Oracion (若布.)
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序章

※この時点でねつ造盛り沢山


始まりは、否、終焉は、全人類の意志だった。

 逃げろ、と片方の男は言った。

 そういうシステムだと知っていて、抗えないと知っていて、けれど絶望に身を沈めて彼は弓に矢を番えた。

 片方の男は何も言わなかった。

 そういうシステムだと知っていて、抗えないと知っていて、だから最小限の労力で済むよう彼は引き金に指をかけた。

 人類なんて、そんなものだ。

 世界はかくも残酷で、無慈悲である。

 

序章 今、再び破滅への道を

 

「――素に銀と鉄」

 

 青い燐光が地下室の闇を僅かに照らす。

 床に描かれているのは魔法陣。

 

「礎に石と、契約の大公」

 

 夕焼け色の髪が、魔法陣から起こる風に揺れていた。

 冷たい石の壁に身を凭せ掛け、男は黙ってその様を見守っていた。

 

「降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国へ至る三叉路は循環せよ」

 

 結局、彼女は逃げなかった。

 もう止まってもよかった。もう眠ってもよかった。

 それでも歩み続けたのは、きっとこのときのため。

 運命なんて信じる柄ではないけれど、と男は目を細め、青い光を見つめる。

 けれど、今まで彼女が変生もせず死にもせず、ひたすら彼女のままで生きてきたのは。

 

閉じよ(満たせ)閉じよ(満たせ)閉じよ(満たせ)閉じよ(満たせ)閉じよ(満たせ)。繰り返す都度に五度、ただ満たされる刻を破却する」

 

 何度も唱えた呪文だった。

 身に染みついた呪文だった。

 縁の絡みついた、呪文だった。

 

「――告げる。汝の身は我が下に。我が命運は汝の剣に。

聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 

 応えた者は数知れず、彼女を支えて前へ進んだ。

 情などもう消えた身だ。己はシステムを回すだけに過ぎず、その上で彼女はこの剣に身を預けると言った。

 

「誓いを此処に。我は常世全ての善と成る者。我は常世全ての悪を敷く者」

 

 青い光は優しくて、どこかあのからりと笑う魔術師を思い出させた。

 当たり前か、と思い直す。だって、この召喚の触媒は『彼女自身』。

 ならば喚ばれる者は決まったも同然。

 

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の護り手よ――!」

 

 いっそう強くなる閃光が花火のように一瞬で爆発して、消えた。

 霧中で息を切らす彼女を男は冷静に分析する。やはり魔力がぎりぎりまで削られていた。これでは立っているのもつらいだろう。

 

「召喚に応じ参上し、って何だこりゃ、キャスタークラス!? あれ槍が無え! どうなってんだ!」

 

 しかし、霧の晴れた先でわたわたと己の槍を探す浅葱色の男を目にした途端、彼女は思わずといったように吹き出した。

 

「槍が無いのはキャスターの標準仕様なのかなあ、三度目でこれじゃ確定? 何か申し訳無くなってくるねえ」

 

 くるりと振り向いた彼女があまりにズタボロな微笑みを浮かべていたから、見るに見かねた男は壁から身を離して歩み寄る。

 

「ランサーの枠が埋まっている以上こうなるのは目に見えていたがね。幸運Dになっても運が無いのは相変わらずということだろうさ……さて」

 

 ようこそクー・フーリン、一人と一騎のカルデアへ。

 皮肉混じりに口角を吊り上げた男と夕焼け色の彼女を、ドルイドは唖然と凝視していた。

 

 

 

 どうなってんだ。目の前で人を小馬鹿にした笑みを湛える黒いスーツの男を、クー・フーリンは穴が開く程見つめる。

 自分を喚んだのはその隣の女だろう。右手の令呪が何よりの証拠。それは別にいいのだ。

 問題は、衣装に負けずとも劣らぬ黒い肌の男から感じられる気配が、人間というには『自分達』に寄りすぎているということ。

 

「……てめえ、サーヴァントか?」

 

 杖を槍のように構え、臨戦体勢に入る。

 少なくとも味方なのは確かなようだが、怪しいにも程がある。

 すると、男は真鍮色の瞳を愉悦に溶かしてくつくつ笑声を漏らした。

 

「見ろマスター、戦闘民族らしく狗がもう戦う気でいる。早く説明しないと火事になるぞ?」

「煽らないの!! ご、ごめんねキャスター、彼は味方だし、悪気があった訳じゃないの! ちょっと捻くれてるだけから、悪い人じゃないから!」

 

 慌てて自分と黒い男の間に割って入る、マスターと呼ばれた女。

 年の頃は二十代後半といったところか。白い長袖のシャツワンピースが細いふくらはぎの中程までを覆っている。腰まで伸びた夕焼け色の髪に、琥珀色の瞳。どうも見覚えがあるなと最早記憶に近くなる程身に馴染んだ記録を引っ張りだせば何のことはない、冬木で会ったあの餓鬼によく似ている。

 

「アンタ、名前は?」

 

 もしかして坊主の親族かな、と思い名を訊ねる。途端、ぐっと痛みを堪えるような顔をした彼女は、一瞬で元の表情を取り戻すと令呪の宿る手を差し出した。

 

「立香。藤丸立香。よろしくね、クー・フーリン」

「おう、よろしく」

 

 握手に応える。握った手は、小さかった。

 

 

 

「……で、ここをとりあえず神殿にしてくれていいからね。何か欲しいものがあったら言って頂戴」

「おー」

 

 湿っぽい地下室から一転、地上に出ると見事な森の中であった。

 正確には、森の真ん中を切り開いて造られた石造りの遺跡の中である。一見ギリシャの神殿に近いが所々の意匠はケルト風で、いったいいつの時代のどういう遺物なのか見当がつかない。少なくとも、崩れた石柱に蔦が這っているし、石畳のあちこちから草が芽吹いているしで、永らく使われていなかったのは明らかだ。

 良い場所だと気づいた。古代の神殿が建てられるとあって、霊脈の真上に位置した絶好のポイントである。これならばかなり陣地作成が捗るだろう。

 感心しつつ辺りを見回している間に、マスターはいつの間にか森の中に入っていってしまった。が、あの黒衣の男は残って柱を背にじっとこちらを見てくる。

 

「んだよ、言いたいことあんならはっきり言えや」

 

 正直良い気分ではない。観察されているのだから当たり前だ。

 

「いや、別に。強いて言うなら、貴様の疑問に答えてやれとの命令だ。マスターはもう体力も魔力も限界だ……何せ、才能が無いのでな」

 

 主人に対しても一言多い奴だった。

 しかし、答えてくれるならちょうどいい。聞きたいことは山程ある。

 

「じゃあ聞くが、お前さんは『何だ』?」

 

 サーヴァントでもない、人間でもない。

 彼女をマスターと呼ぶが、敬っているようにも見えない。

 ほう、と男は片眉を吊り上げ呟いた。

 

「なるほど、腐ってもキャスタークラス、質問の仕方を選ぶだけの知能はあるらしい」

「あのな……喧嘩売ってんなら買うぞコラ」

「マスターから禁じられているので売りたくても売れないのだがね。まあいい、それで、オレが何か、だったな」

 

 そうだな、と口元に手を当てる仕草に、妙に既視感を覚えた。

 それに、声が。

 さっき冬木の記録を引き出したときに気づいた。この男、あの弓兵と――

 

「オレは以前サーヴァントをやっていた。真名も言っておけと言われているから言っておく。『エミヤ』だ」

「――!」

 

 もっとも、あの赤いオレからの反転(オルタナティブ)であるがね。そう何でもないことのように打ち明けた男、エミヤオルタを信じられないものを見る目で見てしまう。

 あれがどうなったらこうなるんだ。

 頰を引き攣らせて劇的ビフォーアフターを眺めるキャスターに、エミヤオルタはさらなる爆弾を投下していく。

 

「で、現在は受肉した人もどきだ。ああそれと、我がマスターの『監視者』でもある」

「ああ受肉してるから変な気配なのか……待て待て、監視者だと?」

「そうだ。真名でだいたい分かると思うが、オレは『守護者』だ。ここまではいいな?」

 

 キャスターは頷く。守護者の何たるかは知っている。

 人類存続のための抑止力。自壊を防ぐ防衛機構。それがどうして監視者などと――まさか。

 

「ほう、やはり多少は頭が回るらしいな。気づいたか」

「……全くわけわかんねえぞ。あの姉ちゃんがどうやったら『人類を滅ぼす悪』になんぞなりうる。あれはただの魔術師だろう」

 

 弾き出された答えに納得がいかずキャスターは訝しむ。

 つまりこの守護者エミヤは、いずれ人類を滅ぼすかもしれない存在を見張っているというのだ。少しでもその兆候が見られたら殺せるように。

 

「オレはただ、一度殺し損ねただけだ。だがその直後あれは見逃された。いつかあれが人類悪へと変生する可能性はあったが、面倒なことに、あれ単体では人類悪には成り得ない。あれは道具だ。自ら変生するのではなく、他人の悪に使われる」

「外的要因が必要、ってことか」

 

 情報を整理しつつ確認すると、首肯が一つ返ってきた。

 

「だからアラヤは、オレという監視者をつけることでそのリスクを減らしつつ、もし人類悪になった場合即座に排除できるようにした訳だ」

 

 納得できないこともない。が、いかんせん現実味が湧かない話である。

 

「変な話だな。あいつが生きてる限り人類悪とやらのリスクは無くならないんだろ。何でわざわざ生かして監視までする必要がある」

 

 殺し損ねたとエミヤオルタは言った。ならばもう一度殺せばいいではないか。

 しかし、黒衣の守護者は首を横に振った。

 

「残念ながら前提条件が間違っているぞ、クー・フーリン。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……はあ?」

 

 またも意味の分からない情報を提示され、キャスターは思わず間抜けな声を漏らした。

 

「だから殺さない。()()()()()()。加えて、もう一つ理由があってな。アラヤはいつかあれを自身の道具にしようと目論んでいる、らしい」

「はあ!?」

 

 さっきからどんどん理解の追いつかない情報が増えている。真っ白のジグソーパズルのようだ。

 アラヤの道具。それはつまり眼前で話す男と同じ。

 

「ああ、アラヤが契約を望んでいることを我がマスターは知らないので、黙っておいてくれ」

「何だそれ……」

「ただ殺すだけでは契約できないということだ。あれは少々変わった経歴の持ち主でね。本人の戦闘能力は正直お笑いレベルだが、培ってきた特別なものがある。アラヤはそれを狙っている。ヒントを与えるなら、そうだな。お前達通常の英霊にも関係しているものだ」

 

 ますます訳が分からない。

 

「オレ達にも関わる力だと? そんなものあったらオレだって知っていてもおかしくねえ。なのに聞いたこともないのはどういうことだ」

「……ふむ、ではもう一つだけヒントをくれてやろう。お前達があれについて知らないのはな」

 

 無かったことになっているから、だ。

 

 

 その報せを聞いたとき、心臓が捩じ切れるかと思った。

 

「……あーあ、やっぱりキャスターが来ちゃった」

 

 無かったことにしたところで、結局あの人が来るんじゃないか。

 ――十年前のあの日、離した手はそのままに。

 今日もう一度握った手はきっと別のものだ。

 木の小屋に置かれたベッドで仰向けに横たわり、目を閉じる。

 冬木の聖杯戦争の二番煎じが、間も無くこの地で行われる。

 あの日使いきったはずだったのに、まさか残っていたなんて。

 いや、持ち逃げした人がいたに違いない。自分の詰めが甘かったのだ。

 

「自分のしたことだもの、最後までやり遂げなくちゃ」

 

 たとえそれが罠でも。

 大丈夫だ、と信じている。これから先起こることへの恐怖など、十年前に棄てきった。

 だって、あの人がいてくれるから。

 

「エミヤが止めてくれるなら、きっと私は大丈夫」

 



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第一章

ジクフリクラスタですいません。


 こんなんだったっけか、と思わずにはいられない。

 召喚初日の夜、森の中の小屋に案内されたと思ったら、四人がけのテーブルは料理で埋め尽くされていた。

 目の前でほかほかと湯気を立てる具沢山のクリームシチュー、籠に山と積まれたバターロール、大皿の上で存在感を放つ、ハーブやスパイスのたっぷりかかった大きな牛肉のオーブン焼き、スキレットごと出されたスペイン風オムレツ。

 聖杯戦争って、こんなんだったっけ。もっと赤くて辛くて痛かったような。

 

「とりあえず豪勢にしてみたはいいけど、ちょっとやりすぎたなあ……」

 

 うーん、と首を捻る女の手にはミトンが着けられていて、エプロンと相まってまるで主婦か何かのようだ。しかもその手はまだ皿を運んでくる。最後にテーブルに置かれた木のボウルの中には、ハムや空豆の混ざったポテトサラダがあった。

 向かいに座るエミヤオルタも呆れている。彼はダークスーツのジャケットを脱ぎ、グレーのシャツの袖をまくっていた。

 

「どうやっても三人で消費する量では無い。久しぶりにやったな、マスター」

「うっぐぅ……ごめんて。おかしいねえ、二人で食べるご飯にも慣れたつもりだったんだけど」

「まあ最初の頃に比べればマシになったか。おいキャスター、残念ながらこれがうちのマスターだ。阿呆面晒しているところ悪いが、慣れろ。飯は食っておけ」

「誰が阿呆面だ……つか、本当にこれ食っていいのかよ」

 

 サーヴァントは食べなくても活動できる。受肉しているエミヤオルタはともかく、自分は飯を食わなくてもいいというのに。まあ、娯楽としてはありがたいし出されたものは遠慮なく頂くのだが。

 未だ眉間に皺を寄せている黒い弓兵の隣に腰掛け、マスターは寂しそうに微笑んだ。

 

「皆で食べるご飯、好きなんだ。ごめんね、嫌なら食べなくても――あっ」

 

 その口が後ろ向きな言葉を吐くのが、どうも気に食わなかったので。

 遮るようにしてシチューを一口啜ってみる。優しい味が広がった。

 ああ、と意味の無い母音だけしか言わなくなったマスターを尻目に、シチューを味わって嚥下する。

 

「うめえ」

 

 一言だけの感想で、マスターの顔が泣き出しそうに歪んだ。

 何でそんな顔をするのか分からない。分からないが。

 

「……そっか、よかった」

 

 そのまま淡く相好を崩した彼女が人類悪だなんて、考えられなかった。

 

第一章 邂逅、月夜

 

 結局三分の一程残ってしまった食物を片づけたマスターは食後のお茶まで出してきた。綺麗に拭かれたテーブルに並ぶティーカップには琥珀色の液体が揺れている。

 

「……さてと、私が仮眠とってる間に、どこまで聞いたのかな?」

 

 徐に口を開いた女は、先程までとは打って変わって『魔術師』の雰囲気を漂わせていた。

 

「お前さんとこいつが何であるか、は聞いた。悪いが、もう一つ質問していいか?」

 

 マスターは何も言わず静かに笑んでいる。沈黙を了承と受け取り、キャスターは続けた。

 

「お前さんが聖杯にかける望みは何だ。このような状況で、何故戦争に参加した?」

 

 死ななければ人類悪にならない、というのなら、死なないようにするのが普通ではないのか。聖杯戦争などという命の危険溢れる催しに参加したところでメリットも無い。もっとも、聖杯を使って彼女の状況を改善できるなら話は別だが。

 暫く黙っていたマスターは、紅茶で喉を湿すと答えた。

 

「簡単に言うなら、後始末だよ。今回の聖杯は元々私が保管していたもの。盗まれたから、取り戻しに来た」

「聖杯を、保管……?」

 

 到底信じられる話ではなかった。しかし嘘を言っているようには見えない。

 鸚鵡返しに訊ねても、そういう仕事をしていたんだ、というざっくりとした説明しか彼女はしなかった。

 

「ごめんね、説明が上手くできないんだけど、あれは――あの聖杯は、本来こんなことに使える代物じゃない。既にリソースの一部を使ってしまった、燃料不足の願望機なの」

「……別の聖杯戦争にでも使われたのか?」

「近いね。もっと入り組んでいるけど、とにかくサーヴァント召喚に利用されたあとのその聖杯を回収して、魔力を補充せずに、願望機として再利用できないように保管してたのが私。あれはあまり正しい用途で使われなかったものだから」

 

 だから二度と悪用されないように守っていた。

 けれど。

 

「で、そいつが盗まれたと」

「どさくさに紛れてねえ。それが十年前の話。この十年でどれだけ再充填できたか知らないけど、たった十年。冬木の聖杯で六十年かかっていたことを考えても、サーヴァントを喚ぶだけならともかく、願望機として機能できる訳がないんだ。足りないものを無視して無理矢理引き起こされたと見ていい。このままいけばこの戦争、破綻するよ」

 

 戦争の破綻。それが意味するものは何なのか想像もつかないが、とりあえず嫌な予感しかしなかった。

 では、彼女の目的は。

 

「つまりお前さんは勝つためじゃなく、止めるために聖杯戦争に参加するってことか」

 

 首肯を一つ返したマスターは、一転して申し訳無さそうに目を伏せた。

 

「だから、ね。願望機としての機能は諦めてもらう他ないんだ。せっかく召喚に応じてもらったのにこれだもの、降りてくれても構わないんだよ」

 

 キャスターは開いた口が塞がらなかった。

 サーヴァントに『やりたくないなら帰っていい』なんて言うマスターがどこにいる。従わなければ令呪でも使ってしまえばいいのだ。ここで己がハイそうですかと座に帰ればもう一度召喚を繰り返すことになるというのに。

優しすぎる。この女、間違いなく魔術師に向いていない。

 だが、そこが面白くもあった。口角が上がるのを抑えきれない。自分のマスター運は最悪だと思っていたが、久しぶりに大当たりだ。

 

「そうだな、まあ普通の英霊だったらこんな話蹴ってたところだが――お前さんは運が良い。生憎とオレは聖杯なんぞにかける願いも無いんでね。強いヤツと心躍る戦いができればそれでいい」

 

 マスターはほんの少しだけ懐かしむように、その言葉を聞いていた。

 その反応を不思議に思いながらも、キャスターは改めて宣言した。

 

「お前さんと一緒に戦ってやるよ、マスター」

「……ありがとう」

 

 ああ、そっちの笑顔の方が余程いい。

 どこか影のあった顔が、花咲くように綻んだ。

 

 

 

「では作戦会議を始めます!」

 

 鼻息荒く地図をテーブルに広げたマスターは、先程とは打って変わって生き生きとしている。水を得た魚のようだ。否、手慣れた雰囲気と言うべきか。

 

「私たちがいるのはこの山の北側ね。まず第一目標は聖杯を探すことなんだけど」

 

 彼女は地図の北西部に位置する山を指し、それからその指を南東に滑らせた。

 どうやらこの一帯は山間の谷になっていて、中央に流れる川の他に目立つものは無い。地図には田畑を示す記号ばかりが載っている。断言しよう、まごうことなきド田舎である。

 

「当ては?」

「無いねえ。残念なことに全く無い」

 

 にべもない返答であった。大丈夫なのかそれはと言いかけたキャスターの言葉を、今まで黙っていたエミヤオルタが遮った。

 

「通常、というか冬木の聖杯戦争の場合、監督役として聖杯を管理していたのは聖堂教会だった。しかし今回、教会は無関係だ。関わらせてもらえないと言った方が正しい。よってまず教会を当たるという選択肢は消え、目星もつかなくなったわけだ」

「エミヤも探してくれてるのだけど、ちっとも手がかりが見つからなくてねえ」

「ちょっと待て、教会が関わらせてもらえない?」

 

 一応冬木の聖杯戦争を経験済みであるキャスターは瞠目した。監督役がいないのでは戦争が無法化しないか。加えて、隠蔽工作はどうする。

 

「そう、今回の聖杯戦争は完全なる私闘。しかも参加する魔術師にはほとんど魔術協会の息がかかってる。部外者は私達だけかもね」

「だから聖杯がどこにあるか分からない、と」

「そういうことだ。加えて、隠蔽工作だの何だのも今回する必要が無い。何故ならここにはもう誰も住んでいないからだ」

 

 さっきからおかしなことばかり言われている気がする。怪訝な表情をしているであろう己に、苦笑してマスターが教えてくれた。

 

「ここね、近いうちダムができるんだ。ただでさえ少なかった住民も全員退去して、今は廃村」

「ダム……あー了解、今理解した。そりゃ誰も住まねえな、水に沈むんだから」

 

 聖杯から知識をダウンロードしてみて分かった。

 そういえば、と思い出す。細かい地理以前に、ここがどこの国かまだ知らない。

 聖杯に聞いてみる。答えが返ってきた。そんな馬鹿な。

 思わず目の前のマスターに確認をとる。

 

「待て待て待て、そもそもここって」

「日本だけど」

 

 あっさり聖杯と同じ解答を出してくださった。そんな馬鹿な。

 

「ウッソだろお前、じゃあ外のあれは」

「ああ、あれ? よく出来てるでしょう。力作なんだよ」

「まさかの自作」

「平地より何か建ってた方が戦闘にも便利だから。神殿として機能できるようにちょっとだけ細工もしたんだよ? これでもルーンは齧ってたしね」

 

 確かにお膳立てがしっかりしすぎているなとは思っていた。更地に家を建てようとしたら土台がもうありました、みたいな妙な感覚だったのだが、まさか本当に土台ができていたとは。

 

「もしかして構築式ちょっと間違ってた? 三十回くらい見直したから大丈夫だと思うんだけど……」

 

 不安げにこちらを窺う彼女に、慌てて首を振ってみせる。術式構築の手順がおかげでいくつもすっ飛ばせたし、邪魔になることもなかったのだから。

 

「いんや、全然問題無かったぜ。時間短縮にゃバッチリだ。いい師匠がいたんだな」

「……うん」

 

 ああまた、そんな寂しそうな顔をしないでくれ。

 そのとき、エミヤオルタの咳払いが空気を揺らした。途端にマスターの雰囲気が戻る。

 

「話を戻すぞ。とにかく第一目標は聖杯の在り処を探すことだ。それと、オレは戦力に数えるなよ。さすがに二人のサーヴァントを連れているとバレては事だからな、()()()()()マスターの護衛に徹することになる」

「もし参加せざるを得なかった場合、そこからの戦闘では開き直って暴れてもらう予定だけどね」

「なるほどな、了解した」

 

 その言葉で、結局やることは通常の聖杯戦争と変わりないのだと実感した。

 潰しあって、殺しあう。

 それ以外に何があるのか。

 

「とりあえずこんな感じかな? ちなみに、今召喚されてるのはセイバー、ランサー、アサシン、そしてキャスターの四騎。予定ではあと二日のうちに全陣営が揃う」

「真名は……さすがにまだ分かんねえか」

「さすがにね。まあ私は一目見ればだいたい――」

 

 ぱしり、と。

 空気が罅割れた。

 エミヤオルタが素早く立ち上がり、礼装も纏わずスーツのまま、マスターを庇うように手に黒白の銃剣を構える。彼もエミヤなのだからあれは投影品なのだろう。

 マスターも気づいている。エミヤオルタの防衛ラインから出ない位置に立ち、ポケットからいくつか鉱石を取り出して握っていた。

 キャスターも静かに立ち、いくつか自身にルーンを使い強化とした。

 

「……一個目の結界、切れたね」

 

 囁くような声が確認を取る。頷いたエミヤオルタが真鍮の目を厳しく細めた。

 

「始まってもいないというのに、気が早い奴もいたものだ。マスター、防御システムは」

「……駄目だ、的確に潰されてる。あれ造るの大変だったのになあ」

 

 小さくぼやいた彼女の目は強い光に満ちていた。戦場を知っている目だ、とキャスターは気づいた。彼女は、戦場に身を窶していたことがあるのだ。

 全員が息を殺し、狭い室内から出ることなく身構えていた。キャスターはちらりと背後を見る。大きめの窓が一つ。あそこからなら離脱も可能だ。

 脱出の策を講じた、しかしその瞬間。

 轟音と共に光が襲った。

 

「――チィッ!!」

 

 舌打ちして横に転がる。こんなもの防げる訳がない。何だこの凄まじい魔力の暴流は!

 じゅうっと何かが蒸発する音がした。見れば、さっきまで自分のいた位置から先の構造物が軒並み消滅していた。月光が射し込んでくる。夜風が冷たく頬を撫で、同時に冷や汗が背を落ちた。

 そうだマスターは。

 咄嗟に振り向くと、無傷のエミヤオルタが同じく無傷のマスターを抱いてしゃがんでいた。マスターの息が荒い。その顔は青白く歪んでいる。

 

「こらセイバー、加減をしろと言っただろう。避けてくれたからいいものの、あんなやり方で殺してしまっては死体が残らないじゃあないか!」

 

 誠に陽気な高笑いと共に放たれた愉快そうな声が、静かだった森を騒々しく揺らした。続いて、すまない、と一言だけの謝罪が聞こえる。

 ひゅ、とマスターが息を飲んだ。

 

「まあいい。さて出ておいで、『ビースト』。獣の権能、今見せてくれても構わんぞ?」

 

 そこに混じるのは嘲笑だ。吐き気のするような哄笑だ。

 半分消し飛んだ建物の中で、マスターは黙って拳を握りしめている。

 

「……エミヤ、一度離脱して。私はキャスターと切り抜ける。どうせあれは三人がかりでも殺せるような英雄じゃない――逃げるよ」

 

 低い声の指示を受け、エミヤオルタが彼女を離す。そのままゆっくりと距離を置き、かき消えた。その足下に光った魔法陣が直後に砕ける。おそらく決まった場所に転移するゲートのような魔術だ。壊れたのはアシがつかないようにだろう。

 

「さてと、キャスター? 初戦で大変申し訳無いけど、絶対勝てないから離脱します。私が合図したら真後ろの魔法陣に飛び込んで」

「了解」

 

 返事をしたそのときだった。

 

「何だつまらん――もういい。殺せ、セイバー」

 

 ひどく冷たい命令が聞こえた。

 キャスターは同時に地を蹴りマスターを庇って立ち塞がる。寸の間おかず、翳した杖に轟速で落ちてきた大剣の刃が直撃した。

 

「ぐぅ……っ!!」

 

 床に足がめり込む。食いしばった歯の奥から出た苦い呻きを噛み殺せず、キャスタークラスの不自由さを痛感した。槍が無い以外にも弊害まみれとは笑えない。

 駄目だ、いくらルーンで強化したとはいえ、素の筋力値が違いすぎる。向こうはセイバー、こっちはキャスター、鍔迫り合いがすぐ崩れるのは自明の理である。

 だから、馬鹿正直に白兵戦を仕掛けるつもりは無い。無いが、残念ながら両手が塞がっていてルーンを刻めない。

ところが直後、己の後ろからまさに刻もうとしていたルーンが発動した。

 

「アンサズ!!」

 

 火の玉が真っ直ぐセイバーに激突する。超至近距離からの、しかももういくつか強化を重ねた渾身の一撃である。さすがのセイバーもほんのわずかにたたらを踏んだ、その隙をキャスターは逃さない。

 

「オラァ!!」

 

 気合一閃、杖を力任せに振り切ったと同時に雨あられと火炎弾を撃ち込む。もうもうと立つ煙の向こうを省みることなく、キャスターは後ろに下がりマスターを抱き上げた。

 

「キャスター撤退!!」

「了解だ!!」

 

 もう二歩跳べば魔法陣の真上、あとは転移を発動するだけだが――セイバーがそれを許さない。粉塵の中から突っ切ってきた男の白銀の髪が月光を吸って輝いた。大剣が振るわれる。

 あと一歩、時間が足りない。

 瞬間、マスターが手を伸ばした。手の甲に青い魔術回路が浮かび上がる。

 

「冥界神に願い奉る! 『オシリスの塵』!!」

 

 がぁん、と鉄板を殴ったような轟音が響いた。

 振り下ろされた剣は透明な壁に阻まれ、弾き返された。男の翡翠色の瞳がほんの僅かに見開かれる。

 直後、魔法陣に到達したキャスターは転移の術式にスイッチを入れた。

 

 

 

「ぜえ、ぜえ、ぜえ……し、死ぬかと、思った」

「おい大丈夫か」

「あは、ちょっと、使いすぎた……力、入んないや」

 

 転移した先も森であった。

 ぺたんと地面に座り込んで力無く笑うマスターの魔力は、先の二回の魔術でかなり削られたようだった。ルーンはともかく、あんな高性能な防護魔術を用いたのだから当然だろう。

 暫し呼吸を整えていた彼女は、ようやくそれに成功すると「エミヤ」と従者の名を呼んだ。

 

「ここに。無事かマスター」

 

 森の中からすぐ現れたエミヤオルタは無傷のままで、戦闘の痕跡も見られない。多少スーツやシャツに砂埃が付いているくらいだ。

 

「何とか……追っ手は?」

「無い。とりあえず、撒くことはできたな」

 

 その言葉で今度こそ脱力しきったマスターはぐったりと上体を折り曲げた。額が落ち葉塗れになるのも構わず、地に伏せている。かと思ったら、そのままぐだぐだとぼやき始めた。

 

「最悪に過ぎる……まさかジークフリートとは。あのマスター絶対嫌な性格してるよう」

「魔術師に嫌な性格をしていない奴などいないだろう」

「そうだけどーーーもーーーあんなの反則だようーーーーー」

 

 何にも効かないじゃん、とぐりぐり頭を地面に押し付けながらマスターが叫んでいる。

そこでキャスターは首を傾げた。はて、今の戦闘のどこに真名を当てられる要素があったのだ?

 

「おいマスター、お前さんあれを『ジークフリート』だと知ってたのか?」

 

 ジークフリート、またの名をザイフリート。ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』に登場する竜殺しの大英雄。確かに有名な英雄だが、宝具の真名解放すらされていなかったのにそれを言い当てるとはどういうことか。

 

「んえ? ああ、言ってなかったね。私、真名看破のスキル持ち」

「は?」

 

 何だそれルーラーじゃあるまいし、と言いかけたキャスターに顔を上げた彼女は続ける。前髪に落ち葉がくっついていた。

 

「私の獣の権能はそういう力を帯びているってこと。会ったことの無い英霊でも真名が分かる、みたいなものだと思ってくれたらいいよ」

 

 本日何度目かの絶句を経験したキャスターを尻目に、でもねえとマスターはぼやく。

 

「分かったからといって弱点を物理的に突けるかっていうと違うもんねえ。エミヤに後ろから狙い撃ってもらう?」

「難しいな。対策などとうに講じられているだろうし、マスターの存在もある」

「だよねえ……」

 

 がっくり項垂れた彼女の頭についた落ち葉をエミヤオルタが取り除く。この主従、どうも距離が近い。

 しかし、とキャスターは彼女らの事情から一旦目を離すことにして、現在の状況を整理する。

 陣地作成はこれでほぼ不可能になったと言っていい。あの隠れ家は早々にバレた上に、こちらがキャスタークラスであることは杖という得物からも露見しただろう。あそこ以外の霊地も押さえられ、待ち伏せされるに違いない。キャスタークラスの一番のメリットが消えた訳だ。

 

「どうすんだマスター。もうあそこには戻れないってことだろ」

 

 振り返って尋ねる。相変わらずエミヤオルタに葉っぱ掃除をされていたマスターは、そうだね、と座り込んだまま首肯した。

 

「仕方ない、次善策でいこう。えっとねキャスター、今回の参加者が皆魔術協会の連中だって話はしたよね」

 

 突然何の話を始めるのやら、結論が見えぬキャスターは曖昧に頷く。

 

「でね、さっきのセイバーのマスター、『ビースト』って言ったよね。私が何であるか知っている。私とあの人、初対面なんだけど」

「……情報を提供した奴がいる?」

「そ。おそらく聖杯を盗んで今回の戦争を企画した張本人――分かりやすいように『元凶』と呼ぶけど、そいつが自分と同じ目的の人間と手を組んで、協力して私の死体を回収しようとしているんだと、思う」

 

 つまり同盟だ。理解しかけて、キャスターは思い至った。

 待て。その言い方だと、まるで――

 

「まさか今回の戦争のゴールは、勝者を決めるんじゃなく」

 

 嫌な推測は的中してしまった。マスターがへらりと力無く笑う。全てを諦めたような、それでいてまだ立ち上がろうともがくような。

 

「ああ、気づいちゃったか。そうだよ、元々この戦争は私を(おび)き出すために仕組まれたもの。最初から『何でも願いを叶える』なんて賞品は意識されてない」

 

 向こうのサーヴァントは知らないと思うけど、と彼女は言い足す。

 

「そこからさっきの話に戻るのだけど、私を人類悪にしたい『元凶』派と、それに倫理的観点及び危機感から対抗する反対派、魔術協会内の二つの派閥がそれぞれ人員を出しあって始まったのがこの戦争。正確には元凶派に反対派が割り込んだ形ね。なので私には反対派という協力者がいるわけ。で、そっちに身を寄せるのが次善策。本来はあの霊地に反対派と籠城しつつ聖杯探索っていう作戦だったんだけど、間に合わなかったねえ」

「……人類悪をめぐる派閥争い、か」

 

 そこまで知っていて、マスターはこの聖杯戦争に身を投じた。狙われることを理解していて、なお『聖杯を回収する』という自身の役目を果たそうとしている。

 なんて事だ。

 

「ごめんね、できれば黙っていたかったけど、こうなったらもう」

「……何で謝る。アンタは何も悪くねえだろ」

「……キャスターは、優しいね」

 

 泣きそうに歪む目元とは裏腹に、その唇はまだ笑みを刻んでいた。

 優しいのはアンタの方だ。言い募ろうとする心をぐっと押さえつけキャスターは歯を食いしばる。腹が立った。優しすぎる彼女にも、彼女を利用せんと目論む人でなし共にも、彼女がこんな、どっちに行っても地獄しか待っていないような分かれ道に立たされている状況にも、そうなっても救いを求めようとしないことにも。

 

「――マスター」

 

 不意に、今まで沈黙を貫いていたエミヤオルタが彼女を呼んだ。

 なに、と応じる声音は恐ろしく柔らかい。

 

「簡易結界に反応があった。何か来るぞ」

 

 一難去ってまた一難、だ。身構えたマスターの傍らで、キャスターも杖を構える。

 それからきっかり十秒後、キャスターの探知可能範囲にそれは感じ取られた。

 

「サーヴァントがいるぜ。どうする?」

 

 さっきのセイバーではなさそうだが、味方とは限らない。マスターの言うような『元凶』派のサーヴァントであれば戦闘は免れない。

 やがて、正面の茂みが騒々しく揺れて――現れたのは黒髪の青年であった。

 

「立香! よかった無事だった! オルタも!」

「……立香」

 

 顔を綻ばせた青年を目にしたマスターが、ほう、と息を吐いて力を抜いた。エミヤオルタも銃を下ろす。

 それでその青年が敵ではないと分かり、キャスターは緊張を解いた。どうやら彼がマスターの言う『反対派』のメンバーであるようだ。

 

「転移陣が動いたから何かあったかと思って。怪我は無い?」

 

 腰を下ろしたままのマスターに青年は手を差し伸べる。それを掴んで立ち上がり、彼女は首を振った。

 

「大丈夫、ちょっと魔力を使いすぎただけ。立香、ランサーは?」

「霊体化して後ろにいる。あ、もしかしてそこの人が立香のサーヴァント?」

「そうだよ、クラスはキャスター」

「そっか。よろしく、キャスター」

 

 青年の海色の瞳が好奇心を滲ませてキャスターを認めた。おう、と鷹揚に返事をして、キャスターはふと先程からの会話が妙であることに気づく。

 立香?

 

「キャスター、紹介するね。彼は藤丸立香。私の十年来の友人で、さっき言ってた協力者の一人。ランサーのマスターでもある。同姓同名だからややこしいかな?」

 

 偶然なんだよねと苦笑する、立香と呼ばれた青年。白い半袖シャツに黒のスラックスという簡素な出で立ちで、短い黒髪は襟足だけが背の真ん中まで伸びて一纏めに括られている。顔立ちも髪や眼の色も違うから、親戚でもないのだろう。偶然とは怖いものだ。

 

「それで立香、何があった? 俺、あっちの拠点はまだ見てないんだ」

 

 しかし立香が立香を立香と呼ぶ――名前がゲシュタルト崩壊しそうである。

 知らず目を白黒させていたキャスターとは反対に、マスターは落ち着いた様子で同姓同名の彼へ説明を始めた。

 

 

 

「ジ、ジークフリートかよ……動く要塞とか無茶苦茶だ」

 

 頰を引き攣らせる立香にマスターも渋い顔でため息を吐く。何せ悪竜の血鎧(アーマー・オブ・ファヴニール)は背中の一点以外、Bランク以下の攻撃を全カット、Aランク以上の攻撃ですらBランク相当分のダメージをカットするという、立香の言う通り『要塞』級の防御力を誇る宝具――とは、マスターの説明である。どうも詳しい。

 

「何とか多対一にもっていって背中を狙うしかないでしょう。他の二人の戦力はどうなの?」

「召喚を邪魔された。連中、ハナから戦争なんてする気が無いんだきっと。まあ召喚自体はできるって連絡が入ってるから、近いうち合流できるぞ」

「そっか……とりあえず、ジークフリート対策をしなくちゃならないね。

 ランサー、あなたの意見は?」

 

 立香の背の向こうに目を向けてマスターが意見を求めた。

 すぐに空間が揺らぎ、サーヴァントが現界する。痩身に金色の鎧、病的に白い肌に白い髪の男である。

 

「マスターの魔力さえあれば互角だ。オレは燃費が悪いのでな」

「ぐうっ」

 

 吊り目ぎみの青い瞳にちらりと一瞥された立香が身を折る。魔力の話がだいぶクリティカルヒットしている。

 

「どうしたマスター」

「ごめん、ごめんなランサー……俺がポンコツなばっかりに……」

 

 無表情のままのランサーはきょとりと首を傾げた。しゃらりと金の大きなピアスが揺れる。

 

「確かにマスターの魔力量は人並み以下だが」

「もうやめてランサー! 立香が泣いちゃう!」

 

 慌てて遮ったマスターは立香を抱き寄せ黒髪を撫でて必死で慰めている。彼女も魔力が然程多くないから、彼の気持ちが痛い程理解できるのだろう。エミヤオルタがその様を見て、声を殺して笑っていた。

 

「と、とにかく! セイバーの相手はランサーにしてもらうことになると思うから、それまで魔力は温存するように。そうだ、あとでサーヴァント同士話をしておいて。実際セイバーの剣を受けたキャスターから言えることもあるでしょう」

「おう」

「承知した。しかしキャスターのマスター、相手がジークフリートならば、オレも戦闘経験の記録が残っている。多少は助力になるかと」

 

 あらそう、とマスターが目を丸くした。

 

「なら余計に話をしておかないとね。キャスターだってセイバーを相手しなきゃいけなくなるかもしれないし」

「嫌なこと言ってくれるぜ、ったく」

 

 割ともう懲り懲りなキャスターであった。これがランサークラスなら多少は楽しめただろうに。

 肩を竦めれば、苦笑するマスターと目が合う。

 友人の手前、余計な心配をさせたくないのか随分明るく振舞っていた彼女だが、そのときほんの一瞬だけ、その琥珀色がぐらりと揺らいだ。

 けれどあっという間に元に戻って彼女は一つ手を叩く。

 

「さ、とりあえず移動しましょう。立香、悪いけどそっちに身を寄せることになっちゃった。案内お願いできる?」

「勿論。立香がそう言うと思って、俺も色々準備してきたよ」

 

 互いを呼びあう二人は仲睦まじく、きょうだいのようであった。

 

 

 それで、とキャスターは立香に案内され辿り着いた隠れ家――古めかしい日本家屋の外で結界を組みながら口火を切る。

 

「まだ真名も明かしてなかったな。これから同盟を組むんだ、言っておこう。オレはクー・フーリン、クランの猛犬ってな」

 

 ぼう、と夜闇が光りランサーが正面に姿を現した。金色の鎧の男は慇懃に礼をする。

 

「先に名を明かして頂いたこと、感謝する。応えよう、オレはカルナ。太陽神スーリヤの息子。共に戦えることを光栄に思うぞ、光の御子よ。ところで貴殿は槍の名手と聞いているが」

 

 それを言われるとちょっと遣る瀬無い心持ちになる。何せ今回はキャスターだ、いつもと勝手が違いすぎた。

 

「うっせえ、こちとら槍無しだ悪いか。キャスターなんぞ性にあわねえっての」

「そうか。残念だ、手合わせでもと思ったが」

「よーしやめようこの話やめよう、な?」

 

 あまりに色々抉られるのでキャスターは手を振って話を早々に切り上げた。己の槍が無いだの何だのより、確認せねばならぬことがある。

 

「で、アンタはどこまで事情を知っている?」

 

 問いかけても、ランサーの淡い青色の瞳には何の感情も浮かんでこない。恐ろしい程に冷静な眼差しだった。

 

「こちらのマスターからおおよそは聞いた。人類悪、それを狙う魔術師、この聖杯戦争がおかしいこと」

 

 だが、と彼は続ける。

 

「オレは聖杯に何も望むものがない。故にこの戦い、マスターが望む通りに貴殿の主を守護しよう」

 

 ――嘘を言っているようには見えなかった。正真正銘、彼はあの女を全力を以て護るだろう。それこそ彼の主の願うように。

 キャスターは自然入っていた肩の力を抜く。どうもこのカルナという男、こちらが気後れするくらい真っ直ぐだ。

 

「んじゃ、よろしく頼むぜ。そういやマスターたちは大丈夫か?」

 

 ふと思い出したのはふらふら覚束ない足取りの己のマスターを支える青年のことであった。二人とエミヤオルタが隠れ家の中に入ってから全く物音がしないので少々気がかりであったキャスターである。

 聞かれたランサーが答えようとしたちょうどそのとき、家の引き戸が軋みながら開いて、中からエミヤオルタが出てきた。

 

「二人とも寝入った。ランサーのマスターはともかく、うちのマスターは色々と限界に近かったからな」

「そうか。お前はどうすんだ? 受肉してんなら睡眠は要るだろ」

「問題ない、元々多少寝ずとも動ける身体だ……と言いたいところだが、面倒なことにあのマスターは添い寝しないと夜中に悪夢で目を覚ます。用が済んだら寝所に戻るさ」

「添い寝って……ああいい、もう何も言わん。で? 用って何だよ」

 

 至極真面目にとんでもないことを言うエミヤオルタにそう訊ねれば、彼はランサーの方へ目を向けた。

 

「ランサー、アンタがセイバーと全力で戦うとして、あの凡骨マスターの全魔力で何秒保つ?」

 

 さらっと凡骨と宣う彼に、それを意にも介さぬ様子でランサーが淡々と答えた。

 

「十秒も保たん。宝具を考えないとしても、魔力放出だけでマスターは枯れる」

「燃費悪すぎだろ……」

 

 思わずキャスターは呟いた。それでは力をセーブせざるを得ない。

 一方何やら思案していたエミヤオルタが、自身の胸に手を当て――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「は……?」

 

 言葉を失う。振り向けば、ランサーが目を丸くしている。

 

「ふむ、ここに入れたはずなんだが……ああ、あった」

 

 ずるりと出てきた手には勿論血も付いていないし、胸に穴も開いていない。割とスプラッタな光景に呆気にとられていたキャスターは、そのときようやく彼の手に金色の何かが握られているのに気づいた。

 そこから感じられるのは膨大な魔力。まさか、それは。

 

「いざというときに使え。奴等の聖杯の十分の一も残っていないが、一戦分くらいは賄えるだろう」

 

 ぽい、と何の躊躇いもなく放り投げられたその金の盃を、ほぼ条件反射でランサーがキャッチした。

 

「えっちょ、待て待て待て待ってくれ、何でお前が聖杯持ってんだ!?」

「もう一つあるが」

「何だと……?」

 

 カルナが呆然と呟いた。それはそうだろう、本来ならば死に物狂いで掴み取るはずの目玉商品が、一介のサーヴァントの胸から二つも出てくるとかどういうことだ。

 

「貴様らすごい顔だな……まあいい。それはな、うちのマスターが昔保管していた内の一つだ。そっちは以前の持ち主に使い倒された挙句オレの強化と受肉に大半を使ってしまった上、補充もできていないからほとんど空だがね、燃費の悪いサーヴァント一人の魔力を数時間補うくらいは残っている。悪いがもう一つはオレが使わせてもらうぞ」

「……聖杯、盗まれた一つだけじゃなかったのかよ」

「誰が一つだけだと言った。多いときで二十近い聖杯を管理していたんだぞ」

 

 あ、もう駄目だ。あまりの爆弾発言にランサーと二人、沈黙しかできない。

 全く愉快な阿呆面だとエミヤオルタは嗤った。

 

「とはいえ、現存しているのはオレの二つと盗まれた一つだけだ」

「何でんなもん胸に入ってんだよ……」

「昔、とある理由で聖杯を用いた霊基強化を試したことがあってな。サーヴァントは魔力を溜め込み霊基を強化できるだろう。それを応用したのが聖杯の中身を用いた転臨システムだった。まあ、強化ごときで中身を使いきれるはずもなく、しかし願望機にはできないような中途半端な魔力プールが残ったんだが」

 

 滅茶苦茶な話である。確かに理論上は可能だろうが、そんなことに聖杯を使うなど聞いたことがない。

 絶句するキャスターの傍らで、ようやっとショックから脱せたらしいランサーが聖杯を握りしめて頭を下げた。

 

「感謝する、エミヤオルタ。このカルナ、貴殿の信に報い必ずやセイバーを討ち果たしてみせると真名に誓おう」

「……マスターには黙っていろよ。オレの独断だ」

 

 居心地悪そうにふいと踵を返して、エミヤオルタは家の中へ消えていった。

 何だかその反応がいけ好かない赤い弓兵を思い出させて、やっぱり同一人物なんだなと今さらキャスターは実感した。

 

 

 ああ、泣いている。少し遅かった。

 畳に敷かれた煎餅蒲団の上で、横たわる夕焼け色の女は静かに涙を流していた。

 時折閉じた瞼が戦慄いて、何かに怯えているようだった。

 隣の蒲団でぐっすりと眠る青年を起こさぬよう足音を消して、彼女の蒲団に滑り込む。

 エミヤ、と眠っているはずの彼女が呟いた。

 

「エミヤ、アーチャー、殺して。私を殺して」

 

 ぎゅうと布地を握りしめる白い手を、己が手で覆ってやる。

 

「大丈夫だ、マスター。オレが殺してやる。何も殺させず、何も滅ぼさせず、お前を終わらせてやる」

 

 囁く声が夜闇に溶ける。

 月だけが煌々と明るい、そんな夜だった。



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第二章

赤い弓兵好きすぎ問題。HFのアーチャーをすこれ。


 時計塔の一室で、とある男がソファに腰かけ、長い黒髪を苛立たし気にかきむしっていた。

 高級品と思しき重厚なオーク材のローテーブルに置かれた銀の灰皿には、フィルターまできっちり吸い尽くされた紙巻きの残骸が山と積まれている。室内の空気はどことなく靄がかかっているかのように見えたし、壁を埋める作り付けの書棚にも、毛足の長いカーペットにも、煙草の苦い香りが染みついてしまっていた。

 失礼します、と澄んだソプラノが煙に濁った空気を揺らす。

 静かに重い開き戸を開けた黒髪の女性は、まあ、と上品に海色の瞳を丸くした。

 

「吸いすぎではありませんこと? 窓も開けないで、息が詰まりそうですわ」

 

 穏やかな口調とは裏腹に、彼女は凛々しい足取りで部屋を突っ切り、一つだけある出窓を勢いよく押し開けた。真夜中の冷たい風が彼女の白い頬を撫で、煙草臭い澱んだ空気を外へ連れ去っていく。

 ソファの上で何やら書き物をしていた長髪の男は、その紙面から目を離し、眼鏡を外して眉間をぐりぐりと揉む。かと思えばテーブルに転がっていたシガレットケースに手を伸ばし――あっさりそれを闖入者に奪い取られた。

 

「吸いすぎではと申し上げましたが」

 

 空を切った手を引き戻し、男は背後でにっこり微笑む女に苦々しい視線を送る。

 

「……吸わせてくれ遠坂、正直やってられん」

 

 いいえ、と遠坂と呼ばれた女は頭を振る。彼女は男の受けたある報告の内容を知ってはいたが、落ち着いていた。

 

「藤丸くんは無事目標と接触できたのでしょう? なら大丈夫、あの子は私のお気に入りですもの」

 あの青年は弱い。だが弱くても脆くはない。だから。

 だといいがね。黒髪をかき上げ、ロード・エルメロイⅡ世は忌々しげに吐き出した。

 

第二章 本日の天気は晴れ時々ゴーレム、炎と落雷にご注意下さい

 

 東の空が白んで、太陽が昇りきった頃合いだった。

 どんがらがっしゃん、と騒々しい音が隠れ家の中から聞こえてきて、結界の構築を終えてから寝ずの番をしていたキャスターは思わず家の方を見遣った。

 やがてよたよたと覚束ない足取りで這い出てきた黒髪の青年は、おはよう、としゃがれた声で朝の挨拶をしてきた。下ろした髪があちこち跳ねているし、シャツもよれてみっともない有様である。

 

「おはようさん。どうした朝っぱらから」

 

 結界には一切反応がなく、サーヴァントが襲ってきたというわけではなさそうだ。暢気に問いかけたキャスターに、ひくつく頬を必死に抑えているらしい立香が苦しそうに愛想笑いを浮かべた。

 

「いやちょっと、うん、朝からとんでもないもの見ちゃったなーって、あはは」

 

 とんでもないものとは。片眉を上げたキャスターに、立香は震える声で、立香が、と呟いた。

 

「マスターが、どうした?」

 

 耳を寄せたところで、背後の引き戸が再び開いた。噂をすれば影、出てきたのは自分のマスターである。

 

「おはよ……ねむ」

 

 くああ、と大きな欠伸を一つした彼女は白い簡素なワンピース姿で、おそらくはそれが寝巻なのだろう。

 いかにも今起きましたといったゆるふわ加減のまま、マスターは目をこする。

 

「立香どうしたの~? なんかうるさいから起きちゃったよう」

「え!? い、いや何でも、そうだ虫! 虫がいてさ、でっかいのが! あでっ」

 

 苦し紛れと傍から見ても分かる言い訳をかます彼の頭を、ばしんといつの間にか来ていたエミヤオルタが叩いた。彼もまた黒の上下のラフな格好である。

 

「噓をつけ。お前、そういうの平気だっただろう」

「~~~っ、うっさいな、アンタが悪い! 目が覚めたら正面に強面がいて、しかも立香抱きしめて寝てんだぞ!? 二重の意味でびっくりしたわ! 心臓止まるかと思ったわ!」

「慣れろ」

「無茶言うな!!」

 

 立香と全く同じ感想を抱いたキャスターであった。そもそも添い寝に抱っこの必要はあるのだろうか?

 

「エミヤ、あさごはん何がいい?」

 

 ふわふわのままのマスターだけが一人、立香の叫びをまるで無視して尋ねていた。

 

 

 

 さて。

 

「ごちそうさまでした」

 

 この国の作法を知っているキャスターは、空になった朝食の膳を前に行儀よく手を合わせた。皆で囲んだ囲炉裏には鉄鍋がかかっていて、もうほとんど残っていない味噌汁が湯気という残滓だけを吐き出している。

 はい、お粗末様でした。そう言って上機嫌に破顔したマスターは手際よく片づけを始めた。昨日と似たようなシャツワンピースの裾を揺らしてまめまめしく動く姿は、先程の寝惚けた様からは想像できない程に洗練されている。

 

「簡単なものしか作れなかったけど、お口にはあったかしら」

 

 ふと彼女が尋ねた相手はキャスターの向かいで茶を啜るランサーである。最初、食事は必要ないと言っていた彼だったが、皆で食べるご飯が好きなのだと言われてしまっては席につかざるを得なかったようだ。で、結局残さず平らげていた。

 

「ああ、大変美味だった」

 

 単純だが心のこもった賛美に、マスターがちょっとはにかんで台所へと引っ込んだ。相当嬉しかったらしい。

 

「相変わらず美味しいよな、立香のご飯。俺は卵茹でるくらいしかできないから尊敬するよ……っと」

 

 こちらもランサーの隣で満足げに腹をさする立香が、ふと何かに気づいて席を立った。

 ぱたぱたと縁側を兼ねた廊下を小走りで去っていった彼は、ややあって一枚の紙を手に戻ってきた。

 

「立香、ロードからの連絡来たよ」

「あら本当」

 

 皿を洗っていた彼女が手を拭きつつ戻ってきて、彼と共に紙面を覗き込む。

 途端、二人の立香は全く同時に眉間に皺を寄せた。

 

「……マスター」

 

 キャスターの隣でとうに食事を終えていたエミヤオルタが促す。既にスーツに着替えた彼の声は押し殺したように低い。

 紙面から顔を上げ、マスターが口を開く。

 

「ちょっと、まずいことになった」

 

 

 

「あと二人協力者がいるって話、覚えてる?」

 

 マスターの問いかけにキャスターは是を返す。頷いて、彼女は深刻な表情で告げた。

 

「その人達の居場所がバレた可能性が高い。一刻も早く救出しないと、マスター殺しに遭うかもって」

「さらに悪いことに、二人ともまだサーヴァントを召喚できてないらしい。何でもここに来るまでにも何度か襲われてて、その対処のせいで魔力が足りてないんだそうだ。仮に召喚できたとしても、奪われたらかなりまずい」

 

 後を引き取った立香も半分青ざめている。

 マスター殺しだけならまだいい。それが令呪を奪われ、果てはサーヴァントを奪われることになれば最悪だ。今回の聖杯戦争は実質二つの派閥による団体戦であるため、こちらの駒が取られればそれだけ不利になる。この場の全員が張り詰めた空気を感じていた。

 

「あちらの動向は」

 

 質問したのはエミヤオルタである。が、マスターは唇を噛みしめ首を振った。

 

「駄目。魔術師だけならともかく、アサシンは全くもって掴めないって。今まで襲撃をしのげたのは奇跡だけど、きっと次は防ぎきれないってアーチャーのマスターが言っているのだって」

「さらに向こうにはセイバーがいて、バーサーカーも未だ真名すら分からない状態……まずいな」

 

 黒い弓兵の呟きが、事態の緊急性を如実に表していた。

 とにかく、とマスターが紙をルーンで燃やしてから宣言した。

 

「救出しましょう。こちらも二手に分かれて一人ずつ救けるのが最善だと思うのだけど、どう?」

 

 キャスターに異論は無かった。どちらかを救けてどちらかを見捨てる、という選択肢もあったが、マスターはそれを許すまい。優しい彼女に何かを切り捨てることができる訳もなかった。そしてキャスターは、主の方針に異を唱えるつもりは元より無い。

 ちらとエミヤオルタを窺うと、彼は何やら考え込んでいたが、やがて肩を竦め頷いた。どうせさっき自分が一瞬考えたように、片側に戦力を寄せた方が確実とかそんなことを思案していたに違いない。しかしそれを口に出さないあたり、彼もまたマスターの性質をよく分かっているようだった。

 

「じゃあ、やろうか。とりあえず俺とランサーでライダー陣営に向かうから、そっちはアーチャーの方に向かってくれ。触媒があることからして、ライダー側にセイバーが来る確率が高い」

 

 引き締まった顔つきで立香が言う。触媒、となると、ライダーの方はもう喚ぶ英霊が決まっているようである。おそらくそれもバレている可能性が高い。こう情報を掴まれていては、触媒の情報ですら隠しきれているとは限らないのだ。

 こうして、ランサー主従がライダー陣営、キャスター主従及びエミヤオルタがアーチャー陣営の救出に向かうこととなった。

 

 

 

 この谷は実はY字型になっていて、途中で二本の川が合流している形なのであった。隠れ家を出たキャスターはすぐにそれを知ることとなった。山沿いに移動を続けていたら突然その山が途切れて、川の合流地点に辿り着いたからだ。

 そこから西へ暫く狭い平地を突っ切り、もう一本の川を横切り――遮蔽物の無い場所のため最大限の警戒を行いながら――辿り着いたのは小さな小さな木造の小学校であった。

 

「……ここまで、何の妨害も無かったね」

 

 校門の前で、ひそりとマスターが囁く。既にスイッチが入っているようで、その瞳は強く戦場になるかもしれない校舎を睨んでいた。

 黒い弓兵が、投影した銃剣を携え頷く。

 

「まだ来ていないか、それとも、もう終わったあとか……前者であってほしいがね」

 

 校舎のぐるりは結界に覆われ、中の様子を窺い知ることができない。不気味な程静かな木造の建物を望みながら、キャスターはその結界に手をかざし、そうしてエミヤオルタの言葉が完全に裏切られたことを知った。

 

「……マスター。この結界、破れてるぜ。こことは反対側に一つでかい穴が開いてる」

「っ、じゃあ」

「ああ、急ぐぞ」

 

 杖を振りかざし、尖った先端で乱暴に結界をぶち破る。既に穴が開いて綻び始めていた結界が完全に消滅したと同時、校内から凄まじい魔力が迸った。

 召喚式だ。嫌な予感が悉く当たる。

 全員無言で駆け出した。途中からエミヤオルタがマスターを抱え、移動速度をサーヴァントのそれに合わせる。

 狭い校庭を囲む塀に沿って校舎へ向かう。

 半ばまで来たとき、ごぼりと校庭の赤土が盛り上がった。

 隆起した土は固まって形を成し、やがて幾多のゴーレムへと変貌を遂げた。その身の丈、およそ三メートル。中心に赤い鉱石が妖しく光る。

 

「排除!!」

 

 マスターの号令を受け取り、キャスターが先行する。

 移動速度を落とさぬまま、ルーンを組んで火球を放つ。腕を振り上げた正面の二体が火に包まれ爆散した。その破片と火の粉の中を駆け抜ける。

 左側から迫る土塊の人形の核が、銃声と共に砕けた。土に還るそれに見向きもせず、キャスターは右から襲い来るゴーレムを焔を纏った杖で薙ぎ倒す。

 際限なく増え続けるゴーレムに弓兵が舌打ちしたが、土間まで到達するとぴたりと彼らは追撃を止めた。そもそも彼らの巨体では建物内への侵入ができないし、下手に壁を壊せば建物自体が倒壊する恐れもある。それを見越して敵はゴーレムを止めたのだ。

 つまり、ここからは別の手で来る。

 薄い窓ガラスから射し込む陽光が、その別の手を浮かび上がらせた。

 

「……用意周到すぎんだろうがよ」

 

 思わずキャスターは呟く。

 待ち構えるは骨の群。かたかたと不気味に蠢く異形の骸骨。もう数えきれない程のそれらが狭い廊下を埋め尽くしていた。

 竜牙兵、とマスターがその名を呼んだ、同時に骸骨どもが一斉に襲いかかってくる。

 

「エミヤ、キャスターと前後交代」

「……忙しいな」

 

 ぽい、と雑に下ろされたマスターをキャスターは慌ててキャッチした。それを尻目にエミヤオルタが進み出て、空いた手にもう一つ銃剣を投影する。キャスターの手から離れたマスターがその背後で指を拳銃のように構えた。

 この狭い室内で炎の魔術を行使するリスクはキャスターにも分かる。分かるが、この数をほぼ一人で殲滅するつもりか。

 

「貴様はあまり手を出すなよ、マスターの防衛に徹しておけ。こんなところで火事を起こされては堪らん」

 

 よく燃えそうだからな、と男は嘯く。

 そして、銃口が火を噴いた。

 

 

 

 その男はまるで機械のようであった。

 的確に、最も近く最も脅威となる敵から素早く弾丸を叩き込んで砕いていく。歪な頭部を蹴りで吹っ飛ばしたかと思えば、すぐ隣の骸骨の背骨を撃ち砕く。裏拳の要領で薙いだ反対側の腕の銃剣が、いつの間にか迫っていた骸骨を両断した。迷いのない動きは全て無駄がなく、効率を重視した最適解であった。

 それでもまだ蠢く骨の群。そこに、銃弾と共に黒い魔術が飛ぶ。

 

「ガンド!!」

 

 マスターの指から放たれたそれが、黒い弓兵の死角にいた竜牙兵の動きを止める。彼の対応が間に合いそうにない敵だけを見定める眼力にキャスターは舌を巻いた。

 そして全員歩みは止めない。最低限の敵のみを倒してひたすら前へ。

 追い抜かれて踵を返し向かってくる骸骨は、後衛に下がった自分の担当だ。

 

「おら、よっと!!」

 

 火炎弾は撃てない。ならばと先程と同様に焔を帯びた杖を槍のように振り回して竜牙兵を薙ぎ倒していく。なんだ、意外とこのクラスでも肉弾戦はできるじゃねえかとキャスターは口角を吊り上げた。

しかし当然、魔術師(キャスター)らしい戦い方もできる訳で。

 

「――ハッ、下手くそめ。基点くらいちゃんと隠しとけや!!」

 

 ごん、と一見何も無いように見える壁を殴る。

 途端に竜牙兵の何割かが崩れ落ちた。驚いたようにこちらを見るマスターに獰猛に笑いかけて、キャスターはまた新たにこの召喚式の基点を探る。

 まだ一つ。この校内に張り巡らされたトラップである召喚式の基点は多いが、少なくともあと三つはこの領域に隠れている。そして隠し方が杜撰だ。適当に過ぎる。ゴーレムは丁寧にできていたがこちらの竜牙兵は手抜きであった。ゴーレムを過信していたのか、この兵士を造るのが専門外なのか、知ったことではないが好都合だ。

 

「もう少しキャスターらしく壊せないのかね」

「うっせ、探すとこまではキャスターっぽかっただろ。殴る方が早いんだよ」

「な、何にせよちょっと楽になったよ、ありがとうキャスター」

 

 ため息混じりに揶揄するエミヤオルタにはまだ余裕があるし、マスターも息を切らしているが元気なものだ。これなら切り抜けられる。

 まだ大量に蠢く骨どもに、三人はそれぞれの得物を構えた。

 

 

 

「この辺りだよね、キャスター分かる!?」

「この下だ、ぶち抜くぞ!!」

「掴まれ!!」

 

 木の床とその下のコンクリートに魔術一発で大穴が開き、そこへ飛び込む。竜牙兵は追ってこない。

 凄まじい破壊音がして、キャスターと、マスターを抱えたエミヤオルタは地下室に落ちた。

 土埃が視界を満たす。それを銃剣で斬り払った弓兵が、舌打ちした。マスターの息を呑む音が聞こえた。

 

「遅かった。見ろ、腕が無い」

 

 叩きっぱなしのコンクリートにうつ伏せで横たわる一人の男性。周囲は真っ赤に汚れていて、床に描かれた白い魔法陣の一部を潰してしまっていた。

 ざわり、殺気が肌を撫でる。

 ぱちぱちぱちぱち、と。いっそ場違いに思えるような拍手が鳴った。

 

「素晴らしい、素晴らしいわ。よくぞその少人数で我が術式を切り抜けたものです。褒めてあげましょう、『ビースト』。貴女、なかなか見所があるわ」

 

 女が一人、パイプ椅子に足を組んで腰掛けていた。

 愉悦と侮蔑の滲む笑みを秀麗な顔に浮かべた、長いブロンドの髪の妙齢の女である。膝下まである長袖のタイトワンピースを纏い、豊満な胸の下で腕を抱えていた。左手には、奪い取ったと思しき令呪が赤く浮かんでいる。

 蛇のようだ、と感想を抱く。

 この女、絶対面倒な性格してやがる、とも。

 そしてその背後。実体化はしていないが、確かにそこに『アーチャー』がいた。

 最悪だ。結局こうなるんじゃねえか。キャスターは歯噛みする。

 

「さてと、アーチャー? 外野気取ってないでさっさと出てきなさい。私に手間を取らせないで」

 

 ゆらり、彼女の背後にサーヴァントが現界する。

 ――ああ、やっぱり会ってしまった。あの赤い弓兵に!

 腐れ縁はここでも健在か、と内心うんざりしながら、キャスターはその赤い外套の男を睨みつけた。

 彼は静かに微笑んで――それは彼にしては珍しく、皮肉も嫌味も孕んでいない素直な微笑みであった――こう言った。

 

「久しいな、()()()()

 その瞬間、おそらく驚愕したのはキャスターだけではないだろう。

 今アーチャーのマスターである女も、またその長い睫毛に縁取られた瞳を皿のようにして彼に振り向いたのだから。

 

「……うん、久しぶりだね、アーチャー」

 

 己の背後で、夕焼け色の女が応じる。

 

「随分髪が伸びたな。背も少し伸びたか……ああ、何年経っているのかね?」

「十年だよ、アーチャー。あれからもう、十年経った」

 

 そうか、と赤い弓兵が言葉を落とした。

 そのとき、ようやく衝撃から我に返ったらしいアーチャーのマスターが声を荒げた。

 

「何よ貴女、アーチャーの元マスターってわけ!? あは、皮肉なものね、今は敵同士だなんて!」

 

 最後に嘲笑った女に、しかし会話を行なっていた二人は見向きもしない。

 

「さてマスター、残念なことに私には令呪で規制がかかっていてな。この現在のマスターに『危害を加えることができない』。よって、()()()()()()()()()()()()()()()()()、現在の私は君のためのマスター殺しもできないという訳だ」

「っ、黙りなさいアーチャー! これ以上情報をバラすなら――」

「令呪を以てお喋りな口を縫いつける、かね? 好きにするといいが、そんなことに使ってしまっては令呪が勿体なかろう」

 

 何だいつもの弓兵か。聞いているだけで分かってしまってますますうんざりしたキャスターだが、ふと違和感を感じて思考回路を動かした。何か重大な点を見落としている気がする。

 『マスターに危害を加える』ことができなくても、彼には投影魔術がある。あの魔女の宝具がある。ならば裏切るのも容易いだろうに、何故今の今まであの女の言いなりになって配下に甘んじている? 何故、キャスター達が来るまで――違う。

 この男は、自分達が来るのを待っていたのだ。

 ではそれは何故か。簡単だ、自分達が辿り着く前に一人はぐれサーヴァントと化すことが、弓兵にとって不都合だからに他ならない。

 魔力の問題ではない。召喚したての、しかも単独行動スキル持ちがそんなことを気にする必要はこれっぽっちも無い。

 ならばそれは――思い至った結論に、キャスターは全身の血が騒ぐのを感じて咄嗟にマスターを庇って杖を構えた。

 それと、全く同時。

 天井から影が降ってきた。

 

「……っ!」

「ハッ、そういう、ことかよ……!」

 

 落ちてきた刃を杖が受けて耳障りな音を立てた。眼前で、小柄な赤毛の少年が片側だけ見える緋色の目に僅かな驚愕の色を宿す。

 即座、振り払った杖から素早く距離を取ったその少年は、醜く歯噛みする女の傍らに控えた。灰色の室内に揺れる紅い襟巻が、いやに目につく。

 

「……よく、気づきましたね」

 

 少年がやや感心したように言った。その手には黒光りする短い刃物――苦無と呼ばれる東洋の武器である。

 そりゃあな、とキャスターは杖を肩に凭せ掛け苦々しく吐き捨てた。

 

「そこのよく裏切る赤い馬鹿が今までお人形さんでいたんだ、ちっとは怪しむさ」

「聞き捨てならんな貴様。馬鹿とは何だ馬鹿とは」

「よく裏切るのは否定しないのかよ」

 

 事実だからな、とあっさり認める赤い弓兵。

 そういうところが大変カンに触るのだが、無視してキャスターは臨戦体勢をとった。

 ――相手がただの魔術師だけなら、アーチャーだって遠慮なく契約破棄していたはずだ。さっきこの弓兵は『藤丸立香を守るために現界した』と言った。理由はまだ判然としないがおそらくエミヤオルタと同様守護者としてなのだろう。ならば望まぬ契約を続ける意味がない。

 それでも待っていたのは、脅威があったから。一人で戦うにはリスクが大きいから。

 つまり。少なくとも一人は、向こうのサーヴァントが控えているからだ。

 

「……行きなさいアサシン。貴方の役目は終わりです」

 

 襲撃の失敗に肩を震わせ怒る女の指令通りに、アサシンのサーヴァントが霊体化して姿を消した。途端に気配も掴めなくなる。高ランクの気配遮断スキルを持っているようだ。

 

「……キャスター」

 

 不意に、マスターに呼ばれた。

 目だけで返事をすると、何かを決意したような強い眼差しが己を射た。

 

「アサシンを追って、排除を。ここは私とエミヤで何とかする。

――あなたなら、気配が無くても追えるでしょう?」

「……っ!」

 

 ぞくり、背中が興奮に粟立つのを感じた。

 不敵に笑う彼女に、底知れぬ高揚を覚えた。

 キャスターならできると彼女は言いきった。それは主人が己に向ける、全幅の信頼。

 これで高揚しない従者がどこにいる!

 

「ああ、任せとけ」

 

 彼女と同じ、不敵な笑みを浮かべる。

 すぐさま霊体化し、アサシンを追った。

 

 

「――あはっ、あははははははははははははははは!」

 

 哄笑が、冷えたコンクリートに反響して喧しい。

 

「バッカじゃないの、サーヴァントを自分から離して! これで貴女の守りはそこの黒いのだけ! ふっふ、ふふふふ、さあアーチャー、殺しなさい、殺して死体を回収するの! ビーストは私達の物よ!」

 

 両手を広げ、高らかに命令し、宣言する女。

 しかし、彼女をつまらなそうに眺めていたアーチャーは、

 

「断る」

 

 あっさり、その命令を拒絶した。

 

「……え?」

 

 ぽかん、と。彼女の顔にあった傲慢と歓喜が根刮ぎ抜け落ちる。

 

「断ると言った。生憎、私は今回彼女を守るために現界している。どこぞの魔術師が令呪を奪わなければもっとスムーズに事が運んだのだがね。よって彼女を殺すなど以ての外だ。というか先程の遣り取りで分からなかったのかね? 君は存外頭が回らないようだな」

 

 赤い弓兵は悪びれもせずすらすらと言葉を吐き出す。立香は嬉しさ半分、同情半分の複雑な気持ちでその様子を眺めていた。アーチャーとはこういう男である。特にプライドの高い連中は軒並み彼の言動に神経を逆撫でされるのだが……些かやり過ぎじゃないかと思えてくる有様であった。

 あまりの物言いに暫し我を忘れていたらしい女であったが、次第に憤怒に顔を歪ませていく。

 怒髪天とはこのことである。ブロンドの髪を振り乱し、彼女は金切り声で命令を繰り返した。

 

「黙れ黙れ黙れ! 殺せと言っているのよ、従いなさいアーチャー!!」

 

 きん、とその左手に宿った令呪が赤く光って、二画目が消費された。

 が。

 

「……さて。マスター、そちらへ行っても?」

「はえ? あ、うん、いいよ」

 

 何食わぬ顔でのんびり歩き、殺気ゼロで立香の前に立つ錬鉄の英雄。

 そうして彼はくるりと振り返り、誠にいい笑顔(とても愉悦と軽蔑と嘲弄を混ぜた笑顔)で、右手に歪な短剣を取り出した。

 あ、と立香はそれの正体に気づき間抜けな声を漏らす。

 

「これはたいして殺傷能力の無い短剣だがね、ありとあらゆる契約を無効化する代物だ。名を、破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)。とある裏切りの魔女の宝具……の、コピーだよ」

 

 黒い弓兵が呆れている。理解の追いついていないらしいブロンドの女に、赤い弓兵はさらっと言ってのけた。

 

「先程君が下品に高笑いしている最中に、自分に使わせてもらった。確かに君に危害を加えてはならなかったが、自傷行為は認められていたようなのでね」

 

 つまり現在この私は、晴れて主を捨てたはぐれサーヴァントである、と。

 やっぱり誠にいい笑顔で宣言したアーチャーであった。

 

 

 山中に炎が走る。

 

「――!」

 

 一際大きな火球を自らの眼前に進路を妨げるように撃ち込まれ、足を止めたアサシンは実体化して振り向いた。

 ひゅん、と杖を回し、地面に突き立てたドルイドは獰猛に笑う。

 

「気配遮断ってなたいしたもんだがよ、お前さん色々見落としてるぜ? 何も探す材料は気配だけじゃないってこった」

 

 その人差し指が指す先は、アサシンの左腕。

 そこに()()()()()()は先程の接触時にキャスターが付けた魔術的な発信機のようなものである。マスターはおそらくそれを承知でアサシンの追撃を任せたのだ。

 加えてアサシンは与り知らぬことであったが。

 キャスターが操る原初のルーン、十八字のその中に、失せ物探しにもってこいな一字がある。

 

「さらに、ベルカナ。悪いが二重三重に策を張らせてもらったぜ」

 

 彼の足元に転がった宝石は、出立直前にマスターから預かったルーンストーンのうち一つ。丁寧に刻まれた探索のルーン。

 

「…………」

 

 少年は確実に気づいていた。今己を囲む異様な空気、それは間違いなく目の前の魔術師によって構築された即席の結界である、と。

 したがって彼は撤退を諦め――目の前の敵を排除することに決めたようだ。

 その姿が、消える。

 

「っ!」

 

 凄まじい敏捷性を以て背後に回ったアサシンの苦無を、キャスターは咄嗟に振り向いて杖で受けた。数合打ち合ったあとキャスターは大きく距離を取ってルーンを刻む。虚空に浮かび上がる青いルーンはアンサズの文字。火炎弾が大量に放たれるが、その悉くをアサシンは躱してみせた。伸びた距離を縮めんと彼は走る。

 このアサシン、力はそれ程無いがひたすらに速い。キャスターは舌打ちを一つしてさらに後ろへ下がった。

 クー・フーリンは最速の英霊の一人である。ランサークラスの現界であれば遅れをとることはなかろうが、残念なことにキャスタークラスの場合敏捷値は大きく下がる。その点に関してはアサシンに軍配が上がった。

 だが彼は今、『ドルイド』である。

 ケルトの魔術師。森の賢者。であれば、武器は何もルーンだけではない。

 

「アンサズ!!」

 

 再び放たれる火球を容易く躱し、アサシンが地を駆ける。

 凄まじい勢いでその手の鎖鎌がキャスターの首を搔き切る、一歩前で。

 ぎちりと小柄な体躯を伸びてきた何かが搦め捕った。

 

「戦う場所が悪かったな。オレは魔術に関しては元々ただのルーン使いだが、ケルトの術者ってのは多くがドルイドでね。その属性がくっついたオレも当然、こういうことができる訳だ」

 

 一ミリたりとも動けずにいるアサシンを巻き取っていたのは、地から伸びる木の根であった。

 森はドルイドの領域なのだと、それさえ知っていれば逃走経路に山中など選ばなかっただろう。アサシンの敗因はただ一つ、地の利である。

 さて、とキャスターは少年を覆う根にルーンを刻もうとして――気づいた。

 いつの間にかアサシンの手には丸いものが握られていた。そこから伸びる導火線に火がついている。

 本能のままに全力でキャスターは退がった。直後、花火のような爆発音が響き渡り、アサシンが煙に包まれる。

 自爆かと思ったが、違う。目の前の煙の中にはまだあれがいる。

 

「即ち此処は阿鼻叫喚、大炎熱地獄……!!」

 

 ざわざわと森が騒いでいる。何かとても良くないものがくる。

 キャスターが身構えたその瞬間、真名解放の一声が森を震わせた。

 

「――『不滅の混沌旅団(イモータル・カオス・ブリゲイド)』!!」

 

 轟、と炎が渦巻く。キャスターの生み出すルーンの炎ではない。不穏な揺らめきを纏った大量の焔がキャスターの周囲を取り囲む。

 煙の晴れた先には折れた木の根ばかりが転がっていて、アサシンは忽然と消えていた。

 

「……んだよ、これ」

 

 気配を感じる。魔力を感じる。一つ、二つ、三つ四つ五六七、まだ数えきれない程――!

 

「我が名は風魔。風魔小太郎。異国の術師よ、我ら風魔忍群、全力を以てお相手しましょう」

 

 その総数、二百。

 キャスターを取り囲む焔の中でゆらりと躍る、亡霊に近い忍びの集団。

 その中でただ一人、風魔小太郎が紅い襟巻を靡かせ叫んだ。

 

「貴様は此処より退くこと能わず。辞世の句でも詠んでおけ……!!」

 

 

 

「くっそが!」

 

 悪態ばかりが口を突いて出る。それも仕方のないことだった。キャスターから数十メートル離れた円周上に揺れる忍びの亡霊は、四方八方から焔を纏って襲いかかってくる。捌くのが精一杯で本体の風魔小太郎に集中できない。ジリ貧という言葉が頭に浮かぶ。

 悪いマスター。心の中で、キャスターはこっそり謝った。

 あの忍びの言う通りにここで果てるからではない。彼女の少ない魔力を、これからかなり食い潰すことになるからだ。ゲイ・ボルクであればもっと省エネだったのに、と歯噛みして、また槍が欲しくなる。

 だが無いものは無いのだ。代わりに与えられたのは、ドルイド達を象徴する宝具。

 杖を回し、地に突き刺すが如く垂直に打ち立て、魔力を魔術回路に大量に回す。

 

「……我が魔術は炎の檻。茨の如き緑の巨人」

 

 キャスターの纏う雰囲気が一変したことに気づいたのか、一斉に風魔が襲い来る。それらを全て、足元に張った風の陣を起動して吹き飛ばした。回避行動の最中に術式を組むのは骨が折れたが、おかげで時間稼ぎは十分だ。

 

「因果応報、人事の厄を浄める社――!」

 

 杖の先、落ち葉に覆われた地から木の枝が伸びる。絡み合い、纏まり、離れて、形を作る。

 ドルイド達の呪術道具。その身の内に生贄を籠めて燃やす、木々の巨人!

 

「倒壊するは『灼き尽くす炎の檻(ウィッカーマン)』! オラ、善悪問わず土に還りなァ!!」

 

 足元で燃え盛る炎を踏み潰し、巨大な木の人形が立ち上がった。

 木立のさらに上、巨人の肩に乗るキャスターは遥か地上を睥睨する。

 驚愕に緋色の瞳を見開いた忍びが、すぐに配下を差し向け果敢に巨人に挑んだ。しかし彼らの一撃は、宝具を構成する木を一本ずつ砕こうとするものの巨人そのものを崩すには至らない。

 お返しだとばかりに巨人の歪な手が伸びる。足が持ち上がり亡霊を踏み潰さんと迫る。

 そこを逃れた少年は、再び瞠目した。

 

「な――」

 

 逃走した先で背にした木の枝が急激に伸び、幹に彼を縛りつけた。亡霊どもが助けようと寄りつくが間に合わない。

 その木ごと巨人の手が掴んで、空いた腹に投げ入れる。ここに、生贄は決まった。

 ぐらりと風魔を籠めた巨体が力を失い、炎の中へ倒れ込んだ。

 轟音と衝撃が地を震わせ、地震でも起きたかのようなその様に森中の鳥が驚いて飛び立つ。

 ――亡霊が揺らぎ搔き消えた。

 炎の中、地に足をつけたキャスターは、既に山火事になりつつある巨人の残骸に目を向ける。既に魔力の反応は無い。青い長髪が炎熱の作る気流に煽られた。

 

「……言ったろ、戦う場所が悪いってよ」

 

 返事は、無かった。

 

 

 キャスターとアサシンが交戦を開始したのと、ほぼ同時刻。

 

「…………」

 

 俯き一言も発さなくなってしまったブロンドの女の様子を、立香はじっと窺っていた。

 こういう手合いはだいたいの場合、制御不能になり手がつけられなくなるのだが、どうも不気味なまでに静かすぎる。警告を発し続ける頭が疲れと緊張で痛んできた。それでも、その場を動けない。いっそ異様な空気が狭い地下室を満たしている。

 

「……マスター、悪い報せがある」

 

 突然、アーチャーが口火を切った。

 

「召喚されたのは私だけではない。先程キャスターが言っていたが、唯々諾々と従っていたのは、敵わないと分かったからだ。あれは本当に、今回最強かもしれん」

「……アサシン以外に、サーヴァントがいるの?」

 

 前を見据えたままアーチャーが首肯する。

 だとすれば、残るサーヴァントはあと二騎。ライダーか、バーサーカー。

 

「……殺せ」

 

 何一つ感情のこもっていない声であった。

 殺せ。殺せ。殺せ。無感動に、そして無慈悲に。女は繰り返し命じる。

 かと思えば、突如声を荒げて絶叫した。

 

「殺しなさい、ツヴェルフ。召喚は終わったのでしょう!」

 

 ――かつん、と靴音が聞こえた。

 彼女の背後にある錆びた鉄扉が、軋みながら開く。

 そのドアノブを持っていた者を目にした瞬間、立香の全細胞が一斉に警鐘を鳴らした。

 あれは駄目だ。絶対無理だ。セイバー(ジークフリート)とは全く種類の違う威圧感、指一本動かせなくなる恐怖、どれもこれも規格外に過ぎる。

 おかしい。有り得ない。あれは確かに強かったが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……あらあら、まあまあ」

 

 艶やかな黒髪を靡かせ、鎧武者が優美に歩く。彼女が歩を進めるたびに、薄紫色の礼装に包まれた豊満な胸が揺れた。

 隣に並んだ彼女に、ブロンドの女は高慢に刺々しくまくし立て、

 

「バーサーカー、ツヴェルフはどうしたの? 私が命じているのだから顔を見せろと伝えなさ――」

 

 最後まで、言えなかった。

 立香は戦慄した。抜刀の動作すら見えなかった。気がつけば、女の左胸を妖しく輝く日本刀が貫いていた。

 こぷり、女が血を吐いて、茫然と己の胸から生える刃に視線を落とした。

 

「な、に……? なに、これ……?」

 

 血と共に零れた言葉に、だって、と穏やかに微笑んで頬に手を当てた武者が言う。

 

「その手にあるのは令呪でしょう? でしたら、あの子の敵ではありませんか」

 

 彼女はのんびりと一画だけ残った令呪を指差す。

 アーチャーに使いきっていれば、と思ってももうどうしようもない。ずるりと刀が抜き取られ、ブロンドの女は崩れ落ちた。

 

「……あら、そちらの方」

 

 ひゅう、と歪に息を吸う。

 藍色の双眸が己の右手に向いている。

 にげなければ。

 にげなければいけないのに。

 からだが、うごかない。

 

「そちらの手、令呪がございますね?」

 

 紫電が散った。

 雷を纏った刀の鋒がアーチャーのクロスした陰陽剣と激突したのと、エミヤオルタが立香を抱えて退いたのがほぼ同時であった。雷電の空気を割る鋭い音の中に、剣の罅割れる不吉な音が混ざる。

 

「「マスター!!」」

 

 二人の弓兵の絶叫で、硬直が解けた。

 素早くオルタにしがみつけば、それを確認したと同時にアーチャーが渾身の力で壊れかけの双剣を振り切り、刀を弾く。直後に剣は砕け散って魔力へ還った。

 追撃が来る。二人の弓兵は同時に地を蹴った。天井の穴へと吸いこまれる三人の足元で、極太の紫電が迸るのを立香は唇を噛みしめて見下ろしていた。

 

「逃がしませんよ?」

 

 一階廊下に何とか着地した瞬間、にこやかな宣言と共に紫電が飛んだ。今度の雷は垂直に噴水の如く床の穴から噴出し、一階の天井をぶち抜いてまだ止まない。真名解放を伴わない、ただの魔力放出である。なのに並の宝具レベルのこの威力。まるで紙を引き裂くが如く、木造の校舎が破断されていく。

 律儀に廊下を辿って脱出している暇など無い。薄い窓ガラスを叩き割って校庭に出た三人は、しかしつい数十分前に生み出されていたゴーレムの群れと再び遭遇することとなった。無機質な視線が一斉にこちらに向く。

 そのとき、二人の弓兵に指示を出そうとした立香は、突然増加した魔力消費に瞠目した。

 

「――ぐ、う」

 

 急激な消耗にぐらりと目眩がする。力が吸い取られる感覚に覚えがあった。何度も何度も経験した感覚だ。

 同時にばきばきと生木を裂く騒々しい音、そして、西の森から巨人が身を擡げた。

 

「ウィッカーマン!? キャスターめ、マスターの負担を増やしおって!」

 

 アーチャーが憎々しげに叫ぶ間にも、ゴーレムが迫り来る。

 さらに背後から紫電がビームのように飛来する。

 

「前門のゴーレム、後門の雷……」

 

 思わず立香は呟いた。その頭上でエミヤオルタが鼻で笑う。

 

「虎と狼の方がまだマシだな。だが前門の方は切り抜けられる」

「そう、だね。二人とも、とにかくここから離脱します。キャスターには私が頼んだのだから、しっかりアサシンを仕留めてもらう。そのあと合流しよう」

「了解した」

「ああ。掴まっていろよマスター、少々荒っぽくなる」

 

 その言葉に立香が頷いたのを皮切りに、二人の移動速度が爆発的に上がった。

 倒す時間も勿体ないと言うように、彼らは攻撃をひたすらに躱し、進路上に立ち塞がるゴーレムだけを赤い弓兵が排除する。立香はただ黒い弓兵のジャケットに必死でしがみつき、足枷にならぬよう身を縮こめて耐えた。

 その間にも背後から魔力放出の波が来る。雷の形をとって地平すれすれを超速で這うそれがゴーレムを巻き添えにして襲いかかる。元より防御などできる訳もなく、その度に二人は回避行動をとった。

 直近の塀までたった十秒程度であったにも関わらず、まるで何十分も走っていたような錯覚に捕らわれる。ようやく到達した校庭を囲む塀を二人の弓兵が跳び越し、着地と同時に再び走り出す。

 ちょうどそこで、キャスターの宝具が倒壊していくのが立香の激しく揺れる視界の端に写った。ついで轟音と衝撃が地を揺らす。

 ここだ。立香は残り少ない魔力を必死に遣り繰りして念話を繋いだ。

 

「キャスター聞こえる!?」

『おうマスターか。今ちょうど終わったぜ』

 

 返ってくる平然とした思念に安堵しつつ、立香は叫んだ。

 

「セイバーじゃないけどやばいのが来た! 今エミヤとアーチャーと撤退してるけど、まだ追撃が――うあっ!」

 

 頭上を極太の紫電が駆け抜けていった。オゾンの匂いが鼻をつく。

 とにかく、と立香は指示を飛ばす。

 

「私の位置は分かるね? すぐ合流して、逃げるよ!」

『了解だ。さっきは悪かったな、マスター』

「……次はちゃんと言ってくれるとありがたいかな。私も結構ポンコツだからね」

 

 おう、と苦笑混じりの軽い返答で念話は切れた。

 さあ、あとは逃げるだけ――という立香の考えは。

 その瞬間、いとも容易く裏切られた。

 

「追いかけっこはお終いですか?」

 

 いつの間に、とか、どうやって、とか。そんな疑問を抱く余裕も無かった。

 眼前で嫋やかに微笑む鎧武者は、その表情とは逆に氷のように冷たい輝きを放つ刀をすらりと抜いた。

 詰みである。二人の弓兵では絶対に埋まらない戦力差を鑑みても、追いつかれないよう振り切ってしまうのが唯一の生存ルートであった。故にこれではどうやっても、生き延びることなど不可能だ。

 ――いいや。

 駄目だ。立香は湧き起こる諦観の念を轢き潰す。

 まだ死ねない。まだ死ぬ訳にはいかない。まだ務めを果たせていない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 だが、そのとき。不意に狂戦士がぴくりと身動いだ。

 

「……え?」

 

 心底意外だと言わんばかりの呟きがその口から漏れる。追撃は来ない。化物のような重圧が、ほんの少し和らいだ気がした。

 時間にしてほんの数秒、しかし永遠とも思える沈黙が場を支配する。

 ――やがて彼女は刀を収めると、戸惑いながらも口を開いた。

 

「本日は見逃せと、あの子が言いました。私と致しましてはここであなた方を潰してしまうのが一番良いと思うのですが……まあ、いいでしょう。去りなさい、二度とこの領域に足を運ばぬよう」

 

 ふっとその姿が搔き消える。重圧が消え、気配が去っていく。

 

「……助かった?」

「そのようだな」

 

 立香の声にアーチャーが同意し、そうして全員、糸の切れた人形のようにその場に頽れた。

 

「何だあれは。あんな化物が隠れていたのか」

 

 立香を抱えたまま、深い深いため息を吐いてオルタがぼやく。それに答える形でアーチャーが言った。

 

「私を召喚した女は一人ホムンクルスを飼っていてな、そいつに召喚をやらせたらしい。まあその結果があれだったんだが」

「な、何にせよその子が私達を見逃せって言ったんだよね。次会ったらお礼言わなきゃなあ……」

「能天気すぎないかね」

「礼儀は大事だよアーチャー。さ、見逃してもらえたんだから早く立ち去ろう。いつまでもここにいたらまた雷が落ちる」

 

 立香の一声で二人の弓兵は緩慢に立ち上がった。そのとき、見知った気配の接近を感じて立香は顔を上げる。

 

「っと、無事だな。逃げきったか」

 

 何食わぬ顔で現界したキャスターは、三人の疲労困憊した顔を見比べ首を捻った。

 

「そんなにおっかねえ奴だったのかよ」

「正直言って二度とお目にかかりたくない。知名度補正の真の恐ろしさを知ったよ」

 

 赤い弓兵が肩を竦める。それを聞いていた立香は、ああやっぱり知名度補正のせいかと黒い弓兵の腕を離れながら納得していた。

 それから全員足早に学校から離れ、元の隠れ家までの道すがら、山中でふとキャスターが尋ねてきた。

 

「知名度補正があるってことは、そのバーサーカーは日本の英霊ってことだよな。オレァあんま詳しくねえけど、真名は?」

 

 答えかけた立香の耳に、電子音が飛び込んできた。

 慌ててシャツワンピースの腰ポケットから取り出したスマートフォンは、その画面に『立香』と映している。

 戦闘中は電源を切っていた、そして先程起動させた文明の利器である。とはいえもう一人の立香とエミヤオルタの番号しか入っていない、実質無線連絡機みたいなものだが。

 通話ボタンを押して耳に当てると、聞き慣れた声がスピーカーから出た。

 

『もしもし立香? そっちはどうなった? なんかウィッカーマンが見えたけど』

「あらそっちからも見えたの……ごめんなさい、アーチャーはこちらにいるのだけど、マスターの方は駄目だった。キャスターがアサシンを倒してくれたけどね」

 

 そっか、と返ってくる声音は落ち着いている。

 

『悪い、俺の方も間に合わなかった。来たときにはもうマスターが殺されてて、令呪も奪われた。ライダーは確認できてないけど、触媒が無くなってたんだ』

「……召喚前に襲撃され、令呪と触媒を奪い取られた」

『おそらく。ライダーはあっちの戦力だと割りきった方がいい……ごめん立香、俺』

「仕方ないよ。そちらにセイバーは?」

『いなかった。俺とランサーが辿り着いたときにはもう、もぬけの殻だったんだ。もしかしたら夜の間に襲われてたかもしれない』

「了解。なら二人とも怪我は無いんだね」

『ああ。立香は?』

 

 言われて三人のサーヴァントを見る。全員、魔力の消費は激しかっただろうが外傷は少ない。これならば自分の治癒魔術で十分だろう。

 

「こっちも大丈夫、大きな損害は無いよ。でもちょっと、まずいことになった」

『……何があった?』

 

 深刻な問いかけに、少し間を置いてゆっくりと告げる。

 

「――バーサーカーに遭遇した。真名は、源頼光。ただでさえ強いのに知名度補正で化物と化した、母性に狂ったサーヴァントだよ」

 

 



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第三章

新宿わんわんの真名ネタバレ注意


 『それ』はずっと憶えていた。

 

「あは、はははははは! すごいぞ、カルデアの奴等の理論は間違ってなかった! これが複合英霊! 素晴らしい、素晴らしい! さあ殺せ、あの『ビースト』を殺して持ってこい!」

 

 忘れないことこそが、『それ』が復讐者たり得る証であった。

 いつかは忘れるものを、時とともに風化し薄らいでいくものを、その凄まじいまでの憎悪と憤怒にて留めおく。そうしていつからか、他の記憶もまた忘れぬまま抱いてきた。

 『それ』は忘れない。決して、絶対に、忘れることはない。

 だから、まずあの故郷の黄昏の色を探した。生きているときはそんな色など分からなかったけれど、この背の男と融合したときから、視界はとても鮮やかになった。

 いつの日か、時代は違えど再びあの荒野に降り立ったときの、赤く燃える夕焼けの色。やっと見せてあげられた、という言葉。

 『それ』はずっと憶えていた。色彩を、声を、匂いを、憶えていた。

 微かに匂いがした。あの黄昏がここにいる。

 ならば、行かねば。

 

「さあ、殺せライ――」

 

 うるさい。

 千切りとった喉笛から赤いものが噴水のように噴き出る。己の毛並みを濡らすのはいつだってこの色。

 ああ、それでも忘れるものか。

 たとえ赤く塗り潰されても忘れはしない。その程度で忘れるならば、あの荒れ果てた故郷で、あの退廃の摩天楼で、己の思いと憎悪はこの身と共にとうに朽ちていたはずなのだから。

 どこだ、■■■。どこにいる。

 我らが守るべきあの黄昏は、いったいどこに――

 

第三章 獣よ、蒼く迸れ

 

 源頼光。平安時代、頼光四天王と共に数々の魔を滅し京の都を守護した貴族。平安時代最強の『神秘殺し』であり、日本においては坂田金時、酒呑童子などとの繋がりもあってかなりの知名度を誇る。

 また牛頭天王の化身でもあり、高位の神性を有する。

 さらに。クラス適性はセイバー、ランサー、ライダー、バーサーカーが確認されているが、バーサーカーで召喚された場合。

 

「……なんていうか、『息子大好きで息子に危害加える者は皆殺す』な、イかれたママになっちゃうんだよ。母性愛に振り切れたメンヘラ英霊というか」

 

 やっとの思いで帰ってきた隠れ家の炉端で、頭を抱えるマスターの途方に暮れた説明をキャスターは若干引きつつ聞いていた。

 

「そっち方面で狂ってるバーサーカーには初めて会うな……」

「ちなみに狂化ランクはEX」

「バケモンじゃねえか」

 

 測定不能の狂化ってどんなだ。

 火かき棒で炭を無意味に転がしながら、マスターは立てた膝にこてんと頭を預ける。琥珀の虹彩に炎がゆらゆらと反射していた。

 

「幸いバーサーカーのマスターはあそこから動こうとしていない。まだ分からないけど、仮に向こうが行動を始めた場合は極力接触を避けることにする」

 

 妥当な線だろう。キャスターは頷く。

 バーサーカーのマスター――アーチャーの話ではホムンクルスだというが――は、どうやら第三勢力に位置づけられそうだ。こちらから手を出さない限りは襲いかかってはこないはず。一度見逃されたことからもそれが窺える。

 

「それが賢明だな。マスター、ココアを淹れたから飲むといい」

 

 気怠げに火かき棒を操るマスターの顔に、ふっと影がかかった。

 影の持主であるアーチャーが、片手にマグカップを携えていた。マスターが礼を述べてカップを受け取ると、彼は聖骸布を後ろに捌いてマスターの隣に腰を下ろす。

 

「……それを飲んだらもう寝たまえ」

 

 優しく、しかし有無を言わせぬ諭し方であった。

 ぼんやりと火をその目に映し続けるマスターは、表情の抜け落ちた顔でココアを口に含む。度重なる戦闘、急激な魔力消費、新たな脅威、色々なものがまとめてのしかかってきて、疲労は並ではないだろう。アーチャーが就寝を促すのも無理なかった。

 

「エミヤは?」

「あれなら外で見張りをしている。君が寝るときになったら呼ぶから、心配しなくていい」

 

 エミヤ、という名は、彼女にとってはあの黒い弓兵のものであった。赤い方をアーチャーと呼び、そして二人もそれを心得ている。

 そっか、と彼女はやはり感情のこもっていない反応をするばかりで、どうにも危うい。存在自体が希薄になっているような錯覚に、キャスターは少し苛立って、それから内心首を傾げた。

 はて、己は何故こうも苛立っているのか?

 ぱちりと炭が爆ぜる。それ以外は音の無い、痛い程静かな夜だった。

 

 

 

「……で、お前どうすんだよ」

 

 ココアを飲みきったマスターが黒い弓兵に大人しく連行されてから暫し。今宵の見張り役に収まっていた赤い弓兵に、実体化したキャスターは徐に尋ねた。

 今日も月が綺麗だった。雲がゆるりと棚引いて、月影を覆い隠してはまた露わにする。

 

「どうするとは」

 

 隣にいきなり現界したキャスターに特別驚くこともなく、アーチャーは尋ね返す。珍しく、この男の常である眉間の皺がとれていた。些か幼くも見える彼に、だから、とキャスターは言い募る。

 

「分かってんだろ。お前の魔力供給源はどうすんだ」

 

 う、とアーチャーが言葉に詰まる。考えないようにしていたに違いない。

 はぐれサーヴァントになったのはいいが、早く次のマスターもとい魔力供給源を見つけないことには消滅を待つばかりになってしまう。単独行動スキルで誤魔化しが効くのも数日だから、やはり誰かマスターを見つけねばなるまい。

 

「マスターは既に君と契約している。私の魔力を賄う余裕など無いだろうし」

「ランサーの方のマスターも同上。じゃ、あと一人しかいねえわな」

「……やはり、あれしかないか」

 

 つまり、受肉しており一応は魔術師である同位体との契約である。

 だから考えないようにしていたのだろう。自分同士でパスを繋ぐなど、ましてや自分が養われる側など、この男が快諾するはずがない。苦虫を噛み潰したような顔でアーチャーは唸った。

 

「ま、繋ぐこと自体は難しくねえだろ。同一存在同士だし」

「マスターは何と?」

「何も。ただ、これしかないのはあいつも知ってると思うがな」

 

 これでもキャスタークラスだ、手伝ってやろうかと持ちかければ、結構だとにべもない。

 月が隠れて、他に明かりのない草地が暗く闇に染まる。

 

「……君は」

 

 どこまで聞いているのかね、と。

 腕を組み、真っ直ぐ前を見据えたままの弓兵が問うた。

 さわさわと風が木の葉を揺らし、赤い聖骸布を煽る。

 

「……そうさな、人類悪だの、聖杯が燃料不足だの、色々おかしなことばかり聞いたが」

「そうか」

 

 キャスターはちらりと褐色の顔を窺う。良くないな、と思った。皮肉と嫌味で塗り固めた仮面が、今度は無表情に取って代わっている。それを引っぺがしてしまわないと、ことの本質すら覆い隠されその胸中に仕舞われてしまう。

 

「なあ、一つ聞いていいか」

 

 キャスターもまた、相手を見ぬまま尋ねる。

 返事は無い。

 

「お前、今日言ったよな。あいつを守るための現界だって」

 

 ざわり、一際強く夜風が騒いだ。

 ようやく顔を出した月が銀の光を投げかける。隣の男の白い髪がそれを吸い込んで、新雪のように輝いた。

 

「……約束をしたんだ」

 

 落ちる言葉は幽けき、しかし確かに芯のあるものだった。

 

「いつか彼女が全てを終わらせるときに、きっと抗うと約束した。アラヤもガイアも関係ない、私と彼女の間だけの約定を」

 

 だから。

 初めて男が向き直り、キャスターの瞳をその鋼色で真っ直ぐに射抜いた。

 

「私は出来損ないの救い手だが、今回ばかりは救うと誓った。邪魔をするなよ、クー・フーリン。貴様が彼女を苦しめることがあれば、私は躊躇なく貴様を殺す」

 

 いっそ苛烈とも言える眼差しに、キャスターは少しだけ驚いて、それから破顔しくつくつと喉奥で笑った。

 

「何がおかしい」

「悪い悪い、お前さんがそんなに執心すんのは珍しいなと思ってよ。

 

……いいぜ、好きにしろよ。オレもあいつのことは気に入ってんだ、苦しめはしない」

 アーチャーは何故かひどく痛みを覚えたかのような顔を伏せて、どの口が、と呟いた。

 キャスターは片眉を上げ首を傾げる。はて、己は彼女を苦しませたことは――魔力的な意味以外では――無かったはずだが。それとも、彼女が時折見せる寂しそうな表情と関係しているのだろうか。

 

「……一つ忠告だ、キャスター。()()()()()()()

「は? んだそれどういう――っておい」

 

 ふっと燐光を残して霊体化し立ち去った赤い弓兵の残した言葉の意味は、結局一晩考えても分からなかった。

 

 

『――リツカ』

 

 ふと、目が覚めた。

 横臥したまま目だけを外へ向ける。薄いガラス戸から差し込む光は柔らかく、ちらと見えた空は白雲の浮かぶ淡い青空だ。

 視線を戻す。黒い布に包まれた胸板がある。背中に回された腕は温かかった。いつもの熱に己は包まれている。

 珍しく、彼より先に起きてしまったらしい。もそもそと起き上がり、煎餅蒲団にぺたんと座したまま伸びをする。

 

「……起きたのか」

「エミヤ」

 

 まだ少しだけぼんやりと眠気を孕んだ真鍮の瞳を見下ろす。これはさらに珍しい。寝惚けた彼など一度か二度しか見たことはない。

 

「おはよう。まだ随分と早いけど、なんか起きちゃったね」

 

 声が聞こえた気がした。

 己を呼ばう声がした。誰のものかも、またどんな声かも知らないけれど、とにかく誰かに呼ばれたのだ。だから、目が覚めてしまった。

 上体を起こしたエミヤオルタは壁掛け時計を見て、苦い顔になった。

 

「早すぎる。昨日の疲れが取れないだろう、まだ寝ておけ」

「んー、眠気が全く無いんだよなあ……いいや、起きる。立香はまだ寝かせておこうね」

 

 横の蒲団でぐっすり眠っている青年を起こさぬように、静かに二人は部屋を出た。

 

 

 

 早朝の森は土と草木の澄んだ匂いに満ちていた。

 

「おはようキャスター、どうしたの?」

 

 玄関の軋む引き戸を開けて外のサーヴァントに挨拶すれば、どうも怪訝そうに唇に手を当てている彼が振り向いた。追随する青い長髪が陽光を吸って煌めいている。相変わらず、黙っていれば綺麗な男である。

 

「おはようさん、いや、何か森が騒がしくてな」

 

 言われて耳を澄ましてみるが、何も聞こえない。

きょとりと首を傾げた己に苦笑して、キャスターは森の奥に目を向けた。

 

「数は少ないが、精霊どもも騒いでやがる。その上どうも森全体が、何つーかな、身震いしてるみてえな」

「震えてる? 怖がってるの?」

「ああなるほど、そうだな。まさにそれだ」

 

 立香の表現にいたく納得した様子でキャスターはうんうんと頷く。

 怖がっている。森が、何かを恐れている。

 バーサーカーだろうかと思いついて、違う、と立香は即座に否定した。それならば昨日の時点でキャスターの言う森の震えは発生しているはずだ。

 

「……ライダーのサーヴァント?」

「有り得るな。召喚されんのは誰の予定だったんだ?」

 

 言われて立香は、事前に知らされていた情報を思い返す。

 触媒は『ベイヤードの鬣』。守護に特化したとある英霊が喚ばれる予定であった。

 

「聖ゲオルギウス。でも、たぶんライダーは彼じゃない。触媒がなくなっていたのはこちらの召喚を確実に防ぐためだと思う」

「つまり、全く分からない、と」

「森が怯えるくらいだから、またとんでもないのかも……待って、何か聞こえる」

 

 かさかさと、幽かな葉ずれの音にも似た物音が、森の奥からさざめいた。

 キャスターも口をつぐみ、厳しい顔で音のする方向を睨む。

 さざめきは徐々に大きくなり、葉ずれが喧騒に変わり、喧騒が騒音に変貌する。音の源が近づいてくる。

 やがて、森から飛び出したのは――一匹の、鼠であった。体長十センチかそこらの、茶褐色の齧歯類である。

 鼠は驚異的な速度で草地を突っ切り、反対側の森へと飛び込んだ。

 はて。キャスターと二人、顔を見合わせ首を傾げる。騒音の正体はあの鼠だったのか?

 しかし次の瞬間、二人は揃って絶句することとなった。

 先駆者に続いて現れたのは茶褐色の帯。否、それは小さな生き物の集合体であった。二人の眼前を猛スピードで横切っていく、全く途切れることなく続くその帯が草地を真っ二つに分断する。一メートル近い幅の、鼠、鼠、鼠、大量の鼠の群れ! 小さな足が地を蹴る音が、何百何千と集まってまるでダンプカーの行進するが如き音を作り出していた。

 そうして、時間にして三十秒。最後の鼠が森に飛び込み、騒音は遠ざかっていった。

 

「…………」

「…………」

 

 音の去った草地に、二人の沈黙が佇む。

 

「おい、今の音は――なんて顔をしている」

 

 軋む引き戸を開けて顔を出てたエミヤオルタが、振り向いた主従の顔を見て呆れ果てたと言わんばかりに肩を竦めた。

 

「……ねえ、キャスター」

「……おう」

 

 衝撃から立ち直れぬまま、震えをおして立香は呟く。

 

「相当やばいのが、喚ばれちゃったみたい」

 

 

 匂いを辿り、石造りの半壊した建造物に行き着いた。

 しかし匂いはここでふっつり途切れている。ここから先、『あれ』はどう移動したのだろう。

 背の男が地に降り立ち、石柱に刻まれた何かの模様をなぞった。

 考えが伝わる。ここにいると敵が襲い来るという。

 仕方ない。手がかりから離れるのは不本意だが、ここで無闇に消耗しては『あれ』を守れぬ。道中狩った獣の(はらわた)を食ってはいるが、確実に消耗した分を補充するには足りなかった。

 『あれ』は群れの一員である。己と同じく虐げられ、大切なものを根こそぎ奪われた者である。だのに自分が悪いからとたった一人で抱え込む、不器用に過ぎる人間である。

 あの地に召喚されてから、ヒトにも種類があるのだと知った。かつて己から故郷を奪い、妻を奪い、己の命すら奪った人間と、あの儚い黄昏は全く違うものであった。ヒトは憎い。より多くのヒトを殺さねばならない。だが、あの黄昏はもはや群れの仲間であり、殺すべき者ではなくなった。

 背に男が乗る。また一から捜し直すため、漂う匂いを追った。

 

 

「今日は動きません」

 

 朝餉の膳を下げ、茶を出したマスターが炉端に座した面々にそう宣言した。

 キャスターは即座にその意図を読み取ったが、ランサー主従が揃って怪訝そうな顔をしている。無理もない。聖杯の在り処を探さねばならないのに、動かないとは。

 

「立香、質問」

「はい立香、どうぞ」

 

 手を挙げ発言権を求めた黒髪の青年をマスターが指さした。

 

「俺達も待機? 元気なんだけど」

「待機です。今日は一日休息とします」

 

 もう決めた、と言わんばかりに胸を張るマスターだったが、直後に眉を下げ、物憂げに語った。

 

「理由を言うね。一つ、エミヤとアーチャーでパスを繋いでもらうのだけど、その経過観察が必要なこと。二つ、今朝、鼠が森から逃げたの……おそらくはライダーのサーヴァントを恐れて。よって、ここ一帯を危険なものが彷徨いていると考えられること。三つ、バーサーカーのマスターが動くかどうか見定めたいこと。以上、何か質問は?」

 

 理路整然と説明され、全員が沈黙を了承として返した。

 うち弓兵二人はかなり嫌そうに顔を顰めている。とうとうマスターの口からもパスについて言及されてしまったのである。

 

「エミヤとアーチャーは、念の為キャスターと私の立ち会いの下で契約を。何か異常があったらすぐに報告すること。それが終わったら、私は少し休むかな。こういうときに動いて怒られたことあるし」

 

 今度は何度も頷く弓兵どもは、まるで保護者のようである。

 じゃあ、と立香が明るく提言した。

 

「俺はバーサーカー対策を考えるかな。ランサー、付き合ってくれるか?」

「了解した。キャスターのマスター、情報が欲しい。回復し次第こちらに協力してくれ」

 

 確かに、真名看破に加え昨日実際にバーサーカーに遭遇した彼女であれば、ある程度の対抗策は立案できるかもしれない。

 

「うん、分かった」

 

 快諾した彼女に、立香が無理をするなよと念を押していた。

 

 

 

 日当たりの良い空っぽの客間を一つ占領し、向かい合って座したまま動かない弓兵が二人。

 

「じゃ、始めよっか」

 

 とは言っても、私は門外漢なのだけど。

 場の空気を和らげようとしたのか、冗談混じりの明るい発言は、しかし二人のエミヤが醸し出すギスギスとした空気に弾かれ宙ぶらりんになった。

 必死で二人の緩衝材にならんとしているマスターを、キャスターはよくやるなあと半ば感心しつつ、部屋の柱に背を預けて遠巻きに眺めていた。自分だったら絶対こんな面倒の二乗に関わろうとは思わない。君子危うきに近寄らず、というこの国の諺をふと思い出した。

 マスターがその二人を宥めていたのだが、いい加減埒が明かないことに多少苛立ったキャスターは痺れを切らして三人に歩み寄った。

 

「あーもうめんどくせぇ、とっととやれお前ら。あんまマスターを困らせんなよ」

 

 ぐ、と痛いところを突かれたらしいアーチャーが呻く。困らせている自覚はあったようだ。

 一方のオルタは機嫌の悪そうな渋面をさらに苦く歪め、地の底を這うような低い声で、とっとと済ませるさ、と零した。

 

「おい腐っていないオレ」

「……分かっている」

 

 褐色とさらに色黒の右手が握り合う。身体接触はパスを繋ぐために必須の項目であるが――それにしたって握手如きでどれだけ躊躇うんだこいつら、とキャスターは呆れ果てた。

 さてマスターはといえば、好奇心と心配のごたまぜになった複雑な感情をその琥珀の瞳に宿し、二人を見守っている。再契約を見たことは無いらしい。

 手を繋いでからたっぷり十秒。ようやく、たいそう苦々しい口調でオルタが呪を唱えた。

 

「告げる。汝の身は我の下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うのなら、我に従え。ならばこの命運、汝が剣に預けよう」

 

 棒読みである。

 さあオレは言ったぞ貴様も言え、と言わんばかりの苛烈な眼光が向かいの赤い男に向けられ、それを受け取った赤い方が深々とため息を吐いた。

 

「……アーチャーの名に懸け誓いを受ける。貴様を主として認めよう、名前を棄てた私」

 

 あくまで形式的に、という言葉が隠れているに違いない。

 ぱき、と硬い音がして、魔力の暴風がマスターの夕焼け色の長髪を宙に靡かせた。それも収まり、やっと手を離せた彼らに、マスターが矢継ぎ早に質問を繰り出す。

 

「どう? どう? 何かおかしなところは? 魔力ちゃんといってる? エミヤの方の負担はどれくらい?」

「落ち着けマスター……そうだな、特に問題は無い。この程度の消耗なら全く支障ないだろう。ああ、令呪も出たな、見るか?」

「見る!」

 

 左手の赤を、瞳を輝かせてマスターが覗き込む。立ったままのキャスターもひょいと上から目を向けて、そうして、噴き出した。

 

「あーあーあーあー、やっぱこれか、こうなんのか、だよなーそうなるよなーそりゃそうだよなーー」

「? キャスター何か知ってるの?」

「んんー? いんや、ただ、こいつも結局『エミヤ』なんだなって思っただけさね」

 

 にまにま笑ってはぐらかしつつ、マスターのきょとりと幼く首を傾げた様をまた愉快に思う。

 

「……自害しろランサー」

 

 が、上機嫌は一瞬で赤いエミヤの低音に潰された。

 

「おっまやめろよ! 大丈夫って分かってても嫌になんだろうが! あと今はキャスターだから! 槍ねえから!」

「ハッ、自分が嫌なら他人の過去など面白半分にからかうな。それとも今日の夕飯は麻婆豆腐がいいかね?」

「材料どうすんだよってかマジでやめろ」

 

 どこぞの神父を思い出し苦い気持ちになったキャスターだったが、ぎゃあぎゃあ言い合う自分達に二人分の視線が向けられているのにふと気がついた。

 二人分?

 ぴたりと口喧嘩を止めて黒い方の弓兵をまじまじと見つめる。訝しげに眉を顰めた、かつて『衛宮士郎』だったもの。

 

「……おい、オルタ」

「何だ」

「お前さん、まさか」

 

 憶えていないというのか。

 そう続きかけた言葉を、アーチャーの盛大な咳払いが引っ込ませた。

 

「さあとにかく私の問題は解決した。あとは君だマスター、休みたまえ。仮眠を摂るのもよかろう。眠れないならそこの私を連れていくといい」

 

 突然話を振られたマスターは寸の間停止していたが、彼女の手をエミヤオルタが取って立ち上がった。つられて彼女も腰を上げ、戸惑いながらも頷く。

 

「う、うん、じゃあお言葉に甘えてもっかい寝てこようかな。エミヤごめんね、またお願いしていい?」

「別に構わん」

 

 夕焼け色の髪を揺らして縁側を去っていくマスターと、その後ろを手を繋いだまま護衛のようについていくエミヤオルタを見送って、ふう、とアーチャーは一息吐いた。

 

「……あまり、掘り返すなよ。もうあれは何も憶えていまい。以前の私が召喚に応じたのはあれより後のことだったが、その時にはもうああなっていた」

 

 私とて憶えていることは少ないが、と彼は言い足して、どこか寂しそうにあの『エミヤ』が消えた縁側の向こうを見遣った。

 

「マスターは、あの(うろ)を埋めようとしていた。取り戻すのではなく、新たに注ごうとしていた。……少しは、この十年で埋まった気もするが」

 

 そこで言葉を切り、アーチャーはあっという間にいつもの仏頂面を被ってキャスターを睨んだ。

 

「そういうことだ、あれは放っておけ。あの令呪のこともだ。私は見張りに行く、貴様はマスターの睡眠の邪魔をせんようにな」

 

 音もなく霊体化して、彼は表に出ていった。

 一人残されたキャスターは部屋の隅に胡座をかき、染みだらけの天井を仰ぐ。

 何をしようとも思わなかったから、マスターに負担をかけぬよう、時間潰しに彼女に倣ってひと眠りしようかとそのまま目を閉じた。

 ――別に、何もかも忘れ果てたあの黒い男に対して哀れみなんて抱いてはいないし、あの男が全て忘れたことに何の感傷も持たない。むしろ些末なことに感じる。だから何だ、と。

 ただあの男を必死で『人間』にしようとした人々を知っているから、少しだけ、彼らがあの黒い男を見たらどう思うのだろう、なんて詮無きことを考えただけ。

 マスターもまた、その一人であると知っただけ。

 

「あのマスターを泣かせんのは、やめろよ」

 

 今はもうこの場にいない男にぽつりと小さく忠告して、意識を沈めた。

 

 

 ――白い壁と、黒い床が広がっている。

 違う。この床は元々黒くなんてなかったのだ。誰かが踏むたびにぐちゃりと怖気のする音を立てる、どす黒い泥が広がっているだけ。

 足元に、虫けらのようにちっぽけな三つの人影がある。一人は弓に矢を番え、一人は銃口をこちらへ向け、一人は――二人の陰で金色の何かを握りしめている。

 ああ、と意味の無い音が口から零れて、広々としたがらんどうの室内に空虚に響いた。

 おかしい、おかしい、おかしい、どうして、『私』は魔力を回している?

 敵性対象を確認、属性は人、神性無し。片方は悪を司る――他、特性無し。排除に適切な宝具を検索。検索終了、顕現、真名解放。

 やめて。

 殺さないで。

 『私』は誰も殺したくない――!

 

 

「――っ!!」

 

 全身から汗が噴き出す。仮初の心臓が肋から飛び出す程激しく鼓動を打ち、震える口が必要無いはずの呼吸を大きく繰り返す。背にした柱の、腰を下ろした畳の、触感がまるで失せている。実体化しているのに霊体であるかのようだ。現実に帰ってこれない。まだ、鮮烈な夢に引っ張られている。

 白い壁に囲まれた泥の海、絶叫する人でない『己』、武器を構える二人の守護者、その後ろの、まだ若い黒髪の男。

 恐怖だった。恐怖しかなかった。殺気を向けられていることに、ではない。()()が彼らを殺めてしまうことにこそ、絶望を覚え何も聞こえず狂う程に恐怖した。

 戻れ。頭蓋の中で冷静な声がする。己は何だ。己は誰だ。今いるここは、どこだ。

 

「………………オレ、は」

 

 ひゅう、と最後の息が終わる。

 それでようやく、世界が帰ってきた。徐々にではあるが感覚が戻る。木の柱、少し擦れた畳、滴る汗の気持ち悪さ。

 ()()()()()()。完全に持っていかれていた。あまりに莫大な恐怖に全てを呑み込まれ、もはや夢の中の『己』が何をしているかすら理解できず、ただそれが破滅を呼び起こすことだけが分かって、発狂しかけた『己』に。

 痺れたように強ばる手足の先を何度か曲げ伸ばしして、改めて自分が現実に戻れたことに安堵する。同時に、あの見た者全てを発狂させかねない凄まじい悪夢は誰のものか、思い至って総毛立った。

 今現在、自分とパスの繋がっていることで、記憶や夢の共有が発生する可能性があるのは――

 

「マスター!」

 

 未だ感覚の遠い脚を叱咤して、彼女の眠る部屋へ走る。何故駆けつけようとする、とまた冷静な声が頭蓋に響く。自分が行ったところで何が変わる訳でもない。そもそもあれは聖杯戦争での一時のマスターに過ぎず、己がそこまで気にかける必要も無いではないか。

 そんなこと、理屈では理解できている。なのに早く向かわねばと思ってしまうのは、どうしてもあのどこか儚い夕焼け色を放っておけないからだ。今までもずっとそうだった。それこそ召喚に応じたときから、あれの身も心も守らねばならぬと霊核が叫ぶような、不思議な感覚がずっと続いていた。気づいたのは、彼女に協力すると断言したときだ。

 その感覚に従って脚を動かす。脳裏に過ぎるのはエミヤオルタの言葉だ。

 

『あのマスターは添い寝しないと夜中に悪夢で目を覚ます』

 

 添い寝はきちんとしているはずだった。だがこれはいったいどういうことだ。あの空間はどこなのか。そもそもあの夢は彼女の記憶なのか、それとも仮想の世界なのか。聞きたいことが多過ぎて吐き気がしてくる。ただ一番気がかりなのは、あの恐怖に包まれた悪夢を見たマスターのことであった。

 縁側を突っ切り、突き当たりの角部屋の障子を勢いよく開ける。がたついた木枠がつっかえながらもサッシを滑り、顕になった部屋の中。延べられた蒲団の上を、逸る鼓動を抑えながら、見た。

 

「……来たか」

 

 その様子だと、見たな。

 静かに確認する低い声は、蒲団の上でかいた胡座にマスターを乗せ、抱き寄せているエミヤオルタのものだ。

 キャスターは足音荒く室内に踏み入り、弓兵の正面にかがみ込んで彼女の顔色を窺った。

 息を、呑む。

 

「……何で、魘されてない」

 

 着ているワンピースと同じくらい真白の頬に血の気は欠片も無く、桃色だった唇も紫に染まりかけている。

 だが、おかしいのはそこではない。

 何故、あの悪夢を見ていながら、ただひたすら静かに涙を流すだけなのだ。何故その顔は、デスマスクのように固く動かぬままなのだ。

 魘されて、苦しんでいるならまだいい。泣き喚くならまだいい。いっそそのせいで起きてしまえばどれほど楽か。

 これではまるで、もう既に壊れてしまっているようではないか。

 

「たまに、こういうことがある。オレがいても意味を成さないことが。いくら声をかけようとも、揺り起こそうとも、これはこのまま、夢の終焉まで目覚めることはない」

 

 淡々と、淡々と、黒い弓兵が事実だけを述べていく。

 

「何で、と聞いたな。当たり前だ。オレとて一度共有したから知っている。あんなものを一度ならず繰り返し何度も見て、()()()()()()()()()()()

 

 彼女は静かに発狂しているだけ。

 魘され、泣き喚くような段階などとうに過ぎていた。彼女はそれすらできなくなって、ただ恐怖に呑まれ狂っている。

 

「あれこそが人類悪だ。本来生まれるはずのなかった、番外の個体。十年前の災厄。オレ達が殺せなかったモノ」

「……あの夢は、記憶だって言うのか」

 

 果たして、返ってきたのは肯定であった。

 つまり彼女の悪夢とは、十年前の自身が変生した記憶の再生に他ならない。繰り返し、繰り返し、彼女はあの恐怖を追体験している。

 微動だにしないマスターの血の気の失せた指先を手に包んでさすりながら、エミヤオルタは表情の消えた顔で再び語った。

 

「こいつはあの事件の日に狂い果てた。もう手のつけようが無いほど壊れてしまった。今この女を人たらしめているのは、役目を果たさんとする意志だけだ。生きなければならない目標が消えれば、すぐ抜け殻の死に体になってそのまま衰弱死するだろうさ」

 

 その目標とは、聖杯の奪還に他ならない。

 ぎり、とキャスターは歯を噛みしめる。こんな報われない話があってたまるか。役目を果たせても果たせなくても、結局彼女は死ぬのではないか。

 こんなことのために、協力すると言ったんじゃない――

 

「……ん」

 

 不意に、眠っていたはずのマスターの瞼が震え、琥珀の瞳が覗いた。

 ぞっと、した。食事を作るときの柔和な笑みも、戦場に赴いたときの苛烈な色も、根こそぎ抜け落ちた空っぽの瞳だった。例えるならば、人形だ。ガラス玉を生の眼球の代わりにはめ込まれたかのようだった。まるで、普段の感情は全て上辺だけのものだとでも言うような。普段は必死でひとの真似事をしているのだとでも、言うような。

 

「エミヤ」

 

 空っぽのままマスターが無感動に名を呼ぶ。見えているに違いないのに、彼女はキャスターに気がついていない。ガラス玉の如き琥珀の瞳が、じっと頭上の黒い弓兵の顔を凝視している。

 

「ああ、マスター。大丈夫だ。必ずお前を殺してやる」

 

 何も殺させはしないから。

 その返事に満足したのか、納得したのか。再び瞼を下ろしたマスターから規則正しい呼吸音が聞こえてきた。また、眠ったのだ。

 

「……見ての通りだ。別に、普段のこれが嘘な訳じゃない。ただ一度壊れてしまったものは二度と元通りにはならないというだけの話だ」

 

 それくらい、キャスターにも分かる。分かりたくなくても分かってしまう。どんなに綺麗に直ったように見えたとて、それは外側だけ。内側に残った痕は決して消えず、楔のように刺さったままだ。

 

「分かったら去れ、導くもの(ドルイド)。ここにお前が道を示せる相手はいない。あるのは泥に塗り潰された未来だけだ」

 

 どこか遠くから響くようなエミヤオルタの言葉が、キャスターの胸を強く抉った。

 

 

 ここだ。

 この辺りに間違いない。かなり時間がかかってしまったが、ようやっと見つけることができた。

 だが、何か己の鬣をぴりぴりと刺激するような脅威が近づきつつある。

 己を狙ったものではない。殺気の行先は己らの目的地と同一だと気づいた背の男が、ぎり、と強く鎌の柄を握りしめた。

 行かねばならない。今度こそ、守らねばならない。

 たとえ彼女が望まずとも、己は必ず彼女を守る。

 地を蹴る。さあ、群れの仲間を守りに行こう。

 

 

 この家の主は煙草飲みだったらしい。

 居間の棚の上に置き去りにされていた安物の紙巻をくわえ、指先に生み出した小さな炎で火を点ける。肺腑の奥まで吸い込んだ煙を長く吐き出して、憎たらしい程晴れやかな青空を見上げる。放置され雑草の楽園と化した庭には、自分以外の人影は無い。

 ちくちくと執拗に訴えてくる胸の痛みを誤魔化すには、煙草はもってこいだった。何故痛んでいるのかは自分にもよく分からない。あのマスターは不思議だった。そして自分も不思議だった。どうして自分はこんなに彼女に入れ込んでいるのか、どうして憤りを感じるのか、己の心に聞いても納得のいく答えは返ってこず、不可解なものばかりが増えていく。

 心は常に真ん中に置いていた。それがどうだ、召喚されてからたった数日で、あの夕焼け色の女にここまで執着している。何か精神的異常が起きているに違いない。

 ――それとも己も狂っているのか?

 

「……かもなあ」

 

 ふ、と短く吐いた紫煙が澄んだ空気に溶けた。

 長閑なものだ。快晴、無風、おまけに敵も来ないときた。あまり美味しくない煙草でも、この雰囲気に助けられて多少はマシな味になる。

 あっという間に一本吸いきって、さて吸殻をどうしようか、と灰皿の無いことに気づいた。きっとポイ捨てはあの赤い弓兵にしこたま怒られるだろうから、何か灰皿の代わりになるものを探さねばなるまい。適当な石に押し付けて消火した短い煙草を摘んだまま、うろうろ視線を動かす。

 

「キャスター!!」

 

 そのとき、聖骸布をはためかせて突然屋根から降り立ったアーチャーが切羽詰まった表情で叫んだ。

 キャスターはうげ、と口をへの字に曲げる。彼はどうやら屋根の上で見張りをしていたようである。己がまさにポイ捨てをせんとしているのだと勘違いしたのか、それにしたって目敏すぎるだろう。誤解を解くべくキャスターは口を開いた。

 

「んだよ弓兵、別にその辺に捨てようとした訳じゃねえぞ、灰皿持ってないか」

 

 が、その弓兵は一瞬の逡巡もせずに叫んだ。

 

「違うわこのたわけが! 五キロ先だ、バーサーカーが高速で接近してくる!」

「何だと!?」

 

 瞠目したキャスターはもはや吸殻のことなど思考の外に放り捨てた。ついでに吸殻自体もその辺に捨てた。

 未だ結界に破壊は感じられないが、五キロ先では時間の問題としか言えない。何せあのマスターをして『化物』と言わしめるサーヴァントである。

 

「貴様はマスターに知らせに行け、私がある程度時間を稼ぐ!」

「馬鹿言え! テメェ一人で何とかなる相手じゃねえんだろ!?」

 

 反論した瞬間、ばきりと結界が裂かれた感覚がして息を呑んだ。

 かなり時間をかけた防御壁を、こうまで容易く破壊するとは!

 

「結界が破られた。来るぞ!」

 

 もういがみ合っている暇すら無い。二人それぞれの得物を構えたそのときであった。

 眼前の森が、割れた。

 否、それは爆風と雷による嵐の蹂躙である。竜巻状に螺旋を描くそれが、木々を根こそぎ薙ぎ倒し、草を表土ごと剥ぎ、ばらばらと宙に舞い上げる。

 二人とも、何も言えなかった。

 数秒で消えた嵐のあと、更地に立つのは刀を抜いた菫色の鎧武者。氷の如き無表情に、らんらんと光る藍色の双眸が獣を思わせた。

 キャスターは初めて対峙する。これが源頼光。母性に狂ったバーサーカー。

 

「……殺す」

 

 怨嗟である。

 その細い喉から怨念が吐かれる。

 

「よくも、よくも我が子に妖術を使いましたね。あの子を怯えさせ、泣かせた罪は重い」

 

 何を言っている。

 思い当たる要素がまるで無く、キャスターは内心訝しんだ。ちらと隣の弓兵を見れば、彼は苦く唇を噛んでいる。自分よりは何かしら知っているようだと判断し、キャスターはこっそり彼に尋ねた。

 

「おい、あいつが何言ってるか、分かるか? 妖術って何だよ、お前そんなのかけたか?」

「馬鹿を言え、刺激すると分かっていてそんな愚はせん。……だが、一つ確実になったことはある。彼女の主は、我らのマスターを元にして出来たものだ」

「……何だそれ」

 

 話が突拍子も無い方向に飛んだ。

 

「言葉通りの意味だよ。あのホムンクルスにはおそらくマスターの遺伝子が混じっている。魔術回路の構成も意図的に似せた痕跡があった。マスターが悪夢を見たのだろう。それに同調して入り込んだ、としか考えられん。彼女はよくサーヴァントの夢に迷い込んだからな」

「何でわざわざそんなこと」

使()()()()()()。彼女の中身を混ぜれば、サーヴァントが従いやすくなるとでも考えたのだろうさ」

 

 謎が謎を呼ぶ言い回しだったが、そこにさらに言い募る時間の余裕は無かった。

 破裂音が大気を揺らす。紫電が散る。空には暗雲が垂れこめ、空気が生温く澱んでいく。

 

「お喋りは結構。我が子に害を為す虫どもは、全てこの童子切安綱の錆にして差し上げます」

 

 雷を纏った太刀が青眼に構えられる。鬼神のような凄まじい殺気が肌を刺す。

 小さく舌打ちした弓兵が応じるように双剣を構えた瞬間、轟音を鳴らしバーサーカーが地を蹴った。

 

「ぐうっ……!!」

 

 袈裟懸けに振り下ろされた剣戟を何とかいなしたアーチャーが苦悶の声を零す。僅かに下がったキャスターは即座にルーンを組んで火球を放ったが、あっさりと距離を取り回避したバーサーカーは再び突進してきた。

 まずい。これはアーチャーでは対処しきれない。理解できてしまったキャスターの背に冷や汗が浮かぶ。敏捷値、筋力値、使える魔力、全てにおいてバーサーカーが上回っている。

 二撃目をようやく躱したアーチャーに雷電の刀が迫る。支援のため魔術を放とうとしたが、二人の距離が近すぎた。対魔力の低い彼を巻き添えにする訳にはいかない。

 くそ、と悪態を吐きかけたそのとき、横から弾丸の如く突撃した金色が、菫色の武者を弾き飛ばした。吹っ飛んだ彼女はそのまま木立の中へ叩き込まれる。

 

「すまない、遅くなった」

 

 涼しい顔で金の槍を一振りし、キャスター達を庇うようにランサーが立った。

 

「二人とも、無事!?」

「立香か。すまない、助かった」

 

 たった数合の打ち合いで力量差を悟ったのか、アーチャーは駆け寄った青年に礼を言う。

 それで、と立香はバーサーカーに目を向ける。

 

「状況はだいたい分かった。二人はランサーの援護をお願い。アーチャー、念話でオルタに連絡してくれ」

 

 てきぱきと指示を出しつつも、その海色はしっかと敵を見据え状況把握を怠らない。彼もまた、戦場に慣れていることにキャスターは気づいた。

 だがランサーが駆けつけたとて、戦況は大きく変わらない。

 

「……また、虫が増えましたね」

 

 轟、と嵐が再び渦巻く。

 木々を薙ぎ払って無傷で現れたバーサーカーは、冷えきった怒りを全身から滲ませていた。それはまさに鬼の如き有様であった。

 さらに膨れ上がった怒気を隠しもせず、バーサーカーは紫電を散らし駆ける。向かう先は、おそらく最も大きな脅威と判断されたであろうランサーである。

 

「――ランサー!」

 

 凛とした声が言外に叫ぶ。迎え撃て、蹴散らせ。

 それに応じて、太陽の半神が槍を構えた。直後、金色の槍と雷電の刀が激突する。

 開けた土地での場合、リーチのある槍兵に分がある。だが片やホムンクルスを主に持ち先程から惜しげも無く魔力を消費しているバーサーカーと、片や人並みよりやや少ない程度にしか魔力を持たないマスターを削り殺さぬようセーブしているランサーである。必然、バーサーカーが攻勢を強め、それをランサーがいなし反撃する、という先手後手の決まったような闘いが繰り広げられていた。

 キャスターはそこを補うのが役目とばかりにアーチャーと二人で後方支援を繰り返す。アーチャーは既に目に見える距離にはいない。はるか遠くから降る矢は悉くバーサーカーの動きを阻害し、あわよくば致命傷を喰らわせんと猛威を振るう。キャスターも、無防備な立香を守りつつ僅かな隙を突いてバーサーカーに炎弾を叩き込む。

 身体の回転を加え水平に振り切られた刃を、垂直に身体の横に添わせられた金色の槍が受ける。痩身が沈み、刀を弾かれ一瞬生まれたバーサーカーの隙を逃さず穂先を下から突き出す。後退することで仕切り直したバーサーカーに雨あられと矢が飛ぶ。しかし彼女はそれら全てを刀で叩き落とし、同時に地から高速で突出した鋭利な木の杭をまるで予知していたかのように軽やかな跳躍で避けた。空中で刀を収めた彼女の手は次の瞬間身の丈程もある和弓を握り、もはや目に見えぬ速度で大量に矢を撃ち込む。広範囲を襲うそれらをランサーは槍で、キャスターは即席の結界で弾く。その間に着地したバーサーカーは再度抜刀し大きく振りかぶった。

 

「雷よ!」

 

 振り下ろされた刀から、極太の紫電が飛ぶ。

 さすがにこれは防げるものではない。そういう次元は超えている。咄嗟に立香を小脇に抱えたキャスターは横っ飛びに回避した。ランサーは身を捻って避け、そのまま紫電の帯のすれすれを身を低くして駆けバーサーカーへ迫る。

 

「せえっ!!」

 

 気合一閃、振るわれた槍と刀が再び激突した。紫電となった魔力が四方八方に散る。

 援護を続けるキャスターであったが、直後、新たな気配を破壊された結界の向こうに感じ取って思わず動きを止めた。

 こんな時に限って!

 高速で接近するサーヴァントの気配。セイバーか、ライダーか、どちらにせよ今この状況を悪化させはしても、改善は見込めない。

 なお悪いことに、気配はバーサーカーとは真逆の方角から近づきつつある。隠れ家を背にして戦う自分達の、家を挟んで向こう側ということだ。つまり、そちら側にも戦力を割かねばならない可能性が出てきた。エミヤオルタがいるにしても、彼一人で対処するには厳しい相手かもしれない。あのセイバーなら尚更だ。

 

「アーチャー、反対側だ!」

 

 唇の動きとて絶対に見えていると確信して、キャスターは矢の降ってきた方向に叫ぶ。途端に支援射撃はピタリと止んだ。

 どうやらもう一体の襲撃者を見つけたらしい。再開された弾幕はバーサーカーとは見当違いの、しかしキャスターが察知した気配の位置ぴったりに降り注いでいく。

 これでいい。最悪相手がセイバーでも、多少の足止めにはなるはずだ。その間にこのバーサーカーを何とかしてしまわねば。

 

「――あらあらまあまあ、随分と余裕がお有りで」

 

 吹っ飛ばされたランサーが、縁側の柱に激突した。立香が思わずといった様子で悲痛に叫ぶ。

 

「ランサー!」

「問題ない、下がっていろマスター」

 

 何事も無かったかのように立ち上がった彼は確かに無傷だが、確実に消耗はしているはずだ。内部魔力の残量もかなり減っているに違いない。先程からどこか精彩を欠いた動きしかできなくなっている。

 くるりと振り向いたバーサーカーが、キャスターを見て妖しく微笑む。

 

「ところで、先程面白いことを仰っていましたね? あの子が貴方のマスターと同調した、と」

 

 ぞっとする程冷徹な声音であった。

 キャスターは戦慄した。聞こえていた。聞こえてしまっていた! ならば彼女が狙うのは――

 

「五月蝿い虫が一匹別の獲物に飛んでいったようですし、さくっと終わらせてしまいましょうか」

 

 紫電が飛ぶ。

 初めてランサーやキャスターではなく家に向かって放たれた雷光の帯。ランサーが咄嗟に間に入り、槍を構えてそれを防ぎきった、が。それすら彼女の読み筋であった。バーサーカーはもはやランサーになど見向きもしない。雷を受け止めた衝撃で数秒動きを止めた彼の真横をするりとすり抜けて、彼女は容易く障子を切り裂き家への侵入を果たす。

 

「待て!!」

 

 ランサーが追うも既に遅い。キャスターも追撃を放とうとしたが、二次被害があってはマスターにも危害が及ぶと判断して炎熱を用いるのは中断、代わりに室内に張り巡らせていた結界を強化する。気休めにしかならないと分かっていても、もうこれくらいしかできることがない。まだエミヤオルタがいる。彼に預けるしかない。

 それでも、キャスターは駆け出した。

 追ってもどうにもならない。当たり前だ。不可能に決まっている。守れない。

 けれど、ああ、だけど。

 見捨てるなど、この霊基(からだ)が赦してくれない!

 

「マスター!!」

 

 室内に入る。数秒で、動きを止めたバーサーカーが目に入った。

 ランサーが背後から槍を振り下ろす。それをあっさりいなした彼女は返す刀でランサーを再度吹っ飛ばした。着地の直後立ち上がろうとした彼はがくりと屈んだままだ。

 形振り構っていられない。ルーンを刻む。炎を纏わせた杖を振るってバーサーカーに一撃でも食らわせてやろうとしたが、これも刀で防がれた。その刃が不気味に光る。ゼロ距離の雷光が来る。

 マスターの悲痛な叫びが聞こえる。己とて、ここでリタイアなど御免だ。瞬時に張った防御壁に、雷が直撃した。

 

「がっ……!!」

 

 感電など生温い。もはやそれは内側から食い破られる感覚に近い。これでも半分は威力を削ったはずなのだが――ああ、視界がぶれる。どさりと遠くで音がした。何だ、自分が倒れた音だ。

 バーサーカーが背を向ける。黒い弓兵が対峙する。

 マスターが震えている。後退ろうとして、脚が縺れて座り込んで、表情の消えた顔でぼろぼろと涙を流している。

 夢を見ているときと同じだった。彼女にバーサーカーは見えていない。あのガラス玉の琥珀は、もっと別の、過去の何かを見つめている。本人が逃げようとしないのだ、もう打つ手も無かった。

 それでも、とキャスターが動かぬ身体を叱咤した、そのとき。

 マスターの悲鳴に、()()()()()()()()()

 

 

「……チッ。了解した、貴様は援護を続けろ。オレはマスターを叩き起して離脱を試みる」

 

 ふと意識が浮上した。

 久しぶりにあの夢を見た。だからだろうか、何だか外が騒がしいというのに、身体が重くて動けない。

 頭上にはエミヤオルタの厳しい顔。援護、離脱――敵襲か。

 

「起きたか。状況を説明するぞ」

 

 手短に聞かされたバーサーカー襲来、続くもう一騎の敵影の旨に、一気に頭が覚醒する。今はランサーが抑えているというが、あのバーサーカーである。

 するりと腕が離れた。先に腰を上げたエミヤオルタに支えられて立香は立ち上がり、よろめく脚を何とか奮い立たせる。いいか、と彼は言い聞かせた。

 

「もしこちらに敵が現れた場合は、オレがある程度足止めする。お前は手筈通りに逃げろ」

「……エミヤ」

「そんな顔をするな、オレとて死ぬつもりは無い。殺してやると言ったろう、せいぜい足掻いてやるさ」

 

 不敵に笑う彼は、もう何も言わせてはくれなかった。

 駄目だ。結局自分は何も変わっていない。あの日から、あの災厄から、結局自分は周りの人達を殺してしまうだけの存在だ。

 何もできない。

 

「――見いつけた」

 

 奥の襖が破断され、埃と紙屑を舞い散らせ現れたバーサーカーは笑んでいた。たいそう嬉しそうに、幸せそうに。

 

「これであの子は魘されずに済むのですね……あら?」

 

 直後、土埃を切り裂いて背後から迫ったランサーに、ゆるりと振り向いた彼女は言った。

 

「貴方、もう燃料切れでしょうに。無駄なことはするものではないですよ」

 

 一閃、たった一撃。

 それで終いだった。吹っ飛ばされたランサーの動きが目に見えて鈍く、緩慢になる。槍を支えに立ち上がろうとしても、それすらできない。無傷なのに、動けない。立香の魔力が切れたのだ。

 

「マスター!!」

 

 駆けつけたキャスターが炎熱を帯びた杖を振るいバーサーカーに挑む。

 ――やめて。

 いとも容易くその一撃を受け止めた童子切安綱が、紫電を帯びる。

 ――殺さないで。

 

「やめてえええーーーー!!」

 

 ――ばちん、と。

 それはとても軽く、無機質な音であった。

 あ、と自分の喉が小さく震える。

 ()()()()。そうだ、彼を殺したのは確かに雷の宝具だった。憶えている。だって、自分が殺したのだから。

 天地の属性を悉く滅ぼすその特性。そうだ、初めに殺したのは彼だった。一番近くにいたのだから。一番傍にいたのだから。

 震えが止まらない。フラッシュバックが身体を硬直させる。

 全身から煙を上げ、キャスターが倒れ伏す。バーサーカーがこちらに歩み寄ってくる。

 

「……逃げろ、マスター」

 

 低い声が、何を言っているのか分からない。

 かちかちと歯が鳴る。脚が震えて立っていられない。尻餅をついて、藺草の感触も判然としない。

 殺したくない、殺したくない、殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない――!!

 

「あ、ああああああああああああああああああああああ!!」

 

 振り下ろされた刃など、見えなかった。

 

 

 ――何が起きたか、一瞬全く理解できなかった。

 雷撃で脳がショートでもしたか、それとも、あまりに来訪者が奇怪すぎたからか。

 天井をぶち破り、飛び込んだのは、青。

 金の瞳を殺気と怒りに爛々と輝かせ、マスターを背後に庇って雄叫びを上げる、一頭の巨大な狼。その背には、両手に鎌を携えた首の無い騎士が乗っている。その背後にしがみついていた、そして今まさに降り立ったのは赤い弓兵だ。

 獣が唸る。バーサーカーの喉笛のみを睨みつけ、青い狼はトラバサミの着いた前足の爪を畳に食い込ませて前傾姿勢をとった。

 

「ヘシアン・ロボ……!?」

 

 黒い弓兵が驚愕の一声を上げる。

 同時。弾丸の如く地を蹴った狼がバーサーカーに襲いかかった。

 

「……っ!?」

 

 とんでもない見た目のインパクトで反応が遅れたのか、初めて後手に回ったバーサーカーが騎士の振りかざした鎌と刃を交えた。

 守っている。間違いない、あのサーヴァントはマスターを守護している。

 

「話は後だ、私!! ライダーを援護するぞ!!」

 

 アーチャーが双剣を手に叫ぶ。逡巡を一瞬で切り捨て、エミヤオルタが銃剣を携えバーサーカーに立ち向かう。

 三対一、しかし鎧武者は未だ平然と三騎の猛攻を捌ききっている。

 

「ぐ、う……あ、ちくしょう、が。はよ治れってんだ……!!」

 

 ぎしりと軋むぼろぼろの身体をルーンで無理矢理補修し、キャスターは床に手をついて何とか立ち上がろうと試みる。ここで指を噛んで観戦なぞ死んでも嫌だった。己とて、守らなければ気が済まない。

 

「マスター……!」

 

 足を引きずり必死の思いでマスターの元に辿り着く。虚空を見続ける彼女を抱きしめて、囁いた。

 

「マスター、大丈夫だ。オレはまだ生きてる。まだ戦える。命令(オーダー)を寄越せ、オレにアンタを守らせろ」

 

 腕の内の細い身体が大きく震え、キャスター、とか細い声が名を呼んだ。

 

「……私、殺して、ない?」

 

 今、何と言った。

 殺していないか? キャスターが死んでいないか、ではなく、キャスターを殺していないか、と聞いたのか。

 浮かぶ疑問符を叩き潰し、キャスターは頷く。何にせよ、それが今彼女を縛りつけているものには違いないのだ。ならば己は否定してやろう。何度でも、何度でも。

 

「ああ、死んでねえよ。お前さんは誰も殺してない。だから、な」

 

 そっと瞳を覗き込む。徐々にその琥珀に色彩が戻る。帰ってこれたのだ。

 

「キャスター、ロボが」

「あの狼か?」

 

 頷いた彼女は、どうして、と呟く。

 忘れているはずなのに、とも。

 

「まさかあいつも、アンタの元サーヴァント――」

 

 言いかけた途端、紫電がずたずたの部屋をさらに引き裂いた。

 後退しキャスター逹の元まで戻った狼の毛皮は既に血に汚れ始めている。返り血ではない。バーサーカーは未だ無傷である。

 

「ロボ! ああ、こんな、どうして……! どうして私を守ろうとするの、全部無くしたはずだったのに!」

 

 痛みに満ちた叫びを聞き届け、狼と首無しが同時に振り向く。

 狼は一転して優しく金の瞳を細め、ぐる、と一つ喉を鳴らした。首無しは小脇に鎌を二本とも抱え、空いた両手で何やら手話を繰り返す。

 

「……それ、私が教えた」

 

 今度は違う手話、それから先程のものをもう一度。

 

「私、逹、忘れる、無い…………? ま、さか、()()()()()()()、あなた達」

 

 また、手話が一つだけ。

 それはキャスターにも分かった。『YES』と。

 

「忘却補正、なの? ずっと憶えてたの? 聖杯まで使ったのに、十年前を、ずっと!」

 

 再び、『YES』。

 そうして一人と一頭はまた敵に向かい突進していった。

しかし、僅かな時間でキャスターには分かってしまった。あれはもう長くは保たない。どこにもパスが繋がっていないのだ。はぐれサーヴァントの身の上で、弓兵でも無いのにここまで激しい戦闘を繰り広げればすぐガス欠になるのは当然と言える。

 

「マスター、ありゃ駄目だ、もうあと数分も保たん。あのままだと戦闘中に魔力が切れて消滅するぞ」

「……っ」

 

 唇を噛みしめ、マスターが必死の形相で考え込む。見れば弓兵逹もいくつか傷を負い、決定打は見込めない。このままではじわじわと戦力を削られる。

 数秒後、何かを決意した表情でマスターは顔を上げた。

 

「キャスター、魔力は残ってる?」

「……? ああ、まあ半分はあるな」

「キャスターの魔力量とアヴェンジャーの魔力量の比率からして、私の限界値と……よし、分かった。計算できた」

 

 ぶつぶつと呟いた後、マスターはとんでもないことを命じた。

 

「私に全体の一割でいいから魔力を逆流させて。できれば、一気に」

 

 キャスターは、一瞬、絶句した。

 何ということを言い出すのだ。無茶どころか自殺行為だ、下手をすれば死ぬ。

 

「なっ……アンタ何言ってるか分かってんのか!? 第一、アンタの魔術回路じゃ受け止めきれるか分かんねえんだぞ!!」

「それくらい分かってる! 無茶は承知、でもこうでもしなきゃバーサーカーを倒せない。やって、キャスター。それとも私に令呪を使わせたい?」

 

 手元の赤は未だ三画、一度も消費されずに残っている。

 キャスターはマスターの苛烈な眼光を真正面から受け取る。決意を固めた眼差しであった。きっともう己が何を言ったところで聞く耳を持たない、そんな真っ直ぐな意志を感じる。

 仕方ない。命令を寄越せと言ったのは、こちらであるのだから。

 

「……タイミングは預ける。言っとくが、上手くいく保証はできねえぞ」

「ありがとう、それでいいよ。元々この身体は多少無茶しても壊れないようにできてるから、心配しないで」

 

 不敵に笑い、マスターはしっかと地に足をつけて立ち上がった。

 すう、と彼女は大きく息を吸い、それから叫ぶ。

 

「――来て、アヴェンジャー!!」

 

 鶴の一声とはまさにこのことであった。

 高速の戦闘を繰り広げていた狼が、躊躇うことなくその声に咆哮で応え後ろに下がる。何かを察したのか二人の弓兵も後退し、追撃の姿勢をとったバーサーカーに牽制の弾丸と矢を放つ。

 

「へシアン、手を!」

 

 マスターが駆ける。手を伸ばす。

 首無し騎士が身を傾け、鎌を一本、狼の口元に預けた。もう片方の鎌は魔力に還り消えていく。

 狼が鎌の柄を咥える。バーサーカーが何かを察知して追撃の手を止め後退を始めた。

 首無しの手とマスターの手が、触れる。

 

「キャスター!!」

「おう!!」

 

 命令のままにキャスターは自身の魔力を逆流させ、通常はマスターからサーヴァントへと向かっているパスの流れを反転させる。きっちり一割、寸分の狂いもなく。

 マスターが血を吐いた。それでも彼女は騎士の手を離さない。受け取って、と小さく囁いて、魔術回路を青く光らせる。

 

「霊子、譲渡……! 同時に命じる。へシアン・ロボ、宝具解放!!」

 

 狼が吼えた。

 その口から漏れ出るのは蒼炎。蒼く、蒼く、死体を彩るリンの炎。瞳もまた炎を宿し、蒼い影を長く残す。足からはトラバサミが消え、獣を完全に解き放つ。

 首無し騎士の外套がざわりと蠢く。黒い布が後ろに広がり、その内から青黒い刃が五指を広げたように展開する。まさしくそれは、命を刈り取る形をしていた。

 変貌した狼と騎士が、駆ける。

 騎士が、マスターから離した手を存在しない頭部の横に挙げて、ひらひらと小さく振った。

 マスターが息を呑み、ぐっと何かを堪えながらも唇を動かす。

 

「行っておいで、私の、アヴェンジャー……!」

 

 応えるように速度を増し、獣が奔る。

 蒼く、蒼く、燐光を靡かせ、その毛並みは血に濡れてなお威風堂々と美しく。

 青黒い刃がぶわりと広がり、バーサーカーを捕らえた。突き刺さった刃から逃れようと彼女はもがくが、もはやそれは無駄な足掻きでしかない。

 狼が鎌を振り上げる。

 物言わぬ彼らの代わりにとでも言うかのように、マスターが吼えた。

 

「行け、遥かなる者への斬罪(フリーレン・シャルフリヒタ)ァァァアアアアアアアアアアア!!」

 

 

 ――金色の淡い光が、蛍のように二つの霊基から浮かび上がった。

 片方は、首を無くした菫色の鎧武者から。ごろりと転がった頭の、瞼をマスターがゆっくり閉じた。

 そしてもう片方は、全ての魔力を使い果たした一人と一頭から。

 

「……アヴェンジャー」

 

 マスターの伸ばした腕の中に、炎の消えた狼が鼻先を収めた。

 巨大な頭部を抱きしめて、彼女が青い毛並みに頬を寄せる。その手は狼の耳の後ろを優しく撫でていた。

 首無し騎士が狼から降り、マスターに寄り添う。

 

「……ねえ、いつかまた、あの夕焼けを見に行こうね」

 

 狼が喉を鳴らす。応と言っているかのようであった。

 首無しの指が彼女の夕焼け色の髪を撫でた。

 さらり、その指先が虚空に溶けていく。

 

「ありがとう、ごめんね、こんな私を守ってくれて、ありがとう……」

 

 さらさら、さらさら、金砂の山が崩れるように。

 やがて青い毛並みが、黒い外套が、薄れて溶けて消えていった。

 そうして、ライダーとして喚ばれた、されど彼女のためだけのアヴェンジャーであった一人と一頭は、静かに座に帰っていった。

 

 

「……行っちまったな」

「うん」

 

 キャスターはふらつくマスターの肩を支え、彼女がそこまで消耗していない弓兵二人に歩み寄る手助けをしてやった。

 ランサーは何とか動けるようにはなったらしい。外に向かったのは、おそらく魔力切れで倒れているであろうあちらの立香を回収するためだ。

 

「エミヤ、アーチャー、怪我は?」

「問題ない、私達よりキャスターの方が重傷だと思うがね」

 

 長身二人を見上げるマスターに、アーチャーが肩を竦めている。確かに、とキャスターは冷静に自分の損傷を確認して内心頷いた。何せ雷の直撃を食らったようなものだ。多少動けるようには回復したものの、身体の中身はずたずたである。正直もう動きたくない。

 エミヤオルタはといえば、何故かずっと黙ったままマスターを見下ろしていた。来ているスーツのあちこちが破け血が滲んでいるが、あの程度傷のうちにも入らないと彼なら言うだろう。

 

「ん、私の魔力は……ちょっと残ってるか。キャスター、今治すからね」

 

 スカートの裾をひらめかせてマスターがキャスターの元に戻ってくる。足取りが覚束無いもので転けたりしないかとはらはらしながらキャスターは見守り――

 とん、と。白い首筋に黒い弓兵が手を振り下ろすのを、確かに見た。

 

「……あ?」

 

 何とも間抜けな声が自身の声帯から落ちたのを確かに聞いた。マスターの身体が前に傾いでいくのが、ひどく克明に見えた。

 細いその身を黒い腕が抱きとめる。

 もう片方の手に握られた、今まさにピンを抜かれた筒のようなものを認めた瞬間、そこを中心に真っ白な煙が噴き出した。煙幕だ。視界が霏に包まれ何も捉えられない。

 

「……っ!? くそ、上か!!」

 

 気配の移動を感じて破壊された天井を見上げる。後を追おうにも跳躍すらできない身体である。激痛の走る脚を叱咤して、外へと駆けた。

 

「オルタ、テメェ!!」

 

 理解が追いついていない。だが一つだけ分かることがある。

 あの弓兵は、裏切った。

 

「何を驚くことがある。オレは守護者だとは言ったが、こいつを守るとは一言も言っていない。何より、『エミヤ』がよく裏切るのは知っているだろう」

 

 気を失ったマスターを抱きかかえて、エミヤオルタは半壊した屋根の上で嘲笑う。

 そこへ跳躍したアーチャーが双剣を振りかざし肉迫した。キャスターと違い彼にはまだ余力が残っている。だが。

 

「――令呪を以て命じる。『オレを見逃せ』」

 

 左手の赤が光った。

 アーチャーの身体が硬直し、そのまま室内へと落下していく。

 軽やかに屋根瓦を蹴り、エミヤオルタは森の中へと紛れ込む。アーチャーの追撃は無い。令呪の強制が作用している。

 

「待て!!」

 

 追いかけようとした矢先、弾丸が飛んだ。

 咄嗟に展開した防御壁に弾が罅を入れる。その隙に凄まじい速度で気配が遠ざかっていく。

 

「キャスター!?」

「いい、あいつを追え!!」

 

 ランサーに支えられ、家の反対側からよろめき出た立香にキャスターは叫ぶ。

 しかし、駄目だと彼は首を振った。

 

「ごめん、もう、俺……」

 

 それで気づいた。彼にはもう無理だ。ランサーを追撃に遣るには、魔力が足りなさすぎる。

 

「くっそ、待ちやがれオルタァ!!」

 

 自分とて限界だった。膝に力が入らない。走ることはおろか、歩くことさえできそうにない。

 なんてことだ。肝心なときに動けないなど!

 唇を血が滲む程噛みしめる。既に、探知可能な領域にあの弓兵の気配は無い。

 口惜しさに気が狂いそうになる中、ただマスターとエミヤオルタの消えた森を忸怩たる思いで睨むことしかできなかった。

 

 

 

「もうすぐだ、マスター。もう少しで、お前を――」

 

 



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第四章

はた迷惑ステッキさん登場回


 忘れ去られた村のぐるりを取り巻く山々、そのうち一番高い山の頂上に、忘れ去られた神の社がある。

 もはや祀る者もおらず、ただ小さな本殿と社務所、そして鳥居を風雨に腐らせていくだけだった神社の境内に、一人の男が足を踏み入れた。

 黒いスーツのその男は長髪の女性を片腕に抱きかかえ、さらにもう一人、女と同じ髪色の小さな子供を小脇に抱えていた。彼は真っ直ぐ鳥居をくぐり、本殿の階段を革靴のまま上がって格子戸を開く。

 

「やあ、待ってたよ」

 

 突然の来訪者に驚きもせず、にこやかに振り向いたのは青年であった。整った顔で綺麗に微笑み、白くゆったりとした礼服の両腕を持ち上げて彼は歓迎の意を示す。

 迎え入れられた方の男は微塵も表情を動かさぬまま、抱えていた子供を床に無造作に落とした。

 

「うん、これで揃ったね。十年間、本当にご苦労様。あとは僕に任せて、君は世紀の大事業をゆっくり鑑賞していてくれたまえ」

 

 ぎしぎしと不穏に軋む床板を踏みしめ、青年は床に転がされた夕焼け色の髪の子供を睥睨する。

 おかあさん、と子供が虚ろな目をして微かに呟いた。

 

「憐れだね、ツヴェルフ。サーヴァントを母と誤認した可哀想な子。君の存在意義なんて、最初から一つしかなかったのに」

 

 青年はしゃがみ込み、ツヴェルフと呼んだ子供の腹に手を当てて呪を唱えた。

 びくりと子供が痙攣し、腹から緩慢に引きずり出されていく金色を、口から血の色の泡を吐きながら見下ろしていた。

 やがて完全に外に現れた金の杯を片手に携え、青年は立ち上がる。その足元には既に事切れた小さな身体がぐったりと身を横たえていた。

 魔術的な措置により子供に埋め込まれていた金色の願望機を、青年は愉快そうに弄ぶ。

擦り切れた床板にはっきり描かれた魔法陣を、来訪者の真鍮の瞳がじっと見つめていた。

 

 

 

 それは何の前触れも無く始まった災厄であった、と、受肉して後あれ程激しかった記憶喪失がぴたりと止んだエミヤオルタは記憶している。

 当時、人理継続保証機関カルデアには、一人のマスターと百にも届く数のサーヴァントがいた。まだ少女と形容するに相応しい、魔術師ですらなかった一般人のマスターは、一度世界を救ったあともマスターとして人理を守り続けていた。

 以前彼女が相対したのは、人類どころか星すら巻き込む大災厄だったという。ビーストⅠと呼称された魔術式の企てた『転生計画』を防いだ少女は、星を救った功績から、死後に英霊の座へ導かれることが決まっていた。その特性から、『全ての英霊を従えた救世主』という英霊になる予定だった――以上は、今回の計画に参加する時点でアラヤからエミヤオルタへと与えられた知識である。

 英霊としての可能性を内包した彼女は、世界を救った後に今度は身内に狙われることになった。主に数多のサーヴァントを従える能力を狙っての、色々な汚い思惑が彼女をつけ狙った。

 だが、一人だけ全く違う観点から彼女に目をつけた者がいた。現在エミヤオルタの眼前で着々と魔法陣を書き上げている青年その人である。

 その男はたいそう賢く、また典型的な魔術師であった。いったいどこでどうやって少女の可能性を知ったか、もしくは推測したかは定かでないが、とにかく彼はカルデアに潜入し、あるとき事を起こした。

 ――もし、生きているうちに『全ての英霊を従えた救世主の英霊』という可能性を無理にでも発現させたら、どうなるか?

 それは則ち未来の先取りである。数多ある選択肢の中から一つの可能性を引きずり出し、生身の少女に埋め込む、外道の術式である。当然、そのように構築された術式は膨大な魔力を必要としたが、それを補って余りあるリソースがカルデアにはあった。聖杯という、リソースだった。

 男は保管庫から一つ聖杯を盗み出し、マスターに術式を作用させた。

 結果から言えば、確かに彼女は変転した。だが顕れたのは救世主ではなかった。

 ()()()()()()()

 救世主は獣に堕ちた。彼女は自我を無くし、ただ目についた脅威を全て排除するだけの破壊機構と化したのである。――後に『ビーストØ/D』と呼称されることとなる、大災害の降臨だった。

 『全ての英霊を従える』概念体の能力は『全ての英霊の宝具を使用できる』ことだった。目の前の敵の属性、特性を瞬時に判断し、最適な武器を選び出す。皮肉にも、それまでの彼女の戦いと全く同じ状況が生まれていた。

 そうして、彼女は殺した。

 殺して、殺して、殺し尽くした。

 最愛の仲間を、その手で。

 皆殺しだった。人もサーヴァントも関係なく、反撃を躊躇った者から死んでいった。もはや彼女は人類最後のマスターではなく、一体の殺戮兵器であった。

 当時、エミヤオルタともう一人のエミヤはこの事態を受けて守護者として再起動し、アラヤからのバックアップを受けて彼女の暴走を食い止めようとした。実際、不可能だったが。その獣はたった二人の殺し屋が殺せるような相手では無かった。まさしく、生きた大災害だった。

 ただ一人、人間の中で奇跡的に生き残ったもう一人の藤丸立香だけが、その事態を収めることに成功した。彼の手には、死にゆくサーヴァントの一人が最後の力で託した聖杯があった。

 

『この獣を人に戻して』

 

 願いは、叶った。

 彼女の特性は二つ。『全ての英霊を従える』こと、そして『救世主』であること。この二つは相互関係にあり、どちらが欠けても『英霊:藤丸立香』は成立しない。彼女は全き一般人であり、英霊たちの助力無しには世界を救えるはずもなかったからである。

 聖杯はこれら二つの特性のうち、前者を消去することで少年の願いを叶えた。その特性は各英霊と培った記録、及びそれに伴う絆によるものである。したがってそれを()()()()()()()、『全ての英霊を従える』概念そのものが消失する。従者の側から関係を断つ。そのように聖杯は作用した。カルデアに召喚された分霊の記録、特異点ではぐれサーヴァントとして喚ばれ人類最後のマスターに味方した、また逆に特異点の元凶に喚ばれ彼女に敵対した分霊の記録、ありとあらゆる『彼女に関する記録』は、文字通り、無かったことになった。

 ただし、それも応急処置に過ぎない。完全な聖杯ならまだしも、カルデアに残っていた聖杯は全て燃料不足の不完全な願望機であった。よって記録を完全に消去するには至らず、封印のみに留まった。それが解けるのは――彼女が息絶えたその時だ。

 記憶を封印されなかった例外は何騎か存在する。受肉し今なおここに存在しているエミヤオルタ、忘却補正により不完全な聖杯の力を跳ね除けたアヴェンジャー達――うち、現在召喚されていない者達については推測の域を出ないが、へシアン・ロボを見る限り、彼らもまたスキルによって憶えているのは間違いない。そして最後の一騎、身の内に宿した聖杯によって記録封印に抗った正規のエミヤである。

 

「…………お人好しめ」

 

朽ちた社の内壁に背を預け、誰にも聞こえない声量でエミヤオルタは呟く。誰に向けて言ったのか、自分でも定かではなかった。

 破壊し尽くされたカルデアでの最後の夜、まだエーテルの身のままであった彼は夢を見た。地獄を見なれた男にすら、地獄と思わせる(記憶)だった。

 それで気づいてしまったのだ。彼女が、あの光景を、あの悲鳴を、宝具を振るったその手応えを、残らず憶えているということに。

 それは、彼女にとってはいったいどんな地獄だったのだろう。

 愛した者を、守りたかった者を、勝手に動く己の手が次々と殺していく。何もできず、目を閉じることすら許されず。ただ惨劇を脳に焼きつけられ。

 エミヤオルタは魘され泣き叫ぶ少女を抱きしめて押さえ込み、夜を過ごした。その様を目にしてしまった赤い弓兵も、また気づいたようであった。彼はいっそ絶望の方がまだマシだと言うかのような、最後の希望を目の前で握り潰されたような、悲愴に過ぎる目を、していた。

直後、二人は彼女を殺そうとした。もういっそ死んだ方が彼女のためだとすら思った。こんなになってまで何故生きる。もう終わらせてしまえばいい。本気で、そう思っていた。

 だがアラヤが弓兵達に告げたのは、さらに残酷な命令であった。

 守護者にせよと。そのために動けと、人類の総意思は言った。殺すな、生かせ、ぎりぎりまで生かして、契約を結ばせろ。

この仕事に二人も人員を割く必要はないと判断されたのか、エミヤオルタだけが残ることになった。赤い弓兵が既に重傷を負っていたのもその一因であった。受肉しようにも霊基が傷つきすぎていた。

 座に帰る間際、彼は願った。身の内にあった二つの聖杯、うち一つに『忘れぬように』、もう一つに『いつか彼女の助けとなれるように』と。アラヤの守護者ではなく一人のサーヴァントとして、マスターを救うために。

 それぞれに、思うことがあった。

 互いに確認したことはない。ただ、言うまでもなく分かりきっていた。どのような末路を辿っていても、彼らは同一人物であるのだから。

 二人、それぞれに約束をした。

 否、壊れ狂った少女に対し一方的に誓ったのだ。

 必ず救うと、誓ったのだ。

 ――地獄を見た。

 地獄を見た。地獄を見た。地獄を見た。

 誰もが願った未来(幸福)が、粉々に砕かれてゆくのを見た。

 

『もし、私が道を踏み外したら。私が悪い誰かに利用されることがあったら』

 

 いつだったか寂しそうに微笑んだ彼女が、冷たい獣になるのを見た。

 

『そうしたら、エミヤが私を殺してくれる?』

 

 完成間近の魔法陣の中心に浮く、少女だったマスターの髪が海月の如く宙を揺蕩う。

 固く閉じられた瞼の奥の琥珀を思う。

 いつか、どうか幸せにと。サーヴァントの多くが願ってやまなかった、儚い救世主の瞳を思う。

 もう二度と、その琥珀がガラス玉の空虚を抱かぬように。ただそれだけを為すために、黒い守護者はここにいる。

 

『ありがとう、エミヤ。やっぱりあなたは――』

 

 彼女の望んだ正義の味方であるために、錬鉄の英雄はここにいる。

 

第四章 それぞれの

 

 誰も、一言も発しない。

 すっかり夜も更けて、昼間の戦闘が嘘のように静寂が森に満ちていた。マスターを拉致し逃走したエミヤオルタを追うのは、全員が戦闘可能なレベルまで回復してからだと立香が判断したのである。そしてキャスターもそれに異論は無かった。逸る気持ちのままにぼろぼろの状態で突き進んだとて、彼女を救い出せるとは到底思えなかったからだ。何せ向こうには、まだセイバーが残っている。

 元の面影を残さぬほど破壊された隠れ家の外で、キャスターは木に背を預け杖を抱えて座り込んでいた。身体の傷は大方治ったが、それより、心が縄で擦られているようにしつこく痛んでいた。

 魔力の切れた立香は焚き火の傍で身を縮めて寝息を立てている。その隣にはランサーが彼を守るように座していた。

 

「……どうだった」

 

 キャスターは火を眺めながら問う。

 背後でアーチャーが実体化し、腕を組んで頭を振った。

 

「駄目だな、既にホムンクルスは行方を眩ませていて、あの学校はもぬけの殻だ。大した情報は得られなかった。それと、ゴーレムの残骸が増えていた」

「……つーことは、やっぱ」

「『回収』されたと考えるのが妥当だろう。バーサーカーのマスターという役割以外の、何らかの使用方法があるはずだ」

 

 そして、このタイミング。

 バーサーカーが倒され、残るサーヴァントはセイバー、アーチャー、ランサー、キャスターの四騎。そのうちセイバーを除く三騎が同陣営である。

 キャスターの見立てでは、敵はバーサーカーとライダーを使ってキャスター達を倒し、人類悪を回収する予定だった。ところがバーサーカーの陣営が独立し、さらにライダーがはぐれサーヴァントと化した(おそらくはマスターを喰い殺した)ことで、彼らは積極性を排し静観を決め込んだ。結果、ライダーとバーサーカーが潰し合う形となった。敵にとってはまさしく、厄介事が共倒れになってくれた訳だ。だからこそ今動いた。残る駒はセイバーのみ――否、もう一つ、駒はすぐ近くに隠れていた。

 

「このタイミングでオルタを寝返らせる、か。下手すりゃその十年前の事件の直後から、奴らは繋がってたってことになる」

「……ああ」

 

 アーチャーの声は低く沈んでいる。

 キャスターとて納得できるはずがなかった。エミヤオルタは『守護者』で、藤丸立香を獣にしないために受肉までしたのではなかったか。これではまるであべこべで、その真意が全く見えてこない。

 加えて、裏切りに対する怒りで沸点を超えていた頭が冷えてくるにつれ、キャスターの脳内にはさらなる違和感が生まれていた。

 

「おい弓兵、パスはどうなってる」

「……健在だ。魔力提供に問題は無い」

「オレもだ。()()()()()()()()()

 

 もし――とても業腹だが――エミヤオルタの立場に自分がいたら、とキャスターは仮定する。

 敵戦力は一つでも潰しておきたい。そして相手はサーヴァントであり、しかも片方は自分の使い魔になった男である。さらに言えば、アーチャーとキャスターという二人のサーヴァントを縛る令呪と、霊基を維持するパスを掌握できている。破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)みたいなもので契約を切るとまではいかずとも、アーチャーへの魔力提供を遮断し、さらにキャスターへのパスにマスター側から介入して魔力提供を断つことができれば最高だ。上手くいけば敵戦力の三分の二を削ることができる。ランサーの相手はセイバーがすればいい。残るは障害にもならない凡骨魔術師の青年だけになる。加えて、マスターとサーヴァントのパスが残っている状態ではサーヴァント側からマスターを逆探知され、ビースト顕現を邪魔されるリスクがある。パスへの対処は最優先事項であるはずなのだ。

 さて、では何故エミヤオルタはそれをしないのか?

 

「おかしいだろ。オレらはまだ魔力提供を受けている上に、マスターの場所だって何となく分かる。これじゃまるでオレらに見つけてほしいと言ってるようなもんだ」

 

 謎が謎を呼び、あの黒い弓兵が何を考えているか露程も予測できない。いったいあの男は何がしたいのか、何が目的なのか、そもそも誰の味方なのか。

 アーチャーは何も言わない。黙って木に凭れている。

 ぱちり、炎の中で枝が爆ぜた。

 

「……場所、分かるの?」

 

 今まで眠っていたはずの立香が緩慢な動作で起き上がる。まだ動きが鈍い。起こされた上体をランサーがそっと横から支えた。

 

「分かるぜ、何となくだけどな。なあアーチャー?」

 

 頭を倒して斜め後ろに視線を投げたキャスターに、アーチャーは是を返した。

 

「ああ。私の感覚では、あの一番高い山だ」

 褐色の指が闇の中のある方角を示す。人間である立香には確実に見えていないが、サーヴァントは夜目が利く。二人にはこの辺りで一番標高の高い山が見えていた。

 キャスターにしても同意見であった。山のどこかは流石に掴めないが、少なくともあの山の中にいるのは間違いない。

 

「近づけばもっと詳細に分かるはずだ」

「……分かった。夜が明けたら、行こう」

「マスター、それは」

 

 今まで沈黙を続けていたランサーが初めて声を発した。炎に照らされた青白い顔が、僅かに心配の色を宿していた。

 

「大丈夫だよ、ランサー。俺は大丈夫。ああでも、俺の魔力が回復しないんじゃあ、ランサーだって戦えないか」

 

 眉根を寄せ考え込んだ青年をランサーは暫し見つめて、やがて何かを決心したように頷き、胸に手を当てた。

 

「マスター、これを。エミヤオルタから預かったものだ」

 

 その身の内から金の杯が取り出される。

 立香は目を丸くした。炎の色が、海色をゆらゆらと舐めていた。

 

「せ、聖杯……!? ああそうか、あの人はそうだった。え、それ中身残ってるの?」

「ああ、セイバーとの戦いで使え、と。今となっては信用できないかもしれないが、オレは彼がこれを預けてくれたことに報いたいと思う」

 

 だから魔力のことはいい、そう言いたかったのだろう。

 立香が心底安堵したように肩の力を抜き首肯した。

 

「……決まりだな、夜明けが来たら出発だ」

 

 キャスターの言葉に異論を唱える者はいなかった。

 

 

 

 連なる山々の峰のうち、最も高い一つを目指す。

 一行は二手に分かれていた。二人ずつではなく、サーヴァントと人間に、である。

 

「無茶だ」

 

 出発前、ランサーはそう断言した。

 あまりの一刀両断っぷりに気勢を削がれたらしく視線を泳がせた立香であったが、それでも負けじと再び自分のサーヴァントを睨んで声を張り上げる。

 

「無茶は承知だっ! それでもこれは譲れないぞ、ランサー。俺は一人で行く。お前はセイバーを引きつけてくれ」

「何故そのようなことをする必要がある」

「……悪い、言えない。でも大事なことなんだ、頼むランサー」

「駄目だ。仮にセイバーを押さえられてもマスターが残っている。魔術戦になればお前に勝ち目は無い」

「そ、そこまではっきり言われると泣けてくるな……。いやいや、やってみなくちゃ分からないだろ!」

 

 いや充分分かりきってると思うがな、とキャスターは冷静に脳内でつっこんだ。

 とはいえ、彼には立香を止める気は毛頭無かった。短期間であったがこの青年が無茶はしても無謀はしないと知っている。ここまでサーヴァント達を遠ざけようとしているのは、きっと何か、彼だけが単独で動かなければならない理由があるからなのだ。キャスターと同じくアーチャーも黙していたのは、彼も立香の真意を薄々察したからであろう。

 まあそれにしても、無茶には違いなかった。片や凡骨、片やあのセイバーの出鱈目な出力を補って余りある魔力を有する魔術師である。勝敗などもうこの時点で判じられる。もし立香がセイバーのマスターに見つかれば、即ち死だ。逃走すら不可能だろう。

 しかし立香は一歩も引かぬとばかりに足を踏ん張って、全力でランサーに対峙していた。とにかく、と彼は宣言する。

 

「俺は一人で反対側から行く」

「却下する。わざわざ死にに行くのか」

「ぐっ……」

 

 ばっさりである。

 が、言葉に詰まっていた立香はやがて握りしめた右手をランサーに突き出し、叫んだ。

 

「どうしても認められないってんなら仕方ない」

 

 にやり、青年は不敵に口元を歪めた。ランサーが一転して目に見えて焦り始める。

 

「マスター、まさか」

「そのまさかだ。令呪を以て命じる、俺の単独行動を黙認しろ、ランサー!」

 

 ……何だかなあ、とキャスターは赤く光って消えていく一画を遠い目で眺めていた。

 自害よりはよっぽどマシかもしれないが、人によっては自害より酷に感じるような命令を下すのだな、と。

 

 

 

 そんな訳で、サーヴァント三騎は森の中を警戒しつつ歩いていた。ランサーが先頭で、アーチャー、キャスターと続く。

 ランサーがちょっとどころではなく沈んでいるのも気のせいではないだろうが、気にしたら負けである。

 

「……まあ、何だ。あまり気を落とすな。確かに我々だけの方が移動速度も上がるし、彼への守りを考えずに済む。彼の判断は正しかったと思うがね」

 

 お人好しが何やら励ましらしき言葉を投げかけているのを後ろから眺め、キャスターはため息を吐く。ランサーの背を覆う緋色のふわふわした装飾が、どうも二割くらい萎れて見えた。

 

「……オレは、マスターも守れない程頼りなく見えたのだろうか」

「いやそうではなくてだな……」

 

 明らかにしおしおと萎びていくふわふわが、ランサーの意気消沈っぷりを如実に表していた。ほら下手にフォロー入れるからそうなる、とキャスターは必死で言葉を選ぶアーチャーに心底呆れ果てていた。

 そろそろ助け舟でも出してやるとしよう。決戦前にこれでは気合いも入らないというものだ。

 

「そんなに今のマスターを気に入ってんのか?」

 

 ぽい、と最後尾から無造作に放った疑問は、先頭のランサーの足を見事に止めてみせた。つられて後ろの二人も立ち止まる。

 

「……そう、見えたか」

「見えた。オレが言えた口じゃねえが、よっぽどだぜ、お前さんは」

 

 そうか、と振り返った彼は白い髪を揺らして首を傾げる。ややあって、薄い唇が笑みを浮かべた。

 

「そうだな、気に入っている。それに……どうも、不思議な感覚があってな」

「?」

 

 キャスターは首を傾げ――アーチャーが何だか複雑な面持ちになっているのを視界の端におさめてさらに疑問符を大きくする。

 

「オレは彼を知っている、ような気がする。ずっと前に親しかった友人に、久しぶりに会うような」

 

 果たしてランサーの言葉もまた、キャスターの首をもっと捻らせるには十分であった。

 

「んだそりゃ。生前の友にでも似てたか?」

「いや、彼は――む」

 

 雑談と歩みの両方がぴたりと止まった。

 キャスターも察知し口を噤む。もうそろそろ気を引き締めておかねばなるまい。

 木立の先から、凄まじいまでの覇気が感じられる。それでいて清廉であり、いっそ美しさすら宿す気配。その様はまるで幻想種のようであった。

 そう、かの英雄がかつて討ち果たしたという竜種のような。

 

「…………どうやら、正解だったようだな」

 

 キャスターの言葉に、ランサーが頷き再び歩き出した。

 三人は固まって木々の間を縫っていく。一歩進む度にその先の英霊が如何に強大であるか思い知らされる。英霊としての格でいえば間違いなく目の前のランサーと並ぶ、大英雄。

 

「――セイバー」

 

 森が途切れた。

 森林限界。高すぎる山にほとんど木は生えず、あるのはハイマツ、下草、そしてわずかな茂みばかり。もう隠れる場所などない。

 火山特有の黒みがかった砂利が地を覆っている。山頂付近は霧が出始めていた。些か悪くなった視界の中で、翡翠の燐光が鮮やかに輝いている。

 

「よくぞ来られた、ランサー、アーチャー、キャスター。だがここを通す訳にはいかない」

 

 背の大剣を抜く男の声は凛と響き、同時に苛烈なる決意を三人に示した。

 何があっても通さぬ。迷いのない、巌のような意志である。

 

「いいや、通させてもらう。こちらにも譲れぬものはある」

 

 ランサーが金色の槍を強く握りしめる。彼らは互いに強固に過ぎる防御を誇るサーヴァント、この二人が相対したとて、そう易々と決着がつくものではない。

 それでも、押し通る。

 

「――ならば、かかってくるがいい」

 

 静かな声だった。なのに、これは咆哮だとキャスターは感じた。猛獣――否、それすら超越した生命が吼えた。

 セイバーが剣を構える。ランサーが前傾姿勢をとる。アーチャーが距離を取って洋弓を投影し、キャスターは体内で大量に魔力を回す。

 もはや言葉は必要なかった。次の瞬間、四騎は最大火力を以て激突した。

 

 

「い、息が上がってきた……」

 

 肺腑を出た呼気がぜいぜいと喉を鳴らす。誠に人の身は不便なものだと、先程英霊達の軽々とした山登りを見送った立香は痛感した。

 サーヴァント一行の向かった山道とは反対側の道を登る。只管に登る。道と言っても獣道とも言えないような最悪の道程であるが、この際文句は言っていられない。汗を拭い、やっと三分の一程度登ることのできた辺りで一旦足を止める。

 

『なっさけないですねえマスター(仮)! そんなんじゃまた凛さんにスパルタですよスパルタ!』

 

 と、彼以外誰もいないはずの森の中で嫌にハイテンションな声が響く。

 立香は特に驚くこともせず、苦笑いで応えた。

 

「スパルタはやだなあ……ていうかその(仮)、いつまでつけるの? そもそも俺なんてマスターどころか呼び捨てでいいのに」

 

 すると、青年の負っていたリュックサックからもそもそと何かふざけたフォルムのものが飛び出し、またきゃいきゃいと姦しく騒ぎ立てた。赤い棒の先端に星、それをぐるっと囲んだファンシーな装飾。とりあえず、二十歳を超えた男が持っていい代物ではない。たぶん見られたらご近所さんで色々噂される類の持ち物である。

 

『そんなぁ、なんて勿体ない! せっかくルビーちゃんが(仮)とはいえマスターと呼んであげてるというのに、感謝はすれども遠慮なんて! 人生の八割損しますよマスター(仮)!』

「そ、そんなに? 俺の人生そんなに失われるの? 呼び名如きで?」

『はい! ですのでまあしばらくはマスター(仮)でいきます。ああでももし私が愛想尽かした場合、ソッコー呼び捨てに切り替えて契約ぶちってするんでよろしく☆』

「はは、じゃあせめてこれが終わってから愛想尽かしてくれ。今はまだ、ルビーの力を借りないと立香(おれ)どころか魔術師一人倒せないんだから」

 

 ぴた、と饒舌(舌は無い)が止まった。

 ステッキはふよふよ宙を飛んで立香の数メートル先で停止し、じゃあ、と呟いた。

 

『きちんと最後までやり遂げたら、一回は(仮)外してあげますよ。そんでぶちっと契約切って、すぐ呼び捨てにして差し上げます』

 

 そのまま先導するかのように進むステッキを、立香はほんの少しだけ惚けたあと慌てて追いかけた。

 

「ま、待って待ってルビー、俺は徒歩、君は空中散歩、俺の足場は超劣悪。OK?」

『OKに決まってますとも。ほらもう少し速度上げますよー』

「ひええ……」

 

 既にスパルタじゃんと呟いた青年の額に、戻ってきたステッキがダイレクトアタックをかましたりしたのは――まあ、いいとして。

 その妙にハイテンションな魔術礼装は、とある人物からの借り物であった。皆にはずっと隠していた。時計塔からここまでほとんどスリープ状態で荷物の中に潜んでいた、立香の秘密兵器。

 それと同時に、彼の自殺行為を実現するものでもある。

 

「ええい、やるよやるよ頑張るよ! オレの力を借りるんだ、俺だってちょっとくらい――」

 

 歩みと飛行、どちらも止まった。

 嫌な気配だな、と立香は思った。

 相手を全く対等に見ていない。どころか、まるで虫けらを靴の底で潰して地に擦りつけるのと何ら変わらぬと宣言しているかのような、舐め腐った殺意であった。

 極わずかに腹も立ったが、それもそうかと立香は思い直す。何せ自分はへっぽこマスター、まともな魔術など一つ二つ使えれば上等なくらい。あまりの才能の無さに師は呆れ果てていた。

 

「サーヴァントも連れず、痕跡も消さず、挙句礼装と会話しながらノコノコやってくるとは。馬鹿もここに極まったという感じかな?」

 

 互いの距離は約十五メートル。

 貴族らしい礼服に身を包んだ男の周囲が嘲りの笑みを浮かべ、そうして自らの魔術を起動する。

 杭だ。大量の氷が杭となって木々の間に浮遊する。その数、百は下るまい。

 あまりのスピードに立香は一瞬呼吸を忘れた。カルデアで見慣れていたあの神代の魔術には劣るが、それでも現代魔術界では相当の能力である。芸術の域まで昇華された見事な業である。

――だが。

 

「生憎、馬鹿は俺の取り柄みたいなもんでね」

 

 凡才、藤丸立香は不敵に笑んだ。

ルビー、と呼べば即座手元にやってくる自慢のステッキ。

遠坂凛は頭を抱えていたものだが、別に立香はこの傍迷惑でうるさいステッキが嫌いではなかった。何だかんだ言いながらもこうして力を貸してくれるのだし、いいんじゃないかな、と。

 

「いくよルビー。定刻まであと少し、なるべく予定通りに沈める――できるか?」

『私を誰だと思ってるんですか。愉快型魔術礼装、最強最悪マジカルルビーちゃんですよ? こーんな、大師父の爪の先程も実力の無いやつ、ぴったりベストタイミングでおじゃんです』

 

 ――彼がサーヴァント達との同行を拒否した理由は二つ。

 一つ目は、セイバーのマスターを何としてでも殺すこと。ここでマスター側からセイバー陣営を崩し、脱落させる。自分を囮として引きずり出す。向こうとしてもこちらの最大戦力であるランサーを何とかしたいはずなのだから、この餌に食いつかない訳がない。

 最適なタイミングでサーヴァント達をあの場所へ向かわせねばならない。力を借りるためにはそれが必要だ。セイバーに手こずって全てが手遅れにならぬよう、ここでこの魔術師を適切な時間で倒すことにより調整する。早すぎても駄目だ。それでは自分も間に合ってしまう。

 そして二つ目は。

 

『魔法少女ゲフンゲフン、魔法青年プリズマ☆リツカ、今日も元気に人理修復です!』

「……その名乗り、やっぱりやるんだ」

 

 この黒歴史の記録を彼らの座に持ち帰ってほしくなかったから……ではなく。

 ()()()()()()()()()()()()()。間に合ってはならない。間に合ってしまっては、対処ができてしまう。せざるを得ない。あの男の本懐は遂げられぬまま、そして救世主の願いも叶わない。

 タイミングをずらす。全てが始まり全てが終わったそのときにこそ、立香の、あの男の、正真正銘最後の戦場が待っている。

 だから。

 だからこんなところで終われない。

 絶対に負ける訳にはいかない――!!

 

 

 

 

 

 こうして、それぞれの前哨戦が幕を上げた。

 それとちょうど同時刻。山頂の男は魔法陣の完成を見届け、その手に一対の銃を投影し。

 術者の青年の頭部に、風穴を開けた。



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第五章

――こんな救いしか与えられないが、これがお前の正義の味方だ。
文句は言うなよ、マスター?


 いつかはこうなるのだと、予感はしていた。

 『私』は爆弾になってしまったのだ。人類を救い、世界を救い、ようやく辿り着いた未来の中には、『私』の席は無い。要らない。もう要らない。私という個人ではない。『救世主(わたし)』はもう必要無いのだ。『私』が救った世界にとって、『私』はもう使う機会の無くなった道具と同じこと。むしろ、数多のサーヴァントを従えるこの在り方は危険とすら取られるだろう。早いところ潰してしまった方が良いし、生かしておいたところでデメリットしかないのなら誰が『私』の席を用意するだろうか。

 薄々そんな気はしていた。

 だから、あの人からの通達も落ち着いて聞くことができた。

 英霊召喚システムによって、私は自分と英霊の縁、繋いだ絆を触媒としサーヴァントを喚ぶ。この身は既に聖遺物。私にしか召喚できない英霊だっている。であれば。

 私を触媒にすることなど、皆が簡単に思いつく。

 私はどうやら死なせてももらえないそうだ。所謂コールドスリープとかいうやつで、封印扱いのままずっとずっと眠り続けることとなる。何でも、私が死んだことを知ったらサーヴァント達が暴走する、とか。

 私の封印は秘密裏に行われ、サーヴァント達には知らされない。何か遺伝子疾患にでも罹ったということにしてカルデアから引き離すのだという。……千里眼持ちを舐めすぎである。別の方策は私から提示することにしよう。

 ――この世界に、もう『私』の席は無い。

 私の席も、無くなった。

 それでも世界を愛している。たとえどんなに裏切られても、それは『私』の、私の救いたいと願った世界だった。恐れられようが邪魔と言われようが、それは私が愛した世界だった。

 だから、これでいい。

 これでいいから。

 ――ねえ。何故、泣くの。

 

第五章 正義の味方

 

「はああああっ!!」

 

 裂帛の気合と共に振り下ろされた大剣を、両手で掲げられた金の槍が受け止める。ランサーの足が地に沈む。衝撃の余波は風となって砂礫を吹き散らした。

 ランサーが大剣を弾き、返す槍でセイバーの懐を狙う。しかし必殺かと思われた刺突は大剣から離れた片手の銀色の篭手に阻まれ、次の横薙ぎは距離を取られて回避される。かと思えばセイバーがその場で剣を振り――

 

「チッ!!」

 

 キャスターは舌打ちしつつ杖を地に突き術式を起動させる。直後彼と他二人をそれぞれ囲んで展開された木の根の防壁が、半円状に広がった魔力放出の衝撃波を受けきった。二擊目は耐えられん、とキャスターは砕かれかけた根を見て再び舌を打つ。数日前一度目にしたときに既に悟っていた。こんなもの、何度も防げるとは思えない。

 

「すまない、助かった」

「おう」

 

 やや離れた位置にいるアーチャーの礼を短く受け取ったキャスターは、次の瞬間息を呑んだ。

 ランサーが防壁を飛び越えて天空で槍を掲げている。その鋒には灼熱を孕み赤々と燃える一つの光球。そして、柄に蛇のように絡みつくフレア。

 

「もはや小さな太陽だな……」

 

 アーチャーの呟きは畏怖を帯びていた。

 全力全開のランサーを止められる者などもはやここには存在しない。聖杯の中身を惜しげも無く使って顕現した極小の太陽、それは彼の炎を極限まで圧縮した爆弾だ。

 無論、そんな破壊兵器をぶっ放してしまってはセイバーとて保たない。が、キャスターやアーチャーはもっと保たない――通常なら。

 出立前、ランサーは淡々とある忠告をした。

 

『セイバーの宝具を突破できるだけの火力となれば、貴方達を巻き添えにする可能性が高い』

 

 そして今、キャスターの前に赤い聖骸布をはためかせ降り立った赤い弓兵はこう言った。

 

『一撃くらいは耐えてみせるさ。遠慮せず、思いきりやりたまえ』

 

 キャスターはそれが誇張でも慢心でもないことを知っていた。遠い遠いどこかの世界で、あの紅い必殺を防ぎきった彼ならば!

 

「さて、このあとしばらく私は戦力にならんが、構わんかね」

 

 右手を前に。

 何でもないことのように、そして余裕たっぷりに。この場に不似合いな自信に満ちた笑み。

 構う訳がない、とキャスターも口角を吊り上げ応えてみせた。

 

「やっちまえ、アーチャー」

 

 空には太陽が二つ。

 セイバーは回避も不可能と悟ったのか、大剣を構え膨大なる魔力をその刀身に集約させていった。柄が開き蒼い宝玉が現れる。

 宝具だ。真っ向から迎え撃つつもりか。

 

幻想大剣(バル)――」

梵天よ、(ブラフマーストラ)――」

 

 真名が双方の口から紡がれる。既に渦巻く魔力は大気の流れをも変え、霧を急速に晴らしていく。

 

「――天魔失墜(ムンク)!!」

「――我を呪え(クンダーラ)!!」

 

 太陽の焔槍と滅龍の黄昏が同時に放たれた、その瞬間。

 

「I am the bone of my sword」

 

 光の中に、薄紅色の華が咲いた。

 

「――『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』!」

 

 

 同時刻、斜面の反対側。

 

「……馬鹿な」

 

 男は呆然と呟くのみであった。無理もないと立香は思う。氷の杭は確かに標的目指して一直線に宙を駆け、そして確かに命中した、はずなのに。

 

「うん、問題無いね。オレの片鱗だけでもこれかあ」

 

 自分は何事も無かったかのように、抉れた地面に立っているのだから。

 

『そりゃああなた、借りてる宝具が規格外すぎますから。ルビーちゃんの防壁と合わせたらもう誰も敵いませんよ』

「そうだね。よし、誰も来ないから今のでギリギリセーフってことでいいかな? もう一回くらいは怒られないよね」

 

 青年は改めて杖を体の前に掲げる。何とも場違いなファンシーなタキシード姿は正直誰にも見られたくない。特にキャスターあたり。だってオプションで猫耳とか尻尾とか着いてるし。

 たぶん敵がショックから立ち戻ってこないのは、攻撃が防がれたことだけでなくこのふざけた見た目も原因なのだろう。ちょっと申し訳なくなってきた。

 

「ルビー」

『了解でーす! 並行世界への部分介入開始、対象の霊基を再確認、スキル再認識。いきますよお、ちょっと汚染されますがそこは気合で耐えてください!

――夢幻召喚(インストール)、局所展開!』

 

 ああ、流れ込んでくる。

 ほんの僅かな泥だけでも、こんなに脳を潰されていく。

 別に、構わない。意志さえ残れば、決意さえ残れば、それでいい。あとは前に進むだけ。もう戻る場所なんてどこにも無い。

 

「おま、え、まさか、馬鹿な、ありえない、彼女は回収した! ビーストは一つじゃなかったのか!? ありえない、ありえないありえないありえない! お前は――」

 

とてもうるさかった。

耳障りで、うるさくて、我慢できなくて。

 黙らせたのに、耳鳴りが遠く騒いでいて。

 これは、誰?

 

 

 流星雨が綺麗だった。

 あの人と最期に見た景色。あの人が消えていった宇宙。

 そして約束を果たせなかった自分。

 泣き声が聞こえる。

 耳鳴りが響いている。

 極天を星が墜落していく。

 

 

「………………あ」

 

 ふと我に返った。

 足元は血で濡れている。死骸が一つ転がっている。

 

「ルビー、俺どれくらい呑まれてた?」

『二分くらいですねえ、やっぱり汚染が酷いです』

「そう。ランサー達は……突破できたかな」

 

 耳鳴りは止んでいた。

 ここからでは戦闘の音が聞こえない。セイバーのマスターを処理できたのはよかったが、マスターが死んだからといってすぐにサーヴァントが消えることにはならない。最後の足掻きだってするだろう。

 変身は解けていた。セイバーのマスターに息が無いことを改めて確認してから、青年は山の斜面を再び登り始める。

 その後ろを、ステッキは黙ってついて行った。

 

 

 衝撃と爆風が周囲の草木を薙ぎ払っていった。

 爆弾の落ちたかとも錯覚するような、凄まじい威力の一撃同士の激突。キャスターはゆっくりと目を開く。衝撃はようやく収まったが、まだ土煙で視界が覆われていた。

 目の前には赤い背中。美しい七枚の花弁は全て砕け散り、見る影もない。

 だが――防ぎきったのだ。この男は宣言通り、あの激突の余波を完全に遮断してみせた。

 

「……は、君の必殺の方が、堪えた気がする、な」

 

 ぐらり、その身体が傾ぐ。

 キャスターは咄嗟にそれを受け止め、肩を貸して支えた。筋力値は最低だが大柄な男一人くらいならどうということはない。

 

「そりゃどうも。おら手ェ回せ、立てるか?」

「すまない……ああ、これなら大丈夫だ。だが移動速度が遅くなる、のは」

「分かってる、気にすんな。オレじゃアレは防げなかったんだから」

 

 息も絶え絶えなアーチャーである。無理もない、剣以外の投影はかなり魔力を消費するのだと聞いたことがある。内部魔力はもういくらも残っていないはずだ。回復には時間を要する。

 

「……で、どうだ、見えるか?」

「生憎この目は魔力で動いていてね、今は少し、効きにくい。君に見えないなら私にも無理だ」

 

 つまり、暫くアーチャーの斥候としての機能は封じられたも同然ということだ。キャスターは自身の感覚を頼りに状況を把握しようとする。

 やがて、土煙が緩やかに晴れていった。徐々にクリアになっていく視界の端、キャスターはランサーの背を捉えた。どうやら五体満足、特に出血も損傷も見受けられない。

 

「ランサー」

「……感嘆に値するな。本当に防ぎきったのか」

 

 歩み寄ったキャスターに支えられているアーチャーへ、やや藍玉の瞳を見開いてランサーが呟いた。

 

「暫し休息は貰うがね。……どうだ?」

 

三者三様に、流れていく土煙の先の影を睨む。

 セイバーにはどれ程のダメージを与えられたのか、それとも彼はあの太陽を相殺しきってみせたのか。

 果たして、土煙の完全に晴れ渡った先にいたセイバーは――

 

「……あれを受けて、たったあれだけの損壊で済むとは」

 

 余波を受け止めるのすら精一杯だったのに、と言外に滲ませながらアーチャーが零した。畏怖すら混じった言葉であった。

 セイバーは頭から僅かに血を流し、肩の鎧は片方ひしゃげている。が、目に見えるダメージはそれだけだ。宝具による相殺もかなり効いたのだろう。この英雄の誇る要塞級の防御力と攻撃力を改めて思い知らされる。

 これでは真っ当に押し通ることなど不可能、とキャスターは歯噛みする。悲観的になったつもりはなかった。純然たる事実であった。この男は、硬すぎる。

 だが。驚愕していたのはキャスター達だけではなかった。

 

「マスター……?」

 

 呆然と、セイバーが呟く。その翡翠の双眸が山の向こう、彼の背にしていた方角へと向けられる。

 そこでキャスターは気づいた。魔力の流れが途切れている。セイバーのマスターと思しき反応が山の反対側にあったのは気づいていた。それが、消えている。

 立香だ。いったいどうやったのかは知らないが、立香がセイバーのマスターを打倒した。たった数秒でキャスターは悟った。彼はこれがやりたかったのだ! 立香の狙いはセイバーのマスターだったということか。

 

「ランサー!」

 

 キャスターの叫びに込められた全ての意味を汲み取り、ランサーが槍を振りかざし駆ける。

 金の槍をセイバーは防いだ。先程と同じに見える。だが違う、確実に精彩を欠いている。宝具を撃ち、またもう一つの鎧の宝具をフルに使ってランサーの太陽を防ぎきった。だからこそ今はガス欠で、加えて魔力はもう絶対に供給されない――!

 

「このまま抑える、先に行け!」

 

 ランサーが吼える。元よりそのつもりであったキャスターはアーチャーから手を離し走り出す。既に走れる程度には回復しているだろうと見込んでの行動だった。予想通り、アーチャーはキャスターに追随してくる。

 

「行かせるか!」

 

 セイバーも吼えた。同時に鍔迫り合いの大剣から放たれる魔力の衝撃波。方向を定めず、あたかも水面に一石を投じたときのように波状攻撃が広がる。

 しかし。

 

「私を忘れてもらっては、困るな……!!」

 

 走りながらアーチャーが再び魔力を回す。背後に振り向きかけの無理な体勢ながらも投影された陰陽剣の片割れが投擲され、衝撃波に触れたと同時に起爆した。衝撃に衝撃がぶつかり強引に塞き止める。

 

壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)というのは、こういう使い方もあるということ……だ」

 

 明らかに消耗の度合いが増したアーチャーは、それでも不敵に笑ってみせた。

 

 

 

「……行ったか」

 

 セイバーの声にランサーはふと違和感を覚えた。これは何だ? どこか安堵を感じさせる、この呟きはどういうことだ。

 

「聞きたいことがある、竜殺しの大英雄よ」

 

 ランサーは鍔迫り合いを解き距離を取る。セイバーは追ってこない。いや、追っては来られないのか。

 

「何だ」

「貴様はこの戦争の歪みを知っているか?」

 

 ぴくりとその眉が動いた。

 沈黙の帳が落ちる。やがて、彼は徐に口を開いた。

 

「知っているとも。人類悪、願いを叶える力の無い聖杯。マスターは後者を最後まで隠そうとしていたようだったが」

「……ならば何故、オレ達の行く手を阻んだ」

 

 セイバーの顔はいつの間にか穏やかなものに変わっていた。慈しみすら感じられた。

 

「頼まれたからだ、と言っておこう。貴方達の到着を遅らせてほしいと。そうすれば、きっと」

 

 金色の粒子がセイバーから立ち昇り始めた。時間切れだ、と彼は歌うように告げる。

 

「俺の役割はここまでだ。願わくば、ランサー。貴方はここに残っていてほしい。あのマスターからの伝言なのだそうだ」

「……オレの、マスターの?」

「令呪を使うことも考えたのだという。その意味の分からぬ貴方ではあるまい」

 

 分かるとも。ランサーは混乱する頭に片手を当て、消えゆく男をただ見つめる。分かるからこそ分からない。あの青年は、あの夕焼け色を救おうとしていたのではなかったのか? これではまるで彼とあの黒い弓兵が繋がっているかのような――

 

「ああ、それと。できれば彼女に伝えてくれ。初めに会ったとき、致し方なかったとはいえ殺す気で襲って、すまなかったと」

 

 最後にそれだけ言って、竜殺しの大英雄は消滅した。

 

 

 黒い弓兵がエミヤと主に呼ばれるようになったのは、召喚から間もない頃であった。

 こんな、記憶も記録も名すら棄てた男を真名で、しかもオルタナティブとも呼ばずに。何故そのような呼び方をするのか、と男は聞いた。その記憶は今残っていない。古ぼけた日記の初めのページ、掠れたインクはその一部始終を伝えていた。

 

『だってあなたは私の正義の味方でしょう』

 

 そんなもの理由にすらなっていない。そもそも前提が間違っている。この腐り果てた黒い守護者は、最早正義など振りかざせる存在ではない。

 

『そうなの? でも、私は知ってるよ。あなたは確かに正義の味方なの』

 

 根拠は? と聞けば、内緒、とはぐらかされた。

 

『キャスターから聞いたよ、赤いあの人も正義の味方になろうとしたのだって。だから、何ていうか……あなたを反転(オルタナティブ)と呼ぶことに、抵抗? があるというか』

 

 不思議な少女であった。

 エミヤ、と少し高めの声が呼ぶ。()()()エミヤが召喚されてもそれは変わらなかった。ずっとずっと変わらなかった。

 だから、だろうか。

 いいじゃないか、正義の味方――なんて。

 言ってみたところで、なれるはずもないのに。

 何だか妙に泣きたくなるのは、そのせいではないと思うけれど。

 

 

 

 轟音と衝撃が社殿を揺らした。

 パラパラと木屑や埃が落ちてくる。崩れないだろうな、と一瞬心配にはなったが、どうやら保ってくれそうだ。

 

「なあマスター、オレはアンタの正義の味方になれたかな?」

 

 ふと、振り向いて聞いてみる。返事は無い。揺蕩う夕焼け色の彼女は硬くその瞼を閉じたままだ。

 随分髪が伸びた。赤い方の己もそう言っていた。憶えている。まだ肩口までしかなかった、あちこち跳ねるお転婆な髪。今ではもうそんな溌剌さは消えてしまった。あの少女は死んだのだ。十年前のあの日、泥に呑まれて死んだのだ。

 記憶を零すのは不便だが、抱き続けるのもあまり良いことでは無いのだと黒い守護者は思う。古ぼけた黒い革の日記は十年前に役目を終えて、今ではポケットのスペースを圧迫するだけの代物である。けれど、捨てる気は何となく起きなくて、ずっとジャケットの内ポケットに突っ込んだまま、たまに捲っては読み返す。

 抱き続けるのは、きっと良いことでも無いのだ。

 それでも文字を追っていく。取り零した記憶の欠片を一つ一つ拾い上げるように。二度とは復元できぬいつかの日々を、僅かでも埋めていくように。

 レイシフト先で無茶をやってしこたま叱られた。反転した騎士王にマスターごと連行され、三人でジャンクフードを食べた。ハロウィンの仮装で軍服を着た。戦闘のことから本当にくだらない馬鹿騒ぎまで、擦り切れた革の日記帳に残る現界の記録。

 それももう、捨てなければならない。

 

「随分、早いご到着だな。セイバーを振り切ってからの移動速度を甘く見ていたか?」

 

 マスターを背に、エミヤオルタは社殿の入口へと顔を向ける。

 苛烈な眼光の青いドルイドと、反転していない自分。

 

「……オルタ」

 

 そう、今のキャスターのように、そう呼んでくれれば見限ることもできたかもしれない。

 オルタナティブ。それがこの■■■■の成れの果てに相応しい呼称。そう呼んでくれたなら、頑なに真名のみを呼ぶ主でなかったなら、まだ切り捨てられたのかもしれない。彼女の肯定した正義の味方なんて幻想(ゆめ)を、放り投げることだってできたのかもしれない。

 こんな、彼女の救った人類の一人もいない寂しい場所で、彼女を終わらせることもなかったのかもしれない。

 ――なんて。そんな詮無いことを、どうして今ここで考えるのか。

 

「これ、は。おい、この男は……!!」

 

 そういえば放っておいたのだったか。床に打ち捨てたままの若い男の死骸を見た赤い弓兵が叫ぶ。

 

「どういうことだ、私!!」

「どうもこうもない。そいつはもう用済みだったからな。マスターを反転させるための駒だった、ただそれだけの話だ」

 

 魔法陣を見る。完全起動まで残り数分、誤差の範囲とするにはやや長い。

 

「さて、残念ながらこちらはまだ少々時間が足りていなくてな。悪いが足掻かせてもらうぞ」

 

 左手に宿ったマスターの証はあと二画残っている。いつかどこかでこの赤を見たのだろう。そんなことはもうどうでもいい。使えるものは何だって使う。立香とセイバー、それぞれがそれぞれに足掻いてくれた。ならば最後の帳尻合わせくらい成し遂げてみせる。

 

「二画の令呪を以て命じる。キャスターを足止めしろ、アーチャー」

「き、さまっ……!!」

 

 怒るか。エミヤオルタは真鍮の目を細める。最後まで言わなかったのだから、当然だろう。彼は知らないのだ。同じくカルデアの記憶を抱き続けても、あのエミヤはこの計画には関与していないのだから。

 重ねた令呪の効力は絶大で、わずかな抵抗も許さずアーチャーに剣を持たせた。振り下ろされた干将莫耶をキャスターが杖で受け止める。

 

「くそっ……! オルタ!! テメェいったい何が目的だ!!」

 

 目的、目的、目的ときたか。

 思わず口元に笑みが浮かぶ。馬鹿な質問をしてくれるな。そんなもの、初めから正直に言っていたじゃないか。

 

「オレの目的だと? 決まっているだろう。オレはこいつに召喚された。聖杯を探し、回収し、人理を修復するために雇われた。こいつが役目を果たそうと望むなら、オレはそのために動く。それ以外に何がある」

「……なん、だと」

 

 キャスターの動きが止まった。同時にアーチャーの攻撃も停止する。命じたのは『足止め』であり『殺害』ではない。初撃はともかく、向こうが手を出さなければアーチャーも無理な追撃を行わない。

 痛快で、馬鹿みたいだった。聖杯の回収をしなければならないとマスターも最初から言っていただろうに、何をそこまで驚くことがあるのか。

 

「聖杯を破壊する。二度と悪用されないように。それが、マスターが出した最後の命令だ。ならばオレはそれに従う。たとえ、こいつを獣にしてでも」

 

 その聖杯は既に見える場所には無い。このビーストの顕現に必要な材料は莫大な魔力だけではなく、聖杯という概念そのものだ。故に、彼女の体内に杯は呑まれた。それこそがこの世から魔術王の聖杯を滅却し、かつアラヤの指示と折り合いをつけられる唯一の道だった。

 

「知らなかったか? オレ達サーヴァントに取り込まれた聖杯は、その分霊が座に帰るのに従ってこの世から消える。今までこいつが集めた聖杯は、そうやって消滅した……たった一つを除いてな」

 

 だが、それももう終わりだ。

 

「最後の一つはこいつに取り込まれた。獣の材料として聖杯が吸収され消滅するのは前回で証明済みだ。たった今、我らがマスターの最期の命令をオレは完遂したという訳だ」

「……まさか、そのためだけに今まで」

 

 キャスターは既に戦闘態勢ではなかった。好都合だった。もう術式は完全に起動する。

 

「フッ、どうだろうな。マスターに命じられたことは終わったが、もう一つ別の命令が残っている」

 

 ぱち、と床の魔法陣が火花を散らした。

 途端に迸る魔力の生み出す風が、ただでさえ脆くなっている社殿の骨組をぎしぎしと不穏に鳴らす。

 同時に、エミヤオルタの背後、そしてマスターのさらに背後に巨大な白い何かが顕れた。……とは、この場にいる全員が視認できていない。ただ感じ取ってはいる。莫大な力を有する何かが中空にいるのだ、と。それと契約したことのあるアーチャーは、その正体に気づいているようであった。

 

「そら、現れたぞ。見えないだろうが気にするな、アレはそういうものだ。大方、獣への変生を防ぐことを条件に契約を持ちかけているのだろうさ。今殺すか後で殺すか、どちらでも人殺しになるのは避けられないがね」

 

 術式は起動した。最後の仕上げ、則ち彼女に死を贈る仕事は自分に任されている。アラヤが契約を結んだ後に殺すこと。本来獣として成り立つその死体は、アラヤの力により封じられて事なきを得る。代わりに彼女は掃除屋になり、擦り切れるまで使い倒される。

 今獣になり現代の人々を殺し尽くすか、守護者になりどこかの時代の人々の命を刈り取るか。結局、救われない分かれ道。だがたった一つ違うのは、ここで獣にならなければ、少なくとも彼女は大切なものを壊さずに済むということだ。あの悲劇を繰り返さずに済むということだ。無論知らない誰かなら殺してもいいなんて神経をしていない彼女にとっては、その後の世界も地獄でしかないのだろうが。

 ここからはもう誰も彼女に関与できない。契約するか否か、彼女の内面での葛藤は見ることができない。

 令呪の効力が切れた。アーチャーが膝をついて荒い息を吐いている。

 その後ろに何も知らないままの男が一人いる。少しくらい教えてやってもよさそうだとエミヤオルタは考えた。気まぐれである。どうせ時間はまだ残っているし、手持ち無沙汰でもあった。

 

「暇つぶしに、昔話をしてやろう。何、大して長い話じゃない。世界を救ったのに自分だけ救われなかった、哀れな救世主の話だ」

 

 ――本当は、哀れだと思ったことはない。けれど理不尽を感じたことはある。これくらい赦されるのではと誰かの夢見たささやかな幸福を、引き潰される理不尽さ。

 

「よくある話だ。救世の英雄は、用が済んだらもう要らないと言われたのさ。……ただ、それで穏やかに終われたなら、こんなことにはなっていなかったのにな」

 

 いつか、どうか幸せに。

 只管願う者がいた。叶う訳がないと悟りながらも祈らずにはいられなかった者がいた。純粋に世界に怒りを抱く者がいた。

 皆、悉く死んでいった。

 目の前で戸惑いを露わにしているドルイドの分霊もその一人であった。

 

「恨んでいたかもしれない。そいつは何も言わなかったが、腹の中では憤っていたかもしれない。聖人でもないのに全てを赦せなど、馬鹿な話だろう」

 

 ジャンヌ・ダルクという聖女がいる。彼女は火刑に処されても最期まで恨まなかったという。それこそ異常で、人間離れしていることだ。故に聖人であったのだ。

 だが藤丸立香は聖人ではなかった。狂人でもなかった。彼女はただの人間だった。怒りもするし、悲しみもする、エミヤオルタより余程人間らしい人間だった。

 

「世界を丸ごと救ったのに、救世主なのに、自分だけは救えなかった。世界から弾かれたものをどうやって救う? ハッピーエンドなんて無かったのさ、この救世主には。御伽噺の中のような『いつまでも幸せに暮らしました』なんて一文は、こいつの人生には一度だって記されなかった。誰も彼も、こいつの傍にいた奴等が幸福を願っていたにも関わらずだ」

 

 背後の気配が動いた。

 もうすぐ契約が成立する。いや、もう成立したのだろうか。きっとアラヤはその白い手を伸ばし、彼女の頬に触れるのだ。その行為こそ契約の完全なる成立を意味する。

 

「――だから」

 

 ――いいじゃないか、正義の味方。

 そんなことも言っていたっけ。遠く遠く、白い星見の館で彼女と過ごしたわずかな日々を、十年の月日に塗り潰されぬよう、柄にもなく必死に足掻いた。残っていない記憶の代わりに、古びた日記のページを捲った。

 もう日記は必要ない。くだらない記録は必要ない。それでも読んだ。読み続けた。捨てなければならないこのときになってもまだ、未練がましく内ポケットに忍ばせ続けた。一番馬鹿らしいと嘲笑するのは自分自身なのに、それでも。

 正義の味方になろうと決めた。

 万人でなく、ただ一人あの救世主のために。彼女の望んだ最期のために。

 手を伸ばす。魔力を回す。振り返る。

 揺蕩う彼女の瞼の奥の、儚い琥珀の色彩を想う。

 もう二度と硝子玉の空虚を抱かぬようにと。泥と愛する者の血に塗れた地獄を映さぬようにと――!

 

 

 

 発砲音はいつもと同じ。

 剣の花が咲く。

 

 

 

 心臓は砕けただろう。動脈は裂けただろう。きっとこのまま安らかに眠れるだろう。

 ああ、やっとだ。これでやっと、正義の味方に任せておけと、子供みたいに胸を張って、輪廻の外へ見送ることができる。

 

「何があっても救うと決めた。腐り果てたオレには、こんな救いしかくれてやれないが」

 

 なあ、マスター。契約なんぞするもんじゃない。お前に人殺しなどさせて堪るか。

 彼女の背後の気配が停止した。勝手に動き無断で彼女を殺したことへのペナルティは、どうやら特に生じていない。このまま現界を終わらされるかとも危惧していたが杞憂だった。

 聖杯を回収する。壊れてしまった救世主にただ一つ残ったその意志を一緒に背負って、彼女を地獄行きの分かれ道から引っ張り出す方法を探した。だがそんなもの、十年彷徨っても結局一つしか見つからなかった。

 救うために抗うならここしかなかったのだ。彼女が契約を結ぶこの瞬間に、殺害により強制的にアラヤの呪縛を断ち切るしかなかった。聖杯を呑み込ませてから殺すしかなかった。限界まで唯々諾々と従って、最後の最後で抵抗するしかなかった。

 救世主がゆっくり目を開ける。綺麗な琥珀色だった。

 正義の味方は歩み寄って、浮遊する彼女の正面に立つ。

 

「マスター。マスター、聞こえるか」

 

 名を呼んだことはなかった。彼女はどこまで行っても『マスター』だった。それでよかった。それで、十分だった。

 

「……エミ、ヤ?」

「ああ、オレだよ」

 

 焦点の合わない双眸に、それでも微笑んでみせた。安心させたかった。もう見えていないのかもしれない。けれど、どうしても。

 

「言っただろう、マスター。何も殺させずに終わらせてやると。守護者になどさせない。お前にこれ以上人殺しはさせないから。獣は必ず食い止める。アラヤと契約する必要はない。だからもう、いい」

 

 もう、いいんだ。

 救世主は瞳を閉じた。はずみに目から涙のように泥が流れた。

 

「…………アラヤ」

 

 わずかに開いた唇の隙間から、どろりと血ではなく汚泥が落ちた。

 

「契約を拒否します。わたしの」

 

 咳を一つ。床に落ちた泥と、胸に咲いた剣の先から滴り落ちる泥とが入り混じっていく。

 

「……わたし、の。せいぎのみかたが、すくってくれると、いった、から」

 

 ――巨大な気配が掻き消えた。

 救世主が再び目を開く。うろうろと眼球が揺れる。もう見えていないと分かってしまった。これはもうすぐ、終わる。

 

「えみ、や、えみや、どこ」

 

 幼子のようであった。一緒にいてとねだる小さな迷い子。

 正義の味方は手を伸ばす。血の気を失った青白い頬に触れる。

 

「ここだ。ちゃんとここにいる。見ててやるから、安心して逝くといい」

 

 じわり、彼女の顔に安堵の色が広がった。泥に汚れた唇が、最後の笑みを浮かべる。

 

「……あり、がとう」

 

 

 そうして。

 世界を救い、自分を救えず、それでもなお世界のためにもがき続けた救世主は、従者に看取られ静かに息を引き取った。

 



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断章

遅くなってすみません……

この章だけ、別の並行世界のお話です。


「ホント、物好きにも程があるぜマスター? オレなんか強くしてどーすんのって」

 

 最後の聖杯を取り込んで、悪が嘆息した。

 要らなかった? と少年が問えば、貰えるもんは貰うけど、と彼は嘯く。

 

「しっかしこんだけ聖杯取り込んでも弱いものは弱いんだなあ……逆にすごいと思うよ、オレ」

 

 今度は少年がため息を吐き、タブレットの画面に表示されているステータスに目をやる。確かに弱い。聖杯をいくつも飲んだのに、とんでもなく弱かったのがまあまあ弱いといった程度に改善されただけだった。ここまで徹底的に弱いと最早ギャグである。流石は元一般人、と少年は肩を落とした。

 

「死滅願望無かったらオレと戦闘力同じくらいじゃね?」

「ガンドしか使えないへっぽこよかマシですぅー」

「あっひでえ! 気にしてんのに!」

 

 けたけた笑うアンリマユと少年は、見た目の年齢が近しいからか悪友同士のようであった。

 

「……まあ、さ」

 

 笑いの波が引いたあと、ふとアンリマユは静かな声で呟く。

 

「それなりに嬉しいからさ、アンタがピンチになったら、これ使って助けてやるよ」

「……この世全ての悪が、人助け?」

「ヒヒッ、そうだなおかしいよな。ほらどこぞの正義の味方みたいにはいかないからさ、どーしても助けたようで助かってないみたいな有様になるだろうけど」

 

 愉快そうにくつくつと喉奥を鳴らしたアンリマユに、少年はきょとりと首を傾げてから言った。

 

「それでいいよ。アンリがオレに手を貸してくれるっていうんなら、どんな手だって構わない」

「……は」

 

 ピタリと動きを止めたアンリマユは、少年の真っ直ぐな青い瞳を凝視した。

 嘘でも冗談でも無いのだ。凪いだ海のような瞳をした救世主の表情には、そんな気配は微塵も無かった。

 

「…………もしかしてさあ」

「うん?」

「オレ、めちゃくちゃ信頼されてる?」

「何を今更」

 

 少年が顔を綻ばせる。

 ――それは、時間神殿に突入する前日のこと。

 少年と悪魔が交わした、一つの約束。

 

断章 星に憧れて

 

 ――届かなかった。

 誰が悪い訳でもない。ただ力が足りなかった。

 霊基を維持できず消滅していくサーヴァント達。金の粒子は極天の流星雨の輝きにかき消されて、もう跡形も無かった。

 たった一騎を除いては。

 

「諦めるかい? マスター」

 

 こんな時まで飄々と、何とも気軽に言葉を放る男がいた。

 とある世界の正義の味方の殻を被った、この世全ての悪がいた。

 赤い腰布は血を吸って黒ずみ、体表の蛇が這うような刺青は、ずたずたに裂かれて見る影もない。片目は潰れ、両腕は折れて武器を握ることすらできず、霊核とてとうに砕かれ、それでもその悪は、痛みなど苦でもないと言うかのような、いつもの薄っぺらな笑みを浮かべてしゃがみ込んでいた。

 その潰れていない片目が見下ろした、白い礼装を血に汚してうつ伏せに倒れていた少年の、投げ出されていた手が握りしめられる。そこには既に令呪は無く、使い切られた三画の跡だけがあった。

 黒髪が揺れ、ひどく緩慢にその上体が持ち上がる。海色の瞳はまだ光を失っていない。

 

「……諦めない。諦める訳にはいかない。ドクターのためにも、マシュのためにも、オレは絶対諦めない」

 

 血を吐くような苦悶の声は、しかし泣き言の一つも作らなかった。

 悪は笑っている。先の質問を放ったときと同じ薄紙のような笑顔のまま、二つ目の問を落とす。

 

「その先の世界に、アンタの椅子が無くても?」

「…………」

 

 少年の瞳は、露程も揺らがなかった。

 いっそ苛烈とも言える光が、見下ろす悪のガラス玉に吸い込まれていく。

 そして、悪は初めて血濡れた口から笑声を漏らした。感嘆ともとれたし、嘲りともとれる、不思議な笑いであった。

 

「ヒヒッ! いいねいいね、よく言った! ――じゃ、約束通り助けてやるよ。アンタの忠実なサーヴァントからプレゼントだ」

 

 ぐちゃり、傷口に折れた腕が突っ込まれ、そこから何かどす黒いものを零す金の杯が引きずり出された。

 それは今まで彼の霊基の消滅を瀬戸際で防いでいた最後の力であった。呪いと怨みを詰め込んだ、泥の杯の集合体であった。

 

「せいぜい気張んな、マスター」

 

 その杯から手を離すと同時、今まで止まっていた時を再び進めたかのように彼の霊基は崩壊を始め、やがて一握りの塵を遺して音もなく消え失せた。

 残された少年は一人、泥に手を汚して杯を掴む。

 

「プレゼント、ね。これ、元はオレがあげたやつだろ」

 

 呆れたように鈍く微笑んで、少年は満たされた泥を飲み干した。

 

 

 

 魔神王は荒廃した神殿の中心に堂々と立ち、最後に黒いサーヴァントが消えていくのを見届けた。

 その身体は決して無傷ではない。数多の英雄に切り刻まれた獣は、しかしそのどれもが致命傷ではないことを知っていた。

 少年は届かなかった。届く訳もなかった。

 たとえこの獣がソロモン王の宝具によって殺され得る存在になっていたとしても、少年は遠く及ばない。

 ゲーティアはふと空を見上げた。

 星が瞬く。神殿の外縁では今でも英霊達が奮戦しているのであろう。たった一人の、平凡でどこにでもいるような少年を信じて。

 くだらない、何ともくだらない。

 見ろ、この少年は結局敵わなかった。英霊達の信じた少年はここで呆気なく返り討ちにあった。

そんなことを、つらつらと考えた。

 ――ゲーティアに敗因があるとするなら。このときその少年から目を離してしまった、その一点に尽きるだろう。

 少年に止めを刺そうと思い立つまで、そのわずか十秒足らずの時間に、勝敗は決したのである。

 

「これで終わりか。大口を叩いておいて何と呆気ない。では、死ね」

 

 突っ伏した少年に、魔神王は手を翳す。

 少年の地に伏せたままの口から、礼装の袖口から、襟元から、溢れる泥に気づかぬまま。

 

「――宝具解放」

 

 少年の声に応えるように、ごぼり、溢れた泥が泡立った。

 

「………………? っ、これ、は……っ! 貴様、そうまでして抗うか!!」

 

 それでようやく事態の急転を理解できたとて、焦って第三宝具を放ったとて、もう全てが遅かった。

 

「『変生の時きたれり、其は世界を愛するもの(ロード・カルデアス)』」

 

 そして。焼却された人理の燃えカスは不屈の壁に阻まれた。

 奇しくもそれは、燃え尽きてでも少年を守りきった少女の、以前展開していた宝具に酷似していた。

 少年は立ち上がる。射干玉の黒髪は空虚な白へ、古代王の好んだ海色の瞳は濁った血の色に転変し、死体色に変じた肌に歪な黒の亀裂が走る。纏うは泥のドレス。その手が握るのは、彼が最も愛した英霊の武器を模した何か――右歯噛咬(ザリチェ)左歯噛咬(タルウィ)

 

「さあ、聖杯戦争を続けようぜ、ゲーティア」

 

 少年だった何かが歪に笑う。

 その笑顔は、その力を託して消えたこの世全ての悪のそれと、よく似ていた。

 

 

 

 貴方が生きた世界を愛していた。

 貴方の愛した世界を愛していた。

 ねえ、確かにこの世界には悲劇もたくさんあるけれど。

 ――それでも、世界は美しいんだと思う。

 

 

 神殿が崩壊していく。

 絶え間ない地揺れの最中、地割れに滴り落ちる泥を眺めていた少年――もう一体の獣は、ふと後ろを振り向いた。

 そこに浮かんだ、金色の燐光を散らす最後の欠片に静かに勝利宣言をした。

 

「……終わりだ、ゲーティア。オレの勝ちでもあり、お前の勝ちでもある」

 

 金の髪を靡かせる獣の残滓は崩れかけの口を開き、そして一度閉じて、また開いた。

 

「……そうだな、私の勝ちでもあり、貴様の勝ちでもある」

 

 少年だった獣は緩く相好を崩した。

 

「不思議な心持ちだ。私の行った全ては無為となった。ここで貴様を道連れにしたところで、何の意味も無いというのに。何故、私はこうも達成感を得ているのか」

 

 金の獣は訥々と語る。それを聞き届けた白髪の獣がぱちりと血の色をした瞳を瞬かせ、それから言った。

 

「それが、人間だよ」

 

 初めて金の獣が表情を変えた。薄く、儚く、風花のように微笑んだ彼は、ただ一言。

 

「そうか、これが、人間か――」

 

 感嘆に満ちた呟きを遺して、消えた。

 

 

 

 流星雨が綺麗だった。

 少年だった獣は、もうわずかも安定しない足場から離れ、宙に浮遊し天を仰いだ。

 見飽きること無く見つめていた。

 自分にはもう手を伸ばすことも許されないけれど、この目に焼きつけていこうと思った。

 だって、あんなに綺麗なのだから。それくらいは赦してほしいと落ちる星々に願いながら、その場にずっと佇んでいた。

 

「先輩!」

 

 聞こえるはずのない声が、聞こえた。

 咄嗟に振り向けば、遠く最後に残された神殿の外縁で手を必死に伸ばす少女がいた。

 

「……ああ、マシュ。よかった、生きてたんだな」

 

 よかった。獣はあたたかいものに満たされていく胸にそっと手を当てた。

 一番守りたかったものだった。彼女を守れたのなら、守られるのではなく守れたのなら、それはどんなに素晴らしいかと思っていた。

これでいい。十分だ。平凡で何も持たない自分にしては上出来すぎる終わりだった。最後の最後で大切なものを守れたのだから。

 

「先輩、こちらへ! そこは崩れます、早く!」

 

 ほんの少しだけ胸が痛んだ。

 彼女とて、もう面影を留めていない獣の有様を認識しているはずだった。なのに躊躇いなく小さな手が伸ばされる。先輩と、まだそう呼んでくれる。こんな泥に沈んだ獣を、先輩と。

 ここではこちらの声が届かないな、と獣は気づいた。泥のせいか、喉が涸れて碌に大声が出せない。ふわりと宙を漂い、獣は少女の目前に、けれど決して彼女の手が届かない位置に移動した。

 嬉しそうに安堵のため息を漏らした少女に触れたい気持ちを押さえつける。会えただけでよかったのに、人の欲には限りが無い。

 

「……ごめんな、マシュ。オレは行けない。そっちにはもう戻れないんだ」

 

 掠れた声で、きっととても残酷なのだろう謝罪を一つ。

 少女の顔から血の気が引いた。菫色の瞳が見開かれて、ふるふるとわなないてみるみるうちに滴を溜めた。

 いやです、と。小さな拒絶が繰り返される。

 

「いや、いや! いやです先輩! どうして、どうして!!」

 

 可哀想なことをしたかもしれない。獣は泣きじゃくる少女を見て少しばかり後悔した。別れなど告げず、彼女のすぐ後ろに開いているレイシフトゲートに突き飛ばしてしまえばよかったのだろうか。

 それでも、人の欲には限りが無いのだから。きっと別れを告げるくらいは仕方のないことだ。決して触れない代わりに、彼女を汚さない代わりに、言葉くらいは捧げてもいいじゃないか。

 ――少し、汚染されすぎたようだ。獣はどこか他人事のようにそう思った。ゲーティアを倒した後、もう必要ないとスキルを使っていなかったからだ。自分にしては我儘すぎる。それとも、最期だからと少し羽目を外しているのだろうか。もう泥に塗り潰された思考回路はまともに動いてくれないから、どちらなのかは分からなかった。

 そうだ、願いだ。願いを伝えよう。泥に塗れた頭蓋の中に最後に残った一つの願いを。

 そのために戦った。そのために堕ちた。これだけ伝えてしまえたら、もう自分は満足だ。

 

「行って、マシュ。生きてくれ。君が世界の中で生きてくれるなら、オレも嬉しい。……そのために、オレは」

「……っ、せん、ぱい」

 

 涙を拭ってあげることもできないのは、恨めしい。はらはら落ちる透明な滴は宝石のようで、ただ、綺麗だった。

 一際大きく地面が揺れた。本格的な崩壊が始まった。これ以上、彼女をここに留まらせてはいけない。

 触れることなどできないから、周囲の空気を動かし、風を作ってその身体をゲートへ押した。

 

「さようなら、マシュ。大好きだよ」

 

 空を切る手に最期まで応えてはあげられなかった。ならばせめて、笑ってみせようと軋む頬を動かした。

 ゲートの向こうへ飲まれていく愛しい後輩が、また、先輩、と獣を呼んだ。

 ――そうしてゲートは閉じられ、崩壊の進む神殿の端で、獣は最後に己を壊す。

 

「……宝具、解放」

 

 『変生の時きたれり、其は世界を愛するもの(ロード・カルデアス)』、それは自身に対しても効果を発揮する対獣宝具。その効果は様々であり、自身には『絶対殺害』、則ち単独顕現スキルすら凌駕する即死効果として現れる。絶対に息の根を止めるための宝具となる。

 そして、この宝具は彼の従えた英霊達の武具や宝具を模して象られる。

 その手に握られたのは無骨な大剣。死を与える者が持っていた、銘のないひと振り。

 少年だった獣は、両手の武器にまじまじと視線を落とし、それから苦笑した。

 

「あは、何だ、やっぱりこの形になるんだ」

 

 刃が首筋に当たる。獣は流星雨の走る天を見上げ、そうしてそのまま、自身の喉をかき切った。

 

 

 

 ――星が、綺麗だったのだ。

 汚れた泥の両手では触れられない。もう届かない。だからせめてこの目に、あの輝きを焼きつけて逝こうと思った。

 ああ、きっとそれでよかった。

 自分の椅子は、無くなったのだから。

 

 

「……神殿、崩壊。藤丸立香、ロストしました」

 

 コフィンの中から出ようともせず、菫色の少女が泣き崩れている。

 千の刃に切り刻まれたように痛みに満ちた、オペレーターの声がした。

 万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチは美しいかんばせを伏せて、砂嵐しか映さなくなったモニターから目を逸らした。

 

「……馬鹿だ」

 

 砂嵐に塗り潰される直前、白髪になった少年が緩く笑ったのが映された。それまでの彼とはかけ離れて歪だったけれど、彼らしく、他人を思いやるあたたかな笑みだった。

 血反吐を吐き出すように、天才は管制室の床に罵声を叩きつける。馬鹿だ、馬鹿だと何度も。

 

「馬鹿だ。あの子は馬鹿だ。ロマニはそんなこと望んでなかっただろう。生きて帰れって言っただろう。マシュを置いて逝くなんてどういうことだ。

ああ、ああ、どうしてだ! どうしてあの子はこんな選択をした! どうして私達は、あの子にこんな選択しかさせてあげられなかった!!」

 

喪失に切り裂かれた数多の喉が、追従するように慟哭した。

 



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第六章

この凛ちゃんはGO時空の聖杯戦争(2004年)に参加していたというねつ造設定


 あかいあくまが微笑んでいる。

 遠坂家の家訓である『常に余裕を持って優雅たれ』を象徴するような笑顔である。

 藤丸立香はその顔を内心冷や汗だらだらで、しかし必死で恐怖を押し殺して愛想笑いを顔面に貼り付けていた。いつものように突然呼び出されたと思ったら、呼び出した本人は古めかしいオーク材の机に向かって綺麗な姿勢で座したまま何も言わないのである。しかも優雅な微笑みを崩さずに。

 立香は知っている。彼女がこの状態であるとき、それは自分に無茶振りが降りかかってくる直前であることを。だいたいこのあと自分が碌な目に遭わないことを!

 

「さて」

 

 彼女のたった一言で、立ちっぱなしの少年はびくりと肩を震わせた。

 その反応を意にも介さず、遠坂凛はダークブラウンの机の天板に、あるものを置いた。それは真ん中に星のあしらわれた、赤色の玩具のようなステッキ。

 あかいあくまが唇を動かす。死刑宣告であると、藤丸立香は知っている。

 

「単刀直入に言うわ。藤丸くん、あなた魔法少女になりなさい」

 

 そうしてそれは、死刑宣告より重い命令だったのであった。

 

第六章 出来損ないの救世主

 

 それは、十年程前の話。

 

 目が覚めたら、琥珀色の綺麗な瞳が己をじっと凝視していた。

 真っ白な病室の、真っ白なベッドの上で。飛び上がった立香はその瞳の持ち主としたたかに額同士をぶつけ、二人して痛みに悶絶した。

 ここはどこ、と額を摩りつつ尋ねれば、カルデアだよ、と自分と鏡合わせのように額に手を当てた少女が答えた。

 そうして一通りの説明を受けた。人理焼却、カルデアの事故、自分はずっと眠っていたこと。

 話し終えた彼女は一つ提案した。もしよければ、私のもとで二人目のマスターとなってくれないか、人員が足りないのだ、と。それに、保険にもなるから、とも付け加えて。

 立香は首を捻った。自分の記憶が正しければ、もっと優秀なマスター候補はそれこそ何十人もいるじゃないか。

 思った通りを聞いてみると、彼女は苦笑した。一般枠の人達は怖がって拒否し、魔術師の人達は怒って拒否したのだそうだ。魔術師さん達はとてもプライドが高いのだとか。一般枠の小娘に従ってくれる人はいなかったよ、と少女は言った。

 残るはあなただけだと言われた。遠慮がちな提案であった。当然だろう、魔術師ならともかく、ただの一般人である自分が承諾するとは考えられなかったに違いない。現に他の一般枠の人々は逃げ出したのだから。

だが、違った。

何故か最初に浮かび上がったのは、『残りたい』という言葉だった。普通の生活に戻ることもできるのに、何故かそんなことこれっぽっちも考えられなかった。まるでここにいることが自分にとって当たり前であるような、酷く馴染み深い感覚。理由など全く分からない。不可思議な感覚である。

 それでも、この感覚に従うことこそが正しいような気がした。

 そこで立香はあっさり首を縦に振った。びっくりしている少女に、これからよろしくと頭を下げた。慌てて返礼した彼女が何だか可愛らしくて、笑みがこぼれた。

 そう言えばと名前を尋ねたら、自分と全く同じ名を教えられた。

 名乗り返すとまたびっくりされた。どちらからでもなく、噴き出した。

 何だか他人な気がしないな。

 私も同じこと思ってた。不思議ね。

 じゃあよろしく、立香。

 うん、よろしく、立香。

 

 

 

 こうして二人目のマスターとなった立香だったが、最初は病み上がりということで召喚もレイシフトもなく、ただカルデアの中を彷徨くことになった。

 自分へのサーヴァントの反応はまちまちであった。歓迎する者、よそよそしい者、誤認する者――最後のはほんの数人であったが。安珍様が二人って何だろう、と立香に聞けば引き攣った笑いしか返ってこなかった。

 しかし、そういったちょっとおかしいのを除けば、概ね彼らは不干渉であった。それもそうだと納得できた。いくら自分に令呪があっても、今まで彼らと絆を育んできたのは立香(彼女)だ。ポッと出の自分がいきなり受け入れられる訳がない。

 だからこちらも不干渉、のつもりだったのだが。

 

「あ、マ……いや、り……いやこれも、うむ…………」

 

 途方に暮れた顔の大英雄なんて、早々拝めるものではない。

 

「どうしました、えっと、カルナさん?」

 

 呼び止められている気がしたので振り向いたらその大英雄がいたのである。

 カルデアでも有数の能力を誇る施しの英雄は、少々戸惑いながらも言った。

 

「お前のことを何と呼べばいいか、分からなくてな。オレのマスターはあの人だが、お前もまたオレのマスターに変わりはない。しかし名前で呼ぶのも、二人が同じ名だからと」

 

 なるほど、こんなところで弊害が生まれていたのだ。納得した立香は暫く考えて、まあこれしかないかな、と案を出した。

 

「じゃあ、俺のことは名前で呼んで、あっちの方はマスターって呼べばいいんじゃないですかね。俺からも立香に言っておくから、間違えられることはないと思いますよ」

「……! そうか、感謝する、リツカ。では呼び止めた用件だが、マスターが呼んでいる。部屋へ来いと」

「ありがとうございます」

「それから、リツカ。敬語や尊称は必要ない。オレはお前のサーヴァントでもある」

 

 実直で、真っ白な布のような人だと少年は思った。

 それから、遠巻きに眺めてくるサーヴァントの中で、カルナだけが少年の話し相手になった。確かに自称する通り一言足りない人だけれど、根はすごく良い人なのだから、立香はちっとも気にしなかった。

 徐々に立香が戦闘に加わり、サーヴァントを召喚するようになっても、カルナは会話を厭わなかった。

 

「……俺さ、思うんだ。立香と俺は全くの赤の他人じゃあなくて、きっと何か縁があるんだって」

 

 いつかどこかで、そんな話をしたのを覚えている。

 カルナはいつも通り、そうか、と言って、それから珍しく言葉を続けた。

 

「オレは最初にお前に話しかけようとした時、お前もマスターだと言った」

「うん」

「その、オレは話すのが下手だから、上手く言えないが。あのときオレは、確かにお前を『マスター』だと思ったのだ。あちらのマスターと同じ、と、いうか」

 

 そこで話が止まって、やはり上手く表現できないな、と施しの英雄は眉間に皺寄せ呻った。

 立香はそんな彼を可愛らしく思いながら、そうだね、と呟いた。

 きっと、そうなのだろう。カルナが言うその不思議な感覚は、自分も感じていたものだったから。

 リツカと呼ぶ彼の声が、立香はとても好きだった。

 

 

 

 叶うならもう一度だけ、名前を呼んでほしかった。

 

 

 

 そうして、あの災禍は何の前触れもなく起きた。

 生き残った立香は一人、諸葛孔明の依代となった人物、ロード・エルメロイⅡ世を訪ね、そこで名目上は彼の弟子となり、『立香』を守るため奔走した。

 そんな中出会ったのが遠坂凛であった。

 彼女は何故か自分をいたく気に入り、弟子という名の玩具に仕立て上げた。それから恐ろしい弟子時代が始まるのだが……それはいいとして。

 あるとき、自分と『立香』の間の奇妙な共通点に、遠坂凛は目をつけた。

 他人とは思えないという立香の言葉を裏づけるような共通点――則ち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 さすがにおかしいと訝しんだ凛は、立香にある礼装を貸し出した。それが愉快型魔術礼装、カレイドステッキであった。

 並行世界の自分を検索してインストールするという、見た目に反してとんでもない性能を誇る(ただし性格は最悪な)そのステッキを半分脅すようにして立香の『可能性』を探った凛であったが、その真実はあまりにも数奇であった。

 

 それはもう一人の『救世主』。いくつものifが重なってできた可能性の獣。

 

 もしあの日、床で寝ていたのが立香(彼女)でなくて立香()だったら? もしあの日、所長の長々とした説明の最中居眠りしていたのが立香(彼女)でなくて立香()だったら?

 もし、あの日。燃え盛る火の海に飛び込んで。

 あの血だらけの少女の手を取ったのが、立香(彼女)でなくて、立香()だったら?

 無限とも思える数の並行世界のおよそ半分で、立香()は世界を救うべく奮戦していた。たまたまこの世界における『人類最後のマスター』が立香(彼女)であっただけだった。

 そして同時に、どちらの立香も獣への変生を遂げる可能性があった。

その経緯もまた多岐に渡る。今回のように外的要因であったもの、世界を救うため自ら望んで転変し、あの魔神を滅ぼしたのち自ら命を絶ったもの。ありとあらゆる可能性が、ルビーによって明かされた。

 他人ではなかった。藤丸立香は元から、二人で一つの運命体であった。どちらかが眠り、どちらかが戦う。異なる世界線の異なる立香が、全く同じ末路を辿ることもあった。

 そうか、と。驚愕する遠坂凛の傍らで、立香は妙に安堵していた。

 立香(あなた)立香(わたし)立香(きみ)立香(おれ)。そんな不思議な感覚に、正当な理由があった。

 だから、立香()立香(彼女)を救ってみせると誓ったのだ。

 彼女は自分を救えなかった。救えるようにできていなかった。泣いて泣いて、痛みに悶えて、それでも自分を救うことなんてこれっぽっちも考えない救世主だった。

 彼女は諦めたのだ。救いも幸福も全て諦めて、自分を救おうとすれば世界を敵に回すことになると分かっていて、寂しく笑って未来を拒んだ。

 ならば彼女は自分が救ってみせる。だって彼女は立香(じぶん)なのだから。彼女が自らを救えなくても、立香(じぶん)が救ってやればきっと、自分で自分を救うことになるのだから。

 救いたいと、この世界で出来損なった救世主(藤丸立香)は思ってしまったのだから!

 あの日少年だった青年は駆ける。先程の夢幻召喚(インストール)で身体は既に人のそれではなくなった。息は上がらず、およそ人間には出せない速度で山の斜面を駆け抜ける。

 ――足を動かせ。前を向け。

 この先に、救うべき『自分』がいる。

 もう誰も殺したくないと泣いた、優しい優しい『自分』がいる!

 

 

「――っ、立、香」

 

 朽ちかけた社の入口に至る。

 剣の花を咲かせた彼女が中空にいた。その前に、この計画の発案者であり立香の協力者であるエミヤオルタ。そして、茫然と突っ立っているサーヴァントが二騎。ランサーはいない。

 よかった。立香は安堵の息を吐く。自分は間に合わなかった。無事、エミヤオルタの邪魔にならずに済んだ。

 

「リツカ」

 

 エミヤオルタが振り向いた。いつもと同じ仏頂面にも見えたが、違った。彼はほんの少しだけ柔らかく笑んでいた。

 

「遅かったな」

「――救世主(ヒーロー)は遅れてやって来るもんだろ?」

 

 違いない、と弓兵は笑い、身の内から一つ聖杯を取り出して寄越した。受け取った立香は金の杯の中身を見る。不思議な色に揺らめく魔力の波がそこにはあった。

 

「もう、変わった方がいい?」

「そうだな。おい腐っていないオレ、キャスターを連れて下がれ。ここは泥に呑まれる。その男を反転させるのは本意ではないからな」

 

 話しかけられてびくりと身を竦めていた赤い弓兵であったが、泥という単語を聞いた途端ぐっと表情を引き締めた。キャスターを引っ張って社殿の外へ向かった赤い背中を見送り、立香とエミヤオルタは救世主の遺体から少し離れた場所に立つ。

 胸の剣から流れ出ているのは泥。その量が、突然ごぼりと音を立てて倍増した。木の床に汚濁が広がっていく。

 始まる。

 この世界を救った少女の末路が、産声を上げる。

 

「ルビー」

『……やっぱり嫌です』

 

 どこからともなく現れたステッキが、頑として拒絶を発する。

 真正面を見据えたまま、立香はもう一度口を開く。

 

「ルビー、頼む。俺は立香を救いたい。俺はもう、立香に誰も殺させはしない」

『何でですか。いくらあれがあなたでも、関係無いじゃないですか! いいえ違う、あれはあなたじゃない、あなたなんかじゃない! あなたが救う必要なんて――』

「そうかもしれない。でも、俺が救いたいと思ったんだ。俺がやらなきゃきっと救えないんだ。俺達は、そういう存在だからさ」

 

 だから、あの宝石の魔女に無理を言ってステッキを借り受けた。

 

「頼むよ、ルビー。遠坂先輩に怒られたくないだろ?」

 

 ぼこり、と汚泥が泡立った。

 

『――ア』

 

 死体が目を開く。琥珀色ではなかった。赤い血の色の虚ろな瞳。

 

『ア、アアアアアア――――』

 

 上半身はそのままに、スカートに覆われていた下肢が膨張する。ぼこぼこと不気味な音がして、肉が膨らみ上体を押し上げていく。

 スキル、自己改造。彼女は低すぎるステータスを、他の英霊のスキルや身体能力をトレースすることで補う。それは癌の如く肥大し続ける災厄の獣である。髪の色は白く変わり、蒼白な手に光る赤い令呪が異様であった。

 立香とエミヤオルタ、そしてアーチャーが以前見た異形と全く同じものである。この膨れ上がった殺戮者こそがビーストØ/D。

 彼女の死体は意思無き虐殺者へと変貌した。それを生前の彼女は望まなかった。一番恐れていたのは、死ではなく自ら滅ぼすことだった。

 時間が無い。歯を食いしばった立香の正面にステッキがふわりと浮いて、覇気のない声で呟いた。

 

『……何で、あなたみたいな辛うじて見所のある人ばっかり死んで、どうでもいいヤツばっかり生き残るんですかね』

「はは、ルビーにちょっとでも認めてもらえたのは、嬉しいな」

 

 恐れはない。そんなもの、彼女と会ったあの日にどこかへ忘れてきた。

 

「――今までありがとう、ルビー。遠坂先輩に伝えてくれ。才能の無い俺にたくさんのことを教えてくれて、背中を押してくれて、ありがとうございましたって」

『……っ、失敗したら殴りますからね、マスター!』

 

 ぱちん、と。身体の中で、最後の線を切る音がした。震える手で聖杯を掲げ、飲み干す。

 ――鼓動が爆発した。

 

「ぐう、あっ……!」

 

 身を折り、膝を地について、体内で吹き荒れる暴風に苦悶の声を溢す。

 激痛なんてレベルじゃなかった。四肢を引きちぎられるような、気絶するぐらいの壮絶な痛み。げほ、と何かを吐き出す。血かと思ったそれは真っ黒な泥だった。

 反転する。身の内から出る泥が、自らを飲み込み汚染しようと暴れ回る。

 痛みにぼんやりと薄らぐ意識の中、その泥をどこかで見たな、と思った。

 この可能性の自分の記憶が引っ張られてきているのか、そこは初めて見るはずの海だった。見渡す限りの泥、泥、泥。飛び回る異形の怪物。増え続ける反転した武者。

 金色の、王。

 ――飲み込まれて堪るか。飛びかけた意識を引き戻し、歯をくいしばって耐え続けた。汚染されて堪るものか。

 願いを見た。声を聞いた。

 極天を堕ちる流星雨にただ憧れた。

 自分でない自分の記憶を受け止める。たった一つ悲しいのは、愛しい後輩に触れられなかったこと。

 苦しかったんだな、とぼんやり思う。それでも、その思いに塗り潰されないようもがいた。理性だけは手放さない。でなければ、あの獣を止められない。

 そして突然、全ての痛みが消え失せた。

 

「……終わったか」

「うん」

 

 身体を起こす。肥大化するあの獣とは違い、己の身は元のまま。ただ少しばかり若返り、肌が病的に白く、髪も白く、全身に令呪の刻まれた、人ならざる異形の姿。

 これでいい。最早戻ることは叶わないけれど、元よりこの日のために生きながらえてきた身であった。後悔は無い。

 

「やろうぜ、正義の味方。俺とお前であいつを救う」

「言われなくてもそのつもりだ。足を引っ張るなよ、救世主」

 

 二人、呪いに塗れて不敵に笑う。

 泥の海で、()(救世主)が咆哮した。

 

 

 十年前、時計塔を訪れたその少年は酷い顔色をしていた。

 

「……死んでる」

 

 ロード・エルメロイⅡ世を通じて少年を時計塔に呼び寄せた宝石の魔女、遠坂凛は、古めかしいオーク材のデスクに置かれたタブレット端末が表示した映像データを見て呆然と呟いた。――尤も、彼女がこんな最新機器を扱えるはずもなく、操作しているのは隣に立つ少年なのだが。

 画面の中の真白い部屋の内壁と床は、中の人間が固い平面に頭を打ちつけるなどの自傷行為に走らないよう、一面クッション材に覆われていた。

 この映像を送信している天井の隅の監視カメラが、たった一人の住人を映している。造りつけの白いベッドの上に腰を落とした、夕焼け色の髪の少女であった。琥珀の虹彩は焦点の合わぬまま、青白い虚空を反射している。

 

「何よこれ、完全に心が死んじゃってるじゃない。何が、何が『利用価値は失われていない』よ。何でこんなになってまで生きてるのよ。あの子はこんな風になっていい子じゃなかったのに!」

 

くしゃりと背中に流した艶やかな黒髪を掴み、凛は叫んだ。

親交があった。初めは、ただ魔術協会側のお偉い方と、カルデア代表という立場だけの付き合いだった。だが数回の視察を重ねていくうちに、人類最後のマスターというにはあまりにも幼い元一般人の少女のことを、女はそれなりに気に入っていた。

 だからこそ怒った。理不尽すぎる結末に、少女のサーヴァント達が望んだ幸福とはあまりにもかけ離れた地獄の末に、怒らずにはいられなかった。

 

「……遠坂さん、ごめんなさい。俺、立香を死なせたくなかったんだ。俺が、立香を生かしてしまった」

 

 少年の声が震えている。それに気づいた宝石の魔女は瞬時に平静を装って口を噤んだ。それでも蓋をしきれなかった憤りが両の手をきつく握らせる。自分の爪が掌に食い込む痛みすら自らを落ち着ける手段として、凛は低く鎮めた声を慎重に発した。

 

「……藤丸くんは何も悪くないわ。取り乱してごめんなさい、そこ、かけてもらえる?」

「は、はい」

 

 そこ、と指された窓際の一人がけソファにおずおずと腰掛けた少年を認め、凛は組んだ手に額をぶつけて目を閉じる。

 ――悲劇だったとは、聞いていた。

 だがここまでだとは思っていなかった。紙面の文字を追うのと、実際に破壊された少女を見るのとでは受ける衝撃がまるで違った。何を見たら、何をしたらあそこまで空っぽの人間が出来上がる?

 あれこれ推測したところで意味もないと分かっていたから、そこで凛は思考を切り上げ回転椅子の座面を回して少年に向き合った。

 

「聞かせてちょうだい、藤丸くん。何があったの?」

 

 そうして、彼女は地獄の端に足を踏み入れた。

 

 

 

 原因は、たった一人の魔術師であった。

 カルデアはこの一年前、四十八人のマスター候補を方々から集めていた。うち殆どは魔術師、それもエリートと呼ばれる類の人間であり、残りは一般人からレイシフト適性の高い者が選ばれた。

 しかし、職員レフ・ライノールの引き起こした事故により一名を除く全員が大きな損傷を負い、コフィンの中で冷凍睡眠に入ることとなった――グランドオーダー、その始まりの日の出来事である。

 一年が経った。ただ一人残った少女とサーヴァント達、そして生き残ったわずかな職員の尽力によって、ビーストⅠと呼称される人類悪の野望は阻まれた。そこでようやく重傷のまま放置されていたマスター候補達は外界で治療を受けられたのだが。

 もう一人マスターが欲しい、と少女が言った。

 理由は単純、戦力強化と保険である。少女は冷静であり、またどこか達観したところがあった。もし自分が今後命を落としたら、人理焼却の後始末は誰がやる? カルデア自体に余裕の生まれた時点で、マスターのスペアを用意するのは当然の処置である、と彼女は判断した。たとえサーヴァント達が反対しても、彼女は決してマスターの増員を諦めなかった。

 故に少女は治療を受け回復した元マスター候補を一人一人訪ね、もう一度カルデアで働く気はないかと打診を繰り返したのだが、結果は芳しくなかった。同じく一般枠であった一人の少年を除き、全員が申し出を拒否したのである。

 理由は概ね二つ。一つはこれ以上恐ろしい目に遭いたくないというもの。もう一つは魔術師特有のプライド。

 だがそうしてカルデアから離れた魔術師の中に、一人だけ舞い戻ってきた者がいた。

 

「……最初は、すごく好意的に見えたんです。警戒してるサーヴァントは多かったけど、協力してくれる人を無碍にはできないって、立香が」

 

 一度は断っておきながら数ヶ月後にふらりと現れ、一転して協力的になった魔術師を、立香は歓迎した。

 今となっては、その優しさが最大の過ちを生んだのだと凛には分かる。彼女はいつも優しかった。いつか付け入られるのだと何度忠告しても、聞かなかった。

 

「それで、そいつが聖杯を盗んで何かの魔術を行使したのね? 結果としてあの子は……『獣』になったと」

 

 少年が頷く。

 俄には信じ難い話だった。ただの一般人だった少女が、少女自身の打倒した『人類悪』と同等のものに変わるなど普通なら有り得ない。彼女は人間だったし、何の変哲もない、どこにでもいる少女だった。

 

「詳しいことは言っちゃダメだってオルタが言ったんです。ただ事実だけを伝えるべきだって。……俺も、そう思います」

「…………いいわ。そこについては私も触れない」

 

 彼らが何を黙秘しているか、凛には予想できても断定できはしない。だが当事者達が口を噤むのであれば、無闇に聞き出すことではないと彼女は判断した。

 重要なのは、一つ。

 彼女が変生した『獣』が、英霊達の宝具を使い、カルデアにいた全てのものを文字通り殺し尽くしたことである。

 生き残ったのはたった二人。それも、人間は一人――今、凛の眼前で青を通り越し土気色の顔で俯く、黒髪の少年だけであった。

 凛は報告書に記された被害者数に改めて目を通す。人間のみならずサーヴァントまで記録したその紙面には、恐ろしい数字が並んでいた。

 

「死亡者百二十二名、うちサーヴァント九十八名。重傷者一名……後に座に帰還。生存者は藤丸くんと、エミヤオルタのみ、か」

 

 皆殺しだった。

 手当り次第、人もサーヴァントも関係なく、一切の容赦も加減もなく、凄まじい速度で殲滅されていった。

 人類悪とは殺戮兵器のことであったかと錯覚できる程、それはただ殺しに殺して殺し尽くした。

 

「あの子は、自分でやったと知ってるのね」

 

 少年が再び首肯する。

 だからこそ、あれは壊れてしまった。

 完膚なきまでに破壊されてしまった。

 

「詳しいこと、話せる? 無理にとは言わないわ、できないなら黙っていてくれていい」

 

 スラックスの上できつく握られ震えている少年の両手を、凛は己の手でそっと解して包み込んだ。可哀想な程冷えきった手であった。

 

「……初めに、立香の一番近くにいた人達が」

 

 俯いたままの少年は、それでも必死に声を絞り出した。

 

「雷撃だったと思います。たぶんテスラ博士の『人類神話・雷電降臨(システム・ケラウノス)』。あれで近くにいた天地のサーヴァントの大半が致命傷を負って。その中で、キャスターのクー・フーリンだけが何とか生き残ってたんですけど、二撃目で」

「……二撃目は、何だったの」

 

 少年の手が大きく震えた。

 聞かなければならない。凛は酷だと思いながらも、促すことをやめなかった。今後、彼女が再び変生したときに何を使ってくるか把握せねばならない。近くにいるサーヴァントによって発動する宝具を変更するのなら、その法則性を見つけねばならない。

 

「……『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』」

 

 それで、残っていたサーヴァントの殆どが消滅したのだと。

 凛は頭痛を訴え始めたこめかみから必死で意識を逸らし、考える。二つの宝具の能力は凡そカルデアの情報をサルベージしたことで知ることができていた。だから獣が何を考えそれらの宝具を使用したか、賢い彼女には理解できてしまった。

 つまり獣は最適解のみを使っていたのだ。初撃は周囲にいた英霊達の中に天地の属性が多く見られたため。二撃目はさらに範囲を広げて捕捉できた英霊達を、なるべく一撃で、効率良く、一気に殲滅するため。

 こんなものはただの大量殺戮兵器でしかない。いかにして多くを確実に殺すか、それのみを考え実行したのだ。

 

「残ったのは数人で、それで、その人達を虱潰しに、一つ一つ、ほうぐ、が」

「もういい、もういいわ藤丸くん。話してくれてありがとう」

 

 凛の手を振り払って、少年は両手で顔を覆い背を曲げて全身を震わせていた。歯の根が合っていなかった。少年を抱き寄せ、払われた手でその背をさすり、凛は目を閉じる。

 虐殺の後、獣と化した藤丸立香が下界に降りるのを食い止めたのは二人の守護者であったという。人類の総意思に遣わされる、抑止力の一端。元々サーヴァントとしてカルデアに現界していた彼らは、唯一奇跡的に生き残っていた少年を守り獣と戦った。うち一名はその時に重傷を負い、霊基の維持が難しくなったため座に帰った。

 あの、赤い弓兵。

 

「バカアーチャー……死に物狂いで生き残りなさいっての」

 

 ぼそり、立香にも聞こえない程小さく呟く。

 反転した方の弓兵は何とかこの世に留まり、身の内の聖杯で受肉、今も心を失った藤丸立香を守っているのだと報告書には記されている。

 遠坂凛は黙って少年の背を抱き直した。彼らに向かって、これからどうするのとは聞けなかった。今はただ負った傷を時間をかけて癒すしかない。心も、身体も。

 それが済んだら、この少年に手を貸そう。凛はそう決めていた。もう一度獣になどさせて堪るか。あの少女のたった一つのささやかな幸福すら踏みにじった惨劇を、二度とは起こして堪るものか。

 有益な研究対象? 稀有な事例? そんなの知ったことではない。彼女を獣の可能性としか見られない人間に、彼女を任せる訳にはいかない。

 何より、あのアーチャーが救おうとした相手ならば。

 

「大丈夫よ藤丸くん、私がいるわ。ヤツらの思い通りになんてさせるもんですか」

 

 それが再起の出発点。

 惨劇を生き延び心身共に深い傷を負った少年が、それでも足掻こうと時計塔を訪れた日のこと。

 

 

 遠坂凛は時計塔の一室にてマジカルルビーの泣き声を聞く。姉妹機であるサファイアを通じて、ルビーの慟哭と録音された別の声が再生される。

 

「あの、馬鹿弟子」

 

 送り出したときから分かっていた。ああこの子はきっと戻ってはこないのだと勘づいていた。

 

『凛さん、姉さんはこのまま見届けたいと』

「いいわ、勝手にしなさい。でもちゃんと戻ること」

 

 才能の無い男であった。それはもう一人の方も同じ。二人の藤丸立香はどちらもまるで魔術師に向いていない。サーヴァントを率いるよりも、平和な世界で呑気に笑っている方が余程似合う子らだったのに。

 今日もロンドンの空は陰鬱な鉛色の雲に覆われている。今にも雨の降り出しそうな天を部屋の中から見上げ、凛はあの青年の最後の言葉を噛み締めた。

 

「お礼なんて言うんじゃないわよ」

 

 教えられたことはほんの少し。挙句ステッキを貸すことで彼の背中を押してしまった。それが彼を崖から突き落とす行為であると知っていたのに。

 藤丸立香は帰らない。もう二度と、同じ海色の瞳を見ることはない。

 この道はきっと間違いではないと信じている。それでも、凛にはそれがどうしようもなく寂しかった。



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第七章

とにかくバトル回


「キャスター……? おいキャスター、どうした!」

 

 痛い。

 痛い、痛い、痛い。

 頭蓋が割れる。脳が融ける。何だこれは、痛くて痛くて壊れそうだ。

 

「しっかりしろ、ここで止まっていては本当に――」

 

 隣にいるのが誰だったかも分からなくなる。頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回されるようなおぞましい感覚が全身を硬直させる。

 

『キャスター』

 

 ――誰かの声がした。

 そんなはずは無い。さっき目の前で撃ち殺されたじゃないか。結局、自分は何も知らぬまま彼女を見ていることしかできなかったのに。

 

『どうしてそんな顔するの。大丈夫だよ、私は大丈夫だから』

 

 髪の短い、幼い面立ち。

 傷だらけの手。

 

『今幸せなんだから、いいの。こんなの勿体ないくらいだもの、これ以上なんて望まないよ』

 

 忘れるなと声がする。

 手を離すなと叫んでいる。

 ぽつりと一つ、染みのように読めない記録がそこにはあった。まるで鍵のかかった手帳のようだ。封をされて、本棚の奥深くに押し込められていた一冊の記録。

 ――封じられたというのなら。

 忘れたのではなく、消されたのでもなく、ただ封じられただけというのなら。

 それは読めない。存在すら知らなかった。けれど自分は持ち出してきたのだ。中身は知らない。覚えていない。それでも大切なのだということだけは分かっていて、その記録を無意識の内に持ち出してきた――!!

 

『……そんな顔しないで。決して救われないのだとしても、私はちゃんと受け止めるから』

 

 手を離さないと誓ったのに泥の海に沈んだ。託すことしかできなかった。

 もう手を離すなと誰かは言った。

 当然だ。これ以上彼女に何かを諦めさせて堪るものか。そんな結末なんて認めない。破り捨てられた何十年分ものページ(未来)の代わりに、一つでいいから救いを記そう。世界に認められなかったとしても自分達が残してみせる。だって苦しかったのだから、もういいだろう。たくさんたくさん苦しかったのだから、少しくらい救われたっていいだろう!

 頭痛は止まない。明滅する視界に今一度あの獣が映る。

 たとえばここがあまりにも息のしづらい世界だとして、彼女が溺れたままでこの十年を歩んだとして、その結末がこれではあまりに惨い。優しい人だった。世界を愛した人だった。その末路が人殺しの獣なんて、そんなのあまりに酷ではないか。

 もう一度手を伸ばせ。

 まだ届かないとしても、もう一度。

 世界から弾かれた彼女が、深海に沈み窒息する前に。

 

第七章 足掻け、人の子

 

肥大し続ける獣はとうとう社殿の天井をぶち抜いた。ばらばらと古い木材の破片が落ちる中から後退したアーチャーは、蹲ったまま動かなくなってしまったキャスターを背に庇い考える。

 マスターの死によって彼は現在世界への拠り所を失くした状態である。加えてそもそもの寄る辺であった此度の聖杯が獣に消費された以上、いつ消滅してもおかしくない。アーチャーはといえば、既に契約元とリソースはアラヤ本体へと切り替わっていた。つまり彼はもう守護者そのものである。その変更自体は十年前にも行われたことであるから、受け入れることは容易かった。

 それにしても問題はキャスターだ。別にこのまま現界したところでたいした戦力になるとも思えない。だが、黒い弓兵は彼をもここに呼び寄せたのだ。そこに何らかの意図があるのかもしれない。となると、迂闊に座に帰す訳にもいかなかった。

 仕方ない。アーチャーは一つため息を吐く。本当は多少自分の燃料にしたかったのだが、この際文句は言っていられないだろう。

 

「……これしか残っていないか。まあ、願い倒したあとに一つ残っていただけでもよしとせねばな」

 

 ずっと隠していた願望機を霊基から切り離す。オルタの方はああ言っていたが、経験の蓄積を主な概念とするあの剣の丘は聖杯をも『蓄積』したようだった。おそらくは唯一の例外であろう。

 アーチャーは膝を折り、キャスターに聖杯を翳す。いとも容易くドルイドの霊基に杯は溶けていき、やがて完全に飲み込まれた。

 外から見ても特に変化は無い。相変わらず彼は頭を抑え苦悶の表情を浮かべている。

 

「マスターが死んで、それからこの反応……いや、まさか」

 

 どんな確率だ。他の戦争の記録を、しかも封印され無かったことになっていたものを持ってくるなど通常ならば絶対に有り得ない。

 それはともかく、ここからアーチャーは無防備なキャスターをどうにか守りつつあの獣と相対せねばならない。

 と、ビーストから距離を取り、既に原型を留めていない社からアーチャーのもとまで二人の男が後退してきた。一人は黒い弓兵、そしてもう一人は――

 

「……なるほどな、限界まで隠していたのはそれか」

「うん。ごめんねアーチャー、騙したみたいになって」

「構わんよ。ああそうか、それで遅れたのだな」

 

 白くなってしまった髪と濁った瞳に最早あの青年の面影は無い。やや若返った彼から感じられる気配はあの巨大な獣と酷似していた。

 

「最初はさ、俺も救世主(セイヴァー)としての可能性を拾ってこようと思ったんだ。でも駄目だった。この世界の救世主(藤丸立香)はあいつだけだ。俺と立香、どちらかにしかその資格は貰えない。……俺達はそういう存在だった」

「つまり、救世主でなければいいと?」

「そういうこと。救世主じゃないけど世界を救ったオレを引っ張ってきた。ビーストØ/H、向こうの世界ではそう呼ばれてたんだって。立香より前にこうするとさ、アラヤがこっちに強く反応しちゃうだろ? 今はほら、どさくさに紛れてって感じ」

「多少のことには目を瞑れと」

「うん。アラヤは何か言ってきた?」

「何も。作戦は成功したと見ていいな」

 

 そうかあ、とくすくす愉快そうに少年は笑う。歪な笑みであった。快活な笑顔はどこかに消えて、少年は獣になっていた。

 

「……怒った?」

 

 ふと、少年はそんなことを聞いた。

 少しばかり申し訳なさそうな上目遣いに、アーチャーは否を返した。

 

「納得はいったよ。この状況に持っていきたかったんだな」

「でも、俺達何も言わなかった」

「欺くにはまず身内からという方針は間違っていない。私でも同じことをするだろう。……それに、生きたまま救うのは不可能だと自分でも分かっていたさ」

 

 君よりさらに出来損ないだからな、オレは。

 自嘲気味にそう言い足せば、少年は何か言おうとしたがすぐ口を噤んだ。

 

「さて、パスはどうだ、オレ」

 

 ほんの一時の主であった同位体の質問に答えようとしたアーチャーは、その気配の変化に気づいた。人間でなく、サーヴァントである。魔力で編まれたエーテルの体。受肉していたはずの男は既にその身を変換させられていた。守護者としての再起動の影響であろう。

 

「問題無い。アラヤめ、随分と切り替えが早いものだ」

「大方、保険はしっかりかけていたのだろうさ」

 

 そうでなければここまでスムーズに再起動できるものか。鼻で笑う黒い弓兵の声音には嘲りが多分に含まれていた。

 彼はもうスーツではなく、雀蜂を思わせる黒と黄色の礼装を纏っていた。そのポケットから赤いアンプルが数本取り出される。アーチャーは片眉を吊り上げた。

 

「禁止されていたのではなかったのかね?」

 

エミヤオルタも鏡合わせのように眉を上げた。きっと、思い出しているのは同じ人だ。無茶をするな、身を削るな、そこまでさせないために私がいると、かつての己らと似た色彩の眉を寄せて、こんこんと説いてきたかつての少女。

 黒い同位体は視線を外し、屍の獣へと真鍮の目を向ける。もはや身の丈十メートルにも達したビーストØ/Dは、上半身の大きさはそのままに、小山の如く膨れ上がった肉と泥の塊の上で虚ろな呟きを漏らしている。

 

「いつの話をしている。あれはもうオレに怒ることすらできん」

「……そうだな」

 

 アーチャーはただ、頷くことしかできなかった。

 

 

 

 二人の弓兵が双剣と拳銃を投影したのと同時、今まで停止していた獣がゆっくりとこちらを向いた。立香は身の内で渦巻く泥の魔力を軋む回路に回していく。同時にあちらの獣の手の内を知ろうと自身のスキルによる解析を行い――気づいた。

 ビーストØ/D。あれもまたØ/Hと同じく『獣を滅ぼしうる獣』である。故に相克。振るう力はどちらもネガ・ビーストと呼ばれる対獣スキルを秘めたものとなる。そこまでは今までの立香にも判じられた。だがその先は正直、予想外かつ最悪の一言に尽きた。

 

「二人とも、残念なお知らせがいっこ。今さ、ネガ・ビーストのスキルをちょっと変質させて向こうのビーストの解析やってみたんだ」

 

 ほう、とエミヤオルタが興味深そうに相槌を打つ。

 果たしてその解析で得たものは……無かったのである。

 

「解析自体が弾かれた。あれはたぶん、こっちのスキルを同じネガ・ビーストで打ち消してる。で、俺の宝具はこのスキルの延長線上にあると思ってもらっていい。つまり何が言いたいかっていうと――」

「お前の宝具による直接的な破壊、もしくは滅殺は望めない、と?」

 

 少年は頷くしかなかった。

 相克であるならば気づくべきであったのだ。共食いのようにスキルが潰され、こちらの必殺は届かなくなる。加えて向こうの手の内も分からない。あちらのスキルにより立香が死ぬことはない、というのが唯一の救いだろうか。

 手の内が読めないということは、何が飛んできてもおかしくないということだ。屍の獣の行動パターンを脳内でシミュレートしていた立香であった、が。

 

「……は?」

 

 思わず漏れた呟きは、羽音と耳障りな笑い声に掻き消された。

 

『オイデ』

 

 汚泥と肉の山の至る所がぼこぼこと膨らみ、気泡の弾けるようにして中から異形の何かが這い出てくる。地を歩くものも、空を飛ぶものもいる。その全てが縦に裂けた口から意味不明な文字列を垂れ流していた。

 

「 jm; ff jm;」

 

 きぃきぃと、ガラスを爪で引っ掻いたような音が連鎖していく。

 

「……なあ、二人とも。あれを実際に相手したことは?」

 

 冷や汗が青白い肌に流れ落ちる。

 知っている。藤丸立香はその子供達を知っている。カルデアの映像データと、同期した(じぶん)の記憶の中で。

 

「無い。オレ達が召喚されたのは第七特異点の後だ」

「まさかあれは百獣母胎(ポトニア・デローン)か……? 神の権能まで取り込むのか」

 

 増える、増える、大地がみるみるうちに不気味な赤紫色に覆われていく。

 その数、数百。

 ティアマトの十一の子、その一つにして、かつて絶対魔獣戦線バビロニアを壊滅させた異形。

 名を、ラフムという。

 まずい、と立香は増え続ける異形を睨みながら考える。これでは手数が足りなすぎる。背後で死んだように蹲ってしまっているキャスターを勘定に入れるとしても、四対数百では話にならない。

 いやその前に、彼らは空を飛ぶのである。ここから人里まで容易く移動するのである――!

 

「……っ、俺が何とかする。飛散しなきゃとりあえずは問題ないだろ」

 

 それが可能な宝具は、ある。この場を陣地に、絶対的な権限を示す宝具と権能。それを手にかつてバビロニアを救った女神が一人いる。

 だが。

 

「でも、俺に権能の完全再現は無理だ。できるのはたぶん留めることだけ」

 

 あれもまた、本来は神のみが為せる業であった。今のビーストが真似できるのはそこが限界。増えに増えたティアマトの子の模倣どもを滅ぼす力までは引き出しきれない。

 歯噛みした立香であったが、しかし。

 

「それで構わん。というか朗報だ。お前に不可能だと言うのなら、あれにも不可能ということだろう。ティアマト神のように無限に生み出すことはできない」

 

 ならば、その限界まで滅しきってしまえばよいのだと黒い弓兵が言った。赤い弓兵もまた頷き、蠢くラフムの一体を指さした。

 

「ああ。それに見ろ、お前なら違いは分かるだろう」

 

 言われて、立香は気づいた。

 

「……ちっちゃい、みたい?」

 

 記憶のものより一回り程小さい。まだ人語を話してもいない。

 

「やはりそうか。いくら何でも百獣母胎(ポトニア・デローン)は無理があったようだな、カルデアのデータより小さな個体が多いし、動きも遅い。しかも生産は一旦停止している。リソースが足らんのだろうよ」

「そういうことだ。オレ達相手にその程度とは笑わせる。武器の選択を誤ったんじゃないのか?」

 

 そうして二人のエミヤは不敵に笑う。眼前には天地を埋め尽くす赤紫の異形。

 

「さて、ではまず私の番だな。展開範囲は立香に準じよう」

 

 いつでもやってくれ。

 聖骸布が魔力の波に押されて揺らぐ。赤い背中はいつものように真っ直ぐ伸び、堂々と全てを背負っていた。

 少年は思い出す。その背中は幾度となく見たのだ。自分ではない自分の記憶の中に焼きついた、幾度となく敵を斥けてきた男の背中。

 

「――天に絶海」

 

 ならば応えてみせようではないか。

 思い出せ(同期しろ)思い出せ(同期しろ)、あの地の底で見た希望の花の眩い記憶を。

 いま己ができる最高の、その再現を――!

 

「地に、監獄」

 

 手にした槍が重い。彼女はあの細腕で、こんなにも重たいものを振るっていたのだ。

 ぎしりと嫌な音を立てる回路を無理矢理励起させる。脂汗が背を伝う。やはり権能を使うのは厳しいらしい。だがそれはあの屍の獣とて同じこと。我慢比べといこうではないか。

 アーチャーが詠唱に入った。エミヤオルタは後退し、じっと魔力の波を見つめている。

 ラフムに動きはまだ無い。好都合である。今ならまだ彼らをここに留め置ける。

 

「……っ、我が踵こそ冥府の怒り!」

 

 槍を大地へ突き立てる。展開範囲は自身を中心に半径六十メートル。

 聳り立つは冥界の絶壁。内にはかつて母なる神を封じ込めてみせた、かの女神が絶対権限を有する地底の国。

 借りるよ、エレシュキガル。胸の内でそう呟いて、高らかに真名を叫んだ。

 

「――『霊峰踏抱く冥府の鞴(クル・キガル・イルカルラ)』!!」

 

 

 突如出現した絶壁の外に弾き出されたランサー――カルナは、消えかけの体に鞭打って、壁に侵食される空を見上げた。

 何故、何故忘れていたのだろう。

 歯を食いしばって消滅に抗う。身の内の聖杯を拠り所にすれば、辛うじて現界は可能だ。既に契約が切れているのも分かっている。だが。

 

「まだだ」

 

 まだ彼の名を一度も呼べていないのに。

 ここに留まっていてほしいと彼は言った。きっとあの壁の向こうには地獄があって、彼は自分にそこまで来てほしくなかったからそう願ったのであろう。

 それでも。

 こんなところで無様を晒していられる程、カルナは弱く在れなかった。意外と我儘な自分に少しだけ呆れてから、彼は重い体を引きずり壁に向き合う。

 中からきいきいと耳障りな音がする。次いで、剣戟の鋭い音が響き渡る。

 一目会って伝えなければ死んでも死にきれぬ。その意志だけで施しの英雄は現世に留まっていた。

 

 

 

「―― So as I pray ,〝unlimited blade works〟!!」

 

 剣の丘が仮初の冥界を埋める。

 同時に中空に出現した大量の剣が、まだ動きの鈍いラフムに向かって凄まじい速度で射出されていく。

 剣の雨を逃れた壁際のベル・ラフムが上空を目指している。絶壁を乗り越えるつもりであろうが、しかしそれは。

 

「許可しない。ここから出ることを禁じる」

 

 発した本人でも驚く程に冷酷な立香の声に従って、冥界の壁が赤紫の火花を散らす。それはまるで結界のように空を覆い、飛び上がろうとしたラフムの羽の尽くを焼き切って地に墜落させた。

 立香はその様を認めて即座にビーストØ/Dへ視線を移す。新たなラフムが生まれ始めている。しかし、遅い。どう考えても最初より生産性が落ちている。

 それでも敵の数が多いことに変わりはなく、剣戟を躱した個体がこちらに襲いかかってくる。

 

「チッ、やはり撃ち漏らすか」

 

 アーチャーの舌打ちには悔しさが滲み出ていた。そこへ赤紫の脚部が振り上げられる、が。

 

「貴様らは動くなよ、オレがやる」

 

 的確な射撃がその尽くを破壊する。二人の前に躍り出たエミヤオルタの弾丸はラフムの硬い表皮をいとも容易く貫通し、たった十秒程で接近していた個体全てを殲滅した。息がぴったりなんだけど、とは言うに言えない立香である。

 

「立香、宝具の展開は可能か?」

 

 変わらず剣を投影しては撃ち出しているアーチャーが、振り向いてそう尋ねた。立香は肯んじる。宝具とスキルの両立ならば可能だ。

 

「やれるよ」

「ならいい。何、固有結界に加えてここまで投影のペースが速いと、さすがに一時的なガス欠になるかもしれんからな。援護が間に合わなくなっては話にならん。早いうちにやってくれると助かる」

 

 アーチャーの言葉に頷き、少年は仮初の冥界から意識を一旦逸らした。

 ――ビーストØ/Hの宝具は形の定まっていない概念宝具である。対獣宝具のカテゴリの通り、それはビーストに対する切札となるが、その真の役割は破壊ではない。

 救済。そして希望。

 相対したビーストから何かを救うために、最も適した能力を発揮する。そして顕現のためのカタチは既存の英霊の宝具のいずれかに似る。彼自身のオリジナルと呼べるものは無い。中身は全く違うものだが、概ね類似効果の宝具を模して象られる。

 今回救うものは決まっている。では救う手段は?

 簡単だ。彼女は殺したくなかった。アラヤとの契約を一度は結んでしまう程、周りの誰かを殺したくなかったのだ。そのままいけばやはり人殺しの道を進むことになっていたにも関わらず。

 救われない分かれ道だった。どうしようもない人生だった。

 それでも、彼女は殺したくなかった。

 彼女をアラヤの呪縛から解き放つ仕事はエミヤオルタが担った。ならばその次の救いは何だ。

 獣と化してしまった彼女の遺体がもう何人たりとも殺さぬように、食い止め続ける。

 破壊は不可能だと分かった。あの獣が誰かを殺す前に速攻で滅するという方針は取れなくなった。ならばもうそれは叶わずともよい。自分には壊せないというのなら、二人の守護者に任せよう。それで駄目でもまだ抗おう。絶対に殺させて堪るものか。これ以上、彼女を人殺しにさせて堪るものか。

 救われない分かれ道から引きずり出してみせるのだ。もう二度と彼女に背負わせないために。

 ではそのカタチ、救済を体現する宝具の元になるのは何か。

 決まっている。自分達が死ななければよいのなら、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……宝具解放、『変生の時きたれり、其は世界を愛するもの(ロード・カルデアス)』!」

 

 瞬間。

 花が咲く。花が咲く。枯れた大地に光が満ちる。

 誰も殺させない。誰も死なせない。只管生かし只管立ち続ける。彼女を悲しませないために。

 故に――『永遠に閉ざされた理想郷(ガーデン・オブ・アヴァロン)』。

 半永久的に傷を癒し、魔力(マナ)を地脈より汲み続ける花の魔術師の宝具。その模倣。

 再生を。修復を。回復を。どこまでもどこまでも、立香の心が折れるまで。

 

「……ああ、なるほど。君の決意、しかと受け取った」

 

 地に咲いた花を見つめ、アーチャーが一人呟いた。投影のペースが上がっている。魔力の供給源が二つになった今、最早彼を止められるものはここにはいない。

 

「二人とも、俺はこのままエレシュキガルの宝具を張り続けてあいつをここに閉じ込める。やばい攻撃はなるべく相殺するけど、残りは」

「分かっている。そろそろラフムも生まれなくなってきた頃合だ、固有結界を解くぞ」

「……十五秒後だ、そこからは」

 

 二人の弓兵が、あの獣を押し切れるかどうか。

 立香はきつく唇を噛み締める。十年前は防戦の一方で、一矢報いることすらできなかった。

 だが、今は自分がいる。

 きっかり十五秒、二人が走り出したと同時に剣の丘は消失した。歯車の消えた天は楽園の碧空に覆われていく。

 残りのラフムをアーチャーの撃ち出す剣の雨とエミヤオルタの弾丸が驚異的な速度で殲滅していく。ようやく本体、ビーストØ/Dが丸裸になった。

 

I am the bone of my sword(我が骨子は捻れ狂う)

 

 アーチャーが手に黒の洋弓と捻れた剣を投影し、すぐさま飛び上がって剣を弓に番えた。狙いはおそらく弱点とも思われる上半身、人のかたちを保ったままの部分である。

 しかしやはり、一筋縄ではいかない。

 獣の頭上に黒い剣が出現する。禍々しい魔力を纏ったそれが独りでに振られた。

 

『『約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)』』

「チッ……! 『偽・螺旋剣(カラドボルグ)』!!」

 

 アーチャーが再び舌打ちを漏らす。同時に放たれた黒紫の暴流にカラドボルグが激突して大爆発を起こした。だがそれでも、光を呑む暗黒は止まらない。

 そう、十年前もこうやって、こちらの攻撃が悉く相殺されたのである。それどころか返しの一撃で凄まじいダメージを食らっていた。

 

「させるか、よっ!!」

 

 立香は地を蹴る。中空で暗黒の一撃とアーチャーの間に無理矢理割って入り、手にした星の聖剣を()()()()()()()()()()()

 瞬間、光と闇の聖剣のそれぞれ放った衝撃波が真っ向からぶつかった。爆風に押しやられた立香は背後のアーチャーと共に花畑に墜落する。アーチャーの方は上手く足から着地したが、立香は背中から受け身も取れずに落ちた。ぐしゃりと嫌な音が体内で響く。

 

「すまない立香、無事か!?」

「ぐ、う……無事、だから。俺は気にしなくていい、次を」

 

 立ち上がろうとして立香は気づく。右腕が、肘の辺りで抉れて取れかけている。黒い血かぼたぼたと落ちていた。道理で痛いはずだ、と泥に侵された脳がぼんやり感想を抱いた。

 やはり相殺しきれなかったが、いい。後ろにいたアーチャーは無傷だ。

 

「……まさか、お前」

 

 その弓兵が信じられないと言わんばかりに見つめてくる。

 立香は歪に苦笑した。何故あの聖剣の真名を謳わなかったか、どうやらバレてしまったらしい。

 

「あは、気づいちゃった? 今は、ほら。霊峰踏抱く冥府の鞴(クル・キガル・イルカルラ)を使ってるから。他のを使う訳にも、いかなくて、さ」

 

 一度に真名解放できる宝具は一つだけ。それが、藤丸立香の成れの果てたるビーストØ達への制約である。

 宝具を呼び出すだけならいくらでもできる。だが、その本来の力を引き出すとなれば一つが限界だった。

 そして、ビーストØ/Hはそのたった一つの装備スロットを、エレシュキガルの宝具で埋めた。

 故にØ/Dの放つ真名解放の一撃、つまり十全に威力を引き出された一撃を、魔力放出程度の威力で受けなければならない。当然先程のように相殺しきれずダメージを負う。本来ならば数回の撃ち合いで勝敗は決する。

 しかし忘れてはならない。彼自身の宝具は何のかたちを模して顕現したか。

 

「すぐ、治る。死なないよ、俺は絶対死なない。だから気にしないで、攻撃を続けて。どうしようもないやつは俺が防ぐって言ったろ?」

 

 言うや否や、花園から供給された魔力が瞬く間に傷を修復していく。ちぎれかけの腕も元通りに、まるで時計を巻き戻しているかのように。

 それを見届けたアーチャーは何かを言おうとして、また口を固く閉ざし再び屍の獣へ矢を番えた。

 それでいい。立香は星の聖剣を解除し、虚ろな獣を睨みつける。

 霊峰踏抱く冥府の鞴(クル・キガル・イルカルラ)は解除できない。次またいつラフムの生産が再開されるか分からないし、ビースト自体が動く可能性だってある。この場に最高の結界である冥界の絶壁を維持することは最優先事項だ。

 エミヤオルタもまた攻撃を重ねている。だが弾丸は全てビーストの張った魔力障壁に罅を入れるだけで、本体に届かない。

 そしてまた嵐のような一撃が来る。天に現れた三叉の槍は、どうやら自分ではなく守護者達に向けられていた。二つのビーストは互いが互いの対獣スキルを潰しあってしまうので、結局は決定打に欠ける。それよりはまず他の敵を消そうとでも判断したのだろうが、甘い。

 

『――『恋見てせざるは愛無きなり(トリシューラ・シャクティ)』』

 

 天より放たれる青い雷撃。それらを全て受け止めるのは同じく三叉槍の雷だが、それもやはりただの魔力放出でしかない。

 

「がっ……!」

 

 自分以外への防備を優先し、その結果雷撃をまともに浴びた。明滅する視界の端で、アーチャーの放った赤原猟犬(フルンディング)がビーストØ/Dの下半身を一部抉りとっていったのが見えた。焼け焦げた肉が再生するのに従って、飛びかけた意識も無理に引き戻される。

 治しても治しても次が来る。攻撃を受けきることはできない。だが致命傷を負ったとしても死ぬことは許されない。自分自身にそれを禁じた。

 まるで地獄の責め苦のようであった。諦めない限り永遠に続く耐久戦。

 ――それでも、誰も殺させたくなかった。

 誰一人として殺させはしない。もう二度とあの救世主に地獄を味わわせはしない。

 自分が立ち続けることで皆を守り、同時に自分をも癒す。()()()()()()()()()()()

 出来損ないの救世主が至った、彼なりの救い。

 

「……まだだ」

 

 吐く血は泥の色。暗く濁った血の瞳からは、けれど決して意志の光を消しはしない。どこまでだって耐えてみせる。

 

「まだ、まだ、まだだ、まだ俺は立ってる。死んでない。死んでないんだから、まだ足掻いてみせる。なあ立香、俺は死なないから、絶対お前に殺されないから。皆生かしてみせるから!!」

 

 もう届かない約束でも、吼えずにはいられなかった。

 何度でも、何度でも、何度でも、意思なき獣に立ち向かってみせるから。

 だからどうか、救われぬままのあの人に光を。

 生きている間は決して救われることの無かった彼女(じぶん)に、どうか救いを!!

 

「――ああ、決して」

 

 応えたのは、黒い弓兵。

 その首にアンプルが突き立てられる。金継ぎのように罅の入る身体が、今までとは段違いの速度で攻撃を重ねる。

 無茶な使い方で潰れる霊基を、立香の宝具によるさらに無茶な再構築で維持している。激痛どころの話ではないだろう。だがそうまでしてでも譲れない願いがあるから。譲れない祈りがあったから。

 いつかどうか幸せにと、十年前に散っていった皆の祈りがあったから。

 

『其はエジプトの洛陽、終焉を示す時の蛇』

 

 詠唱が無慈悲に続く。

 アーチャー達が自分の背後に回ったのを確認して、立香は再び星の聖剣を手に身構えた。クレオパトラの宝具が来る。相殺は不可能、それでも可能な限り威力を削らねばならない。

 

「ふっ!!」

 

 短い呼吸と共に放った衝撃波は一直線にビーストØ/Dへと向かう。焔を纏ったコブラがその頭上で輝き――

 まるで霞のように、掻き消えた。

 

「……え?」

 

 ごしゃ、と肉を消し潰す壮絶な音が鳴り響く。

 ビーストØ/Dはその上体の右側をごっそり削り取られていた。間違いなく、立香の放った攻撃によって。本来なら防ぐどころか圧倒することすら可能なはずの一撃を、それは無防備なまま受けていた。

 ぼたぼたと降るのはØ/Hと同じ泥の血液。立香は何が起きたか分からず、一瞬頭の中が真っ白になっていた。

 だが次の瞬間、彼は悟る。

 

『逆しまに、死ね』

 

 あえて攻撃を食らった、その理由を。

 

「あ、がっ……!」

 

 激痛。

 いっそ死にたいと思える程の苦痛。

 鏡合わせのように抉り取られた。己の右半身、その腰から上を全部持っていかれた。

 偽り写し記す万象(ヴェルグ・アヴェスター)。何故気づかなかったと歯噛みしてももう遅い。堪らず頽れた立香の耳に、屍のさらなる攻撃を示す虚ろな声が届く。

 

『『暁の時を終える蛇よ、此処に(ウラエウス・アストラぺ)』』

 

 先程キャンセルされていた宝具の再展開。襲い来る焔の蛇の向こうに、既に先程の損傷を再生しきった獣が見えた。朦朧とする頭でも分かる。自身の宝具からの修復が間に合わない。攻撃を防ぐ力が残っていない。

 おそらくは先程から攻撃を防がれ続けていたことにより、ビーストØ/Dの中での破壊優先順位が変動したのだ。優先対象は守護者達からビーストØ/Hへ。しかしやはり互いの対獣スキルは相克であり、決定打に欠けてしまう。だからこそ敢えて一撃受けることで偽り写し記す万象(ヴェルグ・アヴェスター)を発動し、弱らせ防御不能になったところへトドメを放つ。恐ろしいまでに機械的、自分への被害を考えないその有り様はいっそ不気味であった。

 

「立香!」

 

 アーチャーが叫んでいる。駄目だ、と少年は首を振った。今ここに来たら巻き添えを食らってしまう。共倒れだけは防がなければ。

 立香は残った左手を地につけ何とか立ち上がろうと藻掻く。しかし失われたものが多すぎた。血も、臓器も、魔力も、何もかも。再生には時間を要し、その隙はあまりにも大きかった。

 

「立、香……」

 

 諦観がどんどん大きくなる。残った左手で花を握りしめる。それしかできなかった。焔の蛇が牙を剥き出し襲いかかってくるというのに。

 迫りくる死を受け入れたくないのに、足掻く術が残っていない。

 目を、閉じかけた。

 

 

 

「――諦めるな」

 

 

 

 誰かの声が、聞こえた。

 予想された熱と痛み、そして死はいつまで経ってもやってこない。どころか、体の修復スピードが増している。

 

「お前はあいつなんだろ。なら、んな早々に諦めんじゃねえ。あいつが何度立ち上がったと思ってる」

 

 閉じかけていた瞼を開く。顔を、上げる。

 

「……キャスター?」

 

 焔の蛇をルーンで組まれた高密度の魔力障壁で防ぐ、一人のドルイドがそこにいた。

 

「ああクソ、あったま痛えなちくしょうが。まだガンガンしやがる」

 

 男は片手で杖を地面と平行に掲げていて、もう片手で乱暴に青い髪を掻きむしる。ちらりと見えたその顔は、憔悴を色濃く残していた。

 

「立て()()。治癒のルーンは効いてるはずだろ」

 

 言われて、少年は既に上体が右腕まで完璧に再生していることに気づいた。アヴァロンにルーンを掛け合わせた効果は絶大で、失われた魔力も最大限まで補充されている。

 

「キャスター、アンタ」

「……そうだよ、持ってきちまったんだよ。読める訳も無かったのに」

 

 コブラが力を失い消えた。キャスターもまた障壁を解除する。

 覚束無い足取りで立ち上がった少年に、屍の獣からふいと視線を外したドルイドは悪戯っぽく笑いかけた。

 

「あの弓兵(バカ)どもを笑えねえな?」

「……ふは、そうだね」

 

 思わず少年も吹き出した。確かにこれでは、お人好しお人好しと揶揄えまい。

 さて、とキャスターは杖をひと回しして地に突き立てる。

 

「オラ出番だ灼き尽くす炎の檻(ウィッカーマン)、弓兵どもの足場になれや!」

 

 瞬間、花を散らして現れたのは木々で編まれた緑の巨人。

 一部始終を見守っていたらしいアーチャーとエミヤオルタがその巨人の肩に着地する。

 

「オレァこのまま坊主と援護に回る、行け!!」

 

 キャスターが吼える。一つ頷いて応じた二人の守護者が、それぞれ戦闘を再開した。

 

 

 

 キャスターの参戦にも関わらず、戦況が大きく変化することはなかった。

 否、確かに安定はした。立香だけでは防ぎきれない攻撃にも何とか対処できるようになっただけ、キャスターの援護は的確かつ強力であった。立香自身、損傷は格段に減ったのである。

 だがそこまでだった。こちらの攻撃は相変わらず通りきらず、通ったとしても再生が速すぎて話にならない。

 幾度目かの攻防の後、あれは地脈に接続しているかもしれんと苦い顔でキャスターは言った。

 

「あいつには自己改造スキルがあるんだっけな。だがいくら魔力炉心をそれで作っても、あんな無茶苦茶な再生は無理なはずだ。あの下半身、おそらく地下まで根を張ってるぜ」

「一撃で殺しきらなきゃ駄目ってこと?」

 

 尋ねた立香に、おそらくとキャスターは頷く。

 

「あの上半身が弱点なのは間違いないと思うんだがな。弓兵の攻撃、上半身に向けたやつだけ全部防がれてるだろ。逆に言えばあの小山みてえな下半身には無頓着だ。斬られても抉られても再生できるんだから」

 

 言った傍から、その上半身を狙ったアーチャーの矢が下からずるりと伸びた肉の触手に阻まれた。次いで矢が爆散し、その部分の肉が粉々になる。

 

「まさに肉を切らせてってやつだな」

 

 苦虫を噛み潰したような顔でキャスターが呟いた、そのときだった。

 

『……神々の王の慈悲を知れ』

 

 ビーストØ/Dが再び頭上に宝具を喚んだ。アーチャーとエミヤオルタが一気に後退し、立香の後ろまで戻ってきた。無論、あれを防げる訳も無いからだ。

 

「ハァ!? ウッソだろおい! 悪い坊主、最初は任せた! ()()()()()()()()()()()!!」

「だろうね……!!」

 

 瞠目したキャスターがじりと退ったのを尻目に、立香は自分の再現できる最高威力の宝具を必死で脳内検索した。何としてでも防がなければ。まともに食らえばまず死ぬのは自分ではなくキャスターだ。

 その宝具は知っている。忘れるはずもない。その効果も勿論理解(わか)る。

 だが解せない。あれは確かに高火力ではあるが、この場に神性持ちはクー・フーリンただ一人。あの獣がわざわざ神殺しの槍を、しかもこの中で唯一通常のサーヴァントであるキャスターのために――?

 考えるのは後回しだ。とにかく何とか捌ききらねばと立香は乖離剣エアを喚ぶ。現在の全魔力を込めれば辛うじて相殺は可能か。

 

「キャスター、減衰できるのは良くて八割だ、残りは頼む!!」

「チッ、しゃあねえ!」

 

 全員の周囲に青いルーンの防壁が展開される。いけるか。立香の額に汗が滲む。

 さすがにこれは無傷でもいられないだろう。とにかく、追撃までにはそれを治して――

 

「――リツカ!」

 

 …………瞬間、確かに己の中で時が止まった。

 声、が。

 声が、聞こえた。

 いるはずのない者が、叶うはずのない呼び声を。

 

「…………うそだ」

 

 どうやって壁を乗り越えたのかとか、何故まだ現界しているのかとか、どうしてこの変質した獣がかつての藤丸立香であると分かったのかとか。

 どうして名前を呼んだのか、とか。

 聞きたいことが浮かんでは消える。近づいてくる。来ないで、と叫びたくてもどうしてか喉が痛い。声が出ない。

 立香の前に躍り出た男が巨大な槍を構える。

 

「相殺する! 焼き尽くせ、『日輪よ、死に随え(ヴァサヴィ・シャクティ)』!!」

 

 全く同じ二つの宝具が火を噴いた。

 威力は当然互角。ぶつかった攻撃同士が誘爆を起こし、一瞬その閃光で何も見えなくなった。

 追撃は、無い。振り向いた男の藍玉が、安堵の色を滲ませる。

 

「リツカ、無事か。よし無事だな。この場ならば魔力も満ちるようだ、オレも加勢しよう」

 

 再び鎧を纏った男が言う。その目に映るのは最早人ではなくなった、かつての面影も無いはずの獣であるのに。

 どうして、名を。

 

「……リツカ?」

 

 吐き気がする。頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。

 だってこんなの聞いてない。今回は名前なんて一度だって呼ばれていなかったのに。

 別の自分に侵食されていた脳裏に、十年前の言葉が過ぎる。

 

「すまない、リツカ。お前はオレに来てほしくはなかったのだろう」

 

 だが、とカルナは金の槍をきつく握りしめた。

 

「それでも、此度のオレはお前だけの槍だから。命令を。()()()喪わせない。だからオレに、どうか戦えと言ってくれ」

 

その言葉で、立香は分かってしまった。

 

「……何で」

 

 何で、何で、血を吐くように問を叩きつける。

 

「何で持ってきちゃったんだよ。そんな記録、何でっ……!」

 

 来ないでほしいと言伝を頼んだ。無関係だと思ったからだ。彼に十年前の記録は無く、獣と相対する義理も無い。巻き込みたくはなかった。自分と彼はただのマスターとサーヴァントであったのだから。聖杯の失われた今、その関係すら宙に消えたのだから。

 なのに、彼は持ってきてしまった。

 あの記録を。あの記憶を。封じられていたはずの思い出を。

 

「……大切だと知っていたから」

 

 上手く言えないけれど、とカルナは前置いて、かつての主の屍を見上げる。

 

「オレはきっと後悔していたのだろう。そこのキャスターも、オレも、次があるならと願ったのだろう」

 

 キャスターは黙っている。それでも、その表情には否定の気配は無い。

 

「それにリツカ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 心臓が、止まるかと思った。

 そうだ。ずっと呼ばれはしなかった。それでいいと思っていた。違う分霊、繋がらない記録、ならば未練がましく強請るのはやめようと、気持ちに蓋して目を背けていた。

 だから、こんなにも息が苦しい。

 差し伸べられた手に応えたいのかも分からない。

 

「――来るぞ!!」

 

 エミヤオルタの警告で我に返った。

 再びビーストØ/Dがその頭上に宝具を喚んでいる。あれはおそらく最果てにて輝ける槍(ロンゴミニアド)だ。カルナに神殺しの槍を防がれて、即座に方針を変えてきた。

 

「坊主、同じの出せるか!?」

「う、うん……!」

 

 立香は右手に同じく騎士王の槍を携える。頷いたキャスターが防壁を展開する間に、大きく息を吐き出した。

 後ろを振り向く。真っ直ぐ己を射抜いてくる、藍玉の瞳。

 もう自分は主ではない。いや、最初は主ですらなかった。如何なる縁に依ってか彼を召喚したときも、こうして心臓が痛い程鼓動を強く刻んでいたっけ。

 

「この一撃を防いだらアーチャー達と動いて。出し惜しみはしないでいい。全力で」

「……ああ」

 

 自分の不出来さのせいで、その命令はついぞ言えなかった。彼を動かすには魔力が足りなかったから。

 けれど今は。

 

「思いっきりやってくれ、カルナ」

「……! 承知した、リツカ!」

 

 ああ、この聖杯戦争で、確かにささやかな願いは叶ったのかもしれないな、と。

 泥に塗れた思考の中で、ふと小さな幸せを抱きしめた。

 

 

 

 ――だが。

 

『――地に増え』

 

 最初にその相違に気づいたのは、果たして誰であったのか。

 

『都市を作り』

 

 違う。

 あれは違う。

 あれはただの再現ではない。ただの騎士王の模倣ではない!

 

『海を渡り』

 

 かつて、第六特異点にて聖都を造った者がいた。

 

『空を裂いた』

 

 かつて、千五百年もの放浪の末に女神にまで至った王がいた。

 

『何の、為に』

 

 その名は女神ロンゴミニアド。

 かつての名は、アルトリア・ペンドラゴン。

 

「ま、ずい。一旦退け! 信じられんが、あれはこの山ごと消し飛ばすつもりだ!!」

 

 アーチャーが叫ぶ。

 だがそれは叶わぬ話であった。既に天にてその聖槍は抜錨され、唸りをあげて大気を掻き乱している。

 嵐の王(ワイルドハント)の再来であった。

 

「……まだ、だ!」

 

 諦めるものか。立香は咆哮と共に今まで張り続けていたエレシュキガルの宝具を解除する。もう形振り構っていられない。真名解放を禁じたまま対処できる代物ではなかった。

 だが、致命的なことが一つ。存在そのものが悪である彼ら人類悪に、()()()()()使()()()()()()。故に、かつてあの光を防ぎきった白亜の城は再現できない。同値の威力を誇る宝具で相殺、もしくは力ずくで逸らすしかない。

 

『聖槍よ、果てを語れ』

「――っ、頼む王様!」

 

 その手に掴んだのは乖離剣エア。英霊界でも一二を争う威力の二つの宝具が互いに回転数を上げていく。

 しかし、この時点で立香は悟ってしまった。間に合わない、と。

 エアの力を十全に引き出せるだけの時間が無い。もう聖槍は放たれる。エアの真名解放が間に合っても、同時に消し飛ぶ可能性が高い。

 それでもやるしかない。諦めるつもりも毛頭無かった。最悪にして最後の手段だが、高速再生を続けながら攻撃を受けるという選択肢がある。とりあえず死にはしない。死にはしないのだが、もうそれは拷問を通り越した何かである。

 けれど、諦めはしない。

 

『『最果てにて輝ける槍(ロンゴミニアド)』』

 

 やはり間に合わなかった。

 逃げて、と背後の仲間に目だけで告げる。

 乖離剣の真名を紡ぐ。おそらく半分も減衰できない。残りは耐え凌ぐしかない。

 覚悟を決めた。今から始まる責め苦のために、襲い来るであろう想像を絶するような地獄のために、できる限り身を硬くして――

 

 

 

 

 

 

 

 ――鐘が。

 鐘が、鳴っている。

 

「『いまは遥か理想の城(ロード・キャメロット)』」

 

 不可能であったはずの白亜の城壁が聳り立つ。

 地形すら変える一撃をあっさりと受け止めて、対悪宝具が煌めいている。

 少し高めの、女性の声。

 どこからか旋律が流れてくる。

 からん、からん。

 鐘が鳴る。それは祝福か、それとも。

 

 

 

「――サーヴァント、セイヴァー。世界の危機に応じ参上した」

 

 

 

 宣戦布告か。

 

 

 

「ラスト・グランドオーダー。実証を、開始します」

 

 

 

  青かった空に、夕焼け色が輝いた。

 



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第八章

やっとこさ終わりです。


 ただ、生きていたかっただけなのだ。

 呼吸をして、心臓を動かして、という『生命活動』としての生ではなくて。ただ、愛した者と共に、愛した者の生きたはずの世界を一緒に歩きたかっただけなのだ。

 成り行きで人類最後のマスターなんてご大層なものになって、それでも頑張って頑張って血反吐まで吐いて、世界を救うため奔走した。それは何も名誉が欲しかったからではないし、お金の為でもないし、誰かに認めてもらいたかったからでもない。大事な人に笑っていてほしかった。大事な人と一緒に笑っていたかった。 大事な人の生きた世界を守りたかった。

 それでも、否、だからこそ、その先に待つ終わりに怯えた。

 絵本に描かれるハッピーエンドを望んだとて、現実世界はそんなに綺麗に出来ていない。汚い大人も、醜い思惑も、掃いて捨てる程存在するのだから。

 救けてなんて言えなかった。

 自分は救世主で、英雄で、皆のマスターなのだから。弱音を吐いたら心配されてしまうから。

 救いなんて期待していなかった。

 きっと自分にできるのは、自分を救おうとして大事な人が傷つくことのないように、自分から手を離すことだけだ。

 本当は生きていたかった。

 けれど。ああ、けれど仕方がないじゃないか。

 自分一人、救われないとしても。世界すら救ってみせた自分が、自分自身を救えないとしても。

 それで愛しい人が笑っていられる世界を残せるなら、仕方ないと受け入れよう。

 だって一番欲しかったのは、そんな優しい世界だったのだから。

 

 そう、思っていたはずなのに。

 

 憎い。

 愛しい。

 憎い、憎い、愛しい、愛しい、違う、憎くて堪らない。

 世界を救ったのに。生きるために頑張ったのに。

 どうして『私』は切り捨てられるの?

 当然だ。もう要らない。救世主なんて平和な世界には要らない。それでいいと諦めた。

 違う違う、諦めたくなんかない。もう要らないなんて言わないで。私を置いていかないで。

 私だって幸せになりたかった。

 ――それは許されない。私は救世主だ。

 私だって穏やかに在りたかった。

 ――それは許されない。私は排斥されなければ。

 憎い。憎い。世界が憎い。運命が憎い。『私』を不要と断じた全ての人間が憎い。恨めしい恨めしい恨めしい。

 でも諦めた。それは不要な感情だし、不要な憤りだ。これは当然の結果だ、分かっていたでしょう。これでいい。これで全てお終い、全てハッピーエンド。

 諦めたくない。認めるなんて嫌だ。愛しかった。大好きだった。だから守った。救ってみせた。見てよ、ほら、たくさんたくさん救えたでしょう? 私一人の力ではないけれど、それでも頑張って、あの魔神王だって倒した。星一つを丸ごと救った。みんなと一緒に駆け抜けてみせた。

 なのに、どうして『私』は私を救えないの。

 ――そういうものだと納得したはずでしょう。

 どうして私は救われないの。

 ――そういうものだと諦めたはずでしょう。

 ならばそんな世界も運命も消えてしまえ。残らず灰になってしまえ。これは正当な報復でしょう。これくらいしたって誰も怒らないでしょう。憎い、憎い、憎い。恨めしい、恨めしい、恨めしい。殺して滅ぼして燃やし尽くしてまだ足りない。全部全部壊れてしまえ。

 ――違う、私はそこまでしたいとは思っていなかった。確かにとても悲しかったし、憤りもした。でも、それでも私は世界を守りたかったのに。愛していたのに。ああ、壊したくない、壊したくない、壊したくない! お願いだから止まってよ! 何も殺したくない、殺したくないの!

 誰か救けて。

 いいえ、救けないで。

 私を、『私』を、どうか誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か――

 殺して。

 

 

 ふと、目が覚めた。

 空の夢を、見ていたようだ。

願いの欠片が散っていった碧空の、涙が出るほどうつくしい夢を。

 ――ここはどこだろう。

 自分の形が意識できない。肉の身体が無いのだから、当然と言えば当然だった。

 闇の中のようでもあるし、海の中のようでもある。それとも二つは同義であるのか?

 海の中ならこのまま窒息するのだろうか。

 違う。息はしなくていい。身体が無いのだから当たり前だ。

 なのに、不思議と呼吸がしたかった。

 どうやったって吸えない空気を、無いはずの肺腑が求めている気がした。

 いつだったか、手を離して呼吸を停めた。空を夢見て泥濘に沈んだ。

 そうか、これは闇ではなく、海でもなく。深い深い泥の中。

 ――呼吸が、したいな。

 叶わぬ願いを飲み込んで、目を閉じる。いや、身体が無いから閉じようもないのだが、とにかく感覚を切った。そのつもりだった。

 そのはず、だった。

 

 ――救いを見た。

 

 唐突に伸ばされた手があった。

 一人ではなかった。何人もの誰かの手が、必死に伸ばされ泥を掻き混ぜた。

 救いを見た。

 その手が掠める度に、自分は呼吸を取り戻した。ゆっくり、一つ一つ、確かめるように。

 救いを見た。

 人類の総意思と一時的に繋がっていたせいであろうか。自ら閉ざした視界に不思議と映像が映る。胸に咲く剣の花。誰かの笑顔。聞こえる声はいつかの約束を、ただ只管に優しく紡いだ。

 今度は泥。そして戦場の光景。

 救いを、見た。

 戦っている。叫んでいる。どうか、どうかと悲痛な程に。

 呼吸が戻る。息ができる。あんなにも夢見た、届かなかった空がすぐ近くにある。

 鐘の音が聞こえる。天高く歌う誰かの声がする。

 なんて幸せな、なんて安らかな。

 ――ああ、救いを見たのだ。いま見たこれは救いなのだ。

 生あるうちは決して届かぬと諦めた、自分自身への救いなのだ。

 

 ならば。

 

 今こそ我が真名を謳おう。我が声を高らかに響かせよう。最早嘆くべきものはどこにも無く、それ故に我が人生に心残りはひとつも無い。

 聞け、聞け、愛する世界よ。たとえあなたたちに弾かれようとも、命を無為に散らそうとも。

 私は、確かに救いを得た。

 

 

 ――鐘が鳴る。

 歌が聴こえる。

 空が裂けた。雲の割れ目から差す太陽の光を吸い込んで、天に浮遊する少女の夕焼け色の髪が煌めく。

 

『あ、あ』

 

 ビーストØ/Dが意味の無い母音を吐く。あたかも驚愕しているかのように。

 次の瞬間、ビーストの頭上に展開される宝具――乖離剣エア。それは数多のサーヴァントに甚大なダメージを与える魔剣。

 ビーストには分からなかった。最早プログラムに沿って兵器を使うだけのそれは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。何故なら獣はそれを見たことがなかったからだ。この英霊は今この瞬間初めて現界した、ビーストのデータベースには存在しない英霊だった。

 故に、ビーストはエアを引き出した。多くの英霊を滅ぼせるこの剣ならば、有効ではないかと。

 しかし。

 

『……裁きの時、だ』

 

 回転を始めたエアを目にした少女は、令呪の宿る右手を高く掲げた。

 

「忘れたの、『私』。あの時のそれは、もっと慢心してなかったでしょう?」

 

 全く同じひと振りの魔剣がその手に現れる。

 少女の目が強い光を宿す。琥珀に己が屍を映し込む。

 そして、もうひと振りの乖離剣は唸りをあげる。

 

「――原初を語る!」

 

 それは、母を討ち滅ぼした一撃。

 その一撃を以て訣別の儀とした、ある一人の王の剣。

 

「天地は乖離し無は開闢を言祝ぐ!」

 

 互いの乖離剣が凄まじい勢いで回転数を増していく。

 

『世界を裂くは』

「我が乖離剣!!」

 

 全く同じに見えるだろう。

 事実、その中身は完全に同一。引き出せる威力も同じはず。

 ただ一つ、違うのは。

 

「星々を廻す渦、天上の地獄とは創世前夜の終着よ」

 

 その後ろに、何を見ているか。

 かの王は慢心せずして何が王かと豪語した。

 かの王は慢心を排して母を滅ぼさんとした。

 忘れたのかと少女は尋ねた。

 あの背中を。あの勇姿を。

 あの燃え盛るウルクの地下に咲き乱れた花の中、最後の戦いで見た背中を――!

 

『受けよ』

「死を以て鎮まるがいい!」

 

 王よ、どうか私に力を。

 少女は祈る。そして信じる。

 その手に宿した力は、ただ誰かを守るために。

 

『「――『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』!!」』

 

第八章 我が使命にて

 

 閃光の収まったとき、ビーストØ/Hはその激突の結末を知った。

 屍の獣の下半身が半分程度まで体積を減らしていた。山が丘になったくらいだが、それでも軍配の上がった先は獣ではないのだ。

 防ぎきれない一撃を、下手をすれば致命傷になる一撃を、すぐ再生できる下半身の肉と泥を以て防いだ。つまりはそういうことである。

 

「……ふむ、こんなものかな? ていうか重っ! エアってこんなに重いの!?」

 

 ふわりと花園に音もなく降り立った見覚えのある白い礼装の少女が、やっぱり王様はすごいなどと独りごちている。その右手にあった乖離剣が、泡のように跡形もなく消えた。

 

「今ので……うん、まだ全然いけるね。無辜って良いことなんて無いように思えたけど、メッフィーみたいな感じなら確かに恩恵はある、のかな?」

 

 やはりぶつぶつと呟く彼女は、そこでようやくぱっと肩口までの夕焼け色の髪を靡かせ振り向いた。琥珀色の瞳が輝く。

 

「立香、それ、サーヴァント」

 

 少年の声は掠れ、たどたどしいものになってしまった。ぶつ切りの問いに、しかし少女は微笑んで頷き、答える。

 

「うん。アラヤに無理言って、リソースぶんどって来ちゃっ、うわぁっ!?」

 

 ……最後の悲鳴は、キャスターが彼女をがっちり抱きしめたことによる。

 

「く、苦しい苦しいキャスター苦しい! 待って待って落ち着いて! 私のステータス見る!? ゴミだよ!? そんな強くされたら痛いんだって苦しい助けてーー! 立香、立香! これ何とかして!!」

 

 助けてと言われても。

 少年はあまりの光景に呆然と突っ立っていることしかできなかった。あと、自分の素のステータスも正直ゴミである。キャスタークラスにすら負ける筋力値である。自己改造も施していない今、助ける力は少年には無い。

 と、今まで無言だったキャスターが小さく何事か呟いた。少年には聞き取れなかったが、耳元で囁かれていた少女はふっと表情を緩めて二、三度確かめるように頷いてみせている。とん、とん、と青い背中を優しく叩いている。それはあたかも、幼子を宥めているかのように。

 

「……マスター」

 

 ふいに、エミヤオルタがそう言った。

 もう契約は無く、どころか彼女は人間ですらない。けれど、彼は確かにそう呼んだ。

 キャスターの腕から静かに離れた少女が、一瞬壊れそうに儚く笑った。それもすぐに、ちょっと怒ったような渋面に取って代わられる。

 

「こらエミヤ、また勝手に髄液を使ったでしょう。こんなに罅割れて」

 

 めっ、とまるで悪戯っ子を叱るような口振りに、寸の間真鍮の瞳を見開いた黒い弓兵は、やがていつもの皮肉を纏った嘲笑で以てそれに応じた。

 

「さて、禁じられた覚えも無いのでな。悪いがもう少しこまめに注意してもらわんとその叱咤は通用せんぞ?」

「はいはい、分かった分かった……。じゃあ今から禁止。今から金輪際禁止。OK?」

「了解した、マスター」

 

 何だか了解の二字にも揶揄いが透けて見えている。主従漫才かな、と思わなくもない立香である。

 ――感動の再会なんて、似合わない。

 もし今この正義の味方に「もっと何か無いのか」なんて聞こうものなら、そんな答えしか返ってこないであろう。だからこそあの少女は十年前と同じように彼へ注意をしたのだ。そして彼もまた、十年前と同じように。

 停まっていた二人の時間が、鎖を噛んでなお回ろうとする歯車の如く、緩慢に動き出していた。

 

「マスター」

 

 今度は赤い弓兵である。とりあえず、先程まで周りの一切を置いてけぼりにして元マスターを抱きしめていたドルイドについてはスルーしていく方針であるらしい。

 

「今、アラヤと言ったな。今回の君の現界は独断ではない……と、いうことか?」

 

 問われて、少女は穏やかに首肯する。

 

「召喚自体は単独顕現だけでも何とかなったんだけど、今回はそれじゃそのあとのためのリソースが足らない。あと諸々の都合上、私が好き勝手するにはどうしてもアラヤの認可が要るわけね。なので無理を通してきました!」

「きました、じゃない。そこで胸を張るな。……つまり、現在君は冠位(グランド)サーヴァントと似たような状態で現界しているのか」

 

 そこで少女はぱちりと一つ瞬きをすると、納得したように歓声をあげた。

 

「そういう感じ! さすがアーチャー、的確!」

「なるほどな……、!?」

 

 アーチャーが勢いよく屍の獣を仰ぎ見る。今まで停止したそれが再び天に宝具を喚んでいた。その魔力の動き自体は全員が感知していたことであった。

 掲げられているのは――刀。針の筵かと錯覚できる程の大量の刀。

 

「あれは……」

「ああ、鈴鹿ちゃんだねえ。あれは綺麗だった」

 

 身構えるサーヴァント達の中でただ一人、落ち着いた風情の少女である。

 そんな悠長な、と思わず彼女を見た立香であったが、直後に彼女の前に出現した城壁を認め、息を呑んだ。

 

「数には数で。物量には物量で……ね?」

 

 実際、彼女や少年らビーストが喚び出しているのは誰かの宝具そのものではない。膨大なる魔力を用いて組み上げられる、言わば完璧な模造品(コピー)。スキルを軸にし、投影魔術とは全く異なる理論のもと、威力含めた何もかもが本物と一切の差無く再現される。神々の権能が関わる類の宝具や、宝具のカテゴリから外れる奥義は例外だが。

 そう、コピーであるが故に。

 一度使えば壊れるものだろうが、何の躊躇いも無く使用可能である。

 

『恋愛発破、『天鬼雨』』

「全砲門開錠――『王の号砲(メラム・ディンギル)』!」

 

 大量の刀に対するは、量産のきかない量産型『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』。否、それは何度でも何度でも撃ち出される。魔力さえあれば、弾である宝物はいくらでもコピーがきくのだから。

 果たして、刀の雨を食い破るは王の宝物、その模造品。一つ一つの威力自体が段違いであり、弾幕の役割を担いつつも反撃となってビーストØ/Dに突き刺さる――!

 

「……す、げえ」

 

 知らず知らず、少年は見とれていた。

 上手い。ただ防ぐだけではなくダメージを叩き込んでいくそのやり方はまさに最適解。

 自分には真似できないと少年は悟っていた。それはこの世界の彼には圧倒的に戦闘経験が足りていないがため。世界を救うその道筋を辿ったのは、他ならぬ彼女であったため。

 結局、自分では届かないのだ。そこに至って唇を噛む。

 そのとき少女が振り向いた。城壁は霧散し、再び修復を始めたビーストを意に介さず。

 

「――救いを見たんだ」

 

 唐突に、言った。

 

「……え?」

「それは血塗れで、絶望も諦念も全部は消えてくれてない、それでも足掻いた誰かの夢だった」

 

 歌うように、彼女は告げる。

 

「私は救われなかった。救われずに終わるはずだった。知ってる? 英霊候補の魂は、死後英霊の座に至ることを拒むことがある。……私も最初はそうしようと思っていた。十年間、あの日真実を知ってから、私は英霊になることを拒むと決めていた」

 

 英霊の座に至ることを、拒む?

 いったい何故。そう尋ねた少年に、彼女は寂しそうに微笑んだ。

 

「だって、私は救われないまま終わってしまった。苦しいまま、憎んだまま終わってしまった。諦めたつもりで、でもどこかで叫んでいた。何故私は救われないの、と。そんな英霊が登録されて、その思いを抱えて喚ばれてしまったら、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 なるほど確かにセイヴァーとしては召喚され得るだろう。世界を救った彼女の功績からすれば妥当な結果だ。

 ならばその反転体、オルタナティブとしてビーストが出現する可能性も当然、ゼロではない。

 

「だから、ね。そんなことになるくらいなら英霊になんてなりたくなかった。この私が喚ばれることもなかった」

 

 でもね、と彼女は一転して底抜けに明るく告げた。

 

「エミヤが私を殺してくれた。あなたが、皆が、あの『私』が誰も殺さないように頑張ってくれた。それで私は――私の心は、救われたの。私を救おうとしてくれる人がいたから。たとえ命を落としても、私は本当に、心から、救われた」

 

 ありがとう。

 少女はまだ明るく、けれど目尻に涙を浮かべて礼を繰り返す。

 その琥珀が映しているのは獣の少年だけではなく、この場で足掻いた者達全て。

 エミヤオルタが目を閉じて、彼にしては本当に珍しく、大層穏やかに笑っていた。

 

「私は救いを見た。救いを見たんだよ、立香。もう私は決して獣にはならない。救われたのだから、もう二度とあの救われない獣にはならない。あなた達が救いをくれたおかげで、私は英霊になることを受け入れて、今ここにいる」

 

 ――涙が、こぼれ落ちた。

 濁った血の色の瞳から、大粒の滴が流れていく。ぼたぼたと透明な感情の欠片が頬を伝って地に落ちる。

 

「りつか」

「うん」

「おれ、がんばった」

「うん」

「きみを、すくいたくて。でもこんなやりかたしかおもいつかなくて。きみをしなせて」

「うん」

「おれたち、きみを、すくえたの」

「……うん」

 

 涙が止まらない。どうして泣くのか分からなくて、でもどうしようもなく泣きたくて堪らなくて。

 正面からぎゅうと抱きしめられる。泥が、と思う間もなく彼女は言った。

 

「汚染は心配しなくていいんだよ。私にそれは効かない。だからいっぱい泣いていい」

 

 ――ああ。

 そんな、優しい声で促さないでほしい。

 まだ終わってはいない。なのに、ずっとこのままでいたくなる。

 ほんの十秒程だった。まるで永遠にも感じられる十秒。

 そして、また獣が咆哮するのを二人で聞いた。

 

「……無粋だなあ、全く」

 

 冷えきった声は彼女のもの。

 ゆるりと身を離し、少女は己の屍を睨みつける。

 

「全員、聞いて。今から立香以外は私とパスを繋いでほしい。私から直接リソースと指示を流す」

 

 右手の令呪は三画、欠けることなく揃っている。

 サーヴァント達が了解を返すと同時、それは一瞬強く輝きを示した。数多のサーヴァントと契約を結び従える。そのスキルこそが彼女の本領。

 ビーストØ/Dが下半身を膨張させ、その裂け目からまたラフムを生み始めた。数には数で。先の少女の言葉をあちらも実践している。こちらの戦力の増大に手数を増やすことで対抗しようとしているのだろう。

 まるで時間を巻き戻したかのようだった。あれだけ減らしに減らしたティアマトの子らが今や百を超える頭数で楽園を踏みしめている。相変わらずきいきいと意味不明な言葉を零しながら、前進を始めている。

 

「……立香、俺、もう一回冥界を」

「その方がいいね。万が一にでも飛散されたらお終いだ。お願いできる?」

 

 少年は強く頷いて霊峰踏抱く冥府の鞴(クル・キガル・イルカルラ)を展開する。再び壁が聳り立ち、ビーストを取り囲んだ。

 

「まずは生まれなくなるまでラフムの殲滅を。それが済んだら本体への攻撃開始。立香は私とキャスターで守る。今まで立香がしてくれてた援護は全部私が引き受けるよ」

 

 弓兵二騎とカルナが応じた。しかし、キャスターがただ一人口もとに手を当て神妙な顔つきでビーストØ/Dを見つめている。

 

「キャスター?」

 

 救世主の少女も訝しんだのであろう。首を傾げて放たれた呼び声にも反応しなかったキャスターは、長い沈黙の末口を開いた。

 

「…………なあマスター。真名看破持ちっての、ありゃ嘘だな?」

 

 突然何を言い出すのだろう。話が長引くと踏んだのか、少女が他三騎のサーヴァントに目配せした。その意を汲んで彼らはラフムを抑えにかかる。

 それを確認してから、改めて彼女はキャスターに向き直った。

 

「うんまあ、嘘だね。あのときはああいう説明しかできなかっただけで」

 

 立香は『あのとき』がいつであるか推測しつつも黙って彼らの会話を聞いていた。大方、彼女は敵サーヴァントの真名を言い当てた理由についてそのような説明をしたのだろう。

 だよな、とキャスターは動かなくなったビーストに注意を払いつつ続ける。

 

「で、さっきのを見る限り、アレは自分のデータベースに無い英霊を見ると処理落ち(フリーズ)するってことで、合ってるか?」

「…………よく見てたねえ、たぶんそれで合ってるよ」

「え、ちょっと、ちょっと待って! そんな隙あった!?」

 

 少女があっさりキャスターの推論を認めた。立香は思わず会話に割って入る。自分のことで手一杯だったせいか、全然周りが見えていなかったのである。

 

「あったよ。だいたい十秒……いやもっと短いかな? 少なくとも数秒のラグがあった」

 

 それはつまり、相手にとって致命的な隙に他ならない。

 二人の立香の会話が一区切りついたところで、さらにキャスターは質問を重ねた。

 

「んで、その法則は宝具に関しても適用される。違うか?」

 

 ……その確認からたっぷり数秒、少女は驚いたと言わんばかりに目を見張って、それからにやりと好戦的な笑みを浮かべた。

 

「……違わない。その話を今持ち出すってことはさ、あるんだね? ()()()()()()()()()

 

 おう、とキャスターも獰猛に笑う。

 この主従――十年前もそうだったが――たまに表情が似るのである。長いこと一緒にいると色々うつるのだと彼女は随分昔に笑っていた。

 

「準備にちと時間がかかる。無防備にもなるからな、何とかやってくれや」

「分かった、それならこちらも方針を変える」

「方針?」

「私だけで二人も守れないの。私は防衛に適した英霊じゃない。できるのはあくまで『従える』ことと『陣頭指揮』だけ。餅は餅屋って言うでしょう」

 

 ()()()()()

 旋風が彼女の眼前に渦巻く。小さな竜巻にも似ている。その中心、地に薄く青く浮かび上がるものを見てキャスターが息を呑んだ。

 

「――素に銀と鉄。礎に石と、契約の大公」

 

 青い火花が魔法陣から断続的に発生している。そのペースはどんどん速くなり、風もまたその勢いを増していく。

 

「降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国へと至る三叉路は循環せよ」

 

 何度も唱えた呪文だった。

 身に染みついた呪文だった。

 縁の絡みついた、呪文だった。

 そう、これこそが、この行為こそが、彼女を彼女たらしめる最初の一手。

 

閉じよ(満たせ)閉じよ(満たせ)閉じよ(満たせ)閉じよ(満たせ)閉じよ(満たせ)。繰り返す都度に五度、ただ満たされる刻を破却する」

 

 青の中で、令呪が輝く。

 風に煽られる髪も、その後ろ姿も、懐かしいと立香は感じていた。召喚を教わったときのことがまるで昨日のことのように思い出される。

 

「――告げる。汝の身は我が下に。我が命運は汝の剣に。()()()の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ。……誓いを此処に。我は常世全ての(救い)と成る者。我は常世全ての()を敷く者」

 

 所々、呪文が違う。それで立香は理解した。これはただの召喚ではない。そもそも基軸になるような、あの少女の円卓や聖杯といったアイテムが一つも無いのに英霊召喚などできる訳がない。

 だが実際、彼女は喚ぶ。従える。使役する。それこそが彼女の真髄、彼女を象徴する概念であるが故に。

 そう、これは――彼女の宝具。

 

「汝三大の言霊を纏う七天、今こそ――! 『我が使命にて集えよ盟友(ロード・カルデアス)』!!」

 

 旋風が一瞬膨らんだかと思うと、掻き消えた。

 そこにいたのは一人の騎士。紫紺の鎧と、巨大な盾。

 立香達に背を向けている彼女の菫色の髪が、風の残滓に柔らかく揺れる。

 

「――シールダー、マシュ・キリエライト。マスターの求めに応じ参上しました」

 

 こちらを向いた彼女の深い紫色の瞳が、強く輝いている。

 彼女は救世主の少女と獣の少年を順番に認め、盾を持つ手に力を込めた。

 

「……無茶をしたのですね、先輩」

 

 少しばかり苦しそうに目元を歪めた彼女の肩を、救世主が軽く叩いた。

 

「マシュ、ここで立香とキャスターを守ってほしい。私は……あっちに混ざってくるよ」

 

 あっち、と彼女が指さした先では三騎のサーヴァントがラフムと戦っている。かなりの数を駆逐していたが、まだ終わりは見えない。

 無言で承知したマシュを置いて、救世主は爆発的な速度で三騎に合流していった。

 ――マシュへの指示は立香に任せる、と言い残して。

 

「状況は召喚時点で把握しています。マスター、今は指示を」

 

 盾を構えた少女が強い口調で指揮を求める。

 少年は戸惑っていた。否、混乱していた。そもそもデミ・サーヴァントであったマシュが何故召喚され得たのか、何故自分を『マスター』と呼ぶのか。加えてこの獣になった少年の最期の記憶が脳内で絶叫しているようで。泥に塗れた頭は混乱に対処しきれず吐き気まで引き起こし始めていた。

 

「マスター……?」

「坊主、どうした? 頭痛えのか」

 

 違う。痛くない。痛くないはず、なのに。

 ぐちゃぐちゃだ。思考回路を滅茶苦茶に荒らされたようなおぞましい感覚。

 獣の記憶がうるさい。自分が呑まれてしまう。

 

「先輩」

 

 呼ばないで。その名前で呼ばないで。

 それは自分には相応しくない。

 

「……でも、継いでいるのでしょう」

「……!!」

 

 弾かれたように顔を上げる。どこか泣きそうな、崩れてしまいそうな微笑みがそこにはあった。

 

「わたしもあの『わたし』ではありません。あなたに泣きながら縋ったわたしではない――けど、ちゃんと継いできましたから」

 

 ここに来ると分かったときに、ちゃんと持ってきたと。

 視界が一瞬、切り替わった気がした。

 極天を落ちる流星雨の、悲しくも美しい最期の情景が見えた気がした。

 ビーストは前を向き、白い手を横に差し出す。

 

「……マシュ、お願いがあるんだ」

「はい、先輩」

「手を、繋いでいてくれないか」

 

 泥で汚してしまうかもしれない。半分駄目元で、けれど彼女は――その手を取った。

 

「……いいの?」

「ふふ、お願いしたのは先輩ですよ? ……言いたいことは分かります。でも大丈夫。わたしは英霊『藤丸立香』に付随する形でのみ召喚されるサーヴァントです。マスターの性質も一部引き継いでいますから、泥への耐性も」

 

 握り返された手が温かくて、泣きたくなった。

 彼は最期まで繋げなかった。その手を取ることはできなかった。

 だから、今だけは。

 

「この俺はあのオレじゃない。君もあの君じゃない。でも」

「ええ、でも」

 

 この手を、ずっと願っていたから。

 ――咆哮が地を揺らす。ビーストØ/D本体がついに攻撃を再開した。爆発が随所に起こる中、少年は傍らの少女の手を強く握りしめる。

 

「マシュ! 雪花の壁、最大展開!」

「――はい!」

 

 吐き気はもう、無かった。

 

 

 

「『朧裏月十一式』っ! せえ、の!」

 

 少女の振るう十文字槍がラフムを縦に両断した。塵になる遺骸からすぐ離れ、続いて二体のラフムを突きで仕留める。

 アーチャーは少女の傍らで夫婦剣を繰りながら、冷静にその戦いぶりを観察していた。流れるような一連の動きは、しかしあの槍の名手にはどうしても劣る。それを察しているのだろう、伝う汗を拭った彼女は歯噛みした。

 

「……っ、胤舜みたいには、いかないか。これでも随分修練したんだけ、ど!」

 

 袈裟懸けに振るわれた槍がまた一体ラフムを屠る。アーチャーはすかさず彼女の背後で脚を振り上げていた別のラフムを斬り捨てた。少女からの礼もそこそこに、再稼働を始めたビーストØ/Dを仰ぐ。そして、幾度目か分からない舌打ちを一つ。

 嫌なものを見た。屍の頭上に構築されつつある宝具は、アーチャーの目が狂っていなければ間違いなくこの場を壊滅させる一手である。

 

「マスター、君は積極的にラフムを倒さずともいい! あれを!」

 

 あれ、と示した先のものを少女も認識したらしい。血相を変えた彼女は槍を消す。

 

「間に合わない、か! 仕方ないなあ、あんまり使いたくないけど……『時のある間に薔薇を摘め(クロノス・ローズ)』!」

 

 短い破裂音を残して少女は消えた。否、サーヴァントですら一瞬見失う程の凄まじいスピードで天高く飛び上がったのだ。紡がれた真名が意味するのは固有時制御(タイムアルター)。そこまでしなければ――発動したあとに防ぐのではなく発動を未然に防がなければ――ならない程危険な宝具をビーストØ/Dは展開しようとしている。

 

『神性領域拡大、空間固定、神罰執行期限設定』

「させるかっ!! 『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』!」

 

 間一髪、臨界点を迎えかけていた破壊神の手翳(パーシュパタ)を真紅の槍が貫通した。

 大爆発が地を揺らした。閃光の中落下してくる少女をアーチャーは何とか受け止める。しっかり受け身を取ってキャッチされた彼女は煤まみれであった。あちこち破けた礼装に血が滲んでいる。

 

「はは、ありがとアーチャー……いてて」

「馬鹿者、あんな無理なキャンセルがあるか! いくら治るとはいえ……!」

「ごめんて。うあっ! 痛い痛い思念が痛いごめんなさぁーい! もう使わないって痛い痛い!」

 

 それでも一息ついたかと思えば、彼女は突然頭を押さえて苦しみだした。何事かと慌てるアーチャーの腕の中で彼女は暫く謝罪を繰り返し、やがてぐったりと身体の力を抜いた。

 どうした、と恐る恐る尋ねたアーチャーに、少女は気まずそうに返した。

 

「キャスターに文句言われた」

「……あー…………」

 

 全てを察した。

 オレは今回も使えないのに槍槍槍槍……と呪詛に匹敵する念話が飛んできたのだそうだ。無理もない。だが時と場所は選んでほしい。

 

「うんゲイ・ボルクは封印。封印で」

「苦労するな君も……」

「慣れてるよ」

「悲しい慣れだな」

 

 言いつつ、アーチャーは少女を地に降ろす。花の上に着地した彼女はすかさず接近していたラフムの一撃を躱した。その異形をどこからともなく飛んできた銃弾が蜂の巣にしていく。

 

「……っと、ありがとうエミヤ」

「いい。損傷は」

「もう治ったよ。そっちはどう? 多めに魔力送ってるのだけど」

「……問題ない」

 

 金色に罅割れた上半身を晒した男はどこか不機嫌そうに淡々と返答し、それからやっと数十体程度まで減ってきたラフムの殲滅に向かっていった。

 きょとんと首を傾げている少女にアーチャーは少々頭を抱えたくなった。どうも、自分が無茶をしたという自覚が薄い。いやそれは前からなのだが、なまじ戦闘能力を得てしまった分、無茶をすることに対する抵抗がさらに減ってしまったのであろう。彼女はもう、無力ではないのだ。

 

「とにかく、君は宝具の相殺に専念してくれ。ラフムも残り少ない、ここは――」

 

 任せろ、と言おうとした矢先であった。

 自分達よりさらに前方、膨れ上がる魔力の昂りが肌を焼くかのようだ。喩えるならば太陽か、炎か。

 

「命令はもう出してあったの。アーチャー、私を持ってマシュのところまで退れる?」

「……了解した」

 

 再度少女を抱えたアーチャーは地を蹴る。エミヤオルタも既に後退を始めていた。

 直後に脳へ送られてきた戦術を瞬時に把握し、赤い弓兵は剣を強く握った。

 

「マシュ」

「はい! 真名、開帳。わたしは災厄の席に立つ――!」

 

 全員の安全が確保できたところで、マシュが白亜の城を展開する。

 

「できたよカルナ! キャスター、準備を!」

「おう!」

 

 キャスターが杖を消した、その瞬間。

 神殺しの槍が火を噴いた。膨大なる熱量は先程ビーストの一撃を相殺したものよりさらに巨大で、少女と接続した恩恵を最大限利用できているのがよく分かる。

 ラフムは元々神の子供である。今でこそビーストに造り出されているが、彼らは本質的に神性を有している。それ故にカルナの宝具は絶大な効果を発揮するのだ。

 爆音と豪炎の末、守りの体勢に入っていたビーストを除く全ての敵性体が消失した。倒された、という表現はこの場に限って言えば誤りであった。文字通り、跡形も無く蒸発して消滅したのである。

 そして、この一撃は嚆矢であった。

 

「――原初のルーン、『大神刻印(オホド・デウグ・オーディン)』!!」

 

 ドルイドの周囲に十八字のルーン全てが円形に広がり、続いてビーストØ/Dの下半身を囲むように展開される。

 キャスタークラスのクー・フーリンが有するもう一つの宝具。十八のルーンを全て一度に使う超高威力の対軍宝具――実際に目にするのはアーチャーも初めてである。前回の現界において、彼は最後までこの宝具を使わなかった。それがビースト打倒のための最大にして最後のピースになるとは、誰が想像するだろう。

 

「――鶴翼(しんぎ)欠落ヲ不ラズ(むけつにしてばんじゃく)

 

 アーチャーはただ一人踏み出す。

 原初のルーンが発動するその直前に、夫婦剣の一対を投影しビーストの背後へと投擲する。

 

心技(ちから) 泰山ニ至リ(やまをぬき)

 

 閃光が世界を埋めた。

 魔力の核爆弾とでも言うべきか。純粋な威力ならば英霊の中でも最高峰に位置するであろうその宝具は、当然余波も凄まじい。本来飛び出した自分が無傷でいられるはずもない、が。

 

心技(つるぎ) 黄河ヲ渡ル(みずをわかつ)

 

 透明な力の壁がその猛威を阻む。

 マシュのスキル、時に煙る白亜の壁。澄んだ水晶のように美しい無色の防壁がルーンの力を丁寧に受け流し、無力化させている。

 

唯名(せいめい) 別天ニ納メ(りきゅうにとどき)

 

 閃光の収まった先には、下半身を丸ごと消亡したビーストØ/Dの上半身がゆるりと落下を始めていた。地脈との連絡はこれで絶たれたも同然。本来最適解を弾き出し続けるあの獣なら、当然再生を優先させ地脈への再接続を狙うはずだが――その動きは、無い。まるで時を止めたかと思わせる、完全停止である。処理落ちを起こしていることは明白であった。

 その隙も数秒あるか無いか。それでも、そこを見逃すアーチャーではない。

 投擲していた夫婦剣がビーストの腹部を切り裂いた。血の色の瞳が大きく見開かれる。手にしたもう一対で、さらに一撃。

 

両雄(われら)共ニ命ヲ別ツ(ともにてんをいだかず)……!!」

 

 そのまま、真っ白な首を狙って最後の一対を叩き込む――!

 

『あーちゃー』

「……っ」

 

 ぎしり、歪な音が呼んだ気がした。

 

『あり、が』

 

 何かを言った、気がした。

 

「――鶴翼、三連!!」

 

 最期に何かが微笑んだ。そんな、気がした。

 

 

 冥界の壁が地に沈んでいく。

 花は次々と枯れてゆき、楽園のかたちを解いていく。

 金色の光が、蛍のように少女の身体から立ち上った。

 それはアーチャーも、エミヤオルタも、キャスターも、カルナも、そしてマシュも皆同じ。役割を終えた霊基が崩壊を始めていた。

 

「帰ろうか、皆」

 

 雲ひとつない青空を見上げていた少女が、安らかに呟いた。

 

「行くんだね、立香」

「……ええ、立香」

 

 少年が淡く微笑むと、少女も鏡写しのように相好を崩した。

 ――少年に、未来は無い。

 この世界にビーストは要らず、排斥されるべきものである。故に結末は皆分かっていた。少年自身も分かっていて口にはしなかった。

 しかし。

 

「ねえ立香。私、あなたに救われたの」

 

 唐突に救世主がそう言った。

 何を言い出すのかと目を白黒させる少年に、彼女は歌うように続けた。

 

「だからこそ、あなたは救われなければ。だってあなたは私で」

「君は、俺……」

 

 呆然としながらも少年は言葉を継ぐ。

 そういうこと、と救世主は楽しそうに言った。

 

「私が救われたのならあなたも救われる。当然でしょう? 今度は私の番なの、立香」

「……でも、俺は」

 

 変化は不可逆。無かったことにはできない。ルビーに初めにされた説明である。

 そうだね、と救世主は頷いた。

 

「本来なら、無理でしょうね。でもね? 思い出して、あなたには願う権利がある」

「え?」

「ねえ、カルナ? あなたはどうかな、願いはある?」

 

 唐突に救世主はカルナに問う。目を瞬かせたカルナは暫し首を傾げてから、言った。

 

「無い……と、以前のオレなら言っただろうが、今はそうだな、まだ彼と共にいたい」

「へ」

 

 思わず間抜けな声が漏れた。それも全く意に介さぬまま、カルナは断言した。

 

「まだ彼の名を呼んでいたい。まだ、話したいことがたくさんある。聞きたいことも。オレがいなかった十年の話、才能の無い彼に魔術を教えた物好きな恩師の話」

「才能無くて悪かったな……」

 

 よく言った、と。セイヴァーは本当に楽しそうに、カルナの胸に手を翳した。

 するりと取り出されたるは金の杯。エミヤオルタが預けた、魔術王の残滓。その最後のひとつ。

 

「聞いたでしょう、アラヤ。今回の戦争でサーヴァントとマスター、ひと揃いなのはもう彼らだけ。彼らはこの聖杯戦争の勝者であり、願いを叶える権利がある。そして、私を守護者にしようなんて高望みのツケはまだ残っているでしょう?」

 

 彼にだけ払わせるなど許さない。

 ふわ、と聖杯に一陣の風がまとわりついた。空だったそこへ清らかな何かが満たされていく。最初よりずっとずっとたくさんの何かが。

 

「……君への負い目、罪悪感。それもまた人間ということだな」

 

 アーチャーがふと呟いた。皮肉を織り交ぜた視線はどこへともなく向けられている。

 阿頼耶識とは人類の総意思。そこに個人は無いが、意思である以上、人間である以上、それは決して物思わぬ冷たい機械ではない。

 

「でもね立香、このままあなたがこの世界とさようならしたいと言うなら、私は止めない。あなたへの救いは独りよがりにしたくないの。あなたが本当に望むことを。私と共に行きたいというなら、それでもいいでしょう」

 

 少女は優しく諭してくる。

 彼女が何かを理不尽に強制することは決して無かった。優しくもあったし、甘くもあった。多くのサーヴァントが彼女の捧げた肯定を喜びと共に受け入れていた、その気持ちを少年はようやく心の底から理解した。

 自分の胸に手を当てて、考えてみる。未来なんて最初に棄てたものだった。何も想像できない。そこにさらにカルナがいるなんてもっと訳が分からない。

 訳が分からないけど、それはとても、ああ、なんて幸福な――

 

「……立香、俺、まだ生きててもいいのかな?」

 

 声が震えるのを抑えられない。歓喜とは違う。戸惑いなのかもしれない。決して、悪いものではないけれど。

 む、と少女が唇を尖らせた。今度は怒っているのだろうか。何だか幼子にあれこれ言い聞かせる母親のようだ。

 

「何を今さら。私を救ってくれたあなたが生きてちゃ駄目なんて。そんなの私が認めないんだから」

 

 聖杯が差し出される。恐る恐る、少年は願いを口にした。

 全身から澱みが抜けていく。泥が洗い流されていく。獣と同期したことで巻き戻った肉体年齢はそのままに、髪も瞳も本来の色を取り戻していく。

 抜き去られた泥が集まって、小さな子供のかたちになった。すうすうと寝息を立てている黒髪の男の子を少女が抱きかかえる。

 続いてカルナから零れていた金色の光が止まり、消滅がキャンセルされたのが見て取れた。彼は数度手を握ったり開いたり、不思議そうに肉の身を確かめている。

 二つの願いを叶えて空っぽになった聖杯は、救世主の胸へと仕舞われた。

聖杯戦争は、ここに終結したのである。

 顔を上げた少女は晴れやかな顔で、さようなら、と別れを告げた。また、ではなく、さようなら。二度とこの世界に呼ばれることが無いように。二度と獣が生まれることが無いように。祈りを込めた別れの挨拶だった。

 そうして彼女は燐光の中、殊更明るく満面の笑みで手を振った。

 

「この子は私が連れて行く。さあ時間だよ、早くカルデアに帰らなきゃ!」

 

 

『立香さあああーーーーん!!』

「うげっふぅ! 痛い痛いルビー痛い! 手加減! カルナ助けて!!」

 

 飛びついてきたルビーをカルナが引っぺがす。これが愉快型魔術礼装……と興味深げに白い羽飾りを引っ張ってみたり柄の部分を持って素振りしてみたり。やめなさい魔法少女になりたいのか。

立香は施しの英雄に好き放題弄られているルビーを慌てて回収した。そのままあまりの無遠慮さに戦々恐々としているステッキを背に庇う。ちょっと残念そうなカルナである。

 たくさんの燐光が溶けていった空は、見えない星々に覆われている。昼の星。太陽光で掻き消されて、それでも確かにある輝き。

 じゃあ、と少年は呼吸を整えてから言った。

 

「俺達も帰ろうか、カルナ。遠坂先輩にボコられに行こう――一緒に」

「……ああ、一緒に」

 

 



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終章

設定厨大暴走の巻

お付き合いいただきありがとうございました


 

マテリアルが開放されました

 

ビーストØ/ D(ディスペア)

それは世界を救った。星を救った。未来を救った。本来であればその功績から、死後、救世主を象徴する新たな英雄として登録されるはずであった。

『救う』という概念を突き詰めた存在は、しかしとある魔術師にその英霊としての可能性を無理矢理引きずり出されようとした結果、反転して顕現した。救世主の反転体は獣であり、本来全てを救うために振るわれる力は、全てを滅ぼすために振るわれる。

 

ステータス

筋力 ?  耐久 ?

敏捷 ?  魔力 EX

幸運 ?  宝具 ?

 

身長:158センチ~ 体重:49キロ~

出典:Fate/Grand Order

地域:人理継続保障機関カルデア

性別:女性 属性:混沌・悪

自己改造により、現在把握されている最大規模の英霊のサイズまでの膨張が可能。

 

元々、獣としての可能性が零だった訳ではない。人知れず世界を救ったそれは、(本人は全く無害であるにも関わらず)危険視され迫害される宿命にあった。それに絶望し、自分を救おうとあがけば容易に獣へとなりうる。絶望しながらも諦めたが故に、それは救世主だったのである。則ち、救世主の皮を被った悲劇の獣。今回はその可能性を(結果的とはいえ)人為的に引きずり出されたに過ぎない。

救世主としても獣としても、『全ての英霊を従える』という性質は変わらない。故に振るう力は全て他の英霊のものであり、本人の攻撃力は一般の魔術師にすら劣る。身体能力も同様である。

 

今回の変生体は人為的かつ無理矢理なものであったため、本来顕現するであろう獣とはやや性質を異にする。

仮に彼女が自分の意志で獣に堕ちた場合、きちんと自我を有した状態のビーストが現れる。その場合の攻撃対象は『カルデア以外の世界』に限定され、決して他のサーヴァントやカルデア職員に危害を及ぼす存在にはならない。

 

〇無辜の怪物:EX

元々の魔力量は一般的な魔術師にも劣るが、『数多のサーヴァントを従えた』逸話ばかりが独り歩きした結果、カルデアの魔力炉に匹敵する魔力炉心を獲得。ステータスのうち魔力のみがEXなのはこのスキルが原因である。

 

〇単独顕現:E

単体で現世に現れるスキル。

彼女がビーストになるにはどうしても何らかの外的要因が必要であるために、ランクはかなり低い。

 

〇従える者:EX

固有スキル。救世主としてのスキルをそのまま持ってきている。

『全ての英霊を従える』という概念をスキル化したものであり、その恩恵として、『全ての英霊の宝具を使用する』ことが可能。ただし、一度に真名解放できる宝具は一つだけである。加えて神霊の宝具の一部(山脈震撼す明星の薪など)は本人の元々の属性が人であるため再現が物理的に不可能であり、対人魔剣などの奥義も十全には使えない。さらにビースト時には対悪宝具が使用できない。つまり、『いまは遙か理想の城』は使用不可。

 

〇黒の聖杯:A

聖杯の探索者、保管者である性質が反転したもの。本来なら正しい聖杯を正しく保管するそれが、汚染された聖杯の中身を惜しげも無く使用する厄災の実現者と化した。則ちそれは、聖杯の泥を纏う獣である。このスキルを発現させるため、ビースト化の材料には中身の入った聖杯が必須となる。

 

〇自己改造:EX

自身を改造するスキル。

先に述べた通り、本人の能力自体は普通の人間のそれそのものであり、簡易な魔術すら装備品に頼らねば発動できない。

よって全てを滅ぼさなければならない獣としての顕現時は、貧弱な自身の能力をブーストするため、他の英霊の特性を自身にコピーペーストすることでその一般人と同等の肉体を神に近いものまで作り変える。例えばそれは竜の魔力炉心であり、コルキスの魔女の魔術素養であり、叛逆者の耐久であり、探偵の思考パターンであり、ゴルゴンの末妹の筋力である。故に獣としての顕現時、ステータスはこのスキルのために魔力以外全て『?』となる。

ちなみに、救世主としての顕現時はこのスキルを好んで使わないため、ステータスはほとんどE表記となる。その時の戦闘能力は某この世全ての悪と同じくらい。つまり最弱。

 

〇ネガ・ビースト:A

救世主としての『獣を殺すスキル』。ビーストⅠを破壊したことによりこのスキルを得る。ビーストクラスに対する特攻及び特防状態、さらにビーストクラスが持つ全スキルに対しAランクの耐性を有する。

 

世界を救ったが故に、ただ一人『自分』のみを救うことができなくなってしまった救世主の成れの果て。本来の反転体は『自分が救われない』現実を覆すために『自分が救われない』世界を破壊しようとする。則ち、自分というたった一人の人類を救済しようとするのである。このため本来の獣は決してカルデアに危害を加えない。カルデアこそが彼女を受け入れてくれる唯一の居場所であったからだ。

しかし今回、反転の際の暴走により、彼女はカルデアすら分からなくなった。目に映るもの全てが破壊すべき世界であり、そこに彼女の自我は介在しない。最早見境なく全てを滅ぼす殺戮兵器である。

 

救った世界に見放されたという結末を受け入れた、否、諦めきったのが救世主としての彼女である。彼女は決して自分を救おうとしない。わずかでも自分を救おうとあがく獣としての彼女は、本来ならば存在しえない。彼女はそういう性質を持っていなかったし、救った世界を愛していた。

したがってこの獣の成り立ちは、本来有り得なかった存在を人為的に引きずり出されたという点からジャンヌ・ダルク・オルタのそれに非常に近い。ただし世界を恨まなかったジャンヌ・ダルクと異なり、彼女は絶望と憤りを封じることはできても捨てきることができていなかったので、この獣は全くの空想の産物とは言えない。

 

本来の攻撃対象は自分を捨てた世界、つまりカルデア以外の世界だが、今回の変生ではその制限は外れている。彼女はただ目についたものに対する最適解を最速で実行する殺戮者である。正確には、獣としての彼女の残留思念が受肉したものと言える。最早目的は無く、辿り着く未来も無い。

が、彼女自身、そこまでやっても自分を救うことはできない。そういう風にできていない。そもそも獣と化した時点で救われないことは決定している。――結局、守りたかったものを己が手で滅ぼしてしまうのだから。

それでも、何故救った世界に排斥されなければならないのか、何故救った人類に恐れられなければならないのか――何故自分だけ救われないのか。諦めきったつもりで、けれどその胸の奥深くに蟠っていた、絶望から生まれた『救われたい』という思いを無理矢理体現させられたもの。

聖人でも狂人でもなかった、一般人であったが故に捨てきることができなかったその願いを、最悪の形で引きずり出され歪められた被害者。

 

以上の惨劇を以て彼女のクラスは決定された。

人類最後のマスターなぞ偽りの名。

其は救った世界から閉め出された、最も多くの人類に裏切られた大災害。

 

その名をビーストØ/D。

七つの人類悪から逸脱した番外個体、『絶望』の理を持つ獣である。

 

 

 

ビーストØ/ H(ホープ)

それは世界を救った。星を救った。未来を救った。

けれどそのために、それは人間であることを諦めた。自身の生命を諦めた。救った世界で笑うことを諦めた。

――この個体は、とある並行世界で彼が辿った末路の一つ。

 

ステータス

筋力 ?  耐久 ?

敏捷 ?  魔力 ?

幸運 ?  宝具 EX

 

身長:172センチ~ 体重:63キロ~

出典:Fate/Grand Order

地域:終局特異点 冠位時間神殿ソロモン

性別:男性 属性:秩序・善

Ø/Dと同様、自己改造によって膨張する。

時間神殿で生まれ時間神殿で死んだ、『救世の獣』。

 

自分自身を救うことができない少女を救うため、運命共同体である彼が愉快型魔術礼装カレイドステッキを用いて引き出した可能性。ひいては、とある世界線において彼がグランドオーダー遂行のために変生した獣。この世界の彼は救世主にならなかったが、別の並行世界ではその役目を果たしていた。

無理矢理反転させられたのではなく自分の意志で変生した存在のため、Ø/Dと違い理性を有する。自身の内から発生する泥に常に汚染されながらも、決して目的を見失うことはない。

ビーストに対抗するだけならば同じビーストよりも救世主の方が適しているが、今回彼の救世主としての変生は不可能であった。それはこの世界線における彼が『救世主とならなかった方』の藤丸立香であり、彼と彼女はどちらかが眠りにつき、どちらかが世界を救うという概念の運命共同体だからである。よってセイヴァークラスとしての顕現は概念的に不可能――一つの並行世界につき、『グランドオーダーを遂行した救世主の藤丸立香』はどちらか一人しかいないのだ。逆に言えば、たとえ救世主の役割を果たせるとしても、ビーストクラスならばかろうじて顕現は可能である。

 

スキルはほぼØ/Dと同一のものを所持しているが、獣としての在り方が全く異なるため、Ø/Dとランクの異なる同一スキルや、固有スキルもいくつか存在する。

 

〇単独顕現:B

単独で現世に現れるスキル。

Ø/Dより高ランクであるのは、この獣が自分の意志で変生したからである。

 

〇黒の聖杯:A+

そもそもの成り立ちに泥の聖杯が使用されたため、こちらのスキルもØ/Dよりランクが高い。

また、こちらの獣は理性を有するため、このスキルがA+ランクの精神汚染スキルとしても作用する。それに耐えられるのは後述の対獣スキルの恩恵である。

 

〇従える者:EX

Ø/Dと全く同一、同ランクのスキル。

彼ら二人は元々運命共同体、たとえ行き着く先が異なれど、行き着く役割は同じである。

 

〇自己改造:EX

Ø/Dと全く同一、同ランクのスキル。

ただし、彼の敵は世界ではなく獣であるため、自己改造もそのために適した作用となる。

 

〇救世の獣:EX

世界を救った獣という、一見矛盾した存在としてのスキル。このスキルから、この獣は破壊ではなく救済を象徴する。

彼の戦った世界線では、ソロモン王の『訣別の時きたれり、其は世界を手放すもの』発動後、ビーストⅠを英霊たちだけでは倒すことができなかった。令呪を使いきり、召喚した英霊たちは倒され、万策尽きた少年の手にあったのは、とあるこの世全ての悪が託した、汚染された聖杯。願いは一つ、『力が欲しい』。それだけだった。

汚染された聖杯に歪んだ方向で叶えられてしまった願いの結果、少年は救世主ではなく獣に変生し、ビーストⅠを打倒してみせた。しかし元には戻れない彼はそのまま崩壊する神殿に居残り、生き返った、神殿の出口で泣き叫ぶ後輩に別れを告げて自害した。自分が(たとえそのつもりが無くても)世界の排除対象になってしまったことを分かっていたのである。

 

〇ネガ・ビースト:A

『獣を殺す獣』としてのスキル。

ビーストⅠ打倒を成し遂げるために生まれた獣であるが故に、この状態の彼は自身も含めたビーストクラスに対し圧倒的性能を発揮。ビーストクラスに対する特攻及び特防状態、さらにビーストクラスが持つ全スキルに対しAランクの耐性を有する。

 

宝具『変生の時きたれり、其は世界を愛するもの』

種別:対獣宝具 レンジ:E~A++

ランク:EX 最大捕捉:一人

ロード・カルデアス。

本来はビーストⅠを打倒するために彼が作り出した宝具。ネガ・ビーストのスキルを宝具という形で瞬間的に超出力で発現させ、その効果は様々。また、発現する効果は自動的に『ビーストから何かを救うために最も適したもの』となり、その他の効果は現れない。それは獣を殺すだけに留まらず、彼の救いたいものを救う、ただその一点を追求した概念宝具。

ビーストⅠに対しては(とあるシールダーの影響か)『絶対防御(ダメージカット+防御力アップ)』、加えて『絶対破壊(自身に防御無視状態及び無敵貫通状態を付与+敵単体に超強力な[ビースト]特攻攻撃)』として、自身の対になるØ/Dに対しては彼自身や周囲の『絶対生存(リジェネ+ガッツ)』として、そして獣である自身に対しては――『絶対殺害(即死)』として。なお、もしこの状態でビーストⅡと戦闘した場合、この宝具は『絶対破壊』と『絶対殺害』、さらに『絶対抑制(ケイオスタイドの広がりを防ぐ)』の三つの効果。ビーストⅢ/Rに対しては、自身と周囲の『絶対耐性(精神異常無効)』の効果を現すと推測される。自分自身にすら特攻を発現するのは、彼自身の設定したセーフティである。

外見上は彼の使役していた英霊たちの宝具を模して発現することが多いが、その中身、本質は全く異なる。

その最終目的はただ一つ、『救済』である。

 

本当は生きて帰りたかった。

本当はまだ死にたくなかった。

けれど、何があっても救うのだと心に決めたのだから、この獣は止まらなかった。止まる訳にはいかなかった。

欲しかったものは大切な人たちの生きる未来。ただそれだけのために、その身を擲って。

世界を救うために、世界の敵となりながらもビーストⅠを打倒したもの。

その先で何もかも手放さなければならないと理解していながら、それでも愛する者の生きた世界を守ろうとした、救世主になり損ねた救世主。

 

以上の犠牲を以て彼のクラスは決定された。

人類最後のマスターなぞ偽りの名。

其は世界を救うために泥に沈んだ、人類を最も愛した大災害。

 

その名をビーストØ/H。

七つの人類悪から逸脱した番外個体、『希望』の理を持つ獣である。

 

なお、彼及び彼女を表す『Ø』は『Φ(空集合)』でもある。

 

 

 

藤丸立香

それは世界を救った。星を救った。未来を救った。その功績から英霊として成立した少女の一つの可能性。

『人類最後のマスター』、救世主である。

 

ステータス

筋力 E  耐久 E

敏捷 E  魔力 EX

幸運 C  宝具 EX

 

身長:158センチ 体重:49キロ

出典:Fate/Grand Order

地域:人理継続保障機関カルデア

性別:女性 属性:中立・善

全盛期はグランドオーダー遂行時であるため少女の姿で現界する。

この少女の場合、セイヴァークラスの他、ルーラー、キャスター、ランサーの適性を持つ。

 

人理焼却事件の発生した世界線、そこから派生したありとあらゆる並行世界の中の一つで世界を救った少女。

座に存在する英霊『藤丸立香』とは、彼女のみならず運命共同体の彼を含めた、ありとあらゆる並行世界の『人理焼却を(人のまま)防いだ藤丸立香』の集合体である。召喚される分霊は男のときも女のときもあるし、好んで使う宝具もそれぞれ違う。持ってくる記憶も微妙に異なる。

故に、可能性によってセイヴァー、ルーラー以外の適性クラスが異なっている。例えばルーン魔術を教わったとある可能性はキャスター、ファラオから下賜されたスフィンクス・ウェヘムメスウトを従えたとある可能性はライダー、神槍だの宝蔵院だのに槍を教わったとある可能性はランサー、といった風に、『藤丸立香』自体は理論上、基本七クラス全てに適性を持っている……のだが、本人は元一般人であり身体能力もその域を出ない上、ぶっちゃけどの分野での才能もないへっぽこであるため、基本七クラスでの召喚の場合非常に弱体化する。さらに『従える者』のランクがDまで落ち、後述の第一宝具も封印されるため、通常の聖杯戦争でこの英霊を召喚するのは全くの愚策と言える。

なおルーラークラスでも『従える者』のランクはB程度まで落ちる。彼/彼女は『救世主』にしかなれない存在なのである。

 

可能性によって多少の誤差はあるものの、最終的に得るスキルは(ランクの高低はあれど)同じである。

 

〇単独顕現:B

単独で現世に現れるスキル。

後述の第一宝具にて彼/彼女と接続したサーヴァントに対しても、Dランクの即死耐性などの形である程度の恩恵を与える。

 

〇無辜の怪物:EX

ビースト時と同一のスキル。

これにより、へっぽこ魔術師のそれであったはずの魔力量がカルデアの魔力炉と同等まで押し上げられている。が、悲しいかな有り余る魔力を自分で上手く使う才能が無いので、宝具使用やサーヴァントの使役以外にこの魔力の使い道はほとんど無い。

 

〇従える者:EX

固有スキルにして主力スキル。能力とそれに伴う制限はビースト時と全く同じ。

 

〇白の聖杯:A

彼/彼女は聖杯の探索者であり、保管者である。このスキルは聖杯関連限定で『直感』と酷似した効果を発揮し、また泥の聖杯をある程度だが浄化することもできる。

 

〇ネガ・ビースト:A

ビーストⅠを打倒した功績がスキル化したもの。能力はビーストØ/Hの同名スキルと同じである。

 

第一宝具『我が使命にて集えよ盟友』

種別:対界宝具 レンジ:E

ランク:EX 最大捕捉:六人

ロード・カルデアス。

英霊召喚を行い、サーヴァントを使役する宝具。多くのサーヴァントを使役した彼/彼女の人生が宝具に昇華されたもの。

召喚したことのある英霊なら同時に六人まで召喚可能。ただし疑似サーヴァントの召喚は不可能である。

 

第二宝具『愛と希望の物語』

種別:対記録宝具 レンジ:E

ランク:D 最大捕捉:不明

グランド・オーダー。

人理修復を成し遂げた彼/彼女の記録(記憶)そのもの。

ただそこにあるというだけで意味を持つ宝具。第一宝具による英霊召喚の際に触媒の役割を果たし、召喚されたサーヴァントにグランドオーダー時の記録を強制付与する効果を持つ。

本来起動どころか展開することすら不可能な、形の無い宝具である。他の魔術や宝具と併用することによって強制展開が可能だが、元より『使う』ことを想定していない宝具であるため多大なるリスクが存在する。加えて藤丸立香自身と切っても切り離せない関係にあることから、多くの場合、この宝具は展開と同時に彼/彼女自身の霊基ごと『消費』される。喩えるならば、別の魔術や宝具といった『溶媒』に、ある属性を付与するための『溶質』といったところであろう。

なお、疑似・憑依サーヴァントとしての召喚時にこの宝具を強制展開しても、依代自体はダメージを受けない。消滅するのは『英霊 藤丸立香』のみである。

 

正しく座に召された、この並行世界の藤丸立香。

生前決して救われることはないと諦めていたが、『守護者となり殺戮を行うか、獣となり殺戮を行うか』という選択からはエミヤオルタによって救い出され、それでもなお懸念材料だった死骸の獣はもう一人の藤丸立香とエミヤに食い止められ誰も殺せなかった。こうして死後齎らされた二つの救済のおかげで、彼女はビースト化の原因であった『救われないことへの憤り』を完全に克服。彼女は金輪際、獣になることはないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――あらいらっしゃい、クー・フーリン。今日は一人なの?」

「おう。師匠は特例だったから今は連れてこれねえし、ディルとフィンは今回はいいってよ。フェルグスは女のとこで、余計な分霊作ってる暇無し」

「またそういう感じか……座でもそれってすごくない?」

「あ、いらっしゃいクー・フーリンさん」

「おうマシュの嬢ちゃん、邪魔してるぜ」

「マシュ大変だ、リツカが起きない!」

「またですか!? お父さんはすっこんでいてください、わたしがなんとかします! 先輩、せんぱーーーい! 朝ですよ、レムレムはお終いです!」

「またやってんのか……あっちのお前も大概よく寝るよな」

「まあそこはね、私は彼で彼は私だから」

「リツカ! 朝ご飯の献立は何でしょうか!」

「で、何で入り浸ってんだよこの騎士王様は……」

「ご飯が美味しいからに決まっています! というかアーチャーまで来るのに私が来ない訳ないでしょう! そっちこそなんですか光の御子、もうあなたが四人なんて摩訶不思議な現象もないのにわざわざキャスタークラスの分霊など」

「だーってこれだと『こっち』の嬢ちゃんの機嫌が良いんだもんよー」

「……うっそ」

「本人に自覚が無かったぜ」

「終わってますねこれ。いや始まってる……?」

「集合体だからって油断しすぎた……? この『私』の比重が原因なのかな。とりあえずちょっと別の『私』に交代して」

「その『リツカ』より確実にあなたのご飯の方が美味です! なので暫くあなたのままで!」

「……オレ、こっちに来る分霊増やしてみるかな」

「余計ややこしくなるから自重しようね?」

「おいお前ら、廊下を塞ぐな邪魔だ」

「「で、何でお前(あなた)は普通にオルタなんだよ(なんですか)!!」」

「なんか、あの人はこの『私』のときだといつもこっちを一緒に連れてきてくれるの。『私』としてはエミヤがいるの嬉しいから、いいんだけど」

「あの弓兵、分霊二個同時とか器用じゃね? やっぱオレもやろ。記録分割して入れたら面白いよなたぶん」

「……私も、やるべきでしょうか?」

「あなたがやるとシャレにならないよアルトリア」

 

 時間の軸から外れた場所に、その観測所はあるという。

 英霊であれば、誰もが分霊を訪れさせることのできる観測所があるという。

 白銀の雪原に聳え立つ天文台。そこに行けば、薄紫の髪をした少女が出迎えるだろう。

 そうして二人で一つの救世主が、青く輝く地球儀の下で待っている。

 そこは人理継続保障機関、カルデア。

 世界を救った少年少女が眠る、白き星見の館である。

 

終章 祈りの涯

 

「なあ、キャスターって呼んでくれねえの?」

「……本当に、今日の私がこの『私』じゃなかったらどうするつもりだったの。記録まで合わせてきて」

「直感ってやつだな。合わない訳ねェだろうよ、オレとお前だぜ?」

「………………キャスター」

「おう」

「キャスター」

「おうさ、どうしたマスター?」

「………………何でもないよ、ばか」

 



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