こんにちは、ヒトですか? (塩崎廻音)
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第一章 出会いと旅立ち
序章 滅びの日々


 愛の薄い母親だった。

 物心ついたころには既に父親は家にいなかった。だから僕は『普通の家庭』というものをよく知らない。ただ、僕に父親がいないことをバカにしてくるクラスメイト達の言葉を聞く限り、親というものはもっと自分の子供のことを大切にしているらしいという事は分かる。

 別に、よく叩かれただとかご飯をもらえなかっただとかそういうことはない。ただ、母は僕に対して非常に無関心だった。テストでいい点を取っても褒めてくれないし、流行りのおもちゃを買ってくれたことはないし、誕生日を覚えてすらいなかったし、もちろん一緒に遊びに行ってくれたことは一度もなかった。

「別にあんたなんて、いてもいなくてもどっちでも良いんだけど」

 一度母に、僕のことが嫌いなのか、いなくなればいいと思っているのか、そう聞いたことがある。その時の母の答えがこれだった。これならいっそ、嫌ってくれていた方が良かった。そうだったなら、母が嫌いな所を直せば好きになってもらえたかもしれないから。

 母は僕に興味がない。クラスメイトは父がいない僕を見下している。そんな中で僕の唯一の心の支えが芹香だった。

 芹香は僕のお隣さんの娘で、小さいころから一緒だった、いわゆる幼馴染だ。お姉さんが二人いるみたいだけど、僕はお姉さんたちにあったことはほとんどない。芹香が言うには、優等生で人気者なお姉さんたちはよく友達にお呼ばれするからあまり家にいないらしい。

 そんなわけで、僕と芹香はいつも二人で遊んでいた。

 いつも二人きりで。

 

 とうに動かなくなった肉塊に向かって無我夢中で包丁を突き立てる。それがもう死んでいることに気付いたのは、血塗れになった手から包丁が滑り落ちた後のことだった。

「はぁ、はぁ……やった?」

 深呼吸をして早鐘を打つ心臓を鎮める。そうすると必然的に辺りに飛び散った血の生臭い匂いが鼻の中に飛び込んできた。同時に、生き物の肉に包丁を突き立てたときの生々しい感触が思い起こされる。筋線維を引きちぎるぶちぶちという感覚がことさらに嫌悪感を掻き立てた。

「うぐ、うぇ…はぁ、はぁ……ぅぐええぇぇええ」

 こみ上げてきた吐き気に、僕は吐き出せるものもないのに空嘔を繰り返した。初めて生き物を自分の手で殺したという実感が、僕の心を掻きむしるように責め立てていた。

 生き物を殺す覚悟なんて全くできていなかった。包丁を持って出たのは万が一生きている人間に出会った時の自衛のためであって、それを使って戦うなんてことは考えもしなかった。まして、殺すだなんて。

 数分経って少しだけ落ち着きを取り戻した僕は、さっき刺し殺した「何か」に目を向けた。

 歪に盛り上がった頭部、その後ろに鬣のように生える無数の触腕、そして、毛玉のような胴体には本来よりも数本多い脚が生えている。改めて見ると生物というものが何なのか分からなくなる形をしている。小型犬であろう元の姿の面影を唯一感じるのは頭部にある一対の耳くらいだろうか。

 それは『変異種』と呼ばれる存在。

 あのウィルスがまき散らされたことによって生み出された生物たちの成れの果て。

 ウィルスについて知らされていることは少ない。分かっているのはウィルスによって動物が異形の怪物に変貌するという事、ウィルスの生存能力が高くシェルター外に出れば確実に感染すること、そして感染すれば治療法はないという事の三つだけだ。

 だから、僕がこうしてシェルターから出た時点で、遅かれ早かれ僕の死は決定づけられている。

まあ正確には死ぬのではなく変異種に変わるのだけど。ただ、意思疎通が取れない変異種になった時点で死んだも同然だ。

 死ぬのはもちろん怖い。それに、ただ死ぬだけではなくあんな奇怪な怪物に変わり果ててしまうのだ。変異種を目にしたことで改めてそんな事実を突きつけられたように感じて、シェルターを出る前に固めた覚悟が突き崩されるように感じる。

 恐怖が背筋を駆け抜け、思わず蹲ってしまいたくなる。

「――だけど、芹香を助けられるなら…」

 震える脚を叱咤して山道を再び進む。

 脳裏に浮かぶのはベッドに横たわり苦しそうにする芹香の姿。彼女の高熱はもう一週間近く続いている。物資も機材もないシェルターでは満足な治療ができないと、『先生』は言っていた。だったら、せめて薬だけでも手に入れられれば芹香は助けられるかもしれない。

 それだけが、僕に残された希望だった。

 

 あの事件が起こって既に数か月の時間が経つ。同時多発テロによってまき散らされたウィルスは、瞬く間に世界中を生存不能な死の世界に変えてしまった。

 幸いにしてこの街は被害に合うのが比較的遅かったため、住人の多くはシェルターに避難することができた。シェルターの性能自体は問題なく、まき散らされたウィルス自体は完全に遮断されていた。だけど問題は、シェルターに貯蓄された物資の量だった。

 争いから長く遠ざかったこの国において、本気でシェルターが必要になると思っていた人間はほとんどいなかった。シェルターの維持費は年々少なくなり、物資の取り換えも滞るようになっていたらしい。

 今回のテロが起きたのはそんなタイミングだった。

 シェルターには避難した数百人の生活を年単位で保証するほどの食料も生活必需品も備えられていない。事件から数か月が経ち、食料と物資の不足は深刻なものになっていた。

 インフラもとうに途絶し、助けどころか物資の供給すらも期待できない状況である。配給される食料も徐々に少なくなっていき、遠くないだろう破滅の足音がシェルター内に絶望をもたらしていた。

 シェルター内に大人がほとんどいないことも絶望の蔓延に拍車をかけていたのかもしれない。学園都市であるこの街はただでさえ大人が少ない。教員のほとんどは遠隔地のオフィスか自宅に居ながらの勤務となっているから、大人は集団生活の統率を行うための指導員数名と学校医くらいだった。

 そして、その指導員たちも物資を探すために決死の覚悟でシェルターを出ていった。残った大人は学校医の『先生』だけだ。

 ただ、先生に今のシェルターを統率することは期待できないだろう。元々生徒を指導する立場でないのに加えて、今のシェルター内に皆はお世辞にも健康状態が良いとは言えない。物資も機材もない中で皆の健康を維持するだけで手いっぱいのはずだ。

 だから、シェルター内の実質的な『統治』は生徒の中でも立場の強いやつが行っている。ただ、いくら生徒内で立場が強いといっても所詮は同じ子供だ。間近にせまった破滅への不安が蔓延した今のシェルター内の空気をどうにかするだけの力はない。

 だから、日に日に高まる不安の声を少しでも反らすために、物資を探しに行くための捜索役を求めたのは当然の流れだったんだと思う。

 そして、その『志願者』に僕が選ばれた。志願者なのに選ばれるというのは変な話だが。

 物資の捜索役なんて言えば聞こえはいいが、実態は「手を打っている」と言い訳するための体のいい生贄だ。だから、いなくなっても問題のないやつを送り出すのが望ましい。芹香の他に親しい人間がいない僕は、そういう意味ではちょうどよかった。

 きっと、これは罰だったんだと思う。外と連絡が取れていた頃、僕はこの事件で母が死んだことを知った。だけどその時、僕は少しも悲しまなかった。それどころか、これでもう僕を無視する母の姿を見なくてもいいんだ、なんて思ってほっとしたくらいだった。

 きっと、僕が肉親に対してそんな風に思うひとでなしだから、みんなから切り捨てられたんだと思う。

 でも、そんなひとでなし相手でも芹香は笑って手を取ってくれた。一緒にいてくれた。だから、自分がどうなっても芹香だけは助けたかった。

 

***

 

 ずたずたに引き裂かれた死体を眺め、巨体の怪物は苛立たし気に唸り声をあげた。別に同類の仲間を殺されたことが悲しいというわけではない。ただ、自らの縄張りで眷属が殺されたことは看過できなかった。それはつまり、自らに対する宣戦布告と同義であるからだ。

『ぎゅえぇぇえぇぇぇ……!』

 強い怒りの感情をこめて、巨躯の変異種は大きく吠えた。眷属を殺した何者かの匂いはまだ残っている。そして、眷属の死体の様子からしてそいつはまだそう遠くには行っていないはずだ。

 そう判断した変異種は、ゆっくりとその匂いが続く方向へ脚を進めた。自分の縄張りを荒らす敵対者は必ず斃す。その強い意志を瞳に湛えて。

 

***

 

 けほ、という軽い音とともに口の中に血の味が混じる。

 変異がもう始まった。自分でも驚くほどにその事実を受け止めていた。あるいは、色々なことがありすぎて精神が麻痺しているのかもしれないけど。

 ウィルスによる変異の初期症状は呼吸器系の不調として現れるらしい。これもまだ外との通信ができた時に手に入れた情報の一つだ。多くの場合は軽い咳かのどが腫れたような感覚で、人によっては軽い吐血も見られたのだとか。そして、初期症状が現れてから早ければ一時間以内に体組織が別の生物の物へと変貌していくらしい。

 脳裏に、先ほど指し殺した小型犬の変異種の姿が思い浮かぶ。無数の触腕が生え歪な体躯に変貌した異形は、とても生物のあるべき姿だとは思えない。ホラーゲームの化け物みたいだ。

 尤も、今の状況こそがホラーゲームそのものかもしれない。そんなことを考えながら、静まり返った街並みに目を向けた。

 数か月前までは学生たちが歩いていたり、宅配ドローンや無人警備車両が行き交っていたりと、この街もだいぶ騒がしかった。公園には鳥や猫なんかもいたはずである。それが今は街そのものが死に絶えたかのように静まり返っている。

 インフラの途絶、そしてウィルスによる生物の死滅。少し前までは冗談でしか語られなかった『終末世界』がそこには横たわっていた。

「…知らなかった。世界って、こんなに簡単に滅びるんだ」

 半ば無意識にそんな言葉が口を突いて出た。実際のところ、まだ世界は滅びていない。一時的に人間が生きられない環境になってしまっただけで、文明そのもの――建物や機械などが全て破壊されたわけではない。だから、人さえ戻れば元のように世界は動き出すだろう。人さえ戻れば。

 だが、はたして世界に人が戻る日は来るのだろうか。

 そもそも事件当時シェルターに逃げ込むことができた僕たちは相当に幸運な方だ。逃げる間もなくウィルスが拡散した地域もあったようだし、そもそもシェルター自体どこにでも備えられているものではない。外との通信ができた頃に得られた情報では、生存者よりも確認できた死者の方が圧倒的に多かった。

 そして、逃げ延びた人たちもまだ安全とは言い切れない。大規模な避難民が長期にわたって生活できるようなシェルターなんてどこにもなかったはずだ。食料は限られ、補充の目途も立たない。まるで陸の上で漂流しているようなものだ。

 だから結局、既に死んでいるかこれから死んでいくかの違いでしかないのではないか?

 そんなことを考えて、あまりの益体のなさに苦笑してしまう。そもそも、それを言うなら自分は既に死んでいる側の人間だ。世界の行く末を嘆いたところで何にもならない。

 実際に先ほどから軽い視界の混濁が起きているが、これは順調に変異が進んでいる証拠だろう。何やら後ろから視線も感じる。感覚の変容は変異の第二段階であるらしいから、これがその症状なのだと思う。

「ん……え、視線?なんで?」

 そこで、後ろの方からピリピリとした『視線』が僕に向けられていることに気付いた。

 最初は変異の進行で五感がおかしくなって幻覚を引き起こしているのかと思った。でも、どうやらこれは本当に視線を感じ取っているようだ。視線に混じって相手の意図が何となく伝わってくるし、何より視線の元に目を向けるとビルの屋上からわずかに何かの影が動くのが見えた。

――変異で感覚が増えたんだ。多分、心を読むようなものが…

 背中を冷や汗が伝う。視線の主はおそらく変異種だろう。というか、この状況で生きていられる存在は他にいない。そして、視線に混じる強い怒りの感情から、この変異種の目的が復讐か何かであることが分かった。恐らく、先ほど斃した小型犬の変異種の仲間か何かなのだろう。もしかしたら単純に縄張りに入った異物を排除しようとしているだけかもしれないが。

――どうしよう、襲われたらひとたまりもない…

 心の中でそんな風に愚痴をこぼし包丁を構えなおす。幸いなことに視線の主はすぐさま跳びかかってこようとはしてない。視線が手に持った包丁に向いているあたり、こちらの武器を警戒しているらしい。

 実際のところ、この包丁が武器として役立つかはかなり怪しい。先ほどの小型犬の変異種と戦った時はやみくもに振り回した包丁がうまく当たっただけである。

 ただ、あちらがそれを知らずに警戒してくれるなら儲けものだ。

 目的地である非常用倉庫にはあと十数分でたどり着く。自身などの災害時に不足した物資を確保するための格納場所であるこの倉庫には、物資を運ぶためのドローンや無人車両なども備えられているらしい。つまり、物資を運ぶために僕がシェルターに戻る必要はない。

「…せいぜい、無駄に警戒してれば良い」

 少しでも相手が躊躇うようにと視線の主に強い警戒の念を送りつつ、僕は足早に目的地へと進んでいった。

 

***

 

 自分の眷属を殺した不届きものはすぐに見つかった。だが、その怨敵を視界に収めつつも巨躯の変異種はなかなか襲い掛かることが出来なかった。

 原因はその相手が持つ『爪』の存在であった。

 自分に比べてかなり小さい相手の体躯には不釣り合いなほどに大きいその爪には、眷属――小型犬の変異種の血の匂いがべったりと付いていた。間違いなく、あの爪で眷属は殺された。

 そして、そうであれば不用意に跳びかかることはできない。この体に変わってから自分はとても頑丈になった。それはあの眷属も同じだったはず。その体をあの爪はズタズタに引き裂いた。つまり、自分もあの爪で傷つけられたら危険かもしれないという事だ。

 自分の縄張りを荒らす敵対者は必ず斃す。だが、その過程で自分が致命傷を負ってしまっては意味がない。だから、せめて相手の注意が自分から外れる瞬間を狙わなければならない。そう思いつつも、相手は自分への警戒を強めるばかりだった。

 危険な爪と緩むことのない警戒。

 そのどちらかを封じることができれば仕留められる。

 なかなか生まれない攻撃の機会を伺いつつも、巨体の変異種は小さな敵対者の後を追い続ける。その喉笛を食いちぎる瞬間を思い浮かべながら。

 

***

 

「…着いた」

 殺意のこもる視線に晒され永遠のごとく感じられた移動の末、僕はようやく非常用倉庫の手前までたどり着いた。目の前には本来なら車を停めるためのスペースである開けた敷地と、その奥に見える大きな倉庫の姿がある。中に入れるのかという心配はあるが、今回のような災害時は誰でも物資を持ち出せるようすべての扉が開錠されるようになっているはずである。もはや目的の達成は目前だ。

 だが、まだ問題が一つあった。

 電力が止まっている今、倉庫に入るためには側面の開き戸を手で開ける必要がある。だが、防犯のためかなり堅牢に作られているその扉は遠目に見ても分厚く重い。手で開けるのには数秒の時間が必要になりそうだ。

 だが、変異種に睨まれた状態で数秒も隙を晒すのは命取りだ。どうぞ襲ってくださいと言っているようなものである。だから、扉を開けて中に入るための数秒の時間を、どうにかして稼がなければならない。

――でも、時間を稼ぐって言っても…

 問題はいくらでもある。まず、変異種の動きに対応できないこと。次に、包丁こそ警戒されているものの有効な攻撃手段がないこと。そしてなにより、扉を空ける瞬間にはほとんど身動きが取れなくなること。つまり、近づかれてしまったら対抗策はないに等しい。

 かと言って、遠くから変異種に攻撃するような手段はない。あればとっくに変異種を追い払うのに使っている。

 唯一の救いは、僕と違って相手はこちらの考えをほとんど読めていなさそうなことくらいか。そうでなければ、包丁だけでは対抗できないと考えているのをとうに読まれていただろう。

 つまり、変異によって生み出されたこの読心能力だけが相手を上回る武器であるという事。

――だったら、一か八かの賭けだけど…

 一つだけ、数秒を稼げそうな策を思いついた。いや、策と言うには博打が過ぎるし、想定通りに動けたとしても期待通りの効果が出るとは限らないんだけど。正直、ほとんどやけっぱちの自殺みたいなものだ。

 だけど、どうせここで足を止めていても死ぬことには変わりない。

 先ほどから変異種の意識をより鮮明に読み取れるようになってきている。少し前までは視線や感情が読み取れるだけだったのが、注意を向けている方向やこちらの隙を伺う意識までもが捉えられるようになった。つまり、それだけ変異が進行しているという事でもある。

 おそらく、僕に残された時間はそれほど長くない。だから、例え分の悪い賭けであったとしても今ここで行動に移る以外の選択肢はない。

 脳裏に浮かぶのは、在りし日の芹香の笑顔。

 ここで薬を手に入れられれば、芹香はもう一度笑うことができる。

 それでいい。それだけでいい。

 覚悟を決めた僕は、変異種への警戒の意識も断ち切って一目散に倉庫の扉へと走り出した。そして、もちろんその好機を変異種は見逃さない。背後の建物の上から僕の様子を伺っていた変異種は、扉に向かって走る僕にちょうど覆いかぶさるよう高く跳躍した。

「よし、かかった!」

 その瞬間、変異種が宙に飛び出すその瞬間の意識を読み取った僕は、急ブレーキをかけて一気に移動速度を落とした。

 走る僕に襲い掛かろうと飛び出した変異種は、急に減速した僕のちょうど手前にただ着地した。急に獲物が動きを変えたことに混乱した変異種は、一瞬だけ何もできずに固まってしまう。

 そして、その一瞬の隙に、僕は包丁を変異種に向けて突き出した。

 変異種にしてみれば、急に獲物が視線の先から消えたと思えば警戒していた包丁が襲い掛かってくる状況である。僕の意図も次の行動も考えることができず、咄嗟に回避行動を取ることしかできなかった。

 とはいえ、ひ弱な人間の体では変異種の動きは捉えられない。当然、全力で回避した変異種に包丁はかすりもしない。

 だが、『賭け』の内容はここからだ。

 変異種の動きは目で追えなくとも、回避する意識は読むことができる。変異種が無我夢中で包丁を避けたその瞬間、僕は変異種が意識を向けた回避先に向かって包丁を投げつけた。

『ぎゅいぃぃぃいいい!?』

 がむしゃらに攻撃を避けたその先にさらに警戒していた包丁が飛んでくるという事態に、変異種の混乱は最大まで高まった。もはや目の前の怨敵など完全に意識の外で、必死に目の前に迫る恐怖から逃げようと全身を稼働させる。

 実際のところただ投げつけただけの包丁に殺傷能力など欠片もない。だが、矢継ぎ早の展開に混乱した変異種にとってはそんなことは判断できない。

 予想もしなかったであろう二段構えの攻撃に変異種の体勢は完全に崩れ、彼我の距離も大きく開くことになった。そして当然、そんな状態ですぐに攻撃に移ることはできない。時間にして数秒の硬直。それこそが、僕がこの賭けで得ようとしたものだった。

「…開け!」

 変異種が大きく飛び退った瞬間、僕は目の前の扉に無我夢中で飛びついた。取っ手を掴み、思い切り扉を引っ張る。重い扉がゆっくりと開いていく数秒がもどかしい。だが、変異種は完全に硬直し、扉が開くまでにこちらに跳びかかることはできない。

 賭けには勝った。開いた扉の隙間に体を潜り込ませ、僕は安堵とともにそう確信した。

 ガチ、と扉が閉まった感覚が手に伝わる。

 逃げ切った。その思いとともに脚の力が抜け、思わずその場にへたり込んでしまった。新しく増えた感覚によって変異種の殺気をつぶさに感じ続けたことは、思っていた以上に心の負担になっていたようだ。今になって体の震えが止まらないことに気づいた。

――でも、これでようやく…

 倉庫にたどり着いた。そして、これで芹香のための薬を手に入れることができる。悲願を目の前にした僕は、扉にもたれかかり達成感とともに大きく息を吐気出した。

 

 ガン、という音とともに体が前に押し出される。

 

「…はは、なんだ、これ」

 目の前に、自分の体から生える何本もの触腕が見える。それが何を意味するのか咄嗟に分からなかったのは、その光景があまりに予想外のものだったからだ。

 上手く動かない首を回して背後に視線を向ける。そこには、重く分厚い扉を貫いて蠢く数本の触腕が見えた。

――嘘でしょ…

 あまりに無体な結末に言葉を失う。こんな力を持っている相手から逃げ切れるわけがない。初めから、策だとか賭けだとかそんなものに意味はなかった。ただ、いつ変異種の過剰な警戒が解けるかというその一点だけの話だったということ。

 全身の力が抜け、地面に横たわる。体から急速に何かが抜け出ていくのを感じた。たぶんそれは、魂と呼ばれるような何かだった。

 視界が霞んでいく。

 死の足音がすぐそこまで来ているのを感じた。

 最期に思い浮かぶのは芹香のことだった。ここまで来て、あと少しで芹香を助けられたのに、もう体が満足に動かない。自分が死ぬのは最初から覚悟はしていた。だから、せめて芹香だけは助けたかったのに。

 霞む視線の先には倉庫に収められた沢山の物資が見える。だけど、歩いて十数歩の距離が、今は永劫の果てのように遠い。

 弱弱しく伸ばした右手が歪に変容していくのが見える。変異の第三段階。肉体の形そのものが異形の怪物のそれへと変わっていった。

 ああ、どの道もう時間切れだったのか。そんな絶望感が心に広がっていく。もう、足掻く気も起きない。

――芹香…

――ごめん、助けられなかった。

――さよなら、もう会えないけど。

――どうか、元気で。

 心の中でもう会えない最愛の友人に別れを告げ。

 僕の意識は永遠の闇に落ちた。



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第一話 思いがけない出会い

 その人影を見つけたのは全くの偶然だった。

 狩りの途中、俺は目の前を過ぎった落ち葉に目を取られて山の奥へと視線を向けた。別に考えがあったわけでもない本能的な行為だ。すると、視線の先で青い茂みの間を何か白い物が降りていくのが見えたのだ。

 それが何かから逃げている人影だというのはすぐに気が付いた。山を下るその動きが獣の物ではなかったからだ。多分あれは二足歩行の動物の動きだ。そして、そうと分かれば放っておくわけにはいかない。困っている人を助けるのは当然のことである。

 青々とした植物が生い茂る山の中を駆け抜けて人影のもとへと向かう。追手の姿は森の木々に隠れて見えない。が、大体想像はつく。街道ならともかくこんな未開の山奥に匪賊は出ない。考えられるのは気が立った熊か猪の類か、あるいは…

「おい、こっちだ!」

 比較的開けた山道に降り立った俺は、人影を呼び寄せるようにそう声をかけ、背後から取り出した弓に矢をつがえた。元々は狩りのために山に入ったにも関わらずさっぱり獲物が見つからなかったため、弓矢や山刀などの武装は未使用のまま揃っている。ここで何が出てきてもそうそう後れを取るつもりはない。

 白い人影は俺がかけた声に気付いてこちらに近づいてきた。だが、未だにその人影を追う何かの姿は見えない。偶然ではない。最初からこちらの存在に気付いて姿を隠している。

――尤も、殺気までは隠せていないが…

 相手が身を隠している以上正確な場所までは分からない。だが、こちらの様子を伺い襲い掛かるタイミングを計るその意識は伝わってきた。恐らくこちらの弓を警戒しているのだろう。弓を持つ手を中心に、ピリピリとした刺すような視線を感じる。そして、それは俺にとって好都合なことだった。

 なにせ、衝動的な行動ほど始末に負えないものはない。相手の行動を見てからこちらの対処を考えなければならないからだ。自分の身を守るだけならともかく、他人を助けに来たその状況でそれは厳しい。

 だが、互いの行動の読み合いであれば話は違ってくる。俺は相手の意図を読み違えることはないし、そうでなくても”この相手”との読み合いはそれなりの経験がある。重要なのは機を逃さないこと、その一点だけだ。

「――すみません、助けを…!」

 顔の見える距離まで近づいてきた人影がそう助けを乞う。目深に被ったフードのせいで顔は見えないが、声は少女の物。少女が一人で山の中を来たことに少し疑問を覚えるが、今はその違和感を無視する。

 まあ、もちろん俺は彼女を助けるためにここまで近づいたわけだ。それに、追手もこちらを警戒して潜んでいるため、まだ危険は少ない。俺はフッと表情を緩めて、這う這うの体でこちらに近づく彼女に声をかけようとした。

 その瞬間。

「ふぎゃっ!」

 転がっていた石か、あるいは大きめの木の枝か。とにかく、やっとのことで辿り着いた助けの手である俺に意識のすべてを向けていたその人影は、完全に無警戒だった足元の障害物に躓き地面に倒れ込んだ。べしゃりと。

「…はぁ?!」

 いっそ芸術的なまでの転びっぷりに思わず視線が釘付けになる。それは、今までの緊迫した空気をぶち壊しにする出来事であった。

 そして、その一瞬を追手は見逃さない。

 ざん、という茂みが掻き分けられる音とともに身の丈を超える巨体が躍り出る。地面にうずくまった少女の後方に現れたその巨躯は、凄まじい速さで彼女のもとに迫りくる。

 それは、鹿の体の側面から歪な三対の脚を生やした悍ましい怪物。生命のあり方を歪められた異形の魔獣であった。

――やはりか!

 追手が魔獣であることは予想していた。こちらの出方を伺って身を潜めるというのは興奮した熊や猪にしては理性的すぎる。それに、連日村の総力を挙げて狩りをしているにも関わらず獲物が見つからない現状、まともな動物がそう簡単に出てくるとは思えなかった。

 だが、相手の正体を予想で来ていたとしても虚を突かれたこの状況では何の意味もない。迫りくる巨体に慌てて鏃の先を向けるがもう遅い。その背から伸ばされた無数の触腕が彼女を捕らえるべく押し迫り…

 それが、俺の仕向けた誘いだった。

 確かに俺は倒れ込んだ少女に視線を向けたが、意識は魔獣から反らしていなかった。そして、音、匂い、そして少女を狙う意識の流れを掴めば、相手を捕捉するのに視認など必要ない。魔獣が迫りくる数舜の間にその胴体へと狙いを定めた俺は、過たずその胴の中心にある大きな瞳を撃ち抜いた。

『ぎぃぃぃぃぃぃ、ぎゅえぇぇえぇぇぇ……!』

 耳障りな悲鳴を上げて魔獣がのたうち回る。視覚器官は非常に感覚に優れる組織であり、傷ついた際の痛みも激しい。生物として異質な形に変貌した魔獣でもそれは同じようで、瞳を撃ち抜けば動くことすらままならない。

 俺はこれを好機と地を蹴り、触腕を振り乱して暴れ狂う魔獣に跳びかかった。

 魔獣は肉体が頑強で回復能力も高いため、いくら矢を撃ち込んでもなかなか致命傷にはならない。だから、魔獣と戦う際の鉄則は魔獣でも回復不能な器官、脳を速やかに破壊することだ。そして、魔獣であっても脳は目の近くに配置されることが多い。この魔獣の場合、頭部ではなく胴体の中心部だ。

 激痛に混乱した魔獣の意識は上手く読み取れないが、意図もなく荒れ狂うだけの触腕を掻い潜るのに意識の読み取りは必要ない。難なく本体に近づいた俺は、その胴体の真ん中に抜き払った山刀を突き立てた。

『ぎゅぃっ…ぎ、ぎ、ぎ、ぎぃいぃぃぃぃいいい!』

 魔獣は慌てて俺を振り払おうとするがもう遅い。魔獣の反応からやはり脳が胴体の中心にあることを確信した俺は触腕の一つを掴んで魔獣を引き寄せ、さらに何度も山刀を突き立てる。魔獣はなおも暴れるが、その抵抗も徐々に緩やかになっていく。やがて、脳に致命的な傷を負った魔獣はぐらりと傾いて地面に倒れ伏した。

 ビク、ビク、と数回痙攣したのち、魔獣の体から命の気配が抜け去る。暴れ狂っていた触腕も力なく地面に落ち、主が力尽きたことを示していた。

 

 ふう、と息を吐いて心を落ち着ける。戦いの興奮が収まっていくと今度は魔獣から流れ出した血の匂いが鼻を突き、思わず顔をしかめてしまう。

「――お怪我はありませんか?」

 その時、妙に涼やかな声が耳に届いた。そう言えば、と声の元に目を向けると魔獣に追われていた少女が少し心配そうにこちらを見ていた。

「…いやあの、それはこちらが言いたいことなんですけど」

 思わず苦笑してそう返してしまう。その台詞はどう考えても助けに来たこっちのものだ。

「おや、そうですか?」

「そりゃあ、まあ。魔獣にも追われていましたし、あんなに盛大に転んでいましたし。お怪我はありませんか?」

「ええ、体だけは丈夫なので」

 いや、何だろう、その返しは違う気がする。しかもなんかちょっと自慢げな感情が伝わってくるし。いや良いんだけど。

「…えっと、はい。それなら良かったです。助けに来た甲斐がありました」

「ああ、そう言えばお礼がまだでしたね。助けていただいてありがとうございます」

「いやまあ、大したことはしていないので良いんですが」

「大したことはしていない…」

 そう繰り返して、少女は魔獣の死体に目を向けた。そして、じっと見つめる。羨望のような苛立ちのような感情は少し感じるが、いまいち何を考えているのか分からない。何か気に障ることでもあったのだろうか?

「…それは、『このくらい大したことないぜ!』という自慢という事でしょうか?」

「いえ普通に謙遜です。実はけっこう頑張りました」

「なるほど。それはありがとうございます」

 いやに淡々とした口調でそう言って少女は頭を下げる。一応感謝の念は伝わってくるのでバカにしているわけではないはずである。そも、ここで感謝というのも変な話だが。

 何となく分かった。多分、この人はちょっと変だ。

 いや、それを言ったらそもそもこんな山中に少女一人でいること自体がおかしいわけだが。行商の人であれば街道側から来るはずだし、仮に山を抜けたとしても護衛がいないのはおかしい。

「…あなたはどちらの方でしょうか?ここへは何をしに?」

「何をしに……そうだ、お聞きしたいことがあるのでした」

 そう言って彼女は徐にフードを外した。

 そのとき、フードの下から現れた彼女の姿に、俺は思わず息をのんだ。

「はじめまして。私はp-HMI Flowers-350シリーズの0001番機、個体名『アセビ』と申します」

 彼女の奇妙な自己紹介も上手く耳に入らない。

 木漏れ日にキラキラと光る白銀の髪に、白磁のようなつるりとした肌。いつの間にかフードを外していた彼女――アセビの容貌は、今までに一度として見たことのないものだった。特に、いっそ感情が感じられないかのように感じる虹色の瞳なんかは。

 見たことはない。だが、こういう容貌の存在を聞いた覚えはある。その姿はまるで――

 

「お聞きします。あなたは、ヒトですか?」

 

 彼女の口から出た言葉は俺が想像だにしていないものだった。予想外の言葉に固まる俺を見つめ、しかし彼女は何のアクションも起こさない。やがて、僅かな間をおいて少し冷静になった俺は、彼女の視線に促されるようにゆっくりと口を開いた。

「…ヒトって、あの『ヒト』ですか?」

「あの、が何を指すのかは存じませんが、ヒトです。それとも、今風に旧人類と言えばいいでしょうか」

「いえ、分かりました。想像通りです」

 ふう、とため息をつく。正直なところ、最初は冗談の類かとも思った。ただ、彼女から伝わってくる気持ちは、彼女が真剣そのものであることを物語っていた。そして、冗談であった方がまだマシだったかもしれない。

 

「…違いますよ。見ての通り、生粋の『獣人類』です」

 

 僅かな逡巡の後、彼女の問いに否定の言葉を返す。

 ヒト。旧人類。

 俺たち獣人類の生みの親であり、既にそのことごとくが現世から去ってしまった古の種族。神話の言い伝えでは世界中に広がった疫病によって絶えてしまったのだとか。

 そんな神話の存在がその辺にいるわけがないことは子供だって知っている。だけど、この少女は真剣に『ヒト』を探している。そして、その容貌は言い伝えられている『ヒト』に近いように思えた。俺たち獣人類と違って体毛が薄く、尾や翼と言った各種族特有の器官が生えていない。

――まさか彼女がヒト?いや、でもそれは…

 一番素直に考えればそうであるが、神話の存在が今になって急にヒトが現れるというのも考えづらい。何か別の存在が擬態なり変装なりしているというほうがまだ真実味がある。でもだとして、一体何のためにそんなことをするのだろうか。

 俺のそんな内心の葛藤をよそに、彼女はあっさりとした口調で俺の疑問に言葉を返した。

「…そうですか。もしかしたら擬態か変装でもしていたりしないかと思ったのですが」

「あり得ない。こんなところにヒトなんているわけないでしょう」

「……そうですか、そうですよね」

 俺の言葉を聞いてもアセビさんの表情は変わらなかった。だが、その内心は落胆の気持ちがあることが分かった。彼女は、本気でヒトを探している。もういないはずのヒトを。

 脳裏に浮かぶのは、いないはずの親を探して泣き叫ぶ幼い日の自分の姿。

 俺には彼女のことが、どうしても他人のように思えなかった。

「…どうして、ヒトを探しているんですか?」

 だからつい、そんなことを彼女に問うた。聞いてもどうしようもないことだ。ヒトの居場所なんて知らないし、一緒に探しに行くわけにもいかない。だけど、なんで彼女がそんなに真剣にヒトを探しているのか、せめてそれだけは知りたいと思ってしまったのだ。

「私の役目なんです」

「役目?」

「はい。私は、私たちはヒトを探すために生み出されました」

 生み出された、その言葉がちょっと引っかかった。

「生み出されたというと、普通に生まれたのではないんですか?」

「…ああ、そういえば言っていませんでいたね。私はアンドロイドなんです」

 アンドロイド。聞いたことのない言葉だ。首をひねる俺の様子をみてアセビさんは追加の説明が必要であることに気付いたらしい。少し考え込むように固まった後、こう捕捉した。

「アンドロイドというのは……言ってしまえば、人のように動く人形みたいなものでしょうか」

「え?」

 動く人形という言葉に驚き、彼女の顔をまじまじと見つめる。彼女が人形であるなんてにわかには信じられなかった。だが、そう言われてみれば彼女の容貌は人間離れしている。体毛の一切ない肌に、硬質な瞳。それに、よく見ると彼女は呼吸すらしていなかった。

 信じがたいが、彼女が作りものであることは確からしい。

「…という事は、人形のように誰かに作られたという事ですか?」

「ええ。私たちはヒトによって作られました。正確にはヒトが大昔に作った機械によって、ですけど」

 

 矢継ぎ早に繰り出される情報に混乱しつつも、取り敢えず俺は魔獣の死体を処理することにした。魔獣の死体は放置すると他の動物が魔獣に変貌する呪いを放つ。俺たち獣人類は平気だが、ただでさえ少なくなっている獲物を食べることのできない魔獣にされたらたまらない。

 そんなわけで、深めの穴を掘ってそこに死体を埋めることにした。経験上これで呪いはきっちり防ぐことができる。いつもの通りの死体の処理方法だ。

「あの、私も何か手伝いを…」

 とアセビさんが申し出てくれたが、謹んでお断りした。彼女の手は土を掘るのにあまり役立ちそうにない形である上に、あまり腕の力が強くなかったからだ。この山は土が固いので彼女の手では掘るのは難しいだろう。

「――やっぱり、私は役立たずですね…」

 アセビさんは小さくそんなことを言っていた。たかが穴掘りくらいで大げさだと思う。とはいえ、落ち込んでいるらしい彼女を放置するのも忍びないので掘った穴に死体を埋める作業は手伝ってもらうことにした。「分かりました」と反応自体は素っ気なかったが、内心は少し喜んでいたようなのでそれで良かったんだと思う。

 さて、死体の処理が終わった後、俺とアセビさんは近くの岩に腰かけて先ほどの話の続きをすることにした。たぶん込み入った話になるだろうし、本当は村に戻ってから腰を据えて聞くのが良いのかもしれない。ただ、いないはずのヒトを探していること、自身がヒトによって作られた人形であることを自称するアセビさんは相当に胡散臭い。ここにいない誰かを追い求めることには共感しないこともないが、流石にほいほいと村に入れるわけにはいかなかった。

 そんなわけで、まずはもう少し彼女についての情報を聞き出してみることにしたのだ。

「そもそも、ここに来たのはどうしてなんですか?」

「え?はい、ヒトを探すためです」

 うん言ってたね。

 そうじゃないけど。

「……すみません、聞き方が悪かったですね。どうしてヒト探しの旅の目的地としてここに来ようと思ったんですか?」

「ああ、なるほど」

 そう言ってアセビさんは暫くの間考え込む。というか、考え込むようなものなのだろうか。具体的な目的地に向かう理由なんてそうそう複雑なものにはならないと思うのだが。それとも、もしかして「ヒトを探す」という理由には他人には言えないものが含まれていたりするのだろうか。

 そんな風に思考を巡らせていると、アセビさんの考えがまとまったらしい。うんうんと頷いた彼女は、「実はですね」と前置きしてゆっくりと語り始めた。

 

「道に迷ったからです」

 

 そして一言で終わった。

 何だそれ。

「…あの、道に迷ったというのは、目指すべき目的を見失ったとか、そういう比喩ですか?」

「比喩?…いえ、言葉通りです。道が分からなくなって、がむしゃらに歩いていたらここに着きました」

 …何だそれ。

 詳しく聞くと、アセビさんはもともとどこかの山にあるの古い『工場』で作られたらしい。工場というのは、なんでも色々なものを作るための道具――機械が置いてある場所だそうだ。そう言えば、村に来た行商の人が大きい街にはひとりでに色々なものを作る昔の道具が残っているとか言ってた気がする。それが工場なのだろう。

 アセビさんがいた工場にヒトはいないが、ヒトが作った機械はまだ残っている。そして、彼女はいなくなったと言われているヒトを探すためにそこの機械によって作られたアンドロイドだという事だった。

「元々はヒトの役に立つ、お世話をするというのが私たち姉妹の存在意義なんです。尤も、生み出されてからこの方まだヒトに会ったことはないのですが」

「あ、ご姉妹がいるんですか?」

「ええ。厳密には姉妹といっていいのか分からないですが。私だけ型も違う出来損ないですし。でも、お姉様たちは凄いんですよ?掃除も料理も何だって出来るし、壊れた物を直すことだって出来るんです」

 そう言って、彼女は初めて笑った。それはごく小さな笑みだったけど、確かに。

「なるほど、素敵なお姉さんたちなんですね」

「はい……でも、それに比べて、私は出来損ないです。掃除も料理も全然うまくできないし、色々なものを壊してばかり。私たちの役目はヒトの役に立つことなのに」

「えっと、何か特技とかは無いんですか?ヒトの役に立つように作られたなら、得意なことの一つくらいははありそうですが…」

「無いですよ、私は何もできません。だから、私は出来損ないなんです」

 ざわり、と冷たい風が俺たちの間に吹く。アセビさんの口調は淡々としていて、出来損ないという自分の言葉を受け入れているようだった。だけど、それゆえにいっそう自分を貶す彼女のことが悲しく思えた。

「本当は、ヒトを探そうとしたのはお姉様たちの役に立てないかと思ったからなんです。私たちはヒトのお世話をするのが役目なのに、工場にヒトはいない。だったら、ヒトを探し出すことができればお姉様たちも自分の役目を全うできるのかなと思ったんです」

 しかし、そんな俺の内心をよそに、彼女は淡々と説明を続ける。

「そうして一人で工場を出たのですが、それが失敗でした。お姉様たちと違って基幹ネットワークにつながっていない私は自分の現在位置を知ることができない。それに気付いたのは既に工場からだいぶ離れた後でした」

「…えっと、良く分からないですけど、地図とかは持っていないんですか?」

「いえ、地図は記録してあります。ただ、地図のどこが自分のいる位置なのかが分からないんです」

「ああ、そういう」

 彼女の言葉はところどころ分からない部分もあったが、つまりは夢中で歩いているうちに道が分からなくなったという事だろう。確かに彼女が言っていた通り、典型的な迷子だ。

「…本当に、何をやってもダメなんです。私は」

 アセビさんは自嘲というよりは事実確認のようにそんなことを言った。

 ただ、彼女の言葉は俺にとっては当たり前ではなかったけど。

「何をやってもって、それは大げさじゃないですか?」

「…だって、本当に私は何もできないんです」

「でも、さっきは魔獣に死体を埋めるのを手伝ってくれたじゃないですか」

「それは…」

 そこで、アセビさんの表情が驚いたようなものに変わる。というか、気付いていなかったのか。まあもしかしたら、自分が『出来損ないである』という気持ちに囚われて見落としていたのかもしれない。そも、人を助けるなんてそんな大げさな話ではないのだが。

「…私でも、誰かのお役に立てるんでしょうか?」

「立ってます。さっきは助かりました」

「私が、役に立った…」

 まるで夢を見ているかのように呆然とするアセビさんの様子を見て、俺は決心した。元々は村に入れても問題ないかを確かめるために彼女のことを聞いた。でも、彼女は一度として嘘をつかなかったし、聞いた内容も村に害をなすようなものではなかった。それに、ここまで聞いたらそもそも放っておけない。

「…一緒に、村に来ませんか?色々やることもあって、いつも手が足りてませんから」

「村……そこに行けば、私はもっとお役に立てますか?」

「ええ、きっと」

 そう言って、俺は彼女に手を差し伸べる。そう言えば、自己紹介もまだだったなと思い至って、俺は彼女に自らの名を名乗った。

「俺は、ミネヅキ村の猫人族、キヅタ。これからよろしく」

「…私はアセビです。よしなに」

 そう言って、彼女は俺の手を取った。



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