きらきらぼし (雄良 景)
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【番外編:×DB】はじめまして、きみとぼく
くちを閉ざした朝顔の目覚め
※悟空夢
※ちょっとルーシィが弱っています
※完全思いつきおふざけ作なのでIQ3でお読みください
※本編執筆の息抜き作
―――――さようなら。おやすみなさい。
人生という旅路に必ず訪れる終焉
それはすべての終わりではなく
新たな旅路の始まりである。
巡り、廻り。
回り、廻る。
―――――ルーシィ・ハートフィリアは終幕を迎え、そして、目覚めが始まる。
エイジ737 後のフライパン山にて
「う゛ぉ゛おお!! うぉ゛お゛おお!!」
「、 あなた、 …どう、か この子を、 お 願いし ます、」
「あ゛だりめぇ゛だっ…! ぜっでぇにっ! 幸せ゛にするだ……!! おめぇ゛の分も゛っ! ちゃんと育てるがらな゛ァッ゛ !」
「あら、あら、 …泣き 虫、な …お父、さんね… 」
「でも… ああ… … よかっ、た ……… 」
運命の歯車が回り出す―――――
山が燃えている。ごうごうと燃えている。
「ルーシィ、そったらとこ
「ととさま」
「…なんとか火さ消しだら、おめぇにもおっ母の形見のドレスさ見してやれんのになあ」
「かかさまの……でも、ととさま。ご無理はなさらないでくださいましね。わたくし、ととさまがお怪我をされないか心配ですわ」
「んだ。分かってるだよ……おめぇは優しいいい子だな。おっ母にそっくりだ」
■
―――――斧が振るわれる
「ととさま! ととさま、おやめください!」
「ルーシィあぶねぇからこっちさ来るでねぇ! 盗人どもめ、ひとが苦労さしてるとぎに……!!」
「やめてっ―――――!!」
―――――斧が振るわれる
「たすけてくれ!」
「ひいいいい!」
「おああアアアあッ!! 死ねェ!!」
―――――斧が振るわれる
「っやめて、ととさまぁっ!!」
■
穴を掘った
「………ごめんなさい…ッ」
■
「ととさま、おやめください! そこまでなさる必要は無いはずです!」
「あいづらは盗人だべ! 宝さ盗みに来た悪い奴らだ」
「けれどこんなこと…! っこれではどちらが罪人か、」
「近づくでねえどルーシィ、危ねぇ連中だ。おっ父が守ってやるからな」
「ととさま、待って、ああッ、行かないで………!!」
■
―――――牛魔王さまは人が変わってしまわれただよ
―――――昔に戻っちまったみてぇだ
―――――奥様のこともお忘れになっちまったかも
―――――まるで本物の魔王みてぇだ
―――――恐ろしい
―――――ルーシィさまが哀れだ
「どうかもう、誰も盗みに来ませんように……」
■
「ととさま、もう、もう、およしになってください」
「すったら甘めぇこと言ったって仕方ねえだよ! なに仕出かすか分かったもんでねぇんだ、二度と悪さできねぇようにしてやんねぇと」
「それでは駄目なのです、どうかお願いです、わたくしの話を聞いてくださいましっ! 理由によって私的な殺人が認められるのなら、なぜこの世に秩序がありましょう。法がありましょう!」
「盗人どもめ、ひとりも逃がさねえ…」
「どうして………!!」
■
―――――斧が振るわれる
「ひとりも生かして返さねぇ! よぉぐもおらの宝さ盗もうとしやがってからに!」
「ぎゃああああああ!」
「や、やめ、う、うわあああああああっ!」
■
「お願いします、お願いします、お願いします」
■
「ルーシィ! 誕生日おめでとう! ほら、都で新しい服さ拵えただよ。ルーシィは別嬪さんだかんら、何でも似合っちまうなあ! がはは、おらの自慢の娘だべ」
「…………ありがとう、ございます」
■
穴を掘った
「ごめんなさい」
■
「―――――宝がそれほど大切ですか」
「あったりめえだ。大事なもんだから宝っちゅう呼び方さすんだべ」
「―――――だから、忍び込む賊を殺してしまわれるのですか」
「んだ! 次かんら次へと湧いてきて、キリがねぇ。虫みてぇな連中だべや! ああ、ルーシィは安心してええ。全部おっ父がぶっ殺してやるでな!」
「―――――………ああ」
宝なんて、無ければよかったのに。
■
―――――穴を掘った
「―――――どうして」
穴を掘った。もういくつ目なのかも分からない。それでもルーシィは穴を掘る。
「罪ある者を殺すことが、司法に依らない私刑が許されるのなら」
穴を掘る。深い穴を掘る。
「罪とは何でしょうか。―――――少なくとも」
毎日毎日穴を掘る。爪にはひびが入り、指先は血がにじんでいる。
「ととさまは、自らもまた罪深い者になってしまわれたのね」
穴を掘る。空は快晴―――――それでも、そこには雨が降っていた。
■
「―――――ととさまの、分からず屋!」
「ルーシィ!」
ルーシィはうるんだ瞳で父親を睨みつけた。瞬きひとつでこぼれてしまいそうなほど涙を溜め込んだその瞳の―――――なんと昏いことか。
涙が光を反射してもなおどこか暗く沈んだ瞳。星のひとつも瞬かない寂しい夜空のような……否、既にそこに空は在らず。それはまるで息すら奪う深海の泥。
自身を突き動かす感情にルーシィの唇は泣きだす子供のように震え、しかし決して涙はこぼさずにそのままの感情を父に叩きつける。
―――――それでもルーシィの心は堕ちることができなかったから。仕方がないと受け入れられなかったから。
とっくに遅いと知っていて、それでも開き直ることはとうとうできなかったから。
「よく、よく分かりました。わたくしが武天老師さまの元に向かいます。芭蕉扇を借り受けに参ります」
駄目だった。限界だった。
何度自分に言い聞かせただろうか。何度言い訳のように自分を説き伏せただろうか。
だからルーシィは自分を許さない。
「ととさまはもう結構!!」
「ま、待つだルーシィ、ルーシィ~~!!!」
父を振り切り、駆け出す。もうルーシィは待てなかった。父を信じ『待つ』ことを止めた。
これ以上、愛する者に罪を負わせないためにも―――――己の罪を償うためにも。
■
罪とは何なのだろうか。
■
牛魔王の罪を『殺した』こととするならば―――――ルーシィにとって自らの罪は『待った』ことだった。
■
「はっ、はっ、はぁっ! っは!」
人気のない山道を、一人の少女が駆ける。巻きスカートが足に纏わりついて走りにくい。それでも少女は―――――ルーシィは走り続けた。
「っ、けほっ、っはぁ、はっ、はーっ! はーっ!」
つらい。苦しい。息ができない。けれどルーシィは走り続けた。足を止めるわけにはいかないのだ。諦めるわけにはいかないのだ。
なぜなら―――――
ドシィーン!! ドシィーン!! ドシィーン!!
「 グルァォオオオ オ オ オ オ オ オ オ ッッッ!!! 」
「き、きゃああっ!」
走らなくては死ぬ。
ルーシィはお気に入りの巻きスカートを、今日ばかりは憎らしく思いながら、後ろから追いかけてくる恐竜を撒くために必死に走った。
■
「うん……?」
「ヤムチャさま、今の恐竜、何かを追いかけていませんでした?」
悟空たちを追いかける道中、ヤムチャとプーアルは視界の端に、自分たちから少し離れたところを勢いよく駆けていく恐竜を映した。
人里から遠く離れた自然の中で恐竜を見かけることは珍しくないので、それ自体は気になることでもなかったのだが、その恐竜がふたりには目も向けず通り去って行った様子は少しばかり違和感があった。
すでにエサを見つけていたからこちらに興味が無かったのか。確かに、地鳴りのような足音にまぎれて、『何か』が聞こえた気がした。もしかしたら狙われている『何か』の鳴き声だろうか。一瞬だけ、恐竜の影からなにか金色の輝くものが見えたような………
「あっ! 大変です、やつらがスピードを上げました!」
「なにぃ!? プーアル、こちらも速度を上げろ! 見つかるなよ」
「はいヤムチャさま!」
それはわずかに記憶の片隅に残り、しかしすぐにヤムチャとプーアルは悟空たちを追うことにすべての意識を集中した。
■
―――――ところ変わり、フライパン山にて。
「お、おめえ、武天老師さまの住んでるとご、知ってるだか!!?」
―――――ブルマ、ウーロン、悟空の一行は次なるドラゴンボールを探し、フライパン山へと訪れていた。
フライパン山には『牛魔王』という男がいる。それはウーロンよりもたらされた情報だった。
曰く、それはウーロンが通っていたスクールの教科書に載っていたという。フライパン山は特殊な炎によって年中燃え盛っている山であり、そこには『牛魔王』の城がある。牛魔王はフライパン山のふもとで自らの宝を狙いやってきた盗人どもを、ことごとく殺害している悪魔のような男だ。
ウーロンからしてみれば「絶対に会いたくない」と心の底から願うほど恐ろしい悪夢のような男。子供たちが馬鹿な真似をしないようにと親切心で牛魔王の恐ろしさを臨場感たっぷりに語ったスクールの先生の努力もあり、ウーロンは正直、教科書の写真だけで失禁しそうになったほど牛魔王が恐ろしい。
ブルマは青ざめたウーロンの話を聞いてゾッとした。天才肌で同年代の子供たちよりよっぽど神経のド太いブルマは、それでもやっぱり都会育ちのお嬢さま。当然、そんな話を聞くと怖いし近づきたくない。
しかし偶然の一致か運命の合致か、ドラゴンレーダーが導き出すドラゴンボールの所在はフライパン山の牛魔王の城であるという。この時ウーロンは想像だけで本当に少しだけ漏らしてしまった。
とはいっても、何はともあれドラゴンボール。能天気な悟空は別として、牛魔王は恐ろしいが『素敵な恋人』に天秤が傾いたブルマとそんなブルマに引きずられたウーロンはフライパン山へ侵入。バレなきゃセーフとへっぴり腰で城周辺を探索していれば、声が大きすぎて牛魔王に見つかる(ウーロンはとうとう漏らした)というベタな失態を犯すこととなる。
あわや戦闘―――――となったところで、女神はようやく微笑んだ。
なんと悟空の祖父である孫 悟飯が、牛魔王の兄弟子に当たる人物だったのだ。
悟空の構えた如意棒を見た牛魔王は眉を跳ね上げてはしゃいだ。なにせ尊敬する兄弟子の孫が訪ねてきたのだ。賊なんてとんでもない、誠心誠意もてなさなくっちゃあいけないお客さまだ。―――――そんな牛魔王をさらに驚愕させたのは、悟空の筋斗雲である。
「まっ、孫殿! おめえ、そいつ筋斗雲でねぇか!」
…気づいた時の牛魔王の驚きはひとしおだった。筋斗雲―――――それは、牛魔王もよく知るものだ。そして、牛魔王の知っている筋斗雲の持ち主はひとりだけ。
牛魔王は震える声でその筋斗雲をどうしたのかと聞いた。悟空はあっけらかんと『亀仙人のじいちゃんに貰った』と答えた。
―――――牛魔王に激震が走る。これは運命だと思った。奇跡が起こったのだと思った。長年の苦労に、ようやく神さまがお使いをくださったのだとすら思った。なにせ、『亀仙人』とは『武天老師』の呼び名である。それは、求めていた人物の名である。故に牛魔王は叫んだ。そこに希望を見出して。
ゆえにこそ、藁にも縋る想いで聞いたのだ。武天老師の居場所を知らないかと。
「えっ、なあ、知ってっか?」
「え!? えーっと、南の沖の方だと思うけど…」
「沖! 沖かそうか! な、なあ、孫殿! その筋斗雲で武天老師さまのとこさ行ってけれ!! 頼む! この通りだべ!!」
牛魔王は半狂乱で頭を下げた。喜んだと思ったら半狂乱で頭を下げ始める……その尋常じゃない様子にさすがの悟空も後ずさりし少し迷ったが、他でもない祖父の知り合いからの頼みである。かまわない、と頷いた。
「芭蕉扇をもらってきて欲しいだよ! それがあればフライパン山の火を消せる! 家に帰ェれる! …あ! そうだ、そんで―――――」
悟空の返答に明るい顔をした牛魔王はしかしすぐに一番真剣な顔で、再び掴みかかるように懇願した。
「お、おらの娘のルーシィさ見つけてけれ!!!」
声はわずかに震えていた。『娘』というワードにそれまで蚊帳の外だったブルマとウーロンは、そういえば牛魔王には娘がいるのだという話を思い出した。教科書曰く、フライパン山は牛魔王が『
「あ、あの~~~、娘さん、どうかしたんですか?」
ブルマは頼む頼むと唾を飛ばす牛魔王とたじろぐ悟空の間へ、割り込むようにそっと話しかけた。腰は引けてるが元来の図太さは牛魔王に屈しなかった。興奮状態の牛魔王と訳が分からなくなってる悟空では話が進まないと判断したのだ。
フライパン山は熱い。燃えているのだから当然だが、長居したい環境ではない。さっさとドラゴンボールを回収してお
ブルマの質問に、牛魔王はハッとした顔でブルマを見る。悟空の存在に興奮してすっかりブルマとウーロンのことを忘れていたのだ。盗人かと思ったが、悟空と気軽に話す姿を見て友人だろうとあたりを付けた牛魔王はふたりへの敵意を捨てる。それから、太い眉を下げた。
悲壮感がひしひしと伝わってくるその顔に教科書に載るほどの大悪党の面影はない。ブルマたちから見て、そこにいるのはただの大柄な父親だった。
「お、オラの娘は、ひとりで武天老師さまを探しに行っちまっただ…必ず見つけるっちゅーて…」
話しながら、牛魔王はぐう、と唸った。直前の会話を反芻したのだ。
「おらが悪かっただ……! ルーシィは、おらが宝さ盗みに来るやつをみんな殺しちまうのを、ずっと嫌がってただよ。やめてけれと何べんも言われとった。んだのに、おらが聞かねえかんら、ルーシィはひとりで芭蕉扇を取りに行っちまっただ……!!」
―――――深く、深く頭を下げる。兄弟子の孫。筋斗雲を譲られたのなら、師にも認められた子だろう。その子なら、と牛魔王は悟空に深く頭を下げた。
「た、頼む! この通りだ!! ルーシィは三国一の娘だ。めんごくていい子だよ。んだども、ま、まだ12歳なんだべっ。そんな子がひとり旅さして無事に
牛魔王は―――――泣いていた。娘を案じる父として恥も外聞もなく涙した。その様に、悟空やウーロンは思うところがあったのか神妙な顔つきになる。
ウーロンはともかく悟空は半分くらいしか内容を理解できなかったが、目の前の牛魔王にルーシィという娘がいて、そのルーシィを心配して泣いているのだということは分かった。家族を思うその涙を、ただ理解した。
一帯は思わず感動的な雰囲気に包まれる。実は物陰に潜んでいたヤムチャとプーアルも思わず浮かんだ涙をぬぐったほどである。
が、しかし。
忘れてはいけない。ここにはブルマがいた。この場での紅一点であるブルマは、性別による観点の違いか、そもそも頭の出来の問題か、他の男どもとは違うところが気になって仕方がなかった。
―――――決別した父娘。善を唱えた娘と、そんな娘を想い、自らの行いを後悔して涙する父。
―――――それは紛れもなく美談だろう。大多数の人間がうつくしいと称賛する話だろう。
けれど。
もし、もし『それ』がブルマの想像ではなく真実なら―――――ブルマは思わず、こぶしを握る。
「―――――ねえ、牛魔王さん」
感動的な空気の中に、ブルマは再び静かに割り込む。話しかけられた牛魔王は視線を向けた。
ウーロンはもうブルマが牛魔王に話しかけても驚かなかった。ただ、こいつはよく空気を読まずに割り込んでいくなあ、という呆れを感じただけだった。それはすでに場の雰囲気に呑まれ、牛魔王を脅威と感じなくなっていたからだろう。
悟空だけが、雰囲気の違うブルマに首を傾げた。
「その、ルーシィちゃん? って、あなたの娘、いつ出て行ったの?」
「いつ、だか? ほ、ほんの1時間くれぇ前だべ。おめえさんらが来るちょびっと前だ! んだからまだ遠くには行ってねぇはずなんだっ!」
牛魔王はその質問が、ブルマが受け入れてくれた証だと思った。故に何も考えず真実を答えた。―――――瞬間、悟空とウーロンは反射的に身構える。
ブルマのこめかみに、青筋が浮かんだ。
「 なんであなたここに居るのよ!!! 」
―――――それは、先ほどの牛魔王の声をも超えるほどの絶叫となって放たれた。
■
「はぁ………」
―――――フライパン山からおよそ4km離れた草原
大きな岩の陰に隠れるようにもたれかかったルーシィは、止まらない大粒の汗を拭いながら大きく息を吐いた。柔らかい風が火照った体に爽やかな涼をくれた。
必死に走り数十分。狭いところに隠れたり複雑な山道に潜り込んだりと涙ぐましい努力の末、なんとか追いかけてきた恐竜を撒くことができた。しかし幼いルーシィはすでに疲労困憊である。今は立ち上がり一歩踏み出す体力も残っていない。
―――――走りすぎた酸欠の脳で、呆けたように地面を見つめる。父のもとを飛び出してきた威勢のよさをすべて恐竜に吸い取られた気分だった。走ったのもそうだが、何より『
気力が尽きたような疲労感。今や、必ずかの武天老師のもとへたどり着き芭蕉扇を借り受ける、という目的だけが落ちそうになる
息をひとつ吐き、心を落ち着かせるために風と草のにおいを探す。すう、と深く、深呼吸。
いちど息を吸っただけで人の手に犯されていない草原は、その清純さを濃く伝えてきて―――――その濃さに、思わずルーシィは『かつて』を思い起こした。
―――――それは奇想天外な冒険の数々
それははるか遠く、夢物語のようなとんでもない事実。それは、ルーシィという12歳の少女が、『前世』と呼ばれる『かつて』を持っているという、記憶。
ずっと『昔』、生まれる前。……まだルーシィが『ルーシィ・ハートフィリア』であったころ。
そのときも、こうやって父に反発し家を飛び出した。違いと言えば歳くらいだ。今の方が幾分か幼くて……ああ、それ以外に。
―――――今回は、本当のひとりぼっちだった。
自分の腰元をなでる。そこには何もない。お気に入りの皮のケースも、……大切な『
あの時ルーシィのそばには契約していた星霊が居てくれた。ひとりで庭から外に出たこともないような箱入り娘が、無謀にもトランクひとつで家を飛び出すなんてまねをして……それでも責めたり笑ったりせず、彼女たちはただその選択を認め、そばに居てくれていた。
それから、ギルドに入ってからはいつだって周りに
―――――十分に感謝しているつもりだった。けれど、全てが最早手に届かぬ場所に離れてしまった今。ルーシィは自身がどれだけ支えられ、守られていたのかを改めて痛感する。
ただそばに居てくれるだけで、あんなにも心強かった。
仲間だと笑いかけてもらえるだけで、どこまでも行ける気がした。
「ああ……」
懐古の念が緩くルーシィを締め付ける。もっとたくさん、お礼を言えばよかった。語り合い、笑い合えばよかった。
新たな生を受け、後悔なく先に進もうと思っても―――――かつてのぬくもりを思い返してしまう。
柔らかい風が吹く。先ほどまでは爽やかに感じていたそれが、今のルーシィには体の芯から凍えさせる極寒の息吹にしか感じられない。
寒い―――――いや。
それをルーシィは知っていた。その寒さの根本、渦巻く感情の名を。
「馬鹿ね、わたくし………寂しいだなんて」
―――――別に、今まで寂しく思ったことがなかったわけではない。こうして、ふとした瞬間に思いを馳せて、どうしようもなく心細くなったことは何度もある。
それでも耐えることができたのは、ルーシィには父が居たからだ。今生の父は容姿も性格も、以前の父とはまるで違う人。それでも、その愛情の深さと抱きしめてくれる手の温かさはルーシィにとってかけがえのないものだった。
寂しさを感じた夜は、父のもとに居た。何も言わずそばに居つく娘を、父はただ笑って抱きしめた。―――――それは大きな愛だった。
けれど、そのぬくもりから飛び出したのはルーシィだ。出ていくことを選んだのはルーシィだ。たとえどんな理由があろうと、それはルーシィの選択だった。
ゆえにルーシィは我が身を恥じる。父を詰り、飛び出して、そのことに後悔はない。それが今自分のできることなのだと思ったから。
なのに、父のぬくもりを恋しく思ってまた縋りたくなる。……そんな弱気な自分が嫌になった。
―――――それでも、心は泣き止まない。
脳裏にかつての仲間たちを思い起こす。家族のようなギルドを思い返す。けれど、あたたかいはずの思い出も、今はただ、つらい。
「誰か、」
ぽつり、声がこぼれる。岩の陰で震える体を抱きしめるように膝を抱えた。
いっそ、誰でもいい。誰かにそばに居てほしかった。この心細さを許してほしかった。
飛び出したことは後悔しなくても、父を強く詰ったことへの罪悪感はある。愛した人に向けた言葉の刃を心苦しく思ってしまう。それに加えて、ひとりぼっちで思い出すかつての記憶はさらにルーシィの胸を苦しめた。
このときルーシィは、きっとおそらく、生まれて初めて―――――二度と会えないだろう愛すべき人たちのことを直視したのだ。
( ああ、武天老師さまのもとへ行き、芭蕉扇を借り受けなくては。どこに居るかも分からないそのお方を探しに行かなくては )
果てない旅になるだろう。12歳と言う未熟な我が身が耐えられるのか―――――ルーシィの心には不安が積もる。……困ったものだと開き直って笑い飛ばすには、あまりに現状が心細かった。
成し遂げたい意思はある―――――ただ、勇気が欲しい。ひとりで歩む旅へ、いちど止まってしまった足をもういちど踏み出すための勇気が欲しい。かつてのルーシィが諦めることなく歩み続けられたのは仲間が居たからだ。…だから、今もまた、弱気になってしまっている心を支えてくれる何かが欲しかった。
ああ、今生のなんと情けないこと!
なんて恥ずかしい。あさましい。みっともない。自分勝手にもほどがある。
ルーシィしかいない静かな草原。雄大な自然も麗しい鳥の鳴き声も若々しい草木の香りでさえも、今はただ自分を孤独な気分にさせるのだ。
しとしとと、汗が肌を滑る。地面をまだらにするそれが虚しい。目じりから滲み込む塩分が痛かった。
うつむき、か細い息をする。惨めで恥ずかしくって―――――ふと、一体が暗くなった気がした。
それは体に影がかかっているように陽の光が遮られた感覚。もしや、雲が出てきたのだろうか。まさか天候が荒れるのでは……膝を抱えていたルーシィはその不思議にパッと顔を上げる。
「 、え 」
―――――それは、さっきほどまでルーシィを追いかけまわしていた恐竜だった。
■
「な、ん………」
暗くなったのは、覆いかぶさるようにのぞき込んできている恐竜の影のせい。目と目が合う。ボタリ、恐竜のくちから唾液が滴った。
目と鼻の先の脅威に、ルーシィの体は動かない。
―――――なぜ。だって、足音だってしなかったのに。
唐突な脅威。ルーシィの体は凍ったように固まってしまった。
かつてなら話は別だろう。自分で恐竜を倒すことはできなくても、ルーシィには頼りになる星霊や仲間がいた。もしくはルーシィの体がかつてのものなら、日に日に鍛えられた体力と筋力で瞬時に距離をとることができたかもしれない。
けれど、ここにいるのは今まで守られて育ってきた12歳のか弱い少女だった。
―――――ああ、バチが当たったのかしら。
妙に冷静な思考が自分を嘲笑する。父の大きな愛は、いつだって記憶の奥底に沈んでいた寂しさを癒してくれたから。その心地よさがあまりにも幸せだったから。溺れるように甘えてしまった。まだ、もう少し。父の腕の中で微睡んでいたかった。―――――それが怠惰の罪だったのだ。
―――――甘えてばかり。ひとりじゃ何もできない未熟者。馬鹿だわ、悲劇のヒロインのつもりでしたの?
―――――ととさまのことだって、ちからづくでも止めればよかったのよ。怒鳴り声をあげて嘆願するのではなく、しがみついて頬を張り飛ばしてでも止めればよかった。そうしなかったのは自分のくせに。
―――――結局、自分は被害者だという顔をして境遇に、悲しみに酔っていただけだったのだわ。
昏い、昏い、負の感情がルーシィを蝕んでいく。目前の絶望がルーシィからまた光を奪って行った。―――――ゆっくりと、ルーシィの心にひびが入る。
動かないルーシィを相手に、恐竜は静かにそのくちを、大きく大きく開いた。
ルーシィは動けない。
恐竜のくちがルーシィを飲み込もうと近づいてくる。それがやけにスローに見えた。
ルーシィは動けない。瞬きすら忘れたように、見開いた眼で自分が飲み込まれる姿を見つめることしかできない。
恐怖よりも、絶望よりも、呪いにも似た自己嫌悪がルーシィの首を絞めていく。
―――――ふと。
何かを、思い出しそうになった。
思考がぐるりと脳を嘗め回す。まるで本能が
くわん、と頭が回る感覚。―――――それは、既視感。これを知っていると、ルーシィの記憶が訴える。
いつかのかつて。こうやって、絶望を堕とされた夜があった。
―――――思考が『欠片』を拾う。『それ』に気付いた瞬間ルーシィの意識は一気に過去に旅立った。
ルーシィが恐竜が苦手な理由。それは、
……もちろん、恐ろしいだけではなかった。一周回って清々しく、誰にも言えなかったが…どうしようもない高揚を感じたこともあった。
けれど、それらはちからの象徴であり、時に勇気の象徴であり、
なにより、愛した人たちを思い起こさせるから。
目の前の恐竜が大きく開けた口から食道が覗く。その先にある胃袋に獲物を流し込もうとする意志を示す。
そうだ。ああ、そうだった。あの夜も、こうだった。
かつて、太古の絶望を顕現させてしまった夜があった。開いてはならなかった扉を開き、悪夢と言う脅威を呼び出してしまった夜があった。潰えた未来が、涙を流した夜があった。
あの夜も無慈悲な食物連鎖の果てに、ルーシィの体は胃袋に落とされそうになった。けれど仲間によって九死に一生を得て、生き延び―――――死力を尽くした人類は
ルーシィは生き延びることができた。
『ルーシィ』
―――――声が、聞こえる
『ルーシィ』
みんなの声が
『ルーシィちゃん』
ルーシィを呼ぶ声が
『おーいルーシィ』
懐かしい声が聞こえる
『ルーちゃん!』『ルーシィ』
愛した人たちの
『ルーシィさん』
『どうした? ルーシィ』
『ルーシィ、昨日ね…』
『あ、ルーシィ!』
『ねえルーシィ、覚えてる?』
『ルーシィ!!』
『行こうぜルーシィ、新しい冒険だ!!』
―――――意識がはっきりと覚醒していく感覚。
……ああ、そうだ。こんな声で、自分を呼んでくれていたと思い出す。そうして同時に、自分が声も忘れかけていたことも。
眩暈がする。ルーシィは自分が興奮していることに気が付いた。瞳孔が開き、吸収される光が多すぎて視界がチカチカと点滅する。
―――――もういっかい
『 ルーシィ 』
―――――もう、いっかい、呼んで
『 ルーちゃんっ 』
―――――もう、いっかい……
『 ルーシィ !! 』
―――――………うん。
視線は恐竜を凝視したまま離せない。それは体が言うことをきかないという意味なのか、目をそらして隙を見せれば食われるということを察した本能なのか。
そのまま、指一本動かせないほどにちからの抜けきっていた体に、―――――振り絞るようにちからを込める。
それでも足はピクリともしない。今度は膝を抱えたまま固まっている腕にちからを込める。わずかに指先が動いた気がした。けれどそれだけで眠たくなるような疲労感が襲ってくる。
だから思い切り舌を噛んだ。
ビリビリとした痛みが全身を走る。ろくに制御の利かない体で無理やり噛まれた舌は傷つき出血したようで、口内に鉄のにおいが充満し不快感を与えてくる。―――――けれど意識は覚醒したから。
―――――ルーシィの目の色が変わる。
淀んでいた深海の泥が、まるで息を吹き返したように彩度を上げる。
それは星だ。あまねく夜空の星の輝きだ。そして朝焼けでもある。
なぜならそれは、ルーシィの心に灯り続ける炎の煌めき。
ルーシィの瞳の中で
悲しみを覚えればいつも父のぬくもりに慰められた。その温かさに微睡むうちに、向き合うことを恐れた。
二度と会えないという現実からそっと目をそらして、そうして罪を重ねてしまった。
深く、重く、昏い泥の底。溺れるように沈んだ星は、しかし、だからこそ、かつても光をもう一度―――――もう一度、抱きしめて。
閉じた目を開く。あたりまえだ。あたりまえだった。だってそれは恐ろしいものでも寂しいものでもないはずだったのだから。
向き合えば、耳をすませば、それはいつだって私を照らしてくれていたから。
だって、朝は来るから。震える絶望の夜を越えて―――――私の空は太陽が照らしてくれたから。
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射干玉の運命よ、人情を謳え
※気力が尽きたので続きは多分ないです
※これを連載することがあったら牛魔王は張り倒してでも止めてる
※展開が急で私も追いつけていない
ルーシィは、
心細かった。
寂しかった。
今のルーシィは臆病で、儚く、脆い。
だってひとりだ。
ひとりぼっちだ。
―――――本当にそうだろうか。
ルーシィはすう、と大きく息を吸った。酸素不足にガンガンと鳴っていた頭はそれでもこころの意志を汲んで回る。
友よ。家族よ。愛おしい仲間たちよ。彼らは既に遠く、きっともう二度と会えないだろうと思う。今生の唯一の家族である父とも、反発し、こうして出てきてしまった。
ルーシィはひとりだ。
けれど。
( かつてルーシィが所属していた『
( ひとつは、
( もうひとつは、過去の依頼者とみだりに接触しないこと )
( それから――――― )
ルーシィは小さな手のひらを握りしめた。かつてその甲にあった
「けれど」
「けれどそれは、今のわたくしが
やけにはっきりとした声が出た。ピクリ、目前に迫った恐竜のくちが一瞬止まる。
―――――思考が現実に戻ってきた。ルーシィはまるで何十時間も意識が飛んでいた感覚を覚えたが、実際は数秒も経っていない。
恐竜のくちは目前だが、それでもまだ、まだ、まだ届いてはいない。まだ終わってはいない。―――――だってルーシィは、諦めていない。
ルーシィは自分の持つ選択肢を必死に並べ立てた。
戦う? 不可能だ。ルーシィの身体能力では自身の何十倍もある恐竜を倒すことなどできやしない。逃げる? 不可能だ。この距離から駆け出したとして、一瞬で恐竜の腹の中に収められるのが関の山。
―――――どちらも不可能。だからルーシィは『逃げる』ことを選んだ。
ルーシィには目的がある。武天老師のもとに行き、芭蕉扇を借り受け、フライパン山の火を消す。それが今ルーシィの最優先事項だった。…死ぬわけには、いかない。こんなところで、こんな中途半端に、死ぬわけにはいかない。だってそのためにここまで来たのだ。家を出たのだ。
大丈夫。必ず逃げ切る。必ず現状を打破してみせる。ルーシィは自分に言い聞かせるように何度も心の中で唱えた。
大丈夫。きっとできる。
だってルーシィはひとりではない。
思い出せた。大事なこと。
そばに居なくても。二度と会えなくても。証明が無くとも。
―――――それが何だったというのだろう。
ルーシィの中には確かに寂しいという感情がある。けれど、だから膝をついて泣いて縋って立ち止まるというのか。
違う。
ルーシィは否定する。
それは違う。それは―――――
―――――心の支えが欲しいだなんて、馬鹿なことを。
誓いはここに。心は、ここに。
友は、仲間は、とこしえに。
そんなものは、ずっと前からそこにあったのに。
わたくしは、強く、ちからの限り、生きなければならない。
決して自らの命を小さなものとして見てはならない。
三つの掟の、さいごのひとつ。
「 …愛した、……友のことをっ……… 生涯忘れてはならないっ!!! 」
声を出して体にちからを入れる。膝が笑って眩暈がした。それでも立ち上がることができた。ならば走れる。逃げられる。
生き延びられる。
―――――本当に馬鹿。そう言ってルーシィは自分を詰った。
分かり合えず、こうして家を飛び出してなお、ルーシィが父を愛しているように。
二度と会えなくとも、ルーシィが変わらず彼らを愛するように。
それは変わらないもののはずだ。
忘れないから、忘れられないからこそ消えぬ寂しさではあっても。
その思い出は決してルーシィを孤独にさせるものではなかったはずだ。
ルーシィが孤独を感じるのなら、それの正体は心の中に芽生えた卑屈さに他ならない。…そうであると、ルーシィは今決めた。
たとえ手が離れてしまっても、ルーシィは父を、仲間を、愛している。
そこに愛があるのなら、ルーシィはひとりではない。ひとりであるはずがない。
なぜなら、愛こそがルーシィの絆の象徴であり、また、愛があるということは、大切な
ルーシィにとって魔法は『愛』だった。
―――――瞳の中で星が瞬く。
それはかつての覚悟の輝き。
星霊たちの愛した人間の美しさ。
ルーシィが持っていた、何にも勝る―――――
なにを恐れ寂しがっていたのか。自分をかわいそうだと憐れんで、いつまでもウジウジと、みっともなくて目も当てられない。いい加減甘ったれるのを止めなさい、とルーシィは最後の一押しに自分を心の中で怒鳴りつけた。
―――――だってこんなの、
ここにいるのは、もう、か弱いだけの12歳の少女ではない。牛魔王の娘で、
泣いてうずくまって立ち止まって。十分な黒歴史だ。ただの12歳ならまだしも、かつて『ルーシィ・ハートフィリア』としての人生を全うしたいい大人が。こんな情けなく! …そんな感情がルーシィの中で渦巻く。
それは秩序だった。それこそがルーシィの秩序だった。
意外と頑固だと仲間に笑われた、ルーシィの秩序だった。
だからこれ以上、父と
―――――真昼の地上に、星が瞬く。
体を支える足はがくがくと震えている。恐怖以前に、そもそも目の前の恐竜のせいで体には疲労が溜まっている。歩くだけでもしんどいくらいには、まだまだ体は回復していない。しかしまあ、そんなことを言っている場合ではないので。
動き出した獲物に恐竜の目が鋭くなる。首だけを伸ばしていた状態から、更に一歩、ルーシィに近づこうとするように身じろいだ。
思えば呑気な恐竜だ。―――――いや、呑気と言うより意地が悪いのかもしれない。
散々追い掛け回したからルーシィに体力が無いことを分かっているのか、こんな焦らすように追い詰めているのだから。
その動きは落ちている果物を拾うかのように緩慢だった。獲物が自分から逃げられないと思っているからこその余裕だった。きっとルーシィの必死な逃走劇すらお遊びだったのだろう。
完全に嘗められている。見下されている。それは
けれどだからこそ、ルーシィには勝機があった。
狙うのは、恐竜がくちを閉じる瞬間。攻撃の瞬間こそ相手は最も無防備になる。
その瞬間に、走り出す。それだけが現状ルーシィがとれる生存戦略だ。
恐竜と目を合わせる。一挙一動も見逃さないとねめつける。
―――――
耳元に自分の心臓があるのかと勘違いするくらい、鼓動が頭の中に反響する。じっとりとした手汗。一周回って心臓が止まりそうなほどの緊張に脳は生命の危機を切々と感じガンガンと警鐘を鳴らす。そんな混沌の精神状態の中で―――――ルーシィはほんの少し、考えた。
( 恐竜のくちがルーシィを覆う。足に力を込めた )
( タイミングを外したらそこで終わり )
( 瞬きひとつ分の時間すら惜しむ大勝負 )
―――――やっぱりほんの少し、もう一回くらい。
―――――誰かに、名前を呼んでほしいなと。
( カウント、3、2、1――――― )
「ルーシィーーーィイイ!!! よけろォーーーーッ!!」
「はいっっ!!?」
■
響いた声―――――それは反射だった。
聞いたことがない声。けれどそんなことよりも、呼ばれた自分の名前とつなげられた指示に意識が引っ張られた。
聴覚情報が脳を通さず運動神経に伝達されたかのように、その声にルーシィの体は動かされた。
―――――まるで、魔法にかけられたように。
立って恐竜を睨み付けていた体勢から、思い切りのけぞって背後の岩に張り付く。体と岩の間に1mmの隙間もないくらいに密着したと同時に―――――
バキャァッッッ!!!!!!!
あまりに痛々しい音を立てて、恐竜が吹き飛んだ。
―――――数百kgはあると推測できる巨体が、蹴り飛ばされたボールのように吹き飛んでいったのだ。
「ふぁ………」
何が起こったのか、理解ができない。先ほどまでの覚悟ごと吹き飛ばされてしまったかのように呆けたルーシィは、―――――しかし何かを思うより早く目の前のただひとつにくぎ付けとなってしまった。
恐竜と入れ替わるように気づけば目の前に立つ、小柄な少年。
その横顔の輪郭はふっくらとしていて、彼がまだ幼いことをうかがわせる。12歳のルーシィより小柄な体を考えれば、年下か同い年かくらいだろう。さっきの一瞬の、声変わりする前だと思わせる高い声とあわせても、まだ甘い幼子と変わらない印象を与えてきた。
けれど、目が違う。
その目は、―――――子供と呼ぶにはあまりにも鋭い。
少年は飛んで行った恐竜をその目で追い、―――――それからルーシィに視線を移した。
―――――黒かった。その瞳は底が見えない海のようであった。真っ黒に凪いでいる瞳と目が合う。
視線ひとつ。あまりに静かで、冷たく、しかし……そのひとつで、滾るマグマを浴びたようにルーシィの心は焼き焦がされてしまった。
―――――その熱に、かつての『希望』の影を見た。
「あ、………」
恐竜相手に恐怖で固まってしまった時とは違う。その目に見つめられたと認識したとたん、ルーシィは自分の体が自分の制御下を離れてしまったような感覚を味わう。
ぎゅう、と心臓が絞まるような。
じわじわと熱が上がってくるような。
絞められた心臓が反発するように力強く鼓動を繰り返し、たまらず、はう、と熱っぽいため息が出る。
全身に甘く痺れが走り―――――それは、どこか覚えがある感覚。
「なあ、オラ悟空ってんだけど―――――お前ルーシィだろ?」
「……………は、い……」
何もかもが急展開過ぎてついていけない。
落ち込んだり立ち直ったり恐竜が吹っ飛ばされたり、既知のような未知に翻弄されたり。ルーシィの心と頭はとっくに用量を超えてしまったようにくらくらと揺れる。
何事もなかったように顔を覗き込んでくる少年。その姿に、湯だった顔と頭で、ただ茫然と返事をするしかできなかった。
■
悟空は目の前でポカンと呆けている、真っ赤な顔をした少女をまじまじと見る。
―――――毛の形も服も絵と違げぇけど………
牛魔王がルーシィを探す参考のために悟空に見せた写真。そこに写っていた少女と、目の前の少女。髪型も服装ももちろん違う。
けれど自分を見つめる、大きく見開かれた瞳と太陽を浴びてキラキラと光る髪の毛に、きっとこいつがルーシィだろう、と悟空は確信した。さっきはとっさに『多分ルーシィだろう』と推測で名前を呼んだが、少女は悟空の言ったとおりに身を恐竜から離したし、事実目の前の少女はルーシィだ。頷いた少女に悟空は満足そうな顔をする。
「あ、あの……お助けいただき、ありがとう、ございます……」
「ん? おう」
ようやく顔の赤みが引き、絞り出したように話しかけたルーシィの声に、悟空は至極簡素に答える。とはいっても、さすがの悟空も少女が恐竜に喰われかけていたのは焦ったものだった。
牛魔王に頼まれて、一波乱あったものの、悟空が呼びかけた筋斗雲が向かった先は広い草原。その一角の岩の前に、大口を開けた恐竜がいて―――――目の前に、少女がいたのだ。
誰が見ても『喰われかけ』とわかるその姿に、悟空はとっさに筋斗雲から飛び降り、背に差していた如意棒で恐竜を吹っ飛ばした。
まあ焦ってはいてもあの程度の恐竜なら悟空にとっては大した敵ではない。恐竜退治はお手の物。なんなら吹っ飛ばされた恐竜が向こう側の崖下へ消えていくのに、もったいないことをした、昼メシにすりゃあよかったなあ、なんて考える余裕すらあった。
「それで、あなたは……失礼ですが、お会いしたことがありましたかしら…?」
「オラとおめぇが? ねぇよ。おめぇオラに会ったことあんのか?」
「い、いえ、わたくしも記憶がありませんわ……あの、でしたら、どうしてわたくしの名前をご存知なのでしょう」
「牛魔王のおっちゃんが、」
訝しげに、おずおずと聞いたルーシィは、けろりとした悟空がこぼした『牛魔王』の言葉に思わず瞬間固まってしまった。
『牛魔王のおっちゃんが』? それに続く言葉は何だろうか。―――――まさか、まさか、父がこの少年を遣わせてくれたのだろうか。『おっちゃん』という呼び名も気心が知れているように感じる。少なくとも恐れられる牛魔王を『おっちゃん』などと呼べる人間をルーシィは知らなかった。もしかして父の知り合いだろうか。
回る思考。そんなルーシィの気など知らないように、にっかりと笑った悟空はルーシィに手を差し出した。
「おめぇ見つけて、一緒に亀仙人のじいちゃんとこ行ってくれって! ばしょ…せん? とかゆうの借りてきてくれって言われたからよ」
「か、め、せん、にん………? ―――――亀仙人!? む、武天老師さまのことですね!? ご、ご存知なのですか、どこに居らっしゃるか!!」
ノータイムでルーシィはその手に飛びついた。差し出された手を両手でつかみ、普段ではありえないほど顔を近づける。
ほんのり色づいていた真白の肌が興奮でパッと華やいで、そんなルーシィに迫られた悟空はぎょっとして少し頭を後ろにそらせた。
テンションが上がった時の距離の詰め方が父とそっくりな親子である。
「あっ、申し訳ありませんっ。―――――そ、それで、その、武天老師さまのお住まいをご存じなのですか?」
「お、おう。つっても、南の沖の方にあるってことだけどよ、筋斗雲に乗ってけばすぐ着くと思うぞ」
「す、すぐ? ………ああ、……」
―――――ついさっきまで、果てない旅になると思っていたのに。住まいも分からぬお人を探して、ただひとり長い旅になると思っていたのに。じわじわと、ルーシィの目に涙が溜まる。零れ落ちそうなそれを見て、悟空はギョッとして焦った。
「いっ! お、おめえ泣いてんのか!?」
「ご、ご、悟空さん、」
「お、おう」
「と、ととさまが、牛魔王が、悟空さんに、お願い、してくださった、の、ですか、」
「そ、そうだけど……」
悟空の返事を聞いて、とうとうルーシィは涙をこぼした。いちど流れたそれは次から次へとあふれ出し、悟空はどうしたものかと自分の道着の裾で拭ってやった。
「わ、わたくし、 っひ、ひどいこと、言ってしまいましたの……! と、ととさまに、ひどいことを言って…っ、なのに、」
なのに、こうして迎えをよこしてくれた。その父の優しさが痛かった。
―――――優しい父が人を殺すさまを見て、人に恐れられるさまを見て、それが辛かった。自分に向けられる変わらない愛情と、周りに向けられる殺意のギャップが怖くなってしまった。
ルーシィの精神はわずかばかり肉体に引きずられ、幼くなっている。その柔らかな心は、愛する父の恐ろしい変貌を受け止めきれなかったのだ。
とうとう親しくしていた村人たちにも敵意を向けるようになった父を見て、ルーシィの心は限界を迎えてしまった。ゆえに家を出た。
―――――芭蕉扇があれば。山の火が消え、帰ることができれば。そうすればもう一度、優しかった父に戻ってくれると思った。
―――――根拠なんてないそれは、けれど、唯一の希望であり、心の支えだった。
―――――本当は分かっていたのだ。分かっていた。分かっていたけれど、すり減っていたルーシィの心はもう余裕が無かったのだ。
何もルーシィだって殺すことすべてが悪だと思っているわけではない。許されないことだとしても『ままならない事情』というものを知っている。そういう場合があることを知っている。
けれど父のそれは超えてはいけないその先の、私欲の果ての、暴虐に他ならなかった。だから止めたかった。自ら修羅の道へ歩んでいく父を見ていられなかった。
―――――『待った』ことがルーシィの罪だった。いつか、いつか、元に戻ってくれると待ち続け、制止の声はかけても、しがみついて止めるようなことはせず、震えて泣いて見てるだけ。いつだって結局間に合わず、救いようのない木偶の坊。
―――――好奇心で見に来ただけだった人もいたかもしれない。迷い込んだだけだった人もいたかもしれない。いったいどれほどの人が死んだだろう。父はどれほどの罪を重ねただろう。
―――――だからルーシィの罪は『待った』ことだった。
■
息を引きつらせながら泣くルーシィに、悟空は困り果てた。どうしたらいいかわからない。だって悟空が今まで会ったことのある女はこんなふうに静かに泣かなかったからだ。
―――――ブルマはうるさくて、めんどくさくて、大きい声で泣いた。ウーロンに襲われてた村の女はそこまでうるさくなかったし、ブルマみたいなのもいたけど、泣いてなかった。
もともと女の扱いなど、祖父の「優しくしろ」という言いつけ以外はてんで知らない悟空である。しかし―――――今、こうして泣いているルーシィにこそ優しくするべきなのだろうということは、なんとなくわかった。
悟空は、どうすっかな、と小さく呟いた。そもそもルーシィが何で泣いているのか分からない。すごく悲しそうだというのは伝わるが……腹が減ったのかなぁ。でも、ひどいことを言ったって言ってんなら、牛魔王のおっちゃんとケンカしたからかなぁ。そんなことを考える。
うんうん、と悩み、それから、あっ! と声を上げる。泣きじゃくるルーシィを泣き止ませる方法をひらめいたのだ。そうだそうだと、未だ泣くルーシィの腕を引っ張った。
「なあルーシィ、こっち来いよ!」
「ひっく、は、はい、っ…」
泣き顔でよたよたと着いてくるルーシィの腕をしっかりつかんだ悟空は、そのまま筋斗雲の上に飛び乗った。ボフン! と筋斗雲が跳ねる。―――――しかし難なくふたりを受け止めた。
驚いたのはルーシィだ。いきなり強いちからで引っ張られたと思ったら、体が浮いて、ふわふわの何かに受け止められた。驚きすぎて涙も止まる。
うそ、と小さく声が出た。
「――――― す、ごぉい……」
黄色いそれは、ふわふわとしていて、浮いていた。まさか、まさか、これは雲だろうか。自分は今、雲に乗っているのだろうか。
『雲に乗る』という、誰もがいちどは夢見たであろうシチュエーションに、ルーシィのくちからポロリと感動の声がこぼれる。呆然としているのに、くちの端がムズムズして、笑ってしまうそうになる。体がそわそわして、動いてしまう。さっきまで泣きじゃくっていたのに、あまりのことに興奮してしまう。
じわじわと明るくなったルーシィの表情に、悟空も満足そうな顔をした。
「な、すげーだろ!」
「はい、はい、…すてき、ほんとうに…」
呆然としながら興奮するという器用な返答をしたルーシィに、悟空は得意げに「捕まっとけよ」と声をかけた。はて、捕まっておけとは。ルーシィが疑問に思うより早く、―――――筋斗雲が、天高く上昇した。
「きゃあ!」
「なはははは!」
その速度は車に並ぶほどだろう。ルーシィはとっさに悟空の背中にしがみついた。数十秒ほどして、上昇した筋斗雲が停止すると、悟空は自分にしがみついたまま丸くなっているルーシィに「下見てみろよ」と笑って言った。
「………」
もはや言葉もない。そぅっと覗いたその先―――――そこにあったのは、雄大な自然だった。
走りぬけた広い森。ルーシィのいた草原。恐竜が飛んで行った谷。…そのすべてが太陽に照らされ、その力強い生命をまざまざと見せつける。
―――――孤独を感じさせたあの草原が、今はただただ美しく見えた。
きれい、とルーシィが呟く。その声は震えていた。また涙がこぼれそうになって、ルーシィは思わず目の前の悟空の背中にすり寄る。悟空の高い体温と、少しの汗のにおい。それが今この場にいる悟空とこの景色が夢でないことの証明のようで、ころりと一滴涙が落ちた。
―――――背中にひたりとくっつく体温に、悟空はしばし瞬きをする。生きてるなあ、と思った。泣いてるなあ、と思った。思って、ふわり、と記憶を反芻する。
フライパン山の、あの時の牛魔王の、―――――ブルマの叫びを、思い返した。
■
―――――ブルマの唐突な叫びは、強い余韻をもってその場の人間鼓膜に反響した。ごうごうと音を立てる炎の中で、こころなしか山びこが聞こえる気がするほどである。
しかしその声量以上に、その場にいる全員が、言葉に込められた彼女の強い怒りを感じおののいた。
なぜ怒っている? 何を怒っている? 良い話だったはずだ。娘を助けてくれという話だったはずだ。一体何が気に障ったという?
場が混乱する。―――――つまりは、ブルマの独壇場になった。
「あたしたちが来るちょっと前ってことは、あなた、娘が出て行ったのに! 娘より泥棒だと思ったあたしたちを優先したってことでしょ!? 娘の無事より、宝の無事を心配したってことでしょ!!?」
………それは、だれも考えつかなかったことだった。当人の、牛魔王ですら意識になかったことだった。
ブルマは頭の回転がひときわ速い。そして柔軟な思考の持ち主なため、―――それが彼女を天才たらしめる要因のひとつであると言えるが―――鋭い観点で、それに気づいた。
勢いよく吐き出される言葉は刃のように牛魔王を刺す。はく、と口がわななき、頭の中が真っ白になった。牛魔王の思考はあまりの衝撃に停止し、何を言われたのか、理解ができなかった。けれど確かに、それは胸に刺さり、赤い血をあふれさせる。
悟空とウーロンは驚きすぎてまだ理解が及ばなかった。ブルマが怒鳴り散らすのはいつものこと。短い間でも慣れたもの。けれど、これは、いつもと違う。人の機微にうとい悟空ですら、その明確な違いを本能で感じてしまいたららを踏む。
「ああ………」
ただ物陰にいたヤムチャはその言葉に思い至る。そして、激情をたぎらせるブルマの心を想った。―――――それは、なんと清い思いだろうかと。
「なんで、こんなとこに居るのよ!!!」
繰り返すようにブルマは怒鳴る。
「宝なんてほっぽり出して追いかけなさいよ、なんでこんなとこに残ってんのよ!! 三国一の娘なんでしょ? 優しいいい子なんでしょ? あなたが―――あんたが悪党として暴れてたせいで、ひとりで出て行ったんでしょ!!? なにこんなとこで泣いてんのよ!! 自分が悪いって分かってんじゃない!! 自分も被害者みたいな顔して、なんで他人に頭下げてんの!?」
ブルマの怒りは、間違いなく正しかった。
ブルマは図太く傲慢な娘である。しかし、情が深く面倒見のいい娘でもあった。それは生まれながらの上流階級として持つ
ブルマの両親はなんとも癖の強い二人ではあるが、とても愛情深い親だ。ブルマは大きな愛情をたくさん与えられ、ゆえに与えることを知っていた。
自分勝手で横暴だが、まともな考え方だってできる。そして何より、その正しさを恐れず声にできる。
だからブルマはあらん限りに怒鳴った。ルーシィという会ったこともない娘を想って、どうしようもない気持ちになったからだ。
きっと父親を深く愛していたのだろう。だから罪を犯す父を止めようとしたのだろう。その気持ちを蔑ろにされた少女を想うと切なくて仕方がなかった。―――――ブルマはルーシィのこころを想う。
受け止めてもらえなかった少女の気持ちは、いったいどこに捨てられてしまったのだろうか。薙ぎ払われた自分の気持ちを、その子はどんな想いで見ていたのだろうか。愛する人が極悪人と指をさされる気持ちはいかほどか。
考えれば考えるほど、ブルマのこころが音を立てて軋むような気がした。そうなれば、牛魔王の先ほどのセリフはあまりに白々しく聞こえ、我慢ならなかった。
牛魔王は娘を愛している―――――それは分かった。きっとその気持ちに嘘はないのだろう。けれど、なら、すべきことが違うはずなのだ。
ブルマのくちはブルマの感情のまま、牛魔王を強く詰った。
「フライパン山の火がちょっとやそっとじゃ消えないって分かってんでしょ!? だからあんたも今まで家に帰れなかったんじゃない!! ならどーせ泥棒が来たところで宝なんて持って帰れないわよ!! あんたがちょっと目を離したところでどうなることも無いでしょうが!!!」
「泥棒相手に目くじら立てて追っかけまわしてる暇があったら、あんたが娘を追いかけなさいよ!! 危ないって分かってんじゃない―――――ここには泥棒がいっぱい来るって知ってんじゃない!! あんた、あんた、自分がどんな目で周りに見られてるか知らないの? 教科書にまで載ってんのよッ! そんなやつの根城に忍び込むんなら、あんたの娘を利用しようとするやつだっているに決まってるのに!! あんたの娘が捕まったらどんな目にあわされるか、気づいてないわけ!?」
「12歳の女の子が父親はアテになんないってひとりで出ていくってどんだけよ!! しかもあんた、あの亀のおじいちゃんの居場所知らなかったんでしょ? その子も知らないんでしょ? それでもひとりで出てったんでしょ!!?」
「なにが『頼む』よ!! 人に頭下げてる暇があったらあんたが迎えに行きなさいこのっ、バカ!!!!!」
そこには悪魔の帝王と恐れられた男に対する畏怖などなかった。牛魔王より一回りも二回りも小さな小娘が、仁王立ちで啖呵を切る。その姿はこの場でだれよりも大きく見えた。
捲し立てたブルマの瞳は、一粒涙をこぼした。それは瞬きを惜しむほど牛魔王を睨み付けていたことにより乾いた眼球を潤す生理現象なのか、爆発する感情に体が追い付けず故に溢れたものなのか。けれどその表情は怒りに燃えている。
ブルマは切ない気持ちや納得のいかないことを怒りに変換するタイプの人間だ。煙たがれることはよくある。しかしある意味、だからこそ、ここぞというときに彼女の言葉は強く刺さるのだ。
―――――そこにあるのは純粋な気持ちだと伝わるから。
「あ、ああ、あああ……!!」
牛魔王は再びあふれ出した涙を止めることができなかった。
娘が出て行ったとき、牛魔王はすぐに追わなかった。娘の言葉に狼狽し、ウダウダと悩んでいただけだった。
いきなりどうしたというのか―――――いきなりではない。あの子はずっと自分に訴えていた。
年頃の癇癪だろうか―――――違う。あれはあの子の苦しみだった。そして、父に対する諦念だった。
きっとすぐに帰ってくるだろう―――――だとしても、盗人が押し寄せるここで牛魔王の娘であるあの子をひとりにするべきではなかった!
心配はあった。追おうかとも考えた―――考えただけだった!―――けれど、その際出会った盗人…つまりはブルマたちを見た瞬間、意識は完全にそちらに向けられてしまった。また来たのか、という怒り。それにより、娘のことを一瞬忘れたのだ。
( おのれ、盗人! また性懲りもなくおらの宝さ盗みに来ただか! 許さん! 奪わせねぇ!! 宝には、指一本、触れさせねぇ!!! )
―――――泣きそうな顔で父を詰って出て行った娘のことを、忘れてしまった。
痛かった。これ以上なく痛かった。全くその通りだった。なぜ自分はここに居る? 愛する娘が出て行ったのに、なぜ自分はこんなところに留まっている? 牛魔王は激しい自己嫌悪に呑まれそうになった。
可愛い娘だ。愛した妻の忘れ形見。あの子こそが自分の一番大切な宝だったはずではないのか!
感情が荒ぶる。思考が混ざりぐちゃぐちゃになる。
自分は何をしている? 確かに、我が家の一大事にハイエナのように寄ってきた盗人どもは憎かった。思い出の詰まった宝を、私欲で奪いに来た奴らはひとりたりとも許せなかった。
しかし元はといえば、その宝とてかつて自分が悪党として奪い取ってきたものだ。いうなれば自分もまた、その盗人どもと同じ穴の狢だというのに。何をいまさら、被害者のような顔をして!
―――――そうしてたくさんの人を殺した父を、その姿を、娘はどう思っていたのか。自分は本当に考えたことがあっただろうか。
なぜ宝を執拗に守ろうとしたのだ。根本は何だった? ―――――娘だ。すべて娘に残すつもりの宝だったのだ。幼くして母を失った可愛くかわいそうな娘に、決して不自由をさせないようにとため込んだ宝だった。それに手を出されることは、娘の幸せを奪おうとすること。許しがたいその行為への怒りを、牛魔王は『殺す』という結果に変えた。
なぜその宝が、娘を傷つける。………自分が、目的を見失っていたからだ。
今こうしてブルマに怒鳴られ、思い直すまで……牛魔王はなぜそこまで必死に宝を守ろうとしたのか、思い出しもしなかった。目的はとうに見失っていた。娘を守ることが目的だったはずだ。宝を守るのはそのための手段―――それが、いつの間にか手段は目的にとって代わり、暴走してしまった。
――――― 宝がそれほど大切ですか
違う。そうだが、そうじゃなかった。自分が本当に大切だったのは、娘のはずだったのに!!
かつての兄弟子の孫に出会えてなにを浮足立っていたのか。その時共に学び鍛えた亀仙流の武で罪を犯した自分に、喜ぶ資格があるというのか。あの時学んだのは何だというのだ。こんなことのために鍛えたのではなかった。何を忘れていたのだろうか。何を失ってしまったのだろうか。
―――――ととさま、ととさま!
記憶の娘が笑いかけてくる。そういえば、あの子の笑った顔をどれくらい見ていないのだろう。そんなことも分からなかった。
―――――情けない! 情けない! これだけ年の離れた小娘に怒鳴りつけられなければ気づけなかった!! 亡き妻に誓ったではないか。ひとりでもちゃんと育ててみせると、必ず幸せにすると!!
―――――それが、今!!
「う、うう、うあああああ…!!」
牛魔王は何も言えなかった。死にたいほどの自己嫌悪。全身から力が抜け落ち、もはや両の足で立つ気力もなかった。―――――それでも、娘を迎えに行かなければと。
崩れ落ちた体を引きずるように動かした。威厳もなく、這いずって動いた。どっちだ。娘はどの方角に向かって行った。そんなことも分からない!
―――――ブルマは、さらに言いつのろうとしたこぶしを収める。本当はもっと言ってやりたかった。気持ちは収まらなかった。けれど、ウーロンが止めたから。
恐ろしい魔王と恐れられていた男が泣きじゃくりながら這いずるように動く姿を見て、ウーロンがブルマを止めたからだ。これ以上は違うと、咄嗟にしがみついて止めたからだ。
男の威厳だの、そんなもの知ったことか。こちとら女だ。男が性を理由にするのならこっちだって女としてへし折ってやる。そんな激情がブルマの中にはあったが、それでも喚くでもなく静かに泣いてブルマの足にしがみついたウーロンへの情は、それなりにあったのだ。
ウーロンの気持ちは物陰で聞いていたヤムチャも同じだった。同じ男としてなのか、牛魔王の気持ちが痛いほどの伝わってきたのだ。もしかすると、武を嗜む者としてウーロンよりも強く感じるものがあったかもしれない。
ただ、あれだけ恐れられていた男の涙が、強く脳裏に焼き付いた。
怒りを抑えるブルマ。ブルマを止めるウーロン。呆然と崩れた牛魔王。物陰ではヤムチャが唇をかみしめ、プーアルはそんなヤムチャの様子をわが身のように心配していた。
ごうごうと燃え盛るフライパン山の炎の前で、そのさまは異様な雰囲気を放っていた。
「なあ、おっちゃん。じゃあオラがその、ルーシィっちゅうやつと亀仙人のじっちゃんとこ行けばいいんだな?」
―――――ふいに、空気を押しのけるように。場にそぐわないあっけらかんとした声が響く。全員がその声に導かれるように視線が集まる。
―――――悟空だった。いつの間にか呼び寄せた筋斗雲によじ登って、あっけらかんと言い放ったのは悟空だった。
そのひょうひょうとした姿に、一度怒りを鎮めたはずのブルマはグルグルとした感情が最熱するのを感じ、勢いそのまま悟空を睨みつける。
「あんたっ、話聞いてたの!?」
「聞いてたぞ。ケンカしちまったんだろ? じゃあ仲直りすりゃあいいじゃねぇか」
仲直り。子供のような響きだった。そんな軽いことじゃない、とブルマはまた怒鳴りつけようとして―――――やめた。振り上げたこぶしも下ろす。
しっかりと目と目が合ってよく見えた悟空は、想像以上に真剣だった。短い付き合いでも悟空のことはそれなりに理解できていたつもりのブルマだったが、それでもこんな真剣な目は見たことがない。
野生児。世間知らず。怪力馬鹿。悪い奴じゃないけど、とんでもない奴。そんなイメージを持っていた悟空の、見つめあった瞳はあまりに深く凪いでいた。
その瞳を見ていると、ささくれ立っていた自分の気も凪いでいくような気がして、ブルマはゆっくり、肩を落とす。その通りだ、と落ち着いたからだ。まだ、仲直りはできるだろう。できるかもしれない。たぶん、きっと。
あいまいだが、その通りなのだ。
「……孫くん、ルーシィちゃんを見つけてあげて」
「おう。―――なあおっちゃん、ルーシィってどんな奴なんだ?」
ブルマの静かな声に、悟空は当たり前のように返事をし、今度は牛魔王と視線を合わせる。
―――――牛魔王は、嗚咽を漏らしながら唇をかみしめた。崩れる自分を見つめるその姿が、かつて修行中にくじけそうになった自分を励ましてくれた兄弟子悟飯の姿を思い出させたからだ。
あのお人もそうだった。自分が間違ったときに、くじけそうだったときに、独特の優しい落ち着いた雰囲気で支えてくれた人だった。視線を合わせて、希望をくれた人だった。師である武天老師さまとは別に、尊敬する兄弟子だった。
「ご、ごれだァ…! ごの子゛だ…! すまねェ゛…すま゛ねェ゛孫殿…!! お願げぇだ、お願げぇしま゛ずだ……!!」
鼻が詰まって息が苦しい。それでも牛魔王は涙でぼやける視界で、必死に頭を下げて懐から1枚の写真を取り出した。それを見てブルマはまたぐっと胸が苦しくなる。そうやって、ずっと懐に写真を入れておくほど愛しているのだと伝わってくるから。もうブルマは自分が何に心を締め付けられているのか分からなくなってきた。
牛魔王の取り出した写真を悟空がのぞき込む。ウーロンとブルマも続いた。ブルマはこれだけ愛される少女がどんな子なのかが気になったから。ウーロンもまた好奇心からだが、それは親の『かわいい』は当てにならない派のウーロンとして娘がどのレベルなのかが気になったという下品な好奇心だ。どうしようもない豚である。さっきのファインプレーが台無しだった。
―――――写真には幼い娘が写っていた。明るい金髪に、大きな琥珀の瞳。カメラ目線に、困ったような、ちょっと疲れたような、それでも小さく微笑んだ可憐な少女が写っていた。
「か、かわいい……!」
ウーロンは思わず唸るように呟いた。その本心を感じ取ったブルマは即座にウーロンの足を踏んで黙らせる。鋭い痛みがウーロンを襲ったが、さすがにウーロンとで叫ぶのは自重した。空気が読めていない自覚はあった。
悟空はその写真をまじまじと見て、ひとつ頷く。
「ん、分かった。なあ、おっちゃん。オラちゃんとこいつ連れて来るからさ、もう泣くなよ」
「っ、あ゛ぁ、ああ゛っ! お願げぇします、お願げぇじます゛……!!」
悟空のさりげない励ましの言葉に、牛魔王はもうそれ以上何も言えなかった。さらりとしたそれは、特に何かを考えているようには見えないが、強い自責にむせび泣く牛魔王にはそれが調度よかった。
悟空はそんな牛魔王の様子を確認した後、筋斗雲にしっかり捕まり直し、構える。
「よし、筋斗雲! 一緒にこのルーシィってやつ探してくれ!」
筋斗雲はモノを言わない。しかし、かつての主の弟子の、あまりに悲壮感の溢れる泣き声に。出会って間もない、それでも、今までとは違う声で自身に呼びかける主に。―――――応えるように、今までにないスピードで飛び立った。
■
―――――悟空は思い返した少し前のやり取りに、パチリ、と大きく瞬きをした。
ただ、牛魔王のおっちゃんもルーシィも、よく泣くなぁと思ったばかりだった。
「オラよく分かんなかったけどさ」
「……はい」
「よーするに牛魔王のおっちゃんとケンカしたんだろ? おっちゃんルーシィのこと心配だっつてたし、亀仙人のじいちゃんとこ行ってナントカってゆーの借りて、おっちゃんと仲直りすりゃいいじゃねーか」
「……………はい」
ケンカ。仲直り。そんな簡単な言葉で良いのだろうか。少なくとも、罪は消えず死んだ人間は蘇らない。きっと父も、―――――自分も、極楽浄土へは行けまい。地の底でその罪を問われるべき罪人だという自負がルーシィにはあった。
けれど、けれど。
―――――せめて、父と分かり合い、死者を弔うことはできるだろう。
今は、それだけでも。
ひとりであの草原に居た時と比べて、ずいぶんとルーシィの心は穏やかだった。冷静に考えられる。先を想える。それは仲間を想い出したからでもあり―――――悟空のおかげなのだと、ルーシィは感じた。他の誰でもこうはなるまいと。悟空の持つ独特な雰囲気があってこそだった。他の誰でもなく……悟空だったからこそ。
ルーシィはひとつ深呼吸をして、しがみついてごめんなさい、と悟空から身を離した。心に少し余裕ができて、身内でもない男性にはしたなく抱き着いていることに対する羞恥心を思い出したからだ。いくらルーシィに『かつて』があろうとも、今は12歳の少女であるのだから。
ほんのり頬を染めたルーシィに、悟空は「今から飛んでくんだからまだ摑まっとけよ」と返した。
筋斗雲でスピードを出すのだから、身を離すのは危険だ。悟空の言うことはもっともである。では、とルーシィはもういちど悟空の背中にくっついた。自分より小柄な体にそうっと腕を回して、悟空のおなかの前で手を組む。
安全のためだ。それでも、密着した体がどうにも恥ずかしくって、どこか嬉しくって、ルーシィのくち元が緩んでしまう。
「悟空さん」
「ん?」
「ありがとうございます。……ほんとうに」
渡されたお礼は小さく、けれどはっきりとしたものだった。悟空はそれに少しくすぐったくなって、笑ってごまかしてしまう。とりあえず、泣いてないならいいかと。
「おーし、じゃあ亀仙人のじいちゃんとこ行こうぜ」
「はい…」
「そういや、おめえ寒くねえか?」
「いいえ―――――いいえ。悟空さんが、あたたかいから」
■
―――――悟空が乗った筋斗雲の尾が空から消えるころ。ブルマは牛魔王から受け取ったルーシィの写真を見て、静かに問いかけた。
「……ねえ、この写真、牛魔王さんが撮ったの?」
「あ、ああ……そうだべ。…半年くれぇ前に………よくわかっただな」
牛魔王は先ほどよりもしっかりした声で答えた。それでも若干うろたえているのは、先ほど深く刺さった言葉がを尾引いているからだろう。写真を見て答えるうちに、我が子の少し歪な笑顔に苦しくなった。緊張しているのだと思っていた。そんなことは無い。きっとこのころには、あの子の心は限界を目前にしていたのだ。
牛魔王が続けた問いに、ブルマは顔を上げなかった。
「……分かるわよ。だってこんな、ひきつった笑顔なのに、……それでも撮った人のことが大好きって分かる顔してるわ」
「―――――………ああ」
そこにはしっとりとした静寂があった。
「………すまねえ、娘っ子。ブルマっちゅうただか…ありがとう」
「ううん………あたしも言い過ぎてごめんなさい」
それは静かな仲直りだった。歳も生まれもとんでもなく離れた二人が、同じ目線で仲直りをした。―――――ブルマは、先ほどの悟空の言葉に納得する。そうだ、こうやって、仲直りができればいいのだと。無事に帰ることさえできれば、きっと仲直りはできるはずだと。
ウーロンが足元からハンカチを差し出す。ブルマは黙って受け取った。ウーロンはスケベな豚だが、こういうところが憎めない豚だった。
ブルマは顔を上げ、牛魔王は、心を改めた。悟空が去った後、場にはしっとりとした、それでも穏やかな雰囲気が流れる。
―――――とあるふたりを除いて。
「ヤッ、ヤッ、ヤムチャさま! ままままずいですよ!」
「何てことだ…まさか牛魔王の娘だったなんて…!!」
時は少しさかのぼり、牛魔王が娘の写真を取り出したころ。角度的にその写真を見ることができたヤムチャとプーアルは、先ほどまでの涙が思わず引っ込むほどに驚いた。
見覚えがあったのだ。
いや、正確には『見た気がする』のだ。悟空たちを追いかけてこのフライパン山に向かう途中に―――――恐竜に、追われているのを。
ゾッと血の気が失せる。わずか一瞬視界の端に映っただけだったため、気のせいかと悟空たちを追うことを優先し、見て見ぬふりをしてしまった。実際あの子なのかどうかはわからないし、そもそも本当に気のせいかもしれない。しかし、悟空の乗った筋斗雲が飛んで行った方向を考えれば―――――ヤムチャは思わず座り込む。
これだけ感動的な雰囲気になっておきながら、もしあの子が恐竜に食われていたら!?
「(た、頼むぞ~~~悟空~~~!!!!)」
ヤムチャはここばかりはと、気に入らないはずの悟空の活躍を必死に祈りながら痛み始めた胃を押さえる。
―――――それは悟空がルーシィを連れて帰ってくるまで続いた。
以上! DB超の方のブロリーを見た熱で書き始めた与太話でした。おかげでルーシィが都合よく弱っていて今じゃコレジャナイ感……むん、この設定だとルーシィじゃなくてもよくなるので、もう書きません。ちなみに超ブロリーの映画は6回見に行きました。
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星の瞬き、炎の煌めき
サラマンダー
あるところに おひめさまが おりました 。
指の先まで気品に満ちて 白百合のごとく 高貴に微笑む 。
それはそれは 美しい おひめさまでした 。
―――――ォォオオオオオオオオオ……!!
「ここが―――――ハルジオン」
吠え猛る列車の煙の中でも、風に乗って届く海の香り。あおられる麦わら帽子を押さえ、高台にある駅から街並みを見下ろす少女がひとり。―――――湿った潮風に
少女が一歩踏み出せば、ワンピースの裾がふわりとなびいた。ノースリーブの生地から晒された白い肌と華奢な腕が少女の可憐さを引き立て、膝下で揺れるスカートは品の良さを醸し出す。すれ違った駅員は会釈を受けたばかりに、火照った顔でちからの抜けた敬礼を返すのが精いっぱいだった。
「すてきな街」
少女はこの先の街に胸をときめかせ歩く。その
これは夢か幻か、はたまた彼女は妖精か。美しい少女の背が遠ざかる中、惚けたままの駅員は、魂を抜かれたように彼女が去っていった方向へ熱い眼差しを送り続けた。
「おい、そろそろ出発―――――お、お前、どうした?」
「………天使だ…いや女神だ……」
■
「ごきげんよう、おじさま」
穏やかな時間の過ぎるハルジオン。街にある唯一の魔法屋にひとりの少女が訪れた。
カラン、と年季の入った入店ベルを鳴らし店内に入って来た少女は、正面カウンターに座る店主を見つけると麦わら帽子を胸に抱え丁寧に微笑む。
「……あらら、珍しいお客さんだこと」
「素敵なお店ですわね。少し、店内を見せていただいても?」
「そりゃモチのロンでしょ。お探しのモノでもございます?」
「ええ、『
落ち着いたトーンで尋ねた少女に、店主は改めて上品な客が来たもんだと驚いた。
―――――店を始めて数十年。魔導士の数が人口の1割にも満たない世界でも、この港町は特に割合が少ない。魔法より貿易が栄えた街で魔法屋に訪ねてくる魔導士といえば、旅の魔導士が主なもの。
いい客だってもちろんいるが、実のところ、魔法屋を見下す魔導士は存外多い。
なにせ大衆向けの魔法屋で買える道具なんて子供遊びのオモチャのようなものばかりなもので。
魔導士が魔法屋に求める魔法道具はレアなもの、強いもの、というのが大体で、もちろんそんなものが田舎町の小規模個人商に入荷されることなんてほぼない。それ以外なら
けれど
そうなればこんな店に来る客はほぼ冷やかしとなる。
運が良ければ使い捨ての道具を買って行ってくれるかもしれないが、乱暴な相手だと脅して商品を奪おうとするやつもいるものだから心象は良くない。メイン客層なのに。
狭い視界の偏見と言われれば自覚はあるが、経験からどうしても。まあこの店のグレードなら客もその程度だという話なのだが、それでも商売だから媚を売らんとやっていけないのが世の中の悲しいところだ。
「
求められた『
「
店主は椅子から飛び降り、少女をたいして広くない店の一角に案内する。
―――――まあ、買いは無いだろうな、と思った。ガラスケースの中に並んでいる鍵は5つ。すべて銀色の、どこにでもありふれた鍵だった。
世界に1本ずつしかない金色の鍵は店で取り扱えるようなものではない。銀色でも戦闘用の星霊は価値が高く入手するのは難しい。なら下手にリスクを負うより、星霊魔導士以外にも人気の高い愛玩星霊をいくつか揃えていた方がよっぽど商売になる。
といってもラインナップは本当に貧層で、どこでも入手できるような鍵しか並んでいない。一応
そう思って内心落胆した店主であったが、反対に並んだ鍵を見た少女はパッと明るい顔で喜んだ。
「
なんと、求めていたのは
なにせ人気なだけあって、男からのプレゼント品としてもよく選ばれるのだ。こんな男ウケのよさそうなお嬢様、喜んで貢ぐ男は腐るほどいただろうに。よっぽど箱入りだったのだろうか。
―――――しかし嬉しいチャンスである。
ここは『
貿易が盛んな街とはいえ、いつ訪れるかわからない旅魔導士がターゲットな分(しかも必ず買い物をしていくわけではない)どうにも収入は芳しくない。魔導士でなくても使い道のある日常生活に役立つものや、子供が喜びそうなオモチャを揃えることでようやく収入を得ている状況だ。女房の小言は毎日耳にタコができるくらい聞かされていた。
そこにこんな
内心幸運をかみしめる店主に気づかず、少女は喜び満面に店主に問う。
「おじさま、この子の鍵はおいくらですか?」
「2万
―――――なので店主は吹っ掛けた。
完全鉄壁ポーカーフェイス。何の躊躇いもなく吹っ掛けた。なんという悪魔の所業だろうか。これには先ほどまではしゃいでいた少女も思わず呆ける。
に、にま? ??? ????
「え、あ、え……?ま、お、お待ちになって、おじさま、」
思考が一時停止し、現状の理解を放棄しそうになった脳。しかし少女はかろうじて持ち直すことができた。
「ほ、
「いやぁ、そんなことないとも。間違いなくその鍵のことさ。
「……おじさま。わたくしの記憶違いでなければ、その金額は
少女と店主の視線が熱く混じり合う。
「わたくしの覚え違いですかしら」
「人気商品ですからねぇ」
言外に「高すぎでは?」と言った少女に、意訳すれば「吹っ掛けてます」と答えた店主。瞬間、双方の瞳には「決して譲れぬ」という意思が宿り、店内の空気がピンと張り詰めた。
少女はけして金にがめついわけではない。けれど、だからといってあからさまに吹っ掛けられている状況で「そうなんですね」と素直に頷くわけがない。
「いやですわおじさま、いじわるをなさらないで―――――本当はおいくらですの?」
「フォッフォッフォ」
美少女VS港町の店主の値切り戦争が勃発した。
■
「はあ……」
結果として―――――勝利の女神は店主に微笑んだ。
終止符を打ったのは店主のひと言だ。鋭く高度な舌戦を繰り広げる中放たれたひと言。
『大切なのは、この星霊にいくら払っていいと貴女が思うかでは?』
んなわけあるかいオークションと違うんやぞ。ぼったくりジジイがアホぬかすな。
―――――けれど、そんなことを言われてしまえば少女はこれ以上
なぜなら、少女は『星霊魔導士』である。
少女はいち消費者として不当なぼったくりに立ち向かっただけに過ぎない。けれどあんなことを言われてなお値切るということは、星霊を軽んじているということと同じなのではないか……そんな気持ちを抱いてしまったのだ。
分かっている。店主の言葉は意図的に少女の心を揺さぶろうとして言った、これっぽっちも正当性のない詭弁であると。だからこそ怯んだ自身の未熟さを恥じていて、けれど、反論はもちろん聞かなかったことにだってできやしなかった。
―――――心から星霊を信頼し愛している少女にとって、星霊とは家族であり、友である。ならば、何故「この星霊にここまでの金額を支払う価値はない」などと言えようか。
亀の甲より年の劫。その道で生計を立てている店主に勝るには未だ経験不足。
しかし少女にもゆずれぬものがある。プライドがある。やりこめられたと理解した状況で「そのとおりですごめんなさい」と言えるワケもなく、「それならばむしろ2万J程度ではとうてい足りない」と目じりを吊り上げ5万Jを押し付けての決着と相成った。
少女はしょんぼりと肩を落とす。
では何がその顔を曇らせるのか。それは、いくら少女なりの秩序があったとはいえお金にものを言わせたような結果になってしまったことについてだった。星霊たちに対して誠実な対応であったとは言い切れないという自責の念だ。
大きなトランクを持って歩く少女の足取りは重い。それはトランクの重さのせいだけではないことは明白で、もっと上手にやる方法があったのではないかという後悔ばかりが少女の肩にのしかかっていた。
■
俯き気味にトボトボと歩いていた少女は、ふと、前方がなにやら騒がしいことに気が付いた。誘われるように顔を上げ―――――少し離れたところに、謎の人だかりができているのを見つける。
「あら…? なんでしょう、何か催し物かしら」
離れた場所まで響く黄色い悲鳴。よく見れば人だかりの顔ぶれは女性ばかりのような。
少女は首をかしげる。女性をターゲットにした内容?いっそ女性限定かもしれない。それにしたって集まっている人たちの熱狂ぶりと言ったら。
……それから、少しの違和感。大盛り上がりを見せる人だかりの、横を通り過ぎる男性諸君の顔がずいぶんとまあ険しい。誰もかれもが嫌なものを見たような顔で通り過ぎていくものだから、男女差の極端さに気味の悪さと謎が深まる。
ちょうどその時、はてと首を傾げる少女の横を、人だかりに向かってかけよって行く女性たちがワッと嬉しそうに声を張り上げた。
「この街に有名な魔導士さまが来ているんですって!」
「
「…さらまん、だぁ…?サラマンダ……っあ、」
―――――『
それはこの国において超強力な火の魔法を使うことで有名な魔導士の通り名だ。
「マグノリア屈指の魔導士さまがハルジオンに……!?」
少女は思わず腰に下げていたキーケースを掴む。ここには自身が契約している星霊の
少女は世界にも滅多にいない、金色の鍵を持つ―――それも
けれど、その輝かしい手持ちに対して少女自身は実践経験も実績もほぼないペーペー。宝の持ち腐れと言われれば反論の余地もない。そんな彼女からみれば、国に名の轟く
仕事かそれともプライベートか、なんにせよまさかまさかの大スクープ。少女は先ほど感じた違和感をこぼれ落とし、そんなお方のご来訪とあれば人だかりもできるはずだと
何たるキセキ、素敵なめぐり合わせ。少女はドキドキと高鳴る胸を抑えて瞳を輝かせた。
―――――どんな方なのだろう。好奇心が鎌首をもたげる。せっかくのこの機会、ひと目だけでも、そのお姿を拝見させていただきたい。けれどそんな理由で押しかけては、迷惑になるに違いない。ただでさえ既に人だかりができているというのに……
「う、うう、ほ、ほんの少し、ひと目だけ、皆様の後ろからお姿を見せていただくだけならば……!」
しかし欲望には勝てなかった。
■
少女が喧騒の元により近づいてみれば、遠目からも大きいと感じていた人だかりは想像より大規模で、集まっている女性はかなりの人数であることが分かった。下手をすれば街中の女性がここに集結しているのではないだろうかというほどだ。
―――――ただ異様なのが、その集まった誰も彼もがまるで恋する乙女のように顔をとろけさせ、一身に
「ま、まあ…」
確かに高名な魔導士を相手に興奮冷めやらぬ状態になることは理解も共感もできるが、……それでもここまでだろうか。
あまりの熱気に先ほどうっかり落っことした違和感を思い出し、少女はわずかに後ずさりする。
―――――しかし、天下の
あるいは周りの異様な盛り上がり方に呑まれて火が消えないのか。
ひと目だけ、一瞬だけでも。
少女はくねくね動く女性陣の隙間を探しながらなんとか
すっかりくじけそうになり、また肩を落としてうなだれた。ひと目お顔を見ることもできないような自分の情けなさに自己嫌悪すら抱き始めるほどである。
しかし、やっぱり
そこまで
―――――どうして……でも、どうか。どうか………
少女は、ふう、と深く深呼吸をした。ひと目だけでもお姿を拝見させていただきたい。けれどこの様子では何時間かけても達成できる気がしない。こうなればいっそのこと、ひと思いに人だかりに飛び込んで、もっと近くに進んでみようか。目的を達したらすぐに撤退すればそこまで邪魔にはならない、はずだと信じたい。少女はええいと勢いづけて顔を上げ―――――
■
時間が止まった。
■
「は、………」
■
正確には、止まったと錯覚した。
―――――目が、合ったのだ。人だかりのわずかな隙間から、その
さっと一瞬できたわずかな隙間と、偶然にもそのタイミングで少女のいる方向に顔を向けた
ただ、見つめた。
ぶつかる視線と視線。この人だかりの中、少女はなぜか確信をもって「目が合った」と思った。そしてその答え合わせのように―――――男は優しく微笑んだ。
きゅうん、と胸が絞まる。
じわじわと頬に熱が集まる。
激しい動悸に浅くて熱っぽいため息が出て、呼吸が苦しい。
全身に甘い痺れが走り、心が解け、思考が崩れ、瞳が潤み……
―――――どうして?
少女はわずかに残った理性で考える。
こんな苦しくて愛おしい感情は知らない。
―――――どうしてあの方から目を逸らせないの?
どこか甘えた疑問を抱えて、しかし次第
―――――そこから、一歩。おぼつかない足取りで踏み出す。少しでも、ほんの一歩でもあの人に近づきたくてたまらなくて。
―――――ああ、もしかして。『もしかして』『わたくしは』『あの方のことが』……
酩酊。形も無くとろけてしまうほどに焦がれて。ああ、ああ、ああ。
揺れる視界で、思考で、伸ばした手があの方に。伸びて、縋って、求めて―――――さらに一歩踏み出そうとして。
けれど少女より先に飛び出していった少年が居た。
「 イグニール !!! 」
そこで意識が戻った。
■
「……え、?」
■
―――――
■
ドッと冷や汗が出た。背筋を言い知れぬ悪寒が走る。―――――今。一体、
意識が戻る? 今、今、たった今の話だ。自分は何をしていた? 何を感じて……何を考えた?
まるで頭が回らなくなって、ただ意識のすべてが
どうしようもなく気になって。そして目と目が合って、微笑まれて、そうしたらどうしようもなく魅かれてしまって。
たまらなく求めてしまった。もう一度その瞳に映してほしいと縋りたくなった。―――――そう、だって、
目と目が合って、微笑まれて、そうしたらどうしようもなく
―――――
はくはくと震えるくちを無理やり閉じる。体が震えるのをグッとこらえて―――――そうして、
周りの状況は?
可能性の有無は?
―――――おかしくなったのは、いつ?
焼き焦がすような熱視線。しかしその瞳は先ほどまでのようにとろけてはおらず、むしろ氷点下の灼熱を孕む。
先程少女を越えて輪の中に飛び込んできた少年。どうやら探し人をしていたがそれは
その態度を失礼だと咎める女性陣。
攻撃的な女性陣を優しくたしなめる
それを優しく素敵な人だと称賛する黄色い声。
―――――芝居じみたやり取り。
それを、ずっと見ていた。
■
激昂した女性陣によって失言を繰り返した少年が吹っ飛ばされる。少女は観察していた視線を外し、大きなトランクを持ち上げながらそちらに駆け寄っていった。
彼女の視線がもう一度
■
「なんだアイツは」
ごろり、と地べたに寝転んだ少年―――ナツ・ドラグニルは、炎に乗って飛んで行った男、
乗り物酔いが激しい体質をこらえ汽車に乗ってやってきた港町。空腹でもせっせと足を運んだワケは他でもない、ハルジオンに『
『
イグニール。大好きなナツの父親だ。
やっと、やっと会えると―――――生き別れた父を見つけたのだと、再会を夢見てやって来た。
だというのに、そこに居たのはまったく存じ上げない男だった。
( なんでだよ……『
期待が大きかった分ショックも大きい。一気に無気力になったナツに対して、しかし世は非常である。変な男の取り巻きも変な女だというのか。ナツはすっかり落ち込んでいたっていうのに、よく分からないイチャモンを付けられ絡まれ虐げられ。泣きっ面に蜂である。
むくり、と上半身を起こし、腹をさする。……腹減った。
空腹とショックによってご機嫌は斜め。その不機嫌顔に、近づいてきた相棒猫のハッピーが背中をたたいた。青毛の先にある肉球が柔らかくナツを慰める。
ナツは大きくため息をはいて―――――ふと、件の人だかりがあった方から少女がひとりナツのいるほうへ寄ってきているのに気がついた。
ひらひらとしたスカートを揺らす少女が、身の丈の半分とちょっとはあろうトランクを持って、よたよたと覚束ない足取りでこちら側に歩いてくる。
ナツはボケっとした顔でなんとなく、トランクが重いんだろうな、と思った。それについては周囲も同意見だろう。すれ違う人間(特に男)は心配げな顔で少女を見守っていた。
意味も無くその様子を見ていたナツは、少しして「うん?」と気づく。同じく少女を見つめていたハッピーも気づいたようで、ナツ、と呼ばれた。
――――――あの少女、もしかして自分を目指して歩いてきているのだろうか、と。
もしかしてあの男の取り巻きのひとりで、また何かめんどくさいことを言われるのだろうか。さっきの今で少し警戒したナツのもとに、少女は息も絶え絶えにたどり着く。
「は、はぅ、はふ、―――――んっ、……あ、あの、ごきげんよう。その、とても勢いよく押し出されていらっしゃいましたが、お怪我はございませんか?」
息を弾ませながら、心配げに問う少女。―――――なんだ、いい奴か。ナツはすぐに警戒を解いた。
「ん、別にこんくらいなんともねーよ」
「あい! ナツは頑丈なんです」
軽く答えたナツに続いてハッピーが答える。ナツの返答に安心したように微笑んだ少女は、いきなり話し出したハッピーに大きな瞳を瞬かせた。
驚愕。そんな言葉が当てはまる表情を披露して、―――――興奮したように頬を赤く染める。
「ま、まあ……! わたくし、お話しなさるネコさんは初めて見ましたわ!」
少女の瞳にキラキラと光が散る。それを見てナツは、まあ分からんでもないなとは思った。ナツだってハッピーと同種の猫を見たことが無い。びっくりする奴はびっくりするだろう。
少女はハッピーの視線に合わせるようにしゃがみ、胸の前で両手を組んで笑顔を輝かせる。その姿にハッピーはご機嫌顔で笑った。
「あい! オイラはハッピーです! こっちはナツね」
「ナツさんとハッピーさんですね」
丁寧に敬称を付けて自分の名前を呼んでくれる少女に、ハッピーはくすぐったそうな顔をした。
輝く笑顔に負の感情は見当たらない。純然な好意で名前を呼ばれたのが分かるから照れ臭くなった。ようは嬉しくなっちゃったのだ。思わず尻尾もすよん、と立ち上がり、ご機嫌にお尻を振ってしまう。
「で、お前は?」
ニコニコとしている少女へ、端的に、ナツが顎で示した。それに少女はキョトンとした顔をする。
『お前は』? 顎で示されても何のヒントにもならず、少女は何を聞かれているのか全く分からなかった。
困惑しているその姿にご機嫌なハッピーが「名前だよ」とフォローを入れる。
その言葉に、少女はハッとした―――――名乗っていなかったのに気づいていなかったのだ。
言い訳をしよう。―――――だって、少女は同年代の男の子に自分から話しかけるのが初めてだったのだ。
どう話しかければいいだろうか。なんて言えばいいだろうか。そんな大きな緊張を抱えてナツに話しかけたのだ。
その結果、うっかり一番大切なことを忘れてしまったという。
大失態だと慌てる内心を落ち着かせ、少女は見苦しく慌てることの無いように(表面上)極めて冷静に姿勢を整えた。
「大変失礼いたしました」
まずは謝罪を。そうして、精錬された微笑みを浮かべる。
―――――それは白百合の如く。
「わたくし―――――
お姫さまは 微笑んでおりました 。
美しい茨のガラスの中で ただ微笑んでおりました 。
そうあることを 望まれました 。 そうありなさいと 言われていました 。
ひとり ひとり たったひとりで 美しく咲いた花のように 。
でした でした そうでした 。 それらはすべて 過去の話になりました 。
美しく咲いていたお姫さまは いなくなりました 。 茨の外へゆきました 。
美しく咲いていた
なぜならお姫さまは―――――なによりまぶしい 太陽に 出会ったのです 。
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妖精の尻尾
ニッコリ笑顔。完璧な黄金比。
慎みを持って、控えめに。
丁寧な言葉遣い。どこに出しても恥ずかしくない淑女。
「あのね、お父様」
「先ほどの男性は
気品ある白百合の少女―――――ルーシィは、微笑みと共にその名を名乗り、ナツとハッピーへ端的に用件を伝えた。
要するに、お礼をさせていただきたい、と。
「あの方が着けていらっしゃった指輪のひとつがそうなのです。
当初ふたりはそれを受け取り拒否しようとした。ルーシィのいう『お礼』に心当たりが全くなかったからだ。人違いだろうと思った。
『お礼』とはすなわち『報酬』と同等。対価をもらうだけの『何か』をした記憶が無かったふたりにとって、それは不当だ。
しかし、人生はどう転ぶものか分からない。断りを入れようとした途端―――――鳴り響いた腹の虫。そう、ナツとハッピーは極度の空腹状態にあったのだった。
ふたりのあまりに勢いの良い腹の虫に驚いた顔をしたルーシィは、そのままもう一度微笑み、「お礼にお食事を」と言った。
―――――人間は欲望に忠実である。
こうして一行はファミリーレストランに移動した。
「ご覧になられた通り、皆様、まるで恋に酩酊されたようなご様子でしたでしょう? 一般販売される規格の魔法道具でありながらあの効力となりますと……あれは違法改造されたものと見て間違いないでしょう」
できるだけ早く腹を満たしたかったナツとハッピーは近場に会ったファミリーレストランを選んだ。本人たちが望むのならと笑顔のまま賛同したルーシィだが―――――実はその時点で、これ以上ない興奮と緊張に襲われていたのである。
それはもう、
―――――なぜならルーシィは初めてのファミリーレストランだったのだ。
ファミリーレストラン。通称ファミレスとは、名前の通り集団(特に家族連れ)が対象客層のレストランである。ルーシィはファミレスに行くような生活環境に居なかった。故にその存在は伝聞や本での知識ばかりで。
結局ルーシィはこの歳になるまで一度もファミレスを利用したことが無かったままなのだ。
そんな場所に足を踏み入れることになったルーシィの興奮たるや。これはもはや一種の聖地巡礼。外見はクールに取り繕っていたが、―――――その内心は冷や汗が止まらないといった様子だった。
「発売当初は
……けれど、効力が小さかろうと
もう一度言うが、ルーシィはファミレスを利用したことが無い。
つまり―――――ファミレスのシステムを大まかにしか分からなかったのだ。
「既婚者が術にかけられ家庭崩壊が起きたり、その……性犯罪にも利用されてしまった事例もあるようで。裁判沙汰になってしまうようなトラブルだとか、犯罪に使用されることだとかが後を絶たない魔法道具でした。
製作者は淡い恋の後押しをしたかったのかもしれませんが、善意で作り上げたものも使い手が悪意を持っていれば、理想は形骸化してしまいます。
ですので、数年前に発売禁止・回収となったはずなのですが―――――」
しかし『お礼』と言った手前
「ああ、それと、街中から女性が集まっていたのは『
ただ、悪用防止のために所持にも使用にも特別な申請が必要なはずなのですけれど……いったい、どこから調達されたのでしょう」
そこからは情報戦である。意識を店中に張り巡らせ、店員の言葉、持ち物、所作、店内の客の言動、視線、テーブル上にある物の種類。そして今まで本で何度か目にしたファミレスの描写。あらゆる全てからひたすらに推測をたてた結果、席に案内されたルーシィは自然な所作でメニュー表をナツに手渡した。
―――――どうぞ、お好きなものを選んでください。
ルーシィは戦いに勝ったのである。
「お恥ずかしい話、わたくしも
大量の食事をかき込みながら長い解説を話半分で聞いていたナツとハッピーは、そこでようやくこの
まあもしルーシィの勘違いでも、食べた分の恩は後払いで返せばいいと思っていたため大して心配もしていなかったが……それでも食事を楽しむ心持ちには影響が出るもの。
機嫌の良くなったナツは生魚を抱き込んでかじりつく相棒を一瞥したのち、更に食事のスピードを上げた。
「その、わたくしは星霊魔導士なのですが実戦経験は欠片もなくて、……いえ、これは言い訳ですわね。……あんなモノにかかってしまうだなんて、情けない限りです」
少し落ち込んだように笑うルーシィ。今日は魔法道具屋のことといい
しょげる彼女に対してナツは、やっぱり魔導士だったかと頷く。一般人にしては知識が深いためそうだろうとは思っていた。
しかし―――――星霊魔導士。
実はナツ、今まで星霊魔導士に会ったことがなかった。仲間に
見た目によらず、ということだろうかと少し興味が湧く。
「……やはりギルドに加入し研磨を重ねるべきでしょうか」
目の前でううん、と悩み始めたルーシィに、魚を食べ終わったハッピーが話しかけた。
「ルーシィはギルド入りたいの?」
「え? ええ、その、可能でしたらぜひ、とは思っておりますの。どのギルドも特色があってとっても素敵ですし……」
何かを恥じらってか少し頬を赤らめたルーシィは、それからふと、どこか遠くを見つめるような顔をした。
■
「ああ、けれど、もし叶うのなら」
■
その声は先ほどまでと比べてどこかぼんやりとしていて―――――まるで、夢を見ているように。
■
「―――――
■
ピタリ―――――ナツの手が止まる。
ルーシィは今……『
『
―――――しかし、ただ。目の前で整った微笑みを浮かべるルーシィが『
嫌なのではない。ただ、騒がしくて乱雑としているギルド風景と目の前の
それは相棒のハッピーも同じだったようで、ハッピーはスッパリと「なんで
「結構問題起こしてるギルドだから、ルーシィみたいなお嬢様は好きじゃないかと思った」
我が相棒ながらズバッと言うな、と思いながら、しかし同意見なのでナツは特に何も言わず食事を再開する。ただし視線はルーシィに向けたままだ。
問われたルーシィはといえば、ハッピーの明け透けな言い草に少し驚いたように瞬きをして、それから焦ったように聞き返した。
「あ、あの、お嬢様というのは、」
「? ルーシィって上品だからお嬢様っぽいよねってことだよ!」
「あ、ああ、そうですの。少し驚いてしまいました」
ありがとうございます、と一転、安心したように笑うルーシィ。その笑顔は先ほどまでの完璧さはなく、どこかぎこちない。
ルーシィの反応に首を傾げたひとりと一匹は、しかしその顔がほんのりと高揚し、照れくさそうなものに変わったのを見て静かに続きを聞くことにした。
「
それは随分とか細く、優しい声だった。
ルーシィはその時の情景を思い浮かべるように目を閉じる。その時感じた躍動すらも思い起こすように記憶を手繰り寄せた。
窓ガラスから差し込む太陽の光に照らされ、
先ほどまでの白百合のように凛として咲くものや、誤魔化すようなぎこちないものとは違う。春の陽光に照らされながら日向ぼっこをしているような、―――――柔らかくて幸せそうな微笑み。
それはどこか宗教画のようでありながら、どこまでも人の温かさを持った姿。
ルーシィが見た記事に載っていたギルドは、魔導士ギルドというよりもはや酒場。散乱する酒樽や暴れた痕跡で散らかっていて―――――なにより、誰もが笑顔だった。
騒がしそうで、幸せそうな、最上の笑顔に溢れた場所だった。
その時感じた衝撃は、今もルーシィの中に残っている。
「まるで、仲の良い家族のようで」
―――――ああ、きっと、ずっと素敵で、すごく幸せなギルドなんだわ。
それはきっと革命だった。
慈しむような微笑みだった。それでいてどこか無垢な笑顔だった。キラキラと夜空の星々を集めたような大きな瞳を細めて笑うルーシィに、ナツは数度瞬きをする。
そうして、あのギルドとルーシィがようやくイコールでつながったような感覚を覚えた。あの酒場のようなギルドで、誰かが騒いで喧嘩して、笑って怒って肩を組んで―――――
そんな喧騒の中で、楽しそうに笑うルーシィを想像して、『しっくりくる』と感じたのだ。
■
思い出に浸っていたルーシィはふと、自分を見つめる二対の視線に我に返った。そして湧き上がる強い羞恥心。
確かに今語ったことは紛れもないルーシィの本心であったが、なにを語り始めているのかと恥ずかしくなってしまったのだ。
「そ、そういえばおふたりは、どなたかを探していらっしゃったのですか?」
「あい、『イグニール』」
急な話題転換であったが内容が内容だったため、ハッピーがすぐに答えた。そしてその質問で自分がこの街に居る目的を思い出した(食事に夢中になって忘れていた)ナツが少ししょげた様子で会話をつなぐ。
「『
「『
「てっきりイグニールかと思ったのになァ…」
「―――――も、もしかして噂の『
ポイポイとつなげられる会話の内容に、思わずルーシィは少し砕けた口調で割り込んでしまった。
彼らの話を聞いているとつまり、彼らは『
いやまさか、と考え直すルーシィに、ナツはあっけらかんと答えた。
「あたりまえだろ。だってイグニールは本物のドラゴンだ」
―――――クラリ、視界が回った。
「………ほ、本物のドラゴンが街に来るという話が広まっているのなら、この街はとっくに厳戒態勢が敷かれているでしょう……」
何考えてんだという話である。言いたい事のほとんどをぐっとこらえて、ようやくひとつを絞り出したルーシィのセリフに、『そうか!』というかのような反応をする二人。
何ということだ。気づいてもいなかった。400年前に滅んだはずのドラゴンが再び現れるなんて話になれば、フィオーレ中の魔導士や国軍が総出で対策にあたる一大事だろう。
―――――あら?
くた、とちからの抜けていたルーシィはふと気づく。……ナツとハッピーはドラゴンを『イグニール』と呼んでいた。それはもしかしてドラゴンの『名前』なのだろうか。
―――――なぜ、滅んだはずのドラゴンの名前を知っている? それも、そんな親しげに呼ぶんなんて。
ぽつりと芽生えた疑問は―――――しかし、視界に入った腕時計を見てすぐに吹き飛んだ。
「い、いけないわ、まだ宿をとっていませんのに…!」
この街は港町だ。旅魔導士の訪れは少なくとも、貿易などのために外からやってくる人はたくさんいる。そんな街で直前になって宿がとれる確率は低い。野宿はできるが人の多い街でわざわざ野宿をするのは不審な目で見られてしまう。
ルーシィは慌てて財布からゼロの四つ付いた紙幣を三枚、一緒に引っ張り出した白封筒に入れて机の上に置いた。
「申し訳ございません、こちらからお礼と誘わせていただいて礼を欠く行為だとは重々承知しておりますが、……急用ができてしまいましたの。お支払いはこちらでお支払いください」
本当は最後まで付き添うべきだが、値切り戦争や
不甲斐ない、と思いながらも一礼をして大きなトランクに手をかけるルーシィに、ナツとハッピーはくちに入っていた食べ物を慌てて飲み込もうとする。
「ふがふが!」
「むがむが!」
「お、落ち着いてくださいまし! どうぞごゆっくり、わたくしのことは構いませんで…」
「
慌てるふたりを制止したルーシィに、せめてと座ったまま頭を下げ、くぐもった声でお礼を叫ぶナツとハッピー。困ったような笑顔で頭を上げてもらったルーシィはもう一度礼をして、大きなトランクを持ちながらよたよたと歩いて行った。
■
ひとりと一匹は去っていくルーシィを見送りながらくちの中のものをゴクリと飲み込む。
「…あれ、下にタイヤ付いてるやつ買えばいいのにな」
「あい、オイラもそう思います」
「んおっ、4万Jも入ってるぞ。金こんなに要らねえだろ」
「多すぎるね。おかわりできるよ」
「つか―――――
俺らが『
「うーん、再会した時のお楽しみでいいんじゃない?」
「………いいえ、やっぱり、なんでもありません」
「―――――ええ、なんでも」
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魅惑の男
水をください。 太陽をください。
荷物を引きずりファミレスを飛び出して、慌てて街中の宿を回ること5件目。ルーシィはようやく街はずれに空き室を見つけることができた。
ただ、それなりにグレードの高い部屋であったために相応に高額で、借りると決断づけるまで大いに悩んだものだった。なにせ今日は鍵の件で大きな出費があったのだ。
予算はとっくにオーバーで、しかしこれだけ探してようやく見つけた一室……ここを借りなければ多分今夜は野宿……悩んだものの、ルーシィは自分を許すことにした。
「わ、素敵……!」
案内された部屋は金額に相応しく、広い部屋に大きなベッド、更には簡易キッチンまでついている豪華な仕様。調度品の雰囲気も品があって可愛らしく……一瞬にして気に入ったルーシィは、ようやく今日の
「お出かけかい?」
「ええ、この素敵な街を」
「遅くなる前に帰っておいで。最近、ちょっとガラの悪いのが街をうろついてるって話だからね」
重たくかさばる荷物は部屋に置き、ひと息。身なりを手早く整え必要なものだけを手に取って、ルーシィは街へ飛び出した。
■
―――――たくさんのときめきがステップを刻ませる。
小物店のかわいらしいアクセサリー。
ブティックに飾られた新作のコーディネート。
おしゃれなカフェで食べたイチゴのアイスクリームパフェ。
楽しくて仕方がない。軽く弾んでしまう足音がまるで喜びを歌うように鳴り踊る。
街の中を笑い歩く少女。太陽の光を十分に吸収したような光輝く
まるで宝箱の宝石を眺めるように、街の隅々を見て回る。この時間がたまらなく好きだった。
頬を撫でる風すらも特別なものに感じる時間。はしたなくもはしゃぎ回ってしまいたくなる特別な時間。どれもこれも―――――
知識としてではない、体感としての経験。……手の中の自由。
これぞ旅の醍醐味。目的。―――――ルーシィはこの目で世界を見たかった。
煌びやかな衣装に囲まれているわけでも、一流のディナーが用意されているわけでもない。野宿で硬い地面に寝転がったこともある。さすがにその時は、使い捨てだけれど簡易結界のはれるちょっと高価な
お財布も軽くなってしまったし、使用者の魔力を注ぎ込んで使うタイプだったから魔力がすっかり空っぽになってしまったのは非常に辛かったが、めいいっぱいの魔力で安全を買ったのだ。そう考えれば安いものだろう。
疲れたし、汚れた。けれど、ルーシィは楽しくて仕方なかった。だってその苦労すら自分が選んだものだから。
ここにいる自分は、自分の好きなことを好きなように、自分で選んで進んでいるのだ。それのなんと幸せなことだろう!
「ふふ、次はどこに行こうかしら」
嬉しくて、楽しくて、―――――ほんの少し、悲しかった。
■
―――――ルーシィが最後に足を運んだのは大きな本屋だった。
ルーシィは本が好きだ。時には食事を忘れて読み込んでしまうほど大好きなもので、着いた街ではいつも本屋に足を運んでいた。
探検家気分になる古本屋も好きなのだがそれは明日の楽しみに取っておくとして、とルーシィが手に取ったのは、「本日発売」のコーナーにあった最新号の「週刊ソーサラー」という雑誌である。
『週刊ソーサラー』とは、魔法専門誌のことで、様々なギルドの紹介や、魔法使いたちの関わる話題を取り上げているルーシィの愛読誌だ。
最新の情報が手に入るし―――――何より雑誌の目玉は、毎度毎度とんでもない事件を起こしてあっちこっちを引っ掻き回す『
ハズレ無しの大スクープ。記者も
「あら……ふふ、やっぱり大見出しは
ルーシィは人通りの少ない公園のベンチに腰掛け、さっそく入手したばかりの雑誌を堪能する。
大見出しは想定通り。盗賊団を壊滅させたってこれだけ被害を出せば利益と損益はトントンかマイナスだろう。どれだけ暴れたのか。壊れた民家の住民たちは大丈夫だったのだろうか。
毎度のことながら内容のハチャメチャさに呆れたようなセリフがこぼれた。
ただ―――――読み進めるルーシィの表情はセリフに反してどこか柔らかく、笑いが堪えられていない。ああ、これだから、ソーサラーを読む時間はルーシィにとって一番幸せな時間だった。
わくわくとした表情を隠せないまま読み進めていたルーシィだったが、ページをめくった先にグラビア写真が現れ思わず雑誌を閉じてしまう。
それから、ほんの少し頬を赤らめてもう一度そうっと雑誌を開くと、その露出の多さに毎度どきどきとしながらも感嘆のため息を漏らした。
「ミラジェーンさまですわ。相変わらずお美しい…」
ページに書かれた『Mirajane of FAIRY TAIL』のとおり、ルーシィの見ているグラビアアイドルは
その美貌にうっとりと見惚れながらも、ふと、先ほどの記事を思い出したルーシィは―――――こんなに綺麗な方でも民家7軒を壊滅したりなさるのかしら、と考えてみる。……まったく想像ができなかった。
「『
……ポツリ、呟く。問題ばかりで、でもあたたかくて、幸せそうな、素敵な『
素敵だと思った。美しいと思った。だから羨ましいと―――――憧れてしまった。
例えば。例えば、もし、の話だとして。そんなことを何度考えただろうか。
もし、仮にも、
そうしたら、彼らのように、自分も……
「へぇ、君
「きゃあんっ!?」
■
唐突に聞こえてきた声と背後で勢いよく立ち上がった(と思われる)気配に、ルーシィは驚いて座っていたベンチから飛びのいた。
流れていたどこか
驚きで見開かれていたルーシィの瞳は、話しかけてきた相手を認識したとたんにスッと温度をなくした。
だってこの男は、
その瞳がもはや敵意や侮蔑の意志を孕み始めたことに気がついた
「い、いやあ探したよ。先ほど街で会ったよね? 君のような可憐な女性を、ぜひ我が船上パーティーに招待したくて」
「………まあ。それはそれは―――――あなたさまほどのご高名な魔導士さまから、直々にお誘いいただけるだなんて、光栄なことですわ」
丁寧な言葉とは矛盾してルーシィの顔に浮かぶのは温度を持たない微笑み。その笑顔を見て
―――――やっぱり。この女は、俺が『
「高名な魔導士? はは、そんな風に言われるのは照れ臭いな……ありがとう!」
あくまで紳士然とした微笑みの下で男は思考を巡らせる。どうすれば
―――――この男、実は名高き魔導士の『
その名はただ隠れ蓑に過ぎないのだ。
男の本名は『ボラ・スキーム』―――――魔法を悪用し罪を犯して数年前に『
刑期を終え
―――――そうして数年にわたる準備の末、ボラは見つけた。『完璧なビジネス』を!
だからボラはルーシィを野放しにするわけにはいかない。ようやく軌道に乗ってきたビジネスと、それによって手元に落ちてきた富を決して手放さないためにも。
必要なのは万が一に備えること。つまり現状、万が一にもルーシィがボラのことを軍や評議員に通報してしまわないためにも、しっかり手を回さなくてはいけない。
ボラが知っているルーシィが気付いた『ボラがやったこと』といえば、
しかもボラは前科持ちだ。初犯の人間より念入りに捜査が入るのは想像に難くない。
そうして
「そんな、ご謙遜なさらないで、
―――――ですが生憎にも、
目の前でにこにこと笑う少女に、やっぱりこう来たか、とボラは思う。
冷静そうに見えて感情的な物言い。正義感に透けて見える
今まで
今日もそう。あの昼間の騒動の時、ボラはルーシィの様子に気が付いていた。ルーシィが
だからボラはルーシィが立ち去ってからすぐに撤収し、魔法で変装して街中を調べ回って彼女を探して街中を走り回っていたのだ。
そしてじっくりと観察したからこそ知っている。目の前の少女が年相応の少女然とした側面を持つことを。そして―――――
「ああやっぱりね! 君、僕が
―――――けれど、どうか誤解しないでくれ。確かに僕は
なんとも白々しい言い様だ。実際ルーシィの瞳はすでに氷点下を迎えている。しかしボラはくじけなかった。
軽蔑? 失望? 嫌悪? なんとでも思えばいい。今後の展開を想えばその程度の視線、かわいらしいだけだとも!
―――――もちろん、ボラに年頃の美少女から蔑まれて悦ぶ性的嗜好があるわけじゃない。ただ、ここからが起死回生の瞬間なのだ。
「まずは恥じよう。確かに
舞台俳優のように大仰なリアクションを見せる目の前の男から視線を離さないまま、ルーシィは腰のキーケースに指を這わした。選ぶのは金の鍵―――――
―――――これ以上聞き苦しい言い訳を続けるのなら、多少手荒な真似も厭う場合ではないと。
そもそもの話、ルーシィはボラのことを通報するつもりは無かった。
確かに違法改造した魔法道具を使用したハーレムの作成は褒められたことではないが、あれだけ派手に動いていれば周りの目がある。何かが起こっても、むしろ何かが起こる前に見咎められるだろうと判断した。
では魔法道具の使用はどうなんだと言われれば、違法改造はルーシィがそう判断しただけであって確証がないし、
一番ギリギリのラインにあるのは
つまり現状、ルーシィから見てボラの行いは通報するレベルのことではなかったのだ。
もちろん万が一の場合を考えるのなら、一応通報しておけば親切かもしれないが―――ルーシィは
緊急性を感じられないのなら黙殺して問題ないレベルだと、ルーシィは自分を納得させていた。
―――――しかし、この様子では話が変わる。
今こうして目の前に立つ男を見れば理解できる。この男は
確かに高名な魔導士なら自身のキャリアに傷がつくようなことは避けたいだろう。けれど、それだけにしてはあまりに必死だ。
思考がつながる。―――――もしや自分が気づいていること以上に後ろ暗いことがあるのではないだろうかと。
自分はこの男のことを……軍に通報するべきではないだろうかと。
―――――思考に意識を向けすぎていたルーシィはミスを犯す。ルーシィは無意識にボラを侮ってしまっていたのだ。
なにせ、
その認識から生まれた慢心がルーシィの首を絞める事になる。
ボラには『油断』がなかった。一度捕まったことがあるという経験がボラを慎重にさせた。ボラは馬鹿のように身振り手振りを交えながら、ルーシィの一挙一動を入念に深く観察していたのだ。
だからボラはルーシィが腰のキーケースに手を伸ばしたことにも気がついた。―――――その伸ばした手に、触れている鍵にすらも。
ボラは確かに本物の
「ねえ君、
「たとえそうであっても、それは植え付けられた偽物ですわ」
間髪を容れずにルーシィは切って捨てた。否定することではなかった。でもそれはルーシィを揺らがせるほどのものではなかった。けれど―――――
「僕はね、よく意外だと言われてしまうのだけれど……実は話すのが得意じゃないんだ。存外臆病で面白みのない男なんだよ。
けれど、パーティーの主催者として客である彼女たちには楽しんでもらいたかった。招待客が全員女性なのは、まあ、男としての下心なんだけれど……もてなしたいという気持ちは本当だった!
だからあえてこの方法を取ったんだ。もちろん、こういう道具に安易に頼ることは褒められたことじゃないってことはわかっているんだけど……ここは僕の弱さ、かな。
副作用があるわけでもないし、それなら、普段の大変なことや悲しいことなんて忘れて、せっかくのパーティを楽しんでもらいたかったんだ。
―――――この魔法にかかっている間は、どんな辛いことだって忘れて、幸せになれるから」
幸せになれる。
そこだけ聞けばチープな宗教勧誘に聞こえてしまいそうなセリフも、すべて聞けばどうだろうか。少なくともルーシィはそこに、ボラの言い様に―――――『誠意』のようなものを感じてしまった。
下心は女性から見ればくだらないものだった。けれど、男性からしてみればとても大切なものなのかもしれない。なにより、そこに女性への気遣いがあったというのなら、それは悪ではなく善であるのではないだろうか、なんて。そんな風に考えてしまった。
そして、そう。『辛いことを忘れて、幸せになれる』―――――それは、ルーシィにとって。あまりに優しい言葉だったから。
「―――――本当に、本当にそれだけだと? 女性のために?」
「もちろんだ。わかってもらえたかな?」
「ええ、そういう、ことでしたら……よいことではありませんが悪すぎるということもないでしょう。その、事情も知らず失礼な態度をとってしまい申し訳ありません……」
ルーシィは視線を下げて謝った。一方的な思い込みでひどい態度をとってしまった負い目があったからだ。
ボラはそんな彼女を責めるでもなく優しく微笑む。―――――その微笑みの裏にあるのが悪魔の
ああ、ああ、―――――ああ!!
ボラは表情を取り繕いながら、内心で腹を抱えて笑った。
話すのが得意じゃない? 楽しんで欲しい? もちろん嘘である。そんなわけがあるかよ馬鹿が! 悪魔の舌がルーシィを罵る。
ボラは悪党だ。悪党というのは―――――きれいなものを汚す方法をよく知っているものなのだ。
いともたやすくほつれる警戒心。先ほどまでの態度に申し訳なさすら抱く誠実さ。可愛く、清らかな、優しい子! 愛おしさすら感じてしまいそうだと心の中で高笑いする。
「いいんだ。僕が悪かったことに変わりはないんだから……ああ、そう、それより君。話が変わるけど、もしかして
「えっと……ええ、その…」
内心の醜さを欠片も見せない微笑みで、ボラはルーシィに問いかけた。―――――仕込みは上々。悪魔の指先は忍び寄るように次のステップへ進む。
ルーシィはその問いにハッと顔をあげ、先ほどまでの自分の想像を、願望を思い出す。
―――――もし、もし
ああそれは、なんて素敵な……
「そう、ですね。―――――そうあれれば、きっと素敵だと……思っております。ですが、それが何か?」
「ん、ふふ……気づいていないかな、僕もまだまだだ。今更改めて名乗るのは少し恥ずかしいのだけど―――――『
「ええ、ありますが………
―――――え、あ、うそ、まさか…!?」
それは想定もしていなかった言葉だった。
つまり、つまり、とルーシィの脳内は混乱する。つまり、それは、目の前の『
いやむしろ、逆に何で結び付けられなかったのかとルーシィは自分の想像力のなさを罵った。『
まあ、ボラは偽物なのだが。
それはルーシィの知らないところなので、彼女は唐突な『憧れ』との邂逅に完全に思考回路がショートして固まってしまった。
「せっかくだ。君のこと、僕からマスターに紹介させてもらえないかな。君みたいに
「えっ、あの…で、ですがわたくし、先ほどあなたさまに失礼な態度を…」
「構わないよそんなこと! 言った通り、悪いのは僕だったのだし……それに君は女の子たちを心配していたんだろう? そんな優しいところが素敵だと思ったんだ。
でも、そうだな。どうしても君が気にしてしまうと言うのなら、今夜のパーティに参加してくれたらチャラ、なんて。……どう?」
ボラの優しさと少しの茶目っ気をのぞかせた笑みを向けられて、ルーシィは喜びに震えた。まさか憧れていたギルドの魔導士に会えて、しかもその方が、こんなにも素敵で尊敬できるような方だなんて。早とちりで失礼な態度を取った自分をこんなにも優しく気遣ってくれるなんて!
真っ白だった顔色がパッと鮮やかになったルーシィの様子に、ボラは『君のようなかわいい子が来てくれたら、パーティが一層華やかになるよ』と追撃を加えた。
ルーシィのハートはオーバーヒートだ。憧れの人から『素敵』だの『かわいい』だのと褒められれば乙女の心はときめくもの。そういえば話しかけられた当初に『可憐』とも言われた気がする。
―――――こんなに魅力的な言葉選びをなさるのに、話下手だなんてご謙遜なさるわ。ああそれとも、自分の課題と向き合って努力された成果なのかしら。そう、きっとそうだわ。たいそうご苦労されたでしょうに、なんて素敵な方なのかしら!
わざわざ
これがボラ・スキームだった。小悪党だと思っていたか? チンケなチンピラ紛いだとでも? ―――――ああ、可哀そうに。
嬉しそうにパーティへ参加すると返したルーシィに、ボラはバレないように笑みを深める。
準備は滞りなく整った。ウサギは自らオオカミの腹の中へ―――――名前とは、好感度とは、隠れ蓑とはこう使うのだ。
「それじゃあまた夜に。―――――ああ、それから、その、
君がよければ、他の人に内緒にしてもらえないかな。ギルドに迷惑がかかってしまうし、……僕も、これを機会に、
努力をしたい……やり直したいんだ」
「は、はいっ! けして言いませんっ。……あ、あの、わたくしから見てあなたさまはとてもお話上手で素敵な方ですわ。ですので、どうか、自信を持って……あなたの努力が実りますように」
ルーシィは手を組んでそっと目を伏せた。自分のような若輩者が知ったようなくちを利くことに恥はあったが、それでも少しでもその気持ちを伝えたくて。
ゆっくりと瞳を開いたルーシィは、本当の気持ちを込めてボラに笑いかける。それはとびきり可愛らしくて、大輪の向日葵のように鮮やかな―――――この旅でも一番の笑顔だった。
「神さまは、ちゃんと見ていらっしゃいますから」
その笑顔に応えるようにボラもまた、ほほ笑む。―――――今夜が楽しみだと、ほほ笑む。
■
ゆらゆらと揺れる停泊中の船の中、ボラはコツコツと足音を鳴らし奥へと進む。
この船は今夜のパーティ会場。
「おお、ボラさん」
「お帰りなせぇ」
「ボラさん、今回の
「―――――ふ、ふはは、はははははッ!!」
―――――しかしボラは返事もせずに、耐え切れないとばかりに大笑いした。
「ボ、ボラさん?」
「ふっ、クククク…これが笑わずにいられるか!? ククク…」
「そんなにいい
そんな男たちに、ボラは親しげに答えた。
「馬鹿なガキがいたのさ―――――とびっきり上玉の、
その言葉が全員の耳を通り抜ければ、男たちにも次々に品のない笑みが移っていく。―――――だってその言葉が指すのかを、男たちは正しく理解しているから。
これだから男たちはボラをリーダーに据えることに異論はないのだ。この頭の回る男のもとにいればイイ思いができることをよくよく理解しているのだから。
ああ、その時の悦といったら! 泣き叫ぶ女の悲鳴が、次第に光を失っていくその顔が、愉快で仕方なかった。
ボラが、男たちがそんなことをする『目的』―――――それは非人道的かつ最低最悪とも言える最高の
ギヒヒ、ゲラゲラと下品な声が増える。イイ女を好きにできて、たんまりと金も手に入る。今回の仕事は大成功だと誰もが愉快そうに笑う。
ボラもまた、あの少女の絶望にゆがんだ顔を想像して堪らない気持ちになって笑う。
船の中は気味の悪い喜びに満ちていた。
男たちは笑う―――――この先に待ち受ける
水をください。 太陽をください。
愛をください。 私に光をください。
そうでなければ、花は枯れてしまうのです。
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仮面の下
天照すそれは
すべてを塗りつぶす光が穿つように突き刺さり
射抜いて、地の果て、遍くすべて
それでもそれは、熱く、熱く、熱く、
熱く、あたたかい、太陽。
ぎりぎりと掴まれた腕が痛い。押さえつけられた頭が痛い。
ルーシィは気を抜けば震えだしそうになる体にちからを込め、必死にそれをこらえた。―――――噛みしめた奥歯が嫌な音を立てる。
それは、意地だ。今この状況をうまく理解しきれていないながらも、自分を嘗め回すように見下ろしてくる男たちに、けして弱いところを見せたくなかったルーシィの意地だった。
ぎゅう、と喉にちからが入る。いろいろな感情が渦巻いて、そうして、絞り出すように。
「――――― どうして……っ!」
■
華やかな船上パーティ。華美ではないが清楚で上品に飾り付けられた船の甲板。優雅な音楽が雰囲気を彩り輝かせる。
「―――――ああ、来てくれたんだね」
「はい、もちろん。
「嬉しいよ。……そのドレス、とても素敵だね。よく似合ってる」
ルーシィがこのパーティのために選んだドレスは、鮮やかだが落ち着いたブルーの生地が美しく波打つ一品だった。デザインは可愛らしいが揺れて見える裏地は深い青にラメが入っており、その夜空のような品のあるきらめきで雰囲気を引き締めるものだ。
めかしこんだルーシィは船上の誰よりも美しかった。
そんなルーシィをボラは嬉しそうに迎え入れ、「来てくれてありがとう」と礼を言う。その姿は非常に紳士的で―――――ルーシィの中でボラの株価上昇がとどまるところを知らない。
「今宵は49名ものレディにお集まりいただき―――――」
彼のそんな姿にうっとりとしているのはなにもルーシィだけではない。集まった女性たちも、きっちりとした礼装に身を包み丁寧な一礼をする彼へとびきり甘くて熱い視線を向けていた。
挨拶を済ませたボラは周囲の客と軽く談笑し、少し食事やワインをとってからルーシィの元にやって来た。
ハルジオンのレストランが用意したという美味しい料理に舌鼓を打っていたルーシィは、自分の元にやって来たボラにパッと頬を染め目じりを緩ませる。
ボラはそんな彼女に微笑みかけてから、「ギルドの話をしよう」と船長室にエスコートした。
彼はどこをとっても素晴らしく紳士的だった。しぐさも、言動も、対応も、そのどれもが
―――――遜色ないほどに、完璧な演技だった。
ボラはルーシィをエスコートしながらも女性たちに言葉をかけ、女性たちは笑顔で応える。参加している女性全員を尊重したもてなしは、たとえ彼がひとりの女をエスコートしていようと周りに不満を抱かせず、もちろんエスコートしている相手に「よそ見をされている」だなんて思わせない絶妙なバランスで行われていた。
パーティ会場を見渡せば煌びやかに着飾った女の子たちが楽しそうに笑い合っている。
ああ、このための
青いフリルがふわりと揺れる。素敵なパーティーだと楽しくて仕方がなかった。
楽しくて、楽しくて。自分の憧れが眩いばかりに嬉しくて。
信じていた。尊敬していた。幸せだった。それなのに―――――船長室で注がれたワインには睡眠薬が盛られていた。
■
「へへ、残念だったなァ嬢ちゃん」
ぱしゃりとはじき落とした葡萄色。間一髪で睡眠薬を回避したルーシィは、しかし後ろから襲いかかってきた男たちに拘束されてしまった。
屈強な男にふたりがかりで抑え込まれれば華奢なルーシィでは抵抗のしようがない。ましてや、今何が起こっているのかを理解もできていない状態でなんて。
ワインに睡眠薬が入っていると気がつけたのは本当に偶然。それをはじき落としたのは反射的な行動。
―――――だから、じゃあなんで、ワインに睡眠薬が入っているのかなんて。そんなワインを何故、
「っは、……な、なに、を………」
呆然と呟くルーシィが愉快愉快と、彼女を押さえつけている男たちがぎゃあぎゃあ笑った。
「んはは、分かんねぇか? 騙されたんだよォお前さん」
ぴち、と汚い唾が頬にかかる。それに気づいていないのか、ルーシィはただ見開いた目で男たちを見上げた。
だまされた? 騙された、……騙された? そんなの、いったい、―――――いったい、だれに、だまされたっていうの。
そんなの。
それは拒絶。分からない、分からないと、分からないと思いたいと。分かりたくないという拒絶。
だってそうしないと、ルーシィの頭の中はパチパチとピースを当てはめていってしまう。
「ぜぇんぜん気づかなかったなぁ」
くくく、と忍び笑い。それはルーシィを嗤う声。いやだ、とこころが言った。けれど視線は声に引き寄せられて、それを見る。
―――――嗤う男が居た。それはルーシィがよく知る男だった。睡眠薬の入ったワインを飲ませようとした男だった。船長室までエスコートしてくれた男だった。パーティに招待してくれた男だった。
ルーシィの憧れた、
「、…… ―――― ― 」
どうして、と声にならない声が唇を震わせる。ボラはそんなルーシィに薄気味の悪い微笑みを浮かべ、出来の悪いかわいい子に教えてやる優しい気持ちで、朗々とすべてを語って聞かせてやった。
それは耳を腐らせるような醜悪な
「なあ、分かるかいお嬢さん」
聞きたくない。聞きたくない。聞きたくなかった。
この人たちは、何を言っているの。
そんなの、そんなの―――――
ルーシィは震える唇でか細く息をした。
拘束されていれば耳もふさげない。首を振って拒絶しても誰も意に介さない。
悲しいくらいに現実はそこにあった。今までの
目を逸らそうとしたって、どこを見ても見たくないものに溢れていて視線の行き場がない。震えて目を瞑ったって、吐き気のする声が優しく優しくルーシィに語りかける。
嫌って、嫌って、そう言ったって誰も助けてくれやしない。
分かりたくないのに、分かりたくなくても、分かってしまった。
受け止めろと差し向けられた矛先は、いともたやすく胸を貫き磔に。砕けて壊れてしまうほどの大波に揉まれて、揉まれて、揉まれて―――――
そしてそれは、涙を越えて言葉にならない激しい感情を呼び覚ます。
「素直に睡眠薬飲んでりゃ、怖い思いもしなくて済んだのになぁ?」
ぎゃあぎゃあと汚いつばが飛んでルーシィを嘲笑う。それが、それが堪らなく―――――
「―――――この、外道……!」
―――――堪らなく、許せなくて!
ルーシィはぐう、と頭に血が上ったのを自覚した。目頭が痛いくらいに熱くなる。
現実が突き刺さった胸の穴から、血が沸騰するような怒りが沸いて。もはや自分が台風になったのではないかと思うほど、心が荒れ狂う。
ぎゃあぎゃあ。ぎゃあぎゃあ。それは悪魔の笑い声。
ぎゃあぎゃあ。ぎゃあぎゃあ。乙女の
ぎゃあぎゃあ。ぎゃあぎゃあ。無慈悲な外道の笑い声。
この男は、この男たちは―――――
「騙したのですねっ、わたくしを、この船に乗っている皆さまを!」
「オゥ~ウ~……純粋に『優しい
く、……くくく、笑いが止まらなくて、はは、あはは! ああ、苦しかった!」
体の中がぐちゃぐちゃと荒れ狂う。世界がどれだけ広かろうと、この男ほど厭らしく汚らわしいものはいないだろうとすら思った。
―――――好意が失望により反転すれば、それは何倍もの大きさに膨れ上がる。
だいすきだったのに。
笑うなよ。そんな顔で、そんな声で、こんなことをして!
言葉にできない黒くて赤い感情が暴れ出す。その激情に触発されたように、僅かに魔力の渦が踊った。
しかし―――――怒りのままどんなに身をよじろうと、ルーシィの細腕では屈強な男たちの拘束は振りほどけない。星霊さえ呼べればと思っても鍵には手が届かない。
悔しい、情けない、そんな感情がこころを締め付ける。どれだけ何を思っても、何かをできるちからがルーシィにはなかった。
ボラは歪むルーシィの表情にニヤニヤとした顔を隠さずゆっくりとその体に近づく。そして、見せつけるように手を伸ばし、ドレスの上からゆっくりと彼女の腰のラインをなぞった。
体温を馴染ませるようにじっくりと、そのキレイなくびれを堪能するように、ゆっくり、ゆっくり、指が這う。
―――――ああ、気持ち悪い!
真実を知った今、ルーシィからボラへ向ける感情に好意的なものはひとつもない。許せなくって、許せなくって、―――――嫌いだ。嫌いになった。
嫌いになってしまった!
だいすきだったのに!
嫌悪感を抱く相手に撫でまわされる屈辱が、ルーシィの体を悪寒となって這いまわった。
グッと目を閉じて、耐えがたい屈辱から意識をそらす。……そうでもしないと、目の前の男に触れられていることに泣き叫んでしまいそうだったから。
ボラの生温かい指先が気持ち悪い。苦しい。ああ、ひどい。こんなひどい話ってない。
しばらく撫でまわしてから離れた手にようやくかと安心して―――――
ちゃらり。
―――――すぐにルーシィから血の気が失せた。
「な―――――なん、な、っは、離してっ、返してっ!」
「ふふ……知ってるよ。君、星霊魔導士なんだろ?」
つい、と立てられたボラの指先。そこに不安定に引っ掛かってチャラチャラと音を立てるのは、鍵だ。
ルーシィの鍵。大切なルーシィの
慌てて自分の腰元へ視線を向ければ、空っぽになったキーケース。ああ、伸びてきた指はそのためだったのだ。あの手が体を這っていたのはあれを奪うためだったのだ。
目を閉じなければよかった。睨み付けて、鍵に触れられる前になりふり構わず噛みついてでも抵抗すればよかった。堪らない後悔が押し寄せる。
「返して……!!」
あんな男に大切なものを奪われた不安感に、ルーシィは必死になってもがいた。けれどやっぱり、ルーシィのちからでは拘束をほどけない。男たちは必死に抵抗するルーシィの動きを歯牙にもかけず、柔らかく揺れる胸元を下卑た笑いで見世物のように眺めるだけ。
ボラもまたルーシィの訴えには視線も向けず、奪った鍵束を見て「ほお」と声を上げ、しげしげと観察をしていた。
「こいつはまさか―――――ああ、間違いない。金の鍵! すごいな、本物は初めて見た……しかもこんなに」
「はぁ。そいつは何か特別なもんなんですか? あいにく、魔法のことはからっきしで」
ははあ、と感嘆の息を吐いたボラに、男のひとりが不思議そうに尋ねる。ここに居る男たちはボラに出会うまで魔法とはほとんど関わりなく生きてきた。そのため、ボラの持つ鍵束の価値がいまいちよく分からない。
そんな男たちの疑問に、ボラは簡潔に「世界で12種類だけ、1本ずつしかないお宝さ」とだけ答えた。
「こんなレア中のレア、どうやって手に入れたんだ? はは、そのでけぇ胸ですり寄ってオネダリでもしたのか?」
品の無い物言いで嗤うボラを、ルーシィは強く、強く睨みつけた。しかし彼は気にした様子もなくすぐに視線を鍵束に戻す。
まったくもってキラキラしいお宝だ。1本でもお目にかかれればラッキーなレアものが、こんなにも揃っている姿を見るなんて。この先どんな金持ちになったってそうそうないだろう。
「―――――まあでも」
でも、まあ、ボラにとってはレアなだけだった。
「俺はこういう人外との契約が好きじゃあないから必要ない。かといって売ろうにも、契約者のいる星霊じゃあ面倒なことになる。
……ふふ、君に『はい』と言わせて契約を切らせてもいいけど、レアモノすぎて足がつきそうだし、金なら今のビジネスで十分稼げるからそこまでしてリスクを負う理由もない。
つまり―――――」
嫌に説明口調でつらつらと話すボラの話の内容は、どう聞いたってルーシィに鍵を返すつもりがない。もちろん抵抗手段を返してあげるような馬鹿ではないので当然のことだが、それにしても、話の内容があまりに不穏で。
言葉を途切れさせたボラはルーシィと向き合うように立つ。指先に引っ掛けられた鍵束が不安定だった。
―――――何か、すごく嫌な感じがする。とてもとても不安な感じがする。
ルーシィはサッと青ざめた。ずっと危機的状況ではあるけれど、それに加えて、今すぐボラから鍵を取り返したくてたまらなくなるほどの不安が沸いてくる。
分からないけれど衝動として、その鍵を取り返そうとくちを開いて。
「は、―――――」
声は出なかった。のどが音を作る前にボラが動いたからだ。―――――その動きはひどく緩慢に見えた。
■
手首が揺れて、指先が手前に少し折れた。
ちゃいん、と鍵が鳴る。
その手は今度、ちから強く後ろに跳ねて。
ぢゃぢ、と鍵が引っ張られ。
指から離れる。指から離れる。目を見開いた。
それは放物線を描いて真後ろへ。
まっすぐ後ろ、その先は―――――開いた窓の、外。
「―――――つまりこの鍵は、僕には必要ない」
鍵は、窓から海へ投げ捨てられた。
■
「あ、」
あ、あ、あ、―――――あ?
大きな瞳がぱちり、その耳に音が届く。ぼちゃんとひとつ、何かが水面を叩く音。
「、あ、あ―――――」
何か、何が? ―――――鍵、が。
ルーシィの、
「あ ―――――――――― !! 」
―――――鍵、鍵だ。ルーシィの鍵。ルーシィの持っていた、ボラに奪われた鍵。ルーシィの大切な
それを奪われたのだ。捨てられたのだ。
奪われて、海へ、放り棄てられたのだ!
「ハハハハハ!! あーらら、叫んじまって……カワイソーだなあ、んー?」
なぜ。何で、なんで、なんで。
何でそんなことするの。
どうしてこんなひどい事ばかりするの。
どうして、どうして、どうして!
この男のせいで!!
違う。―――――自分のせいだ。
「あ―――――ああ、あ………」
騙されたから。弱かったから。悪意に気づきもしないでのこのこと着いてきて、許せないと
だから奪われた。大切なものを、海の底へ。
ぜんぶ、自分が弱いせいだった。
■
ガクリ、拘束する腕に吊られているように脱力したルーシィの姿を見て、ボラは高らかに笑う笑う。
まじめで警戒心の強い、正義感で元気いっぱいの爪の甘ァいクソガキ。こういうガキはこころを折っちまえばいい。ぐちゃぐちゃになって空っぽになったところに薬と快楽を詰め込んで、使い道のねぇ馬鹿にしてしまえばいいのだ。
憧れの魔導士の裏の顔はどうだった? 大切な
ああ、この顔を見るのが楽しくて仕方ない。これだからこのビジネスはやめられない!
声に出せば聞いている相手を震え上がらせるようなことを考えつつ、ボラは極めて軽い動きで控えて居た男たちのひとりから鉄の棒を受け取った。
―――――こころは折った。あとは仕上げだ。
「ふふん、ふん、ふ~…ん……」
低く、穏やかに鼻歌を歌いながら、手の中の棒をくるくると遊ぶ。
鉄の棒。それはただの棒ではない。これは棒の先に分厚い正方形があり、その表面には気味の悪い
趣味を疑うナンセンスな、髑髏を思わせるその
ボラは手慣れた様子で魔法を使い、その奴隷印の部分を熱した。
熱く、熱く、赤く、赤く。
そうこれは、奴隷印を刻むための
「よーしよし、じゃあ奴隷の烙印を押させてもらおうか。ちょっと熱いけど我慢できるよなァ。っとそうだ、舌を噛んだりすんなよ。商品価値が下がっちまう……」
焼きごてを掲げたボラはニタニタと下品な笑い方でルーシィに話しかける。その醜い容貌は、昼間やパーティ中の紳士然とした男と同一人物とは思えないほど歪んでいた。
「不安かな? 熱そうだもんなァ。大丈夫、焼き印を付けたらちゃんと治療してやるさ……ああそれから、君が立派な商品になれるように
―――――ひどい、ひどい話だ。ルーシィは歯を食いしばって、涙の溜まった瞳でボラを睨み付けた。
好き勝手なことばかり。人の苦しむ姿で悦を貪る外道の極み。
いったいどれほどの人を傷つけた。今まで何人の女性をこんな目に合わせた?
他人の明日を食い潰して煽る酒はそんなに美味いか。
反抗的なその態度に、やあ思ったよりこころが強いな、まだ折れないか面白い、と男たちが口笛を吹いた。
小馬鹿にしたような態度だ。ルーシィの抵抗程度、何の支障もきたさないと舐め腐った視線だ。
―――――そのとおりだった。睨みつけたって何ができるわけじゃない。抵抗らしいことのひとつも成せやしない脆弱さ!
けれど屈服したように這いつくばって、見上げる
「ぜったい、っぜったい許さない………っ」
「ほーう、許さない? クク、クヒヒ、―――――誰も許してくれだなんて言ってねぇんだよ!」
ヒャハハハッハハッハハ !!!
ボラの笑い声が響く。焼きごてがルーシィに近づいてくる。
耳に痛い品のない笑い声。人を害することに躊躇のない悪逆無道。
これが、こんな人が、―――――こんな最低な男が
別に、あのギルドに所属している全員が善人だと思っていたわけではない。
それでも、魔法を悪用して、他人を騙して、挙句は奴隷商―――――人の堕ちきった外道が、こんな人の皮を被ったような悪魔があのギルドの名前を背負っているのかと思えば、……どうしようもない失望に囚われる。
知った時から憧れていた。出会って尊敬した。だから紹介してくれると言われた時、たまらなく、たまらなく嬉しくて、幸せで。
ずっと抱いていた夢も理想も、すべてを踏み荒らされ、唾を吐きかけられたような屈辱―――――
裏切られた。そんな気持ちが頭の中を埋め尽くす。
真実が突き刺さった胸の穴は悲しいくらいに痛くて、痛くて、……とうとう、瞬きをしたルーシィの瞳から一筋の涙がこぼれた。
ひどい、ひどい話だ。こんな最低ってない。信じられない、信じたくもない。
それなのに現実ばかりが目の前に立つ!
よくも騙したな! よくも、よくも、大切な
ひどい、最低、最低、最低……
「だいきらい………!」
だいすきだったのに。
■
たぱり、と頬を伝った涙が顎先へ。
しとり、と顎先から離れた雫が宙を舞い。
悲しい悲しいと鳴くひと雫が、ころころころりと宙を滑って、
■
――――― バギャアアアアッッッ !!!!
■
「―――――」
■
「うわぁ!」
「な、なんだ!?」
「っぐ、何が…!」
「―――――あ、」
あ、あ、あ、―――――ああ。
鳴いた雫は、けれど地べたに堕ちずに吹き飛んだ。
ぐちゃぐちゃに壊される前に―――――まるでそれを、遮るように。
■
立ち込める土煙。砕け散った木片がつぶてのように周囲に飛び散り、ぱちぱちと肌を刺激する。
原因は何か? ―――――天井だ。
ルーシィたちの居る船長室の天井。けたたましい破壊音は、船の造りのとおり頑丈にできていたはずのそこが唐突に陥落した音だった。
全員が呆気にとられ無防備になる。精一杯、土煙や木片から顔を背けて防衛するばかり。
ルーシィはとっさに目元を腕で覆って防御して、ハッと気づく。
―――――拘束が外れている。
男たちも同じように目元やくち元を守っていて、そのためにルーシィは解放されたのだ。
破壊の衝撃が男たちからルーシィへの意識を反らした。誰も―――――誰も、ルーシィが自由になったことに気が付いていない。
―――――今なら、と。
木片は落ち着いてきたが土煙はまだ立ち込めたまま。防御に失敗したのか咳こんだり呻きながら目をこする男たちの、その喧騒に紛れて逃げ出すための煙幕にできる。
―――――今なら、ここから逃げ出せるかもしれない。
気づかれないようにそっと距離をとる。誰もルーシィに意識を向けない。
誰もルーシィに気付かない。
衝撃と好機が、喘いで憤っていたルーシィを冷静にさせた。
悲しいという気持ち。辛いというこころ。毒のように身を蝕むそれに囚われて泣いている場合ではないだろうと、冷えた頭が叩きつけるようにルーシィの苦しみに蓋をさせた。
「しっかりしろ」と。
だって危険に晒されているのは自分だけではないのだから。
( 助けなくては、 )
さっと頭が冷えた。冷静になった。そうしたら気づいたこと。
それは、今が最大の好機であるということ。―――――そして、今この時、ルーシィにしか助けられない人たちがいるということ。
助けなければいけない相手がいる。―――――それがルーシィが動く理由になる。
■
それはある種の現実逃避。
助けたいと思う以上に、見たくないものから目を逸らす大義名分が欲しかっただけ。
■
冷静になれば、ぱっと思考が整理される。
すべきことは女性たちの救出・保護と、この悪魔の一団を軍と評議会に通報すること。
けれどその前提条件として、沖へ沖へと出てしまったこの船を港に戻せなくてはいけない。国境を越え他国に逃げられてしまえば、女性たちの保護も一団の逮捕も遠のいてしまうのだから。
そのための一手は―――――ルーシィには策があった。
頭は次の行動を計算している。思考は『ここから離れろ』と体に命令を下した。そしてルーシィは――――
ルーシィは、動けなかった。
■
けれどそれは脆く、儚く。
張りぼての虚勢は、身も心も守ってはくれなかったから。
■
周囲を見回したのだ。走り出す前に、警戒して周囲を見回して、見まわして、男たちを見て―――――
そして、ボラを見てしまった。
ボラは腕で土煙を防ぎながら、天井が落ちてきた場所を睨みつけていた。その姿を見た途端、ルーシィの体はピタリと動かなくなってしまったのだ。
だってその姿を見たたけで、使命感で蓋をしたこころの鍵を壊されるように、どうしようもない感情が溢れてきてしまったから。
ぎゅう、と唇を噛みしめる。
小さな新聞記事。
喧騒の見て取れる騒がしい写真。
写っている人たちの笑顔。
楽しそう。楽しそう。幸せそう。
素敵だなって。……いいなぁって。
ハルジオンの街。素敵な街。
偶然の出会い。
優しくて、紳士的で、素敵な人って。
嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、幸せで。
夢だった。憧れだった。
その想いは、こんな踏みにじられ方をされなきゃいけないものだったのだろうか。
視界が歪む。無理矢理ボラから視線を引きはがして、けれどモクモクと上がる土煙を見るばかりで体はなかなか動かない。
なにをしているのか。助けなきゃいけないのに。動かなきゃいけないのに。頭がどれだけ冷静な判断をしてもこころが追い付かない。ピクリともしない体は思考の命令を拒絶し続ける。
結局。
結局の話だ。
いくら厳重に鍵をかけても、胸に大きな穴をあけ止めどなく血を流させる苦しみを、そう簡単に忘れられたりはしない。
付け焼刃の使命感で取り繕うには痛くて、痛くて。
こんなにも簡単に溢れて。
頭がどれだけ合理的な判断を下しても―――――泣き続けるこころがルーシィの体を縛り付けて離さない。
『
ああ、苦しい。自分はこんなところで何をしているんだろう。
何だかとても疲れてしまった。
悲しいなあ。悲しいなあ。
助けなきゃいけないって思っているのに。動かなきゃいけないって思っているのに。
からだはとっくに、悲しいという気持ちに蝕まれてしまって、指の一本も動かす気になれなくなってしまった。それが余計に苦しくて。
―――――自分の気持ちばかり優先して、為すべきことも成せないような我が身がこんなにも。
歪んで揺れて、滲んだ視界。―――――不意に、
「、―――――………」
瞬きを、ひとつ。何かに視線を引き寄せられた。
それは土煙の中。何かが―――――何か……鮮やかな、色が。もうもうと立ち込める土煙の中からルーシィを煽った。
―――――あれは、桜、色?
ぱち。ぱち。ぱち。瞬きの度にころりとしずくがこぼれ、記憶がフラッシュバックする。
これは、………既視感。
ふう、となぜか、先ほどまで身を蝕んでいた悲しみが薄くなる。
それは救われたのでも忘れたのでもなく、まるで幕一枚後ろのことのように意識から距離を置かれた感覚。
視線が、次第に晴れていく土煙に惹きつけられて逸らせなくなる。それは先ほどまでとは違う感情。
何だろう。この既視感は、一体。
捕まった自分。身に迫る
まるで崖っぷちのルーシィを、ぎりぎりで引き揚げてくれるようなタイミング。
そんなとんでもない割り込みをよく知っている気がした。ずっと近く、そう、例えば。
今日の昼間、とか。
『 ――――― !!! 』
あの時、ただ無邪気に、偶然に自分を救ってくれた神風が頭の中に響く。
漂っていた土煙はもうずいぶんと薄くなった。ああ、身を紛れさす煙幕にするはずだったのに、ここまで薄くなってしまったら隠れようがない。今ならぎりぎり間に合うだろうか。
そんなことを考えながらも結局からだは動かなかった。―――――見逃してはいけない気がしたのだ。目を逸らさないで見ていなくてはいけないと思ってしまったのだ。
それはこの場にいる全員がそう思っていただろう。誰もが雰囲気に呑まれたように身動きもせず一点を見つめ、息を呑んだ。
ゆらり。『何か』の影が土煙の中立ち上がる。
何が起こっている。あれは、なんだ。あれは―――――誰だ。
その答えがそこにある。
「―――――あ、」
ルーシィは思わず声を零してしまった。こっそり逃げようと息をひそめていたことも忘れたように。
けれど、だって仕方がない。目の前の現実にどうして黙っていられようか。
驚愕。どうして、という思いは言葉になっただろうか。
「ナツ、さん…!?」
既視感の正体、まさかの存在。真新しい記憶の先で、偶然にもルーシィを救ってくれた真昼の出会い。
――――そこに居たのは、ナツ・ドラグニルだった。
ねえ、イカロスは太陽に焼かれたというわ。
それはつまりは自然の摂理で、同時に与えられた領分を超越しようとした罪への罰。
けれどね、思うの。
熱く、熱く、熱く、焼き焦がされて。
それでもこの身が、太陽の
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アクエリアス
語り部は言う。
「むかしむかし、」
「日が暮れて、そのとき……」
「とあるところに」
「それは晴れた日のことでした」
始まりはいつも唐突で、必ずキッカケがやってくる。
そこから始まる数々の
どこまでも続くような
まさかと思った。自分が呼んだ相手が信じられなかった。
その顔が見えた時、そこに立っているのが誰なのかを認識したと同時に、ルーシィは「逃げて」と叫ぼうとした。
ナツ・ドラグニル。昼間のハルジオンで出会った、あの時ルーシィを助けてくれた不思議な少年。
天井を突き破って登場したのはその彼だった。
いったい何がどうして彼が天井ごと船内に乗り込んできたのかは皆目見当もつかないことだが、それよりもルーシィは『ナツが今ここに居る』という現状に、強い焦燥感にかられる。
―――――だってここにはあの
どんな理由があろうと、乗り込んできたナツを寛大にも許し見逃すとは、到底思えなかった。
あの男から見て乗り込んできたナツがどれほど危険視されるかは分からないが、少なくと天井を突き破って乗り込んできた相手を無害だと思う人は居ないだろう。
だから。
人を人と思わないような外道ども。何をするか分かったものではない。少なくとも、少なくとも、―――――きっと捕まってしまえばおぞましい目にあうだろう。
だからルーシィは「逃げて」と伝えようとした。
思い返す、真昼の彼ら。おかしな出会い。
ほんの少しの関りだった。一期一会も旅の醍醐味。その中でも彼の姿を鮮明に覚えているのは、こんなところでこんな目にあっているからだろうか。
―――――憧れを、語った。小さくて、あたたかい宝物をそっとさらして、瞬きの夢の話をした。
幸せを反芻した時間だった。ルーシィにとって
あんなギルドが、そんな絆が、この世界のどこかに、確かに存在する真実であること。それだけでたまらなく胸が熱くなって、幸せだと思ってしまう。
その数時間後には、こうして全て踏みにじられてしまったけど。
滑稽だね。馬鹿みたいだ。でも、本当に幸せな時間だったよ。だから、ナツに逃げてほしかった。
幸せだったんだよ。本当だよ。だから、これ以上この幸せをズタズタにされるのが我慢ならなかった。
彼をこの場から逃がすための囮にだってなっていい。幸せの記憶と紐づいた彼に、こんな惨めで苦しい思いをしてほしくなかった。
一度踏みつぶされた使命感は、けれど対象が目の前に現れたことにより再び立ち上がる。
自己犠牲精神、と言うわけではない。ただ、目の前にある悲劇に
そうして、これ以上苦しい思いをしたくないという自己愛があるだけで。
どうにかしなくてはいけない。何かをしなくてはいけない。誰かがしなくてはいけない。それはつまり、現状を理解している自分の役目だと。
星霊を奪われ、自力では拘束を振りほどけないような脆弱な小娘でも。悲しいと泣いて心が折れかけてしまうような臆病者でも。手の届くその場に、
意思と言うより反射であったそれは、けれど、すんでのところで言葉にならずに止まる。
「―――――は、」
驚愕と、怯えが。
唇が震えて、小さく息を吐く。呼吸ではなく緊張―――――ルーシィは目を見開いた。
天井を突き破ってやって来たナツ。土煙が晴れたことによりはっきり見えるようになった彼の、その瞳―――――そこに、思わず後ずさりしそうになるほどの『怒り』を見た。
「―――――」
息のつまるような強い『怒り』と、寄せられた眉間から感じる『不快感』。思わず声も出なくなるほど強く伝わってくるナツの感情はあまりに威烈で、昼間に会った時の明るい様子とは大きく違うその姿に戸惑い怯んだ。
男たちも見えない何か強い圧力に押さえつけられたように、小さく息を呑んで、自分たちよりよっぽど小柄な少年を凝視した。
目を逸らしたら、
―――――しかし。
「おぷ…駄目だやっぱ無理」
「えっ!」
顔面蒼白。青ざめてうずくまった姿に緊張感が吹っ飛んだ。
「は?」と思わず拍子抜けする男たちの視線の先で、くちを押さえ具合が悪そうに呻くナツ。ルーシィはその姿を見て、咄嗟に駆け寄ってしまった。―――――不思議なことに、凍ったように固まっていたはずの体はまるで当然のように動き出す。
「うぐうぐ」と吐き気がこみ上げている苦しげで浅い呼吸を繰り返すその背中を、ルーシィは甲斐甲斐しくさする。
「ナ、ナツさん、しっかりなさって!」
「ぅおおおおお…」
「も、もしかして、乗り物酔い…?」
締まらないというか、格好のつかないというか、なんというか。
わちゃわちゃとしているふたりに対して、ボラや男たちは呆然とした表情でその様子を見ることしかできなかった。突然天井突き破って乗り込んできたガキが、勝手に酔ってぐったりしているとはこれ如何に。
誰がどう見ても「なんだこれは」と思うような目の前の光景に、乗り込んできた相手が何者だとか、何が目的だとか、そんなことより戸惑いが勝ってつい距離をとってしまう。
一種の硬直状態と言えるだろうか。誰もが次の行動を決めあぐねてしまうような微妙な空気―――――そんな時、ぶち抜かれた天井の穴から新しい声が降ってきた。
「あれ、ルーシィ?」
「えっ、あっ、ハッピーさん―――――ハッピーさん!?」
呼ばれた名前。え、と見上げた天井の大穴。そこには夜空を背負った見覚えのある青いネコ。そうだ、ナツが居るのならハッピーだって居ておかしくない。
―――――けれど、まさか翼が生えるだなんて誰が思う?
見上げた先、見覚えのある青い体の、その背中。そこにはいったいどういうことか、立派な真白の羽が生えていた。
思わずポカンとアホ面でハッピーを見上げたルーシィ。そして同じくハッピーを視界に入れた男たちも衝撃を受ける。
混乱しているところに青いネコが喋って空を飛んで増えてきた。一体なんなんだ。こんなことは今までなかった。女を好きなようにして、大金を手に入れる。そんな簡単なビジネスだったはずなのだ。なのに、―――――なんだこれは。
追いスタンに加え混乱状態付与。戦線を滅茶苦茶にされる
「こんなところで何してるの?」
そんな男たちは置いて、ぽっかりとくちを開いたまま黙っているルーシィに、ハッピーは首を傾げて問うた。ルーシィは、え、とこぼして、その質問を反芻する。
何をしてるのって、そんなの。そんなの、何してるんだろ。
反芻して、噛みしめて、そうしたらほら、また。
ハッピーのセリフは、ただ単純に知った顔を見かけたから疑問に思っただけだろう。けれどタイミングと、ルーシィの精神状態がよくなかった。
ああ、まったくだ。こんなところで、こんな人たちに騙されて、……自分はいったい何をしているんだろう。
ナツを見て再び立ち上がったこころが、
―――――馬鹿みたいだ。……馬鹿みたいだ。
「わた、わたくしは、わたくしは
そのはずだったのに。憧れの人との素晴らしい時間になると思っていたのに。夢にまで見た願いが叶うのだと信じていたのに。
「―――――それがこんな奴隷船だなんて………!」
くちに出すのも屈辱的―――――その震えた声に、酔ってうつむいていたナツは気持ち悪さを抑えながらぎこちなく顔を上げる。
■
―――――ルーシィが泣いている。
ナツにとって、昼に会ったルーシィは『優しいやつ』だった。
ちょっと変だったけど
本人は入ると明言していなかったが、あの時ルーシィと
まだギルドマークは入っていないけれど、だからどうした。
目の前の少女は必ずそうなるのだという確信がナツの中にあった。端的に、ナツはルーシィが気に入ったのだ。
それだけ『しっくりくる』笑顔だった。その笑顔を気に入った。
しかし―――――今のルーシィの顔は、悔しさや、悲しさや、恐怖で涙に濡れている。
―――――ルーシィが泣いている。
―――――
■
震える声に、その肩に、ルーシィが泣いていることにハッピーも気が付いたのだろう。「細かい話は後回しっぽいね」と判じて空中から急降下した。
そして自身の尻尾をルーシィの体にくるりと巻き付けると、そのまま強いちからで彼女を吊り上げて空に飛び上がる。
「きゃあ!?」
「っ逃がすかァ!!」
―――――目の前の急展開に真っ先に正気に戻ったのはボラだった。
唐突な侵入者。ボラにとってナツが何者だとか、何が目的だとか、そんなことはこの際どうでもいい。ここは自分のテリトリーだ、どうにだってできる! けれど、ハッピーがルーシィ連れて行こうというのなら見逃せない。
せっかく丁寧に騙して連れ込んだというのに、逃がしてしまえば通報される。絶対にあの小娘を逃がすわけにはいかない―――――上玉を失うのはもったいないが、リスクを背負うくらいならこの場で処分する。
魔力が渦巻く。ボラがとっさに放った火の魔法が勢いよく天を駆け上り、逃げ出すひとりと一匹に食らいつこうとする。
直撃すれば怪我程度では済まない脅威。―――――しかし、
ハッピーはただの喋って飛べるネコではない。ハッピーはナツの相棒だ。
鳥より軽やかにネコが飛ぶ。くるりと身をひるがえせばその後ろを火柱が追う。しかし、ひらひらくるりと翼で泳いで、その脅威を完璧にかわしきってしまった。
すごい、とルーシィは感動する。尻尾に引っ掛けられて空を飛ぶという不安定に引いた血の気が、思わずカッとぶり返すくらいの興奮を覚えた。
魔力を感知しているのだろうか。背後を振り返ることも無く、まるで宙を踊る木の葉のようにいともたやすく攻撃をかわしている。
ひよっこ魔導士のルーシィでもわかるくらいに、ハッピーは余裕の態度だった。これなら追撃から逃げきることも―――――そこまで考えて、ルーシィはハッとする。
―――――思い出した。気づいてしまった。
最悪だ。逃げる? ああそうだ、逃げなくてはいけない。
とんでもないことをしてしまった。自分の行動の浅はかさにゾッとする。―――――ルーシィは、この船を『奴隷船』だとふたりに伝えてしまったのだ。
それはただでさえ危険な立場だったナツとハッピーが、ボラの『処分』対象に確定するのには十分な理由になりえた。むしろボラたちからすれば
このままルーシィがハッピーと逃げ出せば、乗り物酔いで呼吸もままならないナツがひとりになってしまう。そうなればナツは抵抗の間もなく―――――
「ハ、ハッピーさん! ハッピーさん! お待ちください、ナツさんが…!」
「ふたりは無理」
「そんなっ」
ハッピーのにべもない宣言にルーシィはサッと顔を青ざめた。そんな、それじゃあ、ナツが。
ナツが!
巻き込んでしまった! 巻き込んでしまった! 何が『囮になってでも』だ。これじゃあナツの方が自分のスケープゴートじゃないか!
彼らがなぜ船に乗り込んできたのかは知らないが、少なくとも奴隷船だと伝えなければまだ何とかなったかもしれないのに。ハッピーに助けられたのだって、自分がしっかりしていればハッピーはナツを連れて逃げることができたのに。
ルーシィがいなければ。
ルーシィがいなければ!
「っそうだ、ハッピーさん! わ、わたくしを降ろしてくださいまし、ナツさんを代わりに……」
ッ ダァン! !!
そうだ、ルーシィがいなければ、ナツは逃げられる。慌ててそうハッピーに訴えようとしたルーシィだったが、言い終わる前に―――――何かがルーシィの頬をかすめる。
唐突に。聞こえたのは破裂音のような。―――――思わず頬を手で押さえれば、熱さのような痛みが走り、わずかに、血が。
「わっ、銃弾だ!」
それは船内から放たれた銃弾だった。ハッピーの視線の先で、銃を構えた男たちが銃口をこちらに向けている。
ジャコン、と音が聞こえた気がした。
実際は距離があって聞こえていないはずだが、男たちが銃身のレバーを引く動作がいやにハッキリ見えて。
撃たれる。そう思ったと同時に連続する発砲音。何が何でも殺すと言わんばかりの弾幕がルーシィとハッピーに襲いかかる。
「わわわ、わわわっ!」
これにはハッピーも冷や汗をかいた。何とか必死に躱す揺れにもみくちゃにされながら、ルーシィはどうにか現状の打開策を求めて頭を回す。
向けられている銃口は6つ。暗いし遠いし揺れてよく見えないが、ウィンチェスターライフルに似ている、かもしれない。なんにしろレバーを引いていたのだからレバーアクションの銃だ。それなら、一発撃ってから次を撃つのにタイムラグが生まれる。
そのわずかなタイミングを活用できれば、あるいは……!
「ルーシィ聞いて」
「っはい!?」
「変身解けた」
「へっ、」
あれがこれでそれがどれで、頑張って頭を回していたルーシィがハッピーのセリフに素っ頓狂な声を出す。
変身、変身とは―――――まさか。
ハッと仰ぎ見るハッピーの体。かわいらしい青いネコ。その背中には、翼が、なく。
―――――察してしまった。
落ちるのだ、と。
「―――――!!!」
ボッシャーン !!!
■
ゴボ、とくちから気泡が出ていく。夜の海は冷たくて、落ちたルーシィとハッピーは一瞬にして体温を奪われてしまうほどだった。
勢いよく叩きつけた背中が痛い。―――――しかし、動けないほどではない。
ルーシィは痛みを耐え、ぎりぎり息を止めることに間に合ったおかげで肺に残った酸素を噛みしめて体制を整える。
どうやら男たちは海の中まで追いかけてくることはないらしい。まあそうだろう、こんな沖でこんな真っ暗な海に落ちたとなれば、わざわざ追いかける必要も感じない。
末路はひとり冷たく、海の底。―――――そう、
( 船の、進行方向と、速度は――――― )
ナツを助けるつもりだったのに海に落ちてしまった。きっとルーシィたちの始末は済んだと思われて、標的はナツに移ってしまっているはずだ。
はやく手を打たないと。
(
ルーシィは沈んでゆく体を、くるりと回して整える。方角を確認―――――それから、大きく体をくねらせた。
足を交互に大きくバタつかせ、体を揺らめかせ、暗い海に差し込む月の光を頼りにルーシィは泳ぐ。
男たちに乱暴に捕まれたせいですっかりヘアメイクのほつれてしまった
考える。今自分ができること。ナツを、助けること。騙されてしまった女性たちを助けること。その方法。
―――――本当は、いくら思考を切り替えても心の中で失望が渦巻く。あんな男が
別に、別に、全員が善人とは思っていなかった。いなかったけれど。
それでも、こんな酷い現実でなくたっていいのに。
憧れてたのに。
所詮は聞きかじりの妄想なだけだったのだろうか。自分は頭の中で肥大化した理想に溺れていたのだろうか。
がりがり がりがり。
―――――ああ、痛いな。
( いいえ、今は悲しんでいる場合ではないわ )
何度も何度も繰り返して爪を立てる悲しみにもう一度蓋をして、船に残されているナツと、女性たちを助けることが最優先だと、自分に喝を入れた。
立ち直ってはへし折られるこころが痛い痛いと言うけれど、世間知らずな小娘のこころの傷が何だというのだ。
体を動かせ。頭を回せ。―――――彼らにこんな思いをしてほしくないのなら。
( たぶん、そろそろ、……この付近のはず……… )
こぽり、と残り少なって来た酸素を零しながら、ルーシィは周囲を見回した。
―――――ナツたちを助けるにしても、高名な魔導士と屈強な男たちが相手ではルーシィの細腕では勝ち目はない。
しかし、ルーシィは
星霊魔導士とは、『鍵』を媒介に『
例えルーシィひとりでは到底不可能なことでも、星霊が居れば可能域は莫大なものになる。
彼女たちこそが、ルーシィが心から愛する友であり、最も信頼する
目の前、浅瀬の岩肌。指を伸ばして、抱きしめるように両手で包み込む。
( ―――――お願い、
月光を反射しきらりと光る―――――それこそが、ルーシィが探していた
■
――――― ザパァッ
「っぷはっ、はっ、はあッ…!」
「プッハーーー!!」
「っあ、ハッピーさん!?」
掴んだ鍵を波にさらわれないようにしっかり握りしめて海面に浮上したルーシィは、同じように浮上してきたハッピーを見てあっと驚いた。真横に現れた青い毛色を見て初めて、そういえばハッピーも一緒に海に落ちていたと思い出したのだ。
挽回と打開策に必死になりすぎてそこまで意識が行き届いていなかった。自分を空に連れ出し魔法や銃撃から逃げてくれた恩人をすっかり忘れていただなんて、とんでもないことだった。ルーシィは猛省する。
ハッピーの毛皮は夜の海に同化しすぎて目立たない。もしハッピーが泳げなかったら―――――ゾッとする話だ。海の冷たさと違う理由で血の気が引いて青ざめる。
「ハ、ハッピーさん、ご無事ですか?」
「ふわー、海水がしょっぱいよう。あっ、ルーシィ! 船が行っちゃうよ、どうする!?」
「あっ、は、はい! だ、大丈夫です、わたくしに策がございます!」
おろおろと話しかければ特に気にしたようすもなく、それよりもと船を指し示されたルーシィはハッとして頷く。
船は思ったよりも離れたところまで進んでしまっていた。やっぱりルーシィたちに追手はないようで、銃撃をしてきた男たちは浮上してこないルーシィとハッピーに『仕留めた』と判断したらしく、既にその場にいない。
海面に浮上しても安全になったということは、けれどナツがより危険になったということと同義。
はやく、しないと!
「ハッピーさん、どうぞお許しくださいましね。ほんの少しだけ我慢してくださいましね……!」
「んむっぷ!」
ルーシィはハッピーが
唐突な圧迫にハッピーが苦しそうな声を上げるが今ばかりは配慮していられない。というか、時間も無く手段も無い現状ではこれが最大限の配慮なのだ。
これからすること、その
「ん~っむむ、ルーシィっ、なに!?」
「今から星霊を呼びます! どうぞ、わたくしに掴まっていらして!」
ぢゃん、と濡れた鍵が鳴る。
取り返した大切な
―――――魔力が渦巻く。
緊張や焦りで震える指先を落ち着かせて、全身を巡回する魔力を丁寧に練り上げる。ぐるりと一周。そのまま、流れるように鍵を構える指先へ。
指から鍵へ。後はただひとつ。それを海面に突き立てる。
「開け、
■
―――――海面が光り輝く。
まるでその場が光源になったかのような眩い光。突き立てた鍵を中心にルーシィの魔力が溶けだしたような、ルーシィの
夜の海に渦巻く魔力が、真昼の太陽のように辺りを照らす―――――それは『
―――――契約に従い、人知を超えるものが現界した証。
■
「すげぇーー!!」
ルーシィの胸元からかろうじて目元を覗かせたハッピーが、目の前の光景に叫ぶ。
―――――光と共に現れたのは、まごうことなき『人魚』だった。
人の上半身に魚の尾びれを持ち、洗練された装飾品に飾られた、水瓶を持つ人魚の星霊。
彼女は見ての通り水場では圧倒的なアドバンテージを持つ、ルーシィにとって最高の
ハッピーは大興奮した。『召喚』タイプの魔導士を知らないわけではなかったが、星霊レベルの契約を見るのは初めてだったのだ。『美しき人外と契約を結ぶ美少女』とはどの世界でも絵になるものである。ましてやこんな、大仰な召喚を行うなんて、パフォーマンスとしても最高だ。
「緊急事態なの、お願いアクエリアス。あなたの力であの船を港まで押し戻してっ!」
「チッ」
「……ねえルーシィ、今舌打ちされなかった? 今ルーシィに舌打ちしなかった!?」
「お気になさらないでください、わたくしも気にしておりませんので!」
―――――しかし、興奮もさなか、ルーシィに対して隠すことなく舌打ちをかました星霊の姿に「え? こんな感じなの? もっとこう、主従っぽい感じじゃないの?」と愕然とする。しかしルーシィは慣れたようにすっぱり言い切った。どうやら普段からこういう対応らしい。
さて、わあわあと騒いでいるひとりと一匹を置いて、当人のアクエリアスといえば。舌打ちはしつつもルーシィの願いは聞いてくれるようで、ゆらりとその手の水瓶を動かすと同時に、彼女を中心に一気に海面が荒れだした。
―――――魔力が渦巻く。
「おい」
「はい?」
瞬く間に海原の支配者となったその魔力は、ごうごうと吹き荒れる荒波に反してささらな清水のように澄んでいた。
そう、これこそがアクエリアスの本質。粗雑な舌打ちは心配の裏返しで、内なる心は清らかな聖女―――――
「次、鍵を落としたら―――――殺すぞ」
―――――なんてことがあるはずもない。そんなものは幻覚である。ドSお姉さまにそんなサービスはなかった。いや、考えようには「そばに居れないと守れないだろ」というツンデレ内訳が付く可能性も……ないこともないことはないのかな。
身震いするほど低い声で下された
そんなルーシィの様子に多少は満足したのか、アクエリアスはすい、とその細腕で持っていた水瓶を抱え直した。
海は荒れている。その時を待つように騒めいて、注がれた魔力にのたうち回るようにぐるぐると、ジャバジャバと。
それはまるで幼い子供が、楽しみを前にじっとしていられずに駆け回るようにも見えた。
ぐるぐる ぐるぐる。
ジャバジャバ ジャバジャバ。
魔力が渦巻く。それは海原。それはアクエリアス。それは水瓶。
アクエリアスの持つ水瓶もまた、膨大かつ圧縮された魔力に満たされていた。
成り行きを見守っていたハッピーは、身に走った悪寒により一層ルーシィへすり寄った。ルーシィもまた、
ぐるぐる ぐるぐる。
ジャバジャバ ジャバジャバ。
魔力が渦巻く。それは海原。それはアクエリアス。それは水瓶。
アクエリアスの持つ水瓶。
それを、彼女の細腕がちから強く振りかぶった。
「 オ ラ ァ !!! 」
―――――魔力が渦巻く。
勇ましすぎる掛け声。その腕のひと振りと共に、一面を呑みこむほどの大波が生まれた。
それは水瓶の先からやってくる。魔力をふんだんに含んだ喰らいつくような大波が、水瓶の小さなくちから勢いよく吐き出され。
それは荒れ狂う海原と混じり合い、まるで意思を持つ怪物のように大津波になったのだ。
美しき人魚の
―――――波に呑まれたルーシィたちと共に。
ザ バァ ァアア ア ア ア ンッ !! !
「うなーーー!?」
「やっぱりこうなりますのねーーーっ!」
その場にいる
小さないのちふたつだけを上手に避けるだなんて離れ業、緊急事態にそんなコントロールをしている時間はない、と言われてしまえば文句も言えないが。
それにしたって、それにしたってもっとこう、ないかな!
分かっていたけれど、とルーシィは海水ほどしょっぱい対応にほんの少し泣きたくなった。
語り部は言う。
「こうして物語は」
「ハッピーエンドになりました」
「めでたしめでたし」
だから
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立ち上がる
いいこと、ルーシィ。神さまはいらっしゃるわ。
不幸なこともあるでしょう。恐ろしいこともあるでしょう。
それでも神さまは見ていらっしゃいます。
貴女はとってもいい子。人を愛し 心美しく 誰かの想いを大切にする、優しい子。
だから大丈夫よルーシィ。たとえ悲しいことがあっても、必ず貴女は幸せになれるわ。
神さまはあなたのことを見ていらっしゃる。貴女のことを愛してくださっている。
いいこと、ルーシィ。神さまはいらっしゃるわ。
「は、はひ~……」
「う、うな~……」
ごろごろと転がった末にべちょりと這いつくばって、くらくらする視界にか細い悲鳴のような息を吐く。
なんともまあひどい目にあった。ゴールが甲板だったのはなけなしの慈悲だろうか。ナツと女性たちを案じるルーシィの気持ちを汲んでのコントロールならありがたいけれど、それにしたって。
ゴチンと打ち付けた頭が痛い。すいよすいよと近づいてきたアクエリアスについ、複雑な気持ちを込めた視線を送ってしまうものの、彼女はそんなルーシィを一瞥して鼻を鳴らしただけだった。
なんとも無慈悲。素っ気ない態度。一見すれば蔑ろにされているようなそれ。
けれど。
けれどルーシィは、付き合いの長さからそこに彼女の優しさや親愛を感じることができる。美しいこころを見ることができる。
―――――本当に、分かりづらいヒト。
「―――――ありがとう、アクエリアス。助かったわ……迷惑をかけてごめんなさいね」
「全くだな。あんな胡散臭い男に釣られるとはその目は節穴か? ッハ、
……おい、尻拭いはここまでだ。私はこれから一週間
―――――呼んだら殺す」
「はい………」
親愛を込めたこころからの礼はコンマの速さで叩きのめされた。
海水で全身びしょ濡れのルーシィを見るアクエリアスの目は絶対零度。ドブネズミを見る目。あるは三角コーナーについたカビ。
容赦のない言葉攻めに縮こまるルーシィに、アクエリアスは『彼氏と』を強調して釘を刺してから勝手に
ホワ、と光の粒子となって星霊界へ帰る彼女に思わず脱力しながら、ルーシィは未だ目を回しているハッピーを胸元から取り出して腕に抱えた。大波でどこかへ飛んで行ってしまわないかが心配だったが、無事だったようだ。ルーシィはほっと息を吐く。
「―――――ぅう……」
「んっ、ぐ……」
「あっ!」
不意に耳に届いたうめき声。ルーシィはハッとして意識を切り替えた。
そうだ、大波に引っ掻き回されたのはなにも自分たちだけではない。甲板で巻き込まれた女性たちの無事を確認しなくては。
なにせあの揺れ、あの大波。壁の無い甲板の被害は想像に難くない。
ルーシィはちからの抜けていた体に鞭を打って、甲板の手すりに掴まって起き上がらせ、おぼつかない足元で立ち上がった。
■
(いち、に、さん―――――よんじゅう、きゅう)
「―――――みなさまご無事ですのね」
ルーシィは安堵の息を吐く。大雑把にだが目視する限り、大けがを負っていたり海に落ちてしまっていたりする人は居ないようだった。
『 ―――――今宵は49名もの………』
……パーティの始まりの、ボラの挨拶。ルーシィがうっとりと聞きほれていた彼の素敵なパフォーマンス。それが乗船している『商品』の数を確認していただけなのだろうかと思えば胸中に苦みが広がるが、結果として無事の確認に活用できた。ボラが確認していたとおり、ちゃんと49人が甲板にいる。
もちろん、優秀有能なアクエリアスがうっかりしていることは無いと思っているが、それでもこうしてあの外道の被害者たちが無事だと確認できると安心した。
しかし無事と言っても頭を強く打ち付けているなどの場合は目視で判断できないので、一刻も早く彼女たちを医者に診せる必要があるのだが。
『そのドレス、とても素敵だね。よく似合ってる』
『来てくれてありがとう』
―――――だから、これは今じゃない。
深く、深呼吸。ふとした瞬間にくちが緩んで溢れてくる気持ちにしっかりと蓋をしなおして。
動け、ルーシィ。自分を鼓舞する。
気持ちを切り替えるように、誰ひとり海に落とすことなく港へ届けてくれた
手を、甲板の手すりへ。そのまま身を乗り出して、腹にちからを込めた。
乗り出して見えた眼下には、船によって抉れた港が広がっている。―――――改めて見ると酷いありさまだが、人命が最優先だったということで多少の損害は見逃してもらえるだろうか。
ああ、それより。広げた視野に入り込んだ、遠巻きにこちらを窺うたくさんの人影。
用があるのはこちらだ。
「―――――」
ルーシィはすう、と肺いっぱいに息を吸い込んだ。
■
ざわざわ ざわざわ。人影が騒めく。
港には人だかりができていた。静かな夜に響いた轟音。なんだどうした何事だ、と家や店から飛び出してきた住人や観光客たちは、砂浜の上にずうんと沈黙する巨大な客船を前に、呆然とした顔を晒していた。
喉を晒して見上げるそれは甲板すら見えないような、立派な客船。誰かがぽつりと呟いた。
「これは―――――昼間の魔導士がパーティーをするって言ってた船じゃないか……?」
得も言われぬものが一同の背を駆け抜けていった。
魔導士のパーティー? だってそりゃあ、妻が―――恋人が―――姉が、妹が、娘が―――嬉しそうにめかしこんで参加しに行った、それじゃあないか。
ざわりと空気が波打って、―――――それは大きな波紋となる。
どういうことだ? なぜ船がここに。 大波があったって。 いったいどうして? 一体何が起こったって言うんだ!
いや、それよりも、この船に乗っているはずのあいつは―――あの子は―――彼女は―――――無事なのか?
謎の大波。乗り上げた船。安否の分からない愛する人。横隔膜が嫌なひきつり方をする。
―――――不安だ。それは心配だ。
けれど、けれど理性が船に乗り込もうとする体を押しとどめる。
だって予兆もなく発生し、こんな巨体を港に乗り上げるほどのちからを持っている大波なんて、おおよそ自然現象とは思えない。
何かがあったとして、それが魔法であったとして―――――しからば自分たちが乗り込むことは、場合によっては邪魔だてになりかねないのだ。
ハルジオンには魔法が使える人間なんて片手もいない。ただし貿易は盛んなため、旅の魔導士などと関わる機会はそれなりにある。だから彼らは魔法とそれを扱う魔導士の、自分たちと一線を画す土俵の違いのようなものを理解していた。
凡人は凡人なりに、持たざる者である自分たちの領分を考えているのだ。心配だからと感情のまま行動することが、逆に愛する人を危険に晒しかねないと理解できるほどには。
けれど、不安で。
嬉しそうに、楽しそうに出かけて行った彼女たちの顔が脳裏によぎる。無事だろうか。そればかりが心配で。
何もできない歯がゆさのまま、彼らは見えもしない甲板を仰いだ。喉を晒して、大きく見上げて、あるいは手を組んで神に祈るように。
星の光ばかりの暗い空。何か、何かはないかと、船の水平線に目を凝らす。
―――――そこに、ふらりと揺れる黒い影が。
「あ、」ひとりが声をこぼす。喉に小骨が引っ掛かったような小さな声だったが、限界まで膨れた風船のようになっていた彼らには関係が無かった。
ささくれひとつが銃弾に感じるほどに張り詰めていた神経を撫でたその声に導かれて、何十、何百という視線のスポットライトがそこに刺さる。
影が、ぬう、と甲板から身を乗り出していた。暗闇に慣れ始めていた視界がゆっくりとその姿を形にとらえた。
少女、だ。
女の子が自分たちを見下ろしている。
人だ。関係者だ。これで事情が分かる。
僅かな安堵が息になった。大波のこと。船のこと。いや、それより、愛する彼女たちのこと。
ほんの一瞬、彼らが何から聞くべきか、誰が聞くべきかと迷ったその一瞬で、先に動いたのは少女の方だった。
「 どなたか―――――軍にご連絡をッ!! 」
■
濡れた髪を頬に張り付けた少女が声を大きく叫んだのは、何とも不穏な嘆願だった。
―――――なんだって?
船を見上げていた人々は一層混乱して狼狽える。ようやく誰かの姿が見えたと思ったら、軍に連絡をしろと、通報をしろと言うのだから!
状況が分からない。なぜ開口一番に軍を呼べなんて。救援要請か? なぜ必要なのか、必要になるようなことが起こっているのか。
例えば、あの波が本当に自然現象で、だから助けを求めて軍を呼んでくれと言われているのか。
例えば、彼女は何が起こっているのかは知らず、ただ助けが欲しくて軍を呼んでくれと言っているのか。
魔法が、魔導士が関わっていることではないのなら、船に乗っている人を救出するために軍を呼ぶのは妥当だろう。それなら、―――――いや、本当に?
空気に囚われて行動ができない。誰かがつばを飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
例えば、とんでもないことが起きていて。守るために、救うために、救われるために
―――――そもそも、そもそもだ。そもそも、彼女は誰なのだろう。見かけない子だと周囲の顔色を窺う。おおよそは同じように困惑して少女を見つめたり、周囲を窺っていた。けれどそのうち、ふと「昼間に街を観光していた子じゃないか?」という声が聞こえた。
観光客。偶然居合わせて
グラグラと煮立ってゆく不安感。心配、疑心、不安定。
じりじりと何かがすり減っていく。最善は何か。どうすればいいのか。情報が足りない。分からない。分からない。分からない。
煮詰まる。破裂寸前の風船に、また
「いったい―――――いったい何だってんだ! その船は、俺の娘が乗っているはずの魔導士のパーティー会場だろう!? 俺の娘はどうした!?」
それははじけて少女を睨みつけた。
■
「みなさんご無事です、どうか安心なさって! それよりも軍を!!」
ルーシィは夜風より冷えた叫び声に応えて、早口でまくし立てた。
目を凝らした先の人々。きっと多くはこの船に親しい誰かが乗っている人たちなのだろうと推測できる。だからまるでルーシィを非難するような声も、彼らの心配や不安を想えば当然と受け入れられた。
「この船は船上パーティーの会場ではありませんでしたの! それは女性の皆様を拉致するための隠れ蓑です! 本当の目的は、『奴隷輸出』っ……この船は、女性を拉致して売り払う、奴隷船なんです!!!」
―――――時間が無い。まだナツが船内にいる。
ルーシィには余裕がなかった。だから、この際はっきりと伝えることにした。
彼らが受けるショックは心配だが、言葉を選んでいる猶予がないのだ。ボラやその配下と思われる男たちがルーシィの存在に気づけば、また襲い掛かられ、最悪ここから逃げられてしまうかもしれない。
その混乱に乗じて女性たちを連れて行かれてしまう可能性は? それに、逃げられれば今までの被害者の足取りを追えなくなってしまう。
今も苦しんでいるであろう、いつかの彼女たちを。
だからこそ今のうちに、軍を呼ぶことで彼らを逮捕する手はずを整えておきたかった。彼らの本性を知り鍵を取り戻したルーシィなら、軍が到着するまでの足止めをできる。けれどその代わり、女性たちをフォローする余力が無いのだ。彼女たちを救出するためにも、人手がいる。
だからルーシィは叫んだ。現状の危険性を声高らかに。
群衆は返ってきた答えに動揺する。だって、まさか。そんな…一体?
『奴隷』なんてものは奴隷制度の存在しないこの国ではあまりに縁遠い話。聞き間違いかと何人かがきょろきょろあたりを見回した。誰もがお互いの顔を窺ってたららを踏む。
「早くっ、時間がありません!」
―――――しかし、ルーシィの重ねた叫びに弾かれて、ひとりの男が走り出した。
■
男には恋人がいた。少し気が強い、おしゃれで美人な幼馴染。長いこと片思いをしていた世界一かわいい女の子に告白した日のことを、男は今でも覚えている。あの時の緊張といったら! ……イエスと言われた時の、喜びといったら。
その恋人も、今はあの船の上にいる。
男は数時間前、恋人が意気揚々とパーティの準備をしていたときに、どうにも気分が悪くなって喧嘩をしてしまった。器の小さい話だが、愛する人が他の男に頬を染めているのだから面白くなくて仕方がなかったのだ。
だから、その魔導士様はお前なんかに興味ないぞ、と意地の悪いことを言ってしまった。その声のなんと冷たいこと! くちに出した本人すら驚いたくらいだ。
彼女はその言葉に、一瞬悲しそうな顔をした。それから、鬼のように彼を責め立てた。―――――その顔の意味を、彼は見つけられなかった。
自分の言葉に傷ついたのか、相手にされないことを想像してショックを受けたのか。どちらにせよ、ああ、……そんな顔をさせたいわけじゃなかったのに。
―――――まだ仲直りをしていない。謝っていない。
たとえ喧嘩をしても、彼女を愛している。
だから男は走り出した。必死に伝える彼女の尋常ではない様子に、嘘や演技ではないと分かってしまったから。
魔導士ではない男は、魔導士と戦うすべを持っていない。だから走った。―――――軍を、助けを呼ぶために。
愛した人を守るために、彼はただ走った。それが自分にできる最善だと思ったから。
■
走り出したひとりに触発されたように、またひとり、ふたりが動き出す。その動きはやがて全体に伝わり、
「おい急げ! 軍だ!!」
「誰か連絡用の
「奴隷だとッ? ふざけんな、うちの娘も乗っているんだぞ!!」
「アリアスー! アリアスは無事なの!?」
そこからはまるでドミノ倒しのように、次々に人が動き出す。なにせルーシィの言ったことが本当ならば。もしかしたら、自分の家族が、愛した人が奴隷として他国に売り払われるかもしれないということなのだから!
軍を呼びに走る人。船に乗っている女性たちを助けようとハシゴを取りに行く人。必死に我が子の名前を呼ぶ人。
その様子にルーシィは安心した。これでもう女性たちは大丈夫だろう。この街はすぐそばに駐屯所がある。軍が来るまでそう時間はかからないはず。後は―――――
未だ目を回しているハッピーを抱え、ルーシィは踵を返した。
こうまですればボラたちに逃げ場はない。つまり、後のなくなった彼らが何を仕出かすか分からないということ。
跳ねあがった危険性。しかし、それを理解しながらルーシィのつま先の行き先は船外ではない。向かうは混沌の中心―――――ボラのいる船長室。
( ナツさん……!! )
―――――どうにかナツたちを安全な場所に逃がさなくては。
自分は星霊が居るのでボラたちの対処ができる。だからその間にナツとハッピーには逃げてもらうのだ。それが居合わせた魔導士としての自分のすべきことであり、あの時、たとえ偶然でも、自分を救ってくれた彼らへの恩返しだと。
思わず噛みしめた奥歯からギリ、と音が鳴った。
「―――――待てやクソがァッ!」
しかし、駆け足で船内へ入ろうとしたルーシィの目の前に―――――突如壁が聳え立つ。
木でもコンクリートでもない肉の壁。それは
「好き勝手してくれたなクソアマーーーッ!」
血走った眼球がルーシィを睨み付ける。船を港に押し上げた大波。男はその原因が目の前の少女であることを理解していた。
唯一甲板に残っていた男は、遠目にだがルーシィが『何か』を呼び出し大波を起こしたのを見ていたのだ。あいにく対策をとるには波の到達が早すぎてそのまま流されてしまったが、男は確かに見ていた。それに加えて、打ち付けた頭を抱えていれば聞こえたルーシィの大声。きっともうすぐ軍が来る。そうなれば自分はどうなるか―――――それを理解していた。
早く逃げなくては捕まってしまう。そう思いながらも、目の前のルーシィを素通りしていくことなんてできない。
―――――男は絵にかいたようなクズである。破落戸としてチンケな悪党をやっていたところをボラにスカウトされた、大勢いる社会不適合者のひとりだ。
男は金と利益で雇われただけのクズなので、別にボラに忠誠を誓っているわけではないし他の男たちと親しいわけでもない。ボラの下で彼にケツ持ちをしてもらいながら、金を手に入れ女を好き勝手する外道を楽しんでいるだけである。
それはほかの男たちも似たようなもの。どいつもこいつも、一応はボラをリーダーとしているがそこに忠誠があるわけではない。甘い汁をすするために媚を売っているだけの関係。
そうだ、今日もそうやって楽しい思いができるはずだった。今までのようにこれからも!
それを―――――この女が!
捕まるなんてまっぴらごめんだ。軍からは絶対に逃げ切ってやる。けれど、それ以上に、この女にやり返してやらなくては気が済まない。地べたに這いつくばらせて尊厳など引きずり剥がして、絶望の中で汚く許しを乞うほどに
―――――泣くまで殴って、壊れるまで犯して、そうだ、売ってしまおう。こんな上玉なら多少馬鹿になっても良い値が付く。この商売はもう駄目だろうが、せめてこいつだけでも!
悲しきかな、結局は金がモノを言わせていた利害の仲間。男の頭の中には船内の男たちを助けるという考えはこれっぽっちもありはしなかった。
渦巻くのは悪魔に品性を売ったとしか思えないような、低俗極まりない杜撰な策略。息荒く舌なめずりをしながらルーシィを見る男の、その嘗め回すような汚らわしい視線!
非力な女。躾けてやるのはとりあえずここから離れてからだ。一発でも殴れば大人しくなるだろう。男はルーシィを捕まえるために襲いかかった。
「ひゃはははぁっ!!」
―――――しかし、それは男にとって痛恨の失態だった。
確かにルーシィは華奢で非力な少女だ。だから男に捕まってしまえば、先ほどの船長室でのようにろくな抵抗もできず蹂躙されてしまうだろう。
そう、―――――
襲い来る大男を前に、ルーシィは目を細めた。そこにはおぞましい未来に対する絶望などなかった。
彼女の指先が滑る。コンマの時間もかからずにそれは自身の手首にあるブレスレットへ。
―――――水晶のワンポイントが可愛らしいそれは、ただのアクセサリーではない。
「―――――」
丸い薄桃色の水晶は極小の
男の腕がルーシィを掴むために伸ばされる。しかし大ぶりなそれは隙が多く、ルーシィの身体能力で難なく躱せた。
回避のバックステップ。同時にブレスレットに触れていた指先から魔力を流せば、
男が体勢を整え、もう一度ルーシィに襲い掛かろうとして。
しかしルーシィは至極冷静に、手の内の『ソレ』が変形を終えるのを待たず―――――勢い良く
「ッが、!?」
パシュルルル、と。
その手首の軽やかなスナップは『ソレ』を巧みに操り―――――
「な、ナンだこれァっ!?」
ルーシィの操った、ブレスレットが変形した『何か』―――――それは鞭。
ボンデージ調のしなやかで黒く艶めかしい、まごうことなき
この間、およそ2拍。あまりにも早すぎる一連の流れに男は反応すらできなかった。
ルーシィは非力だが身体能力は悪くない。ましてやひとり旅をこなす彼女が、星霊以外に身を守るすべを持っていないはずがないのだ。
圧倒的な格上や、完全に不意を突いたならまだしも―――――目の前から突撃してくる『的』に後れを取るほど、ルーシィは愚鈍ではない。
「ッテ、テメェ、! クソ、は、離せっ!」
首は人間の急所だ。鞭が巻き付くちからは息を締め上げるほど強いわけではなかったが、『首を押さえられている』というのは精神面に大きな動揺を与える。男は瞬間冷静さを失った。わずかな圧迫感が死を思い起こさせる。
生存本能がとっさにルーシィを捕まえようとしていた手で巻き付いた鞭を掴ませ、恐怖心が視線を含む全ての意識をそこに注いだ。
それが男の敗因だった。
「―――――ごめんあそばせ」
この鞭は、ルーシィが一人旅でも身を守れるように選んだ武器。さて、それがただブレスレットと鞭の形状を行き来できるだけのものだろうか。
もちろん、否。
頬に張り付く濡れた
「ぎッ、!!!!」
――――― ぎあア゛ぁァアア゛ア゛ァあああ゛ ッ !! !!!
魔力を孕んだ閃光が音を置き去りに。
遅れたそれはバヂヂヂヂヂヂヂヂッッ!! と空気を引き裂き、鞭から伝う
■
「ふう、―――――いやですわ、あまり淑女にはしたない真似をさせないでくださいませ……」
「……ルーシィって意外とエグいね」
「まあ! ハッピーさん、目を覚まされたのですね」
安堵のような息を吐きながら黒焦げになり倒れ伏す男に苦言を呈すルーシィに、ようやく脳みそシェイクから回復したハッピーはちょっと引いた。
目を覚まして一番最初に見たのがルーシィの鞭捌きだったのだ。お嬢様然としていた彼女とのギャップに、朦朧とした意識は一瞬で覚醒した。ハッピーがただのネコだったらトラウマものである。
「あっ、それよりっ!」
しかし今のルーシィはハッピーの視線を気にすることなく、ハッとしてナツのいる船内に入ろうとして―――――はて、と眉を下げて困った。
ルーシィが今しがた昏倒させた男は、ものすごく巨体だった。その体が船内につながる扉の前に倒れ伏しているのだ。
ものすごく邪魔で入れない。
男には意識が無いため、声をかけてもどいてくれない。というか意識があってもどけてはくれないだろうが。
困り果てたルーシィは男を見、それから自分の足を見た。
履いていた靴は海に落ちた時に落としてしまったので、今のルーシィは裸足である。いや、ストッキングは履いているのだが、それも穴だらけになってしまって余計にみすぼらしい。
「……仕方ありませんわ。お許しになってね」
白目をむいた男に語り掛けたルーシィは、伸縮しないシルク生地のドレスを捲り上げることで足の可動域を広げ、そのまま素足で男の体に登った。跨ぐには男が大きすぎてこれしか方法が無かったのだもの。
ちなみに、電気鞭で容赦なく気絶させたくせに体の上を歩くことは申し訳なく思うという謎の倫理観に、ハッピーは普通に引いた。なんでそこで躊躇うの????
慣れな足場の感触にヨロつきながらもわたり切ったルーシィは男へ申し訳なさそうに頭を下げ、すぐに意識を切り替えて船長室へ走り出す。
―――――どうか、ナツが無事であることを祈りながら。
『 いいこと、ルーシィ。神さまはいらっしゃるわ。 』
おかあさまはそうおっしゃって、わたくしのあたまを やさしくなでて くださいました。
ベッドの上でからだをおこして、そばにいたいとせがむ わたくしのために、いくつかのおはなしをしてくださいました。
『 不幸なこともあるでしょう。恐ろしいこともあるでしょう。 』
『 それでも神さまは見ていらっしゃいます。 』
『 貴女はとってもいい子。人を愛し、心美しく、誰かの思いを大切にする、優しい子。 』
おかあさまがほめてくださると、わたくしは じぶんがせかいでいちばんりっぱな子 なのだと思えました。
だから思うのです。ならばおかあさまのおっしゃるような、りっぱな人になろうと。おかあさまの思いに はじないようないい子になろうと。
『 だから大丈夫よルーシィ。たとえ悲しいことがあっても、必ず貴女は幸せになれるわ。 』
『 神さまはあなたのことを見ていらっしゃる。貴女のことを愛してくださっている。 』
『 いいこと、ルーシィ。神さまはいらっしゃるわ。 』
―――――本当にそうでしょうか。
神さまはいらっしゃるのでしょうか。わたくしのことを見てくださっているのでしょうか。
わたくしは本当に『しあわせ』になれるのでしょうか。
―――――不幸なのは、わたくしが、悪い子になったからではなくて?
お母さま。お母さま。
お母さまは、今のわたくしを見て、どう思われるのでしょう。
―――――ああ、ごめんなさい。
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世界は存外君に優しい
輝く黄金
数百カラットの宝石
豪奢なドレス
華美な豪邸
一流の食事
絢爛豪華な調度品
華やかな社交界
恵まれた産まれ
比類なき美貌
確固たる地位
どれもこれもキラキラピカピカ美しくって特別なもの。
「ナツさんっ!!」
駆け出して数十秒。ただナツの無事を想い船長室の扉を開けたルーシィの視界に入ったのは、心配していたような凄惨な光景ではなかった。
大波に揺られた船によって船長室にいた面々も随分とかき回されたようで、ナツやボラたちは半分ほどが倒れていた体を起こしていたばかり。どちらにも大した傷はない。
―――――その立ち上がったひとりに、ナツがいた。
船は止まった。揺れはない。つまり、ナツの酔いも覚めたのだ。
ルーシィはその姿を確認して、ナツに駆け寄ろうとした。腕を引いて、安全な場所に逃がそうとした。―――――しかし、一歩踏み出したところで、ビクリ。思わず足が止まってしまう。
まただ。また―――――ナツの『怒り』が、燃えている。
いや、『また』ではない。ナツの中にはずっと怒りがあった。空からやってきた時から、ナツの中には渦巻くマグマのような怒りがあった。乗り物酔いでうずくまる姿に周りが拍子抜けしてしまっただけで、ナツはずっと怒っていた。そして、
( ―――――熱い…! )
ルーシィは、ナツの鋭い目つきに呼応するようにその場の気温が上昇していく感覚を覚えた。―――――気のせいではない。これは、『
ナツの『何か』に対する激しい怒りにより、息苦しくなほどの『魔力』がナツの周りに渦を巻いている。
―――――灼熱の魔力ですべてが燃える。空気が、場が、怒りが、想いが。
ルーシィはその一瞬、蜃気楼のように熱気で歪んだ景色の先に―――――滾る炎と
「ハッピーさん…」
「あい、どしたのルーシィ」
ルーシィが呆然とした声でハッピーに呼びかければ、ルーシィの腕に抱かれていたハッピーは軽い調子でそれに答える。
―――――慣れている。それがルーシィの感想だった。並の魔導士では足元にも及ばないような、こんなにも息苦しくなるほど濃厚で荒々しい魔力に、ハッピーは慣れている。
鈍感なのではない。直感でそう思った。ハッピーにとっては取るに足りないことなのだ。
ああ、と納得する。ハッピーはナツと共にいた。つまり、ハッピーはナツの相棒のようなものなのだろう。そうして、そんなハッピーがこの渦巻く魔力に慣れているということは―――――ルーシィはほぼ確信となった疑問をくちにした。
「……もしかしてナツさんは、魔導士の方ですか?」
「あい!」
元気いっぱいに返ってきた答えに、わずかにルーシィの肩から力が抜ける。これだけの魔力を持つ魔導士なら、いくら屈強でも一般人に負けることはないだろう、と。
「お前が
ナツが上着を脱ぎながらボラに問う―――――その言葉を聞いた途端、ルーシィの体は再び強張った。
ああ、そうだ。ナツがいくら強かろうと、彼が今対峙しているのは
勝ち目などあるはずがない。……逃げるべきだ。ナツを逃がすべきだ。
―――――そう思うのに、足は動かない。その理由がもうナツの魔力ではないことなど明白だった。
心配なのに。ナツを助けたいのに。―――――それなのに、ルーシィの体は動かない。頭が垂れていき、俯いてしまう。
―――――聞きたくない。
ルーシィはボラの返答を聞きたくなかった。あの男が肯定するのを聞きたくなかった。
『
―――――ずっと、憧れていた。
「それがどうした!?」
「…よォくツラ見せろ」
―――――だからこんなにも、悲しくて仕方がない。
ボラの大声が響く。その肯定はルーシィの胸を力強く抉った。
踏みにじられて、唾を吐きかけられた憧れを、目の前でさらに蹂躙されたような苦しさだった。
「っあ、!」
ルーシィが立ちすくんでいる間に、ボラは配下の男たちへ指示を飛ばす。そして巨体が一挙にナツへと押し寄せた。
ルーシィは焦る―――――しかし、動けない。
ナツに助けられたように、自分だってナツを助けたいという気持ちはある。いくら強い魔導士でも、束になって襲われれば無傷とはいかないだろう。加勢しなければ―――――冷静な頭が指示をしてくる。それでも体は動かない。
( 動きなさい…! 動いて、早く、ナツさんを……!! )
手は鍵をつかんだ―――――それでも、ちからが入らない。
( どうして――――― )
―――――だって、苦しいのだ。脆弱な心はもう死んでしまいそうだった。悲しくて、悔しくて、息絶えてしまいそうだったのだ。
( どうして、あんな人が
ルーシィは滲む視界を振り払おうと、一度きつく目を閉じた。
―――――だから、ほんの一瞬ナツがこちらに視線を向けたことに、気づかなかった。
ルーシィはボラのような悪党が
『こんな人が
否定していた。否定したかった。否定してほしかった。
―――――その願いは唐突に叶えられる。
「オレは
■
「―――――」
まるで埃を払うように―――――自分より一回り以上も大きな男たちをいとも容易く右手一本で吹き飛ばしたナツが叫ぶ。
そして同時に放たれた言葉が―――――世界を変える。
その言葉に―――――なにより、晒されたその右肩に―――――全員の視線が集中した。
それは妖精の証。―――――
■
―――――いいこと、ルーシィ。神様はいらっしゃるのよ。
■
「、かみさま………」
ぽつり、ルーシィのくちから言葉がこぼれる。ハッピーは不思議そうにルーシィを仰ぎ見たが、視線は交わらない。ルーシィはただ、ナツのギルドマークを見つめたまま動かない。
ドク、ドク、心臓の音が耳元で響く。
ナツの肩のギルドマーク。あれが示すのは、つまりナツが
―――――ルーシィは無意識に、ナツの言葉の正当性を探そうとした。ナツの言葉を心から信じていい理由を探そうとした。
―――――だってそれが本当なら。
「なっ…! あの紋章!!」
「本物だぜ『ボラ』さん!!」
「バ、バカ! その名で呼ぶな!!」
「『ボラ』…?」
―――――男たちはボラが本物の『
慌てすぎた彼らは禁止されていたボラの名前を呼んでしまった。ボラは咄嗟に叱りつけたが―――――後の祭りだ。
男たちと違って、ボラは本物の
情勢に疎いナツはともかく、ハッピーとルーシィは直ぐにその名が示す真実に気が付く。
行きついた答えにルーシィの体がふるり、幽鬼のように揺らめく。それは怒り。そして―――――
「ボラ…
「……ええ、存じておりますわ。評議員が公表した報告書によると、魔法を使い盗みを繰り返した犯罪者とのことでしたが……窃盗の次は人様のギルドの名を悪用し、奴隷商ですか。…でしたら名乗られていた『
淡々としたハッピーの声に比べて、自分の
騙された悔しさ、そして憧れていたギルドを貶めるようなことをしたボラに対して、おさえきれない怒り。
―――――けれどなにより、あの男が
ふと、ルーシィは思う。……ナツは本物だろうか。
今さっきまで騙されていた人間としては正しい反応だろう。湧き出た疑惑を―――――けれどルーシィは捨てた。
ルーシィの知る限りギルドマークは一点物なのだ。さすがにそれを騙ることはできない。なによりルーシィがナツを信じたかった。
あの右肩を晒した彼の思いを。なぜ、彼が怒りに燃えていたのか。推察でしかないその訳を―――――ほんの少しだけ知る、ナツのその心のありようを。
あの時、ドラゴンの名前を呼んだ、あの顔を。
初志貫徹。疑わしいと思っていたはずだった
―――――だから今はボラに意識を向ける。体はもう動く。むしろ、どこか今までより軽い気までした。
ルーシィは鍵を握った。次こそは参戦できるように、ナツを守れるように。
それに―――――ルーシィにだってプライドがある。
ここまで虚仮にされて、黙っていられるはずがない。
それから、もうひとつ。
―――――ルーシィにとって魔法とは『愛』だった。
それは彼女が星霊を召喚する星霊魔導士だということに起因する。そんな彼女にとって、魔法を悪用し、女性たちの気持ちを歪ませ、多くの人を私欲のための生贄にしようとしたボラを許せるわけがない。
「許しがたい…悪辣な……!!」
ボルテージの上がっていくルーシィの怒り、それに応えるように、ナツの渦巻く魔力も威圧感を増していく。
「―――――おめェが悪人だろうが善人だろうが、知った事じゃねェが、
まるで視線だけで人を焼き殺さんばかりのナツの怒り。ああ―――――ああ、ほら、間違っていなかった。
ナツは、
―――――よかった。ただの夢ではなかった。抱いた憧れは、幻想ではなかった。
夢見た彼らは、ただ肥大化しただけの理想ではなった。
素敵な
ナツの『怒り』に圧倒されながらも、ルーシィの中には安堵があった。喜びがあった。
思わず滲んだ視界に目元を拭った瞬間―――――
ふと、獣の唸り声が聞こえた気がした。
まるで地鳴りのよな重低音―――――絶対的強者のような、―――――それは、ナツのもとから……?
ナツからは相変わらず恐ろしいほどの怒気が魔力として燃え滾っている。
しかし、けれど―――――これは、ナツだけの威圧感ではないのではないかと、ルーシィは直感した。
ナツと同調するような唸り声。強大な『何か』の威圧感。
獣の声で連動するように思い出すのは、
( あの時の―――――赫い、鱗……? )
意識が
その一瞬の無防備さが再びルーシィを出遅れされた。
「ゴチャゴチャうるせえガキだ!!!」
「っ、あっ、―――――ナツさんッ!!」
それは、魔導士としてある種当然の行為だった。『邪魔者を魔法で消す』…ボラのような悪人ならば、なおさら当たり前の思考回路だ。
ボラが発生させた爆炎が、邪魔者を殺さんとナツに襲い掛かる。
ルーシィは思わず飛び出そうとした。ルーシィが契約している星霊で炎に対して有利なのはアクエリアスだけである。デートだから呼ぶなという
ルーシィが飛び出したところで何かを成せるわけではない。ナツを庇おうにも、出遅れたルーシィより先に炎がナツにたどり着くのは明白。
( 次こそはと思っていたのに…!!
―――――それでも体が動いたのだ。
( 燃えてしまう。
身を焦がす衝動に流されたルーシィを、―――――しかし止めたのはハッピーだった。
その翼を広げ、ルーシィの進行を阻害したのだ。
―――――目の前で、ナツが炎に包まれた。
「―――――っなぜ!?」
「大丈夫だよ」
思わず涙目で非難の声をあげたルーシィに、ハッピーは至極平静を保って答えた。
ハッピーはナツを見捨てたわけではない。ただ、この場でルーシィが出て行ってナツを庇う必要がないことを、ハッピーはよくよく知っているだけ。
言葉の通り、何の心配もいらないと知っているだけ。
「ナツに火は効かないから」
「―――――え?」
ハッピーの言葉は、ルーシィの耳を通り抜けた。―――――ただ、目の前に光景に呆然として、思考が止まる。
ルーシィだけではない。その場に居たハッピー以外の……いや、ハッピーと
―――――なんだこれは
―――――なんだあれは
―――――何なんだ
「ふーーー…
人が、炎を食ったのだ。
「な…なな…っ何だコイツはァ!!!?」
「いったい、なぜ……どうやって!? こんな、これも魔法だと!? こんな魔法、見たことも聞いたこともありませんわ……!!」
男たちの悲鳴が響く。ルーシィの混乱しきった疑問が響く。炎を食べて、しかも『まずい』!? 『こんなの食ったことねェ』!? なんだその食べ慣れてるみたいなグルメコメントは!!
誰もが目の前の未知に慌てふためく中、ナツはそんな喧騒を関係ないとばかりに膨大な魔力を練り始めた。―――――『食ったら力が湧いてきた』と言っていたことから、食べた炎はエネルギーや魔力として換算されたのかもしれない。
先ほどよりもさらに膨大な魔力がナツの体内で密度を持って渦巻いていく。
『でかいの』が来る。誰もが分かった。しかしだからといって、―――――何ができる?
成す術など思い浮かばないほどの圧倒的魔力を前に、逃げろと思えど立ちすくむ足は動かない。
自分たちを消し飛ばす『何か』が放たれるその目前―――――男たちのひとりが、とうとうそれに気がついた。
「まっ、まさか―――――」
灼熱の魔力―――――それは炎の魔導士特有のカラー。その男は改めて見たナツの容姿に、目を見開いた。
あの桜色の髪。そして、鱗のようなマフラー。
それが示す答えは―――――
「ボラさぁん!! こ、こいつ、見たことあるぜ!! 間違いねぇ、こいつが本物のッ―――――」
ド ゴォオオオオオ オ オ オ オ オ オ ン ッ !!!
―――――男の言葉は最後まで紡がれず、ボラより何倍も恐ろしい、言葉すら焼き殺すような爆炎が炸裂した。
「―――――本物の、
ごうごうと、何もかもを燃え消すような炎が、唸りを上げている。
―――――燃えている。ナツが燃えている。ごうごうと、ごうごうと、ルーシィの理想が、夢が、憧れが、燃え盛っている。
( ああ、お母様 )
―――――いいこと、ルーシィ。神様はいらっしゃるわ。
「よーく覚えておけよ」
( 神様は、いらっしゃるのね。わたくしを、見ていてくださったのね )
――――――火の海のような船長室に、ナツの声が響く。鋭い眼光は、一瞬ルーシィに向けられた時その恐ろしさを和らげ、まるで子供のような明るさを持つ。しかし再びボラに返るとき、そこには燃え盛る心があった。
それはボラへの声掛けだった。そして、ルーシィへの言い聞かせだった。
「これが
燃え盛る炎を纏う腕。火の粉の隙間から照らされ光る
燃え盛る炎。それはルーシィの夢見たギルドの象徴のようだった。ああ、ああ、―――――ああ!!
理想を、夢を、憧れを纏うナツの右腕。―――――それは、ルーシィの『希望』そのもの。
ナツの爆炎で乾いた頬に、静かに、ひと雫の涙がこぼれる。
それは悔しさではなくて、悲しさでもなくて、恐怖でもない。
( ねえ、お母様―――――とっても熱くて、とってもキレイだわ )
( こんなに素敵な『光』は、きっとふたつと無いでしょう )
「 ――――― 魔 導士 だ ァ ! ! ! ! 」
―――――ドッ …――ガ ンッッ !!!!!
( この炎は、きっと世界一美しい )
この日この時、ルーシィの心に牙を立てた悪夢は―――――
けれど、それらよりもっと美しいもの―――――どんなものより価値のある、たからもの。
そんなものがあるというなら、それはきっと、泥に塗れても失われない輝きを持っているもの。
そして、もしかすると、それは―――――いま、目の前に。
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君は太陽
森、川、海、砂浜
街、建物、動物、人間
世界は色に溢れている。複雑に絡み合い、和を成し、しかし弾き、
そうして一枚のキャンバスのように、
纏わりつく孤独感。モノクロと呼ぶには世界は美しすぎて、きっと色を持たないのは私だけ。
たったひとり、私は
めらめら、めらめら。
盛る炎は辺りを燃やす。炎の熱気によって上昇していく室温に、ルーシィの顎を汗が伝った。
熱い。いや、『熱い』で済む話ではない。早くこの場から脱しなければ焼き死にかねない現状。
それでも魅入ってしまったのは、その姿があまりにも暴力的で―――――途方もなく美しかったから。
―――――ガンッ!
「竜の肺は焔を吹き、竜の鱗は焔を溶かし、竜の爪は焔を纏う」
「りゅ、りゅう…」
「これは自らの体を竜の体質へと変換させる
―――――バキッ! ドガッ!
「すごいわ、これが……」
「元々は竜迎撃用の魔法なんだよ!」
「……………本物の、
――――― ドガーーーーンッ!!
ルーシィは呆然と…いや、うっとりと見惚れるように燃え上がる炎を目に焼き付けた。
炎は熱い。けれどそれ以上に―――――心が熱い。
黒幕のボラをぶちのめしてもナツは止まらなかった。その怒りの深さ故というより、単純に一度暴れ出すと手が付けられないタイプなのかもしれない。『やるなら最後まで』―――――そんな勢いで男たちを片っ端から、炎を纏った四肢でふっ飛ばしていく。
そのありえない威力に驚き、そして称賛するルーシィに、ハッピーは誇らしげにナツの扱う魔法について説明していった。
―――――しかし、説明された内容も内容。まさか、存在を聞いたことがある程度の本物の
そんなルーシィに気付かず、ハッピーは相棒の自慢を声高らかに締めくくった。
「滅竜魔法を使う魔導士、
「えっ、
「―――――!!!!!!」
「疑問にも思っていらっしゃらなかったのですね……?」
思わず聞き返したルーシィに、ハッピーは目を見開いた。
ルーシィの記憶では、彼らの呼ぶ『イグニール』とは
こぼれ出た至極当然の疑問は、しかしハッピーからしてみれば青天の霹靂であったらしい。目を見開いた声もない驚愕顔に、ルーシィは思わず体のちからが抜けてしまった。
―――――普通一番疑問に思うところでは?? 場合によってはシリアスな話になるものでは???
ルーシィはだんだん、このふたりのことが分からなくなってきた。いや、おそらく、多分、シンプルに『強ぇーー! すげーー!!』という感想でいっぱいになって他のことは全く気になっていなかったのではないだろうか。
なんというか、本能と直感で素直に生きているタイプなのかもしれない。……ああ、でも、なるほど。ルーシィは小さく頷く。
魔法を教えてくれた師であるから、彼はあんなにも大切そうにドラゴンの名を呼んでいたのかと。
( ……あら? )
……変ではないだろうか。納得をしようとしたところで、ルーシィの思考に疑問が浮かぶ。暴れまわるナツを視界に収めながら、首をひねった。
( 400年前に滅んだドラゴンに―――――どうしてナツさんは魔法を教わることができたの? )
だってそれではまるで、つい最近までドラゴンが生きていたかのような―――――
――――― バ ギ ャ アア アアアア ア ッッッ! !!
疑問に思ったところで―――――ひときわ激しい音を立てて、ナツが船室の壁をぶち破る。
ルーシィは思わず耳を塞いだ。先ほどまでの破壊音とは比べ物にならない衝撃。どうやら攻撃が勢い余ったらしい。
しかし思わず身をすくめたルーシィとは違い、ナツのサンドバッグと化していた男たちは一目散に駆けだした。これ幸い、我先にとばかりに空いた大穴から外へ逃げ出したのだ。―――――この場に居れば目の前のバケモノに殺される―――――そんな恐怖に襲われ、ただ我が身を守ろうとした逃亡だった。
しかしそれを見逃すナツではない。雄叫びとともに両手で船室にあった大きなデスクを持ち上げ、背中を晒して逃げていく男たちを追いかけた。
暴れていたナツと叫んでいた男たちが居なくなった船長室は音を失ったように静かだった。ああ、それにしても。燃えているし荒れているしで、酷いありさまだ。どこか夢見心地で、ルーシィは室内を見回す。
一番目に付くのはやはり、今しがたナツの空けた大穴だろうか。その穴の大きさ、その攻撃の破壊力に、ルーシィはある種の感動を覚えてまじまじと大穴を見つめた。魔法というより、魔力を纏った拳でブチあけられた穴がナツの素の戦闘力の高さを物語る。
そう言えば自分より一回りも大きな男ふたりを、片手で吹き飛ばしていたことを思い出して―――――
ふと、『週刊ソーサラー』の大見出しが頭をよぎった。
それはナツが空から降って来た時にも頭をよぎったこと。その時はそんな場合ではないと振り払っていたもの。しかし、ナツが
これはもしかして―――――振り払っている場合じゃないのではなかろうか。
「ナ、ナ、ナ、っナツさん!!」
ハッとしたルーシィは大慌てで船室の大穴から、―――――ナツを追って飛び降りた。
―――――船室の穴から地面まではかなりの高さがある。下は柔らかい砂浜とはいえ、たとえルーシィが
それでも、おそらくきっと、たぶん大丈夫―――――持ち前の度胸を後押しに、ルーシィは躊躇いなく足を踏み出した。
緊迫した脳内に、先ほどまでの疑問はいつの間にか吹き飛んでしまっていた。
■
「いっ、―――!」
船から着地した瞬間、ルーシィは柔らかすぎた砂浜に足を取られ、勢いよく前方に倒れてしまう。
白い砂は海水で湿っていたドレスや肌に纏わりつき、その整った相貌を汚した。
ジャリジャリとした攻撃的な感触―――――思わずルーシィはなんとも言えない顔になる。
実はルーシィはこれが初砂浜だった。船へはタラップで乗り込んだため砂浜の感触など知らなかったのだ。というか海に近づいたのも初めてだった。
未知の海に落ちた時、塩分濃度にパニックにならなかったのは今まで読み込んだ本の知識のおかげだろう。海水への様々な表現を知識としてだけなら持ち合わせていたことがアドバンテージとなりルーシィをパニックから守ったのだ。
経験はなくとも知識は身を守る。落ちる直前、咄嗟に大きく息を吸い込んで息を止めたことにより塩水を飲み込む羽目にはならなかった。それでも、それでも。
ああ、なんて嫌な初体験! 澄み渡った大空、白い砂浜、雄大な海、そんな風景を夢見ていたのに。太陽に照らされ熱を持った砂浜にはしゃぐような経験を望んでいたのに! もっと感動的なものでありたかった。
( なんて、我儘を言っている場合ではありませんわね )
くじいた体とへそを曲げそうな精神をなんとか叩き起こし、体勢を立て直したルーシィは砂に足を取られながらも走り出した。
ルーシィが何を懸念し、こんなにも急いでいるのか。―――――それは『週刊ソーサラー』の大見出しだった『民家7軒壊滅』のような被害が出てしまうこと。
雑誌ですっぱ抜かれているのを第三者として見るのとは違う。それが目の前で起こるというのなら―――――それを黙って見ているわけにはいかないのだ。
■
両手で持ち上げていたデスクを男たちに向かってふっ飛ばしたナツ。盛大に暴れている彼には先ほどのルーシィの呼びかけは届いていなかったらしく、逃げる男たちへの追撃に―――――その手に熱い炎を纏わせる。
「っお、待、ち、 下さい、!!」
―――――止めなくては。その思いで、ルーシィはナツの背中にしがみついた。
それは倒れこんだとも言えるような不格好なものだった。それでも意識外からの唐突な衝撃にナツの攻撃の手が止まる。
非力で小柄なルーシィが必死にしがみついても、身長や体制的にナツの体に辛うじてルーシィの腕が回っているだけで、特に抑止力を持つような拘束ではない。それに炎の魔法を使っているナツへ接触すれば、その熱はルーシィへも害を与えかねないのだから非常に危険な行動だ。
それでもルーシィの行動に躊躇いはなく、ただ精一杯ちからを込めてしがみついた。
―――――フ、と、ナツの腕に纏われていた炎が消える。
「これ以上は、港に甚大な被害が出てしまいます! それに、船にいらっしゃる女性たちが怪我をされてしまうかもしれません―――――そうなれば、あなたが罪に問われてしまいますっ」
ルーシィは必死に呼びかけた。推測だが、船の上には女性たちだけではなく彼女たちを助けようと乗り込んだ街の人々もいるだろう。悪党がとっちめられるだけなら目くじらを立てることではないかもしれないが、罪のない一般人にまで大きな被害があれば―――――たとえ結果として、騙されていた女性たちを助けようとも、ナツは罪人になってしまう。
いや、たとえ一般人に被害がなくとも、万が一、相手の男たちが死んでしまったら。
―――――それだけは、何としてでも防がなくてはいけない。
ナツはしがみついて訴えルーシィの声に、振り回そうとした腕を収め視線を向けた。その瞳は相変わらず男たちに対する怒りに燃えていたが、ルーシィはその中に理性の色を見た。―――――ああ、今しかない。
冷静さを取り戻してきたらしいナツに安心を覚えながら、ルーシィはこの機を逃すまいと、どうか彼に響いてくれと、できる限り優しく、穏やかな声になるよう心掛けながら、一生懸命言葉をつなげた。
「すでに軍をお呼びいただきました。きっとすぐに来てくださいますわ。そうなれば彼らは、しかるべき場所でしかるべき法に裁かれます。…ですから、もうお止しになってください」
ルーシィはナツの怒りを『
それは、まったくもって美しい愛だ。ルーシィの心も思わず熱くなる。彼の怒りは猛烈で、恐ろしく、また―――――美しかった。
たまらない想いが溢れてくる。それは、散々に踏みにじられた心を救ってくれたナツを尊む、純真な気持ちだった。
―――――だからこそ、彼のために止めなくてはいけない。
「罪なき人々に被害があれば……いいえ、罪ある者であろうとも、行き過ぎた私刑を行えば法はナツさんを裁くでしょう。ここから先は、軍にお任せすべきですわ」
どうか、まっすぐ伝わってほしい、とルーシィは思った。
まっすぐ、ナツを心配する気持ちが、全部届いて欲しいと。
「ナツさんのお怒りはご尤もでしょう。けれど、罪への罰は法によって定められ、彼らは法で裁かれます。―――――ナツさんは何も悪くありません。ですから、もうお止しになって。ナツさんが罪を問われてしまう前に………」
―――――わが身を救ってくれた
―――――理想を、夢を、憧れを
―――――心を救ってくれた人。
そんな人が、罪に問われ責められるだなんてことを、なぜ見過ごせようか。
―――――ナツは。
ナツは確かに怒っていた。自分の大切なギルドを騙り悪事を働いた彼らに。
なにより、ナツにとって
なんとなく、ルーシィは勘違いしているんだろうなとナツは気づく。
まあ普通は、ギルドに入ってもいない、出会って数時間の人間がギルドの一員のように扱われるとは思うまい。ナツが少し特殊なのだ。いや、ナツ単体というより―――――
けれどそれは、間違いではなく。きっとそれは、尊いこと。
ナツは少し考える。正直、軍だの法だのは
―――――けれど、今ルーシィは、必死に止めている。
たぶん、ナツを想って止めている。……それは、ナツにもよく分かった。
そして、ナツには仲間の気持ちを蔑ろにする気はない。
―――――本人がこういうのなら、まあ。
今回は見逃してやってもいいか、と。ナツは男たちへの攻撃を止めることにした。
■
考えるように黙ったまま返事のないナツに、ルーシィは不安で仕方なくなる。どうか、どうか、届いてほしい。聞き入れてほしい。
―――――必死だったルーシィは、ふと気づく。この格好、自分から
これは―――――かなり
気づけば羞恥を抱くもの。ルーシィの顔はカッと赤くなった。しかし離せばナツがまた暴れ出してしまうかもしれない。なら離せない。けれど、けれど、これは―――――
――――― 、 、、 !!
不安と羞恥がない交ぜになって動けなくなったルーシィの耳が、―――――音を拾う。
遠くから聞こえる……人の声のようなものと、金属がぶつかる音のようなもの。これは……鎧の音?
「通報を受け、出動つかまつった!! 罪人はどこだ!!!」
「あっナツさん、軍、―――――が!?」
響き渡った声に、ルーシィは思わずちからを抜いて破顔する。ようやく軍が到着したのだ。ああ、ようやく女の子たちが助かる、男たちが裁かれる。つまりナツはこれ以上暴れる理由もなくなるはずだ。渦巻いていた不安や周知は安堵に溶け、ルーシィはナツから離れた。
それから、当事者で一番詳しいはずである自分が状況説明をすべきだと、軍に駆け寄ろうとした瞬間―――――
―――――ルーシィの体は宙に浮いた。
「逃げんぞ!!」
「え、え、―――――えええ!?」
強く引かれた右腕。繋がれているのはナツの左手。軍の存在を認知したナツがルーシィの腕をつかみ、引っ張って走り出したのだ。そのちから強さと勢いに、ルーシィの体は数秒の滞空時間を得た。
ハッピーはいつの間にかナツの荷物を抱えて上空を飛んでおり、その手際の良さから『慣れ』が見て取れる。
ルーシィが現状を飲み込めたのは、走り出して数秒してからだった。
「お、おおお待ち下さいっ! なぜお逃げになりますの!!?」
「あ? メンドクセーだろ」
「めんっ……!?」
「くすくす、ルーシィ変な顔になってる!」
それだけの理由で軍相手に『逃げる』という選択肢を取る短慮さに絶句してしまうルーシィ。上空のハッピーはそんなルーシィの驚愕顔を見て笑う。
―――――ふたりには認識の齟齬があった。
ナツの言った『メンドクサイ』は、軍に容疑者として拘束され何度も同じ説明をさせられ、何時間にも及ぶ説教を聞かされることである。
しかしもちろん、一般人はそうは思わない。というかそもそも容疑者として拘束されない。故にルーシィからしてみればナツの『メンドクサイ』は『軍に事情を説明すること』だけを指していると思っていたのだ。
( え、え、そんなこと―――――いいえ、それでも、恩人であるナツさんの意向を振り払うのは…? けれど、事情を知る人間としてわたくしは軍に協力すべきでは………! )
呆けたルーシィは腕を引かれて走りながら、そこまで考えてハッとした。
「そ、そもそも! なぜ、―――――わたくしまで!?」
「なんでって……入りてぇんだろ? 『
( あ、 )
そうだ。ルーシィはナツとハッピーに、自分が
ナツは『何を言っているんだ』といった顔でルーシィを見る。ハッピーも「入らないの?」と不思議そうにルーシィに問いかけた。
覚えていてくれた。自分の憧れが、遠い世界の人間だと思っていた人たちが、こんな小娘の夢見がちなひとり語りを。
「一緒に
息を切らせながらナツのペースに合わせて走っていたルーシィは、その屈託ない笑顔に一瞬息を止めてしまう。
―――――その笑顔が、大波のようにルーシィの心を攫っていってしまったからだ。
入っていいのだろうか。許されるのだろうか。
いや、許されているのだ、実際に。目の前の男は、空にいる猫は、ルーシィが
( お日さまみたいだわ )
その笑顔の、なんと温かいことか。
ナツの横まで高度を下げたハッピーも、「おいでよルーシィ」と楽しそうに誘う。
ああ―――――嬉しい。
「っ―――――はい!!」
涙をにじませながら咲いたルーシィは、あふれ出る気持ちを抑えきれないとばかりに笑って頷いた。
向日葵のようなその笑顔。そこにはもう、船の上での涙はない。
それは春の芽吹きにも似た、確かな始まり。
冬は終わりを告げ、運命が迎えに来た。
ペン先からこぼれたインクが染みを作るように、灰色のキャンバスに色が差す―――――それはやがて、七色の虹となって灰色を塗りつぶした。
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隣り合わせ、手を繋いで
―――――ふと、目が覚めた。
お母さんに「寝なさい」と言われてもう何時間が経っただろうか。
すやすやと眠っていたのに、なんだか港の方が騒がしくって起きてしまった。
困ったなあ、明日は学校があるのに。寝坊したら、お母さんに怒られるなあ。
窓から港を見てみようと、カーテンを開ければ、
「あ、お月さま」
きれいなお月さまだ。ピカピカしてて、はっきり見える。
港は明かりがついていて、たくさんの人の声が潮風に乗って聞こえてくる。
「あれ? 軍が来てる」
それに、砂浜に船が乗り上げてる。
そういえば、今日は魔導士さまがパーティーをするって聞いたなあ。
何かあったのかな。
―――――走り始めてどれほど経った頃だったろうか。
すでに港の騒音は遠く、初めは港から遠ざかる三つの影に声を荒らげて追ってきた軍も撒くことができた。今向かっているのはルーシィが泊まる予定だった宿である。
なにせ、
ナツたちは軍に関わる気は毛頭ない。けれど、軍を呼んでくれと頼んだのはルーシィだ。本来であればルーシィが残りきっちりと説明するのが筋だろうが、ナツたちはルーシィを置いて先にギルドに帰る気はないらしい。一緒に行くが、軍につかまりたくないというのがひとりと一匹の主張である。―――――なら、ルーシィも選択肢はひとつだと受け入れた。
しかし、てっきり直行するものだと思っていたナツは少し不満そうな顔をした。軍を面倒だと言うナツからしてみればさっさとお暇したかった。けれど、ハッピーがルーシィ側についてしまったのだ。
「だっておいらたち、帰りの汽車賃もないんだよ。これでルーシィまで無一文だったら帰るまでご飯も食べられないよ」
完全私欲だったが、これによってナツは説き伏せられた。ルーシィは苦笑いで財布の中身を思い返すほかない。
「なあ宿ってまだかよ」
「はっ、は、んんっ、…申し訳、ないのですが、も、もう少し離れてらっしゃるの、で…!」
「ルーシィがんば~」
ルーシィの宿は街からかなり離れたところにある。息を弾ませて走りながらナツの質問に答えたルーシィは、「次を左に曲がります」と続けた。ハッピーは飛びながら緩い応援を送る。
先ほどまでの引っ張られる体制が逆転し、ルーシィのナビゲートで宿まで走る。追っ手を撒いたとはいえ、客観的に見て逃げたナツたちは重要参考人ないし容疑者として軍に睨まれている可能性が高い。気を抜くわけにはいかないのだ。
「おい、軍に追いつかれるぞ」
精一杯のスピードで走るルーシィに、ナツが言う。それから少し考えて、「追いつかれっちまったら、ハンザイシャになって牢屋に入れられるぞ」と脅しをかけてみることにした。
ルーシィの足の速さは平均より少し上程度で、どれだけ一生懸命でもナツからしてみれば鈍くさい部類に入るのだ。言外に『速く』と急かそうとした。
ルーシィはその言葉に、走りながらナツを振り返った。その顔はキョトンとしていて、怯えや焦りはない。
あれ? とナツは目論見が外れたことを悟る。しかし、それにしても………
―――――そこにはせっつかれることへの不満や苛立ちはない。ただ意識外のことを言われたような顔をして、ルーシィはナツを見ていた。
ナツは面食らう。今のは自分が当然のことを言ったはずだ。確かにちょっと脅しをかけるために誇張して言いはしたが、ノロノロしていれば軍に追いつかれてつかまる。そして、場合によっては拘留される―――――変なことは言っていない。
ううん? と怪訝そうな顔になったナツに対して、数拍おいて何を言われたのかを理解したらしいルーシィは―――――
―――――笑った。
それはまるでいたずらっ子のように。小さな子供が、とびっきりの内緒話をするかのような無邪気で無垢な笑い方だった。
「いいえ、大丈夫です。―――――だって、神さまはいらっしゃるもの」
―――――神さま?
今度はナツが意識外のことを言われてキョトンとする番だった。……なぜ今、神さまの話になるのか。ルーシィが入っている宗教の話だろうか?
ハッピーだけが、船の上でルーシィがポツリと落とした呟きを思い出す。
ルーシィは前を向きなおし、少し速度を下げて、謡うように続けた。
「神さまはわたくしたちを見ていらっしゃいます。ナツさんは
神さまは、見ていらっしゃるもの。
そう言ったルーシィの声の、なんと穏やかなことか。ナツはなんだか、生まれて初めて見るものを目にしたような気持ちでその後姿を凝視した。
月夜になびく金糸の髪は、海水と砂に犯されてもなお月光を浴びて煌めく。それは静かで、しかしその様を強く主張する。
―――――神さま。神さまか。いまいちよく分からないけれど、たぶんそれはルーシィにとって特別なことなのだろう。
そして今、ルーシィはその特別を少しだけナツに分けてくれたのだ。
そう思って、ナツが何かを言おうとした途端―――――目の前のルーシィの体が大きく傾いた。
「きゃ、」
「おっ、」
間一髪、反射的に受け止めたナツによってルーシィは転倒を免れた。
ルーシィの体を支えながら、ナツはいったい何事かと地面を見下ろして、そこに大きめの石があったことに気が付く。
なるほどこれに躓いたのか、と視線を滑らせ―――――
「お前、靴どーしたんだよ」
「えっ? …ああ。海に落ちてしまいました時に、失くしてしまいましたの。きっともう海底に沈んでしまったと思います」
ルーシィは裸足だった。暗闇でも人より良く見えるナツの目は、その真白の肌に無数の傷があることを認めた。
お手数をおかけしました、と身じろいだルーシィを無視して、ナツはその足を持ち上げる。
「………」
「!!!! なっ、お、お、お止めくださいっ」
「ルーシィ痛そ~」
まじまじと足の裏を見られて、ルーシィは真っ赤になった。他人に、それも異性に自分の足の裏を観察されて冷静でいられようか。しかも、ものすごくボロボロの自覚がある―――――何の苦行だろうかとルーシィは足を持ち上げられたことでずり下がるドレスを抑えながら静止の声をかけた。
しかしナツはそんなことも気にせずルーシィの傷の具合を確かめる。ハッピーはのんきに、しかし少し痛ましそうにルーシィの怪我を心配していた。
足の裏の傷は、裸足で駆け回っていた分痛々しく、ところどころ皮が剥けて血をにじませていた。ストッキングは既に意味を成していない。もはや足首から下がオープンされているのだ。おかげで傷口に砂がたくさん付いててとても不衛生だ。右足の親指の爪なんて割れている。
―――――きっとこんなに傷ついたことなんてない足だったんだろう、とナツは思った。
なんとなく、ルーシィの物腰からして生まれはずいぶん裕福だろうというのは察せられるし、きっと当たっている。わざわざこんなに傷つくようなマネをすることなんて無かったのではないだろうか。
そのくせ、一度も痛いだのと言わなかった意外な根性に感心する。
しかしこんな状態のルーシィを急かすような真似はするべきじゃなかったかもしれない、とナツは少し反省した。そりゃあ転ぶだろう。―――――それから、少しの不満。
痛いなら、苦しいなら、もう少し言ってくれてもいいだろうという傲慢な不満。
ルーシィのようなお嬢様タイプの女は今までナツの周りにいなかった。全員が野蛮というわけではないが、毛色が違いすぎるのだ。護衛任務に行ったって、生まれの上品な女が粗暴なナツに関わってくることはなかった。だから、なんとなく、扱いがわからない。
一度足から手を放し、ナツはちゃんとルーシィを見てみる。
まずは強い海水のにおいと何かが焼け焦げたにおい。…ナツはこれで滲む血の匂いに気付けなかった。わずかに香っても、男たちのものとばかり思っていた。
全身はべしょ濡れで、ドレスも海水を吸ってずっしり重そうだ。
髪の毛もぐしゃぐしゃで、髪だけでなく全身に砂が張り付いて―――――ああ、顔にも。血は出ていないが、傷が一線。
足はボロボロ。しかもよく見たら―――――左足首が少し腫れている。
パチ、とひとつ瞬きをして、むしろよく今まで走ったな、とナツは感心した。
「ボロボロだな~オマエ」
「う、……ええ、見るに堪えないみすぼらしい様相になってしまったことは承知しております……で、ですが名誉の負傷です! 船も港へ押し戻せましたし、おひとりだけですが撃破することもできましたから」
「つかこれ、捻挫してんじゃねえか?」
「はうっ、そ、それはたぶん砂に足を取られたときにその……こ、この程度かすり傷ですわ」
自覚がある分、ジロジロと見られることが恥ずかしい。しかし、そんな乙女心などナツに分かるわけもなく。―――――ルーシィは赤くなりながら言い訳のような強がりのようなことを訴える。
そのコロコロ変わる表情を見てナツは、やっぱりルーシィが居たら楽しそうだな、と考えながら一瞬でその体を背負った。
「きゃあ!」
「っし。行くぞルーシィ! 案内してくれ」
―――――ルーシィはガッツがあって、行動力もあって、でもあの血の滲んだ足の通り、小さくて柔らかくて弱っちい体をしている。
もう弱いとは思ってない。船を海岸に押し戻したのがルーシィだというなら、そんな大きな魔法を使えるくらい強い魔導士なのだろう。けれど、見たとおり、今ここにあるとおり。ルーシィの体自体はただの華奢な女の子だということを、ナツはしっかり認識した。
ナツはルーシィの体に対して『気遣う』というスキルを装備したのだ。
「ナツさんっ、お、お心遣いはありがたいのですがお、重い、重いですから!」
「おー重ェ。荷物の方が軽い」
「えっ」
―――――まさかの密着に経験のないルーシィは焦り、何とか降ろしてもらおうともがきながら訴えれば、まさかの肯定が返ってきた。
いや、ルーシィ自身、別に自分が軽いと思っていたわけではないのだが……異性に『荷物の方が軽い』などと言われれば乙女心が傷つく。
しかし落ち着いて考えてみてほしい。普通、人ひとりと大抵の荷物を比べれば荷物の方が軽いのは当たり前だ。
けれどショックを受けたルーシィはその判断ができなかった。
びしり、ルーシィが固まり抵抗がなくなったことをいいことに、ナツは背負ったまま走り出した。ハッピーは声を出さずにことの成り行きをニヤニヤと見守っていた。
( でぇきてるぅ )
声を出さずに呟いた揶揄いは誰にも気づかれない。
「おいルーシィ、ちゃんと道案内しろって。次はどこだ!」
「あ、あうう、ひ、左ですぅ…!!」
桜と向日葵が夜空の下に咲き走っていく。追従する青は、声に出さずに楽しそうに笑った。
■
唐突にナツに背負われたこと、そして『重い』宣言によってショックと混乱に見舞われていたルーシィだったが、ナツが自分を抱えたことによりさっきまでの倍以上のスピードで目的地に近づくのを感じて次第に混乱が収まった。
ようするに効率がイイのだ。
―――――それに、これ以上拒絶するのは自分を気遣って背負ってくれたであろうナツの気持ちを踏みにじることにもなってしまう。
すう、とルーシィの体からちからが抜けていく。体を支えるためにナツの肩に置いていた手へ、少しちからを込めた。
――――――それは慣れない触れ合いへの、精一杯の歩み寄り。
おんぶなんて、もう何年されていなかっただろうか。ルーシィは遠い記憶を頼りに、ナツに体を預けた。
ナツが走ればルーシィの体が揺れる。……正直、捻挫している足首に響いて結構痛い。
( あたたかい )
けれど、その熱は手放しがたいものだと感じてしまった。
それはルーシィの体が海水によって冷えていたからか、ナツが炎の魔導士ゆえに高い体温を有していたからか。
それはどちらもでありながら、きっと、それだけではないのだろう。
次第に慣れていく乗客に気付いたナツは、硬かったルーシィの雰囲気が少しずつ自分を受け入れているのを感じて、笑みを浮かべる。
泣かれるのは困る。だから笑っている方がいい。
強がられると困る。だから身を任せてくれればいい。
俺達の仲間になる。だから他人行儀なんてものはいらない。
ルーシィは
■
ようやく宿についたふたりは、まだ明かりのついていた受付に駆け込んだ。
「おばさま!」
「わあ! っビックリしたね、静かに入ってきな! ……って、おやお嬢ちゃん…どうしたんだいその恰好」
受付には女主人がひとり。急な来客に目を丸くした。
見覚えのある顔だ。それは昼過ぎに部屋を借りに来て、数時間前に魔導士の船上パーティへ出かけて行ったお客が、男に背負われて帰ってきた。
なによりその恰好の、なんとみすぼらしいことか! 街一番の美しさで出て行ったはずの少女の、まさかの変わりように思わず呆然とする。
「ごめんなさい、どうかお許しになって。時間がありませんの! お借りしていたお部屋を 「おばちゃん、こいつの部屋もうひとり泊まっていいか?」 えっ?」
―――――部屋のキャンセルを、と思って口を開いていたルーシィを遮ったのはナツだった。
『泊まる』――――――? ナツの割り込みに、ルーシィがフリーズする。
軍に見つからないうちにさっさと出ていこうということになった大元が、『泊まる』とはこれいかに???
まさかの展開に呆気にとられたルーシィを気にせず―――――女主人は驚愕顔を生温かい微笑みに変え、頷いた。
「まあまあまあ! ええ、構いやしないよ。特別サービスだ、お代もひとり分で結構」
「えっ、えっ?」
「サンキューおばちゃん! よっし、部屋行くぞルーシィ!」
「は、はひ……」
消えた混乱のぶり返し。背負われたまま消えていくルーシィに向かって、女主人は微笑んだ。
「若いねえ、旅先で男を捕まえるなんて。アタシだって若い頃にゃ…」
彼女の頭の中では、船上パーティに参加していた美少女をめぐって高名な魔導士と
「……ん、?」
チカリ。何かが光った気がした。
目を凝らしてみると、またチカリ。それは港から続く道からやってくる。
チカ、チカ、キラ、キラ。
「、わ、あ………!!」
桜色の男の子が、女の子を背負って走ってる。
キラキラなのは、その女の子の髪の毛だ。
お月さまの光と同じ色で、キラキラ光って泳いでる。
「っ、おかーさん! おかーさーんっ!!」
すごい、すごい! 僕、初めて見た!
「お母さん、人魚さんだよ! お兄ちゃんが海から人魚さんをおんぶして走ってる!!」
階段を駆け下りてリビングのお母さんに伝えると、お母さんは「もう!」と怒った。
「ちゃんと寝なさいって言ったでしょう。人魚だなんて、夢を勘違いしてるのね。ほら、ほら、寝なさい、寝なさい」
「勘違いじゃないよ! きれいな髪の毛だったんだ。お月さまと同じ色! 銀色のキラキラがあったよ。きっと鱗だ! それに、青いひらひらも! ねえ、きっと尾びれだよ!」
「まあ、足は本当にお魚だったの?」
「うん! えーっとえーっと、……あれ? おんぶされてたから違うかな?」
「ほら、勘違いじゃない」
「でも、本当にきれいだったんだよ!」
「ならきっと、それは人魚じゃなくて月の女神さまよ。天女さまよ」
さあ寝なさいと背中を押されて部屋に戻る。人魚さんじゃなった。
でも、女神様だった。
あれ? 天女さまだっけ。
うーん、どっちでもいっか! 本当にきれいだったんだもの。
「早く明日にならないかな」
朝が来たら、皆にも教えてあげよう。昨日の夜に、月の女神さまが降りてきたんだよって!
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昨日の私はもう泣かない
それは微睡みだった。
「始まりと終わりは常に表裏一体で、永遠なんぞは存在しない」
リアリストは皮肉げに片眉を跳ね上げた。夢を謳う者を救いがないと首を振る。
「いかれた話だぜ。世界が誰にでも優しかったことがあるか? いつだって恵まれた者だけが平和と幸福をアクセサリーのように身にまとって道の真ん中を歩いていく。微睡みはいつか覚醒するもんだ。現実はいつだって眼前にあっただろ」
理想を謳って何になる。言葉は暴力の前に無力だ。それがどれだけ美しかろうが、ちからでねじ伏せられれば無価値でしかない。
「
いっそ憐れむように吐き捨てた男に、それでも少女は微笑んだ。
部屋についたナツは、背負っていたルーシィを備え付けのソファに降ろした。
ちなみにルーシィは部屋番号を教えていなかったのだが、ナツは
まったく訳が分からない、という顔をしたルーシィが戸惑いがちにナツへ声をかける。
「あの、ナツさん?」
「軍に捕まるのはメンドクセーけど、一晩くらいなら大丈夫だろ。俺もう眠ィし、明日朝一にマグノリア行こうぜ」
何を言われるまでもなく、あっけらかんと答えるナツ。―――――聞かれる前に答えたということは、ルーシィが混乱することを分かっていたということ。問われることを分かっていたということ。
分かっていて、何故独断専行に走ったのかと言われれば―――――この
ナツが仲間のために稀に見せるファインプレーだった。
にっかりと笑うナツに、ルーシィは何となく大体を把握した。それは仲間のためにあんな美しい炎を燃やすナツが、仲間の一員になる予定の自分を労わってくれているということ。
申し訳ないと思う。足手まといだ。しかし、ここで謝ることはナツに失礼だろうと出掛けた謝罪を飲み込んだ。淑女たるもの、殿方のお心遣いを無得にするものではないのだ。
それに、そう。そんな建前は置いておいて。
「…ええ、始発の列車に乗って、三つ隣の街まで移動いたしましょう。とっても素敵なカフェテラスがあるとお聞きしましたの。昼食はそこで……朝食はわたくしがご用意させていただきますわ。せっかく備え付けのキッチンもあるのですから」
嬉しい。受け入れられていることを、こんなにも分かりやすく伝えられていることが。
嬉しくって、たまらない。
「お、ルーシィが料理すんのか………食えるんだよな」
「まあ! そうでなければ用意するなどと言いませんっ」
「へぇ~」
「もうっ、ナツさんがわたくしのことをどうお思いなのか、よく分かりましたっ! 少なくともお腹を壊したりはしませんから、ご安心ください!」
「つかこの部屋広いよな。いつもこんなにデケェの借りてんのか?」
「えっ? ああいえ、今回はこのお部屋しか空いていませんでしたの。宿がないときは野宿することもありましたわ」
料理と聞いて揶揄えば、面白いほど引っかかってふくれっ面を披露するルーシィ。揶揄い甲斐があると満足するナツだったが、本当に拗ねられればめんどくさくなる。ので、ちょっと雑に話題転換をすれば、ルーシィはまんまと釣り上げられた。
流石のナツも『ちょろすぎる…』と呆れる流されやすさだ。あんな貧相な釣り針で釣り上げられるとかどうなってんだこいつ…という感じである。そのうち
…いや、そういえば騙されてたなコイツ。ナツはちょっと残念なものを見るような目でルーシィを見た。
にしても、野宿もできるのか、と思考を変える。地べたに寝転がるルーシィがあんまり想像できないのは当人の『虫の一匹も殺せません』みたいな雰囲気と、どこぞの令嬢じみた言葉遣いや所作のせいだろう。それが野宿。予想外の逞しさだった。
「高額でしたが街はずれにしては整った設備でしたから、ちょっとした息抜きになると思いまして。キッチンもトイレもシャワーもなかなかに上質なのです。―――――あっ、ナツさん! どうぞシャワーをお使いになってください! たくさん動いてらしたから、汗もかかれたでしょう?」
「んあ? そんなこと言ったらお前なんか砂だらけだろ。入って来いよ」
女ってすぐ話変わるなぁ、と呆れた顔をしたナツにそう言われて、ルーシィはようやく自分の恰好がどんなものだったか思い出した。そうだ、海水でべたべただし砂でじゃりじゃりだし、髪も肌もとんでもないことになっていたのだった。
「お、お先に頂戴いたします!」ハッとした顔をしてシャワールームへ駆け込んでいったルーシィの背をなんとなく見送っていたナツは、ふと―――――どこからともなく、コツンコツンと何かが叩かれている音に気がついた。
辺りを見回す。発信源は―――――窓だ。
「あ、ハッピー」
「ナ~~~~ツ~~~~」
何の音だと窓を覗いたところで、そこに居た青色にナツは相棒の存在を忘れていたことを思い出した。
窓を開けて迎え入れてやれば、ナツの荷物を抱えたハッピーがふらふらとしながら部屋へ入ってくる。
抱えた荷物が窓枠を超えて部屋に入った時点で、ハッピーは耐えられないとばかりにそれを床へ放り捨て、そのままベッドに飛び込んだ。………まるで力尽きた魚のようにぐったりとしている。
沖にいる船までナツを運んで、ルーシィを捕まえて銃弾をよけて、大波に巻き込まれて、極めつけにナツの大きな荷物を持っての飛行だ。しかも途中で疲労から減速したハッピーに対して、ナツとナツにおんぶされたルーシィはすっ飛んで行ってしまった。
おいて行かれたハッピーの心情たるや。必死に宿を探し当ててちからの入らない手で窓をノックした時点で、ハッピーの魔力はもう空っぽだった。
猫が魚とはこれ如何に。羽毛布団に埋もれる相棒に、ナツは少し申し訳なさそうな声で「悪い」と謝った。てっきり普通に付いて来ていると思っていたから、すっかり忘れていたのだ。
「ううう酷いやナツぅ…ルーシィといちゃついてオイラのこと忘れてるんだもん…」
「あ? 別にいちゃついてねーだろ」
「あれ? ルーシィは?」
「無視かよ! シャワー」
音を立てるシャワー室を一瞥したハッピーは、ナツへ振り返って真顔で言った。
「覗いちゃだめだよ、ナツ」
「覗かねーよ!」
■
「はあ……」
少し熱めのシャワーを浴びながら、ルーシィは蕩けるようにリラックスしたため息をこぼした。海水のベタベタや張り付いた砂が落ちていく感覚がたまらなく気持ちいい。多少は傷が染みるがさほど気にかからないほどの快楽だった。
残念なのは後がつっかえているので湯船につかるほどの時間がないことと、捻挫した患部を温めすぎないようにすぐ出なくてはいけないこと。
ルーシィは備え付けのシャンプーに手を伸ばした。
たくさんのことがあった。騙されたり、奴隷にされそうになったり…まるで
なにより―――――
ずっとずっと憧れていた。夢が叶う多幸感が、ルーシィの頬をにやけさせる。夢のようだ。いや、実際夢かもしれない。ああ、けれど、これがいつかは覚める夢だとしても、有り余るほどにルーシィは幸せだった。
「あ、」
しかし脱衣所に立ったときそんな幸福感をふっ飛ばすピンチに遭遇することとなる。
―――――着替えを用意していなかった。
■
結局、ちょっと泣きそうになりながらナツにトランクごと取ってきてもらうことになり。
ルーシィは羞恥心で染まる頬を何とか冷ましながら、それを誤魔化すようにナツにシャワーを譲った。というより押し込めた。……ところで、ハッピーも一緒に入って行ったが、彼はネコなのに水は大丈夫なのだろうか。
( ……あら? ハッピーさん? )
―――――ハッピーに関することを、何か忘れているような。
ルーシィは首をひねる。あんまりにもナチュラルにいつの間にか合流していたハッピーの存在によって、ルーシィはハッピーを置いてけぼりにしていたことに全く気付いていなかった。
( 気のせい、かしら )
ルーシィは考えるのを止めた。
―――――話は少し戻るが、ルーシィのトランクは大きなものだから受け渡しにはドアを大きく開けなくてはいけない。つまり備え付けのバスタオルだけを纏っている姿を晒すことになったのだからルーシィが羞恥心にかられるのも無理はない話なのだ。
ちなみに、ルーシィは『唯一の救いはナツがそれほど気にしてないことだ』と思っているが、むしろ普通の女の子だったら『見といてその態度は何だ』とキレていいくらいにはナツの態度は淡白だった。
頬に籠っていた羞恥心を脱ぎ捨てるようにひと呼吸置いたルーシィは、そういえばひとりと一匹が着替えしかもっていっていないことに気が付いた。そして、備え付けのタオルはルーシィが使ってしまったことも。
うっかりしていた、とルーシィは慌てて自分の荷物の中から(他人のカバンを漁るわけにはいかなかった)バスタオルとハンドタオルを一枚ずつ持って脱衣所の扉をノックする。
「ナツさん、ハッピーさん、タオルを置いておきますわね。どうぞお使いください」
「お~~~サンキュ」
「あーい」
ジャバジャバ、わぁわぁと騒がしいシャワールームへ声をかければ、間延びした返事がふたつ。それを微笑ましく思いながら、ルーシィのタオルを着替えの近くに置いて脱衣所を後にした。
「………ありがとうございました」
ほんの小さく、それでもたくさんの気持ちを込めた言葉を呟くように落として。
「…? ナツ何で笑ってるの?」
「…べっつにぃ?」
■
さて、備え付けのドレッサー前に座ったルーシィはナツが上がってくる前にすべてを済ませようと構えた。女の子はすべきことがいろいろあるのだ。
化粧水を顔に給水させ、美容液を塗り込み乳液でふたをする。目元にはまつ毛の美容液を与えて仕上げにリップクリームを塗る。
タオルドライした髪には洗い流さないタイプのトリートメントを毛先に馴染ませてから、ブラシを使いながらドライヤーで乾かした。
ルーシィの髪は長い。そのため、時短のためにちょっと高めの
ひと通りを済ませたルーシィは、買いだめの傷薬を取り出して丁寧に顔や足へ塗り込んだ。傷薬はよく染みるが、慣れたもの。旅を始めた当初はあちこちが傷だらけになって、ルーシィはそのたびにべそをかきながら傷薬を塗っていたことを思い出した。
薬の上からガーゼをかぶせ、包帯で固定すれば足の裏はもういいだろう。割れた足の爪も、そこまで酷いものではなかったのでペディキュアを塗ってごまかした。
ふう、と塗料を乾かすように息を吹きかけながら、ルーシィは捻挫した足首に指を這わせた。くじいた後に散々酷使された足首は熱を持っている。これはまだ腫れるだろうか……ルーシィは脳内で今日のトータル支出金額をはじき出した。
……まあ、出し惜しみしてこれ以上ナツに迷惑をかけるわけにはいかないので。取り出したいい値段のする特製湿布を足首に貼って、処置は全部終了した。
後はペディキュアが乾くだけ、というところでナツがシャワーから出てきた。―――――半裸で。
ルーシィは咄嗟に出そうになった悲鳴を飲み込んで、少しむせる。
「ケホッ……ナツさん、あの、お洋服を……お洋服をお召しになってください……!!」
あん? と片眉を上げたナツに同じく脱衣所から出てきたハッピーが「セクハラだよ」と言えば、ナツは少し不機嫌そうに上着を着た。
それを確認して、ルーシィはひと息つく。なんだか体力を吸い取られていく気持ちだ。
「あ、そうだわ。ナツさん、お休みの際はどうぞベッドをお使いになって下さいまし」
「お! まじかサンキュー! お前も一緒に寝るか?」
「寝ません!」
「あはははナツがフラれた!」
何言ってんだこいつという感じである。思わず聞き返そうかと思うようなことを言われた。何言ってんだこいつ。大事なことだから二回言っておく。ルーシィはナツの情操教育がどうなってるのかもの凄く気になってきた。
―――――いや、もしかしたら冗談だったのかもしれない。友人にするような軽口に対してルーシィが過剰反応してしまっただけかもしれない。笑い転げているハッピーはともかく、ナツの顔を見れば本当に下心なく純粋に言っていることはわかる。だからルーシィは五歳児に説明するような丁寧さを心がけて言った。
「さすがに、年頃の男女が同じ寝具を使うのは…そういった距離感は、恋人や夫婦や親子のものですわ」
「そうか?」
ナツは、一瞬「ギルドに入るなら俺とルーシィは家族だろ」と言おうとした。けれど、ふとギルドのメンバーを思い返す。特に女性連中をだ。
例えば宴会からの雑魚寝だったら気にしないだろう。でも、改めて同じ部屋で同じベッドに入るというのは―――――確かに、ちょっと落ち着かない話かもしれない。
「そうです」
ちょっとゴリ押し気味に重ねたルーシィに、ナツも頷いた。
「ルーシィ~、オイラはルーシィと一緒に寝てもいい?」
「まあ! ええ、構いませんわ。ですがその前に体を乾かしましょう?」
「は!? なんでハッピーはいいんだよ!」
「…ナツさん、ハッピーさんはネコさんですわ。ネコさんと人間の殿方を同列に判断するのはどうかと思います」
頷いたところで、ナツは相棒に裏切られた。
すりり、と寄ってきたハッピーにルーシィは喜んで許可をだす。それにナツが抗議の声を上げたが、バッサリと切り捨てられる。
なんかルーシィが冷たくなった気がするぞ。ナツは歯ぎしりした。
ナツの言い分は聞きようによっては乙女な勘違いをしてしまいそうなものだったが、ルーシィは察しのいい女だった。別にナツのことが嫌いなわけではこれっぽっちもないが、線引きはしっかりしておくべきなのだ。ルーシィは心を鬼にして母親のようにナツへ応えた。
人間とネコの扱いの違いをあまり考えていないのか……種族を差別していないと言えば聞こえがいいかもしれないが、ここまで行けばただの
「……ハッピーだってオスだぞ」
「ハッピーさんはネコさんのレディの方がお好きでしょう?」
「あい! オイラ女の子はネコがいいです」
ルーシィの話し方がちょっと聞き分けのない子供に対するもののようになってきたところで、ナツは押し黙る。それに反応は返さず、ルーシィはハッピーに少しだけヘアオイルを塗ってあげながらその体毛を丁寧に乾かし始めた。
「ん~…オイラ、寝そう、」
「ええ、どうぞ」
人に髪を乾かしてもらっていると眠たくなるのはネコも同じらしい。はじめはヘアオイルに「いいにおい」だとご機嫌だったハッピーは、次第にくち数が少なくなり、ウトウトと舟をこぎ始めた。
ルーシィはドライヤーを止めて、ハッピーをソファーの上の大きなクッションに寝かせる。くるり、普通のネコのように体を丸めて寝始めたハッピーに、ルーシィはブランケットを掛けてやった。
―――――ほほ笑んで頭をひと撫でしてから顔を上げたルーシィは、再び悲鳴を飲み込むこととなる。
めっちゃ至近距離にナツがいた。
「あ、あの…?」
「ん」
そういえば途中で黙ってから気にしていなかった。
眉間にしわを寄せ、不機嫌そうなナツに差し出されたのはバスタオル。ナツの使っていたやつだ。まあ、ものはルーシィの私物だが。
一瞬、返してくれただけかと思ったルーシィだったが、それにしてはナツはがっちりとバスタオルを握ったままで。さすがに『はいありがとうございます』と受け取るような雰囲気ではない。
「……俺も」
意図を読めずに首をかしげれば、ボソリと呟かれる。
―――――その言葉の意味は、ちゃんと分かった。
「……ええ、ふふ、構いませんわ。どうぞお座りになって」
つまり、目の前の彼は不機嫌ではなく拗ねていたのだ。
明言されたわけではない。けれど、何故かルーシィは確信を持って理解できた。
自分より体格のいい男の子がまるで幼子のようにお願いする様はどこか可愛げがあり、ルーシィは滲む微笑みのままドライヤーを握った。
ナツはルーシィの「ダメ」をなんとなく理解できた。ナツはなかなかに野生児だが、そこまで常識知らずではない(多分)。だから納得はした。けれど、優遇される相棒は羨ましい。兄弟みたいな
だからこれは、納得するための妥協案。
ナツはソファーに浅く座ったルーシィの膝を割り開いて、その隙間を埋めるように地べたに座り込む。ルーシィの短い悲鳴は無視された。
レディの膝を割って入り込むなんて、とルーシィは唐突な辱め(ルーシィ基準)に、流石に少しだけ怒ろうとした。……けれど、機嫌よく乾かされる準備をしているナツの後ろ姿に、なんだか握りしめたこぶしのちからも抜けてしまった。
コクコクと船をこぐナツと、その髪を梳きながら仕方なさげに微笑むルーシィ。しかしそこに甘さはなく、あるのはまるで母子のような温かさ。
■
( ―――――あら? )
■
ふと、ルーシィは違和感を覚える。
( あら、あら、あら……? )
勢いで部屋に運び込まれ、シャワーですっきりし、当たり前のように寝る場所を分担して。
( ――――― )
流れるように髪の毛まで乾かしてあげているが、自分はもしかして、同年代の異性と同じ部屋で寝るのだろうか。
―――――いまさらと言われればそれまでかもしれない。
けれど、ルーシィからしてみれば夢から覚めたようなショックだった。
( 何が『その距離感は~』ですか! それ以前に同室で寝泊まりするだなんて、そんな!! )
どうする。寝るのか、同じ部屋で。―――――今からでも遅くない、自分は別の部屋を取るべきではなかろうか。
ルーシィが思わずソファーから立ち上がろうとしたところで、
「―――――んんん……」
「あっ、ご、ごめんなさい」
ナツがうなり声をあげる。ほとんど夢の世界に旅立とうとしているナツにとって、ルーシィの動きは睡眠妨害に等しい。いや、そんなこと言われればルーシィは一歩も動けなくなってしまうのだが。
ルーシィはとっさの判断で音を上げるドライヤーのスイッチを切った。
静かになった部屋の中で、くわん、揺れたナツの頭が、―――――そのままルーシィの太ももに落ちた。
「ナ、ナツさんっ」
思わずルーシィは声をあげるが、……ナツはすでに夢の中に。
距離感が死んでいる。けれど、
「んン~……ルーシ、帰るぞぉ………」
ルーシィはそっと、ナツを起こそうとした手をずらし、その頭を撫でた。
優しく、優しく、起きてしまわないようにそっと、静かに、心を込めて。
お付き合いもしていない男女が同じ部屋で夜を明かすなどルーシィ的価値観としては言語道断である。
―――――けれど、まあ……こんな夜くらいは。
ザザン、波の音と少しの喧騒が聞こえる。散々な1日だった。ひどい目にあった。
ザザン、ザザン、優しい波音が聞こえる。ルーシィは滲むように微笑みでナツの頭を撫で続けた。
それでも、ルーシィは海が好きになってしまった。数時間前まで嫌な思いでしかなかったのに。
この潮風は温かいものとして記憶に刻まれるだろう。ナツという、世界でいちばんきれいな
「おやすみなさい」
それは月のきれいな夜だった。世界でいちばん優しい色をした月に照らされて、ルーシィたちの夜は更けていく。
「ねえ、ロマンという言葉はお嫌いかしら」
謳うように少女は語る。
「とある建国者のお話では、ロマンとは『よりよい明日を夢見る心』を指すそうよ」
―――――それは進化の原点であり、明日へ希望を持つということ。
「そして、
生命は芽生える。その限られたいのちを消費しながら今を経過する。
いつ
「ねえ、真のロマンチストはリアリストから生まれるのをご存じ?」
流れる赤を気にもしないように、少女は再度、笑って問いかけた。
「醜い真実も凄惨な現実も報われない愛も、」
かつて神の子と呼ばれた男は、十字架に手のひらを釘で打ち付けられ磔にされたという。
ならば目の前の少女は、その男の再来だろうか。
「どうしようもない現実を知りながら―――――それでも『明日』に希望を持ち、未来を謳う人」
しかしその微笑みはまるで罪を許す母のようでもあった。ならば彼女はその腹から神の子を産み落とすのだろうか。
「
―――――
その言葉は祝福だった。
沁み込むように、あるいは襲い掛かるように、言葉が場を支配した。
錆びた鉄と女の血の匂いが漂う部屋で、それでのこの時、ここはどこよりも神聖な場であったと、誰かが小さく呟いた。
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生き様を見よ
長らくお待たせいたしました。
今回は文章量とルーシィ褒めを増し♡増し♡でお送りしています。
今後もルーシィをべた褒めすることは当然のように大領に発生するので、ご了承ください。
「うぉ~~~~~っし! 着いたぞルーシィ!!」
「まあ………!!」
ルーシィは目の前の建物を見上げ、万感の思いを込めて感嘆符を吐き出した。
大きな扉と、瓦の屋根。漏れ聞こえてくる楽しそうな騒ぎ声。掲げられた尻尾のある妖精―――――『FAIRY TAIL』の文字。
「ざ、雑誌で見た通りです…! 本当に、本物の―――――
電車を乗り継ぎいくばくか歩き、そうしてようやくたどり着いた目的地。
たまらない、とばかりに呟いたルーシィに、ナツとハッピーがニンマリと笑う。そうして、あまりの感動にうっすらと涙を浮かべてすらいるルーシィへ笑顔で声をかけた。
「ようこそ
「場所覚えとけよ―――――今日からお前が帰る場所だ」
―――――それは心から贈られた歓迎の言葉。ルーシィはキュウ、とくちをつぐんで、必死に頷いた。噛みしめた唇は少し傷んだが、そうでもしないとみっともない顔になってしまいそうだった。
『帰る場所』―――――ナツがどんな意味を込めてその言葉を言ったのか、ルーシィには窺い知れない。
けれど――――――けれど。ナツがどんな意味を持たせたにしても、ただ、その言葉そのものがルーシィにとってかけがえのない輝きであることに変わりはなかった。
ルーシィは笑った。ここが幸せの絶頂だとばかりに笑った。
そうして、どこかくすぐったそうに喜ぶ。彼らに出会ってから、心から嬉しいことばかりだと。
いっそ辛そうなまでに幸せそうな、こらえきれない笑顔を浮かべたその美しさは、晴れ晴れとしたマグノリアの青空の下で他の何物にも劣らない輝きがあった。
その見ている側の心を苦しくさせるほどの
ハルジオンからマグノリアに着くまでおよそ1日と半日。その間、くちには出さなかったが―――――ナツの頭の中には、ずっとあの船のルーシィが居た。
インパクトがインパクトだったばかりに仕方がないかもしれないが、……彼女の顔を見るたびに、心の底から絶望したというかのようなあの泣き顔が、どうしても頭の片隅にこびりついていた。
あの日の昼に見た、
だから満足する。
「じゃあ行くぞハッピー!!」
「あい!!」
「え?」
「ただいまァァアアアーーーーーーーっ!!!!」
「あーーーーいっ!」
■
「おーナツ! 新聞見たぜぇ、お前、まーたハデに」
「てめェ!
「うごぉっ!!」
「えっ」
―――――勢いよくギルド内に突入していったナツが、話しかけてきた男の顔面に思い切り蹴りを入れた。
…その勢いに、ルーシィは驚きの声を上げたままフリーズしてしまった。
ナツの叫びからして、今の男がナツにハルジオンに来たボラの噂話を伝えたということは察せられる。彼としては聞きかじった噂をナツに教えただけだが、ナツからしてみれば上げて落とされたのだ。これくらいの八つ当たりは許されるだろうという暴挙だった。
そして、ナツの一撃を皮切りにギルド内で乱闘が始まる。
―――――ルーシィは混乱する。これは
その通りであるのだが、
なんとか固まった体を動かしておろおろよたよたと憧れのギルド内に足を踏み入れたルーシィだったが、さっきまでの感動はすっかり吹き飛んでしまい、今はただ自分はどうすべきかという謎に涙目になって悩まされていた。
なにせあの船での戦いとは違い、ここは
―――――余談だが、入り口付近で『よしきた』とばかりに拳をふるっていた数名はいきなり視界に入った美少女にすっかり魂を奪われ、あほ面をさらしてフリーズした。
■
( よ、余計なことをしてしまう前にどなたかに話を――――― )
「あ、あの、」
突如始まった大乱闘。これがコミュニケーションだというのなら自分も混ざるべきかと拳を握ってはみたルーシィだが、よくよく考えれば自分はまだ
ならこのコミュニケーション方法を使用する資格はないのではないか、と思ってしまえば、本当にどうすればいいのか、皆目見当もつかなくなってしまった。握った拳は一応そのままに、どこかに答えがないかと辺りを見回す。
しかしもちろん、周りには元気に大乱闘。答えどころかヒントすらなく―――――
とりあえず、誰かに指示を仰ぐべきだ。そうしてルーシィは小さく声を出した。
「ナツが帰ってきたってェ!!?」
―――――しかし、その声はすぐそばに出没した爆音の乱入者により、儚く踏みつぶされた。
「―――――!!?」
パッと声の主を振り返ったルーシィは―――――とっさにくちを押さえて悲鳴をかみ殺した。
半裸が居た。
いやむしろ全裸未満と言えるだろうか。真昼間から公共の場でパンツ一枚の変態が居た。
( ふ―――――不審者………!!! )
ぎょっとしたルーシィは、思わず2歩、3歩と後ずさりをしてしまう。しかし、
( い、いえ、落ちつくのよルーシィ! もしかしたらそういうファッションなのかもしれないわ…!
かみ殺したくちの下で、ルーシィは必死に自分を説得した。自分の常識では目の前の男は非常識なってしまうが、なにせルーシィは自分が狭い箱庭で生きてきたという自覚がある。こういう民族、もしくは宗教の人なのかもしれないと、かなり無理はあるが必死に自分に言い聞かせた。
( それにナツさんのお名前を呼んでいらしたし、胸元にギルドマークがあるということは、身分は確か…! )
なにより
すると、出没した変態に対してすっかり固まったルーシィを挟んだ反対側から、静かな声が割り入った。
「グレイ…あんたなんて格好で出歩いてんのよ」
( やっぱりちょっとダメな様相でいらっしゃるのね!? )
―――――その冷静沈着な突込みに思考回路が一気に冷え冷静さを取り戻したルーシィは、自分以外が自分と同じ疑問をくちにしたことから、自分は間違っていなかったのかと思わず安心した。
……同時に、
……いや、もしかしたらシャワーを浴びていたところを、慌てて出てきたのかもしれない。ルーシィは自分に慰めとも言えない微妙なフォローを入れて、視線を体ごともうひとりの発言者に振り返った。(自分の格好を見て驚いてるグレイと呼ばれた変態は意識の中から追い出した。)
周囲が大騒ぎのこの場で、あの冷静な突込み。さぞかし話の出来る常識人なのだろうと思ったのだ。ルーシィはとにかく、この状況での身の置き方を教えてもらいたかった。予想以上の喧騒と変態に狼狽してしまったが、その程度では株が落ちないくらいには憧れた
現状脱却の希望をもってルーシィは振り返る―――――が、
「た…………たる……………」
ルーシィは認識が甘かった。ルーシィが憧れた
突込みをしたはずの声の主は両手でワイン樽を掲げて飲むグラマラスな美人であった。もう訳が分からない。ルーシィはとうとう思考が停止した。その後ろでナツとグレイに吹っ飛ばされた大男など視界にすら入らない。
( ど、どうしたら、わたくし、ナ…ナツさぁん……!! )
とうとう、ひょっこりと現れた、雑誌で見たことがあったロキという魔導士まで嬉々として喧嘩に混ざっていく姿を見てキャパオーバーを迎えたルーシィは、心の中でナツの名を呼んだ。もはや、この場で救いを求められる人がナツしか思いつかなかったのだ。
けれど、そもそもナツはこの乱闘の原因ともいえる戦犯だ。もちろんルーシィのSOSになど気づかない。
( わたくし、わたくし、やっぱり―――――来るべきでは――――― )
自分程度では分不相応だったのだ―――――用量を超えた混乱に心が折れかけたルーシィに、しかし、女神は微笑んだ。
「あら、あなた新入りさん?」
「へ、」
―――――ウェーブのかかった白銀の髪を揺らして、涙目で肩をすくめるルーシィに優しく微笑みかけた女性。
その顔はあまりに有名―――――先ほどのロキとは比べられないほどにルーシィの脳裏に刻まれている女性。
「ミ、―――――ミラジェーンさま……!」
■
話しかけてきたまさかの人物に、ルーシィの顔にグワッと熱が集まる。目じりにたまった涙の意味がコロリと変わる。
なんということだ―――――憧れの魔導士のひとりに、今、自分は話しかけられている!
ようやく息を吹き返した感動。ルーシィはそれどころではないと混乱を投げ捨てた。
「あ、あのっ! わたくし、ルーシィと申します。ナツさんにご紹介いただいて……
胸の前で手を組んで真っ赤にした頬で言い募るルーシィに一瞬キョトリとしたミラジェーンは、それから柔らかく笑ってルーシィの手を取った。
「歓迎するわ。知っているようだけど、私はミラジェーン。これからよろしくね」
「はい………!!」
目じりを緩ませて女神のような柔らかい微笑みを浮かべるミラジェーンと、感動にうるんだ瞳と高揚した頬で恋する乙女のように惚けた表情を浮かべるルーシィ。
喧騒の中、倒れた机の陰で誰にも気づかれず手を取り合うふたりは現実から切り離されたかのように穏やかだった。
―――――しかし、ふたりが穏やかでも周囲が大乱闘スマッシュファミリーなのは変わりない。
幸福にボウっとしていたルーシィは、相変わらず物の壊れる音が絶えない背後にハッとして、それから気まずげに辺りを見回し、そっとミラジェーンに問うた。
「あの、みなさまは大丈夫なのですか……?」
その『大丈夫』、には多くの意味が含まれていた。うまく言葉の見つからなかったルーシィが一生懸命選んだ、あたりさわりのない言葉だった。
ギルド内はあちこちが破壊されていて、まさに戦場のよう。手足を使った喧嘩なのだから、もちろん怪我人も出る。これ以上は……と心配するルーシィに、ミラジェーンは変わらない笑顔でルーシィを安心させるように答えた。
「大丈夫よ、これくらいいつものことだもの。みんな仲がいいから喧嘩するのよ。―――――そう思えば、この大騒ぎも楽しそうでしょう?」
正直、楽しそう、という感想に同意できるほどまだルーシィの神経は図太くなかった。が、この大乱闘も仲がいいからこそと、他でもない当人が言うのなら―――――これが
とりあえず、慣れるまではこうやって端っこで騒ぎを見ていればいいのよ、と繋いだ手を引いてルーシィを安全な場所へ案内しようと繋いだ手を引いたミラジェーン。慣れても参加したくはないのですが…と思いながらも、『慣れる』というフレーズがミラジェーンに受け入れられた証のように感じたルーシィは黙って頷く。そうして、引かれた手に従ってルーシィが一歩踏み出した瞬間―――――
バギャギャンッ!!
「きゃっ」
「きゃあっ!?」
唐突に、ミラジェーンとルーシィの間を裂くように誰かが飛んできた。そのまま、ルーシィたちの背後にあった机に突っ込み、派手な破壊音を立てて机を廃材に変える。
とんでもない威力―――――しかし、それだけの衝撃を受けてもなお無傷らしい吹き飛ばされてきた誰かは、頭を押さえながら立ち上がり、―――――叫ぶ。
「俺のパンツ!!!!」
「ヒッ、」
ルーシィはミラジェーンと離れてしまった手で目元を押さえて視界を遮った。
―――――それはさっきの変態だった。
いや、さっきよりグレードアップした変態だった。
彼の唯一のモラル、最後の砦であったパンツが、失くなっていたのだ。
この時をもって全裸未満だった変態は真の変態へ進化した。
「こっ、これ、お使いください…!!」
「おっ! サンキューお嬢さん!!」
重ねて言うが―――――ルーシィは純粋培養だ。男性経験どころか、異性とろくにスキンシップもしたことがない。もちろん男性の裸体など見たこともあるはずがなく……そんなルーシィにとって目の前に晒された男の全裸は乙女的なときめきを感じるどころか、ただただ恐怖だった。謎の全裸男が怖すぎた。
しかし元来お人好しの娘であるルーシィはさすがにギルド内であっても全裸になれば当人の沽券に関わるだろうと、精一杯顔を背けて変態を視界に入れないようにしながら自分が羽織っていたジャケットを手渡した。とにかく
―――――さて、件の変態ことグレイは見慣れない金髪の少女に差し出されたジャケットをかっぱらうように受け取った。少女の顔は背けられてよく見えなかったが、多分知らない顔だ。似たような背格好の女がギルドに居ないわけではないが、うちの魔導士かそうでないかくらいは見れば分かる。
それでも全裸の自分にジャケットを貸してくれたんだからいい奴だろうと、体勢を立て直し受け取ったジャケットを羽織った。
―――――羽織ったのだ。
「そこは―――――隠すのでは―――――!!?」
何のために自分はジャケットを渡したのか。全裸にジャケットという更にマニアックになった姿で居なくなった
いや、足のちからというより、腰が抜けた。
驚きと混乱による脱力感で座り込んだルーシィ。―――――しかし喧騒は止まらない。むしろついていけなくなったルーシィを取り残し、戦いは更に激化する。
「あっ、ルーシィちゃんっ!」
とっさに、グレイの乱入のせいで少し離れたところに弾かれていたミラジェーンが叫んだ。
座り込んだルーシィの死角から―――――椅子が飛んできたのだ。
ミラジェーンは気づいた。しかし、ここからでは間に合わない。
そして、ミラジェーンの声によってようやくその存在に気が付いたルーシィも、また。
( ああ、避けられない。 )
ルーシィは飛んでくる椅子を呆然と見る。通常のルーシィならともかく、今しがた腰の抜けたルーシィでは、反応しきれない。鍵に手を伸ばしても間に合わない……
こんな日常茶飯事(らしい)で腰を抜かして、挙句の果てに身ひとつ守れないとは。ようやくたどり着いた
―――――バギャッ!!
「ルーシィちゃんっ!」
椅子は着弾―――――そして、大破。
―――――しかし、ルーシィは無事だった。
■
「やれやれ、危ないな……君、大丈夫?」
■
直撃すれば無事では済まないだろう衝撃に、なぜルーシィが無事だったのか。
それは、ルーシィがすでにその場にいなかったから。
ルーシィの体はいつの間にかふわりと浮き、抱き上げられていたのだ。
ハッとして自分の体を浮かせた手の主を見る。―――――オレンジの短髪に、サングラス。女性が見惚れるイケメンフェイス。先ほど見かけた、有名な魔導士のひとり。
ロキが、ルーシィを抱き上げていた。
「てか君かわいいね、どこのモデル?」
「、はえ……」
■
( いやほんとにかわいいな )
ロキは腕の中で呆然と見上げてくる少女を改めて見て、内心で再認識する。透き通った肌もひとつの三つ編みにまとめられた
上に纏ったハイネックのサマーニットはノースリーブで、下はスタイリッシュな黒のスキニーパンツ。シンプルな格好はその豊満でありながら華奢なボディラインを十分に主張し、一層素材の高次元さを強調する。
先ほどグレイにジャケットを渡していたのでその結果の薄着(といっても、もっと布面積が少ない女性陣が居るのだが)なのだろうが、見上げてくる顔のあどけなさを思うと蠱惑的なアンバランスさが男の煩悩に訴えかけてきて非常に危険だ。何がとは言わないが危険だ。
( マグノリアでも見ない顔だな…旅行者? それともギルドへの依頼者か…なんにせよ、この喧騒は辛かっただろう )
マグノリア中の女の子と面識があると言っても過言ではないロキの記憶にも引っかからない美少女に、おそらく遠くからやって来たのだろうとあたりをつける。
少し震えている細い指先を視界の端に収めながら、ロキが少女に感じたのは庇護欲だった。
とても魅力的だ。かわいくて、グラマラスで、男なら思わず目で追ってしまうくらいには人の目を集める子だ。この瞳に見つめられれば、まるで蜜に溺れたように甘く絡めとられ目も心も意識も離せなくなってしまうだろう。実際ロキの周辺で暴れていたはずの数名は釘付けになったようにルーシィを見つめていた。
それだけの美少女を前に、けれどロキが真っ先に感じたのは庇護欲だった。
『守らなくては』と本能が訴えた。魔法をかけられたわけではないだろうから、それがこの子の潜在的な魅力だろうか、とロキはルーシィを抱き上げた腕にほんの少しちからを込めた。
―――――ルーシィは、あまりに目まぐるしく進展した現状に、一瞬、自分に何が起こったのか。自分が今どうなっているのか。理解できなかった。
しかし、自分の体を支える手にちからが込められたことで、ようやくはっきりと理解する。
自分は今、目の前の男に救われたのだ。目の前の男はこの喧騒の中、ルーシィを見つけて救い上げてくれたのだ。
もしかして叫んだミラジェーンの声が聞こえたのかもしれない。それで、近くにいたから手を貸してくれたのかもしれない。
それでも、誰もが自分の喧嘩に夢中になっている中でロキはルーシィを救ってくれた。誰かのピンチに、駆け付けた。
―――――ルーシィは
自分を救い上げた
「ありがとうございます…」
眉尻を下げ、淡い薄紅色にほほを染めた、本当に嬉しい、という気持ちがにじみ出るような笑顔。心の底から安心していると分かるような、そんな笑顔。
まばゆい光のような微笑みに、ロキは―――――
「じゃ、ミラのところに居るといい。安全なところに連れて行ってくれるから」
ニコリ、自前のイケメンフェイスをフルに活用した微笑みを向けて、近づいてきたミラの前へルーシィを降した。
「ありがとう、ロキ。この子新入りだったの」
「お安い御用さ。美しいお嬢さんを守ることは男の誉れだからね」
「本当にありがとうございましたっ」
重ねて礼を言うふたりに、またニコリ、とほほ笑んだロキは背を向けて―――――ルーシィの笑顔に一瞬不整脈を起こした胸の上を拳でひとつ叩き、乱闘に駆け込んだ。
■
「じゃあ移動しましょ。こんかいの騒ぎはちょっと長引きそうだから…」
「は、はいっ」
ミラジェーンはさすがに今回のは初心者にハードルが高すぎる規模だと判断し、今度こそ離れないようにルーシィの手を握った。この可愛らしい新入りの命運は自分にかかっているのだという責任感もある。
再び手を取り合ったふたりはミラジェーンの案内でそっと移動を始め―――――ようとしたところで、周囲の異変に気が付いた。
「あちゃあ……今回は本当に運が無いわね」
「え、きゃっ」
ミラジェーンの少し呆れたような、諦めたようなセリフ。ルーシィが反応するより早く、ミラジェーンはルーシィの手を引っ張り自身の背後に庇い立てた。
今回は騒ぎが大きいと思っていたけれど、流石に『大きい』で済まなくなってきたから、と。
「あんたらいい加減にしなさいよ―――――」
「―――――アッタマきた!!」
「ぬぉおおおおおお―――――!!!」
「困った奴等だ……」
「かかって―――――来い!!!!!」
―――――魔力が、渦巻く。
ギルド内のいたるところで、発動寸前の魔法の気配が発生した。まさか―――――まさか、仲間内の喧嘩で魔法を使おうと―――――?
絶句するルーシィの思考を後押しするように、ミラジェーンが「これはちょっとマズいわね」とこぼす。ちょっとどころの話ではない。
実際、今までギルド内の喧嘩で魔法が使われることはままあった。だからとんでもない異常事態だというわけではない。しかしやっぱり、魔法を使われてしまうと被害が大きくなるわけで。特に今回は、まだ慣れていないルーシィが居る。
こうなる前に避難したかったのだけれど―――――これも新人への一種の洗礼だろうかと、ミラジェーンがため息をついたその時、
「―――――そこまでじゃ」
■
「 やめんか ―――――― バカタレ !!!! 」
豪ッッッ!!!!
―――――まるで突風が突き抜けたように、爆発的な『声』がギルド内に響き渡った。
■
はく、とルーシィは声の出ないくちを
「お、おっき………」
自分の上にかかる『影』に包まれ、さっきの比でないほどに指先を震わせる。
―――――まるで巨人とばかりの巨体が、ギルドの天井をその大きな背で覆うように仁王立ちしている。
その威圧感と言ったら。ルーシィはすでに気を飛ばしてしまいそうで、ミラジェーンと繋いだ手にちからが入る。
ギルド内はいつの間にか静まり返っていた。渦巻いていたはずの魔力は穏やかに凪いでいて、数舜前まで乱闘が起こっていたことなど酒場の惨状でしか窺えないほど、その一声でギルドのみんなが喧嘩を止めたのだ。
( 今度は、いったい何…! )
「あら…いたんですか
「マ、マスッ……!」
マスター!? このお方が!!? 心の中で叫んでルーシィはその巨体を見上げた。
同時に、
「だーっはっはっは!! みんなしてビビりやがって!! この勝負はオレの―――――」
呵々と笑ったナツが踏みつぶされた。
ひゅう、とルーシィの喉が鳴る。ナツの強さの断片を、ルーシィはハルジオンで散々見た。そんな破格の魔導士が、まるで蟻のように踏みつぶされた。
それだけでこのマスターの恐ろしさを窺える。
そして―――――ぬろお、とその双眼がルーシィに向けられた。
「………!!!」
ギュウ!! と、ルーシィは自分の心臓が縮こまるのを自覚した。その視界に自分が入ったという事実だけで、死んでしまうかと思った。
「む――――――新入りかね」
「っは―――――は、い………!!」
声は震えていた。ろくな挨拶もできない。しかし、それを失礼なことだと思えるほどルーシィに心の余裕がなかった。むしろ返事ができただけ頑張った方だ。
「ぬぉおおおおおおおおおお………」
けれど―――――ルーシィの返事を聞き、巨体が唸る。
その重低音は地鳴りを起こすかのようにちからに満ちていた。
ここでようやく思考の追いついたルーシィは後悔した。今の自分の挨拶が気に障ったのではないかと。そうでなければこの唸り声は何なのだ。それしか考えられないと、数秒前の自分を罵った。
膝から崩れ落ちそうになって、―――――そこで気付く。
( え、あ―――――縮んで、いる……? )
―――――その巨体がどんどん小さくなっていることに。
■
シュルシュルと縮んでいくその体は、とうとうルーシィよりも小さくなり、
「よろしくネ」
そこにいたのは、とても小さな老人だった。
■
「っよ、ろしく、お願いいたします………」
再び声が震えたのは仕方のないことだっただろう。飽和するほどの威圧感から、一気に解放された脱力感。膝から崩れ落ちなかったのは自分に向けられた複数の視線を感じたからだ。
晒すくらいなら死を選ぶ。
それほどの気迫をもって、ようやくルーシィは立つことができた。
■
小人となったこの
それから、驚異的な跳躍力をもって軽々とギルドの二階の手すりへ飛び乗った。―――――その際後頭部を強かに打ち付けたのは誰も突っ込まないところである。
「いてて……まーた貴様らは派手に喧嘩しおって…酒場がめちゃくちゃじゃ。いや、それよりも―――――見よ! この文章の量を! これぜーんぶ評議会からじゃぞ」
頭を撫でさすりながらギルド内を見回したマカロフは派手に散らかった現状に苦言を呈しながら、その小さな手に大量の紙束を握り声を張った。
『評議会』―――――それは魔導士ギルドを束ねる機関のこと。ルーシィはマカロフの表情から、それが何を意味する紙なのかを大体察してしまった。
( ええ、考えてみればおかしな話ではありませんわ……あれだけ問題を起こしていらっしゃるのですもの、評議会から何らかの注意があるのはむしろ当然の事 )
雑誌を見ていた頃はワクワクとした遍歴も、当事者になるのなら意識していかなければいけないこと。たとえ自分は関係なくともギルドの一員となった以上真摯に受け止めようと、ルーシィは始まるであろうマカロフの叱責を待った。
―――――そして始まる
「まずはグレイ! 密輸組織を検挙した後素っ裸で街を徘徊! 挙句の果てに干してある下着を盗んで逃走!!」
( あら……? )
「エルフマン! 要人護衛の任務中に要人に暴行!!」
( あ、あらら………? )
「カ~ナ~! 経費と偽って大樽15個の酒を飲みよりにもよって評議会に請求!」
「ロキ! 評議会レイジ老師の孫娘に手を出す! 某タレント事務所からも損害賠償の請求が来ておる!!」
( なんだか―――――思っていましたことより――――― )
―――――とんでもなく、手に負えない、ような…………
暴かれていく数々の所業は、悪行というより大きくなった子供のいたずらのようで。
もちろん働いているいち大人として許されないことばかりではあるが、なんだか思ったより方向性が違うというか。想像以上にどこか人間性を感じるというか。むしろ当人の人間性の問題というか。
「そしてナツ!! お前じゃ!!!」
混乱するルーシィを置いて、マカロフの声は一層厳しくなる。呼ばれたナツは地べたに這いつくばって冷や汗をかいた。さすがに心当たりがありすぎたのだ。
「デボン盗賊一家壊滅するも民家7軒も壊滅! チューリィ村の歴史ある時計台倒壊! フリージアの教会全焼! ルピナス城一部損壊! ナズナ渓谷観測所崩壊により機能停止! ハルジオンの港半壊!!」
( あ、 )
―――――ああ~~~~~っ! 雑誌で拝見した事件のほとんどはナツさんでしたのね!!
ルーシィは雑誌ですっぱ抜かれているのがインパクトのある記事ばかりだったが故にギルドのイメージを
その後次々に呼ばれていくギルドメンバーの名前を聞きながらルーシィはようやく理解する。このギルド、やはり問題児ギルドであるのだと。
( き、きっと悪い方たちではいらっしゃらないのですけれど、少しばかりやんちゃが過ぎますのね……ええ、ええ。それも魅力なのでしょう。なのでしょうけど……… )
これではギルドマスターも心労が多いことだろう。ルーシィはできるだけ迷惑のかけないように頑張ろう、と心の中でマカロフを労わった。なにせ、最後の『ハルジオンの港半壊』にはルーシィも一枚噛んでいるようなもの。マカロフの声はルーシィにも刺さった。まさか、加入する前から迷惑をかけてしまうとは、と。
「貴様らァ……ワシは評議員に怒られてばかりじゃぞぉ……」
マカロフの声は震えている。ルーシィはそこに怒りを感じた。―――――然もありなん。これだけ問題が多ければ評議会の目も厳しいだろう。それをひとりで受けなくてはならないマカロフの苦労を思えば、その怒りは正当だった。
ギルド内は誰もが気まずげな顔をし、マカロフから目を背けた。
ルーシィもまた、身構える。迷惑をかけてしまったひとりとして、どんな怒りも粛々と受け入れるのが自分のすべきことだと背筋を伸ばした。
「―――――だが」
しかし
「評議員などクソくらえじゃ」
―――――評議会からの文書が、赤い炎に包まれる。
「え、」
それはまるで価値のないごみのように放り捨てられ、瞬時にナツのくちの中に納まった。
「よいか」
マカロフの目の色が変わる。声のトーンが変わる。
その演説に、ルーシィは魂が引き込まれる感覚を知った。
「理を超えるちからは、すべて理の中より生まれる」
目を背けていた誰もが、いつの間にかまっすぐと澄んだ瞳でマカロフを見上げていた。
「魔法は奇跡のちからなんかではない。我々の内にある『気』の流れと、自然界に流れる『気』の波長があわさり―――――はじめて具現化されるのじゃ」
言葉には、ちからが宿る。多くの魔導士が技に名を付けたり、魔法の発動に文字や呪文を用いるのはそのためだ。
音には、形には、呪いが宿る。
「それは精神力と集中力を使う。……いや、己が魂すべてを注ぎ込むことが魔法なのじゃ」
そのちからを、ルーシィはたった今、これ以上なく理解した。
「上から覗いてる目ン玉気にしてたら魔道は進めん。評議員のバカ共を怖れるな―――――」
初めて体感したのはきっと、あの時救ってくれたナツの言葉。
そうして今、憧れた
にん、とどこかイタズラっぽく笑うマカロフのその笑顔が、ルーシィにはたまらなく魅力的に思えた。
「 自分の信じた道を進めェい!! それが
―――――歓声のような雄叫びが響く。魂を揺さぶるような咆哮が轟く。
ルーシィは、小さくため息を吐いた。……このギルドは、ずっとルーシィの期待に応え続けてくれていた。その在りようは、心の行方は、ずっとルーシィが夢見ていたそのもの…むしろ、それ以上。
辺りを見回す。誰もの目に光があった。絶えない輝きがあった。―――――ああ、憧れてよかった。
だれもが肩を取り合って笑う姿を見て、ルーシィもまた微笑む。マカロフはメンバーの数々の所業を許した。それでも最初に嗜めるような物言いをしたのは、当人たちに自制を促すためだろう。実際名を呼ばれた際のリアクションを見ればどれが誰かは分かる。呼ばれたのは大体がまだ若い魔導士だった。
彼らのこれからを案じ、あえて自覚させつつも、あくまで『自制』を促す。頭ごなしに叱りつけるのではなく自分で考えさせようとするそれは正しく『親』の叱り方だった。
( ねえ、ルーシィ。あなたの憧れはやっぱり素敵なところだったでしょう? )
―――――そっと、胸に手を置く。あの港町で空けられた心の穴は、ナツがずっと埋め続けてくれた。そうして今、この瞬間。この
あまりに幸福。―――――まるで、夢のよう。
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愛した私を笑わないで
ずっとずっと、探してる。
大好きだから、会いたいから。
マカロフの
陽気な喧騒にあふれたその姿はルーシィがかつて見た小さな新聞記事の通り。
ルーシィはまだ自分が
ひとりふわふわと花を飛ばすルーシィはギルド内で浮いていた。見慣れない美少女が突如現れたと思ったら、なんと新入りだという。
女たちは落ち着きのないルーシィの様子を微笑ましく見守っていたが、男たちはどう話しかけようかと落ち着かなくなっていた。あれだけかわいい子が加入したのならぜひともお近づきになりたいのが男の心理というものだが、しかし下心を持って話しかけるには相手の雰囲気が清涼すぎた。
酒臭いギルド内でルーシィの周りだけいい匂いがする気までしてくるのだから余計にしり込みするのだろう。雰囲気がすでにいい匂いっぽい。自分の服から臭うたばこと酒の臭いに、近づくのを断念した者もいる。数名は小突き合いながら、「あ、あの子新入りってマジかよ」「お前話しかけて来いよっ」「お前が行けよっ」などと思春期男子のように騒いでいた。
ちなみに既に加齢臭を纏っているタイプの男たちは今更臭いくらい気にしないで話しかけられるが、なにせ若い連中の青臭いやり取りが面白すぎて、野次馬気分で傍観に回った。
興奮しているルーシィは周囲の様子に気づかない。さすがに少しばかり視線を集めている気もするが、見慣れない人間がいるからだろうと結論付けていた。
―――――あの机は脚が補修してある。乱闘で壊れたものをリサイクルしたのだろうか。あの写真はいつ撮ったものだろうか。パーティをしているように見える。
グルグルと見回して、ふと、2階へ続く階段を目にとめた。視線がその階段をのぼり、2階のスペースを覗く。
( 人の気配が、ないようですけれど…… )
喧騒を好まない人の避難場所のようなものだろうか、などと考えながら、ルーシィは変わらずニコニコと周囲を見回し、このギルドの歴史を全身で感じていた。気分はオタクの聖地巡礼だろうか。
挙動不審ともとれる落ち着きのなさ。だがしかし、ルーシィは美少女である。そしてその美少女が笑っている。ならばそれだけでその場は楽園と化すのだ。
「ルーシィちゃん、ギルドマークはどこに入れる?」
そんなルーシィにようやく話しかけたのはミラジェーンだ。傍観していた女性メンバーが「そろそろ声をかけてもいいだろうか」とうずうずし始めたあたりでトップバッターを奪取した。可愛らしくなっている可愛らしい新入りに声をかければ可愛らしい声で可愛らしく応えてくれるのがいたくお気に召したらしい。
誰も話しかけないのなら自分が話しかけていいだろう、とご機嫌に声をかけたのだ。
ミラジェーンの声を聴いてルーシィは目を見開いた。―――――ギルドマーク。
忘れていた。そうか、自分は
―――――ずっと、夢にまで見て、諦めていたもの。
どこに入れようか。何色にしようか。ルーシィの頭の中はどうしようもなく幸福一色だった。
しかし、ミラジェーンに応えようと視線を向けたルーシィは、ミラジェーンの隣に座るマカロフを見て、ハッとする。
浮かれていた意識が血の気が引くように覚醒する。―――――ギルドマーク云々の前に、自分にはすべきことがあったのだと。
「申し訳ありませんミラジェーンさま。ギルドマークの前に、マスター・マカロフとお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「? ええもちろん。マスター、ルーシィちゃんがお話ですって」
「おお! なんじゃなんじゃどうした」
ぷかり、キセルから煙を上げたマカロフが気易く笑いかける。そこには巨体であった時の威圧感も声高らかに宣言したカリスマも見受けられなかったが、ルーシィはしっかりと覚えている。目の前のお方がとんでもない魔導士だということを。
故に、顔つきも心持ちもスッと背筋を立たせ、ナツと出会ってからは久方ぶりの、ルーシィが本来纏っていた百合のような清廉さをもってマカロフに一礼した。
「―――――まずは、先ほどは礼儀を欠いたご挨拶となってしまったことを謝罪いたします、マスター・マカロフ。申し訳ございません」
「若いのに律儀じゃのお。いーのいーの。頭を上げい。うーむ、それに『マスター・マカロフ』という響きもダンディじゃが固いの。マスターでいい」
「寛大なお心、痛み入りますマスター。……あの、実はお話というのは、先ほどナツさんに
ルーシィは少し迷って、先ほどの話を『注意』と表現することにした。意を履き違えられたとマカロフが気を悪くしてしまわないか、と少し顔色を窺ったルーシィだったが、マカロフはまるで意に介した様子はない。
ならばいいだろう。そうしてルーシィはハルジオンの港に件について、ナツの弁明に全霊を注ぐことにした。
「マスターは件の事件についてどこまでご存じでしょうか」
「ボラという男が捕まった、とは聞いた」
「僭越ながら、わたくしのくちから事の顛末をご説明させていただきたく存じます」
「ほう! ええのう、頭の固いじじいに説明されるよりルーシィちゃんみたいな美人に説明された方がよく頭に入るわい」
徹底して丁寧な言葉遣いをするルーシィに、マカロフは軽快に笑いかけた。まだ固い雰囲気を残すこの子が、はて、どれくらい経てばこのギルドの色に染まるのか、と。
伸びた背筋。指先まで洗練された空気を纏い、まっすぐマカロフを見る目。それが、柔らかくほどけ綻ぶのが、マカロフは今から楽しみになった。
そんなマカロフの内心はつゆ知らず、ルーシィは必死に頭を巡らせる。そういう言葉選びをすれば、長ったらしくなく、簡潔に、しかし要点を抑え、ナツの汚名を濯げるのかだけを考えた。
「まず、首謀者であるボラは自らを『
■
「ふむ。事情は分かった。しかし港を壊したのはナツじゃ」
「はい。それは事実ですわ。けれど、確かに大きな被害の多くはナツさんの手によってもたらされましたが、わたくしもまた船を浜辺に乗り上げさせるという荒業を行い、港に損害を与えました。一概にすべてがナツさんの責任とは言えません」
「じゃがそうしなければ船は国境を越え、誰も助からなかっただろう。船に乗り込んだナツも、船が動いていれば乗り物酔いで使い物にならん。誰も救えず、何も為せぬままだったかもしれん。
ルーシィちゃんが船を押し戻したおかげで全員が救われたと言えよう」
「いいえ。わたくしの所業が『船を押し戻すために必要なことであった』というのなら、ナツさんの被害もまた『犯罪者検挙のために必要な被害であった』と言えます。つまりは転じて、ナツさんの被害が『必要な犠牲であった』と認められないのなら、わたくしの所業もまた同質。
ナツさんが犯行グループの主戦力であるボラを撃破し、戦闘を継続し彼らの注意を自分に留め続けていたからこそ、船に乗っていた女性たちは巻き込まれることなく非難できました。言い逃れできるはずもなく被害は甚大ですが、―――――ナツさんの行動は、確かに意味があり、けっして自己満足でも暴走でもありませんでした」
ルーシィはひたすらマカロフをまっすぐ見つめ、言葉を選んだ。
どうか伝わってほしい。ナツのギルドを思う気持ちを理解してほしい。彼の行動原理の美しさを打ち捨てないでほしい。
あの時ナツに救われたのはルーシィだけではない。ナツが居なければあの船に乗っていた女性たちは魔法にかけられたまま奴隷とされていただろう。
奴隷の末路など、語るに恐ろしい。どんな目にあわされるのか。どんなことをさせられるのか。少なくとも、まともな精神ではいられまい。
愛した人や親しい誰かと永遠に引き離され、そうして朽ちていく未来が確かにそこにはあったのだ。
―――――そんな身震いする可能性を、ナツが燃やし尽くしてくれたのだ。
故に、ルーシィは彼に救われたうちのひとりとして、せめてギルドマスターであるマカロフには理解してほしかった。彼の功績を誤解しないでほしかった。
さらに言えば、マカロフの理解を得られたのならギルド内のひとりひとりに声をかけて事情を説明するのもやぶさかではなかった。恩人であるナツに恩を返せるのならそれくらい進んでやるつもりでいた。
マカロフは凛としながらも必死なルーシィの目を見て笑う。―――――なんじゃァ、ナツのやつ。出かけて行ったと思ったらずいぶんイイ女を持って帰ってきやがった、と。
じっと見つめるルーシィの、その瞳から、マカロフは確かにルーシィの気概を見抜いた。故に笑う。安心させるように。
「大丈夫じゃ。ギルド内の誰もが、ナツが誰かを傷つけたくて暴れたなんぞ思っちゃいない。ただ調子の良いやつじゃからの。たまには灸を据えんと被害が大きくなる」
「大丈夫よ、ルーシィちゃん」
隣で話を聞いていたミラジェーンも、ルーシィを安心させるように微笑んだ。そうしてルーシィも、ふたりがかりで念を押されたことにより、肩の力が抜けたように笑った。
ルーシィは万が一、と思っての事だったが、どうやら自分は余計なことをしたらしいと悟る。このギルドは、とっくにナツの美しさを知っていた。
( 当然の話ですわ。だってひと目見たわたくしがすぐに分かってしまったのだもの。一緒に居るみなさまが気づかないはずがなかったのだわ )
自分の見当違いを少し恥ずかしく思いながらもルーシィは、彼らのこの在り様がたまらなく好きだと、柔らかく笑った。
■
「それじゃ、固いお話は終わりにして、ギルドマークを入れましょう!」
空気を換えるように手を打ったミラジェーンに、ルーシィは頷いた。
心配事がなくなって、肩が軽くなった気持ちになる。頭もどこか冴えてきて、思考がよく回るようになった。そうして気づく。どうやらこの一軒について、自分はずいぶん緊張とストレスを感じていたのだと。
けれど今は一息付けた。ならばと考える。まずはそう、体のどこに入れるかを。
( よく見えるところ、がいいですわ。せっかくのギルドマーク…目につくところで…… )
何回も何回も考えて、いつも最後に思ったのは、『見たいと思った時に見れる場所がいい』ということ。
ギルドマークは仲間の印。それはどれほどの勇気をもたらしてくれるだろうか。
常に目に付く、といえば、手だろうか。ルーシィは両手の甲を眼前に並べて見比べる。
手の甲にするというのならどちらがいいだろうか。―――――ルーシィの利き手は右手。なら右手だろうか。けれど、よく動く利き手より動かさない左手の方が見たいときに見れるかもしれない。………でも、
――――― これが
「―――――右手の甲に」
「ふふ、ルーシィちゃん嬉しそうな顔をしてるわ。何か右手に思い入れがあるの?」
「はい。右手は―――――
―――――
■
「はい! これであなたも
「はあ…っ! ありがとうございますっ」
ポン、という軽快な音で手の甲にスタンプされた妖精。
色は悩んだ末、桃色にした。……正確には、
ルーシィは手の甲の妖精をまじまじと見て、そっと胸に抱きかかえた。
あの日から、ずっと毎日が夢みたい。幸福すぎて、恵まれすぎて、怖いくらいに。
それでも、このギルドマークは―――――ルーシィの自由の
今のルーシィが持つ、自由の証明。
―――――そうだ、彼にも。
ルーシィはパッと顔を上げてたったひとりを探した。すべてのきっかけの人。桜色の、ルーシィの
「ミラジェーンさま、少し、失礼いたしますね」
「ええ、どうぞ」
ひと言ミラジェーンに断りを入れたルーシィは、ぱっと華やいだ雰囲気と鮮やかな笑顔で見つけた探し人―――――ナツに駆け寄った。
■
「ナツさん!」
ひと暴れしてすっかり空腹だった腹を満たしていたナツは、軽快に近寄ってくるルーシィに視線を向け、すぐにその手にギルドマークを見つけた。
「ギルドマーク入れたのか」
「ええ、右の手の甲にしましたの。かわいらしい桜色です。似合いますかしら?」
掲げるように手の甲を上げ、くすぐったそうに小首をかしげたルーシィ。ナツはギルドマークとルーシィを交互に見、いいんじゃねぇの、とだけ言った。
それはそっけないセリフだったが、ルーシィは十分満たされた。
「ナツさんのおかげで
「おー」
ひらひら、とナツが手を振る。
こういったところがルーシィが天然、もしくは世間知らずであるという証明になるのだが、ただ分からなかったルーシィは揺れる手のひらとナツを交互に見比べて―――――倣うように自分も手を振ってみた。
「ルーシィちゃーん」
「あっ、はい! それではナツさん、失礼いたします」
背後からミラジェーンの呼び声。それに反応したルーシィは来た時同様軽快にナツの前を去る―――――前に、もう一度ナツに振り向き、手の甲のギルドマークを自慢するように掲げた。
「ね、この色、ナツさんの色でしょう? ふふ、あのね、おそろいなのですよ」
―――――右手は
星の黄色、夜空の青、炎の赤やオレンジとも迷ったけれど、これが一番、分かりやすいから。
笑ってそれだけを言ったルーシィは、ミラジェーンの元へ去って行った。
瞬間、同じテーブルに居た男どもが崩れ落ちる。
「えっ―――――えっ、かわ……」
「おいおいナツゥ~……! お前あんなかわいい子どーこで捕まえてきたんだよォ!」
「っくぅ~~おじさん滾っちゃうゼ……!」
「っせぇな、ハルジオンだよ」
「はぁ~~??? 海で出会うとかなにロマンチックなことやってんだナツのくせにって、おい、どこ行くんだよ」
「仕事行ってくんだって。金ねーから」
ルーシィの投下した爆弾に揃いも揃って被弾した男どもは、でろでろとした顔でナツに絡む。
ルーシィのセリフからして、ルーシィを
実際、周りのテーブルに居た数名からも熱い視線が送られてきていた。出会いに飢えた獣の目だ。
これ以上この場に居たらめんどくさい絡まれ方をする、と瞬時に察したナツは、絡んできた酔っ払いに極めて嫌そうな顔をして、食べ終わった食器をそのままに席を立つ。
金が無いのは嘘ではない。ハルジオンに向かう途中で手持ちの金は尽きていた。早めに働きに出なくては食事代もままならない。ギルド内では『つけ』で食べられる(今回もつけにしてもらった)が、しすぎたらミラジェーンとマカロフから教育的指導が入ってしまうためあまり時間の猶予もないのだ。
素っ気ない態度で去ろうとするナツに、しかし酔っ払いどもは元気に絡む。
「なあなあ何があったんだよォ~あんな仲良くしちゃってよォ~~~! どんなロマンチックがあったんだよ~っ!!」
「フツーだろ」
「なーにがフツーだお前! 『ナツさんの色です♡』『おそろいなのですよ♡』とか言われやがってコノコノ~~」
「いやでもまだ『ナツさん』だからな。距離があんじゃねえか?」
「ばっかで~! むしろ名前に『さん』の方がイイじゃねえかよほら…新婚みたいで…」
「おいおい気持ちわりぃなおっさんが照れてんじゃねえ、ってンぎゃっ!!」
ゴンッ!
とうとう好き勝手言いながら物理的に絡みついてきた酔っ払いを、ナツはべリッ、と引きはがして床に放った。派手な音を立てて落ちたがナツは気にもしない。絡んできた方が悪い。
普段から絡んでくるおっさんたちが酔っぱらって陽気になってるんだから余計に
ナツは呼び止める声を無視してその場を離れた。―――――さすがに他意は無いのかもしれないが余計なことを言ったルーシィを少し憎く思い、今度仕返しをしてやろうとだけ考えて。
「ナーツ! 仕事決まった?」
「んや」
「報酬いいやつにしようね」
楽器を持ち出したメンバーの演奏に合わせて踊って遊んでいたハッピーは
ナツの性格や戦闘スタイルを考慮するのなら、討伐など戦闘メインの依頼が好ましい。
ボードに貼られた依頼を物色していたひとりと一匹は、「「 あ 」」と声をそろえてひとつの依頼を指さした。
「コレなんかいいんじゃねぇか? 盗賊退治で16万Jだ」
「あい! これならナツが物を壊して報酬を減額される可能性が低いね!」
「……うるせぇな」
…ナツ自身、うっかり破壊が過ぎて報酬が減らされるのは日常茶飯事なので、さすがに自覚はある。そもそもついさっきマカロフから『注意』されたばかりだ。
けれど断じて、断じてワザとでも悪気があるわけでもない。そうなるとちょっと納得がいかないというか、腑に落ちないというか。少しくらい大目に見てくれても…という気持ちがないこともない。
だからこの話題を出されると少しナツは不機嫌になる。拗ねているともいう。が、ハッピーはすでに数年来の仲だ。ナツの機嫌が多少悪くなったところで気にもならない。
ナツはボードの依頼書をつまんだ。仕事は仕事。さすがに長年働いていれば多少の意識の切り替えくらいはできる。ビリ、と引き抜いた依頼書を手元に引き寄せ、浮き上がった友人とその内容を深く確認しようとした、ところで―――――
■
ルーシィはミラジェーンに呼ばれ、促されるままカウンター席に腰かけた。
上品に足を閉じ、すっと伸びた背筋で目の前に座ったルーシィに、ミラジェーンはにっこりとほほ笑む。
「せっかく仲間になったのだから、お祝いに今日は私がごちそうするわ。何か食べたいものはない?」
基本みんなは好き勝手注文するから、メニューにないものでもいいのよ、と外客用のメニュー表を差し出したミラジェーンにルーシィは慌てる。両手の手のひらを胸の前で開き、恐れ多いとばかりに遠慮した。
「そんな、申し訳ありませんわ。ミラジェーンさまにそこまでしていただくなんて…」
「いいのよ、私がしたいの。それより、そのミラジェーンさまっていうのやめない? ミラでいいわ。みんなそう呼ぶの」
さ、選んで。とメニュー表を再びルーシィに差し出したミラジェーンに、その笑顔の中にある決して退かぬという頑なさを感じたルーシィは、これは避けられないのだろうな、と察した。
なにせミラジェーンも
「でしたら、わたくしもミラさんにご馳走させていただきたいですわ。先ほどの騒動の際、気にかけてくださったお礼として」
にこり、と笑いながらのルーシィの唐突な提案に、ミラジェーンはぱちくりと瞬きする。それから、嬉しそうに笑った。
「ええ、なら私はハワイアンドリンクにするわ。この酸味が好きなの。さ、ルーシィちゃんも選んで」
「わたくしもドリンクで」
「あら、遠慮させちゃったかしら。私に合わせなくていいのよ。それともお昼はもう済ませた?」
ナツと一緒だったようだから、まだだと思ったのだけれど…と聞いたミラジェーンに、ルーシィは少し言い辛そうな雰囲気で、小さな声で返した。
「い、いえその―――――少し、減量をと、思いまして……」
恥ずかし気にうつむいたルーシィに、ミラジェーンは首をかしげる。晒された腕の細さも、服の上から見て取れる腹の薄さも足の締まりも、減量を意識するほどとは思えない。むしろ細い部類に入るだろう。その代わり豊満な胸元と臀部が余計に際立つのだが。
だがしかし、女の子とは得てしてそんなものである。いつだって理想はより美しい自分。ここで余計に突っ込むのはデリカシーがないだろう、と判断したミラジェーンは、メニュー表に乗ったひとつを指さした。
「ならこれはどうかしら。カロリーは低いけど甘くておいしいの」
「まあ、でしたらそれをお願いいたします」
ミラジェーンのアドバイスに柔らかく色づいた頬を見れば、ルーシィが甘いものを好んでいるということは察せられる。そうよね、ダイエット中でも甘いものは食べたいわよね。自分のチョイスに内心で胸を張りながら、ミラジェーンは手早く用意したオススメドリンクをルーシィの前に置いた。
色はワインレッド。匂いはベリー系で、とても美味しそう。
ルーシィが礼を言ってそれに口を付けようとした瞬間―――――
■
「ねえ、…父ちゃん、まだ帰ってこないの?」
■
―――――依頼書がめり込んだ
「ナツさんは…」
「うん、多分、行っちゃったんじゃないかな」
ミラジェーンの顔には苦笑いが浮かんでいる。「しかたがないなぁ」という顔だ。それだけで、ミラジェーンの表情にナツを責める色はなかった。
「難しいお話ですわ」
「うん。マスターも、心配してないわけじゃないんだけど…」
「ええ、分かります」
―――――ルーシィは先ほどギルドから出て行った少年、ロメオを思い出す。
泣いていた。そうだろう。仕方のないことだ。
いわく、「3日で帰ってくる」と言って仕事に行った父が1週間たっても帰ってこないという。
魔導士の仕事は多岐にわたるが、よっぽどほのぼのとした依頼でもない限り危険は付きまとうもの。そんな中、父親が帰ってこないとあれば
だから彼は訴えた。マカロフに、どうか父を探してくれと。―――――しかしマカロフはそれを一蹴してしまう。
( ほんとうに、難しいお話だわ )
ミラジェーンの言った通り、マカロフがロメオの父を心配していないわけではないのだろう。それでも捜索に打って出ないのはマカロフが『
ロメオの父が仕事を受けたということは、当人がその仕事を選んだということ。そして、
そして他のギルドメンバーたちが動かないのは、そのマカロフの意を汲んででもあるが……なによりロメオの父に恥をかかせないためでもあるのだろう。
自分の選んだ仕事で不覚を取り、それを仲間に助けてきてもらうというのは、酷く自尊心が傷つけられることでもある。
それに、ルーシィはロメオの父を知らないが、あの年頃の息子がいるということは中堅レベルの魔導士であり、古参のひとりなのではないだろうか。
当人を信じているというのもあるのだろう。けれどなにより、自分で責任をとれ、という同業者としての視点と、父としての立場もある仲間を想う視点が、感情的に向かおうとする自分の足を止める。
( 想い合うからこそままならない、ということでしょうか。けれど、 )
「短絡的、と言われることかもしれませんが」
「え?」
「それでも思いのままに駆け出せるところが、ナツさんの素敵なところだと思います」
ナツが間違っているわけではないし、他の人が間違っているわけでもないだろう。けれど、ナツの行動は紛れもなく
だって、誰も無理やりにでもナツを止めようとはしなかったから。
まだ青い。そう言われるような行動でも、それでも確かにみんなの心にロメオの父を心配する気持ちがある。ただ単純に、ナツが一番最初に動いただけなのだ。そしてそれがナツの魅力なのだろう。
まぶしいものを見る顔で微笑むルーシィに、ミラジェーンは眉を下げ、それでも同じように微笑んだ。目の前の少女が自分たちの立場を、想いを、心のありようを想ってくれていると分かったから。だからナツはこの子を連れてきたのねと、笑った。
ならこの子にも知ってもらいたい。
「多分、自分とだぶっちゃったのもあるのかも」
「だぶる……?」
「ナツもね、居なくなっちゃったお父さんをずっと探してるの。お父さんって言っても育ての親なんだけど」
「まあ、そうでしたのね。それは……」
―――――それは、とルーシィはくちを閉じた。「ひどい」? 「お可哀そう」? どんな言葉も、他人でろくに事情も知らない自分が言っていいものとは思えなかった。
けれど、そういった事情があるのなら。
ナツはきっと、周りが必死に止めてもロメオの父を探しに行っていただろう、と思った。
置いて行かれた子供の、父を想う気持ちをよく知る彼は、きっとロメオの涙を放っておけない。
それが仲間なら、なおさら。
「ふふ……しかもね、その育ての親って―――――ドラゴンなの」
「ドッ………!!?」
ミラジェーンから放たれた驚愕のカミングアウトに、思わずルーシィが目を見開いてのけぞる。
―――――ドラゴンが育ての親? 今、自分はからかわれたのだろうか。
ルーシィは思わず疑心暗鬼になった。
仕方のない話だ。常識的に考えて、一般論として「あの子ドラゴンに育てられたんだよ」などと言われても信じる人間はそうそうそういない。
とうの昔に絶滅したはずの、しかも人類の脅威ともいえるドラゴンが、
だって、なら、本当にそうだというのなら、ドラゴンはつい最近まで生きていたということになるではないか。
( ……あ、そう、そうだわ。ずっとそれが疑問だったのだわ! )
ルーシィはハッと思い出した。―――――そうだ。あの船の上でハッピーがルーシィにナツの魔法を説明してくれた時。
あの時ハッピーは『
それではまるで、つい最近までドラゴンが生きていたかのようだと。
まさか、その通りだと言うのだろうか。評議会や国軍にも知られず、誰にも感知されないままドラゴンが今この現代にいたるまで生息し続けていたと言うのだろうか。
驚愕する話だ―――――それ以上に、驚異的な話だ。
―――――なぜなら、ドラゴンと人は相容れないのだから。
―――――しかし、でも、
「もしかして、ナツさんがくちにされていた『イグニール』というドラゴンが…?」
「あら、知っていたの? そうよ、イグニール。小さなころに森で拾われて、言葉も魔法も文化も、愛も。ナツに全部を教えてくれたのがイグニール。
―――――けれどある日、居なくなってしまったんですって」
それから、ナツはずっと、イグニールを待ってるの。
そう言って、ミラジェーンはどこか儚く微笑んだ。
ルーシィは、ミラジェーンの言葉を疑うことも、………ナツがずっと待ち続けているという
―――――ナツの美しさを知っている。その心の在り様を知っている。
ドラゴンは脅威だと思う。生きていたなんて信じられないと思う。
それでも、ナツが心から愛しているのであろう親を、否定し恐れることができなかった。
「……私たちはみんな、何かを抱えて生きている」
ポツリと落とされたミラジェーンの声が、ルーシィにはひどくはっきりと聞こえた。
自分もまたそうである、という意を含んでいるように聞こえるその声の昏さが、ルーシィの頭の中に強く響く。
だからルーシィは―――――おもむろに、手元のグラスをイッキした。
「えっ!?」
「んくっ、っはぁ、…ミラさん、ドリンクをいただきありがとうございました。―――――申し訳ないのですけれど、今日は失礼いたしますね」
「待って、どこへ?」
唐突なルーシィの行動に、ミラジェーンは思わず去ろうとしたルーシィを引き留めた。
もしかしたら自分が重い話をしてしまったから気まずく思われたのかもしれない、という負い目もあった。
しかしルーシィはミラジェーンに振り返って、笑う。
―――――それは、いままでギルドで見せていた純真な少女のような笑みでもなく。
むしろ、マカロフと話していた時の凛とした雰囲気によく似ていた。
「ナツさんのところへ」
―――――駆け出したルーシィを、ミラジェーンはこれ以上引き止められなかった。
ただ、―――――ナツがルーシィという少女と出会った偶然を、ただ心から感謝した。
そばに居て。ひとりにしないで。
この人生に、あなたが居てほしい。
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マイ・ヒーロー
人間関係で最も重要なこと。―――――それは信頼だ。
ただ、信じる。それがどれほど恐ろしく尊く愚かなことかを、知っているだろうか。
それでもなぜ信じのかといわれれば、仕方がないからだ。
仕方がないのだ。愛しているから。
「ナツさん、その、横になられたらいかがでしょう。眠ってしまわれれば少しは楽になると聞いたことがございますわ。目的地に着きましたら、わたくしが声をおかけしますので」
ルーシィは目的地へ向かう馬車の中、真っ青な顔で苦し気に息をするナツの背中を撫でさすりながら、せっせと声をかける。
ハルジオンでは船酔いをしていたナツだったが、そもそも乗り物全てと壊滅的に相性が悪い男なのだ。つまり場所も例外ではなく、ナツは息も絶え絶えだった。
「無理だよルーシィ。そこまで気持ち悪くなると寝れないんだ」
「まあ、そうですのね」
向かいの席で苦しそうなナツを気にせず(なにせ日常茶飯事だ)毛づくろいをしていたハッピーの否定に、ルーシィは考え込む。それではどうすればナツの苦しみを和らげることができるのだろうと。
カタカタと揺れる車内でうんうんと苦しむナツと、うんうんと悩むルーシィを交互に見たハッピーは、唐突に「あっ!」と叫び、ひらめいたとばかりに
「ルーシィ、ナツをハグしてあげれば?」
「ハ、ハグですかっ?」
ぎょっと背筋を伸ばしたルーシィに、ハッピーは名案とばかりに推しまくった。例えばハグはストレスを減らしてくれるだとか、例えば人肌は万能薬だとか。
はたから聞いていればどっかで聞きかじったのだろうなという、どちらかというとデタラメの方が多い説得(特に万能薬説)だったが、なにせ心底ナツを心配していたルーシィは「それで少しでもナツさんが楽になるのでしたら」と恥ずかしがりながらもハッピーの提案に乗ることにした。
「さ、さあナツさん、どうぞ」
「うーううう……」
―――――少し頬を染めて手を広げたルーシィに、しかし気持ち悪さで話を聞いていなかったナツは動かない。
車内に数秒の沈黙が下りる。
恥を忍んで腕を広げた分すでにいっぱいいっぱいなのに対して、唸るだけで動かないナツに困ったルーシィがハッピーに助けを求めれば、ハッピーは仕方ないとばかりに浮き上がり腕を組んで座っていたナツの背中を押した。
極めて軽いちからで押されたナツは、しかし今はそれに抵抗もできないとばかりに、ふらふらとした頭でルーシィへ倒れ込んだ。
「んむ、」
「ひえっ」
モフッ! とそれなりの勢いをもってルーシィの胸元に落ちたナツの頭を、ルーシィはとっさに抱きしめた。バランスを崩して床に落ちるのを防ぐためだ。―――――しかし、胸元である。
( これはナツさんのためこれはナツさんのためこれはナツさんのためっ!! )
何度も言うが、ルーシィは男慣れしていない純粋培養だ。胸元という非常にデリケートな部位に顔をうずめるナツに、すでに心拍数はドラムロールに達しているが―――――これは、ナツのため。ナツのためなのである。(自己暗示)
―――――それにもしかしたら、これから
ルーシィは大きく深呼吸をし、必死に冷静さを手繰り寄せた。
知っている限り見た限り、
ルーシィは馬鹿真面目である。故に、斜め上に思考を完結した。
これはナツさんのためであり、自分の訓練にもなる。さあルーシィ、完璧な抱き枕になるのよ! とちからいっぱい意気込んだルーシィは知らない。
これより先、ルーシィはなんとも不幸なことにことごとく
■
ナツはふと、さっきよりはいくばくか気持ち悪さが減ったような気がして、そっと意識を持ち上げた。
なにか、柔らかいものに包まれている……最初に気づいたのはそれだった。
そして自分の優秀な鼻が、これはルーシィの匂いだと訴えた。
自分はルーシィに抱きしめられていると気づいたのはすぐだった。
まだ朦朧とした意識の中で、いきなり抱きしめてくるとか恥ずかしい奴だな、という感想を抱く。ナツは話を聞いていなかったからなんで抱きしめられているのか分からなかった。
しかし、ルーシィに抱きしめられてから少し気持ち悪さが減ったのは確かである。柔らかくて気持ちいいし、いい匂いもして、しかも酔いに効く。
ならいいか、とナツは役得を満喫することにした。
なぜ少しはましになったのか。それはナツがハッピーに掴まって飛んでも酔わないのと似たようなことなのだが、とりあえず理由はおいといてナツはようやく呼吸がしやすくなったのだ。
恥ずかし気な少女の胸に顔をうずめる息の荒い少年と、それを眺める猫という奇妙な絵面は、馬車がひときわ揺れて停車するまで続いた。
■
「す、すんません……これ以上は馬車じゃ進めませんわ……」
「な―――――」
限界までに震えた御者のセリフと、目の前の風景に、ルーシィは絶句した。
―――――まるで声も凍えそうな、極寒の吹雪。
「そ、そんな…いくら山の上層部とはいえ、今は夏季ですのに……!!」
だって馬車の中は寒さなどひとつも感じなかった―――――と考えたルーシィは、ハッと車内を振り返った。
( そうだわ、
車内の天井に設置された
馬車の外は猛吹雪。しかし、ルーシィの装備はグレイに上着を貸したまま出てきてしまったので、ノースリーブのサマーニットだけだ。―――――凍え死ぬ。
「ど、どうしましょう……!」
あまりの寒さに震えながら自分の体を抱きしめるように腕を交差させたルーシィは、寒さと想像したこの後に青ざめた。
ルーシィはギルドを出た後ナツをあちこち探しまわり、ちょうど馬車に乗り込むところを見つけてついてこさせてもらったのだ。だから目的地も知らず、そもそもロメオの父がなんの仕事に行ったのかも知らなかった。
( うかつでしたわ…! 時間がなかったとはいえ、確認くらいはしておくべきでした…こんな天候では、まともに行動できない……これでは、ナツさんたちの足手まといでしかないわ )
せっかくナツさんにご恩を返すために、少しでもお力添えをできればと思ったのに。―――――あの少年と、約束もしたのに。
ルーシィは緩く唇をかんだ。ナツには散々助けられ、けれどハルジオンではことごとく後手に回ってしまいろくに恩返しができなかった。だから少しでも、と思って追いかけてきたのだ。
そして、もうひとつ。ナツを追いかける際に見かけたあの少年ことロメオに、ルーシィは少し無責任に、しかし大真面目に約束をしてしまった。―――――必ず連れて帰ってくるからと。
それがどうだ、この体たらく。ナツは炎の魔導士からか、この吹雪にも全く堪えた様子がなく、しかも馬車から解放されたからか元気いっぱいに仁王立ちしている。そしてハッピーも、吹き付ける風にこそ飛ばされそうになっているが寒さにやられた様子はない。自分だけが、足手まといになっている。
ナツが周囲を確認している中、震えながら思わず顔色が暗くなったルーシィに、―――――御者がこっそり近づいた。
「お、お嬢さん、防寒着を貸しましょうか? もちろんタダで!」
デロン、と鼻の下が伸びた顔だった。声もどこか上ずっていて、視線はルーシィの腕で形を変えている柔らかそうな胸に固定されていた。―――――どこからどう見ても下心しか感じられない下品な呼びかけだ。
しかしルーシィの顔色は明るくなった。そうだ、ここで防寒着を借りれば多少はましな動きができるかもしれない。そうすれば、足手まといにはならないかもしれない。
落ち込んでいたところにルーシィからしてみれば最高な提案をしてくれた御者を、ルーシィは感謝の念をもって見つめる。ああ、なんてお優しい方なのかしら、と。
「よろしいのですか?」
「もちろん! そ、その代わり―――――」
安心したような顔のルーシィに、御者は鼻息荒く頷く。そうして、ゆっくりとルーシィに手を伸ばした。
自分のスペアを積んであるから、防寒着を貸し出すのはタダでいい。その代わり―――――そう、そのあまりにも人の目を引き付ける、大きくてとても柔らかそうな『ソレ』を、ちょこっとだけ触らせてもらえれば。
指をうずめて、揉んだりなんかして。そう、ちょっとだけ―――――
―――――バサッ!
「きゃあっ」
「ひえっ」
―――――唐突に、ルーシィの視界が何かによってさえぎられる。同時に、むき出しだった肩や腕を襲っていた寒さが少しだけ和らいだ。
「ルーシィ、その毛布貸してやるよ」
それはナツの毛布だった。仕事道具を持ってきたナツのからの施しに、ルーシィは慌ててかぶさる毛布から顔を出してナツにお礼を言おうとした。しかし、
「っあ、」
「っそそそそんじゃあオラは失礼しますぅうううーーーっ!!!」
ルーシィの言葉を遮るように、御者が猛スピードで馬を駆り帰って行ってしまった。
その勢いにルーシィは思わず寒さを忘れて呆気にとられる。それから、ああ、引き止めてしまったけれどきっととても寒かったのね。申し訳ないことをしてしまったわ、としょんもり肩を下げた。
そんな落ち込むルーシィに、ナツとハッピーが呆れたように声をかけた。
「お前な~、ケイカイシンを持てよケイカイシンを」
「あい、ルーシィ危なかったよ」
「え、あ、あの、い、いったい何が…」
それは忠告だった。しかしルーシィからしてみれば寝耳に水である。寒さで震えるくちを動かしながら、首をかしげたルーシィに、ハッピーが少し詰め寄る。
「おいら知ってるよ。ルーシィもうちょっとでセクハラされそうになってたんだよ! オスはすぐに信用しちゃいけないんだよ」
まさか、という顔でナツを見たルーシィだったが、ナツもまたうんうんと頷いている様子を見て余計に落ち込んでしまう。
いや、ルーシィとて男の下心くらい知っている。しかしあんな優しく声をかけてくれた人まで…というショックだ。もしかして男ってみんなそうなの? と凹んでしまうのは仕方ない。
ハッピーの口調はまるで年下に言い聞かせるようであったが、この件については純粋培養のルーシィよりギルドの女性たちの明け透けなセクハラ被害体験を聞いて育ったナツとハッピーに分がある。
今だって、ナツが気づいて御者を睨みつけなければどんな被害にあっていたか。下手をすればルーシィに一生モノのトラウマができるかもしれなかった。
あんまりな事実にますます落ち込むルーシィ。―――――しかしルーシィは頑張って意識を切り替えた。自分のショックは後回しだ。まずはそう、ロメオの父を助けなければ。
ちなみに現実逃避とも言う。
「あ、あ、あの、ロメオさんのおお父様、は、い、いったいどのよ、うな、お仕事に、行かれたのですかっ」
「あ? 知らねえでついてきたのかよ。―――――凶悪モンスター『バルカン』の討伐だ」
■
ルーシィはナツに借りた毛布にくるまりながら、大きな声でロメオの父を呼ぶナツについて必死に歩き出した。
「マカオーーォオ!! いるかぁーーーっ!!」
ルーシィは一言も発せない。何の役にも立っていない。しかしその手にはしっかり鍵を握っていた。
この寒さの中元気いっぱいに叫ぶだけの気力はルーシィにはない。そして、ロメオの父、マカオがモンスター退治から帰ってこないということは、マカオを打ち破ったモンスターと会敵し戦闘になる可能性があるということ。
ならば無理に叫んでいたずらに体力を消耗するより、戦闘で足手まといにならないように今は体力を温存することを選んだのである。
「バルカンにやられちまったのかぁーーーーあああ!!!!」
一行が叫びながら移動することおよそ5分。時間としては短いが、馬車はそれなりに山の奥まで進んでくれたため5分でも移動すればかなり深層部まで移動することができた。
そしてつまりそれは、深層部を縄張りにする獣の意識に入ることと同義である。
―――――ふいに勢いよくナツが上を見上げた。……雪の塊が落ちてくる。そして、ナツの耳は確かに、何か大きな生物の足音を聞いた。
それは空からやってきた。
―――――ドゴォオオオン!
一撃で一面の雪の積もった地面に大きな抉り跡をつける攻撃は、その威力を物語る。
大きな体。腕には斑点模様。長い耳に、猿のような顔。頭の一本角。
「バルカンだーーーーっ!!」
それは間違いなく討伐対象のバルカンだった。
ハッピーの声が響く。ルーシィは毛布を握る手にちからを込めた。
これは、最悪を想像しなくてはいけないかもしれない―――――
そんな風に考えたルーシィは―――――反射で後方に大きく飛んだ。
「人間の女だっ!!!!」
「っ!!!!」
―――――間一髪。ルーシィのいたところを、バルカンの腕が素通りした。
「お前喋れたのか!」
ナツが目を見開き叫ぶが、バルカンは視界にも入れない。ただその目はルーシィを嘗め回すように見ていた。
「ウホッ♡ ウホッ♡ 女♡ 人間の女♡」
「おいこらマカオはどこだ!」
「人間の女! オデの女っ!!」
ルーシィは身の危険を感じ、雪に足を取られながらも思わず数歩後ずさった。ハッピーの言葉を思い返す。もしかしてこれは男の下心を向けられているのだろうか。猿に。
バルカンの意識はルーシィに完全に集中している。手をワキワキさせ、目は瞳孔が開いていて興奮状態が伝わってくる。
―――――もっと間合いを取らなくては。ルーシィとバルカンの距離は実はさほどない。星霊を呼ぶにも、呼んでる最中に攻撃を喰らいそうだ。
バルカンが鼻息荒く腰を下ろす。それは飛びかかる前動作。ルーシィもまたイチかバチか足にちからを込め―――――
「無視してんじゃねえ!!」
―――――ドゴォ!!!
しかし真っ先にナツが動いた。
ナツの飛び蹴りにより盛大に吹っ飛んだバルカンをしり目に、ナツはルーシィの近くに着地する。
「ったく、マカオはどこだっつってんだよ」
「―――――ナツさん、は、マカオさん、が、まだ……ご存命だと、お、お思いですか」
不機嫌そうなナツに、その言葉に、―――――ルーシィが思わず、震えながら言葉をこぼす。
それは真っ当な思考だろう。―――――マカオが帰らなくなって1週間。そして生き残っている討伐対象のバルカン。そこまで条件がそろえば、マカオはすでに亡き者になってしまっている可能性が極めて高い。
しかしナツはまるでマカオがまだ生きていると確信しているかのようなのだ。
だからルーシィは疑問に思う。この現状で、なぜナツはそんな風に考えられるのかと。
「生きてる。マカオはあんなのに負けるほど弱くねえ」
―――――はっきりと、当たり前のように。
ナツの返答は早かった。だから、ルーシィもそう思うことにした。
根拠とも言えない、いっそ当てずっぽうな判断に聞こえるようなその確信を、信じることにした。……少なくとも、そのナツなりの根拠がルーシィの憧れた
「マ、マカオさんが、まだご存命だとしても、バルカン、が、ここに来れた、と、言う、事は、重傷を負って、いらっしゃる可能性、がっ、高いかとっ」
「かもな」
「な、なぜならっ、バルカンがわたくしたち、を、襲いに来た、のは、バルカンは、すでに、マカオさんを脅威と感じ、て、いない、という、こと!」
「おう」
「しかし、きょ凶暴な野生どど動物、が、手負いとはいえ縄張り内、に、じ、実力者が、いる現状を、無視する、とは、思えませんっ…」
「で?」
「そして、バ、バルカン、のなな縄張りは広くっ、重傷を負いながら出る、事は、不可能かと」
「つまり?」
「マカオさんは、バルカンがっ、監視できる場所っ! つ、つまり、住処に囚われて、いらっしゃ、る、可能性が、あります!!」
「なるほど、じゃああいつに住処を吐かせればいいんだな。喋れるみてーだし」
ナツはゴキリ、と腕を鳴らした。ルーシィの推測は穴もあるが、同時に可能性も高い。ナツの脳みそは自分のすべきことをはじき出した。
しかし、ルーシィは首を振る。バルカンは確かに喋ったが、だからといって円満に物事が進むとは思えなかった。
話せるということは知力があるということ。知力のある獣ほど厄介なものはない。
「わ、わたくしに、策がございますわ!」
遠い向こうで、大きな影が立ち上がった。
■
「ひ、ひひひ開けっ、と時計座の扉っ―――――ホロロギウム!!」
―――――掲げた鍵から、鍵穴状の光が放たれる。一拍置いて現れたのは、大きなのっぽの古時計だった。
「おお!」
「時計だ!」
ナツとハッピーが大声ではしゃぐ。特にナツは初めて見た星霊召喚だ。
まじまじと見つめるひとりと一匹の視線の中、ルーシィはホロロギウムの腕に毛布を握らせ、振り子のある胴体部分に収まった。
「『ホロロギウムは中に隠れてしまえば、身の安全を必ず守れるのです』と申しております。…ご評価いただき、光栄でございますルーシィさま」
「「 喋った! 」」
ナツとハッピーはまた驚いた。時計がしゃべるとはこれ如何に。いやしかし、確かに顔があってくちがあるのだから、おかしくないかもしれない。
「じゃ、頑張れよルーシィ」
「『はい、よろしくお願いします』と申しております」
ナツの言葉にルーシィが頷いたと同時、―――――バルカンが猛スピードで飛びかかってきた。
「オンナァァアアアアアッ!!」
―――――ルーシィの作戦はこうだ。
まず前提として、さっきまでの様子から見るにバルカンは人間の女であるルーシィに劣情を抱いている。そこを利用するのだ。
「うおっ、―――――しまった!」
ならば再び襲い掛かってくるであろうバルカンに、ルーシィをわざと拉致させる。―――――ナツはわざと隙を作り、ルーシィから距離をとった。
「 女!!! 」
そうすればバルカンはホロロギウムに入ったルーシィを、住処へ連れ帰ると推理したのだ。あとはナツがホロロギウムの握りしめた毛布の匂いを辿えば、バルカンの住処を見つけられるという寸法である。
―――――ナツさん、この吹雪の中で、匂いを辿ることは、できますか。
―――――すぐならヨユーだ。ドラゴンの鼻なめんな。
自信満々で返したナツに、ルーシィは微笑んだ。
それは、一切の不安を捨てた笑顔だった。
―――――ええ、信じます。
「っし、頑張れよルーシィ! 行くぞハッピー!」
「あい!!」
ハッピーがナツを抱え飛ぶ。―――――この吹雪ではハッピーも飛ぶのに負担が大きい。しかし、ルーシィはハッピーにも信じてると言ったから。
仲間が信じて待っているから。
ハッピーは持てるちからすべてを使って、最高速度で飛び出した。
■
( ホロロギウム……現界時間はあとどれくらいかしら )
( 申し訳ございません……そろそろ、お時間が )
ルーシィは強く金の鍵を握った。―――――もうそろそろ、ホロロギウムの現界時間が終わる。ナツには言っていなかったが、今のルーシィでは星霊を長時間現界させておくことはできないのだ。延長も難しい。
星霊たちは素質はあると言ってくれるが、まだまだルーシィの実力は低い。
ホロロギウムの現界が解ければ、ルーシィとバルカンを阻むものは無くなる。そうなれば―――――撃破はできなくとも、せめて、ナツが来るまでの時間を稼がなくては。
せっかくできることがあったのだから。
( ルーシィさま、もう… )
( ええ、ありがとうホロロギウム。―――――タイミングを合わせて頂戴 )
目の前には、息荒くホロロギウム越しにルーシィに近づくバルカン。思わず怯む。…しかし、今のルーシィには恐怖を上回る使命感があった。
―――――3、2、1
ポウンッ!
「 女!! 」
「 開け、
柔らかい音を立てて消えるホロロギウム。叫ぶバルカン。ルーシィは震える指にちからを込め、残りの魔力すべてを使い切るつもりで金の鍵を―――――
「 うおおおおおお!!! やっと追いついたァ~~~~~っ! 」
「ルーシィ大丈夫~っ?」
―――――ヒーローは遅れてやってくるものっていうのはさ、
「ナツさん! ハッピーさんっ!」
破壊される住処の壁。現れたのは桜色と青毛。完璧なタイミングかつ、予想以上に早い登場。
それは、安心。
「ウォラァッ!!」
ドガッ!!
「ウゴォッ!!」
―――――第三者目線なら「さっさと来なさいよって」思うんだけど、
―――――当事者からすると、めちゃくちゃカッコよく見えちゃうのよね。
再びバルカンに飛び蹴りを喰らわせるナツ。壁に激突するバルカン。それを視界に収めながら、ルーシィの頭の中を以前読んだ小説のセリフがよぎる。
「おい猿―――――マカオはどこだ」
まぎれもなく、今のナツは最高にかっこよかった。
■
「ウ、ウホ……」
「よーし、これ以上痛い目にあいたくなかったらマカオの居場所を吐け! 人間の男だよ。知ってるだろ」
ふらふらと起き上がったバルカンに、ナツが凄みをきかせて問いかける。脅迫めいたそれはそろそろどっちが悪役かわからなくなりそうだ。
実際、バルカンはひどく怯えたような顔をした。
このバルカンがマカオの居場所を知っているかどうか。それこそイチかバチかの賭けだった。
ルーシィは真剣な顔でバルカンを注視した。それはバルカンが何か不審な行動をとってもすぐに対処できるようにだ。
ルーシィはロメオが生きていると思っている。バルカンが知っていると思っている。―――――通常のルーシィならあり得ないことだ。
ルーシィはナツのような超直感を持っていない。だから気を引き締めなければ、こんな現状なら悲観的になってしまうだろう。
いつもなら。
けれど、―――――けれど。
( マカオさんは生きていらっしゃる。このバルカンが、知っている )
そう信じると、決めた。ナツの確信を、ルーシィもまた。
だから、おびえた様子で一角を指さすバルカンに安心してしまった。獣の世界はちから社会。故に、その強さを示したナツに対して、バルカンが服従することは流れとしておかしいことではないと。
―――――バルカンはただの獣ではない。人に似た狡猾さを持つケダモノだ。
そんなことを、忘れてしまった。
「男、いらん……」
「おう、ならマカオ返せ」
バルカンが指さした先は、窓のように空いたいくつかの外へ通じる穴。指さされたそこに、ナツは駆け寄り覗き込んだ。―――――そのナツの後ろに、ピッタリとくっついたバルカン。
―――――ルーシィが気づいたときには遅かった。
「ナツさん、逃げて!!!!」
「あ?」
「オデ、女好き」
バルカンの腕は、長く筋肉質だ。その腕が、まるで大砲のように―――――ナツを外へ押し出した。
■
「ナツさん!!!」
ルーシィは大慌てで駆け出し、ナツが突き飛ばされた穴の隣にある同じような穴から下を覗き込んだ。―――――深い、谷だ。吹雪と相まって底が見えない。
そんなところに、ナツが落とされた。
「男いらん! 男いらん!」
( 大、丈夫、大丈夫よ、ルーシィ……だって、ナツさんはお強いもの…… )
「女~っ女~っ!!」
( きっとまた、すぐに戻っていらっしゃるわ、ええ、きっと、きっと無事で――――― )
「ウッホホホ~♡」
「黙りなさい」
―――――魔力が渦巻く。
バルカンがキョトンとした顔でルーシィを見た。しかし、ルーシィはうつむいたまま、―――――その手には、いまだ握られたままだった金の鍵。
「自然界に生きる獣が、外敵を排除することは当然のことでしょう。ええ、理解しておりますわ」
ルーシィの声は固い。ハルジオンでボラを詰った時の比ではない。冷えているのではなく、むしろ熱く、煮えたぎるような。
―――――ホロロギウムの外に出て、再び身を襲っていたはずの寒さが今はかけらも感じられなかった。
「けれど―――――」
手の内にある金の鍵は、
「―――――そんな道理は、今のわたくしにはどうでもよいことだわ」
ボラの時は怒りだった。けれど今回は違う。
―――――ルーシィは初めて、何かを心の底から憎んだ。
「開け、
煮えたぎる魔力を、そのまま鍵に。あふれた光はやがて静まり、そこにいたのはルーシィよりふた回り以上大きな……
「MOーーーっ!! お久しぶりですルーシィさん!!」
「牛!!?」
二足歩行の牛だった。巨大な斧を持った巨大な牛が、威風堂々とばかりに立っていた。
バルカンが目を見開く。同じ獣の匂いがする何か。しかし、何かは獣とは大きく違うものを持っていると、本能が理解した。
「相変わらずステキなルーシィさん。本当はMO☆レツに称賛したいところではありますが」
―――――それは知性だ。バルカンにはないものだ。
バルカンの持つのは知力。しかし、タウロスにあるのは知性だ。
知性とはすなわち、理性である。
「―――――今はあなたの心に寄り添いましょう」
タウロスは、スケベな牛だ。下心は正直バルカンと似たようなものだろう。
しかしタウロスには知性があり、理性がある。そして、ルーシィを愛している。
だから今は、ルーシィの愛するものを傷つけた、ルーシィの心を傷つけた目の前のケダモノを排除することに全意識を集中した。
穏やかで、控えめで、ちょっとわがままで、愛情深く美しい
「タウロス!」
「MOOOOOO準備OK!!!!!」
タウロスが走る。そのスピードは巨体に似合わないほど俊敏だ。しかし、バルカンもまた手練れ。
バルカンはタウロスが振り下ろした斧を両手で白刃取りした。一瞬の間、二頭の間でちから比べが起きる。
パワーは拮抗。…本来ならタウロスの方が圧倒的なパワーを持つのだが、召喚者であるルーシィの実力が伴わないのだ。しかし、タウロスは星霊である。歴戦の戦いの中にあった戦士である。ちからで決着がつかないのなら、それ以外をすればいいと知っている。―――――この場合、タウロスの経験が二頭に差をつけた。
拮抗した状態から―――――蹴り! 右足でバランスを取ったタウロスの左足から繰り出されたちから強い蹴りがバルカンの脇腹にめり込む。その衝撃たるや、バルカンは間一髪吹き飛ばなかったものの斧から手が外れ一歩後ずさってしまう。
わずか一瞬。されど一瞬。タウロスはそれを見逃さない。自由になった斧を両手で持ち、浮いていた左足を、流れるような重心移動でよろめくことなく、足をクロスさせるように右足の右側に着く。それと同時に左足を息を意を持たせて浮かせ―――――回転。
振り回した斧に遠心力がちからを与える。その刃は衰えることなく、いまだ体制を整えられていなかったバルカンの首へ―――――
「なんか怪物増えてるじゃねーーーかっ!!! 」
ゴスッ!!
「ンMOぅッ!!!」
「タウロス!? というかナツさん!!!?」
―――――ヒーローは遅れて来ると言うが。
―――――もう少しタイミングを考えてもらいたいものである。
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あなたが居る明日が欲しい
「―――――」
「ナツさ……! いえタウロス! ええっと………!!!」
ルーシィは混乱した。タウロスが勝つと思ったら吹き飛んで、吹き飛ばしたのはナツだった。
バルカンは無事。タウロスはダウン。生還したナツ。自分は何をすれば?
( っタウロスの現界が解かれていないということは、ダメージはさほど大きくないということ…! なら、 )
ごめんなさい
「ナツさん! ご無事でしたのねっ」
「お~、ハッピーのおかげでな。ありがとなハッピー」
「どーいたしまして」
ニッと笑ったナツが上を指さす。そこには羽をはためかせ浮遊するハッピーがいた。
ルーシィもハッとする。ハッピーのことをすっかり忘れていた。そういえば、ハッピーは人を抱えて飛ぶことができるのだ。
ああそうだった。きっと数多の死線を潜り抜けてきたふたりからすれば、きっと何でもないことだった。ルーシィは安堵の息を吐いて胸元で手を組む。―――――大丈夫よルーシィ、神さまは見ていらっしゃるわ。
「そういえば、ハッピーさんの羽は…」
「能力系魔法の
「まあ、猫さんですのに魔法が達者でいらっしゃるのですね、…素敵なことですわ」
ルーシィは感心したようにその羽を見、それから、眉を下げてナツを見た。―――――その顔にあるのは、自己嫌悪だ。
「……あの、ナツさん…わたくし、何のお役にも立てず申し訳ありません…」
「あん? なんだそりゃ」
ハッピーは冷静にナツを回収しに行った。だからナツは無事だった。けれど、自分はどうだろうか。とっさに動けず、ナツを救えず、作戦だって見渡した限りこの住処にマカオの姿が見当たらないことから、外れている可能性の方が高くなった。
ハッピーを侮っているわけではない。けれど―――――やっぱり、役に立たない自分の姿をまじまじと見せつけられているようで、余計にルーシィの胸に苦いものが差す。
ナツはルーシィの顔をじぃっと見た。少しうつむき伏せられた目元に、影ができてる。―――――多分、なんか余計なこと考えてんじゃねーかな。と思った。思ったから、ナツは教えてやることにした。
「
ケロリとした声とそのセリフに、ルーシィがハッと顔を上げる。―――――そして、ナツの後ろにいたバルカンがユラリ、と動いたのが見えた。
「っナツさん!」
「じっちゃんもミラもうぜぇグレイもエルフマンも」
ルーシィが声を上げる。今度は間に合ってくれと。
しかし、ナツは動かない。
バルカンは迫る。
タウロスを呼び出している間は他の星霊を呼べない。そして、ルーシィは星霊が現界するための扉を契約者の一任で閉じる『強制閉門』ができない。
星霊が同意しなければ、もしくは現界時間を過ぎなければ、扉は閉まらない。
つまり今のルーシィは他の星霊を呼び出しナツの手助けをすることができない。
なぜ、どうして、早く逃げて―――――ルーシィが息をのむ。バルカンは、すでに目の前。
「ハッピーもルーシィもみんな仲間だ」
―――――ルーシィは自己嫌悪する。
今、この状況で、……ナツの言葉に、喜びのあまり一瞬恐怖を忘れたことを、自己嫌悪した。
大変な時に。ナツのピンチに。マカオが消息不明だというのに。―――――今この時、全身が喜びに支配されたことを、心から恥じた。
バルカンがナツに飛びかかる。それでもルーシィは、すでに何も不安に思えなかった。
「足手まといとかあるかよ。―――――仲間が助け合って何が悪いッ!!」
ドゴォッ!!!
バルカンが吹き飛ぶ。本日三度目の、蹴りだった。
■
「おら早くマカオの場所言わねぇと黒焦げになんぞ!!」
「ウッホホホオッ!!」
がなるナツに、体勢を立て直したバルカンも吠える。その長い手で天井の
先端の尖った10や20を超える鋭利な氷柱がナツを襲う。しかし、恐るるに足らず。これはルーシィも結末が見えた。なぜならナツは炎の魔導士―――――
「わっはっは火にはそんなモン効かーん!!」
すべてナツの体に当たったと同時に水となり水蒸気となった。……いや、炎の魔術師でもかなり規格外なのだが。
知力のあるバルカンはすぐに悟る。氷柱ではあのオスは殺せない。…しかし、今のバルカンのそばには
「あっタウロスの斧…!!」
さきほどナツに吹き飛ばされたタウロスの手から落ちた斧は、よりにもよってバルカンのすぐそばにあった。―――――そして、バルカンはその使い方を目の前で見ていた。
「キェエエエエエッ!」
「うっおそれはさすがに…!!」
バルカンに斧。鬼に金棒のような不運に少しナツの顔色が悪くなった。なにせ刃物。さすがに痛い。
バルカンは斧を振る。腕を回転させるように横一線。巨体と腕力が織りなすその一撃を、ナツは屈むことで避けた。そして、間合いを取ろうと後ろに飛ぶ。
しかし距離がわずかばかり足りない。バルカンの巨体ではその程度の距離は射程範囲内のまま。
次は縦に。避けられた。横へ―――――屈まれたところを、筋力にものを言わせて斧の方向を変え横にしたU字のような軌道で連撃。飛び上がることで回避された。しからばもう一線。反撃の隙など与える間もなく―――――そこで、ナツはミスをした。
「んなっ」
「ああっ!」
バルカンの猛撃に呆気にとられていたルーシィも正気に戻り息をのむ。
先ほどの氷柱の攻撃を、ナツは溶かし気化して凌いだ。しかし、すべてが気化したわけではなく、一部は水として地面に溜まっていたのだ。
そうして、それにナツが足を取られた。
「ウホゥ!!」
「ウゴァッ!」
振り下ろされた斧を間一髪で受け止める。次はナツが白刃取りをする番だった。膠着したちから比べ。しかし先ほどと違うのはナツとバルカンの体格差だ。この斧の大きさでは間合いが大きすぎて、ナツが手足でバルカンに攻撃を与えることができない。
「っタウロス!」
ルーシィはいまだ気を失ったままのタウロスに駆け寄った。あの斧さえ消すことができれば形勢を変えられる。そして斧は星霊であるタウロスのものであるからして、消すためにはタウロスに戻ってもらうしかない。
……ナツはルーシィを仲間と言った。なのに、仲間の武器で襲われるなど悪夢だ。
「タウロス、お願いよ起きて…!! 斧を消さないとナツさんがっ! お願いタウロス、タウロス…!!!」
倒れる巨体を必死に揺らしながら、ルーシィが叫ぶ。本当は気絶する
必死な声に、しかしタウロスは目覚めない。おかしい、現界が解けていないということはダメージが限界値を超えたわけではないということ。それなのに、タウロスは目覚めない。
タウロスは星霊だ。人知を超えるものである。それなのに、たった一撃でこうも戦闘不能になるだろうか。
( ―――――わたくしが、 )
ちから不足なために、星霊本来の能力をかけらも発揮できていないがために。タウロスはその真価を示すことなく傷つき、仲間を守るはずの
……自己嫌悪がぶり返す。どうして何もできないのだろうか。何のために自分はここにいるのだろうか。
―――――じゅううううう…
「え、」
鉄の溶ける独特のにおい。
不意の熱気にルーシィがハッと顔を上げる。ナツは、相変わらず白刃取りの態勢のままだった。
しかしひとつ、違うところがあった。
タウロスの斧が、赤く熱せられている。そして―――――デロリ、と解け始めた。
―――――鉄の融点は1,538℃だ。けれど、環境が氷点下の室外であるこの場合は、それより500℃近くプラスしなくては溶かすのは厳しいだろう。
斧が溶けているのは、ナツが手で押さえているところ。つまり、ナツは自分の手に2,000℃近い熱を持たせているということ。
ルーシィとバルカンすらも絶句する中、デロリ、ドロリと溶けた斧はやがて水のように、ポトリとひと滴それを垂らせた。そして、ナツはすかさずそれをくちに含む。
「えっナツさんは鉄も召し上がるのですか!?」
「さすがに鉄は食べないよう」
ギョッとしたルーシィにハッピーが突っ込む。まあ炎すら食べる男なのだからそう誤解されても仕方がない。
しかしナツが鉄をくちに入れたのは別の理由だ。―――――溶けた鉄を、口内で熱を取り形成し、それを砲丸、くちを砲台として―――――バルカンの眉間を狙って発射する。
―――――バスッ
「ウホォ!」
直撃。急所への一撃にバルカンはふらつき斧を手放し―――――
「オラァ!! 火竜の、 鉄 拳 !!!!! 」
ド ゴォン !!!!
ようやく、決着がついた。
■
「あっ! ナツさん、バルカンが気絶をすればマカオさんの居場所が…」
「あ!! しまった起こすか!!」
壁に激突したバルカンを見ながら、ルーシィは起きるかしら…と思案した。タウロスすら気絶する一撃より何倍も強力なものを喰らって、生きているだけでも奇跡な気がした。
「そういやあの牛何なんだ」
「……わたくしの星霊です」
「えっ」
何の気なしにこぼした疑問―――――たらり、ナツから汗が滴る。
そのひと言で理解してしまったのだ。自分が勘違いで味方を攻撃したことに。
「あっ、いやでも、ほ、ほらあの牛斧で首落とそうとしてたじゃねえか! してたよな? なっ!? し、死んだらまずいからな~! ファインプレーってことで……」
「……斧はタウロスの意思で多少変更できるので、あの斧は刃を潰していました。直撃すればとても痛かったでしょうけれど、タウロスほどの戦士ならば誤って殺害してしまうことはありませんわ」
「ナツ~オイラ素直に謝った方がいいと思うよ」
必死に自身の失敗を正当化しようとしたナツだが、ルーシィの気まずげな声に否定されてしまう。さすがのルーシィも、誤解とはいえ
どこか穏やかな雰囲気を取り戻した場は、ナツの魔力のおかげでわずかに暖かくルーシィも少し表情が穏やかになる。
―――――みみみみみ……
「!?」
「なんだァ!?」
「あーっバルカンが!」
しかし突如、奇怪な音がバルカンの住処であった洞窟内に響き雰囲気が引き締まる。新手の敵か、自然現象か。構えたナツとルーシィは、ハッピーの声でバルカンに視線を向けた。
( まさかバルカンの仲間を呼ぶエマージェンシーコール……!? )
動物、特に集団行動をする種族には同族に危険を知らせる鳴き方というものがある。まさかそれかと、ルーシィはこの後の連戦を予想してつばを飲み込んだ。
しかし、奇妙な音は確かにバルカンから聞こえていたが、バルカンは完全に気絶していて喉を鳴らしているようには見えない。これはいったい、と眉をひそめたと同時に、バルカンの様子がおかしいことにも気が付いた。
「これは魔力…!? バ、バルカンから魔力が流れ出ていますわ!!」
「あ? この匂い―――――マカオか!?」
光を発し始めたバルカン。その光に乗って、バルカンの体から、まるで風船から空気が抜けるように魔力が流れ出てくる。
そしてふいに、ナツはバルカンから探し人であるマカオのにおいを感じ取った。―――――さっきまでは感じなかったのに?
それに気づいたのはハッピーだ。奇妙な音とともに、バルカンの体がブロック状に分解されていくような変化に、真っ先に思い付いたものがある。それは同じギルドに所属する仲間が使う魔法でもあり、自然界ではそれを使用する動物も確認されている魔法だ。
「
果たして、バルカンは軽快な音と共に一人の人間の男になった。
「猿がマカオになった!!!」
「バルカンは人間を
凶悪モンスターであるバルカンについて、ルーシィが知っていたのは生息区域などの簡易的なものだけだった。故に縄張り範囲は知っていても
人間を
そして今、外側の殻であったバルカン自体がナツの攻撃により撃破されたため消滅し、吸収され切っていなかったマカオだけが残ったのだ。…もっと詳しく言うのなら、バルカンが吸収したマカオより大きなダメージを受けたことにより、ひとりと一匹のヒエラルキーが逆転し体の主導権(所有権ともいう)がマカオに移った、ということだろう。このまま逆にバルカンがマカオに吸収されれば、このバルカンは消えてなくなる。
全員がまさかの真実に絶句する中、ぐらり、とマカオが揺れた。
「あーーーーっ!!」
とっさにナツが駆けた。ハッピーが飛んだ。
バルカンが吹き飛ばされたのは窓穴の上だったのだ。しかし、バルカンはその巨体ゆえに体が壁に引っかかっていた。けれどバルカンの姿から人にもどったマカオの体格ではそのまま窓穴から飛び出してしまうのだ。
―――――マカオは重傷を負っている。
底の見えない谷底へマカオが落ちる前に、ナツが窓から飛び出しマカオの足にしがみついた。そしてそのナツの足をハッピーがつかむ。―――――しかし、ハッピーではふたり同時に抱えられない。
「失礼します!!」
「尻尾ぉー!」
―――――間一髪。ハッピーの尻尾をルーシィがつかみ、転落は免れた。
「ルーシィ!」
ナツが顔を明るくする。本当に間一髪だったのだ。……対してルーシィは非常に厳しい状態だった。元来非力なルーシィでは男ふたりに猫一匹を引き上げられるだけのちからはない。―――――このままでは、みんなが落ちてしまう。
( ―――――いいえ! いいえ、けっして手を放しません、落としません!! 今度こそ、必ず、お役に立ってみせます!! )
ハッピーが繋ぎ、ナツが手にした勝利により、マカオを救出することができた。それなのに、こんなことで台無しにするわけにはいかない。
しかし重いものは重い。ルーシィの腕はだんだん痺れていき、何とか登ろうとするナツの揺れが余計に負担をかける。しかし引き上げられないルーシィができることはそれに耐えることのみ。
けれどこれ以上はハッピーの尻尾も傷つけてしまう―――――
またもや訪れた絶体絶命のピンチ。―――――しかしいつだって、ルーシィには心強いお友達がいた。
「 いい加減 ――――― 起きなさいっ、タウロス ッ!!! 」
「―――――お待たせしました。MO大丈夫ですぞ」
がっしりと、ルーシィの手の上から大きな手がハッピーの尻尾をつかむ。手袋越しの体温が寒さにかじかんでいたルーシィの手を温める。
「タウロス…!」
「うっ、牛ぃーーっ!!」
復活したタウロスが、完璧なタイミングでふたりと一匹を引き上げた。
■
「
「おいこらマカオ!! しっかりしろ!!」
広げた毛布の上に寝かせたマカオの傷に、ハッピーが神妙な顔をする。
体中にある打撲痕。そして何より、右横腹の深い裂傷。そこからはいまだとめどなく血が流れ、マカオの生命を削っていく。
必死に呼びかけるナツの声をバックに傷の確認をしたルーシィは青ざめた顔で唇をかむ。
「
止血をしようにも、適当な布の類がない。―――――なりふり構ってはいられない。
ルーシィは来ているサマーニットの裾をつかみ、一気に持ち上げて脱ぎ捨てた。
「!? 何やってんだお前!」
「風邪ひくよルーシィ!」
「ナツさん傷ぐちに消毒液をかけてください! …早く!!」
突拍子もないルーシィの行動にナツとハッピーはギョッとして声を上げたが、今までにないくらいの剣幕で声を荒らげるルーシィに、慌てて従うことにした。
「お、俺はマカオを押さえとくからハッピーがかけてくれ」
「あ、あいあい!」
しかし傷ぐちに直接消毒液など、痛いなんてものではないだろう。ナツはマカオの体を抑え込み、暴れるのを阻止した。そして、ハッピーは荷物にあった応急セットから消毒液の便を取り出し、引きちぎるようにふたを外して傷ぐちの上でひっくり返した。
「ぐああああああっ!!」
マカオの絶叫が響く。ナツもハッピーもルーシィも、まるで自分の傷のような顔をして汗を流した。
ああ―――――神さま。ルーシィは心の内で必死に祈った。
「しっかりしろマカオ!」
「っ失礼します、」
吠えるように声をかけるナツ。ルーシィは消毒液で一時的に傷ぐち周辺がクリアになったのを確認し、脱ぎ捨てたサマーニットで手早く周辺の血をぬぐった。
むき出しの肩どころか、今のルーシィは上半身に下着ひとつだ。少なくとも極寒の雪山でする格好ではない。ナツのそばにいるおかげで多少は温かくくちも思考も回るが、指先は寒さでかじかんでいる。けれど、強い緊張で体はほてり、額からは汗が流れた。
「本当は、体力が落ちて免疫力が下がっている方の治療には清潔なものを使いたいのですけれど…!!」
( 選り好みできる環境ではないし、ああ、ある意味この気温で良かったわ )
声も凍る銀世界では、おおよそのウイルスや菌も息を潜める。おかげで着ていた服での止血でもそこまで不安はない。それに消毒液をつかう事で直接傷ぐちには服を触れさせなくて済んでいる。これならすぐに医者へ診せれば、傷がひどく膿んだり変な細菌に蝕まれることもないだろう。…間に合えば、だが。
( 傷ぐち内に、見たところ異物はない……これなら! )
「マカオ!!」
「ハアッ! ハァッ! くそ、情けねぇ…ハ、ハァ、じゅ、19匹は…倒したんだ………うぐっ!…っ20匹目に
―――――19匹!!?
ルーシィは息をのんだ。バルカンは1匹ではなかったのだ。
ルーシィはてっきり、群れから追い出されたバルカンがこの雪山に巣くっていたのだと思っていた。けれど20匹の集団となると、世代交代で群れと離脱したいち団だったのかもしれない。
いや、そんなことより。
あれだけ知力のある獣を相手に、たったひとりで19匹も撃破したというのか、この目の前の魔導士は。
「ナツさん炎を…! 止血をお願いします!」
「! そーか炎で…ルーシィ! マカオ押さえんの代われ!」
「はい!!」
どうしても溢れてしまいそうな尊敬の念を、今はそんな場合ではないとルーシィは握りつぶした。そしてナツに声をかける。
ナツはすぐにルーシィの考えに気が付いた。確かに現状、マカオを救うのはそれが最善手だと。
「おいマカオ止血するぞ! 舌かむなよ!!」
「う、ぐ、グオオオオオオオオオオっ!!!!」
「堪えろマカオ!! 傷が開くから喋んじゃねえ!!」
「っ、」
ボウ、と手に炎を灯したナツが声をかけながらマカオの傷ぐちを抑え込む。―――――肉が焼ける臭いがする。
ルーシィは馴染みのないその臭いに顔色を悪くしながらも、必死にマカオの腕を抑えた。
正直止血としては雑だ。これしかないとはいえ、マカオには一生の傷が残るだろう。
せめて自分の荷物があれば、とルーシィは後悔した。急いでいたとはいえ、荷物一式をギルドの入り口に置いたまま来てしまったのだ。着の身着のままのルーシィは治療系の魔法が使えない。ただ荷物の中には強力な傷薬もあったのに。ああ、あれもこれも悔いることばかりだ。
「ムカつくぜ…!! チクショ…っこれ、じゃ! ロメオに、会わす顔が、ね……!!」
「黙れっての!! 殴るぞ!!!」
―――――マカオの目に浮かぶ涙は、おそらく痛みだけではない。深い屈辱と後悔、自身への嫌悪が聞いて取れるよなその声に、ナツは怒鳴りつけるように叫んだ。
マカオがなぜ、この仕事を受けたか。仕事の内容は知らなかったルーシィだが、それはロメオから聞いていた。
ナツを探しに出た矢先に、公園のベンチで泣いているのを見つけた時に。その気持ちを聞いたときに。
■
息子の愛だった。父の愛だった。
きっかけは些細な事。周囲の子供に父を馬鹿にされたことが我慢ならなかった息子のわがまま。それを父が叶えようとしただけだった。
息子は我慢ならなかった。父は強い。優しく、頼りになって、自慢の、かっこいい父だ。だから我慢ならなかった。馬鹿にするなと、すごいんだぞと、声を大にして言いたかった。だから―――――
「 父ちゃんすごい仕事行ってきてよ!! オレ、このままじゃ悔しいよ!! 」
■
「―――――馬鹿な、事を!!」
ルーシィの声が一帯に響いた。
■
マカオは一瞬、痛みを忘れた。しかしそれは本当に一瞬で、すぐさま傷を焼く痛みが全身に走る。
しかし、何とか目をこじ開けて声の主を見た。―――――見たことのない少女だ。
上半身は下着一枚。みつあみにされた金髪は乱れていたが美しく、なにより涙を耐えて煌めく瞳が目を引く、きれいな少女だった。
誰だろうか。ナツと共に居るということは、ギルドの新入りだろうか。そんなことを頭の隅で考えた。
少女は言う。
「会わせる顔がない!? ―――――そんなわけが、ありますか!!」
マカオはその瞳に、燃えるような炎と、……凍えるような寂しさを見た気がした。
「たとえあなたが何と言おうと、必ずロメオさんの元へ連れ帰ります!! 彼はずっと、あなたを待っているのだから……!!」
―――――ロメオ。愛する息子。
マカオは、あまり周囲の評価を気にしたりしない。それは
誇りはある。周囲は分からなくとも、仲間は知っている。ならそれでよかった。
しかし―――――それにより息子が惨めな思いをするというのなら。
命を懸けてでも、
―――――だというのに、この体たらく。
惨めだ。情けない。ああ、息子は、こんな父に幻滅するだろうか。
「クソ…っ―――――クソおぉっ!!」
( お前の誇れる父ちゃんでいてやりたかったのによォ!! )
湿ったマカオの声。ナツはあともう少しで塞がる傷を押さえつけながら、眉間にしわを寄せた。
「ロメオはお前と一緒に居たいんだ…!! だから帰るぞ!!」
それはもしかしたら、ナツだから言えたことだったかもしれない。
一緒に居たいんだ。父と。家族と。―――――そんな気持ちを、ナツはよく知っている。
だから必ずマカオを連れて帰るのだ。ロメオはずっと、父を待っている。
「あなたが父として仕事に挑んだのなら、あなたは父として帰らなくてはいけません。そうでなければ、ロメオさんは親殺しになってしまうでしょう」
自分のわがままで愛する人を殺したのだと、そうやって一生背負わなくてはいけなくなる。
まだ、幼い子供に。わが子に。そんな思いをさせたい親がいるか。
「会わせる顔がないなんて、馬鹿なことを……わが子のためにたったひとりでこんな場所にまで来て、凶悪と恐れられる怪物を19匹も撃破した父を誇らない子が居ましょうか……!!」
それはどこか、羨ましそうな音だったかもしれない。
確かに結果としてマカオは死にかけている。それは確かなことだ。しかし同時に、19匹のバルカンを撃破したことも確かなことなのだ。
そんな父を、なぜ子が誇らないだろうか。紛れもなく、自分のために戦ってくれた父を。
「―――――すまねぇ…! すまねえナツ、ハッピー、嬢ちゃん…!!
ありがとう……!!」
ぼろり、マカオの目から大粒の涙がこぼれた。
■
「さ、ナツさん、マカオさんをホロロギウムの中へ!」
「おし!」
「お任せください」
ナツは再び気を失ったマカオを、ルーシィが再召喚したホロロギウムの中へ押し込める。ホロロギウムは外敵から身を守ってくれるのと同時に、中の存在をある程度守護できるのだ。止血が済んだマカオを医者の元へ運ぶまでの道中、これが一番安全だろうという判断だった。
「あ」
「あ?」
それでは出発をといったところで、ルーシィがハッとして、また借りた毛布の中で身を縮ませた。
……緊急事態だったとはいえ、上半身下着一枚の姿をナツに見られた恥ずかしさが今頃になってやってきたのだ。
悲鳴を上げなかったのは、あくまで自発的に脱いだのだからという思いだ。ルーシィの顔は耳まで真っ赤だった。
ちなみになぜマカオの服を使わないで脱いだのかというと、怪我人には体温を保持してもらうために治療のために脱がせた服をもう一度着せるつもりだったからである。
というか、常識的に考えてこんな格好で街へは下りられないし、そもそもこの吹雪を突破できるとは思えない。サマーニットですら凍え死ぬと思ったのに……
だめだ、足手まといになる。それがルーシィの判断だった。
「あの、ナツさんとハッピーさんはどうぞお先に出発されてください」
「ルーシィはどうするの?」
「マカオさんをお医者様の元へ送り届けることができましたら、ホロロギウムに一度戻ってもらいます。星霊が星霊界に帰ったことは鍵越しに分かりますので、そうすればタウロスを再召喚して、わたくしを抱えて山を下ってもらいますわ」
首をかしげたハッピーに説明するルーシィをナツはまじまじと見た。
顔色が悪い。指先は震えている。それから多分、魔力がもうあまり残っていない。…このまま置いて行って、大丈夫だとは思えない。
それなのに変なことを言うルーシィに、ナツは少し考えた。多分、言っても聞かなそうだなと。なんとなくだがこの短い付き合いで、ナツはルーシィがちょっと頑固だなと気づいた。なら、言うより行動だろう。
「ルーシィ、毛布ちゃんと着とけよ」
「へ、きゃっ!」
―――――ナツはルーシィへ声をかけると、その体をいとも簡単に抱き上げて片腕に座らせた。歳の割にたくましいナツの腕に、ルーシィ柔らかい尻肉が乗る。
ルーシィは発狂しそうになった。毛布があるとはいえこんな格好で異性と正面から密着するなんて息が止まる。
けれど慌てた様子のルーシィを意に介さず、ナツはハッピーに声をかけた。
「ナナナナツさんっ!」
「ハッピー、時計ごとマカオ運んでくれ」
「お、降ろして…」
「あい、任せて」
「ルーシィ暴れんな。お前も一緒に帰るぞ、ギルドに」
……その言葉だけでルーシィが抵抗できなくなるということを、ナツは知っているのだろうか。
ルーシィは一瞬止まった息をゆっくりと吐き、おずおずとナツの頭に腕を回した。
「あの、どうぞお願いいたします……」
「おー、しっかり掴まっとけよ」
―――――ハッピーが飛び、ナツが駆けだした。
天候は相変わらずの猛吹雪だったが、ルーシィは全く寒くなかった。
■
ロメオは後悔していた。
なぜ自分は父にあんなことを言ってしまったのだろう。なぜあんなことを望んでしまったのだろう。
何も知らない連中の、くだらないいじめなんて無視すればよかった。そうすれば、そうすれば……
街の入り口にあるベンチに座り込み自責の念にかられるロメオ。この場所にいるのは、父がいつ帰ってきてもすぐに気づけるようにだ。
ナツはおそらく父を迎えに行ってくれたのだろう。新入りらしいルーシィと名乗ったお姉さんは「必ず連れて帰る」と言ってくれた。
………けれど、本当だろうか。父が行ったのはとても恐ろしいモンスターの討伐任務だ。もしかしたら、
もしかしたら父は―――――
「ロメオ」
■
―――――いいですか、ロメオさん。
■
「あのね、父ちゃん。ルーシィ姉が言ってたんだ。その人を誇る理由は、自分がその人のことが大好きなだけで十分なんだって。だからね、俺の父ちゃんはすげぇかっこいいんだよ。だって俺、父ちゃんの事大好きだから」
「なんでえ、ちょっと見ねえうちにずいぶんイイ男になったじゃねえかロメオ」
「それに怪物をいっぱいやっつけたんでしょ」
「おうさ。次クソガキどもに絡まれたら言ってやれ。テメェの親父は怪物を19匹も倒せんのか、ってな!」
「ごめんね父ちゃん………ありがとう……おかえりィ……!!」
「馬鹿野郎謝るやつがあるか。いいんだよ、俺はお前の父ちゃんなんだからよ。
ただいま、ロメオ」
■
「ルーシィ」
「はい?」
ナツは腕に抱えたままのルーシィに声をかける。ルーシィは不思議そうに返事をした。
ふたりはマグノリアの人気のない森の入り口にいた。下着姿のルーシィが街の中には入れないと半泣きになったため、ハッピーが着替えの入ったルーシィの荷物をギルドに取りに行っている間身を潜めているのだ。
「今日はありがとな」
ルーシィは茫然とナツを見た。
礼を言われた。それは役に立ったということだろうか。けれど、けれど………
「いえ、わたくしの方こそ、お礼を言わなくてはいけません」
やっぱりどうしても、たいして役に立てたとは思わなかった。
むしろ助けてもらうばかりで、足手まといだっただろうという思いが消えない。
「マカオのために囮になったり、あの牛のやつもさ、ルーシィが呼んでなかったらあのまま全員谷底に落っこちてただろ。あとマカオの治療」
少し暗くなったルーシィの顔色を無視するように、ナツは『ルーシィのおかげ』と思ったことを上げていく。
そして、にっかりと、太陽のように温かい笑顔で、ルーシィに礼を言った。
「ルーシィが居てよかった! ありがとな!!」
―――――胸の奥にこびりついていた黒くて重いものが、蕩けるように消えていくのが分かる。
「――――――はい。これからも、頑張りますね」
かなわないなあ、とルーシィは微笑んだ。
呼びかけることすら止めてしまったのはいつだったか。
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想いの行方
それは父の肖像
「んっ―――――はああ…………」
立ち上る湯気。頬を伝う汗。ルーシィはそれを指でそっと拭い、満足そうに熱のこもった溜息を吐いた。
マカオを救出し着替えた後の話だ。ルーシィはすぐさま数日分のホテルを確保し、
初めてのひとり暮らし。物の相場は知っていてもひとり暮らしの相場など知らないルーシィは、ミラジェーンにいくつかの相談をした後はギルドに寄ることもできないくらいに必死に部屋を探した。
立地はどこがいいだろうか。家賃の相場は? 日常生活の利便性は?
たくさんのことを考えながら選んだのが、商店街に比較的近くにあったアパートだった。
家賃は7万Jと働き始めの若い娘が借りるには高い部屋だが、立地に対しての金額としては設備がよかった。ほどほどに広い間取りに、収納スペースも多く、物の多い女性に優しい造り。トイレとバスルームは別だし脱衣所もあってキッチンも広い。真っ白な壁に木造独特の香り。ちょっとレトロな暖炉に、それに見合った備え付けの家具。そして
センスを感じさせるそれらはいとも容易くルーシィのハートを射抜いてしまった。
少し癖のある大家に頼み込み入居したルーシィは、今朝方ようやくすべての荷物の整理が終わったところだった。
まだ新生活に必要なものは買いに行かなくてはいけないが、まずは少し汗ばんだ身を清めてからと、洗い立ての湯舟にたっぷりのお湯を溜め、贅沢な朝風呂と洒落込んだのだ。
ちゃぷん。湯が揺れる。レンガ造りの湯舟は寄りかかると少し痛いが、見た目は抜群におしゃれなので入っているだけでテンションが上がる。ああ、本当にいい家を見つけられたと、ルーシィはにっこりと笑った。
■
バスルームから出たルーシィは、体をふきながら頭の中でこの後の予定を組み立てた。
必要なものの買い出しをしなくてはいけない。ベッドはあるからマットレスと布団を買って、ああ、かわいらしいベッドシーツを扱っているお店を見かけた気がするから探検ついでに探してみようか。
食器も必要だ。調理器具に調味料、食材も買わなくては。新しい洋服を見に行ってもいい。本だって買いたい。
たくさんの『これから』を想像して、ルーシィのくち元が緩む。
( そうだわ。ナツさんと、ハッピーさん )
ふたりにも改めてお礼がしたいと、ルーシィは予定の最優先項目にそのことを書き込んだ。
思い返すのは数日前。ナツとハッピーは、ルーシィがホテルを確保してすぐに訪ねてきてくれた。もちろんルーシィはとても喜び招き入れ、夜通しふたりと語りつくした。
元々は早寝早起きタイプのルーシィが徹夜をするのはとても厳しかったが、ナツとハッピーが話してくれた今までの冒険の話があまりにも面白く楽しかったので仕方がない。終ぞ日が出るまで眠くなることがなく話し続けてしまったのだ。
しかしナツもハッピーもルーシィも、夜中だというのに興奮のあまりどんどん声が大きくなり―――――とうとう隣室の客からフロントへクレームが入り、ルーシィたちはホテルから注意を受けてしまったもである。
ただ幸いだったのが、ナツの顔を見てすぐに
その対応で
ちなみに、結果として一泊したことになったナツの宿代はルーシィが出した。(ハッピーは猫だったために料金はかからなかった)
下着をつけ、袖ぐちがフレアスリーブになっている花柄のワンピースを着て身だしなみを整えたルーシィは、買い物の前にギルドに寄ってナツたちを食事に誘おうか、と考えた。
騒いでしまった戒めとして、新居が見つかるまでナツたちとは会わないようにしていたのだ。なにせ話すのが楽しくって家探しを忘れてしまうので。
けれど最低限必要なことが終わったのなら、あの日の話の続きを聞きたい。そうだ、ギルドで食事をとりながらなら、多少大きな声になってしまっても大丈夫だろう。それならミラジェーンにもアドバイスのお礼が言える、とルーシィは脱衣所とリビングを仕切るカーテンをくぐろうとして―――――息を潜めた。
部屋の中に、誰かがいる。
耳を澄ませば自分以外の呼吸音が聞こえる。部屋の鍵は閉めてあるし、チェーンもかけてある。もちろん誰かを招いてもいない。
何かをかみ砕く音と咀嚼音…しかしこの家にはまだ食料品はない。
相手は人間か? それとも……
ルーシィは極めて冷静さをつなぎ止めながら、鍵を置いた場所を思い出す。ああ、家の中だからって離すのではなかった。風呂場にまで持ち込んででも肌身離さずいるべきだった。なぜなら鍵が無くては、ルーシィは戦闘手段が無いのだから。
おそらく呼吸の主は部屋の中央付近にいると思われる。そして鍵はすぐ近くの作業机の上だ。……近い。しかし、やるしかない。
タイミングを見て飛び出し、捕まらずに鍵を確保し、タウロスを呼ぶ。今の自分にできる最善はこれだと、ルーシィは静かに呼吸を整えた。
失敗はできない。集中力を高める。『何か』は動かない。ならば…
3―――――2―――――1―――――
■
「ごめんなさい、まだお水しかお出しできなくて……」
ルーシィはローテーブルの上にプラスチックコップに入った水をふたつ置いた。
「ルーシィこれから買い物行くの?」
「けっこーいっぱい物あんのにな」
そんなルーシィに話しかけるのはナツとハッピーだ。
―――――ルーシィが勢いよく脱衣所から飛び出した先で見たのは、ソファーの上でスナック菓子をほおばるナツとローテーブルの上で魚にかじりつくハッピーだった。
「ここに在るものはほとんどが備え付けのものですから。絨毯だとか、お布団だとか、食器だとか。用事はたくさんございますわ」
警戒していた分拍子抜けしてしまったルーシィはうっかり漫画のようにズッコケてしまった。打ち付けた腰は鈍く痛むが、まあ不審者でなかったのだからいいとしよう。
「ところで、おふたりはなぜわたくしのお家をご存じなのですか?」
「ミラから聞いたんだよ! 鍵借りた。会いに来た!」
首を傾げ当然の疑問をくちにしたルーシィに、ナツはにっかりと心の底から楽しそうに笑いながら返して1本の鍵を掲げた。
ナツはそれを借りてきて部屋に入り込んだらしい。そんな簡単に借りられるのか。しかもうら若き美少女の部屋の鍵を同年代の男が。……と、思うところなのではあるが、これはミラジェーンの気づかいだった。
ホテルでお説教を受けて以降、ナツはめっきりルーシィに会えなくなった。ルーシィは部屋探しで忙しいし本人が自粛してしまったのでそれは仕方のないことなのではあるが、ルーシィをすっかり気に入ってしまったナツからしてみればたいそう不満なのである。
初対面から悪印象は抱いていなかったし、コルボ山の一件では助けられたし、夜通し語り合ったあの日は楽しくて仕方なかった。それに加えて『ちょうどいい仕事』を見つけたものだから、これはもうそういうことだろう、と『ある提案』をしようと思っていたのに、ルーシィは会いに来ないしミラジェーンには邪魔をしてはいけないと釘を刺されるし。ナツは不貞腐れた。
そんなナツを見るミラジェーンも目は穏やかだった。
ナツがひとりに対してこんなにも興味を持つのは珍しかった。気に入っても仲間になっても、一定の好感は持つがだからって追いかけまわしたりしない。ものすごく強い魔導士だというのなら話は別だろうけれど、ルーシィのことはシンプルに人格を気に入ってしまったのだろう。
だからルーシィが「部屋が見つかりました」と合鍵を持ってきた日。入れ替わるようにギルドに来たナツに合鍵を貸し出したのだ。
だってギルド内に残ったルーシィの匂いに本人を探す姿を見たら、かわいくて仕方がなかったから。きっとふたりはとびっきり仲良くなれると思ったから。
しかしそんなことを知らないルーシィは(否たとえ知っていたとしても)、けれどこれはさすがに、と苦言を呈することにした。
「ナツさん、ハッピーさん。遊びに来ていらしてくださってありがとうございます。けれど、どうぞお次はノックをしてくださいまし。そうすればわたくしがお部屋の扉を開けますから」
「………入っちゃダメか」
「親しくあろうと、女性のお部屋にむやみに出入りなさるのは良いことではございませんね」
空気が凛と張る。…と言っても威圧的なものではない。どちらかというとハルジオンで一緒のベッドに寝るのを断ったりハッピーと比較して駄々をこねたナツを咎めた時の声と同じだということにナツは気が付いた。つまり、今自分は咎められているということ一緒に。
でも邪まな思いで来たわけじゃない。納得がいかず少し不貞腐れたナツに、それでもルーシィは「親しき仲にも礼儀ありと言います」ときっぱり言い切った。こういうときのルーシィは折れなさそう、とナツの直感が訴えた。実際その通りなのである。
ちなみに同じことを察したのであろうナツより賢い青い猫は失言をしないようにすっかりくちを閉ざしていた。
不満そうに「悪かったよ」と謝ったナツに、ルーシィは雰囲気を少し和らげ、同じように柔らかい笑顔を浮かべた。
「それに、わたくしがおもてなしをしたいのです。訊ねてきてくださったナツさんとハッピーさんを、わたくしがドアを開けてお出迎えしたいのです」
だってそっちの方が素敵ですわ、と笑ったルーシィに、ナツは少しキョトンとして考えてみる。
勝手に入って、ルーシィが驚く。それはきっと面白い。けどまた怒られるだろう。それは好きじゃない。じゃあノックをする。そしたらルーシィが嬉しそうに扉を開ける。で、お菓子とかをくれる。
ナツとハッピーが顔を見合わせ頷く。相棒が自分とおんなじことを考えただろうという確信があった。そうして、おんなじ方を選んだだろうとも。
……天秤は傾いた。
■
「そーだ! なあ、ルーシィの持ってる鍵の奴ら全部見せてくれよ!」
「鍵……ああ、星霊ですね」
「それ!」
「あい! オイラも見たいです。ねね、ルーシィは何体の星霊と契約してるの?」
ふたり息を揃えて謝ったナツとハッピーに、ルーシィは笑顔で頷いた。苦言は呈したがもともと怒っているわけではなかったので謝罪がもらえれば十分だった。下心はないだろう、ということは察せたし、訊ねてきてくれたことは本当に嬉しかったのだから。
そうして許されて普段の調子に戻ったナツが言ったセリフが冒頭のものである。ナツが知っているルーシィの星霊は時計と牛である。しかしハッピーから人魚が居たとも聞いた。なら他には何がいるのかと気になるのも当然のこと。
そしてハッピーもナツに強く同意した。未知のものは面白い。好奇心のままに目を輝かせたふたりに、ルーシィはおかしそうにくすくすと笑い声を漏らした。
「ごめんなさい。星霊をすべては、わたくしの魔力が足りませんの。わたくしが契約している星霊は『6人』ですけれど、召喚せずに鍵だけでしたらお見せできますわ」
―――――ふと、ふたりは一瞬ルーシィの声が強くなったことに気が付いた。どうやら、ルーシィの琴線に軽く触れたらしい。けれど怒っているというよりはたしなめて促すような声だ。
『何体』と聞いたハッピーに『6人』と答えたルーシィ。ふたりはすぐにその意味に気が付いた。
「さ、こちらになりますわ」
そんなふたりとの間に挟んでいるローテーブルに、ふわりとハンカチを敷いたルーシィはその上に3本の鍵を並べて置いた。
「銀の鍵は『時計座のホロロギウム』『南十字座のクルックス』『琴座のリラ』です。これらはお店で買うことができる鍵ですわ。星霊によって鍵の数は異なりますのでお値段は変わりますけれど、みなさんとても頼りになるお友達ですの」
「じゃ、牛とか人魚の金の鍵はお店に売ってないの?」
「タウロスとアクエリアスですね? ええ、彼らの金の鍵は黄道十二門という
ハッピーの問いかけに頷いたルーシィは、銀の鍵のとなりに金の鍵を3本置き、順番に名を呼んだ。
「『
「きょかい……巨蟹宮!! カニか!?」
「カニー!!」
「え、ええ、キャンサーは確かにカニですね」
キャンサーの名前に異常反応を示したふたりに、ルーシィは少ししどろもどろに答えた。そんなにカニが珍しいかしら、と考えるルーシィはふたりの頭の中で想像上のキャンサーがカニ鍋にされていることに気付かない。
「あ、そうだわ。ハルジオンで新しい子をお迎えしましたの。小犬座の二コラというのですが…まだ契約をしていませんので、その様子でしたらお見せできますけれど」
どうなさいますか? というルーシィにふたりは頷いた。契約。そんな特別なものを見ることができるのはラッキーだと目をいっそう輝かせる。
契約とはどんなことをするのだろうか。まさか血判とか…、とつぶやいたハッピーにナツは冷や汗を流しながら尻を押さえた。
「では」
そんなふたりの様子に気付かず、ルーシィは二コラの鍵を掲げ、静かに契約の詠唱を唱えた。
―――――魔力が渦巻く。
「我、星霊界との道をつなぐ者。汝その呼びかけに応え
鍵の先端に鍵穴のような光が集まる。それはまるで、目に見えない扉の鍵を開けているかのような光景だった。
ナツとハッピーは息を呑む。
「開け小犬座の扉―――――二コラ」
光が溢れる。一面を照らす光の下で、空気が破裂するかのようにはじけ、
「どっ―――――」
ナツの声が震える。ハッピーは言葉もなくそれを凝視した。
何と言えばいいのだろうか。しかしこれしか言葉が思い浮かばない。まさかこんなことになるとは―――――
「どんまい!!!」
「何がですか!?」
現れたのは何とも言えない不思議な小動物だった。
■
「二コラは戦闘星霊ではなく、一般的には愛玩星霊として人気のある子ですの。個体数も多いので…ですからあの、この子の風貌はもとからですので、召喚が失敗したわけではありませんわ」
「そうか……」
「人間のエゴ……」
苦笑いしたルーシィのセリフに微妙な顔で納得したナツに対して、ハッピーは冷や汗を垂らしながら鋭い視点で呟いた。その言葉にはさすがにルーシィも気まずそうな顔をするしかない。
しかし愛玩星霊として人気があるのは本当だ。小さく、温厚で、わずかな魔力と鍵で呼んだり帰したりできるのでエサ代もかからないし、星霊だから排せつ物の世話もいらない。そしてそれなりに知性があるので躾も難しくない。
そうなると犬や猫を飼うよりよっぽど簡単だと求める人間が多いのだ。
ペットを飼うということはいのちに責任を持つということ。だのにより楽に、より簡単に、ただ自分は癒されたい。といった自分勝手な欲求の表れともいえる二コラの人気の理由は人間のエゴだろう。しかし星霊ならペット不可の賃貸やホテル、レストランにも連れて行けるわけで……まあいろいろあるのだ。
んん、と咳払いひとつで雰囲気を無理やり変えてルーシィは、今しがた呼びだした二コラへしゃがみ込んで視線を合わせ笑いかけた。
「さ、二コラ。契約をしましょう。―――――月曜日はどうかしら?」
■
「星霊の契約って地味なんだな…」
「簡単そうだね」
なんだか少し期待はずれ、といった顔をしたナツとハッピーに、二コラとの契約を終えたルーシィは瞬きをする。
まあ確かに御大層な詠唱をしたり、対価を持って関係を作るわけではないのでそう見えてしまうのも仕方がないかもしれない。しかし、
「ええ、確かにお話をしているだけのように見えてしまいますけれど、これはとても大切なことなのです」
星霊を呼びだすのに必要なのは鍵と魔力。つまり、生まれ持った素質や魔導士の人格などは契約上なんの問題もない。ほぼ無償でちからを借りるようなものだ。
「その代わりに、星霊魔導士はけっして星霊との契約…すなわち約束を裏切りません。わたくしたちの関係は信頼と絆でできた、愛ですから」
それはどこか、陽だまりのような笑顔だった。慈しみ想う、信頼を表す微笑みだった。
そしてルーシィはその笑顔のまま、二コラに「プルー、これからどうぞよろしくね」と話しかける。
「プルー? 二コラじゃないの?」
「小犬座の二コラは個体数がとても多いので、二コラというのは総称なんですの。わたくしたちが人間と呼ばれるようなものですから……あなたはわたくしの二コラ。お名前はプルーです」
かわいらしいでしょう? 気に入ってくれるかしら。と言うルーシィに、二コラ改めプルーは嬉しそうにその胸元へ飛びついた。
そんな人間と星霊のほのぼのシーンを「ふうん?」と眺めていたナツは、ポケットに両手を突っ込んだ拍子に何かがクシャリと潰れたのに気が付いた。
「あ!!」
「!?」
そしてようやく、ルーシィに会いに来た理由を思い出したのだ。
■
ルーシィは赤く色づき緩む頬を押さえられなかった。
ナツがルーシィに会いに来た理由。それはナツとハッピー、そしてルーシィで「チームを組もう」というお誘いだった。
チームとは、と不思議そうな顔をしたルーシィに説明したのはハッピーだ。曰く、ギルドメンバーでも特に仲のいい同士はチームを結成し共に仕事にあたることがよくあるのだと。
確かに難解な仕事は単独でこなすよりチームでやった方が効率がいい。そんな話を聞いたルーシィは我慢がならないとばかりに喜びを顔と雰囲気に表した。
ハッピーは言った。『特に仲のいい同士でチームを組む』と。そしてナツはルーシィをチームに誘ったのだ。
「まあ、まあ、まあ……」
それってもしかして。まさか、ナツさんは。
ルーシィの瞳に熱がこもる。どこか独特な雰囲気になってきた室内に、ハッピーが含み笑いをした。この猫、出歯亀気分である。
「ナ、ナツさん」
「お、おう」
「それってもしかして」
「う、うん?」
「それってもしかして―――――
―――――わたくしとナツさんが、お友達になれたということでしょうか!」
今度はハッピーがズッコケる番だった。
■
「嬉しいわ! わたくし、人間のお友達も猫さんのお友達も、ナツさんとハッピーさんが初めてですの!」
はしゃぐように笑ったルーシィに、ナツとハッピーは流石に否定できず。いや別に否定する必要はないのだが、こうも喜ばれるは気恥ずかしくなってくるもので。けれどそっけないことを言ってこの喜びに水を差すのもはばかられ、ふたりはとりあえず話を変えることにした。
「で、これが初めての仕事な! もう決めてあんだよ」
「まあ、本当ですか? ええっと、シロツメの街……」
ナツはポケットの中でくしゃくしゃに合っていた依頼書を引っ張り出しルーシィに渡した。そこには聞いたことがあるようなないような、といった街の名前と、大まかな依頼内容が書かれている。
それを読んだルーシィは驚愕に目を見開いた。
「エバルー公爵の屋敷から本を拝借するだけで、20万Jですか? ……こんな都合のいい話が? それに、この書き方ですとつまり『本を盗み出す』ということでは…」
「詳しい話は直接依頼人に聞けばいいだろ。それよりここだよここ」
謎、というより不審点の多い依頼内容に、ルーシィが訝しげな顔をする。しかしナツは気にせず依頼書のとある一点を指して読めと促した。
そこに書いてあったのはエバルー公爵の簡単なプロフィール。『とにかく女好きでスケベで変態! ただいま
「作戦はこーだ! まずルーシィがメイドになって忍び込む!」
「そして本を持ってくるんだよ!」
―――――きゃいきゃいと明るく話し合うナツとハッピー。そのふたりに対して、ルーシィは思わず押し黙ってしまった。
ルーシィはまさか自分が
けれど、それでふたりの役に立てるのなら。
ハコベ山の一件で、ナツはルーシィが居てよかった、助かったと言った。しかしやっぱりルーシィとしては、もっとしっかり役に立って恩返しがしたかったわけで。
お友達でなくとも仲間にはなれたから。ほんのちょっぴり、いや実は割と結構寂しいけれど。
「ええ、メイドになるのは初めてですけれど、精一杯頑張らせていただきますね」
それでも恐らく今回限りのこのチームで、できるかぎり貢献しようと笑った。
■
―――――シロツメの街は遠い。ゆえに、移動は半分以上が馬車となった。
「ナツさん、できる限りゆっくり呼吸なさってくださいましね」
ルーシィは腕を組んでよりかかってくるナツを受け止めながら、背中をさすって声をかけた。
ハコベ山への道中でこの『ハグ作戦』が有効であると立証されたことにより、今回もまたそれが採用されることとなった。
ルーシィとていまだ恥ずかしさは消えないが、あまりにも苦しげなナツが少しでも楽になるのであれば断る理由はない。これもチームワークである。
「それにしましても、本一冊に対して20万Jというのは非常に含みがありそうなお仕事ですね」
「そーお?」
出発して数十分。ぽつりと呟いたルーシィに、ハッピーは首を傾げた。
「ええ。例えば依頼主がその本を手にしたい、もしくは売却したい、というお考えでいるとするでしょう? 対して、その本が20万をこえる価値のある物だとしましたら、20万で手に入るのなら安いとなるでしょうけれど」
そこまで言って、ルーシィはわずかに不安そうな顔をして話を続けた。
「一冊の本を持ち出すことに20万Jを支払う必要があるほどに危険なお仕事、という可能性もありますよね……」
しかしそれは最悪の可能性。そもそも爵位を持つ人間の家から本を持ち出す、という時点で危険な雰囲気を持つ仕事である。やることが泥棒のそれではないか、とは思うが、何か思い違いをしているか重大な理由があるのかもしれない。
それに20万以上の価値がある本は探せばいくらでもある。権力のある人間の家なら猶更だろう。
「あとは本そのものの価値は関係なく、その本を手に入れられるのならいくらでも出す、というお話かしら」
なんにせよ、ナツはもう仕事を受けてしまったので今更どうすることもできない。とりあえずは現地で依頼人に確認するしかないな、と諦めたルーシィに、息も絶え絶えなナツが話しかけた。
「も、…問題、ねえ……よ…」
「ナツさん?」
「なんかあったら、助けるから」
「あい! オイラたちチームだからね」
―――――それは今乗り物酔いでダウンしている人間が言っても恰好が付かないようなセリフではあるが。
それでもルーシィは、肩に入っていたちからが抜けた。そうだ、ナツさんやハッピーさんも一緒にいるのだから、と。
「ええ、信じます」
けれどルーシィとて好き好んで足手まといになるつもりはないので、今回こそ活躍してみせると心の内で決意した。
■
「おふたりとも、どうぞお食事をしてきてください。わたくしはお腹がすいていませんので…宿泊先を確保しておきますね」
ようやくたどり着いたシロツメの街で、ナツは開口一番腹が減ったと騒いだ。乗り物酔いで体力を使い果たしたのだ。
ルーシィは不思議そうに「ご自分の炎を召し上がることはできないのですか?」と聞いてみたが、ナツには「お前は自分のプルーとか牛とか食べないだろ」というなんとなく納得できるようなできないような、と言った返しをされてしまったので、『ナツは自分の炎を食べない』とだけ認識してこの話を続けることはやめにした。
そして、ナツの荷物も預かりふたりと別れてホテルを探したルーシィは、フロントで予約をする際に困ってしまったことがあった。
「お部屋はいくつになさいますか?」
この街、そこそこ物価が高いのか部屋もいい値段がするのだ。…まだ収入がゼロのルーシィが借りるのには少し……いやお金が無いわけではないのだが、ここ数日の出費を考えると……
それにナツたちの分まで高い部屋を勝手にとってしまうのはいかがなものだろうか。いやでもさすがに、また同じ部屋で寝るわけにはいかない。しかし何日かかるかも分からない仕事でとるホテルなのだ。もしかしたらもう一泊、もう一泊と増えるかもしれない。その出費を考えれば……しかし……
「……ふた部屋でお願いいたします」
■
「はじめまして。私が依頼主のカービィ・メロンです」
「うまそうな名前だな」
依頼人のもとへ訪ねれば、そこにあったのは城のような豪邸。ルーシィは屋敷の外観をひととおり見て、手入れがしっかりとされた屋敷だという感想を抱いた。
―――――だからこそ不審に思う。
目の前でほほえんだ依頼主とその妻。そのふたりの所作はあまりこの屋敷に似つかわしくなく、雰囲気もいたって平凡であったからだ。
これは侮辱でもなく、ルーシィの審美眼が出した答えだった。もちろん、立派な屋敷を持っている大金持ちが全員それにふさわしく洗練された人間であるとは言わないが、それにしても。
それに、ついさっきの事だ。ナツが屋敷の門をノックして名を名乗ろうとした際、カービィは鋭くナツを黙らせ、裏口から入ってくるように手引きした。……まるで魔導士であることを公にされることが困るというように。もしくは、魔導士が訊ねてきているということが周囲にバレてしまうのを防ぎたかったのだろうか。
けれど、何故?
おそらくここまで不審がってしまうのは、やはり依頼に納得がいかないからだろう。どうにもすべてを疑ってかかってしまうようで、ルーシィは一度意識を切り替えた。
「カービィさま、お仕事のお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ。私の依頼はひとつ。エバルー公爵の持つ本『
―――――思わずルーシィが黙り込む。
破棄または焼却。……その言葉には、なんとしても本を消し去りたいという強い意志が感じられるようだった。
ナツは、盗ってくるんじゃねえのか、と訝しげな顔をした。さすがに何か不審なものを感じたのだろう。
しかしカービィは変わらず穏やかな顔で「他人の所有物を無断で破棄するのですから、盗るのと変わらないですがね」とうなずいた。
「
「ええ、あの本はこの世にひとつしかありませんから」
「まあ。著者はどなたで?」
「―――――それは現物を見れば自ずと分かるでしょう」
「……ええ、そうですわね」
とりあえずルーシィは当たり障りのない探りを入れてみることにした。けれど、カービィははぐらかす。
その姿にルーシィの不安が加速する。ルーシィもナツも少し険しい顔になった。ハッピーも眉を寄せている。
魔導士たちの表情が明るくないことに気付いているカービィは、浮かべていた微笑み一転。不穏さを感じさせるような真剣な表情で言った。
「この依頼が成功した暁には報酬として200万Jをお支払いいたします」
「にっ、」
「なんじゃそりゃあ!?」
―――――全員の顔が驚愕に染まる。思わず叫んだナツに、カービィは値上がったことを知らずにおいででしたかと微笑んだ。
ルーシィは冷や汗が流れた。200万Jなんて、何故。いや、確かにそれだけの価値がある本はたくさんある。世界に一冊だというのならプレミアもつくだろう。―――――それにしても、カービィのどこか冷たいまでの固い雰囲気が、ルーシィに納得をさせてくれなかった。
吊り上げられた金額はまるで『なりふり構っていられない』というかのような性急さが示すのは、一体何だというのだろうか。
「………一体、その本に何があるというのですか」
「―――――私はあの本を消し去りたい。あの本の存在が許せないのです」
返ってきた答え。その声は深い海底のように凪いでいるようで、……捨て去れない重い気持ちに捕らわれているようで。ルーシィはそれ以上、聞くことができなかった。
■
「じゃ、作戦通りルーシィがメイドとして忍び込むということで」
「はい、頑張りますね」
エバルー公爵の屋敷から少し離れた木陰で、ルーシィたちは最後の作戦会議をする。と言っても内容はおおざっぱで、まずルーシィがメイドとして忍び込み、本を見つけて脱出する。何かあれば大声を出して、そうすればナツが殴り込みに入って救出する。
…正直ルーシィはその作戦はどうなのだろうか、と思ってしまったが、まあ自分がへまをしなければいいのだから、ナツの殴り込み以外は作戦としておかしくはないだろうと思い直した。
それに、ナツは助けると言った。その言葉に不安はいくばくか溶けて消えてくれるから、あまり緊張しすぎないで仕事にあたれる。これならミスもなくこなせるかもしれない。
ルーシィはギルドマークを隠すように白い手袋をはめ、屋敷の門をノックした。
「ごめんください、このお屋敷で
あくまで好印象を抱いてもらえるように、ルーシィはできるだけ穏やかな声で呼びかけた。
―――――それは反射だった。
ルーシィは不意に足元から魔力を感じ取り、咄嗟にその場から数歩後ずさった。―――――同時にルーシィが立っていたあたりの地面が盛り上がる。
そして弾けるように何かが飛び出した。
「メイド志願?」
―――――例えるのなら、それは巨木。
現れたのは体積がルーシィの4倍はあるであろう女性だった。思わずナツを呼びそうになったルーシィは唇を噛んで堪える。いやこれは逃げそうにもなるだろう。下から巨女。怖すぎる。しかもそれ以上に―――――
( お、お、お洋服のサイズが合っていないのではないでしょうかっ )
さらされた胸元。短すぎるスカートからはかわいらしい下着が丸見えだった。なんと破廉恥なことか! まさかエバルー公爵の趣味か。ならば自分もこんな格好をしなくてはいけないのではないか、とルーシィは震えた。
「ご主人様! 募集広告を見てきた娘だそうですが」
巨女は固まっているルーシィを意に介さず、飛び出してきた穴の中に叫びかける―――――返事はすぐにあった。
「ボヨヨヨヨ~ン!! 吾輩を呼んだかね」
巨女の通ってきた穴から、同じように飛び出してきたのは一方的に知った顔。
それは依頼書に載っていた顔写真と同じ顔。―――――間違いない。エバルー公爵本人である。
「あ、あの、広告を見て志願させていただきました! お雇い頂けますでしょうか」
ここで気に入られなくてはと、ルーシィは精一杯の笑顔を浮かべてエバルーに媚を売った。その微笑みは控えめながらも愛嬌があり、十分かわいらしいものであったが―――――
「いらん、帰れブス」
■
ルーシィの敗因はただひとつ。エバルーの美的感覚が少し特殊であることだった。
■
ナツとハッピーは暗い影を背負い凹むルーシィになんと声をかけたものかと顔を見合わせた。エバルーの件については全くの予想外すぎて、さすがにナツたちも木陰に隠れながらリアクションに困ったものだ。
「わたくしは……ひとの、容姿のお好みを、かくあるべきと定めるつもりは、ありませんのですけれど」
「お、おう」
「公爵がご自分から見て魅力的な女性だけを、お雇いされていらっしゃるというのも、それは公爵の自由なのですから、何の問題も無いのですけれど……」
「あ、あい」
「それでも―――――それでも、初対面の女性に向かって『ブス』などと容姿を貶す暴言を吐くだなんて………!!」
ルーシィの心の傷は深かった。
なにせルーシィは今まで自分の容姿を貶すような人間に特別会ったことが無い。そもそも活動範囲も人間関係も狭かった。
そして何より、ルーシィの周りにいた人たちはくちぐちにルーシィにこう言っていたのだ―――――母によく似ていると。
ルーシィにとって母は憧れだ。美しく、凛とした、完璧な淑女だった。そんな母と似ていると言われるのは誇り高く、ルーシィにとって自慢できることであった。
しかし、ブスである。面と向かってブスである。もしかして、周囲は気を使ってそう言ってくれていただけで、実は自分はひとさまに見せられる容姿ではないのではないだろうか―――――思わず考えてしまったネガティブな思考が、ルーシィの頭の中にこびりついて離れなくなってしまった。
初体験の傷は深い。ルーシィとて乙女である。容姿を貶されてなぜショックを受けないわけがあろうか。それでも泣かなかったのはせめてものプライドだった。
「ま、まーこんなこともあるだろ」
「潜入すらできないだなんて……」
「だいじょーぶだよルーシィ、作戦はまだあるから」
「おお、次の作戦は『作戦T』だ!」
Tとは
ああ、また足手まといになってしまったとルーシィは落ち込んでしまう。
「ええ―――――悲しい思いはしてしまいましたが、お仕事はお仕事ですものね」
こうなったら意地でも本を見つけ出さなくては、と、ルーシィはもう一度意識を切り替えた。
父の笑った顔とは、どんなものだっただろうか。
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閉ざされた扉を開ける鍵
少女は鍵を開いた。―――――それは長年見つけられることの無かった、真実の鍵。
「なあ、こんなにコソコソしなきゃダメなのかよ」
「ええ、もちろんです」
一行は作戦を変更し、再び仕事に入った。新しい作戦はT。しかし正しくは、その作戦にさらなる改良を加えたものだ。
「作戦Tは本来、正面突破の大暴れ、というものでしたでしょう」
「おう。邪魔する奴を全部ぶっ飛ばして燃やす」
「…これは確かにギルドを通した正式な依頼ではありますが、かなりグレーゾーンでしょう。なにせ本質が泥棒なのですもの」
例えば相手が盗賊など分かりやすい悪党ならまだしも、今回の相手は街の有力者であり爵位を持つ権力者なのだ。だというのに派手にやってしまえば、悪党がどちらになるのかなど分かり切ったこと。
「失敗してしまえば、軍はもちろん評議会も動かれるでしょう。今までとは訳が違ってきてしまいますから、…ギルドに重いペナルティが科せられてしまう可能性もありますわ」
いまだに納得のいかない依頼内容。しかし、少しばかり私怨が入っているかもしれないが、あのエバルーの性格からしてなにか邪まな裏事情を持っていそうでもある。
最悪ナツが暴れすぎたとしても、エバルーの悪行を見つけることができれば…お咎めが少なく済むかもしれない。
ルーシィはひっそりと、本を探すついでにエバルーの粗探しもしようと考えた。
「さ、おふたりとも! ここから先は忍者さんのように静かに行動しましょうね」
「に、忍者かあ……」
真剣な表情のルーシィの例えに、ナツは思わず声が跳ねる。忍者……男の子が思わず心躍ってしまうフレーズだ。
「よーし、にんにん…」とマフラーを顔に巻き始めたナツに、よく分からないけれど納得してくれたようだとルーシィは流すことにした。
■
屋上から室内に入り込むのに、ナツはさっそく大活躍だった。窓ガラスに高温にした手のひらを当てることでガラスを溶かし、空いた穴から鍵を開けて無音で室内に入る、という芸当をしてのけたのだ。
「すごいですわナツさん!」
「おう、よゆーでござるぜ」
「ん、しょっと……ここは物置、かしら?」
ナツは忍者設定がすっかり気に入ったのかどこかズレた言葉で胸を張っていたが、ルーシィは全く気にしないことにした。ナツと出会って数日。ルーシィのスルースキルがどんどん育っていくのが見て取れるだろう。人間は順応するものなのだ。
忍び込んだ部屋は少し埃っぽく、広さはあるがどこか乱雑としていた。
「……物の扱いが、少しばかり粗雑でいらっしゃるのではないかしら」
ルーシィの眉がわずかに不快を表す。部屋には様々な物があったが、捨てられるように置かれた絵画や平積みされた数冊の本(確認したが
集めるだけ集め、しかしこの管理。芸術を解さない冒涜者の振る舞いに、ルーシィの不快指数が上がる。
「ルーシィ見て見て、面白いの見つけたよ」
「…まあ、ハッピーさんたらお洒落さんになられましたの?」
そんな不穏さをにじませたルーシィに、ハッピーが陽気に話しかける。その頭には石でできた頭蓋骨がかぶさっていた。
何とも気の抜けるような光景に、思わずルーシィの頬も緩む。
ハッピーはくふふ、と笑った。
「では、お屋敷内を探しましょう」
「なあ、部屋ん中全部見て回るのか? 何部屋あんだこの家」
よし、とこぶしを握ったルーシィに、ナツが少しげっそりした顔で聞く。忍者ごっこは楽しいが、広い屋敷内をこそこそ探し回るのは正直面倒くさい。
しかし、まあ、ルーシィの言っていた『ギルドに大きなペナルティが~』という話は流石にナツも避けたいので、静かにするしかないのだが。
物置部屋から出て、廊下を足音を消しながら歩くルーシィたちは、静かな声で会話を続ける。
「とりあえず、いくつかの目星は付けていますの。まず探すのは公爵の書斎ですわ。お屋敷の構造パターンからして、場所はおおよそ分かりますので…」
「まじか! スゲーなルーシィ」
周囲を窺いながら話すルーシィに、ナツは素直に感心した。頭の良い奴の考え方だと。
「書斎になかったらどこにあるの?」
「エバルー公爵の性格にもよると思われますが、書斎の近く…ともすれば隣接した部屋に図書室がある可能性がございます。知識教養は社交界の必須項目ですので、そういった場に出る機会のある方は、文学を特別好まない方でも書斎にはたくさんの本をお持ちなのです。逆に好まれる方はご自宅に図書室をお持ちの場合が多くいらっしゃいますわ」
本を大切にする方は、日光や室温、湿度をしっかり調節して管理されますから。と答えたルーシィに、ナツとハッピーは分からない世界だととりあえず理解を捨てた。そして、そんなことまで知っているルーシィの知識が凄いなあという感想だけ残す。
「もしそのどちらにも無いとなると…いっそ隠し部屋の存在か、地下が怪しいかと―――――まって、下がってください!!」
―――――地面が揺れる
ルーシィは咄嗟に大きな声を上げ、その声以上に大きくその場から距離をとった。同時にナツとハッピーも飛び下がる。
「 侵入者発見 !!!! 」
果たして現れたのは、この屋敷のメイド軍団であった。
■
「はあ…驚きましたわ……」
「あの地面から出てくるやつって魔法かな」
メイド軍団はナツの一撃によって、一瞬にして戦闘不能へ陥った。相手が女性でも一切躊躇わないところがナツである。
しかし見つかってしまった上に騒いでしまったのは事実。これ以上敵に襲われることを恐れたルーシィは、ナツの手を取って近くまで来ていた書斎へ駆け込んだ。
たどり着いた書斎にはルーシィの読み通りたくさんの本が所狭しと並べられており、エバルーが想像以上の読書家であったことが窺い知れる。…しかし、あの物置小屋に打ち捨てられた本を思い出す限り、いい持ち主とは言えないだろう。
呼吸を整えたルーシィは部屋中の本に驚いているナツたちへ声をかけた。
「手分けしてタイトルを確認しましょう。あまり長居はできませんから…え、ナツさん!?」
「なあルーシィ見て見ろよこの本! 金ぴかだぜ金ぴか―――――って、おお?」
しかしナツとハッピーは、なんと大はしゃぎであっちこっちの本を引きずり出しては地面に放るという罰当たりなことをしていた。これには巨女が地面から出てきた時以上に驚愕した顔のルーシィが、思わず大きな声で咎めようとして―――――ナツが出した一冊の本に、全員が目を見開いた。
「デ―――――
それは間違いなく、探していた本そのものだった。
■
「こんなにあっさりと見つかるだなんて…」
「ルーシィの推理のおかげだね」
「おー、流石ルーシィ」
「そ、そうでしょうか…」
びっくりした顔のままナツに駆け寄ったルーシィは、ナツから
しかし呆けた顔は、すぐにナツとハッピーから贈られた賞賛に赤ら顔になって俯いてしまう。ようやく役に立てたという喜びがそこにあった。そして照れを隠すように本の表紙をまじましと見て―――――ルーシィはとてつもないことに気が付いた。
「こ、これ…!」
「うお、どーしたルーシィ」
「これ、ケム・ザレオン氏の著書ですわ!」
「ケ、ケム…?」
「魔導士でありながら著名な小説家でもあった方です! わたくし、彼の大ファンで…! ケム・ザレオン氏は既にお亡くなりになっているのですけれど、いまだ人気の衰えぬ文豪なのです! …そんな、ケム・ザレオン氏の作品で、しかも世界にたったひとつの非売品だというお話でしたから…この本の価値は200万Jでは収まりませんわ。それをどうしてカービィさまは破棄したいだなんて……」
この本の価値を知らない、というわけではないだろう。ならばなぜ、大金を払ってまでこんな貴重な本を消し去りたいというのか。
ケム・ザレオンが嫌い? しかしそれならばなぜこの本だけピンポイントに?
興奮で瞳を輝かせていたルーシィは、しかしどうしても拭いきれない不信感に眉をひそめる。この依頼、やっぱり何か含みがありそうだ、と。
しかしナツは意に介さず、ルーシィへ手を伸ばした。
「理由なんてなんでもいいだろ。仕事なんだから燃やすぞ」
「―――――ええ、そうですわね」
ルーシィは実はかなりの読書家である。ゆえに未発表のこの本の中身はものすごく気になるのだが、仕事は仕事。泣く泣くナツに本を手渡そうとして―――――
「……お待ちください」
「おいルーシィ、仕事だぞ。いくら読みたくても…」
「ええ、存じております。そうではなく―――――この本、魔力を帯びていらっしゃるわ」
ピクリ。ナツの手が跳ねる。魔力を帯びている―――――それは、本が魔導書の可能性があるか、本自体に魔法がかかっている可能性があるということだ。ナツは普段の態度だけ見れば頭の悪そうな脳筋キャラに見えるかもしれないが、その実仕事や戦闘の事には天才的なひらめきや発想を持つ歴戦の魔導士だ。ゆえに『本が魔力を持つ』ということの危険性を知っていた。
「…なんか仕掛けがあんのか?」
「分かりませんわ。けれど、一度調べてみた方がいいでしょう。迂闊に害を与えてしまえば呪われてしまう可能性もありますし、そうでなくとも保護系の魔法がかかっているとすれば、この本を破棄するには解呪しなくてはいけませんから…」
「なるほどなるほど、ボヨヨヨヨ………」
ならば一度外に脱出し、安全な場所で調べてみよう―――――と話を進めようとしたところで、
「貴様らの狙いは『
まるでタイミングを見計らったように、またもや床を突き破ってエバルーが現れた。
「―――――どうやらわたくしたちの行動は筒抜けでしたようですわね」
「なあルーシィ。こーなったら忍者なんて言ってらんないよな?」
「…ええ、そうですね。手段は後で考えましょう。とりあえずは…現状打破ということで」
「んじゃあ、あのボヨボヨ野郎を撃破ってわけで」
「ええ~…この屋敷の床ってどうなってんだろ…」
ピリリとした緊張感が場に走る。ナツとルーシィは鋭くエバルーを睨み付けた。…ハッピーだけは床を触りながら青い体を更に青ざめていたが。
しかし確かに、先ほどから床からばかり登場する男だ。それがポリシーなのか、この屋敷のルールなのか。まあ、それはどうでもいい。このことについて強いて言うのなら屋敷を穴だらけにする移動法は馬鹿では? ということしかない。
「フン、前の魔導士といいなにを躍起になって探しているかと思えば―――――そんなくだらない本か」
―――――くだらない?
それはルーシィにとって聞き捨てならない言葉だった。ルーシィは本の内容を知らないが、この本の著者は文豪ケム・ザレオンだ。彼の作品はすべて読み込んだルーシィにとって、ケム・ザレオンの物語を『くだらない』と評するエバルーの神経が分からない。
しかし、今はそれに噛みついている場合ではない。
「あら、でしたらこの本、お譲りいただけませんかしら」
「いやだね。どんなにくだらなくても吾輩の本だ。何故吾輩が己が財を他人に施してやらねばならん?」
「つれないお人だわ」
「うるさいブス」
ピクリ、ルーシィのこめかみが震える。またブス。またブスである。乙女に向かって二度もブスである。
ショックだ。悲しい。それと同じくらい、悔しくて腹が立つというものだ。
ルーシィの表情が一層剣呑となる。しかしその顔は険しいというより鋭くしかし凛とした、エバルーにはない上品さがあった。
―――――その姿に、今度はエバルーがこめかみを震わせる。
あの目。ああ、あの目が気に入らない。高貴なるこのエバルー公爵をまるで見下したかのようなあの目が気に入らない!
「ああ―――――気にくわん!! 来い『パニッシュブラザーズ』!!!!」
エバルーが吠える。唾液を泡立たせて吠えるその姿には上品さは欠片もなく、ただ疎ましい殺意があった。
エバルーの声に呼応するように、隅から隅まで本の敷詰まった本棚が重たい音を上げながら動き出し―――――飢えた狼が顔を出す。
「―――――やっと
「仕事もしねえで金だけもらってちゃあ、ママに叱られちまうところだったぜ」
■
そのふたりは独特な相貌だった。坊主頭に長い三つ編みを持った、中華服のようなものを纏う男。そしてその男より頭ふたつほど大きい、カジュアルな格好をした大男。
「傭兵ギルドの南の狼だ!」
ハッピーがギルドマークを見て叫んだ。―――――ナツはようやく納得した。ああ、
「ボヨヨヨヨ! 南の狼は常に空腹だ…覚悟すると良い。さあバニッシュブラザーズ、あの娘の持つ本を奪い返し、こいつらを殺してしまえ!!!」
「ほう、なかなかのスピードだ」
―――――いつの間にか、ルーシィとバニッシュブラザーズの間にはナツが居た。
大して緊張した様子もないその立ち姿。しかしそこに隙はなく、バニッシュブラザーズはすぐさま目の前の男を素通りして娘を処分することは不可能であると悟った。
「ルーシィ、本は任せていいか」
「―――――ええ、どうぞ信じてください」
「おお、信じてる」
その言葉を合図に、ルーシィは扉に向かって駆け出した。
「この本の仕掛けはすぐに解明いたします。ご武運を!!」
ナツは応えず、ただじっと襲い掛かるふたりの敵を見据えていた。
■
屋敷中を駆け回り地下の下水道に潜り込んだルーシィは、持参した荷物の中から『風読みの眼鏡』を取り出し
魔力は感じられるが表紙には何もない。裏表紙もだ。そして中身はただの冒険記に見える。ならば魔導書ではない。つまり、この本を読まなくては魔力の根源が分からない。
だからルーシィは現状最高のパフォーマンスができるように『本を数倍以上のスピードで読むことができる』魔法アイテムを引っ張り出して、その謎の解明にあたろうとした。
………かかった時間はどれほどだろうか。最後のページの余白すら読み終わったルーシィは、震える息を吐きながら本を閉じた。
―――――この本は、燃やせない。
燃やせるわけがなかった。けして燃やしてはいけないものだった。ルーシィが見つけてしまったそれは、
「こんな宝物を、消し去ることなんてできないわ」
あまりに尊いものだった。
だから渡さなくてはいけない。誰よりもこの本を受け取り、そして読むべきである人物へ。―――――カービィ・メロンへ。
「見つけたぞ小娘ぇ!!」
「―――――きゃあっ!?」
さっそくナツのもとへ向かおうと立ち上がったルーシィは、―――――その瞬間背にしていた壁から飛びだしてきた二対の腕に、その細くか弱い手首を握りこまれてしまった。
「貴様今『宝』と言ったな? やはりそれは財宝のありかを示していたのか!? 言え!!!!」
■
たとえ誰が何と言おうと、これは私の罪だろう。
■
―――――掴み上げられた手首がひねられ、ルーシィの腕が悲鳴を上げる。ぎしぎしと鳴る音は骨にかかる負担を表している。
あまりの痛みに額から汗の滲むルーシィは、
■
我が家族よ
■
しかしどれだけ痛みに襲われようと、鋭い視線で壁から顔を出すエバルーを睨み付けた。
財宝のありか? ああ、確かにそれは心躍る秘密だろう。そうであればルーシィも創作のようなロマンに心躍らせただろう。しかし、今この時に限り―――――ルーシィはそれを詰まらない邪推だと罵った。
■
―――――愛している
■
「黙りなさい」
「―――――なに?」
スウ、とエバルーの目が細められる。
エバルーはえらい。エバルーは立派だ。それはエバルーにとって当たり前のことだ。ゆえに平凡な万民は自分を敬うべきだ。それはエバルーにとって当然のことだ。
それなのに、この小娘は、いったい誰に物を言っている。
「あなたのようなものの美しさを知らない―――――
「―――――きさまああああああっ!!!」
エバルーが怒鳴る。高貴なるエバルー公爵を愚弄した身の程知らずの小娘に怒鳴る。捻り上げた腕をさらに捻られ、ルーシィの喉からは苦しげなうめき声がこぼれた。
「無礼者が!! きさまは吾輩の命に従っておればよいのだ!! さあ言え!! 宝とは何だ!! それはどこにある!! その本は吾輩がケム・ザレオンに書かせた吾輩の本だ!!
ならば隠された宝も吾輩のものなのじゃああああっ!!!!! 」
聞くに恥ずかしい喚き声をあげてエバルーは腕にさらにちからを込めた。ああこの小娘には、一度理解させてやらねばならんと。自分がどれだけちっぽけで、吾輩がどれだけ偉大であるのかをと!!
まずはそう、この両腕をへし折って―――――
ベギッ!!
地下に、固いものがへし折れた音が響いた。
■
関節が本来曲がらないはずの方向にひしゃげた腕。―――――その腕をへし折ったのは、青い体毛に覆われた両足。
「―――――ハッピーさん!!」
ハッピーがエバルーの左腕をへし折ったのだ。
ルーシィは瞬時に、痛みに悶えるエバルーから逃げ出し距離をとった。―――――そして、その手に金の鍵を握る。
「ハッピーさん、どうもあり―――――あ、あら…」
そして救い出してくれた
「あ、あのハッピーさん…」
「
「あの、下水ですので早く上がりませんとお水を飲んでお腹を壊してしまわれますよ」
何とも緊張感の続かない連中である。
しかしルーシィはすぐに鍵の先をエバルーにむけ警戒態勢をとり、威嚇した。
「形勢逆転ですわねミスター。ここは紳士として神妙になされることをお勧めいたしますけれど」
「ほう? 星霊魔導士か…ボヨヨヨ! だが風読みの眼鏡を持つほどの文学少女のくせに言葉の使い方を間違えておるぞ」
形勢逆転とはすなわち勢力の優劣状態が逆になることを指す。そしてエバルーは
油断して腕を折られたが、たかが猫一匹増えたくらいで自分が劣勢になるはずがないという圧倒的自身がエバルーにはあった。
「ボヨヨヨヨン!!」
独特な笑い終えを上げ、エバルーが潜る。―――――しかしルーシィの表情に焦りはなかった。
足元から勢いよく出てきたエバルーをバックステップで避けたルーシィはくちを開く。
「この本を読んだとき、愕然としましたわ―――――内容は文豪ケム・ザレオンとは思えないような、拙すぎる冒険小説!」
エバルーは潜り飛び出し潜り飛び出しを繰り返し、ルーシィを追いかける。しかしルーシィは素早く、そして軽い足取りでそれを避け続けた。
「そ~っだ!! この素晴らしい吾輩を主人公にしておいて、あの男は最低な駄作を作りおった! けしからん!!」
ガシャン、と勢いよくルーシィの背が鉄製の柵にぶつかる。―――――それと同時に、その柵に手を尽き、ルーシィは勢いよく跳びあがることで宙に身を浮かせた。
「脅迫し強制的に筆を執らせた分際で、何を偉そうに!!」
瞬間、奥の壁から飛び出したエバルーが体当たりをし、柵は大破。間一髪でルーシィは攻撃を回避した。
ハッピーは身をすくませる。―――――ルーシィが怒ってる。
ハコベ山でマカオを怒鳴りつけた時のとは違う。豪としたちから強さを感じさせるルーシィの『怒り』が、ハッピーの毛を逆立たせた。
「はぁ~~ん? 何を言うか。吾輩はものすごぉく偉いんじゃぞ! 非があるのはその吾輩を主人公に据えた物語を書かせてやる名誉を与えてやったというのに、書かぬと
それはあまりに身勝手な言い分だった。偉い? 名誉? 世迷いごとを。この男は文豪に選ばれなかったのだ。自身の作品に出したいと、欠片も思われなかったのだ。
なぜか? そんなもの、誰だって分かるだろうとも。
「ボヨヨヨヨン!! だから言ってやったのだ、書かねば貴様の親族全員の市民権を剥奪するとなァ!!!」
エバルーが再び地に潜る。その捨て台詞に、ハッピーは愕然とした。
「市民権剥奪って…そんなことされたら生きていけないよ! こいつにそんな権限あるの!?」
「この土地にはまだ地主が絶対権力を振るう封建主義が残っているのでしょう」
返したルーシィの声は冷静であったが、―――――その内心は煮えたぎる怒りがあった。
市民権を剥奪されるということは、身分が証明できないということ。つまり、商人ギルドや職人ギルドに加入できないということだ。
生きていく道が無いわけではないが…そもそも地主が好き勝手出来るこの土地で市民権を剥奪されたということは、地主に逆らった結果であるということだと、おそらく街中の人間に認知されるだろう。
そうなれば、ほとんどの人間は『巻き込まれたくない』と関わりを絶つことが想像できる。
少なくとも街中では生きていけず、違う街に出ようとも、市民登録をする際に前の街で市民権を剥奪されたことはバレてしまう。そうなれば事情を知らない周囲からは『関わらない方がいい相手』だと思われてしまうということも想像がつく。
「っしま、」
「結局やつは書いた!!」
ルーシィは思考により鈍った動きによる一瞬の逃げ遅れで、地面から飛び出した腕に足を掴まれ尻もちをついてしまう。
「しかし断ったことは事実!! 腹が立ったから独房で書かせてやったよ! ボヨヨヨヨ、ふんぞり返っていたやつの自尊心をへし折ってやった!!」
「―――――外道!!」
ルーシィがエバルーへの一切の尊意を捨て、自分の足を掴む手を何度も蹴りつけた。
こんな暴力を振るったのは産まれて初めてだ。―――――しかし、ルーシィは何度も何度も蹴りつけた。
たまらずエバルーが手を離せば、ルーシィは再び距離をとる。そして、エバルーもまた地上に立った。
「独房での3年間、彼は冷たい石の檻でひたすらに自分の誇りと戦っていらっしゃった」
「何を……きさま、何を知っている!?」
まるで
―――――まさか。
「家族を守らなくてはいけないお気持ちと、あなたのような外道を主人公にした本を書くという屈辱!! 溢れる激情を必死に飲み下し筆を執った彼の苦悩!!」
「まさか、その本に隠されていた『宝』とは吾輩への恨みつらみか!? ―――――いやまさか、吾輩の事業の裏側を―――――!?」
サッとエバルーの顔色が変わる。もしそうだというのなら、許しがたい!! なんとしてでもその本を取り返さなくてはいけない。
目に狂気を宿したエバルーに―――――しかしルーシィはひるまなかった。
「貧困な発想ですねミスター。本当に文学を嗜んでいらっしゃいますの? ああ、お返事は結構。あなたの教養に興味はありませんので」
「小娘!! このブス!! その本を返せ!!!!」
「返せ? 御冗談を。この本はもとより、あなたのための物語ではありません。―――――帰る場所は、あなたではない」
冷徹なまでに毅然としたルーシィの声。ハッピーはいつの間にか、ルーシィの話に引き込まれて聞き入っていた。
死した文豪の悲願。まるでドラマのように目の前で暴かれていく真実。舞台上に立つのはルーシィとエバルーのみ。しかし誰もがこう言うだろう。―――――スポットライトは彼女を照らすと。
「あなたにこの本の真実を知る必要はありません。そのような権利はありません。あなたに与えられるのはただひとつ。―――――あなたの罪を裁く、罰だけですわ」
冷たいまなざしの奥。そこには滾る激情があった。
真実が示したのは後悔。謝意。そして溢れるほどの愛。
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勧善懲悪、因果応報
少女は本に星を見た。
「開け、
すう、とルーシィの腕が滑る。握られた金の鍵が光り輝き、扉を開く。
エバルーはその光を見てようやくハッと正気を取り戻した。
―――――気圧されていた。この自分が。こんなブスの小娘に!!
それは屈辱だった。そして憤怒となった。つまりは殺意の種だった。
エバルーはルーシィを阻止しようと魔法を使おうとしたが、感情により初手が遅れた彼は間に合わない。
「―――――キャンサー!!」
ルーシィの視線は一度もエバルーから外されることはなかった。目の前の畜生に劣る外道をけして許すなという本能のまま、ゾッとするほどの威圧感を持って対峙していた。
すべきことはエバルーの撃破。そしてルーシィの戦闘手段は主に星霊だより。ならばルーシィが星霊を召喚することは何らおかしなことではない。
しかし、握った鍵は金牛宮ではなかった。なにせここは下水道。体格の大きいタウロスが戦うには、相手に分がありすぎる。そしてせっかくの水場だが下水なんぞでアクエリアスを呼べば殺されるのはルーシィだ。なにより、今日は火曜日。タウロスもアクエリアスも呼べない日だ。
けれど呼べる星霊は居る。今日は、戦闘ができて、小回りが利いて、スピードがある、現状に最適の星霊が呼べる日だった。
「っ金の鍵だと!!?」
「カニきたーーーっ!!」
エバルーは沸騰したかのような顔で怒る。―――――金の鍵。それは入手が非常に困難な、特別な星霊を呼ぶ鍵だ。
今やエバルーはルーシィの全てが憎くて仕方がなかった。
「あっ! オイラ分かるよ、絶対語尾は「カニ」でしょ!? でしょ!? だってカニだもんお約束って言うんでしょ!!」
「まあ、ハッピーさんったら…」
「ルーシィ、今日はヘアセットじゃないエ 「 はい? 」 ―――――ない、 カニ ?」
「ほらーーーっ!!」
ハッピーのはしゃぐ声が響く。
鍵が光り現れたのは、成人男性ほどの体格を持った星霊だった。
カニを思わせる独特な髪型に、ストライプのシャツ、レザー調のパンツ。そして両手には2本のハサミと、背中から生えた3対のカニの足。
独創的なそのスタイルにハッピーの目が輝く。そんなハッピーの姿にルーシィの心は癒された。小動物のはしゃぐ姿はこんな緊迫した状況でも癒しになるのだ。
騒ぐハッピーと微笑むルーシィ。……ただ一人、ルーシィからの圧力を受けたキャンサーだけは若干顔色が悪かった。
……キャンサーの語尾は「エビ」である。しかし
「キャンサー。今日のお願いは戦闘よ。―――――そちらのミスターをおもてなしさしあげて」
「OKエ、…カニ」
まあ元来人の良いキャンサーも、あんなに期待した顔で見てくる小動物の期待には応えたくなってしまうので、ルーシィの意思がなくともいずれはそうなっていただろうが。
静かにハサミを構えたキャンサーの姿勢には一切の隙が無い。
「………」
無言。しかしその顔は、戦場を駆ける戦士のものだった。
■
エバルーは、我慢がならなかった。
「の、お………」
何だその親しそうな雰囲気は。なんでその小娘が金の鍵を扱っているのだ。なぜ星霊は反発しない? なぜ、なぜ、なぜ―――――
エバルーは偉かった。エバルーは恵まれていた。この街では今まで誰もがエバルーの思い通りに
ケム・ザレオンもそうだった。生意気にもエバルーが与えた名誉に唾を吐いた愚か者に、それでもエバルーは寛大に猶予を与えてやったのだ。結果としてケム・ザレオンは書いた。罰として閉じ込めた独房で、エバルーの偉大さと自信の愚かさを噛みしめて筆を執った。当然のことだ。すべてがエバルーにとって当然のことだ!
ただひとつ予想外だったのが、世に名だたる文豪だと称されていたケム・ザレオンが、想像以上に三流作家だったこと。出来上がった物語のあまりの駄作っぷりには怒りを通り越して呆れてしまった。完成した暁には世界中にばらまかれ世の全ての人間にエバルーのすばらしさを伝え聞かせるはずだった物語は、世界で一冊の本として書斎の本棚の隅に打ち捨てられることになった。
エバルーからの期待を大きく裏切ったその出来栄えに、本来なら無能作家へ厳しい罰を与えてやるところだが、なんとケム・ザレオンはエバルーという最高の主人公を登場させておきながらその素晴らしさを表現しきれなかったことを悔い、腕を切り落としたという。
さらには償いきれんと自ら死を選んだと聞けば、寛大なエバルーはそこまで恥じるのであれば許してやろうと思い改めたのだ。
「ぬおおおおおおおおおおっ!! 開けぇ!! 処女宮の扉ァァアアッ!!」
―――――しかし件の本、
我慢ならない。許すことなど到底できはしない。獣のような声を上げたエバルーはルーシィたちに向かって腕を伸ばした。―――――その手には金の鍵。
「 来いッッッッ!!! ―――――
鍵が光る。魔力を吸い上げ、扉を開く。
「ルーシィと同じ魔法だ!」
「カニ……!」
「っ星霊魔導士……!」
「お呼びでしょうかご主人様」
果たして現れたのは―――――巨木のような
「あなた星霊でしたの!?」
「やれェバルゴ!! あの小娘から本を奪え、いや、殺せ!!」
それはついさっきナツに撃退されたメイドだった。
その巨体がエバルーとルーシィたちの間に立ちはだかり、道をふさぐ。まさに肉壁。重圧感のある肉体が言い知れない威圧感を放ち、ルーシィたちを威嚇する。
「殺せっ!! 殺せっ!! 殺せっ!! 殺せっ!!」
泡立った唾液を飛ばしながらエバルーは叫ぶ。その様子はまさに狂気の沙汰と称されるほどに禍々しかった。
「殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ!!!!!!」
恩知らずのケム・ザレオン!! 何と恥知らずの振る舞いか!!
バルゴの足の間越しに見える狂ったように髪を振り乱し叫ぶエバルーの狂気に、さすがのルーシィたちも怯んでしまう。
「ころ―――――せ?」
―――――しかし、そう。何とも不思議なことに、こういう時に必ず誰か雰囲気を壊すような人間が居るのが
そしてその筆頭は―――――
「―――――ナツ!!」
「なぜ貴様がバルゴと!?」
「ナツさん!? いったいどうやって!!!」
―――――
「ど、どうって、コイツが動き出したから捕まえようとしたら…ワケ分かんねー!!!」
混乱したナツが叫ぶ。訳が分からないのはこちらのセリフだ。
けれどナツからしてみれば訳が分からないのは本当のこと。ぶっ飛ばしたはずのメイドが動き出したから、また暴れだされたり本を解析しているルーシィのもとにいかれるのを防ごうと捕まえた途端―――――視界が回転した。
一瞬見えたのが何なのか分からないまま、気づけばみんながいる下水道に移動していた。
「な、なん……」
ルーシィは愕然とする。『動き出した』ということはバルゴの現界は解かれていない状態で再召喚されたということだ。この場合、星霊は一度星霊界を経由してから契約者のもとに現れる仕組みになっている。そんなバルゴにナツが付いてきたということは、ナツは人間でありながらたとえ一瞬だとしても確かに星霊界に足を踏み入れたということになる。
前代未聞だ。少なくともルーシィの知る限り、たとえ星霊魔導士だろうと星霊界に踏み入ったことがある人間は存在しない! だというのに、偶然だとしても、ナツは間違いなく生きる伝説になったのだ。
「だーくそっ、ルーシィ! 俺は何をすればいい!?」
誰もが混乱した現場で、だからこそナツは全ての判断をルーシィに投げた。
―――――それは思考を放棄したわけじゃない。ただ、『ルーシィならば』と思ったから。
『ルーシィならば、この場で最適の答えを出せるはずだ』と
そしてその信頼に、ルーシィは確かに応えた。
「っ構わん!! 殺せバルゴ!!!」
「レディ・バルゴにご退場願ってください!!」
エバルーとルーシィの声は同時だった。つまり、声を受け取ったふたりの機動力により結果に差が出たのだ。
「おう!!!」
ルーシィは手首のブレスレットに指を滑らす。それが形を変える一瞬に、―――――バルゴはナツの左腕によって地に沈められた。
■
―――――目の前の光景が信じられない。エバルーが白目をむく。苦労して手に入れた星霊だった。金と権力で手元に置いた鍵だった。自分の好みの容姿をした完璧な星霊だった。
エバルーは知らなかった話だが、バルゴはそこまで戦闘特化の星霊ではない。しかし、
が、万全でないとはいえタウロスを一撃で戦闘不能にしたナツ相手では、さすがに荷が重い。
そもそも、エバルーは星霊魔導士として訓練を積んでいたわけではない。そして素質が高いわけでもない。つまりバルゴもまた万全のステータスではない。
ただでさえ厳しい相手に、それも大きくステータスダウンした状態で敵うわけがない。
しかしエバルーはそんなことなど知る由もなく。ゆえにあまりにも非現実的だと思わせる現実に眩暈まで感じてしまった。
星霊は人智を超えたものだ。だというのに、たかが魔導士に―――――
絶句するエバルー。その隙をルーシィは逃さなかった。
―――――鞭がしなる。
「んぐぉっ!?」
「おいたが過ぎましたわねミスター! ―――――さあ、もう
バルゴは倒れ伏した。おかげで視界は良好―――――エバルーの醜悪な顔がよく見える。
■
彼の人を想う。こんな
エバルーに声をかけられたとき、彼はどれほどの嫌悪感を感じたか。
卑劣な脅し文句にどれほどの怒りを感じたか。
仕方なく仕事を受けるために下げた頭がどれほど屈辱だったか。
体の熱を奪っていく、暗く寒い独房の中で何度筆をへし折りそうになったか。
血を吐くような苦しみの中、ただひたすらに愛する家族の幸せだけを願い物語を書き綴った父親を想う。
会ったことなどない。言葉を交わしたことなど当然ない。それでも、
だからルーシィは想う。エバルーという卑劣な悪党により傷つけられ苦しめられた彼の誇りを、思いを、愛を想う。
それは慈しみだった。そして、憧憬だった。
ゆえに、ルーシィには怒りがあった。
■
―――――伸びた鞭の先はエバルーの首に巻き付いた。駄肉の弾力を抑え込むようにきつく締め付けるそれは、けして離さないという意思を感じるほど。
そしてルーシィは体のひねりと全体重を込めることで、背負い投げのように鞭が巻き付いたその肉袋を宙に浮かび上がらせる。
その勢いにより気道が締め上げられたエバルーは「くひゅっ」と喉からいびつな音を鳴らす。
ルーシィは華奢だ。ちからもさほどない。けれど鞭や体重移動、てこの原理など
キャンサーは浮きあがったエバルーに合わせるように、その細長い体を宙へ跳び上がらせた。
「あなたごとき―――――」
キャンサーは知っていた。ルーシィの気持ちをよく分かっていた。
それはハコベ山で召喚されたタウロスが鍵越しにルーシィの怒りを感じ取っていたように、キャンサーもまた鍵を握りしめるルーシィから堪らない怒りを感じ取っていたからだ。
―――――
それに、どれもこれも、誰かを想っての怒りだったから。
心配はあるけれど、ルーシィは必ず
それなら、自分たちがしっかり守ればいい。
そう、今のように―――――ルーシィを傷つける奴らを倒すことで。
「―――――脇役出演もおこがましいわ!!!」
それは断じてエバルーを気遣ったためではない。ただ、愛する
キャンサーはすれ違いざま、エバルーの体にハサミの持ち手で魔力を込めた強烈な打撃を複数打めり込ませ―――――着地する。
「こんな感じでいかがカニ」
ハラリ、気を失ったエバルーの薄い髪が1本も残らなかったのは……まあ命は取らなくとも、ルーシィを悲しませたことを許しているわけではないので。
ユニークジョークのようなおまけに、……ルーシィは微笑んで腕の中の本を抱きしめた。
■
「あはははつるっぱげだぁ!」
「派手にやったなあルーシィ! さすが
ハッピーが笑い、ナツが称える。その声は下水道によく響き、ルーシィはナツのセリフにくすぐったそうな笑顔を浮かべた。
余談だが、その顔を見ながら星霊界に帰っていくキャンサーは、なんとなく娘が悪い遊びを教えられている父親のような気持になって消えた。
「で? 本の魔力はどうだった?」
「……呪いや攻撃や保護魔法ではありませんでした。けれど―――――」
キャンサーと、ナツにより甚大なダメージを受けたバルゴが星霊界に帰った現状。一気に(主に規格外な巨体が消えたことにより)ガランとした下水道の床に転がるエバルーを一瞥したルーシィは、静かに微笑んで本に目を落とした。
「そうですわね、言うのであれば、これは宝の地図であり宝そのものと言えるでしょう。まぎれもなく、―――――カービィさまのための」
ナツとハッピーは首をひねった。宝なのに宝の地図? よく分からない表現だ。頭の良い奴は分かりにくい言い回しをするから困る。
まあ宝云々については置いておくとしても、依頼主のカービィが関わってくるというのなら本を破棄するわけにはいかない、ということだろうか。
「仕事どうすんだよ」
「本そのものを手に入れることが叶ったのですから、処分したければいつでもできます。マッチ1本でこの本は消えてなくなってしまわれるでしょう。ですから、カービィさまに事情を説明し、判断をゆだねることにいたしましょう」
ルーシィは終始穏やかな顔で語る。…その顔を見て、ならそうするか、とナツは決めた。―――――だってその顔は、ハルジオンで
「んじゃあさっそく本持ってくか!」
■
「いいえその前に」
■
―――――にっかりと笑って地上へ出ようとしたナツ。しかし引き留めたのはルーシィだ。
ルーシィの顔はまさに真剣そのもので、ナツと成り行きを見守っていたハッピーに緊張が走る。
「すべきことがございます。ナツさんは公爵を運んでください。まずは地上に戻り縄などで公爵と、ああ、あのメイドの皆さんを拘束します」
こ、こうそくぅ? なんでまた…、とナツは疑問に思ったが、体は素直にエバルーを持ち上げた。
なにせルーシィが怖い。さっきまでの微笑みがストンと抜け落ちて一瞬にして真顔になったギャップが怖い。
「いいですか? ナツさん。依頼であり仕方がなかったとはいえ、わたくしたちは爵位を持つこの街の権力者のお屋敷に忍び込み破壊活動をし家探しをし、挙句の果てに公爵に危害を加えましたわ」
仕方のないことでしたけれど、と繰り返し念を押すルーシィに、ひとりと一匹は頷く。ルーシィの言いたいことは分かった。侵入する前から言っていた「バレたらまずい」ということだろう。
しかし、エバルーには勝ったし危害を加えたことは変わらない。だったらどうするというのだ。
「わたくしのお聞きした限り、公爵は一存で市民の市民権を剥奪できるほどの権力をお持ちです。そんな彼が目を覚まし、評議会に「
そこで言葉を切ったルーシィに、ナツは生唾を飲み込んだ。なるほど、確かにヤバい。いやだって仕事だったんだから、とは思うが、ルーシィのくちぶりからしてかなりヤバいのだろう、とナツは確信した。
「けれど、わたくしに策がございますわ!」
「マジか!!」
「ルーシィすごーい!!」
ババン! と言い切ったルーシィに、青ざめていたナツとハッピーの顔に光がともる。このルーシィ、かなりノリノリである。
しかしそれも仕方がない。この仕事、最初こそ上手くいかなかったが、結果的にルーシィはかなりの活躍をしたと言っていいだろう。確かな実績がルーシィに自信を与えたのだ。
「まずこの本には、隠された文章がありました」
「秘密の書か!!」
「そこには著者ケム・ザレオン氏の深いお心が記されており、同時に公爵がケム・ザレオン氏に行った非道についても記されていました」
「やっぱコイツ悪い奴だったのか!!」
「そうだよナツ! こいつ酷い奴だったんだ!!」
「わたくしがそれを指摘いたしましたところ、公爵はひどく動揺され、こうおっしゃったのです。……『まさかその本には、吾輩の事業の裏側が記されているのか』と」
どこか演技がかったルーシィのセリフ回しに、ナツとハッピーはきらきらとした顔で聞き入る。同時にふたりが思っていたのは、ルーシィとチームになった今後はマカロフに怒られたり評議会に小言を言われることが減るのではないかという期待だ。
「そのお言葉から察するに、公爵には『探られれば痛い腹』というものがおありなのでしょう。それを利用させていただくのですわ!」
ルーシィの作戦はこうだ。まずエバルーたちは魔法を使ったり逃げたりできないようにするために紐で縛りシャンデリアにでも吊るしておく。
それから、書斎を中心にエバルーの言う『事業の裏側』、つまり薄暗い不正や二重帳簿やら、とりあえず隠していた『悪いもの』を引きずり出す。
そしてその証拠を手に評議員に通報を入れ、自分たちは逃げる。
「オイラたち怒られないかな?」
「今回の件で公爵が魔法を扱うことは証明されていますし、星霊との契約されていることは確かですので、まず評議会は公爵が魔法を不正行為に利用していなかったかを隅から隅まで調べなくてはなりませんわ。
魔法を使っていらっしゃらない分は軍の管轄になるでしょうけれど、…公爵の悪行がどれほどかは分かりませんが、それなら連携して事を進めなくてはなりませんので調査は慎重なものになるでしょう」
「でもこいつらが
ハッピーの疑問にさらりと答えていたルーシィに、今度はナツがもっともなことを聞く。
確かにいくら工作したところで、エバルーたちがあけすけに全て喋ってしまえば目は
しかし、
「ええ、もし
けれど、簡単なことです。
まず
そしてわたくしたちは『正面から伺いを立て、しかし錯乱した公爵から攻撃を受けたことにより戦闘になり、撃破。戦闘の際正気を失っていた公爵が不審なことをくち走ったため独自に調査したところ、件の証拠を発見し通報した』とだけ言えばいいのです」
ルーシィは自信満々にそう言った。
「先ほども言いました通り、慎重で時間のかかるお仕事になることと思われますわ。それならば、わたくしたちが『戦っただけ』『詳しくは知らない』と押し通しましたら、一応通報者という功績者であるわたくしたちをそれ以上拘束し追及するお暇はありませんでしょう。なにせ、しなくてはいけないことが山のようあるのですから。
追及の手厚さは公爵の黒い証拠の量や質で多少変化されるでしょうけれど…ええ、大丈夫。きっと上手に事が運びますわ!」
なにせ、捕まった犯罪者が周りを巻き込もうとしたり罰を軽くしようとするために嘘の供述をすることはよくあること。カービィには評議会に伝えたとおりに報告し、ギルドではマカロフにのみ真実を告げれば、あの御人は評議会の追及を上手くかわしてくれるだろう。……マカロフの負担を増やしてしまうことはルーシィの望むことではなかったのだが。
多少ごり押しになる作戦ではあるが、ルーシィには確固たる自信があった。
そして意外に狡賢い策を考えたルーシィに、ナツとハッピーは感嘆の声を上げる。
「えーっと、本をくれって言いに行ったら攻撃されたから戦った、でいいんだよな? んで、えーっと?」
「ナツさんとハッピーさんは『戦闘に集中していたので他のことは覚えていない』と言っていただいて結構ですわ。細部はこのルーシィにお任せください。ええ、必ずお役に立って御覧に入れましょう」
胸に手を当て堂々と言い切ったルーシィに、ふたりは全部任せることにした。なんかやる気が凄いし、細かいことを言われても分かんないし、まあ万が一失敗してもお咎めは慣れてるし。気楽に「じゃあ任せた」とその問題を投げることにした。
「はい。―――――それではまず、公爵を連れ地上に上がりましょう。メイドの皆さんがお目覚めになる前に拘束しなくては!」
ちなみにこののち、エバルーの執務室の隠し金庫(ナツが溶かして開けた)からシャレにならないほどの黒い証拠が出てきたため、ルーシィがエバルーに向ける視線が腐った生ごみを見るような目になったことは仕方がないだろう。
開かれた扉から愛が溢れる。愛していると本が泣く。
泣かないでとは言えなかった。ただただ美しくて、羨ましくて。
だからせめて、溢れたものを抱きしめて、そのぬくもりを分けてもらったのだ。
ほんの少しだけ。物語を読むように、外側の世界から。
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愛を謳え
溢れるほどの愛だった。それが本当に美しかった。
だから、溢れるのは愛だけでよかった。
「さて、ではカービィさまの元へ向かいましょうか」
「お、おう」
「あい……」
にっこり。穏やかな笑顔を浮かべるルーシィに、ナツとハッピーは少しひきつった返事をした。
エバルーたちをシャンデリアからぶら下げた後向かった執務室。手当たり次第に漁った結果見つけた本棚の隠しギミックを動かせば、現れたのは大きな金庫。
そこまではルーシィもテンションが高かった。なにせ冒険心をくすぐられる仕掛けだ。しかしワクワクとした表情でナツが壊した金庫(さすがにセキュリティーを解除する技能はなかった)の中を検めたルーシィの様子は次第に変化していく。
ひとつめの紙束を持ち上げ、顔色が曇る。隣の帳簿を開いて、そのまま並んでいた他の帳簿をあさって眉を顰める。しかめっ面のまま次々に確認していったルーシィの表情は、最後は冷たいほどの無表情だった。
ついさっき微笑みからの無表情を見せられていたナツとハッピーは静かにルーシィから距離を取った。
ふたりも中の書類やらを覗いてはみたが、ルーシィと違い見ただけで何か分かるわけではない。が、ルーシィのリアクションからしてあまり…否かなりとんでもないものが隠されていたのではないだろうか。
キレるか、暴れるか……静かにその背中を見守っていれば、ルーシィは無表情のまま動き出したかと思えば、エバルーの執務室にあった連絡用
内容は『依頼で公爵を尋ねたら激高されてしまい戦闘になり、その際に商法取引法に反するものや他違法とみられる事業の証拠を見つけてしまった。公爵は拘束しているが自分たちは依頼人の元へ向かわなくてはいけないので至急出動いただきたい』という、当初の予定より少し違う話だった。
そのあと、小さくぼそぼそと何かを話していたセリフは、逃げるように金庫内に証拠を覗きに戻ったナツたちの耳には入らなかった。
「なあ、軍に説明するんじゃねえのか?」
「ええ、そのつもりでしたのですけれど…詳しいお話はまた後に。今はまず、カービィさまへ本をお届けしませんと」
■
「ど―――――どういうことですか?」
カービィは震える声で詳細を求めた。
目の前には、数時間前にカービィの依頼を受け出発したふたりと一匹がいる。裏門をノックされた時は「まさかまだ成功したというわけではあるまい」と思って扉を開けたカービィだったが、彼らはその手に『
―――――そう、持っていたのだ。
カービィの依頼はその本をこの世から消すということ。その、
混乱と怒りを浮かべるカービィに、ルーシィは静かな声で問うた。
「カービィさま。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「……なんでしょうか」
「あなたはこの本の著者であるケム・ザレオン氏のご子息でいらっしゃいますね?」
ナツとハッピーが目を見開く。カービィの妻が「なぜそれを、」と息を呑んだ。
そしてカービィは―――――おそらくカービィだけが、その声を『断罪』であると認識した。
■
私はその時を待っていたのだ。
■
「不思議でした。文豪ケム・ザレオン…彼の方の本、それも世界でただひとつというその本を、200万Jという大金を報酬と打ち出してでも消し去りたいというこの依頼は、徹頭徹尾どこか歪で、納得がいきませんでした」
ルーシィの声が広いエントランスホールに響く。カービィの妻は既にくちを噤み俯いていた。
「けれど、カービィさまがケム・ザレオン氏の…いいえ、本名ゼクア・メロン氏のご子息であり、彼の方がこの本の著者であり―――――あなたがこの本を読んだことが無いとおっしゃるのなら、それは何らおかしなことではありませんでした」
カービィの視線はずっと目の前のルーシィに固定されていた。
それはどこか、くたびれた目だった。それでいて、安堵したかのような目だった。
「本の中身は知っています」
「いいえ、あなたはご存じありません」
「知っています。駄作だ。父がそう言っていた」
ルーシィは否定する。しかし、カービィもまた否定した。その声はルーシィたちに『あの本の存在が許せない』と語った時のように、何か、言葉にできないほどの後悔に苛まれたカービィの内心を伝えてくるようだった。
―――――ナツは、静かに首に巻いたマフラーを握りしめた。
駄作? つまらないから燃やすってのか。父が書いた本を―――――遺した本を。
ぐるり、と腹の中身が一回転したかのような不快感が生まれる。そんなのはあんまりだろ。そんな感想しか出てこない。だって―――――親の遺したものは、ひとつでも多くあれば嬉しいじゃないか。
ナツの奥歯が鳴る。ハッピーが気づかわしげにナツを見た。相棒の感情が爆発しかねない雰囲気を経験で察していた。けれど、内容が内容なだけに、…止められない。
しかし、ナツが何かを言う前に、ルーシィがくちを開いた。
「ええ、今のお言葉で確信いたしました。あなたは内容をご存じない」
それはこの問答をこれ以上続けるつもりが無いという圧力がこもった声だった。カービィもそれを察し、唇をかむ。
「カービィさま。あなたがこの本を消し去りたいと願われたのは、御父上の名誉を守りたかったからですね」
すっとよく通る声が、耳から脳に染み渡る。違いますか? と聞く少女は、既に確信を持っているのだろう。カービィはそう思った。
目の前に立つ少女。自分より随分と若いその少女に、この場を支配されたような感覚だった。
「どうかお教えいただけませんか。あなたの知る、この本のことを」
■
敬愛する父だった。心から誇れる父だった。その時までは。
父が居なくなった。エバルー公爵からの依頼を断ってすぐのことだった。
ゾッとした。あの男の非道さは街のみんなが知ることだった。
すぐにあちこちに聞きまわったが、集まった目撃情報はエバルー公爵の屋敷に入っていく姿が最期。
断った腹いせに、殺されたのではないか―――――そんな想像しかできなかった。
みんなは慰めてくれた。仕事を受けて、缶詰になっているだけかもしれない。どうか気を落とすな。昔は魔導士ギルドに所属していたのだから腕っぷしもたつだろう。
けれどどんな言葉をかけられても、頷くことができなかった。
父に言った。「そんなくだらない仕事を受けたら後悔するぞ」と。父も断った。―――――けれど、自分の言葉を受けて父が断ったのだとしたら? そして、父が殺されたのだとしたら。
―――――父を殺したのは誰だ。
―――――エバルー公爵か?
―――――他でもない、息子である自分が殺したのだ。
父が帰ってこぬまま1年が過ぎた。父は著名な文豪であったが贅沢をしない人だったために金はあった。生きていくことはできた。心が寒かった。
父が帰ってこぬまま2年が過ぎた。街のみんなは気休めを言ってくることが無くなった。2年も帰らないということがどういうことか、言うまでもない。かえってありがたかった。
父が帰ってこぬまま3年が過ぎた。庭に小さな墓を建てた。死体の代わりに父の羽ペンを埋めた。前を向いて歩かなければならないと思い仕事を始めた。
―――――その年の秋に、父が帰ってきた。
かすれた声で「遅くなった」とそう言って、おぼつかない足取りで家に入ってきた父に最初に感じたのは困惑だった。目の前のそれが現実か理解できなかった。
だって何度も夢に見た―――――家に帰ってくる父を何度も夢に見た。
父が無言で木工道具の入った木箱をあさる姿を見て、その音を聞いて、ようやくこれが現実だと理解した瞬間、沸き上がったのは喜びだった。
当然だ。ずっと待っていた。ああ、墓なんて縁起でもないものを作ってしまった。羽ペンも使えなくしてしまった。けれど、そんなこと、父が帰ってきたことに比べれば些細なことだ。そうだろう? なあ父さん、仕事を始めたんだ。稼ぎがある。初給料ももらった。これで羽ペンを買いに行こう。なあ父さん、ずっと待っていたんだ。
どれほど嬉しかったことか。どれほど待ちわびていたことか。
けれど3年。3年待った。…それがどうしても、心の奥底にこびりついていた。そしてこびりついたそれが、素直に父へ声をかけさせてくれなかった。
だって寂しかった。会いたかった。探していた。待っていた。
「さ、3年もずっと連絡をくれないで……」
だからどこか恨み言のようなことを言ってしまった。
「一体…どこで執筆してたんだよ?」
そんなこと分かっている。エバルー公爵のもとだ。分かり切ったことを聞いた。そもそも3年ぶりの父とのコミュニケーションの取り方が分からなかった。
しかし、絞り出した声に父は応えなかった。
「と…父さん?」
父は応えない。応えず、木箱から縄を引きずり出した。―――――そしてそれを、自分の
―――――言い知れない恐怖を感じた。何をする気だ。いったい何があった? くちが震えて声が出なかった。
「私はもう終わりだ」
今思えば、この時終わった『私』とは、作家ケム・ザレオンを指していたのだろう。
「二度と本は書かん!!!!」
それが作家ケム・ザレオンの遺言だった。
■
「止める間もなく、父は自ら腕を切り落としました……」
誰もが耳を傾ける中、カービィの静かな声が響く。あの時目の前に飛び散った血潮を、父の雄叫びを、30年以上たった今も忘れられないでいる。夢にだって見る、悪夢だった。
少し顔色の悪くなったカービィの背に、そっと手が当てられる。……妻だった。
愛した女性が、そばで支えてくれている。彼女との出会いは、父が死んで2年目の秋だった。
妻が居たから、自分は今日まで生きてこれた。
カービィは、背中に添えられた手のひらから伝わる体温に背を押されるように、静かに続きを話した。
「すぐに医者に連れて行きました。…出血は多かったですが、処置が早かったおかげで一命をとりとめ……」
■
思い返す、あの日。昏睡状態から回復し、目を覚ました父に改めて対面した日。
父は笑っていた。背が伸びたなあと言った。まるで何事もなかったように。普通の父親のように。
許せなかった。何をと言われば、今もはっきりとは言えない。ただ、自分は父が目覚めるまでの間、実の父親が腕を切り落とすシーンを何度も夢で見ることになったせいで精神が不安定だったのもあるだろう。
疲れていた。苦しかった。だって父の腕だ。誇りだ。数多の物語を紡いだ、自慢の腕だ。
くちからは父を罵る言葉が出た。なんでひとりで、そんな全部が終わったみたいなすっきりした顔をしているんだ。息子がこんなに苦しんでいるのに、どうしてアンタは。
思い返すたびに後悔ばかりが押し寄せる。
金がよかった? 最低だ!
( どうしてそんな言葉を信じたんだ )
最低の駄作のために3年も家族をほったらかしにして! いつもおまえを想っていた? 嘘つきめ!!
( 嘘なんて―――――父は一度も、嘘なんてついたことなかったのに )
「作家の誇りと一緒に家族を捨てたんだ!!」
その言葉を聞いた父の顔が、今でも忘れられない。愕然とした―――――ショックを受けた顔。
図星なんだと思った。ざまあみろと思った。そんなことを思った自分が嫌だった。
だから、逃げるように父のもとを去った。
「作家やめて正解だよ。誇りのない奴には務まらない」
自分は何を知ったつもりでいたのだろうか。
「―――――父親もね」
私は、私を一生許さない。
■
「父が自殺したのはそのすぐ後でした……」
自分の中で美化していた最低な部分を息子に指摘され、図星のショックで死んだのだと思った。尊敬していた父の弱さに吐き気がした。死んだ後も、父を憎んだ。
父が死んでもさほどショックを受けなかったのは、既に死んだものだと思っていたから。
あれは父の亡霊だった。自分の尊敬した父は3年前に死んでいたのだと。
「けれど、年月が経つにつれ……憎しみは後悔になりました。……思い出すのです。父との日々を……」
キッチンを見ては、不器用ながら一生懸命料理を作ってくれた姿。ダイニングでは、共に食事をした姿。庭では、巡る季節について話した姿。幼いころには共に風呂に入っていたことや、……仕事部屋で、本を書く後姿を見て、尊敬していたこと。
「―――――思い出はどれも、優しい父の姿でした」
怒られたこともある。けれど父はいつも、尊敬する父だった。
「それなのに、父の顔を思い出そうとすると……あのとき、私の言葉に酷く傷つけられた父の顔しか浮かばないのです」
父が死んで1年が経った頃。庭に作っていた、意味のなくなった墓を掘り返した。
遺体は墓地にある。これは父と決別しようと建て、ゆえにそのまま残していたもの。
「掘り出した羽ペンをみて、はは……涙が止まらなくて」
本当は、あの最後の会話は父の嘘だったのではないだろうか。息子にも言えないような理由があって、3年も帰ってこれなかったのではないか。
その方がしっくり来た。納得できた。だって父は、家族を捨てるような人ではなかったから。早くに母を亡くしていらい、男手ひとつで自分を育ててくれた、尊敬する父だったから。
―――――父を殺したのは誰だ。
―――――エバルー公爵か?
―――――他でもない、息子である自分が殺したのだ。
「私が父を殺した」
カービィ・メロンは、自分を一生許さないと誓った。
■
「だから償いに、この本を消し去ろうとしたのですか?」
「そう……そんな本を、父の遺作にはしたくなかった」
カービィの目は、どこか虚ろだった。
30年以上背負い続けた苦しみを吐露した彼は、死にゆく老人のような目をしていた。
辛かった。苦しかった。許せなかった。
そんなカービィの目を真っ直ぐと見て、ルーシィは微笑んだ。
「屋敷でこの本を破棄しようとした際、本から魔力を感じました」
カービィはじっとルーシィを見る。
「ケム・ザレオン氏は魔導士でしたから、何かしらの仕掛けがあるのかと思い読ませていただきました」
ピクリ、カービィの指先が震える。
それは中身を気にする好奇心だろうか。それとも、尊敬する父の駄作を読まれたことに対する怒りだろうか。
「読めば、これは本当にあの文豪ケム・ザレオンの著書であるのかというほど、拙い作品でした」
「そうでしょうとも」
切り返しは早かった。カービィの目に、ルーシィは妄執を見た。
「御父上の、『
「……ありますが」
話がそれた。カービィはそう思った。カービィ以外もそう思っただろう。しかし、ルーシィは微笑んだまま続けた。
「あの本にはケム・ザレオン氏が若かりし頃、仲間内でお使いになっていた暗号についての記載がありました」
暗号。…まさか、と全員がハッとした顔をする。
ルーシィは微笑んだままだった。
「ケム・ザレオン氏の作品で他に『太陽』に関するタイトルが付けられていらっしゃるのは『
―――――それは間違いなく、ケム・ザレオン氏のお心そのものでした」
それこそが、ルーシィの言った『宝の地図』だった。
「真実を、お話しても?」
ルーシィは微笑んだままだった。……カービィは、頷く。
今理解した。なぜ、目の前に少女に、こんなにもあけすけに全てを語っているのかを。
裁かれたかった。お前のせいでお前の父が死んだのだと責められたかった。
許されたかった。置いて逝かれたお前に非は無いのだと許されたかった。
信じたかった。父は変わらず、自分の尊敬した父のままであったのだと。
誇り高い、最高の作家であり父親であったのだと。
「お願い……します……」
彼女は教会の懺悔室そのもののようだった。だから聞きたかった。他でもなく、父の心を見つけてくれた、聖母のように微笑む目の前の少女のくちから。
■
「ケム・ザレオン氏は公爵のお仕事をお断りしました。そも、彼の方のお書きになる作品は若かりし頃の冒険をしたためた自伝記なのですから、創作小説を書けと言われましても芸風が違いますから」
「しかし、公爵は許しませんでした。もし断れば親族一同にいたるまで罰を与えると脅迫しました」
「葛藤の末、家族を選んだ彼の方は『
「ここだけの話……どうやら彼の方は病を患っていらしたようなのです」
「彼の方はとても悩まれました。公爵の
「―――――作家としての誇りを捨ててでも家族を守ることが、彼の方の父親としての誇りでした」
「けれど、言われたまま、されたままでは終われませんでしたのでしょう。彼は書き上げた本に魔法をかけました。―――――それは、父としての誇りと、作家としての誇り。その両方を守る、最後の抗いでした」
■
カービィは、ルーシィから渡された本を、静かに受け取った。
「『
「アナグラム……」
かぶせるように、カービィが答えた。―――――知っている。だって、何度も読んだから。
ルーシィは少し驚いたように目を見開いて、そしてやっぱり、微笑んだ。
「ええ、
ルーシィが頷いたと同時に―――――カービィの手の中の本が光る。
「な、何だこれは!?」
カービィはいきなりのことに叫び―――――それから、ああ、と、呟く。
包み込むような、暖かい魔力。
記憶がよみがえる―――――まるで昨日のことのように、鮮明に思い出す。
「文字が浮かんだ!?」
「てか本が浮かんでんぞ!?」
ハッピーとナツが騒ぐ。本は既にカービィの手から離れ、自力で宙に浮いていた。そしてその本の表紙、
カービィはそれを見ても驚かなかった。それどころか、どこか安心した。
だってこれは、―――――父の魔力だ。
「本の最後には、暗号でこう書かれていました。『我が最愛の息子カービィへ―――――』」
文字はやがて並び変わるように本の表紙へ戻っていき、
「『―――――私の生涯最後の本を、お前に贈ろう』」
出来上がった新しいタイトルは、『
そして入れ替わったのはタイトルだけではない。インパクトを与える派手なタイトルの入れ替わりの陰で、著者名もまた、
「3年もかかるはずですわ―――――彼の方は公爵の冒険記を書いたようにみせかけ、その実最終的に
それがどれだけの労力か分かるだろうか。
本がひとりでにページを開く。―――――込められていた
「おお!!」
「きれー!」
「こんな、ことが……」
「―――――ああ、父さん」
―――――とんだ駄作だよ。昔っから凝り性だった。…こんなことしてる暇があるなら、さっさと帰ってきてくれればよかったのにさ。それに、病気だなんて。……ほんとうに、何も言ってくれなかったのだから。
一筋…カービィの頬を涙がこぼれる。恨み言のようなつぶやきは、言葉に反して誇らしげだった。
これが私の誇る、作品を作り上げることに一切の妥協を許さなかった、最高の父の姿だと。
たとえ拙かろうと、書き上げるだけでも素晴らしいようなギミックだった。まさに、世紀の超大作―――――ひとりの父親の、愛のカタチ。
「彼の人が作家をやめてしまわれたのは、いくらギミックでしたとはいえ、あまりにも拙い物語になってしまったこと。自分が作家であるがゆえに家族を危険にさらしてしまったという負い目の他に……」
――――― いつも、おまえの事を想っていたよ
( ああそうだ。父は、嘘をついたことなどなかったのだから… )
「……愛する息子への、全てをかけた手紙という、最高の作品を作り上げてしまったことが理由でしたのかもしれません。だって―――――こんな素敵なもの以上の作品なんて、作れないではありませんか」
文字が躍る―――――やがてそれは
「ええ、むしろ…ケム・ザレオン氏は、この作品だからこそ遺作に選び、作家であることを手放したのではないでしょうか」
これは、作家であるより父であることを選んだひとりの男の、最高傑作だった。
「私は……父を、……理解できていなかったようだ」
「当然のことですわ。作家の頭の中を理解できてしまえば、本を読む楽しみがなくなってしまいますもの。彼らの頭脳こそが、誰にも解き明かせない謎ですわ」
ルーシィは、変わらず微笑んでいた。
■
―――――ねえ父さん! いつか僕が主人公のお話を書いてよ!
―――――お前が? ううん、父さんが書くのは父さんの昔話なんだけどなぁ
―――――ねえいいでしょ? 僕、父さんの書くお話が大好きなんだ!
―――――分かった分かった。……それじゃあ、お前が大きくなったらな。
―――――お前のハタチの誕生日に、最高の傑作をプレゼントしてやろう! ……約束だ。
■
「ああ―――――そうだよなあ。だって父さんは、嘘ついたこと、なかったもんなあ」
生涯唯一息子に吐いた嘘が、「金がよかった」なんて馬鹿みたいなセリフだなんて。アンタ、本当に馬鹿だよなあ。
■
「結局、軍に説明しなくてよかったのか?」
シロツメの街からの帰り道。ナツは歩きながらルーシィに問いかけた。
それは後回しにされていた疑問。依頼が終わった今、このタイミングなら聞いてもいいだろうという判断だ。
ルーシィが連絡を入れた先は近郊の駐屯地ではなく、国王のお膝元である本部だという。そこから情報が回るとあれば、軍が到着するのにはあと数時間ほど時間がかかる。
それなのにルーシィは一度エバルーの屋敷に戻り、意識を取り戻して縄から逃げようとしていた一同をナツに頼んでもう一度昏倒させた後、ホテルをキャンセルして帰路についた。
「……あまり、大きな声では言えませんのですけれど」
ナツの問いかけに、ルーシィは少し声を潜めて答える。
「どうやら、近郊の軍の駐屯地に所属する幾人かの将校と裏取引をしていらしたようですの。公爵がお好きなように振舞っていらしたのも、圧力となる国家権力の一部を借り受けられていたからでしょう」
「ほんとにどーしよーもねぇやつだな」
ナツのくちから呆れたような声が出た。ナツはエバルーがしたことは、ケム・ザレオンにしたことをルーシィがカービィに語ったことまでしか知らないが、それでも数度の邂逅でも思うところがあったのだろう。
ナツの言い分に頷いたルーシィは話を続けた。
「公爵は善人とは言い難く、多くの法を犯した証拠があの金庫の中にございました。そのような方と裏取引をし違法行為に助力した者が軍内に居るというのはとんでもないことなのです。
軍は情報の精査や実態把握に大わらわとなるでしょう。それが済んだ後は、関係者の処罰をしなくてはいけませんし、軍内の『お掃除』もしなくてはいけないでしょう。……国軍の統率者は国王さまでいらっしゃいます。今回の件の責任は回り回って国王さまのものとなり、つまりは同時に、国軍は国王さまからの信頼を大きく裏切ったことになります」
ルーシィの語ったことは想像以上にスケールの大きなことだった。まさか片田舎の権力者をぶっ飛ばした件が国王云々という話になるとは、流石に思うまい。
しかしまあ、ナツはあまりよく分からなかったので、ふうん? と相槌ののような息を吐いただけだった。
しかし対して、ハッピーはとても不安そうな顔になる。
「ねえルーシィ…それって大丈夫なの?」
その声は少し小さく、それがハッピーの感じている不安の大きさを物語っている。
相棒のその様子に、さすがのナツも目の色を変える。正直エバルーの犯罪行為には大して興味もなかったが、相棒が不安そうにするのなら話は別だ。
しかし何に不安がっているのかは分からないので、どういうことだとルーシィを見る。その眼光は少し鋭くなってしまったが、ルーシィはハッピーを安心させるようにひとつひとつ説明することにした。
「ハッピーさんが不安に思っていらっしゃるのは、軍が失態を隠滅するため、わたくしたちに何かしらの措置をとるのでは、ということですね?」
「あい……」
「確定ではありませんが…その可能性は低いでしょう。例えば裏取引をしていらしたのがひとりふたり程度でしたらその危険性はありましたが、安全だと思われたのか、ただ欲深いのか…金庫にあったリストを見る限り、近郊にある駐屯地3つともの上層部4割と親しくしていたようです」
4割。それは数字だけ見れば少なく感じるかもしれないが、現実的には『ほぼ半数』である。シロツメの街近郊の駐屯地は3つだ。その3つの基地の半分の権力をバックに控えさせていたということになるのだ。
ナツは想像以上の規模に片眉を上げ、ハッピーは『あらら…』といった顔になった。変なやつだったけれど、交渉はうまかったのだろうか。
ルーシィは微笑んでいる。しかし、内心がその微笑みと同様であるわけではない。
裏取引自体が悪いとは言わない。場合によってはそれが最善となる場合もあるからだ。大人の世界はいろいろあるもので。
けれど今回は、まったくの私利私欲だと思われる。金のちからで権力を抱き込み、醜悪な私欲を満たしたのであろうエバルーへの嫌悪がルーシィの中で渦巻いていた。
「国軍のような組織でも、上層部となれば率いる『派閥』というものがございます。今回の不正の話が軍内に伝われば、取引相手の将校と対立する派閥が隠滅を許されないでしょう。ここぞとばかりに暴き立て、言い方はよろしくないかもしれませんが…軽い内紛のようなものになるのではないでしょうか」
『内紛』! その言葉の意味はナツやハッピーだって分かる。それは国が揺らぐ一大事なのではないだろうか。
息を呑んだふたりに、ルーシィは少し慌てて訂正した。
「お、落ち着いてください! わたくしの言葉が間違っていましたわ、ええと、ほんの少しだけ騒ぎにはなると思いますの。けれど証拠ははっきりしていますし、否定しようと逃げきれないでしょう。…なにより、まず公爵は実刑を免れないと思われます。そして将校方も疑惑の目を向けられてた状態では庇うことは不可能。
けれどあの公爵の性格を思えば、取引をしていた将校が自分に味方しないと分かれば『あれだけお金を渡したのに!』と騒ぎ立てると思いませんか?」
ふたりは同時にエバルーが騒ぐ姿を想像し、「あー…」と納得の声を上げた。
言いそうだ。暴れてどんどん墓穴を掘りそう。つまり、どう足掻いても
そんなふたりの様子ににっこりと笑ったルーシィは、話を続ける。
「このお話は国王のお耳にも入ります。そうなれば、王命として調査が入り、公爵も取引相手の方々もお逃げになることはできないでしょう。
けれど、これは大々的に公表されることは無いと思われますわ。国民からの信用を揺らがす大失態ですもの」
「じゃあ余計にヤバいんじゃねえの?」
「ええ、けれど軍は迂闊にわたくしたちに干渉できません」
ルーシィの声ははっきりとしていた。それはどこか自信があり、さきほど『確定ではない』と言った言葉と矛盾しているようでもあった。
「なぜなら軍が公爵の不正と軍内の失態を把握した頃には、わたくしたちが現場に居ないからです」
ルーシィは世間知らずだった。―――――けれど、
「彼らは思うことでしょう。『通報した魔導士は、もしやこの証拠の複製を所持しているのではないか』…もしくは『誰かしらに内容を広めてしまうのではないか』と。
規模の小さい駐屯基地の話とはいえ、実刑を受けるような権力者と裏取引をしていた者がいる。そんな事実が世間に公表されてしまうのではないだろうか、という疑惑が生まれます。けれど隠滅しようとわたくしたちにアクションを起こしたとして、反抗として情報を撒かれてしまえば元も子もありません。例えギルドを脅迫材料としようとも、わたくしたちがすでにギルドに関係のない方々へ話を広めてしまっていては無意味です」
権力とはなんでもありのように見えてその実、『
故に相手はルーシィたちに慎重に接触しなくてはいけない。
「公爵のお屋敷でお話しした通り、この件は評議会と連携して調査を進めることになると思われますわ」
「あ、そーだよ。なあ、最初評議員に連絡するって言ってなかったか?」
「ええ、勝手ながら作戦を変更させていただきましたの。公爵が魔導士でしたし、あそこまでとんでもない証拠を隠し持っておいでだとは思いませんでしたので……評議会はあくまで『魔導士を取り締まる機関』ですから。対して軍は『国民を守護する組織』でしょう? 通報するにしても、評議会より軍に主体になっていただいた方が、わたくしたちへの追及は緩くなるのです。
なぜならわたくしたちはあくまで、『偶然知り得た情報を善意で通報したいち国民』という扱いになりますから。ちなみに、国王さまがこの件を知らないという事態にはなりません。なぜならわたくしが通報したのは軍の本部であり、本部に入った通報はすべて一度国王さまをお通ししなくてはいけないからです」
余談だが本部以外に入った通報は定期的に報告書にまとめられて提出され国王がチェックすることになっているので、つまり国王はほとんどの通報内容を確認していることになる。
「「 おおー… 」」
「……あの、どうしてそのように距離を…」
にっこりと笑いながら語ったルーシィに、ナツとハピーは少し距離をとる。目の前の少女は想像以上に狡猾だった。
……まあ距離をとったのはほんのジョークだったのだが、ルーシィが持ったよりショックを受けているのでまた近づくことにした。
「じゃ、俺らは最初のとーり『戦ってたからよく分かんねえ』って言えばいいんだな?」
「ええ、細部はお任せください。マスターにもご報告しておけば、きっと大丈夫ですわ」
まあとりあえずルーシィ曰く、エバルー公爵の悪いことには軍の人間がたくさん関わっていたから軍は無視できなくて、やることがありすぎて手が回らないし、ルーシィたちが変な噂を流さないか心配だから迂闊に捕まえられない、ということだろう。
「……いやでも、なんだかんだ言って捕まえられる可能性もあるんじゃね?」
「そうなりましたら、こう伝えればいいのです。『信頼のおける縁遠い方に、自分が軍に捕らえられて3日帰ってこなければすべての証拠を国内に発信してほしいと伝えた』と」
……少なくとも、この作戦はナツの目から見て完璧に見えた。思わず頭の良い奴って頭の中どうなってんだと思ったのは仕方がない。
まあそういうことなら、まあいいかと納得したナツは、話を変えるために「なあルーシィ」と話しかけた。
「はい? なんでしょう」
「おまえ、メロンのおっさんに嘘ついただろ」
■
ルーシィは微笑んでいる。
■
ルーシィは、ずっと微笑んでいた。
■
「―――――なぜ、そのようなことを?」
「勘」
それはふざけているような返答でありながら、ナツの目はどこまでも真っ直ぐだった。
ナツはずっと気づいていた。気づいていたけれど、気づいていないことにした。
報酬を断ったのは『依頼を達成できてない』という理由だけではない。それは確かなことだが、―――――なによりルーシィを、早く外に連れ出したかった。
「……すべては嘘ではありませんわ」
「でもおっさんの父ちゃんが病気だったってのは嘘だろ」
ルーシィは眉を下げた。―――――それでも、微笑んでいた。
「気づいてしまわれましたのね」
「え!? ルーシィ嘘ついたの!?」
ハッピーが叫ぶ。それは非難の色を持った声だった。
だって、カービィさんはあんなに幸せそうだったのに。それなのに、嘘だなんて。
ルーシィは困ったように―――――微笑んだ。
弁明はしない。ただ微笑む。―――――それはまるで、自分が悪役だと言うかのようだった。
「お前が嘘ついてもあの本読んだらおっさんにもバレるんじゃねえの?」
「いいえ、あの本は一度文字が入れ替わったら二度と戻りません。そして、発動キーはカービィさまの生体認証です。新しい内容はカービィさまが主人公の冒険記ですから、あの暗号は、もう誰にも読み解くことはできません」
「で、お前はひとりで書かれてた中身飲み込んでんのか」
ルーシィは何も言わない。ただ、微笑んでいた。
「責めてねえよ」
ルーシィは微笑んでいた。
「だけど―――――俺らは仲間だぞ」
ルーシィは微笑んでいた。
「チームだ」
ルーシィは微笑んで、
「今回の仕事はお前だけのもんじゃねえし」
ルーシィは、
「そんな泣きそうな顔で笑うくらいなら」
「頼れよ」
―――――ルーシィは、顔を上げられなかった。
「―――――本は、カービィさまが触れれば文字が入れ替わるギミックでした」
「おう」
足の止まったルーシィを、しかしナツは急かさず同じように立ち止まって静かに話を聞いた。
「ですからあの暗号文は、最初からカービィさまにはけして読まれないようにできていました」
「ああ」
ハッピーが、そっとルーシィの足に前足を添えた。顔は上げない。ルーシィの顔を盗み見ようとはしなかった。責めるような言葉を言ってしまったことが、後悔になった。
「最初は、なぜこの本を作るに至ったのか。その経緯が書かれていました」
「ん」
「けれど、次第にそれは公爵への恨みの言葉へと変わりました」
愛する家族を危険に晒すようなことを言う公爵への恨み。
世界に評価を受ける作家として、その誇りを捻じ曲げるような要求を呑まなくてはいけない恨み。
冷たい独房で執筆させられるという屈辱からくる恨み。
「ケム・ザレオン氏は、
あまりに深すぎる恨みが、ペンを握る手のひらに染み付いた。―――――これから先、一生忘れられないほどの恨みが。
「彼の葛藤が書かれていました」
作家としての誇り。父親として誇り。父親であることを選んだくせに、作家であることを捨てられない。ふとした瞬間、父親であることを捨て、作家としての誇りを優先させたくなってしまうことへの自己嫌悪。
「文字が
なにより―――――たった一度でも、愛する息子を、作家であることの足枷のように感じてしまった自分への恨み。
「アナグラムを作りながら暗号まで織り交ぜるだなんて、恐れ入るばかりです」
エバルーが憎い。エバルーが恨めしい。エバルーさえいなければ、私はよい父親であれた。作家としての人生に汚点など生まれなかった。
エバルーさえいなければ、自分の中のこんな醜いものを見つけなくて済んだのに。
「最後のページの暗号は、『我が最愛の息子カービィへ、私の生涯最後の本を、お前に贈ろう』というメッセージであったと言いましたでしょう」
「おう」
「嘘です」
「ふうん」
「メッセージはカービィさまではなく、暗号に気付いた『誰か』へ宛てられたものでした」
もし、私のこの、獣のような醜さを見つけてしまった者が居るのなら
どうかカービィにだけは伝えないでほしい。
私に、あの子の誇れる父親のままでいさせてほしい。
けれどあなたは、私の恨みを忘れないでくれ。
あの男が憎い。心底恨めしい。そして私は、私が憎い。
わたしの苦しみを、忘れないでくれ。
そうすれば、私はあの子の父に戻れるのだから。
「勝手だな」
「そうしなければならないほど、追い詰められていらしたのだわ」
「でも死んだんだな」
「……言えません。言えないでしょう?」
言えなかった。カービィは理解していたから。30年以上、後悔し続けていたから。自分を責め続けていたから。
「あなたに拒絶されたから、彼の方は死んでしまわれたのだなんて」
書きなぐられた恨み辛みの中に、何度も何度も現れた言葉。作家を止めたら木こりにでもなろう。愛する息子と、ただの父親として、共に暮らそうと。
だから、家族の、そばに。
―――――それだけが、あの気が狂いそうなほど寂しい独房での生活の、唯一の生きる希望だったなんて。
「別にそう書かれていたわけじゃねえんだろ」
「ええ、けれど」
「ルーシィは悪くねえよ」
「………」
「悪くねえよ」
ルーシィは気にする。だからナツは言わなかったが、ちょっとだけ、ケム・ザレオンとかいうやつのことが嫌いになった。
辛かったんだと思う。苦しかったんだと思う。それでもその呪いが、今こうやってルーシィを泣けなくした。
自分と自分の家族を守るために、ナツの家族を傷つけた。
ルーシィは、ケム・ザレオンのファンだった。だからなおさら、見て見ぬふりはできなかった。
そうして、カービィに優しい嘘を吐く。ついた嘘が全部自分に突き刺さり、泣きだしたくなるような自己嫌悪に苛まれても、カービィの心を守るために嘘を吐く。
そうして、ケム・ザレオンの呪いを受け止める。足がすくむほど恐ろしい狂気だと怯えながらも、憧れの人が残した
「お前がそうしてぇならすればいいよ。でも、なら、俺にも半分よこせ。ひとり占めしようとすんな」
「頼れよ。―――――仲間だろ」
「………ひとり占めだなんて。…それではわたくしが欲張りさんのようですね」
「おー。欲張りなのはよくねえんだぞ。家族なら等分しろ等分」
「ねえねえオイラも! オイラの分も!!」
「じゃあ3分の1だな」
「……ああ、とっても小さくなってしまわれました」
「ひとり占めはダメなんだよルーシィ!」
くふふ、ハッピーが笑う。それに、ルーシィは、―――――眉を下げて、微笑んだ。
それでいいと、ナツは笑った。
■
「それにしても、ルーシィ本読むの好きなんだね」
「? …あっ、ケム・ザレオン氏のファンだというお話ですか? ええ、物語を読むのは大好きなんですの。特にケム・ザレオン氏の作品はご自身の冒険記でいらっしゃるから―――――とても、憧れていて……」
ようやく穏やかさを取り戻した雰囲気の中、ふと、ハッピーが何気ないようにルーシィに問う。
それにルーシィは、どこか夢見るような表情で答えた。
「やっぱりなあ?」
「……あの、ナツさん? その不穏な微笑みはいったい…」
そんなルーシィを見て―――――ナツの顔が、にやあ、と歪む。
にったりと引き伸びたくち元に、半目。思わずルーシィが身の危険を感じるような邪悪な笑みだった。
「ルーシィんちのさあ、作業台の上に…やたら原稿用紙がいっぱいあったアレ……」
「あっ! ま、ま、待って、お待ちになってください!」
ハッとしたルーシィが腕を伸ばし静止を求める。けれど、ナツも、そして気付いたハッピーもその程度で止まるわけがなかった。
「お前自分で小説書いてるだろ!!」
「だから
「あ、あ、ああ~!! だ、誰にも言うつもりはありませんでしたのに!」
パッとルーシィが顔を覆い隠し俯いた。しかし、晒された耳どころか俯いたことにより見えるうなじまで真っ赤になっており、ルーシィが死にそうなほど羞恥を感じていることは一目瞭然だった。
「お……お願いします……どうか、どうか誰にも言わないで……」
「え~どーしよっかなぁ~~」
「お願いしますぅ……!」
「ルーシィなんでやだの?」
ぼそぼそとした声で必死に懇願するルーシィと、悪魔のような顔ですっとぼけるナツ。
両方を交互に見たハッピーが、首をかしげてルーシィに問う。
「だ、だって、恥ずかしいわ……人様に見せられるほどの作品なんて、書けませんから…」
「別に誰も読まねえだろ」
「はうっ」
さっぱりと言い切ったナツに、ルーシィの顔色が一気に青くなる。あまりの急激な変化に、ハッピーはちょっとルーシィの体調が心配になった。
確かに自意識過剰と言われればその通りだ。でも書いていると知られることだけでも恥ずかしいのだから、やっぱり言わないでほしい。
「お、お願いします、何でもしますから…! お願いです、ナツさん…!!」
「じゃあ」
もはやなりふり構っていられない、とあまりに軽率なことをくち走ったルーシィに、コンマゼロ秒の速さでナツが指を向ける。
その勢いに思わずルーシィが2、3歩後ずさってしまう。しかしナツは気にせず、自らの要求を突き付けた。
「その『ナツさん』ってのやめろよ。仲間なのになんかタニンギョーギだろ」
「あ、オイラはハッピーさんのほうがかっこいいからいいなあ」
「なっ裏切るのかよハッピー!」
……その言葉に、思わずルーシィはたくさん瞬きしてしまう。
思考は一度止まり、再び回転。今自分は何を言われたのだろうか。それはどういう意味だろうか。それを考えて、考えて―――――
「………はい、あの…ナツくん、」
( ―――――お友達には、なれなかったですけれど。それでも、仲間と思ってもらえているのでしたら… )
少し恥ずかしげに、さっきよりは砕けた呼び方で自分を呼んだルーシィに、ナツは満足げに笑った。
少年は手を伸ばす。
それは少女の心を開く鍵。
(ハッピーの「やだなの?」は仕様です)
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明日を迎えに
また一歩、そばに
きらきらぼしは
「ごきげんよう、ミラちゃん」
「あら、ごきげんようルーちゃん」
白い天使と山吹の天使が微笑み合う。まるで春の日差しと咲き誇る花々のように、辺りには穏やかな雰囲気が舞った。
―――――シロツメの街での一件から早3日。ルーシィはギルドに着いて早々、マスターであるマカロフに事の経緯を話し、軍や評議会への対応を協議した。
結果としてはルーシィが考えた策と大幅に変わりはないが、しいて言うのならばルーシィと軍や評議会とのやり取りは基本マカロフを通す、ということが決まった程度だろうか。
マカロフは、ただでさえ迷惑をかけてしまったのだから後始末は自分で、と言いつのるルーシィに、一歩も引かずにこの条件を押し切った。
「迷惑など。そもそもお前さんも言ったとおり、被害は普段のナツの破壊量に比べりゃガキのイタズラ程度じゃ。それに、しっかり
なにより―――――ワシはマスターじゃからの」
プカリ、とキセルから煙をたたせたマカロフは、そう言ってニヤリと笑った。―――――ルーシィは驚いたような顔をして…また、嬉しそうに笑った。
さて、そんな後始末の打ち合わせが終わった後は、ルーシィは部屋の模様替えや買い物に精を出すこととなった。
あっちへ行っては食器を買い、こっちへ来てはシーツや服を買い。街に突然現れた美少女に、街の人たちは喜んで商品を薦めたものである。
そうしてようやくひと段落着いたルーシィは、3日ぶりにギルドに顔を出したのだ。
「お買い物は落ち着いた?」
「はい! 街の皆様はとっても素敵で、素晴らしい時間を過ごすことができました」
いつの間にか親密になったミラジェーンとルーシィが微笑み合う。
グラビアアイドルでもあり
ニコニコと笑い合いながらお話をするふたりに、おっさん連中は端の下を伸ばして花が増えたと喜んだものだ。
「ところで、マスターはご不在なのですね。今日からまたお仕事に着かせていただくので、改めてご挨拶をと思ったのですが…」
「ええそうなの。定例会があるから…」
―――――『定例会』。ルーシィは聞き覚えのない単語にキョトンとした。
いや、ニュアンスからおおよその意味は察することができるのだが、もちろん詳しく知っているわけではないので間の抜けたリアクションになってしまうのだ。
そんなルーシィに、ミラジェーンは優しく説明をした。
「『会』って言っても、評議会みたいに権力を持った組織の事じゃないのよ。ただ地方のギルドマスター同士の情報交換会というか…そうだわ、せっかくだから、魔法界の組織図を説明するわね―――――ねえリーダス、『
ミラジェーンはひらめいたと手を打ち、そばに居た風船に手足が生えたような体系をした、三角帽を深くかぶる男、リーダスから、『
その様子を見ていたルーシィと、ペンを貸したリーダスの目が合う。…ルーシィは失礼のないように微笑んで礼をし、しかしリーダスは思わず赤くなって俯いてしまった。……美少女に微笑まれた。
リーダスもまた、ルーシィに話しかけてみたかった一員だったのだ。
リーダスのリアクションは挨拶を返せないダメな例のようであったが、幸いにもルーシィの意識はペンを宙に滑らせ始めたミラジェーンに向いていたので、リーダスのリアクションに何か言うことは無かった。
「ええと、まーず、政府があるでしょ?」
ペンが躍る。淡く光る文字が宙に浮く。
「魔法界のトップは、政府とつながりがあって、ギルドを統括する役目を担っている『魔法評議院』ね。評議会とも呼ばれているけれど、ここは知っているわよね?」
「ええ、…院に所属されている10名の評議員さまがトップなのですよね」
「そうそう。評議院は魔法界の秩序を守るために存在し、罪を犯した魔導士は法の他に評議院で裁くこともできる」
「で、その下に居るのがギルドマスター、ひいてはなの。マスターは評議会の決定事項を魔導士に通達したり、各地方ギルド同士の
「そうでしたの…では、今回マスターが行かれたのは大切なお仕事なのですね」
ルーシィは納得したように頷いた。マスターというポジションが楽な仕事だとはもちろん思っていなかったが、それにしても
「…それにしましても、わたくし、ギルド同士でそこまで綿密な連携をとっていらっしゃるとは思いませんでしたわ」
「馴れ合いってほどではないけれど、大切なことなのよ。これをお粗末にしていると…」
にこり、と笑ったルーシィに、ミラジェーンが説明を続ける。が、その言葉は途中で止められてしまった。
「お粗末にしていると」、何だろうか。ルーシィが続きを促そうとくちを開こうとして、
「 ―――――黒い奴らが来るぞォォォォ !! 」
「きゃあんっ!?」
椅子からひっくり返った。
「っと、あぶねーな」
「!!!??」
ナツはとっさに落ちそうになったルーシィの背に腕を回して受け止める。そうして、腕の中で驚きすぎて放心しているルーシィに呵々と笑った。まったくいいリアクションをしてくれる、と。
対してルーシィは驚きすぎて硬直していた。目を見開き、のぞき込んでくるナツを凝視したまま、息すら忘れてドラムロールばりに鳴り響く心臓の音に飲み込まれていた。
「ルーちゃん大丈夫?」
「はっ! だ、だ、大丈夫です、ええ」
しかしミラジェーンの声ですぐさま正気を取り戻し、慌ててお礼を言いながらもナツから距離をとった。
( なんだかここ数日、ナツくんとの物理的な距離が近すぎる気がいたします…! )
ナツはそもそもパーソナルスペースが狭い派なのでぐいぐい来るが、ルーシィとしてはたまったもんじゃない。ナツに出会うまでろくに異性と接触したことも無かったというのに、たった数日間で恐ろしいスピードで経験値を上げられているのだ。
もちろん嫌なわけではないし、慣れていきたい気持ちはあるが、あまりに展開が早すぎてそろそろ心が持たない。
「―――――もう、ナツくん。驚かせないでくださいまし」
「ケケケ、気づかない奴が悪いんだろ!」
まあそれについては、ナツの笑っている顔を見るとついつい許してしまう自分に非があることも、理解しているのだが。
「黒い奴らっていうのはね、連盟に属さない『闇ギルド』のことを言うのよ」
「や、闇ギルドですか…」
「そう。彼らは連盟に属していないから評議院じゃ罰せないの。そして、」
「そもそもあいつら自体が法律無視で好き勝手するおっかねー連中なんだよ」
ナツとルーシィの様子を面白そうに見ていたミラジェーンが説明を続ければ、それにナツが割り入ってきた。それにミラジェーンは仕方がなさそうに笑う。
どこから聞いていたのかは知らないが、問題なく話を続けるということは話の内容は分かっているのだろう。シロツメの街での仕事から帰って以来、ナツは買い物に忙しいルーシィにまた会えなくなったようで、ずいぶんと不満そうにしていたということをミラジェーンは知っている。
暇を持て余したようなその様子に、ならルーシィがひと段落するまで仕事にでも行けばいいのではと進めてみたが、どうやらルーシィとチームを組んだのだから仕事にはルーシィを誘って行きたいらしく、断られてしまった。
「まあ…そのような方々もいらっしゃるのですね」
だから、驚いているルーシィを面白そうに見つめるナツに、やっと会えてよかったわね、とミラジェーンは微笑んだ。
■
「てかルーシィ、ギルドにいるってことは買い物終わったのか?」
「ええ、おおよそは揃えることができましたわ」
「じゃ、仕事選べよ」
「前はオイラたちが勝手に決めちゃったからね。今度はルーシィの番だよ!」
にっこり肯定したルーシィに、ナツとハッピーは上機嫌で
それに―――――初対面の時から意外性を発揮したルーシィ。前回の仕事でも、…もしルーシィが居なければ、あの本は本来の宛て主に読まれることなくナツに燃やされていただろうし、またマカロフに大目玉を喰らっていたかもしれない。
ルーシィがいたからできたことだった。ナツは、ルーシィを十分に認めていた。チームを組んだことをよかったと思っていた。また一緒に仕事に行きたいと思っていた。それはハッピーだって同じ気持ちだ。だからルーシィを待っていた。
「えっ」
だから、キョトンとした顔をして呆けた声を上げたルーシィにふたりは怪訝そうな顔をする。
なんだ、自分たちがなんでもかんでも好き勝手決めると思ったのか。まあしないことは無いけれど、前回はルーシィ抜きで勝手に仕事を決めたのだから今回は譲るくらいの気持ちはある。
ゆえに、心外だ、という顔を作ろうとして、しかしすぐにそれどころではなくなった。
「あ、あの、もしかしてチームはまだ有効なのですか…?」
「「 は!? 」」
なんかルーシィが変なこと言いだした。
ナツとハッピーは大きく声を上げた後、くちをあんぐりと開けて絶句した。有効も何も、チームになって一緒に仕事に行って、チームだからルーシィが落ち着くまで待っていて、チームだから仕事に行こうぜと言っているのに、何を言っているんだコイツは。という顔である。
「いやなんだと思ってたんだよお前!」
「えっ、あの、」
「チーム組もうって言ったじゃん!」
「い、いえ、その、
グワッとルーシィに詰め寄って責め立てるふたりに、ルーシィはしどろもどろになりながら説明した。
あの仕事だからこそ誘ってもらえて、だからこそ本来の役割を果たせなかったことが申し訳なくて、それであんなにも張り切って仕事にあたっていたのだ。
身を縮こまらせて訳を話すルーシィに、そう言えば出発前に「お友達になれた」とかはしゃいでたくせに急に静かになっていたような…とふたりはハッとした。まさかあの時から勘違いしていたのか。
「確かにあの仕事が決め手だったけど、オイラはルーシィとチーム組めて嬉しいよ」
「そら、あの仕事は金髪なら誰でもよかったけどよ、誰でもよかったからルーシィを選んだんだよ」
「えっ」
「お前いい奴だし。なんだ、俺らのチームは不満か?」
むすり、と不貞腐れた顔をしたナツ。だってチームになったと思ったのに。なんだそれは。心底不満だという顔を向けられたルーシィは大慌てで首を振った。
そんなことはない。不満なんてない。むしろ、だって、本当に嬉しかったから。
「いえ、いえ! あの、おふたりがよろしいのでしたら是非、チームに入れていただきたいですっ」
大きな声で否定したルーシィは、そのままナツをじっと見つめた。
本当に嬉しかったのだ。幸せだと思ったからだ。だって、だって―――――
「あの、お、お願いがあるのですが、」
「お? お、おう」
「わたくしと、お―――――」
頬が赤くなる。この先を伝えるのには勇気がいった。けれどやっぱり、こういうのは自分から伝えてはっきりさせるべきだ。
足をもじもじと擦り合わせて、手はうろうろと着ているワンピースの端をつまんだり口元を隠したり…ルーシィは真っ赤な顔で居心地悪そうな、恥ずかしさを耐えたような顔で、ナツから視線を外したりやっぱり見つめたりと落ち着きがない様子でくちを開いた。
「お―――――」
話の流れ的にナツも何を言われようとしているのか察したのだろう。ちょっと恥ずかしそうな気まずげな顔になるが、それでもルーシィを止めようとはしなかった。
「お―――――」
真っ赤な顔で言い淀むルーシィ。緊張からか瞳も潤み、それでも真摯にナツを見つめる視線は熱い。
「―――――お友達になってください!!」
「「「「「 いや友達かよ!!!! 」」」」」
ラブロマンスかと思った観衆の突込みが冴えわたった。
■
まあ、まあ仲間だし、…仲間だし、な? とどこか照れくさそうに友達だと頷いたナツに、ルーシィは大はしゃぎで喜んだ。
…いくらナツでもここまで青臭く友達宣言をするのは恥ずかしいものがあったのだが、まあ、それでもなぜルーシィが言い終わるまで待っていたのかと言われれば、
「オイラもルーシィと友達だよ!」
「はい! ああ、これは夢かしら。とっても嬉しいわ…」
まあ、まあ、まあ。なんとなく、ルーシィが心の底から喜ぶだろうな、とは思ったので。
―――――そんな甘酸っぱさはないが青臭い雰囲気に周囲が生温かい目をする中、割り込んできた声があった。
「おいおい、そんな簡単に決めていいのか?」
パンツ一丁。己が肉体美を惜しげもなく晒す男、グレイである。
ルーシィはその姿を視界に入れてすぐ、ギョッとして視線をそらした。どうしてこの人いつも裸なのだろうという感想しか出てこない。というか顔を見てしまうと前回の眼前に晒されたおしりを思い出してしまい恥ずかしいというか、怖いというか。
「あンだよ」
「聞いたぜ? 大活躍だったんだってな」
「い、いえその、それほど評価いただくようなことでは…」
「謙遜すんなって。これだけ噂になれば他の奴らも誘いに来ると思うぞ」
ジロリ、と睨みつけるナツをスルーしたグレイは、なのにそいつに決めちまっていいのか? とルーシィに笑って聞いた。そのセリフに、思わず一部の男どもがそわそわとした雰囲気を出し始める。
なんだか『ナツさん』呼びが『ナツくん』になっているなど急激にナツと仲良くなっているようで声をかけにくかったのだが、もちろん一緒に仕事をしてみたいという気持ちを持つ人間はたくさんいる。
例えば都合よくピンチになったりして。それをうまく助けちゃったりして。そして―――――
『あ、ありがとうございます…あの、とってもお強くて、お優しいのね。素敵……』
―――――なんて言われちゃったりして!!
現実にそんな展開はないとは分かっていても、ついつい妄想してしまうのは男のサガである。
もちろん、男だけではない。新入りの女の子と仲良くなりたいという女性メンバーもいるのだが、なにせナツとの掛け合いが面白いのもう少し見ていた気もするのだ。ピュアピュアな気配を感じると野次馬したくなるのも女のサガである。
「ふふ、僕と愛のチームを結成するなんてどうかな? 今夜、ふたりで……」
「ほらな」
「ま、まあ」
ロキがきらめいた眼差しでトップバッターをきった。セリフはどう考えても仕事の誘いには聞こえないナンパ文句だが、ルーシィは純粋にチームに誘ってもらえたと理解した。
ナツはロキを睨む。『俺が誘ったのに何でこいつらは邪魔するんだ』という感情しかない。けれど、ロキは気にせず相変わらずのきれいな微笑みをナツにも向けた。
……それでもナツが黙って聞いているのは、あくまでルーシィの意志が優先されることを理解しているからだ。
一方ルーシィは恥ずかしそうに微笑を赤らめた。なにせロキは美男子だ。それに初日に助けてもらったこともあり好感度は非常に高い。そんな相手から誘いをもらえたとあれば、嬉しくないはずがない。
けれど、
「あの、とっても光栄ですけれど、大してお役に立てるというわけではありませんので…ナツくんとハッピーさんにお誘いいただけただけでも、とてもありがたいことなので…」
「役に立つも何も、南の狼ふたりとゴリラメイドをぶっ飛ばしたんだろ? じゅーぶん快挙じゃねえか」
「め、滅相もないお話ですわ! どちらもナツくんのご活躍です!!」
それでも分不相応だと眉を下げるルーシィに、グレイが不思議がって噂をこぼせば、ルーシィは大慌てで否定した。まさかナツの功績が自分のものになっているなんて思いもしなかったルーシィの内心はパニックと罪悪感に襲われた。
意図せずとも人の功績をかすめ取ることになってしまっていただなんて、なんて恥知らずな。ルーシィは必死に誤解を解こうと言葉を続けた。
「あの、とってもすごかったのですよ! ええっと、メイドの方はナツくんよりふた回り以上も大きな方でしたけれど、二度も一撃で撃破されてしまわれて。南の狼の方々は直接目にしたわけではありませんが、おふたり相手にたったおひとりで勝利なされたのです」
ええ、とっても素敵でした! と捲し立てたルーシィに、グレイは「お、おう」と返すしかなかった。
…正直、ナツの功績だと聞いた瞬間はイラっとしたが、それでもこんなに一生懸命説明されればルーシィを乗り越えてナツにケンカを売りに行こうとはさすがのグレイでも思えなかった。
いや、なにせ、ルーシィは美少女である。
興奮しているのか距離の近づいた体も、必死に見上げてくる顔も、実はグレイ的にはドストライクだった。さらに言えば、相手がナツなのは腹が立つが仲間をかばい立てる精神性も好ましい。そんな相手ににべもない態度はとれないものだ。
「分かった分かった。でも、評議会や軍に上手く渡りをつけたのはお前だって聞いたぜ? …ああ、マスターが一枚かんでることも聞いたさ。でもマスターがお前の功績だって言ったんだから、そこは受け取っとけよ」
な? となだめるように言えば、ルーシィは褒められたことへの喜びにほんのり頬を染めて頷く。
向こうでルーシィの大絶賛に胸を張って威張っているナツは普通に腹が立つが、今はこの可愛さに免じて見逃してやろう、とグレイは肩をすくめた。
なお、一部から向けられた自分の妄想よりすごいベタ褒めをされているナツへの嫉妬の視線を受けて、ナツはなぞの寒気に襲われた。
「で、結局ナツとハッピーとチーム組むのか?」
「は、はい、お誘いいただけたのはとても光栄ですし…その、嬉しいので」
さて、ではこのお姫様ともうちょっと距離を詰めてみますか、とグレイは未だぎこちなく緊張している様子のルーシィへ話しかけた。
かわいいし、せっかく新しく仲間になったのだから仲良くやっていきたいものだ。
いやそれにしても、嬉しそうに頬を染めている理由がナツなのはナツに負けているみたいでムカムカするが。
ルーシィは控えめなはにかみを浮かべてグレイの言葉に肯定した。
本当に、嬉しかったのだ。それはもう、ものすごく。
チームに誘われて、嬉しくって、
そう、気合を入れたのだ。役に立てるだけで嬉しかったから。少しでも恩返しができればと思ったから。……憧れに、ほんの少し近づけるかもしれないと思ったから。近づくことはできなくとも、そのきらめきを、ほんの少しでも、間近で見ることができると思ったから。
そうして仕事に向かって、結局役割を果たせなかったと思っていたら、まさかのまさかである。
嬉しくないはずがない。不満があるはずがない。
だって認めてもらえたのだ。チームを組みたいと思ってもらえたのだ。こんな嬉しいことがあるだろうか。
夢のような、この現実が、……また一歩、近づいた。
そんなルーシィの、幸福を凝縮して浸っているような笑顔を直視したグレイは思わず固まってしまう。いや、それ、本当に「お友達」相手に向ける笑顔か? という疑問を抱いてしまうのは仕方がない。
まさかナツのことがそういう意味で好きで、それを自覚していないだけでは。いやそれにしても―――――それにしても、はにかむその顔があまりにも目を引いて、グレイは湧き上がった緊張に生唾を飲み込む。
「けれど、何かあったら是非相談してほしいな。ナツはフリーダムだからね…君が振り回されて辛い思いをしてしまわないか心配だ」
ふんにゃりとした笑顔を浮かべるルーシィに、固まったグレイ。ふたりの間には不自然な沈黙ができてしまい、不思議に思ったルーシィがグレイを仰ぎ見ようとしたところで―――――ふたりの会話にロキがひょっこり割り込んだ。
ハッと正気に戻ったグレイは、にっこりと笑ってルーシィに話しかけるロキにまたナンパか、と呆れながら冷静さを取り戻し、対してルーシィは顔をパッと華やがせる。なにせロキは自分を助けてくれた人だ。顔に好意がにじみ出る。
それに、優しい目をしているから。
今のセリフもナツをダシに使っているように聞こえるが、ルーシィは本当に心配してくれていると感じていた。あえてフリーダムという言葉を選んだのは、ナツへのフォローだろう。
それにさっきチームへ誘ってくれた時も、優しい目でルーシィへ微笑んでいた。
だからルーシィは安心しきった顔で微笑んだ。それは誰が見ても心を許していると分かるような微笑みだった。
「お心遣いありがとうございます」
「君みたいなきれいな子を心配するのは男として当り前さ。…けど、そんなに心を開いてくれるのは嬉しい反面複雑だな」
世の中には優しい顔をしてひどいことをする男もいるんだから、気をつけなきゃだめだよ。もちろん僕は違うけど、とルーシィに忠告しながら微笑むロキに、グレイは物凄い違和感を覚えていた。
ロキがナンパをするのはいつものことだと思っていた。けれど、これは。この言い方は、まるで庇護する相手に優しくしているだけのように見える。
ルーシィはどう見てもロキが口説きそうな女の子だ。なのに、まるで下心を感じられない。
どういう心境の変化だ? とグレイは怪訝そうな顔でルーシィに話しかけるロキを見た。
■
ロキは自身の感情に戸惑っていた。なぜ自分はこんなにもルーシィを心配しているのだろうか。かわいい女の子には優しくするもの。それは当然だ。けれど、なんだろう。自分でも度を越しているような気がする。なぜだろう。不可解だ。けれど、不愉快ではない。ただ、ただこれは―――――
「ところで、ルーシィはどんな魔法を使うのかな」
「わたくしは、」
ルーシィは微笑んだまま腰に下げていた皮のキーポーチを外して持ち上げた。―――――そう、それはキーポーチである。ロキは今までの女性たちと関わった経験から、それが皮でできたレディースのキーポーチだとすぐに気が付いた。
魔導士が、使う魔法を尋ねられてキーポーチを取り出す。その意味をロキは知っていた。ロキだからこそ知っていた。ロキは、誰よりも知っていた。
息が、止まる。
「君ッ―――――星霊魔導士だったの!?」
「え? ええ、そうですが…」
ギョッとしてルーシィから数歩距離をとったロキ。そのリアクションに、ルーシィは面食らう。ポーチから鍵を出してもいないのに『星霊魔導士』だと気づかれたということは、ロキは星霊魔導士に親しみがあるのかもしれないと、ルーシィは考えた。…けれど、ならこのリアクションはなんだろうか。この―――――ショックを受けたような顔は。
「すまない、僕はこれで!」
「えっ!?」
ロキはすぐさまルーシィに背を向け、一目散に走り去った。―――――背後から、ミラジェーンがルーシィにフォローを入れてくれている声が聞こえる。お礼を言う余裕もない。ただ、すぐにでもこの場から離れたかった。
星霊魔導士はだめだ。もしかしたら
―――――それに、ショックだった。
守りたいなと思った。心配だった。どうしてだろうと思った。それでも、いやな気持ではなかった。むしろどこか幸福を感じていた。なぜかは分からない。分からないけれど、確かに嫌なものではなかった。どこか安心した。それが、それがまさか―――――ルーシィが星霊魔導士だったからだというのなら。
それはひどい裏切りだと思った。
誰への裏切りか。それはルーシィへの裏切りだ。
嫌だった。そんな理由でルーシィへ好意を持った事実が、自分が、嫌だった。
だって、考えてしまった。ルーシィが星霊魔導士だと聞いた瞬間。自分の好意を意識した瞬間。―――――まさか、目の前の少女は
あんなに純粋な、心を開いた笑顔を向けてくれた相手に対して、そんな疑いを持った。本気だったわけじゃない。ただ、ただ、ロキは―――――ロキは、責任をルーシィに押し付けようとしたのだ。
自分の好意の出所を、ルーシィのせいにしたかった。そうして、まさかと思うような自分の浅ましさに見て見ぬふりをしたかった。泥に泥を塗るような、醜い自分を自覚した。
だって分かってしまった。彼女が星霊魔導士だというのなら、理解してしまった。けれど認めれば、それは裏切りになると思った。
そうだ。この感情は知っていた。遠い昔から、ずっと知っていた。…それなのに、ああ。随分と懐かしい感じがする。
嫌なわけがない。当然だ。ああ、ああ―――――
自分は、気づいてはいけない。―――――きっとルーシィは、星霊を心から愛してくれているということに。
だから走って逃げて、心を落ち着かせようとした。意識を切り替えようとした。今までギルドに居なかった星霊魔導士の仲間への関わり方を考えなくちゃいけないと考えて―――――
―――――1分でギルドに戻ってきた。
■
「ごめんねルーちゃん。びっくりしたでしょう?」
「い、いえ……あの、わたくし、何か失礼をしてしまったのでしょうか…」
「ああ、違うのよ。ロキはずっとああなの」
「おー、気にすることじゃねえよ」
「は、はい……」
「ところでグレイ、服は?」
「アレェ!?」
しょんぼり、と落ち込んだ様子を見せるルーシィに、ミラジェーンは首を振って否定した。
ロキはギルドに入ったころからずっとそうだった。かわいい女の子は片っ端から口説いて回るくせに、星霊魔導士相手にだけは一目散に逃げ出すのだ。
ただ、嫌いだから逃げるというよりは苦手だから逃げるという感じで、「何たる運命のいたずらだ!」などと騒ぐため、過去に星霊魔導士相手に(女性関係で)ひどい目にあったのではないだろうかというのが周りの見解だった。
「だからルーちゃんが気にすることないのよ」
フォローするミラジェーンに、ルーシィは曖昧に微笑んだ。それでもやっぱり、好意を持った相手に拒絶されるのは悲しいし、もしかしたら愛する
もしそれが誤解ならぜひ解きたいとは思うのだが、トラウマになっているのならお節介でしかないのかもしれない。強制して余計に嫌われるかもしれないし……ルーシィの気持ちはままならない。
「はい……」
「おーしじゃあルーシィ仕事選ぶぞ!!」
「きゃあ!」
けれど、付き合いの長い他の人がそう言うのならあまり気にしないようにしよう、とルーシィが頷いたところで、ナツがとびかかるようにルーシィの肩に腕を回した。
驚いたルーシィのくちから悲鳴が漏れる。しかしナツは気にしなかった。
チームは本人の意思を優先すべき。だからナツはルーシィが頷くのを待っていた。そうしなければ、もし、無理強いをすれば……あの船の上のように、泣かれてしまうかもしれないと思ったからだ。
正直、ナツはルーシィの扱いを測りかねていた。それは恐らくハッピーも気づいていないことだが、ナツは毛色の違うルーシィはどこまでがセーフゾーンなのかが分かりかねていたのだ。
…普段なら、ナツがそこまで気にすることではないかもしれない。ロキの言ったとおり、ナツは悪人ではないがフリーダムな野生児だ。だから基本は押さえているものの割と好き勝手に生きている。
けれどやっぱり、あの船上で見たルーシィの泣き顔が、どうしても飲み下せなかった。
だから、万が一自分が原因であんな顔をされてしまうのは御免だったのだ。
しかし今、ルーシィの誤解は解け自分でナツとハッピーとのチームを選んだ。嬉しいと言って、ナツとハッピーを選んだ。―――――ならもういいかと、ナツは決めることにした。
もういいだろう。もう大丈夫だろう。だからナツは、ご機嫌でルーシィの体を肩に回した腕で引っ張って
ようやく仕事に行けると笑って―――――「あん?」と首を傾げた。
ロキが出て行ったはずのギルドの出入り口から駆け込んでくる姿が見えたのだ。
「あらあら、どうしたのかしら?」
「―――――し、失礼しますっ」
同じくロキに気付いたミラジェーンがコテン、と首を傾げた隣で、ルーシィは驚きでなされるがままに成っていた状態からハッと覚醒し、少し迷ってからナツの後ろへ身を隠した。
それを見て、慌てて服を着なおしたグレイが怪訝そうな顔をする。……ところで、ルーシィが服を着たグレイを見たのはこれが初めてである。
「…なにやってんだ?」
「い、いえ、星霊魔導士を苦手にされていらっしゃるのでしたら、わたくしがご面前にあれば不愉快なお気持ちになってしまわれるかと思いまして…」
……なんとなく、グレイは何とも言えない気持ちになった。なんだろうか。何か違和感があるようなないような。
よくわからないから、とりあえず気にしすぎだとだけ声をかけてみることにした。
「ナツ!! グレイ!! 大変だ!!!」
走って戻ってきたロキは、息を切らしたままナツとグレイの名を呼んだ。その顔色はけして良くはなく、すわ体調不良かというほど。
グレイは何事かと眉を上げた。なぜ自分とナツがピンポイントに呼ばれたのか。「あん?」とロキを見た。
ナツはロキを見ながら、なにか強い獣の匂いがするな、と感じた。背中に回り込んだルーシィには「何やってんだコイツ」と思ったもののそのままにし、自慢の鼻をもう一度ヒクつかせた。
獣の匂い。多分、魔獣の類だ。それから、血の匂い。その魔獣のものだろうか。そして、どこか嗅ぎなれた……
「ま、まさかっ」
一気に青ざめたナツが逃げ出そうとしたその一瞬、一歩早くロキの声がギルドに響く。
「エルザが帰ってきた!!!」
さて、ところで。冒頭のふたりの天使の挨拶について話をしよう。
マカロフと話が付いた後は、ルーシィはミラジェーンにもろもろの礼をしに行った。気にしないでと笑うミラジェーンに、ルーシィはそれでもと礼を言い…それから、ほんの少し頬を赤らめた。
「あ、あの、ミラさん…」
「あら、どうしたのルーシィちゃん」
「その、実はっ、折り入ってお願いしたいことが、あるのですが!」
ミラはぱちくりを目を見開いた。赤い顔で窺うように見てくるルーシィ。そのくちから発せられた「お願いしたいことがある」というセリフ。
それは―――――それはなんて、素敵なことだろうか。
「ええ、いいわよ! 何でも言って」
初日から、しっかりとした子だと分かっていた。少し天然で世間知らずっぽいところは見受けられたが、マカロフと話し合う姿を見れば教養があり賢いということは見て取れる。
そして同時に、どこか壁を、線引きを感じてしまう子だと思った。
それはルーシィへ線引きをしてしまうということではなく、ルーシィがミラジェーンたちに線引きをしているように感じるという意味だ。
初日と、今。それだけで、ミラジェーンの目にはルーシィが、一歩引いていて、それでも眩しそうな顔をしてこちらを見て、そして嬉しそうに、まるで他人のような顔をしているように見えていた。
理由は分からない。けれど、仲間なのに。それなのに、まるで自分は蚊帳の外のような雰囲気をしているのが気になった。
もちろん、入ってすぐに親密になれ、というのは無理な話だと知ってはいるが…それでも、早く馴染んでくれればな、と思ってしまうから…ついつい気にかけてしまう。
だから喜ぶ。そんな子が「お願い」をしてくれることに。ああ、多少の無理難題なら許してしまうかもしれないわ! と、ミラジェーンの心は浮ついていた。
「そ、それではあの、」
だからミラジェーンは喜んだ。
「ミ―――――ミラちゃんとお呼びしても、よろしいですかっ!」
( ねえ、きっとナツ。あなたでしょう? この子にこんなことを言えるようにしてあげたのは )
―――――そんな、確信のような喜びを持って、ミラジェーンは満面の笑みで頷いた。
「ええ、ぜひ。ねえ、なら私もルーちゃんって呼んでもいいかしら?」
それでも、ナツばっかりどんどん仲良くなるのはちょっと悔しいかも? と思いながら、泣き出しそうなくらいの笑顔を浮かべるルーシィに、ミラジェーンはハグをした。
―――――そんなわけで、ミラジェーンはルーシィを「ルーちゃん」と呼び、ルーシィはミラジェーンを「ミラちゃん」と呼ぶようになったのだ。
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スカーレット・レディ
長らくお待たせいたしました。なんか割とぐだぐだです。文字数だけ多い。
描きたいネタだけは詰め込みました。
そういえば、当初はルーシィの性格はもうちょっと控えめだったんですよね。強く言われたら流されちゃうというか、もっと自分に自信がなくてプルプルしてる感じの…
そこから成長していく姿を描くつもりだったのですが、先の展開のネタばかり浮かんでくるうちに侵食されました。わりと元気になっちゃった。
どれくらい違うというと、まずハルジオンの時点でナツを窘めきれずに一緒のベットで寝るはずだった。
『エルザ』―――――その名を聞いた途端、ギルド中がざわめき、空気が震えた。
ナツとグレイは青ざめ、ルーシィは異様な雰囲気に不安感を募らせる。
エルザとは誰だろうか。どうしてこんなにざわめいているのだろうか。
ルーシィがミラジェーンを仰ぎ、この雰囲気の原因を聞こうとしたところで―――――地面がわずかに揺れた。
それはまるで巨大な怪獣の足音。
重量を感じさせる地鳴りのような音が、少しずつギルドに近づいてくる。
「エ、エルザだ…!」
ナツの震える声が聞こえた。
この揺れの原因がそのエルザという人間なら、いったいなぜ揺れているのだろうか。まさか本当に足音だと? そうだとするのなら、いったいどれほどの巨体の持ち主なのか。ルーシィは頭の中で初対面時のマカロフや星霊だったらしいバルゴの姿を思い浮かべ―――――目の前のナツの背中が震えていることに気が付いた。
ナツが慄くほどの魔導士。……ルーシィは緊張感に小さくつばを飲み込み、震えた指先でナツの服の端をつまむ。
誰もが固唾を飲み込み、ギルドの入り口を注視する。―――――その肌が震えるような雰囲気の中、彼女は現れた。
「―――――今戻った」
纏うのは国軍のような鎧。一歩踏み出す足はしなやかで、動きに合わせて揺れるスカートも精練された雰囲気を強調する。品を感じさせる面構えの豊満なまつ毛に彩られた目元は鋭く―――――存在そのものに凛とした威圧感のある、美しい戦士がそこにいた。
「―――――………」
ルーシィは絶句する。息も忘れるほど、その光景に見入った。
エルザはその肩に身の10倍ほどの『荷物』を乗せて歩いていた。息ひとつ乱さず、背筋を伸ばしたまま歩き、
ズウウウウンッ!!
「マスターはおられるか?」
軽々とそれをギルドの床に下して、何事もなかったように話し出した。いや、実際エルザにとっては何事でもないのだろう。実に軽々とした動作だった。
けれどその荷物が見た目だけの張りぼてでないことは、床に置いた際の揺れで数名がバランスを崩し尻もちをついていることから明らかだ。
ルーシィもまた、呆然としていた状態で揺れに襲われたため、バランスを崩してナツの背中に顔を突っ込むこととなった。……けれど、その視線はずっとエルザへ。
「マスターは今定例会に行ってるわよ~」
ギルド中が強い緊張に襲われている中、ミラジェーンは変わらず穏やかに答える。……その声でようやく他のメンバーたちもハッとしてくちを開くことができた。
「エ、エルザさんなんすかそのバカでかいの…」
「ん? ああ、討伐した魔物の角だ」
地元の者が礼だと飾り付けてくれてな、と語るエルザの言葉に、その場に居た全員が改めて目の前の魔導士の規格外さを理解する。
角だけで当人の10倍はあるということは、実物は100倍を超えるのではないだろうか。そんな魔物相手にまさか無傷完勝してきたのか? というか任務地から持って帰ってきたのか? どうやって? 絶対公共交通機関使えないだろそのサイズ。まさか、―――――歩いて?
―――――周囲がエルザの討伐した魔物を想像する中、ルーシィはずっとエルザを見ていた。
角について聞かれ、凛とした雰囲気を少し緩ませ、飾り付けられて角を称賛するその顔はほころんでいる。そこに滲むのは飾り付けた地元民への称賛と、感謝の思いを喜ぶ心と、美しい調度品となった角への好感だろうか。
「……? おい、ルーシィ?」
ふと、ナツが黙ったままのルーシィに声をかける。様子が変だ。ずっと黙ったまま、微動だにしない。背中にぶつかってきた時でさえ謝罪もなかった。…あのルーシィが。
今もそう。ルーシィはナツの呼びかけに反応することなくただじっと、驚いたような、呆然としたような顔でエルザを見つめ続けていた。
その熱い視線の先で、エルザはギルド内に居るメンバーへその素行や言動を咎め始める。さながら風紀委員のようなそのくちぶりから、当人の性格は窺い知れるというものだろう。けれど、ひとりひとりを言い咎め、世話が焼けると溜息を吐くその顔はセリフに反して穏やかだ。
その微笑みは彼女が仲間たちを大切に思っているという気持ちが透けて見えるような、親愛がにじみ出ているもの。それがどこか雰囲気を砕けさせ、いっそうルーシィの目を引き付ける。
美しい人だった。頭の先から足の先まで、一本の剣のようにまっすぐと伸びた、美しい人だった。
「ルーシィ? おいってば、」
「―――――素敵……」
「は?」
「そういえば、ナツとグレイはいるか?」
エルザが振り向く―――――
ルーシィはまるで魂を抜かれたように魅入っていった。
「よっ、よぉ~エルザ…」
「久しぶりだなグレイ。ナツとは仲良くしているか?」
「も、もちろん…だぜ…」
「そうか。お前たちはよくケンカになるからな…親友なら争うこともあるだろうが、私は仲良くしているお前たちを見るほうが好きだ」
「いや毎回言うが別に親友ってわけじゃ…」
「で、ナツ。お前も―――――ナツ?」
エルザからの名刺し。グレイは引きつった頬をそのままに答えた。なにせ体がエルザの恐ろしさを十二分に知っているのだ。嫌っているわけではない。避けているわけでもない。仲間だ。…仲間だが、恐ろしいものは恐ろしい。ので、どうしても顔が歪になる。
しかしエルザは鈍感なのかマイペースなのか、グレイの様子に気づかず納得し、ナツに呼びかけ―――――そして少し困惑した。
「おい、おいって、ルーシィ」
「ルーシィ?」
「―――――」
「ダメだよナツ、完全にトんじゃってる」
「何やってんだこいつ…」
ナツが、見覚えのない少女の肩を揺さぶっていた。
…何事だろうか。ちらりとグレイやミラジェーンに視線を向けてみるものの、ふたりとも首を傾げていることから状況を把握しきれていないのだろう。
「ナツ、どうした」
「うおっ!? あ、ああいや、なんかルーシィが固まって…」
とりあえず本人に聞いてみるか、とエルザが近づき声をかければ、ナツは少し動揺しながら答えた。ナツもまた、何度も再起不能にさせられた記憶が尾を引いているのだ。
―――――余談だが、ロキもまたエルザをナンパしてボコボコにされた過去があるために、叫んだあとは即行ギルドの隅へ避難していた。
エルザはルーシィを見た。右手にあるギルドマークから、新しい仲間なのだろうということは察せる。しかしなぜ固まっているのだろうか。もしや体調がすぐれないのだろうか……エルザは仲間を想う深い気持ちで、固まったままのルーシィに視線を合わせた。
「―――――はっ」
瞬間、ルーシィが弾かれたように正気を取り戻し、―――――目の前のエルザの顔を認識した途端、顔を真っ赤に染め上げる。
「君、大丈夫か。顔が赤いようだが…」
「い、い、いえ! だい、大丈夫です! お心遣いありがとうございます!」
「そうか? もし気分が悪くなるようだったらよく休むといい。……ところで、君は新しい仲間、という事でいいのだろうか」
「は、はい、ルーシィと申します……あ、あの、あなたさまは、」
「私はエルザ・スカーレットだ。これからよろしく頼む」
エルザは挙動不審ながらも自己紹介をしてきたルーシィに、名乗りながら小さく微笑んだ。それは、赤くなった頬に体調不良を疑ったがどうやら元気そうだという安堵と、新たな仲間への歓迎の気持ちだった。
ルーシィは眼前でほころんだ赤い薔薇に高鳴る心臓を服の上から押さえつけ、それからスカーレット…、と名前を復唱した。
スカーレット。それは一等目を引く鮮やかな赤を指す緋色のこと。どこまでも赤く、美しい、炎の色。
―――――はらり、エルザの頬に一本鮮やかな線がかかる。
ああ……―――――ルーシィはたまらない気持ちになった。言葉で言い表せない何かがそこにはあった。
だから、そっと窺うように、何か素敵なものを見つけたような顔で、じっと目を合わせてくるエルザに微笑んだ。
「―――――お
未だ熱の引かない頬のまま、とっても素敵だわ、と小さく息を吐くように、恥ずかしそうに伝えるルーシィ。そのセリフに…次に息を止めたのは、エルザだった。
―――――視界の端にスカーレットが映る。
「そ―――――う、だろうか。ありがとう」
「ええ……」
「………」
「………」
「………」
「あっ……あの、……えっと、ま、魔物の討伐に当たられたそうですが、…お怪我はございませんか」
「あ、ああ。脅威ではあったが敵ではなかったからな」
ぎこちない会話。けれど、敵ではなかったと首を振ったエルザの声ははっきりとしていた。それは己が武への確固たる自負があるのだろう。けれど脅威と呼ぶのは、実際に被害を被った人々がいるからだ。だから助けてくれと
「そ、そうですか……その、とってもお強いのですね」
「いや、私もまだまだ未熟さ」
その物言いにルーシィはうっとりとして賞賛の言葉を送る。けれどエルザはそれを否定した。傲り高ぶらないエルザらしい謙遜だ。同時に事実だと思っているからこその言葉だ。
上には上がいると知っている。いつだって自分の不甲斐ない点を意識して立っている。
秩序はそこいらの魔導士他に引けを取ることはないと胸を張るが、しかし逆上せるにはまだまだ
けれど、未熟であるということはこれ以上があるということだ。熟すだけの余地があるということだ。ゆえにエルザは自己研磨を続ける。さらに上へ。その次へ。それこそ、完熟を通り越して腐り落ちてしまうまで―――――大切なものを守るために。
「そんな………それに、あの、わたくしのこともご心配くださって、とてもお優しいです」
ふるり、首を振り…恥ずかしげに、それでもそっと目を合わせて話すルーシィに、エルザもまた少し頬を染め、柔らかく微笑んだ。
それは綻ぶ花のようであり、眩く光を反射する鋭利な剣のようだった。
「仲間を心配することは当たり前のことだ。けれど、…ありがとう」
包み込まれた。そして射抜かれた。その瞳に見つめられ、ルーシィは再び息の仕方を忘れた。―――――そして、燃え上がるように顔を赤らめ、…蕩けきったような眼差しで、鋭くも暖かい光を宿すエルザの眼差しに釘付けとなった。
エルザもまたその瞳を優しく見返し―――――
「で、ナツ」
「お!!?」
―――――ルーシィの隣に居たナツに話しかけた。
■
話しかけられたナツはひっくり返った声が出た。いやだってびっくりするだろう。一瞬前まで目の前で急にいちゃつきだした片割れからしれっと話しかけられたら! 声は出さないものの勃発したラブロマンスに注目していた周囲もあんぐりとくちを開いて目玉を落としそうになっていた。平気そうな顔をしているのはミラジェーンだけだ。
「久しぶりだな…相変わらず暴れているようだが、少しは加減を覚えるべきだぞ」
しかしエルザ本人は変然としている。何でもない顔だ。…いや何でもない話なのだ。エルザにとっては。そもそもいちゃついてたつもりがない。だって単純に褒められてお礼を言っただけだから。
そして最後の礼で会話が終わったものだと思っている。だから何でもないようにナツにも苦言を呈しているのだ。だって本当に何でもないから。
目の前の急な雰囲気の転換にギョッとしていたグレイは、すぐにハッとしてルーシィを見た。一瞬前まで自分と甘く見つめ合っていた相手にこんな対応をされれば、いくらおっとりお嬢様風なルーシィでも憤慨するかひどく傷つくのでは、と危惧したからだ。
しかしグレイの想像に反して、ルーシィは赤らめた顔でうっとりとエルザを見つめているだけだった。
だってルーシィもまたそうなのである。素敵だと思ったから賞賛しただけだった。それに謙遜されてお礼を言われて、なんて素敵な人なのでしょうと震えたりしちゃったりしたが、それだけだった。
恋する乙女のようなリアクションに見えたとしても、本当にそんなアレではなかったのだ。本人にそのつもりは一切ない。そもそもついさっきナツとラブロマンスに見せかけた青春ドラマをやったばかりだった。
だから「ナツさんとお話があるのならお邪魔にならないようにしなくては」と一歩そばから引いたし、隣でなんとなく察したグレイはドン引いた。
「しかし常に全力なこともお前の魅力なのだろう。だが、これからのことを考えるのならばお前も周囲の被害やギルドの風評を……」
周囲が未だ呆然としたまま正気に戻れない中、エルザは懇々と説教を続けルーシィはその姿をキラキラとした顔で見つめグレイは
―――――世間一のお騒がせギルドが、たったふたりの魔導士にギルド全体を翻弄されるという伝説が生まれた日であった。
ミラジェーンだけが楽しそうに笑っていた。
■
「―――――さて、話はここまでにしておこう」
エルザが言葉を切れば、ナツは解放されたように大きなため息を吐いた。話始めれば言いたいことがいくつも出てきたらしいエルザは、それからひとつふたつと話を増やしていき、最終的には5分ほどナツに説教を続けていたのだ。
たった5分。されど5分。ナツは枯渇した精神力に頬をこけさせ、そのまま目の前でミラジェーンと話し始めたエルザをしり目に横に居たルーシィの頬を緩くつねった。
「!!!??」
「このやろっ」
ギョッとした顔のルーシィにナツは拗ねた顔を作って、ふわふわですべすべのその肌をむに、と引っ張る。
なにせルーシィは裏切り者だ。チームのナツが説教されてぐったりしてるというのに、エルザをキラキラとした顔で見つめて助けもしてくれなかったのだから!
周りのメンバーは叱られるナツを見てとっくに普段の調子に戻って騒ぎ始めたが、まあこれが
これは立派な背信行為だ。ナツにはルーシィに罰を与える権利がある。ちなみにハッピーは会話の節々で飛び火していたので同士だ。無罪。
「な、
「仕返しだこのやろ」
「ナツ―! 次オイラ! オイラもやりたい!」
ナツはルーシィの頬を傷つけないよう、爪を立てないように、ちからを込めないように気をつけながらもにもにと引っ張ったり押したりを繰り返した。…途中から仕返しというより感触を気に入って遊んでいたが。
対してルーシィは産まれて初めての経験に大混乱していた。ナツの手がルーシィの
「おいおい、いじめてやんなよ」
「いじめてねーよ。つかうるせえ」
「あ゛?」
「んむっ!」
いつも通りウザくてうるさいグレイに舌を見せながら、ナツは変わらずルーシィの頬をいじくった。
もちもちというよりふわふわだった。下手をすればふわふわを通り越してとろとろだ。ムニムニとつねっていた状態から手のひらで包んで揉み転がす罰に変えてみれば、そのとろとろ具合がよく分かる。
うん、やっぱり
「だーっ! やめてやれって!」
「うお!」
「ぷはっ!」
しかし表現できなくとも感じることはできるわけで、ナツはあうあうと翻弄されるルーシィを気にせずとろとろさせていれば、こねくり回されて目を回しているルーシィがさすがに哀れだとグレイに引きはがされた。
「なにすんだよ!」
「うるせーよセクハラ野郎!」
脱衣魔に言われるのは大変心外だ。
ただ頬を触っていただけでセクハラとは全く遺憾である。ナツはすっかりルーシィの頬の具合を気に入ってしまったのだが、しかしグレイはサッとルーシィを背に庇ってしまったので、グレイを乗り越えなくてはとろとろができない。
グレイ越しにはハッピーがルーシィの頬を肉球でぷにぷにしているのが見える。怪我をさせないよう爪はしっかりしまわれた前足で柔らかくぷにぷにぷにぷに……これには目を回していたルーシィもにっこり。表情までとろとろにして喜んでいた。
ハッピーは良いのになんで俺はだめなのか。ナツはムッとした。……しかしこの疑問は、ハルジオンでルーシィに窘められた例の一件と同じである。じゃあ仕方ないのか、とは思うが―――――
それはさておきグレイに言われるのはシンプルに腹が立つ。
「うるせーなチームなんだからいいだろ」
「お前の中でチームはどういうもんになってんだよ…つか女にべたべた触るもんじゃねーだろ」
ケッ、とグレイに言い返せば、グレイには呆れた顔を向けられた。おまけにスカしたセリフまでつけて。―――――しかし、ここでナツは気づいてしまった。
グレイは、ナツと話しながら背に庇ったルーシィに意識がいっていると。
「はーん?」
「あ?」
「なんだよ、お前も触りてぇならルーシィに言いやいいじゃねえか」
「はあ!?」
仰天したような声を上げるグレイに、やっぱりな、とナツは鼻を鳴らした。この男、ルーシィの頬が気になってるくせに自分は触れないから好き勝手触っていたナツの邪魔をしたのだと。
―――――それは実は半分正解な推理だった。あれだけ夢中にこねくり回されていればどんな触感なのかと気になるというもの。というか美少女のほっぺを好き勝手出来るとか羨ましすぎる。前世でどれだけ徳を積んだのか。
しかし行動原理のもう半分はちゃんとルーシィを心配してのことだったし実際ナツから庇っているので、客観的に見ればどう考えてもこねくり回してたナツの分が悪いはずなのだが、どこ吹く風でドヤ顔をしているナツは気づかない。
「テキトーなこと言ってんじゃねえぞ!」
「なーにがセクハラ野郎だよこのむっつり」
「むっ…!? テメェこの野郎!」
「おおやんのかコラ!!」
「 お い 」
■
「まったく…いつになっても手のかかるやつらだな」
「「 あい……すみません…… 」」
ナツとグレイは震える身体で正座しながら、エルザの呆れたようなため息に合わせて謝罪をした。…ケンカを止めるために殴られた頬がなんとも痛い。
今回ばかりはさすがにルーシィもふたりを心配そうに見ていたが、今はその心配が心に刺さった。
「しかし相変わらず仲が良いようで安心したぞ」
エルザは目の前に並ぶふたりにズレた感想をこぼしながら、
「―――――そんなお前たちにだからこそ、頼みたいことがある」
……一転し、真剣な表情でくちを開いた。
カチ、と場の雰囲気が変わる。周囲で叱られるふたりを肴に騒いでいた連中も、色が変わった雰囲気に顔つきを変える。不思議そうにしたり、気味が悪そうにしたり、警戒した顔をしたり。
けれど誰もが、最終的にはエルザを、ひいては話しかけられているふたりを心配そうな顔で見た。
「実は仕事先で厄介な話を耳にしてしまってな…事が事なため、本来ならマスターの指示を仰ぐところだろうが、私はなにより早期解決が望ましいと判断した」
ごくり、と誰かが喉を鳴らす。言葉選びから察せるほどのエルザの警戒心。規格外と言える魔導士にここまで言わせる『厄介な話』とはいったい何なのか……周囲には緊張が走り、ピンと張り詰めた雰囲気が漂う。
「ゆえに、グレイ。ナツ。―――――お前たちのちからを貸してほしい」
それは、誰もが想像していなかった言葉だった。
ざわっ、と一瞬にして喧騒が広がる。―――――エルザが誰かを誘った。助けを求め、ちからを貸してくれと言った。
前代未聞のことだった。なにせ、エルザが最後に誰かと仕事に行ったのはもう何年も前の話だ。ギルドに入りたての頃、仕事の説明がてらベテラン魔導士の仕事を4、5回見学させてもらったことだけ。それ以降、エルザは様々な仕事にひとりで挑み続け、生き抜いてきた。
誘われれば手を貸すこともあった。けれど、自分から誰かを誘うことはなかった。
ナツとグレイもまた事態の深刻さを感じたのだろう。……しかし。
ちらり、とお互いがお互いを見た。―――――コイツと仕事のなど、真っ平ごめんなのだが????
「出発は明日だ。早朝にマグノリア駅に集まってくれ」
「いやちょ、」
「いや待てよ!」
「詳しい説明は移動中にする」
くるり、と背を向けたエルザに、グレイは慌てた声を上げナツは叫んだ。
グレイはとにかくナツとの仕事がごめんなのだ。間違いなく取っ組み合いのケンカになる。そうすれば真面目なエルザは仕事をしろとキレるだろう。で、ボコられる。全くもってごめんである!!
ナツは勝手に決められたのに納得がいかなかった。だって次はルーシィが決める番だった。4日も待っていたのだ。忙しそうに走り回るルーシィを尊重して待ち続け、ようやく仕事に入れたと思ったらなんか勘違いしてて、だから次がようやくしっかりとしたチームの初仕事になるはずだった。
なのにエルザの仕事に引っ張り出されれば全部パアだ。
だからちょっと待てと慌てたふたりに、しかしエルザは全く意に介していないという様子で歩き出し―――――くるりと振り返った。
「そうだ、―――――ルーシィ」
「は、はい!」
「君はナツとチームを組んでいるそうだな」
「はい、えっと、僭越ながら…」
ルーシィの小さめの肯定に、エルザはナツを見、ルーシィを見、そうして何かに納得するようにうなずいて微笑んだ。
「せっかくだ。君も一緒に来てくれるか? ナツとチームを組んでいるのなら安心できる」
―――――ルーシィの背筋に稲妻が走った。
なんということだろう。期待されてしまった。誘われてしまった。恐れ多い。
それは喜びだった。それ以上の不安だった。向けられた期待に、真っ先に感じたのは「もし、足を引っ張ってしまったら」という恐怖だった。
サア、と血の気が引く。眩暈がしそうだった。ナツの時とはわけが違う。大して期待されていないまま、自分から名乗り出たのとは意味が違う。チームに招いてもらえたのとは経緯が違う。
―――――だってエルザは、ナツとチームを組んでいるのなら、と言ったから。
―――――それはつまり、『万が一』があれば…ルーシィが原因でナツの株が下がってしまうという意味だ。
悲観的と言うなかれ。きゅう、と緊張で喉が鳴る。目の前の、ルーシィよりも圧倒的に強大で偉大な魔導士が、ルーシィの返事を待っている。
「よ、ろしく、お願いいたします」
「ああ、頼んだ」
―――――それでも、ルーシィは頷いた。
■
目が合った。―――――みんな、目が合った。
見られている。見てくれている。
それが、それだけが、―――――それだけで、
■
「がんばら、なくちゃ………」
■
―――――早朝、マグノリア駅にて。
「なんでエルザみてーなバケモンが俺たちのちからを借りてえんだよ」
「しらねーよ文句あるなら帰れ」
「ま、まあ…」
「ルーシィおはよ」
ルーシィがそこに着いたとき、すでに到着していたナツとグレイは一触即発となっていた。
「うるせえお前が帰れ!!」
「てめーが指図すんなァ!!」
一触即発とはつまり、振れたらアウトなわけなのだが。もちろん触れずに終わることなどなく…ナツとグレイは犬歯をむき出しにするように怒鳴り合い、ガツン、と額を打ち付け合った。
ふたりの拳が光って唸る。相手を倒せと輝き叫ぶ。肉体言語戦争の勃発である。
―――――ここまで仲の悪いふたりが、しかしなぜごり押しされた手伝い依頼を守って駅に来たのかと言えば、まあ理由はある。
グレイはシンプルにエルザが怖かった。すっぽかして後で殺されるのはごめんである。…それに、エルザが助けを求めるのはよっぽどのことだ。それに、応えたかった気持ちもある。
ナツは一緒に仕事に行くはずのルーシィが頷いてしまったのだから仕方がない。ルーシィが頷いたということは、これがルーシィが選んだ仕事になるのだから。それに、ちょうどいいからこの仕事を引き換えにエルザへ条件を出して呑んでもらおうという魂胆があった。
ナツの右ストレートを、グレイは最小限の動きで首を右に傾けて避けた。そのまま、ナツの顎めがけて蹴りを繰り出す。しかしナツは腹筋で体を弓なりに反らせることで回避した。そしてその勢いを利用しバク転の要領でグレイの顎を狙い返す。グレイはとっさに体を捻ることで逃げ切った。
ふたりの喧嘩の余波で近くにあった荷物や売店がしっちゃかめっちゃかになる。足元へ飛んできたリンゴに気が付いたルーシィはハッとしてそれを拾い上げ、駆け出した。
「あ、あの、こちらお返しいたします」
店主らしき男にそれを手早く手渡し、相手が何かを言う間もなく再び足を動かした。―――――とりあえずあのふたりを止めなくては、と。
「お、お待ちください! お止しになって!」
ルーシィはとっさに拳を繰り出そうとしたナツの腕へしがみついた。捨て身である。しかしそれくらいしなければ止められないだろう。最悪殴られることも覚悟のうえでルーシィは体を張った。
しかしさすがにそれだけの横やりが入ればふたりの攻防が止まる。ふたりはまだ理性を飛ばすほどヒートアップしていなかったため、その一瞬の隙を見計らって、ルーシィは少し青ざめた顔で必死に説得する。
「これ以上は周囲の方々のご迷惑になってしまわれますわ! 人の多い場所ですから、どうぞお控えになってくださいまし」
ハラハラとしながら言い募るルーシィにふたりは黙った。
―――――エルザの仕事を受けたもうひとつの理由。それは、ルーシィだ。
あの時、エルザに声をかけられたルーシィの強張った表情がどうにも気になって…まあ、心配になって、だから来た。そんな理由もあった。
「ったく」
「……今回だけだぞ」
お互いは気に入らないし、喧嘩なんていつもの事だ。けれど、青ざめたルーシィを泣かせてまですることでもないわけで。ふたりは今回は止めだと拳を収めた。
その様子を見てルーシィは安心した溜息を吐く。よかった、もしギルド内の乱闘ぶりをここで披露されてしまえば、止められないどころか軍に捕まりかねない。
ルーシィはまだ
「―――――よかったわ、お止めになってくださらなかったら、どうしたらいいのかと…」
「あー…悪かったよ」
「いいえ、そんな…」
ほっと息を吐くルーシィにグレイが頭を掻きながら謝る。それにルーシィは首を振りながら、控えめな微笑みを浮かべた。そして「あ、」と小さく声を上げてから、「少し…失礼いたします」と少し恥ずかしそうにナツの腕を離して、踵を返して駆け出した。のんきに毛づくろいをしていたハッピーは走り出したルーシィに気づき飛び寄る。
ルーシィの向かう先、ひっくり返った商品をかき集める売店の店主姿が見えれば…ナツもグレイもルーシィが何をしようとしているのか分かるというもので。そして、そのぐちゃぐちゃになった商品の原因が何なのかも、まあ、分かるわけで。
「お手伝いいたします!」
「オイラも!」
「いいのかい! ああ~ありがとう!」
「おうおっちゃん、暴れて悪かったな」
「俺らも片付けるわ」
さすがに犯人である自分たちがルーシィが手伝っているのを見ているだけ、なんて情けないことをできるわけもなく。
ふたりはお互いの顔を見て舌打ちをひとつ。そのまま、手伝いを申し出たルーシィに倣って謝罪の言葉をかけながら手を出した。
店主は仕方ねえなあ、次は気を付けろよと笑って許した。軽いやり取りである。しかし、なにせここはマグノリア。
慣れと親しみを感じさせるその一連のやり取りにルーシィは目を細めながら、転がっているミカンをかき集めた。
■
「む、待たせたか? すまない」
「あ、いえ、さほ―――――ど…?」
ひと通り片付けが終わったころ、ふと後ろからかかった声にルーシィがぱっと振り向けば……思わず言葉が迷子になってしまった。
声の主は颯爽と歩いてくるエルザ。その手に引かれるゴトゴトと音を鳴らす台車。その上に積まれたのは、昨日の魔獣の角並みの量の荷物。
ルーシィは絶句した。一体何に使うのか。というか何が入っているのか。…いや、恐ろしく厄介な仕事だと言っていたのだから、万全を期してあらゆる準備をしてきたのかもしれない。
その可能性に気づいたとき、ルーシィは自分の荷物の少なさに恥ずかしくなった。戦闘でお役に立てるかどうかも分からないのだから、せめて他のところでは役に立てるようにこれからはもっと念入りに準備しなくては。
ギョッとした顔から一転、恥じ入るように、しかし尊敬するような視線をエルザに向けるルーシィをしり目に、ナツは鋭くした視線をエルザに向ける。
「おいエルザ。今回の仕事、手伝う代わりに条件がある」
「は!? おいお前、」
「構わん。言ってみろ」
唐突に切り出したナツに、今度はグレイがギョッとする。しかし、エルザはさらりと了承した。
ルーシィは唐突に始まった剣呑な雰囲気に肩身が狭そうにするほかない。このふたり、いったい何の因縁があるというのか。
「帰ってきたら俺と勝負しろ」
それは、少し前の記憶。愛する父から受け継いだちからを以てしても手も足も出ることなく敗北した記憶。
次は勝つ。ずっとそう思って鍛えてきた。だからこれはチャンスだ。今度こそ…そんな気持ちでナツはエルザを見た。
そも、この仕事に呼ばれた意味も分からない。エルザは強い。ものすごく強い。ナツは知っている。だというのに、助けを乞う? 納得がいかない。エルザならどんなのが相手でも大丈夫だろ。そんな確信があった。それは信頼だった。だから納得がいかない。
けれどルーシィが了承してしまった。なら仕方がない。仕方がないが、納得はできないが故の条件である。報酬くらいないとやってられない、ともいう。
じっと睨みつけるナツの言葉にエルザは少し驚いたような顔をしたが、それから、柔らかく表情をほころばせた。
「ああ。いいだろう。…成長したお前相手、か。いささか自信がないが…受けて立つ」
「ッシャオラァーーッ!!」
ナツが雄叫びを上げる。やる気1000%エネルギー満タンモードである。
グレイとルーシィは目の前の展開に呆気にとられたまま、目を見合わせた。つまりどーゆーことだってばよ。
■
「さ、ナツさん、ゆっくり息を吸って、…そう、吐いて……」
「………至れり尽くせりだなおめー…」
グレイはぐったりとした声を絞り出した。目の前ではルーシィの肩ぐちに額をこすりつけながら苦しげな息を吐くナツが居る。
ハグしながらの乗り物移動は3回目となればルーシィも多少慣れたものだった。恥はあるがそれ以上にナツが苦しそうなのだから甲斐甲斐しくもなる。
ゆっくりナツの背中をさすりながら声をかけるルーシィに、グレイはお人好しだなと溜息を吐き、エルザは仲がいいなとほほ笑んだ。
「もー列車乗んなよおめー。走れ!」
毎度毎度こっちまで気分が悪くなるような酔い方をし、今回にいたっては美少女のハグと介護付きという好待遇を受けるナツにグレイは多少嫉妬交じりに悪態をついた。
ルーシィはそれに苦笑いするほかない。
「ふむ…しかし毎度ながら苦しそうだな」
「ええ…せめて列車が動かれる前にお眠りになることができましたら、いくばくかはお気持ちもよろしいかと思うのですけれど」
今回はとってもお元気なご様子でしたから…眠れないようで…と眉を下げたルーシィに、エルザはひとつ頷く。
ナツが眠れないほど元気だったことに自分が一端を担っていることくらい自覚はある。それでナツが苦しみルーシィに苦労がかかるというのなら、責任を取るべきであろうと。
「ルーシィ、席を代わってくれ」
「え?」
「私がナツを楽にさせよう」
ぱちくり、と瞬きをしたルーシィはエルザを見、そしてナツを見た。ルーシィはエルザの使う魔法を知らない。けれど、ギルドメンバーから一目置かれているエルザなら、苦しむナツを救う方法を知っているかもしれない。
ルーシィは希望をもってそっとナツを引きはがし、背もたれに安定させ、エルザと席を交換した。
エルザは荒い息を繰り返すナツを仕方がない奴だという表情でながめ、そして―――――
ボス!!
「ンゴウゥフッ!!」
「えっ」
強烈な腹パンを喰らわせた。思い切り物理である。魔法なんてなかった、いいね?
■
「あ、あの、エルザさんはどういった魔法をお使いになるのですか?」
超絶物理安眠法の直後、さしものグレイも絶句する微妙な雰囲気を変えようとルーシィは素朴な疑問を問うてみることにした。
白目をむいてエルザに膝枕されているナツが心配ではあるが、なんというか触れてはいけないような気がする。
「エルザの魔法はきれいだよ~相手の血がいっぱい出るんだ!」
「たいしたものではないさ。それより、せっかくだ。もっと気軽にしてくれ…仲間なのだから」
真っ先に応えたのはハッピーだった。しかし、何とも言いがたい感想である。エルザはハッピーの言葉に首を振り、それよりもとルーシィへ話しかける。その言葉に、ルーシィは頬を赤くして恥じらった。
「あの、でしたら…その、…エルザちゃんとお呼びしてもよろしいかしら」
「エルザちゃん……ああ、ぜひ」
あまり呼ばれ慣れない呼称に少し頬を染めたエルザは、少し嬉しそうに了承する。ルーシィもまた、親しく思ってもらえていると感じてたまらなく嬉しくなった。
「そうだ。きれいといえば、グレイの魔法はきれいだぞ」
「そうか?」
グレイは首を傾げる。またなんかいちゃつき始めたと思ったらこっちに話が来たことについては、2回目なのでちょっと慣れてきた。
きれい、と言われればまあ、我ながらデザイン性はあるだろう。センスも悪くないと自負している。
グレイはそっと手を伸ばした。左手を開いて下に。右手は握って、その拳で手のひらをたたく。
―――――魔力を回す。冷気が渦を巻く。
( くちで説明するだけでもいいかもしれんが、そんな期待されちまったらなあ )
ちらり、とグレイが隣のルーシィへ視線を向ければ、そこにはグレイの手を子供のような顔で見つめる姿がある。
礼儀正しく、頭がよく、なのに、どこか子供のままの少女。
( 違和感は多いが……ま、訳アリなんざ珍しくねえし )
今は頬を染めて期待している仲間を喜ばせることを最優先として、グレイは渦巻く冷気を手のひらの上に収束させ、実体化、形成、そして―――――
「まあ……!!」
ルーシィの喜色を含んだ感嘆符が響く。そこにあったのは精巧な氷でできた
「俺の魔法はありていに言えば『氷』だよ」
「とっても素敵だわ……」
「そりゃ恐悦至極、ってな」
目を輝かせるルーシィにグレイは少し照れ臭く思いながら、作ったギルドマークをルーシィへプレゼントした。
「そういや、ちゃんと挨拶してなかったな。俺はグレイ。それはお近づきのシルシだよ。貰っておいてくれ」
「あっ! そ、そうでした、申し訳ございません…わたくし、ルーシィです」
「おー。俺の事も気安く呼んでくれよ。あ、その氷は魔力でできてっから溶けないぜ」
ルーシィは驚いたような顔でグレイを見、そして氷のギルドマークを見、―――――もう一度、蕩けるような笑顔でグレイを見た。
「…ますます素敵。ありがとうございます、……グレイくん」
それは心から喜んでいることをまざまざと伝えてくるような笑顔だった。眦はとろりと蕩け、口角は上がっているがくち元はふにゃふにゃである。
高揚した頬のままルーシィは受けとったギルドマークを優しく握った。ああ、幸せなことがたくさんで、夢みたいだと。
―――――ちなみに、その微笑みの破壊力に思わずグレイが座席から転げ落ちそうになったのは本人だけの秘密である。
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悪魔の歌
今回はずいぶんとまあルーシィが真っ青になります。ひと通り終わったら貧血で倒れそうだな。
最後の方はルーシィの慌てっぷりを表現しようとしたらかなり駆け足みたいになりました。地の分が少ないのは…ほら、慌ててたら頭も回らないし…(言い訳)
「さて、そろそろ仕事の話をしようか」
エルザは目の前で微笑ましいやり取りをするルーシィとグレイに温かい気持ちになりながら、パッと一転、真剣な表情で話を切り出した。鋭くなった気配にふたりも背筋が伸び、真面目な表情になる。
グレイは背もたれにドサ、と体重をかけ、ルーシィは自分の荷物に氷のギルドマークをしまい込んだ。
「厄介な話を聞いた、つってたよな」
「ああ。先の仕事の帰り、オニバスで魔導士の集まる酒場に寄った時の話だ。……少々気になる連中がいてな」
酒場とは古来よりいろいろな情報が集まる場所である。特に魔導士が愛用する酒場となれば、集まる情報は段違いなものが多い。ゆえに休息と情報を求めて出入りする魔導士は多く、エルザもまたそのひとりだった。
しかしもちろん、それがなくとも魔導士が中心となる酒場を愛用するものは多い。なにせ酔っ払ってうっかり魔法を使ってしまっても、一般客が集まる酒場よりお咎めが軽いのだ。どんちゃん騒ぎで魔法による器物損壊がままある魔導士業界では、それがある程度許容される場所というのは非常に貴重なのである。
さて、今回問題なのはその酒場でエルザが見かけた4人組の男たちだった。彼らはひどく苛立った様子で酒をあおっていたという。
「連中は『せっかく
「ララバイ……子守歌、ですか」
「隠喩、もしくは魔法…魔法道具の名称か?」
「なんにせよ、封印されているということはかなり強力なものだと想像できる。―――――問題はそこからだ。
連中の中のひとりが、解呪方法を知っていたようでな。その男が『先にギルドに帰ってエリゴールさんに3日以内に何とかすると伝えておいてくれ』というような話をしていた」
スウ、とエルザの視線が一層鋭くなる。しかし、グレイはそれに対して怪訝そうな顔をした。
「分からねえな。要するに得体の知れねえもんの封印を解こうとしてる連中がいたってんだろ? だが、「先にギルドに帰れ」って言ってたんなら、どっかの魔導士がただ仕事をしてただけかもしんねえじゃねーか」
「ああ、そうだな。私もそう思っていた。目くじら立てるような話ではないように感じるだろう」
エルザはゆっくりと頷く。グレイが言った通り、これだけなら不信さは感じるが内容としては大したことではない。多少ガラが悪かろうがナツやグレイだってお上品なわけではないし、エルザもその時はただの仕事の話だと思ってその場を去ったのだ。そしてその後も、多少は引っ掛かりはしたものの気にもしていなかった。
「『エリゴール』という男の名がなければな」
―――――そう、その名を思い出すまでは。
キイイイイ、と引きつったような音が響く。列車が速度を下げ、駅に停車する。
「私もすぐには気づかなかった。しかしどうにも引っかかり、気づいたのはギルドに着くすぐ前だった」
エルザは立ち上がって荷物を載せた台車を取りに向かった。その際膝から落とされたナツは、しかしうめき声ひとつあげない。完全に落ちている。
ルーシィは颯爽と歩くエルザにつられるように、立ち上がってふらふらと歩きだした。その顔は真剣で、意識はどこか遠くへ行っている。グレイはキャリーバッグを置いたまま歩きだしたルーシィに「おい」と声をかけたが、ルーシィはくち元に手をやり俯きがちに何かを考え込んでいるポーズのまま反応がない。
かろうじて歩けてはいるが、周りの音が聞こえなくなるほどに深く考え込んでいる様子に、グレイは仕方ねえなとルーシィの荷物を持ち上げて近づいた。放っておいたらどっかにぶつかったりすっ転びそうだと危惧したのだ。
ルーシィは荷物のことも忘れグレイの声も耳を素通りしてしまうほどに深く考え込んでいた。
『ララバイ』…その名に、どこか聞き覚えを感じたのだ。
しかし今ひとつ思い出せない。
―――――いやな予感がする。
ゴトゴトと音を鳴らしてエルザが台車を引っ張る。その後ろをふらふらとルーシィが着いてき、グレイは最後尾で危なげな様子のルーシィを注意しながらくちを開いた。
「で? そのエリゴールってやつが何か問題あるのか?」
エルザの言い方ではエリゴールというやつが問題の根底に居るように感じられたが、生憎グレイはその名前に心当たりがなかった。しかしエルザがこう言うのなら、そのエリゴールこそがエルザにここまで警戒心を抱かせる理由なのだろう。
「…私の記憶が確かなら、『エリゴール』とは『死神・エリゴール』のことだと思われる。
―――――死神。…その名を冠するという意味に、グレイはおおよそ察しがついた。
「……闇ギルドか」
「元は正規ギルドだが、評議院の規定を無視して暗殺系の仕事ばかり請け負っていたために解散命令が下りたという話だ」
暗殺、とルーシィはくちの動きだけで呟く。目の前の会話はどこか非現実的で―――だって日常生活で暗殺について話すことがあるだろうか―――けれどはっきりと理解ができた。
基本的に、暗殺系の仕事というのは依頼者から膨大な金が支払われるものだ。というのも、依頼理由が『権力者などが覇権を争った末の依頼』というのが多いからだ。愛憎入り乱れた末という話もあるだろう。けれど、大抵の依頼者は『とんでもない高額を対価としてでも殺したい』と思う者ばかりだ。
とにかく死んでほしい。それも上手く死んでほしい。都合よく死んでほしい。そういう話はよくあるものだし、ルーシィも暗殺ではと噂される不審死の話を聞いたことがある。
暗殺は殺す側も多大なリスクを背負う危険な仕事だ。特に、暗殺者であるということが明るみになれば社会的な地位を失うということは非常に大きい損失だろう。けれど、払いがいいのだ。普通の仕事をすることが馬鹿らしくなるほどに。
シンプルな話だった。―――――
「当時のマスターは拘束されたが、おそらく残りの連中は闇ギルドとして活動を続けているのだろう。依頼者側も、目的が達成されるのなら相手が闇ギルドでも関係ないのだから」
そもそも闇ギルドの大半は解散命令を無視して活動を続けているギルドだ。もとから闇ギルドとして設立されたものは少ない。
暗殺を生業とする闇ギルド。そのギルドが求める『ララバイ』とは一体何か。
―――――全員が事態の重みを理解し、グ、と息を呑む。
「ぬかった…あの場で気づいていれば全員血祭りにあげたものを…!!」
「だな。話からすると封印を解けるやつはその場に居たみてぇだし、上手いこと評議会に引きわたせりゃ話の進みも早かったかもしれねえ。4人相手ならエルザひとりでどうとでもなっただろうしな。―――――が、ギルド全体となると…」
「ああ。さしもの私も厳しい。相手も一筋縄ではないからな。しかし、いまさら評議会に通報し指示を待っているようでは間に合わない可能性がある」
「っは。ようやく俺らに声をかけた意味が分かったぜ」
にやり、とグレイが笑う。垂れ目のはずの目元が異様に鋭く見えた。その顔を見て、ルーシィは血の気が引く。
ルーシィとてここまで話を聞いていればエルザが何を目的としてナツとグレイに声をかけたのかくらい察せられる。しかし、けれど。そうだとするなら、なぜナツとグレイにしか声をかけなかった?
だって、当初はルーシィを除いた3人で『それ』を為そうとしたということだ。ルーシィを入れたって4人。正気とは思えない。
4人だ。たった4人。
「
たった4人で―――――闇ギルドひとつを潰そうというのか。
言語化された答えに、ルーシィのこめかみから冷や汗が流れる。暗殺のプロ集団を相手にたった4人で挑もうと言うエルザの表情には一点の曇りもなく、自分の言葉に何の疑問も感じていないようであった。そしてグレイもまた、面白そうだと答えるだけ。
そのときふたりの間にあったのは、まごうことなき信頼だ。ルーシィには確かにそう見えた。お互いの、そして自らの実力を疑うべくもなく、為すべきことを為せると信じ切った顔だった。
傲慢だ。自惚れも甚だしい。そんな言葉しか出てこないような、無謀な自意識だ。だというのに、ふたりの背筋は恐いくらいにまっすぐだった。
―――――恐ろしい。恐怖がある。当然だ。暗殺者だ。相手が悪い。
( けれど―――――……それなのに )
ハッピーは青ざめたルーシィを気づかうように、下からそっと顔を覗いてくる。その優しさが、ずっとずっと心にしみた。
まぶしいなあ、と思った。凛と立つエルザも、不敵に笑うグレイも。歳はあまり変わらないだろうふたりが、自分よりずっとずっと遠いところに居るように感じた。
まぶしくって、きれい。そんなたまらなく憧れてしまうものが、目の前にあって。……そうすればもう、ルーシィは弱音など言えない。
怖いけれど。足がすくんでしまうけれど。―――――ここで引いて失望されたくなかった。このふたりから「こんなものか」と思われたくなかった。
だって、かっこいいじゃないか。どれだけ危険か分かっていながらも、こんな当たり前のように立ち上がって戦うことを選べるなんて。負ける
かっこいいから、自分だってできることをしたかった。ずっとそう―――――憧れた彼らに、少しでも近づきたいと思えたから。
眺めるのではなく、追うという選択を選べる自分がここに居るから。
「連中の根城は分かってんのか?」
「いや。ただ、この町の酒場で見かけたからな。ここから聞き込みをしようと思う」
グレイとエルザが段取りを進める姿を見ながらルーシィはゆっくりと息を吐いた。自分にできることは少ないかもしれない。でも、せめて、みんなの足手まといにはならないように、しっかりと気を引き締めないと、と。
そう、それに、そもそもの話だ。自分がここでミスを犯せばナツにも迷惑が―――――
■
「―――――え、」
■
―――――そう、ナツにも迷惑がかかる。
ところで、……先ほどから、ナツがずいぶんと静かなのではなかろうか。
闇ギルドだの死神だのなど、一番反応しそうだったのに。
「ま、まさか……?」
「ルーシィ、どしたの?」
「あ? なんかあったか?」
ハッとして周囲を見回すルーシィに、ハッピーが声をかける。グレイやエルザも何事かとルーシィを見た。
「!? おいルーシィ!?」
しかしルーシィはそれに応えるだけの余裕がなく、必死に周囲を見回し、終いには下ったばかりの階段をかけのぼり駅構内まで戻り―――――とうとう青ざめるどころか泣き出しそうな顔になりながら、叫んだ。
「ナ、ナツくんがいらっしゃいませんわ!!」
■
「何ということだ…! ナツは乗り物に弱いというのに話に夢中になるあまり置いて来てしまうなど…!!」
「おい落ち着け、とりあえず次の駅に迎えに行けばいいだろ」
強い自責の念に駆られ唇をかむエルザを、グレイは何とかなだめようと声をかけた。時間のロスにはなるが過ぎたことは仕方がない。しかしエルザはつかみかかるように駅員に怒鳴りつけた。
「そういうわけで列車を止める! 仲間のためだ、分かってくれるな!?」
「いやどういうわけですか! 無茶言わんでください、降りそこなった客ひとりのために列車を止めるなんてできやしませんって!!」
無茶苦茶である。常識が蒸発したとしか言いようがなかった。エルザのぶっ飛び発言にはグレイも頭を抱えるしかない。なにせ脱衣魔ではあるが一応常識人枠の男なので。
この暴走はさすがにひとりでは止めきれないと悟ったグレイはルーシィを探した。せめてもうひとりエルザ抑えて説得する役を、と。
しかし、パッと振り返ればついさっきまでそこに居たはずのルーシィの姿はなく、グレイはますます頭を抱えることとなる。なんでどいつもこいつも勝手に動くんだ!! というかどこ行ったあのお嬢様!!
「行けハッピー!」
「あいさー!」
「あ゛っ!」
グレイがルーシィを探してエルザから目を離した一瞬。その瞬間に、エルザはハッピーとタッグを組んで勝手に緊急停止信号のレバーを下ろしてしまった。
なにせハッピーはナツの相棒だ。さらに言えば圧倒的強者であるエルザには基本逆らわない。つまり言うことを聞かない理由がない。
グレイがしまった、と思うも、遅い。
―――――ジリリリリリリイリリリ!!!
ベルの音が鳴り響く。それは列車、もしくは駅に関する何かに異常事態があったことを知らせるベルだ。安全保護のために走行中の列車を緊急停止させるための通知ベルだ。
駅構内が動揺に揺れた。そうそう鳴るものではないものが鳴っている。まさか事故か。一体何が……利用客が不安そうな顔をし周囲を見回す。
ああくそ、とグレイは悪態を吐いた。自分も好き勝手する方だが、ナツやエルザは自分の比じゃない。―――――しかしまあ、グレイも好き勝手する
どいつもこいつも仕方がねえな、とため息を吐いたと同時に、―――――背後から探していた少女の声が聞こえた。
「エルザちゃん! グレイくん! ハッピーさん!」
「! おいルーシィ今までどこに―――――って、お前それ…」
「魔動四輪車をレンタルしてまいりました! これでナツさんをお迎えに参れますわ!!」
声を張って呼びかけてきた、少し離れた場所に立つルーシィのすぐ隣。そこには4人掛けの魔動四輪車があった。
ああ―――――グレイは思わず舌打ちをする。それは苛立ちではなく、やってくれたな、という喜びだった。
どうやらこのお嬢様、グレイの想定以上に頭の回転だけではなくて行動も早いらしい。何も言わずに動いたところは減点対象だが、それを圧倒的に覆せるほどの見事なファインプレーだった。
「よくやってくれたルーシィ!! すまない、この荷物をホテル・チリに届けておいてくれ」
エルザは魔動四輪車を視界に入れた途端、その眼光を鋭く光らせた。そして即座にそばを歩いていた一般人に自分が引いていた台車ごと荷物を預ける。
ちなみにもちろんその一般人は初対面の赤の他人のため、「何を言ってるんだこいつは」といった顔をされたのだが、そんなことで怯むエルザではない。というか気づくエルザではない。
押し付けた荷物を一瞥することなく、エルザはルーシィの元に走り出した。同時にグレイも自分とルーシィの荷物をひとまとめに持ち上げ、地面を強く蹴り追走する。
「ルーシィ、乗れ! 私が運転する!」
「は、はい!」
「つかまれルーシィ!」
「きゃあ!」
4人乗りの魔動四輪車は少し車高が高い。エルザの声に慌てて乗り込もうとしたルーシィが少し戸惑った様子になったのを見抜いたグレイは、荷物を持っていない方の腕でルーシィをひと息に抱き上げ、その勢いのまま車内に飛び乗った。
「あ、ありがとうございます」
「くち閉じとけ舌かむぞ!」
ぐるりと変わった視界に一瞬息を止め目を白黒させたルーシィがなんとか礼を絞り出すと、グレイはかぶせるように声を張り上げた。同時に、運転席に乗り込んだエルザが魔力供給コードを腕にセットし終え、出発の準備が整った。
「走るぞ!!」
エルザが叫ぶ。コードから大量の魔力を注ぎ込まれた魔道四輪車は、爆発的なスタートダッシュをキメて線路上に飛び出した。
それより一瞬早くグレイがルーシィのくちを手のひらで少しキツめに覆った。……間一髪、ルーシィは舌をかまずに済んだ。
ルーシィはくちを覆った手のひらに何かを想う前に爆発的加速にギョッとし、さらに車が線路を走るという暴挙に意識を飛ばしそうになった。四輪車を調達したのはルーシィだが、まさかこんな場所を走らされるとは。なんという危険なことを! と血の気が引く。もし列車と衝突すれば…と考え始めれば血の気が引くのも仕方がない。
しかし、エルザは駅構内から脱出してすぐに線路横の野道に走行場所を切り替えたので、ギリギリルーシィの意識は保たれた。
そうして走行が安定したことで、ようやくグレイが自分のくちを手で覆っていることに気が付いた。思わず頬が熱くなる―――――しかし、直前のグレイの発言を思い返せば、他人からの気づかいになら察しの良いルーシィはすぐにこれがグレイの気遣いであることに気づき、もごもごと言葉を発せない代わりに視線で精一杯のお礼を伝えた。
まっすぐ自分に向けられる視線にグレイはパッと手を放し、「たいしたことじゃねえ」と肩をすくめる。
カンカンカンカン、と緊急停止信号のベルが鳴り響く。
「念のため周囲を警戒しとく。ルーシィはしっかり車につかまっとけよ」
グレイは周囲を確認し、爆速する魔道四輪車の中で完璧な体幹を保ちながら窓から身を乗り出して天井に飛び乗った。慌ててルーシィが心配そうに見上げたが、グレイは何でもないように手を振って車内に戻らせた。
―――――……別に塞いだ手に感じた唇の柔らかさに動揺したわけではない。
■
「見えたぞ列車!!」
ベルが鳴り響く中四輪車を走らせること数分。エルザの莫大な魔力をエネルギーにした四輪車はすぐに停車している列車に追いついた。
「よしこのまま…」
「っベルが止んでしまいました! 列車が動いてしまわれますわ!」
しかし、このまま距離を詰めて、といったところで、とうとう緊急停止信号が解除されてしまった。
鳴った経緯を知る駅員が撤回したのだろうか。おそらく線路に出た魔導四輪車が線路上から退き、さらに緊急停止した各列車に異常がないことを確認し終えたために安全性を確信し、緊急停止信号を撤回したのだろう。恐ろしく仕事が早い。こんなところで駅員たちの有能さを認識させられるとは思わなかった。
たかが数分。されど数分。意味はあったが、惜しい。あと少しだったのに! ルーシィが思わず唇をかむ。目と鼻の先に迫った列車が再び動き出し、距離がどんどん離れてしまう。
「仕方ない…!!」
エルザが右手にちからを込める。後々の戦闘を思えばあまり魔力を消費したくはないが、苦しんでいるだろうナツとこれ以上の時間ロスを考えれば……この場での出し惜しみこそ不合理だと判じた。
列車に追い付くため、さらなる加速のために追加の魔力を注ぎ込こもうと、エルザは体内で魔力を練り―――――
ガシャアンッ!!
―――――それと同時に、ナツが列車の窓を突き破って飛び出してきた。
「え!?」
「なっ!!」
「はァ!?」
エルザはとっさの判断で思い切りブレーキをかける。しかし直前まで爆速で走っていた四輪車は急停止できるはずもなく、勢いが保たれたまま引きずるように前へ進んでしまう。
ルーシィは耐えられないほどの揺れに、必死に窓枠にしがみつきながらそれでも外へ身を乗り出した。飛んでくるナツ。その姿から目が離せなかった。
「ナツさん!!」
「だーくそなんで列車から飛んでくるんだおめーはよォ!!!」
グレイは考えるより先に体が動いた。飛んでくるナツ。自分がそれを受け止め、もしくは捕まえなければならないと脊髄が判断した。故に強張った顔で怒鳴りつけながらも、けして落とさぬように腕を大きく開き―――――
ゴッ チ ――― ッン !!!!!
■
なんというか、なんとも報われない男である。
■
ギャギャギャギャギャギャ!! と車体に悪そうな音を響かせながら四輪車が止まる。エルザとルーシィはすぐさま運転席と座席から降り、痛々しい音を立てて仲良く後方に吹き飛んだナツとグレイに駆け寄った。
「ナツ! 無事だったか!!」
「ナツくん! グレイくん! ご無事ですか!!?」
冷や汗をかいたエルザと真っ青な顔をしたルーシィがくちぐちに無事を問う。それに対してナツはうなりを上げて噛みついた。
「無事なわけあるかーっ! おいこらハッピーエルザルーシィ!! よくも置いていきやがったな!!」
自分を置いていくとはなんてひどい奴等だと吠えるナツに、エルザもルーシィも謝るほかない。しかし、グレイだけはどこか苛立った表情で何かを呟いたことにルーシィは気が付いた。
あいにくナツに必死に謝っていたルーシィには何を言ったのかは聞こえなかったが、その表情がどこか陰っているように見え、まさかと慌ててグレイに駆る。
「グレイくん、額が真っ赤です…! お労しいわ…痛みますか…?」
「ん? ああいや、これくらい大したことねーよ」
ルーシィは窓枠にしがみついて何をすることもできなかったが、ナツとグレイがおでこ同士で熱烈なキスを交わす羽目になった様子はバッチリ見えていたので、もしかしてそのせいで頭が酷く痛むのかと心配になったのだ。
真っ青なルーシィに近距離でおでこをのぞき込まれたグレイは想定外の心配に少し驚いたが、まあ心配そうに顔を覗き込まれて悪い気はしない。しかしここで「痛い」だのと言うのは男の沽券に関わるので、少し痛む額はあえて意識から引きはがし何でもないような顔を作った。
そんなグレイにルーシィはようやくほっとした顔をして肩からちからが抜け―――――すぐさま、後方のナツが発した言葉に顔を強張らせることとなった。
「ったく、酔って気持ち悪いってのに列車の中じゃ変な奴に絡まれるしよォ」
「変な奴?」
「なんつったかな? えーっと、アイ~…ゼン…バルト?」
―――――それは、
「バカモノぉ!!」
「オンゴァッ!!!!」
エルザの鋭いビンタが炸裂し、ナツが吹き飛ぶ。―――――その飛行距離、約3m。唐突な暴力にルーシィは大慌てでエルザの追撃を阻止しようと、エルザの腕にしがみついた。
「エ、エルザちゃん!? いったい何を、」
「離せルーシィ! ナツ、お前は私の話の何を聞いていたのだ! その
「落ち着いてくださいまし! ナツくんは意識を失っていらっしゃったのですからご存じありませんわ!!」
さらに言えば闇ギルド云々については列車から降りられなかったのでもっと知らない。
エルザはルーシィの訴えに「そういえば、」と言う顔をし、打たれた頬を抑えてふらふらと戻ってきたナツに「勘違いだったようだ。すまなかったな」と謝った。軽い。
さらりとした謝罪とともに頭を下げられたナツは微妙な顔をしたもののなんだかんだエルザのノリに慣れているのか、すぐに立ち直ってもう一度説明を始めたエルザの話に耳を澄ませた。
「しかしお手柄だナツ。さっきの列車に
「どんなっつっても…いまいち特徴がねえやつだったなァ。匂いは覚えてるけど。
―――――あ、そういやあ、ドクロっぽい笛持ってたぜ。三つ目があるドクロ」
ううん、と考え込んだナツがポロリと落とした記憶。それにグレイが「趣味の悪そうなやつだな」と眉をひそめた。エルザはとりあえず匂いを覚えているのなら捕まえられるだろう、と3人に車に乗り込むよう伝えようとして、―――――真っ青な顔で呆然とするルーシィに気が付いた。
「ルーシィ? どうした」
「―――――三つ目の、ドクロ…?」
静かに息をのむルーシィ。血の気の失せた顔は恐ろしいものを見たような色をしていた。その異様さにハッピーが躊躇いがちに名前を呼ぶが、ルーシィは応えない。
ナツとグレイも怪訝そうにその様子を見、その場に居る全員の視線はルーシィに集まった。
「そんな、けれど―――――笛……音。…『歌』? …―――――ララバイ、子守歌。……眠り……―――――」
■
「……―――――『死』?」
■
「あ、おい!?」
青ざめた顔で小さくいくつかの単語を呟いたルーシィは、いきなり勢いよく魔道四輪車の操縦席に飛び乗った。
その唐突な動きに全員がギョッと目をむくが、ルーシィは固まったままの3人と1匹に大きな声で叫ぶ。
「早く!! 乗ってください!!」
いったい何があった? ―――――何に気づいた?
そのあまりの剣幕に全員がとりあえず車内に駆け込めば、ルーシィはその姿を確認するや否やコードへ思い切り魔力を注ぎ込んで四輪車を爆速で駆動させた。
ギャギャギャギャギャッ!!!
「あわー!!」
「うおおお!?」
「ちょっ、おいルーシィ! どういうことだ!!?」
「ルーシィ、説明をしろ!!」
その勢いたるや先ほどのエルザに勝るほどだろう。激しい揺れに全員が目を回しながら、操縦席で魔力を注ぎ込むルーシィに叫び返す。それに、ルーシィは青ざめた顔のまま答えた。
「ナツくんが目にされた笛! それこそが『ララバイ』です!!」
「なに!?」
四輪車が駆ける。速度重視の運転は乗り心地が最低だったが、今ばかりは何かを言う者はいない。全員がルーシィの話に耳を傾けた。
四輪車の駆動音にかき消されないように、ルーシィが腹の底から声を張る。
「禁止された魔法のうちに『呪殺』というものがございます!! ご存じですか!?」
「っああ、対象者を呪い殺す黒魔法だろう!?」
「ララバイはその一種なのです!! わたくしも書物で見た知識しかございませんが……!!」
エルザは眉を顰める。『呪殺』魔法の一種。つまりは、ララバイとは死を与える黒魔法の事だというのか。封印された黒魔法? なんてものを引っ張り出してくれたのか。
舌打ちをしそうになったエルザは、ふと先ほどのルーシィの言葉を思い出した。
「―――――待て、待てルーシィ!!
「おいどういうことだよ!!」
「おえ……おれ、ら……にも、うぷっ……わ、分か、る……ように……」
「おい吐くなよ!! ぜってえ吐くなよ!!?」
「う、うるせ、おえええ…!!」
「うおおおおお!?」
ハッとして、エルザが叫ぶ。今はふざけたような会話をするナツとグレイに構っていられなかった。叫んだエルザの顔は強張っており、
黒魔法も魔法であるのだから、当然発動するためのプロセスがあり、つまりは儀式や詠唱などを必要とする。
ルーシィはララバイを呪殺魔法だと言った。そして、ララバイは笛だと言った。
つまり、まさか―――――
「ええ!! ララバイとは音を媒介とする、『呪いの歌』により呪殺を行う魔法…!! 永遠に目覚めぬ眠りを与える子守歌!!!」
それは悪夢のような魔笛。人知を超えた悪辣なメロディを奏でる、悪魔の笛。
呪いの歌が子守歌となり、目覚めぬ眠りを与える魔法。故に―――――
「笛が奏でた音色を聞いたものすべてを呪殺する、集団呪殺魔法です!!!」
最低最悪の答えが導き出された。
―――――さあさ坊ちゃん嬢ちゃん寄っといで。お父さんお母さんを連れといで。
ハーメルンの街に現れた笛吹き男は歌うように声を張り上げた。
―――――ここにあるは魔法の笛。この世のものとは思えない音色を響かす世界でたったひとつの魔法の笛だ。
その軽快な文句に次第に人々は集まり、群れを成して笛吹き男を取り囲んだ。
―――――笛の名は
なんだあ、子守歌か、と群衆の誰かが言った。笛吹き男は笑ったまま笛を咥え、その街には誰もいなくなった。
( ユンセイン・トバルド著『世にも悪辣なる魔法Ⅱ』 4章『悪魔』3節『ハーメルンの笛吹き男と悪魔の子守歌』 )
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笑う死神
これは一部の地方に伝わる昔話であった。その地方では古くよりこの話が伝えられているという。
ハーメルンの街に現れた笛吹き男が笛を吹き、町からは誰もいなくなった、という記述から、私はこれを笛の起こした効果と結論付けられると推察する。
笛がもたらす効果。最も可能性が高いのはこの笛が『魔法道具』であるということである。
『笛を吹く』―――――つまり、笛の音色が何かしらの効果を持つ『魔法』になるということだ。
もちろん笛吹き男が魔導士であたという可能性もある。
が、私は笛が魔法道具であるとして推察をすることにした。
『笛を吹く』というアクションが何かしらの作用を促し、『誰もいなくなった』という結果をもたらす。
では『誰もいなくなった』とはどういうことなのか。街から全員が移住してしまったということだろうか。
音色により何らかの効果をもたらす笛。その効果はいったいどういうものなのか。
『街の全員が移住した』というのなら集団催眠魔法だろうか。しかし、それにしては話の伝わり方が不穏であった。
確かに催眠魔法は非常に恐ろしい。けれど、話を聞かせてくれた人々はみな青ざめた顔で最後にこう言った。
「笛の音色を聞いてはいけない」
まるでこの世で最も恐ろしいものを語るかのような顔色であった。
ここで注目すべきは笛の名だ。笛吹き男はそれを『ララバイ』と呼び、言い伝えはそれに『呪歌』という字を当てた。
そして笛吹き男は『子守歌となり瞼を下ろすだろう』と語ったという。
もちろん古い言い伝えのため正確性は欠く。けれどその言葉を深読みしてみればどうだろうか。
子守歌。そして瞼を下ろすという表現。それはどちらも『眠り』を示す言葉のはずだ。そして、その『眠り』が何かの隠喩だというのなら―――――使い古されたものがある。
私はこの可能性に気づいたとき、あまりの恐ろしさに身震いした。こんなものが現実に在って許されるのかと打ち震えた。
しかし可能性を無視することはできない。私は言い伝えを語ってくれたご老人の元へ出向き、何度も何度も答えを求めた。
その方は触れたくもないとばかりに首を振ったが、そのうちに小さな声で私に応えてくれた。
その言葉はあまりにも重く、絶望的な現実であった。
語り終わったご老人は自身の語った言葉に深く怯えているようで、同時にどこか救われたというかのような顔をしていた。
その秘密があまりにも重くその体にのしかかっていたという事実がうかがえた瞬間である。
そして私は自らの知的好奇心のために背負うこととなった現実に打ちのめされそうになった。
ご老人が語ったもっとも恐ろしい魔導士とは、知らぬ者はいないであろう名であった。同時に、その男が作り上げた
( ユイセイン・トバルト著『世にも悪辣なる魔法Ⅱ』 4章『悪魔』3節『ハーメルンの笛吹き男と悪魔の子守歌』 )
「!! ―――――ルーシィ、一回止まれ!!」
「!!」
―――――
しかし囲いのない無人駅にはすでに列車の姿がなく、間に合わなかったかと下唇をかんだルーシィは唐突なグレイの声に慌ててブレーキを踏みこんだ。
ズシャァァァァアアアギャギャギャギャッ!!!!!
耳障りな音を立てて滑りながらも四輪車は停止する。しかしあまりの反動にナツは窓枠から放り出されかけ(咄嗟にグレイがマフラーを鷲掴んで回避)、ルーシィは操縦席から落ちそうに(エルザが車内から腕を伸ばし方を掴んだことで一命をとりとめた)なった。
ふわり、とグレイが窓から車の天井に飛び乗る。
思わず早まった鼓動を落ち着かせるように深呼吸をするルーシィとぐったりとしているナツ(の背中をさするハッピー)を置いて、平然としたエルザがグレイへ話しかけた。
「どうしたグレイ」
「駅んとこ、軍が出てきてる」
ルーシィはパッと駅を見た。先ほどは線路しか見ていなかったが、確かに駅には人だかりと軍の姿が見える。
…ただ事ではない。何かあったのか、もしや既に
「声聞こえるか?」
「はっきりとは聞こえないが…列車が魔導士に占拠された、と言っているように聞こえるな。ナツ、どうだ?」
「うぷ………っはあ、あーやっと停まった…!」
「おいナツ、聞いているのか」
「ちょっとくらい待てよ! ったく…―――――ん、ギルド名は聞こえねえけど、列車を奪った連中は近くの闇ギルドのやつらだってよ」
「それは……お恥ずかしながらクヌギ近辺にギルドをお持ちの闇ギルドがどなたかは存じませんが、このタイミングとなれば―――――」
「―――――十中八九、
―――――とうとう、動き出してしまった。全員の目が鋭くなる。とくにエルザは未然に防げなかったという自責の念が強いのだろう。一層険しい顔をして、低い声で疑問を呈する。
「
「どっか行きたいのかな? うーん、でも、列車って線路のあるとこしか行けないのにね。船とか、馬車とかならいろんなところに行けるけど…」
「確かに行ける場所は限られてる―――――が、その代わり、線路のある場所にだったら最速でたどり着くぜ」
バサリ、とグレイが着込んでいたコートを脱いだ。
「集団呪殺魔法なんてもんをわざわざ封印解いてまで引っ張り出してんだから、やることっつったらコロシだろ。リスクを考えて単に脅し道具として使うだけって可能性も考えられるが、それならわざわざ封印を解く必要もねえ。
冷静な声で
「―――――
―――――なぜ脱いでいらっしゃるのかしら。ルーシィは真剣な表情でグレイの話を聞きながら、どうしても疑問に思ってしまうことを飲み込んだ。多分、なんとなく、今言うことではないかなと思った。それに、これだけ事あるごとに脱ぐのならもしかしたら『脱ぐ』という動作が本人のやる気スイッチなのかもしれない。なら余計に指摘することもないだろうと言葉を飲み込んだ。
バサバサ、とグレイが脱いだコートとインナーがルーシィのいる操縦席に落ちてくる。座っているからか下は脱がなかったらしい。…少し悩んで、それを丁寧にたたみ車内に入れておいた。そんなルーシィにエルザは一瞬視線を向けてきたが、些事だと判じたのかすぐにグレイへ戻す。
グレイが締めくくるように発したその声は、氷のような冷たさを孕んでいた。自身も魔導士のひとりとして、ギルドに所属するものとして、
「つまり列車の向かう場所に…彼らが殺害を企てる方がいらっしゃる、という可能性が大きいのですね」
「さらに言えば、用いられるのが
「確かに……音色を聞いたもののいのちを奪ってしまわれる魔法なのですから、転じて言えば『音色を聞かせなければ呪殺できない』のですものね。ならば効率も考えますと、一堂に会している場を狙われると考えられるでしょう。……相手の方々は何かしらの組織、ということかしら」
そして
ルーシィとエルザがグレイの推理をもとに思考を展開していく。確かなことではないが、目的を『暗殺』とした場合、彼らがどういった行動をとるのか…真剣に頭を回し、可能性を上げていく。
犠牲者が出る前に、なんとしても阻止したい。阻止すべきだ。阻止しなくてはいけない。けれど相手は手練れの暗殺者。やみくもに動くわけにはいかない。
最善策を求めて全員の思考が回転する。
「ったく、めんどくせえやり方しやがって。勝ちてぇならまず真正面から戦えっつーの」
ぐるる、と唸るようにナツが言う。
グレイの話もルーシィとエルザの話もなんとなく分からないところはあったが、まあ要点は押さえられた。何かを考えるような顔をしているハッピーの隣で、ナツは鼻を鳴らした。
呪殺だとか、暗殺だとか、そういった性根が気に入らない。陰湿で好きじゃない。そんなクソくだらねえ仕事をしていることが納得いかない。ギルドを何だと思ってんだクソがという舌打ちまでしてしまう。
少なくとも
ぶすくれたようなナツのセリフにエルザが仕方がないな、という顔をした。エルザはこのナツの仕方なさがなかなか好きだった。対してグレイは分かってねえな、というようにため息を吐く。グレイはナツより薄汚い連中の思考回路が理解できた。共感できるわけでは全くないが、それでもやっぱりこう考えるだろう、という思考が回る。だからナツを馬鹿だと思うし、…まあ。けど、別に嫌いではなかった。言わないけれど。
張り詰めた雰囲気がナツのおかげで少し余裕を取り戻す。ルーシィはどことなく息がしやすくなったような気がして、ナツの使える魔法だろうかなんて考えてしまった。
ナツは怒っている。けれど、その怒りがあまりにもまっすぐだから、なんだか気持ちが楽になるのだ。不思議だ。怒りは残っているのに、やる気が沸いて、思考がクリアになっていく。
だから、ナツの発言に眉を下げで微笑んでいたルーシィはふと―――――その言葉に引っ掛かりを覚えた。
「―――――真正面、から?」
「ルーシィ?」
ぼつり、と落ちた言葉は誰かに向けられたというより、こぼれて解けたような音だった。ナツが首をかしげる。しかしエルザとグレイはハッと振り向いてルーシィを見た。
この音はさっきも聞いた音だった。さっきの、ルーシィが
エルザの卓越した経験からくる勘が訴える。グレイの冷静な思考回路が考えを導き出す。―――――また、ルーシィは何かに気づいたのではないだろうか、と。
「
ぽつぽつとこぼすルーシィはナツの呼びかけが聞こえていないようだった。形の整った眉が寄せられ、眉間にしわが寄る。手をくち元に添え、深く、深く、考え込む。
「占拠された列車―――――線路があれば、最速でたどり着く手段……」
「…目的を達成するのに時間がない、という事だろうか」
こぼれる声にエルザが自分の考えを沿わせた。一種のトランス状態に入っているようなルーシィに意見したところで聞こえているかは半々だが、なにせ時間がない。ひとりで考えるよりはふたりだろう。より時間が短縮できるように、エルザは賭博気分で声をかけた。
「つまり、何かしらのタイムリミットがある…?」
結果、ルーシィはエルザの声が聞こえているのか、応えるように思考を展開する。けれど視線はエルザに向かず、顔の位置も視線も動かない。話は聞こえているが誰に話しかけられているのかなどには考えが行っていない状態なのだろうか。
しかし、反応したことは事実だ。ならばとやり取りを静かに見ていたグレイもくちを開く。
「それは
魔法にはシチュエーションが求められるものもある。例えば月が出ていなくてはいけないだとか、たとえば清い湖のほとりでなくてはいけないだとか。黒魔法の類なら生贄を求められることもあるかもしれない。
封印されるような黒魔法。しかも笛。魔法道具が魔法そのものという異例のパターン。不謹慎かもしれないが、ここまでくれば吹くだけで呪殺できるというのもどことなく味気ない。もうひとひねりあってもおかしくないはずだ。なのでその可能性も十分にありえるだろう。
「タイムリミットがあるのは………ターゲット?」
―――――しかし、ルーシィが浮上する意識に乗せて持ってきた結論は別のものだった。
ターゲットにタイムリミットがある、とは。聞いていた全員が怪訝そうな顔になる。侮蔑したのではなく結論への経過が想像できなかったのだ。なぜそう思ったのか。そこが想像できなかった。
全員の視線を受けながら、ルーシィはそっと声を出した。
「列車は、どこへ向かうのでしょうか」
「どこって………」
「…クヌギ駅の次は、少し離れてオシバナ駅だな」
ナツが片眉を跳ね上げ、エルザが冷静に答える。
ルーシィは考える。考える。考える。
「なにか―――――なにか、取りこぼしてしまっている気がするのです。重要なことを………」
きっとそれは決定的なもののはずだ。散らばるヒントをすくい上げきれていないのだろうか。それとも、見つけたはずのヒントをうまく組み合わせられていないのだろうか。
思考を回す。ただひたすらに考える。早く、早く、早くしないと―――――誰かが死んでしまう。
せっかくエルザが事前に気づけたのに。これで間に合わなければ、エルザが自分をひどく責めるだろうということは想像できた。多くの人の命が奪われるかもしれない。現時点でエルザが自分を責めているのは傍から見ても感じ取れる。これ以上だなんて、そんなことさせたくない。
なぜ分からないのだろうか。なぜ気づけないのだろうか。せっかく『ララバイ』が『
ああ、よりにもよって、マスターが不在の折にこんな不測の事態が起こるだなんて。思考がネガティブに回る。ひとつ間違えば、対峙する自分たちがミスを犯せば、
ただでさえ後手に回ってしまっている現状。これでとうとう間に合わず、人死にが出てしまえば。仲間に被害があれば。きっと定例会から帰ってきて早々にそれを知ることになったマスターは深く悲しみ失望されて―――――
■
「―――――マスターが参加されている定例会は」
■
それは降って湧いたひらめきだった。
■
「どこで、行われていますか」
■
ひらめきは絶望の色をしていた。
■
「どこって、クローバーだってミラちゃんが言って……待て、そういや、オシバナは―――――!!」
何でそんなことを、という顔をして答えたグレイの声が、震える。それに気づいたとき、芋づる式に思い出された事実が暗い色をした可能性を引きずり出した。
音色さえ聞かせればどれだけ強大な相手でも殺せる魔法だ。
ギルドにはギルドマスターがいる。
マスターたちは全員が卓越した歴戦の魔導士たちだ。
マスターたちは今クローバーで定例会を行っている。
一堂に会している。
集団でいる。
列車は線路上であれば最速で目的地にたどり着く。
ターゲットにはタイムリミットがある。
列車が乗っ取られたのはクヌギ駅。
クヌギ駅の次はオシバナ駅。
そして―――――
「……クローバーって、オシバナ駅からじゃないと、行けない、よね…?」
峡谷の狭間にあるクローバーには、オシバナ駅からつながる列車でしか、行けない。
固く鋭くなっていく雰囲気に不安げにしていたハッピーが、ポロリとこぼしたその言葉。―――――全員の目に剣呑な光が宿る。
「まさか」
エルザの声が重く響く。確定ではない。推察でしかない。けれど、身震いするほど可能性が高すぎた。
ギルドマスターたちはクローバーに居て、クローバーへはオシバナ駅から発車する列車でしか行けない。
そしてその列車は
ギルドマスターたちは定例会のために集まっている。
タイムリミットは―――――マスターたちが、解散するまで。
つじつまが合いすぎた。これはもう、気のせいだとは思えない。
「目的は―――――
暗い、暗い、死神が笑う。
■
現状において、最も可能性のある
そんなことを許せるわけがない。
ざわ、とナツが、グレイが、エルザが殺気立つ。不安げにしていたハッピーもまた眉間にしわを寄せ怒りを抱いている様子だ。
かつてミラジェーンが言ったように、
マカロフは、
お調子者のすけべジジイのように見せかけて、誰よりもギルドメンバーを見守り、時に叱り、導き、愛している。だから子供たちもマカロフが好きなのだ。愛しているのだ。
そんな、大切な家族に、未曽有の危機が迫るというのなら。
―――――もし間に合わなかったら、なんて言っている場合ではない。
操縦ハンドルを握り締める。供給コードから魔力を流し込み、魔動四輪車を起動する。
―――――何が何でも間に合わせなければいけないのだ。
ジャジャジャジャ―――――ッドウッッッ!!!
急速に駆動させられた車輪は数秒滑るようにその場で回転し、はじけるように走り出した。
エルザが、グレイが、冷や汗をかきながら咄嗟に車体に捕まりバランスをとる。ナツは死んだ。ハッピーはナツにしがみついている。
「待て、ルーシィ! 君はここまで運転をして魔力をかなり消費しているだろう。次は私が、」
「いいえ」
無言で四輪車を駆動させるルーシィに、ハッとしてエルザが叫ぶ。ついさっきまでルーシィは魔動四輪車に大量の魔力を注ぎ込んで走らせていたのだ。これ以上の魔力消費は体へ負担がかかりすぎる。
事実、エルザから見えるルーシィの顔は少し青ざめており、吐く息は震えているように感じられる。
けれど、エルザへ応えたルーシィの声はしっかりと鋭く、はっきりとしていた。
「
車輪と風の音に阻まれて、ルーシィの声が聞き取りにくい。それでもエルザは少し身を乗り出して耳を澄ませた。
ルーシィは言う。自分の実力はエルザの足元にも及ばないだろうと。エルザはそうは思わなかった。ナツが選んだルーシィがただの木偶の坊とは思えない。なによりあまり自己を卑下しすぎるのはルーシィを評価する周囲への侮辱にもなりえる。
「いざというとき、わたくしが動けませんのと、エルザちゃんが動けませんのでしたら、大きく違います」
けれどルーシィははっきりと言い切った。そこにあるのは卑屈さではない。どこまでも客観的な意見のようだった。
エルザは言葉を飲み込む。ルーシィの言葉にはどこか『圧』があった。それは威圧ではなく、これ以上この話を譲るつもりはないという意志の強さだった。
一瞬、エルザとルーシィの視線が絡む。
「ここばかりは、どうぞわたくしに花を持たせてくださいまし」
運転しながらも、ほんの一瞬ルーシィがエルザへわずかばかり向けた顔。―――――それは微笑みだった。
下手に出ているような言い方で、促すような声だった。お願いをしながら譲らなかった。
「―――――マスターへの不躾なお客人のおもてなしは、みなさまにお譲りいたしますね」
すでに外された視線。こちらを向かない顔の言い様に、エルザは思わず笑ってしまいそうになった。
……ああ、そうだな。そうだろうとも。きっと運転していたのが私であっても、ここで譲ったりはしなかっただろう、と。つい昨日であったばかりの少女の心が、なぜかエルザは手に取るように分かった。
「君は―――――まったく、私はお前を勘違いしていたようだ!」
ナツが選んだのだから、と思っていた。つまり侮っていたわけではない。けれど、物腰や口調から品や育ちの良さを感じ、ふんわりとした娘だとは思っていた。
しかしどうだ。今目の前で魔動四輪車を駆るその姿は何とも頼もしい。伸びた背筋が美しい。
「奴らの相手は任せてくれ。……よろしく頼む」
ならば自分がすべきことは、ここで無理矢理ルーシィと交代することではない。オシバナにたどり着くころには疲労困憊となっているルーシィの代わりに
信じてくれている。だからその信頼に応えよう。
「つってもマジで無理はすんなよ!」
「ええ、お心遣いありがとうございます」
頷いたエルザの上、車体の上からグレイが怒鳴る。疾駆する四輪車の天井に張り付くのはまあまあ重労働だったが、ふたりの会話が聞こえていたからこそグレイは叫んだ。
それはルーシィを案じる言葉。だからルーシィも、喜びを乗せた色で礼を言う。
操縦ハンドルを握り締める。魔力を注がれたSEプラグは膨張していた。顔色は悪い。息もはずんでいる。―――――それでもルーシィは不敵に笑って、勢いよくハンドルを左に切った。
「では―――――みなさま、よくよくお掴まりになってくださいましね。今ばかりはわたくし、ほんの少し悪い子ですから!」
誰にも見られることのなかったその笑みは、どこかナツに似ていた。
■
「見えたぞオシバナ駅―――――ってなんっだありゃ!?」
宣言通り、その後のルーシィの運転はめちゃくちゃだった。ハンドルを勢いよく切り線路に乗り上げたかと思えば、そのままクヌギの町に乗り込み大暴走とばかりに町中を突っ切って走り出したのだ。
群衆を複雑なハンドル捌きと計算された車体の揺れで切り抜け、時に商店街の商品をぶちまけながら突っ走る。
まるで体の一部のように魔動四輪車を動かすルーシィの意外な才能が見つかった瞬間だった。
ちなみに代償として、キャラをどこに捨ててきたとばかりのドライブに死んでるナツ以外の全員からあり得ないものを見るような視線を送られた。さすがのエルザも目を見開く。
しかし時には品や常識をかなぐり捨ててでも為さねばならないことがある。ルーシィは沸いた罪悪感を渾身のちからで踏み潰し、オシバナめがけてひた走った。
―――――そうしてようやくたどり着いたオシバナ。真っ先に気づいたのはグレイだった。
「あれは駅の方角か!?」
いくばくか先、駅のある方面。そこから大きな煙が上がっていた。―――――これは、もしや。いや、間違いなく―――――
「おのれ、
「もう少し駅に近づきます!」
どうか、まだ犠牲者が出ていませんように…!! ルーシィは祈るようにスピードを上げた。
■
「くそっ、すげぇ人混みだ」
「ナツくんしっかりなさって! さあ!」
「ナ~~ツ~~頑張れ~~~」
駅のすぐそばまで魔動四輪車を走らせた一行は、駅の目の前にできた群衆の壁に冷や汗を流した。
街中の人間が集まっているのではというほどの人数に、ルーシィからコートとインナーを受け取って着なおしたグレイはうっとおしそうに周囲を見回し、ルーシィとハッピーはぐったりとしているナツへ必死に呼びかけた。エルザはスッと鋭い視線で駅を睨みつける。
遠くで駅員が拡声器を用いて叫ぶ。脱線事故により立ち入り禁止だと呼びかける。しかし集まった人々の間では『テロリスト』の単語が飛び交い―――――
「クヌギで列車が占拠された時点で封鎖したのだろう」
「だろうな。どうやら軍が乗り込んでいったのを見たやつもいるらしいな」
「軍、ですか。……しかし…」
「ああ。相手は魔導士。それも推察される計画の規模からしておそらく…ギルドひとつ分の人数が居る可能性がある。正直なところ、軍では不足だろう。足踏みしている時間はない―――――行くぞ!」
エルザはバッサリと切って捨てるように言い切り、群衆の中に飛び込んだ。仕方のないことだ。いくら鍛え上げられた騎士であろうと、歴戦の魔導士と相手は厳しいものがある。それも暗殺特化の闇ギルド相手となればひとしおだ。
立ち上る煙を見ればすでに軍は一戦交えてしまっているということが想像できる。一刻の猶予もない。いや、もしかするとすでに死人が出てしまっているかもしれない。
すぐにでも加勢しなくては―――――その意思で、エルザは人混みをかき分け先へ進む。ナツやグレイ、ルーシィも同じ思いでそれに続いた。
次々と群衆を押し退けるエルザに対して、せっかく車から解放されたのに今度は人混みに酔ってしまったナツをハッピーが飛びながら引っ張り先に進ませる。それをグレイは呆れた顔で見た。
ルーシィもまた先に行くみんなに追いつこうと必死に人の隙間を縫い歩くが、なにせ経験が乏しい。ルーシィの人混みの中を突っ切るスキルのレベルは
目の前に立っていた男が立ち位置を少しずらしてしまったため、他の3人が通った隙間を通れなくなってしまったのだ。
「あ、あの、ごめんあそばせ、少し―――――きゃ!」
置いて行かれてしまう―――――ルーシィは慌てて通してもらおうと男に声をかけようとして、後ろからの衝撃に押されて男の背中にぶつかってしまった。
「あっ、申し訳、んむっ!」
とっさに謝らなければと体を放そうとして、再びその背中に埋まってしまう。また背後からの衝撃だった。どうやら少し後ろで誰かがバランスを崩し転倒してしまったらしく、それによって数人が前へ前へと押されているらしい。しかし今のルーシィはその衝撃に踏ん張れるだけの体力がなく、―――――今度は前に立つ男の体重がのしかかってきて余計に動けなくなってしまった。
「んっ、ぷは、あのっ―――――んぷ!」
後ろからの圧と前からの圧。前でも何かハプニングが起きているのだろうか。背後の圧は強まったり緩まったりするだけだが、目の前の男はもぞもぞと左右に揺れたり前後に揺れたりと動くせいでルーシィの顔が男の背中に埋まったり解放されたりと忙しなく、声すらも上げられない。
どうしよう、どうしたら―――――八方ふさがりにルーシィの瞳がわずかに潤んだころ、急に目の前の男が前のめりにバランスを崩した。
「ルーシィ!」
「グレイくん!」
「手ぇ貸せ! 連れてってやる!」
その男の前には手を伸ばすグレイが居た。とっさにルーシィも腕を伸ばし、その細い手のひらをグレイがしっかりとつかむ。そしてちから強く引っ張り、人混みへ潜り込んだ。
「あ、ありがとうございますっ! 人が多くて…!」
ほっとした様子のルーシィにグレイは一瞬眉を顰める。―――――こいつ、気づいていないのか、と。
ルーシィの前に立っていた男。あの男は間違いなく、わざとルーシィに体をこすりつけていた。
前を歩くエルザとハッピーに引っ張られるナツ。そのふたりを見ながらそういえばとルーシィを振り返れば、何やら不審な動きをしている男を見つけた。何人混みで腰振ってんだあの男、と思っていれば、その背後に揺れる金髪を見つけ―――――すぐさま状況を理解したグレイは男の腹に拳をたたき込んでルーシィを救出したのだ。
「―――――ああ、仕方ねえよ。人多いからな。それに魔力使いすぎてちから入んねえんだろ」
まさか気づいてないのか? あんなあからさまで? とは思うものの、ルーシィの反応はどう見てもセクハラをされた女のものではない。……ならわざわざ余計なことを言って怖がらせることもないか、とグレイはくちを噤む。なんとなくロキがルーシィ相手に心配そうだった訳が理解できた気がした。
しかしこのまま育つのも心配なので今度ギルドの女連中にしっかり教えてやるように言っとこう、と考えたところでようやく人込みから脱し、グレイとルーシィは規制線の内側に躍り出る。
―――――同時に、目の前でエルザが駅員の男を地に沈めた。
■
「―――――」
「いや、あれだ、気持ちは分かる。だが慣れろ、あれがエルザだ」
目の前で揮われた暴力にルーシィは開いたくちが塞がらなくなった。グレイが気まずげにフォローとも言えない言葉をこぼす。いや、一朝一夕でこの濃いキャラクターに慣れろというのか。無茶である。というかなんで駅員殴ってるんだ。
「
「は? ウゴァッ!」
―――――まさか、即答できない人はいらないということだろうか。この状況で? 名乗りもせず??? 求めるハードルが高すぎる。
とんだ暴挙に呆気にとられたルーシィを見て、グレイは( そういや緊急停止信号鳴らしたとき居なかったからこれが初見か? )と思った。この様子だとなんであの時ベルが鳴ったのか知らないだろうなとも思ったが、グレイは気づかいの出来るイケメンなので先ほどのセクハラと同じく黙っておいた。エルザは考えるより慣れろなのだ。
結局エルザが『軍の小隊が突入したが、軍からもテロリストからも音沙汰がない。おそらく未だ中で戦闘が行われている』という情報を聞き出すまでに3人の職務に忠実な駅員が地に沈められた。
■
軍の小隊が突入し、何の音沙汰もない。―――――それだけで、ルーシィたちが察したのは『壊滅』だった。
そもそも繰り返すが、軍が、それも小隊ひとつで闇ギルドを相手どろうというのは無理無茶無謀というものだ。
間に合わなかった。すでに死人が出てしまっているかもしれない。いや、むしろ出ていない方が不自然だ。ルーシィは唇をかむ。
「間に合わなかったか…! 急ぐぞ!」
「おいナツ! …チッ、ハッピー、ナツを運んどけ!」
「あいあい!」
「ルーシィ、行けるか!?」
「大丈夫です!」
エルザは端整な美貌に悔しさと怒りを乗せ、勢いよく走り出した。駅員から追加で搾り取った情報では列車はまだ構内にあるという。ならばせめて、
グレイは走り出したエルザを追おうとして、まず死にかけのナツを呼び掛けた。返事はない。すでに屍だったようだ。めんどくさいが大事な戦力。回復すれば使えるだろうとハッピーに指示を飛ばす。
それから、未だ顔が青白いルーシィに声をかける。ここで自分まで突っ走ればさっきのようにルーシィが置いて行かれるのは目に見えていたからだ。回復が見込めないようだったら外で待機させようとも思ったが、返ってきた返事は十分気丈。心配はあるが、ならばよしとグレイも走り出す。
構内へ駆け込み少しばかり。差し掛かったホームへ続く階段で、全員は一度足を止めることとなった。
「これは……!」
「クソ、やっぱりか!」
そこにはひどい手傷を負い倒れ伏す軍の小隊が居た。
「しっかりなさって、意識はございますかっ」
ルーシィが慌てて声をかける。頭部から出血するその軍人はわずかにうめき声をあげた。どうやら生きてはいるらしい。―――――なぜ?
エルザたちも近くに倒れる軍人へ声をかけてみれば、意識を失っている者はいてもいのちを奪われている者はいなかった。
なぜ。
率直な感想がそれだった。もちろん、死人が居ないことに安心した。よかったと喜んだ。しかし―――――なぜ、殺していないのか。
不可解だ。集団呪殺魔法なんてものを掘り出したような連中が、なぜわざわざ小隊の誰ひとりを殺すことなく痛めつけるだけで済ませたのか。
エルザとグレイとルーシィは手早く丁寧に倒れ伏す軍人たちを端に寄せ、駅のホームに向かって再び走り出した。分からない。目的はギルドマスターだけではないのだろうか。それとも今更良心が痛んだか。もっと理由があるのか……もしくは、万が一失敗し捕まった際の
なにを考えているのか分からない。分からないが―――――ろくでもないことだけは確かだろう。
どんな目的だろうと、必ず潰す。―――――
「ホームはこっちだ! ―――――っ!!」
吊り上げた瞳に鋭い怒りを宿し、全員が駆け込んだ駅のホーム。
「よお。やぁ~っぱり来たかァ……
―――――死神が鎌をもたげる。
グレイって面倒見いいですよね。ぜひこのままルーシィのお兄ちゃんポジションに据えたい。
せっかくの二次創作なのでちょっと展開を変えてみました。満足。
最近忘れがちだったルーシィへのセクハラも復活させておきました。満足。
でもちょとルーシィの性格を勝気にしすぎたかも…そのうち大幅加筆修正するかもしれません。
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うつけの遠吠え
―――――デイビットは走る。他の駅員と四方に散らばり各所を確認し、そうしてデイビットは最後の避難者として、親とはぐれた少年を背負って走っていた。
ルーシィの警告と騒ぎ立てた野次馬のおかげで屋内に居た市民もあらかたの状況を把握したらしく、もともと駅が占拠されたという話が出ていた時点で避難準備を行っていた彼らはすぐさま避難を開始していたために避難誘導の
「っ少年、もうすぐだからな!!」
「ひっく、ひ、っう゛ん っ…!!」
息が上がる―――――『若い』と呼ばれる年齢層をとっくに過ぎてから、当然のように落ちて行った筋力と体力。ああ、こんなことならしっかり鍛えておけばよかったとデイビットは後悔した。…いや、後悔はまだ早い。まだ間に合う。この件が済んだらいちから体を鍛えなおしたっていい。いや、絶対にしよう。
走る。走る。走る。―――――そうして、ようやく避難者たちの集まりが見えてきたころに、ひとりの女性が駆け寄ってきた。
「ロン!!」
「ッママ!!」
それは少年の母親だった。立ち止まったデイビットが背中から少年、ロンを下ろせば、ロンは一直線に母親に向かって走り出す。
「ロン! ああ、ロン…!! 本当によかった、よかった…!!」
「あのねママ、ボクね、転んじゃったのだけれど、おじさんが助けてくれたんだよ!」
「ああ、ああ、なんとお礼を言ったものか…! ありがとうございます、本当に、ありがとうございます…!!」
心から安心したように涙を流す母のその姿。デイビットは何とも言えない気持ちになった。
だってきっと、あの時に、あの少女が頭を下げなければ、自分はこの少年に気づいていなかったのかもしれないからだ。
それなのに、この感謝を自分が受けとってもいいものか。それはあまりにも……
「ありがとうございます……!!」
「―――――どうぞ頭を上げてください、奥さん」
それでも、デイビットはその感謝を受け取ることにした。
魔導士でもない、優れた容姿も性格も持たない、きわめて一般的な人間であった自分が、ここまでの感謝を贈られることは今まで一度もなかった。
だから受け取ろう。この感謝を受け入れよう。―――――そして、これから。これからの人生を、この感謝を受け取った人間にふさわしく生きて行こう。
デイビットはそう決めた。いままで自分の人生にさしたる目的も持たずに生きてきたただの男は、今この瞬間に、自らの魂の在り方を決めた。
「―――――君! 君かね、この避難を誘導したというのは! いったい誰の判断で…」
人込みからひとり、初老の男性が駆けてくる。市議会の重鎮だ。…ああ、言っていることはもっともだろう。
誰の判断か。…そんなの、
『すべてはわたくしの独断強行。あなた方には一切の非がありません』
そんなの、
「すべての責任は私に」
―――――いまさら男が、二の足を踏むものか。
「詳しくは後程説明いたします。―――――誰か、連絡用の
あのまっすぐな瞳ですべてそ背負おうとした少女に、これ以上甘え背に隠れるなど、決してしてはなるものか。
「こちら、オシバナの街です。駅が何者かに占拠され、突入した軍の小隊が壊滅したと報告を受けました。テロリストは闇ギルドの魔導士であるという情報が入っており、彼らは市民を殺害する意思をほのめかしていたそうです。現在有志の魔導士が食い止めるために戦闘に入っており―――――はい。私たちを守ってくれているのは、駆け付けてくれた…『
おまけのように少女に頼まれたもうひとつのこと。
「すぐに援軍を派遣してください。どうか、死人が出る前に……!!!」
デイビットは必死に訴えた。どうか、どうか。あの美しい心を持った少女が、無事でありますようにと願いながら。
「待ってたぜぇ、なあ?」
ずらりと並ぶ、ならず者。その頂点、停車する列車の上に腰かけた死神は、片方の口角を上げ、ひとの神経を逆なでするような微笑みで現れたルーシィたちに歓迎の言葉を贈った。
「ウチのがテメーらんとこのコバエに丁寧なゴアイサツを貰ったってんでよ…こりゃあお返しもなくサヨナラするわけにはいかねえと思ってこうしてお出迎えさせてもらったってわけだ」
「貴様がエリゴールだな」
ニタ、と皮肉をたっぷりと含んだエリゴールの言い様に、しかしエルザは反応することなく問いかけた。
いや、問いと言うには確信したような物言いに、エリゴールは返事はせずとも笑みを深める。その纏う魔力の禍々しさが、エルザにその男こそが死神であると確信を深めさせた。
「アンタみてぇな美人に知られてるとは男冥利に尽きるな。はは、お礼に今晩可愛がってやろうか? ああ、今ここででもいいぜ…人数はいるからなァ、満足するまで相手してやるよ」
「ふん、馬鹿と煙は高いところが好きだと言うが、どうやら本当らしいな。…死神と言われた男がこれとは。こちらが悲しくなってくる」
品のない誘い文句を鼻で笑ったエルザに、しかしエリゴールは特に気分を害したような様子はなかった。
―――――冷え込むような言葉の応酬。その隙を見てルーシィは小さくナツに呼びかけた。
「ナツくん、具合はいかがですか?」
「う、ぐ……」
「うーん、ちょっとマズいかも…」
「う、だ、大丈夫です。ナツくんが回復なされるまでは、わたくしがお守りいたします」
ルーシィは少し震える声でナツを庇うように一歩前に出た。正直魔力不足で戦闘なんてできる気もしないし、相手が相手だけに恐怖心が重く纏わりついてくる。しかし引くわけにはいかないのだ。…幾度もルーシィを救ってくれたナツを、今度は自分が守りたいから。
―――――ピクリ、ナツの指先が跳ねる。
「貴様らの目的は何だ」
エルザは圧を乗せた声で問い詰める。しかし、それに連中が応えた様子はなかった。
伊達に闇ギルドではないという事か。それともただの愚か者か。向けられた怒気のような圧はまるでそよ風のようにいなされてしまう。
「おいおい怖い顔すんじゃねえよ…大したことじゃねえ、暇だから遊びたかったのさ。はは、まさか正規ギルドの
「下らん誤魔化しはいい。お前たちの目的はギルドマスターか」
―――――ヒュゴウ!!
……一瞬のことだった。一体が、一気に冷え込む。それはエリゴールが放った『風』とそれに対抗するようにグレイが発した『冷気』がぶつかった影響だ。一瞬の強風が一同を包み四散する。
「―――――どこで知った」
「奪われた列車。駅の立地。定例会とのタイミング。持ち出された集団呪殺魔法…これだけ条件がそろえば馬鹿でも分かるさ」
エルザはあえてあたかも自分が気が付いたかのように言い方を調節した。ルーシィに意識を向かわせないためだ。魔力が空っぽ目前のルーシィの代わりに敵を蹴散らすのは自分たちの役目…故に連中のヘイトは自分に集まっている方が都合がいい。
エリゴールはしばし探るようにエルザを睨みつけ、しかしすぐに雰囲気に余裕を取り戻した。
「いやはや、流石だぜ正規ギルドさまはよ。……しかしそこまでバレてんなら、そのまま作戦を決行するってのは面白みがねえよなあ…」
ふわり、エリゴールがその体を魔法で浮かせる。ゆわん、と曲線を描きながら高度を上げ、―――――その手が触れたのは、駅に設置されたスピーカー。
「―――――まさか、」
ザ、とルーシィたちの顔色が悪くなる。その動作だけでそれが何を示すのかを理解してしまったからだ。
まさか、そんな―――――そこまで堕ちたか、
「今駅の周辺には4桁近い野次馬が集まってる。壮観だろうなあ、それだけの死体が積み重なってるってのは! …いや、音量を最大限上げれば街中に音色が響くか? ははは、そうなりゃ正に『その街には誰もいなくなった』ってわけだ!」
ふはははは!! とエリゴールの笑いが響き渡る。触発されたように他の
ゲラゲラゲラゲラ、つばが飛び散る。
「放送するというのですか、
ゲラゲラゲラゲラ!! ルーシィの悲鳴のような声に笑い声は大きくなる。
「無差別? いいや、選別は済んだんだよ。―――――これは粛清だ」
「理不尽だと思わねえか?
―――――だから死神が罰を与えに来た」
ゆらり、とエリゴールの首が傾げられる。しかしそこに無邪気さはなく、渦巻いているのは世界の矛盾への憤りと言うよりは下衆の自己満足…あるいは憂さ晴らしだろうか。
「愚か者どもは思い知るのさ。自分たちの無知を、罪深さを! 『死』という決定的な罰を与えられることによってな…!」
「愚かはどちらですか」
あまりに自分勝手。夢見心地に語るエリゴールに、ルーシィは我慢ならないとばかりに首を振った。
水を差すその声に、ジロリとエリゴールの視線が再びルーシィに移る。エルザとグレイは瞬時に身構えた。
「権利とは義務ありき。表裏一体の理のもと、義務を果たさぬものに権利が与えられることはありません。ひとのいのちの尊厳を守らぬ者に、なぜその存在を尊ばれる権利が与えられるのです」
美しい言葉だった。理を説いた言葉だった。しかし、だからこそエリゴールには響かない。
「あなたが権利を望むのなら、あなたは義務を果たさなくてはなりません。…少なくとも、たった今、自分たちのあまりに自分勝手な願望のために無辜の民のいのちを踏みにじらんと宣言したあなた方に、権利が与えられるはずもなし。―――――
世界がまことに清廉潔白であるのなら、暗殺の仕事などまかり通らんさ、とエリゴールは心の中で笑った。
世間知らずな箱入り娘のご意見だ。世の理? そんなもの、『正しい奴がバカを見る』の間違いだろう!
いつだって利益は
「ほほーう…ご高説どうも? 聖女さま。じゃあ質問するが、俺たちみてえなクズが尊い権利を賜るには一体どうすりゃいいってんだ?」
「
「くだらねえ」
「救われない方」
冷えた瞳が交差する。ルーシィはエリゴールの嘲笑に眉ひとつ動かしはしなかった。
「俺たちには俺たちの生き様ってもんがあるのさ」
「好き勝手していたい。けれども権利が欲しい、だなんて、ずいぶんと欲しがりさんでいらっしゃるのね」
「いいやぁ? 言っただろ、俺らは『罰を与えに来た』ってよ…権利なんざもう必要ねえ。ここまで来たら欲しいのは『権力』だ! くそだりぃ『義務』なんざ果たさんでも『権力』さえあればすべての過去を流し未来を支配することだってできる」
「あら、権力というのもそう一筋縄ではないのですよ。見合った器をお持ちでなければ扱いきれずに持て余し、あまつさえ身を滅ぼす劇薬となるものです。…あなたのそのささやかな器では、溢れて溺れてしまわれそうだわ。……
淀みなく言葉が放たれる。とうとうエルザが稼いだヘイトはすべてルーシィへ移行したと言えるだろう。―――――あたりまえだ。そのためにやっているのだから。
一同の視線がすべてルーシィに向いていることを察知したエルザはどうにかルーシィを止めようとした。もう遅いとしても、今ルーシィを矢面に立たせるつもりは全くないというのに。なぜルーシィは挑発を続けるのだろうか。冷静な判断ができないほどエリゴールの思想が受け入れられなかったのだろうか。
思考するが答えは出ず、無理やり止めようにも現状で敵に背を見せるのは愚行。かといって声をかけるだけで止まるかどうかは、流石にまだ判じきれない。―――――そして、もしかして何か目的があるのかどうかについても。
どうしたものか、とエルザの眉間にしわが寄る。
「そも、権力を求めて何故標的にギルドマスターを選ばれますの? 彼の方々をあなた方が屠れども、そのギルドが手に入るわけでもありませんのに」
「分かってねえな。卓越した魔導士であるギルドマスターどもを殺すことが、俺たちが作り上げる『闇の時代』の開幕のベルになるのさ。クソったれの年寄りどもの死体を並べての宣戦布告は見せしめにもなる…」
「闇の時代? ふふ…可愛らしいことをお望みになりますのね。具体的なプランニングはお済なのかしら」
「はは、お前にそれをわざわざ教えてやる必要が?」
「…あら、本当にお考えでしたの? ごめんあそばせミスター。わたくしてっきり、幼子のままごとのような思い付きだとばかり…ああ、もしかして、向こう側でお休みされている軍の方々も、そのために?」
こてり、と首を傾げたルーシィに、相変わらず気味の悪い笑みを浮かべたエリゴールが自らの首を指でなぞって答える。
「はん! ちゃんと全員生きてただろ? あいつらはこれから仕事が残ってるからな…くくく、あいつらはなあ、てめえら
演技がかったそれは明らかな殺害予告。ルーシィはわずかに生まれ出でた恐怖心を、しかしけして表に出すことなく封じ込め、まるで何も恐れる者は無いと言うかのように微笑んだ。
「素敵なプランニングですのね。夢のようにふわふわとしていて愛らしいわ」
「―――――さっきから、ずいぶん言うじゃねえか。なあオイ」
…さすがにエリゴールの目に明確な敵意が宿る。ルーシィの言葉選びはすべてわざとらしいほど敵意に溢れていた。相手の神経を逆なですることが目的だと言わんばかりである。実際、そのあまりの言い様に
エリゴールは他の連中よりは冷静にルーシィとの会話をつなげているが、そもそもこの会話をつなげている時点で多少はむきになっているのだ。恐れもなく扱き下ろす小娘相手に苛立ちを抱いているのだ。
―――――ああ、腹立たしい。たかだか正規ギルドの分際で。問題児のくせに。あっちこっちで被害を出して、連中とウチの違いなんざ評議会にギルドとして認められてるかどうかくらいだろう。それを、まるで自分たちに正義があるかのような顔をして!
エリゴールは足元のひとりに目配せをする。それを受け取ったのは、耳にガーゼを張った男。―――――
男、カゲは嗤う。そろそろおきれいな言葉も聞き飽きたところだった。あの聖女さまを血濡れにすれば説教よりよっぽど耳にイイ悲鳴を上げてくれるだろう。そうやって、悪辣な笑みを浮かべる。
カゲは素早く屈み、トン、と手のひらを地面―――――自分の影の上に置く。その動作に気が付いたエルザとグレイはすぐさまカゲからの一撃に備えた。
…しかし、ここでふたりはミスをする。相手は魔導士だ。魔法を使う。それはいい。しかし、同時に相手は暗殺者であった。
『影』は地面を伝い、唐突に質量を持ってルーシィの目の前に弾き出た。
「しまっ、」
「っ!?」
「はっはァーッ! 良い子ちゃんはそろそろお寝んねしてなァ!!」
エルザとグレイがすぐさま振り返って動き出そうとしたが、どう考えても間に合わない。5つの指を持つ猛威はルーシィに振り下ろされる直前であった。―――――なのにルーシィは動かない。
エルザはようやく振り向けたその先で、ルーシィの表情が想像以上に凪いでいることに気が付いた。棘の在った言葉たちとは裏腹に至極冷静な
なぜならば、すでにルーシィの目的は達成され、―――――本命はすでに成ったのだから。
―――――腕を模した影。それは、振り下ろされことなく消え去った。
「お体はもう?」
「完全回復だっつーの」
なぜならば、ナツ・ドラグニルが復活したのだから。
■
ルーシィがエリゴールを挑発し続けた理由。それはまず、会話から詳しい作戦や目的などを引きずり出せないかという試みであった。しかしあくまでそれはおまけの試みであり、大本命は『ナツの回復までの時間稼ぎ』だ。
ハッピーには「守って見せる」と言ってはみたものの、今の魔力不足のルーシィでは盾にすらならないことは明白で。さらに言えば、貴重な火力であるナツが行動不能の状態で相手側から行動を起こされてしまえばこちらが不利になることは分かり切ったこと。
ならばルーシィがすべき最善とは、相手を留めたままナツが戦線復帰できるだけの時間を稼ぐことであった。
相手は死神とまで言われた魔導士。対してルーシィは経験も少ない素人魔導士。…見た目や声に怯えが出ないようにかなり神経をすり減らせた時間だった。それに正直、相手がどこまでルーシィの口撃に付き合ってくれるかについては賭けであったが、―――――結果は成功。
タイミングとしてはかなりギリギリになったが成功は成功だ。にこり、と品のいい微笑みをナツへ向けたルーシィへ、ナツもにんまりとした笑顔を返す。
「つーかなんかいっぱいいるな」
「わざわざ
「あと今攻撃してきたやつ列車に居たやつだわ」
「まあ。因縁のお相手、と言うわけですね」
「クソが…」
気に入らない。列車の中での件といい、今のタイミングといい、ことごとくコケにしてくる男だ。そもそもアイツのせいで自分はエリゴールに耳を切り裂かれたのだ。
カゲの中でナツへの黒い感情がとぐろを巻いて蓄積されていく。―――――それなのに思わず体が固まるのは、くらった一撃の重さをからだが覚えているから。
屈辱だ。腹立たしいことこの上ない。じわり、カゲから淀んだ魔力がもれ、それは殺意となってナツへ向けられる。
カゲの殺意に連動し、
一触即発。その様子を文字通り高みの見物で済ませたエリゴールは、少し声を張り上げて自ギルドの魔導士たちへ呼びかけた。
「後は任せたぞ。俺は笛を吹いてくる」
「ッ待て!!」
聞き捨てならないその言葉にエルザが声を荒らげたが、エリゴールは止まらない。ガシャン! とひび割れた音を立てガラスを破り居なくなってしまう。
「クソッ! おいエルザ、どうする!?」
「グレイ、お前はナツと共にエリゴールを止めてくれ! こいつらは私がどうにかする!!」
「は、はあ!? なんで俺がナツと―――――」
「 死人が出るんだぞ !! 」
なんでよりによってナツなんかと―――――そんなグレイの不満はエルザの一喝の前に踏みつぶされる。
もっともだ。エルザが正しい。グレイはうぐ、と息をのんで、しかしすぐにナツと目配せをした。最高に気に入らないが現状そんな不満を言っている暇はない。
ナツもまた心から不満そうな顔をした。グレイと一緒に行動とかどんな苦行だ、と。それに……先程から、ルーシィの顔色が悪い。
もともと魔力不足で顔色は良くなかったが、それに加えて走り回ったり暗殺者相手にくち喧嘩したりと休まる暇がなかったために…敵陣の実力者が場を離れたことへの脱力感と、あの男を止められなかった場合の悲劇を想像して体調の悪さが誤魔化せなくなってきたというところだろうか。
この状態のルーシィを置いていくのは……
「ナツくん…」
けれど、―――――ルーシィ本人がそう言うのなら。
「ハッピー! お前はルーシィんとこに居ろ! 行くぞクソ氷!!」
「あい!!」
「分かってんだよ指図すんなクソ炎!!」
――――― お願いします、ナツくん。必ず、あの人を止めてください。
とりあえずあのクソムカつく男をぶっ飛ばすの最優先だ。
■
「ルーシィ、お前は後ろに居ろ。ハッピー、ルーシィを守れ」
「任せて!」
「すみません…よろしくお願いします…!」
ナツとグレイが居なくなってすぐ、ハッピーはエルザに元気よく返事をしながらふらり、と足元の揺れるルーシィを支えながら数歩エルザから遠ざかる。
「おい逃げたやつらは」
「俺が追う」
「俺もだ! あの桜頭は俺が殺す!」
「―――――ってことぁ」
「あのねーちゃんたちは―――――俺らで分けていいってこったなあ?」
ひゃは、と誰かが笑えば、それが伝染したようにその場に残った
仲間の攻撃が撃破されたときは少し焦ったものだったが、どう見ても厄介な男たちはエリゴールを追っていなくなった。残っているのはどう見ても非戦闘員な青い猫と、足元がフラフラな聖女さま。戦えそうなのは鎧を着た女だけ。
たったひとりで何ができる? この人数を相手に勝てるわけがないだろう。ああ―――――それにしたって、ふたり揃って上玉だ。
聖女さまの柔らかいボディラインに白い衣装をまとった風貌はあまりに清らかで、心の底から堕として穢してしまいたくなる。鎧女はその肌を守る鋼を引きはがし、守られていた柔肌を容赦なく蹂躙したくなる。
勝ったやつが正義だ。なら―――――負けた女をどうするかなんて、言わずとも。
男たちの下劣な笑い声。嘗め回すような視線。それにルーシィは眉を寄せ、対してエルザはひどく静かな顔をしていた。
「―――――先ほどから、貴様らの声は耳に障る」
―――――否。それはあくまで表面のみの話である。
「ずいぶんと好き勝手言ってくれていたが」
そもそも、怒りなど。
「明日の朝日を拝みたくば、もう黙れ」
もはや鎮火するには汝らの魂を以てしかあるまいよ。そう呟いたエルザの右手には、ひと振りの剣があった。
「あれは…魔法剣?」
ルーシィはそれを見てぽつりと呟く。魔導士が使う剣は特殊な性能を持つ魔法剣が主だ。そしてそれを扱う者を魔法剣士と呼ぶ。ならばエルザは魔法剣士ということだろうか。
そうだとするのなら―――――ルーシィは一瞬の心配を抱く。
「おいおいかっこつけといて魔法剣かよ!」
「珍しくもなんともねえっつーの!! こっちも魔法剣士はぞろぞろいるぜぇ!!」
ルーシィは知識で知っているだけなのだが、魔法剣士という存在はかなり多い。というのも、そもそも剣自体に特殊性能が備わっているために担い手の魔力量が少なくとも大きな成果を出せる、という扱いやすさがあるのだ。
故に魔導士崩れや魔導士になれるほど魔力を持たない一般人でも魔法剣さえあれば話が変わるし、魔力消費を抑えて様々な戦い方ができるということで魔法剣士人口は多い。
しかしつまりは、魔法剣士というのは突飛した戦力というわけではないということ。
魔法剣士ひとりに対して、闇ギルドおよそひとつ分の魔導士。それだけ聞けば状況は圧倒的に不利に思えるだろう。
―――――しかし。
「きゃ…!!」
ルーシィが瞬きをした瞬間、すでにそこにはエルザの姿はなかった。一拍遅れて強い風圧がルーシィを押す。
弾ける、というよりは
視線の先でエルザの腕がぶれる。そうすれば風が起こり―――――敵は切り伏せられている。エルザが宙に浮く。また片手ほどの人数が切り捨てられる。次は着地し腰を低く―――――今度は両手近く。
片手剣による接近戦の圧倒的無双。その辺に転がっているような剣士どもとは練度が違う。まるで赤子の手を捻るかのように次々と敵が切り伏せられていく。その傷も、致命傷にはならずとも戦線復帰はかなわないであろう深さを心得たものばかり。
「……ハッピーさん。お願いがあるのですが」
その光景に魅入っていたルーシィは、自分を支えてくれているハッピーへ静かに声をかけた。
一方戦場では、たったひとりの魔導士に蹂躙される自軍に、このままでは―――――と危惧したひとりが片手に魔力を溜めた。接近戦は不利。ならば間合いに入られる前に
「―――――できると思ったか?」
「ら―――――
ルーシィのギョッとしたような声が響く。ほんの一瞬だ。瞬きもしていない。―――――だというのに、気づけばエルザの手の中には片手剣ではなく長い槍が握られていた。
遠距離魔法を発動しようとしていた男は吹き飛ばされ戦線を離脱する。それに一瞥もせず、飛び上がっていた状態から敵陣の人口密度が高いところへ着地―――――そして、手には双剣。
二対の剣と的確な足技で次々に敵を屠るエルザ。その実力を測ることもできず散っていく
「なんて速さの『換装』―――――」
こく、とルーシィは小さく息を呑む。…魔法剣士が複数の武器を扱う、ということ自体は何らおかしな話ではない。基本剣の性能に頼った戦闘スタイルになる魔法剣士はシチュエーションに合わせた戦闘ができるように複数の魔法剣や魔法武器を所持しているのが普通だからだ。
しかし、エルザは桁が違う。強さもさることながら―――――その、武器を入れ替えるスピードが。
魔法剣士が初見のルーシィは、もちろん換装を見るのも初めてだ。しかし敵陣の魔法剣士が換装にかけている時間とエルザのスピードを比べれば素人目でもその規格外さが察せるというもの。
いつの間にか大剣を振り回していたエルザにルーシィは感嘆の息を吐く。
「すごい……」
「エルザのすごいところはこれからだよ!」
「あ、ハッピーさん! おかえりなさいませ」
「ただいま! あのね、すぐそこに丁度いいのがいっぱいあったよ!」
にっこりと笑うハッピーの手にはルーシィのキャリーバッグと、大きな風呂敷。それを見てルーシィは安心したように礼を言った。そして、ハッピーの『これから』という言葉に首を傾げる。今でもあれほどすごいのに、それ以上とは…一体?
「なかなか減らんな。……時間もない、一掃する」
ぽつり、とエルザが敵の喧騒に飲み込まれそうな小さな声で呟く。
いくらエルザが無双すれど、人数というのは多いだけで脅威だ。故にさすがにここまでくればエルザ相手にひとつの慢心も許されないことを悟った
―――――しかし、
「魔法剣士は通常『武器』を換装しながら戦うでしょ。でもエルザはそれだけじゃなくて、自分の能力を高める『魔法の鎧』にも換装しながら戦うことができるんだ」
「よ、鎧ですか。それはまるで―――――」
―――――魔力が渦巻く。エルザが両手を広げればそれと同時に纏っていた鎧が帯のようにほどけ、その隙間から素肌が覗く。
その蠱惑的な光景に、先ほどまでエルザを恐れていた男たちが品のない歓声を贈る。まるでついさっきまでの脅威を忘れてしまったかのように動きを止めて見入ってしまう。
―――――スカーレットが舞う。
「そう。それがエルザの魔法―――――『
そこに居たのは美しき騎士。いや―――――戦乙女。
天使のような四枚羽を背負い、鋭利な美しさを誇る鎧を纏い、神聖さを感じさせるスカートが揺れる。
眼差しは鋭く、円環を描き宙に浮く複数の剣が、一層その荘厳さを掻き立てる。
それはいのちを奪う剣の冷徹さであるはずなのに、誰もが魅入ってしまう何かがあった。
「美しい……」
「舞え、
宙に浮く剣たちはまるでひとつの円になるかのように、魔力の帯によって繋がれていく。その光景を見て
「―――――
剣が舞う。エルザを追い詰めるために円形に囲んでいた敵は、しかしだからこそ円形に舞う剣によって屠られた。
「ぎゃっ」
「ぐああ!」
「しま、うがっ!!」
「グオッ」
高速回転し、襲い掛かる剣に
■
( やばいやばいやばいやばい―――――!! )
目の前ではたくさんいたはずの仲間たちが次々と地に伏せていく。たったひとりの女相手にだ!! これは現実か? 暗殺を主体として闇の中でいのちのやり取りをして生きてきたはずの自分たちが、たかがお騒がせ正規ギルドの女魔導士ひとり相手に壊滅に追いやられているこれが現実だというのか。
―――――いや、待て。
は、とカラッカは息を詰まらせた。そういえば、さっきあの後ろの女と青い猫が、あの女魔導士のことを……『エルザ』と呼んでいなかっただろうか、と。
目の前の光景のありえなさにすっかり飛んでいた記憶がよみがえる。…エルザ、という名前はさして珍しくない女性名だ。だがしかし、この鬼のように強い、―――――『
まさか―――――!!!!
「クッソがァァアッッ!! オ-ォレが殺ォすッッッ!!!!」
「っ、バカ待て、やめろ! アイツは―――――」
ひとりが叫びながらエルザに特攻する。それは半狂乱の無鉄砲な行動だった。せめて一太刀、というよりは潰されて歪んだ自尊心と発狂した自己保身の暴走だったと言えるだろう。
カラッカは魔力を練り走り出した仲間に制止の声をかけた。それはあまりに無謀だからだ。しかし、思考が追い詰められた彼には届かない。
「―――――
ひと振るい。切り裂かれた激痛を無視することで剣の守りを突破した男は、しかしエルザの汗ひとつない涼しい腕のひと振るいにて地に伏した。
( 勝てるわけがねェ…!! )
呼吸が荒くなる。目の前の絶望に目の前が暗くなる。どうにか―――――どうにか、逃げたい。逃げたい。助かりたい。どうにか、どうにか!
けれど相手は未だ余力を残した顔をしている。逃げたところで逃げ切れるか。そもそも逃げるだけの隙を与えてもらえるか。どうにか、どうにか―――――
ズシャアッ
「っ!」
「ルーシィ!」
「!? しま、…!!」
―――――ルーシィの体が倒れる。思わずハッピーが支えきれずにルーシィを取りこぼしてしまうほど強い一撃によって前方に押し出されながら身を崩したルーシィに、エルザは慌てて展開していた
残っている敵は片手ほど。エルザは円形にまとめていた剣をほどき、その一本一本でひとりずつを切り伏せて片付け、すぐさまルーシィに駆け寄った。
「ルーシィ、無事か」
「え、ええ、大丈夫です」
「エルザ! ひとり逃げたよ! 床からにゅるって出てきたやつがルーシィを突き飛ばしていなくなったんだ!!」
「なに?」
エルザはハッとした。つまりそいつはルーシィをある種の目くらましに使うことで自身が逃亡する隙を作ったのだろう。…倒される他の仲間たちを見捨てて。
魔力が未だ万全に回復していないルーシィでは、背後からちからいっぱい突き飛ばされれば抵抗できまい。そして、そうやってエルザの射程範囲内に放りこめば、エルザは攻撃を止めるかスタイルを変更しなくては自力で避けられないルーシィまで傷つけてしまう。さらにこんな状況でルーシィが倒れれば、何かしらの手傷、もしくは魔法を受けたのではとエルザが駆けよることも想定できたかもしれない。
合理的で、なんとも下卑た作戦だ。エルザのこめかみがヒクリと震える。
「エルザちゃん、どうぞわたくしのことはお気になさらないで。お逃げになった方を追ってください」
「いや、だが」
「今はこの体たらくですが、もう少ししましたら十分に動けるようになりますから。優先すべきは彼らの計画を阻止すること。―――――わたくしたちが救わなければ」
にこ、と微笑んで促すルーシィに、エルザは少し歯噛みした。しかしルーシィの言っていることはもっともだ。それに、これ以上食い下がるのはルーシィへの侮辱にもなりえるだろう。
ガシャン!!
エルザは停車している列車の車輪へ剣を飛ばし、そのひとつを破壊した。エリゴールがここに戻ってきた際にギルドマスターの元へ向かうことを阻止するためだ。車輪の外れた列車は走れまい。これで、やつらが列車を占拠したメリットがなくなった。
「奴は必ず見つけ出す。そして止めてみせる。ルーシィ、無理はするなよ!」
そして駆けだす。逃げた男を、ひいてはエリゴールを撃破し、阻止するために。それが自身のすべきことであり、男が
そして、精一杯無理をしてくれた仲間を、約束通り守れなかったことへの償いだとして。
■
―――――走り去るエルザを見送ったハッピーは、静かにルーシィの背をさすり続けた。
うつむいて、痛いくらいに手のひらを握り締めて、唇をかんでこらえるルーシィの背を、一生懸命慰めるようにさすり続けた。
「……ハッピーさん、お願いがありますの」
「う、うん、どうしたの?」
「先ほど持ってきていただいた、例の縄がありますでしょう? あれで
「…うん! 任せて。オイラ縛るの得意だよ!」
ぴゅう、と飛び出したハッピーに、ルーシィは心の中で感謝を送る。優しい彼の心を尊く思いながら、ルーシィはいっそう握った拳にちからを込めた。
■
こんなつもりじゃなかったのに。どうしていつも、足手まといになってしまうのだろう。
■
目を合わせてくれた。目を見て、わたくしの存在を認めて、話しかけてくださった。
わたくしの価値を認めてくださった。
「ルーシィ」「ルーちゃん」「ルーシィちゃん」
ただその幸福に報いたいだけなのに。
■
「無駄なことをするな。そんなものは無意味だ」
■
ただその幸福を、失いたくないだけなのに。
■
「っはぁ、…ええ、これ以上はだめね。しょんぼりするのはお終いです。すべきことをしなくては……さ、ハッピーさん、わたくしも―――――
……あら、まあ。ハッピーさん、あなたお手際がとても優れていらっしゃるのね」
深く、深く深呼吸を繰り返したのち、パッと雰囲気を変えたルーシィは、にっこりと微笑みを携えハッピーへ視線を向け、思わず感心したような声を出した。
ルーシィの視線の先、そこでは山ほどいた敵の最後のひとりを縛り上げていたハッピーの姿があった。
ルーシィの視線に気が付いたハッピーはにっこりと自慢げな笑顔を浮かべる。それにルーシィは微笑み返した。なんて頼もしい。これほど信頼できる猫はこの世に2匹といないのではないか、と。
「さすがですわ、ハッピーさん」
「頑張ったよ!」
「ではもうひとつお願いしてもよろしいかしら」
ルーシィは自分の元へ飛んできたハッピーを抱きしめた。その足元はしっかりとしており、安定感がある。気持ちを落ち着けている間にだいぶ魔力も回復したのだ。これはエルザが目の前に居た敵を殲滅してくれた安心感もあるだろう。さっきまではめまいもあったが、今は視界もすっきりしている。―――――もっと早く、回復してくれればよかったのに。
まあとにかく、万全でなくとも動き回れるだけの回復は為されたのだから、自分のすべきことをしなければ、とルーシィはハッピーに話しかける。
「わたくしは今より、駅員の方々の元へ向かって事態を知らせてまいります。ナツくんたちを信用していないわけではありませんが、万が一がございますから…市民の方々に、ええ、せめて集まっている方々に避難いただかないと」
「なるほど! じゃあオイラは?」
「お怪我をされていらっしゃる軍の方々がいらっしゃったでしょう。大したことはできませんが…彼らの治療をしたいので武装…特に鎧をほどいておいていただきたいのです」
「わかった!」
ひゅん、とハッピーはルーシィの腕から抜け出した。そしてルーシィのキャリーバッグを手に浮かび上がる。
ルーシィからの最初の頼まれごと。探してきたたくさんの縄のような紐は
そしてそのハッピーの判断は正しく、ルーシィは嬉しそうに微笑んでから走り出す。
「ではよろしくお願いいたしますね!」
「任せて!!」
■
「あっ! 君、さっき強引に中に入っていた人だね!? 中の様子はどうなっているんだ!?」
ルーシィが駅員のいるバルコニーホールへ駆けて出れば、その姿に気が付いた駅員のひとりが慌てたように声をかけた。
駅員は軍の指示に従い人々の避難誘導をしていたものの、何の音沙汰もない現状に不安に駆られているのだろう。それでも様子を確認しに中に入らないのは小心者の賢明な判断であった。
「さきほどは礼を欠いた言動をしてしまい申し訳ありませんでした。どうかお許しになって!」
ルーシィはその駅員がもつ拡声器に目を付け、謝罪をしながらも詰め寄った。
「お願いがございますの! 実は駅を占拠されたのは闇ギルドの方々で、彼らは大規模魔法によりここに集まっていらっしゃる方々を殺害しようと目論んでいたのです。どうか皆さまに避難されるようお伝えください!」
そのルーシィの剣幕、そして話の内容にギョッとした駅員は、しかし確証の無い話を言いふらし市民を混乱に陥れるようなマネが自分の一存でできるわけがない。……それは組織社会に生きるものなら仕方のないことなのだ。なぜならあくまでいち駅員。『自分が責任を取る』、だなんて言葉は、責任あるポジションに居るからこそ吐けるのだ。
それに、相手が『闇ギルド』で行おうとしているのが『大量殺戮』だというのなら管轄が違う。駅員の手に負える範疇ではなく、何より鎮圧に向かった軍と連絡が取れていないこの状況で駅員がこの情報をばらまけば、場合によっては軍に恥をかかせたことにもなりえてしまう。
『ただ避難を呼びかけるだけだろう』と思うことなかれ。それが正しいことであろうと、正しいだけでは許されないのが社会であり組織である。
それは、と言い淀む駅員に、ルーシィもおおよそを察したのだろう。すぐさま少し強引に駅員の手の中にあった拡声器を奪い取った。
「き、君!」
「あなたは魔導士に無理やり拡声器を奪われました。そしてその魔導士はあなたの制止を振り切り、独断で行動を起こしました」
―――――台本を読むかのような話口調。内容はまるでストーリーのすり合わせ。
何を、と言うより早く、ルーシィは拡声器を使い集まっていた野次馬へ叫んだ。
「 警告します!!! 」
―――――唐突に響いた声。集まった人々の視線が、自分たちの上空で話すルーシィのシルエットを見つけた。
風が強い―――――ひと房のみつあみとなった
「 この駅は邪悪なる魔導士により占拠されました!! 彼らはこの場に居るすべての方々を殺害できるだけの魔法を放とうとしています!! 今、すぐに!! 避難してください!! できるだけ遠くに――――― 早く !!!!! 」
なんだ、それは。群衆に沈黙が落ちる。邪悪なる魔導士? この場に居る全員を殺せる魔法? 何を言っているんだ。冗談にしてはセンスがない。…冗談だろうか。本当に? だって冗談なら―――――なぜ、突入した軍隊は、帰ってこない?
沈黙。そして、状況理解。つまりは、―――――混乱。
「君、なんてことを―――――!!」
「すべてはわたくしの独断強行。あなた方には一切の非がありません」
響き渡る悲鳴。我先にと逃げ出す群衆の背を背景に、駅員は狼狽した様子でルーシィに詰め寄った。しかしルーシィはそれに気圧されることなく、穏やかな微笑みでスッパリとすべての責任は自分にあると言い切った。
駅員は、何も言えない。―――――目の前の少女が言ったことはすべて本当だとして。…自分たちが、自分が二の足を踏んだ『責任』を、自分よりずっと幼い少女がすべてを背負ったというのに。これ以上、どうしてそれを…非難できるだろうか。
「……すまない」
「いいえ―――――けれど、どうか。もうひとつのお願いを聞いていただけますか」
ぐ、と唇をかんだ駅員に、ルーシィは変わらず穏やかな表情で首を振った。ままならない身であるということは理解できる。立場があり、関係があり、メンツがある社会という箱庭の中で、目の前の男ができること、責任を取れることはあまりに少ないという事を、ルーシィはちゃんと理解していた。
だからこそ、もうひとつの願いを託す。…ほんとうは無暗矢鱈に負担をかけたくないために、他の人に頼むようなすべてを自分だけでこなせればと思うことがあるのだが、現実問題無理である。だからこそルーシィは、初めて会った誰かを心から信頼して頭を下げる。
「この混乱です。幼い子供やお体の調子がすぐれない方などが避難に遅れてしまったり、ひとりになってしまっているかもしれません。混乱を起こしたわたくしがそれを指摘することはあまりに矛盾に満ちているとは思いますが、…お手の届く範囲でも、そのような方々を導いてさしあげていただけませんか。わたくしはこれより構内に戻らなくてはなりませんので…よろしくお願いいたします」
真摯に下げられたその頭に、なぜ首を振れるだろうか。駅員は―――――デイビットはルーシィの肩をつかんでその頭を上げさせ、風になびく前髪の隙間からしっかりと目を合わせた。
「必ず」
それが戦うこともできない自分ができる最善だと受け止めて。
■
ルーシィはバルコニーホール横の階段から駆け下りて行ったデイビットの後姿を見て安心したように息を吐いた。多分きっと、これで、住民の避難は大丈夫だろう。
そしてスッと背筋を伸ばす。―――――次は倒れ伏す軍人たちの治療だ。大したことはできずとも手持ちの傷薬は自分よりよっぽど役に立つ高価なものがある。少しでも、守るために傷ついた彼らを癒せれば…
「―――――え、」
次の行動に移ろうと駅構内へ振り向いたルーシィは、目を見開き絶句した。
―――――風が渦巻く。
―――――魔力が渦巻く。
「なん、ですの……? これ、は………」
振り返ったその先。―――――渦を巻いた風が、駅を包み込んでいた。
おおおおおおおおやっと更新できた……!!!
やりたいことはたくさんあるのにつじつま合わせが上手くいかなくて死ぬほどのたうち回っていました今回。
・エルザの代わりにホールに残る
・
・怪我してる軍人を治療する
・民衆と駅員をかっこよく避難させる
・エルザの代わりに風の障壁で腕を傷つける
・
これだけやりたいことあったらそりゃ詰まるわって感じなんですよね…こう、かかる時間とかを考えると、どうしてもうまく配分できなくて。結局ハッピーにめちゃくちゃ働いてもらいました。
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諦観は切り捨て、生きて、煌く
―――――痛い。
意識がもうろうとしている。闇ギルドの魔導士につけられた傷の痛みで何度も気を飛ばしそうになりながら、それでも決定打に欠け、ずっと不愉快な微睡みのような時間が続いている。
辛い。苦しい。ああ、何もできなかった。
―――――市民、は……
無事、だろうか。
一般人を巻き込まない、というような精神を持つ連中には見えなかった。もしかしたら、けが人が……死人が出てしまっているかもしれない。
―――――守らなくてはいけないのに。
それなのに、体が動かない。最悪だ。守るために俺はこの場にいるはずなのに。それなのに、ああ。
「もし、意識はございますか」
―――――?
「、ぁ」
「、ああ、よかった。ごきげんよう、軍人さん。今からあなたを治療いたしますわね。ああ、治療といいましても、応急処置のようなものしかできませんが」
誰か、が、喋っている。……きれいな、
天使かと、思った。
真っ白な衣装をまとった、
カラコロと思考が回る。唯一、この子が知らないこと言う事だけは分かった。
一緒に突入した軍人では、ない。なら、一般人だろうか。
「、ひ、……を、」
「? ……申し訳ありません、もう一度おっしゃっていただいても、よろしいでしょうか」
「ひ、なん、」
「ひなん、して、… …やみぎるど、が……きけ ん…… は、や …く………」
絞り出すように要点だけを伝える。伝わっただろうか。どうか伝わってくれ。俺の事は、置いて行っていいから。どうか、どうか。
「―――――ああ、そう、そうですのね……ええ、ご安心くださいまし。一般人の方々は皆さま避難されましてよ。わたくしは応援に駆け付けさせていただいた魔導士ですの」
ああ、そうか、避難は済んだのか。よかった。ああ、魔導士だったのか。……それでも、女の子ひとりであいつらの相手をするなんて無謀だ。ちゃんと仲間はいるのだろうか。大丈夫だろうか。
からだに力が入らなくて言葉にならずとも思考は回る。ゆっくりと瞬きをしたときに、不意に視界に入った少女の腕を見て息が詰まった。
ズタズタだ。血だらけだ。乱雑に巻き付けられた布はすっかり真っ赤になっている。
「さあ、今から傷薬を塗りますね。効き目がとても強いものなので堪らなく
よく見れば、可愛らしい顔にも擦り傷や汚れがある。きれいな子だから余計に痛々しい。
ああ、それなのに、きっと、君も痛いのに、君は俺を優先してくれるのか。
纏っている服は白くて、だから汚れも目立つのに、なぜかこの目には神々しく映る。微笑む少女が、この上なく美しい存在に見えた。
「お優しいお方。どうか、安静になさってください。必ず助けが来ますから。必ずあなたは助かりますから。あの闇ギルドの方々は、わたくしたちが止めてみせます。ですからどうか、ご安心なさって。………大丈夫、恐ろしいものは、もうありませんから」
きらきら、きらきらと、
ほう、とゆっくり息を吐いた。ああ、なんだろう、これは。なんだろう。なぜ、こんなにも……安心するのだろう。
「大丈夫ですよ」
自らの身を顧みず、倒れ伏す人々のそばに寄り添い、救ってくれる、真白の美しい少女。
ああきっと、この子がこの世の天使だ。
「……は、………し、」
白衣を纏った天使。ふわり、と綻んだその
「なぜ、これは………」
吹き荒れる風に絡めとられそうになりながら、ルーシィの呆然とした声が揺れる。ほんの一瞬だ。住民に避難を呼びかけ、そして構内へ戻ろうと踵を返せば―――――駅が巨大な竜巻に飲み込まれていた。
吹き荒れる暴風。どう考えても自然現象ではありえない現実。思考が停止し、―――――恐怖が湧いて出た。
「おいおい、なんでテメェが外に居んだ聖女サマよォ」
「っ!?」
目を見開いて立ち尽くすその背中に、唐突に声がかかる。ルーシィはハッとしてその声が聞こえた方、上空を仰ぎ見た。
「そうか、野次馬を逃がしたのはテメェだな?」
―――――そこに居たのはナツとグレイが追いかけているはずのエリゴールの姿。
「なぜここに、―――――! まさか、いえ、ならばこの風は、やっぱり……!!」
「へっ、せっかくおキレイな聖女さまがいらっしゃるんだ、いくらか
不自然な風。そして、風を纏って宙に浮くエリゴール。このふたつは瞬く間にルーシィの中で噛み合わさり、重く冷たいものとなって背筋を這う。
これは魔法だ。それも、大きな街の大きな駅ひとつをすっぽりと覆ってしまうような大規模なものを、あの場から退いて今までの短い時間で発動し、大した消耗も見せないその姿。
―――――怖い。
それはまっとうな恐怖だった。だってルーシィは
1対1。目の前で
けれど、
「―――――せいぜい中でじっとしてな」
「っぐ、…!」
けれど、けれど、けれど、
殴られたかのような衝撃。それは圧縮された空気砲で、直撃したルーシィの体は背後の竜巻の中に呑まれる。
視界が荒れ狂う風に遮られ、エリゴールの姿が消える。
けれど、―――――ギラギラ、ギラギラと。
それでも最後まで、ルーシィは精一杯の気概でエリゴールを睨み付け続けた。
■
ズザザッ!
「ああっ…!!」
勢いをつけて押し飛ばされたルーシィの体は暴風の壁を突き破り、その先の構内へ叩きつけられた。受け身をとれなかった体は床を少し転がり、その衝撃にルーシィから小さくうめき声が上がる。
痛い。痛い。怖い。でも、
「何を、!」
あの男を止めなくては。だってやっぱり
そんなこと、絶対に許さない。
戦闘経験の乏しいルーシィは自分がエリゴール相手に勝てるだなんて思い上がってはいない。未だ星霊のちからを十分に発揮させられないルーシィが牙をたてたとて蟻が象に歯向かうようなもの。
けれど、その代わり他の3人がたどり着くまでの時間稼ぎくらいはできなくてはいけないのだ。可能不可能の話ではなく、それが非力なルーシィがしなくてはならない、チームとしての働きのひとつだった。
なのに、
「―――――!!」
バヂィッッ!!
「ッァ゛ぐ、うううッ…!!」
「やめておけ…この魔風壁は外からの一方通行だ。中から出ようとすればそうやって風が体を切り刻む……っふ、可哀そうになァ、痛ぇだろ?」
―――――風がルーシィを阻む。はじかれた手を思わず押さえれば脳天を衝くような痛みが走り、ドッと汗が溢れる。
ほんの指先が触れた。ただそれだけで、ルーシィの真白の右腕は指先から肘までにおびただしい裂傷を刻まれたのだ。
血が滴る。痛みに目が潤む。痛い、痛い、痛い! どうすればいい。何をすればいい。頭が回らない答えが見つからない。ああ、痛い…!
「なぜ、っこんな……!?」
「鳥籠ならぬ
エリゴールはルーシィの疑問に応えるつもりは無いらしく、独り言のように魔風壁の出来を確認するだけだった。
びゅうびゅうと響く風越しにエリゴールの疎ましい笑い声が響く中、ルーシィはどうにか必死に頭を回す。この魔風壁に呆気に取られてからというものの、驚愕に呑まれ思考が回らない。けれど考えなくてはいけない。あの男の行動の意図を。
まずエリゴールが外に居たことについて。これについては放送準備をするのではなく魔風壁を用意していたことから、そもそも『
あの宣言が自分たちを分断させるための罠だというのなら、とんだ策略家だ。自分たちはまんまと踊らされたというわけだ。けれど罪のない人々が不当に害される可能性が減ったというのなら、それはひとつの安心だった。
ではこの魔風壁は何なのだろうか。内から外への一方通行なら分かる。外から敵の援軍が来ることの無いように壁を作るというのはおかしな話ではない。クローバーに向かうのに、軍や他の魔導士を足止めするために駅に入れないようにするというのは十分な戦略だ。
けれど、エリゴールは外に居て、張られた魔風壁は外から入ってくることができて、そして出ていけない。
こうなるとおかしな話だ。そんなの、敵の援軍が入り放題じゃないか。列車を動かしても後から追いつかれてしまう。何の足止めにもならない、魔力の無駄遣いだ。しかし見た目のインパクトは十分だから、もしかして
なにが目的だ。何を考えてる? 策か自信の現れか。グルグルと思考が回り視点がブレる。
「おっと、そろそろ急がねえとなァ。ったく、手間かけさせやがって…無駄なタイムロスをくらったぜ。―――――フン、それじゃあな」
「っ!? っま、待ちなさい!!」
気が狂いそうなほど思考を回すルーシィに対しエリゴールは変わらない軽薄な声で呟くと、フッと勢いをつけてその場からさらに上昇し遠くに離れる。ルーシィは風音の合間から聞こえたそのセリフを聞いてとっさに声を荒げたが、応える者はなくエリゴールの気配ももう感じられなくなってしまった。
止めなくては。咄嗟に追うために魔風壁に突っ込みそうになって、腕の痛みでハッと後ろに下がる。ぽたぽたと流れ出る血が地面に垂れた。
ああ、分からない。何を考えている。何をしようとしている。何を、どうやって、どうして……
考えたって分からないことばかりだ。けれど、けれど、エリゴールを引き留めるというタスクに失敗したルーシィに立ち止まっている暇はない。
挽回しなくては。どうにかしなくては。その一心で、とりあえず列車のある広場まで行こうと慌てて方向転換し、走り出して―――――気づいた。
「、あ」
「! ルーシィ! よかった、避難誘導終わったの? あのね、みんな鎧脱いだよ! あとね、あっちの人がちょっと怪我が深いんだ」
ねえ、間に合うかな、と少し不安そうに聞いてくるハッピーにルーシィは絶句する。―――――そうだ、忘れていた。忘れていたのだ。そうだ、軍の人たちの治療をしなくてはいけない。ズキズキと手が痛む。クラクラと、働かせすぎた頭が揺れる。
「わ、ルーシィどうしたのその手!」
「、ま―――――」
どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしよう―――――エリゴールを追わなきゃいけない。けれどどこに行ったのか分からなくて、治療もしないと、間に合わないかもしれなくて、でもエリゴールが、マスターが、仲間が、ギルドが………
「―――――間に、合います」
「ルーシィ…?」
「間に合わせ、ます……! ハッピーさんはエルザちゃんたちを呼びに行ってくださいませんか!エリゴールはすでに駅の外に出ており、あの人の仕掛けた魔法によって、今わたくしたちは駅の外に出られなくなってしまっているのですっ」
「えーっ!? そんな、――――わ、分かったよ、オイラに任せて! とりあえずエルザだけでも見つけてくるね、多分まだ、一番近くにいるから…!」
最善策なんて何も思い浮かばない。でも、どうにかしなくちゃいけない。何かはしなくちゃいけない。そして、この場に居る軍の人たちも、見捨てられない。
ルーシィはハッピーに情報の伝達を頼み、すぐさま自分のスカートのすそを崩れた壁から露出していた鉄棒にひっかけ、引きちぎった。びいい、と勢いよく裂けたおかげで足元がはしたないことになってしまったが、今は構っている場合ではない。
ルーシィはそのまま、スカートであったその布をズタズタになっていた腕に巻き付けた。焼け石に水かもしれないが、これから怪我人を治療するのに血濡れの腕ではだめだろう。
分からないことばかりだ。やらなくちゃいけないことが、やりたいことが多すぎて、からだが後3つは欲しいと思ってしまう。
けれど、どれほど願ってもルーシィはひとりしか居ないし、そんなたったひとりのルーシィができることなんてものはほんの些細なことしかない。
だからためらっている暇なんてない。やるしかない。そして、誰かに助けてもらうしかない。なんてみっともない、ろくに役に立たない我が身が忌々しい。
「―――――もし、意識はございますか。さあ、ゆっくりと息をして……今からあなたを、ほんの少しだけですが治療いたします」
そんな気持ちはすべて、すべて、笑顔の奥に押し込んで。ルーシィは治療道具の入ったキャリーバッグをひっくり返した。
■
倒れ伏していた軍人たちを、持ってきた治療道具全てを使い切るつもりで応急処置したルーシィは、意識のあった数人に助けが来るまで大人しくしているようにと伝え、残った治療道具を詰め込んだキャリーバッグを引っ掴んですぐさま列車のある広場に走る。
「っはぁ、っ、列車は―――――ある……!」
たどり着いた先。そこでは縛り上げられた
列車は動いていない。エルザたちも居ないが、きっとハッピーが話を伝えてくれていると信じるしかない。
それにしても、改めてエリゴールはどこに行ったのか。列車はエルザが車輪を破壊したために使うことはできない。そもそも魔風壁があれば列車も外に出られないはずだ。だから他の手段でクローバーを目指さなくて、なら何か当てがあって飛んで行ったのだろうか。まさかルーシィたちのように魔導四輪車を使って―――――
いや、待て、
―――――飛んで行った?
「あ、」
そうだ、なぜその考えに至らなかったのか。ざあ、と血の気が引ていく。なぜ、なぜ自分は、
……エリゴールたちが『列車を使って移動する』と思い込んでいた?
確かに列車と駅が占拠された。けれど、けれどだ。そう、エリゴールはずっと『飛んでいた』。
もしギルドメンバー全員で移動するのなら列車を使う可能性もあるが、けれどエリゴールひとりであるのなら、魔風壁ほどの魔法を発動できる魔力を持つあの男なら、それでもまだ残魔力に余裕を見せていたあの男なら―――――文字通り、クローバーまで『飛んで行ける』のではないか。
「なん、という………」
―――――まさか、最初から手のひらの上だったというのか。
「いけないわ、すぐに皆さんに―――――!」
伝えなければ。どうにかしなくては。何かしなくては。他の3人と合流するために走り出そうとしたルーシィは、しかし、思わず足を止めた。
「いでぇ、い゛でぇよぉ゛……」
「助けてくれ、だれか…」
「っぐ、ぅう゛……!!」
「クソっ、クソがァ…っ」
―――――うめき声が聞こえる。エルザによって切り伏せられた男たちの苦しんでいる声が聞こえる。
なんとも調子のいいことだ。ルーシィの思考の中の冷静な部分が眉をひそめる。自分たちは積み上げた屍の上で笑っていたというのに。いざ自分の番になれば救いを求めるというの。
そうして頭を下げた人を、手を伸ばした人たちを、いったい何人切り捨てた。手に入る金のためにどれほどの人を殺した。
その道を選んでおいて、手を出しておいて。因果応報。罪は巡り我が身を穿つ。自業自得だ。それよりも、今はこの状況を何とかしなくては。何かしらの打開策を見つけなければ……
「っひぃ、っひ、ひぃ、」
「血が止まんねぇ……!」
「殺してやるっ殺してやるからなァッ…! っぐ、ぅう…!」
「いてぇよ……いてぇよぉ……」
「だれか、助けてくれよ……っ」
「かみさま………!!」
■
「―――――しっかり、息をしなさい!!」
■
「ぇあ……」
「意識はありますね? いいですか、時間も道具も足りません。なので止血だけをします! しっかりと意識を保って、大人しくしていなさい!」
男は、呆然と自分を覗き込むルーシィを見た。少し汚れた、けれどちっともその美しさを損なわない
何を、しているんだこの女は。そう思ってしまうのは仕方がない。おそらく思ったのは自分だけではないだろう。近くにいる連中も息を詰めてあり得ないものを見るかのような顔をしている。
「なん、で、」
「喋らない!」
こぼれた疑問は封殺された。血が流れていた腹の傷に布が押し当てられる。痛みに思わず息を詰めたが、ルーシィは構わず圧迫した。かと思えばそばに置いていたキャリーバッグをひっくり返して傷薬を取り出し、その傷に塗りたくる。
「いぎっ…!? か、かゆい! なんだよぉ、何してんだよお…!」
「傷が修復されていくかゆみですわ、我慢なさい、男の子でしょう!」
ぐわ、と脳天にまで走ったかゆみに声を漏らせば、一刀両断するかのように一喝される。そしてそのまま傷口を確認したかと思えば、隣に寝転んでいた別の男の傷を確認し始めた。
なんだこれ。何してんだよ。
「へ、……へへ、た、助けてくれよぉ、いてえんだ、」
「同情を引こうとしても無意味です。喋らず大人しく回復に努めていなさい」
なんだよとんだお人好しかと、その隙に付け入ろうとしたもうひとりの男は返ってきた声に思わず押し黙る。確かに一切の心の揺れを感じさせないような冷たい声だった。けれど、その手は変わらず傷の治療を続けている。
「あなたは打撲だけですね? けれど骨折や内臓に損傷を受けていらっしゃる可能性もありますからこのまま大人しくしていなさい。あなたも打撲、…この程度の切り傷ならすぐに治ります。傷薬を塗りますよ、ああもう、大人しくして!」
「―――――っざけんなァ!!」
くわん、と声がホールを揺らす。
僅かに離れたところにいた男が吠えた。かすれた声で心の底から湧き出る怒りを込めて吠えた。
「同情してるつもりかオイ、アア゛!?」
しんとしたホームに男の声が響く。
何してんだよお前。感情が唸る。なんだ、自分が優位に立ってるからって施しのつもりか。ぼろ雑巾みてぇになって転がってる俺らがそんなに憐れか。
叫ぶ男に反応することなくルーシィは次々に治療を続けていく。
「は、はは、て、テメェの仲間ならよ、さっきここに来てたぜ…魔風壁の解除の方法を教えろってよ……」
「お、おい、お前、」
「るせェ黙ってろ!!」
叫ぶ男のそばで別の男が制止の声をかける。せっかく治療をしてもらえるかもしれないのに余計なことを言うなと言うつもりだろう。だが男は―――――ビアードは叫んだ。
何を腑抜けたことを言ってやがる。何の見返りもなく治療をしているはずがない。いや、見返りを求められなくとも。お情けをかけられて憐れみを向けられるくらいなら野垂れ死んだほうがましだ。
そしてそれはその男だけの気持ちではなかった。事実、息荒くルーシィを睨みつけている人間は他にも居る。制止の声を振り払われた男はそれ以上言い募らず、また他に声をかける者が居ないことから、その感情はこの場に居る大部分の人間が欠片でも抱いてしまっているものに違いなかった。
この時ビアードは、本人の図らぬまま
「魔風壁の解除の方法なんてなァ、へへ、俺らぁ知らねーよ…」
ルーシィは無言で移動し、駅員の作業カウンターからめぼしい布類などを引っ張り出している。
「でもテメェの仲間共は、っは、カゲのやつが、
そうして見つけた布を抱えて治療を再開する。傷の深いものは血を拭って薬を塗って布を巻き付け固定。さすがはエルザ、重症患者はいても全員がきれいに致命傷を避けている。
それでも誰もがルーシィに攻撃を向けないのは、このルーシィの治療がどれだけ気に食わなくとも自分にメリットであることは認識しているからだ。
「へ、へへ、だからよ、俺ぁカラッカのやつに、へへへ、言ってやったんだよ……」
はあ、はあ、と息が荒くなる。ようやくルーシィがビアードの元に来た。それは話を聞きに来たのではなく治療をするためだ。ビアードが最後だった。
ビアードは近づいた表情のない美しい顔を睨みつけるように、嘲笑って声を張り上げた。
「―――――『カゲを殺せ!』」
ピタリ―――――ルーシィの手が止まる。
「ははは! 残念だったなオイ、クソジジイ共もテメェらもお終いだ! テメェらはここから出られねえしジジイ共はエリゴールさんが殺す! もう間に合わねえよざまあみろ!!」
嗤う、嗤う、嗤う。傷が痛もうと構いやしない。ちからいっぱいの大声で目の前の女を嘲笑う。……けれど、
「間に合います」
「―――――は、ぁ?」
「間に合います」
「間に合わせます」
「必ず脱出します」
「あの人を止めます」
「誰ひとり、殺させはしない」
……ビアードは息を吐いた。だめだこいつは、という息だ。考え方が違う。なんでも頑張れば叶うと思ってやがる。言葉は通じるのに会話が成り立たないタイプだ。めんどくせえ。くだらねえ。
そんな風に宣言して、その全てが叶うような世界のものか。エリゴールさんとの会話でも思ったが、なんとも箱入りの世間知らずな純粋培養のお姫様だ。ああ、ああ、そんな世界で生きてきたんだろ。おきれいな場所で守られながら生きてきたんだ、そうだろ? 羨ましいことで。
「……おい、治療なんざしなくていい。触んじゃねえ」
「………」
「どーせ、エリゴールさんがジジイ共を殺してもこの調子じゃ俺らは捕まる…そうなりゃ死刑か…死ななくてもわざわざ上の連中の言う事なんざ聞く気はねえからな。へっ、隙を見て逃げるか、死んでやる……いいようにされるくらいなら、先に好き勝手してやんのよ」
もうどうでもよかった。ぬくぬく生温く生きてる正規ギルドの連中にボコボコにされて、お人好しの
―――――なのに。
パンッ!
「っぐ、」
両頬を、勢いよく包まれた。張り手のような強さだった。ピリピリとした痛みが傷口にまで伝って痛む。
―――――けれど、それ以上に、目の前のものに意識を奪われた。
自分を治療していた女が、ルーシィがまっすぐ、至近距離でビアードを覗き込んでいた。
近い―――――鼻の頭がくっつきそうなほどの距離で、目と目が合う。何してんだよ、とは言えなかった。離れろ、と言う前に息を呑んだ。
琥珀の瞳が……きらきらと、あるいは、ギラギラと。
「 生きなさい 」
■
―――――なぜ、
その衝動は最初、ルーシィにもよく分からなかった。分からないけれど、なぜか、走り去ることができなかった。
弱みを見せないために突っぱねるように勢いをつけて治療をしていたが、頭の中はぐるぐるとして落ち着かなかった。
軍人だけでなく
疑問は、心配は、焦燥はある。けれどルーシィはなぜか、『彼らを治療する』という自分の時間配分について、自分でも驚くほどに不満を感じなかった。
時間がないのに。間に合わなくなってしまうかもしれないのに。なのに、なんで。
……一刻を争う事態なのに、むしろ、ずいぶんと精神的に落ち着いている。
悩んで、分からなくて、なのに手は止まらなくて。……けれど、唐突に思い至った。
―――――これは、『自由』だ。
■
その声は、ホールに倒れ伏していた
ぎちり、と縛り上げられた腕にちからが入る。
スッと通り抜けるような音は決して大きなものではなかった。それなのに、まるでホールいっぱいに響き渡ったかのように耳の奥で反響し、実際に目と目を合わせているのはビアードだけのはずなのに―――――ひとりひとりが、まるで目の前で彼女が自分に語り掛けてきているような幻覚を見た。
「たくさんの人を手にかけたのでしょう。被った血潮を糧にしていたのでしょう」
「犯した罪はもはやあなたのいのちひとつでは償いきれない」
「死に伏した方々の怨嗟が、愛する人を奪われた方々の悲哀が、あなたたちを決して許すことなくその身に纏わりついてくる」
「たとえどれほどの過程があろうと、生き血をすすった魂は犯した罪に対比した罰からは逃げられない」
「―――――生きなさい」
「貪ったいのちの十倍、百倍、千倍のいのちを救いなさい」
「その道を選んだのは自分だとおっしゃるのなら、それもあなたの自由でしょう。けれどそう、自由には代償がつくものですわ。あなたはもう、死に逃げることは許されない」
「
「その罪をたとえ誰に許されることなくとも、自分の意志で償いなさい」
「償って、そして、生きて」
―――――何を言っている。
ビアードは「は、」と浅い息を漏らした。救え? あほか、何人殺したと思ってやがる。その千倍? 片手程度殺しただけでもウン千人じゃねえか。ガキの口約束じゃねえんだぞ。そもそも牢屋にぶち込まれるだろう俺らが誰を救えるっつーんだよあほか。馬鹿か。
好き勝手言ってんじゃねえ。なんでテメェが俺の人生にくち出すんだよ。ふざけんな。俺は、俺のためだけに生きる。生きるも死ぬも俺が決める。俺が決められることだ。それは俺の権利だ。
「生きなさい」
なんでテメェが、そんな必死な顔してんだよ。
「……ばかじゃねえの」
俺らはテメェらのギルドマスターを殺すっつってんだぞ。つか、あの赤髪の女に負けなきゃ今頃テメェもあの女も俺らに好き勝手されてたんだぞ。それを治療して、生きろとか言って、何考えてんだコイツ。ばっかじゃねえの。
「なんで、テメェが、……俺に生きろって、言うんだよ」
なんで、そんな、償えって言って、そのくせ、―――――そんなことは建前みたいな顔で、生きろって言うんだよ。
なんだよお前。わけわかんねえよ。今更なんだよ。なんで、いまさら。
「俺ぁてめーらの敵だぞ……闇ギルドの…殺し屋の…っ!」
わけわかんねえよ。錯覚しそうになる。まるで俺に、俺らに生きてほしいみてぇじゃねーか。
頭の中がクラクラする。生きなさいと、目の前の女の声で反響する。琥珀色の光がチカチカと網膜を焼き尽くそうとする。なんだこれ。何でお前の声が、こんなに頭に残る。なんで今までみたいに、他の偽善者どもの説教みたいに振り払えない?
何でお前は、俺から消えない。
「何か勘違いなさっているようですが、あなた方を治療いたしましたのは、わたくしの為です。ただでさえギルドマスターの皆様が狙われている現状。そのような大きなものを背負っていながら、さらにはあなた方のいのちを背負う余裕などこちらにはありませんの!」
ビアードから顔を離したルーシィがつい、と顔を逸らして言い切る。
「ええ、ええ。わたくしの為です。あなた方が死んでしまわれれば、わたくしが困ってしまうのです。あなた方は大嫌いな正規ギルドが困れば嬉しいかもしれませんが、あなた方はエルザちゃんに敗北し、そしてわたくしの手によって治療を受けたのですから、そのいのちの権限は今わたくしにあると言っても過言でないのでは?」
ならばくちを出す権利がわたくしにはあるはずです、と柔らかな唇が弧を描く。―――――ホームの窓から太陽の光が差し込んだ。きらきらと、光がルーシィの
「―――――死なれると困ります。生きていただかないと、わたくしが悪いことになってしまうでしょう」
あほ抜かせ。ビアードは毒づいた。闇ギルドを壊滅させるのに闇ギルド側に死人が出て、正規ギルドが責められるわけねーだろ、と。
ルーシィの物言いは尊大で傲慢さが見えるようで、こじつけた理由と柔らかい何かを持っているようだった。それに、困惑する。目の前の女は、ついさっきまで殺し合っていた、素性の知れた悪人相手に、なぜそんな色を見せるのかと。
「生きなさい。生きる理由がないのなら償いなさい。生きて、何かを成しなさい」
何だそれ。おい、今さっき償うために生きろとぬかして、今度は生きるために償えっつーんか。言ってることがめちゃくちゃだ。一貫してんのは、お前、生きろって、それだけじゃねーか。
何がしてえんだよ。なんなんだよ。ビアードは苛立たし気に舌打ちをした。
……ああ、もう、疲れた。もう何でもいい。
「生きてほしいのか」
ビアードの素っ気ないその言葉に、ええそうよ、とルーシィが笑う。
「あなたに生きていてほしいの」
わたくしの為にと笑う。日の光を全身に浴びたルーシィが笑う。
その姿を見て、ビアードは何となく、外はずいぶんと晴れてんだな、と思った。魔風壁あんのに光は入ってくんのか、なんてどうでもいい疑問に思考を裂いた。その光と光を纏った女を見つめながら、眩しいなと目を細める。
――――――……それにしても、太陽の光っつーのは、こんな、あったけえ色をしてたっけか。
生きてほしいと女は言った。馬鹿だなこの女。何が「傷薬がもうなくなってしまいます」だ。俺らなんかに使ってるからだろ。おい、お前に言ってんだよ馬鹿女。なんでとっておこうとしてんだよ。仲間の怪我? カゲの怪我? なんでお前、自分の腕に使わねえんだよ。巻いてる布から血が滴ってんじゃねーか。馬鹿か。
何度心の中で毒づいても、なぜかそれは言葉にならなかった。いや、深い意味などない。疲れているからだ。ただそれだけだ。
意識が遠くなる。ああ、もういい。どうせこいつらが何をしたところでエリゴールさんには敵わねえよ。ジジイ共は死んで、こいつらもエリゴールさんに負けて、
( 俺らは、……どうなんかなァ…… )
エリゴールさんが自分たちを回収してくれるとは到底思わない。なら、やっぱり捕まるだろう。そこまで考えて、ビアードは視界が霞んできたことに気が付いた。ああくそ、眠てえな……
「ばかじゃねえの………」
………もし、目が覚めた時…、万が一、億が一にもこいつらがエリゴールさんに勝つようなことがあれば。何となく、そんなもしもを考える。寝ぼけているからだ。そうに違いない。けれど、そうだ。もし、そんなことがあるのなら……そん時は、この女の言ったことを、頭の隅に思い出してやってもいいかもしれない。
まあ思い出すだけだが。何が楽しくてクソどうでもいい他人のために頑張ってやんなきゃなんねえんだっつーの。
( 俺のいのちだ。俺の人生だ。俺は俺だけのために生きるんだ。奪って、勝って、生き残る。だから他のやつがどうなったところで、知った事じゃない )
…誰かが鼻をすすってる音が聞こえる。俺じゃねえ。汚ねえな、誰だよ泣いてるやつ。……にしても、生きててほしい、ねえ。クソみたいなお人よしだ。恵まれてんなァ、そんな考えで生きてこれるような人生だったんだろ。
―――――『ひとのいのちの尊厳を守らぬ者に、なぜその存在を尊ばれる権利が与えられるのです』
けれどなんとなく、ただ、なんとなく、あの時笑ったこいつの言葉が、こういうことなのかと、思った気がした。
……いやそれにしたって馬鹿だな。こんな奴らに向けて言う言葉じゃねえだろ。今更なんだよ。馬鹿だ。とびきりの馬鹿だ。
( ………いや、その言葉を、明確に言葉にして欲しがった俺の方が、馬鹿か )
重たくなった瞼を、最後に無理やりこじ開ける。女は、光の下にいた。
女は何かを考えこんでいるような顔で、それから、ふと、こっちを見て、―――――困ったものを見るような顔で、笑う。
きれいなもんだな。
そんなことを思った。別に変な意味はない、ただ、そう思った。服は汚れてるし、破れてるし、血だらけのくせに、まあずいぶんと、きれいなもんだなと。顔がいいからか?
腹立つなあ。何でこいつの声は、こんな、腹立つ勝ち組女の声が、頭ん中から消えねえんだよ。
……そういや、この女、名前なんつったか…………いや、どうでもいいか………
………生きていてほしい、ねえ。死なれると困るのか。俺らが生きてて、生きてることが、テメェの為になるってのか。てきとーなことばっか言いやがって。ばかばかしい。
ああでも、そんなこと―――――
―――――そして、暗転。
■
―――――夢を見た。
■
都合のいい、―――――あたたかい夢だった。
■
閉じた瞼の先で、キラキラと星が瞬く夢だった。
■
ルーシィは走る。ホールに居たけが人は全員治療し終わって、あとは他の3人と合流するだけだ。
目指すのはつい数分前に大きな破壊音が聞こえてきた方角。間違いなくナツはそこに居るという確信があった。その音の方角へ向かえば合流できるはずだとすっかり軽くなったキャリーバッグを抱えながら走る。
息を弾ませ走りながら、ルーシィは自分の感情を反芻する。
―――――マスターを救いたいのは、やらなくちゃいけないことだ。同時に、やりたいことだ。ルーシィがマスターに生きていてほしいから、マスターを助けたい。それはルーシィの自由意志だ。
……そして、
怪我をして、痛いと言って、助けてくれと言う人を、たとえそれがどんな悪人であっても見捨てられないのは、放っておけないと、せめて止血だけでもと思ってしまったのは、思うのは、思えるのは、『自由』だ。
―――――ルーシィの『自由』だ。
それに気づいた瞬間、ぐるぐると回っていた思考が一気に晴れ渡った。そうだ、自分は今、自由に、心に従って動いている。そう気づいて、だから、「生きなさい」などと言えた。
無責任だ。何の解決にもならない。でも、目の前にいる人間が死ぬ姿を見たくないと、そんなわがままも、ルーシィの『自由』だ。
前後の損得も、立場も、背負う何かもなく、ただ自由に、心のままの想いで、考えで、言葉だ。
だから後悔が無かった。惜しくなかった。不謹慎かもしれないが、嬉しかった。現状は何も好転していないのに、ルーシィの心はどこか軽くなって、息がしやすくなった気がする。
でも、そう。自由には代償がいる。
その代償が、この時間のロスなのだろう。自由にやりたいことをすれば、それだけ残る時間は少なくなる。十分な痛手だ。あちらを立てればこちらが立たず…けれど、これが代償ならば。
ならばルーシィは払ってみせる。少なくとも、代償の範囲にマスターのいのちは入れさせない。救ってみせる。守ってみせる。間に合ってみせる。
飲み込んだ決意を抱きしめて、走る速度を上げたところで―――――
「! 皆さん!」
「ルーシィ!! 無事だったか!!」
ちょうどホールに向かっていた3人と合流することができた。―――――いや、正確には、3人と、1匹と、……重症患者がひとり。
「その方は…いえ、おおよそは把握できています。止血はお済みですか? 応急処置ならできますが…」
「頼む!」
すぐさまグレイがその重症患者、
「これは…内臓に損傷がある可能性もありますわね。応急処置だけでは何とも……お医者様に診ていただきませんと…」
「ああ、しかし医者に行くにも何も、こいつが居ないと外に出られない」
せめて止血は、とガーゼを当てて3人がかりでグルグルと包帯を巻き終えれば、ところで、とエルザがルーシィに話しかけた。
「……ルーシィ、その腕の傷は」
「あ、ああ、その、魔風壁に触れてしまいましたの。どうやら外からは入れても中からは出られないようで」
みっともないですわね、ごめんなさい。そう言って血だらけの布を纏った腕を背に隠し眉を下げて笑うルーシィに3人が少し黙る。そういうことじゃない。よく見れば上品にはためいていたスカートも乱雑に破かれていて、体にもいくらかの擦り傷がある。3人の目には、特に顔のそれが一番痛々しく見えた。
心配をしているのだ。仲間だから。なのに、なぜそんなことを言うのか。もどかしい気持ちが沸き上がり―――――けれど何かを言う前にルーシィが話題を変えてしまったので、結局そのことについて何かしらのフォローを入れることは叶わなかった。
「それより、急ぎませんと! 実は、エリゴールは魔法で空を飛びクローバーに向かってしまっていますの! わたくし、てっきり列車を使ってクローバーへ向かうものなのだと思い込んでしまっていて、まんまと……」
「私もそう思い込んでいた。まさかこの距離を自力で移動しようとするとは……すぐに追わなくてはいけない。しかし、やはり魔風壁をどうにかしなくては……」
全員の視線がカゲに向く。……意識なく倒れ伏すこの男に、それができるか。いやしてもらわなくてはいけない。いけないが……目が覚めたとして、魔風壁を解除できるだけの余力があるか……
「……考えていても仕方がない。行くぞ!」
■
「ぅおらァァアアアッ!!」
炎を纏った拳が揮われる。
「うぎゃッ!」
しかしそれは軽々と弾かれ―――――ナツは吹き飛ばされて床を転がった。
「ナツくん、血が……」
「かすり傷だわ!! クソったれ…こんなもん突き破ってやるァ!!!」
バヂィインッ!!
「ナツくん!」
「馬鹿、ちからずくじゃどうにもなんねーっつうの……」
ルーシィはとっさに転がってきたナツを支える。腕の中の、魔風壁のせいであちこちに裂傷ができ血だらけの姿にきゅう、と心臓が縮こまったような感覚を覚えた。……こんな怪我をしているナツを見たの初めてだ。ルーシィの見たことのあるナツは、乗り物酔いをしている姿以外は、いつだって頼りになる強者の背中だったから。
ハラハラとしているルーシィに対して、グレイはナツの行動にため息交じりに言い捨てるが、突っ込んでがむしゃらに足掻きたい気持ちは理解していた。ナツがこうして暴れているからなんとか冷静さを保てているが、そうでなければ自分が突っ込んでいた自覚はあるからだ。
そしてそれはエルザもそうだろう。気を失っているカゲに声をかけながら魔風壁を睨みつける視線はギラギラと鋭い。
どうしたら、どうすれば。グレイが、エルザが、ルーシィが考え込む。打開策を求めて思考を回す。
「―――――そうだ!!」
「っきゃあ!」
そんな中、魔風壁に向かってグルグルと唸り声をあげていたナツが、ふいに勢いよく体を反転させ、自分を支えていたルーシィの肩をつかんだ。
「ルーシィ、星霊だ!!」
そして、叫ぶ。
「エバルーの屋敷でほら、俺が星霊界? を通って場所移動できただろ!? あれ、できねえか!?」
星霊による場所移動。そのフレーズにグレイとエルザの視線がルーシィに向く。それは魅力的な可能性だった。しかし、
「ふ、不可能ですわ。星霊界では人間は息ができませんから立ち入れば死んでしまいますし、そ、そもそもの話、人間が星霊界に入ることは重大な契約違反なのですっ」
しかしそれは、前提からして不可能な発想なのだ。閃きは十全。けれど十全なのは閃きだけだった。
「公爵のお屋敷での一件は、公爵が呼び出した星霊にナツくんが偶然ついてこられた結果ですからこちらにお咎めがなかっただけで、おそらく公爵は契約に基づき何らかの罰を受けていらっしゃるでしょうし…! そ、それにっ、」
「息は止めてりゃいい! 罰なんていくらでも受けてやる!! それよりじいちゃんのいのちだろーが!!」
「そ、そうなのですけれど、もちろん、そうなのですけれど…!」
「おいナツ、少し落ち着け!」
がくがくと揺らされるルーシィを見かねてグレイがナツからルーシィを引きはがす。ナツの焦燥はよく分かる。焦っているのは自分の同じだ。しかし、ルーシィが保身のために拒否しているとは思えない。何かしらの理由があるはずだ。そう思った。
ルーシィは息を整えながら唇を噛む。分かってる。ルーシィだってマカロフを助けられるなら罰の十や二十、あるいは百や二百、受けたってかまわない。けれど、そもそもその策は根本的に無理なのだ。
「それに、星霊は星霊魔導士が居る位置にしか召喚できませんの…あの時は『別の場所にいた星霊』を『再召喚』したために星霊が一度星霊界を通ることで道のりを省略したのです。同じように星霊を通して場所を移動するのでしたら、この場でわたくしがどの子かを召喚し、それを魔風壁の外でどなたか、もうおひとり星霊魔導士の方にその子を呼び出していただいて、そうしてその子が星霊界を通って移動するのについていかせてもらう、という方法しかないのです」
星霊魔導士だけでは星霊界には入れませんから、と申し訳なさそうに言うルーシィに、話が振出しに戻ったと全員が頭を抱える。解決策は本当に無いのか。各々が苦し気に悩む。
「 あーーーーーーーーーーっ!!!!! 」
その時に、急にずっと黙り込んでいたハッピーが叫んだ。
「ど、どうしました!?」
「今度は何だよ!」
「ルーシィ! これ! これ!」
相棒同士そっくりか、というグレイの唸り声と一緒に、バッと全員の視線がハッピーに集まる。ハッピーはその視線の先で頬を真っ赤に染め、「思い出した! 思い出した!」とはしゃいで、背負っていた風呂敷をあさり、取り出した『それ』をルーシィに掲げて見せた。
「―――――それは…! 処女宮の黄金の鍵!! どうしてハッピーさんが、」
「バルゴがオイラん家に来たんだ、エバルーが逮捕されて契約が解除になったからルーシィと契約したいって!」
「契約…わたくしと…!」
「オイそれ今する話か!?」
「そうなのです!!!!」
「あ、はい」
能天気そうな会話にグレイが声を荒げる。それにすぐさま肯定したルーシィの張り上げられた声に、思わずグレイは謝り、すぐに「いや今の俺悪く無くねえか」と思って黙った。沈黙は金。
そんなグレイを尻目にルーシィは受け取った鍵を握りしめて立ち上る。顔には堪えきれなかった喜びが浮かんで、琥珀色の瞳は星より煌めいて、瞬く。
「ファインプレーですハッピーさん! やっと見つけたわ、打開策…!!」
きらり、と鍵が光った。
■
「我、星霊界との道をつなぐ者―――――」
―――――処女宮のバルゴは穴を掘ることができるんです。
「汝、その呼びかけに応え
―――――その能力を使えば、魔風壁の下を通って外に出られるかもしれません。
ルーシィのもたらした情報はまさに光明だった。その手があったか、と舌を打つほどに。
全員がルーシィの様子をつぶさに見つめ、息を呑む。その視線の先でキラキラとルーシィの魔力が煌めいた。星のような光が瞬いて、それはあちらとこちらを繋げる
「開け、処女宮の扉―――――」
お願い、お友達。どうかあなたのちからを貸して。
大事な人を、守りたいの。
「――――― バルゴ !! 」
■
「お呼びでしょうか、ご主人さま」
■
―――――それでいい。愛すべき、優しき友よ。その心の美しさを、我々は尊重しよう。
■
「はぃえ……?」
ころん、と思わずルーシィのくちから惚けたような声が出る。
したの、だが。
「なんだお前痩せたな」
「その節はご迷惑をおかけしました」
「…………痩せた、と言うか……」
最早骨格から別人だと、ルーシィは思わず大きく瞬きをした。
ルーシィの記憶している処女宮のバルゴは巨木のような女だった。逞しく、分厚く、勇ましい容姿の、かなり特徴的な女だった。
しかしルーシィの声に応えたのは、艶やかなショートカットのストロベリーブロンドを揺らし、華奢な体躯にミニスカートのメイドドレスを纏った、可愛らしい少女だったのだ。
同一人物かを疑う変容。もしや別固体か。いや、黄金の鍵の星霊は一個体しかいない…ということは、あの巨木が、この花なのである。
まさかまさかの。うっかりじっくりと眺めてしまったルーシィはすぐにハッとして首を振った。原理はどうあれ女性の体形をとやかく言うのは不躾なことだ。
しかしそんな一連の反応でルーシィの心情を理解したのだろう。バルゴはひとつ頷いて、応えるように説明をした。
「私はご主人さまの忠実な星霊ですので、ご主人さまの趣味趣向に合わせて外見を変容させることができます」
なるほど、ではあの巨木のような体格はエバルーの趣味か。納得したように頷いたルーシィに対して、他3人と1匹の視線はバルゴに集中した。……正確には、バルゴの足に。
「じゃあお前そのスカートもルーシィの趣味か」
「随分短いな……」
「ルーシィ、お前……」
「違います!!」
とんだ風評被害である。ルーシィは顔を真っ赤にして首を振った。
「そっ、そんな、わたくし、自分のお友達に露出の多いお洋服を着せるような趣味はありませんわ!!」
「はい。ご主人様が私に着せたい服と言うより、ご自身で着てみたい服ですので」
「バルゴ!!?」
とんでもないカミングアウトだ。ルーシィの声はもう悲鳴に等しかった。
「快活な少女のようにショートカットヘアーにしてみたり、同じ年ごろの子のように短いスカートを穿いてみたいという願望を持ちながらも、自分には似合わないからと躊躇っていらっしゃるご主人さまの欲望を少しでも満たすことができればと」
「も、もうやめてバルゴっ…!」
勝手に胸の内を解説される羞恥たるや。仲間からの視線が恥ずかしく、ルーシィは息も絶え絶えに懇願する。
「そっ、そんなことよりもバルゴ! 申し訳ないのだけれど、時間がないの。契約は後回しにして先にちからを借りてもいいかしら!」
「承知いたしました、ご主人さま」
「………その、ご主人さまというのは変えられないかしら。わたくし、お友達にそんな風に呼ばれるのはさみしいわ」
勘弁してくれと話の軌道修正をしたルーシィは、了承してくれたバルゴのセリフを聞き、すこし眉を下げて言った。
ルーシィは星霊たちの
「―――――ええ、ではお嬢さまと」
「うっ、そ、それも…いえ、今はその話をしている場合ではなかったわね。あとでしっかりお話ししましょう! バルゴ、ここから穴を通して、この魔風壁を越えて外に出られる通路を作ってもらえるかしら」
「お任せください」
返事はまったく気負いのしていなものだった。当然のように、なんてことの無いように言うバルゴの頼もしさにルーシィの顔にも安堵の微笑みが浮かぶ。これでようやく、外に出られる。
「それでは失礼いたします」
ぺこりと一礼したバルゴは両手についた鎖付きの枷をシャラシャラと鳴らしながら―――――勢いよく地面に向かってダイブした。
ズボッ! とまるで水中に飛び込むような気軽さで地面に穴をあけて消えたその姿に全員から感嘆の声が上がる。
「よくやったぞルーシィ!」
「よし、この穴通ってくぞ! って、…おいナツ、何を」
快挙だ。エルザがルーシィを褒め、グレイは全員を見回して―――――そこでナツが気を失っているカゲを背負っていることに気が付いた。
「連れて行くのかそいつ」
「俺と戦った後に死なれたら後味わりぃだろーが」
シンプルな理由だ。自分勝手で、カゲへの配慮ではなく個人の感情の、それだけの理由だ。
「おし、エルザ、ルーシィ、ナツ、俺の順番で穴を通るぞ。ナツはそいつ背負っていけ。俺が後ろから押してやる」
けれど、人を助けるのに理由なんてものはそれだけあれば十分だった。少なくとも、
■
なお、グレイは頭の片隅で「処女宮なのに穴を掘るのか」と思ったが、くちに出したら間違いなく非難されることは分かり切っていたので誰に悟れることもないうちに思考を切り替えた。
沈黙は、金である。
■
「よし、出れたぞ! 急げ!」
「お嬢さま、スカートがはためいてしまっています。下着が…」
「きゃあ! わ、わたくしのスカートよりあなたのスカートをおさえてちょうだい! ああ、はしたないわよバルゴ!」
「だー! もー! はやく来い!」
轟々と吹き荒れる風を掻き分け、一行はようやく外に出ることができた。駅の前はガランとしていて野次馬ひとりおらず、ちゃんと全員が避難してくれたことがうかがえ、ルーシィは思わず安堵の息を吐く。
「っへ、……へへ、い、いまさら追いつけねえよ……」
そうして息を吐いたと同時に、もご、と少し引きつった声が全員の耳に入った。
「お前目ぇ覚めたのか」
「エリゴールさんは必ず成し遂げる…あの笛でクソジジイどもを殺して……絶対……」
「案外元気じゃねーかコラ……おい待て、ナツどこ行った?」
はあはあと整わない息で言葉を続けるカゲにグレイが呆れたようにため息を吐き、脱出できた今気を失ったままでいてくれた方が楽だったかもなと思ったところで……ふと気づいた。
カゲは地面に横たわりながらぶつぶつと言っている。……じゃあ、カゲを背負っていたはずのナツは―――――どこに行った?
「ま、まあ! ハッピーさんもいらっしゃいませんわ!」
「はあ!? っの、あいつらまた勝手に……!」
「おい魔動四輪車を回収してきたぞ……どうした?」
グレイの声に、バルゴを星霊界へ還したルーシィは周囲を見回して声を張る。ハッピーとナツ。このふたりが同時に居なくなるということがどういうことか。それは、新参者のルーシィでもハッキリわかることだった。
「ナツさんとハッピーさんが先に行ってしまわれたようなんです!」
「何っ!? あいつらはまったく―――――いや、ハッピーの最高速度を考えればふたりはすでにエリゴールと接敵しているかもしれない。全員乗れ! ふたりを追うぞ!」
もしそうなら願ったり叶ったりだ。ならば少しでも早く加勢に行けるようにと張り上げられた操縦席のエルザの声に、グレイとルーシィがカゲを車内に押し込み、ふたりもまた転がるように乗り込む。そしてエルザは全員が乗ったことを確認すると、プラグを通してちからいっぱいに魔力を注ぎ込んだ。
「捕まっていろ―――――飛ばすぞ」
車内に詰め込まれたカゲは傷に響いたその乱暴な挙動に苛立ちながら顔を上げ、そして見えたものにハッとして思わず押し黙る。
ギラギラ、ギラギラと。エルザの、グレイの、ルーシィの目の奥が、鋭く、重たく、強い光を灯している。
けして逃がさないと。―――――それは、獲物を定めた捕食者の顔。
―――――時間は無い。けれど、必ず間に合わせる。
「死神上等」
グレイがぺろりと乾いた唇を舐める。
「―――――私たちの家族に、
砂塵に紛れ、スカーレットが舞った。
―――――懐かしい、夢を見た。忌々しい夢だ。
―――――子供が走る。ざんばらに切られた髪は永いこと洗われてないことが分かるほど汚れていて、肌も服もボロボロでどろどろに汚れた子供が人にぶつかりながら走っていく様を、きれいなドレスを着た女が眉をひそめて睨みつけた。
いや、女だけではない。周りにいるやつら全員が、迷惑そうに、汚らわしいものを見るように子供を見ている。
「っ邪魔だどけっ!!」
その視線を振り払うように叫んで走る。後ろから追いかけてくる喧騒がどんどん近づいてくる。捕まらないように走って走って、―――――けれど大人と子供の体格差は顕著だ。それが、ろくに飯も食えていない子供相手なら特に。
「っぐ、!!」
「捕まえたぞこのガキ!!」
襟首をつかまれ裏路地に引きずり込まれる。たたきつけられた地面にはカラスの破片があって掠った腕から血が出た。痛い。…それでも、腕に抱えたパンは離さないようにちからを込めた。
「このガキ、パンを盗みやがって!」
「汚ねえ手でうちの商品に触ってんじゃねえよ!」
「この……!! クソガキ!!」
殴られる。蹴られる。それを耐える。耐える。耐える。廃棄品なのに、ごみ箱に捨ててたくせに『盗んだ』ことになんのかよ、という文句は飲み込んだ。
どうせこいつらは俺が触ったパンを奪い返しはしないから。これさえ耐えれば、パンが食える。3日ぶりの食事だ。これを逃せばまた1週間はろくな飯が食えないかもしれない。だからいつものように、ただただ耐える。
まだ俺は弱いから。ガキだから。だから反撃ができないから耐えるしかない。でも、今に見てろ。俺がでかくなったら、強くなったら、見返してやる。俺をあんな目で見てきたやつらも、殴ってくる奴らも、みんなみんな見返してやる。
「てめえみてえなゴミ、生きてるだけで人様の迷惑だ」
「クソが、とっととくたばれこのガキ…!」
「てめえの親にも性根の腐ってんのを見抜かれて捨てられたんだろうさ、なあ!」
「さっさと―――――!!」
―――――ふいに、音が消えた。
「、え……」
罵倒する声も、降ってくる拳も蹴りもなくなって、思わず何が起きたのかと顔を上げてしまった。―――――しまった、こいつらは目が合うと余計に殴ってくる。ヤバい、と思い、また俯こうとして、
―――――まぶしい。
くら、と眩暈がしたように目を細める。いつの間にか俺を殴っていた男たちはいなくなっていた。―――――その代わり、誰か……少女が。俺と同じくらいの歳の女の子が、立っていた。
裏路地の入口から差し込む太陽のせいで、逆光で顔が見えない。でも、笑ってる気がする。
……笑ってる。女の子が。……でも、いつもみたいに、周りの連中みたいな、馬鹿にした笑い方じゃなかった。
つい、と手を引かれた。優しく優しく引っ張り上げられ、その手に導かれるように立ち上がった。頬を撫でられる。ふと、体中の痛みがなくなってることに気が付いた。
誰。なんで、……言葉が思いつかなくて、声が出ない。そうしたら―――――抱きしめられた。
息を呑む。―――――盗みでも暴力でもなく他人に触れたのは、…触れられたのは、初めてだった。
「………あったかい」
あと、いい匂いがする。ようやく絞り出したのはそんな言葉だった。でも、ほんとの事だった。
不思議と警戒心も湧かないくらいに、ふう、と体からちからが抜けてしまう。
あったかい。いい匂いがする。……お前、誰だよ。なあ、なんで………
俺、こんな汚い恰好なのに、こんなくっついたら汚れちまうんじゃねえの。その言葉はとっさに飲み込んだ。そのとおりだと離れられてしまうのが怖くなったからだ。その時俺は初めて自分の格好が恥ずかしくなった。今までは服があるだけ幸運と思ってたし、きれいな服を着てもどうせすぐ汚くなるから、自分の身なりなんてたいして気にもしてなかった。
けど、なぜか今、自分が恥ずかしくなった。汚れている自分が目の前の少女の瞳に映っていることが恥ずかしかった。
けれど女の子はちっとも気にしたそぶりを見せず、少し体を離して、それから俺の抱いていたパンに触れ―――――そうしたら、泥だらけになってたパンが焼き立てみたいにきれいになった。
いつもえずきながら飲み込む、泥を吸ってべちゃべちゃになったパンが、見たこともないくらいふわふわだった。なんだこれ、すごい。なんだこれ。
くすくすと女の子が笑う。それから、行こう、と言われた。言われて、腕を引かれた。そのままふたりで裏路地を飛び出す。
―――――まぶしい。
とんだ晴れ模様だった。手をつないで人込みを抜けていく俺たちを、街の人間が微笑ましいものを見るような目で見てくる。さっきまでの落差がすごい。でも、あんまり気にならなかった。それより、太陽に照らされた、目の前で揺れる女の子の
きれいなもんだなあ。
生まれて初めて、きれいなものに好きだと思った。
気づけばなぜか俺の格好もきれいになっていて、まるでどっかの家の子みたいになってる。きれいな格好で、焼き立てのパンを抱きしめて、……女の子が足を止めて、俺に振り返る。
「 生きて 」
ひとつ、瞬きをすると、女の子はいつの間にかもっと年上の女になってた。それでも変わらないきれいな
「 ねえ、生きて 」
生きてていいんだよ。―――――そんなことを言って、笑う。
「……俺、生きてていいの」
「うん、生きてていいんだよ」
「……俺に、生きててほしいの」
「うん、生きててほしいよ」
生きて。
「………なんだそれ。そんなの、……そんなこと、」
キラキラした、女の子。髪も肌もきれいで、とびきりかわいくて、…優しくて、あったかい……夜に空に散らばってる星みたいな子。そんな、幸せの象徴のような女の子が、抱きしめて、手を取って、汚れるのも厭わず引っ張って、……望んでくれる。
「………初めて、言われたなあ……」
そんな、都合のいい夢を見た。
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燃えろ理想
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
その世界は箱庭でできていました。四角い青空しか知らない白鳥は、囁きかける木々のざわめきで外の世界を知りました。
しかし、空の広さも海の深さも、太陽の眩しさ、あるいは、夜の暗さを知らぬ白鳥が湖から飛び出したとして―――――世界の真の唸り声を知ってしまった真白の翼は、それでも空を切れるのでしょうか。
魔導四輪車が走る。エルザによって注ぎ込まれる魔力を糧に、深い渓谷にかかる線路を走り抜ける。
ルーシィはガタガタと揺れる車内で車体にしがみつきながら外を見た。魔導四輪車は現在クローバーへ向かったエリゴールとそれを追いかけたナツたちをに追い付くために走っている。通っているのはクローバーに向かう唯一の手段である列車の線路。
細い道だ。線路の両脇には人が一人立つのがやっとの程のスペースしかなく、万が一エルザが操縦を誤ればもろとも底の見えない谷へ真っ逆さまだろう。そう考えれば、ルーシィは目下の真っ暗な谷底がまるで自分たちを喰らおうとする怪物の大きなくちのようにすら見えてきた。
もちろんそれはただのイメージ、想像でしかないのだが、それでももしここから落ちてしまえば……そこまで考えたルーシィはぶるりと身震いする。防衛本能からか思わず車体に縋るルーシィの手にはちからが籠り、
「―――――えっ」
ふと覚えた違和感。それに気づいて―――――愕然とした。
「ア? どうしたルーシィ」
「こ、これ、この魔導四輪車……わたくしがレンタルしたものではない気がいたしますのですが……!?」
先ほどまではそれどころではなくて全く意識していなかったが、よく見れば今自分たちが乗っているエルザが持ってきたこの魔導四輪車、ルーシィが最初の街でレンタルしたものでないのである。
気づいたことにああっという顔をしたルーシィの訴えを聞いて、最初から気づいていたグレイは今更かという顔になった。もちろんグレイは乗り込む前から気が付いていたし、その理由にもおおよそ察しがついたために特に突っ込むことなくスルーしていた。仕事をやっていれば場合によっては
まあ、仲間がやらかすのも自分がやらかすのも慣れているグレイと違って、ルーシィの反応はおおよそ一般的なだけなのだが。
「ああ! 言い忘れていたが、私たちの乗ってきていた魔導四輪車は破壊されていた! おそらくエリゴールの仕業だろう!」
「ハン、
「それは……べ、弁償しなくてはなりませんね……」
ボラもそうであったが、悪党と言うのはひとの痛いところを見つけるのが上手いのだ。エリゴールがルーシィたちの移動手段が魔導四輪車であることを知っていたのかは分からないが、知らなくても可能性はしっかりと潰しておいたということだろう。
いやそれは置いておくとして、とりあえずそんな話を聞いたルーシィの頭の中ではエリゴールがルーシィを吹き飛ばした空気砲で魔導四輪車をぐしゃぐしゃにしてしまう姿が簡単に想像できたのだった。なにせ自分がくらった攻撃なので。
あれの威力を上げるだけで魔導四輪車はめちゃくちゃになるだろう。そう考えればあの時、ルーシィは弾き飛ばされるだけで四肢を吹き飛ばされなかったのは幸運だったのかもしれない。……いや、魔風壁の中に閉じ込めれば済むのだから、無駄な魔力の消費を省いただけの効率的な判断の結果だったのかもしれないが。
まあそれはいい。ただ、やっぱり住民を避難させて良かったとルーシィは息を吐いた。ルーシィたちの魔導四輪車を停車させていたのは野次馬のすぐそばだ。もしエリゴールがそんなことをしているときに周囲に人が居れば、あの男はその場に居る人たちごと吹き飛ばしていたかもしれないのだ。一体どれほど被害が出たことか。
―――――あれ。
ルーシィはビクリ、と体をこわばらせた。それからもう一度車体を見まわして、そっと操縦席のエルザの背を見る。
そうだ、そう、住民は確かに避難させたはずだ。
なら、エルザは、あの短時間でこの新しい魔導四輪車を、どこから―――――誰から、借りた?
「ケッ、それで他の車盗んでちゃ世話ないよね」
「ああ……! レ、レンタルです、お借りしただけなのです! 事後承諾になってしまいますけれど……!!」
ルーシィの反応や今まで見たひと通りのエルザの性格に、どうやら同じ考えに至ったらしいカゲがぼそりと呟く。正論である。だがしかしおまゆう。
「不測の事態ですので、返却する際に借用代と謝罪を持って許していただくしかありませんね…」と申し訳なさそうな顔で肩を落としたルーシィに代わり、カゲの隣に座っていたグレイがカゲの頭を軽く叩いた。誰のせいだと思ってんだ
軽快な音を立てた自分の後頭部を押さえたカゲは一瞬グレイを恨めしげに睨み付け、しかしグッと言葉に詰まると気まずげに俯き、何かを言い淀んでくちを開け閉めした。
「―――――なぜ、」
はくはく、はくはくと動いたくちがどうにか絞り出したのは、そんなかすれた声だった。
眉間に寄ったしわ。落ち着かないようにひしゃげたくち。それはカゲの葛藤であり不快感だった。
「なぜ、僕を連れて行く? ……魔風壁を突破できたんだから僕は必要ないはずだ」
「…? …ああ、」
カゲの問いかけにルーシィははて、どういうことかしらと首を傾げた。何を言われているのかが理解できなかったからだ。
いや、言葉は理解できている。しかし
だから首を傾げ、考え、それからひとつ、思いつく。
「街の皆さんには
重傷を負っている身で敵に囲まれている状況はひどく不安を煽るものだろう。目的を知りたいと思うのは当然のことだ。
だから説明を、と思い安心させるようににっこりと微笑んだルーシィに、カゲの眉間のしわが深まる。
「かといってお医者さまのもとへあなたを運び込む余裕もありません。けれどあなたほどの傷を放置しておけば命に関わってしまいます。ですから、クローバーにいらっしゃるお医者様のもとへ、」
「そうじゃないッ!!!」
吠えた。腹から出た声だった。止血され閉じかかっていた傷口がわずかに開き痛みを感じても、カゲは声を荒げた。
「医者に連れて行く!? 馬鹿か!! なんで助ける? なんで救おうとする!! 敵だぞ、お前らを、殺そうとした、僕はっ―――――お前らの敵だ!!!」
浅くて荒い息で怒鳴るカゲの目は、しかし怒りというより困惑が強かった。焦点が合わない。必死に何かをかき集めて、無我夢中に何かを守ろうとしていた。
「、そうか、は、はは、分かったぞ、医者に連れて行くと言って評議員に引き渡す気なんだろ……そ、それともエリゴールさんへの人質になると思ったのかっ? ふふ、ふふふ、む、無駄だ、あの人は冷血そのもので、だから、ぼ、僕を人質にしたところで、価値なんてないんだぞ……」
「ったく、暗いヤツだな。医者に連れてってやるってんだから大人しく感謝しとけっての」
ぶつぶつと言い始めたカゲにグレイが溜息を吐く。しかしカゲはそんなグレイにも「意味が分からない」と噛みついた。
「僕を助けて何になる! 理解できない、この行動のどこに意味がある? お前らの目的は何なんだ!!」
当たり散らすように声を荒げる。理解できない話だ。理由がない。メリットがない。それなら
「気持ち悪い―――――気持ち悪い!! 理解できない!!!!」
我武者羅だった。まさかこのまま本当に医者に連れて行くつもりか。なんで、どうして。分からない。気持ち悪い。何ならこのままここで谷底に捨てられた方がよっぽどマシだと思った。思って、だからガルガルと唸り吠え立てるカゲに―――――ルーシィは、ひどく穏やかに微笑んだ。
「ええ、理解いただけなくて結構よ」
―――――は、とカゲが浅く息をする。ルーシィはカゲと向かい合わせの位置に座っていた。だからその微笑みが、カゲからは良く見えた。
綺羅星のようなアンバーの瞳が、ゆんわりと細められる。
「あなた、ご存じないのでしょう。分からないから、そうして怯えているのでしょう。ならば、私からは答えをひとつ」
静かな声だった。星がカゲを見ている。輝きの底にある影を見ている。
チカチカと、眩暈がした。眩む視界の中、ふと、カゲは駅でルーシィとエリゴールが言い合っていた時のことを思い出した。
「とってもシンプルなお話ですわ。―――――誰かを助ける、ということは、誰がしたってよいものであるし、誰にしたってよいものでもあるの」
綺麗事だ、とカゲは小さな声で詰った。けれどルーシィの微笑みは崩れない。
「あなたは罪を犯されました。これは裁かれるべき悪逆であり、つまりあなたは現状、悪人であることになります」
ぎゅう、とカゲは手のひらを強く握った。何とも言えない緊張があった。何か恐ろしくて悲しいものに気付いてしまいそうで、逃げ出したくて仕方なかった。なのにこんな場所でこんな状況ではどこにも行けなくって。
だから必死にこぶしを握った。爪を立てて血がにじむほど、強く、強く、手のひらを握りしめた。
「悪人が手を差し伸べることに、積み上げてきた経過を指して非難する声があるでしょう。悪人に手を差し伸べることに、結果として生まれるリスクを指して軽蔑する声があるでしょう。」
なのに、ルーシィはそっと手を伸ばしてそのカゲの手に触れる。握りしめられた手を優しくなでて、柔らかく解かせる。
「―――――けれど、誰かが誰かを救いたいと思うこころは何にも阻まれることの無い自由であり、そしてその心のままに手を伸ばすこともまた、自由なのです」
肌と肌を通して感じるぬくもりが、確かにここにあるのだと知らしめる。
「そのこころは、意思は、正しく、優しく、尊い……善良な理想であるのだから」
残酷なことだとカゲは思った。ルーシィの手に導かれカゲの手は解かれる。それに抵抗はしなかった。ただ、残酷なことだと思った。
「例えば『自分の目の前で誰かが死ぬことが嫌だから』なんて理由でも、それは誰かを救う理由には十分ですし……それこそ無意識に。理由なんてなくても、誰かを助けて、誰かに助けられる。そんな当たり前の奇跡が、存外世界には溢れているものなのです」
俺の世界にはそんなものなかった。
「あなたの為かと言われれば、それは違うのでしょうね。あなたにとってこれはわたくしたちのわがままで、あなたはそれに付き合わされているだけ」
手をもう一度握りしめるだけの気力が湧かなかった。だらり、とちからなく垂れるさまをなんとなく目で追った。
「不満はあるでしょうけれど、どうぞ大人しくしていらして。満身創痍のお体でわたくしたちを相手に挑まれるのは無謀なことだわ。……と言っても、わたくしはちっとも魔力が残っていませんからお相手はグレイくんとエルザちゃんだけになってしまうのですけれど。
……あら。わたくし今、とっても虎の威を借る狐では……?」
おや、と首を傾げたルーシィに、エルザとグレイが思わず笑う。堂々と話していたと思えばそんなオチだ。
エルザはルーシィの言葉に、新たな仲間の美しさを見て喜んだ。グレイはどこかちぐはぐであった少女が、ほんの少しすっきりとできたことに気が付いたからこそ喜んだ。
そうとも、そうとも。
「人を救う時に御大層な理由など、さして必要なものではないのさ」
「チープでこっぱずかしい文句だが、そもそも小難しいことを考える前に体が動く。ま、さすがに相手によっちゃあ悩むことも躊躇うこともあるけどな。……そういう時は仕方ねえ。助けてから考える」
少なくとも
……それでも。
それでも、手を差し伸べた時、その時だって、きっとひとりではないから。
ふたりの脳裏に、鮮やかな火の粉が躍る。だってその筆頭みたいなやつがそうだからなあと、なんとなく笑ってしまう。グレイはすぐにハッとして舌打ちをしたが。
「―――――俺はお前にどんな経緯があったとか、んなこと知らねえし興味もねえけど。今はとりあえず生きてる、助かる、ひとつ儲けた、とでも思っときゃいいだろ。……存外、生き死にだけが決着の全てじゃねえもんだ。ぶつぶつ下向いてねえでもう少し面上げて前向いて生きろよ。お前も、他の
静かな言葉はカゲへの気遣いではなかったが、ただグレイという人間が持つ善性のかけらが込められていた。
呆然と、カゲがグレイを見る。―――――それと同時に、車体がひときわ大きく揺れた。
「っきゃ、」
「ルーシィ、!」
その揺れに車体から手を放していたルーシィがぐらり、とバランスを崩し、は踏ん張ることも間に合わず前のめりに倒れ込み―――――それを、カゲの腕が受け止める。
ハッとしてグレイとルーシィがカゲを見た。カゲは俯いたまま、その視線に応えることは無かった。
「………何なんだよ、お前ら。意味が分からない……理解できない……気持ち悪い……」
小さな声。それにグレイはひょい、と肩を上げて受け流し、「交代するか」と操縦席のエルザに話しかけた。その言葉に応える必要がないことを分かっていたからだ。
「問題ない。今のは大きい瓦礫が線路上に落ちていたために揺れただけだ」
「線路上にんなもんが落ちてるってのは…」
「偶然、あるいはエリゴールの妨害工作。希望的観測としてナツとエリゴールの攻防の影響、といったところか」
「魔力は」
「ルーシィのおかげでまだまだ余力がある。このままエリゴールと一戦交えられるくらいにはな」
「お前に限ってへばることはそうそうねぇだろうが、……無理すんなよ」
「分かっている」
「へぇへぇ」
仲間内の、気軽な、それでいて確かにお互いを信頼し心配し想い合った言葉たち。それを聞きながらカゲは俯き続けた。
―――――カゲに支えられたルーシィから、その横顔はよく見える。見えるから、何も言わずに自分を支えてくれた腕にそっと手を乗せた。「わたくし、あなたの敵なんですよ」……そんな言葉はあんまりにも意地悪だから言わないでおくのだ。
理解できなくても、意味が分からなくても、こうしてルーシィを支えたこの腕が答えなのだと、きっとカゲは分かっているだろうから。
■
それはルーシィがカゲに助けられてすぐの事だった。
―――――……ギャ………ギャギャギャッ………!!!!
「っ、何だこの音は!」
全員がハッとした。不愉快な音。まるで鉄を滅茶苦茶に引っ掻き回したかのような不協和音。ルーシィは思わず耳を押さえて顔をしかめた。酷い音だ。
視界の先、線路のずっと向こう側。そこからもうもうと土ぼこりが立ち上がっている様子が見える。
「ナツだ! あいつがエリゴールと戦ってんだ!!」
「あそこか……! 急ぐぞ!」
瞬時に理解したグレイが叫ぶ。まだそこは遠い。エルザが魔導四輪車にさらに魔力を注ぎ込もうとしたとき、同じように土ぼこりを見ていたカゲがポツリと聞いた。
「おい……あの桜頭の火の玉小僧、使うのは火の魔法だろ」
「え? え、ええ、そうです。とっても素敵な魔法よ」
唐突なそれに驚きながらも答えたルーシィの顔をちらりと見たカゲは、表情の乏しい顔でふん、と鼻を鳴らした。
「ならあいつじゃエリゴールさんに勝てねえよ」
「……それは、どうして?」
その言葉はナツの仲間としては聞き捨てならないセリフだが、この場で一番エリゴールの実力を知っているのはカゲだ。そのカゲがそう言うのであれば、それには根拠がある。
「エリゴールさんの使う風の魔法の中に『
その魔法で纏う風は全て『外へ向かって流れる風』だ。そんな風に炎の魔法を向けたところで、
それはつまり、炎での攻撃はエリゴールには通用しないという事。ナツはしっかりと鍛えているだけあって身体能力は高いしちからもあるが、桁違いの破壊力は炎あってこそだ。その炎が封じられてしまうのはあまりに痛い。
「そんな……」
カゲが明かした情報に、ルーシィは息を呑んだ。魔法勝負に相性があるのは珍しくない話だ。けれど、こんな局面で、こんなカードで、こんな時に、こんな………
( ナツくん………! )
どうか、どうか、どうか―――――どうか、神さま。
ルーシィはひたすらに祈った。大切なお友達。ギルドの仲間。
―――――ナツのもとまでは、まだ遠い。
■
「ナツくん―――――!!!」
どれだけ祈っても、ナツのもとに辿り着けなくては加勢もできないし無事も分からない。近づけば近づくほど聞こえてくる鋭い風の音にもどかしい思いをしていれば、不意に遠目に火柱を目視し、そして―――――何かが打ち上げられる。
よく見えないがそれは人のように見えた。その直前の火柱。
まさか、まさか、まさか、まさか―――――いや、まだ、一体、どっちが―――――
車が近づくのが待ちきれずに真っ青な顔で車体から身を乗り出したルーシィと、万が一に備えて魔法発動準備をしていたグレイ。そして鬼気迫る表情で魔導四輪車を駆けたエルザの目に映ったのは、――――――地面に倒れ伏すエリゴールと、その前でこちらを見て軽快に笑うナツの姿。
「ああ………!!」
車体が砕けそうな音をたてて急停止した魔導四輪車。ルーシィは転がり落ちるように車内から飛び出した。勢い余って線路からも転がり落ちそうなその姿にグレイとカゲがギョッとしたが、ルーシィは一目散にナツのもとに駆けていく。
「よ、よかった……! よく、よく、ご無事で……!」
「おールーシィ!」
前のめりに近づいて、それでもどうしたらいいのか分からずアワアワと手を彷徨わせ、ただ、ただ、ナツの無事を喜ぶ。
そんなルーシィの様子にケラケラと笑ったナツは、「遅かったな、こっちはもう終わったぜ」などと軽く言った。
体中の傷。あちこちにみられる血の跡。それは一筋縄ではいかない激しい戦闘があったことを物語っているのに、ナツの物言いはあっけらかんとしていた。
それが、どうしようもなく嬉しくて、頼もしくて。
「ええ、ええ、……信じていました」
だからルーシィも安心して笑うことができた。
「おうコラ、こんな連中相手に苦戦しやがってテメー、
「だァれが苦戦だハゲ。どっからどう見ても圧勝だっつーの! な、ハッピー」
「微妙なトコですね」
少し汗をかいたエルザを支えるように共に近づいてきたグレイがいつも通り軽口をたたけば、いつも通りナツがノる。いつも通りの、まるで直前まで激戦に身を投じていたとは思えないような、いつもの
それにエルザとルーシィが顔を見合わせ思わず笑った。ああ、よかった。……よかった。
「よくやったナツ。エリゴールを単身で撃破するとは、見事だ」
「さ、ナツくん、手当てをいたしましょう。酷いお怪我だわ……大したことはできませんが、応急処置程度でも」
「あん? 大したことねぇよこんくらい」
「まあ、そんなことおっしゃらないで。わたくしがナツくんのお怪我を手当てさせていただきたいのです。功労者なのですから、どうか労わらせてくださいまし」
エルザの称賛に続いて、ルーシィがそっとナツの手を取る。にこにこと嬉しそうに、誇らしそうに言うルーシィの様子に思わず鼻高々というような顔になったナツを見て、「ケッ」とグレイが半目になる。
「贅沢もんが。せいぜいめちゃくちゃ沁みる消毒液に浸って悶えろ」
「あァンだとコラ!」
「だいたい何だその裸にマフラーって、変態みてーだぞ」
「お前に言われたらおしまいだ……」
「おいなんだそのガチなトーンは」
「ルーシィなんか着るもんねぇのか」
「おい聞いてんのか、おい」
「あっ、も、申し訳ありません、わたくし、ナツくんが着られるようなお着替えは用意していなくって…」
「おい!!!」
ケンカするほど仲が良いと言わんばかりの、緊張が無い会話。ナツとグレイが胸ぐらを掴み合い、少し離れたところに下がったルーシィがくすくすと笑い、ハッピーがはしゃいで飛んでエルザがほほ笑みながらため息を吐く。
そこには安堵があった。ぬくもりがあった。
特に、ルーシィは目に見えて浮足立っていた。ナツが無事だった。ナツが勝った。それだけで気分がパッと華やいだ。
思い返せば濃密な時間だった。エルザとの初対面。任務に誘われ、緊張と決意を胸に迎えた今日。駅での強行に、
大変だった。辛かった。けれどこうしてナツが勝った。
終わったのだ。成功したのだ。そう理解すれば、なんとまあ。まるで本の中の冒険譚のような時間であった。
だからどうしても、ふわふわと、ルーシィは肩の力が抜けたまま浮足立っていた。
「お前たち、そこまでにしておけ」
パンパンと手を叩き、エルザが全員の意識を集める。今回の件を締めくくるためだ。
「エリゴールは無事ナツが撃破した。これでここの件の山場は越えたと言っていい。……ここからクローバーは目と鼻の先といったところか。ちょうどいい、
全員が安心していた。気を抜いていた。だって、エリゴールを阻止した。勝てた。だから安心して、一番の脅威が取り除かれたと気を抜いて、―――――だから誰も気づかなかった。
エルザのが目を見開き、息を呑む。ぶわりと湧き出た冷や汗に、すぐさま大きくくちを開き―――――
「ルーシィ!! 避けろ!!!」
■
「え」
■
―――――ドン、と、強い衝撃が、一歩引いた場所に居たルーシィの背中に走る。
同時ににギャギャギャギャ、と今日は何度も聞いたタイヤの音が聞こえて、
それで、―――――ふわり、と
ルーシィの体が
バランスを崩して―――――
浮いて―――――
( あ――――― )
「ルーシィ!!!!!」
■
―――――怪物が、大きなくちを開けて待っている。
■
「ルーシィ大丈夫!?」
「今引き上げるからな!! ちゃんと捕まっとけ!!」
間一髪だった。ナツがルーシィの腕をつかんだおかげでルーシィは無事だった。けれど、その体がナツの腕一本を命綱に線路の上から宙ぶらりん。―――――ひゅうひゅうと、足元を風がはためいて揺らす。
「カゲ、何を…!?」
「オイあいつッ、
「う―――――ぁあああああああああああ!!!!!!!!」
みんなより低い位置にいるルーシィには視界を遮るものが多く、はっきりと何が起こっているのかは見えない。けれど、驚愕に固まった頭でも、聞こえてくる音が現状を教えてくれる。
エルザの声。グレイのセリフ。遠ざかっていくカゲの絶叫と、魔導四輪車のタイヤ音。
カゲの運転する魔導四輪車が、ルーシィを跳ね飛ばして走って行ったのだ。
―――――カゲが、
ひゅうひゅう、ひゅうひゅう―――――ふらふら、ぶらぶら、宙ぶらり。
「っは、はぁっ、はぁっ、……!!」
「ルーシィ、大丈夫だ! ちょっと待ってろよ!!」
ナツは呼吸音がおかしくなったルーシィに気が付き、落ち着かせようと声をかける。無茶な体勢でぎりぎりルーシィの腕を捕まえたために、ルーシィを引き上げるにはまずナツが体勢を整えなくてはいけない。
早く引き上げてやらねえと、とルーシィを見たナツは、震えるように顔を上げたルーシィと目が合った。
―――――琥珀色が、真っ黒に濁っている。
「ルーシィ、」
ナツは思わず名前を呼んだ。ゾゾゾ、と背筋をうすら寒いものが走った。
「ナ、ナツく、……ど、したら、笛、……
「―――――」
掴んでいる腕が震えている。声も、くちも、―――――それは、どうしようもなく恐ろしいものに怯えるように。
「おいナツ! ルーシィは、」
「来んな!!!!」
ナツは怒鳴った。ルーシィを心配して手伝おうと近寄ってきたグレイとエルザの足を止めさせる。
「ルーシィは俺が何とかすっからお前らはカゲを追え!!」
「っ…分かった! 追いつけよ!!」
「ルーシィを頼んだぞ、ナツ!」
ただならぬ剣幕のナツに思うところはあったが、カゲを追わなくてはいけないのも事実。グレイとエルザは反応のないルーシィに後ろ髪を引かれながらも走り出した。
■
ズルル、とナツはルーシィを引き上げる。ふたりは無言だった。ルーシィの荒い息が響く。
「ルーシィ、大丈夫だ。カゲはエルザとグレイが止める」
「っ、は、……はい、」
「ルーシィ、大丈夫?」
うつむいたままのルーシィ。その様子にさらに何か言葉をかけるべきかと思ったところで、ひょっこりとハッピーがルーシィに寄り添った。
どうやら一連の流れの間にエリゴールを拘束していたようで、ハッピーの後ろには手足を縛られたエリゴールが居た。駅でのルーシィの指示はここでも行うべきだと思ったようだった。
「、大丈夫、です」
ノロノロと上がったルーシィの顔。ハッピーを安心させるようにと微笑んだその顔。
「お手数をおかけして申し訳ありませんでした。さあ、わたくしたちも皆さんを追いましょう」
「……おう」
その顔が、ナツはなんだか嫌だった。
■
走る、走る、走る。
先を行ったエルザとグレイに追いつくために。
ナツは怪我だらけだがすでにほとんど回復しており、今は後ろを走るルーシィの様子を気にかけながら走っていた。ハッピーもルーシィの少し後ろを飛び、その様子を気に掛ける。
「はっ、はぁっ、はっ、はっ、」
ルーシィはずっと無言だった。ただ黙って息を荒げて走る。
―――――クローバーは近い。カゲに残されているだろう魔力残量と、それによる魔導四輪車の速度はどれほどか。エルザとグレイは追いつけるだろうか。定例会はまだ行われているだろうか。もう解散しているだろうか。間に合うだろうか。もし、もし、もし、間に合わなくて、それで、笛を吹かれてしまったら。
グルグルと思考が回る。息が乱れる。マイナスに向かいそうな頭を振って必死に意識を整える。
間に合うんだ。間に合わせるんだ。止めるんだ。必ず。必ず。必ず。
多少回復したものの魔力が足りないルーシィの走りはどうしてもナツから遅れてしまう。だから必死に腕を振って足を回して、走って、走って、走って、走って―――――
「ぁ、」
ガガッ!!
ルーシィ、とハッピーが慌てる。線路に足をとられてルーシィが前のめりに倒れ込んでしまったのだ。ナツもすぐさま振り向いて倒れ込んだルーシィに近づく。
「っく、ぅ、……!」
「足くじいたか? 落ち着けルーシィ」
ナツは苦しげな声を零すルーシィの背に手を当てながらゆっくりと撫でる。まず落ち着かない息を整えさせるべきだと思った。しかし背中に触れた途端、ルーシィの声がより一層苦しげになったので慌てて手を放す。―――――そうだ、ルーシィの背中はカゲの運転する魔導四輪車に突き飛ばされた。きっと背中も強い打撲、あるいは骨にひびが入ってる可能性があった。
はぁはぁと荒い息をするルーシィ。うつむいたその顔は見えない。疲れているだろう。……けれどその息の乱れは走ったからだけではなく、もっと、何か、何かに酷く乱されているようだと、ナツは感じた。
やっぱりルーシィの様子がおかしい。ナツの眉がぐぐぐ、と寄る。カゲに
何かがルーシィを急き立てている。何かがルーシィを責め立てている。ルーシィは今、追い詰められている。
「―――――分から、ない」
そっと落ちた声はどこまでも沈んでいた。
「分からない、の、です。……わたくしは、間違っていたのですか」
「ルーシィ…?」
ぐらぐらと、ルーシィの声が揺れている。
「―――――いいえ、間違ってしまったのですね。愚かにも、思いあがって……」
「ルーシィ」
ナツは少し強めにルーシィの肩を掴んだ。何を言っているのか分からない。何の話をしているのか分からない。分からないけど、そうやって自分を責め立てるようなことを言わせたくなかったし、ひとりで考えてそんなことを言うくらいならちゃんと教えてほしかった。
ひたりと合った綺羅星の琥珀は陰っており、どこまでも、どこまでも、深いところへ堕ち貫けてしまいそうな危うさがあった。
ぞわり、とナツの背筋に再び悪寒が走る。
「わ たしくし、駅で
ぐしゃりと、ルーシィの手が頭を抱えた拍子に、土ぼこりなどのせいで少しくすんだ
声はブツブツと途切れながら続く。ぐらぐら、ルーシィの思考が揺れる。
「『自由には代償がいる』と、わ、わたくしは、自分で、そう言いましたのに! わた、わたくしは、それが、タイムロスなんだと、治療にかかっただけの時間を失って、それで、事態の収拾のために割く、時間が、減ってしまうことが 代償 だと、そんな、そんなことしか 考えて、なくて……!!」
じわじわとルーシィの瞳に涙が溜まっていく。
自由だと思った。誰に阻まれることの無い、ルーシィの自由なのだと。ルーシィの意思で、こころで、自由なのだと。
そう喜んで、嬉しくて、だって、だって、嬉しくて―――――
「違うのだわ、
ルーシィたちはカゲを助けた。結果としてカゲは今
せっかくナツがエリゴールを倒したのに、再び窮地に陥ってしまった。
車内でグレイが言っていた、「相手によっては悩むことも躊躇うこともある」と言う言葉。その意味を、ルーシィはちっとも理解できていなかったのだ。
「人を救うということは、責任を持つということだった! 救った相手が今後悪事を犯すかもしれないというリスクを背負って、それでも救うという選択肢を選ぶ『覚悟』のことだった……!!」
ルーシィはカゲに。「悪人に手を差し伸べることに、結果として生まれるリスクを指して軽蔑する人もいる」という話をした。けれどそれをふまえても、「自由」なのだと。
何を知ったつもりでいた。何を理解しているつもりでいた? リスクとは何か。それについて本当に考えていただろうか。
もしあの駅にいる
それはきっと、何の覚悟も無く治療した自分のせいだ。
そんなことになったときに、自分は責任をとれるのだろうか。
誰かの大切な人が傷つけられて、それを悲しむ誰かのその怨嗟を受け止められるだろうか。
「わたくしが、勝手に……放っておけないなんて、そんな、そんな気持ちだけで、」
カタカタとルーシィの体が震える。谷底に落ちそうになって、あの体の芯が凍えるような浮遊感を感じて、だからルーシィは強く思う。自分は間違いを犯したのだと。
―――――ひゅうひゅうと、耳元で風がなる。
だってそうだ、もし、例えばあのハルジオンの一件で、ルーシィがボラを治療したとして、それでボラが逃走してしまったら。
―――――ふらふら、ぶらぶら、宙ぶらり。
そうすれば、またどこかの女の子たちが悪夢を見る羽目になっていたかもしれない。あの悪夢の疎ましさの一端を味わっておきながら、その危機を振りまくところだった!
―――――怪物が、大きなくちを開けて待っている。
救うとはそういうことだった。手を伸ばすということはそういうことだった。
確かに自由だ。確かに何に阻まれることの無い善良な理想だ。
なのに誰もができるわけでないのには理由があった。そんなことをルーシィは知らなかったのだ。
そこには駅で、車内で、凛と咲いて微笑んだちから強く美しい少女は居なかった。ただ、知らなかった現実に、無知ゆえに犯した罪に震えるか弱い少女がいるだけだった。
ルーシィはエルザやグレイやナツとは違う。ずっとずっと閉じられた箱庭の中で育ったルーシィは他の3人と比べて圧倒的に何もかにもの経験値が違う。だからこそ、唐突に目の前に現れた絶望のような後悔に、抱いた喜びを粉々にしてしまった恐怖に、ただ震えるしかなかった。
たくさんの本を読んだ。たくさんの知識を得た。だから言ったのだ。あんな説教じみたことを鼻高々と、恥知らずにも!
その知識が現実に即しているかなんて分かっていないくせに。本当の意味なんて、本物の経験なんて何ひとつない癖に!
知ったばかりの言葉を使いたがる子供のように、馬鹿のひとつ覚えのように調子に乗って!!
ルーシィはひたすら自分を責めた。混乱している。困惑している。この一件の始まりから溜まっていたストレスが、混乱が、重い、重い負荷が、とうとうルーシィにひびを入れてしまった。
一度は解放されたと思い込んだからこそ、再び襲い掛かったそれはより一層重く苦しい。耐えきれなくなってしまった。崩れ始めてしまった。今は今はと見ないふりをして後回しにしていたものが、ひと固まりになって、真っ黒な津波のようにルーシィの心を飲み込んでしまう。
そんなルーシィの様子にハッピーはたまらず抱き着いた。
―――――違うんだよって言いたかった。そんなことないんだよって言いたかった。なのに、なのに、うまく言葉が出てこなくって、どう言ったらルーシィのこころに響くかが分からなくって、ぎゅう、とくちを食いしばる。
ルーシィが震える。ハッピーが歯を食いしばる。そんなひとりと一匹の様子を見ていたナツは、おもむろに頭を抱えるルーシィの手首をつかみ、―――――引き上げた。
「それがなんか悪いのか」
「、え………?」
―――――ナツの瞳とルーシィの瞳が交差する。その目が真っ直ぐルーシィを射抜く。
太陽が、ルーシィを射抜く。
「悪いのか。誰かを助けてェって思うのが。誰かを助けることが悪いのか」
「、で、も、…だ、って、」
何を、言いたいというのか。何を言っているのか。ルーシィの瞳が揺れる。けれどそれを縫い留めるかのようにナツの炎のように熱い視線がルーシィを見逃さなかった。
「悪いのか」
「―――――悪く、ない、です」
誰かを助けたいと思うこと。助けること。
それが悪いわけがない。けれど、
「でもっ…! それでも、そうして助けた結果、多くの人が傷ついてしまうのならっ!」
それは悪ではないのか。間違いではないのか。
美しい理想は、しかし、美しいだけで。
美しさだけでは世界は回っていないのだと、そんなことを都合よく忘れて。
それは、だって、罪だろう。
「悪くねえよ」
「きゃあっ!?」
うねる炎がナツの瞳の中で燃える。ちから強いその手に引き上げられたルーシィの体は、いとも簡単にナツの背に負ぶられた。
「ナッ、ナツくんっ?」
ルーシィは慌てて下りようとするが、ぐっとルーシィの手をつかんだままのナツにちからで勝てるわけがない。それに藻掻けば足と背中が痛んでちからが込められなくなり、ルーシィは逃げられなかった。
「怪我してるやつがいて、痛そうだから手当したり」
ぴたり、とルーシィの動きが止まる。ナツはルーシィを背負ったまま走り出した。
「それが悪いやつでも、心配したり、助けようとしたり」
視線はルーシィを見ない。ただ真っ直ぐに先を、前を。
「―――――それが間違ってるわけねぇだろ!!!」
どんどん速度が上がっていくナツの走りに振り落とされそうになり、ルーシィはたまらず首に腕を回してしがみついた。
しがみついて、呆然とした。
そんな、どうして、当たり前のように肯定するんだろう。だってルーシィがやったことは、自意識過剰とかではなく本当に危険なことだったはずだ。自分勝手なことだったはずだ。
「悪いことっつーのは、大体したやつが悪いだろ。もしなんか、分かんねぇけどやべえ理由があったとして、それでも悪いことをしたのはそいつで、そこでルーシィが悪いことにはなんねぇ!」
そうだそうだ! と元気な声が空から降って来た。ハッピーだった。ナツも、ハッピーも、ルーシィを責めようとしない。―――――それは悔しかった。何でか分からないけれど、悔しかった。
「つっても、自分が助けたやつが悪いことして、それが気になんのはまあ分かる」
ルーシィの言っていることは要するに、助けた相手が悪いことをしたら助けた自分が悪い、という話なのだ。ばかばかしい。少なくとも、ナツにとってはばかばかしい話だった。
悪党にもいろいろあるし、悪い奴がやりたくて悪いことをしたわけじゃない場合もある。そういう時はそいつが悪いのか、という疑問が出てくるが、とりあえずそれは置いておいてもルーシィが悪いことには絶対なりえない。
相手によっては助けちゃいけないやつもいたりする。でも、『助けたい』と思うこころ。『死んでしまうかもしれない』と心配するこころ。それは何も間違っていないし、悪いことじゃない。
―――――ぎゅう、と腕にちからを込めてより密着したナツの体は温かかった。炎の魔法を使うからだろうか、ナツは体温が高い。体の中に炉を持っているかのように燃えている。
その熱が、冷え切っていたルーシィの体をじんわりと優しく温めた。
「ならそーゆーやつらは、今度はぶん殴りに行きゃあいい」
そんな簡単な話だろうか。だって、間に合わないかもしれない。決定的な損失が生まれてしまうかもしれない。それを償えるだけの価値が、ルーシィは自分にあるとは思えない。
けれど、不意に車内でのエルザとグレイの言葉を、もう一度思い出した。
『人を救う時に御大層な理由などさして必要なものではない』と言った靡くスカーレット。『チープでこっぱずかしい文句だが』と前置きを入れ、『そもそも小難しいことを考える前に体が動く』と言った氷冷のブラック・アイ。
ああ、そうだ。そういえば『相手によっては悩むことも躊躇うこともある』と言った彼は、同時に『そういう時は仕方ないから助けてから考える』とも言っていた。
そうなのだろうか。それは正しいのだろうか。本当に、この選択でいいのだろうか。疑問が渦巻く。ぎしぎしとルーシィのこころが軋み上げる。
真白の手にちからを込める。爪が手の平に突き刺さるほどに、軋む心を握り込む。
そうして震えるルーシィの拳を解いてくれたのは、ナツだった。
「―――――そん時は
仲間だからだ。家族だからだ。どうしてお前はそう、抱え込むんだ。……まあ、でも、入りたてだからまだ馴染みきれてねえんなら、俺が手を放さなきゃいいか。
ナツの言葉は、その体と同じように温かい。温かく、ルーシィを包んで守ろうとする。当り前のように、ルーシィに綺麗な言葉をくれる。
綺麗なものが正しいとは限らない。自分を救ってくれたものが正義とは限らない。―――――それでも、ひび割れたこころを埋めようとしてくれる優しさは尊いものだった。
すん、と鼻を鳴らす。怖い。ずっと怖い。自分のしたことが、巡り巡って何を引き起こすのか。自由に生きるためにどれほどの代償がいるのか。怖くて怖くて仕方がない。
正解を選べないのが怖いのだ。正しくないことをしてしまうのが怖いのだ。けど、でも、それでもルーシィはそのすべてを一度置き去りにしてでも、この優しさには報いたいと思った。
「………ありがとう、」
温かい人になりたい。優しい人になりたい。このこころを救ってくれた太陽のような、素敵な人になりたかったのよ。
細かい理由なんてないけど。まだ、方法も、方向性も、ちっとも定まっていないけど。いつか母が頭を撫でて褒めてくれたように、優しくて、素敵な人になりたいだけだったの。
それだけで伸ばしたこの手が掴むものが、こんなに重いだなんて思いもしなかった。
この夢は眩い理想でしかないかもしれない。ただでさえ今これだけ恐ろしい思いをしているのに、その理想に辿り着くにはいったいどれほど辛いものなのか。想像もつかない未来が怖い。
ああ―――――強く、なりたい。優しいままでいられる、強い人になりたい。
「だからカゲはぶん殴って止める!」
眩しい人。憧れの人。こころの奥底が冷え込むような恐怖を吹き飛ばしてくれる
―――――応えたい。報いたい。
そうだ。ルーシィはグッと顔を上げ、ズキズキと痛む背中や足を意識の外に追い出す。ただ、ただ前を見て、歯をかみしめる。
怖い。この恐怖は、闇ギルドと戦うと知った時の恐怖とは違う。もっと自分勝手で愚かしい恐怖だ。
こんなものに、負けるわけにはいかないのだ。怯え泣き喚き這いつくばって逃げるのは誰だってできること。だから、ルーシィは立ち上がらなくちゃいけない。
恐ろしい。怖い。愚かな我が身が恨めしい。
それでも。
「……ナツくん。わたくし、…エリゴールの怪我は無視して来てしまいました……」
「アイツしぶてェから大丈夫だろ! っしそれよりルーシィ、しっかり捕まってろよォ! トばすぞ!!」
「はっ、はい!!」
今はまず、間に合わなくては。止めなくては。彼を、救わなくては。
ゴウ、とナツが足に炎を纏った。けして振り落とされないように改めて腕にちからを込めたルーシィは小さくつばを飲み込んで歯を食いしばる。
なにができるだろうか。何をすればいいのだろうか。不安はすべてのみ込んで腹の底で炉にくべる。
燃やせ、燃やせ、炎を。為すべきことを為すための、糧として。
人生とは選択でできている。
「ルーシィ。愛しい子、優しい子」
ならば、選ぶのは母の美しい子守歌だった。
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手を伸ばす
行かなくてはならない。間に合わなくてはならない。触れ合う肌の熱を信じて、今はただ前を向いて。
「エルザちゃん! グレイくん!」
背負われたまま、ようやく目の前にまで追い付いたその背に向けて声を張る。そうすれば鮮やかなスカーレットと清涼なブラックがパッと踊って。
首元に回した腕にちからを込めれば、背負い支えてくれている腕に同じだけちからを込めてくれた。―――――それだけで。
「お待たせいたしました―――――」
ふたりはルーシィの顔を見て、ほっと安心したように微笑んだ。その柔らかい目尻が、彼らがどれほど心配してくれていたのかを分からせてくる。
「―――――参りましょうッ」
だからルーシィはそんな彼らに応えられるよう、震える声を精一杯張った。
ルーシィたちがカゲを見つけた時、彼は既に定例会の会場に辿り着いていた。建物の外、笛を持って―――――よりにもよってマカロフの前に。
ザッと血の気が引く。ああ、そんな!
まだだ―――――まだ、まだ、まだ、間に合う!
止めなくては―――――止まってくれ―――――どうか―――――ルーシィが、ナツが、ハッピーが、グレイが、エルザが、必死に手を伸ばしそこへ向かおうとして、
「だぁめ♡」
―――――それを止める手があった。
「今いいとこなんだから、見てなさいって♡」
とろんと撫でるような甘い声。思わず釣られた視線の先―――――伸ばした手に伸ばされた手を辿って見えた、つるりとした丸いフォルムにセクシーな黒いドレス。可愛らしい羽が背中を彩るその人は、
「あっ、ブ、
それは愛読雑誌で何度も見た姿。―――――魔導士ギルド
驚愕したルーシィに
「止めないでください、このままではマスターが!」
「久しぶりねぇエルザちゃん、大きくなったわぁ。あら、こっちの子たちも
抗議したエルザに、けれどボブは意に介さない。どころか若く整った容姿をしているナツとグレイにムチュリと投げキッスを飛ばした。切迫した表情の4人と1匹とは正反対に
こんなところで足止めをくらっている場合じゃないのに。一刻を争う事態なのに―――――しかしそうだ。ルーシィはハッとした。そうだ、自分たち以外は事情を知らないのだ。今何が起こっているのかなんて、これっぽっちも!
あそこでマカロフと相対している彼が闇ギルドの一員であることも。その彼が手に持ち、すでに構えてしまっているあの笛が一体どれほどおぞましいものなのかも!
ルーシィは背負われている体勢のままナツの肩を小さく叩いた。
「わたくしが……」
ここでのんびり説明している暇はない。事はカゲがひと息吹くだけですべてが終わるところまで進んでしまっているというのに。むしろここまでくれば、彼がまだ笛を吹いていないことが奇跡だと思った。
今になって笛の恐ろしさに尻込みをしているのだろうか。分からないが、この奇跡の猶予を1秒も無駄にできない。だから穏やかに微笑むボブの対応は一番足手まといになっている自分がし(そうすればナツも身軽になる)、三人と一匹にはカゲを止めてもらおうとルーシィは考えた。
ナツはそれを察したのかすぐさま背から彼女を下ろし、ボブを振り切って走り出そうとした。その動きに気づいたグレイとエルザがナツに続こうとして―――――彼らの前にゆらりと影が。
「まあ待てって。面白れェトコなんだからよ」
にやり、と笑う男のサングラスがきらりと光る。今度は
年相応にしわの刻まれた横顔をワイルドに歪ませ笑うその手がナツの肩をつかみ飛び出そうとするのを押し留めている。すぐにナツを盾にエルザとグレイが突破しようとしたが、ゴールドマインはそれを眼力ひとつで阻止してしまった。
―――――なんで。
「お願いです、どうかお止めにならないでっ。行かせてくださいまし……」
ルーシィは叫んだ。痛む足を引きずって、ナツを止めるゴールドマインの腕にしがみつく。しかし老いて尚強者、腕はピクリともしない。
どうして邪魔をなさるの。せっかく間に合ったのに、みんなが頑張って、あと一息で、いえ、ここで、ここで間に合わないと―――――!!
もうだめだった。そんなこと耐えられなかった。痛む足や背だとか、残っている魔力だとか、そんなことは全部思考の外に追いやって、ルーシィは目と鼻の先へ我武者羅に走り出そうとした。
止めたかった。止めてほしかった。止めないでほしくて、奪わないでほしかった。その人を、―――――あのギルドのぬくもりを。
「信じてあげなさいって、あなたたちのマスターを」
けれども、それすらも大きな手が両肩を包み阻んでしまう。
信じる? ……マスターを?
いったい何を。呆然と見上げてきたルーシィに向かって、その肩を包んだボブは微笑みを崩さない。その顔はどこかギルドでのマカロフに似ていた。ああそうか、この人も、ひとつのギルドのマスターだから……
―――――そこまで考えて、ルーシィはふと疑問に思った。そういえば、そのマスターがふたり、どうしてこんなところでルーシィたちを止めているのだろう、と。
離れた定例会の会場の窓からは、中で他のマスターたちが談笑している姿がわずかに見える。どこかの窓を開けているのか風に乗って笑い声も聞こえる。多分、定例会はまだ終わっていないはずだ。なのになぜ、たった3人だけ外に出てここにいるのだろう。
「おい邪魔すんなよッ!」
「―――――お待ちになって、」
自分たちの親の危機。なのに重ね重ね邪魔をするふたり。いくらナツたちでも、名高いギルドマスターたちに邪魔をされれば簡単には突破できない。ならばこのままマカロフを見捨てるのか? ―――――冗談じゃない。
とうとう我慢がならんとナツが、エルザが、グレイが、ふたりを魔法で薙ぎ払おうとした。
―――――けれど、ルーシィが止める。
反射だった。パッと出た声だった。何を、と3人が驚愕した顔でルーシィを見る。
ルーシィの視線はボブに注がれていた。
「ご存知、なのですか。お、気づきでいらっしゃるのですか。彼がなにをしようとしているのか、彼の持つあの笛が、……何なのか……」
確証はない。けれど不安に憑りつかれた顔で見上げるルーシィに、ボブはその肩に置いていた手をポン、と弾ませた。
「だいじょーぶ♡」
「伊達に歳くっちゃねェさ。いいから、見てろ……」
自然体のような落ち着いた姿勢。明確な肯定の言葉はないが、理解していると言うかのような物言い。―――――ああ。
けれど、それで信じて待てと言うのは何事か。そんな、だってこんな状況で―――――
「わ、かり…ました……」
「おいルーシィ…!」
―――――分からない。正しいことって何だろう。この場での最善って何だろう。
でも、ふたりものギルドマスターがそう言う理由が必ずあるはずで……そして、ふたりがかりで『
これが、ここで踏みとどまることがマカロフを信じるということならば。
真っ青な顔で頷いたルーシィにナツがギョッとした声をあげるが、ふたりのギルドマスターに視線で促され歯を食いしばる。
危ないって言ってんのに。じいちゃんがやべぇのに。普段のナツなら問答無用で暴れて突撃していっただろう。
―――――けれど、ルーシィが。
不安で仕方ないという顔で、本当にいいのだろうかという顔で、視線はカゲとマカロフに。そして、手が。
手が、ナツに。
救いを求めるように、縋る場所を望むように、助けを乞うように、―――――凍える寒さの中でぬくもりを求めるように、ルーシィの手がナツに伸ばされている。
けれどその手は実際にナツの肌や服をつかんでいるわけではない。伸ばされているのに、最後は踏みとどまるように一歩手前で彷徨っている。行方の無いまま彷徨っている。
だからナツが迎えに行った。優しく引っ張って、迷子にならないように指を絡めて手を繋ぐ。
繋がった手の震えはどちらのものか。打ち消すようにちからを込めた。ここに繋ぎとめるように、ここに居ると伝えるように。けして、離れないように。
ルーシィの視線はナツに向かない。けれどその手は爪が食い込むほど必死にナツの手を握り返した。今までのルーシィではあり得ない無配慮。それが彼女の苦しみを、葛藤を、ナツのこころに突き立てる。
この手を振り払って走り出すことが正しいのか。―――――それはナツの迷いとなった。
飛び出したい。今すぐカゲを止めて、大切な人を危機から遠ざけたい。でも、同じ思いを抱いているルーシィが見守ることを選んだ。苦しみながらその選択をした。なら、自分はどうするべきなのか。繋いだ手を離す理由に彷徨った。
震えるルーシィと睨みつけるナツ。そのふたりの様子を見て、歯痒いという顔をしたエルザとグレイもからだを止める。
ルーシィはこの一件の中で、何度も『正解』を見つけてきた。普段は真っ先に飛び出すはずのナツが耐えている。そして、ふたりのギルドマスターの言葉。
ふたりもまた迷い、足を止めてしまった。歯を食いしばる。頭が痛い。せめていつでも駆け出せる態勢だけは整えて、耐え忍ぶ気持ちで自分たちの親を見た。
―――――どうか、どうかと。
「かみさま………」
子供たちの願いの先で、カゲが俯いていた。
■
―――――正規ギルドはどこもくだらねェな!!
―――――ザコのくせにイキがるんじゃねえっての!!
笑っていた。嘲笑っていた。
きれいごとを言ってオツカイみてぇな仕事をして、法と評議会に尻尾を振っていかにも自分が正しい存在だと言うかのようなその姿が涙が出るほど滑稽で、吐き気がするほど嫌いだった。
初めて殺しの仕事をしたのはいつだったか。
悪いことなんていくらでもしてきた。自分より悪くて強い人に下って、自分より弱い相手を標的にして生きてきた。だから今更、これまでと大して変わらない。一線を越える、と怯える腰抜けもいたが……一線も何も。確かに自分も少し呼吸が浅くなったが、血の色がまた少し濃くなるだけだ。
初めて人を殺したという恐怖は、自分は特別なことをしたという高揚感にかき消された。
( 正規ギルドの連中にはできないだろう。いや、できたとしてもアイツらはそれを正当化して誤魔化そうとする。それともおきれいな自責の念で自分から牢に入っていくか? 俺は違う。俺は悪として殺した。自分でこの道を選んだんだ。誰にでもできることじゃない。俺はできた。自分の持つ手札に当たり前のように『殺し』を入れられた。俺は今、特別な存在になったんだ――――― )
どんどん暗殺の仕事をこなすようになって、悪名が売れるようになって、そうなれば興奮はますます高まっていった。ああ、標的の怯えきったその顔! 自分が圧倒的優位に立っているという優越感。特に、裕福で権力もあり、幸福な人間関係も円満な家庭も持っているような、恵まれた人間を手にかける時が一番気分がよかった。豊満な報酬が自分の価値の高さだと思えた。
――――― これは、俺たちを暗い闇へと閉じ込め生活を奪いやがった魔法界への復讐なのだ!!
エリゴールはカゲにとって英雄だった。
圧倒的な強さ。権力に屈しない悪辣さ。ありふれたチンピラとは違う、崇高な悪。
――――― 手始めにこの辺りのギルドマスターどもを皆殺しにする!!
できると思った。他ならぬエリゴールなら。とうとう、化け物のようなギルドマスターたちすら下すことができるのだと。自分たちが、光の下でデカい面をしている馬鹿どもを踏みつけて、光の上に立つのだと!
けれど―――――カゲたちの計画はたった4人の魔導士たちによって叩き潰された。
笑っていた。嘲笑っていた。
きれいごとを言ってオツカイみてぇな仕事をして、法と評議会に尻尾を振っていかにも自分が正しい存在だと言うかのようなやつらに、手も足も出ないまま下された。
呆然とした。屈辱的で、腹立たしくって―――――
『 同じギルドのッ、仲間じゃねえのかよ!! 』
闇ギルド相手にそんなお仲間感性が通じるわけねぇだろ。
そう思っても笑えなかったのは、カラッカに刺された傷が痛かったからだ。
『 カゲ! お前のちからが必要なんだ…!! 』
なんで当たり前のように俺が手を貸すと思ってんだ。
そう思っても手を振り払えなかったのは、血が足りなくてちからが入らなかったからだ。
『 ぶつぶつ下向いてねえで、もう少し面上げて前向いて生きろよ 』
ずいぶんと能天気に生きてきたようで。
ばかばかしく思っても黙っていたのは、少し開いた傷に響いてしまうからだ。
『 そんな当たり前の奇跡が、存外世界には溢れているものなのです 』
( じゃあなんで、 )
そんなことは、別に、思ってない。
■
影が差す。光が強ければ強いほど、影はその濃さを増す。
■
あの腹立つ火の玉小僧がエリゴールと戦っていると聞いたとき、カゲは当然のようにエリゴールが勝つと確信していた。
だってエリゴールはカゲにとって英雄だった。圧倒的な強さ。権力に屈しない悪辣さ。ありふれたチンピラとは違う、崇高な悪。あのナツと呼ばれたガキにカゲは敵わなかったが、エリゴールには到底勝てないと思っていた。
エリゴールは闇ギルドのエースだ。正規ギルドの、それも
確信していた。信じてた。信頼ではなく現実だった。
―――――なのに、エリゴールは負けた。
倒れ伏すエリゴール。負けたエリゴール。その姿が、まるで膜一枚隔てた先の事のように現実味がなく思えた。
あり得ないことが起きたのだ。不可能のはずの願望を、現実にしたやつがいる。カゲの中のものをめちゃくちゃにひっくり返す現実が、目の前に。
―――――なんで、と、思った。
なんで、そんなことができる?
なんで、そんなふうになれる?
なんで、お前は、お前たちは―――――お前たち、ばっかり?
嫉妬というより、疑問であった。失望というより、呆然だった。
ただ、なんでと。
ふつふつと遠い昔に割り切った何かがぽつりと問う。
カゲの中の、小さな何かが、なんで、と。
言葉にできない感情と、それ以上の虚脱感に襲われていたカゲの視界に
―――――
意識を失っているエリゴールのそばにころりと転がっている三つ目のドクロ。枯れ木のようなそれは、その禍々しさから厳重な封印を施されていた
それを見てふと思ったのだ。そうだあの封印は、―――――自分が解いたのだ、と。
呪いだ。おぞましい死の象徴だ。もちろん、かけられていた封印も厳重なものだった。経年劣化と言うべきか、かけられた当初に比べれば封印の強度は多少落ちていただろうが、それでも強固なものであったのは確か。
けして解かれぬように、二度とこの悪夢が世に解き放たれぬようにと願われた戒めだった。
それを、自分はひとりで解いた。
スーッと何かが降りてきた気分だった。あるいはパッと視界が開けた衝撃だった。それはカゲの中に生まれた―――――『勇気』だった。
カゲは自分が頂点の存在ではないということを知っている。身の程と言うものを理解している。腹立たしくは思っても
それはカゲのような人間が生き残るために必要な感性だ。だからこそ自分より悪く強いものには下り、できるだけ自分より弱いものを標的としていたのだから。
そんな考えで生きていたからこそこの発想は、生まれた『勇気』は、カゲにとって青天の霹靂だった。
だって笛は、吹くだけだ。それだけで、老練のギルドマスターたちですら屈服させることができる。―――――俺が吹くだけでも。
カゲは自分がぬるま湯で生きてきた連中よりよっぽど
けれどそれを越えて今、カゲはあふれ出るほどの何かに呑まれていた。
自分より強者であったものが成し遂げられなかったことを、自分でも―――――あるいは、
それは傲慢、自意識過剰となじられるような『
だって、目の前にいたのだ。絶対にありえないと思ったことを成し遂げた存在が。カゲが不可能だと信じたそれをひっくり返した存在が!
―――――それは大きな暗闇の陰に隠れていた子供が、初めて一歩を踏み出すように。
「ほれ、どうした。さっさと吹かんか」
「―――――早く」
目の前でジジイが急かす。たしかこいつは
どんな運命の悪戯だろうか。昂った神経で指先が震える。
ひと吹きで殺せる。俺が殺す。エリゴールさんでもできなかったこと。それを、俺が―――――
『 権利とは義務ありき 』
『 ひとのいのちの尊厳を守らぬ者に、なぜその存在を尊ばれる権利が与えられるのです 』
光の上に立つ。俺が、すべてを踏みにじって、強者になるんだ。
強ければ、勝者であれば、どんな理にも阻まれることはない。
何にも阻まれない。何にも侵されない。誰にも嗤われない。
変わるんだ―――――生まれ変わるんだ、この瞬間!!
この瞬間に!!
この時、このひと吹きで!!
「何も変わらんよ」
―――――息が、止まった。
「強大なちからを得ようと、莫大な富を手にしようと、揺るがぬ名声や権力を収めようと、弱い人間はいつまでたっても弱いまま」
マカロフとカゲの目がかちりと合う。その瞳の鋭さに、カゲは吐き出そうとしていた息を引きつって飲み込んだ。
なんでそんなことを言う。―――――見透かされていると言うのか? この笛のことを。俺の目論見を。俺の、こころを?
グググ、と喉が鳴る。回りすぎた酸素に眩暈がする。
吹け、吹け、笛を吹け。たったひと吹きですべてが変わるんだ。
このジジイが気づいていようと最早止められない。
死にぞこないの老いぼれの、
だから早く、笛を、
笛を、
笛を―――――
「グッ、ゥウウウウ……ッ」
―――――なんで、吹けない。
ガチガチと歯が鳴る。耳の奥で心臓が鳴ってる。目が合っただけ。それだけで、あと一歩が踏み出せなくなった。
なんで、なんで、なんで、できないんだ。俺だって、俺だって、できるはずだ。不可能なはずの事でも、だって、俺も、俺だって―――――なのに、
―――――なんで、俺は、できない?
「ウゥウウウ……」
なんで俺は―――――
「こころに巣食う『弱さ』は強い…何かを成そうと何かを得ようと、いつまで経っても染みついて付き纏う。しかしなァに……弱さのすべてが悪ではない。人間なんざァ、もともと弱い生き物じゃ」
俺は―――――
「ひとりじゃ不安だからギルドがある―――――仲間が居る」
呆然とマカロフを見るカゲの瞳は、まるで行き場を失った迷子のようで。
けれど相対するマカロフの瞳は鋭く、強く、―――――広く、凪いでいて、温かかった。
「弱いままでも強く生きるために、仲間と寄り添い合って歩いてゆく。弱い者でも強くなるために、その一歩を踏み出す勇気を、仲間がくれる」
そのぬくもりをカゲは知っていた。
握りしめた手を解く、小さく柔く残酷なぬくもりを。
「不器用な者は人より多くの壁にぶつかるし、遠回りをするかもしれん」
『 理由なんてなくても、 』
この場に来るためにカゲはあの柔い身体を突き飛ばした。その時は興奮で気にも留めていなかった、谷底に傾いていくからだを思い出す。すれ違いざまに視界の端をかすめた|金髪≪ブロンド≫が、チカチカと脳内で繰り返す。
「しかし明日を信じて踏み出せば、おのずとちからは沸いてくる」
―――――言葉が、カゲを呑み込もうとしている。
「強く生きようと笑っていける」
魔力なんてかけらも込められていない。そこに暴力はない。ちからを示す何かもない。なのに、しわの刻まれた目じりが―――――小さいからだから感じる大きな『圧』が、カゲのこころの奥に、深くに、得体の知れないものを穿つ。
だってそこには、何もなかった。カゲを嗤う言葉は何もなかった。憎ったらしいはずのきれいごとなのに、痛くて、苦しいのに、残酷であたたかかった。
―――――今まで、数多の命乞いを聞いてきた。嘲笑を、嘲りを、罵倒を、撫で声を。
「そんな笛に頼らずとも、な」
そのどれもと違う、不可解な熱を持った言葉が、……凍り付いたように笛を握りしめていた指先を解いていく。
見守るようにその瞳の温かさをカゲは知らなかった。
それでも、
―――――カラン、
「―――――………参りました」
敵わないと思った。叶わないとも思った。自分は目の前の人間を殺せないと思ってしまった。
致命的なまでに殺意を失った。自分ではエリゴールの唱えた野望を現実にすることはできなかった。何かを変えることなんてできなかった。
胸にぽっかりと穴が開いたような気がする。圧倒的なものを失った気がするのに、それを惜しいとも不快とも思えなかったことが悔しくて悲しかった。
■
「マスター!!」
「じっちゃぁアん!!」
悠然と立つマカロフと膝をついたカゲのもとへ、ようやくナツたちが駆け寄っていく。こころからの笑顔で愛する人の無事を喜ぶ。
―――――歓声が聞こえる。喜びの声が溢れている。僕たちの望みが潰えたことが歓迎されている。
特にこれといった感情も湧かなかった。無気力。指ひとつ動かないような虚脱感は一周回ってどこか心地よさを感じさせた。世界が膜一枚隔たれた先にある感覚。ぼやけた視界で頭が痛む。
それでも、目の前に膝をついた誰かの足ははっきりと鮮やかに見えた。
「―――――」
破れたスカートから覗く真白の足。ところどころに汚れや傷のあるその足が地べたに両膝をついてカゲに向かい合っている。
のろのろと、何かに惹かれるように頭を上げる。―――――そこに居たのは、あの時突き飛ばした柔いぬくもりだった。
「―――――カゲさん」
ここに居るということは、あの冷たい谷底に落ちることはなかったのだろう。そうでなければこの声がこのようにあたたかいままのはずがない。いや、そうでもおかしな話だ。あんなことをした相手に、どうしてそんな声で話しかけられるんだ。
理解できない。気味が悪い。こいつらはずっとそうだった。訳が分からないし気色悪い。
「包帯に血が滲んでいらっしゃるわ。傷が開いてしまわれましたのね。やっぱり、はやくお医者さまに診ていただかなくては……痛むでしょう」
ゆっくりと紡がれる言葉。気遣う視線。促すように差し伸べられた手のひら。海底に沈む太陽の光を受けて
「―――――なんで」
なんで、助けようとする。なんで、救おうとする。俺はお前らの敵だったのに。お前も、お前たちのギルドマスターも殺そうとしたのに。なのになんで、そうやって俺に手を伸ばす。
それは道中、あの魔導四輪車の中でこぼした言葉によく似ていたが、今の声はより小さくたどたどしいものだった。
理由がなかった。メリットがなかった。それなら、そんなことはあり得ない、はずだった。そう思って生きてきたし、そうでないものは信用ならないものだった。
「……あなたは罪を犯しました。あなたが今まで貪ったいのちは、拭われぬ罪として永遠にあなたのそばにあります。……けれど、たった今、あなたが
『 理由なんでなくても 』
足と同じように擦り傷と汚れのある手のひら。自分に差し出されたぬくもり。その爪も見えない柔い面を見てカゲの目尻が小さく痙攣する。
なんてことの無い、女の手だ。けれどそれはカゲにとって、あんまりにも恐ろしいものだった。
「犯した罪は消えません。けれど、思いとどまったあなたのこころに、……今のあなたに、償いの意志があるのなら。
わたくしが、ほんのささやかでもその一歩を踏み出すあなたの勇気になれればと思うのです」
『 誰かを助けて、誰かに助けられる。 』
ゆったりと揺れた手のひらが、地べたを握りしめていたカゲの手に添えられる。
「……傷を負えば、誰でも痛みます。それは、からだも、こころも……」
『 そんな――――― 』
柔らかく引かれ、カゲの手はルーシィの手に包まれた。そのひとかけらもがカゲを傷つけることはなかった。
「たくさん、たくさん、傷ついたでしょう。…もう、これ以上ご自分を傷つけられるのはおよしになって」
それはきっと覚えている限り初めて、なんの打算も無くカゲのために差し出された手のひらだった。
『 ―――――そんな当たり前の奇跡が、存外世界には溢れているものなのです』
そんなもの、僕の世界にはなかった。なんで今更。なんで。
自分が不幸と思ったことは無い。『まっとう』な暮らしとやらをしている連中を見ても、甘ったれの坊ちゃん嬢ちゃんだと嗤える程度の人間性。普通の組織は気持ち悪くて縛りが多くて面倒で、だから
身の程を弁えて、俺は
なのに、なんで。なんで今更、僕を書き換えようとするんだ。
「さ、……お医者さまのもとに参りましょう。あなたの身柄は評議員に引き渡されることとなりますが、その前に治療をうけても咎められることはありませんもの」
「あらぁ。んふ、しょんぼりしててアンタもかわいいわね~♡」
柔らかく微笑むルーシィと、その隣でくすくすと笑うボブ。何も言えず、カゲはもう一度うつむいた。
ぬるくって、なよなよしくって、気持ち悪い空気だった。少し前のカゲならばうんざりと舌を出して嗤ってやれたのに。
ああ、きっと怪我のせいで精神が少し弱っているんだ。これは一時の気の迷いだ。
今のカゲは気持ちが悪いと言いながら、どんな顔をすればいいのか分からなくなっている。嬉しくなんかない。はっきりとしない。それが気持ち悪かった。―――――つまり、この空気自体を気持ち悪いと思えなかった。
ああ、ああ、気持ち悪い。自分が書き換わっていく。そしてそれを、僕は―――――
■
「 カカカ 」
■
ぞろりと背筋を撫でられたような心地だった。息がつまって顎がわななく。―――――なんだ、今のは。
パッとその場にいた全員が周囲を見回した。
笑い声だ。地の底の底から響くような、おぞましい吐息の音だ。
「どいつもこいつも……根性のねェ魔導士どもだァ……」
ぐるり、と魔力が渦巻く。それはあまりにも重く昏い、気味の悪い恐ろしさ。
「久方ぶりに食事ができると思って待っておれば―――――もう我慢できん。ワシが自ら喰ろうてやろう」
笛が、とルーシィが言った。震える声、信じられないと地べたを見つめる目。全員が視線をたどればそこにあるのは、カゲが手放した三つ目のドクロ。
―――――そのくち元から禍々しい煙が立ち込めている。
「笛です、
「な、なに、なにぃあの煙っ、もくもくが形になってくよ!!」
信じられない現実を確認するように声が、と震えたルーシィ。そして、立ち込める煙が意思を持つかのように『何か』に成ろうとしていることに気が付いたハッピーが叫ぶ。場数の違いか、呆然としたルーシィに対してハッピーはまだ冷静に状況を判断しているようであった。
煙は上空で渦を巻き、次第に『体』を
―――――それは、『成る』。
「なんだ……何なんだ! あんなのは、知らない……!!」
カゲが震える。なんだあれは。
先ほどまでは穏やかに笑っていたボブも流石の展開にたらりと冷や汗を流す。あら大変、と小さく零してみたが、もちろんそんな言葉で済む話ではないと知っている。
そしてボブと同じことを理解したゴールドマインも「なんてことだ」と冷えた息を吐いて唸った。
ボブとゴールドマインが会場の外に居たのは、何かしらの『邪悪な魔力』が近づいてくることに気がついたからだ。他のギルドマスターたちも気がついていたが、全員がマカロフが居れば事足りると判断した。事実、きちんと丸く収まった。―――――青年の方は。
こんなの想定外だ。この禍々しさ、悪辣さ。肌を舐める邪悪な魔力。笛のままの時とは比べ物にならない『恐怖』。
こんなおぞましいもの、それ以外にあり得てたまるかと奥歯を鳴らす。
「こいつァ―――――『ゼレフ書の悪魔』だ……!!」
■
「―――――さあ、差し出せ」
見上げるだけではるか遠く、声ひとつで芯が凍える。悪夢のようなその姿―――――
「貴様らの―――――魂を」
これこそが
―――――ああ、子守唄が聞こえる。
■
―――――歌だ。
ルーシィは本能で理解した。おぞましい声……身震いするそれが、眠りを誘う歌なのだと。
そして目の前の脅威に、理解した事実にゾッと血の気が失せてしまう。―――――
「はあ!? 魂って食えんのかァ!?」
「ンなこと知るかボケェ!!」
こんな状況でもナツとグレイが気の抜けるような言い合いをする。けれどさすがの事態にふたりも顔を険しくさせていた。
―――――鍵を握りしめる。
背筋を絶え間なく走る怖気。とっさに取り出した鍵を取りとしてしまいそうなほど震える手を、ルーシィは白くなるほどちからを込めた指先で堪えた。
「まさか……ま、魔法そのものが生きているというのですか……」
「そう。あの笛、
「ゼレフって、まさか―――――!!」
端的に応えたゴールドマイン。そして改めてもう一度くちにしたその名前に、グレイが目を見開いて反応した。
ゼレフ―――――黒魔導士ゼレフ。それは遡れば数百年前に生まれ落ちた原初の悪夢。魔法界で歴史上最も凶悪な魔導士と言い伝えられる
いや、
「何百年も前の負の遺産が、今になって姿を現すなんてね……」
「クッソお前らマジで厄介なことしてくれたな!」
「うっ、うるさいうるさい! 僕たちだってまさかあんなバケモノが出てくるなんて知らなかったんだよ!! 分かるわけないだろ、こんなの!!」
最低だわ、と息を吐くボブ。堪ったもんじゃねえとグレイがカゲに怒鳴れば、カゲも知ったことかと怒鳴り返した。だって掘り起こした呪具がバケモノになるなんて普通思わないだろうと。
そんな人間側の混乱を歯牙にもかけず、
香ばしい芳香にクルリと喉が鳴る。寝起きにはちと胃もたれをするだろうか。いやいやしかし、封印明けとなればエネルギーはたくさん摂取できた方がよい。どうやらここには他にも上質な魔力を持つ人間がいるらしい。嗚呼幸運かな。
どいつの魂からいただこうかと
「決めたぞ」
吸い込まれていく空気。練り上げられていく魔力。
「―――――全員まとめてだ」
ルーシィはとっさに耳をふさいだ。思考は無く、反射的な防御態勢だった。
その瞬間、ルーシィの両隣から三つの影が飛び出す。
「 あ、」
―――――ナツだった。グレイだった。エルザだった。
その三人が、
「―――――ああ、」
エルザは瞬時に鎧を換装しその巨大な足を切りつける。
ダメージを受けたことに怒り
定例会場から駆けつけてきたギルドマスターたちが騒然とする。流れるようなチームワーク。確固たる実力。おぞましきバケモノを相手に一歩も引かぬその雄姿よ―――――
「ああ………」
ルーシィはその姿を仰ぎ見る。―――――彼らは
だからこんなバケモノの登場なんて想定してなかった。だからみんな慌てていた。
なのに、今彼らは立ち向かっている。
呆然としてしていたルーシィとは違い、現状をしっかりと見極めていた。
ここに居るギルドマスターたちは
ルーシィだって確かな情報を持っているわけではないが、
そう、自分だけだった。
ルーシィはとっさに自分の耳だけをふさいだのだ。そばに居るカゲやボブ、ゴールドマインやマカロフに情報を伝えたりすることも無く、ただ自分だけを。
もちろん、ルーシィは他のみんながどうなってもいいなんて思っちゃいない。そんなことはあり得ない。ならばなぜか? ―――――ルーシィにできることがそれだけだったからだ。
ちからが無い。経験がない。とっさに
それは他の三人とルーシィとも明確な差だった。
ルーシィは戦う彼らの背を仰ぐ。―――――遠い。
かつてそこに尊敬を抱いたはずのルーシィは、今はただ、ただ、悔しかった。すごいと思う。尊敬はある。そして、そこに並べない自分があんまりにも悔しかった。
それが成長であるのか愚かさであるのかはルーシィには分からない。
分からないけれど、―――――ルーシィはぎゅう、と歯を噛みしめた。
それでもルーシィにも秩序がある。悔しいわ悲しいわ寂しいわ、とぐずっているだけで終わるほど、可愛らしい子ではいられなかった。
鍵を握りしめる。―――――私を愛してくれた、大切なお友達。
初動が遅れた。でも
できることが少ないのなら少ないなりに、できる最大限をしなくては。
「おいデカブツ! 寝起きで腹が減ったって? ならたんと食らいな―――――アイスメイク、
グレイが煽って意識を自分に向けさせながら氷で創り出した槍の雨を降らせる。その威力と質量に
「開け、処女宮の扉、ッ バルゴ !!」
魔導四輪車の運転で空っぽになった魔力。ようやく少し回復したというところで駅から脱出するために契約していない星霊を使役し、より負担をかけてまた空っぽに。
おかげさまで回復スピードはすっかり落ち込み、未だに3分の1も戻っていない。
( ええ、けれど、3分の1もあれば十分ですわ )
足りなくても絞り出してみせよう。ここで動けるのなら、倒れたってかまわない。
だっていつだって間に合わなかった。
例えば船で、あの船長室で、ナツがボラたちと戦った時。ルーシィは愚かにも二度、動けずにナツのピンチを見ているだけだった。
例えば雪山で、奥深い洞窟の中で、ナツがバルカンと戦った時。ルーシィは谷底に突き落とされたナツを救うことができなかった。
結果としてナツは難なく反撃してみせたがそれでも。
あんなのは二度とごめんなんだ!
「バルゴ、
「―――――承知いたしました、お嬢さま」
呼び出されたバルゴはゆるりと首を垂れ、一瞬にしてその姿を消す。よかった、来てくれた、とルーシィは小さく安堵した。
契約していない星霊の使役は消費魔力量と負担が大きいほかに、何より星霊の信用を損なう行為だ。
星霊魔導士と星霊の関係で大切なのは信頼と絆。なのに契約もせず無理やり利用しようとすれば『相応しくない』と思われて仕方がない。故に、横暴すぎる無契約使役は星霊から拒絶される可能性が極めて高い。
けれどバルゴは来てくれた。ルーシィの願いを聞いてくれた。ああ、こんなに甘えてしまって本当に申し訳ない。―――――来てくれて、嬉しい。
「グ、オオオオオオオオッ!!」
ズウウウウウゥンッ!!
バルゴが空けた大穴は
「今だ!!」
唐突な落とし穴に思わず目を見開いたグレイはしかし瞬時に状況を判断し声を張る。そうすればけして機を逃さない仲間がいると知っていたから。
―――――魔力が渦巻く。
ルーシィは魔力が枯渇しぼやける視界でそれを見た。黒き鎧を身に纏ったエルザと、両手に炎を滾らせるナツ。
とっくに日の沈んだ暗い夜空を一閃し、燃える太陽が顕現する。
( ああ、 )
世界が眩く目を覚ます―――――もう、大丈夫だ。夜を切り伏せ朝が来たから。
最も美しい朝焼けが、明日を照らしてくれたから。
「バ、―――――バカ、な、 ……」
爆発音。耳が馬鹿になりそうな爆音に包まれながら、ルーシィはただその光景に魅入った。
―――――打ちのめされた
■
「は、はは……」
カゲは乾いた笑いを零す。泣きたいのか笑いたいのか分からなかった。感情に理解が追い付かないまま目頭がぐっと熱くなり、滲んだ涙で視界がぼやける。
「すげぇ、」
すごいと思った。思ってしまった。すごいと思えた。思えてしまった。
くちの端が痙攣する。勝手に口角が上がっていく。
「………すごいなぁ」
目の奥がチカチカする。そこに居るのは気に食わない正規ギルドの、気持ち悪いことばっかり言ってる連中のはずなのに。
眩しかった。―――――かっこよかった。
■
ひときわ大きな音を立てて
「なん、という……」
「ゼレフ書の悪魔が、こうも、あっさり……」
そしてその場に堂々と立つ、三人の若き魔導士たち。呆然としたギルドマスターたちの声を聞いてマカロフが呵々と笑った。どうだどうだ、と我が子を見せびらかすように胸を張る。
三人はその喧騒に笑った。無事を願った
「わっはははー!!」
笑う子供たちが親に駆け寄れば、他のギルドマスターたちも思わず笑う。彼らからすれば、いきさつは分からないが
ひとりが評議員に連絡を始めたため、数人が戦った三人の、特にナツの手当てに動く。残りのほとんどのギルドマスターは、総出で起動停止し形を失って笛の姿に戻った
「おぅおぅ、こりゃ深い穴じゃわ……あいたた、覗き込むだけで腰が痛い!」
「まさかこの歳になってゼレフ書の悪魔封印に携わるとはの…」
「わしゃ一生縁が無いと思っとたわい」
「それは呑気が過ぎるわよぅ。でもどーせなら現役時代のピンッピンしてる時にしてほしかったわねぇ」
「くっちゃべってねぇで手を動かさねぇか。オラ、二度と目覚めねぇようにガッチリ閉じ込めるぞ」
―――――その様子を見ながらルーシィはゆっくりと地面に膝をつく。バルゴはルーシィの魔力消費を
それから、安堵と。
やっと終わった。間に合った。誰も失うことなく、きちんと丸く収まった。
「………駅の、」
駅の軍人たちはどうなっただろうか。きっともうエリゴールが施した術式は魔力を消費し終わって消えただろう。駅員に通報を頼んだから救援は駆けつけてくれたはず。後遺症も無く助かってくれればいいけれど。ああ、
それから、魔導四輪車の件。最初に借りたお店に謝って、賠償して、それからエルザが勝手に借りてきた分も謝りに行かなくちゃあいけない。
あと、それから、それから………
ぼう、と魂が抜けたように座り込むルーシィ。その姿にふと、影が差す。それに誘われるようにのろのろと顔を上げれば、
「―――――おい」
―――――カゲだった。包帯だらけのその体で、カゲがルーシィのそばに立っていた。
カゲは何かを探すように視線を彷徨わせ、それからルーシィに向かって手を伸ばす。
しかしすぐにハッとして手のひらを自分のズボンにこすりつけた。そうすればそこに泥がついて。
そして、泥の拭った手を、今度こそ真っ直ぐに、ルーシィへ伸ばした。
「―――――」
手のひらを上に、誘うように。それは誰から見てもルーシィを立たせるための手で。―――――カゲがルーシィのために差し出した手で。
■
怖かった。どうしたらいいんだろうと。
間違っていたのかと絶望し、けれど、それでいいのだと許された。
そして向かったその先で、―――――手を、差し出してよいのかと。
座り込むその人に、もう一度手を差し出していいのかと。
指先が震える。握った拳で、手のひらに爪が食い込んで痛む。
また、この伸ばした手が悪い方向へ転がってしまうかもしれない。こんな無責任なことを、本当にもう一度してもいいのだろうか。
この意志は許された。けれど―――――
『 そん時は
―――――だから、それを勇気に。
■
そっと手を伸ばす。差し出された手のひらに乗せればそれはビクリと小さく揺れた。けれどすぐに手は包まれ、力強く腕を引かれる。
そうすれば自然と立つことができた。まだちっとも回復していないのに、先ほどまで力が抜けきっていたのが嘘のように。
腕を引いたちからは配慮なんて感じないくらい強かったのに、痛みよりも安定感を感じる。
立ち上がる。繋がれた手。じっと見つめ合う。―――――真っ直ぐ、ちゃんと目が合った。
■
「ルーシィ!」
マカロフのもとから、ナツが笑顔でルーシィに走り寄る。その視線が彼女の隣に移る前に手は離れ―――――カゲはルーシィに背を向けた。
「ルーシィ、すげぇなあの穴! あれあのメイドが掘ったやつなんだろ?」
「―――――ええ、バルゴが頑張ってくださいましたの」
ナツが大穴を指さしてはしゃぐ。ルーシィはそれに応えながら視線をカゲの方に移す。彼はぬるりと近づいてきたボブに肩を組まれ話をしていた。話の中身は医者に診てもらいなさい、という気づかいだが、あの肩組みは拘束の意味もあるのだろう。
「にしてもエリゴールに
「ええ、本当に。……ナツくんには、助けていただいてばかりですね」
「あン?」
片眉をひょんと上げてナツが首を傾げる。ルーシィはそれに微笑んで返した。
ずっとそうだった。ナツはいつもルーシィを助けてくれた。初めて会った時から今まで、ルーシィの体を―――――何より、こころを。
「ナツくん」
「おう」
「ほんの少しだけ、わたくしのお話を聞いてくださいませんか」
ルーシィは再封印される
「―――――……強い人に、なりたいのです」
「強い人ぉ? エルザみてぇな感じか?」
「ふふ、……そうですわね、エルザちゃんみたいに強くって、………優しい人に、なりたいのです」
優しい人であるには強くなければいけないのだと、ルーシィは悲しいほどに理解した。くちだけではだめなのだ。後のことの責任も取れないようでもだめだった。すべてをひっくるめて、それでも優しくあれる人にルーシィはなりたいのだ。
それがどれだけ険しい道でも、そうなりたいと思えたから。
『 悪いことっつーのは、大体したやつが悪いだろ 』
『 それでも悪いことをしたのはそいつで、そこでルーシィが悪いことにはなんねぇ! 』
―――――自分のしたことに怯え、お前は悪くないと言われてようやく安心できるようなままでは到底叶わぬ夢だから。
「カゲはきっとお前が手を伸ばしたからお前に手を伸ばしたぞ」
ハッとした。ルーシィが思わず視線をナツに向ける。
ナツはルーシィを見ていた。
真っ直ぐ、その瞳がルーシィを射抜く。
ナツはくちを開く。確信なんてない、言わば勘。なんとなくルーシィがまた落ち込んでると思っただけ。ただあの線路の上での会話が事前にあったから、ぼんやりとでも繋がる点と点があった。
だから言うべきだと思った。頭のいい癖に変なところに気付かないこの大切な仲間のために、いまここでたったひと言でも言うべきだと。
そして考える前にくちを突いて出てきた言葉は、ばっちり正しかったらしい。ナツはルーシィの表情に目を細めた。
ナツはその時一緒にいなかったが、魔導四輪車の中でルーシィがカゲと話をしたことはグレイから聞いた。けれどカゲはルーシィを突き飛ばして
ルーシィは死にかけたのだ。あの時ナツが間に合わなければルーシィは死んでいた。たったひとり暗い谷底に落ちて、二度と帰ることは無かっただろう。
それでもルーシィはもう一度カゲに手を伸ばした。手のひらを上に―――――もう一度カゲの手を取った。
そして、たった今。カゲは座り込むルーシィに自分の意志で手を差し出した。
それはなぜか。どうして? ―――――そんなこと、言うまでもなく。
「―――――あァ、そういや俺も一個言うことあった」
ふと、ナツは何かを思い出したように手を打った。それから、ちょうどいいから今言おうとルーシィの手をすくい取る。
その柔い手にできている小さな傷たちに障らないよう、努めて優しい力加減で先ほどと同じように指を絡めて、ナツはその手をふたりの目の前へ持ち上げた。
「次は突っ込んでぶん殴る」
唐突な宣言。物騒な言葉だが、それはルーシィを、ではなく、カゲのこと。正確には、敵、襲い来る脅威について。
今回ナツたちが介入することをふたりのギルドマスターに阻止された。その意図をルーシィがくみ取り、全員がマカロフを信じて『待つ』という選択をとった。
結果としてそれは正解で、マカロフは言葉でカゲを止めた。―――――しかし、そうでなかったら?
それはマカロフを信用していないということではなく、待った結果失うことがあったとしたらというもしもの話。
―――――そうなったら、きっと一番苦しむのはルーシィだった。
最初に待つと決めたのはルーシィで、ナツはそれを見て待つことを選択肢に入れた。そしてエルザとグレイは止まった自分たちを見て決めた。
もちろん経緯はどうあれ選択したのは当人たちなのだから、それがルーシィの責任になることはない。
けど理屈と感情は別のものだ。……特にナツは、迷った末にルーシィを理由にした。
あの時ルーシィは死にそうなくらい真っ青になっていた。不安だったと思う。ものすごく怖かったと思う。けれどそれでも、手を伸ばしたけど触れることはなくナツに縋らなかったのは、ルーシィは「それを自分が選んだのだ」と覚悟したからだ。ナツはそう感じたし、外れていないと思っている。
その手をナツがとった。―――――なのにナツはそれを理由にした。
極度の緊張で氷のように冷たくなったルーシィの指先を覚えている。
そんなつもりがなくたって、あれはルーシィひとりに責任を押し付けたのと変わらない。
「待ったのが正解だったけど、ぶん殴っても間違いじゃなかっただろ」
待っているのは辛かった。心臓が嫌な音をたてて、とてもじゃないがそう何度も味わいたいものじゃない。ましてや仲間に責任を押し付けて! あんなのは二度とごめんだ。
だから今度は殴りに行く。じっと待つのが性に合わないことは百億年前から知っていたが、今回の件で改めて理解した。
「どうしようもない時はしょーがねーけど、それでもギリギリまで考えて暴れるんだ。待つだけなんてやってらんねぇだろ
ナツはそっと手を放す。そのまま左手で拳をつくれば、ルーシィが困ったようにそれを見てぎこちなく左手を握って見せた。
きっと意味は分かってない。でも今はそれでいい。ルーシィが分かんないままマネっこすることをナツは知っていた。
「納得できるまで足掻こうぜ、
こつ、とナツの拳がルーシィのを小さくはじく。ルーシィは目を見開いてナツを見ていた。
それからぱちり、瞬きひとつで瞳が揺れる。ああ―――――ルーシィはちゃんとナツの言いたいことが理解できた。
それは一緒に、という事だった。一緒に考える。一緒に暴れる。一緒に悩んで、一緒に足掻こうと。
泣いたって笑たって、成功したって失敗したって一緒だと。
嬉しくて楽しくても、苦しくて悲しくても、一緒だと。
諦めなくていい。我慢ばかりしなくていい。やりたいことをやるんだ。―――――
ナツから言われたこと、自分の感情。混ざり合ったそれは一連の事件で何度も揺れ痛めたこころの内に優しく優しく爪を立てる。
その爪痕は、痛くてたまらないのにちっともルーシィを傷つけてくれなかった。
「強くなるっつったら、めちゃくちゃ修業しねぇとなァ。あとやっぱ実践だろ実践。っし、帰ったらすげぇ仕事バンバンいれーよぜ!」
ナツは明るく笑う。ケラケラと楽しそうにルーシィを見て笑う。
「……できますかしら、わたくしに」
「できるだろ」
どこか細いその声にナツはけろりと返す。なんでもないような声で当然のように肯定される。それが、どれほどの……
「今回もルーシィがいてよかったぜ。俺らだけじゃ
「お前やっぱすげぇよなあ。エルザと勝負したあと、ルーシィとも戦いてぇな」ナツがあんまりにも楽しげに言うからか、ルーシィはうんと頷きたくなってしまった。けれど
「いいえ、わたくしではとても、ナツさんのお相手は務まりませんわ」
「んなことねーよ。……しゃあねーな、じゃあ、ルーシィが良いって思うまで強くなったら勝負しよーぜ」
仕方がない、妥協してやろう。そんな表情でナツが言う。それはルーシィの願いを笑うものではなく、否定するものでもなく……それはいつかの叶った未来を待ちわびる言葉だった。
ルーシィはぎゅう、と唇を噛む。あふれ出そうになる何かをぜんぶぜんぶ飲み込んで―――――背筋を伸ばし、静かに微笑む。
それは揺るぎを見せない白百合の微笑み。
「―――――はい。その時は必ず。………ありがとうございます」
「おーい、ナツぅ、ルーシィ!」マカロフの元からハッピーが手を振る。それにナツが手を振り返す。どうやらすっかり日も暮れてしまっていることから、定例会場のシャワーやベッドを貸し出してくれるらしい。
確かに眠いな、とナツは思った。さっきまでは戦っていたから元気だが、ひと段落したら疲れと眠気とが一気に来て目がしぱしぱする。ナツはシャワーと寝床のついでになんか食べ物も貰おうと考えた。元気に暴れて魔力を使ったのでお腹もすいていたのだ。
「肉くいてぇな~。あと炎! ルーシィは何が―――――ルーシィ?」
山盛りの肉もいいけれど、魔力回復重視ならやっぱり美味い炎がいい。ナツがルーシィも何か食べたいだろうと少し寝ぼけ目で声をかけようとしたところで、ザジャ、と何かが倒れた音がした。
音に釣られて隣を見ると、並び立っていたはずのルーシィがいない。あれ、と首を傾げれば、
「―――――!!」
遠くからハッピーの叫び声が聞こえた。目を向ければこちらを向いて驚いている様子が見えた。いや、ハッピーだけではない。エルザやグレイも同様に驚愕した様子でこちらを、―――――ナツの足元を見ていた。
ナツは視線を辿って、思わず息を呑み目を見開く。
「ルーシィ……!?」
―――――そこには青ざめた顔で倒れ伏すルーシィが居た。
ルーシィめちゃくちゃ揺らぐ回。正しいことって何だろう。良いことと悪いことって何だろう。ルーシィはそれを断言できるほど外の世界を知らないのでした。
「カゲはきっとお前が手を伸ばしたからお前に手を伸ばしたぞ」
↑どこかに「、」とかを入れてセリフを区切ろうかと思ったんですが、一息で言い切ったような勢いのイメージを持たせたかったのでこのままにしたら威圧感すごいですね。
ところで、今のところルーシィが凹んでたり揺らいだりしてる姿はナツとハッピーしか見てないんですよね。グレイやエルザからしてみれば世間知らずだけど肝の座ったガッツのあるお人好しとかに見えているでしょう。
間違いではないんですけど、その合間合間にある葛藤や困惑や揺らぎはナツとハッピーしか見ておらず、そしてそれから立ち直る支えになっているのもこのひとりと一匹で。
恋愛方面に持っていくフラグではなく、こう、仲間としてのエモさ(語彙力の限界)を出していけるようにしたい。
と、いうわけであと1話後日談的なものが続きます。
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