リーガル・ゲイ (ケツマン=コレット)
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前編

「何と耐えがたい日常なのでしょうか。彼女はその奴隷のような生活を1年間も耐えたのです。たった一年などではありません。365日。時間にして8760時間、それはあまりにも長すぎる。こんなことがあっていいのでしょうか」

 また始まった。

 東京地方裁判所。証言台に立つ原告の周りを歩きながら、オペラ歌手を思わせる身振り手振りで弁護を語る田所を見て、同じ原告の共同代理人である宇月はそう思った。

 裁判も最終に差し迫り、勝訴を確信したときにかならずといっていいほど上映される演劇だ。そんなことをする必要は全くない。しかし、自分の勝利を詠い、相手の被告人や代理人のことを上から目線でなじることが、どうしても楽しくてやめられないのだろう。

 そんなメチャクチャなことをする人間が宇月の雇い主、上司だというのだから笑えた物じゃない。

 田所は弁護士であればだれもが聞いたことがある名だった。

 受けた依頼は必ず勝訴へ導く、法廷の魔術師――だが、その実態は……

 

 誇張された証言や証拠。

 

「その際に、あなたはメスブタと罵られた。そうですよね」

 綺麗に化粧を整えた原告は「はい」と頷いた。

その様子にしいたげられたものの哀愁はない。

「さらにですよ、この写真を見てください」

 田所はA4サイズの拡大された写真を手に取り、裁判官に見せつける。「これはガッツポーズ淫夢君という名の原告が大切にしていたガラスの置物です。見てください、原型をとどめず粉々になっています。これは被告人がその怒り狂ったときに投げつけられたものです」

「ちょっと待ってください」

 被告の代理人が手を上げて立ち上がる。「確かにそれを割った時に被告人は感情が不安定な状態でした。しかし、それは投げつけたのではなく体を捻った拍子に、腕に当たっただけで、それにメスブタと言った覚えも――」

「記憶にないなどという政治家のようなくだらない言い訳はやめたまえ」

 田所はそう相手代理人の言葉を遮った。「言ったほうは覚えていなくても、言われたほうは覚えている。よくある話ですよねぇ」

 

 買収された証言者。

 

「はい、確かに喧嘩のような声が聞えていました」

 隣のアパートに住んでいたという20代の男は、証言台に立ちそう語った。

「どれぐらいの大きさでしたか」

 田所が質問する。

「それはもう、ハッキリと耳に聞こえるぐらいでした」

「このように、近隣の住民の耳にも入る程に原告への罵りは酷いものでした。日常的に言葉でのDVが行われていたことは明らかでしょう。以上です」

 田所の質疑応答が終わると、次は相手代理人の番になる。

「あなたは声が聞えたとおっしゃいましたが、それはどれほどの頻度でしょうか」

「えーっと、ほとんど毎日」

「本当ですか」

 被告代理人は目線を鋭くして問う。「確かに言葉を荒げたことが何度かあったと、被疑者は認めていますが、喧嘩の度にそうなった覚えはないともおっしゃっています。そうなるあなたの発言と少々食い違う部分がありますが……これはどういうことでしょうか」

「えっと、いやぁ」

 証人の男が目をきょろきょろと動かし、明らかな挙動不審になると「裁判長」と田所が手を上げて立ちあがる。

「証人はこういった場所が初めてで、少し緊張しているようです。そのような状態では正常な応答は不可能です。ですから質問する際には――」

 田所は男の方に一瞬、目を合わせると、素早く人差し指と親指をこする、札をはじくジェスチャーをした後、指を二本立てた。「威圧感をあたえないようしていただきたい」

「質疑応答は、証人に配慮するように」

 裁判官が静かにそういい、代理人が再度質問を投げようとしたとき、

「確かに、この耳ではっきりと聞きました!」

 先ほどの狼狽は嘘かのように、男はきっぱりとそう答えた。

「あ……いや、ほ、本当ですか。毎日ですよ」

 突然のことに代理人は戸惑いながら、再度そう聞く。

「はい、毎日です」

「ですが、それでは被告人の発言と整合性が」

「確かに、毎日ではないのかもしれません」

 田所が立ち上がってそういうと、証人の隣まで歩いていくと証言台に両手を置いた。「しかし証人は、ここではお答えすることができませんが、あるどうしようもない理由にてほぼ毎日、24時間家にいる状態でして。事あるごとに隣の家から喧嘩の声を耳にしたら、それは強く印象に残るものです。そうですよねぇ」

 田所が発言を促すと「はい!」と男は背をそって返事をした。

「集中を乱されることも多かったでしょう?」

 苦虫をかみつぶしたような顔をする被告代理人を横目に、田所は質問を重ねる。

「はい!」

「とても不快に思ったのでは?」

「はい!」

「そうなると、毎日のように聞こえたと思ってもおかしくはないし、日常的に暴言があったのは確か……ですよね」

「はい!」

 

 裁判長の調査も欠かさない。

 

「彼女は一人娘でした。故郷の青森から一人で上京し、仕事をしていくうちに被告人と出会いました。両親の愛を一心に受け継いだ彼女は、そのもらった愛情の分、自分の夫を、子供を愛そうと誓っていました……しかし、それは叶いませんでいた。なぜなら、その夫は愛を受けるに値しない、昭和の男尊女卑を人型に固めたような、自分勝手極まりない人間だったからです」

 宇月は隣にある田所の机に広げられたファイルを覗く。

 どこで調べたのか、あったのは幼稚園児時代にまでさかのぼった裁判長の経歴だ。

 そこにはこう記載されている。

 一人娘あり。すでに自立しているが、女の一人暮らしを心配し、月に何度も連絡を入れている。そして、出身は青森。

「意義あり」

 被告代理人は手を上げて立ち上がる。「本件とは関係のない話です」

「関係がない!?」

 田所はわざとらしく驚いて見せる。「いったいどこが関係ないというのですか」

「これはDVの有無についての裁判です。原告が過去どのような経緯で今に至るかは、関連性がありません」

「そんなことはありません。この話は原告がどれほど心を痛めたのかを理解するたには不可欠な話です。裁判長」

 田所が判断を促すと「意義を却下します」と裁判長は答えた。

 その顔には、公平中立であるべき裁判官にあるまじき、原告に感情移入した険しい表情が微かに見えた。

「なっ」

 驚く被告代理人を、にんまりとした顔で田所は見下ろす。

「では、話の続きをさせていただきます」

 

 そして……迫真の話術。

 

「原告は日々、被告人に尽くしてきました。被告の心に少しでも善の心があるというのなら、きっといつかは変わってくれると信じて。しかし、それは叶いませんでした。人間は簡単には変わらない。だから人に成り代わり法で裁くのです。自らの過ちをその身に刻ませるのです。そして、救うのです。苦しみの中、必死に耐えた彼女のような人間を。もし、彼女が救われないというのなら、そんな法律は必要ない……違いますか?」

 田所が訴えかけるように問うと、裁判官は口をつぐみながら小さく首を縦に振った。

「本件において、原告が被告人からのDV被害があったのは明確であり、なおかつ、心優しき彼女が受けた苦痛は言葉では言い表せないほどのものであったことは、説明する間でもないでしょう。被告人のアクシード株式会社、幹部という社会的地位も加味するところ、初期の我々の請求、慰謝料二億円は妥当であると言えます。しかしながら、原告は親の教えである、常に相手に優しく有れという精神から、そこまでの金額をいただくのはしのびないと、そこにかなりの減額を加えた1億9190万円は、非常にキリが良く、彼女の精神的苦痛に見合い、被告人に最大限考慮した、最も適正に近い金額であるってハッキリ――」

 田所は被告代理人へ勝ち誇った表情を向けると、手を口に持っていき、鼻の下を人差し指で擦った。「……分かんだね」

 

 勝訴のためならどんな汚い手だって使う。

 魔術師……いや、法廷の野獣。

 最強最悪の弁護士。

 それが、田所浩二。

 

 

「フンフン、フフ~ン」

 鼻唄交じりに軽くスキップしながら裁判所を出て行く田所の背中姿を、宇月は疲弊した様子でため息交じりに眺めていた、すると、

「なにをしている多少ブサイク」

 それに気づいた田所が、足を止めてくるりと踵を返す。「さっさと下北沢に帰るぞ」

「ちょ、顔で人のことを呼ばないでくださいよ。田所先生」

 反論しながらも、宇月は田所の隣まで足早に歩いていった。

「多少ブサイクな人間に多少ブサイクと言ってなにが悪い」

 田所は人差し指を立て、それを宇月の顔に差した。「それにだ、勝訴して慰謝料をがっぽり手に入れたというのに何だその顔は。美人ならそれでも花になるが、君はそうではない。容姿レベルが低い自覚があるなら少しは笑顔でも振りまいたらどうだ。これならマリモッコリのストラップでもぶら下げていた方がまだましだ」

 まくしたてるような田所の嫌味に、宇月はぐっと口をへの字に曲げた。

 どうしてこうも、つらつらと人の悪口をいえるんだ。

「笑えるものも笑えませんよ。あんなメチャクチャな裁判、心から勝ったと思えません」

「ほう、それはどうして」

「あんな証拠、嘘まみれじゃないですか」

「なにが嘘だというんだ。私は原告の証言通りに証拠を提出したまでだ」

「証人だって、話はめちゃくちゃだし。最初にきいたときには、部屋に居たら声が少し聞こえてきたって話だったじゃないですか。お金まであげて。あれは買収に当たりますよ」

「解釈の仕方は人それぞれだ。富士山を、その辺の裏山と比べて大きいと解釈する人間もいれば、エベレストと比べて小さいと解釈する人間もいる。確かに声は小さかったのかもしれないが、証人の耳にはハッキリと聞こえていたのだ。それに、私は決して大きな声だとはいっていない。あくまで、ハッキリと聞こえた、といったまでだ。それを裁判官はどう受け取ったかは知らないが。あと、証人には饅頭しか送っていない。一応、感謝のしるしとしてもう二箱送るつもりだが」

「なら、原告の出身は青森じゃありません。普通に東京生まれ東京育ち。両親とも疎遠です」

「彼女は何度か青森を訪れていてね。青森は第二の故郷だと思っているそうだ。疎遠だとしても、心ではつながっている。家族とはそういうものだ」

「裁判長の調査だって――」

「裁判長のご機嫌をとってなにが悪い」

 田所はピンと指を立てて言った。「我々弁護士の仕事は依頼人の勝訴のために全力を尽くすことだ。汚い手だろうが何だろうがな。自らの正義の元に綺麗事だけを抜かして生きていけるのは、日曜日の朝の幼児向け番組の中だけだ」

 その勢いに押されるも、

「そんなことありません」

 宇月は負けじと反論する。「過去の歴史は、ちゃんと正義を貫いて勝った人たちがたくさんいます」

「正義を貫いて勝ったんじゃない、勝った者が自らを正義として歴史を組み立てるのだ。成功すれば勇猛な革命家、失敗すれば愚かなテロリストと呼ばれているだけの話。それが違うというなら、その正義の名のもとに裁判で勝って見せろ。まあ――」

 田所は宇月に顔を近づけ「一度も勝ったことがないクソザコ美大落ち弁護士には無理だろうけどね~~~~」とより目をしながら、舌を出してベロベロと左右に動かした。

 宇月はぎゅっと歯を食いしばった。

 そう、田所のいう通り、宇月はこれまでを通した2年の弁護士生活の中で、一人で勝訴を勝ち取ったことがないのだ。

 ちなみに美大も落ちてる。指定校推薦の。

「くだらないことをいってないでさっさと戻るぞ、まだまだ仕事がたっぷりあるんだからな。はあ~~、常勝不敗の人気弁護士は忙しいなぁ~~」

 そう言ってタクシー乗り場へとスキップしていく田所の背中を、口を尖らせ、納得のいかない表情で睨みつけながらも、宇月はついていくのだった。

 

 

 田所法律事務所は下北沢の一等地にある弁護士事務所だ。

 在籍するのは田所と宇月だが、弁護活動を行うのは基本的に田所のみである。

 宇月が任せられるのは、田所が弁護を行う際の書類整備や申請など、その他全般における雑用係。それを一人でおこなっている。

 時刻はお昼。事務所の事務スペースとなっている大きなリビングルームで、ノートパソコンを前に、おおよそ一人でやるような量ではない仕事を、朝から黙々とこなしていた。

 なぜ宇月がここで働くこととなったのか。

 事は1年前のことだ。指定校推薦を受けながらも美術大学を落ちた宇月は、その反動か日夜勉強に励み司法試験を一発合格。一年間の研修を経て見事弁護士となった。

 しかしながら、やはり指定校推薦を落ちた人間、トントン拍子はここまでとなる。

 クッキー☆弁護士事務所に所属し様々な弁護を行ったがことごとく敗訴。弁護士界隈では、クッキー☆に簡単に勝てる多少ブスがいる、と噂されるほどだった。

 おかげで依頼される仕事もなくなり悩んでいたところ、田所法律事務所が事務員、いわば雑用係を求めているという話を聞いた。

 絶対に勝訴を勝ち取る、不敗神話を持つ最強の弁護士。

 そんな男の元で働ければ、弁護士としてレベルアップできるのではないか――そう思ったのも最初だけだった。

 田所の元で働き始めてすぐに見えた、その犯罪ギリギリのやり方は見るに堪えるものではなく、ましてや真似しようとも思えなかった。

 田所自身の人間性も最悪だった。依頼人のためなどとほざきながら、考えているのは金のことばかり。口を開けば嫌味を言われ、体臭も口もウンコ臭いし、顔にあるイボがキショイし、目線がいやらしいし、ブスだし、COWCOWの多田に似てるし、トイレに入ると排せつ音がめちゃくちゃデカくて不愉快極まりない。あと臭い。

 こんな事務所すぐにやめてやろう。そう思ってはいたのだが、宇月はいまでもこうして田所法律事務所に在籍していた。

 なぜか。それは田所が勝訴を勝ち取る確かな力を持っていたからだ。

 それは弁護士にとってなくてはならないスキルであり、宇月にはこれっぽっちもないものだった。

 もちろん、あんな汚いやり方をするつもりは毛頭ない。しかし、その実力を間近で見ることによりきっと弁護士としてランクアップできるはずだ……そう思っているのだが――

 突然、宇月はガクッと首を下げてうなだれる。

 さすがに、こんな犯罪まがいのことを見させられ、しかも、不本意とはいえその片棒を担いでいると心が痛む。

 連日残業続でたまった疲れに、罪悪感のようなものがどっとのしかかると、重いため息を宇月は落とした。

 すると、どこからかほのかな甘みのある、花のような香りが周りを漂うと、ノートパソコンの横に皿に乗ったテーカップが運ばれた。

「お疲れもようですね」

 顔を上げると、横には事務所の使用人であるスーツ姿の新庄が、笑みを浮かべて立っていた。「こちら私特製も紅茶でございます。よろしければどうぞ。お口に合うかどうかは分かりまれんが」

「ありがとうございます」

 礼を言い、カップを口に運ぶと、透き通るような甘みと共に上品な香りが口いっぱいに広がっていき、吐息と共に体から力が抜けていく。

「お気に召したようれ」

 その様子を見て、新庄がそう言うと宇月はうなずいた。

「はい、とっても。どうやったらこんな紅茶を?」

「昔、イギリス王室で、専属でお茶を出しておりもした。その時み」

「お、王室……」

 宇月は言葉を詰まらせる。「すごいですね」

「昔も話れす」

 新庄は宇月が事務所にくる前からいた使用人だ。

 家事から雑務まですべて完璧にこなし、それでいて常に謙虚で、その過去には謎がおおい。

 歳はそこまで離れてはいない。顔から察するに大きく離れていても一回り程のはずだが、同じヒト科の生物とは思えないほどに、まるで非の打ち所がない、完璧な人間だった……舌が364度ねじれているのか? というほど滑舌が悪いことを除いては。

「はあーーー、今日もいい天気だったぁ!」

 屋上から、サングラスにブーメランパンツ姿で全身をオイルでテカテカに光らせた田所が、日課である日光浴から降りてきた。「お、これはアールグレイの香り」

「いえ、アッサムれございます」

 即座に新庄に訂正される。

「お、そうか。いや私もどっちか迷ったんだ、アッサムかアールグレイか。二択を外してしまったな。二択を。それより、私はシャワーを浴びるから、あがったら同じものを」

「かしこもりました」

 新庄が深々とお辞儀をすると、るんるんと口ずさみながら、スキップで田所はシャワーへと向かった。

「新庄さん」

 宇月は田所が行ったのを確認してから聞いた。「あんな人の下で働いてて、嫌にならないんですか」

「まったく。田所様は素晴らしいお方れす」

 そう答えると同時、部屋の隅にある電話が鳴ると新庄が受話器を手に取り耳に当てる。「はい、こちら田所法律事務所……ああ、申し訳ありもせん、いま田所は手が離せない――」

「問題ないぞ、新庄君!」

 突然、シャワールームから田所が出てくると、宇月はキャっと声を出して、両手で顔を覆った。

 バスルームに入る直前だったのか、田所は全裸だった。その状態のまま、下半身を隠す素振りもなく新庄の近くまで歩くと、受話器を受け取る。

「ただいま変わりました。高所得者専門弁護士、田所法律事務所の田所浩二でございます」

「……これでも嫌にならないんですか」

 田所を視界に入れないようにしながら、宇月は新庄にそう問うと、新庄はニコッと笑った。

「ハハ、もう慣れもした」

 

 

「実は、社員に不当解雇で訴えられていまして」

 応接室で机を挟み、田所と宇月を前にそう語るのは竹之内という男だ。大手広告代理店、便通の部長の立場にあり、今回の告訴担当になったらしい。

 堀が深く、渋い顔立ちをしており、困ったように眉を寄せるとそれはさらに濃く見える。

「ほう、不当解雇ですか。いったいどんな理由で解雇されたのですか」

 田所は質問する。

「理由は色々で、まあ何というか……社内秩序のためだ」

「社内秩序?」

 宇月はその言葉に引っかかった。「それはいったいどういう意味ですか」

「話せば長くなるんだが。僕はその訴えた社員の、元上司でね。最初に彼――いや、彼女はカミングアウトをしたんだ。自分は男が好きであると」

「は?……お、男が好き?」

 話の意図がつかめず、宇月は小首をかしげる。「えっと……女性だったってことですか」

「いや、男性なんだよ」

「ゲイ、ということですね」

 田所がそう答える。「言い方を変えればホモ。もしくはトランスジェンダーか」

「詳しくは僕も知りませんが、とにかく男性が好きであると、突然社内にいって回っていたんです」

「それが解雇理由ですか」

 宇月が聞くと、竹之内は首を横に振った。

「いや、それだけじゃない。彼女は急に、自分を女性として扱うよう要求した挙句……その服装も……スカートを履いて」

「お言葉ですが、服装は個人の自由です、男性がスカートをはいてはいけないという法律はありません」

「キミは見てないからそんなことが言えるんだ」

 宇月の反論に、竹之内は声を荒げたが、すぐに首を振って「いや、申し訳ない」と謝罪する。「少し取り乱した。説明すると、その……彼女はすごく筋骨隆々でね。そんな男に女装、しかもパンツが見えるギリギリみたいなミニスカをされると……こちらとしても不愉快にならざるをえない」

 そう言われると、宇月も竹之内の気持ちがわかるような気がしたが、やはり服装の自由は守られるべきだろうとも思ってしまう。

「別に女装をとやかくいう気はないんだ。ただ、それを間近で見る我々の気持ちにもなってほしいということだ。男性社員達は露骨にやりにくそうにしているし、提案を却下すると、私がホモだからですか、となんと返していいのか分からない反論してきたり……とにかく、細かいところ言ってあげるときりがないんだ。これ以上、彼女を社内に置いていたら、確実に他の社員たちに影響がでるのは避けられないし、社の損失になる」

「しかしですよ、その社員がカミングアウトする前は、特に問題はなかったんですよね」

 宇月が言うと、竹之内は口に手を当てて「まあ……そうだな」と言いにくそうに答えた。

「それなら、その社員の方としっかりと――」

「話は分かりました」

 宇月の話の途中、田所がそれを遮る。「報酬はどれぐらいを考えておられますか」

「成功報酬で8億1000万円」

「受けましょう」

 田所は即答する。「今日から動かさせていただきます。新庄君、お客様がお帰りだ」

「ありがとう。では、失礼する」

 新庄の案内を受け、さっさと帰っていく竹之内を、宇月は納得のいかない様子で見つめていると、

「なにをしている」

 田所がぶっきらぼうに言った。「さっさと仕事にかかれ」

 部屋を出て行く田所に「分かってますよ」と宇月も後から続くが、

「でも、この問題は原告側に正義があるというか」

 と不満を漏らした。

「なに?」

 リビングに差し掛かると、田所は踵を返して宇月と向かい合わせた。「いったいなにが悪いというんだ」

「いってたじゃないですか、カミングアウトする前は特に問題がなかったって。しっかり話し合いをすれば、衝突も避けられていたのかもしれない。これじゃあ、まるで原告がホモだからクビにするようです」

「ホモをクビにしてなにが悪い」

 田所の口から出た強烈な一言に、宇月はぎょっとする。

「い、いや何をいってるんですか。LGBTってご存知ないんですか、最近よく聞く」

「ああ知ってるさ。原爆Tシャツを愛用している韓国のアイドルグループだろ、確か」

「ぜんっっっぜん違いますよ。レズ、ゲイ、バイ、トランジュジェンダーの頭文字を並べたもの。いわゆる、性的少数派の方々を差す言葉です。過去、これまで人類は彼らを腫物のように扱い、封じ込めてきました。現代ではそれも薄まりましたが、まったくなくなっているとは言えません。それをなくすために近年では――」

「あああああ、もういい」

 田所は面倒くさそうに吐き捨てた。「説明が長い。話の要点を短く語ってくれ」

「これは明らかに性的少数派、ホモの方に対する差別です。差別は悪です、許されません」

「確かに差別は、いまの時代においては悪とされている。だが今回の件は差別ではない。単なる経営方針だ」

「はあ? どういう意味ですか」

「新庄さん、紅茶を」

 竹ノ内を送り出し、戻ってきた新庄に、田所は命令してリビングの椅子に腰かける。「そのままの意味だ。便通の方針として、同性愛者の社員は必要ないからクビにしたというだけだ」

「それは明らかな差別じゃないですか」

「なら土木作業員には筋肉モリモリで、フェロモンバリバリのエロエロな男しかいない理由はなんだ」

「エロエロかどうかは知りませんけど……そりゃ、そういう方が就職に行くからですよ」

「その通りだ。だが、それともう一つある。会社がそういう人材を中心的に取っているんだ。もし、ヒョロヒョロの脂肪も筋肉もエロスも何一つない人間が面接にいっても、すぐに落とされるだろう、彼には仕事はできないと判断されるからだ。それも差別というのか?」

「いや、それは」

 口ごもる宇月に、田所はさらに詰め寄る。

「日本には世界大学ランキングにおいて、114年間一位の座に居続けてる大学があるな。そう、立教大学だ。日本の大企業は頭のいい彼らを中心的に就職させる。これも差別か? 女性ばかりを雇用するアパレル会社は、プログラマーの知識を有する人間ばかりを雇用するシステム会社は、ホモばかりを雇用するホモビ会社は、すべて差別というのか? 違う、これらは会社の経営方針だ。会社は自らがほしい、有意義であり利益を上げると思える人材だけを雇用し在中させる、これは何らおかしいことはない、ただの区別であり資本主義が生み出した競争形態だ」

「それは能力によって採用されているだけでしょう」

「いいか、クビになった社員は自分の性的指向を表面に出して、周りに悪影響を及ぼしている。これも能力の一つだ、悪い方のな」

 新庄が紅茶を机に置くと、田所は小指をピンと立てながらカップを手に取って、優雅に香りを楽しんでから一口飲んだ。

「そんなのめちゃくちゃですよ」

 余裕のある田所とは対照的に、宇月は声をあげて反論する。「性的指向は変えられるものではありません。ちゃんと話し合いをして、同性愛者でも快適に働けるようにするべきです」

「日本の――いや、世界ほとんどの企業で働く人間は、男が多くを占めている。なぜか? 女には出産があり、子供を産んだら家庭に入りたいと思う人間も多いからだ。さらには生理があり精神的に不安定な時期が多い。それがないうえに、体力も多い男が採用されるのは世の常だ。それと同じ、ホモ社員が周りに悪影響を及ぼすなら、それがない同じ能力を持つノンケ社員を採用した、話し合いも対策もしないで済むぶん効率がいい。そもそも、その社員が最初から自分の性的指向を先に話しておけば、こんなことにはなっていなかった」

「いや……でも」

 何とか反論しようとするが、言葉がでず宇月は悔しそうに口をとがらせる。

「でももへったくれもない、さっさと仕事にかかれ美大落ち」

 田所は言い放ち、また優雅に紅茶を楽しんでいたが、宇月はその場を動こうとしない。

 悔しさのあまり、そのまま仕事をする気になれなかった。

 何とかギャフンと言わせられないものか、そう思って立ち尽くしていると、

「なんだ、まだ言いたいことがあるのか」

 田所がそう聞いてきた。

 どこか、この男の弱点を――考えた末、

「先生だってホモじゃないですか!」

 出てきたのはそんな言葉だった。「自分が同じことやられたときに、そんなことが言えるんですか!」

 田所は、どう見ても言動や見た目がホモのそれだった。どうしてかひた隠しにするが。

「は、いや、なにを言ってるんだ」

 当然、田所は否定するも、小さく揺れるカップが動揺を表している。「いいか、前から何回もいっているがな、オレはホモじゃない、ノンケだノンケ。あ~あ、どこかにいい女居ないかなぁ。おっぱいの大きい」

 でた。いつものノンケアピールだ。

 これでごまかせていると思っているのだろうか。

「無理ですよ、そんなんじゃごまかせません。先生は筋金入りのドホモじゃないですか。海水パンツ姿の男性が載ってる雑誌いつも読んでるし。それにさっきも、土木作業員のことをフェロモンたっぷりのエロエロとか、どう考えてもそっちの人の考え方ですよ」

「いや、オレ体焼いて鍛えてるから。そう言うの読んでるだけだし。土木作業員も、友達がそんな感じでいってたのが出ただけだし」

 追い詰められすぎて、なぜか田所の口調が生意気な若者のようになる。「別に、男とかすきじゃねーし。ちょっと前まで女と付き合ってたし」

「付き合ってた? それはいつ頃ですか」

 田所はスーっと、謎の息を吐く音とともに思案するように首をかしげると、

「こっ――去年ですね」

 そう答えた。

「いま、こっ、て言いましたよね、こっ、て。今年っていおうとしましたよね。嘘だから今年か去年かどっち言おうか迷ったんでしょ。それとも何ですか? 新年のカウントダウン中に別れ話でも切り出されたんですか? 除夜の鐘が鳴ると同時に別れでもしたんですか? どうなんですかぁ?」

「うるさーーーい!」 

 宇月の詰問に、田所は声を荒げる。「いつでもいいだろうが、前の女の話なんて! だいたい貴様は、いまだに年齢=彼氏いない歴の処女だろうが! そんなやつに言われたくないね」

「関係ないでしょ! それと、私を勝手に年齢=彼氏いない歴と決めつけないでください」

「決めつけじゃない、客観的に判断をもとに言っているんだ。多少ブサイクで笑い方が、デュフフ、とかいうオタクそのものの女に彼氏がいるわけがないだろうが!」

「先生だって! ブサイクで、目線がねっとりしてて、顔にきっしょいイボのある男なんて、女はおろか、男からだって相手にされたことなんでしょうね!」

「男には興味ないっていってるだろ! それとなぁ、私みたいな筋肉があって、色黒で、男らしい男っていうのはな、そっちの方面では結構人気があるんだよ」

「へぇ、じゃあ男はいたんですね」

「ホモじゃないっていってるだろ! さっさと仕事にかかれ、この指定校推薦美大落ちニコニコ大百科自演多少ブサイク底辺ネットボイスコの処女が!」

「はいはいはい、やりますよ~。ホモ上司の頼みですからね」

「ホモじゃないって――」

 そそくさと出て行く宇月を見て、田所は言葉を止めて、ぶつくさ何かを言いながら紅茶を口に運ぼうとしたとき、

「早く彼氏ができるといいですね」

 不意に、音もなく戻ってきた宇月がそう呟くと、フブっっと口に入っていたものを勢いよく吐きだし、机にぶちまけられた。

 田所はゆっくりと、鬼となった形相を宇月に向け、大声で叫んだ。

「さっさと行けーー! 美大落ちぃ!!」

 

 

 二日後、原告の代理人となった相手弁護士と連絡を取り、二人でやってきたのはcoot総合法律事務所のオフィスビルの前だった。

 日本最大手の弁護士事務所であり、弁護士の所属人数は810人とぶっちぎりだ。

 19階まであるオフィスビルも一棟丸々cootの物で、その高さと財力に圧巻された――のもずいぶん昔の話。もう何度もここにきている宇月は、最初の頃に感じていた威圧感もほとんどないといっても過言ではなかった。

 そんなことよりも、ここに呼ばれたということは――。

「あの人でしょうね」

 白を基調とした芸術的にも思えるcootビル内を歩き、エレベータに乗った宇月がそう呟くと、

「ま、だろうな」

 田所が特別興味もなさそうにそう返す。

「先生、薬は飲みましたか。こういう外出中の大事な時に限って、いつも催すんですから」

「大丈夫だ」

 田所が言うと同時、チンポン♪とチャイムが鳴り、エレベータを出て廊下を歩いていく。「今日は大丈夫な気がする」

「気がするって、なんの根拠もない憶測じゃないですか。先生、ご自分ではご存じないでしょうけど、大をした後すっごい臭いんですからね。もう吐きそうなほどに」

「根拠はある。今日は朝から快便で、しかも久しくみる固形物だった。体調もここ数年で一番の良さで、その勢いで19㎞もランニングで走って、日光を浴び、汗を大量に流した。その後にシャワーを浴びて、淫スカグラムで流行っていた体にいいスムージーも飲んで、もう完璧の状態だ。体内に異物はひとかけらも残っていない。それとな、排便後の私が強烈にウンコ臭いというのは、貴様の誇張表げごぉ……ぐぅ」

 突然、田所は体をくの字に曲げ、腹を押さえる。「かぁ……は、腹が」

「ほら、だから言ったじゃないですか」

「や、やかましい。こんなものは……結果論だろ」

 額に大量の脂汗をかきながら、田所は反論する。

「過去の出来事から簡単に推察できた事でしょ」

「黙れ美大落ち……クソ、先にいっておけ、私は後から行く」

 内またで尻を両手で押さえながら、トイレに向かう田所をため息と共に見送ると、宇月は一人待ち合わせの部屋へと向かった――だが。

「あれ」

 廊下の真ん中に立ち止まり、宇月はきょろきょろと周りを見る。「待ち合わせの部屋、どこだったっけ」

 まさかのド忘れである。

 coot事務所ビルは一フロアだけでもいくつも部署や部屋があり、どこをどう行けばいいかわからない。

 とりあえず、近場の人間に話を聞くも、他の弁護士がする待ち合わせ場所を知ってる人間がいるわけもなく。

 とにかくフロアの上の階や下の階を行ったり来たりして、目的地らしき場所についたのはそこから20分も経った後だった。

 待ち合わせの時間はとっくに過ぎている。

 恐る恐る「失礼しま~す」とゆっくりドアを開けると、最大で20人は座れるであろう、高級そうな会議室の場に見知った男二人が座っていた。

「申し訳ありません……あの、ちょっと迷子になっていまして」

 宇月が頭を下げてそう言うと、左側に座る男、木村が袖をまくって、その手首につけられたロレセックスの時計を一瞥する。

「15分……どうやればそんなに迷えるんだ」

「いやぁ、cootさんのビルはホント大きくて」

「キミは何度もこのビルに来ているだろ。この部屋を使うのも何度目か。どんなポンコツ頭を備えれば迷えるんだ。ある種の才能だな」

 田所に負けず劣らず、すさまじい口ぶりだった。

 木村はcoot事務所、若手弁護士のホープであり、若く宇月と同じほどの年齢でありながら、受ける仕事はすべて勝訴している――田所が相手でなかった場合のみだが。

 宇月も何度か顔を合わせていた。相手代理人がcoot事務所から出る場合、確実に木村が出てくるからだ。

 木村以外の弁護士が田所と戦いたくないという理由もあるのだろうが、詳しくは知らないが、木村は田所に対して因縁めいたものをもっているようだった。

 田所とは数年前から数え切れないほど法廷で戦っており、その都度、苦い思いをしているようだ。

 そして、その隣に座るのが三浦という坊主の男だ。

 こんなこと言ってはあれだが、池沼だ。宇月が入ってきたというのに、まったく目もくれず、都内が一望できる窓の外を口を開けて眺めている。

 理由は分からないが木村が代理人になると、かならず三浦が共同代理人になり、法廷に座っている。

 見たところなんの役にも立ってないし、態度から察するに木村の意思で隣に座らせているわけでもなさそうだった。代わりにテディベアでも座らせていた方が、よっぽど有意義じゃないのかと思える人だ。

「まあ、そちらに座ってください」

 木村に前の席を勧められ、腰掛けると「ところで、ステロイドハゲは?」とすぐに田所のことを尋ねられた。

「ああ、先生なら20分ほど前にお手洗いに。たぶん、もうちょっとかかるかと」

「またか……奴はトイレを自分の部屋か何かと勘違いしていないか。まったく、とんでもない弁護士コンビだ」

「も、申し訳ありません」

 宇月しょんぼりしながら謝ると、ガチャリと部屋の後ろのドアが開き、振り向くと田所が立っていた。「あ、先生。やっとお手洗い……から……え?」

 宇月は思わず言葉を失い、田所の全身を上から下に何度も往復して見る。

 その服装は先ほど別れたときとは打って変わり、赤い水玉のシャツに、白いスカートを履いてきた。

「おい、なにを勘違いしている」

 頭がクエスチョンマークで埋まり、破裂しそうになると、木村がそう声をかけた。

「え? か、勘違いって……えっと、彼は先生で」

「違う、奴じゃない。ちょっと到着が遅れてな。紹介する。この方は今回の原告である、鈴木福子さんだ」

 すずき……ふくこ……?

 宇月の空っぽになった頭の中に、その名前が何度か反響すると、

「えええええええ!!」

 次の瞬間には、宇月の叫び声がcootビル全体を揺らしていた。

「やかましい!」

 木村が怒鳴ると、宇月の叫び声はピタッと止まる。「ふざけた声出しやがって。威力業務妨害で訴えるぞ」

「いや、だって」

「気持ちは分からないでもないが驚きすぎだ。まったく、どうやれば人間からあんな音量が出るんだ」

 木村は立ちあがり、鈴木に軽く頭を下げ「申し訳ありません、鈴木様。ご迷惑をおかけしました。こちらにおかけ下さい」と隣の席を勧める。

 はい、と戸惑いながらも返事をして席に座ると、宇月は簡単に自己紹介をする。

「初めまして、便通の代理人の宇月幸成と申します。大声を出してしまい、本当に申し訳ありません。あなたの顔が、私の共同代理人である田所と酷似していたもので」

「そうだったんですか。それは偶然ですね」

 鈴木がそう答えると、宇月は口をぎゅっと閉ざしながら仰天する。

 声も聞き訳が付かないほど同じものだ。

 もしかして兄弟? いや、だとすればあまりにもDNAが濃すぎるだろう。

 そんなことを考えていると、

「失礼!」

 突然、ドアが開かれ、勢いよく田所が入ってきた。「少し遅れました、田所浩二です。頭の悪い助手を先によこしてしまい、心から謝罪申し上げます。先ほどはどうやら小さな地震があったようでおどろきましたねぇ。まあそれはさておき、告訴の準備をどうぞ、私たちは請求も和解案も受けるつもりは全くございませんので、よろしくお願いします」

 宣戦布告のようにそう言いながら、流れるように宇月の隣に座り足を組むと鈴木と顔を合わせた。「ほう、そこのブサ――じゃなくて、特徴的な顔の方が今回の原告ですか」

 宇月はその発言を聞き、怪訝そうに田所の横顔を見る。

 いま明らかにブサイクと言いかけたが、失礼である以前にどの顔がいっているのだろうか。

 というか、うり二つであることに気づいていないのか。

「貴様のことだから、そんなことだと思ったが、請求ぐらいは聞いといた方がいいじゃないか。先に知っておいた方が負けたときのショックが小さくて済む」

 木村が挑発を交えて言った。

「どうせ棄却されるだろうが、せっかく考えてきたんだ、聞くだけ聞いてやろう」

 鋭い目つきの木村の額に、青筋が一つ浮かぶと、拳を口に当て喉を鳴らし、請求を読み上げる。

「請求は、性的趣向による差別があったことを認めること、元上司竹之内を中心として、便通の主要な人間を集めて原告に謝罪をすること、性的少数派が働きやすくなるよう改革を進めること……そして、様々な精神的苦痛による損害賠償893億円を支払うこと」

 その金額に宇月は度肝を抜かれた。

 あり得ない請求額だ、認められるはずがない。

「ハハハ、めちゃくちゃな請求だな」

 驚く素振りなく、田所は笑って言った。「そんな額はまかり通らないぞ。ホモビデオのガバガバ裁判を見すぎじゃないのか。あれはフィクションだぞ」

「こちらとしては原告の苦痛に見合った額だと判断している。それにだ、そちらは悪名高い大手広告会社、便通。社員を馬車馬のごとく働かせて、ずいぶんとため込んでいるじゃないか。この告訴が明るみに出たとき、この金額でも世論はこちらに肩入れしてくれるだろう。そうなった時、裁判官はどう判断を下すだろうな」

 裁判長にもよるが、世論に寄せた判決を下す人もいる。

 満額が通るとは夢にも思わないが、もしかしたらもしかすると、近い金額を請求されるかもしれない。

「私は君の心配をしているんだよ、木村君」

 一切の動揺もなく、田所は語った。

「なに?」

「こんなめちゃくちゃな金額を提示しておいて、負けたとなったらとんだ赤っ恥じゃないか。これ以上、キミのことを傷つけたくないんだ。しまいには自殺してしまうんじゃないかと、内心ヒヤヒヤしてるんだ」

「心配してもらって、どうもありがとう」

 木村は冷静を装って感謝を述べるも、その目は血走り、いまにも光線を出してきそうだった。「だが負けるのはお前だ。本件はどう考えてもそちらに非がある」

「それを決めるのは裁判官だ」

「判決を仰ぐまでもない!」

 木村は手を机に着き、体を前に出すと田所を睨みつけた。「次に床を舐めるのは貴様だ、田所」

「生憎だが、私はキミと違ってユカちゃんとはどうも相性が悪くてね。なかなか、向こうが寄ってきてくれないんだ。たまには熱い抱擁を交わしてみたいものだ」

「その願い、叶えてやるよ」

 そう言って、木村は立ち上がった。「すぐにな……。鈴木さん、行きましょう」

 木村は鈴木を連れて部屋を出ようとしたが、いまだにボーっと外を眺めている三浦に気づき「なにをしている、早く来い!」と叫ぶと、はっとした三浦はのろのろと立ち上がり、三人は部屋を後にした。

「まったく、客人より先に出るとは」

 田所は不満を漏らして部屋を出ると、宇月も後に続く。

「そりゃ、先生の態度じゃもてなされるわけないでしょ」

「それにしても、不細工な原告だったな」

 エレベータに乗るなり、田所はそう言った。「あんなのが女装してるんだ、辞めさせられて当然だ」

 宇月はまた、エレベータの出入口の方を向く田所の顔を不思議そうに見つめる。

 やはり、この人は気づいていないようだ。鏡で見る顔は左右が逆になり、写真などとはかなり違って見えるというが、もはや分身しているのかというレベルで似ているというのに気づけないものか。

「服装は個人の自由ですし、それにあの方の顔は先生とほぼ同じ顔ですよ」

「ハハハハハ! 突然なにを言うか。頭だけじゃなく目もおかしくなったか」

「いや本気です、声も完全に一緒でした。先生、生き別れた兄弟とかいませんでしたか」

「バカな冗談はやめろ、こっちまでバカが移りそうだ」

 その言葉にムカっときた宇月はカバンからスマートフォンを取り出し、自撮りモードにして田所の顔に向ける。

「ほら見てください」

「しつこいな、いったいどこが似てええええええええええええ!!」

 

 

 ニュースです。

 便通が不当解雇によって訴えられました。

 2ヶ月ほど前に解雇となった社員が、自らが性的少数派であったために解雇されたと主張し、便通を告訴しました。

 便通側は『そのような事実はない』と否定しており、近々、口頭弁論が開かれる予定で、注目が集まっています。

 続いてのニュースです。

 先日、coot法律相談事務所の窓ガラスが、突然起きた爆音とともに全て破損した事件において、警察は爆弾が使われた可能性があるとみて、捜査を開始しています。

 ニュースを終わります。

 次は、朝の人気コーナー『おすすめ♪ホモビ♡』です。

 



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中篇

 第二回口頭弁論の当日。

 東京地方裁判所の前では、ごった返すほどの報道機関や野次馬たちによって埋め尽くされていた。

 便通の告訴、さらに最近流行りのLGBT問題ともなると、さすがに注目度も高い。

 裁判において第一回口頭弁論は、原告被告の請求を確認する簡単なもので、本人もほとんどの場合で欠席し、代理人だけで済まされることがほとんどである。

 本当に戦いとなるのは、この第二回からだ。

 法廷には、判長席を前としたとき、右に奥から田所、宇月の被告代理人の二人と竹之内が、左に木村、三浦の原告代理人と鈴木が座る。

 鈴木は前見たときとは違い、スーツ姿だ。レディースの。

 傍聴席は満員になっており、報道関係者であろうメモを手にするスーツの者が多く見える。

 裁判官がやってくると、法廷内は異様な緊張感に包まれる。その後、裁判官主催で挨拶が行われ、開廷の号令がかけられると、知で知を洗う戦いの火ぶたが切って落とされた。

「あなたは、今日から約2年前、1919年の4月から、今年の1月まで、大手広告会社の便通に勤務していましたね」

 木村が証言台に立つ、鈴木にそう問いかけると「はい」と頷いた。

「しかし、その翌月から今日にいたるまで、職に就いていませんね。いったいなぜですか」

「解雇にあったからです」

「どういった理由で」

「理由は告げられませんでした。ただ、明日から辞めてほしいと。当時の上司である竹ノ内さんに、何度も問いただしたのですが」

 そう言って、鈴木がちらりと竹之内に目を向けると、竹之内はバツの悪そうに視線を逸らす。

「ご自身を客観視して、勤務態度などで解雇の理由になるようなことはありましたか」

 木村が問うと、鈴木は首を横に振る。

「いいえ」

「では、勤務態度とは別で、解雇理由に何か心当たりになることは?」

「それは……私がホモで女装の趣味があるからだと思います」

 鈴木がそう言うと、静かな法廷内にピリッとした緊張感が走る。

「なるほど。あなたが自らの性的指向を告白したのはいつごろでしょうか」

「昨年の7月頃だと思います」

「その際に、上司や周りはどんな反応を示しましたか」

「その、言いづらいんですが……まるで私を、さけているようでした」

「そんなことはない」

 鈴木の言い分に、竹之内はとっさに反論する。「キミの要求は、可能な限り叶えたはずだ」

「被告人は発言を慎んでください」

 裁判長に注意を促されると、竹之内は不満気に口を閉ざした。

「さけているとは、主にどういったことで」

 木村は質疑を続ける。

「はい、いつもは仕事中でも、日常のことや、細かい確認作業など、空き時間に挟むことは普通にありましたが、それが一切なくなり、挨拶や、仕事による事務的なこと以外では言葉を交わさなくなりました」

「まるで腫物ですね。それは、大きなストレスになったのではないですか」

「はい」

「他には?」

「周りの社員が、私を見てこそこそと悪口をいってる様子を見たり。飲みの席の誘いなんかも、私だけなくなったり……それに……竹ノ内さんに、転職を勧められたりもしました」

 竹之内は何かをいいたそうに体を前に出していたが、ぎゅっと歯を食いしばって耐えた。

「転職ですか? それはどういった言葉で」

「私は、ある広告の仕事を任されたときに、どこにも不備やおかしな点は見当たらないのに、これはダメだと却下されたんです。そのときに、今までたまってたうっぷんから、私がホモだからダメなんですか、と聞いたんです。そしたら、そんなこと言うぐらいなら、転職したらどうだ。キミにはもっとふさわしい企業があるだろう……って」

 また、騒めきだす傍聴席。

『うわぁ……これはパワハラですねたまげたなぁ』

『人間の屑がこの野郎』

『なにがやめろだ、お前がやめろよ(棒読み)』

「静粛に」

 裁判長が静かに、それでいて重々しく言葉を発すると、声はピタリと止んだ。

「それを受けて、あなたはどういった気持ちになりましたか」

「とても悲しい気持ちになりました」

「お辞めにはならなかったんですか」

「そう思った時期もありました。ですけど、昔から便通は憧れの企業で、親や友人たちも就職が決まったときはすごく祝ってくれて」

「辞めたくはなかった」

「はい、まじめに仕事していれば、いずれは変わっていくんじゃないかと思って」

「その結果、無理やり辞めさせられたと」

 木村がそう言うと、鈴木は神妙な面持ちで頷いた。「その、いまのお気持ちを聞かせてもらえますか」

「はい。私は、男性が好きで、女性の恰好をしたいです。それは誰にも阻害される権利も、ましてやそれを理由に仕事を辞めさせる権利もないはずです。私はすべての性的指向の人間が、誰にも邪魔されることなく、幸せになれる社会を望みます」

「ありがとうございます」

 木村は礼を言うと、裁判官の方を向いた。「以上です」

 木村が席に戻っていくのを確認した後「被告代理人は――」と裁判長が田所たちに質問の有無について聞こうとすると、

「あなたは無視されたといいましたが、それは本当に彼らが嫌がらせを目的としたものでしょうか」

 田所はすぐさま立ち上がり、まくしたてるように鈴木にそう問いかける。

「え?」

 鈴木は困惑しつつも「いや、そうだと思います」と答える。

「いいですか、嫌がらせ目的、というのはあなたに対して嫌な思いをさせようという意図があったという意味です。ただホモであるとカミングアウトしただけのあなたに、そんなことをする理由は何ですか」

「それは……気持ち悪かったんじゃないでしょうか。ともかく、無視されたのは事実です」

 鈴木の返答に、ハッハッハ、と田所は作ったように笑って見せる。

「何をいうんですか、気持ち悪いから無視するなんて小中学生じゃないんですから。あなたの周りは社会人たちですよ、そんなことを理由に集団が一斉にあなたを無視するなんて自然ではない。ではなぜそんなことになったのか、答えは明白です、ただ単に触れにくかっただけです」

 田所は手を後ろに、鈴木の周りを歩きながら、時に傍聴席に語り掛けるように続ける。「ある日突然、もし同じ場所で働いていた同僚が、男性好きだとカミングアウトし、女性のように扱うようにといい、女装してきたなら、我々ノンケは、はたして何と声をかけるでしょうか。答えは無です。そんな人間に、今まで通りに普通に会話をすることなんて不可能です」

 傍聴席では、声は出さずとも賛同するように頷くものが多い。

「あなたと話をしなくなった社員は、無視したわけではなく、ただただ、あなたの強烈な変化に困惑していただけなのです。それは決しておかしなことではなく、ごく普通のことだとではないでしょうか。当然、飲み会なんかにも誘われるわけがありません。それと、あなたは悪口をいってる姿を見たと証言しましたが、それはちゃんと耳にしたんですか」

「耳にはしてませんが、男性社員二人が遠くの方でこそこそと話しながら、私の方をチラチラと見ていたんです。あれは明からに、私をバカにしていたと思います」

「でも実際に聞いたわけではない」

 田所が確認すると、

「そうですけど」

 鈴木は少し怒りを滲ませて答える。「でも二人でチラチラ見ながら小声で話すなんて、悪口以外あり得ないじゃないですか」

「いいえ、あり得まず。もう一度言いますが、あなたは突然、強烈に変化した。そうなると立ち話のネタにもなります。感想を述べあっていたのかもしれないし、もしかしたら今後どう対応すべきかを議論していたのかもしれない。そんなときにあなたが視界に入ったのなら、そりゃチラチラもみますよね」

「でも、一度や二度じゃないんです。何度もそんな様子を目撃しました」

「当たり前です。こんな話、社内でもちきりになるに決まっているじゃありませんか」

「それは……たしかに、そうかもしれませんけど」

 鈴木の声は、後半になるにつれどんどんと萎んでいく。

「あなたはご自分の影響力を分かってらっしゃらないようだ。被告代表である竹ノ内さんの件だってそうです。確かにパワハラのようにも思えますが、竹ノ内さんの心中を察してみてください。あなたのカミングアウトで、職場は大きく混乱したでしょう。今までできていたことができなくなったこともあったでしょう。部下を管理する者としては、この上ないストレスになります。部下はたくさんいます、あなたばっかりに時間を割いてる暇もありません。そんなとき、混乱の大本であるあなたの仕事が、水準を満たしてないと判断して却下したら、私がホモだからですか、という例をだすと面倒くさい女の――私と仕事、どっちが大事なの」田所はぶりっこのように、両手を胸の前で合わせ、裏声でそう言った。「なーんて、どう返答していいのかわからない面倒なことをいわれたときには、苛立ちもピークになり、強く当たってしまうんじゃないでしょうか」

 鈴木は何もいわず、下の方に目線をやっている。

 何もいわないところを見るに、田所の言葉を否定はしていない。

「いいですか、あなたは性的少数派です。我々はあなた方に対してなんの知識も持っていないに等しい。どう接するべきなのか何一つわかりません。あなたは職場で強いストレスを感じたといいましたが、それは周りの同僚も同じなのです。私は同性愛者ですとカミングアウトしてから、あなたはちゃんと細かく、どうしてほしいか、どうするべきかを、ちゃんと話しましたか?」

「いえ」

「それは問題の当人である、あなた自らが率先して行うべきではなかったのでしょうか」

 鈴木は逡巡の間の後、

「確かに……説明が足りなかった部分も、あったのかもしれません」

 そう答えた。

 それを聞くと田所は「以上です」と席に戻っていった。

 

 

「私はあくまで、彼の勤務態度や成績などを加味し、客観的に解雇に足ると判断して決定を下したまでです」

 次に証言台に立ったのは、人事担当取締役である大坊だった。

「大坊さん、あなたから見たとき、原告はどういった社員でしたか」

 田所は聞いた。

「平々凡々。大体のことをそつなくこなしますが、秀でた部分はありませんでいた」

「なるほど。では解雇理由は」

「勤務態度です。彼が性的指向を公にしてからは、少し横暴が過ぎる部分がありました」

「原告が同性愛者である事が、解雇の原因になっていましたか」

「間接的に見れば、そうなるかもしれませんが、一番の原因は、彼が同性愛者であることではなく、彼自身の勤務態度からなるものです。最初は様子を見ていましたが、周りからの苦情の報告もあり、あまりにも目に余るものでしたので」

「同性愛者に対して偏見は全くないと」

「はい」

 大坊がしっかりと答えたのを確認し「以上です」と田所が席に戻ると、すぐに木村が手を上げた。

 裁判長が名前を呼び、木村が右手に資料を持ち、席を立つ。

「大坊さん、あなたは成績に関しては平々凡々とおっしゃっていましたが、資料によりますと原告の仕事はすべてにおいてそつなくこなし、大きなミスも起こしていない。社内評価においてもゆっくりと上がって言っています。これは平凡とするのは難しいのではないですか」

 木村の問いに、大坊は大企業のエリート意識が噴き出したかのように、鼻で笑って見せる。

「あなたは便通という企業をよくご存じでない。我が社は日本の大企業です。世界がこぞって欲しがる立教生が大量にやってくる。彼よりも優秀な人間が、大量にね。この成績では平凡と言わざるをえない。社内競争もはげしいのですよ、便通は」

「本当にそうでしょうか。私はこの資料を見ても、どうも彼女が平凡であるとは思えません。むしろ優秀にも思えます。大坊さんの同性愛者に対する私情が挟まれたとしか、思えないんですよ。やはり、偏見をお持ちではないんですか」

「いえ、私には同性愛者に対して偏見はありません。それに、私は仕事に私情は挟まない主義です。感情論を抜きにして、彼を解雇に足ると判断したまでです」

 大坊が強めにそう答えると「そうですか」と木村は自席に戻り、また別の資料を手に取って大坊の隣に立つ。「生理休暇取るぐらいなら、会社辞めろよ、かっこ笑い」

 木村が独り言のようにそう言うと、大坊の目がかっと開かれた。

「そ、それは」

「はい、あなたがよく利用されてるインターネットカフェ、ウロボロスの、パソコンからネット掲示板19chに建てられた、スレッドの名前です。これに心当たりは」

「意義あり」

 とっさに、宇月が手を上げて立ち上がる。「これは証人の個人的趣味です。本件とは関係がありません」

「裁判長」

 木村もすぐに弁明する。「これは証人の思想がいかに偏見に満ちているかを確かめるのに、重要な尋問です」

「意義を却下します」

 宇月の意見が却下されると「再度申し上げます、こちらに心当たりは」ともう一度、木村は聞いた。

「いや……ありませんねぇ」

 そう答えるも、大坊の視線はすさまじい速さで、右へ左へと動く。「確かに、ウロボロスは何度か利用したことはありますが、ただネットサーフィンをしていただけです」

「ほう、それなら家でもできるのでは。こういった履歴を残さないために、利用したのではありませんか」

「ネットカフェの個室が好きなんですよ、心が落ち着く。ただ、あの空間に居たいというだけで利用することもありますし、個室は別の人間も利用する、私がやったとは断定できないはずだ」

「なるほど。あなたがいつも使っている個室の番号、覚えてらっしゃいますか」

 木村の問いかけに、大坊はびくっと肩を揺らし「いやぁ、どうでしょう」となんとも言えない言葉で否定すると、

「893号室です」

 木村が間髪入れず言う。「ウロボロスの店員であるマジメ君が答えてくれました。ちなみに、先々週、あなたはここを利用していますね。ちゃんと監視カメラで確認しています」

「あ、ああ、思い出しました。その日は非常に疲れていて、個室に入ったものの、そのままボーっとしていて、特にパソコンは利用していないはずです」

「なるほど、あなたが利用する前の人間が、この個室を利用したと」

「その通りです」

「ほう、それはー……おかしいですねぇ」

 木村はわざとらしく、思案するような間を見せ「この日のこの個室は、あなた以外、利用されてないんですが」と付け加えた。

 大坊はぐっと息を詰まらせた。

「そ、そんなはずが」

「いいえ、事実です。我々はネットカフェ、ウロボロスの店長に協力いただき、その日、893号室だけ利用不可にしていました、あなた以外は。ちなみに、過去の履歴は事前に全消去し、あなたの利用後すぐに履歴を確認しました。その際に、立てたであろうスレッド。そして、19chに投稿したレスがこれです。顔が40点、体100点のセフレがほしい。東京大学とかいう一生二番手大学、だぶりゅうだぶりゅうだぶりゅう。マンカスども、またまた男様に物申す。ホモとか絶滅すればいいのに」

 大坊の顔から、血の気がさっと引いていき、目はうつろになり、どこでもない少し下の虚空を見つめている。

「これらは確実に貴方がたてたスレッドです。ちなみに、最後のスレッドにはこんなレスを残しています。職場の部下がホモだった。ほんとに気持ちが悪い。同じ職場に――」

「やめろ!」

 木村の言葉を、大坊は叫び声でかき消し、証言台に両手を着いた。「頼む……もうやめてくれ」

「では、ちゃんと事実のみを答えてください。それと、確かあなたには、一人息子がいらっしゃいましたね」

 木村がそう言うと、うなだれていた大坊の体がピクっと動き、頭を上げて木村と顔を合わせ、黙ってうなずいた。

「しかし、数年前に恋人を連れてきた。それも男の。パートナーシップ契約を結び、岡山で幸せに暮らしているらしいですが、貴方はずっと反対していたらしいですね。いまでも、そのことは変わらないのではありませんか」

「はい」

 か細い声で、大坊は答えたが、その時の感情が舞い戻ったのか、微かに怒りに震えていた。

「なら、いまその胸の内をさらけ出してください。さあ、あなたは同性愛者に対して、何とお考えなのですか」

 大坊は、すっと息を吸ったかと思うと、

「彼らは、現代社会のガン細胞です!」

 胸を張り、声高らかに宣言した。「男同士? 女同士? そんなものは認められない! 明らかに生物としておかしな行為だ! 見るだけで吐き気がする……子供も産めない生産性のない彼らに、社会に居場所はない!」

 しんと、法廷が静まり返ると、木村は冷静に口を開く。

「えー、これは証人個人の考え方の問題であり、否定しませんが、私は少し前時代的な考え方だと思います。尋問は以上です」

 

 

「やっぱりお強いですね、木村さんは」

 口頭弁論が終わり、田所と二人で裁判所の廊下を歩く宇月はそう言った。

 田所と常に仕事を共にしているので、宇月は木村が過去に勝っている姿を見たことがない。

 しかし、さすがcoot若手のホープ。やはり一筋縄ではいかない。

「奴は確かに、他の弁護士よりは強い」

 田所は柄にもなく、木村の実力を認める。「だが、圧倒的に私の方が強い、だからあいつは私に勝てないんだ、今までも、そしてこれからも。次は何をする」

「えっと」

 宇月はバックから手帳を取り出して開く。「原告の後輩に当たる社員が2名、昨年に辞めていたので、その方々に話を聞きに行く予定です」

「よーし、絶対にあいつらの不利になる証言を聞きだすぞ、たとえワイロを渡してでも」

「それは犯罪です」

 

 

 証言台で人事部取締役の方が、こんなことをおっしゃっていたそうです。多田野さんはどう思われますか。

 はい、やっぱりこういった考え方は良くないですよね。一人一人、その方が一番幸せな生き方というものがありますから――

 喫茶店の壁に取り付けられたテレビでは、野球選手を引退してから大人気コメンテーターとなった多田野が、アナウンサーから質問を受けて、それに返していた。

「いえ、特に問題なんかはありませんでした」

 多田野がコメントを続ける中、そう答えたのは田所の元後輩である遠野という男だった。

 学生時代水泳をしていたらしいが、体は細く、緊張しているのか目線をきょろきょろと動かしていた。

「本当にそうですか」

 そんな遠野に、田所は容赦なく質問をぶつけていく。「例えば、すぐ感情的になるとか、自らの失態をキミに擦り付けたりだとか」

「いやぁ……そんなことは」

「何だっていいんですよ。何度も経験した話でなくても、ちょっと嫌な気持ちになった時の話をお聞きしたい」

「そう言われましても」

 ふと眉を寄せて首をかしげる遠野を見て、宇月は、彼は返答に困っていると言うより、なにかにおびえているような印象を受けた。そんな時――

 ――あんなん、めちゃくちゃですやん!

 不意に、テレビの音量が上がったかと錯覚するほどに、ニュースに出演するコメンテーターが叫ぶと、全員の目がテレビへ向いた。

 関西出身の有名料理人、カーリーだ。彼もまた人気コメンテーターの一人。

 ――ホモやレズが気持ち悪いって、ええ年した大人がなにをゆうとるっちゅう話ですわ。誰好きになろうが、本人の自由でしょ。ほんまに、便通も、その弁護士もどんな神経しとんねん。

 不本意であるとはいえ、まさにその弁護士である宇月の胸に、その言葉はグサッと突き刺さった。

 と同時に、遠野の思考もまた理解する。

 カーリーの意見は、全日本とは言わないが、多くの日本人の本意だろう。

 遠野もまた同じかもしれないし、何より田所の味方をするということは、大多数の人間を敵に回すということだ。

 おびえるのも無理はない。下手なことを答えれば、マスコミにさらされ、ひどい攻撃を受ける可能性だってある。

 それを危惧してなのか、何も情報は得られないだろうと、話し合いを早々に終わらせ、宇月達が帰ろうとしたとき、

「あの」

 遠野は立ち上がり、宇月たちを呼び止めた。

 しかし、すぐに要件はいわず、思案の間を少し挟むと「僕の意見とか、特に法廷で言わないですよね」と確認をしてきた。

 もちろん、そんなことはないと伝えるが、この様子ではもう一人の元後輩の証言にも、期待することはできないだろう。

「完全に全国民の敵ですね」

 喫茶店を出て宇月がそう言ったが、田所から返事はなく、なにか考え事をすように黙りこくっていた。

「ん、先生?」

 宇月が呼ぶと、田所はハッとした様子で「なんだ」と答えた。

「いや、ただ完全に周りが敵だらけだなと思って。何か考え事されてましたか?」

「少しだけな。敵だらけといっても、どうせ裁判に勝てば手のひらを返す。心配せずとも我々には弾はまだある。このまま蜂の巣にしてくれるわ」

 

 

「裁判長、こちらの写真をご覧ください」

 第三回となった口頭弁論は、田所のその言葉で口火が切られた。

 宇月によって運ばれたのは4つの縦に長い、車輪のついたボードだ。そこには、女装した鈴木の等身大の写真が貼られてあった。

 それが並ぶと、裁判官の顔はあからさまに引きつる。

 極限まで短いミニスカ。胸元が開いた、ピチピチのボンテージスーツ。背中が開き、脇が丸見えのタートルネック。極めつけは、ほとんど局部しか隠れていないメッシュの服装。

 竹之内の情報をもとに、田所が嫌々ながらもこれらを着て、撮影した写真だ

 どれもこれも、一目で変質者だとわかるものだった。

 宇月は、悪いことをしているなと思いながらも、そのボードを回して傍聴席にも見えるようにすると、悲鳴にも似た声が上がる。

『ヴォエ』

『ちょまて、こんなブスええん?』

『ヤメロォ! ナイスゥ!』

「せ、静粛に!」

 カンカン、と裁判官が、せかし気味に木槌を叩いた。

「これらの服装は原告が出勤する際に、実際に自ら身に着けていたものです。正直に申し上げまして、出勤する服装としては不適切であり、不愉快極まりないものであります。彼女の解雇における十分な要素の一つだと思います。以上」

「感性とは人それぞれです」

 木村は立ち上がり、落ち着き払ってそう語る。「確かに、これらを気色が悪いと感じる人もいるでしょう。ですが、それはそう感じ取った人間の問題であり、彼女は何ら犯罪に抵触はしていません」

「何をおっしゃるか、こんなものは公然猥褻罪同然です」

 その田所の言葉に、

「なら罪に問うてはいかがですか」

 と木村も挑発めいて返す。

「あくまで同然と言ったまでで、罪には問えません。ですが不適切であることは事実だ」

「不適切かそうでないか。そんな個人の感情によって変わる曖昧なもので、彼女の服装の自由を妨げる権利はありません」

「実際に障害が出ているんです。同じ職場にこのような人間がいたときに、あなたは今まで通り同じ仕事ができますか」

「憶測の話は答えかねますが、私は通勤するには問題ないと思います。それに、原告は服装に対しては一度も注意されたことがないと、おっしゃっています」

「当然です。社会人であれば、こんなもの自主的に控えるべきだ」

「それが企業の横暴だといっている」

 木村は強く言葉を貸した。「たとえどのように罵られようと、彼女はこの服装が好きで、この服装を着たいのです。それを阻止しようとするのは、人権の1つ、自由の侵害に他ならない……それは許されざる行為だと思います。以上です」

 

 

 次に宇月が持ってきたボードに貼られてあったのは、日本カメラメーカー、キャノン砲が制作した、宣伝用ポスターだ。

 一人の女性が、マフラーをなびかせながら、夕焼けに向けったカメラを構えている。

「こちらはカメラメーカーである、キャノン砲の宣伝ポスターです。しかし、このポスターは去年のある時から、新型カメラを発売するにあたり、新しいものへと変える計画がありました。その際に便通にデザインを依頼。元社員である原告が所属するチームが担当し、新しいポスターを作りました。それがこちらです」

 宇月がボードに貼られてあるポスターの隣に、もう一枚同じ大きさのものを張り付ける。

 そこにうつされていたのは、こちら側に対し、カメラを向けるガチムチの金髪アメリカ人。それもブーメランパンツ一丁の姿でだ。

 その股間はかなりもっこりしており、明らかにそっちの趣向が見える。

「見てくださいよこれ、カメラの宣伝ポスターとは思えませんよ。ポスターを見る人間にカメラを向けるガチムチアメリカ人レスラー。どう見ても原告の趣味丸出しで、便通の評判を落とす行為であるといえます」

「しかしながら、それはチームで行った案件ですよね」

 木村は質問を飛ばす。「しかも主導していたのは原告ではない」

「確かにその通りですが、その中でチームリーダーを除いたときの一番年長が原告でした。それに、自らの性的少数派であることを利用し、意見をゴリ押したと思われます」

「意見をゴリ押したというよりは、そのリーダーの方も原告の意見に納得して、こちらの作品を提出されたのでは。確かに、カメラ広告にしては不自然かもしれませんが、その仕事を依頼したキャノン砲サイドは、男らしく、斬新なものにしてくれと依頼していたようですが、事実、斬新かつ男らしさを感じます」

「斬新? 男らしい? 奇奇怪怪でホモホモしいの間違いでしょう」

「それはあなたが芸術というものを理解してないからだ。斬新さというものは、無恥な人間には奇奇怪怪に映りますからね」

「それはこっちのセリフだ。奇抜なものを、とりあえず斬新と言っておけば通ぶれるとでも思っているのですか。あなたのような人間が、クソみたいな落書きや意味不明な現代オブジェを高値で取引されるのでしょうね」

「ここで代理人である私とあなたの美的センスについて争っていても仕方ないでしょう」

 木村は立ち上がり、手に持っている資料を裁判官に見せるよう掲げる。「こちらは、そのキャノン砲の新型カメラの売り上げです。ポスターが出てからというもの、右肩上がりになっています」

「事実、このポスターによって売り上げはあがった。しかし、それはあまりのもホモホモしいあまり、インターネットで話題になったからだ。結果、それはホモの人間を中心に売れ行きを伸ばしましたが、すぐにネットの一部ではホモカメラとよばれ、一気に売り上げはさがった」

「発売後、時間がたち目新しさがなくなれば、売り上げが落ちるのは当たり前です。今はスマートフォンにも高性能なカメラが付いていますから、それも影響しているでしょう。原告の趣味が入っていたのかもしれませんが、依頼内容を遵守し、売り上げを伸ばすという宣伝ポスターの目的は果たされています」

「その一時的な売り上げで、便通やキャノン砲は企業イメージを損なった」

「損なう? いったい何を損なったというのですか。男性向け広告、女性向け広告があるのなら、同性愛者向け広告があっていいはずだ」

「そんな少数に向けた広告がどこにあるというのですか。結果として、男性購入者を減らしている以上、このポスターは失敗だ」

「それは貴様の個人的な意見だろう。アンケートによれば、男性購入者は増えている」

「当たり前だろ! 買ってるのは、みーんなホモだからな」

「そんなものは言いがかりだ!」

 二人の議論がほぼ言い合いになってきたところで、裁判官が木槌を叩き「二人とも落ち着きなさい」と諭され、肩で息をする二人は口を閉ざした。

「ともかく」

 木村はゆっくりとした口調で言った。「そのポスターは、決しておかしなものではありません……以上です」

 

 田所と木村、二人の対決は、ほぼ五分と言っていいが、宇月の見立てではやや田所がリードしているといったところだった。

 このままいけば、田所が勝利する。しかし――

「うーん」

 口頭弁論を終え、事務所に帰った宇月はリビングで一人、首をかしげてうなった。

「お疲れ様です」

 ねぎらいの言葉をかけ、新庄は紅茶を宇月の前に置く。「そもご様子ですと、かなり押され気味ですか」

「ありがとうございます。いえ、裁判には勝ちそうなんですけど……これに勝ってしまうと、何というか、あまりにも同性愛者の方がかわいそうというか……平等じゃないっていうか」

「平等? フッ」

 人を小ばかにしたように笑う声が聞え、顔を向けると、田所が窓際に置かれたソファーに腰掛けていた。

 目線は外に向けられており、その表情はうかない。

「なにが面白んですか」

 宇月が食って掛かると、

「やはりお前はアホの美大落ちだな」

 田所は、目線はそのままに、面倒くさそうに答える。「平等なんてどこにもありはしない。そんなものは幻想だ」

「意味が分かりません。確かに、世の中には不平等と思える部分はまだまだありますが、過去の人々は努力と団結で不平等と立ち向かい、さまざまな平等を勝ち取ってきました」

「またその話か、くだらん。それはそいつら勝者が考える平等だろう」

「いいえ、みんなが考える真の平等です。だからこそ強い力で団結できたんです」

「そのみんなが考える真の平等が、脳みそメルヘンの幻想だといっている。例えばだ、子供、青年、老人の三人がいたとしよう。パンが三つあったとして、どう分ければ平等になる」

「何ですかその例え話は。簡単なことです、ちょうど人数分あるですから、一人に一つずつ分け与えればいいんです」

「ほう、そうか。だが、子供は体が小さく、青年や老人と違いパン一つでお腹がいっぱいになる。これでは相対的に見て子供が一番、得をしているんじゃないか」

「ああ、そうですね。じゃあ、子供のパンを半分にして、それを青年と老人で分ける。0.5、1.25、1.25、と分ければ」

「おいおい、ちょっと待て。この中で一番の労働者は青年だ。青年の量が、体が弱り労働力の低くなった老人と同じというのは、おかしいんじゃないか」

 そう言われれば、確かにそうだ。

「じゃあ、子供の半分を、そのまま青年に渡して」

「いえいえ、お待ちになってください」

 不意に、新庄も話に入ってくる。「ご老人は、きっとこれもでに子供と青年、お二人を養ってきもした。ならば、ご老人にも少し得があってもいいのでは」

「え、ええ? ええっと」

 頭の中がこんがらがってくると、田所はさらに追撃をかける。

「いやいや、新庄君ちょっと考えてみてくれ。子供は青年や老人よりも生き、未来がある。先行投資として、彼に一番パンを上げるべきではないか」

「確かに、おっしゃる通りかむしれもせん」

「ん? ちょっとまて、いくら働こうが生きようが、人間は一人一人平等に扱うべきかもしれない」

「なるほど。そうとも考えられもすね」

「てゅわああああああああああああ」

 脳みそが処理限界に達した宇月は、頭に手を添えて叫んだ。

「ほれみたことか。絶対的平等、相対的平等、論理的平等。平等というだけでも色々あるうえ、細かく突き詰めていけば、人間の数だけ平等というものは存在する。全員が納得する真の平等などあるわけがない。現に日本という国は、平等の名のもとに不平等に我々、高所得者から税収を徴収している。あるのは平等という名の少数派を黙殺した多数派の横暴か、権力者の暴力だけだ」

 宇月は言い返したかったが、自分の頭では何をいっても無駄だと悟り、しゅんと口をとがらせて肩を落とした。

 すると、いまだに田所が窓の外を見て、浮かない顔をしているのを不思議に思う。

 いつもなら、言い負かした後も、美大落ちだの多少ブサイクだのと死体蹴りをかましてくるはずなのに。

「どうしたんですか、先生。うかない顔して……便秘ですか」

「先生は最近、便通がよろしいですが」

 すかさず新庄が説明に入った。

「え、じゃあなんでそんな顔してるんですか」

「私が便秘以外で悩まないとでも思っているのか。まったく」

 田所は、ふうっとため息を吐くと「裁判のことだ」そう言った。

「裁判? いや、そんな悩むようなことありましたか。私から見てですが、優勢のように思えましたけど」

「実際、いまのところ優勢だ。だが、木村の考えが気になる」

 宇月はこれまでの裁判をさかのぼり、考えてみたが特におかしいところはない気がした。

「なにがそんなに気になるんですか」

「被告代表の竹ノ内が、まだ尋問を受けていない」

 あっと、思わず宇月は声を出した。

 確かに、元上司というかなり近い関係であった、竹之内の尋問がまだ行われていなかった。

「でもですよ、それって尋問することが特にないからじゃないですか」

 宇月はそう問うも「いや、それはない」と田所は否定する。

「接点が多い以上、尋問しようと思えばいくらでもできるはずだ」

「いやぁ、それならそれでとっくに尋問を行っているはずでしょう」

「確かにそうだが」

 田所はそう言って黙る。

「考えすぎじゃないですか。先生らしくもない」

 楽観的にそう答える宇月に、いつものように毒づく様子もなく、田所ただじっと空を見上げていた。

 普通に考えてはありえない、きっと杞憂に終わるだろうと考えていたが、宇月のその考えとは裏腹に、次回の口頭弁論で田所の不安は現実のものとなった。

 



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後編

「別部署にいるあなたの耳にも、それは入ってきていたと」

 田所がきいたのは、証言台に立つ便通の社員、秋吉だ。

「ええ。かなりの問題児がいると」

「それを聞いて、どういった感想を抱きましたか」

「別の部署だったので、特に何も。ただ、同じ会社の社員である以上、社益を損なうようなことはしてほしくないとは思っていました」

「なるほど。ありがとうございます」

 田所が尋問を終え、裁判長が木村に反対尋問の有無を問うも、

「ありません」

 木村は瞑目したまま、静かにそう答えた。

 反論はない。そのことに宇月は違和感を覚える。

 いまのところ、田所が用意した弾はほとんど打ち尽くしていた。それは木村も同じだろう。

 田所が若干優勢状態のいま、ここで反対尋問をしないと、その差は確定的なものとなる。

 つまり、いまの木村の言葉は敗北宣言に等しい。

「どうやら、これで終わりのようですね」

 宇月の隣で、竹ノ内が頬に余裕の笑いを含みながら、小声でそう言った。

 宇月は会釈するも、何も答えない。

 木村という男がここで終わる程、やわな弁護士ではないはずだからだ。きっと田所も同じ考えだろう。

 数日前、田所がいっていたことが現実味をおびてきた、そんなとき――

「裁判長」

 木村が、ゆっくりと手を上げ、言った。「私は再度、原告の本人尋問を希望します」

 突然のことに、宇月と田所は横目で目を合わせる。

 尋問というのは基本的に事前に申告と手続きをするもので、今回のことは宇月も田所も耳にしていない。当然、裁判官も同じはずだ。

「そのような話は聞いていませんが」

 裁判長の声には、困惑の色が見えた。

 普通では拒否されて当然のことである。だが、

「実は、原告はある重大なことを、今までいえずにいました。それはプライバシーにかかわることであり、本人としても公にしたくないという話でした。しかし、やはり同性愛者として、この問題は皆に知ってもらうべきであろうと、数日前から、いまこの瞬間まで迷ってい続けていました。ですが」

 木村は言葉を切ると、鈴木と一瞬だけ目を合わせ、すぐに裁判長へと向きなおった。「決心がついたようです。この決心を濁らせたくないし、下手に時間をおいて、彼女を苦しめたくもありません。どうか、その勇気をくみ、尋問を認証していただきたい。この通りです」

 木村は深々と頭を下げた。

 法廷では、法に抵触しない限りではあるが、裁判長に様々な決定権がある。ここでイエスと言えば尋問は行われる。

 尋問というものは、一人に対し何度も行われることはほとんどない。裁判の決まりとして、尋問は一人につき1度であることが好ましいとされているからだ。

 裁判の長期化や証言の急な撤回など、様々な問題を未然に防ぐためだ。

 2度同じ人間へ尋問するとなると、裁判長の心証も悪くなるのは当然のこと。

 それを分かっているうえで木村は行おうとしている。

 何かがある。

 宇月の中で渦巻いていたその疑惑は、今この瞬間、確信へと変わった。

「裁判長」

 無論、そんなことはさせまいと、田所が立ち上がった。「彼女の勇気は賞賛に値しますが、やはり混乱を防ぐため、きちんとした手順を踏むべきかと。尋問は次回、口頭弁論時に行うべきです」

 裁判長は両隣の裁判官と、いくつか言葉を交わした後、

「尋問を許可します」

 真っすぐと前を向いてそう言った。

「ありがとうございます」

 再度、頭を下げる木村に、

「裁判長、もう一度よく考えてください」

 食い下がる田所。「このような突発的な尋問は――」

「決定事項です」

 取りつく島もなく、裁判長は言い放つ。「被告代理人は着席してください」

「しかしですよ、裁判長」

 木村が何かを隠しているのが明らかないま、田所も簡単に引くわけにはいかない。「このような規定に則らないことを許せば、裁判はままならなくなります」

「代理人、着席を」

 裁判長は語気を強める。しかし、田所は引かない。

「もし同じようなことが起こった時、また尋問を認証するのですか。それは無意味な長期化や、混乱を助長します」

「着席を」

「答えてください裁判長。こんなことを何度も行われては、我々は困るのです」

「今回は例外的に許可します」

 言葉に苛立ちをにじませ、裁判官はそう返した。

「それはおかしな話ですよ、裁判長」

 まだ下がらない田所に「先生」と宇月が止めようとするも、さらに続ける。

「もし我々も同じように突発的に尋問をお願いしたら、あなたは聞き入れるのですか? そんなポンポコ証人もなしに尋問が行えるなら、申請なんて――」

「黙りなさい! これ以上続けるというのなら、退廷を命じます!」

 裁判長は声を荒げた。

 木村の隠し玉はここで押さえたい。だが、ここまで言われたら、さすがに引き下がざるをえない。

 しかし、田所はいまだ着席せず、じっと裁判長を見つめている。

「分かりました」

 数秒の間の後、諦めたかのように田所はいった。「しかし、一つだけ言わせてください。もし我々が同じような要求をした場合、あなたはのんでいただけるのですか?」

 最後の最後、藁をもつかむ思いで言ったのだろうが、裁判長は一つため息をして、

「状況によっては、被告側も許可をしましょう。これでいいですか」

 そう言った。

 こうなっては、もう返す言葉はない。

 不満そうな顔はそのまま、田所はゆっくりと着席した。

「先生やりすぎですよ。これじゃあ心証が悪くなります」

 木村が、鈴木を証言台に立たせる中、宇月が小さな声でそう言うも、田所は憮然とした表情のまま、何も答えない。

 木村がどういった攻撃に出るのか、それは分からないが、状況として優勢のいま、なにも裁判長と口論してまで尋問を止める必要があったのか――そう思っていた。

 だが、木村が土壇場の状況で放ったその兵器は、始まりから今まで続いた議論を、すべてを無に帰す――

「私は……竹ノ内さんにセクハラを受けていました」

 ――核弾頭。

 思わぬ鈴木の告白に、宇月は息をのんだ。

 騒めく傍聴席に、静粛を促す裁判長。

 そのさなか、宇月は隣の竹之内を見ると、顔面蒼白で、見て分かる程の、大量の汗が額を濡らしていた。

 様子から見るに、鈴木の話は事実だ。

 木村は質問を重ねていく。

「それはいったい、いつからですか」

「入社して少し経ったときです」

「つまり、自分の性的指向を告白する前ですね」

「はい」

「どんなセクハラを受けましたか」

 鈴木はいいにくそうに間を挟み、苦悶の表情を浮かべると、

「いい体してるね……とか」

 ポツリとつぶやく。

「他には」

「お尻がきれいだとか。特に……太ももがセクシーでエロイとか」

「それは口頭で言われたのですか」

「口頭でもありますが。携帯のチャットアプリなんかでも……仕事の確認をしているときに、突然いってきたり」

「なるほど。それは、いつまで続きましたか」

「私が……ホモであることをカミングアウトするまでです」

「おや、それはおかしな話ですね。竹之内さんが同性愛者だとして、同じ同性愛者と告白したというのに、なぜそこで止まったのか。そして、竹之内さんからの嫌がらせは、告白後ですよね」

 鈴木がなにも言わず、うなずくと「なるほど。ありがとうございます」と木村は礼を言ってすぐ、田所は手を上げた。

 裁判長に促されると、すぐに立ち上がり質問をぶつける。

「鈴木さん、あなたはセクハラ被害にあったといいましたが、どうして今になってそれをここで告白しようと思ったのですか」

「それは……」

 といったまま、鈴木が黙ると、

「言えなかったんです」

 木村が代わりに答える。「セクハラ被害というのは立証が難しく、他人に知られたくないという思いもあり、訴えない人が多い。ましてや同性からの被害ということで、鈴木さんは誰にもいえず一人で、ずっと悩み続けていたんです」

「本当にそうでしょうか。悩んでいたのなら、近しい人間に相談ぐらいするものでは」

「何度も彼女はそうしようとしました。ですが、言おうとしたところで、どうしても言葉が出なかったのです。それが、セクハラというものなのです。まあ、あなたのような人間に分からないでしょうが」

「ええ、分かりませんね。普通なら、さっさと誰かに相談なり、訴えたりするものだと思います。鈴木さん」

 田所は改めて、鈴木に対していった。「本当にそれはセクハラ被害だったんですか。あなたも、その会話を楽しんでいた部分があったのでは」

「被告代理人」

 裁判長がきつく言い放つ。「言葉を慎みなさい」

「申し訳ありません。では鈴木さん、言い方を変えます。そう言った発言を、あなたも助長した部分はありませんか」

「ありません」

 鈴木は首を横に振る。

「なら、あなたはセクハラ発言に対し、どういうふうに返事を返しましたか」

「普通に、やめてくださいと」

「そうですかねぇ」

 田所は、木村が手に持っている資料を、強引に取り、それを読み上げる。「やめてくださいよ、と書かれてありますが、カッコ笑い、とも書かれてありますね」

「最初は、冗談かなって思っていたんで」

「ほう、そうですか。その後の返信でも、あなたが強くセクハラに対して否定したような文はありませんよ。これはどういう意味でしょうか」

「相手は上司だぞ」

 鈴木が何かをいう前に、木村が弁護に入る。「下手に強く出て、会社に居られなくなったらどうする」

「証拠があるんだ、自分が善だといって告発すればいい」

「そんな簡単なことじゃないんだ、セクハラ被害というのは」

「わからないな。客観的に見たとき、原告はこのセクハラを容認したと考えられます。以上です」

 田所は、資料を木村に返し、足早に席に戻った。

 とりあえず、言えることはいった、というところだろうか。

 しかし、こじつけに近いあの発言では、焼け石に水だろう。

「裁判長」

 木村が立ち上がった。「まず初めに、この尋問を認証していただき、再度感謝を申し上げます。ありがとうございます」

 木村は腰をまげて一礼する。「セクハラ被害にあった方は、その苦しみを胸にため込んでいる人が多いのが現状です。事実、原告は過去の竹之内さんから受けた傷はいまだ癒えず、苦しんでいました。そのため、急な尋問となってしまったことを謝罪します。そして、正義のため、それを告白してくれた原告、鈴木さんに私は敬意を表します……ありがとうございます、鈴木さん」

 今度は、鈴木に礼をすると、傍聴席から拍手が巻き起こった。

 裁判長は、それをすぐには止めず、数秒そのままにした後「静粛に」と静かに一言いうと、すぐに音はなくなった。

「しかしながら裁判長」

 木村は改まっていった。「原告の証言を聞いたところ、不可思議な点があり、真実を見極めるにはそれを解消せねばなりません。よって私は――」

 竹之内に向かい、木村は力強く人差し指を差す。「被告代表、竹之内さんの尋問の許可をいただきたい」

 二回連続での申告なしの尋問。

 こんなこと、まかり通るはずがない――そう思うも、裁判長はすぐには却下せず、両隣の裁判官と話し、なにかを確かめるようにうなずき合う。

 明らかに尋問を認めるような様子に、宇月は田所の方を見るも、腕を組み、何もする様子はなかった。

「先生、いいんですか」

「よくはない」

 田所はじっと前をみて答える。「……ただ、もうどうすることもできない。ここはすでに奴の場……何を言っても無駄だ」

「被告代表、前へ」

 裁判長がそう言うと「ありがとうございます」とまた木村は深々と頭を下げた。

「お、おい」

 竹之内は震える声で、宇月に聞いた。「僕は……僕はどうすればいい」

 先ほどまで、溢れんばかりの余裕を見せていた竹之内は、突然目の前にやってきた窮地に困惑し、混乱していた。

「とりあえず、落ち着いてください」

「この状況で落ち着いてなんていられるか!」

 竹之内が声を荒げると「被告代表、前へ」と裁判長は促す。

「いってください、竹ノ内さん」

 不意に、田所がそう言った。「無理やり逃げることも可能ですが、この状況でそれをするのは、セクハラを認めることと同じです。何とか相手の事実を否定してください」

「否定って、どうやって――」

 竹之内は狼狽しながら聞くも、

「ともかく、いってください」

 田所はそれを遮って言った。「これ以上、裁判長を待たせるのはよくない」

 竹之内はぐっと歯を食いしばり、立ち上がると、よろよろと証言台に向かった。

「大丈夫なんでしょうか、先生」

 その背中を見て、心配そうに宇月は言った。

「あれが大丈夫に見えるか。だが、我々は見守るしかない」

「竹之内さん、あなたは原告に対して行った、セクハラ行為を覚えていますか」

 木村の問いかけが聞えていないのか、竹之内はじっと前を向きながら、何もいわず肩で息をしている。

「竹之内さん」

 耳元で木村が名前を呼ぶと、竹之内はハッとして木村と目を合わせた。

「いや……セクハラなんてしていない」

「しかし、チャットアプリにはちゃんと証拠が残っています」

「違う、あれは……あれは僕なりのアプローチだったんだ」

「アプローチ? 文面を見るに、そんな風には見えませんでしたが」

「いやぁ、で、でも……」

 竹之内はか細い声でそう言うと、口を閉ざして下を向いた。

「質問を少し変えましょう。あなたのこのアプローチと称するセクハラ行為。原告が性的指向を告白した後、ぴたりと止んでいますよね。それはどうして」

 黙りこくる竹之内に、木村は質問を重ねる。「無視され、脈がないと思い、それに逆上したんじゃないですか」

「違う!」

 竹之内は下を向いたまま。首を横に強く振った。「そんなんじゃない……ただ」

「ただ?」

「ただ、僕は……好きだっただけなんだ、男が……男らしい男が好きだったんだ!」

 竹之内は顔を上げ、血走った眼を鈴木へと向ける。「彼女――いや、彼は!  僕が理想とする男性だった。色黒で、運動によってつくられた真実の筋肉があって、男らしくて、ハゲてなくて、タンクトップにジーンズが似合う、そんな男だった……一目ぼれだった! いくつか言葉を交わして、そっちの気もあると、すぐにわかった。だから僕なりにアプローチした……でも、でも彼は! まるでビッチのような恰好をしてきた! それが……それが許せなかった!」

「だから、あなたは嫌がらせを」

「違う、嫌がらせなんて!」

「では、どうして解雇されたんですか」

「それは……それは……僕はだた……男らしい男が好きで……好きで」

 ぶつぶつと、竹之内は一人つぶやき始める。

「竹之内さん?」

「僕はぁ!」

 不意に、竹之内は木村に飛びかかり、両手で肩を掴んだ。「ただ! ただ男が好きなだけなんだ!」

「ですから、それによって女らしくなった原告に――」

「僕は!」

 もやは、木村の声は竹之内に届かなかった。「僕は! 僕はああああ! うわああああああああああああ!」

 法廷には、竹之内の悲痛とも思える叫び声が響く。

 その中、田所は目を閉じ、この口頭弁論が終わるのを静かに待っていた。

 

 

「まさか……こんなことになるなんて」

 裁判所を出て帰路を歩く中、宇月はいうも、田所は両手を後ろにしたまま、何も答えない。

「木村さんはあれを待っていたんですね。それも、こんなタイミングで、鈴木さんが心きめるなんて」

「いまなんと言った」

 先ほどまで一つも口を開かなかった田所が、突然足を止め、振り向いてそういった。

「え? いや、だから運がいいなって」

「キミは、もしかして原告が偶然、今日のあの瞬間にセクハラ被害を訴える決心をしたたと、本気で思ってるのか。どうしようもない多少ブサイクだな」

「それは、どういう意味ですか」

「どういうもこういうもない! 初めからセクハラ被害は訴えるつもりだったんだよ。それを、効果的なタイミングで使える時を狙っていた。だから、いつまでも竹之内に尋問をしなかった。勝利を確信させ、心が緩まるのを待ち、対策不可能の突発的な尋問で一気につぶしてきた」

 ありえない。そう思うも、それなら今まで竹之内を尋問しなかったことに合点がいく。

「それで、これからどうするんですか」

「どうするもこうするも、もはやセクハラはあったと認められた。同じ威力の爆弾を相手にぶつけて、認めさせるしかない」

「同じ威力の……そんなものあるんでしょうか」

「見つけるか、でっちあげる。でなければ……」

 そこまで言うと、田所は口を閉ざし「早く戻るぞ」と足を勧めた。

 田所はいわなかったが、当然、宇月もどうなるかはわかっていた。

 どうにか道を見つけなければ、この勝負、必ず負ける。

 

 

 ここか。

 西岡は手元にあるスマートフォンに示された場所と、目の前の焼き肉店を何度かみて、ここがその目的地であることをしっかりと確認し、中へ入った。

 出迎えに来た店員に、立教大学、空手部と伝えると、奥の座敷へと案内された。

 そこには、すでに20人程度の元空手部員たちが、酒を飲んでいた。

「お、西岡じゃん。こっち来いよ」

 見知った顔の人間に呼ばれ、西岡は隣に座った。

 突然、空手部同窓会の連絡がまわってきたのは、つい3日前のことだった。

 空手部にそんな習慣があるとは聞いたことがなかったが、西岡も久しぶりに昔の友人と会いたくなり、さっさと仕事を終わらせてやってきた。

 ガヤガヤと、昔の仲間と話していると、どんどんと酒が進む。そんなとき、

「初めもして」

 いつの間にか、隣に座っていた男が挨拶をしてきた。

 知らない顔だった。

 銀縁の眼鏡をかけており、その体格は中肉中背で、元空手部にはみえない。

 男は、手にビールビンを持っていた。

「ああ、ありがとう」

 礼を言い、コップを前に出すと、男はビールを注いだ。

「西岡さんですよね。お名前は先輩からお聞きしています」

 そのものいいから、どうやら友人の後輩のようだった。

「そうだけど、キミは」

「私は新庄ともうしもす」

 とても丁寧な口調だったが、滑舌がちょっと気になった。

 それにしても、飲みの席だというのに、まるで客人を相手にしているホテルマンのようだ。

 どんな男かは知らないが、一緒にいると酒が進まなそうだな。

 

 

「きぃみは……本当に聞き上手だねぇ」

 べろべろに酔っぱらった西岡が褒めると、

「ありがとうございもす」

 新庄は綺麗にお辞儀をした。

「もす、もす……ふへへ。ほら、もす君、キミも飲みなさい」

「はい」

 西岡は新庄に酒を注ぐ「ありがとうございもす」と一気に飲み干した。

「ずいぶんとお酒がつよいね~、新庄君」

 先ほどから、酔った勢いで何杯も進めているのに、ちっともその気配がない。

「昔、ソムリエをやっておりまして、そもときは毎日のように飲んでいもしたので」

「ソムリエねぇ~、すごいね~君は」

「恐る入ります」

 また、新庄はきれいな礼を見せた。「しかし西岡さん、最近もテレビはご覧にらられていもすか」

「え? まあ、見てるよ」

「でしたら、例の裁判も話は」

「あ~、あいつの話だろ。鈴木」

「元部員、というのは本当も話なのですか」

 新庄は周りに聞こえないよう、ひっそりと言った。

「別に小声になることじゃねぇよ。み~んな知ってる。オレ、あいつと同じ学年でさ、いっしょに練習したんだよ」

「へえ、どのようにゃ方だったもですか」

「まあ、ふつーの男だよ。みんなホモだって気づいてたけど。明らかにそっちの気がある感じだったよ……」

 西岡は、周りに聞こえないようひっそりと新庄にいう。「まあ、ここだけの話なんだけどよぉ、実はオレ、あいつの秘密、ちょっとしってんだよ……今まで何となく言えなかったんだけどさ」

「ほお、そうですか」

 新庄は、にやりとして見せると、西岡のコップにビールを注ぐ。「それはそれは、面白そうにゃお話しですね」

 

 

「道着を盗んだ……か」

 事務所でソファーに座る田所が、独り言のようにそう言うと「はい」と新庄は軽く腰を曲げる。

「同じ部員であった方の物を。盗まれた部員は、そも後、いじめられているとお思いりなり、部をお辞めににゃったそうです」

「証拠はあるんでしょうか」

 宇月は聞いた。

「鈴木さまもお家に遊びに行った際、盗まれた胴着を、西岡様がみたと」

「記憶による証言だけで、物的証拠はないんですね」

「はい」

「先生」

 宇月が振り向くと、田所は考え込むように黙りこくっていた。

 記憶による証言のみだと、信憑性が低く、勘違いだといわれてしまえばそれまでだ。

「よし、これでいこう」

 数秒の思案ののち、田所はそう言った。

「しかし、先生。これでいけるんでしょうか」

「他に案があるのか」

 田所に言われると、宇月は黙った。

 そう、もう手元にあった弾は打ち尽くされてある。

 待っていても、ただ死を待つだけだ。

 なら、立ち向かうしかない。

 その手にあるのが、粗末な竹やり一本だったとしても。

 

 

 次の口頭弁論では、竹之内は欠席していた。

 聞いた話では、前回の件で、便通から辞職勧告を受け、それによってか突発性の胃潰瘍が発病したらしい。

 法廷は、もう勝負が決まったような空気があり、傍聴席には前よりも報道関係者の人間が少なくなっているようにも見えた。

 対し、その勝ちを目前としている木村の表情は、隣のどこか遠くをみて呆けている三浦とは正反対に固く、一切の油断がない。

 最後の最後まで、全力でこちらを潰しにくる気だ。

 果たしてどこまで抗えるのか。

 その不安など知る由もなく、裁判長は黙々と開廷を宣言した。

 

 

 最後の砦、西岡が証言台に立つと、急なゲストに傍聴席からは微かに動揺が見える。

 ここにきて、いったい何を証言するのか、それが気になっているようだった。

 三浦の隣に座る鈴木は、下唇を噛んで下を向いている。

 今から西岡が証言する話が分かっているようで、やはり聞かれたくないもののようだった。

 田所の攻勢、木村の弁護次第では、逆転の目はまだあるのかもしれない。

 目を閉じ、腕を組んで田所が、ぱっと目を開き立ち上がると、全てをかけた反撃が始まった。

「西岡さん、あなたは原告である鈴木さんと、立教大学において元同級生、そして空手部部員でしたね」

「はい、その通りです」

 緊張しているのか、西岡はおどおどしくもそう答えた。

「あなたから見て、原告とはどういった人間でしたか」

「どういったっていっても、頻繁に話をする間でもなかったんで、イメージっていうのがなかったんですけど。ただ、信用できない人間でした」

「信用できない? それはどうして」

「はい。何かの機会で、部員が集まってお酒を飲んだ時、何人かで鈴木の家に集まって麻雀をしようって話になったんです。鈴木とは話す中ではありませんでいたが、まあ断る理由もないので家にいきました。それで、酒を飲みながらやって、3時間ぐらいやってるとみんな眠くなって寝ちゃったんですよ。そこで、朝になって、オレだけ起きて。まあ、ちょっとやらしい話なんですけど、ノド乾いて、勝手に冷蔵庫開けてお茶を、こう、口をつけずにですよ」

 西岡は上を向き、手を口のあたりに持ってくる。「ポットをここまで上げて、直接お茶を飲んだんです、そしたら見えたんです、冷蔵庫の上に胴着らしきものが」

「胴着? それは部活で使用するものですよね」

「はい」

「どうしてそれが冷蔵庫の上に」

「僕もそれが気になって、手に取って調べたんです。そしたら、そこに名前が刺繍されていて……雄作って書かれてたんです」

「雄作? つまり原告の物ではありませんね。ちなみに、その雄作という名前に心当たりは」

「はい。実は、その一月ぐらい前、同じ部活の雄作っていう男の胴着がなくなったんです」

 小さくどよめきだす傍聴席。裁判長もこの話を聞きいっている顔だ。

 感触は悪くない。

「なるほど、その胴着は部員の雄作さんのであると」

「間違いないと思います」

「その雄作さんは、その後どうなりましたか」

「胴着がなくなってから、何というか疑心暗鬼になってて。いじめられてるんじゃないかって悩んでいました。それで、いつの間にか部活をやめていました」

「それを見てあなたはどう思いましたか」

「純粋に、かわいそうだなって」

「それをふまえたうえで、原告に対し、どう思いますか」

「まあ、やっぱり人として、どうなんだって思います。部活は辞めずに続けてたんで、雄作がやめたとき、何て思ったんだって」

「なるほど。私からは以上です」

 鼻からすっと息を吐いて、田所は席に座る。

 勝負はここからだ。

 この証言には、いくつか弱い点がある。

 物的証拠はさることながら、なぜ今まで西岡はそのことを黙っていたのか、という話だ。

 木村は確実にこの隙をついてくる――そう思っていた、だが、

「原告代理、質問はありますか」

 裁判長の問いに、木村はゆっくりと首を振った。

「ありません」

 予想外の出来事に、宇月はぎょっとする。

 ここで、あえて反論しない手はないはずだ。

 そのうえ、木村はさらに不可解な行動に出る。

「しかし、裁判長。この証言について、原告から西岡さんに対して、言いたいことがあるそうです。発言の許可をいただけませんか」

「許可します」

 裁判長がそう言うと、鈴木はすっと立ち上がる。

 法廷は謎の緊張感に包まれた。

 この状況で、本人の口からいったい何をいうというのだ。

 木村と三浦以外の目が集まる中、鈴木は口を開いた。

「……その話は、事実です」

 またも驚愕の出来事に、宇月は言葉が出なった。

 もはや事実すら認めてしまった。心証を悪くする行為でしかない。

 いったい、何のために。

 その疑問は、続く鈴木の言葉によって、すぐに明らかとなった。

「本当に、申し訳ありません」

 鈴木は頭を下げ、謝罪する。「私はあの時、雄作さんに恋をしていました。でも、きっとホモだって言ったら、嫌われるだろうなって思って、ずっと隠していました……けど、それがどうしても我慢できなくなって……気が付いたら、彼の胴着を盗んでいました。いまでも、そのことは後悔しています。許されない行為だと思っています。西岡君も、そのことを誰かに言いたくて、ずっと苦しかったと思います……本当に申し訳ございません」

 田所の筋書は、窃盗の有無で争ったうえで、それを認めさせて、そこから原告への尋問で勝負をかける予定であった。

 しかし、木村が用意したものは、窃盗を認めたうえでの心からの謝罪。

 予想外。かつ、おそらく最悪の反撃だった。

「ああ……いや、僕はそんなに……苦しくはなかったけど」

 西岡も、鈴木の突然の謝罪に困惑しているようだった。

 さらにいうなら、謝らせてしまって申し訳なさそうにも見える。

「西岡さん」

 無論、それを木村が見逃すはずがなかった。「あなたは、原告、鈴木さんの、その心中を考えたことがあるでしょうか」

「え? いや、考えたことはないです」

「そうですか。例えばあなた、中学高校大学と、女性と付き合ったことは」

「まあ、一度だけ」

「それはどういった過程を経て、付き合うことになったんでしょうか。端的にでいいので説明をお願いします」

「そりゃ、僕が彼女のことを好きになって、それで告白しただけです」

「そうです!」

 木村は声を張り上げる。それは、法廷のすべての人間に語りかけるようだった。「当然のように行われる、この恋愛という一連の行動。それが、原告にはできないのです」

 西岡の周りを右へ左へと歩きながら、身振り手振りで語るその姿は、田所の勝利を確信したときそのものだった。

「好きと伝えたくても、この世の九割以上はヘテロセクシャル。ノンケなのです。ただ、その思いを胸にため、耐えるしかないのです。しかし、あるときに、それが限界になった彼女は、胴着を盗んでしまいます。これは、すべて彼女だけの責任でしょうか。違う……我々です。我々大多数が、同性愛者たちをさけ、まるで汚れのように扱うからです。彼女たちは隠すのです……本当の自分を! そんな彼女を、許してやってほしいと思うのは、私だけでしょうか」

 木村の問いかけに、法廷内は賛同の空気が流れていく。

「西岡さん」

 木村は証言台に手を置き、西岡の顔を見る。「今の話をふまえたうえで、鈴木さんに対して、なにか言いたいことはありますか」

 西岡は黙って頷き、鈴木の方を見た。

「あの……僕は別に、苦しんでなんていません。だから気にしないでほしいっていうのと……正直、鈴木がそこまでつらい思いをしてるなんて、考えもしてませんでいた。さっきの謝罪は、心からの物だと思う。だから……きっと雄作も許してくれると思います」

 鈴木が目に涙をためてうなずくのを見て、西岡は続けて言う。「これはからは、自分に正直に生きてください。それが僕の願いです」

「はい……ありがとうございます」

 鈴木が涙と共に頭を下げると、法廷内には拍手の音が響いた。

 裁判官たちも、それを止める様子は全くない。その拍手を聞きいっているようだった。

 もはや、ここから原告尋問をおこなっても無駄。

 この場の全員が、鈴木の味方だ。

 拍手がまばらとなっていき、法廷に静粛が戻ると、

「被告代理人。原告に対して、何か質問は」

 裁判長がそう言うと、田所は諦めたか、つぶやくようにいった。

「ありません」

 

 

 勝負は決した。

 もはやこれ以上、戦いを続けても時間の無駄だと、宇月は悟った。

 担当弁護士として、悔しい気持ちはある。だが、あの調子に乗りに乗った田所が負けると思うと、ちょっと嬉しい気もあったりした。

 宇月は一人、事務所のリビングで、昨日の裁判の話をしているニュースを眺める。

 そこには、笑顔で記者会見をする鈴木の映像も映った。

 これでよかったのだ。

 そう思うと、不意に後ろを新庄が通る。

「あれ、新庄さんどちらに」

「田所様に、おもみももを」

「お、おも?」

 新庄が持つお盆の上に乗せられたアイスティーを見て、飲み物だと宇月は理解する。「ああ、なるほど。というか、先生はどこに居るんですか。ずっと見当たらなかったですけど」

「朝から、ずっと屋上で日光浴をしております」

 それを聞いて、宇月は新庄についていくと、パラソルの下で椅子に寝転ぶ田所がいた。

「先生、朝から何やってるんですか」

「見て分からないのか」

 そう言って、田所は新庄からアイスティーを受け取る。「焼いてるんだよ。私が朝から何をしようが、私の勝手だろう」

 宇月は空に目をやると、今にもふりだしそうな曇り空が見える。

「こんな空でどうやったら焼けるんですか。先生、負けが確実になってショックなのはわかります。だからといってヤケにならないでください」

「別にヤケになっているわけじゃない。ただ、アイディアを練っているだけだ」

「アイディアを練るって、まだ裁判を続ける気ですか。もう無理ですよ、木村さんには勝てません」

「それは君がそう思っているだけだろう。可能性はゼロではない」

「万に一つもありません!」

 そう言い切る宇月に、田所は何も言葉を返さない。「わかっているんでしょう、先生。もう負けが確定していることを。下手に続けても、自らの顔に泥を塗るだけ。時に潔く負けを認めるのも美徳です」

「それは実力者がいっていいセリフだ。負けっぱなしの人間が、負けについての美徳を語っても、それは負け犬の遠吠えにしか聞こえない。だいたい、貴様にはわからんのだ。常勝不敗は、一度たりとも敗れなかったから常勝不敗なんだ。負けないからこそ意味があるんだ。その称号をこんなところで失ってたまるか」

「先生ならそんな称号なくても大丈夫ですよ。とっても強いんですから」

「やかましい」

 田所は弱弱しくそういうと、プイっと横を向き、宇月に背中を見せる。

「人の強さというものは、勝ち続けることではなく、挫折したときにまた立ち上がることだと、私は思います。きっと、この負けを超えて、先生はもっと強くなることができます……だから、落ち込まずに頑張りましょう」

 宇月の励ましに、田所はハアっとため息を漏らす。

「だから、落ち込んでなどいない」

 そう言った後に「アクシード」と田所はつぶやいた。

「ん? アク……なんですか」

「アクシードだ。ここから少し歩いたところにある洋風料理店でな、知る人ぞ知る穴場レストランだ。ハンバーグが絶品でな、特別に教えといてやる……今日は仕事もなしだ、そこにでも食いにいけ」

 どういう風の吹き回しか、急に教えられた穴場レストラン。

 励ましたことへの、遠回しなお礼なのだろうか。

「わざわざ教えていただいてありがとうございます。じゃあ、今日はこれで」

 宇月はいって、踵を返し帰ろうとすると「宇月様」と新庄が呼び止めると、そばまで歩いてくる。

「肩にホコリが付いていもすよ」

 新庄が肩についたホコリを取りながら、宇月にしか聞こえない小さな声で言う。「あそこは、私も一度だけ連れて行っていただきもした。普段は誰にゅも教えないんですよ」

「あ、へー」

 宇月はにんまりしながら、唇を噛むと「じゃあ、私は失礼します。先生、元気出して」と右手でガッツポーズを取る。

「早く行け、美大落ち」

 田所の素っ気のない返事の後、宇月は階段を下りて行った。

 

 

 

 キャバレー、クリスマス☆の店内は赤を基調とした豪華なものだった。

 そこに入り浸るのは実業家や大手幹部社員といった高所得者達。

 その店の奥、シャンデリアが飾られたVIPルームでは、木村と三浦の二人が、それぞれ隣に嬢を座らせて酒を飲んでいた。

 木村にこのような所に行く趣味はない。三浦が突然に行きたいと言い出したのだ。

 三浦はcoot法律事務所、社長の一人息子だった。

 社長は三浦を溺愛しており、頭が良く、弁護士の才能はピカイチだとよく風潮している。

 しかし、どう見ても三浦は池沼である。

 親の可愛がり、ここに極まれりというやつだ。

 それだけならまだしも、どうやら社長は三浦がアレなことにうすうす気づいているらしく、木村の共同弁護人に無理やり付けさせている。

 木村が勝訴すれば、共同弁護人として勝ちの実績がつくこともさることながら、木村の実力を間近で実感することにより、スキルアップすると思っているフシがあるようだ。

 社長には申し訳ないが、それはない。

 三浦には才能はおろか、人間が最低限備えているはずの知性も感じられない。

 才能があると信じるだけならいいが、こうやってお荷物を無理やり背負わされるのは勘弁してほしいものだ。

 だが、木村とてサラリーマン。社長の命令には簡単には逆らえない。

 三浦は、基本的には何もしないお荷物なうえ、こうやってたまにわがままをほざいてくる。

 いつもはふざけるなと一蹴するのだが、今日は久々にそれを受け入れてやった。

 田所のとの裁判は終盤を迎えており、もうやることも少なくなってきている。

 ここ数か月は朝から晩まで働き詰めであったし、勝利も目前だった。

 このあたりでハメを外しておかないと、体にも心にも毒だ。

「へー、弁護士さんなんだ」

「お、そうだな」

「とっても頭がいいんですね」

「お、そうだな」

 隣では三浦が嬢と話をしているが、会話が成立している用には見えない。

 あの池沼は、音に対して反射的に声を出しているだけなのではないか、そう思っていると、

「木村さんも、弁護士さんですか」

 木村を担当する嬢がそう話しかけてきた。

「まあね」

 そう言って、木村は右手に持ったグラスを傾け、ウィスキーを一口含む。

「へえ。弁護士さんになる方って、みなさんとっても頭がいいんですよね」

「いや、そうでもないさ」

 木村の脳裏に、宇月の顔がよぎる。「時にとんでもないバカもいる。やる気があればキミにだって――あ、いや失礼。いまのは悪気があったんじゃないんだ」

「いえ。木村さんのおっしゃる通り、私は皆さんと違って、頭もよくありませんから」

 木村から見れば、彼女は宇月よりもよっぽど頭がよさそうだった。

「最近は、どんなお仕事をされたんですか」

 嬢がきいた。

「近頃テレビで見ないかい。あの、便通の裁判」

 目をパッと開き、嬢は分かりやすく驚いて見せる。

「あの裁判を担当なさってたんですか。すごいですねぇ」

「たいしたことないよ」

 木村はそっけなく返すも、すごいといわれて悪い気はしなかった。

「あ、でも、確かそれを担当する弁護士さんの名前、ネットで見たことありますよ。確か、田所さんとかいう名前の……あの人ですか」

 嬢は三浦を指さしたが、

「いいや、あれは僕の共同代理人。田所は相手さ」

 と説明する。

「へえ。で、その裁判は勝てそうなんですか」

「まあね」

「じゃあ、田所って人、名前は知られてるのに、あんまり強くなんですね」

「そんなことはないよ。まあ強い弁護士さ……僕の方が、もっと強いけどね」

 自分に言い聞かせるように言った木村は、ウィスキーを口に運びながら、その瞳の中では過去の映像が映し出されていく。

 5年ほど前のことだ。

 新人にして次々と勝訴を勝ち取り、弁護士界隈でも一目置かれ、自信とやる気に満ち溢れていた。

 自分こそが世界で最高の弁護士であり、決して誰にも負けることはないと疑わなかった。

 だが、目の前に奴が現れた。

 企業案件だった。とある会社、Hが突然、木村が顧問を務める会社の商品を複製品、パクリであると訴えてきた。

 それはどう考えても、こじつけに等しいものだった。

 普通に考えれば勝てるはずはない。

 だが、奴――田所は、謎の証拠を提示し、自らの正当性を語り、果ては裁判長まで丸め込み、それをやってのけた。

 なにを主張しても、すべて跳ね返された。

 しっかりと下調べをして、シュミレーションをして、考えを尽くして作った証言や証拠も、それを事前に察知していたかのような反論証言や証拠を出され、かき消される。

 まるで子供と大人の戦いだった。

 プライドも何もかもズタズタに引き裂かれた木村は、裁判後半になると、もはや一言も発することがなくなり、地獄のような気持ちで、この案件が終わるのをじっと待っていた。

 それだけで終わればまだよかった。しかし、人間の屑である田所はそこで止まらなかった。

「被告代理人の木村さん」

 裁判も終盤。判決一歩手前の口頭弁論で、不意に田所は木村の名前を呼んだ。「こちらに書かれてある分を、読み上げていただけますか」

 それは田所が持ってきた証拠の文書だった。

 相手代理人にそんなものを読ませるなんて、意味不明だ。

 だが、裁判官は止めようとしない。すでに法廷は、田所によって支配されていた。

 その状況を利用し、田所は勝訴を勝ち取るだけでは飽き足らず、木村をの心までも完膚なきまでに叩きつぶす気だった。

「ほら、ここに書かれてある文です。これは我々の確実な正当性を語るものです。ほらほら、読んでみてくださいよ。それでいて、どちらが正しいのかその口で語っていただきたいですねぇ。ほらほらほら」

 資料を木村の前に出しながら、そう語る田所の顔は悪魔のような笑みに満ちている。

 その横暴に、木村は何もいうことができなかった。

 ガクッとうなだれ、両目からとめどなく涙を流しながら、

「やめてくれよ」

 絶望の境地で、その声を漏らした。

 

 

 ――パリン。

 木村の右手に握られていたグラクが砕け、突然のことに隣の嬢は小さな悲鳴を上げた。

「お怪我はありませんか」

 それに気づいてすぐさま飛んできたボーイが、タオルで机を拭く。

「ああ、大丈夫だ」

 木村はいった。「悪いね、ちょっと……グラスが机に当たってしまって。弁償するよ。それと、僕はもうここで」

 木村は立ち上がると、親指で三浦を差した。「勘定なら彼が。安心してくれ、IQはないが金はあるんだ、彼」

 そう言って、木村はさっさとクリスマス☆を出て行くと、タクシーを拾って行き先を告げた。

 

 

 木村はミートスパゲッティを口に運ぶと、その絶妙な味に感嘆の吐息を漏らす。

 そこは下北沢の駅から少し離れた場所にあるレストランだった。

 メニューはデジタルスティック、ハンバーグ、シャンパンといった統一性のないものだが、どれも高級レストラン顔負けの味だった。

 だというのに、知名度は低いのかあまり客はない。

 知る人ぞ知る場所であり、しかも裏手にはホモが集まるハッテン場もある、二重の意味で穴場レストランとなっている――というのが、店長平野のいつもの決まり文句なのだが、正直なところハッテン場はこの上なく邪魔でいらない。

 しかも、レストランの奥の扉はハッテン場につながっているため、ちょくちょく食事中の目の前を、ガチムチだったりデブの男が通っていく。

 扉の向こうでこいつらは何をするんだと考えると、果てしなく食欲を殺してくる。

 まあ、これだけ安くて美味しい料理を提供してもらっているんだ、文句は言わないで置こう。

 ミートスパゲッティを食べおえ、シャンパンを飲んだ木村は、満足そうな表情をしながらナプキンで口を拭く。

 定期的にここにはくるが、いつも大きな幸福感を与えてくれる。

 ズズズ、ズズズー。

 不意に、そばをすする音が聞こえてきた。

 新メニューなのか、これも統一感がないな、と思っていると、それはよく聞くと人が泣いている音だと気が付く。

 音のする、レジの方に目を向けたとき、木村はその光景を現実のものとは思いたくなく、ぎゅっと目を閉じて、幻影であれと願ったが、目を開けると何も変わらず宇月がへたり込んで泣いていた。

「ち、違うんです」

 宇月は嗚咽を漏らしながら訴えていた。「本当に……本当に財布がなくて……ズズー……無銭飲食じゃないんです」

「言い訳されてもこまるんですよねぇ」

 従業員である順平が、すごんでそう言った。

 木村はこの順平が大嫌いだった。ガラが悪く、力と恐怖で全てを解決したがるような雰囲気があったからだ。

 たぶん、実際にそうだと思う。

「信じてください……ズズー、私、本当に弁護士で……ズビー」

「お客様、泣かれても、困ります」

「うぅ……ズズー」

 その様子を木村は、巻き込まれては面倒だ、と思っていると、不意にこちらを向いた宇月と目が合う。

 マズイ。

 とっさに顔をそらし、別人を装うも、

「あ! き、木村さん! 木村さん木村さん!」

 気づかれてしまった。それも名前を連呼される。

 当然、順平も木村のことを見る。

 店側からすれば、木村に建て替えてもらうことが一番いい解決法だからだ。

「木村様」

 静かに歩いてきた順平が、木村に耳打ちする。「あちらの方は、お知り合いですか」

 宇月は助けを懇願するように、両手を胸の前で組んでいたが「いや」木村はすぐさま否定した。

「知ってるでしょお! 木村さぁん!」

 店内に宇月の声が響き渡ると、木村は立ち上がった。

「やかましい、店に迷惑だ、黙れ!」

「木村様」

 順平は、困ったように眉を寄せながら木村に語る。「あの方とは、どういった」

「まあ顔見知りだ。友人ではないし、助けてやる義理もない。携帯で友人を呼ばせればいいだろう」

「それが、携帯も無くしたと」

「なんだと」

 キッと、木村は宇月を睨む。

 財布と携帯。どうやったそんな大事なものを同時になくせるんだ。

 食後の幸福感。それを阻害され気分を悪くした木村は、宇月の元まで歩いていくと、親指でハッテン場を指さす。

「あっちにホモが集うハッテン場がある。あそこで稼いでこい」

「え、なにそれは」

 宇月は困惑するも、そんなこと知るかと言わんばかりに、木村は続ける。

「ホモの相手をして金を稼いで来いといっている。さいわい、この店の料理は高いものでもない。2,3回で済むだろう」

「いいいい、いや、いやですよお! だいたい私、女ですし。それと、売春は犯罪ですよ」

「バイか、穴なら何でもいい奴を探せ。超短期的恋愛による、少額金銭の授受は犯罪に当たらない。じゃあ、せいぜい頑張るんだな」

 木村は踵を返し「お会計を」と順平に言った。

「お願いですよ、木村さーん」

 宇月の懇願など無視して、レジにまわった順平に金を払うさかな、

「いいじゃないですか。裁判には勝つんだからぁ!」

 その言葉で、財布を持っていた木村の手がピタリと止まる。

 チラリと、肩ごしに宇月を見て、一瞬考えた後、

「あいつの料金はいくらですか」

 順平にそう聞いた。

 

 

 その後、木村は宇月と二人でタクシーの後部座席に乗っていた。

 電車賃もなく、3駅先の家まで歩いて帰ろうとする宇月を乗せてやった。

 もちろん、かわいそうだからというわけではなく、別の理由があるのだが……。

 ふと宇月のほうを見ると、体をもじもじとさせている。

 トイレでも行きたいのかと思っていると、

「な、なんですかぁ」

 宇月は照れくさそうにいった。「こんなタクシーまで乗せちゃって。もしかして、私に興味あんのか~」

「運転手さん、そこで止まっていただけますか」

 木村は体を前に出し、道路の脇を指さす。「このメスブタを下していただきたい」

「冗談ですごめんなさい!」

 間髪入れずに宇月が謝ると「運転手さん、やっぱりそのままで」と木村は吐息を漏らしながらシートに体を預けた。「次、下手なこと言ったら本当に下すぞ」

「はい……すいません」

「まったく」

 木村は窓枠に肘をつき、外を眺め「……それで、そっちの様子はどうなんだ」と何気なく聞いてみる。

「いや、もう完全に負けムードで。田所先生も……ちょっと落ち込み気味って感じです」

「ほお、そうか」

 自然に吊り上がっていく口角。それを隠すため、木村は手を口に添えた。「まあ、無理もないか」

「はい。いやでも、良かったなって思うところもあるんですよ。先生は、負けたことがないから、人間性がゆがんでいて、プライドが天井知らずに高かったんで。きっと、この負けによって、先生は人として成長できる気がします。その点においては、木村さんに感謝しています」

「僕はただ、全力で原告を弁護しただけだ。感謝される筋合いは無いが、まあどういたいしましてといっておこうか」

「はい。あ、着きましたね」

 宇月はタクシーから降りると、ドアを開いたまま腰を曲げ、木村にいう。「乗せていただいて、ありがとうございました」

「礼には及ばない」

「それと、おめでとうございます」

「おめでとう?」

 木村は不思議そうに聞いた。「何がめでたいんだ」

「田所先生への勝利ですよ。本当は私が最初に倒したかったんですけど、先を越されちゃいました。でも、いつか木村さんに追い付けるよう、頑張りますから」

 木村は、フっと鼻を鳴らし「まあ、精々がんばれよ」と返して、軽く手を振った。

「はい」

 宇月は返事とともに、バンっと無駄に強めにドアを閉めた。

 こういうガサツな女は嫌いだな、と思っているとタクシーは緩やかに発進した。

 一人となり、静粛に包まれた車内。

 突然、木村はぷっと噴き出したかと思うと、腰をそらし、大声で笑った。

 勝った、勝ったんだ僕は。あの忌々しい田所に。

 そう実感すると、笑いをこらえずにはいられなかった。

「お客さん、ずいぶんとうれしそうですね」

 その様子を見て、運転手が言った。

「ええ、まあね。すいません、大声を出してしまい」

「いえいえ、いいんですよ。確かにいいムードでしたもんね、さっきの女の方と。まあ、多少ブサイクですけど、愛嬌があるじゃないですか」

「運転手さん、あなたの会社の電話番号を教えてください。あなたを訴えます」

 

 

 おそらく最後となるであろう、口頭弁論当日。

 着席している田所の様子は暗かった。法廷に来るまでの間、一言も発することもなかった。

 対し、体面に座る、木村の表情は柔らかく、田所を小ばかにしているような笑いも見える。

 一応、いくつか指摘する材料を持ってきてはいるのだが、大したものではなく、これではただ死を先延ばしにしているだけだ。

 プライドがある以上、あがかずにはいられないのか、それとも、弁護士としての仕事を最後まで全力にまっとうしようとしているのか。

 何にせよ、もう結果は変わらない。

 判決は出た。後は十字架を背負い、ゴルゴダの丘を登っていくのみだ。

 

 

「――このように、原告の素行はあまり褒められたものではなく」

 先ほどから1時間かけて田所が語っているのは、鈴木の中学時代の話だ。

 ちなみに、これが始まる前は高校時代の話をしていた。

 過去の素行。

 それが、田所が見出した最後の攻撃。

 しかし、効いている様子はみじんもない。

 傍聴席も、はては裁判官まで、こじつけのような証言をいやいや聞いていた。

「いいかげんにしろ!」

 そんな中、声を上げたのは木村だ。「高校の話をしたと思えば、中学の話。次は小学校に幼稚園か。出産時のおぎゃーの声まで審議するつもりか」

「まだ私の話は終わっていない。黙っていてもらおうか」

「時間の無駄だといっている、こんなもの聞いていられるか」

 実際、木村が行ったことは、法廷にいるすべての人間の総意だろう。

「裁判長」

 木村は語り掛けた。「このような無意味な議論は、時間と金を捨てる行為に等しい。どうか、本口頭弁論の終了と、次回判決の決定をここでしていただきたい」

「まて、私の話はまだ終わっていない」

 田所が反論するも、

「終わったんだよ」

 木村はそう言い放ち、田所のそばまで歩くと、睨みつけながら顔を近づけた。「貴様の負けだ田所。時間を使っても、もうどうにもならない。貴様は何百億という裁判に負けた、無能弁護士として名をはせるんだよ……僕が味わった苦しみを、貴様もじっくり味わえ」

 クククと笑いながら木村が着席すると、

「田所代理人」

 裁判長がいう。「有意義な証言がでる様子はなく、議論は必要ないと判断します。着席を」

「裁判長――」

 田所は反論しようとするも、

「着席を」

 裁判長は聞く耳を持たず、言葉を遮る。「田所代理人、わかっていますね、これ以上はいわせないでください」

 遠回しに、退廷をにおわせてきた。

 田所は目を閉じ、深いため息を漏らし「はい」と自らの席に戻った。

 これで、すべてが終わったのだ。

「口頭弁論はこれにて終了し、次回、判決を言いわた――」

 裁判長が最後の宣言を行っているさ中、突然、傍聴席のドアが開くと、男が一人入ってきた。

 宇月はその男に見覚えがあった。

「遠野……さん」

 それは、鈴木の元後輩、遠野であった。

 なぜ、今このタイミングで。

 そう思っていると、田所が手を上げる。

「裁判長。終了宣言の途中で申し訳ありません。実は、今はいってきた男性、遠野さんは本件においてある重大なことにかかわっておりまして。今すぐ証人尋問の許可をいただきたい」

 宇月は息を詰まらせ、田所の顔を見る。

 そんな話はまったく聞いていないし、素振りも見せていなかった。

「どうして、その重要な証言者を今まで出廷させなかったのですか」

 突然のことに騒めきたつ傍聴席をおいて、裁判長は聞いた。

「このようなことになったことを、先にお詫びします。遠野さんは、ある複雑な理由で、出廷ができないでおりました。裁判が始まってから、私も出ていただきたと説得を続け、この状況に至ります。どうか許可を」

「ダメに決まっているだろう」

 割って入ったのは木村だった。その顔には、若干の焦りが見える。「先ほど、もう裁判は終了したんだ」

「まだ終了の宣言はしきっていなかった」

「終わったも同然だろう。それに、こんな急に証言者なんて」

「キミに言われる筋合いは無いな。先にそれをやったのはそっちだ」

「我々は本人尋問だ」

「そんなものは関係ない!」

 田所は言い放つと、今度は裁判官に向く。「裁判長、あなたはおっしゃいましたよね、状況を判断し、我々にも突発的な尋問を許可をすると」

 そう言うと、裁判長は苦い顔をした。

 事実、そう言っていっていた。突っぱねることはできない。

「どうか、公平中立な判断をしていただきたい。我々にも尋問の許可を」

 深々と頭を下げる田所。

 その様子を見て、裁判官と話し合った裁判長は、

「分かりました。尋問を許可します」

 それを受け入れた。

 当然だ。木村の例がある以上、認めなければ公平ではない。

「ありがとうございます」

 礼を言って、田所は遠野を証言台に案内する。

 それにしても、いったい何を証言させる気なのだろうか。

 前にあった時は何もないといっていたはずだ。それなのに、なぜ。

 宇月は疑問に思いながら、ふと鈴木の方を見ると、異様に緊張していることに気が着いた。

 それも尋常ではない。下を見て、苦しそうに息で肩をしていた。こちらまで苦しくなりそうなほどだ。

 証言台に立つ遠野。

 空気がピリつくような緊張感が法廷に漂う。

 ここまで来て……いったいなんの証言を?

 全員の射るような目が証言台へと向く中、遠野は口を開いた。

「僕は……原告に……鈴木さんに……体を触られ、む、無理やりキスをされました!」

 ほんの一瞬、法廷から音が消えた。

 そして――

「ええええええ!」

 その静粛を最初に破ったのは、宇月の驚きの声だった。

 それを皮切りに、ざわざわと沸き立つ傍聴席。

「静粛に! せ、静粛に!」

 そう促す裁判官の声にも困惑の色が見える。

 キス? 強制わいせつ罪……いや、最悪の場合、強姦未遂にも当たる可能性がある。

「ほう、その被害はいったいどこで受けましたか」

 大混乱を起こしている法廷の中、田所は粛々と質問をする。

「会社の倉庫で、必要な資料を整理していたときです」

「どんなふうにでしょうか」

「後ろから、急に抱き付いてきたんです……僕はやめてくれって言ったんですが、体をまさぐられ、それから唇を無理やり」

「証拠は……証拠はあるのか」

 木村が言った。すると、

『先輩! なにしてるんですか。やめてくださいよ本当に!』

 不意に、法廷に響いた遠野の声。

 それは田所が手に持つ携帯から流されていた。

 田所は携帯を操作し、いったん音を止め、

「こちらは、証人の携帯に録音されていた音声です」

 といってすぐに再生した。

『暴れんなよ……暴れんなよ……』

 次に携帯から聞えた声は、どう聞いても鈴木の物だった。

 その声と一緒に、服の生地が擦られるような音が聞こえた。

 鈴木が遠野に抱き着いている映像が、鮮明に思い描ける。

『鈴木さん……ちょっと、まずいですよ!』

 次に聞えた遠野の声は、明らかな不快感が滲んでいた。

『いいだろ遠野!』

『やめてください……う、うもう』

「このときに、遠野さんはキスされました。そうですね」

 田所の問いかけに、遠野は頷く。

『遠野気持ちいか、気持ちいいだろ……お前のことが好きだったんだよ!』

 鈴木の迫真の告白とともに、録音は終了した。

「遠野さん、この時のお気持ちをお聞かせください」

「気持ちって……もう……なんて言ったらいいか」

 遠野は頭を垂れて「気持ち悪くて……怖くって」と嗚咽を漏らして涙を流すと、田所はその背中をさすった。

「お察します……私からは、以上です」

 田所が自席に戻ると、急なことで戸惑いながらも「原告代理人、質問は」と裁判長は木村にいった。

 木村はハッとして顔を上げ「ああ、はい」と立ち上がる。

 その額にはハッキリと玉の汗が浮かんでいた。

「えっと……遠野さん、あなたは強制わいせつを受けたとおっしゃっていましたが……それは本当ですか。原告と少なからずそういう関係で――」

「音声を聞いていなかったんですか!」

 木村の質問に、遠野は声を荒げる。「僕が喜んでいたとでも!」

「あ、いえ、申し訳ありません」

 戸惑いを見せながらも、木村は何とか質問を続けようとする。「でしたら……えっと……どうして今までそのことを黙っていたのでしょうか」

「彼は何度も誰かに言おうとしました」

 田所がそう説明する。「ですが、言おうとしたところで、どうしても言葉が出なかったのです。セクハラとはそう言うもの……誰かがおっしゃっていました。誰なのかは忘れましたが」

 木村は反論できなかった。

 そう、それをいっていたのは木村本人だからだ。

 その後、木村は必死に質問を練りだそうとしているのか、頭を振るも何も出てこない。

「裁判長」

 それを見て、田所が手を上げる。「どうやら木村代理人は、もう聞くことがないようです」

「木村代理人」

 裁判長が呼びかけると、木村は「はい」と悔しそうに席に戻った。

「では」

 田所は喉を鳴らした後、立ち上がっていった。「遠野さんへの強制わいせつについて、その有無を本人に問うべく、今すぐに原告に対する本人尋問を始めさえていただきたい」

 その尋問はすぐに承認され、鈴木は証言台に立たされた。

 今にも吐きだしそうな表情だ。

「鈴木さん、あなたに聞きます。先ほど、遠野さんが証言していた強制わいせつは本当でしょうか」

 鈴木は体を震わせたまま、何も答えない。

「鈴木さん答えてください。彼に対し――」

「まて」

 割って入ったのは木村だ。「……その人は……彼女はLGBTだぞ」

「それが何か」

「何かって、彼女はなあ、世間から抑圧されて――」

「だったら罪を許すのか!」

 木村の反論は、田所から発された声にかき消される。「LGBTの社員を辞めさせるのが悪なのか。LGBTの全ての要求をのまないとそれは差別なのか。LGBTは犯罪をしても許されるのか……ふざけるな、そんなものは正義でも何でもない、ただの横暴だ!」

 田所は両手を後ろに組み、鈴木の周りを歩く。「事実、我々人類は歴史の中で、彼女ら性的少数派を差別してきたのかもしれない。だからといって、それを理由にすべてを許すことも、特別扱いしてもならないはずだ。そんなことをすれば、新たなる偏見を生み、そしてさらなる差別を生むだけだ……どうしてそれがわからない」

 田所の問いに、木村は何も答えない。「差別は悪だ。彼女らが彼女ららしく生きるのを、誰も止めてはなりません。しかし、我々ノンケ、ヘテロセクシャルと同じように、法を厳守し、法廷の出した判決に従わなければならない。それが彼女たち、性的少数派を真に認めるということではないでしょうか」

 田所は足止めると、鈴木に対して力強く指さす。「そのためにも、今この場で、セクシャルマイノリティでも、セクシャルマジョリティでも、法の前ではすべてが平等であることを示さなければならない。すべての性的指向の人間が、誰にも邪魔されることなく、幸せになれる社会のために……さあ、鈴木さん、聞かせてください……遠野さんの証言は、事実ですか」

 うなだれ、丸くなった鈴木は、体を震わせながらも「事実です」とか細い声でつぶやいた。

 しっかりとそれを受け取った田所は「ありがとうございます」とうなずく。

「以上の証言からして、原告、鈴木福子は後輩に対してわいせつ行為を行い、社員に対して多大なる精神的苦痛を与え辞めさせ、社益を著しく損ない、またその他さまざな要因を照らし合わせると、便通が原告に対して下した解雇は、正当かつ彼女の性的指向に左右されてはいない倫理的かつ合理的判断だって、ハッキリ――」

 田所は勝利の笑みを讃えると、指で鼻の下をこすった。「……わかんだね」

 

 

 口頭弁論が終わり、みなが法廷から退出していく中、木村は立ち上がらず、じっと宇月を睨みつけていた。

「じー、なんでこっち見てんのかな……こっちみんな」

「何をしている」

 一人つぶやいている宇月を見て、立ち上がった田所は聞いた。

「あ、いや、木村さんが……」

 田所が木村を見ると、フンっと鼻を鳴らした。

「そうだろうなぁ……奴は、お前に騙されたと思っているからな」

「え、えぇ……なんで私が」

「そんなこともわからないのか。まあいい、さっさと行くぞ、人を待たせている」

「待たせてる? 誰をですか」

「いいから早く行くぞ」

 足早に裁判所から出ていく田所に、宇月はついていく。

「しかし、よかったですね、最後の最後で遠野さんが証言してくれて。ていうか、あんなのあったんなら私に教えといてくださいよ」

 田所が負けなかったことが、ちょっと残念ではあるが、鈴木の悪項を暴き、裁判を勝てたことを良しとしようと思っていると、田所はふーっと重く長いため息を吐く。

「お前は……ほんっとうにどうしようもない美大落ちだな」

「え? なんですか急に」

 そう答えると同時、田所が向かう先にあるもの見つけ、宇月は何度も瞬きをする。「え……え、ちょ、あれって、もしかしてリムジン」

 そこには運転手の服装をした新庄も立っていた。

「お疲れ様です」

「待たせて悪かったね、新庄君」

「いえいえ、滅相もございません」

 その田所と新庄のやり取りから、待たせているというのは新庄のことだったらしい。

「どうしたんですか、新庄さん。こんなところで、それもリムジンなんて」

 宇月は聞いた。

「1時間ほどかける予定だったからな」

 新庄に変わり、田所が答える。「さすがに、その辺りで待たせるのは失礼だろう。それに、木村に気づかれても困る。確実に見つからないような場所を用意しておいた」

 一時間ほどかける……木村さんにばれないため……?

 こんがらがる頭をかしげていると「宇月様、こちらを」と新庄から何かを手渡される。

 それは、宇月の携帯と財布だった。

「え、なんで新庄さんが。どこで見つけたんですか」

「ハハ、そちらに関しては、田所様にお聞きください。中へどうぞ」

「どぉ……え? ちょ、もう分けかかんねぇよ」

 何が何だかわからず混乱したまま、新庄がドアを開けると、とりあえず宇月は田所とともに車内に入る。

 緩やかにリムジンは発進していった。

 田所は着席してすぐ、棚に置いてあったグラスを手に取り、シャンパンを開けて中へ注ぐ。

「貴様もどうだ。勝利の祝杯だ」

「結構です。先に、いったい何をしていたのか教えてください」

「まったく」

 田所は面倒くさそうに眉を寄せると、シャンパンを一口飲んだ。「いちいち口で言わなきゃならないか。言わずとも察してくれるとありがたいんだが」

「わかるわけないでしょ。それで、ここでは誰を待たせていたんですか」

「決まってるだろう、遠野君だ」

「と……遠野君が? でも、なんで」

「裁判長がいっていただろう、例外的に許可すると。あくまで、例外的だ。こちらも切迫しているところを演出するべきだと思ったんだ」

「ちょっと待ってくださいよ。ということは、遠野君は決心して、ギリギリで法廷に来たんじゃなくて、ここで終わりそうになるのを待っていたってことですか?」

「その通りだ。ちょっと頭を捻れば分かりそうなもんだがな」

 田所はいって、グラスをぐっと傾け、シャンパンを一気に飲み干す。

「なんでわざわざそんなことを? 鈴木さんが強制わいせつを行ったという、決定的な証拠があったじゃないですか。別に、こんなことしなくたって」

「ああ、それは」

 田所はポケットから携帯を取り出し、操作した。「これのことか」

 すると、法手で流れたものと同じ音が流れ出す。

「そう、これですよ。これがあれば、別にあんなことしなくて――て、なんでこの音声が先生の携帯に保存されてるんですか」

「うーん、ちゃんと聞けばわかるものだがなぁ……そこまで似ているか?」

「似ているかって――」

 宇月は携帯に向いていた視線を、急スピードで田所の顔に向ける。「ま、まさかこの声」

「そうだ、私の声だ」

「ええええええ!」

 あまりのことに、宇月は叫んだ。

「やかましい! こんな距離で叫ぶな!」

「いや、でもこれ、偽造ですよ! 証拠偽造。犯罪になります」

「お前は私の話を聞いていなかったのか? 私は一度たりともこれが証拠だとはいっていない。あくまで、証人である遠野さんの携帯に残されていた音声だといったんだ」

 宇月はぐっと息を詰まらせた。

 先ほどの裁判は、一言一句思い出すことができる。

 実際に田所は一度も証拠だとはいっていなかった。

 田所は続ける。

「突然に受けた強制わいせつの音声を、録音できるわけがないだろう、普通に考えて。これが証拠ではなく、私と遠野君による状況再現の音声であること。それを勘繰られないためには、普通に尋問していては不可能だ。相手が勝利を確信し、緩み切ったところで、不意にぶつけるしかない……そのために、裁判長とわざわざ口論して、例外的に許可をするという言質をとり、そして、お前を利用した」

 利用?

 宇月がその単語を疑問に思った瞬間、すぐさまあることが脳裏をよぎり、すぐに新庄から受け取った携帯と財布を取り出し、田所の顔を見た。

「もしかして……これって」

 ――宇月様、申し訳ございません。

 天井にあるスピーカーから、話を聞いていたのか新庄の声が聞えてくる。

 ――田所様の命令で、あなたも携帯とお財布を盗もせていただきました。

 宇月の脳裏に、アクシードへ向かう前、新庄に肩のホコリを取ってもらった映像が思い起こされる。

 あの時にとられていたのだろう。

「やっぱり……じゃあ、私にアクシードを教えたのも」

「やっと頭がまわってきたじゃないか。その通り、私の作戦だ。貴様にあんな穴場レストランを教えるわけがないだろう。お前を伝って、私が落ち込んでいると知れば、一気に勝利を確信する。そんな時に、最後の最後、終わりの瞬間で、強制わいせつの反対尋問だ。反論もうまくいっていなかったし、音声の偽装も気づけなかった。それで、完全に逃げられないと悟った原告は自白した」

「すべて……先生の手のひらの上ってことですか」

「まあ、そうなるな」

「最初から、全部教えてくれればよかったのにぃ」

「バカに作戦を教えるか、相手に漏れたら困る」

「そんな、ひどいですよ」

 宇月はずーんと、肩を落とした。「そのせいで……私、木村さんにすごい恨まれてますよ」

「なんだ、そんなにいい仲だったのか」

「え? いや、いい仲っていうか」

 宇月は頭をかきながら、もじもじと体を動かす。「まあ、そんな感じってわけじゃないんですけど~、悪くなかったっていうか~、これから何かが始まるかもっていうか~」

「まあ、今日でお前は憎しみの対象になったわけだから、それも終わりだな」

 宇月はさらに深く肩を落とし、うなだれた。

「落ち込むな、落ち込むな!」

 田所は嬉しそうにシャンパンを注ぐ。「男なんて腐るほどいる。それに今日の勝訴でばーっと金が入る。お前にもボーナスをやろう、それで好きなだけ遊ぶといい。さあ、飲め飲め、勝利の祝杯だ! ハーハッハッハッハ」

 下北沢へ向かうリムジン中では、不愉快な男の笑い声が、延々と響き続けるのだった。

 

 

 原告敗訴! どうなるLBGT問題。

 事務所のリビングで、昨日からずっと持ちきりである裁判のニュースを、仕事の合間、宇月は頬杖をつきながら見ていた。

 昨日の心の傷は癒えた。あんなことでいちいち落ち込んでいたら、田所の部下はやっていけない。

 しかし、このLGBTの問題というのは、いったいどうやれば終焉を迎えれるのだろうか。

 真の平等など、どこにもない。

 田所はそう言っていた。しかし、だからといって平等であろうとすることを放棄してはいけないはずだ。

 昨日の判決によって、問題は解決に向かったのだろうか、それともさらにこじれたのだろうか。

 宇月はふうっとため息を漏らすと。

「美大落ちごときが、なにをため息なんてしている」

 後ろから毒づきが聞こえ、振り返ると当然そこには田所が立っていた。

「別にため息ぐらいいいじゃないですか。ほらあの、私たちの裁判のニュースです。これでLBGT問題はどうなっていくんだろうって」

「そんなこと、貴様が悩んだところでどうにもならないだろう。一つ分かることは、問題があるからといって急な改革を行うと、さらに大きな別の問題が起こるということだ。徐々に、ゆっくりと浸透させていき、常識を変えるほかない」

「すぐには解決しないってことですか」

「その通りだ。だから、下手なことはせずに時間が過ぎるのを待とう。きっと、見えないところで誰かが変えてくれるはずだ」

「それって、自分にはたいして関係ないから、そう思い込んでいるだけでしょう」

「否定はしない。ただ、反論をしておくと、人間とはたいていそういう生き物だ」

 宇月はむすっと膨れた表情をすると、テレビでは急に記者会見の映像が流れた。

 どうやら速報らしい。

 ――私はレズビアンです……それを理由に解雇されて。

 見たところ、同性愛者が企業から解雇にあったらしい。

 とんでもなくデジャブを感じていると、

「ええ、ええ……その問題で、ぜひとも私に代理人を担当させていただきたい」

 気が付くと田所が電話をしていた。

 話の内容からして、テレビに映っている女性に対するものだ。

「え、ちょ、先生?」

 田所は聞く耳を持たず、会話を続ける。

「私も常々、そう思っています。いまこそ、セクシャルマイノリティの方々の権利を主張するべきだと……いえ、あの裁判は仕方なくといいますか、まあ都合上、弁護したまでで、本当は嫌だったんですよ。ともかく、あなた方ICPU……じゃなくて、えっとAMPM? いや、ともかく、あなた方の力になりたい……そうですか……はい、はい、もちろんよろしくお願いします。早急にそちらに向かいます。では失礼」

 田所は電話を切ると「新庄君、車を出しなさい」と叫んだ。

「ちょちょちょ、ちょっと」

 ガレージへ向かおうとする田所の腕を、宇月はつかんだ。「受けちゃうんですか! 前回の物と、まったく真逆の裁判ですよ。弁護士としてどうなんですか! それに、急な改革はまた別の問題を――」

「やかましい!」

 田所は宇月の言葉を遮る。「そんなものしったこっちゃない! いいか相手は大企業だ、どれだけふんだくれるかわからんぞぉ~」

「結局、お金なんですか! 正義だ平等だ権利だって、いろいろ語ってた割には、本当はどうだっていいんですか!」

「その通りだ!」

 まさかの開き直りに、宇月は放つ言葉を失う。

 この……この人は……。

「に、人間の屑!」

 宇月の口から出たのは感情的な罵倒。それに対し、田所は腰をそらして大声で笑う。

「何とでもいうがいい! 屑だろうが糞だろうが小便だろうが、勝った奴が正義だ。それがいやなら、お前が相手代理人になって私に勝ってみろ美大落ちぃ~」

 田所はニヤァっと、粘着質を感じさせる笑みを見せるも、宇月は何も言い返せなかった。

「じゃあ、留守番はたのんだぞ」

 足早にガレージへ向かっていく田所。

 その背中を、肩を落として宇月は見ているしかなかった。

 窓の外では、田所を乗せたのであろう黒塗りのセンチュリーが、家から離れていく。

 それを不服そうに見て、宇月は一人思った。

 LBGT問題。

 それの解決は、まだまだ先なのだろうなと。

 



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