「好き」って言わないで。 (ilru)
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どうすればいい。

氷川姉妹、妹、シリアスって時点で何に影響されたか察してください。


 ー変わらなきゃ

 

 ずっとそんな思いを胸に15年、生きてきた。双子の姉を持つ妹として生まれ、真面目で優秀な姉、天才で天真爛漫な妹に挟まれ、

 

「あの子の妹なら期待できる」

「あの子の妹はさぞかし凄いのだろう」

 

 そんな期待をされては全てを裏切り、挙げ句の果てにそれに耐えられなくなり、ブチ切れて、逃げて、自分だけの世界に閉じこもった自分をいっそ笑ってくれたら、どんなに楽だっただろう。不幸者、出来損ないの烙印を押してくれたら、自分は開き直って生きてこれたのに。彼女らは私に逃げ道すら与えてくれなかった。どうしてそんなに心配してくれるのか教えて欲しい。どうして私を見て優越感に浸ってくれないんだ。どうして、幾多もの期待を裏切ってなお手を差し伸べてくれるのか。私に「もう無理です」とこうべを垂れて許しを乞うてほしいのか。

 

 考えすぎだってわかってる。全て自分の自意識過剰で、彼女らは家族だから私を救おうとしてくれてるんだって。それが彼女らにとって当たり前なんだって。

 でも、仕方ないじゃないか。家族だから救ってくれるというのなら、きっと赤の他人だったらあなたたちは気にも留めないだろう。勝手に自己嫌悪してる哀れな少女一人なんか普通は見て見ぬふりをするが吉だ。だって明らかにめんどくさそうなのだもの。積極的に関わるものではない。

 だから怖いのだ。いつか、自分が捨てられてしまうんじゃないかって。

 …手を差し伸べられておきながら、それを振り払っているものが何を言うか。自分の心が未熟だから、人を信じられないから、剰えその心の弱さに縋っているから、こうなっているのに。人の優しさを無碍にし続け、悲劇のヒロインを勝手に演じ1人愉悦に酔いしれている私にはお似合いの末路だろうに。

 

 嗚呼、頼めるのなら、教えてくれるのなら教えて欲しい。どうすれば人を信じれますか。どうすれば、弱く醜い自分を愛することが出来ますか。人に裏切られないと分かっておきながら、だれも期待していないと分かっていながら、それでも他人の視線に怯えてしまう私はどうすればいいですか。

 

 だめだ。これ以上考えたらいよいよリストカットとか自傷癖に目覚めてしまう。現実逃避することでなんとかストレスを溜めずに入られているが、今の気分では恐らく痛みは麻薬のような快楽に感じてしまいそうな気がする。実物なんて吸ったことないけど。

 

 朝は日菜姉さんも紗夜姉さんも学校に行くため鉢合わせないように早めに家を出なければならない。会わないために一度わざと遅刻して行こうとしたら紗夜姉さんに部屋に突入されたのだ。もうあんな失敗は繰り返さない。私は学ぶ女なのだ、多分。

 

 氷川憂月は、今日も罪悪感と自己嫌悪を胸に毎日を過ごすのであった。



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死にたいけど死ねない。

 7時半に学校に着いた。流石にこの時間に学校に来る人はほぼいない。自分しかいない教室にまるで自分だけがこの世界にいるような錯覚がする。周りを気にする必要がなく、自分が女王様の小さな世界に優越感を覚える。この時間がずっと続けば良いのになと思いながら自分の席に着く。

 真ん中の1番前の席。自分が思うに1番周りが気にならない席だ。目に見えるは黒板と自分の机だけ。先生に隠れて板書がしづらいのが難点だがそれを除けば素晴らしい席だ。周りが視界に入らないから、あの子の笑顔が自分への嘲笑か気にしなくて済むし、あの子のおしゃべりの内容が自分の悪口か、見えないから気づかない。だから気が楽だ。そんなことを思いながら本を読む。

 

 フランツ・カフカの「変身」だ。セールスマンのグレゴールがある日突然虫になってしまうお話だ。初めは、家族みんながグレゴールの代わりに頑張るのだが、最後は「彼さえこうならなければ」とグレゴールを恨み、最後には死んだグレゴールがゴミ同然の扱いでその身を捨てられても何も感じず、新しい土地で新たな生活を始めるのだ。まるで、グレゴールなんて最初からいなかったように。

 

 きっと私は、氷川家に於けるグレゴールだろう。とく何を生み出すわけでもなく、ただ資源を消費し人の時間を無駄にする毒虫のような存在。

 この話通りに現実も進めば、私が死ぬかどうかはともかく間違いなく捨てられる気がする。結果の出せない娘1人捨てたところで両親たちには両手に溢れんばかりの才を持った双子がいるのだから特に問題ないだろう。利益が全てじゃ無いと思うかもしれないが、結果という分かりやすく見える相手が喜ぶものが無いとどうしても不安になるのだ。自分に存在意義があるのか気になって仕方がないのだ。

 

 ちらっと時計を見れば時刻は既に8時を過ぎていた。もうそろそろまばらにだが人が入ってくる。このまま本を読み続けるか、ふて寝するか悩んでから本を机の中にしまい目を閉じる。何度も繰り返し読んだ本だから特に先が読みたいという欲求もなかった。

 

 私は、紗夜姉さんや日菜姉さんのように女子校には行かず、公立の学校に行くことにした。苦痛なのだ。姉と比べられることが。それに女子校は私立だから金が多くかかり親の負担になっていると思うと申し訳なさで勉強に集中できなくなる時もある。公立なら学費は毎月約1万円。バイトをすれば週2でも時間次第で払うことができるだろう。

 流石に高校生で一人立ちするのは無理でも学費を払うことくらいはできる。ただですら色々考えすぎて頭が時折痛くなるのだ。少しくらい負担を減らしておきたい。

 まぁ、自分が勝手に深く考えすぎているだけだから自業自得と言ってしまえばそこまでなのだが。

 

 授業は特に滞りなく進んだ。元々自分から喋れる性格でも無いので友達なんかできるはずもなく、高校開始ひと月で早くもぼっちが確定してしまった気がする。

 まぁ、別に友達ができなくても精々2人組やグループでやる時気まずさで緊張しまくるだけなので問題ないはずだ。一応人並み以上の成績を取っているし話しかけられれば多少どもるがそれでも出来る限り愛想のいい返事をしているはずだからいじめられてもいないはずだ。

 気づいてないだけかもしれないが、名前も知らない赤の他人が自分の事をどう言おうと実害がないのなら特に気にならない。だから姉さん達にそう言われないか気にしているのに心情と真逆の行動をする自分に嫌気がさしているのだが。

 

 適度に真面目に授業を受け、あともう少しすれば帰る時間となり、憂鬱な気分になる。誰だって一緒にいて気まずい相手に会いたいと思わないだろう。

 しかし、あそこが私が帰らなければならない場所である以上、帰らなければ衣食住を確保できない。友達がいないから泊めてもらいないのだ。大人になったら絶対に1人暮らしを始めよう。家でも外と同じように気を張ってしまっていては休息できない。

 …自分が劣等感も妬みも僻みも何もかもを飲み込んで面と向き合ってしまえば良いだけの話なのだが、この弱い心はどうもそれを拒否してしまう。一度逃げる勇気を持ってしまえば、どんなに罪悪感を感じても、少し辛くなったら簡単に逃げてしまう。これを甘えと言う人もいるとは思うが、こればっかりは生まれつきの性格なのだ。自分の納得できる形で折り合いをつけることができるまでは治らないだろう。逃げない事が逃げるよりもより良い結果に繋がると信じられる日までは。そんな日は中々来ないだろうが。

 

「ただいま」

 

 家に帰り、電気をつける。両親は共働き、姉さん達は部活動がある。帰宅部で誰よりも家に近い学校に行っている自分が1番早く家に着くには自明の理だろう。

 しかし、何をしようか。テレビに興味はないし、ゲームもやりたい気分ではない。久しぶりにキーボードで耳コピでもして遊ぶか。音楽の才は残念ながらそこまでなかったのでメロディーをなぞるだけだが、それでも十分楽しめるものだ。

 ピアノも小学校でやめてしまったので今だと「エリーゼのために」すら弾けるか怪しいレベルだ。日菜姉さんなら1度聞いただけで弾けていそうだが。

 そうと決まれば早速自分の部屋へ行こう。そこなら日菜姉さんにも紗夜姉さんにも急に会うことはないから安心できる。

 

 ドアが3度、ノックされる音に意識を覚醒させる。あの後1時間くらい耳コピで遊んだ後色々な曲を聴いていたら寝落ちしてしまったらしい。

 

「憂月、晩御飯よ。出てきなさい。」

 

 紗夜姉さんの声が聞こえた。もうそんな時間なのか。食事の時間は否応なしに姉さん達と顔を合わせなければならないが、そうしなければ自分が空腹でヤバいことになるので行かなければならない。それにここまで足を運んでくれた紗夜姉さんの労力が無駄になってしまう。

 ガチャリ、とドアノブを回して部屋を出る。音に無性にイライラしてる自分を不思議に思いながら紗夜姉さんの方を見る。口を開けたり閉めたりを繰り返している。多分なんて言葉をかけて良いか分からないのだろう。かく言う私も頰を掻きながら何と言うべきか迷っている。

 

「えっと、と、取り敢えず、行きましょう。」

 

 紗夜姉さんが頷く。良かった。ちゃんと返事をしてくれた。階段を降りて食卓へ足を運ぶ。既に日菜姉さんと両親は食べ始めていた。

 

「あっ、おねーちゃん、憂月、遅いから先食べちゃってるよ。」

「見れば分かるわよ。」

 

 短くそう返す紗夜姉さんの後ろで私も頷く。日菜姉さんはすぐに食事に戻った。私もすぐに食べ始めよう。居心地が悪い空間とはさっさとおさらばしたいものだ。

 

「ねぇ、憂月さ、最近学校とかどう?るんっとすることあった?」

 

 黙々とした雰囲気が嫌だったのか、私にそう聞いてきた。私じゃなくて紗夜姉さんに聞けば良いのにと思いつつ、出来るだけ愛想良く返事をする。自分から突き放しておいてなお、嫌われたくないのだ。

 

「るんっとが何かは知りませんが概ね楽しい日々を送れていますよ、日菜姉さん。」

 

 勿論嘘だ。独りの学校生活はもう慣れたがそれでも時たま寂しく感じる。でも、姉さん達には心配して欲しくないから、私のことで時間をとって欲しくないから、小さな嘘を重ねる。別にいじめられてないので楽しくはないが辛くもないので100%嘘というわけでもない。

 

「そっか。ならいいや。おねーちゃんは?」

「私もそのような感じよ。というか日菜、食べながら話すのは良くないわよ。直しなさい。」

「はーい。」

 

 日菜姉さんと紗夜姉さんの会話を聞き流しながらご飯を黙々と食べ続ける。

 

「ご馳走さま。あとおやすみなさい。」

 

 そう言って立ち上がる。食べ終わった後はしばらく部屋に籠るしシャワーを浴びに行くが恐らく姉さん達には会わないのでここで言っておく。

 

「あっ、うん、お休み、憂月」

「ええ、お休みなさい、憂月。」

 

 寂しげな表情をする日菜姉さんと紗夜姉さんの返事を聞きながら部屋に戻る。

 

 姉さん達は私のことをどう思っているのだろうか。日菜姉さんは恐らく姉妹仲良く過ごしたいのだろう。紗夜姉さんと私に積極的に話しかけているところからしか分からないが、何となくそんな気がする。

 紗夜姉さんに関しては分からない。私は日菜姉さんのようにプレッシャーを与える存在でもないからただいるだけの空気のような存在かもしれない。でもさっきお休みなさいと返してくれた限り私のことを嫌っていない気がする。私だったら本気で嫌いな相手には絶対無視するから。

 

 反対に私はどうだろうか。日菜姉さんや紗夜姉さんのように歩み寄ろうと努力をしているわけでもなく、かといって憎んでもいない。

 いや、ある意味では憎んでいると思う。あの才能があったら、私はもっと笑えていただろう。こんなひねくれた性格にならず、もっと素直に人を信じることが出来ただろう。そういう面では、あの人達の才能を妬んでいるし、羨ましいと思っている。

 でも人として嫌っているわけじゃない。私だって出来ることなら姉さん達と一緒に寝たり、笑ったり、休日を過ごしてみたい。笑いながら食卓を囲みたい。でも、劣等感や些細なトラウマが枷となって私を封じ続けるのだ。こんな自分にどうして構ってくれるのか。どうして全てにおいて劣っている私に、こんなにも情をかけてくれるのか。

 情けないと、ずっと思う。あの日言われたことを今また言われたところで別に気にも留めないだろう。でも、小さい時に言われたからこそ、その小さな言葉は未だに私を劣等種だと否応なしに突きつけ続けるのだ。

 

 嗚呼、いっそこの醜い自分を殺してほしい。過去の小さなトラウマに引き摺られて、家族すら素直に信じることにできない自分をどうか一思いに殺せたらどれだけ楽だろう。

 でも死ねない。それをしたら私とよりを戻そうとしている日菜姉さんに申し訳ない。それに家族の寵愛を受けて不自由なく育っているのだ。何かしらの形で恩返しするまでは死ぬわけにはいかない。

 

 結局私は、何がしたいのだろう。仲良くしたいと口では言いながら、態度では突き放し続けている。自嘲気味に笑いながら、ベッドに倒れ伏した。もうこのまま寝てしまおう。シャワーは明日の朝入れば良いだろう。早くこのドロドロとした感情の渦から逃れたい。そこまで考えて、ふと気づく。

 何だ。自分からも逃げているじゃないか。そこまで考えて、私は意識を手放した。



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近しい人間ほど嫌われたくない。

 爽やかな風が頰を撫でる感触がして目を開ける。周りを見渡してみると雲梯や滑り台、砂場などがあることから恐らく公園だろう。公園で寝落ちでもしたかと思ったが、僅かに浮遊感を感じることから明晰夢だと理解する。

 

 再び公園に意識を戻せば、ブランコのところに3人の子供がいた。ターコイスブルーの綺麗な髪の子供が3人、仲良くブランコで交代交代遊んでいるようだ。

 

「あははははは、うーちゃん、見て〜!」

「わぁ〜日菜姉ちゃんすご〜い!」

「ちょっ、日菜、危ないわよ」

 

 ブランコでかなり高いところまで漕いでいる日菜姉さんとそれを無邪気に褒める私、心配している紗夜姉さんがいた。そういえば日菜姉さんは昔私のことを「うーちゃん」と呼んでいたのだった。最近まともに話さないから忘れていた。

 

 そういえば昔はこうやってよく3人で遊んでいたな。何も昔から姉達を避けていたわけじゃなかった。小さい頃はよく遊んでもらった。

 でも自分が小学校に入った時からだったろうか。段々周りが見えるようになってきて、気づいてしまったのだ。周囲が日菜姉さんや紗夜姉さんのような結果を出すことを望んでいることを。そして、自分にはそれが無理であることを。

 初めは頑張って応えようとした。友達と遊ばずに学校から帰ったらずっと勉強とピアノをし続けた。頑張って自分を見て欲しかった。「私だって出来るんだよ」って言いたかった。

 でも、賞を取ることは愚か、数年後に興味本位で始めた日菜姉さんに抜かされた。コンクールで結果を知るたび、両親は「また次があるよ」と毎回言ってくれたけど、その目には何も孕んでいなかった。私が落ち込むだろうから言っておこう程度のものだった。

 悔しかった。見返してやりたかった。そこからさらに、勉強の時間を削ってピアノをしたが日菜姉さんにすぐに抜かれた。受賞した時、両親が私には見せない笑みを向けられている日菜姉さんが羨ましかった。妬ましかった。どうして私には才能がないのか、自分の無能さが不思議だった。

 でも、ピアノをやめようとは思わなかった。やめたら何も残らないから。自分の短い人生の半分を費やしたピアノを取ったら、自分の価値がなくなってしまうような気がしたから。

 

 外の景色が変わっていることに気づき、意識をそちらに向ける。どうやら日菜姉さんがピアノで2度目の金賞を取った時のようだ。この時はまだ日菜姉さんのことは好きだった。

 親は共働きで家にいる時間も短く、紗夜姉さんは昔から勤勉であまり遊んでくれなかったから、日菜姉さんだけが私の遊び相手だった。親に失望の目ばかり向けられていた私のとって、日菜姉さんの屈託のない笑顔だけが私を認めてくれているような気がした。日菜姉さんは私にとって月を照らす太陽の存在だった。だからだろうか。日菜姉さんに前面の信頼を寄せていたから、彼女が言った一言が今の私を作り上げた。

 

「なんでうーちゃんはこんなこともできなかったの?」

 

 初めて、日菜姉さんから向けられる落胆の感情。当時、日菜姉さんとの日々だけが生き甲斐だった私にとって、この一言で何かが壊れた気がした。日菜姉さんだけは、私に失望しないと信じていたのに、私を裏切らないと信じていたのに。

 唇をわななかせ、肩を震わせた後、とうとう感情が爆発した。

 

「日菜姉ちゃんに、日菜姉さんに私の何が分かるの!」

 

 そう言って部屋へ閉じこもってから、怒ったことをひどく後悔した。日菜姉さんは何も悪くない。私が悪いんだ。私が日菜姉さんの望んだ「氷川憂月」になれなかったのがいけないんだ。私が勝手に日菜姉さんに依存していただけだ。勝手に日菜姉さんに私の理想を押し付けてしまって、望み通りにならなくなったら怒鳴り散らしてしまったのだ。

 私の心が弱くなかったら。日菜姉さんに蔑まれてもそれは一時の感情で、いつもの興味本位で聞く質問で、私がちゃんと答えていれば良かったのだ。謝らなければ、とすぐに思った。

 でも、いざ謝ろうとすると、吐き気がして背中や額から汗が出てくる。脳裏にあの時の日菜姉さんの表情が散らつく。また仲良くなって、日菜姉さんの期待に応えることができなかったらどうしよう。あの表情を見せられて、自分は耐えられるだろうか。

 日菜姉さんのことは世界で一番大好きだ。だからこそ、彼女を失望させたくない。そう思うと、とても謝ろうという気にはなれなかった。

 確か紗夜姉さんが苦手になっていったのもここからだった気がする。紗夜姉さんだって十分恵まれた才能を持っているのにまるで自分は何も出来ない人間のように振る舞うその姿に次第にイライラしていったのだ。

 あなたが出来損ないだと言うのなら、私は一体なんなのだろうか。路傍の石ころか。人に認識されることもなく踏み潰される蟻なのか。悲劇のヒロインを気取る紗夜姉さんが段々憎くなってきたのだ。ヒロイン気取りという面では、私も人のことを言えたことではないと思うが。

 

 またも風景が変わる。中学の帰り道、校門の前に立っている日菜姉さんの友達たちの会話を私が盗み聞きしているところだ。

 本当はそういうつもりはなかったのだが、日菜姉さんが周りからどう思われているのか気になって悪いことだと思いつつ聞いてしまった。自慢の姉だ。きっとみんなにも尊敬の眼差しを向けられているんだろうと思っていた。でも、現実はどうやら違うかったらしい。

 

「氷川さんさ〜、なんかウザくない?」

「分かる、なんでも出来るからって調子乗ってるよね」

 

 驚愕、そして悲しみと不安が瞬時に脳内を襲った。

 自分が大好きな日菜姉さんが悪く言われていて泣きたくなった。

 いつも日菜姉さんと仲良く喋っている友達が裏では悪口を言っていて驚いた。

 そして、日菜姉さんも同じように裏では私のことを出来損ないだの無能だのと罵っているのかもと思った途端、目の前が真っ暗になった。

 もう、誰も信じられない。そう思った。こんな場面を見てしまえば、どんなに人が私を褒めても、相手が私と親しい存在でも、裏では誹謗中傷を繰り広げているのではないか気になるのも仕方ないと思う。

 人の好意すらまともに受け止められないのだ。一緒に遊んでいた時、日菜姉さんはよく私に「好きだよ。」と言ってくれたが、今ではもうそれすらも本当なのか疑ってしまう。自分のことを可愛がってくれた、たった1人私を見てくれた姉すらも疑ってしまう自分を殺してしまいたくなる。

 

 意識が覚醒する。陽はまだ出ていないから5時くらいだろうか。服が汗でぐっしょりと濡れていて気持ち悪い。まるで自分の感情のようだ。学校もあるし昨日の夜入らなかったから早めにシャワーを浴びなければと急いで支度し始めた時に、カレンダーが目に入った。今日の日付を見てみると、曜日は土曜日を示している。いよいよ悩み過ぎでボケ始めてしまったかと思いつつ、用意しかけた制服を綺麗に折りたたみ、着替えの部屋着だけを持って浴室へ足を向けた。

 

 

 

 







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なぜ自分が。





 手短にシャワーを済ませリビングのソファに身を投げ出す。時刻は5時20分ほど。あと一時間ほどしたら親が起きてくるから部屋に戻るべきだろう。つけたテレビには最近のニュースが流れている。どうやら自殺した高校生についてらしい。

 

 彼女はどういう思いで死を決意したのだろう。いじめたものへの憎悪を抱きながら死んだのか。それとも家族への先へ旅立つも申し訳無さを感じながら死んだのか。他人のことだ。どれだけ考えても同じ境遇に育っていない限りそれは想像の域を出ないし薄っぺらい同情でしかない。

 でも、できることなら代わってあげたかった気持ちもなくはない。自分みたいな勝手に人間不信に陥っているようなどうしようもない人間がのうのうと日々を無駄にしていくくらいなら、名前すら知らない誰かの苦しみを肩代わりしてその人に幸せな人生を歩んでもらいたい。くだらない自己犠牲だ。こんなことをしてところで他人に押し付けてしまったという罪悪感しか生まれない。

 でも、苦しみをひとつ知る度に、自分が徳の高い人間に近づいて行っているような気持ちになる。きっと本当に虐待やいじめに遭った人が聞いたら激怒すると思う。でもこれが私の本心だ。人の辛さを理解できない人間に人を救うことが果たしてできるだろうか。できないと思う。

「辛くなったらいつでも言いな。」、「まだ諦めるには早いよ。」、「まだ頑張ろう。」と中身のないありふれた一言しか言えないだろう。憂うことができない人間は、その同情の優しさが苦しみの淵に立っている人間を突き落とすのだ。

 

 だから私は理解できるようになりたい。不謹慎は百も承知だ。でも、紙切れのような人間になりたくないのだ。悩んでいる人間がいたら、的確なアドバイスをしたい。絶望した人間がいるのなら、希望を与えられる一言を言いたい。同情ではなく共感ができる人間になりたいのだ。

 

 恵まれた環境にいるのは自覚している。親に嬲り殴られているわけでもなく、学校で後ろ指を指されているわけでもない。したいことを好きなだけできている。だからこそ、この状況に甘えるのではなく、痛みを知り、重苦を知り、相手に寄り添えるような人間になりたい。

 大した才能もなく、愛されることを忘れ、歪な性格をした何ひとつとして誇れるものを持たない自分がせめてものと掲げた信条だ。この志だけは絶対に曲げない。曲げるわけにはいかない。曲げてしまえば、自分は堕ちていく気がする。人間のゴミとして生きることになる。嫉妬と羨望と猜疑心に満ちた醜い過去を持っているのだ。志くらいはせめて胸を張れるくらい崇高なものであるべきだ。

 

 自分は果たして愛されているのか、ふと疑問に思った。日菜姉さんには多分愛されていると思う。自分が日菜姉さんに怒鳴ってしまった日からかれこれ3年ほど経つが未だになんとかよりを戻そうと色々してくれている。普通はくだらない意地を張り続けている人間など諦めているだろう。まして日菜姉さんだ。自分に興味を失って無関心になってもおかしくない。それでもこうして逃げ続けているが構ってくれている分少なくとも嫌われてはいないはずだ。

 

 紗夜姉さんも自分が勝手に嫌っていただけだ。日菜姉さんに失望されて精神的にやばかった時に八つ当たりをしていただけだ。今はもう紗夜姉さんに嫉妬もしていなければ憎たらしい視線も送っていない。ただ、自分が嫌っていたのが紗夜姉さんにも伝わって変に避けられてしまって余所余所しい雰囲気になっているのであまり会話はしていない。できることなら日菜姉さんと同じようにまた仲良くなりたいものだ。自分のこれからの行動次第だが、日菜姉さんのようにトラウマがない分まだ復縁の可能性は高い。

 

 日菜姉さんはあの日が原因で自分に対してじゃなくても「好き」という言葉を彼女の口から聞いた瞬間遊んでもらっていた幸せな日々とそのあとの失望の眼差しがセットで襲いかかってくる。あの軽蔑の目がトラウマとなっていて、好かれたらその分後で期待に応えきれなかった時の視線に込められる侮蔑の感情が大きくなって自分に襲いかかる気がして上手く接することができないのだ。

 なにも日菜姉さんが悪いわけじゃない。紗夜姉さんも自分を見下すかもしれないし実は自分が過度に恐れすぎているだけで大丈夫なのかもしれない。たまたま日菜姉さんがトラウマの原因となっただけだ。自分が過去に打ち克つことが出来れば問題ないだろう。日菜姉さんは構ってくれるのでチャンスも多い。紗夜姉さんよりもハードルは高いが不可能ではない。

 

 なら、親はどうだろう。叱られた記憶もなければ、暴力を振るわれているわけでもない。食事も出してくれるし、お小遣いもくれる。ただ、そこに笑顔はないだけだ。そりゃそうだ。なにも恩返しできない娘に愛想よく笑い続けろっていうのが無理な話だ。完璧すぎるくらいにできた姉が既に二人いるのだからそちらに愛を送ってくれと私も思う。

 

 その考えで行くと、私は親にあまり愛されていないという結論に達するが、別に悲しくはない。そもそも最初からあまり愛されていなかったのだ。生まれた瞬間あたりは私の誕生に喜んだかもしれないが、覚えていない以上そんなもの私の中ではないに等しい。元から親の愛情を受けていないのだからあった時の気持ちなんて知らないからなんとも思わない。

 

 階段から誰かが降りてくる音がする。壁に掛けられた時計を見ると針は両方とも六を示していた。どうやら考えに熱中するあまり時間を確認するのが疎かになってしまっていたらしい。この時間なら多分親だ。別に嫌われているわけでもなく、ただただお互いに不干渉なだけなので一緒にいても問題ないが二人きりで一言もしゃべらずにいるのは精神的にくるものがあるのでおとなしく部屋に退散させてもらうとしよう。でも、階段を降りてきた人物は、私の予想どおりではなくなんなら意外とすら言いたくなるような人だった。

 

「日菜姉さん、どうしてこんな時間に。」

 

 日菜姉さんは基本的に自由人だ。さすがに昼まで寝ていることはあまりないが、かといっていつもはもう少し遅い時間に起きているはずだ。

 

「憂月がなんとなく起きてる気がしたからきたの。最近まともに話してくれないし。」

「それは、その、すみません。」

 

 自分の心が弱いばかりに、日菜姉さんに迷惑をかけてしまった。でも、日菜姉さんには嫌われたくないが、過度に好かれたくもない。

 

いや、それは自分の身を守るためでしかない。自分が好きだから、嫌われたくないし、自分が壊れるのが怖いから、好かれたくもない。なんて自分よがりな考えなんだろう。

もし本当にもう一度関係をやり直したいのなら、日菜姉さんを信じて自分から歩みこむべきなのに。結局、変わりたいだなんて口では言いながら、3年前と何一つ変わってない、逃げ続けている自分に嫌気が指す。

 

「ううん、別に謝って欲しいわけじゃないんだ。今回はお願いがあってきたの。」

「お願い、ですか?」

「うん、お願い。」

 

 自虐に陥っていたところで日菜姉さんに声がして意識をそちらに集中させる。お願いとは一体なんだろうか。わざわざこの時間に頼まなければいけないほど重要なものなのだろうかとも思ったが、自分が基本鍵をかけて部屋にこもっているのを思い出して、こうした不意をついた形でなければ自分に頼みごとなんて中々できないなと気付いた。

 次からは日菜姉さんの手を煩わせないためにも部屋の鍵を閉めないか基本リビングで過ごすようにしよう。日菜姉さんの目からは絶対に言うんだという強い気持ちを感じる。

 

出来ればそんな感情で見ないで欲しい。自分は、その瞳を向けられるほどの価値を持った人間ではないのだから。その心意気は紗夜姉さんに向けるべきだろう。自分なんかパシリを頼む程度の軽い気持ちで十分だ。

 

「憂月、今日1日暇?」

「へ、あ、うん、暇だけど。」

「じゃあ今日1日、私の買い物に付き合って欲しいんだけど、いいかな?」

 

 断ろう、と即座に思った。日菜姉さんと一緒に1日を過ごすのはいくらなんでもキツすぎる。こっちが勝手にトラウマを抱えて想像でしかない日菜姉さんに怯えているだけなのだが、一緒に過ごすことでそれが現実に変わる可能性が飛躍する。

 

 だから「ごめんなさい。今日は無理です。代わりに紗夜姉さんを誘ってみたら如何ですか?」と言おうとして喉まで出かかった時に、もう1人の自分が声を上げた気がした。

 

 ─変わるんじゃなかったのか。自分から逃げないんじゃなかったのか。そうやってまた、自分を甘やかし続けるのか。日菜姉さんが今まで私を誘うことなどあったか?なかっただろう。私はまた日菜姉さんの優しさを無に帰すのか。これを逃したら、二度と仲直り出来ないかもしれないぞ。

 

 そうだ。私は変わらなければならない。今までの弱い自分と訣別するんだ。特に何かきっかけがあったわけじゃない。強いて言うなら、日菜姉さんがいつもより早く起きたから。でも今が1日踏み出す時だ。今こそこの影のようなどす黒い負の感情の渦から逃げ出す時だ。直感でそう感じた。

 

だから、私は返事をした。これから一緒に1日を過ごすため、出来るだけ不快な感情を与えないよう細心の注意を払って持ち得る限りの満面の笑みで、明るい声でこう言った。

 

「良いですよ。行きましょう、日菜姉さん。」

 

 窓から、太陽の日差しがカーテンの隙間を通り抜け、リビングを心地良く光につつんでいた。




今更ですけど簡単なプロフィール。キャラを固めるための下書きみたいなものでしたので伏線とかストーリーに直接関係する設定などはありません。

氷川 憂月(ひかわ うづき)/あだ名:うーちゃん(日菜命名)

誕生日:12月25日

身長:153cm

体重:秘密だぞ☆

好きな食べ物:ガム、キャンディ、ジャンクフード

嫌いな食べ物:骨つきの魚料理

学年:高校1年生(氷川姉妹高校二年生の時)

趣味:キーボード、読書、音楽鑑賞


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蝶の夢。

 さて、一緒に出かけるとは言ったものの早くも胃が痛い。胸辺りから何かが込み上げてくる感覚がする。この3年間ろくな会話をしていなかったのだ。急に2人っきりで出かけるのはいくらなんでもハードルが高過ぎた。

 

 やっぱり断っておけばよかった。そしたらこんな思いをせずに済んだのに。でもそうしたら折角の日菜姉さんの勇気と親切を無に帰すことになる。それだけは絶対にしたくない。自分が日菜姉さんにしてきた数々の罪を自覚しているからこそ、日菜姉さんのためなら自分は身を粉にしてでも贖い続けなければならない。自分の弱さが招いた身勝手な行動がどれだけ日菜姉さんを悲しませたか想像くらいは出来る。

 

 その肝心な日菜姉さんは現在、着替え中である。自分はそれをずっと待っている。時刻は9時過ぎ。両親は1時間ほど前に家を出たし紗夜姉さんもつい先ほどギターの練習に行ったので家には私と日菜姉さんの2人しかいない。

 

私が日菜姉さんと外出すると知った時、紗夜姉さんは何処と無く寂しげな表情をしていた気がするが一体全体どうしてそんな顔をしていたのか。まさか私に日菜姉さんを取られるとでも思ったのか。

もしそうなら多分それはとんだ思い違いだろう。日菜姉さんはあくまで家族として私と仲良くしたいのであって多分日菜姉さんの心は紗夜姉さん一筋だ。これは多分死ぬまで変わらないと思う。日菜姉さんにとっての紗夜姉さんは最も優先されるべきもので他は二の次だ。

 

でもそれじゃあどうして自分を誘ったのだ。紗夜姉さんを誘えば良かったのにどうして私なんかを先に誘ったのか。何か理由があるのか。日菜姉さんの思考は、こと人間関係においては複雑なようでかなり単純だったりする。紗夜姉さんが1番で他は自分の利になるようにするからだ。それなら私と仲良くなることで紗夜姉さんとも仲良くなれると日菜姉さんは思っているのだろうか。

 

 あり得ない。紗夜姉さんが日菜姉さんを避けている理由と私は全くの無関係であるはずだ。

 

 ならどうして私を誘ったのか。ダメだ。全く分からない。思考がこんがらがってきたので考えるのをやめる。どうやっても答えが出ないときは思考放棄するのが1番だ。だから自分成長しないのだろうが、誰がめんどくさいことをわざわざ好き好んでするんだ。

 

 2人しかいない部屋だと普段は意識しない音が聞こえてくる。外の車の音だったり、時計の針が秒を刻む音だったり、自分の息や衣擦れだったり色々だが、今は部屋で鼻歌を歌っている日菜姉さんの声が1番聞こえる。

というか、二階の声が一階まで聞こえるとはどれほど大きな声で歌っているのか。鼻歌というか熱唱の域に近い気がする。どれだけ嬉しかったのか私にはよく分からないがまあ嫌がられてないから良しとしよう。

 

 しかし暇だ。本を読むにはあまりにも短すぎるしかと曲を聴くしてはいつ日菜姉さんが着替え終わるか分からない以上中途半端に聞いてラスサビだけ聞けないとかは嫌なのでイヤホンを耳につけることも出来ない。今日はあまりよく眠れなかったし仮眠でも取っておくとするか。最悪目を閉じるだけでも幾分かマシになるだろう。

 

 目を開くと、そこにはたくさんの何かが荒々しく飛び回っていた。初めは鳥かと思ったが、それにしてはやけに小さい。しばらく目を凝らしてから、ようやくそれが蝶だと認識できた。石炭袋のように、真っ黒な蝶。無性に嫌な予感がしてきて、近くにいた1匹に手を伸ばし、力の限り握りつぶす。

蝶は何故か血を散らすことなく、灰となって静かに消えていったが、嫌な予感は大きくなり続けるばかりで、それを払拭するために次々と蝶を殺していく。

 

 いくら殺しても気は晴れず、ついには全て残らず灰となったが、膨大な何かに気をとられ過ぎてそれに気づかず、私は一心不乱に手を空に切り続けていた。まるで、飛び狂う蝶のように。

 

 右手に違和感を感じた。視線を向けると、指先が微粒子のように散り散りなっていっている。それを止めようと必死に右手を抑える。が、今度は左手も粉々になっていく。次いで右足、左足も同じように。消えゆく自分に必死に抗い続けたが、叶うことなくついには全て灰になってしまった。

 

 灰になった自分の体から、1匹の蝶が姿を現した。真っ白な蝶だ。その蝶は、不安定な軌道を描きながら遠くへ飛んで行っていた。それに手を伸ばそうとしたが、すでに自分の体が無いことに気づき、心だけ虚しく残り続けた。

 

「ねぇ、ねぇ憂月、大丈夫?」

 

 日菜姉さんの声で目が醒める。軽い仮眠のつもりがどうやらがっつり眠ってしまっていたらしい。時刻はもう10時を等に過ぎていた。まさか1時間以上も日菜姉さんを待たせてしまった自分に毒づきながら、何故か汗ばんでいる体を洗うために服を脱ぐ。

 

 何か不吉な夢を見ていた気がするがどうも思い出せない。別に思い出せないくらいなら大して宛にもならないだろうから気にするほどでもないだろう。それよりもこれ以上日菜姉さんを待たせないためにも急いでシャワーを浴びて服を着替えなければ。

 

「ごめん日菜姉さん。体が汗で気持ち悪いから急いでシャワー浴びてくるね。15分後には家を出れるようにするからそれまで待ってて。」

「え、うん。分かった。」

 

 日菜姉さんの返事を聞いた瞬間、急いで自分の部屋へ行き替えの服をクローゼットからひったくり、浴室へ突入。勢いそのままにあらかじめ日菜姉さんとしゃべっている時にすでに脱いでいた上着を洗濯カゴに投げ入れ、ズボンと下着も続けて入れていく。10分でシャワーを浴び終え、2分で着替えて、3分で髪を乾かす。15分ジャストでリビングに戻り、日菜姉さんに声をかける。

 

「用意できたよ、日菜姉さん。」

「そんなに急がなくてもいいのに。」

 

 そう言いながらもどことなく嬉しそうな日菜姉さんがこちらに寄ってくる。先ほどまで立っていた場所には姉妹3人が仲良く公園で遊んでいる時の写真が収められていた。

 

「よしっ、それじゃレッツゴー!」

 

 底なしに明るい日菜姉さんの声を聞きながら、一緒に家を出る。空は雲1つなく、太陽の光が燦々と地面を照りつける。学校以外では基本引きこもっている私には悪魔の所業のように辛いのだが、日菜姉さんにとってはとても気持ち良いものらしい。暦ではまだ春のはずだが夏がしゃしゃり出てきて来て少し暑い。もう少し薄い服を着てくるべきだったか。

 

「そういえば日菜姉さん。今日はどこに行くんですか?」

 

 暑さをあまり意識したくないのでぎこちなくも日菜姉さんにそう尋ねる。今日の朝に誘われたのだ。計画を練る時間などあろうはずもなく、どう動くかは日菜姉さんに任せるつもりでいる。

 

「んーとねー、ノープラン!」

 

 人差し指を顎に当てながら少し思案してからにぱっと笑顔でそう言う。他人がやってたら狙ってんのかと思うが、日菜姉さんがやると心の闇が浄化せれるくらい様になっている。お陰でしばらくは自己嫌悪しながら話さずにいけるだろう。誘っておいて無計画なのは人としてどうかとも思ったが、そこは日菜姉さんだからという理由で無理矢理納得する。

 

「でも夕方はライブハウスに行こう!」

「良いですけどどうしてですか?」

 

 日菜姉さんに実は音楽の趣味があっても別に不思議ではないが、少なくとも家でそのような素振りを見せた覚えはない。首を傾げていると、日菜姉さんががまるで我が事のように胸を踏ん反らせながら教えてくれた。

 

「今日はおねーちゃんがライブする日なんだ!」

 

 ああ、それなら合点もいく。紗夜姉さんはギターをやっているし今日ライブするのならベタ惚れの日菜姉さんは絶対に観に行きたいだろう。

 

「へぇ。なんていうバンドなんですか?」

「えーとね、確かRoseliaだった気がする。」

「名前の由来とか分かりますか?」

「薔薇のroseと椿のcamelliaだと思うよ。」

 

 あの向上心の塊みたいな紗夜姉さんが組むバンドならさぞかし凄いのだろう。ボーカルとかプロレスラー並みの声量がありそうだ。多分そんなことはないだろうけど。ごめんなさいまだ見ぬボーカルの人。

 

でも多分技術はものすごく高いのだろう。家でたまに弾いているのを壁越しで聴くが紗夜姉さんのギターは打ち込みの音源を聴いている錯覚がするくらい精密だ。それと釣り合うほどなら多分プロにも引けを取らないどころかテレビでたまに見る期待の新星バンドとかよりもレベルが高い可能性がある。自分が嫌だから過度な期待はしないがそれでも少しは楽しみだ。

 

「じゃあ午前中はどうしましょうか?」

「デパートで買い物しようよ!」

「良いですね。」

 

 そこで会話が途切れる。デパートまでは徒歩で後10分ほどの場所に位置する。話さなくなった途端、また色々な不安や猜疑心が波となって襲ってくる。変な受け答えをしていなかったか。何か不快な思いはさせていないか。息は臭くないか。誰もそこまで気にしていないところまで気になってくる。

 

 また、どうして日菜姉さんが私を誘ったのか、何故私なのか、性懲りもなく何度も考える。ライブがあるから紗夜姉さんを誘わなかったのか理解できるが、かと言ってそれが自分を誘う理由にはならない。日菜姉さんに限って、1人が嫌だからという理由はないだろう。思いつきで1人で天体観測に行くような人物なのだから。

 

どうして何度も酷いことをした自分を誘うのかが思いつかない。誘う理由がないのだ。私が日菜姉さんに良くしたことなど一度も無い。と言うかあの日以来自分が最低限の会話以外は避けていたのだ。今日はなんとか勇気を振り絞って先まで会話していたが、多分毎日しろと言われたら出来ない。日菜姉さんから歩み寄ってくれなければ、臆病で自分を守ることしか頭にない自分にはどうしても自分から何かすることが出来ないのだ。

 

 自分よがりな自分に腹が立つが、事実話しかけようと日菜姉さんの部屋の前に立つ度に目眩と頭痛がするので中々自分からしようと言う気分にならない。多分今日は突然のことでうまく現実を飲み込めなかったからあんなに前向きになれたのだと思う。

 

 今日一日で、自分が日菜姉さんに対してどれだけ抵抗をなくしていけるか、それが今後の姉妹関係を大きく左右するだろう。今はまだなんとかどうにかなっているが、何かしらの形で才能の差をまざまざと見せつけられたら、もしかしたら日菜姉さんに強く当たってしまうかもしれない。

 

 日菜姉さんは何も悪くないのだからこれは自分が堪えなければならない。そも、この姉妹関係の拗れは全て私側に問題があるのだ。私が勝手に自分の無能を恨み、姉さん達の才能に嫉妬した。

 

 本当は昔のようにずっと部屋に、自分に世界に閉じこもり続けたかった。だってその方が楽だ。他人との繋がりのない自分しかいない世界。人間関係に悩まず、自分がしたいことだけを出来る。

 

 でも、そのままだと自分は何1つない変わらない、進まない、永遠に嫌になったら人に当たって、現実から逃げ続けるクズのまま死んでいってしまう。それだと私に歩み寄ろうとし続けてくれている姉さん達が報われない。

 

 前まではその優しさが憐れな小娘を救ってやろうみたいな自尊心に満ちた憐憫のように感じられて顔をナイフでぐちゃぐちゃにしてやりたいくらい気持ち悪くて仕方なかったが、流石に3年も時が過ぎれば少しは頭が冷める。

 

例えもう一度裏切られ、見下されて自分の精神が崩壊しようと、それは誰にも迷惑はかからない。なら、日菜姉さん達が望む未来に向かって進み続けなければならない。今まで散々周りを苦しめ自分を大切にしてきたのだから、今度は身を滅ぼしてでも関係の改善に努めるべきだ。自分に向け続けていたその甘ったれた愛情を姉さん達に向ける時が来たのだ。

 

 くだらない自己犠牲だがそれで未来が明るくなるなら幾らでもしよう。日菜姉さん達はそれを見て私を引くかもしれないが、私は必ず日菜姉さんと紗夜姉さんの仲の改善に全力を捧げよう。そして今度は、今度こそは、日菜姉さんの期待に応えるのだ。もう二度と日菜姉さんにあんな表情はさせない。日菜姉さんには常に笑っていてほしい。皆を照らす太陽の存在になってほしい。

 

 決意を新たにしていると、デパートが見えてきた。

 

「日菜姉さん、見えてきましたよ。」

「本当だ!ねぇ、まず服を見に行こう!」

「良いですよ。」

 

 さぁ、ここから自分の心がどれだけ持つか、勝負どころだ。




大変遅まきながら

星乃宮 未玖 様
テテフガチ恋民 様
落元 和泉 様 評価☆9ありがとうございます

餅大福 様
黒川エレン 様 評価☆8ありがとうございます

ぼるてる 様
剛玉 様 評価☆5ありがとうございます



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星が綺麗です。

「憂月、次これ!」

「日菜姉さん、まだやるんですか?」

 

 私と日菜姉さんは只今絶賛買い物中である。というか日菜姉さんは湯水のように次々と出してくる服をひたすら試着し続けている。私は着せ替え人形なのだろうか。時々自分の趣味じゃないようなまるでお嬢様みたいなふわふわしたスカートみたいな服も渡してくるが、着なかったら日菜姉さんが不機嫌になるかもしれないので心を無にして大人しく着替える。

 年頃の乙女としてどうかと思うが、私は正直ファッションに興味は微塵もない。着て恥ずかしくなかったらなんでも良いやみたいな感じだ。服にかける金があるなら本やCD、ゲームに好きなアニメのグッズなど自分の趣味にかけたい。そのためクローゼットには服は上下でそれぞれ5種類くらいしか存在しない上にどれも例外なく黒か白である。今着ている服も白がベースのTシャツに黒のパーカーと同じく黒のスカート、あと黒のニーソに黒のランニングシューズと見事に黒尽くしである。だって赤とか青とかめちゃくちゃ目立ちそうで中々着る気にはなれない。というか黒の安心感が半端ないのだ。これ着ときゃとりあえず何も言われないだろうと思っていたら気づけば9割の服が黒となっていた。決して某二刀流みたいにイキッた訳ではない。断じてだ。

 だからか、着せ替え人形として色々な服を着るのは疲れるし面倒ではあるが、自分が普段着ない色を身に包むのは新鮮なのでちょっぴり楽しんでいたりする。

 

「覗かないで下さいよ。」

「え〜、どーしよっかなー。」

「やめて下さい。割と、本気で、マジで。」

 

 口ではそう言いながらも、内心少し期待しながら試着室にまた入る。もしかしたら自分はマゾかもしれないことに傷つきながら服を脱ぐ。今回渡されたのは自分がいつも着ているような感じなので抵抗なく着替える。黒のカーディガンに青のボーダーシャツ、下はジーンズのようだ。着替え終わったのでカーテンを開け日菜姉さんに一周して全体を見せる。

 

「どうですか。」

「うーん。中々るんって来ないなー。」

 

 ぶっちゃけ服に関してはどうでもいい。ただ日菜姉さんに構ってもらえてる、自分を見てくれている。日菜姉さんが自分のために嫌な顔1つせず時間を割いてくれている。そのことがたまらなく嬉しいのだ。多分今年に入ってからの幸せランキング堂々に1位だ。心の中でエクスタシーを感じていたら日菜姉さんが不意打ちを食らわせてきた。

 

「でも、今の憂月にはすごいるるるんってくるな!」

 

 嗚呼、日菜姉さんはずるい。今まで塞ぎ込んできた自分が莫迦みたいじゃないか。どうしてもっと早くこの幸せに近づかなかったのか。手を伸ばせばそこにあったのに。

 今なら喜んで死ねる気がする。首吊り火炙りなんでもござれだ。多分数分で泣き喚くだろうけど。逆にここまで幸せだと後で何かしらよからぬ事が襲ってくるのではないか不安になってくる。

 人生はプラスマイナスゼロだとかどっかに阿保が言っていた気がする。まぁ、今それを考えるのは邪推だろう。日菜姉さんとの時間にこの邪な感情は不要だ。マイナスが襲ってくるのならその時はその時だ。未来の自分が足元を掬われない事を祈って今はこの幸福を噛み締めておこう。

 

 それから、ゲーセンで軽く遊び本屋へ行き、今は楽器屋さんの前だ。ゲーセンでは日菜姉さんがクレーンゲームでフィギュアとかヘッドホンとか色々なものを乱獲していた。恐らくまた無造作に部屋に飾られるのだろう。統一性がなくても日菜姉さんが飾ったら絵になるのだから不思議だ。

 本屋では特に買う予定はなかったのだが、「黒死館殺人事件」が珍しく置いてあったのでこの機会を逃すまいとつい買ってしまった。この本は本屋にも古本屋にも中々置いてないのでこうしてあるのはかなりレアだったりする。今は確かフィツジェラルドの短編集を読んでいる途中だからそれを終わったら読もう。

 今後の読書の計画を立てながら歩いていると、日菜姉さんが楽器屋の前で足を止めたので、そこに入る。自分は特に興味がなかったので、日菜姉さんを楽器スペースに入ったのを確認した後楽譜があるところに行く。

 

 何か知っている曲の楽譜はないだろうか。あっ、n-bunaさんの新しいバンドスコアが出ている。でもさっき本を買ったので少しは抑えなければ。

 

 買いたい衝動を抑えるためにバンドスコアのインタビューのところを読んでいたら、日菜姉さんがキラキラと目を輝かせながらこちらに向かってきた。

 

「ねぇ憂月、今お金持ってる?」

「へ?え、うん、一応少しあるけど、何で?」

「欲しいギターがあったんだけど、お金ちょっと足りなくて。」

「え、日菜姉さんギター始めるの?」

「うん!おねーちゃんが弾いててるんっときたから。」

 

 取り敢えずまた日菜姉さんに悩まされることになるであろう紗夜姉さんに合掌しておく。私も紗夜姉さんと同じような境遇にいるので僅かだが同情してしまう。まぁ、私の方が才能がない上に2人からプレッシャーをかけられていたのでどうして1人だけで才能もある紗夜姉さんがあれほど悩むのか理解できないが、まぁ姉の矜持とか私には無かったものがあの人にはあるのだろう。

 姉妹とはいえ他人である紗夜姉さんのことなどどれだけ考えてもあまり意味は無い。それよりも今は日菜姉さんのギターだ。

 

「どれくらい足りないんですか?」

「えーと、1万くらい?」

「…残念ながら持ってないです。でも取っておくことは出来るそうなのでお金がたまったらまた今度来ましょう。」

「うん、そうだね。じゃあ店員さんに言ってくるからちょっと待ってて。」

 

 ちらりと日菜姉さんの顔を見る。そこにはギターが買えないことに対する落胆の目が浮かんでいた。私に向けられたわけでは無いが、心が痛む。また私は日菜姉さんを落胆させてしまった。次は有り金全部持ってこよう。日菜姉さんのその顔は私の心を壊すトリガーとなり得るのだ。

 今が大丈夫だったがその内容や雰囲気次第では確実に崩壊する。私と全く関係ない無いのに少し気分が沈んだのだ。自分に向けられたら絶対に精神が壊れる自信がある。

 

 なら見なかったら良いのにどうして見てしまうんだろう。学校の人達にしているのと同じように、日菜姉さんの顔も見ないようにしてしまえたらこんな気苦労のせずに済むのにどうして見てしまうんだ。

 ふと心当たりがあることに気づく。多分、日菜姉さんに自分を理解して欲しいからだろう。自分を見てほしい。自分の存在意義を確かめたい。日菜姉さんの視線を利用することで自分を価値のある人間だと思いたいのだろう。

 だとしたら素晴らしいクズだ。人の好意すら利己的な欲求のために利用してしまう。やはりこんなクズのために日菜姉さんに時間を無駄にさせるのは申し訳ない。

 でもここで断って帰る事を日菜姉さんは望んでいない気がする。いや、それすらも自分の思い込みだろう。「自分と一緒にいたいと思っている氷川日菜」を自分が勝手に作り出しているだけに過ぎない。自分の理想を日菜姉さんに押し付けているのだ。

 

「帰ったよー!あれ、憂月、どうしたの?」

「うわっ!へ、え?な、何?」

「え?なんか悩んでそうだったから大丈夫かなーって。」

「ああ、うん、や、はい。大丈夫ですよ。日菜姉さん。それより次はどこに行きます?」

「うーん。じゃあ少し遅いけど何か食べに行こう?」

「紗夜姉さんのライブに間に合うんですか?」

「あっ、すっかり忘れてた!じゃあライブハウスにレッツゴー!」

 

 日菜姉さんが急に視界に入ってきた思わずたじろぐ。すぐに沈んでいた思考を切り替えて笑顔を浮かべ、日菜姉さんの話を聞く。

 

 この感情を日菜姉さんに勘付かれるわけにはいかない。これは自分の問題だ。誰かの手を借りて解決出来るものじゃ無い。それは甘えて逃げているだけだ。それに、知られたら日菜姉さんにまたあの目を向けられる可能性がある。「なんでそんなに考えるの?」、「どうしてそんなことで一々悩むの?」と。多分無いと信じたいけど絶対と言い切れない以上可能性は潰して然るべきだ。

 

 ーーーー

 

 ライブハウスで紗夜姉さんのライブを視聴する。こういう場所の行くのは初めてだったのであまり勝手は分からなかったが、日菜姉さんのお陰でとりあえずはなんとかなった。まぁ紗夜姉さんの出番になった途端最前列まで行ったので自分にあの人混みに突っ込み勇気はなく1人心細く最後列でじっと見ていたのだが。

 

 それにしても紗夜姉さんの、いやRoseliaの、というべきか、演奏はとにかくすごかった。圧巻の演奏とはこの事を言うのだろう。結成したばかりと言っていたがそんじょそこらのウェイウェイしている陽キャのバンドよりも100倍は完成度が高い。何も知らなかったらプロですと言われても気づかないレベルだろう。

 というかボーカルの人の声量が本当にプロレスラー並みにあった事が分かった時にはその場で腹を抱えて笑いそうになった。流石に自粛するが。というかそもそもプロレスラーの声量をあまり知らないのだけどとにかく迫力があった。あんなか細い体のどこからそこまでの声が出ているのか甚だ疑問である。これも日菜姉さんと同じように生まれ持った才能なのか、それとも紗夜姉さんのように努力の賜物なのか私には判別し得ないが何か人を魅せつけるものがあった。取り敢えず明日は日曜だしカラオケにでも行こうか。久しぶりに歌いたくなった。誘う友達はいないが。

 

「おねーちゃん、すごかったねー憂月!」

「そうですね、日菜姉さん。」

 

 興奮冷めやらずと言った感じの日菜姉さんに相槌を打ちながら会場から出て、近くにあったカフェテリアの机に向き合って座る。途中から自分も声を出していたのでだいぶ喉が乾いた。何か飲み物を入れてこよう。確かチケットにドリンク代が含まれていたから頼めるはずだ。日菜姉さんもRoseliaの時にめちゃくちゃ声を出していたので恐らく同じく喉からっからの状態だろう。

 

「何か飲みますか?」

「あ、うん。じゃぁジュースもらってきてくれる?」

「分かりました。」

 

 ジュースと言われても具体的に何の味のジュースがいいのか分からないので、取り敢えずオレンジジュースでも頼んでおこう。健康にも良いし。

 

「すみません。アイスコーヒーとオレンジジュースを1つください。」

「はい分かりました。少々お待ち下さい。」

 

 少し待ってからドリンクを両手に持ち、席に戻る。

 

「はい。日菜姉さん。なんのジュースがいいか分からなかったからオレンジジュースにしときました。」

「ありがとう、憂月。」

 

 日菜姉さんが満面の笑みで感謝を述べると同時の凄まじい勢いでジュースをストローで啜る。

 よっぽど喉が渇いていたのだろう。ものの数十秒で飲みきり、「ぷっはー」と満足げに息を漏らした。私も日菜姉さん程ではないがそれなりに喉が渇いていたので、気持ち速めにアイスコーヒーを飲む。どうやら紗夜姉さんを待つつもりらしいが、恐らく打ち上げなどがあるだろうから先に帰っておこうという旨を伝える。

 

「そっかー。それなら仕方ないね。」

 

 渋々と言った感じだがどうやら納得してくれたらしい。あとは私が飲みきるだけ。あと一息で飲みきれるだろうという量まで来た時、何かを思い出したかのように、あっ、と日菜姉さんが突然声を上げた。とてつもなく嫌な予感がする。背中や額から冷や汗が滝のように溢れ出る。

 

「そういえばさー。」

「どうしたんですか。日菜姉さん。」

「そう、それだよ。」

「どれですか?」

 

 何も分からず首を傾げる。

 

「け、い、ご。どうして姉妹なのに敬語なの?」

「それは…」

 

 なんて言おうか。

 

 あなたのせいです。あなたが才能を持ちすぎたから、私はあなたの嫌味をいう奴を影で見て人を信用できなくなりました。だから、敬語を使い始めました。あなたが私を構ってくれるから、私があなたに依存しないように、私の心が壊れてしまわないように、自ら一線を引く事で自分を守るために、敬語を使い始めました。

 

 瞬時にこの言葉を思いつき、喉まで出かけたところを無理矢理飲み込む。これらは本心ではあるが、同時に日菜姉さんへの僻みでしかない。本人にこんな事は口が裂けても言えない。どうにかして他の言い訳を絞り出そうと考える。

 

「どうして、あたしを昔見たいに『日菜姉ちゃん』って呼んでくれないの?」

 

 あなたのせいです。信用していたのに、あなただけは私に何も期待せず、ただ私を笑顔にしてくれる存在だと思っていたのに、あなたは私に失望の目を向けたから、呼び方を変えました。愛されていたいけど、明確な一線を引くために、呼び方を変えました。

 

 えらく自己中心的な考え方だ。自覚すればするほど反吐が出る。私は一体何様なのか。自分が誰よりも偉いとでも思っているのか。何故こんなにも反論してしまうのか自分でもよく分からない。気づいたらしてしまっている。

 

「ねぇ、どうして何も言わないの。」

 

 あなたのせいです。あなたにそのずば抜けた感性があったから、昔から話し相手があなたしかいなかった私は、理解されないものを話すくらいなら言わない方がマシだと無意識に感じたからです。どれも、これも、私がこうなったのは、人の視線が気になるのも、自分を責めるようになったのも、人と話せなくなったのも、人の期待に恐れるようになったのも全部、全部、あなたのせいです。あなたのせいなんです。あなたの、あなたの、あなたの、あなたの、あなたの、あなたの、あなたの、あなたの、あなたのーー

 

 …いや違う。落ち着け。違う。断じて違う。絶対に違う。何を勝手に暴走しているんだ。日菜姉さんのせいじゃない。

 

 私のせいだ。人と話せないのは、私が人に期待されないようにするため。期待に応えられない自分がとった逃げの手段だ。

 昔みたいに呼べないのは、私に強い精神がなかったから。日菜姉さんのように、周りからどう思われても気にしない鋼の精神力を持ち合わせていなかったから。弱い自分を守るため、日菜姉さんに嫌われないように、『日菜姉ちゃん』じゃ厚かましいかもと思い、『日菜姉さん』と呼び名を変えた。敬語なら嫌われることはないだろうと思った。敬語なら、たとえ距離が開いても嫌われはしないだろうと思ったから。

 

 嫌われても日菜姉さんを愛する心を持ち合わせていないから、口調を変え、逃げて、停滞を選び、構われる事で確実に愛される道を選んだ。日菜姉さんを理由に弱い自分を守り、変われない自分を肯定したいだけだ。

 

「あたしは憂月のこと好きだよ。でも…」

 

 嗚呼、頼むから、その続きを言わないでくれ。頼むから、私を壊さないでくれ。しかし、私の願いも届くはずもなく、日菜姉さんはゆっくりとその言葉を口にした。

 

「憂月がどう思ってるか、言ってくれなきゃ分かんないよ。」

 

 いつもの癖でつい日菜姉さんの顔を見た。見てしまった。そこに浮かんでいたのは明らかすぎるくらいの失望。あなたが、よりによってあなたがそれを言うのか。その顔で、その言葉を発するか。過去のトラウマが瞬時にフラッシュバックする。今まで堪えていた何かが堰を切ったような感覚がした。

 否、自分の感情を吐露するためにあえて切った感覚を作り出したとでも言うべきか。このまま何もせずに耐えれたかどうかは微妙だ。黙秘を行使し走ってその場を逃げ出せば少しは良かっただろう。

 

 


でも、私は最悪の手段を取ってしまった。恐らく、考え得る限りの最悪な手段を。

 

「…日菜姉さんに、日菜姉さんに私の何が分かるの‼︎」

 

 肩をわなわなと震わせる。机を叩きつけ、力を込めて怒鳴り、その勢いで立つ。突然の怒鳴り声にまばらにいた他の客たちが一斉にこちらを向く。日菜姉さんも突然のことに目を大きく見開いているが気にしない。自分の中を支配する邪悪でどす黒い憎悪と憤怒をを躊躇なく吐き出す。

 

「日菜姉さんに期待を裏切る後ろめたさが分かる⁈人に失望の目を向けられる辛さが‼︎周りの視線が自分を縛り付ける感覚が‼︎自分の無能さを恨む気持ちは⁈努力を圧倒的才能でねじ伏せられる気持ちは⁈何も分からないでしょ⁈だって日菜姉さんがそうしてきたんだもん!」

 

 泣きながらも口は塞がることなく、とどまる事を知らない感情が次々と口撃を続ける。

 

「言わなきゃ分からないって言っても日菜姉さんには分からないでしょ⁈どうして言っても伝わらないって分かってるのに言わなきゃいけないの⁈私のことを好きって言うならどうしてあんな目をするの⁈私をそんな目で見ないでよ‼︎ただ笑っていて。お願いだから、私にそんな目を向けないで。今の私を、受け入れてよ…」

 

 最後はもはや慟哭と呼ぶにはあまりに弱々しいものだった。懇願、と言ったほうがいいだろう。

 

 自分の失態に気づき、唇を強く噛む。痛みは無く、口内に鉄の味が広がる。叫ぶことでアドレナリンでも出たのだろうか。手も強く握りしめていたので爪が入り込んで血で赤くなっているが、そんなことよりも、日菜姉さんに怒ってしまったことへの罪悪感で頭の中はいっぱいだった。

 

 やってしまった。これだけは、この気持ちだけは絶対に言わないと心に決めていたのに。弱い心は己の醜悪すら塞ぎ込むことも出来ないのか。

 嫌われた。絶対に日菜姉さんに嫌われた。もう二度とよりを戻すことは出来ないだろう。今日一日、楽しい時間を過ごしてもしかしたらと思ったが最後の最後で失敗した。どれだけ前向きになっても、明るく振舞おうとしても、結局何1つ私は成長していなかった。3年前から何1つない進んでいなかった。壊れた心は壊れたままなのに、勝手により強固なものとなって直っていると思い込んでいた。

 

 実に滑稽な光景だと思う。見事に過去の再演を果たしたわけだ。ただ違うのは、私が反論したことだろうか。もしかしたら私は退化してしまったのかもしれない。

 昔の私は何も言い返さず、自分の世界に塞ぎ込んだことで誰も傷つけずに済んだが、今はどうだ。私が最も愛する人、唯一私を愛してくれる人を、他の誰でもない私が傷つけた。言葉のナイフを彼女に振るったのだ。

 

 もう、どうにでもなれ。ここまで来たのだ。何もかもを晒してしまったほうが楽かもしれない。もう日菜姉さんから愛されることもないだろう。

 このまま家出して1人で生きていくのもいいかもしれない。日雇いのバイトで最低限の金を稼げばいいし足りなくなったら体を売ればいい。安い人生になるが高い金を得られる。元々日菜姉さんに愛されることでしか価値を認識できなかった人生だ。価値を与えてくれる人は自らの手で手放してしまったのだ。今更自分の人生を気にすることはないだろう。

 

「憂月…」

「やめて、近寄らないで。そうやってまた私に優しくして、期待させて、失望するんでしょう。もうそんな想いするのは嫌なの。もう私に近づかないで。」

「あっ、待って…」

 

 近づいてきた日菜姉さんに憎々しげに視線を放ちながらそう言い放つ。多分、人生で初めて日菜姉さんを拒絶したと思う。これはさしもの日菜姉さんも相当来るものがあるんじゃないだろうか。いっそ良いざまだ。少しは傷ついて自分の行いの罪深さを自覚してしまえ。弱々しく手を伸ばす日菜姉さんを鼻で笑いながら振り払い、外に出る。

 

 空は雲ひとつ無く、太陽に照らされた三日月が醜いクレーターを露わにしながら、ニヒルな笑みを浮かべていた。でも、何故か月よりも、小さく、儚げに輝く星に私の目は釘付けだった。

 

 



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巫山戯るな。

今回もしかしたら微エロ?胸糞?まぁいつもとちょっと違うから注意。


 本屋の袋を片手に、街灯で照らされた道を我武者羅に走り続ける。時々本の角が脇腹や太腿に当たったが痛みを感じるほど余裕は無かった。行く当てなんてものはないがただ走り続けるしかなかった。風と共にこの罪悪感を振り払いたかった。

 

 多分、本気で自分を殺したくなったのは後にも先にもこの時だけだと思う。遂にやってしまったのだ。ついに、全てを失った。自分のせいで、日菜姉さんに傷を負わせてしまった。自分が耐えていれば、そのまま幸せに関係を修復できたのに、自分の心がそれに能わなかったがばかりに、時間の経過が勝手に心を強くすると思い上がった愚かな自分の軽率な行動が、より大きな溝を作った。自分がどうなろうがどうでも良かった。ただ、日菜姉さんさえ笑顔でいてくれれば良かったはずなのに。それが今はどうだ。自分を守るために日菜姉さんを攻撃した。滑稽だ。実に実に実に滑稽だ。結局私は口先だけの女だったのだ。日菜姉さんのためならとか言いながら、自分の利になることしかしなかった。日菜姉さんの善意を自分の都合のいいように解釈し続けた。そして最後には悲劇のヒロイン面だ。

 

 何が、私に近寄らないでだ。自分にはトラウマがあるのだと言い訳をして避けて、日菜姉さんから寄って来ることで自分は愛されていると思いたかっただけだろうに。

 

 何が、私に優しくして期待させて失望するんでしょ、だ。日菜姉さんの優しさには何一つ邪な感情は入っていない。良くも悪くもあの人は裏表無く人に接する。嫌なことは嫌とはっきり言うし、好意もストレートに相手に伝える。私がその優しさに甘えて勝手に自分のエゴを押し付けていただけだ。「私を愛してくれて嫌なこと1つ言わない氷川日菜」を自分が勝手に作り上げたのだ。そして現実がそれを潰しにかかるとヒステリーのように泣き叫んで攻撃する。失望したのは日菜姉さんじゃない、私の方だ。私が現実を、本当の日菜姉さんを受け入れる心を持っていないから、自分から突き放したのだ。本物を見たくないから。自分の作り上げた、自分に都合のいい「氷川日菜」に縋っていたいから。

 

 いや、違う。私は悪くない。日菜姉さんがあんな事を聞くから。あんな顔で質問するから。どうしてあんな事を聞くのだ。私にとってタブーであることくらいわかるだろう。どうしてあの人はいつも空気が読めないんだ。天才だからか。人と違う感性を持っているからか。それならわざとじゃないから人を傷つけても仕方ないよねってことか。巫山戯るな。冗談じゃない。それは甘えだろ。天才だから読めないんだと、今の自分に甘えているだけだ。私とまた仲良くなりたいのならそれくらい分かってもらわないと困る。

 

 腐った頭がよく吠える。どれだけ日菜姉さんを悪く言おうが、それは全部自分に当てはまることでもあるのだから。天才だから空気が読めない事に甘えているのなら、私だってトラウマを理由に過去に囚われる事を受け入れている。

 

 真逆の2つの考え方が巣食う脳内を必死に押さえつけるために、体を動かし続ける。どのみち今はどれだけ考えたところでまともな答えは1つも出てこないだろう。なら、何も考えられなくなるまで走り続けて、眠ってしまおう。寝る場所は…まぁ、公園で大丈夫か。今日はだいぶ暑かったし、多分1日くらい野宿してもどうにかなるはずだ。幸い明日は日曜日だ。起きたら頭を冷やして、そしてこれからどうすべき自分が納得できるまで考え続け、家に帰る。取り敢えず日菜姉さんには絶対に謝ろう。私が感情に走ったせいで日菜姉さんを傷つけたのは紛れも無い事実だ。それで罵倒されようが誹謗中傷を受けようがそれは自分が招いた事だから甘んじて受け入れよう。

 

 ふと、視界の端に遊具があることに気づいた。足を止め、そこに向かってゆっくりと足を運ぶ。どうやらこの公園は私が今日の朝夢で見た公園のようだ。まだあの夢を見てから1日も経ってないのにもう随分と昔のことのように思える。郷愁に浸りながら、ブランコまでほとんど無意識に歩を進める。懐かしげに手で座るところを摩ったとのちに、ゆっくりを腰掛ける。

 

 ぼーっと、何の考えずにブランコを漕ぎ続ける。特に意味はない。強いて言うなら思い出の中の日菜姉さんと同じことをする事で、少しでも彼女に近づこうとしているのかもしれない。もしくは、誰かに認めて欲しいのかもしれない。かつて私がしていたように、無条件の肯定を得ることに憧れているのかもしれない。紗夜姉さんと日菜姉さんという比較対象がいたせいで、私がどれだけ頑張っても、その努力が正当に見られることは無かった。だから、いつ頃からか、承認欲求が常に胸の中にあった。自分を見て欲しかった。結果じゃなくて過程を見て欲しかった。自分を唯一見てくれていた人すら今はもういないけど、それもこの気持ちはずっと私の胸内を燻っている。

 

 ずっと漕ぎ続けていると、揺りかごに中にいるような気分になり、走っていた疲労も相まってか、徐々に眠気を感じてきた。ブランコを降りて、近くにあったベンチに横になる。昼間に買った「黒死館殺人事件」を枕がわりにし、いざ夢の世界へ誘われようとした時、聞き慣れない声が聞こえた。

 

「おい、嬢ちゃん。」

 

 横たえた体を持ち上げ、微睡みに浸りかけた頭を必死に回転され、相手の姿を確認する。パーマのかかっていて先端だけが金に近い茶色に染められている。いかつい顔立ちに丸の形をしたグラサンをかけ、無精髭を生やしている。浅黒い肌をしており、服は大胆に胸元を開けた赤のシャツに黒のコート、ジーンズに革のたかそうな靴を履いている。どういう目的だろうか。普通なら公園で野宿しようとしている人をやめさせようとするのだろうが、見た目的に違う気がする。かといってナンパかというと、可能性はなくは無いがストライクゾーンを外れてそうなのでこれも違うと信じたい。

 

「そんなところで寝てたら風邪引くぞ。俺がいい場所に連れて行ってやるから付いて来い。」

 

 どうやらナンパの方らしい。人は見かけに寄らないらしい。この人絶対に同い年か年上好きだと思ったのに。

 

「お断りします。どうせラブホでしょう?それなら小遣い目当てで援交したがってるやつとシて来てください。」

「おいおい、そんな固いこと言うなよ。誰がお前さんをラブホに連れて行くって言ったんだよ。」

「その見た目が物語ってますけど。ラブホじゃなくてもナンパは間に合ってますんでどうぞお引き取り下さい。」

「まぁまぁ少しお茶でもしに行こうや。」

「嫌です。眠いんですよ。帰って下さい。」

「いいじゃねぇかよ。」

 

 しつこい。こっちは嫌だって断っているのにずっと粘ってくるし距離も気づいたら話しかけられた時の半分以上の距離になっている。後ろに下がろうにもこっちはベンチに座っている以上下がれない。

 

「俺はな、あんたに一目惚れしたんだ。惚れた相手と一緒にいたいと思うのは自然だろう。」

「もしそれが告白なら返事はノーです。あんたみたいなヤリ◯ン野郎みたいな見た目してるやつと交際なんてお断りです。」

 

 どれだけ突き放そうとしても詰め寄ってくる。日菜姉さんの方がまだ可愛げがあったぞこれ。ついにはベンチの隣に腰掛けられた。立ち上がって逃げようとしたが、手首を掴まれ強制的に座らされて、太腿をさすりながら詰め寄ってくる。というかキモい。お前がキャバ嬢に詰め寄るおっさんかよ。

 

「まぁいいじゃねぇか。俺と一緒に熱い夜でも過ごしてみねぇか?」

「やっぱりヤるのが目的なんじゃ無いですか。嫌ですよ青姦なんて。私そんな特殊な性癖持ってないですからね!」

「あぁもう黙ってヤらせろやお前!」

 

 ついに痺れを切らしたのか、乱暴にベンチに押し倒される。肩や背中、後頭部を勢い良くぶつけたが、私を犯そうとする目の前のやつに抵抗のに精一杯でそんなことを気にしていられない。距離を離そうと力一杯相手を押すが、相手はいかつい男で私は筋トレや運動に縁の無い女子高生、力の差は歴然。抵抗しようと努めても大した意味もなく、来ていたTシャツは前を乱雑に破られて下着が丸出しになり、下はスカートの中に手を入れ、パンツをこれも乱暴に脱がされた。

 

「なんだ?黒とか誘ってんのかお前?」

「黒色が好きなだけです。誰があんたを誘うんですかこのイカレチ◯コ。」

「んだとオラァ!犯されてぇのかお前⁈」

「誰かー!助けてー!」

「黙っとけお前!」

「カハッ、ゴホッ、カッ!」

 

 せめてもの抵抗のつもりで出来る限り暴言を吐く。押し倒して強引に私のヴァギナに指を入れようとするのを足を閉じたり体をくねらしたり相手の手首を抑えたりしながら助けを呼ぶ。しかしそのせいで片手で首を掴まれ、うまく呼吸が出来なくなる。指がヴァギナに触れる。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い。まるで蛆虫が身体中を這っているような悪寒に晒される。

 

「いやぁ!やめて!お願い!誰か!助けっケホッ!」

「恨むんならここで俺に出会ったことを恨むんだな。」

 

 勝利を確信したかのようにニヤニヤとゲスな顔を浮かべながら男はそう言った。抵抗しようと必死に体をくねらそうするが、ライブハウスからここまでぶっ通しで走っていたのが祟って上手く力が入らない。もうこれ以上は無理だ。なおもきつく締められる首と鼠蹊部からヴァギナの周りを摩る吐き気を催すほど気色の悪い感触を感じながらそう悟った。これがきっと私の罰なのだろう。今までの罪深き行動を償い時がきたのだろう。日菜姉さんを悲しませ、優しさを裏切ったツケが回って来たのだ。

 

 でも、だからって、これは幾ら何でもあんまりじゃ無いか。私だって望んで裏切ったわけじゃ無い。好き好んで日菜姉さんを悲しませたわけじゃ無い。私は変わろうとしたのだ。今までの自分と決別し、自分から幸せを掴もうと不相応ながらも願って、頑張ったのだ。

 

 私はただ、日菜姉さんと紗夜姉さんから愛されたかっただけなのに。なのに、神は私にこんな仕打ちを下すのか。私には変化を、進歩を願うことすら烏滸がましいと言うのか。お前に幸せなど似合わないとでも言うのか。

 

 巫山戯るな。巫山戯るな巫山戯るな巫山戯るな。

 

 涙で頰を濡らしながら、最後の抵抗で男を強く睨む。

 

「あぁ?なんだよその目は?お前は、大人しく俺に犯されてりゃいいんだよ!」

 

 ヴァギナに入りかけていた指を引っ込め、拳を上げ、私の顔に向かって振り落とされそうになり、もうダメだと思った時、救いの声が聞こえた。

 

「ちょっとあんた!こんなところで何やってんの!」

「お巡りさ〜ん!こっちで強姦しようとしてる人がいますよ〜。」

「チッ、もう少しだったのに。命拾いしたな、嬢ちゃん。」

 

 舌打ちをしながら私から離れ、そのまま遠くの方へ走っていった男を見ながら、何が起きたか分からず呆然としていたところに、先程助けてくれた少女たちが寄って来た。

 

「いや〜危機一髪でしたな〜。」

「ねぇ!あんた!大丈夫⁈」

「え?あ、あぁ…」

「ちょっ、あんた!ねぇ!⁈」

「ん?およよ、これはしっかり寝てしまってますなぁ〜。」

「呑気なこと言ってないでどうすんのよ、これ。」

 

 危機を去ったことによる安堵感、はたまた今までの疲れと眠気が襲ってきたのか、それともその両方なのかよく分からないが、私を助けてくれた彼女達の会話を最後に私の意識は急速に遠退いていった。

 

 

 

 

 



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消えないで。

「私は貴方が嫌いです。」消えたんですって。ショック。マジでショック。自分は親切な人がくれました。あの人には本当に感謝しかない。一生ついてく。もし保存できなかったらめげずにツイッターで聞き回りましょう。
blackbird書こうと思ってたけどこの1年くらいは消えないだろう悲しみをこれ書くことで紛らわそうと思います。珍しくほぼ日常というか闇が少ない回です。多分これだけかな?


 懐かしい香りがした。シトラスの香りだ。日菜姉さんの甘い、太陽のような匂い。昔は良く嗅いだ匂いだ。と言うのも、日菜姉さんがよく人に抱きつく癖があったので、否応にも鼻に入った。

 

 優しい感触がした。柔らかい人肌だ。日菜姉さんの心地良い、木漏れ日のような感触。昔は良く感じた感触だ。重ね重ね言うが、日菜姉さんに抱きつく癖があったから。

 

 きっとこれは夢なのだろう。覚束ない思考で、それを確信する。自分から日菜姉さんを捨てたはずなのに、未練たらしく捨てきれなかった心の残滓がこの夢を見せているんだろう。

 

 きっと夢だ。夢じゃなきゃあり得ない。だからこそ、強く、その温もりのする方へ動く。抱き寄せる。必死に掴みとろうとする。泡沫の夢で終わらせないために。強く、強く。

 

 せめて、夢だけは、夢の中ぐらいはこの感覚に沈んでいたい。やがて、消えてしまうから。醒めない夢など決してないと分かっているから。今だけ、どうか今だけは、私に幸せを下さい。

 

 微かに、消えゆくものを感じた。嫌だ。やめて。消えないで。離れないで。まだ足りない。溺れ足りない。まだ感じていたい。もっとこの世界にいたい。まだこの幸せに微睡んでいたい。お願い。まだ、醒めないで。消えないで。

 

 ▼ ▽ ▼

 

 ゆっくりと目を開ける。覚醒する思考と共に猛烈な喪失感に襲われる。もう一度寝れば、またあの夢を見れるのではないか、未練がましくそう思うが、周りを見渡したところここは私の知らないところだ。知らない顔もある。知らない人の前で二度寝するのは流石に無礼がすぎるだろう。

 

「ねぇ、あんた、大丈夫?」

「何がですか?」

 

 顔は知らないのに、声はやけに聞いた気がする少女が私にそう問うてきた。

 

「いや、泣いてるから。」

「え?」

 

 頰を摩る。今まで感じなかった何かが指先にあたる。手を目の前に移動させ、じっとその摩った指を見る。指先は、窓から差し込む太陽の陽の反射して夢のようにキラキラと輝いていた。慈しむようにしばらく眺めてから、視線を名前の知らない少女に向ける。

 

「えっと、ここはどこでしょうか?」

「あんた、覚えてないの?公園で男に襲われて、あたしとモカが助けたら急に寝ちゃったのよ。ここはあたしの家。」

 

 そうだ。思い出した。日菜姉さんに怒鳴り散らした後、走りまくってヘトヘトになって公園で寝ようとしていたところを襲われたんだ。後一歩遅れていたらと想像したらぶるっと寒気がする。

 

「危ないところを助けていただきありがとうございました。えっと…」

「蘭。美竹、蘭。」

「…蘭さん、ですね。もう1人いた友達の方は?」

「モカ、青葉モカって言うの。」

「モカさんですね。えっと、それでそのモカさ…」

「ねぇ。」

「はい?」

「その敬語やめない?私たち歳近いだろうし。」

 

 長い間敬語で話してきたから外せと言われてもそうそう簡単に外せるものではないのだが、言ってきたということは嫌なのだろう。敬語のこのよそよそしい感じが。

 

「癖みたいなものなんですけど、はい。いや、うん、努力はする。」

「ありがとう。それで、モカが何?」

「ああ、うん。その、モカさんにもお礼を言いたいんだけど、どこにいる?」

「今日午後からバンドの練習行くけど付いていく?」

「バンド?」

「そう。Afterglowってバンドやってるの。私はボーカル兼リズムギター。」

「へーそれはすごい。」

 

 ギターなんかコードを正しく鳴らすだけでもちゃんと押さえたり鳴らさない音はミュートしたりで大変そうなのにそれを高速で何度も形を変えて色々なコードを鳴らしながら歌っているなんて尊敬の念しか湧いてこない。

 

「それで、付いてくるの?来ないの?」

「え、あ、うん。行く。付いて行く。」

「そ。ならなんか食べに下降りよう。何も食べてないでしょう?」

 

 タイミング良く、腹の虫がぐ〜と鳴った。恥ずかしい。手で顔を隠しながら、蘭さんの顔をチラッと見る。赤のメッシュを指でいじりながら苦笑いを浮かべていた。

 

 ▼ ▽ ▼

 

「ねぇ」

「はい?」

「あんた、なんであんな場所にいたの?」

「あんな場所、か…」

 

 現在、私は美竹家のダイニングで朝食兼昼食みたいなものを食べている。蘭さんもどうやら私が目覚めるのを待っていたため、まだ食べていなかったらしい。律儀、というか申し訳ないなと思いつつ、出された味噌汁や焼き鮭など絵に描いたような和食を頬張っていたら、蘭さんがそう聞いてきた。

 

「姉と喧嘩してね…私が悪いんだけど、逆ギレみたいなことをしちゃって、家に帰りたくないから公園で寝ようと思ってたらああなったの…」

 

 細部を隠しながら事実を告げる。出会って間もない人に他人の姉妹喧嘩に巻き込むわけにもいかない。

 

「その…なんで喧嘩したの?」

「別に、大したことじゃないよ。少なくとも出会ってすぐの人に開けっぴろげに話さなきゃいけなくなるほどじゃ。」

「…そう。」

 

 蘭さんが少し唇を噛んだ。しまった。これではかなり皮肉をきかせて言っているではないか。親身になって聞いてくれているのに、無意識に突き放している。まぁ、本心でもあるのだが。流石にこんな醜い一人相撲じみた何かは人に聞かせるものじゃない。どのように伝えても、結局自分が変わることでしか解決しないのだから。

 

 思考を切り替える。少なくとも今日一日は蘭さんと一緒に行動するのだ。早々に不機嫌になられたら非常に気不味い。せめて会ったこともないが他の人がいるバンドの練習までは蘭さんの機嫌を直してもらわなければ。

 

「そう言えばさ!蘭さんはなんでバンドやってるの?」

 

 出来る限り明るい声と笑顔で、話をそらそうとする。喧嘩の話は相手を貶めない限り笑い声すら生まれない。その笑い声すら下衆なものだが。

 

「その蘭さん、って呼ぶのやめたら言ってあげてもいいよ。」

「うぐっ、じゃあなんて呼べと…」

「普通に蘭でいいじゃん。」

「それはハードル高いよ…」

「じゃあ好きに呼べば?」

「蘭さんで。」

「却下。」

「ふぇぇ…」

 

 日菜姉さん然り、紗夜姉さん然り、父さん母さん然り、誰かを呼ぶとき、常に「さん」をつけてきたため、人をそれ以外にどう呼べばいいのか分からない。というかこれが付かないと馴れ馴れしくないかな、とか気持ち悪くないかな、とか色々不安になるので「さん」付で呼ぶのは私の精神衛生上1番健全なのだが、どうやら蘭さんのお気に召さなかったらしい。そもそも同年代の友達があまりいなかったからこういう時どう呼んだり接したらいいのかイマイチよく分からない。とりあえず敬語はアウトなのだろう。

 

「じゃあ蘭様は?」

「あんたは私をなんだと思ってるの?」

「危機を救ってくれた女神様。」

「モカが聞いたら喜びそう。」

「じゃそれで良い?」

「却下。外でそう呼ばれるのは恥ずかしい。」

「えーじゃあ…」

 

 蘭殿、はふざけすぎか。蘭、呼び捨てはなんか生意気というか偉そうというかなんか嫌な気がするから違う。なんて呼ぼう。少し恥ずかしいけどこれで呼ぶか。

 

「蘭ちゃん。」

「ちゃっ!」

 

 おお、照れてる照れてる。あの人形みたいに仏頂面だった顔が珍しく崩れた。素早くポケットに手を突っ込むが、携帯がないことが判明し、仕方なく写真に撮ることを断念する。残念だ。会ったらモカさんかバンドの人に見せようと思ったのに。

 

「それで、蘭ちゃんって呼べば良い?」

「あ、うん。あんたが恥ずかしくないならそれで良いや。じゃあなんであたし達がバンドを始めたか、だったっけ?」

「え?あ、うん。」

 

 話を逸らすのに必死過ぎて思わず忘れていた。

 

「あたしたち、Afterglowの5人は幼馴染なんだ。小さい頃から、ずっと一緒だった。小学校も、6年間ずっと同じクラスだったんだ。」

「へぇ〜そりゃすごい。」

「でしょ。」

 

 少し憂いを帯びた顔ではにかみながら、蘭ちゃんがそう返してくれた。1人ならまだしも5人も6年間ずっと一緒だったとは一体どれほどの確率なのか。もしかしたら宝くじが当たるよりも高いかもしれない。流石にないかもしれないが。

 

「でもね、中学の時に私だけ違うクラスになっちゃった時があったんだ。」

「ありゃりゃ、そりゃ災難だったね。」

 

 私は学校では基本ずっと1人なのでその気持ちは分からないが、多分私は小学生の時日菜姉さんが家に突発的天体観測に行って帰ってこなかった時と同じ感じだろうか。なら確かに、それは寂しかっただろう。今まで当たり前のように隣にいた人が急にいなくなるのだ。仕方ないとはいえさぞ心細かっただろう。

 

「その時にさ、つぐみ、バンドのキーボードの子がね、バンドしようって言ってくれたんだ。あたし達の居場所を作るために。」

「へぇ〜。思ってたよりも良い話だね。」

「どんなのを想像してたのよ。」

「普通に軽音部で組んだのかと。中学からってことは割と長い間やってるんだね。」

「まぁね。オリジナル曲とか作り出したのは最近だけど。」

「いつか聞かせてよ。」

「今日練習で見れるよ。」

「本当?そりゃ楽しみだ。」

 

 蘭ちゃんは友達に恵まれたのだろう。幼馴染でも普通はそこまでしない。私だったら自然消滅してるだろう。それほど、彼女は幼馴染から必要とされていたのだろう。大切にされていたのだろう。筋違いな嫉妬を僅かに抱きながら、それからは世間話をしながら食べ続けた。大半は私の持ち物がどうなったかなのだが。衣類は完全にダメになっていたが、服を見るたびにあの恥辱を思い出しそうで嫌なのでそれはそれで良かったかもしれない。財布や本などの貴重品は無事だった。

 

 ▼      ▽     ▼

 

「ごめんね、服まで借りて。」

「良いよ、返してくれるなら。」

 

 蘭ちゃんと一緒に商店街を横切る。どうやら先の話でも出てきたつぐみさんの家で合流してからスタジオに行くらしい。

 

「そういえばお礼の品って何持っていけば良いんだろう。」

「モカだからそこのパン屋さんでいいんじゃない?」

「そんなんで良いの?」

「モカだから。」

 

 悩んでいると蘭ちゃん前方を指差しながら答えてくれた。指の先を見ると、「山吹ベーカリー」というパン屋さんがあった。中に入ると、特徴的な銀髪が目に入った。

 

「およ?」

「あっモカ、いたんだ。」

「モカちゃんはどこにでもいるよ〜。」

「モカさん、昨日は助けていただきありがとうございました。」

「いえいえ〜。無事で良かったよ〜。それよりも蘭と熱い夜を過ごせた〜?」

「ちょっ、モカ!」

 

 うん、中々に独特な人だ。まず銀髪ってどういう遺伝子を組み合わせたらそうなるのか、ハーフなのか?

 飄々とした雰囲気に蘭ちゃんを揶揄っているところから恐らくムードメーカーかそれに近いボケ担当みたいなポジションなのだろう。

 

「お礼にここのパンを奢りますよ。」

「えっ、本当に〜?」

 

 モカさんが丸で念願のおもちゃを与えられた子供のように目をキラキラと輝かせながら確認してきた。

 

「あんた、財布の中消し飛ぶよ。」

「えっそんなに。じゃあやっぱり2、3個で。」

「チェ〜。まぁいいか〜。」

 

 そう言いながら自分のトレイに次々とパンを乗せていく。その数は軽く10を超え、もはやパンの山だった。

 

「あの、私奢るんですよ?」

「大丈夫。いつもこのくらい食べてるから。なんなら今日はちょっと少なめかな。」

「え?本当ですか?」

「ふふふ〜本当なのだよ〜。」

「お金は?」

「ポイントカードで払ってるから大丈夫〜。じゃあこれとこれを奢ってくれない?」

「あっはい。分かりました。」

 

 私のトレイにうさぎのしっぽパンとメロンパンを乗せてきた。

 せっかくだし自分も何か買っていこうと、パンが並んでいる棚を吟味する。もっとも、ピークが過ぎているのとモカさんのせいでほとんどないのだが。

 

「本当はチョココロネがおススメなんだけどねぇ〜、今はないから〜、このアンパンなんかはどう?」

「じゃぁそれにします。」

 

 手早くメタリカあんぱんという名前のアンパンをトレイに乗せてもういいかと思い、レジに向かう。

 

「お会計お願いします。」

「あっ君もしかして初めて?」

「はい。そうですけど。」

「じゃあ特別に一個おまけしてあげる。」

「えっいいんですか?」

「いいのいいの、こっちはモカで潤ってるし、これからもご贔屓してしてくれれば。」

「そういうことなら週一でいきますね。」

「おっ言ったねぇ〜。待ってるよ。はいこれお釣り。」

「ありがとうございます。じゃあまた来週。」

「またね。」

 

 レジにいたローズマリーの髪をポニーテールにしたおそらく同年代であろう少女と軽く会話を交わしながら会計を済まし、先に外に出て蘭ちゃんとモカさんを待つ。そういえばレジの人の名前聞くの忘れてた。その内蘭ちゃんに聞こう。

 

「モカ、あんたそれ本当に練習前に食べるの?」

「ん〜はんぶん食べて〜残りは練習後かな〜。」

「それで晩御飯も食べるんでしょ。なんで太らないの。」

「それはもちろん、ひーちゃんに送ってるからだよ〜。」

 

 軽口を叩きながら蘭ちゃんとモカさんが出てきた。

 

「終わった?ならつぐみさんのところに行きたいんだけどどこにあるの、蘭ちゃん?」

「どこも何もすぐ目の前だよ。」

「いや、羽沢珈琲店なのか北沢精肉店なのか分かんないんだけど。」

「そういえばつぐみの苗字言ってなかったね。こっちだよ。」

 

 そう言って、羽沢珈琲店の方へ足を進める蘭ちゃんを追いかける。

 

「あっ、蘭ちゃん、モカちゃん、いらっしゃい!」

「もう〜蘭遅〜い!ケーキ二個も食べちゃったじゃん!」

「おっモカと一緒に来たのか。」

 

 喫茶店の奥の方から蘭ちゃんとモカさんを呼ぶ声が聞こえ蘭ちゃんの後ろで影を隠しながらちらりと声のする方へ視線を向ける。肩口あたりに切り揃えた茶髪の女の子に、胸囲のインパクトがすごい先ほどの発言からおそらくスイーツが好きな桃色の髪の女の子、そしてスレンダーな身体つきをした多分高身長の長い赤い髪をストレートに下ろした少女がいる。この三人が残りのafterglowのメンバーなのだろう。それにしても髪の色が謎だ。桃色に赤色は地毛に見えるがどうやったらそんな色の髪になるのか。赤毛のアンが先祖にでもいるのだろうか。

 

「おはよう、つぐみ。」

「おはよ〜。」

 

 つぐみと呼ばれた茶髪の少女がこちらに寄ってくる。そのことで今まで隠れていたのがばれてしまった。

 

「えっと。その子は?」

「ああ、昨日帰り道で男に襲われてたの助けたんだ。今日の練習見るけど大丈夫?」

「うん。多分大丈夫だよ。」

「今日はよろしくお願いします。」

 

 心の中で胸をなでおろす。これでダメですなんて言われたら今日の計画が台無しだ。なんの考えも思いつかないまま日菜姉さんと対面することになる。afterglowの練習を見る目的は気持ちをリフレッシュさせ、日菜姉さんに対してどうやって接すればいいかアイディアを得るためだ。

 

「わー!それ蘭の服?すっごい似合ってるよ!」

 

 桃色の少女がこちらに寄ってきた。相手の、次に自分の胸を見る。

 

「チッ。」

「えっ私なんか変なこと言った⁉︎」

「すみません。違いますよ。それにしてもよくわかりましたね。これ蘭ちゃんの服なんです。えっと…」

「私、上原ひまりっていうの。好きに呼んで!」

「じゃあひまりさんで。」

 

 危ない危ない。生まれつきの格差に思わず憎悪を向けてしまうところだった。大丈夫。まだ私は成長する。私はまだ成長期だから問題無い。心配無い。

 

「それじゃ、そろそろ練習行こっか。」

 

 蘭ちゃんがみんなにそう促し、次々と店を出て行くのについていく。

 

 ▼     ▽     ▼

 

 凄い。それが、afterglowのバンドの音を聞いた最初の感想だった。激しく体を芯から震わせるドラムに二つのギターが鋭く唸りをあげる。澄んだ歌声が部屋中に響き渡る。キーボードがそれを優しく包み込み、ベースが全体の厚みを増加させる。そして息の合った演奏がより確かな音となって大気を伝う。何がどう凄いのかはよく分からない。ただ、心が躍る。気分が高揚する。

 

 嗚呼、彼女たちがまるで夕焼けのようだ。私には余りにも眩しすぎる。

 こういうのをないものねだりと言うのだろうか。羨ましい。信頼し合える友を持った彼女たちが。姉が世界の全てだった私がずっと持たなかったもの。私の、なんでも心の内を曝け出せる友を持っていたならば、何か変われただろうか。もっと明るくいられただろうか。私を見てくれる友が一人でもいたならば、劣等感に苛まれることなく、日菜姉さんや紗夜姉さんと仲良く過ごせただろうか。なんてことは無い、いつものたらればだ。私がこうだったら、こうなれたら。そんなことばかり考えてしまう。

 

「じゃあ、最後に新曲でもやってみようか。」

 

 蘭ちゃんが振り返り、みんなにそう言った。

 

「蘭〜、曲の名前決まったの〜?」

「いや、まだ決まってない。」

「も〜二週間後に本番だよ〜。曲は出来てるからいいけど〜。肝心の歌詞とタイトルが決まってないと〜。」

「ごめん。もうすぐ出来そうだから。もうちょっとだけ待って。」

「大丈夫だよ、蘭ちゃん。焦らないでゆっくりやってね。」

「ありがとう、つぐみ。」

 

 羨望と嫉妬、少しの諦観の混ざった視線を彼女たちに向けていた。一瞬だけ、蘭ちゃんと目があった気がしたが、すぐにメンバーたちに顔を向け、練習に戻っていった。

 

 ▼     ▽     ▼

 

「今日は付き合ってくれてありがとね。」

「こっちこそなんのアドバイスもできなくてごめんね。」

 

 すっかり暗くなった帰り道を蘭ちゃんと並んで歩く。練習の後、みんなで夕焼けを見て、一番星探しをするのが恒例らしい。ちなみに一番星を最初に見つけたのはつぐみさんだった。あれは早すぎる。ああいう競技があったら世界狙えると思う。

 

「じゃあ、あたし家こっちだから。」

「うん。じゃあね。蘭ちゃん。」

「うん、またね。」

 

 名残惜しいが、明日は学校があるから家に帰らなければならない。憂鬱な気持ちになる。結局アイディアは何一つ思い浮かばなかった。どうしよう。どんな顔をして家に帰ればいいのだろう、日菜姉さんに「ただいま」と言えばいいのだろう。分からない。何一つ。無能な頭では姑息な手すら思い浮かばない。

 

 家に着いてしまった。と家の前に立っているだけでは扉は開かないし心の準備をしようがしまいが言うべき言葉は何一つ思い付いていないため邪魔なだけになるのでチャイムを鳴らす。いつもは日菜姉さんの「おかえり」に癒されたいと思っていたが、この時だけは親の簡素な「おかえり」がとても恋しかった。しかし、望んだ通りにいかないのが現実というもので、開いた扉から、青い三つ編みの髪がゆらゆらと揺れる。夢で感じたシトラスの香りが鼻腔を擽る。

 

「あっ、おかえり、憂月…」

「ただいま、日菜姉さん。」

 

 反射的に、顔を伏せる。そのまま日菜姉さんを押しのけるように家に入り、自分の部屋に直行する。一応昨日からずっと持っていた本を机の上へ放り投げ、蘭ちゃんから借りた服を残り僅かな理性で丁寧に脱いで畳む。クローゼットから部屋着を乱雑に取り出し着替えた後、ベッドに身を投じて素早く眠りにつこうとする。願うなら、まだ消えないでいて。私にあの夢をまた見させてください。







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白痴でも。

 1週間、永遠にも思える時間が経過した。本当に長かった。丸で自分だけが同じ時間を繰り返しているんじゃないか、そんな錯覚すら覚えてしまうほどに、この1週間は同じ日々の繰り返しだった。

 朝、誰よりも早く起きて、学校へ行く。授業を受けて、日菜姉さん達と会わないように素早く帰宅して部屋に閉じこもる。食事は常に顔を下に向けていた。

 いったいどんな顔をすれば良いのか。相手の機嫌をとって幸せだの何だの恍惚とした気持ちに浸っていながら、いざ自分の琴線に触れられるとあの有様だ。予想出来なかったわけでもないだろうに。ましてや今まで日菜姉さんを避けてきた1番の要因だったのに、想像通りの過ちを犯した。

 

 莫迦だ。阿呆だ。白痴だ。いつまでたっても成長しない。自分の感情を理性で抑えることすら出来ず、人の優しさに仇で返す。正真正銘人間のクズだ。一時の天使の声に惑わされ、苦行に耐えれると思い上がった出来損ないだ。あの時調子に乗らなければ、あの希望に満ちた声が悪魔の囁きであったことに気づけたなら。どうしようもないたらればが津波のようになって自分を襲う。今の自分はよだかよりも醜く弱い、人の形を留めた人以下の何かだ。どれだけ自分を謗ろうが過去を悔いようが結果は変わらない。

 

 いつもは気晴らしに使う音楽や本すらも、今の私を癒してやくれなかった。平時なら心に刺さる歌詞や言葉も、私の心には届かなかった。

 

 まさに手遅れだ。心の支えを失った。愛していた唯一の姉を他の誰でもない自分の手で手放した。もう自分に生きる意味や価値など存在しない。早くここから消えてしまいたい。私という存在を消し去り、1人別の世界へと飛んでしまいたい。なんならいっそのこと死んでしまえたらどんなに楽だろう。

 私にとって日菜姉さんを失うこと、それは存在意義の欠如に等しかった。

 

 部屋の片隅に目を向ける。紙の袋がぽつんと置かれており、中には借りた服とお詫びのお茶請けが入っている。もはやこれが唯一今の私を繋ぎ止めていると行っても過言ではないだろう。これがなかったら今頃自分は死に救済を求めていてもなんら違和感は無い。

 

 今日は土曜日。カーテンの隙間から太陽の木漏れ日が差し込み、日菜姉さんや紗夜姉さんよりも幾回りも暗い錆納戸の髪を照らす。それが一筋の影となって部屋の床に映し出される。

 

 影を意味もなくぼんやりと見つめる。まるで自分のようだ。周りには幸せが、光が満ち満ちているのに、それに気づかず壁を張り、暗い世界に引きこもり続ける。影が、私の裸の心を惜しげもなく照らす。

 変化を望みながら停滞を選び、自分は出来ると驕り高ぶり、自分のせいだと口では言いながら実際は何も悪くないと相手を傷付ける言葉ばかり吐き出し続ける。

 

 影から目を逸らす。外着に着替え、紙袋を掴み取り、慎重にドアを開ける。日菜姉さんと紗夜姉さんの予定は知らないので鉢合わせてしまう可能性があったが、幸い2人は家に居ないらしい。

 

 この服を返したら、部屋に引きこもり続けよう。もう2度と同じ轍を踏まないように、自分をこの部屋に縛り続けて、いつかの毒虫のように死んでしまおう。それこそが関係をぶち壊すことしか出来ない私の取れる最善策だ。

 

 家から出る。真上に位置する太陽が雲にその多くを遮られながらも煌々と存在感を放ち続ける。慣れない光量に目が僅かな鈍痛と共に眩むのをじっと耐える。忌々しげに太陽に目を向けた後、俯きがちに、それでも前から人が来たら対応出来るように最低限頭を下げて歩き続ける。

 まずはライブハウスに行って、蘭ちゃん達がいるか確認する。居れば僥倖、そこで渡してサヨナラだ。いなければそこから蘭ちゃんの家まで記憶を辿りながら逆行していく。

 

 何も考えずただひたすらに歩いていくと、見覚えのあるカフェテリアに到着した。紛れもなく、私が日菜姉さんを捨てた場所だ。自分があの時吐いた言葉がリフレインし続ける。無意識に左手で口、もう片方の手で耳を抑えながら傍を通り、ライブハウスの中に入る。

 

「あっ、あの時の…」

 

 受付のところから声が聞こえた。目を向けるとそこには綺麗な黒色の髪を携えた女性が目を皿にしてこちらを見ていた。

 白と青のボーダーシャツを着ており、その上に黒のカーディガンのようなものを羽織っている。下はジーンズで彼女の常に湛えられた朗らかな笑顔も相俟ってか、いかにも活発な人という雰囲気を醸し出している。

 あの時、というのは恐らく蘭ちゃんの練習について行った時か、日菜姉さんと行った時のどちらかだが、より鮮明に人の記憶に残りやすいことをしたのは間違いなく後者だろう。現に彼女だけではなく他にも幾人からか視線を向けられている。まぁあれだけ大声で喧嘩すれば否応にも記憶に残るだろうと割り切って、視線は気にせずにズカズカと受付の女性のところへ歩み寄る。

 

「あの、すいません。」

「は、はい。何でしょうか?」

 

 心なしか声が震えている気がする。そんなにもあの時の私は怖かったのだろうか。私の顔なんかどう弄っても般若の足元にも及ばないはずなのだが。彼女が私に怯えていようがいまいが、受け答えが出来ている以上それは些細な問題に過ぎない。気にせず言葉を紡ぐ。

 

「蘭ちゃん、afterglowって今日練習ありますか?」

「え、えーと、確認しますので少し待ってくださいね。」

 

 そう言ってペラペラとけたたましく音を立てながらプリントの束を捲って今日の予約を確認するのをひたすら待つ。やがて終わったのか彼女は顔を上げて少し申し訳なさそうに頰を掻きながら今しがた確認した事実を伝えた。

 

「今日は練習入ってないみたいですね。」

「そうですか。ありがとうございます。」

「いえいえ、是非またお越し下さい。」

「ええ、是非。」

 

 次があればですけどね、それは喉の奥にしまって最低限の返事を交わし、外に出る。

 太陽は雲で隠されていたが代わりに密閉されたかのようなジメジメとした気持ちの悪い空気が全身を包む

 汗ばんできた体に嫌悪感を抱きつつ、先週通った道を逆向きに進み続け、やがて1つの家を見つける。

 

 表札に「美竹」と書かれているのを確認して、呼び鈴を鳴らす。ピーンポーンと音が鳴り、無機質なノイズがガサガサッと幽かに音を出してから、男性の声が聞こえた。

 

「はい。どちら様でしょうか。」

「美竹蘭さんの友人の氷川と申します。」

「少し待って下さい。」

 

 予想外の人物の登場に少々肝を抜かされたが落ち着いて自己紹介をする。呼び鈴が役目を終える音を耳にすると当時にドタドタと足音が玄関に近づき、ガチャリと解錠される。

 

「こんにちは。本日は先日蘭さんからお借りした服を返しに来ました。」

「ああ、あの時の君か。まぁ少し上がりなさい。」

「いえ、今日は返しにきただけなので…」

「まぁそう言わずに。汗もかいているし折角ここまで来たのだから少しうちで涼んでいきなさい。」

「…はい、では失礼させて頂きます。」

 

 ここで渡して帰る予定だったが、有無を言わさぬオーラを言外に感じ取り、仕方なく家にお邪魔させてもらう。

 家の中は少し広めの和室がある事を除けばごくありふれた一般家庭とほぼ同じ構図と言って差し支えないだろう。玄関の近くに二階への階段ー恐らく蘭ちゃんの部屋があるのだろうーが設置され、その隣の廊下からリビング、キッチンや浴室などに繋がっている。

 リビングで話すのかと思ったら、「こっちに来なさい」と和室へと促された。あまり感じることのない畳や障子、襖などが仄めかす和の雰囲気に少しだけ身を投じつつ、向かい合うように置かれた座布団の片方に正座で座る。

 

「そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ。」

「そうですか。ではお言葉に甘えて。」

 

 そう言って、僅かに正座を崩す。流石に初対面の相手に胡座で座ろうとはつゆにも思わなかった。

 

「さて。いきなり家にあげて申し訳ない。」

「いえ、予定はなかったので大丈夫です。」

「そうか。ならよかった。申し遅れながら、蘭の父をやらせてもらってます。」

「蘭さんの友人をさせてもらってます。」

 

 どちらともなく頭を下げる。その何処か奇妙な一連の出来事、遂に抑えきれなくなり、ふふっと口元を押さえて笑ってしまう。すると目の前からもクククッと笑い声を抑える声が聞こえ、やっぱり向こうもこれに違和感を拭えなかったらしい。

 

「ふふっ、あの、蘭さんは今どこに?」

「今頃友人たちとスタジオとやらにいるはずだ。」

「いつ頃お帰りになりますか?」

「しばらくすれば帰ってくるだろう。」

「では、それまでお話でもしていましょうか。」

 

 ここまま服を押し付けて帰っても良かったが、折角だ。最後の晩餐ならぬ最後の会話を楽しんで帰るのも有りだろう。そして自分の世界の泥沼に沈み、塵芥となって世界から消えてしまおう。

 

 ▼

 

 それから蘭ちゃんの父、長いから蘭パパとでも読んでおこう。蘭パパとも会話は意外にも弾んだ。と言っても主に蘭ちゃんの事だったが。生け花の話も少しだけ聞いたが自分が想像していたよりも奥深かった。ただそれっぽく花をいけるだけだと思っていたがちゃんと季節に合った花を選ぶ必要があったり、流派によって表現形式が変わったり、聞いていてとても興味深かった。

 もうそろそろ蘭ちゃんが帰ってくるだろうと時間に差し掛かって来た頃、蘭パパがふいにこんなことを言ってきた。

 

「でも、君がいてくれて良かったよ。」

「何故ですか?」

 

 発言の意図が分からず、素直に真意を聞こうとする。

 

「今まで蘭は幼馴染たちとしかうまく馴染めていなかったからね。他の人たちとも仲良く出来ているか心配だったんだよ。」

「ああ、確かに。」

 

 言われてみれば、一度しか蘭ちゃんには会っていないがそれでもあまり社交的な雰囲気は受けなかった。でもまさか幼馴染しか友達がいないとは。そもそも同年代の友達が今までいなかった自分のことは一旦棚に上げておき、その事実に吃驚していた。恐らく彼女の交友関係は狭く深くなのだろう。

 

「ええ、私で良ければいつまでも蘭さんの友達でいましょう。」

「ああ、蘭のことをよろしく頼むよ。」

 

 朗らかな顔をして蘭パパがそう言ってはにかむ。心なしか深く刻まれた眉間のしわが僅かに緩んだように見えた。

 次は何を話そうか、期待を帯びた目で互いに視線を交えていると、施錠される音が聞こえた。どうやら蘭ちゃんが帰ってきたらしい。

 

「じゃあ私はそろそろお暇させてもらいますね。」

「ああ、是非また来るといい。」

 

 時間的にも丁度日が傾きかけていて丁度良い頃だ。多分今出れば廊下で蘭ちゃんと鉢合わせるだろう。そこで軽く挨拶をして帰宅しよう。

 和室を出て、玄関へ向かうべく足を前に出そうとした時、視線の端に赤色が目に入った。そちらに振り向くと、蘭ちゃんが口をパクパクさせて赤のメッシュを揺らしていた。

 

「蘭ちゃん、こんにちは。」

「あ、あんた、何で…」

「服を返しに。」

「服?…あ、あれね。別に良いのに。」

 

 なぜ私がいるのか分からず困惑していたが、私と話して思い至ったらしい。というより自分が貸した服の存在を普通忘れるだろうか。

 

「あんた、いつからいたの?」

「うーんと、1時間ほど前からかな?」

「何してたの?」

「蘭ちゃんのお父さんとお話ししてた。」

「なっ!」

 

 廊下に立て掛けられた時計を尻目にそう答えると、途端に彼女はまるで自分の黒歴史を語られているかのように顔を赤らめて、自分に向かってドカドカと歩み寄ってきた。

 

「え、あ、ちょ、私、帰るんだけど。」

「いいから!」

 

 そう言って私の手首をひったくり、二階の蘭ちゃんの部屋へと進んでいく。部屋に入り、鍵をかけたことを確認してから、彼女はキッと目を鋭くして私に詰め寄ってきた。

 

「ねぇ、何話したの?」

「主に蘭ちゃんのこととか、花道のこととか?小さい頃の蘭ちゃん、可愛かったよ〜。」

「っ!見たの?」

「蘭のお父さんが嬉々としてアルバム持ってきてくれた。」

「お願い!全部忘れて!」

「え〜可愛かったのに。」

「かわっ!」

 

 ヤバイ。こうやって蘭ちゃんをいじるの楽しくなってきた。現に彼女は今私に過去の自分の事を忘れて欲しい気持ちと褒められて嬉しい気持ちが綯交ぜになって、目は鷹のように睨んだままなのだが口元が若干緩んでいたり頰が赤くなったりで非常に可愛らしい顔となっている。ぶっちゃけ睨まれても全然怖くない上にむしろ可愛さを助長させている。

 

 そんな事を思っていると、そうだ、っと言わんがばかりに顔をパッとさせて私を見た。

 

「じゃああんたの話聞かせてよ。」

「私の?」

「そう。それでおあいこ。」

「え、普通に無理なんですけど。」

「あたしの聞いたんだからそっちも教えてよ。」

「いや無理だって。」

「何で?」

「面白くないから。」

「それでも良いから。」

「嫌だよ。」

「良いから。」

 

 しつこい。蘭ちゃんはこんなにズケズケと人のプライベートに踏み込んでくるような人間だっただろうか。いや、彼女のことは蘭パパからの話でしかあまり知らないが、それでもどちらかと言うと一歩引いた関係である時が多い気がする。それとも過去を聞かれた羞恥で頭が回らなくなっているのだろうか。折れてしまった方が楽だが夕焼けのように輝いている彼女の心を私の私利私欲に塗れた穢れた感情で汚すわけにはいかない。

 

「いい加減にして。」

 

 明確な拒絶を彼女に突きつける。日菜姉さんと同じように、相手に否定の意思を最大限にぶつける。これが1番手取り早いからだ。

 またやった。お前は生涯人を傷つけることしか出来ないんだ。自分で排斥するたびにそう言われているような気がして自己嫌悪に襲われるが、言わない方が彼女にとって幸せなんだ、と無理に信じ込み自分の行いを正当化する。

 そうだ。自分のこの独占欲や自己中心的な欲望で溢れている心の内を晒すことは誰であっても私が許さない。

 

「でも。あんた、苦しそうな目をしてる。少し前の私みたいに。」

「でもそれに根拠はないじゃん。本当に私が苦しんでいるかどうか知らないでしょ?」

 

 蘭ちゃんの的を射た意見に思わず虚勢をはる。例え蘭ちゃんの言っていることが正しくても、私がそれを認めない限り、それは決して正解にはならない。罪を犯してもバレなければ犯罪とならないように。

 

「でも、本当に苦しんでいるのなら友達として助けてあげたい。」

 

 尚も蘭ちゃんは私に近づいてくる。私を救おうと、慈悲を投げかけてくる。恐らくこれが彼女にとってのいつも通りの、当たり前の行動なのだろう。苦しんでいる友達がいたら助ける、相談に乗ってあげる。それは偽善でも何でもなく、本心からくる純粋な優しさ。だからこそ、それは他のどんなものよりも私を苦しめた。

 

「もうやめて!」

 

 私の声が部屋の空気を震わせる。蘭ちゃんの目が僅かに開かれる。

 

「お願いだからやめて!そんなに優しさを私に向けないで!また期待しちゃうから!日菜姉さんの時みたいにまた勝手に期待して、勝手に裏切られたと思い込んで、そして攻撃して、相手を傷つける!」

 

 慟哭が喉を飛び出し大気を伝い、私と蘭ちゃんの鼓膜へと伝わっていく。

 

「馬鹿みたいじゃん!全部私のせいなのに、人のせいにして!もう人に期待するのは嫌なの!大切な人を傷つけたくないの!だからお願い!私に優しくしないで、お願いだから!」

 

 そこまで言って、目の前が急に遮られた。そして聞こえるドクンドクンと一定のリズムを刻む音と柔らかな感触。次いで頭になにかが乗せられ、髪がサラサラと撫でられる。

 

 あまりにも突飛な出来事に、一瞬なにが起こったのか分からなくなった。私が止まった思考を再び回転させ、現状を把握したのはそこから約1分後のことだった。

 

 今、私は蘭ちゃんに抱き寄せらせ、彼女の胸に頭を埋め、頭を優しく撫でられているようだ。

 

「どうして?」

 

 突然の出来事に対して浮かんだのは羞恥ではなく、純粋な疑問。また、あの時と同じように相手を泣かせていると思い込んでいたので、予想外の展開に困惑せざるを得なかった。埋もれていた胸から顔を上げ、目と鼻の先の距離にある彼女の聖母のような顔を見ながらそう尋ねた。

 

「分かんない。でも、こうしなきゃって思って。」

 

 まるで子供を慈しむような目で見ながら、彼女はそう答えた。

 

「今まで辛かったのかなって。誰にも言えなくて、ずっと1人で溜め込んできたのかなって思って。」

「ああ…」

 

 わなわなと唇が震える。堰を切ったかのように、視界が滲み、次々と涙が頬を伝い彼女の服へと吸い込まれていく。

 どうして、彼女はこんなにも優しいのだろう。まだあって間もないのに、どうしてここまでしてくれるのだろう。

 

「あのね…」

 

 気づいたら、私は訥々と、自分の事を語っていた。2人の自慢の姉たちがいる事。そのせいで誰も自分を見てくれなくなった事。唯一私を見てくれていた姉すらも、この前喧嘩して傷つけてしまった事。

 あんなにも、硬く閉ざされていた私の心は、人の肌の温もりでいとも容易く溶けて無くなってしまった。

 

 ずっと、こうなる事を望んでいたのかもしれない。日菜姉さんとの日々は日菜姉さんを中心に回っていて、私は常に彼女の意思を尊重して過ごしていた。そこに私の意見はあまり入っていなかった。

 でも、ずっと自分の事を見て欲しかった。ただ一緒に遊んだりするだけではなく、言葉にして、自分の話を聞いて欲しかった。こんな事をしたんだよ、あんな事があったんだよ、取り留めのない事でも相手に言いたかった。ただ、自分の話を聞いてくれる人が欲しかった。自分をちゃんと内側から見てくれる人にずっと焦がれていた。

 一言、言葉を紡ぐ度に心がどうしようもないほどに満たされていく。

 

 私がしゃべっている間、彼女はひたすらに黙って相槌を打ってくれた。それだけで既に私は幸せだった。

 

「どうすればいいのかな。」

 

 そして、私の過去を語り終えた時、ぽつりと、言葉が漏れた。

 

「なにが?」

 

 絶えず頭を撫でながら、蘭ちゃんは優しくそう返してくれた。

 

「日菜姉さん達と仲直りできるかな。」

「きっとできるよ。あんたの本心をきちんと伝えられたら。」

「でも、怖いよ。またやらかしちゃうんじゃないかって。また、傷つけちゃうんじゃないかって。」

「大丈夫だよ。きっと。」

 

 一層強く抱きしめながら、彼女はそう言ってくれた。不思議と、自分の気持ちを伝えることに抵抗がなくなっていた。今まで散々閉じ込め続けた本心は、人肌ですっかりとその砦を壊され、外の世界へと飛び出していた。

 

「でも、もしまだ踏み出せないなら、明日、ライブに来てくれないかな。」

「ライブ?」

「そう。お父さんにバンドを認めてもらうために、明日ライブするの。新曲も歌う。だからそれを聞いて、勇気を持って欲しいんだけど。」

「うん。行くよ。絶対に行く。」

 

 にへらっと頬を緩めて無邪気な幼子のような笑顔を向ける。それにつられて、彼女も目を細くした。

 

「今日はどうする?泊まっていく?」

「えっとね、泊まっていってもいいかな?」

「うん。いいよ。」

 

 初めて、我儘を言った気がした。少し前、それこそ今日の午前中の私ならきっと即刻帰宅を選んでいただろう。興味はあっても、迷惑かもしれない、不快な思いをさせるかもしれない。そんな考えが私にまとわりつき、自由を奪っていった。

 でも、蘭ちゃんがそれを取り払ってくれた。今まで縛り付けていた鎖を外してくれた。

 心が鳥のように軽やかな気持ちとなった。

 

「じゃあ伝えてくるからちょっと待ってて。」

「…もう少し。もう少しだけこのままでいさせて。」

 

 体勢を解こうとする蘭ちゃんに対してまたも自分の我儘を通そうとする。嫌じゃないかなとビクビクしていると、仕方ないなと言ってまた元通りの姿勢に戻り、そっと、今度は背中もさすってくれた。

 まるで揺かごの中にいるような気分になる。

 

 こうして張り詰めていた空気は徐々にその形を失い、遂には完全に溶けて消え、代わりに弛緩した安らかな雰囲気が溢れんばかりに部屋を満たした。私はその心地良い雰囲気の中で、そっと瞼を閉じた。

 

 

 




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MinorNovice 様 評価☆6ありがとうございます

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本当の色。

 暖かい朝陽が意識を覚醒させる。チュンチュン、と雀の囀りが聞こえてくる。後頭部から柔らかな感触が伝わる。目の前では、赤いメッシュがゆっくり揺れている。蘭ちゃんが少し辛そうな顔で船を漕いでいた。

 しまった。完全にやらかした。いくら初めて人に甘えたからと言ってもこれはやりすぎた。

 

 いつのまにかされていた膝枕から急いで頭を上げ、上体を起こす。蘭ちゃんの肩には花柄の可愛らしい毛布がかけられていた。自分でかけたのだろうか。

 

 いや、蘭ちゃんは私のせいで身動きが取れなかったはずだから彼女のお母さんか蘭パパがかけてくれたのだろう。

 

 とりあえず今日は彼女にとって大事な日だ。父にバンド活動を認めてもらうためのライブの日。

 そんな日に体調を壊してしまっては今までの全ての努力が泡となってしまう。これ以上辛い姿勢でいてもらっては困るので、起こそうと声をかける。

 こんな姿勢では碌に疲れも取れていないだろうし時間も既に日は出ているが少しくらい、30分か1時間くらいならきちんとベッドで休めるだろう。

 

「おーい!蘭ちゃーん!」

 

 耳元で囁きながらゆっくりと肩を揺らす。

 すると、んんっと唸りながらローズピンクの瞳が姿を表す。

 

 寝ぼけ眼でふあ〜、とあくびをしてから大きく伸びをする。バキッボキッと背中から音が鳴り、少しの罪悪感を覚える。

 やがて、部屋の周りをぐるりと見渡し、私の姿を捉えたところで一瞬フリーズし、首をかしげる。そしてみるみる頬を赤らめていった。

 

「あー、その、おはよう」

 

 その一連の行動を目にして、私が思ったことは、蘭ちゃんが寝起きは不機嫌なタイプの人間じゃなくてよかったということだけだった。

 お互いに何も話せず、階下のテレビと外の小鳥の声だけが六畳間にこだまする。しかし、蘭ちゃんを起こした理由を思い出し、私が先に沈黙を破る。

 

「蘭ちゃん、身体まだ疲れているでしょ?もうちょっと寝たら?時間を教えてくれたら起こすから」

 

 その言葉を聞いてようやく蘭ちゃんも再起動し始めた。朝の間抜けな顔を見られたのが未だに恥ずかしいのか、顔は少し赤かったが、それも私が二度寝を促した頃にはだいぶ収まっていた。

 

「ありがとう。じゃあ30分後くらいに起こして」

「ん、分かった」

 

 そう言って立ち上がり、ベッドの方へとよろよろと蘭ちゃんは足を向ける。私は彼女の犠牲の元、今までにないほどに良質な睡眠を貪ることができたので朝から頭が冴えている。なので、蘭ちゃんが私の隣を通り過ぎて行こうとした時、耳元でこう呟いてみた。

 

「寝起きの蘭ちゃん、可愛かったよ」

 

 視界の端で大きく背筋を伸ばし、耳まで真っ赤にしている蘭ちゃんを確認して、私は上機嫌に部屋を出て行く。

 自分の心の内を知っている人間がいるというのは存外良いものなのかもしれない。

 

 コツコツと、小気味良い足音を立てて階段を降り、リビングへと向かう。携帯を取り出し、時刻を確認しようと携帯を取り出すと、ロック画面にはおびただしい量の通知が来ていた。全て日菜姉さんからだった。しかもどれも同じ内容。紗夜姉さんからきてないのは、日菜姉さんが送っているから必要ないと思ったのか、それとも私に対して興味がないのか。

 まあ十中八九後者だろう。血が繋がった姉妹とはいえもはや紗夜姉さんとの距離感がどういうものだったか思い出せない。15年同じ屋根の下で生きてきて、私は紗夜姉さんのことをあまりにも知らなすぎる。それこそ、赤の他人も同然の量しか彼女に関する知識を持ち合わせていない。

 ─歩み寄れる出来るだろうか。今まで避け続けてきたあの人から。きっとひどく罵られるんじゃないだろうか。今更何をと侮蔑の視線を向けられるんじゃないだろうか。

 

 いや、きっと大丈夫だろう。良くも悪くも私と紗夜姉さんはお互いに不干渉だったから、彼女に対して日菜姉さんのように暴言を吐いてしまったことはない。

 というよりも今は紗夜姉さんよりも日菜姉さんと仲直りすることが先決だ。

 

 謎の全能感に浸りながら、リビングに入る。通知に関してはどうせ今日家に帰るからと最低限の返事だけをしておく。泊めてもらったお礼に朝ご飯を作ろうと思っていたが、どうやら食卓には既に用意されていた。

 

 味噌汁、鮭の塩焼き、炊きたての白米が置かれている。隣には空の茶碗と味噌汁のお椀がひっくり返った状態で置かれていて、鮭の皿にはラップが巻かれている。

 蒸気を放つご飯と味噌汁に食欲を唆られつつも、どうして冷めてないのか疑問に思っていると、ソファで蘭パパが新聞を読んでいるのを見て一人合点する。おそらく私の足音を聞いて入れてくれたのだろう。

 

「おはようございます。泊めてもらっただけでなく朝ご飯も用意してくださりありがとうございます」

 

 背もたれから覗く彼の黒い頭に向かって感謝を述べてから手を合わせ、いただきますと小さく口にする。

 朝は基本パン派なのでご飯を食べるのは新鮮だ。温かな液体が胃を浮かび上がらせる。はふはふを火傷しないように暑い白米を鮭とともに咀嚼する。

 

 とっとっと、フローリングを歩む音がこちらに向かってくる。黒色の着物が目の前の椅子に座る。バサッと少し派手な音を立てて新聞紙が開かれる。

 

「あの、どうしてこちらに?」

 

 何故かこちらに移動してきた蘭パパにそう聞く。

 

 彼は素っ頓狂な顔をして少し顔をかしげる。どことなく今朝見た蘭ちゃんと似ていてやっぱり親子なんだなと再認識させられる。

 

「どうしてって一人で食事は寂しいだろ?」

 

 まるでなにを当たり前のことを言わんがばかりにそう言う。

 

 思わず箸を口に咥えたまま唖然としてしまう。

 

 誰かと一緒に食べるのが当たり前という考えがそもそも私にはなかったからつい無礼をなしてしまった。姉たちとは余所余所しいし両親は顔を合わせるとよく喧嘩しているので私の中で食事とは一人の方が心休まるものなのだが、今日はどうしてだろうか。誰かが同じ食卓にいても余所余所しい雰囲気も嫌悪感もなにも感じない。こんなことが果たして今まであっただろうか。ただ誰かと同じ食卓でご飯を食べる。それだけでこんなにも心が温まると、過去の私が知ったらどう思うのだろう。

 

「ああそうだ」

 

 新聞を閉じて蘭パパは思い出したようにそう言った。味噌汁を啜りながら視線で続きを待つ。

 

「君、今日蘭のバンドのライブを見に行くのだろう?」

「えっどうしてそれを…」

「えっと、それは…その…だな…ま、まあ!とにかく!行くのだろう?」

「まぁ…行きますけど」

 

 何故知っているのか尋ねたら強引にはぐらかされてしまった。絶対にこの人盗み聞きしてたな。冷ややかな視線を蘭パパに浴びさせる。少しを身を強張らせていたが、ごほんと咳払いをして要件を言う。

 

「実は私、ああいう場所にあまり行ったことがなくてな…」

「ああ、まぁ予想はつきます」

 

 寧ろ行ってたらなにしてんだって思う。

 

「だからもし君がよければついてきて欲しいんだが…」

 

 少し気まずそうに蘭パパが私にそう頼む。確かに、あのキャーキャー甲高い声で叫びまくる空間はいい年した男性が一人で行くには少し、いやかなりきついかもしれない。彼にも私が勝手にそう思ってるだけだがこの家に引き止めてくれた恩がある。昨日彼と話していなかったら私はきっと一人精神を狂わせながら孤独に身を投じていただろう。それを阻止してくれた恩返しとしては寧ろ安すぎるくらいだ。

 

「ええ、それくらいなら全然問題ないですよ」

「そうか。なら、よろしく頼むよ」

 

 あくまで態度はいつもと同じだったが、声音には明らかすぎるほどの安堵が含まれていた。

 

 食事も食べ終えた頃にはちょうど30分ほど経っていたので、二階に登り蘭ちゃんを起こしに行こうと腰をあげると、廊下の方から足音が聞こえてきた。どうやら私が起こすよりも早く自分で起きたらしい。

 

 せっかく立ったのだしと、そのまま逆さになっている二つの茶碗を片手に一つずつ持ち、ホカホカの白米と味噌汁を掬っていく。

 

「あ、ありがとう」

 

 背後から女性にしては少し低めな声をかけられる。振り向くと、疲れが取れたのか目をパチリと開けた蘭ちゃんが食卓に座ろうとしていた。

 

「二回も泊めてくれたんだからこれくらいするよ」

 

 左から二つの茶腕を彼女の前に置く。

 

「今日ライブいつからなの?」

「えっと、夕方くらいからかな」

「そっか。楽しみにしてるね」

「ちゃんと姉さんたちと仲直りしてよね」

「もちろん!これで出来なかったら死ぬよ、私」

「やめてよ、縁起でもない」

 

 食事中に交わされる会話についふふっと笑いながら彼女が食べ終わるのをテレビをぼーっと見ながら待つ。今日もあいからわず店の食レポや芸能人のスキャンダル、元号が変わるなどの雑多なニュースが目まぐるしく伝えられる。

 

 かちっ。箸を箸置きに置く音が聞こえた。目を向けると蘭ちゃんが水を飲み、手で口を拭っていた。そしてごちそうさまと言って席を立ち、リビングを出て行った。何をしに行ったんだを疑問に思っていると、シャワーのような音が聞こえて納得する。昨日はあのまま寝てしまったので風呂に入れてなかったのだろう。水の跳ねる音が自分の体を意識させる。服も涙で少し湿っているし気持ち悪い。衣類は別にそのままでいいとしてシャワーだけでも浴びさせてもらえるように後で頼もう。

 

 水しぶきの音が止み、しばらくしたかと思えば、蘭ちゃんが大きなギターケースを背中に担いでひょこりと顔を覗かせた。

 

「じゃあ、私そろそろ行くから」

「ん、いってらっしゃい。後で行くから」

「分かった」

 

 太陽はもうすでに南下していそうな位置まで昇っていた。リハーサルや衣装などの事を考えたらもうそろそろ出た方が良いのだろう。

 

 リビングを出て行く蘭ちゃんを見送ってから、キッチンへ行き、シンクにたまった食器を洗う。

 

 流れる水道水とカーテンの衣擦れの音だけが聞こえる。二人分の皿洗いはすぐに終わるもので、すぐに手持ち無沙汰になる。

 

「少しシャワーを借りてもいいですか?」

 

 いつの間にかリビングのソファに戻っていた蘭パパに許可をもらおうと訊ねる。

 

「ああ、構わんよ」

「ありがとうございます」

 

 バスタオルの位置だけ確認して手早く服や下着を脱ぎ、無心でシャワーを浴びる。2日くらい同じ服でもそんなに臭わなかったし大丈夫だろう、多分。

 水滴を白い柔らかなバスタオルで拭き取り、生温さを残している服を着る。歯ブラシは借りたくなかったので、申し訳程度に口の中を何度か濯ぐ。

 ドライヤーくらいはちょっとくらい良いだろうと電源を入れる。温風が錆納戸の髪を勢い良く吹き飛ばす。

 手短に髪を乾かして、リビングに戻ると、ライブハウスに向かうのに丁度いい時間になっていた。

 

「もうそろそろ行きませんか?」

「ああ、そうだな」

 

 蘭パパと共に美竹家からライブハウスへと足を向ける。

 途中で差し入れにとドーナツ屋へ寄り道をしてから、ライブハウスに入る。スタッフさんに差し入れを渡してから、店内の角で蘭ちゃん達の出番を待つ。蘭パパは慣れない場所に居心地悪そうにしている。戸惑っているだけかもしれないが。

 私は前にやらかしてしまっているので本当に居心地悪い。現にあの騒ぎを見たり噂を聞いた人たちなんか私の方を見てヒソヒソ小さな声で会話していたりする。被害妄想だろうが。流石に誰も1週間も前の騒ぎが誰のものだったか覚えていないだろう。多分蘭パパと私の関係性を疑っているのだろう。それはそれで問題だが。

 

 気を紛らわすために蘭パパには悪いと思いつつイヤホンを耳にブッ挿して時間を潰していると、蘭ちゃん達のライブの時間になった。彼と共に、地下のステージへと移動する。

 

 照明の落とされたステージはブラックホールのように真っ暗だった。まだ灯りの灯されていないペンライトを両手、或いは片手に持った人たちの合間を縫って、目立たないように隅へと移動する。

 

 数分ほど静寂が続いたが、照明が急にステージ上に立った彼女達を照らし出した。蘭ちゃんがマイクを手に取る。

 

「……今、この瞬間から、会場の熱を全てあたし達のモノにする。見逃さないでついてきて!いくよ!」

 

 黄色い歓声が会場を包み込む。それが10秒程度続き、再び静かな空間が生まれた刹那、ドラムのスティックがカウントを始めた。

 

 夕暮れを想起させる照明に当てられて、彼女達はひたすらに演奏をし、私たちを魅了する。

 

 歌声が体に侵略してくる。ギターが会場に轟き、ドラムが五臓を激しく撼わす。キーボードが他の主張を調和し、ベースが全体の底上げをする。

 何もかもが、先週見た練習の時を違った。演奏レベルが上がったというのもあるだろうが、なによりも覚悟が違った。

 全員が今に全力をかけている。彼女らの気持ちが音に乗って心に伝わってくる。

 

 数曲連続でしたのちに、音は止んだ。どうやら少し休憩みたいなものを入れるらしい。

 

「ふい〜。蘭、いつもよりもいい感じだねえ」

「モカもね」

 

 短い会話を挟んでから、蘭ちゃんは観客達に向けて言葉を発した。

 

「……次で、最後の曲です」

「あたしが道に迷った時……そばにはいつもメンバーがいてくれた。今、ここに立っていられるのも4人のおかげだと思っている」

 

 蘭ちゃんの告白だけがステージにこだまする。それを聞いて、今更ながらに罪悪感に駆られる。

 

 絶対に成功させなければならない大事な時に、私という存在は邪魔でしかなかった筈だ。それを自分で気づく事すら出来ず、優しさに甘えてしまった。

 私がいなければ、彼女達は、というより蘭ちゃんはもっとライブに向けて集中できただろう。より質の良いモノを隣に立っている蘭パパへ見せることが出来た筈なのだ。

 それを、私が邪魔してしまった。消えていた自己嫌悪が再び体を巣喰い出す。

 

「それと」

 

 今まで聞こえていなかった蘭ちゃんの声が耳に届いた。

 

「今、最近知り合ったけど、友達が辛い思いをして、悩んで、必死にもがいているんだ。でも私じゃ上手く彼女を励ませない」

 

 後ろで、4人が驚いた顔をしていた。が、モカは心当たりがあったのかああっと小さな声をあげ、ノイズが鳴らないように注意しながら他の3人に誰のことか告げに行っている。

 

「……だから、その気持ちを歌にして、届けたい──!」

 

 真紅のレスポールが、その特徴的な野太いサウンドを響かせる。そこに更にギター、ドラムなどが加わっていく。そして、彼女は歌い出す。今までの想いを、歌詞に乗せて。

 歌詞の一語一句が心に沁みた。その全てに自分を重ね合わせた。無論、これらは彼女が幼馴染達と自分の環境をもとに書いたものであって、そこに私が関係したところなど1ミリもない。けれど、まるで私のことを歌っているように聞こえてしまった。

 

 ─本当の声を届けたいんだ

 

 歌がサビに入る。歌声に更に力が入り、楽器隊も更に音量を上げる。

 彼女は今何を思いながら歌っているのだろう。

 彼女たちは何を考えながら弾いているのだろう。

 彼は何を感じながらこれを見ているのだろう。

 そして私は何を想いながらこれを聴いているのだろう。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 蘭パパの不安げな声で我に帰る。気づけばライブは終わっていた。先までペンライトを振ってはしゃいでいた観客達はもう散り散りになっている。

 

「私はこれから蘭がいる楽屋へ行くが、君はどうする?」

 

 閑散とした地下のステージに蘭パパの声が必要以上に大きく聞こえる。

 

 ─君はどうする?

 

 そんなものはもうとっくに決まっている。彼が心配しないように努めて、明るい声をして返事をする。

 

「いえ、行くところがありますので私は失礼させて頂きます」

「そうか。日も暮れかけているだろうから気をつけると良い」

「はい。ありがとうございました。ではまた」

「ああ、またね」

 

 柔和な顔を浮かべた蘭パパの顔を見てから、早足で階段を駆け上がる。ライブハウスを出て、外の空気を肌に感じた瞬間早足をダッシュに切り替える。

 

 家に向けて全速力で走り続ける。体は決意で漲っている。大丈夫だ。勇気は蘭ちゃんから、afterglowのみんなからもらった。喧嘩のことは蘭ちゃんしか知らない。他のメンバーには何がどうやらよく分かっていないだろう。でも、あの歌の歌詞は私に変わるきっかけを与えてくれた。耐えることが常に最適解じゃないことを教えてくれた。今まで、弱い心でずっと踠いてきた。変わりたくても変われない、矮小な心では変化するには足らなかった。

 私は弱い。昔も、今も、これから先も、私の心は弱いままだ。でも、今は、支えてくれる存在がいる。それはとても一方的で、友達とすら呼べない関係だけど、彼女らは私に眩しすぎるほどの希望を与えてくれた。

 これが終わったら、改めて「友達になってください」と申し込もう。作詞のためにいろいろな本を読んでいるそうだしきっと読書などの趣味も合いそうだ。afterglowのみんなとも仲良くしたい。幼馴染で固まっているけど決して内向的な人たちでは無いのできっと楽しい日々を過ごせるだろう。

 大丈夫。きっと上手くいく。今までは私だけの決意だった。私だけの力だった。でも今は違う。私だけじゃ無い。私は一人じゃ無い。多分。一方的で、一時的で、日菜姉さんよりも薄く、短い繋がりだけど、私だけだった世界に、彩りをくれた。

 

 家の前に着く。怖く無いと言ったら嘘になる。自分から日菜姉さんを散々言っておいて嫌われていたらどうしよう。話してくれなかったらどうしよう。不安でいっぱいだ。懸念材料しか存在しない。動悸が急速に速まる。吐き気がする。心臓が押しつぶされそうになる。足は震えるし、焦点が上手く合わない。

 でも、眩む視界を精一杯抑え込む。止まらない憂慮を、なんの根拠もない希望でストップをかける。

 肩でしていた呼吸を落ち着かせる。決意を胸に、希望を目に抱いて、チャイムを押す。ドア越しに足音が聞こえ、こちらに近づいてくる。後戻りはしない。今度こそ、同じ過ちは犯さない。今度こそ本当の()を貴方に伝えるんだ。

 

 ドアが開く。開いた隙間からターコイスブルーの髪が覗く。夢で感じた甘いシトラスの香りが鼻腔を擽る。

 

「ッ!憂月…」

「ただいま、日菜姉さん。少し、お話をしましょう。」

 

 じっと、力を込めて日菜姉さんの瞳を見つめる。見開かれていた瞳はなにかを読み取ったのか、ゆっくりと頷いた。

 

 日菜姉さんの後ろについて行きながら我が家へ入っていく。1日帰らなかっただけなのにひどく懐かしく見える。回りをキョロキョロと見渡しながらダイニングへと向かうが、途中で日菜姉さんに手を洗ってきなよと言われた。いつも奇想天外なことばかりしているが、こういうところでは律儀なんだなと思いながら洗面所でしっかりと手を洗ってから彼女の元へ向かう。

 

 日菜姉さんは既にダイニングの食卓で席についていた。向かい合うようにして私も席に着く。

 

 嫌な沈黙が漂う。それを振り払うように、私は頭を下げた。

 

「まずは、ごめんなさい」

 

 鈍い音をたてて額が机にぶつかる。痛みが頭を襲うが、これが私の今までの罪の一部だと思うと不快感は無かった。

 

「どっどうしたの、急に?」

 

 慌てた声で日菜姉さんがそう言う。私は頭を上げずに言葉を続ける。

 

「ごめんなさい。心配かけて、迷惑かけて、傷つけて」

「今まで、ずっと辛かったんだ。日菜姉さんや紗夜姉さんと比べられて。日菜姉さん達に嫉妬して悪口を言いまくる人達を見続けて。その1人に自分が入ってることが許せなくて」

「それなのに、こんな出来損ないの私に日菜姉さん達は優しくしてくれて。やめて欲しかった。無能なんだからほっといてよ、ってずっと言いたかった。私は貴方の期待に応えられるほどの能力を持った人間じゃないし、優しさが罪悪感となって私に襲っていつか貴方に強く当たってしまうから」

「そっそんなこと!」

「あるよ。あったよ。先週のこと、日菜姉さんは忘れてないでしょ?」

「そっそれはそうだけど…」

 

 腰を浮かした日菜姉さんを一度沈めて、私は話を続けた。

 

「ねぇ、日菜姉さん。日菜姉さんがピアノのコンクールで2回目の受賞をした時に言った言葉と昔の口癖、覚えてる?私、あれがトラウマで今でも貴方の笑顔と『好き』って言葉を聞くと気持ち悪くなるんだよ?」

「……」

 

 日菜姉さんが苦虫を潰したような顔をする。違う、そうじゃない。私がしたいのはそういうことじゃないんだ。

 

「でもね、私は日菜姉さんを嫌ったことなんてただの一度も無かった」

 

 そう言った瞬間、日菜姉さんの目がまるで信じられないとばかりに大きく見開かれた。

 

「確かに辛かった。貴方と比べられる人生が。貴方から向けられる優しさが。貴方の無神経さが。でも、貴方だけが私を見てくれた。両親から期待されない日々の中で、私に話しかけてくれる貴方だけが私の人生の救いだったんだ」

 

 私は顔を上げて立ち上がり日菜姉さんの隣に立つ。

 

「だからね、もし日菜姉さんが私を許してくれるのなら…また、仲良くしてくれないかな?昔みたいに、楽しく一緒に笑って過ごせないかな?」

 

 そう言って再度、頭を下げる。

 

 返事が返ってくるまでの時間が、1時間、2時間のように長く感じられた。

 

「憂月」

 

 日菜姉さんの声が頭上から聞こえる。声は心なしか震えて聞こえる。

 

「顔を上げて」

 

 言われた通りに顔を上げると、甘い香りと暖かな感触が全身を包み込んだ。

 

 力強く抱きしめられる。肩から冷たい感触が脊髄を通して脳に伝わる。

 

「ごめんね、今まで気づけなくて」

 

 嗚咽を交えながら謝ってくる日菜姉さんの頭をそっと優しく撫でる。

 

「いいよ。私が捻くれてただけなんだから。それよりも返事は?」

 

 ぐしぐしと止まらない涙をぬぐいながら、日菜姉さんは満面の笑顔を私に向けた。

 

「勿論、仲直りしよ、憂月!」

 

 そう言って、再度強く抱きしめてくる。

 

「痛いって、日菜姉さん」

「んっふ〜」

 

 満足げな表情で強く抱きしめる日菜姉さんを見て、引き剥がそうにもあまり強く言えずに苦笑いする。

 お返しだと言わんがばかりに先までよりもさらに強い力で抱きしめると、うわっと日菜姉さんは声をあげたが、すぐに満足げに目を細めた。

「好きだよ〜憂月」

 

「もう、だから好きって言わないで」

 

 

 



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その先に。

 あれから、何度陽が沈んでは星が瞬いただろう。

 

 月と太陽は日に日にその距離を遠くしたり、はたまた近づけたりしているのに、私と紗夜姉さんの距離は塵一粒ほども変わらなかった。いっそ笑えてしまうくらい、進展もなければ、後退もなく、私と日菜姉さんが仲直りを果たそうと、紗夜姉さんはどこ吹く風と言わんがばかりにその関係を崩すことなく日々を過ごしている。

 

 ━どうして。なんで。貴女とこんなにも距離が遠いのだろう。

 

 たった2、3メートル。壁を隔てた先の部屋にいる貴女に、いつまでたっても足が向くことはない。そのどうしようもない現実に、腹を抱えた。どれだけ悟りを開こうが、努力しようが、結局私は私のままで、変われやしない。一丁前に綺麗事のように、変わらなくても良いんだ、と吐いたところで、それは所詮戯言でしかなかったらしい。

 

 嗚呼、憎い。変われない自分が憎い。歩みを向けられない自分が憎い。貴女に対して期待してしまっている自分を自覚するたびに胃が焼けてしまいそうなほど気持ち悪くなってしまう。

 

 私と日菜姉さんとの関係に変化に気づいた紗夜姉さんが、彼女自身から私に歩み寄ってきてくれるのではないか。そんな考えが、偉そうに心の淵でふんぞり返っている。そのまま突き落としてしまえたらどんなに楽なことか。

 

 自分が変われば相手も変わる? 我がことながら笑わせてくれる。そんなわけないだろうに。お前が自分が変われば周りも変わるほど影響力のある人間なのか? 違うだろう。お前が変わろうが変わらなかろうが、世界は明日も明後日も回る。今日もお前に向けられることのなかった紗夜姉さんの声こそがそのなによりの証明だろう。

 

 ━第一、縁を戻して、お前は何がしたいんだ? 

 

 自分に向けて放った質問に、私は何も答えられなかった。今まで考えたことすらもなかった。

 

 姉妹3人、仲良しこよしな関係になって、何になる? 

 日菜姉さんに嫌われたくなかったから、仲良くなりたいから、必死になって来た。同じように、紗夜姉さんとも、笑っていたいから。

 

 でも、その先は? 

 一緒に笑って、楽しんで、それからどうする。

 

 仲良くなりたいから、私はこうして足りない頭を総動員させて悩んでいる。でも、仲良くなったらどうなる? もう私がこうやって動く必要はどこにもない。

 壁は消えるだろうから、いつでも一緒に過ごすことは出来るだろう。でも、元々一緒にいる時間など殆ど無かったので、平時で関わり合うことなど滅多にない。仲良くなったところで、そもそも関わる機会がないのなら、別に距離が離れていようが近かろうが大して変わらないのでは? 

 それに、私が日菜姉さんと紗夜姉さんと仲良くなれたところで、日菜姉さんと紗夜姉さんの軋轢が消えるわけではないじゃないか。

 

 ─あれ? もしかして、今までの思いも、努力も、結局無駄だった? 

 

 目の前が真っ暗になっていくような気がした。それ以上は考えてはいけないと、脳がけたたましく警告を鳴らす。不協和音が部屋に響いた。

 

 どうやら無意識のうちにキーボードの鍵盤を無茶苦茶に弾いていたらしい。多分、最悪な方向へ進んでいく思考につられて、徐々に苛立ちや不安と言った感情が指先に伝わり、繊細に動いていた手が荒々しくなってしまっていたのだろう。

 

 視線を下ろすと、鍵盤の上には叩きつけたかのように置かれた両手に、全体重が掛かっていた。故障していないか確かめてみると、真ん中のファに少しノイズが混じってしまっていた。

 

 ため息をついてキーボードの電源を切り、あまり座り心地のいいとは言えない椅子から立つ。立ち眩みで奪われていく視界を無視して、感覚だけを頼りにベッドにその身を投げ出す。薄れていく意識の中で、今日も焦燥が膨れ上がっていった。

 

 ▼△▼

 

「……きなさい」

 

 身体を揺さぶられているような気がする。でも、普段誰よりも早く私に起こしてくれる人なんているはずがない。だからこれはきっと気のせいだろう。

 

「……起きなさい」

 

 今度は耳から声が聞こえた。起きなさいと言っている。きっと紗夜姉さんが日菜姉さんを起こしているのだろう。

 ……ん? じゃあなんで私はそれが聞こえる位置にいるんだ? 彼女達と合わないように出来るだけ早く家を出ているようにしているから、その声は聞こえない筈だ。

 

「憂月、起きなさい」

 

 今度こそ、はっきりと聞こえた。ガバッと勢いよくベッドから起き上がり、頭元に置いてある時計を確認する。

 短針はぴったり7を指していた。普段の私ならもう家を出ているような時間だ。

 

「寝坊は感心しませんよ」

 

 ベッドの少し離れたところには、すでに制服に着替えた紗夜姉さんが呆れ半分といった感じの目をしながら立っていた。

 寝起きの妹に始めて投げる言葉がそれかと思いつつも、紗夜姉さんの性格なら仕方がないかと独り合点しつつ、足をベッドから下ろす。

 

「朝ご飯はもう出来ているから、早く降りて来なさい。学校に遅れないようにね」

 

 冷たく、突き放すようにそう言って、紗夜姉さんは藍の髪を僅かに靡かせて振り返った。

 

 私は、ほとんど無意識に手を伸ばしていた。指先から伝わる人の温度となめらかな肌触りが、お前は何をしているんだと訴えてくる。

 

「ちょっと、何よ?」

 

 急に手首を掴まれたことに驚いたのか、紗夜姉さんが勢いよく手を振り払う。

 

「あっ、すみません」

 

 呆気なく払われた手は、そのまま力なく垂れていった。

 自分の行動に理解できず、疑問符ばかりが浮かぶ頭で、ぼんやりとただ手を見つめる。

 

 視界の端で何かが動いた。下げた視線を元に戻すと、紗夜姉さんが今度こそ私の部屋から出ていった。なにかを嫌うような、苦しい目つきをしていた。

 

 

 現実に戻り、取り敢えずこのままでは遅刻してしまうと思ったので、寝巻きをベッドに脱ぎ捨ててクローゼットから制服を掻っ攫い、出来る限り早く着替える。

 

 階段を降り、リビングに入ると、日菜姉さんだけがダイニングで朝食を取っていた。

 

「おはようございます。紗夜姉さんは?」

「おはよ。おねーちゃんなら憂月起こした後そのまま学校に行っちゃったよ」

「そうですか」

 

 朝食のトーストを頬張りながら、日菜姉さんは答えてくれた。それに返しながら、彼女の向かいに座り冷水を一口呷った。冷たさで浮かび上がる胃の輪郭が眠気覚ましに丁度良かった。

 

 いつもよりも少し遅い朝は新鮮だった。いつもよりも多く射し込む太陽に、自分以外の物音。耳を澄ますと、ニュースのアナウンサーの声に混じって、鳥の囀りや蝉の鳴き声が聞こえる。カーテンの隙間から忍び込んでくる日差しが、とても温かかった。

 

「時間は間に合うの?」

 

 テレビを聞きながら口の中でパサパサになって中々飲み込めないトーストの塊に悪戦苦闘していると、日菜姉さんがその玲瓏な瞳を私に向けてきた。

 

「ええ。元々早く行っていただけなので。まだ10分くらいなら」

「そっ。あたしそろそろ行くから、鍵よろしくね〜」

 

 そう言って、自分の隣の席に置いていたバッグを掴み、私に空いた手をヒラヒラと振りながら、玄関の方へと姿を消えていった。

 かつてのような静寂が訪れた。テレビからは絶えず声も聞こえてくるが、空虚だとは思わなかった。

 

 ━これからはまったり朝を過ごすのもいいかもしれない。

 

 水で強引に塊となっていたトーストを流し込み、歯磨きなど身支度を整えてから家を出た。時刻は8時前。通っている高校はここからそう遠くはないので始業時間には余裕で間に合うだろう。

 

 戸締りし、振り返ると、澄徹とした空が目の前いっぱいに広がった。

 最後に青空をちゃんと見たのはいつだっただろうか。久しぶりに空を眺めながら、しかし軽やかな足取りで進むことはできなかった。

 

 頭の中は、紗夜姉さんのことでいっぱいだった。兎にも角にも、まずはきっかけが欲しい。なにか会話の種になるもの、共通の話題、見た目或いは環境の変化、何でも良いから彼女と関わりたかった。離れた距離を埋めるために。そして、一つのアイデアが頭に浮かんだ。

 青空に影が差した。

 

 ▼△▼

 

 学校はおおよそ滞りなく進んだ。クラスメートから「氷川さんが寝坊したぞ!」とちょっとした騒ぎになったこと以外では余りにも変わらない日常であった。

 取り敢えず騒いだ奴らに私は遅刻していない、いつもより遅いだけだと声高らかに主張したい。あと私をはしゃぎたいという私欲のために利用するなとも。

 

 家に帰っても、私は1人だった。日菜姉さんによれば、今日はRoseliaの練習はないらしいので、紗夜姉さんが帰ってくるまで時間を潰す必要がある。暫く考えを巡らせて、そういえば高校に入ってから読書週間が廃れてしまっていたのを思い出したので、本を読むことにした。自分の部屋に入り、勉強机の向かいに鎮座する本棚へ向かう。

 純文学に海外文学、ライトノベルや絵本、マンガなど様々なジャンルの本がごちゃ混ぜに並べられた本棚から、適当に1冊を引き抜く。そのまま勉強机から椅子を引き、足を組み、本を片手に持ち、もう片方を机に肘をつけて読書を始める。適当に取った本は、「銀河鉄道の夜」だった。

 

 本を半ば程読み終えた頃、鍵が開く音がしたかと思うと、猛烈な勢いで階段を駆け上がる足音がし、勢いそのままに部屋のドアが大きな音を立てて開いた。

 目を向けると、ドアはキィキィと小さな悲鳴を上げながらゆらゆらと揺れていた。恐らく今ので何処かが壊れたか、はたまた外れたか、詳しいことは分からないが兎も角良くないことが起こったのだろう。

 開けた張本人は、目をキラキラと、彼女風に言うならるんっと輝かせながら立っていた。

 

「入ってもいい?」

 

 まるで悲鳴など聴こえていないとばかりに声を弾ませながら私にそう聞いた。

 

「普通は開ける前に聞くんですけどね」

 

 私は呆れた顔をしたが、内心は満更でもなかった。一応印をつけて本を閉じ、元の位置に戻してから、2人が座れるベッドへと移動する。私が座ると、隣にボフっと勢いよく空気が抜ける音がした。甘いシトラスの香りが舞い上がり、部屋と混ざり合った。

 

「それで、どうしたんですか?」

 

 足はベッドの横に投げ出していたので、上半身だけを捻って日菜姉さんの方を見た。

 

「憂月、今日って暇?」

 

 私の顔をじっと見て、彼女はそう言った。純真無垢な子どものような瞳だった。

 

「えっと、どうでしたっけね」

 

 帰宅部でバイトもしていない時点で、予定の有無など分かりきったものなのだが、彼女の目が余りにも悪戯心を擽るものだから、つい悪い笑みを浮かべてシラを切ってしっまった。

 

「も〜。勿体ぶらないで教えてよ〜」

「ふふ、すみません。もちろんありませんよ」

 

 余りやり過ぎるといじけて話が聞けなくなるので、頃合いを見て謝罪と返答をする。

 

「じゃあさ、一緒に祭りに行かない?!」

「祭り……ですか?」

「そう。七夕祭り」

 

 そういえば、と思い出したかのように壁に掛けられたカレンダーを見やる。今日の日付のところを見ると、可愛らしく短冊のイラストが刷り込まれていた。

 

「……遠慮しときます」

 

 少しま悩んでから、私は日菜姉さんの誘いを断った。

 

「えー! 何でー?」

 

 断られたことが意外だったらしく、目を大きく見開いて、背中をのけぞらせた。ベッドが軋む音がした。

 

「私よりも誘うべき相手がいるでしょう?」

「んーそうなんだけど、来てくれるかなー?」

 

 日菜姉さんが背中を倒し、仰向けになった。口元に人差し指を持って行き、唸りながら考えていた。

 

「きっと上手くいきますよ。私も出来る限りで手伝いますから」

 

 倒れたことで太ももほどの位置にある日菜姉さんの頭をそっと撫でる。甘い香水の香りが広がった。

 

「ほんと! ありがとう! じゃあそれだけだから、またね!」

 

 そう言って、勢い良く上体を起こし、その勢いで立ち上がった。スプリングが一際大きく軋んだ。そしてまるで台風のようにあっという間に立ち去ってしまった。

 部屋は、再び静寂に包まれた。またしても暇になってしまったので、紗夜姉さんが帰ってくるまで読書を再開することにした。静かにベッドから立ち上がり、本棚から先まで読んでいた本を抜き取り、再び椅子に腰掛けた。

 

 

 差し込んできた夕陽が白い紙を茜色に染まった頃、玄関の方から鍵が開く音がした。次いで、誰かと話している声が聞こえる。多分、帰ってきたのは紗夜姉さんだろう。会話は、大方日菜姉さんが祭りに誘っているとか。

 しばらくしてから、階段から足音が聞こえた。ゆったりとした、落ち着いた音だった。それは私の部屋の前を横切って、隣の部屋の前で鳴り止んだ。そしてドアが開く音が聞こえた。

 よし、と小さく鼻を鳴らして立ち上がり、読んでいた本を本棚の適当な位置に差し込む。今度きちんと整理するとでもしよう。

 

 薄暗い廊下を少しばかり歩く。素足が、ペタペタと腑抜けた音を静まり返った廊下に響き渡らせる。それで、緊張していた気持ちも幾らかほぐれていった。

 やがて、紗夜姉さんの部屋の前に着いた。中からは、小さなギターの音が扉越しに聞こえてくる。どうやらアンプに繋いでいないらしい。

 

 深呼吸を2、3度繰り返し、細かく震える手足を抑える。そして、慎重に、扉を3回ノックした。

 

「はい? 誰ですか?」

 

 ギターの音が止み、紗夜姉さんの声が聞こえた。

 

「あ、う、憂月です。入っても良いですか?」

 

 やはり緊張を殺しきれず、少しどもってしまったが、なんとかそれだけを絞り出した。

 

「……ええ、どうぞ」

 

 暫くの間の後に、返事が返ってきた。

 

「失礼します」

 

 小声でそう言って、ひっそりとドアを開ける。

 

 初めて見た紗夜姉さんの部屋は、正直、中々にお洒落だった。

 窓には白色のカーテンがかけられていて、彼女の髪色や雰囲気にとても合っていた。ベッドには可愛らしいクッションが大体5つくらい置かれていて、頭元にある棚には小さな観葉植物が置かれている。小物など無駄と感じるようなものはあまり置かれてなく、それが清潔感を醸し出していた。

 紗夜姉さんはベッドに座って、群青色のギターを太ももの上に置いていた。

 

「何か用かしら? 無いのならギターの練習をしたいのだけど」

 

 まるで私に興味ないとばかりに、冷たい口調で私を急かしてきた。

 

 口を何度か開けては閉め、視線を泳がせ、指を絡めて言葉の最終確認をする。やがて、沈黙を破った。

 

「あの! えっと……今日は七夕ですし……祭りに行きませんか?」

「……はぁ、貴女も?」

「ええ」

 

 時計の針が秒を刻む音だけが部屋を包んだ。

 

「止めておくわ」

 

 紗夜姉さんは、それだけを言った。

 

「理由を聞いても?」

「私と行くよりも日菜と行くほうが楽しいでしょう?」

 

 少し卑屈そうに彼女はそう言って、これで終わりとばかりに話を切り上げようとした。

 

「話はそれだけね。なら練習したいから帰ってくれる?」

 

 そう言って紗夜姉さんは私に早く出て行けとオーラを放つ。でも、ここで大人しく帰ってしまってはいけないような気がして、なんとか、部屋にとどまる口実を必死に考えた。

 紗夜姉さんと少しでも話して、距離を縮めるきっかけになれれば、話題なんてどうでも良かった。そして、今朝思いついていた話題を吟味もせずに、口に出してしまった。

 

 

「あと、その、出来れば、ギターを……教えてもらえたり……しませんか?」

 

 なんとかそれだけを喉仏から搾り出した。再度訪れた沈黙に妙な達成感が胸中に広がる。

 

 浸っていた意識を外に戻すと、紗夜姉さんが顔をうつ向け、肩を震わせていた。訳がわからなかった。観葉植物の土の匂いが鼻腔をくすぐった。紗夜姉さんが言葉を発した時には、もうその匂いを思い出せなかった。

 

「今度は貴女が……また私は……」

 

 途端、紗夜姉さんは勢いよく顔を上げ、私を睨みつけた。日菜姉さんのようなターコイスブルーの髪が大きく靡いた。彼女の目は、猛禽類のように鋭く私を縛り付けた。

 

「どうして貴女も私の真似をするの?!」

 

 突然発せられた大声に、鼓膜はおおきく震え上がった。

 

「いつもいつも! 日菜は私の真似しては追い越して、私から全部奪っていく! もうギターしかないの! 私にはギターしか残ってないのよ! なのに……今度は貴女がそれを奪うの……? 日菜から好かれて、それ以上を貴女は望むの? もう嫌よ、奪われるのは……」

 

 余りにも痛すぎる慟哭が8畳ほどの部屋を悲愴に染め上げた。その本心からの叫びは、どうしようもなく私を悲しくさせた。まるで彼女の都合の良いようにしか見られていなかったのだ。

 

 紗夜姉さんは、ギターをベッドの上に置いたかと思うと、突然バッと立ち上がった。そして、私を押しのけて、部屋から出て行ってしまった。また、静寂が、今度は違う部屋に訪れた。嫌な沈黙だった。ギターは、ベッドを軋ませてはくれなかった。



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「好き」って言わないで。

今日で第1話を投稿してから半年が経つらしいですね。そして、物語も漸く終わりを迎えます


 静寂が部屋を包んでいた。主をなくした部屋が私を責めているような気がした。

 

 私はただ呆然とその場に立ち尽くしていた。虚無感だけが心を蝕んでいる。

 何が行けなかったんだろう。何処で彼女の琴線に触れてしまったんだろうか。そんな分かりきった問いばかりを頭の中で繰り返している。

 こんな時すら流れない涙が憎くて仕方がなかった。

 

「なんか凄い勢いでおねーちゃん出て行ったけど……」

 

 そう言いながら、日菜姉さんが部屋に入ってきた。

 

「……ごめんなさい」

 

 振り向いて、そう言った。

 

「何が……あったの?」

 

 今の一言で何があったか察したらしい日菜姉さんは、優しい笑みでゆっくりと私の方へ歩み寄ってくる。

 

「別に……いつも通り、私が失敗しただけですよ」

 

 乾いた、空っぽな笑い声が知らず知らずのうちに出ていて、耳が痛かった。

 

「詳しく聞いてもいい?」

 

 日菜姉さんが私を抱き寄せ、そっと頭を撫で始めた。空虚な心に日菜姉さんの愛が満たされていき、漸く一筋だけ涙が頬を伝った。

 

「……うん」

 

 数分程の出来事を彼女に全て伝えるのに、それ程時間はかからなかった。ゆっくりと、私は出来るだけ多くのことを思い出しながら、努めて客観的に日菜姉さんに事の顛末を伝えた。日菜姉さんはただ黙って、時々相槌をうちながら黙って私の髪を撫で続けてくれた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 全てを伝え終えた後、沈黙を嫌うようにその言葉が何度も出てきた。

 

「うーちゃんは悪くないよ……だから謝らないで」

「でも……私のせいで……一緒にお祭り行けなくなっちゃったし……」

 

 そう、悪いのは私だ。私が下手に調子に乗らなければ、紗夜姉さんが家を飛び出すことも、日菜姉さんに心配させることもなかったんだから。

 

 一緒にお祭りに行けなくしてごめんなさい。貴女の大好きな日菜姉さんを悲しませてしまってごめんなさい。出来損ないの妹でごめんなさい。

 そんなどうしようもない謝罪を嗚咽と共に吐き出す。

 

「紗夜姉さん……どうしよ……」

「どうしようって仲直りするんじゃないの? あたしの時みたいに」

 

 沈んだ思いもある程度落ち着いてきた頃、溢れた問いに日菜姉さんがきょとんとした表情でそう返してきた。

 

「日菜姉さんの時は私の独り相撲みたいなものでしたからね。私からちゃんと向き合えば解決したんです。でも今回は逆なんですよ」

「でも仲直り出来るよ」

「どうしてです?」

「だってうーちゃん優しいじゃん」

「私が?」

 

 そう言って、日菜姉さんは天使のようににぱっと笑った。

 

「冗談はやめて下さい」

 

 ほんと、笑えない冗談だ。私が優しい? そんなことある筈がない。昔のトラウマに多少はマシになったとはいえ囚われたままだし、ちょっとしたことですぐ癇癪を起こすし、自分のことしか考えられない。そのくせ他人には自分を都合の良いように愛して欲しいと願っている、どうしようもないないエゴイストだ。そんな人間が優しいだなんて口が裂けても言えない。

 

「でも、ずっとあたし達のこと考えてくれてたじゃん。頑張ってあたし達と向き合おうって」

「それは私がそうしたいからやっていただけで、姉さん達が私をどう思ってたなんて全く考えてませんでした」

「それでも、誰かの事をずっと想い続けられるんだからそれは優しい人間だよ!」

 

 いくら否定しても、日菜姉さんは一貫として私を優しい人間と主張してくる。それがどうもむず痒くて、嬉しかったが、納得は出来なかった。だって、それは私にとっての『優しい』の定義とは違うから。

 

「でも、同情しか出来ないような人間が優しいなんてあるわけ無いじゃないですか」

「それを言ったらあたし非情な女になっちゃうんだけど」

「まぁ……ある意味では、そうですね……」

「そこは否定してよ!」

 

 一概に否定し切れないのが氷川日菜という少女なのだ。共感性なんて求めるだけ無駄だ。

 

「うーちゃんが共感できないと優しい人間とは呼べないっていうけど、それでも優しいよ、少なくともおねーちゃんには」

 

 少し弛緩した空気をまた張り戻すように、日菜姉さんは普段からは想像できないような真面目くさった表情でそう言った。

 

「まだ言いますか」

「だって本当にそう思うもん!」

「どうしてそう思うんです? 似てないでしょう、私と紗夜姉さん」

「ううん、似てる。すっごく」

「どこがですか?」

「どっちもあたしのことを避けつつもなんだかんだ好き、じゃない嫌ってないところとか、真面目なところとか」

「そこまで言ったら言い直さなくても良いですよ? でも共感が出来ない以上それは同情なんです」

 

 我ながらめんどくさいなって思う。それが同情か共感かは、詰まる所自分が、他人がどう思うか次第で、私がそう思えば私は紗夜姉さんに共感できる、優しい人間だ。

 でも、出来ない。勝手に知った気になって憐れまれるくらいなら、最初から無関心でいてくれた方が楽な事を、私は知っているから。そして、恐らく紗夜姉さんも。勿論これも想像でしかないんだけど。

 

「あーもう、これじゃキリがないよ!」

 

 終わりの見えない会話に会話に痺れを切らし、日菜姉さんは大きな声でそう叫んだ。

 

「兎に角、うーちゃんはおねーちゃんとどうしたい?」

「仲直りしたいです」

「じゃあちゃんとそう言わなきゃ」

「でも、私のせいで紗夜姉さんは飛び出していったわけですし」

「じゃあ尚更うーちゃんが行かなきゃ。大丈夫、仲直り出来るよ。あたしが保証する」

 

 そう言って、より一層強く抱きしめてくれた。根拠は何一つないけど、確かな自信が私の胸に灯ったような気がした。

 

「……よし、じゃあ行ってくる」

 

 日菜姉さんから離れる名残惜しいが、この火が消えてしまわぬ内に行かなければならない。最後にぎゅっと日菜姉さんの温かみを感じてから、長い間密着していた体を離す。

 

「あっできるだけ早く帰ってきてね。祭はもう無理かもしれないけど、花火なら家から見えるかもしれないじゃん」

 

 最後に、とびっきりの笑顔で手を振る日菜姉さんを尻目に、私は手を振り返しながら飛び出した。

 

 夏の夜は蒸し暑かった。雲の隙間から、月影が街灯の光と混ざり合って、木々の上を歩いていた。

 

 人通りは全くと言っていい程無く、暑いはずなのに何処か寒気がした。多分みんな祭の喧騒にその身を投じているのだろう。

 

 景色はタイムラプスのように流れていく。息はとうに上がりきっていて、肩と口を使って必死に酸素を送り込む。疲労は溜まっていくばかりだったが、間歇的に鳴る足音はその感覚をどんどん短くしている。

 

 何処にいるのかは、何となく分かっていた。紗夜姉さんが、少しでも私を、姉妹のことを思ってくれているなら、あの人はきっとあそこにいる。私達3人の想い出の場所に。

 

 道沿いに柵にように並ぶ街路樹が見えたところで、漸く歩き始める。息を整えて、入り口から中に入る。

 

 そこは公園だった。滑り台があって、降りた先には砂場がくっついていて、少し離れた所には雲梯が、ブランコがあって、少し広い以外は何の変哲も無い、ただの公園だった。そして、私達姉妹が唯一3人一緒に遊んだ、いつか夢にも出てきた公園。他に3人で遊べるような場所がなかっただけだが。

 

 真ん中に灯台のように灯る街灯の下にはベンチがある。そこにターコイズブルーの髪があるのを見て、思わず大きく息を吐き出す。

 

 ゆっくりと、彼女の元へと近づいていく。静寂を裂く足音が鼓膜に届く度に、手が汗ばんでいく。

 

「紗夜姉さん」

 

 あと一歩で彼女に触れる、それくらいの距離まで近づいてから私は声をかけた。後ろからでは彼女の顔色を窺えない。

 

 声をかけても、紗夜姉さんは微動だにせず、ずっと頭を下に向けていた。

 

「……憂月」

 

 長い、長い沈黙の果てに、姉さんはそれだけ言って、顔を上げた。

 

「……ッ!」

 

 彼女の目は赤く腫れていた。頰には涙が通った跡があって、街灯がそれを綺麗に浮かび上がらせている。

 

 どうしようなんて考える暇もなく、気づけば私は彼女の前に立ち、強く抱きしめた。

 

 もしかしたら嫌かもしれない。でも、今は日菜姉さんに言葉を信じよう。もし私が紗夜姉さんの立場なら、百の慰めよりも一つのハグの方が救われる。

 

 優しく、慈しむように紗夜姉さんの髪を撫でる。日菜姉さんとは違う、ラベンダーのような匂いが広がった。それを払いのけるように、力強く、でも柔らかな手付きで、繊細な髪に指を通し続ける。

 

 胸元で、わずかな振動を感じた。次いで、小さな嗚咽が夜の空気を震わせる。それが止んだのは、大体10分くらいした頃だった。紗夜姉さんが、弱々しい手付きで私を押し退けた。

 

「ごめんなさい」

 

 そう謝った紗夜姉さんは、何処か悲しげだった。

 

「いえ、落ち着いてくれてよかったです」

 

 そういえば自分から抱き締めたのは初めてだっけ、と胸元の温もりを名残惜しく思いながら、笑顔でそう返す。

 

 そこから少し沈黙が続いた。それを先に破ったのは紗夜姉さんだった。

 

「ずっと分からなかったの」

 

 震える声で彼女は話始めた。

 

「生まれた時から、日菜と比べられて。長女だから日菜に負けちゃいけないと思って努力しても、日菜は軽々と私を超えてきて。

 だから、貴女を見る度に何処か安心する自分がいて、それがとても許せなくて。

 本当はね、ずっと前から気づいていたのよ。日菜は、貴女は唯私と仲良くしたいだけだって。

 でも、日菜に嫉妬する自分が嫌いだった。貴女を見下してしまう自分が憎くて仕方がなかった。

 だから、貴女達を避けるようになったの。自分を守るように、自分の醜さを隠すように。

 そうしたらね、分からなくなっちゃったのよ。姉としての自分の在り方がどんなのだったか、どうして貴女達を避けているのか。

 逃げるように、ギターを始めたわ。そういえばまだ日菜はやってなかったなって。そして出来たら貴女といつかセッションできたら良いなって。本当に馬鹿よね。

 気づいた頃には、それが私の全てになってて、貴女と日菜は仲良くなってて。まるで私だけが取り残されたような気がしたの。

 だからつい貴女に強く当たってしまったの。私がずっと欲しかったものを手に入れた貴女が妬ましかった。そんな貴女が、姉の矜持を失って、ギターしかない私からそれすら奪う死神に見えた」

 

「ねえ、憂月」

 

 長い語らいの後に、一息ついてから、紗夜姉さんは私の名前を呼んだ。

 

「私は、どうすれば良かったのかしらね」

 

 そう言った彼女は、箒星のように儚げで、綺麗だった。一筋の涙が、また彼女の頰を撫でた。

 

「……私は、ずっと姉さん達が嫌いでした」

 

 彼女は本心を私に語ってくれた。なら、私も今までの思いを全力でぶつけなきゃ。そんな気がした。

 

「私は何をやっても人並みで、努力しても精々が二流でした。でも、姉さん達は私よりも少ない努力で軽々と1番になって、父さんや母さん、みんなの期待に応えてて。

 それを見る度に、どうして、同じ血を分けた姉妹なのに、私だけこんなにも出来損ないなんだろうって。私の何がいけなかったんだろうって。

 私を見る度に、周りの目が期待から失望に変わっていくのが辛くて。姉さん達さえいなければこんな惨めな思いをせずに済んだのにって、自然を姉さん達を恨むようになったんです。

 日菜姉さんが嫌いでした。彼女が私に話しかけてくる度に周りの視線が痛かったし、そんなことを気にしない日菜姉さんが鬱陶しくて、当然のように持つその才能が憎かったです。

 紗夜姉さんが嫌いでした。紗夜姉さんだって余りある才能を持っているのに、いつも苦しそうな顔をする貴女を殺してやりたいと何度も思いました。貴女が自分を能無しを言うになら、私は一体なんなんですか? 路傍の石ですか? 人間未満のゴミですか?」

 

 今まで長いこと塞ぎ込んできた憎悪を、濁流にように吐き出す。その全てを、紗夜姉さんは、顔を顰めながらも受け止めてくれた。

 

「でも、それじゃダメだって気づいたんです。

 姉さん達は何も悪くなくて、ただ出来るからやってるだけで、それを勝手に妬んで、憎んで避けてる自分が1番ダメだったんだって。

 だから、変わろうって決めたんです。今まで抱いた全ての感情を知らないふりして、ちゃんと姉さん達と向き合おうって。そして、一緒に笑い合うんだって。全然上手くできませんでしたけどね」

 

 そう言って、少し自虐気味に、でも朗らかに私は笑った。

 

「ずっとトラウマに縛られたままで、上手く抜け出せなくて、日菜姉さんにブチ切れちゃったんですよね。でも、そんな時に友達が助けてくれて……まだ出会って1日しか経ってなかったのにですよ。信じられます? でも、彼女は真摯に私の話を聞いて、受け入れてくれたんです。

 それで、変に自分を偽るよりも赤裸々になって、本当の自分をぶつけるべきだって気づいたんです。そうしたら日菜姉さんと仲直り出来ました。

 だから、紗夜姉さんもきっと私と、日菜姉さんとまた仲良く出来るはずです。出来損ないの私に出来て紗夜姉さんにできないわけないじゃないですか」

「本当に……そう思う?」

「はい。私を信じてください」

 

 数ヶ月前の私ならこんな言葉口が裂けても言えなかっただろうと思う。

 私自体は何も変わっていない。でも、確かに変われたのだ。上手く言葉にできないけど、そう思う。

 だから今度は、私が変える番だ。自信満々に胸を張って、私は紗夜姉さんに手を伸ばした。

 

「ありがとう、憂月」

 

 紗夜姉さんはそう言って、笑って私の手を取り立ち上がった。

 

「さぁ、そろそろ帰りましょうか。日菜も待ちくたびれているでしょうから」

「今ならまだ花火見れますかね?」

「見れるんじゃないかしら。でも、もし無理でも来年があるでしょう?」

「紗夜姉さんちゃんと日菜姉さんと仲直り出来ますか?」

「貴女に出来て私に出来ないことはないんでしょう?」

「っ!! そうでしたね!」

 

 紗夜姉さんの隣に立って、並んで帰路につきながらする会話。なんてことはない、普通に会話。それが堪らなく嬉しかった。

 

「あぁ、そうそう、憂月」

「はい、なんでしょう?」

 

 まるで犬のように心をウキウキさせながら、紗夜姉さんの返し待つ。

 

「何かお願いとかあるかしら?」

「お願いですか?」

「ええ、姉として私が出来ることはない?」

 

 咄嗟のことで最初は何も思い浮かばなかった。今とても幸せだし、もしかしたら無いかもと思ったが、一つだけあった。

 

 深呼吸をしてから、しっかり紗夜姉さんの目を見て、意を決して私は言った。

 

「『好き』って言わないでください」

 

 私は何も変わってないし、多分人は簡単に変われない。というか変わらない。だから、私は苦しめられたくない。苦しんでいる姿を、紗夜姉さんに見せたくない。

 

 好きって薄情だ。自分が今世紀最大の思いを込めても、相手には紙切れ程の価値しかないように、その言葉の重みは人によって大きく異なる。それが堪らなく嫌いだった。だから、私はずっと、愛が欲しかった。愛されたかった。誰にとっても不変で、同等以上の価値を持つ愛で満たされたかった。

 

 愛も好きも、結局自分がどう思うかで、どっちも同じじゃないかと思う。でも、それでも、私は愛してるって言われたかった。好きなんて言葉は大っ嫌いだ。

 だから、私は言わなくちゃいけなかった。例えそれが我儘で、酷く独善的なエゴだとしても、これが私を私たらしめる所以でもあるし、心からの本心なのだ。

 

 遠くで、花火が咲く音が聞こえた。空を見上げると、眩しいほどの月明かりが澄み切った夜空を照らしていた。




これでこの話は終わりです。これは余談なんですが、少し憂月について語らせてください。
まず、名前をつけるにあたって、他の人と同じように朝又は昼と夜両方にあるものを付けたくて、思いついたのが「月」でした。「憂」は、単に自分が好きな漢字をつけました。好きな理由は太宰治さんの優しい人云々の話なんですが、関係ないので割愛します。
次に、この話をどうしようかなと思った時、日菜を太陽、憂月を月、紗夜を夜と見立てた時に、月は太陽に照らされ、また夜は月に照らされる存在です。なので、憂月は日菜に救われて、紗夜は憂月に救われるような、そんなお話にしたかったんです。紆余曲折あって、途中で投げ出したりしましたが、なんとか達成できました。この後どうなり、どんな日々を過ごしたかは、全て読者の皆様にお任せします。

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そして、ここまでご愛読していただきました皆さんには、感謝の気持ちで一杯です。ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。誤字・脱字などがありましたら是非ご報告お願いします。最後まで烏滸がましいかもしれませんが感想も常時お待ちしております。



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