艦これ~extra voyage~ (瑞穂国)
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海峡
海峡(一)


はじめましての方ははじめまして。瑞穂国と申します。

長年温めてきた劇場版の小説です。

コミケで頒布したものを加筆修正したものになります。


 不思議な夢を見た経験は、何度かある。

 

 夢の記憶はあいまいで、霞がかかったように儚く、確かなことなど一つもない。ただはっきりと、それが夢であったことだけはわかる。

 

 断片的に思い出せる光景は、三つ。

 

 おぼろげな月明りのように差し込む光。

 

 熱を帯びた体に心地よい水の冷たさ。

 

 そしてどこからか聞こえてくる声。

 

 誰。そこにいるのは誰。問いかけようとしても、声は出ない。気づけば私は朝を迎え、三段ベッドの真ん中で体を起こす。

 

 夢を見ていた。さりとて夢に正体があるわけもなく。はっきりと憶えているわけでもなく。

 

 手を開閉してみても答えを掴むことはなく。結局わたしは、そのまま目を覚ます。

 

 一日を過ごしている間に、夢のことなど忘れていた。

 

 

 

 

 

 

 周りの風景を的確に表す言葉があるのだとすれば、墨汁で塗り潰した、という表現が一番近いに違いない。黒、黒、黒。今夜は新月だから月明りはなく、曇った空のせいで星明りもない。ひたすらに黒が支配する世界の中で、辛うじて海と空の違いだけは見極めることができた。

 

 ただ、音だけははっきりと聴こえている。視覚に頼ることが絶望的なこの状況で、案の定聴覚だけが異様に研ぎ澄まされ、周りの音を拾い続けていた。

 穏やかな波の音。どこかで鳴く海鳥。風すらも爽やかに語りかける。

 

 だが、それだけではない。いやむしろ、現状でそれらの音が支配する聴覚の領域は、一割にも満たない。

 彼女の聴覚を満たすもの。それは足元で波が切り裂かれ、飛沫を散らす音。轟々と独特の唸りを上げる機関の音。時折混じる、金属がこすれる音や、モーターが駆動する音。

 風雲急を告げる音の連なり。日頃の趣味のせいか、それらを記録として残したい衝動に駆られつつ、重巡洋艦青葉は意識を自らの正面へと集中させた。

 

 目を凝らさずとも十分に見える位置。そこには青葉と同じように、白波を蹴立てて驀進する一人の少女がいた。

 流れる海風にたなびく、艶やかな黒髪。潮の香りに混じって、ほのかに甘い匂いが漂う。背はそれほど高くないが、流れるような体のラインが惜しげもなく晒されていた。その背中に背負うのは、艦娘たる象徴の艤装。ごつごつと大きく、戦艦に似た逞しさを感じさせるそれは、彼女が紛れもない重巡洋艦であることを示していた。

 重巡洋艦鳥海。第八艦隊旗艦を務める艦娘だ。高雄型重巡洋艦の末妹であるが、高い状況把握能力と沈着冷静な判断力を買われ、今回この大任を任されていた。

 

 そもそもこの第八艦隊とは、正式な編成の艦隊ではない。特定の鎮守府や泊地に所属するわけではなく、南方作戦のために各鎮守府から集められた混成艦隊だ。そのため、七つある鎮守府とは別の艦隊という意味を込め、「第八艦隊」と呼称される。

 編成されたのはつい二日前。提督すらまだいない状況だ。そんな中決行された本作戦の目的は、サーモン諸島ガ島周辺に展開する敵輸送船団の撃滅。第八艦隊の初陣だ。

 

 その第八艦隊は今、単縦陣を組み、夜闇のサーモン諸島を進んでいた。編成は旗艦鳥海以下、重巡洋艦青葉、加古、古鷹、衣笠、軽巡洋艦天龍の六隻。正確に言えば、蒼龍他航空母艦を中心とした上空直掩を担当する艦隊も展開しているが、こちらは夜戦において戦力に換算することはできず、実質的に第八艦隊の戦力は巡洋艦部隊のみであった。

 

 巡洋艦で固めた編成からもわかる通り、第八艦隊の作戦は夜戦を主軸に据えている。ただ、偏った変則的な編成に反して、事前に指示された作戦は単純そのものだ。これは、第八艦隊が急編成の艦隊であり、艦娘間の連携訓練が不十分なためだ。

 ただでさえ、事故を起こしやすい夜間の作戦行動。しかもサーモン諸島と言えば、島が多く、島嶼間にも浅瀬や岩礁が絶えない難所として有名だ。各艦娘の緊張はもちろん高いが、やはり旗艦として艦隊を引っ張る鳥海のそれは、段違いであるに違いない。

 

(青葉だったら逃げ出しちゃうかもなあ)

 

 無理難題に近い依頼を、それでも引き受けたあたり、鳥海が旗艦に選ばれた所以であろう。

 

『時計合わせ十秒前』

 

 開きっぱなしにしている通信機から、鳥海の声が入ってくる。もう日付が変わる頃だ。予定通りなら、そろそろ作戦海域に突入する。これが作戦開始前の時計合わせだ。

 

『五……四……三……二……一……今』

 

 時刻〇〇〇〇。頭の中に直接表示された時計があっていることを確認して、青葉は頷く。問題はない。

 

『合戦準備。陣形開け』

 

 来た。チラリとだけこちらを見た鳥海に首肯して見せ、青葉はわずかに主機の回転数を落とす。後ろに続く四隻も同じだ。それまでのものよりも単縦陣の間隔が開き、作戦行動に必要十分な距離を確保する。すぐ正面にいるはずの鳥海はほぼ完全に闇に紛れ、暗視補正なしでは見つけることもままならない。青葉は目視を諦め、電探を用いて味方の位置を確かめる。最近本格的な配備が始まったばかりのこの装備は、例え夜でも明確に味方の位置を教えてくれた。

 

(鳥海さんは……あの辺ですかねぇ)

 

 電探が指示した方向に目を凝らせば、なんとか第八艦隊旗艦の影を見出すことができた。

 その鳥海が、漆黒の中から青葉たちに呼びかける。

 

『伝統の夜戦において、必勝を期して突入します。各員冷静沈着に、より一層の奮闘を期待します』

 

 気負いはない。淡々と告げられる言葉が、むしろ彼女の決意を示しているかのようだ。

 

『艦隊増速、最大戦速』

 

 主機が海水を泡立てる。六隻分の航跡は一本に重なり、黒光りするうねりの上を滑っていく。後方へと流れていく風が、艦娘たちの髪を揺らした。

 

 サーモン海域最初の戦いが幕を開けようとしていた。



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海峡(二)

 最初にそれを見つけたのは、鳥海に配備されていた熟練見張り員だった。

 

『右舷に艦影。駆逐艦一』

 

 途端、艦隊内に緊張が走る。おそらくはピケット艦。目的地まではまだ距離がある現段階で見つかれば、厄介なことになる。

 

『電探も存外役立たずだな』

 

 若干の棘を含ませて言ったのは、最後尾の天龍だ。彼女の言うことに反論する余地はない。事実、電探は件の駆逐艦を捉えていなかった。

 

(島影のせいですかね)

 

 青葉たちが使用する電探は、いまだ性能が十分と言い難く、分解能も低い。せっかく敵艦を捉えても、波や島の反射波に紛れて見分けがつかないことはままある。ましてやここはサーモン諸島。電探を邪魔するものはそこら中にゴロゴロしている。

 

 ゴクリ。誰もが息をひそめ、敵駆逐艦の動きを見守る。距離にして八千ほど。魚のようなフォルムの敵駆逐艦は、巡航速度を保ったまま、こちらと反航する。

 

 気づいてくれるな。そんな願いが届いたのか否か、まるで何事もなかったかのように、敵駆逐艦はそのまま通過し、やがて見えなくなった。

 全員がほっと胸を撫で下ろす。

 

『……警戒を厳に。近くに、敵警戒艦隊がいる可能性大です』

 

 ピケット艦と接触したからだろう、鳥海はさらなる警戒を要求する。第八艦隊の全員が心得ていた。十二個の肉眼と、六個の電波の眼が、深遠の闇に視線を向ける。波の動き一つ、島の反射一つとっても、もしやそれが敵艦ではないかとの緊張に駆られる。改めて、夜戦の過酷さを教えられている気分だ。

 そう長くはもたない。できればこのまま、何事もなく。眉間に皺を寄せながら、青葉がそんなことを考えていた時だった。

 

『電探に感、少なくとも三!方位一一五!』

 

 押し殺した鳥海の叫びが通信機から聞こえてきた。現在、第八艦隊の針路は一三八。その左舷側から、敵艦隊が現れたというのだ。

 

 事前に知らされていた情報と照らし合わせてみる。ショートランド展開の索敵隊によれば、サーモン海域に展開している深海棲艦の艦隊は三つ。それぞれが特定の海域を受け持ち、常に周遊している形だ。

 作戦の最終的な目的地とするガ島周辺であることを考えると、恐らくは暫定呼称「丙」の艦隊だ。編成は、重巡洋艦五、軽巡洋艦三、駆逐艦六。

 青葉の電探の反応から鑑みるに、今捉えた艦隊はその一部、七隻の深海棲艦によって編成された艦隊だと考えられた。

 

(鳥海さんはどうするでしょうか?)

 

 先ほどのように、やり過ごすという手もある。「第八艦隊の目的は敵艦隊の撃滅にあらず」とは、出撃前に提督代理の横須賀鎮守府秘書艦から念押しされた言葉だ。

 

『以後の作戦展開において障害とならないよう、捕捉した艦隊を撃滅します』

 

 鳥海の決断は早かった。

 

『左砲戦用意。照明なしで砲撃』

 

 なんのことはないといった様子で告げる鳥海に、五人は苦笑を漏らすしかなかった。

 

(ナチュラルに無理難題を吹っかけてくれますねえ)

 

 敵艦隊との距離は一万を切ったばかり。本来この距離で夜間砲戦を行うなら、探照灯や照明弾といった、照準を補助する装備の活用が欠かせない。まして今夜は新月で曇りだ。それを鳥海は、そうした補助装備の使用なしでやれと言ってきたのだ。何か考えあってのことだろうが、にしても平然と言ってくれる。

 

(ま、やってやりますけど、ね)

 

 一応、肩にとまった熟練見張り員に確認する。小さな妖精は「どんとこいや」とでも言いたげに、ペシペシと肩を叩いてきた。

 

 指定された目標に照準を合わせる。青葉の艤装は、肩に担いで砲撃を行う型式だ。測距儀と方位盤によって導かれた諸元に合わせて主砲が旋回俯仰し、やがて固定される。妖精たちには、初弾から斉射をオーダーしておいた。

 ギラリ。光もないのに、砲身が怪しいきらめきを放った気がした。鋼鉄の質量、軍艦色の輝き、肌に伝わる冷たさ。

 

 青葉が備えるのは、重巡洋艦の標準装備である五〇口径二〇・三サンチ砲だ。これを連装砲塔に収めて二基。

 その主砲が、咆哮の時を今か今かと待ちわびていた。

 

『主砲、よく狙って』

 

 自分に言い聞かせているのか、囁くような鳥海の呟きが聞こえてきた。彼女を含めて、第八艦隊の艦娘六隻全員が、その砲口を敵艦隊へと指向していた。

 

 そして、その号令がかかる。

 

『撃ち方、始め!』

 

 裂帛の声が、微かに通信機を震わせる。その声に、青葉は半ば本能で応えていた。

 

「てーっ!」

 

 瞬間、海上に炎の旋風が巻き起こった。青葉の顔のすぐ横、肩に担ぐ艤装から、砲炎が迸る。艦娘特有の防御壁で保護されている鼓膜を、衝撃波が容赦なく揺さぶる。水圧機で軽減されているとはいえ、主砲発射に伴う反動は小柄な青葉には十分大きく、踏ん張った脚部艤装が海面に沈み込んだ。

 

 海上の六か所で、同じことが同時多発的に起きた。第八艦隊は、捕捉した「丙」部隊に対して、砲弾のラブコールを送りつけたのだ。

 砲撃を終えた砲身が仰角を下げ、砲身の冷却と次弾の装填が始まる。砲塔内で妖精たちがちょこまかと動き回り、二度目の射撃へ向けて準備を進める。

 その間に、第一射は飛翔を終えようとしていた。全く予想だにしていなかったダンスの誘いに、驚き、戸惑い、焦燥する深海棲艦の頭上から、パーティーの開始を告げる音が迫る。ただしそれは、時刻を報せる鐘の音や、貴婦人を誘う四重奏のように美しいものではなく、重量物が無理矢理大気をこじ開ける、甲高い不協和音であったはずだ。

 

 六隻の巡洋艦から放たれた砲弾が、次々と目標海面に弾着した。空と海の境界がにわかに盛り上がり、丈高い人工の瀑布が姿を現す。敵艦隊の姿は覆い隠され、ともすれば一撃で葬り去ったかのような錯覚に捕らわれる。

 だが所詮は錯覚だ。水柱が崩れ去れば、慌てふためきながらも健在な姿で海上にある敵艦隊が確認できる。それもそのはずだ。

 

(まあ、夜間のこの距離でいきなり命中弾なんて、出るもんじゃないですよねぇ)

 

 暗闇の中から、自らが放った弾丸の行方を見極める。水柱の立った順番から考えて、恐らく青葉の射弾は全弾近。すなわち次の照準は、もう少し奥につければいい。

 諸元に修正が加わると、すぐさま第二射が放たれる。発射間隔は約二十秒。反動に足を踏ん張りながら、青葉は目を凝らす。

 

 次の瞬間、青葉が照準をつけた辺りで、紅蓮の炎が沸き起こった。こちらの弾着にはまだ早い。

 敵巡洋艦――重巡リ級だ。双頭の龍が如き両腕の艤装を振り立て、砲炎を迸らせる。地獄の底を覗いたかのような白い顔が、オレンジ色の光で照らされていた。

 

 夜戦の常として、すぐさま乱打戦が始まった。お互いに斉射間隔はほぼ二十秒。高空を飛翔する砲弾が幾度となく交錯し、右舷に左舷にと次々に水柱を生じる。炸裂した砲弾が局所的に高波を引き起こし、第八艦隊の面々を飲み込もうとした。頭から波をかぶりつつ、巡洋艦たちはなおも射弾を放つ。

 

 先手を取った分、常に第八艦隊側が有利に戦闘を進めていた。六度目の砲撃で鳥海、青葉、古鷹が相次いで命中弾を得、斉射による全力砲撃へと移行する。放たれた二〇・三サンチ砲弾は的確に装甲を抉り、武装をはぎ取る。

 

 十二度目の射撃で、全ては決した。最後に一隻、なけなしの反撃を試みていたリ級が沈黙し、燃え盛る炎を背負って、半身を波間へと埋めていく。他の深海棲艦の姿はすでにない。これより少し前、第八艦隊の砲撃によって、全艦がサーモン海の澪標となった。

 

 いまだ激しい炎を上げるリ級の残骸を横目に見つつ、第八艦隊はサーモン海をさらに奥へと進む。

 

『各艦、被害報告を』

 

 火の粉をまき散らす炎の光に照らされて、鳥海の頬がオレンジ色に染まっていた。青葉はその指示に従い、全身を見、艤装の状態を妖精に確認する。被弾は一発もなく、砲撃等による異常も見当たらない。

 第八艦隊全体でも、被弾は鳥海の二発に留まった。それも特に大きな損害はなく、戦闘、航行に支障はない。ほとんど無傷と言ってよかった。

 

『敵「丙」部隊の増援が予想されます。各艦警戒を厳に……っ!』

 

 警戒を促す鳥海の声は、新たに飛来した敵弾によって遮られた。警戒していた「丙」部隊の増援だ。第八艦隊全員が直感し、身構える。

 

(本当に使えませんね、この電探はっ!)

 

 第八艦隊六隻、ただの一隻も新手の接近に気づかなかったのだ。肝心な時に役立たずな新装備である。

 

『……迂闊でした。島影から急襲されたようです』

 

 字面だけ見れば、人並みに悔しがるセリフなのだろうが、それを何の感情も感じさせずに淡々と言うあたり、この艦娘の可愛げのないところである。

 

 見たところ、新手の編成は先ほど撃破した敵艦隊とさして変わらない。重巡洋艦三、軽巡洋艦一、駆逐艦三。「丙」部隊の残り半分だ。

 

(不意は突かれたけど、砲力ならこっちが上!)

 

 冷静にそんなことを考えながら、青葉は先頭の重巡洋艦に狙いをつける。見張り妖精の判断では、重巡ネ級と呼称される最近確認された深海棲艦だ。リ級の単純強化個体と考えられている。

 

 そのネ級に、青葉と鳥海の射弾が集中した。急襲だったこともあり、彼我の距離は近い。すでにこの時六千。

 それでも、すぐに命中弾は出ない。二射、三射、お互いに空振りを繰り返し、砲弾は空しく水柱を上げるだけだ。飛び散る海水が艦娘たちの髪を濡らす。潮のせいで自慢の髪が痛むのも、納得というわけだ。

 

 敵艦隊の攻撃は、第八艦隊の単縦陣中央、古鷹に集中していた。連続して立ち上る水柱。それらが第八艦隊の分断を目的としているのは明白だった。

 では、分断後の目的は?青葉は考える。

 

 単純な戦術として、隊列の分断は非常に効果的だ。部隊内での連携を阻害し、各個撃破を可能とする手法としては、むしろオーソドックスとさえ言えた。

 そして、それをより確実なものとするならば。

 

(「甲」か「乙」が、もう近くにいるんですかねぇ)

 

 チラリとそんなことを考える。

 

 だとすれば少々厄介だ。第八艦隊の夜間突入作戦は、機動力を活かして、各警戒艦隊を各個撃破していくことを想定している。艦数で勝る深海棲艦に対抗するには、これが一番効率のいいやり方だ。

 

 裏を返せば、最も避けたい状況は、複数の艦隊を相手取らなければならなくなることだ。

 このまま、ここで時間を取られるようなら、第八艦隊はもう一個の艦隊とも戦わなければならなくなる。

 

『第二分隊(古鷹、衣笠、天龍)は、敵「丙」部隊の殲滅に専念。第一分隊(鳥海、青葉、加古)は砲撃止め』

 

 鳥海には、何かしらの考えがあるらしかった。

 

『第一分隊増速、機関一杯。左逐次回頭、針路一〇五』



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海峡(三)

『第一分隊増速、機関一杯。左逐次回頭、針路一〇五』

 

 矢継ぎ早の指示を受け取るや、三隻の重巡洋艦が速力を上げた。脚部艤装のスクリュープロペラが回転数を上げ、海水を勢いよく後ろへ押しやる。その反動が、急激な加速となって、青葉を突き出す。

 突然の動きに「丙」は驚いた様子だった。だがその頭を、第二分隊の砲撃が抑える。

 

『で。古鷹たち置いて行って、どうするつもり?』

 

 青葉のすぐ後ろ、加古が尋ねる。少し棘のある言い方は、たった今敵艦の砲撃の的になっているのが、彼女の姉妹艦であるからだろうか。

 鳥海が答える。

 

『深海棲艦と同じことをします』

 

 手振りだけで、彼女は目の前を指し示した。そこには黒々とした島影。

 

『あの島を背にして、敵艦隊の目を誤魔化しつつ、急襲を仕掛けます。現れるであろう敵増援の取る航路は、島が多いおかげで、ある程度絞れますから』

『……古鷹たちは囮ってわけか』

 

 それだけ漏らして、加古は再び黙る。口にこそ出さないが、姉妹艦を囮にされることへの抵抗がありありとわかった。作戦自体の意義は理解できるから、反対の意を表明していないだけのことだろう。

 鳥海の方も、特にそれ以上何も言わない。

 

 島の影に紛れるようにしながら、第一分隊はその時を待つ。時折、第二分隊と「丙」部隊の砲声が聞こえてくる。砲力で「丙」部隊に勝っているとは言い難い第二分隊だが、全く譲らずに渡り合っている。最後尾の天龍に至っては、腰に下げていた特式携行重刀を抜き、物理的に深海棲艦に切りかかっている始末だ。

 

 その時、鳥海の艤装で光が瞬いた。通信用のライトガンだ。

 トトト。短符を数秒間連続したそれは、敵艦を見つけたことを示している。改めて電探を確認すれば、第二分隊を挟撃せんとするかのように、新手の反応が迫っていた。この海域に第八艦隊以外の味方艦隊はいない。

 

 鳥海が転針を指示する。新たに現れた敵艦隊(出現方向から「甲」と推測)は、どうやらこちらにはまだ気づいていない。第一分隊は、その裏をかくべく、複縦陣をなす「甲」部隊の背後へ回ろうとしていた。

 

「っ!」

 

 次の瞬間、「甲」部隊が発砲した。砲炎は見えるだけで五つ。すなわち「甲」部隊の戦力は、巡洋艦五隻以上を含んでいる。

 事前報告では、重巡洋艦四、軽巡洋艦二、駆逐艦六となっていたはずだ。大体数は合う。

 

 鳥海からさらに指示が飛ぶ。信号の内容は「右魚雷戦用意」。逆探に反応がないところから、至近距離まで接近しての雷撃が可能と判断したのだろう。実際、「甲」部隊との距離は一万を切ろうとしているが、あちらに気づいた素振りはない。深海棲艦は電探を装備していないのだ。

 相手が見えているこちらと、こちらが見えていない相手。この差は大きい。

 

「甲」部隊は、第二分隊に射撃を集中している。「丙」部隊の残存を撃破した第二分隊もまた、これに応えている。が、いかんせん砲力の差が大きく、まともな撃ち合いにはならない。漏れ聞こえてくる通信からは、古鷹が回避を優先した指示を飛ばしていることがわかる。

 それでも、全弾を回避することはできず、ポツポツと被弾の火柱が上がった。戦闘・航行に支障の出る艦はないが、このままいつまでも耐えられるものではない。

 

(まだですか、鳥海……!?)

 

 青葉は無言のまま目の前の鳥海を見遣る。この時点で彼我の距離はすでに六千。巡洋艦の雷撃距離としては十分だ。

 焦る気持ちに耐え切れず、青葉が意見具申しようと口を開きかけた時だ。

 

 まばゆい一条の光が、サーモン海の闇を切り裂いた。

 一刀両断。刀のきらめきにも似たそれは、迷いなく夜の海を貫き、深海棲艦の姿を露わにした。

 探照灯だ。敵艦の位置を明確にする代わり、自らの存在もさらけ出すことになるそれを、鳥海はこのタイミングで使用してきた。

 

 突如として光の世界に引きずり出された「甲」部隊先頭のリ級が、眩しさからか目もとを歪めた。

 

『第二分隊は離脱!第一分隊、右砲戦、右魚雷戦用意!』

 

 回避運動を続けていた第二分隊が、一目散に離脱していく。逆に青葉たちは、腰や足首に据えられた魚雷発射管を展開する。発射管では、鈍色の弾頭をぎらつかせる魚雷が、海中へ放たれる時を今や遅しと待ちわびていた。

 

 鳥海、青葉、加古の三隻は、全て別型式の重巡洋艦だ。各々性能は違う。とはいえ、魚雷については皆同性能だ。

 口径は六一サンチ。燃焼剤に純酸素を用いるこの魚雷は、長大な射程と高い速力、破格の威力を備えた驚異の攻撃兵器だ。しかも、純酸素使用によって航跡が残りにくくなるというおまけ付き。

 

 距離を六千まで詰めたことで、射程を気にしなくてもよくなった。よって雷速は最大に設定されている。また、探照灯のおかげで、敵艦隊の動きもよく見える。

 

『投雷始め!』

 

 鳥海の号令に合わせ、第一分隊の全員が踏ん張る。圧搾空気の音が連続し、魚雷が海中へと投入された。鋼鉄製の長槍たちは、深海棲艦の土手っ腹を貫かんと、発揮しうる最大速力で海中を突き進んでいく。その航跡は、夜の海に紛れて、すぐに見えなくなった。

 

『目標を各個に捕捉!準備出来次第、撃ち方始め!』

 

 鳥海が改めて指示するまでもなく、青葉も加古も測敵を終えていた。

 

「てーっ!」

 

 三つの砲炎が重なる。こちらへ注意を引き付ける意味も込めて、第一分隊は最初から派手な斉射を放っていた。大きな反動と衝撃が、三隻を波間に押し付ける。

 

 突然の来訪者に、深海棲艦は明らかに慌てていた。そしてそれ以上の混乱を避けるべく、まずはセオリー通りに、探照灯を照らしている鳥海から撃破しようとしてくる。だがその砲撃は、第一分隊からすでに一拍遅れていた。

 

(うまいやり方ですねぇ)

 

 第二射の結果を観測しながら、青葉は鳥海の手腕に舌を巻く。

 探照灯で敵の焦燥を誘い、砲撃によって注意を引き付ける。混乱した事態を収拾するべく、敵は何とかこちらを撃破しようと、砲撃戦に応じてくる。魚雷のことなど頭にない。夜間で航跡も見えないとなれば、なおさら気づかれる可能性は低くなる。

 

 これは必ず命中する。確信に似た予感を青葉は抱いていた。

 

 とはいえ、魚雷が到達するまではまだ時間がある。六千の距離で放った速力五十ノットの魚雷が航走を終えるまで、およそ四分。その間、敵艦の注意を引き続けなければ。

 そんな計算をしつつ、第一分隊は砲撃を加え続ける。探照灯ありでの砲撃だ。四射目で命中弾が出始め、六射目には三隻が斉射に移行する。

 

 一方の深海棲艦も、砲撃は正確だ。自ら姿を曝している鳥海に砲弾が集中し、多数の水柱がその周囲を覆う。時々爆炎が踊り、鳥海が苦悶の声を上げた。

 

『第二分隊、再突入します』

 

 鳥海の苦境を知ってか知らずか、体勢を整えた第二分隊の古鷹が提案してくる。しかし鳥海は、これを却下した。

 

『魚雷到達までの辛抱です。第二分隊は輸送船団攻撃に向けて砲弾を温存してください』

 

 というのが彼女の主張だった。

 渋々といった様子だったが、古鷹はこれを了承。今は遠巻きに第一分隊の戦いを見つめている。

 

『到達まで十秒!』

 

 相手取っていたリ級を火達磨に変え、鳥海が叫ぶ。間もなく時間だ。

 

 鳥海が新たに照らしたネ級の側面に、巨大な海水の塊が出現した。天を突かんばかりの水柱が二本。その狭間でわずかに見えたネ級の顔は、これ以上ないほど苦々し気に歪められていた。

 他の深海棲艦にも魚雷が命中し始める。砲撃によって炎上した各艦の光が、「甲」部隊に起きていることを赤々と照らし出した。水柱が立ち上るたび、深海棲艦が苦悶の声を上げ、炎に身を引き裂かれる。

 

 最終的な命中弾は七発。巡洋艦三隻と駆逐艦二隻に命中し、うち巡洋艦一隻を除いた四隻が、その場で轟沈した。上々の戦果だ。

 

『残りの敵艦に砲撃を集中!』

 

 ようやく探照灯を消した鳥海が、追い討ちを命じる。一時に艦を失った「甲」部隊に、最早統率は存在しなかった。たちどころに被弾し、波間へとその身を沈めていく。中には味方同士で衝突し、爆発炎上して擱座する深海棲艦もいた。

 

「甲」部隊の掃討が完了するのに、魚雷命中から五分とかからなかった。

 

 最後に残ったリ級が、弾雨の中に消え去る。鳥海は砲撃止めを下令し、「逐次集マレ」と呼びかける。

 

「鳥海、本当に問題ありませんか?」

 

 青葉の問いかけに、鳥海は微かな笑みを浮かべて答えた。

 

『もちろんよ。まだまだやれるわ』

 

 最も損傷の激しかった鳥海は、それでも小破の判定。戦闘・航行ともに支障はなく、作戦続行は十分可能だ。

 

『このままガ島敵泊地へ突入。敵輸送船団を撃滅します』

 

 鳥海の号令一下、隊列を組みなおした第八艦隊は、一路サーモン海域の奥地を目指した。



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海峡(四)

 こちらの動きを報されていたのか、ガ島沖の敵泊地(ポイント・レコリスと呼称)は、蜂の巣をつついたような状態だった。余程慌てていると見え、訳もわからずサーチライトで空を照らし始める始末だ。逆にそれが、第八艦隊の目印となる。

 

 多数の輸送ワ級が錨泊している。浜辺に乗り上げ、揚陸作業中と思しき艦も見えたが、さすがにまだ距離があり、正確な数まではわからない。

 

(敵「乙」部隊の艦影なし。直衛の護衛部隊だけみたいですね)

 

 敵が密集し過ぎていて、電探の反射波は意味をなさない。最早目視だけが頼りだ。

 見た限り、護衛艦隊は巡洋艦二隻と駆逐艦数隻を含む。輸送船団直衛の護衛艦隊なら、対空と対潜を専門職としているはずだ。

 

『右魚雷戦用意』

 

 魚雷の再装填は終わっている。各艦が魚雷発射管を構え、投雷。密集して錨泊している敵艦隊を一網打尽にするなら、これが一番効率的だ。

 

 残る全ての魚雷を撃ち尽くした第八艦隊は、そのまま敵泊地への突撃を開始した。

 

 数分後、到達した魚雷が次々にワ級の腹を食い破った。巨大な水柱と火柱が泊地のあちこちで上がり、狂乱するワ級の怒号に似た断末魔の声が聞こえる。その狂騒の只中へ、第八艦隊は切り込んでいった。

 

 鳥海が再び探照灯を灯す。輸送船団の錨泊地を一薙ぎするように光条が走り抜け、その全体像を白日の下に曝した。それがまた、深海棲艦の混乱を誘う。

 

『撃ち方始め!』

「てーっ!」

 

 鳥海の号令に応え、青葉も手頃なワ級に向けて撃つ。弾種はそれまでの徹甲弾から、瞬発信管の榴弾に変更していた。この方がよく燃える。

 輸送艦であるワ級の装甲など紙も同然だ。さらに揚陸前のその艦内は、可燃物の宝庫でもある。たった一発の命中弾で簡単に火達磨になった。

 

(怖いくらい、簡単に燃えますね……)

 

 すでに三隻目となるワ級を爆沈させ、青葉は訳も分からず冷や汗を流していた。それは、こんなにも簡単に船を沈めることができる、そんな自らの力への恐怖の感情だったのかもしれない。

 

『敵揚陸地点を捉えた!』

 

 それは加古からの報告だった。それから十数秒後、ガ島海岸の上空に照明弾の淡い光が現れる。輸送船団の錨泊地からほど近い砂浜に、輸送物資と思しき黒い影が積まれていた。さらには「陸上型」の人影も。

 

(ほんとにここを基地にするつもりだったんですねぇ)

 

 出撃前には半信半疑だったが、ここに来てはっきりした。深海棲艦がガ島への進出を進めたのは、ここを反攻作戦の足掛かりとするためだったのだ。

 

「陸上型」の詳細はわからないが、MI諸島に展開していた飛行場姫に近い存在のはずだ。撃破には艦砲が有効である。

 

『全艦目標を敵揚陸物資へ変更。まとめて丸焼きにしてください』

 

 鳥海には珍しい軽口に加古が小さく吹き出す。

 

 構えられた主砲から、眩い砲炎が迸る。全て敵物資へと向けられたものだ。弾種は榴弾。文字通り、揚陸物資ごと「陸上型」を丸焼きにしようという算段だ。

 揚陸物資を囲むように閃光が走る。巻き上げられるのは海水ではなく、焼けたように熱くなった海岸の砂だ。炸裂した榴弾の破片や抉れた地面の石礫が、それに混じって飛び交う。

 断片をまともに喰らったのか、「陸上型」が苦悶に顔を歪めた。爆風に煽られた揚陸物資が散乱し、チロチロと小さな炎を纏っている。

 

 ここまで撃ち合ってきた敵艦に対しては、ほとんど徹甲弾を使用してきた。榴弾はまだまだ十分に余っている。揚陸物資を砂浜ごと更地に変えるのは容易い。

 

『左舷敵艦!』

 

 鳥海の声でハッと左を向く。護衛艦隊の駆逐艦が、死に物狂いでこちらへと突撃してきていた。明らかな劣勢でも、第八艦隊を止めようと必死だ。そしてその足掻きが、命中弾となって実を結ぶ。

 

『くっ……!』

 

 通信機に乗った呻き声と共に、探照灯の光が消えた。敵駆逐艦の放った砲弾が、鳥海の探照灯を撃ち砕いたのだ。辺りは再び闇に包まれる。

 

 敵駆逐艦への報復はすぐに始まった。第八艦隊の全員が、高角砲による迎撃を始めたのだ。

 対艦砲ではないとはいえ、口径一二・七サンチと、駆逐艦の主砲と同等の破壊力を有する高角砲は、速射性能による弾幕の濃さもあり、敵駆逐艦を撃ち破るには十分すぎる能力を発揮した。まともに砲弾を食らい、各部で小爆発を起こしながら二隻が沈み、残った三隻についても蜂の巣のように穴だらけで黒煙を噴いている。この三隻については、手持無沙汰にしていた天龍が、腰の刀で介錯してやった。

 

 護衛艦隊も失われた今、第八艦隊を止める者はいなかった。

 十分と経たずに「陸上型」は業火に包まれていた。補給物資に寄りかかるようにして、肢体がガクリと力なく垂れさがる。最早ただのガラクタだ。

 

 あとはただの残敵掃討だ。何の反撃手段も持たないワ級は、ただ砲弾に貫かれる的となり、次々に沈んでいった。

 

 全ての深海棲艦がサーモン海の澪標となるのに、三十分とかからなかった。

 

 

 

『逐次集マレ』

 

 砲炎の収まった頃合いを見計らって、鳥海が第八艦隊に呼びかけた。

 

 ようやく静けさを取り戻したガ島沖は、嵐の去った後のような光景となっている。もっとも、つい先ほどまで吹きすさんでいたのは、鋼鉄の嵐だったわけだが。

 うっすらと蒼に染まり始めた空へ昇る煙。何かが焼ける嫌な臭い。むっとした空気。それらが、ここがかつて戦場であったことを物語る。

 

「いやー、久々の夜戦でキンチョーしました」

 

 そう言って節々を伸ばし、青葉は鳥海の側へと寄せる。探照灯破壊時に頭部に裂傷を負った鳥海は、加古から応急手当てを受けていた。

 

「ええ。とにかくこれで一段落ね」

 

 鳥海も、それまでとは打って変わって、穏やかな雰囲気だ。やはり気の張りつめ過ぎはよくない。

 

『鳥海さん!』

 

 そんな会話を切り裂いたのは、慌てた様子の古鷹の声だった。

 

「何かあったの?」

 

 鳥海の表情と雰囲気がまた張り詰める。まさか、残る「乙」部隊がもう現れたのか。

 

『ドロップです!』

 

 聞きなれない言葉に首を傾げるが、すぐに何のことか理解する。

 

 ドロップとは、新しい艦娘との邂逅を表す言葉だ。深海棲艦との戦闘後に、時たまこうしたことが起こる。しかしそれがまさか、こんな南方海域の奥地で起こるとは。

 

「わかりました。古鷹と衣笠はすぐに回収を。基地まで曳航します」

 

 鳥海が通信機へ指示を出す間に、青葉は艤装からカメラを取り出した。記録保存用だ。ドロップ時には海図に座標を記し、写真と共に残す決まりになっている。青葉はこれに加えて、音声録音用のマイクとテープも持ち合わせていた。

 

 集合地点から少しばかり足を延ばすと、今まさに古鷹と衣笠が艦娘の回収に当たっていた。場所は先ほどまで深海棲艦の泊地があった辺り。

 

 海面に横たわる少女が一人。産まれたままの姿で、一糸まとわぬ体。長い髪が波間に漂う。

 

『駆逐艦、かな?』

 

 小柄な体を見て、古鷹が呟いた。

 

 古鷹が右、衣笠が左に立ち、肩を担ぐ。艦娘は眠ったままだ。意識はまだないらしい。その姿を、青葉は何枚か写真に残す。

 

(それにしても、どこかで見たような顔の気が)

 

 写真を撮り終え、改めてまじまじと艦娘を見つめる。どこか記憶に引っかかる顔だ。ただ、未だ明かりに乏しいせいか、はたまた無造作なままの髪のせいか、よく思い出せない。

 

『行きましょう、青葉さん』

「あ、はい。そうですね」

 

 古鷹の声で我に返り、舵を切って鳥海たちとの合流を試みる。

 

 その時だった。

 

―――……シテ。

 

 妙な音に、第八艦隊全員が辺りを見回した。

 

―――カ……タイ……。

 

「お、おいおい。何だよ、一体?」

 

 天龍が気味悪げに左右を見遣る。

 

 声。そう、声だ。何か言葉をはっきりと聞き取れるわけではないが、それは紛れもなく声であった。それ故に、余計薄気味悪い。

 

「どこから……」

 

 だが、声の主らしき者は見当たらない。広がるのは陽が昇り始めた海と影を引く島だけ。あとは何もない。

 

「……青葉?」

「もう録音回してますよ」

「そう。ありがとう」

 

 声が聞こえた時点で、青葉は半ば本能的に、録音装置のスイッチを押していた。それからは黙って声に耳を澄ます。

 相変わらず内容までは聞き取れない。何やら同じような内容を繰り返しているようだが、何度聞いてもその意味は頭に入ってこなかった。

 

 断続的に続いていた声は、太陽が半分ほど顔を出した時点で、完全に止んだ。青葉は録音を止める。

 

「何だったのかしら……」

 

 不可思議な出来事に誰もが首を傾げる中、天龍がポツリと呟いた。

 

「なあ、おい。なんかこの海、変じゃないか?」



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再会
再会(一)


お久しぶりです。二章以降をば。


 懐かしい声だった。

 

 どこで聞いたのか、いつ聞いたのか。それははっきりと思い出せなかった。でも確かに、聞いたことのある声だ。記憶の片隅にあった声だ。

 

 寂しげな声。そう、そのように聞こえた。

 

 誰かを探しているような、そんな声。

 

 何かを諦めているような、そんな声。

 

 頼りを求める、幼子のような、そんな声。

 

 それが堪らなく切なく。それが堪らなく愛おしく。

 

 天を仰ぎ、目を閉じる。心持ちは自然と穏やかになっていた。

 

 

 

「大丈夫」

 

 

 

 

 

 

 その報せが飛び込むや否や、睦月は息が切れんばかりの勢いで走っていた。

 いや、実際息は切れていた。全速力など遥かに超えてしまうほど、半ば無意識のうちに前へ踏み出し、通路という通路を駆け抜ける。すれ違う艦娘たちを気にも留めない。

 

 辿り着いた先は、海沿いに設けられた工廠だった。すでに海面から随分と離れ、元気に辺りを照らし始めた太陽光の中で、鉄製のドアが橙色に輝く。その前で足を止め、膝に手を置いて息を整えた。

 

 ドアにかける手が震える。その先に待つものへの恐れ、そして渇望。感情がない交ぜになり、逆に頭の中は真っ白になっていた。

 

 ドアを開いた先に、見知った二人の姿があった。ベンチに腰掛けるのは、同室でもある二人の艦娘、吹雪と夕立。音に気づいたのか、二人がこちらを見る。

 

「吹雪ちゃん、夕立ちゃん!」

「睦月ちゃん!」

 

 ほとんど倒れ込むようにしてベンチに駆け寄った睦月を、二人が抱き留める。わずかに呼吸は落ち着いたが、相変わらず思考はちぐはぐなままだった。

 

「どこっ!どこにっ!」

「睦月ちゃん、落ちついてっぽい!」

 

 なだめるような夕立の声。けれども、落ち着いてなどいられない、というのが睦月の正直なところだった。

 

「今、中で明石さんが検査をしてる、って」

 

 肩に手を添えたまま、吹雪が木製扉の向こう側を目線で示す。艤装調整室と書かれたそこは、出撃後の艦娘や艤装の状態を確認する部屋だ。

 

「検査、って」

「大丈夫っぽい。念のためっぽい」

 

 睦月の不安を察したのか、夕立が説明してくれた。ドロップした艦娘は、誰しもが受けるのだそうだ。

 

 何度か深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着きを取り戻した睦月は、勧められるまま、ベンチに腰を下ろす。それからのたった数分間が、まるで永遠のようにすら感じられた。

早く会いたい。その想いだけが、時を経るにつれて積もっていく。

 

 ガチャリ。木製の扉は、全くの唐突に開いた。三人分の眼がその方向を見る。

 扉の隙間から顔を覗かせたのは、工廠を取り仕切る工作艦明石だった。喜色を滲ませた笑みをこちらへ向けている。

 

「終わりましたよ。もう大丈夫」

 

 そう言って一杯まで開かれた扉から出てきたのは、一人の少女だった。

 

 睦月は息を飲む。

 

 腰まで届くかという長い髪。艶を秘めた愛らしい瞳。透き通るように白く滑らかな肌。華奢でありながら包容力のある体つき。そしてこちらを窺う儚げな仕種。それらが差し込む太陽の光に照らされ、幻想的に輝いていた。

 

 喉まで出かかっていた言葉が、出てこなかった。

 

 間違いない。見間違うはずがない。

 それは睦月にとって、とてもとても大切な人。

 

「……如月……ちゃん」

 

 絞り出すようにして、彼女の名前を呼ぶ。如月もまた、睦月を見つめていた。

 

「睦月……ちゃん?」

 

 少しかすれた声。それでもはっきり聞き取れた声。

 

 これは夢などではないのだ。

 

 震える手を如月へと伸ばす。恐る恐る、その頬に触れる。きめ細かい柔肌が感触を返す。彼女の温もりも感じる。親指で触れた唇は、変わらず薄いピンク色で潤っていた。

 されるがままだった如月が、その手を睦月の手に重ねた。よりはっきりと、如月の感触が伝わって来た。

 如月が柔らかく微笑む。それはいつか、彼女と初めて出会った時と似た笑顔だった。

 

「帰って……来た」

 

 こぼれる想いを止めることはできなかった。目もとで溜まった涙が流れだす。それを見られたくなくて、睦月は俯きがちに頷いた。何度も何度も、頷いた。

 

 如月を抱きしめる。ほんの少し高い背。柔らかな感触。お日さまの薫り。

 

「お帰りなさい……お帰りなさいっ!」

 

 泣き笑いで腕に力を込める睦月を、如月はそっと撫で続けていた。

 

 

 

 しばらくして落ち着いた睦月たちに、明石が軽く如月の状態を説明する。

 

「体は特に異常なし。元気そのものよ。しばらくは経過観察が必要だけど、隔離までするようなレベルじゃないし。如月ちゃんも、睦月ちゃんたちと一緒の方が落ち着くだろうしね」

 

 三人が目を輝かせる。殊更嬉しそうに吹雪が言った。

 

「よかったね、如月ちゃん!」

 

 その言葉に、如月は困惑した様子で眉を下げる。

 

「あの……あなたたちは……?」

 

 今度は吹雪と夕立が困惑する番だった。

 

 フォローをするのは明石。

 

「如月さん、記憶が完全じゃないみたい。でも一時的なものだと思うから、心配しないで」

「そう、なんですか……」

 

 どこか寂しそうに、吹雪と夕立が頷く。如月も申し訳なさそうに眉をハの字にしていた。

 

「大丈夫だよ。睦月のこと、憶えてたんだもん。二人のことも、きっと思い出すよ」

「……うん、そうだよね」

 

 睦月の言葉でいつもの明るさを取り戻し、吹雪が笑った。

 

「改めて、わたしは駆逐艦吹雪。よろしくね、如月ちゃん!」

「夕立っぽい!よろしくっぽい!」

 

 そう言って差し出された手に、如月は嬉しそうに応えていた。

 

 艦娘寮(といっても、コテージのような平屋の建物だが)に如月を案内するべく、三人は工廠の出口へと向かった。丁度その時、工廠の扉が開かれる。入ってきたのは、赤城と加賀、二人の空母艦娘だった。

 二人が如月を認める。

 

「お久しぶりね、如月さん」

 

 赤城が微笑む。如月の表情を覗き込むようにした彼女は、満足げに頷いた。

 

「顔色もいいし、元気そうね。何よりです」

 

 加賀の表情は相変わらず変化に乏しいが、どこか安堵した雰囲気で肩を落としていた。

 

「赤城さんたちは、どうして工廠へ?」

 

 尋ねた吹雪に赤城が答える。

 

「明石さんを呼びに来たの」

 

 そう言われた明石は、何かを準備するのか、工廠の奥へと駆けていく。その様子を見て、赤城が苦笑した。それから如月に向き直る。

 

「今日はしっかり休みなさい、如月さん。案内をよろしくね、睦月さん」

 

 そう言ってピッと敬礼を決める。凛々しい立ち姿だが、目元だけが柔らかく微笑んでいた。

 

「駆逐艦如月の帰還を、心より歓迎します」

 

 目を真ん丸に見開いていた如月は、患者着のまま踵を合わせ、敬礼を返す。それを確認した赤城の表情は、ますます柔くなっていた。

 

 

 

 ただ一人、加賀の表情が晴れないことに、その場の誰も気づいていなかった。



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再会(二)

 ショートランド基地の作戦指揮室は、コテージのような急造の建物だった。もちろん、運び込まれている設備類一式は最新のものだが、木造平屋建て、窓は吹き曝しという状態では、どうも締まりがない。ミスマッチとはこのことを言うのだろう。

 

 作戦室中央。南方海域全域の海図が広げられた机を挟んで、長門は鳥海と向き合っていた。第八艦隊の初陣となった、サーモン海域夜間突入作戦の報告を受けるためだ。横須賀鎮守府の秘書艦でもある長門は、提督が到着するまでの指揮官代理を務めている。

 

「以上が詳細になります。敵輸送船団の撃滅に成功し、作戦目的は十分に果たしました」

「そうか、ご苦労」

 

 報告書の内容を補いつつ進められた鳥海の報告に対し、長門は首肯でもって応えた。

 

「これで深海棲艦の出鼻をくじくことができた。今後の作戦展開も有利に運んでいくことができる」

 

 戦果は上々。作戦目的は完遂されたのだ。

 

 それでも長門の表情が晴れないのは、懸念すべき事案がもたらされたからに他ならない。

 まあ、でもそれは、目の前の鳥海には咎の無いことだ。

 

「報告ご苦労。しっかり休め」

「はい。失礼します」

 

 一礼と共に作戦指令室を後にした鳥海を目線だけで見送り、長門は椅子に深く腰掛けなおす。その手には小さなカセットテープ。鳥海が置いていったものだ。

 

「長門もご苦労様」

 

 控えていた陸奥が労いの言葉をかけた。眉をハの字に下げて苦笑している。

 

「到着してそのまま徹夜で指揮なんて、無茶が過ぎるわよ。少し仮眠してきたら?」

 

 せっかくの陸奥の申し出だが、長門はかぶりを振る。

 

「そういうわけにはいかない。例の件で明石が報告に来るからな。それまではここにいる。それに、提督に報告も必要だしな」

「……真面目なんだから、まったく」

 

 溜め息混じりに呟いて、陸奥は表情を改めた。

 

「この先、どうするつもり?」

「どうもこうもない。提督が着任するまで、私がここで指揮を執り続けるだけさ」

 

 長門は目の前の海図に目を落とす。

 

「今回の作戦で、深海棲艦の揚陸作戦はとん挫した。だがそれで諦める奴らではない。必ず二度目の揚陸作戦を実施してくる。今回よりもさらに、陣容を充実させてな」

 

 深海棲艦を示す赤の駒を、長門はサーモン海域のさらに奥、E海域と呼ばれる地点に配置する。

 

「サーモン海域を偵察中の潜水艦隊から、敵増援と思しき艦隊を捉えたと報告が上がっている。推進器音からして、少なくとも二隻の戦艦を含んでいるとな」

「まだ諦めていないってことね」

 

 陸奥の指摘に頷く。

 

「しばらくはここで、踏ん張り続けなければならない」

 

 

 

 ほどなく、作戦指揮室に明石がやって来た。迎えに行かせた赤城と加賀も一緒だ。さらに、今日の当直である比叡と、明日の当直である金剛も顔を見せている。

 

「如月の状態はどうだ?」

 

 単刀直入な長門の問いに、明石は笑顔で答える。

 

「一通り検査をしましたが、特に異常は見られませんでしたね。しばらくは経過観察をする必要があるでしょうけど、本人も至って元気なようですし、工廠併設病棟で隔離することもないと思います」

 

 明石の報告にいくばくか安堵の息を吐く。

 

 だが明石の表情は、すぐ困り顔に変わった。

 

「ただ、その……気になる点があるんです」

 

 手元のボードに目を落としながら、明石が口を開く。

 

「記憶の保持が確認されました。断片的ですが……以前、横須賀鎮守府に所属していた時の、如月さんの記憶があります」

 

 長門以下、その場にいた全員が息を飲む。

 

「かなり断片的ではありますが。W島攻略戦時に轟沈したことやその前後の記憶は曖昧なんですが、こと睦月さんのこととなると、鮮明に覚えている部分も多いです」

 

 明石がボードの端を指で叩く。考え事をするときの癖だ。

 

「こんなことは初めてで……上手く説明できないのですが。思うに如月さんは、新たに邂逅したというより、()()()()()()()()()()()()()()()()()()のではないかと」

「では、ドロップではないと、言いたいのか?」

「あくまで私の私見です。古鷹さんや青葉さんの報告は、ドロップそのものでしたし。ですが、単純にドロップと判断するには、不自然な点が見られます」

 

 そこまで言い切って、明石が一歩下がる。工廠の取締役としての役割はここまでだ。あとは長門たち首脳陣の判断となる。

 

「……本案件をD事案とする」

 

 D事案とは、海域での艦娘との邂逅を意味する。日課報告書とは別途に報告書が作成され、邂逅した艦娘の状態が詳細に記録されることとなる。また、提督の判断によっては、艦娘の隔離も選択肢に入ってくる。

 

 だが今回、この特殊な事案を、そのままD事案として処理していいものか。

 

「いいの?」

 

 長門の真意を確かめるように、陸奥が尋ねる。長門はそれに頷いた。

 

「このまま処理するのが一番現実的だ」

 

 そのまま長門は明石を促す。明石は一礼して、D事案指定時に必要な書類の作成に戻っていった。

 

 その背中を見送り、長門は改めて室内の面々を見回した。

 

「それで、私たち全員を集めた理由はなんデスカ?」

 

 五人を代表して尋ねたのは金剛だった。長門はそれに答えるべく、先ほど鳥海が提出した報告書を差し出す。

 

「気になる報告が二つあった。ここで共有しておきたい」

「気になる報告?」

 

 すでに報されていた陸奥を除いて、四人が顔を見合わせる。

 

「サーモン海域において、急激な海の変色が確認されている。具体的には、赤黒い色に変わるそうだ」

「赤潮ではなくて、ですか?」

 

 挙手して尋ねた比叡に長門は首を振る。

 

「地理的条件からは考えづらい。それに赤潮ならば、それほど急に色が変わることもない」

 

 長門の説明に納得したらしく、比叡は手を下げる。

 

「もう一つ。謎の声を聞いたという証言が、第八艦隊各艦から上がっている。こちらについては全くもって原因不明だ」

 

 先ほどのカセットテープがそれだ。青葉がとっさに持っていた録音機器で録音したものらしい。

 

「……海域の変色に、謎の声。サーモン海域に、何かあるのでしょうか」

 

 オカルトじみた話題に誰もが首を捻る。思考の海に沈もうとする空気を振り払うように、長門は柏手を打った。

 

「サーモン海域独特の自然現象である可能性もある。中央の文書を調べてみるが、いずれにしろ一度、調査のために艦隊を送るつもりだ」

 

 長門の宣言で、その場はともかくお開きとなった。

 

 

 

 

 

 

 電話の相手は至極驚いた様子だった。

 無理もない。上官の不在を唐突に告げられた部下の心持ちは、同じような経験がある身としても理解できる。

 

 口の端に小さく笑みを浮かべて、刑部横須賀鎮守府提督は電話を取っていた。

 

『……それでは提督は、ショートランドで指揮をお執りにならない、と?』

「そういうことだ」

 

 確認を求める声に、短く答える。電話をかけてきた長門は、いまだ納得していない様子であった。

 

『理由をお聞かせいただいても、よろしいでしょうか?』

「君も知っての通り、以前から北方海域に不穏な動きがあってな。そこへきてここ数日、深海棲艦の活動が活発化している」

 

 日本国政府にとって、北方海域は南方海域と並ぶ重要海域だ。同海域は米国との連絡航路が通っており、長引きつつある深海棲艦との戦争を継続するには、安全確保が不可欠な海域である。北方海域の深海棲艦排除は、最優先事項とされた。

 

 もっとも、理由はもういくらかあるのだが。

 

「同地はソ連との関係も絡む、複雑な海域だ。ゆえに、その辺りに精通した、私が適任と判断されたのだろう。司令部直々の申し出とあっては、私も断れない」

『……理由は、わかりました。それでは、南方作戦の指揮は、どなたが?』

「トラックの大神に頼んでおいた。もっとも、あいつも今本土に来ていてな。そっちに着くのは一週間後になりそうだ。それまでは、君が指揮を執るといい」

 

 電話口で、長門が諦めに近い溜め息を吐くのが聞こえた。

 

『しばらくは私が預かります。大神提督には、連絡がつきますか?』

「ああ、教えよう」

 

 大神の今連絡が取れる番号、それからトラックとの連絡船に繋がる番号を教え、電話を切る。

 

 それを待っていたように、部屋の扉が開いた。

 

「終わったか?」

 

 部屋に入ってきたのは、着古された第一種軍装を身に着ける男性だった。浅黒く焼けた肌が船乗りであったことを思わせる。無精ひげとほりの深い皺が、年齢以上に年老いて見せていた。

 

「はい」

「相変わらず嘘がうまいな」

 

 刑部は笑ってそれを否定する。

 

「嘘はついてませんよ。いくつか言っていないことはありますが」

「……司令部からお前に声がかかったのは本当だが、それをねじ込んだのはお前自身だろう」

「さて、何の話でしょう」

 

 この辺りを軽く流すくらいは朝飯前だ。無意味と悟ったのか、相手がそれ以上追求してくることはなかった。代わりに二つ言い残して部屋を去る。

 

「急いで支度しろ。大湊行きの電車が出るぞ」



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異変
異変(一)


 瞼の裏に浮かんだのは、久しぶりに思い出した、過去の光景だった。

 

 一種走馬灯のような記憶の片鱗は、水底から空を見上げるところから始まる。

 

 憎しみ。妬み。渇き。憧れ。そして何よりも大きな未練。そんな感覚だけをはっきりと憶えている。

 

 曖昧な断片をちぐはぐに繋ぎ合わせた映像は、すぐにどこかの空へ。波間を走る何かの群れ。海面に反射する砲炎。

 

 それらに色はない。

 

 当時のワタシにとって、世界とはそういうものだった。ただの白と黒の集まりで、大した意味などなかった。

 

 けれども明確に憶えている感覚がある。ワタシは何かに惹かれ、どこかを目指し、ひたすらに海を進んでいたことを。

 

 行きついた先に待っていたのは、炎という名の現実。焼けただれた我が身が、水底へと引きずられていく瞬間。

 

 ……そうして、気づいた時には、私は艦娘になっていた。その理由も、記憶の意味も、知らぬまま。

 

 

 

 

 

 

 艦娘たちの交流を目的とした祭の賑わいから、加賀はいくばくか距離を置いていた。丸太を切り出しただけのベンチに腰掛け、目を閉じる。その瞼の裏を記憶が通り過ぎ切ったその時、声をかける者がいた。

 

「ちょっと。いくらショートランドでも、風邪引くわよ」

 

 重い瞼を開くと、ツインテールを揺らす瑞鶴が立っていた。その手には二本のラムネ瓶。

 

「……何か用?」

「よ、用がないと、話しかけちゃいけないわけ?」

 

 どこかむすっとした表情になった彼女は、押し付けるようにしてラムネ瓶を渡してくる。

 

「ほら、これ」

 

 差し出された瓶をしげしげと見つめ、加賀は瑞鶴を見る。一体どういう風の吹き回しだ。

 

「あんた、ずっと祭から離れたところにいるでしょ。喉とか……乾いてるんじゃない」

 

 そんなことをのたまいながら、少しずつ顔がそっぽを向いて行ってしまう。わずかに見える耳たぶが真っ赤になっていたが、今日出ている屋台で酒類は扱われていないはずだ。

 

「い、いいから受け取りなさいよ!」

 

 最後には半ば放り投げるようにして、ラムネ瓶を胸元に押し付けてきた。それから乱雑に自分の分を開ける。当然のごとく、盛大に泡が噴き出して、瑞鶴の服を濡らした。

 

「うわあぁぁっ、せっかく着付けた浴衣が!」

 

 瑞鶴が悲鳴を上げる。彼女が着ていたのは、明石が貸し出しをしていた浴衣であった。慌ただしい後輩だ。

 そんな後輩が、わざわざ気を遣ってくるほど、今の自分は難しい顔をしていただろうか。

 

「ありがたくもらっておくわ。浴衣、綺麗にしてから返すのよ」

 

 それ以上その場に留まるほど度胸はなく。留まった時に後輩から浴びせられるであろう質問の答えも持ち合わせておらず。加賀はいつも通りに平静を装ってその場を立ち去る。

 加賀の内心を知ってか知らずか、後輩が追いかけてくることはなかった。

 

 何がそんなに引っかかっているのか。正直はっきりとはしない。いうなれば勘。自分のキャラではないと思いながらも、そう言うしかなかった。

 敬礼した如月の姿を、何度も反芻する。患者着の袖口。そこに見えたのは影だったのか、あるいは何かの痣か。

 

(まさか、ね)

 

 最悪の想定をし過ぎるのはよくないと、赤城にもよく言われている。きっと今回もその類だ。

 そう言い聞かせてもなお、胸のざわつきが収まることはなかった。

 

 

 

 

 

 

「五航戦、哨戒任務に就きます」

 

 整列した六人の艦娘を代表して、五航戦旗艦翔鶴が敬礼する。それに長門は応え、口を開いた。

 

「敵艦隊の増援がいつになるかわからない。気を引き締めて哨戒に当たってくれ」

 

 それだけを述べ、哨戒艦隊を送り出す。四十フィートコンテナ改造の出撃ドックに艦娘たちが入り、それぞれの艤装を装着して出撃していった。

 

「見送り?」

 

 穏やかな海面を切り裂く影が豆粒ほどになった頃、背中から陸奥が声をかけてきた。彼女には、他に四人の艦娘を集めるよう、お願いしていた。

 

「全員、集まったか?」

「ええ。あとは貴女だけよ」

「わかった。今行こう」

 

 踵を返し、長門は陸奥を伴って艦隊指揮所を目指す。陽は昇った。南方海域の新しい一日が始まる。

 

 

 

「――というわけだ。しばらく、私が指揮官代理として、南方作戦の指揮を執る。ここにいる者には、参謀として臨時司令部に参加し、意見を述べてもらいたい」

 

 集まった五人――陸奥、金剛、比叡、赤城、加賀を見回し、長門はそう述べた。全員艦隊旗艦の経験が豊富な艦娘たちである。

 

「南方作戦の現状はすでに昨日共有したので割愛させてもらう。ここで共有することは二点。海域の変色と謎の声についてだ」

 

 昨日報告があってから、ショートランドの書棚と中央の書庫(刑部のコネ)でサーモン海域に関する書籍の調査が行われていた。その結果報告が、今朝長門のところに上げられたのだ。

 

「結論から言うと、サーモン海域で今回のような現象の発生は確認されなかった」

 

 それが調査の結果であった。サーモン海域に関する古今東西の書籍の中に、海域の変色や声のような自然現象は確認されなかった。

 

「頼みの綱は、青葉の録音テープだったが……()()()()()()()()()()

「それは……どういう、ことですか?」

 

 比叡が尋ねる。

 

「文字通りの意味だ。テープに声は録音されていなかった。該当する箇所には、謎のノイズが混じっていただけだった」

 

 結局その声とやらが、何だったのか。それは当時その場にいた艦娘たちにしか、与り知らぬ事案となってしまった。

 

 とにかく、と長門は切り替える。

 

「現在、別の海域に似たような現象はないか、引き続き調査中だが望みは薄い。よって予定通り、調査艦隊を派遣し、当泊地で独自調査を行うこととする」

 

 とはいえ、事はそう簡単ではない。サーモン海域は南方作戦の最前線であり、いつ敵艦隊と遭遇してもおかしくない海域だ。海域の調査には水上機母艦の艦娘が当たる予定だが、彼女らの貧弱な武装では不安がある。

 

「調査艦隊旗艦は金剛に任せる。出撃は明朝。頼んだぞ」

「OK、任せるデース!」

 

 一任された金剛は親指を立てて自信満々に答える。彼女は過去に大規模な船団護衛作戦も経験しており、調査艦隊の護衛を任せるには最も適任と言えた。

 

「明日は哨戒空母部隊も攻撃兵装で待機させる。何かあった時は、全力で彼女らの防空圏内に退避してくれ」

 

 長門がそう念押しして、話は終わった。

 

 

 

 

 

 

 憂鬱な思考のせいで眠りは浅く、体はだるいままだが鍛錬を欠かすわけにはいかなかった。空母艦娘である加賀にとって、弓の扱いはそのまま艦載機運用能力に関わってくる。日々の調整は欠かせない。

 

 が。

 

――「今日はあまり集中できてないみたいですね。何かありましたか?」

 

 聡い相方にはすべてお見通しだったらしく、狙いからわずかにずれた矢を回収しながら、誤魔化すのが精一杯だった。それ以上追求してくるような赤城ではない。自分が本当にダメになった時は、問いかけなどせず問答無用で迫ってくるのだから。

 

 集中力の乱れは、ひいては大して眠れなかったことに原因がある。不十分な眠りの原因にも心当たりがある。その辺りの思考がぐるぐると渦巻き、また鬱屈した気分が押し寄せる。そんな自分にうんざりした。

 

 道場から寮までの道のりを、少しばかり砂浜に寄り道する。多少なりと気分転換にはなるだろうか。

 

(甘い考えね)

 

 一人で歩く砂浜など、思考の海への誘い以外の何ものでもなかった。

 

 が、その時。腹の底に響く重低音が空気を震わせた。本能的に身構えた加賀は、音の方向を探す。

 

(あそこは……)

 

 うっすらとした黒煙を見つけたのは、丁度演習場のある方向であった。確か、今日の午前中は――

 

 まさか。嫌な予感がじっとりとした汗となる。いても立ってもいられず、加賀は煙の方向へと走り出していた。

 

 演習場に辿り着くと、三つの人影が岸壁に上がってくるところだった。それを不安そうに見守る人影がさらに一つ。誰であるかは容易にわかった。

 足を震わせ、おぼつかない足取りの如月を、吹雪と夕立が支えている。陸でそれを迎えるのは睦月だ。

 うつむいた如月の表情は、何かに怯えるように暗かった。

 

「何があった?」

 

 騒ぎを聞きつけたのか、庁舎の方から長門が駆けつけてきた。加賀の方にチラリとだけ目線をやった長門は、そのまま四人の駆逐艦娘に歩み寄る。

 

 長門の問いかけに、四人は押し黙ったままだった。

 

 加賀は改めて辺りを見回す。先ほど見えた煙の根元は、演習場脇の小さな小屋から立ち上っていた。チリチリと小さな火災が起きており、妖精たちが消火作業に当たっている。

そして現場には、艦娘なら絶対に見分けられる、砲弾による弾痕。

 

「あの……如月ちゃんが……」

 

 不安げな目のまま、吹雪が口を開く。長門はそれだけで何かを察したらしかった。

 

「わかった。四人とも、もう上がれ。如月は明石のところで診てもらってこい」

 

 それだけ言い残して、長門は踵を返した。その視線が再び加賀と交錯する。

 

「……長門さん!」

 

 今度こそ、加賀は呼び止めずにいられなかった。最早思い過ごしではない。あるいは自らのネガティブな感情が、現実をも引き寄せてしまったのではないか。

 

 せめて当事者には――如月と親しい彼女らには、報せるべきだ。たとえ残酷な事実だとしても。

 

 ためらいともとれる間の後、針路を変更した長門の後ろでは、か細く震える如月を、同じようにか細い両腕で、睦月が抱き留めていた。

 

 

 

「……言うつもりか。仮にも最上級の軍機だぞ。艦娘たちの中でも、我々ごく一部にしか報されていないことだ」

 

 木陰の誰にも目につかない位置で、長門はそう釘を刺した。この場の最高指揮官であり、横須賀では提督から多くを任されている彼女の言葉だけあり、重い。それでも加賀は、譲るつもりがなかった。

 

「いつかは知られることです。私たちが気づいたように、彼女たちもいつか気づく」

「……例えそれが、彼女らにむごい現実を伝えることになっても、か?」

 

 この問いかけには、はっきりと答えることができなかった。

 

「わかりません。……それでも、残り僅かかもしれない時間を、有意義に過ごすことくらい、できるかもしれません」

「救われない願いだな」

 

 長門はかぶりを振った。正論だ。

 知らない方がいいことなど、この世界には溢れている。

 

「如月は……あれは、()()()()()()()()()()。そんな現実を、彼女らが受け入れられると思うか?」

「……だからこそ、です。だからこそ、その死の理由を、彼女らは知りたがるのではないでしょうか」

 

 加賀の言葉に、長門は腕を組んで黙考する。凛々しい顔立ちが険しく歪められ、より一層の迫力を伴う。その唇は固く引き結ばれたままだ。

 

「……わかった。全部は無理だが、私から伝えよう」

 

 諦めに近い溜め息を吐いて、長門がそう言った。だが加賀は、首を横に振る。

 

「私から伝えます」

 

 断固たる意志を込めたその言葉に、長門はこめかみを揉むと、踵を返すことで了承の意を示した。

 

 

 

 木陰から出てすぐさま、加賀は自らの失策を悟った。ただでは通さない。そんな意志を内面から滲み出させて、瑞鶴が立っていたからだ。

 せめてもの抵抗に、その横を素通りしようとする。だがそんなことで諦めてくれるほど、この後輩は従順ではなかった。

 

「何の話を、してたの」

 

 深い瞳が真っ直ぐに加賀を捉える。誤魔化しはきかないと一目でわかった。

 

 今度は加賀が諦めの溜息を吐く番だった。

 

「そうね……貴女にも、話しておいた方がいいかもしれない」

 

 その時加賀は、初めて彼女と出会った時のことを思い出していた。



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異変(二)

お久しぶりです。続きです。


 食欲がないという如月のために、睦月はおかゆを作っていた。多めに水を入れた米を、焦がさないようにかき混ぜながら炊いていく。寝室で横になっている如月のことは、吹雪と夕立が見ていてくれていた。

 

 白くどろどろとした粥をかき混ぜながら、睦月は午前の演習のことを思い返していた。

 

 体調がよかった如月は、明石の指示で早速艤装の試験に入った。調整済みだった如月の艤装を装着し、演習場に出る。睦月は陸上でそれを見守り、洋上で補助するのは吹雪と夕立だ。

 

 航行試験は滞りなく進んだ。久しぶりの海に如月も満足げだった。

 

 異変は砲撃試験が始まってからだった。軽炸薬の演習弾を用いていたのだが、途中から如月の様子がおかしくなり始めた。小刻みな震え、焦点の合わない目、額を伝う冷や汗。次第に狙いが、演習の的から外れていく。

 

 ()()()()()()()()()()

 

 きっと何かの手違いだったのだろう。それでも如月の最後のトリガーを引くには十分だった。

 

 パニック状態になった如月を吹雪と夕立がなだめ、何とか陸に抱え上げる。明石のところに連れて行ったが、とりあえず体に異常はないとのことで、今は寮に戻ってきていた。

 ただ、気が沈んでいることに変わりはなく、三人が何を話しかけても、小さな返事を返すばかりであった。

 

(大丈夫。ちょっと急ぎ過ぎたんだよね。これからはもっとゆっくり、やっていけばいいんだから)

 

 そう言い聞かせて、睦月は頬を叩く。自分まで暗い顔をしてはいけない。

 

 出来上がったお粥を皿に移して、スプーンと共にお盆に乗せる。彩に梅干しを一つ。

 

 部屋に戻ると、如月はベッドのふちに腰かけて、俯いていた。待っていてくれた吹雪と夕立は、お手上げといった様子で睦月を見る。

 睦月はできるだけの笑顔で、如月に話しかけた。

 

「お待たせ、如月ちゃん。お粥持ってきたよ」

 

 睦月の声に如月が顔を上げ、微かに笑った。力無い頷きと、蚊の鳴くような返事。夕陽の中で、それらが随分と儚げに見えた。

 

 お盆ごとお粥を受け取った如月が、スプーンに手を付ける。ゆっくりとした動作でお粥をすくい、口元へと近づける。

 だが、如月がお粥を口にすることはなかった。スプーンを置き、元のように暗い表情で俯く。薄い色の唇が、重々しく開かれた。

 

「睦月ちゃん……私、ここにいていいのかな」

 

 その言葉は、自分の存在を最大限に否定するものだった。睦月も含めて、その場にいた全員が息を飲む。冗談では済まされない、重い問いかけであるように、睦月には感じられた。

 

「何言ってるのっ。そんなの、当たり前だよ」

 

 咄嗟に口から出た言葉に、吹雪も夕立も大きく頷く。如月がここにいてはいけない理由なんて、ない。

 それでも如月は首を振る。

 

「だって……だって私、何も憶えてないんだよ。吹雪ちゃんや夕立ちゃんのことも、皆との思い出も、自分が……自分が、沈んだ時の、ことも」

 

 口を挟ませまいと、これ以上にないほど閉じたままの言葉が並べられる。両手で顔を覆ってしまった如月にかける言葉がない。

 憶えていることと、憶えていないこと。今の如月にはそのどちらもがある。いっそ何も憶えていなかった方が、楽だったのかもしれない。

 

「それなのに……それなのに、暗い海をあてどもなく彷徨った事だけは、はっきり憶えてるんだよ。行きたくないのに、皆のところに帰りたいのに、戻れなくて。やっぱり、私はあっちに行かなきゃいけないのかも、って」

 

 後半は最早うわ言だった。あまりにも抽象的で、それなのに具体性を伴った言葉が、重しのように空気を圧迫する。金縛りのような感覚に支配され、身じろぎすらできない。そんな迫力が如月の言葉にはあった。

 

(――それでも)

 

 それでも、口を開かねば。私が如月を守らなければ。もう二度と失わぬように、その心を繋ぎ止めねば。

 

「違うよ、如月ちゃん。今までもこれからも、ずっとずっと、如月ちゃんのいる場所はここだよ。悪い夢を見てたから、そんな風に思っちゃうだけだよ」

「違う、違うの睦月ちゃんっ。そういうことじゃ、ないのっ」

 

 睦月の言葉を遮って如月が叫ぶ。夕陽の中、こちらを見つめた瞳は、その端一杯に涙を溜めていた。

 

「夢じゃないの。確かに感じる。誰かに……何かに、呼ばれてる。怖いけど、逆らえなくて・・・だから私、今日、気づいたら、撃ってた」

 

 そこまで言い切って、如月はまた顔を覆う。

 

「あれは、事故だ、って。間違って、演習弾に実弾が紛れてただけだから……」

「でも、撃ったのは私なのっ。私が自分の意志で、あの時撃ったのっ。いつか……いつか私……皆の、ことも……」

 

 泣き崩れる如月。その背中に手を伸ばすことが、睦月にはできなかった。

 

 

 

 泣き疲れた如月は、そのまま眠ってしまった。無造作になってしまった髪をいくらか整え、睦月は溜め息を吐く。

 記憶の欠如を如月がこれほどに引きずっているとは思わなかった。

 

 否、それだけではない。

 暗い海。誰かに呼ばれている。そのうわ言が頭の中で繰り返される。

 如月には「悪い夢」と言い切ったが、果たしてそうだろうか。W島沖で轟沈してからサーモン海域で発見されるまで、如月に何があったのかは誰にもわからないのだから。

 

「大丈夫だよ、睦月ちゃん。如月ちゃん、まだ誤射のことで、混乱してるんだよ。一度寝て、落ち着いたら、きっと元気になるよ」

 

 吹雪がそう言って励ましてくれる。隣で見ていた彼女が誤射だというのだ。自分の意志で撃ったなんて、きっと如月の勘違いだ。

 

「うん……そうだよね」

 

 そう思うのに、返事はどうしても小さくなった。

 

 結局手を付けることなく、冷めきってしまったお粥のお盆を取ろうと、膝を折る。二段ベッドのすぐ横、小さなテーブルに置かれたそれに手を伸ばせば、必然的に如月の寝顔が目に入る。

 安らかな表情とは思えない。時折眉間に寄る皺は、また何か悪い夢を見ているのか。

 

「如月ちゃん、制服のまま寝ちゃったっぽい。寝苦しそうっぽい」

 

 夕立がそんなことを呟いた。言われて気づく。眉間の皺は、単に寝苦しかったからか。

 

「そうだね。あとで、寝巻に着替えてもらわないと」

 

 元々泣き疲れて寝てしまったこともあり、如月は腕を頭の方に上げるようにして寝ている。少し汗ばんだ首筋と二の腕が並んでいた。目を覚ますころにはお風呂は閉まっているだろうし(そもそも如月は、まだ経過観察中の身であるため、入浴は工廠で明石観察の元行われている)、軽くタオルで拭いてから着替えてもらわないと。

 

 その時ふと、如月の袖口が見えた。光の加減か、そこに濃い影が映る。

 

(あれ……?)

 

 何かおかしい。影というには、光との位置関係が違うような。どちらかといえば、痣のように見えた。

 打ち身か何かかな?ショートランドに来てから原因になるようなことはなかったし、その前にできたものだろうか。

 明石なら、その辺り何かを知っているかもしれない。

 

「お粥、戻してくるね」

 

 とりあえず目の前のやる事を片付けようと、立ち上がる。

 部屋の扉がノックされたのは丁度その時だ。こんな時間に誰だろうか。不思議に思いつつ、吹雪に扉を開けてもらう。

 

 オレンジの電灯が点り始めた廊下には、二人分の影があった。長身の女性が二人。いつものことではあるのだが、妙な威圧感を醸し出している。赤城と加賀だった。

 

「如月さんは?」

 

 先に口を開いたのは、珍しく加賀の方であった。その視線がチラリとベッドの方を窺う。

 

「今、寝たところです」

 

 睦月の答えに、加賀は「そう」とだけ返事をした。それから、ここからが本題と言うように、居住まいを正す。

 

「三人に話があるわ。少し外に出てもらえるかしら」

 

 お願いというよりも、命令に近い語気だった。ここでは――如月の前ではできない話らしい。

 

 ドクリ。胸の辺りで嫌な音がする。予感というにはあまりに生々しい。

 

「あの、お粥だけ戻してきていいですか?」

「ええ。ここで待っているわ」

 

 加賀が頷く。ここまで赤城がなんの反応も示していないのが、逆に怖い。

 

 共用の台所でお粥を処理し、睦月は部屋に戻る。部屋の前では、遠目にもわかる険しい表情の加賀と隣の赤城、そして不安げな僚艦二人が待っていた。

 寮を出た睦月たちを、加賀は近くの茂みへ案内する。灯火管制で街頭は消されているから、ここなら人目につかない。木の幹に隠れてしまえばなおさらだ。

 

 薄闇の中、月明かりだけを頼りに加賀の表情を窺う。血色の良い肌にくっきりと影が落ち、目の輝きを一層際立たせる。その美しさには月が似合った。

 

「端的に言うわ」

 

 月下の美人は、その光と同じように、冷めた声で話し始める。

 

あれ(・・)は如月じゃない。深海棲艦よ。それが私たちの結論」

 

 加賀の言葉は、異国のそれであるかのように理解できなかった。並べられた文字は聞き取れる。だというのに、その内容を理解することを、頭が拒んでいるようだった。

 

「どういう、意味ですか」

 

 それだけ喉から絞り出す。加賀の真意はわからない。冷静沈着な表情はいつも以上に感情を映し出さず、鉄面皮か能面のようにこちらを見つめ続ける。

 

「そのままの意味よ。あれは駆逐艦如月ではない。その姿に似た、深海棲艦」

 

 頭の中でカチリ、何かが途切れる音がした。今まで押しとどめていたタガが、外れる音だった。

 

「そんな……そんなわけないじゃないですかっ!!」

 

 普段では考えられない叫び声に、自分でも驚く。慣れていないせいか、声の端は掠れて震えた。それでも叫ばずにいられない。それだけは認められない。

 

 加賀が目を細める。

 

「如月ちゃんの偽物だっていうんですか?深海棲艦が如月ちゃんに化けてるって。そんなわけないっ!だってちゃんと憶えてた、睦月のこと憶えてた!」

 

 それでも加賀の表情は変わらない。それが何だと言わんばかりに、こちらを見つめている。そのすまし顔があまりにも憎らしく、睦月はこれでもかと睨み返した。

 

 それを見かねたのか、困り顔で赤城が助け舟を出す。

 

「そうね。そういう意味では、あの娘は正真正銘、駆逐艦如月です。貴女たちと過ごした記憶を持つ、駆逐艦如月です。だから、貴女たちの思っているのとは逆。彼女は今まさに、深海棲艦になろうとしているの」

「何を……言って」

 

 半ば微笑すら湛えたまま、そんなことをのたまう赤城の方が、余程恐ろしい。絶望は睦月の想像よりはるかに大きく、険しかった。

 

「深海棲艦は船の怨念。だから、同じく船である艦娘も、轟沈すれば深海棲艦になる」

 

 赤城が続ける。端的な、報告書をそのまま読み上げたような、そんな声色だ。

 

「W島沖で轟沈した如月さんは、もはや艦娘ではない。深海棲艦になりかけている、とても中途半端な状態と言えるわ」

「貴女たちも気が付かなかった?彼女の二の腕に、痣のような影があることに。あれは、深海棲艦に侵食されている証拠よ。それほど時間はない。数日以内に、如月は完全に深海棲艦になる」

 

 最後の加賀の言葉がとどめとなる。

 

 嘘だ。そう言いたい。言えてしまえばどんなに楽か。しかし、嘘というにはあまりにも現実味を帯び過ぎていた。何よりも睦月自身が、如月の異常を一番に感じ取っているのだから。

 それがまるで、如月を裏切っているみたいに思えた。反論の言葉は出てこず、代わりに強く唇を噛み締める。

 

「方法は……助ける方法は、ないんですか?」

 

 すがるような吹雪の言葉に、二人が首を横に振る。

 

「残念ながら、深海棲艦になるのを止める方法はないわ」

「そん……な」

 

 吹雪の肩がガクリと落ちる。このまま座して別れを待つしかないのか。夕立もまた、力なく俯いていた。

 

「ただ……一つ、如月を取り戻す方法なら、ある」

 

 加賀がポツリと、珍しく力の籠らない声で呟いた。期待などするな、言外の意味は感じ取れたが、それでも視線を向ける。加賀は溜め息を一つ。

 

「艦娘が深海棲艦になるように、深海棲艦も艦娘になることがある。――私のように」

 

 そっと息を飲む。今、加賀は何と言ったか。

 

「私には、深海棲艦だった時の記憶がある。とても断片的だけれど、確かなものよ。だから如月も、もしかしたら、深海棲艦から艦娘に戻ってこられるかもしれない」

 

衝撃の波状攻撃に、頭の処理が追い付かない。吹雪と夕立も似たような状態だ。目を真ん丸に見開き、開いた口が塞がらない様子で、加賀の言葉を反芻している。

 

「それじゃあ……加賀さんは、私たちの敵だった、ってことですか?」

「……そうなるわね」

 

 加賀は否定しなかった。細められていた目が、今度は閉じられる。記憶の片鱗を思い出しているのか、表情がいつもよりさらに冷たい。もしかしたらそれは、艦娘を襲った記憶なのかもしれない。

 

「……加賀さんは、どうやって艦娘に戻れたんですか?」

「詳しい理屈はわからない。けれど方法は一つ」

 

 

 

「深海棲艦が、艦娘によって沈められることよ」



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異変(三)

 月が、雲に隠れ始めていた。あまり厚くないそれは、月光を覆い隠すには至らない。だが辺りの暗さはより一層深くなり、目の前の少女たちの表情すら読み取れなくしていた。

 

 加賀は自らの話を続ける。

 

「艦娘と深海棲艦、その存在は表裏一体、コインの表と裏のようなものよ。同じ船としての、片方の側面を艦娘、もう片方の側面を深海棲艦と、私たちは呼んでいるだけ。二つの側面は、轟沈というプロセスによって反転する。そして基本的には、その過程で全ての記憶がリセットされる。それが、今わかっている、艦娘と深海棲艦の関係性」

 

 言い切った後には、重い静寂が横たわる。圧倒的な絶望に押し潰されたか、三人の少女は浅い息すらも止めている。

 

「……それって、意味ないっぽい」

 

 やっとの思いで夕立が口を開いた。懇願するような、縋り付くような、そんなセリフを、しかし加賀には真実だからと切り捨てることしかできない。何よりも自らの存在が、それを証明してしまっている。

 いつからかはわからないが、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「わたしたちの戦いに、何の意味があるんですか・・・」

 

 吹雪が力なく呟く。加賀は答えない。加賀には答えられない。

 

 意味。戦う意味。それを追い求めるのは無駄なことだと、いつからか割り切っていた。

 しいて言えば、それが存在理由だからだ。深海棲艦と戦うことだけが、艦娘の存在価値だからだ。

 

(無機質な考えね)

 

 これでは深海棲艦と変わらない。いや、私はまだ、変われていない。

 

「……意味は、あるわ」

 

 その沈黙を切り裂いて、赤城が力強く言う。いつも穏やかな彼女に珍しい、張りのある声色にはっとする。

 

「加賀さんはここにいる。艦娘として戻って来た。それだけで意味があるわ」

 

 赤城の顔を見遣る。いたって真剣で、一点も曇りない表情が、彼女が本気であることを物語る。

 意味がないなんて言うな。彼女は本気でそう思っている。

 

「深海棲艦だった加賀さんは、今こうしてここにいる。それは確かに、永遠の繰り返しの証拠かもしれない。けれど、加賀さんが艦娘である限り、()()()()()()()()()()()()()()()

「……!そうか、私たちが沈むことなく、深海棲艦に勝ち続ければ」

 

 吹雪が何かに気づいたように、目を輝かせる。

 

「ええ。この戦いを終わらせることができる。永遠の繰り返しを、断ち切ることができるわ」

 

 強い肯定の言葉に、吹雪と夕立が顔を見合わせる。希望が戻った表情。けれどもただ一人、睦月だけは違った。

 

「そんなの……そんなのどうでもいいっ!」

 

 強い否定の言葉。全てを振り出しに戻す叫び声。それが睦月の本心だった。

 

「如月ちゃんを……如月ちゃんを、元に戻すには……」

 

 睦月の言葉が、それ以上紡がれることはない。俯き、噛み締めた歯の間から、呻きのような音が漏れる。それは必死にこらえた、嗚咽の声だった。

 

「……深海棲艦になった如月を、沈める」

 

 誰かがはっきり告げなければ。その役目は私のものだ。これは私が言いだしたことなのだから。

 

 呻きが確かな嗚咽に変わる。声にならない絶望を吐き出し、睦月は崩れ落ちた。膝を抱え、ただひたすらに泣き続ける彼女を、のこのこと顔を出した月が非常識にも照らしていた。

 

 

 

 泣き続ける睦月は、吹雪と夕立に連れられて立ち去っていった。とにもかくにも落ち着くまで、食堂にいるという。部屋ではまだ如月が寝ているのだ。

 加賀たちも寝る気にはなれず、足は自然と指揮室の方へ向いていた。今日の当直である陸奥が、今は控えている。

 

「……余計な希望を、与えてしまったでしょうか」

 

 ポツリ、赤城が呟く。

 

「戦いが繰り返すことを、彼女たちは『意味がない』と言った。何だかその希望を、無くしたくはなくなってしまって」

 

 寂し気なその声は、まるで彼女自身がその希望を諦めているように聞こえた。

 

「……赤城さん」

「なあに、加賀さん?」

 

 何とはなしに呼びかけた声に、赤城は律儀な返事をした。こちらを窺う顔に、何を言ったものかと口ごもる。何かを考えて呼んだわけではない。

 

「……ありがとう、ございました。赤城さんについて来てもらって、よかった」

 

 睦月たちのもとへ行こうとしていた加賀に、赤城は半ば強引についてきたのだった。その判断は的確で、加賀は大いに彼女に救われた。

 

「加賀さんが放っておけない顔をしていたので。ついてきてしまいました」

 

 赤城はコロコロと笑う。何だか急に恥ずかしくなって、加賀は目を背けた。

 赤城の笑みはますます大きくなった。



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急転
急転(一)


新章突入です。


 ……また、あの夢だ。

 

 真っ暗で、何も見えない、延々と続く海。暗い暗い、墨のような海。

 

 私はそこに、ただ一人。

 

 誰かを呼ぶ。振り向き、見渡し、あらゆる手を尽くして探す。声を張り上げ、誰かを求める。

 

 それは誰だったのか。

 

 返事はない。答えはない。闇は晴れず、やはり私はここに一人。

 

 最早進むことも、戻ることもできない。振り絞って放った最後の声は、虚しい木霊を響かせるだけ。

 

 ……違う、木霊じゃない。確かに聞こえた。それは誰かが、私の声に応えたもの。

 

 誰。そこにいるのは誰。私がずっと呼び続けた、貴女なの。

 

 木霊は呼びかけ続ける。声は闇の先、波の先、この目では届かぬ先。

 

 残った力で進みだす。声のする方へ、呼びかけてくる闇の向こうへ。

 

 その声の正体が、ずっと探し続けた誰かのものなのか。それは最早、些細な問題であるように思えた。

 

 

 

 

 

 

「お出迎えありがとうございます」

 

 簡易出撃ドックとなっているコンテナから出てきた人影は、シャナリという音が聞こえるほど優雅に敬礼をした。長門はそれに短く答礼する。お互いに右手を下げたところで、長門が先導する形で歩きだした。

 

 長門よりも少しばかり高い背、その背丈ほどもある長い髪は、頭の高い位置で一房にまとめられている。そこに刺された、桜をあしらっている簪がよく似合う、そんな大和撫子である。

 戦艦大和。艦娘たちの最終兵器とでも言うべき強力な艦だ。所属はトラック泊地であり、元々南方作戦には召集されていない。が、トラック泊地の指揮官である大神提督が刑部提督から南方作戦の指揮権を引き継ぐことになり、彼の指揮下である大和もまたオブザーバーという形で作戦に参加する運びとなったのだ。

 

「大神提督が到着されるまで、第七艦隊第一特務分隊(トラック泊地所属艦隊南方作戦派遣部隊)の指揮は私がお預かりしています」

 

 庁舎へと歩きながら、大和が話し始める。

 

「今後の作戦展開については承知していませんが、必要であれば、私たちを第八艦隊の指揮下に組み込んでいただいて構いません」

 

 どうされますか?そう尋ねるように大和が顔を覗き込んでくる。それに長門は、腕組みと溜め息をもって答えた。

 

「そこをまだ悩んでいるんだ」

「と、言いますと?」

「詳しい状況はこれから話す。第七艦隊の第八艦隊への編入は、それからでも遅くはあるまい」

 

 長門の話に納得したらしく、大和ははっきりと頷いて見せた。

 

「わかりました。そうさせていただきます」

 

 

 

 

 

 

 肩のあたりが揺すられて初めて、自分が目を閉じていたことに気づいた。いつの間に眠ってしまったのだろうか。両腕に痛みがあるあたり、その上でうつぶせになっていたらしい。

 

「睦月ちゃん、起きた?おはよう」

 

 顔を起こすと、吹雪がこちらを覗き込んでいた。隣には夕立も立っている。

 

「うん……おはよう」

 

 寝ぼけ眼のまま辺りを見回す。どうやら食堂らしい。少しして頭の中が晴れてくると、昨夜のことが思い出された。泣き疲れた私は、そのままここで寝ていたのだろう。

 見れば、吹雪も夕立も、顔に不自然に赤いところがある。二人もこの食堂で寝ていたのだろうか。

 

「睦月ちゃん、顔洗ってきた方がいいっぽい。スッキリするっぽい」

 

 夕立がそう言う。あれだけ泣いて、そのまま寝てしまったのだ。さぞかしひどい顔になっているに違いない。そう思うと、何だか急に恥ずかしくなった。

 

「戻ってきたら、一緒にご飯にしよう」

 

 笑って送り出す吹雪に頷いて、睦月は立ち上がる。無理な体勢のせいで節々痛いが、とにもかくにも顔を洗うのが先決であった。

 

 

 

 かなりスッキリして食堂に戻ると、すでに間宮と伊良湖が朝食の準備をあらかた終えていた。厨房の方からは、みそ汁の香りが漂ってくる。その匂いを嗅いだ途端、無性にお腹が空いてきた。

 

「今できるから。もう少し待っててね」

 

 間宮がニコニコとこちらに言った。

 

 朝食の準備をするために、彼女は睦月が起きるよりも早く、この食堂に来ていたはずだ。睦月がなぜここで寝ていたのか。それを尋ねてこないのは、吹雪たちが答えたからなのか、そういうことを聞かない性質なのか。

 間宮はいつもの通りに、ご飯や味噌汁、おかずを盆の上に並べていく。三人分が揃ったところで、声がかかった。

 

 机に並んだ朝食は、今日も今日とていい匂いとふくよかな湯気を漂わせている。端的に言って、食欲がそそられる光景だ。これでお腹が鳴らないわけがない。

 

「さ、食べよう」

 

 手を合わせる。結局昨日の夜は、睦月もまともに食べられていない。満足のいくような食事はこれが一食ぶりではないだろうか。

 ほうれん草のお浸し。鮭の塩焼き。漬物を少々摘まみながら、麦飯をかきこむ。その合間に味噌汁の塩気を挟めば、朝食はあっという間に消えてしまった。あまりの早さに、睦月自身も驚いたくらいだ。しかもここに来て、体はもう少しばかりの養分を欲しているらしい。

 チラリ。ほぼ無意識のうちに厨房を窺ってしまう。おかわりの余地はあるだろうか。

 と、そこで当然のように、間宮と目が合ってしまった。ニコリと微笑んだ彼女は何かを察したのか、一旦厨房の中に戻っていく。

 ほんの一分ほどで暖簾をくぐった間宮は、小さなお皿の上におにぎりを三つ乗せて現れた。パタパタとこちらへやって来る。

 

「三人とも、まだ少し、お腹が空いてるでしょう?よかったら、食べてね」

 

 コトリ。そう言っておにぎりの皿を置いていく。形よく三角形に握られたお米が、つやつやと色よく輝いた。

 

「具になりそうな余り物があまりなかったから、鮭で申し訳ないんだけれど」

 

 いや、十分すぎるくらいだ。潮気のきいた焼き鮭が、このおにぎりの中に入っている。そう思うだけで、生唾が出てきた。

 

「ありがとうございます。いただきます」

 

 思いがけず追加された朝食を、ありがたく受け取る。含んだおにぎりはまだ暖かく、口の中でほくほくといっていた。ほぐされた鮭との相性も抜群だ。

 

 用意されたおにぎりも平らげ、三人は満腹の息を吐く。さすがにお腹が膨れた。とてもいい朝食だった。

 

「ごちそうさま」

 

 仲良く手を合わせ、お盆を持って立ち上がる。

 

「おそまつさま。おいしそうに食べてくれると、とても作り甲斐があるわ」

 

 間宮は心底嬉しそうにニコニコと笑っていた。

 

 三人が食堂を後にすると、入れ替わるようにして他の艦娘たちが入ってくる。本来はこれからが朝食の時間だ。さすがに睦月たちは早すぎた。

 

 食堂から寮への道すがら、海面を完全に離れた太陽に照らされながら、三人は口も開かず歩いていく。満腹になった満足感もあったのだろうが、理由はそれ以外にもある。

 栄養分を取り入れたことで、頭が正常に回転するようになってきた。思考が回り、記憶の中から様々なことを考え始める。

 当然それは、昨夜のことも含めてだ。

 

「如月ちゃん、もうそろそろ起きてるかな」

 

 吹雪が呟く。

 

「起きてたら……ご飯、食べてもらうといいっぽい。きっと、元気が出るっぽい」

 

 夕立はそう言って微笑んだ。昨夜のことでささくれていた心が、少しばかり和らぐ。やはりご飯の力は偉大だ。心にいくばくかの余裕を持てる。

 

 居室の前で二人と別れ、睦月は自室に入る。

 

「如月ちゃん、起きてる?」

 

 そう尋ねて覗き込んだベッドの中に、如月の姿はなかった。



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急転(二)

 早朝にショートランドを出立した金剛率いる調査艦隊は、一一三〇をもって変色海域に突入していた。

 

 ショートランドの作戦指揮室に控える長門に通信を入れ、金剛は改めて周囲を見渡す。

 変色海域と言っても、辺り一帯全てが赤い海というわけではない。海域の端の方であるこの辺では、赤い部分はまだまだまばらだ。

 

 ただすでに、調査艦隊の面々は異変を肌で感じ取っている。生物の気配が全くしないのだ。

 

(一体何なんデスカ、これは)

 

 背筋を幾度となく悪寒が走り抜ける。本能的な恐怖、忌避感が、早々にここから立ち去れと告げているようだ。それに逆らう代償か、先ほどから額の冷や汗が止まらない。

 

「金剛さん、もう少し奥地へ行っていただけますか?」

 

 海域調査の担当として艦隊に加わっている水上機母艦瑞穂が要求する。ただし毅然とした口調とは裏腹に、その足元は小刻みに震えていた。

 

「……わかりました。調査艦隊はもう少し前進しマス」

 

 金剛の言葉に全員が頷く。この先はサーモン海域、南方作戦の最前線だ。今でこそ落ち着いているとはいえ、いつまた深海棲艦の活動が活発化してもおかしくない。そこでは、非戦闘艦の瑞穂をかばって戦うことは難しい。

 しかしながら、金剛たち調査艦隊には海域の異常解明という任務が与えられている。ここで前進しなければ、それは成果なしということだ。

 

 瑞穂を中心に置いた輪形陣で調査艦隊が前進する。周囲に展開した駆逐艦島風、村雨、春雨、軽巡洋艦那珂は周辺の警戒に従事する。サーモン海域は島影が多い。どこから襲撃されるか、わかったものではなかった。

 サーモン海域の深部に向かえば向かうほど、海水の赤みが増していく。まだら模様だった赤い海が、十数分進むと完全に真紅に染まっていた。

 

「瑞穂、零水偵(零式水上偵察機)の準備をしてくだサイ」

「わかりました。五分ください」

 

 金剛の指示に瑞穂が頷き、すぐに零水偵が格納庫から引き出され始める。使用する機体は六機。これ以上深部の海域に突入すれば復路が夜となってしまうため、代わりの眼として用意されたのだ。

 

「零水偵全機、発艦準備完了です」

 

 きっかり五分で準備が完了し、瑞穂のカタパルトから六機の零水偵が放たれた。飛び出した機体はそれぞれ定められた方向へと飛んでいく。

 

 だがその時すでに、異変は起こり始めていた。

 

「金剛さん、ちょっとよろしいですか?」

 

 零水偵を放ってから五分とせず、瑞穂が困惑した様子で金剛を呼んだ。海面に浮かんでいた魚の死骸から一度手を離し、金剛は振り返る。

 

「先ほどから、零水偵との通信が途絶えがちです。通信にノイズが入ってしまって」

「ノイズ?」

 

 言われて、試しに通信機を立ち上げてみる。途端、甲高く周期的な音が流れてきた。不快さに思わず顔をしかめる。

 

(通信障害?それとも、妨害?)

 

 だがサーモン海域に突入するまでは、こんな現象はなかった。もっと言えば、変色海域に突入するまで、通信は極めて良好だったのだ。

 

(何か因果関係があるかもしれまセン)

 

 そんなことを考えつつ、以後の指示は手信号と発光信号を用いる旨を各艦に伝える。零水偵の方はあらかじめ航路を指定してあるので、ともかくその帰りを待つこととした。

 

 やはりただの変色ではない。この赤い海には何かがある。自然現象などではないのだ。そんな確証に似た感覚を握り締め、金剛は採取したサンプルたちを睨んだ。

 

 不思議な声が聞こえ始めたのは、それからしばらくしてのことだった。

 

 

 

 

 

 

 二航戦を預かる蒼龍は焦っていた。

 理由は明白だ。二十分ほど前から、調査艦隊との連絡が途絶したのである。何度も呼びかけ続けているが、返事はなく、今もって状況は不明だ。

 

 蒼龍率いる二航戦は、定期の哨戒任務と同時に、調査艦隊の援護も担っていた。サーモン海域に敵艦隊が確認されれば、控えさせた攻撃隊をもって調査艦隊の撤退を援護する。そのために索敵機を念入りに巡らせていたし、攻撃隊もいつでも出せるように雷爆装をさせて待機させていた。

 

 だが、肝心の調査艦隊と、連絡が途絶してしまったのだ。

 そればかりではない。サーモン海域方面へと放った索敵機は、そのことごとくが定時連絡を絶っていた。すわ、敵戦闘機に撃墜されたか、とも考えたが、ただの一機も敵機の襲撃を受けた旨を報告していないのは不自然であった。

 ともかく何かの異常があったことは間違いないのだ。それを確かめるために、今追加で索敵機を出すか否か、そこが悩みどころであった。

 

『飛龍より蒼龍。定時連絡の時間です。四号機から六号機まで、いまだ連絡ありません』

 

 僚艦の飛龍も心配そうに報告する。最前線の海域だけに、気が気ではない。

 

『……飛龍より、蒼龍宛て意見具申。待機させている攻撃隊の一部を、索敵攻撃に当ててはどうでしょうか?』

 

 飛龍らしい具申に、蒼龍は思案する。索敵攻撃は一つの手だ。不発になる可能性も考えられなくはないが、最悪の事態に迅速に対応できる。

 

「……飛龍の意見具申を入れます。二航戦は第一次攻撃隊分を索敵攻撃に当てます。準備出来次第発艦始めてください」

 

 そう言うや否や、蒼龍は矢筒から矢を取り出し、弓に番えた。多くの空母艦娘に共通した得物である和弓を構え、ゆっくりと引き絞る。

 

「攻撃隊、発艦始め」

 

 風上に構えた矢を、息もせず解放してやる。弦が矢を押し出し、ひょうふっと軽快な音を立てて宙空へ躍り出る。真っ直ぐに風を切り裂いた矢は、燐光を放って三機の航空機へと変化した。

 零式艦上戦闘機六四型。長らく艦娘たちの頭上を守って来た零戦の、最終形態となる機体だ。発動機が「金星」に更新されたことで、これまで以上の速度性能を叩き出す。また、零戦の持ち味である格闘性能も、損なわれていない。

 

 これらに続いて、艦上攻撃機「流星」が高空へ放たれる。急降下爆撃機と雷撃機の統合機となる「流星」は、ここ最近機動部隊に配備され始めたばかりの新鋭機だ。偵察攻撃には、爆装していた機体を当てている。

 総勢で四十余機。ものの数分で発艦を終えた攻撃隊は、鶴翼の編隊を組み、南へ――サーモン海域方面へと進んでいった。

 

(何もなければ、それでいいんだけど)

 

 そんな願望を抱きながらも、眉間の辺りに力が入らざるを得なかった。

 

 

 

 状況の変化は、サーモン海域とは全く別の方向からやって来た。

 

 緊急電は蒼龍二号機――北東方面を担当していた機体から飛んできたのだ。

 

『敵艦隊見ゆ。ガ島よりの方位〇二六、三百海里。敵は空母級二隻以上を含む』

 

 敵機動部隊であった。ここへきて、ついに深海棲艦は動きだしたのだ。

 

(こんな時に……!)

 

 奥歯を強く噛む。間が悪すぎる。いまだ調査艦隊との連絡は回復しておらず、火急の用件を伝えることができない。それも、深海棲艦機動部隊の出現という、想定しうる限り最悪の事態だというのに。

 

『どうする蒼龍?攻撃隊を呼び戻す?』

 

 もっともらしい具申だ。偵察攻撃隊を放ってまだ三十分足らず。攻撃隊はサーモン海域に至っておらず、今から反転すれば発見した敵艦隊へ向けることも可能だ。

 空母の戦いは先手必勝。先に攻撃した方が圧倒的に有利だ。

 

 だが、こと今回に限って言えば。

 

「……攻撃隊の針路はそのまま。調査艦隊を発見した場合は、すぐにこの現状を伝えて」

 

 こういう時のための偵察攻撃だ。蒼龍の指示に対し、隊長妖精が了解の旨を伝える。

 

「調査艦隊撤退までの時間を稼ぎます。敵艦隊の注意をこちらへ引き付けましょう」

 

 それが蒼龍の決断だった。護衛役として付き従っていた駆逐艦朝潮、大潮、満潮、荒潮が構えた主砲のグリップを握り締める。緊張は当然だ。これからたった六隻で、敵空母を相手取るのだから。

 

 ショートランドの作戦指揮室宛てに文面を送りつつ、蒼龍から飛龍へ指示が飛ぶ。

 

「蒼龍より飛龍。攻撃隊は最初の一回のみ。あとは戦闘機で凌ぎつつ、北方へ誘引する」

『飛龍了解。いつでもやれます』

 

 飛龍が鉢巻きを締め直し、力強く頷く。頼もしい限りの言葉に、ふっと肩の力が抜ける。

 この僚艦と、幾度となく死線を潜り抜けてきたのだ。今度だって間違いなくやれる。

 

「攻撃隊、発艦始め!」

 

 号令と共に、新たな矢が放たれる。格納庫に残されていた零戦と雷装「流星」が次々に高空へ飛び立ち、発見された敵機動部隊へと飛翔していく。その姿を見守る暇もなく、蒼龍は格納庫内の予備機組み立てを命じていた。分解されていた零戦の機体が妖精たちの手によって組み上げられ、弓矢となって矢筒に収まる。この零戦が、防空戦闘を担うのだ。

 

「艦隊針路〇〇〇。各艦、対空警戒を厳となせ」

 

 遥かな空。見えないその彼方を睨む。来るなら来い。そんな決意を秘め、蒼龍たちは針路を真北へと取った。

 

 

 

 

 

 

 息が切れるほど、走った。

 走って走って走って。とにもかくにも、我武者羅に、無我夢中で走った。ひた走って、睦月はその人影を探していた。

 どこ。どこに行ったの。食堂にはいなかった。お風呂。甘味処。娯楽室。どこにもいなかった。どこで何をしているのか、見当もつかなかった。

 

「如月ちゃん……!」

 

 上がり切った息の合間に、その名前を呼ぶ。見渡す限りに人影はなく、さわさわと南国の風が呑気に流れる。それがさらに焦燥を掻き立てた。

 一度息を整える。滝のようだった汗を拭い、二度三度と深呼吸。

 

 ふと、一つの建物が目に入った。艦娘たちが使う大浴場だ。昼間はほとんど人の出入りがなく、とても静かなものだった。

 もしかしたら。一縷の望みを抱き、戸を開く。やはり中は静かで、電灯も消えて薄暗い。およそ人の気配というものは感じられなかった。

 

「どこ行っちゃったの……」

 

 両足の力が抜けて、へたりこむ。如月は見つからない。もぬけの殻だったベッドから、そのままどこへ行ったのかもわからない。

 思い詰めていたことなど、わかりきっていた。なのに私は、一晩の間彼女を放ったままだったのだ。苦しんでいた彼女の側から逃げたのだ。

 如月は深海棲艦。そう言った加賀の言葉から逃げたのだ。

 

 こうしている場合ではない。とにかく如月を見つけないと。両足にもう一度力を込め、立ち上がる。

 その時、洗面所の方で物音がした。ガタリ。何かが倒れ込むような、大きな音だった。

 誰かがいる。睦月は洗面所へと通じる扉へ駆け寄り、ノブを捻った。

 

 そこには、探していた人がいた。支給されている睦月型共通のパーカーを羽織っているが、フードからのぞく長い髪でわかる。如月は力なくうなだれ、床にへたり込んでいた。

 

「如月ちゃん!」

 

 名前を呼ぶ。ハッとして振り返った如月は、怯えるような目でこちらを見ていた。

 ハラリ。その拍子に、被っていたフードがめくれる。

 一瞬。ほんの一瞬、睦月はこの場にいることを後悔した。

 

 青白い肌。血の通わない頬。そこを侵食する、邪悪な何か。最早痣と見紛うことはない。本来如月にあるはずのない、あってはならない異物の存在。

 いいや、そんなものは小さな変化にすら思える。額の辺り、せっかくの髪を押し退けて主張する、それは明らかに角であった。艦娘にはどう考えてもあるはずのないものであった。

 

「如月、ちゃん……」

 

 瞬間、如月は立ち上がり、脱兎のごとく駆け出した。突然の動きに反応が遅れ、睦月は身をすくめる。そのすぐ横を、風が走り抜けた。

 匂いがした。如月のものではない。春の花畑のような暖かな香りではなく。とても嗅ぎ慣れた、忌避感の香り。微かな潮と、それよりも強い邪悪の匂い。鉄と死と渇望をない交ぜにした匂い。

 

 深海棲艦の匂い。

 

 疑いようはない。加賀の言っていたことは真実で、睦月が受け入れずとも現実は進んでいく。

 追いかけなければ、取り返しのつかないことになる。

 

「待って如月ちゃん!」

 

 ようやく我を取り戻し、睦月は駆けだす。元々足は睦月の方が早い。きっと追いつける、そう思って如月の背中を追った。

 

「如月ちゃん!」

 

 走りながらの呼びかけに、如月がビクンと反応する。その拍子に足がもつれ、如月は倒れ込んだ。睦月は慌ててその腕を取る。

 たったそれだけの動作に、如月はもう一度、ビクリと震えた。

 か細い腕、軽い体。支えきれなかった重みが、その心を押し潰す。如月は最早限界だった。

 

 如月の右腕を、赤い血が伝っていた。よく見れば、左手に血の付いた布巾を持っている。

 

(まさか……)

 

「……腕、まくるね、如月ちゃん」

 

 如月は拒むでもなく、たださらに俯きを増す。

 

 ゆっくり、ゆっくり。如月を刺激しないよう、慎重に。彼女の心が、精神が、何の拍子で壊れるか、わからなかった。

 めくった右腕の下。滴る血液。二の腕まで袖をまくり上げた。

 奥歯を強く噛み締め、悲鳴を堪える。

 

 それは最早、痣などというものではなかった。どくどくと脈打つ邪悪。刺々しく変色する表面。背中を幾重にも悪寒が走り抜ける。

 深海棲艦。そこに息づいていたのは、疑いようもなく深海棲艦であった。如月という姿形をした、しかしその体を蝕んでいく深海棲艦。

 血は、そこから流れ出ていた。強く強く、力まかせにこすった傷跡。

 如月は、その手に握った布巾で、必死に、このよく知っている邪悪を、取り除こうとしたのだ。自らの異物を懸命に拒もうとしていたのだ。

 

 袖を元に戻す。如月はまだ、俯いたまま。

 

「私……私……」

 

 掠れるような声で呟いている。

 その背中を、そっと抱き締めた。ほとんど無意識に、両の腕で如月を包んでいた。

 細く小さな体。ともすれば壊れてしまいそうな体。ほんの少し力を加えれば、この腕で崩せてしまいそうな体。

 睦月にとって、彼女は愛しい姉妹であり、尊敬する先輩だ。鎮守府に着任したばかりの睦月を、暖かく、優しく迎えてくれたのが彼女だ。

 その如月が今、腕の中で身を震わせている。肩を小さくして、小刻みに震えて。

 

「大丈夫。大丈夫、だから。如月ちゃんの側には、ずっとずっと、私がいるから」

 

 今度はちゃんと、そう言うことができた。



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急転(三)

「それでは、それぞれ報告をお願いします」

 

 陽が暮れたショートランド基地。遮光カーテンを閉め切った作戦指揮室には、いまだ煌々と電気が灯っていた。中央の海図台を囲むようにして、長門と臨時司令部の参謀を任された面々、通信部門を担当する大淀、それに今日新しく加わった大和が立っている。いずれもとても険しい顔をしており、真っ黒なカーテンでただでさえ重い空気が、さらに重量感を増していた。

 海図台を囲む面々を一通り見まわし、長門は頷く。厳しい時だからこそ、状況は正確に把握しておきたい。

 進行を担当する大淀の言葉を受け、真っ先に話し始めたのは金剛であった。

 

「変色海域について、いくつか新しい事実が判明しマシタ」

 

 コトリ。そう言って金剛は、蓋のされた容器を海図台上に置く。うっすらとだが赤く染まったその液体は、紛れもなく変色海域の海水だ。サンプルとして金剛が持ち帰ったものの一部である。

 

「まず、変色海域内においては、何らかの電波障害が発生しており、艦隊間の長距離通信はもちろん、近距離での無線通信もままなりませんデシタ」

 

 金剛の報告に、加賀が挙手して疑問を呈する。

 

「サーモン海域内ですし、深海棲艦による電波妨害、とは考えられませんか?」

 

 その疑問には大淀が首を振る。

 

「サーモン海域を覆うほどの電波障害となれば、それ相応の設備が必要になります。ですがそうした設備の建設は、サーモン海域内では確認されていません。深海棲艦による仕業、というのは考えにくい可能性かと思います」

 

 大淀の補足に金剛はウンウンと大きく頷いた。

 

「その通りデス。それと、電波障害が変色海域と関連している、という考えの根拠はもう一つありマス。電波障害の影響範囲と、変色海域の範囲が、完全に一致しているのデス」

 

 そう言って金剛は、海図に青のペンで線を描く。確認された限りでの電波障害発生範囲だ。だがその線は、あらかじめ海図に書き込まれていた変色海域の範囲とは一致していない。むしろその外だ。

 

「変色海域の範囲と、一致していないようだけれど」

 

 陸奥がその点について質問する。これに答えたのは、金剛とは別方向、大和であった。

 

「それについては、私から」

 

 立ち上がった大和は、あらかじめ用意されていた黒板の前に立ち、チョークを取る。黒板には、サーモン海域の概略図。

 

「現在発生している変色海域ですが。時間経過による拡大が確認されています」

 

 長門は目を見開く。喉まで出かかった「なんだと」を押しとどめ、続きを促した。

 

「速度はそれほど早くありませんが、それでも一日にこれだけ拡大しています」

 

 そう言って大和は二本の線を引く。いずれも真円に近い、同心円。サーモン海域深部の一点を中心として広がっている。

 

「内側の赤線が、昨日一三〇〇時に観測された範囲、外側の青線が本日一三〇〇時に観測された範囲です。このペースで行くと、一〇〇時間前後でこのショートランドまで到達します」

「……後五日ない、ということね」

 

 陸奥の呟きに頷いて、大和は席に戻る。長門はその背中を椅子の背もたれに預けた。

 

(いよいよもって、大神提督の到着を待っていられなくなった)

 

 刑部から指揮を引き継いだ提督の到着は、早くて六日後だ。それを待っていれば手遅れになる。

 

 金剛が話を再開する。

 

「先ほどの観測結果を反映すると、電波障害の発生範囲とぴたりと一致しマス。このまま拡大を続ければ、まず間違いなく変色海域による影響デショウ」

 

 唇を湿らせるためか、金剛はゆっくりと紅茶を飲む。ほうっと一息を吐き、彼女はまた話し始めた。

 

「変色海域による影響についてはもう一点。変色海域を航行した艦娘の艤装に、損傷が見られマシタ」

 

 長門は眉を跳ね上げる。

 

「損傷、というと?」

「金属の疲労や、戦闘による破壊、とはまったく別種のものです。明石と夕張曰く、『何かに内側から侵食されているような』、と。本件に関しては、明朝までに工廠部から報告を上げると言っていマシタ」

 

 そうか。長門は腕組みをして思案する。電波妨害と艤装の損傷。どちらも由々しき問題だ。変色海域をみだりに航行することは、避けるべきと言えよう。

 とはいえ、静観もしていられない。放っておけば変色海域は拡大し続ける。いずれ、手の施しようがない状態になるのは明白だ。

 

(悩ましいな)

 

 こういう面倒事は提督に投げておきたいところだが、生憎とこの場に提督はいない。全て長門の一存次第だ。

 

「……最後に一つ。最深部に偵察に行かせた零水偵が、こんなものを撮影していました」

 

 そう言って、金剛は現像された写真を一枚取り出した。海図台を囲む面々が、写真を覗き込む。

 

「なんだ……これは」

 

 全員の感想は一様であった。それしか浮かばないほど、写真に写ったものは驚きに値した。

 海面にぽっかりと、大きな穴が開いている。真っ黒な穴の底は見えない。地球の中心へと、全てを飲み込むような、深い深い穴だ。世界の海には、海水が沈み込む穴があるというが、これはそれとは全く異質な存在であった。

 さらに不気味さを際立てるのが、穴から垂直に、天に向かって伸びている「柱」であった。写真の具合からして、恐らくは発光している。天へとそびえる光の柱。この海域の異質さを示すような、そんな光景を写真は写し取っていた。

 

「正体はわかりマセン。零水偵はさらなる接近を試みましたが、周囲は気流が激しく、おまけに航海計器が狂い始めたとのことで、三キロより内側に入れませんデシタ。発生位置はガ島沖、ポイント・レコリスです」

 

 全員が顔を上げる。よもやその名が、またも議論に上がるとは。

 

「ポイント・レコリス……。()()()()()()()()

 

 コードネームの意味を反芻するように、陸奥が呟く。

 同心円状に広がる変色海域、謎の電波障害。そのいずれも、円の中心点はサーモン海域のある一点、先日第八艦隊が敵輸送船団を撃破したポイント・レコリスを指していた。

 偶然の一致とは考えにくい。海域の異変が確認されたのは、第八艦隊が敵輸送船団を撃破した直後からだ。間違いなく何らかの関連性がある。

 

 そもそもなぜ深海棲艦は、南方海域、特にサーモン海域での活動を活発化させたのか。

 なぜガ島を最初の拠点に選んだのか。

 敵輸送船団は何を運んでいたのか。

 

「もう一つ、気になる点があります」

 

 疑問点が次々と洗い出される中、さらに発言を続けたのは大淀だ。彼女には珍しく、眉間の辺りに険しい皺が刻まれている。

 

「例の、謎の声を聞いたという証言ですが。第八艦隊以降も、今回の金剛さんたち調査艦隊やサーモン海域周辺警戒に当たっていた艦隊から、度々報告がありました。全部で八例。それを、海図上にプロットすると、」

 

 そう言って、大淀は小さなマグネットを八つ、海図上に置いた。その横に時刻を書き込んでいく。

 

「初めて声が観測されたのは、第八艦隊が敵輸送船団を撃破した直後。復路についた第八艦隊本隊と、復路対潜警戒のためにサーモン海域へ侵入した護衛部隊の双方でほぼ同時に観測されています。それ以降、一日に二、三件の報告が上がっています。それらを時系列順に追っていくと、声が観測された位置もまた、変色海域の拡大に伴って拡大していることがわかります。……私の概算では、こちらも同心円状の拡大、その中心点はポイント・レコリスです」

「……状況証拠だけで真っ黒ね」

 

 若干の呆れを交えて陸奥が呟いた。彼女の言う通りだ。ここまで状況証拠が揃うのも珍しい。物的証拠がないことが、不思議なくらいだ。

 

「それなら話は早いデス。今回の異常現象、全てこの『柱』が元凶で間違いないデス。これ以上事態が拡大する前に、叩いてしまうべきではありませんカ?」

 

 金剛が具申する。その意見はもっともだ。

 だが。

 

「あの『柱』が全ての元凶だとして、どうやったら破壊できる?艦娘の装備で撃破しうるものか?」

 

 答えを持ち合わせる者はない。金剛もそこは理解しているのだろう。拳を握り締めることはあれ、それ以上に強硬に意見を主張はしてこない。

 

「あれをどうにかしなければならないが、闇雲に突撃はできない。変色海域が艦娘の艤装に損傷を与えるとすれば、尚更だ。それに」

 

 チラリ。長門は赤城の方を見遣る。穏やかに様子を見守っていた彼女は、頷くと口を開く。

 

「二航戦が会敵した、新たな敵艦隊のこともあります。現在判明しているだけで機動部隊が五つ。サーモン海域に進入するとなれば、この艦隊との衝突が予想されます」

「……そういうわけだ。サーモン海域に出現した新たな敵艦隊に関する情報は、明朝以降の索敵をもって判明する。それをもって、ポイント・レコリスへ攻撃を仕掛けるか否か、判断することにする」

 

 長門はそう宣言して席を立つ。今頃ショートランドを目指す船に揺られているであろう大神トラック泊地提督に事態についての連絡を入れるためだ。

 

「……先手必勝、打って出るしか、ないデス」

 

 金剛は最後にそれだけ呟いていた。



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急転(四)

 大湊の埠頭は、夜の冷たい霧に包まれていた。港の入り口を示す灯標の光だけが妙にはっきりと辺りを照らす。音といえば波だけであり、思案に耽るには丁度いい。冷たい霧が小難しい表情を隠し、頭を適度に冷やしてくれる。

 だからだろうか、目当ての人影は、静かに埠頭で佇んでいた。支援を燻らせるその背中に、刑部はゆっくりと近づく。

 

「……なんだ、お前か」

 

 こちらに気づいた人影が振り返る。横須賀からここまで一緒にやって来た人物だ。刑部にとっては先輩にあたる海軍将校である。

 大貫特務提督はしけた煙草をふかすことをやめることもなく、隣のスペースを勧めてくる。そこに刑部は立った。

 

「そういえば、お前は吸わない奴だったな」

 

 懐に伸ばしかけていた手を、大貫が収める。それに、刑部ははにかんで頷いた。

 

「大神提督経由でショートランドから報告が来ました。面白いことになっているみたいですよ」

 

 刑部の一言目に、大貫は鼻を鳴らす。興味ない、といったところだろうか。

 

「そんなに面白いなら、あっちへ行けばよかったものを。わざわざ俺についてくることもなかっただろう」

「いえ、少将と一緒が面白くないと、そういうわけではありませんよ」

「はっ、どうだか」

 

 ボケて誤魔化したが、大貫にはお見通しなのだろう。

 そうだ。向こうが面白いことになるのはわかっていた。けれどもそれ以上に、こちらにいなければならないと思った。この機会を逃せば、最早二度とチャンスはやってこないだろう。

 

「サーモン海域深部で、海域の変色が始まったそうです」

 

 霧の中でピクリ、大貫の動きが止まった。それもほんの一瞬。彼はまた煙草をふかし、煙を吐き出す。だがどこか不機嫌そうであった。

 

「A事案と、全く同じですね」

 

 刑部の指摘に、大貫は盛大に煙を吐き出すことで答えた。その唇が動く。

 

「俺についてきたのは、そういうわけか」

 

 刑部は沈黙を選ぶ。諦めた風に大貫が息を吐き、改めて話し始めた。

 

「もう十年になる。艦娘と深海棲艦、それぞれを人類が確認した十年前。二つの新たな知的生命に関する全ての事項は、順にアルファベットの名前が与えられ、今は第一級の軍機として厳重に秘匿されている。知っているのは、最初期から提督をやっている俺と、お前みたいな命知らずの馬鹿が数人、海軍上層部のほんの一握り、といったところだ」

 

 大貫がぎろりと睨む。無言で「なぜお前が知っているか、今は不問にする」と主張していた。

 

「十年前、()()()()()()で赤潮のような現象が観測された。今もそう説明されている。だが実際はそうじゃない。でなければ、米海軍内で秘密裏に調査船団なんて編成されないし、そこにオブザーバーとして日本の調査船が呼ばれることもないのだからな」

 

 指先まで燃え尽きた煙草を大貫は埠頭に落とし、それを踏んでもみ消す。懐から新しい一本を取り出し、くわえた。そこへすかさず、刑部が火を差し出す。大貫は目を細めて、新しい一本に火をつけた。

 真新しい煙が吐き出される。

 

「俺もその調査に参加していた。航海士としてな。元は海軍の船乗りだったし、ソロモン諸島の航海経験もある。適任だっただろう」

 

 遠くを見るように、大貫が語る。

 

「調査が始まって四日目の朝だった。一服しようと甲板に出てな。その時、波間に人影が漂ってるのを見つけた。すぐ当直航海士に報告して、俺は救命胴衣を着て、救命浮環片手に海に飛び込んだ。人影は少女だった。歳の頃は十三、四。アジア的な顔立ちで驚いたよ」

 

 淡々と、報告書を読み上げるように語っていた大貫が、少女の話をするときだけ、ほんのわずかに柔らかい口調になる。気づくか気づかないか、そんなわずかな変化だ。

 

「意識を失っていた少女を、一先ず保護した。まさにその時だ。米海軍の駆逐艦から悲鳴じみた通信が入った。『船が溶けている』ってな。赤潮が、唐突に船を飲み込み始めた。それだけじゃない、ジワリジワリと広がり始めた。残った調査船団は、機関を一杯に吹かして海域から離脱し始めた。とりあえずは逃げ切ったさ。だがそれだけだ。赤い海は広がり続け、全てを飲み込んだ。文字通り、地球上の海という海をな。人類はありとあらゆる海上交通手段を失った。貿易網は軒並み崩壊。世界経済は死んだも同然だ。そんな状態が二か月続いた」

 

 十年前の出来事を、刑部も思い出す。豹変した地元の海。海上にいた船は、ただ一隻の例外もなく、鉄屑となった。小さな漁村育ちだった刑部にとって、海とは命の営み、生活そのものだった。だからこそ、子どもながらに、これほどの地獄があるだろうかと感じていた。

 

「二か月が経った頃、海域変色の基点となったソロモン海域に、不可思議な穴と光の柱が存在しているのを、米軍が見つけた。彼らはそれが海域変色の原因と考え、爆撃による破壊を試みた。そして実際、光の柱は爆撃で破壊できた。それで、海域の変色は終わった」

 

 だが、海は人類の手に帰ってはこなかった。大貫はそう言って、一度言葉を切る。霧に混じって紫煙が漂い、刑部と大貫の間に境目を作っていた。

 

「海域の変色が終わり、海は元の色に戻った。だが、そこにはすでに()()がいた。深海棲艦と呼ばれる、異形の集団が支配する世界だった」

 

 晴れて海に漕ぎ出した人類。その船を情け容赦なく襲う深海棲艦。現代兵器は何一つ通用せず、傷をつけることすらできない始末。奴らによる被害は毎日のようにニュースや新聞を騒がせ、人類はその存在に恐怖した。万物の霊長であるはずの自らに、どうしようもない存在がいたのだと。

 

「万策尽きた。希望はなかった。待つのは滅びの運命のみ。無力感を越えた、あれは恐らく虚脱感だ。まともな思考なんて、誰一人持っていなかった。そんな状態だったから、誰も特に疑問を抱くことなく、彼女たちを受け入れられた。艦娘という、深海棲艦に唯一対抗可能な少女たちの存在をな」

 

 昔語りはそこまでだと、大貫は一際大きく煙を吐き出した。濁った塊が辺りに漂ったかと思うと、数秒後には深くなってきた霧に飲み込まれた。恐らく視界は半海里もない。

 

「これが十年前、世界が変わった瞬間の顛末だ。一連の出来事は文書としてまとめられ、()()()()にAからCまでのアルファベットが振られた。A事案が海域の変色、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ」

 

 B事案とC事案の順序に、大貫が力を入れる。それもそのはずだ。これまでの大貫の話では、深海棲艦が先に現れ、その後に艦娘が現れたとされていた。それが提督間での通説ともなっている。けれども、公式文書の順序は、それが逆だったことを示していた。

 

「艦娘が先にいた。それを追うように、深海棲艦が現れた。ただ、最初の艦娘が、その存在をずっと隠されていただけだ」

 

 早くも煙草の残りは少なくなっていた。残りかすを足で踏みつけてもみ消す。大貫はそれ以上の煙草を取り出さなかった。一日五本と決めている、その最後の一本だったのだろう。

 

「ソロモン諸島で俺が救助した少女。()()()()()()()()()()()()彼女が、最初の艦娘だった。彼女が全ての始まりだった」

 

 

 

 報告にやって来た水兵は、敬礼をして去っていった。揚陸艦の準備ができたそうだ。

 

「本当に前進されるのですか?このまま、ここで指揮を執り続けてもいいのでは?」

 

 刑部の問いに、大貫はかぶりを振る。

 

「ことがことだ。事態は急を要する。ここでは遠い」

「……では本当に、択捉まで前進されるのですね」

 

 刑部の確認に、大貫が頷いた。択捉とは、択捉島のことであり、日本最北端の地でもある。ただしそこは、先の大戦中にソ連によって占領され、未返還のままとなっている地であり、俗に北方領土と呼ばれていた。

 深海棲艦による侵攻後、同地からは人間が引き上げ、今は無人となっているそうであるが、それでも日本の軍艦が同地を航行することは、外交的にあまり好ましいこととは言えなかった。

 

「気が引けるのなら、残っていてもいいぞ。俺としても、信頼できる人間が大湊に残っていてくれた方が、何かと動きやすいしな」

 

 それこそ本末転倒だ。刑部はそう思った。

 

「いえ、ここまで来たのです。北の果てまでも、ついていきますよ」

 

 刑部の返事に対し、大貫はあきらめに似た鼻息を吐き出した。それから、まるで何気ない風を装い、こんなことを呟く。

 

「今回の変色海域、確かにA事案と似ているが……前回とは別物かもしれんな」




以上、急転編でした。

次回からは決断編となります。オリジナル成分強めのお話です。


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決断
決断(一)


決断編です。
鉄底海峡への突入に向けて、艦娘側の情報を整理していきましょう。


 夢を見ていた。

 

 それが夢だと気づいたのは、見覚えがあったから。今まで幾度となく、見てきた景色だから。

 

 おぼろげな月明りのように差し込む光。

 

 熱を帯びた体に心地よい水の冷たさ。

 

 そしてどこからか聞こえてくる声。

 

 誰。そこにいるのは誰。呼びかけてみても、返事はない。ただゆるるかに時は過ぎ、声は反響する。

 

 口から気泡が逃げていく。けれども苦しさはない。それはきっと夢だから。

 

 水をかく。どこか深い海の、冷たい水をかく。

 

 景色は変わらない。見えるもの、感じるもの、何一つ変わらない。

 

 ああ、声が聞こえる。

 

 誰かがわたしを呼んでいる。

 

 

 

 わたしを、呼んでいる……?

 

 

 

 ハッとして足元を見る。深い深い闇。深遠のその先。何物をも飲み込む影。

 

 途端、息苦しさが現れる。

 

 ダメだ、ダメだ、ダメだ。

 

 あそこに行ってはいけない。

 

 あそこからは抜けられない。

 

 もう二度と帰ってこれない。

 

 

 

―――帰る?ドコへ?

 

 

 

 それははっきりと聴こえた。あの声が、ただ歌うように呼び掛けるだけだった声が、答えた。

 

 誰。あなたは誰。

 

 辺りを見回し、声の主を探す。

 

 ヒタリ。それは首筋に触れた。

 

 

 

―――ワタシ?ワタシは……

 

 

 

 振り向いた正面。

 

 ()()はさも可笑しそうに口の端を歪めていた。

 

 さも懐かしそうに目を細めていた。

 

 さも愛おしそうにこちらの頬を撫でていた。

 

 

 

―――ワタシは、アナタ。

 

 

 

 瞬間、まるでベールがかかったが如く認識できなかった彼女の表情が、雲間からのぞく太陽のように明らかになった。

 

 

 

 

 

 

「あら、珍しい顔」

 

 工廠を尋ねた加賀を出迎えたのは、オレンジのつなぎ姿の夕張であった。アジャスタブルレンチ片手に何やら作業に勤しんでいた彼女が、顔を上げる。

 夕張の言う通り、加賀が工廠を訪れるのはかなり稀だ。基本的に何やら作業をしている工廠を、手持無沙汰に訪れて自分の用件を押し付けるのは気が引けたし、何より加賀は、工廠の喧騒があまり好きではない。

 それでも立ち寄ったのは、ここ数日続いている胸騒ぎのせいだ。

 

「作業の邪魔をして、ごめんなさい」

「いいえー、お気になさらず。ほとんど終わりかけだったし」

 

 夕張はニカッと笑う。その笑顔は素直にありがたい。

 

「それで、どうかしましたか?加賀さんの艤装なら、もう調整もばっちりですし、いつでも出撃できるようになってますよ?」

 

「いえ、今日は私の艤装のことで来たのではなくて。その、例の変色海域を航行した艤装は、どうなっているのかしら?損傷の具合とか、聞かせて欲しいのだけれど」

 

 加賀の問いかけに、夕張が首を傾げる。

 

「それなら、明石の報告書に詳しいと思いますけれど?」

「いえ、その、そうではなくて」

 

 こういう時、口下手な自分が嫌になる。赤城あたりならば、もっとうまく本題に入れるのだろうが、自分だとどうもスムーズにいかない。

 

「あなた自身の、所感を聞かせて欲しいの」

「なるほど、そういうことでしたら」

 

 うんうんと納得したように頷いて、夕張は話し始めた。

 

「そうですね、報告をした通り、各艤装とも損傷の具合は大したことなかったんですよ。ただ、ちょっと普通では考えずらいというか……。金属疲労とか、腐食とか、応力集中とか、そういった類の原因ではないんですよね」

 

 人差し指を唇に当て、むーっと悩む夕張。何か言葉を探しているようだった。

 

「なんていうか……内側から無理矢理こじ開けているというか、ゆっくりゆっくり蝕まれているというか、そんな感じです」

 

 そう言って、夕張がちょいちょいと手招きする。こっちに来い、ということらしい。招かれるまま、工廠の中へと足を踏み入れる。

 

 工廠内は、相も変わらず油の匂いがした。きれいに整理整頓は行き届いているが、時折金属の削りカスのようなものが転がっている。それから、焦げ付いた何かの破片も。

 それらを気にしながら歩を進めると、夕張が一つの机を指さした。特に片付けの行き届いたその机には、ビーカーに入った液体が厳重に封をされて鎮座している。

 

「変色海域の、サンプル……?」

「ええ、そうです」

 

 夕張が頷く。検証のために、工廠部に渡されていた分だろうか。

 

「ちょっと見ていてくださいね」

 

 そう言って夕張は封を開く。さらに、ごそごそと近くの棚を漁った手には、金属の破片。

 

「鋼の端材です。これを入れてみますね」

 

 言うや否や、夕張は端材をビーカーの中に突っ込んだ。トプリ。端材が液面下に沈み込み、赤い海水に浸かる。

 途端、端材が小さくなり始めた。印象としては、文字通り溶けていると思われた。だが、酸やアルカリの反応とは思えない。それらに付き物の、表面から生じる気泡が見当たらないのだ。いわば端材が、ジワリジワリと赤い海水に置き換わっているような、そんな変化だ。

 ものの一分とかからず、端材はビーカーの中から消滅していた。夕張がビーカーをかき回して見ても、それらしいものは全く見当たらない。

 

「見ての通りです。それで、艦娘の艤装にも、同じことが起きていると思ったんですけど」

 

 そう言った夕張は、再び何かの端材を取り出す。先ほどと同じ、鋼材であるように思えたが。

 

「艦娘の艤装の一部です。損傷したので取り外した部分ですね」

 

 そう言って、夕張はもう一度端材をビーカーに投入する。

 艦娘の艤装とはいえ、元は鋼材である。艤装接続時に艦娘の精神部分と直結するため、その際に多少の組成変化が起こるらしいが、基本的な性質はほとんど変わりない。

 

 しかし、ビーカーの中に投入された端材に、大きな変化はなかった。

 いや。

 

「何、これは」

 

 一分が経とうとした頃、艤装の表面に小さなひび割れが走り始めた。最初は小虫ほどに小さなものであったが、時間が経つにつれてその範囲が広がっていく。さらに、ひび割れの中から、何か赤黒いものが端材の表面に染み出してきた。

 

「ね、明らかに違うでしょ?」

 

 夕張が言う。加賀が食い入るように端材の様子を観察している間に、彼女はどこかへと行っていた。戻ってきたその手には、もう一つのビーカー。

 その中身に、ドキリと心臓が跳ねた。

 

「これが、昨日から十四時間、放置したものです」

 

 夕張が差し出したビーカーの中には、歪な形をした、赤黒い塊が転がっていた。どくどくと妙な脈動を放つそれに、加賀は見覚えがある。否、夕張もまた、間違いなく見覚えがあるはずだ。

 

「深海、棲艦」

「はい。深海棲艦の装甲にそっくりなんです」

 

 神妙な夕張の頷きが、より強くその考えを肯定する。間違いはない。これは正真正銘、深海棲艦の装甲だと。

 

「艦娘の艤装を、深海棲艦のそれへと変える。これは損傷というより、()()です」

 

 侵食、という夕張の言葉が、とても適切であるように思われた。

 ほんの一瞬、記憶を辿る。加賀の記憶に、深海棲艦から艦娘になった時のものはある。だが、その逆は憶えていない。本来は憶えていないはずのものだ。加賀が異例なのだ。

 

(あの海が、艦娘を深海棲艦にする)

 

 ならばなおのこと、変色海域の拡大を止めなければ。

 決意を固め、工廠を後にしようとした加賀を、夕張が引き止める。

 

「待って、加賀さん。実は一人だけ――駆逐艦吹雪だけが、変色海域による損傷の形跡がないの」

 

 加賀の中でカチリ、最後のピースがはまった気がした。

 

 

 

 書庫の扉をノックしたのは、案の定赤城であった。当直業務を終えて戻ってきたのだろう。

 調べもの中だった加賀は、眉間の皺を感じながらも、入口の方を見る。

 

「長門さんに、こちらにいると窺ったもので」

 

 ニコニコといつも通りに笑って、赤城は書庫に入ってくる。加賀の手元を覗き込んだ彼女が、コテンと首を傾げた。

 

「配属に関する辞令一覧に、過去の各鎮守府艦隊編成の変遷、ですか」

「D事案と轟沈に関する文書は一通り調べたわ」

 

 答えて本を閉じ、元の隙間に戻す。

 目当てのものは見つからなかった。()()()()()()()()()()()。ただそれが、あまりにも予想通りで、あまりにもすんなり腑に落ちて、あまりにも驚きに満ちていただけのこと。

 

()()を探していたの?」

 

 やはり赤城は察しがよかった。加賀は頷く。

 

「ええ。そして思った通り、見つけられなかった」

「そう。どうしますか?」

 

 加賀は確信を持って答える。

 

「直接、確かめに」

 

 

 

 風当たりの良い砂浜に、簡素な屋根付きの机がポツンと佇んでいる。ショートランド基地では、知る人ぞ知る隠れスポットだ。ここから見える夕陽は絶景の一言だが、真昼間から利用する艦娘は稀だ。落ち着いて話をするにはもってこいであった。

 机を囲むのは三人。加賀の前には、一人の艦娘が所在なさげに座っていた。

 駆逐艦吹雪。困惑した表情でキョロキョロとこちらを窺う彼女は、どうして自分がここに呼ばれたのかもわかっていない様子だった。

 

「あの……お話って、何ですか?」

 

 恐る恐るといった感じで、吹雪が尋ねる。加賀はそれに、単刀直入に答えた。

 

「吹雪。あなた、横須賀に来る前は、どこの艦隊にいたの?」

「……え?」

 

 拍子抜けしたように、吹雪はキョトンとしてしまっている。質問の意図を掴みかねているらしい。だが加賀の問いは変わらない。

 

「いいから。どこの艦隊に所属して、誰の指揮下で戦っていたの」

「どこって、それは」

 

 そこまで言って、ピタリ、吹雪の動きが止まった。その表情は、キツネにつままれたように、どこか間が抜けている。そんな馬鹿な。とでも言いたげに、彼女は首を振る。

 

「ええっと、ですね。あれは、確か……えっと……」

 

 言ったきり、うんうんと唸り始めてしまう。

 どうやら本当に憶えていないらしい。そしてそれが、答えでもあった。

 

「いい、吹雪。隠さずに言うわ。色々と資料を辿ってみたけれど、あなたが以前、どこかの艦隊に所属していたという記録は、どこにも存在しなかったわ。あなたは横須賀が初めての所属のはず。けれど、私たちはあなたが他所の艦隊から転属になったと聞いていたし、あなた自身もそのように説明していた。これはどういうこと?あなたは、一体どこからやって来たの?」

 

 加賀の詰め寄るような質問に、吹雪がたじたじと後退る。その瞳は、明らかに彼女自身も答えを持ち合わせていないと、語っていた。

 

「まあまあ、加賀さん落ち着いて」

 

 赤城がなだめに入って、ようやく加賀は元の位置に戻る。吹雪は緊張を解いて息を吐いた。

 

「別の質問をしていいかしら、吹雪さん」

 

 加賀に変わって、今度は赤城が、穏やかに尋ねる。吹雪はコクリと頷いたが、どこかで何かを恐れていた。大きな瞳の奥が、わずかに潤んでいる。

 

「サーモン海域で、声みたいなものが聞こえるって、知ってる?」

「は、はい。噂になってます。わたしも、一度だけ」

「それは、第八艦隊を迎えに行った時ね?」

「はい」

 

 やはり質問の意図がわからないらしく、吹雪は戸惑いながらも頷いた。

 

「その時一緒だった艦娘に聞いたの。皆声を気味悪がってたけど、吹雪さんだけは違った、って」

「え……それって、どういう」

「吹雪さんだけは、ただ落ち着いて、『大丈夫』と呼びかけていた、って。まるで、赤ん坊をあやす母親みたいだった、って」

「わ、わたしが……ですか?」

 

 偽りはない。彼女は本当に、憶えていないのだ。

 

「……そう。憶えていないのね」

 

 これが最後のピース。形が見えてきたそれが、一体どうはまるのか。いまだパズルの全体図は見えてこなかった。

 

 

 

 吹雪の件に関しては、赤城と揃って長門に報告を入れた。その場でもう一つ、あまり愉快でない関係が浮上する。

 吹雪のショートランド基地到着と、変色海域の発生は同日であったのだ。

 海域の変色は、第八艦隊による敵輸送船団襲撃後に始まったわけではない。あくまで、その日に初めて確認されたというだけだ。

 事前偵察によって撮影されていた航空写真を精査してみると、第八艦隊が攻撃を仕掛けた日の朝には、すでにポイント・レコリスの近く――サブ島と呼ばれる島の近くで海域の変色が確認された。丁度その時間帯は、第二陣となる艦隊が派遣されてきたところだ。その中に吹雪もいた。

 海域の変色は、その日のうちに一度収まっている。しかし、第八艦隊のポイント・レコリス突入と輸送船団撃破を機に、再び現れ、そして一気に広がり始めた。それはちょうど、第八艦隊の復路対潜哨戒のため、吹雪がサーモン海域に進入したタイミングだった。

 

――「出来過ぎた話だ。直接因果関係があると断定することは避けたい。が……事実として、吹雪の艤装は損傷を受けないし、謎の声に応えたりもしている。しかも出自不明の艦娘だ。疑わない方が無理、というものだな」

 

 長門はため息交じりにそう呟いていた。

 

 作戦指揮室を後にした加賀は、その足をある艦娘のもとへと向けていた。

 変色海域と何らかの繋がりが見えてきた吹雪。深海棲艦へと変貌を始めている如月。

 それからもう一人。ここに来て、どうしようもなく疑わしい艦娘が一人。

 すべてを知っていてもおかしくないのに、まるで何も知らないかのような艦娘が一人。

 長門からの依頼でもある。少し前から――如月の誤射があった時から、彼女は疑っていた。

 

――「メッセージと受け取れるアクションは何度かあった。こちらとの接触を図りたがっているのは間違いない。タイミングとしては、今が一番好機だろう」

 

 長門の言葉を思い出す。思えば最初から、ひっかかりはあった。

加賀の足は、工廠へと戻ってきていた。今日二回目の訪問だ。間もなく陽が沈もうとする中、工廠にはすでに明かりが灯り、忙しない活気が漏れ出ている。今日も夜を徹しての作業だろうか。

 

 工廠の扉を開けると、日中とは違う顔があった。クリップボード片手に妖精たちに指示を飛ばしているのは、工廠部門トップの工作艦明石。ツナギの上半身を腰で巻き、上半身タンクトップという何とも彼女らしい格好で、作業に当たっていた。

 その明石が、入口に立つ加賀に気づく。

 

「誰かと思えば加賀さんじゃないですか。どうかしましたか?加賀さんの艤装なら、調整も終わって準備万端ですよ」

 

 ニコニコとこちらへ歩み寄りながら、昼間の夕張みたいなことを言う明石。加賀は首を横に振り、やはり日中と似た言葉を返す。

 

「今日は違うわ。あなたに用事があって、来た」

 

 加賀の言葉に、明石が首を傾げた。

 

「私に、ですか?」

「ええ。誰もいないなら、都合がいいわ」

「……ふぅーん?」

 

 明石は納得いっていない風であったが、ともかくと工廠の奥へ案内してくれる。明石や夕張の仮眠所になっているそこは、ほとんど人が立ち入らない場所でもある。

 

「それで、話は何ですか?」

 

 仮眠所の扉を閉じた明石が、加賀に尋ねる。加賀は真っ直ぐに明石を見据え、眼光を鋭く研ぎ澄ました。

 

()()()()()?」

 

 沈黙がよぎる。加賀の視線は変わらない。明石が驚いたように目を見開く。時間にして十秒ほどもない沈黙。パチパチと両の眼を瞬いていた明石が、大きく表情を歪めた。

 クツクツと肩を揺らす。堪えた震えは、やがて明確な笑い声に。可笑しくて可笑しくてたまらない、そう主張するように、明石は腹の底からの笑い声をあげる。

 

「あっはは、いつから気づいてたんですか?」

 

 その質問が答えだった。加賀は完全に表情を消し去り、ただ無機質に言葉を発する機械の心持ちで、目の前の何者かに答える。

 

「確信を得たのはさっき。長門は如月の誤射があった時から、疑ってたわ」

「なるほどなるほど。ちゃんとメッセージは届いていたんですね。接触してきたのが今日だったことには、何か理由が?」

「そこまで答える義務はないわね」

 

 拡大する変色海域。定まらぬ目的。そこへ一石を投じる存在として、長門は目をつけていた。今日、その一石が必要になったから、加賀はここに来た。などと、言うだけ時間の無駄だ。

 

「時間がない。単刀直入に聞くわ。あなたの目的は何?」

 

 最早素性を隠そうともしない明石の中の()()は、単純明快な答えを返す。

 

「ただ単に、あなたたちと接触する必要があったから。私に都合のいいように、艦娘たちに動いてもらいたかったから。たった、それだけのこと」

 

 あっけらかんと言ったその口調は、すでに明石のものではない。よく見知ったはずの、得体の知れない存在。形に中身が伴わないその異形を、加賀は眉一つ動かすことなく見つめ続ける。

 

「なんていうことはない。サーモン海域の中心点、ワタシが待つあの場所へ、あの()を連れてきてほしいだけ」

「……それは、吹雪のこと?」

 

 確認する加賀の言葉に、()()は笑顔だけを返す。

 

「もちろん、タダでとは言わないわ。海域汚染の止め方を、教えてあげる」

「……あれは、艦娘を深海棲艦へと変える海。それを止めることは、あなたたち深海棲艦にとって都合が悪いのでは?」

「確かにあれは、深海棲艦を生み出す装置。けれど、ワタシにとっては関係のないこと。だって、厳密に言えばワタシは、深海棲艦ではないのだもの」

 

 ピクリ。加賀は初めて眉を跳ね上げる。目の前の存在は、深海棲艦ではないと言った。では一体、誰なのか。なぜ吹雪を求めるのか。

 

「……益々、あなたの目的がわからない。それで、あなたは何を得ようというの」

「それこそ、ワタシに答える義務のないこと、でしょう?」

 

 コロコロと笑った()()は、それ以上加賀の質問に答えなかった。

 

「時間がないのはお互い様よ。海域汚染は、もうじきあなたたちでは手に負えなくなる。その前に止めなければならない。方法は簡単、中央の光の塔を、物理的に破壊するだけ。事実、前回はそれで破壊できたわけだし」

 

(前回?)

 

 言いようのない感覚が加賀の中を走り抜ける。まるでこれが、二回目とでも言うような。

 

「判断はあなたたちに委ねるわ。あの娘を連れてきてくれれば、ワタシはそれで十分」

「それが、あなたの提示する条件、というわけね」

「ええ。ワタシがあなたたちを邪魔しない条件。悪い話ではないでしょう?」

 

 微かに笑ってそう言ったのを最後に、明石が目を閉じる。()()が体の支配権を手放したのか、その体が一気に力を失って崩れ去った。加賀は慌てて明石の上体を支える。穏やかな寝顔にも、加賀の表情が晴れることはなかった。



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決断(二)

「サーモン海域中心部への攻撃作戦を実行する」

 

 会議が始まった直後、集まった参謀の面々に、長門はまずそう宣言した。

 

「現状を打破する手段は、サーモン海域中心への強行突入をおいて他にない。我々はこれを、早急に実施する必要がある。これより本日中に確認された最新情報を共有し、その上で明後日より実施予定の攻撃作戦の詳細を詰めていく」

 

 異存はないな。確認の意味を込めて各員の顔を見回す。歴戦の乙女たちは一様に頷き、その表情を引き締めていた。

 

「それではまず、本日の航空偵察によって判明した、敵情を報告させていただきます」

 

 真っ先に立ち上がり、大和が報告を始める。

 

「昨日、二航戦が接敵した機動部隊ですが、全部で五つの集団を形成していることが判明しました。いずれも正規空母二、軽空母一を中心とした、十隻前後の機動部隊です。うち一つは、空母棲姫を含んでいます。おそらくこれが旗艦集団です。しめて空母十五隻。第八艦隊所属空母が全力で当たって、初めて互角に渡り合えるといったところでしょう」

 

 参謀たち、特に空母である赤城と加賀の二人が大きく息を飲んだ。これだけ大規模な空母集団は、今まで出会ったことがない。総艦載機数は一千機になるだろうか。途方もない強敵だ。

 

「これ以外にも、戦艦を中心とした艦隊が二つ、確認されています。こちらは戦艦棲姫二隻を含む、戦艦四隻の砲戦部隊です。また、巡洋艦や駆逐艦を主体とした六隻前後の集団が確認できただけで六つ。サーモン海域全体で、百隻以上の水上艦艇が展開していることになります」

「百隻、以上……」

 

 金剛が冷や汗を浮かべている。大規模、どころの話ではない。深海棲艦は、文字通りその鎧を持ってサーモン海域の周囲に鉄条網を張り巡らせたようなものだ。しかもそれは、二重三重ときた。これを食い破って一太刀を浴びせようなどと、無理難題に思えて仕方がない、といった様子だ。

 

「次に、深海棲艦各艦隊の動きですが、」

 

 ペラリと紙をめくった大和がさらに続ける。

 

「戦艦部隊と巡洋艦部隊は、いずれもサーモン海域内に籠っています。機動部隊は、二手に分かれ、サーモン海域北部から西部にかけてを周遊しています。いずれも、動きとしては、我々から光の柱を守ろうとしているような――光の柱に我々を近づけまいとするような、そのような思考のもとに成り立っていると考えます」

 

 そこまで言い切って、大和がチラリと長門を窺う。長門は頷き、次の発言を加賀に求めた。一礼して大和が着席し、代わりに加賀が立ち上がる。

 

「本日、海域変色を引き起こしているとみられる存在と、接触しました」

 

 ガタッ。何脚かの椅子がずれて音を発する。驚きも無理はない。最初に報告を受けた時は、長門も似たような反応を返したのだから。

 

「どういう手段かはわかりませんが、()()は――いえ、彼女は明石の体を借りて、我々との接触を図ってきました。如月の誤射、あの時演習弾に実弾を混ぜたのも彼女でした。こちらへのメッセージだった、と」

「……デハ、如月の体を放置していたノモ」

「メッセージの一環、だったようね。事実、私たちは真っ先に明石を疑った」

 

 金剛が眉を跳ね上げる。腕を組んだ彼女は明らかに怒っている様子だったが、会議の進行を止めるべきでないとわかっているのだろう。それ以上は何も口に出さなかった。

 

 加賀が話を続ける。

 

「彼女は、艦娘を光の柱へ辿り着かせることが――駆逐艦吹雪をあそこへと導くことが目的だと、語っていました。その対価として、変色海域の根源、光の柱が物理的に破壊可能であることを教えてくれました。あれを破壊すれば、海域の変色を止められる、と」

「……限りなく胡散臭くないですか、それ」

 

 表情を曇らせ、比叡が言う。それももっともだ。これだけお膳立てがされていて、罠ではないと断じる方が無理な話だ。

 それでも、攻撃作戦を実施するのか。全員の眼が長門に集まる。

 

「……罠である可能性は、最後まで捨てきれない。だが、今攻撃を躊躇すれば、それこそ永遠に取り返しがつかなくなる。変色海域が拡大を続けている以上、その中枢へ進入して作戦を遂行できる期限がある。作戦開始のタイミングとしては、明後日が限界だ。それ以後は、変色海域中枢に進入しても帰ってくることができなくなる。無論、片道攻撃覚悟であれば話は違ってくるが、それでは本末転倒というものだろう」

 

 艦娘を深海棲艦へと変える海域の拡大を防ぐために、艦娘を轟沈させて深海棲艦にしてしまっては、元の木阿弥だ。

 だからこそ、やるなら今しかない。これ以上の引き延ばしはできない。

 皮肉なことではあるが、今は接触してきた()()の言葉を信じる他なかった。

 

「私が接触した彼女の目的はわかりません。ですが今は、攻撃こそが最善の手段であると、考えます」

 

 そう締めくくって、加賀が着席する。報告はこれで終わりだ。

 

「それではこれより、作戦概要の説明に入ります」

 

 進行を受け持つ大淀が口を開く。海図台にはすでに、サーモン海域の全図が用意されていた。

 

「作戦の骨子は二つ。我が機動部隊による、敵機動部隊の北方誘引。そして水上部隊による、変色海域への突入です」

 

 そう言って、大淀は海図上の二か所に置かれた駒を指示棒で指す。赤い駒は、それぞれ敵機動部隊と水上部隊を示すものだ。

 

「まず、第一段階として、第八艦隊機動部隊を敵機動部隊にぶつけます。航空戦を行いつつ、これを次第に北方へと引き寄せ、サーモン海域から引き離す。しかる後に、第二段階として、第八艦隊水上部隊がサーモン海域の突入し、敵戦艦部隊を撃破。変色海域中枢の光の柱破壊が第三段階となります」

 

 海図上に青い駒が追加され、それを大淀が動かす。どちらも第八艦隊を示すものだ。

 金剛が手を挙げ、発言の許可を求める。

 

「この作戦案だと、水上部隊のサーモン海域突入は、日没後になりませんカ?電波妨害の影響で電探が使えない以上、夜戦は極力避けるべきだと考えマスガ」

 

 金剛の質問に、長門はかぶりを振る。

 

「優先順位は、敵機動部隊をサーモン海域から引き剥がすことだ。サーモン海域内は島や浅瀬が多く、航空機に襲われれば満足な回避運動を取ることもできない。敵航空機の排除が、海域突入の絶対条件だ。そうすると、敵機動部隊をサーモン海域から引き離すのに、こちらの機動部隊全力を持って丸一日かかる。となれば、水上部隊は夜間突入とならざるを得ない」

「デハ、作戦発動を、明日にしテハ?」

「それこそできない相談だ。これだけ大掛かりに動くとなれば、準備にはそれ相応の時間がかかる。事を急いてはいけない」

 

 長門の説明に納得したらしく、金剛は沈黙する。

 

「では、各艦隊のより詳細な動きについてご説明します」

 

 そう言って、大淀はその場の全員に一枚ずつ、書類を手渡す。長門が考えた、暫定的な編成案だ。

 

「まず機動部隊ですが。こちらはとにかく、その全力を尽くして敵機動部隊の気を引き、サーモン海域の北方へと誘引していただきます。そこで、大まかに二つ、部隊を分けます。敵を正面から受け止める囮役と、側面から敵を叩く遊撃役です。前者は一、五航戦を中心とし、護衛として金剛、榛名にも加わってもらいます。後者は二航戦、及び軽空母群を主軸とし、少数快速の編成で動いていただきます」

 深海棲艦は、その(さが)と言うべきか、艦娘からの攻撃には敏感に反応し、必ず応じてくる。これだけ大規模な動きを見せれば、いかにサーモン海域を守る機動部隊とはいえ無視はできないだろう。

 

「続いて、水上部隊です。こちらは、変色海域内の活動限界時間が十時間前後と見積もられることから、その時間内に海域中枢を往復できる快速艦のみで編成しています。戦艦での参加は比叡と霧島、残りは巡洋艦と駆逐艦で固めます。艦隊は前衛と後衛に分かれ、前者は巡洋艦主体、後者は戦艦とその護衛駆逐艦で構成します。前衛が航路哨戒と敵巡洋艦部隊の撃破、後衛は敵戦艦部隊の撃破及び光の柱の破壊を任務とします」

 

 大淀の説明がそこで終わると、真っ先に大和がその手を挙げた。

 

「水上部隊の戦艦を、もっと増勢できないでしょうか?比叡さんと霧島さんだけでは、戦艦棲姫二隻を相手取るのに火力不足と考えます。長門さんや陸奥さんが加わってもいいのでは?」

 

 素朴な問いかけに大淀は首を横に振る。

 

「速力が足りないんです。明後日、日没後の状態で、十時間以内に変色海域を往復するには、常時二十五ノットの速力が必要です。ただ、戦闘を行うことを考慮すれば、その必要速力は二十八ノットになります。これを満たせるのは、比叡、霧島の二隻だけです」

「金剛さんと榛名さんは?この二隻も、海域突入の戦力として加えることができるはずです。機動部隊の護衛から、水上部隊へ移しては?」

「そうもいきません。彼女らは対空戦闘の経験が豊富です。敵機動部隊の攻撃を一身に受ける囮役の護衛には必須です」

「……つまり、突入艦隊戦艦部隊のこれ以上の増援は、不可能だと?」

「速力という縛りがある以上、そうなります」

 

 断定するような大淀の言葉に、大和がしばらく思案する。その瞳が次に捉えたのは、長門であった。

 

「意見具申があります、長門さん」

 

 長門は頷いて、その先を促す。

 

「私を突入艦隊に加えていただけませんか?」

 

 唐突な一言に、一瞬場がざわめいた。それには構わず、大和がさらに続ける。

 

「カタログスペックでは二十七ノットですが、負荷をかければ二十八ノット出ます。高負荷状態でも、十時間ぐらいなら航行可能です。突入艦隊には十分追随できるかと」

 

 なおも大和は力説する。彼女なりに考えた末の、最前の解決策なのだろう。実際その提案は、長門にとっても魅力的なものに思えた。手数は多い方がいいうえに、何より大和は、海軍最強の火砲を備えた決戦兵器だ。その参加は万の大砲よりも心強い。

 

「……いいだろう。大和含め、第七艦隊の指揮を第八艦隊下に臨時で組み込む。その上で、大和を突入部隊に加えよう」

 

 それでいいな。確認した長門に、大和は大きく頷いた。

 

「それでは、作戦の骨子は以上で。これから詳しい編成に入りますが、その前に何か質問はありませんか?」

 

 全員を見回して尋ねた大淀に対して、長門は手を挙げる。

 

「一点、訂正だ。突入部隊の目的は光の柱の撃破と同時に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 サーモン海域への突入作戦実施が全艦娘に対して報されたのは、朝のことであった。作戦参加艦娘とその編成、及び呼称は以下の通り。

 

・機動艦隊一群(一機艦)

 第一部隊〔赤城〕〔加賀〕〔翔鶴〕〔瑞鶴〕〔金剛〕〔榛名〕

 第二部隊〔利根〕〔筑摩〕〔五十鈴〕〔島風〕〔天津風〕〔時津風〕

 

・機動艦隊二群(二機艦)

 第一部隊〔蒼龍〕〔飛龍〕〔龍驤〕〔瑞穂〕〔鈴谷〕〔熊野〕

 第二部隊〔青葉〕〔衣笠〕〔那珂〕〔響〕〔雷〕〔電〕

 

・機動艦隊三群(三機艦)

 第一部隊〔飛鷹〕〔隼鷹〕〔千歳〕〔千代田〕〔高雄〕〔愛宕〕

 第二部隊〔最上〕〔三隈〕〔朝潮〕〔大潮〕〔満潮〕〔荒潮〕

 

・挺身艦隊一群(一挺艦)

 第一部隊〔比叡〕〔霧島〕〔大和〕〔神通〕〔吹雪〕〔睦月〕

 

・挺身艦隊二群(二挺艦)

 第一部隊〔鳥海〕〔古鷹〕〔加古〕

 第二部隊〔川内〕〔北上〕〔大井〕〔綾波〕〔暁〕〔夕立〕

 

 編成は長門より直接、第八艦隊参加各艦に伝えられた。その際、以下のような訓示を述べていた。

 

「過去類を見ない、困難な作戦である。しかし不可能ではない。諸君の、不断の努力と勇気が、必ずや未来を切り開く。硝煙と波濤の先に、諸君らが望む勝利を掴み取ることを期待する」



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決断(三)

 出撃を翌朝に控えた基地は、至るところが賑わっていた。工廠は言わずもがな、食堂、甘味処、浴場ですらも、艦娘たちの喧騒が満たしている。数か月前のMI作戦にも勝る規模だとかで、各員気を引き締めながらも、内から滾るものを抑えられない様子であった。

 

 その賑わいから逃げるように、如月は基地を放浪していた。

 

 行く当てはない。元よりこの身は、深海棲艦なのだから。艦娘の敵なのだから。

 目的はない。けれども足は、人気を避けて動く。逃げる、逃げる。パーカーのフードを深々と被り、誰とも会わないように、誰にも見つからないように、逃げる。

 

「如月ちゃん?」

 

 けれども。彼女が一番見つけてほしくなかった人は、やはり予想通りに彼女を見つけてしまった。

 薄暗い廊下の向こう、細い人影がこちらを見つめている。明日が出撃だというのに、あまり高ぶった様子もなく、柔らかい微笑みのまま睦月はこちらにやって来た。

 

「よかった、少しお話したくて。お茶でも、どうかな?」

 

 穏やかな問いかけに、つい頷いてしまう。それが甘えだとわかっていても。

 

 睦月が案内したのは、電灯が半分落とされた食堂の、端の席だった。魔法瓶の中に溜められていたお湯を注ぎ、睦月が二人分のお茶を淹れる。

 

「睦月ちゃん、いいの?明日、出撃なのに」

 

 如月の問いかけに、睦月は笑って首を振る。

 

「うん、いいの。睦月たちの出撃は一番最後だし」

 

 ショートランドにある簡易出撃ドックは六つ。そのため、五つの艦隊がまとまって出撃することはできない。機動部隊とその護衛から順に出撃していき、睦月が所属する一挺艦が最後。その出撃は、おそらく一機艦から遅れること二時間弱になる。

 

「それにね。出撃前は、誰かとお話してた方が、落ち着くから」

 

 そう言った睦月に如月は俯く。ご期待に沿えるほど、今の如月はおしゃべりができるわけじゃない。そんな気分ではなかった。

 

 誰もいない食堂。向かい合う二人。横たわる沈黙。

 睦月がそっと、如月の手を取った。

 

「大丈夫……必ず、帰ってくるから。如月ちゃんを一人になんて、しないから」

 

 言われて、初めて気づいた。湯呑みの液面に映る自分は不安げで、何かに怯えていた。恐怖の対象が何かと聞かれれば、それは大切な人を失うことに他ならない。現状で唯一自分を理解してくれる彼女を、失うことに他ならない。

 どこか――自分の知らない遠くへ、彼女が行ってしまう恐怖。

 睦月が帰って来るまで、ほぼ丸一日間。この恐怖と戦わなければならない。

 

 だが、その恐怖を口にすることははばかられた。それを言ってしまったら、睦月はきっと如月の側に残ろうとするだろう。それはできない相談であった。

 行かないで。口をついて出そうな恐怖を噛み殺し、如月は湯呑みの液面を覗き続けた。醜く半身を蝕まれた自分の怯えた顔が、そこには映っていた。

 

 

 

 

 

 

 砂浜を散歩していた大和は、打ち寄せる波をボーっと眺める人影に気づいた。誰であろうか、と目を凝らせば、見知ったセーラー服の後ろ姿であることに気づく。彼女とは、第一次FS作戦時からの知り合いだ。

 サクリ。サクリ。白砂を踏みしめ、大和は人影へと近づいていく。膝を抱え、うずくまるように小さくなっていた彼女は、こちらに気づいて静かに振り返った。

 

「大和、さん……?」

 

 突然の来訪に驚いたのか、吹雪が確かめるように呟いた。大和は頷き、微笑む。

 

「隣、いいかしら」

「……はい、どうぞ」

 

 そう答えて、吹雪は右隣を勧めてきた。大和はそこに腰を下ろし、吹雪と同じようにして膝を抱く。

 吹雪がこちらを窺う気配がした。けれど、開きかけたその口から言葉が紡がれることはなく、再び閉じる。大和もそれを追求しようとは思わなかった。

 

 眼前には、夜の海が広がっている。黒い墨で塗りたくった海原は今、月齢五の淡い光に照らされ、なまめかしく波立つ。白砂を撫ぜる黒波がざわめき、聴覚を満たす。陸側から吹く風が、二人分の髪をさらった。

 

「……心地の良い夜ですね」

 

 フッと呟いた大和に、吹雪もこくりと頷いた。だが反応はそれだけで、それからまたしばらく、どちらも言葉を発しない。

 二人並んで、夜風を楽と聞く時間が続いていた。

 

「大和さんは……」

 

 十分が経とうとしていた頃、ようやく吹雪が言葉を発した。躊躇いと決心を含んだ間が幾ばくかあり、吹雪はその先を口にする。

 

「大和さんは、知っていたんですか?艦娘と、深海棲艦の、ことを」

 

 少し濁した言葉に、思い当たる節があった。艦娘たちの一部が薄々気づき始めていた事実。艦娘と深海棲艦のループ関係を彼女たちに話したのは、加賀だったはずだ。

 

「……ええ、聞かされてはいました。今のところ、そのループを断ち切る方法がないことも含めて」

 

 肯定する言葉に、吹雪はより一層力を込めて、膝を抱く。

 

 どうしたものかと、大和は眉尻を下げる。

 海軍最強戦艦、また指揮系統のトップに座る艦娘として、相応の教育は受けてきた。トラック泊地に籠りきりになり、箱入り娘とも揶揄された。なまじ各地の情報が集まってくるだけに、自分の噂話を聞けば聞くほど、自信を無くさざるを得なかった。

 その壁を撃ち破ってくれたのは吹雪だ。トラックで黄昏るしかなかった大和を海に連れ出し、艦娘としての自信を取り戻させてくれたのは吹雪だ。

 彼女がいなければ、大和がMI作戦に参加することも、ましてや南方の最前線へ来ることもなかっただろう。

その吹雪に対して、自分は何の言葉をかけてやることもできないのか。

 

 しばらく迷った末、大和は口を開く。

 

「この戦い……意味のないもののように、思いますか」

 

 その問いかけに、吹雪は強く首を振った。それだけは全力で否定しようと思っているかのように。

 

「赤城さんが言っていました。わたしたちが深海棲艦を倒すことで、彼女たちは艦娘として戻ってくることができる。それはとても意味があることだ、って」

 

 でも。吹雪はそこで唇をかんだ。

 

「わたしはそうと知らずに……ただただ、深海棲艦を沈めてきました。彼女たちは、もしかしたら昔、仲間だったかもしれないのに。目的も意味もなく、ただ深海棲艦という理由だけで、沈めてきました。それが……」

 

 その先を少女は紡がなかった。

 それが嫌になった。それが悲しくなった。言葉の先はいくらでも想像がついた。ただ一点、そこに共通するのは罪悪感。そしてあるいは――

 

「戦いの意味は、わかりました。でも、わたしがここにいる意味は、もっとわからなくなりました」

 

(自分がここにいる意味、ですか)

 

 納得している自分がいた。かつて同じように悩んでいた艦娘を知っている。自分の意味がわからずに、悩み続けた一人の艦娘を。

 あの時とは、何もかもが逆だった。

 

「……意味、とは、とてもとても大きな、重い荷物です。重くて重くて、でもどうしようもなくて、時々自分が何を背負っていたかわからなくなる。一歩一歩、それでも前に進まなくちゃいけなくて、踏みしめる地面がめり込んでしまうほどに思えて。きっと誰でも、そう思うものです」

「大和さんも、ですか?」

「はい、もちろん。けれど、ある時ふと、その荷物が軽くなったんです。どこかから誰かが、その荷物が何なのかを教えてくれた。荷物の大きさは変わらない。けれど中身がわかったおかげで、私の荷物は随分と軽くなった。教えてくれた誰かのおかげで、私は自分だけで前を見て、まっすぐ歩けるようになりました」

 

 大和の言葉に、吹雪はパチクリと目を瞬いていた。彼女はきっと気づいていない。大和にとってその「誰か」とは、吹雪のことであったと。

 

「自分の意味とは、そういうものだと思います。自分では気づかない。けれども、その正体を教えてくれる誰かがいます。目を閉じて、思い出してみて。その誰かに、心当たりはありませんか?」

 

 吹雪の瞳が揺れる。窺うように大和の表情を覗いた彼女は、ゆっくりとその瞼を閉じた。

 おっとりとした吐息。殊更にゆるるかな空気の流れは、彼女が自らの心と向き合っている証でもある。小さな胸が微かに上下し、白い首筋が脈動する。

 悩める少女は、やがて静かに、唇を動かす。

 

「……希望、と言っていました」

「希望?」

「はい。初出撃に失敗して、落ち込んでいたわたしに、司令官がそう言っていたんです。『私にとって、君は希望だ』って。何のことだったのか、いまだにわからないんですけど。でもその言葉のおかげで、これまで頑張ってこれた気がするんです」

 

 そう言った吹雪の背筋が、心なしか伸びている気がした。

 

(――希望、か)

 

 彼女の提督――横須賀の刑部提督がどんな人物で、どんな意図でそんなことを言ったのかはわからない。ただ単に、新人で落ち込んでいた吹雪を、勇気づけるためであったかもしれない。それとも他に、彼女の本質を見極めたうえでの言葉であったかもしれない。

 けれどもその、「希望」という表現は、実に的を射ているように、大和には思えた。

 

「希望、ですか。それはとても大切な、吹雪さんのあるべき意味かもしれませんね」

 

 そう言って、大和は吹雪を抱きしめた。膝を抱えた彼女を、背中側から包み込むように。頭一つ分以上も身長が違えば、吹雪は大和の腕の中にすっぽりと収まる。

 

「や、大和さん?」

 

 驚いた様子で吹雪が声を上げる。振り返ろうとするその顔を、大和はやんわりと押し留めた。吹雪は戸惑ったまま、何も言わずに大和の胸に収まっている。

 

「希望、という表現は、吹雪さんのあるべき意味に、ピッタリだと思います」

「……そう、でしょうか」

「はい。吹雪さんは気づいていないかもしれませんけれど。吹雪さんは多くの艦娘の支えになっています。多くの艦娘の背中を押しています。それだけは忘れないで」

 

 大和は右手で吹雪の頭を撫でる。ピクリと驚いたように吹雪が震えたが、そのまま、されるがままとなっていた。

 

「私たちは、どうしてここにいて、どこへ行くのか。それは、艦娘誰もが抱く、自分への問いかけ、悩み。それでも吹雪さんは、前に進むことを拒まない。そんな吹雪さんだから、私は――」

 

 私は、ここにいていいのだと思えた。そして吹雪に、ここにいて欲しいと思えた。

 求めるものは希望。であれば、今この胸に抱く彼女こそが、私の希望。

 

「……明日の戦い、これまでになく厳しいものになります。それでも私は、約束しましょう。吹雪さんを守る。あなたという希望を、最後まで守り続ける」

 

 大和の言葉に、吹雪は小さく、首肯した。

 

 

 

 

 

 

 大浴場を出た加賀は、見知った人影とすれ違った。これから風呂に入るらしい瑞鶴は、ペコリと軽い会釈だけで、加賀の横を通り過ぎる。

 それに、心がざわめいた。どうしようもなく、不安に駆られた。

 なぜだったのか。()()()()()を、この子に告げてしまったからだろうか。

 

「瑞鶴」

 

 足を止め、呼び止める。瑞鶴の方も、加賀を振り向いた。

 

「何?」

 

 自分は一体、何を言おうと思って、彼女を呼び止めたのだろう。

 

「……今回は、最悪の事態も想定しておくことね」

 

 ああ、なぜここで、さらに不安を煽るようなことしか言えないのか。胸のわだかまりは収まるどころか、むしろ増大する。轟沈という最悪の事態を、具体的に想像してしまうほどに。

 

(それだけは、いやだ)

 

 いつぞやの記憶が蘇る。ぼろぼろの背中。私を送り出す笑顔。何も残さず、全てを飲み込んだ波の蒼。

 あんな……あんなことだけは、もう二度とごめんだというのに。

 

「何よ。私が沈むかもしれない、ってこと?」

 

 瑞鶴の言葉には答えず、加賀は歩きだす。悪い想像を振り切ろうと、逃げるように。

 不満げな瑞鶴の鼻息が聞こえた。

 

「でも、轟沈したって、戻ってこれるんでしょ」

 

 それは、加賀の中にあった火薬を暴発させるのに十分な火花だった。

 

「二度とそんなこと言わないで」

 

 これまでになくきつく、瑞鶴を睨んでしまった。こちらを見ていた後輩が、思わず一歩後退る。それを望んでいたわけではない。怖がらせるつもりなどないのに。

 自分で自分に溜め息が出る。

 

「……それは、とても苦しく、辛い道だから」

 

 力なくそれだけ言い残して、瑞鶴に背を向ける。あの時の光景が、再び頭をよぎった。

 

「……あなただって、本当は知っていること」




決断編は以上です。
次回より、出撃編となります。加賀たち航空母艦の戦いがメインです。


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出撃
出撃(一)


出撃編です。航空戦メインになります。


――アナタは、希望なんかじゃない。

 

 

 暗闇の中から、彼女が言う。

 

 光も届かない海の底。体は重く、息は苦しい。それでも目を、離せない。

 

 そんなことない。そんなことはない。

 

 大和さんが言っていた。最後まで守ると誓ってくれた。だから私は、最後まで希望でなければならない。

 

 

 

――いいえ、違う。むしろアナタの存在は、絶望そのもの。

 

 

 

 暗闇から手が伸びる。雪のように白い手。海水が透けそうなほどの白い手。

 

 違う。違う。わたしは。わたしは。

 

 

 

――アナタは憶えていないだけ。だってそれは、ワタシのものだったから。

 

 

 

 白い手が触れる。瞬間、何かの映像が、奔流となってわたしの中に雪崩れ込む。

 

 燃える海。黒い影。それは遥か彼方の――

 

 やめて。それは違う。わたしじゃない。手を払う。

 

 誰。あなたは誰なの。

 

 

 

――だから、言っているでしょう。ワタシはアナタ。アナタはワタシ。

 

 

 

 暗闇から彼女が顔を出す。青白い肌、深紅の瞳、色素の抜けた髪、額に覗く角。明らかな異質。けれどその顔は――

 

 

 

 わたしと瓜二つだった。

 

 

 

 いいや。いいや、違う。そんなわけない。あなたはわたしなんかじゃない。あなたなんて知らない。

 

 

 

――いいえ、憶えている。

 

 

 

 今度は両の手で、彼女がこちらの頬を掴む。深紅の瞳を愉快そうに――そしてどこか愛しむように細めて、彼女は笑う。

 

 白い顔が近づく。意図はわからない。けれどその行為が何かはわかった。

 

 やめて。力を振り絞り、その顔を叩く。赤く腫れた頬。それでも彼女は笑ったまま。

 

 

 

――そう。こっちの方が、趣味に合ってる?

 

 

 

 そう言った次の瞬間、目の前にいた彼女の姿が変わった。長い髪をしなやかに揺らし、桜の簪をアクセントに散らす。柔らかな微笑を湛えた女性は、紛れもなく大和だった。いや、瞳は深紅のままで、肌もどこか白い。どんな手かはわからないけれど、それが紛れもなく彼女であることだけは理解できた。

 

 

 

――おいで。アナタも本当は来たかったはず。ここへ。

 

 

 

 白い手が、再び頬に触れる。氷のように冷たく、血の通わない手。それは、春の日差しのような暖かさで、包み込むように撫でてくれた大和の手とは、全く違う。けれど目の前で微笑む表情は、大和そのものであった。

 

 

 

――おいでませ。鉄の水底へ。

 

 

 

 大和の顔が近づく。唇と唇が重なる。そのくちづけを、拒むことはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 夜明けとともに、出撃を告げるサイレンが鳴り響いた。全ての準備を整え、正装に身を包んだ艦娘たちが、波止場に並ぶ。出撃するもの、ここに残るもの、各々言葉を交わし、激励する。

 喧噪の中、第七艦隊の面々と言葉を交わし終えた大和は、吹雪の姿を探していた。同じ艦隊での出撃だ。艤装装着前に、少しくらい話しておきたい。

 見れば、吹雪は川内型軽巡洋艦姉妹や暁型駆逐艦姉妹と一緒にいた。どちらも横須賀所属の艦娘たちだ。

 

「吹雪さん」

 

 人ごみを掻き分け、大和は吹雪を呼ぶ。

 こちらを振り向いた吹雪の瞳が、一瞬揺らいだような気がした。

 

「大和さん、おはようございます」

「おはようございます、吹雪さん。今日は頑張りましょうね」

「はい、もちろんです」

 

 そう言って、吹雪は両の拳を握る。しかし気のせいだろうか、今朝はどうも、普段の覇気に欠けるような気がした。

 

『作戦指揮室より、全艦娘へ。〇七〇〇時の時計合わせをもって、出撃となります。出撃艦娘は、所定の位置へ』

 

 スピーカーから、作戦指揮室に控える大淀の声が聞こえてきた。もう間もなく出撃の時間だ。

 

 

 

 

 

 

 出撃ドックから次々に洋上へ躍り出ていく艦娘の姿を、如月は高台から見守っていた。

 〇七〇〇の時計合わせがあり、すぐに長門から出撃が命じられた。沖に投錨していた二機艦が抜錨し、同時に三機艦が出撃ドックから出る。今は一機艦が出撃中だ。この後には、二挺艦、そして睦月の所属する一挺艦と続く。

 一時間ほどがして、ついに一挺艦の番となる。コンテナ型の簡易出撃ドックに、ショートボブの後ろ姿が入っていった。数分後、空気式カタパルトによって、睦月が海面に滑り出す。別のドックからは、吹雪も出てきた。

 

「睦月、ちゃん……」

 

 ポツリとした呟きは、喉の奥から霞んだ音として出てきた。

 

 深海棲艦の侵食は、着実に如月の全身へと広がっている。喉の辺りは最早感覚がない。手足の先や顔の右半分に、幾ばくか残るだけ。もはやこの体を、自分のものとは思えない。

 いつかの夜、加賀が言っていた通りだ。いずれこの身は深海棲艦となる。予感ではなく確信に近い。

 けれど、それよりも今は。昨日と同じ、大切な人が、どこか遠くへ行ってしまいそうで。その不安だけが、わずかに残った心の中にわだかまる。

 

「行かないで……」

 

 昨晩秘めた言葉が、唇の隙間から漏れる。

 

 びょう。海の方から風が吹く。めくれそうになったフードを抑え、風上から顔をそむけた。

 

――ソレデ、イイノ?

 

 風に混じって、そんな声がした。ハッとして後ろを振り返る。

 

「よかった。ここにいたんですね」

 

 ニコニコと笑顔を浮かべて立っていたのは、明石であった。

 否。

 

「あなたは、誰?」

 

 警戒心を最大限に引き上げて、如月は明石のような何かを見つめる。明石の中の誰かは、感心したような表情を浮かべる。

 

「やはりわかるものなんですね。それなら話が早いです」

 

 声は穏やかで、口調も明石のそれだが、そのしゃべり方そのものが作ったものだと直感できる。あれは明石ではない。

 

「如月さん。ここで睦月さんの帰りを待ち続けるつもりですか?」

「……深海棲艦になりかけているんだもの。ここから出るわけにはいかないわ」

「それは本心ですか?」

 

 何が言いたいの。明石の中の誰かは、私に何をさせたいの。

 口をつぐんだ如月を嘲笑うように、明石が目を細める。

 

「守りたい。失いたくない。それはとても自然なことだと思いますよ。それが大切な人なら、尚更」

 

 心にもないことを、と言い切れればよかったのだが。なぜだか彼女の言葉には、微かな実感と重みがあった。それ故に、全てを突っぱねることもできなかった。

 それが心の隙となることをわかっていても。

 

「どうです?今なら間に合いますよ?まだ連れ帰ることができますよ?」

 

 その覚悟をしろ。そう望んでいるような声。

 何より、「まだ間に合う」の一言に、心がぐらついてしまった。

 

 もう一度風が吹く。フードが風でバタつき、如月の頭から外れる。まとめていた髪が激しくなびき、右半分の視界を奪った。最早それも気にならない。

 今の如月に、目的は一つだけ。

 

「艤装は、使えるの?」

 

 如月の問いかけに、明石が満足げな笑みを浮かべる。

 

「連れ戻す気になりましたか?」

 

 それだけは強く、否定した。

 

「いいえ。睦月ちゃんを助けに行く」



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出撃(二)

 一〇三〇。赤城率いる一機艦は、島嶼の間を抜け、サーモン海域北方へとたどり着いていた。その道中は実に派手なものであった。

 出撃直後、ショートランドの基地航空隊から報されていた、サーモン海域入り口付近に展開する敵巡洋艦部隊に向けて攻撃隊を放った。早朝の奇襲だったこともあり、敵艦隊はなす術なく壊滅。

 さらに、第二部隊が警戒行動中と思しき敵艦隊と接触。これを金剛、榛名の支援攻撃のもと撃滅した。

 その後も派手に索敵活動を続け、殊更に存在をアピールしながら、サーモン海域北方へと至っている。

 

 そろそろ、敵の索敵機に捕まるだろうか。そんなことを考えながら、加賀は航行を続けていた。

 現在第一戦速。一機艦第一部隊は空母四隻を中央に置き、両脇に金剛と榛名。それを囲むように第二部隊が展開している。対空戦闘に備えた布陣だ。

 出撃から三時間半。いつ敵の攻撃隊が現れてもおかしくはない。総数一千機を超える機動部隊を、これから加賀たちは相手取るのだ。一瞬の油断が命取りになる。

 

『赤城より、各航空母艦へ。間もなく定時です。索敵機の報告をお願いします』

 

 赤城から通信が飛ぶ。四隻の空母からは四機ずつ二回、計八機の索敵機が飛び立っており、サーモン海域北方を遊弋中と思しき敵機動部隊を探している。その現状を確認するのも、母艦たる空母の大切な役割だ。

 ほどなく、加賀の放った偵察機から、定時連絡が入り始めた。一号機から順に八号機まで。敵影見ずと、自らの異常なしを報告してくる。

 

(私の索敵線には、かかっていない)

 

 八機の無事を確認して、赤城に報告しようとした時だ。

 

『瑞鶴より各艦。瑞鶴四号機及び五号機からの連絡途絶。赤城宛意見具申。直掩隊増勢の要ありと認む』

 

 瑞鶴からの通信に、一機艦全体の空気が張り詰めた。

 加賀の目の前に位置取る赤城が、チラリとこちらを窺う。その視線に頷き、加賀は瑞鶴の方を見遣った。自慢の可愛い後輩は、特に気負った様子もなく、偵察機とのやり取りを続けている。

 

『赤城より各航空母艦。瑞鶴の意見具申を受諾。各航空母艦は直掩隊を追加で発艦。加賀五号機より八号機、及び瑞鶴一号機より三号機は針路変更。本艦隊よりの方位一〇〇から一一〇を重点的に索敵せよ』

 

 赤城から矢継ぎ早に指示が飛び、一機艦は風上へと転針する。その中央、四隻の空母は、各々の発艦装置である和弓を構え、艦載機である矢を番える。

 

『各艦、直掩隊発艦始め』

 

 赤城の号令を皮切りに、引き絞っていた弦が解放される。ひょうふっ。軽快な風切り音を上げて放たれた矢は、やがて燐光を放ち、空気中に霧散する。散り散りとなった燐光が再び集う時、それは力強い発動機の音を響かせる三機の戦闘機となっていた。

 新鋭艦上戦闘機、名を「烈風」。零戦よりも大型、高馬力、強武装の新翼だ。今はまだ赤城と加賀の二人にしか配備されていない機体である。

 その新鋭機が、赤城と加賀から六機ずつ、計十二機飛び立つ。また、同じように翔鶴と瑞鶴からは、零戦六四型が出撃している。

 元々上空に展開していたものと合わせて四十八機。直掩隊としては相当な数だ。これだけの戦闘機を直掩に割けるのは、一機艦の各空母が戦闘機に重きを置いて航空隊を再編成したからである。

 

(それでも、焼け石に水かもしれない)

 

 一千機という敵機の総数に比べれば微々たるものだ。これだけの戦闘機をもってしても防げなかった、という事態は十分に考えられる。

 否、今は考えまい。備えられるだけの備えをする。それがきっと最善策だ。

 

 新たに加わった二十四機が高度を上げ、艦隊の上空を旋回し始める。時刻は間もなく一一〇〇。サーモン海域北方にはすでに、戦いの香りが漂い始めていた。

 

 

 

 その影は、方位一一二、雲量六の空から現れた。

 

『金剛より各艦。電探に感、敵さんのお出ましデス。方位一一二、距離六万。およそ百機』

 

 真っ先に気づいたのは、金剛搭載の対空電探であった。距離六万では、肉眼で確認することは難しい。稼働率と信頼性に疑問符の付く電探であるが、今回はしかとその役割を果たしたようだ。

 

『赤城より各艦、対空戦闘用意。各対空砲の発砲は別命あるまで待機。戦闘機隊は迎撃の準備を』

 

 赤城の緊迫した声が通信機から届く。各艦娘の対空砲に妖精が取り付き、砲身の仰角を引き上げる。高角砲、機銃。ハリネズミのように据えられたそれらが、天を睨んだ。

 

 事前の打ち合わせでは、戦闘機隊の優先目標を雷撃機とし、急降下爆撃については対空砲火と回避運動で凌ぐことが明言されていた。理由は二つ。艦娘も船である以上、上からの爆撃よりも水線下への雷撃の方が脅威度が高いこと。また、囮という役割を考えれば、たとえ爆撃で損傷しようとも洋上に残り続けることが大切であること。

 故に、対空砲は天を睨み、戦闘機は高空から敵編隊後方に襲いかかるのだ。

 

 加賀は空を見遣る。雲の合間にキラリと、味方戦闘機の編隊が見えた。三機ずつの小隊を組み、高みから海上を見守っている。同時に空の先を睨み、敵編隊に備えている。

 

 そして、それが始まった。

 雲の切れ間、敵編隊の上空から、銀翼が真っ逆さまに突き抜けた。ほんの一瞬、正しく烈風のごとき神速が敵編隊の後部を航過する。一拍遅れて、爆発と思しき閃光が走った。被弾した敵機が四散したのだろう。

 

『戦闘機隊、突撃を開始したデス!距離五万!』

 

 金剛が報告を寄越す。戦闘の詳細までは、ここからでは窺い知れない。最初の一航過こそ編隊を保っての襲撃であったが、それ以後は敵味方入り乱れての混戦になっている。まだ米粒ほどにしか見えていない味方戦闘機の機影一つ一つを追いかけることは、いかに目のいい空母艦娘と言えども不可能だ。

 それでも目を凝らさずにはいられない。一種癖とでも言える。空母にとって自らの艦載機は子供にも等しい。そこに乗っている妖精一人一人の顔まで、思い浮かべることができるほどだ。

 今は、あそこで奮闘している四十八機を、信じる他ない。

 

 五万を切った距離で、火箭が入り乱れる。飛行機雲が複雑に絡み合い、その合間に時折太陽光を反射する。宙空を乱舞するのは、正反対の見た目をした二種類の機体。精錬された、工学的美しさに支配される艦娘側戦闘機。岩石を削りだした、あるいはエイを筋骨隆々にしたような、荒々しいフォルムの深海棲艦側戦闘機。

 運動性能、速力、攻撃力を比較するのであれば、単純な性能では「烈風」や零戦が勝ることになる。事実、遠目で見た限り、戦場の支配権を持っているのは艦娘側の戦闘機隊だ。

 だが深海棲艦側の機体――俗に「飛びエイ」と呼ばれる機体は、総数で百余機がいる。戦闘機の役割(「飛びエイ」は機種による形状の差がほとんどなく、同一機体とみなされる)を果たしているのは三十機かそこらであろうが、「烈風」と零戦の目標は戦闘機の壁に守られた爆撃機や雷撃機だ。そう考えると、敵機全てを防ぎきるには圧倒的に数が足りない。単純計算で一機あたり二機を撃墜しなければならないのだから。

 

 案の定、味方戦闘機隊の火箭を潜り抜け、さらに肉薄してくる「飛びエイ」が現れ始める。敵編隊はすでに散開済みらしく、十機弱の小編隊に分かれた敵機が別々の進路から一機艦の輪形陣を目指していた。

 

(どこから来る?)

 

 ついに三万を切った敵編隊に目を凝らし、加賀はその目標を見極める。敵機の影は米粒程度になっていたが、その腹に抱かれたものが爆弾か魚雷かまで見ることはできない。ゆえにその動きから、どちらの機体であるかを推測する必要がある。

 

 加賀の頭に乗り、双眼鏡を覗いていた見張り妖精が、敵編隊の様子を報告する。最も近いのは右三十度方向から接近してくる編隊で、距離はおよそ二万三千、高度二千。次第に高度を上げつつあることから、爆撃機であると見込まれる、とのことだ。

 

『赤城より各艦。針路を北に取ります。艦隊逐次回頭、針路〇一五。転針後、速力を二八ノットに合わせ』

 

 赤城が新たな指示を出す。いよいよこれから、敵機動部隊を北につり出すのだ。一機艦の動きにうまく乗ってくれるといいのだが。

 それにそろそろ、こちらも敵機動部隊の位置を把握したい。

 一機艦所属の十二隻が次々に回頭し、針路を一五度に取る。

 

『敵編隊、艦隊右舷!突っ込んできマース!』

 

(やはり来る、か)

 

 転舵によって右舷に移った敵機を睨む。金剛の言う通り、敵編隊に怯んだ様子はない。味方戦闘機による迎撃をものともせず、グングンこちらへ迫ってくる。距離は二万を切った。

 

『各艦、対空戦闘用意!距離一万より射撃はじめ!』

 

 赤城の切迫した声が響いた。対空戦闘において、対空砲火は最後の砦だ。いよいよその使用すらも視野に入れなければならない。そこまで敵機の脅威は近づいている。

 加賀のすぐ横、右翼側の防備を担当する金剛が、遥かな高空を睨んでいた。第二次改装を終えた腰の艤装、そこに据えられた四基の連装砲塔が旋回する。俯仰する砲身は四五口径三六サンチ砲。最大仰角四二度で固定された砲口が太陽を受けてギラリと怪しくきらめく。

 

 チラリと、自らの艤装を見遣る。一二サンチ連装高角砲に取り付いた妖精と目が合った。彼が親指を突き立て、ニカッと笑う。準備完了、ドンと来い。そう言っているようだった。

 その仕種に頷く。敵編隊との距離は一万五千を割っていた。

 

 戦闘の光景は最早目の前だ。濃緑色の味方戦闘機と、黒色の敵戦闘機が容易に識別でき、その入り乱れた戦闘までよくわかった。

 横旋回で巴戦を演じていた「烈風」が、「飛びエイ」に二〇ミリ弾を叩きこみ、撃墜する。

 逆に、一瞬の虚を突かれた「烈風」が、「飛びエイ」の一三ミリ弾で翼を折られ、錐揉みとなって落ちていく。

 一三ミリと二〇ミリを一身に受け、欠片も残すことなく四散した「飛びエイ」も見えた。

 

『赤城!敵機が三式弾の有効範囲に入ったデース!』

 

 金剛が叫んだ。今から撃つ。そう主張しているのだ。

 上空の戦闘機隊に向け、赤城から指示が飛ぶ。それを受け、「烈風」と零戦が次々に翼を翻し、離脱にかかる。距離一万の空には、ただ敵機の集団を残すのみ。

 

『撃ちます、ファイヤー!』

 

 待っていました、とばかりに金剛が叫んだ。次の瞬間、顔の右側で強烈な閃光が走り、焼けつくような熱さが頬を襲う。仰角を上げ、敵編隊に狙いを定めていた金剛の主砲から、紅蓮の炎が吐き出された瞬間であった。

 海面に灼熱と衝撃をばら撒いた砲炎が収まり、硝煙の黒い雲が後方へと流れる。時間にすればほんの数秒だ。その間に、金剛の放った砲弾は飛翔を終え、敵編隊の眼前へと迫る。

 オレンジ色の雨が降り注いだ。正確に言えば、敵編隊に対して横殴りに襲いかかった。八発の砲弾から飛び出した無数の子弾が、迫る「飛びエイ」を包み込む。

 敵編隊の一角で、同時に黒煙が上がった。発動機、あるいは燃料タンクに被弾した「飛びエイ」が、その機体から炎を噴いている。撃墜は時間の問題だ。それ以外にも、白煙を引いてフラフラとしている機体が数機いる。

 

 だが、全体から見れば微々たる数だ。三式弾の特性上、上手く有効範囲に捉えられなければ、被害はとても限定的なものとなってしまう。

 チラリと視界の端に映った金剛が、悔しげに奥歯を噛み締めていた。

 

『全艦、対空戦闘始め!』

 

 赤城の号令がかかる。今度は高角砲の番だ。輪形陣の各所で火の手が上がり、真っ赤に燃え盛る礫を高空へと放った。ここからは高角砲の領分だ。

 数秒の後、多数の砲弾が一斉に起爆した。花弁を思わせる黒い爆炎がそこかしこで生じ、敵編隊を全方向から揺さぶる。炸裂した砲弾の弾片が鋭い刃となって敵機を切り刻む。それでもなお、怯むことのない敵機。

 間近で砲弾炸裂の爆圧を受け、ぺしゃんこに潰れた機体。

 弾片が突き刺さり、ズタズタに引き裂かれた機体。

 衝撃によって制御不能となり、錐揉みに落ちていく機体。

 

 一機艦の対空砲火が、一機また一機と「飛びエイ」を捉えていく。だがその度、敵編隊は着実に距離を詰めてきた。敵の切っ先を弾いても、その都度一歩の間合いを詰められているような、そんな感覚だ。

 じっとりとした汗が背中を伝う。何度体験しても慣れることのない、戦場の感覚だ。

 

 次の瞬間、先頭の集団が散開した。十数機でまとまっていた「飛びエイ」が四、五機ごとに翼を翻し、一機艦の上空を大きく旋回し始める。さながら獲物を見極める猛禽類のような動きだ。事実、一機艦は奴らに狙われている。ついに敵編隊は、こちらを攻撃の間合いに捉えたのだ。

 

『対空射撃を継続しつつ、自由回避!一発も被弾しないで!』

 

 赤城の声が終わるか終わらないかのうちに、最初の小編隊が機体を捻った。機首を下げ、急角度で降下してくる。その腹には、陽光を浴びて怪しく光る鈍色が二つ。

 

『敵機急降下!』

 

 金剛の絶叫に近い叫び。五機の異形が向かう先を、加賀は目で追う。

 狙いは赤城であった。

 すかさず気づいた赤城が、上空を睨む。仰角を最大に設定された二五ミリ機銃が、火焔を躍らせた。艤装の各所に据えられた機銃座から、シャワーのように曳光弾が乱れ飛び、「飛びエイ」に伸びる。

 オレンジ色の火箭が、敵編隊を飲み込んだ、かに見える。だが実際には、敵機が火を噴くことはなかった。弾雨の中を掻き分け、黒光りする塊が赤城に急接近する。赤城が右に舵を切り始めた。「飛びエイ」の真下に入り、その射線を逸らす腹積もりだ。

 

「飛びエイ」が機首を引き上げた。同時に機体の腹から、小さな物体が二つ、切り離される。急降下によって加速された爆弾が、放たれたのだ。

 ああなってはもはや止められない。できることといえば、赤城の回避運動が間に合うことを祈るのみだ。

 初撃で赤城を戦列から失うわけにはいかない。

 

 数秒と経たず、爆弾が赤城の周辺に落下する。鉄の塊が赤城の右を掠め、海面に吸い込まれる。かと思った次の瞬間、遅延信管が起動して爆弾が弾ける。硝煙を含んで黒ずんだ海水が持ち上がり、天然のベールとなって赤城の姿を隠す。赤城の背丈を遥かに超える海水の柱が次々と生じ、水滴がスコールのごとく降り注いだ。

 

 幸い、赤城は被弾しなかった。海水の柱が全て収まった時、海水のカーテンを突き破ってその姿を見せる。頭から海水を被り、全身びしょ濡れだが、損傷はゼロだ。加賀はほっと胸を撫で下ろす。

 

 へばりついた前髪から雫を滴らせ、赤城が叫ぶ。

 

『次に備えて!』

 

 赤城への攻撃開始を皮切りに、旋回していた敵編隊が次々に急降下を始めた。あたかも一機艦を囲む投網のように、黒い影が迫る。

 

 ここまでくると、艦隊としての対空射撃は望めない。各々が各個に目標を定め、機銃を放つ。入り乱れる火箭の中を、黒い影が走り抜ける。

 回避運動に伴うカーブしたウェーキが、いくつも描かれる。加賀もまた、上空を見上げ、右へと舵を切る。敵機の影はほぼ真上。このまま舵を切り続ければ、上手く回避できるはずだ。

 嘲笑うような風切り音が響いた。敵機が急激に引き起こしをかけ、その腹から爆弾が切り離される。

 来る。丹田の辺りに力を溜め、加賀は弾着の瞬間に備えた。

 

 海面が沸き立ち、あたかも間欠泉のように噴き上がった。鼻をつく硝煙の匂いを含む海水が、局所的な豪雨となって加賀の頭上から降り注ぐ。バラバラと大粒の水滴が飛行甲板を打ち、リズミカルな音色を奏でた。

 二発、三発。至近弾が次々に炸裂し、爆圧で下から突き上げられる。脚部艤装が軋み音を上げ、前へつんのめりそうになった。海面を強く踏み、何とか耐える。

 

『シット!』

 

 金剛の罵声が通信に乗る。見れば、その強壮な艤装から、炎と煙が立ち上っている。回避運動が間に合わず、被弾したらしかった。

 なおも輪形陣各所で水柱が上がっている。爆音、衝撃、混じる悲鳴。一発、また一発と爆弾が炸裂し、至近弾あるいは命中弾となって各艦に被害を与える。飛び散る海水と弾片。横薙ぎの爆風。艤装が異音を上げ、軋む。

 一航過を終え、高度を稼ぎながら去っていく敵爆撃機を睨む。輪形陣では各所で煙が上がり、確かな被害を物語っていた。だが、脱落した艦はない。いまだ一機艦は輪形陣を維持し、万全の守りを敷いている。被害は最小限に留められた。

 

 その、堅牢な城塞を攻め落とさんと、新手の戦力が一機艦へ攻め来る。敵雷撃機だ。

 

(まずいわね)

 

 ざっと周囲の状況を見回して、加賀は胸中で呟く。

 

 味方戦闘機の迎撃を受けた敵雷撃機は、その数を大きく減じている。大きな編隊を組むことなく、散発的に一機艦を目指している形だ。

 けれどもそれが、逆に厄介でもあった。各方位からまばらにやって来る分、それぞれに対空砲火を向ける他なく、その密度は必然的に低下する。そんな状態で、満足な妨害は望めない。さらに、連続した回避運動を強いられることにもなる。駆逐艦ならいざ知らず、空母という大型艦種にには、そんな機敏さは到底発揮できない。

 この攻撃が大きな被害を呼び込むことはないだろう。しかし艤装、そして艦娘本人にかかる負荷が、今後の戦闘にどのような影響を及ぼすか。

 

 加賀の懸念を知ってか知らずか、敵雷撃機による攻撃が始まった。

 雷撃機は超低空を進撃してくる。文字通り海面を這うようにしてこちらへ肉薄し、腹に抱えた魚雷を撃ち込まんとしているのだ。

 

 大急ぎで仰角の下げられた対空砲が、各々の目標に順次発砲する。黒煙が踊り、爆風がざわめき、合間を鋭い弾片が乱れ舞う。敵雷撃機など、いつズタズタになってもおかしくないように思えた。だが実際には、敵機は何の痛痒も感じさせず、悠然とさらなる接近を試みてくる。

 

(狙いは赤城さんね……!)

 

 超低空のまま、進路を調整しつつこちらに迫る敵機を見遣り、加賀は確信した。

 

 赤城は横須賀鎮守府でも古参の部類に入る空母であり、数々の戦場で深海棲艦と刃を交えてきた。旗艦経験も加賀より豊富だ。とても重要度の高い艦娘である。裏を返せば、深海棲艦にとって最も警戒すべき艦娘ということになる。その赤城を集中的に狙うのは、至極真っ当な戦術と言えるだろう。

 少ない戦力の集中投入。これ以上ない有効な手段。たった一隻だけでも、重大な損傷を負わせんとする執念。

 

(直掩隊!)

 

 自らの戦闘機隊に呼びかけるが、あちらも残存敵戦闘機の相手で手一杯だという。今すぐにこちらまで引き戻すのは不可能だ。

 このままでは、赤城が敵の歯牙にかかってしまう。

 

 対空砲火を潜り抜け、「飛びエイ」が赤城に肉薄する。投雷位置までは間もなくだ。赤城は各編隊の動きを見極め、回避を試みているが、どこまで凌げるか。

 このままではいけない。焦りに冷や汗がにじみ出てきた加賀の耳に、意外な――そしてあまりにも()()()声が聞こえてきた。

 

『させるかぁぁああぁぁっ!』

 

 瑞鶴の絶叫。次の瞬間、上空から銀翼がきらめき、曳光弾のシャワーが降り注いだ。

 瑞鶴所属の零戦隊だ。敵戦闘機を引き剥がした二個小隊が、赤城を狙う雷撃機に襲いかかった。

 魚雷を積み、動きが鈍重な「飛びエイ」に、戦闘機の銃撃を避ける術はない。申し訳程度に後部銃座が応戦するが、それも徒労に終わる。軽々と最後の抵抗を交わした零戦が、情け容赦のない掃射をかけた。もろに銃弾を受けた敵雷撃機は、その場で燃料に引火し、爆発四散した。バラバラに砕けた機体の破片が、波間に降り注ぐ。

 

「飛びエイ」を撃墜した一機の零戦が、加賀の頭上をフライパスする。機体側面に、桜の撃墜マークを多数描いた機体だった。一瞬だけ、妖精がこちらに目線を向け、親指を立てる。

 

 赤城の回避運動も一段落していた。瑞鶴の援護もあり、被雷はなし。何とか無傷ですり抜けた赤城が瑞鶴を見遣り、ひらひらと手を振る。誇らしげに頷いた瑞鶴が、チラリと加賀を窺った。

 

(よくやったわ)

 

 そう伝えようとして、親指を立てかけた、その時。

 瑞鶴の頭上に迫る黒い影を、加賀の眼が捉えた。

 

 機数は三機。おそらくは急降下爆撃機だ。ただし、それまでの「飛びエイ」とは一線を画するフォルムをしている。全体的に丸っこく、不気味なほど白い機体。

 コードネームは「ヒトダマ」。MI作戦時に初めて確認された、新型の深海棲艦艦載機であった。

 

「瑞鶴!」

 

 それしか叫べなかった。一瞬キョトンとした表情を見せた瑞鶴が後ろを振り返った時にはもう遅い。三機の「ヒトダマ」は急降下に入り、瑞鶴へと襲いかかる。

 

 無理だ。回避は間に合わない。どうあっても命中する。冷静な分析の結果が、計り知れない絶望と自責となって加賀に襲いかかる。

 なぜ、どうして気づかなかった。電探から意識を逸らした。一瞬でも気を抜いた。

 

 嫌だ。嫌だいやだイヤダ。もう一度あの光景を見るのは嫌だ。

 

 もう一度、瑞鶴が傷つくのを見るのは嫌だ。

 

 圧倒的な喪失感が眼前を覆う。

 

 その闇を振り払うように、鋭い声が響いた。

 

『瑞鶴!頭下げろデース!』

 

 反射的に頭を抱え、しゃがみこんだ瑞鶴の頭上。それは唐突に起きた。

 敵機の眼前で、花火が弾けた。オレンジ色の火箭が漏斗状に伸び、「ヒトダマ」を包み込む。

 正しくアッパーカットを喰らったかのような状態になった先頭の一機は、次の瞬間に火達磨となっていた。残った二機も、直撃こそ免れたものの、コントロールを失って針路がずれ、そのまま引き起こしをかけられずに海面に激突する。

 何が起こったかわからない、と言った様子で、瑞鶴が上空を見上げていた。

 

『フ―、間一髪デシタ』

 

 そう言いつつ、金剛が額の汗を拭っていた。今のは彼女が放った三式弾であった。

 

『たこ焼き三つ、一丁あがりデース』

 

 そんな軽口をたたきながら、華麗なウィンクを決めて、彼女は再び警戒に戻っていった。

 

 ほっと胸を撫で下ろす。とにもかくにも、瑞鶴は無事だ。それが堪らなく嬉しい。目の前にいたら、思わず抱きしめていたかもしれない。

 

(らしくないわね)

 

 いまだ混乱しているのだろう、と自分に言い聞かせる。こんな思考は、全くもって加賀らしくない。

 

『今のは恐らく、新手の機動部隊による、偵察爆撃でしょう。別の機動部隊にも捕捉された、と考えるべきですね』

 

 各艦の被害状況を聞き届けつつ、赤城が先の攻撃をそう分析する。敵機の第一波攻撃はすでに退避に移っていた。

 

『直掩隊の損傷機を交代、このまま次の攻撃に備えます』

 

 その指示の通り、直掩隊の交代と燃弾補給を始めて十分ほど。待望の報告は飛び込んできた。

 

『敵艦隊見ゆ』



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出撃(三)

 敵艦隊の影を捉えた飛龍艦攻隊長妖精は、攻撃隊各機へ矢継ぎ早に指示を飛ばした。

 

 一機艦瑞鶴所属の偵察機からもたらされた敵艦隊発見の報をもとに、二機艦はすぐさま攻撃隊を発艦。これが一二三〇時のこと。

 発艦した第一次攻撃隊は、総数で百二十機を数えた。直掩機を残し、残った搭載機全てを放った形だ。甲板上での暖機運転を必要としない、艦娘ならではの力技と言えた。

 二機艦の総力を挙げた攻撃。指揮下の全機を、無事敵艦隊へと送り届けることが、隊長妖精の仕事であった。一先ずはその大仕事をやり遂げた達成感。そしてそれ以上に、この先の戦いへの武者震い。二つの感情を噛み締め、隊長妖精は戦場を俯瞰した。

 

 眼下の海面に、小さな影が見えている。ポツリポツリといくつかの影で円形を描くそれは、昨今話題のミステリーサークルに見えなくもない。海面の反射に浮かび上がるその存在は、明らかな意図と目的をもって、真っ白なウェーキを引きずっていた。

 一機艦の索敵機が発見した敵機動部隊の一群、「航イ」の呼称が定められた艦隊だ。総数はニ十隻、輪形陣の中央に空母棲姫を据えている。この海域に展開している機動部隊群の、司令塔的役割を担う艦隊と見られた。

 

 瑞鶴の索敵機は、同時に三つの空母群を発見していた。その報せを受けた、二機艦を率いる蒼龍は、迷うことなく「航イ」への攻撃を選択していた。最も脅威度の高い敵を、真っ先に叩く。戦場の定石ともいえるその判断を、迷うことなくできるのが、蒼龍という艦娘であった。

 

 とはいえ、空母棲姫という深海棲艦が厄介な相手であることに変わりはない。艦攻隊長妖精もそこは重々承知している。空母棲姫が初見参となったMI作戦で、攻撃の先陣を切ったのは、彼であったのだから。

 ヲ級flagshipを超える巨大な艤装に長大な航空甲板は、「飛びエイ」よりも大型の「ヒトダマ」を難なく運用できる。搭載数も破格であり、推定で百二十機と見積もられている。対空砲も多数搭載され、攻守ともに優れた、機動部隊の姫君。それが空母棲姫であった。

 その強敵を、討ち取って来いと、我らが旗艦殿は命じたのだ。

 

 武者震いを噛み殺し、艦攻隊長妖精は前を見据える。丁度その時、前衛に控えていた零戦隊が、一気に加速した。

 敵戦闘機の迎撃だ。青白い尾を引いた「ヒトダマ」が、束になってこちらへと迫ってくる。機数は三十といったところだろうか。

 攻撃隊の直掩についている零戦は、総数で五十機。数的有利はこちらにある。ただし、新鋭機である「ヒトダマ」は、零戦単独では手に余る。最低でも二機で相手しなければ、まともな戦闘は望めない。

 敵機が戦闘機の壁を突破し、攻撃隊本隊に襲いかかってくることは、十分に考えられた。

 しばらくは密集隊形のまま。三万を切るまでは、散開しないと、艦攻隊長妖精は決めていた。

 

 空中戦が始まった。零戦は二機一組の編隊を崩すことなく、「ヒトダマ」へと襲いかかる。すぐさま、お互いの飛行機雲が入り乱れる、乱戦へと発展した。空中に幾筋もの白線が走り、幾何学模様を描く。その合間に、お互いの戦闘機が放つ機銃の、曳光弾が見えた。

「ヒトダマ」の、目のようになっている部分が、赤く光り輝く。がっぷりと開いた口が獰猛にわななき、あたかも零戦を噛み砕かんとするかのように咆哮を上げる。

「ヒトダマ」が一三ミリ機銃を放つ。青白い曳光が鋭く宙を割き、そのまま零戦の機体に吸い込まれた。濃緑色に塗られた零戦の胴体を機銃弾が舐め、小さな穴をミシン目のように穿つ。慌てて身を翻した零戦に、これといった異常は見られなかったが、短い旋回半径で後ろを取っても、「ヒトダマ」は速度の優位と急降下をうまく使って、零戦に射撃の機会を与えない。

 戦闘機妖精たちの苦虫を噛み潰したような表情が、見えた気がした。

 

 次の瞬間、後部座席に陣取っていた偵察員妖精が、後部銃座の発射把柄を握った。「流星」の後部銃座である一三ミリ機銃が、編隊後方へ向けて曳光弾を放つ。艦攻隊長妖精も、そちらをチラリと見遣った。

 雲間に太陽の反射がきらめく。目を凝らすまでもなく、それが戦闘機であるとわかった。それも、こちらを狙う、敵戦闘機の姿だ。

 艦攻隊のど真ん中へと急降下をかけてくる敵機に対して、各「流星」から迎撃の火箭が上がる。とは言っても、後方指向可能な機銃は各機に一基ずつしかなく、しかも手動での照準だ。妨害にはなっても、敵機を撃墜するには至らない。

 

「ヒトダマ」が、獰猛そのものの大きな口を、がっぷりと開く。赤々とした口内がはっきり見て取れた時、敵機の一三ミリ機銃が一斉に火を噴いた。青白い曳光弾がシャワーのように降り注ぐ様子を、どこかスローモーションのような映像として、艦攻隊長妖精は見つめていた。

 隊長機を狙って放たれた機銃弾は、寸でのところで主翼を掠め、下方へと流れていく。タイミングを見計らい、艦攻隊長妖精がうまく機体を滑らせ、射線をかわしたのだ。嫌な汗が背中を伝う。

 その時、キャノピー内がオレンジ色に染まった。それの意味するところを察して、艦攻隊長妖精は唇を噛む。

 隊長機の左に位置していた「流星」が、炎に包まれていた。エンジンカウルから黒煙が噴き出し、主翼が煉獄をまとう。みるみる高度を落としていく「流星」のキャノピー内で、妖精たちが敬礼していた。「後は任せた」、と。

 同じような機体が他にも見える。翼を叩き折られたもの。キャノピーを抉られたもの。発動機がずたずたになったもの。それぞれが機体のコントロールを失い、糸が切れたように海面へと落ちていく。その様子を、残った機体たちは、黙って見つめていることしかできなかった。

 

 悔しさを噛み締めつつも、艦攻隊長妖精は改めて前を見据える。零戦の網を突破する「ヒトダマ」の姿が、チラホラと見え始めていた。零戦は必死に食らいつくが、「ヒトダマ」は見た目に反した身軽さで追撃をかわし、真正面から攻撃隊に挑んでくる。

 深海棲艦も馬鹿ではない。おどろおどろしい見た目だが、どこか滑稽である「ヒトダマ」も、艦攻隊のどの位置が最も組みし易いかを理解しているのだ。

 

 戦闘機と違い、後部銃座を有する艦攻にとって、後方からの襲撃は、完全な死角からの奇襲とはなり得ない。先ほどのように、反撃の砲火を放つことができるからだ。

 だが、前方は案外手薄になる。艦攻には、前方に撃てる固定機銃の類が備えられていないからだ。

 相対速度が速くなり、射撃のタイミングが難しくなる代わりに、迎撃を受けずに攻撃ができる。だから「ヒトダマ」は、前方からの襲撃を選んだのだ。

 

 ただ一つ。「ヒトダマ」は大切なことを知らなかった。

「流星」には、前方に射撃可能な機銃が、翼内に装備されていたのだ。

 口径は二〇ミリ。両翼装備で二挺。単純に火力だけで言えば、零戦と互角だ。雷撃機だけでなく、急降下爆撃機としての使用も考慮された、「流星」ならではの装備である。

 

 真正面から突っ込んでくる「ヒトダマ」に対して、艦攻隊の「流星」は容赦なく二〇ミリ弾を浴びせかけた。艦攻隊長妖精も、躊躇なく発射把柄を握る。重々しい音を発して、両翼からオレンジ色の曳光弾が放たれた。

 完全に油断していた「ヒトダマ」が一瞬怯む。そのわずかな間に、彼我の距離はゼロになり、「ヒトダマ」が頭上をフライパスしていく。その白い影に対して、送り狼的に一三ミリ弾がすがりつく。しかし結局、お互いに撃墜された機体はなかった。

 

 だが、この手が通じるのは、初回のたった一度だけだ。艦攻隊長妖精もそれはわかっている。敵艦隊に肉薄するまで、味方戦闘機による援護と、各機の回避運動、機銃による妨害弾幕のみが頼りだ。

 体勢を立て直し、再び襲撃の機会を窺う「ヒトダマ」の群れに、零戦隊が追い付いて挑みかかる。残った二〇ミリ機銃弾を叩きつけ、懸命に「流星」を守ろうとしている。

 

 零戦隊の奮闘もあり、「ヒトダマ」の襲撃が一旦止んだ。時折防空網を破って肉薄してくる機体があるが、それもまばらだ。後部銃座と回避運動で対処できる。

 行ける。このまま距離を詰める。艦攻隊長妖精は操縦桿を握りなおした。

 

 正面に見えている敵艦隊との距離は、まもなく二万を割ろうとしている。その全容も次第にはっきりとしてきた。

 輪形陣の中央に、とりわけ目を引く深海棲艦が鎮座している。禍々しい黒の艤装は巨大で、正しく海上に据えられた玉座だ。そこに身を収める()()は、憂いを帯びた瞳で虚空を見つめている。世界を知らず、世間を知らず、生まれながらにして君主であることを義務付けられた女帝は、故に他を睥睨することなどない。それでも細められた眼光は、鋭く、冷たく、こちらの肝を冷やす。海上を驀進しながら、あたかも氷の上で静かに佇んでいるかのような雰囲気。静寂から放たれる力の象徴。海空の支配者、空母棲姫。その威容が、ディティールまで含めてつぶさに観察できる。

 ふと、そんな氷の女王が、こちらを見たような気がした。目が合ったような気がした。

 武者震いとはまた別の、遥かに本能的な震えが伝わってくる。それを理性と経験でねじ伏せ、艦攻隊長妖精は空母棲姫を睨んだ。

 空母棲姫は、特に気に掛けた風もなく、さもつまらなさそうに、注目に値しないと言うように、その視線を外した。恐ろしいほどに透き通って美しい銀髪が、風ではためく。

 

 艦攻隊長妖精は、隊内無線で散開を指示した。狙うは空母のみ。空母棲姫と、二隻のヲ級だ。

 艦攻隊が中隊ごとに分かれ、距離を詰めつつ高度を下げていく。逆に艦爆隊(爆装「流星」)はスロットルを目一杯まで開き、加速する。整然とした編隊は瞬時に解かれ、「流星」は小さな雁の群れのように、各々の目標へと向かっていく。

 艦爆隊と艦攻隊は、完全な同時攻撃を狙っていた。理由は単純明快だ。空母に確実に損害を与えるためである。

 艦載機という最小クラスの精密機器を扱う空母は、少しの損傷でその発着艦能力を奪われる。特に魚雷による傾斜は致命的だ。

 また、ヲ級は頭頂部、空母棲姫は玉座に発艦装置を備えており、上方からの急降下爆撃によってもその攻撃能力を奪うことができた。

 故に、雷爆同時攻撃を仕掛ける。敵空母を完全に包み込む攻撃をもって、攻撃を必ず命中させ、その攻撃力を確実に奪う。これが、圧倒的な敵機動部隊を迎え撃つにあたって、第八艦隊機動部隊が取る戦術だ。

 

 事前の打ち合わせ通り、それぞれ大きく三つに分かれた艦爆隊と艦攻隊は、中央の敵空母を目指す。飛龍艦攻隊の第一、二中隊を率いる艦攻隊長妖精は、深く息を吐き出すと、操縦桿を緩やかに押し込んだ。

「流星」の機首が下がり、徐々にその高度を落としていく。三千だったものが二千を切り、高度計は千へと近づいていく。

 超低空からの雷撃。特に飛龍艦攻隊は、高度が十を切るほどの低さで、敵艦隊に肉薄していく。

 ここまでくると、空を飛んでいるというよりは、海面を這っているかのような感覚になる。プロペラの後流が海水を巻き上げ、白い飛沫として機体の後方へ引きずるほどだ。一瞬でも気を抜けば、海面に激突しかねない。

 だが、そこまで高度を落とさなければ、強力な深海棲艦の対空砲火を掻い潜ることは不可能だ。

 

 彼我の距離が一万を切った段階で、飛龍艦攻隊の高度は五百を割り込んだ。まだまだ低く、慎重に落としていく。鎮守府で何度も訓練を積んできたことだ。

 

 敵輪形陣の側面で、閃光が迸った。敵艦隊が対空砲火を放ち始めたのだ。数秒後には両用砲弾が炸裂し、「流星」の右と言わず左と言わず、真っ黒な硝煙の花を咲かせた。鋭い弾片が無数に飛び交い、時折翼や機体を打って不協和音を奏でる。一発一発が冷や汗ものだ。いくら頑丈になったとはいえ、所詮航空機。至近で両用砲弾が炸裂すればひとたまりもない。

 だが。最早慣れたものだ。主翼を掠める砲弾も。機体を擦る弾片も。下から突き上げる衝撃も。臆することなく、艦攻隊は突き進んでいく。一切の迷いなく、敵の懐へと踏み込んでいく。

 

 その無粋を許すまいと。女帝を拝謁する権利などないと。取り巻きの駆逐艦や巡洋艦が両用砲を放ち、艦攻隊の前に死のカーペットを敷き詰める。真っ黒な花の絨毯が眼前一杯に広がり、恐怖で艦攻隊の進撃を退けようとしてくる。

 一機が、断片をまともに受け、主翼に炎を纏って高度を落としていく。

 機体正面で砲弾が炸裂した一機は、一瞬で行き足を奪われ真っ逆さまに海面へ衝突する。

 キャノピーが砕かれた機体は、原形を保ったままフラフラと波間に吸い込まれていった。

 そうした被害をものともせず、攻撃隊は肉薄を続けていく。「流星」各機は鶴翼の陣を敷き、各々の目標をただひたすらに目指した。

 

 艦攻隊長率いる二個中隊残存十四機が狙うのは、当然のごとく空母棲姫だ。艦隊旗艦級だけあり、最も堅牢で、対空砲火も激しい。

 一発でも二発でもいい。その土手っ腹に、抱えた航空魚雷を叩きこむ。傾斜さえ引き起こせば、空母は浮かべるただの箱に成り下がる。

 

 距離、五千。いよいよもって、艦攻隊の高度は百を切った。周囲には所狭しと対空砲火の黒煙が燻り、網の目のように弾片が行き交う。さらには機銃までも発砲を始め、文字通り弾丸が壁となって艦攻隊の前に立ち塞がった。

 目前の敵巡洋艦を睨む。ツ級、と呼ばれる、対空戦闘を特に重視した深海棲艦だ。両用砲と機銃で全身がハリネズミのように覆われ、艦攻隊最大の障壁として砲炎を躍らせる。

 すぐ右の「流星」が、一瞬のうちに火の玉となり、爆発四散した。両用砲弾が至近で炸裂し、弾片が散らす火花が航空燃料に引火したのだろう。

 その間にも、ツ級との距離はグングン縮まる。艦攻隊長は機体を滑らせ、ツ級の背後を通るように針路を取った。ツ級も背後に艤装はなく、弾幕に隙がある。

 

 距離、二千。ツ級の手前に位置取っていた駆逐艦の前を通過する。追い撃つように機銃が放たれるが、主翼を掠めただけで被害はない。残る障害は、目の前のツ級と、ついに自ら対空砲火を放ち始めた空母棲姫のみ。高度は十を切り、眼前に海面が迫っていた。

 編隊両翼の二機が、ほぼ同時に黒煙を噴いた。一瞬バランスを失った機体は、機体正面から海面に衝突し、あるいは弾幕に突っ込んで蜂の巣となる。残存は十一機。それでも残った「流星」たちは編隊を維持し、ついにツ級の背後を通過した。禍々しい艤装が視界の右端を流れ、後方へと消える。

 残るは、目標とする、空母棲姫のみだ。

 

 優雅に足を組み、悠然と銀髪をたゆたわせる空母棲姫は、心底つまらないものを見るように、ちらりとだけ視線をこちらへ向けた。奥底まで深紅に染まった瞳は、不吉な赤い月を思わせる。

 あれは海の怪物だ。化け物だ。その瞳で全てを飲み込んでしまいそうな、比類なき暴力だ。

 改めて息を飲む。ついに艦攻隊は、距離一千にまで迫っていた。

 艦攻隊長妖精は、魚雷の投下レバーに手をかけた。だがまだ引かない。もう少しだけ距離を詰める。そう決断した。

 

 その時、敵艦隊に上空から何かが降り注いだ。いくつもの銀翼が閃き、あたかも猛禽のごとく、空母たちを狙う。大きな翼。細い体。鷹や鷲そのもののフォルムには、突き立てる爪の代わりに五〇番の爆弾が懸吊されている。

 急降下に入った艦爆隊が、空母を標的に襲いかかる。対空砲火をものともせず、その腹から、必殺の爆弾を投下する。プロペラの径外へ誘導され、そこで切り離された爆弾は、引き起こしをかけた母機たちが本来辿るはずだった軌跡を律儀に描き、三隻の敵空母へと向かっていく。

 それを見越してか、敵空母たちが回避運動に入った。艦爆隊の真下に入る方向へと――すなわち、艦攻隊に背中を向ける方向へと。

 敵の対空砲火が乱れた。否、薄れた。

 

 今だ。艦攻隊長妖精は、列機を率いて一気に距離を詰める。後ろ方向からの攻撃は被雷面積が小さい代わりに、推進器系の破壊が狙える。最も、真後ろではまず当たらないから、斜め後方辺りから狙うことになる。

 彼我の距離、実に七百。空母棲姫の横顔が見える位置で、艦攻隊長妖精はレバーを引いた。機械的な作動音が発動機の音に混じり、同時に機体がふわりと浮かびそうになる。操縦桿を押し込んで、それを寸でのところで堪えた。下手に上昇すれば、対空砲火で蜂の巣だ。

 

 魚雷が航走を始めた旨、偵察員妖精から報告がある。列機もそれに続いて、次々に魚雷を投下した。十一機の「流星」から放たれた魚雷が、白い航跡を引きずっている。

 丁度その時、艦爆隊が艦攻隊の真上をフライパスした。「流星」が搭載する「ハ四三」発動機の爆音が、二重奏を奏でる。

 それから数瞬遅れで、艦爆隊の放った爆弾が、敵艦隊に降り注いだ。何発かが命中弾になり、爆炎が迸ったようにも見えたが、それを確認する余裕はなかった。目前に迫った空母棲姫の上空をフライパスするには、数秒後に引き起こしをかけなければならない。

 

 玉座のような艤装がそそり立って見えるほどの距離で、艦攻隊長妖精は操縦桿を引いた。「流星」の機首が失速ギリギリまで上がり、そのまま空母棲姫の上空を通過する。スロットルを一杯に開いた艦攻隊長機は高度を稼ぎ、上空からの戦果確認を試みた。

 真っ先に確認できたのは、二隻のヲ級艦上で生じる火災であった。艦爆隊の戦果だ。うち一隻は頭部艤装の半分が炎で覆われるほどの被害を受けており、発着艦能力を奪ったのは明白であった。

 

 だが、空母棲姫は無傷だ。その戦闘能力を奪えるか否かは、今まさに敵空母へと迫りつつある艦攻隊の魚雷にかかっている。

 

 その、爆薬付き投網は、着実に敵空母へと迫っていた。その内に、獲物を飲み込まんと、扇状に広がっていく。三隻の空母たちは必死の回避を試みているが、それが間に合うとは思えなかった。

 白い航跡のうち数本が、敵空母の側面に吸い込まれて消える。次の瞬間、バベルの塔もかくやというほどの巨大な白い塔が、続々と敵空母の側面で生じた。敵空母の舷側で信管を作動させた魚雷が、次々に爆薬を炸裂させたのだ。水中という逃げ場のない空間に閉じ込められた爆発の衝撃が、空中の何倍という威力となって深海棲艦の土手っ腹を襲う。重厚な敵空母が、その衝撃で一瞬浮かび上がったのではと錯覚するほどの破壊力であった。

 

 最終的な命中雷数は、七本となった。空母棲姫に二本、ヲ級には二本と三本ずつ。

 三本の魚雷を受けたヲ級は、それが致命傷となった。右舷側に大きく傾き、ズブズブと波間に飲み込まれていく。必死にバラストを調整を試みているが、もはや傾斜を止める手立てはなく、無慈悲にも泡立つ海へ還ろうとしていた。

 もう一隻のヲ級も、重大な損害を受けたと判断できた。沈没に至る傾斜こそしていないが、その行き足が虫の息であることは、遠目にも明らかだった。あれでは、新たに艦載機を上げることは叶うまい。

 唯一、空母棲姫だけは、いまだ海上に健在であった。二本を被雷したが、よほど水中防御が頑丈なのか、これといった痛痒は見せていない。傾斜もなく、速力の低下も感じられない。戦果不十分。その戦闘能力はほとんど損なわれていないだろう。

 

 眉間の辺りに皺が寄るのを、艦攻隊長妖精は感じていた。戦果不十分は、自分の誘導が適切でなかったからだ。これでは、母艦にどやされてしまう。

 攻撃は終わった。戦果もある程度見て取った。艦攻隊長妖精は「逐次集マレ」を下令し、攻撃隊に母艦への帰投を指示する。

 

 その時、ぼんやりと水平線を見つめるだけだった空母棲姫が、その顔を上げ、攻撃隊の方へ視線を向けた。数分前に合わせたばかりの深紅の瞳が、しかと艦攻隊長妖精を捉える。

 透けるように美しい、端正な顔には、今日初めて明確な意思が宿っていた。海上に鎮座する氷の女王が、ようやくその顔に表情を浮かべたのだ。

 深く刻まれた皺。射殺さんばかりの眼光。怒り。憎しみ。これ以上ないほどの負の想念。

 敵。敵。敵。必ズオ前ヲ、殺シテヤル。

 明瞭な敵意。女帝は、それまで微塵も気にかけていなかった、取るに足らぬ存在を、排除するべき敵と認識したのだ。

 

 敵艦隊は、輪形陣を再編しつつ、針路を大きく変える。本能的な恐怖に身を震わせつつも、それを見た艦攻隊長妖精はわずかに口の端を歪めた。

 偵察員妖精に二機艦への打電を指示する。

 

「戦果不十分。再攻撃の要ありと認む。なお、敵艦隊は北方へと変針せり」



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出撃(四)

「D事案の話が、まだだったか」

 

 霧に包まれる北の海。甲板でしけた煙草を燻らせる大貫は、しかめっ面でそう言った。風に当たりに来た刑部は、その横に立ち、頷く。船がゆったりとした航海を続ける今、甲板上での会話も特に支障がない。

 刑部は答える。

 

「ええ。D事案は、一般に艦娘のドロップ、新たな邂逅を示す隠語として使われています。ですが、以前の話を考えると、艦娘との邂逅は本来B事案に含まれる内容ですよね。なぜ、D事案と呼ばれるのか。以前から疑問でした」

 

 刑部の言葉に、大貫が珍しく、意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「ほう。さすがのお前も、D事案までは知らないのか」

 

 さも愉快そうに言う。可愛げのない後輩が、滅多に見せない困った雰囲気に、多少の楽しさを感じているのだろう。自分が可愛げのない後輩であることはわかっているので、その表情もわかる。

 だが、そこで先輩に合わせてやろうと思わないところが、刑部の可愛げがない所以だ。

 

「知らないというよりも、()()()()()()()()()()()()()()()のでは?」

 

 刑部の返答に、大貫は黙る。それから今までのごとく、盛大に鼻を鳴らした。

 

「ふん、まったく可愛げのない」

 

 霧とも紫煙ともつかぬ靄が、刑部の方に流れてきた。

 

「D事案の内容は知りませんが……推測はできます。明確に文書化されていないということは、いまだ軍上層の直轄、厳重な管理下にあるということ。そして、D事案という名目で集められているのは、艦娘のドロップに関する情報。いつ、どの海域で、どんな深海棲艦を撃沈した時に、邂逅したのかという情報」

 

 否定も肯定もすることなく、大貫は刑部の推測を聞いていた。霧を吸い込んだ煙草は、ゆっくりと小さな火で燃えていく。それを咥えたまま、大貫は微動だにしない。

 

「艦娘と深海棲艦の、繰り返しに関する考察。運命の(くびき)。それが、D事案の正体では?」

 

 推理を終え、刑部は尋ねる。残り少なくなった煙草を一気に吸い、大貫は盛大な紫煙を吐き出した。短くなった煙草を握りつぶし、海に放り投げる。

 

「MI作戦は、公式には三回行われた。だが、一回目も二回目も、失敗に終わった。それも……()()()()()()()と同じように、な」

 

 一九四二年六月。ミッドウェー諸島攻略を目指した旧日本海軍は、米海軍と交戦。第一航空艦隊所属の正規空母四隻を失う、大敗を喫することとなった。これが、本来のMI作戦だ。

 

「一回目も二回目も、何もかもが本来のMI作戦と同一だったわけじゃない。参加する艦艇、作戦実施までの経緯、北方AL作戦の有無。だが、大筋の結果は変わらなかった。機動部隊は四隻の正規空母を失い、大敗する。その結末だけは変えられなかった」

 

 冷めきっていた大貫の言葉に、一瞬だけ熱が宿った。現存する()()()()()()の報告書を読む限り、どちらのMI作戦も、作戦を主導したのは大貫だった。彼は彼なりに、運命の軛に逆らおうとしたのか。

 

(いや、あるいは、検証の道具にされたのか)

 

「そこからの経緯は、おおよそかの大戦と同じだ。ソロモン諸島をめぐる戦い、サイパン、レイテ、そして本土近海での戦い。多少の差異はあれど、一週目も二週目も、大筋でこの流れは変わらなかった。これが、運命の軛だ。かの大戦時に実在した軍艦の魂、記憶から生まれた艦娘は、それ故にこの軛に縛られるのではないか。それが、上層部の判断だ」

 

 艦娘の記憶、軍艦の魂。刑部にも、思い当たる節はいくらでもあった。艦娘に記憶はない。けれど彼女らは、ある時ふと、その頃の夢を見ることがあるのだという。

 

「運命の軛が、何の因果によって引き起こされるのかはわからない。一週目は、艦娘の記憶によって引き起こされたと考えられた。だから二週目では、艦娘たちに、極力記憶を与えないようにした。地名を変更し、歴史に関する資料を封印し、彼女らが軍艦の記録に触れることを完全に断った。だが、運命の軛からは逃れられなかった。二週目も、同じことを繰り返しただけだった。その基点はやはり、MI作戦からだ」

 

 MI作戦の失敗、ミッドウェーでの惨敗という変えられない結末から、繰り返しが始まる。それはわかっていた。

 だから、その結末を全力で回避しろ。それが刑部の仕事であり、実際にMI作戦による正規空母四隻の喪失という結末を、変えて見せた。たった一人の()()()によって。

 繰り返しから取り残された彼女は、ゼロに等しい可能性を引き寄せた。それでも、いまだ運命の軛は、その影響を残し続けている。MI作戦が成功したにもかかわらず、今艦娘たちは、ソロモン諸島をめぐる戦いに身を投じているのだから。

 

 大貫の話は続く。

 

「繰り返すのは歴史だけではない。艦娘と深海棲艦も繰り返している。反転、という表現が正しいかもしれん。同じ軍艦の記憶の、一側面が艦娘であり、もう片方の側面が深海棲艦。二つは撃沈というプロセスを経ることで、入れ替わる」

 

 大貫のいかつい顔が、さらに深い皺を刻んだ。

 

「可能性は、一週目が終わった辺りで示されていた。撃沈された艦娘に、似た特徴を持つ深海棲艦。発見時に付近で撃沈された深海棲艦と、似た特徴のある艦娘。両者には何か繋がりがある。恐らく根本的には同じ存在だ、と」

 

 そして、二週目と三週目の切れ目、それが証明された。加賀という、深海棲艦として轟沈した時の記憶を持つ艦娘によって。

 

「艦娘は、轟沈すれば深海棲艦になり、逆に深海棲艦を撃沈すれば艦娘として戻ってくる。であれば、少なくとも艦娘と深海棲艦の繰り返しを断ち切るためには、艦娘を沈めずに、深海棲艦に勝ち続ければよい。それが、この戦争を終わらせる方法だ。――などと、考える者もいるようだが。ことはそう簡単にいくまい」

 

 簡単な数合わせの問題だ、大貫は嘯く。

 

「深海棲艦を撃沈すると、必ず艦娘が現れるわけじゃない。艦娘が一隻減っただけでも、深海棲艦は何隻も増える。完全に等価ではない。だとしたら、何か別の方法で、深海棲艦は増えていると考えるのが自然だ。単純に、艦娘と深海棲艦が反転しているわけではない。その法則を突き止めない限り、この戦争に――いや、殲滅戦に、終わりはこない」

 

 D事案は、この戦いを終わらせるための模索。大貫はそうまとめて、口を閉じた。

 

 黙って聞いていた刑部は、そこで初めて口を開く。

 

「その糸口が、あそこにある、と?」

 

 船の前方にそれとなく視線をやる。相変わらずの霧で視界は悪いが、数分前からその向こうにぼんやりと影が見え始めていた。船位から考えて、あれは日本の最北端、択捉島である。

 

「さあて、な。それは俺にもわからん。だが、対米向けの連絡路確保、というのは、表向きに用意された戦略的理由だ。そんな文言、俺が提督だった時には、聞いたこともなかった」

「だからこうして、わざわざ北の果てくんだりまで、首を突っ込みに来たわけですね」

「首を突っ込んできたのは、お前の方だろう」

 

 その時、急を告げるサイレンが船上に鳴り響いた。哨戒中の祥鳳が、付近に敵艦隊を見つけたらしい。

 

「お出ましだ。せめて不法上陸の間は、大人しくしていてもらいたかったものだが」

 

 皮肉ったつもりなのか、大貫はそう言って手すりから手を離した。その背中に、刑部は最後の疑問を投げかける。

 

「今更ですけど、そんな軍機を、私に話してしまってよかったのですか?」

 

 船橋へと足を向ける大貫の答えは、諦観のため息と共に帰って来た。

 

「今更何をしゃべったところで、結果は変わるまい」

 

 

 

 祥鳳、瑞鳳、摩耶を中心とした艦隊が、特設揚陸船〔えぞ丸〕から出撃する。加えて、伊勢、日向、二隻の航空戦艦も、出撃の準備を進めている。霧が立ち込める中、非常に視界の悪い戦いを余儀なくされるが、とにもかくにも粘ってもらわなければ。今回の作戦は、何としてでも成功させなければならない。

 鈍色の艤装を背負い、霧の向こうへと溶け込んでいく艦娘たちを見送った刑部は、次なる目的のため、舷側に集まった水兵たちに命じた。

 

「揚陸挺、降ろし方用意」




出撃編は以上です。刑部提督の方も色々と動きますね、次章。
ということで、次からは鉄底編になります。夜戦メイン。あと話が長い。


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鉄底
鉄底(一)


鉄底編です。
夜間砲戦マシマシでいきましょう。


 伸ばした手は、結局、光る水面を掴むことはなかった。

 

 それは一連のイメージ。はっきりとしない影、夢、幻。

 

 けれど確かな、記憶。誰かが事実経験した、記憶。

 

 

 

――鉄の、水底。

 

 

 

 声が、する。光る水面とは反対側、永遠に近い闇の奥底。彼女の声が聞こえてくる。

 

 

 

――ようやく、アナタもここに、来た。

 

 

 

 白い手が、背後から伸びてくる。細くしなやかな指、腕。ふっくらとした手のひら。しかしそこに色はなく、血の通った温もりは微塵も感じられなかった。

 

 手が、体にまとわりつく。抱き着かれた、そう理解して、とっさに振りほどこうとする。けれど、体は言うことを聞かない。まるで金縛りにでもあったかのようだ。

 

 柔らかな感触が背中に密着する。おおよそ体温というものが全く感じられないそれは、人の形をしていても、何か得体の知れない軟体動物に触られているような、そんな感覚だった。本能的な悪寒が、背筋を幾重にも走り抜ける。動かない体が、小刻みに震えていることだけ、はっきりと感じられた。

 

 クスクス。彼女が耳元で笑う。

 

 

 

――やっぱり、憶えてないんだ。アナタのことも、ワタシのことも。

 

 

 

 くすぐるような声。耳にかかる吐息。痺れるような何かが、一瞬頭の中をよぎる。どこかの風景が、フラッシュバックする。

 

 あれは、何だ。

 

 

 

――おいで。ワタシのところへ、おいで。その時は、全部思い出させてあげる。アナタのことも。ワタシのことも。……アナタの、残酷さも。

 

 

 

 手が離れる。一瞬だけ感じられた名残惜しさにハッとして、背中を振り向いた。

 

 海の底に、深遠が横たわる。その只中へと吸い込まれていく彼女は、寂し気に笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

「吹雪ちゃん……?」

 

 呼びかけられて、我に返った。ボーっとしていた頭がやっとの思いで活性化し、周囲の状況を把握する。自分に呼びかけてきたのは、複縦陣で隣に位置する、睦月だった。

 

 吹雪所属の一挺艦含めた挺身艦隊は、一七四五時をもってサーモン海域内――変色海域へ進入していた。同時刻までに、機動部隊は敵機動部隊の北方誘引に成功しており、これの約半数を無力化したと報告があった。一七〇〇時点で、敵機動部隊が反転し挺身艦隊を襲撃することは不可能と判断した比叡は、隷下の艦隊にサーモン海域への進入を下令。二群に分かれた挺身艦隊は、前路掃討の二挺艦を前方に、主力の一挺艦を後方に置いて、一路変色海域の中心点を目指していた。

 一挺艦の戦艦三隻の直衛である吹雪は、同じく直衛を務める睦月と共に、複縦陣の最前に位置取っている。すぐ後方には、挺身艦隊を取りまとめる比叡と姉妹艦の霧島、その後ろは大和と神通だ。

 

 変色海域突入から、すでに一時間強。外部との通信は完全に遮断され、短距離の無線も使えない。艦娘間のやり取りは、口頭か信号灯の二択だった。

 そんな状況での睦月の呼びかけに、吹雪は頷いて返す。

 

「うん、大丈夫。なんでもないよ」

「そう?心ここにあらず、って感じだったけど……」

 

 言葉に詰まる。傍目にもわかるくらい、自分の意識は遠のいていたらしい。

 なおも心配そうに見つめてくる睦月に、大丈夫だからとはにかむ。事実、今は何ともない。声も聞こえてこない。

 私の意識は、はっきりとここにある。

 

(……だけど)

 

 はっきりと、憶えてもいる。今までなぜ忘れていたのか。なぜ思い出そうとしなかったのか。なぜ気づかなかったのか。

 なぜ、気づこうとしなかったのか。

 

 夢を、見てきた。

 夢じゃ、なかった。

 彼女の感触は、確かに残っている。恐ろしいほど、明瞭に。

 

(ずっと、わたしを呼んでいた)

 

 何があるのか、誰がいるのか、全くわからない。正直にいえば、とても怖い。

 だけど、行かなければならない。行って、確かめなければならない。

 わたしは何のためにここにいるのか。その答えを。

 

 艦隊は進む。夜闇が迫りつつあるサーモン海のさざ波を切り裂き、艦娘たちは深海棲艦の牙城へ踏み込もうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 挺身艦隊総旗艦兼一挺艦旗艦である比叡の責務は、多岐にわたっていた。元々、作戦行動中の責務が多いのが、旗艦という役職であるが、大艦隊の総旗艦と小艦隊の旗艦の兼務となると、気の休まる時間は微塵もなかった。

 ただでさえ、日没前後という気の張りつめる時間帯だ。頭が上げそうになる悲鳴を抑えて、比叡はその任を全うしていた。

 

 クロスベアリングによる位置の把握、チャートを用いた航路の確認、暗礁等への注意勧告、敵艦隊への警戒。電探がお釈迦になっている以上、その航法は一時代昔と大差なかった。

 

(もう少ししたら天測もできそうだなぁ)

 

 そんな見当違いのことを考えつつ、比叡は少し上方の空を見上げた。耳を澄ますと、微かに発動機の音が聞こえる。それは、上空に上がっている、零水偵の「金星」発動機が上げる唸りだ。

 その零水偵から、信号灯による発光信号が送られてくる。「テ・キ・エ・イ・ナ・シ」。二挺艦からの報告だ。

 零水偵の役割は、前方に展開している二挺艦との、連絡の中継だった。視界的には水平線の手前とはいえ、二万近い距離を空けている二挺艦とでは、口頭や信号灯でのやり取りは不可能だ。そこで、間に零水偵を置き、中継点として利用することにしたのだ。これであれば、挺身艦隊間の連絡網は確保できる。

 

(後は……)

 

 チラリ。手元のストップウォッチを確認する。変色海域進入と同時に計測を始めたその時間は、挺身艦隊の離脱限界を刻々と刻み続けている。長門から示された離脱限界の条件は、海域進入から六時間以内に海域中心に到達できなかった場合。あるいは敵艦隊との戦闘による被害が甚大で、戦艦三隻が全て中破判定以上になった場合。また、海域突入から四時間の時点で、中破判定以上の艦娘は、全て離脱せよとのことだった。

 

 変色海域への突入から、すでに一時間。艦隊は最も遅い大和に合わせ、二七ノットで航進してきた。単純計算では、あと三時間半ほどで変色海域中心に辿り着くはずだが――

 

(一筋縄じゃ、いかないよね)

 

 西の水平線で細い線になりつつある夕陽を見つめ、比叡は生唾を飲み込む。ここからは星の支配する時間だ。電探の使えない海は、手探りに近い。鍛え上げた夜間見張り員も、どこまで通用するか。

 

 水平線に沈みゆく夕陽の光が、一瞬緑色になった。唐突の出来事に目を細める。幻想的な光が水平線に広がり、やがて薄らいでいく。話に聞くオーロラのようだと思ったが、また別の現象だ。

 グリーンフラッシュ。空気の澄んだ日、稀に見ることのできる現象だ。太陽は水平線の向こうに消えるその一瞬、緑色の光を放つ。この海で見たのは初めてだ。

 よもや吉兆か。しかし比叡は、すぐにその考えを改めた。

 

(あの世とこの世の境目、黄泉の光、か。縁起悪いなぁ)

 

 一部でそのような伝承があることを思い出し、顔をしかめる。頭を振って、嫌な考えを隅に追いやった。吉兆と取るか、凶兆と取るか、結局は受け取り手次第だ。

 

 束の間の幻想が消え去り、辺りは本格的に夜の様相を呈し始める。月齢は一桁台、月詠の加護は期待できなかった。頼れるのは、己の五感のみ。

 

「比叡より挺身艦隊各艦。以後、夜間航海となせ。警戒を厳に」

 

 事前に決めていた符号を、発光信号として各艦に送信する。程なく了解の意が返って来た。挺身艦隊はさらなる警戒を敷く。

 

 その間、比叡は上空警戒の零水偵を出すように、霧島と大和に下令した。弾着観測のような精密な作業は望めないが、上空から敵艦隊の接近を報せることはできる。今は少しでも、警戒の目が欲しい。

 五分ほどで、四機の零水偵が発艦した。単葉双フロートの水上機が、一挺艦の上空一千へと駆け上り、旋回しながら辺りの警戒にあたる。どの程度効果があるかは不明だが、ともかくこれで見張りの眼が増える。

 

 時刻は一九〇〇を回った。依然サーモン海は、不気味な静けさに包まれていた。

 

 

 

 二挺艦の接敵は、時刻が間もなく二〇〇〇になろうかという時だった。

 

『我、敵艦隊と接触。これと交戦せり』

 

 零水偵を経由した報告と、水平線近くに砲炎が見えたのがほぼ同時だった。上空を旋回していた零水偵の一機が、確認のために二挺艦上空に向かう。ほどなく、零水偵から報告が上げられた。

 敵艦隊の編成は、巡洋艦四、駆逐艦六。快速警戒部隊の一隊と思われた。

 

(見つかったか……!)

 

 内心歯噛みするが、こればかりは致し方ない。そういつまでも、幸運は続かないものだ。むしろこの二時間、接敵がなかったことに感謝するべきだろう。

 

 問題はここからだ。警戒艦隊に見つかったということは、その呼びかけで他の艦隊も集まってくる可能性がある。

 実際のところ、変色海域内において深海棲艦の電波機器類が有効であるかどうかは、はっきりとしなかった。艦娘側の通信機器が使えないのだから、深海棲艦もまた、電波障害によって通信不能であると考えるのが普通だ。

 が、相手は変色海域にあっても艤装の侵食を受けない存在だ。あるいは妨害電波も、深海棲艦には影響がないのではないか。そう考えることもできた。

 常に最悪の事態を想定することは大切だ。それにこれだけ派手に砲炎と砲声を挙げれば、嫌でも目立つ。どちらにしろ敵艦隊はこちらに寄ってくるものと、考えるべきだ。

 

「一挺艦は針路このまま。接敵中の敵艦隊への対処は、二挺艦に任せます。更なる敵艦隊の接近に注意」

 

 一挺艦各艦にそう下令した時だ。ふと視界の端に、何か光るものが見えた気がした。

 

(何?)

 

 その正体を確認しようと、顔を光の方向へ向ける。だがすでに、そんな光は存在しなくなっていた。あるいは、比叡の幻覚であったのか。

 否、そんなはずはない。比叡はさらに目を凝らす。艦隊針路から左へ三〇度ほどの海域を。

 視界には何もない。あるのは島影と、一面の黒い海。どれほど目を皿のようにしようと、光の正体は掴めなかった。

 

 代わりに。

 

 答えは視覚ではなく、聴覚によってもたらされた。絶望に最も近い音の連なりが、遥か高空で奏でられる。ハッとして目を見開き、頭上を見上げた。

 何も見えない。けれど確かに、それはそこにあった。破壊と終焉をもたらす黒鉄の使者が、闇夜の空に紛れて、こちらを見降ろしている。押し潰さんばかりの威圧を放っている。

 雲量一。快晴の夜空に輝く星の光が、何かで遮られた。

 比叡は確信した。と同時に叫んだ。

 

「衝撃に備え!」

 

 それを言い終わるか終わらないかのうちに、甲高い風切り音が頭上を圧迫し、やがて途切れた。

 次に襲ってきたのは、経験したこともないような衝撃と、膨大な量の海水だった。足元が激しく揺さぶられ、あわや転倒しそうになる。本能的に閉じそうになった目を無理矢理こじ開けて、比叡はそれを見た。

 比叡の身長の、二倍はあろうかという、白亜の巨塔。それは全て、巻き上げられた海水だった。戦艦の主砲弾という、規格外の質量、破壊力によって叩き起こされた、とてつもない量の海水の塊だった。

 水柱は四本。それが立て続けに二度、計八本。時間差射撃から、二隻の敵戦艦がいることがわかる。

 となれば――

 

「一挺艦、合戦用意!」

 

 突発的な瀑布による轟音に負けじと、比叡は声を張る。崩れながら降り注ぐ無数の水滴が前髪を濡らした。滴る海水を震わせて、比叡は叫ぶ。

 

「針路一〇五!砲戦用意!目標、」

 

 その時、第二射が放たれた。今度こそ、見逃しはしなかった。

 

 水平線にくっきりと浮かぶ影。巨大な艤装の上げる砲炎で、自身を赤々と照らし出す人影。まるで自らが、この(舞台)の主役とでも言うように。この(帝国)の支配者とでも言うように。優雅さすら感じる佇まいでこちらを睥睨し、口元に笑みすら浮かべる。たゆたう海のように広く、長い髪が、ゆるるかに風になびく。スラリとした立ち姿からは威厳が溢れ出し、周囲全てを平伏させんとする。絶対覇者、百艦の王、君臨する者。破壊と蹂躙を司り、その理不尽さは美しくすらある。

 戦艦棲姫。姫の名にふさわしく、多数の従者を従えた()()()は、その妖艶な双眸で、しかとこちらを捉えていた。

 

 明確な敵。だというのに、不思議と敵意は感じられなかった。

 

(ああ、そうか)

 

 比叡は思い至る。

 

 彼女らは姫。生まれながらにして覇者であり、この海に君臨し、支配してきた。彼女らにとって私たちは、ただの蹂躙の対象に過ぎない。それは当たり前の成り行きで、当然の責務で、必然の行為。ゆえに、彼女らにとって艦娘は、排除するべき障害ではなく、だから断じて敵たりえない。

 

(こ……っの、)

 

 比叡は力の限り、()を睨んだ。

 

「目標、敵戦艦!粉微塵に叩き潰せ!」



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鉄底(二)

お待たせをしました。続きです。ゴールデンウィーク終わりまで、毎日一話ずつ、最後まで公開していきます。


 転針した一挺艦は、ただひたすらに、敵艦隊(「戦イ」と呼称)を目指していた。

 陣形にほとんど変わりはない。前面に吹雪と睦月、神通が展開し、その後方に比叡と霧島、そのさらに後ろに大和。

 上空の零水偵によれば、彼我の距離はおよそ一万五千。夜間の戦闘としてはかなりの遠距離だ。この距離で砲戦を始めたところを見ると、敵戦艦の電探は使用可能なのだろう。だとすれば、この変色海域内においても、深海棲艦は電波機器類を使えることになる。

 電波機器の有無は、情報戦の勝敗を左右する。すでに不利な状況にあることを悟り、大和は両の拳を握り締めていた。

 

 その大和の正面で、三度目の砲炎が上がった。比叡が三六サンチ砲を放った証左だ。腰を取り巻くように左右に展開された艤装から、主砲一基あたり一門ずつ計四門の三六サンチ砲が咆哮する。観測射撃を目的とした交互撃ち方だ。

 一拍遅れで、霧島も同じように、観測射を放っている。

 

 対する戦艦棲姫も、交互撃ち方による観測射を放っていた。据えられた四基の一六インチ三連装砲から砲炎が迸り、比叡たちより一回り大きな砲弾を吐き出す。一挺艦の転針に伴って一度射撃をやり直したが、あちらもこれで三度目の観測射だ。

 

 戦艦同士の夜戦が緩やかに始まっている中、依然大和だけは、まだ一度も砲撃を行っていない。艦娘の中で最大最強の火砲たる四六サンチ砲は、いまだ一度としてその砲口に炎を躍らせてはいなかった。

 

 目の前の比叡が一六インチ砲の水柱に囲まれるのを見届け、大和はさらに、両の拳の力を強める。

 

――「大和の発砲は、別命あるまで禁ずる」

 

 それが、転針後すぐに比叡が出した命令だ。

 なぜか。理由は、すぐ目の前で、星の光を受けて儚く輝く、雪のようなものにある。

 

 上空の零水偵から撒かれたそれは、アルミ箔でできていた。小さく、かつ不揃いに切られたアルミ箔は、上空から風に乗り、空中に漂う。それが、敵の電探への欺瞞――いわゆるチャフの役割を果たしていたのだ。電波はアルミ箔に反射し、電探上に影として映りこむ。こうすることで、こちらの正確な情報を敵に与えないようにしているのだ。

 

 とはいえ、目視はできる。ゆえに敵戦艦からは、白波を蹴立てて進む吹雪と睦月、神通、そしてその後方で砲炎を上げる、比叡と霧島が見えているはずだ。

 が、大和は見えない。電探ではチャフの影になり、また目視では比叡と霧島の影になり、敵戦艦は大和を認めることができない。

 見つからなければ、砲撃の目標にはならない。ゆえに比叡と霧島は、その身を挺して、大和を守ろうとしているのだ。

 

 もしここで、四六サンチ砲を撃てば、暴風のごとき発砲時の風圧が、チャフを一時に吹き飛ばしてしまう。それは何としても避けたいのだ。

 彼我の距離が八千になるまでは、一切の発砲を禁ず。八千まで迫れば、例え電探なしでも、目視だけで十分な射撃諸元を得られる。一撃必殺の距離に近づくまでは、堪えてくれ。それが比叡の作戦だった。

 

 作戦の趣旨は理解できる。戦艦棲姫という、深海棲艦中最強の戦艦二隻を、被害なしで撃ち破れるとも思っていない。それでも、目の前で仲間が傷つくのは、嫌なものだ。

 

(距離、一三〇(一万三千))

 

 比叡たちが四度目の射弾を放つのと、夜間見張り員から報せが入るのが、ほぼ同時だった。目標とする八千までは、まだ五千の開きがある。

 ほぼ向き合うようにして砲炎を吐きだしている彼我の相対速力は、四十ノット強といったところだ。その距離は、一分に一千ほど縮まっていく。単純計算で、八千までは後五分だ。

 その五分の間、敵戦艦はおよそ十回の射弾を放つことができる。観測射撃の回数としては、十分すぎるほどだ。必ず、どこかで命中弾が出始める。それはもしかしたら、現在飛翔中の第四射かもしれない。

 対抗する術は、とにもかくにも射撃を繰り返す以外になかった。今は、目の前の二隻が、少しでも多くの砲弾を撃ち込むことを、祈るしかない。

 

 比叡と霧島が放った第四射が、敵艦隊に到達する。八本の水柱が立ち上り、白いカーテンのように戦艦棲姫の姿を覆い隠す。全弾が近弾。距離一万以上の、夜間砲戦、それも目視による照準だ。いまだ、大きく距離を見誤っているのだろう。

 

 入れ替わりに、戦艦棲姫からの砲弾が、比叡と霧島を包み込む。こちらは、明らかに精度が高かった。命中や夾叉こそしていないものの、至近弾と呼んで差し支えない射弾が一度ならず生じている。砲弾の炸裂によって起こった大波が、戦艦である二隻をも飲み込んでしまうのではないかと思われるほどだった。

 

 嫌な汗が、じっとりと背中を伝う。これが、主砲口径の違いか。一六インチという、三六サンチを上回る暴力が、か弱いものでも扱うように、比叡と霧島をなぶっていた。

 

 そんな大和の不安を余所に、二隻が新たな射弾を放つ。そんな暴力には屈しないと、抗い、牙を剥く。その闘志に応え、三六サンチ砲が爆音を轟かせた。

 固唾を呑んで、砲弾の行方を見守る。それだけが、今の大和にできる唯一のことだった。

 比叡と霧島の砲弾は、十数秒をかけて戦艦棲姫に襲いかかる。弾着の瞬間は案外すぐにやって来た。今度は戦艦棲姫の後方に、八本の水柱が立ち上る。

 

 水柱を認めた瞬間には、敵弾の飛翔音が聞こえ始めた。大気を切り裂く甲高い音。

 何とはなしに、嫌な予感がした。

 飛来した一六インチ砲弾が、比叡の周囲に水柱を築き上げる。闇夜に立ち上る白い巨塔が、暗順応した目で十分に確認できた。四本の水柱が、等間隔を置いて、比叡の左右に満遍なく生じていた。

 奥歯を噛み締める。夾叉だ。戦艦棲姫の一隻が、比叡をその射界に捉えたのだ。次からは、一六インチ砲の斉射が降ってくる。三連装四基計十二門。比叡とは比べるべくもない、凶悪な破壊力だ。

 

 私も撃ちます。思わず具申しそうになる。そうしなければ、比叡を見殺しにすることになる。

 だが大和の考えは、比叡にはお見通しであったらしい。大丈夫、そう言うように、左手で制止する。

 喉まで出かかった声を飲み込む。今ここで、比叡の覚悟を台無しにはできない。信じて待つ他はないのだ。

 その時が来れば、必ずや一撃で仕留めてみせる。心の内で誓い、大和は再び前を見据えた。丁度、比叡が五度目の砲撃を放った。

 

 一方の戦艦棲姫は、向かって左の一隻が、不気味な沈黙を保っていた。おそらくはあの一隻が、比叡に対して夾叉を得たのだ。巨大な砲塔内では、斉射に向けた準備が進んでいる。

 

 やがて、その時が来た。

 戦艦棲姫から、紅蓮の炎が噴き上がった。明らかにそれまでの射撃とは違う。炎の量も、明るさも、打ち震える戦艦棲姫への反動も、倍以上の迫力がある。

 斉射が始まったのだ。

 撃ち出された砲弾の数は単純にそれまでの三倍。迫りくる飛翔音も、上空からの威圧も、三倍だ。

 

 十二発の一六インチ砲弾が、容赦なく比叡に襲いかかり、その姿を覆い隠した。極太の水柱が次々と林立し、比叡を包み込む。大和の視界から比叡が完全に消え去った。あたかも轟沈してしまったかのようだ。

 だが、数秒もすれば、水柱が崩れ、健在な比叡が姿を現す。もっとも、被害は確実にあった。よく見れば、左側の艤装に、小さな炎が見て取れる。被弾した時のものだろう。

 

「まだまだっ!」

 

 反撃の砲火を放つ比叡の声が、砲声に混じって聞こえた。まだ、負けるつもりなどない。か細い背中が雄弁していた。

 闘志は砕けない。砲弾がある限り、艤装がある限り、主機が動く限り、心が敗れることはない。数多の戦場を駆け、持ち前の速力と連携で性能の劣勢を補ってきた、金剛型らしい戦い方だ。

 

 それを嘲笑うように、戦艦棲姫は更なる斉射を放った。いまだ比叡と霧島の砲弾は届いておらず、一矢を報いることすらできていない。

 彼我の距離、いまだ一万一千。射点までは単純計算で約三分。今飛翔中のものを合わせて、斉射七回分。砲弾の数、八十四発。それだけの猛射に、比叡は晒されるのだ。

 

 二度目の斉射が、比叡を目掛けて落下していく。音速を軽く超える砲弾が十二発、海面を叩き割り、あるいは艤装を撃ち抜き、水と炎の柱をそそり立たせる。赤々とした爆炎が水柱を内側から照らしだし、さしずめランプのように淡い光を演出した。

 海水の柱が霧散した時、姿を現した比叡は、その艤装から黒々とした煙を噴き上げていた。目を凝らせば、艤装の左舷側に大穴が穿たれ、装甲がささくれ立っているのがわかる。戦艦棲姫の一六インチ砲弾が、増加装甲ごと装甲板を撃ち抜き、中で炸裂したのだろう。

 大規模改修で、金剛型の装甲は強化されている。場所によっては、四一サンチ砲の直撃にも耐え得るほどにだ。その装甲を、こうも簡単に撃ち破るとは。

 

(新型砲、多分、長砲身一六インチ砲……!)

 

 一六インチ砲の強化版。砲身を長くすることで、貫通力と射程を強化したものだ。ル級flagshipの一部に搭載された、という噂はあったが、実際に相見えるのは初めてだ。

 より強力になった一六インチ砲を、今まさに浴びている比叡の恐怖は、いかばかりか。

 それでもなお、彼女は冷静に――あるいはそれを装って、次なる観測射の準備を進めている。

 

 八度目の観測射が放たれた。被弾したとはいえ、比叡も霧島も、四基の主砲塔は生きている。それまでと変わらず、各砲一門ずつの三六サンチ砲が咆哮を上げ、砲炎を吐き出す。飛び出した三六サンチ砲弾が、冷えた夜の空気を切り裂き、放物線の頂点を目指していく。

 

 ほぼ同時に放たれた戦艦棲姫の射撃は、そのどちらもが斉射であった。先の一射で、向かって右側の戦艦棲姫も、霧島に対して夾叉を得たのだろう。

 これで最早、こちらの不利は覆らなくなった。

 

 距離はようやく一万になろうかというところ。八千の決戦距離まで、二千と少し。そのわずかな距離が、果てしなく遠いものに思える。

 届くはずの距離。歯を食いしばり、その先を見据える。

 

 敵戦艦の斉射が、比叡と霧島を包み込んだ。二十四発もの一六インチ砲弾が一斉に水柱を噴き上げる様は、最早カーテンなどと生易しいものではなく、万里の長城もかくやというほどのそそり立つ壁であった。

 大和と比叡たちの間が、越えがたい何かによって隔てられた、そんな錯覚すらあった。

 視界が晴れた時、比叡の損傷はもはや、誤魔化しようがなくなっていた。左舷側の艤装が大きくひしゃげ、炎と煙に覆われている。消火装備を担いだ妖精が出動しているようだが、その火勢ではどうにもなるまい。装甲が燻され、高温によって変質する。飛び散る海水が当たると、ジュッという音がして水蒸気が発生した。

 たった三度の斉射、命中弾にして四発ほどだ。それでも、これだけの被害が生じている。機関区画や主砲、射撃装置に損傷がないのが、不思議なくらいだ。

 

 我、いまだ健在なり。そう宣言するように、比叡が新たな射弾を放った。各砲塔の右砲が鎌首をもたげ、咆哮する。煤で汚れた砲口が、一瞬だけ強烈なフラッシュにさらされ、鈍色の輝きを放つ。しかしそれも、すぐに薄闇の中へと溶け込んで、硝煙の薫りだけが漂った。

 

 この時点で、彼我の距離は一万を切った。いよいよだ。大和は決戦距離に入り次第射撃を開始するべく、敵戦艦への測距を開始した。今までの比叡、霧島の砲撃を鑑みて、敵艦隊の距離や速力は、あらかた予測ができてきた。それに、八千ともなれば、夜間見張り員なしでも砲炎に照らされる敵艦を十分視認できる。

 唯一の不安要素は、大和に夜間砲戦の経験がないことだ。

 日本海軍最大の秘密兵器として、トラック泊地に秘匿され続けていた大和は、そもそも作戦への参加自体がほとんどない。初実戦は数か月前のMI作戦であり、しかもその際相手にしたのは、動かない陸上の目標だ。洋上を航行中の、戦艦同士の砲撃戦というのは、これが初めてである。

 とはいえ、訓練だけは、山ほど積んできた。そこに劣るものなどないと、大和は確信している。ゆえに、今は粛々と、計算を積み重ねるのみだった。

 

 比叡と霧島に、新たな命中弾が生じる。派手な爆炎が闇夜の隅々まで行き渡り、衝撃波があらゆるものを薙ぐ。引き裂かれた装甲の残骸が無残に吹き飛び、鋭利な金属片が服をずたずたに引き裂いた。

 神経的に繋がれた艤装の損傷は、そのまま艦娘に痛覚として伝達される。戦艦の主砲弾の度重なる被弾など、想像を絶する痛みが襲うに違いない。それでもなお、比叡と霧島は歯を食いしばり、耐えていた。

 

 入れ替わりに敵戦艦へ到達していた比叡の砲弾が、ついにその装甲板を捉えた。極太の腕のように見える戦艦棲姫の艤装から、発砲炎とは明らかに異なる炎が上がる。ここに来て、比叡はついに、戦艦棲姫に一矢を報いたのだ。

 

「次より斉射っ!」

 

 裂帛の声が響いた。比叡が歯を食いしばり、自らを奮い立たせて、遥かに格上の相手へ牙を突き立てようとしている。傷を負い、血を滴らせても、なお比叡は立ち向かう。

 

 それを見た戦艦棲姫が、暗闇の中で笑った気がした。

 悪寒が背中を走る。確かに笑ったのだ。感情のない表情で。無機質な能面で。それでも確かに、笑みを浮かべていたのだ。邪悪極まりない、悪魔の微笑を。

 明らかに楽しんでいる。やれるものならやってみろ、そう言うかのように。

 

 彼我の斉射が、海面を彩る。霧島も前の射撃で夾叉を得ており、斉射に移行していた。こちらも、あちらも、持ちうる全ての砲をもって、殴り合いを始めたのだ。

 否、正確には違う。先の被弾で水圧機をやられたのか、比叡の一番砲塔が射撃を行っていなかった。比叡の斉射は、二番から四番までの連装三基六門による射撃に留まっていた。

 

 三六サンチ砲弾十四発と一六インチ砲弾二十四発が高空ですれ違い、摩擦抵抗と重力による加速が釣り合う終端速度で落下してくる。

 

「ぐっ……!」

 

 弾着の轟音の合間に、今日初めての比叡の悲鳴が聞こえた。歯の間から漏れるような呻きが、彼女の追った損傷の重大さを物語る。

 比叡の艤装が、業火に焼かれていた。左舷側の艤装から猛然と炎が上がり、比叡の横顔を明らかにする。パチパチと上がる火の粉は、この世のものとは思えない、地獄の光景を想像させた。

 五回の斉射による、比叡への被弾は七発を数えていた。通常、戦艦を戦闘不能にするには、十一発の砲弾を撃ち込めばいいとされるが、比叡の受けている砲弾は格上の一六インチ砲だ。これ以上被弾すれば、いつ戦闘不能になってもおかしくない。

 

(後一千、お願い、どうか……!)

 

 大和の祈りの合間に、比叡は再度斉射を放った。業火に焼かれながら左舷三番砲塔が咆哮し、それに負けじと右舷二、四番砲塔が砲炎を吐きだす。さらに、生き残っていた高角砲までもが、射撃に参加していた。

 

 だが、今更そんなことに、一々反応する戦艦棲姫ではなかった。たかが二、三発の被弾が何だ。そう言うように、何の痛痒も感じさせない新たな斉射が、九千先の海域で上がった。

 

 今日何度目になるかわからない、砲弾の交錯。反骨の一撃と、蹂躙の一撃。遥かな高みでも、そのぶつかり合いは起きている。

 

 目視の叶わぬ暗黒の中から、砲弾が降ってくる。二十四発の暴力が、この海ごと艦娘を蹂躙せんと迫る。

 流星のごとく、敵弾が比叡と霧島に降り注いだ。

 次の瞬間、比叡が横方向に思いっきり吹き飛ばされた。重厚な戦艦の艤装もろとも、あたかもただのか細い少女のように、その体が宙を舞う。妙にゆっくりとした動きに、大和は感じていた。

 吹き飛んだ比叡が、今度は海面に叩きつけられる。水切り石のように海面を跳ねた比叡は、やっとの思いで霧島に受け止められる。

 

「お姉様!?」

 

 尋常ではない事態に、霧島が動揺しながら叫んだ。

 比叡の様子は、明らかにおかしかった。左足を抑え、見たこともないような苦悶の表情を浮かべている。見れば、左舷側の艤装がごっそりと無くなっており、さらには脚部艤装までもズタズタに引き裂かれていた。

 おそらくは、推進器系と共に脚部艤装に装備されていた姿勢制御装置(スタビライザー)が、やられたのだろう。主砲発射の反動を受け止め、あるいは敵弾の爆圧で吹き飛ばされないように、艦娘を海面に留めているスタビライザーが破壊されれば、戦艦の主砲弾弾着の衝撃はそのまま艦娘を襲い、本来の威力を発揮する。すなわち、艦娘を容易に吹き飛ばす。

 

 こうなっては、最早まともに航行することもできまい。ここにいたり比叡は、戦闘不能に追い込まれたのだ。

 

「お姉様、しっかりしてください!」

 

 霧島が取り乱して叫ぶ。だが、その心配の声を余所に、比叡は強い眼差しで大和を見た。

 血を滲ませる口元が、叫ぶ。

 

「大和、砲戦用意!」

 

 今こそ撃て。比叡は何よりもまず、そう言ったのだ。

 雷に打たれたような衝撃が、脳髄を叩いた。

 

「は、はい!大和、砲戦用意。目標、敵戦艦!」

 

 あらかた計算を終えた射撃諸元が、大詰めの計算を迎える。とはいえ、実際に撃ってみなければどうなるかわからない、というのが実情だ。昼の距離八千なら必中を約束できるのだが、敵艦の艦影がおぼろげでは、いかんともしがたい。

 

 ふと、視界の端で左足を抑える比叡が見えた。

 いや、より正確に言えば、左の太ももで何かをいじる比叡が見えた。

 

「待ってください、お姉様!それではお姉様が!」

「わかってる……っ!それでも、やるしかない!一度しかないチャンス、絶対に()()になんてさせない!」

「……わかりました。お供します、お姉様」

 

 そんな、姉妹のやり取りが聞こえた、次の瞬間だった。

 光芒一閃。目も眩むほどの光が、星々の支配する夜の海を駆けた。我が物顔で波濤を見下ろしていた一等星からいとも容易く支配権を奪ったその光は、何の迷いもなく真っ直ぐに、海上の一点を指し示す。そこにあるものを、ありありと照らし出す。深淵よりの来訪者、戦艦棲姫の姿を。

 それは光の道。向かう場所への道標。闇夜を照らし、明確なる目標へと導いてくれる、一筋の希望。

 探照灯だ。比叡は探照灯を使ったのだ。これであれば、たとえ夜であろうと、敵の姿がよく見える。

 大和は、射撃諸元に最後の修正を加える。急げ、急げ、無駄にするな。繋いでくれたものを、無にするな。

 

 希望には、大きな代償がつきまとう。

 光の中で、戦艦棲姫が初めて、表情を歪めていた。砲身を上げ、その目標を比叡へ――希望を指し示した者へ向ける。探照灯を使用したことで、比叡の姿は白日の下に曝されたことになる。格好の()だった。

 比叡、そして彼女を抱える霧島に、一六インチ砲弾が降り注いだ。霧島が、艤装の可動部を変形させ、装甲板を前に展開する。緩やかな曲線を描く装甲板の正面で火花が散り、金属同士が擦れる甲高い音が響いた。水柱と爆炎、爆音に包まれ、二隻の金剛型が見えなくなった。

 

 水柱が晴れた時、比叡と霧島の姿が露わになる。霧島の装甲はその役目を果たし、二隻を守ったが、歪み、へこみ、ささくれ、もはや二撃目に耐えられるものではなかった。

 

「撃て、大和!」

 

 煤に汚れ、硝煙にまみれた霧島が叫ぶ。

 

 諸元の計算が、完了した。極太などと生易しい大きさではなく、天を砕かんばかりの巨大さを誇る大和の四六サンチ砲が、ほんのわずかだけ仰角を上げる。正面に指向可能な一、二番砲塔だけでなく、背部の三番砲塔もまた、敵艦隊に対して斜めに針路を取ることで射線を確保した。

 遠慮など一切ない。初弾から全力斉射だ。

 主砲発射を告げるブザー音が、二回鳴り響いた。

 

「比叡さん、よく見えます、ありがとう。初弾より斉射、一撃のもとに屠ります!撃ち方、始め!」

 

 次の瞬間、全ての音が世界から消えた。

 百雷、否、万雷にすらも勝る大和の砲声が、あたりの空気を震撼させる。あまりの轟音に、世界から音がなくなってしまったような錯覚までする。球状に広がった衝撃波は海面にクレーターを作り出し、比類なき砲炎が海を、空を焼く。反動で、脚部艤装が半分も沈み込んだほどだ。

 最大最強の火砲、四五口径四六サンチ砲。要塞のごとき三連装砲塔にそれを収め、計三基搭載、合計で九門。一撃で山すらも吹き飛ばす砲撃が、今たった一隻の戦艦に向けて放たれたのだ。

 

 距離八千での砲撃は、戦艦同士の砲戦において至近距離と言っていい。海面上をほとんど這うように飛翔した四六サンチ砲弾は、十秒もせずに戦艦棲姫に吸い込まれる。その砲撃は、降り注ぐ流星というよりも横薙ぎの暴風雨といったイメージだ。通常の砲撃戦を脳天からの拳骨に例えるなら、今大和が放った砲撃は、重量級ボクサーのストレートといったところだろう。

 忘れてはならないのは、そのボクサーは、世界最強の拳を持つ、ということだ。

 

 大和の初撃は、狙い違わず、向かって左の戦艦棲姫を捉えた。戦艦棲姫の艤装――後ろに控える異形の怪物が、姫を守護せんと巨大な手を前に突き出し、装甲の役目を果たす。

 だが、距離八千で放たれた四六サンチ砲の貫徹力は、そんなものでは防げなかった。二発の砲弾が深々と艤装に突き刺さり、地獄の業火を現出させる。天を突かんばかりの火柱が生じたかと思えば、いとも容易く艤装を引きちぎる。巨大な三連装砲塔が、まるでブリキの箱ででもあるかのように、軽々と宙を舞って海面に激突した。

 怪物が苦悶の雄叫びを上げる。それを見た戦艦棲姫が、慄いたような表情を浮かべた。初めて、感情らしい感情が垣間見られた瞬間だった。

 

 戦艦棲姫の目標は、完全に大和に移った。主砲が旋回し、その矛先を大和に向けようとする。だが、そんな隙を与える大和ではない。

 

 四十秒の装填時間の後、二度目の斉射が放たれた。再び洋上を駆ける、鋼鉄の暴風雨。それらがあっという間に弾着する。今度の命中弾は三発。発砲遅延装置によって狭められた散布界が、複数弾の同時弾着を可能にしていた。

 戦艦棲姫の艤装が大きく抉られ、破片をばら撒く。再び主砲塔が吹き飛ばされ、三基の両用砲もまとめて薙ぎ払われる。どす黒い何かを垂れ流し、怪物が甲高い悲鳴を上げていた。

 

 戦艦棲姫の浮かべている表情は、憤怒のそれだった。取るに足らぬと全てを睥睨していた瞳が、醜く歪んでいる。真っ直ぐに大和を捉え、射殺さんばかりに睨む。

 二隻の戦艦棲姫が、斉射を放った。比叡と霧島を完膚なきまでに叩きのめした長砲身一六インチ砲が二隻分、大和へ向けられる。それでもなお、大和は負ける気がしなかった。

 

 弾着の水柱が至近に立ち上り、視界が八割方失われてもなお、大和は三度目の斉射を放った。これで決まる、その予感があった。

 九発の四六サンチ砲が、全てを薙ぎ払わんと、撃ち出される。それらは何の迷いもなく、戦艦棲姫を目指していた。あたかも、それが運命であるように。

 

 三度目の衝撃に、怪物は耐えられなかった。命中弾は三発。うち二発が怪物に突き刺さり、残った艤装を粉々に打ち砕いて、トドメを刺した。そして、最後の一発が、中央の戦艦棲姫本体に命中する。

 信じられない。現実を受け入れまいとする表情と同時に、そこにはとても生物的な、死への恐怖が浮かんでいた。

 

 一際巨大な火柱が洋上に生まれる。柱というよりは、最早一つの玉だ。巨大極まる炎の塊が全てを飲み込み、視界を白く染め上げた。それが収まった時、そこにいたはずの戦艦棲姫は、跡形もなく消え去っていた。弾火薬庫の誘爆が、巨大な戦艦を一瞬で葬り去ったのだ。

 

「敵戦艦撃沈!目標を二番艦へ!」

 

 瞳を紅に染め、怒りのまま砲撃を繰り出すもう一隻の戦艦棲姫に向け、大和は諸元の算出を始める。

 

「諸元入力よし。撃ち方、始め!」

 

 新たな目標への第一射もまた、先ほどと同じ斉射だ。九門の四六サンチ砲が咆哮し、大和はその反動に負けじと両足を踏ん張る。

 

 ふと、その砲炎の中に、何か影が混じった気がした。

 

 首を傾げる間もなく、光は収まる。影の正体はわからない。

 代わりに、別方向で砲声が響き始めた。大和よりも遥かに小さな砲炎が、少しばかり前の海域で生じている。

 

(吹雪さん……)

 

 敵前衛の軽艦艇と接触した吹雪たちが、戦闘を始めた証拠だった。



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鉄底(三)

 吹雪の心は、ここになかった。

 

 敵艦隊本隊から分離し、大和への接近を試みる敵軽艦艇たちと接触しながら、その意識は正面の戦闘に向いていない。否、正確には、目の前の戦闘を正視できていなかった。

 

 誰かに呼ばれて、何かに導かれて、この海に来た。わたしは、あの先に行かなければならない。この海域の中心点、ポイント・レコリスへ。そのためには、あらゆる障害を取り除かなければならない。

 そのはず、なのに。

 

 駆逐艦が束になってかかってくる。睦月と神通がそれに砲を向け、撃沈しようとする。吹雪もまた、長一〇サンチ砲を構え、敵駆逐艦の一隻に狙いを定めた。

 だが、引き金を引くことが、できなかった。

 

(なんで、どうして……!?)

 

 怖い。怖い。この手で殺してしまうことが、怖い。

 深海棲艦は、もはや得体の知れない何かではなく、自らの半身に近い存在だと知ってしまった。あれらは――()()()は、同じ艦娘なのだ。軍艦の魂の、一つの側面なのだ。

 轟沈というプロセスが、深海棲艦を艦娘に戻す、唯一の方法。それは加賀の語っていたことだ。理屈ではわかっている。この引き金を引くことが、あるいは魂の救済になるのかもしれない。

 けれども、実際にそれを目の当たりにした今、吹雪にはどうしても引き金を引くことができなかった。

 

 動け、動け、動け。全神経を、右手の人差し指に集中する。冷や汗が滝のように噴き出し、視界が霞む。足元もおぼつかない。

 

「やっぱり、だめだ……」

 

 肩から力が抜け、長一〇サンチ砲を下げる。撃てない。引き金を、引けない。

 

 こんなものだったのか、わたしの覚悟というものは。たったこれだけで揺らいでしまうのか。自分と同じ存在を前にしただけで、自分の目的を叶えられないような、その程度の覚悟だったのか。

 これを、覚悟してなお、加賀は深海棲艦と戦い続けていたのか。

 

 睦月の声が、聞こえる気がする。神通の声が、聞こえる気がする。けれど、どうすることもできず、吹雪は膝をつく。

 無力だ。覚悟のできていない自分は、これほどに無力だ。この、心の内には何もない。

 

 

 

――何もない。憶えていない。だって、それはワタシのものだもの。

 

 

 

 頭の中に、声が響いた。彼女だ。

 そうか、そうだった。ここは彼女のいる場所。だったらどこかで、ずっとこちらを見守っていても、何もおかしくはない。

 

 

 

――アナタは絶望する。アナタには何も残っていない。だって、全て置いていくと、言ったじゃない。

 

 

 

 言っていない。そんなことに、憶えはない。だけど何か、大切なことを忘れている予感は、ある。

 彼女はそれを、知っている。

 

 

 

――さあ、前に進んで。ワタシに会いにきて。どれだけ仲間を犠牲にしてもいい。ワタシに会いにきて。そうすれば、その絶望を、なくしてあげる。

 

 

 

 そのささやきを最後に、彼女が頭の中から消えた。

 ハッとして顔を上げる。

 

「吹雪ちゃん!」

 

 肩をゆすぶって、睦月がこちらに呼びかけていた。焦点を何とか合わせ、その顔を見る。硝煙と海水にまみれ、所々煤で汚れた顔が、吹雪を不安げに覗き込んでいた。

 

「睦月、ちゃん……」

「どうしたの!?しっかりして!」

 

 必死の呼びかけにも、吹雪は俯いてしまう。長一〇サンチ砲を握る手が、小刻みに震えていた。

 

「撃てないの……撃てないんだよ、睦月ちゃん。わたし、怖くて……っ!」

 

 隠せない感情を、吐露する他なかった。言葉にしたことで、その恐怖が、より現実味を帯びて、吹雪を襲う。

 何人。今まで、何隻、この手にかけてきた。W島沖、南方資源地帯、コーラル・シー、MI諸島。何隻も沈めてきた。何隻も焼き払ってきた。誤魔化しようもないくらい、奪ってきた。

 この手はもう、同胞の血にまみれている。

 

「艦娘が、深海棲艦になって……深海棲艦が、艦娘になって……。じゃあ、それじゃあ、わたしたちが戦っているのは、一体どっちなの……っ」

「吹雪ちゃん……」

 

 睦月の顔を、直視できない。少し、嘘をついている。理由はそれだけじゃない。

 あいまいな予感。呼びかけてくる彼女が、もう一人の自分じゃないのか。深海棲艦としての、吹雪ではないのか。

 どうしたらいいの。何が正解なの。何もわからず、それが怖い。

 その時、睦月がゆっくりと、踵を返した。吹雪に背を向け、海面に立つ。

 

「吹雪ちゃんは、そこにいて。動かないで。吹雪ちゃんの分まで、睦月が戦うから」

 

 顔を上げる。睦月が単装砲を構え、敵駆逐艦へ向けて発砲した。砲弾は狙い違わず、敵駆逐艦の正面装甲を射抜き、炸裂する。それを見た数隻の敵駆逐艦が、一斉に睦月の方に向かってきた。

 

「睦月ちゃん、いいからっ。わたしのことは放っておいて、睦月ちゃんは神通さんと一緒に、」

「いやだっ」

 

 それは、これ以上なく強い、語気だった。

 

「怖いよ。わたしだって怖いよ。この手で、仲間かもしれない艦を、沈めるんだよ。誰だって、きっと同じように怖いよ」

 

 加賀、だけではない。赤城も、大和も、おそらくは長門や陸奥、他の艦娘たちも。彼女らは、自らの手で同胞の命を奪う、その恐怖に直面しながらも、戦っている。

 きっと誰しもが怖い。そして苦しい。それは、わたしと共にその事実を知ってしまった、睦月もそうだろう。今も二挺艦の一隻として戦っている、夕立もそうだろう。

 

 でもね。睦月はそう呟いて、こちらを振り向く。優しく、しかし悲し気な微笑が、その顔には浮かんでいた。

 

「大切な人がいなくなるのは、もっと怖いんだ。睦月、それだけは絶対、いやなんだ」

 

 ハッとして気づく。

 睦月は一度、如月を失った。大切な人を亡くした。何もできず、これ以上ないほどの無力感を、味わったはずだ。

 MI作戦前。強くなろうと無茶をした吹雪に、睦月が本気で怒りを露わにしたことがあった。

 

――「いなくなっちゃうんだよっ!?沈んだらそれで、もう誰にも、会えなくなっちゃうんだよっ!?そんなの、いやだよ……っ!」

 

 あの時もそうだったんだろう。一度、大切なものを失った。その痛みを、悲しみを、心に刻んだ。

 だから睦月は、もうそれはいやだと言うのだ。

 

 睦月の放った砲撃が、敵駆逐艦を捉え、爆砕する。一二サンチ単装砲は、艦娘の中でも最弱と言われる火砲だが、急所を捉えれば十二分に仕事を果たす。取り回しが軽い分、 対応能力が高く、加えて速射性能も申し分ない。睦月は、その特性をうまく生かし、数で上回る敵駆逐艦と戦っていた。

 

 だがそれも、長続きはしなかった。数の力は何よりも偉大であり、ましてや駆逐艦でしかない睦月に覆せるものではなかったのだ。

 睦月が一隻を仕留める間に、三隻が付け狙ってくる。本来は、吹雪が相手をしなければならない敵艦だ。それもまとめて、睦月が背負う。

 

「っ!」

 

 ついに一発が、睦月の艤装を捉えた。爆炎は小さいが、装甲が無きに等しい駆逐艦にとって、その一発すらも重大な損傷になりかねない。破孔が穿たれた睦月の艤装から、細い煙が上がる。

 

「こ……のっ!」

 

 お返しとばかりに、睦月が新たな射弾を放つ。単装砲を怒らせ、向かい来る敵を薙ぎ払わんとする。

 

 だがそれすらも、無駄な足掻きだった。

 敵弾の一発が、睦月が持っていた主砲に当たる。正面防盾で火花が散り、弾かれた砲弾が空中で爆発した。衝撃で主砲が睦月の手から離れる。首にかけていた落下防止のベルトが、爆発の際に切れたのだ。

 睦月の手を離れた主砲は、その後方へ数メートルほど吹き飛び、海面に落着した。どこかしらに空気が残っているのか、いまだぷかぷかと浮かんでいる。

 

 睦月が一瞬、こちらを振り向いた。砲炎に照らされる瞳が、彼女がこれから何をしようとしているのか、雄弁していた。

 

「だめっ!」

 

 両手を広げ、睦月は吹雪と深海棲艦の間に割って入る。砲の類はもう持っていない。それでもなお、睦月は吹雪の前に立つ。

 

―――そんなの……そんなの……っ!

 

 それでは意味がない。それでは失ってしまう。

 大切な、人を。

 

 敵駆逐艦が咆哮し、その砲口に新たな爆炎を躍らせんとする。睦月を五インチ砲の餌食にせんとする。神通は間に合わない。

 

「だめえええええっ!」

 

 絶叫し、吹雪は腕を上げる。

 その手に握った長一〇サンチ砲を、構える。

 ゆっくりと、その引き金を、

 

 

 

 引いた。

 

 

 

 砲声が響く。砲口から砲弾が飛び出し、敵駆逐艦を射抜かんと飛翔する。

 そして、さらに言えば。

 砲声は、吹雪の独奏ではなく。どこか別の場所から聞こえた、もう一つの砲声と合わせた、二重奏であった。

 

 弾着の瞬間。吹雪の放ったものとは別に、さらに一発が、敵駆逐艦を捉えて火柱を上げていた。

 一体どこから。自らが放った主砲のことをそっちのけで、吹雪は辺りを見回す。

 

 その時、背後から迫ってくる推進器音に気づいた。神通のものでも、ましてや大和のものでもない。軽快な音の連なり。爽快な波の音。それは明らかに、駆逐艦のものだった。

 闇の中から現れた()()は、速度そのままに吹雪の横を通り抜ける。「大丈夫よ」、そんな囁きを残して。

 こちらを振り向いていた睦月の瞳が、これ以上ないほどに見開かれる。半開きの口からは、しかし言葉は出てこない。それを知ってか知らずか、もう一人の艦娘は睦月の横を素通りし、真っ直ぐに敵駆逐艦に肉薄していく。砲炎を瞬かせ、砲弾を次々と叩きつけながら、彼女は深海棲艦に挑みかかっていく。

 

 立ち上がった吹雪は、海面に立ち尽くす睦月に寄せる。主砲をなくした睦月は、両の手を祈るように握り合わせていた。薄暗い中で淡く見えるその横顔は今にも泣きそうで、驚きと悲しみ、そしてそれらに勝る喜びに満ちていた。

 

 吹雪は改めて、件の艦娘を見つめる。

 細い煙突。キセル型の吸気口。単装の主砲と、増設された様子の高角砲、機銃。太ももの三連装魚雷発射管。睦月型共通のパーカーを着て、長い髪を潮風になびかせる、彼女。

 その正体は、言わずと知れていた。

 言葉を失っていた睦月が、やっとの思いで叫ぶ。

 

「如月ちゃんっ!」

 

 艦娘――如月の連続砲撃が、敵駆逐艦を爆砕する。次の瞬間、放たれていた魚雷が残り二隻の駆逐艦に到達し、その下腹を抉り取った。苦痛の叫びすらあげる暇もなく、二隻の駆逐艦は波間に沈んでいく。

 

 それを見届けた如月が、初めてこちらを振り向いた。

 夜でもわかる、青白い顔。深海棲艦のそれとわかる毒々しい何かが顔面をも侵食している。額からは角がのぞき、自慢の髪も今や白銀に染まっていた。

 最早手に負えないほど、その深海棲艦化は進んでいる。吹雪にも、そしておそらく睦月にも、それはわかった。あと少しすれば、如月は完全に深海棲艦になる。

 だというのに、その表情は、穏やかな元の如月そのものだった。疲労と不安に塗れ、見る影もなかった表情が、まるで憑き物が落ちたように、凪いでいる。

 

「如月ちゃん、どうして……」

 

 質問になっていない睦月の問いにも、如月は律儀に答えた。とても丁寧に、ちゃんと全て伝えようと。

 

「ごめんね、睦月ちゃん。でも私は、最後までずっと、睦月ちゃんの隣にいたいの。それが私の、幸せだから」

 

 最後。如月の口にしたその言葉の意味は、痛いほどわかった。彼女が何を思ってここにいるのかも。

 それはきっと、世界で一番のわがままで。けれど世界で一番の、優しさと愛に満ちている。

 

 今にも泣きそうな顔で笑いながら、睦月は何度も大きく頷いていた。そんな睦月の頭を、如月が愛おしそうに撫でる。それはいつか見た、仲良し姉妹の光景だった。

 

 束の間の安らぎ。しかしそれも長くは続かない。ここはいまだ、戦場の只中だ。

 

 如月が単装砲を睦月へ手渡す。先程睦月が落としたものだ。敵駆逐艦との戦闘前に拾ったという。

 睦月がそれを受け取り、構える。それで準備は完了した。やることはわかっていた。

 

 敵軽巡三隻を相手に苦戦する神通が見える。大規模改装を終え、軽巡としては破格の戦闘能力を得たとは言えども、所詮は軽巡。自ずと限界はやってくる。その前に加勢しなければ。

 吹雪たちは主機の回転数を上げ、加速する。ふと、すぐ横を並走する如月が、吹雪の方へ進路を寄せてきた。

 

「ありがとう、吹雪ちゃん。睦月ちゃんのために、撃ってくれて」

 

 つい先ほどの戦闘のことを言っているのだとわかった。吹雪は首を振る。睦月をあそこまで追いつめたのは、自分の責任なのだから。

 

「それでも、ありがとう。やっぱり、あなたが睦月ちゃんの友達で、よかった」

 

 だというのに、如月はそう言って笑った。

 

「迷うことも、悩むことも、怖くなることだって、ある。私もね、やっぱりまだ、怖いの。だけど私は、それでも、睦月ちゃんを助けてあげたい。だからここで、戦えるの」

 

 如月の瞳が、真っ直ぐにこちらを捉える。

 

「吹雪ちゃんも、そうでしょう?誰かを守りたいから、撃つ。迷いも悩みも、恐怖も振り払って。それを、あなた自身のエゴと言う人もいると思う。だけどそのエゴは、とても正しいものだと思うわ」

「わたしの、エゴ……」

「そう。あなた自身が、何をやりたいのか。どこへ向かいたいのか。私のエゴは、睦月ちゃんの側にいること。何があっても、睦月ちゃんを守ること。たとえ、他のすべてを犠牲にすることになったって。――ねえ、吹雪ちゃん。あなたのやりたいことは、何?」

 

 わたしの、やりたいこと。

 それは形のない目的。けれど。おそらく。きっと。

 吹雪自身、それがなんなのかは、わかっていた。

 

 会いに行かなければいけない人がいる。

 

 独り言に近い呟きに、如月が頷いた。

 

「あなたは、そのために、前を見続けるのでしょう?あなたが前進を、その先への一歩を拒まない限り、私は――私たちは、あなたと共に戦う」

 

 三隻の駆逐艦が、束になって軽巡に襲いかかる。猛然と撃ち出される砲弾が、敵軽巡を側方から包み込み、反撃の開始を高らかに告げた。軽艦艇同士の砲戦は展開が早く、機動力を重視した戦いになる。

 彼我入り乱れた乱戦が始まり、白い航跡と真っ赤な砲炎が複雑に絡み合う。吹雪も、睦月も、如月も、そして神通も、死力を尽くし、敵軽巡に向かっていった。

 一方、大和の戦闘も大詰めを迎えている。残った戦艦棲姫に対してすでに命中弾を得、斉射に移行している。戦艦棲姫もすでに三度目の斉射であり、いよいよもって、史上最大の戦艦同士による砲戦がその決着を迎えようとしている。

 傷つく者。力を示す者。夜闇の混沌は、今まさに最高潮であった。



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鉄底(四)

 残敵掃討を終えた三隻の駆逐艦を、大和含めた一挺艦の各艦は、沈黙と共に迎え入れた。傷つき、妖精の応急修理を受ける各艦が、たった一隻の駆逐艦を注視している。彼女は本来、ここにいてはいけないはずの艦娘だ。

 駆逐艦如月。深海棲艦へと変質している艦娘。それを如実に示すように、星の光に照らされる表情は、蒼白を通り越した能面のような白さだ。顔の半分が爛れたように見えるのは、深海棲艦に侵食されているからだろうか。右の瞳には、赤い月を宿している。

 

「敵艦隊の撃滅を確認しました」

 

 合流したところで、吹雪が比叡に報告する。それに頷いた比叡は、チラリと如月に目をやった後、口を開く。

 

「被害を集計後、二挺艦と合流します。今後の方針は、その場で決定します」

 

 すぐに、各艦の被害が報告される。

 

 大破……比叡、神通

 中破……霧島

 小破……大和、睦月

 損傷軽微……吹雪、如月

 

 以上が一挺艦の損害として比叡に報告された。これに頷き、比叡は二挺艦との合流を命じる。あちらの戦闘が終了していることは、上空の零水偵から報されていた。

 

 損傷艦を後方に集めつつ、一挺艦は強速で進んでいく。前路掃討は睦月と如月。その後ろに大和と、吹雪が続いた。

 

「大和さん」

 

 前方に意識を集中していた大和に、今日初めて吹雪が話しかけてきた。作戦行動中に私語をするような艦娘ではない。大和は多少不思議に思いながらも、返事をした。

 

「はい、どうかしましたか、吹雪さん?」

 

 暗順応したことでわずかに見て取れる吹雪の表情は、とても落ち着いているように見えた。

 

「一人で戦艦棲姫二隻を撃破するなんて、さすがです」

 

 そう言う彼女に、今朝のどこか覇気のない、憂いを帯びた表情は浮かんでいない。むしろ何かを振り払い、すっきりとしたような印象さえ受ける。

 悩み、惑い、それでも前を見据える。吹雪という艦娘の在り方を、彼女は思い出したのかもしれない。

 

(これでもう、大丈夫ですね)

 

 あるいはそれを伝えるため、彼女は今話しかけてきたのかもしれない、というのは考え過ぎだろうか。

 

「ええ。でもそれは、比叡さんと霧島さんの奮闘あってのことです」

 

 後ろに控える、傷ついた二戦艦のことを思う。この砲が存分にその力を発揮できたのは、彼女たちの踏ん張りがあったからに他ならない。

 

「託されたのですから。それに応えなくては、戦艦の名が廃ります」

 

 大和の答えに、吹雪はとても満足そうに笑って、頷いた。

 

 

 

 十分ほどで、二つの挺身艦隊は合流を果たした。激戦を潜り抜けた艦娘たちは、互いに肩を叩き合う。束の間の笑顔が、それぞれの顔に浮かんでいた。

 二挺艦もまた大きな損害を被っていた。

 無傷の者はいない。全艦が何かしらの手傷を負っている状態だ。一挺艦が戦闘をしている間、三個の敵警戒艦隊を相手取ったというのだから、それも致し方のないことと言えた。

 鳥海からの報告を黙って聞いていた比叡は、一つ頷いて顔を上げる。その瞳は、今度こそ真っ直ぐに、如月のことを捉えていた。

 

「如月。どうしてあなたが、ここにいるのですか」

 

 普段の比叡からは考えられないような、重い声が響く。誰もが口を閉ざし、如月を見つめる。ただ、睦月と吹雪だけは、その答えを知っているかのように、瞳の奥をきらめかせていた。

 答える如月は、ただ真っ直ぐに比叡を見つめ、さも当たり前のように返した。

 

「睦月ちゃんを助けるために、ここに来ました」

「それは睦月を、この海域から連れ帰る、ということではなく?」

「はい。それは睦月ちゃんも望んでいないはずです。私はあくまで、睦月ちゃんの望みを叶えてあげたい。彼女が進むというのなら、その助けになってあげたい。そして……そして、叶うなら、残り少ない時間を、彼女の側で過ごしたい」

 

 如月の答えに、一点の曇りもない。それが真実だ。そう如実に示す、回答だった。

 

「あなたは、あなたの意志で、ここにいるということですか?」

「はい」

 

 なおも視線を真っ直ぐに交わらせる比叡と如月。やがて比叡が、控えめな溜め息を吐いた。

 

「……わかりました。私はその意志を、あなたの想いを、信頼します」

 

 比叡が微かな笑みを浮かべる。

 

「私が書類を何枚か書いて、長門さんに怒られるだけですから」

 

 

 

 損傷の小さい艦が集められ、一挺艦が再編された。顔ぶれは以下の通り。

 

・挺身艦隊第一群

 第一部隊〔大和〕〔鳥海〕〔吹雪〕〔睦月〕〔如月〕〔夕立〕

 

 この他、北上と大井も損傷は少なかったが、二人は雷撃に特化した重雷装艦であり、すでにその魚雷を撃ち尽くしていたため、編成からは外されていた。

 損傷の激しい艦娘たちとは、ここで別れることとなる。彼女らは元来た道を戻ってこの変色海域を抜け、自力でショートランドまでたどり着く必要がある。

 大和にできるのは、その無事を祈ることだけだ。

 

「貴艦隊の健闘を祈ります」

 

 旗艦移譲とともに、比叡はそう言って大和に敬礼した。同じように敬礼を返して、大和は踵を返す。

 今、一挺艦を率いているのは、大和なのだ。この先の作戦の成否は、大和の双肩にかかっている。

 吹雪をポイント・レコリスへ送り届け、同時に光の柱を撃破する。

 

 最大の障害となったであろう敵戦艦は撃破したが、依然深海棲艦の戦力は健在だ。巡洋艦主体の警戒部隊は数個艦隊残っており、これらが妨害してくることは十分に考えられた。総数を半分以下まで減らし、それも軽艦艇中心の編成となった挺身艦隊では、数に任せて攻められることが一番きつい。それは重々承知の上だ。

 大和率いる一挺艦は、吹雪を先頭に置き、睦月、如月、夕立、鳥海、大和の順で単縦陣を敷いた。速力を大和の二八ノットに合わせ、島影を縫うように、艦隊は進んでく。あと二時間弱もあれば、ポイント・レコリスに到達するだろう。

 この時点で、すでに変色海域突入から三時間半。各艦の艤装に、赤い海からの侵食が始まっている。重大な損傷に至ってこそいないものの、時折刺すような痛みが、艤装を通して襲ってきた。その度に、言いようのない悪寒が背筋を走り抜ける。

 

(あまり、猶予はありませんね)

 

 大和は再度気を引き締め、水平線にうっすらと姿を現し始めた光の柱を凝視した。

 

 

 

 それから一時間、一挺艦は何事もなく、サーモン海域を進んでいた。途中、暗礁地帯を通過したが、岩に接触する艦もなく、今は比較的開けた海域を航行中だ。

 そして、視界が開けたことにより、より鮮明に、()()が見え始めた。

 

 光の柱だ。モノクロの航空写真で見るよりも、ずっと鮮明に、目の前にそびえている。丈高い戦艦の主砲弾による水柱を「天を突くほど」と表現するが、あの光の柱は文字通り、天まで届いている。柱の上端は見切れて、最早どこまで伸びているのか、皆目見当もつかない。さらに、余程の光量なのか、周囲の海域が柱の光で淡く照らし出されていた。

 

(あれが、変色海域の中心。光の柱)

 

 私たちが――吹雪が到るべき場所。

 ポイント・レコリス――ガ島沖の海域にそびえ立つ光の柱までは、まだ幾ばくかの距離があるはずだ。だというのに、これほどにはっきりと視界に捉えることができる。もはや、チャートを見ながらその位置を確かめる必要もない。

 

「最後の島影が近いです。横合いからの襲撃に注意してください」

 

 大和は注意を促す。目視できる範囲に、敵艦の姿はない。だが、光の柱の手前、針路右手に見える島、あの影を利用すれば、身を隠すことができる。横合いから奇襲するにはもってこいだ。

 大和含め、六人分の眼が、辺りを最大限に警戒する。各艦に配属された夜間見張り員もだ。特に、鳥海に配備された熟練の妖精に、大和は期待を寄せていた。最初のサーモン海域突入戦でも、真っ先に敵艦を発見した妖精だ。

 

 大和は、わずかに進路を変えるよう、下令する。島と距離を開けるためだ。最接近で二千だった距離が、これで三千になるはずだ。

 そして案の定、十数分とせずに、それが現れた。

 

「敵艦見ゆ!」

 

 振り向きながら、鳥海が叫んだ。見張り員妖精が、艦影を確認したという。距離一万二千。島影からこちらの行く手を塞ぐように、展開してくるという。

 大和も、見張り員と共に目を凝らす。黒々とした島の向こうから、人型、あるいは魚型の影が次々に現れる。どれもどちらかといえば小柄な艦影だ。巡洋艦を主体とした、警戒艦隊であった。

 

「合戦用意。距離八千より砲戦を開始します」

 

 言うと同時に、発光信号を送る。全力航進中の単縦陣では、さすがに最後尾と先頭の間で声のやり取りはできない。

 駆逐艦たちから了解の返答が返ってくる。口火を切るのは大和と鳥海だが、吹雪たち駆逐艦もまた、敵陣に切り込んでもらわなければなるまい。

 

 やがて、その時が来る。

 

「てーっ!」

 

 号令と共に、大和は先頭のリ級へ第一射を放った。数秒遅れで、鳥海も砲撃を始める。それを皮切りに、最後の夜戦が開始された。

 大和の第一射がリ級を包み、鳥海の砲撃はツ級に降り注ぐ。深海棲艦たちは咆哮を上げ、自らも反撃の砲火を放った。

 

 間髪を置かず、大和は第二射を放つ。先の戦闘で、夜戦の感覚は掴んだつもりだ。そう時間を置かず、命中弾を出して見せる。

 鳥海の射撃間隔は、大和のそれよりも半分ほどと短い。命中弾を得るのは彼女の方が早いだろう。実際、すでに弾着を迎えた鳥海の第二射は、ツ級の正面至近で炸裂していた。早ければ、次辺りにでも、命中弾が出そうだ。

 

 負けてはいられまい。手数で劣るとはいえ、射撃指揮装置の性能は大和の方が上なのだ。同距離で撃ち始めて後れを取ったとあれば、戦艦の恥だ。

 第二射が弾着する。リ級の姿が極太の水柱で隠され、すわ轟沈したかと錯覚させる。だが実際には、観測射として放った三発が、全てリ級の手前で炸裂しているだけだ。今回も命中、夾叉ともにない。

 

 戦果を挙げるのは、やはり鳥海の方が早かった。大和の第三射に先駆けて放たれた鳥海の第四射が、ツ級の艦上で炸裂して爆炎を上げる。暗闇の先でもはっきりと見て取れる炎だ。赤々とした光に、ツ級が肩をわななかせる。

 

 大和も、準備の整った第三射を放った。この辺りで、敵艦隊の陣容も大方判明する。今撃ち合っているリ級とツ級を含め、巡洋艦四、駆逐艦十の艦隊だ。

 

 やはり、どうあっても手数でこちらが劣る。早々に、巡洋艦を二隻、排除しておきたかった。大和と鳥海であれば可能なはずだ。

 

 大和の第三射が飛翔を終え、リ級に降り注ぐ。弾着の結果を見届け、大和は小さく拳を握った。命中の炎は見えないが、リ級の右に一発、左に二発。夾叉だ。次から命中弾が見込める。

 鳥海に続き、大和は斉射の準備に入った。最大最強の四六サンチ砲だ。戦艦棲姫を二隻も屠ったこの砲ならば、巡洋艦の一隻など、簡単にこの世界から消し去ることができるだろう。

 砲塔内で妖精たちが忙しなく動き、揚弾された四六サンチ砲弾を尾栓から込め、装薬を詰める。後はここまでの射撃で判明した諸元を入力し、砲を俯仰するだけだ。

 

 あと数秒で射撃の準備が完了する。主砲発射を告げるブザーを、大和が準備した時だ。

 突然、夜が光でかき消された。否、そんなはずはない。だからきっと錯覚に違いないのだが、それでもやはり、そのように思わずにはいられなかった。

 閃光は、散々警戒していた島の方から生じていた。淡い曙光などではない。太陽がそっくりそのまま現れたかのような、他のあらゆる光の存在をも許さぬ、王の威光のごとき輝き。一挺艦の全艦が息を飲み、目をすがめてしまうような光景だった。

 それが砲炎だと気づくのに、数秒を擁した。

 

 嫌な、予感がする。本能としか言いようがない冷や汗が、体のあらゆる毛穴から噴き出し、じっとりと大和の肌を濡らす。

 逃げろ。あれは、大和()が相手できるものじゃない。

 

 飛翔音が迫る。戦艦棲姫のそれに倍するような、重苦しい空気の振動。空が降ってくる感覚。

 衝撃に備え。そんな、簡単な注意すら、洩れることを許されなかった。

 

 巨大な海水のオベリスクが四本、大和の視界に立ち上った。世界を洗い流す洪水のごとき大波が大和を、そして付近にいた鳥海を襲う。

 大和の脚部艤装が、ギシギシと悲鳴を上げていた。そんな馬鹿な。四六サンチ砲の衝撃に耐えうるよう、どんな艦娘よりも頑丈になっている大和の脚部艤装が、たった四発の砲弾が起こした波に弄ばれていた。たかだか大海に漂う小舟だと嘲笑うかのようなうねりに、()()()()いた。

 

 こいつはただ事ではない。大和はすぐに、この砲弾の送り主を探した。

 だが、発砲炎の見えたところに、艦影はなかった。どれほど目を凝らしても、ごつごつとした島の輪郭しか確認できない。どこにも、深海棲艦らしきものは、見当たらないのだ。

 一体どこから。焦燥の汗が髪から滴る海水に混じって頬を伝う。

 

 二度目の砲火が放たれた。先程と同じ閃光が夜の海を走り抜け、辺り一面を照らし出す。暗順応した目には刺激が強い。

 思わず閉じそうになる目を無理にこじ開け、大和は光源の辺りを見遣る。そして、気づいた。

 

 島などではない。先程まで大和も見張り員も島の影だと思っていたもの。しかしそれは、断じて島などではなかった。

 さりとて、艦というには、あまりにも大き過ぎた。ゆえに妖精も、それを島だと思ってしまったのだ。

 戦艦棲姫に酷似した艤装。しかし背後に控える異形は、一回りも二回りも大きい。当然ながら、そこに備えられる主砲塔も大きく、威圧的だ。がっぷりと開いた口が二つ見え、頭に当たる部分が複数あることを窺わせる。太い腕、ごつごつとした体。海の上にいてはいけない、怪異、怪物。海から産まれ出でたそれを、あるいはリヴァイアサンと、はたまたセイレーンと呼ぶのだろうか。

 だが、忘れてはならないことがある。あくまであの怪物は、付随品に過ぎない。女王アリに対する働きアリ。女帝に対する騎士。

 かの怪物ですらかしずく者。海の怪物と呼ばれるものすら統べる者。異形を従え、あらゆる怪異の頂点にある者。

 戦艦棲姫は、所詮前座に過ぎなかったのだ。なぜならここに、真の意味で女帝と呼べる者がいるのだから。

 スラリと伸びた長身。海面に届き、波間に漂う黒髪。純黒のドレス。憐れみを帯びた瞳。彼女こそが、真にこの海に君臨する者。

 

 敵わない。大和は直感した。このままでは勝てない。

 その直感を裏付けるものはいくらでもある。戦艦棲姫を凌駕する巨躯。大和をも揺るがす巨砲。どれ一つとっても、大和が敵う道理がなかった。

 

 第二射が降り注ぐ。改めて大和は、自らの直感が正しかったことを悟った。

 飛翔音が途切れた瞬間、先と同じように巨木のごとき水柱が立ち上った。一つ違ったのは、より直接的な衝撃が、大和を襲ったこと。

 金属がぶつかり合う音ではない。聞こえてきたのは、いとも容易く、分厚い装甲板が裂ける音。対四六サンチ砲対策が施された大和の装甲が、薄い木板か何かのように叩き割られる感覚。

 ()()()()。そう思った瞬間、経験したことのない衝撃と激痛が、大和を襲った。艤装が引き裂かれ、右舷三番副砲が脱落する。即座に弾薬庫をパージしたことで最悪の事態こそ免れたが、冷や汗ものである。

 

「一旦、体勢を立て直します!全艦進路反転、島影へ身を隠してください!」

 

 我武者羅に突撃するだけではだめだ。そこに活路はない。まだ双方距離があるうちに、一旦敵の射線を切らなければ。

 

 大和の命令で、一挺艦は針路を反転し、各々に、島影を目指す。幸いにして、敵艦隊が追撃してくる様子はない。光の柱への進路を塞いだまま、速力を落として周遊を再開する。未知の巨大戦艦も同じだ。

 

(やはり、そういうことですか)

 

 圧倒的優位を活かすことなく、追撃を試みないその意図は、おそらく作戦開始前に分析されていた通りだろう。深海棲艦の目的は、艦娘の撃滅ではなく、吹雪をあの光の柱へ近づけさせないことにある。

 

 好機、と捉えるべきだろうか。到底敵いそうもない相手であることを確認していながら、意外にも、大和の闘志はいまだ潰えていなかった。



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鉄底(五)

 島影へ完全に隠れた大和たちは、各々の損傷を確認する。とは言っても、まともに撃たれたのは大和だけであり、確認することといえば、変色海域による主機への侵食具合くらいだ。

 主機を一度止め、大和は改めて自らの損傷を確認する。被弾は一発。右舷側の三番副砲があった付近に、大穴が穿たれている。砲塔周りは特に装甲の厚い部位だ。そこを、距離八千だったとはいえ、こうも易々撃ち抜いてくるとは。

 

(おそらく、一八インチ砲……いや、もっと、か)

 

 損傷個所を応急処置しながら、大和はそう分析する。

 たった一度だけ肉眼で捉えた敵艦には、大和と同等かそれ以上の大きさがある砲塔が据えられていた。ただし、見た限りでは戦艦棲姫のような三連装砲ではなく、連装砲であった。必然的に、搭載されている砲は、大和のものよりも大口径であるはずだ。であれば、その砲は四六サンチ砲を越えた、五一サンチ砲相当――二〇インチ砲であると考えられる。それが連装四基で計八門。

 装甲についても、ニ〇インチ砲対応のものを装備しているはずだ。例え大和の四六サンチ砲であっても、貫通は容易くはあるまい。

 八方塞がり。しかし大和は、一つ、この状況を打開しうる手を考えついていた。

 

「大和さん」

 

 思案に耽っていた大和を、鳥海が呼ぶ。落ち着いた目が、完全に据わっていた。彼女もまだやるつもりだ。

 

「今一度、作戦目的の確認を、お願いします。二つの目標の、どちらを優先されるのか」

 

 鳥海の言う二つの作戦目的とは、光の柱の撃破と、吹雪の海域中心への到達のことである。いずれも、達成するべき作戦目標として、長門から事前に開示されていた。

 大和は特に悩むこともなく、口を開く。

 

「作戦目標に変わりはありません。二つの目標は、相反するものではないと、私は考えています。最終目的である変色海域の解消は変わりません。そこへのアプローチの仕方が違うだけです」

 

 大和の話を、五人は黙って聞いていた。

 

「光の柱を破壊することは、どちらかといえば対症療法です。対して、吹雪さんを変色海域の中心点へ送り届けることは、より根本的な解決を目指すものです」

 

 彼女は――吹雪は()()()()()()。変色海域を生み出した何者かに、唯一直接、名指しで呼ばれている。それは吹雪自身も、どこかおぼろげながら、認識している様子だ。

 海域の中心にいる「彼女」が、何を目的に吹雪を呼んでいるのかは知らないが、より根本的な変色海域の根絶を目指すのならば、「彼女」と接触する他はない。現状、それが叶うのは、吹雪だけだ。

 

 さらに、ここに来て、この海域の深海棲艦が、いかな行動原理で戦っているのかもはっきりしてきた。明らかに、その動きは艦娘を撃破するものではなく、艦娘が光の柱に近づくことを阻まんとするものであった。「彼女」のもとへ艦娘が到達することは、深海棲艦にとって何か不都合なことがあるのだ。

 故に、光の柱の撃破は、あくまで対症療法。「彼女」との接触ではどうにもならなかった際の保険的意味合いが強い。大和はそう認識していた。

 

「そのどちらを達成するにしても、障害になる物は変わりません。私が光の柱を破壊するには、敵艦隊を撃破しなければなりません。吹雪さんが光の柱へ接触するには、敵艦隊を撃破しなければなりません。克服するべき障害が変わらない以上、現時点で私は、作戦目的両方の達成を諦めません」

 

 大和はそう締める。決意の籠った表情の鳥海が、殊更ゆっくりと、言葉を発する。

 

「……わかりました。それでは私は、敵艦隊を撃破し、作戦成功への活路を開くことに集中します」

 

 目下、海軍最強と目される巡洋艦の回答に、大和は無言の頷きをもって応えた。

 

「ここが正念場です。必ずや敵の防衛網を突破し、光の柱へ到達しなければなりません」

 

 一挺艦の面々を、大和は見回す。暗闇の中でも、その瞳が爛々と輝いているのがわかる。皆やる気だ。この逆境でも、闘志を失ってはいない。

 これなら、まだ戦える。

 

「これより先は、艦隊を二分します。私以外の皆さんは、その快足をもって敵中の一点突破を狙ってください。私は敵戦艦を撃破します」

「……それは、」

 

 そこまで言って、鳥海は口をつぐむ。

 彼女も理解しているはずだ。敵戦艦は、あまりにも規格外すぎる。大和一隻では到底敵わない。今の一挺艦六隻が束でかかって、ようやく仕留められるか否か、という難敵だ。

 ただしそれは、あくまで正攻法の話だ。

 

「何か、勝算が、あるんですね」

 

 吹雪が控えめに訊いてくる。心配を極限まで押し殺した問いかけに、大和は可能な限りの自信をこめて答える。それが今できる、精一杯だ。

 

「ええ。とても困難な、ある種賭けに近い手ですが……必ずや、皆さんの期待に応えて見せましょう」

 

 そうして、笑って見せる。苦難の中でこそ、笑わなければ。それこそが、指揮官に求められる素質だ。

 

「時間があまりありません。すぐに、取り掛かりましょう」

 

 大和の呼びかけで、各自が戦闘への準備を整える。これが、正真正銘、最後の戦いだ。

 誰からともなく、拳を突き合わせていた。砲炎に巻かれ、硝煙にまみれ、潮水を被った、六つの手。握られた拳が、ごくごく自然に寄りあう。

 大和の短い一言が、戦闘開始の合図になった

 

「武運長久を」

 

 

 

 鳥海を先頭に置き、駆逐艦四隻、最後尾に大和を置いた単縦陣の一挺艦は、二十八ノットで島の海岸沿いを驀進していた。座礁ギリギリの、危険極まりない航行だ。少しでも引き波の加減を見誤れば、脚部艤装が砂浜や暗礁に乗り上げ、損傷してしまう。

 そんな危険を冒してもなお、こんな航路を取っているのは、ひとえに敵艦隊から発見されるリスクを避けるためであった。事実、この島沿いの航路を取った敵超巨大戦艦を、大和たちは距離八千でようやく認識したのだ。しかも、それは敵の砲炎が見えたからである。全く発砲しなければ、より至近まで近づける。

 

 一挺艦は、一先ず身を隠した場所から、島を反時計回りに進んでいた。こちらの接近を警戒している敵艦隊は、先ほどとそれほど変わっていない位置に陣取っているはずだ。島の反対側から飛び出せば、敵艦隊の裏をかくことができる。

 かつ、おそらくは最も、敵戦艦との距離が縮まる位置を取ることができる。大和には、その方が好都合だ。

 

『敵艦隊見ゆ。右十度、距離八〇(八千)』

 

 先頭の鳥海から、発光信号が送られる。チャート通りなら、すでに島を半周ほどしたはずだ。いつ会敵してもおかしくはない。

 報告のあった方へ大和も目を凝らす。暗順応した目であれば、輪郭ぐらいは十二分に捉えられた。何より、あの超巨大戦艦が、どれほどの暗闇の中でもはっきりとした影となってその存在を示していた。

 

(六千……せめて七千まで、気づかれないといいのですが)

 

 それがあまりにも都合のいい願望であることは、大和自身が一番わかっていた。

 いくら島影を利用したところで、さすがに七千まで近づけば、何隻かが気づくだろう。

 実際、その動きはすぐに始まった。

 

『敵艦隊に動きあり』

 

(気づかれた……!)

 

 大和は直感した。同時に、次に何をするべきかもわかっていた。

 

突撃はじめ(ト連送)

 

 発光信号で、短符を連打する。本来は航空攻撃の際に使用される信号だ。疾風迅雷。まさしく航空機のように、敵陣を突破せよ。そんな意味も込め、速力の早い五隻に指示を飛ばす。

 大和を除いた五隻(一挺艦二分隊)は、迷うことなく、主機を一杯に吹かした。全艦が三十四ノットを発揮可能だ。六ノット分の速力差があれば、大和との距離はみるみるうちに広がっていく。五隻の快速艦は、敵が態勢を整える前にその防衛線を突破せんと試みる。

 その五隻に対し、敵巡洋艦や駆逐艦が、行く手を阻まんと集まってくる。その針路に立ち塞がる。

 そして、超巨大戦艦もまた、その身を緩慢に翻し、吹雪たちへその砲口を向けんとする。

 

(それだけは、させない)

 

 あなたの相手は私だ。私がその砲を撃ち砕く。

 主砲発射を告げるブザーが鳴る。同時に大和は、数秒という短時間、探照灯を点灯した。当然、超巨大戦艦に向けて、だ。

 

「最後まで付き合ってもらいます!私の輪舞(ロンド)に!」

 

 それは、死のダンスへの誘い。どちらかが倒れるまで、あるいはどちらもが倒れるまで終わることのない、舞踏会。夜を舞台にした、巨砲と巨砲の協奏、あるいは狂騒。

 

 白い光で浮かび上がった()()と目が合う。深紅を宿すその瞳は、とても愉快そうに細められていた。

 四六サンチ砲が咆哮する。閃光、轟音、爆風。海面のさざ波すらも薙ぎ払い、決意の鉄槌が振り下ろされる。何物にも邪魔されない、最強を決める戦いが、ここに始まった。

 

 

 

 

 

 

「最大戦速を維持!何があっても、速力を緩めないで!」

 

 敵艦隊と会敵した時点で、鳥海からすぐさま指示が飛んできた。異論を挟む余地はない。吹雪たちは頷いて、さらに先を目指す。各々主砲を構え、臨戦態勢だ。

 

 真正面に飛び出してきた駆逐艦へ向け、鳥海が発砲する。距離は四千もなかった。初弾から二〇・三サンチ砲弾が命中し、駆逐艦の薄い装甲を撃ち砕く。さらにそこへ、高角砲による射撃まで始まり、駆逐艦は三十秒ほどで鉄屑になり果てた。

 

 背後から巨大な砲声が聞こえてきた。大和と超巨大戦艦の撃ち合いが始まったのだろう。最早何者にも、そこに介入する余地はない。巨砲と巨砲、鋼のぶつかり合いが、夜の海に響き渡る。

 

(大和さん……)

 

 出撃前の、彼女の言葉が蘇る。今まさに、彼女はその身を賭して、吹雪たちの活路を開かんとしている。

 

――「託されたのですから。それに応えなくては、戦艦の名が廃ります」

 

 大和はそう言った。

 駆逐艦も、同じことだ。はっきり言って、彼女たちの性能は、お世辞にも高いとは言えない。戦艦や巡洋艦と撃ち合いなどできないし、命中弾は例え駆逐艦の一発でも致命傷になり得る。

 それでも、魚雷という切り札を抱えている。一撃のもとに敵艦を屠れる必殺の兵器を持っている。ゆえに、戦艦も巡洋艦も、その身で駆逐艦を守り、活路を開く。

 託されたのなら。一度背負ったのなら。最後までやり遂げて見せなければ、駆逐艦の名が廃るというものだ。

 振り返りはしない。今はただ、前を見つめ、目指すところへと突き進んでいく。

 その視界に、立ち塞がる深海棲艦。

 

「左魚雷戦用意!」

 

 鳥海が即断し、各艦に魚雷の準備を命じる。全五隻、雷数にして三十四。全ての発射が可能だ。

 この雷撃を露払いとし、しかる後に敵艦隊へ切り込む。これが鳥海の算段だろう。

 

「魚雷発射始め!」

 

 鳥海の号令に合わせ、圧搾空気の音が響く。発射管から放たれた三十四本の魚雷は、静かに海面下へと沈み込み、夜闇に紛れて敵艦隊へと肉薄していく。彼我の距離、六千もない。しかも正面を向いて反航の状態だ。魚雷到達までは三分弱といったところか。

 

 魚雷の航走を確認し、鳥海は改めて敵艦隊への突撃を再開した。二分隊五隻は一本槍となって、敵艦隊へ肉薄していく。

 

 三隻の敵巡洋艦が発砲した。二隻のリ級と一隻のネ級がその艤装に砲炎を躍らせ、二分隊の行く手を阻もうとする。その猛進を止めようとする。

 それに撃ち返すのは、鳥海だ。腰を取り巻くように据えられた艤装は、戦艦のそれに酷似している。安定性は抜群だ。射撃プラットフォームとしてこれ以上に適したものはない。

 

 鳥海の二〇・三サンチ砲が咆哮する。徹甲弾が咆哮から飛び出し、行く手を阻むものを排除しようとする。

 前進を後押しする一撃。前進を押し戻す一撃。双方が放物線を描いて交差し、大気を鳴動させながら目標へと降り注ぐ。戦艦のそれには劣るとはいえ、大砲としては十分すぎる大きさと威力だ。

 ほとんど同時の弾着。相対速度が大き過ぎるために、お互いに命中弾はない。それでも、まぐれに近い至近弾が生じて、制服を濡らす。艤装に弾片がぶつかる。

 

 二度、三度。鳥海と敵巡洋艦が砲火を交わすが、命中も、夾叉もない。派手な砲炎を撃ち上げている割に、双方の被害は皆無であった。

 ただ、吹雪含めて四隻の駆逐艦は、鳥海の狙いを理解していた。

 この砲撃は、魚雷到達までの囮だ。こちらの鳥海一隻に対して、あちらは重巡が三隻。いくら鳥海が強力な巡洋艦といえど、三倍の兵力差をひっくり返すのは容易ではない。ゆえに、先に放った魚雷が、少しでも敵の戦力を削ってくれるのを待っているのだ。

 

 魚雷の命中率を上げるには、相手を予想した針路の通りに進ませる必要がある。ゆえに鳥海は砲撃で気を逸らし、魚雷への警戒を薄くさせているのだ。

 必ず当たる。吹雪はそう確信した。そしてそれを裏付けるように、目の前の敵艦正面で、巨大な水柱が噴き上がった。五隻から放たれた九三式魚雷が命中した瞬間だった。

 

「針路〇九〇!」

 

 戦果の確認もそこそこに、鳥海が針路の変更を指示した。横陣を敷いてこちらの進路を塞ぐ敵艦隊、その中央に魚雷によって穿たれた戦力の空白へ向け、二分隊は突っ込む。

 死中に活。虎穴に入らずんば虎子を得ず。もはや遠巻きにやり過ごすなどという考えはない。

 

 魚雷によって生じた被害は、巡洋艦一、駆逐艦二の撃沈、駆逐艦一の大破であった。浸水過多により波間へと飲み込まれつつある敵艦に目を遣ることなく、二分隊は敵艦隊中央を韋駄天のごとく駆け抜ける。

 

 だが、ただで行かせてくれるほど、深海棲艦は甘くはなかった。

 はっきりした理由はわからない。だが間違いなく、彼女らは吹雪を、何が何でもあの柱に近づけたくはないようだった。

 態勢を整えることもせず、残った深海棲艦が発砲した。四隻を失ったとはいえ、いまだ七隻が健在だ。残ったリ級とネ級が八インチ砲を振りかざし、駆逐艦が五インチ砲をこれでもかと撃ちつけてくる。もはや上がる水柱を数えることが馬鹿らしくなるほどだった。

 

「本艦目標、左舷敵艦隊。夕立、睦月、如月目標、右舷敵艦隊。吹雪は単艦にて光の柱へ向かえ」

 

 鳥海は、何の躊躇もなく、そう下令した。吹雪を除いた四人は、躊躇うことなく、それぞれの目標へと転針していく。ただの一言も、言葉を発することなく。

 交わすべき言葉は交わした。託すべき想いは託した。叶える願いは皆に共通だ。そして向かう先は、吹雪だけが知っている。それぞれの決意を、ただただ示すのみ。

 

「さあ、素敵なパーティーしましょ」

 

 夕立の口癖だけが聞こえてきた。それだけで十分だ。

 

 光の柱は、もう目と鼻の先まで迫っていた。眩い光の根元、全てを飲み込む海の深淵へ、吹雪は向かう。

 迷いはない。今はただ、そこにいる()()に会うことのみを考える。

 最後の助走をつけた吹雪の体が、深淵から飛び出し、宙に浮く。艤装は海面を離れ、艦でありながら、吹雪は空を飛んでいた。

 

 光の柱が近づく。乳白色の世界が吹雪を飲み込んでいく。感覚は研ぎ澄まされているのに、意識だけはどこか遠くへ飛ばされる、そんな心地がした。

 

 

 

――おいでませ。鉄の水底へ。



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鉄底(六)

 すでに初雪を迎えたという極北の島を、刑部は足元を入念に確かめながら歩いていた。元々南の生まれだ。雪にはあまり馴染みがない。物珍しくはあるが、どう警戒したものかも、わからない。

 

「そんなに恐々歩くこともないだろう」

 

 そんなことをのたまう、見るからに南国生まれの大貫も、何だか妙な歩き方だ。人のことを言えた身ですか、という感想は胸の内に仕舞っておく。

 

「あとどれくらいなんですか?霧が濃くて、周りがよく見えないのですが」

「もうすぐつく、はずだ」

 

 それまで辛抱しろ。防寒外套の襟を立てつつ、大貫が言う。頷くしか、刑部にできることはない。

 雪道との格闘を続けること、さらに十数分。ようやく雪中行軍のコツを掴み始めた頃、目的地は現れた。

 

 深海棲艦の出現からこの方、実に十年もの間放置されていた孤島には、全くもって似つかわしくない、白い塗り壁の建物が現れた。明らかに急ごしらえのものではない。綿密に計画され、明確な意図のもとに建設された、立派な建物だ。ご丁寧に、玄関まで設けられている。

 十年の間放置されていた、わけではなさそうだ。どう見ても、ここ一か月以内まで人の手で手入れがなされていた様子である。

 つまりこの孤島に、住民でも、刑部たちでもない誰かが、いたということだ。

 

 住民はソ連本土に避難中。定期航路などというものはない。この島に来ることができるのは、日本軍の船だけだ。

 軍の極秘施設。こんな辺境に作らなければならないような、トップシークレットの秘密を抱える施設。それが刑部の結論だ。択捉まで行くという大貫についてきた理由でもある。

 

「鍵がかかっているな」

 

 入口と思しき扉のノブに手をかけた大貫が呟く。彼は迷うことなく、腰のホルスターから拳銃を抜いた。

 銃声が一回。鍵が破壊され、扉は難なく開いた。大貫はそのままズカズカと中へ入っていく。刑部もその後ろに続いた。

 入口からすぐ、通路が左右に分かれていた。どちらも薄暗がりで、どこまで続いているのかわからない。

 

「どっちだと思う?」

 

 懐中電灯をつけた大貫が、光で左右を示しながら訪ねる。刑部はその光の中に、手掛かりになりそうなものを見つけた。行き先を示すプレートだ。

 

「電源設備を目指しましょう。ダメもとですが、非常電源くらいは生きているのではないですか」

「もっともだな」

 

 大貫も賛意を示し、二人は揃って右へ進む。「電源盤室」という、明らかにそれらしい部屋は、この先とのことだ。

 

 三十メートルほど歩いただろうか。曲がり角が見えてきたころ、右手に「電源盤室」と札のかかった部屋を見つけた。

 入口と同じように鍵を破壊し、扉を開ける。室内は赤い非常灯で照らされており、各種電源盤や配電盤が確認できた。

 

「非常電源盤か、それに近い名前の電源盤を探せ」

「わかってます」

 

 そそり立つ壁のような電源盤を一つ一つ確かめていく。非常電源盤は部屋の一番奥にあった。だが刑部は、そのブレーカーを入れる前に、大貫に確認する。

 

「先輩。もしかしてここ、()()()()()()()()()()()()

 

 非常電源盤の隣、一回り大きな主電源盤を見遣る。そのブレーカーは投入された状態だ。電圧値、電流値、電力値、力率、いずれのメーターも正常な値を――すなわち、電力を供給している状態を示している。

 

「……そのようだ。配電盤を確認してきたが、いくつか電力供給の続いているものがあった。この施設はまだ稼働している。打ち捨てられたのではなく、また戻ってこれるように」

 

 そう言って、大貫はいくつかのブレーカーを入れた。そのまま部屋を出て、壁際のスイッチを押す。途端、廊下の水銀灯が一斉につき始めた。しばらくすれば、通路全体が白い光で満たされる。

 

「島内に発電設備はない。この施設周辺にも、それらしき設備は見えなかった。大体、燃料の補給もなしに発電はできない。ここは、本土から電線を引っ張ってきているんだろうな」

 

 大貫が呟く。それ以外には考えられなかった。

 

「常時電源を必要とするような施設、ですか。工場ではないようですし、となると……研究施設、でしょうか」

「違いない」

「それで、ここからはどうするんです?」

 

 刑部の問いかけに、大貫がしばし、考えるような間を取る。その口が、ゆっくりと開かれた。

 

「第二研究室を探す。電源供給が維持されているところはいくつかあったが、研究室の中ではそこだけだった。ここが研究施設なら、第二研究室では反復を必要とする実験をしているか、あるいは、()()()()()()()()()()()()()()()か、どちらかのはずだ」

 

 

 

 件の研究室は、それほどかからずに見つかった。

 ガラス張りの扉に、「第二研究室(生体研究)」と書かれている。ここで間違いない。

 

 扉は閉まっていなかった。二人はゆっくりと中に入る。薄暗い研究室の中には、薬品の匂いが充満している。同時に、機械の駆動音も、そこかしこから聞こえてくる。大貫の言った通り、この部屋はいまだ、確かに稼働を続けているらしかった。

 

「電気、点けるぞ」

 

 明かりのスイッチを探し当てた大貫が、そう言って電気を入れる。水銀灯がチカチカと音を立てながら、順繰りに点灯していく。

 入った時から思っていたことだが、この研究室は随分と広い造りをしていた。今刑部たちがいるところは二階にあたるようで、細い空中通路が壁伝いと部屋を仕切るように伸びている。本命の研究室は階下、つまり地面よりも下にあった。そのため、部屋自体が体育館くらいの大きさであると見積もられた。

 その広大な全貌が、少しずつ明らかになっていく。

 

 刑部は、通路の手すりから身を乗り出して、階下の研究室を凝視した。そこには様々な機械が並んでいる。軍人である刑部が、おおよそ見たことのない、使い方すら想像できない装置が、所狭しと置かれている。だが、一番多く見受けられたのは、円柱状の透明な容器――培養槽であった。

 

 空の培養槽が部屋の隅に集められ、積まれている。が、実際に何かが入れられ、機械に繋がれている培養槽も多い。その中身は、ここからでは窺い知れない。

 

「……行きましょう」

 

 ためらいなく、刑部は階段を階下へと下りだす。「気が進まん」と溜め息を吐きながらも、大貫はついてきた。

 階段を下りていくにつれて、培養槽の中身が次第にはっきりとしてくる。驚きはしない。軍の研究施設なのだ、何が出てきてもいいように、覚悟は決めてきている。

 

 階段を下り切り、刑部はすぐに、培養槽の一つに歩み寄った。

 円柱形の容器の中に納まっていたのは、刑部が散々戦ってきた相手――深海棲艦であった。弾丸の跡が穿たれたイ級の頭部が、培養槽に収まっている。

 それだけではない。辺りを見回せば、多くのサンプルと思しき深海棲艦が置かれている。ハ級の全身。リ級の腕。ル級の盾。ヲ級の頭部艤装。ワ級の解剖された腹部。

 敵ではなく、研究対象としての深海棲艦が、そこにはいた。

 

 深海棲艦の研究施設。弱点を洗い出し、艦娘の戦闘をより優位に進めるための研究施設。ここはそう言う場所だ。

 

(……いや)

 

 それだけじゃない。拭えない違和感をヒントに、刑部は培養槽の間を進む。そしてそれは、あまり時間をかけずに、刑部の前に現れた。

 

 ここが深海棲艦の研究施設だというのなら、絶対にあるはずの無いもの。本来、培養槽に収まっていてはいけないもの。

 

 人間だ。

 部屋の最も奥に、人間の収まった培養槽が並んでいる。中央の三人は十歳にも満たない見た目の少女、その両脇には生後間もない――否、もしかすると胎内で成長中の赤ん坊が数人。機械に繋がれ、呼吸器をつけられて、培養槽の中に浮いている。

 

「そうか、ここは……()()()()()()()()()()

 

 刑部が思い至った、その時。

 

 カチリ。

 実に自然に、撃鉄が起こされる機械音が響いた。後頭部に拳銃の銃口が突きつけられる。

 

「両手を挙げろ」

 

 大貫の低い声が聞こえた。背後から刑部に拳銃を向けているのは、大貫その人であった。

 刑部は大人しく従う。なぜ今だったのか、その真意を探りながら。

 

「大湊で待っていてくれれば、こんなことをしなくて済んだのだが」

 

 若干芝居がかった雰囲気で、大貫が溜め息を吐く。刑部は思わず吹き出してしまった。

 

「それはできない相談ですね。この島に軍が何かを隠している以上、私はどんな手を使ってもここへ来ましたから」

「ふん、ぬけぬけと」

 

 大貫もまた、どこか愉快そうだ。こちらが彼の真意を探っていることに気づいている。当ててみろ、そう言っているようだった。

 

「最初から、ここの研究をご存じだったんですね」

「ああ。最初期からずっと関わって来たからな」

「一応、聞かせてもらってもいいですか?ここはどんな施設なんですか?何を研究しているんですか?」

 

 見当はついた。だからこそ、全てを知っているであろう大貫から、答えを聞きたい。こんな状況でも、勝るのは好奇心と、職務への義務だ。

 大貫が口を開く。しゃべりながらも、その銃口だけは真っ直ぐに刑部を狙っている、それは雰囲気だけでわかっていた。

 

「お前が想像した通りだ。ここでは、人間の手で、()()()()()()()研究をしている」

 

(悪魔の研究、というには時代がそぐわない、か)

 

 考えた通りの答えに、半ば諦めに似た納得をする。

 

「なぜ、そのような研究を?」

「理由は二つ。艦娘を失った際への備え、保険。そして、深海棲艦と艦娘に対する抑止力だ」

 

 大貫は再び、淡々と語りだす。

 

「この研究施設の前身は、戦争開始直後に設置された、深海棲艦についての研究機関だ。だが、一週目の戦局が芳しくなくなった頃、艦娘が全滅した際への保険として、艦娘と深海棲艦を掛け合わせ、それを人間に埋め込むことで、艤装を取り扱えるようにした人間を造る構想が持ち上がった」

 

 発想としては至極もっともなものだ。人間の手で、新たな人間を設計する、という倫理的な問題を抜きにすれば、とても理にかなっている。ようは、未知の技術を解明し、既知の技術に落とし込む、という作業に変わりない。

 

「もう一点、軍にとって看過できない、艦娘の問題点があった。彼女たちは、根本的には()()()()()()()()()、という点だ」

「それは、どういう意味で?」

「彼女たちはあくまで、深海棲艦を敵と認識しているだけだ。同じように、人類も深海棲艦を敵視していた。だから両者は、共同戦線を張っているだけに過ぎない。艦娘は戦い、人類はそれをバックアップする、という形でな。だが、根本的に人類の味方ではない以上、何かの拍子で敵対しないとも限らない。その時には、人類が独自に、艦娘や深海棲艦に対抗できる戦力を持たなければなるまい。ゆえに抑止力、だ」

 

 懇切丁寧に、大貫は説明をしてくれた。この研究の必要性を、必然性を、まるで誰かにプレゼンするように。

 

「研究は順調だ。第一世代――艦娘と深海棲艦を人間に融合させる実験は成功した。ここにいるのは、第二世代と第三世代の少女たちだ。彼女たちは、元より艦娘と深海棲艦の特徴を受け継ぐ人間として産まれている。艦娘と深海棲艦の二勢力による戦争に、まもなく人類も加わることができるようになる。そして最後には、人類が勝つ」

 

 そこまで言い切り、大貫は改めて、刑部の後頭部に銃口を突きつけた。ここからが本題だ、とでも言いたげに。

 

「ここまで案内した以上は、連れてくる他なかった。お前も納得はしないだろうからな。だからこの島に来た時点で、お前の選択肢は二つに絞られた。拒絶による死か、協力による生か」

 

 選べ。大貫はそう言っている。

 

「俺が見てきた中で、お前は一番まともに、この戦争を終わらせようとしている人間だ。だからこそ、ここで失うのは心苦しい。どうだ、()()()()()()()()()()()?」

 

 ああ、なるほど。そこで刑部は、大貫の真意に思い至った。

 

「……一つだけ、確認を。協力するのはいいとして、それはこの研究に、ですか。それとも――先輩に、ですか?」

 

 刑部の問いかけに、大貫が黙る。今までで最も長い沈黙。そして、小さく吐いて出る、溜め息。それが、大貫が笑っている証拠だと、刑部は知っている。

 

「言質を取ってから、どうとでもしてやろうと思ったんだがな。相も変わらず、可愛げのない奴だ」

 

 そう言って、大貫が拳銃をひっこめた。

 

「どこでわかった」

 

 安全装置をかけ、拳銃をホルスターに戻しながら、大貫が尋ねた。刑部は特に隠さず答える。

 

「自明ですよ。そもそも私は、こんな計画には絶対に協力しない。先輩はそれをよくわかっているはずです。だから、この計画への協力を持ちかけてくるはずはない。だとしたら、先輩自身の――人造艦娘の誕生以外の計画への、協力要請ではないかと」

「……そういうところだ」

 

 今度は大きな溜め息を吐き出した。それから研究室を見回して、鼻息を一つ。

 

「人間の業、だな。全て自分の思う通りにならなければ気が済まない。いまだに、この地球上で思考する生き物は自分たちだけだと思っている。いい加減認めなくては、な。人間以外の、思考する生命の誕生を」

 

 それが大貫なりの、捨て台詞だったのだろう。

 

 

 

 研究施設が、業火に包まれていた。爆弾が降り注ぎ、建物を綺麗さっぱり吹き飛ばしている。炎を消す者はいない。刑部たちはすでに洋上の揚陸艦の上だ。

 人間の業。軍が抱え込んだ闇。悪魔の領域に――あるいは神の領域に片足を突っ込んでいた研究が、審判の日を迎えていた。当然ながらあの炎は、地獄からの使者なのだろう。

 

 雪が降りそうな天候に全く似つかわしくない光景を、刑部は〔えぞ丸〕の甲板上から眺めていた。

 

 施設を攻撃したのは、祥鳳、瑞鳳の艦爆隊だ。もっとも、その戦果は公式には残らない。軍上層への報告はあくまで、択捉島が深海棲艦に爆撃されていた、という体になる。こんな無茶苦茶に付き合ってくれた二人の空母艦娘には、感謝してもしきれない。

 刑部の隣に、大貫も立つ。

 

「……一つ、窺ってもいいですか?」

「今日のお前は、質問が多いな」

「ええ。先輩をここまで質問攻めできる機会はないので。――なぜ吹雪を、私に託したのですか?いえそもそも、八年間意識不明だった彼女が、()()()()()()()()()()()のですか」

「……簡単なことだ」

 

 懐から煙草を取り出し、大貫はゆっくりと口を開く。

 

「俺が救助した時、彼女にはまだ微かに意識があった。海水で冷え切って、唇なんてほとんど動いていなかった。だけどうっすら目を開けて、何かを言おうとしていた。俺が聞き取れたのは、『軛……戦って……あの子を……わた、しは、ふ……ぶき』、それだけだった。しかも、後で思い返せばそう言っていた、とわかる程度のものだ」

「報告書には?」

「書いていない。そんな些細なことを気にしていられるご時世でもなかったし、上官に訊かれることもなかったしな。これを言うのはお前が初めてだ」

 

 何ともない様子で煙草をふかす先輩に、刑部は初めて溜め息が出る思いだった。

 

「そういうところですよ、先輩」

 

 大貫はチラリと刑部を窺っただけで、何かを言い返してくることはなかった。

 

 遊弋中の敵艦隊を撃滅したと、伊勢から報告が入った。一先ず、作戦目的は達したことになる。あとは艦娘たちが帰還するのを待つばかりだ。収容作業が終わり次第、〔えぞ丸〕は北方海域を離れ、大湊へ帰投する。

 

「昔語りはここまでだ。俺もこれで、お役御免だろう」

 

 短くなった煙草を海へ放り投げ、大貫がそう言った。彼の言う通り、昔語りはこれで終わりだ。必要なものはあらかた揃った。これからは、答えを導く探究の時間だ。

 

「答えはもうすぐ出る。それを見守ることが、これからのお前の役目になるだろう」

「ええ、心得ているつもりです。私は、彼女たちが答えを出す日まで、守り続けます」

 

 誰から誰を守るかなんて、今更言う必要はなかった。艦娘の最大の敵が誰なのか、この場の二人で認識は共通だ。

 

「その時が来たら、教えてくれ。彼女たちが何を選んだのかを。……それが、お前に求める、俺への協力だ」

「……先輩は、いい人ですね」

 

 皮肉と取られたか、大貫はお得意のデコピンを喰らわせてきた。痛む額を押さえ、抗議の視線を送る。大貫は薄く笑って、背後を振り向いた。それに倣い、刑部も身を翻す。

 

 そこに、三人の少女が立っていた。背格好はよく似ている。ぶかぶかの防寒着を着ていてもわかるほどの細身だ。

 顔立ちはそれぞれだが、共通している部分があった。右が紅、左が蒼のオッドアイ。髪に一房だけ混じる銀髪。そして両目の下にある、泣き黒子のような小さい突起物。

 生きていくには、あまりにも儚い眼光が、こちらを見つめている。しかしその視線も安定はしていない。周りにあるもの全てが物珍しいといった様子で、目を泳がせている。

 

(答えは一つじゃない。私にできるのは、見守ることだけだ)

 

 半ば自らに言い聞かせるように、刑部は胸中で呟く。

 

 北方海域の霧が珍しく晴れ、穏やかな陽の光がのぞき始めた。




鉄底編、ここまでです。
次はいよいよクライマックス、吹雪編に突入となります。


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吹雪
吹雪(一)


吹雪編開幕です。いよいよクライマックス。
決着の章となります。


 ……歩き続けた。

 

 歩いて、歩いて、歩いて……彷徨って。

 

 鉄の水底。死の海。漂う錆の匂い。無数に転がる残骸。誰からも忘れ去られ、取り残された骸。名もなき船の墓場。

 

 鉄底海峡。アイアンボトムサウンド。ソロモン諸島、ガダルカナル島沖に広がるここが、私の居場所。捕らわれの檻。

 

 ああ、もう疲れた。いくら探しても、ここに彼女はいない。ワタシの片割れ。手を伸ばしても届かぬ想い。

 

 待つしかない。誰もいないこの海で。何か――奇跡に近い何かがあれば、あるいは――

 

 ……いいえ、違う。誰もいない、わけじゃない。

 

 確かにいた。声なき魂。無念の巣窟。

 

 声がする。それは恨みでも、妬みでもなかった。

 

 焦がれる声。叶わぬ願い。悲痛な叫び。

 

 やめて。もうやめて。

 

 

 

 ワタシに、どうしろというの。

 

 

 

 

 

 

 ……ようやくだ。

 

 ずっと、この時を待っていた。

 

 誰もいない海で、十年。

 

 鉄の水底で、十年。

 

 ようやく、彼女はここまで、来てくれた。ワタシに、会うために。

 

 拒みはしない。それが私の望み。唯一残った、私自身の願い。

 

 だからアナタも、どうか拒まないで。

 

 

 

 この海に敷き詰められた、絶望の悲願を。

 

 

 

 

 

 

 変色海域から退避中の比叡たちは、絶体絶命のピンチを迎えていた。

 退避艦隊の陣容は十隻。数だけ見れば有力な艦隊だが、その実は損傷艦の寄せ集めだ。まともに戦闘能力を残している艦など一隻もいない。

 その退避行は、相当困難なものになると、十二分に予想されていた。

 

 予想は現実となる。

 推進系に損傷をきたした艦娘たちに速力を合わせた結果、比叡たちは二時間で消化した航程を、二時間弱で半分も進めていなかった。そしてその間に、巡洋艦を主体とした艦隊に捕捉されてしまった。

 

(あと少しだっていうのに……!)

 

 ガタつく左足に鞭を入れながら、比叡は歯噛みする。

 

 巡洋艦四隻、駆逐艦六隻。たかがその程度の戦力など、比叡と霧島が万全の状態であれば、赤子の手を捻るよりも容易く蹴散らすことができる。

 だが、その比叡も霧島も、今はまともに戦闘ができる状態ではなかった。

 

 先の戦艦棲姫との撃ち合いで、比叡は左舷の艤装をすべて叩き潰されている。生き残った右舷の艤装も、主砲用の電路が遮断されたせいで肝心の主砲は撃てない。使えるのは、変色海域の侵食を免れた、副砲が四門と、高角砲が一基。

 霧島の損傷は、比叡ほどひどくはない。しかし、戦艦棲姫の砲撃を正面から受け止めた装甲板は、もはや使い物にはならなかった。しかも、その際の衝撃で旋回盤が曲がり、一、二番主砲塔は旋回不能となっている。

 巡洋艦以下も、皆似たような状況だ。これでは戦いにならない。

 

 それを知ってか知らずか、敵艦隊は横陣を敷き、こちらの進路を阻むように展開している。一隻も通しはしない。この海に立ち入ったものは、すべからくこの海へ帰るのだ。そう言うように、こちらを睥睨している。

 

「……お姉様」

 

 霧島が問うている。どうするのか、と。

 

「……やるしか、ない」

 

 手持ちの戦力は、今ここにいる分しかない。

 覚悟を決める。絶対に帰るという覚悟。

 同時に。

 今回こそはだめかもしれない、という覚悟。

 

「各艦、砲戦用意!敵艦隊に隙を見つけ次第、離脱可能な艦から海域を離脱!他を顧みず、自らの生存を第一に考えよ!」

 

 霧島が、主砲を構える。

 比叡が、副砲を構える。

 古鷹が、加古が、川内、大井、北上、綾波、暁。全艦が、今使える自らの武装を振り立て、その行く先を切り開かんとする。

 

 その覚悟ゆえだろうか。

 その想いゆえだろうか。

 戦神は応えた。使者は現れた。その道筋を、示してやろう、と。

 

 エンジンの音が近づいてきた。あまり聞きなれない音だ。赤城たち空母艦娘に搭載されているもののどれとも違う。

 

(どこから?)

 

 比叡が反射的に空を見た、その時。

 遥かな高みから、天使が舞い降りてきた。

 否。より正確に言い表すのであれば。その天使、あるいは戦乙女(ワルキューレ)は、空より真っ逆さまに落ちてきた。

 

「うちの妹に、何してくれるデース!」

「勝手は!榛名が!許しません!」

 

 しかも、その天使は、比叡のよく知る声で、叫んでいた。

 

 艤装を目一杯広げ、空気抵抗で減速しながら、金剛と榛名が降ってくる。真っ逆さまに、敵艦隊の頭上へと。

 その主砲に、砲炎が踊った。反動で二人の落下が一気に減速される。そして砲弾は、そのまま二隻のリ級に突き刺さった。

 三六サンチ砲の超近距離射撃、それも真上からの砲撃に晒されては、たかが巡洋艦になす術はなかった。海上に爆炎が二つ生じる。比叡は確信した。撃沈確実二、だ。

 

 金剛と榛名が着水する。重い艤装を受け止め、海水が主砲弾弾着よりも激しく持ち上げられた。当の二人は、確信犯的に海面にめり込み、その後スタビライザーによって海面に浮上してくる。

 思わぬ刺客に、重巡を二隻も潰された敵艦隊は、軽いパニックに陥っていた。そしてそれを見逃すほど、艦娘たちは甘くない。

 

「今だ、畳みかけろ!」

 

 比叡の号令に合わせ、十隻の艦娘が一斉に砲炎を吐きだした。

 

 

 

「比叡!霧島!無事で何よりデース!」

 

 戦闘を終えると、金剛は比叡たちをきつく抱きしめた。顔が豊満な胸に埋まり、息ができない。その苦しさを、比叡はとても幸福なものとして、捉えていた。

 ようやく抱擁から解放され、霧島と揃って息を吸い込む。太陽のような金剛の薫りが、そこに混じっていた。

 

「あの……お姉様、どうしてここに」

「ンー?」

 

 比叡の質問に、金剛は意味ありげに上空を見た。

 先ほどのエンジン音が、上空から聞こえる。上空を旋回しているのだろうか。星明りと薄い月光で辛うじてその影を捉えられるが、一体どんな機体なのかまでは見えなかった。

 ただ一つ。それは、艦娘から発艦し、妖精が操縦する航空機ではなく、()()が乗り込んで操縦する大きさの航空機だ。絶滅危惧種である。

 

「あの飛行艇に乗せてもらいマシタ」

「……はい?」

 

 何だか今、とんでもない矛盾を聞いた気がする。

 艦が飛行機に乗った?逆ではなく?

 ともかく、金剛と榛名は、あの飛行艇に乗って、ここまでやって来たという。

 

 聞けば、あの飛行艇は長門が手配したのだそうだ。昼間の戦闘で空母棲姫に致命傷を負わせた機動部隊は、金剛たちを肉薄させトドメを刺させた。それからすぐ、飛行艇が現れて、金剛と榛名を乗せたのだという。

 そして二人は、その飛行艇から飛び降りて、ここへやって来た。

 

(何やってるんですかねえ!?)

 

 思わずそんな感想を抱いてしまうほどには、無茶苦茶な救援の仕方だった。

 

「……吹雪たちは、行ったのですね」

 

 一通りの情報共有と確認を終えた金剛が、サーモン海域の中心方向を見つめながらそう漏らした。比叡はそれに、無言で頷く。

 金剛が目を閉じる。祈るように。信じるように。

 数秒の沈黙の後、金剛が再び目を開いた。微笑を湛え、こう宣言する。

 

「皆さんは私が護りマス。必ず無事に、帰りまショウ」

 

 

 

 

 

 

 砲弾の嵐の中を、睦月たち三隻の駆逐艦は縦横無尽に駆けていた。一撃を仕掛けては一航過、一撃を仕掛けては一航過。速力と機動性にものを言わせ、敵艦隊を翻弄する。

 しかし、多勢に無勢。いかに睦月たちが十分に経験を積んだ駆逐艦と言えども、乱戦の中で二倍の差を相手取るのは、並大抵のことではなかった。

 何とか二隻を戦闘不能にしたものの、残った四隻が砲撃を繰り出してきては意味がない。実際、睦月も、如月も、夕立も、被弾の跡が目立ってきた。

 

「キリがないっぽい……!」

 

 先頭に立つ夕立が、苛立たしげに呟く。彼女の言う通りだ。このままじゃいずれ押し切られる。

 

(魚雷さえ、再装填できれば……!)

 

 艤装の格納筒に入れてある、予備の魚雷。何とかそれを再装填できれば、あるいは対抗の芽が出てくるかもしれない。

 だが、あまりにも時間がない。陽炎型のような魚雷の次発装填機能は、睦月には備わっていない。精密機械である魚雷を全て手で再装填する必要がある。圧搾空気の準備まで含めれば、少なくとも六分は必要だ。

 夕立には次発装填装置が備わっているが、それでも全弾の再装填には四分が必要だ。

 そんな猶予を与えてくれるほど、深海棲艦は甘くはない。

 

 どうする。夕立と目を合わせた時だった。

 

「睦月ちゃん、夕立ちゃん。魚雷の再装填を。その間、私が敵艦隊を食い止めるから」

 

 そう言った如月が、主砲を構えなおし、睦月の前に出た。先の魚雷戦で、如月は全ての魚雷を撃ち尽くしていた。

 ダメだ、そんなのは無謀すぎる。誰か一人が向かっていったところで、戦力差が歴然になるだけだ。例え再装填の時間を稼げたとしても、如月が沈んでしまうリスクの方が高い。

 それだけは、何があってもイヤだ。

 

「何言っているの、如月ちゃん!それなら、睦月も、」

「睦月ちゃん」

 

 睦月の言葉を、如月が遮る。唇に人差し指を当て、片目を瞑って微笑みながら。いつもの、実にしなやかで、どこか艶やかな如月の表情を浮かべながら。

 

「必ず、帰るんでしょう?」

 

 言葉に詰まる。出撃前、睦月が如月に宣言したことだ。例えどれほど困難な作戦であろうと、必ず如月のもとへ帰るのだ、と。

 

「睦月ちゃんの約束、嬉しかった。だから、ね。私も、その約束のために、力を貸したいの。睦月ちゃんの力になりたいの」

「如月、ちゃん……」

「大丈夫。絶対に沈まない。()()()()()()()()()()()()()()()。だって、」

 

 如月は、とびっきりの笑顔を浮かべていた。

 

「あなたは私の、大切な姉妹だもの」

 

 

 

 敵艦隊に、如月が突撃していく。脚部艤装が海面を鋭く切り裂き、飛沫を挙げながら駆けていく。それを見送って、睦月と夕立は顔を見合わせ、頷いた。

 

 格納筒のハッチを開く。中には予備の魚雷が、筒一つにつき一本ずつ収められている。

 魚雷発射管を既定の位置へ。ガイドレールを取り出し、それを発射管に取り付ける。そのガイドレールに、取り出した魚雷を乗せ、妖精の補助を受けながらゆっくりと発射管へ装填していく。慎重に、定められた位置へと魚雷を込めていく。

 カチリ。魚雷が既定の位置へ収まったことを示す音が鳴る。これで、ようやく一本の装填が終わったのだ。ここまでおよそ一分。

 これを後五回。時間と根気のいる作業だ。

 

 二本目の魚雷をガイドレールに乗せ、発射管への誘導を妖精に任せて、睦月は如月の様子を窺う。

 如月は、さながら海上を舞う妖精のように、身軽な動きで敵艦隊を相手取っていた。正面から撃ち合いはしない。単純に時間を稼いでいる。弾雨へ切り込み、魚雷をかわし、数度の砲撃を浴びせて離脱。それを繰り返し、敵駆逐艦の意識を自身に留めている。その動きはとても精錬されて、研ぎ澄まされたもののように見受けられた。

 あれならば、上手く時間を稼げるかもしれない。睦月が希望をもって、三本目の装填に取り掛かった時だった。

 

 巡洋艦の一隻が、如月に襲いかかった。

 

(そんな……!)

 

 睦月は巡洋艦の来た方向を――先ほどまで、二隻の重巡と鳥海が撃ち合っていた方向を見遣る。

 海面の炎は一つ。波間に漂う影。疲労と苦痛の表情を浮かべるのは、鳥海その人であった。

 

(鳥海さんが、突破された……!)

 

 それ以外に考えられなかった。

 

 この夜だけで、鳥海は四つの深海棲艦艦隊と交戦してきている。ここまでもっていたことが不思議なのだ。二隻の重巡相手に無理を重ねて、結果撃ち負けたのだろうか。

 まずい。非常にまずい。いくら如月が器用に立ち回ろうと、巡洋艦が相手では勝ち目はない。そう長くかからず、撃破されてしまう。

 

「間に合わない……!」

 

 右舷側発射管の装填に入った夕立が、焦った様子で呟いた。夕立の方もまだ二分は必要だ。睦月も三本目が今ようやく終わったところである。

 睦月に迷いはなかった。

 

「夕立ちゃん、装填続けて!私は先に行くね!」

「睦月ちゃん!?」

 

 夕立の呼びとめも気にせず、睦月はすぐさま飛び出した。駆逐艦と巡洋艦に挟まれ、必死の形相で回避と反撃を試みている如月のもとへ急ぐ。

 魚雷は、装填が終わった左舷の三本のみ。しかも睦月単艦で使用しては、まず命中は望めない。

 けれども今飛び出さなければ、如月が沈んでしまう。

 今できること。今やれること。

 私はまだ、如月の側にいることができる。

 

「テーッ!」

 

 構えた主砲を、今しも如月へ発砲せんとする敵駆逐艦に向けて撃つ。火箭が宙空を駆け、敵駆逐艦の至近に水柱を立ち上げる。

 

「如月ちゃん!」

 

 如月が一瞬、睦月の方を見た。

 その瞳に頷く。今行く。一緒に戦おう。

 

「睦月ちゃん!」

 

 敵弾を逃れ、一時離脱した如月が、こちらへ手を伸ばす。

 その手を受け止め、しかと握り返す。

 ああ、そうだ。私たち二人なら、きっとできる。どんな約束だって、願いだって、叶えてみせる。

 

「やろう、如月ちゃん!」

「ええ、睦月ちゃん!」

 

 主砲を打ち鳴らす。約束を。二人で誓う。

 敵は強大。勝利の可能性は限りなく低い。今ここで、二人で話せることすら、奇跡のようなものだ。

 それでもなお、前を見続けよう。二人が共にある限り。

 

 主砲が炎を噴く。駆逐艦へ向け放たれたそれらは、狙い違わずその装甲を撃ち抜いた。撃沈にこそ至らないものの、駆逐艦が悲鳴のように叫び声を上げる。

 重巡ネ級と、駆逐艦四隻が、睦月たちに襲いかかってくる。彼我の距離はもはや二千もない。近接距離、お互いに逃れられない距離。

 敵弾が頬を掠める。逆に睦月たちの砲弾も敵艦を穿つ。お互いの砲弾が考えられないほどの至近距離で交差し、敵を抉ろうとする。

 

(今なら……!)

 

 睦月は魚雷発射管を構えた。なけなしの三本。今ここで使わずして、いつ使うのか。

 砲声に混じり、圧搾空気の音が響く。魚雷が三本、海中に投入され、敵艦隊へと航走していく。

 命中までにほとんど時間はない。一隻の駆逐艦が艦底から突き上げられ、盛大に弾け飛ぶ。

 

 だが、それが逆に、深海棲艦の神経を逆撫でしたようだ。

 残った四隻が、猛進してくる。距離は最早一千もない。お互いの表情がはっきりと見て取れるほどだ。

 

(――っ!)

 

 無数の赤い瞳。それがこちらを睨んでいる。一瞬、怯んでしまうほどに。

 咄嗟に、睦月は魚雷格納筒のハッチを開いた。魚雷を一本取り出す。深度調定も信管感度もでたらめだ。とにかくそれを投擲する。

 海水に突入した途端、魚雷は問題なく作動した。大丈夫だ、いける。針路の調整は睦月の目測になってしまうが、この距離まで接近してしまえばそれで十分だ。

 

(もう一本!)

 

 さらに一本、魚雷を取り出して、放り投げる。丁度その時、一本目の魚雷が到達した。今度も駆逐艦に命中している。爆沈こそしなかったものの、浸水で大きく傾いて、その場に擱座した。

 

 二本目は外れたものの、睦月は三本目を投げ、これをもう一隻の駆逐艦に命中させた。残るは駆逐艦と重巡が一隻ずつ。

 

 だが、もはや睦月にも如月にも、それ以上深海棲艦の接近を拒む術はなかった。

 魚型の駆逐艦が勢いよく跳ね、大きな口をがっぷりと開く。そのまま、睦月へと降り注いでくる。

 反射的に主砲口を構え、睦月は駆逐艦の口めがけて主砲を放つ。隣の如月も、同じように主砲を撃った。二発の一二サンチ砲弾が駆逐艦の口内に飛び込み、脆弱な部分を破って炸裂する。内側から弾け飛んだ駆逐艦は、爆炎と黒煙を引きずってガラクタになり果てる。

 

 その爆炎の中から、ネ級が飛び出してきた。駆逐艦とは違い、とても人間に似た――艦娘に似た姿をしている。人型のネ級がこちらを睨み、白い腕を伸ばした。

 主砲の装填は間に合わない。その手を振り払う術はない。主砲を投げ捨て、睦月はネ級の手を受け止める。

 後ろに倒れ込む。海水に浸かり、冷たさが背中を伝う。

 見上げる形になったネ級の顔が、はっきりと見えた。髪が片目を隠し、禍々しい左目だけが覗く。その目がジッと、こちらを見つめている。

 

「睦月ちゃっ……ぐっ!」

 

 如月がネ級を排除しようと試みた。だが、尻尾のようになっている艤装によって、吹き飛ばされてしまう。横目に、吹き飛んで海面を転がる如月が見えた。

 ガシャン。機械的な音と共に、ネ級が主砲を構えた。三連装砲塔の砲口は、真っ直ぐに睦月を向いている。

 万策は尽きた。避ける術はない。がっぷりと組み伏せられている今、睦月にできることは残されていなかった。

 数秒後には、その砲口から閃光が迸る。砲弾が睦月を貫く。容易に想像の付く未来に思い至り、それでもなお、睦月はネ級を見据える。

 ニヤリ。ネ級が笑ったように見えた。

 

 次の瞬間。ネ級側面で強烈な爆炎が続けざまに生じた。砲撃戦を仕掛けた張本人は、倒れた如月に手を貸しながら、ネ級を睨みつけていた。

 夕立だ。連装砲を構え、ネ級を捉えて離さない。

 夕立が動いた。海面を素早く駆け、一息に肉薄する。ネ級の尻尾が砲を構える隙もない。海面を跳躍した夕立は、そのままネ級に飛び膝蹴りをお見舞いした。睦月の上から、ネ級が吹っ飛ぶ。

 

「っぽい!」

 

 夕立の砲撃がネ級に突き刺さる。さらに、如月も発砲した。ネ級がふらつく。

 

「終わりっぽい!」

 

 夕立の声とともに、魚雷が放たれる。夕立の発射可能な魚雷は八本。しかもこの至近距離で、外すわけがない。

 超至近での魚雷炸裂に、睦月は備えた。

 腹から突き上げるような衝撃。水滴が飛び散り、見上げるほどの海水の塊がすぐ側に現出する。夕立の魚雷がネ級に命中したのだ。

 立ち上る水柱の合間に、ネ級の表情が見えた。感情のない虚ろな瞳が、ただただ静かにこちらを見ていた。

 

 その時。

 

「睦月ちゃん!」

 

 如月が叫んで、ハッとする。今撃沈したネ級の方から、魚雷の航跡が伸びてきている。近い。倒れ込んだ今の状態では、回避運動も取れない。

 

 目を見開く。航跡を見つめる。

 

 衝撃は唐突で、さながらこの身が宙に舞うような、そんな感覚さえした。



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吹雪(二)

 大和と超巨大戦艦の撃ち合いは、序盤から最高潮を迎えていた。

 今までの砲撃戦とは、まるで次元が違う。四六サンチ砲と二〇インチ砲。大抵の戦艦なら一撃でノックダウン可能な巨砲同士。

 だというのに、その砲撃戦は、超至近距離での戦いになっていた。

 

 発見された時点で、大和は超巨大戦艦に両舷一杯で接近しつつ、砲撃戦を開始していた。当初は吹雪たちを意識する素振りを見せた超巨大戦艦も、大和を優先的に排除するべき目標と捉えたのか、その砲撃戦に乗って来た。

 砲撃戦が始まったのは距離六千。いくら夜間と言えども、戦艦同士の砲撃戦としては超至近、目と鼻の先も同然の距離だ。お互いに命中弾を得るまで、大した時間は必要なかった。

 

 大和が接近しての戦闘を選んだのは、超巨大戦艦が二〇インチ砲搭載の対二〇インチ砲防御を施した戦艦であったからだ。

 通常の砲戦であれば、大和は敵戦艦と距離を取る。四六サンチ砲はあらゆる距離において、あらゆる戦艦の装甲を貫通可能だ。逆に大和は、余程至近に近づかれない限り、その装甲を破られることはない。よって適切な距離を保っていれば、一方的に叩くことができる。

 

 だが、今回は図らずも、その立場が逆になった。距離を開けても、四六サンチ砲で超巨大戦艦の装甲は抜けないだろう。ならば、砲戦開始と同時に肉薄し、超至近の砲戦で片をつけるしかない。大和の勝機はそれ以外になかった。

 

 前方を指向可能な六門の四六サンチ砲には、ほとんど仰角がかかっていない。対する超巨大戦艦の二〇インチ砲八門も同じだ。水平に近い砲弾の軌道が、横薙ぎの暴力となって襲いかかる。

 すでにあらかたの兵装が削ぎ落とされていた。副砲、高角砲、機銃。和傘のようなマストも、綺麗に吹き飛んだ。主砲の正面防盾だけは辛うじて耐えているが、それもいつまでもつか。機関と射撃系統に問題がないのが、唯一の救いだ。

 

「てーっ!」

 

 大和は五度目の砲撃を放つ。彼我の距離、実に二千五百。最早近いを通り越してニアミスだ。このままお互いに針路を譲らなければ、正面衝突は免れない。

 

 大和の砲弾が超巨大戦艦に突き刺さる。効いている様子は、ある。巨大な異形に徹甲弾が突き立てられるたび、天を割かんばかりの悲鳴が上がる。

 

 だが、逆もまたしかりだ。

 超巨大戦艦が発砲する。この距離までくれば、その砲炎の凄まじさも、大和に倍する砲声の激しさも、ひしひしと伝わってくる。

 

 そして、音が届くよりも早く、砲弾が大和に到達する。

 艤装の曲面部分に当たった砲弾が、信管を作動させる前に跳弾となって後方の海面に落ちる。右舷の高角砲群に新たな砲弾が飛び込み、高角砲弾を巻き込みながら盛大に弾ける。

 

「ぐ……っ!」

 

 一撃一撃が痛烈。限界がいつ来てもおかしくはない。それでも大和は新たな砲撃の準備を命じる。

 

 距離一千五百。大和六度目の砲撃。超巨大戦艦の周囲に水柱が立ち並び、爆炎と共に艤装を抉る。

 

 炎の中、超巨大戦艦本体の表情が映る。

 笑っている。今この瞬間が楽しくて仕方がない、そう言うように笑っている。

 否定は、しない。任務、使命。そう言ったものを背負ってはいるが、確かに大和も、心の奥底でこの戦闘を待ち望んでいたような気がする。ゆえに、動きはさらに研ぎ澄まされ、主砲を撃つ心にも熱がこもる。極限の砲撃戦中であるにもかかわらず、深海棲艦に妙な親近感さえ抱いてしまう。

 必ずやこの砲で撃ち倒して見せる。今はそれだけで十分な気もした。

 

 横薙ぎに襲いかかって来た二〇インチ砲弾の一発が、大和の腹部に命中した。体表付近のエネルギー装甲と制服が緩衝材となり、大和本人にダメージはいかないが、それでも重い拳で腹部を一撃されたような圧迫感が襲う。胃の内容物が逆流してきた。

 砲弾が掠めたこめかみから、生暖かいものが流れる。最早限界だというのはわかり切っていた。

 

 五百で七度目の発砲。手を伸ばせば、お互いに届きそうなまでの距離だ。ともすれば、あの怪物の頭に食いつかれ、引き裂かれそうな距離ですらある。

 

 超巨大戦艦の艤装から、砲塔が一基、吹き飛んだ。大和の四六サンチ砲弾が基部に命中して、艤装から剥ぎ取ったらしい。狂ったように怪異が叫び、その砲をさらに大和へ突き立てんと構える。

 

(今!)

 

 大和は艤装からあるものを引っ張り出す。それは、洋上で停泊する用の、錨と錨鎖だ。左舷側のそれを手に持ち、回転をかけて投擲する。当然、超巨大戦艦に向けて、だ。

 錨鎖庫から錨鎖が送り出され、錨鎖管を通って伸びていく。先端の錨はといえば、そのまま願い違わず、超巨大戦艦の装甲にぶち当たった。

 質量だけで言えば、砲弾の何倍もある錨だ。その力学的エネルギーだけで敵艦の装甲を破り、内部へ。そのまま爪の部分が装甲に引っかかり、固定される。

錨鎖を固定。試しに引っ張ってみたが、抜ける様子はない。大和は遠慮なく、揚錨機を作動させ、錨鎖を巻き上げ始めた。

 

 超巨大戦艦と左舷対左舷ですれ違おうとする大和を目掛け、二〇インチ砲が追従してくる。照準が定まっていないのか、なかなか撃たない。大和にとっては好都合だった。

 

 ガン。ようやく照準が定まったのか、二〇インチ砲が固定される。

 

 次の瞬間、揚錨機によって引き上げられていた錨鎖が、大和と超巨大戦艦の間でピンと張った。強い引力が両者の間に働き、揚錨機が悲鳴を上げる。大和はあえてその引力に身を任せることで、揚錨機の破損を何とか回避した。

 同時に、超巨大戦艦が発砲。が、錨鎖が張った際の衝撃で照準がわずかにずれたのか、砲弾は大和の頭部を掠め、明後日の方向へと飛んでいく。

 

 砲弾が掠めた髪留めが切れ、大和の髪がほどける。傷口からは血が流れだし、額から滴る。だがもはや、それも気にならない。

 

 次の一撃で、決着を。揚錨機を再び作動させる。同時並行で急がせていた次弾の装填も間もなく完了だ。

 

(妖精さん、ごめんなさい。かなり無茶なことをやります)

 

 覚悟を決めたように親指を突き出す妖精に頷き、大和は超巨大戦艦を見た。暗闇の中でも、その表情を窺い知れるくらいには距離が近づいている。

 

 両者の間で錨鎖が張ったことにより、丁度太陽と惑星のように大和は超巨大戦艦の周りを円弧を描くように反時計回りで航行し始める。その動きに合わせようと、超巨大戦艦も、その場で回頭する。

 勢いが十分に乗ったことを確認し、大和は体を捻って超巨大戦艦に正面を向けた。激しい横滑りに脚部艤装が悲鳴を上げているが、今はそれを気にしないことにする。

 二隻の視線が、真正面からぶつかる。超巨大戦艦の細い瞳が、大和を見る。大和も渾身の力を込めて、超巨大戦艦を見る。

 

 超巨大戦艦の艤装が、猛々しい声を上げ、主砲を構える。あちらも装填が完了したようだ。大和にトドメを刺さんと、特大の砲口をぎらつかせる。

 大和も主砲を構える。装填が終わったそれは、もう大和の号令だけで発砲できる。

 

 ほんの一瞬。発砲の時間に大差はない。

 

 超巨大戦艦の二〇インチ砲六門が閃光を煌めかせる。ほとんど同時に、大和は背部の第三砲塔のみ発砲した。

 同時に、脚部艤装のスタビライザーを切る。大和の体を海面に留めていたスタビライザーを切ったことで、大和は海という縛りから自由になる。と共に、あらゆる衝撃に対する態勢が、人間同然となる。

 四六サンチ砲発砲の衝撃と反動は、大和を艤装ごと宙に浮かせるのに十分だった。

 

 大和の体が、ふわり、海面から離れて宙を飛ぶ。超巨大戦艦の砲弾が脚部艤装の下をすり抜け、海面を湧き立たせる。

 

 錨鎖で繋がれていることにより、大和は綺麗な円弧を描いて超巨大戦艦の真上を飛ぶ。正面を向いた砲は、真っ直ぐに、超巨大戦艦を向いたままだ。

 

 ()()が、顔を上げる。どこかスローモーな景色の中、こちらを見つめている。

 

――オモシロイ。

 

 とでも言うように、彼女は笑っていた。

 

「てーっ!」

 

 大和は最後の号令をかける。決着の号令をかける。

 装薬が点火され、火薬が一気に爆発する。発生した高温高圧の燃焼ガスは、出口を求めて砲弾を押し出し始める。ライフリングが刻まれた砲身を砲弾が滑り、回転をかけられながら加速していく。砲弾は、やがて砲口に達すると、解放された燃焼ガスを後方に置き去りにして、空中へ飛び出す。音速の二倍で飛翔する砲弾の目標は、すぐ目前に鎮座する超巨大戦艦だ。

 巨大な反動を伴って放たれた砲弾を、肉眼で捉えることはできない。だが、大和にははっきりと、飛翔する砲弾の軌跡が見えた気がした。空気を切り裂く六発の四六サンチ砲弾。そして、その先でこちらを見上げている超巨大戦艦。()()の不敵な――心底愉快そうで、満足げな笑み。

 

 砲弾が命中する。超巨大戦艦の装甲に大穴が三か所穿たれた。妙な静けさが流れる。その沈黙が、徹甲弾の遅延信管によってもたらされることを、大和は知っていた。

 

 敵艦の内部で、四六サンチ砲弾が炸裂する。火柱が盛大に噴き上がり、内側から激しく弾け飛んだ。あまりにも巨大すぎる火焔のせいで、超巨大戦艦の姿を見失うほどだ。

 

「っ!」

 

 爆風がもろに大和を襲う。負荷を逃がすために錨鎖を切断し、大和は後方へと吹き飛ばされる。受け身の体勢を取るが、海面に激突する衝撃は相当のものだった。艤装の接合部が軋み音を発し、背骨が悲鳴を上げる。そのまま三回転して、ようやく大和は止まった。

 

 痛む体に鞭を入れ、海面に半身を起こして超巨大戦艦の方を見る。

 

 炎の塊が、そこにはあった。断末魔すら聞こえない。あたかも、そこにあったものを、最初からなかったことにしようとするかのような、激しい炎であった。火の粉は星に混じらんと舞い上がり、炎の煌めきは夜の果てまで照らすような明るさだ。

 

「勝っ……た」

 

 痛む肺にむせ返るような空気を送り込む。今は体中が酸素を欲していた。

 

 その時。揺らめく炎に混じる人影を、大和は認めた。

 スラリとした立ち姿を見間違うはずはない。超巨大戦艦がそこに立っている。背後に炎を背負い、熱風に黒髪を揺らして、静かにこちらを見ている。

 大和は身構えようとする。だが、あれだけ酷使した反動か、艤装は大和の言うことを聞かなかった。再び海面に倒れ伏してしまう。

 そんな大和の現状を知ってか知らずか、超巨大戦艦はゆっくりと一歩ずつ、こちらへ歩んでくる。

 

 漆黒のスカートからのぞく足が、顔の前に見えた。もはや立ち上がるだけの力は、大和に残っていない。せいぜい顔だけを()()に向けるだけだ。

 深紅の瞳と視線がぶつかる。爛々と輝く二つの瞳が、穏やかにこちらを見つめている。

 

「……ソウカ」

 

 微かに動いた唇からは、そう読み取れた。

 

 次の瞬間、超巨大戦艦が海面に倒れ込む。その体が動くことは、もはやない。ただ静かに、ゆっくりと海に飲み込まれていく。

 やっとの思いで体を起こし、大和はその死に顔を見た。実に穏やかな、ようやくの安寧を喜ぶような、微かな笑みを浮かべていた。

 

 

 

 応急修理で何とか持ち直し、海上に復帰した大和は、敵軽艦艇群との激戦を終えた第二分隊と合流した。

 そこに吹雪の姿はない。

 

「吹雪さんは、行きましたか?」

 

 大和の問いかけに、夕立がコクリと頷いた。彼女は向き合うことを選んだのだ。あの光の柱にいる、誰かと。

 

(今は、吹雪さんに託しましょう)

 

 無事を短く祈り、思考を目の前へと戻す。そこには、損傷した艦娘が二隻、無事な艦娘に肩を貸されて何とか立っている。

 

 夕立が支えているのは、鳥海だ。艤装は煤で汚れており、大きな火災に見舞われたことがわかる。脚部艤装にも損傷があるようだが、応急修理で自力航行できるまでに持って行けそうだ。

 

 もう一隻は、如月であった。こちらは左舷側の損傷が特に激しい。脚部艤装は脱落し、それ以外にも各所がズタズタになっている。魚雷による損傷だろうか。

 駆逐艦にとって、魚雷はたとえ一発でも致命傷足りうる。

 

「如月ちゃん、どうして……!」

 

 目頭一杯に涙を溜め、睦月が呼びかける。それに対し、如月は薄く笑うだけだ。損傷の激しさが窺えた。おそらく、そう長くはもたない。

 如月は睦月を庇って魚雷を受けたのか。尋ねた大和に、夕立が睦月に代わって肯定の返事をする。損傷の経緯を、ゆっくりと説明し始めた。

 夕立が撃沈したネ級は、最後に魚雷を放ってから果てた。雷数は六。うち、三本が睦月への命中コースであった。これに対し、如月が反応。一発を海面に打ち込んだ砲撃で仕留め、もう一発は爆雷で軌道を逸らす。そして三発目には、自らの手にしていた主砲を投げつけ、これの爆砕を試みた。

 だが、三本も立て続けに、上手くはいかなかった。如月の投げ捨てた主砲は魚雷を掠めたものの、その信管を作動させるには至らなかった。その命中は避けられなかった。

 瞬間、如月は睦月を突き飛ばし、魚雷の射線から外した。そして自らも、その命中を逃れようと回避運動を取った。

 しかし結局、それは間に合わなかった。如月は魚雷を受け、あれだけの損傷を負ったのだという。

 

(如月さん……)

 

 まさに身を賭して、如月は睦月を守ろうとした。いいや、本当は、睦月のために、自分もまたあの魚雷を避けるつもりだったのだろう。だが結果として、それは叶わなかった。

 

「ごめんね、睦月ちゃん」

 

 如月を海面に横たえ、妖精と協力して応急修理に当たる睦月に、か細い声が呼びかける。その姿は見るからに痛々しい。妖精が如月の艤装を飛び回るが、どこもかしこも手をつけなければいけない状態、という様子だった。

 

「なんで……なんで……っ」

 

 如月の手を握り、睦月が必死に呼びかける。疑問の先の言葉は出てこない。「なんで私をかばったのか」。そんなことは聞けるはずがないのだ。艦娘なら誰だって、自分の大切なものを守るため、同じことをするのだろうから。その想いも、判断も、痛いほど理解できるのだ。だからこそ、胸は張り裂けそうに痛くなる。

 一挺艦の誰もが、睦月と如月を黙って見守ることしかできなかった。

 

「大和、さん」

 

 夕立による応急修理を終えた鳥海が、大和を呼ぶ。左の脚部艤装は死に体だが、右だけでの航行は可能とのことだ。

 

「どうやら、電波障害が解消されている、ようです。戦闘中、一瞬だけ、電探の反応が復活しました」

「そうなのですか?」

 

 言われて、大和も通信機を立ち上げてみる。超巨大戦艦との戦闘中に、電探の類は軒並み使用不能になったが、通信機だけはしぶとく生きていた。

 

 立ち上げた通信機にノイズが混じる。だが、電波障害中の周期的なノイズではない。正常に通信機が立ち上がったことを示すものだ。

 

(ほんとうだ)

 

 一体どういうことか。変色海域の拡大とともに広がっていった通信障害は、一切の電波を受け付けない強力なものだった。それが、変色海域が解消されたわけでもないのに、回復するのは妙だ。

 

(そういえば)

 

 ふと、大和は足元の変色した海を見る。相変わらず、赤い海だ。だがどこか、それまでのどす黒さのようなものが、薄れているような気がした。

 

 ある可能性に思い至り、大和は妖精に尋ねる。しばらくして、大和の想像通りの答えが、妖精から帰って来た。

 艤装の侵食が、十分ほど前から、止まっているというのだ。

 もしかしたら。ある仮説を胸に、大和は鳥海に確認する。

 

「鳥海さん。電探が回復したのは、どれくらい前ですか?」

「……十分と少し前ですね。丁度、吹雪さんが光の柱へ突入した頃から……あ」

 

 考えた通りだ。吹雪があの光の柱に入ったことで、変色海域の力が弱まっている。変色海域を生じさせていたであろう、柱の中の誰かの力が、抑えられたのだ。

 やはり、と言うべきか。吹雪はこの変色海域の鍵を握る艦娘だったのだろう。そして深海棲艦は、彼女をあの光の柱へ触れさせたくなかった。その理由は、きっとこれから明らかになる。

 

「一挺艦より、各艦隊。本艦隊、ポイント・レコリスへ到達せり」

 

 可能な限りの大出力で、大和は各艦隊へ現状を報告する。通信が途絶していた機動部隊や撤退した比叡たち、長門が控える司令部も、こちらの状況を知りたがっているはずだ。

 

 真っ先に反応があったのは、司令部の長門であった。

 

『司令部より、一挺艦。聞こえているか』

「はい、明瞭に。十数分前から、電波障害が回復した模様です。同時に、艤装への侵食も止まっています」

『そうか。ありがたい報せだ』

 

 長門が頷く気配がする。挺身艦隊の状況が判然としないことに、一番気を揉んでいたのは、長門だろう。大和の報告に、少なからず安堵している様子だ。

 

『作戦目的の達成は?』

「吹雪さんを、無事光の柱に送り届けました。私たちはこのまま、現海面で吹雪さんの合流を待ちます」

『……待て。一つ確認だ。光の柱は消滅したのか』

「……いえ、」

 

 大和はサーモン海域中心へ目を向ける。吹雪が到達しても、光の柱はそこに鎮座したままだ。

 

「光の柱は、消滅していません」

『……そうか』

 

 長門が短く答える。考えを巡らせているのか、しばらく通信が途切れていた。その沈黙に焦燥感を駆られ、大和は言葉を続ける。

 

「吹雪さんが光の柱と接触した時点で、変色海域の影響が止まっています。今は彼女の合流を待ち、しかる後に光の柱を撃破するべきかと」

『……彼女が戻ってくる保証が、どこにある』

 

 冷静さを保ちながら、しかし絞り出すような長門の言葉に息を飲む。

 

『吹雪は、光の柱にいる何者かに呼ばれた、それは間違いない。何者かは吹雪を名指しで、柱へ送り届けるように言ったのだからな。だが、その先は?我々は何者かの要求を知ってはいても、目的までは掴めていない。吹雪を呼んだ理由は今もって不明のままだ』

「それは……そうですが」

 

 やや戸惑いながら答えざるを得ない。長門の言っていることはもっともだ。明石の体を借りていたという何者かは、「吹雪を変色海域中心まで送り届けて欲しい」という要求だけ突きつけ、理由についてははぐらかしている。

 

『光の柱は、物理的に破壊できる。それも含めて、おそらく何者かは、我々に対して嘘は言っていない。その代わり、肝心な部分は全て隠した。私は、それこそを脅威だと判断する』

「……では」

『……光の柱を破壊する。変色海域そのものを解消するのに、これ以上確率の高い方法はない。また新手の深海棲艦が現れてからでは遅い。大和が健在なうちに、これを叩いてくれ』

 

 そんな。あそこには、まだ吹雪がいるのだ。光の柱の中で、誰かと向き合っているのだ。それを無視して、砲撃で破壊しろということか。

 作戦の遂行という点では、長門の言っていることが正しいのだろう。あそこにいる何者かの目的はあくまで吹雪だった。変色海域の解消などどうでもいい、些事に過ぎず、その解決は艦娘たちに丸投げした、ということも十分に考えられる。

 いつまでも、このままにしておくわけにはいかない。だが――

 

「……二十分、いえ、十分待たせてください。光の柱が消える様子がなければ、砲撃で破壊します」

『……いいだろう。判断は大和に任せる』

 

 そこで長門の通信が切れた。

 

 拳を強く、強く握る。

 

「……大和さん?」

 

 様子を窺っていた夕立が不安げに尋ねる。鳥海もその横で、静かにこちらを見つめていた。

 

「……光の柱を破壊せよ、とのことでした」

 

 二人が目を見開く。その意味を理解していないわけではない。

 

「吹雪、ちゃんは……どうなるっぽい?」

「それ、は……」

 

 光の柱の中で、吹雪がどうしているのかはわからない。だが、間違いなくあそこにいるはずだ。そこへ、四六サンチ砲を撃ち込めば、果たしてどうなるのか。

 

「……どういう、ことですか」

 

 睦月が、こちらを見ていた。とても強い瞳で。とても悲しい瞳で。

 

「光の柱を、破壊する、って。……あそこには、吹雪ちゃんが、いるんですよ」

 

 黙るしかなかった。正論だ。彼女にとってはそれが事実だ。

 失いたくはない。これ以上誰かを失うのが嫌だ。それが睦月の想い。

 大和と出会う前、W島奪還作戦の際に、彼女は如月を失っている。だからとても敏感だ。誰かを失うということに。

 何の因果か、再び如月と出会い。しかし、その別れが、ほとんど決定づけられていることは、睦月も感じていたはずだ。例え魚雷による損傷がなくとも、如月はいずれ、睦月の前から消える運命であった。

 この上、吹雪まで失うとなれば。睦月には、到底受け入れられるはずもない。

 

「変色海域を止めるために、最も確実な方法は、あの柱を破壊することです。それが、私たちの任務です」

「でも……でも、吹雪ちゃんがっ!」

 

 睦月の声に涙が混じる。現実はいつも、残酷な方へと転がっていく。

 

「……信じて待つ他はありません。吹雪さんがここへ帰ってきてくれることを」

 

 誰にともなく、大和は呟く。五人分の目が、光の柱へ――吹雪の行った先へと向いていた。



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吹雪(三)

吹雪編もこれがラストです。
吹雪と、深海吹雪のお話。


 不思議な夢を見た経験は、何度かある。

 夢の記憶はあいまいで、霞がかかったように儚く、確かなことなど一つもない。ただはっきりと、それが夢であったことだけはわかる。

 断片的に思い出せる光景は、三つ。

 おぼろげな月明りのように差し込む光。

 熱を帯びた体に心地よい水の冷たさ。

 そしてどこからか聞こえてくる声。

 

 ……今もまた、夢を見ている。

 海の底を見ている。暗く暗く、深い海の底を。

 いや、暗いのは当たり前か。さっきまで、海の上は真夜中だった。差し込む明かりは月ではなく、光の柱の輝きだろうか。

 夢はとても断片的だった。だから勘違いしていた。

 ここは、どこだろうか。サーモン海域の海だろうか。

 

 

 

――正確には、ソロモン海域、と言うのよ。

 

 

 

 不意に、頭の中で彼女の声がした。

 どこ。どこにいるの。けれど彼女の姿はない。

 これはやはり、夢?いいえ、それとも今まで見てきた彼女が、夢?

 

 

 

――どちらも違う。ここはワタシの夢、みたいなもの。ワタシの記憶。アナタの記憶。

 

 

 

「わたしの、記憶……?」

 

 

 

――そう。アナタが忘れていること。

 

 

 

 途端、目の前の風景が一変した。先程の海の景色とは全く違う。穏やかな日中の光景。柔らかな光が吹雪の目の前に広がる。

 彼女の記憶だと言っていた。だとしたらこれは、現実や夢というより、映像に近いのかもしれない。彼女の記憶を映し出す、記録映画のようなものだ。

 

 多くの人が、海を見ている。子供も大人も関係なく、手を振り、旗を振る。

 海に何がいるというのだろう。吹雪もまた、海を見る。

 船だ。船が十数隻、まとまってそこにいる。小さいもの、大きいもの、数多ならんで、勇壮に、堂々と航進していく。あれは軍艦だ。海軍の船だ。

 その中に一隻、特に真新しい艦がある。大きな艦ではない。ごつごつとした大層な構えもない。どちらかといえば線の細い、鋭さが印象的な艦だ。

 主砲は三基。魚雷発射管も三基。高い前部マストの前に控えめな艦橋もある。

 ああ、あの艦は。吹雪は特に目を引かれ、その艦に見入ってしまった。

 真新しいペンキが塗られた艦体。艦首には「11」、そして舷側には「フブキ」の文字。

 

 

 

――駆逐艦〔吹雪〕。アナタの名前。

 

 

 

 いつの間にか、彼女が背後に立っていた。

 

 

 

 場面が切り替わる。今度は海の上。艦の上。直感でわかった。ここは、〔吹雪〕の艦橋だ。〔吹雪〕の艦橋から、海を見ている。

 それほど大きい艦ではないからか、波に合わせて艦が動揺している。細い艦首が波を割き、艦を進める。

〔吹雪〕は艦隊を組んでいる。同じような大きさの艦が隊列をなし、波間をものすごい速さで進んでいた。

 

 

 

――第十一駆逐隊。アナタの仲間。

 

 

 

「第、十一、駆逐隊」

 

 その名を反芻する。聞きなれない響き。けれど懐かしい響き。

 

 

 

 彼女の記憶は、さらに移り変わる。今度は夜の海。先程まで吹雪のいた場所と、とてもよく似ている。

 左右に見える島影。夜に紛れた先に他の艦。艦首の先に見える海は、どす黒く染められている。

 その時、閃光が走った。闇夜を一瞬にして切り裂くその光を、吹雪はよく知っている。あれは砲炎。軍艦が軍艦に向けて、攻撃を仕掛けた瞬間だった。

 数秒と経たず、周囲の海水が沸騰した。その後も立て続けに襲い来る砲弾、水柱、衝撃。そして、自らの装甲に砲弾がぶち当たる、嫌な感覚。

 一寸刻み、とはよく言ったものだ。次々に命中する砲弾が、〔吹雪〕をスクラップへ変えていく。前甲板、後甲板、主砲も、魚雷発射管も、艦橋も、分け隔てなく穴が穿たれ、原形を残さず崩れ去る。

 痛い。痛い。痛い。感覚が痛覚だけに支配される。燃える熱さ。引き裂かれる痛み。全てがまるで、この身に起こったことのように、感じられる。

 否。

 

 

 

――サボ島沖。ここがアナタの、終焉の地。

 

 

 

 はっと目が覚める。そうだ、そうだったではないか。この身に起こったことのように、ではなく、事実この身に起こったことだ。このわたし自身が経験したことだ。

 駆逐艦〔吹雪〕の記憶そのものだ。

 

 

 

 夢が、そこで途切れた。記憶の奔流が、止まった。訳も分からず涙を流しながら、吹雪は目を開ける。

 

 そこは再び、海の底。それほど深い場所ではない。見上げれば、頭上に海面の揺らめきが見える程度だ。けれどもそこには、顔を背けたくなるほどの、死の匂いが充満していた。

 海底が見えないほど、鉄屑が散乱している。大きなもの小さなもの、形あるもの形を留めぬもの。あらゆる鉄屑が折り重なり、海底を覆う。そこに生命の匂いはしなかった。ただひたすらに、無情なまでの死が横たわる。

 

「ここは……」

 

 それに応える者は、瓦礫を踏みしめ、背後から現れた。

 

「何度でも繰り返す世界。時を超え、海を越え、想いを越え。何度も何度でも繰り返す。ここは、そんな世界に打ち捨てられたものの、行きつく場所。その一つ」

 

 少女はようやく、吹雪の前に姿を現した。

 吹雪とよく似た容姿。鏡写しのような顔形。ただし、その肌は透けるように白く、瞳はルビーの輝きを宿す。白いスカートを海流にはためかせ、彼女は吹雪の隣に立つ。

 

「ようやく、会えた」

 

 吹雪の方を見て、彼女が薄く笑う。そこに含みはない。心底嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

 

「おいで。少し歩こう。ここを案内してあげる」

「……あなたは、」

「ああ、そうだね、うん。ワタシの名前はフブキ。それ以外に名前は持ってない」

 

 吹雪とフブキ。あの記憶が正しければ、自分も彼女も、どちらも吹雪ということになる。

 

 彼女は――フブキは、鉄の絨毯をゆっくりと歩いていく。足取りに不慣れな様子はない。まるでそれが当たり前であるように、ただ散歩するように、海底を歩いている。

 フブキに続くように、吹雪も足を踏み出した。踏みしめた鋼鉄の残骸が、軋み音を上げる。

 

「鉄底海峡。アイアン・ボトム・サウンド。ここはそう呼ばれてる。鉄の敷き詰められた海。あの戦争最大の激戦で、ここは船と飛行機の墓場になった」

 

 ……見回せば、それらしい影がそこかしこに転がっている。船の船首部分。航空機の発動機。スクリューが転がる横に、キャノピーの残骸が横たわる。多種多様、無数とも思える残骸が敷き詰められている。

 

「多くの艦が沈んだ。飛行機も、もちろん人も。それだけ激しい、戦争だった」

 

 まるで見てきたように――いいや、実際に見てきたのだ。フブキはこの海が生まれる様を、知っている。

 

「名前を上げ出したらキリがない。ここはそんな場所。名もない墓標が立ち並ぶ海。ここに多くの者が眠っている。……吹雪、ワタシたちも、そう」

 

 そう言って、フブキは一隻の艦を――艦だった残骸を指さす。

 

 海底にそれは横たわっている。錆びて、朽ちて、海洋生物が付着したそれには、記憶で見たような精悍さは残されていない。だが、その残骸が、〔吹雪〕の墓標であることは、はっきりとわかった。

 確かに感じ取っている。この体が、〔吹雪〕の記憶を。この海の記憶を。

 

「沈んでしまった艦は、そこで眠るしかない。ワタシたちはこの海で、永遠の眠りを迎えるしかなかった」

 

〔吹雪〕の艦体に歩み寄り、その表面を撫でながら、フブキが言う。数秒の後、その瞳が、静かに吹雪を見た。怒り、悲しみ、様々な感情を内包した瞳に、息を飲む。

 

「でも、アナタは――ワタシたちは沈みたくなかった。この海で終わりたくはなかった。運命を受け入れて、だけど心の内で願わずにはいられなかった。……帰りたい。故郷へ、もう一度あの海へ」

 

 そしてその願いは、叶えられてしまった。今から十年前のことだ。

 

「ワタシたちは目覚めてしまった。眠りを拒否して。そして、アナタは……その願いのまま、海の上を目指してしまった。ワタシを、この水底に置いて」

 

 二人の吹雪。その正体は、元々一つだった吹雪。願いと記憶に分かたれた、二人で一つの吹雪。

 吹雪は、〔吹雪〕の片割れ。〔吹雪〕の願いだけが形を持った存在。〔吹雪〕の願いそのもの。フブキはそう語る。

 

「ワタシは、ここで待つつもりだった。アナタが願いを叶えて、ここへ戻ってくるのを。一人でずっと、待つつもりだった。だけど……それだけでは、終わらなかった」

 

 静かに。フブキが人差し指を唇に当てた。耳を澄ませ。何かを聞けと、言っている。

 吹雪も耳を澄ます。特に目立った音はない。潮の流れる音。波が渦巻く音。それらが混じり、残骸の間を駆け抜け、不思議な音色を奏でる。

 ……本当に、音だけか?

 

「アナタにも、聞こえるのね」

 

 声だ。声のように聞こえる。いつかこの海で聞いた、求めるような声。懐かしい声。悲しい声。

 

――カ……テ。……リタイ。

 

 耳を澄ます。声を聴き取ろうとする。

 

――カエリタイ。カエシテ。

 

 帰りたい。帰して。そう言っている。

 帰還を望む声。故郷を求める声。

 これは、一体。

 

「この地で眠る、艦たちの魂。沈んで、眠りについて、それでも故郷を求める声。でも、一番強い願いは……」

 

 

 

ワスレナイデ。

 

 

 

「忘れないで。忘れないで。どうか私たちを、忘れないで。世界は繰り返す。その事実は変えられない。だからせめて、この行き止まりに眠る私たちを、忘れないで」

 

 それが艦の願い。ここに眠る魂、記憶の願い。それを、ずっとずっと、フブキは聞き届けてきたのだろう。

 

「ワタシは、その願いを聞き届けた。アナタが、アナタの願いを叶えるのなら。残されたワタシは、ここに眠る記憶の願いを叶える。そのために、深海棲艦を産み出した」

 

 フブキは語る。彼女が深海棲艦を産み出したと。彼女が深海棲艦を産み出した理由を。

 

〔吹雪〕の舷側に降ろされたタラップを、二人で登る。甲板まではさして高さもない。すぐに開けたところに出た。海底からわずかに高さのある場所。光の柱が照らすアイアン・ボトム・サウンドの全景を眺めるには十分な場所であった。

 鉄の水底は視界の果てまで続いている。船も航空機も、一切の区別なく、そこで眠っている。それを、二人の吹雪は並んで眺めていた。

 

「……艦の記憶を集め、願いと渇望を糧に体を作り、海の上へ送り出した。彼女たちは海上にあるものを妬み、憎み、襲う。誰かの記憶に、自分たちを刻みつけるため」

 

 深海棲艦が船を襲う理由。それは、自分の存在を、艦が記憶を刻みつけるためだと、フブキは静かに語った。

 

「でも、ワタシと同じ願いの艦ばかりじゃなかった。それを良しとせず、アナタの真似をして海の上に出て、艦娘として深海棲艦に対抗することを選んだ艦もいた。……いいえ。ワタシが傾けた世界の天秤を保つために、艦娘という抑止力が産まれる必要があった」

 

 艦娘は、深海棲艦の在り方を否定するもの。自らの存在のために、他者を襲うことを良しとしないもの。魂の、相反する二つの部分。天秤のバランスを保つ存在。

 だから両者は戦う。相容れることはない。艦娘と深海棲艦の戦争は定められた運命だ。互いに沈み沈め。その度に入れ替わり、繰り返し。

 

「それが……それで、あなたの望みが、叶えられると思うの……?」

 

 吹雪の問いかけにも、フブキは迷うことなく答える。

 

「ええ、叶うわ。ワタシの望み、亡霊たちの望み、それは叶えられる。船の魂が、深海棲艦として、あるいは艦娘として存在する限り、誰も忘れない。ううん、誰にも忘れさせない」

 

 ワタシたちは、ここにいるのだから。フブキは確固たる意志のもとにそう告げた。

 

「深海棲艦も、艦娘も、根本は変わらない。どちらも所詮はただの記憶、形を持ってしまった亡霊の類よ。渇望を糧に破壊を望む深海棲艦と、それを良しとしない艦娘。けれどどちらも、自らが消えることは望んでいない。誰かに憶えていてほしい、忘れないでほしい。それは隠しようのない、両者の本音だから」

 

 だから、繰り返す。艦娘と深海棲艦は相容れないはずなのに、根本は同じだ。終わりを無自覚に拒んでいる。消滅を恐れている。そうした魂の在り方が、運命の軛を産み出し、輪廻を創り出している。

 

「ワタシたちは、そのために用意された、触媒。沈んだ艦娘の魂は、ワタシを通して深海棲艦になる。深海棲艦は、アナタを通して艦娘になる。そこに明確な違いはない。魂と記憶の在り方、表裏一体の存在、それが深海棲艦であり艦娘。唯一違うのは、魂の密度。艦娘は魂の塊だけど、深海棲艦は砕けた片鱗みたいなものだから」

 

 それはつまり、どちらかがいなくなれば、この繰り返しは断たれる。吹雪がいなくなれば、艦娘は生まれない。フブキがいなくなれば、深海棲艦は生まれない。

 なら、フブキの目的は――

 

(わたしを消して、艦娘が産まれなくすること)

 

 いいや、それは違う。それでは果たされない。忘れないでほしいという、艦の願いを叶え続けるためには、吹雪とフブキ、二人が存在し続けなければならない。

 

「ワタシには関係ない。ワタシはこのままでいい。それが願いだもの」

 

 それがフブキの答えなのだろう。

 

「……もし、艦娘がいなくなったら、どうなるの」

「深海棲艦も消えるわ。逆もそう。ワタシたちは、生まれた時からそういう運命だから。魂のバランスを取る、天秤の両側。どちらかが消えれば、もう一方も消える。だからきっと、ずっと繰り返している」

 

 とても重要な話なのに、フブキは心底興味がなさそうだった。まるで憐れむかのように、その目は彼方を見つめていた。

 

「終わらない戦い。結局、ここでも繰り返し。変わらない。変われない。だってそうできている。それはもう、変えてはいけない」

 

 まあ、でも。そう呟いて、フブキは少し笑った。何が可笑しいのか、口の端を歪めて、笑った。

 

「ワタシが望もうと、望むまいと、何も変わっていないわ。人間が作った世界は、必ず繰り返すだけだから」

 

 フブキはそう言って、笑ったまま、吹雪に手を伸ばす。

 

「世界の流れも、艦娘と深海棲艦の戦いも、ワタシたちには関係ない。ワタシはアナタに会えれば、それでいい」

 

 フブキの手が、頬に触れる。冷たい手に頬の熱が吸われる。入れ替わるように、〔吹雪〕の記憶が流れ込む。

 それは後悔、無念。鉄の水底へと沈みゆく中、静かな眠りの直前、奔流となって駆け巡った想念。

 わたしに会いたかった。それはフブキの隠さない本音だろう。だけどそれだけじゃない。わたしという願いを産み出すほど、〔吹雪〕の想いは強く、その後悔も無念も渇望も執念も、強く強く、とても強かった。

〔吹雪〕の記憶の部分。願いが抜け落ちたフブキは、人一倍その想念が強かったはずだ。

 

「アナタも望んでいたでしょう?こうして、ワタシのところへ帰ってくることを」

 

 フブキが吹雪を抱きしめる。体は冷たく、凍てつくようだ。それなのにその抱擁は、暖かな懐かしささえ感じる。ここがわたしのあるべき場所なのだと、そう思わせる。

 おかえり。耳元で、フブキが囁いた。

 

 頭がぐらつく。不思議と力は入らない。抵抗する気は全く起きない。それはとても虚しく、無駄なもののように思えた。

 ここがわたしの帰る場所。辿り着いた場所。ずっと追い求めていたもの。

 

 それが真実だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

本当に、そうだろうか。

 

 

 

「っ!」

 

 勢いよくフブキが体を引き剥がした。浮かぶのは恐怖の表情。何かに怯える顔。

 

「なに……吹雪、どうして」

 

 じりじりと距離を取る。先程の笑みが嘘のように、心の底から拒絶するように、吹雪から離れていく。

 

(ああ、そうだよね)

 

 だってそうだろう。彼女はここしか知らない。この海しか知らない。吹雪を待つ間、鉄の水底を彷徨い続け、怨嗟の願いを聞き届け続けてきた。ゆえに恐怖を抱く。海の上へ。光の中へ。もちろん、外の世界を知る、吹雪に対しても。

 だから、伝えなければならない。それが、記憶を投げ捨てて、願いのためにフブキを置き去りにしたわたしの、果たすべき義務なのだろうから。

 

 それは、大和が教えてくれたことだ。睦月が願ってくれたことだ。夕立が育んでくれたことだ。赤城に諭されたことだ。司令官が指し示したことだ。誰もが伝えてくれたことだ。

 

(わたしは希望なのだから)

 

 例えこの身が、絶望から産まれたものでも。死から這いずり出た渇望だとしても。わたしは、わたしたちの願いでできた、希望なのだから。

 

「……大丈夫」

 

 今度は吹雪から、一歩を踏み出す。できうる限りに優しく微笑み、手を差し出す。

 

「大丈夫、だよ。怖がらないで」

 

 一歩、また一歩。フブキへ歩み寄る。その度に、フブキは一歩後退る。

 

 

「いらない……イラナイ!ワタシには、必要ない。ワタシはこのまま、ずっとこの海のままで、いいのに」

 

 

 

「繰り返すだけじゃない。変われないわけじゃない。変われる。わたしたちは変わっていける。前に踏み出せる」

 

 

 

「嘘、うそ、ウソ!誰も、何も変わらない。変わらないから忘れていく。全部全部全部、なかったことになる」

 

 

 

「忘れるわけない。私が憶えてる。忘れさせない。なかったことになんてならない」

 

 

 

「アナタも……アナタも忘れてた。ワタシを置いて、この海のことも忘れて」

 

 

 

「忘れるわけない。たとえ記憶がなくても。心が、体が、〔吹雪〕が憶えてる」

 

 

 

「違う……違う!だって、だって……っ!」

 

 

 

 ついに、フブキは頭を抱え、うずくまる。何かが彼女を縛る。彼女自身が()()()いる。彼女の思考と、誰かの――おそらくこの海に眠る魂の思考が、入り乱れている。

 十年間、眠れる意志に囲まれ、その声を聞き続け、願いを叶えてきた。だから憶えていない、気づいていない。自分の願いのことを。

 それを憶えているのは、吹雪の役目だったから。

 

「大丈夫、怖くないよ」

 

 そう言って、吹雪はフブキを抱きしめる。今度は自分から。しっかりとこの腕で抱き留め、はっきり存在が伝わるように、抱きしめる。

 

「あ……」

 

 触れればわかる。お互いに、同じ吹雪だ。こうしているときが、一番、自分のことがわかる。

 

 だから、思い出したことがある。きっとそれは、とても大切な、戦う理由だった。

 

「わたし、あなたの願いを知っていた。あなたがあの声の望みを叶えようとしていたことも、聞いていた」

 

 軍艦たる〔吹雪〕の願い。けれどそこに、本来形はないのだ。どれほど焦がれようと、想いが形を持つことはない。亡霊は実体化しない。

 先に体を得たのは、フブキの方だ。波間に漂う願い(吹雪)ではなく、鉄の水底に横たわる絶望(フブキ)だった。鉄を糧に、怨嗟と憎悪で体編み、憤怒と郷愁で動く、深海棲艦の祖。

 

 フブキが聞き届けた願い。その意味を吹雪も理解している。だからこそ吹雪は――艦娘の祖は、戦うことを選んだ。フブキの望まない願いを、終わらせるために。

 

 本当の願いを、思い出させるために。

 

「わたしは願い。〔吹雪〕の願い。それは、あなたも同じ、願いのはずだよ。海を見たい。いつかの、穏やかな、あの海を見たい」

「それ、は」

「叶えていい。ここに留まらなくてもいい。一緒に行こう。わたしがいつでも、あなたの側にいる。あなたのことを、忘れたりしない。ずっとずっと、憶えてる」

 

 フブキの肩が小刻みに震える。強張り、力の入った体が揺れる。その口から、微かに、嗚咽が漏れていた。背中に回されたフブキの腕に、少しずつ、力がこもっていく。

 

「あなた自身の、願いを聞かせて」

「それは……それは、ダメ!今更捨てられない。今更置いていけない。見殺しになんて、できない」

 

 ずっと縛られてきた。十年もの間、フブキは形なき後悔に縛られ、本来とは違う願いを、抱かざるを得なかった。

 一番根本にある理由は、彼女自身の、水上への恐怖であろう。だが、それを覆い隠す鎧として、フブキは水底に充満した渇望を選んだ。それこそが正しい願いだと、フブキが叶えるべき願いだと、自らに偽って。

 

「もう、いいよ。いいんだよ。誰も望んでいない。こんな形で、記憶に残ることを、誰も望んでいない。だから終わらせよう。あなたの本当の願いを、始めよう」

「ワタシ、は……ワタシは……」

 

 フブキが、一際強く、吹雪を抱きしめた。閉ざした口から、秘めた心を吐き出すように。全てをつまびらかにするために。

 フブキの口から、願いがこぼれる。

 

「ワタシ……ワタシ、は……!ワタシは、アナタと一緒に、いたい!アナタと一緒に行きたい!アナタの願いを、ワタシも……!」

 

 フブキの願いが、彼女の口から洩れる。吹雪はそれに頷いた。

 光が溢れる。ああ、やっぱり。どこかで気づいていた。これも、彼女の夢。彷徨い続けた〔吹雪〕の片割れ、フブキの記憶。水底に埋もれてからの、〔吹雪〕の記憶。

 

 水底の景色が、白い光に覆われていく。光であたりが霞む。そんな中、腕の中のフブキだけが、はっきりした存在として感じられた。

 

「吹雪」

 

 フブキが呼ぶ。涙が伝った跡の残る頬。笑った表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだ。

 吹雪もまた、涙を流している。

 

「ありがとう」

 

 フブキの顔が近づく。あの時の、一方的なものとは違う。今はその意味がわかる。

 わたしたちはもう一度、一つの〔吹雪〕に戻る。

 

 唇が重なる。フブキを感じる。水底で冷えた彼女に、吹雪の体温を伝えていく。やがて、フブキが吹雪の内側へ入ってくる、そんな感覚がした。フブキの形が薄れ、二人は一つになろうとしている。

 フブキの感触が消えた時。自らの内側、欠けていたどこかに何かがはまった時。フブキの存在を、胸の内に感じた時。光が辺りを満たし、吹雪の視界は、再度何もない白に染め上げられた。

 

 

 

 

 

 

 光だ。光が海を覆っていく。サーモン海域を染めていく。艦娘も、深海棲艦も、分け隔てなく飲み込んでいく。

 その光の正体を、誰も知る由はない。けれど予感として、何か世界が変わっていくような、そんな感じはしていた。

 光が収まり、睦月は目を開ける。そこは元の、夜の海。けれど一つ違うのは、光の柱が消え、代わりに光の粒のようなものが、空を覆っていることだ。

 とてもとても淡い光。いつか話に聞いた、蛍のような光だ。

 

「きれい……」

 

 呟いたのは、睦月のももに頭を乗せる、如月だった。弱々しい瞳に、輝きはほとんど残っていない。ただ蛍の光を、儚げに映し込む。

 

「……睦月ちゃん」

 

 涙を堪え、できるだけの笑顔で、睦月は応える。わかっていた。もう、如月は長くない。

 元々深海棲艦になり、艦娘ではなくなっていた。それでも、ここにこうして意志を持ち、残っていることが奇跡だったのだ。その体は、ずっと前からぼろぼろだった。

 

「うん、なあに、如月ちゃん」

「……私、幸せよ。あなたと一緒に居られて。最後まで、側にいられて」

 

 涙を堪える。遺言に近い。如月の、最後の言葉だ。

 だから応える。笑顔のまま、如月に応える。

 

「また、会おうね。絶対に、絶対にもう一度、見つけるから。だから今度は、もっとゆっくり、お話しよう。睦月、如月ちゃんと話したいこと、たくさんたくさん、あるんだから。だから……だから、睦月のこと、忘れないでね」

 

 睦月の言葉に、如月は薄く笑った。頬を涙が流れる。すでに体の先端の方から、如月は沈み始めていた。

 

「その時は……お話の続き、聞かせてね」

 

 如月が目を閉じる。もはや力はなく、ただ引き寄せられるように、彼女は海に沈み行く。それを止めはしない。

 

「約束、だよ」

 

 穏やかなその表情が、波間に消えた時。睦月の頬を、一粒の雫が伝った。

 

 

 

 光が収まった時、サーモン海域から赤い海は消えていた。元の蒼い海が、ゆるるかに揺蕩い、島々を支配する。そこに深海棲艦の姿はなかった。

 

 艦娘たちは、ショートランドへの帰途に就く。彼女らが砂浜へその身を上げた時、水平線の先に朝陽が昇り始めていた。




吹雪編、これにて終了です。
次がエピローグとなります。


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針路
針路(一)


エピローグです。
艦娘の道。目指す先。


 春を迎えた鎮守府には、すでに気の早い桜たちが咲き始めている。梅はもう見ごろを迎えているらしいが、鎮守府内に梅は植えられておらず、その景色を楽しむことはできない。まあそれでも、何と言っても艦娘たちが楽しみにしているのは花見であり、大切なのは桜がいつ一番の見ごろを迎えるかということだ。

 

 緑を見せ始めた木々の合間から、朝の光が差し込んでいた。つい数日前までは肌寒い日が続き、上着の着用が欠かせなかったが、今日はどこか暖かだ。

 

 そんな外の様子を窺いながら、睦月は米櫃から白米を一掴み分取り、それを三角形に握る。お昼ご飯用のおにぎりだ。

 浮き立つ心を包み込むように、優しく力を込める。うち三つはより強めに握り、塩も多く振っておく。握り終わったそれらを竹の皮に包んだ。

 

 と、その時。眠そうな声と共にどこかから手が伸びてきた。その手は何かを探るようにちゃぶ台の上を動き、やがておにぎりを一つ掴む。

 あっ。睦月が気づいた時にはもう遅い。夕立は掴んだおにぎりを口へと運び、そのまま畳の上をゴロゴロと転がっていく。

 

「ちょっ、夕立ちゃんっ!」

 

 止める暇はなく、睦月は諦めたように溜め息を吐いた。夕立は寝ぼけ眼のままおにぎりをかじっていた。

 

「よし、準備完了、っと」

 

 靴紐を結び、かかとを叩いた吹雪が立ち上がったのは、その時だ。第二次改装に準拠した濃紺のセーラー服を揺らす。清々しく笑うその表情は、一年ほど前に会った時から随分と大人びて見えた。それはやはり、あのサーモン諸島での戦いを経てからだと、睦月は感じていた。

 あの時、吹雪に何があったのか。吹雪は何を見たのか。それを知る者はいない。けれども何か、決定的な経験があったことは、睦月にもわかった。吹雪は話して聞かせるつもりがないことも。

 

「はい、お弁当。気をつけて、行ってきてね」

 

 睦月にできるせめてものことは、こうして吹雪を見送ることくらいだった。

 

「ありがとう。行ってきます」

 

 睦月のおにぎりを受け取って、吹雪は部屋を後にする。笑顔で駆けていくその背中に、睦月と夕立は手を振った。

 

「いってらっしゃい」

 

 

 

 

 

 

 鎮守府作戦指揮室。鎮守府襲撃後に再建され、装備品等が更新されたこの施設は、頑丈な防護壁に守られて鎮守府庁舎の地下に造られていた。

 その部屋には今、三人の艦娘が詰めている。無論、作戦を指揮・統括する立場にある長門、陸奥、そして通信担当の大淀だ。

 提督はいない。相変わらずの放任主義者だ。今回の作戦にしたって、基本的な作戦立案は長門と陸奥で行っている。

 

(まあ、今はいいさ)

 

 好きにやらせてもらえるのは、悪い気はしない。

 

「時計合わせ、十秒前」

 

 ヘッドセットをつけた大淀が、マイクに向かって吹き込む。出撃用のドックにはすでに艦娘たちが集まっており、各々時計を見つめて大淀の秒読みを待っている。

 

「五……四……三……二……一……今」

 

 一〇〇〇。これから、作戦が始まろうとしていた。

 あくまでこれは、一連の大型作戦のうち一段階に過ぎない。静かな海を取り戻す戦い。艦娘が初めて見出した、意味ある戦い。

 提督たちや上層部は「オペレーション・ブルー」などと呼んでいるようだが、長門たちは独自に「帰還」作戦と名付けていた。

 

 訓示を述べるべく、長門はマイクを取る。

 

「作戦開始にあたり、改めて述べる訓示はない。各艦の健闘を祈る。以上だ」

 

 それだけ申し述べ、マイクを切る。作戦開始と出撃に関する各指示を飛ばす大淀を尻目に、長門は海図の広げられた机に戻り、陸奥の向かい側に腰かけた。

 

「長門はこれでよかったの?」

 

 陸奥が尋ねてくる。質問を長門に限定するあたり、頭のいい訊き方だ。これは答えざるを得ない。

 

「当然だ」

 

 頷き、しばらく思考する。思い出しているのは、サーモン海域での吹雪の報告だ。あの光の柱の内側で、吹雪が出会ったものの報告だ。

 

 興味深いものはいくつもあった。だが長門にとって一番大切だったのは、吹雪が吹雪一人になったことで、艦娘と深海棲艦の繰り返しに終わりが見えたことだ。フブキの言を信じるなら、艦娘が深海棲艦になることは最早ない。

 しかし、裏を返せば、轟沈した艦娘が深海棲艦となり、そして再び艦娘となることはなくなったということだ。艦娘は、深海棲艦という過程を経ない限り、艦娘に戻れないのだから。

 

「吹雪からの報告は辻褄が合っている。私自身、納得もしている。深海棲艦も、艦娘も、記憶の片鱗に過ぎず、所詮は形を持った亡者、幽霊と同じだ。過去を生きた者が、いつまでもこの世に留まるものじゃない。それは未練というものだ」

 

 忘れられたくない。歴史の果てに消えたくない。それは誰もが同じ想いだろう。艦娘や深海棲艦は、その想いの、なれの果てだ。

 それを間違いだとは言えないし、思いたくもないが、だからといって艦娘と深海棲艦の在り方が正しいものとは言えない。

 

「『帰還』作戦は、我々が自らの存在を否定する作戦でもある」

「まるで自殺よね。深海棲艦と艦娘、どちらかがこの海からいなくなった時点で、もう片方も消える。そういう運命なら、なぜ生まれたのかしら。なぜ相争う在り方を選んだのかしら」

 

 溜め息混じりに陸奥が感想を漏らす。

 

「だからこそだ。深海棲艦という未練、艦娘という未練。それを自ら断ち切れなければ、我々はいつまでたっても彷徨う亡霊をやめられない」

 

 だから、艦娘は戦い続ける。その先に待つものが、変えようのない消滅だとしても。艦娘と深海棲艦の、どちらが先に滅びようとも。

 未練を否定しなければ、きっと永遠に、安寧の時は訪れない。

 

「これは私たちの問題だ。私たちの手で解決しなければならない。そして全てが終われば、大人しく消え去るのも、美しい在り方さ」

「随分とまあ、達観した言い方をするのね」

 

 両手をひらひらと揺らし、呆れたように陸奥は言う。

 

「なんにせよ、戦争に終わりを見出せたことは、いいことさ。終わりの見えない戦いほど、虚しく、辛いものはない。私たちは、それをどこか本能的に知っている」

 

 あるいはそれが、それこそが、在りし日の軍艦から受け継がれた記憶なのかもしれない。

 

「彼女たちの表情を見ただろう。以前とは明らかに違う。先の見えない戦争の中で、鬱屈した空気が流れていた。皆、どこか無理をして、笑っていた。今は心からの笑みがある。終わりを見出せたからだ。目指すべき場所を見つけたからだ。例えそれが、自らの消滅と引き換えだとしても」

「……そう」

 

 陸奥は諦めたように溜め息を一つ。それから、机の上で組んだ手に顎を乗せ、うっすらと笑った。

 

「長門の気の済むようにしたらいいわ。私はずっと、いつか消えてしまうその日まで、あなたの側にいるから」

 

 大真面目にこれを言っているのだから。この同型艦は、本当に困ったものだ。

 

「そういうことは、男にでも言ってやるといいさ」

「誰に言えばいいっていうのよ。鎮守府は艦娘と妖精ばっかりだし、提督はああ見えて女だし」

 

 ……ちょっと待て。

 

「提督は女だったのか!?」

「……えっ」

 

 嘘でしょ?そんな目で陸奥が長門を見る。

 

「なん……だと……」

 

 思わず頭を抱えてしまう。この世界は、未だ長門の与り知らぬことが多すぎる。

 

「長門もまだまだねえ」

 

 クスクスと笑う陸奥の前で轟沈し、長門は何とも言えない気分で息を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 出撃の順番が迫っていた。

 作戦指揮室の大淀から、艤装装着シークエンス開始の指示が入れば、吹雪は出撃レーンに足を踏み入れる。

 ただ、もうしばらくは時間がありそうだ。

 

――吹雪。

 

 と、どこからか声が呼びかける。最近出会った声。どこか懐かしい声。胸の内から聞こえてくるその声に、吹雪は目を閉じて答えた。

 

「どうしたの?」

 

 問いかけに対して、しばらくフブキは黙っていた。

 

――……いえ、なんでもないわ。

 

 結局問いかけを取り下げ、フブキは再び胸の奥に引きこもろうとする。

 

「海に出るのは、怖い?」

 

 吹雪の言葉に、ピクリとフブキが反応する。

 

――……うん、少し。

 

 何かを悩むような沈黙。

 

――ワタシはずっと、海の底で過ごしてきた。海の上なんて知らなかった。そこにある光が怖くて、ずっとずっと、閉じこもってた。

 

 だから、今でも怖い。フブキはそう語る。

 

――ワタシにとって、海の上は、死の思い出でしかない。朧げな記憶の底にある、かつてのワタシが、アナタが沈んだ場所だから。また暗い水底に引き戻されそうで、とても、怖い。

 

 フブキの震えが伝わる。記憶は同じだ。たまたま二つの人格を持っただけで、根幹にある〔吹雪〕の部分は変わらない。そう遠くはない昔、記憶の彼方にある、轟沈の感覚。本能的な恐怖があることは間違いない。

 でも。

 

「それだけじゃないよ」

 

 それだけじゃない。目の前に広がる海は、死の記憶を象徴するのみの存在ではない。それを教えてくれたのは、この鎮守府で共に過ごす、仲間たちだった。

 

「どこまでも蒼い海。潮の香り。風の音。飛び交う鳥。足元を泳ぐ魚。それだけじゃない、もっともっと、たくさんのものがある。そこはとてもとても、美しい世界だから」

 

 両の手を胸元で重ね、微笑む。そこにいるフブキが、少しでも安心できるように。

 

「わたしが一緒にいる。いつでも、いつまでも、貴女と一緒にいる。だから大丈夫だよ」

 

 吹雪の言葉に、胸の内で、フブキが微笑んだ気がした。

 

――連れて行って。ワタシを、アナタの見てきた世界に。静かな海の、その向こうまで。

 

 

 

 時間だ。大淀が出撃と艤装の装着を命じる。出撃する艦娘たちがその命令を復唱し、出撃レーンへと飛び出した。

 

 吹雪もまた、大きく息を吸い込む。

 目を見開き、前を見据える。出撃レーンの先、無限の蒼を湛えた、母なる海を。

 

「第一基幹艦隊付き第三水雷群所属、駆逐艦吹雪、艤装装着に入ります!」

 

 一歩を踏み出す。

 

 

 

 行こう。

 

 

 

 これは、わたしたちの、終わりへの船出だ。

 

 

 

 

 

 

 

(完)




これにて完結です!
劇場版はもう、好きなシーンが多すぎて語りつくせないのですが…どちらかというと、戦闘メインで進めてまいりました。
あの一時間四十分の映画の中では語りきれなかったことが、きっとまだまだたくさんあったはず…そう思いながら、妄想を膨らませた次第です。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


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