金カム主人公の近所のお兄さんポジだが俺は杉元佐一の支えにはなれない (MM*K)
しおりを挟む

俺が金カムに転生したと気付く前

原作前から始まりますが、都合よく捏造したりwiki情報を参考にしてるので軽い気持ちでご覧頂けたら幸いです。


人間ならば誰しも、一度くらい「人って死んだらどこへ行くんだろう。」と、素朴な疑問を抱くだろう。善人は天国行きで、悪人は地獄行きだとか。そもそもあの世って本当にあるのかとか。気になってしまうものだ。分からないことがあると気になってしまうのは仕方がないことで、解明せずにはいられなくなる。限りある命だからこそ人生の終着点に目を向けてしまうのも当然なのだと思う。

 

でも実際にそれを生きているうちに知ることは出来ない。どれだけ「こういうところがあるはずだ。」「いや、そんなものは無い。」「別の時空へ到達する。」「この世にとどまる。」と議論を続けたところで、机上の空論に過ぎない。深く考えても答えの出ない問いなのかもしれない。むしろ死んだ後まではっきりと自我が残っているかも分からないから、もしかすると、誰一人として真実を認識することはできないのかもしれない。

 

そんな中俺は、恐らく死後の世界というものを認識していた。

 

多くの人々の行列の中、気がつくと俺はその一人だった。時折階段を上りながら、ゆっくりと進む列の中でぼんやり考える。俺はどうしてここにいるのだろうと。

俺は前にいる男に話しかけようと肩を叩く。

 

「なぁ、アンタ。ここって一体……。」

「……?すまない。見ないほうがいい。ここがどこかなんて皆分かっちゃいないさ。」

 

振り返った男は同じ日本人だったが、怖いくらい肌が真っ白だった。異様なほど痩せていて、頬もげっそりとしている。妖怪みたいだ。自分で話しかけておきながら、顔を見るや頰を引きつらせた俺を見て、男はなるべく顔を見せないように服の袖で軽く顔を遮った。

 

「あ、すまん。」

「話しかけられるとは思わなかった。が、当然だと思う。でも俺もここがどこだか分からない。分かるのは死んだ後に辿り着くどこかということだけ。」

「あの世ってことか?」

「あの世か。まぁ認識的には間違っちゃあいない。でも呼び名なんてそう関係ないものだ。ここには天使も鬼もいない。三途の川もなければ、神々しい存在すら見当たらない。」

 

容貌は恐ろしいが、思考はまともな男であるらしい。俺よりも冷静に現状を把握しているのだろう。もういいか、と言う男に一言謝ると男は再び前を向き歩き出した。続くように俺は間を詰めながら辺りを見回してみる。

 

男の言う通り死後の世界にしてはあっさりとしていた。殺風景とも言える。天国とも地獄ともつかないが、所詮それらは生きていた人間の想像に過ぎないのだろう。列から頭だけをひょっこり出して先頭付近を確認すると、緩やかな傾斜の先で列が途絶えていた。注意深く見てみると、先頭に来た者たちは皆ジャンプをして何処かに消えてしまっていた。その飛び方は、海の中にダイブするかのようだ。

 

暫くすれば俺自身が徐々に先頭に近づいていく。そこで俺の目の前に現れたのは巨大な穴だった。

 

驚くほど巨大な穴はどこへ続いているのだろうか。深い闇の先には視覚できるものはなく、自分の前に飛び込んでいった人々がぶつかる音も聞こえない。俺の前にいた男も躊躇せず飛び込んでしまった。けれど叫び声一つ聞こえなかった。妙に静かな気味の悪い穴だった。

 

ついに俺の番になり、穴の目の前で一瞬考える。落ちた先が本当の死なのか。けれど考えても仕方がないので俺も飛び込んだ人々に倣って、思い切り踏み切って穴に飛び込んだ。

 

 

結論から言ってしまうと、俺はあの穴に飛び込んだ後不思議な感覚に襲われ、気がつくと転生していた。ただ、転生というよりは憑依の方がしっくりくるだろうか。俺は自分が転生したということを産まれてから十年経ってやっと知った。

 

その時十年間生きていた『高橋唯之』という少年は綺麗さっぱり居なくなってしまった。

 

俺は一度死に、穴を落ちて今世の『高橋唯之』というベースの上に植わった雑草だ。まだ芽が出たばかりの花の植木鉢に、風に乗ってやってきた俺は、本来花が育つためにあった筈の土壌も栄養も、何もかもを横取りしてしまった。

 

『高橋唯之』は明るい少年だった。人付き合いがよく、器用で優しい性質は、俺とは正反対に近い。人のために駆け回ることができ、人の喜びや幸せを自分のものと思えるような気持ちの良い人間と、そんな善良な人間を食い潰した自分。とてつもない嫌悪感だ。今でもどうして自分は生きているんだろうと思う。『高橋唯之』に成り代わった自分は、彼の十年間の人生も、彼だけのものだった想いも、何もかも彼を殺して奪い尽くしてのうのうと生きてる。

 

辛くてまた死のうかとも考えた。

けれどそう思い至る度に、俺がこの転生を自覚したあの朝を思い出す。柔らかい布の感触と、熱いほど感じる命に涙したあの日を。あたたかさに言葉に出来ない激情を覚えたのは、俺にとって初めてのことだった。

 

だからせめて、命を粗末にはするまいと己に誓った。死んでようやく命の大切さを理解するような愚か者でも、何かできることがあるかもしれない。そう信じて俺は今日という日を生きている。散々自分のために使った人生を、今度は誰かに優しくするために使うことが、俺にできる唯一の償いだ。

 

元の『高橋唯之』を知る者たちからは、急に人が変わったと遠ざけられるようになった。悪い意味ではない。少しやりすぎて、良い人になりすぎてしまった。折り合いの合わなかった連中も、自分の家族も、世話になった親類や友人たちも、まるで清いものを見るかのような目で俺を見る。その事実が俺にとってただ一つ悲しい事だが、それもまた俺が誓いを破らず生きているという証拠でもある。

 

俺が暮らす村はのどかで良いところだ。村というのは基本そういうものなのだろうし、転生する前のコンクリートジャングルに慣れた俺にとっては、一層自然豊かで気持ちの良いところだと思った。俺の家は山に近い所にあり、きのこだとか山菜だとか、木材を売って生計を立てている。

 

一度だけ父と懇意な都の商人に連れられて、村を離れて売りに行ったことがある。その時一番驚いたのは、今が明治時代だということだ。廃刀令だとか、戦争がとか、キリストがとか、さながら学校の教材のビデオを観ているような気分だった。西洋式のレンガの建物が並び、馬車まで通っている。村の爺婆は学がないものが多かったから、今が何年だとかそんな話をした覚えもなく、俺もまたこういうものとして受け入れていたから、まさか自分が生きていた時代より100年以上前だとは気付きもしなかった。

 

お陰で色々あった疑問も解決される。そのうちの一つが徴兵令だ。満20歳以上の男子が対象のアレである。俺も今年で20歳になり、春過ぎにある徴兵検査で甲種判定が出れば翌年の今頃は入営している頃だろう。徴兵をよく思っていない俺の親や村の人の一部は「行かなくても」と口では言うが、どうにもならない話だ。兵隊になって国の為に尽くすのは、日本国民ならば当然の事。そう言うことになっているから仕方がないのだ。行かなければ警察に捕まるか徴兵肯定派に殺されるかの二択しかない。

 

それに軍隊に入るのも悪いことばかりではないのだ。まず農家の肉体労働に比べて比較的楽にお金が稼げる。軍隊の訓練はもちろん厳しいだろうが、天候に作用されずとも、必ず給料が出るというのはなかなか嬉しいことだと思う。仕送りをすれば俺の居ない分を少しは補えるはずだ。軍では寝泊まりする場所も飯もほとんど心配しなくて良いから、普段からろくに食事を摂らない両親に、お腹を満たして欲しい。

 

もう二月も終わる。じきに寒さも過ぎて、山菜が採れる時期になるだろう。ここ最近は乾物のきのこだとかしか食べていないから、山で動物を狩ってくるのもいい。棚を整理しながらそんなことを考えていると、小屋の外に誰かが来る音が聞こえた。戸を開けばそこには佐一が黙って立っていた。

 

「どうした佐一、こんなとこまで。寒かったろう、こっちに来い。干し柿はねぇが炒り豆くらいならあるぞ。」

 

佐一は黙って頷き囲炉裏の前に座ったので、俺は戸を閉めて棚から炒り豆の入った茶碗を取り出して佐一の前に置いた。茶でも飲もうと鉄瓶を囲炉裏にかけたところで、佐一が唯之にいと俺の名を呼んだ。

 

パチパチと爆ぜる音が土間の中に響く。外の風がきつく吹いて、小屋の戸や窓をカタカタと鳴らすが不思議とうるさくはなく、俺はただ静かに佐一が話し出すのを待っていた。

 

「唯之にい、春に徴兵検査に行くって聞いて、それで…。」

「ああ。多分来年の今頃には軍に入ってるだろう。」

「何でだ、唯之にいは一人息子だろ?家督を継ぐもんは徴兵から外れるって聞いたぞ。」

 

佐一はいつもに似合わない小さな声で俺に聞く。確かに佐一の言う通りだ。長男は徴兵から外してもらえる。家督を継ぐ者がいないと困るから、そういう時や体が弱い奴は対象外だ。

 

「佐一は知らんだろうが、俺は次男なんだ。」

 

俺は高橋家に生まれた次男。長男は体が弱く、村から離れた病院で暮らしている。佐一は10歳だから、俺より二つ年上の兄のことなど知らなかったのだろう。俺も俺の両親も、病床の兄がいる事を言いふらすようなことはしなかったから。

 

「嘘だ。俺はそんなやつ見たことない。」

「俺の兄は和正という。俺が11の時に体を悪くして、それからずっと街の病院にいる。最近は体も良くなってきたから、兄さんが居れば俺が軍に行っても問題ないんだ。」

「でもいつ死ぬかわからないなら、唯之にいは必要なはずだ。」

「佐一……。」

「だから行かないでよ。行かなくていいなら、ここに居てよ……。」

 

佐一の目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。ぎゅっと握った拳の上に落ちた涙は、伝って着物の裾に染みを作った。俺は何と言えばいいか迷って、佐一の背中を慣れない手つきでさするだけだった。その間もずっと佐一は行くな、行くな、と俺に訴え続けた。

 

佐一は姓を杉元と言い俺と丁度10歳差の村の子で、俺は杉元の家に行くたびに可愛がっていた。佐一の兄とは年が近いのもあり幼馴染だったため、遊びに出かけるたびに面倒を見ていた。それがなくても村の人は俺を何かと信頼していたため、いろんな家から子守を頼まれるのは日常茶飯事であったし、俺も頼まれたら断れない性分だったので、佐一の面倒を見るのは必然だっただろう。一時は俺が本当に兄だと勘違いしていたくらいだから、非常に親密だった。

 

温厚で優しい佐一は整った顔立ちをしており、一際目立つ少年だ。前世の世で言うイケメンに相当する。幼い頃からここまでだと、成長した時に遊び癖がつかないかと心配したが、当の本人は女性には初心で途端に顔を赤くするのだから面白い。俺が村の宴会で芸者の真似事をした時に目を白黒させていたのは今でも酒の席で話に上がる。

 

思えば佐一にとっては俺もまた家族の一人だと言う認識だと気付く。10歳の佐一は親しい兄との別れが辛いのだ。自分は11の時に兄と別れた時に、母に泣かないなんて大物だねと感心された覚えがある。そうか。こう言う時は悲しくなるのだな、と子供らしくない感想を覚えた事を記憶している。きっと『高橋唯之』なら泣き喚いていただろう。その時もやはり自分に彼の代わりなど務まらないと落ち込んだものだ。

 

けれど俺には佐一の苦しみは分からない。俺はそうあるべきだという世の流れに乗せられ、逆らわずその役目を果たすまでだ。そも、こんな自分に誰かにここまで思われる価値などありはしない。

 

佐一は俺が前世を思い出してから関わった人間だから俺が好きなだけだ。佐一の兄たちは急に人が変わったと戸惑い、同い年であるのに敬語を使われたこともある。まあ、よそよそしくされた。悪口を言われるでも悪意を向けられるでもなく、ただ突然大人びた感じだと、まるで先生のようだと、変に遠巻きにされた。聖人でも見るかのような目は俺にとっては辛く、『高橋唯之』を知らない幼い子供達に逃げた。それもまた周りから子供好きと勘違いされる要因となり、それ幸いと子供の面倒を見る。俺は自分が楽になりたい一心で幼い子を利用したに過ぎなかった。

 

だからこそ、佐一をこんな思いにさせたのは確かに自分のせいなのだ。自分が執拗に関わらなければ、ここまで辛い思いをさせずに済んだろうに。

 

「佐一、よく聞け。軍に入っても俺はちゃんとここに帰ってくるよ。」

「でも会えなくなる…唯之にいが居なくなってしまう……。」

「居ないのは2年くらいだぞ?」

「2年でも嫌だ。」

 

先ほどまで俯いていた佐一は顔を上げると、膝をつきながら俺の方に来て腰のあたりに抱き着いた。引っ付いた体は熱く、しゃくりあげて震える度に俺の良心を攻撃する。どうしたものかと思い俺は一つの提案をした。

 

「なぁ、じゃあこうしよう。俺が入営するまで一年ほど猶予がある。その間はずっと佐一の側にいよう。それで入営した後は月に一度必ず手紙を書く。」

「…本当に?」

「俺は嘘は言わん。手紙に菓子を付けてもいい。」

「……。じゃあ、俺が手紙を送るときは、干し柿を添える……。」

「そりゃ嬉しい。珍らしく気が利くぞぉ佐一。」

「珍らしくは、余計だろ……。」

 

その後もえぐえぐと泣き続ける佐一に寄り添いながら、その目に手ぬぐいを当てていると、いつのまにか佐一は寝てしまった。起きた時に俺が居ないとなるとどやされそうだと思ったので、俺は佐一が目覚めるまで側にいてやることにした。

 

 

あれから五月になり、俺の村でも徴兵検査が行われる。普段から代わり映えしない村の中では、この手の話題はイベントのようなものだ。どこ行っても同じような話を何度も何度も繰り返している。変なほら話まで混じってきて、検査で忠誠を誓うために金玉を抜かれるとか下ネタ言う奴も出てきた。

 

他にも、知ってるやつが何人も養子に出された。養子縁組にとんでもない金額を要求されて酷いことになってる奴もいるが、それでも徴兵を避けたいのだろう。俺も両親に養子縁組の話をされたが、高橋の家から出る気は無いときちんと伝えた。俺の場合はよそと違い、勝手にこの家を出る資格などないのだから当然のことだと言える。

 

「検査員に変なことされたら俺に言えよ。ぶん殴ってきてやる。」

「年下に守られるほど俺は弱かないぞぉ〜?佐一〜?」

 

二月に二人で約束したように、あれから俺と佐一は毎日一緒に行動した。お互いの家に寝泊まりしに行くこともある。ある日は俺の山菜狩りに付き合い、ある日は佐一の家の田植えに付き合い、時に子供らを集めて鬼ごっこだとか家事をした。これまでも長い付き合いだったが、この数ヶ月でより佐一のことを知ることができた。温厚なくせに腕っ節があるからよく寅次と喧嘩していたり、梅子に気があるようだったり新しい発見ばかりだ。

 

始めの数日はお互いの両親に心配された。俺が事情を話すと俺の両親はおやおやと微笑み、佐一の両親は軽く小言を言ってから佐一に一発拳骨を食らわせた。ペコペコと俺の両親に頭を下げる自分の両親にきまりが悪くなったのか、頭をさすりながら口を尖らせていた佐一は年相応の子供らしさがあって俺は何故かほっこりした。

 

徴兵検査は毎年四月から五月に行われる。変なほらのせいで何をされるのか全く分からないが、前にやった奴に聞けば、褌だけになって様々な測定をする他、性病の有無を調べるために検査官の前で褌まで取って性器を調べられるそうだ。幼い佐一には刺激が強すぎるので言えない。20歳の自分ですら何度もその話を聞き直したくらいだ。金玉を抜かれるというのがほらじゃ無かったら俺はもうどうすれば良いのかわからない。

 

「じゃあ俺も行くから、今日は大人しくしてろよ?終わったらすぐ帰るからな。」

「すぐだぞ。遅かったら迎えに行くから。」

「はいはい。」

 

佐一はあれ以来俺に妙なくらい束縛心を強めているようで、少しでも俺が離れると呼び止めて俺に抱きついてくる。さながらヤンデレ彼女のようだと思った俺の考えは間違っていないと思う。ずいぶん前のことすぎてぼんやりとしか思い出せないが、そんな独占欲が酷い女性を題材にしたCDがあった気がする。俺がそんなCDを作るとしたらそれにちなんでタイトルを『ヤンデレ杉元佐一に愛されすぎて夜も眠れない』だろうか。

 

検査会場になった集会所に着いた俺は少しびっくりした。そりゃ当たり前だが周りを見れば同い年であろう男子たちが皆褌一丁で綺麗に整列してるのは、なんかこう…うわぁと思う。しかもほとんど顔見知りだから。俺も促されるまま褌一丁になり列に並ぶ。

 

始めの検査はなんだか学校の身体測定のようだった。学校で行われたあれらの基礎が、この徴兵検査だったのかもしれない。身長を測ったり米俵を担ぐ筋力測定があったり、視力の検査も行われた。ここでも徴兵を逃れるために体調不良を装うものがチラチラいた。しかし徴兵検査の合格基準は体格が大きいことらしい。身長が152センチメートル以上ならば健康とみなされるという噂が定かであればの話だが、お陰でみんな身長を誤魔化そうとして失敗している。褌一丁じゃ身体の姿勢が悪いと丸分かりだ。

 

そして等々恐ろしい検査が回ってきた。例の性病の検査だ。少しだけ頭を列から飛び出させればとんでもない事をしている。検査員が知り合いの性器を握っている。そして隣にある空間で放尿させている。

 

あまりの光景に頭がぐらりとする。皆戸惑いながらも俺ほどの衝撃は受けていないようで内心ショックだった。この衝撃は前世の健全な環境に慣れていたせいだろうか。というか見間違えじゃなくてもめくってらっしゃるのか?あの、あそこを……。というか肛門まで調べ、あわわ、指まで入れるのかうわそんなにいれるの

 

「次の者前へ出ろ。褌を取りなさい。」

「アッハイ。」

 

その後放心状態で検査を終えた俺は、検査官にその場で甲種判定を言い渡されてふらふらと家に帰り、佐一に見えないように静かに泣いた。そして眠り、また起きて泣いた。

 

 

検査が終わり村の中では一喜一憂だ。身長が低くて外れたと喜んでいるものもいれば、甲種が出たとお通夜ムードのものもいる。徴兵逃れのためだけに小指を切り落とした友人なんて、無事外されたのに俺が甲種だと伝えると、やっぱりお前の分切り落としときゃよかったなと言った。俺は予想外に愛されているらしい。隣にいた佐一も今からでも遅く無いんじゃ無いかと言い出したから、流石の俺も慌てた。俺にはそこまでの度胸はない。

 

今日も今日とて朝から佐一と一緒に農作業を手伝い、昼には握り飯を二人で食い、村の子供の面倒を見て日が暮れる前には家に帰る。佐一は今日も寅次を泣かせていたので梅子と二人で説教した。ふてくされる佐一の頭を撫でて、俺は穏やかな気分でこう思った。ああ、弟ってこんな感じか、と。

 

俺の兄も『高橋唯之』をこんな風に撫でたことはあるのだろうか。俺は『高橋唯之』の記憶はあるが、10年経つ今それはずいぶんと曖昧だ。戒めとして忘れないよう努めてはいるのだが、それでも記憶は手のひらから指の隙間へとこぼれ落ちる。兄である和正と遊んだ記憶はあるが、病院に行く数年前からすでに体調を崩すようになっており、記憶が戻った当初の戸惑いは酷かったと思う。

 

兄はどんな気持ちだっただろう。弟が、こんなんになってしまって。戸惑いは心労に繋がり、余計に兄を苦しめたのだろうか。

 

この悩みは一生俺に付き纏い、やがて死に至らせるものだと思う。人がなぜ死ぬのかという問いに俺は答えられないが、なぜ俺は死ぬのかという問いには、生まれながらの罪によって死ぬのだと言える。

 

俺は寝床に入ってもずっとその事を考えて、うだうだとしていた。珍しいことではなかった。俺が『高橋唯之』に成ってからここ10年の間、こうして酷く悩むのは当たり前だった。寝入る前の静けさは、意識せずともそんな考え事をしてしまうから仕様がない。これでもましになった方で、5年前は考えすぎて眠れないのはザラだった。そのせいで炎天下の中作業中に倒れたのはいい思い出だ。

 

この前佐一が泊まりに来た時にも、ついうだうだとしてしまい、いらぬ心配をさせてしまった。佐一は俺の家に泊まる時も俺が泊まりに行く時も、必ず同じか隣の布団で寝ろと言うので、俺は佐一の言う通りにして寝た。気付くと佐一は俺の腹に抱き付いて寝ているので、それを抱きしめるようにして俺は眠る。俺が眠れないと目ざとく気づき、俺の頬を両手で挟み、何か不安な事があるのかと聞く。俺は寝つきが悪いだけでなんともないと答えて、佐一を抱きしめて目を瞑る。するとしばらくして頬に当てた手を自らの懐に戻して、体を丸めるようにして眠る。俺も知らぬうちに寝入っているのが当たり前だ。

 

一人でうだうだしているときは、俺は佐一のようにじっと丸くなって眠りについた。今日もそんな風に足を折りたたんで背中を丸める。重たい瞼がゆるゆると閉まり、気が付けば暗いところへと落ちていった。

 




主人公は原作を覚えてはいるがまさか佐一が主人公とは全く気づいていなかった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

俺が金カムに転生したと気付く前2

今回は尾形編です。めちゃくちゃ捏造の塊です。


八月になると、いかに体が丈夫な人間でも炎天下の中倒れてしまう事はあるだろう。俺も一度倒れたことがあるからあの気持ち悪さはよくわかっている。俺が倒れたと知ってみんな大騒ぎだし、両親なんて兄のことがあるから顔を真っ青にして右往左往していた。村にいる唯一の医者はちょっと驚いてから、塩を振ったきゅうりをたらふく俺に食わせた。今でも思い出すが、かなり吐き気がして頭痛が酷い時に無理矢理きゅうりを口に突っ込まれたものだから、暫くきゅうりを見ると吐き気がしてしまうほどだった。多分先生も慌てていたのだろう。普段は人の口に無理矢理きゅうり突っ込むような医者じゃない。

 

俺は自分のような被害者を出さないために、積極的にきゅうりの栽培と配布を行なっている。農作業中の仲間や遊んでいる子供達に塩振って配れば、水分とミネラルが補給できて、しかも軽食になる。冷蔵庫もないこの村では、長期間保存できない生鮮食品は積極的に食べるに限る。それでも食べきれない分はまとめて漬け物にしてしまえば暫く持つので、俺の家には栽培しすぎたきゅうりの漬物壺の貯蓄が万全だ。きゅうり美味いぞ。

 

今年はきゅうり配りも佐一が手伝ってくれるから例年よりはるかに楽だ。お礼に一緒に西瓜を食べる事にしよう、と言うと。佐一は目を輝かせて、やったー!と大きな声を出した。元気なのはいい事だ。実の所佐一は甘い物が結構好きだ。人間誰しも甘味というのは生まれて初めて口にする母乳の味なものだから、本能的に自然と安心感などの好感を持つものだろう。けれど男の身で甘いものが好きだというのはちょっとだけ気恥ずかしいような気持ちになるので、佐一は隠しているらしい。まぁバレバレだが。

 

休憩のため日陰で休んでいると、村のじいさんがでかい声で俺を呼んだ。

 

「おーい、唯之ぃー。お前んとこの親父宛に電報来とるぞー!」

「はぁい!ありがとぉ!」

 

父は今商売の関係で都会に出ているから、俺が父の代わりに電報を確認しておかなくてはいけない。佐一と一緒に俺は村の郵便局へと向かった。

 

村には小さいながらも郵便局がある。インターネットやスマートフォンはないが、日本国内の情報網としては十分だろう。時間はかかるが郵便局のおかげで遠くの親戚とも遣り取りが出来るようになった。商売柄あっちこっち移動している相手にも届けられるように局で預かってくれるタイプの電報もある。

 

郵便局へ行き俺は父宛の電報を受け取った。電報の発信者は茨城の親戚のものだった。電報はうねうねとしたカタカナなので俺は慣れない。初めて見た時はソなのかンなのか、ワなのかクなのか判別できなかった。癖強いのに加えて、全文カタカナだからうまく文章として理解しにくい。短い一文はゆっくりと俺の頭の中に入ってきた。

 

「…?唯之にい、どうした?」

 

電報を持ったまま棒立ちの俺に佐一が問うた。どうしたもこうしたも、はぁ、どうしてこんな電報が来る時に限って何故父は居ないのだ。あと二週間は帰ってこないのに。

電報には親戚家族の訃報の旨、3日後に葬儀を執り行う事が短くまとめられていた。

 

 

俺は知り合いの商人に頼み込んで茨城まで馬車の荷台に乗せてもらう事になった。親戚は茨城の北の辺に住んでいる。死ぬ気で頑張れば歩いても行けるが到底3日後の葬式には間に合わないだろう。メロスのように休みなく走れるほど俺は強くない。200kmを余裕で超える道のりなんて考えたくもない。ウルトラマラソンじゃないか。

 

本来ならば父が行けば済む話だと言うのに、父が行けないのなら俺が行くしかない。父はどれだけ遠くとも親戚の葬式には必ず行く人だったので、本人に確認したわけではないが、俺が行けないからお前が行って来いと絶対に言うと思う。

 

別に俺は葬式に行きたくないわけではない。むしろそういうのは父以上に大事にしているつもりだ。弔花も必ず持参するし父が行くときも無理矢理持たせる。俺は妙な体験をしているものだから、亡くなった知り合いの死後は出来る限り安らかなものであって欲しいと願うばかりだ。

 

それでも今回ばかりは躊躇した。理由は佐一だ。この一年はずっと離れないという約束を一時だが破ってしまう事になる。それだけの事が酷く気掛かりなのだ。徴兵まで半年もなく、俺も佐一も少しでも長く共に在りたいと望んでいる。そう予想した通り佐一は葬式に行く話をすると眉を寄せた。ちょっとくらいいいじゃない、我慢しなさいな。と佐一の母が諭す横で、不満ですという顔を隠そうともしない佐一をどうするかとみんなと一緒に困ったものだ。最終的には俺が、こっそり甘味を土産に持って帰るから一緒に食べよう、と約束してなんとかなった。

 

「なぁ御者さん。茨城出身だと聞いたんだが、うまい甘味は何かないかい。」

「へぇ、あんた甘味好きなのかい?」

「俺も好きだが、年の離れた弟に甘味を土産にするって言っちまったんだ。」

「そうさなぁ、俺も暫く故郷に帰ってないから何があるかは知らないんだが、新しい和菓子が出たとは聞いたぜ?餡を紫蘇の葉で包んだやつ。」

「紫蘇の葉かぁ、面白いな。」

 

最近じゃ洋菓子が推してきているから、新しい和菓子の開発なんて面白い。紫蘇の葉で包むって、いったいどんな味なのだろう。葬式に出向いた先で売っているかは分からんが、路銀は多めに持っているので何かしら買って帰ることは出来るだろう。

 

「取り敢えず水戸まで行ってからあんたを送るからな。帰りはどうすればいい。」

「えっと、今日水戸に泊まって、3日後が葬式なもんだから、4日後以降に来てくれれば良いよ。悪いな仕事あるのに送ってもらっちまって。」

「いいさ、水戸までの仕事も丁度あったし、あんたの目的地くらいどうって事ない。」

 

それから御者さんと会話しながら時間を潰して、あっという間に水戸まで来た。かなり時間はかかっているが、歩きに比べたら遥かに楽だ。無茶しなくてよかった。

 

御者さんが荷物を運んでいる間に、例の和菓子屋に行って来いと言われてしまったので、お言葉に甘えて俺は道行く人に尋ねながら目的の和菓子店までやってきた。

 

「へぇ…。」

 

思わず声が出るのも仕方がないだろう。前世では和菓子なんて給食の行事食とか団子とか煎餅とかで、ちゃんとした和菓子屋で和菓子を買うなんて初めての体験だ。店内はほんのりと優しく、上品な甘い香りが漂っている。御者さんが話していた和菓子は星の梅という名で売られていた。餡というから黒いこし餡を想像していたのだが、白い練り餡が美しい赤色の紫蘇の葉に包まれている。俺は迷わずそれを二個買った。

 

「お客さん毎度あり、生ものなもんで早く召し上がってくださいね。」

「え。早くってどれぐらいですか。」

「そうですねぇ、作りたてが一番いいですし2日以内に食べた方が美味しいと思いますよ。」

 

衝動的になり過ぎてしまった。そうだ、大抵の和菓子は数日以内に消費するのが常識だ。砂糖が入ってる分長持ちするとかなんとか聞いたことあるような気がするが、こんな八月の暑い時期に俺の懐にしまっていたら数時間と経たずに腐る。いやでも紫蘇の葉って消毒作用があったような。消毒作用にも限界があるからなんとも言えない。村に帰れるのは4日後以降だからその時にはもうアウトだろう。

 

「……この店で一番日持ちするのどれですか。」

「それでしたら干菓子がありますよ。」

「買います。」

 

干菓子というのは砂糖をかちんこちんに乾し固めたものだそうだ。薄いが大きめの箱にずらりと淡い色の干菓子が並ぶ様子はとても可愛らしい。女子が好きそうだと思う。佐一も好きだと思う。親切な店員さんが一口試食させてくれた。干菓子は口に入れた時じわっと唾液で溶けて上品な甘さを口内に充満させた。これはうまい。お茶と一緒に食べたい気分だ。星の梅は佐一と食べることはできなさそうだが、干菓子もとても美味しいし、一口サイズで数がある。きっと喜んでくれるだろう。

 

和菓子屋から帰り、丁度御者さんも荷降ろしが終わったようで、宿に向かい明日に備えて早々に床に着いた。

 

一人で眠るのは、久し振りのような気がする。

 

ここ最近はいっつも佐一と一緒に寝ていたから、急に一人で寝ると寂しい。暑いと言い布団を投げ飛ばす癖に俺の体に自分の体を付けるようにして眠る佐一の姿が目に浮かぶ。最初の頃は週に一度だったのが、今やほぼ毎日だ。こうやって距離を取ってみると自分の行動を客観的に見れるようになる。ちょっとここ最近の行動のおかしさに気付いた

 

10歳年下の少年と毎日一緒に寝て、暑い日ですらびっとりくっついているのは如何なものか。ちょっと犯罪臭しないか。兄弟ならともかくとして、いや、兄弟だとしても、うーん。距離近過ぎないか。兄との思い出がいまいち少ないせいか適切な距離が分からない。周りも今更何も言わないからこんな事になってしまっているじゃないか。

 

佐一は大丈夫だろうか。俺はちょっと寂しさを感じているが、佐一は寂しくしているだろうか。もしそうだとしたらちょっと可哀想な事をしてしまった。あんまり一緒にいると、こういう時に悲しくなってしまうとは想像もしていなかった。この一年の約束も、徴兵で会えない間の分一緒に居るというものだったが、余計に佐一を苦しめてしまわないだろうか。

 

自分の為にも、佐一のためにも、約束したとはいえもう少し距離を取る方が、別れが楽なのかもしれない。

 

戦争で死ぬ気は無いが、死なない保証はどこにもない。勝手に死ぬなんて自由俺には生涯許されないが、それでも死ぬ時は死ぬ。人間だから当然だ。

 

悶々とこう考え込むのは一生治らないだろう。俺はまた背中を丸めて眠りに落ちていった。

 

 

翌朝早朝から馬車を走らせ、海沿いを通りながら親戚の住む村までやって来れた。見慣れぬ人間が来たせいか、村人の視線を感じる。それでも騒ぐまで行かないのは、葬儀の事が伝わっているからだろうか。俺以外にも遠方から来る親戚も居ない訳ではない筈だ。

 

「じゃあ俺はもう行くぞ、ちゃんと葬式の後には迎えに行くから心配すんなよ。」

「ありがとうございました。仕事あるでしょう?多少遅れたって俺平気ですよ。」

「馬鹿、そんなことしたらお前の親父に暫く小言言われるぜ。」

 

なんかあったら連絡だぞー!と言いながら御者さんは来た道を戻って行った。それでも村人の視線が少し気になってしまったものだから、俺は御者さんに向かって手を降ってから、親戚の家を訪ねる前に海に行ってみる事にした。

 

暫く歩けば自ずと砂浜へたどり着く。俺の村から海はなかなか見れないから、ちょっとテンションが上がる。海を見たくらいでこれだから、俺もまだまだ子供気分が抜けていないようだ。一旦荷物を岩場に置いてから、海の方へと駆けた。

 

青黒い広大な海が遙かまで続いている。天気がいい分空も海もその広さと力強さを最大限に発揮している。自然という圧力、とでもいうのだろうか、偉大な存在感に瞬間何も言えなくなる。視界の端いっぱいの自然は、知らないうちに頭を空っぽにしてくれる。潮の音を聴きながら、遠い記憶に想いを馳せた。俺が今いるのは前世から百年以上前らしいが、海は何も変わっていない。懐かしさを覚えるほどだ。

 

海を眺めて一日中ぼうっとしたいという願いをあの頃は持っていたが、今は眺めるだけじゃなくて海に浸りながら眠りたい。こんな広い海だ。きっと浸かっているうちに意識が遠のいて、眠っているうちに身体も何もかもが海にスッと溶けて消えて行けるのではないだろうか。

 

そう思うと無意識のうちに足が波打ち際まで迫る。ギリギリ波が足にかからない浜まで来て、そっと押し寄せる海水に指先で触れる。柔らかな衝撃とともに爽やかな音が手を包んで冷やしていった。進んでは退く波の攻防をぼうっと眺めて、ハッと我に帰る。いかん。気分転換にと思ったが、なんかリラックスしすぎてしまった。

 

流石に葬式前に海に入るのはどうかと思ったので、砂浜に打ち上げられたヒトデやら貝やらを拾ったり投げたりして遊んでから、おれは漸く村の方へと歩き出した。

 

ミーンと蝉の鳴き声が聞けるのもあとどれぐらいのことだろうか。蒸し暑い中煩いくらい鳴いているせいで、涼しげな風鈴の音も情緒に欠ける。親戚は訪れた俺を歓迎して、暑かったろうとすぐに室内へ案内してくれた。

 

「唯之ちゃん、わざわざ来てくれてありがとう。」

「いえ、こちらこそ父が来れなくてすみません。仕事の都合がつかなかったみたいで。」

「唯之ちゃんが来てくれただけで充分よ。長旅で疲れたでしょう?湯屋に行って来なさいな。」

「ありがとうございます。あ、両親から手紙預かってます。あとこれお供え物です。」

「あらまぁ、ありがとう。部屋はここの隣を使って頂戴。じゃあ、ゆっくりしていってね。」

 

叔母さんに言われたように隣の部屋を使うことにする。風呂敷を広げて数珠とか着替えとかを確認していると、あることに気付く。佐一の土産にと買った和菓子屋の菓子が無い。くまなく調べるがどこにも見当たらない。これは海辺に置いて来たか御者さんの荷台の中だなぁ、と焦っているくせにのんびりと考えながらおもむろに障子を開ける。

 

がっと戸を引けば、待ってましたと言わんばかりに風が通り抜けてから緩やかな空気の流れを生み出した。部屋の風鈴も呼応するようにチリーンと音を立てる。さっきまで煩かった蝉の鳴き声も、場所が離れたのか気にならなくなった。

 

真っ先に湯屋に行こうかと思ったが、少しの間こうして外を眺めていよう。どこの村もそう大して変わらない風景だが、ちょっと落ち着くような気がして安心した。和菓子がどっかに行ってしまったことだけ残念だが、まぁもう仕方がない。帰りにまた買えばいいさ。

 

青々と茂る稲穂の中で農作業をする人々。俺の村とやることはそう変わらない。少し違うのはこっちは海が近いということだ。潮風の影響か俺の村よりは田園が少ないし、海の匂いが鼻をかすめる。農具も普通より傷みやすいのではないだろうか。

 

柱を背にしてぼけっと考えていると、視界に一人の子供が映った。坊主頭で体格のいい少年だ。猟師なのか小銃を持っている。その少年はどうやら俺の方へと歩いて来ているようだった。疑問に思いつつも、それは少年の片手に握られている見覚えのある風呂敷によって解決される。菓子を包んでいたものだ。

 

「これ、あんたのだろ。岩場に忘れてたぞ。」

「これはまた親切にどうも、助かりました。」

 

少年はわざわざ自分の元に忘れ物を届けに来てくれたらしい。見ず知らずの余所者にこうも親切にしてくれるとは、少年が優しい子なのだという事がよく分かる。別に、と言って立ち去ろうとする少年を引き止めて風呂敷を開いた。

 

「土産に持って帰るつもりが、急ぎすぎてね。日持ちもしないものだから、君が食べて行ってくれないか。」

「大したことはしてないし、受け取れない。」

「大事な風呂敷届けてくれた礼だよ。遠慮せずに貰ってくれ。ほら、こっちに座りなよ。茶も持ってこよう。」

 

渋る様子の少年を無理やり引き止めるために、よく考えずに買ってしまった星の梅を握らせ、腕を引いて戸の縁に座らせた。少年の表情はあまり動かないが、なんとなく不服そうな空気を感じて、一口食べてみなよ。不味かったら置いて行っていいからと言い残し、俺は叔母さんに茶を貰いに行った。

 

戻って来た時、まだ少年は縁に座っていた。手にはもう一口二口で食べきれるか、という程度の星の梅が握られている。俺は少年の横に茶を置き、挟むように座ってから自分の分の星の梅を食べ始めた。

 

真っ赤な紫蘇の葉は和菓子だというのにほんのりと塩気があって、中の白い練り餡の甘味を引き立てている。紫蘇特有の爽やかな風味が鼻を抜けるのも新鮮な感じがしてとても美味しい。まだ砂糖は高価な時代だから、日頃こういう甘味を味わう事が少ないというのも、美味しいと感じる要因の一つだろう。

 

「少年、どうだ。美味いか。」

「普通。」

「普通って、まぁ好みは人それぞれだからなぁ。」

「でも嫌いじゃない。」

「なら良かった。」

 

無愛想な少年と感じるのは日頃佐一の百面相を眺めているからだろう。佐一は一際表情が豊かな子だ。対して少年はピクリとも表情筋が動くような気配がない。若干の緩みは感じるが、何処か冷たさを感じるのは何故なのだろうか。

 

「なぁ、あんた。」

「なんだ少年。」

「これ本当は誰と食べる物だったんだ。」

「弟のようなやつとだよ。甘いもんが好きでね?水戸でこれ見つけて咄嗟に買ったんだけど、後から長持ちしないのに気づいたもんだから。本当に少年がいて助かった。流石に二個一人で食べるのは贅沢が過ぎると思ってたんだよ。」

「弟のようなやつ?」

「そう。弟のようなやつ。血は繋がってないし、歳もかなり離れてる。」

「他人じゃないの。」

「他人だよ。結局家族だろうと血の繋がりがあろうとなかろうと、自分と他の人間という括りは無くなる訳じゃない。」

 

雰囲気だけでなく、会話の隅にも冷たさを感じる。訳ありな少年なのだろうか。多分家族関係で揉めてるんだろうな。弟になにか関係してるんだろう。早々に菓子を食べ終わっても、少年はまだそこに座り続け、ぽつぽつと会話を繋いだ。

 

「あんたはどうしてここに来たの。」

「んー?親戚の葬式さ。」

「仲良かったの。」

「俺じゃなくて親父と仲良かったのかな。今仕事で来れなくて俺は代わりに来たんだよ。」

「じゃあもし死んだのが親戚じゃなくて、自分の奥さんだったらあんたの親父さんは来てた?」

「母さんの死に目には間に合うように来ただろうなぁ。」

「じゃあ、奥さんじゃなくて愛人だったら?」

「愛人…、愛人かぁ……。それは俺にも分からねぇなぁ。少年の親父さんは来なかったのか?」

 

あくまで予測だったが、当たっていたようだ。少年はちょっと驚いたようにして俺の顔を見た。

 

「俺はお前の父親じゃないから、本当のところは何も分からない。でも来なかった、という事に対して、俺は愛情を感じる事はできない。」

「……。」

「そこまで気になるなら、一度文でも書いてみるか、会いに行けばいい。」

「無理だよ、そんなの。」

「やけに否定的だな少年。すぐには無理でも、生きてるうちに確かめられれば良いのさ。今から5年かけて、10年かけて…そうやって考えれば出来ないことの方が少ないものだよ。」

 

そうかな、と呟く少年に、そうだよと言って頭を撫でた。頭に手が触れた時びくりと一度跳ねた少年は、ゆっくりと撫でているとそのうち上がっていた肩がゆるゆると落ちて、なされるがままにしていた。俺よりも随分と年下なのに苦労しているな。俺なんて本来向けられるはずだった愛情をたっぷり横取りにして生きているから、耳が痛い話だ。

 

最後に少年は俺に名前を尋ねてから去って行った。俺は少年の名前を聞きそびれてしまい、これからずっと今日の日を思い出す時は、彼の事を少年と呼ぶのだろうと思った。

 




原作の尾形は絶対こんなことしねぇよと思いつつ、あのこじれ様は入営して勇作さんと出くわしてから闇闇し始めたのかなという解釈で書きました。星の梅は茨城で売ってる水戸の梅の初期の名前だと友人から聞いたので使いました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

俺が金カムに転生したと気付く前3

評価・感想ありがとうございます。とても励みになります。
大幅に修正したため、今回は入営前の秋〜冬の話になりました。
すんごい話の流れ変わってるので、雰囲気で読んでください。



秋は収穫の季節だ。稲穂が実り、村中の田んぼが黄金色に染まる。強く爽やかな一陣の風が通り抜けると、波打つかのように稲穂がたなびいてとても綺麗だ。

 

前世から俺はこの風景を好んでいた。と思う。記憶が曖昧なものだから自信はないが、懐かしさというか、不思議と愛着を感じているからそうだと思いたい。

 

前世の実家はど田舎だった。家の周り全部田んぼってくらい田んぼだらけで、それが巨大な運河のように流れていた。子供の頃から馴染みのある景色で、よく塀の上に登って怒られた。でも、怒られても懲りないくらいには、あの光景が好きだったのだと思う。上京する直前ですら子供のように塀に登って腰をかけていた。

 

コンビニすら車で1時間みたいなところで、すごく不便で嫌いだった故郷。今じゃ帰りたいと思ってもたどり着くことができないほど遠くへ行ってしまったようだ。いや違うな。故郷は今もあそこにあるのだろう。そこから遠ざかるのはいつだって自分の方からだった。

 

「唯之にいは何で毎年ぼけっと田んぼ見てるんだ。」

「何でって、何でだろうなぁ。なんか懐かしくてみちゃうんだよ。」

「それ葬式の話の時も言ってたじゃん。じじいかよ。」

 

ついに佐一も反抗期なのだろうか。道端に腰かけた俺の背にのしかかる様にもたれかかる佐一はいつも以上に子供っぽい。原因はわからないが、拗ねているようだ。絡んでくる割に顔は合わせてくれない。

 

「唯之にいの故郷はここだろ。」

「……ああ、そうだな。」

「ちゃんと此処に帰ってくるだろ。」

「……ああ。」

「真面目に約束してほしいんだ。唯之にい。」

 

指切ろうか?

 

俺の目を見ていう佐一は黄昏時というのも相まって、この世のものではないかのような空気を纏っていた。冷たい汗が雫となって落ちる。佐一の顔にはぼんやりとした影が落ちているというのに、虎のような強い瞳だけ光って見えた。意思がこもった、本気の目だ。

 

多分佐一はやると決めたら本当にやるだろう。約束のために指を切るのか、それとも俺を戦争へ行かせないために指を切るのか。それともその両方なのか。俺には本当のところは分からないが、それでもなんだか恐ろしく感じてしまって、遊女じゃねぇんだから、とはぐらかして家路につこうと促した。

 

「……いっつも何か悩んでるくせに、なんで俺に言ってくれないの?」

「俺は悩んでなんかいないさ。毎日頭の中ハッピーだよ。」

「ハッピー?なんだそれ。」

「あー……。ハッピーは英語で幸せって意味。」

「幸せ、か。いいなはっぴぃ。俺も使お。」

 

10回言えば忘れないんだよな。と、ハッピーと口ずさんで指折る佐一の雰囲気は、また子供っぽいものに戻っていた。それにしても10回言えば忘れないって、俺が随分前に教えたことまだやってるんだなぁ。今年で10歳だもんなぁ。小学四、五年生なんてそんなものか。

 

俺のせいなのか、はたまた別の要因なのか、俺の周りの子供達は妙に聡いところがある。子供だからこそ鋭いのかもしれない。

 

佐一は特にそうだ。俺のテンションの浮き沈みに一番敏感で、ちょっと落ち込んでればすぐに「どうしたの・なんで攻撃」が始まる。俺のことを純粋に心配してくれているのだろうが、その気遣いが俺には辛かった。佐一は良くも悪くも無遠慮なところがあるから、それに疲れてしまう日もあった。もしかしたら気付かないうちに、優しいお節介を迷惑に感じていたのかもしれない。

 

だから尚更、佐一に話せるわけがない。前世の自分に戻りたいだなんて、こんな突飛で奇怪な話をしたら即お医者様コースだ。誰にも打ち明けたことはないし、きっとそれはこれからも同じだ。墓場まで持っていく事を俺はもう分かってる。

 

たとえ突飛でも奇怪でもなくても、幼い佐一に重苦しい悩みを吐き出すような真似はしたくない。もしそんな事をしてしまったとしたらそれは八つ当たりに等しい。『高橋唯之』として生きることが辛いのだ、なんて。幸福な事が申し訳ないのだ、なんて。こんな贅沢な悩み持つだけで罪だというのに、それを誰かに打ち明けるなど言語両断だ。佐一もそんな事を話されたって、困ってしまうだろう。

 

しかし、子供ってもっと自分のことで手一杯で、生きるのに必死なものだと思っていた。俺が初めて面倒見た佐一は今よりうんと小さくて、この両腕で覆い包めてしまうくらいだったのに。温かくて泣いているだけの小さな子は、いつの間にこんなに大きくなっていたんだろうか。

 

それに比べて自分はどうだろうか。本当に情けなくって仕方がない。

 

俺は佐一が羨ましい。佐一はあらゆる面で俺よりも『高橋唯之』だった。俺はその事を、一生彼の代わりは務まらないという当てつけに感じていた。そう感じてしまう自身も嫌で仕方がなくて、どうしようもない。

 

この事実に気付いたのは、葬式の一件で佐一と距離を置いたからこそだった。俺は葬式でこの村を離れている期間。自分の想像以上に、生きるのが楽だった。何故ならあそこは、誰も『高橋唯之』を知らない場所で、誰も『高橋唯之』に成ろうとした俺を知らない場所だったからだ。

 

あそこなら、本当の自分になれるような、そんな勘違いをしてしまったのだ。

 

だから佐一に何度葬式の話をしてくれと強請られても、大したことは話せなかった。海の話や田んぼの話など、取り留めもないことをつらつらと懐かしかったとだけ言って、土産の干菓子を出して早々に話を切り上げた。

 

あの日会った少年はどうしているだろうか。佐一と違って、可愛げも快活さもない子ではあったが、そういった意味で俺に恐怖を与えることはなかった。彼のことを俺はさしてよく知らないはずなのに、心の何処かで親近感を覚える彼の空気は、俺に活力を与えるものではないが、優しく触れてくれるものだと思った。

 

もし佐一が俺を『高橋唯之』にしてくれる子どもならば、あの少年は俺を本当の俺にしてくれる子どもだったのだろう。

 

「本当に悩んでないの?」

「本当にないよ。ないない。」

 

念を押して聞いてくる佐一の追撃を躱して、二人で俺の家に帰っていく。目が開けてられないほど眩しい夕陽が、キラキラと視界の端で沈んでいった。手を繋いでいつも通る田んぼの中の畦道に、サザザという稲穂の音が響いていた。

 

 

渋柿の糖度は甘柿の糖度より高いという事をご存知だろうか。渋柿はよく干し柿にして食べられるが、実際に糖度を測ると、乾燥する前であっても20度以上もあるらしい。メロン(糖度は17ほど)より甘いのだ。

 

しかし名前にもある通り、渋柿はそのまま食べれば地獄を見る。まさかこんな不味いものが干せば甘くなるなんて、いったい誰がそんな事発見したのだろうか。何故干せば甘くなるのかなんて難しい理屈は俺には分からないが、干す作業は渋抜きと言うらしい事を婆ちゃんに教わったことがある。

 

前世の実家もこの時期は家族総出でひたすら渋柿の皮むきをやった。上手にヘタの部分は綺麗に残して、沸騰した鍋の中にぶち込み、白いビニール紐に結んで家の軒先に吊るす。たまに日本酒を霧吹きで与えてやると、無事カビも生えず立派な干し柿ができた。

 

もちろんこの高橋家でも家族揃って干し柿生産を行う。というか村中やってる。どこの家の軒先も柿、柿、柿。保存が効くし栄養価の高い干し柿はみんなに大人気だ。柿が赤くなれば医者が青くなるなんて言葉があるが、言葉の通り柿は凄い果物なのだ。

 

今年は佐一も手伝ってくれるようなので、きっと例年より早く作業が終わる事だろう。佐一に刃物を持たせるのは迷ったのだが、これも経験のうちと思ったので、小刀で柿の皮を剥くようお願いした。

 

それに佐一だけじゃない。今年は兄も病院から村に帰ってきていた。

 

俺の兄、高橋和正は気の弱い男だ。ストレスに過敏な体質で免疫力も低い。俺より二つ年上の兄と『高橋唯之』はよく遊んだが、雪の中を駆け回って翌日、ピンピンしている弟の横でひどい風邪を引いてしまうほど体が弱く、どこか情けない印象が拭えない人だった。

 

最近は体調が回復しつつあり、俺が入営するということもあって医者を説得して帰ってきてくれた。俺と兄の間にある兄弟の絆というものは、世間一般から見ると弱いものだが、人並みの情は持ち合わせていた。俺の身を案じて、少しの間だとしても家族揃って過ごした思い出を作るために、おぼつかない足取りで故郷へやって来たのだ。

 

久しぶりに見る兄の顔は相変わらず優しげで、何度も本当に体は大丈夫なのかと聞くと、兄は心配しないでと笑う。そうは言ってもその体の細いこと。腕も足も、袖から出ているところは全部棒のようだと思うほど痩せている。俺は無言で兄に柿を食わせ続けた。

 

……何?もう無理だ、食べれない?バカ言わないでください兄さん。それで満腹だったらあんたの腹は俺の4分の1しかありませんよ。

 

「さぁ兄さん。食わねばその体の細さは治りません。そんな骨と皮で冬を乗り切れるとお思いですか?干し柿も食べてください。干してる分、生で食べるよりも栄養効率が良いですよ。」

「そうは言っても唯之。これはまだ乾ききってないやつなんだろう?俺は腹がいっぱいだし、ちゃんと乾くまで干した方がいいんじゃないかな。」

「この中間のやつが一番うまいんですよ。みずみずしい干し柿なんてこれだけなんだから、食わないと損だ。」

 

いいから食えという圧力で干し柿を差し出すと、押しに弱い兄はすんなりそれを受け取ってくれた。

 

ゆっくりと干し柿を食べ始める兄の横で、俺と佐一は第二陣干し柿と漬物をこさえる。今年はかなり大量に作っているが、兄に滋養のあるものを食べさせたい一心である。二人いれば効率よく作業も進むし楽チン楽チン。

 

漬物は無限ループを生み出すための材料だ。甘いもの→塩辛いもの→甘いもの、の連鎖は止めようと思っても止まらないもの。いくら兄の食が細くても、食欲が湧けば普段よりはたくさん食べられるはずだ。

 

良かれと思って佐一にも干し柿を漬物を添えて渡すと、佐一は神妙な面持ちで「俺はいい。」と断った。一体どうしたことだろうか。お前の好物だろうに。

 

「佐一どうした。どこか調子が悪いのか。」

「なんでもない。」

「なんでもないってことはないだろう、そんなに元気がない顔をして、風邪引いたんじゃないのか。」

「だからなんでもないよ。」

 

そこまで聞いて、なんだかいつもの俺と佐一が入れ替わってしまったようだと思った。いつもは悶々としている俺に、佐一の方が「大丈夫か」と気遣ってくれる。目の前にいる佐一は、佐一に優しくされるくせにはぐらかしている自分と同じだった。

 

佐一には佐一の悩みがあるのだろう。俺がそっとしておいてほしいと思ったように、今は何も聞かないのが賢明だろうか。少し微妙な空気の流れる家の中が居たたまれなく、俺は散歩と言って、休憩がてら家から出ることにした。

 

一応佐一にも来るかと尋ねたが、今日に限っては佐一の首は縦に振られなかった。

 

 

ぐつぐつと煮え続ける鍋は、俺の心と似ている。唯之にいの居なくなった家の中で、彼の兄だという男と二人無言で作業をしながら、俺は男への苛立ちを膨れ上がらせていた。しゃりしゃりと柿の皮を剥く音も、手に濡れる柿の汁気も、やけに自分の心をビリビリ刺激するのだ。

 

男、高橋和正の存在を、俺はついこの前の二月まで知らなかった。俺にとってこの高橋和正という男は、青天の霹靂と言っても過言ではない程の衝撃だった。

 

きっかけは兄達が徴兵検査の話をしていたことだった。兄達に限った話ではなく、村中の若い男達らはみんな同じような事を話していた。会話の中で、家督を継ぐ長男は徴兵されないらしいという事を聞いたので、俺は兄達に「なら唯之にいは徴兵されないんだね」と言った。すると俺の予想と正反対な答えが返ってきた。

「唯之には兄がいるから次男だ。あいつの事だから、多分徴兵検査には行くだろう。」と。

えっ、と無意識のうちに出た言葉にもならないような声は空気といっても差し支えないほどだった。俺は生まれた頃から唯之にいに世話になっている。兄弟同然に育ったと、そう思っていた。

 

俺は10年間、兄が居るなんて話聞いたことがなかった。唯之にいは、俺にそんなこと話してくれなかった。

 

ちらりと横目で男を見れば、目があった男が困ったように微笑む。初めて会った日も思ったが、その顔はやはり兄弟だからか似ている。俺はなんだか悔しくて、そっくりな微笑みを睨みつけてから目を逸らした。

 

ああなんて憎たらしいんだろうか。穏やかな顔で笑いやがって。お前なんかがまだ生きてるから、唯之にいは徴兵されるっていうのに、のこのことよく村に帰ってこれたものだ。早く死んでしまえばよかったのに。

 

いっそこの小刀で首を掻っ切ってやろうか。

 

初めて会う少年から、何故自分がこんなに嫌われているのかなんて、男には分からないだろう。分かるはずがない。そもそも自分が嫌われているとは気付いているものの、殺意を抱かれているとは考えもしないはずだ。

 

俺は男を心の底から妬んでいる。

男のいない十年を過ごしたのは自分だというのに、その溝を感じさせないほど、自然な兄弟の姿が、羨ましく感じたのだ。きっと男になら、俺にも話してくれなかった心の内を、隅から隅まで打ち明けてしまうのだと。

 

二年前のことだ。俺は唯之にいの口からそれを本人の意思で伝えられたわけではないが、唯之にいの抱える重いものの一端を、覗いてしまったことがある。

 

 

高橋唯之という男がいる。俺にとってその男はひどく危うい存在だと、杉元佐一は思うのだ。

 

物心つく頃から彼に面倒を見てもらった自分は、彼のことを実の兄だと勘違いするほど慕っている。実際兄弟でないと知ったのは4歳の頃だった。

 

いつもいつも誰かのために働いて、爽やかで、笑顔が絶えない好青年。みんな彼のことが好きだし、俺はみんなよりうんと好きだと言える。

 

勉強がわからないときは分かるように説明してくれるし、やりたいと言った事はやれるようになるまで根気強く付き合ってくれるし、風邪をひいたときは一番心配してくれる。

 

俺は友人と遊ぶのも好きだったけれど、彼の色んな話を聞くことも好きだったから、彼の家を訪ねる事は多かった。その日は珍しく朝から走って唯之にいの家に遊びに行ったのだ。

 

唯之にいの家は山の麓の林にある。家は丁度木陰になっていて、昼間でも少し薄暗いが気持ちのいい風の吹く場所だ。村からそこまで通うのは楽ではなかったが、帰りは必ずと言っていいほど家まで送ってくれたので、その為だけに長い畦道を何度も通った。

 

家の戸を開けて彼を呼ぶ。

しかし、いつもなら囲炉裏の前で乾物の整理をしている姿は見当たらなかった。不思議に思いつつ、もう一度唯之にいと呼ぶが、返事は返って来なかった。

 

おかしく感じた自分は不躾にも彼の家に上がり、あらゆる戸という戸を開け放って彼を探した。小さな家だったので開けるものはすぐになくなった。けれど彼が台所に立っているのが分かった。

 

彼は台所で少し俯きがちな体勢で立ち尽くしていた。声をかけても振り向かなかった。前へ回り込めば気付くだろうと俺は彼の近くへ寄り、そして絶句した。

 

普段の彼からは想像もつかないような表情で、彼はまな板の上の包丁を見ていた。

 

あまりにもその表情が冷たくて硬いものだったから、俺は何も言えなくなってしまったのだ。息も少しの間止めていたかもしれない。

 

見ているだけだというのに、その包丁で自殺してしまうのではないかと、当時8歳だった己にそう思わせるほど異常な空気を彼は纏っていたのだ。たぶん、本当に彼は死のうかどうか思案していたに違いない。

 

普通なら視界の端に人がいれば気が付いて目を向けるものだろう。彼は全くもって微動だにしなかった。瞬きすらしていなかった。彼も自分と同じように、息が止まってしまっているのだと感じた。

 

 

あの日から俺は何度手を握ってもらっても、一緒にいても、互いの間に溝を感じていた。その見えない溝を埋めようと必死だった。

徴兵されると聞いてからは、尚更。

唯之にいは、あっさりと命を投げ出してしまいそうだと思っているから。

 

この男は果たして知っているのだろうか。あの夜よりも深く暗いものが、一体なんなのかを。

 

家の中で二人何も喋らず、淡々と作業をこなした。静かな時間は遅いような、早いような、奇妙な感覚をしていた。

 

 

最近佐一はやはり調子が悪い、というか、機嫌が悪いようだ。どうにも暗い顔をしていて、心配で声をかければ口を聞いてくれない。大抵俺が「大丈夫か?」と声をかければ、「別に。」「大丈夫。」「なんでもない。」としか返ってこなかった。

 

佐一もこんな気分だったのだろうか、と考える。俺は何度も佐一に「不安なことがあるのか。」「何か悩み事があるのか。」と聞かれても、今の佐一のように素っ気ない態度を取るばかりだった。

 

ついに佐一に愛想をつかされたのだろうか。こんな風にこれまで彼の気遣いを誤魔化して躱してきたバチが当たったのだろうか。しかし、それにしては未だ俺と一緒に居たがるから不思議だ。普通こんなに自分の気遣いを無碍にされれば、付き合ってられないと思う。

 

そもそも俺は佐一のように根底からの善人ではない。これまで十年よく保ったほうだ。俺の、いかにも人間的なエゴに塗れた本性に、そろそろ気付いても遅くないのではないだろうか。佐一を羨ましいような、疎ましいような目で見る俺自身を知って、今戸惑っているのだろうか。

 

気になる。気になり始めたらきりがない。聞かないほうがいい事は分かりつつも、聞いてみたくなってしまう。杉下○京か俺は。

 

思い切って俺は佐一に聞いてみることにした。

 

「あー、佐一はなんでそんなに俺と一緒に居たいんだ?」

「一緒にいたいと思うのに、理由がいるのかよ。」

「ああ、なんでもいいから、今俺は理由が欲しい。」

「……。」

 

佐一は口を一文字に結び、目を左右きょろきょろとさせてから気まずそうな顔をした。俺は佐一が話し出すのをじっと待った。しばらく二人とも何も話さないから、妙な空気が流れる。俺は俺で、佐一の口から一体どんな理由が飛び出すのか、無性に気になり始めるし、佐一も佐一で、表情が硬くなって緊張しているようだった。

 

唾を飲み込む音さえも聞こえてくるような中で、ようやく佐一の重い口が僅かに開く。

か細い声は、静かなせいかやけに良く聞こえた。

 

「唯之にいが、俺の手を握っててくれたからだ。」

「へ?」

「前に俺が酷い風邪だった時、唯之にいはずっと俺の手を離さないでいてくれた。だから俺は唯之にいと一緒にいたいし、絶対に握った手を離したくないと思った。なのに、兵役なんかあるから……。」

 

拍子抜けと言うと佐一に失礼だとは思う。けれども、思わず俺は笑ってしまった。笑わずにはいられない。

 

佐一は風邪特有の急に一人になると寂しくなるそんな時に、俺が手を握ってやった事を、健気に覚えていて、俺の傍に居てくれたのか。そんな吊り橋効果みたいなのでいいのか。お前将来悪い女に引っかかるぞ。ソースは俺。

 

「笑うな!何で笑う唯之にい!俺は今でもあの日のこと思い出せるぞ!」

「悪いなぁ佐一。いや、ちょっとなんか、いかにも次はとんでも無いのが来るぞ来るぞー!と思ってた時に何も起こらなかったゆえの笑いというか、うん。」

 

てっきり俺は何かもっととんでもない言葉が出てくるんじゃないかと、勝手に勘ぐってしまって、ドキドキしていたのに。でも良い意味で期待を裏切ってくれた。確かに佐一の話には覚えがある。風邪引いた家族は隔離療養が当たり前だ。この時代風邪こじらせただけで肺炎でバタバタ死ぬから。でも俺は元々体は丈夫だから、佐一が風邪引いた時つきっきりで看病した。熱で顔真っ赤にした佐一の様子は尋常ではなく、もっとヤベェ病気なんじゃないかと俺はずっと心配で、手を握って南無阿弥陀!南無阿弥陀!南無三ー!!と唱え続けた。正直マジでヤバいやつだったらビックリするほどユートピアを佐一に教えなければならないと本気で思っていた。今思えば俺もどうかしてたな。ごめん。

 

俺が笑ったせいで佐一は御機嫌斜めになってしまったが、その様子は最近とは違って、もとの調子を取り戻したようで、ちょっと安心した。

 

「元気でたみたいで良かったよ。おかげで俺の心配事も一つ減った。」

「ふん……そうかよ……。」

「そんなに拗ねるなよ。はぁ、たしかに、一緒に居たいと思うのに理由なんて、いらねぇんだよな。」

 

長く付き合いのなかった兄でさえ、俺のために帰ってきてくれたくらいだ。一緒に居たいとそう思ってしまうことに、何故なんて問いはいくつあっても足りない。でもそんなもの、どうでも良かったんだ。なんであれ、一緒に居たいことに変わりはなかった。

 

俺はあんまりにも理由にこだわり過ぎた。のかもしれない。俺は『高橋唯之』になるしかない。その過程で色んな劣等感に晒されることは必然だった。俺はグズでノロマなクソだから。

 

佐一との別れが辛くならないようにと理由をつけて佐一を突き放そうとした。劣等感を感じたくないが為に、自分勝手な対応をしようとした。

 

けれどこうしていざ佐一に冷たくされたらどうだ。俺は単純だな。佐一に離れて欲しくないと思っている。

 

あんまりにも呆れてしまって笑いしか出ない。本当に、バカな話だ。あ、涙出そう。

 

「唯之にい。」

「はは、なんだ。」

「もう和正さんに干し柿食わせるの辞めてよ。」

「えぇ?なんでだ?」

「…手紙に添える干し柿、なくなっちまうだろ。」

 

また俺が笑うと、佐一は、もーッ!と声を上げて怒った。俺は目尻から出る涙を、笑い過ぎたせいにして上を向いた。

 




修正前に比べて尾形編の役割をチラッと出せたかなと自己満足に浸っております。
杉元はおそらく基本善良なので、その性質に主人公の高橋唯之が嫉妬してもおかしくないかな、と思いました。人間汚いところは出てしまうものだよね。
高橋唯之は自分より『高橋唯之』らしい杉元佐一に複雑な思いを抱き、杉元佐一は主人公の兄に自分には無いものを持っている妬みを感じ、主人公兄である高橋和正は記述こそしていないものの変わってしまった主人公に対する恐ろしさに似た違和感を持つトライアンゴゥです。(ただしホモではない。)
かなり暗くなったかなぁ、と思いつつ、もともと主人公が葛藤するだけの話でしたね。問題ナシ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

俺が金カムに転生したと気付く前4

感想・評価ありがとうございます。励みにして頑張っております。
今回の話長いです。
入営〜入営半年たち日清戦争直前ってところです。



明治二十七年一月十日。入隊式の日がやってきた。俺は父の一張羅を譲り受け、それを着てこの村を旅立つ。俺の他にも甲種判定を受けた数人の友人が、同じ馬車に乗って東京鎮台まで向かう。

 

「ああ、唯之……。しっかりおやんなさいよ…。」

「母さん…。ありがとう。」

「唯之、俺にその一張羅を返すまでは、死ぬんじゃないぞ。」

「父さん。うん。自分の手で、ちゃんと返しに来る。」

 

馬車の前で見送る人たちと最後の会話をする。村のじいちゃんばあちゃん。友人たち。面倒見てきた子どもたち。小さな村だけど自分は沢山の人と関わってきた。その関わりが、俺を構成する全てだ。

 

「唯之……。」

「兄さん、家のこと頼んだよ。病気には気をつけて。俺が戻ってきた時に、再会が墓石の前なんて嫌だぜ。」

「ああ。約束する。だからお前もちゃんと帰って来いよ。お前は俺なんかよりずっと出来がいいんだから。」

 

涙ぐむ兄の姿はやっぱり情けない。抱きしめあってみて、よく分かる。体の調子は良くなってきたが、その細さは未だ治らない。でも除隊する頃には肉付きも良くなっているだろう。

 

「唯之にい。」

「佐一。」

 

見上げて俺の顔を見つめる佐一は、相変わらず凛々しい顔立ちをしている。佐一が俺を呼ぶと、子どもたちが次々に「お兄ちゃん。」と声を上げた。やめろよ、俺は子供には弱いんだ。じんと来る心を必死に耐えて、少し屈んで目線を合わせた。

 

「唯之にい、これ、俺と梅ちゃんと寅次から。」

「ありがとう。みんなもっと寄って顔を見せてくれよ。」

 

佐一から手渡された小さな巾着を、大事に荷物に仕舞い込んで、集まっていた子どもたちを覆い尽くすように思いっきり抱きしめた。みんな温かい。

 

「じゃあ、俺行くよ。」

「ちゃんと手紙くれよ。」

「勿論。一月後に手紙を出すよ。佐一も、干し柿楽しみにしてるから。」

「絶対帰って来いよ!」

「…ああ!」

 

行ってきます。そう告げてみんな馬車に乗り込む。見送るみんなが、唯之と俺の名を呼んだ。万歳と声が上がる中、馬車は東京へ向けて走り出した。

 

車内で別れ際の佐一を思い出す。俺の予想に反して、佐一は泣かなかった。帰って来いよ、とかっこよく笑っていた。その笑顔を思い出して俺は涙が出てきた。俺よりうんと年下のくせに、どうしてこうもかっこいいんだろうな。

 

ずずっと水鼻をすすると、みんなも笑いながら泣き出した。お互いに背中をさすって、俺も笑いながら泣いた。

 

 

俺は東京鎮台にある、陸軍東京第1師団歩兵第1連隊に配属された。支給された軍服に身を包み、俺は軍人としての生活をスタートさせる。

 

ざっくり軍の構造を言うと、普通、師団は二つの旅団で構成され、旅団は二つの歩兵連隊で構成されている。また連隊より小さな集団である大隊や中隊が数個ある。また、中隊の兵卒は約120人程度で、俺はその一人である。

 

まだ成り立ての俺たちのような兵卒は、入営してから半年は生兵と呼ばれる。一応階級では二等卒の扱いだ。

 

軍に入ってからはいろんなことが新鮮だ。生活環境がガラッと変わったから、若干ホームシックに陥ってる奴もいる。

 

数え切れないほど驚きの連続なのだが銃の重さもびっくり、銃の開発も進んでるから支給されてる銃が違ったりする事もままあるが、だいたい4キロくらい。でかいペットボトル2本分だ。

 

それを担ぎながら走る、構える、滑り込む……。いや、俺は米俵という60キロを日常的に担ぐ農民だから、辛くはなかったんだけどね。俺の身長は160cm超えてるんだが、その身長の半分は占める銃をえっちらおっちら担ぎ続けてひたすら運動会するらしい。まだ訓練がそこまで進んでないから知らないけど、なんて恐ろしい事をするんだ。殺す気なのか……?

 

最初の訓練は、敬礼などの基本動作からだった。手をおでこの辺りに持ってくる分かりやすい敬礼の他、銃剣を持っている時の型などがある。ちなみに銃は天皇から賜ったものという扱いらしく、粗末な扱いをすれば容赦なくビンタを食らう。恐ろしい。

 

他にも軍の支給品の一つである軍人手帳。学校で貰える生徒手帳のように、中には自分がいつ何処の隊に入隊したか、軍人の心構えなどの内容が書かれている。ちなみにこれは暗記しなければならない。これも間違えればビンタが飛んでくることがしばしばある。辛い。

 

軍の中は階級と年功で立場が決まる。古参である方が大きな顔ができるわけだ。そのせいかちょっと理不尽な新兵いびりが横行している。これも軍内の規律を保つためか、と思っていたが、その殆どが憂さ晴らしに近い私刑だ。すぐにビンタが飛んでくる。これならブライトさんの方が優しい。

 

はっきり言って理不尽なことばかりだが、こういう時の素直さと柔軟性とひたむきさは大事なんだ。元気な声で「はい!」と返事をし、注意を受ければ文句を言わずに素早くハキハキと「申し訳ございません!」修正されれば「ありがとうございます!」慣れれば楽だ。

 

何かされたとしても顔に出さなければ上手くいくのだ。ただビンタ修正食らった後に「ありがとうございます!」はどうかと思う。M育成施設なのかここは。

 

精神的にも身体的にもストレスしか溜まらない環境だが、軍に入って良かったこともある。

 

まず飯がうまい。村の食事が嫌いだったわけではないが、恐ろしいほどうまく贅沢な食事を毎日食べることができる。質素な食事に慣れていた俺には、ちょっと胃もたれしそうだったが、懐かしいコロッケやカレーなどの味は嬉しかった。

 

次に良かったのは風呂だ。この時代各家庭に風呂はなかった。俺は風呂に入りたいがために、一時期山の中へ温泉を探しに行ったほどだ。ちなみに嬉しいことに山桜の絶景が拝める温泉を発見することができ、俺はしょっちゅう入り浸っていた。今はめちゃくちゃ広い大風呂で、隊のみんなと一緒に入る。

 

そして布団。いや、ベッドだ。現代のベッドに比べれば粗悪かもしれないが、布団か藁の上で寝るような生活を送っていたみんなにとって、初めてのベッドというのは非常に新鮮だった。隣の奴と距離が近すぎて寝相が悪いと大変なことになるのだが、俺の所属する隊の先輩たちは良い上官たちばかりなので、寝相が悪すぎて叱られたことはない。

 

ただやはり、寝る時間になると、ここ一年佐一と一緒に寝る習慣がついていた俺は、違和感しかない。抱き枕が無いと眠れない感覚で、俺は必要品を纏めている奉公袋と呼ばれる巾着を抱きしめて眠っている。

 

それを同じ班のみんなが見ていたようで、俺になぜそんな体勢で寝るんだと聞かれてしまった。

 

「故郷に、弟みてぇに可愛がってる奴が居るんだけど、ちょっと甘えたでな?毎日一緒に寝てやってたんだが、こっちに来て急にそれが無くなってしまって眠れなくなってね。この袋持ってるとちょうど良かったんだ。」

「そうかぁ。でも、寝苦しく無いか?寝台はあんまり幅がないだろ。」

 

確かにそうだ。重みで少し苦しいなぁと思う事はある。しかし何か側にないと一睡もできない体になってしまったのだ。仕方ない。

 

「そういえばお前、手紙書くって言ってたな。もしかしてその弟か?」

「ああ。入営したら月に一度必ず手紙に菓子を添えて送るって言ったからな。」

「酒保で買える菓子美味いよな。」

「俺あんパン食べたくなってきたぜ。」

「俸給日まであと何日かなぁ。」

 

軍に入っている以上、ちゃんとお給料が貰える。みんな使い道は様々で、貯金したり仕送りしたり酒保で使ったりする。週に一度外出許可が貰えれば、外出先で使うこともあるだろう。

 

酒保は兵舎内にある売店のようなもので、あんぱんや汁粉、うどん、タバコなどの嗜好品が多く販売されている。訓練がきつい分、こういう場があるというのは嬉しいものだ。佐一への菓子も、ここで仕入れようと思っていたところだった。

 

「それなら俺が酒保当番の時に来いよ。つまみ食いする奴いるから。ちゃんと弟の分取って置いてやるよ。」

「有難うございます石田一等卒殿。」

「その代わり今度もお前食事当番の時にしっかり働いてくれよな。お前が作る飯が一番美味い。」

「お安い御用ですよ、任せてください。」

 

兵舎での暮らしはある意味巨大な一つの家庭のようだ。プライベートがほぼなく、集団生活が基本だ。班で食事も被服手入れも就寝も同じ部屋。掃除洗濯飯の支度と、大所帯な分やることも多い。炊事室なんて給食センターかってくらい巨大な釜が並んでいる。

 

軍隊は西洋文化を積極的に取り入れているため、食事もパンが出てきたり、肉料理が出てきたり、カツレツなんてのもある。俺は比較的そういう料理に慣れている人間なので、作るときの手際が良いとよく褒められた。

 

炊事以外でも、比較的俺は出来が良い方だ。何事も真面目にやるのは大切な事だから、被服補修も丁寧にやっている。前世の頃なら男が裁縫得意なんて、どうしたんだって聞かれる所だけど、軍の中では重宝される。裁縫は女の仕事と言う割に、支給される軍服を自分で手入れしなくてはいけないから、綺麗に使い続けるためには裁縫技術が必要なのだ。

 

前世の家庭科の授業なんて覚えてないようなものだが、以外と手順は身についてるものだ。今じゃ別の班の上官にもボタン付けを頼まれたりする。

 

靴や銃、軍刀の手入れも、指導してもらいながら身につけていった。これらも訓練のうちなので、適当な事をしていると連帯責任を負うことになる。俺一人がビンタされるだけならまだいいが、俺のせいでみんなに被害が行くのはよろしくない。きっちりすぎるほど丁寧に取り組んだ。

 

するとどうだろう。思わぬ弊害が起きた。俺の仕事が丁寧すぎて、他の班員が怠けていると罰せられてしまった。これには俺もびっくり。開いた口が塞がらぬ。

 

別にみんなは怠けているわけではない。ちゃんとやっているし、補修も雑なわけじゃない。ただ俺が上手すぎたのだ。磨かれた靴の横に、新品かと思うほどの靴が並べば、誰だって比べてみてしまうだろう。本当に申し訳ない事をしてしまった。

 

ちゃんとそれ以来、班員のみんなにもコツを教えてあげたりして、今じゃ俺の班は一番優秀と見なされている。先輩も鼻が高いようで、良くやったとこっそり菓子をいただいたりした。

 

しかし、だ。厳しいながらも平穏に軍隊生活を送っていたが、当然そう上手くはいかないものである。出る杭は打たれるものだ。目立ち過ぎたせいか、別の班の古参兵殿たちが、しきりに俺や同期たちにちょっかいを出すようになった。

 

これには同じ班の上等兵殿も困ってしまっている。ちなみに古参兵殿は一等卒で、上等兵よりは階級は下なのだが、年功がモノを言うのが軍隊。上等兵に一等卒がビンタって明らかにおかしい光景のはずなのに、それが許されてしまっている不思議。

 

事なかれ主義の俺も流石にそこまでやられたら黙って居られず、余計な口を挟んでしまった。「これ以上同期をいたぶるのはおやめください。」と。それが古参兵殿に目を付けられてしまう原因になったようで、俺への当たりが更に厳しくなった。

 

別に自分のせいなので、特に辛くは思って居ない。はっきり言って自分より身長が低い小男に怯えるほど俺は弱くない。それに俺があそこで一言言わなければ、未だに同期たちへのいびりは続いていただろう。すまないと謝るみんなは優しい。さりげなく俺を古参兵殿たちから隠してくれたりするから本当に優し過ぎかよ。涙でるわ。

 

ただ緊急事態が発生した。酒保の菓子を買った横から古参兵殿に奪われてしまうのだ。まるで中学生のごとき嫌がらせに、開いた口が塞がらぬどころか顎が落ちてしまう。

 

奢ってやるよと言ってくれた先輩方も、古参兵殿よりは新顔らしく、簡単に手出しはできないそうだ。これでは佐一になんの土産もなしに手紙を送ることになるだろう。

 

そこで頭を抱えて考えた。何か、バレずにできて簡単で可愛い土産。外出した後に買っても、訓練で兵舎を抜けているうちに漁られてしまう。現に佐一が持たせてくれた小さな巾着から干し柿と、梅子が作ってくれた御守りや、寅次が入れてくれた炒り豆がなくなっていた。なんて卑劣な。

 

そして、掃除で兵舎内の倉庫を整頓している時、埃を被った細身の花瓶を見つけた。俺は軍曹殿に許可を得て、花を生けた。

 

男ばかりでむさ苦しい兵舎の廊下の一角に、可憐な水仙の花が生けられた。そして生ける時に一輪だけその花を手折り、こっそりと支給品の日誌に挟み込んだ。

 

押し花だ。初めてやったのでどうなるかは不安だったが、勝手に日誌を見られた時に花が落ちてしまうのが心配で、訓練中どころか就寝中も大切に持って、花を挟んだ。

 

どうにか上手い具合に乾燥してくれたようで、菓子の代わりに押し花を手紙に同封することができそうだ。

 

「拝啓、杉元佐一殿

入営からちょうど一月たちましたので、手紙を書きます。

初めはどうなるかと思ってはいたものの、俺はなんとか元気にやっています。軍隊の生活は思っていた以上に厳しいものでした。村の子供と鬼ごっこで山を駆け回っていたお陰か、体力は人よりあったので、佐一たちにとても感謝しています。毎日の訓練後に、倒れる同期たちを引きずりながら兵舎へ戻ることも苦ではありません。

入営した同期の新兵たちと愉快に、切磋琢磨しながら日々過ごしていますが、佐一は何をしているでしょうか。冬の貯蓄に不安があれば、俺の家から大量に漬けたきゅうりと干し柿があると思うので、是非村のみんなにも配ってあげてください。

こちらも寒いのですが、佐一は大丈夫ですか?あの時のように風邪を引いても、俺は手を握ってはやれないので心配です。何事も健康が一番なので、早寝早起き朝ごはん水分補給運動を忘れないように。

本当は菓子を添えたかったのですが、新兵の俺ではまだ手が届きそうにないので、代わりにこっそり作った押し花を同封します。

追伸、寅次と梅子と仲良くしろよ。

敬具、高橋唯之」

 

はぁと溜息をつくと、同期に幸せが逃げるだろうと窘められた。うるさい。溜息はちゃんと吐かないと体に悪いんだぞ禿げ。俺も今は禿げだけど。

 

集中してると呼吸止めてるからか、深呼吸してしまうのは自然だと思う。ため息というのはある意味反射のようなものだから、それを無理に止めてしまうのは返って不自然だ。というかつきたくもなるだろう。こんなに古参兵に隠れて押し花作って佐一に手紙書いて……。はぁ、止まんねぇよ溜息。

 

俺が佐一への手紙を書いていると、知らない間にみんなが集まってきていた。内容までは見ていないようだが、何か手紙を書いているのは分かったらしい。口の端を釣り上げて、みんなニヤニヤとしている。一人が口を開けばテンポよくみんなが憶測を口からこぼす。

 

「お前そんな一生懸命になって、誰に手紙書いてんだ?」

「俺には分かるぞ、それは恋文なんだろ恋文!」

「知らなかったなぁオメェにそんな相手が…。これだからモテる奴は違うねぇ?」

「うるさいぞ、これはそういうんじゃない。」

「うっそだー。こそこそ作ってた押し花入れたの見えたぞ。」

「やっぱ女じゃねーか!」

「違うんだなぁそれが。」

 

うるせえ。男子高校生かこいつら。あんまり声が大きいと怒られるので、声は抑えてみんな好き放題言う。そりゃ押し花は自分でも女みたいなことして女に送ってるような気分になるけど、佐一はこういうの好きだから菓子の代わりに入れるだけだ。

 

味気ない押し花で菓子もないなんて、惨めな感じがするけれど今回はこれで勘弁してもらうしかない。でも次こそは酒保の菓子を添える。添えてみせる。

 

その為にも騒がしい仲間たちの口をどう塞ぐか、頭を回らせなければな。勝手に俺の彼女がどんな人か言い合う彼らを見て、俺はまた一つため息をついた。目ざとくそれを見て、幸せ逃げちまうぞ!という男に、これは幸せな溜息だから良いんだよと返した。

 

というかお前ら弟宛だって分かってからかってるだろう。まったく。

 

 

村では一番背が高かった俺だが、軍の中でも身長が高い方だ。俺がだいたい165cmほどあるのに対して、同期達は155cmといったところだろうか。現代から比べると、明治の20歳の男性は、平成の女子中学生の平均身長と同じくらいだ。お陰で軍から支給された制服は若干丈が短い。

 

身長が高いせいか俺は先輩たちからの標的になりやすい。原因はそれだけではないが、同期たちに限らず上官達も俺より背が低いから、目上の人を見下す体勢になってしまう事が多々ある。生意気な態度だと因縁つけられるし、低身長な集団の中で頭1つ分出てしまい、自然と目を付けられてしまう。

 

入営から半年の時が経ち、無事一等卒へ進級。古参兵殿からのいびりも沈静化に向かっている。慣れたし回避方法も身についてきた。しかし、俺に対する当たりだけは一向に治らないのが現状だ。原因はよく分かっている。身長の件や、入営当初口を挟んだ件もそうだが、もう一つ。今から2ヶ月ほど前に発表された上等兵候補者の件だ。

 

陸軍兵士の階級は下から二等卒、一等卒、上等兵といった感じで、見習士官や近衛兵とか特殊な場合以外はみんな二等卒から始まる。普段の訓練などを見て、成績の良し悪しと班長殿などの下士官からの推薦で進級の選抜が行われる。

 

あまりにも態度が悪かったり、成績が悪かったりすると、ずっと二等卒ということもあり得るわけだ。だからみんな一期終わりの発表には興味が尽きない。自分の昇進がかかっているし当然だろう。大学に入って進級できるか不安で仕方ない浪人生みたいな空気に似ているかもしれない。

 

中でも特に注目されるのは上等兵候補者の発表だ。上等兵は、兵の中でも優秀と見なされた者が成れる。俺たち生兵から見て、できる先輩ってところだ。座学が得意なら事務を任されることもあるし、腕に自信があるなら教官の補佐として訓練で働く。殆どの班が伍長や上等兵が班長の場合が多いため、自然と教育係として働くポジョンだ。

 

上等兵候補者に選ばれれば、よっぽどの事がない限り除隊までには上等兵に選ばれるらしいが、候補者は今後の選抜でふるいにかけられ、正式に進級するのは早ければ12月ごろのようだ。同年兵のうち4分の1程度が選ばれるそうなので、確率で行けば25%で上等兵。中隊の人数が120より多いくらいだから、その中の30人程が上等兵。その他一等卒といった具合か。

 

さらに上等兵の中でも優秀なものは、二年兵時に短期伍長に選ばれることもある。この場合は除隊までには下士官になるだろうといった具合で、叩き上げの軍人の中でも優秀な部類に入るのではないだろうか。軍の階級は大きく分けて上から将校、下士官、兵だから、兵から下士官になるというのは並ならぬ努力が必要だ。

 

本来下士官は見習い将校など、ちゃんと士官学校を出たボンボン。将来的に指揮官として活躍する方々のスタートラインでもある。ただの農民や市民がそこに並ぶわけだから本当にすごい。

 

そして俺は2ヶ月前に上等兵候補者に選ばれた。これ自体は大変名誉な事だ。ちゃんと真面目に訓練をこなしているから、同期からはやっぱりみたいな視線を貰っている。しかし選ばれた後が大変だった。

 

上等兵候補者に選ばれると、上等兵になるための特別な教育がなされる。起床ラッパより前に自力で起きて銃剣術の稽古をし、いつもと同じようにみんなに混じって演習を行い、法規の授業を受け、夕食後にも銃剣術の稽古を行う。精神的にも肉体的にも脳みそ的にもしんどい。中でも法規の授業はさながら学校で社会科の授業を受けているかのようで、やけに達筆で読み辛い教本片手に必死に暗記している。授業中に寝ようものならチョークではなくビンタが飛んで来るだろう。

 

それに加えて選ばれなかった古参兵からの、僻みからくる嫌がらせ、私刑。はっきり言ってこの半年間もキツかったが、更にハードルが上がった感じだ。訓練前にちゃんと整えたはずのシーツをぐちゃぐちゃにするのやめてほしい。ほんと中学生レベルかよ。

 

そんな苦痛な日々の癒しは佐一からの手紙だ。荒らされたりしないように、自分の寝床の裏に隠して保管している。佐一からの手紙には、俺が押し花を送って以来返事の手紙に押し花が添えられるのが定番化していた。ちょっと歪な形の押し花が届くたびに、荒んだ心が生き返るような心地だった。

 

先月、六月の中旬ほどに届いた手紙には、梅雨のためか干し柿にカビが生えてしまって送れそうにないと書かれていた。俺としても残念だが、しょうがないことだ。兵舎も梅雨の湿気で生乾きの臭いがこもっていたから、届いたとしてもそう長持ちはしないだろうと思っていた。干し柿は栄養満点だから、こんな美味いものがあるのかと、カビもさぞ喜んだことだろう。

 

しかし残念だ。干し柿が届かないというのは。ゆとりのない軍での生活の中で、故郷を思い出せる品があるのは幸せな事だった。押し花も勿論嬉しいが、やはり味覚というのは他の感覚より経験を覚えているもので、懐かしさをより感じられた。

 

『高橋唯之』も、好きだったはずだ。あの家は風通しの良いところで、その割に日差しがきつくない木陰にあったから、毎年綺麗な干し柿ができた。

 

 

夕食後同期達と話していると、同期の一人がポツリとこんなことを漏らした。

 

「戦争ってなんだろうなぁ。」

 

あまりに単純な質問ではあるが、その言葉に誰一人として何も言うことはできない。何故なら俺たちは実戦の経験がないからである。分からないことをあれこれ言うことはできなかった。

 

「……戦争が何かってのはこれから分かるさ、もう清国との戦争は始まっているんだ。まだ俺たち第1師団は動員されていないが、作戦方針が定まればきっと明日にでも前線に送り込まれるに違いないよ。」

 

俺と同じ上等兵候補の友人が言う。まぁ、彼の言う通りだった。実際やってみれば自ずと分かる。百聞一見に如かずだ。此度の戦争が始まって、着々と日本軍は戦果を挙げている。同時に俺たちが第2軍として他師団と共に行動することも通達されている。作戦開始も間近だろう。

 

「戦争って、平たく言えば戦うことだろう?俺たち兵士なんだから。そんなに考えることか?」

 

一等卒の友人も言う。そう、俺たちはあくまで軍に所属する兵士でしかないのだから、そもそも戦うことに疑問を抱くことを許されないのだ。俺たちは作戦通り動き、指令を全うすることを望まれている。

 

しかし一等卒の友人の言葉に、最初に問いを投げかけた同期の男は納得できないようで、口を結んでうーんと小さく唸っていた。そして結んだ口を戻したかと思うと、今度は俺に意見を求める。

 

「なぁ、高橋はどう思う?」

「俺に振るのか。そうだなぁ、戦争とは何かって結構難しい質問だな。」

 

そもそも俺はどの視点から意見すればいいのだ。現代を通過している俺からしたら、戦争は国同士のつまらない喧嘩だと言う意見も出せてしまう。ただの殺人だとも言えてしまう。あるいはゲームだとか。アプリで三国志が出来てしまうくらいだから、本当に戦争はゲームって言えてしまうぞ。

 

けれど。けれどこの戦争はそうではないのだ。そんな単純な話ではないのだ。

 

ふと、昔読んだ本の内容を思い出した。あの登場人物と、取り巻く状況も、意味も、何もかも異なっているとは分かっているが、その言葉がしっくりきて、俺はゆっくり口を開いた。

 

「『このままでは…俺たちは大国に飲み込まれてしまう……。』そういうことなんじゃないか?この戦争は。」

「どういうことだよ。」

「俺たちは列強の侵攻に対抗するために存在する。そのための戦争だと言ってるんだ。考えてみろよ、もし戦争をしなかったとしたらどうなるかを。」

 

今ロシアは不凍港を求めてアジア東方へ徐々に領土を拡大している。拡大とともに着々と行われているのがシベリア鉄道の建設だ。ロシア国内を東西に横断するこの鉄道は、もし完成してしまえばヨーロッパの軍隊を容易くアジアまで移動させることができてしまう。もしそんなことが起きたら、日本はあっという間に列強の植民地だ。

 

回避する為にも、日本と大陸をつなぐ地点にある朝鮮には頑張ってもらわなくてはいけない。朝鮮がロシアの勢力下に入るのだけはなんとしてでも阻止しなくてはならない。

 

その為にも、ロシアに逆らえない清に、朝鮮が支配されているという現状を打破しなくてはならなかった。今、清と戦争し、勝ち、朝鮮の独立を無理矢理にでも認めさせなければならないのだ。

 

日本が日本であり続けるために、この戦争は確かに必要なのだ。

 

「まぁ、お前の言う疑問も分からないことはない。自分の国の為に他の国を攻撃しに行くんだ。あまりに規模が大きすぎて理解しきれないんだろ。なら自分に近しい人たちを思い浮かべればいい。もしこの国が列強の手に落ちれば、彼らの暮らしはどうなる?」

「……欧米諸国の植民地はどこも酷いものだよ。植民支配をするのは優秀な白人の義務で、植民地の人々は奴隷のような扱いを受けると聞いた。」

 

俺の話す後に同意するように、上等兵候補の友人が言った。他にも色々ある。木綿産業が盛んだった国に、自国の安い木綿を輸入させたことで、現地の多くの農民が生活できなくなってしまった。本来ならば関税をかけるところだが、植民地は輸入を拒むことすらできない。それどころか、自国が輸出した安い木綿をもっと買わせる為に、植民地の木綿農家がこれ以上生産できないように手首をはねたそうだ。

 

資本主義国は自国の利益を優先するわけだから、植民地の人々の生活なぞどうでもいいのだ。無理矢理輸出入させ貿易し、現地民の生計を破壊し経済を破綻させる。利益さえ出ればそれで何万という人間が死んでも御構い無し。

 

そんな惨いことを、この国にすると言われて黙っている方がおかしいのだ。

 

そんな酷い仕打ちを、大切な人たちにすると言われて黙っている方がおかしいのだ。

 

「…俺は、故郷のみんなが大事だ。俺なんかが死んでも悲しんでくれるような、優しい人たちなんだ。」

 

両親と、何より佐一の笑顔が浮かぶ。

こんなろくでなしに深い愛情と優しさを与えてくれたみんなが、大切で仕方がない。

 

「負けられないな。」と一等卒の友人が言った。みんなその言葉に何も返事は返さなかったが、張るような静けさの中で、手をぐっと握り込む音が聞こえるような気がした。

 




次回の日清戦争編はさらっと月島軍曹との絡みで終わらせたいところです。
そこでようやく金カムに転生したって気付かせて「今まで成ろうとしていた『高橋唯之』は創作物なのか。」という壁にぶち当たってほしいですね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

転換点

感想・評価ありがとうございます。お気に入りとか一つ増えるたびに嬉しくて小躍りしてます。

今回の話は圧縮日清戦争・改です。
大幅修正のおかげでかなり短くなりました。
ホモ衛生兵も消えました。のでひとまずボーイズラブタグも消そうかなと思います。
その分月島さんと鶴見さんの出番が増えました!ヤッタアァァアア!!!


恐らくそれは必然だった。

 

あまりに鈍感であり続けた俺に、良い加減にしろと言うような。

そんなはずある訳がないと消してきた可能性の屑を、掻き集めて見せつけるような。

そろそろ現実を見ろと、気付かせるために俺を諭す。

陳腐な言葉で表すなら、まさに『天の声』だった。

 

そんな大きな存在の力を感じたのだ。

 

見えなくて、けれどしっかりそこに存在する何かの。逆らえない激流によって。

 

俺は逸らし続けた目を、やっと真っ直ぐにできたのだ。

 

 

 

第1師団を含む第2軍は旅順口攻略を行い、終始日本軍は優勢に戦った。一部の作戦では無血占領もでき、目立った戦闘もなく旅順へ向けての陸路は順調だった。

 

俺を含め、安心していたものは多いだろう。なんせ大国との戦争だ。皆、死地に赴く心地で出征したのだから、こうも戦闘という殺し合いがないというのは非常に有難い。殺し合いが先延ばしになる限りは、自分の余命が伸びるのだ。進んで死にたいなんてやつはそういない。

 

その安心が慢心でなかったかと聞かれれば、俺は否定することは出来ない。その証拠に、俺は一度だけ肩を負傷した。右肩を通過するように走る一文字は、俺の肩の肉を抉って変な溝を作った。

 

俺がこの傷を負った旅順前の土城子で、第2軍は苦戦を強いられた。俺たちを苦しめたのは圧倒的な物量だ。

兎に角兵の数が尋常ではなかった。それもそのはず、これまで目立った戦闘がなかったのは、敵兵が予想を超える早さで撤退していったからだ。しかも皆旅順へと。

 

遼東半島各地に散らばっていた兵士が、第2軍に追い詰められるようにして旅順へと後退する。日本の倍の国土と人口を持つ国の軍だ。兵士の数もこちらの比ではない。それが一箇所に集中するのだ。とんでもない人数を相手に我々は戦うしかなかった。倒しても倒しても、奥からウジャウジャと敵兵が湧いて出る様子に、軽く心が折れそうになった。

 

戦場の空気に揉まれて、まともに思考は回っていなかった。今振り返ってみると、そこで俺は初めて、明確な殺意を持って他人を殺そうとしたのだと思う。

 

初めての殺人は『高橋唯之』という、俺の意識の外で起きた殺人だった。故意ではないとはいえ、俺が彼を殺してしまったのは疑いようがない事実だ。そしてついに、自分の手を汚して人を殺した。

 

この事実をはっきりと理解したのは、旅順の攻略が終わってからだと思う。戦いが終わって、騒いでいた血潮がようやく落ち着いた頃。暫くしてから、体にのしかかるようにその自覚は現れた。

 

俺は人を殺した。紛れも無く、あの冷静さを欠いた状況で、命を軽んじながら命を奪ったのだ。と。

 

銃剣を心臓に突き刺し、弾丸で眉間を狙い、武器がなければ潰れるまで頭を殴って。まるで悪鬼羅刹の如き振る舞いだった。己が殺されないために殺し続けた。生きる為に、本能のまま殺しを働いたのだ。

 

そしてそれに気付くまでに時間を要するほど、俺にとって殺人は苦ではなかっのだ。

生きるために殺すのがあまりに自然過ぎて、己の過ちを見過ごすほど、存外に人を殺すのは難しくなかった。感傷に浸る隙すら無かった。

 

やっぱり自分はクズだと自嘲する。あんなに命を大事にして、誰かに優しくするために生きようと思っていた癖に、このザマだ。人間極限状態になると本性が出るというから、やっぱりコレが俺の本性なのだ。こんなのでは、一生『高橋唯之』を名乗るなどできるはずもない。

 

そもそも、『高橋唯之』に成ったあの日から、俺にとって生きる事と殺す事は同義だったのではないだろうか。彼を殺したからこそ、今の俺の10年がある。彼が死んでいなかったら、俺は存在さえしなかったかもしれない。

 

だから、俺にとって生きる時に呼吸をするのが自然なように、殺す事もまた俺にとって自然なのだろう。最低だ。生まれながらの殺人鬼といっても過言ではない。

 

生きている事が、申し訳ない。でも今死のうとは思えない。

 

こんなにも沢山人を殺したのに。当然のように、何も感じる事なく命を屠ったのに。俺はまだ生きたいと思っている。自分のクズさを自覚しても、それでも俺は生きたいと願ってしまった。

 

俺は、生きるための人殺しを良しとしたのだ。

 

 

旅順虐殺事件の悲惨さを知る者はどれほどいるだろうか。俺は作戦に参加していないから分からない。それでも歴史の教科書で勉強する以上には、リアルな現状を俺は知っている事だろう。

 

日本軍は、捕虜を取らない。捕虜を取らないという事は、捕虜にあたる者どもは皆殺しという事だ。

 

敵兵の中には、軍服を脱ぎ捨てて市街に逃げ込む者もいた。それを理由に一般人も巻き込んで、老若男女問わず殺戮した。

 

殺し方も酷い。例えすでに死体であったとしても、顔から耳と鼻を削ぎ落とし、首も切り、手首も落とし、腹を割いて内臓を抉り出し、胃に石を詰める。これはどれだけ理由を並べても世界からの批判は免れないに決まっている。

 

俺はその話を人伝に聞いた。何故ならその事件が起きている頃、俺は上官に囲まれながら取り調べを受けていたからである。

 

 

かなり前の話になる。俺はある古参兵殿に、佐一からもらった巾着の中身を盗まれた。あの中には佐一が入れてくれた干し柿、寅次が入れてくれた煎り豆、そして梅子が入れてくれた手製のお守りが入っていた。

 

食べ物に関しては見せつけるように食われたので、もう残っていない事は分かっている。けれどお守りは違う。手製であれ、お守りを粗末に扱う人間はそういない。事実、俺はそのお守りをちゃんと懐に入れて出陣する古参兵殿を見ている。

 

そしてその古参兵殿は、不運にもお亡くなりになった。

 

これまでのことを思えばザマァ見ろと思わなくもないが、そんな事よりお守りが大事だった。

 

俺はまだ回収されていない古参兵殿の遺体から身ぐるみを剥いで、お守りを探した。

 

異様な光景だっただろう。戦闘そっちのけで、火事場泥棒のように死体を弄っているのだから。当然その場には俺や死体以外にも、多くの兵がいるわけで、すぐに俺は捕まった。死んだ戦友の身ぐるみを剥ぐなど言語両断だ!と上官達に拘束されて、俺はそのまま尋問された。

 

尋問というよりは拷問に近いものだったと思う。いかなる理由であったとしても、死んでいる人間、つまり仏から服をひっぺがしてる、というのはよろしくないのだとひたすら殴られた。間違ってはいないと思うが、一々殴るのも良くないと思わないのか?

 

何度も俺はお守りを取り返したいだけなのだと主張するが、反抗的だと殴られた。クソ、ならばと思い黙っていると、本当に反省しているのかと殴られた。

 

そして同じ問いかけが降ってくる。何故戦友の骸から身ぐるみを剥いだ!と。いやだからさっきからお守りを取り返すためだと言っているじゃないか。そしてそれを説明しても反抗するな。黙ると反省しているのか何とか言え。

 

いくら加減しているとはいえ、何度も殴られていればダメージは蓄積するものだ。だんだんと意識が朦朧としてきた。そんな頃だ。見慣れない師団の少尉が俺のもとに訪れた。

 

「〜〜〜〜!」

「〜〜〜。〜〜〜〜、〜〜。」

「〜〜〜〜。」

 

片側の鼓膜が破れてしまっていたから、俺にはうまく会話が聞こえてこなかったが、断片的に入ってくるワードから、見慣れない少尉が第2師団の所属だということを知る。

 

第2師団、か。確か…仙台が拠点だったな。青森や新潟などの歩兵連隊も、第2師団に属しているはずだ。

 

少尉は俺の前まできて、俺を呼んだ。高橋一等卒、と。

 

口の中も切れていてまともに応答できる状態ではなかったが、俺のなっていない返事に少尉は何も言わず、俺の手のひらに何かを置いた。

 

柔らかくて小さいそれは、ボヤッとする視界ではモザイク画の様な見え方にしかならなかったが、鮮やかな赤とところどころに散る山吹と桃に、これが梅子のお守りだということに気がつく。

 

ハッとして見えない視界で、少尉殿を見上げれば。少尉殿は俺のお守りを持つ手を包むように握ってから、静かに一言、大事にしなさいと囁いた。聞こえにくかったが、確かにそう言っていたと思う。

 

俺が有難うございますと言うのを見届けてから、少尉殿は立ち去った。俺の拘束も解かれ、途中上官にこう耳打ちされた。耳打ちされた方の耳は無事だったので、その言葉ははっきりよく聞こえた。

 

「鶴見少尉殿に感謝しろ、お前の探していたお守りを、わざわざ探してここまで届けてくださったのだ。」と。

 

ふわふわした思考の中で反響するワード。鶴見少尉。

俺は理解したのか、理解していないのか、曖昧にマジかよ。と言う感想を抱いて、そこで意識を失った。

 

 

俺は尋問の期間のせいで、佐一宛の手紙を出すのが遅れてしまったため、急いで支給の軍用葉書に文字を紡いだ。

 

戦場から出す手紙はいつも同じ様な文になってしまう。変なこと書いたら検閲で塗り潰されるから、当たり障りないことしか書けない。短く、怪我が少しあるが生きている。お守りのおかげだと梅子に伝えて欲しい。とだけ書いた。

 

野戦郵便局の外でそんな内容を鉛筆で書いていると、話しかけてきた男がいた。

 

「すまない、書くものを貸してくれないか。」

 

後ろを振り返れば、そこにはちょっと衝撃的な男が立っていた。別に男は平凡な顔立ちをしているし、身長が低いのもいつものことだったので、特にそんな驚くような要素はない、はずだった。

 

俺は一目見て思った。見覚えがあると。

 

兵隊らしく丸刈りの頭に、きつい三白眼。低い鼻。同い年であろうはずなのに、目頭から真っ直ぐと深いシワが刻まれたその顔に。

 

「……いいぜ。ほら。」

「有難う。すぐ返す。」

 

俺と彼の間には特にその時これといった会話があったわけではない。ただ物の貸し借りには必要であろう単語が並んだだけだ。

 

むしろその時の俺は少し混乱していたので、それだけで会話が済んだ事は、かえって良かったのだ。もしあれ以上の会話があったとしたら、なにかとんでもない言葉が口を突いて出てくるかもしれなかった。

 

間違いない。彼は月島軍曹だ。

日清戦争に従軍していたことは事前知識として知っていた。その時の所属が第2師団であり、その時から鶴見中尉の部下であることも。

 

______鶴見少尉殿に感謝しろ、お前の探していたお守りを、わざわざ探してここまで届けてくださったのだ。

 

そして今、この日清戦争時、鶴見中尉はまだ鶴見少尉だ。

 

 

煙草はなかなか便利な道具だ。前世ではその健康に与える影響のせいか、とんと無縁だったが、この一本でいい気分転換になる。

 

戦場には嗜好品は少ない。その中でも煙草と酒はトップを争うものだろう。誰かしらは持ってる。この前水筒の水を分けて貰おうと思って飲んだら酒でびっくりした。普通にやめて欲しい。それはないだろ、水筒に酒は。

 

最初は煙草の匂いは苦手だったが、今は嗅ぐと少し落ち着く。臭いだけだったのに、慣れというのは怖いものだ。一本取り出しマッチで火をつければ、ジジッと音を立てて煙が立ち始めた。それを吸うと口腔に特有の香りと風味が充満していく。

 

ふっと吐き出せば、煙は風に煽られて淡くゆるい線を描いた。少しだけ頭がスッキリした様な気がする。まぁ、気がするだけだろうけど。

 

冷静になったところで考えるのは、やはりこの世界のことだ。

 

この世界はフィクションかもしれない。

 

馬鹿げていると思う。俺も信じたくはない。これまでの10年間を作り物と決めつけてしまうには、生きた時間が長すぎる。けれど限りなくそれは真実に近いだろうと、頭の隅で思っていた。

 

だって10年だぞ。気づかない方がどうかしてると思わないか。

 

そもそもの前提としてタイムスリップは無理がありすぎた。生まれ変わりも同じくらい。しかも100年以上前の時代に生まれ直すなんて、いかにも非現実的じゃないか。同じ年号が使われ、同じ事件が起き、同じ戦争が勃発する。

 

あまりにも出来過ぎだ。まるで最初からそうあるように定められていたかのような感覚を受ける。

 

そして『キャラクター』の存在。

 

……一番の決め手は、鶴見少尉や月島一等卒かと思うかもしれないが、本当は佐一だ。

 

同姓同名の他人なんて、何人もいるだろう。けど幼馴染に寅次と梅子までいたら、これはもう偶然なんて理由で片付けるのは苦しい。この10年で、あの漫画の存在がちらついたのは一度や二度ではない。だって杉元佐一だ。主人公だ。ちょっとくらい同じ名前なんだとか、考えなかったわけではない。

 

本当は、そう。薄々その異常さに気付いていたんだ。けれど俺はそれからずっと目を逸らし続けた。違和感に見て見ぬ振りをした。

 

それだけ『高橋唯之』になるのに必死だったというのもある。この世界が虚構だと信じたくなかったというのもある。

 

そして何より、俺は生きたかったから。

そんな事どうでもいいとか、思ってしまっていたのかもしれない。だからなのだろうか。同じ戦争に参戦しているとはいえ、こうも続けざまに会うなんて。何か出来過ぎた感じがして仕方がない。もしかしたらこれはいつまで経っても嘘だと言い続ける自分に向けられた罰か何かだろうか。

 

「浮かない顔だな、高橋、どうした。」

「……月島。浮かない顔は俺のアイディンティティ、個性なんだ。お前の仏頂面と同じだから、気にしないでくれ……。」

 

別に気分転換だけの目的で、煙草を吸い始めたわけではない。煙草は、コミュケーションにも役に立つ。煙草を吸っているだけで、人が集まり、自然と会話が始まる。

 

それをきっかけに、俺は月島基との接触に成功していた。もともと野戦郵便局で会っていたというのも大きいだろう。すぐに打ち解けることができた。

 

「ああ、そういえばお前、戦争終わったら駆け落ちするとか言ってたっけ?」

「なんだ急に、そうだが…どうかしたか?」

「いや、婚約者に逃げられないように、もっと頻繁に生存報告したらどうかなって、思っただけさ。」

 

そう言う俺に、月島は「なら俺が死ななければいいだけの事だ」と返した。なんだよ、かっこいいな。先を知っている身としては、それはフラグに聞こえなくもないが。いや、確実にフラグだな。原作じゃ、いご草ちゃんは自殺に見せかけられてたわけだから。……要らんこと言ったかな。

 

「お前も居るだろう?好いた者の一人や二人。俺と同じように月に一度は連絡を取っているじゃないか。それにそのお守り。手作りだろう?恋人から貰ったんじゃないのか。」

「やめろよ、梅子は俺より十も下だ。連絡してるのは梅子と同じ年の佐一って言って、可愛い弟分なの。」

 

それに、女なんてね。

 

正直言って自分の守備範囲がどこか、自分でもわかってないんだ。なんせ前世から地続きのような感覚で生きてるんだ。遥かに年上が好みだ、とだけははっきりしているけどな。

 

多分結婚はしないし、清いお付き合いも一生しない。俺のようなやつと一緒になっても、誰も得しない。不幸にするだけだ。それならば最初から関係など持たない。

 

フッと煙を吹き出してぼうっとする。

もしこの世界が、俺が思うようなフィクションじゃないとしたら。台本通りの決められた道筋を辿らない、本当の世界だとしたら。

 

俺はこの可能性に賭けてみようかと、そう思い至った。

 

ポケットから梅子が作ってくれたお守りを取り出す。赤に薄桃や山吹の入った手作りで、本来二重叶結びの紐に、水引で作った梅結びが縫い付けられている。

 

そのお守りをおもむろに月島の手に乗せ握らせた。可愛い赤いお守りは、ちょっと月島には似合わないから面白い。

 

「これ、預かっててくれよ。俺の命に等しいお守りだ。失くしたら死を覚悟してほしい。」

「は?」

「ひとまずこれでお前が死なないっていう願掛けだ。失くすなよ?失くしたら梅子の前まで引きずり出して土下座させてやる。」

「大事なものだろう!?何故今俺に渡す!」

「月島、少し話を聞いてくれ。」

 

それにタダで渡すわけじゃない。これから言うことをやってもらう。

 

事実、お守りはあくまでも口実に過ぎない。俺が戦争の後、月島のもとに訪れて、本当に原作通りの道筋を辿るのかを確認するための、比較的自然な口実だ。

 

驚いた様子の月島の口を塞ぐように、俺はまた話し始める。

 

「それは俺にとって大事なものというのはよく分かっていると思う。なんせ今でも、それを取り返すために古参兵の身包み剥いだって、茶化されるくらいだからな。お前も知ってるだろ。お前の所の少尉殿には感謝しても仕切れない。」

「だから何故だ、そこまでして取り返したのに、なんで俺に…。」

「それは俺が絶対に受け取りに行くという保険だ。俺は戦争が終わったら、必ずお前の故郷に行って、それを返してもらう。その間に月島は、戦争以外で人を殺さないでほしい。」

 

簡単だろ?まぁ、それ大事に持っていてほしいだけだから。眺めてもいいぞ。梅子はそういうの得意だからな。細かい所まで綺麗に作ってある。目が良いんだ。

 

月島は俺の言葉に不満はあっただろうに、俺の気迫に押されてか、頷いて俺の願いを受け入れてくれた。俺は小さな紙切れを懐から取り出し、「高橋唯之ガ月島基二アズケル」と書いて紐の部分に結びつけた。

 

バタフライエフェクトに期待しよう。日本風に言うなら、風が吹けば桶屋が儲かる、というやつだ。一見些細な物事が、後から大きな影響を与えるという教え。

 

これは布石だ。

可能性の種を蒔いたとも言える。

これが吉と出るか凶と出るかは、誰にも分からないことだ。

 

 

こうして日清戦争は終わった。

 




大幅修正でかなり文字数がカットされてます。そう、最初からこのくらいサラッと行きたかったのに、ホモ衛生兵なんか出したから……。
修正前よりも主人公の反応が自然になったかなと思います。
流石に10年あれば主人公気付きますよ。だって杉元佐一だもん。一度くらい「そういえばそんな名前の主人公がいる漫画読んだ事あるな」ってなりますよ。

やっと評価がバナナバーになってくれてちょっと安心してます。
自分で言うのもなんですが、あまり文章力がある方でもない(まともに推敲などできない)し、作者の中でずっと思っていたことを主人公に喋らせているようなところもあるので、高得点を入れていただいた方々の期待を裏切ることになってしまうのかもしれませんが、自分としては納得の評価です。
いつかトマトバーに出来るように精進していきます!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

転換点2

感想・評価ありがとうございます!誤字修正もめちゃくちゃありがたいです!
今回の話は主人公が帰郷してからの一悶着です。短くできてホッとしています。
前回の話を大幅に修正して短くして、さらに今回も短くなってるのでちょっと読み応えはないかもしれません。自分で読み返しても面白くないなぁと思いながら描きました。でも一応予定していた流れに向かうために挟んだ話、っていう感じです。


東京・浅草の花街

 

芸者と聞けば、誰しも決まった女性の姿を思い浮かべるだろう。あの髪型で、白粉を塗り、色っぽく着物を着崩したりして…。まさに、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花という言葉通り。

 

そんな女性たちに世の男たちは魅了され、散財するものも少なくない。そのせいで借金に追われているやつは掃いて捨てるほどいる。

 

しかし、そんな花街の世界もシビアなものだ。しっかり売れているトップは政治家の正妻になる事もあったが、花街で働く女性の多くが年季奉公。かなり極端な言い方をすると、借金のカタに売られた、というのも多かったりする。

 

そんな彼女たちの成れの果ては酷いものだ。この時代は、ろくな避妊道具もない。一度性病が出れば、もうわんさかわんさかと死ぬ。本当に死ぬくらいだったらやらなければいいのに。

 

「あら、箱屋さん。まだお仕事ですか?終わったらうちの店に寄ってってくださいよ。」

「それは無理だよ。なんてったって箱屋さんだからね。」

 

俺は今箱屋という職についている。箱屋というのは、言ってしまえば芸者のマネージャーだ。

 

いくら花街の芸者であろうと、乱暴な男に襲われる可能性はある。だからこそ、元芸者の老女や、腕に自信のある男が雇われる。客の元へ芸者を無事送り届け、時間が経てば迎えに行く。ボディーガードも兼ねている。

 

けれど当然、花街で働いているということは、まともな職ではない。箱屋についている男は、訳ありであったり、浪人だったりすることが多い。そうで無かったらもっと普通の仕事が沢山あるからな。

 

女の仕事の側に控える男な訳だから、色恋沙汰もゼロではない。芸者と箱屋の恋愛はご法度だ。いくら俺の職場と別の店だからといって、厄介になるわけにはいかない。

 

「そういえば箱屋さん、アンタは箱屋になる前は兵隊さんだっていってたな。なんだってこんなとこ来たんだい。」

 

酒を飲んでるおやっさんが聞いてきた。

 

「……訳ありなのさ。故郷に帰れなくなっちまったの。」

「ええ?じゃあずっとこれからここで働く気なのかい?」

「いや、そろそろ新潟の友人を訪ねるんだ。また行くあてがなくなったら戻ってくるけどな。」

「ええー!唯之さん辞めちゃうの?ならやっぱりせめて辞める前に私の店に一度くらい寄ってってよ!」

「姉さんのとこ行ったら、俺のなけなしの金が吹っ飛んじまうよ。」

 

ケチだねぇ、と小言をぶつけてくる知り合いをあしらって、俺は自分の仕事をするために、行き慣れた料亭まで足を運んだ。

 

 

戦争が終わり、俺は任期を終え除隊となった。

おやっさんがいう通り、兵隊上がりな俺がどうして一人東京の浅草で、箱屋なんかやってるのか。これには深い事情があるのだ。

 

それは俺が帰郷して数週間と経たないうちに起きてしまった。

 

 

俺が村に帰ってくるなり出迎えてくれたのはやっぱり佐一だった。唯之にい、と大声で叫びながら、小石の多い砂利道を全速力で駆けてきた。俺はそんな佐一を抱きしめて、ただいまと一言言った。

 

村の人たちに見守られながら家に帰れば、珍しくそこには家族全員が揃っていた。

 

昔から俺が年の割に落ち着いていたせいもあるが、兄が病院に入ってからは、両親は兄につきっきりだった。大抵の日は家には俺一人で、両親のどちらかは仕事に、もう片方は病院にといった感じだった。

 

だから俺が入営したあの日といい、今日といい、家族四人ともが家に揃うのは、本当に珍しいことなのだ。

 

 

戦争が終わったからといって、みんなの生活が劇的に変わるわけじゃない。変わったのは、多少稼ぎは良くなったので兄の薬代を払うのが楽になったというくらいだ。

 

兄は今は入院しておらず、半年に二、三度の通院で十分らしい。戦争に行く前は、月に一度通院すると聞いていたから、随分と体の調子が良くなったようだ。

 

それを知って驚く俺を見て、兄は苦笑いし、両親は佐一とは必ず連絡とってたくせに、家には葉書一つ入れないんだから、アンタが知らないのも当たり前だよ、と素っ気なく言った。素直に俺はごめんなさいと謝った。

 

佐一はというと、しばらく見ない間に随分と背が伸びていた。手紙には俺も唯之にいに届くくらい大きくなったと書いてあって、嘘だと思っていたが、この調子なら俺の身長に届く日も遠くないかもしれない。

 

入営前の一年は約束があったため、随分と佐一が家に入り浸っていたが、それも今は鳴りを潜めているようだ。最近じゃ俺が佐一を誘っても、大丈夫と言って元気に走り回ってる。それでも時たまに家に訪れるのは変わりない。

 

客人のいない家になった我が家は当然俺と兄。たまに両親が在宅する状態になった。両親は仕事の関係もあって、やはり家を開ける日は多いが、それも昔よりは減ったものだ。

 

除隊金で家計は随分と良くなったし、兄が健康になってきているのもいい影響になっている。両親も心配事が減って、以前に増して仕事に熱を入れている。

 

そんな中俺がやることと言ったら家のことをしたり、村の人の手伝いをしたり、たまに頼まれる子守りを引き受けたり、ほとんど戦争に行く前と同じことをしている。

 

しかし確実に違うのは俺の気持ちだ。

 

『高橋唯之』に成ろうとするために汗水垂らして働いた俺はもういない。未だ答えは出せないものの、取り敢えず俺は俺であると、一区切りつけることができたのだ。ふとした時に悶々と考え込む癖は治らないが、それもまた受け入れれば楽なものだ。

 

一度だけ、兄が余りの様子に慌てたことがある。魘される俺を見てよっぽど驚いたんだろう。夜中なのに、どうした唯之!どこが痛いのか!今医者を呼ぶぞ!と大声で。あれは止めるのが本当に大変だった。

 

兄はこれまでまともに一緒に生活したことがなかったから、お前のようにすごい奴も魘されることがあるのだな、としみじみとした様子で呟いていた。

 

俺はその言葉に、俺も人の子だよ兄さん。と言い、それに兄はちょっとびっくりした様子をしてから、それもそうだと返した。和やかな、兄弟の時間だった。記憶の中でも、あそこまで慌てた様子の兄は初めて見たと思う。俺を心配してくれたのだと、柄にもなく少し嬉しかったような気がした。

 

ここまでは、何もかもうまくいっていたのだと言い切れる。俺の人生の中でも、本当に少ない平穏というか、家族という安らぎのあった時間だろう。

 

その数日後、兄は殺された。

 

 

俺は幼い頃から体があまり丈夫でなく、それがコンプレックスでもあった。俺には弟がいたが、弟ができることが俺にはほとんどできなかった。手先も器用で運動もできて。俺にとって弟は可愛いものだったが、同時に妬ましいものだった。

 

子供の時分は、とにかくお兄ちゃんぶりたいものであった。弟にかっこいいところを見せたいというのは、今思えば気恥ずかしいが、あの年頃の子供ならば当然思うことだろう。

 

それでもうまくいっていたのだと思う。ある日を境に、弟。『高橋唯之』は人が変わってしまったのだ。

 

まず笑い方が違うなと思った。にっと歯を惜しげもなく晒して笑顔を浮かべていた彼は、口角を上げて優しく目尻を落とす穏やかな笑いをするようになった。

 

次に習ってもいない英語を話し始めたことだろう。耳に馴染まない異国の言葉が聞こえてきた時は、びっくりしたものだった。

 

一番衝撃的だったのは、世話を焼かれることが増えたという事だ。くだらないと言われるかもしれないが、兄が弟に面倒見てもらうなんて、当時の俺にとっては衝撃以外の何者でもなかった。同時に屈辱感も感じていた。

 

子供だった俺はその感情の処理をどう行えばいいかわからず、あははと、作り笑いを浮かべるしかなかった。そして案の定、体の調子を崩し、その流れで病に罹った。そのくらい、変わってしまった弟というのは、俺に強く影響を与えたのだ。

 

けれど、弟のせいにする気は無い。それはちょっと言い訳がましい。大人になるにつれて、弟と離れている期間が、段々と胸の内の重りを軽くしてくれた。共に病状も回復して、ついに生家に帰ることができた。

 

けれど、それはもう一つの悪夢の始まりといっても過言ではなかった。

 

弟は俺よりも出来がいいのはよく分かっていた。けれど俺の予想をはるかに上回る働きを、彼は村で10年もこなしていたのだ。

 

いくら病に勝ったとはいえ、体は本調子では無い。この体では農作業の一つも手伝うことはできない。聞けば弟は60kgに及ぶ米俵を軽々と持ち上げていたという。これを聞いた時は弟は人では無いと疑った。

 

両親の仕事を手伝おうにも、俺には勝手がわからない。乾物の作り方や、家事道具の扱いまで、これまでやっていなかった分の遅れが波のように押してきたのだ。両親はしょうがないと言いつつ、苦笑いだった。あんなに申し訳ないと思ったことはない。

 

けれど俺は頑張らねばと思い、ひたすらに努力した。今死地に赴こうとしている弟がいるのに、こんな有様では情けないと。

 

それでも、やはり10年という月日は長かったのだ。

 

外へ出れば聞こえてくる。あれが高橋のところの長男かい?随分と細いのね。出征した弟さんとは大違いで…。愛想も悪くて声も小さい。本当に兄弟だったのかしら。

あんなに弟さんは出来が良いのに。

 

気にしないようにしていた。だって、全部わかっていることだからだ。自分でも思っていた。自分でも口にそうだした。「弟の方が出来がいい」と。そんな事は随分昔から分かっていたんだ。

 

けれど、他人に言われるのだけは耐えられなかった。自分で言うのならともかく、他人にそれを言われるのは、恥ずかしいやら情けないやら、いろんな気持ちがごちゃごちゃとして、どうしよもなくなってしまった。

 

だから忘れるくらい懸命に努力しようと、慣れない手伝いもやるようになって、弟の真似をするように、弟と懇意だった村の少年に干し柿の作り方を教えてもらったりして、俺は頑張ったんだ。

 

そして、病院へ一人で通い始めた頃。無理が祟ったのか、病気だと診断された。医者はご家族にも伝えた方がいい。と言ったが、俺は黙っていてくれと金を掴ませて、それ以来は余命を多少伸ばす薬と、余命の確認をするために病院へ通った。

 

頭が、どうかしそうだった。

なんでこんなに報われないのだと。やり場のない怒りに暴れ回りたくなるような気分がして。魘される夜も少なくなかった。

 

しばらくして、そうか。と思った。

人間である限り、俺の弟には、及ばないのだと。そう思うより他に納得するすべがなかった。

 

だから、帰ってきた弟が、まるで自分のように魘される、俺も人の子だよと言った時、生きた心地がしなかったのだ。

 

本当のところ、その言葉を聞いた時から、俺は自殺しようという決心を固めてしまったのだから、生きた心地がしないのも当然だっただろう。

 

同じ人の子で、どうしてこうも違うのか。ずっとそのことで悩む生活に、嫌気がさしていたのだ。

 

数日後に、俺は隠れて遺書をしたため、そして小刀で首を掻っ切って自殺した。

 

 

俺は正直に言うと、男が死んだ時驚きはしたがほんの少しだけ喜んでいたのだと思う。

 

俺は久し振りに唯之にいの家を訪ねた。最近じゃずっとあのいけ好かない兄がいるから、俺はイライラしてしまって出来る限り唯之にいの家を避けていたのだ。

 

家に訪れた時、唯之にいはまだ外の田んぼで作業でもしているのか、呼んでも返事は返ってこなかった。引き返そうかとも思ったが、家の中にいるであろう男にどうせ聞こえてしまっているのだからと思い、俺は家に入った。

 

そして、戸を開けてまず目に入ったのは男の死体だった。男の片手にはまだ血が滴っている状態の小刀が握られていた。部屋の中に血しぶきの雫がまだ付いたままだ。唯之にいが前に板間には油を塗って長持ちするようにしていると言っていたが、そのおかげなのか、床の上には血溜まりが木に染み込むことなく存在していた。

 

俺は冷静さを取り戻して、わかりやすい位置に置いてある遺書を遠慮なく開くと、そこには余命も短く弟よりも出来が悪い自分は、迷惑をかけてばかりでとても生きてはいけない。という内容の文が綴られていた。

 

いつも穏やかな笑顔を浮かべていたが、その下で確かな葛藤があったのだろうということに、少し驚いた。俺は唯之にいの事があって、どうしても兄である男のことを好きになれなかったから、偏見の目が常に入っていた。

 

だからこそ、この男にも唯之にいのような、たとえ家族だとしても打ち明けない心の闇というものがあるのだと、少しだけ安心したのだ。

 

もしも唯之にいが、兄に自分自身の悩みを打ち明けていたとしたら。こんなことにはなっていないはずだと思い至った。そうでなければ、この兄が、いかに弟に対して思うところがあったとしても、自殺志願者じみたところのある弟より出来が悪いから死ぬなどと書けるだろうか。

 

虫も殺せぬような男だった。自分の死んだ後に、他人に後を追わせるような悪辣さなど、この男には皆無だった。

 

ずっとこの男のように、血の繋がりがあるのならば、俺には打ち明けてくれない心の内を吐露してくれるのだろうと思っていたが、そうではなかったのだ。

 

けれど、この遺書をもしも、唯之にいが見てしまったら。その時こそ唯之にいは命を投げ出すんじゃないかと、そう俺は考えた。だから急いで遺書を乱雑に懐にしまってから、死体の握っていた小刀を奪って、それを右手に握りしめたのだ。

 

丁度俺が小刀を持ち、立ち上がったところで、部屋の戸が開いて唯之にいが入ってきた。

 

「佐一お前、何があった!」

 

部屋に入るなり、異常な光景を目の当たりにし、唯之にいは抱えていたザルを放り出して、男の死体に駆け寄った。俺はその間。絶対に持っている遺書は隠さなきゃいけないと、遺書をさらに深くしまい込んだ。

 

俺は何も話さなかった。暫くしてから、唯之にいは突然俺に謝り出した。俺はどうして謝るのか分からなくて、やっぱり何も話さず黙っていると。今夜埋めに行こうと、唯之にいは言った。俺はその言葉に一つ頷くことで応えた。

 

 

いくら満月の夜とはいえ、唯之にいの家は山の麓の、いつも薄暗い林にあるから、多分誰にも見つかることなく死体を山へ運ぶことができただろう。夜の山道を、死体と鍬を抱えて二人で歩いた。

 

その間も、ずっと唯之にいは深刻そうな顔をしていたが、俺がどうしようと一言呟くと、大丈夫だと言って、少しだけ笑ってみせた。

 

その反応を見て俺は唯之にいの考えが少し分かった。実際に男が自殺した原因の一つは唯之にいにあるのだが、今俺はその真実を隠蔽し、俺が殺したというふうにしてある。唯之にいは俺に人殺しをさせてしまったことに申し訳なさを感じているように見えた。

 

俺は良くないことを考えているとは思っても、歯止めが効かずに色んな事を道中で口に出した。

 

ずっと男のように血の繋がりがない事を、羨ましく感じていただとか。本当は入営前に唯之にいが行くくらいなら、もっと早くに殺そうと思っていたとか。嘘と本音を混ぜて話した。

 

唯之にいはそれを聴きながら、ずっとごめん、ごめんと謝って、俺がなんとかするからなと言うばかりだった。

 

辿り着いた先は、山桜の良く見える温泉だった。唯之にいは、山桜の側に男の死体を寝かせると、持ってきた鍬で木の根元を指しながら、ここに埋めよう。そう言った。

 

「桜の下から死体が出てきても、みんな不思議ではないと思うはずだ。ここの温泉は俺以外に来ると言ったら、猿かイノシシくらいだろう。きっと見つかることはない。」

 

そこからは淡々と穴を掘って、十分な深さになったら、唯之にいはそこに死体を埋めた。

 

唯之にいは埋めたのが分からないように何度も被せた土の上を歩いたり、鍬の平たい部分で押し固めたりして、すっかりそこは元どおりになった。

 

そこに向かって合掌し、暫く黙祷した後、唯之にいは俺に話しかけた。

 

「佐一。」

「……。」

「お前は今日はうちに泊まった。」

「うん。」

「その時に俺も兄さんも元気だった。」

「……うん。」

「翌朝、お前が眼を覚ますと、何故か二人ともどこにもいなかった。お前宛に手紙を書こう。お前が俺と兄さんがいないのに気付き、自分宛の手紙を読んでみると、そこには旅に出ると書いてある。お前はその事実を急いでお前んとこの家のものに知らせる。何を聞かれても、どうすればいいか分からないで、シラを通せ。」

「唯之にい、どっか行っちゃうの…?」

 

なら俺も連れてってよ。

 

その言葉に唯之にいは辛そうな顔をして、俺を思いっきり抱きしめて、ごめんなさいと謝り続けた。俺のせいで佐一を人殺しにしてしまったのに、佐一と一緒にいるわけにはいかないんだ、と。そうたどたどしく語る。

 

俺はそうではないとは言えなかった。そもそも俺が殺したのではなく、自殺だったなんて、今更言えることでもなく、遺書は見せる気は無かったので真実を伝えることはなかった。

 

 

唯之にいは口裏合わせで俺に言った通り、翌朝の日が上らぬうちに村を出て行った。

 

 

日も上りきらぬ畦道を振り返ると、そこには一人ポツンと立っている佐一がいた。そんな佐一をこのまま村に残していくことは、本当はしたくなかった。

 

佐一が俺の兄を良く思っていないことなど、分かっていた。本人の口から何度も苦手だと聞いたし、兄からは自分は嫌われているようだと相談されたことがあった。

 

けれど、まさか俺のせいで佐一に人殺しまでさせてしまうなんて思ってもいなかったのだ。

 

山道で懺悔するかのように佐一の口から出た話は、俺の胸を突き刺すかの如く、深く体に響いた。

 

兄が来る前までは、俺が住んでいた家に、見知らぬあの男が我が物顔で居座っているのが気にくわないだとか。

俺が戦死してしまわぬかと不安な時に、唯之は死なないよと、軽々しくのたまうのが憎たらしかったとか。

唯之にいとは長い付き合いなのに、急に現れた兄に、居場所を取られたような気になって嫌だったとか。

 

子供のわがままと一蹴できれば簡単だったかもしれない。

けれど、それで人が一人死んでしまっているのだ。

 

理由を聞いているに、全部やっぱり俺が関わりすぎたからではないかと、そう思った。俺は俺として生きると、やっと俺は吹っ切れることが出来たと思っていたが、吹っ切れるのはまだ早いと言わんばかりに、俺のせいで人が死んだ。

 

『高橋唯之』の時と一緒だ。意識の外で殺してしまった彼と同じ。俺は自分の兄を、佐一を介して殺してしまった。

 

周りに害悪しか振りまかない俺が佐一のそばにいる資格など、ある訳がないのだ。だから、あの不安で揺れる子どもを抱きしめるなんて、もう二度と来ないだろう。

 

もう俺の中で、佐一はきっといなくなる。居てはいけない。もし佐一と再会することがあっても、その時彼はもう杉元佐一だ。俺を『高橋唯之』にしてくれる子どもはもうどこにもいない。俺がそんな彼を歪めてしまった。

 

佐一がいなくなると言うことは、俺にとって『高橋唯之』である事をやめる。そう言う意味もある。だって無理だろう。流石にもう、この名前を名乗る資格は完膚なきまでに叩きのめされてしまった。『高橋唯之』の兄まで殺しておいて、まだ名乗れるほど俺は図々しくはなれない。

 

唯之という字は、もともと体が弱かった兄のこともあり、ある意味を持ってつけた当て字らしい。

 

母が言うには、「ただいきてゆきなさい、それだけでいい。」と、そう言う思いから、ただ生きて行く、唯之と、そう名付けたらしい。

 

まるで生きることでしか償えぬ俺自身を予見するような名だと、そう思った。

 




お兄ちゃんは殺す予定だったので全然問題なく過ぎましたね。本当は自殺と分かるのを延ばそうかなと思ったんですけど、ちょっとめんどくさいので早々にそれは諦めました。【俺が金カムに転生したと気付く前3】のあとがきでも書いたんですが、この3人はコンプレックストライアンゴゥなんです。しかも、それに折り合いをつけれたのは主人公だけで、残る二人がもやもやしたままで日本に残されて何も起きないはずがないという。

短い割に読みにくいですかね……内容は変えないとしても、もう少し文を整えるかもしれないです。

この後主人公が色々飛び回ってるうちに、杉元の家族が結核で、とか色々あるんでしょうね。主人公が覚えてる金カムのストーリーは要所と最新刊に近いところまでです。序盤からえどがいく〜んまでは完全に頭から吹っ飛んでます。

月島軍曹の答え合わせを入れたかったんですけど、これ答え合わせせずに次回から原作に入ろうかなってちょっと考えてます。日露戦争の話は、回想でちょこちょこ入れるスタイルでもいいかな、と。ただここから主人公が北海道のアレに巻き込まれるまでにどんな理由があると自然かなぁ〜と思うんですが、迷ってます。
でもちょっと杉元性格変わりすぎですかね、主人公にめちゃくちゃ執着させすぎました。反省
タイトルロールの回収も入れたいんですけどこの調子だといつになるか分かったもんじゃないですね!!

評価の時に一言投げてくださった方もおっしゃってたんですが、金カムの小説少なくて寂しいので皆さん書きません……?

評価バーがまた人参色でちょっと焦っています。嬉しい反面、ウェッアッ!!適当なこと書いたらッ、干さレチャウ!!って気分です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

転換点3

感想・評価いつもありがとうございます!誤字報告も有難いです!
随分久しぶりの投稿ですが、今回は尾形回再びです。前回のあとがきで「次は原作」と言ったな。あれは嘘だ。
正直今回の話もいらねぇだろ!って感じだと思います。だって作者もナニコレェって思いながら書いたから。
ただ悔しいのは本誌で鯉登少尉の過去回でアアーーーーッ!!ってなったのに何一つ活かせない事ですね。日清戦争からやり直してぇ。

毎度のことですが適当に書いてるので適当にご覧ください。


二階の縁側へ出て、マッチを擦る。タバコの先に火を灯して、用済みになったマッチを金皿の底に押し付けて捨てた。ふーっと吐き出すと、風向きのせいかふわっと広がった煙は、俺の体を包むように纏わり付いてきた。

 

強い焦りを感じる。体のうちから急かす様な不快感と、煙の様に鬱陶しい不安感。それを解消しようとまたタバコを吸っては、収まらない苛立ちに、まだ長い煙草が一本、また一本と金皿の中で山を成した。

 

「あら、アンタどうしちゃったの。最近いつも煙草吸ってるわ。」

「姐さん…。あー、煙草はこう、口から吸ってる煙より、先から出てる煙が一番吸っちゃいけねぇんだ。あっち行ってなよ。」

「私の体を気遣う余裕があるなら、アンタはもうちょっと煙草減らしな。まったく、1日で何本吸ってるのよ。」

 

姐さんは金皿を俺から奪って、中に溜まった吸い殻をつまんで見せつける。ぽろっと落ちた灰を目で追いながら、別に一日で吸った量じゃないと思ったが、何も言わないことにした。

 

姐さんは俺が働く芸者置屋の女将だ。美しく若々しい顔立ちをしているが、御歳五十の熟女で、十代の頃からこの街で働く一流の芸妓である。置屋の一番の年長で、大将が亡くなった昨年からここの切り盛りをしている。

 

そんな姐さんに口答えなど恐れ多い。今ここを追い出されるのは困る。黙っていると姐さんは一つ溜息をついて、俺が咥えていた煙草も奪って雑に金皿に押し付けた。

あぁ、勿体ない。それで最後だったのに。

 

「本当にどうしちゃったの。新潟から帰ってきてから、やけに元気がないわね。向こうで何かあったの?」

「別に、そんな事ないさ。向こうでも何事もなく、休暇を満喫してきたし。」

「嘘おっしゃい。満喫してきた割には、とんでもなく顔色が悪いのよ。」

 

姉さんが言うことは図星だった。満喫するどころか俺は疲弊していた。原因は勿論、新潟へ行った事である。

 

二週間前。俺はまとまった金ができたため、念願であった新潟の佐渡まで月島を訪ねた。島の中とはいえ、一人の人間を探すのだから、それなりの時間がかかるだろうという俺の予想に反し、彼の居場所はすぐに分かった。

 

月島はすでに実刑判決を受け、死刑囚として陸軍監獄に収容されたらしい。島の人間から、ほとんど俺が知っている通りの事件の経緯を聞いた。鶴見中尉が行った、月島を監獄から出すための工作も行われていた様だ。彼の家から骨が出るのを見たと、訛りのきつい島民がやけに活き活きと得意げに話してきたのをよく覚えている。

 

新潟を訪れた時、俺は大いに期待していた。もしかしたらと思ったのだ。頭の中では、会える可能性も会えない可能性もどちらもあると分かっていたはずなのに。俺は根拠なく、会える可能性を信じた。

 

その結果がこのザマ、というわけだ。勝手に盛り上がって、落胆して、なんてめでたいやつなんだろうか。俺は当初の予定を大幅に繰り上げて、逃げるように新潟から帰ってきた。それから何をするのも面倒で、仕事もほどほどに暇を弄んでいる。…弄ぶというより、弄ばれているのかもしれない。こうして煙草を吸っていても、活字を嗜んでいても、何もかもに集中できない。ずっと頭の中で様々な問いが回っているのだ。

 

月島に渡したお守りは、何の意味もなかったのだろうか。所詮、俺のような半端者は、この世界の辿る道筋に影響など与えられないのか。ならば、俺は何だ。俺は、なんのためにこの世に存在するのだ。何も影響を与えられない俺は、いてもいなくても同じようなものなのか。

 

いや、それなら佐一はどうなる。無力な存在が、主人公の杉元佐一という存在を歪められるのか。なぜあそこまで、変質させてしまえたのだ。

 

それとも俺は、災厄を撒き散らすモノなのか。自分に関わる人を不幸にすることしかできないのか。

 

これらの疑問を解決するには、サンプルが少なすぎる。

関わった登場人物が少なくて、検証が足りない。決定打がない。

 

決断を下すにはあまりに早いのだ。

 

何か良い手はないだろうか。誰でもいいから接触してみるべきか?新しい情報さえ入れば何か変わるかもしれない。変わらなくても、少なくともこうしてうだうだと答えを先延ばしにするよりはマシなはずだ。何かしなければ。自分の存在意義を追求しなければ。堪らない居心地の悪さに暴れ出したくなる。

 

「そうだ、この前頼んでた件だけど、お願いしてもいいかしら。」

「…何だったっけ。」

「やだ、御使いの話よ。忘れちゃったの?ちょっと遠いけど、御使いついでに田舎の空気でも吸って、その陰気な面どうにかして来なさいな。」

 

はいこれ。と言って渡された紙には、細い字で目的地らしい地名が書かれている。女性的だが、姐さんの字と違って嫋やかな印象だ。

 

「茨城?茨城に知り合いなんていたのか。」

「随分と昔の縁よ。そろそろ命日なんだけど、今年は行けそうにないから。アンタ代わりに行ってきな。私の名前出せば家に入れてくれるはずよ。」

「誰の家なんだ。それにこの住所、北のほうだろう。多分俺の親戚が近くに住んでる。今顔見知りには会いたくないんだ。」

「変装でも何でもして行きなさいよ。女物の着物が要るなら貸すわよ。」

「……簡単に言っちゃって。」

 

俺のその言葉を了承と捉えた姐さんは、出かける前に声はかけなさいよ、と言い残し、室内に戻っていく。スタスタと足早な背中に思わず手を伸ばして声をかけた。

 

「姐さん、それ俺の金皿…。」

「没収だよ。自重しな。」

 

無慈悲にもぴしゃりと閉められた襖に向かって、俺は溜息を吐き、煙草の空箱を放った。その拍子に、ぴらりと手元の紙が滑り落ちる。

 

畳の上で裏返った紙の隅に、小さく『尾形』と記されていた。

 

 

駅のホームを出て空を見上げると、そこには曖昧な感じの薄汚れた雲が空を覆い尽くしていた。

 

茨城の地に来るのは2度目になる。以前来た時と違い、今回は乾いた冷たい風が吹き付ける初冬だ。着物の上にインバネスコートを羽織ってはいるが、寒さは指の先から徐々に体の熱を奪っていった。

 

この時代に電車はないが、鉄道なら存在している。運賃はそこそこお高いが仕方ない。もし気軽に商人に声を掛けて、荷台に乗せてくれと言った日には、すぐに父の耳に俺の事が入るだろう。父はこういう業界での顔がとても広い。

 

もともと箱屋なんて職についたのもそういうわけだ。いくら商人でも、花街を毎日うろつくなんてことはない。働く人間もお互いに詮索しないから、人伝に俺の事が知られる恐れも少ない。

 

何より元の俺を知る人ならば、そんなところで働いているなんて考えもしないはずだ。俺はこれでも出来の良い息子だったから。

 

駅を出て暫く歩くことになった。そりゃそうだ。目的地の目の前まで線路が続いているわけじゃない。ここからあの村まで数時間はかかるだろうから、着く頃には日が暮れるな。

 

しばらく道を進んで行くと、ビュオッと勢い良く木枯らしが吹き付けて来た。インバネスコートがバサバサと音を立てる。気分は北風にコートを脱がされそうになる旅人だ。俺はコートと帽子を押さえながら、前のめりになって歩いた。

 

ぶぉーびゅおー、と大きな音が聞こえる。それが止んだかと思えば再び風は吹き荒れ、さらに今度は小さな白い砂が荒れ狂う空から舞い落ちてくる。雪だ。今年の雪は随分と早い。くるくると舞う粉雪たちは、強風にその身を委ねるようにして煽られており、まるで風の渦を見ているかのようだった。

 

 

日没丁度に俺はその家、『尾形』の家にたどり着く事ができた。

 

家から出て来たのは老婆だった。俺は姐さんの代わりに線香を上げに来た事を告げると、老婆は早くお入りなさいと俺を家に入れてくれた。

 

案内されるがままに廊下を歩きながら俺は思う。なかなかしっかりした家だな、と。

 

田舎の百姓の家にしては広い。こじんまりした屋敷と言っても差し支えないように思える。所々隙間風も吹いているし、年季も入っているが、ものは悪くないはずだ。障子にはシミはあれど破れている箇所は見当たらない。もしかしたら、尾形家は士族に縁があるのかもしれないなと思った。

 

「御使いさん、今日はここで泊まって行きなさい。この村は宿も少ないけど、その格好で泊まれる所はもっと少ないだろうよ。」

 

老婆の言う通りだ。庶民の間にも少しずつ洋服は広まってはいるが、まだまだ高価なもので、この格好でうろつけば目立ってしまうし、泊まれるのはありがたい。

 

「お気遣い感謝します。お言葉に甘えて、一泊だけさせてもらいます。」

「ふふ、何年経っても、あの子のために線香を上げに来てくれる人が居るのは、嬉しい事だわ。」

 

老婆は一通りの準備を済ませると、俺を仏壇のある部屋に入れて出て行った。部屋の中は線香の独特の香りと、それをかき混ぜる冬の冷たい風に満ちる。

 

そういえば、俺が死んでしまった時はどんな風に葬式をしたんだろうか。目を瞑り、仏壇に向かい合掌しながら、俺の心はここではないどこかに離れて行く。

 

葬式は、死者を弔うことより、生きて残された者たちの未練を晴らすことの方が大事だと聞いた事がある。それもそうだ。死んだ後に自分の葬式を見ることなんか出来ない。なんせ俺が覚えていないのだ。どれだけ盛大に大勢で行っても、弔われている故人は其処にはいない。体が箱の中で綺麗にされて収まっているだけだ。

 

だから葬式は、故人よりも弔う関係者が安らかであるための儀式、という方が納得できる。結局は気休め、自分たちを慰めるため…。言い方は酷いが、ただの自己満足なのだろう。故人を想いながら、想う自分に救いを見出しているのだろう。

 

ならば。ならば、俺のこの行為は、俺にどんな救いを見出してくれるのか。

 

きっと自分が前世で死んだ時も、こうやって手を合わせてくれる人が居たはずだと思いたいのだろうか。涙を流してくれた人が居ると、悲しんでくれた人が居ると、そう思い込んで救われた気持ちになりたいのだろうか。

 

「お茶が入りました。」

 

しゅう、と襖が音を立てて開く。現れたのは老婆ではなく、盆を携えた少年であった。丁寧にお辞儀をする頭に、自分も慌てて腰を折る。お互い顔を上げて向き合うと、俺の胸は高鳴った。今回は俺の期待を裏切らないでいてくれたらしい。

 

姐さんと同じ浅草の芸者で、故郷は茨城。住所を記した紙の裏に書かれていた『尾形』という姓。

 

もう間違いなく彼の家なのではないかという期待を持って俺はここまでやって来た。無表情で、何処か冷たさを感じるその面影は、記憶している彼より随分若い。しかし猫を思わせる特徴的な瞳は変わらない。深く黒い瞳をしている。

 

「すまない、君、名前はなんと言うんだ。」

 

湯気が立ち上がる湯呑みを俺に渡す彼は、俺の言葉に目線を少しこちらにやる。じっと俺を見て、ゆっくり彼は口を開いた。

 

「俺は、尾形百之助です。」

 

木枯らしが一層強く空気をかき乱し、カタカタと障子を揺らす。隙間風と共に入り込んだ粉雪が、すっと透明になり溶けて畳を僅かに濡らした。

 

 

「すまない、君、名前はなんと言うんだ。」

 

男がそう問うた時、自分は落胆していた。もうこの人は、自分の事を忘れてしまっているのだと。もし覚えていたのなら、彼は自分を見て「少年」と声を掛けて、目を見開くくらいはしただろう。

 

少し間を開けて応えた。

 

「俺は尾形百之助です。」

 

 

彼、高橋唯之との出会いは、数年前の夏まで遡る。

きっかけは、自分が彼の荷物を届けたことだ。

…いや、届けたというのは少し間違いだ。多分彼はそう思っているだろうけど、本当のところ彼は荷物を忘れてなどいない。

 

俺が隠し、そしてそれを返した。それだけの事だ。俺は意図的に彼に関わろうとした。

 

けれど誤算だったのは、すぐに俺に気付くだろうと思ったのに、上の空だった彼は振り返りもせず、挙げ句の果てには荷物が一つ減っていることにも気が付かなかった事だ。

 

動揺もせず村の方へ向かって行く背中を見て、暫く自分は唖然としていた。そして一度手に持っている風呂敷を見て、仕方なく彼の後を追いかけた。

 

荷物を触った時点で俺に気付き、軽く会話さえ出来れば良かった。だって俺が聞きたいのは、どうして葬式に来たのか、という単純なものだったから。結局俺は荷物を届けて立ち去ろうとした時引き留められてしまい、少しだけ長い会話をした。

 

 

______他人だよ。結局家族だろうと血の繋がりがあろうとなかろうと、自分の他の人間という括りは無くなる訳じゃない。

 

 

だからなのだろう。だから俺の事など、忘れてしまったのだ。他人の事などいちいち覚えなどしない。ましてや、旅先でほんの少し話しただけの子供のことなど。

 

…それにしても、以前あった時よりも随分と印象が違って見える。彼は自分から見れば年上だし、村の若者よりも落ち着いた雰囲気をしていたが、今は年寄りのように老けて不健康な顔をしている。

 

彼は目尻を少し下げて、笑った。眼差しにも何処か疲労の色がチラついた。

 

「そうか、君が…尾形……。」

「…俺の事を、ご存知なのですか。」

 

少しだけ、どきりとした。胸の内から上がってくるのは、僅かな期待と単純な疑問だった。

 

この人は俺に会いに来てくれた?

何故、俺の名前を知っている?

母と面識はないはずだが、線香を上げに来たのは?

 

様々な憶測が頭を駆け回る。どれもこれも、己に都合の良いものばかりで嫌になる。

 

「いや、ね。君に伝えなければならない事があって。君の事は残念だけど名前くらいしか知らないよ。知っているけれど知らないなんて、妙な感覚だが。」

「伝えなければならない事、ですか?」

 

俺がそう言い切るや否や、彼はぐっと身を押し出して俺の両肩を掴んだ。突然の事に固まってしまった自分など御構い無しに、彼は掴んだ肩をさらにぎゅっと握りながら話し出す。

 

「今から俺がいう事は、多分わけが分からないと思う。俺自身もこれを伝えるのが心底気持ちが悪い。それでもちゃんと聞いて、それに従って欲しい。」

 

あまりの剣幕に、無意識のうちに後退りしようとして、再び肩に入る力が強くなる。なんだか嫌な感じだ。そこから先を聞きたくない。そんな気持ちになる。

 

それに、この目を見ればわかる。ほんの少し前の多くの期待も疑問も吹き飛ばしてしまう。この人の本当の要件は、ただ俺にその伝えなければならない事を伝える。それだけなのだ。俺の目を貫く双眼が、瞬きもしなかった。

 

 

「君は、君は弟を。花沢勇作を殺してはいけない…!」

 

 

ガタガタと戸が揺れる。しっかりと閉め忘れたのか、壁側の戸がほんの少しだけ開いていた。そこから雪が入って来ていたのであろう。遠目から見ても、畳がしっとりと濡れているのが分かった。

 

何故ですかという言葉は、最早出てこなかった。俺は疑問に思っていた一切合切を理解したような気になって。心底失望した。

 

この人は、恐らく。父上に頼まれてやって来たのだ。

 

それ以外に考えられない。

でなければ、何故そこで義母弟の名が出るんだ。

 

母に、赤の他人に線香を上げに来たのは、ただの口実だった。俺の事などほんの少しも覚えていなかった。本当の目的はひたすらにその一言を伝える事だけ。

 

妾の息子が、可愛い我が子に牙を剥かないよう牽制するためだけに。

 

そこまで俺の理解が到達したところで、静かな怒りが湧き上がるのを感じる。それは目の前にいるこの人に対する怒りではない。こんなつまらない事をした父上でもない。

 

会ったこともない花沢勇作に対する。純然たる怒りだ。

 

 

俺は尾形家に一晩お世話になり、昼過ぎに帰ることにした。本当ならば、伝えることも伝えたし、親戚に見つかったりしないように明朝に出て行こうとしたのだが、昨晩の雪が見事に積もってしまったため、日が十分昇ってから帰る事になった。

 

それまでの暇つぶしに、藁を分けて貰って草鞋を編んだ。溶けかけた雪道を歩くには、自分が履いて来た西洋履では心許ないからだ。道中で滑って、折角のコートをおじゃんにはしたくない。

 

「慣れてらっしゃいますね。」

「雪が降る日には、…兄弟の分も作っていたからな。」

 

とは言っても、村ではそんなに雪は降らなかったが。いつの間にか横に座っていた尾形にそう返す。思い出すのはまだ三人で干し柿を食べていた頃の事だ。兄は病院暮らしが長いから草鞋なんて編んだことがなかったし、佐一はあまり手先が器用な方ではなかった。

 

「昨日のアレは。兄弟がいるから仰ったので?」

「……。」

「ああ仰ったからには恐らく大凡の事情をご存知なのでしょう?ならば。ならば俺は貴方に尋ねたいことがある。」

 

藁を組む指を止めて、尾形の方に顔を向ける。昨日も思った事だが、尾形の目はやはり深く黒い。怒った目をしている。やはり猫だ。興奮して怒っている猫の瞳にそっくりだ。

 

「少し、厄介な生まれなのですよ、俺は。そのせいか、俺には普通というものが全くもってどうしても解らないのです。普通の生まれではない事は承知しています。育ちも同様に。けれど、理解はできなくても知る事くらいは出来るはず。だから貴方にお尋ねしたい。愛とは、如何様なものですか。」

 

結局、彼の根底にあるのはそこなのだろうか。自嘲する尾形の姿に、自分の記憶の中にある大人となった彼の姿がチラついた。

 

父に母子ともに捨てられ、母は気狂いになり、母を殺したというのに父は来ない。そして愛というものが解らなくなってしまった。確かに普通がわからないだろう。この環境で真っ直ぐに育ったら、それこそ人格を疑う。表面上問題がないサイコパスが一番厄介だと思う。

 

かと言って、愛する人と引き合わせるために母を殺すのは、飛び抜けて異常で、厄介なサイコパスである事に変わりは無い。そもそも彼の異常性はどこから来たのだろうか。父親がいないから?それとも、母親の作り続けたあんこう鍋のせいか?その割にはあんこう鍋は嫌いではないという。気狂いの母と囲む食卓だったかもしれないし、自分に見向きもしない関係に、精神的悪影響を及ぼしたかもしれない。

 

「愛、か。俺に聞くくらいなら、知り合いの神父を紹介しようか。」

「生憎と、自分は無神論者なので。」

「ああ、そう。」

 

そういえば言ってたか。愛というのは神と同じくらい存在があやふやなもの、ね。確かにそうだ。俺も信じたい時しか信じない。

 

「愛は、そうだな。劇薬のようなものだよ。」

 

薬を処方する医者と、処方される患者がいるように。愛だって与える側と与えられる側がいる。しかし人間が生まれた時から薬の知識を有しているわけではないように、愛の知識もまた、元は知らないものだ。

 

医者や薬剤師は人体の薬の摂取上限を、効能のある薬を、一体何から学ぶのか。それは幾年もの間に積み重ねられた経験という知識からだ。

 

愛もまた、経験から学ばなくてはならない。しかし、なまじ形がないものだから、及ぼす影響というものが気が付きにくい。

 

さらに言えば、薬は誰しもが扱うわけではない。健康体であれば、一生縁がないかもしれない。与えるにも、専門的知識を学んでいる人が大半だろう。

 

けれど愛は違う。愛は生まれた時からなければならない、いわば必須栄養素なのだ。

 

ずっと昔の実験にこんなものがある。赤子に愛情を与えずに育てるという実験だ。決して目を合わせず、笑いかけず、話しかけず、触れることもせず。衣食住の生命活動に必要な世話だけは欠かさず、徹底的に赤子との必要以上の関わりを絶った。

 

結果。実験を行なった五十人もの赤子が、全員一歳を迎えることなく亡くなったそうだ。

 

「劇薬ですか。」

「ああ。愛は過不足なく必要な劇薬だ。使用用量と用法を守らなければいけない。足りなければ飢え、過剰ならばその身を滅ぼす。」

 

それが例え、親愛の類であっても。人間と人間の間にはそういう愛憎が必ずと言っていいほど発生して、何らかの影響を及ぼす。俺と佐一然り、佐一と兄然り。過ごす間に積み重ねられた劇薬は、思いもよらない時にとんでもない効果を発揮するものだ。それこそビタミン剤が致死薬に変貌するような奇怪さを伴う。

 

「そうだ。俺はそろそろ此処を出るが、くれぐれも俺が来た事は、村の者には内密にしてくれないか。君の祖父母にも伝えて欲しい。」

「何か不都合があるので?」

「なに、家出中の身なもので、知り合いに会うのが億劫なんだ。それじゃあな。世話になった。」

 

裏口をくぐると、冬だというのにスッと太陽光が差している。積もった雪の一部はぐずぐすになって土の色をしていた。

 

同じく裏口から出てきた尾形が、こう俺に投げかける。

 

「なぁ、アンタ。名前はなんていうんだ。婆ちゃんも、アンタのこと御使いさんと言ってさ。ろくに名乗ってないだろう?」

 

振り返って尾形を見る。なんだ、裏口から出てないのか。こんなに陽の光が気持ちいいのに。裏口の陰にいては寒いだろうに。そんなつまらない思考を追い出して、俺はこう返した。

 

「さて、ね。」

 




相変わらず読みにくい文で申し訳ないです。誰か代わりに推敲してくれ。

主人公かなり大胆な行動に出ましたが、目的が道筋(原作)から外れることで、しかもそうしなければ精神的にキツイ時期なのでやっちゃうんですね。
余計に尾形の殺意を煽ってしまうなんて…悲しい……。

これは日露戦争で優作さんと仲良くさせなきゃ……(使命)

次回も更新は大幅に遅れる予定です。次の話は日露戦争にするか、それ以前の話で鶴見中尉とランデブーするか迷ってます。結果原作突入遠のきました。バイバイ原作。また会う日まで。

それにしても一体お守りはいつ月島から返してもらえるのだ。
あと主人公がやたら煙草吸ってるのは、新潟へ行く時月島への餞別に買っていた煙草が意味をなさなくなってしまったからです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

開戦前

感想や評価などありがとうございます!
随分と間が空きましたが、今回は日露直前の話です。
今回しか出番がないようなちょい役のオリキャラが出張りますので、苦手な方はご注意ください。

あと勇作さんに関してちょっっっと捏造しましたごめんなさい。

※原作キャラのイリヤと混じってややこしいので、イリヤ神父→マカール神父に変更しました。


教会というものがこれほど居心地の悪い場所とは、前世の俺は露ほども思わなかっただろう。今世では何度も通っているくせに、こんな時にならないとそれに気付けないなんて、感覚が鈍いのだろうか。

 

荘厳な音楽を奏でるオルガンが、空気の濃度を上げているようだ。音色を聴き黙って静かにしている俺は、その響きがじわじわと体の芯まで伝わって、知らぬ間に自身を震わせている事に気がついて、少し恐ろしいと思った。

 

やがて音が鳴り止み、神父と新郎新婦による誓いが交わされる。それを見守る大勢の参列者の中。一番後ろの隅で、俺は無感動に立ち尽くす。

 

ふと、何気無く顔を上げれば高く伸びた教会の白い壁が見える。間には陽光に煌めく鮮やかなステンドグラスが、差し込む光を優しく着色していた。己の足から腿にかけて、その神々しいまでの虹に似た光が降りかかっていることに気づき、俺は一歩、また一歩と後ずさりした。

 

教会はただ、そのあり方が美しかった。

俺は自分の中に居座っている罪悪感に、お前はここに居るべき存在ではないと囁かれる様な。烏滸がましいと思えとなじられる様な。そんな気がした。

 

「アーメン」

「アーメン」

 

神父、マカールの後に続き、全ての人がそう繰り返す。目出度く結ばれた二人を歓声と拍手が祝福した。形だけでもと叩いた手の平からは、乾いた音しか出なかった。

 

 

式が終わり、皆が談笑を楽しんでいる。俺は花嫁と花婿を囲む人集りから離れ、壁にもたれてその光景を眺めていた。ふと視界に葉巻を吸う西洋人が映り、なんとなしに懐の煙草を取り出して咥えてみるが、花嫁の膨らんだお腹を思い出して箱にそっと戻した。

 

「吸わないのですか、ミスター。」

「ええ、煙草の煙は妊婦の体に触りますから。そんなことよりここにいて良いのですか、マカール神父。」

「チョット疲れました。こういうのは久々ですカラ、休憩デス。」

 

柔らかなヒゲを撫でつけながら、彼は俺の隣で壁にもたれた。彼のいう通り、日本の明治期では国際婚は稀なため、色々と大変だった事だろう。俺の無茶なお願いのせいで無理をさせてしまって、本当に申し訳なくなる。

 

ちなみに彼、マカール神父は欧州人とロシア人のハーフで、マカールというのはロシア語で神聖な、とかそういう意味だそうだ。

 

産まれが欧州なのもあり、ロシア正教ではなくカトリックの神父だ。俺にはキリスト教のそういう違いはよく分からないが、同じキリスト教内でも戦争が起きてしまうくらいデリケートかつ大事な事らしい。

 

「それにしてもミスターが式の手配をお願いしてきた時は驚きました。ワタシ、てっきりミスターに良い人ができたのだと思ってマシタヨ。」

「それは無いですよ。俺は前線で死ぬ身ですから。これまでだって見合い話を散々蹴ってきたんです。」

 

とっくに婚期を逃した俺を哀れんでか、店の客が俺に見合い写真を持ってくることがあった。一度や二度ではない。酒を飲んでると更にしつこいので、本当に困った。何度も「その娘を未亡人にしたいのですか」と説得しても聞かないから、種無しだと嘘をつく羽目になった。

 

「勿体無いですネ…ミスターのお店は軍人さんもよく来るでショウ?縁談を結べば、前線カラ離れる事も出来たハズデス。」

「それは…俺が、望んでないです。結婚することも、前線を離れることも。」

 

種無し、は嘘だが自分の血筋を残す気は無いので、半分は本当だ。そもそもこの時代は後継の話が重要すぎる。家督だのなんだのと面倒くさい。男尊女卑がまかり通るせいで、子供が出来ても男でなければ酷い言われようだ。

 

呆れたように溜息を吐いて、それでも優しく微笑んでマカール神父はこう言った。

 

「でも昔のミスターに比べたら今はマシですね。もうスコシ口角上げるとイイデス。」

 

そんな様子を見て、自然と俺の口角はゆるく持ち上がった。マカール神父とはそれなりの付き合いだ。6年ほど前、村から飛び出して、罪の意識に苛まれ続けた俺は、衝動のままにこの教会の扉を叩き初対面の彼にすがりついた。

 

彼は驚きながらも私の様子を見かねて、懺悔室はカトリックの洗礼を受けた者しか使えないから、懺悔ではなく相談としてミスターの悩みを聞きましょうと言い、黙って俺の話を聞いてくれた。

 

思い返せば本当に苦労をかけた。すがりついたくせに、俺は全てを語ることができなかった。ただ、罪を犯したのだと。許されない罪を犯したのだと訴え続けるばかりだった。同じことを繰り返す俺にマカール神父はひたすらに相槌を打った。

 

「マカール神父には本当に頭が上がりません。今回も無理を言ってしまいました。花嫁の方はともかく、花婿の日本人はカトリックじゃないのに。」

「みんなシラナカッタ事にしてるんですよ。ソレはナイショにしておいてくだサーイ。」

 

そう言って、マカール神父は茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた。

 

暫く二人で世間話をしていると、新郎が声を掛けてきた。

 

「マカール神父に高橋上等兵!ここに居ましたか。そんな壁際じゃなくてこっちにも来てください!」

「上等兵はよして下さいよ。俺は除隊してますし、そもそも式の手配の約束覚えてますよね。目立ちたくないです。」

「おっと、済まない。いや、ちょっと浮かれてしまっていてね。」

「仕方ないデース。結婚式、誰だって浮かれてしまうものデスヨ。」

 

次からは気をつけて下さいね。念を押してそう言うと、新郎は困った顔で微笑んだ。

 

もともとこの結婚式、教会の手配を頼んできたのは彼の兄、大和中尉だった。日清戦争時世話になった中隊長殿で、なんの因果かあの花街で出くわしてしまったのだ。

 

学校を出ていない身でありながら読み書きもなかなかで、英語が話せる人間だったため、中隊長殿の記憶に残ってしまったらしい。英語が話せる経緯を、神父に教えてもらったのだと誤魔化せば、ならばその神父の教会で結婚式を挙げさせろと言われてしまった。

 

非常に困った話だった。断ることもできる。ただ、このまま口止めもせずに帰らせてしまっては、家出先がばれないようにとわざわざ花街で箱屋になった意味もなくなる。人間、いつ誰がどこでどんな話をするのかは分からない。

 

俺は教会に話を通す代わりに、家出中の身であるため、俺が花街で働いている事を口外しないよう約束した。中隊長殿は喜んでそれを了承した。おまけに次の戦で召集される時は実家に便りが出ないように計らってくれるそうだ。

 

「私も彼女も、こうして日本の教会で式が挙げられるなんて思っていなかったので、とても嬉しいです。西洋式の挙式は、彼女の親族の強い希望だったので。」

 

新郎の動かした目線の先を追い掛けると、椅子に座った花嫁が見えた。純白のドレスを纏い、花嫁はゆっくりとお辞儀してみせた。

 

それではと新郎は花嫁の元へと戻って行く。遠ざかるその背中を見ながら、なんとも言えない気分になる。

 

「彼は、なんで軍人になんてなったんですかね。」

 

とても幸せそうだ。けれど、果たして彼はこの地に戻ってくることはできるのだろうか。

 

日露戦争は動員された30万人のうち、8万強の死者を出している。10人中2人か3人は死ぬ計算だ。そんなに多いと遺体を持ち帰ることも叶わない。

 

帰って来たとしても、それはほんの小さな指一本だ。

 

もしも花嫁が産んだのが女の子だとしたら、花婿が戦死した時どうするんだろう。ただでさえ母国を離れて不安だろうに、後継を産めなかった事を周囲の人間から責められるのだろうか。

 

そんな不毛なたらればを考えてしまう。華やかな教会の中で、俺とマカール神父のいる壁際だけが、妙な静けさを纏っていた。

 

 

 

 

「私を軍曹に、ですか?」

 

史実の開戦まであと一年というところまで来た頃。大和中尉の計らいで上等兵ではなく、伍長として再び陸軍に舞い戻った俺に、更なる昇進が伝えられた。

 

黒い口髭を短く整えた中尉殿が手を組みながらゆっくりと頷く。

 

「ああ、能力は申し分ない。」

「有難いお言葉です。しかし、急過ぎませんか。」

「それだけ君が優秀と言う事だ。まぁ、弟の希望が大きいがな。」

 

少尉殿にはまだ発言力は無いだろう。兄である中尉殿か、父君である大佐殿。又は両者が押し通したんだろうな。つまり大和家のコネか。新婚ホヤホヤの新任少尉殿が、自分の補佐に全く知らない他人よりは俺の方が良いと考えて兄である中尉殿と大佐殿に頼んだんだろう。人事しっかりしろ。

 

「弟の補佐、よろしく頼むぞ高橋軍曹。君の働きに期待している。」

「…精進いたします。」

 

一礼をし、退室した後。中尉殿の執務室が見えなくなったところで、俺は大きく息を吐き出した。

 

まったく偉い人間の考えることは分からない。俺の様な無能を軍曹にするなんて、どうかしてる。

 

本来下士官というものは当人の能力だけでなく、軍人として尽くすだとか、兵隊としての向上心が求められる。下士官になる条件の一つに、志願する事というのがあるのだ。だからどれだけ優秀でも、当人にやる気がなかったり向上心がなければ成れないものなのだ。

 

それが将校のさじ加減でこうも簡単に昇進だなんて、大丈夫なんだろうか。というかまた制服を支給してもらわなければならないじゃないか。

 

中尉殿の口ぶりからすると、俺は弟である大和少尉の当番兵にあてられるのだろう。通常下士官は兵と違い個室を貰えるが、当番兵となると少尉殿と同室の付き合いになる。四六時中行動を共にすると言っても過言ではない。その為本来なら兵の中から一番気遣いのできる優秀な者が選ばれるというのに…ああ本当にどうかしてる。

 

けれど、その点はほんの少しだけ感謝すべきかもしれない。杉元佐一は東京第1師団の所属だった。同じ連隊になることはないと思うが、もし連隊が同じだとしたら、兵舎でちょくちょく遭遇してしまうことだろう。

 

朧げな記憶を追いながら、懐から小さな手帳を取り出した。大きさがバラバラな紙切れを自分で束ねた小汚い手帳で、乱雑なそれには表紙は存在しないそれの、丁度半ばほどのページを開く。

 

つゆ、二月、第一……一見しただけでは何を書いてあるのか分からないだろう。これは俺の覚えている限りの史実と原作の流れだ。と言っても、原作に関しては殆ど分からない為、小樽→札幌→夕張というように地名を書くだけにとどまっている。

 

「(日露戦争は一年後の二月から始まる…開戦から旅順、奉天と来て、再来年の9月まで……。)」

 

そこまで生きていられるかは定かではない。旅順攻囲戦は多くの死者を出している。師団単位で壊滅的な状態に陥った。運が悪ければ、二百三高地の攻略前に仏になっているであろう。

 

けれど、もし死ななかったとして、俺はそこからどうするのだろうか。

 

北海道に行く気は無い。村に帰る気もない。また、これまでの様に箱屋として暮らすのか、それとも南へ下ろうか。マカール神父に頼んで、教会に入るのもいいかもしれない。

 

この身体さえあれば、どこでだって変わらない。ただ、死ぬまで償うだけだ。

 

 

 

 

当番兵は寝食を主たる将校と共に過ごすため、一兵士が耳にすることが許されない様な機密も、偶然知ってしまうということが多々ある。

 

勿論だが機密を口外することは決して無い。けれど人に話してはいけないこと、というのは黙っている程自分の内側で暴れまわるものだ。

 

「なぁ高橋軍曹。先程の会議の…。」

「大和少尉殿。やめてください困ります。私にはお答え出来ないことです。」

「侵攻ルートだが…。」

「大和少尉殿困ります。」

 

少尉はなぜか俺に意見を聞きたがる。信頼には出来うる限り応えるつもりだが、機密に関してはしょっ引かれるのは嫌なので勘弁してほしい。機密漏えいで軍法会議とか洒落にならない。

 

少し拗ねた様に口をすぼめる少尉は、体の大きい子供の様だ。スケジュールを伝える側で、少尉の横顔を見ながら、思わず心の中で若いな、と。そう思った。そりゃそうだ。まだ彼は二十歳なのだ。三十路に突入したおっさんの俺よりも十歳も年下ならば、そう感じて当然だろう。

 

十歳差と言えば、佐一も俺の十歳年下だったな。

 

「そうだ、軍曹。昼からの予定は覚えているな。」

「…士官学校時代の友人とお会いになるのでしたね。」

「お前も来い。」

「はぁ、それは、構いませんが邪魔ではありませんか?」

「そんなことはない。寧ろ、居なくては困る。俺たちは繋ぎ目にならなくてはならないからな。」

 

少尉が何を言っているのか俺には全くわからないが、俺たち、というワードが妙に頭に引っかかる。そんな疑問を考えない様にするために、一度帽子を被りなおしてから、ご一緒しますとだけ返事をした。

 

 

俺は心底後悔している。断ればよかった。

 

「どうした軍曹、体調でも悪いのか。」

「いえ、考え事をしておりました。」

「良かった、てっきり甘い物は好まないのかと…。」

 

そんなことはない。寧ろ甘味は好きな方だ。ただ、食べる楽しみというのは、心の余裕あってこそ味わえるものだ。どれだけ好きなものでも、美味しいものでも、気持ちの持ちよう次第では味をしっかり感じられない事はある。

 

そんな風になってしまった原因は、甘味処で落ち合った少尉殿のご友人。花沢勇作少尉である。第7師団って拠点北海道だよね、と思ったが、わざわざ休暇を取って会いに来たのだとか。頼むからうちの少尉には勇作少尉の真似をして北海道に行くなんて事はしないで欲しい。絶対に行かないからな俺は。

 

しかし彼の存在で、俺は意味の分からなかった少尉の言葉をなんとなく理解してしまった。

 

繋ぎ目とは、一体何処と何処を繋ぐのか。

東京と北海道を繋ぐのだ。厳密に言えば第1師団と第7師団を。さらに言うならば、既にある本部と第1師団の繋がりを利用して、一方的に本部と第7師団を繋ぐための接点。

 

つまり、本部の情報を第7師団に横流しするのが繋ぎ目の役目、という事である。

 

同じ陸軍なのに?と疑問を抱くかもしれない。たしかに海軍と陸軍の溝よりは浅いかもしれないが、陸軍内部だって一枚岩ではないのだ。派閥もあるし野心家も多い。誰もがのし上がりたいという欲望を根底で抱いている。

 

ただ、勇作少尉は知らないらしい。大和少尉は俺に手紙を持たせ、勇作少尉のお付きの当番兵に渡すよう命じた。これが、少尉が俺たちと言った理由だろう。勇作少尉が全て承知の上なら、当番兵と言えども俺を連れてくる事はなかったはずだ。

 

原作で彼の父親が勇作少尉に純潔を守らせていた事も考えて、知らないのは確実だ。そんな事をさせて余計な疑念を抱いてしまっては、導き手として機能しなくなるだろう。

 

みたらし団子を咀嚼しながら頭の中を整理していると、少尉が席を外したタイミングで、勇作少尉が俺に話を振ってきた。

 

「高橋軍曹、大和から貴方には兄弟がいると聞きました。兄弟仲は良かったですか?」

「……兄は体が弱かったもので、ほとんど会う事はなかったのですが、そうですね。悪くはなかったと、思っています。」

「それはいい、是非私に兄弟仲を良くする秘訣を教えて頂きたい。」

 

勇作少尉が輝く瞳を俺に向ける。眩しい、流石旗手に選ばれるだけあって整った顔立ちをしている。こんなキラキラした視線を尾形は常に受けているのかと思うと、なんだか可哀想だと思った。

 

こういう曇りない視線というのは鋭さを持っている。どうも苦手だと感じた俺は、誤魔化すように茶の入った湯飲みに目線を移して勇作少尉に話す。

 

「私には分かりませんな。勇作少尉はご兄弟とうまくいっていないのですか?」

「はい、お恥ずかしながら…。実は兄さまは私とは母親が違うのです。そのせいか兄さまは他人の様に私に接してばかりで…。」

「それは、なかなか…拗れてますね。」

 

知っているし自分も兄弟のことに関しては人の事は言えない。俺も結構拗らせて、一生戻らなくなってしまった。

 

 

「ですが、血の繋がった兄弟なのです。兄さまと仲良くなれない道理がありましょうか。」

 

 

しかし彼は結構重症なようだ。

 

にこにことしながら平然とそう告げる勇作少尉に、得体の知れぬ寒気が背中を駆け回る。

 

血の繋がった兄弟なら、本当に無条件に仲良くなれると思っているのだろうか。いや、聞くまでもなくそう思っているに違いない。この瞳がそう語っている。きらきらと、どこまでも無垢な瞳。綺麗過ぎて、気持ち悪い。

 

原作を読んでいた時は尾形に殺されたという経緯もあって、花沢勇作には同情していた。信頼していた兄に戦場のどさくさに殺されるなんて、と。けどこれは殺した尾形だけじゃなく、普通に勇作少尉自身にも問題がありそうだ。

 

「勇作少尉、貴方のご兄弟はどのような方なのですか。聞けば、何かいい案が出るかも知れません。」

 

そう俺が言うと勇作少尉は笑みをこぼしながら話し出した。

 

「兄さまは素晴らしい方ですよ。狙撃の名手なのです。銃を持たせれば兄様の右に出るものは居ません。ああ、軍人としても尊敬できる方です。私が兄さまとお呼びすると、規律が乱れますと叱ってくださいます。」

 

そこから席を外していた少尉殿が戻ってきても、勇作少尉の兄自慢は続いた。兄さまは、兄さまは、と、話し続ける様子は一見兄を慕う弟の姿だが、俺はやはり違和感を感じずにはいられなかった。

 

あまりにも一方的過ぎる。

そして、疑うのを知らないのか、どれだけ聞いても尾形の表面しか捉えられていないと感じる。俺だって尾形を理解しているかと言われたらまったくだが、それにしたって酷い。いくら聞いても尾形の能力が分かるだけで、嗜好や人間性は伝わってこない。

 

心の壁が高過ぎる尾形も尾形だが、壁に貼り付けただけの特徴しか見ていないのに満足してしまっている勇作少尉もどうかしてる。

 

「どうでしょうか、高橋軍曹殿。何か良い案は浮かばないものですか。」

「…勇作少尉、俺如きが助言などと言うのはおこがましいですが、血の繋がりにこだわらなくとも良いと私は思いますよ。私にも、兄弟ではない可愛い弟分が居たのですから。血の繋がりと仲の良さというのは、必ずしも絶対ではないと。そう思うのです。」

 

そう伝えたものの、参考にしますと微笑んだ彼が、本当に俺の思った通りの意味に解釈しているかは分からない。今はただ、二人の仲が良くなりますようにと胸の中で呟くだけだ。これ以上面倒を見る義理はない。

 

血の繋がりがあろうとなかろうと、結局は他人だ。こうして出逢いがあっても、彼と俺はどこまで行ったって他人でしかない。

 

追加で少尉が注文したみたらし団子に手をつけた俺は、お二人のたわいない会話を聞きながら、迫り来る開戦に心を向けていた。

 

 




個人的に勇作さんもやばいやつだと思ってます。
みたらし団子は鶴見中尉のおすすめで勇作さんチョイス。

マカール神父とか大和少尉とか名前付き出したのですが、今後の展開には全く影響与えないモブです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

日露戦争

感想・評価・お気に入りありがとうございます!
日露戦争編です。今回は一切原作キャラは出てきません。次回からはバンバン出せるかと思います。


史実における日露戦争の旅順攻囲戦は、明治37年の8月19日から、翌年元旦まで続いた。かと言ってその四ヶ月弱の期間、毎日戦闘ばかりしていたのではない。

 

えっちらおっちらと土を掘る。村では飽きる程やった作業だ。さして苦痛ではない。ひたすら掘り、掘った土を運び、必要であれば木の杭を打ち込む。なかなかの重労働に弱気になる兵たちを励ましながら、俺もまた同じことを何度も繰り返す。

 

掘ろうとした土の壁に、自分の影とは別に誰かの影がかかったのを見て、俺は後ろを振り返った。

 

「精が出るな高橋軍曹。」

「大和少尉、お帰りでしたか。作戦の方はどうでした。」

「…やはり決定は覆らん。まだまだ土を掘らねばならぬよ。」

 

少尉が拠点から深く、長く、敵陣まで迫りつつある塹壕を見つめる。1メートルを超える深さで、十分な幅になるよう朝から晩まで毎日掘り続けた。便利な機械など無いし、爆薬を使うには敵陣が近すぎるため、師団総出で手作業で行なっている。

 

遠くまで続く何本もの溝を眺めながらフゥと一息つくと、それまで感じていなかった疲れが体にのしかかってきた。目眩がして少しだけよろついた俺に、少尉が手を差し出した。

 

「おい、大丈夫か軍曹。まだ傷の具合も良く無いだろう。折角今日だけ俺の補佐から外れろと言ったのに、お前がそう働いては意味がない。」

「ですが、上官や部下を働かせて自分だけ休んでいるなんてできません。それに俺がいた方が作業は進みます。」

「まったくお前は部下に甘すぎる。負傷しているお前がいなければ作業が進まないなんて、軟弱にもほどがある。」

 

そう言いながら少尉が包帯の巻かれた俺の腕をつつく。ちょっと痛いが問題はない。鎮痛剤が良く効いているようだ。

 

この傷は前回行われた第一回総攻撃で負った傷だ。一師団分の死傷者を出したものの、俺はなんとか生き残った。しかし、補給のため大隊を離れた時に腕に銃弾を数発受けてしまった。

 

まぁ、それだけで済んだのは運に恵まれているだろう。あの時の戦場の地形的に、補給のためには敵陣に非常に近い道を通る必要があった。後ろに続いていた仲間は一人二人と死んでいったのだ。命を失うことに比べれば腕の負傷など安いものだろう。

 

まったくお前は〜、と少尉殿が小言を続ける。少尉殿は随分俺に懐いたらしい。普通ならこうも俺に構ったりしないと思う。心配されるのは素直に嬉しいことだと思ったので、俺ははいはいと相槌を打った。すると少尉は拗ねたみたいに少し怒って、それを見ていた隊のみんなが笑った。それでますます少尉は拗ねてしまって…。

 

つかの間の安息のようなひと時だった。砂と汗にまみれて、腹も減っていて、同志を亡くしたが。和やかな空気の流れる時間が、酷く心地いいものに思えた。

 

 

夜、大和中尉殿に呼ばれた俺は、中尉の天幕まで来ていた。一度身だしなみを確認してから天幕の中に入る。

 

「失礼します。」

「高橋軍曹、来たか。まぁ座りたまえ。」

「ありがとうございます。」

 

入った瞬間、酒の匂いが鼻をかすめた。天幕の中は質素な感じだが、簡易的なテーブルの上には地図や書類が積み重なっており、中尉殿の座っている側には、洋酒のボトルと小さなグラスがあった。一人で酒盛りをしていたらしい。ザルで有名な中尉殿だが、よく見ると少し顔が赤く、珍しく酔っていることが分かって、俺は少し目を見開いた。

 

「君の戦いぶりはよく聞いている…見事だ。その一言に尽きる。もう聞き飽きた賛辞かもしれないが受け取ってくれ……事務に追われていて時間が取れなかったが、どうだ。一杯飲んで行け。」

「恐縮です。しかし私だけの功績ではありません。弟殿の、大和少尉の活躍あってのことです。少尉殿は率いる力に秀でておられる。あ、中尉殿、私はあまり酒は…。」

「遠慮するでない。」

 

小さなグラスに蜂蜜色の酒がなみなみと注がれた。恐らくウイスキーだろうか。こんなものをストレートで飲んでいたのか?しかも水無しで。そりゃあ酒に強い中尉が酔ってしまうわけだ。

 

差し出されたそれを一口飲んでみたが、あまりの強さに喉が焼けた。ゴホゴホと咳き込む俺に中尉は少し笑ってまた口を開いた。

 

「ははは、お前には強すぎたな、悪い事をした…。だがあいつのように下戸ではないなら、もう少し付き合え。」

「中尉殿、困ります。まだ一口しか飲んでません、って、もしかして床に転がってるやつ全部お一人で空にしたんですか。」

 

少し赤いだけで分からなかったが、相当酔っているらしい。ほんの少ししか減っていない俺のグラスに新たな酒を注ごうとする中尉に、慌てて俺はグラスを煽った。しかしいくらグラスが小さくとも流石に半分飲むのが限界でグラスを置くと、ふと視界の端に同じ洋酒のボトルが三本転がっているのを見て声が出そうになる。化け物か。よく急性アルコール中毒で死なないものだ。

 

中尉は自分のウイスキーを一口飲むと、ボトルとグラスを端に避けて俺の前に地図を広げた。指で指し示したのは砲台の配置図だった。

 

「次の戦いも熾烈を極めることだろう…。だが工兵が頑張ってくれている。二八センチ榴弾砲を使えるやもしれん。」

「それは凄いですね。あれは本来要塞に配置してあるものでしょう。使えれば一発でかなりの兵を吹き飛ばせます。」

 

二八センチ榴弾砲は元々海岸に配備されており、対艦用の大口径砲だ。持ってくることも大変だろうが、固定するのも一苦労だろう。しかし戦艦を攻撃するための大砲を、この白兵戦の舞台で使うなんて、とんでもない威力を発揮するに違いない。

 

俺の言葉に中尉は深く頷いた。

 

「そうだ、我々が優勢に戦えば、必ずや多くの同志を家族の元に……。」

 

伏せられていた目が俺を捉えて言った。

 

「そしてお前も、意地を張らずに故郷に帰れ。」

 

どきりとした。一瞬、心のうちを見透かされているような感覚だった。なんて人なのだろう。この人は。死んでも祖国のために尽くすよう、俺たちは軍人として教育された。そんな俺たちに、死ぬまでが償いである俺に、生き残れと言っているのか。

 

口を開けたまま間抜けな顔を晒していると、中尉の目元から涙が膨れて、ぽろっと溢れた。俺は慌てて手ぬぐいを差し出そうとしたが、中尉は俺を制し、俺の軍帽を優しく取り上げて深く被った。

 

「なぁ、高橋軍曹。弟を頼む。どうか頼むよ。あいつはまだ二十歳になったばかりで、結婚したばかりで……。」

 

どんどん掠れる中尉の声に俺は何も答えることができない。本当は心の底から勿論です、と。絶対に少尉殿と生きて帰って来ます、と。そう言いたいのに。

 

でも冷静な頭が俺に現実を突きつけていた。生き残れる確証は何一つない。むしろ、前線で兵士を導く彼が狙われるのは必然だ。撤退しようにも命令がなくてはどうにもならない。敵前逃亡は軍で厳しく裁かれる。

 

中尉も分かっているのだろう。高威力の二八センチ榴弾砲が投入されるという事は、多少味方を殺してしまっても敵兵より優位に立ちたいという事だ。あんな馬鹿でかい大砲に味方識別などできるはずがない。敵味方問わず蹴散らすだけだ。日本軍は勝つために多少の犠牲はやむ終えないと考えている。

 

何も言えない俺に中尉は済まないと謝り、俺に軍帽を返して深く被らせた。

 

「もう戻りなさい。つまらない用事で呼び立てて済まなかったな。」

「いえ、つまらなくなどありません。中尉殿の期待に応えられるよう、善処します。」

 

一礼して逃げるように天幕から出た。外は真っ暗で、俺は帽子を取って空を仰いだ。

 

冷たい風に煽られた砂埃が邪魔で、星は綺麗に見えなかった。

 

 

 

 

「突撃ィ!!!」

 

将校の合図で一斉に兵士が塹壕から飛び出す。銃剣を構えて敵陣めがけて突撃する。俺も仲間に負けまいと雄叫びを上げながら、一発の銃弾のように駆け抜けた。

 

目を刺し、口を刺し、首を刺し、心臓を刺す。狙われている仲間を見つければ肩を軽く引っ張り、素早く銃を構えて敵兵を殺す。

 

日清戦争でも思った事だが、人間はまるで血袋だ。穴が開けば、ビシャッと血が吹き出す。人の体の半分以上が水分らしいのも頷ける。

 

考え事をしていると、思わぬ死角から敵兵が飛び出してくる。目の前を刃先が通り過ぎたところで、無防備に差し出された敵兵の首を腕で締め、そのまま骨を折る。ごきりと音が鳴ると、体はだらんとして動かなくなった。

 

「さ、さすが軍曹殿だ…!」

「圧倒的な強さだ!ああも簡単にロシア人を投げ飛ばして!」

「お前ら!無駄口を叩く暇があるなら周囲を警戒しろ!殺されたくなければ殺される前に殺せ!!」

 

戦闘中なのに余裕ぶっこいてるんじゃねーぞこの野郎。俺の腕はそんなに広い範囲まで届かないというのに、油断してやられるなんて許さないからな。俺の怒声に飛び上がった兵たちが急いで駆け抜けていく。俺は襲ってくる敵兵を次々に殺しながら、少尉の方向に目線を向けた。

 

「躊躇してはどこにも進めんぞ!貴様ら!足を止めるなァ!!」

 

やはり、少尉殿には何かカリスマのようなものがある。そこに居るだけで、常に兵たちの士気を上げ続ける才能を持っている。かく言う俺も、その叫びに応えるために、力強く大地を踏みしめた。

 

最早前に立つ者、何人たりとも俺の障害にはなりはしない。勢いに押されたロシア兵たちは少しづつだが、怯んでいるようだ。

 

すると土嚢の影からロシア兵が何かを放り投げる。飛んできた黒いそれの正体にいち早く勘づき、俺はできる限り大きな声で呼びかける。

 

「散れ!固まっていては全員吹き飛ばされるぞ!」

 

ドンッ!と派手な音が鳴り始める。ここまで攻められてようやく手榴弾を使い始めるなんて、随分と舐めてくれたようだ。しかし投げるためにその無防備に晒した体は格好の的だぞ。

 

銃を構えて撃つ。弾を節約していた分、俺は有利だ。こんな状況で弾を込める馬鹿を真っ先に殺す。体ごとぶつかってくる兵士など、その勢いで銃剣を突き刺してやれば事足りる。銃剣が抜けないうちに来た奴は突き刺した死体を盾に撃ち抜いてやればいい。

 

我ながらえぐい戦い方だとは思う。しかし手段を選んでいられるほど、俺に選択の余地はないのだ。俺が殺せば殺すほど味方は有利になる。少しでも多くの兵たちがここから帰還するために、俺は生きるために立ち塞がる障害たちを薙ぎ払う事に躊躇はない。

 

この不毛な殺し合いを俺は否定しない。戦争は何も生まない、無意味な行為だ。などと考えていた平和な凡人はもういない。そんな事では、ここまで来る前にとっくに死んでいる。

 

「ぐうッ!!」

 

構えた腕に、ロシア兵の銃剣が刺さった。深々と刺さったそれを抜かずに距離を詰めて、渾身の頭突きを食らわせる。怯んだそいつの頭めがけて、刺さっていた銃剣を腕から抜き、差し込んでやった。

 

そちらに気を取られていると、至近距離に手榴弾が飛んでくる。落ちてきたそれを素早く死んだロシア兵の体で覆う。数秒も経てば爆発は死体を吹き飛ばしたが、俺に来た衝撃はそれほどではない。飛び散った肉片が顔につくと気持ち悪いというだけだ。

 

「軍曹!大丈夫か!」

「少尉殿、よそ見をしてはなりません!!」

 

俺に声を掛けた少尉に向かって呼びかける。案の定飛んできた銃弾に、少尉を押し倒して避けさせた。

 

「失礼しました、少尉。怪我はありませんか。」

「も、問題ない。それより軍曹、無茶な戦いをするな!俺の肝を冷やすんじゃない!!」

「この程度、無茶の内には入りません。さぁ、立ってください!我々がこうして話している内に、同志は死んでいくのです!!」

 

決して比喩表現ではない。本当に秒単位で仲間が死んでいくのだ。まるでゲームのように、攻撃させてぶつかった集団が次々に死んで行く。俺たちは戦争のためには道具であるべきだ。それでも、こんな風に死んでいくのは、あまりに虚しすぎる。

 

「そう、だな。多少の無茶には目を瞑らねばやっていけないか。」

「ええそうです。さぁ、立ってください少尉殿。一進一退を繰り返していた戦場も、今は我が隊が優勢です。押し切りましょう。」

「分かった、急がねばな。」

 

その一言に安心したものの、よく見ると少尉殿の腕が少し震えているのに気付く。なんと、まぁ。先程味方を鼓舞していたあの姿からは予測もつかない。

 

そんな少尉に俺は手を差し出した。弾かれたように俺を見上げる少尉は、ふっと笑って俺の手を掴んだ。

 

「俺はふらついた覚えはないのだがな。」

「はいはい。行きますよ、少尉殿。」

 

立ち上がり敵陣に向かって再び駆け出す。最前線でぶつかり合う兵士達の背後から、敵兵の頭を順番に撃ち抜いて行く。綻んだ敵兵の壁に割り込んで、更に仲間達が侵攻する。

 

既に敵陣が構える丘を次々と占領しており、永遠に続くような消耗戦は、もう少しで終わるかに見えた。

 

走り続けていたせいか、目眩がする。くらりと、視界がわずかに揺らいだその時。一発の銃弾が空を切った。

 

 

「ぅ、アッ…!」

 

銃弾は少尉の腹にめり込んだ。

 

「少尉殿ッ!」

 

思わず少尉殿に駆け寄り、近くの岩陰に引き摺り込む。ドンドン、と岩に銃弾を受ける音が聞こえるが、そんなことは気にしてられない。少尉の軍服の釦を外し、腹に指を突っ込んで弾を抜く。痛みに呻き声を上げながらも、少尉は自分の腕を噛んで必死に意識を保っていた。

 

どくどくと溢れ出す腹に手拭いを当てて圧迫する。鞄から包帯も取り出し、手拭いを固定するようにキツく体に巻きつけた。

 

「少尉、今からあなたを背負って本営に戻ります。」

「や、めろ。俺のことなど捨て置け、戦わねば、俺はお前の手を煩わせたく、ない。」

「そこまで強気なら大丈夫です。行きますよ!」

 

荷物をその場に放り、身軽になったところで少尉を背負う。なるべく身を低くかがめながら、蛇行するように本陣へと下っていく。

 

しかしそれを見逃してくれるほどあちらも甘くない。明らかに俺の方を狙っているような弾が何発も飛んでくる。無防備な背中を狙わない奴などいないか。分かってはいたが、苦しい状況だ。

 

「ッ!」

 

思った通りしつこく狙ってきた弾丸が、足の横を削ぐように通り抜ける。カッと熱くなって痛くなる。血もどんどん出て靴の中がだんだんと湿ってきた。

 

それでも足を止めるわけにはいかない。中尉殿にも約束した。俺も、ここで少尉を見殺しにしたくない!

 

「ぐん、曹、置いていけ、私を置いていけ、このままでは共倒れに。」

「うるさいッ!黙れッ!舌を噛むぞ!俺は死なない、少尉も死なない!まだ助かるはずだ!」

「無理だ、自分の体のことは、自分がよく、分かって。」

 

ドン、ドン、ドン!

 

またもや弾丸が飛んでくる。運良く、肩やら耳やら、俺の体の端をじりじりと削るだけで済んでいるが、それも時間の問題だ。もう大分丘を下ったから、そろそろ塹壕に入れるはずだ、急がなくては。

 

「ク、ッソ…!」

 

そんなタイミングで銃弾が俺の太ももに直撃する。俺は堪らずバランスを崩して少尉もろとも地面に転がり込んだ。

 

だが、間に合ったようだ。転がった目の前には塹壕の壁が見える。俺は半ば這うようにして少尉の体を掴み、塹壕に雪崩れ込む。ここまで来れば、銃撃など屁でもない。あとは本陣を目指してひたすら移動するまでだ。片足を引きながら少尉の体を懸命に運んだ。

 

「なぁ、なぁ軍曹。俺は、立派な軍人に、なれただろうか。」

「ええ、そうですとも。貴方は、中尉殿が誇りに思えるような、そんな軍人ですとも!」

「そうか、ああ、最期に、一つ聞きたいことが…。」

「そんなこと、仰らないでください!最期と言わず、一つと言わず!幾つだって聞いてください!」

 

なんだか、訳もわからず涙が出てきた。視界はグニャグニャと滲んで、とても先を見通すことはできない。腕で乱雑に拭って少尉殿を見る。

 

少尉殿は、笑っていた。泣きながら笑っていた。

 

「いや、一つで、いいよ。高橋軍曹。ずっと、気になっていたんだ。お前は、頭のキレる男だから、俺がお前の事を、補佐官にしたいと、兄達に駄々をこねた事を、知ってるんじゃないか?そんな俺を、どうだ、お前は、どう思った。」

「…ッ、最初は、なんて我儘なと、思っていました、でも、貴方とともに過ごす内に、そんなこと、気にならないくらいに!貴方を支えたいと、思いましたよ!」

 

それこそ、捨てた過去に置いてきた佐一のように、放っておくことなどできなかった。お互いに途切れ途切れで言葉を紡ぐ。俺の言葉を聞き終えた少尉は、乾いた笑い声をあげて、咳き込んだ。血を吐いている。もう少し急がなくては…。

 

俺は精一杯歩いて、歩いて。少尉殿の意識を落とさぬよう、色んな話をした。

 

やがて、野戦病院まで辿り着き、俺は軍医に少尉を引き渡した。

 

「少尉を、助けてください。おねがいします。」

 

しかし帰ってきたのは軍医の非情な言葉だった。

 

「残念だが、もう手遅れだ。これだけ傷が深いとなると、もう助からない。」

「なんとか、してください!」

「無理だ。設備の問題でもなんでもなく、本人の体力的に望みはない。出来るのは君の手当てと、この少尉の死に目に立ち会うことだけだ。」

「そんな……!」

「……すまない。おい!二人を同じ部屋の寝台に運んでやれ!」

「はい!」

 

待ってくれよ。そんな事はないだろう。まだ受け答えもちゃんとしてる。それなのに、こんな、じわじわと殺すなんて酷いじゃないか。誰も助けてくれない、ただ死に向かう感覚があるだけなんて、そんなこと。

 

けれど、軍医は、悪くない。

俺が無力だったのだ。もっと早く、ここにたどり着けることができれば。もっと上手に止血ができれば。少尉に弾が当たる前に俺が敵兵を殺していれば。

 

「軍曹、できるなら、俺の手を、握っていてくれないか。」

「少尉…お安い、御用ですよ。」

「離すなよ。握られた手を、離されると、今は子供のように心細い……。」

 

俺は少尉の手を握りしめた。ただ、そうし続けた。

やがて少尉はあまりにも穏やかな顔で、永遠の眠りについた。

 

 

夥しい数の犠牲者を出して、第二回総攻撃が終わった。

第1師団は壊滅状態。

知っている顔が、何人も遺体で帰ってきた。

その中には、大和中尉の姿もあった。

 

一体何故俺だけ生き残っているのだろうか。

 

分からない。解らない。判らない。

どうしてこうも、俺は大切な人を失ってしまうのだ。

 

しかしそんな事を考えている暇など、戦争は与えてくれなかった。少尉達の死を心に受け止める余裕などなく、次回の作戦の算段が建てられる。

 

海軍から要求された新たな目的。二百三高地の攻略だった。

 




なんか途中からオリキャラ殺すの惜しいなぁと思ってしまったのですが、殺すのは決定事項だったので退場してもらいました。

主人公割と強いように見えますが、金カムキャラと比較するとそんなにだったりします。生き残っているのは、精神力の賜物です。攻撃を受けたらすぐ腕でかばっているので、胴体の怪我が少ない割に腕はズタズタです。

もし良ければ評価、感想などお待ちしております!
誤字脱字報告も大歓迎です!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

日露戦争2

結構盛りました。でも肝心のキャラとは会えてません。

評価・感想ありがとうございます。もしかしなくても数名評価上げてくださった方いらっしゃいますよね……?有難や……。


眩しさで目が覚めた。

 

朝だ。頭上の小窓から柔らかな白い光が差し込んでいる。まだ暖かいというほどでは無いから、日は昇ったばかりなのだろう。俺は体を起こして寝台から降り、身支度を始めた。

 

まずは包帯を交換する。腕、腹、首、左脚の太もも。消毒の為に水筒に入れておいた酒を、傷口に少しだけ掛ける。寝台のシーツで濡れた場所を拭き、側の戸棚から包帯を拝借して、解けないよう、なるべくきつく締めて結ぶ。一人でも何とかなるものだ。難なく全ての包帯を変えることが出来た。

 

脱ぎ捨てた負傷者用の白い病院服は、包帯から滲んだ血で茶色く汚れていた。元が白いと余計に汚れが気になり、洗おうかとも思ったが、そんな余裕も水も無いだろうから諦めて畳んで置くことにした。

 

寝台の横の雑な作りの椅子に置かれていた、恐らく俺のものであろう軍服に手をつける。所々破れ、千切れ、病院服以上に汚れていたが、着れない事はない。ボタンを外して広げると、バサリと何かが落ちた。

 

拾い上げてみればそれは自作の帳面だった。相変わらずいつ見ても恥ずかしいくらい出来の悪い汚い帳面は、血に浸されていたのだろうか。殆どのページが張り付いてしまったり、字が滲んで読めなくなっている。

 

しかし、あるページからは無事だったようだ。

 

この世界の人間なら知るはずもない歴史を纏めた、一見何の脈絡もないそれ。消えかけていた記憶から捻り出した史実。これを書いた時は、これは役に立つに違いないと、得意げに信じきっていた。

 

現実は自分の頭の中ほどうまくいかないものだ。歴史が分かってどうなる。結局この通りだ。全部知っていた通りだ。旅順での戦いは難航を極め、多数の死者を出し、第一師団は壊滅。次の第三回総攻撃の後も、奉天での戦いが持ち受ける。

 

これからの事もこれまでの事も。全て決まっていた事か?筋書きをなぞるだけなのか?ただ直進することだけしか許されないと?

 

つまりなんだ。みんな最初から定まっていた事とでもいうのか。

こんな、どうしようもない俺は生きて、少尉や中尉は死ぬ。それが定めだとでもいうのか。

 

バシンと床に帳面を叩きつける。身体の中を熱湯が駆け回るような感覚がした。必死で頭の中で言葉を重ねる。定めなんて、そんな事有るわけがない。そんな風に人の命が、運命が決まっていいはずないじゃないか。何かの間違いに決まっている。

 

これは紛れも無い非情な現実で、漫画という作られた虚構でも、何処かの世界の複製でも無いはずなんだ。

 

そんな事ばかり考えてしまう自分の頭に嫌気がさす。もっと、何も知らない彼のままだったら。俺が『高橋唯之』だったら良かったのに。そうすればきっと、もっと素直に大切な人の死を、理屈抜きで受け止められたはずだ。

 

人は、死ぬときは呆気なく、逝ってしまうものじゃないか。人間はこんな過酷な環境で生き続けられるほど強く出来ていないのだから。

 

運命でも何でもなく。死んでしまうのは、仕方のない事なのだ……。

 

ふーッと息を吐いて肩を下ろす。足元の帳面を見れば、衝撃でひしゃげたそれは、運悪く糸が切れてしまったらしい。元の状態よりみすぼらしくなったそれを、俺はまた何時ものように懐にしまった。

 

胸元の違和感は不快ではあったが、なぜか捨てるべきでは無いと思った。

 

 

白襷隊という名が生まれたのは、戦後の事だ。この部隊は特別支隊であり、正式な部隊ではなかったから、のちの人々が身に付けていた白襷に由来してそう名前をつけた。

 

十字を背負うかのように掛けた白襷は、夜襲部隊であったために、暗がりでも味方識別を容易にするためのものだったという。

 

「…遺書は書けたか。回収するぞ。」

 

隊の部下たちに声を掛けていく。皆俯いたり、黙ったままで、俺に薄い紙を差し出してゆく。担当分を回収し出来上がった束の一番上に、自らの遺書を乗せる。

 

意外にも、遺書を書くのは初めてだった。これまでも書こうとした事はあったが、結局最後まで書かずに燃やしてしまうのが常だった。とはいえ、他の者たちより淡白な内容のそれは、まるで報告書類のような出来に思える。自分が死ぬこと、父母の健康を祈っていること、兄は桜の下に眠っていること。それだけだった。

 

上官に遺書の束を渡した後、見知らぬ一等卒が俺に声を掛けてきた。

 

「高橋軍曹殿、第七師団の花沢少尉がお呼びであります。」

「…そうか。ありがとう。案内してくれるか。」

 

通りで見ない顔なわけだ。まだ汚れの少ない背中を見つめてそう思った。第三回総攻撃に向けて、我々第三軍に第七師団が増援された。一個師団分の被害が出たならば、その分増やそうという単純すぎる理屈だ。

 

しばらく歩き、辿り着いたのは第七師団の天幕だった。直前で身なりを整えようと帽子をかぶり直したが、ボロボロの軍服では何をしても無駄だと気付く。出直すため踵を返そうとすると、丁度勇作少尉の呼び声が聞こえたため、諦めてそのままの格好で天幕に入ることにした。

 

「久し振りだな高橋軍曹。ボロボロじゃないか。」

「このような姿で申し訳ございません。優作少尉殿。お呼びと聞きましたが、何かございましたか。」

「実は大和の戦死を知ってね。君が気を落としているんじゃないかと、心配になったんだ。」

「……そうですか。」

 

輝かしい笑顔を向ける勇作少尉は、とても親しい友人が死んだことを知った様には見えない。そんな姿を見て、やはり自分はこの人が苦手だ。と、そう思った。どこか人間味が足りない。そんな感じがする。

 

もし、俺が彼の立場なら。俺のことを許しはしないだろう。

親友の信頼の厚い側近でありながら、親友を死なせてしまう。理屈抜きで思うところはあるはずだ。また、部下として上官を守りきれなかった俺は、本来ならば罰せられてもおかしくない。

 

友人の立場から見ても。軍人の立場から見ても。普通俺に対してもっと感情を露わにしてもおかしくはない。

 

それがこんなにも穏やかな空気を纏って、あろうことか責めるべき俺を思いやるなんて。普通の神経とは思えない。自分でも捻くれているとは思うが、そういう風にしか考えることができなかった。

 

「大和は軍人として誇らしい死に方をした。軍曹、君が気に病むことはないんだよ。」

「誇らしい……。」

 

まただ。彼の言動は何かと引っかかってしまう。俺の感覚がズレているから違和感を感じてしまうのだろうか。でも俺の本心が言っている。それは可笑しいんじゃないか?と。

 

死に方に、誇るべきものなどありはしない。

ただ事実として、そこに死があるだけだろう。

 

僅かにもやもやとした気分を抱きながらも、俺は彼の話に付き合った。彼の個人的な相談を聞いたり、世間話をしたりして、会話は終わった。

 

天幕を後にする俺を、始めに俺を案内してくれた一等卒がまた呼び止める。

 

「お待ち下さい高橋軍曹殿。」

「…どうした。何か用か。もしそうでないなら、今夜の作戦のために、すぐにでも隊に戻りたいのだが…。」

 

「その必要はなくなるかもしれないぞ、高橋軍曹。」

 

低い声に思わず心臓が跳ねる。ゆっくり後ろを振り返れば、そこには懐かしい人物が立っていた。

 

何故ここに、とも思ったが。ここらは第七師団の天幕ばかりなのでここに居るのは当たり前なのだろう。問題は、彼の様な人が、一体俺ごときに何の用なのか。それに限る。

 

「お久しぶりです。鶴見中尉殿…。」

「ほう。私のことを覚えているのか。」

 

黒々とした瞳がすぅっと細められた。

 

 

「出来れば単刀直入に話を進めたいところだが、君は慎重だから私が要件を伝えても納得しないだろう。だから、まず君にこれを読んでもらいたい。」

「これは、手紙ですか。」

 

真っ白で鶴見宛の、送り主の名が無い手紙だった。

他師団とはいえ上官宛の手紙を読むのは気がひけるのだが仕方がない。開いてみると、見覚えのある字体だと思った。

 

この字。大和中尉の字によく似ている。

 

普段は大和少尉の補佐ばかりしていた俺だが、大和中尉の事務を手伝う事もあった。と言っても、書類を効率よく処理するために分類分けをしたり、第三者の点検が必要そうな場合に確認したくらいだ。

 

そのため、大和中尉の字の癖はよく覚えている。兄弟揃って似ているけれど、兄の方が達筆だなぁと記憶に残っていた。

 

手紙を読み進めると、ますますこの手紙の送り主は大和中尉だろうという確信が深まる。

 

当たり障りない世間話。中でも「弟」と「部下」とだけ書かれた人物とのやり取りは、俺にも覚えがある。確実にこの「弟」とは大和少尉のことであり、「部下」の方は俺のことだ。

 

さらに目を通せば、「弟」が勝手に繋ぎ目の件に「部下」を巻き込んだ、とも書いてある。驚きだった。俺が内通者の様なことをさせられたのが、少尉殿の独断だったことも。

 

その件に関して鶴見中尉が関わっていることも。

 

鶴見宛の手紙にその件が話題として上がると言うことは、つまりそう言うことだ。直接的な言葉がある訳ではないが、中央の情報を第七師団に流すようにさせたのは鶴見中尉だと分かった。こんな時期から企てをしていたとは、知ってはいたが恐ろしい男だ。

 

長くない手紙は、あっという間に読み終える事ができてしまった。手紙の最後には、自分に何かあったら「弟」を頼む。勿論「部下」の事も。そう書かれていた。

 

「分かっているとは思うが、それは私の友人である第一師団の中尉が書いたものだ。私はそれを彼の遺言だと思っている。」

 

鶴見は兵に命じて、何かを持って来させた。兵は俺の目の前にそれを差し出す。

 

それは新品の軍服だった。俺の着ている軍曹用のものと変わらない。ただ一つ違いがあるとすれば、連隊番号が27であることだろう。

 

「君には第七師団に移ってもらう。」

 

ぐいっと近寄ってきた鶴見がそう言い切る。とても真剣な表情で俺の肩を掴んだ。そして耳元で囁く、亡き友人の思いを汲んでやってくれ、と。

 

正直、俺は場違いなくらい感動していた。感動、と言う言葉は適切ではないが、胸に来るものがあったのだ。多分目の前にいるのが鶴見ではなかったら涙を流していたかもしれない。大和中尉殿の人柄の良さを再確認して、これまでの思い出が蘇るようだった。

 

ゆっくりでいい、話してごらん。まるで幼児を嗜めるように俺に言う鶴見に、俺は素直にこう返した。

 

 

「お断りします。」

 

 

 

 

はぁ、と、何度目かのため息が溢れる。その度に頭に浮かぶのはあの軍曹。高橋唯之の顔だった。傷だらけで、鋭く尖った切れ長の瞳。日清戦争で見かけた時は、もっと柔和な顔立ちであったと思うのだが、今はその穏やかさは鳴りを潜めて、精悍な軍人の顔になっていた。

 

しかし、自分の見立てが甘かった故だが、まさかあそこまで頑なだとは思いもしなかった。

 

引き込むことが出来ると確信を持って呼び出した。

見せたのは二枚あるうちの一枚ではあったものの、あれは本当に友人である大和中尉自身が書いたものだ。読んでいる時の様子を見ても、そのことには確実に気付いていたはず。

 

情に厚く誠実な性格の彼ならば、亡くなった上官の心配りを無碍にはしない。その筈だ。現に自分は助かったというのに、親密な仲であった少尉と中尉の死に精神を病んで、暫く軍医が目を離せないほど危うい状態だったと聞く。

 

多くの屍を積み上げてきた彼は、敵には一切の容赦をしない代わりに、身内にはとんと甘かった。怪我のおおよそが回復したのちは、病院内の部下たちを励まし、時にはその死が穏やかであるようにと、最期の時まで傍で看取る献身ぶり。

 

彼のように上官を慕い、部下を気遣う事の出来る男が一人居れば、隊の結束はより固くなるだろう。それにいつでも切り捨てられる存在だ。利用価値は計り知れない。

 

まあ、例の件に首を突っ込んでいるため、今更野放しにはできないのは確かだ。私に着くか、死ぬか。その二択しか彼は選べない。

 

やはり失敗があったとすれば、例の件に関して書かれた手紙を見せてしまった事だろうか。大和中尉から聞いた話では、彼は本来巻き込む予定ではなかったため、文書を読む事も何が書いてあるのかも知らない筈だ。実際、読んではならぬと命令を出して処置したとも。

 

仮に、内容を知っていたとすれば、お喋りな少尉が漏らしてしまったのだろう。不謹慎だが死んでくれて助かった。だからこそ彼も心を決めて自分から死ににいくのだろう。

 

はぁ、と、再び溢れたため息に部下の冷めた視線が刺さる。

ふとそこで思いついた。試しにやってみようと口を開く。

 

「そういえば…お前の知り合いに高橋唯之、という男がいただろう。死んだ友人に彼のことを頼まれたんだが、彼はもう心を決めてしまったようで、何を言っても無駄でね。お前も最期の挨拶を済ませてきた方がいい。」

「最後の、ですか?一体どういうおつもりで…。」

 

「彼は決死隊に志願したそうだよ。」

 

聞くや否や、部下は第一師団の天幕へ駆け出した。その背中を見ながら自分の口元に手を当て、思わずつり上がった口角を隠した。

 

 

 

鶴見が見せた手紙は不完全であったと俺は予想している。

 

手紙のギリギリに書かれていた[自分に何かあったら「弟」を頼む。勿論「部下」の事も。]という文章。ここにはおそらく続きがあった筈だ。文章の最後に付け加えられたであろう句点の[。]の先には、大和中尉があの戦いの前に俺を呼び出した時の言葉が続かなければおかしい。

 

『そしてお前も、意地を張らずに故郷に帰れ。』

 

実際どんなことが書いてあったのかは分からないが、そのような内容であったに違いない。もし、軍に残るように面倒を見てくれ、とでも書いてあったのなら、鶴見はあんな中途半端な手紙を見せなくても良かった筈だ。むしろその二枚目があったとしたら、最後に書かれた送り主の名まで確認できるそれを出し惜しみする必要はない。

 

ならば、第七師団に移るよう俺に勧めたのは、いつでも俺の口封じを出来るように手元に置いておきたかっただけでは無いだろうか。恐ろしい男だ。そんな男と先程まで話していたと思うとぞわぞわしてくる。

 

多分そこまでしつこく無かったのは、俺が決死隊に志願し、自分で手を下さなくても勝手に死んでくれるからだろう。きっぱりと断りを入れたら、驚いた様子を見せて「本当にそれでいいのか?」と聞き、「ええ」と返した俺にそれ以上何も言わなかった。

 

あの男の望んでいる通りになるのは癪だが、事実俺はこの地に骨を埋める覚悟ができている。遺書まで書いて尻込みするような馬鹿ではない。

 

ここで、この戦場で。多くの友と親しい人たちが死んだ。埋葬にも立ち会った。戦死した者たちはあまりに数が多く、全員の遺体を持って帰るのは難しいため、遺体の手から小指を切り落とし、それだけが骨つぼに収められ故国へと還って行く事になった。

 

それはあまりに小さな骨だった。

 

今でも思い出す。手に持った、さほど大きくない筒の中を覗くと、底に1センチほどになってしまった、大和少尉の小指があった。

 

白く、本当に小さいだけの骨だった。小指ではなく、歯の骨かと思ってしまうような。筒が傾くとそれは底で転がって、カランと乾いた音を響かせた。

 

あれを見てしまっては、とても自分だけのうのうと生きていることが許せない。ここが死に場所だと悟るより他なかった。

 

だから今夜の作戦の決死隊に志願した。知っている通りならば、惨敗である。無意味とは分かりつつも、いつもより念入りに銃剣の点検をする事にした。

 

暫く黙々と作業をしていたが、少し外が騒がしい気がする。天幕から出て部下に何事かと尋ねると、第七師団の男が来たと返って来た。

 

今度は一体誰だろうか。また勇作少尉が来たのだろうか。まさか彼のアニサマと来たなんて事ないよな?考えながら声の方へと向かうと、走り回る他師団の兵が。背の低い軍曹だ。

 

まさかと思った時にはもう目が合った。

 

「高橋!」

 

今日は知り合いによく会う日らしい。

それともみんな俺の死に目に合わせてくれているのだろうか。

 

息を切らした月島がそこには立っていた。

 

 

二人して上手く声が出ない感じだった。俺も、もちろん彼も、こうして再開できたら話したいことの一つや二つあっただろうに、いざその時になってみると何も言えなくなってしまった。

 

黙って見つめあっていたが、不意に月島がポケットに手を突っ込んで何かを出した。遠目から見ても分かる。それは俺がよく吸っていた銘柄の煙草だった。俺もポケットから同じ様に箱を取り出す。俺が持っていたのは、月島がよく吸っていた銘柄の煙草だった。

 

隊から離れた場所まで二人で歩き、積みかけの土嚢の上に並んで座る。先に話し出したのは月島の方だった。

 

「その銘柄は好きじゃないと言ってなかったか。」

「お前こそ、俺の吸ってるやつじゃ物足りないって言ってただろうが。」

 

お互いに持っていた煙草を相手に差し出して、それを吸ってみる事にした。

 

月島に会いに行こうとした時に、俺は選別にと大量に彼に渡す為の煙草を買っていた。結局渡す相手を見つけられず、大量に手元に残ったそれを、やけくそになった俺は吸いまくった。それ以来煙草はそれじゃないと吸えなくなり、稼ぎの大半が煙草に消えた。

 

最近では、大和少尉が吸いたいなどと言いださない様控えていたため、煙草自体は久しぶりである。日清戦争の頃吸っていた銘柄なんて、十年ぶりくらいだ。

 

立ち上る煙を目で追って空を見上げると、日没が近いのか、空は真っ赤に染まっている。月島も俺と同じ様に空を見ていた。

 

ポツリ、と月島が言う。

 

「決死隊に志願したと言うのは、本当か。」

「ああ。お陰で今日は皆、日が暮れる前だというのに呑んだくれてるよ。俺も、少し飲んだ。」

「……そうか。」

 

とても死地に赴く前とは思えぬ賑わいだった。酒を飲み、歌い、語り。遠慮する俺に部下たちが引っ切り無しに酒を勧めてきたため、逃げる様に銃剣の手入れをしていたのだ。

 

「お前は、どうしてそんなに生き急ぐんだ。」

「別に生き急いでるわけじゃないさ。ただ、そうするべきだと思ったから、こうなってるだけで。」

「じゃあ何で、死ぬべきだと思うんだ。」

 

その言葉が俺の中で反響する。なぜ俺が死ぬべきなのか。そんなの、数え切れない。

 

黙った俺に月島は何も言わなかった。煙草を咥え直した彼を真似する様に、俺ももう一度煙草を咥えて煙を吐き出した。

 

だんだんと太陽が動いてきた頃。月島がまだ煙草を吸っていると言うのに、ポケットから箱を取り出した。疑問に思っていると、その箱の中から煙草ではなく、見覚えのある小さな赤いものが出てくる。

 

「こんなところに入れるのもどうかと思ったが、汚すとお前が怖いから、ずっとここにしまっていた。」

 

もう、一生返せないかもと思っていた。

 

懐かしいそれが俺の掌の上に乗せられた。随分大切にしてくれたみたいだ。色も昔のまま。鮮やかな赤に、優しげな色合いの薄桃や山吹が乗っている。括り付けた紙も、少し草臥れているだけだった。

 

「ありがとう。月島。」

「なぁ、高橋、お前本当に…。」

「ははは、くどいなぁ。行くよ。今夜。」

 

帰ってきたお守りを懐に入れる。地平線に沈む夕日の輝きが眩しくて、光を手で遮った。

 

「眩しいなぁ、月島。」

 

話しかけたが、返答は返ってこない。どうしたのだろうと俺は首を横に曲げて隣を見る。強烈な光で黒い影が色濃く際立つ。そして普通とは違う輝きが見えて、俺は息を飲んだ。一呼吸置いて、小さな笑いがこみ上げてくる。

 

「はは、なんだよ。」

 

お前、泣いてんのかよ。

 

 




そろそろ日露戦争編も終わりが見えてきました。
最初勇作さんのシーンに鶴見中尉も月島軍曹も居たんですけど、渋滞しちゃって上手に書けなかったので小分けにしました。
鶴見中尉の企んでる感じが上手に見せれなくて残念です。勇作さん同様これも個人的解釈ではありますが、鶴見中尉は頭ぶっ飛ばす前と後で何か変わったというわけではなく、もともとあった性質が表に出やすくなっただけだと思ってます。



金カム三期決定おめでとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

日露戦争3

間めちゃくちゃ空いてしまいました。最初の方と最後の方で読んでて違和感あるかもしれないです。期待外れだったらごめんなさい。


小銃は重い。約4kgの重量は伊達ではない。数字だけで見れば想像し辛いが、まぁまぁな大きさのハンマーと同じぐらいの重さだ。

 

簡単な話、人間の頭に向かってハンマーを振り下ろしたらただでは済まないだろう。運が悪ければ即死もあり得る。つまり、小銃の銃床をロシア兵の頭に向かって振り下ろすだけで、かなりの負傷を与えられるという事だ。

 

「Aaaaaa!!!」

「オラァ!!」

 

叫びを上げるロシア兵のおぞましい顔がまた一つ脳裏に焼き付いた。俺に戦友を殺されたロシア兵達が、よく分からないロシア語を撒き散らしながら飛び掛かる。右頬を拳で思い切り殴られて地面に倒れるが、直後に自身の脚を思い切り伸ばしてロシア兵の脚に絡める。体勢を崩した大柄な男に巻き込まれて、俺を囲むように居たロシア兵が次々に地面に倒れ込む。

 

殴られた頬が痛い。口の中が切れて鉄の嫌な味が広がる。いち早く体を起こして、俺は無防備に散らばっている脚を遠慮なく斬りつけた。脚は兵の機動力だ。ここまでやれば、もう立ち上がるのも辛いだろうし、走って逃げる事は困難。もうこれ以上は意味がないかもしれないが、不安を解消する唯一の手段だ。これでもかというくらい腱をズタズタにしないと安心できない。痛みに呻きフラつきながらも立ち上がろうとするロシア兵を、モグラ叩きの様に淡々と銃床を振り下ろす事で倒していく。ベキ、バキ、と変な音が銃から伝わり、ロシア兵は動かなくなった。

 

ふと、耳に土を蹴る音が入ってくる。振り向かずに素早く体を捻って横に避ければ、先程立っていた場所に真っ直ぐ銃剣が通り過ぎる。驚愕に開かれた目に、俺は口に溜まっていた血混じりの唾を吐く。反射で目を閉じたロシア兵の背後に回り込んで軍刀を突き刺すと、ビクッと一度身体を痙攣させて地面に平伏し、手足を毛虫の様にモゾモゾと動かした。

 

俺はロシア兵達のそんな死に様を見ながら、なんとなく羨ましいと感じていた。

 

自分でもこの感覚はイかれていると分かっている。でもそう感じてしまう事は止められなくて、思わずロシア兵の息が絶えるまで、じっと見つめてしまった。

 

命のやり取りに手加減は許されない。必死に抵抗して、抗って、もがき苦しんで、最後まで生きようとして殺されなければいけない。だって自分がしてきた事だ。楽に死ぬなんてそんなのは許されない。

 

その点、このロシア兵達の死にゆく無様な姿は完璧だった。生きたい、という正しい願いを抱いているはずなのに、何処か浅ましい様に見えるその姿。俺もこんな風に死ななければ、と羨ましく感じてしまうのも仕方ない事ではないだろうか。それに、これだけ暴れてくれればトドメを刺す側としても、心置き無く殺せるというもの。

 

だから俺は自分が殺されるためにも、手加減する気はさらさら無い。機関銃の雨に突っ込んでも、最後まで生きようとしがみつく。

 

醜く死ななくてはいけないのだ。俺が軽々と刈り取った命の数に見合うよう。惨たらしい最期を迎えなければ。誰に言われたわけでもなく、そんな義務感が俺の心に深く根付いていた。

 

体はそろそろ限界だ。どこもかしこも穴だらけ。今は不思議なくらい痛みを感じないが、ぬるぬるとベタつく体の血が出血の酷さを確認させてくれる。頭だってフワフワしている。

 

目だけを動かして敵影を確認する。なんだ、この堡塁、これだけしか居なかったのか?さっき見た時はもう少し人がいると思ったのに。気を落としつつ顔を上げれば、斜面の上の方に別の堡塁を見つけた。

 

少し距離のある場所にロシア兵達がわらわらと群がっているのが見える。機関銃が有るのに使っていないところを見るに、弾切れなのだろう。同胞達と銃剣でぶつかり合っているようだ。俺は迷わずその方向へ駆けた。

 

全速力で突っ込むと目の合ったロシア兵の動きが少し固まる。よほど俺の姿が恐ろしいらしい。味方で有るはずの白襷の兵からも動揺の声が聞こえてくる。

 

「高橋軍曹、か!?」

「お、お前ら!軍曹に負けるな!血みどろになっても戦え!」

 

士気が上がったのか、より一層大きく雄叫びをあげながら、敵味方入り混じるぐちゃぐちゃの戦闘は続く。手負いの俺は始末しやすいと思ったのか、こぞってロシア兵が俺の方に押し寄せる。

 

これ程に敵兵の動きが目で見えるのも珍しい。囮状態の俺に向かってくる兵の動きは極めて単純で、それに気付い兵達が攻撃を加える。ロシア兵も負けじと踏ん張りを見せ、一進一退の攻防が続いた。

 

敵も味方も数がどんどん減っていく。地面に積み上がった死体と血溜まりが気持ち悪い。踏みつけた死体の鈍い弾力で体がフラつかないよう踏ん張りつつ、小銃を振り回した。

 

最早俺に向かうのも躊躇し始めたロシア兵だが、一人の兵が銃剣の切っ先を震えさせながらじりじりと距離を詰めてくる。覚悟を決めたのか、ロシア語で何か怒鳴りながら、俺に突っ込んだ。

 

俺も銃剣を構えながら、それを受けるために足を踏み出そうとする。そして、驚愕した。

 

足が動かない。

 

思わず敵から目を逸らして足元を見れば、そこには死体に混じって潜んでいたのだろう、虫の息のロシア兵が俺の右足にへばり付いていた。動かそうにも、太腿に抱きつく様に掴まれているせいで、屈むことも身を捻ることも難しかった。最早この状態で避ける事は出来ないだろう。

 

ようやく、か。こんな状況であるのに、俺は確かな満足感と虚しさを感じながら、銃を下ろして目を閉じた。終わりを悟って安堵した途端に、ズンと体が重くなるような気がした。

 

死ぬのが恐ろしくないわけではない。むしろ、誰より死にたくなかった筈だ。誰より生きることを望んでいたから、自分の生きる居場所を、意味を、求めていた。

 

でも、そうやって足掻くのに疲れてしまった。『高橋唯之』に成れず、良い人に成れず、周りの人間に不幸を呼び込む。

 

 

______じゃあ何で、死ぬべきだと思うんだ。

 

 

逆に、生きるべき理由もなかったからだ。

 

迫り来る叫びに俺は抵抗せず、懐にしまったお守りをボロボロになった軍服の上から握りしめた。

 

 

「唯之ッッッ!!!」

 

 

ザシュッと皮膚が切れる音がする。額に走った熱い痛みから、ぬるい血が顔を伝って目に入る。

 

傾く真っ赤な視界の中で、俺の名を呼んだ男の姿が鮮明に映る。

 

次々に敵兵を薙ぎ倒す姿。止めどなく繰り出される攻撃の嵐。そして、男の顔に刻まれた特徴的な傷跡。

 

 

見紛う事なく、杉元佐一その人であった。

 

 

 

 

目を覚ました時。真っ先に軍医に聞いたのは、あの人の所在だった。まだ安静にしていろと煩い衛生兵を無視して、俺は寝台から起き上がって通路へ飛び出す。驚いたような顔の寅次と目が合ったが、その横をあっという間に通り過ぎて野戦病院の中を駆け抜けた。

 

辿り着いたのは一番端の一室。扉の前に立っていた軍医が俺の入室を拒んだが、無理矢理押し退けて部屋に割り入ると、重症患者達が寝台に並べられている。ぐるぐると目を動かして、ようやく視線が一点に定まった。

 

いくつかあるうちの寝台の一番奥。窓際の隅にその人は眠っていた。

 

「唯之にい…。」

 

あれから、もう十年だ。

 

十年間ずっと会いたかった人が、ようやく俺の目の前にいる。

 

望んでいた再会とは程遠いが、今は重傷を負いながらも生きているだけで良かった。カサついた口がほんの少し隙間を開けていて、そこから小さく、ひゅー、ひゅー、と空気の音が聞こえる。呼吸は浅く顔色が悪い。当分は目を覚まさないだろう。

 

身体中に包帯を巻かれて痛々しいその姿を見ると、かつて子供の頃、自分が頼りにしていたこの人が、酷くか弱くて、儚い存在に見える。

 

…いや、違うのかもしれない。本当は昔から、強くなんてなかったんだ。この人は弱い人で、それを上手に隠していたから、俺も皆も気が付かなかっただけなのかもしれない。

 

だからなのだろうか。俺が間一髪で助けたあの一瞬。突っ込んでくるロシア兵の方を向いて、銃剣まで下ろしてしまって。唯之にいは微笑んでいた。生きる事を諦めて笑っていたのだ。死を目前にしたあの瞬間だけ、唯之にいは本心を露わにしたのではないだろうか。

 

思い出すと背筋を冷たいものが駆けていく。そうだ。あの時、ほんの少しでも遅かったら、唯之にいはこの世には居なかっただろう。間に合ったとはいえ、本当にギリギリだった。微笑みを向けられたロシア兵が、一瞬躊躇してくれなければ確実に…。

 

 

ふと視界の端の机に、何か置かれているのが見える。何かと手に取れば、それは自分にとっても馴染み深いものだった。

 

「……梅ちゃん。」

 

昔日清戦争の時に、梅ちゃんが唯之にいに渡したお守りだった。とても大切に使ってくれていたのだろう。血で赤黒く汚れてしまってはいるが、ほつれは見当たらなかった。

 

そしてその横にあったもう一つ。血でガサガサで一瞬ゴミかと思ったが、どうやら帳面に使っていた紙の束のようだ。乾燥した血の塊が貼り付いて、ページをめくるたびにその粉が落ちる。

 

事務の内容だろうか、何月何日までとか午後の予定とか、備品の補充などの雑務まで書かれている。走り書きが多い中、あるページで目が留まった。

 

「小樽に、札幌?それに何だこの漢字…。」

 

他のページとは明らかに雰囲気が違った。露とだけ書かれた横に1904と書かれていたり、小樽と地名が書かれていると思えば横には明日と書かれている。

 

意味のない単なる落書きのようなものなのかとも思ったが、それにしてはきっちりと整えて書いているような気がする。前後のページも確認してみるが、帳面の中ほどの二ページのみが、妙に浮いているような違和感があった。

 

分かるのは、北海道に何か鍵があるのではないか、という事だけだった。本人に確認するのが一番手っ取り早いのだが、生憎すぐには無理だろう。俺はお守りと帳面を元の位置に戻して、包帯の巻かれた腕に手を伸ばす。

 

冷え切っていて冷たい。タコの多い手を、そっと握りしめた。

 

 

 

 

気が付けば身体中を覆う鈍痛に支配されていた。なんとなく寝転がっていることは感覚的に分かったが、背中も腕もそこら中ぶよぶよした感じがして、どうにも気持ちが悪い。覚えのある感覚だ。多分、麻酔が回っているのだろう。

 

なんとか瞼を開くと、ぼやっとした視界が朱色に染まっていた。所々に輪郭の見えない陰が浮かぶ。不便だ。殆ど見えないじゃないか。

 

霞む視界をどうにかするために目を擦ろうとして、腕が持ち上がらないことに気が付いた。いや、もしかしたら少しは持ち上がっているのかもしれないが、麻酔のせいでそれが分からない。指はなんとか動く様だが開こうとすると圧迫感があるような気がするので、何か遮るものが手の周りにあるのかもしれない。

 

一体どうしてこんな事になっているのだろうか。そこまで考えて、微睡む思考は急激に加速していく。

 

後先考えず突っ込み、これでもかと傷を負い、迫り来るロシア兵に抵抗する事なく殺されたはずだ。なのにどうして俺は死んでいない。

 

途端に思い切り体を起こしたい衝動に駆られるが、体はビクともしない。動かない。もどかしさに体の内側が捩れる。意味が分からない。普通あの状況なら死なない方が難しいはずだろう。トドメを刺されなかったとしても、出血はかなり酷かったのに。気を失う前だって、アレは攻撃を避けられたんじゃない。頭に確かに痛みがあったし、流れてきた血が目に入ったんだ。

 

そうだ、そのせいで視界が赤くなって……。

 

そして俺は鮮明に思い出した。

 

ロシア兵に銃剣で切りつけられる直前。肩の辺りを掴まれて俺は体勢を崩し、そのせいで体のど真ん中を狙っていた銃剣は俺の額を撫でる様に切ったのだ。

 

思わず地面に倒れ込み、呆然と見上げる俺の瞳に映ったのは『杉元佐一』だった。紛れも無く、原作主人公として成長した、あの……。

 

「……ッ!!唯之にい!」

 

瞬間、視界に大きな陰が差す。突然の事に驚き声すら出せず一度呼吸が止まる。唯之にい。俺のことをそう呼ぶのは一人しかいない。そんな、まさか…そこに居るのか?

 

「さ、い。」

「なぁ!そこのアンタ!軍医を呼んで来てくれ!意識が戻った!!」

 

言葉を紡ぐことすらままならない。ろくに動かない口でなんとか話したが、掠れていて、息を吐いた様にしか聞こえない。耳だけははっきりとしているお陰で、近くの大声も遠くの慌ただしい空気も何となく伝わってきた。

 

ここは恐らく野戦病院。周りから負傷兵の小さな呻きが止まない。死にかけの俺が助かったのは、一重にここの軍医の腕のお陰か、それとも悪運の強さが招いた結果か。何れにせよ、俺は死ねなかったようだ。

 

そう、死ねなかったのだ。

 

落胆、そして絶望。どうして生きている。生きる目的も希望も価値も何もかも持ち合わせない俺が。これで漸く、俺は自身の呪われた生に終止符を打てたのに。命を投げ出す覚悟を決めて、戦場へ飛び出したのに。

 

神がもし居るなら、責めずにはいられない。俺よりも若い青年達が何人、何百、何千と命を落とし、愛すべき家族の元に二度と帰ることが出来ないというのに。

 

何故、俺を生かした。俺よりも優遇されるべき人は幾らでもいたはずなのに。もしや此れも贖罪に伴う痛みとでも言うのか。

 

「唯之にい、良かった。良かった。」

 

俺の手を握り締めながら佐一が呟く。そんな佐一を俺は冷めた目で見ていた。何が良かったものか。麻酔のせいで鈍くなっている手は、握られているのかハッキリとしなかったが、生温さに包まれて変な感じだった。

 

 

立ち直りが早いというのは美徳である。いつまでも悩み続けていても答えの出ない問題は存在するし、そればかりに気を取られては新たな躓きでさらに悩む事になる。

 

だから心が立ち止まりたそうにしていても、無理やり体を動かし、頭を働かせ、立ち直りに努めるべきなのだ。

 

「まったく、第一師団は化け物の住処なのか?アンタも、アンタに付き添っていた一等卒も。よくそれで生きてるもんだ。」

「そうでもない。運が良かっただけ、その証拠に生存者は殆ど居ないだろう。」

「軍曹殿、そうは言ってもあの戦闘はアンタとあの不死身の杉元以外一人残らず逝っちまってるんだ。運の良さは化け物級だろうよ。」

 

軍医が呆れ混じりにそう言った。しかし、本音を言うならば俺はそんなに大したことない。怪我の治りが遅いし、寝台を占領するだけの置物状態だ。これなら俺の周りの寝台の兵士の方が良い。すぐに死ぬから次の患者を受け入れられる。

 

運だって、良いのか悪いのか…。生き残ることができたのは、不本意ではあるが非常に低い確率を通ったのだろう。普通に考えて、運は良かったのだ。しかし俺自身が投げやりになって暴れまくった代償が大きすぎる。

 

軍服はもはやボロ切れと化した。体中酷いとしか言いようがない。まず苦しんだのは、肋骨で止まった銃弾を数発抜く治療だ。鎮痛剤くらい打って欲しかったが、物資の供給がままならないため、節約のためだからと口に布を噛まされた。

 

眠っていた時は打ったくせにと俺がぼやくと、絶対死ぬと思ったから、穏やかに死ねるように打ったと告白された。その分取り返すためにも我慢するよう迫られた。

 

軍医が包帯を変えながら状態を確かめる。包帯が取れると、冬の冷たい風が肌を撫でて、少し鳥肌が立った。

 

「傷口は問題ないな。数は多いし深いし、どうなる事かと思ったが…。ただボロボロなことに変わりはない。恐らく完治はしないな。何かしらの軽い後遺症が残る可能性がある。」

「後遺症?」

「ああ。反応が少し遅れたり、早く動かせなくなったり。あとは力が入らなくなったり。まだ治りかけの段階では可能性の話しかできん。もしかしたら何の心配もなく治っちまうかもな。」

「もしかしてアイツと一緒にしてるのか?不死身の杉元と。やめてくれ。アイツは冗談抜きで神様に愛されてるからああなんだ。俺とは違う。寧ろ俺は見放されてる。」

「随分卑屈なもんだ。アンタもまだ残ってる師団の連中からは『忠臣』なんて渾名で呼ばれてるじゃねぇか。」

「……忠臣、ね。」

 

まただ。ズキズキと内側からこみ上げる痛み。見ないように目を逸らしても、こうして誰かがそれを指差すから、忘れるなんて出来ない。

 

忠臣。というのは、俺が殉死するために決死隊に志願したという噂によるものだ。間違ってはいない。大和少尉、中尉、同志たちと共に死ぬための志願だった。しかし別に俺がそれを口に出したわけではない。酒の酔いでうっかり俺の口が滑ったのだろうか。それとも、あの恐ろしい中尉の情報操作だろうか。真相はどうであれ、俺の志願はそう捉えられてしまい、忠臣という渾名が付いた。

 

勿論良い意味ばかりでない。忠臣として後追い自殺の如く戦場へ出たくせに、のうのうと生きている俺への当て付けである。要するに嫌味なのだ。

 

軍医と話していると、外の戦闘音がいつの間にか止んでいた。俺の口から重い溜息が出ると、それに目ざとく気付いた軍医が口の端を釣り上げる。

 

「お前は人気者だからな。そう嫌そうな顔をせず付き合ってやれ。」

「軍医殿はアレを見舞いだと思ってるんだろう?…月島軍曹や部下達はともかく、アイツらはダメなんだよ。あの中尉は滅多に来ないが、アイツに至っては頻度が異常だ。」

「ははは!酷い言いようだ!じゃああの不死身の男は、見舞いではなく何をしにここに訪れているんだ。」

「…監視だよ。アイツは捕まえた虫を手の隙間から覗き込んでるだけさ。」

 

「軍医殿!急いでいらしてください!」

「ああ、分かった。すぐ行く。悪いな、軍曹。行かなくては。」

「早く行ってやってくれ。助からなくても、死に際はせめて穏やかに逝かせてやってほしい。」

 

勢いよく部屋に入ってきた衛生兵が焦った様子で軍医を呼ぶ。軍医が少し顔を強張らせてそれに頷いた。彼らも辛いな。十分とは言えない設備。足りない人手。にも関わらずわんさか出る死傷者。前線から最も遠い此処も、戦場となんら変わらない壮絶な命のやり取りの場だ。彼らにのし掛かるストレスは計り知れない。

 

出て行った軍医と衛生兵と入れ替わるように、部屋に佐一が入ってきた。

 

「唯之にい、怪我の調子はどうだ。」

「見ての通りだ、杉元一等卒。」

「その呼び方止めろよ、んな他人行儀な…。」

 

口を尖らせながら歩いてくる佐一の腕に、真新しい軍服が抱かれている。回復の見込みがあるから、流石にあのボロ雑巾を着せるわけにはいかなかったのだろう。

 

佐一が机の上の俺の手帳とお守りを退けて軍服を置く。それをきっかけに、故郷の話題が上がった。

 

「父さんと母さんは、元気か。」

「…俺はちょっと、徴兵前に数年村から出てたから分からない。寅次に確認してくれ。」

「お前も村を出たのか?一体何で。」

 

そういえば原作でもそんなことを言っていたか?わずかに記憶はあるが、杉元の過去は偶にしか描写されていなかったから、イマイチ覚えが悪かった。

 

俺がそう問いかけると、少し間を置いて佐一は俯いて話した。

 

「俺以外。みんな結核で死んだんだ。」

「それは…。すまん……。」

「気にしないでくれ。俺は大丈夫だ。それに、俺には唯之にいがいる。」

 

デリカシーに欠けた質問だった。そうか、確かにそうだった気がする。結核はこの時代では不治の病だ。治療薬の抗菌剤、つまりワクチンが開発されるまでは手の施しようがなかった。

 

結核は肺の病という印象が強いが、結核の症状は何も咳だけではない。全身の倦怠感から始まり、症状が進行すれば異常な汗や、高い微熱が長期間続く。肺以外にも感染することがあり、その場合は嘔吐や昏睡、痙攣などの症状が出る、非常に重い病である。

 

そんな家族を一番近くで見ながら、死を看取ったのだろう。徴兵の数年前という事は、十代半ばか。

 

ふと、あの村を出た日の佐一を思い出す。小さな心細そうな立ち姿。俺のせいで人を殺め、歪み、さらには若くして天涯孤独の身になった。

 

可哀想だと思う。しかし、捨てたくせに何を思うかと責め立てる声が聞こえるようだった。

 

「唯之にい。手、握っていいか。」

「……ああ。痛むから、軽くにしてくれ。」

「分かった。」

 

キュッと暖かい佐一の手が俺の冷えた手を包む。いつもの事だった。何かを確かめるように、何回も何回も、佐一は俺の手を握っていた。

 

______俺には唯之にいがいる。

 

もう、俺しか残っていないから、それに縋らずにはいられなかったのか。もしそうなら、この行動にも小さな束縛も納得が行く。

 

もう会う事はないと思っていた佐一。その不憫な人生を思うと、俺の心の底が何度もチクチクと刺激される。

 

何も考えないように、そっと目線を窓に逸らした。日はもう傾いており、大きく赤い太陽で空が朱色に燃える。夕暮れの光が静かに胸の内に物悲しさを生んだ。

 




そろそろ原作入りてぇ。
佐一くんはめっちゃ入り浸りますが、月島軍曹や鶴見中尉とは出会いません。月島軍曹が、出来るだけ同郷だという佐一くんとの時間を邪魔しないように避けてます。鶴見中尉は基本月島軍曹のおまけみたいな感じで付いてくるので自然と不死身の杉元スカウトチャンスを逃してます。

アンケート終了しました。皆様ご協力ありがとうございます。今後もボーイズラブタグは付けないで行こうと思います。また、かなり先の展開もやっと決まりました。今後ともどうぞよろしくお願いします!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【閑話】


お待たせしたところ申し訳ないですがガチで閑話です。
次の話のための繋ぎだったり理由付けなので、これ読んでなくても次の話は多分読めます。あと短い。



【軍医の懸念】

 

ある野戦病院の天幕で、軍医は重い溜息を吐き出していた。

 

原因はある横暴な命令のせいである。自分が手当てを施した第1師団所属の高橋軍曹を、衛生隊に加え面倒を見ろ、というものだった。

 

はっきり言って不可能だと思っている。衛生隊は第一線で戦う兵士たちと共に行動し、銃弾飛び交う戦場で負傷した兵を素早く救助・応急手当を施す部隊だ。交戦の為の部隊ではないが、それでも前線部隊と同等の危険を伴う。倒れた同士を救わんと飛び出した衛生兵が流れ弾に当たりと、まさにミイラ取りがミイラになってしまう事も少なくない。

 

そこに、まだ本調子ではないあの軍曹を連れて行けという命令は、あまりにも分かりやすい死刑宣告だった。

 

そもそも彼、高橋唯之軍曹は、未だこの野戦病院にいるのがおかしい存在なのだ。

 

あくまで野戦病院は応急の手術を行う場であり、その後は後方の兵站病院へ送られる手はずとなっている。治療の見込みがあるならば入院する事になるし、それが難しいならばさらに後方の定立病院へ、そして病院船で帰国することとなる。

 

彼の体を診た自分と衛生兵なら分かる。彼の受けた傷はあまりに多く深い。生きているのが不思議なほどで、普通ならとっくにもっと後方の病院へ送られている筈だ。

 

たまたま収容されたここが、廃墟となった洋館を利用したもので、天幕だけの野戦病院よりはマシかもしれないが、この設備で治療を続けるのは異常だ。何度考えたって、ここに居るのはおかしいとしか言いようがない。

 

傷の数で言えば、不死身の杉元と呼ばれる一等卒も同じくらいの傷を負っているが、彼はやられる度に野戦病院に運ばれて来る。それ故の傷の多さだ。

 

だが高橋唯之軍曹は、たった一度の戦闘でその不死身の杉元に並ぶかそれ以上の負傷をしている。例えるならば、不死身の杉元は弾丸を一発食らう日が一週間続いたが生きていて、高橋唯之軍曹は一度に七発銃弾を食らったが生きているという感じだ。

 

まぁ、どっちも化け物並ではあるが正直後者に関しては死んだほうが楽なほど酷い。出血量に関しては比でない。深い傷がいくつもあって止血が上手くいかず、なんとか処置が終わった頃には手術台が血塗れになっていた。

 

今は驚異的な生命力で骨折や打撲、銃創などもゆっくり治ってきているが、固定のための包帯を外した腕や足は細っそりと痩せ衰えている。歩く練習をしているが、あまり好調とは言えない。また、全身の傷の回復のための栄養が足りていない状態だ。幸いな事に今は脚気の症状は出ていないが、時間の問題かもしれない。

 

再び以前の様に走り回れる様になるにはまだまだ時間がかかるはずだ。それなのに、彼を戦場へ出せという命令が下る。意味が分からない。一体何が起きているというのだ。苦戦を強いられているのは分かるが、そんな事をしても事態は悪化するだけだろうに。

 

重傷者に満足な治療を受けさせない。

回復傾向が見られたばかりにも関わらず前線復帰命令。

 

更にそこに付け加えるならば、第1師団少将の大和閣下が直々にこの命令を下した事だろうか。

 

今回の件について自分は逆らえる立場でないが、胸の内を覆う不可解さを無視する事は難しい。晴れない疑問たちを浮かべては、軍医はまた一つ大きな溜息を吐いた。

 

 

【野戦病院にて】

 

知り合ったきっかけは故郷への便りと煙草だった。口数はそれほど多くはなかったが、彼の話はいつも興味深かった事を覚えている。

 

「月島、知ってるか。この頃脚気が流行っているが、あれは飯が白米ばかりだから起こってるらしい。」

 

煙草を吸っている途中で不意にそう彼は呟いた。どこから仕入れてくるのか知らないが、妙に知識豊富な彼はよくこうして色んな話を持ってくる。

 

「軍医たちは細菌病だと言ってるぞ。」

「それが違うんだな。ああ、海軍では原因は栄養だとして解明を急いでるそうだ。海軍が模範としているイギリスの主張だからだがな。」

「じゃあ陸軍は何故細菌病だと?」

「ドイツを模範している陸軍は、ドイツが細菌病だと疑っているからそれに倣ってるんだよ。」

 

あ、そうだ。お前もこれ食っとけ。

そう言って渡されたのは小さめの巾着だ。紐を解いて中を覗き込むと、薄茶色の砂の粒が袋一杯に入っていた。

 

「…嫌がらせか?」

「は? 違うよ。玄米嫌いだった?」

「玄米?」

 

そう言われて見ると、確かに。砂の割にはほんの少し透けている様な気がする。なるほど、形は米の姿をしていないが、これは玄米を粗く砕いたものなのだろう。それに若干ではあるがもみ殻が混じっていた。

 

「生米のまま食べるのはあまり良くないが、水に浸しておけば多少は食い易くなる。ついでにその水も飲んでおくといい。水に溶け出す栄養というのもあるからな。」

「ああ、だから砕いてあるのか。水に浸すことが前提なわけだな。」

 

ありがたく玄米の入った巾着を受け取り、試しにそれを口にしてみた。小さな粒は何度噛んでもビクともせず、俺は諦めて唾液ごと飲み込んだ。

 

そんな俺を見て、顎に手を当てながら彼が話す。

 

「……村じゃ白米なんて贅沢品だった。甘くて美味い白飯を軍ではこうして毎日食えるのは俺だって嬉しかった。でも、そのせいで死んじまう奴がいるのは不憫だ。」

 

だってそうだろう? 食べることは生きることなんだ。生きる為に食べたのに、そのせいで死ぬのは、酷いことだ……。

 

それを聞いて俺はなんとも言えない感情が胸を覆うような気がした。軍人は庶民と違い様々な面で優遇されている。白飯もその一つであった。軍が推奨する食事によって兵士が死んでいくのは確かに変な感じがする。

 

けれど、それは思うだけだ。心のうちに留めておかなければいけない。口に出した日には、軍に反逆するのかと尋問されてしまうだろう。

 

「なぁ、月島。死ぬなよ。お守りもなくすなよ。俺が必ず取りに行くんだから。」

 

 

日清戦争から十年もの年月が流れて、俺も高橋も色んなものが変わってしまった。

 

包帯まみれの青白い肌顔を見て、随分老けたなと感じる。温和で繊細だった彼には、軍での生活も二度目の戦争も、気苦労が絶えなかっただろう。目の下に鎮座する隈が過酷な日々を思わせた。

 

寝台の横の机に置かれた小さなお守りを、俺はそっと摘まみ上げ手のひらに乗せる。お守りは彼の血が滲み込み、元の鮮やかさが想像できないほど茶褐色に染まっていた。

 

約束は結局のところ果たせなかったのだ。高橋が告げた「戦争以外で人を殺さない」という条件を破って父親を殺したあの時。お守りを返すことがどうでもよくなり、黙って死刑を受け入れるつもりだった。

 

けれど鶴見中尉に救われ、自分の元に在るお守りを見て、ハッとして。俺に会いにくると言った高橋の顔が頭の中に浮かんだ。父親を殺したことに後悔はなかったが、彼との約束が果たされなかったことにだけは悔いがあった。

 

それにしても、再会を期待して大切に持っていたこれが友の元に戻り、さらには命まで護ってくれるとは。まさか十年前のあの時には考えもしなかっただろう。

 

「月島、なんだ。来てたのか。」

「すまん、起こしたか?」

「いや…夢見が悪くて。」

 

汗を滴らせながら高橋が起き上がる。傷が癒えていないからとそれを阻めば、お前が来ているのに寝っぱなしでは居られないと無理やり体を起こしてしまった。

 

「今日は居ないんだな。」

「ああ、鶴見中尉なら、今は師団の天幕に居られるだろう。どうかしたか。」

「……いや、俺はあの中尉が苦手なんだ。毎度のように師団を移れと勧めてくるだろう?」

 

俺が高橋の元へ行く時、ついでと言って鶴見中尉殿はよく見舞いに着いて来ていた。その都度高橋は第七師団へ来ないかと熱烈な勧誘を受けている。最初こそ丁寧に断りを入れていたが、あまりに執拗なそれに辟易して、今では中尉を見るだけで疲れた顔をしていた。

 

「そもそもお前はどうして中尉殿の提案を断るんだ?お前にとっても悪い話ではないだろう。」

 

鶴見中尉は、亡くなった大和中尉、少尉殿たちの代わりに軍での後ろ盾になる。さらに、直属の部下として迎えようとまで高橋に言い切った。

 

聞けば家を出た身だそうで、行き場所のない彼にとっては破格の条件だろうに。

 

「客観的に見ればそうかもしれないが、俺からしてみればメリットは全然無いんだよ。俺は軍に残らない。……戦争はもうこりごりだ。」

 

彼の中で誘いを受けないのは決定してしまっているのだろう。呟くように溢れた最後の言葉に内心同意しつつ、俺は少し残念だと感じた。つまり、この戦争が終わればたわいない会話すら出来なくなるという事だった。

 

「それに俺を助けるような真似をすれば、大和閣下から要らぬ怨みを買うだろうさ。そこまでして俺を引き込みたい理由は……。ま、分からんが、死ぬほど働かされそうだ。兎に角俺は遠慮させてもらうよ。」

「なぁ、高橋。」

「何だよ月島。」

「もう一度。生きられそうか。」

 

決死隊に志願したのだと知ったあの日。バカな事をするなと殴ってやるつもりだった。結局は意思のこもった強い瞳に貫かれて、引き留めることすらままならなかったが。

 

俺の問いで高橋の瞳が揺れる。強張った顔には、明らかに以前にはなかった迷いが見えた。

 

それはきっとこの世への未練だと、俺は思った。

 

 

【諦観】

 

負傷し、野戦病院で治療を受ける過程で、佐一も交えて久し振りに寅次と話をした。世間話や互いの近況など色々と話したが、やはり一番驚いたのは寅次と梅子が結婚したという事だろうか。

 

正直意外だった。佐一と梅子、寅次。幼馴染同士の三角関係なんて、少女漫画かドラマの様だ。二人はもうその事を自分達の中で消化してはいるのだろうが、俺はなんとなく気まずくて早々に話題を変えたのを覚えている。

 

その後に続けて寅次が話し出したのが、梅子の目の事だった。日に日に視力が落ちているらしい。

 

アメリカの医者に目を診せてやりたいが金が足りない。唯之の兄貴がもし良いのなら、少しばかり工面してもらいたい。そう寅次は俺に深々と頭を下げた。

 

しかし俺は残念な事にそれに応えることは出来なかった。梅子は俺にとっては可愛い妹の様な存在だし、寅次も佐一と同様に弟の様に可愛い。金を出してやりたいのは山々だった。ただ本当にそれができないのだった。

 

村を出てから箱屋として働いていたが、あまり給料は良くなかった。殆どが煙草代に消えたのもあって、貯金は全くと言っていいほどなかった。

 

更に痛いのが、俺が軍で働いた分の給与は大和少尉達の戦死で全てパァになってしまった可能性があることだ。俺の軍曹という立場は、大和中尉のコネで師団に入り、成り上がった様なもので、師団の中には俺をやっかむ者も多かった。

 

また、付き添っていた大和少尉殿は喧嘩っ早い性分で、俺は頻繁に仲裁に入っていた。そのせいか少尉に向いていた怒りだのなんだのが、何故かベクトルを変えて俺に降りかかる始末。部下や面倒を見ていた兵たちはともかく、一部の将校には生意気な青二才がと厄介者扱いされていた。

 

今回の失態は、気に食わない俺に処罰を与えるいい機会だろう。理不尽な要求も免れられない。そういう陰険で、意地の悪い事には頭の回転が早い奴は多い。難癖つけられて給与を剥ぎ取られることになるだろう。

 

あともう一つ理由を付け加えるとするならば、それは鶴見中尉の存在だ。本当ならば俺をもう殺していてもいい頃合いなのにそれをしない。それどころか月島の見舞いに引っ付いてきてまだ勧誘してくる。殺せない理由が出来たか、殺す必要がなくなったかのどちらかだろう。高確率で後記だと俺は考える。

 

虫の息で生き残った俺だが、軍の中での立場が残っていない事に気付いたのだろう。俺一人が「鶴見中尉は叛逆を企てている」などと喚いたところで、厄介者の狂言と嘲られるのがオチだ。逆に殺さない方が都合が良いのだ。

 

だが生かしておくにはリスクがある。その場合何をするのが効果的か。金を奪う事だ。

 

金に目が眩む人間は多い。人は大金を積めば簡単に手のひらを返す。最早軍に後ろ盾のない俺が鶴見中尉に楯突こうとするならば、金の力に頼らざる得ないのだ。

 

横暴な上官と鶴見中尉。この二つが組み合わさって、俺の金は確実に奪われてしまうのだ。どれだけ武功を挙げてもそうなるだろう。

 

詰まる所、梅子の為に金をひねり出す事は不可能だった。何とも忌々しい。貯金もない。収入もない。完全にお手上げだ。無一文ではないだろうが、海外へ行くには足りるわけがない。

 

全てを語ったわけではないが、理由を告げると寅次はがっくりと肩を落とし、北海道に行くしかないかと呟いた。

 

北海道に行くしかないってどういう事だ、と佐一が問いかける。成る程、ここでその話題が出るわけかと俺は黙って二人の会話を聞いていた。

 

ゴールドラッシュ。実際行ったわけではないが、風の噂でその凄まじい採れっぷり耳にしている。ザクザク砂金がとれるなんて嘘みたいな話だが、それが本当だからこうも話題になるのだ。砂金は一応混ざり物で、純度100%では無いのだが、それでも量が多ければそんな事気にならない位の価値がある。

 

寅次はもう一度俺に頭を下げて、この戦争が終わったら砂金採りを手伝ってくれと言った。

 

ここで頭に浮かんだのは一つの懸念だ。

未だに第七師団の軍曹になれと執拗な鶴見中尉。北海道は彼の懐に等しい。そこに飛び込むのははっきり言って良い気分ではない。

 

俺は寅次に出来る限りの手伝いはするとだけ伝えた。

曖昧な言葉だったのに、寅次はありがとうと何度も礼を言って頭を下げた。

 

なんて、偽善だろうか。俺は寅次が死んでしまう事を知っている。どこで死ぬのかは知らないが、多分死んでしまうのだろう。佐一は原作通り不死身の杉元と呼ばれ、第七師団の連帯旗手も死んだと月島に聞いた。

 

結局こうして約束しても、それが果たされない事は分かっている。聞けば、次の戦いでは俺は衛生隊に加わるそうじゃないか。きっと寅次の死体も運ばなければいけないし、処理しなければいけないんだろう。

 

 




次の話は原作に入りたい。受験終わったら書きます。
進捗はたまにTwitterで呟いてます

月島と高橋唯之仲良すぎですね。十年会ってなかった人のことそんなにも心配できないわ。月島は【約束破った】をずっと抱えてた感じで、高橋唯之は【知り合いの原作キャラ】としか思ってないので感情の重さは全然違います。

この後主人公は寅次の死体を処理するし、怪我した月島に鶴見中尉から逃げろって言われるし、杉元と一緒に里帰りするし、北海道行きます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



またもや短い話
原作開始の序の序


寒い。

 

暗い闇の中。何処からか声が聞こえてくる。水の中のように濁っていて、それで辺り一帯に木霊するような訴えが。揺れるようにして響いてくる。

 

一寸先も見通せぬような完全な闇。黒で埋め尽くされた視界。自分の手すら見ることが叶わない。そもそも俺は目を開いているのだろうか、閉じているのだろうか。感覚も曖昧だ。

 

寒い。寒い。寒い。

 

僅かな不安を覚え、一歩前へ進もうとするがよく分からない。雲の上を歩くような、無重力のような、自身の重心の位置が掴めない状況にもどかしさを覚える。

 

それにしたって、一体この声は何処から聞こえてくるのだろう。俺は耳を澄ませようと静かに、息を殺す様に集中した。ぼわんと響いていた声は、意識するとだんだん鮮明になって行く。

 

男の声だ。しかも、聞き覚えがある気がする。とてもよく知っている、そんな気がしてならない。男の割に、穏やかで優しいような。凛とした青年のようでいて、頼り甲斐のある年上の声のような。

 

寒い、ここは寒いぞ。

 

ふと足元と感じられる場所があることに気づく。声はそう、下から聞こえてくるのだ。足の裏から、刺すような冷たさが伝わって来た。誰だ。一体誰がそこにいるんだ。

 

いや、待て。居るにしたって、なんでそんな足元に。

 

 

 

「唯之、ここは寒いぞ。

土の中では、桜も見えん。」

 

 

 

 

 

布団を跳ね除けて飛び起きると、そこは薄暗い部屋だった。差し込む月明かりを見るに、どうやらまだ夜は明けていないらしい。頭をガシガシと掻いて大きく息を吐き出すと、じとっと服に張り付いた汗が寒く感じた。

 

「また、悪い夢を見たのか。」

 

隣を見れば、布団の中で横になったまま、目だけを開いている佐一が居た。眠りの浅い佐一は俺が起きた気配で目を覚ましてしまったようで、顔は天井を向きながらも、その瞳だけが俺を覗き見ている。

 

「……悪いな。」

「唯之のせいじゃない。悪夢のせいだ。」

「そうは言ったって、ね。毎日毎日こんな時間に起こしちまって、気にするななんて無理だろう。」

 

戦争が終わって、俺と佐一は砂金を得るために北海道にやって来た。俺が悪夢を見始めるようになったのは一月ほど前からだ。

 

ある日を皮切りに、土の下から助けを求める兄や少尉、中尉の声がする夢を見るようになった。みんなは、ただ寒いと。土の中は寒いと。桜が見たいと俺に言う。

 

毎晩のように同じ夢を、同じ訴えを聞くようになって、眠りは妨げられ、日中の活動にも支障をきたすようになってしまった。

 

佐一が山に入り砂金を探している間。俺は借りた宿の部屋の中で静かに過ごすことしか出来なくなった。はるばる東京から北海道までやって来てこのザマである。夢を見る前までは普通に動けていたはずなのに、今ではその普通ができない。

 

 

人混みの中を歩けなくなった。

軍での騒がしい集団生活を思い出すからだ。

 

大きな音がすると身体が固まるようになった。

銃や砲弾のうるさい爆音を思い出すからだ。

 

……肉の類が苦手になった。

人間の臓物を連想してしまうからだ。

 

 

「兄が…。少尉や中尉たちが、みんな口を揃えて寒いと俺に言うんだ。土の中では桜の花すら見れないと……。」

 

帰国してしばらく経つというのに、今更こんな風に亡くした人達を夢に見る。息苦しくなる胸の奥底で、後悔に似たもどかしさが重く佇んでいる。

 

俺の勝手で、父にも母にも居場所を知られぬまま。供養もされぬまま。桜の根元に埋めた兄。

俺が弱かったために守れず死んでいった少尉と中尉は、日本に帰ることもできず、桜のない冷たい戦場の焦土の下に眠っている。

 

それを思い出すたびに、俺の奥底に佇むそれが、己の内側を這うように荒らし出すのだ。どれほどの無念だっただろうか。故郷の土を二度と踏めない戦友たちの嘆きを想うと、苦しくて仕方がなかった。

 

「……夢だよ、唯之。ただの悪い夢だ。」

 

佐一はそう優しく言って目を細めた。佐一らしくない、子供をなだめるような柔らかい口調は違和感があったが、それでも俺の心を少しだけ落ち着かせてくれた。

 

俺はちらりと窓から見える月を見てから、そっと布団を着直して瞼を下ろす。そろそろ冬も終わる頃だ。北海道は死ぬほど寒いが、それでも四季は巡り、春がやって来るのだろう。

 

この地にも桜は咲くのだろうか。

 

 

 

 

朝になり、のそのそと布団から這い出ると、既に佐一は出掛けたようで、畳まれた布団が俺の横にあった。少し視線をずらせば枕元に握り飯が二つ置かれている。

 

俺は握り飯に噛り付いて考えた。ここのところ佐一は俺が寝ている隙にさっさと出かけてしまう。佐一がいないと碌に外出もできないので宿に引きこもっていたが、このままでは完全に佐一のヒモ状態だ。大体俺は人混みが億劫だからといって、歳下の青年が居ないと散歩もできないとはどういうことだ。情けない。

 

宿から出なくなり、考え事が増え、人と言葉を交わすのも佐一がいる時だけときた。これは良くない傾向だ。運動量も減っているし、体にも心にも不健康なのは確かである。

 

それに握り飯にも飽きてきた頃だ。飯の中に詰められた鮭だけでなく、うまい海産物を食べたくなってきた。折角小樽にいるのだから、物珍しい舶来品を物色するのもいいだろう。

 

なら今日は、佐一を追いかけて山まで行ってみるか。

 

静かな部屋には外の通りの賑やかな声が聞こえる。その中に飛び込むのは、今の俺には勇気がいることだが、街の外にさえ出てしまえば平気な筈だ。どうせ此処に戻って来るのは夜だろうし、今耐えれば佐一の手伝いができる。

 

「……よし。」

 

久し振りにコートに袖を通し、目深く帽子をかぶって俺は外に出た。

 

 

 

 

 

 

ガヤガヤ、ガヤガヤ。

 

 

 

 

「………。」

 

気持ち悪い。

 

迫り上がる不快感を必死に耐えながら歩く。あまりの騒がしさに、早くも宿の外へ出たことを後悔しそうだ。

 

がやがやと騒がしい小樽の街は何処もかしこも人だらけで、あまりの多さになんだか気持ち悪くなる。こんなにも沢山の人間が、それぞれしっちゃかめっちゃかに歩き回っていて、煩くて仕方ない。

 

せめて見ないようにしようと帽子をさらに下げるが、大して意味はなく余計に耳元が煩くなった。これまで気付かなかったが、通りからやや離れたあの宿は、引きこもるには最適の場所だったんだろう。慣れない騒音に頭の中がぐわんぐわんと揺れ動く。吐くかもしれない。吐きそう。

 

静かな方へ行かなくては。と、大通りを避けて小道に入り、街の外れへ出ようと足を急かす。食べたばかりの握り飯が喉元までえいこらせと昇りつつある。これはかなりまずい。

 

脂汗がにじむ。額から流れた妙に冷たい雫が、頬を通り過ぎて顎を伝う。口の中に何もないのに、舌からじゅっと唾液が染み出した。

 

「そこの方大丈夫ですか?」

 

後ろからそう声が飛んでくる。疑問に思う暇もなく、驚きでびくりと揺れた肩に手が置かれた。

 

「あなた、随分顔色が悪いようですが。」

「……すみません。ちょいと悪酔いしてまして。」

 

吐き気とは別の、冷たい汗が垂れてくる。

声をかけてきた青年は軍服を着ていた。肩章番号には27の数字が鎮座している。

 

俺の言葉にそうですか、と朗らかに笑った青年は、さらに俺にこんな事を訪ねてきた。

 

「僕見ての通り軍人でして、実はとある指名手配犯を探しているんですよ。お兄さんこの辺りの人だったりしますか?」

「はぁ、俺は本州の人間ですから。それに北海道に来たのもせいぜい二、三ヶ月前なので。」

「そうなんですか。因みに、出身はどちらで?」

「……東京の片田舎ですよ。」

「へぇ…東京……。お兄さん、貴方のそれ。随分と大きな傷ですけど…大丈夫ですか?」

 

青年はそう言って指で自身の額を指し示した。彼の言う通り、俺には額を横切る大きな斬傷がある。隠そうにも前髪が長いのは不便なので、どうにもならないその傷は常に人目に晒されてきた。誰も彼も、初めて会う人はまず俺の顔を見て、額に釘付けになるのだった。

 

気遣う青年の言葉に、まぁ平気です、と曖昧に答えて考える。これ以上、追求をうまくかわせる自信がない。不審だが、さっさと話を切り上げてしまわないと。胃のキリキリとした痛みを耐えてこう切り出した。

 

「軍人さん、役には立たないと思いますが、その指名手配犯一体どこのどいつか教えてください。ひょっとしたら、どこかですれ違ってるかもしれない。」

 

俺の言葉にパッと笑顔になった青年は、鞄の中から丸められた紙を取り出した。口頭で特徴をつらつらと述べられるが、まぁ当然心当たりはない。素直に知らないと告げれば、青年はすまなさそうに眉を下げて謝った。

 

「ご協力感謝します。ですが、大丈夫ですか?本当に具合が悪いようですが。」

「平気だ。お勤め頑張れよ。」

 

手を軽く振りそそくさと逃げる俺に、青年は小首を傾げて手を振り返した。

 

 

 

 

ざく、ざく。積もって硬くなった雪の上を、足を何度も引っこ抜きながら歩く。外気の寒さに体は震えたが、なんだかスカッとしたような爽やかさで心は満たされていた。

 

真っ白な雪とそびえ立つ木々の姿。冷たくも混じり気のない活き活きとした空気が、日頃煙草で汚れている肺を綺麗にしてくれているんじゃないかという気までしてくる。

 

はーっと大きく深呼吸してキンとした鼻先を指で温めて、冷静に街での出来事について考え始めた。

 

小樽に27連隊の兵士がうろついてるなんてな。

 

別段おかしい話では無い。そのはずである。この街に訪れた当初も兵士を見かけた。いや、なんなら兵士だけじゃなく陸軍の高官や政治家、外国人、商売人、盗人…、ありとあらゆる職種の人間が出入りする。小樽はそういう街だ。

 

だがよりによって27連隊。鶴見中尉と関わりの深い連隊である。

 

死神のようなあの男の恐ろしい風貌が思い出された。白い額当てから覗く真っ黒な、光の無い瞳。もう俺の事は忘れる頃だろうと思っていたが、知らぬ間に見つかっていたら気味が悪い。

 

向こうからしたら、取引を突っぱねた俺が北海道に居るのはあまり面白い話では無いだろう。何しに来た?って感じだ。砂金とりに、なんて答えたって文字通り受け取ってもらえないと思う。最悪の場合、佐一もろとも中央のスパイ扱いされる。

 

探られても痛く無い腹だが、あの男の探る手を我慢できるほど忍耐強くはない。今日のうちにでも荷物をまとめて、本州へ戻るべきだ。

 

そう。それがベストである。何も始まらぬうちに舞台から降りてしまえばいい。俺が居なくても話は進むのだから。そうすることで山も谷もない現実が、ようやっと戻ってくるのだ。

 

暫く歩けばいつも砂金を探していた川まで辿り着くことができた。川に入っている佐一に声を掛けた。

 

「佐一!」

「え、唯之!」

 

呼びかけに目をまん丸にした佐一が、慌てた様子で道具も放って岸に上がる。駆け寄って来た佐一の腕は、まだ水が滴り落ちるほど濡れていた。

 

「どうしてここに?一人で来たのか?顔色が悪い。早く火に当たってくれ。」

「佐一もな。俺のことを心配してくれるのは嬉しいが、その手を見ているとこっちまで寒い。」

 

冷たい水に濡れて真っ赤になっている佐一の手を掴んで薪へ向かった。伝わる冷たさに体温が奪われるような心地だ。いくら人より丈夫とはいえ無茶はしないで欲しい。

 

薪のそばには見知らぬ顔の男が佇んでいた。酔っているのか顔は真っ赤だ。酒瓶を大事そうに抱えて、微睡むような眼で俺たちを見つめる。

 

「アァ、あんたが杉元さんが言ってた『忠臣』さんかね。」

「…えっと、どなたで?」

「後藤のおっさんだよ。そういえば話の途中だったな、聞かせてくれよ。」

 

 

その、面白い話ってヤツを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




当作品連載開始から早一年経とうとしています。
更新が止まってからは半年ほど経っております。
かなりの文字数を書いてきたつもりでしたが、私発想力に難がありましてたかが5000にも満たない文章を捻り出すのにこんなにも時間をかけてしまいました…。
更新停滞していたにも関わらず評価・コメントなどくださった皆さんありがとうございます。
もともと自分が読みたいゴールデンカムイ小説がなかったから、半年寝かせて自分で読むために書いたような物語でした。きっとこれからも私が私のために書く文章ですが、ほんの一文程度でもお楽しみいただけたら幸いです。

ゴールデンカムイ小説もっと増えろー!!

軍人さんの一人称を私→僕に変更しました。あのキャラなら私でも僕でもどっちでも良いような気もしたのですが、僕の方がしっくり来るので。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

小樽

感想・評価ありがとうございます!
ここからはサクサクと原作を進めたいところ


『アイヌの埋蔵金』

『脱獄した死刑囚』

『刺青の暗号』

 

実際のところ、本当に金塊はあるのだろうか。

 

炎の揺らめきを眺めながら記憶の糸を手繰り寄せる。この話を聞いたということは、原作が始まったと見て間違いないだろう。小樽に居ればいずれ始まるとは思っていたが、それが今日だったとは…。

だらしなく寝ている酔っぱらいの後藤と半目の佐一を順番に見て、視線は目の前の焚火に戻ってくる。

 

北海道に来て3ヶ月弱、来る日も来る日も砂金を探して川へ入ったが、ゴールドラッシュはすでに終わっていた。やっとのことで輝くかけらを見つけても、それは金ではなく光沢のある鉱物。砂金はちっとも見つからなかった。

 

だいたい後藤の言う通り20貫(75Kg)もの金塊が本当にあったとしても、それを隠すのは容易だろうか。ギリギリ一人でも運べるとは思う。しかし、砂金なので金の純度は多少低いだろうが、スマートフォンと同じ大きさの金で約1kg。それが75枚分。全く想像がつかない。

 

隠すにしたってそんな重いもの、移動させるのも一苦労だろう。砂金を軍資金として溜めていたアイヌは一人の男に皆殺しにされたとのことだが、そんなに遠くへ持ち出すにしたって限りがある。

 

川や湖に沈めたのだろうか。それくらいなら簡単にできるし見つかりにくそうだが、後で回収するのには苦労するだろう。金塊の重量に加えて川の水流で、引き揚げるのはキツそうだと感じる。

 

山に埋めたかもしれない。自然と共に生きるアイヌだ。何か工夫をして特別な方法で隠したとか、ありそうではある。ただ舗装もされていない山道を重たい荷物を抱えてどこまで移動できるだろうか。

 

北海道は広大で、その何処かに隠された金塊を探すのは容易ではない。しかし金塊を隠した一人の人間の移動経路を調べるくらいならできそうに思える。そこから場所を割り出して探せば見つかるんじゃないか?

 

まぁ、そんな単純な話なら既に警察や軍が見つけてしまっているだろう。なんなら手当たり次第掘り返していても不思議ではない。それが見つからないから、どいつもこいつも暗号を手に入れようと躍起になっているのだ。

 

そしてその暗号も、全て集まったところで解読できなければ人の皮でしかない。長い道のりである。

 

 

パチパチと爆ぜる音の後に、ざりと身動ぎの音がする。顔を俯いたままこっそりと様子を伺えば、後藤が起き上がった。

 

無言で後藤は俺たちの荷物を漁る。その手が立てかけてあった小銃を掴み、ゆっくりと銃口が佐一に向けられる。なんて命知らずな男なのだろうか。先程まで自分の口で不死身の杉元の活躍ぶりを語っていたというのに。

 

「やめておいた方がいいぞ。」

「…アンタ、起きてたのか。」

 

俺の忠告に顔を歪ませ、ガチャガチャとあちこち弄り始める。しかしあの様子じゃまともに撃てはしないだろう。三十年式歩兵銃は俺が日清戦争で使っていた村田銃よりも安全性が重視された構造になっており、安全装置である副鉄を横に倒さなければ引き金を引いても弾が出る事はない。

 

「もう一度言う。やめておけ。そんなに震えてちゃ、狙いが逸れてうまく殺せないぞ。」

「…ッ、う、うるさい! え」

 

佐一に向かっていた銃口が俺に向けられようとしたその時。佐一が小銃を下から掴み、そのまま後藤を背負い投げた。打ち付けられて怯む後藤に間髪入れず拳ほどの岩を勢いよくぶつける。ボキャと嫌な音が男から出た。

 

「あがぁ!」

「ほら、これでいつでも撃てるぞ。」

 

小さな悲鳴を漏らして後藤は林へ逃げて行った。遠ざかる背中を眺めながら、口から溜息が吐き出される。だからやめておけと言ったのだ。

 

「唯之は先に宿に…いや、ここで待っていてくれ。直ぐ戻る。」

「…殺すのか。」

「放っておけば逆にこっちがやられる。それにまだ金塊の情報を持ってるかもしれねぇ。」

 

ギラギラと瞳を輝かせて佐一は後藤を追い、林の中へと入っていった。雪の積もった山道だ。そう遠くには逃げられないだろう。足跡を隠す余裕もさっきの様子からしてなさそうだ。

 

後藤に続いて佐一の背中も見えなくなった。俺はすぐさま焚き火を消して荷物を纏め始める。直ぐ戻ると言ったが、そうはいかない。すでに日は傾きかけており1時間も経てば山を下りるのも困難になる。早く下山しなければ。

 

 

ようやくだ。俺の役目はもう終わったも同然だ。

もうじき杉元佐一はアシリパと出会うだろう。

 

 

俺が何故、危険でしかない北海道に、しかも佐一と一緒にここまでやって来たか。全ては佐一のためである。

 

日露戦争が終わり、寅次の骨を梅子の元へ届けるために佐一は一度故郷の村に帰った。そして佐一は酷い顔をして兵舎へと帰って来た。寅次が戦死した時と同じような、絶望を身に纏って。

 

何があったのかは聞かなかった。聞いてはいけないとも思ったし、とても聞けるような雰囲気ではなかった。黙っている佐一に、俺もただ沈黙を貫くことで応えた。そしてようやく開いた口が出した音は「北海道に行く」という一言だった。暗に、俺の同行を求めた言葉でもあった。

 

その時の俺は本当にどうしてそれを了承してしまったのか。今考えても断ればよかったのにと思うのだが、とてもそんな事はできなかったのだ。

 

天涯孤独の佐一には、もう俺しかいなかった。

ひとりぼっちだった。

 

キツく俺の手を縋るように握りしめたその手を振り解き、いつかの日のように置き去りにするには、俺は自身の良心の呵責というものに耐えられなかった。

 

だからせめて、アシリパという唯一無二の存在と出会うまでは。佐一が共に在るべき人と出会うまでは。佐一の心の支えになろうと決めたのだ。それが北海道への同行を了承した理由である。そう、佐一のためだ。全部佐一のためなんだ。

 

杉元佐一とアシリパ。強い運命で結ばれた二人は、きっと俺如きが気を回さなくても巡り合っただろうが、俺へ向かう小さな束縛がアシリパへ向かってくれなければ困るのだ。

 

杉元佐一にはアシリパが必要であるように、アシリパにとっても杉元佐一は必要な存在なのだから。

 

 

急いで下山したが、宿に着く頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。そのおかげで昼間のような活気は鳴りを潜め、非常に歩きやすい限りである。

 

さて、小樽から函館までどうやって戻るか。鉄道を使えば速いのだが生憎そこまで懐に余裕はない。かといって徒歩で函館まで行けるだろうか。不可能ではないが、ルートを間違えばうっかり佐一と鉢合わせることになるだろう。

 

荷物の中から地図を取り出し、紙切れのメモも開いて見比べる。兎に角、佐一は小樽の後は札幌へと向かうだろう。その後は分からんが、夕張や旭川、そして網走。最終的には樺太へ渡るはずだ。

 

札幌を経由しなければぐっと遭遇確率は下がる。仮に経由しても、速やかに移動すれば何も問題はない。なんせ函館は彼らの進路とは全くの逆方向なのだから。

 

一先ずは札幌経由で函館を目指すことにする。北海道の中で人口が多く栄えている都市だ。そこからの足取りは掴めにくいだろう。それに札幌からなら函館への道がしっかりしている。線路を辿れば道に迷うこともない。気がかりは人混みに酷く酔いそうだということか。

 

そうと決まれば急がなくては。佐一がアシリパとヒグマを倒し、俺が下山したことに気付いて追ってくるかは半々だが、可能性はある。黙って消えるのはよくない気もしたが、手紙に書き残すようなこともないので、そのまますぐ札幌へ向かうことにした。元から荷物は少なかったので身軽だった。

 

誰から隠れるでもなく、足音を忍ばせながら小樽の街を南東へと向かう。雲のせいで街の中は暗く、より静けさを増しているような気がした。

 

広い通りを歩いていたその時、前の路地から人が出て来た。

軍服の男だった。

 

「あれ、またお会いしましたね。」

「え?あ、ああ。昼間の軍人さんですか。」

 

声を聞いて思い出した。山へ入る前に俺に指名手配犯の聞き込みをしていた青年だ。あの時は気分も悪く、帽子を深くかぶっていたから顔をよく見ていなかった。

 

「こんな時間にどうしたんですか?」

「いや、ちょっと札幌に急用ができ、て…」

 

そこでふと気がつく。そういえばこの軍人の青年は額の傷について聞いて来たが、果たしてこんなに目深く帽子をかぶった状態で、その傷が見えるものだろうか。人からよく指摘されることだからとあの時は思っていたが、俺は人混みがなるべく視界に映らないようにと目深くかぶったんだ。だからこの青年の顔もよく見ていなかった。

 

そう。額の傷が見えるどころか、傷がある事すら分からないはずなのだ。帽子で額はすっぽりと隠れて見えるわけがない。

 

冷たい汗が背筋を滑走する。

まさか俺は、カマをかけられていたのか?

鼓動の音が途端に大きくなる。そんな俺のことなどお構いなしに青年は首を傾げながら話を続ける。

 

「まだ体調が優れないようですね。そうだ、僕の所属の兵舎で休んで行きませんか。それにもうこんな時間だ。出歩くのは危ないですよ?」

「いや、いいんだ、気にしないで、すぐにでも向かわなくちゃいけないんだ。」

「ええ〜でも今にも倒れそうですよ。」

「いい。結構だ。」

「まぁまぁ、そんな遠慮しないでくださいよ…。

高橋唯之軍曹〜?」

 

月の光が差し込み青年の顔が明らかになる。照らされた顔には口の真横にホクロが二つ。ああ、これはまともに戦って勝てる相手ではない。

 

急いですぐそばの路地へ逃げ込み来た方角を戻っていく。後ろから「そっちから回り込め!」だとか「射殺はするな!」だとかいう声が聞こえて来た。一人かと思ったら他にも居たのか。そうまでして俺をどうするつもりなんだ。

 

昼の時点でもっと警戒するべきだった。肩章番号の27の数字を見た時に顔くらい確認しておけばよかった。しかもあの宇佐美が居るってことはもう間違いなく鶴見中尉の差し金に決まっている。

 

追手をなんとか巻いて街の外へ出なければいけないが、俺はさっき札幌へ向かうつもりだと洩らしてしまった。これはとんでもない失敗だ。ちょっとでも楽な道を使おうと思っていたのに、これでは嫌でも別ルートで函館へ向かうしかない。最終的な目的地が知られていないのは幸いだが、このままではマズい!

 

ぐねぐねと路地を曲がるが、道に積もった雪のせいで居場所がバレてしまう。大通りなら足跡がごまかせるが、そこでは見晴らしが良くてすぐ見つかってしまうだろう。どこかでやり過ごさなければ…!

 

「(そうは言ったって一体どこに隠れろって言うんだ!)」

 

24時間営業がまかり通る現代ならいざ知らず、ここは明治の暮れ。満月の光が昼間の如く輝くほどに照明のない時代。どこの店も閉まっているし、逃げ込んだ家の家主に居場所をバラされれば逃げ場所がない。

 

焦りで身を焼きながら必死に走る。ここの所外出しなかったせいで体力が落ちている。これ以上闇雲に走り回っても追い付かれてしまうだろう。何か、どこかの物陰でやり過ごすしかない!

 

その時だった。

通り過ぎようとした宿の影からぬるっと出てきた手が俺の腕を掴み、そのまま宿の中へ引き入れる。突然のことに暴れて抵抗するが抑え込まれてしまう。

 

「ッッ!!」

「黙っていなさい。」

 

引き入れた腕の主がその手で俺の口元を押さえた。嗄れた声に動揺して息が詰まる。どういうわけかは知らないが、自分を匿ってくれるようだ。

 

暴れるのをやめて大人しく従うと、宿の外をドタドタと走る音が通り過ぎ、暗い静寂がゆっくりと帰って来る。完全に音が消えてようやくホッと一息ついた。鼓動はまだ荒れていたが、なんとかこの場は乗り切れたようだ。

 

「あ、ありがとうございます。助かりました。」

「なに、大したことはしておらんさ。」

「いやほんと、なんてお礼を言えばいいか…。」

 

そう言い後ろを振り返りぎょっとした。なんでお前までここに居るんだ。

 

「お礼なら、お前さんが鶴見中尉に追われている理由でどうかね…。」

 

そう言って土方歳三はニヤリと笑った。

 

 

 

 

アシリパさんと一旦別れて宿へ戻る。宿の部屋の戸を開けて真っ先に目に入ったのは、唯之の布団の上に置かれた白い長方形の紙である。部屋に唯之の荷物は見当たらない。いつもならかかっている外套もない。何処かに出かけているのだろうか。

 

まさかと思い丁寧にたたまれたそれを乱雑に開くと、そこには短い手紙が入っていた。

 

『佐一へ

少し用事ができたので、暫く此処へは戻りません。

病気に気を付けて。』

 

思わずぐしゃっと紙を握り締める。あまりに短い。なんだこれは。何度読み返してもその文章が変わる事はない。同じ文を上から下へ目を滑らせながら思考を続ける。

 

まずこの字、間違いなく唯之本人の字だ。字の終わりが乱れているところを見るに、大急ぎで書いたと思われる。走り書きほど乱雑ではないから、何か冷静ではない時に書いたのかもしれない。

 

暫く此処へは戻らない。暫く、とぼかした表現を使っているのは、本人も期限を設けていないのだろう。此処へは戻らない。つまり、これを書いた時点では、俺と会う気はないと。そういう事か。

 

ぎりりと食いしばった歯が音を鳴らす。迂闊だった。あの時、唯之も連れて行くんだった。最終的に男を殺して皮を剥いだり、ヒグマを斃して解体したから、その場に唯之が居たら確実に気分を悪くして倒れていただろうが、こんな風に離れるよりは断然マシだった。殺しを厭う唯之を案じたための選択が仇となった。

 

しかし、だ。手紙を残したことにはまだ希望がある。まだ会話の余地があると判断していいだろう。会って説得出来るはずだ。

 

だってこれは遺書じゃあない。開く前の白い長方形を見た時はどきりとしたが。あのいけ好かない男と唯之は違う。唯之は死ぬ前にきっと遺書は書かない男だ。猫のように黙っていつの間にか居なくなる。そういう男だ。

 

そんな男が手紙を残すのだ。きっと大丈夫。まだ生きてる。

 

だがそうなると、何故唯之がわざわざ手紙を残したのかという疑念が生じる。何か目的があってのことだと思う。それが一体なんなのか見当がつかない。そしてこの乱れた文字の焦りの理由は。

 

用事、用事。用事…。ここは北海道。故郷から遥か彼方の北の大地。知り合いも居ないこの地で一体どんな用事があるというのだ。俺が居ない間に何かに巻き込まれたかそれとも。

 

そこで思い出されるのは日露戦争時、唯之にいと再会した病室の帳面だ。血で滲み、ページが張り付いたそれは俺の記憶にこべりついていた。

 

露 1904

小樽 明日

札幌 宿

夕張 剥

旭川 7

網走 シャチ

 

日露戦争の時点で、何かしら北海道に用事があったのは確かだ。それが昨日か今日突然済まさなければならなくなった。なんの前触れもなかったからきっとそうだ。

 

もしそうじゃないなら、良くない事に巻き込まれた。その上で誰かにこれを書かされた可能性がある。俺は手紙を懐に深く押し込んで宿を出た。刺青の情報とともに、唯之の情報も集めなくては。

 

 

 

 

「お前の事情はどうであれ、第七師団が行方をしつこく追っているのは確かなようだな。」

「…そんな俺を同行させるなんて、危険だと思わないのか。土方歳三。」

 

くつくつと笑う土方に思わず溜息が出そうになる。ここ最近は溜息ばかりだ。そうでなくっちゃやってられない。それくらい何もかもがままならない。

 

あの日第七師団に追われていた俺をこの男。土方歳三は匿ってくれた。同時に俺を捕らえたともいう。俺は第七師団に追われる理由には心当たりが無かったが、鶴見中尉と面識があると聞いた土方は、なぜか俺を仲間に引き入れた。

 

当然最初俺は断った。匿われた身だから質問には素直に答えたが、そこまでする義理はない。本州に帰らなくてはいけないと伝えた。

 

すると返って来たのは「なら死ぬしかないな。」の一言だ。まったくとんだバイオレンス爺である。

 

嘘だろと絶句する俺に土方はこう続けた。お前に心当たりがなくとも今のように第七師団は追ってくる。その鶴見中尉の部下は北海道中に散らばっていることだろう。お前が函館へ向かう道中や函館にも間違いなく居る。果たして、無事本州への連絡船に乗れると思っているのか?と。これには俺もぐうの音も出ない。

 

「お前一人くらい匿う程度わけない。ほれ、女郎屋で分けて貰った白粉だ。お前の特徴なんぞ奴らは額の傷くらいしか把握しておらんようだ。気休め程度に塗っておくといい。」

「…俺があんたの事を第七師団にばらすとか、考えないのか?」

「本当にそんな事を企んどる奴はそんな質問はしないからな。それにわたしがお前に出した交換条件。本州まで無事送り届けることを無視してまで、寝返る事はないだろう。」

 

おっしゃる通りである。

 

何を血迷ったのこの土方は、俺を仲間に引き入れるにあたってこんな取引を持ちかけてきた。「鶴見中尉をはじめとした第七師団や軍の内部情報などを知っている限り話し、交渉の場合に仲介役を務めること。代わりに命と本州までの帰路を保証する。」というものだ。

 

ぶっちゃけ土方歳三をどこまで信用できるかは微妙なところだ。土方にとって俺は捨て駒同然ではないだろうか。持っている情報以外に価値は無いと思う。約束を守ってくれる保証はない。

 

ただ、まぁ今現在も、こうして白粉を用意したりと第七師団の目から逃れる手伝いをしてくれているのは確かだ。印象を変えるためにと眼鏡もくれた。なんなら俺が佐一に手紙を残す事も許してくれた。

 

それに信用できなくとも、他に頼る宛はない。

なので渋々ではあるが、土方の陣営に加わる事にしたのだ。

 

「なんならその連れも一緒に来ていいんだぞ。」

「食えないじじいめ…。分かってて言ってんだろ。その連れからも逃げてるからあの夜一人で街から出ようとしてたんじゃないか…。」

「その割には手紙も残しているじゃないか。」

「…そうじゃないと、それこそ躍起になって探すと思ったんだよ。」

 

簡単に想像がつく。金塊そっちのけで手当たり次第聞き込みをしながら俺を探し回る佐一が。

 

仮にもし、一緒に来たはずの連れが何も言わずに居なくなったら。俺なら何かあったと思ってなり振り構わずその街の人々に聞きまくるだろう。警察にも頼るだろう。

 

だがたった一言だけでも手紙があったとしたら?少なくとも自分の意思で出て行ったという事は分かる。誰かに拐われたとか、事件に巻き込まれたとかじゃないと結論付ける。探すにしたって、手紙がない時よりは必死にならないと思う。

 

俺があの日の夜のうちに出発していたら小樽中探し回られても痛くも痒くもなかった。むしろその方がいい時間稼ぎになったはずだ。それが土方と行動するとなると話が変わる。

 

土方本人が刺青の囚人であるが故にあまり派手に動き回る事はしない。拠点からそんなに動かないのだ。小樽から暫くは離れられないだろう。必然的に手紙を残さなければ見つかる可能性が高くなってしまうと考えたのだ。

 

「ところで土方さんよ、あんたはどうしてそんな情報が欲しいんだ。あんたの目的である金塊については無関係じゃないのか。軍の内情なんて。」

「いや、そうでもない。彼を知り己を知れば百戦殆うからずというやつだ。」

 

そう言って土方は出かけて行った。牛山という男を勧誘しに行くらしい。

 

 




金カムアニメ第三期が10月スタートが楽しみすぎて踊っている

最初は原作に主人公を添えるつもりだったのが、結局杉元と主人公には別行動してもらう事に。これなら杉元とアシリパの関係に主人公がしゃしゃり出ないし、原作を追いかけるだけの話にならないのでいいかなと思ってこうなりました。あと尾形と早く再会させたい。
ちょっと杉元視点暴走気味なので尾形も暴走させてバランス取りたいところ。

勢いで書いたので誤字脱字報告すごい助かりますありがとうございます!


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 5~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。