世界の片隅の、とある艦娘達のお話 (moco(もこ))
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ふりまわし、ふりまわされ(陽炎、不知火)

陽炎と不知火の昔と現在


最近、試行錯誤していることがある。

 

「おっ。ご飯一緒に食べない?」

「……いいですけど」

 

そう、こいつこいつ。最近うちの泊地にやってきた陽炎型駆逐艦二番艦、不知火のことである。

こいつと一緒に囮となって深海棲艦の群れと戦ったあの日から。なんだこいつただのいーやつじゃん、と認識を改めた私は、積極的に不知火に絡むようになったのである。

相変わらず砲撃訓練では目、ついてるんですか?とか生きてて恥ずかしくないんですか?とかうん結構きついな?まぁこんな感じのきついことをずっと横で言われ続けているんだけど、なんだかんだ最後まで付き合ってくれるし教え方は丁寧だしでこれはあれね、ツンデレってやつね!と思うことにした。

そんなわけでこれからしばらくここで一緒に暮らしていくことになるんだろうし、よくよく考えたら私こいつのこと何も知らないな、と思ったのでこうやってちょくちょく絡むようにしているんだけれど。イマイチまだ距離感が掴めないというか。昔から距離感が近いとは言われ続けているので、そこをわきまえて接していこうとは思うんだけれど、ついついうっかり距離を縮めてしまうのが私である。そして、何回かやらかしてちょっと思うところがあったというか。ここ、もっと攻めていいんじゃない?と思い立って、今に至る。

 

「今日は豪華よねー」

「そうですね。果物は、貴重ですから」

 

今日のデザートは桃の缶詰である。缶詰とはいえ、果物はわりかし貴重だから一品でもこういったものが添えられていると嬉しいものだ。ちなみに数は限られているので一人二切れまで。よし、最後にじっくり味わおう。頂きます、と声をあげてから食事に取り掛かる。

 

「そういえば指導要綱どう?」

「第一案は出しました。といってもまだまだ粗いので今追加資料を作成中ですが」

「……え、もう原案できたの?」

「はい」

 

私や瑞鶴さんの訓練の面倒を見ながら自分の訓練をしつつ、隙間時間で、もう……?恐るべき処理能力。軽く慄いていると、なんでもないことのように不知火が続けた。

 

「呉に比べれば大したことはありません。あそこの秘書艦業務はこの比ではなかったですから」

「は〜……」

 

……あれ、呉って確か最前線じゃなかった?そこの秘書艦?もしかしなくても不知火ってすごいやつ?いや、あの戦いっぷり見てればそりゃわかるんだけれども。こっちの仕事も出来るのか、天は二物を与えないんじゃなかったの。

 

「よーし、頑張った不知火にご褒美!」

「は?」

「はい。あーん」

 

おねーちゃんとしてはこの出来た妹を労わねばなるまい。本当の姉妹じゃないけど。

ご飯をあらかた平らげていた不知火にフォークでさっくりと一口大に切った桃を差し出した。

 

「……」

 

あ、めっちゃこっち睨んでる。だがしかしここで挫ける私ではない。さぁ、今日のチキンレースはここよ。

 

「桃、好きでしょ」

「……なんで、そう思うんですか」

「ん?桃見たときの顔かな、いつもより嬉しそうだったし」

「……」

 

黙り込んだ不知火にめげることなくフォークを差し出し続ける。

そう、これなのである。割とよく距離感をミスって抱きついたりぐいぐい絡んだりしてしまうのだけれど、きっとそういったスキンシップがあまり得意ではないだろう不知火はそういうとき、一瞬固まったのち拒絶するでもなくそのままにしておくことが多いのだ。ただしやりすぎるとぞんざいに引っぺがされる。

だから、これ、嫌がられてはないんじゃない?続けていけばもしかして慣れていってくれるんじゃない?と思って絶賛試行錯誤中なのである。本日の実験はここ。果たして、食べてくれるのか、どうなのか。

 

「……」

「……おぉ!」

 

しばらく私と桃を交互に見ていた不知火は、ぱく、とそれを口に入れて視線を私から逸らしながら黙ってもぐもぐと食べ始めた。

あ、なんかすごい感動。例えて言うならば今まで懐かなかった野良猫に懐かれたかのような。この一歩は歴史に刻まれる大きな一歩よ。

 

「……なんですか」

「おかわり!」

「……」

 

気が大きくなった私はさらにもう一切れの桃を差し出した。不知火は躊躇いながらもちゃんとそれを食べ、気をよくした私はもう一個、とやっているうちに最終的に全てを不知火にあげてしまっていた。

うん、デザートが消えたのはちょっと悲しいけどそれよりも達成感が半端ない。

 

「美味しかった?」

「……まぁ」

 

うんうん、パッと見不機嫌そうだけどこれって照れ隠しよね、と気づいたのも最近である。無愛想には違いないけどなんだかんだわかりやすい。

 

「……」

 

あれ、今度は本当にちょっと不機嫌になってる。これはあれだな?このままやられっぱなしは面白くないとか考えてるな?相変わらず負けず嫌いなんだから。そもそもあーんし返そうにもそっちの皿もう空、あれ?なんで私の皿じーっと見てるの?何もないわよ?そう、苦手で端に寄せておいた揚げ茄子以外──

 

「……」

「……いやいやいやいや」

 

さくーんと私の皿のナスをフォークでぶっ刺すと無言で差し出してくる不知火。いやいや待って待って茄子嫌いなんだってあの食感、あと色。紫ってなに?食物の色じゃないでしょ。

 

「不知火の茄子が食べられないと言うのですか」

「待って!!これ私の知ってるあーんと違う!威圧感パナイ!ていうかそれ私の茄子!!」

「好き嫌いはよくありません」

「それはそうなんだけど!」

「あーん」

「そんなドスの利いたあーんがあってたまるか!!」

 

あっなんかちょっと拗ねてるわね!?これ食べないと今日一日中ネチネチ言われるな!?せめて可愛く言ってくれればまだ頑張れるものを待ってこれはこれで不知火的にはデレなのではでもちょっと茄子は

 

「早くしろ」

「ふごぅ!」

 

私の逡巡などなんのその。その日は不知火に無理矢理茄子を口に突っ込まれKO負けしたのであった。

 

 

「……仲、いいですね」

 

目の前で行われたあーんに対してあまりに自然すぎてツッコミが遅れてしまった。

 

「え、そう?普通よね?」

「そうですね、普通です」

 

予想外の大和の燃費の悪さと目下の強敵だったらしい武蔵を倒したのもあってか、しばらくこの泊地で英気を養え、という上からの命令によりここで訓練および鳳翔さんのお手伝いを続ける日々を送っていた大和です。提督が資源がぁ!!と叫んでいるのを聞いて申し訳なく思いつつ、かといって何をするにも資源をドカドカと食べてしまうこの身をどうすることも出来ず日々慎ましやかに生きている、大和です……。

そんなある日。たまたま時間が合った陽炎さんと不知火さんと一緒にご飯を食べていたわけだったんですが。今日のデザートは苺で、そしてそれをひょいっと陽炎さんが不知火さんに差し出し、不知火さんは何でもない風にぱく、と受け取ったのを目撃したわけです。

え、これ普通なんでしょうか。大和はあんまりこういったことをしたことがないから羞恥心が前面に出ちゃうんですけれど……こういったことに疎そうな不知火さんが平気な顔をしていると、こっちがおかしいかのような気分になります。

せめて他に反論してくれる人がいれば……あ、だめ蒼龍さんと飛龍さん普通にやりそう。金剛さんとかも気にしなさそう。あれ?大和がおかしいんでしょうか。

 

「ていうか、大和さん苺もらい忘れてない?」

「あ」

 

ついうっかり。せっかくの数少ない楽しみである、もらわなければ損だ。

カウンターの方に向かうと、ちょうどこっちを見ていたのか鳳翔さんと目があった。

 

「苺、もらい忘れてしまいました」

 

その言葉を聞いて小鉢に盛り付けられていた苺を手に取り、しばし鳳翔さんが考え込む。あれ、どうしたんでしょう。

 

「鳳翔さん?」

 

首を傾げて声をかけると。鳳翔さんは徐にフォークで苺を刺すと、

 

「はい、あーん」

 

なんて、あーちょっと待ってくださいそれは大和予想できなかったなー!さっきの会話聞かれてたのかなーいやなんか茶目っ気が出ちゃった鳳翔さん可愛いなーやったもののちょっと照れちゃってるところまで可愛いです待って下さいこの人神様ですよね確かこんな可愛くていいんですか神様だからこんなに可愛いんですかねなーるほどーあーどうしましょうこれ受け取らないと鳳翔さんが羞恥のあまりフォーク下げそうでも大和ちょっといやかなり恥ずかしいだってこの人憧れの人なんですよー!戦艦の時代の記憶思いっきり引き継いじゃったもんだからもー大変あああ大和はどうすべ

 

「食べないなら貰うネー!」

 

わずかに逡巡しているその間。横からするっと金剛さんが割り込んで鳳翔さんが差し出している苺をかっさらっていった。思わず口をあんぐりと開けてその様を呆然と見つめる。

 

「Wow, sweet!いい感じに熟してマース!」

「今が旬ですから」

「Great!ほらほら、大和も食べるといいですヨー?あれ?大和?」

「……こ、」

「こ?」

「金剛さんの、ばかぁああああああああ!!」

 

万感の思いを込めて、金剛さんに半べそで八つ当たりした。

 

 

「大和さんもすっかりここに馴染んだわねー」

「そうですね」

 

もういっちょひょい、と不知火に苺をあげつつ会話を続ける。

 

「いやーしかしホント賑やかになったわよね、ここ」

「ええ。たまにうるさすぎますが」

 

不知火が提督や金剛さんをどつき回してるときも結構騒がしいわよ、とはあえて言わなかった。たまに巻き込まれて一緒にうるさくしてるし。

 

「はい」

「う」

「いい加減観念したらどうですか」

「不知火も、いい加減私の好物をくれてもいいと思う……」

「いいですよ、勝負に勝てればですけど」

「ぐっ」

 

初めてこいつにあーんをした日から、なにかにつけて賭けをして、その大体が訓練に関することだったのでほぼこっちが不知火の好物を捧げる日々を送ってきたわけだけれど。こいつはこいつで私の苦手なものを差し出してくるわけである、どういうことよ。絶対不知火ってSでしょ、途中から何だか楽しげだったもの。

 

「不知火の茄子が食べられないと言うのですか」

 

ほらこれよ。フォークをゆらゆら揺らしながら楽しそうにしちゃってさぁ。

 

「思えばあの日も揚げ茄子だった……」

「そうですね、よく覚えてます」

「ふーん?」

 

ちょっと意外。

 

「陽炎の嫌がる顔が中々に面白かったので」

「おいこら」

「あーん」

「だからドス利かせないでよ」

 

渋々茄子を口に入れる。う、食べられるようになったけどやっぱりこの食感、好き好んで食べようとは一生思えない。

 

「不知火のおかげですね」

「下手したらトラウマよ……」

「そう言う割に、素直に食べますね」

「まぁね」

 

お茶を飲んで口の中をリフレッシュする。うん、まぁ実際食わず嫌いなとこあったし。食べてみたらやっぱり嫌いだったけど。

 

「妹がくれるものを無碍にはできないわよねー」

「……陽炎って」

「ん?」

「Mなんですか?」

「違うわよ!!」

 

最近表情が柔らかくなってよく笑うようになったと思ったらこれよ!ちょっと不知火におもちゃにされてない、私?と思わなくもない時が割とあるのは内緒よ。姉としての尊厳に関わる。

 

「出来た姉を持てて不知火は幸せものですね」

「思ってないでしょ」

「本心です」

「む」

 

だ、騙されないからね。こうやって言葉巧みに毎回おちょくられるんだから。

 

「本当に、陽炎は可愛いですね」

「おちょくりがいがあって?」

「ええ、おちょくりがいがあって」

「ぐ、ぬぬ!」

「一生見ていて飽きなさそうです」

 

それはなんとなくこぼした言葉なんだろうけれど。一生、一生か。生きることに前向きになってきたのかなぁ、と、こんな言葉の端々でほろりと来てしまうのも、まぁしょうがない。

 

「……一生笑わせてあげるから。余所見するんじゃないわよ」

 

そう言ってずずっとお茶を啜る。それを不知火はきょとんと見ていると思ったら。

 

「……しませんよ」

 

ふっと笑いながらそんな言葉を返してくるくらいには。まぁ、ね、結構一緒にいるわよね。

もちろん、これからもずっと一緒にいるけどね。

 

 



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とあるお隣の泊地の日常(曙)

お隣さんの曙と提督のお話です。


某泊地。普段は緩やかに時が流れ、誰もが穏やかに笑いあいながらのんびりと働いているこの南方にある泊地において。可愛らしい女の子の怒声が響き渡った。

 

「どこ行ったクソ提督ー!!!」

 

それに周りの皆がびっくりして振り返るも、ああ、またか、といった様相で自分の仕事へと戻っていく。その中をのっしのっしと歩いていたら、廊下の角から慌てた様子の潮が現れこちらに駆け寄ってきた。

 

「あ、曙ちゃん!口が悪いってば……」

「潮!クソ女見なかった!?」

「話聞いてよ……多分、いつものとこ」

「そ」

 

潮の脇を通って工廠へと向かう。油断も隙もあったもんじゃない。気づけば仕事ほっぽりだしてあっちにかまけるんだから。

 

「あ、待って」

「なに?ついてこないでよ」

「喧嘩しない?」

「しないわよ」

 

一方的に文句言うだけよ。なによその顔。

 

「任務から帰って来たばっかでしょ。早く食堂行かないと食いっぱぐれるわよ」

「う、う〜」

「大丈夫、手は出さない。多分」

「大丈夫じゃないよ!?」

 

わーわー後ろでわめいている潮を無視して歩き出す。ああもう。本当に、嫌になる。

 

 

「見つけたわよ!クソ提督!!」

「お、曙じゃん」

「曙じゃん、じゃないわよ!」

「今日も元気ねぇ」

 

工廠に入るなり、艤装をガチャガチャと弄りながら、油と煤にまみれた、長い黒髪を緩く一つに束ねた女の姿を見つけて一直線に詰め寄り吠える。そんなあたしの様子などどこ吹く風とでも言わんばかりにへらへらと笑っているその姿がさらにイラつかせる。

 

「仕事しろ!!」

「え〜?まだそこまで書類たまってないでしょ?もうちょっと……今いいとこなのよ」

「あんたの!本業は!!こっちでしょうが!!」

 

やっぱりこいつなんか提督にするんじゃなかった。今まで何百回と繰り返してきた後悔の念と共にため息をつく。本当にやってらんない。

 

「秘書艦やめていい?」

「ダメ。提督になってって言ったのそっちでしょ」

「クソみたいな二択しかなかったからよ!」

「知ってる〜」

 

提督は鼻歌でも歌い出しそうなほどご機嫌に艤装を弄り続けた。こうなるとテコでも動かないのは経験上よくわかっていた。

 

「……何してんの」

「曙の改ニ式艤装の開発中!」

 

ムカつくくらいいい笑顔だ。腹が立ったので思いっきりそっぽを向いて吐き捨てた。

 

「あんた艤装技師の才能ないから無理よ」

「たしかに艤装技師適性は丙だけど。でもわかんないじゃん?飽くなき挑戦が道を切り開くのよ」

「めんどくさいこと嫌いじゃなかったの」

「艤装弄るのは別〜」

 

まだ提督としての付き合いはそこまで長くないのもあるけれど。こいつのことは、よく、わからない。

元々ここの泊地の艤装技師として働いていたのを、ひょんなきっかけで提督に担ぎ上げられたのがこの女なのだ。そして、その原因の一端は間違いなくあたしにある。だから余計にわからない。

 

「……じゃあ提督にならなければよかったじゃない」

「ん〜、優先順位の問題よ」

「はぁ?」

「泣いている曙が一番めんどくさい」

「泣いてないわよ!」

「そうだっけ?まーいーじゃん、今更やめらんないし」

 

『──ねぇ。あたし、めんどくさいこと嫌いだから一回しか聞かないけど。クソ野郎とクソ女だったら、どっちがいい?』

 

そう言ってなぜか当時艤装技師だったはずのこいつは懐から提督の職種き章を取り出してこちらに見せてきたのだ。

 

「……あたし、改式も、改ニ式も。絶対装備しないわよ」

「今はでしょ?」

「……」

「いつか気が変わるかもしんない。その日のための準備よ」

 

『──なんだ、生きていたのか』

 

以前、別の鎮守府に在籍していたとき。深海棲艦との交戦を終えて帰投中に大時化に見舞われ、そのとき無線封鎖をしていたこともあり一人はぐれてしまったことがあった。

横殴りの雨風と足元をさらおうとする大波に振り回されながらなんとか帰ろうと必死にもがいていたら。突如、提督からの霊力供給が切れた。途端に、体がうまく動かなくなる。それはそうだ、改式装備は艦娘の霊力だけでは支えきれない。わけもわからず主砲、魚雷発射管など帰るのに必要のない装備を投げ捨て、途中機関部も故障をきたしつつ、それでも重い体を引きずってどうにかこうにか帰れば。待ち受けていたのは、そんな提督の言葉だった。どうやら死んだと思って解除したらしかった。

以来、改式装備を身につけようとすると動悸、過呼吸などが出るようになってしまい、ろくに出撃できなくなってしまった。PTSD (心的外傷後ストレス障害) を発症したようだった。

それ以来何かにつけ貧乏くじを引き、最終的に役立たずの烙印を押されてこの泊地へと流れ着いた。主な任務は安全海域における補給艦の船団護衛。落ちこぼれの艦娘が最終的に辿り着く所が、こういった安全海域の泊地だ。

 

「……そんな日、こないわよ」

「あたしも提督になる前はそう思ってた」

「……」

「人生なんてわかんないもんよ」

「うっさい」

 

幸いにしてこの安全海域では改式装備を身につける必要性がないとはいえ、いつまでもそれに甘えているわけにもいかないというのも理解していた。だけれども、まだ、ダメだ。目の前に立っただけで、身が、すくむ。

 

「そしていつかは改二式!あたしが世界でいっちばん最初に曙の改二式開発してやんだから」

 

レンチを振り回してふふん、と胸を張りながら言い切る。その自信はどこからくるんだか。

 

「あんたがまともに提督業やんない限り開発に成功しても絶対装備しない」

「えー」

「えー、じゃないわよ!」

「もー、曙はわがままだなぁ」

「どっちがよ!!」

 

ちぇー、などとぶつくさ言いながらようやく片付け始めた提督の姿を見て、盛大にため息をついた。こういうやりとりが毎日毎日あるのだ。いい加減にしてほしい。

 

「あ、そうだ忘れてた」

「何?」

「多分そろそろ辞令が下ると思うんだけどさぁ。二週間くらい横須賀行ってきてくんない?」

「はぁ!?」

「前に話したじゃん、横須賀で敵潜専門部隊ができるって」

 

覚えてはいる。防衛ラインの内側に大規模敵深海棲艦の艦隊の侵入を許した事件が契機となって、護衛任務専門の部隊ができると。

 

「……まさか」

「転籍じゃないわよ。させないための交換条件なんだから」

「どういうことよ?」

「曙ちょうだい、ダメならせめて研修受てもらって周りの娘に教えさせてって言われたの」

「誰に」

「そこの責任者」

「見る目ないわね、もっと適任いるでしょ」

「いや見る目あるでしょ。頭良くて飲み込みいいし。面倒見もいい。周りもよく見てるし人にものを教えるのも向いてる」

「……」

「あんた、褒められると弱いわよね」

「うるっさい」

 

提督の背中をべしっと勢いよく叩いてやる。特に気にした風もなくからからと笑っているのがまた癪に触る。

 

「あたしの改ニ式艤装背負うまでは逃がさないからね」

「せめて完成させてから言いなさいよ」

「おっ?完成したら装備してくれる?」

「知らない」

 

拳で腰の辺りを小突いてやる。くすぐったかったのか腰をひねって体をくねくねと揺らしている。気色悪い動きすんな。

 

「敵潜専門部隊って言ってもきっと少人数だろうしねぇ。まずは各地域の艦娘の意識改革が大事よね」

「どういうこと?」

「水探って技量差出んのよ。敵潜を第一に警戒しなきゃいけない商船護衛に一番必要な技術なんだけどさ。実際は前線の艦娘しか使ってないわけじゃない?護衛担当艦娘の技術力の底上げにはいい機会になると思うのよね」

「ふーん」

「護衛は派手な戦果とかはないけど。あたし、こーゆー縁の下の力持ちみたいな存在好きなのよ。ほら、艤装技師ってそういう感じじゃない?」

「艤装技師バカ……」

「褒め言葉ね」

 

陽炎もそうだけど、こいつらのメンタルどうなってんの。どんだけ毒吐いてもへらへらかわされてやりづらいったらない。

 

「……」

「……うざい」

「おっと、ついうっかり。いい位置に頭あるんだもんなー」

 

脈絡もなくあたしの頭を撫でようとしたその手を払いのける。提督は女性にしてはスラッとした長身なので、確かに手は置きやすいのかもしれないけれどそれはそれ、これはこれ。

 

「向こうで寂しくなって拗ねないでよー」

「拗ねないわよ」

「あとあっちの提督にクソって言っちゃダメよ、泣くわよ、彼」

「言わないっての!」

 

よくもまぁペラペラととめどなく言葉が出るものだ。またイライラしてきたあたしは提督よりも大股で先を歩き、振り返りざまに宣言してやった。

 

「クソ提督はあんただけよ!!」

「わぉ。あたしって曙の特別?」

「ぶん殴るわよ!!」

「殴ってから言われてもなー、あ、いたっ、今のちょっと本気で痛い」

「うるさい!」

「痛い!ちょっと、ストップ!業務に支障出る!!」

「右腕さえ動けば判子押せるでしょ!」

「どんだけボコす気!?」

 

ぎゃーすかと執務室に向かう廊下で騒いでいると、やっぱり心配だったのか様子を見に来た潮がこちらに小走りで駆け寄ってきた。そしてその様子を見て、ホッと胸を撫でおろして、一言。

 

「よかったぁ。今日は楽しそうだね、曙ちゃん」

「どこが!?」

「でしょー、もう、超仲良し」

「くっつくな!うざい!!」

 

喧々諤々。今日も今日とて女、三人寄ればかしましい。その喧騒をBGMに、今日も平和だなぁと周りの人達はのんびり横を過ぎ去っていく。それが、この泊地での日常であった。

 

 



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蒼龍と飛龍の女子力について

蒼龍ちゃんと飛龍ちゃんのいつもよりさらに緩いお話
この二人のお話もいつか書けたらいいなぁ、と思いつつ。


「……空母って、女子力高くない?」

 

それはある日の昼下がり。遅めの昼食を陽炎さんと不知火さんととっていたら、かたり、と食べ終わった食器を横にどけて、手を組みながら神妙な面持ちで陽炎さんが語り出したのが事の発端だった。

 

「藪から棒になんですか、陽炎」

「いやね、私そんなに空母見てきてないけどさ。ほら、鳳翔さんとか」

「あー、そうですねぇ」

 

こくこくと頷きながら煮物を頬張る。うん、味がしみてておいし。

 

「瑞鶴さんもほら。つっかかってはきたけれど殴っては来なかったじゃない?」

「……それは、女子力以前の問題じゃないですか?」

「なになに? なんの話?」

 

そもそも普通の女の子は殴り合いの喧嘩をしないと思うのだけど。しょっちゅう拳でじゃれ合っているここの駆逐艦、軽巡洋艦、および一部の戦艦を見ていると私の中の常識が揺らぎそうで困る。

苦笑いで場をやり過ごしていたら、大盛りのおかわりを抱えた飛龍が戻ってきて話に加わった。……本当に、よく食べるなぁ。

 

「空母の女子力って高いなって話」

「ふーん」

「まぁ、飛龍さんは置いておいて」

「ちょっと! どういう意味ですか!」

 

不知火さんの言葉に飛龍が思わず噛みつくも、これを二人はスルー。というか、名前をもらってからは空母は駆逐艦の上司に当たるので、と二人からさんづけで呼ばれ始めたのだけれど、未だに慣れなくてもぞもぞする。

 

「蒼龍さんとかまさに女子って感じよね……」

「おしとやか、滲み出る包容力。身だしなみにも隙がない」

「その点飛龍さんなんか毎日寝癖ついてるし」

「これは! 癖っ毛です!!」

 

じろじろと陽炎さん達に上から下まで見回されてとても居心地が悪い。思わず箸を置いて身を縮こませる。

 

「何より……」

「ええ……」

 

そして二人の視線がある一点に注がれたことで私の体温が徐々に上昇していく。いや、うん、昔から、よくからかわれたりするから、慣れては、いなくも、ないけれど。

 

「ちょっと!蒼龍にセクハラしないでください!!」

 

そこにバッと飛龍が体をねじ込んできて二人の視線を遮る。さすが飛龍、頼りになる、とほっとその背に隠れて一息つく。

 

「なにも言ってないわよ」

「視線がいやらしい!!」

「失礼な。これはむしろ羨望と嫉妬が混じったもっとドロドロとしたものです」

「同じです! いいですか!!」

 

そうだそうだ、いいぞ飛龍、とその背中で応援していると、徐に飛龍は体をずらしてこちらに振り返り、そして。

 

「蒼龍にこういうことしていいのは私だけですよ!!」

「……ひゃっ!?」

 

油断していた。どこからともなく取り出したボールペンをさっくーんと私の胸元、もっと詳しく言えば胸の谷間に差され思わず変な声が出る。

 

「……ぐぅ!!」

「なんてことするんですか飛龍さん! それを、我々にできない芸当を見てしまった陽炎の心が大破状態ですよ!!」

 

胸元を押さえて苦しむ陽炎さんにガタ、と椅子を鳴らしながら駆け寄り抗議の声をあげる不知火さんと、それを受けてなぜかドヤ顔をしている飛龍。放心状態でその様を見ていると、私の胸元から取り戻したボールペンをちっち、と振りながら飛龍が得意気に話を続けた。

 

「私達に女子力で挑もうなんて百年早いんですよ」

「あんたは別に女子力高くないでしょこの大食らい!!」

「そ、そんなことないです! 今いっぱい食べる女子が可愛いって人気なんですよ!!」

「嘘つけ!!」

 

ギャンギャンと言い合う陽炎さん達を見つめながら。段々と恥ずかしさが募ってきた私は、胸元の着物をかき抱いて俯くことでどうにかその場を耐えようと思ったのだけれど。

 

「もう! 蒼龍も言ってやってよ!」

「……、」

「え? なに?」

 

このお馬鹿の能天気でなにも気にしていないような顔を見ていたら。ぷっつーんと、何かが切れてしまって。わなわなと唇を震わせながら、喉の奥から声を振り絞り。

 

「…ひ、りゅうの、バカァアア!!!」

「あだぁ!!」

 

パッチーン!と小気味のいい音と共に張り手をかまして走り去るのだった。

 

 

「ねー、ごめんってばぁ!!」

 

やりすぎた。ここにいるとついつい楽しくなってハメを外してしまいがちなのだけれど、ああ見えて、というか見たまんまというか、蒼龍は結構恥ずかしがり屋なところがあるのだ。

いい音を立てた割にそこまで痛みを感じない頬を押さえながら蒼龍の後を小走りで追う。うん、廊下は走っちゃいけないもんね、こんな時だってのに全力疾走できない蒼龍はなんともらしい。

 

「飛龍なんか知らない!」

「ごめんって!やりすぎた!!」

 

後ろ姿しか見えないけれど、きっと彼女の顔は真っ赤に違いない。昔から恥ずかしいとすぐ顔が真っ赤になってまぁ、可愛らしいのだ。そういう顔をね、する蒼龍も悪いと思うのよ、私は。

ああでもこういうやりとりも久しぶりだなぁと、蒼龍には悪いけれど私は嬉しさすら感じていたのだった。

ここに来てよかったな。もうすぐお別れだけど、ここに来なければこういうやりとりも出来ないまま、お互いの心は離れてしまっていたかもしれない。たら、れば、なんて考えても仕方ないと思うけれど、こればっかりは強く思うのだ。

さて、しょうがないな。拗ねてこじれる前に一撃必殺で終わらせてしまおう。たった、と脚に力を入れて加速し、その加速のままに蒼龍の背中へと飛びつく。

 

「わ!!」

「ごめんて」

 

なんとか倒れないように踏ん張る蒼龍を補助しつつ、もう一度謝罪をする。彼女の肩に顔を乗せると、少しはねた毛先が私の顔をくすぐり、思わずくすくすと笑ってしまった。

 

「反省、してないでしょ」

「してるわよー? ね、だからさ」

 

同い年と言えど、ほぼ一歳年上のお姉ちゃんとその妹のようにして長年過ごしてきたのだ。

 

「許してよ、おねーちゃん」

 

だからどうすれば彼女が許してくれるかなんて、その方法なんて、簡単にわかるわけよ。甘えるように彼女の耳元で囁くと、微かにびくっと体を揺らして蒼龍が黙り込む。一秒、二秒、そして。

 

「……ずるぃ」

「んー?」

「そういうの、ずるいと、思う、の」

「なんで? 昔はよくこう呼んでたじゃない? ね、おねーちゃん?」

 

ついに顔を両手で覆って座り込んでしまった彼女に追撃をかける。知ってるよ、甘えられると弱いもんね。髪の間から覗く真っ赤な耳がこれまたいじらしい。

 

「明日のデザート譲るからさ、ね?」

「……もうしない?」

「しないしない」

 

しゃがみこんで横から優しく話しかければ、ようやっとそろり顔を上げ。もちろんその顔は真っ赤で、ついでにいうとちょっと涙が目に浮かんでいて。その様子がまた逆効果なんだよなぁと内心苦笑しながら。

 

「今回だけだから、ね」

「へへ、ありがとう、そーうりゅう!」

 

やっぱりそんなちょっとちょろ可愛い蒼龍が好きだなぁと思いつつ、再度彼女に飛びつくのであった。

 

 

「……空母、恐ろしいわね」

「ええ、なんという見事な甘えっぷり。正直飛龍さんは女子力かっこ笑い、と舐めていましたが……」

「……なぁ、何やってんだ、お前ら」

 

柱の影からこっそりと二人の様子を伺い思わず唸り声を不知火とあげていたら、後ろから呆れた声が飛んできた。

 

「しっ! 静かに、天龍さん! 今空母娘は総じて女子力が高いかどうかの観察中なのよ!」

「……そうか」

「あの末恐ろしいまでの胸部装甲に加え嗜虐心をそそる恥じらい、そしてあの隙のない甘えっぷり」

「やるわね……!」

「楽しそうだなァ、お前ら……」

 

ヒトサンマルマル、本日は晴天なり。戦場に出れば勇猛果敢に海を駆け巡る彼女達も、蓋を開ければ女の子。

こんなやりとりがある日も、あるのです。

 

 



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夜はふけても三人寄ればかしましい(川内、那智、阿武隈)

那智、川内、阿武隈教官達の飲み会の様子。


「まだ飲むの……」

「まだ飲み始めたばかりだが」

「……量見て……いや、那智に何言っても無理か……」

 

 ちびちびと手元のグラスを傾けながらげっそりとした様子で川内が呟く。別にそんなに飲んでいるつもりはないのだが、気づけば私と飲みに行った人は次第に誘いを断るようになっていく。酒癖が悪いつもりもないんだがな、定期的に付き合ってくれるのは川内と阿武隈くらいか。

 グラスの中身を飲み干して、自分で空になったそれに酒を継ぎ足しながら川内に話しかけた。

 

「最近は寝られるのか、夜に」

「んー? んー……まぁ、ぼちぼち」

「そうか」

 

『──あたし、夜戦しかやらないから』

 

 川内と何回か別の部隊で組んだことはあった。どの川内も程度の差はあれ夜戦バカ、陽気でうるさいという共通項があった。甲適性というし、その特徴が顕著に出ているに違いないと踏んで初めてこいつに相対したあの日が懐かしい。

 どの川内よりも静かで。どの川内よりも敵深海棲艦を撃滅せんとする執念が強く。闇夜に静かに溶け込み相手に気取られることなく沈めていく様は、さながら暗殺者のごとく。誰とも群れることなく、それでいて圧倒的なその能力でもって水雷戦隊を率いる様は、圧巻だった。

 

「なに、それ確認したくて付き合わせたの?」

「そういうわけじゃないがな」

 

 夜戦に拘るのは、夜に寝られないから。夜に目を閉じると、瞼の裏に鮮明に描き出される空襲の様。それを振り払うかのように戦いに身を置いていたその事実を知る人は少ない。阿武隈も最初の頃は任務選り好みすんな! と噛みついていたしな。

 

「那智ってさー」

「なんだ」

「将来ハゲそう」

「……私がハゲる前にお前の髪を全部剃ってやろうか」

「真顔で言わないでよ怖いから」

 

 三人で飲むことの多いこの部屋のテーブルは、車椅子の川内にちょうどいい高さになっている。テーブルに顎をついてもしゃもしゃとスルメを咀嚼しながら川内が言葉を続けた。

 

「那智が秘書艦じゃなかったらあたし多分今生きてないだろうなー」

「どうかな。お前は案外そつなくこなすからな、どこでもやってけただろう」

「……そういう風に扱う人がそもそもいないんだってば」

「そうは言うがな。私としてはよく私の言うことに従ってくれたものだ、と思っているが」

「なんで?」

「……丙適性の私が秘書艦をしていたんだ、普通面白くないだろう」

 

 一般的に適性が高ければ高いほど能力も高いとされる。逆を言えば、適性が低い癖にと難癖をつけてくる輩も少なからずいるわけだ。重巡で丙適性で戦場に立っているのはそれこそ甲適性並みに少ない。技能試験にパスした後も本当に艦娘になるのか、と何度も確認されたものだ。

 だからこそそんな態度にも慣れたものだったが、案外こいつは最初から素直に言うことを聞いてくれて拍子抜けしたのを覚えている。

 

「適性とか関係なくない?」

「……そういう風に捉えるやつも、中々いないものだぞ」

「そうかなー。誰がどう見たってあの部隊の中心は那智だったし。あの頃は好き勝手やってたけどなんだかんだやりやすくしてくれてたじゃん?」

「どうだったかな」

「だから頭上がんないんだよねー」

「こうやって飲みを断れないくらいにはか?」

「そうそう」

 

 お酒は飲めないけどねー、と氷の入ったグラスを傾ける。その中身は炭酸水である。

 

「参番大丈夫かなー」

「あの蒼龍適性のか」

「そーそ。いやいい娘なんだけどさ、ちょっと昔のあたしと危うさが似てるっていうか」

「ふむ」

 

 川内が話題に上げた女の子を思い起こす。大人しくて、真面目でいい子だ。適性艦を名乗る前からこの子は空母だろうな、とあたりをつけられるくらいには空母らしい。

 

「甲適性はめんどくさいからねー」

「なんだ、よくわかってるな」

「はいはい、その節はご迷惑をおかけしました……」

「なに、迷惑とは思ってないさ。人はお互いに迷惑をかけあう生き物だからな」

「……那智さん」

「なんだ」

「抱いて」

「悪いがそっちの夜戦には興味ない」

「え? 普通の夜戦なら付き合ってくれるって!?」

「気が向いたらな」

 

 今では下半身不随となってはいるが、それでも艤装に接続すれば、実戦はまず無理だが候補生達の訓練に付き合えるくらいには動けるようになる。攻撃から身を守る防御結界もさることながら、そういった肉体面の強化も同時に行う艤装艦魄回路は、まさに人智の範囲を超えるシロモノと言えるだろう。

 

「まぁ、なるようにしかなるまい」

「意外とドライだね」

「そうでもないさ。結局人を支えるのは人との縁だからな」

 

 そう言いながら丁適性の問題児の方の空母候補生の顔を脳裏に描く。あの二人は親戚関係でしかも互いに二航戦候補。人との縁は不思議なもので、知らぬところで身近な人と繋がっている。世間は狭いなぁと零すその背景には、必ず何かしらの縁がある。

 古き縁と、これから紡がれるであろう新しき縁。きっとそれはあの子達の力になるだろう。

 

「差し入れでー……げ、もうこんなに飲んでるの」

 

 チャイムが鳴ると同時にガチャガチャと音がして阿武隈が現れた。勝手知ったるなんとやら、合鍵でもって中に入ってきた阿武隈が空いている一升瓶やらなんやらの数を見てあからさまに顔をしかめる。あのときは逃げた癖に、こいつもこいつで付き合いがいいというか。面倒見がよく、ついつい人に構ってしまうのは駆逐艦を率いるボスの性なのかもしれない。

 

「ちょうどいい、飲め、阿武隈。こいつは一滴も飲まないからつまらん」

「下戸なの知ってて誘ったのそっちじゃん……」

「うえー、お手柔らかにお願いします……」

 

 買ってきた差し入れやら追加の酒やらを並べ始める阿武隈に甘味、甘味ない? と川内が絡んでちょっと待って、と彼女がぞんざいに対応する。

 ……これも、腐れ縁というやつか。そんな二人のやりとりを見ながら残りの酒をあおった。

 

「じゃあ乾杯、乾杯しなおそ!」

「だからちょっと待ってってば!」

「……あんまり騒ぐと周りから苦情がくるぞ」

 

 夜がふける。だが、まだまだ私達の夜は始まったばかりだ。阿武隈のグラスになみなみと酒をついでやりながら、今日も今日とてこの穏やかな時間を楽しむのであった。



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お昼でも三人寄ればかしましい(川内、那智、阿武隈)

教官達の日常その2


 

 その日の前日は、珍しく雪が降るほどの異常寒波だった。しんしんと雪が降る中、妹があたしの誕生日に合わせてこつこつ作ってくれたマフラーを身につけて、外を歩いていた。

 

「雪って初めて見た!」

 

 鼻を真っ赤にしながら、雪が降りしきる中を楽しそうにはしゃぐその子に転ぶよ、とたしなめて。

 

「積もるかな?」

「どうかなぁ」

「あたし、雪だるま作りたい!」

 

 一緒に手を繋いで、たわいもない会話をした。積もんないだろうなぁ、あたしだってこの町で雪を見たのは十数年ぶりだし。でもそんなことをこの子に言うのはあまりにも可哀想で。

 

「じゃあ、積もったらお姉ちゃんと作ろっか」

 

 なんの気なしに、そう笑いかけたんだ。それが、まさか雪が積もらなかったどころか。爆撃の嵐に襲われるなんて誰もが予想していなかったし。あたしだって、こういう何でもない日常が、ただ、なんとなく続いていくんだって。ずっと、思っていたのだから。

 

 

 くぁ、と思わず出そうになったあくびを噛み殺して教務室へと戻る。那智にはああいったものの、まだぐっすりと夜に眠ることは中々出来ないでいた。専らの睡眠時間は昼休み。昔は夜戦さえこなしていれば堂々と朝から寝られたもんだけれど、いやいや中々あたしも真人間みたいな生活送れてるじゃない、などとどうでもいいことを考えながら教務室の引き戸を引いた。うん、ここの建物は大体が引き戸だから助かるよね。

 自身の机へと向かう途中、阿武隈が熱心に何かを読んでいる姿を見つけ、後ろから声をかけた。

 

「今日は誰からの手紙?」

「わっ」

 

 びっくりしたのかガタ、と椅子を揺らしてこちらを振り返る阿武隈のその手からひょいと手紙を奪う。

 

「あー三女ちゃんかぁ」

「ちょっと、返してよ」

「美人になったねぇ、阿武隈と違って」

「喧嘩売ってる?」

「怒んないでよ、阿武隈は可愛いってことだよ」

「気持ち悪……」

「何言ってもダメだよね」

 

 はっはっは、と乾いた笑い声を零しながら手紙に視線を落とす。

 艦娘になる人達の目的は様々だ。希少艦種のため、有無を言わさずならざるを得ない人。戦争孤児で明日の生活の保障を勝ち取るためになる人、家族を殺された復讐、憧れ、人それぞれ。

 阿武隈も割と一般的な理由で艦娘になった一人。家族にお腹一杯ご飯を食べさせるため。艦娘になるともれなくその家族に手当てが支払われる。こいつは大家族の長女ということもあって、率先して艦娘になったらしい。

 

「四度目の適性検査、陰性だったんだ」

「うん。よかった、あの子には艦娘になんてなって欲しくなかったし」

「元艦娘の阿武隈さんがそれ言っちゃう?」

「適材適所の話です〜」

 

 ひょいっとあたしから手紙を奪い返して大事にそれを封筒に戻す。兄弟達からもらった手紙は全て大事に保管しているらしいから、これもどこかに丁寧に仕舞われるに違いない。

 艦娘に許される外部とのやりとりは文通のみ。全ての手紙は検閲され、通ったものだけが相手に届く。自身の写真などを手紙につけることは許されない、それは重大な機密漏洩に繋がるからだ。

 なぜ、艦娘の存在が報道規制されているのか。それは一重にこの見た目が関係している。

 

「もう三女ちゃんの方がお姉さんって雰囲気だね」

「まぁね。あたしももう少し成長したらこれくらい……」

「あはは、この胸にはならないって」

「……OK、戦争ね?」

 

 艦娘になると、体が艤装の運用に最も適した状態まで成長した段階で急激に成長速度が落ちる。巷では艦艇の神々を降ろすのに適した体になっていく、などと言われている。現に阿武隈の髪の色は艦娘になった当初よりも明るくなっているし、同じ艦艇に選ばれた娘達はどことなく外見が似通ってくる。きちんと話せば中身はやっぱり違うんだけれど、ああ、あの艦艇の娘ってこうだよね、という一種の共通認識はある。あーでもこの阿武隈は他の阿武隈よりツンツンしてるかもしれない。他の阿武隈はどことなーくなよっとしてるんだけど、この阿武隈はご覧の通りである。うん? あたしのせい? はっはっは、まさか。

 さて、話を戻すけれど。成長が止まるということは、艦娘にとっては艤装の性能を最大限に引き出せる期間が長くなるという点においてはメリットと言えるだろう。それでも長く戦いに身をおけば体は摩耗するし、いくら見た目は若々しくとも段々動けなくなってくる。そういった艦娘達は途中で命を落とすか、あたし達のように運が良ければこうやって実年齢より若々しい状態で一般的な人の世に戻っていく。戻ってはいけるが、家族の元に帰ることは許されない。どうしたってこの見た目が異質さを際立たせるから、結局のところ軍の監視下のもと、人らしい生活ができるようになるというだけだ。それを幸福と見なすか不幸と見なすかは、まぁ人によるだろう。

 

「うーん」

「今度は何送るの?」

「どうしよう……やっぱり間宮の羊羹かなぁ」

「いいんじゃない?」

 

 嗜好品は世間一般ではまだまだ貴重な存在だ。艦娘は明日には死んでいるかもしれない存在ということで、そういった嗜好品が優先して回されている。ようやく戦線が落ち着いてきたと言ってもまだまだそういったものの民間への普及は芳しくない。

 

「……川内」

「んー?」

「それ、ほつれてる」

「あ、ほんとだ」

 

 指差された箇所を確認するために首元のマフラーを掬いあげる。元々状態もそんなに良くはないけれど。長いこと身につけているから、どうしても綻びがでてくる。

 

「……繕ってあげる。後で貸して」

 

 ぴらぴらとどうしたもんかと手で弄んでいたら、阿武隈が静かにそう言った。

 

『──大体、こんなボロっちい季節外れのマフラーなんかつけてんじゃないわよ!』

『……っ、触るな!!』

 

 思えばあたしも阿武隈も丸くなったもんだ。あの部隊で一番やりあっていたのもこいつだったっけ。那智が止めなきゃ割と頻繁に血の雨が降っていたように思う。

 

「……ん」

 

 妹から残されたたった一つだけの遺品。一瞬で全てを奪われたあたしには、これしかあたしと家族の存在を繋ぐ証拠は残されなかった。

 明日も同じような日々が続くのだと思っていた。海の上の化け物との戦いなんて、あたしには関係ないことなんだって。事実として深海棲艦との戦いを知っていても、あの日、あの時まであたしはそれを肌で実感することはなかったのだ。

 だからこれは、あたしの家族に対する未練。なにもできなかった無力な自身への戒め。そして、復讐を確認するためのものでもあった。だからまぁ、あの時は一番キレた。割と本気でぶん殴った。ちょっと八つ当たりもあったと思う、だってこいつにはいるんだもん、家族がさ。

 

「……阿武隈ってさー」

「なに?」

「ダメな人に引っかかりそう」

「は?」

 

 まさかこいつとここまで長い付き合いになるとは誰が予想できただろう。何度も阿武隈があたしにつっかかってきては大喧嘩をして、那智が仲裁に入る。ある意味それは様式美だった。失った者と、持たざる者と、持つ者。三者三様だったあたし達は、その歪さが最終的にうまく嵌ったのかなんなのか。こうやってだらだらと関係が今にまで続いている。

 

「こんなところまであたしを追っかけてくるしねぇ」

「はぁ!? あ、そういえば川内でしょ! あの新聞!!」

「中々よく書けてたでしょ?」

「ぶん殴るわよ!!」

 

 やっぱり記事にするからには派手に決めないとね。ドヤ顔をしていたらとうとうべち、と額を叩かれた。痛くない。

 

「一回や二回命助けられたくらいで律儀だよねぇ」

「……普通の人にとってはそんな軽いもんじゃないの」

「いいじゃん、あたしも迷惑かけてたし。おあいこだって」

「気分の問題!」

「そんなもんかねぇ」

 

 常に生きるか死ぬかの瀬戸際を生きてきたのだから、助けた助けられただなんて一々気にしてたらやってられないだろう。だというのにこいつは律儀に全部覚えててこうやって構ってくるわけだ。もう十分借りは返してると思うけどなぁ。

 

「……阿武隈ぁ」

「なによ」

「今日、晩御飯は肉じゃががいいなぁ」

「食べればいいじゃない」

「阿武隈の肉じゃが食べたーい」

「なんであたしが……」

「って那智と話してたんだよね」

「……」

 

 ふふん、尊敬する那智の要望とあらば断れまい。

 

「……材料費折半だからね!!」

「はーい」

「買い出しは川内だからね!」

「うーい」

 

 車椅子だなんだと気を使われることは多い。そんな中、昔馴染みのこの二人はできないところはできないと理解した上で、きちんと対等に扱ってくれる。

 なんだかんだ。一緒にいて気楽なのは、やっぱりこの二人なのだ。

 

「あと阿武隈」

「今度はなによ!」

「プリントのここ、誤字」

「あーうるさいうるさい!」

「カルシウム足りてる? 阿武隈」

「誰のせいよ!!」

 

 あとこいつは弄ってて楽しいし。

 

「牛乳飲まないから……あ」

「胸を! 見て! 言わないで!! 川内も変わんないでしょ!?」

「阿武隈よりはある」

「川内うるっさい!」

「今うるさいのは確実に阿武隈の方だよね」

「いや、お前も十分にうるさいぞ」

「ありゃ?」

 

 ぬっと影が差して上を向くと、呆れた顔で那智が見下ろしていた。

 

「……お前達への苦情が、全て私に来るんだが」

「いつもありがとね!」

「……はぁ」

「元気だしなって、阿武隈が肉じゃが作ってくれるって」

「それは、楽しみだが」

「だってよ! 阿武隈!」

「え、ま、任せてください!!」

「うむ」

 

 やいのやいのとやっていたら、ホント、仲いいですよねと同僚が苦笑いしながら声をかけてきた。

 

「仲良くない! 川内とは!!」

「仲いいかなぁ」

「ただの腐れ縁だ」

 

 同時にバラッバラな言葉を返すと、それを聞いて彼女はまた苦笑しながら授業、遅れないでくださいねと言葉を残して教務室を出て行った。

 

「あ、やば!」

「あたし次休み」

「同じく」

「くっそ、川内のそういうところがムカつく!」

 

 バタバタと慌ただしく授業の準備をして出て行く阿武隈の背に手を振る。

 

「……あんまりいじめてやるな」

「えーいじめてないって。愛情表現だよ、愛情」

「歪んだ愛情だな」

「今に始まったことじゃないでしょ?」

「そうかもな」

 

 家族を失って人との関わり方がよくわからなくなったあたし。物心ついたころには親を亡くしていた戦争孤児の那智。大切な家族のため、あえて一人孤独な道を選んだ阿武隈。きっとみんなどこかちょっと歪んでいる。でもまぁ、なんだっていいじゃん。

 

「那智、今から重要な事を確認するけど」

「なんだ」

「あたし、肉じゃがは牛肉派なんだけど」

「……そうか、いいんじゃないか」

「やったね、那智の無益な争いをしないスタイル好きだよ」

「阿武隈が作ればなんでもうまいだろう。それに、酒が飲めれば肉の種類はこだわらん」

「……おっとぉ?」

「なに、心配するな。酒は自分で買っておく」

「いやその心配はしてなかったなーっていうか……」

 

 こんな生活も、まぁ。悪くはないんじゃないかなぁと思える自分も、嫌いではなくなってきたんだし。

 



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秋の日の(横須賀鎮守府:野分、舞風)

とある鎮守府の、二人の野分と一人の舞風のお話。


 庁舎の一角。表通りから少し離れたところにぽつんと一つベンチがある。木で死角になっているためほとんどの人がベンチがあることすら気づいていないこの場所は、普段の喧騒から離れ、一人読書にふけるのに適していて私にとってお気に入りの場所となっていた。

 落ち葉が風に吹かれて擦れる音や、鳥の囀りに包まれながらゆったりとした時間を楽しんでいると、その中にざざざ、と慌ただしく落ち葉を蹴散らす音が混じって顔を上げる。

 

「こんなところにいたー!」

 

 ひょっこりと現れた彼女の美しい金の髪が、傾きはじめた日の光を映してきらきらと揺れる。それを見て、どうやら結構な時間ここにいたらしいことに気づいた。

 軽い足取りでこちらに駆け寄ると、その勢いのままひょいとベンチに乗り上げて背中をこちらに預けた彼女は、なにやら楽しそうに笑っていた。彼女が自身の肩に寄りかかっているその状態を特に気にすることなく本のページを繰った。

 

「ねー、のわっち」

「……何?」

「のわっちはヴァイオリンやらないの?」

 

 足をぱたぱたと揺らしているのか、微かな振動を感じながら、視線は本の頁に落としたまま答える。

 

「私には合わなかったから。まるで機械みたいだ、君の音には血が通ってないって言われたの。だからやめた」

「ふーん」

 

 かさり。ふわりと赤く色づいた葉が本へと滑り落ちる。それを手にとって、何の気なしにくるりと回して。

 

「歌は、あんなに上手なのに」

 

 その言葉を受けて、そっと地面へと放った。

 

「……姉さんが」

「野分が?」

「……私が、姉さんの演奏に合わせて歌うと嬉しそうにするから。だから練習してただけ。人並みだよ」

 

 ぺらり。そう言い切ってまた頁をめくる。読書の秋とはよく言ったもので、秋の気配を感じながらこの木陰のベンチで読書をしているといつもより捗った。そろそろこの本も読み終わる、次は何を読もうか、と考え始めたところで舞風がぴょん、とベンチから立ち上がって私の目の前に回り込んできた。

 

「ね、歌ってよのわっち」

「急になに?」

「踊りたくなったの! ほらほら!」

 

 そう言うやいなや、くるくると楽しそうに目の前で踊り出す彼女を目で追って、手元の本をぱたりと閉じた。

 

「ほらほら当ててみて!」

 

 我流の踊りを見させられて曲を当てろ、とは中々難しいことを言う。そう思うものの、いつだって彼女が踊っているときはまるでその場で本当に曲が流れているかのように錯覚してしまう。あの時も、今も。強いて言えば今のほうが()()()音が、聞こえてくる。

 その動きにあわせてそっと口ずさむと、舞風は踊りながら声をかけてきた。

 

「のわっち絶対曲当てるよねー、なんでー?」

「……舞風はさ」

「なにー?」

「姉さんのヴァイオリン、好きだったでしょ」

 

 私のその言葉を聞いて、ふと一瞬彼女の目の奥に憂いの色を捉えた。

 

「うん」

 

 そうしてまたふいと視線を私から外しながら踊り続ける。

 

「私も同じだからわかるだけ」

 

 陽気で天真爛漫な舞風。無邪気に笑うその姿の奥底に、深い怯えと悲しみがあるのをきっと姉さんの存在に気づかなければ知ることもなかった。姉さんの存在は彼女に影を落としながらも、同時に彼女の生きる原動力となっていた、私のように。

 この関係は、一体なんなのだろう。同じ一人の人間に囚われる者同士、お互いに大切な人の知らない時間を知る者同士。依存でもなく、傷の舐めあいでもなく。ただただ一人の人間が私たちの間に存在している。そこを中心にくるりくるりと踊り続ける奇妙な関係。

 

「どう?」

「うん」

「うんじゃなくてさー!」

 

 曲が終わってこちらに歩み寄りながら問いかける彼女に答えると、彼女はどこか不服そうに頬を膨らませた。

 

「言わなくてもわかるでしょう」

「ほんと、のわっちはさ、野分と似てないよね」

「よく言われる」

 

 出来た姉だった。一度も彼女を疎ましく思ったことはないが、なにかにつけ比較してくる周りにはほとほとうんざりしていた。

 お姉さんはこんなに愛想がいいのに。全然笑わない。美人だけど、ちょっと怖いくらい。それにあの髪……ひそひそと話をするなら本人に聞こえないところでやってもらいたいものだ。

 人と違うからなんなのだろう。同じ人間であるはずなのに、突出した違いを見つければいつだって人は眉をひそめて指をさす。ロシア人の祖父から隔世遺伝により受け継いだ、日本の一般家庭において浮いてしまうこの髪色も、目も。私が異質であるという証拠だと言わんばかりに囃し立てられた。だから、姉のことは好きだけれど姉と比較されるのはあまりいい気がしない。過去の心が少なからず重くなる思い出が芋づる式に思い起こされるから。だというのに、あっけらかんと姉と違うと言い放つ舞風の言葉は私の神経を逆なでることはなかった。

 

「……なに?」

 

 いつの間にか私の顔を覗き込んでいた舞風が徐に私の両頬をつねったので少し顔をしかめて問いかける。

 

「ほーら笑って笑って」

「……」

「野分にも言われなかった?」

「姉さんから何か聞いたの?」

「んーん。ただね」

 

 あたし、のわっちの笑った顔が好きだから。きっと野分もそうだったんだろうなぁって。囁くように彼女が溢した言葉がそよ風に乗って消えてゆく。

 

『──ほら、笑って笑って』

 

 よく出来た姉だった。こんな見た目であることで少なからずこじらせてしまった私にも屈託なく笑いかけ、優しくしてくれる姉だった。

 

『他人に何か言われたからって私の好きまで否定しないで。ほら』

 

 休日に、姉が演奏するヴァイオリンを目の前の特等席で聞くのが好きだった。彼女だけは、いつだって私の味方で。

 

『私、──の笑った顔が、好きだよ』

 

 ただ漠然と、姉の隣にずっといられるのなら、この世界で生きていくのも悪くないと思っていたのだ。

 

「……」

「ふぁ、なーにぃ」

「……変な顔」

 

 お返しにとゆるく舞風の頬をつねってやると、間の抜けた顔で彼女が抗議の声をあげた。それを見てふ、と頬を緩ませながらベンチから立ち上がる。

 

「あ、待ってよのわっちー、どこ行くの?」

「食堂」

「え、あたしも行くー!」

 

 振り返って彼女が横に並ぶのを待ってからまた歩き始める。舞風は隣に並んだ、と思ったら軽やかなステップと共に前に出て。

 

「え、ちょ、っと!」

 

 徐に私の手を取ってくるくると踊り出した。

 

「えへへー、のわっちは踊るの下手だね、教えてあげる! はい、ワーンツー!」

「わぁ!?」

 

 

 執務室の壁に寄りかかりながらぼんやりと窓の外の景色を見ていると、ここの秘書艦である大淀が声をかけてきた。

 

「提督、どうされました?」

「舞風と野分がじゃれてる」

「あら」

 

 指をさすと大淀が近寄って来て窓を覗きこんだ。下手くそなワルツを楽しそうに踊っている。いや、楽しそうなのは舞風だけか、野分は振り回されている感じだ。

 落ち葉が鮮やかに庁舎に通ずる道を染めあげる中、二人が動き回ることでそれが舞い踊る。なんとはなしにポケットのヒートを弄りながらぼそりと呟く。

 

「──秋の日の。ヴィオロンの、ためいきの」

「ポール・ヴェルレーヌですか」

「大淀はなんでも知っているね」

「秘書艦ですから」

「うーん、まぁ、いいけどさ」

 

 この有能すぎる秘書艦のおかげで自身の胃はこの程度の損傷で済んでいると言っても過言ではない。どんなに他の優秀な艦娘を駆け引きによって奪われていったとしても、彼女だけは手放すつもりはなかった。

 

「大淀は舞風が大事にしているヴァイオリン見たことある?」

「所持しているのは存じています。一度もそれが弾かれたことはないかと思いますが」

 

 ただ少し。ここまで把握されていると怖いものがあるけれど。

 

「あれは、おいそれと他人が触れていいものではないからね」

 

 この鎮守府に舞風が転籍してきた日。守るようにヴァイオリンのケースをぎゅっと胸に抱えてうつむいていた彼女。持ち方も知らぬその姿に、それが彼女の私物でないことは明らかだった。

 それは君にとって大事なものなのかな、と問いかければうつむいたまま頷く彼女に。

 

『取り上げないから。まずは僕に顔を見せてくれないかな』

 

 そう促して、ようやっと面を上げた彼女の顔は。痛々しいほどに憔悴しきっていた。

 ポケットからヒートを取り出し、パキ、と錠剤を取り出して飲み込む。最近は水なしで飲めるのがあって便利でいい。

 

「センチメンタルな気分に浸られるのも構いませんが、それでまた胃をやらないでくださいね」

「これは手厳しい」

「あなたは海上護衛における要なんですから。ご自愛ください」

「うん、ありがとね」

 

 錠剤が溶けてざらりとした食感が舌に残る。水なしで飲めるとは言っても、この変に残る甘さは少々苦手だ。執務机のグラスを手に取り水をあおった。

 

「──ひたぶるに。身にしみて、うら悲し。美しい詩だ。僕はね、秋になるとこの詩を必ず思い出すんだよ」

 

 グラスを傾けながら、また窓辺へと近寄る。野分が息を切らして、舞風に抗議しているようだった。それを笑いながら受けて舞風が軽やかな足取りで一人先を行く。それを見て一つため息をついて。表情をふと緩ませながら野分が後に続いた。

 二人とも以前より表情が明るくなった。いいことなのだろう。大切な人を亡くした悲しみというものは癒えるのに時間がかかる。自論でいえば、消えることはないように思う。ただ、ゆっくりと時間をかけて。徐々に、徐々にその悲しさと距離をあけてゆく。心を蝕まない程度に距離を作ったとて。きっと、その悲しみ自体は、そこにあり続ける。

 

「なぁ、大淀。秋というものはどうしてこんなにも美しく、物悲しいんだろうね」

 

 死にゆく人々に心を傾ければ自身の心が壊れてしまう。これは、そういう職だ。だけれども、ふとした瞬間に思い出す。隣で笑っていたあの娘を、自身を支えてくれたあの娘達を。

 

「秋の夕焼けは、綺麗ですから」

「……」

「人は夕焼けを見ると遺伝子的に切なさを感じるんだとか」

「へぇ?」

 

『──夕陽って少し……悲しいですね』

 

 いつの日か野分が溢した言葉を思い起こす。

 

「それならば。我々は、甘んじてこの切なさを受け取るべきだね」

「業務に支障のない範囲でお願いしますね」

「善処するよ」

「もう」

 

 ガタンと執務机備えつけの椅子を鳴らして席につく。やるべき仕事は山ほどある。日が落ちて夕陽が鮮やかに空を染めあげたとて、休む暇なぞない。山積みになっている書類に目を通しながら、先ほどの詩の続きを口ずさんだ。大淀は、何を言うでもなく。ただ黙ってそれを聞いていた。

 

 

 鐘のおとに

 胸ふたぎ

 色かへて

 涙ぐむ

 過ぎし日の

 おもひでや。

 

 げにわれは

 うらぶれて

 ここかしこ

 さだめなく

 とび散らふ

 落葉かな。

 

 




落葉 上田敏
『海潮音』より抜粋


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呉、規律厳しいっていうけどそんなことないよね(呉鎮守府)

飛龍蒼龍による呉所感と所により赤ツェペ



「いや~実際来てみたら呉、そんなに厳しくないよねぇ」

 

 茶碗に山盛りになっているお米をひょいひょいと口に運びながら何の気なしにそう話題を切り出す。うん、ここの食堂も悪くないんだけど和食だけは鳳翔さんの味が恋しくなるのよねぇ、この差はなんだろう。

 

「あー、ね。むしろあっちのが厳しかったよね……」

 

 そう言って遠い目をするのは向かいに座る蒼龍。普段からあまり量を食べない彼女はすでに箸を置いてお茶を飲んでいた。

 

「別にここの訓練だって簡単なわけじゃないけどさ。全然鬼軍曹! って感じの人いないし」

「ね、確かに艦種で上下関係はあるけど」

「穏やかなもんよねぇ。いやぁ、陽炎さんに騙されたわ」

 

 駆逐艦の娘から飛龍さん、とキラキラした目で話しかけられるのはまだなれないけれど。飛龍さーんとニヤニヤと楽しそうに呼んでいた某駆逐艦娘の二人を思い起こす。あれに慣れているとどうにも、その。純粋な好意を向けられるのはむず痒い。……私もしかしてスレちゃってる……? 

 一抹の不安を抱えつつ味噌汁を啜っていると、今まで黙って私達の会話を聞いていた龍驤さんがいつのまにか手を組んでテーブルに肘をつき──徐に口を開いた。

 

「……キミ達」

「はい?」

「キミ達はまだ、この呉鎮守府の闇を知らんだけやで……」

 

 重々しい雰囲気でそう静かに言い放つ彼女に、蒼龍と二人してごくりと唾を飲み込む。この呉鎮守府は先の大きな作戦でベテラン層が結構な人数脱落していったため、今現在は比較的新人の艦娘が大半を占めている。その中において、ヌシって呼んでもええで、とふざけて自分で言うくらいには彼女は古参だった。

 その彼女がこう言うのだ、一体なにがあるのだと黙って続きを待つ。

 

「キミ達はな、恵まれてるんやでホンマに。せやな、今からそれを見に行こうか」

「今から?」

「それ?」

 

 時計を見て立ち上がった龍驤さんに二人して問いかける。トレイを抱えながらこちらを見返す彼女はふ、とどこか達観気味に笑った。

 

「地獄の水雷戦隊演習や」

 

 

 はーい、二名様ごあんなーいといつの間にか用意した旗をひらひらさせながら龍驤さんが先導する。水雷戦隊っていうなら駆逐とか軽巡の訓練かなー、まぁあの艦種って血の気多いもんね、と前の訓練所の面子を思い起こす。うん、全員体育会系だし。きっとここもそんな感じなのかな、と想像しながら歩いてていると、バッシャア! と思いっきり水をぶちまけるような音が辺りに響いてぎょっとする。ちょいちょい、と指でその音の発生源を示す龍驤さんにつられて建物の影からそぉっと覗けば、そこには川内さんがいて──彼女の手に持っているバケツからはぽたぽたと水が垂れていた。そんでもって。

 

「──立て。誰が寝ていいって言った、許可なく膝をつくな」

 

 普段より二オクターブは低く鋭く響く彼女の声。そしてその前には先ほど形成されたであろう水たまりに浮かぶ屍……うん、ゾンビ。地面に倒れ込んで伸びる者、半分意識を飛ばしながらどうにか立っているていの者、体を起こそうとして手をついたもののうまくできず、呻く者……全員一様にしてずぶ濡れである。え、なにあれ怖い。

 

「十秒以内に全員立て。できないなら単縦陣での之字運動五十回追加」

 

 いち、と数え始めた彼女に意識がある娘が慌てて倒れ込んでいる娘を助け起こす。それを冷めた目でみている川内さん。九、まで数えた頃、ようやく全員がよろよろながらも立ち上がった。

 

「駆逐艦が許可もなく膝をつくな。足しか取り柄がないんだからさぁ、戦場で膝ついたら死ぬよ? 自殺願望でもあんの?」

 

 な、なんだろう、なんかあれ。うん、私軽巡なら天龍さんのがいいな! かっこいいー! とおだてるとしょーがねぇなァ!! と張り切って色々やってくれた某軽巡洋艦を思い起こしつつ、息をつくのも忘れてその場を見守る。ちょっと蒼龍震えないでよみつかっちゃうでしょ気持ちはわかるけど。

 

「今度無様に膝をついたらあたしが介錯してあげる、深海棲艦にやられるよりいいよね。恥晒さない分」

 

 にっこり笑ってるように見えるけど薄ら寒さすら感じる。心なしか駆逐の娘も震えて──まって頭に氷のってる、ぶちまけられたのって氷水……? 

 

「あと巻雲」

「ひゃ、ひゃい!!!」

 

 名前を呼ばれた女の子が飛び上がって返事をする。かつん、かつん、と靴音高く彼女に歩み寄る川内さん。それを固唾を飲んで見守る我ら二航戦と龍驤さん。かわいそうに、ガタガタと怯えて目には涙がたまっている……って、あれ。

 

「ん」

 

 徐に。川内さんは巻雲ちゃんの頭をぽん、ぽんと軽く叩いて。

 

「じゃーかいさーん」

 

 そう言い残して、手をひらりと振って去っていった。一瞬の静寂。そして。

 

「……ま」

「巻雲が川内さんから頭ポンポンもらったぞぉ────!?」

 

 ど、っと急に騒がしくなる。それはとてもさっきまで屍と化していた彼女達とは思えないほど、異常なまでにハイになっていた。

 

「なんで!? なんで!?」

 

 一緒に訓練していたうちの一人ががっくんがっくんと巻雲ちゃんを激しく揺さぶる。

 

「へぁ!? え!? なん……!?」

 

 本人も絶賛大混乱である。眼鏡が振動でずり落ちていくのにも気づかないようだ。

 

「赤飯もってこぉおおぅえ!!」

「叫びながら吐くな膝をつくなバカ嵐!! 今ついたら殺されるわよ!!」

 

 阿鼻叫喚。それを見ていた私の中にふとその言葉が浮かんだ。私の下でしゃがんで様子を見ていた蒼龍が、ナニアレ、コワイと呟く。

 

「あれがうちの日常やで」

 

 少し離れたところにいた龍驤さんが呟く。

 

「ちなみに川内の訓練は人気ナンバーワンや。理由はなんか癖になる、や」

「待ってそれなんかヤバイ」

「次は神通やな、理由はさすが川内さんの妹ッス! や」

「川内さんに対する謎の崇拝感……!」

「まぁ軽巡も次の世代に入れ替わっとる中、川内はそのメンツの中心的存在みたいなとこあるからな」

 

 そう言って建物の壁に寄りかかって龍驤さんがふ、と息をついた。

 

「ここはなぁ、新人すら練度もまともに上がらんまま前線に放り出されることが日常茶飯事なんや。せやからな、皆、ああして戦場で死ねへんよう厳しくしてくれてるのがわかるんやろな」

 

『──呉では質より量です。前線を支えるためには、ある程度数が必要ですから。……結果的に残っていく娘の質が上がっていく、そういう環境です』

 

 不知火さんが別れ際に私達に送った言葉を思い出す。

 

『決して艦娘をないがしろにしている環境ではないと思います、それでも。……おそらく仲間の死別を最も多く経験する場所ではあるかと思います。……お元気で』

 

 そうだ、そういえば彼女は駆逐艦だった。最も多くの仲間が死んでいくであろう艦種。仲間を守るため艦隊の目となり盾となる彼女達は、その装甲の薄さも相まって死んでしまう確率がどうしても他の艦種より高い、それでも。それでも最後まで仲間のために体を張って守ろうとする、勇敢で頼もしい仲間達。

 

「キミ達は、まぁ。そこそこ練度を上げてもろうてここに来とるからな。感謝しぃ、訓練所の提督に」

「それは、まぁ」

「……理解してる、つもりです」

 

『あー、彼女達の艤装調整中に謎の爆発が起きたのでもう一ヶ月くらい遅れます。……うん、なんですか、よく聞こえませーん、電話の調子が悪いなぁ』

 

 さすがにそのあしらい方はどうなんだ、とは思ったけれども。私達の艤装を最後まで念入りにチェックして、特に私の艤装は他の娘と異なるから、とおやっさんのお弟子さんである艤装技師の彼まで一緒に送り届けてくれた。実際こっちに来たときにそれを見せたら、ここの艤装技師には私の艤装回路構造がちんぷんかんぷんだったようなので大いに助かっている。

 恵まれていると思う。大事にしてもらったと思う。あれを見たあとじゃ可愛いもんだと思えるけれども、それでも毎日厳しく、時には本当に殺されるのではないかというくらい実戦さながらの訓練をしてくれて。それでもって最後に二人で伸びていると氷で冷やしておいた冷たい缶ジュースを笑いながら寄越してくれるような人達だった。

 ……元気かなぁ、まだこっちに来てそこまで時間は経っていないけれど、無性に会いたくなってしまった。手紙、だそう。

 

「あとな」

「?」

「空母も昔はああやった」

「マジですか」

「マジやで。赤い悪魔は仲間でも容赦なかったからなぁ」

 

 赤い悪魔。それがどうやら先代の赤城さんらしい、ということをようやく最近知った。食いしん坊だったんだな、くらいしか思っていなかったけど、悪魔と呼ばれる所以はどうやらそれだけではないようである。

 

「笑顔のままえ、できないんですか? そんなことないわよね、だって私はできるものって」

「うわぁ……」

「あいつはナチュラルボーンドSやった……ホンマ、キミ達恵まれてんで。そないにのんびりやれてんのは今の赤城のお陰やからな」

 

 そう言って龍驤さんが表情を緩めた。

 

「訓練の質は変わっとらん。あいつも先代の背中見とるからなぁ。それでもキミ達がのびのびやれてんのはな、あいつのお陰やで。褒めて伸ばすのがじょーずやからな」

 

『すごいわ』

 

 そう言えば、そうだ。どんなにヘロヘロになっても赤城さんは最後によくなったところを褒めてくれるから。だから、あんまりしんどくならないのかもしれない。

 人をよく見ている人だと思う。大人数で訓練をしてても一人一人きちんと見守って、それぞれに指導して。そして最後には朗らかな笑顔と共に褒めてくれる、そんな人だった。

 

「いやー、キミ達にも赤い悪魔の指導見せてやりたかったなぁ。比較的優雅と言われとった空母全体が軍隊アリのようでな」

「……」

「訓練でうまくいかへんかったやつはヤツに飯を食われる。米粒ひとつ残さんやつやったからな、そら皆必死やったで。あ、そうそう……」

 

 

「……あの、飛龍、蒼龍?」

 

 これは、なんなのだろう。ちょうどグラーフさんが資料室に行くからもし手が空いてたらつきあってほしいと言うものだから、二人して廊下を歩いていたのだけれども。

 

「動けないの、だけど……」

 

 ちょうど廊下の向こうの曲がり角から二人が現れたと思ったら。ひっしとしがみつかれてしまった。

 

「一生ついていきます!!」

「改二戊艤装きてもそのままのあなたでいてください!」

 

 赤城さんでよかった! 赤城さん大好き! とかなんとか言いながらがっちり二人にホールドされて動けない。……ええ、と。どうしましょうか……。

 

「……アカギが困っているだろう」

 

 ぽん。二人の肩にそっと手をかけて、ゆーっくり力を入れながらグラーフさんが二人を引き剥がしにかかる。最初は人に触れるのを極端に怖がっていた彼女だけれど、最近はこうやって少しずつ私以外の人にも触れられるようになってきた。それでも、艦娘になって以来ほとんど人と接触してこなかったと言う彼女は、相手を傷つけないように慎重に、優しく触れるのだけれど。

 

「ああー」

「ごむたいなー」

 

 ようやく二人が離れて身動きができるようになり一息をつく。それにしてもなんだったのかしら。

 その後他愛もない世間話をして二人と別れた。期待の新人といえど、まだまだ年頃の女の子だ。思わずくすくすと笑っていると、隣にいたグラーフさんがぼそり、と呟いた。

 

「アカギは人たらしだな」

「あら、やきもちですか?」

 

 すかさずからかう。お互いに肩の力が抜けてきたこともあり、こういった軽いやり取りは日常茶飯事となっていた。

 

「……」

 

 ただ、最近は私が結構やり込めていたからか、中々隙を見せてこない。私の言葉にじっとこちらを見やるその瞳からは残念ながら胸の内は察せなかった。

 

「わ、ちょっと、なに……!?」

 

 そうかと思ったら、にゅっと手を伸ばしておもむろに私の頭をわしゃわしゃと撫でた。突然のことにびっくりしていると、ぼさぼさ頭になった私を見てグラーフさんが表情を緩めながら。

 

「……変な顔だな」

 

 そう呟いて先へと歩き出す。人の頭をぐちゃぐちゃにしておいて、それはないでしょう。

 

「もう! グラーフさん!!」

 

 その後を抗議の声をあげながらついていく。

 

「髪は女性の命なんですよ!」

「そうか」

「聞いてますか、もう!」

 

 最近私の扱いが雑すぎる。他の人には礼儀正しいのに。それだけ打ち解けたのかもしれないけれど、それにしたって限度というものがある。ここで一度しっかり怒っておこうと思い色々と言ってみても暖簾に腕押し。うう、これじゃ一航戦赤城としての威厳が……とまで考えて落ち込みそうになっていると、先を歩いていたグラーフさんがふと立ち止まって振り返った。そして。

 

「悪かったな」

 

 いつになく優しい声音で。先ほどとはうって変わって、まるで壊れものでも扱うかのように、繊細な手つきで私の髪に触れてきた。

 彼女の指先が自身の髪を優しく、ゆるやかにすいていくのを感じて、思わず固まる。

 

「……ああ、そういえば辞書を置いてきてしまったな」

「……」

「取りに戻る、悪いが先に行っててくれないか」

 

 そうして一通り私の髪を整えたと思ったら、そう言い残して彼女は去っていった。

 

「おう、赤城。こないなところでつったってどうしたん」

 

 しばらくそこに立ち尽くしていると、後ろから陽気な龍驤さんの声が聞こえてきた。

 

「……か」

「か?」

 

 ひょっこりとこちらを覗き込んできた彼女に対して。ようやく言葉を捻り出す。

 

「顔がいいのって、ずるいと、思うんですよっ……!」

「ちょ、キミィ! どうしてん! 顔真っ赤やで!!」

 

 よく笑うようになったと思う。普段はやっぱり静かだし、無表情に近いときも多いけど。それでもどことなく表情が柔らかくなった気がする。

 ただ、だからこそ。お願いだから、そんな至近距離で。そんな表情は見せないで欲しい。

 

「……心臓、二つ欲しい」

「なに!? なんて!?!?」

 

 どうにもこうにも。私の心臓が、もちそうに、ないから。

 

 



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ドイツより来たりて(呉鎮守府:グラーフ、ビスマルク)

機械人形は笑わないのネタバレを含みます、読む際にはご注意ください。
ビスマルク視点による機械人形は笑わない前日譚及び後日譚。


 ふくよかな体を揺らしながら、綺麗にととのえられた白髪を一撫でして。

 

「やっぱりビスマルク君は頼りになるねぇ」

 

 にこにことドイツ海軍所属の提督(admiral)であり私の上司である彼が執務机越しに話しかけてきた。規律を重んじるドイツ海軍において厳めしい人達が多い中、このちょっと小太り気味の我らが提督はいつも柔和な態度とちょび髭の形を崩さないことで有名である。

 

「そうでしょうそうでしょう」

「こんなに難しいと言われてる日本語の習得が早いとは思ってなかったなぁ」

「そうでしょう、もっと褒めてくれていいのよ?」

 

 彼のその態度に鼻高々に答える。こうやって彼は人をよくおだてる。そういうのが好きな私は、それを受けて悪い気などするはずもなかった。

 

「よっ、ビスマルク君かっこいい、ドイツ一~」

「もーっと褒めてもいいわよ!」

「我がドイツ海軍の期待の星! これならどこに出しても恥ずかしくないねぇ、日本とか」

「そうでしょうそうで……うん? 今なんて?」

 

 最後にぼそりと呟かれた言葉がよく聞き取れず、聞き返す。

 

「あのね」

「はい」

「日本に行ってくれる?」

「はい……はい?」

 

 条件反射で頷いてしまってから、思わず首を傾げる。

 

「日本とね、ようやく話がまとまって。技術者数人と艦娘二人をね、こちらから送ることになったんだよ。いやぁ、助かるよぉほんと、皆日本語がネックでさぁ」

「それで最近日本語講座だとか、日本語習得で給料アップとか色々やってたわけ……?」

「あ、お給金はちゃんと上乗せするからね、安心してね」

 

 モラハラ、パワハラ、セクハラで訴えられたくはないからねぇ~とのらり、くらりと会話を続けながら、予め用意していたのだろう、件の書類をこちらに寄越してきた。

 

「技術開発部からも一人ね、艦娘が日本へ行くから」

「技術開発部ぅ? あそこ、辛気臭いやつが多いから苦手なのよねぇ」

「そんなこと言わないの、今回は君達だけなんだから、日本に行く艦娘は」

「そうは言っても……げっ」

 

 まだまだ技術発展途上のドイツにおいて、艦娘は主に二つの部門に所属がわかれる。ひとつが私の所属する実戦機動部隊。一般人のイメージである艦娘はこっちだろう。そして、もうひとつ。技術開発部。この部署は主に新たな艤装開発、試作型艦娘艤装のデータ収集を中心に活動をしている。そこに所属する艦娘は有り体に言ってしまえば実験体だ。外部との接触もあまりなく、いつの間にか消えていく──そういった仄暗さを合わせもつ部署。実戦機動部隊であるこちらとはほぼ関わりがない。それでもその中で、ひとり。有名人がいた。

 

「……機械人形(autonomer roboter)

 

『また不具合か、何がいけないんだ』

 

 一度だけ遠目で見たことがある。史実では未成艦として実現しなかった、グラーフ・ツエッペリンの艦娘に選ばれた彼女を。試作段階であるため、どうやら不具合を起こして大怪我を負っていたようだったが、技術者達はその状態に頓着することなく結果を見て不平を溢す。いやいやその前に早く治療してやりなさいよ、と眉を潜めて件の彼女を見やると。

 

『──』

 

 大量の血の海の中で。その大怪我に眉ひとつ動かすことなく、そんな自身にまるで興味がない技術者達になんの感慨もないかのような視線を向けていたのだ。正直に言うと、ぞっとした。だってそうでしょう? 怪我を負ったらうめき声なり悲鳴なりあげてのたうち回るのが普通だ。あんな扱いを受けたら怒りを感じていいはずだ、なのに。静かにそこに佇み、その瞳にはまるで何も映っていないかのよう。のちに彼女が噂の機械人形(autonomer roboter)であると知って合点がいった。

 

「……仲良くね?」

 

 にっこりと笑いながらそう念を押す提督(admiral)。そもそも日本語以前に誰も引き受けてくれなくてねぇ、いやぁ助かるなぁと懐からボイスレコーダーを取り出して先程の会話──思わず了承してしまったときの会話を再生する彼を見て。あ、これまたハメられたわ、と思わず頬がひきつるのであった。

 

 

 ずび、と鼻を啜りながらここ、ちょうど高台になっていてドイツ軍港を一望できる小高い丘で人を待っていた。鼻を啜っているのは冬に差し掛かり少々寒くなってきたこの気候のせいではなく。日本への渡航を言い渡されて一週間。出港まで後二時間。あまりにも故郷に別れを告げる心の準備をするのには短すぎた、特に愛しの妹と別れるのには。

 手すりに寄りかかってぼんやりと港を見下ろす。まさか轟沈以外でこの軍港に別れを告げることになるとはついぞ思っていなかった。なぜ軍が最近日本語に力を入れているのか。疑問に思うことはあれど、とにかく目立ちたがり屋である私は深く考えもせず、皆を出し抜いてあっと言わせてやろうと裏でせっせこつこつと日本語の勉強を続け、最終的にこのような栄誉を授かってしまったのである。ビスマルク姉さまのそういうところ、尊敬してるけど嫌いです! とプリンツには泣きながら怒られた。ぐうの音もでない。

 

「──ビスマルクか?」

 

 またちょっぴり先程の別れを思い出してセンチメンタルな気分になっていると、後ろから落ち着いた声が聞こえてきた。そういえば声を聞くのは初めてだ、存外綺麗な声をしている、と振り返ると、そこにちょうど思い描いていた人物を見つけた。厚手のコートに身を包み、手には黒皮の手袋を嵌めて。目深に被られた帽子の下から、紫色の瞳がこちらをじっと見つめていた。

 

「そうよ。初めまして、グラーフ・ツェッペリン」

 

 そう言って手を差し出す。それをしばらくじっと見つめていた彼女は、徐にこちらに歩み寄ってきて──

 

「……ちょっと、喧嘩売ってるの?」

 

 握り返すその仕草に思わずムッとする。ドイツ人にとって握手は挨拶の基本だ。初対面の握手で相手の印象が左右されると言ってもいい。だから初対面はお互い力強く握手を交わし、すぐには放さずに会話を少々続ける、それが一般的だ。特にこの人と仲良くなれそうだな、と思えばぐっと力を入れて相手の手を握る。それが友好の始まりの合図なのだ。

 だというのに、こいつは。触れるか触れないか程度の弱々しさで握り返してすぐに放した。すなわち、私なんかと友好を育む気はないということなのだろう、と考えて思わず抗議の声をあげたのだ。

 

「……」

 

 じっとこちらを見返す瞳にはなんの感情も浮かんでいないように見えた。ええい、やりづらい。私は自分が直情的であることを理解しているがゆえ、こういう輩が苦手であると自覚していた。それでもこれは仲良しごっこではなく仕事だ。栄えある戦艦ビスマルクとしてやれること、言うべきことは言ってやるわよ。

 しばらく黙ってグラーフを見つめていると、ようやく彼女がその重い口を開いた。

 

「……すまない。言い訳にはなるが他意はないんだ、ただ」

「なによ」

「……力加減が、わからないんだ」

「はぁ?」

 

 予想だにしない言葉に思わず素っ頓狂な声がでる。そんなこちらの様子も意に介さず、グラーフは淡々と続けた。

 

「資料は読んでいるだろう。私は痛みがわからない。だから、相手が痛いと思うほどの力をかけたとしても気づけない」

 

 先天性無痛症。事前に渡された書類に記載されていた彼女の体質。馴染みのない言葉だったので軽く調べたが、どうやら痛みを感じることができないらしいということまではわかった。わかってはいたけれど、それが真に何を意味するのか。こうやって彼女の口から説明されるまでイマイチ実感できないでいた。

 

「艦娘になるとどうやら一般人よりも断然力が強くなるみたいだな。……以前、人を助け起こそうとして。腕を握りつぶしかけた」

 

 そう言って少しだけ表情を緩める。それは微かに笑っているようでいて、そうではないような。どこか、諦めにも似たような感情が混じっているように思えた。

 

「それ以来人との接触を断っている。だから人に触れるのも、触れられるも慣れていない。さらに言うなら、苦手だ」

 

 そう言って自身の右手に視線を落としながらきゅ、とそれを握り込む。

 

『──何考えてるかわかんなくて、ちょっと怖いよね』

 

 そりゃあ遠目であの姿を見たときは私も薄ら寒ささえ感じたけれども。今私の目の前にいるこいつはどうだ。私が怒れば反応を返す。真摯に答える。

 

『被弾しても眉ひとつ動かさないんですって。まるで殺戮兵器よね』

 

 今になって腹が立ってきた。あんなどうしようもないゴシップを鵜呑みにしてしまっていた自分自身に。

 

「だから、極力接触は最低限の業務連絡に抑えよう。その方がお互いのためだろう」

「……はぁ!?」

 

 そう、有り体に言えば私はむしゃくしゃしていたのである、自分自身に。だからそんなことをほざいたこいつに声を荒げたのは完全なる八つ当たりなのだけれど、ついつい私は怒りのまま言葉をそこにのせてしまった。

 

「あなたが人に触れられるのが苦手なのはわかったわ。でもそれとこれは話が別でしょう」

 

 びしっと人差し指をそいつの胸に向けながら語気荒く言ってやる。もう失礼だなんだという配慮は一切なかった。そんな私の様子に少し押されてグラーフが目をしばし瞬かせる。その様子にふん、と鼻で息をつきながら腕を組んで言葉を続けた。

 

「大体ねぇ、こっちはただでさえ愛しの妹と離ればなれで人恋しいのよ、雑談くらいは付き合いなさいよ」

 

『ビスマルク姉さまぁ~!!』

 

 つい先ほど愛しの妹、プリンツ・オイゲンと涙ながらに別れてきたところなのである。涙ながらに一時間ほど抱擁し合っていたがそれでも足りない。絶対にすぐに私も日本に行きますぅ~! と泣きながら溢していたプリンツの姿を思い起こし、鼻の奥がつんとなるのを感じて慌ててふんぞり返ってごまかした。

 

「……君は、私の噂を知らないのか」

機械人形(autonomer roboter)でしょ? まぁ痛みがわからないって知った今ではくだらない噂よね」

「……」

「感情がないってわけでもないでしょう。それに」

 

 そこで言葉を区切って彼女を見返す。彼女は視線を逸らさない。きちんとこちらと会話する意思を一応は見せている。根が真面目なんじゃないかしら、きっと他人の気持ちを無下にできないやつなのだろう。

 

「……なんだ」

「こうやって私の会話に付き合ってくれるくらいには、人を嫌ってるわけでもないでしょう?」

「……」

 

 黙り込むグラーフを見て、それを肯定と勝手に受け取って会話を続けた。

 

「要はあなたに触らなきゃいいんでしょ? 簡単じゃない。他に気をつけることは?」

「それを聞いてどうするんだ」

「? サポートするに決まってるじゃない。たった一人の同郷の仲間でしょう?」

 

 呆れるようにそう言ってやると、グラーフはふと息をついて。ゆるゆると首を掻きながら呟く。

 

「……ビスマルク」

「なによ」

「君、よく人に騙されるだろう」

「なんで知ってるの!?」

 

 エスパー!? あ、もしかして提督(admiral)、書類になんか余計なことでも書いたわね!? と慌てるこちらを、なんとなく、そう。若干呆れるような表情で見ながら。

 

「……いや、なに。人が良すぎるのも考えものだな、と」

「褒めてる? けなしてる?」

「両方だな」

 

 そう呟いて手すりに寄りかかり、グラーフは黙って静かに海を見つめた。それを横目に、私も手すりを背にしてもたれ掛かりながら空を見上げる。相変わらず空は厚い雲に覆われている。日本の冬は、どんなものだろうか。この時期は太陽が恋しくて仕方がなかったが、いざ故郷を離れると思うとこの曇天さえ惜しまれた。

 しばらくそうして互いに黙っていたが、何の気なしにぽつり、と言葉を溢してみればグラーフもぽつり、と返事をする。そんな言葉の応酬をしばし繰り返した。元来自分はお喋りな方だとは思うが、存外この会話のテンポも悪くはないな、とぼんやりと思った。

 

「あ! そうだ、言い忘れてたけど!」

 

 ふと先ほどのやり取りで一つ文句を言い忘れていたのを思い出してがばり、と身を起こす。

 

「私はドイツが誇る戦艦ビスマルクよ。あなたがちょっと力加減間違えたくらいで死ぬほどやわじゃないわ。そこんところ、勘違いしないでよね」

 

 全力で握り潰そうとしたって問題ないんだから、と続けながらふんぞり返る。

 

「あなた、私が相方でよかったわね。文字通り大船に乗ったつもりでバンバン頼ってくれていいのよ!」

 

 ふふん、と鼻息荒く胸を叩いて言い切る。それを聞いたグラーフは、また何を考えているのかよくわからない瞳をぱち、ぱちとゆっくりと瞬かせながら。

 

「……君は」

「なによ?」

「……話してて、気が抜けるな」

「どういう意味よ!?」

 

 そうして私が噛みつくのをのらり、くらり、とかわす。その、ドイツの軍港出港前のやり取りが。私達の関係の始まりだったのだ。

 

 

 椅子の背もたれに頬杖をついて、こっちを見向きもしないそいつに話しかける。

 

「なーんか、最近アカギと距離、近くない?」

 

 第一士官次室(ガンルーム)。基本的に談話室、食堂などが艦種ごとに分かれている呉において、唯一艦種関係なく集まって雑談できる休憩室。最も、駆逐艦の娘は他の艦種と同席なんて畏れ多いとあまり近寄らないから、専ら空母や戦艦、巡洋艦が使っているのだけれども。

 

「……そうか?」

 

 ぺらり。こちらを見ることもなく手元の新聞をグラーフがめくった。最近は漢字の勉強に新聞を読むようにしているらしい。私はごめんこうむる、夕張から借りた漫画を読む方が何倍も楽しい。

 

「この前手を繋いでたの見たわよ」

「それくらい普通だろう」

「触るのも触られるのも苦手な誰かさんにとって? 普通なの?」

「……」

 

 じとーっと見つめていると、さすがに気まずくなったのか顔を上げた。

 

「……あれはな」

「なによ」

「練習だ」

「なんの」

「……人と、触れ合う、的な」

 

 わーめっちゃくちゃ歯切れ悪い。視線も泳いでる、珍しいから暫くこのままじと目で見つめてやろう。

 

「……なにを怒ってるんだ?」

「怒ってないわよー」

「……」

「興味ないな」

「……」

「日本の艦娘なんて、どうでもいい。どこに行ってもやることは変わらないだろう」

「……おい」

「なーによ」

 

 ばさり、と新聞を机に置いてグラーフがこちらを睨みつけてきた。

 

「あれっ、は、な……!」

 

 ……わ、めっずらし。彼女の頬が仄かに赤く色づく。怒りからくるものだとしても珍しいけれど、これはそんなもんじゃなくて。

 

「アオバァ────!! シャッターチャンスよ!!」

「なっ」

「呼ばれて飛び出て青葉ですぅー!!!」

 

 カシャシャシャと小粋のいい音が響き渡る。こいつの照れ顔なんて今度いつ見られるともわからない、ととりあえず叫んでみたものの本当に近くにいるとは思わなかった。スライディングをかましながらベストショットをかっさらった青葉に思わず駆け寄る。

 

「でかしたわ、いい仕事するわね」

「いやいや恐縮ですぅ」

 

 今度の一面はこれで決まりね! と二人でわはは、と笑っていると。ゆらり、と座り込んでいた私達に影が落ちた。と、同時にぐわしっ、と頭を鷲掴みにされる。ちょっとまってメリメリって音が聞こえる、いくら私がかっこよくて強い戦艦ビスマルクでもちょっと加減してくれないかしいだだだだ!!! 

 

「……消すのは貴様らの命か、その写真のデータか。選ばせてやろう」

 

 その顔、深海棲艦に向けるにはちょうどいいかもしれないけれど、仲間にみせるようなもんじゃないわよあだだだだ!! 

 

「頭潰れる!!」

「強くてかっこいい戦艦ビスマルクなら例え脳漿が飛び散ったとしても問題ないんだろう」

「表現がグロテスク!!」

「消しました! 消しましたから!!」

 

 念入りにカメラのデータをチェックされようやく解放された青葉は、しょんぼりした様子で第一士官次室(ガンルーム)を出ていった。うん、でもカメラ握り潰されなくてよかったわね、こいつならやりかねない。

 

「油断も隙もない」

「そう? でも今までならどんな時も隙なんて見せなかったでしょう?」

「……」

 

 口数は多くないけれど喋ればそこそこに面白い。意外と聞き上手。付き合ってみればグラーフとは存外に馬が合った。それでも、彼女をここまで変えることは私には恐らくできなかっただろう。お互いに余計なことには干渉しない、そういう付き合い方をしてきた。それが今さらながらに少し寂しくもあり、悔しくもあり、それでいて。

 

「ねぇグラーフ」

「なんだ?」

「好きな食べ物なに?」

「最近はサバの味噌煮だろうか」

「……甘味は?」

「ヨーカンだな。前にアカギがくれたマミヤのヨーカンはうまかったぞ」

「あなた、日本のがあってるんじゃない……?」

「そうか?」

 

 あの薄暗い施設の中から。こいつがここに出て来られて本当によかったと思うのだ。

 グラーフさん、と赤城が寄り添う。それを皮切りに飛龍、蒼龍を初めとする空母、なにやら楽しそうに隙を探っている川内や、尊敬の眼差しを向けながら寄ってくる駆逐艦達。いつの間にか彼女は人の輪の中にいて、そして徐々に徐々に。彼女は赤城に対してだけではなく皆に対して歩み寄りを見せていた。

 

「……ねぇグラーフ、握手をしましょう」

「なんだ、藪から棒に」

「練習よ。最初があんなだったでしょう?」

 

 だから、ここいらで一丁私達も歩み寄ってもいいんじゃないかしら。そういった意味も込めて手を差し出した。

 

「……」

 

 それを黙ってしばし眺めるグラーフ。そして。

 

「……あだだだだ!!!」

「痛いか」

「わざとでしょあんた!?」

 

 いつしかの時のように思いっきり手を振りほどいて噛みついた。

 

「戦艦は頑丈なんだろう?」

「頑丈だけども!!」

「最初が、あんなだったからな。それが私の答えだ」

 

 そう言ってグラーフが薄く笑った。笑顔も、以前より柔らかくなったように思う。きっとこの茶目っ気も本来の彼女から来るものなのだろう。

 ドイツ人にとって、握手は挨拶の基本だ。初対面の挨拶が第一印象を左右するといっても過言ではない。だから、特にこの人とは親しくなれる気がする、と思ったら。力強く握りしめるのだ、それこそ痛いくらいに。

 

「……待って、だまされないわよ。あなたアカギにはこんなことしないでしょう」

「するわけないだろう」

「即答したわね!?」

 

 私はドイツの誇るビスマルク級超弩級戦艦ネームシップ、ビスマルク。このいけしゃあしゃあとしているこいつ、グラーフとは。仕事仲間であり、まぁ、なんていうのかしら。そう、親友というよりかは悪友、なんて表現がもしかしたらお似合いなのかもしれない。

 

 

 



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酒は呑んでも呑まれるな(呉鎮守府:赤城、グラーフ)

呉鎮守府での飲み会の一幕。いつもより若干百合度が高い気がしなくもない赤ツェペです。そういった表現が苦手な方はお戻りください。


「それではカンパーイ!!」

 

 乾杯の音頭をとった龍驤にならって皆がグラスをうち鳴らす。ここ、呉鎮守府では大規模、中規模作戦終了後にはこうやって大きな飲み会を開くのが習わしとなっていた。もちろん駆逐艦の娘達はお酒が飲めないので昼の部と夜の部に分かれており、今は大人達の宴の時間だ。

 世代交代の時期に差し掛かったこともあり、まだまだかたい空気が流れている仲間が多い中、こういった飲み会は一種の潤滑油のような働きをするように思う。惜しむらくは、自身が全くお酒を飲めないことであろうか。たまに、皆のように酔えたら楽しいだろうなとは思うのだけれど、こればっかりは仕方がない。手元のお茶を傾けながら空母の皆と会話を交わす。時間が経てばあっちへいったりこっちへいったりと艦種は徐々に混ざっていくのだが、最初は艦種ごとに座るのもここの決まりだった。隣では飛龍と蒼龍がはしゃいでいる。お酒は飲めなくとも、こういった空気は好きなようだった。

 しばらくして。徐々に空気があったまってきただろうか、というときに私達の席にビスマルクさんが乱入してきた。それを見て隣に座っていたグラーフさんが微かに眉をひそめる。

 

「グラーフ、飲み比べしましょ、飲み比べ」

「断る」

 

 勝手に空きグラスにビールを注ぎ始めるビスマルクさんをばっさりと一刀両断する。ビスマルクさんはそんな彼女の様子に堪える風でもなくぐいぐいとそのグラスをグラーフさんに押し付けながら絡む。

 

「ちょっとー、私のお酒が飲めないっていうのー?」

「……飲み過ぎじゃないのか、ビスマルク」

「こーんなの全然酔ってるうちに入らないわよー! ほら飲みなさい、全然飲んでないじゃない」

「いらん。まだ飲み終わってない」

 

 心底鬱陶しそうに対応するグラーフさん。最近気づいたのだけれど、この人はわりかし親しい間柄の人に対しては対応がぞんざいになる。だから、まぁ大丈夫だろうとのんびりとその様子を見守っていた、のだが。

 

「はっはーん?」

「……なんだ」

「あー、わかったわかった。あなた、下戸なんでしょ」

 

 けらけら笑いながらビスマルクさんがそう言うと。ぴくり、とグラーフさんの眉尻が上がった。あ、嫌な予感。

 

「ごめんねー、グラーフちゃんにはちょっとコレは刺激が強すぎるみたいね~あははは!」

「……おい」

 

 低い声が鋭く響く。と、同時にだん! とグラーフさんが手元のグラスを飲みきってテーブルに叩きつけた。そして、ぐい、とネクタイの根元に指を差し込んでそれを緩めながらビスマルクさんを睨み付ける。

 

「酒、もってこい」

「そーうこなくっちゃあ!!」

 

 ……なにか、雲行きが怪しくないかしら。そして私の反対隣では。場酔いして暴れる飛龍とそれを必死に抑える蒼龍の攻防が繰り広げられていた。

 

「なんで麦茶で酔ってるの!?」

「あははは、そーりゅー、お酒のも」

「未成年の飲酒ダメ、絶対!!」

「なにいってんのよ飛龍はよゆーで六十歳越えのおばーちゃんよ」

「それ艦の話でしょ!?」

「あはははそれビールかけ」

「へ、ちょっとま、ぶ!!」

 

 あっちでどんちゃん、こっちでどんちゃん。いつの間にか飲み会の空気は最高潮に達していたようで。艦種はごちゃごちゃ、ついでに言うならテーブルも床もめちゃくちゃ。……ああ、至らない一航戦で、ごめんなさい。今の私にはこの惨状を掌握する術が、わかりません……。

 

 

 つわものどもが夢の跡。松尾芭蕉の言葉を思い起こし、目の前の惨状から目を背ける。ああ、せめてこの句みたいに情緒やらなにやらがあればいいのに。目の前に広がるのは屍の山のみ。遠く離れた戦艦を中心とした席では生き残った酒豪達が屍を肴にかっぱかぱと日本酒を飲んでいる。すごいわ、あのペースがずっと崩れてない……。一方、重巡の席は静かに潰れているか、しっぽりと飲んでいるか。大きく二種類に分けられるものの、比較的安全地帯のように思えた。いっそ混ぜてもらえたら、と思いつつ、どうしてもこの場を離れることができずにいた。

 ひとつに、万が一新入りの飛龍と蒼龍になにかあってはと心配があったため。今現在、さらにハイになった飛龍がまともに顔面に浴びたお酒の匂いでダウンしている蒼龍の背中を爆笑しながら叩いていた。……うん、元気そうでなによりだわ。そっと現実から目を逸らして。そして反対側を向けばもう一つの見つめたくない現実がこんにちは。

 

「う゛~……」

「……」

 

 テーブルに突っ伏してなにやらビスマルクさんが呻いている。手に握りしめられているジョッキに残っていたお酒が零れ落ちるのをそっとお手拭きで食い止めながら隣を見やった。グラーフさんはまだ意識はあるものの、テーブルに肘をついてどうにか支えている頭は頼りなさげにふらふらと揺らめいていた。

 

「グ、グラーフさん、大丈夫ですか……?」

「まだ、飲める……」

「もう飲まなくていいですから! ほら、お水ですよ」

 

 ずるずると肘をついていた腕からずり落ちて突っ伏しかけている彼女を揺らして近くにあったグラスに水を注いで勧める。

 ぼんやりとこちらを見上げる彼女にはいつものしっかりとした面影など一切なく、どこか少しあどけなささえ感じられた。色素の薄い肌が淡く色づき、微かに乱れた髪からはどことなく色っぽさすら感じられる。いや、そもそも。前を開けすぎなのだ、ビスマルクさんと飲み始める直前に緩められた胸元はさらに大きくはだけ、ちょっと目のやり場に困る。

 なるべく直視しないようにずずい、と彼女の目の前に水の入ったグラスを勧める。ぼんやりとそれを机に突っ伏した状態で眺めていた彼女は、ゆるゆると手を伸ばして──

 

「……あの、グラーフさん?」

「んー……」

 

 するり、とそれを取らずに。なぜか私の髪に手を伸ばしてきた。さらり、さらり。指先ですかせては、その間から零れ落ちるそれを眺めてどことなく嬉しそうにしている彼女を無下に扱うのは憚られた。

 

「……あの」

「んー?」

「……た、楽しいですか?」

「んー」

 

 これは、完全に酔っている。先にビスマルクさんが落ちて気が抜けたのか、グラーフさんはふにゃりと緩んだ表情で間延びした返事を繰り返した。

 

「お水、飲みましょう?」

「んー……」

「ほら、顔真っ赤ですよ」

 

 ぴとり、と彼女の頬に触れればじんわりとそこから熱が伝わってきた。温度を感じることができない彼女にはこうして言葉で視覚情報を伝えることしかできないのだけれど、果たして今の彼女がそれを理解しているかは甚だ疑問である。私の心配をよそに、グラーフさんは片手で緩く私の腕を捕まえると、嬉しそうに私の手に顔をすり寄せた。その、普段の彼女からかけ離れた行動に思わず固まる。

 

「おちつくな」

「……」

「アカギに触られると、おちつく」

 

 呂律が回ってないな、とか。ああ、人に触れられるのが苦手だと言っていた彼女から、酔っているとはいえそんな言葉が出てくるなんて、とか。色々な思考がとりとめもなく浮かんでは消え、そして最後には羞恥が残った。自身の手にすり寄る彼女の頬から感じる摩擦。それは、自身の豆だらけの手により生じるもので、それが妙に恥ずかしく思えてしまったのだ。

 

「……手、荒れてて」

 

 思わず言い訳めいた言葉が口から零れる。それを聞いて、ゆっくりとグラーフさんが視線をあげた。

 

「その。……あんまり、女性らしい手じゃ、ないです、し」

 

 そうして彼女から逃げるように。手をひこうとした、そのはずだったのだ。

 ぐい、と。逆に強い力で、強いと言っても普段の彼女からすると、という程度で、それこそ今だって私を捕まえているこの手は振りほどけば逃げられるくらいの優しさで、それが彼女らしいなとどこか他人事のように感じながら。逆に引き寄せられてしまった私は、思わず体勢を崩してしまった。

 

「これがいい」

「……は」

 

 まっすぐに。じっと見つめられて身動きが取れなくなる。

 

「これがいいんだ」

 

 もう一度、そう繰り返して。彼女は、手繰り寄せた私の手首にそっとキスを落とした。ぞわり。触れられた部分が、粟立つような感覚。それは、決して嫌悪感からくるものではなく。くらくら、する。そうだ、自身は下戸なのだ。こんなに強いお酒の匂いを纏ったこの人に、きっと呑まれているだけ。だから、彼女の瞳に熱が籠っているように見えるのだって、勘違いで。は、と思わず浅い呼吸が漏れる。くらくら、する。それに、耐えられなくて。思わずぎゅっと目をつぶってしまった。

 

「……」

「……グ、ラーフ、さん?」

「……」

「……え、もしかして」

 

 ぎゅっとつぶっていた目をそおっと開けると。目の前で、安らかな寝息をたてながら寝ているグラーフさんがいて。無意識に詰めていた息を細く吐き出した。

 

「えぇ……」

 

 それは、どういった感情から零れたものだったのか。よくわからなかった私は、もう一度長い長いため息をついて。どっと襲いかかってきた疲労感に思わずへたりこむのであった。

 

 

 目覚めは、最悪だった。ガンガンと金槌で殴られているかのような頭痛に思わず呻き声をあげながら身を起こす。……これは、二日酔いか? こんなになるまで酒を飲んだのはいつぶりだろうか。頭痛に思考が邪魔されうまくまとまらず、思わず頭をおさえた。……まずい、昨日の記憶が途中で飛んでいる。確か、ビスマルクと飲み比べをして。勝ったのか、負けたのか。どうやらその辺で記憶を飛ばしてしまったらしい。

 とりあえず軽い朝食を摂ろう、そう思い立ってよろよろと部屋を出た。幸いにも今日は一日フリーだった、だからこそビスマルクの挑発に乗ってしまったことを考えると幸いといっていいのかわからないが。

 廊下をふらふらと歩いていると、その先に飛龍と蒼龍を見つけた。が、なにやらただならぬ雰囲気だ。

 

「そ、そーりゅー……」

「……」

「あ、あの……」

「飛龍なんて知らない」

 

 ぞっとするぐらい冷めた声が響き渡る。いつもは温厚でにこにこと笑顔を絶やさない彼女の顔からは感情が抜け落ち、振り返り様に飛龍に投げ掛けられた視線はとても冷ややかだ。当事者の飛龍も固まったが、それを見た私も思わずびくり、と身をすくめた。普段温厚な人ほど怒らせると怖いとはよく聞くが、まさにその通りだと思った。

 

「ご、ごめ」

「なにが?」

「……え、っと」

「理由もわからないのに謝ったの?」

「……その」

 

 とりつく島すらない。いつもはどちらかというと蒼龍が飛龍に振り回されているが、形勢逆転である。傍目からもおろおろとしている飛龍に一瞥をくれると、無言で蒼龍は身を翻して歩き去っていった。そしてその後ろをそーりゅー……と若干涙声になりつつよたよたと追う飛龍。

 ……酒は、ダメだ。その様子を見て明日は我が身と身震いする。昨日の最後の記憶がビスマルクとの飲み比べなあたり、やらかしてしまった感が拭えない。最近なにかにつけて煽ってくるビスマルクの満面の笑みが脳裏に浮かび、思わずイラッとすると同時に頭痛がガンガンとひどくなった。ダメだ、やはり一旦自室に戻って水を飲もう。そう思って踵を返すと。廊下の突き当たりからひょっこりと赤城が姿を現した。

 

「……」

 

 自身を見るなり、すぅっと赤城の目が細められた。ぶわっと背中から変な汗が出る。まずい。これは、なにかやらかしているんじゃ、ないのか。

 蒼龍とは違ったタイプではあるが、彼女も普段は笑顔を絶やさないタイプである。その、彼女が。じと目でこちらを見つめていた。思わず固まってその場に留まっていると、ゆっくりと彼女がこちらに歩み寄ってきた。一歩、二歩。普段の距離感より少し遠い距離で彼女が立ち止まる。そして、しばしの沈黙。

 ……気まずい。この空気をなんとかしたくとも、昨日の記憶が全くない自分からアクションを取ればやぶへびになる可能性があるため、ただひたすらにこの気まずい時間を耐えた。すると。

 

「……グラーフさんって、誰にでもあんなことするんですか?」

「……は?」

 

 ゆっくりと開かれた彼女の口から零れた言葉が理解できずに思わず間抜けな声が漏れる。あんなこと。あんなことって、なんだ。

 

「お酒、もう飲まない方がいいと思いますよ」

 

 つーんとした表情でそう言って、すれ違い様に去っていく。ざぁっと血の気が引いていく。い、いやいや待て、記憶がないんだ、このまま別れてしまっては謝ることすらできない。情報、そうだ、情報がいる。そう思って咄嗟に振り返り様に赤城の手を掴んだ。

 

「ちょっと、ま……!」

 

 ぱし、と。力を入れすぎないよう、細心の注意を払いながら、それでも彼女を引き留めようとして掴んだ瞬間。びくり、とそこから彼女の動揺が伝わってきた。その、彼女の横顔は。

 

「……弓の指導があるので」

 

 失礼します、と消え入りそうな声で続けた、彼女の横顔は。かつてないほど、真っ赤に染まっていた。それを見て固まっている自身を見向きもせず。赤城は足早に去っていった。

 

「Hallo、グラーフ! あなた大丈夫? 私もう頭ガンガンしてたまんないわ!」

「……」

「日本では二日酔いには味噌汁らしいわよ、どう、一杯ひっかけ……」

「ビスマルク」

「なに?」

「日本流の責任の取り方は、ハラキリでよかったか……?」

「ちょっと待ってそのナイフどっから出したの待って待ってちょっとGanz ruhig(落ち着いて)!!!」

 

 暴れる自身を羽交い締めで抑え込むビスマルクの手からようやく抜け出す頃にはこの動揺も少し落ち着いた。落ち着いたところで現状が変わるわけでもなく。

 

「記憶……記憶がない……」

 

 顔を両手で覆い、呻きながらずるずるともたれかかっていた壁からずり落ちる。そんな様子を見て、ビスマルクは何を思ったのかこちらの肩をぽん、と叩きながら。

 

「大丈夫よ、私もないから!!」

 

 と、腹立たしいほどの満面の笑みを浮かべて無責任に励ましてきた。その様子に。ぶち、と脳の血管が切れるような音が聞こえた気がした。

 

「うるさい黙れ元はと言えばお前が……!」

「ちょ、タンマタンマ首! 絞まってる!!」

「絞めてるんだよ……!」

Hilf mir doch jemand(誰か助けて)!!」

 

 その後、あちこちで飲み会の傷跡が散見され。その様子に提督がぶちギレ、呉鎮守府内で禁酒令が一ヶ月しかれることとなった。次やったら酒樽に入れて沈めるぞ、と全艦娘の前で言い放った彼は、過去最高に機嫌が悪かったとか、なんだとか。

 



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とある呉の艤装技師のつぶやき(呉鎮守府)

 艤装技師、下積み三年とはよくいったもので、三年と少し働いている俺もようやく一人前に片足を突っ込めたかな、と思えるようになってきた。艤装技師における下積みの定義は、ちょっと他の職種とは違う。普通は上司に認められるまでの見習い期間みたいなもんだろうけれど、艤装技師にとっての一人前の判断基準は妖精さんに認められるかどうかというところにかかっているのだ。

 新人はどうにも要領を得ないし時間もかかるから、基本的に面倒くさがりの妖精さんは手伝いたがらない。そこをなんとか、とベテラン艤装技師に声をかけられてしょうがないなぁと重い腰をあげてようやく手伝ってくれるのだ。それでもあまりに下手すぎるとすぐにどっかいっちゃうし、次また頼みこまれたときに顔を見上げてはげ、こいつかぁみたいな顔もされる。それが段々減って、ようやく少しの妖精さん達からお気に入り認定をされ、一人前の艤装技師と名乗ってもそろそろ大丈夫かなぁと思えるようになってきた頃。周りを見る余裕が出てきた俺は、これほど面白い職場はあまりないのではないだろうか、とぼんやりと思うようになってきたのだ。

 だってさ。直接はあんまり関わらないけれど、あの艦娘さん達と毎日接するんだぜ。一般の世で生きていればまずお目にかかることのできない彼女ら。それを間近で見ていて思うのだ。人でありながら人から少し外れたところにいる彼女たちは、見ていて飽きない、と。

 

 

「担架もってこい! 入渠施設準備早くしろ!!」

 

 怒声があっちこっちで響き渡る。艦隊が帰投するとの情報を受け、しかも今回は大破が一人いるとのことで帰投前からてんやわんやの騒ぎだ。一際その喧騒が強くなって、ああ、帰ってきたなと思った俺は休憩を中断して持ち場へと赴く。帰投直後の艤装の破損箇所のチェックとメンテナンスだって大事だ、最も救護班からは邪魔! と足蹴にされることもあるので周りに気を配らねばならないことも多いけれど。しかも今回の俺の担当はよりによって大破帰還している由良さんである。案の定救護班の主任は殺気立っているので、刺激しないよう、邪魔にならないように待機する。俺は壁です。

 

「あー……」

「損傷部位は」

「頭部と……もうなんか、全身ですね」

 

 こりゃひでぇ。顔には頭部から流れ落ちたであろう大量の出血痕がこびりついていて、艤装もひしゃげまくり、神衣(かむい)はあらゆるところが焦げ付いて見るも無残である。

 大破状態で帰ってくる人は意識を飛ばしていることも多い。だというのに淡々と受け答えをこなす彼女は、少し異常というか。

 

「ゆらー、ゆらー、ごめんなさい……」

 

 おそらく背中のひっつき虫となっている彼女、夕立さんのおかげで慣れてしまったのかもしれない。最近は安定しているみたいだったけれど、またやっちゃったのかな。改ニ艤装というものは肉体面、精神面ともに負荷が大きい。改装当初は大抵皆不安定になるし、夕立さんのような夜戦を得意とする艦艇はどうにも負の側面に引っ張られやすいようで。ソロモンの悪夢。誰がつけたかわからない二つ名だけれど、初改装時は、それはそれは、ひどかったらしい。

 

「これ入渠でいけます?」

「え?! い、いやいけなくはないだろうけど」

「じゃあお願いします。なるべく現役期間長くしたいんですよ」

 

 艤装を外す準備をしながら淡々と続ける由良さんと、その背中で涙声で謝り続ける夕立さん。一見すると、いや、しなくても異常な光景なんだけれど。割と日常茶飯事なので慣れてしまった俺がいる。艦魄(かんぱく)艤装回路は艦娘の身を守る結界作用を持ちながら、大破以下であれば帰投するまでにバイタルを維持し続ける生命維持装置の役割もしている。痛みは人間の身体が出す警告だ。だから完全にはシャットダウンはしないけれど、かといって発狂するレベルの痛覚になると遮断し、出血しても血を失いすぎないよう止血だって通常の人より早い。まぁ、擬似神経回路だなんだとか小難しい話をすればきりがないんだけれど、ようは艤装が最低限稼働できる状態、大破状態までだな、で、それを装着している限りは艦娘の命は守られている、って感じだろうか。

 だから帰投して、艤装を外して入渠施設まで運ぶその瞬間が重要になってくる。結構艦娘さんも自分の傷に頓着しない人が多いものだから、トリアージに従って重症患者から運んでいるうちに小破している艦娘が勝手に艤装を外していて、気づけば中破程度まで悪化させることもままある、と救護班に所属する友人がいつしかぼやいていた。陸に上がると艤装の異物感が急に出てくるから外したくなるらしいよ、と言っていたが本当のところはよくはわからない。まぁそんな感じで敵は身内にもいるわけなので、救護班は基本的にいつも殺気立っている。いざとなれば高速修復剤投与で死ぬことはないにしても、そもそもあれは希少な薬剤であるし、乱用すれば身体の自己治癒能力を低下させてしまう諸刃の剣であるから、特に大破状態の艦娘に対してはことさらだ。だから足蹴にされてくそ、とは思っても表には出さないようにしている。俺だって自分の仕事に誇りがある。それは救護班も一緒だろうから。

 そうして艤装を外す段階となって、ようやく由良さんは背中の夕立さんを剥がしにかかった。しばらくいやいやとぐずっている夕立さんを無理矢理引っぺがして頭をぽんと軽く叩く。それに対してびくりと夕立さんの肩がはねた。

 

「夕立ちゃん」

「……っ」

 

 微かに息を飲んだ夕立さんの声にならない声は、救護班主任の艤装外すわよ!! という大声にかき消される。そうして由良さんが次に口を開き、出てきた言葉とは。

 

「由良、さん、ね?」

 

 そう言い切るやいなやバターンと担架に倒れ込む由良さん。搬送急げー! 道開けろー!! と颯爽とその由良さんを入渠施設へと担ぎこむ救護班。そうしてその後をゆらー!! とついていこうとする夕立さんを、夕立も小破してるんだから入渠だってば! と仲間が羽交い締めする。

 うん、なんかさ、色々と言いたいことはあるけど。由良さん、マジパネェ。

 

 

 基本的に艤装技師と艦娘の交流はほぼないと言っていい。彼女達が出撃する際には俺達の仕事は終わっているわけだし、言葉を交わしたとしても業務連絡が常。雑談を交わすような状況で話をすることなど滅多にないから、まぁお互いに個人的な面識がある、というのは中々稀有だ。

 それでも一航戦の赤城さんは艤装技師から果ては食堂のおばちゃんまで名前からお孫さんが生まれたことだって知っていたりするし、まぁそこまでの人は中々いないけれど、こっちの休憩時間に気さくに話しかけてくれる艦娘だって中にはいたりする。

 

「よーぅ、若人。精が出るなぁ」

「龍驤さん」

 

 そして龍驤さんもそんななかの一人だった。呉鎮守府の艦娘はどうやら世代交代の時期に差し掛かっているらしく、ベテラン層は大分引退してしまったようだ。そんな中でも龍驤さんはまだまだ危なっかしいしな、と残り続ける古参中の古参だ。年齢? 聞いてはならない。

 

「キミィ、大分整備うまくなったやん。妖精さんも褒めとるで」

「はは……ありがとうございます」

「いつも整備ありがとなぁ、君達がいるからいつも安心して海に出られるんやからな。ジュース飲む?」

 

 屈託のない笑顔で接してくる龍驤さん。その大阪弁もあいまって、ついつい面影を重ねてしまう。あと地味にこういう気遣いが一番効くのだ。だから、ジュースを受け取りながら思わず涙ぐんでしまった。

 

「ばあぢゃん……!」

「せめて母ちゃんにしてくれん?」

 

 違うんですよ。ばあちゃんの喋り方とそっくりだからついつい間違えただけで他意はないんですよ、いやほんと。

 

 

 呉鎮守府は最前線を支える、最も規模の大きい鎮守府だ。だからこそここに所属する艦娘の数も桁違い、らしい。らしいというのは、俺はここでしか勤めたことがないから実際のところはわからないという意味だ。

 そんなんだから、まぁ本当に色々な娘がいる。多すぎて正直全員の名前を覚えるのは至難の業だ。まぁ、ほら。覚えても、いつの間にかいなくなることも、あるからさ。転籍か、あるいはそうなのかはわかんないけど。結構入れ替わりが激しいところもある。

 そうして話は戻るわけだけれども。まぁね、これだけいればね。中には苦手な娘も、いるわけですよ。

 

「あ」

「はい?」

 

 それが俺にとってはこの蒼龍さんである。温和で、普段はにこにことしていてはたから見ている分には俺も可愛いと思う。ん、だけれども。

 

「──さん、おばあちゃん子だったんですねぇ」

「え? あ、はぁ。生前は良くしてもらってて」

 

 少々、なんというか、その、不思議ちゃんなのである。あと相方の飛龍さんと違って本心が見えにくいというか。何を考えているか、たまに本気でわからない。

 脈絡もなく祖母の話をされ、俺、この子に話したっけ、と頭をかく。本人は俺のそんな心情を知ってか知らずか、にこにこと真っ直ぐ、そう、俺ではなくて、まるで俺の後ろの何かを見ているような。

 

「いいお孫さんに恵まれましたねぇ」

 

 ……いやいや。まさかね? ぎぎぎ、と後ろを振り返ろうとするとさらりと蒼龍さんが言葉を続けた。

 

「冗談ですよ?」

「わかりづらいです!!!!」

 

 俺、やっぱこの子苦手。

 

 

 そういえば最近は海外艦も大分増えてきたなぁと思う。人数はあまりいないのと、各国で艤装構造がまるで違うから俺ら下っ端はまずその艤装をいじることはないんだけれど。最初にここにやってきたのは、ドイツの二人だった。いかにも外国人、という顔の二人から流暢な日本語が出てきたときは少なからずびっくりしたけれど、一応日本は艤装技術先進国であるからもしかしたらエリートさん達なのかもしれない。

 まぁそんなわけでほぼ直接は関わらないのだけれど。ほら、やっぱり外国人って聞くと先入観、あるもんじゃないか? やれドイツ人はクソ真面目で愛想がないだとか、下手すると偏見に近いようなものが。

 

「よーしカチコミよ!!!」

 

 まぁビスマルクさんのおかげでそのイメージはすぐさま瓦解することとなったのだけれど。夕張さんと仲が良いらしく、漫画を借りては変な日本語を覚えて周りを時たまぎょっとさせる。MVPをとってくるとどうだ、褒めろと言わんばかりに胸を反らして闊歩する。そして周りが賞賛を贈れば、とても嬉しそうにこういうのだ、もっと褒めてくれていいのよ? と。我ら艤装技師達が今か今かとその言葉を待ちわびてしまっているくらいには連呼している、彼女の決め台詞である。

 そうしてなんだかんだ面倒見がいいのか、困っている人がいればところ構わず首を突っ込むようでもあった。この前おばあさんを背負って歩いているところを見かけてなんだなんだと思ったけれど、どうやら足を挫いてしまったおばあさんのお家まで届けてあげるところだったらしい。いい人ではあるんだろうけれど。なんとなく、そう、知れば知るほど残念美人という言葉が脳裏にちらついた。あの人は黙っている方が得をするタイプかもしれない。

 もう一方のドイツ空母であるグラーフさんは、俺にとってはまさにドイツ人、というような人だった。必要最低限の会話。にこりともしない無愛想さ。そうだよな、これがドイツ人だよな、とビスマルクさんとの落差に最初の頃はうんうんと頷いたものだった。

 ただ、この頃はちょっと。なんとなく、以前より雰囲気が柔らかくなったような、そんな感じを受ける。

 衝撃的だったのは以前、埠頭を歩いていた際にこの人がわらわらと五、六人の駆逐艦にまとわりつかれているシーンを図らずとも目撃してしまったことである。その姿は大量の猫にまとわりつかれて身動きのできない人のよう。え、ちびっこ達に人気だったんすか、てか、え? とにわかにその情景が処理しきれなかったのだけれども。どこか困った表情ながら、それでも嫌そうではないのと。なんだかんだ皆の面倒をきちんと見ていて、駆逐艦の娘達もそれをわかっていて慕っているようで、人を第一印象で決めてはだめだなぁとつくづく考えを改めざるを得ないのだった。

 

 

「皆おっそーい!!」

 

 工廠の中に一際元気な声が響き渡る。第一艦隊が帰ってきたなぁ、とその声につられてそっちの方を見やった。第一艦隊といっても、うちの第一艦隊はそれこそ作戦やらなんやらで入れ替わりが激しいから誰が一番、というものはないのだけれど。それでもその第一艦隊の常連という人はいて、彼女、島風さんもそのうちの一人だった。

 

「あ、こら待ちなって!」

「やだよ、島風、お風呂入ってくる」

 

 ぽぽぽいっと艤装を脱ぎ捨てて工廠の人波をすいすいと器用に避けながら駆けていく。相変わらず落ち着きはないようだった。遠巻きに別の艤装の整備をしながら、息抜きがてらに彼女達の様子を伺う。

 

「あ〜も〜。まぁ、いいか……あー、しんどいったらないわ」

「そうだな」

「同意するならもう少しくらい疲れた顔したら日向?」

「……?」

「なんでもないわ……体力お化けめ」

 

 航空戦艦、伊勢さんと日向さんを中心に続々と艦隊の面子が戻ってくる。そのうちの一人に、歩み寄る人影があった。

 

「あ……」

「今日もちゃんと帰ってきたわね」

 

 彼女にそんな言葉をかけるのは、初風さんくらいなものだろう。

 奇跡の幸運艦。稀代の天才。そう謳われるのにはそれ相応のバックグラウンドがある。いわゆる適性的な意味での天才ならこの呉鎮守府にも何人かいる。甲種適性というやつだ、あの娘達は甲種というだけで別格なのだ。だけれど、あの人、雪風さんは違う。適性自体は乙、普通の艦娘程度ながらその実力は甲種適性と同等、あるいはそれ以上なのではないかと言われる程。島風さんだってエースの一角には違いないが、雪風さんはなんというかその中でも突き抜けていた。

 そんな彼女だから、いつしか人はこう思うようになった。彼女が帰ってくることこそが、当たり前なのだと。長くここに所属し、同期はほとんどいなくなってしまった彼女、そうしてこのような一般認識によって、彼女を出迎えるという人など初風さんがここにくるまでいなかったという事実にすら皆が気づけずにいた。

 

「そうですね、魚雷当たったんですけど」

「え」

「不発弾でした」

 

 さすが幸運艦。その瞬間のことを思うとうひー、となってしまうが、雪風さんはなんてことはないとただ淡々とその事実を述べた。

 いつの頃からだろう。雪風さんは、あまり笑わなくなった。たまに埠頭に出てはぼんやりと海を眺めている姿を見ることが多くなった。ああ、やだな、となんとなくあのときは心がもやもやしたものだ。なんとなくなんだけれど。ああいう人って、すっといなくなってしまう、そんな予感がするから。そんな頃だった。あの雪風さんをぶん殴った新人艦娘がいるらしいと同僚が休憩室に駆け込んで来たのは。俺は食べているカップラーメンをふいた。

 

「わっ」

 

 気がつくと初風さんが両手で雪風さんの頭をわしゃわしゃしていた。あんなことができるのも初風さんだけである、怖いもの知らずか。

 

「よしよし」

「ちょ、やめ、雪風のが先輩ですよ!」

「知ったこっちゃないわよ」

 

『──こんなのがエースとか呉なんて大したことないんじゃない? 私がこいつをエースから引きずり落としてやるわ』

 

 すげぇ新人が現れたもんだと思った。どんだけ自分に自信があるのかと。でも、そうではなかった。彼女、初風さんはどこまでも努力型の人で、自分の実力を認める謙虚さもある。ちょっとぶっきらぼうで言葉が足らずに喧嘩になることはあっても、相手を慮る優しさもある。たまに本当に年下なんだろうか、と思うくらいどこか達観したところもある、やんちゃで落ち着きのない駆逐艦の中ではちょっと変わった存在だ。

 すげぇ新人が現れたもんだ。天才を天才と認識し、自分が凡才であることを自覚してもお前に追いついてやる、と正面切ってあの雪風さんに言い切る、すごい子が、と。

 

「いい、勝ち逃げなんて許さないから。私があなたに勝つまで、ちゃんと帰ってきなさいよ」

「……」

「おかえり。お風呂入ってきなさいよ、髪きしきししてるわよ」

 

 そうして雪風さんの頭をぼさぼさにして満足した初風さんは、他の人達にお疲れ様です、と声をかけ始める。だから彼女はおそらく気づかなかっただろう。

 

「……ただい、ま」

 

 ぼそりとつぶやかれたその言葉に。

 天才は孤独であるという言葉を聞くけれど。きっと天才にとって必要なのはもう一人の天才ではなくて、案外ああいう人なのかもしれない。

 

 

 工廠内の喧騒が一際強くなる。この職場で働き始めて決して短くない時をここで過ごして、この微かな潮の香りに混ざるオイル臭さも、そうして帰投と同時にそこに混ざる血の匂いにも慣れてしまった。

 色々なものに慣れてきてはいても、どうしても慣れないものだってある。こういう日は帰投時の雰囲気からして違うのだ。重く、重く。ぎしりと心にのしかかる、この空気。

 今回の作戦で、どうやら一人の駆逐艦娘が帰らぬ人となった、らしい。大規模作戦のときはこれもある種の日常のようになり心が麻痺してくるものの、戦線が落ち着いている今だからこそそれは一際大きくのしかかる。そうして、心が痛むことにどこか安堵する自分もいるのだ。ああ、俺はまだ、まともだ、と。

 ガシャン、とまるで投げ捨てるかのように艤装を外した今回の担当のそれに慌てて駆け寄る。殺気が素人の俺にも伝わる程の不機嫌さをにじませて首元のマフラーを緩めている彼女を刺激しないよう、なるべく静かに座り込んで点検をしようとした、その時だった。

 

「……嫌いだよ、駆逐艦なんか」

 

 それは偶々その艤装を点検しようと近づいた自分だったからこそ拾えた言葉。低く、低く。何かを呪うような、それでいて無力さを噛みしめるかのような言葉。顔を見てはいけない。本能的にそう思った俺は、何も聞こえなかったふりをしてガチャガチャと静かにそれを弄くり始める。

 

「すぐ死にやがって」

 

 かすれるような声でそう吐き捨てて足音荒く立ち去った彼女の背をちらりと見やる。手癖も悪くて、口も悪い、呉鎮守府の期待のエース級軽巡洋艦の、川内さん。そんな彼女は駆逐艦に優しい言葉なんか一切かけない。でも知っている。

 

『ロケットペンダント?』

『わぁ、いつの間に!? か、返して下さい!』

 

 艦娘、艤装技師関係なく隙あらば人の懐からものをスる彼女。一種の挨拶のようで、そのままくすねられることはない。そして。

 

『それしかもう家族の写真残ってないんです!』

 

 態度には一切出さないけれど。

 

『……悪かった、ごめん』

『あ、いえ』

『チェーン緩んでるから。替えた方がいいよ、それしかないんでしょ』

 

 妹の神通さんをとても大切にしている。それと同じくらい、仲間と、その家族についても考えてくれているのだと。あのとき、自分はそう感じたのだ。

 

 

 色々あるんだ、色々。ここは最前線を支える主要鎮守府だし。色々な人達が集まって、ぶつかって、それでもって笑い合ったりもする。俺達艤装技師はちょっと仕事は地味かもしれないけどさ、それでも大規模作戦が何事もなく終わったら缶ビールでしめやかに乾杯するのだって嫌いじゃないし、それにたまーに遠巻きに見せてもらえる艦娘さんの演習風景だって悪くない。

 出会いも別れもここは他のところより多いかもしれない。それが時たま無性に辛いときだってある、だけどさ。

 

「おい坊主、そろそろ仕事だ」

「あ、はい!」

 

 やっぱり俺はさ。この呉鎮守府の艤装技師やってるのに誇りってのを持ってるし。艦娘さん達が楽しそうに笑っているのを見るのも好きだからさ。地味でそれでいて大事なこの仕事のことが、大好きなんだ。

 

「艦隊、抜錨!!」

 

 海めがけて飛び出していく彼女達とすれ違い様に工廠へと戻っていく。なぁ、だからさ。今回もきちんと帰ってきて、またメンテさせてくれよな、艦娘さん。

 



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嘘つき挽歌(呉鎮守府:川内、神通)

呉の川内型姉妹のお話


 

こんこん、と部屋をノックする音が聞こえた。はて、姉の川内ならばノックをするような仲でもないし、一体誰だろう、と少々小首を傾げたところで扉越しにじんつー、あけてー、とのんびりした声が聞こえてきた。

 

「姉さん何して……わ」

「お酒のも、お酒」

 

にひひ、と胸元に抱える大量の酒瓶を見せながら姉の川内が中へと入ってきて中央のちゃぶ台にそれを並べていく。

 

「これ、高かったんじゃ」

「いいんだよどうせ使うところもないし」

 

鼻歌でも歌い出しそうな程にご機嫌におちょこをこちらにも差し出す。もちろん付き合うでしょ、と言わんばかりだ。軽巡にしてはお酒を飲む方である姉だが、飲むのはもっぱら私と二人きりのとき。飲み会などでは軽く口をつけてへらへらと交わしている姉が意外にいけるくちであると知れば、一部の重巡洋艦などは黙っていないだろう。だからこそ、なのだろうけど。

 

「なにかあったんですか?」

「ないよ」

 

静かに姉の盃に日本酒を注いでしめやかに乾杯し、なんとはなしに聞く。

 

「だから飲むんじゃん」

 

盃に目線を落としていた彼女はそうぽつりと呟くとまたそれに口をつける。

……姉は、とてもわかりづらい。姉妹である私にすら、お酒を入れたとてその内心を晒そうとはしない。頑固者、と一度以前怒ったところ、そりゃ神通のお姉ちゃんですから、と鼻で笑って誤魔化された。

だからこの姉にとって、何もないことこそが最大の幸福であるということに気づけるのは、果たして私を除いてどれくらいいるのだろう。様式美となりつつあるその無意味なやり取りを終え、しばらく黙って酒を酌み交わした。

 

「雨風しのげる場所がある、飢えることもない。その上お酒まで飲めるってんだから、いい身分になったもんだよね」

「ええ」

 

『──お前は、筋がいい』

 

よくある話だ。深海棲艦の空襲で親を失った子供たち。孤児院などにかくまわれる子はまだましな方で、行く宛もなくさまよう浮浪児達。深海棲艦との戦線が落ち着いてきたとて、未だその爪痕は深く残っている。そういった身寄りもなく、生きるために悪事に手を染めざるを得ない子供たちがまだまだたくさんいるのだ。

姉さんは昔から器用だったから。あの人に見初められて、仕込まれて。そうしてその上前を撥ねられつつも、なんとか少し体が弱く稼ぎの少ない私の分まで稼いできてくれて、細々と二人で生きてきたのだ。

 

『あたしがクソだってんなら。こんなことしなきゃ生きていけないこの世の中はもっとクソだ』

 

雨を避けるために地下道で膝を抱えながら身を寄せ合って。生きることに絶望しながら、それでも悪態をつきながら生にしがみつく。生きているか死んでいるかも区別のつかないような鬱々とした日々に比べれば、明日には死んでいるかもしれないこんな職業でもずっとずっとましだ。姉は器用だった。そうして私は艦娘となることで健康な体を手に入れ、健康な体を手に入れた私も姉ほどではないにしてもそれなりに色々なことができた。頭の鈍いやつから死んでいくような環境で育った私達は、それなりに頭もきれる方で、気がつけば二人ともこの呉鎮守府への転籍が決まっていた。

外を見やれば上弦の月がまだ高いところにあった。たまには、こんな早くからお酒を飲むのもいいだろう。なにせ姉は巡り巡って、現在この呉鎮守府でエースと呼ばれる程には忙しくしている身なのだから。

 

「……もう少し」

「ん?」

「皆にも、そういう顔を見せたらどうですか」

 

私の前で屈託なく笑うこの人は、滅多にそういう顔を他の人に見せない。以前グラーフさんのことを隙がなさすぎると言っていたけれど、私からすれば姉も大概だ。

隙を見せたら負けだ。そういう環境で生きてきたし、きっと姉がこういう風になってしまった一因は守らざるを得ない程に弱かった私にもあるのだろうけれども。艦娘となって私が隣で姉を支えられるようになっても、彼女は相変わらずだった。

 

「やだ」

「姉さん」

「そういうのは別のやつがやればいい。あたしはそんな器用じゃない」

 

そう言い切ってぐいっと一気に煽って空になったそれをこちらに差し出す。

 

「それに世代がかわって徐々に艦種間の上下関係も緩くなってきてるでしょ。あたしくらいはこれくらいでいいんだよ」

「……でも」

「神通」

 

柔らかな、それでいてはっきりとした拒絶を声にのせて姉さんが私を遮った。差し出された盃に私がお酒を注ぐ音が静かに室内に満ちる。

 

「嫌いなものに優しくできるほど器も大きくないしね」

 

ガキは嫌いなんだよ、ホント、とごちながらこの話は終わりと言わんばかりの彼女に。嘘つき、と内心呟き。そうして過去のとある出来事に思いを馳せるのであった。

 

 

時たま、夜一人でどこかにふらりと姿を消すことは昔からよくあった。昔は夜の雑踏に、今は、海の上に。

 

「姉さん」

 

後ろから静かに声をかければ、ひょっこりと彼女が振り返る。気配にさとい姉のことだ、きっと大分前から私の存在に気づいていたであろう彼女は、バレちゃった、と言わんばかりに笑いかけてきた。

 

「内緒にしといてっておっちゃんに頼んであるのに」

「姉さんのお気に入りのお酒を二本差し出したらあっという間でしたよ」

「ちょっと!?」

「そんなことはどうでもいいんです」

「いやいやいや待って大事、どれ、どれあげたの!?」

「──姉さん」

 

姉の言葉を強く遮る。

 

「どこに行くつもりですか」

 

その私の言葉を受けて、姉さんはしばし黙り込んだ。びゅうと海に向かってひときわ強い風が吹く。それに煽られ、姉の手元にあるそれがバサバサと音を立ててたなびいた。

 

「……ただの散歩だよ」

「わざわざ艤装をつけて、そんなものを片手に?」

「そ」

 

残念ながらショットガンは仕込んでないけど、と左手に持っていた花束をこちらに向ける。白い、菊の花束だった。

 

「……しょうがないなぁ」

 

とん、とその花束を肩に担いだ姉は少し困った顔をしながら。今回だけだよ、と呟いてすい、と海へと繰り出した。ついていっていい、ということだろう。この人の妹でよかったと思うことが幾度もある。どうしたって私には甘い、わがままを許容してくれるこの人の。

 

 

しばらく無言で航行を続けていたかと思うと、無線でこの辺でいい、と姉が呟き、緩やかに停止した。月も星も見えない真っ暗闇において、姉の航海灯が頼りなさげに夜の海に揺れる。

何をするのかと黙って待っていれば、徐に彼女は花束を海へと投げ入れた。

 

「……お国のためだ、なんだとこの海に散っていったのに」

 

姉の表情は、暗くてわからない。ただ淡々とそう切り出した彼女は、いつもよりは元気がないように感じられた。

 

「軍艦とすら呼ばれないなんて。惨めな、もんだ」

 

そう言って、黙って海のその先を。多くの仲間達が沈んでいった、遠くを見つめた。

 

『駆逐艦は嫌いだ、すぐ死ぬ』

『なんであたしがあんなガキのお守りしなきゃならないの』

 

口を開けば悪態しか出てこない。訓練は苛烈、その途中で失神しようがお構いなし。深海棲艦と戦う方がまだまし、とさえ囁かれている程に、姉の駆逐艦へのあたりは強い。

駆逐艦は、嫌いだ。その言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのように。でも、そうやって言い聞かせたところで。懐からものをスッてやって、それにはしゃぐ彼女らのさまを目を細めて見ていたり、訓練に耐え、予想を遥かに上回る結果を残した娘の頭をぽん、となでたり。どうしようもなくこの人は姉気質で、その言葉がどうしようもないほどの嘘であることだって、私は知っているのだ。

菊の花。手向けの、花。普通ならそれだけを意味するこの花束も。

──そら、くれてやる。お前らの菊花紋章だ。誰がなんと言おうとも。お前らは私にとって立派な軍艦だった。

 

「いい夜」

 

空を見上げてぽつりと呟く。

 

「夜は、いいよね」

 

姉さん、今どんな顔をしているんですか。頑固な姉は、絶対に心のうちをこぼさない。だから、こぼれ落ちそうになると闇夜に消えてゆく。それが、私は時たま、無性に怖い。

 

「私は。……お日様の下で姉さんの顔を見て、姉さんと笑いあう方が好きです」

「うん」

 

目を離せば闇夜に消えてしまいそうな危うさでそこに立つ姉を見失うまいと、必死に目を凝らしてそう答えれば。

 

「神通は、そのままでいて」

 

闇夜の向こうで。姉さんが笑ったような気がした。

 

 

「おしゃれしましょう、姉さん」

「……はい?」

 

ふわふわと定まらない思考のままそう切り出すと、姉さんは怪訝そうな顔で酒瓶のラベルを確認した。

 

「これ、度数そんな強かったっけ」

「よってまへん」

「酔ってる、酔ってるよ、神通」

 

ぐいと残りを煽って手酌でなみなみとお酒を追加すると、あ、ちょっと、と私を止めようとする姉さんが手を伸ばす。それを振り切りまた飲み干した。

 

「このお酒、そういう飲み方するやつじゃ……」

「那珂ちゃんが、呉にある可愛い簪屋さん教えてくれたんですよ」

「あー、横須賀行ってきたんだっけ。元気だった?」

「ええ。いいバックダンサー見つけたってはしゃいでました」

「誰だろ」

「舞風ちゃんと野分ちゃん」

「……舞風はともかくあいつはそんなガラじゃないでしょ」

 

はっ、と小馬鹿にするかのように鼻で笑う。

 

「姉さんって、結構野分ちゃん気にいってますよね」

「まさか。冗談よしてよ、あんな生意気なやつ」

 

ないない、と手を振って否定する姉をちゃぶ台に突っ伏しながらジト目で見上げる。

 

「おしゃれしましょう」

「いいよ、あたしは」

「私が」

 

『──は、こっち側来ちゃダメ』

 

いつだって自分を悪者にして。そうして私に与えるばかり。大きくなっても、健康になってもそれは変わらない。少しくらい、私だって。

 

「私が姉さんに、贈りたいんです」

「……」

「姉さん、きれいなんですから」

「それは妹の欲目じゃない?」

「姉さん」

 

行かないで。何度闇夜に消える姉を引き止めるその言葉を飲み込んだのだろう。何度。闇夜に消える姉に、恐怖したのだろう。姉さん、姉さん。

 

「お願い、だから」

 

確かにそこにいるということを。私に、感じさせてください。

 

 

すやすやと寝息をたてながら潰れた我が妹の前髪を軽く払ってやりながら一人ごちる。

 

「……灯台があるから、陸に帰れるんだけど」

 

自分がどうしようもなくこちら側であることを自覚しているから。だから、頑なに神通をこちら側にこさせることを拒んだ。わがままだということはわかっている。それでも自分がここまで、まぁそこそこ道は外しかけているけどまっとうに生きて来られたのはこの子がいたからなわけで。

 

「灯台から船を探すってのは、存外。心細いのかもしれないね」

 

どうしようもない姉でごめんね。それでも。こうやって小煩く叱って、姉さんと慕ってくれるこの子がいるから。きっとあたしは、ここにいられるのだと思う。

 

 

「ん」

「げ」

 

よりによって第一遭遇者がこいつか。思わず小さく舌打ちするも、そんなのはいつものことなので気に留めることもなく大井が近寄ってきた。

 

「珍しい。色気づいた?」

「馬鹿言わないでよ」

「夜戦馬鹿に馬鹿と言われる筋合いはないわよ」

 

お互い口が悪いのもあり、会えばこのような会話が繰り広げられるわけだが、これが通常運転だ。

居心地悪いのもあり、頭のそれをいじりながら言葉を濁す。

 

「あー、神通、が」

「ああ」

 

その言葉だけで察せられるのは同じ姉としての立場ゆえか。

 

「似合ってるじゃない、お姉ちゃん」

「あんたにお姉ちゃんとか言われる筋合いはない」

「後で青葉呼んだろ」

「やめて」

「そんで那珂に写真送ったろ」

「やめろ」

 

冗談じゃない、那珂にそんなものを手渡したが最後、横須賀中にばらまかれる。とある駆逐艦がそれを見て『馬子にも衣装ですね』と小馬鹿にする姿を想像して激しくイラッときた。

 

「いいじゃない。あんたきれいな黒髪なんだから映えるわよ」

「大井がつけたらキャバ嬢だもんね」

「素直に褒めてんだから素直に受け取れないの、あんた」

「大井が素直とか気持ち悪いんだよ。出撃前に、縁起でもない」

「このアマ」

「そう、そう。調子出てきたじゃない、おねーちゃん」

「こんな可愛げのないクソ妹なんて持った記憶ないわよ」

 

廊下を喧々諤々と歩いていると、すれ違う人達にまたやってる、というような視線を送られる。駆逐艦なんか姿を確認するや否や、ぴゃっと逃げ去る娘も数人。これがいわゆるあたし達の日常だ。鬼の川内、悪魔の大井。地獄の訓練で名を馳せる軽巡二人が揃えばさもありなん。ちなみに神通もそこそこしごくのだけれど、なぜかあの子には通り名がない。いや、どちらかというと名前すら口に出すのが恐ろしいという立ち位置なのかもしれない、あの子は態度こそ柔和だけれども訓練に慈悲はないから。

 

「まぁいいじゃない。たまには妹のわがまま聞いてあげるのも姉の務めよ」

「……木曾って、わがまま言うの?」

「言わないから言わせる」

「……ああ、うん。つくづくあんたみたいな姉を持たなくて良かったわ」

「そりゃこっちの台詞ね。あんたみたいな面倒くさい姉なんてごめんだわ」

 

やいのやいのと言い合いつつ、工廠へと一歩踏み出す。

 

「感謝することね、あんたなんかの妹やってる神通に」

 

そっくりそのまま返してやる、と内心悪態をついて少々やけっぱちにおはようございます、と声を張り上げると、最終点検をしていた明石さんが振り返った。

 

「あら。かわいいのつけてるじゃない」

 

呼び止められて立ち止まると、しゃり、と微かな音をそれが立てる。

 

「似合ってるでしょ」

「似合ってるけど。自分で言う?」

「そりゃあ」

 

指先で簪を撫でる。姉さん、姉さん。あたしにとってあの子の存在が灯台なのだとしたら。きっとこれはあの子にとって灯台から必死にあたしを探すための目印なのだろう。

 

「神通が選んだんだから。似合わないわけないでしょ」

「シスコン」

「シスコンだ」

「うるっさい」

 

そうしてあたしはまた海へと繰り出す。悪態をつきながら、鬼と恐れられながら。いつだってあたしの帰る場所である彼女のくれた、それを身に着けて。

 



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梅雨きたりて君想う‐前編‐(佐世保、呉鎮守府:萩風、加賀)

駆逐艦と空母の過去と現在の縁のお話。
長くなってしまったので前後編にわけました。


 

 いつだっただろう。ふと夜、外に出ようとして家の玄関の扉を閉めた瞬間。家屋から漏れ出る光が消えたその一瞬、なにものをも見通すことのできない闇に包まれ、びくりと立ちすくんだ。

 

『──まずは、夜目が利かなくなります』

 

 神経質そうに自身の腕をさすっていた母を気遣ってだろう。私の目を見て、そうして母に視線を移した主治医は、なるべく努めて穏やかな声色を保っていたように、思う。

 

『そうして徐々に徐々に、外側が見えにくくなっていって、視野が狭まります』

 

 進行自体はとてもゆっくりですけれど、と静かに医師が告げると、母は話を聞く前からお行儀よくしなきゃ、ときちんとお膝にのせていた私の両手を、上から包むように、右手でぎゅっと握りしめたのだ。その手が微かに震えていたのを、小さかった私は寒いのかなぁ、なんて思っていた。幼い私はとても無邪気で、それでいて愚かだった。

 だから、その緩やかに私を蝕むそれにやっと気づいたのは、初めて認識したのはその恐ろしい程の暗闇を前にしたあのときだったのだ。病院に行ったとき、少し……、ああ、いえ、と口籠った彼が何を言おうとしていたのかそのときの私にはわからなかったけれども、一般より症状の進行が早いのだ、と理解できる年頃にまで私が成長した頃には視界の外側が大分認識できなくなり、外を安心して出歩けるよう、白杖を常に携行するようになっていた。

 明日には、この目は何も映さなくなってしまうのではないか。そういう恐怖は症状が進行するにつれてじわじわと強くなった。何も見えない夜に恐怖して、そうして布団にもぐり、目を閉じることすら怖かった。目を閉じれば。もう、次の日にはこの暗闇から抜け出せなくなってしまうのではないかという恐怖が十分に私を蝕んだ頃。

 

「──やぁやぁ、陽炎型だ。こりゃ助かる」

 

 艦娘適性検査を、私は受けたのだ。

 

「こんなすぐに適性保持者が見つかるなんてねぇ」

 

 うんざりする程に長く、意味のわからない検査。それが終わって帰れると思った私は、別室にて待機を言い渡され、しばらくしてから妙に胡散臭いおじさんが待つ部屋へと通された。

 

「ここに呼ばれた意味はわかりますか」

「ええ、と」

「ああ、質問を変えましょうか。──何が見えました(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)?」

 

 机に頬杖をついて、じっとこちらを見つめる彼は、どこか面白そうに私を観察していた。

 

『──夜、は』

 

 急にざりざりと走るノイズ。そうしてふ、とぼんやりと網膜を照らしていた灯りが消え、闇に包まれた瞬間、不意に聞こえた誰かの声。なぜか。その声にひやりとしたものが背中を伝った。早く明るくならないものか、とその闇が一向に消えないことにじれ始めた頃、ちかちかと、ストロボが瞬くように色々な画像が瞬時に浮かんでは消えていった。あまりに朧気な画像と映し出されるその速さにほとんど理解することはできなかったけれど。なぜか、大きな手が頭を撫でるその感触と。声を殺すように泣きながら。胸にかき抱いたその紐の青さだけは、妙に脳裏に残った。そうして。

 

『こわ、くて。こわく、て』

 

「……」

「言いたくなければいいんですけどね。なにせトラウマをえぐられる娘も多いみたいですので」

「……あの」

「はい」

「見ての通り、私、視覚に障害があって。ですから」

 

 手元の白杖を見せ、そこで一旦言葉を切る。艦娘の適性保持者として選ばれたのだろうということは、この部屋に入る前から薄々感じていた。そうして選ばれてしまえば、実質拒否権などないのだろうということも。

 ──なんで、私が。

 艦娘として召集される娘なんて、全国的に見ればなんと数の少ないことか。だから、この目の病気をしっかり認識したときと同じような感想が私の心のうちに浮かんだ。なんで、私なの。幾度となく繰り返した問答。それに対する答えなんて、あるわけがなかった。運が悪かったとくちさがない人は囁いた。そんなのって、と反発したところで、そういう人達には何も伝わらなかった。可哀想なものをみるような目を向ける人、心配そうに声をかける人、無邪気に笑いものにする子供。この目は、色々なものがみえないけれど。色々なものも、見せてくれた。そうして普通の人が見えないようなものを見すぎて心が疲れると、どうしてもこの自嘲的なフレーズが思い浮かんでしまった。運が悪かったんだ。そうなのかもしれない。ああ、でも。不幸で不幸を打ち消せる日が来たというのなら、こんな目でもよかったかもしれない。日々失明の恐怖に怯え、心が疲れていた私は、力なく笑いながら。

 

「お力には、なれないかと思います」

 

 そう、彼に告げた。

 

「……」

 

 頬杖をついていた彼が、ぎしり、と音を立てて深く座り込む。応接室の少し高そうな革張りの椅子に沈んだ彼は、特に私の発言に対してなんの感慨も示さずに口を開いた。

 

「申し訳ないんですがねぇ、艦娘への召集は強制なんですよ。表向きは個人の意志を尊重するとしてますが、重度の身体欠損でもない限りほぼ拒否できた試しはありません」

 

 そうして机の上にあった一枚の赤い紙をひらりとこちらに見せる。艦娘召集令状。通称、赤紙。それは歴史の教科書に載っていた過去の軍への召集令状と瓜二つだった。

 

「……でも」

「ああ、それとですね」

 

 それを脇に置いて、しょり、と顎の無精ひげをなでながら、本当になんでもないことのように。

 

「保証はしませんが治ると思いますよ」

 

 そう言ってこちらをまたまっすぐに見つめてくる彼の言葉を理解するのに、私はしばし時間を要した。

 

「……え?」

「体が弱かった娘が健康になる。難病で四肢を動かすこともままならなかった娘が自由な体を手に入れる。まぁ、中には弱い部分は治らず、それを補う共感覚が研ぎ澄まされた例もありますけれど」

 

 ──人が言う、不幸に、不幸が重なって。

 

「戦いに必要なものを補うように体が変化する。艦娘とは、そういうものです(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)。……興味、出ました?」

 

 そうして私は。人の名を捨て、駆逐艦、萩風となるための一歩を踏み出したのだ。

 

 

「──なぜ、艦娘は比較的若い女性しかなれないのか。疑問に思う人も、たくさんいると思います」

 

 ガク、と頬杖をついていた手から滑り落ちたことで眠気が一瞬飛んだ俺は、慌てて平静を装って教科書をめくった。やべぇ、完全に寝てた。教科書を立ててちらりと様子を伺えば苦笑いをされたので、おそらく気づいているのだろう。それを咎められることは滅多にないけれど、さすがにちょっと罪悪感が湧いた。

 

「簡単に言えば、あなた達は憑人(よりまし)、いわゆる付喪神の声を受け取ることができる特別な人達です」

 

 だってこの講義わけわかんないしなぁ。ちらりと周りを見回せば、主に自分よりも年下の駆逐艦候補生達がすでに夢の中へと沈んでいた。うん、起きただけ俺偉いよな。

 

「古代から神事は女性がするもの、とされていますが、その理由に対しては諸説あります。例えば霊能力は共感能力の一種であるとしている説では、女性は男性よりも他者への感情理解の能力が高い点に着目していて──」

 

 ……何言ってるか、全然わからん。ぺき、とシャーペンの芯が折れたことで完全にやる気をなくした俺は、密かにため息をつきながら窓を見やった。

 少し熱の籠もった教室内に、さぁ、と海風が吹き込む。初夏の青い空と、ふわりと揺れる白いカーテンのコントラストがなんとも夏の始まりを象徴するかのようだった。

 

「──深海棲艦との戦いは、一種の鎮魂歌(レクイエム)である」

 

 あー、外で日向ぼっこでもしたいなーなどとどうでもいいことを考えていたら、急に教官が詩的なことを言い始めたので、なんだ? と視線を戻す。

 

「深海棲艦は過去の亡霊の嘆きであるとした詩人の言葉です」

 

 ……あれ、気づかないうちになんかの文学作品紹介になってる。この人、色々と知識豊富っぽいんだけどそのせいかこうやってよく話が脱線してなんの話をしているのかわからなくなるのが玉に瑕だ。

 

「どうして深海棲艦は現れたのか。なぜ現代の最新兵器が効かないのか。未だに謎が多く、議論され続けているこの議題に対して彼は独自の解釈を加えた書籍を出しています。科学的根拠とかボロボロなんだけれど、その語り口が妙に引き込むという評判が評判を呼び、その界隈ではかなりの人気を誇る一冊です。手に入れるのに結構苦労しちゃった」

 

 嬉しそうにその本をこちらに見せる教官を見て、この人本当にこういうの好きなんだろうなぁと思った。好きなこと話すのって楽しいよな。でも、やっぱりこういう話ってちょっと俺くらいの年代には難しいっていうか、あんまり食指が動かないっつーか。俺は京都行ったらお寺そっちのけで木刀を買うようなやつだぞ。そんなやつにこんな話をきちんと理解しろってのがまず無理なんだよなぁ。

 とにかく眠気をどうにかしようと無心でカチカチとシャーペンの芯を伸ばしていたら、教官が静かにその一節を読み上げ始めた。

 

「──おお、小さき人よ。なぜお前たちはすぐに忘れてしまうのか。どうして忘れ、そうして繰り返すのか」

 

 かつん、こつん。ゆっくりと教室を練り歩く教官の足音が静かに響き渡る。

 

「我らが苦しみは未だ海を彷徨い、この傷は癒えぬまま。だというのに、ああ、愚かなる人よ」

 

 う、やばい。朗読されると一層耳に心地よくてきつい。うつら、うつらと舟をこぎそうになるのを必死に堪え。

 

「──忘れたというのなら」

 

 そうして、意識が落ちるか否かの、夢と現の狭間に。

 

『──勝手に』

 

 教官の声に、副音声のようにかぶる、なにか。

 

「我らが、代わりに思い出させてやろう」

『勝手に忘れるなんて、絶対に、許さねぇ』

 

 ──ガタンッ!!! 

 

 机に手をついて思いっきり立ち上がった俺に対して、びっくりして振り返った教官、寝こけているところに大きな音を出されて釣られてガタタ、と物音を立てて飛び起きる駆逐艦候補生数名と、真面目に授業を受けていた生徒達。教室内のほぼ全員の視線を集めてようやっと俺は我に返った。

 

「あ、あー……すみません! 寝てましたぁ!!!」

 

 しばしの沈黙が気まずくなり、勢いよく頭を下げて俺が謝罪するのと、チャイムが鳴るのは同時だった。

 

「……き、気をつけて、ね?」

 

 開き直った俺に対してそれでも彼女は怒ることなく、苦笑いをして課題の範囲を読み上げた。ホッとしてゆるゆると席に座ると、伝達事項を伝え終えた教官がちょいちょいと手招きをした。あ、やっぱりげんこつの一つでももらうんだろうか。

 寝てた俺が悪いんだ、と席をたって教官の前にすごすごと向かう。

 

拾陸番(じゅうろくばん)って、今寮の部屋一人だったよね?」

「あ、はい」

「実はね、ここにいる子達と別カリキュラムを受けている子が一人いるんだけど。その子と同室になってもらうから伝えておこうかと思って」

「いつからですか?」

「訓練所に配属されてから」

「……あれ、じゃあ俺」

「配属は佐世保。発表はまだだから一応皆には内緒にしててね」

「了解です」

 

 そこで教官は一旦言葉を区切ると、じっと俺のことを見つめてきた。う、そろそろげんこつかな。

 

「ねぇ」

「は、はい!」

「さっき、嫌な夢でも見てた?」

「……へ?」

 

 そらげんこつだ、と姿勢を正したら、予想外のことを聞かれ面食らう。そこは寝るなじゃねぇの? 

 

「え、えー……と」

「拾陸番の艦魄って、最近引き上げられた()だから。そういう子って、結構夢見が悪かったりするらしいの。きちんと寝られてる?」

「……えと」

 

 どうしよう。大人しく白状するべきだろうか。でもこれって教官が言ってることとは関係ないような気もするけど。しばらくまごついていたが、それでも静かにこちらを見つめ続ける彼女に根負けして口を開いた。

 

「多分、そういうのじゃないんですけど。元々、あー……夜が、苦手で。あんまり、寝られてないというか」

 

『……母さん?』

 

 ──夜の、台所。明かりもつけずにテーブルにつっぷしている母。体が弱い母さんがこんなところで寝てたら風邪をひいてしまうだろう、と起こすことにしたのだ。元々夜目がきく方で、電気をつけずにそのまま静かに寝ているように見えた母に近寄って、肩を揺すったところで。いつもと、何かが決定的に違うということに、気づいてしまった。

 

『──夜は、なんかやだよなぁ』

 

 全くだぜ、と同意をしてから。なんだ今の声、と深く考える前に装置を外され、そうして真っ赤なペラペラの紙を一枚渡された。

 親戚の家に身を寄せていた俺には都合がよかった。腫物扱いをされ、息が詰まるようなあの家にいるより、きっとなんぼかマシだと飛び出して、そうして今ここにいるわけだけれども。やはりまだまだ夜に苦手意識があって、夜自室で一人布団にくるまっていると途端に恐ろしくなってしまうのだ。

 ──夜の闇が、母さんをさらっていってしまったんだ。

 そう考え始めると、静かな夜の耳鳴り、その暗闇がとても恐ろしいもののように思えて、中々寝つくことができないでいた。

 

「カウンセリング、受ける?」

「いや、そこまでじゃないんですけど。……居眠りの言い訳にはなんないスね、すみません」

 

 日常生活に支障がでるほどではない。ただ、眠りに落ちるまでの少しの間早く寝ろ、早く落ちろ、と待ち続ける時間が苦手なだけで。だから俺はそこで話を切って頭を下げた。

 

「新しい子と仲良くなれるといいね」

「そう、ですね」

「誰かがいてくれれば、夜も心細くなくなるかもしれないし」

 

 母さんがいなくなってから、誰かと共に夜を過ごすといったことを久しくしていない。学校から帰ってもほとんど誰もリビングにいない。俺が帰ってくると皆自室に籠るのだ、ということは薄々感じていた。そりゃあ、まぁ。あまり縁もなかったし、向こうからしたらいい迷惑だっただろう。それでも引き取ってくれたことには感謝しなきゃな、と思いつつ。いつもおかえりの代わりにラップがかけられたご飯と書き置きだけが待っているだけのあの空間が、どうしても好きにはなれなかった。

 

「……だといいんですけど」

 

 へらり、と力なく笑いながら。夜、真っ暗じゃないと寝られない子だったらどうしような、とちょびっとだけ不安になるのだった。

 

 

 艤装を身につけるのにも、白杖なしで生活する状態にも慣れた頃。私はようやく訓練所へと配属になり。

 

「俺、駆逐艦拾陸番。今日から寮で同室だ、よろしくな」

 

 そうしてようやく、初めてまともに他の候補生と会話をしたのだった。

 笑いながら握手を求める同じ陽炎型駆逐艦の候補生であると名乗りを上げた彼女は、一見するとまるで男の子みたいだった。思ったより気さくな子でよかった、と内心ホッとしながら握手を交わすと、拾陸番と名乗りを上げた彼女はちょんちょん、と自分の頭を指差しながら会話を続けた。

 

「もうプリンになってる」

「私、他の子と違って先に艤装接続をしてるから」

「ふーん。俺もやっぱ色変わるのかなぁ。駆逐艦はカラフルだって言うよな」

「……ピンクとかだったりして」

「うへぇ、やめてくれ……ぜってぇ似合わない自信ある」

 

 艦娘は人でありながら人ではないなにか。そう言われる理由の一つとして、髪色の変化があげられた。だから訓練所上がりの新人艦娘というのは一発でわかるらしい。髪の毛の色がまだ馴染み切らず、プリンのようになっている娘が多いのだ。

 

「今日から海の上だな〜、ようやっとって感じ。座学はもう勘弁」

 

 頭の後ろで手を組みながらのんびりと歩きだした彼女の背中を追う。特段、私は社交的ではないのだけれど。なぜかこの子は初対面にしては妙に話しやすいと感じた。うまく言葉で表せない妙な感覚に多少そわりとしながらも声をかける。

 

「拾陸番、見るからに体動かす方が好きそうだもんね」

「まーな。そっちはインドアっぽく見えるけど」

 

 横に並んだ私にちらりと視線を寄越して、なんとはなしにそう続ける。

 

「……結構、体を動かすの好きだよ」

「へぇ、ちょっと意外」

 

 思い切り体を動かせば、限られた視界の外側にある障害物にぶつかってしまうから。白杖は、私の目の代わり。見えない何かが確かにそこにあることを教えてもらって、ようやく私は安心して動くことができた。だから。

 

「楽しみ」

「ん?」

 

 お前は死にに行くんだぞ、と両肩をがっちりと掴んで訴えたお父さん。両手で顔を覆って終始涙を流し、こちらを見ようとしないお母さん。私は、両親にとても愛されていたと思う。だから、内心ごめんなさいと二人に謝る。

 ごめんなさい、お父さん、お母さん。きっと私は、二人より長生きはできないのかもしれないけれど、それでも。

 空はこんなにも広かったのだと思い出してしまったから。見えないなにかに怯えず、力の限り前ヘと跳ねるように足を進めることができる、この体が。どこまでもどこまでも遠くを見通せる、この目が。

 

「海の上は。きっと気持ちいいんだろうね」

 

 どうしようもないほどに、愛しくて。どうしようもないほど艦娘になれたことに対して、喜びを覚えてしまったから。

 お父さん、お母さん。親不孝な娘で、ごめんなさい。

 

 

 すぐに、わかった。夜になり、薄暗い廊下を歩くときの不安そうな様子であるとか。部屋について明かりをつけたとき、ほっとするように、多分無意識なんだろうけれど、ぎゅっと胸元の服を握りしめていた手が緩む様であるとかを見て。

 ──同じだ。

 それは、直感に近かったけれども、妙に確信をもってそう思えた。だから努めて明るくその子に声をかけたのだ。

 

「なぁ、カーテン開けてていい?」

 

 灯火管制で夜は明かりを落とさねばならない。それでもカーテンを開けていれば微かな月の光が差し込んで幾分か気が紛れるのだ。幸いに今日は満月だったのもあり、いつもよりこの部屋を明るく照らしてくれるだろう。

 

「俺さー、真っ暗だと落ち着かなくて!」

「そ、うなんだ」

「うん。気にする?」

「ううん。……私も、真っ暗なのはちょっと苦手だから」

 

 ほらやっぱり。笑え笑え、ただでさえこの子は俺と違って初めて他の艦娘達と顔を合わせて、初めて会った俺との同室生活に不安なんだ。どうせ、すぐにばれちゃうんだろうけど。それでも今日くらいは。

 

「はは、俺達結構気が合うかもな」

 

 笑ってこの子の緊張を吹き飛ばしてやろうと思えるくらいには。まぁ、なんだ。今思えば俺は結構最初から気に入ってたんだと思う、萩のこと。

 

 

 よいしょ、とそこそこの量の書類を両腕で抱えなおしてきょろきょろと辺りを見回す。

 

『座学がなくなってラッキーって思った? ざーんねーん』

 

 次回演習場の申請書類。演習結果報告書、備品欠損報告書。一人前の艦娘となったときにある程度事務作業もこなせるよう、こういった雑務も駆逐隊の仲間で持ち回りで担当することになっていた。

 候補生は普段は訓練棟にいるので滅多に庁舎を訪れることはないのだけれど、こういった書類を届ける際にはこの佐世保鎮守府庁舎を訪れなければならなかった。案内掲示板を眺め、行き先を確認して歩き出すと向かいから大人びた女性が歩いてきた。

 

『俺、艦娘見たぜ。あれは絶対戦艦の人だ』

 

 書類業務に頭を悩ませ、虚ろな目で庁舎に向かった拾陸番が興奮さめやらぬ、といった様子で活き活きと帰ってきたことがある。ここは佐世保鎮守府庁舎。すれ違う女性は艦娘であることが、多い。

 落ち着いた雰囲気の人だ。道着を着ているから、空母か、あるいは戦艦か。あまり不躾に見ても失礼にあたるだろうと、観察もそこそこに少しの緊張感と共に歩き出す。

 

「……執務室?」

 

 その人に道をあけるよう、脇につめてすれ違おうとしたとき。ぽつりと呟かれたその言葉が私に向けてなのだと理解するには時間がかかって、あわや通り過ぎるというところで気づいた私は、足を止めて、こわごわとその人を見上げた。

 じっとこちらを見つめて黙り込むその女性。無表情で見下されているのもあり、無意識に圧を感じてしまった私は、ついついどもってしまった。

 

「は、はい」

「そう。今提督はいないけれど、鈴谷がいるから。彼女に渡せばいいわ」

「わ、わかりました。ありがとうございます」

 

 ぺこ、とお辞儀をしてまた彼女を見上げれば、彼女は立ち去ることなくまだこちらを見下ろしていた。ま、まだ何かあるのかな。内心びくびくしていた私は、そんな心持ちだったものだから、彼女がぬっと手を伸ばしてきたとき思わずびくっと肩をすくめて目をつぶってしまった。

 

 ──ぽん。

 

 だから彼女の手が私の頭を撫でたのだということは、その温かで大きな手の平の感触から理解したし。

 

「頑張りなさい」

 

 目を開いたときに揺れる、彼女の袴のその青さが。妙に、鮮やかに目に飛び込んできたのだった。

 何も言えず、ただただ見上げるだけの私に、彼女は最後にふと少しだけ表情を緩めて去っていった。

 

 

「ん、今日から拾漆番(じゅうななばん)ちゃんか」

 

 チョコ食べる〜? とのんびりと個包装タイプのチョコレートを一つ差し出しながら、佐世保鎮守府の現秘書艦である鈴谷さんが提督の執務室で出迎えてくれた。

 

「ありがとうございます」

「ほい、じゃあ鈴谷が見てあげるねー」

 

 ……チョコレート、久々。この地域は比較的深海棲艦による被害が昔から少なかったこともあり、内陸部などは特に、いわゆる"普通"の生活をしている人達が多い。一方北陸の方などは未だ深海棲艦の爪痕が深く、家をもたない浮浪者などがまだまだ多く存在するという。そういった話は、同じ日本国内といえどまるでどこか遠くの国の出来事のように実感がわかなかった。それでも海上交通線が安定化してきたといってもまだまだ供給が不安定な中、こういった嗜好品がわりかし貴重であることは全国共通で、間宮の羊羹やプリンなどが艦娘間である種の取引通貨となっているという噂は候補生の中で広がっていた。横須賀に配属にならないかなぁ、でも横須賀配属になったら護衛任務ばっかりよ、それは、つまんなさそうだよなぁ、などとそういう情報にさとい娘達が話していたので尋ねてみたら、皆の憧れ、間宮の拠点は横須賀で、横須賀に配属になれば好きなときに甘いものが食べられるのよ、と教えてくれた。

 艦娘になった特権の一つとして、そういった嗜好品が優先的に回されることが上げられるだろう。体をはって戦っている艦娘も女の子である。そういったものが戦意の向上へと繋がっていることは間違いないだろう。

 私から受け取った書類をパラパラと流し見して、チョコレートをもう一つ頬張ったところで鈴谷さんが口を開いた。

 

「初めてにしては上出来だね。ケアレスミスが何個かと、あと演習場選びはコツがいるからね」

「え……もうチェック終わったんですか?」

「まー秘書艦ですから」

 

 そう言ってとんとん、と書類を整えて不備のあるものを引き抜いていく。

 

「拾漆番ちゃんは丁寧に書いてくれるから見やすいし、大体ミスるポイントってあるから。ずーっとやってれば不備がどこにあるかくらい一瞬でわかるようになるって」

 

 そう、かな? それは、たぶん、違うような気がする。鈴谷さんは椅子の背もたれをくるりと前に回してそこにだらしなく寄りかかりながらちょいちょい、と私を手招いた。

 

「もー提督とかマジ悪筆。古文書でも読んでる気分になるし」

 

 そうしてすい、と空に人差し指で円を描いて、これが提督の署名、と苦笑いしながら呟いた。なるほど、それは確かにわからない。

 そうして今日は時間あるから、と一つ一つ丁寧に間違えたところを教えてくれた。

 

「あの」

「ん?」

「私がくる前に、どなたかここに来ませんでしたか」

「うーん、直近だと加賀さんかな」

「加賀さん」

「そう。……やりました」

「なんですか、それ」

「加賀さんのものまね。似てるっしょ」

 

 恐らくすれ違ったあの人のことなのだろうけど、残念ながら私にはそれが似ているかどうかの判断がつかなかった。

 

「はい、おーしまい」

「ありがとうございます」

「いいって、いい気分転換なったし。ほいじゃー残り、片付けちゃいますか〜」

 

 そう言うなり鈴谷さんはぐーっと伸びをして、提督がいつも使っているであろう執務机に座り、山積みになっている書類を高速で処理し始めた。す、すごい。

 

「鈴谷はできる女だよ〜?」

「あ! ええと、そういう、意味では……ごめんなさい」

「あはは、素直だね。いいよ、慣れてるから」

 

 正直外見とのギャップがすごくて感心してしまった。そうしてそれを見透かされたことが恥ずかしくなって、素直に謝る。

 

「提督もあんなだしー? 鈴谷と合わせて割れ鍋にとじ蓋って言われてるし」

「……ひどい」

「ありがと。まぁ何にしても目立つやつは叩かれるのが常だからねぇ。だからこうやってフレッシュな候補生との交流はいい気分転換になるんだ」

 

 にひひ、と笑って私との会話を続けながらも書類をひょいひょいと処理してきっちりと整理整頓していく。執務室も綺麗に掃除されているし。もしかしたら結構まめな人なのかもしれない。

 

「駆逐艦の娘達は真っ直ぐだからねぇ、見てて気持ちがいいよね」

「真っ直ぐ、ですか」

「うん。駆逐艦の生き様は私達の誇りだよ」

 

 ぽん、と書類に判子を押して、それを脇に片付ける。そうして鈴谷さんは、本当に楽しそうにこちらに笑いかけるのだった。

 

「……私、そんな大した人間じゃ」

「あはは、プレッシャーかけちゃった?」

「そうではないです、けど」

「ごめんごめん。でも大丈夫だよ」

 

 とんとん、と胸を人差し指で叩いてから。一拍おいて、こちらをしっかりと見つめて。

 

「──拾漆番ちゃんも駆逐艦だからね」

 

 そうはっきりと言った彼女の言葉の意図はよくわからなかったけれども、それに対して妙な気恥ずかしさを覚えた私はつい軽く反論してしまった。

 

「まだ、なれるか」

「なれるよ。こう見えて結構人を見る目あるんだ〜、鈴谷」

 

 ──佐世保は、なんか、ちゃらくてゆるい。提督と秘書艦の鈴谷さんを中心に、少し癖の強い人、あるいはゆるい人がよく集まるのが佐世保鎮守府、という評価が一般的であるらしいということは噂好きの同期から小耳に挟んだことがある。ちゃらくてゆるい空の戦いの専門家の佐世保、規律が厳しくまさに軍隊然としている第一線の呉、そしていわゆる落ちこぼれが集うアットホームなだけが売りの護衛の横須賀、などなど。噂に尾ひれがついてあることないこと色々とあるのだろうけれども、私も訓練所に配属になって始めてここの提督と鈴谷さんを見たときはああ、なるほど、と思った。

 

「でも優秀な駆逐艦は呉によく取られちゃうからな〜」

 

 でもこうして話してみれば鈴谷さんは面倒見がよく仕事も丁寧で、喋り方こそ少し軽いけれども見た目ほど中身もちゃらちゃらはしていなかった。あれがあくまで外見に基づいた噂でしかないということは薄々わかっていた。人は人を、見た目で判断するということを。私もよく知っているから。

 

「ま、どこに配属になってもさ、たまに顔みせてよ」

 

 そうして目の前にいるこの人は、確かに親愛の念でもって私に接しているということも。それが心地よく、多分、こういうところがこの人が佐世保の秘書艦である所以なのだろうということも。

 

「やっぱ最初に面倒見た子って、可愛いじゃん?」

 

 そう感じる私のこの感覚は、きっと間違っていない。だから私も、そう言って笑いかける彼女に笑い返したのだった。

 

 

 しとしとと静かに降る雨が窓を叩く。梅雨入りを象徴するかのようなその雨を見上げながら、手を止めて嵐がぽつりと呟いた。

 

「久々の佐世保だなぁ」

「明後日の佐世保の天気は晴れだって」

「そいつはよかった。艦載機も気持ちよく飛ばせるだろうな」

「でも明日はどしゃぶり」

「そいつは……よくねぇなぁ。じめじめしてやんなるぜ」

 

 そう言ってため息をひとつついて、嵐はまたのろのろと明日の準備を再開すべく手を動かし始めた。

 

「なんか候補生時代がすっごい昔のことみたいだよな」

「確かに」

 

 一人前の艦娘となり、呉に配属されてからあっちへこっちへ、やれ残存敵戦力の掃討作戦だ、船団護衛に輸送作戦だ、そら対潜警戒など飛び回ってはいるものの、ゆっくりと腰を据えて他の鎮守府へ訪れるということは滅多になかった。

 ここ最近は戦線も落ち着き、いわゆる大規模作戦が必要となる強大な深海棲艦の出現もなりを潜めていた。そのおかげでもあってか、私達のような新人が練度もろくに上がらぬまま苛烈な戦いに放り込まれることも前に比べれば少なくなったらしい。といっても、一時的な平和状態になったらなったで駆逐艦のお仕事は減るわけではない。最前線での基地の構築およびそれに伴う物資の輸送。最前線周辺の海上交通線には補給艦を沈めようと虎視眈々と隙を狙っている敵潜水艦がうようよいるため、私達のお仕事は必然的にその補給艦の護衛任務や輸送作戦がメインとなっていた。おかげでソナーと爆雷の使い方ばかりうまくなった、と嵐がぼやいていたら、

 

『ソナー使えるだけいいじゃないか、響達はそんないい装備持ってないから専ら目視だよ』

 

 と、そのとき合同で護衛作戦に参加していた横須賀所属の響ににっこりと微笑みかけられた。なお目は全然笑ってなかった。今は割と戦況が落ち着いているから護衛に回されている私達だけれど、いざ戦いが始まれば護衛任務は横須賀が中心となって回さねばならない。さらに言うならば中規模作戦以上は横須賀からも艦娘が引き抜かれ、装備もどんどん巻き上げられる、と爽やかに毒を吐きつづけていた響が最後に人手が足りない、装備も足りない、ついでに言えば護衛任務は駆逐艦から人気もない、ないないづくしのアットホームなところだけが売りの職場さ、なんて朗らかに笑っていたけれど、こちらは全く笑えなかった。あの噂は、あながち間違ってはいなかったらしい。最も、響が落ちこぼれだなんて思いもしなかったけれども。

 

『駆逐艦は魚雷で戦艦沈めてなんぼだろ』

『そうかな。一隻深海棲艦を派手に沈めるよりも、全員を無事に届ける方が難しいんだよ。それに』

 

 嵐はいわゆる典型的な駆逐艦、大きな獲物を仕留めることに対する憧れが強く、それに対して護衛専門の響はそんな喧嘩っ早い駆逐艦の中では少し変わった意見の持ち主だった。そんな二人が言い合いになるのは当たり前と言えば当たり前だけれど、遥かに私達より艦歴が長い響が発する言葉のひとつひとつには妙な重みがあって。

 

『私は誰かを守れる力の方が、欲しいかな』

 

 そうして、そうぽつりと呟いた彼女の横顔は、どこか(うれ)いを帯びていた。

 その話を聞いて以来思うところがあったのか、嵐は護衛作戦について文句を言わなくなった。そうして黙々と任務をこなしているうちに、爆雷は素質あるな、とあの川内さんがぽつりとこぼすほどの腕前になってしまったのは本人的にはあまり納得がいっていないようだけど。

 ひょいっと缶ジュースを放り投げながら嵐がため息を一つつく。

 

「はぁ、爆雷は得意なんだけどなぁ」

「好き嫌いはダメだよ」

「わかってんだけどさぁ、対空はなぁ。ちまちました感じが苦手だぜ。やっぱ魚雷とか爆雷でドカンドカンやれる方が性にあってるんだよなぁ」

 

 あ゛〜、と声を上げながら自分の机に背を預けて伸びをしている。どうやら準備に飽きたようで、気分転換にお喋りがしたいみたいだ。

 

「それにしっかりと空母の護衛すんの初めてだし。ちょっと緊張しねぇ?」

 

 それは、確かに。戦闘を主目的とした空母の護衛は演習と言えども初めてだ。他の鎮守府との合同演習となれば、それは呉鎮守府の代表として参加するようなもので、そんななかこんな大役に抜擢されたのに私も少なからず緊張していた。

 空母、かぁ。最近嵐がグラーフさんと仲良くしているのもあって二言三言会話を交わす機会が増えたけれども、それにしても私にとって空母の人達はちょっと近寄りがたいというか、一種の憧憬のようなものがあった。

 ──緊張と、不安と、それから憧れと。見上げた彼女の表情は、強い日差しが逆光になってよく見えなかった。ただ静かにしばらく見下ろしていた彼女が、そろりと伸ばした手がぽん、と私の頭に置かれたとき。その人の、熱を、命をそこに感じたときに。私は、自分の心に誓ったのだ。絶対に、この人を。

 

「萩?」

 

 嵐の訝しげな声でハッと我に返る。ううん、私もちょっと疲れてきちゃったのかな。

 

「あ、うん。そうだね。……責任、重大だし」

「なー」

 

 しっかりしなくちゃ。私がポカしたら皆に迷惑がかかっちゃう。よし、と気合を入れて再度準備にとりかかると、嵐もあくびを一つしながらごそごそと作業に戻った。

 そうして一段落し、今日は少し早めに床につこうか、となったところで。

 

「なぁ、今日つけていい?」

 

 嵐が最近恒例になりつつある、プラネタリウム装置を両手に抱えてこちらに笑いかけてきた。

 

「いいよ」

「さんきゅ。なんかいつもと違う理由で寝られそうになくてさぁ」

 

 そうして二人して照明を落として二段ベッドの下段に潜り込む。嵐がスイッチを入れると、ベッドの天板に星が描き出された。

 

『──なぁ、萩。今日はこれつけて寝ようぜ』

 

 あの日嵐がプラネタリウム装置を持ち込むまで、私達はお互いの弱さに不干渉だった。

 嵐も夜が苦手であるということは、一緒の部屋で生活を始めて数日のうちに感づいていた。私も、寝付きが悪いから。意識が落ちるまでのその間、嵐が落ち着きなく寝返りをうつ気配や、時折溢れる小さな声にもならない声を聞いて、なんとなく。この子も夜が苦手なのかもしれないと。

 それでも空元気だとしてもこちらを気遣ってくれた嵐の優しさを無碍にしたくなかったし、暗闇が苦手なのだと告白をしてその理由を聞かれるのが嫌だったのもあって、こちらから踏み込むこともせずにいた。そうしていつしか、カーテンを開け放して寝ることはなんとなく二人の中で暗黙の了解のようになっていた。

 だから、多分。あの日人工的な星空を二人して見上げ、お互いの弱さを少しだけ共有してから、私達の関係も少しずつ変わってきたように思う。

 カチカチと手元のそれをいじりながら嵐がなんの気なしに呟く。

 

「そろそろ夏の大三角形見えっかな」

「まだじゃないかな。嵐、ちゃんと星の名前覚えてるの?」

「バカにすんなよな、あれがデブネ!」

「デネブだよ……」

「あれ?」

「デネブさん、デブなんて言われたら怒っちゃうよ」

「そんな乙女心がデネブさんに……」

 

 毎回話すのは、そんなくだらないこと。夜が苦手な私達は、少し心細くなるとこうやって人工的な星空を見上げて言葉を交わした。微かとは言え、柔らかな光が注ぐことの安心感と、隣に誰かがいてくれる安心感。夜は、苦手だけれど。こうして嵐と緩やかに眠気がおそってくるまでに過ごす穏やか時間は、いつしかそんなに嫌いではなくなっていた。

 

 

 

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後編は22時頃up予定です。


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梅雨きたりて君想う‐後編‐(佐世保、呉鎮守府:萩風、加賀、瑞鶴、秋月)

 

 演習前の少しの空き時間。佐世保いくんならさー、とあれこれとお土産を要求してきた朝霜を含めた夕雲型のご要望の品を揃え、ぱたぱたと集合場所へと向かう。

 

『あたいら、横須賀行ってきたんだ。わかるだろ?』

 

 爪楊枝で羊羹を刺すジェスチャーと共にそう言われれば、仕方がない。間宮の羊羹はとにかくレートが高いのだ。皆で分担したとは言え、少し物珍しいものの担当になってしまった私は予想より時間がかかってしまい、気づけば演習前の打ち合わせの時間ぎりぎりになってしまった。

 息を弾ませながら埠頭の方へと向かうと、遠目に人だかりが見えた。あれかしら、と小走りで近寄ると一際陽気な声がその一団から響く。

 

「カガー! 今夜のご飯はなんですか? パスタですか? それともパスタですか??」

「パスタは昨日食べたでしょう、アクィラ」

「カガ、ガンビー見なかった?」

「また迷子ですか」

「そうなのよ……困ったわ、演習まで時間がないのに」

「鈴谷に伝えて館内放送で呼びかけてみましょう。サラは準備をすすめてて」

「カガ〜」

「加賀さ〜ん」

 

 ああ、こっちは佐世保の人達か、と速度を落として息をととのえる。佐世保に新しく着任した海外空母との演習も兼ねている、と聞いていたけれど。その一団にちらほらと点在する日本人離れした容姿の人達と、そしてその人達がまとう日本空母と違う艤装に少しばかりの興味がひかれたのと。その中心で、表情を一切変えずにテキパキと指示を飛ばしているその人に、意識をもっていかれた。

 

「よっ、さすが佐世保の保母さん!」

「……手のかかる子が多くて困ったものね。あなたみたいに」

「いだだだだだだアイアンクローはやめてあたたた!!!」

 

 そうしてその人は滞りなく対応をしながら、茶々を入れてきた女の子にそちらを見向きもせずにアイアンクローを決めていた。ズィーカク……またやってる……と周りの人達が呆れる声を聞きながら、ああ、皆を探さないと、と思ったとき。偶然にも彼女と視線がかち合ってしまった。

 

「見かけない娘ね。呉の人達なら──あら」

 

 そうして少し目を見開く加賀さんと、その隙に逃げ出すアイアンクローの被害者。

 

「ねぇ! 顔変形してない!?」

「大丈夫、ズィーカクの天使みたいにカワイイお顔は無事ですよ」

「息をするかのようにくどいてくるイタリア艦こっわ! 頬に手を添えるな!!!」

 

 ぎゃあぎゃあ少し離れたところでしゃがみ込んで騒いでいる彼女らを完全に無視して加賀さんが私に向き直った。

 

「……どこかで、会ったかしら」

「あ、私候補生時代佐世保にいましたので」

「ああ」

 

 顎に手を当てて思案していた彼女は、合点がいったという顔で小さく頷く。そんな彼女にきちんと敬礼をして自己紹介をすることにした。

 

「呉鎮守府所属、陽炎型駆逐艦の萩風です。本日はよろしくお願いします」

「佐世保鎮守府所属、航空母艦の加賀です。……呉の娘はしっかりしてるわね、やはり」

 

 そう答礼を返してから加賀さんはぼそりとつぶやき、うずくまっていた女の子に視線を向けてため息をついた。なによ! 文句あんなら面と向かって言いなさいよ! とその子が吠えるとそういうところよ、と静かに加賀さんが毒を吐く。

 

「赤城さんは、元気かしら」

「お知り合いですか?」

「ええ。私は以前、呉にいたの」

 

 一時期戦線を離れていたため、リハビリがてら呉での演習を重ね、ようやく実戦へと投入されるかという段階での改二戊改装。普段の業務をこなしながらの艤装のならし、新たに実装された軍刀に対する訓練など忙しそうにしている赤城さんは滅多に他の鎮守府へ向かうことはなかったように思う。だから同じ一航戦とはいえ、さも親しい友人であるかのように彼女の口から赤城さんの名前が出たことが不思議だったのだ、純粋に。

 ──俺らが呉に所属する数年前、大規模作戦があって。そこでいっぱい主力艦娘が沈んじゃったから、今の呉のメンツって殆ど総入れ替えらしいぜ。

 不意に嵐の言葉を思い出してハッとする。戦線を離脱していた赤城さん、そして佐世保に転籍している加賀さん。私、もしかして聞いてはいけないこと聞いちゃったんじゃ。

 

「気を使わなくても大丈夫よ」

「あ、えっと」

 

 内心を見透かされ、うろたえる。ただ、加賀さんの様子からは本当に嫌な感情は見えなくて、その表情はどこまでも穏やかなように思えた。

 

「彼女とは文通をしているのだけれど、中々直接会えないものだから様子を知りたかっただけなの」

「そう、なんですね」

 

『──体よりも心が、ね』

 

 呉鎮守府で数少ない先の大規模作戦の生き残りの一人、時雨と一緒に食事をしていたとき。嵐が興味本位でそのことを尋ねたとき、彼女は静かに教えてくれた。

 

『空母や戦艦って、艦隊の精神的支柱だから。心も、僕ら駆逐艦なんかよりずっとしんどいんじゃないかな。だから、僕は彼女らの心も守れたらなって、いつも思っているんだけど』

 

 そうしてちょっと疲れたかのように笑った彼女に、私達は何も言葉をかけることができなかった。もしかしたら。もしかしたら、加賀さんも。時雨が取りこぼしていったうちの一人だったのかもしれない。それでも。

 

「彼女に伝えてくれるかしら」

 

 時間はかかったのかもしれない。きっと私の想像もつかないような辛いこともいっぱいあって、それでも今私の目の前で少しいたずらっぽく笑っている彼女が。

 

「まだまだ、先輩として負ける気はないわ。油断しているとおいていくわよ、って」

 

 ──ずっと、後悔している。不器用だけれども、それでもその大きな手で私の頭を撫でて緊張をほぐそうとしてくれた彼女を守ると誓ったのに。

 

「──あ、れ」

 

 ──なにも返せなかった。彼女にとどめをさすことしか、できなかった。泣いて、泣いて。それでも彼女が帰ってくることはないのだということは、とどめをさした私が、一番知っている。

 

「え」

「あー! カガがいたいけな女の子泣かしてるぅー!!」

「え、ちが、これは」

「鬼! 悪魔! 加賀!!」

「さんをつけなさい五航戦」

「いぶぁぶぁぶぁ!!!」

 

 振り返りざまに片手で瑞鶴さんの両頬を握り潰す加賀さんの様子に思わず笑うと、涙がひとしずく、頬を伝ってこぼれ落ちた。

 動揺した加賀さんが挙動不審になっていると、その横顔を瑞鶴さんとアクィラさんがジト目で見つめた。そうしてキッと加賀さんがそちらを一睨みをすれば、蜘蛛の子を散らすように去っていった。その様子を見て思わずため息をつく加賀さんの袴の裾を、くい、と引っ張りながら。

 

「加賀さん」

 

 そうして彼女の名前を呼べば、また涙がこぼれ落ちた。

 

「生きてください」

 

 ──ごめんなさい、ごめんなさい。

 

「今度こそ、守りますから。生きて、ください」

 

 ──今度は絶対に守るから。だから、生きて帰ってきたあなたのその大きな手で私に触れてください。あなたが、確かにそこに生きているのだと。教えてください。

 

 袴を握りしめられ、動くこともできずに呆気にとられるようにこちらを見下ろしていた彼女は、ふと目を細め。

 

「……ああ、あなた。萩風だったわね(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)

 

 ぽつり、とそうこぼし。

 

「酷なことをさせたわ、あなたには。駆逐艦の娘達は、いつもそう」

 

 少し逡巡したあと、こわごわと伸ばされた手は。

 

「こうして残された人達に傷を残していったのね、私達は」

 

 そろり、と私の頬をなで、そうしてまたこぼれ落ちそうになった涙を優しく拭っていった。それにすがるように、彼女の腕を捕まえる。それを見た加賀さんは、一度きつく目を閉じてから。

 

「……萩風」

「は、い」

「好きな食べ物はあるかしら」

「……は、い?」

「五秒以内に答えなさい、五、四……」

「え、え!? あ、う、梅と大根のじゃこサラダです!」

「そう、ヘルシー志向なのね。それから、もうひとつ。……あなたは、誰ですか(・ ・ ・ ・)

 

 ゆっくりと、言い聞かせるように。じっと私の瞳を見つめて尋ねてくる彼女の様子に、胸の内で暴れまわっていたどうしようもない感情の激流が、徐々に徐々に、落ち着いていくのがわかった。

 

「……あ、私、は。呉鎮守府所属、陽炎型駆逐艦の、萩風、です」

「そうね。人間の女の子のね(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)

 

 そうしてよくできました、とでもいうかのように彼女の大きな手がぽん、と優しく私の頭にのせられる。

 

「付喪神の縁に引っ張られるのは初めて?」

「え、えと」

「覚えておくといいわ。この()達の想いをすくいあげるのも大事だけれど、自分を見失ってはだめ」

 

 加賀さんの表情に少し苦いものが交じる。ああ、この人。思っていたより、表情が豊かかもしれない、とぼんやり思いながら彼女の言葉に耳を傾けた。

 

「その想いは尊いものでもあり、過去の楔でもある。過去に囚われ過ぎて今を見失えば、待つのは破滅よ」

 

 そうして少しだけ、表情を緩めて。

 

「私達は未来に生きる人なのだから。付喪神(かこ)を受け入れ、共に前に進みなさい」

 

 ぽん、と再度優しく頭を叩いた。それに思わず目をつぶると、ちいさく、ありがとうという言葉が聞こえたような気がした。

 

「──さて」

 

 そうしてまた目を開いたときに見えた彼女は、いつも通りの無表情に戻っていた。それでもこき、と軽く首を鳴らしてこちらを見つめる彼女からは、前よりもさほど圧を感じなくなっていた。

 

「お手並み拝見といきましょうか。どうせ呉航空部隊はボコボコになるのだけれど。どれだけあなたが被害を抑えられるか楽しみにしてるわ」

「……え?」

「ボコボコです」

 

 ぐっと握り拳を作って真顔で宣言する加賀さん。あ、これ前に鈴谷さんがやってたものまねに似てる、いや鈴谷さんが似てたのか、なんてことを考えていたら、遠くからおおーい、とこちらを呼ぶ声が聞こえた。

 

「萩風ちゃん、こんなところにい、た……」

「ボコボコよ」

「げっ、加賀さん。お、お手柔らかにお願いしま〜す」

 

 私を呼びにきたであろう飛龍さんが顔を引つらせてあははは、と笑いながら一歩後退する。

 

「赤城さんの一番弟子だそうね」

「うぇ!? ち、違います! それはこっちの蒼龍です!!」

「ゔぁ!?」

 

 そうしてその後をひょこひょこと追ってきていた蒼龍さんが急に話を向けられびくぅ! と体を竦ませた。

 

「ちょっと飛龍!」

「オネエチャン、ツヨイ。ガンバッテ」

「こういうときだけ年下ぶらないでよ!?」

 

 目を逸らしながらカタコトで言い訳をする飛龍さんをがっくんがっくんと蒼龍さんが揺すっているのを見ながら、くすり、と微かに加賀さんが笑った。それは先ほどの穏やかなものからはかけ離れた、その、いわゆる。

 

「赤城さんから色々と話は聞いているわ、二人とも。……楽しみね」

 

 獲物を前にした狩人のような目をしていた。その双眸を向けられひぃっ、とお互いに抱きしめ合って体をガタガタと震わせるニ航戦のお二方。ああ、なるほど。

 

『──どれだけあなたが被害を抑えられるか』

 

 気を、引き締めないと。だってきっと加賀さんって有言実行の人だもの。

 

「大丈夫です、飛龍さん、蒼龍さん! 萩風、全力でお守りさせて頂きます!」

「は、萩風ちゃん……!」

「なんていい子なの……! どっかの目つきの悪いピンク頭と石頭ツインテールの姉妹艦なんてとても思えない……!」

「ピンク……?」

「おーい、萩ぃ、こんなところに……何してんの?」

 

 そうして蒼龍さん達にもみくちゃにされていると、呆れ顔の嵐が遅れて歩み寄ってきて。遠くでは、迷子のお知らせを伝える鈴谷さんの声が響いた。

 

 

 そうしてその後、宣言通り私達は加賀さんにボコボコにされました。

 

「「「「鬼! 悪魔! 加賀(カガ)さん!! (……サン!!)」」」」

「……さんをつければいいってものではないのだけれど」

 

 勝ったのになぜかダメ出しの嵐を加賀さんから食らった瑞鶴さんとアクィラさんが、ボコボコにされた飛龍さん蒼龍さんと意気投合し。

 

「まーそれくらいにしたってや。ほら、積もる話もあるし一杯いこうや」

「ですが」

「かー!! 相変わらず堅い堅い! もっと力抜きぃや、キミィ」

「そうだそうだ! リュージョー、もっと言ってやってください!」

「加賀さんの石頭ー!」

「瑞鶴、屋上」

「なんで私ばっか!?」

「頭にきました」

「あ、あれはカガがズツーキを決めるときの前動作、指関節パキパキですね」

「よくわかるね、アクィラ」

「私もよくされますから! 目がパッチリさめますよ、ヒリューもどうですか? 佐世保名物」

「エンリョシマス」

 

 気がつけば呉と佐世保の垣根なく、お互いじゃれ合う空母の面々を、私はペイント弾まみれの嵐と一緒に座り込んで見ていた。

 

「……なんかさー」

「うん」

 

 あ゛あ゛あ゛あ゛!!! という瑞鶴さんの悲鳴にびっくりして逃げ出すガンビア・ベイさんと、その後を必死に追うサラトガさんの姿を二人でぼんやりと見送っていたら、おもむろに嵐が口を開いた。

 

「こうして見ると、空母も人の子だなーって……ちょっと思うわ」

「うん」

 

 そうして、嵐はぼんやりと夕焼け色に染まりつつある空を見上げた。その姿は、どこか気落ちしているようで、いつも負けた後は悔しそうにしている彼女にしては珍しい姿だった。

 

「……守るのって、難しいな」

 

 ぽつり、とそう呟いて、離れた一角で和やかに話している今回佐世保航空部隊の護衛を担当していた秋月型駆逐艦の娘達を眺める。

 

『ああ、今度の合同訓練に参加するの、あんた達なのね。しかも相手に秋月型ねぇ、ふぅん』

 

 私達の所属する駆逐隊の訓練の後。その時の指導教官だった大井さんは、ペラペラと書類を眺めてそう零した。秋月型。聞いたことのない名前だった。どういう駆逐艦なんですか、と聞いたら面倒臭そうに演習でわかるわよ、と返された。

 

『いい機会ね。あんた達が今までどれだけ恵まれていたのか、そして』

 

 思えば私達は恵まれていたのだ。駆逐艦の中でも比較的性能が高いとされる陽炎型。自慢の酸素魚雷は周りの娘達にもいいなぁ、と羨まれ、そうして呉は優先的にいい装備も回される。手酷い打撃を受けるような戦いにも参加したことのなかった私達は、どこか、少し浮かれていたのかもしれない。もう艦娘になって一年くらい経ったし、結構強くなったんじゃないかって。だから。

 

『──この世の中には、どうにもならないほどの圧倒的な暴力があるということを。知るといいわ』

 

 私達は、漠然と勝てると思っていたのだ。例え相手が航空戦の鬼才率いる佐世保航空部隊であったとしても。まさかボロ負けすることはないだろうと。──秋月型駆逐艦が、対空能力に優れた防空駆逐艦であるだとか。陽炎型駆逐艦を中心とした日本駆逐艦の最大の弱点は対空能力の低さであるとか。佐世保に新しく着任した海外空母の能力がどういったものであるのかだとか、情報は秘匿されていたとはいえ、私達はあまりそのことに対して深く考えていなくて。

 

「自慢の魚雷は、空は飛べないしな」

「うん」

「すごかったなぁ、あの対空射撃」

 

『──ありがとね』

 

 大破判定を受けた今回の旗艦だった蒼龍さんから発せられた第一声が、こちらを気遣うものだったのもやるせなさを増長させた。

 違うのに。本当は、本当は飛龍さんも蒼龍さんも、もっと、もっと強いのに。先に敵を発見したのはこちらで、私達がもっと強ければ。あの娘達みたいに、守り切るくらい強ければ、相手の攻撃で態勢を崩されることなく、勝っていたかもしれないのに。

 

『いいところなかったなぁ、私達』

 

 そうじゃ、ないのに。

 

『索敵に艦載機さきすぎたかなぁ』

『ちょっと慎重になりすぎたかもね、おかげで攻撃も、防御のための直衛機も中途半端になっちゃったもんね』

『いや〜でもあそこまですごいとは』

『一瞬で溶けたね……』

 

 そうして驕っていたのは私達だけで、彼女達は真剣に対応策を考えていたことを、このときになってようやく私達は理解したのだ。だというのに、私達を責めることなく自分達が悪いのだと笑って、見て見てこの対空攻撃、鬼だよ、とそのときの秋月達の姿を写した映像を飛龍さんが見せてくれた。完璧に空母を守りきる圧倒的な対空能力を示す、その姿を。

 ──攻撃は。届かなければ、なにも意味がないのだということをまざまざと見せつけた、圧倒的なその姿を。

 

「響もこんな気持ちだったのかな」

「響?」

「うん、ほら。人手も装備も足りないってさ。そりゃ、秋月達の練度もすごかった。でも、それ以上に。装備の差も、感じただろ」

 

 狙いをつけ、外し、そうして誤差を修正、と計算するまでもなく視界から飛び去る艦載機。再装填までの時間がもどかしかった。そうして焦れば焦るほどに、砲弾は当たらない。気づけばペイント弾による被弾の花はそこかしこに咲いていた。それに対して、息をつく間もなく空に大量の火花と黒煙を巻き上げ艦載機を撃ち落としていた、彼女達の長10 cm砲。それを見て、思ってしまった。ああ、こんなの。勝てるわけがないと。

 

『ソナー使えるだけいいじゃないか』

 

 いらないんならおくれよ、と笑っていた響。あの言葉の奥に、どれほどのやるせなさが込められていたのだろう。もし、足りない装備で守れたかもしれない命を救えなかったとしたら。どれほど、やるせないのだろう。

 

「装備の差を、守れなかった言い訳にしたくねぇ。でも、でもさぁ。そんなことを考えてたら」

 

『──私は』

 

「俺自身って、すごく弱いんだなぁって」

 

『誰かを守れる力の方が、欲しいかな』

 

 そこで言葉を切った嵐は、膝小僧を抱えてそこに顔をうずめてしまった。

 ──海面に浮かぶ、多くの乗員。彼らの救助もままならぬまま、そうして今にも沈みそうなほど激しく燃え上がる彼女にとどめをさそうと息をひそめて隙を伺う敵潜水艦を撃退することもままならぬまま。最後には彼女に魚雷を向けさえした、私が守ったものとは、なんだったのだろう。

 不意に、また心に波風が立つのを感じてぎゅっと胸元を握りしめた。いままで自然に忍び込むように私の心に入り込んでいたこの()の感情を、ようやくこの時はっきりと別物として認識することができた。そして同時に、わかっていたとしても飲み込まれそうになるほどの深い悲しみも。

 ここに来てからこの()の心は荒れっぱなしだ。あの人が近くにいるからかな。ああ、そうか。あの人を失くしたのも、ちょうど、今みたいな梅雨に差し掛かる頃だったっけ。雨の降りしきるこの季節に。あなたは、いつもあの人のことを想っていたのだろうか。

 

『──過去に囚われ過ぎて今を見失えば』

 

 待っているのは、きっと深い深い悲しみの水底。光が届くことのない、暗い暗い、海の底。夜は怖いと、いつしかこの艦の声を聞いた。暗闇の中で、もう二度と光が見えなくなるんじゃないかと怯えていた私と、少し似ているのかもしれない、なんて。神様に対して親近感を覚えたら失礼だろうか。

 

『今日はこれつけようぜ』

 

 夜が苦手で、それでも私を元気づけようとして嵐がプラネタリウム装置を持ってきたあの日から、私は。暗闇に怯え、ひとり立ちすくむだけだった私は歩き出す勇気を色々な人たちから少しずつ分けてもらってきたように思う。

 些細なことで嵐が喧嘩を始めて、止めようとしたらそれに巻き込まれて皆まとめて秘書艦の霧島さんから大目玉を食らったり、ぼろ雑巾のようになるまでしごかれたあと、追い打ちのように酷評されて精神的にも体力的にも参っていたら、こっそり大井さんが去った後に木曾さんが内緒だぞ、と皆に渡してくれたアイスの味だったり。そんな日々は、きっと艦娘にならなかったら送れなかったし、そうして私はそんな日々を過ごしているうちに。いつの間にか、心から笑えるようになっている自分を自覚したのだ。

 きっと、ただの人であり、まだまだ本当の戦いの苦しさというものすら知らない私が萩風の悲しみをわかってあげるなんていうことはおこがましいのだろうけれども。いつか、私も彼女のように深い悲しみの闇へ沈んでしまうことも、あるのかもしれなけれど。

 

『あー、あれか。あー、あー……く、とぅる、す??』

『あってるから自信もって』

 

 見上げた空に瞬く星のように。大切な人達と過ごした日々は、きっと、そんな暗闇においても小さく瞬く希望の光に、なるはずだ。

 

「──演習、で」

 

 ぐらぐらと揺れる思考の中、ようやく絞り出した声は掠れ、とても情けないものだった。それでも私はその場でできる最高の笑顔を無理矢理作って。

 

「演習で、よかった、ね」

「え?」

「だって、皆生きてるでしょう」

 

 悲しい思い出も。悔しい思い出も。きっときっと、明るい未来に繋げていくことが、できるはずだもの。だから、私は。どんなに苦しくても、どんなに悲しくても。

 

「生きてたら、何回だってやり直せる、から。だから」

 

 最後には笑ってみせる。だってそうしなければ、私は艦娘になんてなってしまった可哀相な子として死んでしまうから。

 

『駆逐艦は私達の誇りだからね』

『そそ。対潜警戒、とんぼ釣り、ほんでもって対空戦闘。色々とやってもらってさ、それで活躍できないなら私達の落ち度なわけよ』

『だからね、責任をとるのは私達の仕事なの』

『そーそー』

 

 そうしなければ、笑ってそう言ってくれたあの人達の気持ちを無駄にしてしまうから。だから。

 ──次は。

 

「次は絶対。守ってみせる」

 

 そう口にした瞬間。ふと、心が軽くなったような気がした。

 

「……萩って」

「なに?」

「意外に、熱血だったんだな」

「私だって駆逐艦だもん」

「おお。そっか、うん、そうだよな」

 

 そうして嵐はひとしきりうんうん、と頷くと。

 

「うっしゃ!」

 

 ぱちん、と両手で両頬を叩いて勢いよく立ち上がった。

 

「ぐだぐだ考えんのはやっぱ性に合わねぇ! 秋月達に対空戦のこと教えてもらおーぜ!」

「嵐のそういう切り替え早くて素直なところ、かっこいいと思うよ」

「よせよ、褒めても爆雷しかでねぇぜ!」

「うん、しまって」

 

 そうしてようやくお互いいつもの調子に戻った私達は、ぷ、と吹き出して笑い出した。

 しばらく二人して笑っていると、遠くでおおい、と飛龍さんが私達に向かって手を振った。

 

「懇親会やるってさー、負けた腹いせにやけ食いしてくわよー!!」

「飛龍、ステイ。ちょっとは遠慮して」

「ちょ、ちょっと真顔やめてよ蒼龍。冗談、よ?」

「こっち見なさい飛龍」

「だってお腹減ったし……」

「はい、はい! 俺、肉食べたいでーす! 黒豚! 牛!」

「負けたくせにゼイタク言うなー! はいはい! アクィラはパスタが食べたいです!」

「自分で作りなさい」

「Sì!」

「アクィラさんの言うとおりです、牛缶なんて贅沢すぎます!! ねぇ、瑞鶴さん!」

「うん、そうね。秋月、今度私と美味しいもの食べに行こうか……」

 

 わいわいがやがやと騒いでいる一団に歩み寄る。ふと加賀さんと目が合うと、彼女は微かに表情を緩めた。それに対してこちらも笑って応える。

 

「ねね、萩風ちゃんはなに食べたい?」

「ええと……野菜と、果物と、ミキサー」

「ミキサー?」

「おい、やめろ萩」

「なになに、なにすんの?」

 

 目にいいものを、とお母さんが作り始めて。美味しくないなぁ、と最初は思っていたのに、いつしかそれは私の趣味になっていた。

 あの日々も、嫌なことばかりではなかった。ああやってお母さんやお父さんが私を気にかけてくれて、笑い合っていた時間だって確かにあったし、そうしてそれも今の私の一部になっている。

 

「次の演習に向けて皆さんの健康を調えるために、萩風、健康ドリンクを振る舞わさせて頂きます!」

「お、なんか面白そう」

「おい、萩」

「止めないで、嵐!」

「あ、やべぇ、スイッチ入っちゃった……」

「ちなみにお味は」

「なしよりの、かろうじてあり、です」

「嵐、私の分あげる」

「いえいえ、一緒に健康になりましょうよ、飛龍さん」

 

 生きていることは、悲しいだけじゃない。深い悲しみにその輝きがかき消されてしまうことがあったとしても。

 

「そんなことよりお肉食べよう、萩風ちゃん」

「偏食は頂けません、飛龍さん」

「そうだそうだ、もっと言ってやって、萩風ちゃん」

「蒼龍はどっちの味方なのよ!?」

「飛龍の健康の味方」

 

 きっと、大丈夫。ダッシュで逃げ出した飛龍さんを追う蒼龍さんと、それにならって駆け出した嵐にほら行こうぜ! と手を伸ばされた私は。笑ってその手をとって、一緒に駆け出すのだった。

 

 

 

 

※※※

 

 -外伝:秋の月に照らされ鶴想う-

 

 護衛のいない艦攻なんていい的だ。重い魚雷を抱えて飛んでいるのだから、スピードなど出るはずもなく。制空権を失った彼らはこちら側の艦戦のいいカモになって、魚雷を抱えたまま失墜するか、あるいはそれを放棄して応戦するかの二択。

 

『気をつけなさい』

 

 秋月達の迎撃能力も高く、この空は、勝った、と思った瞬間に。

 

『──あの子達は、追い詰められると怖いわよ』

 

 一機。ただその一機を届かせるために。蒼龍の艦載機達は、あの混戦の中、気づかれないよう飛龍のその一機を届かせるためにフォローに回っていたのだ。そうして。

 

「──瑞鶴さん!!」

 

 空に咲く黒煙の花をくぐり抜け。海面を切り裂くよう、低く低く、ただ一直線にこちらに突っ込んでくる艦攻と。そこに割って入ってきたあの子に、私は、血の気が引くほどの恐怖を、覚えたのだ。

 

 

「──言い訳はあるかしら」

 

 鋭く低く発せられる怒声。勝敗を見れば完全なる勝利であるというのに、私は正座をさせられまるで敗戦の将のごとく加賀さんからそしりを受けていた。そうしてその後ろをそろり、そろりと逃げようとしていたアクィラにも次はあなたよ、とぴしゃりといい放つ。あちらのチームも勝ちはしたけれど、どうやらアクィラもなにかやらかしてしまったらしい。

 

「……」

「口ごたえしないということはわかってはいるのね」

 

 その通りだった。だから、黙って唇を噛み締め次の罵声が飛んでくるのを大人しく待つ。

 

「そう。じゃあ秋月の指導はあなたに任せるわ」

「……え?」

「あなたもそろそろ上につくものとしての自覚を持ちなさい」

 

 だというのに、いつもの刺々しいお小言が飛んでくることもなく、そう静かに言い放って立ち去ろうとする彼女を慌てて引き止めた。

 

「ま、待ってよ! それだけ!?」

「そうよ。それが一番いい罰になるでしょう」

「……どう、いう」

 

『──大丈夫です』

 

 まるで身代わりにでもなるかのように私と艦攻の間に滑り込み。

 

『今度は、きちんと。お守り致します』

 

 しっかりとそれを叩き落としてから、笑顔で振り返った彼女に。心のうちが、冷える思いだったのを。

 

「危なっかしい駆逐艦の面倒を見るのも、私達の役目よ」

 

 きっと全て、この人には見透かされている。

 

「あとは、あまり引きずられないことね」

「は?」

「縁があるようだから」

 

 そう言って遠くを見やる、その視線の先に。一人の駆逐艦の少女がいた。……確か、あの子は。演習前に加賀さんが泣かせてた。

 

「……は!? そういえばなんであの子いじめてたのよ! 加賀さんサイテー!」

「いじめてません」

「泣いてたじゃない! 私だけでなくあんな可愛い女の子までいじめるなんて! 鬼! 悪魔! 加賀! さん!!」

 

 先程さんをつけ忘れていた事で頬を握りつぶされたのを思い出し、あわててさんをつける。そうして私がそう噛み付くと、加賀さんは盛大なため息をひとつついて。

 

「──秋月と同じよ」

 

 そうぽつりと呟いた。

 

『──今度は(・ ・ ・)、きちんと。お守り致します』

 

「のまれないことね」

 

 そうしてこちらをしばし見つめて。加賀さんはゆっくりとアクィラの方へと向かった。

 

 

「秋月」

 

 姉妹艦の面々から少し離れたところで、一人赤に染まりゆく海の彼方をぼんやりと見つめていた彼女に声をかける。

 

「瑞鶴さん」

「初めての合同演習お疲れ様。やるじゃない」

「は、はい! ありがとうございます!」

 

 直立不動でびしりと敬礼を返す彼女は、比較的ゆるい佐世保の面々の中において一際礼儀正しい。一目見れば軽巡洋艦ではないか、と見間違うほど大人びた容姿。防空駆逐艦なんて俺のための駆逐艦じゃん? 俺に任せてよ〜呉なんかには宝の持ち腐れじゃ〜ん、ちょーだいちょーだい、とうちの提督がごねてごねてごねまくった上で無理矢理かっさらってきた新しい娘達が秋月型駆逐艦の娘達だった。

 日本駆逐艦は水雷戦にたけている分、防空能力が低い。新規航空機動部隊編成案をぽんぽこぽんぽこ出して、あれやりたいこれやりたい、ととにかくわがままの多いうちの提督に辟易した呉の提督にそこまで言うんならきちんとデータとって寄越せ、高角砲増産の検討材料にすると吐き捨てられた経緯を、言質とったぜ〜とVサインで伝えられたときはちょっと呉の提督さんに同情した。

 

「でもね、あれ(・ ・)はだめよ」

 

 慢心して危険にさらされた本人が言うか、と思うけれど。これが罰だ。私達に尊敬の眼差しを向け、甲斐甲斐しく従う彼女達だからこそ。道を外れたら導くのも、私達の役目なのだろう。

 

「下手したら、沈んでたわよ」

「……ですが」

 

 珍しく秋月が感情的に異論を挟む。まぁ、そりゃ感情的にもなるだろう。本人はまだわかっていないだろうけれど。まるで自分のことのように。この艦達の感情は、ごく自然に紛れ込んでくるから。

 

「私達防空駆逐艦の本懐は、航空母艦の方々をお守りすることです!」

 

『──つきあわせて悪いわね』

『いえ』

 

 最後の戦いの前にこの(ふね)達が交わした言葉。

 

『瑞鶴さん!』

『……なに?』

『きっときっと、この秋月が。瑞鶴さんのことを守りきってみせます!!』

 

 から元気でもなんでも。そう力強く言いきったあの()の言葉は本心からのものだった。そうして、果たされなかったその約束が、私達、艦娘(ひと)をも巻き込んでゆく。

 

「そうじゃない、そうじゃ、なくて」

 

 空母は重くてしょうがない、と加賀さんがいつしかこぼしていたことがある。過去の艦艇の後悔。そうして現世で新たに紡がれる縁と、しがらみ。あらゆるものがまとわりついて、そうして自分を見失いそうになるとき、弓を引くのだと。

 

『あなたはまだ艦歴が浅いからぴんとこないかもしれないわね』

『弓道は、発艦のための手段でしょ?』

『最初のうちはそうね、私もそう思ってたわ。……こればっかりは人に教わるものではないから。そもそもあなたは私の話を聞かないし』

『なっ!』

『ほら。……まぁ、でも。あなたくらいのはねっ返りなら──』

 

「〜〜あんたがもし沈んじゃったら! その後は誰が私を守るのよ!」

 

 意外になんとかなるのかもしれないわね、逆ギレとかで、とその後馬鹿にされ、いつものように口論に発展したわけだけれども。悲しいかな、加賀さんの言っていたことは現にこうして逆ギレしているのだからあっていたのだろう。

 

「そういうことよ! 反省しなさい!」

「わっ!!」

「いやまず反省するのは私なんだけどっ……あ〜向いてない、こういうの!!」

 

 わしゃしゃしゃー!! と秋月の頭をぐっしゃぐしゃにしながら揺さぶり、若干八つ当たり気味に吠える。

 

「ず、瑞鶴さん目が、目が回ります」

「うるさい、大体、大体ねぇ!!」

 

 ああ、面倒くさい。なにが面倒くさいって? そりゃあ。

 

「私を置いて、また先に逝くつもり(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)!?」

 

 そうこれ。私についてる、これ(ずいかく)が。めちゃくちゃ、面倒くさいのだ。本当に私とこいつは魂が似ているのかってくらいこいつ面倒くさい。なんていうか、不貞腐れている。いや壮絶な人生……艦生? を送ってきたとは思うわよ、そんな風になっちゃうのもちょっとわかるっていうか。でもね、改ニ艤装が使えないの、絶対私のせいじゃない。そっぽ向いてるこいつのせい。そしてもうなんていうかさっきからだらだらと艦魄から流れてくる秋月に対する感情が面倒くさい、面倒くさすぎる。心配してんならそうはっきり言え!!! 

 

「……え、と」

「あんたがまた先に沈んだら瑞鶴が拗ねるでしょうが! そうしたら私、改式艤装の運用だって危ういわよマジで!!」

「え、えぇ?」

「ただでさえ加賀さんの改ニ式艤装計画案の噂があるのにこれ以上引き離されてたまるかぁ────!!!」

 

 最後は完全なる私情でもって叫んだ。ああ、すっきりした。最近うまくいってなくてイライラしてたのよね、大声ってやっぱりストレ発散にいいわよね、なんて秋月から視線を外して、鬼のような形相でこちらにずんずん歩み寄ってくる加賀さんから現実逃避をする。

 

「……瑞鶴」

「待って。待って加賀さん、言い訳をさせて欲しいです」

「……」

 

 無言でべきべき関節鳴らすの本当にやめて。

 

「瑞鶴がわるいんです」

「そうね、こんな小さな子に八つ当たりするあなたが悪いわね」

「そうじゃなくてこの()もうホント面倒くさいっていうかツンデレもここまでこじらせるといい加減にしてよねっていうかぁああああああああああ!?」

 

 拝啓、加賀さん、もといお姉ちゃんへ。いつの間にジャーマンスープレックスなんて、覚えたの。

 

 

 拝啓、加賀さん。

 

「「「「鬼! 悪魔! 加賀(カガ)さん!! (……サン!!)」」」」

 

 友達ができました。加賀さん被害者の会という名の結束は今日をもってして強い絆を作り上げた。しかもなんの偶然かニ航戦の二人は同じ訓練所出身だった。

 

『島流しされた空母が私以外にいたなんて……』

『島流して』

『思わなかった?』

『思ったけど』

『あー懐かしいな。たまに不知火さんの眼光が恋しくなるのよね』

『……瑞鶴』

『もしかして、M?』

『違うわよ!!』

 

 しかも後輩だというのだからうかうかしていられない。いつも追う側でいたけれど。気づけば私を追ってくる子が増えていく。そうして末っ子のように甘やかされて育ってきた私は、そういった子達とどう接すればいいのか、まだよくわからずにいたのだ。いや、もうホント。泣きそう。泣きそうなくらい、額が痛い。

 加賀さんのヘッドバットを受けじんじんと痛む額を手でおさえ、痛みが引くまで座り込んで耐えていたらふと私に影が差した。

 

「……瑞鶴、さん」

 

 見上げれば、しょんぼりとした秋月が私のことを見下ろしていた。あ、やば。そういえば八つ当たりしてからフォローしてない。

 

「あ〜……さっきは悪かったわね。最近うまくいってないから八つ当たりしちゃった」

「そう、なんですか?」

「そ。練度はもう十分なはずなんだけどね、改二式がつかいこなせなくて」

「……瑞鶴さんでも、そんなことがあるんですね」

「そりゃあね」

 

 というか駆逐艦の空母に対する一種の崇拝思想はなんなのだろう。不知火さんや陽炎さんにおちょくられることに慣れきっていた私は、初めてここに来たときそりゃあ戸惑ったものだ、純度百パーセントの好意を向けられて。それはもちろん、秋月達にも言えることだった。

 あー、そっか、それでちょっと私も気を張ってたんだな。幻滅されないようにしっかりしなきゃって。もう被る猫もない、どうにでもなれと開き直っていると、おずおずと秋月が濡れたハンカチを差し出した。

 

「……あの、これ」

「え、なに、わざわざ持ってきてくれたの?」

 

 それを受け取って額にあてる。じんじんと熱をもったそこにひやりとしたものが触れ、幾分かましになった。

 

「ありがと」

「……」

「……秋月はよくやってくれたよ、本当に」

 

 ──気が、重かった。加賀さん達が沈んで、翔鶴ねぇもいなくなって。ボロボロで、なにもかもが足りないなかの出撃。一生懸命、やるだけだ。そう心を奮い立たせようにも、失くしたものはあまりに大きく。風が吹けば、今にも吹き飛んでしまいそうなほどの、自尊心。それでも、最期のときまで。仲間を失い、そうして最後には誇りさえも傷つけられたと感じようとも、最期のときまで懸命に抗おうと思えたのは、きっときっと、私と最期までお前は俺達の仲間だと共にいてくれた、乗員の皆と。

 

『──瑞鶴さん!』

 

 ぴったりと寄り添うように。こんな情けない姿をみせているというのに、笑って懸命に守ろうとしてくれた娘達がいたから。だから、私は。

 よいしょ、と立ち上がりうつむいていた秋月の肩をぽん、と叩く。おずおずと顔を上げた彼女に、できるだけ明るく笑いかけながら。

 

「あのね、瑞鶴は秋月が大好きなのよ。大好きな娘が沈んじゃったら悲しいでしょ?」

「……はい」

「そういうことも、まぁ。しなくちゃいけないときもあるかもしれないけど。でも少なくともあのときはそうじゃなかったのは、わかる?」

「は、い」

「ミスした私が一番悪いんだけどね。私だってダメージコントロールくらいはできるし。まぁ、だからさ」

 

 う、やっぱり面と向かってこういうこと言うのはちょっと恥ずかしい。……いや私はツンデレじゃない、少なくともこの艦(ずいかく)みたくこんな面倒くさいツンデレなんかじゃない、と念じつつ。

 

「なるべく長生きして、なるべく長く私を守ってよね、ってことよ」

 

 そう少し早口でまくしたてて、ほら行くわよ、と秋月をせっついた。

 

「どこにですか?」

「懇親会やるっていうから。なんにせよ勝ったんだから美味しいものめいいっぱい食べるわよ」

「……美味しい、もの」

 

 そういえばこの娘達とご飯を食べるというのも初めてだ。上としての自覚をもちなさい、と加賀さんも言っていることだし。今度ご飯を驕ってあげてもいいかもしれない。

 うん、先輩っぽい、と思いながらやけ食いだー! と叫んでいる飛龍達のいる集団へと歩み寄る。

 

「……お」

「お?」

「お腹いっぱい、白いお米を。食べても、いいのでしょうか……」

「……」

「や、やっぱり贅沢過ぎますよね!」

「いや欲なさすぎてびっくりよ。食べてよ、食べなさいお米。たらふく」

「た、たらふく!?」

 

 え、待ってこの子の食生活どうなってんの? あれ? もしかして私が気づいていないだけで空母と駆逐艦では生活格差があるの? と慄いていると、呉の駆逐艦娘が黒豚ー! 牛ー!! と叫ぶ声が聞こえた。あ、よかった。この子がおかしいだけだわ。

 

「牛!?」

 

 いや確かに肉は貴重かもしれないけど。そこまで驚く?? ゼイタク言うなー! と喚いているアクィラに同調するようにその輪に入っていった秋月を追いながら。焼き肉とか奢ったら、この子、どうなるんだろう、などと思いつつ見上げた空にはうっすらと月が浮かんでいて。その柔らかな光でもって、私達を照らし始めていた。

 

 



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深海に咲く夢見草(舞鶴鎮守府:伊19)

舞鶴鎮守府の提督と、とある潜水艦のお話


 女の子というものは、とかく噂好きだ。誰それが好きであるとかいう甘酸っぱいものから、おどろおどろしい怪談まで。戦いに身を投じているとはいえ、艦娘も女の子である。そうして付喪神なんてオカルティックなものをその身に宿して戦うとされる艦娘周りは、そういった話題がとかくつきない。

 ──曰く。艦娘は、海に呼ばれることがある。そうしてその言葉に耳を傾けてしまえば、二度と帰ってこれなくなるのだと。

 ──曰く。この舞鶴鎮守府は他の鎮守府とは別の目的で建てられている。それは──。

 

 

 ざばん、と勢いよく海面に浮上する。長いこと海に潜っているとどうにも人である感覚が薄れるというか。こうして海面に顔を出して肺に空気を送り込むことでようやく、自分が人であることを思い出す。

 数時間ぶりの日の光とのご対面。海鳥が鳴く声、風斬り音に、波の歌声。相変わらずの煩わしさに顔をしかめながら陸へと上がり、付随の格納庫から特注のサングラスとそれを取り出し装着しながらペタペタと歩いていると、遅れて今回の訓練の面倒を見ていた新米潜水艦娘が慌てて陸に上がって追いかけてきた。

 

「伊19教官!」

「イクさんでいいのね、柄じゃないし」

 

 ゆっくりと振り返えると、その子は新人らしいぎこちなさでもって言葉を続けた。

 

「イ、イクさん、あの」

「まぁ、新人にしては悪くなかったのね」

「あ、はぁ。ありがとうございます……じゃ、なくて」

 

 少し離れたところで遅れて陸に上がってきた新米駆逐艦娘達を眺める。うん、まぁこっぴどく怒られるといいのね。なんせ一個も爆雷を当てられなかったのだから。それがここ、舞鶴鎮守府に着任した駆逐艦娘達の歓迎会のようなものになって久しい。

 

「……ぇえと、あの」

「……」

「あの!!」

「うぉっ!?」

 

 ぼんやりとその様子を眺めていると、急に耳元で大声を出されて飛び上がる。

 

「あ、ええと」

「あー……言ってないイクが悪いんだけど。急に大声出すの、やめて欲しいのね」

「あ、す、すみません」

「あと小さい声も早口も聞き取りづらいのね、言いたいことがあるならはっきりハキハキ言うのね」

 

 ちょいちょい、と耳元の補聴器を指差して注意をする。ああ、面倒くさい。こういうやり取りを一々しなくてはいけないことが。

 

「……え、イクさんって」

「あんま聞こえないのね」

「じゃ、じゃあ。なんで」

 

 そうして後に続く質問も。

 

「ソナーもつけないで、あんな正確に相手の場所がわかるんですか」

 

 全てが、煩わしい。

 

「耳は悪いけど目はいいのよ」

「は、ぁ」

「あーイクはめちゃくちゃ強い、それだけわかればいいのよ、後大声は出すな」

「は、はい! すみませっ……あ!?」

 

 言ったそばから。思わずしかめっ面になるイクの顔を見て慌てだすそいつの様子を見て、深くため息をつくのであった。

 

 

「特別任務を与えます」

「お断りなのね」

 

 神妙な顔をして重々しくそうのたまったその女のお願いを速攻でつっぱねてやる。

 

「……何度も言うけどね、私は、あんたの、上官よ」

「知ったこっちゃないのね」

 

 ケッとさらに突っぱねると、その女、イクの上司で舞鶴鎮守府最高責任者である提督が呼応するかのように舌打ちした。

 

「チッ……仕方ないわね」

「何を言っても断固拒否なのよ、面倒事は」

「その代わり次の資源回収クルージング免除」

「慎しんで拝命するのね!」

 

 食い気味に提督に飛びつき、後ろに回って肩を揉んでやる。

 

「さすが提督なの! イク信じてたの、ほらほら提督、肩凝ってるなの?」

「うん、あんたのその甘ったるい猫なで声、男ならイチコロだろうけど。気色悪い」

「ふんっ!」

「いだぁ!?」

 

 ごり、と凝りを思いっきり指圧し、しれっとまた執務机を挟んで提督と相対する。

 

「お、おお……」

「で、なんなの? 早くしてほしいの」

「ぐぅ……こ、こいつ」

 

 執務机にもんどりうつ提督をまるでまな板の上の魚のようだ、と回復するまで観察する。イクを恨めしげに見上げるうちの提督は、日本各地の鎮守府の提督達の中で紅一点。日本潜水艦の神衣(かむい)は、かなり際どい。セクハラ問題回避のため、潜水艦娘が多く在籍する舞鶴鎮守府の提督は代々女性が勤めるのが習わしらしい。化粧っ気が全くないのにも関わらず、女のイクから見てもそこそこ整ったその顔が苦痛に歪む姿を見るのは至極愉悦である。

 

「……えー、それでは特別任務の内容ですが」

 

 ガチャン、と音を立てて執務机に並べられるそれ。非常に見覚えはあるものの、特別任務とやらとまるで結びつかなさそうなそれ。

 

「……なにこれ」

「釣り道具」

「見りゃわかるのね、そうじゃなくて」

「デデドン」

 

 よくわからない効果音を発しながらずい、とクーラーボックスと折りたたまれた釣り竿を押し出す。

 

「ミッション。今から言うとこで、魚釣ってきて」

 

 

 単車に乗って一時間少々。指定された場所は驚く程なにもない寂れた海岸だった。

 

『魚が釣れるまで帰ってくんじゃないわよ』

 

 いやもう意味がわかんないのね。これが果たして地獄の周回クルージング免除と釣り合うミッションなのだろうか、と適当な岩肌に腰掛け釣り糸をたらして数時間。ぴくりともしない浮きに段々イライラしてきた頃。

 

「おねーさん、釣れてる?」

 

 妙に明るい音が周囲の雑音に紛れて耳に届いた。それを認識するまでに少し時間がかかった理由は二つ。今日は妙に風が強くノイズが多かったのと。その音、いや声が。とても場違いなものであったから。

 ゆっくりと首を回して後ろを確認する。真っ黒なパーカーに身を包み、フードを目深にかぶった少女、だろうか。背丈は自分と同じくらいか、あるいは少し小さいかもしれない。

 

「……ボウズ」

「だろうね。ここ、なんか魚逃げちゃうらしいんだよね」

「有益な情報ありがとうなのね、帰ったら魚雷ブチ込んでやるのねあのクソアマ」

 

 釣れない場所指定して釣れるまで帰ってくるなとはこれいかに。反抗的過ぎる自身に対する嫌がらせか。よし、海に沈めてやろう。

 

「クソアマ?」

「イクのこといじめるクソ上司なのね」

「ふぅん?」

 

 アホらしい、やめだやめ、とリールを巻き取り後片付けをすることにした。かぐや姫じゃあるまいし。蓬莱の玉の枝を偽装して持ってってやるほどの価値もこれにはあるまい。

 

「ねー、おねーさん艦娘?」

「そうだけど」

「艦種なに? 戦艦って感じじゃないよねー」

「わざわざ言う義理なんてないのね」

 

 艦娘の艤装技術などは機密情報扱いではあるが、艦娘であること自体は別に隠さなくていいことになっている。と、いうか日本人離れした色とりどりの髪色はどうしたって目立つわけで、そういうわけだから下手に隠すのは悪手だろう、という判断があってのことらしい。それに戦線が落ち着いてくるとどうにも軍縮の動きも強くなるわけで、それを避ける目的で積極的に民間人と交流する役目を仰せつかっている艦娘もいるという。

 だから中にはこいつのように艦娘に興味をもって親しげに話かけてくる輩もいるわけである。そうしてイクは、こういう輩がとても嫌いである。ぞんざいに対応をしながらクーラーボックスの留金をしっかりはめ、立ち上がる。まったく、とんだ無駄足だったのね。

 

 ──ざりっ。

 

 何を思ったのか、そいつが一歩こちらへと歩み寄ったその瞬間。

 

「おっと」

 

 びゅん、と風斬り音をたてて勢いよく釣り竿の先端をそいつの喉元に突きつける。

 

「それ以上、近寄るな」

 

 あんたの声って無駄に可愛いわよね、と提督をして言わしめる自身の声をなるべく低く低く、ドスをきかせて鋭く放つ。

 釣り竿の先端がそいつの喉元をかすめるその瞬間、一切の無駄な動作なく一歩後退ってそれを交わしたそいつの、サングラス越しでもわかるほど真っ白な髪がフードの下で揺れたのを。口元が、楽しげに歪められたのを。そうして。

 

「ンー……当ててやろうかァ? オマエ、潜水艦ダロ?」

 

 そのフードの下から覗くその目が怪しくゆらりと光るのを見て。こいつがただの人であると思う艦娘なぞ、いないだろう。

 

「勘が良くて逃げ足が早イ。当たってるダロ?」

「そんなに殺気立ってたら誰でも気づくのね」

 

 何が楽しいのか、ケタケタ笑いながら話しかけてくるそいつの声に、ノイズが交じる。そうして、それが普通の声でないということは耳が聞こえづらい自分だからこそわかった。普通なら聞き取ることができないような不協和音。それが、妙にクリアに脳に‘声’として届く。

 

「ンー、アー……ねぇ、そのクソ上司に魚釣ってこいって言われなかった?」

 

 喉元をいじって声の調子をととのえながらそいつがパサリ、とフードを取り払った。その顔は思ったよりも可愛らしいものだった。病的に白い肌とさらりと海風に揺れるやわらかな白髪、そうして怪しく光る瞳を除けば。その正体を知らない人が見たらアルビノの子供かしら、と見間違うほど、そいつは無邪気に笑ってみせた。

 

その魚は、私だよ(・ ・ ・ ・   ・ ・ ・)

 

 ──見たことのない個体だった。人型個体の報告が徐々に増えてきているとは言え、ここまで。ここまで向き合って、恐ろしいと本能が叫ぶ個体は、少なくとも自分は会ったことがなかった。

 

「……クーラーボックスにあんたバラして入れたら事案なのね」

「アッハ、オマエ、面白イナァ」

 

 そもそも深海棲艦とは、意思疎通ができないものではなかったか。人語を発する個体も基本的には怨嗟の声を人の言葉に乗せて垂れ流すだけで、双方向のコミュニケーションは取れないはずだ。だとしたら、こいつは。

 

「前の奴よりは楽しめそうだ。仲良くしよう、生贄ちゃん」

 

 一体、なんだ。

 

 ──北陸地方を中心とした日本海側は、なぜか初期から他の地方に比べ深海棲艦からの襲撃を多く受けてきた。それは深海棲艦七不思議のひとつとも言われている。一体どこからやつらはこの日本海側に現れるのか。基本的にどこかしらの海域を根城としてそこから出現する深海棲艦ではあるが、それだけでは説明のできない現象がいくつもある。制圧したはずの海域に突如として現れる濃霧と、強力個体を中心とした艦隊。通称E海域と言われる、予測不能の大災害。そうして。根城とできる海域もないはずなのにふらりと現れては日本近海を襲う通称はぐれ深海棲艦。そして、このはぐれによる襲撃はなぜか昔から日本海側の方が多かった。そうして、そういった説明のつかない現象は得てしてあることないこと、とかく噂の呼び水となる。曰く、きっとこの地方に囚われの深海棲艦がいて、それを取り戻そうとはぐれがやってくるのだと。曰く、この地方に天災が多いのは、囚われの深海棲艦が時折思い出したかのように暴れるからであると。

 ──曰く。舞鶴鎮守府は、その荒ぶる深海棲艦を鎮めるために建てられたのが、始まりである、と。

 

 

 だっだっだ、と荒々しく廊下を駆け抜け、扉をぶち破る勢いで開く。それに驚いて顔をあげた間抜けヅラのそいつめがけて。

 

「今帰ったのね死ね!!!」

「ぎゃー!?」

 

 右手に鷲掴んだ魚雷を野球よろしく振りかぶる。今日という今日は息の根を止めてやると殺る気満々に顔面にそれを叩きこもうとした瞬間。

 

「──止まれ(・ ・ ・)!!」

 

 びたり、と慣性の法則も無視して振りかぶったその腕が、体が不自然に止まる。その反動に体が軋む。

 

「ぐっ!」

「よーし、いい子ねー、いい子だから、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ぎぎぎ、と自分の意志に反して体がその指示に従う。床に置かれた魚雷からイクが距離をとったのを確認し、ホッと胸を撫でおろしつつも首元のそれからは油断なく手を離さない提督に舌打ちをする。

 

「本当にこれ、忌々しいのね」

「ああ、本当に。ほんっとうに、これがあって良かったわ。じゃなけりゃ命がいくつあっても足りない……」

 

 強制命令執行権。艦娘は人智を超えた能力を有する。その絶大な武力を有する艦娘を従える提督はただの人、とくればそれ相応の抑止力が必要になるわけで。提督の首元に装着されている咽頭マイクのような装置を通して命令されると、艦娘は絶対にそれに逆らえないのである。それは単純な指示であるほど効果が大きい。例えば、さっきのような止まれという命令。これが絶対に死ぬな、というような条件が曖昧なものになると途端に効力が弱くなる。あくまで、ただの人である提督が艦娘を統率するための見える抑止力がこの強制命令執行権だ。

 

「次は窓の外から魚雷放り投げてやるのね」

「うん、私が悪かった。悪かったからやめて。うちはただでさえ貧乏なんだから、そんなことしたらゴーヤ達が死ぬわよ。その補修費稼いでもらわないと」

「仲間を人質にするとか人のやることじゃないのね!!」

「ただの人に魚雷ぶち込もうとする女に言われたくないわ!!!」

「先に殺そうとしたのはアンタなのね!!!」

 

『──仲良くしよう、生贄ちゃん(・ ・ ・ ・ ・)

 

 楽しげに笑うあいつの言葉がリフレインする。つまりは、そういうことだ。ここの噂は嘘か真か知らないが色々と聞いている。そうしてあいつのあの言葉だ。つまり、イクは。

 

「そうじゃない!!!」

 

 珍しく語気荒く提督が叫ぶ。普段飄々として滅多に取り乱さない提督のその様子にびくり、と怯んだ。

 

「……そうじゃ、ないけど。悪かったわよ」

 

 そうしてその激情を一瞬で飲み込み、少なくとも表面上は平静を取り戻したのは腐ってもここの最高責任者ゆえか。バツが悪そうに頭をかいて彼女はこちらに向き合った。

 

「イクなら大丈夫だと思ったのよ。というか適任がもうあんたしかいなかった」

「生贄の?」

「……少なくともここ最近殺される娘はいなかったし」

「やっぱり殺されてるんじゃねーかなの!!!」

「だ、大丈夫、自信はあった。あと失敗したらちゃんとお祓いに行くつもりだった」

「勝手に悪霊扱いするんじゃないのよ!!」

 

 おどれゴルァ! と胸倉を掴んで吊るし上げてもされるがままにしているのは少しは罪悪感があってなのか。心ゆくまで吊るしあげ、幾分か気も紛れたところで、ようやくまともに話を聞くためにどかりと執務室内の予備の椅子に腰掛けた。

 

「生贄ってのは、当たらずとも遠からずってところね。要はあいつの暇つぶしに付き合ってあげてストレス管理するのが、まぁここの鎮守府の裏のお仕事」

「ストレス管理?」

「そ。津波でも起こされたらたまんないから」

「……色々ツッコミたいところはあるけど、とりあえず、まず。あれ、なんなの?」

 

 そもそも前提条件が抜けている。本能で、あれは深海棲艦なのだと理解していてもまずは説明してもらわないことには始まらない。

 

「戦艦レ級flagship、って一応名前つけられてるわ。まぁ、あの個体は今現在あいつしか発見されてないんだけど」

 

 あのチビ、戦艦か。しかし一体しか観測されてないのにflagship、つまり突然変異体とカテゴリされているのは一体。

 

「解決策がない」

「は?」

「人語を理解する強力な個体には、その意識の核となっている艦艇がいる、ってのが通説なんだけど」

「……待つのね、これイクが聞いていい話じゃ」

「もう遅いわよ」

 

 今日は、なんて日だ。一生分の不運が降りかかっていたとしてもお釣りが出そうだ。内心舌打ちしながらも、少々疲れたように言葉を続ける提督に耳を傾ける。

 

「あれにはそういうのがない。断ち切る縁も、未練も。あれは、純粋な、悪」

 

『──仲良くしよう、生贄ちゃん』

 

 まともに目を見れば、持っていかれそうなほどの狂気。そばにいるだけで身の毛がよだつ。無邪気な外見のその内に渦巻くのは、純度百パーセントの悪、いや。あれは、殺意だ。

 

「それでいてデタラメに強い」

「……あーそんな気は、してたのね」

「しかもまともにやりあっても驚異的な自己再生能力でダメージが通らない」

「……マジ?」

「マジ。どうしようもなくて、まぁ当時の艦娘が死にもの狂いであそこに封じたのよ」

「イクの知ってる艦娘となんか違うのね……」

「そりゃうん十年経ったら定義だって変わるわよ」

 

 はぁーと深くため息をついて提督は苦笑した。こんな内容を自分一人で抱え込み、そうして。恐らく、わかっていながら自身の部下を犠牲にしなくてはならないその立場に疲れた女がそこにいた。

 

「封じて終わればよかったんだけどね。いつだって、ああいう荒魂(あらみたま)の類は定期的に暴れる」

「津波?」

「とかね。大小様々だけれど。この辺、中々復興進まないでしょ。そういうことよ」

 

 まさかのあの眉唾ものの噂がどんぴしゃりである。噂も馬鹿にならないのね。

 

「……あいつとの対話を試み始めてからもう十数年になる。現状の打開策になればってね、何人もの艦娘が犠牲になったわ」

「殺された?」

「いや、精神的におかしくなる(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)

「……」

「会ったんなら、わかるでしょ。……艦娘だけなのよ、あいつと言葉を交わせるのは。パンドラの箱はすでに開け放たれた。そうして上はきっと希望が底にあるはずだって意固地になってんのよ」

 

 そうして執務机の椅子に腰掛けると、うなだれるように肘をついて深く深くため息をつく。

 

「恨んでいいわよ」

 

 ぽつりと呟かれたその声は、それでいてイクの耳にちょうどいい声量で届く。もうこいつともそこそこ長い付き合いだ、だからそれはその過程でこいつの身にしみてしまった癖のようなものだった。そうして、イクは生まれて初めて。ここまで弱っているこの女の姿を見たのだ。

 

「一つ聞きたいのね」

「……なに」

「なんでイクなの」

 

 イクはこの舞鶴鎮守府においては古参の部類だ。そうして、これも自慢ではないが、恐らくここにいる潜水艦娘の誰よりも強い自信もある。最初は捨て駒にされたのだとブチ切れたけれども。冷静に考えれば、おかしいのだ。こいつはそういう理に叶わないことは絶対しないはずだから。

 

「……あんたが」

 

 逡巡するかのように口を開きかけては閉じて。そうしてようやくそいつが発した言葉はどこか絞り出すかのようであった。

 

「あんたが、一番。頼りになるからよ」

 

 それは、なんとなく。助けてほしい、と助けを乞うているかのようでもあった。

 

『ねー、なんでイクを秘書艦にしないんでちか?』

『は? 頼まれたってお断りなのよ』

『あっはっは、本人がこれだし』

 

 舞鶴の現秘書艦はゴーヤだ。舌っ足らずな喋り方、幼稚園児と言われても半分くらいの人は信じそうなほどの童顔。舞鶴鎮守府一の見た目詐欺と言われるパッと見幼女は地味に頭脳明晰だ。だからゴーヤが秘書艦であることに対して誰も特に文句はなかったし、それは自分にとってもそうだった。

 その日はなんとなーく二人をからかって遊んでやろうと執務室に遊びにきていたのだ。そうしたらふとゴーヤがそんなことを切り出した。

 

『でも提督が一番信頼してるのはイクでちよね』

『まーね』

『……』

『お、照れた? 照れた?』

『ウザいのね』

 

 くだらない、と嘆息して視線を手元の本へと落としかけたそのとき。

 

『──だから秘書艦にしないのよ』

 

 そうこぼしたこいつの意図は、あのときはよくわからなかった。思えばあのときから色々と考えていたのかもしれない。あれから、何年だ。頼るの下手くそってレベルじゃないのね。

 

「何すればいいのよ」

 

 その耳、艦娘になったらよくなるかもしれませんよ、なんていう甘言を間に受けたわけではない。それでも微かな希望を持ってしまった分、絶望も深かった。それが、いわゆる共感覚というものであるということを。視界に流れ込む暴力的なほどの膨大な情報によって教え込まれた。元々微かに音を色として感じるかもしれない程度のものだったのに、それがそれこそ何百倍、何千倍にも強化されたのだ。耳もろくに聞こえない、そうして視界すら、こんな世界が百八十度変わるほどの圧倒的な暴力として襲いかかってくる。陸の上では、圧倒的な雑音の数々にろくに目を開けることもままならなかった。

 だから、海の中だけだった。海の中だけは。世界が、音が綺麗に見えるから。海の中にいるときだけは、安らぎを感じることができたのだ。

 

『潜水艦になるべくして生まれたかのようなやつだ』

 

 どいつもこいつも勝手なのね。勝手に憐れんで、勝手に褒めたたえる。イクはイクなのよ、勝手にイクのこと決めつけるんじゃないのね。──返して、ほしい。例え、耳が聞こえづらくても。この目が映す世界は、綺麗だった。それが、今では海の中でしかまともに目を開けられないなんて。ああ、艦娘なんて、クソ喰らえなのよ。

 

『陸は、うるさいのね』

『あんた耳聞こえないんじゃないの』

『色がうるさいのよ』

『色?』

 

 陸の上ではろくに動く気になれず、寮でアイマスクをしてゴロゴロしていたときだった。相部屋の子がいつも具合悪そうに寝ているから、とイクのことを相談したらしく、ひょっこりと部屋にこいつが訪れたのだ。

 

『ごちゃごちゃごちゃごちゃ、いろんな色が混じって気持ちが悪い』

『ふーん。……サングラスとかどう?』

『は?』

 

 ソナーいらずだな、とか。歴代最強の潜水艦だな、とか。そんなことはどうでもよかった。ただただ、返してほしかった。

 

『きっと世界のピントが合ってないのよ』

『はぁ?』

『視力が弱い人は眼鏡をかけるでしょ。だから、色? が、見えすぎて気持ち悪くなっちゃうあんたにもなんかきっと合う眼鏡があるって』

『……誰が作るのよ』

『うーん、明石ちゃんに相談してみるか』

『何が目的なのね』

『へ?』

『そんなことしてアンタになんのメリットがあるのよ』

 

 誰も陸の上のイクのことなんてろくに気にしなかったのね。潜水艦として、海にいるときのイクしか見てなかったし。

 

『イクの目が見える』

『は?』

『コミュニケーションは目と目を合わせてようやく始まるもんよ』

 

 きっとこうやってまともにイクの顔を見ようとしたのはこの女くらいだ。アイマスクをずらしてそいつの顔をよくよく見てみようとしたけれど、そのときはやっぱりろくに見えず、すぐ頭痛がして目を閉じた。

 

『あら、あんた案外綺麗な目してんのね』

 

 なんて。女に言われたって全然嬉しくないのね。そう、だからこれは義理だ。このサングラスのおかげでなんとか陸での生活もまともに送れるようになったことへの義理立て。

 

「提督はムカつくし、潜水艦のシフトはブラックだし、陸の上の生活は前よりしづらい。ここに来てからいいことなんてこれっぽっちもなかったのよ」

「う」

「だけど。イクを頼りにしてくれたのは提督だけだから」

 

 だから、こたえてやろう。気が狂う? 上等だ、そんなの既にこんな目にされて一度狂ってる。きっともう一回狂ったらそれこそ正常な世界が見えることだろう。そうして、恨んで欲しいというのならば。

 

「お望みどおり、恨んであげるのね。アンタが死んだ後も、隣でずーっと恨み言垂れ流してあげるのよ」

 

 そうしてやろう。それが、イク流の恩返しというものだ。

 

「……そりゃ、熱烈なラブコールなこって」

「気色悪いこと言うんじゃないのね」

 

 ケッと毒づくと提督は弱々しいながらもようやっとこちらに笑いかけてきた。全く。こうもしおらしいと調子が狂うのね。

 

「もういい加減疲れたのよねー。だから、あんたで最後」

 

 思いっきり伸びをして執務机に頬杖をつきながら真っ直ぐこちらを見つめてくる。昔からそうだ。相手の目を見ないと話した気にならない、と真っ直ぐこちらを見て語りかけてくる。

 

「あんたで、最後にするわ」

「……悪いけど心中とかごめんなのよ」

「そうじゃないわよ。まぁ、けど一蓮托生ってことで。わかってると思うけど他言無用よ。……イク」

 

 ちょいちょいと手招きをされ、そのしおらしさも相まって迂闊に近寄ってしまった。そうすれば、にゅっと手を伸ばしてかけているサングラスをぐいとずらされる。

 

「ちょっ……!」

「ふふ、サクラサク。知ってる? あんたの目、桜咲いてんのよ」

 

『──綺麗な目してんのね』

 

 月火水木金金金。潜水艦なぞブラックだ。資源回収地獄のフルマラソン、戦いではひっそりと身を潜める性質から死んだところでほとんど誰にも気づかれない。ついでに言うなら神衣も頭がおかしい。スクール水着とか考えたやつに魚雷をぶち込んでやりたい。そんなクソブラックな環境で飄々と笑ってさらに仕事を押しつけてくるこいつ。正直魚雷をぶち込んでやろうとしたのは、まぁ今回ほど本気ではないにしてもそこそこある。それくらい、ムカつく。ムカつくけれども。あっけらかんと放たれるその言葉に嘘偽りがないということはいい加減わかってきているし。こうやってちょくちょく楽しそうに、艦娘になってがらりと変わってしまったこの瞳を直に覗きこもうとするくらいには、どうやらこれのことを本気で気に入っているらしいということも、まぁ知っている。

 

「月一回。あいつに会った後はその桜見せに来てね」

「……」

「まともに取り合わなくていい。とにかく、無事で」

「てーとくって」

 

 話がなんだか長くなりそうだったのでそこで遮ってやった。

 

「案外心配性なのね」

「案外っていうか……なんであんたそこまで落ち着いてんのよ」

「きっとなんとかなるのね。それに」

 

 そもそも艦娘という存在がわけがわからないのだから。何時間も海の底に潜っていても苦しくもならないこの身は、いったいなんだと言うのだろう。明日には敵の爆雷や魚雷で死んでいるかもしれないということと、化け物と会話をしてこいなんていうことはそこまで変わらないような気もした。それに。

 

「戦艦なんて、イクの恰好の獲物なのよ」

 

 いざとなったら自慢の魚雷でもって逃げてくればいい。なんとかなる。今までだってなんとかなってきたのだから。

 

「あいつ、対潜攻撃もエグいけどね」

「……戦艦じゃなかったの?」

「戦艦だけど。色々規格外なのよ。まぁ」

 

 きっと、まぁなんとかなるのね。なんとかならなかったら、そのとき考えればいい。

 

「信じてるわよ、あんたの逃げ足」

「……もうちょっと別のところ信頼してほしいのね」

「その曲がった性根も信じてる」

「おい」

「あいつ心が綺麗なやつは問答無用で殴り殺すからさぁ。私の目に狂いはなかった」

「おいこら。表出ろなのね」

「ヤダ寒い」

 

 ──ここは、舞鶴鎮守府。夏は蒸し暑いし、冬はめちゃくちゃ寒くてよく曇る。潜水艦娘どもはそのうち虚ろな目をして肩を組んで月火水木金金金と歌い出すし、他の鎮守府よりぼろっちくてお金もない。おまけによくわからない化け物が近くにいるし。

 あーもう。ここは、最高に刺激的で、最高に楽しい職場なのよ。誰になんと言われようともね。

 

 



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苦手×苦手=仲良し(舞鶴鎮守府:伊19、伊13)

舞鶴のイクとヒトミのお話


 人間、どうしても反りが合わない人がいると思う。世界にこれだけ色々な人がいるのだから、まぁ絶対こいつは無理、みたいなのがいてもしょうがないんじゃないかと言うのが持論だ。こんだけいっぱい人がいるのだから、そういうのには必要以上に近づかなければいい。仕事でどうしても付き合わなければいけないとしても、まぁビジネスライクの関係を築けばいいと思っている。もし、その人物の性格が合わない場合は。だがしかし。

 

「……あー、もうちょっと、大きな声で言ってもらえると」

「……! ……!!」

 

 物理的に苦手な場合は、どうすればいいだろうか。目の前でイクに頑張って話しかけてくれているこの子は、別に嫌いではない。多分、少し引っ込み思案なだけの、いい子、のように思う、のだが。

 

「あー……」

「……」

 

 如何せん、声の相性が悪い。元々囁くような声量で喋る子ではあるが、よりによって彼女の声はどうやら苦手な音域にあるようで。頑張って音量を上げてくれているようなのだが、本当に何を言っているかわからないのだ。口元から内容を類推するのは元々苦手であるし、しかも彼女の可愛らしい口はあまり大きく開かれることもないからなおさら。

 そうしてどうしたものか、と言葉を濁していると、目に見えて彼女、伊13──通称、ヒトミがうろたえ始めた。

 

「あー、ごめんなさいなのね、聞き取れないんだけど。緊急なの?」

 

 こくこく、と精一杯頷いて必死に意思表示をされる。悪い子では、ないのだ。だからこそ少しの申し訳なさを感じてしまう。

 

「んー……十秒」

 

 ボディランゲージで必死にリアクションを返すヒトミにつられてこちらも両の手で十を示しながら言葉を続ける。

 

「?」

「イクがスタートって言ったらその内容、十秒で喋って欲しいのね。できる?」

 

 少し不思議そうに首を傾げながらももう一度ゆっくりと頷く彼女を確認して、スタートと呟き。サングラスをわずかに下にずらす。

 

 ──瞬間。色の洪水が襲ってくる。情報の変換、足音、廊下の軋み、風、衣擦れ、呼吸音、心音それじゃない情報の取捨選択をしろ、どれだ──イ──の部屋、水浸し──葉擦れ、窓が揺れる音──私達の──引き戸が引かれれる音、カラスの鳴き声、誰かの話し声──避難して──。

 

 ズキリ、と頭痛が走って思わず目をつぶる。昔に比べれば大分陸でも使えるようになったけれど。やっぱり陸は、雑音が多すぎる。

 痛みが引くまで目をつぶって耐えていると、羽織っていたパーカーの裾をくいと引かれる感触がしてゆっくりと目を開ける。目の前には、心配そうにこちらを見つめるヒトミがいた。

 

「あー……水浸し? イクの部屋? ……あ、もしかしてまたあのオンボロ洗濯機、壊れたの?」

 

 こくこく。

 

「で、避難……避難?」

 

 くいくい、と人差し指で自分を指差すヒトミ。

 

「直るまでヒトミ達のところに避難しろって、ことなの?」

 

 こくこくこく、と今までで一番力強く頷かれる。どうでもいいけど小動物みたいなのね。

 

「了解なのね。イヨもいる?」

 

 こくりと彼女が頷くのを見て少しホッとする。イヨの声は聞き取りやすいし、まぁ部屋に行きさえすれば筆記用具だとかもあるだろうからなんとかなるだろう。

 とりあえずは一件落着だ、と頭を軽く振って頭痛を誤魔化して歩き出そうとしたところで、また裾を引かれる。視線を上げると、ヒトミが両手の平を合わせて申し訳なさそうにしていた。

 

「んー、別に謝ることじゃないのよ」

 

 というかこればっかりはしょうがないことだし。だから気にするな、と手をひらりと振ったのだが、それでもどこかヒトミはしょんぼりしたままだった。

 

「知ってると思うけど、イクはちょっと聞くのが苦手なの」

 

 かちゃり、とサングラスの位置を直しながらゆっくりと話しかける。

 

「そんで、ヒトミはちょっと喋るのが苦手」

 

 悪い子ではないのだ。普通ならこんなに聞き取れなかったらしびれを切らして伝えることを諦める。コミュニケーションというものは、お互い聞こう、話そうという歩み寄りが大事になるわけだけれども、イクの場合どうしても相手側に負担がいってしまうからそれも仕方ないと思っている。だけれども、この子はきちんと最後まで毎回付き合ってくれるのだ。だからイク的にはヒトミに対する好感度は高いし、申し訳なさそうな顔をされてしまうとこちらが逆に申し訳なく思ってしまう。

 

「でも毎回、ヒトミは頑張って苦手なお喋りをイクにしてくれてるのね」

「……」

「だから今回はちょっとイクも苦手なこと頑張っただけなのよ。だから気にしなくていいのね」

 

 色んなやつがいる。耳が聞こえない、というのを額面通りに受け取って聞こえてないと思って悪口を言ってゲラゲラ笑うやつ。可哀想可哀想、なんて可哀想な子なんだろう、ととかく構ってくるやつ。人間、十人十色。嫌いなやつはぶん殴って物理的にも精神的にも距離をあけてきた。聞こえないというのも、まぁ悪くないこともある。面と向かって悪口を言えないやつなど所詮小物だ、そいつらがピーチクパーチク囀る音が聞こえないと思えば、雑音が減ったと考えられなくもない。

 人間、十人十色。嫌いなやつと仲良くなるのにエネルギーを割くくらいなら。

 

「ヒトミはいいやつなのね。だから、んー。イクもちょっと頑張れるのよ」

 

 どうせなら自分は、好ましく思う人と付き合っていくことにエネルギーを割きたい。

 気にするな、とポンポンと肩を叩いて歩き出す。うーん、ちょっと油断してたのね。いつもなら携帯端末でやり過ごすのだけれど、こういうときに限ってお互い持ち歩いていなかったりするものだ。しかしそろそろあの洗濯機、買い替えてくれないものだろうか。いい加減寿命だと思うのだけれど。

 

 

 気になる人と物理的に相性が悪い場合は、どうしたらいいのだろう。

 

『イクちゃん、いい人だよー、ちょっとやさぐれてるけど』

 

 いい人なのは、知っている。毎回毎回私がしどろもどろと話しているとき、どうやら私の声が全然聞き取れないみたいなのだけれど、それでも頑張って耳を傾けようとしてくれる。まだまだ艦娘としての艦歴が浅く、足を引っ張ってしまうことがある私を何度もフォローしてくれる。

 

『イク、海の中は得意なのね。いつもヒトミにはお世話になってるから、持ちつ持たれつなのよ』

 

 申し訳なくてぺこぺこしていると、ちょっと困ったような顔をしてそう言う。お世話なんて、言われるほどしていない。気を使わせてしまった、と落ち込んでいたら、気分を紛らわせるためにか、色々なことを教えてくれた。

 

『深海には音の道があるのね』

 

 音が見えるという彼女の話は、どこかお伽噺のように現実味がなくて、それでいて面白かった。

 

『どこまでもどこまでも遠くに音を届けることができる、音の道が。海にいる子達はそれを知っているのね』

 

 昨日まで見ていた世界が、ある日急にがらりと変わってしまうというのは、どういう気持ちなのだろう。いつもかけている特別なサングラスがないとまともに目を開けていられないと聞いた。陸の上はうるさいが口癖の彼女は、陸の上にいるときは不機嫌そうな顔をしていることが多いけれど。深海を泳ぐときは、いつも楽しそうにしている。

 

『ザトウクジラの歌は、綺麗なの』

 

 光も届かぬ深海の世界を綺麗だという。私が感じることができない世界を見ることができる彼女は、きっときっと、とても大変な思いをしてきていると思う、それでも。私は彼女が今そうやって見ている世界を、もっと感じてみたい、知りたいと思った。

 

『ヒトミはいいやつなのね。だからイクもちょっと頑張れるのよ』

 

 ──問い。お互い苦手なものがかち合った人と仲良くするためには、どうすればいいでしょう。

 

 

 月火水木金金金。今日もこれから楽しい楽しい資源回収フルマラソンだ。お酒でも飲まないとやってられるかぁー!! とイヨが切れていたけれど、お酒さえ入れてしまえばコロッと機嫌を直してしまえる彼女はある意味潜水艦向きだ。メンタルコントロールができなければ潜水艦娘は鬱まっしぐらである、そもそも普段の生活の場が深海という日の光の届かないところであるわけだし。ゴーヤはバナナ食べて隙間時間に日の光を浴びてれば幸せになれるはずでち、セロトニン教にイクも入会するでち、などと今日も虚ろな目をしてバナナをもしゃもしゃと頬張りながら帳簿とにらめっこしていた。全然効いてるようにみえないのね、と言えばセロトニン様のおかげでこのくらいで済んでるんでちよ、と返された。憐れだったのでとりあえず一本バナナはもらっておいた。

 今日はヒトミとイヨとだったか。ヒトミも最初はこいつ、すぐ鬱になってダウンするんじゃないかと思っていたけれど、あれでいて中々芯が強い。いやはや。潜水艦娘なんてマゾじゃないとやってられないのね。

 そんなことを考えながら歩いていたら、ばったりとヒトミと出くわした。いつもなら、少しだけ頭を下げて終わりなのだが。今日は少し違った。

 

「……な、なに?」

 

 いつもおどおどしているヒトミが、気合十分、といった様子で目の前に立ちはだかる。その様子に気圧されていると。

 

『おはようございます』

 

 予想だにしない行動を、彼女が取ったのだ。

 

「……おはよう」

 

 そう返してあげると、途端にぱぁっと顔を明るくして流暢に指先を、腕をヒトミが動かし始める。

 

『喋るのは苦手だけど』

 

 今まで全く聞き取れなかった彼女の声が。

 

『こういうの覚えるのは、得意、です』

 

 よく、見える。

 

「……ふは」

 

 思わず間抜けな声が漏れた。そういえばイヨがいつだったか姉貴はめちゃくちゃ頭いいんだよー、なんでもすぐ覚えちゃう。外国語もいっぱい喋れるの、まぁ喋るのは苦手だけど、とか言っていたっけ。いやしかし。

 

「ヒトミ、あんた本当にいいやつなのね」

『イクちゃんのが、いい人』

「イクは別にいい人じゃないのよ、ただ」

 

 ああ、愉快だ。人生なんてクソッタレ。周りにいるやつもクソッタレ、この世は全然優しくないし綺麗でもないけれど。

 

「イクはイクに優しい人には優しくするってのが、モットーなのね」

 

 これだから人生ってのは、面白い。

 

 

「……」

「はぁ、そりゃ」

「……」

「はは、バカなのね」

「……!」

「イヨー、あんまヒトミに迷惑かけるんじゃないのね」

 

 ヒトミと会話をしながらのんびりとちゃぶ台の上のみかんを頬張る。通算何回目だっただろうか、またあの洗濯機が壊れたのである。まだ……まだ使える!! と修理費を浮かせるために提督自ら修理しているわけだけれども、一番被害を被るのは下の階のイクの部屋である。そろそろ部屋を変えてもらおうか、提督の部屋と。一度あいつも水浸しになればいいと思う。

 

「むー!! 姉貴とイクちゃんずるい!」

「なにが?」

「……ずるく、ない」

 

 みかんの白いすじを丁寧にとっていたら、イヨが頬を膨らませ抗議をしてきた。

 

「内緒話しないでよー!」

「イヨも手話覚えればいいのね」

「私姉貴みたく頭よくないもん!」

「じゃあ簡単なの教えてやるのね。田んぼの田」

「あ! わかりやすい!」

「これで坂」

「おー、簡単!」

「おめでとうなの、これでイヨも手話で坂田を呼べるのね」

「誰よ!!」

 

 やいのやいのと騒いでいると、こんこん、と扉を叩く音がして提督が現れる。つなぎを着込んでるとパッと見ただの土方のねーちゃんである。

 

「直ったわよー」

「ていうか本気でそろそろ新しいの買ってほしいのね」

「ヤダ、まだ使える。もったいない明石ちゃんと夕張ちゃんが出るわよ!!」

「なに、それ……」

「艦娘界で一、ニを争うもったいないが口癖のメカマニア。水浸しになるイクの部屋のこともそろそろ考えて欲しいの」

「うわ、相変わらず白いのきっちり取るわね」

「美味しくないし」

「ていうか」

 

 ごし、と腕で汗を拭いながら提督がちゃぶ台を囲むイク達をまじまじと見下ろす。

 

「あんた達そんな仲良かったっけ?」

 

 そうしてその言葉に、三人して顔を見合わせた。

 

「前からずっと、仲良いのね」

「……うん」

「あ、じゃあいっそここ三人部屋にしちゃうとか!」

「狭いのね」

「狭い」

「狭い、です……」

「あ、ごめん、ヒトミにまでそんな顔されるとさすがに傷ついちゃう……」

「いいぞ姉貴、そのまま睨んじゃって」

「ついでにちょっと涙目だともっと効果的なの」

「あ、やめて、ちょっと本気で良心が」

「ぐーぱんしてやれ、ぐーぱん」

「魚雷使う? なの」

「死ぬわ!!」

 

 ──問い。お互い苦手なものがかち合った人と仲良くするためには、どうすればいいでしょう。

 ──答え。お互いちょっとだけ無理をして、解決策を探します。ほら。ちょっと頑張っただけの、かい(えがお)があったでしょう。

 



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自由の国より海を越え(呉鎮守府:アトランタ)

防空巡洋艦、アトランタを中心とした日米艦娘人間模様。
名前だけですが、一部未実装の艦艇について言及するシーンがあります。
なお時系列的には機械人形は笑わないの初期から中期にかけて、梅雨きたりて君想うの前あたりとなります。


 

 デッキの手すりに寄りかかりながらあくびを噛み殺す。船に乗ること自体も久々であれば、このような大移動などは人生初かもしれない。太平洋を何日もかけ、東洋の小さな島国を目指して突き進む船の行き先をぼんやりと見つめていると、デッキに上がってきたヘレナが声をかけてきた。

 

「こんなところにいたのね」

 

 放っておいて構わないのに。面倒見がいいのだろうけども、正直面倒くさいというのがあたしのヘレナに対する評価だ。

 ちらりとそちらに一瞥をくれ、ふいと逸らす。そんな対応はいつものことなので、特に気にした風でもなくヘレナが近寄ってきた。

 

「……なんでよりによって日本かな」

 

 何気なく呟いた言葉は海風にさらわれ消えていった。

 

「何か言った? アトランタ」

「別に」

 

 煽られる髪を鬱陶しく払いながら立ち上がる。スタスタとヘレナの横を通り過ぎていくと慌ててヘレナが声をかけてきた。

 

「ちょっとアトランタ!」

「護衛」

 

 艦娘だけの移動であれば本人と艤装さえあれば事足りるが、技術的連携を目的とした航海はそうも行かない。アメリカの技師、専門家達がこの船に大勢乗っている。交代で寝られる寝床があるのはいいけれど、その分護衛に気をはらなければならないのは面倒くさい。面倒くさいけど。

 

「交代でしょ。行ってくるよ」

 

 ヘレナに怒られるのはもっと面倒くさい。そう言ってふいと船内に戻ろうとすると、

 

「マイペースなんだから、もう」

 

 背後から困ったような彼女の声が届いた。それを聞かなかったふりをしてまたあくびを噛み殺す。

 ──東洋の島国、日本。刻一刻とその島国に近づく船に。ざわりと、空気が揺れた。

 

 

 射撃管制レーダーが敵機を捉える。針路、速力を元に算出された射撃諸元の数々。

 

「……どんだけ飛ばしてるんだよ」

 

 思わず悪態をつきながら、それでも淡々とやるべきことを進めていく。測距儀による敵味方識別、距離の概算。レーダーが捉えた目標の計測などを次々と指定していく。

 

「知らない子ばっか。いいけど」

 

 5 inch連装両用砲が駆動音をたてながら動き始める。ひとつ、ふたつ、みっつ。徐々に克明となる撃墜目標の数々と、それらが伴う空を切り裂く大音量のバックミュージック。うるさいのは嫌いだ。ガンガンガンガン頭に響いて煩わしいったらない。

 風が吹き荒れ、白波が艤装に弾けては消えてゆく。面倒くさいのも、波にもまれてずぶ濡れになるのも、何ものをも遮るもののない洋上で日の光にさらされ汗だくになるのも、自身の服に砲煙の匂いがつくのも嫌いだ。それでも。

 

「どうせ落とすだけだから」

 

 全てを片付け終えた後に訪れる、つかの間の静けさだけは嫌いではなかったし。それこそが、あたしがここにいる存在意義でもあった。

 

 

「おあー……」

「口開けてみっともないで、飛龍」

「いや〜でもこれは思わず開いちゃうでしょ〜……」

「はぁ〜」

「ほら、蒼龍も開いてる」

 

 遙か彼方を見つめながら、ニ航戦の二人がぱかーっと口を開けて間の抜けた声をあげる。すかさず龍驤さんが嗜めるも、彼女のその顔もまたなんとも微妙なものであった。

 

「凄いですね」

「せやんなぁ……」

 

 今回の演習に参加していたもう一人の空母である赤城さんは他の三人に比べれば警戒を緩める

 ことなく洋上に立ってはいたものの、思わず感嘆の声を漏らしていた。

 

「なにあの弾幕。ていうか連射エグくない?」

「切れ目がみっからんなぁ」

「いっそ空母六隻でやってみます?」

「対潜警戒もクソもないやろ、それじゃ」

「えーでもなんか悔しくないですか」

「まぁそりゃ」

 

 空母の人達は自身の艦載機と視界共有することができる。今回の演習の形ばかりの護衛についていたただの駆逐艦である巻雲には、遙か遠くで行われたであろうその交戦の様子はとんとわからなかったけれども。

 

「涼しい顔してあんなことされたらなぁ」

 

 苦々しくそう呟いた龍驤さんのその様子から。どうにも軍配はあちら側に上がったらしいことだけは、なんとなくわかった。

 

 

 見えていた結果とはいえ、こうも軽くいなされてしまうとは。第二次攻撃の結果も言わずもがな。対空に特化している分雷装を一切載せていないそうなので夜はその分無力なのかもしれないけれど、なかなかに強烈なお出迎えだった。やっぱり日本艦と全然違うなぁ、と思いながら口を開く。

 

「海外の人も増えてきたねぇ」

「そうね」

 

 ビスマルクさんとグラーフさんがドイツからやってきてしばらく経つ。持ち前の人懐っこさでどんどん色々な人達と打ち解けていくビスマルクさんに対し、グラーフさんに対してはまだちょっとだけ苦手意識があった。あの何を考えているかよくわからない顔。同族嫌悪とまではいかないけれど、掴みどころがない人は苦手だ。だから彼女に対しても分け隔てなくにこにこと接する赤城さんは純粋にすごいと思うし、赤城さんといるときだけは私も少し警戒心を緩めてグラーフさんに接することができた。

 あの人は潤滑剤のような人だと思う。決して目立つタイプではないんだけれど、いつの間にか警戒心をほどかれてしまう。ちょっと鳳翔さんに似てるんだよなぁと思いながら、いやでもそんなに歳いってないか、あれ? 赤城さんも鳳翔さんもいくつだろうと触れてはいけなさそうなことにまで思いを馳せていたからだろうか。ドックへと戻ってきて艤装技師の人達が寄ってくるのを待ちながら何気なく。他愛もない雑談のつもりでうっかり、ぽろりと。

 

「今度アメリカから空母も来るんだって」

 

 そんなことをこぼしてしまった。

 それがいかに迂闊であるかなどと、あの海戦を長く引きずっていた二隻の姿を目の当たりにしていたのだから気づいても良かったはずなのに。

 

「──ヨークタウン」

 

 びりりと。大きな声ではない、むしろそういったものに疎い人がその声を耳に捉えたとしたら落ち着いた声音とさえ受け取れそうなほど、静かで、抑揚のないその声は。

 

「ヨークタウンは?」

 

 確かな敵愾心でもって、その場の空気を震わせた。

 カシャン、と近くにいた艤装技師が工具を取り落とす。そういったものに不慣れな彼は、なぜ自身の手が震えているのかわけもわからず、慌ててそれを引っ掴んだ。

 

「びっ……くりする、から。急に出てこないでください、飛龍さん(・ ・ ・ ・)

 

 普段は滅多に表に出てこない、飛龍に憑いている付喪神。私達は彼女らに"さん"をつけることで明確な違いをつけていた。

 

「ああ、ごめん。気になったからさ」

 

 頭をかきながらじっとこちらを見つめる彼女の表情からその心のうちは読めなかったけれども、それでも持っている情報をよこせ、とせっつくかのような威圧感を肌で感じた。

 ──ミッドウェー海戦。日本空母四隻を失うこととなった、かの戦い。飛龍が最後の一隻となっても衰えることのない闘志でもって牙をむき続けた空母なのだとしたら。空母ヨークタウンは、三ヶ月以上は修理にかかるだろうと言われていたところをわずか三日の応急処置でもって海へと舞い戻り。ミッドウェー海戦にて蒼龍を撃沈し、飛龍からの反撃を一身に受けながらも、その驚異的なダメージコントロールにより浮き続け、その後の伊一六八の攻撃を受けてなおしばらく海を揺蕩っていた不屈の空母。

 アメリカ、空母、ときたら。飛龍が真っ先に思い浮かべる相手は、推して知るべしといったところだろう。

 

「詳しくは知らないですけど。……喧嘩はやめてくださいね?」

「んー」

 

 何を考えているのかわからない顔で言葉を濁す飛龍に、勝手に口が開いた。

 

「──飛龍(・ ・)

 

 ガシャン!! と今度は先程よりも大きな音がした。かわいそうに、彼はわけもわからないまますっかりと萎縮してしまって、すみませんすみませんと頭を下げながら散らばった工具を拾い集めていた。

 

「……わかってるわよ。蒼龍怒らすと面倒くさいもん」

 

 飛龍は嘆息するとようやく艤装の取り外しにかかった。

 ことり、と立てかけられた矢筒の縁には、いつの間に顕現していたのだろう。一人の妖精さんが腰掛け、ただ静かにじっと遙か彼方の、因縁の相手がいるであろう海の先の大陸を見据えていた。

 そっかぁ、そうだよねぇ。参ったな、と頭をかきながら思案する。現友好国であるアメリカ。そして深海棲艦という未曾有の危機に面して一時休戦となっている諸外国。表面上は穏やかに見えても、その実根が深い因縁がこと付喪神にはつきまとう。外から客を招き入れるということはつまりこういった過去の因縁も招き入れることであり、それは逆もまた然り。

 大丈夫かなぁと思いながら、自身も艤装の取り外しに取り掛かるのであった。

 

 

「ねぇねぇ、アメリカの軽巡ってそんなんばっかなの?」

 

 呉自慢の大浴場とやらをよくも知らない奴らと一緒に使う気にもなれず、離れのシャワー室でもって簡単に汚れを落として軽巡洋艦用の宿舎へと戻ってくると、面倒くさいのに絡まれた。

 

「尖った性能だよね〜お互いの個性で補い合おうってやつ?」

 

 へらへらへらへら。笑っているようで笑っていない。隙だらけなようでいて全く隙がない。おまけにこちらが大嫌いである夜戦が大好きだというこいつを前に。

 

「でもさぁ、そんな装備じゃ夜やる気なくすのもわかるけど。ちょっとくらい夜戦しよ?」

 

 思わず舌打ちをしてしまった。

 

You must be never at a loss for words, huh?(口の減らないやつだな、アンタ)

「お、えーごだえーご」

 

 なにが面白いのかけらけらと笑っているそいつにさらに神経が逆なでられる。第一印象ってのは大事だ、本能的な感覚で捉えるそいつの人となり。それからいくと、こいつは最悪だった。

 

「あたし学はないけどさ、悪口言われてんのはさすがにわかるよ。あとね」

 

 こちらをどこか探るように見つめていた目が一瞬だけすっと細められる。そうして。

 

「そんな煽られやすくて戦場でやってけんの?」

 

 にっこりと笑いかけながらひゅ、とそいつの左手でもって上に放られた、見覚えのあるそれに思わずポケットを上からおさえた。

 

「てんめっ……!」

 

 いつの間にかあたしの懐から財布をスっていた川内に思わず声を荒げると、川内はその反応が見たかった、と言わんばかりに楽しそうに言葉を続けた。

 

「ほんの軽い挨拶だって、ジャパニーズニンジャジョークってやつ? あははは」

「姉さん?」

「は……」

 

 そうしてまた川内が楽しそうにひゅ、と上へと放ったあたしの財布を、川内の背後から音もなく現れた彼女の妹──神通がはっしと掴み取った。思わず固まる川内。

 

「最近お痛が過ぎますよ? 姉さん」

 

 さすが血の繋がった姉妹。笑ってるけど笑ってない、セカンド。ただしこちらの圧は先程の比ではない。

 どうもすみません、と言いながら財布をこちらに差し出す神通からおっかなびっくりとそれを受け取ると、神通はまたにこり、と笑って付け加えた。

 

「今後この人がやらかしたら私に言ってください」

「ぐぇ、ちょ、神通マフラーは」

「締め上げますので」

「締まってる締まってる今物理的に締まってるからぁ!!」

 

 ぎりぎりとマフラーを締め上げる神通に自身の首元のマフラーをタップすることで降参の意を伝える川内。OK、把握。ここの姉妹の力関係は神通が上。そして多分怒らせたら怖いのも神通。

 無言で微かに頷くと、神通は礼儀正しくお辞儀をして川内を引きずりながら去っていった。

 

「……騒がしいやつら」

 

 誰もいなくなった廊下にて。深く深くため息をつきながら、一人ごちた。

 

 

 第一士官次室(ガンルーム)。夜になると極力明かりを落とさなければならない環境下において、このガンルームは一際大きな窓が備え付けられており、こういった満月の日に過ごすにはちょうどいい場所だった。

 窓に寄りかかりながら月を見上げる。心もとない光源ではあるものの、それでも何もない真っ暗闇に比べれば幾分かマシだ。

 

「と、悪い、邪魔したか」

「ぽい?」

 

 不意にパッと明かりがつけられる。入口の方を見やると、本国では見飽きた、そうしてこの国では珍しい髪と瞳の色の持ち主と。

 ひょっこりとその影から、日本駆逐艦が顔を覗かせた。

 ざらり。脳裏に響く不協和音。その音に不快感を隠しきれずしかめっ面をしていると、グラーフが簡易キッチンに向かいながら静かにこちらに尋ねてきた。

 

「コーヒー、飲むか?」

 

 断る理由もない。小さく頷くとグラーフはごそごそと何やら準備を始めた。この部屋は談話室代わりに使われているのもあり、各々艦娘がお茶っ葉やら軽食やらを持ち寄ってぞんざいに置かれている。基本的には好き勝手食べてどうぞ、といった形ではあるが、うっかりそこに書かれていた名前などを見落とそうものなら戦争が起こることもあるので注意が必要らしい。どうでもいいけど。

 

「夕立も!」

「ユウダチはホットミルクだ」

「む〜、子供扱いしてるっぽい?」

「ハチミツ入れてやるから」

「やった!」

 

 ぴょんぴょんとグラーフの周りを跳ね回る小さな少女。飛び跳ねることで特徴的な癖っ毛が揺れ、小動物らしさが強くなる。

 なんてことはない、無邪気な、少女のはずだ。

 ざわり、ざわり。その少女に対して警報を鳴らすかのごとく。不協和音が、強まる。

 

「ほら、部屋で飲め」

「えー」

「シグレ達が待ってるんだろう。それにもう眠そうだ」

 

 ぐしぐし目をこすってる夕立に微かに湯気が立ちのぼるそれを渡してグラーフがなだめる。

 

「今度お昼に美味しいコーヒーを淹れてやるから」

「約束っぽい?」

「ああ」

 

 少し意外だった。グラーフを慕っている夕立も、それをぞんざいに扱わず、丁寧に応対するグラーフも。もう少し、人間味のないやつかと思っていたけれど。

 夕立を見送ったグラーフに、なんの気はなしに話しかける。

 

「Nightmareと仲いいんだね」

「Nightmare?」

「なんか、そーいう名前ついてたでしょ。あのぽいぽい言ってた子」

「ああ」

 

 こぽこぽと電気ケトルのお湯が音をたてて沸き始める。その隣でカチャカチャと棚からドリッパーを取り出す様子を見て、インスタントじゃないのか、とぼんやりと思った。

 

「ソロモンの悪夢、だったか?」

 

 その名前をグラーフが口にした途端。ざわり、と一際大きく音が揺れた。

 これが、なんなのか。正直あたしもよくわかっていない。小さい頃、夜の海で深海棲艦に襲われたあたしは、暗い暗い海の底へと放り出された。幸いにして命を取り留めたものの、一度生死の境を彷徨ったせいだろうか。ときたま、何かに呼応するかのような不協和音が脳に響くのだ。

 それは艦娘となってからより明確に、より鮮明にあたしを悩ませ始めた。元々夜にトラウマがあって不眠気味だったのもあるけれど。日が落ちると、必ず。神経質に、キリキリと鳴り始める不協和音。その音は心を不安にさせるようなひどく神経を逆なでる音であり、こいつのせいであたしの不眠は加速した。

 からの、日本への転籍である。この音がなんなのかは知らない。きっと大真面目に誰かに相談したら、悪魔にでも魅入られたのだとか言われて面倒臭そうだし、慣れとは怖いもので、まぁ日常生活もそこそこ支障なし、とやってこられていたのに。日本行きが決まったあの日から。そうして、特定の、とりわけ日本駆逐艦が近くに寄ってくると、より一層その音がひどく響くものだから、面倒くさくて仕方がない。

 

「アンタも徹夜?」

「いや、これを飲んだら寝る」

 

 なに言ってんだ、コイツ。カップをお湯で温めているそいつを変なものを見るような目で見ていると、その視線に気づいたグラーフが微かに苦笑した。

 

「海の上では飲めないだろう。帰ったら一杯飲まないとそわそわしてな」

Coffee freak……(コーヒージャンキーじゃん……)

「知ってる」

 

 口の細長いケトルでもってグラーフがゆっくりとお湯を注ぎ入れると、ふわりとコーヒーのいい匂いがこちらまで届いてきた。

 飲食に関してそこまでこだわりはなく、泥水のようにまずいコーヒーだって眠気覚ましのために流し込むことも多いけれど。そういった安いものとは違う、上品で、落ち着く香り。

 

「……悪くない」

「ん?」

「コーヒーの匂いは、気が紛れるね」

 

 使い捨ての紙コップに注がれたそれを受け取りながら呟く。グラーフは自分の分も用意するとそれをカウンターに放置しながら器具を片し始めた。

 

「事情は知らないが君も大変そうだな」

 

 受け取ったコーヒーを息を吹きかけて冷ましながらちびちびと飲みつつ窓にもたれて月を見上げていると、あらかた片付け終わったグラーフがカウンターに寄りかかりながらそんな言葉をかけてきた。

 怪訝そうにそちらを見やると、彼女はこちらをじっと見返しながら口を開いた。

 

「ずっと気がたっているだろう」

 

 別段隠しているつもりはなかったけれど。それでも、グラーフがそのことを指摘してきたのは意外だった。

 ドイツ人だから、というのもあるかもしれないが、もう一人のドイツ艦娘であるビスマルクに比べてもグラーフは人に対して明確に一線を引いている節があった。人嫌いであるというわけではない。話しかければ答えるし、向こうから話を振ってくることもある。ただなんとなく。そう、なんとなくあたしに近いものを勝手に感じていたものだから、そんなつっこんでくるとは思いもしなかったのだ。

 静かに手元のコーヒーに口をつける。鼻腔をくすぐる芳醇な香りも、口元に広がる程よい苦味も。あたしの意識をそれから逸らすのに十分な働きをしてくれた。

 

「夜は苦手。日本駆逐艦も」

 

 だから駄賃代わりに答えてやることにした。

 

「いつも寝られないのか」

「寝てるよ、夜が明けてから」

「……それじゃあほぼ寝られてないだろう」

 

 夜が明けるとようやく。ぴりぴりとこちらの神経を刺激するようにさざめいているそいつが、どこかホッとするかのように静かになる。そうしてようやっとあたしは安寧を得るのだ。

 

「夜に寝るよりマシ」

 

 夜の海にぼんやりと滲む青白い灯火。この世のものとは思えぬそいつらの咆哮、こちらを海の底へと引きずり込もうとする恐ろしいほど淀んだ、波。

 適性なんかなけりゃ一生海に近寄るものか、と決めていたのに現実は無情である。あと何度。この夜を越えればあたしはこいつを克服できるんだろうか。どうでもいいか、どうでもいい。人間とは意外と丈夫なもので、なんとなく惰性で生きていけるものだ。それでも。

 

「コーヒー、ありがと」

 

 そんな夜をうんざりしながら来る日も来る日もやり過ごしてきたけれど。今日は、悪くなかった。時間にすればほんのわずかなcoffee talkだったけれども、じっと日が登るのを待つよりずっといい。

 そういった感謝の意味も含めてお礼を言って立ち上がる。そろそろ日が登る。貴重な貴重な睡眠時間のはじまりだ。

 グラーフはあたしの言葉にゆっくりと目を瞬かせると、ひら、と軽く手を振ってそれに答えた。

 

 

 そろそろ日が落ちるじゃん、早く帰ろうよ、と帰投を急かすと、一緒の艦隊に所属していた夕立がすいすいと近くに寄ってきて小首を傾げた。

 

「アトランタは夜嫌いっぽい?」

 

 あの語尾につくぽいはなんなの、とぼやいたことがある。するとそれを受けてそのとき隣にいた大井がそっちでいう-ishみたいなもん、とさらりと答え、でも多分意味はほとんどない、と付け加えた。日本人は英語が苦手であると聞いていたけれど、どうやら全員が全員そうでもないらしい。なに? と怪訝そうにこちらを見た大井に対して、こいつの前で英語で悪口を言うのはやめようとそのときそっと心に誓った。

 

「夕立は夜好きっぽい」

 

 すいすいくるくると海面を滑らかに楽しげに踊りながら無邪気に笑いかけてくる少女。どこからどう見てもただの幼い少女であって、向けられる好意も確かなものであるとわかるのに。

 

「だから夜は夕立が守ってあげるね」

 

 ざわざわと。こいつが近づくと強まるこの不協和音は、なんだ。耳障りな音というものは聞いているだけで心を不安定にさせる。だから、この子につきまとうこの不協和音が、どうしてもあたしを不安にさせていた。

 

「こら、迷惑かけないの」

「かけてないっぽい!」

 

 そうしてあたし達の会話に一人の軽巡洋艦が割って入ってきた。二言三言、その軽巡洋艦──由良と夕立は言葉を交わしたと思ったら、夕立は何やらご機嫌斜めな様子でぷうと頬を膨らませてすいすいと先に行ってしまった。

 その様子をちょっと困ったように見送っていた由良は、夕立が十分離れたことを確認してからこちらへと振り返った。

 

「あなたの感覚は正しいですよ」

「……?」

 

 由良の意図するところがつかめず探るように彼女の方を見やると、由良は淡々と言葉を続けた。

 

「あなたに純粋な好意を向けてるのは夕立ちゃんで、あなたがなんとなく恐怖を覚えてる方は夕立です」

 

 ……よく、言っている意味がわからない。つまりどっちも夕立ではないか。彼女の意図するところをかみ砕こうとして、とりあえず自分なりに解釈して聞き返してみた。

 

「二重人格ってこと?」

 

 あたしのその言葉にキョトンとしていた由良は、慌てて訂正を入れた。

 

「ああ、すみません、わかりづらかったですよね。えっと」

 

 適した言葉を探るよう、とんとんと人差し指で顎を叩いていた由良は、しばらくするとああこれだ、というような表情で先程の内容を言い直した。

 

「人間の夕立ちゃんは無害ですけど付喪神の夕立はちょっと危ないって意味です」

 

 ただし言っている意味はやはりよくわからなかった。

 

「ツク……なに?」

「え? んん? ものに宿る神様のことです、神様」

「は?」

 

 圧倒的な、噛み合っていない感。お互いが当たり前としている前提がそもそも食い違っているかのような気持ち悪さに、由良が思わずといった形で質問を投げかけてきた。

 

「私達艦娘は、艦艇の神様の力を借りてこの海に立ってますよ、ね?」

 

 いや初耳だけど。

 

「……日本では(ふね)を人として見てるってこと?」

「え? いや、艦艇に宿った神様が……うーん、まぁ、そうなのかな?」

 

『Hey、アトランタ! 擬人化って知ってる?』

 

 本国で多分一番会話を交わしたであろう艦娘。なんにでも興味を持つ彼女は、今後着任するかもしれない日本文化にも興味津々で、その一つをとってあたしに話を振ってきたことがある。

 曰く、日本人は無機物を人として捉え、あまつさえその無機物同士の恋愛模様などを描くのが一種の文化なのだとか。言っている意味がわからずはぁ? と思わずドスを利かせると、この辺が最近のブームね、と見せてくれた。見てもよくわからなかった。

 なるほど、つまりはそういうことか? 艦艇をあたかも人のように祭り上げ、その力を借り受ける、そういう認識でいると。そういうことか? クレイジーだ。

 あたしの胡散臭さそうな眼差しを受けて、思わず由良が反論した。

 

「ええ……じゃあ艦魄(かんぱく)の認識ってそっちでは何なの?」

 

 ごん、と背部艤装を叩き、ちらりとそこに取り付けられている透明な球体をみせる。それが艤装を動かすコアであるという認識は共通のようだった。いや共通か? だってそれ。

 

「ただの動力源」

「間違ってはないけど……」

 

 あたしの言葉にめちゃくちゃもやもやした表情になりながら黙り込む由良。うん。異文化コミュニケーションって難しいな。

 

「人は人、モノはモノでしょ」

 

 無機物はどこまでいっても無機物だ。そこから生命が生まれることなんてない、人のように扱うなどナンセンスだ。

 少し呆れるようにそういったあたしの言葉に。

 

「ううん。モノも生きてる」

 

 それでも一分の迷いもなくキッパリと由良は否定した。

 

「いると信じたら。そこに、いる」

 

 我思う故に我あり、とでも言わんばかりの哲学まがいなその言葉に。

 

『──きっと敵だと思ったら敵だし。味方だと思ったら味方なのよ』

 

 ふと。同じような話題を振ってきたアイツが脳裏に浮かんだ。

 人と一定の距離を置いていたあたしに執拗に絡んできていた奇特なやつ。日の光に晒されるとキラキラとその金髪を星屑のように瞬かせ、そうしてその瞳にも似たような光をたたえながら毎日楽しそうにしているアイツ。

 

「アトランタ。何をもってして敵で、何をもってして味方だと思う?」

 

 思いついたらとりあえず口にする。こちらから話しかけることはなかったけれど、会えば今日のその髪、いつもよりいい感じね! などとにかくなにか一言物申し、そこから脈絡のない話題を振ってくる。あれはそのうちの一つだったように思う。

 

「何それクイズ?」

「んー、哲学かしら」

「ならもっとどうでもいい」

 

 そんな高尚な話題、ヘレナとでもやってろよ、と手すりに頬杖をついて海を見やる。天気のいい、晴れた日だった。鴨の群れがのんきに波に揺られているのを眺めていると、ぽつりとそいつが呟いた。

 

「多分、私も後から日本に配属されると思うの」

 

 どいつもこいつも信用ならない。結局のところ人はどこまでいっても自分中心で、仲間なんて枠でくくられていても皆見ているものはバラバラ。やれることもバラバラ。まとめ役がいなければ烏合の衆と成り下がるであろう他人と仲良しごっこなど面倒くさい、一人が気楽でいい。そんなあたしではあったけど、不思議とこいつだけはするりと抵抗なく隣に滑り込んでくる。艦隊の中心的存在であり。

 

「ねぇアトランタ。きっと敵だと思ったら敵だし。味方だと思ったら味方なのよ」

 

 無邪気に、陽気に。大きな身体を楽しそうに揺すって、そうやって平気で人に心を預けるアメリカ最強の戦艦を背負う女。

 

「……アンタ、早死にしそうだよね」

「Wow、心配してくれてるの?」

「……」

「そのしかめっ面も最高にcuteね!」

 

 あ、やっぱりウザかったわ。こっちの話もろくに聞かず、にこにこと笑いながら。

 

「じゃあ私が一分一秒でも長く生きられるように。守ってね、アトランタ」

 

 一方的に心を預けてくるのだから、あいつこそ自己中かもしれない。

 

「まぁ、とにかく」

 

 気を取り直して由良が言葉を続けたことで現実に引き戻される。

 

「海にいるときの、特に夜の海にいるときの彼女はちょっと怖いかもしれないけど」

 

 そう、そうだ。元々は夕立が怖いという話だった。それで、それがなんだと由良を見る。由良は穏やかに、薄く笑いながら。

 

そのための由良だから(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)

 

 安心して、と続けた。意味は、よくわからなかった。だけれども、その時の由良の様子は普段と変わらない穏やかなものであったのに、いや、穏やかなものであったからこそ。少しの薄ら寒さを覚えてしまった。

 

「助かるわ、うちは空が苦手な娘が多いから」

 

 由良の視線の先を追うと、ちょうど夕立が時雨にじゃれついているところだった。

 

「それに日本は誰でも等しく、ある一定レベルをこなせることをよしとするところがあるから。だから由良みたいに没個性的な艦娘が結構いるのよね」

 

 そう笑いながら、だから期待してると言い残してすいと由良が離れていく。

 

「……あれを没個性って」

 

 その背中にぽつりと聞こえないよう小さく呟く。

 航空戦、対空、対地、対潜攻撃、そして雷撃。数々の装備を涼しい顔で使い分け、淡々と着実に成果をあげる。確かに由良は一見すると地味かもしれない。それは他のアクの強い日本軽巡洋艦に比べ控えめな性格であるのもさることながら。確固たる個を持たず、周囲に溶け込むように戦うから。

 

「ワケわかんないし……」

 

 なんなんだこの国の奴らは。本国の奴らもクセが強くてほとほとうんざりしていたけれど、ここも大概ではないか。

 それに根本的な思想がちんぷんかんぷんだ。艦の神様の力を借りて? そこにいる? どこだよ、見えてる世界が違いすぎる。

 別に敬虔なキリスト教信徒というわけではないけれど。それでも神様なんて一人いれば十分だろうに。

 

「そんなのがいるってんなら。もう少し楽にしてくれないかな、あたしの艦娘生活」

 

 軽く鼻で笑って空を見上げる。夕陽が空を、海を燃やしつくす。燃やして、燃やして、燃えるものがなくなったら。大嫌いな、夜のはじまりだ。

 

 

 ──認識とは、己の内からいでるもの。信念とは、確固たる自身を形作るための指標。それがひとつ、ふたつ。さぁ、どれを手に取る。どれを、見る。

 

 探照灯の光が、この暗い暗い海において。まっすぐ、あたしに伸びてきた。それは、一瞬のことだった。反射的にくだされる砲撃命令、に。

 ドシンと艦全体を揺らす振動と共に、前部から大きな大きな爆発音。

 甲板を波がさらい、傾く艦に滑り落ちそうになる乗員共。

 被弾でうまく舵が切れず、ぐるりと流される船体に。燃えあがる艦橋前部が、この暗闇にぽたり、と灯りをともした。

 一斉射が襲いかかる。……なん、で。あり得ない方向からの砲弾の嵐に艦艇の構造物がなぎ払われる。

 なんで。一度だけでなく、二度までも。アンタは、味方じゃないのか。そうこうしているうちに、敵とも、味方とも取れぬ砲弾の嵐が多方向から降り注いだ。

 夜なんて、大っきらいだ。あたしに魚雷をぶち込んできたあいつもそいつも、砲弾ぶち込んできたクソッタレな仲間も。全部全部、嫌いだ。

 何も見えないから、音だけが、あたしに撃ち込まれる攻撃の数々が、悲鳴が、嫌に響いてこびりつく。

 うるさい、うるさい……うっさい!!! 

 

 

 ばち、と。弾かれるように目を開く。心臓が早鐘のように鳴り響き、うるさかった。どうやら寝汗をかいていたようで、ぴっとりとまとわりつく衣服が気持ち悪い。思わずはぁ、と息をついて。

 

「……寝られてるじゃん」

 

 ぐしゃり、と髪をかきあげぽつりと呟く。いつぶりだろう。うとうとと船を漕ぐことはあっても、夜のうちに完全に眠りに落ちることなど久しくなかった。まぁ、久しぶりの睡眠、どうだったかと聞かれれば。

 

「……気持ちわる」

 

 妙に生々しい、あまり気分のよくない夢もさることながら。中途半端に寝たことによって逆に身体はいつもより重く。下で安らかな寝息をたてて寝ているヘレナの気配を感じながら、思わず悪態をつくのであった。

 

 

「ちょっとアトランタ!!」

 

 ぷらぷらと廊下を歩いていると向かいから足音荒くヘレナが見つけたと言わんばかりにこちらに歩み寄ってきた。うわ、面倒くさ。

 

「ちゃんと真面目に書類書いてよ!」

「あー、はいはい」

 

 書類を突きつけ文句を言ってくるヘレナを適当にあしらっていると、突如背中になにかが勢いよくぶつかってきた。

 

「アトランタおはようっぽーい!」

「痛っ!? てめ、こらNightmare!!」

「夕立はそんな名前じゃないっぽーい!」

 

 きゃーと黄色い悲鳴をあげながら足早に去っていく夕立にもう一言くらい罵声を浴びせようとしたら、今度は横からひょっこりと声をかけられる。

 

「アトランタさーん、今日の演習よろしくお願いします」

 

 ぺこりと丁寧にお辞儀をする巻雲に、タイミングを逃して言葉に窮する。

 

「あ〜……うん。いい加減袖まくったら?」

「これは巻雲のアイデンティティーです!!」

「あでっ」

 

 巻雲がぷんぷんと有り余っている袖を振り回しながら怒ると、隣にいた秋雲の顔にそれがべちんとヒットした。

 

「……ま〜き〜ぐ〜も〜ちゃ〜ん?」

「へあ!? じゃ、じゃあ巻雲はこれで失礼します!」

 

 慌てて駆け出す巻雲と、それを追う秋雲、ではあったが、秋雲は一瞬こちらを振り返ると、

 

「アトランタ姉さん! あれは萌え袖だから!! わかってないよ!!!」

 

 と大声で言い残して去っていった。

 

「も……what?」

 

 日本人がシャイだとか言ってたやつはどいつだ。どいつもこいつもなれなれしいったらありゃしない。

 朝からテンション高めな駆逐艦共にうんざりとしていると、目の前のヘレナがぱちくりと、珍しいものでも見たと言わんばかりに目を瞬かせていた。

 

「どうかした?」

「ううん、なんでもないの」

 

 先程までの剣幕はどこへやら。どこか機嫌良さげですらあるヘレナにこのまま書類のこと忘れないかな、と思っていると、そうだわ、とヘレナが口を開いた。

 

「そういえばサラ達は佐世保に配属されるそうよ」

「ふーん」

「もぉ。もう少し興味持ってよ、あ、でもね」

 

 そこで一旦言葉を切ると、ことさら嬉しそうに。

 

「アイオワは呉だって」

 

『──守ってね、アトランタ』

 

Ew……(げぇ……)

「ふふ、そんなこと言って」

 

 ただでさえなれなれしいガキの面倒を見るのにうんざりとしているのに。あの大きなガキもやってくるのかと思わず顔をしかめる。

 ああ、ホント。頼むからさ。

 

「アトランタ、アイオワのこと大好きだものね?」

 

 ちったぁ人の話を聞けよ、どいつもこいつも。

 一体全体どこをどうしたらそんな認識になるんだと思いながら。否定するのも面倒くさくて、思わず天を仰いだ。

 

 

 さやさやと自慢のブロンドをさらっていく海風が心地よくて目を閉じる。この慣れ親しんだ土地も、海も。もうしばらくしたらお別れだ。一抹の寂しさと共に、ふととある友人の顔が思い浮かんだ。きっとシャイなあの子のことだから、会った瞬間しかめっ面をするのだろうけれど。本国を離れホームシックになっているに違いない彼女に会ったら真っ先にハグしてやろう、と考え思わず笑みを零すと、隣にいた同僚が怪訝そうに声をかけてきた。

 

「なんだ、何がそんなに楽しい」

「んー?」

 

 私からしたらむしろつまらないことの方が少ないんだけれど。それでもこの海の遙か先にある島国と、そこにいる友人のことを思うと楽しくてしょうがなかった。

 

「新しい出会いと、親愛なる友人達との再会に思いを馳せていたのよ」

「相変わらず脳みそお花畑なやつだな」

「辛気臭い顔してるよりずっと素敵でしょ?」

「言ってろ。……ああ、そうだ」

 

 ふん、と鼻で息をつくとそこで言葉を切り。

 

「ヤマト、だったか」

 

 ちらり、とこちらを見て不敵に笑う同僚に。

 

「殴り負けるなよ?」

「……血の気多いわねぇ、相変わらず」

 

 呆れるようにため息を返した。そんな味方同士で張り合ったってしょうもないのに。昨日の敵は今日の友、殴り合った分だけ絆が深まるを持論としているこの子はちょっとだけ問題児だ。まぁ、それくらいがちょうどいい。個性的な人の方が話していて楽しいもの。厄介事もトラブルも、大時化も。乗りこなしてこその人生だ。

 

「楽しみね」

 

 ざあ、と。一際強い風が吹く。

 その風はどこか。これからの船出を祝福しているかのように、思われた。

 

 

 




ヨークタウンの実装はいつまででも待っています。


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合縁奇縁、廻り廻りて‐前編‐(舞鶴鎮守府)

舞鶴鎮守府前日譚。
長いので前後編にしました。


 

 おおきな、おおきな津波がこの地方を襲ったのです。日本海側でかつてこれほど大きな津波があったでしょうか。ようやっと立て直しの目処がたってきたのに、その大波は全てを飲み込んでさらっていきました。

 その津波がこの地域を襲った後、ひっそりと海軍所属のとある人物が行方不明となりました。あれを壊されてはたまらない、と言い残した彼は、数日後に水死体として波打ち際に打ち上がっておりました。

 その次の日に。俺が帰らなかったら、彼女を呼んでくれないか、と言い残して一人の男がその場を後にしました。そうして彼も、帰らぬ人となり。

 

「──オマエかぁ」

 

 そうして彼女がそこに向かうと、それはそこにあぐらをかいて座り込みながら、楽しそうに彼女を見上げたのです。

 

「……」

「ナァ、アレ、アレは、どうしてる? きちんと殺したのカ?」

「あなたには関係ありません」

「教えてくれたっていいジャナイカ」

「そんな義理はないですね」

「冷たいナ。マァ、思いつきで引っ張った(・ ・ ・ ・ ・)だけだけど、存外に面白いことになったよナァ」

 

 くすくすと。楽しそうに目を細めたそれの言葉が、この自然洞窟の祠にこだまする。

 ──一滴。たった一滴、それが水にこぼれ落ち、混じり合ってしまえば。その水は元には戻らない。例えそれが微かなものであったとしても、どんなに見た目が同じように見えても。それは、以前のものではなく。

 

「ナァ、コレ。どうやったら、壊せる?」

「教えると、思ってるんですか?」

「どうかナァ、オマエら、脆いから。突っつけばすぐにボロを出してくれるかもしれない」

 

 それと同様に。人類の敵として立ちふさがるそれらも、徐々に徐々に。明確な形を持ち、明確な意志を、敵意を。

 ──ぴちょん。薄暗い洞窟の天井から静かにひと雫、水滴が落ちた。その小さな水溜りに映る、それの鮮やかな白さと、黄色のような、あるいは紅さが揺れる。そうして。その水面に映ったそれの口元が、にいと嗤った。

 

「壊スノハ、得意ダカラ、ナ」

 

 それは昔、とある二人が交わした言葉。この、舞鶴鎮守府の役目が変質した、その原点。

 

 

「この魚雷はダメでちね」

「……前から思ってたけど。なんでわかるの?」

「見りゃわかるでち」

 

 ようやくまともに一人で出歩けるようになったのであてもなくぷらぷらと歩いていると、埠頭にて魚雷のチェックをしていたゴーヤを見かけたのでなんとなく隣に座り込んで眺めていた。

 ゴーヤがダメだと言えば、工廠の魚雷調整場に持っていっても結局その魚雷は廃棄になる。ゴーヤさん、艤装技師の適性検査受けてみません……? と工廠のやつらがじりじりと囲い込みに動いているのは結構有名である。まぁ、老後は考えてもいいでちかね、なんて言っていたけれどもいつまでこいつは働くつもりなのだろう。

 ゴーヤは根っからのワーカホリックだと思う。常に頭を働かせていないと落ち着かないようで、休日はなんだか分厚い書籍をパラパラとハイペースで読んでいる。なんでも、情報を頭に入れると落ち着くとか。逆に小説だなんだなどは一切興味がない、というより嫌いらしい。全くもって理解できないが、こんなやつだからこそこの舞鶴鎮守府のブレーンをやっていけるのだろう。艦娘は結構見た目詐欺が多いとは聞くけれど、ここまでのやつは中々いるまい。果たして八百屋で今日もお使い偉いね! とおまけされるほどの童顔な彼女が舞鶴の秘書艦であると初見で見抜けるやつなどどれほどいるのか。いるもんなら会ってみたいものだ。

 

「……んー、どれも同じに見えるのね」

「イクの目が節穴なだけでちよ」

 

 そう言って笑うゴーヤに嫌な感じは受けない。耳があまり聞こえない、ついでにいうとつい最近までろくに目も見えなかったイクは、陸では誰かの手を借りないとまともに歩き回ることもできないただのお荷物である。一度海に潜れば期待された以上のことはこなせるけれど、まぁそんな色々といわくつきなイクに対してほとんどの人は気を使う。それは勿論善意からくるものもあるのだけれど、正直たまに息が詰まる。

 だからこうやってなんでもないことのようにこの目であるとか、まぁ色々茶化してくるゴーヤとの会話は存外に気楽だった。人の悪意には敏感な方だとは思うけれど。とかく邪気がない。と、いうよりあまり他人に興味もないのかもしれないけれど。

 

「当てるのはじょーずなのにね」

「見えてるからね」

「見えてるもん全部に当てられるんなら苦労なんてしないんでちよ」

「海にいる方が気楽だから人より潜って練習してたら人よりちょっとうまくなっただけなのね」

「海のが過ごしやすいとか、人魚でちか?」

「イクを食べても不老不死になんてならないのね」

 

 けっと悪態をつくと微かにゴーヤが笑った。イクと会話を続けながらも、魚雷のチェックに余念のない彼女はらしいといえばらしい。

 

「新しいテートク、どーなの?」

「さぁ」

「さぁって。秘書艦でしょ」

「あんま興味ないでち。提督の能力を数値化してくれる機械でも誰かが作ってくれたら多少はやりやすいんでちが」

「明石ならできそう」

「まぁそんな遊ばせるほどの予算はこの鎮守府にはないけどね」

 

 世知辛い世の中だ。潜水艦が艦娘が艦娘たらしめる艤装の核となる特殊資源を発掘する主戦力だというのに、なぜこうも馬車馬のように働かされ、宿舎はボロく、給料もアレなのか。まぁ確かに前線に出る機会が少ない分危険手当てとかはないにしても、精神的苦痛手当くらいはもらってもいいと思う。

 

「ああ、でも、そうでちねぇ」

 

 全ての魚雷のチェックを終えたゴーヤが空を見上げながらぽつりと呟く。冬のこの時期は、大体重苦しい灰色の雲が空を覆っている。今日もそれにたがわず、色彩を欠いた空と海は視覚的になんとも寒々しい。

 

「前の提督より頭は悪そうでち」

「……ゴーヤって、意外と言うのね」

「客観的事実でち、まぁ前任が優秀すぎたのかもしれないでちけど」

「じゃあなんで辞めたの?」

「さぁ」

 

 本当に人間関係適当なやつ。多分この深く踏み込まず、それでいて業務を回す頭脳はピカイチ、というところを前任の提督に買われたのだろう。前任は艦娘嫌いだったと聞いている。

 ここに配属になったとき、ちょうど入れ替わるように辞めていったから個人的には面識はほとんどないけれど。そこそこな血筋の、結構なエリートだったということだけはなんとなく耳に入っていた。歳もまだ若く、将来を嘱望された存在だとも。だというのに、彼女はここを退き、後釜として収まったのは提督の制服に着させられているような、まるで似合っていないちょっと軽そうな女。工事現場でツナギ着てタバコ咥えているほうがよっぽど似合ってそうな、なんとも場違い感が拭えない年若い女性。

 

「ここの提督は、秘密主義でちたからね」

 

 特に興味なさそうにそう呟いたゴーヤのその言葉を軽く流しながら。この職場、大丈夫なんだろうか、と一抹の不安に襲われるのであった。

 

 

「っ、くち!」

「……見た目に似合わずかわいいくしゃみしますね、ご主人様」

「見た目に似合わず、は余計よ」

 

 ずび、と鼻をすすりながら肩を回す。こきこきと小気味のいい音が鳴り響いた。寒い、寒すぎる。肩こり悪化するっての。

 ここの秘書艦は伊58、通称ゴーヤが前任から引き継いで勤めてくれているのだが、先程クソデカため息をついて離席なされた。ちょっと待ってゴーヤ、いや、ゴーヤさん! 見捨てないで、と懇願も虚しく、

 

「介護は秘書艦の仕事じゃないでち。漣でも呼ぶでちよ、ゴーヤには息抜きが必要でち」

 

 としたったらずな言葉でもってバッサリと切られた。さもありなん。しょーがないじゃない、士官学校出てからこちとら……何年くらいになるんだっけ。ろくに覚えちゃいないわよ、そんでもって私の知識は士官候補生レベルで止まっているわけで。

 

「暖房入れていい?」

「え? このレベルで???」

「え、寒いでしょ?」

「漣は半袖でもへっちゃらですよ!」

「それ神衣だからでしょうが!!」

 

 艤装を背負っていなくても微弱な結界が作動している神衣はそこそこ万能である。つまるところ、ちょっとあったかい。半袖だろうがなんだろうが、全身の体温がちょっといい感じに調整される、らしい。だから非番でも神衣をまとっている娘は結構いる。

 ここ、舞鶴鎮守府は他の鎮守府に比べ、なんというかボロい。というのも、十数年前の大津波でここら辺一体ごっそりとやられたからである。元々保存状態はよかったとはいえ築うん十年の庁舎も宿舎もそれに耐えられるわけもなく、そうして新しく作り直そうとしたところでやれ地震、やれ豪雨、となんだかんだ茶々が入って壊される、ので。最終的に壊される前提の安っちい素材でもって劇的ビフォーアフターされた、見た目だけはしっかりしているように見えなくもない、隙間風吹きすさぶ舞鶴鎮守府へと落ち着いたのである。寒い。

 いや無理無理風邪ひくわ、と暖房を入れようとリモコンに伸ばした手ががっちりと掴まれる。ええい離せ。

 

「電気代」

「……は?」

「電気代、節約。いいですか、舞鶴の家訓は一に節約二に節約、三四がなくて五に節約です!!!」

「私ここの提督なんだけど!!!」

「べらんめぇ! そーゆーのはいっちょ前に仕事できるようになってから言えってんですよ!」

 

 どっさどっさと机に追加される書類の山に思わず悲鳴をあげる。

 

「まだあんの!?」

「まだ五分の一ですぞ」

「嘘でしょ……」

「ごめんなさいサバ読みました」

「そ、そうよね、よか」

「本当は十分の一だお」

「そっちのサバ読んじゃったかー!!」

 

 ごん、と額を机にうちつけうめき声をあげる。つらい、飽きた、寒い。

 

「……判子だけ押せばいい?」

「ぶっ飛ばしますよ、しっかりなかも読んでください」

「そういうのって、秘書艦がやるんじゃ」

「甘っちょろいこといってんじゃねーですよ。前のご主人様ならこんなの瞬殺ですよ、瞬殺」

「あんな完璧超人と一緒にすんなしぃ〜」

 

 こちとら最近まで工事現場でその日暮らしの賃金稼いで生きてきた脳筋女だぞ。

 

「もー漣は優しい方ですよー? ゴーヤちゃんならもっと塩対応だよ?」

「例えば?」

「クソデカため息ついて無言で後始末」

「……心当たりしかない」

「そしてこっそり心象ポイント削られます」

「まって、私今何点?」

「マイナスってなんで掛け算するとプラスになるんですかねー」

「マイナスなの? ねぇ、ねぇ??」

 

 どうしよう、すでに秘書艦との仲に亀裂が入りかかっている。これは由々しき問題だ、自慢ではないが秘書艦であるゴーヤにおんぶにだっこな状態でないと業務を回す自信がこれっぽっちもない。

 

「ほら、ナガモンさんとの顔合わせまでにちゃきちゃき半分くらいは終わらせて」

「ナガモンさん?」

「舞鶴の養成学校の責任者ですよ」

「あ、あー。何時からだっけ」

「ヒトゴーマルマル」

「後二時間もないじゃない!!」

 

 無茶言うな! と悲鳴をあげる私の肩にぽん、と漣が手を置く。

 

「ご主人様」

「なに?」

「諦めたら、そこで試合終了ですよ」

「根性論で仕事が終わるかぁ────!!!」

「ご主人様今相当数の敵を作りましたよ!?」

 

 ハイ、ハイ! やればできるやればできる! 自分を信じて!! とテンポよく声をかけながら漣が机に書類を並べていく。

 実際、漣には結構助けられている。ゴーヤは個人の処理能力は高いけれど人に教えるとなるとあまり向いていない。いや、もしかしたら無言で淡々と間違ったところを添削されて突っ返されるあの方法が合う人もいるのかもしれないけれど、私にはきつい。心が折れそう。

 対して漣と言えば、言葉ではめったくそにこちらをこき下ろすものの、書類を分類ごと、優先順位ごとに並び替え、ちょうど一息がつけそうな量ずつよこしてくる。その意図を聞けば、瞬時に求めた答えが返ってくるし、きちんとできればべらぼうに褒めてくる。私、漣に育成されている、それがわかる。

 ゴーヤが悪いと言っているわけではない。彼女の頭脳は非凡なものであり、その処理能力は常人にはついていけないけれども、少なくとも彼女がここの秘書艦であることで私がよくわかってないあれやこれが改善されているのだろうと思う。現にここの運営資金を見てあまりの少なさに悲鳴を上げたら、それ、ゴーヤちゃんが頑張ったからそこまで持ち直したんですよ、と教えられた。どんだけ貧乏なの、ここ。

 そう、ゴーヤは紛れもなく秘書艦に適した娘だろう。でも、だからといって。

 

「ね、なんで秘書艦変わったの?」

 

『なんで漣?』

『ゴーヤの前の秘書艦が漣でちたからね』

 

 わざわざ変えさせるほど。この子が劣っているようにも、どうにも思えなかったのだ。

 

 ──瞬間。

 

「……漣のこのふざけたキャラにご主人様がとうとう愛想尽かしちゃって!」

 

 一瞬の硬直。無意識に喉元に触れる、指先。まだよく知らない子に対して先入観はいけない、けど。努めて明るくそんなことをのたまった彼女は、根が素直な子かもしれない、と思った。

 

「えー私は好きだけど」

「イロモノ好きですねぇ、ご主人様。ていうかご主人様ってのに突っ込んでくださいよ」

「ん? ツッコミ待ちだったの? それ」

「ボケ殺しつらーww」

「あー、まぁ、別にいっかなって。実家のような安心感? みたいな」

「なんですかそれ」

「お帰りなさい、ご主人様」

「ご飯にする? お風呂にする? それともさ・ざ・な・み?」

「休憩を所望する!!」

「さっきから休憩ばっかやないかーい!」

 

 ずびし、と勢いよくツッコミをいれる漣にふ、と表情が緩む。

 こういう子は、貴重だ。寒いからなのか、ボロいからなのか、あるいは。

 

「そーゆー明るさ。私はいいと思うけどな、ここ、なんか暗くて寒いしね」

 

 そういう土地柄だからなのか。なんとなく、ここの空気は重苦しくまとわりつくかのような。そういった、独特な湿度があった。端的に言って、気が滅入る。寒いし。

 

「……ご主人様」

「なに? 惚れた?」

「いえ。その暖房のリモコン。こっちに寄越してください」

「チッ」

 

 抜け目ないな。

 

 

 こっちの責任者も女なのか、と握手を交わしながら相手を見上げる。随分ガタイがいい、というと語弊があるけれど、芯がまっすぐ一本、体に通っているというかなんというか。涼やかな切れ長の瞳といい、醸し出される雰囲気といい、カタギではないだろうな、と思っていると小脇に抱えていたファイルから書類を差し出された。

 

「次の編成組み替えによる転籍者リストだ」

「……これって、そちらの仕事なんですか?」

「この時期だけのお手伝いのようなものだな。暇になるからな、養成学校は。こっちが各自の詳細データだ、わからないことは秘書艦に聞くといい」

 

 そうしてまた差し出された書類を受け取ろうとしてスーツの下から除く、右手首に広がる異様な傷痕に思わず固まる。やけ、ど? いや、やけど痕には間違いないんだろうけど、なんて、いうか。

 ヤクザ、鉄砲玉などという言葉が脳裏に浮かぶ中、誤魔化そうとして笑った顔がひきつる。

 

「ん? ああこれか」

「……事故ですか?」

「いやなに。砲弾ぶん殴って弾いたとき当たりどころがわるくてな」

「は?」

「ん? 聞いてないのか?」

 

 ぷらぷらと右手首を振りながらなんでもないことのように。

 

「私はいわゆる艦娘上がりだ」

 

 さらりとそんなことを言ってのけた。さら、と彼女の腰まで伸びている黒髪が揺れる。そうして漣の、ナガモンさんという言葉。

 あ、あー……なるほど。そういうパターンもあるのか。ナガモン、ナガモンね。長門あたりかしら。ヤクザ上がりではなくてよかったと思いつつ、恐る恐る純粋な疑問をぶつけた。

 

「……砲弾って、ぶん殴って弾けるものなんですか」

「コツはいるな」

「コツ」

「弾道予測から跳弾角度の算出と結界強度の再分配を──いや、提督である貴殿にはどうでもいい話だな」

 

 ガチな返答に軽く引いていると、その様子を察した彼女は苦笑しながら話題を切り替えた。

 

「ここは艦娘の入れ替わりが激しいな」

「そうなんですか」

「他の鎮守府に比べるとな。なにか理由があるのか」

 

 探られてる、というより。これは試されている、という感じだろうか。まぁそりゃそうか。なんだかよくわからない女が急に着任すれば裏を知りたくなるだろうし、口の軽そうな見た目をしている私が果たして見た目通りのうつけなのか、あるいは食えないやつなのか。わからないにしても何かしらのとっかかりとして、世間話のように振ったのかもしれない。

 値踏みするかのような彼女の視線を避け、リストに目を落としながらなんでもないことのように口を開く。

 

「前任からは特に説明は受けてないですけど」

 

『──メンツが目まぐるしく入れ替わっていたら、一人くらい消えてもわからないわ。こんな職場だしね』

 

「一応前線支援もしてますけどここの主な任務は資源回収。任務内容は横須賀とどっこいどっこいのつまらなさ、おまけに飴になる間宮もなければ隙間風が吹きすさぶボロ鎮守府ですし。艦娘をやめさせないための苦肉の策、とかじゃないですか?」

 

 嘘をつくのは得意だ、嘘を見破るのも。そういう風に、育てられてきた。このくらいのやり取り、猫のじゃれ合いみたいなものだ。

 

「潜水艦はほぼ固定なのに?」

「まぁ潜水艦は資源回収と切っても切れない存在ですから……」

「今年は何回ストライキするかな、潜水艦共は」

「え゛」

「舞鶴名物だぞ、聞いていないのか」

 

 聞いてないわよ、こんちくしょう。ついでにいうならこの周辺の美味しいもの安く食べられるところだとか、そういう情報も。大事なことがまるっと抜け落ちている、これだからお嬢様ってのは。

 

「今年は変わり種もいるしな」

「変わり種?」

「共感覚、だったか? 音が見える潜水艦が今年編入しただろう」

「ああ」

 

 あれはやっぱり艦娘の中でも特殊だったのか。艦娘自体がびっくり人間みたいなものだからさほど気にしてなかったけれども。

 

「潜水艦の申し子と上ははしゃいでいるな」

 

 ただ、その言葉は。妙にカンに触った。

 

「いい迷惑ですね」

 

 そいつらは陸にいるときの彼女をちゃんと見ていたのだろうか。心底だるそうにベッドに寝転がってた彼女の姿を思い出す。アイマスクをわずかにずらした瞬間、思わずぎゅっと目をつぶって何かに耐えるような仕草をした、あの子を。

 

『わからないって、結構つらいのよね』

 

 聞き取れない音は、ただの雑音。だから視覚情報で補って、そうやって情報を徐々にすり合わせながらチャンネルを合わせる。彼女は聴覚障害者ではなかったけれども。第二言語を聞いているときの彼女とイクの感覚って似てるんじゃないかと思う。

 イクがどれほど聞こえないのかだとか。喋ることにはあまり不自由はしてなさそうだから後天的なものだろうかとか。考えはしても聞いたことはない。だけれども、それでも。よく聞こえない状態で視覚まで奪われてしまうというのは、とても。とても、耐え難いものなのでは、ないだろうか。

 

『──陸は、うるさいのね』

 

 勝手に艦娘なんてもんにしておいて。勝手に人らしく生きることを難しくしておいて。もっと、なんかあんだろ。

 

「そんな気もないのに周りからそうやって期待を押し付けられたのなら。さぞ迷惑なことでしょうね、彼女は」

 

 どいつも、こいつも。だからここは、ここにいる奴らは嫌いなのよ。

 

「……舞鶴っぽくないな」

 

 ぽつりと呟かれたその言葉にハッと我に返る。やばい、勝手に上のお偉いさん共とクソ親父を重ねて憤ってしまった。あれまずくない? これ反逆罪的なものでクビ飛ばされない? いやそれもいいかもしれな……いや良くない、約束反故にされたらまずい。

 

「舞鶴の女らしくない」

「ええ、と。南、育ちな、もので?」

「いや、そういうんじゃ……まぁ、いい」

 

 内心冷や汗タラタラだったものの、とくに彼女は気を悪くした風でもないようだった。いやわからない、なんせここにいる奴らはどいつもこいつも腹に一物抱えた曲者ばかりだ。

 

「どうしてここの提督になったんだ?」

 

 ただ少しだけ。彼女の態度は軟化したように思えた。

 

「なりたくてなったクチじゃないだろう」

「……その心は?」

「似合ってないぞ、それ(せいふく)

 

 その言葉に苦笑する。そんなのは自分が一番わかっている。さて、どうしようか。

 物語(ストーリー)は、データよりも人の心を惹きつける。飢餓で苦しむ人達がどれほどこの世界にいるかよりも、たった一人飢餓に苦しむその人の物語を与えられた方が、人の心は動く。

 だから、どうでもいいところ。知られたところで痛くも痒くもない部分の、真実。真実だけれども、興味を引くように少しだけ脚色した自分の話。それはこんな世界でやっていくための処世術でもあり、一種の気晴らしでもある。

 

「……そうですね。守りたいものがあったから。嫌々、仕方なく」

「嫌々なのか」

「ええ」

 

 出世欲なんてありませんという予防線も張りながら。人が好きそうな言葉選びでもって。

 

「願わくば一生、提督なんてなりたくなかったですよ」

 

 真実を語るのが、私の気晴らしだった。

 

 

 人には、人生の分岐点になるような。そんな出会いが人生のなかでひとつやふたつ、あるのではないだろうか。思い返してみればそれはその瞬間劇的に世界が変わる出会いだったわけでもなく。それでもたしかに、あの日、あの人に出会っていなければ今の自分はいなかっただろうという、静かな確信のようなもの。

 何もかもが嫌になった。だからあいつの書斎においてあった盆栽用の断ち切りハサミをひっつかんで庭に飛び出したのだ。こんなもの、こんな家。息もととのわぬうちに自身の長く伸ばされた髪をひっつかんで。

 

 ──ジャキン!! 

 

 鋭い金属音が鳴り響く。えらく切れ味がよかった。だからその一断ちによって髪はそれはもうバッサリと切れたし。その呆気なさに、こんなものか、とがっかりもした。そうしてその失意から手からハサミが滑り落ちたのと、小さな悲鳴がどこからともなく聞こえたのは同時だった。

 なにもかもどうでもよかった。それでもただ、なんとなく首を巡らして。そうして私の庭から見える、隣家の二階にそれを見つけた。

 

 ──西洋人形みたい。

 

 透き通った紺碧の瞳に、薄暗い室内からでもわかるほど美しい金の髪。そこそこの旧家であるとはいっても地方の片田舎で育った自分にとって、そいつは初めて遭遇した外国人だった。

 カラカラと、わずかばかり開いていた窓を押し開き、その子が泣きそうな顔をしながら声をかけてきた。

 

「なん、で?」

 

 いやにたどたどしい日本語だった。異国の言葉が飛び出してくるものと身構えていた私が、その意味を認識するのにしばし時間を要するような、日本語らしからぬイントネーション。

 

「……髪は女の武器なんだって」

 

 こいつ日本語通じんのかな、と思いながら。別に伝わらなくてもいいか、と誰に聞かせるでもなく呟く。

 

「ぶき?」

「そう、武器。これでイチコロよ」

「いちころ」

「ばーん」

 

 ハサミを取り落としてフリーになっていた右手を銃の形に模してその子に対して発砲すると、びくり、とその子の肩が跳ねた。なんというか、驚き方でさえお淑やかさが漂うというか。育ちの良さそうなやつだな、と思いながら自嘲気味に口を開く。

 

「だから切ってやった。ざまーみろ」

 

 ざまあみろ。お前らの思うように育ってなんてやるもんか。ざまあみろ、お前らが与えるものなんて、片っ端から捨ててやる。

 

「……かなしい、です」

 

 ほぼ独り言のようなものだった。返答なんて期待してなくて、だというのに清々したと吐き出したはずのその言葉は、彼女の柔らかな言葉によって受け止められ、包みこまれた。

 

「……なにが」

「それ、理由。きれいなのに」

 

 心がささくれだっていた私は、それをうるさいとはねのけることもできるはずだった。だけどどうしてだろう、私よりも年下に見える、しかも異国の少女のそのたどたどしい言葉は。

 

「髪、きりたい、かった?」

「……」

 

 私の手に握りこまれている切り落とした髪の束を痛々しく見つめるその瞳は。妙に、妙に心に刺さり。

 

「じぶんでじぶん、が、心、キズ……Um, ダメだ、よ」

「……」

「めっ!」

 

 そうして私は、ただの反抗心から。私が唯一好きだった、親からもらってしまったもの。だから伸ばしていたはずの髪を切ってしまったことに対して。後悔しているのだと、その激情の中にくすぶっていた小さなそれを理解したのだ。

 

「……生意気」

「? Pardon?」

 

 後からわかったことだけれど。その子は筋力が低下する病気をわずらっていて疲れやすいこと。リハビリもやりすぎは良くないらしく、そうして治療薬の関係で感染症を気にしなければならないこともあって、日がな一日その部屋で暇を持て余していて、たまたま空気を入れ替えようと窓を開いたらそんな光景を目の当たりにしてしまったものだから思わず悲鳴をあげてしまったこと。そうして、その日まで。全くもって私という存在に気づかなかったというのだから、人と人の縁というものは不思議なものである。

 

「──お前が言うことを聞くのなら、彼女を救ってやろう」

 

 そんな彼女が唯一無二の親友になるまで、そう時間は要さず。そうして家を飛び出した私のところに、それをちらつかせながら実父が訪れたのも、道理といえば道理だった。

 

「高額な治療費を全てもってやるし、最高の医療でもって最善を尽くしてやる」

「……」

「難治性で、手こずっているらしいな?」

 

 こういう奴だった。人当たりのいい顔で平気で嘘をついて人を騙す、心酔させる。人の心をコントロールして、そうして反抗的な者には力でもってねじ伏せる。自身が人の上に立つ存在であるとしてゆるぎない自信を持ちながら、この家の性質上そこ(・ ・)には立てなかった男。心底、こいつが嫌いだった。

 

「……心配」

「あんたは自分の心配しろっての」

「あんなに、嫌がってたじゃない」

 

 人生とはままならないものだ。自由を手に入れた、と清々していたのに。私の心を自由にしてくれた彼女のために、またそれに囚われる。最近、思う。それは予感のようでいて、確信に近いもの。例えば、私は雨女であるとか。例えば、どうにもうまいタイミングで私は人に助けてもらえるとか。

 ──例えば。どうしたって、私は。このしがらみから、逃れられないのだろう、とか。

 

「この世にはさ」

「?」

「きっと、完全な自由なんてない。人が、人と関わり続ける限り。きっと何かに囚われ続ける」

 

 これから私はなんでもないような顔をしながら嘘をつく、平気で人を騙す。そうして。平気な顔をして、殺しさえもするのだろう。

 

「それでも、心は私のもん。心だけは、自由だ」

「……」

「自分で自分の心に嘘をつくとうるさいやつがいるからね」

 

 十代の不安定な頃。士官学校に無理矢理押し込まれて荒れていた頃、そうして実家から逃げ回ってとうとう勘当された頃。どんなに物理的に距離が離れようとも、声で、言葉でいつも支えてくれていた。私の、心の寄る辺とでもいうような存在。

 

「あんた守れるんなら、こんなことは大したことじゃない」

 

 だから私は、この自由な心でもって。このくそったれな宿命とやらに殴りこんでやるのだ。そうしてそれで親友を救えるというのなら、プラマイプラスもいいところだ。

 

「……だからあなた、男の人にモテないのよ」

「ああ゛?」

「どうでもいいことはへらへらしながら嘘をつくのに、そういうところよ」

「なにがよ」

 

 出会った当初、お人形さんのように可愛らしかった彼女は歳を重ねるにつれ美しく育っていった。美人薄命という言葉がある。病弱な体に悩まされる彼女は、おそらくこの言葉が当てはまるのだろうけれども。

 私は、病弱でありながらもその瞳に衰えることのない光を灯す彼女の強さに、人としての懐の大きさに、そうして相手の心を包み込むような慈悲深さに。

 

「そういう言葉をまっすぐ目を見ていうんだから」

「……」

「そういうときは絶対に嘘をつかないし、ね」

「……なに、こんなの本気にしたの? 惚れちゃった? いやぁ私の演技も中々うまく」

「誤魔化すのは相変わらず下手ね。照れると早口でまくし立てあげるの、直したら?」

「ぬ、ぐっ」

 

 そんでもってお国柄か。口がよく回って、性根が頑固なこいつに。どうしたって、頭が上がらなかったのだ。

 

 

「……なにしてるの?」

 

 やっば、執務室ノックされたの気づかなかった。すごい、すごい引かれてる。めっちゃ蔑みの目で見られている。これは可及的速やかな弁明を要するとみた。

 

「……窓、あったかくて……」

「……」

 

 微かな同情を滲ませながらさらに一歩、物理的に引かれた。私悪くなくない? 南育ちにゃこの気温は極寒なのよそりゃあ微かなぬくもりを求めて日の差す窓辺へといざなわれその柔らかなぬくもりに思わず頬を擦り寄せちゃったりまってこれ直にいった方があったかい、絶対そうって若干前はだけてぴっとりインナー越しに窓に張り付いちゃったりしちゃったりしたのは暖房をつけさせてくれないからで。

 

「服もっと着ろなの」

「おっしゃる通りです……」

 

 すごすごと窓から離れて制服の前をしめる。こんなにかっちりした服なのに全然あったかくないんだもんコレ、嫌になっちゃう。

 サングラス越しに呆れた視線を向けられる。うん、どうしよう、ゴーヤの私の評価がマイナスなのに加えてこの子からの評価も地に落ちたかもしれない。

 しかし、なんだな。まじまじとその子──イクを観察しながら改めて思う。潜水艦娘は他の艦娘ともちょっと違う、独特の雰囲気があるように思う。あるいはそれは、深海に潜り続けることでよりそちら側に近くなるのか。ほのかに赤みがかった色素の薄い青い髪。サングラス越しにちらりと覗く赤い瞳に、日に当たらないせいかあまり健康的とは言えないほどに白い肌、そしてスクール水着。いや最後は関係ないけど。なんというか、潜水艦娘は他の艦娘達よりもどこか浮世離れしているというか、存在そのものが希薄というか。ああ、そうか。なんとなく陸の上にいる姿がしっくりこないのだ。だからそんな姿がちょっと幽霊っぽく見えるのかも。そして裸足だし。裸足? このクソ寒い中スク水にパーカーひっかけただけの、そして裸足でもってぺたぺた歩き回ってんのこの子???? 

 

「ジロジロ見られると流石に気分悪いのね」

「安心してやましい気持ちは一切ないわ。あんた結構胸あるわね、背は低いくせに」

「言ったそばからセクハラ発言すんななの」

「そんな体で潜航できるの……?」

「オイコラ」

「やましい気持ちは一切ない。知的好奇心よ」

「そう言えば許されるとでもおもってんのかコラ、なの」

 

 女子高的なノリなら許されるかと思ったけれどイクの瞳の、蔑みの色がより一層強まった。やっば、イクもとうとうマイナスまでいっちゃったかしら。評価のマイナスにマイナスをかけてプラスにする方法、求む。

 しらーっとした顔のイクが差し出した書類を受け取ろうとした、その瞬間。

 

「つっ、めた!!!」

 

 指先に彼女の手が触れて。あまりのその冷たさに、思わず書類を取りこぼしてしまった。

 

「わ、ご、ごめん」

「いーけど」

 

 ばさ、と床に落ちた書類の束を慌てて拾いながらイクを見上げると、彼女はしかめっ面をしながら頭をかいていた。

 ──そうして耳から覗く、補聴器。

 しまった、思わず上げた悲鳴が耳にさわったか。仕方がなかったとはいえ申し訳ないことをした。

 

「そんなにイク冷たい?」

 

 しゃがみ込んで残りの書類を拾いながらなんの気なしにイクが尋ねる。いや、いやいやいや。

 それを受け取ってひょいと横にどけながら今度は両手でもって彼女の指先に触れた。

 

「氷みたいよ、あんた」

「ふーん」

「ふーんて」

 

 死人だってもうちょっとぬくもりってもんがあるんじゃないのか。この体温でなんで平然としてられるんだ。軽いパニックになっていた私は、文句を言いながら少しでもあったまらんものかとイクの手をにぎにぎした。

 

「風邪引くんじゃないの? もー、そんなさぁ、パーカーひっかけただけじゃさぁ」

 

 女に冷えは大敵でしょー、と続けながらにぎにぎを続けていると、微かにイクが笑った気配を感じて顔をあげる。その表情は、なんとも言えぬものであった。嘲笑のような、あるいは哀愁のこもった笑みでもあるような。

 

「……なに?」

「テートク。イクは艦娘なのね」

「知ってるけど」

 

 それがどうしたとにぎにぎを継続していると、淡々とした様子でイクが続けた。

 

「寒いからパーカーひっかけてるわけじゃないのね。これ、申し訳程度のセクハラ防止用なの」

「ほんと申し訳程度ね」

「うるさいのね」

 

 少し指先があったかくなってきただろうか。いやしかし、全身これって。なぜ震えない。京都のやつらってそんなに寒さに強いのかしら、ねぇだって。

 

「潜水艦娘は寒いところでも生きられる変温動物みたいなものなのね」

「……どう、いう」

「ふっつーに考えてみてほしいの。深海っていう低温環境下で何時間も体温を保つのには中々のエネルギーがいるの。そんなの効率悪いでしょ」

 

 なんかよくわかんないけれど超常現象でもって、すごい力で戦う女の子。私の艦娘に対する認識なんて、そんなもん。だってほら。例え見た目がちょっと変わろうがなんだろうが。

 

「これが潜水艦娘の普通なの。こんな体温でも死なないのよ」

 

 目の前にいるのは、ただの人でしょう。

 

「──艦娘は人とは違うのよ」

 

 そう思っていた私の心を見透かすかのようにイクはそう言って笑った。そんなことも知らないのか、とでも言いたげに。

 

「テートクって、なにも知らないのね」

「……元々なるつもりなかったし。人手不足で無理矢理連れてこられたもんでね、こちとら」

「そんなに人手足りてないの?」

「ここの提督は特殊なのよ」

 

 どうにかこうにか自分の悲願を私を使って達成させようと躍起になっていたクソ親父から逃げまくって煽りまくってようやく勘当された身だ。もとよりなるつもりもなければ真面目に学ぶわけもなく。そうして、私がいなくなったところで件のお嬢様がなんかうまくやってくれるでしょ、とタカをくくれるほどに彼女、前任の舞鶴鎮守府の提督は絵に描いたような優等生だったのだ。なるべく関わらないようにしていたけれども、遠目に見ても人目をひく容姿やらなにやらを見て、天に愛される人というものはいるもんなんだな、と思っていた。だから。

 

『前任からのアドバイスよ。艦娘を人だと思わないことと』

 

 そんなにか。

 

『──希望なんて、まかり間違っても持たないことね』

 

 この人が、絶望するほどに。そんなに、ここは。

 

「あんた達の神衣がそんなんだからね。女の提督ってあんま見ないでしょ、なんか知らないけど提督適性って男性のが出やすいから」

 

 嘘は言っていない。それに加え、ここの鎮守府の提督は代々、その裏の役目を知っている数少ない家系から排出されるというだけで。

 

『──崇高な使命なのだ。我々は、選ばれた』

 

 そんでもってその陰鬱な使命を正当化すべく、幼少の頃から選民思想を植え付けられた、歪んだやつが多いというだけで。ああ、それで言ったら。あの人は、引き継ぎのときにしか言葉を交わさなかったけれども、そういった感覚は割と普通そうな、だからこそのあの忠告と、あの疲れ切った顔だったのだろうと。その様子に微かに同情をしてしまったといえば、彼女のプライドを傷つけていただろうか。

 

「女だからって安心できたもんでもないのね」

「ま、確かにね」

「……」

「いや引かないでよ。私あんたなんか興味ないわよ」

「そりゃよかったのね。ちゃんと否定してくれないと誤解されるのよ、ここは」

 

『──セクハラ防止用』

 

 ……ああ、あれってそういう? マジか、結構いるのか。いや私はそういう偏見は特にないけれども。

 

「アンタ気をつけたほうがいいのね」

「なにを」

「そーいうのに好かれそうな顔してる」

「はは、冗談……よね?」

 

 お願いだからなんか言って。意味深ににっこりとこちらに笑いかけてゆっくりと立ち上がり、執務室を出ていこうとするイクを慌てて引き止める。

 

「待って、イク」

 

 どのくらいの声量がちょうどいいのだろうか。どのくらいゆっくり喋れば、視覚で喋っている姿を捉えなくても、この子は気づけるだろうか。

 元来粗雑な方だからついつい気が回らなくなってしまうけれども。その人の仕草、声のトーン、呼吸。得られる情報をうまく使い人の心を掌握する術として嫌になるくらい色々と詰め込まれた知識を、私はそんなことになんか使ってやらない。

 振り返ったイクのその目をまっすぐに見る。目は口ほどに物を言うという。だから私は、その人を知りたいとき、必ずその目を見るのだ。

 耳が聞こえず、視界も奪われ、おまけによくわかんない能力まで押し付けられて。そんでもって馬車馬のように働かされる、と。聞いてるだけでお腹いっぱいだ。そりゃあスレてもしかたないだろう。実際ようやく一人で歩き回れるようになったとはいえ、陸にいるときの彼女はどこか気だるげだ。だけれども。

 ──こいつ、目が綺麗なのよね。

 そう、だから。だから私はこの子が気になるのかもしれない。

 

「私、かなりポンコツだと思うから慣れるまでは結構迷惑をかけると思う。トンチンカンなことも言うだろうし、それで笑われても仕方ないって思ってる」

 

 プライドなんてクソ喰らえ。張れるほどの見栄すらこの身にはない。

 

「でもね、私は私の言いたいことは言う。だから言った分は、あんた達の言葉も聞く」

 

 嘘をつくのは得意だ、嘘を見破るのも。ああ、だけれども。

 

『あなたは嘘つきだけど正直者だから』

 

 自分で自分の心に嘘をつくのは、その心を曇らせることは。どうしようもないほどに嫌いで、どうしようもないほどに苦手であるから。

 

「私はあんた達ときちんと話をしたい。だから」

 

『──艦娘を人と思わないことね』

 

 だからきっと。私は彼女以上に、この仕事に向いていない。そう割り切ってこなしてきた彼女ですらああなのだから。まぁ、でもそんなこと。

 

「言いたいことあったら、私にちゃんと言って」

 

 最初から百も承知だっつの。だから今まで逃げ惑ってきたのだ。絶対にこんな仕事向いていないのだから。

 だって私はどうしたって人と関わるのが好きで。どんなに化け物と揶揄されるような体であろうがなんだろうが、ここにいる子達はちょっと前までは紛れもなくただの女の子で、そんでもって。

 

『お前の意見など聞いていない』

 

 そういう彼女らの心ってもんをまるっと無視するやり方ってのはクソ親父を想起させるので心底反吐が出る。反抗期かって? うるさいあいつに対しては死ぬまで反抗期だ、そんでもってこれはただの反抗心からの行動ではなく。私が、私として。ここで最後どうなろうとも私らしくあるために、絶対に譲れないものであるのだ。そう。例え、これから。私が人殺しとなるのだとしても。私は絶対に、目を逸らさない。

 まっすぐ、イクの目を見据えてそう口にすると、彼女が微かに目を見開いた。そうして私は、やっとその正体を理解したのだ。

 ──桜だ、桜が咲いている。

 いつも少しどこか不機嫌そうにしている彼女のその瞳ははっきりと見開かれることは滅多になかった。そりゃあ綺麗なはずだ。なんだっけ、日本人のDNAには桜を美しいと感じる遺伝子が組み込まれてるんだっけ? なら仕方ない。

 その特殊な瞳はきっと艦娘になってからのものなのだろう。だとしたら、きっと彼女はそれが嫌で嫌でたまらないのかもしれないけれど。やっぱ綺麗だわ、サングラス、とっぱらってやりたい、とうずうずしていると、しばらく黙り込んでいたイクがその口を開いた。

 

「じゃあ、言うけど」

「うん」

「この潜水艦の神衣、なんとかなんないの?」

「……そういうのはちょっと」

「使えねーの」

「あ?」

「あと資源回収クルージング減らして欲しいの」

「それも私の一存ではちょっと」

「マジで使えねーの」

「あ゛?」

 

 けっ、と軽く舌打ちをするイク。おいこら、こちとら上官だぞ。

 

「別にアンタになんも期待なんてしてないのね」

「あのさぁ、私、一応あんたの上官なんだけど」

「テートクの望み通り言いたいこと言ってやってるだけなのね。感謝して欲しいくらいなの」

「こ、こいつ……」

 

 可愛くねー!! 黙ってればそこそこ可愛らしい顔つきであり、ついでにいうとその甘ったるいボイスで甘えられでもしたらその辺の男ならばイチコロだろうに、その甘ったるい声でつらつらと紡がれるのは罵倒である。いや、これはこれで需要あるのかしら、などとどうでもいいことを考えつつこんにゃろうと思っていると、ふん、と鼻で息をつきながらイクが続けた。

 

「期待なんかこれっぽっちもしてないから。もっと肩の力抜けばいいの」

 

 新たなる罵倒に噛み付いてやろうと反射的に口を開きかけ、ん? とその微妙に罵倒のようで罵倒でないような、やっぱり罵倒なような物言いに混乱して二の句をつげないでいると。

 

「見てるこっちが肩こるのね」

 

 はぁ、と一際大きなため息と共にそう言ってさっさと踵を返して執務室を出ていこうとしていた彼女は、その扉に手をかけたところで、ああ、と思い出したかのように振り返って。

 

「でもコレは、一応感謝してる」

 

 と、トントンと自身がかけているサングラスを叩きながら出ていった。

 

「……ツンデレ?」

 

 一人残された執務室にて。おもわずぽつりとつぶやいた言葉が静かに室内に落ちていった。

 

 

 庁舎の廊下を歩いていると、不意に後ろから呼びかけられた。

 

「あ、いたいた。おーい、イクちゃん」

 

 ワンテンポおいて振り返ると、漣が手を振って答える。そんでもってちょいちょい、とイクを指差し、あなたに話しかけているのだ、とわかりやすくジェスチャーでもって呼びかけた。ふざけた言動に隠れがちだけれど、漣はこういったちょっとした気遣いが上手だった。

 

「相談があるんだけど」

「なに?」

「今度新しい駆逐艦と潜水艦の娘達がくるっしょ? 対潜訓練イクちゃんにやってもらいたいなーって」

「……なんでイクなの?」

 

 どー考えたって自分が指導教官の真似事のようなものに向いているとは思えなかった。他に適任はいそうなものだけど。

 

「イクちゃん、音紋でだれがどこでなにしてるか見えるっしょ、だから新人潜水艦娘の動きの評価しやすいかなって」

「あー、まぁ」

「海中での動き、こっちからだと評価しづらいし」

 

 それなら、一応納得はできる。指導する立場なら秘話装置でもって近距離でコミュニケーションを取りながら指導もできるけれども、基本的に潜水艦は潜っている間はほぼほぼ連絡を取り合わない。それでもって潜ってしまえばそこは光の届かぬ世界。音が唯一の敵味方の識別方法であり、それもいわゆる敵か味方かの判別くらいだ。そんでもってそれは敵も同じであり、だからこそ潜水艦娘は潜っているときは静かでなければならない。音を発しない、ひっそり、こっそりと忍びより敵をあぶり出すか、攻撃をするか。そんな性質上、潜水艦の指導は難航しやすいという話はまま聞く。

 

「見てるだけでいいの?」

「潜水艦の評価してるときは。あとは仮想敵役で駆逐艦ボコボコでよろしく」

「ボコボコって」

「全員沈めちゃっていいですぞ」

 

 カラカラと笑いながら演習内容についてざっとまとめた概要をこちらに差し出す。

 

「負担になるようなら断ってくれていいよ」

「海にいる方が楽だから別にいいのね。指導できるかは知らないけど」

「イクちゃん面倒見いいから大丈夫でしょ、ね?」

 

 普段どんちゃんうるさくしているからあまり近寄りたくはない部類の彼女ではあるけれど、こうやって一対一で話している分には元々落ち着いた声質であるのも相まって、ただの普通の、少しだけ周りがよく見えるだけのおとなしめの女の子に見える。

 そりゃあ人間、色々な面があるだろう。だけれども少なくともこの舞鶴鎮守府の古参である彼女、漣に対して、イクはどういった評価を下したもんかと未だ迷っていた。

 

「潜水艦の怖さは一番最初に叩き込んでおいた方がいいし」

「戦艦とか空母じゃなくて?」

「うん。そっちばっかり見て足元掬われる娘は多いから」

 

 まぁ気晴らしにはいいだろう。毎回資源航路開拓してこいとぐるぐるぐるぐる海を泳がされるよりはマシだ、多分。

 りょーかい、と相槌を打って会話を切り上げようとしたら、ふと漣が質問を投げかけてきた。

 

「ね、イクちゃん。ご主人様のことどう思う?」

「ご主人……ああ、提督ね。どうって?」

「漣はほら、前のご主人様とどうしても比べちゃうから。なーんにもフィルターかかってない人の意見はどうなのかなって」

 

 んなこと言われても自分だってそんな言うほど会話なんてしていない。このサングラスを作ってくれたのは感謝してるけど、多分そういうことじゃないだろう。

 

「ん〜……変なやつなの」

「変?」

「さっき窓に張り付いてたのね」

「ヤバww」

 

 ひとしきりひーひー笑っていた漣は、笑った拍子にでてきた涙を拭いながら言葉を続けた。

 

「好き? 嫌い?」

「そういうの判断できるほどあの女のことなんて知らないのね」

「あえていうならだって」

 

 いやに食いつくな。面倒くさいと頭をかきながらどうしたものかと考えていると、ふと。

 

『──あんた案外綺麗な目してんのね』

 

「……目」

「め?」

「まっすぐ目を見て喋ってるときは、嫌いじゃない」

 

 目を見て話したい、と言われたのは初めてだ。そしてその発言の通り、あいつは話しているときにこちらの目をまっすぐ見ている。なにか見透かされているようで若干の居心地の悪さもあるけれど、それでも。まっすぐと目を見ながら紡がれる言葉は、悪くはない。

 

「……信頼できる?」

「知らないけど。ああいうときは嘘はついてないんじゃない」

「そう、かな」

 

 声量が小さくなり、よく聞き取れず漣の方を見返す。漣は、窓の外を見やって。そしてそれはどこか遠くの方を見ているようで。

 

「提督なんて、嘘つきだもん」

 

 そうしてあとに続いた独り言ともとれぬ言葉は。かろうじて聞き取れたものの、それの意味するところは。よく、わからなかったのだ。

 

 

─後編へつづく

 




後編は明日の九時投稿予定です。


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合縁奇縁、廻り廻りて‐後編‐(舞鶴鎮守府)

 

「いや知らんでち」

 

 よく喋る女だと思う。無口で辛気臭い顔を常にしながら仕事を完璧にこなしていた前任と、へらへら笑いながらろくに仕事のできない現上司。どちらがいいと言われれば、前任のが楽だったと言わざるを得ない。

 

「いやでっち、あんたはもう少しくらい周りに興味持ったら?」

「あ?」

「すみません馴れ馴れしかったですねこちらの書類をお納めくださいゴーヤ様」

 

 頭を垂れながらうやうやしく差し出されたそれを受け取りながら思い起こす。

 別に親しいわけでもないし。艦種も違うし。と、いうか、顔と名前を一致させるのだってそもそも苦手なレベルであるからして、それ以上の情報を思い起こそうとしてももやがかかったように曖昧なのだからしょうがない、が。

 

『──提督!』

 

「あー……そう言えば」

「うん?」

「前から、あんな喋り方だった、っけ?」

 

 なんか、ある日を堺にやたらうるさくなったような。そうでもないような。

 

「……それくらいは認識しましょうや、ゴーヤさん」

「人間のガワなんてただのガワでちよ。どう喋ろうがどう見えようが大して意味なんてないでち」

「ゴーヤがいうと説得力あるけどさ……」

 

 誤解を一々訂正するのが面倒くさい。誤解され、それが利益に繋がるのならば特に否定する必要もなく。

 

『──変なの』

 

 皆が皆、口を揃えてそう言うのなら。きっとそれが正しいのだろう。そんなのは知っている。知っているから、とりあえず放っておいてほしい。

 

「ゴーヤさん、ご趣味は」

「無駄口叩いてないで手を動かすでち」

「無駄話は嫌いで?」

 

 うるさいな。微かな苛立ちとともに語気を強める。

 

「余計なことにリソースを割きたくないでち」

「余計ねぇ」

 

『──そんなの、人としてダメじゃない?』

 

 見えきった答え。どうせ最終的に行き着く答えはつまるところ、そんなところなのだから。こちらの神経を逆なでていくという点では無駄よりタチが悪い。だから意味のない会話なんてどうでもいい、どうでもいいっていうのは。

 

「じゃあ何にリソース割きたいの」

 

 黙ってろって意味なんでちが。一向に口を閉じようとしないそいつに、とうとうしびれを切らして睨みつける。

 

「ごめんね、ゴーヤには意味がなくても私にはあんのよ。静かな室内にペンが走る音だけとか、寝ちゃうわ」

 

 そんなことを言いながら、頬杖をついて、苦笑。完全に集中力は切れたようだった。

 

「図書館とか、そういう空間がダメでさ。ちょっとだけ、付き合ってくんない?」

 

 無駄口を嫌った前任と正反対。つくづく、面倒くさい。はぁ、とため息をついてぼそりと呟いた。

 

「……知識」

「知識?」

「資産運用、艦魄艤装回路理論、艦隊運用術、知らないことが多すぎて時間が足りないでち」

 

 知らなくてもわかる。知らなくても戦える、それが艦娘というものだ。そしてそれが、自分にとってはひどく気持ちが悪いのだ。

 パソコンがどうしてそういう風に動くのか。尋ねてみれば、そういうものだから、と返され納得がいかなくてそれをバラした。

 魚雷の仕組みは? 触発信管、磁気信管とは、各種魚雷の違いは動作不良の原因は。そこに現象があるのならば。それを説明できる理論が、知識がないと落ち着かない。

 知らないものを知らないまま当然のように使うのが、心底気持ち悪い。

 

「でもそういうのって、突き詰めるとキリなくない?」

「だから言ってるんでちよ、時間が足りないって」

「いつ休んでるの?」

「? しょっちゅう休んでるでち」

「え、そう?」

「魚雷点検したり、専門書読んだり」

「それって休んでるの」

「休んでる」

 

『それって休めてるの?』

『最高にリラックスしてるでち』

『ふーん……読むのはっや』

 

 ああ、そういえば。イクは自分にしては珍しく結構早く顔を覚えた方かもしれない。彼女との会話は気楽でいい、理解はしてくれないけれども特に否定もしないから。彼女との沈黙は特に気にならないし、なによりぽつりぽつりと投げかけられる会話も苦痛にならない。違いは一体なんだろう、と思いながら。

 

「知識を頭に入れたり、得た知識を照らし合わせたりしてるときが。一番、心が安らぐ」

 

 そこで言葉を切ってそいつを見やる。

 

「満足でちか?」

 

『──変なの!』

 

 そらお前もそういう顔をするんだろう。イクだって言葉にはしなかったけど困ったような表情をしていた。だからこれは、変なのだ。そうしてそのやり取りを何十回と行ってきてこちらはもううんざりなのだ、だから自分に必要以上に関わらないで欲しい。こちらだって、必要以上には関わらないから。

 

「うん」

 

 だけれども、そうして真正面から睨みつけてやったそいつの顔はそのどれにも当てはまらず。今日寒くない? と聞けばうん、寒い、と返すくらいの気軽さでもって。ただただ、こちらをまっすぐに見ていたのだった。

 

「だったらさっさと──」

「──アフリカのとある地方で食糧不足が深刻化しています」

 

 微かな動揺を隠すように仕事に戻れ、と言いかけると。それに被せるように提督が口を開いた。

 

「世界飢餓指数は二十二点と高く、原因は乳幼児死亡率の高さ及びカロリー不足の人口数ってデータと。その地方に住むとある可哀想な女の子の話。どっちを聞いたら寄付したくなる?」

「前者」

「一般論では後者なんだって。どう? こういうちょっとためになる話ならオッケ?」

「……まぁ」

「それじゃー次までにもっとこういうネタ仕入れとくわ」

 

 ヤバい、意味わかんないでち。今までは自分がまるで宇宙人のように扱われることばかりであったけれどもどうやら自身もこの歳にしてとうとう宇宙人と遭遇してしまったらしい。

 これからはもう少し人に優しくできるかもしれない。うん、変な奴は、変だ。

 

「……なんで?」

「え? 私は喋ってないと眠くて手が進まない。ゴーヤは無駄話は嫌い。だから折衷案っていうか」

 

 そんなことを言いながら提督がほっと掛け声と共に肩を回すと、してはいけないような大きな音が執務室に鳴り響いた。……肩、こり過ぎなのでは。

 

「……ながら作業も嫌いでち」

「あんらー」

 

 真実ではあるけれども。微かな拒絶もなんのその。うーん、どうしよ、と首をバキボキ鳴らしながら回している彼女に。

 

「……休憩時間、くらいなら」

 

 思わず譲歩してしまったのは。きっと、意味がわからなさすぎて、そうして意味がわからないものとは自分にとって恐怖の対象であるからして。

 

「長時間話すのが、苦手ってだけでち。拘束時間が、長いと」

 

 だからきっと、防衛本能みたいなものが働いたに違いない。これ以上つっぱねたら何をしでかすかわからない、そういった恐怖に対して。

 

「ああ、それ、わかるわー!」

 

『えー、変なの! 全然意味わかんない!!』

 

 だってそういう反応は、見たことが、なくて。そうしてそれが、自分の世界の当たり前だったのだから。

 

「も、ほんと女ってさーどうでもいい話で延々と喋れるじゃない? 私あれ、いつこれ終わんの? ってだんだんイライラしてくるのよねー、私の人生まさに浪費されてますーってかさ」

 

 けらけら笑っているそいつの髪が、窓からちょうど差し込んだ西陽に照らされる。ただの黒髪だと思っていたけれど、日の光にさらされると少しだけ茶色く輝くそれに目を細めながら。

 

「……うん、だから」

 

 そうしてキッと再度睨みつける。

 

「さっさと業務覚えてゴーヤの人生これ以上浪費させんじゃないでちよ。休憩終わりでち」

「うっ……すみません……」

 

 そうして不備のあるそれを突っ返すのであった。

 ……変なやつ。

 

 

 前任の提督とは、多分、今この鎮守府にいる娘達の中では一番長い付き合いになるだろう。

 未だになんで彼女が自分を秘書艦に任命したのか、それはよくわからない。いいところの出の、超がつくほどのエリート。少しだけきつそうな見た目ではあったものの、見目も麗しく、そんな彼女の秘書艦として自分はとても場違いなもののように思えた。

 

『……漣』

『は、はい、なんですか提督!?』

『あげる』

『は、へ?』

 

 コミュニケーションをとるのが、決して上手な人ではなかった。元々無口な方で、黙っていると怒っているのではないかと錯覚してしまうこともしばしば。それでも。

 

『うん。似合うわね』

 

 ぎこちないけれど。あの頃の彼女はそれでも笑いかけてくれていた。

 最終的に艦娘嫌いとレッテルを貼られてしまった彼女だけれど。本当は、本当はそんなんじゃないって、そう思っている。そう、思っていたけれど。もう私には、なにが真実でなにが嘘だったのか。なにも、わからないのだ。

 

 

 埠頭でぼんやりと海を眺めながらそれをいじっていると、はらり、と白いそれが自身の腕に落ち、空を見上げる。

 ふわりふわりと空から降ってくるそれを見て、ああ、今日はそんなに寒かったのかとぼんやりと思う。どんな気温でも顔色変えずピチッと制服を着こなしていたあの人に対して、彼女はすぐに駄々をこねる。今日くらいは、いっか。あまりに寒がるものだから、はたして自分がこの土地に慣れ親しんでしまったからなのか、あるいは。艦娘として過ごすことで色々と、知らず知らずのうちに失ったものも、あるのかもしれないと思った。

 電気ストーブでも導入してあげようか、と考えこんでいると、ざり、とコンクリートを踏みしめる音が響いた。

 

「かわいいわね、それ」

 

 ずび、と鼻をすすりながら。もっふもふの耳当てに、二重に巻かれたマフラー。そしてがっちりしたダウンコートを身にまとい、現在の自分の上司に当たる女性、舞鶴鎮守府の提督が現れた。

 ……確かそのコートは雪国で流行しているガチの防寒コートだった気がする。いや、そりゃ寒いだろうけれど。その重装備具合といったら浮きまくりだ。

 突っ込むべきかどうか悩んだところでなんだかバカバカしくなってしまって、手元のうさぎの人形に視線を落とした。きっと、この雪が。感傷的な気分にさせているのだ。

 

「……もらいものなんです」

「へぇ、誰からの」

「前のご主人様ですよ」

 

 はらり、と雪がその人形に舞い降りる。きれいな、樹状の雪の結晶だった。小さい頃はこの形の雪の華が好きで、大きく育った雪の結晶を見つけてははしゃいでいたっけ。

 

「え、なんか意外。そういう趣味だったの?」

「さぁ。よくわかんないです」

 

 そんな小さな頃の記憶すら朧気なのだから。自分の気持ちすら、こんなにも曖昧なもので、あるのだから。

 

「あの人のことなんて。何もわかんないです」

 

 私が彼女に感じていた親しみも。彼女が私に向けてくれていたと思っていたはずの、それも。きっと、この雪の結晶のように跡形もなく溶けて、消えて。そうしてそこになにもなくなったとしても、世界はこうやって、回り続けるのだ。まるで最初から、そこにはなにもなかったかのように。

 

「──問」

 

 ざり、と音を立てながら大股でこちらに歩み寄った彼女は、漣の隣に立って、海を睨みつけながら。

 

「その子の親が死んで、その夜その子が静かに泣いています。適切な心情を答えよ」

 

 脈絡もなくそんな質問を投げかけ、そして。

 

「あ────、死んで清々した!」

 

 大声でもって、なんとも不謹慎なことを海に向かって投げつけた。

 その様子に呆気に取られていると、またずび、と鼻を鳴らしながら彼女がぼそりと呟いた。

 

「バツだったわ」

「いや当たり前でしょ」

「そう? 嬉しすぎて涙流してんのかもよ」

「いやいや」

「私なら、大正解」

 

 はっと蔑むように笑う彼女の横顔は初めて見る。普段はのらり、くらりとやり過ごしている彼女の内面に燻るその激情を垣間見たような気がした。

 

「本当の内心なんて誰もわかりゃしない。言葉なんて簡単に偽れるし」

 

 そう、そうなの、本当にそう。なにも、なにも信じられるものなどなかったのだと失ってから気づいた。信頼という気持ちを相手にあずけても、同じものが返ってくることはないということも。そうして、どうしようもなく。

 

「だからいいのよ。私にとってそのシーンは親が死んで清々するシーンだったし」

 

 ちらり、と一瞬こちらを見やった彼女は、また雪がはらはらと降りしきる、曇天によって黒々と染められた海を眺めながら、ぽつりと。

 

「漣が感じたものは、それでいい」

 

 そう呟いて、体ごとこちらに向き直った。

 

「──それ、いつから?」

 

 そう、あの時から私、漣は。

 自分の感情を、信じることができないでいる。

 

 

『──前から、あんな喋り方だった、っけ?』

 

 漣が秘書艦を辞めた理由について探りを入れたときに返ってきた言葉。入れ替わりの激しいこの鎮守府ではゴーヤが一番付き合いが長いのではと思って聞いたら知らんと返され、代わりに与えられた言葉。

 ここの駆逐隊のメンツはとかく入れ替わりが激しい。対潜訓練済み駆逐艦の養殖地か、と言わんばかりにある一定レベルに達した駆逐艦はあっちそっちに引き抜かれていくので、ここのレベルを一定にするのは中々骨が折れるとゴーヤがぼやいていた。

 だから現在の漣の同室である朧も、比較的新しい娘であり、漣には良くしてもらっているようだった。

 

『ね、漣っていっつもあんななの?』

『あんなって?』

『うるさい的な』

 

 寒いところが嫌いというひょんな共通点から地味に仲良くなったのだけれど、そんな流れで彼女のお気に入りのペットであるカニを突っつきながらなんとなく聞いてみたのだ。あのノリを四六時中やられたらたまんないんじゃなかろうかと。

 

『漣、部屋にいるときはそんなにうるさくないですよ』

『そうなの?』

『はい。あれはなんていうか……周りのため、なのかな』

 

 朧、しょっちゅう失敗しますけど、あの明るさに結構助けられてるところありますもん、と言われ。そこから一つの仮説が立てられたわけである。

 ──この子はすすんで自ら、道化を演じているのではないだろうか、と。

 

「……この鎮守府、暗いんだもん」

 

 力なく笑う彼女のその声は、いつもよりも落ち着いたもので。きっとこっちが素なのであろうということが伺えた。

 

「前はね、あんなんじゃなかったの。もうちょっと、優しかったんだけど」

 

 手元の、あの人からもらったのだというそれをいじりながら、とつとつと語る漣は。

 

「いつからかなー、なんか、笑わなくなって? なんか、よそよそしくなって。皆との仲もぎくしゃくしてるし」

 

 とめどなくこぼれ落ちる自身の感情を止められないのだろうか。そこでえへへ、と笑いながら。

 

「なら、漣さんくれぇは明るく楽しくやってやろうってぇ、イメチェン的な? やり始めたら結構楽しいし。無理なんかしてないんだよ、でも」

 

 そこで一旦。ひゅ、と微かに息を詰まらせ、それでもこんなことはなんでもないのだ、と力まかせにそれを口にした。

 

「──漣。それ、やめてって」

 

 その言葉になにも返せずにいると、漣はこちらを振り返りながら、一際大きな声でもって。

 

「んなこと言われたらなーんもいえねぇ!」

 

 一目で空元気だとわかる、痛々しいくらいの笑顔でもって、そう続けたのだ。

 

「だからゴーヤちゃんに変わってもらったの。すっごく頭いいし、きっとあの距離感も提督と合うと思ったし、実際合ってたし」

「……でも、やめちゃったじゃない」

 

 そうして私は。あえて言ってはいけない言葉を投げかける。それは、多分。漣自身がずっと、ずっと自分に投げかけていたであろう、言葉。

 

「……っ、じゃあ、どうすればよかったの!」

 

 彼女の怒りを真正面から浴びる。誰にも言えず、ずっと心の内で持て余していたどうしようもない悲しみを爆発させるかのように吠える彼女を黙って見据える。

 

「なんも、なんも言ってくれないし! 何やってもダメだったし、だから、だから」

 

 できた、子だと思う。周りのみんなを元気にしようとどんちゃん騒ぎをして。それを煩わしいとしかめっ面をする子もいるけれど、そういう子も最後には笑ってしまう。この舞鶴鎮守府にかかせないムードメーカーである彼女の怒る姿なんて、きっと誰も見たことがないだろう。そうやってずっとずっと、誰にも言えず。そのどうしようもない気持ちを抱えながら、笑い続けていたのだ、この子は。

 

「どうしようもなかったの」

 

 だから私は、彼女のその熱を冷たさでもって受け止める。優しく受け止めるべきだった人は、漣がそうして欲しかった人はもういない。そうして私は彼女の代わりにはなれやしないのだと。明確に伝える意味でも。

 

「どうしようも。漣が悪いとか、あの人が悪いとか。そういうのを越えた、なんつーの。どうしようもできない流れって、あんのよ」

 

 こんな家に生まれてこなきゃよかった。そういう自問自答は数えきれないほどにした。子供は親を選んで生まれるって? 冗談よしてよ。でも、そう思う一方で。この家に生まれなければ出会えなかったかけがえのない存在もいる。

 それと同様に。この場所の因縁が彼女と漣を引き合わせたのならば、引き離したのもまたそれなのだ。いやだ、と掴もうとしてもすり抜ける、そういうことは、ある。それをしかたないと言えるほどにはすれていないけれど。それでも、どうしようもないそういった流れの中で、もがき、苦しみながら私は何かをつかもうと生きている。

 だから、同情はなんか違う気がしたのだ。さりとて甘えんな、と突っぱねるほど冷たい女でもない、と一応思っている私は、ポケットからごそごそと若干ぬるくなったそれを取り出す。

 

「ん」

 

 小豆色の、この時期になるとそっと自販機に追加される小さな缶。

 

「よく飲んでるから、好きなのかなって」

 

 おしるこの缶ジュースを漣に差し出すと、漣はしばしそれをじっと見つめて。そうしてゆっくりと、それを受け取った。

 

「……コレ飲んでると冬って感じがするんですよ」

「へぇ」

「一口いりますか、提督」

「いや、いい。私甘いの苦手なんだ」

 

 甘いものって喉が渇くし。あんまり食べた気もしないのにカロリーだけは馬鹿みたいに高いもんだからいまいち好きになれない。

 私の言葉を受け、漣は両手でそのおしるこ缶をもてあそびながら、ぽつりと呟いた。

 

「あの人は、甘いの好きだったんですよ」

「え、意外」

「引き出しにいっつもチョコ入れてて。ちょっと高めの、まあるいチョコ。あれをよくコロコロ、口の中で遊ばせてたんですよ」

「……不覚にもちょっとかわいいとか思っちゃったんだけど」

「でしょ」

 

 力なく笑いながら漣がプルタブをひっかく。カシ、と乾いた音が響いた。

 

「本当に好きだったのねぇ、あの人のこと」

 

 人間とは多面的な存在である。世間一般では艦娘嫌いとしての悪評の方が強い彼女ではあるけれど。きっとそれだけだったのなら、この子はこんなに大事に、あの人からもらったものを手元には置いていないだろう。

 ──カシッ。

 

「……報われない片想いでしたけどねー!」

 

 プルタブをひっかく手を止め、努めて明るくそう言い放った彼女の横顔は。ひどく痛々しく、映った。

 

「そんなことも、ないんじゃない?」

 

 それが作られたキャラであれなんであれ。それを演じることでこの舞鶴鎮守府に少しばかりの明るさを与えていたのは事実だ。そうして、そのやかましいガワに隠れがちではあるけれども。彼女のそういった気遣いというものは、居心地が、いいのだ。

 

「この鎮守府、潜水艦以外は結構入れ替え多いでしょ」

「そう、ですね」

「でも漣は、秘書艦外れた後もずっとここに所属してるじゃない」

 

 だから、余計につらかったのかもしれない。そんな彼女の気遣いにすがってしまえば。一度こぼしてしまえば、それを取繕えそうなほど器用な人には見えなかったから。

 

「つまりそういうことよ」

「……ちょっと、よくわかんないです」

「弱小鎮守府が優秀な艦娘をキープするのって、そこそこ労力いんのよ」

 

 それでも手放せなかったのだから。もうどうしようもできなかったのだろう。

 彼女は漣を巻き込まない道を選んだのだ。例えそれが彼女を傷つけることになろうとも。それでも、そこは、譲らなかったのだろう。

 

「優秀な艦娘はどこでも取り合いなんだから。あんたなら佐世保か呉行ってもいいくらいよ、ほんと」

「……」

「転籍、する? 今ならねじ込める」

 

 ならば私も、この子だけは巻き込むまい。にっちもさっちもいかなくなったとしても、この子だけは。

 

「ここはもう、あんたの守りたい舞鶴鎮守府じゃあ、ないんでしょう」

 

 それが多分。私があの人にしてやれる唯一のことだろうから。

 

「……ご主人様って、ここが嫌いですよね」

「寒いもん」

「それだけ?」

 

 じっとこちらを見上げる漣の瞳を、まっすぐに見返す。

 

「それ以外も、ある」

 

 しばしじっとこちらを見上げていた漣は、ふいと視線をおしるこ缶に移しようやっとそれを飲み始めた。

 

「ご主人様ってほんと、あの人と真逆ですね」

「そりゃあエリート様とはね、出来が」

「目」

 

 漣はそこで一旦言葉を区切ると。

 

「あの人はまともに合わせてくれなかった」

 

 そう言ってまた一口、それを飲んだ。

 

「……目は口ほどに言うから」

 

 やろうと思えば、そうと悟られずに嘘をつくこともできる。それでも難しいものは難しい。それが、心を許せる存在であればあるほどに。

 

「きっと誤魔化すのが苦手な、不器用な人だったのね」

 

 優秀な人ではあったのだろう。だけれども、恐らく。この舞鶴鎮守府には向かなかったのだ。舞鶴鎮守府の提督に一番必要とされる部分が、あまりにも不器用で、あまりにも誠実過ぎて。

 他人事ではない、明日は我が身だ、と内心で自嘲していると。

 

「イクちゃんがね。ご主人様がまっすぐ目を見てるときは嘘はついてないだろうって」

 

 不意に漣がそんなことを尋ねてきた。

 

「どうなんですか?」

 

『──そういうときは絶対に嘘をつかないし、ね』

 

 え、えー? そうなの? 流石に二人から言われてしまったのならちょっと考え直さねばならないのかもしれない、その癖。いやでも相手に訴えたいときは目を見るのなんて普通じゃない? なんなの? えー、も、えー。

 

「……さぁね? あんまそういうの、アテにしない方がいいわよ。そういう仕草って取り繕えるし。足元掬われちゃうわよ? 掬われちゃっても責任なんてとらないからね」

 

 ぺらぺらぺらーとこれまた指摘された悪癖でもってとりあえず場当たり的に誤魔化す。いやね、そう。こんなの知られても痛くも痒くもないから。だから誤魔化す必要なんてまずないのよね、そうそう。ていうか? そう思ってもらえてるのなら色々と使いようもありますし。

 

「……そういうことに、しといてあげます」

 

 その様子を見上げていた漣は、ふと表情を緩めると立ち上がって徐に海に向かって大声を張り上げた。

 

「転籍なんてごめんですぞー!!」

 

 その声にびっくりした海鳥が数羽、バタバタバタと飛び去る。

 

「夏は地獄のように暑く、冬はクソ寒く、お金もなくてオンボロで、ついでにいうと定期的に潜水艦が暴れまわるここ、舞鶴鎮守府ですがー!」

「普通に聞いても最悪よね。刑務所かなんか?」

「刑務所wwww」

 

 けらけらと笑う漣の瞳に、微かに涙が滲む。それは、笑いすぎによるものなのか。

 

「漣は、そんな舞鶴鎮守府が。まぁ割と、嫌いじゃないから」

 

 あるいは。

 

「大体ご主人様、漣いなくなったとしてゴーヤちゃんとやってけるほどお仕事覚えたんですか?」

「いや全然。まったくもって、これっぽっちも」

「そろそろ潜水艦ストライキの時期ですぞ」

「待って、そんな行事感覚なの??」

「ストライキ起きたら筆頭はゴーヤちゃんだから秘書艦業務まるっと放置されますよ」

 

 その言葉を聞いて、すぅっと音もなく地べたに膝をつき。

 

「……漣様」

「なんでしょ」

「是非とも舞鶴にいて頂きたく」

 

 華麗なる土下座を決め込んだ。無理無理無理ほんと無理。ついでにいうとゴーヤにストライキなんて起こされたら勝てなくない? 是非ともここはハウツーを蓄積しているベテランの力が必要だ。

 

「……ホント、しょーがないご主人様ですね」

 

 その様子をみて。ふへ、と気の抜けた声を漏らしながら笑った漣は。きっと、まだまだどうしたってその傷を抱えて生きていかねばならないのだろうけれど、それでも。それでも、前よりもいい顔で笑ったような、気がした。

 

 

 一般開放時間を十分に過ぎてから。生きとし生けるものが寝静まった頃、私は鍵を片手に舞鶴鎮守府庁舎の書庫へと向かった。

 懐中電灯とか持ってくりゃよかったな、なんかあるかしら、と携帯端末のライトを頼りにごそごそと受付の辺りを漁ると、年代物のオイルランプを見つけた。またこんなマニアックなものをと思いながらも、これ使ったら雰囲気出るなと若干わくわくしたのも事実。それに灯りをともし、携帯端末をポケットに突っ込んでから地下へと降りていく。どこか停滞した埃っぽい空気にしかめっ面をしながら、ランプをかざして周囲を照らした。

 

「……ここは、状態いいのね」

 

 何度も津波だなんだと被害を受ける舞鶴鎮守府が移転しない真の理由。それがこの庁舎の地下に存在する書庫だとは誰も思うまい。上の方は真新しくなっているけれども、この地下空間だけは結界で守られているのだと聞いた。微かにそれらしい気配は感じるものの、一体どういう仕組みでこの空間が守られているのかは自分にはとんとわからない。もう少しこっち方面くらいは真面目に勉強しとくべきだったと悪態をついても後の祭りだけれども。

 ずらりと並ぶ各種資料。これもそりゃ大事っちゃー大事なものであるけれど。これはただのカモフラージュだ。その本棚を素通りして、壁伝いにそれを探す。

 

 ──カツン。

 

「……うーん、これ、わかりやすすぎるんじゃない?」

 

 塗り壁の下、木造部分のそれを指先でなぞる。桜の花弁と、その下に錨。それがとある一部分にのみ彫られていた。

 

「よっ、ほ、そい。いやぁ、こんな内容じゃなければわくわくするようなところではあるわよね、こういうからくりってのは……」

 

 まぁこれが隠し扉の目印であるとわかったところで、この複雑怪奇な順序でもって仕掛け部分をいじっていかないと開かない隠し扉ではあるけれども。秘密箱といい、日本人ってこういう仕掛け、好きよね。

 ぐっと壁に力をかけると、微かに軋むような音を立ててそれが回転する。さぁて。この先から重苦しい空気が流れ込んでいるように感じるのは、怖気づいているってことかしらね。少しばかりかがみながらその狭い通路を進んでいくと、小さな書庫にたどり着いた。意外と奥行きはありそうだな、とざっとランプで辺りを照らしてから、それを机に置く。さて、どれを読んだものかと手を机についたとき。かたん、と偶然にもそれに手が触れた。

 

「……こりゃまた」

 

 ぱらぱらとそれをめくっていく。このワードだなんだが発展した時代に手記って。どうやら代々の舞鶴鎮守府の提督達がここにある資料やら自身の見解などを書き綴っていったものらしいのだけれど、数人、ひどいくせ字でこりゃ読むだけで苦労しそうだ、と苦笑する。そうして一番新しい時代に書かれたであろう、ひどく几帳面な字で綴られたそれにたどり着く。

 

「……パンドラの箱は、開かれた。そうして底に残ったの、は」

 

 ──希望という名の絶望だと。私は、結論付けた。

 

「……せめてもうちょっと明るいこと残してくれないかしら」

 

 苦笑いをしながら一度それを閉じ。そうして最初のページをまた開く。あれが人智を越えた存在であり、この十数年、私よりも頭のいい人たちが知恵を絞ったとしても手に負えないと判断されたアレ。ダメで元々だ。知識もなければそっち方面の能力も秀でているとは言いづらく。そうだな、あれだ。私が唯一誇れるものと言えば、人との縁くらいか。思えば人生の節目節目で、そのときは気づかないのだけれどもなんとなくいい方向へと導いてくれるような人に私はよく出会っているように思う。それを気のせいだと断じてもいいけれど。私は、これを自分の力であると信じている。そんでもってそれが、なんかうまい具合に私を助けてくれる、かもしれないし。助けてくれないかもしれない。

 まぁ、そんな博打だけに頼るほど酔狂でもない。やれることはやってやろう。いやしかし、初代さんめちゃくちゃくせ字、読みづらいったらないわね。

 

「ええ、と。なに? 大いなる、災禍、と。……き、消え、た、始まりの──」

 

 ガタン、と古びた木製の椅子を引き寄せながら。そうしてその日から、人知れず私はやつをぶん殴るための術とやらを模索し始めたのである。

 

 

 ──そうして時は、流れ、流れて。

 

 おかしいとは思っていたのだ。こんなひなびた鎮守府に海外艦の、それも戦艦を着任させるというような話は。戦線が落ち着いているとはいえ、こんなところで遊ばせておくような艦とは思えなかった、だから裏はあるとは思っていた、思っていたけれど。

 

「な、んで! ここにいんのよ!!」

 

 その人が目の前に現れたその瞬間。思わず声を荒げてしまった。

 当の本人といえば私のそんな様子にも臆することもなく、涼やかな笑みでもってそれに答えた。

 

「会いにきちゃった」

「っ! ……っ!!」

「あら。人って本当に驚くと声が出なくなるのね」

 

 傷だらけの不沈艦。オールド・レディ。艦娘にとって、スペック以上に艦にまつわる異名というものは重要なファクターとなる。

 例えばそれは奇跡の駆逐艦と呼ばれる雪風のように。例えばそれは、この目の前の艦娘の艦に与えられた異名のように。その名は、艦娘の力となりうるわけで。だからこいつは、こんなところではなく、本来なら呉とか、呉とか、呉に配属されるべき存在であるからして。

 

「まさかこんな極東の島国に適性のある娘がいるなんて、ですって」

「あの、やろ! 話が!」

「海軍の息がかかった病院ですもの。こんなこともあるわ」

「なんでそんな落ち着いてるのよ!?」

 

 昔から、どことなく気品が漂うやつだとは思っていた。それは多分、英国出身の知り合いがこいつしかいない自分にとって、異国に対する憧れも混じっているのかもしれないと思っていた。それをさっぴいたとしても、この人の傍にいる時間があったことで。私は私であることを忘れずに済んだ。

 だから本人には決して面と向かってそんなことは言わないけれど人生の恩人だと思っている。だからこの話だって受けてやろうと。くそったれな宿命だなんだの中で私は私らしくあがいてやろうと、そうあのとき決意した、と、いうのに。

 

「私が受けたくて受けたんだもの」

 

 だというのにこいつは。ああ、そうだ、そう。こんな美人薄命みたいなツラをしているけれども内面は割としたたかだった、そうね、そうだった。決して囲われ守られるような弱々しい女ではなかった、これだからイギリス女ってのは。

 

「Queen Elizabeth Class Battleship二番艦、Warspite(ウォースパイト)です。Admiral(ていとく)、よろしくお願いしますね」

「発音いいのむっかつく!!」

「母国語だもの」

 

 頭ひっかきむしりながら荒れ狂う私をくすくすと楽しそうに見ていたそいつ、ウォースパイトは、ふと目を細めてぽつりと呟いた。

 

「随分、やつれたわ」

「……そんなことないわよ」

「そう?」

「そうよ。思い出が美化されてんじゃないの?」

「そうかもしれないわね」

「そういう、あんたこそ。足」

「この艦の宿命みたいね。これでも以前よりは動かせるのよ?」

「……そう」

 

 艦娘になると何かしら障害を抱えている娘は大抵それが完治する。例えば体の弱い娘は健康体に、目が見えない娘は見えるように。それでも中には例外がいるということも私はよく知っている。そうしてそれは、目の前の電動車椅子に腰掛けている彼女にもどうやら当てはまるようであった。

 

「これもなにかの縁ね」

 

 だというのにそんなことはどうでもいいと楽しそうに笑っている。うん、これは、本当に。心底この状況を楽しんでいる顔だ。それくらいはわかる、だって。

 

「お手伝い、させて頂けるかしら、Admiral?」

 

 曲がりなりにもこいつは、私の幼馴染のようなものであるのだから。

 

「……それ、やめて。ゾワゾワする」

「どれ?」

「Admiralっての!」

「あら、いいじゃない。私は気に入ったわ」

 

 にこにこと穏やかな笑みを絶えさせないウォースパイトのその後ろ。執務室の扉の影からぴょこぴょこぴょこ、と潜水艦娘の頭が団子四姉妹よろしくな状態で現れた。

 

「……昔の女でちか?」

「違うわよ!!」

 

 一番上のゴーヤが若干引き気味に尋ねてきたので声を荒げて否定する。

 

「そうよ、過去にした覚えはないもの」

「話をややこしくしないでくれる???」

「アバンチュール……」

「痴情の……もつ、れ……?」

「海外艦にまで手を出すとか。やるのね」

「出してねぇ────!!!! ていうか今まで一度も誰にも手なんか出してないわよ!!」

「モテるのに」

「女からだけでちけどね」

「あら。妬けるわね?」

「も、ほんと、黙って??」

 

 合縁奇縁。ああ、廻り廻って、なんと世間の狭いことか。

 どっと疲れが押し寄せ思わず天を仰ぐ。

 合縁奇縁、廻り廻りてここ集う。未だなにも解決策が見い出せない中、若干やけっぱちになっているところにこいつがここに来たことに、なにか意味があるのだろうか。

 

「からかいがいのあるあなたがいけないのよ?」

「あー、わかるのね」

「あら、わかってくれる?」

「反応が面白いから」

「でしょう? ふふ、あなたとは仲良くなれそう。お名前を伺っても?」

 

 おうおうちょいと、やめてくれ。

 

「イクなの」

「素敵なお名前。私はウォースパイト、好きなように呼んでね」

「……ウォーさん?」

「あだ名で呼ばれるなんていつぶりかしら、ふふ」

「あれ、なんかめっちゃ仲良くなるの早くないイクちゃん?」

「昔と、今の……女の、愛憎劇?」

 

 ぽつりと呟きながらすすす、と手話でもって尋ねるヒトミにイクがしかめっ面をする。

 

「勝手に今の女にすんななのね気色悪い」

「ついでに言うと私もそんな気はさらさらないわよ?」

「提督フラレてやんの」

「イヨ、あんた一ヶ月禁酒」

「パワハラだー!?」

「提督の昔の女ktkr!!」

「帰れ!!! 漣!!!!!」

「辛辣wwwww」

「うるっさ……」

「はーアホらし。帰るでち」

「待ってくださいゴーヤ様! この書類も持ってって!?」

「漣よろしく〜」

「断固拒否!!」

 

 合縁奇縁。廻り廻りてこの地に集う。それは腐れ縁であったり。

 

「……行くのか」

「はい、しばらく留守にしますね、提督」

 

 因縁であったり。

 

「ごめんください」

「……どなた、でしょうか」

 

 託し、繋がれる縁であったり。

 

「うん、うん。どうでぇ」

「……Perfect! デース!!」

 

 繋がり、より集まっていく。そこに流れはあれども意味はなく。偶然と必然が重なり紡がれる。

 きっとその出会いに意味はなく。ただ、確実に。

 

「〜♪」

 

 ──ぴちょん。

 

 運命の歯車というべきものは。回りだして、いるのかもしれない。

 

 



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春を告げる寒桜(大湊警備府:五月雨、夕張)

大湊警備府に所属する、兵装実験軽巡洋艦夕張と白露型駆逐艦五月雨のお話


 ぼろぼろぼろぼろと。大粒の涙はとめどなく零れ落ちる。あの人に託されたものをなくさないように、涙で汚さないよう、大事に大事に胸に抱えながら。

 

 私は、こんなものよりも。

 

 

 なんでこんなことに、なってしまったのだろう。

 

「かったいかたい! 同型艦同士じゃねぇか! なぁーかよくしようぜ、なー五月雨!」

「は、はひ」

 

 緊張でかっちんこっちんの私に対してここ、大湊の秘書艦である涼風が気さくにそんなことを言ってくれたものの、未だ私は緊張で呂律すらよく回らないでいた。

 

「あの、私、新人なんですけど」

「けーいご」

「し、新人なんだけど」

「知ってっぞー?」

「……ここでは新人が、秘書艦補佐をするもの、なの?」

 

 そうなのである。まず訓練所から大湊に配属されたのが私一人。そうして卒業の際にああ、あなた秘書艦補佐に任命されてるわね、なんてさらりと言われ、よく理解できず教官に三度聞き返した。おっちょこちょいで成績もぱっとしない私がなんの間違いでそんなことに、というもはや理解の範疇を越えすぎて、混乱のままここ、大湊警備府に着任したのである。

 

「あのな、五月雨」

「うん」

「そもそも大湊には滅多に新人はこない」

「……うん」

「だから五月雨が初めてだぜ、よっ、日本一!」

 

 カラカラと笑いながらそんなことを言われてしまった。というかなんだろう日本一って。涼風の喋り方、どこかべらんめえ調だし、もしかしたら勢いだけで喋っているのかもしれない。

 

「まぁものは試しでやってみておくれよ、あたいも助けるからさ」

「うぅ」

「本当に嫌だったら異動願いだって気軽に出してくんな、ここ、結構そういうトラブル多いから割と融通利くし」

 

 なんだか不穏な情報を今手に入れてしまったような。不安は尽きない、尽きないけれど。

 ちょっと困ったようにこちらを見上げる涼風から悪い印象は受けない。道中、怖い雰囲気の人と何人かすれ違ったけれど、第一印象で全てを決めてしまうのは早計な気もするし。

 なにより私は生まれも育ちも大湊だ。冬は厚い雪に閉ざされてしまうこの土地だけれど、その冬の厳しさにいっつも自分がちっぽけな存在なのだと思い知らされてしまうけれども。それでもこの初夏から夏にかけて、自然豊かな緑に覆われた山であるとか、突き抜けるような青い空に舞う誰かの艦載機であるとか。そういうものを見上げていると、ああ、やっぱりここが好きだなぁ、離れてしまうのは寂しいなぁと思っていたのも事実だったから。

 だからまずは、一生懸命やってみようと思った。

 

「よーし、そんじゃ秘書艦補佐初仕事でぃ」

 

 涼風のその言葉に背筋をぴんと伸ばす。

 やっぱりお仕事といったら涼風が座ってる机に山のように積み上がっている書類の処理だろうか、考えただけで目を回しそうではあるけれど、頑張ろう、と気合をいれて彼女の言葉を待っていたら。

 

「工廠に丸一日引きこもってるバカに飯食わせてきて」

 

 なんて、まるで予想もしていなかったことをばん、と判子を押しながら言われたものだから。その言葉を脳内で反芻して、やっぱり秘書艦補佐の業務と結びつかなくて思わず首を傾げてしまうのだった。

 

 

『ヘッドホンとればいいから』

 

 その意味もよくわからないまま、言われた通りに工廠に向かう。大湊で訓練を受けた身としてはある程度慣れ親しんだものだけれど、いつ来ても大きいなぁと思ってしまう。大湊の工廠は旧海軍で使用していたものを改良したものらしく、そのおかげか規模も中々に大きいらしいというのはここで初めて艤装を身に着けた際に小耳にはさんだ。

 しかしこうも広いと見つけるのも大変そうだ。とりあえず入口から中を伺っていると近くを歩いていた艤装技師に声を駆けられた。

 

「なにか用かい」

「あ、あの、夕張さん、って人を探しているんですけど」

「ああ」

 

 もうそんな時間かぁ、なんてぼやきながらよどみなくすっと指先で方向を示される。

 

「いつものとこだよ」

「いつもの?」

「うん? あれ、お嬢ちゃん新入りさんかい」

「はい、五月雨っていいます」

「ああ、ごめんね。俺、艤装を見れば誰かわかるんだけど、顔を覚えるのは苦手だから気づかなかった」

 

 とりあえずこの突き当りまでいったらまた誰かに聞きな、ちょっと入り組んでるからと送り出される。

 カーンカーン、と金属を何かで叩く音、艤装技師達の声だし確認などを聞きながら、邪魔にならないよう注意して中を進む。言われた通り突き当りでまた人を捕まえ、そうしてようやっと目的の人物がいる場所へとたどり着いた。

 工廠の奥まったところ。ぱっと見死角になっていてわかりづらいところに一人、つなぎを着こんだ女性が座り込んで何かをがちゃがちゃといじっていた。

 

「あ、あのー……」

 

 後ろから恐る恐る声をかける。が、全くと言って反応がない。

 よくよく見てみるとなにかリズムをとるかのように頭が揺れている。そうして彼女の頭には大きなヘッドホンが装着されていた。

 

『ヘッドホンとればいいから』

 

 ふと涼風の言葉を思い出す。

 え、ええ……? 初対面の人にそれをするのって結構ハードル高くないかなぁ。

 

「す、すみませーん!」

 

 さすがにそれを行動に移すのが躊躇われたので、もう一度、今度は声を張り上げて呼びかける。だがしかし結果は同じだった。うう、そんな大音量で音楽を聞いてたら耳が悪くなっちゃいますよ。

 しょうがないので覚悟を決め、そろりそろりと彼女の背中に近づく。すぐ後ろに立っても彼女はまるで気づく素振りすら見せなかった。すごい集中力だなぁ、と半ば感心しながらそっと彼女のヘッドホンに手をかけ、そろーりとそれを取り外した。

 

「……あーちょっと待って涼風、今いいところなのよ、いやいやご飯食べなきゃいけないのもわかるんだけどもう一時間二時間くらいのばしたって別に死にはしないわけじゃない?」

 

 なるほど、効果はてきめんだ。ヘッドホンを取り外されてすぐに、彼女はこちらを見向きもせずにすらすらすらーと言葉を並べ始めた。ただし私のことを涼風だと勘違いしているようだけれども。

 

「あ、あの」

「わかったわかったじゃあ三十分、三十分でいいから──」

「あの!」

 

 そうして誤解をとこうと大声を張り上げたことで、ようやくその人が顔を文字通り上げる。座り込んでいるその人が見上げると、ちょうど立ったままその人のヘッドホンを奪って見下ろしている私と視線がかち合うわけで。

 

「……どちら様?」

 

 そうしてようやく、彼女は私の存在に気づいたのであった。

 

「ほ、本日着任しました、白露型駆逐艦の、五月雨、です」

 

 ひとときの、間。ぱちくりとその人が目を瞬かせてこちらを見上げていると、ぐぅと盛大に私のではないお腹の虫が鳴った。

 

「……お腹、減ったのか」

 

 自分のお腹を見下ろしながらぽつりとそう呟いた夕張さんは、ひとつ大きなため息をつくとゆるゆると立ち上がった。彼女のヘッドホンを奪ったままであることに気づいて慌てて返すと、彼女はそれを受け取って首にかけながら何気なくこちらに話しかけてきた。

 

「どうせ涼風にご飯食べさせてこいって言われたんでしょ? コロッケ食べにいかない?」

「コロッケ?」

「結構美味しいのよ、あそこの定食屋の」

 

 お姉さんが奢ってあげる、なんて目元を緩めてそんなことを言いながら、そばにひっかけてあったコートを手に取ってさっさと歩き出してしまった。

 

「その姿のまま出かけるんですか!?」

「だってご飯食べたら戻るし」

 

 あー、眩しい、なんてぼやきながら先を歩く彼女の背中を追いかける。い、いいのかな、勝手に外に出ちゃって。でも涼風から請け負った依頼は夕張さんにご飯を食べさせることなわけだし、いやでも外出許可なしで出歩いたら怒られちゃうんじゃ、などとあれこれと考えつつ、結局なにも言うことができないまま件の定食屋とやらに到着してしまった。

 夕張さんは自分から誘った割に道中雑談を振るでもなく、そうして定食屋に着いた後も私がそわそわきょろきょろしていても特に気にすることなくぼんやりと窓の外の景色を見ながらお茶を啜っていた。

 マイペースな人なのかも、と思い始めた頃にようやっと目の前に置かれたコロッケは、予想よりも一回りも二回りも大きくて、思わず目をまんまるにしてわぁ、と感嘆の声をこぼしてしまった。

 そうしていただきます、とザクザクした衣に包まれたコロッケを頬張り、中のホクホクなじゃがいもの素朴な甘さに舌鼓を打ちつつ、予想外の熱さに目を白黒させていると、その様子を見ていた向かいの彼女が実に楽しそうに笑った。

 

「やけどしないようにね」

「……あ、あの」

「ん?」

「なんで、私を誘ってくれたんですか?」

 

 彼女曰くいいところを無理矢理中断されご飯を強要されたわけだし。本人としてはとっととご飯を食べてあの場所に戻りたいだろう。

 新人の私がお邪魔したことで気を使わせてしまっただろうか、と少し申し訳なく思っていると、ぱき、と割り箸をわりながら夕張さんがぽつりと呟いた。

 

「美味しそうに食べてくれそうだったからかな」

 

 その言葉にきょとんとしていると、夕張さんは割り箸でコロッケをさっくりと割りながら言葉を続けた。

 

「艦娘なんてやってると、結構人の感覚っていうのかしら。鈍ってくるじゃない。おまけに私、私生活も壊滅的だし。面倒くさいとレーションとかで普通に一週間くらい過ごしちゃうし」

「れーしょん」

「というか食べ忘れちゃうのよね。だからかな」

 

 そうして一口大になったコロッケをひとつ口に運ぶ。それをゆっくりと、目をつむって咀嚼しながら。

 

「うん、美味しいね」

 

 そうしてまた箸をのばす。こちらに視線で食べないの? と語りかけてくる彼女に慌ててまた一つ齧り、そうしてそうだった熱いんだった、とまたはふはふと口の中で冷ましていると、ようやく夕張さんが雑談らしい雑談を振ってきた。

 

「ここ、怖い人いっぱいいるでしょ」

「そ、そんなことは」

「いーのいーの、気を使わなくて。涼風来る前はここの秘書艦の離職率やばかったんだから」

 

 と、いうことは逆に言えば涼風はそれほどに有能だということだろう。同じ白露型だというのに私とは雲泥の差だ。思わずはぁ~と感嘆の息を漏らす。

 

「べらんめぇちくしょうめぇ! 艦娘が怖くて深海棲艦と戦ってられるかってんでぇ! ってよく言ってるなぁ」

「ふ、な、なにそれ」

「みーんなわがままだからね、ここ。私も含めて、ね」

 

 航空戦のエキスパートの佐世保、最前線を支える呉、護衛の横須賀に資源航路開拓を担当する舞鶴、そして北の防人と呼ばれる北方海域の防衛に勤める大湊。

 候補生時代はどこに配属になるのかわからなくて、皆で色々な噂を集めていたものだ。だから私が大湊に配属になるなんて夢にも思っていなかった、だって。

 

「……その、ちょっと怖いなって思ってしまう人もいますけど」

 

『大湊はまず新人は配属されないらしいよ』

『なんで?』

『少数精鋭だからほとんどが各鎮守府、泊地で経験を積んでいる凄腕が配属されるんだって』

『……あたし、聞いたんだけど』

 

「夕張さんは、怖くないです、よ?」

 

『大湊って、腕は一流だけど他のところで扱いに困った艦娘が最終的に行き着く場所なんだって』

 

「そう」

 

 私の言葉に短くそう答えると、夕張さんはまたコロッケに箸をのばしながら質問を続けた。

 

「ちなみに誰が怖い?」

「えーと」

「私以外誰も聞いてないよ」

 

 なんだか悪口を言っているみたいで少し気がひけるのだけれども、そうやって語りかける彼女の表情が存外に柔らかいものだったから、

 

「……く、球磨、さん」

 

 とついついうっかりとこぼしてしまった。

 

「あー、球磨はしょうがない、慣れるまではね」

「そ、そうなんですか?」

「うちで一、ニを争う戦闘狂だからねぇ。まぁでもあれで球磨も頑張ってるんだけどね」

「頑張ってる?」

「うん。前所属してた泊地で駆逐艦泣かせてから、怖さ緩和のために語尾にクマってつけるようにしたって聞いた」

 

 あの語尾の裏に、そんな真実が。なんだろう、ちょっと可愛いって思っちゃった。

 

「まぁでも問題行動も多いし、結局効果なくてここに飛ばされてるんだけどね~」

「……夕張さん、は」

 

 これは、聞いていいのだろうか。そう迷いつつも、一つの疑問を口にした。

 

「なんで、ここに?」

 

 その言葉に彼女がぴたりと箸を止めた。

 私みたいなケースもあるんだろうけれども。こうやって箸を止めたからには、何か彼女も問題があるのだろうか。

 艤装いじりに没頭して寝食を忘れてしまうのは問題ではあるけれども、それでもこうやって話している分にはしごく普通の優しいお姉さんとしか思えないのに。

 

「……そのうちわかるよ」

 

 そうして私の疑問は、にっこりと笑ってそんな言葉を返してきた夕張さんによって、静かに返答を拒絶されたのであった。

 

 

 そうして定食屋を後にして、夕張さんは寄り道もせずにまっすぐと工廠へと戻っていった。道中、やはり会話らしい会話はなかった。だけれども、行きのときよりも気まずさはいくらか和らいだように感じた。

 夕張さんはいつもの場所へと腰を下ろすとまたかっぽりとヘッドホンを装着し、そうして図面を見つめながらぶつぶつとなにやらひとり言を呟きながら瞬く間に自分の世界へと入り込んでしまった。その切り替えの早さにぽかんとしつつ、しばらく横でその様子を眺めていたのだけれど、邪魔しても悪いなぁ、とそろりそろりとその場を後にして庁舎の執務室へと戻った。

 

「どうだったー?」

 

 書類から顔をあげることなく声をかけてきた涼風に答える。

 

「一緒にご飯食べてきた、けど」

「んん、何だって?」

 

 私の言葉に怪訝そうに涼風が顔を上げた。

 

「コロッケ、美味しかっ……あー! ごめんなさい! 外出許可なしで出かけちゃいました!」

「いやそんくらいいいよ、いつものことだし。それにコロッケってぇとあそこだろ、あそこは懇意にしてっからだいじょぶでぃ」

 

 あと敬語、とちょっと困りながら言われてしまった。同型艦とはいえ経験の差は雲泥の差であるし、曲がりなりにも涼風は秘書艦であると思うとそんな簡単には割り切れない。

 

「夕張はまだかわいいもんさ、厄介な奴は無断で演習に繰り出すしなぁ」

「え、ええ……」

「それを見込んで資源管理に遊びを持たせないといけないからさぁ、結構頭使うんだ」

 

 そうしてため息とともに、最近陸軍から出向してきたあいつもまだよくわかんないしなぁ、と涼風がぼやいた。

 

「しかしあの夕張がねぇ」

「?」

「ああ、なんでもないって。どう、夕張は。うちでは比較的無害な方だから任せたんだけど」

 

 涼風のあんまりな言い方に思わず苦笑する。その言い方ではまるで有害な人がいるみたいでは……いや、深く考えるのはやめよう。

 

「優しい人だった、よ?」

「ふーん」

 

 机に頬杖をついてこちらを見つめていた涼風は、不意ににっと笑うと。

 

「じゃあ夕張のスケジュール管理は五月雨に任せっか!」

「えー!!」

「いや地味に面倒くさいんだよ、あの人普通に任務も忘れるから。いやぁ五月雨が面倒みてくれるんならバッチリだね!」

 

 いや~助かる助かる、とからからと笑っている涼風に思わずがっくりと肩を落とす。

 なんか、思っていたのと違うかも、秘書艦補佐の仕事って。

 大きくため息をついて、そうしてとあることに気づいて思わずきょろきょろと辺りを見回す。そういえば。

 

「どうかした?」

「あの。提督は?」

 

 そういえばまだ、この警備府の提督に会っていない。そう思って涼風に聞いてみると。

 

「ああ、じっちゃんならこの時間は釣りしてるよ」

 

 と、何気なく返された。

 

「……」

「うん? なんでぃ?」

 

 もしかしなくてもここの実質的なトップって涼風なんじゃあ。なんとなく心の中で同情していると、涼風は無邪気な顔でもってきょとんと私を見返してきた。

 

「涼風、私、お茶いれてくるね」

「お、いいの? じゃああつーいお茶、頼むよ!」

 

 秘書艦補佐としては、ここは秘書艦を労わるということから始めていこう。そう決意を新たに給湯室へと足を運ぶのだった。

 

「お待たせ涼風、お茶、だ、だ、う、うわぁ!!!」

「あっづぁああ!!!!」

 

 そうして盛大につまづいて熱いお茶を涼風にひっかけてしまったのだけれども。

 

 

 大湊軍港の一角。埠頭に腰掛け、静かに釣りをしている老齢の男がいた。年の頃は六十代くらいであろうか。真っ白な白髪を短く切りそろえ、そうしてその体躯は年齢に見合わず鋼のように鍛えられていることが伺われた。

 ゆらゆらとゆれる浮きをじっと眺める彼の隣に置いてあるクーラーボックスの中はゼロ。いわゆるボウズというやつだ。だがそんなことはどうでもいいのか、彼はただただ、無為に流れる時間を楽しむようにその場に佇んでいた。

 

「ご相伴、あずかってもよろしいでしょうか」

 

 そうしてその男に声をかける少女がいた。

 彼女の出で立ちは、この大湊警備府においてひどく浮いていた。灰色の陸軍制服を思わせる上着に軍帽。そうして丸めたコートを袈裟がけした恰好はなんとも海に合わない。そうしてその制服から覗く肌は、北陸美人も真っ青な白さである。

 軍帽をくい、と上げながらその少女が声をかけると、その老齢の男は静かに顎で隣を示した。

 

「ここの娘達はせっかちでありますからなぁ、釣りの楽しみをわかってくれないであります。提督殿が釣り好きでよかったであります」

「そうか」

「たまに雲龍殿が気づいたら隣にいるのですが、話しかけようとしたらふらりと消えていてろくに会話もできないでありますし」

「あれは、誰に対してもそうだ」

 

 ぺらぺらと少女が喋り続け、そうして男が相槌をうつ。しばらくそのやり取りが続き、その間に準備が整った少女はひゅ、と餌を海に向かって投げ入れた。

 

「ところでこんなところで油を売っていていいのでありますかな、本日は新しい艦娘が着任する日だったと思うのですが」

「涼風がうまくやる」

「ははぁ、全幅の信頼を寄せているんでありますなぁ。しかし、なんでまた今回新人をわざわざ?」

「知ってどうする」

「なに、ただの興味であります」

 

 一見なごやかに交わされているように見える会話。だがしかし当人達はとっくに気づいていた、二人の間に微かに流れる緊張を。それを感づかせないように少女はいたく陽気に話しかけ、男はいつもよりもほんの少し言葉少なに言葉を交わす。

 二人の間に流れるわずかながらの不穏な空気。それには原因があった。

 

「……提督殿ぉー」

 

 しばらくお互い黙って海を見つめる。そうしてその沈黙を打ち破ったのはやはり少女の方であった。

 

「陸とか海とか。一体なんなのでありましょうな」

 

 若干間延びのした、下手をすると投げやりともとれる彼女の言葉に。しばし男は考え込むと、なにやら懐からごそごそと紙の束を取り出した。

 

「……この前の揚陸作戦について、島民から貴様宛の感謝の手紙をあずかっている」

 

 この二人の間に流れる微かなる不和。それは立場の違いによる警戒心により起こるものであった。

 かたや、海軍所属、大湊警備府のトップを張る男。

 かたや、陸軍所属、日本初陸軍所属艦娘である揚陸艦の艦娘。

 いつの時代、どの国も陸軍と海軍の仲が悪いのはもはや様式美である。だからこそ、海軍所属の艦娘達もこのあきつ丸を少々胡散臭く遠巻きに見るし、この男も完全に信頼して何もかもを打ち明けるということはしない。それは、ある意味仕方がないことであった。

 それでもその空気はこの娘にとって居心地のいいものではないだろう。だからこそ、こうして彼女も愚痴をこぼしてしまったというのだから。

 陸軍の艦娘は、海軍のものとは少し性質が異なる。揚陸艦を中心に保有する陸軍は独自の艦娘システムを開発し、そうしてようやっと完成したのがこのあきつ丸だ。

 艦魄によって艤装を制御するのは同じなのだが、彼らは旧海軍時代に保有していたあきつ丸そのものを再現し、そうしてその船にそれを取り付け、適性を示す彼女をその船に乗り込ませることによってそれを操る。揚陸艦の強さはその容量の大きさ、そして湾港設備に頼ることなく上陸できる能力にある。それによって大量の物資、人員を収容し、深海棲艦への応戦能力も維持しながら移動することを可能としている。

 前回、このあきつ丸は大湊警備府所属艦として深海棲艦の発生により孤立してしまった島民の避難を請け負った。病院設備も内部に併設しているあきつ丸の乗員は、怪我を負っている人々を近隣の島の病院施設に輸送する際、到着まで必死に手当をし、それによって救われた命も多数あったとのことだ。

 

「俺達は、海を守る。貴様らは、陸の人々を守る」

「……」

「得意なものが違うだけで、見ているもの、望んでいるものは同じなのだと」

 

 そうそこで言葉を切って男がちらりと隣を見る。彼女が手にしている手紙には、たどたどしい字で、おとうさんをたすけてくれてありがとうございます、と書かれていた。

 

「……そう、願いたいものだな」

 

 かさり、とあきつ丸が次の手紙へと視線を落とす。しばらく、黙々と手紙を読んでいた彼女は。

 

「……まったくでありますなぁ」

 

 と、ぽつりと呟いて、それらを懐へとしまった。

 

「ああ、それとあきつ丸」

「なんでありますか提督殿」

「それだ」

「はい?」

 

 くい、と竿を軽く引きながら男が言葉を続ける。

 

「階級に殿をつけるのは、海軍では侮蔑にあたる。俺以外には気をつけろ」

「提督ど……、の、は。いいのでありますか」

「構わん」

 

 すいと手繰り寄せると、綺麗に餌だけがなくなっていた。それに新たな餌をつけながら、淡々と男が答える。

 

「形式などくだらん。貴様は貴様らしくあればよかろう」

 

 ちゃぷん、と音を立てて浮きが海へと放たれる。内湾の穏やかな寄せては返す波に揺れるそれを見つめながら、少し目を細めて心底うんざりとした声音で男は言った。

 

「だがうるさいやつもいるからな、特に陸軍所属艦艇は少ないから恰好の餌食だ、気をつけろ」

「……なるほど」

 

 ご忠告、痛み入ります、と呟いた少女は、また自身の浮きをぼんやりと眺め始めた。

 一陣の風が吹く。その風にのって海鳥たちが空を舞い、流された雲から太陽が覗く。その眩しさに軍帽をかぶりなおしながら、ぽつりと。今度は本当に、ひとり言のように少女が呟いた。

 

「大湊の冬は、厳しいのでありましょうなぁ」

「まぁな」

「自分、何分雪国は初めてでありまして。今から戦々恐々であります」

「なに」

 

 く、と喉の奥で男が笑う。それに対して少女は珍しいものを見た、と思った。彼女が着任して以来、この男が笑うところなど見たことがなかったからだ。

 

「じきに慣れる。人間とは、そういうものだ」

 

 そうしてその言葉に。その、言葉に含まれる色々な意味を。果たして自分が理解できる日は来るのであろうか、と思いながら少女は黙り込んだのであった。

 

 

 昔から、物事に没頭すると色々なことが頭からすっ飛んでしまう性格だった。寝食を忘れ、力が入らなくてぶっ倒れる頃にそういえば前にご飯食べたのいつだったけ、と気づくくらいには、多分私はダメ人間なのだと思う。

 それは艦娘になった後も変わらなかった。兵装実験軽巡洋艦などという少々特殊な艦娘になってしまったのもいけなかったと思う、だって自分で艤装をいじって、自分で試せるのだから。こんなに私にうってつけの艦種もないだろう。

 だからあの日も、いつものように引きこもって艤装を弄っていたのだ。あの日は、とても調子が良かった。頭が冴えきっていて、いつまでもいつまでも艤装を弄っていられるような感覚。

 ここがうまくいかない。なにがいけないんだろ、ここの配線かな、ああそうだ、ここをこうしたらどうだろう──。

 

「夕張!!!」

 

 そんなことを考え込んでいたら不意にぐいっと力強く肩をひかれた。ちょっと、今、いいところだから。邪魔しないでよ、もう。

 調子がよかった私にとって、その茶々はひどく鬱陶しかった。だからそれが自分の上司である提督であるということにすら気づかず、文句を言おうとしたのだ。

 

「なんですか、今いいところ──」

「今すぐ過同調検査受けてこい!!」

「……は」

 

 そうして大声で怒鳴りつける人がうちの提督であることに気づいたとき。彼の周りで多くの人が遠巻きに、信じられないものを見るかのような目を向けていることにも気づいた。

 

「三日三晩、飲まず食わずでピンピンしている人間がいるか!!!」

 

 ああ、もうそんなになるのか。確かに、いつもならばったり倒れているところだ。とても、とても調子がよかったのは。

 

『──このデータが、あれば』

 

 ──こいつの、せいだったのか。

 そうして私は無理矢理療養施設へとぶち込まれたのである。

 

「これ、食べてみてください」

 

 目隠しをされたまま、何かを口に突っ込まれる。じゃりじゃりと、ひどく不快な触感だった。

 

「どんな味がしますか」

「……なにも」

「ふむ」

 

 そうして医師は、私から目隠しを取り去り。

 

「立派な中等度過同調です。それ、砂糖の塊ですよ」

 

 と淡々と告げたのだった。

 

「……砂でも食べてるのかと思っちゃった」

 

 なんだかそれが妙におかしくて、笑ってしまった。なるほど、味覚がなくなっているのならば今後はなおさら食事はレーションでいいな、なんて考えながら。

 

「……機械いじりだけで過同調をこじらせるやつがいるとはな」

 

 そうして乙適性にしては驚異的な回復スピードでもって復帰した私に突きつけられたのは、転籍命令だった。

 大湊。寒いと、艤装のメンテ、大変そうだなぁなんてぼんやりと思いながら。そうして私は、雪の降りしきる頃にこの地へとやってきたのだ。

 

「あたいはここの秘書艦の涼風ってんだ」

 

 私が着任した頃、ちょうど涼風も大湊の秘書艦に任命されていた。彼女はその気さくさでもって、話は聞いてるよ、ま、飯でもくいながら話そうと私を外へ連れ出した。

 四月になるというのにまだまだそこら中に積雪の跡が見えた。ここの春は遅いんだな、と思いながら慣れぬ雪道におぼつかない足取りでもって挑み、そうして着いた先は少々寂れた定食屋だった。

 

「ここのコロッケ、うまいんだぜ」

「……大湊まできて、コロッケ?」

「騙されたと思ってさ」

 

 せっかくの港町なのだから、新鮮な魚介類とか。いや、まぁうんざりするほどに食べ親しんできているものだから逆にいいのかもしれないけれども。

 そうして出された予想よりも二回りは大きいコロッケに一瞬ひるむ。味覚を一時失った関係で、とりわけそれを象徴づけるざらざら、ざくざくとした触感が少し苦手になっていた。

 

「ほら、冷めないうちに食べなって」

 

 そうして豪快にコロッケを口に頬張る涼風に促され、箸でもって小さく切り取ったコロッケを恐る恐る口へと運んだ。

 

「……美味しい」

 

 きちんと、味がする。そんな当たり前のことを認識して、思わずぽつりとこぼした。きっとここのホッと気が緩むような、優しい素朴な味のコロッケがそうさせたのだろう。

 そんな私の言葉を受けて、涼風はにっと笑った。

 

「艦娘ってのは色々人として失っていくものもあるけどさ」

 

 あーんと大口で熱々のコロッケを頬張る涼風を見て、口、やけどしないんだろうかなどと考えながら彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「それでも人間であることを忘れちゃあいけねぇよ」

 

 そうしてものすごい勢いでご飯をかっこむ涼風をしり目に、私はまたもう一口、コロッケを口へと運んだのだ。

 それ以来。なんとなく、人間であることを忘れそうになる頃にこのコロッケを食べて、きちんと味を楽しむことができるのだと再確認するのが癖になっていた。

 

『あ、あつ、は、ふ!!』

『……お水、飲む?』

『ひゃい……』

 

 ただそれに。気まぐれでも、誰かを付き合わせる日が来るなんて。あの頃の私は知りもしなかったのだけれども。

 

 

 水探用のヘッドホンを首にかけ、リストバンドを軽くはじく。主に兵装実験に従事している私は、あまり戦闘に赴くことはない。実際砲雷撃戦はあまり得意ではないし、砲雷撃戦に関してはここの艦娘達は私が私がと我先に率先して赴くわけであるから、どーぞどーぞと譲っている。

 それでもこれは割と好きだった。水探から聞こえてくる息を潜めて海を徘徊するやつらの音。その一つ一つに耳を傾け、爆雷で始末をするだけの簡単なこの仕事は艤装弄りで詰まった時のいい気分転換になる。

 そういえば、対潜警戒任務に五月雨ちゃんとつくのは初めてかもしれない。ちらりと隣を見やれば案の定がっちがちに緊張している五月雨ちゃんがいた。

 それに苦笑しながら、どれ、少し緊張をほぐしてあげようか、と声をかける。

 

「ね、ね、五月雨ちゃん」

「な、ななな、なんですか、夕張さん」

 

 ぎし、とロボットでももうちょっと滑らかに動くんじゃないだろうかってくらいカッチカチの彼女に、いつもの常套句でもって笑わせてあげようと。そういう、ちょっとした気まぐれ。

 

「私、足遅いからさぁ」

 

 夕張の足の遅さは有名だ。ありとあらゆる兵装を詰め込んだ弊害で、こんな重い軽巡がいてたまるか、とか、その重さ、重巡にカテゴリー変えたら、とか。散々な言われようだ。

 だからそう、いつものように。置いていかないでねって。自慢の自虐ネタで笑わせてあげようとした、はず、だった。

 

『──この結果だけでも』

 

「……」

「夕張さん?」

 

 だというのに、いつもの言葉が出てこなかった。そうして代わりに出てきた言葉は。

 

「……いざとなったら、置いてってね」

 

 あれ、なんでだろう。

 ──いやいや、だってね。一生懸命引っ張っていこうとしてさ。そんでもって、自分じゃ力不足なんだって気づいてぼろぼろぼろぼろ泣いてさ。たまんないでしょ、最後に見たのがあんな顔なんて。だからね、私は。

 

「──なんでそんなこと言うんですか!!!」

 

 一瞬。工廠内が、しんと静まり返った。近くにいた艤装技師も、仲間の艦娘も思わずその大声をあげた人物に顔を向ける。だってその子は、今まで一度も声を荒げるなんてしたことはなくて、むしろこの子はきちんと怒ることができるんだろうかって言われていたくらいで、だから。

 ──もう二度と。あんな顔は、見たくないのよ。

 

 ──ゴッ!! 

 

 自分自身を思いっきりぶん殴った夕張の姿に周りが思わずぎょっとする。そうしてその様子を見ていた艤装技師のうちの一人が取り落としたレンチが高い金属音を立てて床をはねた。

 

「……ああ、()()()()()

「ゆ、ゆうばり、さ」

「いや、知らないし。私とあなたは違うわけだし。私は私で、だから、ええ、と」

 

 なんだっけ。私は何をしていたんだっけ。ああ、違うの。私はあなたにそんな顔をして欲しかったわけじゃなくて、そう、こいつ、こいつがね。あれ、こいつって、なんだ、っけ。

 

「──夕張ィ!!!」

 

 頭がぐちゃぐちゃして気持ちが悪い。は、と喘ぐように浅く息を吸い込むと、不意に何かが私にどん、とぶつかってきて床に叩きつけられた。ガシャン、と一際大きな音が辺りに響く。

 

「過同調発作だ! 救護班呼んで来い!!!」

 

 かどうちょうほっさ。なんだっけ、なんか懐かしい響きだ。ええと、そうね、そうだ、とりあえず。

 私を押し倒して怒鳴り散らしている涼風の肩越しに、彼女の姿を捉える。その顔には、驚愕と、動揺と、それから、それから。

 ねえ、あのさぁ。

 これで満足なわけ。私は、こんな顔だって、みたくなかったんだけれども。

 

 

 ──夢を見る。あの人の、夢を。

 物事に夢中になるとまるで周りのことに気が向かなくて、そういう夢中になれるものがあるのってかっこいいなぁってよくその真剣な横顔を眺めていた。

 

『新鋭艦に使う兵装は、私がきっちりチェックするからね!』

 

 そう言って体を張って皆のために頑張るあの人が好きだった。こちらに気がつくとほわり、と顔全体をゆるませて柔らかく笑いかけてくれる彼女が好きだった。

 

『お、置いてかないでよぉ!』

 

 あの人の口癖だった。あんなに一杯兵装を積んでいたら、それはそうなるだろう。そうしてその彼女の鈍足っぷりを皆で笑うのだ。笑えていたんだ、あの頃は。

 

「──五月雨ちゃん」

 

 だからほら。言ってくださいよ、いつもの言葉を。

 

「もう、いいから」

 

 ああ、なんで私はこんなに非力なのだろう。

 ああ、なんで私はこんなに、無力なのだろう。

 どうしてこの人はこんなに重いんだ、なんて八つ当たりをしながら、それでもその手を放したくなくて。穏やかに笑っている彼女の次の言葉を聞きたくなくて、いやいやと首を振った。

 

「この結果だけでも、もっていって、ね」

 

 私は。そんな言葉なんて、聞きたくなかったのに。

 

 

「乙適性なのに同調率が安定しないんだよなぁ、夕張は」

 

 とりあえず容態は安定した、と涼風から受けてほっと胸をなでおろしていると、がしがしと頭をかきながら涼風が夕張さんについて教えてくれた。

 

「他の乙適性より過同調からの回復も早いんだけどさ。なんかきっかけあると、すぐ高度手前まで悪化しちまうんだよ」

 

 過同調。私はまだ体験したことがない、艦娘とは切っても切れぬ言葉。私たちは艤装を通して艦艇の付喪神とつながる。だからなのかなんなのか、自己が混ざりやすい、とよく言われている。

 例えば同型艦同士は仲良くなりやすい。例えば艦艇同士縁のあるものは惹かれやすい。そういった、艦艇の付喪神同士の縁に振り回され、下手をすると自己を見失ってしまうのだと。だから同調率のチェックはどんなに忙しくても決してサボってはいけないのだと口酸っぱく言われてきた。

 

「だからここで専ら対潜警戒と兵装実験に従事してんの。まぁ実際対潜能力はずば抜けてるからさ、あたいらも助かってるんだけど」

「……」

「舞鶴の潜水艦にさ、すんごく怖がられてんだ、夕張。なんたって」

「夕張さんは」

 

 それは悪気のない一言だった。この暗い雰囲気を笑い飛ばそうとして涼風が振ってくれたたわいもない話。でも私は、彼女を形容するその言葉が気に入らなくて。

 

「夕張さんは、怖くなんてない」

 

 思わず彼女の言葉を遮ってしまったのだ。

 

「夕張さんは、いっつもそう。優し、過ぎるから、だから」

 

『──もういいから』

 

 ──だからああやって、私にあれを託して、私には生きろって。そうやって笑うのだ。

 そんなことをされてしまっては、死ねない。死んでもこれを届けなければならない。そうしなければ、私は私を許せない。彼女を救うことのできなかった、無力で、愚かな自分のことを。私は、許すことが、できない。

 だから私は、大声で泣きながら、それでも後ろを振り返らずに突き進んだのだ。そうしなけれ、ば。

 

「──五月雨」

 

 鋭く放たれた涼風の言葉にハッと顔をあげる。そこには今までに見たことのないような、えらく真剣な顔をした涼風がいた。

 

「お前、どっちだ」

「ど、っち……?」

 

 私は、過同調なんてまだなっていない。だって、新人だし。海にもろくに出ていないし。それに、私はこんなにも元気なのだから。

 だから涼風のその言葉がよく理解できなかった。

 

「それは、()()()()()()()()()()()?」

 

 私は新人だから。だからまだ知らなかったのだ。彼女らの、艦艇の付喪神の気持ちは、想いは。人知れず、ひっそりと。私の中へと、入り込んでくるということを。

 

 

 面会謝絶状態が解除になったと教えられ、私は夕張さんがいる療養施設へと赴いた。

 ひょい、と窓付きのドアから夕張さんのいる部屋を見ると、彼女はぼんやりと窓の外の海を眺めていた。

 その様子は、なぜか私を非常に不安にさせた。そのままふらり、とどこかに消えてしまいそうな、存在の希薄さというのだろうか。そんなことを感じてしまったから。そうしてそんなことを考えてしまった自分自身にも嫌気がさして、それを振り払うようにこんこんとドアをノックした。

 

「ごめんね、びっくりさせちゃったでしょ」

 

 私を部屋に招き入れた彼女は、普段と変わらぬ様子でそう私に謝ってきた。

 

「なんかね、適性は高いんだけど夕張との性格っていうの? そういうのが合わないっぽくて、たまにああいう拒絶反応みたいなの出ちゃうの」

 

 そうしてまた、ごめんね、と繰り返した。その謝罪は、きっとあのときの言葉に対してなのだろう。

 

『いざとなったら、置いてってね』

 

 それは緩やかな拒絶。それは、この人自身の言葉ではなくて。

 

「……夕張さんは」

 

 そこまで口にして、これじゃあわかりづらいと言い直す。

 

「夕張さん達は、優しいです」

 

 ──夢を見た。大切な人の手を放して、わんわん泣く夢を。まるで自分のことのように、つらく、悲しい夢を。

 

「私を傷つけたくないから夕張さんは私を遠ざけようとしたんですよね」

 

 起きた時に思わずぼろぼろと泣いてしまったけれど。あれは、私の夢ではない。それを、涼風の言葉でようやく理解した。

 ──知っている、あの人は優しいから。だから静かに拒絶することで、私を突き放すことで私を守ろうとしてくれていたのだと。それを、わかっていても私は。

 

「それで、その言葉に私が傷ついたから、夕張さん(あなた)は怒ったんですよね」

 

『わぁ!?』

『……とっ!!』

 

 私が転びそうになるといつもそうやって受け止めてくれてくれるような人だから。五月雨ちゃんはおっちょこちょいだなぁなんて笑いながら怪我をしていないかさりげなくチェックして手を放す。そんな優しいあなただから、私があの言葉に傷ついた顔をしたのが、それをしたのが自分であったのが我慢ならなかったんでしょう。

 

「私は、いつもそういう夕張さんに助けられて、守られて」

 

 そうして私がこの人に返せたものなんて、どれほどあるのだろう。

 なんで私はこんなになんにもできないのだろう。

 優しいこの人に、この人達になにも返せないのだろう。

 ああ、きっと私と五月雨はとても似ているのだと思う。だからこそ私は途中まであれが五月雨の夢であると気づかなかったのだから。

 いつもいつも考える、どうやったらこの優しい人からもらった分だけのものを、私も返せるのだろう、と。

 そうして自分の胸の内に膨らむ気持ちをうまく形にできず、言葉に詰まらせていると。不意に、ぐぅと大きな腹の虫が鳴った。私のではない、腹の虫が。

 あれ、こんなこと前にもあったな、なんて思っていたら、目をぱちくりと瞬かせながら夕張さんが自身のお腹を見下ろし、静かにさすった。

 

「……ああ、ごめんね。病人食、量は少ないし味も薄いしで嫌になっちゃう」

 

『面倒くさくなるとずっとレーションで過ごしちゃう』

『お、美味しくないですよね?』

『私、栄養がとれれば味は特に気にならないのよねぇ』

 

 食に頓着しない彼女は、下手をするとレーションとサプリメントでもって平気で過ごす。それに危機感を覚えて、ご飯食べに行きましょう! と誘うようになって。艤装弄りを邪魔されてきっと迷惑だっただろうに、夕張さんは嫌な顔をひとつせずに私に付き合うようになってくれた。

 

「前はこんなこと考えなかったんだけどなぁ」

 

『──夕張、人と一緒にご飯なんて滅多に食べないぞ』

 

 どうやって手なずけたんだ? なんて首を捻る涼風に聞きたいのはこっちの方だった。私はなにもしていない。ただ、一緒にご飯を食べようと言えばこの人は付き合ってくれるから。そうしてこの人とご飯を食べながら過ごす時間が、私は好きなだけで。私は、何もしていないのだ。この人が、いつも私のわがままに付き合ってくれるだけで、この人が、優しいだけで。

 

「コロッケ食べたい。抜け出しちゃおっか」

「ええ!? だ、だめですよ!」

 

 思わずびっくりして反対すると、夕張さんは微かに目元を緩めて笑った。

 

 ──ああ、これだ。

 そう、これがあの夢が艦艇五月雨の夢であり、私のものではないと気づいたきっかけ。五月雨の夢に出てくる夕張さんは、笑うときは顔全体をゆるませて柔らかく、優しく笑う。あっちの夕張さんの方が、もう少し全体の空気も柔らかだ。

 でもこの人はそんな風には笑わない。こうやって、ほんの少しだけ目元を緩めて笑うから。だからこの人は、艦艇の夕張とは違う言葉を紡ぐのだとわかる。

 

「あのね、私、五月雨ちゃんと食べるご飯結構好きなの」

 

 だから今この人は私に言葉を向けているのだとわかる。艦艇の夕張としてではなく、ひとりの人として。だから、あのときも夕張の言葉に怒って自分で自分を殴ったのだ。

 それはとても不器用なことのように思えた。普通の人ならのまれてしまいそうな、艦艇の付喪神の強い想いを受けても、自分が納得いかなければ反発するのだ。例えそれで自分が倒れてしまうのだとしても。

 

「夕張さん」

 

 うん、大丈夫。

 きっと夕張さんと同じように、私の彼女に向ける気持ちも五月雨が夕張に向けるものとは違う。それを、はっきり理解した。だから、私は大丈夫だ。

 

「元気になったら、食べに行きましょうね」

 

 それは拒絶ではなくて、ある種の線引き。五月雨が夕張を慕っていたように、私もこの人が大事なことは一緒だから。向いている方向は一緒なのだから、だからきっと、私達はうまくやれるよ、五月雨。

 

「待ってますから」

 

 そうして笑いかけると。夕張さんは少し困ったような顔をしながら、五月雨ちゃんがそう言うんなら、大人しくするしかないわねぇ、なんて笑うのだった。

 

 

 人でごった返す忙しい時間帯の工廠の波にもまれながら、大声を張り上げる。

 

「す、すみませーん! 球磨さん達見かけませんでしたか」

 

 その声にこちらに気づいた艤装技師数人が、一瞬こちらを見て気まずそうに視線を逸らした。

 

「あーっとぉ」

「あ、またお酒で口止めされてますね!」

「いや、そんなことは、なぁ」

「今月は資源厳しいから控えてほしいのに!」

 

 無断演習出撃常連の球磨型姉妹を今日も捕まえることができず、思わず嘆く。

 

「ご、ごめんな」

「うう、もうそっちはいいです。雲龍さん見かけませんでしたか?」

「いやそっちはマジで見てない」

「もー! あの人いっつもどこにいるんですかぁ」

 

 この大湊に着任して暫く経つ。なんとなく涼風と私で役割分担も決まってきていて、実務処理は涼風、こうやって問題児達とお話をするのは私の役割となりつつあった。

 

『五月雨が話した方があいつら言うこと聞くからなぁ』

 

 そうかなぁ。そもそも、まず当人達を捕まえることすらできないのだけれど。

 そうしてため息とともにいつもの場所へと向かう。あの人も困ったところはあるけれど、捕まえやすさはピカイチだから助かる。

 いつものように座り込んで艤装を弄っている変わらぬ彼女の背中に安心感を覚えつつ、ひょいとヘッドホンを外した。

 

「……あれ、ご飯にしては早くない?」

「夕張さん」

「うん?」

「今日は対潜警戒任務の旗艦です」

 

 ジト目で彼女を見下ろしていると、彼女は頭をかきながらすっとぼけた声をあげた。

 

「明日じゃなかったっけ?」

「今日です。もー! 時間ないですよ、ほら」

 

 ぐいぐいと背中を押して工廠併設の艦娘専用更衣室に連れて行く。もうこんなやり取りも日常茶飯事であるから、彼女のロッカーには常に艦娘の戦闘服である神衣とつなぎがセットで置かれているのである。

 

「いやぁ、どうしてもね、こういうの覚えるの苦手で」

「知ってます」

 

 そうして道中しどろもどろと言い訳をするのも最早日常だ。最初の頃は綺麗なかっこいいお姉さんなのかと思っていたところもあるけれど、最近は割と頼りない面もぼろぼろと見えてきた。

 まぁでもいいのだ。それでも対潜任務に従事している彼女はそれはそれはかっこいいのだから。涼風が太鼓判を押すだけあって、対潜任務の旗艦が夕張さんだとどこか安心感がある。

 今日は近海を軽く哨戒するだけだから、夕方には帰ってこれるだろう。そんなことを思っていると、夕張さんが着替えながら声をかけてきた。

 

「今日ご飯なんだったっけ」

「今日はカレーです!」

「ああ。五月雨ちゃん、カレー好きよね」

「はい! 大湊のカレーが一番美味しいです」

 

 子供っぽいと思われてもこれだけは譲れない。各鎮守府のカレーは、年に一回グランプリも開かれることもあって色々と試行錯誤を重ねた上で味の改良を進める一級品なのだ。

 にこにこと晩御飯のことを考えていると、夕張さんが私の様子を楽しそうに見下ろした。

 

「夕張さん」

 

 着替えを済ませてぱたんとロッカーを閉じた夕張さんに声をかける。

 

「帰ってきたら、一緒にご飯食べましょうね」

 

 そうしてその言葉を受けて夕張さんは。

 

「うん」

 

 目元を緩めて小さく頷きながら更衣室を後にした。

 その背中を追いかける。私はまだまだ新人で、秘書艦補佐なんて肩書に全然見合ったお仕事もできていないけれども。でもこうやって、この人や、この大湊に所属する頼もしい人達を支えていけたら、と思えるくらいには。この場所に愛着を持ち始めていた。

 工廠に入ると、遠くで涼風が遅いぞー、二人共ぉ!! と大声で叫んだ。

 その様子に二人で顔を見合わせ。そうして、小さく笑いながらごめんごめん、と足早に待っている仲間たちのものとへと向かうのであった。

 

 

「やぁ、今日も五月雨殿は元気でありますなぁ」

 

 いつものように釣りをしていると、ちょうど抜錨していった艦隊を見送りながら隣のあきつ丸が声をあげた。

 

「正直自分はすぐに根をあげるものかと思っておりました」

「そうか、見る目がないな」

「これは手厳しい」

 

 波を蹴立てて抜錨していった彼女らによって、激しく浮きが揺さぶられる。それを何の気なしに見つめながら、ぽつりと呟いた。

 

「……寒桜だ」

「はい?」

 

 ほんの気まぐれであった。ここの警備府はほとんど面子が入れ替わらない。ひとり、またひとりとここが合わずに脱落していく者がいても、それを補う人員は中々はいってこなかった。

 

「冬に咲く、寒桜。吹雪に負けぬよう咲き誇る我が国の象徴の花」

 

『大湊って、腕は一流だけど他のところで扱いに困った艦娘が最終的に行き着く場所なんだって』

 

 候補生達がかしましくこの場所を通り過ぎたのは、たまたまだった。そうしてたまたま、そんな会話が聞こえていたのだ。

 

『そっかぁ、私、大湊がよかったんだけどなぁ』

『ええ、こんな話聞いてもそう思う?』

『うん』

 

 だって私、大湊が好きだから。そう笑って言ってのけた彼女に興味がひかれたのは、たまたま。

 

「逆境に咲く花は、美しい。そして」

 

 釣具を片付け、立ち上がる。そうして隣に座っていたあきつ丸を見下ろしながら呟いた。

 

「それを支えるのが、俺の役目だ」

 

 その言葉にぱちくりと目を瞬ませ。口をとがらせてあきつ丸が反論した。

 

「提督殿はここで釣りをしているだけではないですかー」

「なに、貴様が釣れただろう」

 

 長い長い冬を耐え忍び。そうして他の花よりも早く、春を告げる寒桜。

 吹雪にた折られ、朽ちてしまうこともあるだろう。消えない傷が、残ってしまうことも。それでも。

 

「咲いてみせろ、貴様もな」

「……どう受け取ればいいのやら。判断に困りますな」

 

 それでもあがいて、もがいて掴み取ったそれを美しいと思うから。だから俺は、ここにいる。

 遠くでうちの問題児達がこちらに戻ってくるのが見えた。こちらの存在に気付いてやばい、という顔をするもの。そうして、気まずそうにふいと視線を外すもの。

 好き勝手咲き散らしているお転婆どもに、軽く嘆息をしながら。さて、小言はなににしようか、などとこの状況を楽しんでいる自分もいるのだから、やはり人間は慣れる生き物であるな、と改めて思うのであった。

 

 



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すべてを抱え、落ちてゆくのだ地獄へと(大湊警備府:球磨、北上、阿武隈)

 

 耳が馬鹿になりそうなほどの轟音は、もう聞こえない。さっきまでの騒音が嘘のように、今はなにもかもが凪いでいた。

 海風にのって、硝煙と、何かが焦げたかのような臭いが鼻についた。

 

「ねーちゃん」

 

 魚雷発射管は途中でぶっ壊れた。その時飛び散った破片でざっくりと切れた腹は、海をじんわりと赤く染めながらもふさがりつつあった。艦魄艤装回路様々ってやつだ。どうやら私はまだ死ねないらしい。

 航行安定装置(スタビライザー)のおかげでどうにかこうにか海面に大の字で浮いていられた私は、隣でへたり込んでいるねーちゃんに声をかけた。ずっと大声で叫びながら戦っていた弊害か、私の声は思ったよりもひしゃげていた。

 

「天国とか地獄とか、あると思う?」

「さぁ」

 

 私の質問に、ねーちゃんは投げやりに相槌をうつ。海面を睨みつけるようにうつむいていたねーちゃんは。

 

「でも地獄はないと困る」

 

 口の中の血を吐き捨て、そうして。

 

「球磨はそこに行かなきゃ、ならん……クマ」

 

 唸るように。そう、続けた。

 

 

 執務室に緊張が走る。手に汗を握りながら見守る涼風。そして顔にはあまり出ていないものの、内心少しひやりとしている提督と、ぷるぷると震える両手でお盆に載せたお茶を慎重に運ぶ私こと、五月雨。

 着任初日に熱々のお茶を涼風にひっかけてしまったあの日からこうやってお茶を淹れるのは私の役目になりつつあったのだけれど、三回に一回くらい転んでお盆をひっくり返してしまうので、いつの頃からか涼風は私がお茶を淹れるときに机の上の書類を片付けるようになった。

 ごくり、と涼風がつばを飲む。それはそうだろう、なんたって私のドジの被害者は大抵涼風なのだから。それでもてやんでぃ! 新人の失敗くらい受け止めてやれないでなーにが秘書艦でぃ! とこうやって任せてくれるのだから、涼風ってすごくいい人なのだと思う。

 

「……や、やりましたー!!」

 

 そっと机にお盆を置くと同時にわっと涼風が拍手をしながら歓声を上げる。提督も無表情ながらもうんうん、と頷いてくれ、ようやく休憩と相成った。

 そうして和やかに三人でお茶をしていたら、なにやら廊下がドタドタと騒がしい。なんだろうと振り返ると同時にその人はバンッ! と乱暴に執務室の扉を開けながら飛び込んできた。

 

「夕張が試射で暴発させましたぁああ!!!」

 

 今日の兵装実験の計測担当の艤装技師の言葉に、思わずむせてしまった。

 

「けほっ、けほ、え!? ゆゆゆ夕張さん大丈夫なんですか!?」

「どーせ炸薬の量攻めすぎちゃった、とか言ってベッドで頭かいてんだろ」

「え?」

「いつも通りだな」

「え??」

 

 その報告に全く動じずお茶を啜る二人と艤装技師を交互に見比べる。その反応を見ていた彼は、うんうんと頷いた。

 

「やっぱ五月雨ちゃんの反応は新鮮でいッスねぇ」

「え? え?」

「損害報告」

「夕張中破、今回は施設への被害はなしです」

「え、えーと」

 

 淡々と報告を受け取る提督と、さっきまでの慌てようが嘘のようにけろりと報告を続ける艤装技師。その様が理解できなくて混乱していると、ずずっとお茶を啜って涼風が一言。

 

「まぁ、こんな感じで。割とよくある」

「割とよくある……」

「ん、だけど。たまに流れ弾で湾港設備ぶっ飛ばしたりするからさぁ。ちぃとお灸すえてきてくれよ、五月雨」

 

 どーせ救護室でバカ騒ぎしてるから、と呆れるように言った涼風の顔を見。艤装技師の顔を見る。うんうん、と再度頷く彼。

 くるりと体を反転させて提督の方に振り返る。

 

「……」

 

 言葉はなかったものの、軽く嘆息している提督。

 どうやら今日の秘書艦補佐としての任務が決まったようです。

 

 

「いやでも今回は結構いい線いってたのよ!」

「ふーん」

「あれ完成したら軽巡でも戦艦並みの火力出せるかもしれないの! 次の試射はバッチリ決めてみせるから!」

 

 本当だ、すごい活き活きとした声が救護室から聞こえる。

 救護室の一角。艦娘の自己治癒能力を活性化させる結界内のベッドに寝転んで楽しそうに試射の様子を語る夕張さんと、なぁなぁに相槌をうつ隣の球磨さん。心なしか球磨さんの顔はうんざりとしているように思えた。

 

「でね──」

「夕張」

「なに」

「お見舞い来てるクマ」

 

 そうしていち早く私の存在に気づいた球磨さんが短く夕張さんに伝える。それでようやくこちらに気づいた夕張さんは、心なしか少し顔をひきつらせた。

 

「……さ、五月雨ちゃん」

 

 無言で夕張さんのベッドに近づく。体の大半を包帯でぐるぐる巻きにされている彼女の右腕から、ちらりとひどい火傷痕が見えた。

 

「あ、あの……五月雨ちゃん?」

「……治るんですか」

「え?」

「これ、きれいに治るんですか」

 

 その火傷痕に一瞬絶句して、絞り出すように声をだす。だというのにこの人はきょとんとした顔で、

 

「そりゃあまぁ艦娘だし」

 

 なんて言ってのけた。

 入渠施設、と呼ばれる救護室の一角の設備。艦娘の自己治癒能力を促進して時間をかけて綺麗サッパリと怪我を治してしまうこの設備と、高速修復材と呼ばれる薬剤の存在を身近に感じる艦娘の大半は怪我に疎くなるという。まぁ死んでなければ治るよね、くらいの感覚で軽症をほったらかして悪化させる娘もいるとか。

 私はまだまだ新人で、多分その感覚に染まっていないから。だからこそ、その夕張さんの態度がより呑気なもののように見えてしまって、思わずむーっと頬を膨らませてしまった。

 

「え、えーと」

「自分を大事にしない夕張さんなんて嫌いです」

「き、きらい……?」

 

 むくれてそっぽを向いていた私は気づかなかった。その言葉に割とショックを受けていた夕張さんに。そしてその様子を見て爆笑した球磨さんに。

 

「随分仲がいいクマ」

 

 ひーと腹を抱えて笑っている球磨さんはにやにやと夕張さんを見ながら言葉を続けた。

 

「軽巡冥利に尽きるクマ〜?」

「う、ぐ」

 

 その様子に思わず目を瞬かせる。こんな球磨さんを見るのは初めてだ、なんせ駆逐艦に対する球磨さんの態度というものは、こう、鬼教官っぽいから。

 やっぱり同じ艦種同士だと気心も知れるのかなぁ、なんて思いながら、なんとなく彼女に声をかけてしまった。

 

「……球磨さんは、なんでここに?」

 

 球磨さんは左足を吊っていた。おそらく足を骨折かなにかしたのだろう。球磨さん最近出撃あったっけ、と思っていると、真顔になった球磨さんがぼそりと呟いた。

 

「四十三戦、ゼロ勝」

「え?」

「軽巡二人で大破まで持ち込めないなら負けクマ」

「吹雪ちゃんもよく付き合うわよね〜」

「吹雪ちゃん?」

「あれ、五月雨ちゃんまだ会ってない?」

 

 聞いたことのない名前に首を傾げていると、夕張さんがその吹雪ちゃんについて教えてくれた。

 

「ここのなんだろ、非常勤みたいな。ほとんど作戦に参加しないんだけど、古参の駆逐艦娘がいるのよ」

「めっちゃ生意気クマ」

「えーそう? 礼儀正しいじゃない」

「形だけクマ」

 

 けっと悪態をつく球磨さん。……うん、やっぱりこういう感じの球磨さんはまだちょっと怖いかも。あはは、と若干顔をひきつらせながらも笑っていると夕張さんがトントン、と左薬指を右人差し指で叩きながら言葉を続けた。

 

「あの娘、ここで唯一のケッコンカッコカリ艦なのよね」

 

 ケッコンカッコカリ。最高練度を誇る艦娘が、さらなる高みを求めて手にするという指輪。その名前からプロポーズの一種として使われることもあるという艦娘の能力を底上げする貴重な資材。最高練度に達しないと使いこなすことができないというシステム上、提督の愛が試されるなんて言われているそれ。

 

「えっ、じゃあ提督とその人って」

「いやないない」

「どっからどー見ても精々じーちゃんと孫クマ」

 

 まさかまさかあの提督に、と予想外の恋愛話に思わず浮足立ちかけるも、即二人に否定される。

 ちょっと残念。艦娘だって女の子だもん、そういう話は大抵の子が好きなのである。

 

「まぁそんな感じで練度だけはピカイチだから」

「次は沈めるクマ」

「と、このように戦闘バカ達のいい餌食に……いや仲間沈めないでよ……」

 

 そうしてやんややんやと二人が会話を続けていると、廊下からダッダッダッと荒々しい足音が聞こえてきた。

 

「ずるいわよ球磨!!! なんで私も呼ばなかったの!?」

 

 ガラピッシャーン! と引き戸を勢いよく開け放ち、我が大湊警備府で一、ニを争う戦闘狂そのニである足柄さんが長い髪をたなびかせながら乱入してきた。

 

「知らんクマ。勝手に自分で喧嘩ふっかければいいクマ」

「だってあの子重巡とタイマンは……弱いものイジメになりますから……って受けてくれないのよ!!」

「まぁタイマンなら小回り聞く駆逐艦の方が有利よね。砲撃に当たらないっていう絶対の自信が前提だけど」

 

 ぎゃいぎゃいと球磨さんと足柄さんが言い合いを始め、この場が混沌としてきた。

 足柄はなぁ、戦場では頼もしいんだけどなぁ、いかんせん戦場に出られない期間が長いとストレスが爆発するのがなぁ……と以前涼風がぼやいていたっけ。無断出撃はしないけど演習、演習やりましょ、もしくは出撃でもいいわよ、ととにかく催促がしつこいらしい。

 

「あーそういえば頼まれてたやつも進めないと」

「頼まれてたやつ?」

「うん。まぁ直接戦力増強に繋がることじゃないんだけどね」

 

 二人のやり取りに飽きた夕張さんがのんびりとひとり言を呟く。思わず聞き返すと、今度は先程よりは幾分か落ち着いた調子で艤装開発の話をしてくれた。

 

「まーなくてもいいけどあると便利みたいなやつ? 潜水艦の艤装構造の応用でいけるかなぁ。あー、でも潜水艦の艤装技術、理解できるかしら……」

 

 うーん舞鶴の艤装開発部から一応資料取り寄せるか〜と唸っている夕張さんの横では、さらに球磨さんと足柄さんがヒートアップしていた。う、うるさい。

 

「ちょっと〜救護室では静かにしてくださいよ、担当医さん困っちゃうじゃない」

 

 すると今度は救護室入口からひょいっと阿武隈さんが顔をのぞかせた。気弱なタチなのか、たしなめる声にはイマイチ覇気がのっていない。

 

「そ、そうですよ足柄姉さん」

 

 そうしてもう一人。恐る恐る、といった感じで羽黒さんが続く。涼風曰く大湊の無害な方、そのニ、その三である。

 

「ぞろぞろぞろぞろなんだクマ」

「任務だよ」

 

 そうして阿武隈さんの後ろから片手で彼女の前髪をわしゃわしゃといじりながら北上さんが登場した。

 

「ちょ、前髪ぐしゃぐしゃにしないでくださいってば北上さん」

「あきつ丸の護衛。離島の観測施設に取り残された人達の避難支援。私と阿武隈と、ねーちゃんと適当な駆逐艦ニ隻で」

「私は!?」

「足柄姉さん掃討戦行ったばかりなんだから休んでてください……」

 

 あまり広くはない救護室が今や人でぎゅうぎゅうである。その人の多さに眉をひそめながら入口の扉のところから北上さんが球磨さんに声をかけた。

 

「ねーちゃんがオールラウンダー。私が雷撃メイン、阿武隈は対潜警戒メイン装備で、駆逐艦は適当」

「相変わらず駆逐艦の扱い雑……」

「だって旗艦は阿武隈だし」

「ふぇ!? 聞いてないんですけど!?」

「そーだっけ」

 

 報連相しっかりしてくださいってばぁ! と悲鳴を上げている阿武隈さんのツインテールをみょんみょんと両手でもて遊びながら北上さんがなぁなぁに返事する。

 仲いいなぁとその様子を見ていたら、その視線に気づいた北上さんが露骨に不機嫌になった。そうして私からふい、とあからさまに視線を逸らす。

 

「ちなみに甲標的もっていくんですか」

「まぁねー。私の主砲は……そう、まぁ、あれだからね」

「尖りすぎなんですよ、北上さんの性能」

「阿武隈うるさい」

「きゃー! ツインテール片結びしないでよぉ!!」

 

 甲標的による敵艦隊の観測。それによって四十門の魚雷での先制飽和雷撃の精度を高めた重雷装艦。これだけを聞けば一隻で艦隊を手玉にとる無敵の艦艇のように聞こえるが、その運用は実に難しく、まともに乗りこなせる者は限られるという。

 例えば、ここ、大湊の北上。例えば、呉の球磨型姉妹。特に呉の木曾は、暗闇の中でもまるでなにもかもが見えているのではないかという程に夜戦が滅法強いと噂されている。

 

「そんなわけで執務室で作戦会議するよ」

「まだ足が動かんクマ」

「だから車椅子もってきました」

 

 はいはいどいたどいたーとぞんざいに周囲の人達をどかしながら北上さん達が球磨さんのベッドへと近寄る。北上さんがぺいっと球磨さんを放り、それを阿武隈さんが車椅子でもって華麗に受け止めた。

 

「いっっっだっ!!!」

「あ、やべ、骨折してたんだっけ」

「痛みを感じるのは生きてる証拠ですよね〜」

「おめーらもっと怪我人を労るクマ!!!」

 

 ぎゃーぎゃーとかしましく三人が去っていった後、夕張さんにその新装備で私とやり合わない? と絡み始めた足柄さんを羽黒さんが引きずるように引っ張っていったことによって、ようやく救護室に救護室らしい静寂が戻ってきた。

 はー、と長いため息をついて、ぽつりと夕張さんが呟く。

 

「相変わらずねぇ」

「え?」

「感じ悪かったでしょ、北上。あいつ駆逐艦全般が嫌いなだけだからあんまり気にしないでね」

 

 ちょっと困ったように夕張さんが笑う。

 

「駆逐艦はうるさいから嫌いなんだって」

 

 そう、なんだ。確かに私と目があったとき機嫌悪そうだったなぁと思い返していると、ぐっと伸びをしながら夕張さんがのんびりと呟いた。

 

「いやーしかしやっと静かになったわね」

「ほんと」

「これでゆっくりでき……」

 

 そうして予期せぬ人物からの相槌にぴたりと動きを止める。

 

「……い、いつからいたの?」

「さっき」

「な、なんでここに?」

「寝に来た」

 

 ぜ、全然気配に気づかなかった。小さくあくびをしながら、大湊警備府一の神出鬼没、雲龍さんがごそごそと夕張さんの隣のベッドに潜り込む。

 

「そこ、球磨の……」

「……すー」

「寝るの早っ」

 

 じ、自由だ。

 ここに着任して少し経ったけれども。まだまだ私は、ここの自由気ままな人達に振り回されっぱなしなのであった。

 

 

「撤退するよ」

「嫌です!」

 

 ──ああ、またこれか。

 

「旗艦の命令だっての」

「聞けません!」

 

 頑として言うことを聞かない、クソ生意気な駆逐艦。

 

駆逐艦(わたしたち)は、救うべき命を最後まで見捨てないんです!!」

 

 ──ああ、うるさい。本当にうるさいんだ、あいつら。口は減らないし。私より紙装甲なのにすぐに盾になりたがるし。

 

「私は置いてってください。北上さんと球磨さんがいれば、ここは切り開けます」

 

 負傷してろくに動けすらしない、目の前のちっぽけな駆逐艦の命。

 遠くで待っている何百人もの命。どっちを助けるかって? まぁそりゃね、明白だ。

 

「大丈夫です。私、結構しぶといんですよ」

 

 ああ、駆逐艦って本当にうざい。

 そうやって笑うな。そうやって真っ直ぐこっちを見るな。

 もう、うんざりなんだよ、本当に。

 

 

 相変わらずでっかいなーとぼんやりとあきつ丸の船体を見上げる。あきつ丸の乗員達がなにやらせっせと船内にもの運びこんでいる様子を眺めていると、あと数時間後にはこの巨大な船を楽々と操るであろう、陸軍所属艦娘のあきつ丸がこちらに歩み寄ってきた。

 

「今日も吹雪殿は参加しないんでありますか」

「まぁね」

「あんなに実力があるのに、なんででありますか?」

 

 軍帽をかぶり直しながらじっとこちらを見つめるあきつ丸。こいつ、何考えているかわかんないからあんまり好きじゃないんだよな。

 

「……私が知るわけないじゃん。じっちゃんに聞きなよ」

「いやぁ提督殿に聞いても面倒くさそうな顔をされるだけでして」

「わかるわー、私も今絶賛面倒くさい」

「冷たいでありますなー、仲良く致しましょう」

「仲良くしたかったらまずその胡散臭さ、どーにかしなよ」

 

 別に陸出身だから毛嫌いをしているわけではない。とにかく、こいつの存在自体が胡散臭すぎるのだ。

 失敬でありますなー、と飄々としているあきつ丸に、少し離れたところで阿武隈と駆逐艦共と話をしていたねーちゃんが近寄ってきた。

 

「じゃあ親睦を深めるために質問してやるクマ」

 

 いやねーちゃん、そんな敵意むき出しでその言葉は信じられないって。

 私と阿武隈にぞんざいに扱われたことが多少ストレスだったのか、軽くイライラしながらねーちゃんが質問を投げかけた。

 

「なんで陸軍出身の癖に海にきたクマ」

 

 うーわ、ねーちゃん今日キレッキレだわ。仮にも護衛対象兼艦隊の一員であるのだから、出港前に揉め事はやめてほしいなぁとその様子を見守る。

 

「……ふむ。両親が陸出身でして。自分は元々海軍志望だったのですが、猛反対されたであります」

 

 ぐいっと軍帽を深くかぶり直しながら。あきつ丸は先程とは打って変わって静かに語り始めた。

 

「だから渡りに船、というのでありましょうか。これなら両親も文句は言えないでありますからなぁ」

 

 軍帽に隠れてその表情はよく見えなかったが、声からうんざりしたような色が滲んでいた。

 

「まぁ、あきつ丸自身の戦闘力なんて皆無なのでありますが。それでもこうやって海を渡って陸の人々に貢献できるのなら」

 

 そういってあきつ丸の大きな船体を見上げる。これから多くの乗員の命を預かり、島へと上陸せんとする彼女の半身のような存在を。

 

「陸とか海とか。どーでもいいであります」

「……乗員に聞こえるんじゃないの」

「おっと。これは失敬」

 

 そういって両手を広げておどけてみせる彼女は、いつもと変わらないように見えた。

 それをねーちゃんはむすっとした表情で黙って見つめていた。

 

「まぁ相互の確執も大きいでありますからなぁ、信用してくれとは言わないであります。ただ」

 

 あきつ丸の汽笛が、ひとつ。長く長く鳴った。それをやってのけているのは目の前で笑っているこの少女だ。

 

「望んでいる世界は同じものでありたいとは、思っているであります」

 

 いやはや。どーいう仕組みなんかね。

 陸軍と海軍がお互いに意地を張って互いの技術を公開しないもんだから。だからより、お互いが胡散臭く見えるんだよ、多分。

 ひとつため息をついて。

 

「難しいことはよくわかんないからさー、とりあえず簡単に沈まなきゃなんでもいいよ」

「なに。陸出身とはいえこのあきつ丸、それほどやわではないであります」

「戦闘力ないクセに粋がるんじゃねークマ」

「ここの人達は誰も彼も辛辣でありますなぁ」

「まーでも今回は安心しなよ」

 

 その言葉にきょとんとあきつ丸がこちらを見返す。それににやりと笑い返し、すっとあいつの背中を指差す。

 

「今回の旗艦は阿武隈だから、なんかあったら全部阿武隈のせいにすればいいよー」

「ちょっと!?」

「なるほど、頼もしい限りであります」

「あれ!? あきつ丸さんそっち側!?」

「はっはっは」

 

 話を振られた阿武隈がこちらへと慌てて歩み寄ってくる。その後ろをなんだなんだとついてきた駆逐艦二匹にちらり、と視線をやり。そうして目をつむってごろりと寝転び、早々にその話の輪からはずれることにした。

 

 

「そういえば球磨さん達ってやっぱり無断出撃繰り返したからここに来たの?」

「いや、それは一番の理由じゃないよ」

 

 そろそろ出港の時間だな、と執務室にかけてある時計を見上げながらなんとはなしに涼風に話しかける。涼風は山のような書類から数枚抜き取ってこちらに渡しながら淡々と言葉を続けた。

 

「提督を殴ったんだよ」

「……え?」

「元々いた泊地の提督が、なんていったらいいかねぇ。いわゆる、艦娘を可愛がってあまり出撃させないタイプの人でさ」

 

 艦娘を指揮する提督にも色々なタイプがいる。中には艦娘を大切にしすぎるあまり、愛玩動物のように扱う人もいるとは聞いたことがある。もちろん中にはそれでうまく回している人もいる。艦娘に対する態度は提督それぞれ、それがうまく噛み合うか噛み合わないかが重要で、そこに優劣はない。ただし、うまく噛み合わなければ、それは。

 

「そんなんだから艦娘の全体的な練度も低かったみたいだね。指揮能力も皆無。そんななか、ある日近くの島が深海棲艦の艦砲射撃で襲われてるってんで救援依頼が来たんだ」

 

 書類を処理していた涼風の手が、止まる。

 

「ひどいもんだったらしい。駆逐艦のほとんどは沈んだってさ」

 

 それは。それは一体、どんな地獄なのだろう。

 戦争をしているのだ、人の命なんて簡単に散る。それを知識では知っていても、私はまだわからない、その地獄を。その地獄を生き抜く人達の心を。

 

「阿武隈はその作戦で提督の指揮を無視して行動、球磨は作戦終了後に提督をぶん殴って、北上は罵倒したんだっけかな」

 

 軽巡洋艦は艦隊の駆逐艦達の命を預かる水雷戦隊のボスだ。私達駆逐艦は軽巡洋艦に絶対的な信頼をよせ、軽巡洋艦はそれに確固たる強さ、指揮でもって応える。そうやって私達はこの荒波を乗り越えてゆく。

 

「難儀なもんだよなぁ、軽巡も」

「……」

「一番近いところで、一番多く駆逐艦が沈んでいくところを見送る艦種だからなぁ」

 

 駆逐艦は、弱い。自慢の足と魚雷で戦艦を倒すこともできるけれども、その装甲は一番貧弱だ。だから一番死にやすい艦種も駆逐艦だ。

 それでも駆逐艦娘達は明るく、真っ直ぐに生きていく。例え明日尽きる命だとしても、今日を生きることを諦めない。そうしてそんな存在だから、皆も可愛がってくれるんだと涼風は笑った。

 

「こんなやんちゃなあたいらをまとめるってんだから軽巡ってのは大変だよ。あの一見なよっとしてる阿武隈だって、提督に逆らったときに強制命令執行権食らったらしいんだけど、最後までそれに抗って島周辺の深海棲艦を掃討したらしい」

「強制命令執行権……」

「普通はまともに動けなくなる。案外あの三人の中で一番やばいのは阿武隈かもなぁ」

 

 あ、五月雨ちゃーん、とすれ違えばにこにこと手を振ってくれる阿武隈さん。よく北上さんにいじられて悲鳴を上げている姿を見かけるし、その幼さの抜けきれぬ容姿といい、どちらかというと頼りないという印象の彼女のそんな姿は全くといっていいほど想像がつかなかった。

 

「軽巡洋艦ってのは難儀だ。どいつもこいつもいいカッコしぃでいけねぇよ」

 

 一際、大きな汽笛が鳴った。

 何事もなく、皆無事に帰ってきますように。

 私は、その音を聞きながら。そんなことを祈るくらいしかできない自分に少しの歯がゆさを覚えた。

 

 

「驚くほどスムーズにいきましたね」

「魚雷撃ち足んない」

「オーバーキルしといてよく言いますね……」

 

 阿武隈と二人並んで地面にしゃがみこみ、あきつ丸へと誘導される人達を見送りながら会話を交わす。

 作戦は至ってシンプルなものだった。幌筵泊地所属の支援艦隊が島の北方面へと敵深海棲艦の艦隊をひきつけ、その間に島の南西から回り込んで取り残された人達を収容し、離脱。支援艦隊の腕がよかったのか、こちらはまばらに遊弋しているやつらばっかりだったので護衛しながらの殲滅も楽だった。

 天候も味方している。少し霧が出てきているから、これなら霧に紛れてやつらから逃げるのはいつもよりも簡単になることだろう。

 

「あ、雨降ってきた」

「……阿武隈ぁ」

「なんですか北上さん」

 

 ぽつりぽつりと雨粒をこぼしはじめた雨雲を心底嫌そうに見上げながら前髪をいじっている阿武隈に、なんとなく声をかけ。

 

「天国とか地獄とか、あると思う?」

 

 そうして、いつしかねーちゃんにした質問と同じものを投げかけた。

 

「なんですか、それ」

「いいから答えなって」

「えー」

 

 あの地獄で。一番ボロボロだったのはこいつだ。

 

『痛みを感じるのは生きてる証拠ですよね〜』

 

 いけしゃあしゃあとよく言う。強制命令執行権を受けた際、躊躇いなく自分の左肩を砲で撃ち抜いて、死ぬほどの痛みでもってそれを上書きしようと咄嗟にするやつなんてこいつくらいなのではないだろうか。軽巡の砲とはいえ、下手したら身体欠損、あるいはショック死だ。いや、そんなことはどうでもよかったのか。

 阿武隈だけはあの場所でボロッボロに泣いてた、このまま脱水で死ぬんじゃないかってくらいに。一番状態のひどい阿武隈をねーちゃんが回収して引きずって、そんで私はその後ろを黙ってついていく。控えめに言って地獄だった、しばらくこいつの泣き声が脳裏にこびりついて寝られやしなかったし。

 

「知らないですけど。でももしあるとしたら」

 

 雨で乱れる前髪をいじりながら。私の質問に淡々と、温度のない声で阿武隈は続けた。

 

「私は地獄に落ちると思います」

 

『でも地獄はないと困る』

 

「あの娘達と同じところになんて行けない。深海よりももっと暗くて、寒い」

 

『球磨はそこに行かなきゃ、ならん……クマ』

 

「そういう地獄に」

 

 は、と乾いた笑いが漏れた。それを皮切りに、笑いが止まらなくなる。

 

「あっはは!!」

「笑うとこありました……?」

「いや笑うとこしかないじゃん」

 

 呆れるように阿武隈がこちらを見返す。その前髪は雨のせいでいつもより元気なくへにゃりとしていて、それでさらに爆笑した。

 

「軽巡洋艦って、めんどくさいよね」

「北上さんは今は雷巡でしょ」

「なんの話してるクマ」

「んー」

 

 くっくっ、と未だに殺しきれない笑いを抑えながら怪訝そうな顔でこちらに歩み寄ってきたねーちゃんを見上げる。

 ああ、軽巡洋艦って面倒くさい。

 

「私ら仲良く、地獄の底へ落ちるんだろうなって。そういう話」

 

 どいつもこいつも。こうやって、すべてを抱えて落ちていくんだ、地獄へと。

 

 



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風吹かば(大湊警備府:神風、羽黒)

ある重巡洋艦と駆逐艦のお話。
本編に歴史上事実に対するなにかしらの批判的意図はありません、念のため。


『──嫌いです、こんな名前』

 

 顔を歪め、そうこぼした彼女。小さな体に、重い重い名を背負って苦しむいたいけな少女。

 

『私、は』

 

 今にも泣きそうで、それでも泣くまいとして。それでも抱えきれぬ想いをこぼしてしまった彼女の、嫌いと言うその名前を呼ぶ。

 

『──ちゃん』

 

 私は知っている。自分の体格の不利を知って、自身の艦艇のスペック不足を知って。それでも負けまいと一生懸命な彼女を知っているから。だから、私は。

 

 ゆらり、ゆらり。青白く光る瞳が、ひとつ、ふたつ、みっつ。数えたところで現状が変わるわけでもない、十を越えたところでその無意味な行為はやめた。

 妖精さん達が必死にダメージコントロールをしてくれているけれど、消えることのない炎が自身をも焦がす。焼けるように熱い空気を吸って、喉も焼けただれた。今、ここにいるのが私一人でよかったと心から思う、連携なんてまともにとれそうもないから。

 操作が自動的にマニュアルモードへと切り替わる。ああ、もうそんなに損傷がひどくなっていたのか。ここからは、一つでも被弾すれば即深海へと堕ちてゆく死と隣り合わせの世界。

 

『──縁起が悪い』

 

 そうかもしれない。彼女の名前は、その意味は彼女が生まれたときから変質してしまったから。だからこそ、彼女には生きてほしかった。

 もう、十分逃げられたかな。この海に一人立ちふさがって、どれくらいになるんだろう。

 ぐらりと体が傾く。だけれどもまだ倒れるわけにはいかない、まだ私の艤装は動くのだから。それならば、私の取る行動は一つだけだ。まだ動く高角砲を手動入力で操作する。

 ──不意に。背中を力強く押すように、一陣の風が吹いた、ような気がした。実際は、どうだっただろう。大分意識が朦朧としていたから、もしかしたら気の所為だったのかもしれない。それでもよかった。その風は、私に勇気を与えるには十分だったから。

 ──ぽつり。がむしゃらに動き回るうちに、いつの間にかスコール領域に入っていたらしい。激しい雨が視界を遮り、熱をもった砲身を急激に冷ましていった。そうしてその視界不良により、敵の攻撃がばらつき始める。

 

「──ちゃん」

 

 そっとその名前を呼ぶ。こんな状況だというのに、いつもいつも、びくびくと姉さんの後ろに隠れてしまうような自分だというのに。思わず笑ってしまったのは、気がふれてしまったのか、あるいは。

 

「力を、貸してね」

 

 こんなところで死ぬわけにはいかない。いや、死ぬわけがないなんて。私にしては妙に強気でいられるほどに、彼女の存在は私にとって大きなものであったのかもしれない。

 

 

 足取り軽く食堂までの道のりを歩く。今日は待ちに待った金曜日、カレーの日だ。艦娘になってよかったことの一つは、毎週必ず一回は大好きなカレーを食べられることだろうか。

 

「金曜日の五月雨ちゃんはご機嫌ね」

「……子供っぽいですか?」

「んー」

 

 隣を歩いていた夕張さんがその様子を見て笑う。佐世保や呉などは規模が大きいのもあって食堂は艦種ごとに別れているけれども、ここ、大湊警備府はそれらに比べるとこぢんまりとしているので食堂は大食堂一つ、艦種もごちゃまぜだ。おかげでこうやって夕張さんと一緒にご飯を食べられるのだけれど。

 

「年相応でいいんじゃない?」

「……子供っぽいんですね」

「いや、いい意味でよ? 私はそういう五月雨ちゃんといるのが楽しいから」

 

 夕張さんがカラカラと引き戸を開けると、途端にふわりと食欲を刺激するカレーの香りが強くなる。お昼を少し過ぎてしまっていることもあって、食堂内の人はまばらだった。

 

「おばちゃん、カレー並盛り──」

「へいおまちっ!」

「げぇっ! 足柄!!」

 

 トレイを片手にひょいっとカウンターを覗いた夕張さんを迎えたのは、満面の笑みでカツ山盛りカレーを差し出してくる足柄さんだった。思わず夕張さんが顔を引きつらせる。

 あ、足柄さんって八重歯なんだな、なんて笑ったときに覗いたそれに気づく。戦場にいるときはそれこそ獰猛が人の皮を被ったかのような人だけれど、普段はどちらかというと愛嬌があって可愛らしい人、という印象が私の中でかたまりつつあった。

 

「こんな食べられないってば!」

「いいから食べなさい、揚げすぎちゃったの」

「出撃減ると料理で発散する癖、なんとかならない……?」

「美味しいからいいじゃない」

「美味しいけどもたれるんだって」

 

 そうしてもう一枚追加しようとしてくる足柄さんとそれを阻止しようとする夕張さんの攻防が始まる。

 足柄さんはたまにこうやって食堂に潜り込んでは料理をすることでストレスを発散するのだけれど、何故かそのラインナップは決まって揚げ物、特にカツである確率が高い。しかも大量に作るものだから、最近よく食堂に訪れるようになった夕張さんとのこのやり取りも見慣れてきた。

 

「ほら、五月雨もよ!」

「わ、わ、ありがとうございます!」

 

 そうして私にも一枚、とびきり大きなカツを乗っけてくれた。揚げたてなのか、ほんのり湯気がただよう。

 今日はいい日だな、大好きなカレーに足柄さんお手製のカツも食べられるなんて。作りすぎてしまうことがちょっぴり玉に瑕ではあるけれど、味は絶品なのだ。

 上機嫌で先にテーブルにつくと、遅れてげっそりした夕張さんとこれまたにこにこと上機嫌な足柄さんが向かいの席に座った。

 

「しっかり食べないとエネルギー維持できないわよねー」

「ナチュラルに相席してくるし……その細い身体のどこにそんな量の食事が入るんだか」

 

 カツの量にうんざりしながらも、夕張さんは残すことだけはしない。なんか、素材を無駄にするのって許せないのよね、もったいないじゃない? と以前こぼしていたけれど、おそらくあれはまだ使えるのに廃棄されかけた艤装をいつももったいないと引き受けていくことの延長のように思う。

 

「ていうか羽黒は?」

「駆逐隊と一緒に牽制部隊となって撤退中の船団の護衛補助」

「……それって」

「まぁ殿っていうか囮っていうか」

 

 囮、という言葉に思わず食事の手を止める。するとそれに気づいた足柄さんが安心させるように笑いかけてくれた。

 

「大丈夫よ、危険海域じゃないから。念には念を入れてって作戦なの」

「それに撤退戦なら羽黒が適任だもんね」

「そうなんですか?」

 

 ペースを落とすまいと黙々と食べていた夕張さんの言葉に、足柄さんがパッと顔を明るくする。

 

「そうよ、うちの羽黒は守る戦いが得意なんだから!」

 

 どうやら自慢の妹を認める発言が夕張さんの口から出たことが相当に嬉しかったらしい。いつ見ても仲のいい姉妹だなぁと思っていると、ちびりと水を飲んで夕張さんが言葉を続けた。

 

「羽黒は強いよ。強いんだけど、本人あんな感じだし、そもそも守る戦いって評価されにくいから」

「そう! そうなのよ!!」

 

 足柄さんが身を乗り出して力説する。

 曰く、前いた前線基地では敵深海棲艦による攻撃が激しく、前線を下げざるを得なかったらしい。その過程でどうしても撤退戦が増え、羽黒さんはよく殿を請け負っていたのだという。

 

「あの子、本当は戦うのなんて嫌いなのよ。それでも誰一人として死なせたくないからっていつも殿を引き受けて」

 

 そうして一度、沈みかけたことがあるのだという。たった一隻で、何隻もの敵深海棲艦を相手にとり。たまたま、スコールが羽黒さんに味方したから。たまたま、別作戦を終えた足柄さんの艦隊が近くにいて、救援が間に合ったから。

 砲弾をほとんど撃ち尽くし、大破状態でまともに艤装が動かない中、それでも手動で敵を殲滅せんとする姿には鬼気迫るものがあったという。そうして羽黒さんの奮闘のかいあり、護衛していた輸送船団および僚艦は無事だったのだと。

 

「だっていうのに、あのクソ提督、なんて言ったと思う? なぜ重巡が囮になる。どうせならそこの駆逐艦を──」

「っ、バカッ!!!」

 

 弁に熱がこもっていた足柄さんの口を、反射的に夕張さんが塞ぐ。それでようやっと我に返った足柄さんは、しまった、という顔をした。

 その先の言葉は、予想がついた。どうせなら、駆逐艦を囮にすればよかっただろう。

 

「大丈夫、です」

 

 気まずそうにしている二人に笑いかける。駆逐艦になったときに、ある程度は覚悟していたことだ。駆逐艦は一番脆い艦種。そうして、一番多くの艦娘がなる艦種。言ってしまえば、()()()()()

 

「……五月雨ちゃん」

「少なくとも夕張さんも足柄さんもそういう顔をしてくれるから。だから私は、大丈夫です」

 

 だから、効率を重視すればそういう発言がさも当然のように出てくるのだろうということも。わかっていても実際にその現実を聞いてしまうと少し心が重くなったが、それでもそういったものを知った上で私達駆逐艦をこうやって大切にしてくれる人達がそばにいるから。だから私もくよくよなんてしていられない。

 

「……強いわね、五月雨は」

「いえ、私なんて全然! この前なんか砲撃した瞬間に転んじゃって……」

「「それはまずい(わね)」」

「うっ」

「体幹鍛えなさい体幹、筋肉は裏切らないわ」

 

 そう言って、足柄さんはテーブルを挟んで私の腕をもにもにといじり始めた。

 

「足柄、セクハラー」

「うるさいわね。ていうか全然ダメね、これじゃ」

「ううっ」

「まぁ、新人なんだし。それを支えるのが私達の役目でしょ」

 

 足柄さんの容赦ない言葉にグサグサと心をやられていると、夕張さんが五月雨ちゃん、手を出して? と笑いかけてきた。

 疑問に思いながら差し出すと、夕張さんはツナギのポケットからひとつ、大きな飴玉を取り出してころんと私の手のひらに置いてくれた。

 

「足柄はもう少し飴もあげたほうがいいよ。はい、頑張ってる五月雨ちゃんにご褒美」

「……これ」

「なんかこの前駄菓子屋の前歩いてたらねー、懐かしくなっちゃって」

 

 そうしていつの間にかカツカレーを完食していた夕張さんは、自分も一つとってピリピリと袋を破いて口に放った。

 

「うーん、残念、はずれ」

 

 そうして飴玉をころころと口の中で遊ばせながら、破いた袋を見てのんびりと呟いた。

 

「……夕張って」

「ん?」

「案外、面倒見いいのね」

「足柄が猪突猛進すぎるだけじゃない? まぁ、戦場ではそれが頼もしいんだけどね」

 

 じっと夕張さんを見つめる足柄さんに、飴を催促されていると思ったのか夕張さんがもう一つ取り出して手渡す。それを受け取りながら、なんとも言えない顔で足柄さんは言葉を続けた。

 

「あなたって、人に興味がないのかと思ってた」

「まぁ、人より機械の方に興味があるのは否定しないけど」

 

 袋を破ってその大きな飴玉をしばし眺めていたら、不意に足柄さんと目があった。なんだろう、とキョトンと見返していると、ぽりぽりと頬をかいて足柄さんがぼそりと呟いた。

 

「なるほど、新しい風ね」

「?」

「私達がもっていない、いいところをいっぱい持ってるってことよ、五月雨は」

 

 誇りに思いなさい、なんて言いながら頭をわしゃわしゃと撫でられた。なにがなんだかわからなくてポカンとしていると、そういえば、と夕張さんが話題を切り替えた。

 

「羽黒、改二式受けたんじゃなかった? 今日はどっち?」

「今日は改ね。まだ改二はうまく扱いきれないから」

「そっか。まぁ慣らしには時間がかかるしね」

 

 ころり、と飴玉を口に入れる。甘酸っぱいぶどうの味がした。その大きな飴をころころと転がしながら、ふと二人に疑問を投げかける。

 

「改二式艤装って、扱いが難しいんですか?」

 

 自分にはまだまだ縁遠い改式、改二式艤装。養成学校ではあまり詳しくは教わらなかった。だから、改式以降の艤装を身につけると簡単にパワーアップができる、といったイメージしか持っていなかった。

 

「うーんとね。改式に改装したところで、それを使いこなせるかどうかっていうのはまた別問題になるのよ」

 

 えーっと、と両手を広げて夕張さんが続けた。

 

「要は艦娘の能力としてのキャパシティが上がるってだけだから。だから能力の上限が五十から百になったところで、本人の能力が八十くらいしかなければそこまでしか使いこなせない」

「自転車から車に乗り換えるみたいな感じよね、馬力自体は上がるんだけど、それを使いこなすとなると勝手が違うっていうか」

「そうそう」

 

 ふんふん、と頷きながら続きを待つ。

 

「これが改二式になるともっとシビアで、まず安定した改式上限能力が発揮できないとまともに動きすらしないのよ」

「しかもこれを十全に使いこなせるかってなると……もうホント、一握りよねぇ」

「ていうか、ほとんどいないと思うなぁ」

 

 改二式艤装は、限られた艦娘にのみに実装されている最強の矛。と、同時にそこまで到達できる人はほんの一握りしかいないとは聞いていたけれども、まさかそこまでとは。

 

「だから結構、その日のコンディションで能力に振れ幅が出てくるのよね。ノッてるといい感じなんだけど」

「わかるわかる、私はね、ギアが噛み合う感じがすると調子がいいわ」

「ああ、なんかその辺の感覚、人によって違うよね」

 

 そういえば、この二人は改二式艤装を乗りこなせるんだった。と、いうか大湊にいる艦娘の大体が改式以上を使いこなしている。初期艤装ですっ転んでいるのなんて、私だけだった……。

 楽しそうに話している二人のその感覚とやらが全く理解できず、ちょっぴり寂しさを覚える。

 

「雲龍はわかりやすいわよね〜」

「雲龍さん?」

「あの人は改式だけどね。誰が見てもノッてるのがわかるから」

 

 そう言ってとんとん、と自分の頭を叩く夕張さん。なんだろう、髪が逆立ったりするんだろうか。

 

「ま、私は対潜警戒任務くらいしか行かないから大体改式で済ませちゃうけどね」

 

 そう言ってまた飴玉を今度は違うポケットから一つずつ取り出して私達に渡す。今度は桃味だ。

 

「……ああ、でも一回改二で本気でやりあいたい子はいるかな」

「やりあいたい子?」

「前回は改だったし、仕留め損ねちゃったから」

 

 ピンッと親指で自分の分の飴玉を真上に弾き、そうして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()それを、ぱし、と掴む。その表情はどこか楽しげだ。

 

「相変わらず器用ね」

「まぁね。指先の感覚って艤装いじるのに大事だし」

「そういうレベルじゃなくない……?」

 

 対潜能力は主に二つの観点から評価される。まずは水探をきちんと使いこなし、敵潜の存在を把握する能力。そうして、場所がわかったら爆雷の深度を適切に調整して正確に放り、撃沈する能力。私はまだその本当の凄さがよくわからないのだけれど、夕張さんはどちらもずば抜けているらしい。

 

「ちなみに誰なんですか、その人」

「ん?」

 

 足柄さんが面白がって放ってくる紙くずを夕張さんが片手でキャッチしては近くのゴミ箱、といっても結構距離のあるそれに投げ入れる。

 

「舞鶴にいる声がかわいい潜水艦」

 

 夕張さんはそう言って笑うと、ひゅっと最後のゴミを放り投げた。最後まで、彼女は狙いを外すことはなかった。

 

 

「……っくし!」

「風邪でちか?」

 

 ぶるりと震えた体を抱きすくめる。

 

「お、悪寒が……」

 

 背筋に、ぞわりとした怖気が走った。なんだか嫌な感覚だ。そう、気づかぬうちに敵深海棲艦に存在を捕捉され、今か今かと仕留めるその時を待たれているかのような、そういう気持ち悪い感覚。

 

「えー、帰ってあったかくして寝た方がいいよイクちゃん!」

「……イヨ、その手にある酒瓶はなんなの?」

「あったかくなるよ!!」

「飲む口実見つけて満面の笑みでちね。てかどっから出した」

「格納庫!」

「「おい」」

 

 そうしてゴーヤと二人して、だから格納庫は酒蔵じゃないのね、とイヨに説教をしているうちに、いつしかそれも忘れ。

 そうして忘れた頃に一通の合同演習申請書が大湊から届いたことで、舞鶴所属の潜水艦娘達が阿鼻叫喚に陥ることを、まだこの頃の三人は知る由もなかった。

 

 

 小さい頃から私は引っ込み思案で、いつもいつも姉さんの陰に隠れてそぉっと辺りを伺うような子供だった。

 

『ほら、──! こっちこっち!』

 

 そうしてそんな私の手を、姉さんはいつもいつも笑いながら引いてくれていたから。真っ先に知らない世界に一人飛び込んでいって、そうしてそれに挑むことを楽しんでいる姉さんはいつも眩しくて、自慢の姉であると同時に、私はいつもそんな彼女と自分を比較していた。

 姉さんはすごいな。私、は。私、なんか。

 引っ込み思案な自分が嫌だった。人前に出るとおどおどしてしまう自分が嫌だった。それでも私は私を変える方法がわからないから。だから、いつも一歩下がったところで、皆はすごいなぁって見ているだけだった。

 

「──足柄さんっ!」

 

 それは、姉さんと一緒の艦娘となった後も同じだった。一足先に艦娘となって海を駆け回っていた姉さんは、少し好戦的が過ぎることだけが玉に瑕ではあったけれど、皆から慕われる艦隊の中心的存在だった。そうして、神風ちゃんもそんな姉さんを慕っているうちの一人だった。姉さんもそんな神風ちゃんをよく可愛がっていたから、私も他の子より関わる機会は多かった。

 

「駆逐艦のスペックは、実力じゃないのよ!」

 

 ぱたぱたと桜色の袴をはためかせながらよく働く子だった。駆逐艦の娘達の中でも小柄な体をよく動かし、人一倍努力をする。それを当たり前のこととしてこなし、いつも笑っているような、艦隊にいるとそこに桜が咲いたかのように周りを明るくする子。

 

「神風ちゃんはすごいね」

 

 そうやって褒めると嬉しさで顔をほんのりと紅潮させつつ、なんてことはないとすました態度を取ろうとする。そういうところは年相応でかわいいな、なんて思いながら。あの日は、何を話していたんだっけ。

 

「私なんかよりずっと立派だね」

 

 確か、そんな言葉を自然と口にしていたのだったと思う。私にとって、周りと比べて少し卑屈になってしまうことはもはや当たり前のことのようになっていたから。だから、なにも考えずにそのまま思ったことを口にしたら、彼女はむっとしたのだ。

 

「それ、嫌いだわ」

「え?」

「私なんか、ってなんですか」

 

 その言葉に困惑していると、いいですか、と腰に手をあてながら神風ちゃんがこちらに向き合った。

 

「そうやって自分を卑下する言葉を口にしていると、その言葉に自分が引っ張られちゃいますよ」

「え、えーと」

 

 気弱な私は、神風ちゃんから見てもやはり頼りなく見えるのか、こうやってお小言をもらうことがままあった。これじゃどっちが年上なのだかわからない、などと思っていると神風ちゃんはすぅっと息を吸って、

 

「旧型が、なによー!!!」

 

 と、大声で叫んだ。それにびっくりしてまじまじと彼女を見つめると、彼女はこちらを見上げながら笑いかけてきた。

 

「周りになんて言われたって、私がこうやって自分を信じていればへっちゃらよ」

「……でも」

 

 その言葉に、無意識に、ぽつりと反発の声を漏らしてしまった。

 

「?」

「……ええ、と」

 

 そうして同時に、しまったと思った。私は年下の女の子に何を言おうとしているのだろう。

 一度こぼした言葉の先を待ってこちらをじっと見つめる彼女に根負けして、結局それを言ってしまった。

 

「私は、私の何を信じれば、いいのかなって」

 

 言ってしまってから、それはとても情けないことのように思えて軽く自己嫌悪に陥る。

 

「そんなの簡単よ! 羽黒さんが皆にしていることを自分にするだけだわ」

「皆にしていること?」

「そうよ! さっき私を褒めてくれたじゃない、それを羽黒さん自身にしてあげるだけよ」

「……ううん、と」

 

 自分を、褒める。……自分を、褒める? 

 

「……わ、私のいいところって、どこかなぁ」

 

 うんうんと暫く考え込んで、そうしてようやく言葉を発したと思ったらそんなことを言ってのけた私に対して、神風ちゃんは信じられないものを見るかのような顔をした。

 

「え、ええと」

「冗談よね? いっぱいあるじゃない」

「え?」

 

 呆れた顔をしながらひーふーみー、と指折り数えながらすらすらと神風ちゃんが言葉を紡ぐ。

 

「私なんかって言葉は嫌いだけれど、羽黒さんは皆のことよく見ていて、いいところをいっぱい教えてくれるでしょ。あと秘書艦業務、秘書艦補佐でもなんでもないのによく手伝ってくれて助かってるって聞いたし、それから──」

「……」

「あ、そうだわ」

 

 なにか思い出したのか、パッと顔を上げてにこにことしている彼女を首を傾げながら見つめ返す。

 

「羽黒さんが艦隊にいると、とっても安心するわ。いつも私達を守ってくれるから」

 

『──また羽黒か』

 

 なんでこんなに被弾が多いんだ、とよく提督からお小言をもらっていた。その度に体を縮こませてすみませんと謝れば、怒っているわけじゃないとため息をつかれ、どうするのが正解なのかわからず顔をうつむかせていた。そうすると決まって、もっと自分に自信を持てないのか、曲りなりにもお前は重巡だろう、と畳み掛けるようにそしられた。

 

「その分皆よりボロボロになっちゃってるけど」

「うっ」

「中破した羽黒さんは目のやり場に困るってよく噂されてるわ」

「誰から!?」

 

 ここで私が避けたら、後ろのあの子に当たってしまう。重巡の私は、少しでも皆の分弾受けをしないと。

 痛いのも、怖いのも嫌いだ。それでも私は重巡洋艦なのだから、いつまでも昔のように誰かの陰に隠れてなどいられない。だから私なりに頑張ってはいたけれど、それを認めてくれるのはいつも姉さんだけだったから。

 

「大丈夫よ、次は私が羽黒さんの服を守ってあげるから!」

「ふ、服だけ……?」

 

 だからきっと、こうやってしょうがないと言いつつ私にまっすぐと信頼を寄せてくれるこの子の言葉が嬉しかったのだと思う。この子の言葉には裏がない分、卑屈になっていた私の心にもまっすぐと届いた。

 だから、ほんの少しだけ勇気をもらえた。無邪気に私を信じてくれるこの子を。この子が信じる自分というものを、少しくらいは信じてみようと。

 多分、私は彼女が思っているよりも彼女が私にあたえてくれたその言葉の数々に。救われていたのだと、思う。

 

 

 自分に与えられた、艦娘としての名前があまり好きではなかった。一枚の赤い紙と共に与えられたその名前を初めて見たとき、一瞬顔をしかめてしまった。

 だって、私が知っているその名前は、決して縁起がいいものではなかったから。

 それでも艦娘の一人としてこの海を守れるという事実が自身を鼓舞した。そうして私も、自分に言い聞かせるように言っていたのだ。

 旧型がなによ。駆逐艦の実力はスペックじゃないんだから。実際私の戦績はそこそこのものだったと思うし、バランスが悪いと言われている睦月型の娘でも何人か飛び抜けて強い娘を見てきたから。だから私は、自分に対して少しばかり自信をつけていたのだ、あの場所に転籍するまでは。

 私の着任報告を受けた彼は言葉にこそしなかったけれども、明らかに態度に落胆の色を滲ませていた。彼はスペックで艦娘を使い分ける人だったから、前線がじりじりと下がり、次なる前線基地となりつつあるその場所に送り込まれたのがこんな低スペックの駆逐艦とは、とでも思われていたのかもしれない。それでも私は、一生懸命頑張っていればいつしか彼も認めてくれるだろうということを疑っていなかった。

 

「──縁起が悪い。どうして前線にあんな名前の駆逐艦を寄越したんだか」

 

 玉砕でもさせるつもりか。

 戦局が傾いてくると、その苛立ちを部下に八つ当たり気味にこぼす人だった。だから、たまたまその内容を聞いてしまった私は、運が悪かった、それだけ。

 

「……」

「……神風、ちゃん」

 

 それだけの、はずなのに。提督達がこちらに気づくことなくその場を去るまで、足が動かなかった。そうしてそのとき、たまたま一緒に歩いていた羽黒さんが気遣わしげに私に声をかけてきた。

 

「嫌いです、こんな名前」

 

 泣くものか。例え戦力外と見なされ、魚雷発射管を奪われ、その軽くなった分で物資を運べと言われようと。低スペックと言われようとも。それでも私は、この海を守る艦娘の一員なのだから。だけれども。

 

『──神風特別攻撃隊を彷彿とさせる、縁起の悪い名前だ』

 

 私の艦艇が竣工した後に結成された、爆装航空機による体当たり攻撃部隊、神風特別攻撃隊。その名前が、私を縛る。スペックでもなくなんでもなく、名前がダメだというのなら。私はどうすればいいのだろう。

 悔しかった。どんなに頑張っても、私は私の誇りを取り返すことができないその事実に。だからおもわずそんな言葉を吐き出してしまったのだ。

 

「神風ちゃん」

 

 羽黒さんとは、この場所に着任して何かと一緒に行動する機会があった。いつも自信なさげで、姉妹である足柄さんとは対極的な人。なんでこんな気弱な人が重巡なのだろう、なんて最初の頃は思っていた。

 

「次の撤退戦、皆で生きて帰ろうね」

 

 それでも付き合っていくうちに、決して心が弱い人ではないのだと気づいた。その性格に隠れてしまいがちだけれども、彼女にはしっかりとした、重巡洋艦としての芯があった。

 

「あなた達の背中は私が守るから、ね」

 

 だから私は、足柄さんと同じくらい羽黒さんが好きだった。羽黒は頼りないよな、と誰かがこぼせば見る目がないのね、と食ってかかっていた。だって。

 

「大丈夫だよ、神風ちゃんの名前に込められた、本当の意味はね──」

 

 私を、この呪縛から救ってくれたのは。彼女、ただ一人なのだから。

 

 

「羽黒さん」

 

 ドックでこそこそとしている彼女の背後から名前を呼びかけると、ぴくりと肩がはねた。そうして恐る恐るこちらを振り返った彼女につかつかと詰め寄る。

 

「か、神風ちゃん」

「任務から帰ってきたばっかりなのに、なにしてるの?」

「ええ、と」

 

 じとっと睨みつければすぐさま目が泳ぎ出す。こういうところは相変わらずだ。年下の私に凄まれてすぐにおどおどする気弱な人。

 

「もうちょっと、慣らし運転したくて」

「例え怪我はなくても、疲労はたまってるんだから。改二式の運用は精神的負担も大きいって聞いたわ」

「えー、と」

「なにかあってからじゃ遅いんです」

 

 困ったような顔をしている羽黒さんを、ぐっと見上げる。

 この人はいつもそうだ。どこか気弱で頼りない雰囲気の人なのに、こういう妙なところで頑固というか。

 

「航行訓練だけにしてください」

「え、ええ?」

「あと私もお供するわ」

「ええ!?」

 

 だから私も頑としてここは譲らない。彼女は頑固ではあるけれど、こうして私がごねれば折れてくれるのも知っているから。こういうときは子供って役得ね、と思う。

 渋々と了承をした羽黒さんに続いて私も海へと繰り出す。私だって任務帰りで疲れがないわけでもないけれど、殿をつとめていた羽黒さんに比べれば全然だ。

 梅雨明けの公式な宣言は出ていないけれど、空は真っ青に晴れ上がり、初夏の水分を含んだ空気に日の光がきらきらとまるで小さな硝子の破片を降り注がせているかのように乱反射して綺麗だな、と思った。たかが訓練だからと気を抜いていいわけではないけれど、任務から帰ってきたばっかりだしこうやって景色を楽しむくらいはいいわよね、と思っていると、先行していた羽黒さんが大湊の山々を見上げながら呟いた。

 

「山したたる、だね」

「え?」

「夏の季語。若葉から青々とした葉が茂り、その葉から水がしたたる様が美しいっていう」

 

 そう言葉を続ける彼女の横顔は少し楽しげだ。その彼女の視線の先を追う。真っ青な空を背景に、深い緑に覆われた山頂を、入道雲が覆うように流れていた。

 

「私、この季節の山が一番好き。空も緑も、全てが鮮やかだから」

 

 そう言って笑った彼女に、なるほど、似合うと思った。性格自体は控えめでどこか儚さすら感じる羽黒さんは第一印象からすると秋とか冬とかの方が似合いそうではあるけれど、こうやって笑う彼女は、彼女が好きだとこぼした、全てが色鮮やかな夏の景色によく映えた。

 

「それにほら、私の名前って山からきてるから。だから余計に思い入れが、わ、と、と」

「ああ!慣れない改二式でよそ見航行しないで!」

「ご、ごめんなさい……」

 

 そうしてよたよたとよろける羽黒さんに思わず悲鳴を上げてしまった。危なっかしくて見てられない。心底ついてきてよかったと思う。

 羽黒さんは強い。強いけど、どこか危なっかしいのだ。他人が傷つくくらいなら自分が、と率先して盾になる。あのときだってそうだ、だから、私は。

 どうにか体勢を立て直した彼女にホッと胸をなでおろしていると、びゅう、と一陣の風が吹いた。なんてことのない、海風。

 

「いい風だね」

 

 それに煽られた髪をおさえていると、羽黒さんが今度はゆっくりと停止して、こちらに振り返って笑いながら声をかけてきた。

 

「神風ちゃんといると、いつもいい風が吹く気がするの」

 

『──神風は、神様が私達を守るために吹かせる風だから』

 

『羽黒大破! あと三十分で帰投します!!』

『入渠施設、空きは!?』

『んなもんあるか、中破してるやつどかせ!!』

 

 聞こえてきた怒声に血の気が引く思いだった。ろくな武装も持っていなかった私達駆逐艦に、時間を稼ぐから、と笑ってその場に留まった羽黒さん。

 お供します、と言いたくても言えなかった自分が悔しかった。こんな兵装では、お荷物でしかない、ならば、とまで思いつめていた私の心を見透かしてか、

 

『神風ちゃんは()()()()

 

 と諭した彼女に、なにも言えなかった。

 

『大丈夫、死ぬつもりはないから。だから神風ちゃんは』

 

 きちんと生きて帰ってね、と笑っていた羽黒さんに、私が何を言えたのだろう。

 いや、でも大破、だから。生きている。沈んでいないのだから、だから、と言い聞かせながらドックへと駆けていった。そうして彼女の、予想以上にボロボロなその姿をみて絶句してしまったのだ。だというのに、彼女は私を見つけると力なく笑いながら、かすれきった声でこんなことを言ったのだ。ね、大丈夫だったでしょう。神風ちゃんが守ってくれたおかげだね、なんて。

 後から聞いた、運良く、風が運んできたスコールに守られたのだと。たまたま近くまで足柄さんの艦隊が来ていたのだと。そんなの運が良かっただけだ。そんなの、ただのこじつけだ。でもそうやってこの人は私に笑いかけたから。

 

「そうよ、だって私は神風の名を冠する駆逐艦だもの!」

 

 ならば私は、彼女が好きな神風として、誇れるような駆逐艦となるのだ。それが、彼女に対する恩返しだ。

 

「いつでも私が、羽黒さんを守ってあげるんだから!」

 

 あのとき決めた。見ていて危なっかしいこの人の側になるべくいて、そうして私自身が加護の風となってこの人を守るのだと。胸を張ってそう宣言すると、彼女は柔らかく笑い返してくれた。それに釣られて思わず私も笑う。

 そうやって二人して笑い合っていると、遠くからちょっとぉおおおお……と雄叫びをあげながら足柄さんがこちらに突進してきた。

 

「二人してずるいわよ! 訓練するなら私も誘いなさいよ!」

「どこから嗅ぎつけてきたの……?」

「戦いあるところにこの足柄あり、よ!」

「ただの航行訓練ですよ、足柄姉さん」

「航行訓練! いいわね! 初心を思い出すわ!!」

 

 そうして私に続きなさーい! と先に行ってしまった足柄さんの背中を、羽黒さんと二人してポカンと見つめる。いつもいつも、嵐みたいな人だ。

 

「……羽黒さん、足柄さん訓練許可もらってると思います?」

「ううん、今回は勢いで飛び出してきた感じがするから……どう、かな?」

「後で提督に書類提出しないと……事後報告だけど」

 

 はぁー、と長いため息をつく。悪い人ではないのだけれど、そう、嵐が過ぎ去った後って事後処理が大変じゃない? そんな感じの人なのよね。

 

「二人共ー! 遅いわよー!」

「い、今行きま、わ、あ」

「あああ急加速しちゃダメだったら!」

 

 本当にこの二人といると毎日が騒がしいったら。

 まぁ、こんな日々が、私は割と嫌いではないのだけれど。

 

 




4.16.2021 短編同士の前後関係で少々齟齬が出てしまっていたので季節を調整。お話の本筋に変わりはありません。


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夏の、名も無き日々よ(呉鎮守府:夕張、由良)

呉鎮守府にいる、もう一人の夕張さんと、由良さんのお話


 ちゃり、と鍵束をもて遊びながら軽巡洋艦寮の廊下を歩く。遠征から帰ってきてからしばらくぶりの休日だ、何をしようかしら、と思いながら歩いていると、ふと奴の部屋が目にとまった。

 ……一週間くらい経ってるかな。たかだか一週間、されど一週間。嫌な予感がして鍵束の中から鍵を一つ選び取り、鍵穴へと差し込む。

 勝手知ったるなんとやら、どうせノックをしたところで一度眠りにつけば近所迷惑になるほどに殴りつけないと起きやしないのだから。

 ガチャリ、と静かにドアを開くと、独特な匂いが鼻孔をくすぐった。部屋に染み込んだ油の匂いとすえた紙の匂い。艦娘を退役した後も、彼女の趣味である機械いじりは続いていた。よく他の子が壊した家電、小物などを引き受けては部屋の一角で直している関係で、この部屋には深く、そういった匂いが染み込んでいる。お陰様でこの部屋は他の艦娘達から絶不評。部屋も足りているし、誰もこの部屋に入りたがらないしということで職場に通うのに便利だし、と彼女は今ものらりくらりとここに住み続けている。

 慣れるとそんな嫌な匂いでもないんだけど。すん、と鼻を鳴らして薄暗い部屋に目を凝らした。元々所持している本は多かったけれども、カウンセラーに転向した後はさらに専門書やらなんやらが増え、気がつけば本の山が築かれるようになっていた。特に彼女は乱読をするから。一つ読んでいるうちに、そういえばあれは、あ、あっちにも関連した内容があったはず、とごそごそと引っ張ってきては自分の周りに並べるものだから、彼女が本を読み耽るその姿といったら、まるで本の巣にでもこもっているかのようだった。

 

「夕張!!」

 

 大声を張り上げると、途端にバサバサと音を立てて部屋の一角の本の山が崩れた。あそこか。

 

「……う、ぁ、ゆら?」

「また本読みながら寝落ちしたでしょ。て、いうか増えてない……?」

「ん、海外のやつ、ようやく届いた、から」

 

 ベッドの上に積み重なった本の山に思わず閉口する。一週間前に片したばっかりなのに、なぜこうも汚くなるのか。手元にあった本をなんの気なしにペラペラとめくると、それは英語ですらなかった。そう言えば腹立つくらいにこいつは頭がよかったんだっけ、と思いながらゆらゆらと揺れている夕張の頭頂部を見つめる。

 

「部屋汚い」

「エントロピーは、増大するものなの……」

「それっぽいこと言って誤魔化さないの」

「いたい」

 

 軽く頭にチョップをいれてとりあえずその辺に乱雑に散らばる本をちゃっちゃとどかし、足場を確保する。ちょっと埃っぽい、掃除機かけようか、とまで考えて、自然に世話を焼こうとしている自分に嫌気が差した。

 

「……大きな子供みたい」

「んん、なぁに?」

「いい加減いい時間だから起きて、昼夜逆転しちゃう」

「わ、ま、ぶし」

 

 ぐしぐしと目をこすって未だに眠そうにしている夕張に喝を入れるため、思いっきりカーテンを開け放って日の光を部屋へと招き入れる。ついでに窓も開けて換気をすることにした。

 

「夕張」

「なーにー……」

「掃除しましょう、ね?」

 

 えー、と不満げな声を上げた夕張を軽く無視して、今日はどのくらいで終わるだろうか、と腕まくりをしながら終わるまでの時間を計算するのであった。

 

 

 艦娘としての能力を失ってからも呉鎮守府にカウンセラーとして在籍し続ける彼女、夕張と私がいわゆる歳の離れた幼馴染であるということは、あまり知られていない。

 夕張は近所に住む歳の離れたお姉さんだった。特に深い御近所付き合いがあったわけでもない、昔から機械弄りが趣味だった彼女と同年代だった上の姉は特に話も合わなかったものだから、お互い不干渉みたいな感じで会えば挨拶をするけど、それだけ。

 

「なにしてるの?」

 

 夏の日だった。庭の花にお水をあげようとサンダルをつっかけて外に出たら、なにやらガチャガチャと隣から物音が聞こえたものだから、興味を惹かれたのだ。

 垣根の隙間。まだ小学生だった私には十分すぎるくらいの大きさのそこからひょこ、と顔を突き出して、そうしてブルーシートを広げてなにやら作業をしている彼女に声をかけたのだ。

 まさか人がいるとは思っていなかったのだろう、一瞬ぎょっとした彼女は、こちらの存在を認識すると顎から滴る汗を拭いながらぶっきらぼうに答えた。

 

「ラジカセ直してる」

「……その機械?」

「そう」

 

 今にして思えば、あれは人見知りをしていたのだと思う。夕張は一人っ子だったし、あの頃は機械弄りが趣味ということに理解を示す人も周りにいなかったから。だから子供との接し方もよくわからなくて、ああもぶっきらぼうだったのだろうと。

 

「なおるの?」

「直すの」

 

 少し意固地になってそう私に言い返して、黙々と壊れかけのラジカセと向き合う。なんだかその真剣な様子が気になって、私は垣根を通り抜けて夕張の側にちょこんと座り込んだのだ。

 ちら、とこちらを見た彼女は、私が邪魔をしないとわかると私のことを無視して作業に没頭した。

 パーツを分解して、丁寧に清掃する。なにかよくわからない部品を取り外して、新しいものを取り付ける。子供心に、きっとこの人にとってこの子は大事なものなんだろうなってわかるくらいには、彼女の手つきは優しいものだった。

 きれいに組み上がったそれを夕張がいじると、ノイズとともにどこかの番組局のコメンテーターの陽気な声が響いた。

 今までただのがらくたにしか見えなかったものが、こうして市販品のようにきちんと動く。それが不思議で、そしてその機械から声が聞こえてきたことで一種の感動のようなものを覚えていると。

 

「よしっ」

 

 さっきまでのつっけんどんな様子が嘘のように、嬉しそうに笑っている夕張が隣にいたのだ。

 

「すごいすごい! 魔法みたい!」

 

 そんな彼女の様子にこっちも嬉しくなった私は、そうはしゃいで彼女を見上げた。それでようやくこちらの存在を思い出したのか、夕張はちょっとびっくりしながら、照れくさそうに頬をかいたのだ。それが、私達の始まり。

 夕張はたまに庭に出てはそういったものを弄っていた。それをタイミングが合えば、私は覗きにいく、ただそれだけの関係。

 友人というにはあまりにそっけなく、歳の差もあった。だから私達の関係は、いわゆるご近所さん、よく言って歳の離れた幼馴染、そんな程度だった。

 

「──ちゃん、艦娘になったんだって」

 

 だからその関係の終わりも呆気ないものだった。私が中学に入った頃、ちょうど十八になった彼女は突如として私の前から姿を消した。

 

「へぇ。艤装技師のがあってそうなのに。あいつ、運動音痴だよ」

「ちょっと、もっと言い方があるでしょう」

「知らないよ、私には関係ないじゃん」

 

 私には関係ない。姉の言うとおりなのかもしれない。姉と夕張は特に親しくなかったし、陸の上で生活する私達にとって海での戦いは遠い出来事だったから。

 それでも一言の挨拶もなしに私の前を去っていった彼女に、一抹の寂しさを覚えたのも事実だった。

 

 

「……あ、え?」

 

 そう、あのとき寂しさは覚えたけれど、それだけ。それくらいの他愛のない、もうなんていうかむしろ他人に近い関係。だっていうのに。

 もし運命ってやつが存在するのだというのなら言ってやりたい、こんなやつに運命の無駄遣いをするな、と。

 

「はじめまして、夕張さん」

 

 ひと目見てわかった。髪や瞳の色が変わったって見間違えるはずがない、あれから三年は経つというのにあの頃のままの姿の彼女を見かけ。そして、別れの挨拶のひとつも寄越さなかった割にのうのうと生きていた夕張に少しばかりイラついた私は、意地悪をしてやろうと思ってにっこりと笑いながらそう言ってやったのだ。

 

「……あ」

 

 だっていうのに、なんでそっちが傷ついた顔をするのよ。

 

「……は、じめまし、て。軽巡かなぁ、新人さん、よ」

「変な顔」

 

 ね、と夕張が言い切る前につっけんどんに言葉を切る。実際見ていられないくらいに変な顔だった。泣きそうなのを誤魔化すようにへらりと笑うものだから、ひどく神経を逆撫でられた。

 

「え?」

「艦娘になって子供っぽくなったんじゃないの」

「あ、っと……」

「なに、まだわからない?」

 

 こんなはずじゃあなかった。久しぶり、元気にしてた? って笑いあえればよかったのに。なのになぜか、私の口からついてでる言葉はひどく不機嫌なものだった。

 

「……ラジカセ、まだ、持ってる?」

 

 手紙のひとつも寄越さなかったくせに。別れの挨拶もなしに私の前から消えたくせに。

 

「教えない」

 

 最初に彼女から出てきた言葉がそれだったのも、ひどく癪に障った。

 

 

 夕張は戦うのがとても下手くそだった。呉にいるのも一重にその艤装弄りの腕を買われてで、前線に出ることはなく、ただひたすらに後方支援に徹していた。

 

「おしゃれのひとつでもしたら?」

 

 あれは、大規模作戦展開前。秘書艦はまだ霧島さんではなくて、赤城さんはまだ先代で、加賀さんもまだ呉にいて少しばかり穏やかだった頃。ガチャガチャと私の艤装のメンテをしてくれている夕張の背中に、ふとそんな言葉を投げかけた。

 

「おしゃれって」

「いつもツナギ着て油まみれって。素材はいいのに」

 

 私の言葉に夕張はこちらを振り返りながら苦笑いをすると、なにも言い返さずに作業へと戻っていった。

 気に食わない。その態度に微かに苛立つ。呉鎮守府に在籍する艦娘の中では比較的温厚である私ではあったけれど、なぜか夕張に対しては気づけばあたりが強くなってしまうことが多かった。

 気に食わない、気に食わない。なにが気に食わないって? そんなのわかってる。

 

『──よしっ』

 

 機械弄りが好きなんじゃなかったの。あの頃の夕張はあんなに無邪気に笑ってたじゃない。なんで今は、あんな風に笑わないの。

 ふと、夕張の手が止まった。彼女の癖だ、最後の最後、整備が完了するその直前。それを終わらせてしまうことを躊躇うように手が彷徨う。

 

「夕張」

 

 その背中に声をかける。

 

「それは、ラジカセとは違うの?」

 

 その癖が、嫌いだった。昔はそんな癖なかった。ねぇ、夕張。

 

「……っ、ぜんっぜん、違うわよ!!」

 

 この三年間で、何があったの。

 

『そんなの捨てちゃいなさいよ』

『嫌、まだ直る』

『新しいの買った方が安いわよ』

 

 壊れかけのものを、夕張はよく引き受けていた。それを時たま、彼女の母親がたしなめているのを見かけた。彼女の母親の言うことも正しい、何時間もかけて、それこそ新品を買えるかのようなお金をかけてそれを直す夕張を滑稽に思う人だっているのだろう。

 

『この子は世界に一つしかないんだから、気軽に捨てるなんて言わないでよ!』

 

 それでも、私は。ぎゅうとそれを胸にかかえてそう声を張り上げた彼女を見て。子供ながらに思ったのだ、ああ、優しい人なのだと。

 大事に大事にものを使う。丁寧に、整備をする。そうしてそれが息を吹き返すのを見て、嬉しそうにする人。まるで機械を人のように慈しむ人だと思った。私は、そんな彼女が好きだったから。今の苦しそうに機械と向き合う彼女に、ひどくイライラしてしていた。

 

「やっとこっち見た」

「……っ」

「ひどい顔」

 

 艤装の整備が完了すれば、艦娘はそれを身にまとって出撃をする。整備が終わってしまえば、それがいかに完璧であろうとも艤装は壊れ、人が死ぬ可能性が出てくる。だから、夕張は整備を終わらせることを躊躇う。

 

「……由良は、怖くないの」

「なにが?」

「死ぬこと、とか」

 

 あの頃はろくに会話すら交わさなかった私達は、皮肉にも艦娘として再会することで言葉を交わすようになった。あの頃はただ隣でじっと夕張の指先を追っていた私は、今ではよく彼女に噛みつくようになっていたから。そうやって突っかかっているうちに、徐々に徐々に、あの頃は見えていなかった夕張の弱さの輪郭を、薄ぼんやりと捉え始めていた。そしてそれがさらに私のイライラを加速させる。

 

「人間、最後には皆死ぬじゃない」

「そ、だけど」

「ねぇ、夕張」

 

 なんでこんなにイライラするのだろう。私達は仲のいい友人でもなければ、一緒にどこかに出かけるということすらしたことのない、浅い浅い関係だった。

 

「夕張が整備を終わらせなくたって、由良はいつかどこかで死ぬ。それから」

 

 だから別れの挨拶がなかったくらい、なんてことはない。まぁそんなものよね、って流せばいいはずだ。ならば何故、私はこの人に対してこんなにもむしゃくしゃして。

 

「別れの挨拶をしなかったからって、関係が続くわけでもないんだから」

 

 あのときのことを、ここまで引きずって、いるのだろう。

 

 

 機械が好きだった。大事に大事に使えば、ずっと側にいてくれる。どんくさくても怒ったりしない、人なんかよりずっとずっと優しい友達。

 家の中ではしょっちゅう両親が口喧嘩をしていたから。だから、よく庭でブルーシートを広げて機械弄りをしていた。

 夫婦という肩書を持っていたって、こんなもの。人との関係なんて、脆く、息を吹きかければ消えてしまう蝋燭の火のようなもの。夫婦、恋人、友達。それが永遠に続く保証なんて、ない。ならば物言わぬ機械は、名のある関係性を強要しない彼らは最愛の友人のように思えた。

 

『なにしてるの?』

 

 人は、怖い。何を考えているのかわからない、それが子供ならば尚更だ。どう接すればいいのかわからなかった私は、大分ぶっきらぼうな態度をとっていたと思う。だというのにそれをまるで意に介さず、興味津々な様子で由良がこちらに歩み寄ってきたときは、手元のラジカセを壊されたらどうしようと少し不安にすらなった。

 だけれども、あの頃の子供にしては由良は妙に聞き分けがいい子というか、私がラジカセを弄っている間、特に邪魔をすることもなく、ただただきらきらとした目で私の指先を追うものだから、途中からそこにいてもあまり気にならなくなっていった。

 

『すごいすごい! 魔法みたい!』

 

 人との関係に名前をつけるのが、苦手だった。夫婦、恋人、友達。私の両親は夫婦という肩書を得た後に、他人という関係へと戻っていった。ならば元々、夫婦という関係性になんて、なんの意味もないじゃない。

 だから私は、由良に対してもその関係性に名前をつけることはしなかった。たまに私が機械を弄っているのを、ちょこんと横で眺める近所に住んでいる子供。会話らしい会話だってしなかった、由良は子供にしてはおとなしく、辛抱強い子だったから。私がガチャガチャとなにかを弄っているのを、ただただじっと見つめていた。そうしてその目は、いつもいつもきらきらと光っていた。

 きっと私達の関係は友人でもなく、そして幼馴染と言うにはどこかそっけなく。ただ、私は由良が楽しそうに私が機械を弄るのを見ている姿が存外嫌いではなかったし、言葉はなくてもあの空間に居心地のよさを覚えていたことは確かだった。

 あの日、一枚の赤紙を受け取ったとき。私は彼女にこのことを伝えようとは思わなかった。

 関係に、名前をつけるのが苦手だった。名前をつければ何かが始まって、そうしてそれはいつか終わるものだから。だから私はなにも告げずにあの場所を離れたのだ。

 私達の関係に名前はない。何も始まっていなければ、何も終わることも、ないのだから。

 

 

 ここ、呉鎮守府に在籍する夕張は、夕張の中でも比較的大人しいらしいということを他の場所で同じ艦艇の艦娘に会った子に聞いたことがある。夕張、明石。この二隻は大真面目に整備をしていたと思ったら急に突拍子もないものを作り上げ、深夜明けのテンションでそれを試しては暴発させる。話を合わせると、概ねこんな感じらしい。いわゆる、マッドサイエンティストの()があるのだと。

 そういった話を聞くと、なるほどうちの夕張は大人しい。新しい兵装なんて見向きもしない、ただただ、壊れかけの艤装を丁寧に、精確に、それでいて迅速に直していく。それをずっと、静かに繰り返す人だった。

 呉では役立たずの烙印を押されたら最後、すぐに別の場所へと飛ばされてゆく。そんな中、全くといっていいほど戦闘で役に立たない彼女がここに在籍し続けるのはひとえにその能力が他の誰よりも抜きんでていたからだった。

 

『ふっしぎなのよねぇ。どうしたらあんな精確に早く直せるのかって手元を見るじゃない? で、見てるとね、なんていうんだろう』

 

 すごく優しく機械に触れる人なんだなって。それでちょっと見惚れてたらいつの間にか終わってるのよ。

 ちょうど私が呉に着任した頃と同じ頃に着任した明石は、首を捻りながらそんなことを私にこぼした。そしてそれを聞いて、ああ、そういうところは変わらないのか、なんて思ってしまった自分にしかめっ面をしていたら、なに一人で百面相してるの? と訝しがられた。

 そういった彼女の艤装弄りにまつわる話はよく小耳に挟んだけれども、誰々と仲がいいだとか、そいういった交友関係に関してはあまり聞かなかった。二人部屋が基本の軽巡洋艦の寮でも、構造上面積が狭くなってしまった関係でひとつだけあった一人部屋に割り振られた夕張は、休日は必ずその部屋にこもって一人でなにかをしているような人らしかった。

 

「ゆらー!!」

「きゃっ!?」

 

 ぼんやりと庁舎の廊下を歩いていたら、不意に背中に何かが勢いよくぶつかってきてたたらを踏む。

 

「ゆ、夕立、ちゃん」

「由良だ由良だ、暇? 遊ぼ!」

 

 がっちりと私の体をホールドして無邪気に笑いかける、あどけなさの残る女の子。

 呉では新人の軽巡洋艦は持ち回りで駆逐隊の面倒を見させられる。それは、どの軽巡がどの駆逐艦と合うのかというのを見定めるという意味合いも兼ね備えていた。

 最近担当になった駆逐隊に在籍する白露型駆逐艦の、夕立ちゃん。なんでか知らないけれども妙に懐かれてしまって、たまにこうやって絡まれるようになっていた。

 

「あっはっは、キミら、仲いいなぁ。微笑ましいわ」

「あ、龍驤さん」

 

 さてどうしたものだろうと思案をめぐらせていると、ちょうど通りかかった龍驤さんが私達の様子を眺めてのんびりと声をかけていった。そして去り際の彼女にぶんぶんと夕立ちゃんは手を振った。……ちょっと待って? 

 

「夕立ちゃん」

「? ぽい?」

 

 すっと龍驤さんの背中を指さす。きょとんとこちらを見上げ、そうして指先を追って龍驤さんを見つめ、再び私を見上げる夕立ちゃん。

 

「龍驤さんがどうかしたっぽい?」

「……」

 

 す、と自分の顔を指さす。

 

「私の名前は?」

「由良」

 

 なんでよ。

 これ、もしかして懐かれてるんじゃなくてなめられてるんじゃないかしら、と悶々としていると、じっとこちらを見上げていた夕立ちゃんがおずおずと口を開いた。

 

「由良、元気ないっぽい?」

「え?」

「なんか、いつもよりしおしおしてるっぽい」

 

 なにそれ。彼女の独特な表現に戸惑いつつも、当たらずとも遠からずなので思わず口をつぐむ。

 

「誰かと喧嘩した?」

「……別に」

「もしかして夕張さん?」

 

 勘の鋭い子だった。一緒に海に出ているとき、あの辺が嫌な感じがするっぽいと彼女が言えば、大抵敵潜水艦が潜んでいた。人の感情にもさとい子だった、誰が不機嫌そうにしていると、それが表面上全く見えなかったとしても気づいてびくびくとするような、子。

 

「……なんで夕張が出てくるのかしら」

「夕張さんも最近元気なかったから」

「そう、なの?」

「うん」

 

『夕立って、言動は子供っぽいけど。多分、誰よりも人の本質が見えているんだと思う』

 

 最初の頃、彼女の言動がうまく理解できなくて少し困っていたら、同じ駆逐隊の時雨がそうアドバイスをしてくれたことがある。多分、ちょっと人と見えてるものが違うような気がするんです、と。

 

「夕張さんはいつも泣いてるけど、最近はもっとつらそうっぽい」

「……泣いて、る?」

 

 だから、彼女の言動は独特でも、彼女にとってそれは比喩表現でもなんでもなくて真実なのだと。そして由良さんは、誰もが軽く流してしまうような彼女の言葉のひとつひとつに耳を傾けてくれるから、きっと夕立も懐いているんじゃないかな、と。

 

「泣いてるよ。だから、夕立、夕張さんの近くにいるのはちょっと苦手っぽい」

 

 彼女がそう言うのなら、きっと彼女が見ている夕張は泣いているのだろう。

 

『──あは、は』

 

 私は夕張が泣いているところなんて見たことが、ないけれど。私がいつも見る夕張は、下手くそに笑う。見ていて、イライラするような笑顔。

 

「……ね、夕立ちゃん」

「ぽい?」

「夕立ちゃんは、泣くくらいつらいときはどうしてほしい?」

 

 私より一回りは年下の女の子。そんな子に何の気なしに助言を求めてしまった私は、きっと軽巡洋艦としての自覚が足りないのかもしれない。先輩の軽巡洋艦はいつも言っていた、駆逐艦娘が尊敬するに足る存在であれ、弱みを見せるな、って。それでも。

 

「うーん。夕立のお話聞いてほしいっぽい!」

 

 この子の言葉のひとつひとつには、きっとそんなちっぽけなプライドなんかよりももっと大事なものがつまっているような気がしたから。

 

「お話?」

「うん! つらいつらい、って一人で抱えるのは大変だから。お話を聞いてもらうと、ちょっとそれが軽くなるっぽい!」

「そう。じゃあ」

 

 そこで言葉を切る。無邪気に見上げる彼女を見下ろして、笑いかけながら。

 

「なにかつらいことがあったら、由良に言ってね?」

「ぽい?」

「つらいことは半分こした方がいいもの」

「でも」

 

 そこで夕立ちゃんは不安そうに瞳を揺らした。無邪気で、人との距離感が近くて、それでいてどこか少し臆病なところがあるように思う彼女。

 

「その代わり、由良がつらいときもお話を聞いてくれる?」

「……うん」

「ありがとう」

 

 感受性が、豊かなのだと思う。無邪気にじゃれついたと思ったら、ふとしたときに身を引く。正直まだ彼女との接し方は計りかねているけれど、多分こういう小さな歩み寄りの積み重ねが大事なのだろう。

 

「じゃあ、今聞くっぽい!」

「ええ?」

 

 そうして急にパッと目を輝かせてほらほら、なんて急かしてくる。さっきまでのしおらしさなんてどこへやら。まぁ、このくらい元気な方が可愛らしいわよね、と苦笑しながら。

 

「そう、ね」

 

 そんな夕立ちゃんの頭をひとなでして。

 

「お互い、素直になるのって。難しいなぁ」

 

 そう、ぽつりと言葉をこぼした。

 

 

 どうして人は繋がろうとするのだろう。どうして人は、この脆い脆い縁にすがるのだろう。

 例えばそれは家族という繫がり。家族って、もっと温かくて、優しい繫がりなのだと思っていた。でもそんなものは幻想なのだと物心つく頃には理解した。家族という関係すらこうなのだから。どうせ、つまるところ人なんて皆孤独なのだから、最初からそんなものに縋らなければいい。そうすれば、どこまでいっても私の心は穏やかだ。

 

『整備してくれてありがとう』

 

 別に感謝されたくてやってたわけではない。ボロボロの機械達を見捨てるのが嫌だったから、次から次へと運ばれるそれを直していっただけ。それでも全てを直し切ることはできない、あの頃のように、私のわがままで一つのものにしがみつくことは許されなかった。それでも壊れかけの艤装がきれいに直ると嬉しかった、最初の頃は。

 

『入渠施設、満杯です!』

『高速修復剤は!?』

『もうほとんどないです、どうすればいいんですか!』

『うるさい泣き言を言うな!』

 

 泣き言を言っていた救護班の一員を怒鳴りつけて、救護班主任は頭をかきむしった。

 ここは、人も、モノも容易く壊れてゆく。優先順位をつけて、手を施しても全てを救えるわけではない。

 脆い、なぁ。簡単に破損する艤装。見るも無残な姿で帰ってくる艦娘達。なおしてもなおしても、すぐにまた壊れて、そうして見捨てられていくものが増えていく。特に人は、身体が治ったとしても心が中々治らない。そういう人達を、いっぱい見てきた。

 

『ありがとう』

 

 気がつけば、あの子の顔を見なくなった。知らない顔が増えて、知っている顔が減っていく。

 いつの頃からか、整備をしていても楽しくなくなっていった。壊すために直しているのではないだろうかと錯覚するくらい、この場所は人も、モノも移ろいゆくスピードが早かった。

 

「はじめまして、夕張さん」

 

 名前をつけるのが、ひどく苦手だった。名を与えれば愛着が湧く。愛着が湧けば手放すのが惜しくなる。

 名前をつけるという行為は、終わりの始まりだ。その感情に愛という名前を与え、慈しんだとしてもそれが永遠に続くことはない。夫婦という形にとらわれ、それを歪にゆがませた両親。最愛の人を失って泣き崩れる人々。

 どんなに惜しんだところで、いつか必ず終わりが来るというのなら。名を与えなければいい、始めなければいい。始めなければ終わりはないのだから別れもない、なにも感慨は浮かばない。そうやってぼんやりと生きていけば、私の心は穏やかだった、はずなのに。

 

「……ラジカセ、まだ、持ってる?」

 

 名前をつけるのが苦手だ。名を与え、形を与え、そしてそれを正面から受け止めるのはひどく苦しいから。感情、関係性、居場所。全てのものを曖昧にしてやり過ごしてきた私だったけれども。

 それでもあのときの感情に名前をつけるとしたら。

 きっとそれは、未練だった。

 

 

 なにもかもが、億劫だ。今日は非番だったっけ、どうだっけ。なんだかそれすら考えるのが億劫で、薄暗い部屋の中で毛布をひっかぶりながらうずくまっていた。

 コンコン、と控えめに部屋の扉を叩く音が聞こえた。それに対してのろのろと顔をあげ、じっと扉を見つめる。

 

「夕張」

 

 私の名前を呼ぶ声に、びくりと肩が跳ねた。その拍子に頭までひっかぶっていた毛布がパサリと肩に落ちる。

 

「話がしたいんだけど」

 

 おこられる。扉越しにこちらに声をかける人物には心当たりしかなく、そうしてその人物のせいで私は身動きすら取れなくなっていた。

 

「……寝てる? いや、昨日早番だったでしょ、で、そこから部屋に籠もって機械弄って寝落ちしたとしても邪魔がなければきっかり八時間後に起きる夕張なら、もう起きてるはずよね?」

 

 じっと息を詰めて扉を見つめていたものだから、扉越しの由良の一人言もよく耳に届いた。

 由良、ストーカーみたいだよ、なんでそこまで私の行動パターン把握してるの。今日はなんにもやる気が起きなくてただただベッドにうずくまっていただけだったけれども、普段通りの私ならまさしくその通りだった。

 

「──居留守か」

 

 ぼそり、と普段より低い由良の声が響く。ひっと上げそうになった悲鳴を飲み込めたのは、自分にしては上出来だっただろう。

 

『……夕張って、由良と仲悪いの?』

 

 そう聞かれてしまうくらいには、普段温厚で優しい彼女は私に対する態度だけは刺々しかった。

 

『なにかした?』

 

 何かしたかと言えば、何もしていない。強いて言うのなら、何もしていないことが彼女の逆鱗に触れてしまっているのかもしれないけれど。

 あの頃きらきらした眼差しで私の指先を見つめていた彼女は、今は不機嫌そうな視線を投げかけるだけ。それを寂しいと思ってしまうのはきっと私のわがままだから。だから私は笑って誤魔化して、そうしてもっともっと由良を不機嫌にさせていた。

 不意にガチャガチャとドアノブが音を立てる。なんていうかもう、恐怖しかなかった。気分は取り立てを受ける多額の借金を背負った人だ。

 い、いや、でも鍵かかってるし、と思ったのもつかの間。

 

「マスターキー借りて正解ね」

「……は?」

「蹴破っても良かったけど。不知火さん、後で怖そうだから」

 

 そう言ってドアに寄りかかりながらちゃり、と音を鳴らして鍵束をこちらに見せる彼女に思わず絶句する。

 

「……ふ、ふほーしんにゅう」

「秘書艦の許可もらってるからセーフよね。由良ってほら、普段素行いいから。すんなりと貸してくれたわ」

「じんけんしんがい」

「艦娘は人じゃないからセーフ」

 

 滅茶苦茶だ。

 なんでこの子は私に対してこうもあれなのか。品行方正、温和、お淑やか。そういった評価を周りから受ける由良ではあるけれども、私の前ではいつもいつもこうだった。皆、騙されてると思う。

 少し不機嫌そうにずかずかと、それでいて床に散らばる機械やら本やらを蹴飛ばさないように注意を払いながらこちらに歩み寄る由良に思わず後ずさった。どん、と背中に壁があたる。前門の虎、退路はなし。思わずぎゅっと目をつぶった。

 

「ごめんなさい」

 

 なんで居留守なんてするの、とか。そう言った文句が由良の口から飛び出てくるものだとばかり思っていた私は、その意味をうまく理解することができなかった。

 その言葉が、存外に静かだったから。だから、そぉっと目を開けば、由良はしゃがみこんで、こちらと目線を合わせながらじっと私の瞳を見つめていた。

 

「……なに、が?」

「そこまで傷つけてたなんて、思ってなかったから」

 

『──別れの挨拶をしなかったからって、関係が続くわけでもないんだから』

 

 全てを見透かされたように思えた。曖昧にすることでなにもかもから逃げ回っている、臆病で弱い私を。

 それと同時に、とうとう由良に見捨てられたのだと思った。

 時間が経てば忘れるだろうと思っていた他愛もないあの日々は、なんのいたずらか目の前にこの子が現れてしまったことで皮肉にも鮮やかに蘇ってしまった。そしてそれに付随するかのように、色々な感情がとめどなくあふれては零れ落ちていった。

 あるいはそれは罪悪感。

 あるいはそれは後悔。

 あるいは、それは。

 そうやって、あの日々に対する感情を表すなにかが浮かんでは消え。それを認めたくなくて曖昧に笑い続けていたのに。あの日、ああ、見捨てられたのか、と思ってから、うまく笑うことすらできなくなっていた。

 

「今日はあなたと話をしに来たの。ね、夕張」

 

 どうして怒りながら構ってくるの。いつも曖昧に誤魔化す私に愛想をつかせてしまったって仕方がないのに。友達でもなんでもない、限りなく他人に近い名もなき関係だったはずの私に。

 

「なんであのとき何も言ってくれなかったの」

 

 なんでそんなことを、聞いてくるのだろう。

 

「……ばいばいって言ったら、終わっちゃうじゃない」

「またね、って言えばいいじゃない」

「会えもしないのに?」

「手紙書くとか、なんとか。色々あるじゃない」

「そんな仲でもなかったじゃない」

「そうだけど」

 

 愛していると囁きあっていた二人は、最後には別々の道をとった。

 泣いてまで別れを惜しんだ、遠く離れた場所へと引っ越していった友達。あんなに、泣いていたのに。しばらくすれば、誰もが忘れたかのように彼女の名前すら口にしなくなった。

 

「そうやって緩やかに終わりを見るくらいなら、なにもなくていい」

 

 大事なものほど手からすり抜けていく。そうしてそれが大事であればあるほど、失ったときに傷つくというのなら。そんなものは、欲しがらなければいい。

 

「……夕張」

「なに」

「あなた、結構私のこと好きだったのね?」

「ばかじゃないの」

 

 ちょっと引き気味にそんなことを言う由良めがけて手元にあった枕を投げた。それを難なくキャッチして、よいしょ、と隣に置きながら、由良は何事もなかったかのように私の名前を呼ぶ。

 

「ね、夕張」

 

 あの頃はお互いの名前すら呼んだことなんてなかったのに。艦娘として再会してからの彼女は、私の名前をよく呼んだ。その大抵が不機嫌さをにじませたものだったけれど、今日の彼女は静かに、それこそ壊れ物でも扱うかのように呼びかけるものだから。

 

「これ、最近調子悪いの。ちょっと見てくれない?」

 

 だからきっと私は、ひどく動揺していたのだと思う。

 

「……持って、たんだ」

「持ってないなんて言ってない」

「そう、だっけ」

 

 それに名前をつけるなら。きっときっと、未練だった。

 

「私は、夕張が何も言わずにいなくなったとき。あの頃をなかったことみたいにされたようで嫌だった」

 

 私の手の平にそれをそっと置きながら。いつもの不機嫌さが嘘のように、静かに由良が言葉を続ける。

 

「友達でもなんでもなかったかもしれない。名前なんてつけられないくらい、あの日々は他愛のないものだったのかもしれない」

 

 ──夏の日だった。屋根のひさしの下で作業をしていても、じんわりと汗が浮かぶ。でもそんなことはどうでもよかった、息苦しい家の中にいるよりも遥かにましだったから。

 中の言い合いを微かにでも耳が捉えるのが嫌で、直したばかりのラジカセで適当な番組を流しながら作業をしていた。そうしたら、垣根の隙間からまた由良がひょっこりと顔を出したのだ。それに私が気づくと、パッと顔を明るくしてこちらに小走りに駆け寄ってくる。そして近くにちょこんと座り込んで、私の作業をじっと見つめていた。

 子供との接し方なんてわからなかったから。だから私は、受け入れることも拒絶することもしないで、そこに由良がいないかのように作業に没頭することにした。

 普通の子供なら、無言が続けばすぐ飽きる。飽きて、どっかに行く。だというのに由良ときたら、それこそ私の作業を邪魔してはいけないと息を詰めてそれをずっとずっと見守るのだ。

 そんなに面白いだろうか、と疑問に思ったけれども、さりとて自分から話しかけるのも億劫だった私は、まぁ、面倒を見る義理もないしな、と思いながら作業の合間に気まぐれにラジカセのチャンネルを変えた。すると、ちょうどあの日。ラジカセが直ったときにつけた番組に波長が合ったらしく、聞き覚えのあるコメンテーターの声が流れてきたのだ。

 

「わ」

 

 そこでようやっと、由良に動きがあった。ちょこちょことラジカセの近くに移動して、飽きもせず、そこから聞こえてくる声に楽しそうに耳を傾ける。

 

「……あげよう、か?」

 

 その様子が、あまりにも無邪気なものだったから。だから気づけば、私はそんなことを言っていた。

 

「いいの!?」

「うん」

 

 夏の日だった。あのときの由良の顔は、今でも覚えている。夏の陽の下で揺れる向日葵のような、眩しい笑顔。

 

「……大切に、してあげてね」

 

 そんなガラクタの何がいいんだとよく言われた。そんなに何を必死になっているのかと。私からしたら、少し壊れたからってすぐに捨ててしまう人達の気持ちがわからなかった。

 同じものを買えばいいじゃない。

 違うよ。この子とその子は、同じじゃないよ。

 新しいものを買いなさい。

 そうやって。そうやって壊れてしまったら、すぐに見捨ててしまう方が、私には、わからない。

 だから、私が一生懸命に直したガラクタと呼ばれるその子を、由良が子供らしからぬ優しい手つきでもって手に取って、大事に大事に胸に抱えたとき。

 

「──それでも、確かに私の中で夕張と過ごした日々は息づいている」

 

 きっと私は、少しばかり救われたのだ。

 

「それは夕張も同じだったから、これ、持ってるか聞いたんでしょう」

 

 夏の日だった。もうどうやったって両親の仲は直らないことを悟った、夏の日。もう関係は壊れてしまったのだからと父はすぐに別の女の人を作って出ていってしまった。そうやってあんなに大事にしていたはずのものを見捨てて、新しいものを手に入れたあの人が理解できなかった。

 なんで、捨てるの。嫌になったからって、古くなったからって、簡単に捨てていかないでよ。

 人との関係はどうにもうまくいかなかった。だからこそ、機械だけは私の友達だった。機械だけは私の声に応えてくれる。慈しめば慈しむほど、私に笑い返してくれたから。

 

『──魔法みたい!』

 

 だから、機械達と向き合っているときは素直になれた。自然と、笑えた。誰にも理解されなくたって、ガラクタと呼ばれようともあの子達だけは私の味方だった。

 大事に大事に直した私の友達を、きらきらと、無邪気に、嬉しそうに手にとってくれたのは由良が初めてだった。だからきっと、私はそんな名前すらよく知らなかった小さな子供に幾分か救われたのだ。

 それを認めてしまうのが怖かった。私達の関係に、私が抱く感情に名前をつけてしまえばそれはやがて変質し、朽ちていく。だから、私達の関係に名前がつかないように深く関わることをしなかった。それでも、心のどこかではきっとわかっていたのだと思う。

 

『──ありがとう』

 

 どういたしまして、って笑えばよかった。

 夕張さん、夕張さん。名前を呼んで笑ってくれたあの子達ともっと話をすればよかった。

 名前をつけるのが苦手だった。感情、関係性、居場所。だってそれに大切なものだからって名を与え、認識してしまったら、失ってしまうその時がつらくてつらくてたまらない。自分の手からこぼれていったものに対して抱く感情に後悔という名を与えなければいい。私とあの子の関係を、仲間という温かな名前で縛らなければいい。そうやってなにもかもを曖昧にして、心を鈍く鈍く、鈍麻させなければ。生きていくのが、苦しくてしょうがない。

 

「ここにいるには、夕張は優しすぎるわね」

 

 こらえきれなくてこぼれた涙は、どこか困った顔をした由良の指先に掬われていった。

 

「ね、それ、直る?」

 

 私の手の中にある、小さな年代物のラジオカセットに視線を向け、由良が尋ねた。

 それに対して、こっくりと頷く。大事に使われてきたことがひと目でわかる、少しくたびれた私の大切な友達。

 

「そう、よかった」

 

 そうしてそれを聞いて嬉しそうに顔をほころばせた由良は、あの頃となにも変わらない。私が救われた、私が好きだった笑顔でもって、笑いかけてくれたのだった。

 

 

「わ、なにこれ」

「……ビスマルクさん?」

 

 掃除が一段落して満足していると、予期せぬ来訪者が訪れた。

 

「……ここ、本当にユウバリの部屋?」

「どういう意味よ~?」

「なんか、ユウバリの部屋が綺麗だと落ち着かないわ」

 

 そう言ってそわそわとしながらも部屋へと足を踏み入れたビスマルクさんの片手には、紙袋が握られていた。

 

「次貸して」

「もう読んだの?」

「毎回いいところで終わるんだもの」

「なに、それ?」

「漫画~」

 

 ごそごそと紙袋の中を覗いて、夕張は近くの本棚から数冊漫画を抜き取った。ああ、そこ。抜け巻があって気持ち悪かったんだけど、そういうこと……待って? 

 

「夕張」

「なに?」

「そのチョイスは、どうなの?」

 

 忍者とか侍とかの漫画でも貸したのかと思っていたのだけれど、彼女の手に握られていたのは任侠物、いわゆるヤクザを主題とした漫画だった。

 

「面白いわよ?」

「面白かったわ!」

 

 ビスマルクさんの目がキラキラしている、なにかを言うのは無粋というものだろう。夕張よりも幾分精神的に大人な由良は、無言を貫くことで彼女らの意見を尊重することにした。

 

「あ、でも聞いてユウバリ」

「なに?」

「出撃の時にカチコミよ! って言ったらぎょっとされたんだけど」

 

 使い方、合ってるわよね? と純真な眼差しでもって小首を傾げるビスマルクさん。合ってません。と、いうか。夕張の貸した漫画のせいだったのか、あの珍事件は。

 

「ダメじゃない、カチコミってのは兄弟の盃を交わした限られた人しか使っちゃいけない神聖な言葉なのよ」

「そうだったの!?」

「不用意にその言葉を発しちゃダーメ、しかるべき人が使わないと、とんでもない天罰が──」

「しれっと嘘をつくな」

「あいた」

 

 ビスマルクさんから返却された漫画の角でもって夕張をどつく。微妙に説明が的を射ているあたり、質が悪い。由良の一撃がいいところに入ったのか、夕張はしばらく背中をまるめてうめき声をあげていた。

 

「えーと、あなたは」

「あ、軽巡洋艦の由良です。いっぱい人がいるから覚えるの、大変ですよね」

「ユラ、ユラね。覚えたわ」

 

 ドイツからの賓客ということでこちら側はほぼ全員がビスマルクさんとグラーフさんを認知しているけれども、彼女らからしたらここに在籍する全員の名前を覚えるのは大変だろう。異国の名前というものは中々に口に馴染まないものだろうし。

 

「名前は知ってたんだけど、あなただって知らなかったのよね」

「え? なんで名前だけ?」

「どうせ夕立ちゃんでしょ」

「え?」

「よくわかったわね」

 

 それも語尾? って聞いたら頬を膨らませて色々教えてくれたわ、なんてビスマルクさんに言われ、思わず閉口する。

 

「はは、愛されてるわねー」

「……」

「あて、ちょっと、無言で蹴らないで」

 

 なんとなくその態度が気に入らなくてげしげしと夕張を蹴っていると、それを物珍しそうに見ながら、ビスマルクさんが疑問を投げかけてきた。

 

「珍しい組み合わせよね。二人って友達だったの?」

 

 友達。その言葉に思いっきり眉根が寄るのがわかった。そんな私の表情を見て、あ、なにか間違えたかしら、とビスマルクさんが露骨に焦る。

 

「げほっ……あ、はは。友達っていうか」

 

 私が無言を貫いていると、夕張がむせながらゆるゆると顔をあげ。

 

「腐れ縁よ、ね?」

 

 そうしてビスマルクさんに静かに答えて、こちらを見上げてきた。

 その顔が存外に穏やかなものであったから。だから私は、ますます不機嫌になって。

 

「腐り落ちてしまえ、そんなもの」

「あはは、ひっどいわねぇ、相変わらず」

 

 のらり、くらりとあの頃とは違う、穏やかな笑顔でもって笑いかける彼女に暴言を吐き捨てた。

 そうしてそれを見ていたビスマルクさんは、ぽん、と手を叩きながら、腑に落ちたという顔で。

 

「なるほど、ユラはツンデレなのね!!」

 

 なんて言うものだから。夕張が笑いすぎて過呼吸になりかけたり、その背中めがけて私が飛び膝蹴りを喰らわしたりと。結局最後には、せっかく片付けた部屋がまた滅茶苦茶になってしまうのだった。

 

 



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雲を継ぐ(大湊警備府:雲龍)

大湊の雲龍さんのお話。


「雨も、海も、涙さえも。いつかああして雲になる」

 

 名は体を表すと言うけれど。彼女は本当に、その艦艇らしい艦娘だった。穏やかで、どこか掴みどころがない。どんなに切羽詰まった状況でものんびりとした態度でなんとかしてしまうような、ちょっと変わった、それでいてどこか人目を引くような魅力を持つ人。

 

「だから、そうね」

 

 痛いのも、面倒くさいのも。死ぬのだって嫌いだ、死んだら冷たくて暗い海の底でひとりぼっちになってしまうではないか、と。確かあれは、祥鳳に弓の訓練でこってりと絞られた後に愚痴をこぼしたのだ。そうしたら彼女はちょっと困った顔をして、空を見上げながらそう私に語りかけてくれた。

 空を見上げれば。もうもうと、夏らしい入道雲が見えた。

 夏の雲が一番好きだった。他の季節よりもくっきりとその存在を空に映えさせ、そうして風に流され面白いように形を変えてゆくから。だから見ていて飽きないと前にこぼしたら、この人も笑いながら同意してくれてちょっと嬉しかったのを覚えている。

 

「きっと、死んでしまったとしても──」

 

 そう、だから。この季節は、苦手だ。

 

 

 ようやく、見つけた。ありとあらゆる場所を駆け回り、じんわりとかいた汗を拭いながら弓道場の入口へとまわる。盲点だった、彼女は空母ではあるけれど、弓とは縁遠い人だと思っていたから。

 入口からそっと覗くと、お目当ての人物、雲龍さんと葛城さんの会話が聞こえてきた。

 

「……矢の引きが、足りてない」

「うぇ、やっぱり?」

「押し手、つっぱってる」

 

 うーん、変な癖ついちゃったかなぁ、と頭をかいている葛城さんに、雲龍さんが淡々とアドバイスを告げた。

 

「スランプのときは、量を減らして質を上げた方がいいわ」

「うー、わかってはいるんだけど」

「気分転換に、式神で遊んでみる?」

「いやいや、雲龍と一緒にしないでよ……」

 

 そう言ってついと式神を周囲に浮かべた雲龍さんがこちらに気づいた。それと同時に葛城さんもこちらに手を振ってくれたので、お邪魔をしてもいいものかと逡巡していた私はようやっと弓道場内へと足を踏み入れた。

 

「雲龍さんって、弓も引けるんですか?」

 

 雲龍型は基本的に陰陽型だ。葛城さんが雲龍型でも特殊な矢先に札をつけて発艦する、いわゆる弓型と陰陽型の中間タイプであるのに対し、雲龍さんは完全なる陰陽型のはず。その割にアドバイスが堂にいったものであったから思わず尋ねてしまった。

 すると雲龍さんはゆっくりと瞬きをしながら口を開いた。

 

「今は無理ね、もう鍛錬をしていないもの」

「陰陽型の人も最初は弓の訓練をするんですね」

「ああ、違う違う」

 

 私がなるほど、と頷いていると慌てて葛城さんが否定した。

 

「雲龍は特別。この人、元々の適性が全空母だったから」

「……はい?」

 

 その意味が飲み込めず、思わずこてん、と首を傾げてしまった。そんな私の様子を見て、雲龍さんがゆるゆるとピースサインをこちらに向ける。

 

「どの空母にもなれる可能性があったとかで、候補生時代に一通り訓練を受けてるの」

「は〜」

 

 そんな人もいるんだ。複数に適性を示す人がいるというようなことは聞いたことがあるけれど、それでも全空母レベルは初耳だ。だからこそ、好奇心が顔を覗いた。

 

「じゃあなんで雲龍さんは雲龍さんになったんですか?」

 

 幅広い選択肢の中でどうして雲龍を選んだのだろうと。思ってしまうのは、自然なことだっただろう。ただ、この質問があまり良いものではなかったらしいことを、私は雲龍さんの様子から気づいてしまった。

 微かに揺れる瞳。少し口を開きかけて、躊躇うようにつぐむ。一瞬の間をおいて、雲龍さんは何事もなかったかのように。

 

「前の雲龍が死んだから」

 

 そう淡々と告げ、小さくあくびをした。

 

「眠いわ、今日はこれでおしまい」

 

 そうしてひらり、と手を振ってふらりとどこかへと去っていってしまった。

 

「……私って、どうして、こう」

 

 しばらくその場で固まっていた私は、自己嫌悪と共に座り込んだ。どうしてわざわざ地雷原で躓くようなことをしてしまうのか。

 

「五月雨ちゃんは悪くないと思うよ。と、いうか私も初耳」

「え?」

「あんまり自分のこと話さない人だから」

 

 そう言って嘆息をすると葛城さんは弓を弓立てに立てかけて軽く伸びをした。同じ雲龍型ではあるけれど、彼女と雲龍さんのつき合いは大湊に来てからのものだから結構知らないことも多いのだとか。掴みどころもない人だしね、とこぼしてふと葛城さんが疑問を投げかけてきた。

 

「ところで雲龍に用があったんじゃないの?」

「……あ!!」

 

 そうしてそこで、また振り出しに戻ってしまったことに、気づいたのだけれども。

 

 

「君、適性がふわっふわ」

 

 応接室に呼び出され開口一番。しかめっ面をしたおじさんは私に文句を言ってきた。

 

「うーん、空母? っぽいんですけどねぇ……なんだこれ?」

 

 どうやら艦娘候補生として選ばれたようではあるらしかったが、よくわからないけれど問題があるらしい。

 

「じゃあ」

 

 だから、書面とにらめっこをしていたおじさんにゆるゆると挙手をしながら。

 

「この話は、なかったことに」

「できるわけないでしょうが」

 

 面倒くさい、好都合だと提案した内容は、あっさりと却下されてしまった。

 

 毎年、数人程度はいわゆる‘はぐれ’候補生がいるらしい。基本的にほとんどの候補生が各鎮守府付属の訓練所に割り振られるのに対して、そういった通り一遍な教育ではいかんともしがたいと判断された、一般的な候補生から外れた異端児。それを群れからはぐれた個体になぞらえて、一部ではぐれと呼んでいるらしい。

 そういったはぐれを、じゃあ適性なしということで、という風に野に放せてしまうほどに我々日本の戦力は潤沢とは言えなかった。だからこそ、そういったはぐれを担当する小さな訓練所が、昔からちらほらとあるのだという。

 

「おー」

「やっぱり軽空母適性なんじゃない?」

「いや雲龍だって陰陽タイプじゃん」

 

 もらった形紙を見様見真似でふわり、と浮かせてみれば、周りに集まっていた空母の面々が感嘆の声をあげた。

 

「陰陽適性の娘でも最初感覚掴むのに時間かかる娘はかかるんだけどねぇ」

「ね、ね、弓、弓射ってみない?」

 

 あの場所も、そういったはぐれ候補生を数年に一回程度請け負う小さなところだった。

 安全海域内の小さな泊地。前線で負傷し、後遺症の残った者が復帰するまでの束の間の療養施設として機能していた、のどかで、少しあくびが出そうな程には平和な場所。

 祥鳳がひとつ矢をつがえ、ゆっくりとした所作でそれを放った。海に向かってぐんぐんとのびていった矢は、途中で艦載機へと変じて空へと舞う。その行き先に目をやると、ちょうど雲の切れ目から太陽がのぞき、その眩しさに目を細めた。

 

「合成風速がないからあっという間ね」

「トンボ釣りお願いします」

 

 そうして一瞬軽やかに空へと舞ったように見えた艦載機は、みるみるうちに失速して海へと落ちていった。不時着した艦載機からひょっこりと妖精さんが顔を出す。そうして待機していた駆逐艦娘がそれを回収しに海へと出ていった。

 

「弓は、まともに放てるまで結構な訓練をしないと……」

「やってみる」

 

 先程の祥鳳の見様見真似で矢を放ってみせた。祥鳳に比べればおぼつかないところもあったけれども、それでもまっすぐと飛んでいった矢は艦載機へと変じ、空に舞うことなく海へと失墜していった。不満げな妖精さんがコックピットから顔を覗かせる。まるで下手っぴ、とでも言っているかのようだった。

 

「……天才か?」

「わかんない、もう、なにもわかんない」

 

 その様子に隼鷹がボソリと呟き、瑞鳳が頭を抱えた。思えば規模が小さい割に空母が多い泊地だった。空母は数が少ないから中々退役させてもらえないのさ、なんて隼鷹が苦笑いしていたから、そのせいもあったのだろう。

 

「もしかして雲龍かも」

「あー、贔屓はいけないと思いまーす」

「そうじゃないわ」

 

 だからあの人も、そんな中の一人だったのだろう。柔らかな長い長い髪を揺らして、楽しそうに私を見下ろした、彼女も。

 

「どの型にもはまらないところが雲っぽいもの」

 

 前線に出ずっぱりで、高速修復剤を多用していた弊害で他の艦娘よりも身体が脆くなっているのだと。そう知ったのは、全てが終わったとき。だからこの頃の私はそんなことも知らず、ただ、なんとなく。この人が飛ばす艦載機が一番のびのびとしていて、好きだなと。そんな程度のことしか、考えていなかった。

 

 

 さやさやと心地のいい風を受けながら、庁舎の屋上から空を見上げていると。

 

「雲、龍、さん!!」

 

 後ろから大声で名前を呼ばれ、ワンテンポ遅れて振り返った。

 

「……最近、見つかるのが早くなったわね」

「ふふん、私だって学習しているんです」

 

 息を切らせながらどこか得意げに胸を張る、最近この大湊に配属された駆逐艦娘。五月雨がこうやって私を探しにくるのも、もはや日常のようになっていた。

 

「屋上とか、埠頭とか。空がよく見える場所に結構いますからね」

 

 それは知らなかった。いつもふらふらと気の向くままに歩いているだけだから、まさかそんな傾向があるとは。意外と五月雨は頭脳派なのかもしれない。

 

「空、好きなんですか?」

 

 空を見上げていると、隣に並んで同じように空を見ながら五月雨がそう尋ねてきた。

 

「雨も、海も、涙さえも。いつかああやって雲になる」

「え?」

「その後が、思い出せないの」

 

 あの後、彼女は何か言葉を続けていたような気がする。その部分だけすっかりと抜け落ちてしまっているのが少し気持ちが悪かった。だからそのせいかもしれない。気づいたら空を見上げ、それに気づいてふいと視線を落としてしまうのは。

 

「なんでも、ないわ」

 

 この子にこんなことをいっても仕方がない。頭を振って話題を切り替えようとすると。

 

「それって前の雲龍さんの言葉ですか?」

 

 五月雨はまっすぐにこちらを見つめながら、そう尋ねてきた。

 大湊にいる艦娘は、得てして何かしらの問題を抱えている者が多い。艦歴も長い、だからこそお互いに深く踏み込まないようなある種の距離感がある。

 だからこの子の、ふとしたときにこうやって距離を詰めてくるこの感じに戸惑っていた。

 

「……そう」

「前の雲龍さんって、どんな人だったんですか?」

「……」

「あ、えと、嫌なら無理にとは言わないんですけれど、ほら」

 

 ぶんぶんと手を振りながらわたわたと五月雨は言葉を続けた。

 

「お葬式とか、故人の思い出話をして笑って見送ってあげるといいって言うじゃないですか。あれって多分、そうやって話すことで私達自身もその死に向き合って心を落ち着けられるといいますか、えーと、えーと」

「五月雨、落ち着いて」

「は、はい」

 

 すーはー、と深呼吸を五月雨にさせて落ち着かせる。

 

「……嫌なわけではないけれど。あまり、話すのが得意じゃないの」

「大丈夫です!」

 

 ぽつりとそうこぼすと、五月雨が少し前のめりになってそれに答えた。

 

「私、おばあちゃんによく聞き上手だねぇ、って言われてたんです。だから大丈夫です」

 

 そう言ってむん、と気合十分という様子。

 本当に、よくわからない子だ。こんな面倒くさい警備府において、ひとりひとりこうやって全力で向き合っていて疲れないのだろうか。それが新鮮でもあり、それから。

 

「……気持ちのいい、話でも、ないけれど」

 

 そう躊躇いがちに答えた私に力強く頷いたこの子だからこそ。多分、話してもいいか、という気分になったのかもしれない。

 

 

 あの場所は、のどかで、あくびがでそうな程には。

 

「──E海域だ!!」

 

 安全海域内の泊地、()()()

 Emergency海域。危険度、特級。それが、その安全海域内にふと湧いて出た。

 哨戒任務に出ていた娘の消息が途絶えて、そして原因を確かめるべく様子を見に行った一人の報告によりそれはあらわになった。

 応援がくるまでどれくらいだ、今いる戦力は。相手の、強さは。そこにヤバいやつがいる、ということはわかっても、詳細データを入手できるほどの人手はこの泊地近海にはなかった。

 それでもこの海域には普通に生活している人もいる。応援がくるまでは極力防衛戦に努めるよう、うちの提督が指示を出し、ありとあらゆる艦娘がバタバタと駆け回る。

 その頃ただの候補生でしかなく、ましてどの艦艇かすら定まっていなかった私は、もちろん戦力外としてその泊地に留まるほかなかった。

 ──そうして私は、地獄を見たのだ。

 血だらけの、息も絶え絶えな様子で帰ってくる仲間達。こんな安全海域に高速修復剤なんてもちろん回っているはずもなく、限られた入渠施設でもってぎりぎりの状態で回す。完全回復状態で出撃できる方がまれだった。そう、して。

 

「……雲龍、は?」

 

 私は、それに気づいてしまったのだ。

 私のその言葉に、瑞鳳がパッと視線を逸らした。それだけで、十分だった。

 

「……探してくる」

「は!? ちょっと、なにして」

「うるさい」

 

 その場にあった、彼女の予備の艤装に手を伸ばした。今思えば馬鹿なことを、とも思わなくもないけれど、あのときの私は頭が真っ白で、自分でも何をしているのかよく理解していなかったように思う。

 ──それを万が一にでも動かせてしまうということが。

 

「動くわけないでしょ!? 大体それ、雲龍の改、式……」

 

 どういうことを意味するのかなんて。いつもの私なら、すぐにでもわかりそうなものなのに。

 ──動け、応えろ。

 探しに行かなくちゃ、という気持ちだけで動いていた。動かせるかどうかではない。()()()()()

 バチ、と。青白い火花が散った。それが何を意味するのかなんて、わかっていなかった。

 

「……嘘、でしょ」

 

『──雲龍の艤装は少し特殊なの。原理はよくわからないけれど、調子がいいときはね』

 

 龍の、角、と瑞鳳が呟いた。それに耳を傾けている余裕なんてなかった。

 

「探してくる」

 

 そうして一人飛び出した私が生きていられたのは、全くの幸運であったと言っていい。強力個体と接敵する前に追いかけてきた駆逐艦、軽巡洋艦の娘達に羽交い締めにされ、引きずるように連れ帰らされてしまったのだから。

 

「ねぇ、雲龍は?」

 

 縄でぐるぐる巻きにされて提督の前へと突き出された私は、開口一番そう尋ねた。

 彼はその言葉に目深に帽子を被り直しながら静かに述べた。

 

「同一艦艇は、一緒に出撃することができない。なぜならば不具合を起こすからだ」

「そんな話は聞いてない」

「雲龍の艤装を動かしたそうだな、問題なく」

 

 そうしてじっとこちらを見つめる彼から逃れるように視線を外した。

 その先は、聞きたくなかった。

 

「悪いな。お前には酷なことだと思う、だが」

「いや」

「空母壱番、いや──」

「聞きたくない!!」

 

 ざり、と。提督の帽子のつばに触れる指先に力が入ったのが見えた。帽子の影で表情はよく見えなかったけれど。

 

「今日から、お前が雲龍だ」

 

 彼だってきっと思うところがあったのだろう。それでも、私にとって、その言葉は。死刑宣告に等しいものだった。

 昔から、要領がいい方だった。特に誰かの真似をするのは得意で、一度正しい型を見てしまえばある程度はなぞれる。

 あの人は私の憧れだったから。だからずっと、彼女の動きを目で追っていた。

 ──それが、皮肉にも。最初から改式艤装を乗りこなした天才というレッテルと共に、私が雲龍として歩み始める第一歩と、なってしまうのだった。

 

 

「そうやって、気づけばもう戦場に出ていたから。だから、あの人との記憶も大分朧気になっていて」

「……」

「だから、少しだけ。思い出せないのが引っかかっていただけ」

 

 ぽつりぽつりとたどたどしく話をしていると、なるほど五月雨は聞き上手だった。要所要所で頷いて、先を促す。決して急かさず、妨げにならず。真剣に耳を傾けてくれるものだから、私でもこうやって話すことができたのかもしれない。

 

「でも、いいわ。忘れてしまったのなら、きっと大したことじゃないもの」

「そんなことないです!」

 

 そう諦めと共に呟くと、ようやっとそこで五月雨が大きな反応を返した。

 

「気になってるのなら、きっと大事なことだったんですよ」

「でも、思い出せないのなら意味がないわ」

「あ、諦めちゃダメです!」

 

 どうしてこの子はこんなに他人のことに必死になれるのだろう。それが不思議でしょうがなかった。いつも一生懸命で、前のめりで、たまにそれがから回って転んでしまうような子。不器用な生き方をする子だと思う。そうやって一生懸命にならなければ、適当にやっていけば転ぶことも傷つくこともないだろうに。

 

「あ、そうだ、お盆!」

 

 急に五月雨が素っ頓狂な声をあげた。それに驚いて目を瞬かせながら彼女を見つめていると、うんうんと彼女は頷きながら言葉を続けた。

 

「もうすぐお盆じゃないですか! きっと雲龍さんが雲龍さんのところに帰って来てくれて思い出させてくれますよ!」

 

 そんな馬鹿な。とは思っても大真面目にそう告げた彼女の言葉を真っ向から否定することは憚られた。

 

「……お盆って、確かご先祖様が帰ってくる日じゃなかったかしら」

「雲龍さんは雲龍さんの先輩だからご先祖様と一緒です!」

 

 これは、変なスイッチが入っている。私のやんわりとした否定の言葉をはねのけて。

 

「きっとそんな人だったらひょっこり雲龍さんのところにも寄ってくれますよ、ね」

 

 そう言って、彼女は両手を広げて笑って見せた。

 彼女の長い髪が揺れる。まだ新人だから馴染みきっていないけれど、その海のような、空のような、はたまた彼女の名が表す雨のような青い髪が。

 

「だからかっこいい精霊馬を作って驚かせちゃいましょう」

 

 その優しい青さに一瞬目を奪われて。バカバカしいと思っていた自分は、どこかに消えてしまった。

 

「……流星が、いいわ」

「へ?」

「馬なんかよりずっと速い。あの人は、艦載機が、好き、だったし」

 

 こんなことに意味はないだろう。だけれども、そんなことはどうでもいい気がした。

 

「じゃあ、うんとかっこいい艦載機を作ってお迎えしましょう!」

 

 なんとなく。私は、このとき、この子の周りに人が集まる理由がわかったような気がした。

 

 

「最近よくここで見かけるわね」

 

 ラッシュを過ぎ、人がまばらになった食堂の片隅。久しぶりに一人で黙々と昼食をとっていると、物好きが私に声をかけてきた。

 

「最近レーションだけだと、なーんか物足りないのよねぇ」

 

 グラスの水を飲みながら足柄にそう返すと、足柄はふぅん、と呟いて向かいの席についた。五月雨ちゃんとご飯を食べるようになってからちらほらと相席してもいいか尋ねられることが増えた。足柄もその一人で、五月雨ちゃんと三人で相席した後、こちらを見つければ寄ってくるようになった。たまに面倒くさくてぞんざいに対応してしまうこともあるのだけれど、足柄はその持ち前のおおらかさでもってそれを右から左と受け流し、後腐れもなしなのでまぁなんというか楽ではある。

 

「今日は五月雨はいないのね」

「別にいつも一緒ってわけじゃないわよ」

「まぁ、それもそうなんだけど」

 

 もぐもぐとおひたしを咀嚼して、ふと足柄が呟く。

 

「不思議なものよねぇ」

「何が?」

「五月雨がここに来てからまだそんなに月日は経っていないのに。夕張のそばに彼女がいないことに違和感を覚えるなんて、ね」

 

 意図が掴めず足柄を見返す。彼女は鰯のつみれをつつきながら静かに言葉を続けた。

 

「私達って、海に出て結構長いじゃない。だからきっと、感覚が麻痺してる。当たり前じゃないことがいつしか当たり前になって、そしてそれにすら気づいてない」

 

 過同調による生の実感の喪失。戦いに出れば恐ろしい敵と相対し、時には仲間さえも失う。そういった環境下に居続け、そんなことを繰り返していれば、その異常はもはや日常の一部と化す。

 

『自分を大事にしない夕張さんなんて嫌いです』

 

 生きていれば、治る。大破状態で進軍さえしなければどんなにボロボロでもきれいさっぱりと。それが私達にとっての当たり前。だけれども、だからこそ。きっとそれは、五月雨ちゃんにとっては当たり前ではないのだろう。

 

「だからね、私、五月雨好きよ。あの子はあの子のまっさらな感性でもって、私達のそれに寄り添ってくれるから」

「……そう」

「夕張だってそうでしょ?」

 

 最初はほんの気まぐれだった。別に仲良くなりたいからとか、先輩として格好つけようとかそういった意図は全くなく、ただお腹が減ったし、あの子を置き去りにするのもなんだな、くらいの気まぐれ。生来、他人に興味がない。別に人が嫌いなわけではないけれど、元々一人でいることが苦にならないタイプだった私は、誰かとつるむといったことを一切せず、ただなんとなく居合わせた人と適当にうまくやっていくような、いわゆる浅い人間関係しか構築してこなかった。自分が何かに熱中しているときに水を差されるのが非常に嫌いだったというのもある。だから私の人づき合いというものは、私がそれに飽きたときの暇つぶしのようなものだった。つまるところ、私はどこまでいっても自己中心的なのだ。

 

『あっつ! は、ふ』

『……お水飲む?』

 

 そう、だから。私は優しくなんてないのだ、五月雨ちゃんが言うように。

 あの日、熱々のコロッケを涙目ではふはふと必死に食べる彼女を見て。思わず、ふ、と気が抜けるように笑ってしまった。あの寂れた食堂からの帰り道。いつもだったらさっさと足早に帰ってまた作業へと没頭するところだったのだけれども、帰り道で見上げた空がいつもより綺麗に見えたから。なんとなく、彼女と歩くその時間がなんだか心地よくていつもよりゆっくりと帰った。

 多分、きっと。私の世界は、彼女と一緒にいるとき。少しだけ広がるのだと思う。

 

「……ノーコメントで」

「ふーん?」

「うっわ、その顔、腹立つ」

 

 ニヤニヤとこちらを見る足柄に軽くイラっとしながら水を煽る。こいつだって多分、五月雨ちゃんが来なければこんなに私にちょっかいを出してはこなかっただろう。それを鬱陶しく思うことも無きにしもあらず、だけれども。

 

「後で神風ちゃんに涼風にごねまくって困らせてたことチクってやろ」

「ちょ、なんでそれを!?」

「兵装実験データまとめて提出しにいったとき涼風が盛大なため息をつきながら私に愚痴ったから」

 

 まぁ、悪くはない。面倒くさいことも、多いけど。

 

 

 彼女がいる日常は、少しだけ私の世界を広げてくれる。例えば世界がいつもより少しだけ色づいて見える。例えば、いつもより人との繋がりが少しだけ増える。きっと五月雨ちゃんはそうやって私の世界をそういった何かしらに繋げていってくれるような子なのだと思う。

 

「……私、専門は機械なんだけど」

 

 だから彼女は今日もまた私と何かを繋いでゆくのだろう。

 

「うう、私も、雲龍さんも不器用で」

 

 半べそで粉砕されたきゅうりを両手の平に乗っけてこちらへと見せる。うん、それはよくわかった、わかったけど。

 

「あの、五月雨ちゃん」

「夕張さんなら手先が器用かなって」

 

 やりたいことを邪魔されるのは嫌いだ。鬱陶しく構ってくる人とかも苦手。だからこそ私は浅い人づき合いでもってへらへらとやり過ごしてきたのだから。だから本来ならば、彼女だって面倒くさいと思ってしまってもいいはずなのだ。なのだ、けれど。

 

「ダメですか……?」

 

 うるうると目を潤ませながらこちらを見上げる五月雨ちゃんと、その後ろでぼけらっと突っ立っている雲龍。実際にちょっと面倒くさいとは思ってしまっている。それでも。

 

「……」

「……や、って……みる、けど」

 

 最終的に巻き込まれてしまうのは、なぜなのだろう。五月雨ちゃんが五月雨ちゃんたる所以だろうか。

 

「流星がいいわ」

「あんたは少しは遠慮しなさいよ!!」

 

 とりあえず腹が立ったので雲龍には引っ掛けてあった上着を投げつけてやった。それをいともたやすくひょーい、と避けられてしまったことは、さらに腹立たしいことではあったけれど。

 

 

「わ、なんですかこの騒ぎ」

「あ、吹雪ちゃん」

 

 ひょっこりと工廠に顔を覗かせて見れば、そこにいる人達、艦娘から果ては艤装技師まで、いつものように艤装とにらめっこ、ではなくきゅうりやら茄子やらとにらめっこをしながらわいわいがやがやとしているものだから、思わず近くにいた艤装技師に声をかけた。

 すると彼はひょいっと手の平にそれをのせてこちらに見せてきた。

 

「……なんですか、これ」

「精霊馬だ」

「……馬?」

「もとい、精霊艦載機だぜ!」

 

 へへ、と鼻をこすりながら何やら得意げである。なるほど、彼がこちらに見せている精霊艦載機とやらは中々に精巧にできていた。きゅうりと茄子をうまくつなぎ合わせてそれっぽい雰囲気が出ている。

 

「で、何なんですか、それ」

「あれ、吹雪ちゃんこういうの疎い? お盆だよお盆、これでご先祖様がこっちに帰ってくるのを援助してやるのさ。本来は馬なんだけどこっちのが速そうだろ?」

「……ああ、祖先信仰の一貫なんですね」

 

 そういえばこの時期になると提督がお墓参りによく行くな、あれはそういう意味だったのか、と合点がいく。

 

「祖先、信仰……?」

 

 そう言って彼は軽く首を傾げた。ああ、うん。日本人ってこういうところがある。お盆、だっけ。とにかく行事としては認識していてもその本質までしっかりと理解している人は少ないような気がする。お祭り好きな日本人らしいと言えばらしいけれど、流石にクリスマスも便乗しているのには一瞬閉口したけれど。

 

「あきつ丸さんうっま!」

「ははは、陸軍は自炊が基本でありますので」

「ぐぬぬ、負けないわよ!」

「あ、足柄姉さん、なにもそんなものまで張り合わなくても」

「やるからには一番を目指すのよ!!」

 

 少し離れたところではわいわいと非番の艦娘が楽しげに作業をしていた。そこから更に少し離れたところでは、夕張さんを中心とした艤装技師達、艦載機ガチ勢がここのフォルムをよりリアルに近づけるには……なんて話し合いをしながらめちゃくちゃにクオリティの高いものを作り上げていた。

 その様子をぼんやりと眺めながら。

 

「……人って、不思議だなぁ」

 

 思わず、ぽつりと言葉がこぼれ落ちた。

 

「ん?」

「私もなにか作ってみようかな」

「おーし、オススメは彩雲だ」

「なに言ってんだ瑞雲だろ、瑞雲はいいぞ」

「いえ。普通のでお願いします」

 

 どうせ艤装の点検中で海に出られないのだから。こんな日があってもいいだろう。きゅうりを一本手にとって、とりあえずぷすりと爪楊枝を刺してみながら、なんとなくそんなことを思ったのであった。

 

 

「なんだか大事に……」

「なったわね」

 

 先程どうよ!? と夕張が微かに目を血走らせながらずいと差し出した流星(きゅうり)をすいと操りながら五月雨に相槌をうつ。やるからには全力よ、例えきゅうりでも、とさらなる改良を求めて二号機に取り掛かっているのだから、つくづくものづくりに関わる人は難儀な性格をしていると思う。言ったらまた夕張に上着を投げつけられそうだけど。

 ちなみに五月雨はといえば、せめて帰りに乗る牛さんくらいは、と先程から茄子にプスプスと爪楊枝を刺している。

 

「ふふっ」

「?」

「きっと雲龍さん、いつもより長く雲龍さんといてくれますよ。この流星でひとっ飛びで駆けつけてくれますから」

 

 そう言って、五月雨は工廠から空を見上げた。

 いい天気、だった。突き抜けるような青い空。まばらに流れる入道雲。きっと今日艦載機を飛ばしたら気持ちがいいだろうというくらいには。

 夏の空は好きだった。あの人も好きだと聞いて、もう少しだけ好きになって。そうして最後には苦手になった。だって。

 

「……あ」

 

『きっと、死んでしまったとしても──』

 

 あの後なんて言っていたのか、思い出した。

 夏の空は苦手だ。あの人と見上げた空を思い出すから。あの人のことに繋がる事柄、全てがひどく苦しい。だから好きだったものは少し苦手になってしまった。だって、私は。

 

『ひとりぼっちなんかじゃないわ。死んでしまった仲間達はきっとそうやって海に帰って、それから空に浮かぶ雲になって私達を見守ってくれてる』

 

 きっと、こんなに月日が経ってしまった今でも。

 

『そうして雲はやがて雨になり、海へと帰ってひとりぼっちになってしまっている仲間を見つけ出してはまた空に帰っていくの』

 

 彼女の死を、受け入れられていなかったのだ。

 

「う、雲龍さん!?」

「……?」

 

 ぎょっとした五月雨が慌ててスカートのポケットからハンカチを取り出す。そうしてそれを私の頬に当てたことで、ようやく自分が泣いていることに気がついた。

 

 ああ。会いたい、なぁ。

 またああやって、縁側に座ってのんびりとお話をしたかった。

 もっともっと、あの人の後ろ姿を、艦載機を操る様を見ていたかった。

 

『──壱番!』

 

 もっと、もっと。私は、あくびが出そうなほどに穏やかなあの場所で。あの人達と、もう少しだけでも長く、笑いあっていたかったのだ。

 

『だからきっと、寂しくなんてないわ、ね』

 

 寂しい。ようやく彼女の死と向き合えた私の心にすとんと落ちた言葉は、そんな言葉だった。

 お前が今日から雲龍だ、と言われ。彼女の死を受け入れる間もなく海へと駆り出された。きっと私は、他の誰よりも早く地獄を見てしまったから。だからこそ、それが当たり前となっていた。

 人は死ぬもの。悲しんでいれば次はきっと自分の番だ。ほら、過去を振り返ってる暇なんてない、目の前の敵を殲滅しろ。そうやってがむしゃらに海を駆けて、そうして、あるときぷつりと何かが切れてしまった。

 こうやって、戦争の兵器として使い潰される人生に、一体なんの意味があるのだろう。そう思ってしまってからは早かった。戦闘に身が入らない、海に出ることすら億劫だ。過同調の弊害もあったのだろう、なんとなく生きている実感がもてなくてあてもなくふらついては興味をひかれるものに近寄ってみる。そうやって辿り着いたのが結局あの人と見上げた空だというのだからちゃんちゃらおかしい。

 

「だ、大丈夫ですか……?」

「平気。花粉症よ」

「かふんしょう」

「白樺アレルギーなの」

 

 白樺……? とキョロキョロと辺りを見回し始める五月雨に、ふと笑う。

 

「五月雨」

「はい?」

「あの人、本当にここに来てくれると思う?」

 

 きょとん、と五月雨がこちらを見上げる。その奥では、できたぁー! 流星改!! と夕張が雄叫びをあげ、周りから喝采をうけていた。

 随分にぎやかだ。いつだってみんな好き勝手やって、一部の人達がやたらうるさい大湊警備府だったけれど。こうやって、仲間が一ヶ所に集まってわいわいとやっているところというのは、あまり見たことがなかった。

 

「はい、絶対」

 

 そうやって笑いかける五月雨を眺めながら。確かに、これだけ騒がしくしていればあの人のことだ、なんだなんだとひょっこりと顔を出すに違いないと。私も笑い返すのだった。

 

 

「うん! りゅう! さーん!!」

 

 息を切らせながら、目的の人物の名前を大声で呼ぶ。

 

「……みつかっちゃったわ」

「なんだか、前より分かりづらいところにいませんか?」

 

 工廠裏の日陰で猫と戯れていた雲龍さんに文句を言うと、彼女はゆっくりと首を傾げながら言葉を続けた。

 

「だって。面白くないじゃない」

「え?」

「簡単に見つかってしまったら、楽しくないわ」

 

 ぴろーんと猫を抱えながらそんなことを言ってのけた彼女に思わず絶句する。

 

「もー! かくれんぼじゃないんですよ!」

 

 私がそう怒ると、雲龍さんの代わりに猫がにゃあと答えた。き、気が抜ける。

 

「でも楽しいでしょう」

「楽しさよりも、疲れがですね……」

「にゃー」

 

 くいっと猫の手をもて遊びながら鳴き真似をする彼女に、怒る気が失せた。

 

「もー……相変わらず自由気ままなんですから」

「人はそんな簡単に変わらないもの」

 

 猫を逃がしてうっすらと笑いながら雲龍さんが立ち上がった。

 

「風の吹くまま、気の向くまま。雲なんて、そんなものでしょう」

 

 ここ、大湊警備府にいる艦娘はほとんどが問題児だ。例えば無断で演習に出る。例えば訳のわからない新兵装を試して湾口施設を吹っ飛ばす、例えば大量の揚げ物を量産しては皆の胃袋に爆撃をする。そうして、たとえば。ふらふらとひとところに留まらず、捕まえるのが難しい。

 

「慣れてきちゃった自分が、嫌……」

「あら」

 

 顔を両手で覆ってさめざめと嘆いていると、くすくすと雲龍さんが笑った。

 

「ようこそ、大湊警備府へ」

 

 他人事だと思って。思わずうー、と恨めしそうに彼女を見上げると、それはそれは楽しそうにころころと笑うものだから。

 まぁ、いいか、なんて思ってしまうから、きっと私はこの人達に振り回されっぱなしなのだろうけれど。

 

 




4.16.2021 時系列をちょっと調整。風吹かばの後の時系列へと変更、こちらの本文に変更はありません。


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虎落笛(もがりぶえ)に導かれ(大湊警備府:ガングート、神威)

ガングートさんと神威さんの出会いを中心とした、秋に移ろいゆく大湊警備府での一幕。


 

 ここ、大湊警備府は歴戦の問題児達が集うことで名高い。北方海域の防衛を中心任務とする大湊は、とかくその荒波を乗りこなせる熟練のスキルを求められる。しかしながら、艤装のメンテナンスだなんだが一々面倒であり、艤装艦魄回路による結界で守られてるとはいっても身を震わさざるを得ない北方海域の任務は、はっきり言って人気がない。横須賀の護衛任務がつまらないという人気のなさであるとするならば、大湊の人気のなさはひたすらつらい、寒い、しんどい、とそういうところらしい。

 そんなわけでいつの間にか腕はいいけど一癖も二癖もある艦娘達を押しつける場所となってしまった大湊には、変わった背景を持つ人達も多く存在する。

 例えば、あきつ丸さん。陸軍から出向してきた彼女は、ちょっと風変わりではあるけれど特段問題を起こすような人ではない。ただ、陸軍と海軍の溝は思った以上に深く、面倒事はごめんだ、と各鎮守府で押しつけ合いが勃発し、最終的にうちの提督が重い重いため息をつきながら引き受けたのだとか。

 そうして今日は、あきつ丸さんのようにちょっと変わった立場ではあるけれど、そこまで問題は起こさない……こともない人に分類されるとある艦娘を探していた。

 ああ、いたいた。遠目で埠頭で占守ちゃんと戯れてる彼女を見つけて気持ち足早に近づく。

 

「もう一口くださいっしゅ」

「貴様、さっきから何回催促してると思ってるんだ」

「占守は育ち盛りっしゅ〜くださいっす!」

「チッ、ほれ」

 

 座り込んでいる彼女の頭の上に顎を乗せゴネる占守ちゃんに手元のカップアイスを一口すくってみせると、占守ちゃんはなんとも幸せそうにそれを頬張った。

 

「あー、酒保に追加を買いに行くか……」

「占守、チョコアイスがいいっす」

「もうやらんぞ!!」

「あ、あのぉ〜」

「ん?」

 

 恐る恐る声をかけると、今回のターゲットである彼女がこちらに振り返る。さらり、と癖のある銀髪が揺れ、意志の強そうな琥珀色の瞳がこちらを捉える。真顔だと切れ長な目や左頬にある傷のせいもあって中々に迫力がある顔立ちなので、着任当初は彼女も怖そうな人リストに入っていたのだけれども。

 

「おお、ちっこいのか」

 

 こちらに気づくと同時に破顔した彼女──ガングートさんは、その外見に反して意外にも面倒見がいい姉御肌、とでも言うのだろうか。海防艦や駆逐艦から人気の、この大湊でもわりかし古参に入るロシア戦艦なのである。

 

「……寒くないんですか?」

 

 秋に差し掛かるだろうというこの時期。結構肌寒くなってきたというのに、ガングートさんときたら普段から着ている赤い半袖シャツの胸元を大きく開け、寒空の下アイスを食べていた。

 

「暑いからアイスを食べているんだろうが」

「ええ……」

「占守はアイスが食べたかっただけっす」

「なんだ、貴様も食いたいのか?」

 

 そうしてほれ、と差し出された紙スプーンの上に乗る一口大のアイスを、おずおずと頬張る。ひやり、とバニラアイスのほのかな甘みが口でほどけた。

 

「早く冬にならんもんか……年々暑くなって嫌になる」

 

 そうぼやきながらまた一口すくって自分の口に運び、そのまま咥えた紙スプーンをガジガジと噛む。大湊の夏は涼しい方だと思うけれど、どうやら極寒の地、ロシアから来た彼女にとってはそれでも暑いらしい。今日はいつも肩に引っ掛けているコートすらどこかに置いてきているようだった。

 

「と、いうか何か用があって来たんじゃないのか、ちっこいの」

「ああ、ええと」

 

 そう言われて斜めがけしていたポーチからゴソゴソととある書類を取り出す。

 

「ガングートさん」

「なんだ」

「読めません」

 

 彼女の眼前に件の書類を広げる。それと同時に占守ちゃんはあ〜と間延びした声をあげ。そうして当人は思わず渋面を作るのであった。

 

 

 ずかずかと廊下を大股で歩くガングートさんを必死に追う。歩幅が大きいから自然と小走りになりながら彼女に声をかけようとしたのだけれども、一足遅く、すでに彼女はノックもなしにバーン! と執務室の扉を開け放っていた。

 

「おい、スズカゼ、いい加減貴様らもロシア語のひとつでも──」

 

 声を荒らげかけたガングートさんが不自然に言葉を切る。そうして私は今までの勢いを殺しきれず、そのまま彼女の背中へと衝突した。

 

「あいたっ! 急に立ち止まらないでください、ガングートさん」

 

 鼻をさすりながら彼女の背後から執務室を覗く。すると、そこには見知らぬ人物がいた。

 青を基調とした民族衣装をまとい、額には見慣れぬ文様が刺繍された瑠璃色のはちまき。彼女が振り返ったときにさらりと揺れた銀髪は、その色によく映えていた。

 

「イランカラㇷ゚テ」

 

 露草色の瞳を少し細めて柔らかく笑った彼女の口から発せられたのは、異国の言葉。

 が、外人だー! と今まさに私の真ん前に突っ立っているガングートさんのことをさておいてパニックになりかけていると。

 

「カモイ!」

 

 急にガングートさんが両手を広げてその人に歩み寄った。

 

「久しいな!」

「はい、ガングートさんも相変わらずお元気そうで」

 

 バシバシと肩を叩きながら心底嬉しそうな声をあげるガングートさんに、カモイ、と呼ばれた彼女も笑って答えた。

 

「……ガンさんよぅ」

「あん?」

 

 蚊帳の外になりつつあった涼風がようやっと口を開く。その顔はどこか呆れているようでもあった。

 

「五月雨にゃそれ、刺激が強い」

 

 そうして、ひゃーと先程素っ頓狂な声をあげ、そのまま固まっていた私を指差したのである。

 いや、だって。すっと寄っていったと思ったら流れるようにカモイさんの頬にキスをするんだもん、そりゃあびっくりしちゃうよ。

 

「普段は我慢してるだろうが」

「神威さんもさぁ、断っていいんだぜ?」

「えっと、別に嫌なわけではないので」

「そうだろう、そうだろう。なんせ私とカモイの仲だ」

 

 そう言ってふふん、とどこか得意げな顔で神威さんの肩に手を回す。や、やっぱりお二人ってそういう。

 

「あのな五月雨」

「ひゃい!」

「挨拶」

「……へ?」

「これ、ただのロシア式挨拶」

 

 あい、さつ……? 

 

「日本人はスキンシップが少なすぎてつまらん」

「と、こんな感じでなんつーんだ、まぁセクハラの苦情が多発したんでこれだけは禁止したんだよ」

 

 恐るべし、ロシアの挨拶文化。思わず戦々恐々としていると、こほん、と一つ咳払いをしてから涼風が改めて神威さんを紹介してくれた。

 

「えー、こちら海軍省人事局所属の神威さん」

「海軍省! 人事局!?」

 

 その言葉に思わず背筋をびしっと正す。

 はっ、もしかして私の成績がふるわないからクビにするという通達だろうか。どうしよう、この前目をつぶってぶん投げた爆雷が何故かまっすぐ夕張さんめがけて飛んでいって、うぉおおおおお!? とすんでのところで夕張さんがかわしてくれたおかげで事なきを得た、五月雨殺人未遂事件が等々お上にまで伝わってしまったのか、それとも……。

 あれやこれやと思い当たる節を思い起こして思わず涙目になっていると、涼風が呆れたように私に声をかけてきた。

 

「五月雨ぇ、多分五月雨が思ってるようなことじゃないからな?」

「ふぇ?」

「ええと、大湊自体には用はなくて。次の任務地へ向かうついでに立ち寄ったので、ご挨拶を、と」

「私、クビじゃないんですか?」

「どこをどうしたらそんな勘違いするんだよ……」

 

 涼風はため息を一つついて、頬杖をつきながら半目で改めてガングートさんに声をかけた。

 

「で、なんの用なんだよ、ガンさん」

「ああ、そうだった」

 

 懐から件の書類を取り出し、ピラリと涼風にそれを見せながら。

 

「貴様、いい加減ロシア語の一つでも覚えんか」

 

 そう言ってのけたガングートさんに、涼風がぴくりと頬をひきつらせた。

 

「……あのな、ガンさん」

「なんだ」

 

 すぅっと息を吸い、ワンテンポ置いて。

 

「せめてブロック体で書けってんでぃ!!!」

 

 涼風の怒声が執務室に響き渡る。

 読めないことで悪名高い、ロシア語の筆記体でもって書かれた書類。ミミズがのたうち回ってるみたいっしゅ、これなら占守でも書けそうっしゅ、という占守ちゃんの一言が彼女の逆鱗に触れたようだったのだけれど。

 

「読めねぇ」

「読めません……」

 

 読めないものは、読めない。キリル文字で書かれていても読める気はしないけれど、この筆記体はそもそも読む気をがっつりと削いでいく。

 

「なんだと! おいカモイ!」

 

 同意を求めてガングートさんが神威さんを振り返ると、彼女は曖昧な苦笑いを返した。

 

「貴様ら、我が祖国を馬鹿にする気か!! 銃殺刑にするぞ!!」

「うるせー! 読めねぇもんは読めねぇんでぃ! そっちこそ日本語の一つでも覚えろってんでぃ」

「漢字がわからん!! なんだあれは馬鹿にしてるのか!?」

 

 逆ギレと逆ギレの応酬。ガングートさんは会話は達者なのだけれど、読み書きは全くと言っていいほどにできない。だからよく海防艦や駆逐艦の娘を頭に乗っけて読み上げてもらいながら書類を書くのだけれど、頑なにロシア語、しかも筆記体で書いてくるものだからこのやり取りも最早日常の一部であった。

 ガングートさんは声を荒らげながら、ビッと私を指差して。

 

「ゴガツ、アメ!」

「さみだれです……」

 

 そうして次に神威さんを指差して。

 

「カミ、イ!」

「かもい、です」

「かむい、って読む人もいるよな」

 

 そうして最後にはぐしゃぐしゃと頭を引っ掻き回しながら、

 

「わかるかぁー!!!!」

 

 と執務室の中心で日本語に対する不平不満をぶちまけたのであった。

 

 

 羅針盤が狂う、という現象は、艦娘になれば誰しもが必ず体験する現象だ。目的地に行こうとすると、何か恣意的な力が働いて逸れてしまう。原因不明の厄介な現象ではあったけれど、どうやら艦隊の艦種を調整したり、特定の艦艇を組み込んだりすると何故かそれが解消される、というのが共通認識となりつつあった。

 あのときも、そんな艦隊編成を模索するための出撃の一貫として、私はアルフォンシーノ海域へと向かったのだ。

 立ち込める濃霧、なにかに絡めとられるかのように当初の目的地から外れに外れ、そうして嵐に巻き込まれて流された場所が悪かった。

 アルフォンシーノ海域の北に広がる、地球上で最も過酷な海域の一つと言われる場所。強風、極寒、そして氷のように冷たい水。いくら艦娘が艦魄艤装回路の結界に守られてるとはいえ、限度がある。びゅうびゅうと耳鳴りのような風切り音が鳴り響くなか、常に十メートル近い高波に揉まれ、四苦八苦しているうちに私は艦隊からはぐれてしまい──運の悪いことに、孤立したと同時にはぐれ深海棲艦と接敵してしまったのだ。

 

「おい貴様、無事か!」

 

 だからあのときは、ああ、ここで死んでしまうのだな、と少し覚悟した。

 戦闘能力をほぼ持たない給油艦である自身が孤立していたら、格好の餌食だ。どうにもこうにも振り切れず、そうこうしているうちに本当に自分がどこにいるのかも見失い──死を覚悟したとき、彼女は颯爽と私の前に現れたのだ。

 あんなに私が苦労して逃げ回っていたというのに、彼女の一撃でもってそれはあっけなく沈んでいった。私と敵深海棲艦の間に割り込んでしばらく砲撃の応酬をしていた彼女は、耳慣れぬ異国の言葉を発しながら私を振り返った。先程の戦闘で破損した艤装がかすめたのだろう、彼女の左頬には、真一文字に切り裂かれた傷跡から血が流れており、よく見なくても彼女自身もすでにボロボロであった。

 

「所属はどこだ?」

「えっ、と?」

「ああ? 貴様ロシア艦ではないな?」

 

 ずんずんとこちらに近づいてきた彼女は意志の強そうな琥珀色の瞳をすがめ、早口でなにかをまくしたてていたけれども、残念ながら私には何を言っているのか全くわからなかった。

 ガシガシと頭をかいた彼女は、軽く舌打ちをすると六分儀を取り出して天測を始めた。

 

「……ここから一番近いのはペトロパブロフスク・カムチャツキーか」

 

 しばらく海図とにらめっこをしていた彼女は、なにかをぼそりと呟くとこちらに海図を見せ、ある一点を指差した。

 

「いいか、ここに行け」

「……ここに、行くんですか?」

「あとこれをやる。これを見せれば、まぁ、最悪死にはしないだろう」

 

 ぐい、と海図と懐から取り出された勲章を押しつけられ思わず困惑する。

 ちらり、と上目遣いで彼女を見やれば、彼女はどこか諦観したような表情でなにかを呟いた。

 

「私は燃料がもう尽きる。なに、貴様まで付き合う必要はない」

「……?」

「燃料! ない!!」

 

 ガンガンと自身の燃料タンクを叩いてやけっぱちにその場に座り込んだ彼女を見て、流石に私も察した。

 

「……あの」

「ああ? なんだまだなんかあるのか」

 

 どこか不貞腐れた様子の彼女に、ごそごそと給油ホースを見せながら。

 

「燃料、おすそ分けしましょうか」

 

 そう日本語でもって話しかけると、彼女は一瞬ポカンとして。

 

「XaXaXa!!」

 

 高らかに笑って立ち上がった。

 

「これはいい、さしずめ貴様は私の幸運の女神か!」

「……え、えーと」

「ついてこい」

 

 とても、不思議なことに。言葉の通じぬ、どこの国の人かもわからない少し強面の彼女であったけれども。

 

「なに、悪いようにはしない。私に任せろ」

 

 笑ってまっすぐこちらを見つめる彼女に、私はどこかホッとしたのだ。

 ああ、この人のそばにいれば、きっと私は大丈夫だ、と。

 きっとそれが、どの国でも。艦隊の中心にあり、皆を支える戦艦としての資質というものなのかもしれない。

 

 

 人の数だけ、物語はあるというけれど。

 

「お互い両陣営から死んだと思ったと言われたな」

「まぁ、まさかロシアにお邪魔しているとは思わないでしょうから……」

「……は〜」

 

 ここまで数奇な巡り合わせをする人は、あまりいないんじゃないだろうか。よし、飯だ! 飯を食いに行くぞ! とガングートさんは神威さんのついでに私の手もひっつかんで食堂まで拉致し、そうして食事の間、話の種にと二人の出会いについてかいつまんで話してくれたのだった。

 強面な外見に相反して意外と気さくなガングートさんではあるけれど、神威さんと二人で話している姿はいつもよりもリラックスしているように見えた。なんとなく二人の醸し出す雰囲気からその友情の深さを感じ取っていると、ガングートさんが本日のメインディッシュであるロールキャベツにたっぷりとサワークリームを絡めながら一口頬張った。

 

「ふん、このГолубцы(ガルプツィ)、悪くないな」

「ちょっと変わった味つけのロールキャベツですよね」

「ちっこいのからしたらそうかもな。これはロシア料理だ。主計科が気をきかせてくれてな、たまにこういったものを出してくれる」

 

 そうなんだ、知らなかった。私の知っているロールキャベツよりも濃厚でしっかりした味つけのそれを頬張りながら、彼女の話に耳を傾ける。

 

「日本の飯もうまいんだが、やはり故郷の味は恋しくなるものだからな。あとводка」

「ゔぉーどか?」

「命の水だ」

 

 にやり、とガングートさんが不敵に笑う。その隣では神威さんが苦笑いしていた。

 

「五月雨さんはしばらくは飲めないお水ですね」

「ハハハ、ちっこいのがおっきくなったら一杯やろう」

「……??」

「私は、二人で遭難していたときに何気なく渡されてむせてしまいました」

「温まっただろう。водкаが貴様の命を救ったと言ってもいい」

 

 二人の会話に首をひねっていると、神威さんがロシアのお酒ですよ、とても度数の高い、と教えてくれた。

 

「ま、それでなんやかやあって大湊にな。本当はカモイと所属を同じくするはずだったんだが」

「艦種柄、神威は転籍族だったので……それにガングートさん、南方海域には出撃できないから……」

「出撃できない?」

「はい。暑いところだとガングートさん、まともに戦えないの」

「一回出撃中に服を全部脱ごうとして謹慎をくらったな」

「あの……笑い事じゃ、ないですからね?」

 

 ああ、やっぱり大湊にいる人達ってどこかしら残念なんだなぁ、などとぼんやりと思いながら二人のやり取りを見つめる。比較的無害カテゴリの彼女ではあるけれど、やっぱりどこか変だ。

 

「そういえば、神威さんは今はなんで人事局に?」

 

 食事も落ち着いてきたあたりで、ふと疑問に思ったことを尋ねてみた。次なる任務地へ向かう途中であるといっていたけれど、そもそも人事局のお仕事とはどんなものなのだろうという興味もあった。

 

「そうですね。簡単に言えば適材適所、でしょうか」

「適材適所?」

「私のお仕事は適性検査に引っかからなかった娘達を探すことなんです。海洋民の血を引くからか、そういうのに鼻が利くから」

「海洋民、ですか?」

「アイヌです。北海道、樺太、千島列島などを中心に生活していた、日本の先住民」

 

 アイヌ。聞いたことは、ある。消えゆく民族、アイヌ。確か、文字を持たないから言語や文化の継承が難しく、保全に苦心していると。さらには現存のアイヌ民族はほとんどが日本人と交わり、生粋の者はほとんどいなくなってしまったのだと歴史の授業で習った。

 

「一説では海洋民族を祖とする人達は艦娘適性が高いのだとか。最も私自身の血は限りなく薄いんですけれど」

「……あ、もしかして。い、いら、なんとかって」

「イランカラㇷ゚テ。アイヌ語でこんにちは、です」

 

 不思議な響きの言葉だと思う。方言や訛りとも違う、日本語とは全く異なる言語。その言葉は、どこか懐かしさすら覚える、優しい響きをもっているように思えた。

 

「なのでお仕事の関係で南から北へと駆け回っています」

「はぁ〜」

 

 艦娘を退役した後も海軍省上層部に残ったり、教官になったりする人達は割といるとは聞くけれど。色々なお仕事があるんだなぁと感心していると、ふん、とガングートさんが呆れたように息をついた。

 

「駆け回るというより、のんびり渡り歩いてるの間違いだろう。カモイは昔からそうだ、どうせ今回も趣味のアレにかまけて上に怒られたのだろう」

「アレ?」

「なんだったか、デ、デン……」

「伝承集めです」

 

 少し照れたように神威さんがはにかむと、ごそごそと脇に置いていたリュックからなにやら紙束を取り出してこちらに見せてくれた。

 

「元々祖父が幼少の頃からアイヌの文化について教えてくれたことで、そういうのに興味があって」

「ロシアでも言葉も通じないのになぜか同志と打ち解けて、現地のそういう書物を譲ってもらって?」

「さらに悪化しました……」

「神威さん、ロシア語読めるんですか」

「会話は全くできないんですが、読み書きだけはお陰様で」

「私とは正反対だな」

 

 好きこそものの上手なれ。それだけ熱中できるものがあるのはどこか羨ましくすら思える。手元にある古ぼけた書物は私からしたら全くもって価値のわからないものであるけれど、きっと彼女にとっては宝物なのだろう。

 ガングートさんにからかわれて少し頬を染めた彼女は、照れをごまかすようにんん、と咳払いをした。

 

「結構面白いんですよ。例えば艦娘の語源についてであるとか」

「語源、ですか?」

「はい」

 

 そこで一旦言葉を切ると、神威さんは両手を合わせてきちんとごちそうさまを済ませてから言葉を続けた。

 

「カンムスヒ」

「艦娘、ひ?」

「艦艇の、むすひの神。諸説ありますが、元々"かんむす"とはそういった意味を表す言葉だったようです」

「……むすひ?」

(むす)()。つまり、森羅万象を生みだす源となる、霊的な存在」

 

 さらさらと空に指で文字を書きながら神威さんが続ける。

 

「むすひは、再生と蘇生を司る神。艦艇の力をお借りして、死地に立たされる人類の活路を切り開く源、現人神(あらひとがみ)となれ。当初はそういう意味が込められていたのかもしれませんね」

「……でも、今は艦娘、ですよね?」

 

 対して私がテーブルに娘、と書くと、一つ頷いて神威さんが答えた。

 

「そうですね。言葉の変遷は歴史上よくあることです。例えば英語圏では先住民のことをnativeと表していましたが、今ではindigenousという言葉の方が好まれているように思います」

「……おい、貴様、まさかそこまで手を広げて」

「あ、あくまで! 世間話程度の知識です!!」

 

 割とドン引きしているガングートさんに神威さんは慌てて手をぶんぶんと振りながら誤解だ、と述べるものの、ガングートさんの疑惑の眼差しは晴れることはなかった。

 

「こ、こほん。そういうわけで、神から人へと名を改めたことには、何らかの意味があるのかもしれません……と、まぁ、そういうことを考えるのが好きで」

「は〜、そうなんですね。私、艦娘っておむすびみたいだなぁくらいしか考えてなかったです」

「あ、いい線いっています」

「え?」

「おむすび、のむすひ、の部分も同じ意味なんです。ご飯を握り、人に活力と霊力を与えるという」

「ええー!?」

 

 衝撃の事実である。

 

「だから私達の戦闘食料も基本はおむすびなのかもしれませんよ」

「な、なるほど……!」

 

 思わずうんうんと頷いていると、たまらずといった形でガングートさんが吹き出した。

 

「ハハハ、ちっこいのは聞き上手だな! こんな楽しそうに話しているカモイは滅多に見られないぞ」

「う……だって、ガングートさんはまともに聞いてくれないじゃないですか」

「日本語で聞くには私には話が難しすぎる。ま、酒の話ならいくらでも聞けるがな」

「もうっ!」

 

 ぺち、とガングートさんの肩を叩く神威さんにハハハ、と実に楽しそうにガングートさんが笑う。

 なんか、いいな。国も、言葉も、趣味ですら全く異なる二人に見えるけれど。こうやって楽しそうにしている二人を見て、そういった違いというものは、実は些細なものなのかもしれないと思った。

 

 

『今日はここに泊まるのか? どうせなら私の部屋に来い、久々に酒を飲もう』

 

 食事を終えたガングートさんはそう言ってちょっと野暮用を済ませてくる、と席を外した。のんびりと食後のお茶を啜りながら野暮用ってなんでしょう、と一人言をこぼすと、

 

「……演習という名の、とある重巡洋艦のストレス発散です」

 

 と、なにやら遠い目をして五月雨さんがポツリと呟いた。私が現役だった頃とメンツは大分入れ替ってきているみたいだったけれども、いつもいつも大湊は大変そうだなぁと思った。

 食事に付き合ってくれた五月雨さんに別れを告げ、一人のんびりと埠頭に向かって歩く。埠頭までの道のりを彩る赤や黄色の葉。心地よい葉擦れの音と共にまたはらりと葉が舞い、秋の訪れをしみじみと感じながら海へと出た。コクガンの群れを観測するには、まだ少しだけ早い。もうちょっと早く大湊を訪れていたら陸奥湾を回遊するカマイルカの群れに出会えていたかもしれないし、ちょっと時期外れに訪れてしまったな、と海を見ながら考えていると、不意に声をかけられた。

 

「久々の大湊への寄港ですね」

「吹雪さん」

 

 大湊での数少ない顔なじみである彼女、吹雪さんはこちらに笑いかけながら歩み寄ってきた。

 

「今まではどちらに?」

「九州です」

「今回はいい出逢いがありましたか?」

「はい」

 

『──それになったら、弟達はお腹いっぱいご飯を食べられるだろうか』

 

 そうじっと私を見つめ返した彼女。

 どこまでもどこまでもまっすぐな眼差し。そうしてその鳶色の瞳に秘めた静かな強さと優しさ。

 

『──、僕は……』

 

 ああ、この子だと思った。

 その姿がまばゆい光にかき消されようとも。例え誰にもわからずとも、それでも静かに寄り添う月のように。

 例え秋の月のように美しくあらずとも。例え人々を照らす月になれずとも、例え涼やかな月光を降り注がせることはできずとも。それでも守るべき者達に静かに寄り添い続け、果たせなかった約束を胸に敵艦隊へと一人飛び出し、自分を囮とすることで仲間を守って沈んだ、どこまでもどこまでも清貧に甘んじたかの艦艇。

 夏草が揺れる畑で黙々と雑草を刈っていた彼女がこちらを見上げたとき。ああ、同じ色をしている、と思った。

 北へ南へと色々な艦娘達と旅するうちに気づいた。その人がまとう雰囲気。私はなんとなく色として感じるのだけれど、艦魄に宿る付喪神の分け御霊と艦娘自身の色というものは、面白いくらいに同じだった。

 

「まさか姉妹の方も適性があるとは思いませんでしたけど……神威はそこまでしっかりと辿れるわけでもないので」

「辿る?」

「ええ、同僚の方には艦艇と艦娘の縁が見える方もいらっしゃいますので。そういう方に比べると神威は全然です」

 

 へぇ、と相槌をうつと、吹雪さんは私の隣に並んで一緒に海を眺めた。

 

「……こんなお仕事をしていると、どうしても縁という存在を実感してしまいます。見えるかどうかはさておいて」

 

『──カモイ!』

 

 この広い広い世界で、巡り会えた奇跡。酒を酌み交わし、笑って話に花を咲かせる。そうやって人と交わり過ごす、長い長い人生における一瞬の瞬きのような日々は、なんて儚く、尊いものなのだろう。

 明日には失うものもある日々を過ごしてきたからこそ。だからこそ、見えなくても確かにそこにあり続けるものが、私には眩しく映るのだ。

 そういえばあの人は酔うとよく笑う人だったな、とふと思い出してくすりと笑う。普段からそこそこ飲む方ではあったけれども、こうやって久々に友と会ったときなどは秘蔵のお酒を取り出し、皆に振る舞いながら実に楽しそうにするのだ。

 

「……縁、か」

 

 不意に。ぼそり、と吹雪さんが呟いた。その声につられて彼女の横顔を見やる。彼女は、どこか遠くを見つめながら静かに言葉を続けた。

 

「付喪神と艦娘にも縁があるんですね」

「はい。……自然も、動物も、植物も。人の手によって作り上げられたものも、皆等しくカムイである」

「神様ってことですか?」

「少しニュアンスは異なりますが。私はどちらかというと友人、のように捉えています」

 

 祖父は生粋のアイヌではなかった。アイヌの文化は口伝であるから、その場所、人によっても習わしが異なることもざらだ。それでも祖父は、その根底にある考え方に、どうしようもなく惹かれてしまうのだ、と言って色々と私に教えてくれた。

 

「人はカムイに支えてもらい生きている。だからモノであった付喪神と人である艦娘との間に縁があったとしても、なんら不思議はないのではないでしょうか」

 

 幼い頃に祖父が見せてくれたカムイノミという儀式は、未だ鮮明に思い出すことができる。

 生活の一助となり務めを果たした壊れた道具へと礼を尽くす、その光景。幼心に、美しいと思った。だからこそ、今に至るまで私の心には祖父の教えが息づいているのだと思う。

 

「最期の時まで私達人と共にあり、苦楽を共にした彼女らを礼を尽くしてカムィモシㇼ……本来彼女達がいるべき世界へと送り返す。そうすることで、今度は悲しみの連鎖を断ったお姿でお会いできるから」

 

 アイヌらしさであるとか、正しい文化の形であるとか。そういったものは、未だよくわからない。それでもガングートさんと出会い、他国の文化、人となりを知ることで私の世界は広がり、そうして私は思ったのだ。文化というものは、人と世界の付き合い方の一種なのではないかと。

 そこに生きる人々が、何を美しいと思い、何を大事にするか。その形がそれぞれ異なるだけで、きっとそれに正しさも、優劣などもないのだと。

 

「だからきっと、人と付喪神との縁はそのためにあるんですよ」

 

 だから私は、私が美しいと思ったその考え方をこの心に留めて生きていきたいと思うのだ。

 そう言って隣に並んだ彼女へと笑いかけると。

 

「……そう、ですか」

 

 しばらくじっとこちらを見つめていた吹雪さんは、ついと海へと視線を戻しながら。ぽつりと、そうこぼした。

 

 

「貴様は昔から神威が好きだな」

 

 久々なので、もう少し辺りをお散歩してきますね、と言う神威さんを見送り、一人ぼんやりと埠頭にたたずんでいると、気難しそうな声が辺りに響いた。

 

「……バレました?」

「貴様が率先して寄っていく海軍省の奴なぞ、神威くらいだからな」

 

 ガチャリ、と釣具を鳴らして提督がこちらへと歩み寄ってくる。

 

「今日は釣れましたか」

「キスが何匹かな。天麩羅にでもするか」

「ああ、いいですね」

 

 ボウズはありえないと言われる釣り場ですらボウズをかますくらいには釣りが下手なうちの提督ではあるけれど、それでもたまにこうやって釣果を細々と振る舞ってくれる。そんな日はなんだか得をした気分になるから、彼のこの趣味もどうして中々悪くない。

 クーラーボックスの中を見ると、小ぶりのキスが数匹鎮座していた。

 

「一緒にいて居心地がいいんですよね、神威さんは。古鷹さんとも気が合うみたいですし」

 

 最も古鷹さんに関して言えば伝承、神話マニア同士という意味で気が合うのだろうけれども。正直私だって古鷹さんのああいう話はちょっと眠くなる、古鷹さんと和気藹々と話を弾ませることができる彼女はとても希少な存在だ。

 

「ああいう人って本来変なものも寄ってきやすいんですけど。そうですね、あちらの表現で言うのならカムイに愛されし人の子、ってところですか。あの人の近くはいつもきれいだ」

「感づかれているんじゃないのか」

「どうでしょう、昔から掴みどころがない人だからなぁ。まぁでも害になることも、彼女に危険が及ぶこともないと思いますよ」

 

 さらりと私や古鷹さんと縁を持つ。さらりとロシアとの間をとりもち、更には伝承に隠された真実の核心すらつく。正直言って、上から見ても結構厄介な存在なのではないかと思うのだけれど。

 

「あの人に向けられる害意は大抵跳ね返されるでしょうから。だからあの人は海軍省人事局にいてもあんな感じでいられるんじゃないですか」

「……稀有な存在だな」

「ええ」

 

 ざぁ、と風が吹く。気づけば青々とした空はその彩度を落とし、層状の雲が高くたなびく。もう秋もそこまで来ている。そうして秋が終われば、長く厳しい冬が来る。

 

「……ここに来て、季節がいくつ回ったか」

「さぁ、一々数えてませんよ」

 

 ぐっと軍帽を被り直した彼のその顔には、いつの頃からか深いしわが刻まれるようになった。

 

「吹雪」

 

 気難しいと言われていた彼は、それでもここ最近は少しだけ丸くなったように思える。それくらいの月日は、経っていた。

 

「人は、嫌いか」

 

 そうしてその長い年月で幾度となく繰り返された問答。

 

「大っ嫌いです。それから」

 

 その答えが少しずつ変わりゆくのも、彼女の言う通り、私と人との間に結ばれる縁の影響だとするのならば。

 

「嫌いなのに憎みきれない自分は、もっと嫌いですね」

「それはまた……実に、人らしいな」

 

 なんて、これは面倒くさいものなのだろう。

 笑えない冗談ですね、と呟きながら、左手にはめられた指輪を弄る。

 

 夏が終わり、秋がくる。そうして秋が過ぎ去れば。

 ──長い長い、冬が来る。

 



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忘れじの香り(佐世保鎮守府:摩耶)

艦娘の喫煙、轟沈描写があります。苦手な方はお戻りください。


 埠頭に出ると、ぼんやりと沈みかけの夕陽を眺めながら紫煙をくゆらせている探し人の後ろ姿を見つけた。

 胡坐をかいて埠頭に座り込んでいる彼女の煙草から立ち昇る煙が風に揺られる。その白煙から相変わらずろくすっぽ吸っていないだろうことも、そうやってただただ口に咥えているだけの煙草から灰がぽとり、と落ちるのを器用に携帯灰皿でもって受け止めているだろうことも、長い付き合いである自分にとっては容易に想像がついた。

 

「ちょっとぉ、摩耶ぁ」

「……あー?」

 

 声をかければ、気だるげに彼女が振り返る。その表情は、どこか疲れているようであった。

 

「……いや、うん、ごめんて」

「人の顔見るなり謝んなっつーの。……謝るくらいなら仕事押し付けんじゃねぇよ」

 

 ため息一つついて煙草を灰皿に押しつけ立ち上がる。そうして摩耶は、かさり、と手元の箱を振って残りを確認しながら煙草をしまった。

 

「んだよ、秋月ーズの報告書はあげただろ。なんか不備でもあったか?」

「いや、そっちでなくてお宅の磯風さんがね」

「……」

「調理室でですね」

「いい、言わんでもわかる」

「後ね、アル重ポーラさんが」

「そっちはアタシ関係ねーだろ」

「お宅の磯風さんとタッグを組んで調理室占拠しておりまして」

 

 摩耶の顔が露骨に面倒くせぇ、と歪む。うん、ごめんて。秋月型四姉妹の面倒を新しく見てもらってるのも、問題児である磯風およびフリーダムイタリア艦の手綱を握ってもらってるのも。こっちも悪気はないんだけど、なんていうかいつの間にか面倒臭い娘達が摩耶の周りに集ってくるんだから仕方ないじゃん? 

 

「あいつら、シメてもシメても忘れやがる……鳥頭か?」

「ちなみに磯っち、いつもお世話になってる摩耶に手料理を振る舞うんだって言って立て籠もったらしいっすよ」

「鈴谷、この世で最も凶悪なものはな、好意による悪行だ」

 

 ひく、と頬を引きつらせながらぴしゃりと摩耶が言い放つ。こんなこと言ってるけど結局毎回磯っちの手料理を食べてあげてるんだから。そういうところが磯っちに愛されてるってことにいい加減気づいた方がいい、無限ループ、こわくない? 

 

「いや〜ごめんねぇ、鈴谷もできるだけのことはしてるんだけどさぁ、磯っちはやっぱ摩耶が動く方が早いから」

「重巡なのに……なんでアタシがガキのお守りしなきゃなんねぇんだよ……」

「対空番長だからね」

「関係ないだろ。あと番長って呼ぶんじゃねぇ」

 

 チャラくてゆるい、空の専門家が集う佐世保鎮守府。そんな風評がつくくらいであるから、こういったくだらないいざこざは日常茶飯事だ。この前は食堂のご飯が日本食ばかりであることに不満を抱いたイタリア艦が食堂に立て籠もってストライキをした。お前らのおかげで週二でパスタ食わされるこっちの身にもなれ! 週五がいいです! うるせぇ!! とドンパチを繰り広げた末、自由に使えるピザ窯を屋外に設置することで合意に達したあの事件も、そういえば摩耶が最終的に収めていた。苦労性の星のもとに生まれてしまったのだ、きっと。

 がりがりと頭をかき、苛立たし気に調理室へと向かおうとする摩耶に、ふと声をかけた。

 

「それ、まだ吸ってたんだね」

「ん? ああ」

 

 海の匂いに紛れ、仄かにふわり、と煙草の残り香が彼女の服から漂う。

 ──アメリカンスピリット。百パーセント無添加であるということを理由に、体にいいはずだと押しつけられてからずっと摩耶が吸い続けている銘柄。割とマイナーな部類に入るそれをポケットに忍ばせては、ときたま、思い出したように火をつける。

 

「で?」

 

 彼女が喫煙家であることを多くの艦娘は知らない。それは彼女が必ず、誰もいない、一人きりの海辺でもって吸うから。

 

「ああ。相変わらず、クッソまずいわ」

 

 それがこの不良重巡洋艦として名高い摩耶の、知られざる習慣だった。

 

 

 両腕で書類を抱え込みながら、執務室へと向かう。配属されてから日が浅い自分にとっては中々に緊張する場所だ。

 いくらうちらの提督、秘書艦がゆるくてチャラい佐世保鎮守府筆頭とはいえ、それはそれ、これはこれ。やっぱりこういう場所って雰囲気があってちょっと気後れしちゃうよねぇ、と扉の前でまじまじと見上げる。

 

「──」

 

 すると、中から微かに人の声が聞こえた。どうやら先客がいたらしい。これはびっくりさせたらいけないな、と少し強めに扉を叩くと、一瞬の間をおいてどーぞー、という鈴谷さんの間延びした声が届いた。

 

「ありゃ、藤波ちゃんじゃん。次の演習海域の申請書?」

「あ、は、はい」

 

 こちらを見るなり即座に要件を言い当てられた。さすが鎮守府内の艦娘のスケジュールを完全に頭に入れていると噂の鈴谷さんだ。

 わたわたと書類を渡すと、鈴谷さんはその場でぱらら、と流れるように書類をめくり、一つ頷いてそれを机に置いた。どうやら目ぼしい不備はなかったようでほっと一息。そうして思わずきょろきょろと辺りを見回した。

 

「あれ? どったの?」

「あ、いえ……ここにいたのって、鈴谷さんと摩耶さんだけですか?」

「あ?」

 

 藤波の言葉に、鈴谷さんの隣で背もたれに深くもたれかかり、まるでふんぞり返るかのように座っていた高雄型重巡洋艦の摩耶さんが怪訝そうな声をあげた。

 う、やーばっ。さり気なく摩耶さんから視線を逸らす。なんていうかいかにも不良って雰囲気がちょっと苦手なんだよね、ろくに話したことはないんだけど。

 

「す、鈴谷さんと摩耶さん以外の声が執務室から聞こえたかもー、なんて、思っちゃって」

 

 視線をさまよわせながらそうこぼすと、一瞬の間を置いて摩耶さんが吹き出した。

 

「あっはは! 夏の怪談にしちゃ、ちょっと物足りねぇな!」

「怪談……」

「出る場所も時間帯も間違ってるよねぇ」

「鈴谷を哀れんで仕事手伝いに来てくれた幽霊かもなぁ?」

「え、マジで手伝ってほしいんだけど。ちょっと顔見せてよ幽霊さーん」

 

 げらげらと笑っている摩耶さんに鈴谷さんが合いの手を挟む。まるでタイプの違う二人が親し気にテンポのいいかけあいをする様は、少し意外に思えた。

 

「ま、冗談はおいといて。空耳じゃねーの、アタシら以外ここにゃいねーぜ」

「そう、ですか」

 

 ぼそりと。扉越しに聞こえた、落ち着いた声。それは、鈴谷さんのものでも、摩耶さんのものでもないような気がしたのだ。でも確かにここには二人しかいないし、気の所為と言われればそうかもしれない。なんとなく釈然としないまま、それでも一応の納得を頷くことで示すと、何を思ったのか摩耶さんはおもむろに私が提出した書類に手を伸ばしたのだった。

 

「ふーん。この規模だったらこっちのがいいんじゃねぇの?」

 

 トントン、と書類を叩いてそう言う彼女に、思わず一歩二歩と近づいて問う。

 

「え? な、なんでですか?」

「こっちのが鎮守府に近いからな、訓練終わったら速攻風呂入れるぞ」

 

 その言葉に思わず目を瞬かせる。全くもって、盲点だった。その発想はなかった。

 

「一番鎮守府に近い海域は倍率高いけど、意外とここはかぶらねぇんだよ、オススメだ」

「ちょっと、秘書艦の目の前でそういうの教えないでくんない?」

「別にいーだろ」

 

 そう言って手元にあったメモ用紙にさらさらと何かを書いて差し出してきた。それを慌てて受け取ると、演習海域概略図に、生真面目な新人艦娘の視点ではまるで思いつかないような豆知識がいくつか書き込まれていた。

 

「駆逐は秘書艦欺いてナンボだぞ」

「まーやー?」

「どうせいつか覚えるんだ、駆逐のガキならな。それがちょっと早まったからってうるせーぞ」

 

 そのやり取りを聞きながら、メモに再度視線を落とした。短時間で描かれた割には正確な海域図。そうして。

 

「……摩耶さんって。字、綺麗ですね」

 

 予想外に几帳面で可愛らしい字に思考が追いつかず、気づけばそんな言葉を漏らしていた。

 

「顔に似合わず、ってか?」

「え!? そ、そういう意味じゃ……」

 

 いや今のはどう考えたってそういう意味じゃん、と自分で思い至り、続く言葉を飲み込んで青ざめる。どう考えたって、失礼だ。

 そんな私の心情を知ってか知らずか、それを聞いていた鈴谷さんが陽気に話しかけてきた。

 

「摩耶はこんな見た目だけど案外根は真面目だよ?」

「こんなん言うな、見た目詐欺筆頭ギャルが」

「え〜?」

 

 佐世保鎮守府の対空戦闘と言えばこの人、と言うのが彼女、摩耶さんだった。そうして彼女が率いる駆逐艦娘達は、対空戦闘の精鋭ばかり。そうしてついたあだ名が対空番長である。名は体を表すというけれど、ここまでピッタリなあだ名をつけられている艦娘は彼女くらいだろう。だからというほどではないけれど、彼女自身が少し粗野な言動をすることと、彼女率いる艦娘達が割と佐世保の中では荒くれというかピリッとした空気を纏う人が多いのもあって、なんとなく苦手だな、と思っていた。

 おそらく、それを見透かされていたのだろう。ぎし、と椅子の背もたれに寄りかかりながら面白そうにこちらを見た彼女は、

 

「苦手意識、ちったぁなくなったかよ?」

 

 なんて穏やかな声音でもって私にそんなことを聞いたのだった。

 

「……そもそも、摩耶さんのこと苦手じゃないですし、もち」

 

 なんとなくそれが悔しくてそう返すと、また笑われた。そうしてそうやって笑う姿は、意外にも柔らかで女性的だなぁと、この人に対する印象を人知れず改めるのであった。

 

 

 日本の各所にある鎮守府は、それぞれ特色がある。例えば大湊警備府は腕のいい問題児の吹き溜まり。おんぼろ隙間風が吹きすさぶ、鎮守府一ブラックと名高い潜水艦を多く保有する資源航路開発担当の舞鶴、落ちこぼれの集う海上護衛担当の横須賀に、最前線を支える呉鎮守府。こう書くと各鎮守府の格付けが一目瞭然である、具体的に言えば呉鎮守府以外は散々な言われようだ。

 さてでは佐世保鎮守府はといえば。結論から言ってしまえば、幸運にも佐世保鎮守府は提督がごねてごねまくってあらゆる空母、および対空戦闘能力の高い艦娘を集めまくり、航空戦力の強化を行った関係で“空の専門家”という肩書と共に呉と肩を並べるほどの地位は維持しているように思う。周りに対して多大な迷惑をかけまくった上に成り立っているものではあるが。海軍では目立つ明るい茶髪に、耳元に光るピアス。羽織っている提督用の制服は改造を重ね原型がなく、もとよりそれをまともに着ることもない。柄Tシャツの上から軽くひっかけただけの、へらへらとしたふざけた感じのうちの提督ではあるが、一応はその手腕は確からしい、少なくとも面と向かってそれに文句を言うやつがいない程度には。

 まぁそんなわけでそこそこ実力のある艦娘が集まる、そこそこいい鎮守府である佐世保鎮守府にもいわゆる陰口というか、そういうのがある。つまるところ。

 

「はい、それでは改めまして~、かんぱーい!!」

 

 うちの提督、秘書艦を筆頭に、なんかゆるくてチャラい人達ばっか集まるよね、と。

 チャラい筆頭の秘書艦、鈴谷がそう声を上げると、各所でそれに追従するように乾杯の声が上がった。

 佐世保鎮守府から車で一時間程度。渓流のせせらぎ、鳥のさえずり、そして風にそよぐ緑の枝葉の音──ここに、そんなものに耳を傾けて自然を楽しむ輩など皆無である。毎度恒例の誰がお留守番をするかじゃんけん大会を勝ち抜いた猛者達と、最近加入した新人との交流を深めようという名目の、ささやかな宴──すなわち、川辺でのバーベキュー大会(どんちゃん騒ぎ)である。

 さっそく酒をあけてかっとばしている一部を遠目にしめやかに烏龍茶を飲んでいると、なぜか既に酒臭いイタリアの重巡洋艦、ポーラが寄ってきた。

 

「いや~ごめんねぇ、運転任せてさぁ~」

「いい、酒飲めねぇし」

「マヤってほんと見た目詐欺だよね~」

 

 こいつ、多分ここに到着する前から飲んでるな。あまりの酒臭さに顔をしかめつつ手で顔を押しのけてやる。

 

「酒くせぇ顔近づけんじゃねぇ。あとお前は帰りも絶対にアタシの車には乗せん」

「え~な~んでぇ~?」

 

 それはな、絶対に車ん中が酒臭くなるからだ。けたけたと笑っているポーラに若干うんざりしつつ、保護者はどこだと視線を巡らす。どうやらザラは他のイタリア艦達と共に真剣になにがしかの燻製を作製しているようであった。毎回思うんだが、あいつらの食に対する熱意はなんなんだ。ちなみにイタリア艦達に関してはこういったイベント事から省くともれなくストライキを起こすため、基本的には無条件参加である。イタリア艦が来てからますますゆるさに拍車がかかってきているが、一介の重巡である自分はそれに対してただ不平不満をこぼすくらいしかできない。末端ってのはつらいな。

 

「番長! 見ろ! ヤマメだぞ!!」

「うっそだろお前」

 

 うざ絡みを続けるポーラを適当にいなしていると、弾けんばかりの笑顔でもって磯風がこちらに駆けてきた。その両手にはびちびちと活きがいいヤマメ。どこに素手でヤマメを捕まえる女がいるよ、いやいるな、目の前に。どこか誇らしげにしている磯風に絶句していると、後ろからよろよろと浜風が川からあがってきた。どこかしら頭のネジが飛んでいる輩が多い佐世保鎮守府における数少ない良心である彼女の心労、いかほどのものか。ありがとうな、お前がいなかったらアタシ多分胃に穴あいて死んでるわ。

 

「あら~美味しそう、リットリオ達に美味しく調理してもらいましょうか」

「うむ!」

 

 目ざとくそれを見つけたアクィラが手を合わせてにこにこしながら磯風に話しかける。それにまんざらでもない様子で一つ頷くと、きゃっきゃとポーラを含めた三人はイタリア艦ズの輪へと入っていった。

 

「……お守り、すまねぇな」

「いえ……リットリオさん達がいるなら食中毒の心配はないので……今日はまだマシです」

「まぁ、そうだな……」

「一応消化補助剤は持ってきてるんですけど」

 

 流れるような動作でもって懐からカプセル剤のヒートを取り出し、いります? と差し出してくる浜風。煙草みたいに寄越すんじゃねぇよ、うっかり受け取っちまっただろうが。

 

「焼きおにぎりは磯風が担当だったか……」

「安心してください、味噌と醤油に限定しましたから」

「そもそもチョコを米に塗るって発想がな」

「焦げてましたね」

「混ぜこまれた明太子もな」

「なんで料理できない人って基礎もなってないのにアレンジ加えるんでしょうか」

 

 甘いものにしょっぱいものを混ぜると甘さが引き立つ。小豆に少量の塩を入れる例を聞いてそこからチョコに塩辛だ、明太子だを混ぜる発想はある意味天才かもしれない、それを米に塗って焼こうとするところまで。思い出すだけで胃がむかつきそうだ、とげんなりとしていると、同じく被害者である浜風が苦笑しながら口を開いた。

 

「まぁ、異臭騒ぎは起こしましたが、私がつきっきりで指導したので一応食べれるものになっていると思います」

「そーか」

「摩耶さんに食べてもらうんだっていう意気込みだけは人一倍なので。よろしくお願いしますね」

 

 その言葉に、一際長い溜息をついた。

 

「……浜風」

「はい」

「アタシは醤油派だ、多めに焼いとけつっとけ」

 

 わかりました、と笑いながら浜風も磯風の後を追う。どうやらリットリオ達は持ってきた食材とあわせてヤマメのカルパッチョを作っているらしかった。アタシ、塩焼きのが好きなんだけどなぁ。まぁあれはあれで恐ろしいほどに美味いだろうことも知っているので面と向かって文句は言うまい。

 ぐるり、と辺りを見回す。最近加入した海外艦達と共にどんちゃんしている空母達。夕雲型やら秋月型やらの新人駆逐艦共はある程度のグループを作りつつ、和やかにバーベキューを楽しんでるようだ。その一団の中に、藤波を見つけた。あの辺はあんまり絡んだことないやつばっかりだなぁ、と思いながら何の気なしに首を巡らせれば、食に真剣すぎる一部のイタリア艦共の周りで酒だ肴だと騒ぎまくっている馬鹿どもが視界に入る。見なかったことにした。君子、危うきに近寄らずってな。

 ざあ、と葉擦れの音と共に木漏れ日が揺れた。目を閉じてその音に耳を傾ける。普段海に出てるのにまた水辺かよと思ったものだが存外に悪くない。これでもう少し落ち着いた雰囲気で楽しめたら日頃のあらゆるストレスも和らぐんだが。どうしても脳裏にこいつらがなにかやらかさないように見張らねばという思いがちらつき、リラックスしきれねぇんだよなぁ。後で一人で上流の滝でも見に行って黄昏れるか……と考えていると、ふと、自身と同じく喧騒から離れたところで一人佇んでいる奴を見つけた。

 めーずらし。いっつも姉妹にべったりというか、あそこら辺はいつも固まってるのにな。

 

「よぉ、暇そうだな」

 

 河原の少し大きめな岩に腰掛け、とある集団を静かに見つめている、最近加入した秋月型駆逐艦の一人である初月に話しかけた。初月はアタシの言葉に微かに首を動かしこちらを見返したものの、何を言うでもなくふいとまた視線を戻した。他の秋月型の奴らに比べて愛想もなければお喋りでもないこいつのこういう反応にはもう慣れつつある。

 

「……のん気なものだな」

 

 ぼそり、と微かな苛立ちを滲ませた声音でもって呟いた初月の視線の先を追う。残りの秋月型駆逐艦共と、空母が数名。和やかに会話をしているように見えたが、その奥で喧々諤々と加賀とやりあっていた瑞鶴がラリアットにて川へと沈められている姿が見えた。

 

「こんなことをしている暇なんて、ないんじゃないか」

「そぉか?」

 

 こいつがここまでイラついている姿を見るのも珍しい。普段はどちらかといえば寡黙でなおかつ冷静な奴だというのに今日はよく喋るな、と思っていると。

 

()()()と違って、今はこんなに時間も、人も、装備だってあるのに」

 

 と、初月がこぼした。

 ああ、()()()()()()()

 

『ねぇ、摩耶』

『あ?』

 

 空母の中では、瑞鶴とは割と言葉を交わす方だった。海外艦が入ってきたことで若干ゆるみはしたものの、本来、空母とは他の艦種と一線を隠した、一種の気品のようなものを持ち合わせる人物が多い。そんな中、割と気さくなタイプの瑞鶴とは話しやすさもあってよくつるんでいた。

 

『初月、私に対してなんか言ってない?』

 

 そうか、そうだよなぁ。まだ艦艇の付喪神(こいつら)と付き合い始めて日が浅いもんなぁ、こいつらは。そういや秋月ともなんか揉めてたよなぁ、あいつ、と思いながら、すでにぬるくなりつつある烏龍茶をあおる。

 

「……現地人にこれは健康にいいやつだって騙されて買った煙草」

 

 急に脈絡のないことを口走ったアタシを初月は怪訝そうに見上げた。それを無視して言葉を続ける。

 

「お前騙されてんぞ、ってげらげら笑いながら吸ったそれが存外に気に入ったもんだから、いつの間にかそれを吸うようになった。卵焼きは砂糖か、出汁か、醤油かで揉めて取っ組み合いの喧嘩をして」

 

 気づけば、こんなところまできた。決して遠い過去ではないのに、それでもあの日々は、時が経つにつれて徐々に徐々に色褪せていく。そうして、そんななか。

 

「ふとしたときに思い出すのは、そういうくっだらねぇことばっかりなんだよなぁ」

 

 馬鹿だなぁと思い返せば笑ってしまう。実際、何回くっだらねぇって思ったか。そういう時間が、人生を無駄にしているなとすら思ったこともある。それでも、過ぎ去ってしまって思い起こすのは、そう無駄だと断じていたものばかりだ。

 初月を見下ろす。そうして。

 

「遊びのない人生ほど脆いぞ。()()()()()()()()()()()()()()

 

 と、真っ向から喧嘩を吹っ掛けてやった。その言葉に反射的に初月が立ち上がった。

 

 ──なにもかもが足りない。人も、ものも、力さえも。訓練さえろくに行えず、練度が低いまま敵に突貫しては海へと消えてゆく。敵からは雑魚だと馬鹿にされ。それでも、何度も、何度も海へと出る、笑いながら。

 

『──ねぇ』

 

 幸運艦。それは、結果を振り返ってつけられる名前だ。がむしゃらに海を駆け、そうしてその駆け抜けた軌跡を、幸運だと人々は名づける。きっと、そんなたった二文字で表現できるものではないはずのそれを、ただただ、幸運だと。

 

『そうやって、きっと頑張ることだけが心の支えだったのに。最後に裏切られて、尊厳さえも踏みつぶされて』

 

 私だったら──。

 

「難儀だなぁ、お前らも」

 

 空母になんて、なるもんじゃない。そう苦々しくこぼしたとある空母が脳裏をよぎる。ああ、まったくだな。どいつもこいつも、重苦しいしがらみに囚われ、がんじがらめだ。それを人知れず、そのうちに抱え込む。平気な顔をして背負う。各々から寄せられた、重い重い、“誇り”という名の想いを。

 艦艇の想いに飲み込まれれば、自分を見失う。だからこそ、空母は、一際重い縁を持ち合わせる彼女らは弓道という道を求める。己自身を保つため、そうして自身の艦艇と向き合うために。

 

「ま、ぶっちゃけて言えば戦闘ばっかこなしてっと過同調起こしやすくなんだよ、だからこれは必要な時間だ、遊べ遊べ、その無駄な時間が糧になる」

 

 ああ、面倒くせぇ、なにもかも。

 そんな心のうちを悟られぬよう、誤魔化すように初月の頭をわしゃわしゃとぞんざいになでてやると、触るな、と払われた。

 

「番長ー! 腹の準備はできてるかぁー!?」

「テメェこそ醤油焼きおにぎりの残弾は足りてるかぁー! こちとら朝からろくに食ってねぇぞ!」

「任せろ! 百はいける!!」

「馬鹿野郎もう米を炊くな止めろ浜風!!!」

「嘘これ全部お米!?!?!?」

 

 味は一安心と油断していた、まさかそこまでハッスルしてると思わねぇじゃん……。

 

「おい、食うの手伝え。味噌と醤油どっち食いたい」

「……味噌」

 

 むっすりとしながらもちゃっかりと要望を述べた初月に、ま、なんだかんだ可愛らしいところもあんだよなぁ、こいつも、と苦笑する。

 

「……──」

 

 先に歩き出していた初月が振り返る。

 

「何か言ったか」

「ん? いや?」

 

 怪訝そうな顔をする初月をしっしと先へ行けとジェスチャーにて追い払う。それに微かに眉をひそめながらも、初月は黙って七輪で大量の焼きおにぎりを生産している磯風のところへと向かった。

 

「……楽しめよ、人生を」

 

 どうせいつか、死んじまうんだからさ。

 十分に初月が離れたのを確認して、再度ひとり呟いた。

 死というものは、アタシらにとっては本当に身近なものだ。人生の終着点。終わりがあればこそ、人は生きている間になにかを成し遂げたいと思うものだ。

 でもそれは、死の本質を理解していない、いわゆる幸せなやつらの発想だ。そんなに綺麗に終わるもんじゃねぇんだよ、人生は。それこそ、ある日うっかり足を踏み外して落ちてしまうような。死とは、そういう唐突なものだ。ふとした瞬間に、ぶつりと終わりを迎える。そこに物語の結末のような美しさなどない、だからこそ。明日、踏み外してもいいように。

 

「あー……煙草、持ってくりゃ、よかったな」

 

 何を抱えて、その唐突な終幕を迎えるのかくらいは。自分で決めたって、いいじゃないか。

 

 

 他の艦艇にも適性を示す、こんなことはままあるらしい。例えば空母と駆逐艦であれば、もちろん希少艦種である空母を言い渡されるだろう。だけれども、時折、それこそ同型艦同士で、まるでゆらぎのように複数適性を示すことがある。そういうときはどうするか。もっとシンプルだ、残存艤装から適性艦を言い渡す、あるいは()()()()()()()()()()()()。彼女らも、そんな感じで適当に決められのだという。

 

「眼鏡外しちまうのか?」

「だって、もう必要ないし」

「えー、ダテ眼鏡かけようぜ、ダテ眼鏡」

「なんでよ……」

 

 一卵性双生児だと聞いていたけれど、全くもって似ていない。それが鈴谷(わたし)の第一印象だった。母親のお腹の中にいるときに中身を真面目、不真面目できっちり二分割したのではないかというくらい異なる性格。ただ、鳥海が眼鏡を外している姿を見かけたときは、ああ、確かに顔のつくりは似ているのかもな、と思った。

 

「眼鏡かけてるほうが、鳥海! って感じするだろ!」

 

 限られた娯楽の中で喫煙、飲酒に手を出す娘は少なくない。そうして先が短い艦娘なればこそ、黙認されるのも常であった。しかしながら鳥海という堅物は酒も煙草も一切やらず、そうして摩耶という不良はどちらもよくのんだ。そんな二人であるから小さないさかいは日常茶飯事で、私もよく巻き込まれたものだ。中々に激しい言い合いをすることもあったけれど、次の日にはけろりとした顔でお互い肩を寄せ合いながら海図を眺め話し合う。その距離感が理解できないとこぼせば、双子なんてこんなもんだろ、と摩耶には笑われた。

 ある日のことだった。いつものように、砂浜に座り込んで煙草を吸っていた摩耶と雑談をしていると、鳥海が嬉々とした様子で足早に駆け寄ってきたのだ。

 

「摩耶! これ吸いなさい!」

 

 ひゅ、と投げられたものを摩耶が受け取る。なんだなんだと二人して覗き込めば、夕陽だか朝陽だかを背景にネイティブ・アメリカンが煙草を吸っているロゴの入った、まごうことなき煙草の箱だった。

 煙草嫌いな鳥海がそれを持ってきたことにも驚いたが、それ以上にどこか誇らしげな彼女が印象的だった。後々聞くと、現地人に口八丁手八丁でこれはいいものだと丸め込まれ、信じ切ってしまったのだという。そういう、ちょっと純朴すぎるところが鳥海にはあった。

 

「無添加なんですって、その煙草」

「へぇ」

「だから他の銘柄より体にいいはずよ!」

 

 その言葉に思わずふは、と摩耶が吹き出した。

 

「お前、それだけの理由でこんなクソマイナーな煙草買ってきたのか!」

 

 今でも思い出すのは、そんなくだらないやり取り。死線を、何度も何度もくぐり抜けた。目の前でふっ飛ばされる仲間。制空権を奪われ、空を覆い尽くさんばかりの敵艦載機をがむしゃらに撃ち落とし。そういった、忘れたくても忘れられない脳裏にこびりついた記憶とは別に、ふと思い出すのはそんなことばかりだった。だからこそ、思う。

 

「……お」

「どう?」

 

 もっと、あのときに。

 

「結構吸いやすいな、これ。気に入ったわ」

 

 もっともっと馬鹿をして、もっと笑いあえばよかったと。

 

「──摩耶!!」

 

 どうして人は、失ってからしか後悔することができないのだろう。

 前線基地の防衛を中心任務としていた鈴谷達は、そこそこ激しい戦火を生き延びてきた。そうして生きれば生きるほど、仲間も失っていった。それは、唐突な喪失。ふと食事をしながらその娘の名前を呼ぼうとして、ああ、そういや死んじゃったんだっけ、なんて思う。そういうことは、よくあった。

 生きるのも死ぬのも運次第だ。訓練所で一番いい成績を収めていたと聞いていた娘が一番最初に沈んだ。かと思えば、実力もあるとは言えないのによく敵に突っ込んでいく娘がなぜか毎回生き残った。どんなに強くとも死ぬときは死に、どんなに弱くとも生き残るときは生き残る。そこに理由などなく、あるのは事実だけ。だから、鈴谷も同じようにいつか死ぬんだろうなってぼんやり思っていた。それでも、やっぱりどこか他人事だったのだと思う。

 耳をつんざくジェットエンジンの轟音。最後に視界に入ったのは、完全に虚をつかれた摩耶の顔と、それから。彼女の名前を叫ぶのと、衝撃波に吹っ飛ばされて海面に叩きつけられ意識が飛んだのは同時だった。

 気を失っていたのはどれくらいか。敵空母打撃群の気を引きながら、なおかつなるべく戦力を削れ、なんていう、ありていに言えば囮役を任された私達の艦隊で生き残ったのは、鈴谷だけだった。

 意識を取り戻し、身体を起こしたときには辺りには誰もいなかった。艤装はほとんど吹き飛ばされ、どうにかこうにか動くのは主機のみ。いやに、静かだった。自身が発する主機の音が、嫌に耳に響くくらいには。あてもなく、ただうろうろと海面を見ながら彷徨った。気づけば日は水平線の向こう側へと傾き、それにつれて海面はまるで血が広がるかのように、じんわりと赤く染まっていき──気づけば日は完全に落ち切って、夜になっていた。そこでようやく、基地へと帰るという考えに至った。それと同時に、ああ、自分以外、死んだのか、という事実も。

 基地へと帰ってきて、真っ先に鳥海が駆け寄ってきた。そうして彼女から思わず目を逸らし、何も言わない私を見て彼女も理解したのだろう。彼女が最初に発した言葉は、今入渠施設一個空いているから入ってきなさい、だった。

 きっと私も彼女も、摩耶の死を受容できていなかったのだろう。私達にとって最も近しい存在だった彼女は、その日、忽然と私達の狂った日常から姿を消したのだ。

 ん? 鈴谷も鳥海も泣きわめくと思ったって? まぁ、そんなことはしなかったよね。ああ、わかってるって、鈴谷達が狂ってるのなんてさぁ。だってそうじゃん、前線基地って中々ひどいんだよ、急に深海棲艦が活発化したってさぁ、呉の本隊が到着するまで結構時間かかるからさぁ、それまでは限られた資源で、人員で、それこそぼろぼろの状態で昼夜問わずに出撃を続けるんだよ、ここを落とされたらたまらんってね。

 そう、きっと私達はどこかしらいかれている。

 

「──鳥海?」

 

 そんなのは、百も承知なんだって。

 別方面へと出撃していた呉の本隊がこちらの前線基地まで来るのにまだしばらく時間がかかるだろうなんて言われてさ。もう艤装も直しきれなくて、ガッタガタのボッロボロ、もちろん身体だってね。そんな中、鳥海も中々に手ひどい被害を受けていた。もうこれは直しきれない、と判断され待機命令を出されていたはずの鳥海を工廠で見かけ──言葉を失った。

 

「そう、そうだよなぁ」

 

 ──ぽたり。

 鳥海の頬を伝った涙が、艤装をたたく。沈んでしまった、摩耶の予備の艤装を。

 他の艦艇にも適性を示す、こんなことはままあるらしい。他の艦種同士で、あるいは同型艦同士で揺らぎのように。本来ならば、例え同型艦であっても別の艦の艤装を操ることはできない。装備の流用はできても、それ自身を動かすことは不可能なのだ。それは、例えば同じ最上型であっても私は鈴谷で、あの娘は熊野で、という風に。決して、同じ存在ではないからだ。だから。

 

「まだ、死んでなんか、ないよなぁ」

 

 ──ああ。眼鏡を外すと顔のつくりが似ているなと思ったのは、いつだったか。

 双子ってよくわかんないと言えば、わかってたまるかよ、あたしらはお互いに唯一無二の存在だからな、なんて言われて軽い疎外感を覚えて。それでもやはり、仲の良い姉妹という以上の繋がりが二人にあるのはなんとなくわかっていた。

 

「摩耶は、まだここにいるもんな」

 

 だからこそ。きっと、彼女は受容できなかったのだ、私以上に。

 酔狂だと、誰かは言うだろう。でもそんなの言わせておけばいい。鈴谷達の人生は、鈴谷達だけのものだ。誰になにを言われたって、それは譲れない、譲ってやるもんか。

 だから鈴谷達が最期のその時まで。何を抱え、沈んでいくかを決めることを。誰にも文句なんて、言わせてなんか、やらない。

 

 

「──鳥海」

 

 のろのろと振り返ると、前線基地にいた頃からの付き合いである現佐世保鎮守府秘書艦の鈴谷がこちらへとゆっくりと歩み寄ってきていた。

 

「また吸ってる」

 

 呆れたようにそう言って、埠頭に胡坐をかいて座っているアタシの隣へと並ぶ。隣に並んだ彼女を見上げ、ため息一つついてろくすっぽ吸っていない煙草を携帯灰皿へと押しつけた。

 

「お前も難儀な奴だよなぁ」

「鳥海に比べれば全然っしょ」

 

 じとっとした目でこちらを見下ろす鈴谷に、再度ため息をついて。

 

「……そうやっていつまでも私のことを鳥海として扱うから、ああいうことが起こるんだけど」

 

 と、先日の失態について文句を言ってやった。

 

「あれは結構肝が冷えた……」

「よりにもよって藤波さんだし」

「や、ほんとね……これも縁ってやつ?」

「さぁね」

 

『──鳥海さん!!』

 

 面倒くさいものだ、縁というものは。なまじ自分が鳥海、摩耶のどちらにも適性がある分、ふとしたときに揺れ動く。“摩耶”として長いことすごしてきているというのに、この曖昧さは私個人の性質なのか、あるいは艦自身の縁による揺り戻しなのか。

 

「だってさぁ」

 

 いじけるようにつま先でコンクリートを蹴りながら、鈴谷が口を開いた。

 

「鈴谷が鳥海のこと覚えてなかったら、誰が鳥海のこと覚えてんの」

 

 その言葉に、軽く嘆息する。

 

「マメっていうか……そういうところよね」

「なにさぁ」

「そういうところが秘書艦たる所以って感じ」

 

 初対面の印象というものはあてにならないものだ。初めて見たとき、ギャルがいる、と思った。同時に絶対にこいつとはそりが合わないだろうと。

 

『うわ、秘書艦でもないのに帳簿つけてんの?』

『杜撰な管理、嫌いなのよ』

『はぁ〜真面目だねぇ』

『……馬鹿にしてる?』

『え? なんで?』

 

 真面目って、かっこいいじゃん。机に頬杖をついてゆるく笑いかけられ、毒気を抜かれた記憶がある。げに恐ろしきはギャルゆえのコミュニケーション能力の高さだ、とよく本人に毒づいていた。それを受けてはえ〜? とゆるく笑い返す。そういうやりとりを幾度となく繰り返し。

 

『鈴谷は、自分がしたい格好をしてるだけだよ』

『ロックだな!』

『……なんでもかんでもロックってつければいいと思ってない、摩耶?』

 

 そうして気がつけば、一番長いつき合いになってしまった。私が鳥海であったことを知る、唯一の人物に。

 

「ねぇ鈴谷」

 

 鈴谷は、私に鳥海に戻れとは言わない。自分のしたいことをしているだけだとよくこぼすこの子は、人から勘違いをされやすい分、勘違いをされてきた分、他人に優しくできる子であったから。だから私が“摩耶”になったときも、なった後も、決してそれに対して異を唱えることをしなかった。例えそれが、普通の人から見たら狂ってると称される行為であったとしても。彼女はただ、こうしてふとしたときに私を(ちょうかい)として扱う、それだけだった。

 

「人って、なんで忘れるのかしらね」

 

 どんなに似ていないと言われようとも、私達は確かに双子だった。時たま疎ましく思うことはあれど、摩耶は私にとっての半身に違いなかった。そうしてそれを失ってようやく痛感し、その欠落をこういった形で埋めようとしている私はきっと頭がおかしいやつなのだろう。そんなことはハナからわかっている。

 どんなに彼女をなぞったところで完全に同化することなどできない。煙草はいつまでたっても嫌いだし、どんなに口調を崩したところで几帳面なところは直らない。限りなく近い存在だった摩耶は私の半身であり、そうしてどこまでいっても私ではない存在だった。そんなことは十分理解している。そうして、そんな中途半端な存在であるというのに彼女以上に“摩耶”を乗りこなしているのも、皮肉といえば皮肉だった。

 もう一本煙草に火をつけ、ゆるゆるとそれを口へと運ぶ。ろくすっぽ煙を肺にも入れず、ただただ、燃え尽きるまでくゆらせる。その間だけは、私は鳥海でいられる、それだけでいい。それだけの時間さえあれば、私はいい。

 

「……ねぇ、それ、美味しい?」

「あ? んなの聞かなくてもわかんだろ」

 

 忘れてなどたまるものか。この空虚さを、痛みを。誰が忘れてなどやるものか。

 一本の煙草が燃え尽きる頃に微かに服にまとわりつく、その香り。それに抱かれ、あの頃に、今はいない彼女と過ごした日々に思いを馳せる。

 

「クッソまずいわ。いつも通りな」

 

 時が経つにつれ、忘却の彼方へとこぼれ落ちてゆく日々を。ただただ、忘れたくないその一心で。

 

 



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本日晴天、ところにより潜水艦にあたるでしょう (舞鶴鎮守府:伊19、??)

従軍記者見習いの、とある日の潜水艦娘達と元艦娘との邂逅


 

 桟橋沿いに一列に並ぶ護衛艦を遠目に見ながらゆっくりと海岸沿いを歩く。首からさげた一眼レフを無意識のうちに握りなおしながら、目的地へと向かっていた。

 深海棲艦の出現、艦娘の台頭によりその存在は日の目を見ることが少なくなってきたが、前線が遠く離れた基地に構築された際に、場合によっては要人を運ぶ役目を担う護衛艦は今日も出番を待ちながらひっそりと停泊していた。

 

 周りを山に囲まれた舞鶴湾の海面は今日も穏やかだ。

 ──天然の要塞。湾内の干満差が少なく、周囲の山により強風や荒天から守られた場所。湾内を囲む左右の山には、敵深海棲艦の艦載機を撃ち落とすための防空砲台が設けられているこの土地は、太平洋戦争時に対ロシアを目的として発展してきたこの場所は、今や対深海棲艦に対する防御の要だ。

 

 ぼんやりと艦艇を見ながら歩いていると、ちょうどその隙間から航跡(ウェーキ)を描きながら飛び出してくる人影を見つけた。

 一眼レフの望レンズ越しに、その人物を捉える。

 

 ──カシャ。

 

 護衛艦の甲板にいた人達が彼女に気づき、一斉に帽振れをする。

 それに気づいた彼女、及び、それに続くように海に飛び出してきていた他の艦娘達が、手を上げて答えながら湾外を目指す。

 

 ──カシャ。

 

 ただ無心にシャッターを切りながら、その姿をカメラにおさめた。

 

 ──俺は、これから。あの娘達の取材をするのだ。

 

 

 ここ、舞鶴で育った俺にとって、艦娘の存在は日常の一部のようなものだった。

 街中でふとしたとき、すれ違う少女から香る海と、仄かな火薬の匂い。沿岸を歩けば、ときたま、少女達が海上に航跡(ウェーキ)を残しながらなめらかに海を駆けてゆく姿が見られる。そうやって、生活の端々に彼女達の存在を感じながら育った俺が彼女らに興味をもって従軍記者を目指すことになったのは、まぁ自然な流れといってもいいかもしれない。もっとも、いざ見習いとしてこの世界に足を踏み入れてみると、俺の姿を見た皆が揃ってこう言うとは思っていなかったけれど。

 

『──そんなひょろっこい体じゃ、前線にはいかせらんねぇなぁ』

 

 と。体に肉がつきにくい体質なんです、と何度も主張し、筋トレだって毎日しっかりとしていたが、結局皆の意見は変えられず、まぁ、こういうところから始めたらどうだ、とこの仕事をもらったのだ。

 地方新聞の片隅の、小さな小さなコラム。艦娘の日常とやらをただ綴っていくだけの、毒にも薬にもならないような記事を。

 

 きっと他の地域の人達より、俺達にとって艦娘は身近な存在だろう。しかしながら、では艦娘について何を知っているかと問われれば、言葉に詰まる。

 どこか遠くの海で、俺達のために戦っているらしいとか。水着にパーカーを羽織った女の子達が、駄菓子屋の前に設置されているクーラーボックス内に並ぶアイスクリームを顔を寄せあって眺めている姿を見かけると、夏が来たなと感じるだとか。俺が知っているのは、それくらい。だけれども、それくらいの情報でさえ、一部の人達にとっては物珍しいという。

 だから、そういうの書いてみろ。お前がニュートラルな立場から見た彼女達を、と言われ、そうしてここまできた。

 

 ニュートラルって、それが一番難しいんだけどなぁと思いながら、海軍基地の入り口で入館証をもらう。その場で撮られた写真がのっている入館証を首にかけながら、門をくぐって北吸桟橋に出る。このエリアは深海棲艦との戦いが始まってから一般開放がなくなったため、実際に足を踏み入れるのは初めてだ。

 梅雨から夏に入り、日も大分長くなってきた。まだまだ居座る太陽によって照らされた護衛艦から少しばかり影が落ちているのをいいことに、その影の中を黙々と歩いて気持ち程度涼む。直射日光によってじりじりと焼かれた首元から流れ落ちる汗をハンカチでぬぐいながら進むと、ちょうど護衛艦の並びがきれたところに一人の少女を見つけた。

 

「あのー」

「……?」

 

 こちらに振り返った際に、さらりと癖のないショートボブの左側の長い一房の黒髪が、海風にさらわれ踊る。

 水着の上から少し大きめのウィンドパーカーを羽織り、そしてこちらを静かに見返す瞳は、よくよく見ないとわからないが左右で色が異なっていた。

 ──舞鶴名物、潜水艦娘だ。

 

「──社の者です、本日取材のためにお伺いしたのですが、こちらの責任者はどちらにいらっしゃいますでしょうか」

「……取材?」

 

 こてんと首を傾けられ、違和感。あ、あれ。

 

「本日三時から、艦娘さん達の取材をすると提督さんにお話を通してもらったんですが?」

「特に聞いていないん、ですが……」

 

 そんなバカな。電話で了承を確かに得たはずだ。ここの責任者があんなに年若そうな女性だとは思わなかったから彼女の声を聞いて驚きはしたけど、日時を二回確認した上で自分の手帳にしっかりと記入していたはずだ。

 不安にかられ、慌てて手帳をめくっていると、女の子が腕にまきつけているホルスターから無線機を取り出した。

 

「こちらヒトミ、ゴーヤちゃん、どうぞ」

『こちらゴーヤ、なにかあった? どうぞ』

「北吸桟橋に新聞社の方がきています、予定はありましたか、どうぞ」

『……ないはずだけど、その対応は誰がしましたか、どうぞ』

「提督らしい、です、どうぞ」

『なら予定表への記載を忘れた可能性があるでち、どうぞ』

「……えっと、どうしましょうか、どうぞ」

『提督もう帰ってるし、とりあえず今日は中で取材は無理でち、どうぞ』

「そ、そんなぁ」

 

 思わずがっくしと肩を落とす。気合いをいれてきたのにあんまりだ。

 そんな俺を気の毒に思ったのか、ヒトミ、さん? が再度呼び掛けた。

 

「取材可能な範囲はありますか、どうぞ」

『あー、非番の娘に雑談振るくらいならいいよ、どうぞ』

「非番……今、誰かいますか、どうぞ」

『イクが鍋の買い出しにいって……だからぁ! 潜れてないんでちよ、足がぁ!! 嘘じゃな、あ、ごめん、以上』

 

 途中誰かに怒鳴りはじめたゴーヤさんの大声に、思わず無線を顔から離したヒトミさんが、ゴーヤさんからの応答が切れると同時にポツリと呟いた。

 

「イクちゃんだけ、か……」

「あ、あの~」

「今、手があいている人が一人しか、いません……商店街に買い出しに行ってるので、雑談程度の取材なら、大丈夫、です……きちんとした取材は、後日……すみません。電話番号を、伺っても……?」

「あ、はい、ありがとうございます……ええと、ヒトミ、さん? は、今お忙しいんですか?」

「私は……今、訓練の監督をしてる、ので」

「訓練?」

 

 懐から名刺を取り出してそれをヒトミさんに渡しながら質問を投げ掛けると、ヒトミさんが無線機とはまた別の小型デバイスを見せながら答えた。

 よくよく見ると、その根本からはケーブルが伸び、その先は海に漂う浮きに繋がっていた。

 

「それは……」

「魚群探知機、を、改造した……ポータブルソナーのようなもの、です……これで、簡単な指示を出して、います」

「指示、というと」

「海の中、は……音がよく響くので、簡単な、モールス信号、で」

「今誰か海の中にいるんですか」

「そう、です……」

 

 目を凝らして見たものの、静かに青い海面が揺蕩うばかりで、魚の影すら見当たらなかった。きっと深く深く、潜航しているのだろう。

 海上艦娘はよく目につくが、潜水艦娘はこうやってひっそりと海の底を進むため、舞鶴に住む人であっても潜水艦娘に対する認知度は低めだ。

 寒い寒い冬の舞鶴東軍港を潜水艦娘が水着ひとつ身にまとい歩いてれば通報されることもしばしば。

 曰く、冬の舞鶴でスク水姿で歩き回る痴女がいる、と。いや、気持ちはわからないでもないが、日夜海に潜って敵と戦い、必要資源を集めてきてくれる彼女達にその扱いはさすがに同情する。

 大した影響力はないだろうが、彼女達潜水艦娘についても、日常を綴ることで少しでも認知度をあげられたらとひそかに決心して今日の取材に向かったわけなのだが。

 まぁ、いい。時間はある。これが最後でもないのだから、気を取り直してその非番の娘に取材をしようではないか。

 

「ここから徒歩で……十五分くらいのところにある、──精肉店、わかります、か?」

「あ、はい。ここ、地元なんで」

「そこに、一人潜水艦娘が向かっているはずなので……彼女に聞いてみてください」

 

 潜水艦娘。本格的な取材のアテは外れたが、これはこれで幸運なのかもしれないと少しばかり気を持ち直したところで、でも、とぼそりとヒトミさんが付け加える。

 

「でも?」

「断られ、ちゃう、かも……」

「え」

 

 その言葉に思わず固まる。その真意がわからず思わずヒトミさんを凝視していると、彼女は困ったように曖昧に笑った。

 

 

 お鍋パーティーをするから、買い出しに行ってもらったんですというヒトミさんに、こんな暑いなか鍋ですか、と問えば、温かい料理って貴重なので、と返された。

 

『私達、は……いつも冷たく暗い、海の底でじっと息をひそめてます、から……。こうやって(おか)にあがって、温かいものを口にいれることで、ようやく人心地が、つくんです』

 

 気難しいという潜水艦娘の外見的特徴などを教えてもらったついでに、なんの買い出しなんですか、と何気なく質問を投げ掛けて、まさかそんな重い話になると思ってなかったものだから、俺はそうですか、と相槌をうつことしかできなかった。訓練監督中だという彼女の迷惑になるだろうから、と最もらしい言い訳を自分自身にしながら、ありがとうございましたと頭を下げて踵を返し、その足で商店街へと向かった。

 商店街の一角。肉じゃがコロッケがうまいんだよな、と自分もよく知る精肉店へと足を進める。学生時代は部活帰りによく行っていたが、最近はとんと行ってないな、とぼんやりと店内の様子を思い浮かべた。

 決して広いとはいえない店舗の壁には、何枚か、艦娘らしき女の子達が映っている写真が貼られていた。

 店舗中央には小さな丸机と、その上にノートが置かれ、なかには誰が書いたとも知れぬ文字の羅列が並ぶ。あんたもなんか書いてってよ、とたまに声をかけられたものだが、羞恥が勝ってしまいついぞ書けなかったあのノートには、もしかしたら艦娘からのメッセージものっていたのかもしれない。

 目的の店舗まで後数十メートル、というところに差し掛かると、ちょうど店先から誰かが出ていくところのようだった。

 

「今日はコロッケ食べていかないのかい?」

「うーん、魅力的なお誘いだけど、お鍋入らなくなっちゃうのね」

「イクちゃん少食なんだから。もっとしっかり食べないと倒れちゃうよ」

「んー、燃費がいいだけなのね、でもありがと」

 

 背丈の低い、スポーツキャップを目深に被り、色の薄いスポーツサングラスをかけた女の子が笑って店内に向かって声をかける。

 そうして一目みてわかった、彼女は艦娘だ。帽子から微かにこぼれ落ちる髪の色は綺麗な桜色で、その髪色は、日本人ではありえないような鮮やかさであった。それこそ艦娘でもなければ。

 ヒトミさんから容姿を聞いていたとおり、彼女が伊号潜水艦、伊19なのだろう。

 

「私は頂いちゃいますけどね~」

「ほんとよく食べるのね……その栄養どこに……ああ」

「イクちゃんも似たようなものじゃない?」

「一緒にしないで欲しいのね、ボンキュッボンお化け」

「ナイスバディだなんてそんな」

「言ってない」

 

 そうして後から、その子よりも一回り背丈の高い女性が店から美味しそうにコロッケを頬張りながら出てきた。

 両手からぶら下げる買い物袋の大きさにも目をひかれるが、それよりもなによりも、日の光を受け、きらきらと光を乱反射するその蜂蜜色の髪の色が目についた。

 髪の毛や素性を隠そうとしているイクさんとは対照的に、外国人のように美しいその髪を惜し気もなく晒している彼女は──イクさんがその一点を見つめてぼやくよう、なにとはいわないが、その、とても大きかった。

 思わず目を泳がせたところで、ふとイクさんと目が合う。こちらに気づいたイクさんが不機嫌そうに眉をひそめた。

 

「見世物じゃないんだけど」

 

 そうしてその視線は、俺が首からかけている一眼レフへと向けられていた。

 ……あれ、これ俺もしかして盗撮野郎と思われてる!? 

 艦娘はどの娘も美少女であるから、隠し撮りをする輩が後を絶たないという話を聞いたことがあるが、それと一緒にされてはかなわない。

 

「あ、俺、いや、私は決して怪しい者ではなく!」

「そう言う人って大抵怪しいわよねぇ」

「いや、えっと、その!」

 

 鎮守府内から外に出た際に、個人情報流出を気にして写真と名前入りの入場許可証を懐にしまってしまったのが裏目に出た。

 慌ててポケットをひっくり返し、じとっとこちらを睨み付けるイクさんと、その隣でにこにこと笑顔を崩さない女性に名刺を差し出す。

 

「……従軍記者、見習い?」

「ヒ、ヒトミさんが今いる潜水艦の方で取材できそうなのはイクさんしかいないから、こちらをお伺いしてみては、と」

「ただのパパラッチじゃなかったのねぇ」

「違います!」

 

 頬に手をあてて、うふふ、なんて笑いながら、背の高い女性がこちらにゆっくりと歩み寄ってきた。それとは対照的に、一定の距離を保って胡散臭そうにこちらを見つめるイクさんに、少し心が折れかけながらも、イクちゃんに話しかけるときはきちんと目をみてはっきりと話してくださいね、煮え切らない態度だとスルーされますから、というヒトミさんからのアドバイスをもとに、気持ち声を張り上げる。

 

「今度、地方新聞のいちコラムを担当することになりまして。その内容が、艦娘の日常を綴るようなものになるので、よろしければ取ざ」

「お断りなのね」

「……い、を」

 

 にべもない。なるほど、ヒトミさんをして、そういうの、嫌いだからと言わしめるだけのことがある。控えめに言ってめげそう。

 そんな様子を見ていた女性が、くすくすと笑い声をあげた。

 

「潜水艦の娘は結構警戒心強い娘が多いから、これでめげてちゃやっていけないわよ、記者見習いさん」

「ええと、貴女は……」

 

 あらためて、その女性と相対する。金色の髪に、紺碧の瞳。もしかして、外国の方なのだろうか。その割には流暢な日本語に内心首を捻っていると、ふいに、背後ですっとんきょうな声が上がった。

 

「ひったくりだぁ! だれか捕まえておくれぇ!!」

 

 驚いてそちらを見ると、ちょうど百数メートル先の角からこちらに向けて駆けてくる男と、それに追いすがろうとして倒れこんだ老婆がいた。

 こちらの存在に気づいた男が、舌打ちをしながらそれでもこちらに突っ込んできた。

 年端もいかない少女、可憐な女性、そしてひょろっとした俺を見て押し通せると思ったらしい。

 内心おろおろとしていた俺とは対照的に、俺の目の前にいた彼女は、はい、とすれ違いながらイクさんに荷物を預け、ゆったりとした足取りでひったくり犯の前へとたちはだかった。

 

「どけぇえ!!」

 

 と、叫びながら、胸ぐらでもつかんで引き倒そうとでもしたのか、ひったくり犯は突進しながら右手を彼女の胸元へと伸ばした。

 

「あらあら」

 

 そんな緊迫したシーンであるというのに、その女性は、穏やかに微笑みながらその男に相対する。その男の右手が彼女を捉える寸前、思わず危ない、と悲鳴を上げそうになったところで。

 

 ──ダンッ!! 

 

「……え?」

「いっでぇ!!」

 

 一瞬、なにが起こったのか飲み込めなかった。それほどまでに、彼女の流れるような体さばきが見事であったから。

 右手を伸ばされた瞬間、すっと体を流し、勢いのまま前につんのめりそうになっている男の右腕を左手で上から掴み、その勢いのままくるりと体をひねって男の体勢を崩す。そうして地べたにスッ転んだ男の右腕を、思い出したといわんばかりによいしょ、と小手を返してひねりあげたところで──男が痛みに耐えられずに悲鳴をあげた。

 

「は、はなせってぇ!!」

「おばあさんのカバン、返してもらえるかしら?」

「うるせぇババア! 引っ込んでろ!!」

「……」

「っ、だだだだ! 折れる! やめろぉ!!」

「うーん、折れるだけですむといいのね」

 

 ひったくり犯が女性に対してあらぬ暴言を吐き、それが逆鱗に触れたのか、彼女はにこにこと笑顔を崩さないものの、より強く男をひねりあげた。

 そうして、いつの間にかお婆さんのそばにいたイクさんが、のんびりと声をあげた。

 

(ちか)さんが本気だしたら、腕の一本くらいねじ切れるのね」

「失礼しちゃうわねぇ、そのくらいの分別はあるわよ?」

「ほら、できないとは言ってないの」

 

 ──しゃら。

 

 ひったくり犯とのすったもんだで女性の胸元からこぼれ落ちた認識票(ドッグタグ)に、思わずあっと息を飲んだ。

 それと同時に、イクさんがにやっと人の悪い笑顔をその男に向ける。

 

「艦娘がいるこの舞鶴で悪いことするやつなんて、地元じゃいないのね。おにーさん、外の人?」

「な、な」

「ほんとよ、もう。子供達の教育に悪いからやめてくれるかしら?」

 

 ──ME54-777568A JN CA ATAGO Blood-Type B ──

 

 自慢じゃないが視力のいい俺の目は、彼女の認識票に刻まれているそれを、はっきりととらえていた。

 認識番号、血液型、それから日本海軍(Japan Navy) 重巡洋艦(Cruiser, Armored) 愛宕。艦名には、ひっかくように線が引かれており、艦名の横には小さな桜がひとつ咲いていた。

 

「だいじょーぶ、おばあちゃん?」

「うぅ……足が」

「うーん、折れてはなさそうだけど、一応診てもらおうか」

 

 イクさんは、てきぱきと触診をしたと思ったら、手持ちのミネラルウォーターボトルでお婆さんがこけたときにできたであろう擦過傷の傷口を軽く洗い、犯人のそばに落ちているカバンを奪い返して斜めがけして、またお婆さんのもとに戻って彼女をひょいと背中に抱えた。

 そうして思い出したように、ひったくり犯をふんじばっている女性に声をかける。

 

(ちか)さーん、ちょっとおばあちゃん病院に連れていくのね。それ終わったら荷物、門の前にいる駐屯地警備隊のお兄さんに預けといてもらえる?」

「いいわよ~」

 

 にこやかに犯人を地面に押し付けながら、その人が答えたのを確認して、ゆっくりとイクさんが歩き出した。

 

「すまないねぇ、せっかくの非番だろう?」

「いいの、悪いのはあの男なの」

 

 俺に対するつっけんどんな態度に比べ、いくらか柔らかな態度でお婆さんに接しながら歩くイクさんを少し意外に思いつつ、なんというか、この状況に似つかわしくないほどにいつも通り、それこそ雑談をするかのような気軽さで会話をしながら鮮やかな手腕で事を片付けた二人に思わず舌を巻いた。

 そうして、いつの間にか精肉店のおばさんが警察に通報していたようで、遠くからパトカーがサイレンを鳴らしながらやってきた。

 パトカーから降りてきた警官二人は、(ちか)さんが片手で男を拘束しつつ、もう片手で首にかけている認識票を掲げて見せたことで、あ、となにかに気づいたように敬礼をした。それに返礼しながら愛さんは、てきぱきと事のあらましを説明して男を警官に引き渡した。

 その間、ほんの数分程度であろうか。二人はひったくり犯をパトカーに押しやり、そうして車内に戻る前にもう一度敬礼をしてからその場を離れていった。

 

「あ……事情聴取、とか」

「この程度ならないわよ〜。なにかあるとしても私に連絡くると思うわ、一応私、警察組織の末端に所属しているらしいから」

 

 そうのんびりと答える彼女を、じっと見つめる。にこにこと、胸元の認識票を指先で揺らしている彼女を。

 

「これがなにか、知ってる顔ね」

「……お強かったんですね」

「ん〜、そうでもないわよ? 一優等だもの」

 

 ──認識票、あるいは、ドッグタグ、IDタグ。

 軍隊で兵士の個別認識に使用されるものではあるが、本来海軍にはこれを使う習慣はない。特に艦娘に関していうと、轟沈した場合は艤装と共に海の底にのまれてしまうことがほとんどで、認識票を回収するのはほぼ不可能だと以前それについて取材をしていた先輩から聞いた。潜水艦なんかほとんど単独行動だし、死ぬときは誰にも気づかれずに死ぬものだから、こんなもん着けてたら無駄に海を汚すだけだと笑われたとか。

 そんな彼女達ではあるが、認識票を装着しなければならないときが一応ある。それは、海軍敷地外に出るときと、解体といって無事に生き残り、艤装が全く反応しなくなってしまった娘達が人としての生活に戻るとき。彼女は、後者なのだろう。

 二枚でセットの認識票の一枚を差し替え、そうして肌身離さず着用するよう求められる。

 彼女のIDタグの方に刻まれた、愛宕という以前の艦名の前に描かれた一つの小さな桜模様。上位三割にあたる一優等武勲艦であることを察してそう言うと、あっけらかんと彼女が答えた。

 

「一優等って、それでも上位三割ですよね」

「そんなこと言ったら姉さんは三優等だもの」

「お姉さんがいらっしゃるんですか」

「ええ。私も引退したので今は二人でのんびり」

 

 三優等は上位一割の、最優秀武勲艦だ。いったい彼女のお姉さんは、どれほど強面なのか──と思ったところで考えるのをやめた。そもそもこの目の前にいるふわふわとした印象の彼女が一優等の世界である。姉妹であるというし、案外美人さんなのかもしれないと思ったところで、彼女が指先で認識票をいじっていた関係でサイレンサーつきのIDタグではない、もう一枚も見えてしまった。そこには、A/3と刻まれていた。

 ……退役したばかりなんだろうか。Dランクまで能力が落ちれば、ほぼ人として扱われ、大分制限が緩くなると聞いたけれど。Aランクだと移動制限が大変そうだ。

 ──艦娘民間適性指標。いわゆる、民間人に対する解体後の艦娘の危険度を表したものだ。

 解体後、半年に一回の検査によって現役艦娘程度をSとしたA、B、C、Dの五段階と、各レベル0から4までの二十五段階で示される。数字が小さいほどレベルが高いと聞いたから、彼女は現役時代よりちょっとだけ力が落ちた程度のようだ。

 

『愛さんが本気だせば──』

 

 あれは、本気だったのだろうか。彼女の見た目と能力が全く一致せず、思わずごくりと唾を飲み込んだ。

 

 元々人であり、ただの一般人に戻った彼女達になぜ認識票と民間への脅威度を示すタグの装着義務が下されたのか。簡単なことだ、()()()()()が、元艦娘を人として受け入れづらかったからだ。その証拠に、艦娘が現れてから数十年、親艦娘派と反艦娘派の小競り合いが相次ぎ、最終的に元艦娘の居住区画まで制定されることとなった。

 ここ、舞鶴──というより、各鎮守府、警備府の周辺地域がまさにその区画にあたる。漁業を中心とした人々の生活と艦娘は切っても切れない関係であるから、親艦娘派の人が多いのも居住制限区画に選定される理由のひとつだ。

 一概には言えないものの、内陸部に住む彼女らと縁遠い生活を送っている人達は、差別的態度を示すものも、少なくない。

 

「警察に、お勤めなんですか」

「え? 違うわよ、解体された艦娘は自動的に警察組織所属になるの、知らなかった?」

「知らなかったです……」

「ちょーっと力持ちな私達が、警察所属とわかったら民間人の方は安心するでしょ?」

「そう、ですかね」

「ええ。まぁ肩書きだけでお仕事はボランティア活動程度ですけど」

 

 ──日本人であるならばありえないほど美しい金色の髪、吸い込まれそうなほど透き通った紺碧の瞳。艦娘時代に変色した髪や瞳は、長く艦娘として戦っているほど元に戻りにくくなるという。

 この人の髪や瞳は、もしかしたら地毛なのかもしれないけれど。それでも、目立つ容姿は人目をひく。

 そして、ひったくり犯を鮮やかに捕まえた手腕、自分に向けられる敵意をものともしない胆の座り方。そうだ、そう。雰囲気から違うのだ、元艦娘のこの人は。可憐な雰囲気に混ざる、海と、火薬と、戦いの気配。

 ──だから人々は恐怖を覚える。恐ろしいほどに美しい、女の形をした、()()()に。外見が全くの人であるからこそ、その腕力を、戦場を生き延びたが故の胆力を畏怖する。せめて肌の色が違うとか、尻尾でもはえてりゃ納得いくんだろうな、俺達とは違う存在だって、と支局長が皮肉げに言っていたっけ。

 ──だから解体後の艦娘は管理される。認識票(ドッグタグ)という名前の通りの首輪をかけられ、そして移動の自由すら奪われる。旅行の申請には、Aランクであるならば、大量の書類を六ヶ月以上前に提出しなければならなく、しかも却下されることもあるのだという。こっそり行けばいいのでは、と思ったものだが、認識票には生体センサーとGPSが組み込まれており、勝手に外せばバレ、認識票を首にかけた状態でどこかに行ってもバレる、という具合らしい。

 それをあんまりじゃないか、と思うのは、俺がここに生まれ、ここで育ったからなのだろうか。

 

「私はあの丘の上の児童養護施設で働いているの」

「児童、養護施設……」

「ここは、他に比べるとなかなか復興が進まないから。全ての子供を受け入れられるわけではないけれど」

 

 津波、地震、崖崩れ。人々がそれなりに普通の生活を送れるようになってきている一方で、ことあるごとになぜかそういった災害がここ、舞鶴では起こるため、未だにそれらの爪痕は残ったままだ。崖崩れで壊れた擁壁の修復まで手が回っておらず、危険表示のバリケードテープが張り巡らされたままの場所も何ヵ所もある。

 それは、住むところも親もなくし、あてもなくさ迷う戦争孤児しかり、だ。

 

「……なぜ、艦娘を退役しても、そこで働こうと?」

「え?」

「その、言い方は悪いですが、退役した艦娘の方は働かなくても生きていけるくらいの補助金が出ると聞いたのですが」

 

 風の噂程度だが、艦娘には専用の積み立て年金制度のようなものがあり、艦種や武功にもよるが、一優等ならば、五年も働けば解体後そこそこつつましい生活をしていれば働かなくてもなんとかなる程度のお金が振り込まれると聞いた。仕組みとしては轟沈していった仲間の積み立て分がプールされるとかなんとか言われているが、実際のところよくわからない。

 だがそれが事実だったとして。それこそ生死をかけた死闘を何度も繰り返し、多くの仲間さえ見送り。そうして、人々のために働いたというのに、認識票(GPSで管理される)という首輪をかけられ、旅行さえままならない不自由さを強いられる。いい加減人に愛想を尽かしたっておかしくないのに、どうしてこの人はまだ世間に貢献しようと思えるのか、純粋に不思議だった。

 

「うーん、そうねぇ。……子供が好きだからかしら」

「……え? それだけですか?」

「こういう動機に、大した理由はいらないと思わない?」

 

 がさり、と道の端に置かれていた買い物袋を両手にかかえ、あっけらかんと彼女は言いはなった。

 

「例えば住む地域を限定されたり、例えば旅行申請に何枚も書類を書かされたり、その上却下されたり。そういう不自由はあるけれど、私としては、不自由のなかで、譲れない自由を謳歌していきたいわね」

「譲れない自由、ですか」

「そうよ〜? 子供を愛でる自由。この不自由の罪は子供にはないし、子供の未来が明るくない国なんて、深海棲艦がいなくたってお先真っ暗じゃない?」

 

 こちらを振り返りながら、笑って。

 

「全てを救えるとは思わないけれど。せめて私の手の届く範囲であの子達が笑ってくれることが、私の幸せだもの」

 

 そんなことをのたまう彼女を。人となんら代わりない、いや、もしかしたらもっと気高い魂の持ち主である彼女を。

 どうして人は、恐れるのだろう。

 普通の人より身体能力は高いかもしれない。深海棲艦を倒せるのは、彼女達だけかもしれない。

 それでも、人が恐怖し、それこそ銃口を向け、引き金をひいたとしたら死んでしまう存在だ。艦娘でいる間は成長が止まるというから、不老をイメージはするかもしれないが、決して、不死ではなく、ただの兵器でもなく。

 それこそ、ささいなことで笑い、幸せを感じるだけの、ただなんとなく日々を過ごす人達なんかよりずっとずっと人らしい人だと思うのは。

 俺が、この舞鶴で生まれ育った、親艦娘派だからなのだろうか。

 

『──お前が見た、ニュートラルな』

 

 だからそんなの。艦娘達と一緒に育った俺には、到底不可能な話だと、思わないか。

 

「……荷物、持ちますよ」

「あら、いいの?」

「女性に荷物を持たせたとあっては、男の面目が立ちません」

「……うふふ」

「な、なんですか」

 

 さっきは身動きひとつとれず、情けないところを見せたが一応毎日筋トレはしているのだ。重そうな方をひょいと奪うと、なぜか彼女に笑われた。

 

「貴方みたいな紳士(ジェントルマン)がいるなら、日本もまだまだ捨てたものじゃないわね~」

「いや、このくらいは普通でしょう」

「艦娘は兵器よ?」

「……意地悪しないでください」

 

 ぼりぼりと頭を書きながら、ちょっと気まずくて視線をそらす。きっとこの人は、俺がちょっとビビっていたのもお見通しなんだろうな、と思いながら、えいやっともうひとつの荷物も奪う。

 

「あら?」

「艦娘、艤装外せばただの人、です。海軍基地ですか? あ、そうだあそこに行くなら寄っていきたいところがあるんですが」

 

 チィーと透き通るような高い蝉の鳴き声が聞こえる。空を見上げれば、まだまだ太陽は空に留まったまま。夏が来たな、と感じるもの。蝉の声、雲の形、軒先で揺れる風鈴に、精肉店にいつの間にか設置される音のうるさい扇風機。それから、それから。

 

「はぁい、お任せします」

 

 腰をかがめ、笑いながらこちらを上目遣いで見上げる、美しい女性──。

 いや、違うな、違うか。それにしても。

 夏の陽によく映える人だな、と思った。

 

 

 がさごそとさらに重くなった荷物を両手に引っ提げながら海軍基地の入り口に向かうと、門前に三人の小さな女の子達がいた。

 そのうちのひとり、目にも鮮やかな桃色の前髪に左へ向けて白い二本のラインが入った独特な桜の髪飾りをつけている、そのなかでは比較的年上に見える女の子が、俺の隣にいる(ちか)さんを見て、微かに目を見開いた。

 

「……あれ、あた……(ちか)さん?」

「知ってる、ヒト? でっち」

「いやだからそれで呼ぶんじゃ……はぁ、もういいか……」

 

 彼女の後ろの陰に隠れるようにして、外国人形のように可愛らしい女の子が少し癖のあるイントネーションでぼそぼそとその子に話しかけると、どこかうんざりした様子で彼女がため息をついた。

 そんな二人の様子を見比べ、そしてその横で所在なさげに立っているもうひとりの女の子を見やって、(ちか)さんが声をかける。

 

「そっちの二人は見ない顔ね?」

「は、はい! 陸軍所属、三式潜航輸送艇、通称まるゆであります! よろしくお願いいたします!!」

「あ」

「陸軍?」

 

 びしっと敬礼を決めてさらさらと自分の正体を教えてくれた、ひときわ小さい、首にゴーグルをかけた少女に(ちか)さんは思わず固まり、そしてなにも知らない俺は首を傾げた。

 

「このバカ! 一般人に素性晒すバカがどこにいるんでちか!!」

「あいたぁ!!」

 

 スパァン! といい音をたててその子の頭をひっぱたいた女の子の声に、聞き覚えのある声だと思ったところで、あ、と無線の娘だと気づく。

 無線の娘は、じとっとこちらを睨み付け、低く言い放った。

 

「……お兄さんはなにも聞いてない、いい?」

「え? え?」

「さもなくば息の根を止めるでち」

「はい!! 忘れました!!!」

 

 とんとん、と自身の首に手刀を当てて、命はないと真顔の幼女に脅される恐怖、プライスレス。

 

「こほん、気を取り直して。今日は豪華ね?」

「あー、二人の歓迎会も兼ねてるから……」

 

 俺からビニール袋を受け取り、はい、と愛さんがその子に渡すと、がさごそと音をたてながら三人が袋の中を覗く。

 

「ゆー、肉食うでちよ、肉」

「にく」

「ただでさえほそっこいんだから……これ食べて大きく育つでち」

「そだつ」

「わ、わ、これ結構いいお肉なんじゃないですかゴーヤさん……?」

「新人はそんなこと気にしなくていーの」

 

 ゴーヤさんの言葉をおうむ返しする少女と、あまりの豪勢さに思わず恐縮する少女の頭をぽんぽん、と軽く叩きながら。

 

「新人は目一杯もてなされるのが義務だよ」

 

 と、ゴーヤさんは微かに笑った。

 

「ゴーヤちゃん達、仲いいわね~」

「面倒みさせられてるだけ」

「へや、いっしょ。でっち、いい、ヒト」

「あら~」

「だからそれ……」

「わ、私だって補習に付き合ってもらってますよ! ゴーヤさんは、いい人です!!」

「オメーは補習にひっかかるなでち」

「いひゃいいひゃい!!」

 

 わいわいがやがやと盛り上がる女の子達に少し置いてけぼりをくらっていると、遠くからおおーい、と声が聞こえた。

 

「あれ、イクだ」

「結構早かったわね」

 

 ゆったりとした足取りで、両手に大きなビニール袋を提げたイクさんがこちらに近寄ってきた。

 

「なにそれ」

「スイカ」

「いやそれはわかるでち……」

「なんか……もらった。いる、(ちか)さん? 二玉おばあちゃんの息子さんからもらったのね」

「あら、いいの?」

 

 スイカを一玉受け取って、(ちか)さんがにこにこと笑う。

 はっちゃん達は? 定刻通りならそろそろ。お酒はどうしようか。イヨとヒトミが秘密基地からとっておき持ってくるって……なにこれ。花火ももらった。できる場所あったかな……。

 

 わいわい、がやがや。女の子達が、楽しそうにこれから開く歓迎会について語る。そこには、目の前には確かな実体を持った、彼女達がいた。

 そうして気づけば、カシャ、とシャッターをきっていた。

 その微かなシャッター音に、反射的にじろりとこちらをにらんだゴーヤさんに今撮った画像を見せる。

 

「いきなりシャッターをきってすいません、いい絵だな、と思って」

「許可なしで撮影するのは盗撮と変わんないよ」

「すいません、今後気をつけます。撮ったものはすべて提出させて頂いて、不快に思うものがあれば削除させていただきます。……あの、事後報告で申し訳ないのですが、こちらの写真を記事に使ってもいいですか?」

「これ? なんの変哲もない写真だけど」

「だからいいんです」

 

 ぐるりと、写真に写っている娘達に写真を見せて、最後にもう一度ゴーヤさんに見せる。

 黙って判決を待っていると、はぁ、と長いため息と共に、ゴーヤさんが重い口を開いた。

 

「この写真で、どんな記事にするの?」

「そうですね……とりあえず完成したら皆さんに見てもらいます、そしてこちらの責任者の許可がおりなければ、記事にもしないとお約束します……あ、あと忘れないうちに」

 

 自分の足元に置いておいたビニール袋の中の紙袋を取り出す。そうしてごそごそと袋を開いて、彼女達に見せると、一拍置いて。

 

「……やべぇ幻のハーゲン○ッツでち!!」

「あ、期間限定あるの、もらい」

「こらイク!!」

「Häagen-○azs?」

「発音いいですね! ドイツが発祥でしたっけ」

「いや、発祥はアメリカのニューヨークだったはずでち」

「なんでも知ってるのね……」

「スイカを先に食べるか、アイスを先に食べるか……それが問題です……!」

「アイスなんて液体だからノーカンノーカン、スイカは冷やして鍋の後に食べるでち」

「のーかん!」

 

 わぁ、と黄色い歓声があがったのち、何味を食べるかで揉め出した彼女達であったが、その様子はどこか楽しそうでもあった。うちの新聞社のとっておきだ、流通制限がないことはないので、たまにコネで手に入るやつを予め上司に頼んで少し取っておいてもらったのだ。ああ、やはりなんだかんだいって年頃の女の子達なんだなと思ってると、こっそりと愛さんが寄ってきた。

 

「中々心得てるわね」

「将を射らんとすれば、まず胃袋から、です」

「ちょっと違わない?」

 

 くすくすと笑いながら、それで? と彼女が聞いてくる。

 

「記事のタイトルは決まったの?」

「うーん、そうですね……」

 

 これで、いいのだと思う。今俺の目の前で、実体を伴って笑い、喜ぶ彼女達をありのまま書けば、きっとそれは、誰かにとっての実体のある、血の通った艦娘という存在になる。

 何がニュートラルだとか、正直なところはわからない。それでも、俺が感じた、俺が思ったこと、書きたいことを通して、誰かの心が動くことになるのだとしたら。

 

「お手柄、艦娘。本日の収穫は甘味なり、ですかね」

 

 きっとそれは、意味があるものだと。そう、思いたいのだ。

 

 

 




ひっそり更新


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