く。

 ✕✕✕✕は丸薬を取り出した。

 毒というのならだ。

 たとえ効かなくても苦痛を和らげることはできるかもしれないと思ったのだ。

 

「これを」

「………」

 

 言葉を発する気力も、自分で受け取る余裕もないようだった。

 なので口に丸薬を入れてやると弱々しく嚥下する。

 そうすると少し落ち着いたようだったが、傷が塞がる訳ではない。

 

 死の定めは変えられないのだ。

 

「狩人狩り。どうか楽にして……。疑って……悪かった」

 

 細く目を開いてそう言った。

 アイリーンに詫びているようだった。

 目撃談を信じ込んでいたのかもしれない。

 

「あなたがあんな……化け物で、あるはずも……ない、のに……」

 

 ぼろぼろと涙をこぼす。

 苦痛ではなく無念なのだろう。

 瞳に宿る怒りがよく伝わる。

 

「お願い……もう、殺して……気が狂いそうなの……」

 

 アイリーンが俯いた。

 刃に手をかける。

 

 そして次の瞬間、星の輝きが閃いた。

 一拍遅れて滑り落ちるようにして首が転がる。

 ごとりと音を立てて地面に落ちた。

 

 アイリーンはその首を拾い上げる。

 残忍な手法に見えるが、あれ程の切れ味の刃だ。

 一瞬の殺害に痛みはなかったと信じたい。

 

「…………」

 

 血を流す首なしの死体を見据えたあと。

 アイリーンはその首を屍の腕に抱かせる。

 そして狩装束の羽を一枚ちぎり亡骸のそばに添え置いた。

 

「許さない」

「…………」

 

 低く抑えた声で言うアイリーンを見てふと思う。

 今追っている殺人者は本当に彼女の標的なのだろうかと。

 

「なぁ」

「……なんだい?」

 

 怒りを抑えきれていない声だった。

 口に出すのを一瞬ためらうが、結局言うことにする。

 

「俺たちが追っている相手は獣なのか? それか獣になりかけたやつなのか?」

 

 いくらなんでも信じがたい。

 霧……と言っていたか。

 ✕✕✕✕たちの知らない道具を操る知性と、苦しむ様を鑑賞するような歪みを獣が持っているのかと。

 

 ガスコインも✕✕✕✕をなぶったが、あれは狩りに酔っていたのだ。

 決して抵抗も何もしない人間の苦痛を見て浸っていた訳ではない。

 

「人だとしたら? 追うのをやめろって言いたいのかい」

「そうじゃない。でも……」

 

 言いかけた✕✕✕✕の声を遮ったのはアイリーンの怒声だった。

 

「だからなんだって言うんだ! 人を殺してるんだ。獣となにも変わらないだろう!」

 

 珍しく激したような声に気圧される。

 だがそれ以上に心に突き刺さったのは、はっとさせられたのは人殺しを獣だと言ったその言葉だった。

 

「…………」

 

 先ほどの夢が……あるいは過去の殺しの記憶が蘇る。

 あの時涙を流しながら銃を向ける少女をどうしたのだったか。

 

 思い出せない。

 しかしここにこうして生きているということは……きっとそうなのだろう。

 

 償わずにこんなところまで逃げてきた。

 自分だけ幸せになろうなどと世迷いごとを抱いて、結局また人を不幸にした。

 ✕✕✕✕はヘンリエットを殺した者と同じ許しがたい罪人であるように思えた。

 

 拳を握りしめる。

 

「……そうだな。すまない」

 

 うなだれて謝るとアイリーンは口籠った。

 こちらの様子になにかを感じたのかもしれない。

 だが結局、もう何も言わずに塔の外へと駆けていく。

 

 ✕✕✕✕は最後に一度だけヘンリエットの亡骸に目をやった。

 自分が殺したわけではないのに罪悪感に蝕まれる。

 

 もしまたここに戻れたのなら、せめて土の下に埋めてやろうと思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。