あの子と私と (耽次郎)
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あの子と私と

 例えば、車を走らせているとき。信号に三度引っかかるような、運のない夜のこと。車を走らせているときは、運転に集中できる。でも、信号に引っかかると、そのたびに憂鬱が顔を出し始める。

 強く生きようと決めていた。それは今でも揺るがない。けれど、こんな信号に何度も足止めを食らうような夜は悪魔のささやきのごとく私の弱さをあぶりだそうとする。

 信号待ちの間、窓から外を見る。冬の空気。歩いている人たちの吐き出す白い息。冬だな、なんて当たり前のことを思う。どうやら、本格的に疲れているらしい。

 信号が青に変わる。アクセルを踏み、車を発進させる。

 心がどこかに置いてけぼりをくらったみたいだ。このままアクセルを思いっきり踏んで、そのままどこかへかっ飛ばしていったらどうなるだろう。

 バカバカしい。

 ええそうね。

 自答。愚かしいことこのうえない。

 車はスピードに乗る。私の心も、少しずつ追いついてくる。

 嫌なくらい夜で、どうしようもないくらいに冬で。そんなもやもやを抱えて、私は車を走らせる。

 嫌になる、本当に。

 

 

 誰かに何かを教えるのが好きだった。だから、どんなに面倒を抱え込んでも、教師という今の職業は天職だろうと思う。

 教える、というのは、ただ勉強を知識として覚えさせるだけではない。世の中には、いろいろな学びがある。教師は、勉強を教えながら、そんな学びの面白さを伝えるのも仕事なのだ。

 私は男子校で教師をしているが、生徒はみんなバカばかり。でも、彼らのバカには悪意がない。ふざけたおしたいという気持ちがバカな行動に駆り立てる。一度しかない青春なのだから、悪意がないのならふざけるだけふざけるのもいいだろう。そのラインを引くのも教師の仕事だ。

 けれど、時々、どうしようもなく疲れてしまうことがある。職場の忙しさというのもあるけれど、もっと根本的な、心の奥の方に靄ができる。それが気持ち悪い。

 今日は特に、その靄が強かった。

 そのせいか、私は珍しく寄り道をした。帰り道の途中にあるゲームセンター。そこで私は、クレーンゲームに興じる。財布の中の小銭をすべて使い切り、千円を両替するも使い切り、ようやく目当てのものを手に入れた時には、三千円を溶かしていた。

 車に戻り、手に入れたぬいぐるみを見つめる。それはうさぎのぬいぐるみだった。

「なんでこんなものに三千円も使ってしまったのかしら」

 ぬいぐるみの耳を引っ張りながら言う。

「美玲ちゃん、耳を引っ張るのはやめてほしいわ」

 人形を左右に揺らしながら、腹話術まがいのことをする。

「あなたに三千円の価値があるとは思えないわね」

「ひどいわ美玲ちゃん。そんじょそこらのうさぎと一緒にしないでほしいわね」

 笑ってしまった。こんな時間に一人で車の中で人形遊びなんて。バカみたい。でも少しだけ心が軽くなった気がした。

 人形を助手席に乗せて、車を走らせる。家に着くと、服をその場に脱ぎ捨てて、シャワーを浴び、歯を磨き、明日の準備を軽くすませて眠りにつく。いつもと変わらない部屋とベッド。でも、今日はうさぎのぬいぐるみが隣にいた。それだけでも安心感があるのだから不思議なものだ。その日は、いつもよりも早く眠りに落ちることができた。

 

 

 

 ある休日のこと。住んでいるマンションで集会があった。ここ最近は教師に悪いイメージを持っている人が多い。確かにいろいろと問題を起こしている教師や学校も多いけれど、報道されているものばかりが教師や学校のすべてではない。最近の○○はみたいに言っている連中を見ていると、癒やし効果だなんていって設置したわけのわからない池にけり落としてやりたくなる。私からしてみれば、そちらの方が十分癒やしになる。

 とはいえそうもいかない。暮らしていく以上は近所の目というものもある。私のイメージは私が勤める学校のイメージにもかかわる。悔しいけれど、ある程度は耐えなくてはならない。このくだらない集まりに足を運ぶのも、そうした理由があるからだった。

「郡道さん、聞きました?」

 噂好きの主婦が近づいてくる。ここだけの話、みたいな感じで近づいてくる割に声はでかい。私にだけでなくみんなに聞いてほしいことなんだろう。

「なんですか?」

「夢月さんのところ、いよいよ引っ越すそうですよ」

「そうなんですか」

 知っていたが、とぼけてみせる。

「正直な話。ちょっとほっとするわよね。無害だっていっても悪魔でしょう? 怖いじゃない」

 あれこれ噂してあの家庭を追い詰めたのはあなたたちのほうじゃない。

「夢月家の方々はいい人たちでしたよ。一生懸命馴染もうとしてましたし」

「でもねぇ……」

 同意が得られないと見るや、主婦は途端に私との会話を切り上げ、他の噂話が好きな連中と話始める。

 夢月家は悪魔の家族だ。そんな風に言うと恐ろしく聞こえるが、なんてことはない。彼らと私たちの違いは、角があったり目の色が左右で違うくらいだ。あとは別に変らない。何か悪魔らしいことをするわけでもない。

 悪魔がこちらの世界にやってくるようになったのは、十数年前からだったと思う。蜃気楼のような歪みが、時折こちらと悪魔の世界を繋げた。人類は身構えたけれど、悪魔側は海外の人が日本にやってくるのと変わらない感覚でしかなく、人類側もそれを受け入れることになった。

 移住が可能になったのは、わりと最近の話だ。夢月一家は、何度かの観光でこの世界を気に入ったとのことで、こちらに引っ越してきた。けれど、そんな一家を待っていたのは、恐怖を言い訳にした差別だった。

 どれくらい前だっただろうか。夢月家の娘、ロアが外で遊んでいた。彼女は子どもたちの輪に入ろうとするが、受け入れられない。当然だ。子どもたちの親が、遊んではいけないと教えているのだから。

「なにしてるのー?」

「それっておもしろい?」

「ロアにもおしえて?」

 そんな言葉は無視される。すべて。そこにロアが存在しないかのような扱い。そうしているうちに、輪に入ることをあきらめたロアは、すみっこのベンチに座った。悲しい顔。そんな言葉で形容したくない。どうしてしゃべってくれないんだろうという疑問。何か悪いことをしてしまったんだろうかという困惑。その顔は、悪魔だとか人間だとか関係ない。助けを求める子どもの顔だった。

「何してるの?」

 座るロアの前に膝をつき、話しかける。

「だれ?」

「誰じゃない。どちら様ですかと言いなさい」

「どちらさまですか?」

「よくできました。私は郡道美玲。あなたと同じマンションに住んでるの。隣に座っていい?」

 ロアはこくりとうなずく。

「みれーはどうして話してくれるの?」

「年上にはさんをつけなさい」

「みれーさん」

「えらいわね。私は教師。先生なの。だから、あなたみたいに悲しいっていう子を放っておけないのよ。性ね」

「せんせー?」

「そうよ」

「みれーせんせー」

「そう」

 それが、最初にロアと交わしたきちんとした会話。

 それから、何度か会っているうちに、すっかりなつかれてしまった。夢月夫妻とも仲良くなって、休日の時は私の部屋に遊びに来たり、夫妻が留守にしなければいけない時は私がロアをあずかることもあった。

「お部屋汚すぎるのだ」

 最初に部屋に来た時の最初の言葉がそれだった。こうして振りかえると、懐かしい。一緒に掃除をしたり、食事を作ったり。

 私の抱える靄が、ロアと一緒にいると消えていくように思えた。

 魔界に戻ると告げられた時に感じたのは、恥ずかしさだった。同じ人間として、ここの住人が向ける視線を恥ずかしく思う。けれど、同時に悔しくもあった。なにもできなかった自分への悔しさと怒りと、悲しみと。靄がまた大きくなっていく感覚がした。

 

 

 集会からしばらくたったある日、本格的に引っ越す準備をするため一度魔界に戻るという夢月夫妻に頼まれ、ロアを預かることになった。

 もう会えないかもしれないのだなと考えると、何をしゃべっていいのかわからず、ただ静かな時間ばかりが過ぎていく。

「せんせー?」

 沈黙を破ったのはロアからだった。

「ありがとう」

「なに突然」

「話しかけてくれてうれしかったから」

 それ今言う? 泣いてしまうじゃない。

「せんせー? きいてるー?」

「聞いてるわよ。こちらこそありがとう。一緒にいられてよかった」

 ロアが遠慮がちに手を伸ばす。その手をどう取ったらいいのかわからなくて、私はその掌に自分の掌を重ねる。それがなんだかおかしくて、私たちは笑った。

「そうだ。これあげる」

 私は前にクレーンゲームでとったうさぎのぬいぐるみをロアに渡す。

「きたなくないー?」

「この状況でそれを言えるあなたを尊敬するわ。あらためてありがとう。またこっちに遊びに来ることがあれば、いつでもいらっしゃい」

 そうだ。今生の別れではない。ここと向こうは繋がっているのだから。

 ニュースが流れたのは、それからしばらくしてからだった。ゲートに歪みが生じ、魔界に向かう船が歪みに飲み込まれたというものだった。行方不明者の中によく知った名を見つけた時に、私は祈った。一度は願うことで奇跡が起こるなら、私は喜んで自分に与えられた奇跡を使う。けれど、それは叶えられることはなかった。

 

「あの子、どうなるのかしら」

「こうなってしまうと、かわいそうね」

「魔界の方に親戚でもいるのかしら」

「親戚の方も手続きの手伝いでこっちに来てて、一緒に帰ろうとしてたみたい」

「あら? じゃあ一緒に?」

「ええ。かわいそうに」

 口々にそんな言葉が交わされる。かわいそうだと思うなら口を閉じろと思う。すぐそばに、ロアがいるのに、なぜそんな話ができるのだろう。かけがえのないものを失ってしまったあの子の前で、そんな哀れみは傷をつけるだけだろう。子どもは失うことに敏感だ。どうして大人になると、それを忘れてしまうのだろう。プリミティブ、イノセント。大人になれば、純粋さや幼さをそんな風に言葉で表現できる。本質を忘れる代わりに形容を覚える。それは本当の意味での成長といえるのだろうか。

 ロアは私がプレゼントしたぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて下を向いている。強く抱かれたぬいぐるみはロアの胸の上でつぶれていた。それがなんだか、ロアの心そのものように思えてしまう。

 不思議だった。すべきことはひとつだと、なんの葛藤もなく私はロアのもとへ歩みよる。

「ロア」

 初めて会った時を思い出す。あの時よりも、その表情には悲愴の色が強く差していた。抱きしめたい衝動に駆られる。でも、いま強く抱きしめたら、そのまま壊れてしまいそうだ。だから、私は手を差し出す。重ねた掌。のばされた手にどう応えたらいいかわからなくて、ただ重ねただけの掌。でも今は、どうすればいいかわかる。

「ロア」

 もう一度言う。ロアはゆっくりと手を伸ばし、私の手を握った。遠慮がちに。弱い力で。

「この子は私が育てます」

 

 

 それからはもう大変であった。手続きやら報告やらはこなしてもこなしても終わらないのである。疲れはするが、嫌な気分ではないから、そんな忙しなさも新鮮で面白い。

 皆がどうしてそんなこと言ったんだとか、おかしくなったのかとか言ってくるが、私もそう思うとしか言いようがない。でも、それ以上にロアに手を伸ばしたいという気持ちが強かったのだから仕方がない。

「せんせー? 本当にだいじょぶなの?」

 あれこれと忙しくしている私を見て、ロアが言う。

「それなりに貯えもあるし、ちゃんと考えていくから平気よ。それよりも、私と一緒に暮らすからには厳しくいくから、覚悟しておくのね」

「この部屋でそれを言えるのがすごいのだ」

「どういう意味」

「相変わらず汚いのだ。だらしないのだ。さみしいどくしんじょせいのやみなのだ」

「どこで覚えたのそんな言葉」

「インターネットなのだ」

「もっとましな言葉を覚えなさい」

 ロアは少しずつ元気を取り戻してきたけれど、まだ無理して明るくふるまっているように見える。少しずつ、これまでのロアの笑顔が戻ればいいなと思う。私にそれができるかどうかはわからないけれど、私は絶対にこの子を見捨てない。

 ロアと暮らし始めて変わったことがある。

 ひとつは、帰ってくると部屋が明るくて、騒がしい声と笑顔が私を迎えてくれること。

 もうひとつは、時々抱えていた靄がすっかり消えてしまったということだ。



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