翡翠のヒロインになった俺 (とはるみな)
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プロローグのようなもの

 事実は小説より奇なり。

 

 その言葉が指すように人生とは何が起こるか分からないもので。

 

 気がつけば俺は女の子の姿になって道路に立っていた。

 ただの女の子ではなく、ゲームに出てくるキャラクターにそっくりな姿となって。

 

 ヴェーチェル・ディザスタ。

 

 【神の使いの災禍姫】というストーリー重視のスマホゲームで災禍姫の一人として登場する、足元に届きそうなほど長い緑色の髪に、金色の瞳を持つ美少女。

 

 一見儚げな印象だが、行動力は人一倍あり、予測不能な行動をすることが多い。また、風を操る能力を持つことからファンの間では【暴風ちゃん】と呼ばれている所謂不思議キャラだ。

 

 そんなキャラクターに何故俺がなってしまったのか分からない。

 

 夢か? 夢だよな。夢に決まってる。だって俺はつい先ほどまで普通に登校していたはずなんだ。夢じゃなかったらなんだって話だ。

 朝から白昼夢を見るなんて……俺、疲れているのか。

 

『――おい、あれって災禍姫の暴風ちゃんじゃね』

『――コスプレのレベル高くない?』

『――すごいクオリティ…めっちゃ似てるじゃん』

 

 突如起きた非現実的出来事を受け止められず、何度瞬きを繰り返しても姿を変えることなく平然とガラスに映る自分(ヴェーチェル)を見て、固まっていると不意に周囲から声が聞こえてきた。

 顔を上げてみれば、先程まで誰もいなかったはずの道路は、いつの間にか集まってきた人で賑わっていた。

 人達の片手には携帯やらカメラがあった。

 

「……」

 

 俺はこれほどまでに注目させるような容姿を持っていないし、キテレツな格好をしていたわけでもない。

 つまり、これは現実。俺は本当にヴェーチェルに……

 

「…………」

 

 ……いやいやそんなことあるわけがない。

 きっとこれはよくできた夢なのだろう。

 一人暮らしの男子高校生が見るには痛すぎる夢だが、……それは置いといて。

 

 夢ならば痛みはないはずだよな。と疑惑を確信に変えるために、俺は思いっきり自分の頬を引っ張った――

 

「え……」

 

 ――刹那頬を走る痛み。その痛みに俺は驚き思わず声をあげてしまった。

 

『――いきなり何してるんだ?』

『――頰を抓った? うん、意味がわからない』

『――まぁ、暴風ちゃんは不思議キャラだから……そこも再現してるのかも』

 

 ないはずの痛み。

 だが、ジンジンと熱くなっていく頬は確かに痛みがあった証拠だった。

 

「――ッ!?」

 

『――あっ、逃げちゃった。どうする? あと追いかけてみる?』

『――ちょっ、まだ写真が撮れてな…待って!』

 

 強引に人混みを突破して逃げ出した俺の背後から、そんな声が聞こえてくるが、俺は足を止めることなく走り続けた。

全員撒いて家に着いたのはそれから数十分後のことだった。



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2話

 自宅に戻った俺は、即座に鍵を締めた。

 そこで力が抜けたのか、そのまま玄関へとへたり込む。

 

 意味わかんねぇよ……どうしてこうなったんだ……何で俺がこんなことに……騒いでいた連中も連中だ……他人事だと思って追いかけてきやがって…………

 

 ……いや、そんなことよりも今は現状を確認するのが優先だ。

 

 狭いマンションの一室とはいえ、自宅に戻ったことで余裕が出てきたからだろう。

 冷静に頭が回りだした俺は、軽く頬を叩き、自分に言い聞かせる。

 

 とりあえず姿見で自分の姿を見てみるか……別視点からなら何か新しい発見に気づくかもしれない。

 

 何とか立ち上がった俺は、靴を脱ぐことなく土足で姿見へと向かう。

 

 一人暮らしでよかったと今日ほど思ったことはない。

 

 もし実家暮らしだったら、知らない女が家に堂々と入ってきた時点で確実に通報されているだろうし、説明するにも多大な手間と時間を費やすことになったに違いない。

 精神がボロボロの現在、一から説明する余裕なんてなかったため、切実にそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……騒ぐのも無理はないよな……。

 

 先ほどまで俺を見て騒いでいた連中に感じていた憤りは、鏡を見たあと、すっかり消えていた。

 

 足元に届きそうな緑のロングヘアーに、金の瞳。

 水色の半袖のブラウスに、デニム素材のショートパンツ。足元には白の厚底の靴。

 申し訳程度に膨らんだ胸。

 

 ゲームの世界からそのまま飛び出してきたかのような、原作を忠実に再現したヴェーチェルが(そこ)にいた。

 

 ヴェーチェルが出てくるゲーム、【神の使いの災禍姫】はスマホゲームとしてはかなり有名で比較的多くの人が知っている。

 

 そんなゲームのキャラクターにとてつもなく似ている人が現実に現れたのだ。それもルックスだけでなく身なりも全く同じ人間が。

 

 俺も当事者じゃなければ確実に騒いでいたことだろう。

 

 

 とそこまで考えたところで純粋に疑問が生まれた。

 

 

 ―――そういえば……能力とかってどうなってんだろう?

 

 

 

 ゲームのヴェーチェルは風を操る能力を持っていた。

 

 

 まさか……ね……。

 

 

 あくまでゲームの中の話であって現実には再現できないだろう……しかし、今しがた非現実を体験したばかりなので否定はできない。

 

 …と言っても、詳しい描写がなかったからどうやって試せばいいのか分からないけどな……風よ吹けって念じればいいのか?

 

 

 直後だった。

 ビュンと強い風が吹いたのは……。

 

 

 …………え、マジ?

 

 

 風は一瞬で吹き止んだが、確かに吹いた。

 気のせいではないと言うように、俺の髪が乱れている。

 

 暫く開いた口が塞がらなかったが、気を取り直して再度念じてみる。

 

 今度は長く、吹き続けるようにと。

 

 

「…………おぉ……」 

 

 

 まるで扇風機を始動させている時の如く、一定の速度で風が吹き続けた。

 

 思わず感嘆の声が漏れる。

 

 同時に不安が過った。

 

 【災禍姫】はその名の通り、災禍を起こす力を持った少女たちを示す。

 意思を持った災害。言ってしまえば人類の敵だ。

 それ故、ゲームでは国家勢力やら悪の軍団やら様々な組織に狙われていた。

 

 流石にゲームみたく狙われることはない……と思いたいが、もう何もかもが信じられないのが現状。

 

「はぁ……」

 

 もうため息しか出てこない。

 

 こんな姿じゃ外は自由に出歩けないし、何より学校に行けない。

 外出は変装などで何とかならないこともないが、学校は確実に無理だ。

 男から女に変わっている時点でアウト。絶対にバレる。

 

 だからと言って、この問題を放置しておくわけにはいかない。

 連絡なしで不登校が続くと通報されて警察が来る可能性がある。

 

「……連絡ぐらいはしとくか……」

 

 声はすっかり変わってしまったが、極力低い声で且つ喉の病気を患ってしまったと言えば何とかなるだろう。

 

「……あの、すみません。二年二組の森島なんですけど……」

 

 そう思い、電話をかけた俺は……絶句した。

 

『その学級にはその様な名前の人は在籍しておりませんが……あのもしもし? もしもし―――』

 

 俺の存在は――消えていた。

 

 

 



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3

 

 ――嘘だ。

 

『――? すみませんが、そのような知り合いはいないですね』

 

 ――嘘だ。

 

『――人違いです』

 

 ――嘘だ!

 

 俺の存在がなかったなんて認められるはずがない。

 それを認めてしまったら今までの人生一体何なんだって話になる。

 

 故に、

 

 誰か一人くらいは俺の事を覚えているはず。

 

 なんて、根拠のない願いを掲げながらひたすらに知り合いに電話を掛け続けた。

 

 しかし、現実は非情で残酷で。

 

『――うちには息子はいない。もう二度とかけてこないでくれ』

 

 結局、誰一人俺の事を覚えている人はいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あー、ついに尽きたか……」

 

 現実から逃げるように、引きこもり生活を始めて2日。

 朝起きた俺は冷蔵庫をチェックして、頭を掻いた。

 

 冷蔵庫の中身は尽きていた。すっからかんというやつだ。

 

 元々買いだめをしておく習慣はなかったためこうなることは分かっていたが、

 

「……はぁ……」

 

 溜め息を吐いた。

 

 ヴェーチェルの体と言えど空腹を感じることは、2日間の経験を通して分かっている。

 

 風呂に入らなくても清潔な身嗜みを保てたり、トイレに行かなくても大丈夫だったりする機能が付いているにも関わらず、なんでそこだけがリアルよりなのかよく分からないが。

 

 それはさておき。

 

 今は目の前の食材問題について考えなければ。

 ネットショッピングという方法もあるが、それは問題を先送りにするだけ。

 

 金銭に関しては一人暮らしの際に、三年間で使うであろう生活費を渡されたため問題ないが、それでも生きていくには外に出なくてはいけない。

 

 人は一人では生きていけないのだから。

 

 原作通りの災禍姫であれば、また別であったかもしれないが、少なくとも精神が俺な以上は外に出る必要がある。

 故に、ここでベストである行動は……

 

 そう考えて再度深く溜め息を吐いた。

 

「……外に出ると決めたらこの服は邪魔だな……目立ちすぎる……」

 

 ただでさえ目立つ容姿をしているのに、目立つ服を着ていたら注目を集めるに決まっている。

 そう考えた俺は、ゆっくり立ち上がり、服を脱ぐ。

 

 ヴェーチェルになったあの日以来、着替えどころか風呂にも入らず過ごしてきたが、やはり何か特別な力が働いているのか脱いだ服に一切の汚れやヨレは存在しなかった。

 また心も少なからず変化したらしく、着替える際に自分の下着が見えたが、興奮を感じなかった。

 ただ、あぁ、下着だな、と思っただけ。

 

 自分が変わっていっている気がして寒気がした。

 

 にしても……この服、割りと便利だし……部屋着にでもするか……

 

 服を脱いだ俺は、それを丁寧に畳み、ベッドの縁に置くとクローゼットを開ける。

 

 クローゼットの中身は俺に女装趣味はなかった故に、全て男物のため、今の俺には違和感のあるようなものしかなかったが、その中でもマシだと思える黒のフード付きジャージ上下を取り出し、それに着替えた。

 

「まぁ……服変えたぐらいじゃこんなもんか」

 

 姿見に映る自分の姿は、確かに先程より目立つ姿ではなかったものの、見る人が見れば"ジャージを着用したヴェーチェル"と判断できるレベルで、改めてその圧倒的な容貌に戦慄する。

 

「……ふぅ……財布は持ったし、そろそろ行くか……」

 

 特徴的な緑の髪があまり外に出ないよう、フードを深く被ると、スニーカーを履いて玄関の扉をゆっくりと開けた。

 

 

 

 



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4

 家を出た俺は一直線に近くのスーパーへと足を進める。

 

 時刻は朝9時。

 登校や出勤時間のピークが過ぎたとは言え、それなりに大きな街のため人が多い。

 

 そのため、自宅から徒歩5分で着く距離と言えど、多くの人とすれ違うことになった。

 

『――でさ……』

『――ん……それで災禍姫が…………』

 

「――っ…」

 

 断片的に聞こえてきた声に思わず肩が震える。

 チラリと視線を上げ確認。

 俺を見て言った訳じゃないと知ってホッと息を溢し、フードを押さえる。

 

 フードを深く被っているとはいえ、足まで届く緑髪を完全に隠しきれているわけではない。

 

 しかし、一昨日よりは注目が少ないのは確かだ。

 ここでフードが脱げてしまったら……

 

 そう考えると寒気がする。

 

 怖い……怖い……

 

 人の視線が怖い。

 一昨日感じた好奇心に晒される感覚。

 それを連想し、恥ずかしさよりも恐怖を感じた。

 

 俺は再度フードを強く押さえて、俯きながら早足で歩く。

 

 このまま容姿が戻らずヴェーチェルとして生きていくのならば、人の視線に晒されるのはごく普通。当たり前のことになる。

 

 いつかは慣れないといけないこと。そう理解しているが、今はまだ無理だった。

 

 そうしているうちに足を出すペースは更に加速していき、最終的に駆け足になり掛けたところでスーパーにたどり着いた。

 

 ――さっさと買い物して帰ろう……

 

 適当に目についた賞味期限が長く安い野菜、肉などを買い物かごに詰めていく。

 買い物かごが大体半分くらい満たされたところで、レジに向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから逃げ出すように帰宅した俺は、そのままベッドに飛び込んだ。

 今日だけでかなり精神が削られた。

 

 チラと時計を見れば9時20分を指していて、いかにスピーディーに買い物を終えたのかがハッキリとわかる。

 

 しかし、既に一日を終えたような疲れがあった。

 

 今日はもう何もしていたくない。

 ゴロゴロしてのんびり過ごそう……

 

 ベッドに転がりつつ、俺は携帯を開く。

 

 そして、何となくインターネットを開いて、

 

「なっ――!?」

 

 絶句した。

 

 俺の目に入ったのは一つのニュース記事だった。

 

『災禍姫ヴェーチェル降臨』

 

 心当たりしかない。

 

 恐る恐る下にスクロールしていくと、一昨日の俺の写真、動画が貼り付けられていた。

 

 更にその下には数千のコメント。

 

『可愛い』『本物じゃん』『いや本家とは少し違うところがーー』『暴風ちゃん降臨』『これ誰なの?』

 

 好意的な言葉もあれば否定的な言葉もあり、しかしやはり全体的に見れば好意的な言葉が多く存在した。中には、現場にいた人だろう、写真付きのコメントをしている人もいて…

 

「なんだよ……これ……」

 

 つけられていたのだろう。

 俺が家に帰る瞬間を捉えた写真が貼られていた。



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5

 ネットには様々な人が存在する。

 

 しっかりマナーを守っている常識的な人もいれば、反対に人に迷惑を掛けることをする非常識的な人も存在しているわけで。現在俺の家の前ではそんな非常識的な人達が大量に集まっていた。

 

『お願いです! 一度顔を出してくださーい』

『出て来て~!』

『暴風ちゃ~ん!!』

 

 ガンガンと鳴り響くノック音に、俺は頭を抱える。

 

 ――ホントどうして……なんでこうなったんだ。

 

警察を呼べばすぐになんとかしてくれることだろう。だけど、今の俺には警察が呼べなかった。

 

 俺の存在が消えてしまった現在、この世界で今の姿の俺がどのような扱いを受けているか知らない。

 俺が消えると同時にこの世界に生まれたのか、それともそれ以前から存在していたのか。

 

 少なくとも容姿でこのように騒がれる以上、以前から顔を見せていなかったのが窺える。

 

 果たしてこの容姿で騒がれずに生きていくことは可能なのだろうか……。

 そう考えると上記の可能性が非常に高いと言える。

 生まれたばかりと考えれば全て辻褄が合う。

 

 しかし、そうなれば浮かんでくるのが、この家は本当に俺の住居なのか、という住居問題だ。

 

 生まれたばかりだと仮定して、いつ、どうやってこの家を借りる暇があったのか。

 俺が消えたことで、今の俺に住居権が引き継がれているならいい。

 

 だが、そうじゃなかったら?

 

 今の俺は無断で家に住み着いているだけだとしたら? 本来の住居者が別にいるとしたら?

 

 そもそも今の俺は身分証明書も持っていない。

 

 以上の理由から俺は警察は呼ぶことも、警察の力を借りることも出来なかったのだ。

 

 

 まぁ、いつかはこの騒ぎを聞き付けた近所の住民によって通報されるだろうが……

 

 そうなったら終わり。もしかしたら逮捕されるかも知れない……可能性は十分にある。

 

 もうこの家を捨てて逃げるしか方法がなかった。

 

「…くそ……」

 

 そこまで考えて、怒りがふつふつと込み上げてきた。

 

「なんで……俺がこんな目に遭わないといけないんだ…………!!」

 

 理不尽に対する怒り。

 行き場のない怒りだと知りながらも、それを堪える余裕は既に俺には残っていなかった。

 

 身を震わせながら悪態を吐きに吐いて、ようやく心が落ち着いてから、俺は鞄を取り出す。

 

 つい先日まで学校に持って行っていた鞄だ。

 故にその中には教科書などが詰まっていて、一瞬泣きそうになるが、グッと堪え、全て外に出し――

 

(金は必須……、汚れないこの服も需要が高いか……)

 

 ――代わりに鞄の中に現金や通帳、モチーフ服を詰め込む。

 

 

 こうして必要最低限なものだけ持ち運べる準備を終えた俺は、最後に今日買った食材の入っている冷蔵庫に目をやり、足早にベランダから外へ逃げ出した――――。

 

 

 

 



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6

 よくよく考えればそれは自然なことであった。

 俺の存在が無かったことになっている以上、使えない可能性は十分にあったのだ。

 

 だが、

 

「いやマジどうしろって言うんだ……」

 

 家出生活一日目。

 ベランダを張っていた追っ手を撒き、ようやく辿り着いた銀行で、

 口座が無かったことになっている現実を目の当たりにした俺はそう呟かざるを得なかった。

 

 ――どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 

 廃れた公園のブランコに座りながら俺は何度目かも分からない溜め息を吐いた。

 口座が使えない今、俺の所持金は財布の中に入っている4000円そこら。

 

 切り詰めれば一週間は持つだろう。しかし、それだけだ。

 収入0。身分証明書がなく、働くことも困難な現在、そのあまりにも心許ない金額に、泣きそうになる。

 

 ――これから俺はどうなるのだろう。餓死してしまうのだろうか。

 

 どうしようもない不安が、次々と溢れ出してくる。

 

 餓死してしまうくらいなら、いっそのこと人前に飛び出してみたほうがいい気がしてきた。

 

 重度のファンなら養ってくれるかもしれない。

 

 無論、善人もいれば悪人もいるので襲われる危険性もあるが。

 

 極めてリスキーな賭けだが、それでも養って貰える可能性が少なからず存在している以上、やってみる価値はあると思った。適当に挙げてみた案だったが思いの外良さそうだったので採用することにする。

 

「問題は、誰に頼むか見極める必要がある……ってことか……」

 

 大勢の前に姿を見せるのは愚策。

 やるなら対象を一人に絞った方がいい。

 

 要は、俺の見極め次第で良い方に転がるか悪い方に転がるかが決まる。

 

 どうせなら確実に養ってもらえそうな人の前に姿を見せるのがベスト。

 

 しかし、はたして俺に見極めが出来るだろうか……。チートのボディーを持っているとはいえ、俺の中身は普通の男子高校生。あからさまな態度を取ってくれるならともかく、考えていることが態度や表情に出ないタイプの人間だとしたら……見極めれる自信はない。

 

 やっぱり、やめておくべきか……なんて思い始めた時だった。不意にある人が脳裏を過った。

 

 ……そうだ! あの人なら、確実に養ってくれる……!

 

 弾かれたようにポケットから携帯を取り出し、検索。

 その人が働いている場所まで、ここから大分離れているが、電車に乗れば何とか着く距離だった。

 

 今の時間は午後2時少し過ぎたくらい。

 平日のこの時間帯なら人も少ないことだろう、と推測して駅に向かった俺は、なけなしの金で切符を買い、少し待機。

 数分後にやってきた電車に乗り込んだ。

 

 ――俺が向かったのは、災禍姫のゲーム会社。

 その原作を描いたシナリオライターの男――矢野(やの)(つかさ)の所だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……やっとか…………」

 

 夕刻。

 路地の裏から会社の入り口を見張っていた俺は、出てきた矢野の後ろを、一定距離を開けながら追いかける。

 

 そして――、矢野が人通りのない道に歩みを始めた瞬間、肩に手を置き声をかけた。

 

「ねぇ、ちょっといい?」

 

 矢野は一瞬、訝しげな目を向けてきたが、俺がフードを取ると、面を食らったような表情を浮かべた。

 

「……ヴェーチェル? ……なわけないか。……そういえばそっくりなコスプレイヤーがいたとかニュースになってたな。確かに似てるなぁ……」

「コスプレイヤーじゃない。本物だよ」

 

 記事を見ていたのだろう、そんな言葉をツラツラと並べる矢野の言葉を遮る。

「いやそんなわけ……」

「ほら」

「……え?」

 

 苦笑を浮かべ否定しようとしていた矢野だが、俺が風を操って見せると目を丸くしてポカンと口を開けた。

 

 ――あと一押しか……

 

 確実をより確かなものにするべく、俺はヴェーチェルの口調を真似て、風を纏いながらこう言った――

 

「ようやく会えたね、お父さん」

 

 

 

 

 

 

 



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7

 

 

 

「悪いんですが、ホテル代までは出せないからオレの家で勘弁してくれます?」

「うん。全然OKだよお父さん」

 

 似ているだけなら未だしも、能力を目の前で使われたら信じるしかなくなったのか、住む場所や身分証明書がないと言ったらすぐに家に案内してもらえることになった。

 

 やけに丁重な言葉遣いを使ってくるのは、原作同様俺の機嫌を損ねたら災害を起こされる、とでも思っているからか。

 

 ただでさえ騙していることに良心がずきずきと痛むのに、態度まで畏まれるのは精神的にキツい……

 

「お父さん、変に畏まらないでさっきみたいに接してよ」

「え……ですが……」

「そうしないと怒るよ?」

「わ、分かった。……これでいいのか?」

「うん、よろしい」

 

 最終的に脅すような形になってしまったが、態度を緩和させることに成功した。

 と言っても、まだ完全に吹っ切れている訳でなく割れ物を触るようなおどおどしさがあるが、そちらは一朝一夕で解決する問題ではないので、長い目で見ていくとしよう。

 

「――ところで、ヴェーチェルさんは……」

「呼び捨てで呼んで」

「――ヴェーチェルはどこから来たんだ?」

「んー、分かんない。気づいたらこの姿で道の真ん中に立ってた」

 

 真実は言ってないが嘘も言ってない。

 こんな感じでなあなあに会話を続けていると、不意に矢野の足が止まった。

 

「あそこがオレの家だ」

「え、もう着いたの?」

「あぁ」

 

 そう言われて、矢野の指差す方を見ると、三階建て庭付きの大きな一軒家があった。

 

 会社からの距離は大体500メートル程度だろう。

 だから車ではなく、徒歩で帰宅していたのか、と納得する。

 

 ――流石人気ゲームのシナリオライター。距離といい、規模といい結構良いところに住んでるじゃん。

 

「わーすごい大きいね」

 

 そんな心の声を飲み込み、ヴェーチェルならこう言った言動をするはず、と俺は感嘆の声を上げながら、矢野の周りをピョンピョンと跳ねた。

 

「大きいだけだよ、実際一人暮らしだからほとんどの部屋が有り余ってる状態だし。掃除とか出来てないしね」

 

 苦笑を浮かべながら玄関のドアを開き、家の中に入る矢野に続く。

 

「おじゃましまーす」

 

 ――これは酷い。

 

 入った瞬間、埃っぽい臭いがした。

 ヴェーチェルの体が丈夫だからか咳き込むことはなかったが、これは不味いと思う。こんな環境で生活してたら絶対に健康によくない。

 

 ――養って貰うんだから、掃除くらいはするか。病気になられても困るしな……。

 

 密かに決意を固めながら先導する矢野に続いて玄関をくぐり、リビングに出る。

 

 流石にリビングは掃除をしているのか、先程よりも空気がきれいだった。

 

「ヴェーチェルはそこに座っててくれ。確認だけど、ご飯って食えるよな?」

「うん」

 

 指定されたソファーに腰を下ろした俺が大きく頷くと、 待っていてくれ、と言葉を残し、矢野は奥の扉へと姿を消した。

 

 

 

 

 



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8

 いや、部屋が埃っぽかった時点で予想はできてたけどさ。

 それでも、もしかしたらっていう期待があったわけよ。出来ないのは掃除だけで料理は一流みたいな、そんな展開を……。

 

 俺は目の前に出された夕食を見て思う。

 

 現実は残酷だ、と。

 

 ある日いきなりゲームのキャラクターに変貌する奇想天外な展開は起きるくせに、何でこういうところだけ平々凡々な展開なんだよ。

 

「…ねぇ、いつもこんな夕食なの?」

「あぁ、時間が勿体ないからな」

 

 淡々と答える矢野に、気づかれないよう小さく溜息を吐く。

 

 ……予想では、もうちょっと良い食べ物が食べられるはずだったんだけどな。まぁ、温かいだけマシだと考えよう。

 

 ――にしても流石にコレを毎日は栄養的にも悪いし、はぁ……仕方ない。ご飯も作ってやるか……。

 

「ほらヴェーチェル、そろそろ三分経つぞ」

「うん……」

 

 矢野の言葉に、俺は頷いて、目の前に置かれたカップヌードルに手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 食事を終えると、矢野が二階へと案内してくれた。どうやら二階フロア全体が俺の使っていいスペースになるらしい。

 二階全部って、そんなに使って良いのか……?

 流石に気になって理由を訊ねてみると、二階は普段一切使っていないから構わない、とのこと。

 

「部屋は全部で三室。自由に使ってくれて構わない。トイレはこの階にもあるが、シャワーは一階にしかないから使いたいときはオレに一言声かけてくれ――とまぁ、そんなところか。じゃあオレは一階に戻るから」

「分かった。ありがとお父さん……さてと」

 

 欠伸をしながら階段を下りていく矢野を姿が見えなくなるまで見送った後、改めて周りを見渡す。

 

 実直に、かなり汚い。その汚さと言ったら、歩けば埃が宙に舞うほど。

 まさに埃の巣窟といった感じだ。

 

 ――うん、掃除しよ。

 

 恐らく今すぐにでも掃除しないとヤバイと俺の本能が告げていたのだろう。決意は驚くほど高速で固まった。

 

 まずはこの溜まりに溜まった埃を何とかするか。……そうだ。…… 

 

 俺は窓を開けると、その窓に向かって全力で風を行使した。

 作戦は思いの外上手くいったようで、文字通り塵も残さず凄まじい勢いで埃が窓の外に飛び出していく。

 次いで空気の入れ換えを行う。これも風を操る能力のおかげで数十秒で総入れ換えすることができた。

 

「やば……この体、掃除するのにすごく便利だわ……」

 

 あれだけ汚かった部屋が一転。五分も経たないうちに、魔境から住めなくはない環境になった。

 まぁ、どうしても風だけでは対処できない汚れとかはあるんだけど、それでも十分な進歩と呼べるだろう。

 

 それにしても、ものの一瞬でここまで成果が出ると、何て言うかね。そう、言葉にするなら……

 

「楽しくなってきた……」

 

 今なら掃除好きの人の気持ちがよく分かる。

 

 ――掃除楽しい! 楽しすぎる! 汚いところが綺麗になる爽快感。あぁ、堪らない……。

 

 沸き上がってきた謎のテンションに身を任せた俺は、

 この後寝る暇も惜しんでめちゃくちゃ掃除した。

 

 

 

 



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9

 この世界はよく分からない。

 

 

 現実は酷く不確かで不安定だ。

 

 それがオレが二十数年の人生を経て理解できたこと。

 

 現実は小説より奇なり。とは実に的を得た言葉だと思う。

 

 だってそうだろう。

 

 真剣にプロットを考え構成したシナリオは売れず、プロットを考えず行き当たりばったりで書いていた中学時代の妄想――黒歴史とも言える雑なシナリオが今や人気ゲームとなって世に馳せているのだから。

 

 人生とは何が起こるか分からないものである。

 そんな不明確なものだから歩んでいて飽きないし楽しいとも思えるわけだが。

 

 ――だが、

 

「いや、流石にこれは……――」

 

 ――現実外れにも程があるだろうッ――!?

 

 PM11:00。

 オレは今日の出来事を振り返り、頭を抱えた。

 

 思い浮かぶは翡翠の少女。

 自分が産み出したシナリオで出てくるヒロインの姿。

 その存在と現実世界で邂逅した。

 

 

 

 

 

 

 初め、彼女の姿を見たときはコスプレだと思った。やけにクオリティが高いコスプレだな、と。

 

 それも仕方ないだことだろう。

 一体誰が自分の妄想が具現化するなんて予想できようか。中学二年生が患う病にかかっている人だったら予想できるかも知れないが、少なくともオレには無理だった。

 

 しかし、彼女はコスプレイヤーか? と訊ねたオレの言葉に、首を横に振った。

 そしてオレの常識をいとも簡単に壊して見せた。

 

 彼女がオレの目の前でその異能を使ったのだ。

 原作を忠実に再現した。コスプレイヤーには、人間には絶対できないはずの風を司る能力を。

 

 そして極めつけとばかりに彼女はオレの事を「お父さん」と呼んだ。

 

 あり得ない……しかし否定できる材料がなかった。

 故に認めるしかなかった。

 彼女はオレが作り出したヒロインと同一人物であると。

 ヴェーチェル・ディザスタ本人であると。

 

 認めてからは早かった。

 原作通りならその気になれば地球を滅ぼせる力を持つ災禍姫を、そう易々と放っておけるわけがなく。

 監視の意味を込めて自宅へと呼び込んだ。

 

 まぁ、流石にヴェーチェルを産み出したのがオレとは言え、男女が同じ空間に生活することは恥ずかしく、二階を使ってもらうようにお願いしたが。

 

 ――いや、今はそんな話はどうでもいいのだ。

 問題は、これからどうするか……だ。

 

 振り返りを止めて、思考を巡らせる。

 

 ヴェーチェルが具現化した以上、他の災禍姫達が具現化しないとは限らない。

 

 その時ヴェーチェルのように、問題を起こす前に自分に会いに来てくれればいいのだが、そうじゃない可能性も十分にある。それこそ災害規模の問題を起こすこともあり得た。

 

 ヴェーチェルの見た目を見てみれば分かるように、彼女の容姿はゲームからそのまま飛び出してきたと言われても信じられるようなレベルが高いものになっている。

 

 もし、それが他の災禍姫も同じなのだとしたら。

 問題を起こしているところを災禍姫を知る第三者に見られていたとしたら。

 

 責任を取らなくてはいけないのは……産み出した原作者(オレ)……なのではないか……?

 

 責任を取ることがなかったとしても、バッシングは絶対に免れないだろう。

 

「はぁ……」

 

 深く溜息。

 ふと視線を天井に向ける。

 

 眠ってしまったのか、先程まで聞こえていた二階からの物音はなくなっていた。

 

 再度溜息。

 

 時計の秒針を刻む音と自身の呼吸音だけが響く部屋の中でオレはこの日、眠れない夜を過ごした。

 

 

 



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10

 

 

「あー……掃除の途中で寝ちゃってたのか」

 

 

 まだ夜が明けきる前に目を覚ました俺は、自分がベッドの上ではなく、固い床の上で寝ていたのを見てそう確信する。

 

 まぁ、昨日は色々と波乱万丈だったから仕方がないか。

 

 そんなことを考えながら目を擦り、大きく伸びをした俺はゆっくりと階段を降りた。

 

 

 目的は勿論、朝御飯を作るためだ。

 いつまでもカップヌードルじゃ幾らなんでも体に悪すぎる。

 矢野が倒れたら困るのは矢野だけでなく俺もなのだ。

 

 矢野は流石にまだ起きていないらしい。

 一階に着くと、リビングのソファーの上で眠っている彼の姿が見えた。

 

 起こさないように、そっとその脇を通り抜け、台所へ向かう。

 

「よし、じゃあ作るか……」

 

 そう宣言して、冷蔵庫を開けた俺は、

 

「……まぁ、そうだよな……毎日カップヌードルだもんな……あるわけないよな……」

 

 買い物(そこ)からか……

 

 と、何もない冷蔵庫を見て深く溜息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜明け前だからか外に人の姿はほとんどなく、幸いにも近所にコンビニがあったので食材はそこで購入。勿論自腹。

 

「なにやってんだろうな……俺」

 

 ただでさえ少ないお金を他人の為に使うなんて…………絶対食費は貰おう……

 

 なんて考え事をしながらやっていたからか、気づけばかなりの量の料理が完成していた。

 

 うん……こりゃ多すぎたわ。

 

 明らかに朝食の量じゃない。

 どうするかな、これ……。

 朝と夜で食べるとしても食べきれるかどうか……ま、まぁ矢野に弁当として持たせればいいだろ。

 

 とりあえず食器棚を漁ってみたら、埃を被ったタッパーがあったので、洗剤で洗い、中に詰めていると、微かに物音が聞こえた。

 

 矢野が目を覚ましたのだろう。

 

「……なにやってんだ?」

 

 一分と経たずにやって来た矢野に、俺は、笑顔を貼り付け言った。

 

「見て分からない? 朝御飯とお弁当を作ってたんだよ、お父さん」

 

 唖然とした矢野の顔が印象的だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なぁ、矢野。そろそろ飯食いに行かないか? 向かいの通りにいいラーメン屋が出来たんだ」

「中川か……」

 

 パソコンと向かい合い、シナリオの構成をウンウンと考えていると、友人であり数少ない同期の一人でもある中川が声をかけてきた。

 

 中川とは普段から同じ食卓で飯を食べる仲。いつもなら断る理由はない。そう、いつもなら。

 

 しかし、

 

「悪いな、弁当があるから今日は遠慮しとく」

 

 オレは今朝ヴェーチェルから渡された弁当を一目し、中川の提案を断る。

 

 何を考えてヴェーチェルがオレに弁当を作ったのかは知らない。が、 作ってもらった以上、完食しなければ彼女の機嫌を損ねることになる可能性がある。

 それは駄目だ。災禍姫の中でも特別扱いにくい性格――一言で言ってしまえば"電波"なヴェーチェルのことだ。

 

 完食しなかった――ただ、それだけの理由で癇癪を起こし災害を撒き散らす可能性も否定できない。

 

 と、そこまで考えて現実に意識を戻すと、目を丸くしてポカンと口を開けたまま石像と化した中川の姿があった。

 一拍置いて、中川がグイッと驚いた表情のまま顔を寄せてきた。

 

「え、矢野が弁当? 時間が勿体ないってご飯を全てインスタントで済ますお前が!?」

「やめろ。顔を寄せるな、唾かかるだろ」

 

 慌てて手で追い払うと、距離を取った中川は思案顔を作り、やがて指をパチンと鳴らした。

 

「ははーん、さては彼女でもできたな」

「いやホント彼女ならよかったんだけどな」

「え、じゃあ誰に作ってもらったんだよ?」

 

 先程の推測に余程自信を持っていたのか、唖然とした表情で訊ねてくる中川。

 

 一瞬どう誤魔化そうか考えたが、オレと中川は結構深い仲だ。曖昧な回答は通じない。

 それにいちいち言い訳を考えるのもめんどくさい。

 少し迷ったが正直に話すことにした。

 

「実はヴェーチェルが作ってくれたんだよ」

「ヴェーチェル? 外人さんか?」

「いや災禍姫のヴェーチェルだが……」

 

 オレが告げると、何故か中川は可哀想な人を見るような目を向けてきた。

「お前仕事のしすぎだよ……。まさか幻覚を見るなんて…………うん、お前はもう帰れ。そして当分来るな。上司には俺から話通しておくからさ」

「ちょっ、中川!?」

「はやく帰れ!」

 

 そのままオレは追い出されるようにして会社を出た。

 

「いや……なんでこうなったんだ……」

 

 その呟きは誰にも届くことはなかった。

 

 

 

 

 



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11

「あー……」

 

 

 矢野を見送ったあと、俺はすぐさま部屋に戻り、ベッドの上にダイブした。

 

 

 あれだけ汚かった二階の掃除もチート性能なこの体(ヴェーチェルボディ)のおかげで昨日のうちに終わったし、矢野も会社に行っていていない。

 ゲームはないし、マンガもない。

 

 

 つまり、特にやることがないのだ……。

 

「……暇だなぁ」

 

 

 ベッドの上で寝転がりながら一人呟く。

 

 

 

 

 ―――一日中惰眠を貪る。

 

 

 前はそれだけで幸せだなと思えたのに、この体になってからは、そうは思えなくなった。

 

 

 燃費が良すぎるというのも考えもので、この体(ヴェーチェルボディ)は無駄な睡眠を取ることが出来ないのだ。

 今も目が冴えていて、目を閉じてもすぐに開けてしまう現状。

 

 

 自宅に引きこもっていた時は、携帯を見て時間を潰せたのでそこまで暇だと思わなかったが、最近はどうも携帯を開く気にはなれない。

 あの記事を見て以降、ネットに繋ぐことに抵抗があった。ぶっちゃけ、トラウマだ。

 

 それこそ本当に重要な時以外には使わないと決意をするぐらいには。

 

 

 

 

 その為、俺は。

 

「暇暇暇暇暇暇暇……」

 

 こうして呪詛のように同じ言葉を連呼し、足をバタバタと上下させるほどに暇を実感していた。

 

 

 

 常々思う。

 

 ――暇なことがこんなに苦痛だとは思わなかった……と。

 

 

 永遠に暇な時間が続けば良いのに……とか長期休みに入る度に、何度か考えたことがあるが、実際に本当の『暇』を体験してみると三百六十度見方が変わる。

 

 

 正直、ただの地獄だ。学校行ってた方が刺激があるだけ何倍もマシだった。

 

 

 引きこもり生活は今日だけではない。

 今後ほぼ毎日。

 こんな退屈な日々をこれから毎日送っていくなんて、とてもじゃないが耐えられない。

 

 

 

 故に――

 

「ゲームでも買って貰おう……そうしよう」

 

 ――故に俺は決意した。矢野が帰ってきたら脅してでも暇潰し(ゲーム)を買ってもらうと。

 

 

 

 

 ――早く帰ってきてくれないかなぁ……

 

 そんなことを考えながら、俺は全然動かない時計の針を睨み付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 矢野が帰ってきたのは昼過ぎだった。

 早く帰ってきてほしいとは思っていたが、流石にそんなに早く帰ってくるとは思いもしなかったので、急いで階段を降りて話を聞いたところ……。

 

「いや、オレにもよく分からないんだが……当分会社に行かなくていいらしい……安静にしておけだってさ……」

 

 矢野は困った表情で何かよく分からないことを言っていた。

 

 

 いや……マジで何が起きたんですか……? 会社ってそういうものなんですか?

 

 

 

 と、まぁまぁ、言いたい(ツッコミたい)ことが沢山あるが。

 

 

 

 

 ……とりあえず……グッジョブ! これでやっと暇を潰せる。悪く思わないでくれよ、矢野。

 

 

 

 

 

 俺は矢野の肩に手を置き、ソッと耳元で囁くようにして言った。

 

「ねぇ、お父さん。暇…………私、超暇なの……このままじゃ暇すぎて、暴走しちゃうかもしれない…………何が言いたいか分かるよね?」

 

 

 



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12

 なんでこうなった……。

 

 

 

 

 公共バスに揺られながら、俺は数十分前の行動を悔いる。

 

 

 あのとき、もっとストレートに"ゲームを買ってほしいです"……と伝えておけば……こんなことには……ならなかったのに…

 

 

 後悔先に立たず。

 俯き、頭を抱えていると、矢野が腫れ物を触るかのような態度で話しかけてきた。

 

 

「ほら、ヴェーチェル。もうすぐだぞ」

 

 

 矢野の言葉に、俺は顔を上げ、窓から景色を覗く。

 

 窓の先には、確かに観覧車やジェットコースターのレールなどか見えた。

 

 ――そう、俺たちはゲームを買いにゲームショップへ……ではなく町外れにある遊園地に向かっていた。

 

 

 発端は明々白々たるもので、俺の脅し。

 

 ゲームが買ってほしいと遠回しに訴えた、その言葉を、実質産みの親である矢野は、遊園地に行きたいと受け取ったらしい。

 

「じゃあこれから遊園地に行くか」と焦りながら言われたときは、逆にこっちが焦った。

 

 いや、だってねぇ……遊園地とか人絶対多いじゃんか……。

 そもそもの話、矢野に適当にゲームを買ってきてもらおうと思ってたのにいつの間にか俺も外出する前提になってるし……。

 しかも、違うって否定したくても、確かに公式設定では好きな場所は遊園地になってるから否定できないっていうね…………

 

 

 気がついたら完全に詰んでた。

 やっぱ脅し(なれないこと)はするべきじゃない……。

 

 

「――ホントだ」

 

 

 内心後悔し続けながら、俺は、矢野に怪しまれぬようヴェーチェルを演じる。

 

 

「はは……ヴェーチェル、他の人たちもいるし、バスでは静かにな…………あと、髪がフードから少しはみ出してるからしっかり隠してくれ」

「うん」

 

 軽く返事を返し、フードを被り直す。

 

 ただでさえ、人の目に付きやすい遊園地だ。

 ここでフードが脱げたりしたら……考えただけでも恐ろしい。

 

 ――ジェットコースターには絶対乗れないな……まぁ、フードじゃなくても乗るつもりはないけど……

 

 あの恐怖は二度と体験したくない……一年前に友人達と訪れた遊園地での出来事を思い出していると、バスが停車した。

 間を開けず、目的地に着いた主旨を伝えるアナウンスが流れる。

 

 

 

「なぁ、ヴェーチェル。まず何から行きたい?」

 

 

 ドアが開き、ゾロゾロと周りの人たちがバスから降りていく中、矢野がこちらを向いて訊ねてきた。

 

 

 ――そんなのテキトーに回ればいいじゃん……あっ……

 

 

 そう言葉に出そうとして、気付く。

 

 俺の暴走を重んじていたのか、焦りしかなかった矢野の表情に、微かに弛みが見えた。

 

 

「――ねぇ、お父さん」

「ん?」

「お父さんって最後に遊園地に行ったのっていつ?」

「え? あ、うーん……覚えてないな。少なくともここ数年は行ってない」

 

 

 そっか。そうだよな。社会人って忙しいもんな……

 

 納得する、と同時に決意を固める。

 

 

 ――よし、決めた。せっかくの機会だし、どうせならこの際――

 

 

「じゃ、そろそろ行こう」

「ちょ、おい、引っ張るなって。て、ヴェーチェル!?」

「あはは。早く早く」

 

 

 

 ――矢野を目一杯楽しませよう。

 

 その一心を抱いて、俺は矢野の腕を引き、駆け出した。

 

 

 

 



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13

「まずはあれ乗ろう!」

 

 

 園内を移動すること二分。

 

 矢野を楽しませると言っても、何から乗るべきか分からず、とりあえず手当たり次第にと、俺は最初に目に付いた、アトラクションの一つであるコーヒーカップを指差した。

 

 

「へぇ……ティーカップか」

「コーヒーカップだよ、お父さん」

「……英語圏の国ではティーカップと呼ぶのが基本らしいぞ……」

「ここ日本だし、そんな情報どうでもいいよ」

 

 

 平日だからか、どのアトラクションも然程混んでおらず、そんな他愛のない会話を交わしながら待つこと暫し。

 

 列が進み、いよいよ次は俺たちの番になった。

 

 

「はい、次の方どうぞ」

 

 先程まで乗っていた人たちが退場すると同時にアトラクションのドアが開く。

 

 

「どのカップがいいかな?」

「どれでも一緒だろ、早く乗ろうぜ」

「まぁ、そうだね」

 

 

 適当なカップに乗り込むと、俺と矢野は対面するようにして座る。

 間をおかず、ポップな感じの音楽が流れ、カップが動き始めた。

 

 

「……回さないのか?」

「……え」

 

 

 ハンドルを回さずとも多少は回転するようで、暫らくのんびりとした時間を満喫していたら矢野からそんな言葉をかけられた。

 

 一理ある。確かに、ヴェーチェルなら本気で回すだろうなぁ……

 

 あははと声をあげながら全力でハンドルを回している姿が容易に想像できる。

 

 ――そんなわけで俺は即座に目の前のハンドルを取って勢いよく回した。

 

 文字通り全力で。

 

 風を操る能力(・・・・・・)を含めた俺の全力を加えたコーヒーカップは、凄まじい速度で視界をグルグルと回らせていく。

 

「ちょっ、ヴェーチェル!? 流石に回しすぎだろぉおおおおっ!!?」

「まだまだいくよ、お父さん」

「余計なこと言わなければよかった!!?」

 

 超高速で入れ替わる景色。

 流石にこの体でも目が回るのは避けられず、頭が多少クラクラしてきた。

 

 尤もこの特殊な体じゃなければ多少どころか、確実に酔っていたことだろうが。

 

 そんなことを考えながら、ふと、先程までギャーギャー叫んでいた矢野が静かなことに気付く。

 

 視線を移してみれば、顔を青くして口元を抑える、今にも吐き出しそうな矢野の姿が目に入った。

 

「ヤバい……吐きそう」

 

 ガチトーンである。

 

 そんな爆弾発言をした彼と狭いカップの中、対面するのは俺。

 間違いなく直撃コース。

 

「お、お父さん。お願いだから耐えて……」

 

 生憎と嘔吐物を受け止める甲斐性、あるいはマゾッ気は俺には存在しない。

 

 慌ててハンドルを逆方向に回して速度を一気に落とす。

 それとほぼ同じタイミングで歌が止まり、カップがゆっくりと、完全に停止した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 散々な目に遭った。

 まさかメルヘンチックなティーカップで、絶叫系顔負けの地獄を味わうとは思わなかった……。

 

 アトラクションを出てすぐにベンチに向かったオレは、背もたれにもたれながら、小さく息を吐いた。

 

 休息を取ってから早五分近く。

 峠は越したみたいで、既に吐き気はないが、未だにベンチから立ち上がる気になれないでいた。

 

 その大きな理由が、周りにヴェーチェルの姿がないこと、だ。

 

 ヴェーチェルはオレがベンチに座るのを見届けると同時にどっかへ歩いていってしまったのだ。

 

 まぁ、大体想像はつく。

 

 

 恐らく一人で違うアトラクションを楽しんでいるのだろう。

 何事よりも楽しいことを優先する。

 

 

 ヴェーチェルをそんな性格に設定したのはオレだ。

 だから、冷たい奴だとか非難するつもりはないが……せめて目の届く範囲にいて欲しかったと心底思う。

 公共の場でヴェーチェルをフリーにしとくとか……もう不安で仕方ない……。

 

 いや、ホントにやらかしてなければいいが……

 

 

 

 

「――はうわっ!?」

 

 

 なんて考え事をしていると、不意に後ろの首筋に冷たい感触がして、思わず変な声が出た。

 

 即座に振り返ると、水のペットボトルを片手に持ったヴェーチェルが立っていた。

 

 十中八九、先程の冷たい感触はペットボトルを当てられた時のものだろう。

「はいお水。遅くなってごめんね、自動販売機が中々見つからなくって……」

 

 自然とした仕草で、オレの右側に腰掛けたヴェーチェルが、ペットボトルを差し出してくる。

 

 

「えっ? もしかして、今まで自販機を探していたのか……?」

「うん、そうだよ?」

 

 

 当たり前のことだと言わんばかりに平然と答えるヴェーチェルに、オレは呆然としてしまった。

 

 

 確かにオレのことをお父さんとは慕ってくれてはいるものの、ヴェーチェルの本質は基本『自由気まま』。何度も言うが、彼女は楽しいことしかやらない。

 

 だからこそ、ヴェーチェルがアトラクションよりもオレのことを優先するなんて思ってもいなかった…。

 

 

 恐らくこれも、弁当を作ってくれた時と同じで、気まぐれなのだろう……。

 

 

 だが、 

 

「? どうしたの?」

「何でもない。それよりも悪かったな、もう大丈夫だ。次のアトラクションに行くか」

 

 

 例え、それが気まぐれだとしても、『嬉しかった』ことに変わりはない。

 

 

 ――今日は思いっきり楽しませてやるか…

 

 

 気がつけば軽くなっていた足で、ベンチから立ち上がったオレは、次のアトラクション目指して歩き出した。

 

 



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14

 次に俺たちが向かったのは遊園地の定番中の定番、お化け屋敷だった。

 

 

 

 和風な外観の建物の周囲には、壊れたラジオや、首のとれた日本人形。赤い染みの着いた鉈などが無造作に置かれており、また、待ち時間の間に館内から聞こえてくる悲鳴も合わせて、いかにもな雰囲気を醸し出している。

 

 

 その雰囲気に呑み込まれているのか、周りの人たちも一切声を発していないことも一層不気味さを掻き立てていた。

 

 

 そういえばここの遊園地のお化け屋敷は、怖いランキングにも載っていたっけ……

 

 なんて今更ながらに思い出す。

 

 

 

 まぁ、別に怖くはないんだけど……。

 

 

 今はお化けなんかに怖がってる余裕がないというかなんというか……

 ぶっちゃけ、ゲームのキャラになってしまっている今の俺の状況の方が怖い。

 

 例え本物が出ても怖いと思える気がしなかった。

 

 だが、そんな俺とは違い、矢野はと言うと。

 

 

「へ、へぇ、意外と雰囲気あるなぁ……なぁ、ヴェーチェル……」

「かなり作りも良いし……なぁ、ヴェーチェル……」

 

 めちゃくちゃビビってた。

 

 余裕ぶった態度で構えているが、何度も話しかけてきたり、大きな物音が聞こえてくる度に肩を大きく揺らしていたり、と結構ガチな感じで怖がっている。

 

「……お父さん、もしかして怖いの? 怖いなら別に入らなくても良いんだよ」

 

 矢野を楽しませると誓った手前、苦手なことを無理やりさせるわけにもいかない。

 

「え、あ? ……いや……正直、前までお化けとか信じてなかったんだけどな……」

 

 故にそう提案すると、矢野は困ったように頭を掻きながら、思いもがけないことを宣った。

 

「――ヴェーチェルがこうして現実に出てきたなら、本当にいてもおかしくはない……って思ったんだよ……」

 

 確かに…………いてもおかしくないな…。

 

 むしろ男子高校生がゲームキャラになる確率よりそっちの確率の方が高いだろう。

 

 妙に説得力のある言葉に納得する、と同時に背筋がゾクッとした。

 

 

 ……前言撤回だ。さっきは本物が出て来ても怖くない……って思ってたが、やっぱり本物が出てきたら怖いかも知れない。てか本物じゃなくても怖いかも……

 

 

 …駄目だ。そんなことを意識したからか、目の前のお化け屋敷が急に禍々しく見えてきた……。

 心なしか心臓の鼓動が早くなってる気がする。

 

 

「……怖いなら別にやめても良いんだよ」

「いや大丈夫だ」

「……ホントに?」

「ああ」

「……そう」

 

 明らかに怯えているのに、矢野の意思は固い。

 俺としてはどうにか入らない方向に持っていきたかったのだが…………そこでタイムアップだった。

 

 

 そうこうしているうちに順番が回ってきていたらしい。

 

 

『……次の方……どうぞ……』

 

「「ひぃっ…… 」」

 

 ギィと誰もいないのに勝手に開く扉に、思わず悲鳴が漏れる。

 

 いや、落ちつけ俺。さっきも開いてた所見ただろ……。そういう仕様なんだってば……。

 

 

『ザザッ――……ではお入りください……―』

 

 

「じゃ、じゃあ行くぞ、ヴェーチェル」

「え、あ、うん……」

 

 入口の壊れたラジオから聞こえる無機質な音声案内に従い、屋敷へと足を踏み入れる。

 

 

 屋敷の中は薄暗く、ひんやりとしていて、やけに静かだった。

 お化け屋敷特有のBGMは一切流れておらず、ギシギシと足元の床が軋む音の他にはバクバクと鳴り止まない自身の心臓の音しか聞こえてこない。

 

 

「な、なぁ、あの角……何か出てきそうじゃないか……?」

「そ、そうだね……」

 

 

 長い廊下を真っ直ぐ進んだ先の曲がり角を前にして、矢野が立ち止まる。

 

 矢野が言う通り、視線の届かない曲がり角は人を脅かすのには絶好のスポットだ。何かが潜んでいてもおかしくはない。

 

 

 入念に警戒をしながら、ゆっくり歩を進める。

 

「行くぞ……」

「うん……」

 

 

 そうして見た角の向こうには……何もなかった。同じように廊下が続いているだけ。

 

 無意識のうちに警戒を解いてしまったのだろう。

 ホッと息を吐いた、瞬間だった。

 

 横からガタンと音がした。

 

「へっ?」

 

 

 嫌な予感がして、恐る恐る音がした方を見ると。壁に大きな穴が開いていた。そして穴から呻き声と共に這い出てくるのは、ギョロりとした大きな目とヤツメウナギの様なグロテスクな口が特徴的な赤く染まった人形(ひとがた)

 

 

「…………ッ!!」

 

 迷わず背を向け駆け出そうとした時、視界を塞ぐように上から落ちてきたのは……生……首…………で。

 

 

 

 この日、俺は、人は本気で恐怖を感じると声が出ない生き物だと言うことを知った。




後書き
次話 遊園地 終


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15

 

 日が落ちかけ、辺りが真っ赤に染まり始めた頃合い。

 

 

 

 

 今しがたアトラクションの一つである『ミラーハウス』から出た俺は、大時計の方へ視線を向けた。

 

 時刻は十七時四十分。

 

 

「あと二十分か」

 

 

 

 この遊園地は十八時閉園の為、もうじき退園の時間だ。

 残り時間を考えると精々遊べてあと一アトラクションと言ったところだろう。

 

 と言っても、ジェットコースターやバイキングなどフードが脱げる恐れのあるもの以外はほとんどが既に遊び済み。

 

 もう切り上げて帰るのも良いかもしれないな。

 

 

 

 なんて考えていると、同じく時計を見ていた矢野が声を上げた。

 

 

 

「やっぱ締めと言ったらあれだよな」

 

 

 そんな矢野が指差す方向にあったのは、大きな観覧車だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間が時間なため、切り上げる客が多いのだろう。並ぶことなくすんなりと観覧車に乗り込むことが出来た。

 

「では行ってらっしゃい」

 

 係員が扉に鍵を閉め、程なくして観覧車はゆっくりと上昇を始めていく。

 

 観覧車が一周回るのにかかる時間はおおよそ五分。

 

 内部には椅子が備え付けられているが、別段疲労がなかった俺はそのくらいの時間なら、と立ったままガラス張りの向こうの景色を眺めていた。

 

 

 時間が経つに連れ、うっすらと見えてくる町の全貌。

 

 夕日の赤い光に照らされた町の光景は、とても綺麗で、どこか懐かしい感じがした。

 

 

 

 

 ――昔、こういう光景を誰かと見た気がする。

 

 誰と見たんだっけ……思い出せない。

 

 

 

 

「ヴェーチェル」

「なに、お父さん?」

 

 

 頂点の高さを少し過ぎた辺りで、椅子に腰を掛け、景色を見ていた矢野が訊ねてきた。

 

 

「今日は楽しかったか?」

「うん、とても」

 

 俺の口から自然と漏れたのは、本心からの言葉だった。

 

 

 矢野を楽しませることを目的としていた筈なのに、いつの間にか目的を忘れて楽しんでいた。

 

 

「そりゃよかった」

 

 

 安堵の息を吐き、そう溢す矢野に、気付けば俺は口を開いていた。

 

 

「……お父さんは?」

「ん?」

「お父さんは……楽しかった?」

 

 

 俺と一緒にアトラクションを回っていた矢野は楽しそうにはしていたと思う。

 だが、それはあくまで俺の主観。

 

 

 俺《ヴェーチェル》の機嫌を損ねない行動を心がけている矢野は、「楽しくなかった」と思っていても「楽しかった」と答えるだろう。

 

 だけど、それでも本人の口から感想が聞きたかった。

 

 

 

 こんな弱気な態度、ヴェーチェルらしくない。

 

 

 

 分かっている。

 

 

 

 

 

 

 

 現に、矢野はそんな俺の態度に驚いた表情を見せた。

 が、それも一瞬のこと。すぐに照れ臭そうな笑みを浮かべて頷いた。

 

 

 

「あぁ、楽しかったよ。こんなにはしゃいだのは学生以来初めてだ」

「――ッ!」

 

 

 それは限りなく満点に近い、間違いなく欲しかった言葉――――

 

 

 

 

 ――だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、

 

 

 

 自分の中に浮かび上がったのは……喜びとは違う、それどころか喜怒哀楽とも結び付かない感情で。

 

 

 

 それが何なのかを理解した瞬間、言葉を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……何だ……今のは……

 

 

 いや、気のせいに決まってる……

 

 

 そうじゃなきゃあり得ないだろ……

 

 

 

 矢野の笑顔を見て、『壊したい』だなんて……思うはずがない……

 

 

 

 

 

 



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16

 どこまでも澄みきった快晴の下。

 

 茹だるような暑さに浮かんだ汗をタオルで拭きながら、俺は一年通ってすっかり馴染んだ教室のドアを開けた。

 

 

「おはよー……」

 

 

 我ながらか細く情けない声が出た。

 小さく目立たない挨拶。

 

 これだから陽キャになれないのだと、小さく苦笑しつつ、仕切りを潜ろうとして気づく。

 

 皆が、クラス全員が、俺の方をジッと見つめていることに。

 

 

 遅刻したわけでもない。

 特別物音を立てて教室に入ったわけでもない。

 

 

 後ろに誰かいるのかと振り返ってみるも誰もいない。

 

 なのにも関わらず、皆視線は変わらず俺へと注がれ続けている。

 

「……なんだよ…なぁ、圭介? 」

 

 居たたまれなくなり、親友に疑問をぶつけると、圭介は心底不思議そうな顔を作って、告げた。

 

「貴方は……誰ですか?」

 

「は? いやいや冗談はよせって。森島だよ。森島由宇。ほら、そこに席もあるじゃn......――」

 

 

 一瞬何を言われたのか分からなかった。

 が、どうせドッキリか何かだろう。そう考え、自分の座席を指差そうとした俺は固まった。

 

 何もなかった。自分の座席があった場所には何も物がなかったのだ。

 

 座席だけを取り除いた不自然に空いた空間に、俺は怒りを通り越して呆れを覚えた。

 

 空いたスペースに机を詰める訳でもなく、そのまま放置。これだけあからさまということは十中八九冗談のつもりなのだろう。そう判断したからだ。

 

 

「……おいおい、お前ら……質の悪いドッキリはほどほどにしとけよ。マジで虐めかと思ったじゃんか。で、どこに隠したんだよ……?」

 

 

 これでこのドッキリは終了。またいつも通りの日常が始まる。

 そう思っていた。だが、

 

 

「いや、だから君は一体誰なんだ?」

 

 同じ疑問を再度投げ掛ける圭介の表情は真剣そのもので……。

 

 

「……は? さ、流石に度がすぎるぞ……もうすぐ先生が来るから…………さ…………?」

 

 

 何故か圭介が懐から出した手鏡に俺は言葉を失った。

 

 足に付き添うなくらいの緑の長髪に、目映く光る金の瞳。

 水色のブラウスに、デニムのショートパンツ。

 そして服を僅かに押し上げる双丘。

 

 映っていた俺じゃない俺の姿に……固まっていると再度、圭介は告げる。

 

 

「なぁ、お前は一体誰なんだ?」

 

 

 まるで無機質な機械音のような声色で告げる圭介に俺は何一つ言葉を発することが出来なかった。

 

 

 俺は……俺は、一体…………

 

 誰なんだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

「はっ!? 」

 

 

 目を開くと、そこに圭介の姿はなかった。

 ていうか教室ですらなかった。

 

 先程までの光景が綺麗さっぱり消え去って、代わりに見覚えのある木目がついた天井が視界一杯広がっていた。

 

 

「――夢か……」

 

 

 チュンチュンと小鳥の囀ずり音を耳にしながら、ベッドからゆっくりと起き上がる。

 

 

 嫌な夢を見ていた。

 とても嫌な夢を。

 

 ……いや、あれは本当に夢……だったのだろうか。

 親にも先生にも俺の存在が忘れ去られてしまった現状、クラスメイトや友人が俺のことを覚えている可能性の方が低い。

 

 

「……結構堪えるなぁ……」

 

 

 今まで気にしないようにしていたが…………実際にあんな風に正面から俺のことを知らないと言われると、例え夢とは言え、精神的に来るものがある。

 

「…………はぁ……」

 

 

 森島由宇として生きてきた俺のことを覚えているのは俺だけ……か。

 

 

 

 ……絶対に……絶対に俺だけは俺のことを忘れないようにしよう……だって――

 

 ――そうしなきゃ、俺の、森島由宇のこれまでの人生が完全に否定されてしまうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――俺が翡翠のヒロインになってから5日目の朝が来た。



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17

「やべぇえ!!! 遅刻だ!!?」

 

 

 

 よほど昨日の疲れが残っていたのだろう。

 

 矢野が目覚めたのは俺が朝食を作り終えてから、暫く経ってのことだった。

 

 

 

「当分会社に行かなくていいんじゃなかったの?」

 

 

 

 俺は暇潰しに弄っていたルービックキューブを適当に投げ捨てると、そんな悲痛な叫び声と共にリビングのソファーから飛び起きた矢野をどうどう、と抑え込む。

 

 矢野は初めは何を言われているのか理解していない表情をしていたが、少しして頭が回り始めたのか思い出したかのように「あー!」と声を上げた。

 

「そうだ……休みだった………………よかった…………寿命縮んだわ……」

 

 安心して力が抜けたのか、だらりとソファーに凭れ手足を脱力させる矢野に、俺は苦笑して、一拍置いてから告げる。

 

「改めておはよ、お父さん。大分冷めちゃったかもしれないけど、朝御飯持ってくるね」

「え、あっ、あぁ。おはよう、ヴェーチェル……今日も作ってくれたのか。何か悪いな。何なら俺が持ってこようか?」

「ううん、大丈夫だよ。そこで座ってて。すぐ持ってくるから」

 

 再び体を起こそうとする矢野にそう声をかけてから、俺は身を翻して台所へ向かう。

 

 

 ――あー……やっぱり冷めちゃってるな。

 俺自身、冷めた食事は意外と好きだったりするんだけど……こればかりは人の好みだから何とも言えない。矢野も冷めた食事もイケるタイプの人ならいいんだけど……

 

 

 そんなことを考えながら、すっかり熱を失ってしまった朝食の皿を持って戻ると、はい、とソファーの前にある机に置き、矢野の隣に腰を下ろした。

 

 

「昨日といい、今日といい。ホントありがとう……」

「ん、住まわせてもらってるお礼だから気にしないで。それよりもお父さん、冷めたご飯でも食べれる人? 何ならレンジで温めてもいいけど……」

「え? いや、大丈夫。冷めてても全然イケる」

「あ、そう。よかった。なら食べよっか」

 

 

 そんな僅かな会話を挟み、一つの皿に盛り付けた野菜炒めやスクランブルエッグをおかずに白米を箸でつつく。

 

 

 

 特に話すこともなく、静かな時間が穏やかに流れる。

 

「……なぁ、ヴェーチェル」

「ん、なにかな? お父さん」

「今日は何がしたいんだ?」

 

 

 再び会話が始まったのは、食事も終盤に差し掛かった頃だった。

 

 やはり昨日で大分距離が近づいたとしても、行動が読めない不思議キャラとされる俺《ヴェーチェル》を信じきることは出来ていないようで。

 顔色を窺いながら発言する矢野に、俺はすかさず苦笑で返した。

 

 

 

「いいよ、今日は。お父さん、昨日の疲れがまだ残ってるでしょ。せっかくの休みなんだしのんびり家にいなよ。それに――」

 

 

 

 

 ――今はそんな気分じゃないし。

 

 

 

 

「ごちそうさま。じゃあ食器洗うから食べ終えたら持ってきてくれるかな」

 

 

 喉まで出かけたヴェーチェルらしくない言葉を飲み込み、俺は逃げるように台所へと向かった。



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18

 ガチャガチャ。そんな無機質な音が静かな部屋に響く。

 

 洗い物を終わらせたあと足早に部屋に戻った俺は、一人仰向けでベッドに転がりながらルービックキューブを弄っていた。

 

 

 ルービックキューブは幾度か遊んだことがあり、その腕前は俺の唯一の取り柄といっても過言ではないと自負している。――のだが。

 

 

 ルービックキューブを弄り始めてかれこれ一時間以上、矢野を待っている間を含めると二時間以上経っているが、一向に面が揃う気配はなかった。

 

 

「痛っ……」

 

 

 それどころか、俺の顔面に手から滑り落ちて衝突する事態だ。

 しかもこれで累計八回目である。 

 

 

 

 そう、何を隠そう。俺は集中出来ないでいた。

 

 原因は言わずもがな。今朝見た夢のせいだ。

 あの夢の内容が頭から離れない。

 正夢だと考える自分と、嘘っぱちだと考える自分がいてどうにも集中が削がれる。

 

 こうして痛い思いをしても、すぐにまた夢の内容がグルグルと頭の中を渦巻いていき、集中力が削がれ、やがて手からルービックキューブが落ちる。先程から繰り返している現象だ。

 

 こんな毛ほどもない集中力だから朝食を作るときも大変だった。

 初めは卵焼きを作る予定だったのに何故かスクランブルエッグが出来てたし……もうミスの連発。細かいミスは何度したか覚えていない。

 

 本来なら恩返しの一貫として毎食作ってあげる予定だったが、流石にこの調子じゃ今日は作れそうにない……か。事故ったら悪いしな。

 

「痛っ……」

 

 なんて考えていたら、再度衝突。

 これで九回目か。うん。

 

「もうやめよ」

 

 いささか決断が遅すぎる気がしないでもないが、俺はルービックキューブを床に落とすとチクタクと忙しなく動く時計を見つめた。

 

 

 

 

 あと十三時間。あと十三時間で今日が終わる。

 そうしたら明日はきっといつものように本調子に………………

 

 ……本調子に戻れるのか?

 

 当たり前のように、今日が過ぎれば終わること、そう考えていたが本当にそうなのか。

 

 そんな疑問が頭に浮かぶ。

 

 ヴェーチェルになった時もそうだ。明日には戻れる、そう楽観していた結果はこのザマだ。

 

 同じように、この調子が毎日続いてみろ……恩返しが出来ないどころか、矢野の前で致命的なボロを出す可能性も否定できない。

 

 ……うん、早期解決が望ましいな。 

 

 

 要は夢の真相が気になるわけだ。なら実際に圭介に会ってみるのが一番早いだろう。

 

 思えば、ヴェーチェルになって以来、森島由宇としての知り合いに会っていなかったし、会うことで元の身体に戻れる進展があるかもしれない。

 外は怖いが、恐怖心を差し置いても行く価値はある。

 

「よし」

 

 思い立ったら即行動。

 俺はベッドから立ち上がると、フードを深く被って部屋を出た。



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19

 容姿、成績、運動と平均的な能力しか持たない。重い病気を患っているわけでもないが、病気にかからない、なんてこともない。これと言った特技もなし。ごくごく一般的な普通の男子高校生。

 

 安直且単調でありふれたプロフィールだが、他者だけでなく自分もそうであると認めているのだから誤魔化しようがない。

 要するにツマラナイ人間、或いはモブ。

 

 それが俺、原圭介だ。

 

 しかし、まぁ。

 敢えてそのプロフィールに付け足すことがあるとするならば……ボッチであること、そして何かを忘れている、かも知れないことだろう。

 

「何を忘れているんだろうか」

 

 昼休み。教室で昼食を食べている最中、ふとした拍子にボソッとそんな言葉が口から出た。

 

 いけねっ。

 素早く口を閉ざしたが、幸いにも俺の言葉はクラスの狂騒で掻き消され級友達には届かなかったみたいだ。

 

 危ない危ない。ただでさえボッチで印象悪く思われているのに、独り言まで呟き始めたらますます距離を置かれてしまうところだったぜ。

 

 ほっと、安堵の息を溢して、再び思考の海へと潜る。

 

 何かを忘れている。そう感じるのは気のせいではない。断言できる。

 

 言うならば半身が無くなったかのような、そんな感覚。

 だが、肝心な何が無くなったのかが全くもって不明だ。過去の記憶を幾ら遡ろうと思い出すことができないでいた。

 

 重要なことを忘れているのは分かってるのに……あー、くそ、もどかしいったらありゃしないぜ……。

 

「はぁ……」

 

 ガシガシと頭を掻き、溜め息を吐いた。

 その時だった。

 

「あ、あの原くん?」

「え……あ、はい。何ですか?」

 

 不意に声をかけられ振り向いた先にいたのは、同じクラスメイトながらも数回しか会話を交わしたことがない名も知らぬ女子生徒だった。

 その為、思わず声が上擦ってしまったものの女子生徒は気にした様子を見せず、窓の向こうを指差して、一言。

 

「あの人が原くんを呼んでほしいって言ってたの」

 

 女子生徒が指差す校門の前には、フードを深く被った如何にも怪しい人物が立っていた。

 

「いや、え……誰だ……」

「あー……確かに怪しい格好してるけど可愛い女の子だったよ。なんか……原くんの友達の森島由宇? って人の妹だってさ。じゃ、伝えたからね」

 

 俺に友達? 森島……由宇? いや誰だ。

 どこかで聞いたことがあるような気がしないでもないんだが…………駄目だ分からん。

 

 だが、俺が何かを忘れてしまったタイミングで、俺の知らない人の妹を語る怪しい人物。

 彼女ならば、もしかしたら――

 

「ありがとう」

 

 名も知らぬ女子生徒に感謝の言葉を告げると、俺はまだ中身が残っていた弁当を片付け、校門へと向かった。

 

 ――もしかしたら、俺が忘れてしまったものを知っているかも知れない。

 

 そんな期待を胸に抱きながら。



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20

 校門を背に目を閉じていた俺は、徐々に近づいてくる足音にゆっくりと目を開けた。

 

 偶然通りかかった女子生徒に圭介を呼んできてほしいと頼んでから、まだそこまで時間が経っていないことから察するに急いできたのだろう。別に急かしてはなかったんだが……伝達ミスがあったのかもしれない。

 

「……ごめん……待たせたな」

「ううん、私こそいきなりごめんなさい」

 

 はぁはぁ、と息を切らしながら喋る圭介に俺は小さく頭を下げ、言葉を繋げた。

 

「それで……私が誰かは聞いてますか?」

「あ、あぁ。森島由宇の妹とは……でも、悪いけど森島由宇のことは覚えてないんだ」

「そう……ですか」

 

 やっぱり。

 圭介も俺のことを覚えていない。

 当然か。実の親でさえ覚えていなかったのに、血の繋がりもない言ってしまえば他人の圭介が覚えているはずがないよな。

 

「……ありがとうございました。それと呼び出してしまってすみません。もう去りますね」

 

 結果は悪い方に転がってしまったわけだが、まぁ、これで真相は出た。

 これ以上圭介と話していても、元の身体に戻れるヒントは見つからないだろうし、虚しく哀しくなるだけだ。

 帰ろう……と踵を返そうとして――

 

「あ、待ってくれ!」

 

 ガシッと腕を掴まれた。

 

「何……ですか?」

「ご、ごめん……その……少し話したいことがあるんだけど。いいかな」

 

 正直顔を見るのも辛い。だが、ここで帰ったら、俺はもう二度と圭介に会おうとは考えないだろう。勿論ヴェーチェルの身体のうちはだが、最悪最後の会話になるかも知れない。そう考えたら、頷く以外出来なかった。

 

「それで、何を話したいのですか?」 

 

 まさかナンパ……する度胸はチキンな圭介にはないだろうし…………うん、分からん。

 

 まぁ、何にせよ大した内容ではないだろう。

 最後に軽く雑談をする程度。そう捉えていた。

 

 

 だが、

 

「俺は……何かを忘れている。大切な何かを……そんな違和感をずっと感じてた。だが、今の君の反応で分かったよ。その何かが、森島由宇。俺の友人なんだよな」

 

 だからこそ、確信めいた瞳でこちらを真っ直ぐ見つめてくる圭介の言葉には驚きが隠せなかった。

 

「圭……介……お前記憶が……?」

「いや、残念だけどさっきも言った通り、森島由宇のことは覚えていないよ。顔も知らない。名前と友人であったことだけが知ってる情報さ。唯一の友人を忘れるなんて駄目なやつだね俺も」

 

 圭介は泣き出しそうな表情で虚しく笑いを溢した。

 

「そんなことない。仕方ないんだよ――」

 

 圭介が悪いんじゃない。そもそも誰一人覚えていなかったんだ。その中でも違和感を感じてくれて、こうして森島由宇を見つけ出してくれた圭介にはむしろ感謝したいほどだ。

 

 そう言葉を紡ごうとしたところで、それを妨げるように予鈴のチャイムが鳴った。

 

「ごめん、もう時間がない。本当ならもう少し話したいんだけど……十六時くらいには学校が終わるから、その時にまた会えないかな」

「いいよ。じゃあ、またここで待ってるね」

 

 会話する前まではもう会うつもりはなかったが、思い出す可能性が浮上し始めた今断る理由はない。肯定の意を即答して伝えると、圭介は良かったと笑みを溢した。

 

「分かった。あ、そうそう……最後に一つだけお願いしてもいいかな」

「うん……」

「こんなこと俺が言える立場でもないんだけどさ。君だけは、君だけは森島由宇のことを忘れないでいてくれ。アイツは寂しがりな奴だった……何となくそんな気がするんだ。じゃあまたあとで!」

 

 バタバタと慌ただしく駆け戻っていく圭介の後ろ姿を眺めながら、俺は呟いた。

 

「寂しがりなのはお互い様だろーが、馬鹿やろー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なん……で………どうして……」

 

 夜になっても圭介が現れることはなかった。



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21

 ――何故、どうして。

 ほんの数時間ほど前に約束したばかりなのに。何故来ない。

 約束を忘れた? そうだったらまだいい。

 だけど……もしかして……もしかしたら…………アイツも俺と同じように、存在が……。

 

 嫌な予感が次々浮かんでくる。頼む、外れてくれ。アイツは……アイツだけは…………俺の唯一の希望を壊さないでくれ。

 

 そんな思いを一心に、通い慣れた道を駆ける。

 向かう先はただ一つ。圭介の住居へと。

 ひたすらに全力疾走を続ける。

 

 疲労どころか息切れすらしない身体をいいことに、ただ一度も休めることなく足を動かし続けた。

 

 圭介の住居は集合住宅の一室で、学校から然程離れていないところにある。数字にして二キロ弱といったところだろう。

 故に辿り着くまで数分とかからなかった。

 

 目的地に辿り着いた俺は、すぐインターホンを押した。無機質な音が鳴り、間を開けずドアの向こうから声が投げ掛けられる。

 

「どちら様です?」

 

 声の主は圭介の母だった。

 

「私は圭介…さんの友人の……森島です。圭介さんはいますか?」

「圭介の? 少し待っててください。今呼んできますから、圭介ー」

 

 圭介の母の反応からして、俺同様に圭介の存在が消えている。という最悪な展開ではなかったことにひとまず安堵して――溜め息が漏れた。

 

「あれ……? なんで溜め息が………」

「――はい。誰でしょうか――?」

 

 何故溜め息が漏れたのか。疑問と違和感を抱くが、すかさず圭介がやって来たことで、巡らせ始めていた思考を止めた。

 

「あの、私です。昼頃に会った森島由宇の妹です。十六時頃に――」

「は、昼頃……? それに森島由宇? 悪いけどなんの話か分からない」

「え?」

 

 俺の言葉を遮った、圭介はそもそも、と声を弱冠荒げて続けた。

 

「俺に友達はいないし、必要性を感じない。ましてや君になんて会ったこともない。で、君はなんでそんな嘘までついてわざわざ俺の家に来たのかな。悪戯か? それとも何かの罰ゲームとか?」

 

 ……そういうことか。

 

 怒気を含んだ声に当てられながら、これまでの事情と圭介の発言とを照らし合わせ納得する。

 

 要は圭介もまた忘れてしまったのだろう。

 

 想定外……ではない。約束の時間に来なかった時点でその可能性は考えていた。

 

 ……けど。だけど。

 

 ――希望を魅せてからのこれはあんまりじゃないか……。

 

「はは……」

 

 乾いた笑い声が口から零れ、視界が歪んでいき、全身酷い脱力感に襲われる。

 それでも何とか地面を踏みしめると、俺は圭介に大きく頭を下げた。

 

「ごめん…………帰るね……」

「あ……ああ。こっちもごめん。言い過ぎた……嫌なことがあってさ……って言い訳でしかないよな。本当ごめん。もう悪戯はしないようにな、気をつけて帰れよ……」

「うん、ありがとう圭介。……さよなら」

 

 圭介に背を向けながら俺は、彼と校門で最後に交わした会話を思い出す。

 

「そうだな……あぁ。俺だけは忘れないよ……約束……だもんな」



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22

 薄暗い夜道を、ただ黙々と進んでいた。

 

 どれくらい歩いたのかも分からない。そもそもこれからどこに向かえばいいのかも分からなかった。

 

 しかし、立ち止まってしまうともう進めない気がして、俺は頭に残った約束だけを原動力に、足を動かし続けた。

 

 見知らぬ道を歩きながら思う。

 

 ――何故俺だけがこんなに辛い思いをしなければならない

 ――何故俺だけ……

 

 息が苦しい。胸が痛い。

 どれだけ強い肉体を持っていても、脆弱な俺の精神は変わらない。重圧に耐え切れず、悲鳴を上げながら押し潰されている。

 いっそのこと精神ごと変われてしまっていたら良かったのに。

 

「……もう嫌だ」

 

 ポツリと、そんな弱音が口から出た。

 

「……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。なんで、どうして、俺が何をした!? 何で俺なんだよ――」

 

 一度口にしてしまえば弱音はもう止まらなかった。

 

 そんな自分が情けなくて。どうしようもなかった。

 

 俺はこれから何をすればいい。どうやって生きればいい。

 

 ――それすらも分からない。

 

 森島由宇として生き続けるのがいいのか。

 森島由宇を圧し殺してヴェーチェルを演じて生きればいいのか。

 

 ――分からない。俺には分からない。

 

 誰か教えてくれ。誰か答えてくれ。誰か……。

 

 助けてくれ。

 

 

 

「ヴェーチェル? ようやく見つけたぞっ、ヴェーチェル!」

 

 声のする方を向くと、そこにはジャージ上下を身に纏い、息を荒げる矢野司の姿があった。

 

 最悪だ……矢野だけには会いたくなかった……。

 きっと今俺は酷い表情をしている。おおよそヴェーチェルがしないような顔を。そんな顔を矢野だけには見られたくなかった。

 

 急いでいつもの表情を貼り付けようとするが上手くいかない。

 

 そうこうしているうちに、矢野はゼイゼイと荒い息を整えると、その額に浮かび上がっていた汗をタオルで拭き、探したぞ、と改めて声を出して。

 俺の表情を見て固まった。

 

 あぁ……しまった。見られてしまった。間に合わなかった。

 

「どうしたんだ、ヴェーチェル。泣いてたのか?」

「いや、そのこれは……」

 

 何と言い訳をすればいいのか。

 両の手で顔を隠しながら考えて――。

 

お前(・・)らしくない顔だな」

 

 俺の中で何かが壊れる音がした。

 

「黙れ………」

 

 ボソッと声が漏れる。

 

 駄目だ。矢野は悪くない。悪いのはヴェーチェルを演じた俺なのだから。森島由宇を知らないのは当たり前だ。

 だからこそ、これ以上はただの八つ当たり。そう頭では理解しているのに。

 俺の口は歯止めが効かなくなっていた。

 

「私らしくってなんだよ……私の本質も知らないくせに……知ったような口を叩くな!」

 

 俺は矢野を押し退け、街灯のない細道へと歩き出した。

 

「おいっ! どうしたんだよ、ヴェーチェル!? ……うわっ!?」

 

 それでも尚、俺を追いかけてこようとする矢野の前に、ビュンと強風を吹き付ける。

 

「ごめん……今までありがと……バイバイお父さん」

 

 突然の強風は目眩ましとして充分な効果を発揮したようで、矢野が腕で目を覆っている隙に俺は細道へと姿を隠した。

 

 

 

 

 

 

 

 結局のところ、俺は森島由宇にもヴェーチェルにもなりきれない半端者だ。

 どちらも中途半端に足を踏み入れていて、歪な存在となっている。

 そして、その結果がこの有り様だ。

 

 森島由宇としての親友も失い、ヴェーチェルとしての保護者も失った。

 

 もう()に残っているものはほとんどない。

 

 故に思う。

 

 数少ない残っているものの一つ。先程から胸に渦巻き始めた災禍姫の本能とも言える感情に従ってみるのはどうかな、と。

 

 『壊したい』という破壊欲求に。

 

 遊園地の時は気のせいだと流したが、今はむしろこれが私の新たな本質だと認めつつある。

 

 なに、どうせ誰も気に止めはしない。

 人一人簡単に忘れてしまう世界だ。ちょっとくらい壊したってすぐに忘れるに違いない。

 だから、ね。

 

 少しくらい壊してもいいでしょ?

 



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23

 どうやらオレは闇雲に走っている間に家の近くまで来ていたらしい。

 家に戻るまで十分と時間はかからなかった。

 

 彼女を見つけ出すまでも、適当に走ってたわりには然程時間がかかりなかったし、案外運が良いのかも知れない。もしくは今後不運なことが続くっていう暗示なのかも……。

 

 なんて考えつつ、自宅の階段を上ったオレは彼女に貸し与えていた部屋の扉を開いた。

 

 以前までなら歩けば埃が飛ぶように舞っていた部屋は、今やその影を無くし、綺麗に整えられていた。

 

「……今思えばとんでもない部屋を貸してたなオレは…………」

 

 不快にさせたくなかったのに、不快になるような部屋を貸し与える矛盾。あのときのオレは何を考えてたんだ。ヴェーチェルが実際に目の前に現れて混乱していたとはいえ、それにしても酷すぎる。

 

 家具がベッドとカーテンしかない部屋を見て、加えて埃の巣窟だった過去を振り返り、この部屋を貸し出されたら自分だったら間違いなくキレると考えながら、周囲を見渡した。

 

 恐ろしいくらいに何もない。

 あるものを強いて挙げるなら、シーツの上に二面揃ったルービックキューブが置いてあることぐらいだろう。

 とか言ってどこかに隠すスペースなんてこの殺風景な部屋ではそれこそベッドの下ぐらいしかあるまいし。

 流石に思春期の男子じゃないんだからそんなところには何も隠してないに決まっている。

 それでも念のため確認してみると。

 

「……マジかよ」

 

 ――ベッドの下には鞄があった。

 

 決して上等な物ではなく、学生が使うような鞄が隠すようにして押し込まれていた。

 引っ張り出すと、所々生地が解れていて使い込まれていたことが分かる。

 

「……………どうしようか……」

 

 引っ張り出した鞄を目の前に、暫し葛藤する。

 隠すということは見られたくないものなのだろう。オレも男子。何かを隠すといった経験は何度かある為、見られたくない気持ちはよくわかる。

 故に開けるべきか否かを悩んだが、少しでも彼女に繋がる情報が欲しい。

 そう考え、背徳感を感じながらも開けることにした。

 謝罪の言葉を口にして、チャックをゆっくりと引っ張っていく。

 

 そして中身を見て、やはりと確信する。

 

 彼女はヴェーチェルではなかった、と。

 

 どうしてヴェーチェルの姿形、能力を持っているのか分からない。

 が、彼女は間違いなくヴェーチェルではない。

 鞄の中には、名前欄が黒く潰された通帳と携帯が入っていた。

 

 彼女に聞いた話によればこの世界に来たのがオレと会う数日前。その数日間で、身分証明書もないのに通帳を作れるだろうか。携帯を手に入れられるだろうか。

 無論、これが彼女のだという確証はない。誰かの落とし物である鞄を彼女が拾ってきただけ、の可能性もあり得る。

 

 しかし、不思議とオレは鞄が彼女のである。そんな確信が持てていた。

 

 

 

 

 

 

 想像通り、障害物のない海の上は風の集まりが良く、纏う風も中々の規模になってきた。

 あと一時間もあれば原作の規模を再現することが出来そうだ。

 

 原作のヴェーチェルと同じ力なら、この世界に痛みを与えることが出来る。

 私を忘れてしまった世界に、私という存在を刻み付けることが出来る。

 

 人間にも被害が出るかもしれないが、まぁ、仕方ないことだ。

 

 人間も私を忘れた。だから壊す。

 理不尽には理不尽で返す。当然の報いでしょ?

 

 風を纏いながら、ふと思う。

 

 圭介が私のことを忘れていたあの時、何故溜め息が出たのか。今なら分かる。

 簡単な話だ。私は人の不幸が見たかった。私と同じように絶望する人を傍目から眺めたかったんだ。

 

 認めよう、私の性格は終わってる。

 

 これはヴェーチェルになったから、ではない。元から腐っていたんだ。だけど隠していた。それがヴェーチェルになった影響で漏れ出してしまっただけ。

 

 本当どうしようもないね。どうしようもなさすぎて、壊したくなってくるよ。

 

「あは、あははははははは」

 

 ただただ笑う。笑い続ける。

 風の音しか聞こえない海上で、私はひたすらに笑い続けた。



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24

間の話


「はぁ!? なんだこれ!?」

「どうした? は、なんだこりゃ!?」

 

 真っ先に異変に気づいたのは海の近くに住む者たちだった。

 

 夜遅く。仕事帰りやら何やらで偶然出歩いていた彼らは足を止め、呆然と目の前の光景に口を開けていた。

 

 それは遠く離れた海の上で起きていた。

 

 

 風は感じることはできても、見ることはできない。

 そんな常識を覆す。

 

 目で見える轟々と荒れ狂う暴風。

 

 球体のように渦巻く風は、海に大きな穴を開け。頭上の雲を蹴散らし。

 どこかへ進むわけでもなく、ただその場に留まり続けていた。

 

 恐ろしいことに今もまさに勢力を広げているのか。球体の範囲は次第に広がっていく。

 

 まさに異常気象。

 

 

「海神様じゃ……!」

 

 緊迫した空気の中、誰かが呟いた。

 

「神が、お怒りになっておる…」

 

 

 

 

「…すぐに皆を叩き起こせ! 避難する!」

 

 この場に留まっていても仕方ない。と住民たちは背を向けてそれぞれの家へと走り出した。

 

 

 

 

 深夜とはいえ、突如沸いた大スクープにマスコミが飛びつかない筈がなかった。

 近隣の住民から情報を得たマスコミは、すぐにキャスターを送りつけた。

 

「ご覧ください! 波が大荒れを起こしています、周囲の住民は即座に高台に避難してください」

 

 ーーこれはヤバイでしょ。絶対ヤバイって。何でよりによって私なの!?

 

 

 内心穏やかじゃないながらも、風が荒れ狂う中、キャスターは必死に報じる。

 逃げ遅れた住民に異常を知らせるために。

 一人でも多くの命を救うために。

 

 

 

 

 

 一方その頃。ネットの住人たちも突然の異常気象に沸いていた。

 

『発生したのって竜巻じゃないの?』

『水上竜巻ってやつ?』

『だと思ったんだけど何か形が変なんだよな』

『ネットに上がってた動画みたけど綺麗な球体だもんな。あんなに綺麗な球体になるか普通?』

『この前話題になった暴風ちゃんが起こした説』

『ないない、現実見ろよ』

『でも時期がピッタリ』

『たまたまだろ』

 

 

 

 

 

 風は刻一刻と強まっていく。

 球体は暫らく見ない間に大きく肥大化し、風の余波が陸上にも現れるようになっていた。

 

 今は少し風が強いと感じるくらいだが、それも時間の問題。一時間もすれば台風ほどの強風になるだろうと異常気象を見た誰もが推測していた。

 

 

 

 故に。

 

 

「早く避難しろ!」

「巻き込まれるぞ」

「なんで…こんな目に…」

「俺の力が暴走してしまったのか……すまない」

「こんな時に何バカやってんのよ! 早く逃げるわよ!」

「あっ、ちょ、包帯引っ張らないでくれ!?」

 

 家族あるいは近所の人に叩き起こされ、避難する者がいた。

 

 

 

「いやー、暴風ちゃんそっくりのコスプレイヤーが現れた直後にこの異常気象」

「間違いなくネットでは呟かれるだろうな」

「現実を見れてないアホどもにな」

「対応がめんどくさいなー…。どう思う中川……中川?」

「ヴェーチェル…? 矢野………? いや…まさかな」

 

 

 会社の今後を憂う者がいた。

 

 

 

 

 

 

「暴風? 異常気象? そこにいるのか……! 待ってろヴェーチェル!」

 

 

 しかし、暴風に向かう者もいた。



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25

「ーー♪」

 

 

 

 ふふふーん。

 

 少女は鼻歌を奏でながら、指をくるくると回していた。

 

 くるくるくるくる。

 

「ーー♪」

 

 指の軌道に沿って生み出された小さな風が、周りの風に吸収されていく。

 

 くるくるくるくる。

 くるくるくるくる。

 

 

 風は次々に誕生し、大きな風に飲み込まれる。

 

 そして小さな風を吸収した風は、更に大きな風となって少女の周りを渦巻き続ける。

 

 

「ーーうん、そろそろかなー?」

 

 

 少女は一人笑う。

 

 

 ーーあと少しで。あと少しで全てを破壊できる。

 

 

 ーーそうすれば私の望みはきっと果たされる。

 

 

「ーーって、あれ? 私の望みってなんだっけ……? うーん…まぁいっか。壊してみれば分かるよね」

 

 

 そう言って少女は再度指を回し始めた。

 

 くるくるくるくるくるくる。

 くるくるくるくる。

 くるくる。

 くる、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 街はけたたましいサイレンの音で包まれていた。耳を澄ませば人々の阿鼻叫喚が聞こえてくる。

 交通は完全に麻痺し、道という道は車と人の波で埋め尽くされていた。

 

 通常の風害では家の中など室内にいることが推奨される。

 むしろ外に出て逃げることは悪手と言っても過言ではない。

 

 

 それでも人々は我先にと家を飛び出し、政府から知らされた避難場所へと向かう。

 

 それには理由があった。

 

 かつて無い規模の暴風により気象庁から発令された非常事態宣言。

 それは通常の風害とは違い、家にいては危険だという言葉だった。

 

 事実。風の流れの中心である球体からかなり離れている街中ですら、既に強風が吹き付けている。

 見渡せば窓ガラスが割れているところもチラホラあった。

 

 風の球体は依然海上から動いていない。

 にも関わらず、この有様なのだ。

 

 球体は時間と共に大きくなっていく。その勢いは止まらず、それどころか加速しているまであった。

 故に、時間の経過と共に風が更に強くなっていくのは目に見えていた。

 

 また、球体がこのまま移動しないとも限らない。

 もし球体が街へと進行してきたら。

 

 街は壊滅的な被害を受けるだろうことは容易に予測できた。

 

 故に人々は逃げる。

 

 生き残るために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 矢野司は焦っていた。

 

「すみません、通してください! すみません!」

 

 叫びながら人の流れに逆らい、人混みを掻き分け前に進む。

 

 しかし、人の数が数なだけ思ったより前に進めず。結果として3歩進んで2歩下がると言った現状であった。

 

 

 ーー急がないと。間に合わなくなる!

 

 

 矢野はニュースを見て現在の風速がどれくらいなのかを理解していた。

 そして、ヴェーチェルが出せる最大風速を知っていた。

 

 だからこそ、本気で焦っていた。

 

 ヴェーチェルが最大風速に達するまで時間がほとんど残されていないことに。

 

 ふと考える。最大風速まで達したヴェーチェルは何をするつもりなのか、と。

 まさか達して終わり、というわけでもあるまい。

 そもそも何故彼女はここまでの暴風を作り上げているのか?

 

 彼女は姿形、能力こそはヴェーチェルだが、『ヴェーチェル』とは異なる存在だ。

 『ヴェーチェル』同様。世界を破壊しようとしているわけではあるまい。

 

 そこまで考えて、いや、と否定する。

 

 姿形、能力は全く同じなのに本質である性格だけが違う。

 そんなこと本当にあり得るのか?

 

 もしかして。姿形、能力と違って『ヴェーチェル』になるのが遅かった、だけじゃないのか?

 

 何にせよ。早く彼女の元に行かなくては。

 

 彼女の元に辿り着いたとして、彼女が止まる確証は無い。

 だが、それでも矢野は前に進み続ける。

 

「すみません! 通してください! すみません!」

「矢野…司…?」

 

 そんな彼の背後で誰かが呟く音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 原圭介は親に連れられ避難所に向かう途中、強風に煽られながら、ぼんやりと物思いに耽っていた。

 

 圭介が思い出すのは数時間前に家を訪ねてきた少女の姿。

 

 今思えばあの子は【神の使いの災禍姫】の登場人物であるヴェーチェルによく似ていた。

 

 フードを被っていたため、分かりにくかったが。フードの隙間から覗かせる緑色の髪、黄金のような金の瞳。淡麗な顔立ちも。そして声までも。ヴェーチェルにそっくりだった。

 

 そんなヴェーチェルに似た少女と、突然発生した異常気象である暴風。

 関連付けするなという方が難しかった。

 

 だからこそ、圭介は考えるのだ。

 

 あの子がヴェーチェルだったとして、何故自分を訪ねて来たのかと。

 

 ーーもりしま…ゆう、だったか。

 

 それは彼女が圭介を訪ねてまで出した名前。

 

 残念ながら、圭介にはそれが誰の名前か分からなかった。

 だが、「分からない」。そう答えた時の彼女の反応を見るに、それが彼女にとってとても大切な名前だということは理解していた。

 

 彼女がヴェーチェルかもしれないと疑いを持ってから、インターネットを使って一応調べてみたものの、何の成果もなかった。

 てっきり、生みの親であるシナリオライターかと思っていたが、矢野司と全く違う名前の男だった。

 

 ーーなんで彼女は俺を訪ねたんだろう。

 

 ーーもりしまゆう……か。

 

 考えても分からない。

 

 はぁ、と大きく溜息。圭介は考え事を中断して。

 

 そして、そこで出会った。

 

 人の流れに逆らう男に。

 

 その男の顔には見覚えがあった。

 というのも先程調べたばかりの人物で、誰か認識した瞬間、圭介の口はその名前を呟いていた。

 

「矢野…司…?」

 

 ーーこの人はヴェーチェルの元へ向かおうとしているのか。

 

 人の流れに逆らって暴風に向かっていく姿を見ればそれくらい容易に分かった。

 

 同時に一つ疑問が浮かぶ。

 彼は知っているのだろうか、恐らく今回の騒動の原因となった人物『もりしまゆう』のことを。

 

 圭介には矢野司とヴェーチェルがどんな関係で何をして来たのか、分からない。知っているのは矢野司がヴェーチェルの生みの親であるということだけ。

 

 もしかしたら、矢野司は『もりしまゆう』のことを知っていて行動しているかもしれない。となれば無駄足になる可能性もある。

 

 だが、気づけば圭介の体は動いていた。

 

「圭介!?」

「どこいくんだ!?」

 

 驚いた親の静止を振り払い、人混みを掻き分けて進む。

 同年代と比べ、華奢な身体付きの圭介にとって苦難の道だった。

 

 それでも渾身の力を振り絞り、矢野の元へと辿り着いた圭介は、出せる限りの声で彼の名前を呼んだ。

 

「矢野さん!」

「悪いが、今は忙しいんだ」

 

 突如名前を呼ばれた矢野はビクりと肩を震わせたが、反応はそれだけだった。

 時間がないと言わんばかりに振り返りもせず、前へ前へと足を進めーー

 

「矢野さん! 僕はヴェーチェルと会いました! 彼女と話しました!」

「何?」

 

 ーー続く圭介の言葉に矢野の動きが止めた。

 矢野はゆっくりと振り向き、初めて視線を圭介に移した。

 

 

 ーーあぁ。やっと見てくれた。

 

 静かに安堵の息を吐いた圭介は、はっきりとした口調で告げる。

 

「『もりしまゆう』、それが彼女が求めているだろう人の名前です」

「…ありがとう!」

 

 矢野は、腑に落ちた表情で礼を述べると、再度流れに逆らい始めた。

 

 圭介は人の流れに飲み込まれながらも、そんな矢野の後ろ姿を見えなくなるまで眺めていた。

 

 



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26

 

 

 物語の主人公になりたかった。

 

 

 

 

 

 

 誰も俺を見てくれない。

 誰も覚えてくれない。皆、忘れてしまう。

 

 

 徐々に本来のヴェーチェルの人格に戻り始めているのだろう。異物は邪魔だと言わんばかりに意識が朦朧とする。

 黒いモヤが押し寄せて、身体を、心を侵食していく。

 

 私は闇に飲み込まれていく身体を他人事のように眺めていた。

 

 抵抗する気はなかった。

 

 誰一人自分のことを知らない世界に何の価値があるというのだろう。

 

 考えて、「ないな」と自傷気味に笑う。

 

 消えることは恐ろしい。死ぬと同意なのだから当たり前だ。

 

 以前までは死ぬことが人にとって最大の恐怖なのだと考えていた。

 

 だけど今は違う。忘れ去られること。

 

 これ以上に辛いことはないし、自分が忘れ去られた世界で生きるくらいなら消えた方が楽なんじゃないか。とまで思えるようになっていた。

 

 何もない、退屈な人生。

 つまらないことを不幸だの幸せだのと決めつけ、嘆いたり喜んだりしていたあの頃。

 家族に、少ないながらに友人に、クラスメイトに存在を認められていた日々が幸せだったんだと今更ながらに実感した。

 

 気づくのが遅かった。

 

 そんなことを思いながらゆっくりと目を閉じた。

 

 刹那ーー誰かに名前を、呼ばれた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 間に合わなかった。

 

 速報で流れてきた瞬間最大風速を耳にして、それでも矢野は走り続けた。

 

 既に人混みは抜けていた。

 海も見え始めている。あと少し。あと少しだ。

 

 最大風速となった球体の暴風域はゆっくりと内地へ向かって移動を始めているらしい。

 今はそれと言った大きな被害こそないが、それも時間の問題と言えた。

 

 と言うのも、球体の暴風域は、周囲の風を吸収し肥大化していく。故に、周囲の風は大したことはない。比較的強い台風ほどだ。

 

 しかし、球体部分に関しては別だった。

 

 内陸に上がれば進行方向にあるもの全てを吹き飛ばし、更地へ変えていく。

 それほどまでの力を秘めている。

 

 このまま進行していけば大変な事態になることは免れない。

 

 矢野は走る。

 

 普通の学生だったかもしれない。そんな子に、罪を背負わせたくなかった。

 

 雨風に晒されて、強風に煽られて。蹌踉けながらも、走り。

 球体を目に捉えた。

 

 

 

 

 それは風だった。

 目に見える、黒い風。

 水の様に変幻自在にうねり、轟音を響かせる。

 海を抉りながら接近してくる様子はまさにSF映画を見ている様で。

 

 

 ーーあぁ、無理だと悟った。

 

 

 

 響き渡る轟音の中、矢野は自分の無策さを呪った。

 

 

「ヴェーチェル! 止まれぇええ!」

 

 

 矢野の声は届かない。届くわけがない。

 渾身の叫び声は轟音で虚しく掻き消されていく。

 拡声器でも持ってきていたら……そんな無い物ねだりが止まらない。

 

 

「止まれったら、止まれ! 止まるんだ!」

 

 

 球体に変化はない。海水を撒き散らし、近づいてくる。

 

 

「止まれよ! 頼むから!」

 

 

 対面すれば何か出来ると思っていた。

 自惚れていた。

 結局自分はただのシナリオライターで物語の主人公ではなかった。

 

 物語の主人公の様にカッコよく止めることは出来ない。ただ無様に叫ぶだけ。

 

 あの時、街であった少年の方がよっぽど主人公らしい。

 あんな小さな身体であの人混みに逆らうのは凄く勇気がいるだろう。

 それでも彼はやって来た。ボロボロになっても矢野の元へと辿り着いた。

 

 

 

「お願いだからさ! 止まって! 止まれ! 止まってくれよ! 一緒に帰ろう、ヴェーチェル! いや『もりしまゆう』!」

 

 

 

 叫ぶ。喉が焼けるように熱い。

 声が枯れ、しっかり言葉となっていたかも怪しい。

 だが、確かに矢野は言い切り。

 

 

 途端に轟音が止んだ。

 

 

「……なんで……その名前を…?」

 

 

 

 矢野の目の前には、狼狽える翡翠のヒロインの姿があった。

 

 

 

 

 



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27

 まるで時が止まった様だった。

 

 

 轟音鳴り響く外とは打って変わって、静かな空間。

 周囲を覆う黒い風が、此処が風の球体の中なのだと示していた。

 

 

「……どこで知ったの?」

 

 

 よほど密閉性が高いのか。少女の言葉が反響した。

 

 聴き慣れた声。何度も聞いた声。

 

 

 ーー止まったのか……!

 

 唖然としていた矢野は、そこでようやくヴェーチェルを『止めることが出来た』という実感が湧いた。

 

 

 まさに千載一遇の機会。

 

 ーーこの機会を逃してはいけない。

 

 両の目から流れていた涙を服の裾で払い、慌てて口を開く。

 

「街で出会った少年に聞いたんだ」

「……そっか、圭介かな。今度は忘れなかったんだね」

 

 何かを堪えるように、少女は寂しそうな表情を作り、ギュッと拳を握った。

 

「君は本当に…『もりしまゆう』なのか?」

「あはは…うん。まぁそうだよ。私はヴェーチェルじゃない。『もりしまゆう』だよ。この身体には気付いたらなってたんだ。騙しててごめんね」

「別にそれはいいさ。ただ、何でオレだったんだ? オレなんかよりも頼れる人がいただろ? 家族とか、それこそ…圭介君とか」

 

 彼女が本物のヴェーチェルじゃないのだとしたら自分を頼る理由なんてない。

 それこそ元の身体を知る人を頼ればいいのだから。

 

 初めは信じてもらえないかもしれないが、『もりしまゆう』だけが知っているだろう情報を提供していけば、本人あるいはそれに近い存在として保護される可能性は高いだろう。

 

 だけど彼女はそれをしなかった。

 

「あっは…あはははは!」

 

 矢野の疑問の言葉に少女は一瞬キョトンとした顔を浮かべた後、泣きそうな顔で嗤った。

 

 そして静かに俯いた。

 

「皆私のことを覚えてないよ。家族も圭介も。忘れちゃったんだよ。この世界で私のことを覚えている人は誰もいない」

 

 俯いたままの少女の体は小刻みに震えていた。

 

「そんな…」

 

 誰一人自分のことを思い出せない、自分の存在が認められない世界。もし、自分ならと考えるだけでもゾッとする。

 

 慰めの言葉はかけられなかった。

 なんで言えばいいのか言葉が見つからなかった。

 

 少女の独白は続く。

 

「だから消そうと思ったんだよ。こんな理不尽な世界は存在していちゃダメだから」

 

 顔を上げ、歪に嗤う少女を見て。

 

 そんな表情をさせてはダメだと思いながらも、矢野は何も言えなかった。

 

 重い沈黙が流れる。

 

 

 矢野はふと思った。こんな時憧れていた主人公なら何て言っただろう、と。

 どんな逆境に立たされても挫けない。

 主人公なら、きっと彼女を救える言葉を選べたのだろう、と。

 

 

 だが、沈黙を破ったのは矢野ではなく、少女だった。

 

 少女はあっけらかんとした口調で言い、また小さく笑った。

 

「ま…最期に私を『もりしまゆう』を認識してくれる人に会えてよかったよ」

「さい…ご?」

 

「うん。もう私消えるんだ」

「消えるって…?」

 

「本来の『私』の人格が目覚めてるの。もう上書き寸前ってくらいにまでね」

「…何を言って……」

 

「だから本当に悪いんだけど、この風を止めたかったら『私』を説得してね。もう私じゃ無理だからさ」

「……」

 

 頭がついていかない。

 矢野には少女が言っていることが理解できなかった。理解したくなかった。

 

 

 ーーあぁ…どうして。

 

 

「じゃあね。ありがとう、お父さん」

 

 

 ーーどうして、そんなに笑っていられるんだ。

 

 

 

 残酷なまでに綺麗な笑顔を浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふーん。なるほどね。どうしてこんな状況になってるのか不明だったけど、ようやく理解したよ」

 

 響くは少女の声。

 心なしか先ほどまでと声の高さが変わっているような気がした。

 

「ヴェーチェル…」

「うん。私はヴェーチェルだよ。ヴェーチェル・ディザスタ。私としては初めましてだね」

 

 クルリと風を纏わせ、ヴェーチェルは軽く頭を下げた。

 矢野は呆然と立ち尽くしながらも、掠れた声で問いかける。

 

「…なぁ、ヴェーチェル……『もりしまゆう』は何処へ行ったんだ」

「さぁ? 私にも分かんないよ。そもそも人に宿るなんて初体験だし。それに私のことなら私よりも君の方が詳しいんじゃないかな、創造主さん」

 

 グッパーグッパーと両手をにぎにぎしていたヴェーチェルは「うーん」と大きく伸びをして、ピョンっとその場で跳ねた。

 やがて俯く矢野に近づくと、その顔を覗き込むように視線を上げる。

 

「ねぇ。私も聞きたいことがあるんだけどいいかな。 どうして、君は私を止めようとしてたの? 世界を守るため?」

 

 その言葉に、矢野は弱々しく首を横に振った。

 

「俺は主人公じゃない。世界だなんて、そんな大きなものを守れない」

「だったらーー」

 

 ーーなんで? 

 そう繋げようとしたヴェーチェルの言葉を遮り、今度は強い口調ではっきりと告げた。

 

「だから『もりしまゆう』に罪を背負わせないこと。それだけを目的に止めに来たんだ。…それも空回りしたけどさ」

 

 護りたかった者は既にいない。

 虚しさと喪失感が矢野の中を燻っていた。

 

「ーーいいね」

 

 自傷気味に呟く矢野に、ヴェーチェルは目を細めて笑みを溢す。

 

「うん、チャンスをあげることにするよ」

「チャンス…?」

「勝負をしようよ、君が勝ったら風は消してあげるし、私も消えてあげる。まぁ私が消えたところで『私』が戻ってくる保証はないけどね。逆に私が勝ったら都市が消える。面白いでしょ」

「……!?」

 

 矢野は目を見開いた。

 確かにこれはチャンスだ、と。風を止めることが出来ると同時に、『もりしまゆう』を取り戻せるかもしれない。

 

 しかし、勝負とは一体。

 

「あははは。そう身構えなくてもいいよ。勝負と言ってもガチンコなバトルじゃないからさ。私と非力な人間。勝敗なんてわかり切ってるじゃん。そんなつまんないことはしないよ。ゲームするだけ」

「ゲーム?」

 

「うん、ゲーム。簡単なゲームだよ。君が作った【神の使いの災禍姫】。それをやろう。勿論、君の実況有りでね! さぁ、やろっか」

 

 爛々と目を輝かせるヴェーチェルに、

 

「…うぇ?」

 

 矢野の口からは変な声が出た。

 



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28

 【神の使いの災禍姫】

 シナリオゲームであり、高いアクション性を誇るこのゲームは、チュートリアルクリアからストーリーが分岐する。

 全六人のメインヒロインのうち、誰のルートから進めるかを選べる仕組みとなっていた。


【神の使いの災禍姫】はシナリオゲームであり、対戦ゲームの類ではない。

 

 故にヴェーチェルが示した対決内容は以下の通りだった。

 

 ゲーム開始と同時に球体の風が進行を開始し、おおよそ二時間ほどで街に到着する。

 風が街を破壊するまでにヴェーチェルルートをクリア出来たら矢野の勝ち、というタイムアタック形式。

 

 

 プロローグとチュートリアルはそう長くない。五分もあれば完了する程度だ。

 だが、ヒロインのルートとなると話は別。

 

 初回ルート選択ということで難易度は低めに設定されているが、何度も繰り返す通りこのゲームはシナリオゲーム。

 戦闘もあるが、当然メインはシナリオになる。当然スキップは許されておらず、ましてや実況をしながら進めていかなくてはならない。

 

 一度でも戦闘で敗北したらその時点で負けが確定する。

 

 にも関わらず、有力装備を手に入れる手段であるガチャは禁止とのこと。

 

 

 かなり無理ゲーであった。

 

 救いの点は従来の育成ゲームと違いプレイヤースキル次第で、低ステでも戦闘に勝利できること。そして何処でイベントが発生するか、覚えていることの二点のみ。

 

 

 当然そんな中自信など生まれるはずもなく、矢野はただ不安でしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「まぁ、それでもやるんだけどさ」

「頑張れー」

 

 私生活用の携帯には既にインストールされている為、仕事用の携帯でアプリをインストールする。

 

 因みに電波はヴェーチェルがどっかから勝手に引っ張ってきているとのこと。

 

 理屈は不明だが、まぁヴェーチェルなら出来るんだろうなと矢野は納得していた。

 

 

「じゃあ準備はいいかな? カウント始めるよ」

 

 

 ヴェーチェルの間延びとした声が響く。

 

 

 

 ーー10、9、8、7、6。

 

 

 矢野は大きく息を吸って、吐いた。

 

 

 ーー5、4、3、2、1。

 

 

 ゴクリ、生唾を飲み込む。

 大丈夫。自分なら出来る。そう言い聞かせて携帯を強く握る。

 

 

 ーー0。

 

 

「スタート!」

「…」

「ほら実況。あっ、私のセリフはいいけど、主人公君のセリフはちゃんと読んでね」

「分かった。えーと…それではゲーム開始。今日は【神の使いの災禍姫】というゲームをやっていきます。今回はですね、チュートリアルをクリアしてメインヒロインの一人であるヴェーチェルルートに進みたいと思います」

 

 

 こうして矢野にとって人生で最初で最後のゲーム実況が始まった。

 

 

 

 

 

 

 ファイル【翡翠01】

 場所:A町 カフェテリア

 概要:幼なじみとの待ち合わせの途中、主人公は緑の髪の少女に声をかけられる。

 

 

「『あ、あぁ。隣なら空いてるけど……他にも席空いてる所は沢山……。え、いや駄目じゃないんだけどさ!』」

 

「『っと、待ち合わせ相手が来たから、オレはもう行くよ。じゃあな』」

 

 

 ファイル【翡翠02】

 場所:A町 市街地a

 概要:街へ買い物に行く際、主人公はカフェテリアで会った緑髪の少女と再会する。

 

 

「『あー、この間の。…そういえば君、名前は? いやいや、ナンパじゃないって!? 本当だってば!』」

 

「『確かに、人の名前を聞く前に自己紹介するべきだよな。オレは[ーー]だ、よろしく』」

 

「『はは…結局教えてくれないのね…。まぁいいさ。いつか君がオレのことを信用出来ると思えた時に教えてくれれば』」

 

 

 ファイル【翡翠04】

 場所:A町 市街地f

 概要:部活動で遅くなった主人公は、帰り道に緑髪の少女と出会う。

 

 

「『うわっ!? ビックリした、なんだ君か。こんな時間帯に女の子が出歩くもんじゃないぞ。最近は異常気象が発生しているみたいだし。早く帰った方がいいよ』」

 

「『あぁ。オレはこの辺りに住んでるんだ。どうしてそんなことを?』」

 

「『もうこの街には異常気象は起こらない? え…それってどういうことだよ?』」

 

 

 

 

 

「え、怖。何この主人公君。私の行動、完全に読まれているんだけど…」

「それは言わないお約束だろ…」

 

 大袈裟に身体を震わせるヴェーチェルに、矢野は小さく息を漏らす。

 

 ーーここまでは順調。かなりのスピードでクリアできているはず。

 ーー問題はここから、か。

 

 矢野は自分の頬を強く叩き、気合を入れ直した。

 

 

 

 

 ファイル【翡翠08】

 場所:B町 海が見える公園

 概要:隣町へ遊びに出かけた主人公は、異常気象に巻き込まれる。そんな中、避難所と反対方向へ歩く緑髪の少女を見かけ、追いかけた。

 

 

「『おい、待ってくれ! 何処行くんだ! 危ないから一緒に避難しよう!』」

 

「『その必要はない? この風は私の力…だって?』」

 

「『あまり信じられないな。…ってなんだコレ!? 風……まさか本当に…!?」

 

「『世界を壊す為に…生まれた…?』」

 

 

 

 

 

「ヴェーチェル、近い。近いから! 少し離れてくれ」

「画面小さくて見えないんだもん。仕方ない、仕方なーい。役得じゃんかー」

「頼むから少し離れてくれ!」

 

 

 

 ファイル【翡翠14】

 場所:A町 廃れた神社

 概要:遠く離れたD町に突如発生した巨大な球体風。主人公は緑髪の少女を止めるために、発生した場所へと向かう。

 

 

「『交通機関は麻痺……くそ…どうやって向かえばいい!?』」

 

「『え……は? 一体何が…? ここは……D町?』」

 

「『……考えるのは後だ。まずはあの子を止めないと』」

 

 

 

 

 

「…え? なにこれ……確かにあの時、どうやって主人公君来たんだろうと思ってたけど………」

「あー、それは四章くらいで分かることなんだけどーー」

「あ、ネタバレはいらないからね。寧ろしたら絶殺だよ」

「お、おう…わかった」

 

 

 

 ファイル【翡翠16】

 場所:D町 周辺部k

 概要:巨大球体風の元へと辿り着いた主人公は、緑髪の少女と再会する。

 

 

「『よう、奇遇だな』」

 

「『ストーカーじゃねぇよ…。まぁいい。そんなことより話したいことがあるんだよ』」

 

 

 ファイル【翡翠17】

 場所:D町 周辺部k

 概要:緑髪の少女の独白を聞き、主人公はーー。

 

 

「『だからなんだ! 世界を壊す為に生まれた? そんなもん知るか! 大事なのはお前が何をしたいか、だろ!』」

 

「『親の意向なんて関係ねぇよ! お前の意思が知りたいんだ!』」

 

「『オレは君が笑顔でいられるなら死んだって構わない!』」

 

 

 ファイル【翡翠19】

 場所:D町 周辺部k

 概要:迫りくる竜巻の群れを回避し、緑髪の少女の元へ何とか辿り着いた主人公は、少女にデコピンをする。

 

「『はぁ……流石に竜巻で追いかけ回すのは酷くないか……? オイタも程々にしてくれよ、この悪戯娘』」

 

「『ん? 別に怒ってなんかいないさ。言っただろ?』」

 

「『君が笑顔でいられるならオレは死んだって構わない、って』」

 

「『あぁ、オレが生きているうちは君をもう泣かせない。……嬉し涙は勘弁してくれ。でないと早速約束を破る駄目男になっちまう…』」

 

 

 ファイル【翡翠20】

 場所:D町 周辺部k

 

 

「『ヴェーチェル…。そうか。ようやく聞けたな。君の名前』」

 

 

 

 

 

 

 

 無事エンディングを迎え、ホッと安堵の息を漏らした矢野に、すぐ隣に座っていたヴェーチェルはポツリと呟く。

 

「こうして客観的に見ると、痛いし寒い台詞だよね」

「うぐっ…!?」

「だいぶご都合主義も入ってるし」

 

 

 ぐさりと突き刺さる批判の言葉の数々。

 

 しかし。

 

 

「だけど…やっぱいいなぁ……」

 

 そう言うヴェーチェルの頬は微かに緩み、紅潮していた。

 

 

 

 

 

 

「あ、そういえば時間は!?」

 

 すっかり頭から抜けていたが、どのくらい経ったのだろうか。一発クリア出来たため、二時間は経過していないと信じたいが。

 

 焦る矢野に、ヴェーチェルはあははと笑い声をあげた。

 

「大丈夫、心配しないでも勝負は君の勝ちだよ」

 

 サラサラと風の球体が溶けるようにして消えていく。

 淀んでいた雲は消え、代わりに綺麗な星空が見えていた。

 次いで、静かで優しい波の音が聞こえてくる。

 

「あれ?」

 

 矢野は目を見開いた。

 

 場所が、風の球体の中に取り込まれる前からまるで変わっていないことに。

 

「まさか…移動させなかったのか…」

「うん、まぁ君ならクリア出来ると思ってたからね。それに私も『私』に罪の意識を背負って欲しくなかったからさ』

 

 驚愕を隠せないでいる矢野に、さも自信ありげな表情でヴェーチェルが語る。

 

「気づいてた? 君、主人公くんと同じ匂いがしてたよ」

「ーー!?」

「じゃあね、お父さん。『私』が帰ってくるといいね」

 

 

 矢野に笑顔を向けた後、もう話すことはないと言わんばかりにヴェーチェルは徐に目を閉じた。

 

「待ーー」

 

 刹那、辺りは眩しい光に包まれた。

 



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29話

 

 それは何度も見慣れた光景だった。

 

 

 

 気がつけば私は教室の中央に立っていた。

 

 

 

 机の上に広げられた教科書や、筆記具。

 微妙に引かれた椅子。秒針が止まった時計。

 

 

 さっきまで誰かがいた痕跡はあれど、誰もいない。

 そんな閉鎖的な空間。

 

 

 

「…誰か、誰かいないのか?」

 

 

 

 まるで私を嘲笑うかのように。

 

 絞り出すようにして発した声は何度も反響した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 それからどれくらい時間が経ったのか。

 

 

 私は椅子の後ろ足二本でバランスを取りながら、時計を眺めた。

 

 時計の針は相も変わらず頑なに動こうとしない。

 自分の呼吸音だけが微かに聞こえる、無音の世界。

 

 

「……」

 

 

 既に私はここに来るまでの記憶を取り戻していた。

 私は消えたのだと理解していた。

 

 

 

 だからこそ、この空間にいるのだろう。

 

 

 

 視線を向けた先にあるのは『森島由宇』の名前が記されたロッカー。

 『森島由宇』が消えたあの世界では決して存在しない物。

 

 

 この他にも、辺りを探ってみれば幾つかの『森島由宇』の痕跡が存在した。

 

 

 つまりここは、存在が消えた物が行き着く場所なのだろう。

 

 

 

 

 ーー私はこれからどうなるんだろう。

 

 

 

 ふとそんな疑問が頭に浮かんだ。

 

 分からない。

 

 

 このまま静かに消滅して消えるのか。

 

 

 それともこの空間に留まり続けるのか。

 永遠に、一人で。

 

 

 

 

 なんてぼんやり考えて、

 

 

「あれ?」

 

 

 視界が滲んでいることに気がついた。

 

 

 

 消えてもいいと思っていた。消えたいと思っていた。

 私が忘れ去られた世界でなんて生きていても仕方ない。これ以上辛い思いをするなら消えた方がマシだと。そう思っていたのに。

 

 

「なんで…こんなに………」

 

 ーー後悔しているのだろう……。

 

 

 

 

 

 そしてーー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、ここにいたんだ。探したよ『私』」

 

 

 

 

 

 私の思考は、突如聞こえたあどけない声に強引に掻き乱された。

 

 

「…ヴェーチェル…?」

 

「うん私だよ。初めまして『私』」

 

 

 ニッコリと笑い、どこからか机の上に降り立ったその者は、この六日間ですっかり見慣れていた姿をしていた。

 

 間違いなく、本物のヴェーチェル・ディザスタなのだと直感的に理解した。

 

 

 

「ヴェーチェル……」

 

 故に、私は問いかけた。

 

 

「どうして…私は貴女になったんだ……」

 

 ヴェーチェルは人ならざるモノ。

 彼女なら知っている。そう一縷の期待と望みをかけて。

 

 

 しかし、ヴェーチェルの反応は私の期待するものではなかった。

 困ったように眉を潜めただけ。

 

 

「うーん。ゴメン。それは私にも分かんない」

 

 

 けど、とヴェーチェルは続けた。

 

 

 

「きっと『私』なら理由を見つけられるよ。なんて言ったって主人公君が側についているんだから」

 

「主人公…くん?」

 

「すぐ分かるよ。じゃあ早速だけど選手交代だね」

 

「…!? 待って」

 

 

 ヴェーチェルが言う選手交代の意味。

 その意味が分からない私ではなかった。

 

「私に戻る資格なんてない」

 

 

 後悔はしてる。

 だけど、私は破壊衝動のままに世界を壊そうとした。

 自分がいない現実を受け入れられずに。

 

 そんな私に戻る資格なんて。

 

 

 

「大丈夫、君のせいじゃない。元々私たちの破壊したい欲求はね。人間に耐えられるようなものじゃないんだよ」

 

 不意に背中に腕を回され、引き寄せられる。

 強く抱きしめられ、ヴェーチェルの体温と鼓動が直に伝わってきた。

 

「けど……また衝動が来たら…私には抑えられない…! 抑えられる気がしない…」

 

「大丈夫。その時は私が抑えてあげる。元々あれは私のものだからね。抑えるくらい表に出ていなくてもお茶の子さいさいだよ」

 

「でも……でも……」

 

「大丈夫。大丈夫だから……安心していいよ」

 

 

 いつまでそうしていたのか。

 正確な時間は分からない。

 

 ずっと抱きしめていたヴェーチェルは、ゆっくりその力を弱めると、「柄じゃないことしちゃったなぁ」と小さな声で呟いた。

 

 

「話したいことは沢山あるけど……これ以上時間を取り過ぎると主人公君に悪いしさ。そろそろお別れだね」

 

「ーー」

 

 

 口を開く間も無く。

 パン。そんな乾いた音が聞こえると同時に私の意識は急速に薄れていった。

 

 

 

「頑張ってね。負けるな『私』」

 

 

 

 

 意識が消える寸前。

 ヴェーチェルが投げかけた言葉は、確かに私の耳に届いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ん……ここは…ーーうぐっ」

「起きたのか!」

 

 

 

 意識が覚醒した私は、強烈な圧迫感に息を吐き出した。

 何事かと視線を下げれば、映るのは男の頭部。次いで、私の体に巻きつく男の腕が見えた。

 

 

「うわっ!?」

 

 

 え、私今抱き締められている?

 

 実感した瞬間、私は咄嗟に男を振り解いた。

 

 あまりにも慌てて振り解いた所為か少し風が乗ってしまったらしい。

 

 

 ビタン、と勢いよく砂浜に突っ込む男ーー矢野の姿を見て反省する。

 

 や、やり過ぎた…と。

 

 

「ごめん…大丈夫?」

「だ、大丈夫だ。問題ないよ」

 

 しかし矢野は怒ることなく、寧ろ嬉しそうに砂塗れの顔を上げた。

 

 

「君は『もりしまゆう』…でいいんだよな?」

 

 

 そう訊ねる、矢野の目には縋るような思いが混じっていた。

 

 別にもう隠す理由もない。

 

 私は肯定を示すように大きく頷いた。

 

「うんそうだよ、矢野さん」

「そうか。よかった……本当によかった…」

 

 

 心底ホッとした様子を見せる矢野は、途端大きくよろめいた。

 私は瞬時に彼の肩を支える。

 

「…大丈夫? 矢野さん」

「あ、あぁ。すまない」

 

 どうしたの? 続けて問いかけようとして、私は気づいた。

 

 矢野の目の下には大きなクマが浮かんでいること。押したら倒れそうなくらいに憔悴しきった状態だということに。

 

 

 

 ーーまさか。

 

 

 

 改めて周りを見渡す。

 

 そして、海が視界に入った私は、思わず矢野に訊ねていた。

 

 

 

「ヴェーチェルを…止めたの?」

「まぁな…」

 

 

 ーーあぁ……なるほど。ヴェーチェルが言っていた主人公は彼のことだったんだな。

 

 そう察知するまで時間はかからなかった。

 

 

「そっか……ヴェーチェルをね…」

 

 

 ヴェーチェルがまさしく主人公だと認めた男。

 

 彼になら。

 私の全てを話してもいいんじゃないか。

 自然とそう思うことができた。

 

 

 

 過去を話すことは怖い。

 圭介の時のようになってしまうかもしれない。

 だけど。

 

 他の誰でもない『私』が信じる男を信じてみたくなった。

 

 

「ねぇ、矢野さん…」

「ん?」

「私の話を聞いてくれる?」

「あぁ。聞かせてくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから私は全てを話した。

 都内の学校へ通っていた普通の学生だったこと。本名。もともと住んでいた家。皆に忘れ去られたこと。

 

 話終わる頃には、視界がぼやけていた。一人で抱え込んでいたことを全部吐いた所為なのか、涙が溢れていたらしい。

 

 手で拭い、失敗する。大粒の涙は手だけじゃ抑えきれなかった。

 

「あ…」

 

 今度は服の裾で拭おうとして、矢野に抱き締められた。

 

 今度は振り解けなかった。

 あんなにボロボロの姿を確認した後では。流石に強引に退けることは出来なかった。

 

 

 否ーー。違う。それは言い訳だ。

 

 

 本当は、人の温もりをただ感じていたかった。

 

 ヴェーチェルといい、矢野といい、今日は抱きしめられてばっかりだ。

 

 

「よく一人で頑張ったな。お前は本当に大したやつだよ」

「…………」

「これからはオレも支えていくから。二人で一緒に手掛かりを見つけような」

「………」

「だからさ。もう泣いても大丈夫だよ」

 

 

 優しく投げられたその言葉に私の涙腺は崩壊した。

 

 

 涙がポロポロと落ちる。嗚咽が溢れる。

 こんなに泣くのはいつぶりだろう。

 

 嗚呼、泣けたんだ私。

 

 

 人の温もりを感じながら、私はそんなことを考えていた。

 

 

 

「無理しなくていい。由宇ちゃんは普通の女の子なんだからさ」

 

 

 

 少し涙が引っ込んだ。

 

 

 あれ? 性別って伝えてなかったっけ……。

 うん、まぁいいや。こんな泣き顔晒しといて「元男です」だなんて恥ずかしくて言えないし。

 

 

 当分黙っておこう。心に決めた。

 



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エピローグのようなもの

『先日突然発生した巨大暴風域について専門家は次のような見解を述べーー』

 

 

 あの日、突如日常を脅かした災害は。

 現れた時と同じように忽然とその姿を消した。

 

 何故災害が起こったのか。何故消えたのか。

 その手の専門家達は日々論争を繰り広げているみたいだが、答えは見つからないだろうと僕は思っている。

 

 

 だって原因は彼ら、陽の者が忌み嫌う。

 二次元の世界の住人なのだから。

 

 

 

 

 

 こんな話、誰に聞かせても眉唾な話だと笑うだろう。

 

 

 僕も実際にその原因を目の当たりにしたわけじゃない。

 

 

 ただ。

 

 あの時の矢野司を見送った僕としては。

 

 どうしても、あの日出会った二人が今回の事件と無関係だとは考えられなかった。

 

 

 

 ーー当分はこの話題で持ちきりだろうな。

 

 朝食のトーストを飲み込み、テレビを消す。

 

 大きく伸びをして鞄を手に持った。

 

 

「……さて、今日も学校へ行きますか」

 

 災害の後。されども僕の日常は変わらない。

 

 

 起きたばかりの今でこそ騒がしいが、人の噂も七十五日。

 そのうちに今回の災害も記憶の隅へと押しやられ、やがて人々の記憶から忘れられる。

 

 

 

 

 だけど、僕は決して忘れない。

 あの日の光景を。

 

 今度こそ(・・・・)は必ず忘れない。

 

 

 初めて二次元でなくリアルでかっこいいと思えた、あの人のような大人になる為に。

 

 

 

 今日も僕は日常を送る。

 

「行ってきます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『先日突然発生した巨大暴風域について専門家は次のような見解を述べてーー』

 

 

 

 

 今日も今日とてニュースが流れる。

 

 

 

 

 私が起こした異常気象は事前に矢野さんに食い止められたとはいえ、被害が出なかったわけではない。

 幾つかの民家は破損したし、作物なども大ダメージを負った。

 

 事件の爪痕は今も確かに残っている。

 

 

 

 ニュースが流れる度に心が痛む。

 ヤケになって起こした事態を忘れてしまいたくなる。

 

 ヴェーチェルや矢野さんは私の所為ではないと言ってくれた。

 

 だけど、私は私の所為である。生涯そう思い続けることだろう。

 

 

 これは忘れてはいけない傷なのだから。

 私が今後背負っていかなければならないものなのだから。

 

 

 

「あー今日から出勤か…」

 

 

 気怠そうにスーツ姿で降りてくる矢野さんに気づいた私はニュースを見るのを止め、台所へと向かった。

 朝作って置いたお弁当を持ち、玄関に向かう矢野さんに手渡す。

 

 

「はい、矢野さん。お弁当」

「おぉ…悪いな。『由宇』」

「いやいや。お世話になっているのは私の方だから。このくらい当たり前だよ」

 

 

 そう。あの事件の後も、矢野さんは変わらず私を家に置いてくれていた。

 

 

 『森島由宇』を覚えていてくれるだけでも嬉しいのに、帰ってこれる居場所の提供。

 それに加えて休みの日は私がヴェーチェルとなった手掛かりを掴むために一緒に出掛けてくれていた。

 

 

 矢野さんには膨大な借りがある。感謝してもしきれない。

 だからこそ、私に出来ることならば何でも行う覚悟はあった。お弁当作りもその一環に過ぎない。

 

 

 

「じゃあ行ってくる」

「うん、行ってらっしゃい!」

 

 私は精一杯の笑顔を向けて、大きな声で告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『次のニュースです。ーー街で季節外れの大雪が観測されましたーー』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




『翡翠のヒロイン』としてはここで一旦区切ります。
ありがとうございました。


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