花嫁も五人居ていいんじゃない (なでしこの犬)
しおりを挟む

思春期と中間試験
◯◯の身体は柔らかい


 

 

 

 

 

 

 

 夢を見ているのだろう。横たわっている。視線の先には天井。見慣れたようで見たことがない。あまり天井なんて意識したことなんてないせいか。

 でもそれは、彼女たちの家であるということは直ぐにわかった。夢の中で彼女たちの家が出てくるなんて、よほど気に入ってるとでも言うのか。そんなの認めなくもない。

 

 一人で横たわっている……そう思っていたのに、隣からは健やかな寝息が聞こえる。シャンプーの甘い香りと、すぅすぅと一定のリズム。聞いているこちらまで心地良くなる。

 

 頭上からは太陽の光が差し込んでいた。つまりは、朝ということか。夢の中だとは言え、なかなか趣はある。

 

 意識を隣に戻す。おそらくは五人のうちの誰かなのだろう。ただ夢の中ということもあって、かなり冷静な自分が居る。

 普通に考えて、思春期の男女が隣で横たわっているのだ。それはまぁ、色々と考えてしまう。眠っているのならと、思い切って横を向く。パジャマがはだけて大きな胸元が露わになっている。そそるものがあるが、夢であることが少し残念だ。

 

 どうしてこんな夢を見るのだろうか。欲求不満ということなのだろうか。言われてみれば、最近は勉強に勤しみすぎてソチラの方は処理出来ていない。身体がそろそろだぞと促しているのだろうか。

 それならば、この特権を活かさないわけにはいかない。夢なのだから、何をしようが誰にもバレはしない。自分でもかなりのクズな発想だと思う。しかし、夢の中ぐらい自由にやらせてほしい。

 

 隣で寝ている彼女。髪は長い。その時点で一花と四葉の可能性は消えた。となれば、二乃、三玖、五月の誰かということになる。

 いや、そもそも彼女は五人の中の誰かなのか。寝顔を見ると、見覚えのある顔。中野であることは確かなようだ。しかし、あくまでも夢の中。ハッキリとはわからないのが本音だ。それに、視界も少しボヤけている。まぁ仮に現実だとしても、見破る自信は無いが。

 

 ムクっと起き上がり、彼女の身体を眺める。この時点でとんでもなく変態感が滲み出てるが、夢の中だ。繰り返すように言い聞かせる。それと同時に、彼女は寝返りを打って仰向けになった。ナイスタイミングだ。

 その寝顔もまたいいが、何より、視線ははだけた胸元に集中してしまう。俺は意外と胸好きなのかもしれない。

 

 さて、どうするか。

 触ってもいいのだろうか。いや、夢の中だと割り切ったではないか。ここは思い切って触ってもいいのではないか。夢の中なのだ。夢の中。

 そもそもコイツは誰なんだ。三人のうちの誰かだろうが、分からない上に触るなんて何というか……興奮に欠ける。とんでもないクズ発言だなこれ……。

 いや待て。コイツらは五つ子だ。髪型は違えど、容姿は見分けがつかない。それは体型も含めてだ。つまり、触った感触も全員一緒ということではないか。

 我ながら天才的だ。この事実に気づくことが出来れば、もう怖いものはない。五つ子のうちの誰かではなく、五つ子のことを愉しめばいいのだ。はいクズですね、分かってます。今だけだ、今だけ。

 

 彼女に体重をかけないように跨って、右手で右胸を優しく触る。柔らかい。え、めっちゃ柔らけぇ…。

 女性経験なんて無い。いや、男女交際なんて不必要だと思ってはいたが、一応思春期の男子高校生だ。性欲がないわけでは無い。他の男子に比べれば少ない方かもしれない程度で。

 こんな感触は体感したことがない。これまでの貧乏人生を回想しても……マシュマロ? のような柔らかさ。自分で言うのもアレだが、まぁ例えがひどい。

 

 少し力を入れて、キュッと掴んでみる。

 「んっ……」と彼女は声を洩らした。おぉ、これが噂の()()()()()という奴か。その声を聞いても、イマイチ誰だか判別出来ない。聞き覚えはあるんだが。

 言っても、俺と彼女たちの関係はただの家庭教師と生徒だ。同い年ではあるが、ただそれだけの関係。ただ彼女たちのルックスは校内でも噂になるほどらしい。特別そんなことを感じたことはないが、周りが言うのだからそうなのだろう。

 

 余った左手で左胸を揉む。「あっ……」と再び声を洩らした。

 少し慣れてきたこともあり、遊ぶように彼女の胸を触り続ける。時間を忘れて勉強するような感覚に近かった。勉強と一緒にするものではないが、いかに自分がクズなのかは分かった。

 

 この後はどうすればいいのか。下の方を触ればいいのだろうか。いや、別にルールなんてものはないはずだ。こんなところでウブな自分が情けなく思える。

 これは夢なのだから、好き勝手やらせてもらおうか。胸を揉むのを止め、下の方に手を伸ばそうとすると、彼女がパチっと瞼を開けた。

 

「………へっ?」

 

 おそらく、目が合った。誰だコイツは。まだ視界がボヤけている。身体つきはわかるのに、顔を判別するにはまだ曇った感覚だ。

 目を擦っても、ぼんやりとしたまま。さて、これはどうしようか。夢の中だと割り切って、このまま続けさせてもらうか。それとも、普通に声を掛けるか。変なスイッチが入ったこともあって、後者はすぐに消えた。

 

「ふ、ふ、フータロー………?」

 

 声を掛けられた。勢いの無い声だ。寝起きのせいか。

 ただ、そこでようやくある程度的が絞れてきた。というか、おそらくコイツは三玖だ。二乃や五月は俺を下の名前で呼ばない。髪の長さからして、条件に当てはまるのは三玖だけだった。

 

「な、なにを……」

 

 彼女は何をされているのか、ようやく理解したようだ。そのせいで、少しだけ震えている。怖いのだろう。本当の三玖も、同じような状況ならこのように震えるのだろうか。そう思うと、少し可哀想に思えてきた。

 

「……マッサージだ」

「ま、マッサージ…?」

「ここをこうすると、身体が楽になるらしい」

 

 夢の中だと言い聞かせていたのに。こんな時でもそうやって言い訳をする自分が途轍もなくダサい。

 ここをこうする、とは言ったのは少しでも怪しまれないためだ。「胸を揉むと身体が気持ちよくなる」なんて素直なことは言えなかった。だが、三玖はこういったことに興味はあるのだろうか。何を考えているのか分からないこともあって、イマイチ読めない。

 

「……どうだ?」

「なんか……変……」

 

 これはこれで中々良い。ここまで良い夢は見たことがない。

 勉強ばかりしてきたが、人間とは不思議なものだ。興味深い。このまま夢の中で男になるのだろうか。だとすれば、それはそれで面白かったりする。

 

 互いの体温が上がっていくのがわかる。吐息も熱く、彼女の息が俺の手にかかって、それが凄く色っぽくて。下半身に力がこもっていくのが否が応でも分かった。

 本格的に我慢できなくなりそうだ。このまま一気に――――。そう思った時、後ろのドアがノックされる。結構強めだ。

 

「上杉くん、起きてますか?」

 

 この声は……五月か?

 だとすれば、ここは無視するに限る。こんなところで邪魔をされては困る。お預けなんて食らえば、家庭教師の仕事に影響が出るのは目に見えていた。

 彼女の呼び掛けを無視して、寝間着のズボンを下げようとすると、タイミングを見計らったかのように五月が再び声を掛けた。

 

「入りますよー……?」

 

 いや、それは困る。そもそも、鍵はかけられていたか?

 振り返ってドアノブを見ると、鍵がかかっていない。マズイ、ここでバレれば夢が終わってしまう。慌てて三玖の上から降りて、ドアを開ける。

 

「どうした?」

「起きてましたか。あの…三玖知りませんか? 朝起きたら居なくて」

「さ、さあな。図書館にでも行ってるんじゃないか?」

 

 バリバリ俺の後ろに居るんだが。

 ここで五月にバレるのは色々と面倒だった。適当に誤魔化すと、「そうですか……」と落ち込んだ様子を見せる。適当に声を掛けるが、納得した素ぶりは見せなかった。

 

「二乃が朝食を作ってくれてます。上杉くんも食べてください」

「あ、あぁ。後で頂くよ」

 

 朝であることは間違いないらしい。五月は夢の中でもその真面目ぶりを発揮している。少しぐらい砕けても良いと思うが、彼女に限ってそれは無いだろう。

 そのままドアを閉めようとすると、下の方から耳に響く声が聞こえた。思わず閉めるのを止めてしまう。五月も視線で降りるように促しているように見えた。

 

「上杉ー。早くしなさいよ。後片付け面倒なんだから」

「わ、分かった。今すぐ行くよ」

 

 トコトン邪魔をしてくれるな、この姉妹は。

 鍵を閉めさえすれば、後は自由に愉しむことが出来るというのに。これまでの癖なのだろうか、彼女たちから急かされるとどうも言うことを聞かないといけない気がして。

 男としてもみっともないが、サッサと済ませてしまおう。いつ覚めるかも分からないのだ。

 

「いただきます」

 

 テーブルには美味しそうな料理が並んでいた。これをあの二乃が作っているというのだから、また面白い。二回目になるが、人間とは不思議なものだ。

 席に座ると、味噌汁のいい香りが鼻孔を刺激した。先ほどの三玖の香りは相変わらず鼻の奥に居座っている。これが消えてしまえば、夢から覚めてしまいそうで。慎重に味噌汁を啜ると、舌に強い刺激がした。

 

「熱っ……」

 

 熱い……。いや待て、今確かに感じた。この味噌汁の熱さを。

 それを自覚すると、一気に視界が広がっていく。ぼやけていた視界は、クリアなものに。腕をつねっても、痛い。

 冷や汗が身体から出てくる。待て、これは現実なのか。でも味噌汁の熱さ、腕をつねった時の痛さを感じる。だとするとだ……三玖の身体を触ったあの感触も……現実なのか。

 

 マズイ……非常にマズイ。こんなことがコイツらに知られてみろ。俺は社会的にも死ぬことが確定する。家族からも見放され、いよいよ人生も終わりということだ。

 そうだ思い出した。俺は昨日、コイツらの家に泊まることになったのだ。それで三玖の部屋のベッドを借りて、そのまま眠りについた。それなのに、三玖が隣で寝ていたのだ。きっと寝ぼけて夜中に移動してきたのだろう。だとしても、悪いのは完全に俺だが。

 

「これは夢か……?」

「何言ってんのよ。早く食べてよね」

 

 こうしている間にも、三玖の部屋にはまだ彼女が居る。

 ここで彼女が部屋から出てくれば、終わりだ。二乃の料理を口に運ぶが、そのせいで全く味がしなかった。

 どうやってこの状況を切り抜ける…!? まずは一度三玖の部屋に戻る必要がある。携帯も部屋に置きっぱなしだ。それを理由にして入ることは可能だろう。

 問題はその後だ。三玖になんと言えばいいんだ。「寝ぼけていた、悪かった」と謝れば素直に許してくれるだろうか。可能性はゼロではないだろうが、あまり期待しないほうがいいだろう。

 

「ごちそうさま。美味かった」

「貧乏舌のくせによく言うわよ」

 

 五分もかからずに朝食を平らげた。ぶっちゃけそれどころではない。そんな俺に二乃は嫌味を言ったが、無視して階段を駆け上がる。三玖の部屋の前に着くと、とりあえず息を落ち着かせる。

 

「三玖の部屋に何の用ですか?」

「え、いや携帯忘れて」

 

 まるで待ち構えていたように、五月が声を掛けてきた。

 その視線は俺を疑っている。疑われる理由はまあ有り有りだが、今ここでバレるわけにはいかない。何とかして三玖を説得させないと本当にマズイ。

 携帯を忘れたのは事実だ。別に嘘を吐いているわけではない。部屋に入る理由は大嘘だが。

 

「私が取ってきます。上杉くんはここで待っていてください」

「え、な、なんでそんな急に」

「匂うんですよ。貴方から三玖の匂いが」

「お前は犬かよ……」

 

 彼女のベッドで寝たのだから、それは当たり前だ。生活の匂いの一部なのだから、そこまで敏感になる必要はない。

 だが、姉妹の部屋に入れたがらない気持ちも分からないでもない。三玖自身は快く貸してくれたが、他の奴らは別だ。なおさら自分がヤッた行為を後悔する。

 別にやましいことは()()しないつもりだ。何としても五月を振り払いたい。だが、コイツもかなり頑固だ。一度決めたことは中々引かない。鬱陶しい性格だ。本当に。

 

「ですから! 私が取ってきます!」

「十秒で出てくるから待ってろって」

「いいえ。信用出来ません!」

 

 信用出来ないと言われてもだ。今の俺に言い返せる言葉は無い。

 ソレを表に出すわけにもいかず、適当にごまかしてはいたが、結局そんなやり取りがループされるだけで。

 そんな時だった。彼女の部屋のドアがおもむろに開いて――――。

 

 

「フータロー。マッサージの続きまだ……?」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯の身体は柔らかい②



 ハーレムタグで純愛って笑いますよね。でも選べないですもん(開き直り)。




 

 

 

 

 

 

 

 顔を紅潮させた三玖が、俺と五月の前に立っていた。

 「マッサージ」のことを信じているようだったが、今はソレどころではない。先ほどは「知らない」と断言した三玖が部屋から出てきた。隣にいる五月は理解が追いついていないようだ。それもそうだろうな…。

 

「み、三玖? どうして……?」

 

 そりゃこの部屋で眠っていたから。無論、勝手にベッドに潜り込んできたのだが。

 それだけならまだ言い訳が効く。先ほどのマッサージのことを知られれば、俺は死ぬ。ただ三玖は五月に目もくれず、俺の右手を引いて部屋へと誘おうとする。待て待て。それはそれでマズイ。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 五月の性格を考えれば、当たり前の反応だ。

 俺の左手をグッと掴んで行かせるものかと引っ張り返す。関節が伸びるような感覚。痛い。

 三玖も一歩も引かない。五月の引く力が強くなれば強くなるほど、彼女の引っ張り返す力も強くなる。「痛い」と言葉を洩らすと、二人とも気を遣ってか、少しだけ力が弱まった。

 

「説明してください! どうして三玖が居るんですか! それにマッサージって……」

「五月は黙ってて。フータロー早く……」

 

 三玖は完全に発情している。まぁ完全に俺のせいなんだが。

 そんな彼女の様子に、五月も不思議そうに思っているようだ。正直、三玖がここまで色っぽくなるとは思いもしなかった。

 彼女の吐息が桃色に見える。もうしないと考えていたのに、奥底に沈んだはずの性欲が湧き出てきそうな、そんな感覚だ。

 ゴクリと固唾を呑む。五月にバレないように、三玖の方を向いて。

 だがこのままだと埒があかない。関節が伸びるだけで、別に長い手なんて欲しくもない。冷静に考えると、ここは五月より三玖に一歩引いてもらう方が穏便に済む可能性が高いのではないか。

 

「み、三玖。後でまた来るから…」

「駄目。今すぐ」

 

 はい無理でした。

 五月にバレないように小声で話しかけたが、食い気味にそれを却下した。どうやら本格的に発情している気がする。これはいよいよヤバいことになってきた。

 性体験なんてこれまでやったこともない。この流れで行くと、初めての相手は三玖になってしまう。嫌というわけではないが、彼女に申し訳なかった。俺が寝ぼけていたばかりに、こんなことになってしまって。

 

「悪い五月。すぐ戻るから」

「あっ、ちょ、ちょっと!」

 

 彼女の手を振りほどいて、三玖とともに部屋へ押し入った。

 ドアに背中を向けたまま、鍵を閉めて三玖を優しくベッドに押し倒す。

 すぐ戻る、とは言ったものの、「何もしないですぐ戻る」と言ったわけではない。すぐに済ませればいいだけの話だ。

 欲望を振り切ることが出来なかった自分が情けない。だが、俺も一応男だ。こんな三玖を放っておくわけにはいかない。そう言い訳をして、彼女に意識をやる。

 

 仰向けで胸元ははだけたまま。下着はつけていないのだろうか。少しズラせば完全に露わになる状態。分かりやすく固唾を呑む。

 三玖は息が荒い。心臓の音がこちらにまで聞こえてきそうだ。言い方はアレだが、ただ胸を揉んだだけ。それだけでここまでになるということは、彼女もきっとウブなのだろう。何故か安心する自分が居るが、無視して彼女の胸に手をやった。

 

「はぁっ……」

 

 先ほどよりも分かりやすい反応だ。焦らされたことで、身体が感じやすくなっているのだろうか。経験のない俺には分かるはずもなかった。

 三玖ってこんな可愛かったんだな。初めてそんなことを思った。それがこんな時というのは、マジでクズだと思うが。

 もう駄目だ。止められそうもない。こうしている間にも、俺のモノが暴発しそうだ。再びズボンに手をかけた時、背中の方から「ガチャ」っと音がした。聞き間違えではない。ハッキリとだ。

 

 なんだあの音は。冷静を装って考える。

 まるで鍵が開いた音ではないか。いやいやそれはない。外から開けることが出来るとは聞いていないぞ。もしそれなら、俺の人生は終わりだ。

 今度はなんだ。シャッター音のような音が聞こえる。連続でだ。

 うるさい。もう少し静かに出来ないのか。あれ、部屋が明るくなった。電気は消していたのに、どうしてだ。

 

「………最低」

 

 頭に衝撃が走った。痛い。背骨を伝って痛みが全身を巡る。

 薄れゆく意識の中で、自身の頭脳をフル回転させた。あぁ殴られたのだと。ベッドから落ちて床へと叩きつけられる。

 意識が消える寸前に、完全に理解した。どうやら俺の人生はここまでらしい、と。

 

 

❤︎

 

 

 意識が覚醒していく。頭が重い。ヅキヅキと痛みが走っている。

 重く閉じられた瞼を開けると、見慣れた光景が視界に映った。一階のリビング。いつも三人が勉強しているところ。俺は床に座っているようだ。

 だがいつもと違うのは、両手の自由が効かない。後ろの方で縛られていた。何事かと一瞬考えたが、それはすぐに消える。あぁ自業自得じゃないかと。

 あの衝撃の後、どうやら俺は拘束されたらしい。殴ったのが誰かはわからないが、縛るぐらいだ。俺の言い訳を聞くつもりは無いらしい。

 

「目が覚めましたか?」

 

 冷徹な声だ。丁寧語が残っているあたり、五月か。

 殴ったのは五月なのだろう。無理やり振り払ったのだから、そう考えるのが自然。痛む頭を堪えて、顔を上げる。そこには仁王立ちの五月がいた。そこで初めて気付いたが、一花と四葉はソファに座っている。肝心の三玖の姿は無かった。

 

 二乃が居ない。こういう時、真っ先に俺を陥れようとするアイツが居ないのが不気味だった。

 

「――――どうだった? 三玖の身体は」

 

 耳元で囁かれた。甘い息が耳を通り抜けて、身体を痺れさせる。

 この声は居ないと思っていた二乃だった。普段の声より、艶っぽい。視線を動かすと、いつもの通りの彼女がそこには居た。

 

「……なんのことだ。理解出来ないな」

「証拠なら揃ってるわよ。それでも否定する?」

 

 何故コイツは俺の耳元で囁くのだ。そのせいで身体がゾクゾクしてしまう。本意ではないのに、声が洩れてしまうほどに。

 証拠、おそらく写真だろう。パシャパシャと連写している音は聞こえていた。だがその時、俺は三玖の身体を触っていない。ただ()()()()()()()で、何の証拠にもならないのは分かっていた。

 

 そんな脅し文句で、俺を陥れようとしているのだろう。だがそれは無理な話だ。跨っていただけと言い張れば、触っていないということになる。あくまでも、触っていないという証明にしか過ぎないが。

 これから触ろうとしていたと言われれば、それは言い返せない。だって事実なのだから。何とかなってほしいとは願うが、それを突っ込んでくるのが二乃だ。無駄な願いかもしれないが、今は藁にもすがる思い。

 

「どうしてそうなる? 俺は本当に何もしてないぞ」

「何もしてないのに三玖に馬乗りするかしら? これから何かしようとしてたんじゃないの?」

 

 ほら見ろ。想像通りだ。さて、どう切り抜けようか。

 彼女が言うことは事実。これからまさにおっぱじめようとしていた。だがここでそれを認めてみろ。今後こそ殺されるのではないか。

 頭を殴られただけで済んだのは、ある意味奇跡なのかもしれない。このまま眼を覚ますことなく、人生を終えていた可能性だってあった。

 チラリと一花と四葉に視線を送る。彼女たちは五月や二乃とは違って、少しだけ苦笑いを浮かべていた。どうやらまだ俺にも可能性が残されているらしい。

 

「あれはトレーニングだ。今流行りの腹筋法なんだよ」

 

 ゴミのような言い訳だな。つくづく自分はクズだなと。

 こんな言い訳をした理由は一つ。一花や四葉の協力を仰ぐためだ。一見ふざけているように聞こえるかもしれない。だが四葉はかなり馬鹿正直だ。「そうなんですかぁー!?」とか言って食いついてくる筈。一花だって、「そう見えないこともないかなぁ」なんて場の空気を柔らかくしてくれる。そこに賭けたのだ。

 二乃と五月は、俺をゴミのような目で見ている。これ以上無いほど蔑まれているな俺……。だが別にいい。俺は無実なのだから、胸を張っておけばいいのだ。

 

「そうなんですかぁー!? って言うとでも思いました?」

「えっ」

「そう見えないこともないかなぁ。 って言うとでも思った?」

「えっ」

 

 結論から言おう。作戦は失敗だ。それも大失敗。背中から冷や汗が止まらない。

 一花と四葉は互いに顔を見合わせて、立ち上がる。俺の目の前に来ると、二乃たちと同じように俺をゴミのように見ていた。あぁここまでか。俺の人生、社会的に死んでおしまいだ。何のために勉強を頑張ってきたのだろうか。

 だが肝心の三玖が居ない。彼女はどこに行ったのだ。

 唯一、現場に居た人間なのだ。三玖が否定すれば一気に形勢は逆転する。視線で彼女を探すが、見つからない。リビングには居ないのか? となると、自分の部屋にこもっているのだろうか。

 

「三玖なら居るじゃない。アンタの後ろに」

「え――――」

 

 心を読んだのか。二乃は嘲笑うようにそう言う。後ろに居るとは言うが、今の俺にそれを確認する術はない。だが言われてみると、たしかに後ろには何か居る。

 顔も見えないが、纏っているオーラがヤバいのは俺にも分かる。まさに八方塞がりというやつか。ここまで追い詰められているのに、冷静すぎる自分が居ることが可笑しい。

 それも自らに罪の意識があるからだろう。俺が好き勝手言える問題ではない。家庭教師と言いながら、生徒に手を出すのはやはり不味かった。でも仕方ない。欲望に負けてしまったのだから。

 何れにしても、このままらいはに会わせる顔がなかった。どんな顔をして妹に会えばいいのか。勉強じゃなくて性の遊びをしてましたなんて五月にバラされれば、それは死ぬことより辛い。

 後悔先に立たずと言うが、まさにソレだ。今さらわかったところで、もう生かす機会はないだろうが。

 

「フータロー。私の胸を揉んだ」

「……そうでしたっけ?」

(とぼ)けるんだ。私悲しかった」

 

 あんなに感じてたくせによく言うよ……。

 元はと言えば俺が悪いかもしれないが、彼女は満更でもない様子だった。仮に胸を揉まれる意味を分かってなかったとしても、普通に考えて男が胸を揉むのはそういう意味だということぐらいは察するはずだ。

 彼女はそれを拒まなかった。ということは、受け入れてくれたと理解していいのではないか。ぶっ飛んだ考え方かもしれないが、嫌なら最初の段階で突き放すのが普通だ。

 

「いい? 三玖に手を出した時点で私たちにも手を出したも同然よ」

「身体もそっくりだからか? それは理不尽な話だ」

 

 さっき俺が考えていたことを言い当てられたようで、思わず否定してしまった。同時に、それがすごくアホらしく聞こえて、欲に溺れている時の考え方ってヤバいんだなと。理性を保つことがどれだけ大事かようやく学べた気がする。

 

「覚悟は出来てますか?」

「警察に突き出すか?」

「いえ、貴方にはここで死んでもらいます」

 

 え、嘘っ。マジで。

 五月の右手には、包丁が握られていた。え、嘘っ。マジで殺されるのか俺は。

 警察に突き出されれば、社会的に死ぬ。それよりはいいのかな。らいはに嫌われて終わるんだな、俺の人生。こんなことになるのなら、金のために家庭教師なんて引き受けなければ良かった。今さらの話だが。

 

 五月は一歩一歩、ゆっくりと近づいてくる。

 顔を見上げても、殺意を持った顔をしていた。許しを乞うても、もう無理だろう。最初から素直になっていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。

 諦めて、俺は瞼を閉じた。痛いかなぁ。痛いだろうなぁ。嫌だなぁ。負の感情が湧き出てくる。こうなるなら最後までヤリタカッタなぁ。ここでもすごいクズな発想が出てくることに驚きを隠せないよ俺は。

 

 

「さようなら、上杉くん」

 

 

 その先のことは、もう考えたくもなかった。

 

 

❤︎

 

 

「うわぁぁぁぁ!!!」

 

 

 みっともない声を上げながら、気がついた。

 そこは暗く、でもどこか見慣れた光景が広がっていた。

 「ハァハァ」と息切れが酷い。まるで悪い夢でも見ていたようだ。汗も酷い。まるで水浴びでもしたかのよう。ここはどこだ、辺りを見渡すと、さっきまで見ていた記憶のある場所。

 ここは三玖の部屋だ。そうだ、確か昨日は彼女の部屋で寝ることになっていたんだ。だがなんだこの感覚は身体がドッと疲れている。眠っていたという割に、身体の疲れが取れていないようだ。

 

 充電していた携帯で時間を確認する。

 すでに昼の十二時を回っていた。幸い、今日は休日。学校は無かったが、三玖の部屋でそんなに長い時間眠ったことが申し訳なかった。

 しかし、空腹感は無かった。悪夢にうなされて起きたようなもので、今はむしろ食欲はない。

 

 ……俺はとんでもないことをした気がする。

 ふと、そんなことが頭をよぎった。微かに残っている朝の記憶。俺は確かに朝起きたはずだ。それから、何故か隣に居た三玖の胸を――――。

 いやいやいや。それは全て夢なんだ。ただ単に俺が寝過ぎただけ。それだけだ。現にどうだ。まだカーテンは閉め切られたままで、部屋に誰も入った形跡はない。そうだ、夢なんだ。

 

「……フータロー起きた」

「うわぁぁ!!」

 

 またみっともない声を上げてしまった。でも仕方ない。まさか三玖が部屋に居るだなんて思ってもいなかったのだ。

 机の側で、体育座りをして俺を見つめている。服は部屋着のシャツを着ている。第一ボタンと第二ボタンは開いていた。その瞬間、嫌な予感が頭をよぎる。

 

「み、三玖。居たのか」

「ひどい。ずっと居たのに」

「あー……悪い。どうした?」

「頭、もう痛くない?」

「頭?」

 

 痛くない、と言われれば、確かに少しズキズキする。三玖の存在に驚き過ぎたあまり、特に気にならなかったが、何か殴られたような痛みがした。後頭部付近を触ると、タンコブが出来ていた。

 

「あれっ……ぶつけたっけな」

「……覚えてないの?」

 

 朝のことが頭をよぎった。いやいや、それは夢の話。それは関係のない話なのだ。何も覚えていない。うん、それでいい。思い出すだけで頭が痛くなる。

 覚えていないことを伝えると、三玖は少しだけ残念そうな顔をした。部屋は暗いが、彼女の顔はよく見えた。どこか拗ねたようにも見える。

 

「五月に殴られたんだよ。フライパンで」

「えっ、そうだったっけ……」

 

 そういえばそんな夢を見た気がする。そこから気絶して色々とヤバい経験をしたことも。

 あれ、でもなんで殴られたんだ。殴られたことで記憶が飛んでいるのだろうか。だとすると、後で五月を詰めないといけない。危うく記憶喪失になるところだったと。

 そのことを素直に伝えると、三玖は少し驚いた後、残念そうな顔を見せた。またその顔だ。一体俺が何をしたというのか。

 

「本当に覚えてないんだ……わかった」

 

 三玖はそう言うと、立ち上がって俺の元へ近づいてくる。俺が眠っていたベッドに腰掛けると、彼女はシャツのボタンを開け始める。

 

「ちょ、ちょっと三玖!? 何してんだ!?」

「さっきみたいにして」

「えっ」

 

 ……仮にだ。俺が夢だと思い込んでいたことが現実だとしよう。だとすれば、どこまでが夢でどこからが現実なのだ。それがそもそも分からない。いや、そもそも全てが夢であってほしいと願っているのは変わらないが。

 さっきみたいにして、と言うことは、俺が三玖に何かしたことは間違いないようだ。自らに都合の悪いことは忘れるようにしている。仕方ないで押し通せればいいが、そういうわけにもいかなかった。

 

「…俺がその……お前の胸を……」

「思い出したんだ。そうだよ。マッサージ、続けてよ」

 

 五月に殴られた後、あれが夢ということか。

 そうなると、殺されることは無くなったわけだが、別の脅威が俺の目の前に居る。

 完全に思い出した。寝ぼけていた頭が覚醒していく。

 俺は三玖の胸を揉んだ。めっちゃ揉んだ。めっちゃ柔らかかった。それは現実。で、五月に疑いをかけられてそのまま気絶した。何故、今この状況なのかは分からないが、とにかく俺が三玖の胸を揉んだことは事実なようで。

 

 

「さっきの続き……しよ」

 

 

 






 高評価してくださったきっきらー04さんありがとうございます。

 ご感想に評価にお待ちしてます。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯の身体は柔らかい③



 お気に入り100件超えました。ありがとうございます。




 

 

 

 

 

「ま、まぁ待て。とりあえず状況を把握したい」

 

 

 艶やかに詰め寄る三玖を諭すように、俺は両手で彼女の肩を抑えた。先ほどまでなら、このまま流れていきそうな甘い香り。だが、今はなんとか耐える。今は理性の方が勝っていることもあって、比較的冷静な自分がいた。

 夢の中で殺されたことが、今のこの行動に結び付いているとは誰にも言えない。あの恐怖は二度と御免だ。そのためなら理性を意地でも保つさ。

 

 そんな俺とは裏腹に。三玖は相当だ。相当……俺を求めている。自覚すると恥ずかしさ以外に何もないが、求められるのは案外悪くないと思う自分もいる。そういうところだと言い聞かせても、別に聞く耳なんて持ちやしなかった。

 

「状況……そんなのいい。早く続きを――――」

「ダーッ! 待て待て!」

 

 三玖は俺の手を一生懸命振り払おうとする。ここで振り払われるわけにはいかない。その時は、襲われて終わりだ。

 元は俺が悪い。それは認めよう。あそこで何事もなかったようにやり過ごすことが出来なかったのが全ての元凶なんだ。だが、あそこで理性を保つことが出来る男なんているのか? それは無理な話だ。況してや一応思春期の男子高校生。大目に見てくれてもいいじゃないか。

 

 て、こりゃ自分勝手すぎる考え方だな……。俺ってこんなにクズだったのかと、悲しさすら感じる。

 そんなことより、今は状況の把握に努めないといけない。発情している三玖をどうにかして収める必要があった。さてどうするか。力はなんとか俺の方が強い。女子相手にだ。みっともない。

 

「な、なんで俺は寝てたんだ? 五月に殴られたのに」

「私が誤魔化した。別に悪いことはしてないから」

「そ、そうなのか…?」

 

 悪いことではない、と言われるなんて思ってもいなかった。

 確かに触っている時の顔は、とても艶っぽい。あれで嫌がっているなんて言う方がアレだが。とにかく、あの状況で五月を誤魔化したというのが正直、すごい。

 

「それで五月たちは?」

「フータローのこと心配して、薬局行ってる。二乃たちも家に居ない」

「そうか」

「二人きりだよ」

「早く帰ってくるといいな」

「早く終わらせよう」

 

 非常にまずいことになった。まさか三玖以外に誰も居ないなんて。これではやりたい放題ではないか。俺にとっても、彼女にとってもいろいろとマズい。

 早く終わらせようなんて言うあたり、コイツはやろうとしていることに理解があるみたいだ。マッサージなんて誤魔化した自分が恥ずかしい。今となってはどうでもいいが、とにかく誰でもいいから早く帰ってきて欲しかった。

 少しでも視線を落とせば、三玖の胸が視界に入る。それだけでも性の暴力だ。誰も居ないこともあって、理性が崩れかけていく。これでは夢の繰り返しになるのは目に見えている。それだけはなんとしても阻止したい。

 

「フータローは私のこと嫌い?」

「……そういうわけではない」

「朝触ってくれたのは、どうして?」

「それは――――」

 

 自分の理性を保つことが出来なかったから。それに尽きる。

 それを言えばいいのに、それでいいのだろうかと考えてしまう。いいに決まってる。だって事実なのだ。彼女たちにそんな気を遣う必要なんてないのに。

 勉強さえ教えていれば、給料だって貰える。それで家の借金返済の足しにすれば、妹のらいはを喜ばせることだって出来るのだ。それだけなんだ、俺と彼女たちの関係なんて。

 それだからこそ、理性を保てなかったという理由は見事にクズすぎる。よくよく考えれば、一番ダメな回答なのではないか。女心は良く分からないが、これは言っちゃダメな気がする。

 

「胸がこってるように見えたんだ」

 

 はいクソみたいな理由ですね。見事に失敗しました。

 胸が凝るってなんなんだ。肩がこるのと同じような使い方をしてみたが、そんなことはあるのか。いずれにしても、この回答も最悪だと思う。

 三玖は不思議そうな顔をしていた。思いのほかマトモなリアクションで、こちらが驚いてしまう。彼女は胸に手をやって、その感触を確かめている。その光景もなんとも言えなくて、思わず視線を逸らした。

 

「確かに最近少し重かった」

「あ、そ、そうなんだ。やっぱりね…」

「嘘。フータロー、嘘つくの下手だね」

 

 どうやらからかわれていたらしい。分かりやすく肩を落としてみる。決して冗談が多くない彼女にそこまで言われるのだ。気分的にはあまりよろしいものではなかった。

 ただ、三玖はくすくすと微笑んでいる。気のせいか、先ほどまでの艶っぽさは無くなっていた。目の前にいるのは、年相応の女の子だ。それも、俺の見慣れた中野三玖。

 何と言おうか考えていた時、彼女はベッドから降りる。声をかけようかと思ったが、そのまま部屋のドアノブに手をかけた。

 

「……三玖?」

 

 俺と彼女の間には、沈黙が続いた。数秒経って、ようやく彼女は振り返った。その顔は、また艶っぽさを取り戻していた。

 

「お風呂入っていいから。フータロー、汗すごいし」

「そ、そうだな。借りるよ」

 

 そう言うと、三玖は俺を残して部屋を出て行った。

 彼女の部屋に俺一人が残されるのも、可笑しな話である。ただ、今は助かったと言うべきか。とりあえず、太陽の光を浴びたい。こんな気持ちになったのは生まれて初めてかもしれない。

 閉め切られたカーテンを勢いよく開ける。陽の光に目が慣れていないせいか、瞼を閉じたくなる。しかし、それも一瞬のことで、一気に部屋の中が明るくなる。

 この部屋には何度か入ったことはある。その時と変わりばえしないが、その女子特有の甘い香りに包まれている。それが俺が理性を保てなかった理由の一つかもしれない。これは悪魔の香りだ。女子の部屋に自分が居ると考えただけで、色々とまずい。

 

 変に悶々とするよりは、さっさと切り替えた方がいい。早く帰ってくるといい、なんて言ったが、実際は帰って来られるとまた面倒なことになる。俺の汗のせいで湿った枕カバーとシーツを取り、それをまとめて風呂場へと向かった。その途中、リビングにまとめていた制服を手に取る。帰りはこれを着て帰ればいい。

 

「あ、フータロー。カバーはこのカゴに」

「わ、悪い」

「着ている服も洗濯するから」

 

 脱衣所のそばに洗濯機が置かれている。その隣には空っぽのプラスチック製のカゴ。ここに洗濯物を入れていくスタイルのようだ。いずれも俺の汗が染み付いたもの。申し訳なさを感じながら、それを丁寧に投げ入れた。

 三玖も顔を洗っていたらしく、長い前髪が少し湿っていた。これで少しは頭が冷えるといいが。

 彼女が脱衣所を後にすると、俺は服を脱いで浴室に入る。風呂はたまっていなかったが、別に気にすることではない。シャワーで十分だ。

 浴室のドアを閉める。念のため鍵もかけた。家ではそんなことまでしないが、人の家だと流石に気を遣う。無いとは思うが、念のためだ。

 シャワーから程よいお湯が出てくる。それが途轍もなく心地よかった。身体にこびりついたベタつきが、洗い流されていく感覚。高そうなシャンプーとボディーソープで一気にフワついた身体を叩き起こした。

 

「フータロー。なんで鍵閉めてるの?」

 

 一通り洗い終えた時、三玖が声を掛けてきた。イマイチ質問の意味が分からなかったが、無視するのもアレだ。仕方なく答える。

 

「マナーだろ」

「これだと私入れない」

「まだ俺が入ってるからな。ちょっと待ってくれ」

「違う」

「何が」

「私も一緒に入る」

「話聞いてたか?」

 

 人間とは学習しないもので。あれほど勉強してきた自分が情けないとすら思える。

 何を言いだすかと思えば、一緒に入る? 可笑しいな話だ。どうして俺と三玖が裸の付き合いをしないといけないのか。それに今入って来られれば、マジでヤバい。自分自身を抑える自信がなかった。

 チラッとドアの方を見る。ボヤけてはいるが、確かに三玖が目の前に立っているようだ。白いものが彼女の身体のラインに見える。バスタオルでも巻いているのだろうか。だとしても、ダメなものはダメだ。

 

「ガス代の節約になるから」

「絶対気にしたことないだろ」

「あとはさっきの続きを」

「そっちが目的だな。分かるぞ俺には」

 

 どうやら発情期は終わっていなかったらしく。

 それは俺もそうだが、理性を取り戻せただけ幸運だと捉えよう。風呂場に追いやられたことは油断していたが、先ほどのこともある。上手く乗り切れる方法はあるはずだ。シャワーを止め、ドアの外に居る三玖に話し掛ける。

 

「ここでアイツらが帰ってきたらどうする?」

「別に。一緒にお風呂入ってたって言うよ」

「それだと俺が終わるんだが」

 

 アイツらのことだ。俺を完全な悪者に仕立て上げるはず。

 元凶は俺だとしても、ここまで長引くなんて誰が考えた。理性を取り戻せない三玖が単純に恐ろしい。

 五月や二乃に好き放題言われるのは、もう御免だ。夢の中で散々痛い目を見たのだから、それを避けるために色々な言葉を巡らせる。

 しかし、熱気のこもった浴室。普段よりも頭が回らない。先ほどは気持ちよく覚醒していたのに、少し逆上せてしまいそうだ。ここで倒れると、またアイツらに面倒をかける。

 

「とにかく、ダメなものはダメだ。今から出るから、少し向こう向いててくれ」

 

 逆上せる前に、なんとかしてここを出なければ。その一心で俺は彼女にそう言葉をかけた。しかし、言葉が返ってくる様子は無い。

 ダメだ、暑い。心地よかった熱気も、今は俺の水分を奪う空気と化している。汗を流したつもりなのに、また汗が滲み出てきそうな。身体を拭く用に持ち込んだボディタオルを腰に巻く。我慢出来ず、俺はそのまま浴室のドアを開けた。一気に冷たい空気が肌に触れる。

 すると、目の前には部屋着を着たままの三玖が立っていた。先ほどの白いものはなんだったのかと考えたが、どうやら右手に持っているバスタオルなのだろう。それを広げたタイミングで俺が見てしまったというわけか。

 

「………三玖?」

 

 彼女は俯いていた。先ほどまでの勢いは無い。何か傷つけるようなことを言ってしまったのだろうか。声を掛けても、顔を上げようともしない。仕方なく、上半身裸のまま彼女の顔を覗き込んだ。

 三玖は、顔を真っ赤に染めていた。発情していてだろうか。いや、だが何か違う気もする。艶っぽい三玖とは、また違った雰囲気のような。そんな気がわずかに。

 「どうした」と声を掛けても、反応しない。流石に心配になってきたこともあって、彼女の両肩を支えてみる。ビクッと彼女の身体が動いたが、そこまで力強く触ったつもりもない。驚いただけだろうと考える。

 

「……ご、ごめん」

「い、いや……俺も悪かった。いろいろと…」

 

 何について謝っているのか、俺には分からなかった。しかし、ここで彼女を追及する筋合いは無い。逆に俺が謝らないといけない立場であることには変わりないのだ。

 だけどこうして彼女の身体を触ってみると、胸だけで無くて身体自体が柔らかいんだなと。……クズすぎる気もするが、気にしないでおく。もしかしたら、すごく怖かったのかもしれないし。だとすると、俺は自分がやった行為がいかに愚かなモノだったかがわかった。

 

「その……忘れてくれとは言わない」

 

 一度やってしまったことは、もうどうしようもない。ここで今日あったことを忘れろと言うのは、何か違う気がした。それに代わる言葉が出てこなかったせいで、単純にそれを否定しただけになったが。

 ……実際、俺としてもかなりイイ体験が出来たと思う。いつからこんな欲に従順になったのか自分でも分からないが、ここまで来れば開き直りだ。気にしない。

 

「……忘れるつもりない。だけど、フータローには取ってもらおうと思う」

「…何を?」

「責任」

 

 クッと顔を上げた彼女は、それこそトマトのように染まっている。

 身体を拭いていなかったせいで、三玖の両肩には水滴によるシミが出来ていた。だけど今は、部屋着を濡らしてしまった申し訳なさよりも、彼女の考えていることが怖かった。

 ただでさえ、何を考えているか分からないのが三玖だ。責任を取ってもらう、そんなセリフでも脅し文句としては十分。俺が固唾を呑むと、彼女の視線は俺の喉仏へ。クスッと微笑んで見せた。

 

「な、何だよ」

「フータロー、緊張してる」

「さ、さあ?」

 

 冷静に考えれば、タオルを腰に巻いた男と、部屋着の女が脱衣所に居る。これを誰かに見られれば、いろいろと誤解を招きかねない。

 とにかく服を着ないといけない。両肩に乗せてあった手を退けて、彼女の横を通り過ぎる。カゴ近くに置いていたパンツをタオルの下から履き通す。これで事故の可能性は消えた。とりあえずは、一安心だ。

 あとは上のシャツと制服を着れば完璧なんだ。そう思っていたのに、上手くいかないものなんだと。

 

「……み、三玖?」

 

 彼女が俺の後ろから抱きついてきた。

 木にしがみつくナマケモノのように、両手はしっかりと俺の腰に回されている。パンイチの男に抱きつく女。さっきよりも状況が悪化した。三玖の豊満な身体が、俺の身体で跳ね返る。そのクセになりそうな感触に、奥底に沈めた欲望が勢いよく湧き出てくる。

 

「……すごく嬉しかった」

「な、何が…?」

「朝、フータローが……してくれたこと」

 

 恥ずかしいのか、今にも消え入りそうな声だ。急にしおらしくなる彼女に、生まれて初めて抱きしめたくなる感情を抱いた。だが、それは出来なかった。

 胸は揉むクセに、抱きしめることは出来ないなんて、本当に心からのクズだ。自分でも思う。だが、俺にはそんな権利は無い。仮に彼女が嬉しかったとしてもだ。

 あんなに最低なことをしたというのに、嬉しかったと言ってくれるのは、三玖なりの優しさなのかもしれない。普通なら、あの段階で警察に突き出していても不思議ではないのだから。

 

「そ、そうか」

「不思議な気持ち。ギュッってしたくなった」

「もうしてるけどな…」

「ん」

 

 その状態で数分が経とうとしていた。さっきまで逆上せそうだったのに、今度は湯冷めしそうだ。こりゃ体調崩すな……。

 それはさておいて、このまま居るわけにはいかない。彼女を説得して、腰に回されていた手を優しく振りほどいた。

 恥ずかしくて彼女の顔を見ることは出来なかった。そのまま制服を着て、洗面台の鏡を見る。湯冷めしそうなんて思っていたのに、顔は真っ赤になっていた。

 

「……そういうのは止めた方がいいぞ」

「どうして?」

「なんというか、うん何というか」

 

 いい言葉が見つからなかった。そのせいで上手く意味が伝わっていないよう。ここに来て自分の語彙力の無さを痛感することになるなんて。ただ、この感情は上手く言えない。

 なんというか、三玖はそんなタイプじゃないと思う。いきなり男に抱きついて、そんなことを言うようなタイプではない。あくまでも、俺個人のイメージにしか過ぎないが。彼女のことを全然知らない俺が思っただけの話だ。

 

「そういうのは好きな男にするものだ」

「胸触ったくせに」

「……すいません」

 

 俺はそのまま鏡を見ている。彼女はそんな俺の横顔を見ている形だ。それに、三玖の言う事はぐうの音も出ない正論。彼女からそんなことを言われる日が来るなんて。少しだけショック。

 あれほど舞い上がっていた彼女も、本当に落ち着いてくれたようだ。なんというか、長かった。ここまで来るのに。ようやく一安心出来る。

 

「とりあえず、今日はもう帰るよ。妹も心配してるだろうから」

 

 鏡に写る自分の顔。さっきまでは赤みを帯びていたが、ようやく見慣れた色に戻りつつある。

 それを見計らったかのように、彼女にそんな提案をした。だが、このまま脱衣所に三玖を残すのも気が引ける。ここに居る理由は無いことを伝えると、彼女も素直にそれを受け入れた。

 脱衣所のドアを開けると、そのまま玄関が見える廊下に出る。彼女たちが帰ってくるタイミングとドンピシャになることは無いだろう。根拠は無いが。

 そんなことを思いながら、脱衣所のドアを開ける。俺が廊下に出ると、三玖もそれに続く。チラリと玄関に視線を送ると、そこにはもう一人の()()が居た。そいつは俺らを見てあんぐりと口を開けた。驚きすぎて、言葉が出てこないようで。

 

 

「………風呂の起源について教えてたんだ」

 

 

 






 新しく高評価してくださった、ワウリンカさん・G3さん・金柑のど飴さん・柊皐月さん。ありがとうございます。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯の身体は柔らかい④



 お気に入り登録等ありがとうございます。励みになります。




 

 

 

 

 

 

 気がつけば、十四時を過ぎていた。せっかくの休日だというのに、余計なことで時間を使っているような気がする。まあその原因は俺にあるんだが。

 太陽の光がリビングに差し込んでいる。広すぎるリビングには、中野姉妹の全員が集結していた。五月の呼び掛けで、あっという間に集まったのだ。どれだけ仲が良いんだって話。

 

「……裁判長。被告は三玖をお風呂場に連れ込み、卑猥な行為に及びました」

「完全な誤解なんですけど」

「アンタに発言権はないわよ」

 

 この光景を見るのは二度目だった。いや、夢の中を含めれば三度目か。いずれにしても、気分の良いものではない。

 現実では、俺が二乃を押し倒したことになった時。あの時は忘れ物を取りに来ただけで、あの場面に出くわしてしまった。今考えると、今日の朝より過激な光景だ。よく自分を抑えたものだとひとりでに感心する。

 何とか誤解を解くことは出来たが、今回で二度目になる。彼女たちの視線が痛い。朝の件もあって、完全にクロで話を進めていく気らしい。それでいいのか司法。こんな国はすぐに滅びるぞ。

 

「まぁ朝の件もあるし、何ていうの? あのー……証拠はないけど証拠がある的な」

「……状況証拠とでも言うのか?」

「そうそれ! たぶん」

 

 裁判長こと、一花の言うことも一理ある。朝の騒ぎのせいで、俺の完全な無実が証明されづらくなっているのは確かだ。しかも、被害者は三玖で、朝と全く同じ。彼女たちの俺に対する心象は最悪と言っても良いだろう。

 検察側には二乃と五月。被害者として祭り上げられた三玖には、前回の反省を生かして発言権はないようだ。唯一の味方は四葉。弁護人として俺をサポートするらしいが、まぁ不安しかない。むしろ罪状を重くするのではないか。シロをクロに変える力を持ってそうで、とにかく怖い。

 そもそも、三玖に発言権がないのはおかしい。彼女が否定すればこの茶番は終わり。完全な検察側の職権濫用だ。それを発言しようものなら、検察側の圧力がかかる。闇の深さを感じる。

 

「普通に考えて、二人がお風呂場から出てくるのはおかしいと思いますが」

「はいはーい! カゴには三玖のベッドの枕カバーとシーツが入ってました。それと、上杉さんの部屋着!」

「……とすると、三玖の部屋でコトに及び、その証拠を隠滅しようとしていた。そう考えることも出来ますね?」

 

 四葉よ。お前は見事に俺を売ったな。

 五月の発言に何もフォローをしないあたり、何も考えずに発言したのだろう。期待はしていなかったが、これで俺の負けが近づいたのは間違いない。

 今回ばかりは本当に無実なのだが、それを証明するものが何も無かった。本当ならば、それを分かっている三玖に説明してもらうことが一番なのだが、検察側の圧力でそれが出来ない。となれば、この四葉に期待するしかない。まるでゲームの初期装備ではないか。

 

「そう言う五月は、上杉さんのことをフライパンで殴ってます! これはれっきとした暴力です!」

「そ、それは今関係ないです!」

「でもまぁ、四葉の言うこともわかる。五月は早とちりしすぎるところがあるから」

 

 いいぞ四葉!

 ここで検察側の捜査態勢を突っ込むとは。そう、五月は誤認逮捕する傾向にある。前回も俺の言い訳に聞く耳を持たなかった。最終的には納得したが、捜査方法にはかなり問題がある。

 容疑が晴れつつある。このまま一気に押し切りたいが、それ以上四葉に攻める案は無かった。仕方なく、裁判長に発言の許可を求める。

 

「んー。仕方ないか。()()()()、認めます」

「こんな茶番はとっとと終わらせよう。もう帰りたい」

「……検察側何かありますか?」

「あー待て。今のは違う」

 

 一言、というのはガチの一言らしい。俺が嫌味を言うと、一花は何事もなかったかのように二乃たちへ発言を促した。

 その様子を見る限り、彼女もまた俺のことを疑っているのだろうか。五人の中では()()()物分かりが良いと思っていたが、そういうわけでもないらしい。あまり彼女たちのことを知らないから、何とも言えないが。

 こんなことで時間を使うのがもったいなかった。何というか、コイツらは俺を使って遊んでいるようにしか思えない。勉強しないといけないのに、この調子じゃ本格的に出来るのはいつになることやら。今日はもうやりたくない。早く一人になりたい。バツが悪そうな表情を見せる一花を説得し、今度こそ発言権を得た。

 

「寝汗がひどくてシャワーを借りただけだ。三玖は洗濯機を回しに来ただけだ」

「回した様子はありませんが」

「そこに居るとは知らずに、俺が浴室から出てしまったんだ。腰にボディタオルを巻いてたから、事故にはならずに済んだ」

 

 多少の出血は仕方がない。そう割り切って、具体的な言い訳をする。もちろんほぼ嘘だが、側から聞けば割とありそうな話に聞こえるはずだ。現に、五月は顔を歪ませて何か言いたそうな表情をしている。一花に関しては、口元が緩んでいるのが気にかかるが。

 ここで三玖に発言してもらうのが、俺としては有り難い。だが、検察側の二人はそれを認めるつもりは無いらしく。相変わらず、圧が凄い。肝心の三玖は、何も言わずにただ戦況を見つめていた。

 

「で、ですが私は! 朝の件もまだ認めてません!」

「それとこれとは話が別だ。お前の個人的な感情に俺を巻き込むな」

 

 五月に関しては、完全に俺を敵対視している。

 別にやましいことをしたわけではない。単純にウマが合わないだけだ。素直に教えて貰えばいいものを、下手に意地を張るから。俺も相応の対応しか出来ない。

 

「ま、朝の件については同意ね」

「だから何もしてねえから」

「そうかしら? 三玖に庇ってもらってるくせに」

「は、はぁ?」

 

 二乃が冷静に突っ込む。なぜ庇ってもらってるという言葉が出てくるのだろう。いや確かにそんなんだが、ここまで来れば嘘を突き通す他ない。それだけなのだ。俺が生き残る道は。

 

「別に庇ってなんかない」

「それでもマッサージと言うのですか?」

「ん。五月が入ってきた時は腹筋してただけだよ」

「ふ、腹筋?」

 

 思わず五月が聞き返した。無論、俺もその一人。声が出なかっただけ良かったと思う。ここで素っ頓狂な声を出せば、彼女の嘘が水の泡だ。極限まで付き合う必要がある。この程度なら、何とか対応可能ではある。

 

「あれ、今流行りの腹筋法なんだって。フータローから聞いた」

「…そうなのですか?」

「あ、あぁそうだ! 以前ネットで見た情報なんだ。お腹を気にしてた三玖から相談を受けてな……。誤解を招くことは頭にあったが、どうしてもとお願いされて」

 

 三玖の言葉はどこかで聞いた気もするが、今は別にどうでもいい。ネットで見た情報と言っておけば、この膨大なネット社会。そんな情報は見つかるはずもない。仮にあったとすれば、それはそれで問題ないし。

 

「でもアンタ。腹筋だとしても、普通上杉に頼む? それこそ、四葉あたりに言えば喜んで協力したはずよ」

「男の人の方が重いし、効率的だと思った」

「で、でもねぇ……」

 

 二乃の追及にも、動じずに答えている。淡々と話しているせいか、その言葉には説得力があった。いや、これ全部嘘なんだけどさ、それを知っていても「そうか…」と声を洩らしそうになる。

 三玖って意外と頭回るんだな。口数は少ないが、相手の論点をしっかりと突いて答えを導き出している。発情中はそんなの関係ないが。

 

「そ、そんな腹筋があったんですね…」

「気になるなら、五月もやってみたら?」

「……………………結構です」

 

 なんだその間は。

 まさかとは思うが、一瞬でも考えたと言うのか。だとすれば、それは随分頭がお花畑なものだ。

 というか待て。腹筋なんてやってないし、むしろ腹筋よりも運動になるようなことをやろうとしていたんだぞ俺は。とにかく今はこの場を気に抜けることが大事なのだ。

 腹筋の話はもういいだろうと、口を開こうとした時。相変わらず話を広げるのが好きな二乃は、その話題を続ける。話が逸れすぎて何について裁判をしていたのかすら分からなくなる。

 

「顔上げる度に上杉の顔が目の前にあるのよ? そんなのに耐えられたの?」

「二乃みたいに面食いじゃないし」

 

 さりげなく馬鹿にされたような。いやもうこの際どうでもいい。

 何なら、早くこの話題を終えてほしい。生産性無さすぎるぞこの会話。しれっと馬鹿にされるし。

 そう思っているのは、どうやら俺だけらしい。二乃と三玖は睨み合っている。なんか前にもあったな、こんなこと。

 

「あっそう。なら料理対決で判決下す?」

 

 いやいや何故そうなる。ただ単に三玖との決着をつけたいだけじゃないか。被告である俺が言うのも変だが、完全に俺は飾りと化している。二人の喧嘩する要因を作るためにこの場にいるのかと、言いたくなるほど。

 二乃の分かりやすい挑発に、三玖も乗ったようで。彼女はおもむろに立ち上がると二乃を睨みつけている。やめろ三玖。余計な争いには巻き込まれる必要ない。

 

「お、おい。何でそうなる?」

「大丈夫、フータロー。なんとかする」

「そ、それは別にいいけど。なら俺は帰ろうかな……」

「アンタには審査員してもらおうかしら。前回みたいなふざけた審判は許さないから」

 

 えぇ……。思わず声が洩れた。

 二乃が言う前回とは、一回目の料理対決の時。あの時は俺も空腹だということもあって、二人が作った料理はどちらも美味かったように感じた。見栄えは圧倒的に二乃だったが。

 それから三玖は料理の練習をしているらしい。一花や四葉から聞いたが、手先が不器用なことも相まって、まぁ上達しないというが。

 一花と四葉に視線を送っても、苦笑い。裁判ごっこは終わりを迎えたようだが、俺の心は晴れない。茶番はしばらく続きそうだ。仕方なく俺が立ち上がると、五月が話しかけてくる。

 

「……その腹筋って効くんですか?」

「あ、あぁ。どうだろうな。確証はない」

 

 真に受けている様子。彼女は姉妹の中で一番の大食い野郎だ。そこを気にするのは分かるが、あれだけ食って他の姉妹とスタイルは変わらないように思える。別に気にする必要は無いと思うが、それを言うとまた噛み付かれるだろうな。

 キッチンへ向かうと、二乃は冷蔵庫の中をチェックしていた。

 一方の三玖。そんな彼女の様子を伺いながら、俺の隣にやってきた。なんのつもりだと考えたが、特に何も言わずに二乃を様子を眺める。

 

「フータロー」

「なんだ」

「………わかってるよね」

「は?」

 

 わかっている? 何の話だ。素直に聞き返すと、彼女は何も言わずにキッチンへと向かった。意味が分からない。

 だが彼女が言うことだ。何か意味があることは確か。答えを導き出すだけの情報が少なすぎるだけで。そうこうしていると、二人は料理を始めた。二乃はさすがの手際だ。普段料理をすることがない俺からしても、よく分かる。

 三玖は……うん。気にすることはない。まだまだ練習中の身なのだから、これからだ。これから。

 

 結局、それから一時間ほどが経過した。その間、俺は四葉に勉強を教えていた。暇だったこともあって、これまでよりはゆったり目だが。一花は昼寝している。男の前でよく眠れるものだ。

 

「出来たわよ。早く食べなさいよ」

 

 早く食べるために作ったのなら、是非やめてほしい。

 昼過ぎにはなるが、あまり空腹ではない。前とは違って、あまり食欲は無かった。テーブルには、二人が作った料理が並んでいた。

 二乃、お洒落なランチ。フレンチ? というのだろうか。料理名は分からない。ただこれまでお洒落な料理は食べたことはない。

 三玖、なんだこれは。タワシか?

 何かの塊がボンと皿の中心に乗っていて、お世辞にも美味しそうには見えなかった。

 いや、だが待て。さっきの彼女の言葉。あれはどういう意味なのか。もしかしたら「私を勝たせろ」ということなのかもしれない。勝たせなかったら? 朝のことを暴露されてみろ。風呂場の件も完全にクロになる。いや、もうそのことは忘れ去られているだろうが。

 

 恐る恐る三玖に視線をやると、顔を赤くして俯いていた。レベルの差を痛感したのだろうか。何というか、見ているこちらが可哀想にすら思える。

 

「……いただきます」

 

 一言言って、まずは二乃の料理を口に運んだ。瞬間、広がる感じたことのない旨味。これが彼女の本気なのだろうか。普段のヤツを知っているからこそ、何というか、信じたくなかった。

 三分の一を食べ終えたところで、二乃が味の感想を求めてくる。うるさいヤツだ。

 

「美味いぞ」

「当たり前でしょ。ほら、三玖のも食べなさいよ」

 

 なら急かさないでもらいたい。しかもそれは三玖が言うべきセリフではないか。

 改めて、三玖が作った料理を眺めてみる。真っ黒ではあるが、ところどころ若干茶色い。もしかしてこれは……ハンバーグか? 顔を近づけて匂いを嗅ぐ。うん、焦げた匂いしかしない。だが、微かに、微かにだが美味そうな匂いもしないでもない……気がする。

 

 箸でその中央に切り込みを入れ、真っ二つに割ってみる。するとどうだ。外見はあんなに黒いのに、中は綺麗なピンク色をしていた。これはもしや……生焼け。

 さすがにそれはマズい。味とか置いておいて、身体に悪影響を及ぼしかねない。これで腹を壊すのは御免だ。

 

「や、やっぱりいいよ。私が自分で食べるから」

「ダメよー。上杉に食べさせないと。ねぇ、こんなに美味しそうなハンバーグを食べないと、三玖に失礼でしょー?」

 

 一見すると、三玖の料理を馬鹿にしているようにも聞こえるが、コイツはそうじゃない。単に、生焼けのハンバーグを俺に食べさせたいだけなのだ。裁判はあっちいくし、料理対決もあっちいくし。結局、コイツは俺を痛めつけたいだけなのではないか。

 さすがに生焼けしてるとは思わなかったのだろう。三玖は俺の右手を抑えて、食べないように制止している。

 

「食べるよ。大丈夫」

「で、でも……」

「対決なんだ。食べないとわからないだろ」

「上杉にしては分かってるじゃない。早く食べなさいよ」

 

 どうしてそんなことが口から出てきたのか。自分でもよく分からなかった。ただ、このままだと三玖が恥をかいて終わるだけなような気がして。

 優しく彼女の手を振りほどいて、半分に切ったソレを口に運んだ。中が冷たい。ハンバーグとは言い難いそれは、舌が痺れるような感覚を覚えた。拒否反応を示しているのだろうか。よく分からないが、身体に悪いことはよく分かる。

 吐き出しそうになる気持ちをグッと抑えて、意を決して飲み込む。気持ち的には一五〇〇メートル走を走った気分だ。

 

「ふ、フータロー……」

「美味かった。二乃の料理よりも」

「は、はぁ!?」

 

 無意識にそんな言葉が洩れる。彼女を持ち上げないといけないから、なんてことは考えてもなかった。

 三玖にしか聞こえていないように言ったつもりだったが、二乃の耳にもしっかりと届いたようで。

 

「お、美味しいのなら全部食べなさいよ! 美味しいんでしょ!?」

「に、二乃! フータロー身体壊しちゃう……!」

「壊したから何? 別に関係ないじゃない」

「二乃、三玖を責めるな。食べればいいんだろ、食べれば」

 

 ギャンギャンと騒ぐことで、四葉や一花、部屋に戻っていた五月まで俺たちの様子を伺っていた。そこまで集中する必要も無いんだけどな……。

 残った生焼けのハンバーグ。味を知っているからこそ、箸が動かない。心配そうに三玖が覗き込んでいるが、ここで引くわけにはいかない。俺にも一応意地はある。勇気を振り絞って、口へ運んだ。

 うわぁ……マズい。口の中には肉のそのままの味が広がる。俺の家は貧乏だが、さすがに生肉を食べたことはなかった。

 三玖が持ってきてくれた麦茶を一気に流し込む。後味が嫌すぎて、お茶がとんでもなく美味しく感じた。

 

「…………美味すぎた」

「フータロー君も男気あるね」

「あっそ。やっぱり、アンタのこと嫌いだわ」

 

 そう言い残すと、二乃は後片付けすらせずに部屋へと戻っていった。自分勝手なヤツだ、全く。

 俺が立ち上がると、隣で心配そうに立っていた三玖がキュッと制服の腰のあたりを引っ張った。

 

「とりあえず、二乃の料理も食べてしまうか」

 

 彼女のしおらしい行為に、少し恥ずかしくなって。目に入った二乃の料理を言い訳に使った。彼女が服を引っ張ったまま、俺は残った二乃の料理に手を付ける。さっきよりも味を感じなくなったのは、三玖の料理のせいだと思いたい。

 また余計なことに時間を使ってしまった。そんなの分かってるのに、それを口に出す勇気はなくて。だからこそ、彼女の呟いた言葉がよく耳に響いた。

 

 

 

「………ありがと」

 

 

 






 (3月19日、20時40分現在)新しく高評価してくださった、大秦王安敦さん・コウジョウチョウさん・パイポさん・空気読めない人さん・塩胡椒さん・かゆいさん・アルジェルトルゥーさん・ミュルグさん・ソリューさん・ken1121さん・まぼ725さん・神城愁さん・モリモッコリさん。
 沢山の方に評価していただきました。ありがとうございます。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯は花火がお好き

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三玖の胸を揉んでから、二週間が経った。九月に入って、ほんの少しだけ肌寒い日も増えてきたような。まだまだ暑さは残っているが。とにかく、この二週間は俺としても生きた心地がしなかった。しかし、何とかこれまで通りの日常に戻ったような気もする。

 生焼けハンバーグを食べたせいでか、あれからしばらく腹痛に悩まされたが、病院代も勿体無かったせいで無視。現に回復しているのだから、人間とは不思議なものだ。

 あれから彼女は、これまで通りに接してきている。ただ、俺と話すときは少しだけ上の空になったような。あくまでも俺の直感だが。

 俺はというと、あの日以降自らの性欲がおかしくなったように感じる。それまでは一人で慰めることなんて滅多になかったが、この二週間で両手分に到達しそうなほど。これまでの自分を考えれば、無駄な進歩なのだ。

 

 両手には、あの日の彼女の感触が確かに残っていた。

 それを思い出すだけで、欲が湧き出てくる。どうなってるんだ、俺の心は。いや今はダメだ。今日こそ一人で勉強をして、迫り来る二学期の中間試験に備える必要がある。今のうちに蓄えておかないと、しばらくすれば奴らの対策に時間を取られる。そう考えた。

 

 それはそうと、今日は久しぶりに家で一人になっていた。親父はらいはを連れて遊びに出かけているらしい。基本らいはが勉強の邪魔をすることはないが、親父がウザい。そういった意味でも、今日は集中できそうだ。

 小さくて、ボロい折りたたみ式の机を広げる。数少ない俺の相棒とも言える存在だった。家が貧乏なせいで彼女たちが持っているような立派な机なんて買えるはずもなく。唯一買ってもらったコイツには、人には理解出来ないであろう愛着が湧いていた。

 それからはひたすら集中して、部屋に夕陽が差し込むぐらいまでノンストップで勉強。こんなに一人の時間が良いものかと、改めて実感することができた。ボロい壁時計は十七時を指している。この辺りで一度落ち着いてみるか。背伸びをして、床に横になる。畳が固く、痛い。

 

 タイミングを見計らったかのように、らいはと親父が帰宅した。

 気怠そうな親父の声とは反対に、らいは。いつもの輝かしい笑顔を見せている。それだけで勉強頑張って良かったと思えるほど、愛おしく可愛い。

 らいはの手にはビニール袋。何かを買ったのだろうと気にしていなかったが、天井を見上げていた俺の視界が遮られた。

 

「じゃーん!」

「……なんだ?」

 

 ビニール袋の中身は四角形のようで、角が顔に当たって痛い。

 袋を受け取って上半身を起こす。中身を確認する前に、うっすらと透けて見えるが、どうやらこれは花火のようらしい。

 よく見る大きな四角形ではなくて、かなりコンパクトなモノ。いきなりどうしたのかと問い掛けると、らいはは少し照れくさそうに答えた。

 

「花火大会の時、四葉さんに花火買ってもらったから。そのお礼で」

「あぁ、そんなこともあったな」

「お金無くて、その時よりはかなり小さいけどね……」

 

 季節的には遅い気がするが、そのおかげで在庫処分のための安売りにでもなっていたのだろう。追及することなく、俺は袋から花火を取り出した。たしかに小さめだが、逆にそれが()()()を醸し出しているようで。

 

 らいはの言う事。それは、五月が俺に給料を渡しに来た日のことだ。つい先日のことだが、昨日のことのように覚えている。あの時、初めて彼女たちとの関係性を考えたような。

 関係性といっても、好き嫌いの話ではない。俺は彼女たちの何なんだ? そう自問しても家庭教師以外出てこなかった。それが、少しだけ、ほんの少しだけショックだったというか。別に事実なのだから、気にする必要なんて無い。そんなことは分かっていた。

 

 その時、(はぐ)れてしまったらいはの面倒を見てくれていたのが四葉だった。俺は二乃を見かねて三玖や五月、そして一花を集めることに必死だったこともあって、彼女には非常に感謝している。

 結局、その日は一花の()に付き合い、夏祭り自体を途中で抜け出した。その後、全員合流して近くの公園で買った花火をやったってだけの話。そう言えば、四葉にお礼言えてなかったな。

 

「なるほどな。確かに俺もお礼を言わないといけない」

「うん。喜んでくれるかな?」

「喜ぶに決まってる」

 

 俺はこういうのに気が利くタイプではない。高校生ではあるが、妹にもその辺りは勝てそうになかった。

 だが、お返しというのは値段や大きさじゃなくて気持ちの問題だとは思う。家が貧乏だと知っている彼女たちからすれば、らいはがお返しをくれたというだけで嬉しいに決まってる。俺とは違って、らいはには好意的な態度を持っているのだから。

 心配そうな彼女にそう言うと、ニコッと微笑んで見せた。その笑顔が天使みたいで思わず抱きしめたくなる。

 

「持って行くか? 付いて行くぞ」

 

 らいはが持って行くのなら、彼女たちも嬉しいに違いない。俺としても、ついでに四葉へお礼を言えればそれでいいのだから。しかし、らいはは「ううん」と首を横に振った。

 

「今日は疲れちゃった。代わりにお兄ちゃん持って行ってくれる?」

「俺が? まぁ別に構わんが」

 

 笑ってはいるが、確かにいつものような元気オーラは無い。それを察した親父が台所に立つと、らいはも大人しく床に横になる。よほど疲れたのだろう。今はそっとしておいてあげたい。

 それに、俺だって四葉には礼を言わないといけないのだ。もうすぐ日も暮れる。らいはを連れて行くよりは、一人の方が気は楽だった。

 

 親父に一言言って、俺は家を出た。

 それからしばらく歩けば、もう見慣れたタワーマンション。夕焼けに染まる街並みからは、一線を画している。あれほど入るのを躊躇っていたのに、今ではオートロックにも慣れたものだ。入り口には誰もいない。インターホンを押す。

 

「……フータロー?」

「み、三玖か。悪いな、いきなり」

 

 こちらからは顔は見えない。声だけで三玖だと判断する。

 ハッキリと話してくれれば、声だけでも判別できるようになりつつあった。二週間前みたいに、変な声を出さなければ問題ない。

 

「どうしたの?」

「四葉居るか? 渡したいものがあって」

「いまは出かけてる。もう少ししたら帰ってくると思うよ」

「あーそうか。参ったな……」

 

 留守だった時のことを考えていなかった。

 三玖に預けようかとも考えたが、それはそれで何というか。らいはがそれで納得してくれるだろうか。そんなことを考えていると、インターフォン越しの三玖が口を開いた。

 

「家で待ってていいよ。いま誰も居ないし」

「だったらそうさせてもらうか……」

「うん。誰も居ないから」

「……なぜその部分を繰り返す?」

「胸、また揉んでくれる?」

 

 何を言ってるんだコイツは。誰かに聞かれでもしたら、色々とマズい。明らかに俺が悪者になるのは目に見ている。いや、確かに悪いんだけどな。

 だがどうする。玄関を開けると全裸の彼女が出迎えてきてみろ。理性が崩壊する未来しか見えない。それなら、ここで待っているのも手だ。今、モニターにはどんな顔が映っているのだろうか。考えたくもない。

 

「じょーだん。開けるね」

 

 いたずらっぽく、三玖は言う。いつからそんな冗談を覚えたのか。生きた心地がしない悪い冗談だ。自動ドアが開く。この光景にも慣れた。俺とは正反対の世界で生きている彼女たち。その存在がつくづく不思議に思える。

 家にはもう少しで全員が集まる。四葉もそのうちの一人。彼女の冗談を信じて、出直すよりは家で待たせてもらう方がいい。アイツらが休日にどう過ごそうが気にならないが、夕方には全員が帰宅しているイメージは強い。それだけ仲が良いのだろう。エレベーターを待っている間に、そんなことを考えた。

 

「あれ? 上杉さーん!」

 

 自動ドアを抜けて、見慣れたリボンが俺の元に近寄ってくる。噂をすれば何とやら、だ。四葉の声が鉄筋コンクリートの壁に綺麗に反射して、よく響く。うるさいぐらいだ。そんな彼女は、大きめのリュックを背負っている。運動でもしてきたのだろうか。

 

「うるさい。それとナイスタイミングだ」

「ふぇ?」

 

 ナイスタイミング。いや本当にナイスタイミングだ。彼女はその言葉の意味が分からなかったのか。首を傾げて、俺を見つめている。顔は全員一緒だが、こうしてみると雰囲気は若干の違いがある。

 となればだ。身体の感触だってそれぞれ違うのではないか。特にこの四葉は、五人の中で一番運動神経が良い。それだけ締まった身体つきをしているに違いない。

 

「………って何考えてんだ俺!」

「ふぇ?」

 

 全てを否定するかの如く、言葉を洩らしてしまった。首を振って、意識を現実世界へ引き戻す。完全なる無意識。何度も言うが、人間とは不思議なものだ。

 そんな俺の様子に、四葉は目を点にしていた。ナイスタイミングだと言いながら、それを否定するような発言。どっちがどっちかよく分かっていない様子。現に俺もそうなのだから、四葉に分かるはずもない。

 

 気を取り直すように、一回だけ咳払いをした。

 

「悪い。……これ、らいはからのお礼だ」

「お礼? 私何かしましたっけ?」

「ほら、花火大会の時」

 

 ビニール袋を差し出すと、彼女は恐る恐るそれを受け取る。俺は二乃じゃないんだ。別に毒なんて渡さない。

 よく分かっていない様子の彼女に、花火大会の時のことを説明する。それと、らいはの想いも。面倒を見てくれたお礼に、らいはが四葉に感謝の気持ちを込めて、この花火を贈ったことを伝える。すると、四葉はうるうるとその大きな瞳を潤ませた。

 

「わ、私……感激ですっ!」

 

 小さな花火セットを、ぎゅっと力強く抱きしめている。中の花火が折れてしまわないか心配になったが、今の四葉にそれを告げるのは野暮だろう。俺としても、ここまで喜んでもらえるなら嬉しいし。

 四葉も、五人の中では一番と言っていいほど、らいはのことを気に入っていた。顔をスリスリしたり、ギュッと抱きしめたり。そればかりは、四葉に嫉妬すら覚える。思い出すだけでな。

 

「その…俺からもお礼言わせてくれ」

「う、上杉さん…」

「ありがとう。遅くなったけどな」

 

 らいはが買ってきた花火セットに、俺の想いも乗せる。身勝手な兄貴かもしれないが、この気持ちは本物だ。あの時、四葉が居なかったら、らいはが迷子になっていたかもしれないのだから。

 

「そんないいですよ。私だって、らいはちゃんと一緒に居るの楽しかったですし」

「らいはも言ってたよ。本当に助かった」

「えへへ」

 

 満点の笑顔だ。その満点をお前のテストで見てみたいよ。

 なんて毒づいてはみたものの、そんな四葉の笑顔にこっちまで笑ってしまう。エレベーターの到着音がすると、四葉の方を向いていた身体を正面に移す。誰も乗っていないようだ。

 そこでふと思う。よくよく考えれば、目的は達成出来たのだ。ここでエレベーターに乗る必要も無い。俺はドアが閉まらないように手で押さえ、四葉に中へ入るよう誘った。

 

「……四葉?」

「上杉さん。少し遊んで行きませんか?」

「…なぜ?」

「花火、やりましょうよ」

 

 四葉は俺が渡したビニール袋をクイッと顔の横に上げ、そんな提案をする。表情は微笑んだままだが、少し赤く染まっている。よほど嬉しかったのだろうか。

 だが、それは俺とやるべきではないだろう。そう自己完結する。そもそも、俺はそれを買ってもいないし、買おうとすらしていない。だからそれは、らいはとやるべきなのだ。

 

「それは俺とやるべきじゃない。らいはとやってくれ」

「どうしてですか?」

「……どうしてもだ」

 

 彼女の直球すぎる疑問。どうしてと言われれば、上手く言葉に出来なかった。こんな誤魔化しは、コイツら姉妹に通じないことは分かっているのに、まだそうやって逃げようとする自分が居る。

 

「自分が買ってないから、とでも言うつもりですか?」

「……………違う」

「嘘、下手です」

 

 お前にだけは言われたく無い。あくまでも、これは言葉が出てこなかっただけなんだ。そう言い聞かせる。

 

「私は、上杉さんとやりたいです」

 

 四葉は畳み掛ける。俺が困っていることを理解しているようで。いつの間にそんな小悪魔キャラになったのだろうか。

 エレベーターのドアが一定間隔で俺の腕を刺激している。この体勢もきつくなってきた。だが少しでも顔を歪めると、四葉に引き離されそうで、少し意地を張ってみる。

 

「俺は別に。今日じゃなくていいだろ」

「今日じゃないと、ダメなんです」

「なぜ?」

 

 そこまで言う理由があるのだろうか。大して期待もせず、聞き返す。

 

 

「今、すごく幸せなんです」

 

 

 ドクンと心臓が高鳴った。……急にそんな顔をしないでほしい。力が抜けそうになる。

 微笑みながらそんなセリフをよく吐けるなと、毒づきたい気分だ。しかし、俺の喉はそれを許さなかった。

 らいはからのプレゼントが相当嬉しかったようで、見ているこちらもつい笑ってしまいそうになる。

 

「四葉が幸せなのは結構。だが俺はそうでもない」

「あー。さっきはお礼言ってたのに。幸せじゃないんですかー?」

「いや、そういうわけじゃなくてな…」

「なら、私の幸せをお裾分けしますよ」

 

 そもそも今の俺にとっての幸せというのは、お前と花火をしないことなのだ。用は済ませたし、ここに長居する理由もない。それを分かっているのだろうかコイツは。

 いい加減、腕にも限界がある。塊がぶつかってきているのだ。別に痛くはないが、それが蓄積されていくと相応の痛みが出てくる。諦めて手を離すと、待っていたかのように四葉が俺の右手を引いた。

 

「ささ! 行きましょう!」

「お、おい待てって!」

 

 俺の言葉なんて、彼女の耳には届いてすらいない。

 颯爽と手を引かれ、マンションを出て行く。彼女の顔は見えないが、腕には結構な力が込められている。ここまで来れば、もう逃げるのも嫌になった。そもそもコイツから逃げ切れるわけないが。

 少し走ると、ゆっくりとスピードを落とす。振り返ればマンションが大きく見える距離。それでも、俺の息を切らせるのには十分すぎる。一方の四葉は余裕の表情だ。化け物か。

 

「花火とは言いましたけど……まだ明るいですね」

「日の入りまであと一時間近くあるぞ」

「んー」

 

 考えているようで、コイツは何も考えていない。断定は出来ないが、多分そうだと思う。

 夕焼けが空を覆っている。花火が生きるのは今じゃない。どうやって時間を潰すべきか。いつの間にか俺も行くテイで考えているのが自分でも笑えた。

 

「らいは、呼んでくるか?」

「疲れてるのに申し訳ないです」

「俺も疲れてるんだが」

「上杉さんは別です」

 

 何を根拠にそんなことを言えるのだろうか。

 俺だって朝からさっきまでノンストップで勉強をしてたんだ。疲れているのは事実。それを根本から否定された気がして、少しだけイラついた。そのイラつきをぶつける体力は残っていなかったが。

 それから数分、道路の路肩で二人して考えた。俺としても、遠方まで行く体力なんて無いし、あわよくばこのまま帰りたい。しかし、四葉はそれを認めようとしなかった。そして、彼女は一つの結論を導き出した。

 

 

 

「………うん。公園でお話しましょうよ」

 

 






 新しく高評価してくださった
 yukke丼さん・トラノスケさん・氷帝さん・ななしの⑨さん・かむやまさん・雨西さん・yesロリータyesタッチさん・元祖「へぇ〜」さん・ヤンデレ住人さん・G缶さん・ソメイヨシノさん・天心さん

 ありがとうございます。励みになります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯は花火がお好き②

 

 

 

 

 

 

 

 時刻はまもなく夜の十八時を迎えようとしていた。

 普段なら子どもの声が行き交うこの公園も、この時間になれば誰もいない。徐々にではあるが、日も暮れ初めている。

 俺と四葉は、数少ない遊具の中でも最もベターなブランコに腰掛けていた。子供用に設計されていることもあって、座る面積が小さい。板を繋いでいる鎖が腰に少しだけ食い込む。

 四葉は余裕そうだ。ゆっくりとブランコを漕いでいる。ギコギコと音を立てているせいか、千切れてしまうのではないかと不安になる。

 

「これ、結構キツイですね…」

 

 と思えば、減速しながら言葉を洩らす。言葉の意味がイマイチ理解出来なかったが、完全に停止すると腰まわりに手をやっている。そういうことか。

 

「そうか? 見た感じ()()だが」

「あーっ。子どもっぽいって思いました?」

「何故そうなる」

 

 フォローしたつもりだったが、四葉は頬を膨らませている。彼女に限ったことではないが、この姉妹はよくその表情をやっている。さすが姉妹というか。いずれにしても、女心はよく分からん。

 三玖に黙ってここに来てしまったが、問題無かっただろうか。これまでなら特に気にしていないだろうが、俺には意地でも隠し通さないといけない前科がある。これに腹を立てて、告げ口でもされたらお終いだ。

 

「三玖のこと、考えてるんですか?」

「えっ、い、いや…」

 

 俺の心を読んだ如く。四葉はハッキリとした口調で言う。

 思いもよらない言葉に、思わず狼狽えた。それに加え俺の表情を見てか、四葉はクスクスと笑う。

 

「やっぱり、上杉さんは嘘を吐けないんですね」

 

 分かったような口を利かないでほしい。そう思ったのは一瞬で、確かにその通りなんだなと思う。性格的にも決して器用とは言えない。むしろ不器用の部類に入る。それを見透かしたように、四葉は笑っている。彼女に関しては、きっと他意はないのだろう。分かってはいるが、少しだけ自分がみっともなく思える。

 一つため息を吐く。「幸せが逃げていきますよ」なんて彼女は茶化すが、聞き流した。やがて訪れるのは沈黙だ。

 

 俺は、この四葉の考えていることも理解出来なかった。

 五人の中で一番明るくて、陽気。言い方を変えれば健気だ。一番運動神経も良くて、周りを笑顔にする不思議な力がある。ただ一番バカなだけで。

 それなのに、こうして人を見透かしたような言葉を吐く。どっちが本物の四葉なのか、今の俺に分かるはずもなかった。

 

「最近、三玖と仲良いですよね。上杉さんって」

「そう見えるか? 特に何も無いんだがな」

「あれはきっと、上杉さんに恋をしてる顔だと思います。私には分かります」

「あぁそう」

 

 答えるのも面倒になった俺は、その言葉すら適当に受け流した。あの三玖が恋、ねぇ。しかも俺に。いいや絶対にあり得ない。だって俺は、彼女の胸を揉んだんだ。彼女でもなんでもない三玖の胸を。

 思い出すだけで、あの時の感触が手のひらに蘇ってくる。その麻薬的な中毒性に、俺はブンブンと頭を横に振った。

 

「上杉さんとしてはどうなんです?」

「何が」

「三玖のことです。どう思っていますか?」

 

 この話題は終わっていなかったらしく。むしろ四葉の言葉には力が込められている。何も答えなかったのは逆効果だったか。いや、四葉のことだ。答えていたとしてもこの結末は避けられなかったかもな。

 

「別にどうもこうもない。一番勉強を頑張ってくれている生徒だ」

「それに関しては、私も負けてないと思います」

「やる気は一番だけどな」

 

 厳しいことを言うが、やる気だけでどうこうなるものではない。卒業までにはしっかりと与えられたノルマ点を超えないといけないのだ。やる気があるから特別に卒業、なんてことをしてみろ。きっとそれは本人のためにもならない。

 それを分かっているのだろうか、コイツは。ただやる気があるに越したことはない。最初から俺に協力的な彼女の存在には、確かに助かっている。どんなにバカでも、なんとしてでも卒業させないといけない使命感が俺の中に芽生えつつあった。

 

 四葉は、再びブランコを漕ぎ始める。

 先ほどよりもゆっくりと空気を切っている。なんとなく、今の公園の雰囲気に合っていた。また、少しずつ空は闇に覆われていく。そろそろ頃合いだろう。

 

「やるか? もういい頃だろう」

「そうですね!」

 

 勢いをつけたかと思えば、彼女はビュンッと宙を舞う。

 地面に足が着く音、幼少の頃を思い出しそうな懐かしい感覚。不思議な気分だった。

 四葉はリュックに立てかけていたビニール袋から、花火セットを取り出す。リュックの中からは空のペットボトル。それに水を入れて使うのだろう。

 

「この公園、花火やっていいのか?」

「…………たぶん」

 

 ふと気になり、問いかけてみる。彼女の自信なさげな返答に、苦笑いを浮かべる。正直期待していなかったが。それに、季節的には完全にズレている。煙がよく上がる花火をここで使うのは正直気が引けた。

 とは言っても、花火をしている家族を見たことがある。決して禁止ではないのだろうが、どうだろう。変に誤解されなければいいが。ただ俺の言葉を聞いた四葉は、花火セットを眺めている。

 

「それなら! これやりましょうよ!」

「線香花火か」

「これだったら、周りにも迷惑かからないですし」

 

 ただでさえ種類の少ない花火なのだ。その中で一番音も煙もないのは、やはりそうなるだろう。それに、線香花火の方が情緒がある。夏の終わりにはぴったりというか。

 彼女の提案に賛同すると、四葉は「そうしましょう!」と四本しか入っていない線香花火を取り出した。二本ずつということになるだろうが、それも一瞬で終わるはずだ。そのために時間を使うのはどうかとも思う。だが彼女の顔を見ていると、それを言うのも野暮な気がした。

 

「よし。さっさとやろうぜ」

「…………………あ」

 

 四葉は何かに気がついた様子で、口をあんぐりと開けている。

 俺と目が合うと、「あはは」と苦笑いを浮かべている。それだけで嫌な予感がする。

 

「火、どうしましょう?」

「………マジックでもするか?」

「で、出来るんですか?」

「んなわけないだろ…」

 

 花火をするのにも、火がなければどうしようもない。花()というぐらいなのだ。ここに来て結局やらないというのは、俺としても気分が悪い。気づかなかった俺たちのミスではあるが、一度エレベーターのところで落ち着く必要があっただろうに。

 四葉は「うーん」と唸っている。あの時は確か、彼女たちが持ってきたチャッカマンを使っていたような気がする。それに気づいたのか、彼女は勢いよく「五分で取ってきます!」と言い残して走って行った。

 ここから家まで五分とは、まぁ無謀だろう。だが、コイツならやりかねない。底のない恐ろしさすら感じる。

 

 一人残された俺は、彼女が取り出していた空のペットボトルに水を注ぐ。公園の蛇口をひねる行為すら、かなり久しぶりな感じがする。

 線香花火なのだから、そこまでの水量は必要ないだろう。ペッドボトルに半分ほど入れると、キュッと蛇口を逆にひねる。

 

 公園の水といえど、よく澄んでいた。

 暗い空に、街灯が二本立っているこの公園。相変わらず人が来る気配は無い。子どもが一人で遊ぶには、かなり不気味な雰囲気。そういう意味では、今ここに一人でいること自体嫌な感じがした。

 先ほどまでは感じたことがない感覚だ。それだけ四葉の存在が大きかったとでも言うのだろうか。よく分からないが、正直一人が嫌だと感じた。さっきまでとは正反対の感情。

 

「お待たせしましたー! いやー本当にドジでした…」

「早かったな」

「言ったじゃないですか。五分で戻ってきますって」

 

 五分で戻ってくるとは言っても、大半はその通りになるとは思わない。あくまでも気持ちの問題。それだけ早くします、そんな想いを込めた言葉なのだ。

 だが、四葉はそういうわけではない。本気でその言葉を守ろうとする。それは彼女にとって、俺との約束になるのだ。俺にそんなつもりは無くても、コイツは違う。馬鹿正直に、人のことを放っておけない。素直な奴なんだ。

 

「……ありがとうな。よし、やるか」

「はいっ!」

 

 カチッとチャッカマンの引き金を引く。ポッと出る火に線香花火を近づけると、火の玉が暗い公園に二つ浮かぶ。

 俺たちは中腰になって、その様子をひたすら眺めていた。何分持ちますかね、どっちが長く持ちますかね、なんて四葉が話しかけてくる。常に言葉を絶やさない彼女の存在が、この暗闇を照らしてくれそうな、そんな感覚。

 

「らいはちゃんにも見せてあげたいなぁ」

「今度やればいいだろ。まだ余ってるんだから」

「ふふっ。そうですね」

 

 線香花火なんて、花火の中だと地味な部類に入る。

 それでも、どういうわけか。今は四葉の言うことに賛同出来た。花火はみんなでやることに意味がある、なんてことを言うつもりは無いが。

 二分もしないうちに、俺の線香花火がポトリと落ちてしまった。それを見た四葉は笑っているが、それからすぐに彼女の火の玉も落ちていった。

 

「あっという間、ですね」

「仕方ない。線香花火なんてそんなものだ」

「そうですけど、それがいいんじゃないですか」

「……まぁ、否定はしないが」

 

 あっという間ということを否定すれば、線香花火の存在自体を否定することになる。なんとなく、それは嫌だった。

 残り二本となったソレを、一本彼女に手渡す。すると四葉は、それを受け取ると少し考えて口を開いた。

 

「賭けをしませんか?」

 

 急にどうした、そう言おうと思ったのに、俺の喉はキュッと締まったままだった。タイミングを見失い何も言えずにいると、彼女が言葉を続ける。

 

「先に落ちた方が、後に落ちた方の言うことを聞くというのはどうでしょう?」

「却下」

「ど、どうしてですか! 楽しそうじゃないですか」

「楽しくなんてない。第一、なんで賭ける必要がある」

「うーん。深い意味はないです。本当に楽しそうだと思ったから」

 

 コイツの言うことだ。きっとそれも事実なのだろう。

 特に深い意味はなく、単純にやりたいだけなのだ。だとしても、乗り気にはなれない。ロクなお願いされないだろうし。

 

「大丈夫ですっ! きっと上杉さんが勝ちます!」

「今から賭けようとしてる奴のセリフかよ」

「うっ…ま、まぁいいじゃないですか!」

 

 言っていることの()()()()を自覚しているのだろう。俺が突っ込むと分かりやすく狼狽えた。嘘が下手、と彼女は俺に言っていたが、四葉も大概だ。かなり分かりやすい。

 そのまま、俺と四葉の線香花火を二本並べて、まとめて着火する。火の玉が落ちないよう、慎重に持っているあたり、彼女の提案に乗ってしまった自分が嫌だった。

 

「どうですか? すぐ落ちそうですか?」

「あっという間、とか言ってた奴が言うか?」

「それはそれ。これはこれです!」

 

 たった一言で済ませるのも、ある意味彼女らしい。さっきの言葉に同意した自分が恥ずかしくなる。

 賭けなんていいながら、二人してただ線香花火を眺めているだけ。さっきと何も変わってなんかいない。

 

「そういえば、三玖が上杉さんに用があるって言ってました」

「……なんと?」

「そろそろ続きを…みたいなことを言ってましたけど」

 

 思い切り咳払いをする。四葉の前で何ということを言うんだ。

 腹筋法だなんて誤魔化してはいたが、正直バレるのも時間の問題かもしれない。一刻も早く、このことをみんなの記憶から消したかった。

 それをさせないのが三玖本人だというのも、何だか泣けてくる。嫌がるどころか、ノリノリなのが何というか。まぁ不幸中の幸いと考えるべきか。

 

「本当に何したんですかー?」

「腹筋だって言ったろ」

「ならなら! 今度は私にしてくださいよ!」

 

 ダメだ。そういうわけにはいかない。

 そもそもアレで腹筋が出来るのかすら、分からないのだ。これで上手くいかないと、嘘がバレてしまう。だから、彼女の提案を受け入れるわけにはいかなかった。

 

「…………四葉には必要ない」

「決めました。私が勝ったら、腹筋のお手伝いをしてもらいます」

 

 これは絶対に負けることが許されなくなった。

 いや完全に運なんだが、どうにかしないといけない。そうは考えても、いい案なんて浮かぶはずもないのだが。

 ピュっ、と風が吹く。これまでの生温い風ではなく、肌に少し刺さるようなひんやりとした風。夏の終わりは確実に近づいているようだ。

 「むーっ」頬を膨らませながら、四葉は俺の線香花火を見つめている。そんなことをしても無駄だというのに。

 

「圧力を送ってるんです」

「何も言ってないだろ」

「そういう顔をしてました」

 

 どうやら相当顔に出るらしい。認めたくはなかったが、彼女たちからそう言われることが多いと、否が応でも認めざるを得なくなる。どうすれば改善されるのかなんて考えたところで、どうしようもならないが。

 

「らいはちゃんって、本当に可愛いですよね」

「どうした急に。否定はしないが」

「妹にしたいです」

「それは無理な話だな」

「私と上杉さんが結婚すればいい話ですよね」

「そういう問題ではない」

 

 コイツは何を言っているのだろうか。自分で言ってる意味が分かってるのか。まあ、追及したところで面倒な未来が見えている。簡単に受け流す。

 それを見計らったように、彼女の線香花火から火の玉がポトリと落ちる。力尽きたそれに、四葉は「あーあっ」なんて言いながらうな垂れた。

 

「上杉さんのせいです」

「なんでだよ」

「なんでもです」

 

 理不尽極まりないなこれ……。完全に運任せだと言い聞かせていた自分がダサく感じる。

 四葉がペットボトルに線香花火を入れると、火が消えていく柔らかい音が。まだ不満顔だ。「上杉さんが勝ちます!」なんて言ってたクセに、忙しい奴だ。

 それからすぐに、俺の線香花火も終わりを迎えた。賭けなんて大層な展開になるかと思ったが、意外と呆気なく終わったな。

 

「賭けは上杉さんの勝ちです。さぁ、何なりとお申し付けください」

「そうだな。そろそろ帰ろう。それが俺の要求だ」

 

 多分、賭けの収穫としてはかなり弱いものだろう。だが、俺としてはこれで十分だ。そもそもが早く帰ろうとしていたのだから、むしろこれが良い。

 

「そんなのでいいんですか?」

「別に賭けなんてやりたくないし」

「うーん。でも何か面白くないです」

「面白さを求めてどうするだよ…」

 

 ギャンブラーのような発言はやめてもらいたい。遊び感覚で賭けなんて言ったのだろうが、俺からすれば余計な要求をして面倒な展開になるのが嫌なのだ。

 「他になにかありませんか!」と四葉は言う。賭けに負けた人間が言うセリフではない。が、このままだとラチがあかないのも分かっている。こちらが折れるしかないのだろう。

 適当に考える。四葉の気持ちになって考えるべきだろうが、あいにくこういうことは得意ではない。余った花火を見て、それを口実にすることにした。

 

「それで、らいはと遊んでやってくれ」

 

 うん、悪くない。我ながらいい提案だと思う。

 四葉は愛しのらいはと遊べ、俺も面倒ごとに巻き込まれないで済む。らいはをダシにしている感は否めないが、今だけは仕方がないと割り切る。

 彼女の様子はどうだ。文句がありそうな表情をしているが、らいはという()を目の前にして言いたいことが言えないようで。結局は素直にそれに頷いた。

 

「それは、ずるいです」

「別にいいだろ。ほら、片付けて帰ろう。家まで送るから」

 

 家まで送る、そんな言葉が自然に出てくる。これまでの自分を考えると不思議な感覚だった。四葉はペットボトルを持って、残りの花火セットも丁寧にビニール袋に戻す。

 すっかり夜になっていた。花火の音も出さなかったせいか、さっきと変わらない風景。とりあえずは一安心というところか。

 

「三玖が羨ましいです」

「……なんでだよ」

「分かりません。でも、羨ましいです」

 

 まだ気にしているようだったが、それ以上は俺も何も言わなかった。あれは完全に俺のせいなのだ。理性が崩壊して、三玖に手を出してしまった。それで全てが狂ってしまいそうで、それだけは避ける必要がある。クズな考えかもしれないが、相手が三玖で良かったのかもしれない。

 

「上杉さん、ここで大丈夫です」

「そ、そうか? あと少しだが」

「いいんですっ! 今日はありがとうございました!」

「お、おい!」

 

 彼女は走り出し、俺と距離を置いた。俺の足では彼女に追いつけるはずもない。ただそれ以上に、なんというか……初めて彼女のあんな顔を見た気がする。

 無理に笑っているような、そんな顔。常に笑顔でいるイメージを持っていたが、それが全て作り物だとすると。四葉なりに、俺や周りに気を遣っているとすると。

 彼女の姿は見えなくなった。俺の推測にしか過ぎない。だが、それが事実だとすれば、彼女は俺なんかより大人なのかもしれない。遣る瀬無い気持ちのせいで、つい独り言が洩れた。

 

 

 

「………帰るか」

 

 

 






 新しく高評価してくださった、おーいえっちゃんさん・earth75さん・高山流氷さん・ソネッシーさん・ひょい三郎さん・映画後悔さん・まるこめ12220さん・アオヤギさん・onTokiさん・㌦猫さん・KLUMAさん・カラメルさん・karonさん・混沌とンさん・モノリス0120さん。本当にありがとうございます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯もお年頃なんです

 

 

 

 

 

 

 

 夏が終わり、季節はすっかり秋模様となった。それでも特に変わったことはなく、変わったと言えば制服が夏服から冬服なったということぐらいだ。

 彼女たちとの関係も相変わらず続いている。その中でも、特に三玖。俺のせいであの時の快感が忘れられないらしく、二人きりになると度々迫ってくる。俺としても、あれ以来触っていない。触りたいと思う自分が情けないが。

 初めの頃こそ、その()()を彼女たちは疑っていた。いや、事故というよりは俺たちの関係性について。一緒の部屋で寝てたり、風呂場から出てきたらすれば、それは疑われても仕方がない。いずれも三玖に庇ってもらう形でその場を切り抜けたが、一つの出来心で大きな秘密を背負うことになってしまった。何度も言うが、これは俺の責任だという自覚はある。一応ね。

 

 中間試験を八日前に控え、明日から部活も試験前の休みになる。俺は自分の勉強よりも彼女たちの指導に熱を入れていた。最悪、俺はどうにでもなる。これまでの積み上げで生きていけるだけの貯金は十分だ。

 そんな時、俺は五月に呼び出された。少しは話してくれるようになったとは言え、まだまだ距離感は掴めない。現に俺から勉強を教えてもらうつもりはないらしいし。そんな彼女からの呼び出しなのだ。その気は無くとも、警戒してしまう。

 待ち合わせ場所は、学校近くの歩道橋。通学路というわけではないが、俺としてもよく通る。放課後、午後四時過ぎ。迷うことはなく、約束の時間より少し早く着いた。それからまもなく、五月が俺の前に姿を見せた。

 

「……逃げなかったのですね」

「なんで逃げないといけないんだよ」

 

 俺が五月に恐怖心でも抱いているというのか。それに近いものは確かにあるが、逃げる必要はどこにもない。発言の意図がイマイチ読めない。まぁ今は気にする必要はないが。

 彼女に関しては、他の姉妹よりもよく分からなかった。同じクラスではあるが、会話する機会もほとんど無い。俺自身も興味が無いということもある。ただ分かっているのは、彼女は俺のことが嫌いで、とにかく頑固だということ。頭が固く、五人の中で一番面倒な奴かもしれない。

 

「父からお話があるそうです」

 

 五月はおもむろに切り出した。

 父、彼女たちの父親ということか。俺の雇い主でもある。ソイツから直接話しというのは、あまり良い予感はしない。むしろ嫌な予感だけだ。

 仮にだ、俺の三玖に対する行為がバレたとすれば。俺は間違いなくクビになるだろう。それだけならまだいいが、どんな仕打ちが待っているかは分からない。狼狽えたつもりはないが、五月は分かりやすく俺を睨んだ。

 

「何か都合悪いことでも?」

「い、いや…んなわけないだろ」

 

 誤魔化しきれなかったが、彼女は何も言わずに携帯を取り出した。慣れた手つきで番号を見つけ出し、そのまま右耳へそれを持っていく。

 

「父様? 五月です」

 

 自分の父親を「父様」と呼ぶ人種が本当に居ることに、内心驚いた。それを伝えるつもりはないが、到底俺とは分かり合えない人間なんだろう。生きている世界が違った。

 彼女は少し話すと、自らの携帯を俺に差し出す。代われということだろう。素直にそれを受け取り、画面が汚れないよう耳から少し話して相手の声を聞いた。

 

「もしもし」

「君が上杉くんだね?」

「はい」

 

 思っていたよりも低い声に、身構えてしまった。電話越しに伝わる威圧感と絶対的な余裕。どんな人間かは会ったこともないし分からない。だが、なんとなく五つ子の父親だとは理解出来る。本当になんとなくだが。

 それからありふれた会話をする。それだけ聞くと、普通の父親感はある。自分の親父のツテでこの仕事を引き受けたと考えると、この人も親父と繋がりがあるということか。世の中不思議なものだ。

 

「次の中間試験で誰か一人でも赤点を取ったら、君には家庭教師を辞めてもらおうと思う」

 

 そんな呑気なことを考えていたが、事態は思いのほか重いらしい。彼の発言を聞いて、言葉が出なかった。流石に想定外。

 次の中間試験で、誰か一人でも赤点を取れば。現実的に、それは俺の家庭教師が終わりだということを告げているようなものだ。だがここで「それは無理です」なんて言ってみろ。いまこの瞬間で、俺は間違いなくクビになる。

 

「……分かりました」

「期待しているよ」

 

 彼女たちの現状を聞かないあたり、恐らく期待していないのだろう。これまでの成績を考えると、全員が五科目で赤点を回避するなんて、現実的では無かった。

 そうなると、この人は俺のことを嫌っている、とでも言うのか。もしそうだとしたら、会ったこともない人間に嫌われるのはいい気分ではない。不愉快だ。

 一度引き受けた仕事は、何が何でも最後までやり通す。それが俺なりのポリシーだ。二つ返事で了承し、電話を切ろうとする。しかし、彼は何か思い出したかのように俺を引き止めた。

 

「念のため聞くが……娘たちに手を出してないだろうね?」

 

 さっきまで強気だった気分が、一気に消え失せていく感覚。

 背中から冷や汗が出てくる。彼女の父親も何なら勉強のことを聞くより、こちらの方が気になっているような気がしないでもない。

 

「ま、まさか。そんなわけありませんよ」

「それなら良いんだ」

「万が一、そうした場合は…?」

 

 一応聞いてみる。もしかしたら、大して怒られないのかもしれないし。聞くだけ聞いてもいいだろう。

 

「地獄の底まで追い詰めるからね」

 

 追い詰められることが確定しました。

 冷や汗が脂汗になって背中から垂れていく。顔には汗が出ていないのが幸い。五月の携帯を汚すことになってしまうのは気が引けた。

 冗談抜きでこの人は追い詰めるんだろうな。会ったこともないがそう感じる。とんでもない十字架を背負って生きていかないといけなくなった。つくづく自分の行為が愚かだったと後悔する。

 

 そのまま電話を切って、携帯を五月に差し出した。それを受け取りながら、彼女は会話の内容が気になったようで。俺に問いかけてくる。

 適当に誤魔化そうとも思ったが、完全に秘密にすると後々面倒なことになりかねない。コイツだけには言っておくか。

 

「中間試験、一人でも赤点取ったら俺はクビになるらしい」

「えっ……」

「ま、お前からしたら良い事だろ」

 

 嫌味っぽく告げてみる。だが、俺が思っていたよりも彼女は驚いた様子だ。嫌味を返してくるかとも考えたが、そんな顔をされると俺としてもどうすればいいか分からなくなる。

 

「そ、それは……そうですが」

「なんだよ。同情してくれるのか?」

「父の考えていることがよくわからなくて」

 

 まぁ、確かにそれはある。ましてや自分の父親なのだ。家庭教師を雇ったかと思えば、条件をクリアしないとクビにするなんて、冷静に考えればかなりの暴挙。五月もそれを理解しているようだった。

 

「とにかく、この一週間で出来ることはやるつもりだ」

「………はい」

 

 よく考えてみると、家庭教師と言っても実質二乃と五月以外の三人にしか教えられていない。その時点で、俺にはその資格が無いのも同然だ。五人の成績を上げるなんて言っておきながら、二人のことを見てあげられていない。俺に文句を言う資格なんて無いのだ。

 そんなことは分かっていたのに、浮ついた自分が居る。恥ずかしさすら感じるような。彼女たちの家庭教師を続けたいと思う気持ちもあったりして。

 

「……あの、上杉くん。お願いがあります」

 

 ふと、五月がそんな言葉を洩らした。

 彼女が俺に対して「お願い」という言葉を使うのは、初めて食堂で会ったあの時以来だ。

 ようやく教えを請う気になったのか―――。そんなことがまず頭をよぎった。これまで意地を張り続けて、分からないことを放ったらかしにしたまま一人で頑張ってきたのだろう。だが、そんな勉強法には限界がある。分からないことを取り除いていかなければ、いつまで経っても進歩はない。要領の悪い五月はその典型だった。

 

「て、て、手伝ってほしいんです……」

「五月……俺は今、猛烈に感動しているぞ」

 

 ついに来た。その言葉を待っていた。

 五月もこの理不尽な要求が理解出来なかったのだろう。その融通性を初めの頃から欲しかったが、今はどうでもいい。やる気自体は四葉と同じぐらいあるのだ。どうにでもなる。

 そう言う俺とは反対に。五月は不思議そうな顔をしていた。あれ、何か可笑しなことでも言ったか……?

 

「あ、あの……まだ何も言ってませんが」

「え?」

「私が手伝って欲しいのは、その……ふ、腹筋です」

「……………………腹筋?」

 

 今の俺は、多分とんでもなく間抜けな顔をしていると思う。

 話の流れから言えば、完全に勉強のことだと思うだろう。だが彼女の口から出てきたのは「腹筋」だと。頭の理解が追いつかない。

 

「み、三玖と同じ腹筋です! 私にも……その……」

「えっと、なんで俺? ていうか、なんで今?」

「だ、男性の方が重くて効率的だと言ってたじゃないですか。それにこのままだと上杉くんも家庭教師に来なくなると思って…」

「クビにする気満々じゃねーか」

 

 引き止めるどころか、俺を突き落とすつもりなのかコイツは。少しでも感動した自分が馬鹿らしいよ本当に。

 情けない話だが、確かにこのままだと、俺が彼女たちの家に出入りすることは無くなるだろう。それを見計らってのお願いというわけか。勉強は嫌なくせに何であんな()()にチャレンジしようと思ったのか。三玖の時には俺のことを殴っておきながら、本当によく分からない。少なくとも、腹筋法のことを信じているのだから、これもまた不思議な話だ。

 

「いやでもな……。お前俺のこと殴っただろうが」

「そ、それについては謝ります。ですが、どうしても試してみたいんです」

「なぜ」

「それは…その……察してくださいっ!」

 

 五月はプクッと頬を膨らませている。どうやら食べすぎだという自覚はあるらしい。あってあれだけの食欲なのだから、一番タチが悪い。

 だとしてもだ。毛嫌いしている男には普通頼まないだろう。勉強だってずっと拒否していたクセに、腹筋を手伝ってほしいだなんてあまりにも都合が良すぎる。

 

「……交換条件がある」

「じょ、条件?」

「腹筋は手伝ってやるが、その代わりに勉強を見せてくれ。一緒にテスト対策をするんだ」

 

 交換条件、我ながらいい選択だと思う。

 腹筋をチラつかせておけば、テスト対策に臨んでくれるかもしれない。その可能性に賭けた。それで断られれば、もうそれまでだ。俺にどうすることも出来ない。

 それを聞いた五月は、口元をキュッと結んで考えている。歯を食いしばっているようにも見えるが、だとすると相当嫌なのか。

 だが、俺としても相当の覚悟が必要になる。五月の腹筋の手伝いをするとなると、それは相当な誘惑になるはずだ。三玖の時は我慢出来なかったが、全力で耐える必要がある。そんな生殺しは正直嫌だった。だから、それなら断ってくれることを期待する自分も居て。家庭教師失格だな、本当に。

 

「……分かりました。その条件を飲みましょう」

「う、嘘だろ?」

「本気です。交換条件とか言いながら、その反応はなんなんです?」

「い、いや普通そうだろ? 俺じゃなくて違う奴に頼めよ。もっと信頼出来る奴に」

「生憎、上杉くん意外に知り合いの男性は居ないので。仕方なくです。仕方なく」

「そういうのは気軽に言うもんじゃないぞ。男はお前が思っているより…その……やばいから」

 

 どれだけ腹筋やりたいんだよコイツは。赤点回避といい、この腹筋といい、今日は想定外のことが多すぎる。

 他に知り合いが居ないという理由で、嫌っている男にそんなことを頼ることは正直ダメだと思う。俺としてもやばい。いろいろとやばい。

 

「心配してくれてるんですか?」

「そういうわけじゃなくて、普通に考えてだ」

「万が一、変な気を起こしたら警察へ突き出しますのでご安心を。それと、他の四人の誰かに監視をお願いしますので」

「なんか……本気なんだな。それを試験で見せてほしいよ」

 

 確かに他に誰かがいるのなら、理性を保ちやすくなるだろう。五月にしてはいい判断だ。これで二人きりなんて言われれば、もう耐え切れる自信が無かった。正直な話ね。

 

「とりあえず、今日は帰るわ。なんかいろいろと疲れた」

「何を言ってるんです? 今日から試験対策をやりましょう」

「……本気か?」

「交換条件ですから」

「となると?」

「腹筋が終わってからですね」

 

 試験対策をやるのは大いに結構なんだが……。その代償は俺にとってもかなり大きい。最近落ち着き気味だったが、これはまた湧き出てくるんだろうな……(何がとは言わないが)。

 やけにノリノリな彼女の後に続く。あれだけ食べてそのスタイルをキープしているのだから、特に気にする必要なんてないだろうに。女子高生の考えていることは分からん。

 このままだと、彼女たちの家に行くのも残り一週間というわけか。少しだけ寂しさを感じるのは気のせいだと信じたい。

 そんな俺の心を読んだかの如く。ボーッとしていたせいで、彼女が呟いた言葉を聞き逃していた。

 

 

 

「……これでも、期待してますから」

 

 

 





 新しく高評価してくださった、きおきおきおさん・VOIVODさん・おーいえっちゃんさん・サフォークさん・めうさん。ありがとうございました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯もお年頃なんです②

 

 

 

 

 

 

 

 

 見慣れたタワーマンションのオートロックを抜けて、エレベーターに俺と五月は乗り込んだ。ここに来るまで、特に話すことはない。何というか、何を話せばいいのかイマイチ分からない。腹筋のことを意識してる自分がまあ……。これは仕方ないのだ。これも仕事だ、仕事。

 

「この時間なら、誰か居るはずです」

「留守なのを願うよ」

 

 五人も居れば、誰か一人ぐらいは居ても不思議ではない。

 ましてや彼女たちの仲を考えると、夕方から夜までには全員が戻っていることが普通。俺の願いなんて叶いやしないのだ。

 三十階まで登り、五月が家の鍵を開ける。玄関にはローファーがひとつだけ並んでいた。誰のかは分からないが、誰か居るのは確かなようだ。ここまで来たら、腹をくくるしかない。

 問題はこのローファーが誰のものか、ということ。個人的には四葉が理想だ。何も疑いなく見守ってくれそうという理由で。その分「私もやりたい」なんて言い出すだろうが、今はそれでもいい。

 二乃に関しては全力で止めにくるだろう。むしろそうしてくれた方が助かる。今だけは二乃の存在を願うばかりだ。

 最悪なのが三玖。どんな顔をして五月に跨がればいいのだろう。俺は羞恥プレイとやらには興味は無い。五月は俺を置いてリビングへと進むと、その誰かもそこに居たようで。「あっ!」と声を出した。

 

「三玖でしたか。ちょうど良かったです」

 

 咄嗟に身体を反転させ、家を飛び出そうと考えた。しかし、俺に気づいた五月がいつの間にか俺の手を握っていて。どこにそんな力が込められているのかと疑いたくなるほどに。

 

「怖気付いたんですか?」

「う、うるせえな。わかったから離せって……!」

 

 五月に怖気付いたというよりは、もう一人が怖いだけだ。

 なんとなく、三玖以外には手を出していないことがこの均衡を保っている気がしていた。それが間も無く、見事に崩れ去っていく。そうなることで、俺の人生が終わりそうな気がしないでもない。

 腕を引かれ、リビングに行くと三玖がテーブルで勉強していた。俺に気付くと、不思議そうな表情をしている。

 

「フータロー? 今日から試験対策だっけ」

「ま、まあな。よし、勉強するか」

「その前に、ですね」

 

 しれっと勉強モードに入りたかったが、それも五月によって実現せず。彼女は三玖の隣に腰掛けた俺に、少し待つように告げて部屋へと戻っていった。それを見た三玖は尚更不思議そうな顔をしていた。さて、なんと説明しようか…。

 

「フータロー、どういうこと?」

「あぁ、いや。特に大したアレじゃないんだよ」

「あんなにやる気満々の五月、珍しいよ。まさか勉強する気になったの?」

「そ、そうなんだよ。お、俺としても嬉しい誤算でな……」

 

 確かにそうなんだが、色々すっ飛ばしてるせいで五月が勉強する気になったことしか伝わっていない。本来であれば腹筋のことを先に伝えるべきなんだが、どうやって彼女に伝えればいいんだ。

 あーもう。なんで今日に限って三玖しか居ないんだ。一番腹筋のことを知られると厄介だというのに。

 

「お待たせしました。さぁ、始めましょう!」

 

 降りてきた五月は、学校の体操着に着替えていた。うん、やる気はあるようだが、今は最悪だ。それを見た隣にいる三玖の手が俺の脇腹に伸びてくる。キュッとつまんで、優しく微笑んでいる。怖い。めっちゃ怖い。

 

「どういうこと?」

「あーいや……その…腹筋を手伝って欲しいみたいで」

「三玖も少し手伝ってくれませんか。彼が変な気を起こさないように見張っててください」

 

 「ふーん」と三玖の手に力が込められる。痛い。皮が千切れそうで痛いよ三玖さん。

 これは長期戦になるかとも考えたが、彼女は素直に頷いて五月に横になるように告げる。到底納得していないようだが。そんな三玖を横目に、五月は横になる。体操着のせいで身体のラインが何というか……うん。

 

 すると三玖は、そっと五月にアイマスクとマスクを差し出した。

 

「こ、これは?」

「事故防止用。それにマスクしてると息しにくいから効果も出ると思う」

「た、確かにそこまでは思いつきませんでした」

 

 何故か用意周到な三玖に少し驚く。確かにこれを装着していれば彼女に対して過ちを犯すことはないだろう。実体験を元にこの対策が生み出されているような気がして、少し申し訳ない気がしないでも。

 というか、冷静に考えて俺は後ろを向いて跨がればいいじゃないか。何も真正面を向く必要なんてないのだ。そうすれば、俺だって変な気を起こすことはない。マスクやアイマスクも必要ないのだ。

 

 意を決して、俺は五月の腰に跨る。体重をかけないよう程よく。足の方向を向いていることもあって、想像していたよりも何とかなりそうだ。

 重くないかを確かめると「へ、平気です」とのこと。背中越しに聞こえる声からしても、やはり照れているらしい。それは俺だって同じだ。顔から火が出るほど恥ずかしい。

 

「一応、マスク付ければ?」

「そうですね……恥ずかしいですし」

 

 五月には完全に背を向けているというのに、そこまで俺への信頼は無いのだろうか。いや前科がある段階で信頼なんて無いに等しいんだけどな。このままジッとしているわけにもいかず、五月に声を掛けた。

 

「そのまま上体を起こしてみろ」

「行きます…!」

 

 声を洩らしながら、五月の上半身が動く。足を抑えられるよりは力が入り難いのか、完全に起き上がることが出来ないようだ。その証拠に、背中に彼女が近づいた感覚はない。

 

 何というか、新手のプレイみたいで逆に(そそ)るな……。

 

 ……そうじゃない。待て待て。落ち着け俺。そうやって三玖に手を出してしまったんだ。

 頭を振って、冷静さを取り戻す。危なかった。周りの視線を気にしないでいいせいか、雑念が頭の中を巡る。というか、自然に腹筋が出来ていて少し安心する。これで筋トレ感が無ければまた余計な誤解を生むことになっていただろうに。

 

「完全に起き上がらなくても効果はあるぞ。くの字をイメージしてみろ」

「はいっ……。これっ……結構キツイですっ…」

 

 声だけしか分からないが、どうやら五月は真剣にやっているようだ。それはそれでいいんだが、声だけしか聞こえないせいで聴覚が敏感になっている。何気ないフレーズがとんでもなくセクシーに聞こえるのは気のせいだと思いたい。

 それよりも、五月が上体を起こそうとする度に柔らかなお腹が優しく当たる。想像以上にプヨっとしていて癖になりそうな感覚。着痩せするタイプなのだろうか。

 

「キツかったら休憩するか?」

「あと少ししたら休憩を……」

 

 ハァハァと息を切らして、彼女は再び動き出す。くの字のアドバイスが聞いたのか、その態勢を数秒間キープして戻って、キープして戻ってと同じ行為を繰り返している。

 その間の三玖はと言うと、ジッと俺たちのことを眺めていた。決してやましい行為はしていないと言えど、妙な恥ずかしさがある。顔を隠している分、五月はそんなに感じていないだろうが。

 五月は、結局五分くらい腹筋を続け、ようやく休憩に入った。彼女から離れると、慣れない態勢だったせいで変な筋肉が痛い。

 

 マスクとアイマスクを付けたまま、五月は「ハァハァ」と息切れしている。何というか……エロい。これはこれでエロい気がする。三玖が居なかったら理性が崩壊していても不思議ではなかった。そう考えると、五月の対策は完璧だったというわけだ。

 

「悪い。トイレ借りてもいいか」

 

 変に緊張したせいで、トイレが近くなっていた。一言断りを入れ、彼女たちの元を離れた。

 にしても、五月の身体ってまた三玖とは違った感覚がある。あれだけ食べれば肉も付くだろうが、あの程度なら気にすることなんてないだろうに。

 トイレを済ませてリビングに戻ると、三玖の姿が無かった。辺りを見回しても、リビングにいる気配は無い。自分の部屋に戻ったのだろうか。だとすると、出てくるまで待機か。

 

 相変わらず、五月は横になったままだった。アイマスクは外しているが、汗のせいで顔は少し赤みを帯びていた。相変わらず体操着のままだったが、動いていないせいで身体が冷えなければいいが。

 そもそも、水分補給は済ませているのだろうか。少しは動いた方もいい気はしたが、もしかしたらトイレに行った間に休憩を済ませたのかもしれない。下手に攻める気にもなれず、俺は彼女の近くに腰を下ろした。

 

「……上杉くん?」

「あぁ、戻ってきた。三玖が居ないからもう少ししたら再開するか」

「…いいです。再開してください」

「い、いやでもなぁ…」

「お願いします」

 

 監視を付けたいとか言いながら、結局どっちなんだ。

 いずれにしても、三玖が居ないのなら俺としてもやりたくは無い。一人居るだけでいろいろと助かるのだから。

 しかし、五月は引かない。俺の左手首を掴んで、グッと身体の方へ引き寄せる。このままでは色々とマズい気もしたため、止むを得ず彼女の腰に跨った。もちろん背中を向けて。

 

「……こっちを向いてください」

「は、はぁ? 何言ってんだよ……」

「いいから、早く」

 

 やけに急かしてくる五月。制服をクイっと引っ張られると、俺の理性が少しグラつく。よく服の袖を引っ張られるとグッとくるなんて言うが、少しその気持ちが分かった気がする。これは男心をくすぐる行為であることには間違いない。

 流れに身を任せて、俺は正面を向いた。アイマスクを付ける素ぶりすら無い。だが、今は別にいい。もう気にすることもない。彼女の腹筋を促した。

 

「んっ……」

 

 マスク姿で一生懸命、上体を起こそうとしている。しかし、俺に近づくことも出来ていない。運動不足、と一言で片付ければそうなるのか。まぁ、俺も人のこと言えた口ではないが。

 

 しかしだ。ある重要なことに気づく。正面を向いたことで、彼女が上体を起こす度に俺の下半身に五月の下腹が当たる。本人は気付いていないようだが、これはマジでヤバい。

 視線を落とせば、身体のラインがくっきりとわかる五月の姿。ゴクリと固唾を飲んでしまうほど、理性の壁がぐらついている。

 数回、上体を起こそうとしたところで、一度彼女は止まる。休憩だろうと気を抜いた時、彼女の両手が俺の両手に伸びてきた。

 

「ど、どうした?」

「手伝って……ください…」

「引っ張れってことか…? それだと腹筋にならないぞ…?」

「い、いいから」

 

 ここに来てサボるというのか? 五月はそんなことをするような奴だとは思えないが……。しかし、彼女もさっきから息が荒い気がする。相当バテてると考えるべきなのか。だとすればもう終わってもいいんだけどな……。

 だが、仕方がない。俺の手を握っている彼女の手には、わずかながら汗が滲んでいた。それに気付くと、手を振りほどくのも何となく気が引ける。意を決して、グッと彼女のことを引っ張った。

 

「ほらっ……っておい!?」

「はぁ…はぁ……」

 

 引っ張り上げると、彼女は力無く俺にもたれかかってきた。側から見れば、俺と五月が抱き合っているように見えるに違いない。これは本格的にマズい。

 彼女の柔らかい身体が俺の目の前にいる。ていうか密着している。ヤバいヤバいヤバい……! 性欲という名の悪魔が心に囁く。触ってもいいんじゃないのか、なんなら押し倒していいんじゃないか。頭が締め付けられるような痛み。このままもう…好きにヤらせてもらえないだろうかと。

 俺の左肩に彼女の顔がある。五月が息を吐く度に、俺の左耳に甘い刺激が加わる。あの強気な五月がここまで弱くなるものなのかと、そのギャップに心が甘い味を求めている。

 

 手は自然と離れているが、そのせいで彼女は完全に体重を俺にかけていた。彼女の体温がダイレクトに俺に伝わる。締め付けられるような頭の痛みから、ジンジンと痺れるような痛みに変わる。

 

「い、五月……」

 

 あぁ、もう駄目かもしれない。三玖の時とは違って、俺に否定的な彼女に手を出すことになる。下半身に血が集まっていくのが分かる。

 彼女たちの父親からもあんなに釘を刺されたというのに。本業の勉強を疎かにして、違う意味で彼女たちを勉強することになるなんて。もう地獄の果てまで追い詰められてもいい。今この瞬間の、快楽に身を任せてしまいたい。

 

 そう思ったら最後。俺はだらんと垂れ下がった右手を彼女の胸元へと運ぼうとした時、俺は耳を疑った。

 

 

「ふ、フータロー………」

 

 

 彼女は、耳元でそう呟いた。

 そこで、初めて一つの疑問が浮かび上がった。五月は、俺のことをフータローとは呼ばない。そうなると……まさか!!

 

「お前三玖か!?」

「はぁ…はぁ………」

 

 マスクのせいでか、かなり息がし辛そうにしている。咄嗟にそれを取ると、間違いない。声色を五月に寄せていたせいで、気付くことが出来なかったが、コイツは紛れもなく三玖だ。

 それに彼女の顔は真っ赤に染まっている。運動によるものではない。俺でも分かるほど、これは完全に熱のある顔をしていた。

 

「お、おい…! 大丈夫か…!?」

 

 力が無く、グッタリとしていた。なのになんでこんなことをしたんだコイツは。

 湧き上がっていた性欲はすっかりと消え失せ、慌てて彼女をそのまま寝かせようとするが、三玖はそれを許さなかった。怠いはずなのに、両手をしっかりと俺の首に回している。

 

「み、三玖…! マズいって……!」

「フータロー……ギュッてして……」

 

 それは出来ない願いだ。一番なのは抱きしめるより横になることだ。と言ったところで、彼女がそれに従うとは思えないが。

 となると、本物の五月は何処にいるんだ…? 嫌な予感がする。三玖はかなり汗をかいているが、俺はまた違った汗が出てくる。この場面に遭遇されると、もう言い逃れできないだろう。少しでも誤解を解きやすくする体勢になりたかったが、彼女がしっかりと腕を回しているせいで、どうしようもない。

 

「………上杉くん。覚悟は出来てますか」

 

 上の方から声がする。どうやら部屋に戻っていたようで。

 覚悟、とは言われてもだ。俺は本当に何もしていない。これは完全な冤罪なんだ。それは頭の中で分かっていたのに、前回のことが頭をよぎって。

 

 

 

「わからないか? 最新のワルツを踊ってるんだ」

 

 

 





 新しく高評価してくださった、ナティブさん・アニッキーブラッザーさん・とぅばささん・豆助さん・Dazeさん・マリオッタさん・やマッチさん・ダイコーンさん・ライダー4号さん。本当にありがとうございます。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯もお年頃なんです③



 ツイッター始めました。

 @madogiwazokudes




 

 

 

 

 

 

「三十八度五分。熱があるみたいですね」

 

 

 三玖をソファに寝かせ、脇から体温計を取り出す五月。彼女曰く、熱があるそうだ。確かに、あの体温の高さはそれに匹敵するものだと思う。運動後の暑さではなくて、身体の芯から熱を発しているような。

 さっきまで体操着だった彼女も、すっかり部屋着に戻っていた。そちらの方が俺としても助かる。色々気を遣わないでいいから。

 俺は正座して彼女たちのことを眺めていた。別に正座しろなんて言われたわけではない。ただなんとなく、そうした方がいいんじゃないかと考えただけだ。

 五月はため息をつきながら、彼女の額に冷却シートを貼り付ける。体温とは正反対のそれに三玖の身体がピクッと反応する。しかし、言葉を発することなく苦しそうな寝息を立てた。

 

「……どういうことなんですか」

「信じてくれるか?」

「発言によります」

 

 五月は三玖に寄り添うように、ソファに腰掛けている。思いのほか冷静な彼女を逆撫でするわけにはいかない。言葉に注意しながら、これまでの経緯を説明した。俺は五月だと思って腹筋を再開したこと。するとそれが三玖だったということ。単純なコトなんだが、言葉にして説明するとどうしても誤解を招きやすい。

 言葉を間違えないよう丁寧に説明すると、分かりやすく彼女は顔を歪めた。ここまで分かりやすいと逆に清々しい。

 

「普通に考えて、です」

「はい」

「私がそんなこと言うと思いますか?」

 

 確かにその通りだ。五月に限ってあんなことは言い出さないと思う。いかなる理由があっても。それなのに、俺は三玖の言うことに従ってしまった。手は出してないが、その時点でもう自分を抑えきれなかったということか。冷静に分析したところで、残るのは恥ずかしさだけだ。

 五月の言葉に敢えて返答を濁らせた。ハッキリと「それはない」と言いづらいというだけで。そこを突っ込まれれば、どうして拒否しなかったのかと追及されるに違いない。下手なことは言えない。

 

「ですが、そういうことを言う時点で、普通気付くでしょう」

「いや俺もそう思ったんだが……三玖のやつ、お前に声色とか寄せてたんだよ」

 

 そう言うと、彼女はため息をついて、そのまま苦笑いを浮かべる。

 

「確かに、三玖は五人の中で一番なりすましが上手いですから」

「まぁ…気付かなかったのは俺のミスでもある」

「そう考えると、どうして気付いたのですか?」

「呼び方かな。俺のこと下の名前で呼ぶ奴って三玖か一花のどっちかだから。それで」

 

 理にかなった説明に、五月は特に何も言い返さなかった。

 もっとガミガミ言われるかと思ったが、そんな雰囲気というか素振りを見せない。よく分からないやつだ、こいつも。

 彼女は三玖に視線を落とし、苦しそうに寝息を立てる彼女をジッと見つめていた。ここまで体調が悪かったなんて、見抜けなかった申し訳なさがこみ上げてくる。自分がそこまで気にする必要なんて無いが、不思議な気分だった。

 

 正座しているせいで、足がジンジンと痺れる。我慢出来そうになかった俺は、諦めて足を崩した。鎖に縛られていた感覚が一気に解き放たれるような、そんな感覚。

 五月は相変わらずソファに座ったままで、三玖のことを心配そうに見つめている。

 

「その……悪かった」

 

 このまま時が流れるのは辛い。それを誤魔化すように、俺は謝罪の言葉を口にした。俺が謝るべきなのかは分からない。だが、何も言わないよりはマシだろうと考えただけだ。

 

「上杉くんのせいではありませんが」

 

 五月は冷静に否定する。その声色には、どこか呆れや怒りのような感情が込められているようにも聞こえた。本当なら俺を問い詰めたいのだろう。しかし必死に自我を保っているように見える。俺は別に気にしないというのに、無駄な気を遣う必要なんて無いのだ。

 彼女は一体、どんな気持ちで俺と向き合っているのだろう。それが不思議で仕方なかった。勉強を見てもらう気はないし、俺に対する当たりも強い。かと言って、家に上り込むのには何も言わないで。間違いなく嫌ってはいるんだろうが、何パーセントかは印象が変わってきているのだろうか。一人で考えたところで、答えなんて出るはずもないが。

 

「ほかのみんなは?」

「あと少しで帰ってくるそうです。二乃なんかは三玖が熱あることを教えたら、急いで帰ってくるって言ってました」

 

 となると、風邪薬から何からアイツらが買ってくるに違いない。まぁ俺にそんな金あるわけないが、少しだけ安心した。このまま寝かせておくだけでは、彼女もキツイだろう。

 

「………でも不思議ですね」

「何が」

「三玖は分かりやすく変わってきてますから」

 

 突然、彼女がそんなことを言い出す。

 三玖が変わってきている、とは言われてもだ。俺はなんて言い返せばいいのだろうか。

 確かに、彼女は積極的に勉強するようになった。その勢い余って俺は彼女の胸を揉んでしまったわけだが、あれ以降また少し変わったような気がしないでもなかった。妙に懐いているというか、変な積極性を身に付けたような気がする。それが俺のせいだと言うのなら、それは素直にごめんなさいだ。

 

「ま、勉強に積極的になることはいいことだろ」

「勉強以外にも積極的になってるみたいですけど」

「…………ほう、初耳だな」

「分かりやすいですね」

 

 大丈夫だ。五月は俺が三玖の胸を揉んだ現場を見たわけではない。これはハッタリなのだ。平常心を保っていれば上手く流せるはず。

 三玖があんな行為をしてくれたせいで、こちらとしても誤魔化し方に工夫が必要になってくる。「最新のワルツ」なんてふざけた言い訳しか出ないのがアレだが、咄嗟に出てしまうのだから仕方がなかった。

 

「第一、正面から跨るなんて普通は嫌です」

「俺も嫌に決まってるだろ」

「ですがすでに二度、私は現場を目撃してますが」

「それはあれだ。その……三玖が欲しがるから」

「……欲しがる?」

「筋肉のことだ」

 

 何気なく咳払いをして誤魔化す。危なかった……! ポロっとヤバいフレーズが溢れてしまったせいで、五月に新たな誤解を生むところだった。かといって上手く誤魔化したつもりはないが、五月は疑いの視線を送るだけ。それ以上の追及は無かった。

 壁時計に目をやると、時刻はすでに夕方の五時を過ぎている。もうすぐすると、五月の言う通り彼女たちが帰ってくるだろう。交換条件なんて言ったが、今日は勉強させるのも気が引けた。

 

「みんなが帰ってきたら俺も帰る。今日は勉強中止だ」

「……三玖のことを考えてですか?」

「それもあるが。今日はそんな雰囲気じゃないだろ」

 

 三玖にしても、このままソファに寝かせておくわけにはいかないだろう。俺がおぶって運ぼうかとも考えたが、花火大会の時におぶって歩けなかった前科がある。それを言い出す気にはなれなかった。

 ただもう少ししたら、彼女も目を覚ますだろう。その時に部屋へ案内すればいいだろうし。それは俺じゃなくても出来る仕事だ。なんなら、五月自身にやってもらう方が色々と都合がいい。

 

「……わかりました。明日もよろしくお願いします」

「明日って……また腹筋をか?」

「そうですが。一週間みっちりとお願いしますね」

「あんな場面見たら普通止めるだろ…」

 

 あれだけさっきの場面を問い詰めたくせに、腹筋を止めようとしないのだから驚きだ。変なところが頑固というか、こだわっているというか。

 こちらとしても、それで勉強を見させてもらえるならそれでもいい。自らの理性との戦いになるが、それをコイツに悟られるわけにはいかなかった。これで残るは二乃だけだ。最悪にして最凶の敵が残ったというわけだ。

 

「…ん、五月………?」

「三玖。大丈夫ですか?」

 

 寝息を立てていた三玖が、怠そうな声を上げながら起き上がった。風邪を引いた時は寝ていると思っていても、眠りが浅かったりする。今の三玖の姿には身に覚えがあった。同情するわけではないが、きっとキツイだろうな。

 周りをキョロキョロ見ているが、その焦点は合っていないように見える。顔は相変わらず赤く、見ているこちらが辛くなる。五月が部屋のベッドで寝るように促し、素直に彼女はそれに従った。

 

「三玖、大丈夫か?」

「ん。へーき」

 

 心配をかけたくないのだろうか。あからさまな嘘だな。

 三玖にしても四葉にしても、俺には「嘘が下手」なんて言うが、二人も大概だ。どの口が言うんだと毒づきたくなる気持ちを抑える。

 五月に手を引かれ、三玖は階段をゆっくりと上がっていく。まるで子どものようだ。頭が回っていないせいで、自分が今何をしているのかも分かっていないように。

 

 ふと、彼女が寝ていたソファに目をやる。

 すると、三玖の頭があった側に彼女の携帯が置きっ放しになっていた。二人はそれに気づいていないようで、俺が気付いた時にはすでに部屋に入っていた。

 無視することも考えたが、このまま帰るのもアレだ。仕方なくそれを手に取り、階段を駆け上がる。部屋の前に立つと、ドアを三回ノックして五月を呼び出した。

 

「覗きですか?」

「んなわけないだろ。これ、三玖のだろ」

 

 携帯を差し出すと「あぁ」と声を洩らす。

 三玖は横になったのだろうかと視線を部屋に向けると、そこには生着替え中の彼女の姿があった。背中を向けているせいで、ブラジャーの継手しか見えない。が、それが妙に生々しくエロスを感じてしまった。

 

「どうかしました?」

「えっ、あ、あぁいや……」

 

 彼女の声でハッと我に返る。このままだと本当に覗きに来ただけだと自己嫌悪。だがこれは事故なのだ。五月はそれに気付いてないし、そこはラッキーだと考えよう。

 そのまま何も言わず、俺はドアを閉めた。我慢していた固唾を思い切り飲み込む。それが埋もれた性欲を刺激しているようで妙に心地良い。頭を横に振って、自我を保つ。このままでは身が持たない。

 

 さっき居た場所に戻るが、まだ誰も帰ってきてなかった。俺としても、このまま五月だけを残して帰るのは気が引ける。誰か一人でも帰ってきてくれないだろうか。

 だが誰も居ないこともあって、俺は気を遣わずにソファに腰掛けた。フカフカで尻がいい感じに沈む。きっと常人には手が届かない金額のものなのだろう。そこに貧乏人の自分が座っているのだから、人生とは不思議なものだ。

 

 ……この場所って、三玖が寝ていたところか。

 

 ふと、そんなことが頭をよぎった。

 俺の右手側には、彼女が頭を乗せていた四角形のクッションがある。……いやいや待て。流石にそれはヤバいぞ。何というか、胸を揉むのとは違ってタチが悪いというか、単純に気持ち悪い。

 そんなことは分かっている。しかしだ。俺はさっき、彼女の生着替えを目撃してしまったのだ。あれは事故。事故なのだ。俺が意図したことではない。だからだ、今から俺がやろうとしていることも事故で処理できる。俺の責任ではない。そうだ。

 

 もうダメだった。頭がボーッとしていくのがわかる。理性が音を立てて崩れていく。仕方ないよ。俺だって男なんだ。誰も居ないなら、手を出してしまうよ。

 

 クッションを手にとって、顔の前に近づける。そして――――生まれて一番の勢いで息を吸った。

 するとどうだ。それに染み付いた三玖の髪の匂いが一気に鼻孔を抜ける。頭が痺れる。でも心地良い。鼓動は高鳴って、直接的な刺激がないくせに下半身に血が集まっていく。もしかして俺はスリルを味わいたいドM人間なのだろうか。

 顔がすっぽり隠れるせいで、恥ずかしさなんてものは無い。一回、二回と息を吸うたびに、その香りが鼻を抜ける。甘い香り。思春期男子を仕留めるには十分すぎた。時間を気にしなければならないのに、それを拒むほどの中毒性。俺にとっては麻薬よりもタチが悪い。

 

 

「……フータロー君? 何してるの?」

 

 

 四度目の息を吸おうとしたまさにその時だった。正面から声を掛けられた。一瞬にして我に返る。

 やってしまった、そう考えた時にはすでに遅く。次には何と言い訳しようかと考えている自分がいた。

 名前の呼び方的に、コイツは一花だろうか。三玖は上で横になっているだろうから、きっとそうだ。それが分かったところで、俺に出来ることは誤魔化すことだけだが。

 ここでバッとクッションを切り離すと、それこそやましいことをしていたと言っているようなもの。クッションにより顔全体隠れていたが、俺は目だけをだす形でそいつと向き合うことにした。

 

「一花か?」

「そ、そうだけど。クッションなんか嗅いでどうしたの?」

 

 髪の短さから見ても、一花で間違いないようだ。

 それはそうと、やはり嗅いでるように見えるか。いやだろうな。逆にそれ以外何があるというのか。くそっ、良い言い訳なんて思い浮かばない。どうする、どうする。

 

「嗅いでなんかいない。食べてただけだ」

「は?」

「冗談だ。真に受けるな」

「だ、だよね……」

 

 れっきとした事実なんですけどね。それを言ったら色々と終わる。嘘が下手だと言われていたが、イタズラっぽい冗談を言うことに成功した。久々に自分で自分を褒めたいよ。

 だとしたら、本当の理由が知りたくなるのが人間の(さが)。制服姿のまま近づいてくる一花に、俺はクッションを見せつけた。

 

「ほらここ。汚れついてるだろ?」

「……え、どこ?」

「ここだ。それが何か気になってな」

 

 俺が見た感じ、そんな汚れは無かった。これはバレバレの嘘で、それ以上何も言われない方向に賭けた。限りなく望み薄だが、それ以上に良い言い訳が思い浮かばなかったのだ。

 一花はクッションに顔を近づけて、マジマジと見つめている。あぁ終わったな。今度こそ俺の人生は終わりなのだ。

 

「あ、ほんとだ。チョコレートかな?」

「…だ、だろ? これ洗濯したらどうだ」

「そうだね。ちょっと洗濯カゴに入れてくる」

 

 神様、ありがとう。僕は何度だってあなたに感謝する。なんなら足でも舐めさせてください。

 奇跡というものがこの世には存在するらしく。一花はクッションカバーを取り外し、そのまま脱衣所の方へ向かって行った。

 とにかく、ここに居るといつボロが出るか分からない。俺はカバンを持って玄関へ向かうと、ちょうど五月が三玖の部屋から出てきた。二階から見下ろすようにして、俺のことを呼び止めた。

 

「一花が帰ってきたから、俺も帰る」

「そうですか。わかりました」

「んじゃ、三玖のこと頼んだ」

 

 そのまま玄関へ向かい、家を出た。なんというか、勉強するより疲れた。非常に疲れた。明日も五月の腹筋を手伝わないといけないことを考えると、気分が乗らない。また過ちを犯してしまいそうで。

 だが、少しずつ頭の中も変わってきているように思えた。これまでは自身の勉強のことだけを考えていれば良かった。しかし、今はアイツらのことを見ておかないといけない。その割合というのが、少しずつ増えているようで。

 

 

 

「分かんないなぁ。人間って」

 

 

 






 新たに高評価してくださった、おーいえっちゃんさん・IT06さん・碧桜/('ω')さん・ヒバリさん・川尻降さん・JK=サンさん・Evuさん・ポストさん。ありがとうございます。

 お気に入りが1000件を突破しました。ありがとうございます。励みになります。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯は優しく詰め寄る

 

 

 

 

 

 

 

 結局三玖は、ただの風邪だったらしい。今日の朝から病院にかかったことで姉妹たちも安心したという。インフルエンザだったりすれば、試験すら受けることが出来ない可能性だってあった。その点では、唯一の救いというか。

 処方された薬を飲んだことで、熱もすっかり落ち着いたという。だが、試験前に昨日・今日と勉強出来ないのは非常に痛い。本人がその危機感を抱いているのかは知らないが。

 だがこのまま何もしないのは一番ダメだ。五月に相談し、三玖抜きで試験勉強を行うことにした。ま、その前に彼女の腹筋があるんですけどね…。もう開き直るしかない。

 

 今日は土曜日だが、午前中だけ授業があった。そのおかげで、三玖以外の奴らはしっかりと登校している。昼から勉強すれば、わずかだが光明が見えてくるはずだ。

 授業を終えると、五月に「学食で飯を食べてから家に向かう」と伝える。彼女もそれを了承し、そのまま別れた。五月とまともに会話出来ているのが不思議だ。気のせいか、これまでの嫌悪感みたいなものは感じられない。まぁいいことではあるか。

 

 教室を出ると、いきなりカメラのシャッター音が耳に届く。フラッシュで目を開けられない。何事かと思い視界がクリアになるのを待つと、そこには待ち構えていたかのように一花が携帯を構えていた。

 

「フータロー君。お疲れ様」

「なんだ一花か」

「むぅ、私で悪かったね」

「何もそんなこと言ってないだろ…」

 

 一花はプクッと頬を膨らませる。分かりやすいリアクションだ。

 突然の事態だったが、なんとなく彼女の行為に納得する。学校ではあまり会話をしたことがなかったせいか、少し新鮮だ。周りも不思議そうな視線を送っている。気にする必要なんてないが。

 彼女の姿を見るだけで、昨日のコトが頭をよぎる。一日で完全に忘れるなんてことはできない。自分の記憶力の良さが今だけは憎い。寝れば忘れるなんて奴の気が知れないよ。

 

「三玖のこと聞いた?」

「あぁ五月から。ただの風邪なんだろ?」

「うん。熱も下がったみたいだから、一応報告しようと思って」

 

 何もわざわざそんなことしなくてもいいのに。

 同じクラスには五月が居るんだし、彼女から報告を受けることくらい一花は理解できているはずだ。そうなると、別の用件があるのかとも思ったが、それを口にはしなかった。

 そのまま学食に行こうとしたが、彼女に呼び止められる。いい気はしなかったが昨日の件もある。下手に機嫌を損ねないように渋々反応した。

 

「五月ちゃんから聞いたんだけど」

「なんだ」

「三玖、五月ちゃんに扮して腹筋やろうとしたんだってね」

「…見事に騙された奴がここに居るが」

「あはは。そういう意味じゃなくて。なんでだろうね?」

「……言葉の意味が分からないな」

「そう?」

 

 首を傾げられても、分からないことは分からない。

 結局俺のことを馬鹿にしたいだけなのかとも思ったが、彼女の表情を見る限りそういうわけではないらしい。なんというか、一花にも答えは分かっていないようだった。

 特に昨日の三玖なんて、なんで五月に扮する必要があったのだろうか。髪型や呼び方を寄せられれば、俺にだって見分けがつかない。なのにどうしてあんなことをしたのかと。

 そう言えば五月が言ってたな。「三玖は変わってきている」と。確かに俺から見ても、それは感じる。一番最初に勉強してくれたのも彼女で、何だかんだ俺の味方をしてくれている。極論、俺は三玖の胸を揉んだというのに何も言わないのだ。これが二乃や五月だったら、俺は今学校に居れないだろう。

 

 それを考えれば、ここに居る一花だってそうかもしれない。花火大会の日、女優になりたいと打ち明けた彼女に付いていったこともある。彼女も彼女なりに考えて行動しているんだなと。

 そういう意味で、昨日の行為も黙ってくれているのかもしれない。俺としては触れられたくないが、見られたのが一花で助かったのもあるはずだ。

 

「とにかく、今日は昼から勉強だ。五月の腹筋に付き合わないといけないがな」

「あの五月ちゃんがねぇ。ほんと素直になったよ」

「あれのどこが素直なんだよ」

「まぁ、フータロー君から見ればそうかもしれないね。でも、彼女も変わってきてると思う」

 

 ……まぁ、否定する気にはなれなった。

 最初の頃を思えば、交換条件を受け入れるあたり考え方が変わってきているのだろう。もっと違う意味で素直になればいいのにとは思うが、面倒であることには変わりない。おかげでこの一週間、自らの理性と戦わないといけないのだから。すでに一敗してるし。

 一花は、何だかんだ長女なんだと思う。妹たちのことを見守っている感覚というか、なんというか。俺もらいはのことを同じように見ているから、不思議と共感できる部分もあった。

 

 廊下には多くの生徒が出てきている。ここで話し続けるのも邪魔だと感じた俺は、一花に「また後で」と告げその場を立ち去ろうとした。しかし、またしても彼女はそれを拒んだ。

 

「ちょっと待って。ねぇ、これから時間ある?」

「…学食に行くだけだが」

「だったらさ、ちょっと付き合ってよ」

 

 「は?」声を洩らす。そんな俺を無視するように、一花は「いいからいいから」と言いながら手を引いて下駄箱へと降りていく。何がいいのかさっぱりわからないし、昼飯を食べ損ねるのが嫌だったこともあって、それを優しく振りほどく。

 

「あー。女の子のお誘いを断るんだ?」

「だからっていきなり引っ張るのはおかしいだろ」

「それでも、付いてくるのが男の子でしょ?」

 

 どうしてそうなるのか。理由はよく分からない。彼女なりの方程式でもあるのだろう。ここで深く追及すると面倒なことになりかねない。聞き流して、一つため息をついた。

 しかし目の前にいる一花は、諦める様子もない。カバンをプラプラさせながら俺の様子を伺っている。まるで獲物を狙う肉食動物のような目をしていた。そんな目をされる覚えなんてないが。

 仮にだ。彼女が昨日のことを勘付いているとしよう。だとしたら、俺をこうして引っ張り出す理由はなんだ。人が居ないところで脅しでもしてくるのだろうか。いや、それをコイツがするか……? だが三玖があんなことになることを考えると、無いこともないだろう。本当に人間ってのは不思議だ。

 

「用件はなんだ」

「お昼、一緒にどう?」

 

 何故か一花はぶりっ子のように話している。なんというか、お前はそんな奴じゃないだろうと言いたくなるような。

 

「……生憎もう済ませた」

「学食行こうとしてたのに?」

「……忘れ物を取りに行くだけだ」

「へぇ」

 

 こうして嘘を吐いたのは、一花と二人きりで飯だなんて、今の俺に耐えられるはずもなかったからだ。昨日の疑惑が完全に晴れたとも限らない。何も言ってないとはいえ、コイツには何か裏がありそうで俺としても警戒心を解くわけにはいかない。

 そういう意味では、俺に対する嫌悪感マックスの二乃はまだ分かりやすいんだと思う。あからさまに睡眠薬盛ってくるし、考え事がある意味目に見えてるから俺としても接しやすかったりする。薬盛られることにも慣れつつある自分が恐ろしいよ。

 だがコイツはどうだろうか。一見、頼り甲斐のある姉御肌というか、話し方にしても雰囲気にしても大人っぽい。しかし、部屋は汚いし四葉を使って遊んでるし。実は一番子どもっぽいのではないか。

 

「忘れ物ってなに?」

「…単語帳」

「ふぅん。あれだけ単語帳好きなフータロー君がねぇ。よし、わかった。賭けをしよう」

 

 この姉妹は困ったら賭けをしたがるのか。四葉にしても、コイツにしてもそうだ。ここで言う賭けはおそらく、「単語帳があったらそのまま帰る」か「無ければ昼飯に付き合う」のパターンだろう。彼女の考えていることが読めた気がして変な気分。

 

「単語帳が無くても、昼飯には付き合わないぞ」

「へぇ、よくわかったね。もしかしてもう誰かと経験済み?」

「変な言い方するな。想像すればわかるだろ」

「フータロー君も意外と鋭いね」

「感心しても無駄だ。じゃあな。後で家に行くから」

 

 どのみち、後で彼女たちの家に行く必要がある。ここで「今日はさよなら」というわけにはいかないだろうが、昼飯ぐらい一人で食べさせてほしい。その思いを汲んでくれないかと願うが、それは無理な願い事だった。

 

「なんで付いてくる」

「だって、賭けてるじゃん」

「俺がいつ参加した」

「ついさっき」

「意思表示なんてしてないぞ」

「テレパシー的な? それでビンビン伝わったよ」

 

 お前は宗教家か。だとすれば相当なペテン師だ。もはや反論するのが面倒になる。

 何を言ったところで、一花は一歩も引くつもりはないのだろう。彼女に限った話ではない。コイツら姉妹は全員そうだ。性格はバラバラなのに、根っこの部分はまるっきり同じ。面倒にも程がある。

 一花はずっと俺の一歩後ろに居た。結局そのまま学食に到着。どうすることも出来ず、ただジッと人の少ない構内を眺めていた。

 

「どこに忘れたの?」

「あーどこだったっけな……」

 

 そうは言うが、俺は決まった席にしか座らない。そこ以外に置いていれば逆に不自然だろう。俺はさりげなくいつもの席に近づいて、制服の胸ポケットに潜ませておいた単語帳をソッと置く。

 

「あったあった。おい、あったぞ」

 

 偶然を装って一花を呼ぶと、彼女は何故か自信有り気に近づいてくる。良からぬことを考えていそうで身構えてしまうが、ここは堂々といこう、堂々と。

 それが功を奏したのか、彼女はマジマジとそれを見つめると、納得したように息を吐いている。

 

「フータロー君。イカサマって言葉知ってる?」

「イカサマ、知らないな。初耳だ」

「そっか。簡単に言うとね、ズルってことだよ」

 

 かと思えば、呆れた表情を見せる。彼女の言葉を理解すると、背中に変な汗が滲んでくる。

 イカサマという言葉を知らないはずがない。だがここで知ってると言うと、それを認めたような気がして。一花は俺の行為を見ていたと言うのだろうか。だとしても、証拠はない。ここで素直に「そうでした」と頷く奴はいないだろう。もう惚け倒すしかない。

 

「それがどうした。俺には関係無いだろう」

「ううん。君はイカサマをやったんだ。私見てたもん」

「証拠、あるのか。俺がイカサマした証拠が」

「うん、あるよ」

 

 自信があるというか、最早断言している。そんな馬鹿な話はない。どうやってそれを証明するというのか。

 一花は自分の携帯を触っている。なぜ今それをする必要があるのかは分からないが、何故だか良い予感はしなかった。

 

「これ、さっきのフータロー君」

「写真……?」

「ここの胸ポケット、見て」

 

 彼女が見せてきたのは、教室を出てきた瞬間の俺の写真だ。フラッシュに驚いているようで間抜けな顔をしている。こうして見せられると変に恥ずかしい。

 一花は胸ポケットに注目するように言う。その時点で嫌な感じはしたが、単語帳のせいで分かりやすく盛り上がっている。あ、やばいなと思った時にはもう遅かった。

 

「となるとだよ。今フータロー君が持ってるソレは、最初からあったものじゃない?」

「べ、別物の可能性もあるだろ」

「それだったら単語帳が二つあることになるよ。見せてよ、最初からここに入ってた単語帳を」

 

 水を得た魚のように、一花は言葉を紡いでいる。これだけ聞けばとても赤点候補には見えないだろう。俺もそう感じた一人なのだから。

 的確に盲点を突いてくる彼女に、俺は何も言い返すことが出来なかった。このまま逃走しようかとも考えたが、四葉を使って何が何でも捕らえるだろう。それよりは、素直に負けを認めても良い気がする。

 いやしかしだ。このまま二人で昼飯に行くとなると、昨日のことを常に考えながら飯を食わないといけない。ボロが出ないようにビクビクするのは御免だ。第一、外食する金なんて無いんだが。

 

「フータロー君の負けだね。嘘吐くの下手だもん」

「う、うるさいな……」

「よし、お昼行こうか。良いカフェがあるんだよ」

「俺、金ないんだが」

「だってもう食べたんでしょ?」

 

 小悪魔的な笑みを浮かべている。その様子だと、俺が昼飯を食べてないことも勘付いているようだ。しかし、敢えてそれを言わないということは、コイツは俺をとことんイジメるつもりらしい。

 ここで「すみませんでした」と謝るのも癪だ。それを聞き流して、大人しく学食を出た。一花はニヤついている。今日の勉強では思い切りイジメテヤル。絶対に。

 

「ねぇフータロー君。一つ聞いても良い?」

「今度はなんだ……」

 

 下駄箱で靴に履き替え、学校を出たところでそんなことを言ってくる。何を言われるかも分からないし、きっと面倒ごとだろう。「あぁ…」と適当に流した。しかしだ、そんな時に限って背筋が凍るようなことも起こるらしく。

 

 

 

「三玖の匂いはどうだった?」

 

 

 





 新たに高評価してくださった、いーちゃん改さん。ありがとうございます。ご感想・評価お待ちしてます。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯は優しく詰め寄る②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここに至るまでの記憶が無い。彼女が一方的に話しかけていた気はするが、それに何と返答したかも分からない。もっと言えば、どうしてここまで来たのか。お洒落なカフェで、俺は一人冷や汗をかいている。そんな光景、不釣り合いだ。

 目の前の彼女は、何食わぬ顔でパスタを口に運んでいる。制服が汚れないように気にかけている辺り、一応は女子らしい。部屋は汚いくせに。

 先ほどまでの空腹感はすっかりと消え去って。変な緊張のせいだ。まぁそもそもカフェで食事をする余裕はないが。メニューを見ても、コイツが食べているパスタは千円近くする。焼肉定食焼肉抜きが一週間食べれるぞ。

 

「それでさ、どうだったの?」

 

 パスタを咀嚼し終わると、改めてそんな問いかけをしてくる。答えたくない。ここで答えると、彼女の思う壺のような気がして。

 食べ終わったこともあって、彼女は本格的に俺に意識を向けてきた。ジトっとした視線で俺の言葉を待っている。彼女から視線を逸らして、答えたくない意思を伝える。そんな俺とは対照的に、コイツは分かりやすくため息を吐いている。

 

「沈黙は肯定、ってよく言うじゃん」

 

 確かにその通りかもしれない。現に俺がやったことは一花の言う通りなのだから。だがそれを素直に認めることとは話が別だ。ここで自白したところでいいことなんてない。バレているのは重々承知の上だ。「俺にはそんなつもりなかった」という姿勢だけでも見せないといけない。

 

「おいおい。俺が匂いを嗅いだとでも言うのか?」

「うん。だってそうでしょ?」

「んなわけないだろ」

 

 一花は断言するように頷いた。何かそれはそれで癪に触るな……。

 彼女の言い振りを見ても、どうやら俺の行為に確信があるらしい。あんな言い訳で騙せるなんて思わなかったが、今は触れたくない。触れたところで変わることなんてないが。

 だとしてもだ。昨日問い詰めなかったのは何故だろうか。俺としてはそれが助かったが、イマイチ理由が読めない。だがそれを聞いてしまえば、自らの行為を認めてしまうようなものだ。

 

「五月ちゃんに聞いたんだ。あのクッションを三玖が枕にしてたって」

「だからと言ってその判断はおかしいだろう」

「うん、フータロー君の言うことも分かるよ。でもね、一つだけ誤解してるんだ」

 

 誤解、そう言われると色々と思い返したくなる。

 彼女の言うことが事実だとしたら、俺は何を誤解しているというのか。普通に考えて昨日のことだろうが、変に誤魔化したせいで記憶が曖昧だった。

 

「誤解、か。何のことかさっぱりだな」

「あのクッション。チョコレートみたいな汚れ付いてたよね」

「あ、あぁ。それがどうした」

 

 そんな汚れは確認出来なかったんがな。あの時、一花が見つけてくれたおかげで俺としても格好の言い訳になったのだ。

 

「そんな汚れ、無かったんだよ」

「…………いやそれは」

「フータロー君は言いました。ここが汚れていると。でも、そこに汚れなんて無かった」

「だからそれは……」

「要するに、フータロー君は私の嘘に乗ってくれたわけ」

 

 俺の言い訳を聞くつもりがないらしく。一花は矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。彼女は俺の全てを見透かしたような瞳をしている。いやまさか。そんなことはないはずだ。少なくとも、三玖以外であのコトを知っているのは誰もいない……はずだ。

 一花の言葉には説得力があった。その発言が嘘だという可能性も考えた。だが、俺は汚れなんて見てない。今の言葉は紛れもなく、真実なのだ。自らが嘘を吐いたという告白。それにまんまと引っかかったということか。

 

「どうしてだろうね?」

「どうしてだろうな」

 

 優しく聞いてはいるが、何というか、怖い。思わず視線をそらしてしまうほど。置いてある水を一口飲むと、思いのほか喉が渇いていたことに気付いた。見慣れた奴相手にここまで緊張する必要なんてないのに。昨日の行為のせいで。

 一花は左手の肘をテーブルについて、手のひらの上にあごを乗せている。今度はまるで俺の言い訳を楽しみにしているみたいだ。もちろん、別の意味で。

 

「汚れなんて無かったのになぁ。嘘吐いたんだなぁ」

「そ、それはお前もだろ! ………あ」

 

 大事なことは、言ってしまった後に気付くものだ。

 思わず口が滑り、自らの嘘を告白する言葉を吐いてしまった。それを聞き逃さない一花もさすがというか、なんというか。

 「ふーん」とニヤついている。怒っている様子は無いが、俺としたら逆にそれが怖かった。これを本人や姉妹に言われてみろ。袋だたきにあって家庭教師をクビになる。

 まぁ冷静に考えて。ここ最近の行いを考えれば、逆にクビになってない方が奇跡なんだが。匂いを嗅ぐよりもヤバいことをしてしまったのだから、ある意味助かる見込みもゼロではないのではないか。そんなことを考えるようにもなる。

 

「まぁ、別にこれを誰かに言うつもりもないから」

「そ、そうか」

「安心した?」

「何も聞くな…」

 

 大人な対応をされると、そりゃ安心するに決まってる。見つかった相手が一花で良かったのだろう。ある意味強運な自分に笑いが出そうになる。

 だが、コイツも彼女たちと同じだ。何か交換条件を突き付けてくるかもしれない。安心はしたが、警戒を解くわけにはいかない。そう思って、二口目の水を胃に流し込んだ。氷のおかげでまだ冷えている。染みるような美味さだ。

 そんな俺を見て、一花は紅茶を注文する。貧乏人の俺とは全く違うな本当に…。その一杯で、いつもの昼飯二日分に相当すると考えると、学食はなんて良心的なのだろう。

 

「別にそれだけなんだけどね」

「……すまん」

「どうして謝るの?」

「分からんが、なんとなく」

「そういうトコ、変に気遣うよね」

 

 分かってる。謝る相手は一花ではないのに。ついそんな言葉が出てしまって。

 考えてみれば、俺はあれから三玖に謝っていない。彼女が嫌がっていなかったとはいえ、謝らないのは何か違う気もする。寝込んでいるとはいえ、タイミングが合えば謝るか……。

 一花が注文した紅茶が運ばれてくる。熱そうなそれに、彼女は砂糖を入れて慣れた手つきでそれを混ぜている。こうして見ると、他の四人よりも少しだけ大人っぽく見える。

 

「咎めるつもりは無いから。フータロー君も男の子だもん」

「…だとしたら普通は咎めるだろ」

「あはは。まぁね。でも、みんな懐いてるし」

「懐いてる、か。お前は何を見てたんだ」

「現に五月ちゃんだって、少しずつ素直になってるし」

 

 懐いてるとはまた大きく出たな。初めの頃を思えば、真面目に取り組んでくれるようになったとは思う。だが、それを懐くと表現するのは違う気がした。特に返事をせず、残り少なくなった水を飲み干した。

 一花も俺に合わせるように、紅茶を啜っている。熱いのか、一口はかなり少ないが、それでも様になっている。やはり、俺とは違う世界の人種なんだな。三玖の胸揉んだけど。

 飲み干してしまった俺からすれば、そのまま彼女を置いて帰るのは気が引けた。正直用件は済んだのだろう。彼女はそれ以上に何も言わなかった。かと言って、沈黙が続くと非常に気まずかったりする。先ほどとは打って変わって、話題を探そうとする自分が可笑しい。

 

「……ねぇフータロー君」

 

 彼女はおもむろに口を開いた。声色は怒ってるわけでもなく、どこかしんみりとした雰囲気。何事だろうか。聞き返すと、少し考えて続けた。

 

「三玖のこと、好きなの?」

 

 「は?」思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

 俺が彼女のことを好き? どうしてそうなるのだ。いや、確かに胸を揉んでしまったとは言え、そんな感情を抱いていたわけではない。これはその……あれだ。思春期ならではの感情。隣に女子が眠っていたのだから、手を出さない方がおかしい。

 すごいクズな考え方だとは思う。それは俺だって自覚していた。だからこそ、彼女を好きとかそんな目で見るのもおかしい気がして。

 

「なんでそうなる」

「だって、あんなことするぐらいだもん。好きだからそうしちゃうのかなぁって思うよ。普通はね」

「……そ、そうか」

 

 なるほど、と言ってしまいそうになった。

 そう言われるとそれもそうだ。「好きな人だから、匂いを嗅いだのだろう」と一花は考えているのか。確かにその考え方も一理ある。というか、これが普通なのかもしれない。

 そうなると、俺はただ単に性欲に溺れたクズなんだ。性行為にしか興味の無いお猿さんというわけ。今の俺にそれを否定出来る材料は無い。認めたくはないが、素直に受け入れるしかなかった。

 

「え、違うの?」

「い、いやそういうわけじゃ」

 

 ここで違うと言えば、彼女は俺のことをどんな目で見るのだろう。おそらく、というか間違いなくゴミのような目で見てくるに違いない。だって好きな人というわけでもないのだ。そんな人に手を出してしまったことを考えると、本当にフォローのしようがない。

 だが「好き」だと嘘を吐くのもおかしな話だ。それを言うことによって、少なくとも一花はそう認識する。それが三玖の耳に届いてみろ。余計にややこしくなる。全部俺のせいなんだけどな、わかってるよそんなこと。

 

「三玖はフータロー君のこと気になってるみたいだけどね」

「そ、そうなのか?」

「だって、普通男の人に腹筋なんて頼まないでしょ?」

「ま、まぁ確かにそうだな」

 

 彼女の言うことは確かにその通りだ。でも元はと言えば俺の方が悪いんです。俺が三玖に余計なことと嘘を吐かなければ、こんなことにはならなかったのだ。五月にしても、腹筋を俺に頼むことだって無かったのに。

 裏を返せば、そのおかげで五月の勉強を見ることが出来るようになったのだが。それがすごく皮肉だった。どっちかを捨てるなんて、今の俺には出来ない。選択肢として完全に消えていた。

 少し冷めてきた紅茶を、先ほどよりもスムーズに啜っている。唇がちょっと赤く染まってきていて、色っぽい。そんな俺の視線に気づいたのか、彼女は飲むのをやめて何か言いたげな表情を見せた。

 

「わ、悪い」

「顔に何か付いてる?」

「いやなにも…」

「ふーん」

 

 そう言うと、また紅茶を啜る。今度は視線を落として、質素なテーブルに目をやった。特になにもない。それこそ、空になったコップと彼女の手元しかない。

 ポケットに入れていた携帯を取り出して、時間を確認する。すでに十三時を回っている。そろそろ家に行かないと、アイツらも痺れを切らして遊びに行きかねない。

 

「悪い一花。そろそろ家に行かないか。アイツらも痺れを切らしそうで」

「えーっ。もう少し話そうよ」

「あのな、試験前だぞ。ただでさえ赤点候補なんだ。お前に拒否権なんてないはずだが」

 

 駄々をこねる一花に呆れながら、空気を変える意味も込めて立ち上がった。その様子を眺めていただけの彼女も、わずかに残っている紅茶を丁寧に飲み干した。急かしてしまったかと、少しだけ後悔する。

 「会計してくるね」と言う彼女を残して、俺は先に店を出た。世間一般なら、俺が言うべきセリフなのだろう。だが俺は一円も頼んでいない。彼女しか注文していないのだから、彼女が払うのは必然なのだ。……器が小さいと思われても仕方ない。俺はただでさえ金が無いのだから。

 

 金、か。今のバイトは週二日で五万円を稼ぐことが出来る。非常に待遇が良い。そういう意味では、親父やらいはの生活に少しでも貢献できる。まして試験前はほぼ毎日なのだから、相当な給料が入るはずだ。

 しかし、誰か一人でも赤点を取れば、俺はクビになる。冷静に考えて、今のままで赤点回避なんて夢の話だ。いくら俺でも、少しばかり厳しいと思う。悔しいが。無意識のうちにため息が出る。幸せが逃げていきそうだ。そもそも、俺にとっての幸せとはなんなのだろうか。考えたこともなかったな。

 

「幸せ逃げていくよ」

「あ、あぁ。悪い」

「別に謝ることないってば」

 

 会計を終えた一花が、店から出てきた。

 彼女はそう言うが、自分でもよく分からなかった。どうして謝罪の言葉が出てくるのか。三玖に対する行為の後ろめたさみたいなものがあるのだろうか。いや、確かにそれはある。だがそれでコイツに謝るのは確かに筋違いな気がする。よく分からん。

 

「さ、行こうか」

 

 彼女が歩き出すと、俺もそれに付いていく。その間、特に話すこともなくて。周りの音や声がよく聞こえている。今日は土曜日。街中には家族連れが多かった。

 人が多いところは苦手だ。花火大会の時しかり。出来ることなら、誰もいないところで一人勉強していたい。そう考えること自体、俺は家庭教師に向いていないのだろう。途中で投げ出す気は一切無いが、向いていないのは事実。現に二乃とは衝突したままなのだから。

 仕事を出来ていない時点で、給料をもらう資格なんてないのだ。初めての給料は五月が家に持ってきてくれた。教え切れていないのだから、お金は受け取れないと。しかし、五月は違った。それだけじゃないと。

 

「なぁ一花」

「なに?」

「……いや。なんでもない」

 

 少し前を歩いていた彼女は、俺がそう言うと振り返った。明らかに不満げな表情をしている。それを無視して、彼女の先を歩くことにした。

 家庭教師の件、一花にも伝えようと思ったのだ。しかし、それが出来なかった。それを言うと、下手に意識させるような気がして。俺が思うにコイツは、五人の中でも違った意味で妙な責任感がある。長女だからだろうが、それで勉強に変な支障が出るのが嫌だった。

 

 いずれにしても、試験が終わる前に。俺は三玖に謝らないといけない気がした。一花と話してみて、よく分かった。このまま避けていても、きっとなにも変わらない。それなら家庭教師であるうちに、だ。

 このまま何も言わないのも違った気がして、俺は振り返って一花と顔を合わせた。彼女は不思議そうな顔をしている。不満げな表情はすでに消えてしまっていた。

 

 

 

「………気が楽になったよ。ありがとう」

 

 

 





 新たに高評価してくださった、タッツーさん・ブルー相互さん・イシツブテさん。ありがとうございます。

 Twitter始めました。

 @madogiwazokudes



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯は探りを入れる



 アニメ2期おめでとうございます。
 ようやく更新できました(遅)




 

 

 

 

 

 

「さぁ、次は上杉さんの番ですっ!」

「あ、あぁ――――ってこんなことしてる場合じゃない!!」

 

 ここまでいろいろなことがあったが、なんだかんだ中間試験を四日後に控えた午後六時。俺は最後の追い込みのため彼女たちの家に上がり込んだ……ところまでは予定通りだった。

 最初は約束通り五月の腹筋に付き合った。三玖がひどい目で見ていたのが気になったが、意識しないようにそれから一通り勉強。その休憩として四葉がボードゲームを取り出し、今に至る。

 

「でもあんまり根詰めてもねぇ」

「あのな、お前らの置かれた状況分かってるのか?」

「だって今日も一日中勉強してたし」

 

 一花は呆れたように話している。呆れたいのはこちらなんだがな。

 三玖と四葉の表情を見ても、確かに少し疲れが見える。五月に関しては少し離れた場所でペンを走らせている。一応取り引きには従っているのだろうか。そんな彼女も疲れている様子。みんなには温情をかけたくなるが、そうも言ってられないのだ。

 今回の中間試験、五人のうち一人でも赤点を取ると俺はクビになる。そんな無理難題に挑んでいる。いや、正確には挑まされていると言うべきか。

 

 普通に考えて、いまこの状況。そのミッションは達成できそうになかった。こんなことは言いたくないが、ただでさえ勉強嫌いの五人なのだ。底辺の底辺から這い上がらせるには時間が足りなさ過ぎる。

 だが、ここまで付き合った仲だ。投げ出すつもりは毛頭ない。だからこそ、最後の四日間ぐらいはこちらも全力でぶつかっていくしかない。

 

「フータロー、なんか焦ってる」

「え、い、いやそうか?」

「私たち、相当危ない?」

 

 つい顔が強張っていたようだ。三玖が心配そうに問いかける。

 はっきりと言ってしまえば、危ない。それはきっと、彼女たちの方がよく分かっているはず。でもそれをここで言うのも、何というか、野暮な気がしてならなかった。

 

 「そんなことない」自然と口が動いた。気休めにもならない慰め。今の彼女たちには届いていないかもしれない。口をキュッと結んでいる三玖。ボードゲームの札束を手放し、放置されたテキストと向かい合う。

 

「私、もう少し勉強する」

 

 独り言のように、でも確かに俺たちに聞こえる声。そんな姿に、少しでも後ろめたいことを考えた自分が何とも情けなくなる。

 

「さすがだ三玖。ほら、お前たちももう一踏ん張りだ」

 

 呼びかけると、一花と四葉は渋々ボードゲームを片付けはじめた。他の姉妹が動くとつられるようにこいつらも動く。五つ子の特性なのだろうか。だとしたらそれを上手く使わない手はない。……一人を除いて。

 二乃、彼女たちの中で唯一勉強すらしていない。いや、しようともしないのだ。原因は勉強嫌いなのもあるが、大半が俺を毛嫌いしているからだろう。こればかりは俺にもどうしようもない。彼女がいる限り、赤点回避なんて夢のまた夢だ。

 繰り返しになるが、そこで諦めるつもりはない。一度引き受けた仕事なのだ。とことんまで付き合うつもり。……そうは言っても、いい手なんて思いつきもしないんだが。

 

「ねぇフータロー君」

「なんだ一花」

「今日泊まり込みで教えてくれるんでしょ? だったらもう少し休憩してから再開しない?」

「………………」

「だめ?」

「……いやちょっと待て」

 

 ニヤつく一花の顔はもう見飽きたというのに、何度見ても背筋が凍りそうな感覚。現に凍ってもおかしくない発言が聞こえたんだが。

 泊まり込み、泊まる、とまる。頭の中で噛み砕いても、うん、聞き間違いではないだろう。

 

「えっ! 今日泊まって行くんですかー?」

「んなわけないだろ。一花も適当なこと言うな」

「……いいと思う。試験近いし」

「おい三玖まで……」

 

 確かに勉強は進めたいが、もう彼女たちの家に泊まるのは気が引ける。言っても俺は男だ。その………前科はめちゃめちゃある男なんだ。それだと言うのに三玖。君は一体何を考えているのだろうか。

 試験のことで頭が一杯だったが、あの()()からしばらく経っている。一時期に比べてほとぼりは冷めた気はするが、今彼女と二人きりになるのは怖かったりする。

 それよりも怖いのは……一花だ。三玖の変化に確実に勘付いている。そしてそれに、俺が関わっていることにも。まさかとは思うが、それまで読んで「泊まり込み」なんて提案をしたというのか。だとすれば、だ。それは断固として受け入れられない。

 

「お、おい五月。なんとか言ってやってくれ」

「まぁ……別にいいのではありませんか? テスト前ですし、緊急事態ということで」

「お前まで……一体どうしたんだ」

 

 二乃と同じぐらいに俺のことを避けていた五月がそう言ったのだ。周りの空気と俺の心を折るのには十分だった。

 全員に分かりやすくため息を吐く。「幸せ逃げてくよ」なんて一花が茶化す。知ったことか。元はと言えばお前のせいだろう。そう毒づきたかったが、地雷を返される気がして何も言わなかった。

 彼女たちの家に泊まるのは、あの事件以来二度目だ。きっと今回も三玖の部屋を貸してくれるのだろうが、もう繰り返すわけにはいかない。今回はリビングで寝かせてもらおう。

 

「そう言えば二乃は」

「部屋に居ますよ。友達と電話でもしてるのではないでしょうか」

「はぁ……せめて勉強しろよな…」

 

 そんなこと言っても、叶うわけがないことは知ってる。あの二乃が一人で勉強なんてしていれば、それこそ明日は大雪になるだろう。あくまでも聞いただけだ、聞いただけ。

 きっと俺が泊まると知れば、二乃は血相変えて詰め寄ってくるに違いない。まぁ正直、前科のことを考えればある意味当然の行動なんだけどな……。分かってはいるが、俺が望んだことではない。あくまでも無理矢理だ、無理矢理。

 

「先にお風呂入ったら? 寝間着とかは私たちが用意してるから」

「泊まるの確定なんだな」

「うん。決まり」

 

 一花に急かされ、俺はそのまま脱衣所にやってきた。何というか、泊まると決まってからの流れが不自然なくらいスムーズだ。誰が何を企んでいるのか、疑心暗鬼になってる自分が居る。

 それからすぐ、一花が寝間着を持ってきてくれた。どうやら彼女たちの父親のものらしい。何というか、今このタイミングで彼の服を借りるのも変な感じだ。不愉快ではないが、気持ちの良いものでもない。

 

 風呂場に入ると、すでに浴槽にはお湯が張られていた。適温なのだろう、上がっている白い湯気が浴室に広がり、非常に心地良かった。そのまま身体と頭を洗い、吸い込まれるように肩までお湯に浸かる。体温が上がっていく感覚。全身の血の巡りが良くなっている証拠だ。

 

「……はぁ」

 

 意識せず、ため息が洩れた。ここには「幸せ逃げる」なんて茶化す人間もいない。久々に一人になったような、変な気分だ。

 嗅ぎ慣れないシャンプーとボディーソープの匂い。彼女たちから香る香りはこれだったのか。なんて、抜けた考えが頭に浮かぶ。

 あまり長風呂は得意な方ではない。だが風呂に浸かるのはすごく落ち着くし気分が良い。頭がスッキリとしていく。

 

「呆れた。ずいぶんとくつろいでいるのね」

「……二乃か」

 

 脱衣所の方から攻撃的な声が聞こえたと思えば。シルエットだけでは誰か判別できないが、声色と言動的に二乃だろう。そんな彼女がわざわざ何の用かと思えば。

 壁越しで少し聞こえづらいところはあったが、このまま出ていくわけにはいかない。止むを得ず、そのまま話を続けることにした。

 

「何の用だ」

「別に。一花たちから聞いた。泊まるんですってね」

「俺から言ったわけじゃない。あいつらが」

「どっちも一緒よ」

「なんだ。わざわざ全裸の俺に嫌味を言いに来たのか?」

「違うわ。警告に来たのよ」

 

 彼女の語気が強まっている。どうやら嫌味どころではないらしい。特に返答しないでいると、痺れを切らしたようで、二乃が話しはじめた。

 

「私はあの事件のこと、まだ信じてないから」

「だからあれは――――」

「あれは三玖があんたを庇ってる様にしか見えないもの。いずれにしろ、あんたが()()したのは確実ね」

「そこまで俺を悪者にしたいんだな」

 

 いや仰る通りなんですけどね。

 確かに俺は三玖の胸を揉んだ。めちゃめちゃ揉みました。だがそれはその……だめだ。上手い言い訳が思いつかない。これ以上突っ込まれれば、ボロが出かねない。早いところ上手く切り抜けたい。

 そんな俺とは裏腹に、動こうとしない二乃。今にもドアを蹴破って入ってきそうな殺気を感じるのは気のせいだと思いたい。

 

「だってそうじゃない。明らかにあんたに対する態度がおかしいし」

「だからと言ってそう繋げるのはおかしいだろ」

「どうかしらね。さては()()()()()()のかしら?」

 

 一番恐れていたフレーズが出てきたせいで、一気に心臓の鼓動が早くなる。浴槽に浸かっているのも相まって、体温が急激に上昇していく。

 まさかバレているとでもいうのか? いやそんなはずはない。あれは二人だけの秘密なのだ。三玖が自分からバラす理由もないだろう。だとすれば、いまこいつは俺にカマをかけているのか。

 

「どうして黙るのかしら? まさか図星?」

「……んなわけないだろ。のぼせてきただけだ」

「ふーん。そのままのぼせて失神でもしたら?」

 

 こいつは本当に口が悪い。五人の中でダントツにだ。むしろこいつらが姉妹だということを疑いたくもなる。にしてもまだ動かないのか。そろそろ俺も上がりたい。このままだと本当にのぼせてしまいそうだ。

 

「おい、上がるから出て行け」

 

 浴槽から出ると、一気に外の空気に触れた様な気がした。いや浴室の空気は十分に暑いんだが、それでも今の俺には十分涼しく感じる。

 念のためボディタオルを腰に巻く。脱衣所に影は無かった。流石にあいつも出て行ったか。そのまま脱衣所に出ると、正真正銘の冷気が身体を包む。あぁ涼しくて心地が良い。もうしばらく長風呂は御免だ。

 髪を乾かし、用意された寝間着を着る。悲しいことにサイズ感はピッタリだ。全く嬉しくない。ため息を吐いて脱衣所を出ようとすると、ドアをノックする音が響く。

 

 気にせず出ると、ドアの前にはジャージ姿の少女。二乃だ。

 俺がいきなり出てきたことに驚いた様子だったが、すぐに俺の顔を見つめ直す。

 

「ちょっと」

「まだ居たのか――――っておい」

 

 そのまま俺は脱衣所に戻され、二乃と二人きりの状況になる。ここでこいつと二人きりになるのは何とも複雑ではあるが、ボロを出すわけにはいかない。平然を装って彼女に向き合う。

 

「あんた、三玖とどういう関係?」

「は? 質問の意味が分からないな」

「いいから答えなさいよ」

「どうもこうも、良い生徒だ」

 

 二乃はあからさまに顔を歪め、舌打ちをする。女の子が舌打ちなんて聞きたくもなかったが、今それを突っ込む余裕は無かった。

 彼女がそんなことを問いただすのだろうか。考える。予想はすぐに出来た。おそらくはだ。こいつの性格からして、三玖を守ろうとしている。こいつにとって天敵である俺の存在から。――――彼女たちのことを本当に大切に思っているが故に。これに尽きるだろう。

 

「言っておくけど、私はあんたを認めてない。必ず本当のことを吐かせるんだから」

「……仮にだ。俺が三玖に何かしてたとしたら」

「何かって何よ」

「だからその……お前が言うような胸触ったりとか」

「決まってるじゃない。あんたを殺すわ」

 

 無機質な声。あぁこれは本気のパターンだな。いずれ俺は彼女に殺されてしまうのだろう。そんなことを言っても、もう時すでに遅し。一度犯した事実は消えないのだから。

 こんなことなら、いっそのこと家庭教師をクビになった方が良いのではないか――――。そんな考えが頭をよぎる。そうすれば、彼女たちと関係を持つことはなくなるし、過ちを犯すこともなくなるだろう。

 

 それでいいのだろうか。

 

 何度目だろうか。この自問は。

 そもそも俺は三玖の身体を触ってしまったのだから、彼女からは逃れられない。どんな言い訳をしても、やった行為はただ欲望に従順になっただけ。そんな男の言う事を聞いてくれているのだから、三玖の気持ちに目を背けては行けない気がする。もちろん、一花、四葉、五月、そしてこの二乃についてもだ。

 

 生憎、これまでの人生。恋愛経験は全くと言っていいほどない。人を好きになるという感覚がイマイチ分からない中での行為だったわけで。あー考えるだけで自分のクズ加減に嫌気が差す。

 

「話はもういいか? 勉強の続きをしないといけないんだ」

 

 思考を強引に変えるように、切り上げようと試みる。しかし、二乃はそれを許さなかった。

 

「……無理に決まってるじゃない」

「何がだ」

「別に。今日はリビングで寝なさいよね」

 

 無論そのつもりだ――――。そう言う前に彼女は脱衣所を出て行った。何だったんだ一体。疑うだけ疑って。一気に疲れが出てきた感覚。このまま横になると眠ってしまいそうだ。そんなわけにはいかない。

 リビングに行くと、テーブルには夕食の用意が進められていた。料理上手な二乃が率先して料理を進めている。先ほどまでの表情よりは、少しだけ柔らかくなったような。

 

「あぁ三玖。そいつ、今日はリビングで寝かせるから」

「……どうして?」

「当たり前じゃない。それとも何? 一緒に寝たかった?」

「そ、そんなんじゃ……ない」

 

 どうやら俺の目は使い物にならないらしい。俺の姿を確認するや否や、二乃は三玖に揺さぶりをかける。三玖は顔を真っ赤にして否定するが……側から見れば肯定しているようにしか見えない。だが当事者であるのに、不思議と落ち着いている自分に驚く。

 

「三玖、あんな奴の言うこと気にするな。俺は平気だ」

「でも――――」

「はいはいそこまで。とりあえずご飯の支度しよ。勉強しないといけないし」

 

 一花が声を掛けてくれたおかげで、変な空気を脱することが出来た。ひとまずは安心。さすがは長女というべきか。

 それに加えて、彼女の口から()()という言葉が出てきたことに安堵する。なんだかんだ言って、二乃以外の奴らはやれることはやろうとしているようだ。

 だが――――そんな呑気なことを考えている間に、俺は誰かが言った言葉を聞き流してしまっていた。

 

 

 

「夜中なら――――きっと」

 

 

 

 






 ありがとうございました。
 リアルがクソほど忙しく、中々書けませんでしたが、ようやく更新できて安堵です。お待ちいただいていたコアなファンの方には感謝申し上げます。
 新たに高評価いただいた、・トーーフさん・カルなさん・ソメイヨシノさん・たかともさん・アズサ2号さん・薊 燕さん・解体された下弦さん・紅茶館さん・ロウ氏さん

 ありがとうございました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯は探りを入れる②

 

 

 

 

 

 一通りの勉強を終え、俺はぐっと背伸びをする。気が付けばリビングには俺と二乃の二人だけになっていた。椅子に腰掛けた彼女と、トイレに行こうと立ち上がった俺。微妙な空気がこの空間を覆っている。他の四人が勉強している間、こいつは一人スマートフォンをいじっていただけ。それなら部屋に戻っていればいいというのに。

 

「……何よ。言いたいことでもあるわけ?」

「いや別に」

 

 自然と彼女に視線を送っていたせいか、イラついた声で話しかけてくる。下手に返答すると怒りを買いかねない。適当に誤魔化そうとしたが、彼女は腑に落ちない様子だ。腕を組んで、不愉快そうな表情を見せる。

 

「本当最悪。こっち見ないでくれる?」

「お前が早く部屋に戻ればいいだろ。俺はここで寝るんだから」

「そもそも泊まることがおかしいのよ。今からでも帰りなさいよ」

「本当に辛辣だな……」

 

 下手にヒートアップしないように、冷静に冷静に返答する。彼女の語気はやや荒い。言いたいことは山程あるがグッと堪える。だが、トゲばかり投げられて我慢できるほど、俺は人間できちゃいない。これまでの不満も相まって、あと少しで爆発しそうになる。

 

「……この際だからもう一度聞くわ。三玖に何もしていないのね?」

 

 先ほどとは聞き方を変えてきた。

 何もしていない前提で聞かれると、何故かハッキリと断言するのを躊躇ってしまう。人間の性というやつだろうか。そのせいで、ほんの少しだけ返答に時間がかかってしまった。そこを、二乃は見逃さなかった。

 

「どうして返答に時間がかかるのかしら?」

「別に深い意味はない。何もしていない」

「そうかしら? 目が泳いでるわよ」

 

 ジリっと詰め寄ってくる彼女。こいつにだけは真相を伝えるわけにはいかない。そうなると、試験どころではなくなってしまう。眠気が出てきた頭で言い訳を考える。しかし、先ほどよりも頭が回らない。勉強疲れとでもいうのか。

 一歩一歩、近づいてくる二乃は、ニタっと笑っている。背中から冷や汗が出てくる。まずい、こいつはここで仕留めにかかっている。

 

「あ、そう。なら賭けでもしない?」

「……賭け?」

 

 三十センチ前でピタッと止まった彼女は、俺が想像もしていなかった言葉を繰り出した。

 賭け、と言われて、決して良い気分はしない。俺の性格からしても、ギャンブルには明らかに不向きだ。何を賭けるのかすら分からないが、嫌な予感しかしなかった。少し前に四葉からも言われたが、その時とは違う嫌な気分だ。素直に聞き返してしまったことを後悔する。

 

「……嫌な予感しかしないな。お断りだ」

「拒否権なんてないわよ」

 

 腕を組んで、俺を蔑んだ視線。

 飽きるほど見た彼女の姿に、思わずため息を吐きたくなるが、色々面倒なことになりそうで堪える。

 

「今度の試験。三玖の五科目合計が私より下だったら。本当のことを吐かせるわ」

「何を言って――――」

「私は本気よ。間違いなくあんたは何かを隠してる。それなら、意地でも聞き出すまでよ」

「……それで試験の点数を賭けるのか?」

「ええ。あんたも勉強にはプライドがあるでしょ?」

 

 「なるほど」自然と言葉が出てくる。もし点数が伸びなかった場合、俺の性格を考えて口を割ると考えたのか。確かに、その考え方は悪くない。

 どうやらこいつは、本気らしい。俺と三玖の間に起きたことを、聞き出すまで逃すつもりはないようだ。自分の嫌いな勉強をすることになっても、それ以上に俺を許さないのだろう。

 それならそれでいいじゃないか。理由はどうであれ、俺としても彼女がやる気になってくれるのは嬉しい。

 

「…それなら、お前も一緒に勉強しろ」

「はぁ? それじゃ賭けになってないじゃない。あんたは三玖に教えててればいいのよ」

「それだと三玖が絶対勝つぞ? はっ、逆に聞くが、今のままで勝てるとでも思ってるのか?」

「う、うるさいわね!」

 

 形勢逆転。俺としたら賭けなんてどうでもいい。本当のことなんて、試験が終われば素直に話してやるさ。その時はどんな暴言でも受け入れる。それぐらい、試験のことで頭が一杯だった。

 それにこれでようやく仕事をこなせるのなら、願ってもない。分かりやすく喧嘩腰になると、彼女は両手に拳を作っている。

 

「いいか? やるなら平等だ。二人とも俺が見て、初めて賭けは成立する。それが嫌なら、この話は無しだ」

 

 二乃は口をキュッと結んで、必死に何かを堪えている。葛藤しているのだろうか。だとすればこれまでの暴言もあって、いい気味である。

 返答を待っていたが、彼女は何も言わずにクルリと背を向ける。

 

「……変な気起こしたらマジでぶっ飛ばすから」

「はぁ。絶対ないな。早く寝ろ」

 

 二乃はそう言い残して部屋に戻った。とんでもない疲れが身体を襲う。明日以降、彼女がどうするのかは分からないが、面倒ごとに巻き込まれたのは確からしい。無論、俺があんなことしなければ良かっただけなんだが。

 

 誰も居なくなったリビング。何とも俺には広すぎる空間だ。電気を消し、用意してくれた布団に横になる。ムカつくほどフカフカしていて、一瞬で眠りに落ちそうな。

 一花たちは一時間以上前に部屋に戻っている。流石に勉強で疲れたのだろう。二乃を除いて、彼女たちの頑張りは十分に伝わっている。

 頭の上にある壁時計のリズムが更なる眠気を誘う。一人で勉強でもしようかと考えていたが、それはどうやら無理そうだ。

 

 左を向くと、どでかい窓の向こうにまん丸の月が部屋を照らしている。電気を消しているというのに、月の光で中々に明るかったりする。ここまで高いマンションならカーテンなんて必要ないだろう。

 枕元に置いてあるスマートフォンを手に取り、時間を確認する。夜の十一時過ぎ。明日の学校を考えれば、程よい時間帯でもある。幸い、明日の時間割は今日とさほど変わらない。急遽泊まることになったが、何とか乗り切れそうだ。

 

 あぁ。瞼が重い。彼女たちの家であるというのに、自然に眠ることができるようだ。二回目とはいえ、俺は意外と神経が図太いのかもしれない。意識が月に吸い込まれそうになったとき、中二階の一室のドアが開く。丁寧に開けてはいるが、しっかりと音は聞こえる。ただ気にはなったが、わざわざ瞼を開くほどのことでもない。

 階段を降りてくる誰かは、ペタペタと足音を立てて玄関の方へと向かう。おそらくトイレか何かだろう。窓側を向いて本格的に眠る態勢に入る。

 

 それから数分。意識が飛びかけた時。ささやくような声が俺の意識を覚醒させた。

 

「……誰だ?」

 

 瞼を開くと、ぼんやりとした視界に映る髪の長い彼女。俺のすぐ横にペタンと座り込んでいるようだ。眠りかけたせいで、頭がぼーっとしている。どうして目が覚めたのかは分からないが、何か声を掛けられたのは覚えている。

 俺が間抜けな声で問いかけたせいか、彼女はふふっと笑みを零す。その様子を見ても、誰か全く分からなかった。

 

「誰でしょう?」

 

 質問に質問で返されると、こちらとしても困る。だが寝ぼけ眼でも、ハッキリと分かる。美しい顔をしていた。どこか懐かしさを感じるような、記憶の余韻に浸っているようで。すごく気分が良かった。

 それはそうと、こいつの正体を探る。髪は長いが、見覚えのない綺麗なストレートヘアー。服装も寝間着とは思えない白のワンピース、だろうか。この情報を読めば、ショートの一花や四葉ではないのだろう。そうなれば、それ以外の三人ということになる。月明かりのせいで、髪色は青白い。

 一つ引っかかったのは、そのストレートヘアーだ。癖の無い、本当に綺麗な髪をしている。見覚えがないせいか、そもそも五人の誰でも無いのではないかと錯覚しそうなほど。

 

「……三玖だな。何か用か?」

 

 確証なんてものは無かった。二乃との会話の流れが残っていたせいか、とりあえず出てきたのが「三玖」だった。それに冷静に考えて、夜中に話しかけてくるのは候補の三人の中で三玖ぐらいしか居ない。

 そんなことを考える一方で、この彼女。苦笑いを浮かべてクスクスと笑っている。そんな行為すらもすごく品があって、まるで()()()()()()()()()話している気分になる。非科学的な考えが頭をよぎるが、深く考えないようにした。

 

 少しだけ暗がりに目が慣れてくる。先ほどよりもハッキリと見えるようになった彼女の顔。うん、やはりその顔には見覚えがある。五人のうちの誰かには違いない。

 

「君にはまだ分からないかな」

「……三玖じゃないのか?」

「うーんどうだろうね? まあ、髪型なんてどうにでもなるんだよ」

 

 なぜ誤魔化す。だがまぁ、確かにその通りだ。彼女がウィッグを被っているとすれば、何も候補は三人ではない。だからと言って、答えを絞り込むことには繋がらないんだがな。

 流石に寝たまま話すのも気が引けてくる。俺が起き上がろうとすると、彼女は優しくそれを制止した。

 

「眠ってていいんだよ。一方的に話しかけただけだから」

「にしては返答を求めてるけどな」

「そうかな?」

「ほらそうやって」

 

 そうは言うが、クエスチョンで返されれば、こちらとしても無視する気になれない。そのこと自体分かっていないのだろう。すごく賢く話そうとしているのか、余計に拙さが目立つ。やはりこいつは五人のうちの誰かで間違いなさそうだ。

 両腕を頭の下に入れ込む。横目で見ると、彼女は俺に背を向けて座っている。体育座りだ。そうされるといよいよ誰か分からなくなる。

 

「試験は大丈夫そう?」

「どうだろうな。こればかりはお前ら次第だ」

「そこは大丈夫だって言って欲しかったなぁ」

「ならしっかり頑張ってくれよ」

 

 背中を押して欲しいというのなら、少し冷たかったかもしれない。これは自分の力不足でもあるのだ。特に二乃のこと。彼女だけは今日の今日まで勉強をしていない。今からとことん頑張ったところで、全科目の赤点回避は難しいだろう。

 一つ息を吐く。二人の間に微妙な空気が流れる。別に気まずいとは思わないが、「気を遣わないと」なんて感情が込み上げてくる。そこまでしなければいけない関係性ではないというのに。

 

「二乃のこと、心配なんだ」

「……何も言ってないだろ」

「顔に出てる。二乃も頑固だからね」

 

 俺の心を読んだように、彼女は優しく話しかけてくれる。

 さっきの会話のこともそうだが、二乃に関する悩みを姉妹に言うのは気が引ける。しかし、心地よい眠気と雰囲気が俺の喉を緩めた。

 

「……さっき二乃と話したんだ。もしかしたら、お前らと勉強することになるかもしれない」

「へぇ! 一体何をしたの? あんなに頑固だったのに」

「まぁ、いろいろだ」

「そっか。あの子のこと、見捨てないでいてくれてありがとう」

 

 すごく純粋な声。俺にはそんな綺麗なものは似合わない。

 さっきだって、理由は至極不純なものだ。それだというのに、君は何も言わずに喜んでくれている。ますます彼女の存在が不思議なものに思えてきた。

 

「やれることはやるよ」

「うん。ありがと」

 

 そんな会話をしながら彼女の正体を考える。でも絶妙に話し方や声色を変えていて、本当に見当がつかなかった。まるで()()()()()()と話しているみたいで。

 

「二乃は、すごく不器用な子なんだ。誤解されやすいけど、とても優しくて。君にもそれは分かってほしい」

「…それは何となく分かる」

「あはは。なんとなくなんだ」

「優しい奴が普通、薬なんて盛らないだろ」

「うんうん」

 

 彼女はこちらを向いて優しく頷いてくれる。

 それを見ているだけで心が癒されていく。いつぶりだろうか。こんな爽やかでふわふわした感覚は。

 右手に冷たい感覚。細くて今にも壊れそうな彼女の両手に包み込まれていた。何事かと思い、思わず上半身を起こした。

 

「眠ってていいのに」

「なんの真似だ」

「大きな手だなぁって」

「だからと言って無闇に触るものでもないだろ」

「それもそうだね」

 

 微妙に会話が噛み合っていない気がしたが、特に気にすることなく手を離す。仮にこいつが三玖だとすれば、()()()()()()()()()()ようで安心感を覚える。あれから普通に接してくれている彼女には感謝しかないのだから、俺としてもしっかりやれることはやってあげたい。無論、変な意味ではない。

 再び横になると、無意識に押さえ込んでいた眠気が瞼を襲う。その様子に気づいた彼女は、左手で俺の頭を優しく撫でた。

 

「お、おいなんだ」

「私は、君の味方だから」

 

 その手を振り払おうとするも、想定外の心地良さに腕が動かなかった。真顔でそんなことを言われるもんだから、目を背けるようにギュッとつむる。月明かりで助かった。顔が紅潮するのは見られたくない。

 それに気づいているのか気づいていないのか。よく分からないが、彼女は「おやすみ」と言い残して立ち上がる。眠気と恥ずかしさに耐えて、階段を登っていく彼女に問いかけた。

 

「君は誰なんだ?」

 

 彼女の耳に届いたのかも分からない。耐えに耐えた眠気に根負けした俺は、一瞬で深い眠りに落ちていった。

 

 

 

「ふふっ。誰でしょう?」

 

 

 

 






 新しく高評価してくださった・絶対殺すマン好きさん・tfoさん・Genbuさん、ありがとうございます。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯は探りを入れる③

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深い眠りの海から浮かび上がったころには、すでに朝日が俺の身体に降り注いでいた。その光を浴びたせいか、頭が起きろとサイレンを送る。瞼を開き、左手で目を擦る。外を見ると、綺麗に晴れている。太陽を見る限り、ついさっき日の出したのだろうか。

 今日は土曜。午前中だけだが授業はある。二度寝する気にはなれなかった。そのまま思い切り背伸びをして、起き上がろうとする。

 

 ……なんだこの違和感は。

 

 ふと感じた感覚。一瞬で()()()()()()()であると察する。それは俺の右手側。恐る恐る横を見ると、穏やかな寝息を立てている彼女がいる。……以前の経験を生かし、まずは自分の頬をつねる。痛い。なるほど、夢ではないらしい。あぁ、最悪だ。

 ゆっくりと起き上がり、声を出さないように様子を確認する。ここで大声を出せば、上の連中が起きてくる。そうなれば俺はそこでおしまいだ。

 どうしてこんな状況になったのか。今はそれよりも、こいつは誰だ。髪は短い。見覚えのない寝間着。一花か四葉のどちらかだろう。手っ取り早く起こしてみるか。

 

「おい起きろ」

「んー……んっ」

 

 信じてもらえるかはわからない。肩を揺すっただけだ。だけなんだ。

 それなのに、こいつは何て色っぽい声を出す。寝起きで、しかも前科のことを気にしていたから、そんな気は毛頭なかったというのに。今ので少し理性が揺らぎ始めている。

 このままではまずい。朝っぱらから変なスイッチが入りかねない。一度視線を外し、呼吸を整える。落ち着け俺……。

 それならば、彼女はこのまま寝かせておいた方がいいのではないか。俺が起きて勉強していれば、そのうち勝手に起きてくるだろう。

 そっと立ち上がり、薄めの毛布を彼女にかけてやる。床に横になっているのが少しかわいそうだが、それは仕方がない。こいつが勝手に俺の横で寝ていただけなのだから。

 

 テーブルの上にテキストとノートを広げ、自分の勉強に取り掛かる。まぁこいつらと違ってこれまでの貯金がある。そこまで根詰めなくてもある程度良い点は取れると確信していた。

 壁時計を見ると、時刻はまだ朝の六時前。大分早起きしてしまったが、昨日の一件もあって目は冴えている。試験前にあの彼女の正体も突き詰めないといけないが、最悪それはどうでもいい。とにかく試験に向けてやっていくしかない。

 

「こんな朝から勉強なんて、気持ち悪いわね」

「……随分と早起きなんだな」

「朝食の準備があるからよ。仕方ないからあんたのも用意してあげる」

 

 まず階段を降りてきたのは二乃だった。朝食の用意とは言うが、ここまで早起きをする必要もないのではないか。そう思ったが、人数分のことを考えれば、それも仕方ないことか。

 そのままキッチンへ向かえ! そんな願いも虚しく、ちょうど真ん中辺りでピタリと止まる。視線は俺から俺が寝ていた布団に向けられる。あぁ嫌な予感しかしないぞ。

 

「……ねぇ」

「俺には何も見えないぞ」

「どういうことか説明してもらおうかしら」

 

 指差す方向には眠っている彼女がいる。そりゃそうだ。俺だってあの光景には目を疑ったのだから、二乃が疑わないわけがない。

 だが、今回ばかりは本当に何もしていないのだ。そもそも隣で眠っている彼女が誰かも判別できていない。一瞬でも理性が崩壊しかけた自分が情けないが、これであらぬ疑いをかけられるのだから、ふざけた話である。

 

「俺は何も知らん。朝起きたら隣にいたんだ」

「……夜な夜な連れ込んだのね。本当最低。いい加減にしなさいよ…!」

「いや話聞いてたか」

 

 とんでもない意訳は置いておいて、俺だってその可能性は考えた。しかし、眠る前に話していたのは見覚えのない彼女だけ。寝落ちのようになってしまって、さっきまで一度も起きずに眠っていたのだから、それは考えにくい。

 

「……二乃、昨日あれから部屋を出てないか?」

「はぁ? 出るわけないでしょ。あんたの居るリビングにわざわざ出るなんて」

「一言多いんだよ」

 

 それとなく探りを入れてみたが、二乃は真っ向から否定する。その言葉に嘘偽りは感じられない。最後の一言は余計だが、おそらく事実だろう。となると、昨日の彼女は残り四人のうち誰か。ということになる。

 俺が変な問いかけをしたせいか、彼女は顔を歪めている。これ以上詰め寄られればより面倒なことになる。最悪だ――――なんて考えていた俺をよそに、彼女はそのままキッチンへと向かう。え、何も言わないのか。

 

「もういいわ。朝から大声上げるのも疲れるし」

「……すまん」

「なんで謝るのよ」

「わ、悪い」

「だから謝らないでってば!」

 

 結局大声を出してしまったことに、彼女はため息を吐く。そうしたいのは俺も山々なんだが、今は少しだけ彼女に同情してしまった。これを口にすると、倍々で口撃が返ってきそうだ。だから何も言わないでおこう。

 朝食の準備を進める二乃を背中に、俺は再びテキストと向き合う。そこで寝ている彼女を起こそうかとも思ったが、今は勉強に集中したい。そう言う意味では二乃が起きてきてくれて助かった。二人きりだとその……うん、いろいろとヤバかっただろう。特に俺の理性が。一度崩壊しかけたのだから、再崩壊は時間の問題だった。

 

 ようやく勉強に集中出来る。そう思っていたのに。その彼女。盛大に背伸びをして「んーっ……」だからそうやって色っぽい声を出すのはやめてほしい。二乃が居るとは言え、色々とヤバい。

 

「あぁ一花起きたの?」

「あれっ、私ここで寝てたんだ」

「ええ。上杉に何かされなかった?」

 

 四葉ではなく一花だったか。それを一発で見抜く二乃。生まれてからずっと一緒なのだから、当然と言えば当然か。それでも俺からすれば十分な神業だ。

 それはそうと、二乃のふざけた問いかけに、一花は「うーん」と腕を組んで考える。いやそこはすぐに否定しろよ。変な間ができるとあらぬ疑いをかけられるだろうが。

 

「そういえば胸触られたかな……?」

「………」

「………」

「………」

「……上杉」

「ま、待て待て! 俺は本当に知らん!」

 

 一花がとんでもない爆弾を投下したことで、リビングの空気が一気に凍りつく。思わず立ち上がって、全力で否定する。振り返り、二乃を確認するが、背中が赤く燃えているようにすら見える。その熱気で視界がぼやけてしまいそうだ。

 彼女の右手には料理で使っている包丁が握られている。一歩間違えれば事件になりかねないぞ。冗談じゃない。全力で否定するが、彼女は聞く耳を持たず俺を睨み続けている。やべぇ殺される。

 

「ごめんごめん。冗談に決まってるじゃん」

 

 一花は「あはは」と笑いながら茶化す。そう言われたにも関わらず、二乃は疑うことをやめていないのだろうか。何も言わずに料理に意識を戻している。そういう無言が一番怖いってことこいつは知っているのだろうか。いや知ってるな、絶対。分かった上で俺を恐怖に陥れている。気分を誤魔化すように、再び椅子に座る。

 一方の一花。寝起きだと言うのに俺を茶化す余裕はあるらしい。そういや一度、こいつの部屋に入った時、寝起きは服を着ていなかったような。チラリと彼女に視線をやる。うん、しっかりと服を纏っている。いやそれが普通なんだが、なんと言うか、ちょっと惜しい。

 

「フータロー君? どうしたの?」

「あぁ、いや」

 

 慌てて視線をテキストに落とすが、彼女は俺の顔を覗き込むように話しかけてくる。下手をすれば、彼女のたわわな黄金の谷が見えてしまいそうで、つい鼻の下が伸びそうになる。

 「ごめんってばー」大事にならなかったから気にしていないのに、一花は謝りながら俺の隣に腰掛ける。寝起きで勉強するつもりなんてないくせに、テキストを見て感心した様子だ。

 

「……なんでそこで寝てたんだ」

 

 ペンを走らせながら、小さな声で問いかける。聞かれてまずいことはしていないが、二乃に聞かれれば間違った解釈をされる可能性もある。それを察したのか、一花も応えて声のトーンを落としてくれた。

 

「フータロー君の寝顔見てたの」

「それがまずおかしい。それでそのまま寝落ちするのもな」

「だってあまりにも気持ち良さそうに眠ってたんだもん」

「理由になってない。そんなことで俺が納得するとでも思うか」

「思わない」

「ならどうして」

 

 この会話の不毛さにため息が出る。

 ノートの上を走っているペンのスピードが上がっていく。頭に知識を叩き込むのではなく、まるで会話のストレスでアクセルを踏んでいるような。現に今書いていることは全く頭に入っていない。

 

「フータロー君にキスしようか迷ってた」

 

 全速力で走っていたペンは、急ブレーキが掛かったかのように動きを止めた。聞き慣れない言葉が左耳から脳みそへ伝達される。

 「は?」そんな間抜けな声とともに、間抜けな顔で一花の顔を見た。口角が少し上がっていて、満更でもない表情をしている。

 分かっている。これもさっきのような茶化しの一環であることぐらい。分かっているさ。しかしだ、いざ隣でそんなことを言われれば、男として固まってしまうのも事実。彼女の返答を聞くまで、喉がキュッと締まって言葉が出てこなかった。

 彼女の顔が、今はとてつもなく色っぽく見えた。背中には二乃が居るとかそういうのはもうどうでも良くなりそうな。

 

「何その顔。照れてる?」

「……茶化すのもいい加減にしろ」

「少し意識した?」

「……いや」

「ほんと?」

「………」

「どうなの?」

「……少し」

 

 あまりにしつこく聞いてくるもんだから、思わず本音が出てしまった。しまったと気づいた時にはすでに遅い。彼女はクスクスと笑っている。人はこういう人種を()()()と呼ぶのだろうが、俺には立派な悪魔にしか見えない。まさにタチの悪い冗談ってやつだ。

 

「フータロー君も男の子で安心したよ」

「別にお前が安心することないだろ」

「そもそも、女の子とキスしたことあるの?」

 

 変な体験をしたせいか、頭が甘い麻酔に掛かったように痺れている。正常な判断が出来そうにもないが、今の気分でその質問を無視する気にはなれなかった。雰囲気って怖い。そうさせる一花はもっと怖い。

 

「……キス()したことない」

「キスは……?」

「……あ、いや。言葉の綾だ。変な意味じゃないぞ。誤解するなって。本当だからな」

「何も言ってないじゃん」

 

 俺としたことが痛恨のミスだ。それも大大大大ミス。こんな言い方をしてしまえば、「()()()()()()()はしたことありますよ」と言っているようなもの。慌ててフォローするが、一花は「ふーん」と俺の顔を覗き込む。

 事態はかなり深刻なようだ。目の前には一花。背中には二乃。どちらに転んでも色んな意味で出血は避けられそうにない。特に一花。こいつは前から三玖との関係性を問いただしてきている。実際、クッション事件の嘘を見破られた。これはいよいよ追い詰められたと言うべきか。

 

「キス以外の何かはしたことあるんだ」

「だからそう言うんじゃなくて」

「三玖と?」

「……違います」

「どうして敬語?」

「三玖に敬意を表して」

「うん。意味わかんないや」

 

 僕も意味わかりません。まさかいきなり三玖の名前が出てくるなんて思ってもいなかった。そのせいで明らかに動揺を隠せない自らの心臓。多分ここ最近で一番早く脈打ってるのではないか。

 「マッサージをしたことはある」そう付け加えても、今の一花は聞く耳を持っていない。焼け石に水だろうと思っていたが、彼女はため息をついて背伸びをする。

 

「ま、フータロー君も男の子ってことだね」

「どういう意味だよ」

「そのまんまの意味」

「あぁ、馬鹿にされてるのはわかった」

 

 「違うよ」そうは言うが、本心ではきっと気付いているに違いない。俺が三玖に何かしたことを。それはマッサージでもなんでもなくて、ただ自らの性的欲求を満たす行為であるということも。

 ここまで来たのなら、もう彼女には本当のことを伝えた方がいいのではないか。俺としてもそうした方が精神的に楽だ。しかし、言ってしまえばここまで積み上げてきたものは一気に崩れてしまうだろう。試験前、それはなんとしても避けたかった。

 

「でも実際、三玖はフータロー君と出会って、分かりやすく変わってきてるもんね。……こればかりは私たちが口出しできることでもないのかな」

「まぁ……勉強に前向きになってくれるのは嬉しいよ」

「え、それだけ?」

「…質問の意味がわからないな」

「もっとない? 変わってきてると思うとこ」

 

 無いことはない。でもそれは、先程の会話に直結する問題である。適当にあしらって再びペンを走らせた。

 

「少なくとも、私は感謝しているよ」

「長女だからか?」

「まぁ、それもあるけど。一個人としても、感謝してる」

 

 あれだけ脅された後だ。そんな優しい言葉が耳に届くと思うか。深い意味があるのではないかと勘ぐってしまう。返事にならない返事をして、ペンのスピードを上げた。

 落としていた声のトーンはいつの間にか元に戻っていて。これじゃ二乃にも聞こえていたかとしれない。しかし、一花がいるせいか何も言ってこない様子を見ると、少しは安心していいらしい。

 

 

 

「……何よ。上杉のくせに生意気」

 

 

 

 





 新しく高評価してくださった、・ユンパロンゼトンさん・settaさん・りゅうたさん・咲さん。ありがとうございました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯は夕焼けに染まって



 単行本11巻読みました。可愛さが可愛くてもう可愛くて可愛くて可愛さが可愛かったです(混乱)




 

 

 

 

 

 

 夕陽が差し込む図書室で、俺は五つ子たちと向かい合っていた。

 机の上には彼女たちの答案用紙が並べられている。中間試験の結果が返ってきたのだ。

 試験前の三日間は、二乃との取引もあり、五人全員の勉強を見ることが出来た。本当であればもっと早く見てあげたかったが、こればかりはどうしようもない。その遅れを取り戻すように、俺としては集中して教えたし、彼女たちも文句を言いながら真剣に取り組んでくれたと思う。

 全員の表情を見ると、疲れも見える。だが、どこか満足感を得られたような。そんな不思議な顔をしていた。現に四葉なんかは、「こんなに良い点取ったことない」と漏らしている。

 

 結果は、ダメだった。雇い主である彼女たちの父親から課せられた条件。「全員が赤点回避」することは出来なかった。しかしだ。初めの頃を思えばこいつらも成長しているのには変わらない。現に、全員一科目ずつ赤点を回避しているのだ。5人全員で百点だったことを考えると、大きな進歩だ。

 だが、それはそれ。これはこれだ。ミッションを達成出来なかったことには変わりがない。成績が少し上がったからと言って、「やっぱり無し」なんてことにはならないだろう。

 

「成績は褒められたものじゃないが、確実に成長しているな」

 

 嘘偽りなく、俺の本音だ。こんなことこいつらには言った記憶がない。全員、少しだけ驚いた表情をしていた。

 こうして見ると、もう彼女たちと接することは無くなるわけだ。清々する気分。三玖には後で例の件を謝ろう。もう機会は無くなるのだから、今日が最後のチャンスだ。

 謝ったところでどうなるかなんて分からない。脱衣所で出くわした時、彼女は「責任を取ってもらう」なんてことを言っていた。その意味はイマイチよくわからない。だが背筋がピンと立つ感覚はあった。……俺にその覚悟があるのだろうか。いや彼女の冗談だと信じたい。

 

「フータロー。どうしたの?」

「え? いや何もないが」

「……何か隠してない?」

 

 こういう時の三玖は、いつも以上に鋭い。俺の表情を見て、探るようにそんなことを言ってくる。俺としては、この場で言える内容ではない。適当にあしらうと、彼女は分かりやすくふて腐れた表情を見せた。出会った頃を思えば、そんな顔も見せてくれるようになったのは、関係性が他の四人よりも深くなったということだろうか。まぁ、胸揉んだ仲でもあるからか。

 

「……上杉君。父です」

 

 五月が真面目な表情でスマートフォンを俺に手渡す。画面に映し出された「お父さん」の文字。今はそれが余計に無機質に感じられた。

 受け取り、通話ボタンを押す。彼の声を聞くのは二度目だ。俺が出るとは思っていなかったのか、少し驚いた声色をしていた。しかし、すぐに状況を飲み込んだのか。余計な話は無く、いきなり本題をぶつけてきた。

 

「彼女たちは頑張りました。次からは、もっと良い家庭教師を付けてあげてください」

「……と言うことは?」

 

 三玖あたりだろうか。俺の言葉を聞くと、驚いた声を出した。ミッションのことを知っている五月に目をやると、少し申し訳なさそうな顔をしている。今になってそんな顔をするな。変に寂しくなる。

 意識を電話に戻す。この人は分かっているのに、俺の口から言わせたいようだ。「赤点回避が出来ませんでした」と。別に事実なのだから、言うことに抵抗はない。変なプライドが邪魔するかとも思ったが、そういう感情は不思議と湧いてこなかった。

 

――――満足しているのか?

 

 一つの結論に至る。俺はこいつらへ十分に教えることが出来たのだろうか。いや、それは違う。むしろ、全然教えることが出来なかったではないか。

 特に二乃と五月。この二人には、試験前の一週間、二乃に関しては三日間ほどしか教えることが出来なかった。それも取引という形で。そんなんで、赤点を回避するなんて出来るはずがなかった。

 それに、二人よりは長く勉強を見てあげた他の三人も四教科で赤点。期間の問題ではない。単純に俺の力不足なのだ。そのくせ、この結果に満足している? そんなわけがない。少しでもそう思った自分が情けない。

 

「全員、一科目ずつ赤点は回避しました。ですが、他の四教科で赤点です」

「……そうか。残念だよ」

 

 そんな自分がみっともなくて、言い訳じみた言葉になってしまった。これで彼が納得するなんて思わない。こいつらの家庭教師は今日限りになる事実は変わらないのだ。

 

「フータロー!」

 

 堪えきれなくなったのか、三玖が立ち上がって俺に詰め寄る。電話中ということもあり、俺は手で彼女を制したが、それで引き下がる気は無いらしく。俺の手を振り払い、携帯を奪い取った。

 驚いて何も出来なかったが、彼女はそのまま会話を続けることなく電話を切ってしまった。俺が口を開く間もなく、三玖は怒った様子で言葉を紡ぐ。

 

「説明して。話が見えない」

「……別に何も無い。ただ俺の仕事はここまでということだ」

「それの意味が分からない。どういうこと?」

 

 冷静な声色だが、話が見えないストレスからか、言葉には熱がこもっている。全員を前にして言うのはどうかと躊躇ったが、ここまできて隠すことでも無い。俺は素直に打ち明けることにした。

 

「お前らの親父から言われていたんだ。『誰か一人でも赤点取ったら辞めてもらう』って」

 

 そう言った時の彼女たちの表情は様々だった。

 驚いた様子の一花と四葉。冷静な五月。表情を変えない二乃。そして――――涙目の三玖。やがて零れる滴が、俺の心を揺さぶる。涙を流す彼女の背中を五月が優しくさする。俺が辞めることには何も思っていないだろうが、今の三玖を見ると流石に心配になったのだろう。他の三人もそうだ。心配した様子で彼女を見つめている。

 俺としても、まさか涙を流すなんて思ってもいなかった。それはどういう感情で流す涙なのか。唇をキュッと結んでいる三玖。涙を止めたくても、止まらないそれに戸惑っているようにも見えた。

 

「それ知ってたら、もっともっと頑張ったのに……」

「……三玖は本当に頑張った。次の家庭教師にもそれぐらいの気持ちでな」

 

 三玖の手に握られているスマートフォンが振動している。おそらく父親からだろう。突然切れたのだから、掛け直してくるのは当然と言えば当然だ。しかし、三玖は涙を止められず、そんなことを考える余裕すら無いようだ。

 仕方なく俺がそれに手を伸ばすと、少し先に誰かの手にそれが渡ってしまった。

 

「もしもし。五月です」

 

 持ち主の五月が三玖の背中をさすりながら電話に出る。声のトーンや話の内容からして、相手は父親で間違い無いだろう。そのまま俺に電話が回ってくると思ったが、少し二人の話が長引いているようにも思えた。

 

「どうしてこんな条件を出したのでしょうか」

 

 思いもよらない言葉が彼女の口から出てきたことに、思わず固唾を飲んでしまう。それは俺だって知りたい。まぁおそらくは進級のことを考えてだろうが。

 会話をしている五月の表情は固かった。何を言われているのか気になるが、俺としては直接会話して話を進めるべきだと感じる。五月に声を掛けると、視線だけで会話を止めようとはしなかった。

 

「認めたくはないですが、成績が上がっているのは事実です。……えぇ。ですが、私は上杉君に続けてもらった方が良いと思います」

「お、おい何言って――――」

「フータローは黙ってて」

 

 話が大きく動きそうな雰囲気だ。いつの間にか泣き止んだ三玖は黙っているように促す。その口調は力強いものだった。……そもそも、五月にそう言ってもらえるような仲では無いはずだ。むしろ、こいつは俺をクビにしようとすらしていたし。頭をフル回転させるが、今のこの状況がイマイチ飲み込めなかった。

 五月は俺たちから少し離れ、会話を続けている。離れられたせいで、何を言っているのかすら聞き取れない。俺が近づこうとしても、三玖が俺の手首をしっかりと掴んで離してくれそうにもなかった。

 

「なんか……三玖変わったよね。本当に」

「あはは。上杉さんモテモテですね」

「茶化すな。今そんな空気じゃないだろ」

 

 「そうかな」一花は微笑みながら聞き返す。そうしたいのはこちらだと言うのに、四葉と顔を合わせてクスクスと笑っている。そんな風に笑われると恥ずかしさが込み上げてくる。三玖の手を優しく振り払おうとしても、彼女はそれを許さなかった。

 

「私たちはフータロー君が辞めるなんて思ってないよ」

「は? だから俺は条件をクリア出来なかったから――――」

「だって、このまま投げ出しちゃったら悔しいじゃん。フータロー君自身が」

 

 俺のことを分かったかのような口を聞かないでほしい。図星だからこそ、そんな感情が出てきた。見透かしたような彼女の顔。やはり見慣れない。変に心臓の鼓動が高まってしまって、つい顔を背けてしまう。

 二乃は話を聞いているだけで何も言わない。そういや取引の件は、俺の勝ちだった。二乃と三玖。結局合計点が高かったのは三玖。それが分かっているからか、必要以上に俺と口を聞くつもりもないらしい。

 

「……はい。はい。分かりました」

 

 戻ってきた五月の声が聞こえる。そう言うと、彼女はスマートフォンを俺に手渡す。どうやら俺の出番がようやく回ってきたようだ。素直にそれを受け取り、右耳に当てる。

 

「もしもし」

「あぁ、話は聞いていたかね?」

「い、いえ。えっと…全く話が読めないんですが」

「条件はクリア出来なかったが、赤点を回避した事実は間違いないようだね。君にはもう少し続けてもらうことになった」

「えっ、どうして」

 

 五月に視線をやる。ふんと分かりやすく俺から視線を逸らした。こいつは何を言ったのだろうか。電話でしか話したことなかったが、こんな手のひらをくるりと返すような人には思えない。それ相応の理由を並べて説明したのだろうか。だとすれば、それはどんな内容なのだろう。今ここで考えていても仕方がない。それを直接この人に尋ねるのも何か違う気がした。

 

「これからも娘たちを頼むよ」

「……分かりました。期末試験では、必ず成績を上げてみせます」

「期待しているよ」

 

 電話が切れ、無機質な機械音が耳を抜ける。

 スマートフォンを五月に返すと、一花や四葉は相変わらずクスクスと笑っている。三玖は安堵した表情。二乃と五月は俺と顔を合わせようともしなかった。

 

「えっと……家庭教師続けることになりました」

「ほらね。だから言ったんじゃん」

「悪い。五月、話が見えないんだが」

「……私は三玖を泣かせたあなたが許せなかっただけです」

 

 彼女はそれだけ言うと、そそくさと図書室を出て行ってしまった。それに続くように、二乃も出て行く。特に言い残す言葉もない。三玖に負けたことが余程悔しかったのだろうか。

 

「五月ちゃんも素直じゃないからねぇ」

「何はともあれ! 上杉さんが辞めなくて安心しましたよー」

「俺はそんなに好感度が高かったのか?」

「うーん。普通です!」

「そこまでハッキリ言われると返って清々しいな」

 

 そんな何気ない会話がまだ出来るのだ。それはそれで悪くない。中途半端に手を引くよりも、ここまで来たらトコトンこいつらの勉強を見てやりたい。そんな思いが芽生えてきていたのも事実。

 すると二人は何故か気を遣ったかのように、揃って図書室を出て行ってしまった。残された三玖は俺の手首から手を離そうとしない。そろそろ離してもらいたいんだが、どうしたものか。

 

「み、三玖。そろそろ離してくれないか。みんな帰ったし」

「………言うことないんだ」

「あー……悪かった。黙ってて」

 

 俺が謝りたいのはそれじゃないのだ。その計画もパーになってしまった。だが、謝るなら今だ。二人きりのこの状況。図書室であることは気が引けたが、俺たちの会話を聞いている人間は誰も居なかった。

 夕焼けに照らされた三玖の顔は、泣いた後ということもあって、少しだけ疲れているように見える。でも、真っ直ぐと俺の顔を見つめていて。すごく、美しく見えた。自然と鼓動が早くなる。

 

「その……すまん。触ってしまって」

「……まだ気にしてたんだ」

「そりゃ……申し訳なくて」

「だって、()()()()()なんでしょ?」

 

 本気で信じているのだろうか。いや、それはないだろう。

 性の知識はゼロではないはずだ。あの行為の本当の意味も分かっているはず。それなのに、彼女はそれ以上は何も言わなかった。

 それは優しさなのか、それとも本当に無頓着なのか。今の俺には分からない。だが、彼女たちとの付き合いがもう少し長くなったこともあって、それを知る機会もあるのではないか。

 

「……またしてほしい」

「いやそれは……さすがに」

「どうして?」

「………色々と」

 

 俺の理性が持たないなんて言えなかった。それを言ってしまえば、さすがの三玖でもドン引きするだろう。いや胸揉んでる時点でドン引きしても不思議ではないんだが。

 この不思議な関係はなんなのだろうと考えることも増えた。他の四人とは違う。恋人でもないし、友達でもない。花火大会の時には「パートナー」なんて言ったが、それから変に一線を超えてしまって、そう言うのも何というか変な感じだ。

 

「三玖は嫌じゃないのか?」

「何が?」

「俺に……触られるのは」

 

 変な雰囲気もあって、思い切って問いかけた。

 これまで気になっていた事。結局のところ、彼女はどう思っているのだろうか。これまでの態度を見る限り、「嫌」ということはないのではないか。ハッキリと拒否されるわけでもないし、もしかしたら俺のことを……なんて考える自分も居たりして。

 

「嫌じゃないよ」

「どうして?」

「……分からない」

 

 三玖は俯いて小さな声で呟いた。きっとそれは彼女の本心なのだろう。よく分からない感情に苛まれている自分の心を誤魔化すような言霊。恋愛経験の無い俺も、今抱いている感情が特別なものかは分からない。でも、彼女が許してくれているのなら、今はそれに甘えても良いのではないか。そんな自分に甘い考えとともに。

 

「……とりあえず帰るか。あんまり遅いとあいつら心配するぞ」

「う、うん」

 

 慌てて離れる彼女の手。いざそうなると少し寂しくて。さっきまで恥ずかしさを感じていたのに。

 図書室を出て、靴を履き替え、彼女を家まで送り届ける。その道中で話すことなんて何もなかった。変にお互いを意識しているようで、見慣れたタワーマンションが視界に入ると、つい昨日まで来ていた場所なのに、どこか懐かしさを感じて。まだここで家庭教師を続けられるのは、きっと俺にとって幸せなことなのだろう。

 入り口で彼女と別れ、背を向ける。でも、何か言い足りなくて再び振り返って彼女を呼び止めた。

 

「三玖」

「なに?」

「ありがとう。また明日な」

「……私は何もしてないよ」

 

 そう言う君は、優しく微笑んでくれた。夕焼けに染まっているせいか、彼女の頬は綺麗に赤く染まっていた。

 

 

「フータロー、顔真っ赤だよ」

「……夕焼けのせいだ」

 

 

 






 新たに高評価してくださった、『』さん・ネオモアイさん・はっすーさん・りょーりょーさん・モンキーさん

 ありがとうございました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

思春期と林間学校
◯◯の脚と心は躍る


 

 

 

 

 

 

 

 試験返却から一週間後。俺は彼女たちの家に居た。

 本来であれば、もう二度と足を踏み入れることのない場所だというのに。赤点を回避できなかったにも関わらず、俺は彼女たちの家庭教師を続けることになった。それがどうしてかは分からない。父親と電話していた五月が何故か彼を説得したとしか思えない。

 

 それを彼女に聞こうと思っても、中々二人きりになることがない。そのまま今に至るというわけだ。

 俺としても、少しだけ気は楽だった。三玖にあのことを謝ることが出来たからだろうか。彼女は「またやってほしい」なんて言っていたが、それは無理な話。俺がもう一度手を出せば、本格的に止められそうにもない。仮にそれを三玖が望んだとしても、俺はそのまま受け入れるわけにはいかない気がして。

 

「上杉さん? ボーッとしてどうしたんですか?」

 

 本来であれば、家庭教師の時間なのだ。それだと言うのに、今この空間には俺ともう一人しか居ない。テキストを眺めていた俺を見て、唯一残っていた四葉が話しかけてくる。彼女から見ても、今の俺は勉強しているようには見えなかったのだろう。実際、テキストの内容は頭に入ってこない。勉強を教えるべきなのに、これでは本末転倒だ。

 

「他の奴らは」

「一花は撮影。三玖は買い物。二乃と五月はお昼ご飯です」

「ずいぶん呑気だな。帰ってきたらみっちり教えてやる」

「あはは……。夕方まで戻ってこないかもですねぇ」

 

 苦笑いする四葉。ため息が出そうになるが、そうしたところでこの状況は変わらない。二人きりになったからと言って、不思議と気を遣う気にはならなかった。彼女の方が特に気にしていないからだろうが、俺としては気が楽だった。

 「勉強するぞ」俺がそう言うと、四葉は苦笑いして俺の隣に座る。それが「やりたくない」という意思表示であることは察しがつく。だが、五人の中で一番成績が良くなかったのは彼女なのだ。ある意味、一番呑気な存在なのである。

 

「そういえば上杉さん。あの時、三玖と何話してたんですか?」

「別に。大した話はしていない」

「それを教えてくれたら、私も勉強します」

「お前はそんなこと言える立場じゃないだろ」

「別に良いじゃないですか。気になるんですもん」

 

 俺が適当にごまかそうとしても、彼女は引こうとはしなかった。……少し面倒なことになった。テキストに視線を落としても、分かる。隣の四葉がジッと俺のことを見つめていることを。

 さてどうしたものか。正直、あの内容をそのまま伝えるわけにはいかない。いやそんな気はサラサラ無いが、ここで言い訳を考えるのが面倒なのだ。五人の中でも四葉なら、適当に考えた言い訳でも納得してくれるだろう。

 

「私が思うに、三玖は上杉さんに恋をしています」

「……だからどうしてそうなる」

「あはは。上杉さんが『辞める』って聞いた時の顔見れば、分かりますよ」

 

 俺の言葉を待たずに、四葉は言葉を紡いでいく。

 何を言おうとしていたかを忘れさせるほど、その言葉は甘いものだった。三玖が俺に恋をしている。何の確証もないそれは、俺の身体をふわつかせるには十分だった。

 

「もしかしてもしかして! ついにあの時告白されたとか!?」

「んなわけないだろ。そんなんじゃねぇって」

「えーっ。嘘ついてませんか?」

「嘘ついてどうするんだよ」

 

 青春じみた話ではあるが、残念ながらそういう話ではない。

 分かりやすくガッカリする彼女を見て、何故か申し訳なさが湧き出てくる。あれだけ気を遣わないでいいなんて思っていたが、こういうとこで気を遣っているのかもしれない。そう思うと、変に身体が強張ってくる。

 

「上杉さんは嘘をつけませんから。しっかり顔を見せてください!」

「お、おいやめろって!」

 

 少しでもそう思った俺が間抜けだった。四葉は立ち上がって、グッと俺の顔を覗き込んでくる。やけに近く、女子特有の甘い髪の香りが鼻腔を刺激する。身体の隅々まで麻痺してしまいそうな毒薬みたいだ。

 

「……嘘ですね」

「……そう思う根拠は?」

「顔がニヤついてます」

「それはお前の顔が近いからだ」

「ふぇ?」

 

 そう言うと、四葉は少し目を見開いて驚いた様子。まるで「そんなことを言うと思わなかった」なんて顔だ。他の連中のように茶化されるかとも思ったが彼女はすぐ後ろのソファーにごろんと横になる。それから何も言わなくなる様子を見ても、どうやらこの会話は終わりのようだ。

 それはそうと、完全に勉強するつもりはないらしい。もうここまで来たら、今教えるのも面倒だ。全員が帰ってきてからでいいだろう。本当ならそんなことは言ってられないのだが。

 

「ねぇ上杉さん」

「なんだ」

「私、最近運動不足なんです」

「……それで?」

「手伝ってくれませんか?」

「却下」

 

 詳しい話は分からないが、面倒なことに巻き込まれそうで即答する。彼女は分かりやすく騒ぐが、俺は無視してテキストに視線を落とす。しかし横になった彼女は勢いよく起き上がると、俺の肩を思い切り揺らす。

 

「なんだよ……」

「五月と三玖だけ腹筋はずるいです。私も鍛えたいです!」

「まだ言ってたのか…。効果があるとは思えないんだがな……」

 

 五月との取引は相変わらず続いている。勉強前の腹筋がある種のルーティンになっているのがまた不思議な話だ。三玖や一花、それこそ四葉には()()()をお願いすることもある。おそらくはその影響もあるのだろう。以前花火をした際にも同じことを言われたが、その時も賭けに勝利して何事もなく終えた。しかし、好奇心旺盛な四葉らしいと言えばらしいが、それを今言い出さなくてもいいではないか。

 それにだ。今は俺と四葉の二人しか居ない。少しは慣れてきたとは言え、あの腹筋にかかる精神的な負荷はやばいのだ。二人きりでやるものではない。

 肩を揺するのをやめた彼女は、拗ねたようにソファーに再び横になる。俺もそれに合わせてため息を吐く。

 

「いいじゃないですかー」

「よくない。二人きりだし、胸でも触るかもしれないぞ」

 

 あらぬ誤解を招く可能性もあったが、こうやって脅すしかないだろう。四葉はそういうことには疎い気がするが、胸を触るという行為がどういうものかぐらいは知っているだろう。むしろこれぐらいの脅しの方が分かりやすいかもしれない。

 彼女はソファーに顔を埋めているのか、何かブツブツ言っているがその内容までは聞き取れない。俺の脅しが上手く効いたらしい。

 

「……ですよ」

「え?」

「別に良いです。私は覚悟できてます!」

「え?」

「え?」

 

 何を言ってるんだこいつは? 思わず振り返って、彼女を見る。顔を赤くして起き上がったと思えば、俺の反応が予想外だったのか。こいつも目を点にして俺を見ている。

 

「で、ですから! 私はその……平気です」

「おい冗談に決まってるだろ。そんなことしたら犯罪だ」

 

 前科がありますがそんなことを言ってしまう。四葉はあのことを知らないのだから、そんなことを気にしても仕方がないのだけれど。

 本当に分かりやすく駄々をこねる彼女は、俺の集中を削ぐのに勤しんでいる。さっきからワンワン喚かれれば、拒否するのが面倒になってくるのもまた事実な訳で。

 

「あーうるさいな! 分かったから!」

「本当ですか!? ありがとうございますっ!」

 

 もう純粋に根負けだ。盛大なため息を吐いている俺をよそに、彼女は勢いそのままに床へ横になる。俺に早く上に乗るよう急かしているが、側から見ればかなり危ない発言である。このタイミングで誰か帰ってきたら面倒だ。仕方なく立ち上がる。

 

「お前マスクは?」

「別に必要ありません!」

「逆に無警戒すぎて申し訳ないな」

 

 こいつは男という存在を理解していないのだろうか。男なんて所詮、欲に素直なお猿さんなのだから。それを避けるために俺は何度もこの展開を拒否してきた。だと言うのに、四葉。お前はそれを許してくれなかった。それは「手を出してもいいですよ」と言っているようなものではないか。現に彼女の口からそう出てきたし。

 いやいや待て。俺の中の理性が悪魔の囁きを呼び止める。

 仮にだ。ここで俺が四葉に手を出してしまったら。それこそ三玖に合わせる顔がない。五人のうち二人に手を出した男が家庭教師なんてやってる場合じゃないだろう。

 

 そんな宙ぶらりんな考えのまま、俺は彼女に背を向けて腰を浮かせる。さすがに全体重をかける気にはなれなかった。だが、目の前には四葉の健康的な太ももと脚。彼女に気づかれないように、ゴクリと固唾を飲んだ。

 あぁやばいかもな……。そんな思いと同時に、彼女が思い切り上体を上げる。するとどうだ。五月とは違ってしっかりと上体を起こすことに成功したではないか。その証拠に、俺の背中には柔らかくて跳ねるような感触が。

 もっとしっかり抑えないと…。必死に理性を保つように、両手で彼女の脚をしっかりと抑える。上体が上がってくるたびに、四葉の身体の筋肉が躍動しているのが伝わってくる。背中越しで感じる彼女の声と吐息、そして胸の感触。理性という名の壁が音を立てて崩壊していくのが自分でも分かった。

 

 脚を抑えていた手が、自然と太ももの方に上がっていく。

 

「ふぇっ!? う、上杉さんそこは……」

 

 彼女がそんなことを言うが、腹筋を止めない様子を見て俺も手の動きを止めなかった。触った瞬間はビクッと驚いていたが、太ももをキュッと握ったりすりすりしたり。そんなことをしているうちに彼女は何故かモジモジと脚を動かそうとする。俺としても、女の子の太ももを触ったのは彼女が初めてだ。胸とは違って、またクセになりそうな感触をしている。

 すでに理性の糸は切れていた。彼女の声が先ほどよりも少しだけ色っぽくなっていて、それに呼応するように俺の手も動いている。

 

「ひゃっ……」

 

 何十回腹筋をしたのだろうか。それすらも分からない。気がつけば、彼女は上体起こしを止めていて、俺の手を堪能しているように見えた。

 健気でそんなことには興味のなさそうな彼女が、今こうして俺の欲望を受け入れている。その状況が「更なる快感」を求める。

 

「う、う、上杉さん……触り方がちょっと……」

「……嫌か?」

 

 一度手を止め、振り返って彼女を見る。顔はさっきよりも真っ赤に染まっていて。そんな彼女を見て、切れていた理性の糸がしっかりと結ばれていく。このまま先に進めば、彼女を泣かせてしまうかもしれない。それだけは嫌だと言う感情が心の中を覆っていく。

 

「……いい筋肉してたぞ」

「そ、そうですか…?」

 

 先ほどの行為を誤魔化すような、酷すぎる言い訳。筋肉のことなんて、俺には専門外だ。分かるわけがない。でもそれ以外に何と言っていいか分からなかった。

 俺が彼女の上から降りると、四葉はしばらく動こうとせず、顔を染めたまま俺を見つめている。無視して移動するわけにもいかず、俺は彼女の側に座り込んだ。

 

「上杉さん」

「なんだ」

「やっぱり、上杉さんは()()()()ですね」

「……うるせ」

 

 ヤンチャ、という言葉で済ませてくれる四葉の優しさなのかもしれない。これが五月や二乃だったらどうだろう。それこそ罵倒の嵐だ。俺は生きている価値なんて無くなるほどに潰されるだろう。

 彼女は優しく笑っている。俺の行為を受け入れていたのかは分からないが、少なくとも怒っているようには見えなかった。

 少しだけ息が切れている四葉に、冷蔵庫からお茶を持っていくと、ゆっくりと起き上がってそれを口にする。首元には汗が滲んでいて、それが妙に色っぽい。

 

「そういえば、もうすぐ林間学校ですね」

「あ、あぁ。そんなのもあったな」

「絶対来てくださいよ? 忘れられない思い出にしたいので」

 

 唐突にそんなことを言い出す。確かにそんな行事もあったな。

 林間学校なんて。その時間を勉強に当ててしまいたいのが本音だった。だが、今こうして四葉からそんなことを言われるとだ。少しだけ胸が高鳴って「それも悪くないかな」なんて思ってしまうほど。

 

「林間学校には、伝説があるんです」

「伝説?」

「最終日のキャンプファイヤーで踊ったカップルは、一生添い遂げるパートナーになるんです」

 

 そんなオカルト地味たことは信じたことがない。いかにも四葉らしい発言だ。

 いわゆる結びの伝説というらしいが、そんなものでパートナーが決まってしまうなんて世の中甘いものではないだろう。それに、俺はキャンプファイヤーで踊るようなキャラでもない。仮に行ったとしても、踊ることなく最終日を過ごすだろう。

 

「上杉さんは誰と踊りたいですか?」

「俺は踊らない」

「五人の中だったら?」

「なんでお前ら限定なんだ」

「他に女子の知り合いなんて居ます?」

 

 グサっと心にトゲが刺さる。確かにその通りだが、そんな言い方をされると、何か男として情けなく思えてくる。

 

「他の誰にも言いませんから! 教えてくださいよー」

 

 そうは言うが、何かの拍子でポロっとこぼしてしまうのが四葉なのだ。ここで迂闊なことを言えば、他の四人から何と言われるか分からない。だからと言って、適当に誤魔化すのも気が引けた。その理由として、彼女の脚を触ったからだが。

 それでもだ、今ここで何と言うのが正解なのか。いくら申し訳なさがあるとは言え、何も馬鹿正直に答える必要なんてないのに。曖昧な答えを言ってしまえばそれだけの話なのに。俺はどうしてか。

 

 

 

「……四葉だな」

 

 

 





 新たに高評価してくださった
 ・新宿邪ンヌさん・ビビビタミンさん

 ありがとうございました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯の脚と心は躍る②

 

 

 

 

 

 

 

 林間学校を翌日に控えた夜。準備で慌ただしくなるなんて思っていたが、そんなこともなく。むしろ反対で、俺は家でらいはの面倒を見ていた。顔は赤くのぼせていて、苦しそうな愛おしい妹。元々身体が弱い彼女。代わってやれるなら代わりたいとはこのことだ。

 らいはのこともあり、明日からの林間学校は諦めようと考えていた。親父は仕事でいつ帰ってくるかも分からない。この子を一人置いていくわけにはいかなかった。

 

――――絶対来てくださいよ?

 

 ふと、四葉に言われた言葉が頭をよぎった。

 あれから顔を合わせてはいるが、まるであの行為に触れないような上辺だけの付き合いになっていて。疎遠とまではいかないが、これまでとは少し関係性に変化が見られた。

 あの時の言葉は嘘偽りではないだろう。本当に来て欲しいからこそ、言った言葉であって。それを無下に出来ない気持ちも心にはあった。俺は立ち上がって、スマートフォンを持って家を出た。そして電話帳に登録された彼女の名前を選ぶ。時刻は夜の九時。少し遅いが、彼女なら許してくれるだろう。

 

「――――上杉さん?」

「あぁ四葉か。夜遅くにすまない」

 

 彼女は少し驚いた様子で電話に出た。四葉に限らず、五つ子たちと電話をする機会なんて滅多にない。俺も少しだけ緊張していたが、それを悟られないように要件を伝える。

 

「明日からの林間学校なんだが、俺は行けない」

「……どうしてですか?」

「らいはが熱を出した。その看病で明日は家に居てあげたい」

 

 らいはも決して小さい子ではない。しかし、それでも一人にするのは心配だった。親父は仕事で家を空けることが多い。俺の唯一の妹なのだ。シスコンと思われようが構わない。今はただ彼女の側に居てあげたかった。

 俺が真面目に言ったせいか、四葉も真面目なトーンで受け答えをする。嘘ではないか、なんて疑うことはせずに。もしかしたら言われるかもしれないと思っていただけに、彼女の優しさが嬉しかった。

 

「上杉さんはらいはちゃんの側に居てあげたいんですね?」

「悪いな。せっかく楽しみにしててくれたのに」

「今から私もそちらに行きます。らいはちゃんが心配ですし」

「……は?」

「では! しばしお待ちを!」

 

 俺の返答を遮るように、その電話は切れた。無機質な機械音が左耳から抜ける。展開が急すぎて理解が追いついていない。

 四葉もらいはのことを気にいってはいる。しかしだ。それだけでわざわざお見舞いに来ることもないだろう。しかもこんな時間にだ。一歩間違えればありがた迷惑な話。

 それから二十分もしないうちに、再び俺のスマートフォンが鳴った。電話に出ると、四葉が家の前に居るとのこと。驚き半分、呆れ半分で家を出ると、そこには本当に彼女が立っていた。それも中々の大荷物で。

 

「本当に来るとはな……」

「心配ですから! らいはちゃんは大丈夫ですか?」

「熱は下がりつつある。安静にしていれば大丈夫だろう」

 

 ここまで来させてすぐに帰すのも気が引けた。止むを得ず、四葉を自宅へ招き入れる。「らいはが寝ているから静かに」と釘を刺して。しかし、病院で処方された薬を飲んでいるせいか、しばらく起きる気配はない。ぐっすりと眠っている。

 それにしても、五月以来か。五人の誰かを家に上げるのは。ただまぁ、その時とは訳が違う。五月は仕事上の付き合いで。だが四葉は、完全に自分の意思でだろう。さっきはありがた迷惑なんて思ったが、いざ目の前の彼女を見ると、それ以上にそこまで心配してくれる気持ちの方が嬉しかった。

 

「二乃にリンゴを剥いてもらいました。らいはちゃんが起きたら食べさせてください」

「お、おう。悪い」

「タオルも替えておきますね」

 

 そう言いながら、眠っているらいはを起こさないように、額に乗せた濡れタオルを手に取った。台所で再びタオルを湿らせ、キュッと絞る。そんな彼女の後ろ姿を見ると、いつもの彼女ではないような気がして。変な感覚になる。

 それはそうと、らいははよく眠っていた。彼女にはこれまで無理をさせてきた。その疲れもあったのだろう。申し訳なさもあるが、この際ならゆっくりと休んでもらいたい。

 そうこうしていると、時刻は夜の十時半を回っていた。相変わらず四葉は、らいはのために静かに動き回ってくれている。だが、彼女を明かりのついた部屋で寝かせ続けるわけにもいかない。そう言う意味でも、申し訳ないが四葉にはそろそろ帰ってもらいたかった。

 

「四葉。もういいぞ。家まで送るから」

「何を言ってるんですか? 今日はこのまま泊まらせていただきます」

「………いやさすがに冗談だろ」

「いいえ! 本気です」

 

 大荷物の中から寝間着を取り出し、胸を張っている。別に自慢することでもないし、何なら普通に迷惑な話だ。ありがたくもなんともない。

 だが、らいはが居る手前。いつものように全力で否定することが出来なかった。元々言い出したら聞かない奴だ。挙げ句の果てにシャワーを借りると言いだす始末。全力でため息をついて、渋々、本当に渋々それを了承した。

 

 らいはの周りには彼女たちからの差し入れで散らかっている。俺がそれを片付けながら、心の中でどうしてこうなったと毒づく。

 らいはがいることで変な気を起こす心配は無かったが、他の四人には何と言えばいいのか。四葉が俺の家に泊まったなんてことを知れば、あらぬ疑いをかけられるのではないか。

 

「心配しなくていいですよ。みんなにはちゃんと言ってきましたから」

「……心の声を読むな」

「えへへ。当たりでしたか」

 

 十分もしないうちに彼女はシャワーを済ませたようだ。年頃の女の子にしてはかなり早い気がするが。よく見ると髪は濡れたまま。ドライヤー使っていいことを伝えると、彼女は苦笑いを浮かべた。

 

「らいはちゃん起きちゃうかなって」

「それだとお前が風邪引くだろ。気にすんな」

「それって心配してくれてるんですか?」

「一応な。一応」

 

 変な誤解をされないようにそう言うと、四葉は笑って脱衣所の方へ消えていった。やがて聞き慣れた機械音が響く。素直に言うことを聞いたようで安心する。らいはも起きる様子は無かった。

 その間に、俺はらいはの布団の横に二枚、布団を敷いた。生憎らいはの分を合わせて三枚しか布団がなかったため、四葉には俺の布団で寝てもらうことにしよう。親父の布団よりは少しはマシだろう。

 やがて四葉も髪を乾かし終わり、布団が敷かれた光景を見て何故か感動した様子。

 

「一日早い林間学校って感じがします」

「それは家がボロいってことか?」

「ち、違いますよ!」

 

 そうやって慌てられると、こちらとしても複雑なんだが。

 まぁ実際とんでもないボロ家だし、四葉がそう言いたくなる気持ちも分からないではない。だからお前らの家庭教師なんて引き受けたのだ。親父やらいはに少しでも苦労をかけないように。

 

「俺たちも寝るぞ。電気消していいか?」

「あ、はい!」

 

 ようやく部屋の明かりを消す。空はよく晴れていて、月明かりが部屋に差し込む。それだけでも十分なくらい明るい。俺と四葉は、らいはを挟むように横になった。

 明日の朝には親父も帰ってくる。なんと説明しようか。俺から連れ込んだわけではないし、なんなら迷惑を被ったのは俺の方。だが親父はこの状況を茶化すに決まってる。別にそれはそれで問題はないが、

一々反応するのが面倒なだけだ。

 

「……いきなり押しかけてごめんなさい」

 

 唐突に、四葉がらいは越しにそんなことを言い出す。

 

「今さら謝るな。もう気にしてない」

「らいはちゃん、元気になるといいですね」

 

 らいはを挟んでこんな会話をするのは、すごく変な感じがした。

 こういう時の親父はすぐに寝てしまうし、死んだ母親ともこんな時に会話した記憶がない。だからだろうか。感じたことのない懐かしさを感じるのは。

 

「寝ていいぞ。らいはは俺が見てるから」

「上杉さんほんと溺愛してますね。大丈夫ですよ。らいはちゃんもぐっすり眠ってますし」

「でもな……」

「寝不足で体調壊しますよ。寝てください」

 

 別に明日行かないのだから、寝不足になっても構わない。いくらぐっすり眠っているとは言え、夜中に急に異変が起きるかもしれないのだ。呑気に眠るわけにはいかなかった。

 それ以降、四葉は話しかけてこなくなった。眠るのを邪魔しちゃ悪いとでも考えているのだろう。俺が右側を向くと、彼女もらいはのことをしっかりと見ていた。

 

「お前の方こそ寝ろ。じゃないと明日辛いぞ」

「それは上杉さんの方です」

「俺は行かないって言ったろ。お前らだけで楽しんでこい」

「……そんなの嫌です」

「こればかりは仕方がないだろ」

 

 俺だって、こんなことにならなければ行くつもりだった。それは嘘偽りなく本当のことだ。それ以上に、らいはのことが心配なだけであって、それが解消されればまた話は変わってくる。

 四葉は何も言わずにらいはを見つめている。俺に言いたいこともあるだろうが、彼女のことを気遣って何も言わないのだろう。何も考えていないのも事実だが、こういった時の優しさというのはやはり五人の中でもズバ抜けているような気がした。

 

「こうやって夜中に話すのも悪くないですね。やっぱり」

「どうした急に」

「だって、お互い程よい眠気で話が弾むじゃないですか」

「そうか?」

「そうです」

 

 程よい眠気、彼女はそう言う。

 認めたくはなかったが、さっきから眠気が襲ってきているのも事実。四葉が居てくれるおかげなのか、安心感がある。だからと言って、彼女に甘えるわけにもいかなかった。

 それから三十分ほど話を続ける。少しずつ四葉も眠くなってきたようだった。しかし、眠ろうとはせず最後には起き上がる始末。そこまでして俺を寝かせたいのだろうかと思う。

 

「キャンプファイヤーの話、覚えてますか?」

「あぁ……結びの伝説ってやつか。うっすらとな」

 

 唐突に彼女はそんなことを言う。

 俺が彼女の腹筋を手伝ったあの日、教えてもらった話だ。それをどうして今聞いてくるのかと疑問に思ったが、興味なさそうに返答したことで少し間ができた。だが、俺は彼女の返答を待つ。

 

「五人の中なら……そ、その……」

「……あ、あぁ。そんなことも言ったな」

 

 急に恥ずかしくなったのか、四葉は最後まで言うことなく。そんな雰囲気を出されると、こちらとしても恥ずかしくなる。

 「五人の中なら四葉」確かに俺はそう言った。どうしてかなんて言われれば、正直な話。あまり良い理由ではない。その場しのぎの回答だったのだから。これを他の四人に知られれば、これ以上ない地獄が待っているのは分かるが。

 あれから四人の態度を見る限り、四葉は伝えていないのだろう。伝えていれば、きっととんでもないことになっている気がする。特に三玖には何と言えば良いのだろう。胸を触っておいて、違う女、しかも自身の妹と踊るなんて言ったら。本当に殺されるのではないか。

 だからと言って、三玖と踊るのも違う気がして。永遠に添い遂げるなんて言われたら、そんな安易な行為をしてしまっただけで選ぶのもどうなんだろう。

 

「……上杉さんは三玖と踊ったらどうです?」

「だから俺は行かないって」

「三玖が悲しむから、来て欲しいです」

 

 そんなことを言われても、らいはの体調が優先なのは仕方がない。それは四葉も分かっているはず。でも、彼女の言葉には何故だろう。少しだけ寂しさが込められているように感じる。

 

「……四葉?」

 

 つい今の今まで、らいはに向けられていた彼女の視線は、いつの間にか俺へと向けられていた。月明かりをバックに、寂しげな瞳に吸い込まれそうになる。普段のハツラツな四葉と同一人物なのだろうかと。

 眠くなりかけていた意識を覚醒させるように、俺も起き上がる。面と向かい合うのは恥ずかしく、横目で彼女と()()()()()

 

「あはは……。ごめんなさい。心配させちゃいましたか?」

「そういうわけでないが。そんな目で見られるとその……なんだ」

「なんです?」

「……なんでもない」

 

 自分の心臓が高鳴っていくのが分かる。確かにこいつは四葉だが、普段の四葉とは明らかに違った。いや、むしろこっちが本当の彼女のような気がして。今彼女の目を見たら、本当に吸い込まれそうな綺麗な瞳をしていた。

 

「どうして林間学校、()()()()()キャンプファイヤーにこだわる」

「……そう見えますか?」

「それにしか見えないな」

「ロマンチックじゃないですか。結びの伝説なんて」

 

 確かにその通りではある。俺はそんなものを信じるつもりはないが、きっと他のクラスメイトだって、それを目的にソワソワしているのだろう。逆にそんなことで決めてしまっていいのだろうかと。俺が捻くれているだけかもしれないが。

 

「そうだな。もし踊るなら俺は四葉と踊るぞ」

「……どうしてですか」

「なんか……一番楽かなって」

「そんな理由ですか? 嬉しくないです。それなら一人で踊ってください」

「冗談だって」

 

 冗談、というわけではない。むしろ本当のこと。咄嗟に出てしまった嘘なのだ。自分でもこんな嘘が出てくるなんて思ってもいない。でも、四葉はそれ以上何も言わなかった。

 来てください、行けない。そんなイタチごっこにも飽きてきたのか。四葉は再び横になって俺に背を向けてしまった。何というか、そこまでしょんぼりされると俺としても申し訳なくなる。

 

「四葉」

「……何ですか?」

「その……らいはが良くなったら俺も行くから」

「最初からそう言えばいいんです」

 

 四葉も「らいはを無視してまで」と思っていないとは分かっていたが、思い返してみると、口に出すのはこれが初めてだった。初めから言っておけばこんなイタチごっこもせずに済んだのかと思うと、やるせない気持ちになる。

 

「上杉さん」

「もう寝ろ。俺も寝るから」

「最後に一言だけ。寝る前のおまじないです」

 

 四葉と話疲れたこともあり、先ほどよりも眠気が強くなっている。天井を向いて瞼を閉じる。それは四葉も同じらしく、寝返りを打つ音が聞こえる。きっと仰向けになったのだろう。

 あれだけ興味がないと思っていたのに。明日の朝には「らいはの体調が良くなるといい」なんて思っている自分がいて。きっと四葉が来なければ、本当に行かなかっただろう。

 

 

「おやすみなさい。上杉さん」

 

 

 彼女の言うおまじない。それは聞き慣れた言葉だったのに、今は不思議と身体がふわつくような。まるで特別な魔法がかけられているみたいで。

 

 

「あぁ。おやすみ。また明日な」

 

 

 





 新たに高評価してくださった
 ・レイズンさん・shinowobさん・貧乳PTさん

 ありがとうございました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯と押し入れの嬌声

 

 

 

 

 

 

 林間学校の日がやってきた。集合時間を過ぎても家に居たせいで、俺としては行くつもりは無かったが、四葉が来てしまったこともあり、らいはの体調次第で行くことになった。

 で、朝を迎えたわけだが、見事なまでにらいはの体調が回復。熱も下がり、親父も帰ってきたこともあって、俺は四葉に連れられることになった。親父には散々茶化されたが、適当にあしらって家を後にした。この分だと、帰ってきても茶化される気がしてならない。

 すでにバスが出発していたこともあり、何と中野家が雇っている秘書が目的地まで送迎してくれることになったのだ。俺とは生きている次元が違うんだなとまざまざと見せつけられた感じ。

 しかし。目的地が近づくにつれ雪も酷くなり、渋滞に巻き込まれたのだ。夜中に移動するのは流石に危ないということで、秘書の判断で近くの宿に泊まることになったのだが……。

 

「なんで上杉と一緒の部屋なのよ……!!」

「あはは…急に団体のお客さんが入ったらしくて」

「あんたは昨日も上杉と寝たんでしょ! こんなこと余計認められないわ」

「変な言い方するなよ……」

 

 俺は今晩を五人と同じ部屋で過ごすことになってしまったのだ。それがどういう意味かは俺が良く分かっている。

 本当にまずいのだ。色々とまずい。()()持ちの俺が年頃の女子と同じ部屋で寝る。そんなことがあっていいはずがない。たとえ外で寝ることになっても、今はそっちの方がいいかもしれない。

 今でこそこんなことを思ってはいるが、隣に無防備の女子が眠っていたら、その、心の底を掻き立てられるような感覚に陥るのだ。すでに二人に手を出しているのだから、そいつらには反対してもらいたいが、特に気にせずに荷物を片付けている。参ったな本当に……。

 

「さすがに俺も気が引ける。寝るときは押し入れの中で寝るから」

「い、いやそんなに気を遣わなくても」

「いいんだ。お前らが不安ならそうした方がいい」

 

 咄嗟の思いつきだったが、中々いい案ではないか。

 それに押し入れの中なら、狭いが自分の空間が出来る。完全に遮られれば、変な気を起こす危険性を減らすことも可能なはずだ。

 一花と四葉は「そこまでしなくていい」なんて言ってくれてはいるが。現に四葉とは昨日同じ部屋で寝ている。警戒心が無いことはないだろうが、それでもそこまで気にしている様子もなかった。一花がフォローする理由はよく分からないが、今は何も言わないでおこう。

 

 俺の案に、二乃と五月は渋々了承する。三玖は何も言わなかった。結局、今晩の方向性が決まったことになる。とは言っても不安でしかない。最近の自分を見ていて、人間とは繰り返す生き物ということをまざまざと見せつけられている気がしてならないのだ。林間学校初日からこんなことになるなんて、これなら来ない方がマシだったかもな……。

 

 そうこうしているうちに、時計の針は二十時前に迫っていた。俺たちは高校生が食べるものとは思えない豪勢な夕食を済ませ、そのまま温泉に直行。すぐにそれを済ませ、一人部屋に戻ってきたが五人はまだ戻っていなかった。部屋には布団が六つ敷かれている。きっと旅館の人が敷いてくれたのだろう。俺はそのうちの一つを取って、押し入れの二段目に敷き詰める。

 

「かなりぎゅうぎゅうだなこりゃ……」

 

 押し入れ自体は俺がギリギリ足を伸ばせるぐらい。奥行きもそこまで深くないせいで、寝返りは打てないかもしれない。これは明日筋肉痛になってるかもしれない。寝違えないように注意しないと。

 二段目に登ると、想像していた通り中々に狭い。引き戸を閉めれば、それこそ真っ暗になってしまうだろう。月明かりなんて入る余地はない。せっかくいい旅館に泊まっているというのに、何だかもったいない気もする。ともかく、あいつらが戻ってくる前にはもう寝てしまおう。そうすれば事故を起こさずに済むはずだ。

 

「……本当に押し入れで寝るのですね」

「五月か?」

 

 戻ってきた五月が俺を見てそんなことを言う。浴衣姿ではあったが、星のヘアピンを付けている。それに話し方も彼女っぽかった。

 彼女には、押し入れの中で仰向けになって林間学校のしおりを読んでいる俺は、どんな風に映っているのだろうか。一応俺なりに気を遣ったつもりなのだから、これに対して文句を言われるのは筋違いだと感じる。特に二乃と五月には。

 

「他の四人は?」

「ロビーでくつろいでいます。もう少ししたら戻ってくるかと」

 

 そんな会話をしながら、彼女は布団の上でテキストを広げている。ここでも勉強する意欲があるらしい。それは素晴らしい心がけだが、今は教える気にならなかった。「教えるなら腹筋をしてからです!」なんて言われかねない。まぁ、色々あって、眠気も襲ってきているせいだろう。

 

「……聞かないのですね」

「何がだ」

「父の件です」

「別に今聞くことでもないだろ」

「私が気になるんです」

「はぁ? 何を気にすることがある」

 

 テキストに目を落としたまま、彼女は話す。

 俺からすれば、こいつが気にするようなことは全くないはずだ。でもそう思っているのは俺だけで、彼女は違う。あれだけ素直じゃなかった五月がそんなことを言ってくるなんて。少しずつではあるが、心を開いてきてくれているのだろうか。……まぁ腹筋をお願いしてくる辺り特段意識しているわけではないだろう。

 

「……勝手に続けさせてよかったのかと」

「良いに決まってるだろ。俺としても、あんな条件が無ければ続けてた」

「それはどうしてですか?」

「どうしてって、家のこともあるし…それに」

「……それに?」

「お前らの学力アップのためだ」

 

 特に意識して言ったつもりは無かった。だが五月には俺の言葉が可笑しく聞こえたようで、クスッと頬を緩めている。馬鹿にされたような感じもするが、彼女は俺の表情を察したのか「馬鹿にしてるわけじゃなくて」なんて言っている。説得力は無い。

 

「そんなセリフをあなたから聞くとは思いませんでした」

「やっぱり馬鹿にしてるだろ」

「いいえ全く。とにかく、それを聞けて良かったです」

 

 そう言うと、五月は何も言わずにテキストを読み進め始めた。

 なんだかんだで、あの腹筋のおかげで彼女と接する機会は増えたのも事実。あれだけ歪み合っていた頃を考えれば、大きな進歩だ。だからこそ、三玖や四葉のことを知られるわけにはいかない。余計なボロが出る前に、もう寝てしまおう。五月に一言告げ、押し入れの戸を閉めた。真っ暗で、それが眠気を促進させる。

 

 そのまま重い瞼を閉じていく。なんだかんだで丸く収まりそうで良かった。そんなことを思いながら、いい夢を見れるといいななんて。

 

 

 

❤︎

 

 

 

 甘い香りがしたような気がする。嗅いだことのない匂い。でも、どこか知っている香りが混じっていて。閉じていた瞼を開けると、真っ暗な押し入れの中。

 あぁここで寝てたんだっけ。寝ぼけながらそんなことを思う。目を擦り、枕元に置いていたスマートフォンで時間を確認すると、夜中の四時だった。まだ出発までには時間がある。ここで起きたところで何も出来ない。もう一眠り出来そうだ。

 

 

「――――フータロー」

 

 

 ピクッと鼻が動いた。と同時に匂いを感知する。

 起きる前に感じたあの匂いだ。それが今、俺の足元から香ってくる。――――俺の名を呼ぶ声に乗って。

 

「みっ――――」

 

 俺が言いかけたところで、彼女は急いで俺の口を押さえた。あのままでは中々の大声で彼女を呼んでいたに違いない。それだと、他の四人になんと言われるか。待っているのは地獄だ。

 ってそう言ってる場合じゃない。なんなんだこの状況は。俺が連れ込んだわけではないはずだ。少し暗がりに目が慣れてくる。話し方と寝間着を見ると、やはりこいつは三玖だ。なぜこんな時間に押し入れの中に居る? 考えたところで答えなんて出るわけがないが。

 

――――またしてほしい

 

――――嫌じゃないよ

 

 あぁやっぱりそういうことなんだな。前に彼女から言われた言葉が頭をよぎる。それで今この状況を確信する。

 いや、本音を言えばハナから分かっていた。彼女がアレを求めていることぐらい。それを受け入れる勇気が無かっただけで。でもこんな場面に出くわしてしまったのなら、否が応でも受け入れざるを得ない。

 さっき彼女たちと寝る場所で軽く言い合いになっていた時も、三玖だけは何も言ってこなかった。どちらの立場にも立たずに。きっと決めていたのだろう。俺が押し入れで寝ることになった時からこうすることを。そこで初めて、自身の決断を後悔した。三玖にとって、今は絶好の機会ということだ。自らの快感を満たす絶好の。

 

 その証拠に、暗がりでも分かるぐらい、彼女の顔は紅潮していた。今の彼女は何を考えているのだろう。これからの行為を想像して、呼吸を荒くしているのだろうか。それとも、違う何かを考えてなのか。間違いなく前者なのだろうが、俺としては後者であって欲しかったりする。身勝手な考えかもしれないが。

 

「お願いフータロー……」

「い、いやここじゃさすがに…」

 

 こんなところで彼女の胸を揉んでみろ。薄い戸を一枚挟んだだけで、すぐ隣には姉妹たちが眠っている。三玖が声を出そうものなら、俺はいよいよ彼女たちに殺されるかもしれない。

 三玖はそんなのお構いなしらしい。ジリジリと俺に詰め寄ってくる。寝間着のボタンは開けられていて、すぐ手をやれば一瞬ではだけてしまうだろう。頭が揺らぐ。痛い。痛覚が麻痺していきそうな。

 

「フータロー……」

「み、三玖……」

「触って………」

 

 あぁもうだめだ。理性の糸が完全に千切れ、俺は彼女の豊満な胸に手を伸ばした。躊躇うこともなく、優しく触る。彼女の部屋で触った時以来の感触は、何故だろう。あの時よりも俺の性的欲求を刺激している。

 三玖は俺の腰に跨って、両手の動きを受け入れている。天井に頭をぶつけないように、下を向いているせいで俺は彼女と顔を合わせて胸を揉んでいる。それはまるで恋人同士の営みのような。

 声が出ないように、彼女は右手の人差し指を口に当てて堪えている。それを発散するように、三玖の腰は俺の腰の上で暴れている。音が聞こえているかもしれないが、そんなものはどうでもいいなんて思ってしまうほど。理性は甘い味に染まっていた。

 

「ど、どうだ…?」

「すごい…なんかやば……」

 

 お互いに声を抑えているが、息は荒い。彼女の腰も一段と動きを激しくする。これはもうバレてるかもしれない。でももういいや。今はこの快楽に身を任せてしまいたい。このまま流れて、最後までいってしまっても、後悔はない。

 

 

 その時だった。押し入れの引き戸が突然開いたのは。

 

 

「――――何してんのよ……!」

「に、に、二乃……」

 

 切れてしまった理性の糸。それでも今のこの状況は、よく分かった。あぁ終わったと。一番見られてはいけない奴に見られたのだ。俺の手は三玖の胸に伸びたままで、彼女は俺に跨ったまま。慌てて手を離すが、二乃は何も言わない。お互い服を着ていたとは言え、これは側から見てももう言い逃れの出来ないほど。

 そこでようやく三玖は俺の上から降りる。息は荒いままで、それが二乃の表情を歪める。彼女に文句を言いたそうにしていたが、すぐに視線を俺に移す。暗がりでも分かる。明らかに怒りの視線をしていた。

 

「ちょっと来なさい」

「え、えっと…」

「あんたに拒否権はない」

 

 俺は押し入れを出て、部屋を出ていく彼女に付いていく。二乃と三玖以外の彼女たちは寝ているようだった。だが、きっと明日にはこのことをバラされて、家庭教師もクビになるのだろう。彼女たちの父親からも追い詰められて、いよいよ俺の人生は終わりを迎えるらしい。

 

 旅館のロビーに出てくる。俺たち以外には誰も居なかった。夜中の四時なのだから、それもそうだろう。ロビーのソファーに腰掛ける二乃。だが俺は彼女と面と向かえる自信が無かった。二乃の後ろに立ったまま話をしようと考えた。

 

「物音がすると思ったら」

「………」

「三玖とあんな関係だったなんて」

「………」

「いつからよ」

「……少し前」

「詳しく教えなさい」

「……中間試験の少し前だ」

 

 「やっぱり」二乃はため息をついてそう呟いた。

 彼女もずっと俺と三玖の関係を疑っていたのだ。そういう反応もある意味自然というか、なんというか。この状況で嘘をつく気にはなれなかった。ここで嘘をついてしまえば、益々状況が悪化するだけだ。

 

「三玖が言うマッサージって、あのことなの?」

「……そうだ」

「最低ね。本当最低」

「……言っておくが、無理矢理ではない。お互い同意の上だ」

「それがどういう意味か分かってるの?」

 

 二乃は一番痛いところを突いてきた。

 お互い同意の上、これは嘘偽りない事実。しかし、俺と三玖は恋人関係にはない。ただの家庭教師と生徒というだけ。それなのに、それ以上の関係になってしまった。では、今の俺と三玖の関係は何なのか。恋人でもないのに、彼女の身体に手を出してしまった。自身の欲に負けて。

 問いかけに答えられない俺を見て、彼女は呆れている。二度目の盛大なため息。何か答えないと、なんて思ってはいたが。

 

「全部俺が悪いんだ」

「分かってるわよそんなこと」

 

 二乃に謝るのも違う気がして、そんなことが口から出てくる。彼女はそれを蹴飛ばすように言葉を放つ。それだけを言い残して、二乃は部屋へと戻って行ってしまった。

 一体何が言いたかったのだろうか、とも思ったが、今の俺にそれを言える筋合いはない。俺と三玖の関係がバレてしまった以上、これまで通りに五人と接することは出来ないだろう。一人残された俺は、真っ暗な外をただ見つめるしかなかった。

 

 

「終わったな……俺の人生」

 

 

 






 嘘はいつかバレますね(笑)
 新しく高評価してくださった、・毒蛇さん・fv304さん・ねむネコさん
 ありがとうございました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯と押し入れの嬌声②

 

 

 

 

 

 

 

「フータロー……ごめん……」

「あぁいや。三玖は悪くないから」

 

 林間学校二日目。雪も落ち着き、無事にクラスへ合流することができた。と言っても、彼らも俺たちと同じように目的地にたどり着けなかったらしいが。二日目とは言っても、実質一日目のようなものだ。

 今日はクラスごとにカレー作りと肝試し。正直、小学生がやるような内容ではあるが、ここにいる奴らは浮き足立っていて、誰もそれを疑問に思う人はいない。そんなことを考えながら、火にかけた米を眺めていた。

 

「元はと言えば私が……その」

「まぁ……今さら言っても仕方ないだろ」

「それはそうだけど」

 

 そんな時に三玖が話しかけてきたのだ。クラスは違うこともあって彼女がここに居るのは変な話。しかし、今はそんなことを気にしている余裕が無かった。俺も彼女も。

 

 今朝の事件。あの行為を二乃に見られてしまった。そして俺が吐いていた嘘もバレ、もう彼女たちとの関係はおろか、学校内での立場や地位も死んだものだと思っていた。

 ところがだ。今日の彼女たちの反応はこれまでと何ら変わらない。まるでそれを知らないような。

 三玖に話を聞くと、どうやら二乃は何も言っていないらしい。彼女も二乃とは口をきけていないらしいが、何となくそんな気がするというのだ。俺からすれば、それ自体が不思議でならなかった。真っ先に言いふらして、俺を抹殺すると思っていただけに。何か企んでいるのだろうか。いずれにしても、このままでは終わらない気がして。

 

「二乃は?」

「無言でカレー作ってる。何となく分かるけど、あれは怒ってる」

「無論、俺に対してだろうな」

 

 あいつが無言になる時は相当頭にきている時だ。

 ガミガミ言われるのも精神的にくるが、何も言われないのはそれ以上に恐ろしい。三玖のことを考えても、やはりこのまま放っておくわけにはいかないようだ。

 二乃にも言ったが、あれはあくまでも同意の上だ。俺が無理矢理押し倒したわけではない。まぁきっかけまで遡ると話は別だが、今はそこまで考える必要もないだろう。

 きっとそれは二乃も分かっているはずだ。冷静になって考えてみると、同意しているからこそ、他の三人には何も言わないのではないか。そうだとしたら、これは彼女なりの気遣いだったりするのかもしれない。いずれにしても、どこかで話すタイミングが出来ればいいんだが。

 

「三玖。どうしてここにいるのですか」

「フータローと話してた」

「それは見れば分かります。自分の班に戻ってください」

「あと少ししたら戻る」

「ダメです。班のメンバーに迷惑かかりますよ」

 

 俺と同じクラスの五月が俺たちの様子に気づく。言っている内容は至って正論だ。最初は嫌がっていた三玖も、これ以上何か言うと面倒になると察したようで。何か言いた気な表情をしたまま戻っていった。

 

「――――それで? どうして二乃が怒っているのですか?」

「……盗み聞きか?」

「たまたま聞こえただけです」

 

 話はそれだけと思い込んでいただけに、返答に困った。そんな俺の気持ちも知らず、五月は俺の横で中腰になる。三玖には戻れと言ったくせに勝手な奴だ。

 思考を巡らせる。こいつの態度を見る限り、今朝のことは知らないようだ。なんというか、三玖の姿が重なってしまって申し訳ない気持ちになる。だが、ここで今朝のことを告げるのは危ないだろう。二乃からバラされない限り、わざわざ俺たちの口から言う必要はない。彼女と同じぐらい知られるとまずいのだから。

 俺の班の米を眺めてつつ、明らかに俺の反応を待っている五月。どうしたものか。二乃に吐いていた嘘がバレたことで、更なる嘘を重ねるにも勇気がいる。そんなことを考えているせいで、変な間が出来たせいで、彼女は明らかに怪しんでいる。

 

「どうして黙るのですか?」

「別にいいだろ。第一、五月には関係ない」

「か、関係ないことありません!」

「何故そうなる」

 

 「そ、それは……」五月は口ごもる。どうせ「姉妹だから」なんて言い出すつもりだったのだろう。そんなものは理由でもなんでもない。ただのこじつけだ。それを自分でも分かっているのだろう。彼女は何も言わず俯いている。

 

「ほら。お前も自分の班に戻れ」

「……こうなったら本人の口から聞くしかないようですね」

「お、おいどうした」

「二乃に聞いてきます。上杉くんも理由が分かった方がいいでしょう」

 

 それは今じゃないんだ五月。そんなことをされれば俺は終わってしまうだけ。恐らく彼女なりの気遣いなのだろうが、今はただ余計なお世話なだけ。立ち上がった五月を制止するも、彼女は俺の行動が不可解だったようで。

 

「どうして止めるのです?」

「い、いやほら。今行くと余計面倒なことになるんじゃないかと」

「余計に、ということは何かあったのは間違いないようですね」

 

 揚げ足を取られたが、それを否定する気にはなれなかった。一度バレた嘘のせいで、面倒ごとを避けたい本能的な何かが身体に働いている。

 米からの湯気が鼻腔を抜ける。どこか荒い匂い。焦げているわけではないが、そろそろ頃合いかもしれない。しかし、それ以上に五月を何とかしないといけない。

 

「だからお前には関係ない」

「どうして……!」

「米持っていくわ。じゃあな」

 

 火を消し、軍手をしっかりと重ねて米を持つ。そして逃げるようにその場を離れる。まるでこれまでの会話を濁すような行動。今の俺にとってそれが一番ベストな選択だ。その五月はというと、熱い米を持っているせいで下手に声を掛けようとはしていない。

 自分の班に持っていくと、何故か班のメンバーは不思議そうな顔をしている。その視線は後ろに向けられていて、その時点で何か察するものはある。どこまでもしつこい奴だ。

 

「少し上杉くんをお借りします」

「おい五月」

 

 そう言うと彼女は俺の手を引いて歩き出す。その歩みは力強いというか、少しイラついているように見える。それもそうだろう。あんな適当にあしらわれたのだから。そこで引く彼女じゃないことぐらい、俺も知っていた。

 どこまで行くのだろうか。二人でじっくり話すのだろうと思うが、周りでは他の生徒たちがカレー作りに勤しんでいる。俺たちの姿が可笑しいのか、クスクスと笑う声も聞こえる。いい気はしないが、五月はそんなことお構いなしの様子。俺の手首を掴んでいる彼女の手には力が込められている。

 

 やがて視界に入るのは、見慣れた後ろ姿の彼女。

 

「二乃」

「なに――――ってどういうつもり?」

「やはり、二人の間で何かあったようですね」

 

 二乃は俺たちを見てあからさまに顔を歪めている。それもそうだろう。大切な姉妹の胸を揉んだ奴が目の前に居るのだから。それを連れてきたのが五月だというのも、今の彼女にとっては腹立たしいのではないか。

 カレーを煮込んでいた彼女だったが、その手を止める。同じ班のメンバーに一言言って、首で促す。付いてこいというのだろう。相変わらず五月は俺の手首を掴んだままだった。もうここまで来たら腹を括るしかないだろう。

 やがて人気のない場所に出る。日が暮れてしまえば中々足を踏み入れられないようなそんな雰囲気。だが三人いるせいか、彼女たちの顔に不安はない。むしろあるのは怒りのような。

 

「いつまで手繋いでるのよ」

「こ、これは繋いでいるわけではありません! 上杉くんが逃げないように……」

 

 二乃の言葉に、五月は反射的に手を離す。結構な力で握られていたせいか、いざ離されると違和感がある。だからと言って「離さないで」なんてことは口が裂けても言えない。

 

「上杉くんと何があったのですか?」

「――――別に。五月には関係ないじゃない」

「二乃までそう言うのですね」

「そもそも聞いて何になるの? 五月、あんただって上杉のこと避けてるじゃない。それなのにわざわざ足を突っ込んでどうするのよ?」

「わ、私は二乃のことが心配なだけです。そこまで怒っている二乃を見るのは久しぶりなので……」

 

 二乃の眉毛がピクッと反応する。怒っている、という言葉に。

 ふと考えてみる。もしかして本当にそういうわけではないのか? いやまさか。どう転んでも、そんなことはないはずだ。だが仮に怒っていないというのなら、今の二乃の感情は何なのだろう。

 彼女も五月なりの優しさだと分かっているはず。だからと言って、俺に怒りをぶつけようとはしていない。それがいつもとは違う大きなポイントだった。

 いつもであれば、真っ先に俺へ文句を言うくせに。何というか、何かを考えながら、まるで言葉を探っているようで。

 

「だから別に関係ないじゃない」

 

 彼女は同じ言葉を繰り返した。五月は納得する素振りは見せていない。それもそうだろう。そんなことを聞くためにわざわざ俺を連れて彼女を問いただしに来たわけではないのだ。俺としては今このタイミングでというのは流石に想定外だったが。

 

「話ってそれ? だったらもう戻っていいかしら。班のメンバーに任せっぱなしだから」

「……分かりました」

「ふん。分かればいいのよ。それじゃ」

 

 二乃はそのまま立ち去ってしまった。ある種の修羅場だったが、何事もなく切り抜けることが出来たようだ。何というか、思いの外あっさりとしていたような。

 隣にいる五月は相変わらず、腑に落ちない様子だ。頬を少し膨らませて、分かりやすく拗ねている。俺も彼女を置いて戻りたかったが、それをすると変に怒られそうで戻るに戻れなかった。

 

「本当に何があったのですか」

「何もないって言ったろ。二乃も言ってたし」

「二乃は『私には関係ない』と言いました。何かあったことは否定していません。きっと嘘をついています」

 

 さすがにずっと一緒に居れば、彼女が本当のことを言っているかどうかは分かるのだろう。拗ねている彼女を横目に、グッと背伸びをする。自身の気持ちを誤魔化すように。

 先ほどよりも夕日が落ちてきている。この辺りもじき暗くなる。このままここに居れば班のメンバーや他の姉妹たちに心配されるはず。

 

「戻るぞ。カレーが出来ちまう」

「……あの上杉くん。その、誤解しないで聞いてほしいのですが」

「なんだ」

「二乃とその……そういう関係なのですか?」

 

 「は?」思わず足を止める。彼女は「誤解しないで」なんて前置きしたが、それ以前の話だ。先ほどの会話から一体何をどう思ってそんな結論に至るのだろう。つくづく女心は分からない。

 そういう関係、なんて言い方を濁すあたり、こいつはそういうコトには疎いのだろうか。確かに五人の中で変に一番真面目。だがそれゆえに、実は恋愛とかに一番興味がありそうな感じがする。まぁ勝手な想像だが。

 そもそも、俺のことを毛嫌いしているあいつと付き合っている訳がないだろう。それを思い出したのだろうか。俺の顔を見て彼女は苦笑いする。自分でもその言葉の意味が分からなかったらしい。

 

「何故そうなるんだ。別に二乃とは何もない」

「……クラスのカップルもこんな会話をしていたので、もしかしたらと思いまして」

「まぁそんなことだろうと思ったが」

「ですが、何と言うか。何かに嫉妬しているように見えて」

「嫉妬ねぇ」

 

 二乃があの行為に嫉妬したというのなら、それはそれで問題ありまくりだ。無論そんなことは絶対に有り得ないが。

 それはそうと、俺の人ごとのような返答に、隣を歩いている彼女はどこか寂しげにしている。あれだけ俺とぶつかっていた五月のそんな表情。きっとこれは夕焼けのせいだろう。深く考えると、変に彼女のことが気になって仕方がなくなる。

 相変わらず腹筋はするし、要領悪いし、面倒な奴であることには変わりない。しかし、四人のことを陰で支えようとする姿勢はよく伝わる。今だって俺のことを疑ってはいるが、それも二乃のことを思って。根っこの部分はただ心優しい奴なわけで。

 

「もしですよ。もしもの話です」

「今度はなんだよ」

「……いえ。やっぱりいいです」

 

 そこで焦らされると、気になってしまうのが人間の性。かと言って、聞いてしまえば余計なことに気を遣わないといけない気がして。あえて何も言わなかった。

 

「逆に聞くが、俺が二乃と付き合っていたらどう思う?」

「へ、変なこと言わないでください」

「最初に言い出したのお前だろ……」

「私はその……そこまでは言ってません!」

「やっぱり面倒くせえ」

 

 付き合っているとは言っていないが、ほぼ同じ意味ではないか。そこに変にこだわるあたり、やはり面倒な奴だ。聞いた俺が馬鹿だったと後悔する。

 これ以上話を続ければ、きっと余計に面倒なことになりそうだ。適当に話を切り上げ、そのまま歩みを進める。カレーも出来上がってしまったかもしれない。班のメンバーには迷惑をかけたなこりゃ。

 

 そんな時、携帯が鳴った。メールだ。

 

 

「今夜の肝試し、私とペアになりなさい。さもないと今朝のことバラすから」

 

 

 





 新たに高評価してくださった、らルムさん

 ありがとうございました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯と押し入れの嬌声③

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜。今日の一番の目玉イベント、肝試しの時間がやってきた。周りを見れば各々の好きな男女ペアになったり、友人同士でコースに足を踏み入れていく。これに関してはクラスも関係無いせいか、カレーの時より明らかに生徒たちのテンションは高いように見える。

 

「何してんのよ。早く行くわよ」

「俺は実行委員なんだぞ……普通に参加していいわけないだろ…」

「そう言うけど、四葉にお願いしてまでここまで来たんじゃない。バラされた方がいいかしら?」

「……分かったから」

 

 二乃の蔑んだような視線。まさにお姫様が着るような洋服を着ている。それが似合ってしまうのも、彼女の性格があるのだろうか。周りが続々とスタートしていく中、俺たちは中々動かないでいた。と言っても、俺が行きたくないだけの話なんだが。

 そもそも肝試しの実行委員をやっていたせいで、普通に参加するのも気が引けた。四葉にお願いしたが、彼女が仕事をしている間、普通にコースを歩くのもどうなのだろうか。

 だが実際はそれ以上に、こいつと二人で参加するのが一番恐ろしいのだ。何故こんな提案をしてきたのかも分かるわけがない。そもそも何を考えているのか分からない彼女。今の俺に察することなんて出来るわけがない。それに重大な秘密を握られている今、彼女の言うことを蔑ろにすることは出来ないのが現実なわけで。万が一、この状況を五月に見られてみろ。面倒に拍車がかかるだけだ。

 

「さっさと終わらせるぞ」

「……さあ? とりあえず行きましょ」

 

 何故疑問符で返す。だが二乃は俺の返答を待たず、一歩前を歩き始めた。大きくため息をついて彼女に続く。

 きっとこいつは、今この状況を楽しんでいる。五月にバレようが関係無いのだ。どのみち首が締まるのは俺だけ。あれだけ五月が疑っていた中、俺と二人きりになることでより面倒毎に巻き込んでいくつもりなのだろう。

 

「ちょっと」

「なんだよ」

「いつまで前歩かせるつもり? あんたが前歩きなさいよ」

「……はいはい」

 

 強がってはいるが、彼女も実はビビっているらしい。何というか、変に()()()を出されると妙にペースが狂う。

 前後を入れ替わり、黙って前へと進む。今のところ何も起きない。二乃はキョロキョロと周りを見ながら、でも俺への警戒も怠っていない。いや俺がこの状況で手を出すとでも思っているのだろうか。そもそも誘ってきたのはお前自身だろう。

 肝試しの恐怖心は一切無かった。委員をやっていたこともあり、コースに仕掛けられたトラップは把握済み。むしろ後ろを歩いているこいつの方が怖い。いずれにしてもこの状況を打破しなければ。

 

「さっき三玖に問いただした」

「……それで?」

「……別に嫌がってなかったわ。あんたが言ってたことは本当のようね」

 

 唐突に核心へ触れる。お互い前だけを見て交わす会話。俺としても、二乃がそれをあっさり認めたところが不思議ではあったが、変に疑われるよりはマシだろう。適当な相槌を打って、彼女の言葉を待つ。

 

「あんた、三玖のこと好きなの?」

「……えっと」

「何で黙るのよ。好きでもないのに()()()()をしたっていうわけ?」

 

 あぁきっとこっちの方が核心らしい。以前にも一花に同じ質問をされた。その時も今みたいに上手く言葉が出てきていない。彼女は特に何も言わないでいてくれたが、二乃は違う。

 「好きでもないのにあんな事を」俺が一番避けていた言葉を、彼女は平然とぶつけてきた。元々俺のことを毛嫌いしているこいつだ。気を遣う必要なんて無いと考えているのだろう。実際そうだと思うし。

 じゃあ、彼女の言うことは正しいのか? 自問する。好きでもない、と言えば、それは嘘。彼女のことは好きだ。でも、俺が言う好きというのは、きっと恋愛感情ではない。生徒と家庭教師という立場で、三玖はいい教え子という枠を超えていない。

 

「三玖のことは好きだ」

「どういう意味で?」

「……それは」

「……はぁ。もういいわ。あんたがクズってことはよく分かった」

 

 こうやってハッキリと言えるのは五人の中でも二乃ぐらいだろう。これに関しては、ぐうの音も出ないような正論。女であれば誰でもいいなんて思ってはいない。だが、あの時の頭が麻痺したような感覚に陥ってしまえば、自制が効かなくなるのだ。きっと俺だけじゃない。そう思い込みたい。

 俺の返答に相当イラついたのだろう。「前を歩け」なんて言い出したくせに、いつの間にか二乃の方が前を歩いていた。距離も先ほどより少し離れたような気もする。

 それからはお互い無言。仕掛けが出てくるたび二乃は身体をビクつかせるが、強がって怖がる素振りを出さないようにしている。無論、俺から見ればそんなものバレバレだが。

 ただ二人きり、しかも無言で歩き続けるのも案外疲れる。一応これでも俺なりには気を遣っているということか。まぁこいつはどうか知らないが。

 

 ふと、マナーモードにしていたスマートフォンが振動する。立ち止まって確認すると、らいはからだった。

 体調は完全に回復したらしく、もう元気に過ごせているらしい。現状報告も兼ねて連絡してきてくれたようだ。今この状況ということもあって、彼女の優しさが染みる。立ち止まったままそのメールに返信を打つ。余計な情報は入れず、安心したことを盛り込む。ほんの数分だけ止まっていたつもり。しかし、送信した時にはさっきまで一緒にいたはずの彼女が消えていて。

 

「に、二乃?」

 

 呼び掛けても返答はない。やってしまったと考えた時には身体が前へと足を進めている。これであいつが迷ってでもみろ。仕返しで何をされるか分からない。

 いくら俺を毛嫌いしているからと言って、こんな森の中に放り投げるつもりは全く無い。それに他の四人にも余計な心配をかけることになる。()()()()とは言え、彼女を一人にするのは流石に申し訳ない。

 少し歩く速度を上げる。ここから先は一本道のはず。道なりに進んでいれば、どこかで合流することができるはずだ。彼女が道を外れない限りの話だが。彼女の名前を呼びながら念のため左右を見る。名もなきこの森は夜に立ち入るべきではないなと思うほど不気味だ。俺一人でも少しだけ心細い。二乃は大丈夫だろうか。

 

「上杉………!」

 

 それからすぐ、目の前で立ち止まっていた二乃を見つけることができた。結構離れた場所まで俺が立ち止まったことを知らずに歩いてきていたのだろうか。いずれにしても、俺の姿を確認した彼女は少しだけ頬が緩んだように見えた。気のせいかもしれないが。

 

「わ、悪い。メールに返信してて」

「ふ、ふざけないでよ! 一人で行かせるなんてどういうつもり!」

 

 静かな森の中によく響く声で詰め寄ってくる。俺の頭にもジンジンと反響する声。どうやら思っていたより元気なようだ。と思っていたがその考えはすぐに消える。俺の胸ぐらを掴む彼女細い手は、確かに震えていた。

 

「……震えてるのか?」

「……ち、違う」

 

 そんなことを言うが、誤魔化せないほど震えているのが分かる。慌てて胸ぐらから手を離すが、それ以上は何も言わない。いや、言えないのだと思う。

 本当に細くてすぐに折れてしまいそうな綺麗な手をしている。こうしてみると、やはりこいつらは俺みたいな人間とは違うところを生きている。今の今まで気にしたことなんて無かったが、この二乃も例外ではない。俺への口や態度は悪いが、それでも見た目は周りから一目置かれるようなキラキラした存在。学年を牽引するようなお洒落な雰囲気を持っている。

 

「その……悪かった。もう離れないから」

「……言い方がキモいんだけど」

 

 「……確かに」自分でもクサすぎて笑ってしまった。辛辣な言葉を飛ばす彼女。先ほどよりは落ち着いたようだ。正直、普段の二乃と接するよりも今の方が何となく楽だった。弱っている彼女は何というか、すごくしおらしい。俺が普段の彼女しか知らないからだろうが、きっとこれも彼女の素なのだろう。

 今はコースも半ば過ぎ。後少しで出口も見えてくる。それまでに彼女の意図を見つけなければならないが、変な申し訳なさで上手く言葉を紡げない。そんな俺を尻目に、二乃はしっかりと俺の隣に付いて歩いている。最初からそうしていればこんなことにはならなかったのに、なんて心の中で毒を吐く。

 

「……あんな三玖を見たのがショックだった」

「…悪い」

「別に文句言ってるわけじゃない。あの子のアンタに対する態度は明らかに可笑しかったわけだし」

 

 おもむろに話し始めた二乃。横目で彼女を確認すると、俯き気味で、思っていたより丁寧に言葉を紡いでいる様子。やはり普段接していた二乃とは違う。今ならハッキリと聞けるかもしれない。

 

「どうしてあんな真似をして、俺を誘った」

 

 意を決して、彼女に目的を問いかける。先ほどの俺の答えで満足したとは思えない。もしかしたら別の目的があるんじゃないか、なんて思いながら。

 二乃はしばらく黙ったまま、何も言わなかった。意識が彼女に集中しているせいで、さっきまで聞こえていた木々の揺れる音やカラスの鳴き声は、まるでフィルターにかかったように聞こえなくなっていた。

 

「どういうつもりか問いただすためよ」

「……その答えは得られたか?」

「ま、さっきのふざけたアレがそうなんでしょ」

 

 その返答は拍子抜けだった。俺のあんな答えで彼女は納得したと思えない。そうは言っても、二乃は不満を抱えたような表情もしていない。本当に本当なのだろうか。

 俺の表情を読んだのか。何も言っていないのに、彼女は再びおもむろに話し始めた。

 

「何よ。アンタたちが同意しているのなら別にいい」

「い、いやそうだが……どうして急に」

「……」

「これまでの態度と全く違うというか……」

「……」

 

 その問いには何も答えなかった。きっと彼女なりの答えはあるはずなのだ。でも、それを言いたくないのは理由があるはず。でも、今それを無理矢理聞き出すつもりにはならなかった。

 俺としては、これ以上ない展開であることには間違いない。何をしでかすか分からない二乃が、よく分からない理由で丸く収まってくれたわけで。俺と三玖の関係、そして俺の行為が他の四人にバレずに済んだのだから。

 でも、なんだろうかこの違和感は。隣に居るこいつは間違いなく二乃だ。それは間違いない。そうなると、やっぱり普段の彼女と違いすぎるが故の感覚なのだろうか。

 いやだからこそだ。これまで異分子の俺を排除しようとしていた彼女が、いつからこんな話の通じる奴になったのか。

 

「思ったより怖くないわね。さっさと帰るわよ。このままアンタと二人きりなんて()()()()()分からないから」

「しねえよ」

「三玖にはするくせに」

「お前にするわけないだろ」

「な、何よその言い草! ムカつくんだけど」

「ムカついてどうするんだよ……」

 

 こいつは言葉の意味を分かっているのだろうか。

 そんな言い方をされれば、「私のも触って」なんて言ってるようなものではないか。いや絶対に触るわけにはいかない。そんなことをすれば、今度こそ俺は殺されるだろう。

 ふと意識を暗い道に戻す。忘れかけていたが、一応俺たちは肝試し中だ。仕掛けの位置は把握済みの俺にとって、恐怖という感情は隣の彼女にしか抱いていない。それも、思っていたより穏便に済ませることができた。俺としては願ってもいない展開だ。

 

「……勉強は進んでいるか。前回は惜しかったな」

「別に。適当にやってるだけ」

 

 話を変えるつもりはなかったが、この変な空気感が嫌で思わずそんな言葉が漏れた。彼女は特に驚いた様子もなく、それこそ適当に返事をする。分かってはいたが、勉強に対するやる気はそうでもないらしい。しかし、家庭教師を拒否していた時を思えば進歩しているのには変わらない。

 ふと隣を見る。両手を組んでいて、止まったと思っていた震えが彼女を襲っているように見える。怖いのだろうか。

 そんな時、ピュッと吹き付ける冷たい風。あぁこれか。お洒落は大事かもしれないが、それで体調を崩すのは本末転倒である。ため息をついて羽織っていたカーディガンを彼女に差し出す。

 

「な、なに」

「寒いなら着ろ。お前が風邪引いたら俺が責められかねない」

「い、嫌よ。アンタの服なんて」

「忘れたのか。これはお前が選んだ服だぞ」

 

 二乃は顔をしかめている。林間学校の前、お洒落に疎い俺のために一花を除く四人が服を選んでくれたのだ。その中で唯一真面目にコーディネートしてくれたのが彼女。疎くても、こいつが選んでくれたカーディガンは「いいな」と思っていたりする。

 差し出されている間にも風は吹く。脱いだことで逆に俺が寒さを感じるようになったが、部屋に戻って羽織るものを取りに行けばいいだけの話。

 

「……分かったわよ」

「もうすぐでゴールだ。さっさと行くぞ」

 

 素直にそれを羽織った彼女は、やはりいつもより、しおらしい。

 もっとゴネるものかと思っていたが、案外素直な一面もあるもんだなと。このまま真っ直ぐ歩いて行けばすぐにゴールも見えてくる。歩く速度を早めようか、なんて思っていたのに。

 

「……に、二乃?」

 

 彼女は、俺が着ていた長袖の裾を掴んでいた。

 驚きの展開に思わず立ち止まってしまうが、それは彼女も同じようで。

 

「……い、一回しか言わないから。黙って聞きなさい」

「お、おう?」

 

 本当にこいつは何を考えているのだろうか。結局、肝試しが終わるというのに最後まで分からなかった。五月たちには二人で回ったことはバレていないのは良かったと言えるだろう。

 だが問題は、今俺の後ろにいる彼女だ。これまで俺が接していた彼女とは、全く違う。言葉の節々には俺の知っている二乃が居る。でも、明らかに雰囲気は違って見えて。本当の彼女を知るには、もう少し時間が必要だった。

 

 

「………ありがと」

 

 

 






 新たに高評価してくださった
 ・セルキーさん・タマーゴ=カッケゴハーンさん・だんまさん

 ありがとうございました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

◯◯と火照ったムネ



 どうでもいいですが改名しました。夢は五月に蔑まれることです。




 

 

 

 

 

 

 肝試しを終えた俺は、宿泊先に戻り羽織るものを部屋に取りに戻っていた。二乃からカーディガンを返してもらうのを忘れてしまったことで、さすがに一枚羽織らないと風邪を引いてしまう。明日はジャージで過ごすことが増えるだろうが、今からキャンプファイヤーの準備に行く必要があった。

 

 それは何故かと言えば、単純に俺のプライドが許さないだけ。男としての。二乃と肝試しを回ったことで、俺は実行委員の仕事を一切やらなかった。代わりに引き受けてくれた四葉のことを、少しでも助けてあげないといけない。元々クラスも違うというのに、俺のことを楽しませようと必死になっている彼女を。らいはの看病してくれたお礼もしないといけないな。

 部屋を出て、準備のために外れにある倉庫へ向かう。そこではキャンプファイヤーで使う割れ木を多くの生徒が運び出していた。これが中々の体力仕事なわけで。季節を無視して汗を浮かべている生徒が多い。

 

「あれ? 上杉さん!」

「四葉。さっきは助かった。ヘルプに来たぞ」

 

 担当ではない俺が来るとは思わなかったのか、四葉は驚いた様子だ。だがそんな気持ちが嬉しかったようで、すぐに頬を緩める。先ほどの二乃とは打って変わって、分かりやすい感情変化だ。

 彼女とペアになって一緒に割れ木を持つ。彼女たちに隠しているつもりはないが、運動は大の苦手。力も無い。そのせいで、四葉の方が力強そうに見える構図が出来上がってしまった。

 

「……腹筋必要なのは上杉さんじゃないですか?」

「何も言うな……。ほら行くぞ」

 

 男として情けないとは思うが、腹筋をする時間を勉強に当てたいのが本音だった。別に運動は嫌いではない。ただやりたくないだけで。

 ただこの割れ木。俺が想像していた以上に重い。一本運び終わっただけで背中から汗が吹き出している。せっかく部屋に戻って羽織ってきたのに、今はこれが邪魔でしか無かった。

 それからは同じ行為の繰り返し。二本、三本と運び終えたところで、残りが少なくなってきたことに気づく。その頃には額からも汗が垂れてきていた。早く風呂で汗を流してしまいたい。

 

「フータロー君?」

「一花か」

「あれ、ここの担当だっけ?」

「いやまぁ、色々あって」

 

 二乃と二人で肝試しを回ったことは、中々言えそうにない。別に聞かれない限りこちらから言う必要もないだろう。余計な誤解を招くだけだ。

 「ふーん」不穏な反応をする一花は、キャンプファイヤーの準備担当らしい。比較的薄着で作業に当たっている。それでも寒そうな素振りを見せていない。やはりこの作業は体力を使う。そんな俺を尻目に、四葉はせっせと運ぶのをやめない。俺がバテているせいか、彼女は違う生徒と一緒に運び始めた。助っ人に来たつもりが、これでは足手まといではないか。

 

「フータロー君、あと少しだから」

「そうだな。一緒に運ぶか」

 

 一花は俺のペースに合わせて足を進めてくれている。そんな自分が情けなくなるが、おかげで先ほどよりはしんどくない。やっぱり四葉のペースが早すぎたんだな……。

 時刻は二十一時前。辺りは月明かりしかなく、一人で歩くのは気が引けるような不思議な雰囲気を醸し出していた。割れ木を持つ手に残りわずかの力が入る。これが最後の一本になるといいな、なんて考えながら。

 やがて倉庫に戻ると、俺の願いが通じたようで、積まれていた割れ木は見事に無くなっていた。これで今日の仕事は終わり。あとは明日の自由参加のスキーと、キャンプファイヤー本番ということになる。……まぁいずれも参加するつもりはないが。

 少しは四葉の助けになったのならそれでいい。空っぽになった倉庫を見て踵を返すと、一花が何か言いたそうな表情をしている。あぁ不思議と良い予感はしなかった。

 

「フータロー君。少しお話しない?」

「戻りながらでいいだろ」

「いいじゃん。ここを開けっ放しで帰るわけにはいかないし」

「誰かが戻ってくるだろ。俺たちがここに残る理由はない」

 

 正論をぶつけたつもりだったが、こいつにはそんなものは通用しない。そんなことは分かっている。だが何か言わないと彼女のペースに乗せられそうな気がしただけだった。

 それに倉庫の中は冷えている。しばらく立ち止まっていたせいで、火照った身体はすっかり冷えていて。脱いだカーディガンを再び羽織る。気持ち暖かくなったようなそうじゃないような。

 そんな俺とは裏腹に、一花は動く様子はない。ニコッと笑って俺を伺っている。俺も俺とて素直に踵を返せばいい話なのだが、あんな表情されると、こいつを残して帰すのも気が引ける。多分彼女はそれを分かっているのだから、タチが悪い。

 

「今日一日楽しかった?」

「まぁ……疲れたが」

「あはは。いろいろ連れ回されたみたいだからね」

 

 彼女は笑う。まぁあれだけ目立った行為をしたのだから、今日一日の行動は筒抜けらしい。その中でも、今朝の行為がバレていないのはある種の奇跡と言っていいかもしれない。

 そう言う一花だって、顔には疲れが見える。それもそうだろう。それだけ今日は動いたし、明日はもっと運動をすることになるのだから、やはり俺としては早く部屋に戻って休みたいのが本音。倉庫の中は相変わらず冷えてるし。

 しばしの沈黙。後ろからは木々が風で揺れる音が聞こえる。裏を返せば、少しでも黙るとそれぐらいしか聞こえないぐらい静かな森の中だ。本当に誰か戻ってくるのかも分からないぐらいに、まるでここだけ世界から取り残されている気がして。

 

「……少し冷えるね」

「だから部屋に戻ろうって」

「フータロー君のカーディガン、暖かそうだね」

「それを厚かましいって言うんだ」

「別に? 何も言ってないじゃん」

 

 そんな言い方をされれば、そう捉えられる事ぐらい分かっているはず。結局、彼女は俺を茶化したいだけなのだ。俺の反応を見て楽しんでいるだけ。そんなことしても何も無いというのに。

 でも今回ばかりはそれだけというわけでもないらしい。先ほどまでの火照った彼女の顔はすっかりと元通りになっていて。寒そうな素振りは見せていないが、体温が奪われているのは間違いないらしい。

 

「……ほら。これ着てさっさと戻るぞ」

 

 せっかく取りに戻ったというのに、こうなるとは思ってもいなかった。着ていたカーディガンを彼女に差し出す。まさか本当にそうするとは思っていなかったようで、彼女は両手をパーの形にして身体の前で広げる。

 

「いいよそんな。フータロー君が冷えるじゃん」

「だから冷えないように戻るんだよ。そもそもここに居なきゃいけない理由があるのか?」

 

 第一、話をするだけならここに残る必要なんてある訳がない。それ以外の何かがあるのが自然だと考えた。それを問いかけても、一花は黙り込んだまま答えようとしない。

 そんなものだろうとは分かっていた。問いかけても無駄だということぐらい。五月といい、二乃といい、目の前の一花といい。どうしてこうも面倒な奴らが多いんだ。生憎、俺には彼女たちの考えていることを読み取る力はない。でも、彼女たちからは「察して欲しい」と言われている気がして、それがすごく不愉快だった。今は。

 

「……キャンプファイヤーのこと、なんだけど」

「お前もそれか……。だから俺は踊らないと言っただろ」

「ツレないなぁ。仲良くなったシルシに五月ちゃんと踊ればいいのに」

「そこで何故五月の名前が出てくる」

「だって、二人手繋いでたし」

 

 「あぁ……」ため息に近い言葉が洩れた。

 あれだけの生徒の前で大胆に動いたのだ。見られていない方が奇跡とでも言える。そう思えば、一花がそう言うのも分からないでもない。だが手を繋いでいたわけでもないし、一方的に握られていただけだ。それも手首を。

 いずれにしても、それは誤解だし、俺が五月と踊る理由なんてサラサラ無い。そもそも五月がそれを受け入れるとも思えないし。

 

「あれは手を繋いでたわけじゃない」

「じゃあ何してたの?」

「……えっと」

 

 そう言われると、何と言ったものか。二乃のことを話せば朝のことまで遡る必要がある。それだけはなんとしても避けなければならない。

 まさかとは思うが、今朝のことを勘づいているとでも言うのか。……いやまさかそんなこと。あってはならないそんなこと。目線を逸らしたせいか、一花は俺の顔を覗き込んでくる。口元が緩んでいて、こちらとしても良い予感はしない。

 ここで誤魔化すことが果たして正解なのだろうか。いや正直に言っても良いことはないだろうが、今朝のようにバレた時のことを考えれば恐ろしい。下手に気持ちを紡ぐのが怖くなっているのがみっともない。でもあんな二乃の姿をもう見たくない。

 

「……やましいこと?」

「ん、んなわけないだろ」

「でも三玖の匂い嗅いだこともあるし」

「それは……まぁ」

「フータロー君ならやりかねないかなぁ、って」

「そう言われるのも癪だな……」

 

 まぁ確かにその通りなんだが。一花は嫌味っぽく話すが、声のトーン自体は微笑みが含まれているような気がする。カーディガンを脱いだというのに、変に熱っぽくて体温が上がっている。

 一花だってそうだ。さっきよりは体温が上がっている様子。寒がっているよりはマシだが、お互いに熱っぽい雰囲気がこの倉庫の中を覆っている。これが二人きりの密室だったらと考えると、それはもうヤバかった。自分のお猿さん加減に嫌気が差すが。

 

「誰も来ないね」

「もう俺たちもいいだろ」

「このままだと開けっ放しになっちゃう」

「まぁ、それはそうだが」

 

 第一、こんな倉庫を開けっ放しにしていたところで大きな問題にはならない。しっかりセキュリティもされているし、しばらくこの状態が続いていれば何かしらの連絡が行く可能性だってある。そもそもここの鍵を持っているのは一体誰なのだろうか。鍵は先生たちに返さないといけないはず。そうなれば、放っておいても彼らの耳には届くはずだ。

 

「そういえば、昨日はよく眠れた? あんな押し入れの中じゃ寝付けなかったんじゃない?」

「あ、あぁ。思いの外よく眠れたよ」

 

 出来ればあの時の会話はしたくないのだが。そうは言っても、下手に返答を濁すと余計な疑惑を招きかねない。ここは素直に答える。

 一方の彼女。「ふーん」と見慣れた薄笑い。まただ。この見透かされたような感覚。喫茶店で詰め寄られた時のような不気味な。そんな彼女はおもむろに一歩、俺に近づいてくる。他の四人とはまた違う甘い香り。演技をやるようになってから、妙に色気が出てきたような気がしないでもない。

 カーディガンの下はシャツだけ。身体のラインがくっきりと分かる。頬が火照っている彼女の姿と、細い首筋。それに髪の長い子では中々見られない綺麗な鎖骨が俺の心臓を高鳴らせる。

 

「暑っつい……」

 

 右手でパタパタと顔を煽っている。カーディガン一枚羽織ったぐらいでそんなに暑くなるとは思えないが。だが確かに重労働に加え、先ほどから立ち話を続けていたせいか、両足に乳酸が溜まっている。

 もういいか。ここまで来たら、トコトン付き合ってやる。そんな上から目線を飲み込むように、俺は入口付近から中に入り、壁に寄りかかるように腰掛ける。床は冷たい。が、今はそれが妙に心地良かった。

 

「やっと諦めてくれた」

「お前がしつこいからだ」

「だって、フータロー君が聞かないんだもん」

 

 お互い入り口の側から離れたせいで、月の光を浴びることは無くなった。そのせいで、一花の顔はよく見えない。彼女も俺の隣に腰掛けるが、想像以上に床が冷たかったらしく、ビクッと身体を震わせた。やはりこのまま長居は出来ない。風邪をひいてしまったら元も子もない。

 だが何というか、妙に左隣に居る一花との距離感が近い気がしてならない。それこそ肩と肩が触れ合いそうな近さ。意識したくないのに、視界が揺らぐ感覚。

 

「なんか……近くないか?」

「そう……かな?」

「いや気のせいならいいんだ。うん」

 

 自分でもどうしてこんなことを言ったのか分からない。

 ボーッとしていく頭のせいか、それとも、隣に居る彼女のせいか。はたまた、別の何かのせいか。あぁ、もうよく分からない。

 チラリと横目で一花を確認するが、体育座りで膝に顎を乗せている。何を考えているのだろうか。聞いたら教えてくれるのかな。こいつに限ってそれはないだろうな。

 

「ね、ねぇフータロー君」

「……どうした」

「あ、あのさ。お願いがあるんだけど」

 

 彼女は少しだけ声が震えていた。それだけでいつもと違う何かがあるんだろうと察してしまう。こんな時に限って勘の良い自分が腹立たしい。何事もない至って普通のお願いであってほしいのに、きっとそれはないだろうな、なんて。

 

 

 

「マッサージ、してほしいな……」

 

 

 






 新たに高評価してくださった
 ・宮ちゃんY型さん・プリンの蜂蜜漬けさん・monokanさん

 ありがとうございました。

 Twitterやってます↓
 @madogiwazokudes



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。