CROSSING FIELD (ぜろさむ)
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久井真奈/Hildr
《2023年8月/アインクラッド??層》
暗く閉ざされたその森の奥で、少年は自らの運命を呪っていた。
仮想世界のデスゲームに巻きこまれたことに端を発した、不運の連鎖。神の悪戯であるかのように抜け目なく少年を追い詰めたそれは、今ついに明確な「死」を少年の首筋に突きつけている。
数は五。いずれも男。皆少年よりも高いレベルのプレイヤーで、一人の例外もなく下卑た笑みを浮かべている。同じ人間に向ける表情ではない。肉食獣が獲物に向ける類の、加虐と殺意の笑み。
男たちが一歩詰め寄り、少年は大木に背中を突き返される。退路はすでに断たれていた。足の震えは止まらなくなっており、少年はなにかに背中を預けなければ立っていられなかった。
少年が恐怖に歪んだ表情を浮かべ、それが悪意持つ者たちの加虐性をますます煽った。彼らの中から一人の男が進み出てきて、ゆっくりと見せつけるように自らの得物を抜き放つ。月光を反射してぎらぎらと輝く大ぶりな曲刀には、少年の表情が映り込んでいる。涙が、眼窩の奥から溢れ出してきた。仮想世界では感情を隠すことが難しい。少年が恐怖が顕著になるほど、男たちも愉悦を深めていった。
曲刀の男がサディスティックな笑いを浮かべ、少年の絶望を茶化すようにとわざと軽い調子で語りかける。
「ま、生きてたらまた遭おうや」
にやあ、と吊り上がる口角は粘ついた糸を引き、少年には男が悪魔のように見えた。
死ぬ?おれは死ぬのか?たかがゲームで殺されたくらいで、本当に死ぬのか?
仮初めの心臓は少年の胸の中で狂ったように暴れまわっていたが、それ以外の部分はぴくりとも動かせない。有刺鉄線で大木に磔にされたみたいに、恐怖が少年をその場に縛りつけていた。
男が曲刀を構える。反響する耳鳴り。頭のなかには、長いとは言えなかった人生の記憶が順序関係なくフラッシュバックし始めて、ああ、これが走馬灯ってやつか、と、少年はついに自らの生存を諦めて。
皮肉にも、それが功を奏した。
横薙ぎに曲刀が振るわれ、ほぼ同時に少年の腰が抜けた。頭上で、大木に大きく食い込む曲刀。ここしかないと思った。身体は、ほとんど自動的に動き出していた。いつ抜剣したのか、自分でも気づかないほどだった。
片手剣を両手で握りしめながら、男の腹に向けて全身で体当たりをかました。刃が僅かにそれて、軌道が心臓の位置と重なった。勢いを殺しきれず、二人で無様に転がった。ほかの男たちが笑い声を上げたようだったが、あまり耳に入らなかった。そのまま剣を、突き立てた。その場で何度も。何度も何度も何度も何度も。獣のようなうなり声を上げながら、一心不乱に刃を叩きつける。腹を刺し、頭を刺し、胸を刺し、ガラスが砕けるような音がして、そうして気づいたときには、刃は地面をえぐっていた。
少年には、急に男の身体が消えたようにしか思えなかった。事態の理解には数秒を要した。
「おれが……ころ、した……?」
少年の瞳は、熱に浮かされたように揺れていた。
奇妙な感覚が、少年を満たしていた。人の死という
男の命の残響。ひらひらと宙を舞うポリゴンの破片は、人の死の形容としては文字通り薄すぎた。
これが「死」?ひとつの命を終わらせた重みなのか?こんなものなのか?
少年は困惑した。彼は「死」はもっと重いものだと思っていた。意義深く、侵しがたい神聖なものだとばかり思い込んでいた。ずっとそう教えられてきたから。
予想に反し、「死」はあまりにも早く少年の目の前を過ぎ去った。何事かを考える暇もなく、一瞬で。
後には何も残らない。最初からそこには誰もいなかったかのように、ただ虚空が広がるのみ。
これがアインクラッド。これがSAO。これが、
「なんだ、簡単なことじゃないか」
少年は悟った。この世界には強者も弱者もいない。殺した者が残り、殺された者は去る。それが、この世界の根底を貫くルールなのだと。
視界が開けた気分だった。茅場晶彦がプレイヤーに提示したのは、どこまでもシンプルでフラットな、たったひとつの法則のみ。リアルのように、煩わしいあれこれを考える必要はない。さまざまな要素を考慮し、器用に立ち回る必要さえないのだ。
思考の軸は定まった。ならば、行動を迷う理由はない。
少年は呆けている男たちの一人に無造作に近づくと、喉仏に刃の切っ先を突き立てた。
「~~~~ッ!!」
悲鳴も発せずにその場に倒れこむ男に馬乗りになり、強引にに刃をねじ込んでいく。頸部はプレイヤーアバターの急所だ。男のHPは瞬く間に全損し、男の身体はデータの海に帰った。少年の周囲を煌めく薄片が舞う光景は、直前の行為に反してどこか幻想的だった。
男たちの表情が、何か得体の知れないものを見たかのように引きつった。
少年は、生まれ変わっていた。闇夜に浮かぶ炯々とした眼光からは、人を射竦める意思の力が放たれているよう。つい先程まで恐怖が刻み込まれていた相貌には、どこか陶然とした色が浮かんでいた。
身体の使い方は素人同然。ステータスが急に上がったわけでもない。数的不利は健在。それでもいま、その場を支配しているのは、全員のなかで最も年若いであろうその少年だった。
男たちの間に、もはや強者の余裕はなかった。少年と彼らの命は、いまや等しく天秤にかけられていることを察したのだ。男たちは各々の得物を抜き放つ。刺すような殺意を受け、少年の唇が薄く弧を描いた。
「来いよ。全員殺してやる」
夜の森に絶叫が響き渡り、やがてすべては沈黙した。
★★★
《2024年1月/アインクラッド39層》
十数年生きてきて、分かったことがひとつある。当然の権利として与えられるものの中に、幸福は存在しないということだ。
この私、久井真奈、プレイヤーネーム《
平凡な環境に、平凡な容姿。そして平凡な才能。そのすべてに、私はずっと退屈していた。
生まれたときから衣食住は完璧に満ち足りていて、命の危険を感じることはおろか、まともにお腹を空かせたこともない。当たり障りのない毎日。夢も目的もない十代の私たちに許されたのは、テレビやネットで絶えず視界に入り込んでくるCMの商品を両親に強請ることくらい。
大人たちはそんな私たちを見て、「満足な豚でなく不満足なソクラテスであれ」なんて言うけれど、私たちには不満足になる自由などないことは、子供なら誰でも知っていることだった。
贅沢な悩み?そうかもしれない。世界にはもっと苦しんでいる人が大勢いる?ああ、そうだろうとも。でも、そんなお小言で、この胸のもやもやが消えてくれるわけでもない。
だから私は、ずっと神さまを恨んでいた。神さまの存在を信じていたわけではないけれど、そうでもしないとやっていられなかった。きっと、どこかの天才がタイムマシンでも発明しない限りは、この「そこそこ」から抜け出すことはできないんだろうなと諦めていたのだ。
そんな私のぬるま湯に溺れるようだった人生を、その決まりきった運命の全てを、永遠に変えてしまう出来事が起こったのは、西暦2022年の11月6日。
「天才」の名は茅場晶彦。史上初のVRMMORPG、「ソードアートオンライン」を開発したゲームクリエイターにして、一万人の人間の意識を仮想空間に誘拐、監禁した史上空前の大犯罪者。そしていまは、この仮想世界を支配する神さまでもある男。
――淡い光に目蓋を焼かれて、私は目を覚ました。
ごつごつとした天井が見える。揺らめく光源は篝火だろうか。背中に当たる感触は硬い。洞窟の地面に横たわっているようだ。
むくりと身体を起こして、曖昧になっている記憶を少しずつ復元していく。
「そうだ、ミオちゃん」
ここは、ダンジョンの中なのか?頭がぼうっとしていて、うまく物が考えられない。思考があちこちに散逸していた。そうだ、私は確か、ダンジョンでミオちゃんと離れ離れになって。
「大丈夫かい?」
篝火の方から、声がかかる。ややハスキーな、男の人の声。知らない声だった。
視線を向けた先には、革製の軽装鎧を身につけた少年が火の前に座り込んでいた。
「あなたは」
「覚えてないのか」
「あの、私、どうしてここで寝て。ミオちゃんは」
頭が混乱していた。目の前の人物に見覚えがないことが、焦燥を煽る。
「ミオちゃんっていうのは知らないけど。きみ、mobに襲われてたんだよ」
「あ、……そう、か」
だんだん思い出せてきた。ここは、私とミオちゃんが最近レベリングに使っているダンジョンの一区画なのだろう。見覚えがなかったために戸惑ったが、少年の様子から察するにセーフティエリアなのかもしれない。確か、ミオちゃんとはぐれた先で運悪くmobに囲まれてしまった私を、この少年が助けてくれたのだったか。
「あの、ありがとうございました」
「うん、どういたしまして」
慌てて頭を下げる私に、少年はにこりと笑いかけた。
それから、少し話をした。少年は
奇妙な状況にも関わらず、私は緊張していなかった。薄暗い洞窟で、知らない男の子とたった二人。当然、初めての体験だ。それなのに私には、その状況を楽しむ余裕さえあった。それは私がこの世界に来て精神的に成長したからなのか、それとも彼の独特の柔和な雰囲気がそうさせるのか、そのときの私には判断がつかなかった。
ダンジョンについて彼は私よりも博識だった。今私がいるセーフティエリアにしたって、私は存在すら知らなかったのに、彼は勝手知ったる我が家のようにこの空間に馴染んでいる。mobをひとりで狩り尽くしたときも随分と手馴れていた。
彼は何者なのだろう。なぜこんなところにひとりでいるのだろう。ギルドには所属しているのだろうか?湧き出る好奇心を、素直に吐き出してしまうのは憚られた。
代わりに私は、いくつか自分についての話をした。私が自分から誰かに話しかけるのは珍しいことだったが、そのとき私は違和感を覚えなかった。
「私は、ミオちゃんと二人でこのダンジョンにレベリングに来ていたんです。トラップにかかって、離れ離れになっちゃったんですけど」
焚き火を囲んで、私とシグレさんは話を続けた。シグレさんはあまり積極的に自分のことを話そうとはせずに、聞き役に徹していた。沈黙を埋めるために、私は自分から話題をひねり出さねばならなかった。
話題は自然と、ミオちゃんのことが多くなった。私がこの世界に来てから最も長い時間を共に過ごしたパートナーだ。
――私はもともと、第一層「はじまりの街」で引きこもっていた大勢のプレイヤーの一人だった。デスゲームの恐怖に耐え切れず心が折れていた私を立ち上がらせてくれたのが、ログイン直後に知り合った同世代くらいの女の子。つまりミオちゃんだった。
『怖いからって何もしないのは一番だめだよ!毎日宿に引きこもって寝てるだけなんて、そんなの死んでるのと変わらない!』
彼女は強い口調で私を叱咤し、外の世界へと連れ出してくれた。薄暗い宿の中で縮こまっていることしかできなかった私には、ミオちゃんは唯一の道しるべに見えた。
私たちは二人で攻略をはじめ、階層を駆け上がった。大雑把過ぎて一人だと危なっかしいミオちゃんを、ヘタレの私がサポートする。それが私たち二人組のスタイルだった。
目標は最前線。攻略組に合流し、「SAO」と戦う。そして、勝つ。これはミオちゃんが、私を連れ出した日に宣言したことだった。自然体で大言壮語できる彼女の才能は、ずっと私の心の拠り所だった。だからこそ私は、一刻も早く彼女と合流したかった。
そうだ、ミオちゃん。ミオちゃんは私とはぐれた後どうなったのだろう。私と同じように偶然ほかのプレイヤーと遭遇していなければ、彼女は今も一人でダンジョンをさまよっているのかもしれない。そう考えると居ても立っても居られない。
「やっぱり私、もう行きます。ミオちゃんが心配しているかもしれない」
そう言って立ち上がった私に、彼は背後から待ったをかけた。
「夜はやめておいた方がいい」
「mobの
「犯罪プレイヤーが暗躍する時間だから」
思わずどきりとした。彼の指摘は盲点だったからだ。
運のいいことに、私はこれまでの旅路で人の悪意に遭遇したことがなかった。積極的に人を罠にはめたり、殺害しようとするプレイヤーが存在することは知識としては知っていたが、彼に言われるまで遠い世界の話だと思い込んでいたのだ。
警告する彼の口調はひどく事務的で、犯罪プレイヤーというものが彼にとって特別ではないということを知らせてくれた。恐怖が、悪寒となって足元から這い上がってくる。私は素直にアドバイスに従うことにした。
私は再びその場に座りこんだ。するべきことは見当たらない。静寂に私の口が耐え切れなくなるまでに、そう時間はかからなかった。
「はじまりの街で引き籠っていた私を、外の世界に連れ出してくれたのがミオちゃんだったんです」
私は自分の話を続けた。そのほかにすることが見つからなかったからだが、話し始めると止まらなかった。普段人とあまり話さない分こういう機会に加減が分からず話し過ぎてしまうというのは、私が自分のことを好きになれない理由のひとつだったのだが、彼は嫌な顔一つせずに最後まで話を聞いてくれた。
焚き火に目をやりながら、彼は適度に相槌を入れてくれていた。きっと彼にとっては退屈な時間だろう。そう思っていたので、私はてっきり私が話し終えればこの会話は終わるものだと思っていた。
しかし、私が一通り話し終えたあと、彼はどきりとするようなことを言った。
「きみは、無理をしているように見えるね」
ばっと顔を上げると、彼がこちらをまっすぐ見つめていた。透明な視線だった。声音にも際立った感情の色はない。その指摘には、一切の偏見が含まれていないように思われた。
「その人のこと、褒めてばかりだ」
「それは」
なぜか私は、罪悪感のようなものを感じていた。何か悪いことをしたわけでもないのに。彼の指摘が図星だった?でも、だからどうしたというのだろう。私が無理をしてミオちゃんに着いていっているのだとしても、
「いや、悪い。責めているわけじゃない」
ああ、まただ。また、上手くできなかった。また失敗した。いつもこうだ。いつも、必ずどこかででしくじってしまう。人とうまく話せない。空気が読めない。正しくコミュニケーションが取れない。これもまた、私が自分を好きになれない理由のひとつ。
私は目をそらして、すいませんと一言謝ってから、彼に背中を向けるようにして寝袋にくるまった。ぎゅっと目を瞑り、頭まで寝袋をかぶる。この世界でも、嫌なことは寝て忘れるに限る。リアルの頃から変わらない、ヘタレな私のヘタレな処世術だった。
そうして、ダンジョン内での一晩が過ぎた。
モンスターのレベル帯が元に戻る夜明けを待って、私たちは安全圏から出た。私たちは即興のパーティだったが、前衛を務める彼がほとんどの敵mobを駆逐してくれたおかげでモンスターに怯える必要はなかった。
立ちはだかるmobを雑草か何かのように刈り取っていく彼の手際は、間違いなくトッププレイヤーのものだった。剣の軌跡は流麗で、群がるモンスターを一瞬の淀みもなく撃破している。見覚えのないソードスキルを使いこなし、クリティカルを量産していく彼の動きは、さながら舞のようだった。
やはり彼は、攻略組の人なのかもしれない。ほぼ一撃でモンスターを倒しているあたり、レベルは中層では高すぎるくらいだろうし、使っている武器もかなり上等なものだ。多対一の連戦にも慣れている様子だから、少数のギルドに所属しているのか、あるいはソロなのかも。
気づいたら、彼についていろんな想像を膨らませている自分がいて、一人で勝手に取り乱したり。彼はそんな私を、可笑しそうに眺めていた。
思えば、久しぶりに体の力を抜くことができた気がする。ミオちゃんと一緒にいるときは、寝ても覚めても攻略のことを考えているから、本当の意味で気が休まる時間はなかった。ミオちゃん以外に私と一緒にいてくれる人なんていないから、私も同じくらい頑張らなくちゃいけない。少しでも気を抜けばあっという間に水を開けられる。そうしたら、ミオちゃんは私に失望して一人で攻略組に入ってしまうかもしれない。
攻略組に入って最前線で戦うのは怖いけれど、この空飛ぶ鉄の城でたった一人になってしまう方がもっと怖い。誰もが自分のことに必死で、他人を助けることなんて二の次になってしまうアインクラッドでは、一度孤立したプレイヤーが集団の中に戻るのは困難を極める。
いつ終わるとも知れないこの世界で、たったひとり。それは考えるだけでもぞっとする悍ましい可能性だ。私はあわてて、不吉な妄想を追い払った。
道中でも、彼はやはりあまり喋らなかった。昨日の最後の会話が気まずく終わったせいで、私もなかなか話を切り出せなかった。
私はなんとか出口に着くまでに、昨夜は聞けなかったことが聞きたかった。つまり、彼のことだ。彼とは偶然知り合っただけで、すぐに別れることになるのも分かっていたが、私は彼のことが気になって仕方なかった。別れるにしても、良い印象を与えておきたかった。なぜだろう。私のなかに、早く彼との間によい関係を構築せねばならないと焦っている自分がいる。命の恩人とはいえ、出会って間もない男の子に対して私はいささか不自然なほどの関心を抱いていた。
今から考えれば、私は彼にミオちゃんとは違う拠り所を求めていたのかもしれない。彼はクレバーで、俯瞰的な視点の持ち主だった。感情的になりやすいミオちゃんとは違う独特の強さを持ち、頼りにできる存在だった。彼と話せたのは短い間だけだったが、私は彼に心を開き、自分自身について多くのことを打ち明けていた。だが、肝心の彼の方は私に一定以上の興味を抱いていないようだった。
自分から、話を切り出すしかなかった。
「シグレさんは」
喉がひくついた。緊張が、舌の動きを固くする。昨夜の失敗が意識を掠める。
「攻略組の方なんですか」
「違うよ。そう見えた?」
「はい、あの、とても、お強かったですし」
「あはは!なにその話し方。もっと普通でいいよ」
相好を崩して、彼はそう言った。彼は思ったよりもずっと気さくだった。私のことを蔑んでいる様子もない。話してみればこんなものだ。なにも難しいことなんてなかった。
被害妄想じみた緊張感が解け、私は一気に楽になった。
「シグレでいい。おれもヒルドって呼ぶから」
彼は少しずつ、自分のことを話してくれた。
話をするうちに、気づいたことがあった。彼は現実世界への帰還に対してさほど興味を持っていないようだった。攻略に積極的でプレイヤースキルも高いが、今まで見てきた攻略組の連中と比べて、こう、どこか緩いのだ。切迫感を持っていない。何にも追われていない。究極的には、クリアしなくてもいいと考えているようですらあった。彼は決して、そんなことをはっきりと口にはしなかったけれど。
「君がそう思うのは、君自身がそう考えているからじゃないか?」
私の指摘に対して、肯定するでも否定するでもなく彼はそう返答した。鏡に映った自分自身は、細かいところまでよく見えるだろう?と。
そうかもしれなかった。私は、本当はどう思っているのだろう。本当にリアルに帰りたいと思っているのか?退屈で停滞したような日々。安全だが窮屈な、鳥籠のような現実に。正直、何と答えるべきかわからなかった。
私とミオちゃんが攻略組を目指していることを話すと、いくつかコツを教えてくれたりもした。彼は予想通りソロプレイヤーであったので、教えられたコツの中にはパーティを組んでいる私では流用できないようなものもあったが、その根底にある生存戦略にははっとさせられることが多かった。
「命がかかっていることに過度に怯えて行動を取らないでいると、そっちの方がよほどリスクになるんだ。現実世界でもそうだけど、生き残る確率を上げるには最新の情報が必要で、情報というものは自分から行動する人のところにまず集まるから。アインクラッドでいえば攻略組のところにね。だから攻略組は、レッドプレイヤーの最新の手口なんてのも知っているし、その対策をいち早く取ることができる」
彼は私のほうに視線を移して続ける。
「はじまりの街に留まれば安全圏だし死亡リスクがないように見えるけど、安全圏っていうのは別に絶対の法則でもなんでもない。システム的な決まりごとでしかないから、神の一存ですぐに変更できる。つまり、茅場晶彦の一存でね。安全圏に留まる選択というのは、茅場晶彦に自分の命を委ねることに他ならないんだよ」
リスクを取らないこと自体がリスクになっている典型だね、と。彼は可笑しそうに笑った。
「でも、そんなのみんな同じなんじゃ?」
私は珍しく、自分から他人に意見していた。私の反応が嬉しかったのか、彼は唇を緩ませる。
「茅場晶彦の気持ちを考えればいい」
「茅場晶彦の?」
そんなことできるわけない。私は心の中で即断していた。一万人もの人間を仮想世界に閉じ込めた狂気の天才の思考を、凡人代表みたいな私がどうして察することができるというのだろう?
口を噤む私に、彼は教師のように咳払いをしてから解説を始めた。
「そもそも、ゲームというのは人に遊ばれなければ意味がない。どんな傑作でも、プレイヤーが一人もいないゲームなんてゴミ同然だから。GMの視点で考えれば、SAOをゲームとして成立させられているのは、攻略に積極的なアクティブプレイヤーたちの存在があるからだ。彼らの努力によって、SAOは存在意義を満たしているとも言える。それに引き換え、安全圏に留まるだけのプレイヤーにはGMからすれば背景以上の意味はない。NPCで十分に代用できる程度の価値しかないんだ」
茅場昌彦の思考なんて、考えたこともなかったことだった。私には目の前の少年が、急に大人びて見えていた。
「ゲームを遊んでくれるプレイヤーと遊んでくれないプレイヤー。いざとなったら神がどちらを切り捨てるかなんて、考えるまでもないだろう?」
ロジックで綿密に組み立てられた彼の言葉は、私の頭にするすると染み込んできた。
自分一人では何もできない。何事かを成そうとも思えない。だって、何もしなくても生きていけているのだ。そういう環境に生まれついて、そこでずっと育ってきたのだ。その考え方は、ここアインクラッドでは通じない。思考し、行動する。そうでなければ、たやすく命を落とす。
それはとても怖いことのはずなのに、なぜか私はすっきりした気持ちだった。ただ生き残るためだけに、頭と体を全力で使うということ。SAOの攻略だとか、プレイヤーの解放だとか、そういう大義のためではなくて、あくまでも自分のため。自分の命のために自分の全てを使うということ。私にはそれが、とても健全なことのような気がした。
★★★
《2024年3月/アインクラッド56層》
アインクラッドに来る前は、自分のことを優しい性格なのだと思っていた。
自分の意見を主張しないのは、無駄な争いごとを好まないから。協調を重んじることのできる性格なのだと思っていた。だから、特別自分の性格を疎んだことはなかったし、むしろ誇りに思ってさえいた。
この世界に来て、思い知った。私が、優しかったんじゃない。たまたま他人に優しくできるできるくらいに、恵まれていただけなんだって。
ソードアートオンライン。
アインクラッド。
強さが生死を分けるこの世界では、人の本性が剥き出しになる。多くの弱者は命のかかった本物の戦いに怯えて、自分の身を守るのに精一杯になってしまう。他人に優しくできるのは、自分の身を守った上で他者にも手を差し伸べられる一部のプレイヤーのみ。この世界において「優しさ」はとんでもない贅沢品で、強者にだけ許された特権だった。
というか、本来優しさとはそういうものなのだろう。リアルでは他人に優しくすることは美徳とされていたけれど、それは他人に優しくするだけの余裕があったからで、日本という国家や両親をはじめとする大人たちが「強さ」を築き上げていたからだった。私の優しさはその強さに依存した、いわば借り物の優しさだったんだ。
それにひきかえ、ミオちゃんの優しさは本物だった。私のような紛い物でなく、正真正銘、自分自身の心の強さに由来する優しさを持っていた。だからこそ私をはじまりの街から引っ張り出してくれたし、攻略組に参加できるくらいにまで鍛えてくれた。彼女がいなかったら、私は今もはじまりの街から外に出られていなかったかもしれない。人の優しさに甘えて、何もできないふりをするのに必死だったかも。
でも、それは仮定の話だ。現実はそうじゃない。
あの41層でのハプニングの後も、私とミオちゃんは順調にダンジョンを攻略し、レベルをぐんぐん上げていった。最前線が近づくにつれてミオちゃんはますますモチベーションを向上させ、過度なレベリングに精を出すようになった。私は必死に彼女のペースに合わせようと努力したけれど、結局最前線に追いつくまでにレベル差は埋まることはなかった。
最前線に追いついたときは、すごかった。ゲームをクリアしたわけでもないのに二人で歓声を上げて喜び合って、きゃーきゃー叫んで夕食も奮発して。ずっと無我夢中で走り続けてきたから、達成感をじっくり味わったのなんて初めてで、でも、だからこそ私の胸には希望の光が灯っていた。
あの日ミオちゃんが私に語った大言壮語も、決して実現不可能な夢物語なんかじゃないんだって、そう思えた。ここまでやれたんだから、これからもきっと大丈夫だって。私たち二人なら、本当にSAOに勝つこともできるかもしれない。そのために、ずっと二人でやっていくんだと思ってたんだ。
だから。
だから、二人でギルドに入ろう、とミオちゃんが提案してきたときは、私は困惑することしかできなかった。
「……ギルド?」
「そう。それもただのギルドじゃないよ。KoB……血盟騎士団の入団試験を受けようと思ってる」
彼女の言っていたことは、何もおかしいことではなかった。攻略により貢献しようと思うなら、たった二人でパーティを組み続けるよりも大ギルドに入る方がよほど建設的だったし、自らのレベルを上げるという意味でもそれは同じだった。
だから、これは私の感情の問題だ。私が恐れたのは、ミオちゃんが私だけの味方でなくなってしまうこと。大きな組織の一員になれば、ミオちゃんを助ける役割は私だけのものではなくなってしまう。私にはミオちゃんしかいないのに、ミオちゃんには私以外に選択肢ができてしまうのだ。そうなればもう、私には居場所がなくなってしまう。
止めないと。だって、そうしないと私、ひとりぼっちになっちゃう。私の最も醜いエゴの部分が、警鐘を鳴らしていた。
ここまで来て、私はようやく理解していた。私にはミオちゃんが必要だけど、ミオちゃんには私が必要ない。私は、ミオちゃんに甘えていただけだった。全然、支え合えてなんかいなかったんだ。
でも、それがわかったところで、今さら私に何ができただろう。ミオちゃんの意思は私の意思。ずっとそうやってきたんだ。ここで私が反駁したところで、ミオちゃんの主張には一点の曇りもない。私がギルドに入らないと言っても、ミオちゃんが自分の意思を曲げるわけがない。ミオちゃんはギルドに入って、私はひとりぼっちになるだけ。最悪の可能性が、現実になるだけだ。最悪と最悪以外に選択肢が無いのなら、私に一体何が変えられるというのだろう?
「うん……いいと思うよ」
形だけの了承をして、私は曖昧に笑った。口の端が微妙に引きつったのを、ミオちゃんはきっと、気づいてすらいなかった。
血盟騎士団に入ってからは、彼女はさらに才能を開花させていった。
まるで経験がないはずの陣頭指揮に抜擢され、瞬く間に遊撃部隊の隊長の座に収まった。たくさんの団員に囲まれる彼女の表情は、見たことがないほど生き生きしていて、私はだんだんそんな彼女に声をかけるのを躊躇うようになっていった。
ミオちゃんが輝きを増せば増すほどに、私の陰りは濃くなっていくようだった。いや、むしろ彼女は本来の自分を取り戻していっただけなのだろう。私という不純物のせいで曇っていた輝きを、正常にしているだけなのだ。そして私もまた、本来の姿に回帰している。鍍金が剥がれて、一人では何もできない臆病者の姿を露わにしていっている。毎日少しづつ、欺瞞が暴かれていく気分だった。
いるべき居場所を見つけた彼女に、今の私は相応しくない。私では彼女に何も与えられないし、これ以上彼女から何も奪いたくないから。せめて、邪魔にだけはなりたくない。
私はまた、借宿に引きこもるようになった。ギルドの経験値ノルマだけは惰性でこなしていたが、攻略へのモチベーションは下降するばかり。なんで私はこんなところにいるんだろう。私よりもレベルが低くても、私より戦える人なんていくらでもいるのに。彼らに回すべき経験値を卑しく啜って、攻略戦では後方待機ばかり。第一層、はじまりの街にいた頃と、何も変わらない。彼女と一緒にアインクラッドを旅して、少しは強くなったと思っていた。自惚れだった。上がったのはステータスという、仮想世界でしか通用しない借り物の強さ。私の本質は何も変わっていない。
人に会いたかった。何の気兼ねもなく話せる人に。ずっと人を避けてきたのに、追い込まれると人は人との繋がりを求めるものなのだと、実感をもって理解した。誰でもよかった。私が話せる人なら、誰でも。
『きみは、無理をしているように見えるね』
いつか、どこかで聞いた言葉が、頭の中に蘇ってきた。
「……そうだ、シグレさん」
思いつく人物は、一人しかいなかった。41層の洞窟で、出口にたどり着いたと思ったらいつのまにかいなくなっていた、あの不思議な少年。彼との会話は短いものだったが、アインクラッドでは最も私を理解してくれていた。
会いたい。会って、話をしたい。近くにいてほしい。そう思ったら、たまらなくなった。
私は借宿を出て、彼を探し始めた。かつて彼は攻略組に参加していないと言っていたが、彼の体捌きは攻略組の猛者たちと比べても遜色のないものだった。今なら、最前線にいるかもしれない。わらにもすがる思いだったが、何人かに聞き込んでみてわかったことは「シグレ」という名前のプレイヤーは攻略組の誰も聞いたことがない、ということだけだった。
最後の希望が絶たれた思いで、私は宿に戻った。ベッドに倒れこんで、天井を見上げる。
臆病者、弱虫、性懲りもなく人に甘えようとするなんて、なんという恥知らずな。結局お前は、逃げているだけじゃないか。
頭の中をぐるぐると巡るのは、自分で自分を傷つける言葉ばかり。私は、何も変わらない。変われたと思っていたのか?異世界に閉じ込められたからと言って、人の本質がそう簡単に変わるはずはなかったのに。
人は、変わろうとしなければ変われない。どんな陰惨な災害や、あるいは降って湧いたような幸運も、それだけで人を決定的に変えてしまうなどあり得ない。それらは人にきっかけを与えるだけだ。「お前は変わりたいか?」と、人にただ問いかけるだけ。
私は、その手を取らなかった。変わりたいと思えなかった。変わったふりをするだけで精一杯だった。化けの皮は、簡単に剥がれた。ミオちゃんがいなければ、私は取り繕った体面を保っていることすらできなかった。吹けば飛ぶようなはりぼてだったのだ。
ようやくたどり着いたはずの最前線にも、もはや私の居場所はない。それは、私自身がそうしてしまったからだ。血盟騎士団の誰もが私を受け入れたとしても、私が彼らとともにいることに耐えられないだろう。
かといって、騎士団を去ろうとは思えなかった。ここを抜ければ、私には本当になにもかもなくなる。この期に及んで、私はまだ怖かった。この仮初めの世界で、ひとりになるのが怖かった。ならば、固く現状を維持するしかない。
もう何も見ないで、何も考えないで、世界が勝手に変わるのを待とう。それ以外に何ができるというのだろう?
私は再び、自分の殻の中に逃げ込んだ。ギルドに割り当てられたノルマを惰性でこなすだけの毎日。そうしてこのまま誰かがこのゲームをクリアするのを待つのが、私に残された唯一の道だと思われた。
世界からミオちゃんが、いなくなるまでは。
★★★
《2024年5月/アインクラッド第55層》
ミオちゃんが死んだ。レッドプレイヤーに殺されて、この世から永遠にいなくなった。
遊撃隊の隊長として、ギルドが請け負っている犯罪プレイヤーの捕縛任務でのこと。私にそのことを知らせてくれたのは、血盟騎士団で副団長を務める若い女性プレイヤーだった。
「閃光」とあだ名される高速の剣技と、高いリーダーシップで攻略組において信頼を集める女傑。初めて間近で見る彼女は、私とあまり変わらない年齢に見えた。それまで彼女と言葉を交わしたことはほとんどなかった。明らかに別世界の住人である彼女を、私が一方的に避けていたからだ。彼女はミオちゃんと同じく「強さ」を備えた人物で、ミオちゃんを最初に重用したのも彼女だった。
ミオちゃんの訃報を伝えにきた彼女は、私の目の前で泣いていた。何度も謝罪を繰り返して、私に許しを乞うて。ごめんなさい、ごめんなさいと、嗚咽を漏らしながら何度もそう言う彼女の姿には、戦場で見る聖女のような覇気はかけらも見つからなかった。
「大丈夫です。あなたは何も悪くない」
言葉の意味もよく考えないで、私は彼女の背中をさすった。涙に濡れた瞳で、彼女は私に「ありがとう」と言った。
それから彼女は、ことのあらましを語り始めた。ミオちゃんの部隊が犯罪プレイヤーとの戦闘を請け負っていることは、以前から知っていた。
PKギルド。「
殺人を専業とする犯罪プレイヤーであっても、最前線でレベリングを続ける攻略組に対して打てる手は多くない。この世界においてレベルの差というのはそのまま戦力の差だ。故にレベリングが不十分な多くのレッドプレイヤーでは、血盟騎士団のプレイヤーには対抗できない。そのはずだった。
「ミオさんの部隊は壊滅させられました。たったひとりのレッドプレイヤーによって」
だからこそ、彼女が語った内容は衝撃だった。ひとりで複数のトッププレイヤーを圧倒できるプレイヤー。そんな人間は、攻略組にも数えるほどしかいない。それこそ目の前の少女や、血盟騎士団の団長でなければ不可能な芸当のはずだ。
今までまったく知られていなかったレッドプレイヤーの実力者が、たまたま最初に襲撃をかけたのがミオちゃんだった?そんな偶然があるものだろうか。理不尽が、わざわざミオちゃんを選んで陥れたとしか思えなかった。
呆けたようになった私を、アスナさんは心配そうに見ていた。
「大丈夫です。私は、大丈夫ですから」
そう言って、私はアスナさんを部屋から追い出した。とにかく一人になりたかった。その晩は、布団の中で一睡もせずに暗闇を見つめて過ごした。不思議と、最後まで涙は出なかった。
その日、血盟騎士団の討伐隊を半壊に追い込んだレッドプレイヤーを、攻略組は「屍鬼」と呼称し指名手配を開始した。凶悪なレッドプレイヤーにニックネームをつけて存在を流布することで広く情報を集めようという算段だった。
私は血盟騎士団を抜けた。ミオちゃんがいなくなった騎士団に、私が留まる意味は残っていなかった。もともと独りになりたくないという一心で所属していたギルドだった。ミオちゃんという楔が消えたいま、私はギルドにとって、糸の切れた凧のようなものだった。
SAO始動から実に1年と6ヶ月。空飛ぶ鋼鉄の城で、私は初めて
死よりも怖かった孤独は、あっさりと私を飲み込んだ。ソロでの生活は、あらゆる苦労が倍加する。フレンドもほとんどいない私は、アインクラッドで直面しうるあらゆる困難にひとりで対処しなければならなかった。
『油断してると私にみたいに死んじゃうよ?』
mob、犯罪プレイヤー、ダンジョンのトラップ。一瞬たりとも気を抜く暇はなかった。夢の中でさえ、ミオちゃんの亡霊が迷い出てきて私を追い立てた。頭のなかに響く声は私の苦境を嘲笑っているようで、その度に私は耳を塞いで、頭の中から亡霊を追い出そうとした。
分かっている。こんなものは幻影だ。私の心の隙が生み出した影絵のようなものだ。つまり、私自身がミオちゃんにこう言わせたいという願望に過ぎない。実際にミオちゃんが言っているわけじゃない。ミオちゃんはこんなことは言わない。そう自分に言い聞かせても、効果はなかった。夢も見なくなるくらいに、頭と身体を使い倒すしかなかった。
生存を優先して効率を高めていくうちに、色々なものを捨てる癖がついた。それはアイテムなどの形あるものに限らず、戦闘中の無駄な動作や娯楽にまで及んだ。不必要を排除し、最短経路を算出する。そうすることでしか生き残れなかった窮地もあった。
そんな生活を続けていると、いつのまにか頭の片隅に強迫観念の病巣ができていた。常に、何か大切なものを忘れているような気がしていた。一歩進むたびに、自分から大切なものが零れ落ちていく。夜になって眠ろうとすると、無くしてはいけないものを無くしてしまったような不安が胸を突いた。なのに、それが何なのか全く思い出せない。不安はやがて焦りに変わり、私はますます夢中になって剣を振るう。
剣を振っている間は、色々なことを忘れられた。背中を焼くような焦燥も、寒々しい胸の虚無感も。だから、私に必要だったのは、剣を振る理由だけだった。疑念を挟む余地のない、完璧な理由。それだけがあれば良かった。そして、私がそれを見つけるまでに、大して時間はかからなかった。
「殺してやる。私からミオちゃんを奪ったやつを、この手で……!」
それは、神さまが私に与えたもうた天命のように思えた。地獄の底に一筋垂らされた希望の糸。それを登りきるために努力することには、甘美な満足感が伴った。
敬虔であれ。従順であれ。この命はただ、天命のために。
思考を停止し、ただ目的を達成するための傀儡を演じる。事の是非など考えず、ただ目の前のタスク処理に没頭した。取りうる手段は全て試した。情報屋を雇い、犯罪プレイヤーを尋問して、「屍鬼」へ近づいていった。邪魔をしようとした者はみんな排除した。
当初は忌避感があった殺害にも、私の精神は馴染んでいった。自分の命以上に優先すべきものはない。正当防衛だという自己弁護が成立するなら、リスク回避の手段として有用だとすら考えるようになった。敵対者を殺し、自分が生き残る。結果だけがすべて。そのシンプルでフラットな法則に、私は急速に適応していった。
気づけば、ひとりになってから半年が経っていた。
その日、懇意にしていた情報屋のひとりが、私に「報せ」を持ってきた。
「……どうしても、やるのカ?」
「やるさ。親友の敵討ちなんだ」
そう言って、私は手元にあったコルを全額支払った。小柄な情報屋がしかめ面をして鼻を鳴らす。彼女にも、もう二度と会うことはないだろう。多めの支払いには、最期を看取らせることへの謝罪も含まれていた。
私は転移結晶を使った。行き先は中層のとあるエリア。攻略されてから随分と経ち、今はもうほとんどプレイヤーは残っていない、人々の記憶から忘れ去られた場所だった。圏内を出て、陰鬱とした森林エリアへ足を踏み入れる。すでに人の息遣いは無かった。
意外にも、緊張も力みもない。柔らかい腐葉土を踏みしめて、歩く。mobも、私に道を譲るように出てこない。
風が吹いて、森が鳴いた。
そうして、私たちは導かれたようにそこにいた。
★★★
《2024年11月/アインクラッド??層》
ずっと、違和感があった。
衣食住に満ち足りた自分。はじまりの街に引きこもる自分。ミオちゃんに必死に着いていく自分。どれもこれも、私の意思とは関係ない何かが定義づけた自分だ。
そこには、私の意思が決定的に欠如していて、だから、それらは、自分であって自分じゃない。だとするなら、本当の自分ってなんだろう。私の意思って?
「きみは、自分で自分の命を守ったことがなかったんだ。自分の命を感じたことがなかった」
その通りだ。私は生まれたときからずっと、誰かに守られながら生きてきた。何かの影に隠れて生きてきた。
でも、ミオちゃんが死んだとき、それまでずっと守られて生きてきた私を守るものがなくなった。私は世界に放り出されて、そこで初めて、私は私の命に触った。
「きみが違和感を覚えていたのは、きみが自分の命に意味を見出すことが出来なかったからだ。きみは自分が意味もなく生きているということに耐えられなかった」
そうかもしれない。私は意味ある存在でありたかった。私は、
「だけど、命に意味を獲得するには、きみはきみ自身の命と向き合う必要があった」
私はそれが怖かった。満ち足りた平穏に飽きているけれど、自分の意思で何かを決めるのは恐ろしい。それが、私という人間の最も深い部分に根付いていた矛盾。
だけど、ふとした拍子に均衡は崩れた。ミオちゃんという支えを失い、私は、私の意思で何かを決めなくてはならない岐路に立たされた。私は飢えを満たすために、思考し行動せねばならなかった。
そう、飢えだ。
ずっと、存在意義に飢えていた。腹を空かせた孤児のように、ゴミ箱を漁って探し求めていた。自分は存在してもいいんだっていう確信が欲しかった。だけど、それをどうやって手に入れたらいいのか、誰も教えてくれなかった。違う。誰も知らなかったんだ。誰もが欲しがっていたけれど、それを手に入れられるのは限られた少数だけだった。
ミオちゃんが私の前からいなくなったとき、本当は気づいていた。それまで喉を苛んでいた乾きが、いつのまにか治っているのを。私は突如として手に入れたのだ。自分自身を支え、飢えを満たすための方法を。私の命に意味を与える手段を。
「私は決めた。ミオちゃんを殺した奴を見つけ出して、この手で復讐することを」
そして私は、復讐者になった。ミオちゃんを殺した「悪」に制裁を加える「正義」として自らを再定義したのだ。
道のりは決して楽ではなかった。ソロとしてアインクラッドで生き残ることも、犯罪プレイヤーたちと対峙することも、どれもこれも困難を極めた。
だが、新しい世界と新しい自分に心踊ったのもまた事実だ。私は人生で初めて心から何かに没頭する快楽を味わっていた。復讐に囚われている間は、どんな不都合も忘れることができた。世界が自分を中心に回っているような全能感に私は酔いしれた。
「わかるよ、楽しいもんね。自分が何者なのかわかるっていうのは」
「あなたも、そうだった?」
「ああ。僕もきみと同じだった」
彼の瞳は私を祝福しているようだった。それは親が子供に向ける視線にも似ていて、もしかしたら彼は、私を通して過去の自分を見ていたのかもしれない。
「満たされたんだろう?生まれ変わることができて。自分が何者なのかを定義づけることができると、この世界に受け入れられたような心地になるんだよね」
彼の言葉は正鵠を射ていた。彼は私のことを、自分のことのように知っていた。
「まるで、そう、まるで、ゲームの主人公になったみたいにさ」
ああ、だからかもしれない。初めて会ったときから、私は目の前の少年のことがずっと気になっていたんだ。きっと彼も、私と同じ。私が復讐や正義に夢中になることで自己を確立したように、この少年もきっと、自らの運命に身を委ねことでバランスを保ったのだろう。
そうだ。目の前の少年と私の間に、本質的な違いなど存在しない。巡り合わせが違ったなら、殺人鬼としてあそこに立っていたのは私だったかもしれないし、復讐者としてここに立っていたのは彼だったかもしれない。そういう意味では、私が彼に抱くこの気持ちはある種の同族嫌悪なのかもしれない。
私の醜い部分まで余さず映し出す鏡のような少年。私のドッペルゲンガー。
「『屍鬼』のシグレ」
私はあなたを、この世界から永遠に消し去りたくて仕方ないのだ。
「あなたを殺す」
「なら、僕はきみを殺そう」
私たちは互いに理解していた。二人がこの場所で出会うということ。それはつまり、二人の運命が交錯しているということだ。私の運命と、彼の運命。一度交わったなら、どちらかが倒れるまで終わらない。どちらかの物語がここで終わり、どちらかは生き残る。そして生き残った方が再び歩き出す権利を得る。これはそういう類の戦いなのだ。
そこは、誰にも忘れられた夜の森。
二人だけの死合いの幕は、静かに上がった。
★★★
はじめは、シグレからだった。
ゆらり。柳のように揺れる独特の歩調で、間合いを詰める。速さはない。油断はできない。だが、臆してはいられない。
先手必勝。四肢の一部と化すまでに使い込んだ愛剣を抜き、勢いそのままに上段の叩きつけを放つ。手応えは無し。紙一重の回避。危なげもなくいなすシグレ。その手首が弾けたかと思うと、私の頰を剣尖が掠める。
予備動作は皆無。目では追いきれない飛燕の如き突き。ソードスキルでもないのに、その鋒は私の命を貫きうる重さを備えているように見えた。
ぞわり、とにわかに全身が泡立つ。直感的に理解した。少年の剣が、これまでどれほどの命を啜ってきたのか。
剣は魔性だ。長く剣を扱う人間は、剣に兵器以上の意味を見出す。それが鉄の塊であろうが、データの塊であろうが、剣であるのならば人は否応なしに魅きつけられてしまう。
私もそのひとりだ。故に理解してしまった。少年の剣。数多の人間の魂を吸い尽くし、魔剣にまで至ったそれ。これは、彼の殺意だ。殺意の具現。この剣は彼の分身なのだ。
気迫に呑まれてはならない。私は反射的に後退し、それに合わせてシグレは踏み込む。私は退き、彼は進んだ。主導権を奪われた瞬間だった。攻め手と受け手。混沌とした探り合いに秩序が生まれ、流れが決まった。
徐々に炎が大きくなるように、シグレの攻め手が激しさを増していく。静かな柳のようだった体捌きに熱が加わり、技巧に力がこもる。
遅れている、遅れていく。時間の早さがまるで違う。これが、数多の命を飲み込んできた少年の、意思の力か。
真紅のライトエフェクトが私の右肩をえぐる。私の防御から漏れた斬撃が、私の脛を、頰を、手首を斬り裂いていく。浅くとも着実に、刃が届いている。シグレの手数が、私のそれを上回り始めていた。
――強い。私は確信を新たにしていた。目の前の少年の技量は、これまで相手にしてきたすべての犯罪プレイヤーを優に上回っている。そして恐らくは、私の腕は彼の域には届いていない。
視線の先で彼は嫋やかに笑っている。およそ戦場には似つかわしくない、力の抜けた表情。挑発しているのだ。この程度はまだ序の口だ、と。
上等だ。ステータスにものを言わせ、強引にラッシュを塞きとめる。一瞬の拮抗。
悪寒。首筋に走る一筋の死線。
弾けるように体を転がし、受け身を取る。刹那ののち、首があった位置をシグレの剣がなぞっていく。判断が遅ければ、急所を易々と断たれていただろう。
経験の差は歴然。ソロになって以降は対人戦もそれなりにこなしてきたはずだったが、搦め手も使いこなす彼は次元が違う。
大きく飛びのき、距離を取る。空気がひりひりしていた。僅かな衣擦れの音が、耳朶をくすぐる。皮膚は薄く燃えているよう。五感が過剰に鋭敏になっている。濁流のような情報に曝され、頭が熱くなっていく。
意識が自己の内側に入り込んでいく感覚だ。深く、深く、暗い海の底に沈むように、意識は深く潜っていって。
――入った。
我知らず、牙を剥き出しにする私。鼓動が早く、強くなっていく。
互いに心臓を差し出し合う、一対一の殺し合い。そんなもの、私という人間から最も遠い位置にあるものだと思っていた。それがどうだ?今ここにいる私は、これまでのどんな「私」よりも命を楽しんでいる。「死」に最も近づき、その上で「生」を謳歌しているのだ。
これは本当に私か?薄暗い宿の一室で、震えていることしかできなかった、あの?
「きみは見つけたんだろう?僕と同様に。自分の本質を解放できる世界を得たんだ」
何も身を守るもののないこの仮想世界にたったひとりで放り出されて、親友の敵討ちという文句のつけようのない理由を得て、剣を振るうに足る「正義」を得て、そうしてやっと、私は剣戟の海に溺れることができた。
それは、不義なのではないか?私は私の欲望のために、親友の亡骸を利用したのか?一瞬、迷いが頭を過ぎる。
「初めて会ったとき、一目で分かった。きみは僕と同じだ。ぬるま湯の中で飼いならされた、牙を抜かれた怪物だと」
大いなる正義の元で、自らの欲望を解放すること。それは人が享受できる最大の幸福だ。人はその幸福を守るため、自らの正義を犯すものを殺す。私も彼も、そのためにここにいる。
「ほら、笑っている。その顔が〝きみ〟だよ」
笑っている?私は、笑っているのか。揺れ動くシグレの瞳。その奥に見える、狂笑する鬼女の相貌。あれが、私か?
剣閃が舞い踊り、火花が散っては消える。刃を交えるたび、私たちの鼓動は共鳴していくよう。私は彼を理解し、彼は私を理解する。近づいていく、近づいていく。二人の境界が、曖昧に溶けていく。
「きみには僕が必要で、僕にはきみが必要だ」
すれ違いざま、ささやくように、彼は私を誘惑する。
「ただし、〝本当の〟きみが」
その声が、最後の一押しになった。
私の中の修羅。久井真奈としてではなく、「
目覚める、目覚める。生と死の饗宴。闘争を求める原初の本能が目を覚ます。世界が彩りを獲得していく。
ああ、そうか。これが、
「あなたの見ていた世界」
刃が飛来する。撃ち落とし、返す刀で斬り上げ。鋒が僅かに掠め、シグレの右目を奪う。赤いダメージエフェクトが散る。鮮やかな血の色。ああ、なんて、きれい!
「あは「あはは「あははは「あははははははははははははははははははははははは!!」
可笑しかった。命のやりとりをしているのに、愉快で愉快で仕方なかった。殺し合いとは、こんなに楽しいものだっただろうか。抑えきれず、笑みをこぼす。私が笑えば、彼も笑った。私には彼の心が手に取るようにわかった。彼もそうだったに違いない。
期せずして、私は条件を満たしていた。シグレを殺すための条件。彼を殺すには、彼と同じ場所に立つ必要があった。そうすることで初めて、私は彼に刃を届かせることができた。
柔い果実の皮を剥くように、薄く、薄く、私の刃が彼の五体に朱を描いていく。剣を振るうたび、彼の身体が私の色に染まっていく。それは自分自身を切り刻むような背徳の官能。この先二度と味わうことはできないだろうと確信できる、未知の快感だった。
殺す。殺せる!私の剣は、彼の心臓に届くんだ!
昂りが、頂に至る。私は剣を振るった。剣人一体。紛れもなく人生最高の一撃だった。掌に伝わる、命を奪う感覚。斬った。同時に、
「あ、れ……?」
いつのまにか、身体は地面に這いつくばっていた。両脚がバランスを見失っていた。立ち上がろうとして、気付く。左腕が無かった。斬り飛ばされている。視界の奥で、ポリゴンの破片となって消えていく私の一部が見えた。
四肢を切り飛ばされたのは初めてだった。奇妙な感覚だ。切り口はじんじんと熱を持っているよう。ペインアブソーバが効いて痛みがないのが、逆に不気味だった。
シグレは、立っていた。脇腹には深々と裂傷が走り、決して無事ではなかったが、私ほどの深手でもない。その証拠に、口元にはうっすらと笑みを浮かべてすらいる。悪戯が成功したことを喜ぶ子供のような、無邪気の笑み。
頭にすうっと風が吹いたようだった。やられた。誘導されたのだ。気付く、気付く。私は肉を斬らされた。そして骨を断たれたのだと。
熱は急速に冷めていた。麻薬のように私から冷静さを奪っていた狂奔も、いまは凪の海のように静かだった。意気消沈しておかしくない状況だったが、嫌な静まり方ではない。不思議と、私の心は折れてはいなかった。頭脳は休むことなく、目の前の獲物を仕留める最短の手順を算出し続けている。呼吸は安定している。動と静の釣り合いが取れている。視野も広い。
大丈夫。私はやれる。大きく一度、息を吐き出した。
「まだ立つのか」
気配から、私の意図を察したのだろう。シグレは下げていた剣を再度構える。
「いいよ、来なよ」
あくまで泰然として、不動。彼は静かに迎撃の構えを見せる。
何か、手立てがあるわけではなかった。物語でよくある、窮地に際して逆転の妙手が浮かぶなどということは実際にはないらしい。
戦闘が始まったときと同じように、距離をとって剣を構える。シグレが私に合わせてくれたのか、私がシグレに合わせたのか、今となっては定かではないけれど、私たちの間には意思の疎通が叶っていた。
二人の間に、風が吹いた。森がざわめき、私たちは見つめ合った。
同時に、大地を蹴った。
どちらが先でもない、全くの同時だった。音は聞こえなかった。
刃に燐光が宿った。私たちは、まったく同じ技を繰り出していた。
その瞬間を、私はどう表現すべきだろう。私たちはとても長い間、同じ時間のなかにいた。二人の距離はわずかで、本来なら一瞬で詰められるはずの距離だったのに、二人の刃が馳せ違うまでには、悠久の時間が横たわっているように思えた。
脳裏には、いろんな景色が浮かんでは消えた。アインクラッドのことだけじゃない。生まれてから今まで。覚えている記憶も、もう忘れてしまった記憶もあった。見たことのない記憶も。あれはきっと、私の片割れの記憶だったのだろう。
刃は交錯する。私たちは、抱擁するように重なり合った。身体の中央を貫く、痺れるような感覚。傷口から、命がとめどなく溢れては、こぼれ落ちている。ひたひた、ひたひた、ひたひたと。
私は、怖くはなかった。今はもう、ひとりじゃなかったから。
「楽しかったよ」
そう言って、私を支えていた彼の身体が砕けた。力なく大地に倒れ込む。ひらひらと舞うポリゴンの破片は、やはり命の残骸にしては綺麗すぎる。
もうすぐ、私の体も消えて無くなるのだろう。砕けて溶けて、この世界の一部になるのだろう。目を閉じて、そのときを待つ。なぜだろう、遠くからは鐘の音が聞こえていて。
――ああ、そうか。
これが「死」か。
★★★
《2025年4月/JR御徒町駅》
駅を出て、喧騒爽やかなアメヤ横丁を、私、「久井真奈」は通り抜けていく。左手に持ったスマホには地図が表示されていて、私の行く道をナビゲートしてくれる。
目指す先は「ダイシーカフェ」。SAO
――アスナさんからオフ会のお誘いメッセージが届いたのは、つい最近のことだ。SAOが解放されておよそ半年。それまで全く音沙汰の無かった彼女からの連絡は、心の中でずっとわだかまっていた私の疑念を、余さず氷解させてくれた。
疑念とはつまり、私の命についてだ。あの鋼鉄の城で、確かに途絶えたはずの命脈が、なぜ繋がっていたのか。アスナさんは全てを説明してくれた。七十五層攻略戦のことから、ヒースクリフ団長に扮して血盟騎士団を率いていた茅場晶彦のこと、そして、彼を打倒しアインクラッドを解放した「あるプレイヤー」のことも。
あの日、私とシグレが殺し合ったあの日、時を同じくして「神さま」が人間と剣を交えた。戦いの果てに神さまは力尽き、世界に終焉が訪れた。終焉は世界の全てを呑み込み、無に帰した。私の「死」もまた、例外ではなかった、と。まあ、そういうことらしい。
かくして、アインクラッドにて一度は命を落とした剣士「Hildr」は、どこにでもいる普通の女子高生「久井真奈」として現実世界に帰還した。
帰還後は大変だった。三年近く寝たきりだった身体はミイラのようにやせ細っていて、リハビリを余儀なくされた。メンタルカウンセリングも毎日のように受けさせられて、異世界からの生還をゆっくり喜ぶ暇もなかった。
だから、事件の全貌について把握したのは、つい最近のことだ。私という例外を除いて、アインクラッドで死んだものはリアルでも死んでいたという事実も、そのときに知らされた。その中にはミオちゃんも、私が殺した犯罪プレイヤーも含まれている。彼らのリアルを知る機会は訪れなくても、彼らが死んだという事実だけは、変わらない。
一方で、判然としなかったのはシグレだった。私とほぼ同じタイミングでアバターを失い、「死亡」した彼は、あの後どうなったのか。残念ながら、シグレのリアルが誰なのか、私には調べることができなかった。アバターの個人情報は保護されており、SAO帰還者にもアクセスは許されていなかったのだ。
アスナさんが私に連絡できたのも、偶然生活圏が重なっていたからに過ぎない。そうでなければ、途中で攻略を放り出した私などが帰還者メンバーでのオフ会に誘われることはなかっただろう。
「帰還者……か」
結局、SAOからリアルに帰還した人間の数は、六千人弱だったという。一層をクリアする段階で二千人が死んでいたことを考えると、それだけの人数が命を落とすことなくリアルに帰還できたというのは、喜ぶべきことなのだと思う。
ただ、本当の意味で現実世界に「帰還」できている人間はきっと、そう多くはないだろう。あの鋼鉄の城では、誰もが「もう一人の自分」を演じていた。異世界の環境に適応するために、自分を作り変えた。それがあの城で生き残るためには必要なことで、それができない人間は死んでいくしかなかった。生死の関わることだったから、誰もが命がけで演技をした。心の底から、アインクラッドの住人になりきろうと努力をしたのだ。
それを、現実世界に帰還できたからといって即座に手放すことなどできるはずがない。三年近くも連れ添ったもうひとりの自分と決別するということは、口で言うほど簡単なことではないのだ。
だから多くの帰還者たちは、今も「現実に適応できている演技」をしている。肌をくすぐる違和感に気づかないフリをして、周囲を、そして自分を安心させようとしている。SAOに巻き込まれたときそうしたように、人格を再構築しているのだ。
そこにはもはや、仮想と現実の区別などない。真偽すらも曖昧な、正体不明の自己がふわふわと漂うだけ。
そうだ。結局、本当の自分なんてどこにもいないのかもしれない。誰もが自分らしさを試行錯誤して、迷走しているだけなのかも。ボールの上で危なっかしくバランスを取ろうとする
シグレ。私の中の「もうひとりの私」を目覚めさせた、私のドッペルゲンガー。あなたも、自分を演じていたのだろうか。
考えても仕方のないことだ。そうわかっていても、私の視線はいつも彼を追いかけている。一人きりでアインクラッドをさまよった半年の癖が、呪いのように私の身体を操っているのだ。
ふと、人にぶつかりそうになって、スマホに落としていた視線をあげる。
「すいません」
謝って、会釈をする。相手は一瞥もせず私の脇を通り過ぎる。再び視線をスマホに――。
『楽しかったよ』
そう言って、最期に笑った彼の笑顔。剣の軌跡。視線。透明な、視線。
「あ……!」
ばっと振り返り、視線を走らせる。人混みの向こう。後ろ姿が、波に飲み込まれて消えていく。
私は追いかけようとして、やっぱり、その足を引っ込めた。わかってしまったからだ。
彼は私を見ていなかった。私に興味を示すこともなかった。それは意外でもなんでもない。当然のことだった。
なぜなら、私はもはや「Hildr」ではない。私は「久井真奈」でしかなく、彼もまた、「Shigure」ではない別の誰かでしかない。あの城の最後の日に、「Hildr」と「Shigure」は死んだのだ。だから、「久井真奈」と「誰かさん」はここで出会わない。多分、もう二度と私たちの運命が交わることないのだろう。
いくつもの運命が交錯した、あの鋼鉄の城で私たちは出会い、互いに剣を突き立てて、私たちは死んだ。それが全てで、他には何もない。これはきっと、ここで完結する物語なのだ。そう納得できてしまって、何故だか私は、泣いていた。
「さようなら」
私は一言虚空に向かって呟いた。春風が吹いて、別れの言葉を空へさらっていった。
レッドプレイヤーが登場するSAOの二次創作はやりたかったネタのひとつ。自分なりに集中して書いたつもりだったけど、書きたかったことを全部書ききれなかった印象……。精進シマス。
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