けものフレンズ Sub Story (SCP1109)
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○○○○○とイエイヌ プロローグ

 自分のしたことがいたたまれなくなって、あの場にいるのは居心地が悪かった。だからあのヒトに最後、命令を貰ってかけだした。けれども風に乗って聞こえてくる楽しそうな声が走る力を奪っていく。顔は自然と下を向き、ビーストの爪が食い込んだ左肩を押さえてお家を目指す。

 ヒト達があのお家に戻らなくなって一体何回太陽が沈んだだろう。あのベッドはヒトのために作られたのに、使われることはない。椅子も、テーブルもそうだ。

 また今日も戻らないままだ。明日も明後日も、戻らないような気がする。でも、待たなければならない。それがわたしなんかのためにヒトが与えてくれた使命だから。

 アルマーとセンちゃんにヒト探しを頼んだのは、正直なところ気休めだった。お二人には悪いけど、失敗の報告を聞いて、安心したかったのかもしれない。もうジャパリパークにヒトはいない。その証拠が欲しかったからあのお二人に頼んだのだろう。今思えばそうだった気がする。かばんさんはヒトのフレンズだし、何か忙しそうなのは分かっていたから邪魔はできなかった。

 でも彼女たちは連れてきてくれた。もうきっと会えないだろうけど、出会わせてくれたのだ。大変だっただろうに、ジャパリスティック一箱の報酬で良かったのだろうか。

 だが理由があるからといって、わたしがした事の自分勝手さや、罪深さはちっとも軽くなんてならない。カラカルさんには嘘をついて友達を引き離すようなことをいってしまったし、サーバルさんが来てくれなかったらわたしもあのヒトもビーストにやられていただろう。頼りないわね、なんていわれても仕方の無いことだった。

 歩くたび、傷が擦れて痛む。

 わたしはわたしがこんなにも自分勝手だったことに驚く。ヒトがいると報告してくれた時から、ずっと浮き足立っていたように思う。その時点ではあのお家に住んでいたかどうかも分からなかったのに。自分の事だけを考えていた証拠だ。

 そして、ヒトと会えただけで嬉しいんです、なんてヒトなら誰でもいいような言葉が口をついてしまうほどに自分勝手だった。無理矢理連れてきてしまったのはわたしのせいなのに、相手の気持ちを考えずにはしゃいで、更には遊びにまで付き合ってもらって。ヒトを守るのがわたしの使命だといいながら、守られていたのはわたしのほうだったのかもしれない。

 水の匂いと流れる音が聞こえる。この林を流れる小川が近くにあるのだ。毛皮は泥だらけだし、このままだとお家が汚れてしまう。土を落として行こう。わたしはそう思って匂いのするほうへ進む。

 歩く速度が遅いので、どんどん日が暮れていく。暗くてもものを見ることはできるし、色んな匂いや音で周りを確認できるので問題はないが、夜は不安になる。ヒトと一緒に暮らしていたときはそんなことを感じたことはなかった。

 そして、今日は格別に不安だった。ビーストにコテンパンにされたからだろうか。

 川に着いた頃にはすっかり夜になってしまった。

 流れる水に足を入れる。冷たい。身体が火照っていたことに今気付いた。

「……っ」

 激しい戦闘、というよりも一方的に引っ搔かれたり、地面に叩きつけられたりしてボロボロになった身体に水が沁みる。目を瞑り、意を決してしゃがんで潜る。水流が傷口に触れていき、刺すような痛みに馴れることはなかった。

 痛い。

 どうしようもなく痛かった。けれども、汚れを落とさないと大切なお家が汚れてしまう。顔や足、腕、毛皮を手でさすり土を洗い流していく。そういえば、ヒトと住んでいた時は水が身体にかかったときの感触が嫌で洗われまいと暴れたりしていた。『おふろ』という言葉が合図だった。その言葉をヒトがいうと、温い水がでる変な形をした棒をこちらに向けて嫌がるわたしを捕まえるのだ。洗われるのは嫌だったけど、洗い終わったあとにわざと身体を震わせてヒトに水を飛ばすのは楽しかったし、ヒトも笑いながら布で拭いてくれるのは心地よかった。

 息が続かなくなり、立ち上がる。夜空に月が見えた。無意識に手を伸ばすが、届くはずもない。不意に一筋の光が流れた。確か、『ながれぼし』というやつだ。その『ながれぼし』があるところに、ヒトはいってしまった。大昔にはイヌもそこにいったことがあったのだという。だとしたら、どうしてわたしを連れて行ってくれなかったのだろう。ヒトは時々よく分からないことをするが、これはその中でも大きな謎だった。別れたときのことを考えないようにし続けていたからか、すっかり思い出せなくなってしまっていた。

 川から上がり、身体を震わせて水を飛ばす。前はそれで水が飛んでいってくれたのだが、この毛皮は水を吸って思うように乾いてくれないのだ。だけど、ついていた泥はほとんど落ちている。身体も洗ったし、朝になれば乾いているだろう。せめてあの拭く布があれば良かったがないものは仕方がない。乾ききるまでお家には入れないが、中が汚れるよりマシだ。

 耳がピクリと動く。遠くで音がしたのだ。何かがぶつかるような、崩れる音だった。傷が痛いし、疲れているのでそれを無視したかったが、そういうわけにはいかない。その音がしたのはお家の方角だからだ。

 林を出て道を辿る。自然と歩く速さは上がった。嫌な予感がした。この辺りは原っぱで、木がまばらに生えている以外何もないエリアなのだ。そう、お家を除いて。痛みを伝えてくる傷を頑張って無視して早歩きになり、だんだん小走りになっていた。

 お家が近づくにつれ、埃っぽい匂いがしてくる。それに嗅いだことのないものも混じっていた。

「え……」

 見えてきたのは破壊された門と、抉られた地面。そこには確かお家があったはずだけど、綺麗さっぱり無くなり、その奥には見たことのないものが突き刺さっていた。

 その場所ははヒトとわたしが暮らしていたお家だった。

 いつの間にか駆けだしていた。痛みは感じなかった。それはお家の横の壁を突き破り、床を抉っていた。バチバチと雷を小さくしたような音が鳴っていて、少し焦げ臭い。危険だと自分の奥深くが叫んでいたが、気にならなかった。そこからの行動はわたしじゃない何かがわたしを操っている感じだった。ヒトが置いていった大きなかばんを持ち、その中に葉っぱとお湯を入れる透明なやつとコップ、フリスビー、ヒトが使っていた毛布、蓄えておいたジャパリまんなど、かばんがいっぱいになるまで入れていった。満タンになってひとまず区切りがついたからだろうか。いつもなら真っ先に気付くだろう匂いに、その時初めて気が付いた。

 血の匂いだった。

 わたしは辺りを見渡したが目で見えるところに怪我人はいなかった。このお家がたくさんある場所にはわたし以外住んでいないはずだ。ずっと独りだったのだから。

 だとしたら……。わたしは突き刺さったそれを見上げた。よく見ると窓のようなものがある。直感が働いた。もしかしてこれはヒトが作ったものなのかもしれない。

 一旦そう思うと、動かずにはいられなかった。ジャンプして登ろうとするが、壁がつるつるしていて上手く登れない。回り込んで、エリマキトカゲのエリマキのように広がっている部分を見つけた。そこに手をかけて上に登る。丸く膨らんだ不思議な形の窓にはヒビが入っていた。のぞき込むと誰かが椅子に座っている。気絶している様子で、毛皮は肩の辺りがじっとりと濡れている。多分怪我をしてしまってそこから血が出ているのだろう。胸はかすかに上下しているから、かろうじて息はしているみたいだ。

 早く助けないと。そう思ってわたしは窓を叩く。思ったより硬い。でも叩き続けているうちに元から入っているヒビが広がり、窓が小さく割れた。だが、腕が一本入るぐらいの小ささだったので、まだ叩き続ける。ヒトの傷口辺りがキラキラとしている。

「――危険。バイタル低下ヲ確認。緊急事態ト判断。フレンズノ協力ヲ得ル」

 突然不思議な声が下からした。この辺りでよく見かけるラッキービーストだ。時々ジャパリまんをくれるので匂いを覚えていたが、声は初めて聞いた。

「ラッキーさん?」

「イエイヌ。ボクヲ上二乗セテ」

 ラッキーさんはぴょんぴょんと跳ねながらわたしにそういった。

 何だか分からないけど、中にいるヒトを助けられるのだろうか。とにかく一旦降りて彼(?)を抱えて再び登る。

「キャノピーヲモウ少シ壊セルカナ」

「きゃのぴー? この窓のことですか?」

「ソウダヨ」

「分かった」

 割れたところを叩き、穴を広げる。不思議な窓で、お家のはすぐに割れるのに、これは中々割れなかった。でも、何とかラッキーさんが入れるくらいの穴は開けることができた。

「イエイヌ。窓カラ離レテ」

 わたしは頷き、いわれた通りにする。ラッキーさんは穴から中に入り、ほんの少しだけ待つとプシュと音がして窓が起き上がった。でも驚いている暇はなかった。

「イエイヌ。ヒトヲ運ンデ。揺ラサナイヨウニネ」

「はい。分かりました」

 落ちないように起き上がった窓の端っこを持って中に入り、小さなヒトの女の子を抱える。軽かったので慎重に抱き抱えるのはさほど難しくはなかった。しかし、思っていたより体温が低い。血が流れすぎたからかもしれない。鼻をつくような匂いが彼女にまとわりついていた。浅く短い不規則な呼吸がわたしを不安にさせる。

 急ぎながらも丁寧に、無事だったベッドに横たわらせた。傷口でキラキラと光っていたのはサンドスターだと気付いた。

 ラッキーさんがピピピ、と不思議な音を出して目から緑色の光を突き刺さったそれに当てる。

「分析中……分析中……」

 広がった緑の光を上から下に移動させていく。と、わたしの鼻は焦げ臭い匂いを感じて、今の状況を再確認した。そうだった。のんびりしている場合ではない。

「ラッキーさん! ここは――」

「危険! 危険!」

 二人とも同じタイミングで同じ結論に至った。頭の中は痛いほどにここが危険であるということを伝えてくる。今度こそその警告に従う。

 わたしは大きなかばんを背負い、女の子とラッキーさんを抱きかかえる。開けっぱなしにしていた玄関から飛び出す。荷物やヒト、ラッキーさんを抱えていたのに不思議と重さは感じなかった。そのまま塀を飛び越え、走ってお家から距離を取る。

 轟音が後ろから叩きつけられた。耳が痛い。少し遅れて風が背中から吹き抜けていった。わたしは振り返った。炎が上がっている。赤いそれは黒煙を生み出す代わりにお家を、お家たちを燃やしていく。住んでいた場所を炎が細かく軽くして、煙に変えて空に持っていっているように思えた。

 わたしはその様子をただただ眺めるしかなかった。火は怖いし、小川から水を汲んできて消すには手持ちの道具ではどうしようもない。

 頭の中の警告は消え去ったけど、どうしてかわたしの胸はざわついたままだった。

「イエイヌ」

 ラッキーさんがわたしの名前を呼んだことで二人を抱えていることを思いだし、疲労がどっと襲ってきた。最後に踏ん張って、女の子をゆっくり原っぱに下ろす。ラッキーさんはその途中でぴょんと、わたしの腕から飛び出した。

 ヒトの毛皮は取ることができる。血で濡れているから取り替えてあげたかったが、かばんにはヒトの毛皮が入っていない。それに、このままだと血が流れすぎて死んでしまうのではないかと心配してめくり、せめて綺麗にしようと傷口を舐めようとしたが、驚くことにほとんど傷が塞がっていた。裂かれていたであろう皮膚がピンク色の新しい皮膚によってくっついている。

 ヒトはこんなに傷が治るのが早かったかなと思ってラッキーさんに訊いてみたけど、いつものように無口な彼に戻っていた。目と目は合っているから聞こえていないはずはないんだけど、案外ラッキーさんはシャイなのかもしれない。

「ありがとう、ラッキーさん」

わたしは彼にそういってから正座して、太ももに女の子の頭を乗せる。ヒトは寝るとき頭が柔らかくないと気持ちよく眠れないらしいので、そうする。

 眠っているというより多分気絶しているのだと思うが、さっきみたいな浅くて短い不規則な呼吸じゃなく、規則的な呼吸に戻っており、何より体温がさっきに比べて高くなっている事を確認して、わたしはホッとした。

 彼女の顔が揺らめく炎の光でうっすら赤く見える。今は風上にいるから火の手がこちらに来ることはない。彼女の傷も塞がっているので多少は動かしても大丈夫だろう。なので風向きが変わる前にもっと遠くに逃げるべきではあった。せめて小川の近く辺りまで離れるべきだ。しかし、わたしはもうその場を動くことができなかった。ラッキーさんが燃えているお家に向かっていくのを視界の端に捉えた。

 しかし、太ももに少しの重さと暖かさを感じながら、かばんを背もたれにわたしの意識は遠のいていった。

 



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○○○○○とイエイヌ 1

 ぺちゃ。

 頬に生暖かい何かが落ちた。まぶたを透かして光を感じる。しかし、起きるのはつらい。混濁した意識は再び眠りにつこうとする。人肌より少し暖かめの柔らかい枕がそれを後押しする。

 身体をごそごそと動かして横向きになる。するとまた生暖かい何かが首筋に落ちてきた。さすがに何が起こったのか確認しようと目を開けた。

 原っぱとまばらに生えている木、青い空が見えた。ここは外のようだ。いつの間に外に出たのか。寝ぼけた頭では思い出せなかった。それに、特に曇っているふうでもなくむしろ晴れ渡った空で、雨が降りそうな気配でもない。だとしたら顔に落ちてくる生暖かい液体は何なのか。

 強い光でぼやける目を擦りながら私は上を向いた。

 可愛らしい顔が寝ていた。柔らかそうなほっぺたや、活発そうなくせっ毛を持った人物だった。と思ったが、頭頂部に大きなイヌ耳がくっついている。コスプレでなければフレンズだろう。

 フレンズ?

 なぜ私は特に疑問も無くフレンズだと思ったのだろう。それも友達の複数形という意味のフレンズではなく、動物がヒト化した存在としてのフレンズ。知識としてそれを知っている。知っているのは何ら問題は無い。違和感を覚えたのはいつ、どうやってそれを知ったのか分からないからだった。

 腕を組む。フレンズの寝顔を眺めながら、知識のことと私がここで寝るまでの過程を思い出そうとして、彼女の唇に水滴が踏ん張っているのが見えた。

 口腔内で分泌され、摂取した食物の分解を助けるもの。すなわち唾液である。

「うわ!」

 私はほぼ反射的に起き上がった。自分の頬や首にかかったよだれを丈のあっていないぶかぶかの袖で拭き取る。持ち主が可愛いから良かったものの――いや良くない。可愛かろうがよだれはよだれである。

 起き上がって気付いたが、私が枕だと思っていたのは彼女の太ももだったようだ。擦り傷や引っ搔き傷がついている。フレンズ同士でじゃれ合っていたのだろうか。

 しかし、一体なぜ私は外で寝ていて、彼女に膝枕をされていたのだろう。起きたばかりで頭がしっかり働いていないのか思い出せない。

 膝枕の彼女の口からよだれが太ももに落ちた。私は彼女に今の状況を聞きだそうと肩に触れて軽く揺する。というか随分大きな荷物を背負っている。

「おーい。ちょっと起きてくれないかな?」

 ゆさゆさと身体を揺さぶってみるが中々起きない。聴覚の優れたイヌ科のフレンズに対して大きな声を出して起こすのは可哀想なので、もう少し強く揺さぶってみる。

「うぐ……」

 反応が返ってきたが苦しそうだ。触れられたところが痛むのかびくりと身体を震わせた。思わず手を離す。じゃれ合ったというよりは喧嘩をしたのかもしれない。よく見ると顔にも傷がついていた。

 まあ、すぐそこに危険が迫っているわけでも、それほど急ぐわけでもない。無理に起こさなくてもいいだろう。

 そう思って肩に掛かっているかばんを解いて、そっと寝かせようとした。しかし先ほどの痛みが効いてしまったのか彼女のまぶたがぱっちりと開いた。瞳は綺麗な青と茶のオッドアイだった。

「あ、ごめん。起こしたみたいだね」

「……あ」

「どうしたのかな」

「無事だったんですね! 良かったぁ!」

 がばっ、と身体を翻して抱きつこうとして途中で停止した。『しまった』という表情なのはどういうことだろうか。

「……あ、あ痛たたた」

 突然彼女が左肩を抑えて地面に手をついた。

「大丈夫かい? なんだか傷だらけだけど……」

「い、いえ。心配には及びません! わたしよりもあなたですよ! どうしてあそこで大怪我をしていたんです!? ラッキーさんが来てくれなかったら――」

 彼女は興奮した様子で矢継ぎ早に話す。

「ちょ、ちょっと待って。落ち着いて。私、何があったか全然覚えていないんだよ」

「あ……す、すみません」

 彼女は正座してしゅんと小さくなる。上目にこちらを窺っていた。

「というか私大怪我してたの?」

「はい……肩から胸にかけての傷が一番大きかったと思います」

 私は襟を引っ張って覗いてみる。確かに肩から胸にかけて新しい皮膚が盛り上がるように修復していた。いわゆるミミズ腫れのような感じだが、その大きさは自然治癒する前に死ぬんじゃないかと思うほどに広かった。ここでは医療施設なんてないし、あったとしてもこういう治療の仕方はできないだろう。

 改めて自分の身に起きたことの特異さ、重大さを認識してきた。それに、私はこんなに小さかっただろうか。もっと正確にいえばこんなに幼い身体をしていただろうか。ぶかぶかの大人用のジャケットを眺めながらそんなことを思う。

 だんだんと頭が痛くなってきた。

「あの、大丈夫ですか?」

 心配そうな声。

「……ごめん。どうして私がここにいるのか教えてもらっても良いかな?」

 彼女は頷いて説明してくれた。といっても私がどこから来たのかは知らないようで、彼女の話を聞くにどうやら乗り物に乗っていてその運転を誤り、大事故を起こしたようだった。

「…………」

 自分のした取り返しのつかない事態に絶句する。

「本当に大丈夫ですか? 顔が青くなってます。どこか痛みますか?」

「ご、ごめんなさい。あなたの家を壊してしまったみたいで……しかもそれを覚えていないなんて」

「いえ、いいんです。あそこはわたししかいませんでしたし、あなたが無事で良かったです。そうだ! あなたのお名前を教えてくれませんか? わたしはイエイヌです」

「う、うん。私は――私の名前は――あれ? 私の名前……は?」

 おかしいことに自分の名前が出てこない。若年性健忘症? そんな馬鹿な。他の知識は出てくる。イエイヌは人類がまだ獲得経済で生活していた時代から猟犬として家畜化された動物で、共に狩猟をし、共同生活をしていた。古代エジプトの壁画にも描かれているし、日本でも縄文時代から飼われていた。いや待て、なぜそんなことを知っている。思い出せない。私がどこから来て、何の目的でここにいるのか。親は? 友人は? 私はどこで生まれて、誰に育てられた? 誰と遊んだ? 誰にものごとをいつ教わった? その全てが綺麗さっぱりと頭から抜け落ちている。

「私は……誰? 誰なんだ?」

 過去がない。自分を形成しているはずの今までの積み重ねが全て消去されていた。不安定な流氷に立っているような感覚に襲われる。何か自分を証明するものは無いか服のポケットを探す。乗り物に乗るには免許証がいる。それを確認しようと思ったのだが、胸ポケットから出てきたのはSKETCHBOOKと表紙に書かれた測量野帳だった。ボールペンのクリップが硬い表紙に挟んである。それを急いでめくる。何か手がかりがないか。名前でも何でもいい。それをとっかかりに思い出せるかもしれないという淡い期待にすがったが、野帳には格子状の罫線が印刷されているだけで何も書かれていなかった。

 無駄だと分かっているのに焦って再び野帳を開く。隅々まで目を通すが結果は変わらない。憎たらしいほどに真っ白だ。そんな私の様子を見てかイエイヌは心配そうに声をかける。

「あの、ちょっと待っててください」

 イエイヌの言葉で私は顔を上げた。彼女はかばんを開けてごそごそとしている。

「落ち着きたいときにヒトは葉っぱをお湯で戻したやつを飲むんです」

 ティーセットをかばんから取り出し、茶葉をポットに入れた辺りではたと気付いた。

「あ、お湯がない……」

 ポットをじっと見つめてから上目遣いに私を窺う。目が合って彼女は照れ隠しに、にへと笑う。

「ええと、他に落ち着くのは……」

 イエイヌは膝立ちで近づいて、私の側頭部を両手で挟んだ。そのまま柔らかい手を動かしてわしゃわしゃと撫でてくる。私はあっけにとられてされるがままだったが、不思議なもので焦っていた気持ちが和らいでいく。ヒトよりも少し高めの体温が心地よい。

 それに何よりイエイヌが可愛い。

 一旦焦っていた思考が中断されたことで少し冷静になった。

「ど、どうでしょう?」

 恐らくは彼女がされて嬉しいことなのだろう。イエイヌのフレンズだから、彼女はヒトと共に暮らしていたはずで、良くこうやって撫でられていたのかもしれない。

「ありがとう。落ち着いたよ」

「それは良かった」

 すっ、と手が頭から離れる。少し名残惜しい気もした。

「イエイヌさん。私を見つけたところに案内してくれないかな?」

 もしかするとそこに何か手がかりがあるかもしれない。

「はい! いいですよ! それで……なんとお呼びすればいいですか?」

 確かに名前がないと色々と不便だろう。とはいえ自分で自分の名前を考えるのは恥ずかしいし……イエイヌに決めてもらおう。

「イエイヌさんが決めてよ」

「ええ!? わたしがですか?」

 うーんうーんと腕を組んで唸っている。そういう仕草はヒトっぽいんだなととりとめも無いことを思った。

「じゃあ……それは何なんですか?」

 イエイヌは測量野帳の文字を指差した。後から思えばそれは偶然で、文字ではなく野帳それ自体を差していたんだろうと思う。

「これ? スケッチブックだよ」

「すけっちぶっく……す、すけ……けっち……ちぶっく……」

 彼女の様子から、そこから名前を付けようとしているのは私でも分かる。

「チブックはやめてね」

 私の感覚だとそれは語感が間抜けすぎる。

「それなら……すけっちさんでどうでしょう?」

「スケッチ。スケッチか……いいね! いい名前だよ。ありがとう」

 なんだかあだ名のような響きで可愛らしいと思う。果たしてそれが私に似合うかはさておいて。

「いえいえ。それじゃあ案内しますね」

 なぜか彼女のほうが嬉しそうな顔をしてそういった。

「うん。よろしくね」

「といってもすぐそこなんですけどね」

 彼女は私の後ろを指差す。それにつられて私も後ろを向いた。少し遠くに何本かの狼煙のような細い煙が立ち上っている。

「よいしょっと」

 彼女のかけ声で再び振り返る。出していたティーセットを大きなかばんに戻して背負い直していた。一瞬辛そうに表情を歪めたのを見て、そういえば起こそうと肩に触れたときに痛がっていたのを思い出す。

「もしかして肩を怪我してるんじゃ?」

「えっ……いえ、気にしないでください」

「気にしないわけにはいかないよ。ほら、ちょっと貸して」

 私は彼女が意見を述べるより先にかばんを降ろさせ、代わりに私が背負う……というよりこれは担ぐといった方がいいかもしれない。

「そんな、ヒトに荷物を持たせるなんて悪いですよ!」

「重……」

「ほら。無理ですって!」

 私の上半身より大きなだけあって、中には大量の荷物が入っている。十代前半の私の身体には文字通り荷が重すぎた。しかし、こんなに重いものを彼女に背負わせて負傷しているであろう肩に負担をかけるのはもっとまずい。

「じゃあ、こうしよう。私が背負うから下から支えてよ」

 自分から背負っておいて格好悪いことこの上ないけれども、現時点ではこの方法が最良ではないだろうか。なんとなく、荷物をここに置いていくという考えは切り捨てていた。

 イエイヌはうー、とすこし唸りながら迷っていたが、荷物がふっ、と軽くなったので支えてくれているのだろう。

「すみません。ご迷惑をかけて」

「いやまあ。私がイエイヌさんの家を壊しちゃったからこうなった訳で……謝るのは私のほうだよ」

 そういいながら私たちはゆっくり歩いていった。

 

 イエイヌが住んでいたというそこは、近くで見るとより具体的に無惨な現状を晒していた。

 私の胸ほどの高さの塀は爆発したという乗り物の破片で所々崩れており、入り口だったはずの門は柱が折れて通れない。ドーム型の家……恐らくはパークの宿泊施設と思われるそれは爆風と熱波に煽られて焼け落ち、炭化して黒くなっていた。

 それらの後処理というか実況見分を十数体のラッキービーストが行っている。目から緑色の光線を出して走査しているのだ。

「…………」

 救いようがないのがこの光景を作った元凶が私であるということだ。恐らくは事故の衝撃で記憶喪失になってしまったのだろうが、そんなことは関係ない。幸いにも被害者はいなかったようだが、もしここに人間やフレンズが利用していたと考えると背筋が凍る。

「ラッキーさんがこんなに……」

 イエイヌが呟いた。

 それに、ここは彼女の大切な場所だったのではないか。この大荷物は彼女が危険を冒し、怪我をした痛みをおしてまで確保したかったものではないのか。肩に掛かる荷物が少し重く感じる。

 ぴょこぴょこと独特の足音が聞こえる。一体のラッキービーストが私たちを見つけて寄ってきたのだ。イエイヌにいって、一旦荷物を降ろすことにした。

「このラッキーさんが助けてくれたんですよ」

 イエイヌはあまりこの惨状を気にした風もなく、しゃがんでそういった。

「え? 違いが分かるの?」

「ええ。匂いで」

「へえ。ありがとうね」

「ボクハラッキービーストダヨ。ヨロシクネ」

 パークをガイドする機能を持っているので私に反応したのだろう。ちなみにフレンズに対しては基本的に応答しない。彼らがフレンズの生態環境に影響を及ぼさないようにする為だ。

 丸みを帯びたボディと大きな耳と尻尾は愛嬌があり、パーク内ではヒトに作られたロボットに分類されるが生物のような仕草には親近感を覚える。

「あれ? そんなにシャイじゃないのかな……」

 イエイヌはラッキービーストの反応に首を傾げる。フレンズに干渉しないことをシャイだからだと思っているようだった。

「キミノ名前ハ?」

「私はスケッチだよ」

「スケッチ。身体ノスキャンヲ行ウヨ」

 私は頷いて許可を出した。簡易の生体検査をしてくれるのだ。こういう知識のみ保持しているというのは気味が悪いが、全く何も覚えていないという状況よりはマシだろう。

 彼はさっきの見分に使っていたのと同じ光を私に当て、頭のてっぺんから足の先までくぐらせる。

「検査中……検査中……」

 ピピピと電子音を出しながらデータを解析している。大怪我が治っている理由も分かるかもしれない。

「バイタル正常。……ヒトニハ見ラレナイ回復力、メインサーバニ接続、原因ヲ過去事例カラ照合」

 そう思っていたのだが、

「アクセス不能。リトライ、ケ、ケ、検索中……アワ、アワワワワ」

 急に彼はコテンと横に倒れてしまった。何かオーバーフローでも起こしてしまったのか。

「わー! ラッキーさん!?」

 イエイヌが停止したラッキービーストに驚いて持ち上げる。

「大丈夫さ。しばらくすれば自己――元気になるよ」

「本当ですか?」

 心配そうにラッキービーストを見つめる。彼女は優しいフレンズなのだなとつくづく思う。

 だが、私の身体をスキャンしてラッキービーストが停止してしまうというのはどういうことだろうか。不安と恐怖を感じて、それを振り払うようにしてイエイヌに語りかけた。

「イエイヌさんの家ってどこだったの?」

「こちらです」

 門だった瓦礫がある辺りからすぐ近くだった。しかし、彼女に案内されなければ絶対に分からなかっただろう。

「この辺りですよ」

 イエイヌは片腕で気絶(?)したラッキービーストを抱えて、空いた手でその空間を指差し円を描くような仕草をする。つまり、彼女の家は綺麗さっぱり、跡形もなくなっていたのだ。乗り物は爆発炎上したと聞いていたからそれに巻き込まれて吹き飛んでしまったのだろう。それはこの辺りの地面が特に抉れていることからも爆心地である事は容易に理解できた。焦げ臭い匂いもこの辺りが一番きついように思う。

 これだけ爆発の威力が強いようでは手がかりになるものも吹き飛んでしまっている。私が乗っていたという乗り物など見る影もない。それに、爆発の規模やイエイヌの説明からしてどうやら自動車のような地上を移動するものではないようだと確信した。これほどの爆発が起こるとなると、かなりの量の燃料が必要になってくる。イエイヌの証言からして、私が乗っていたものは流線型のフォルムをしており、気密性が高いことから小型の航空機ではないかと思われる。エリマキトカゲのエリマキ――つまり噴射口があった事実からかなりの速度を出せる機体だったようだ。もしかすると民間機ではなく軍用機だったのかもしれない。

「どうですか?」

「いや……この状況じゃ多分手がかりは見込めないだろうね」

「そうですか……」

 ピンと立っていた耳がしゅんとしおれる。私よりもがっかりしていた。自然と笑みがこぼれる。

「さて、これからどうしようか……」

 ここで手がかりが見込めない以上、私自身が記憶を取り戻す方法といえば時間経過によるものしかない。そうなるとしばらくの間滞在するための場所が必要になってくる。食糧はジャパリまんがあるからいいとしても、人間の管理から離れて久しいこのパークではどこにどんな危険が潜んでいるか分からないし、分かっているだけでもセルリアンという脅威がある。

 そして恐らく、私はこのジャパリパークの関係者ではない。ジャパリパークという施設やフレンズが存在する事は知っていても、このパークの全容を知識として持っていないのだ。アフリカにサバンナがあってそこにキリンやシマウマが生息していることを知っていても、そのサバンナがアフリカのどこにあって、どこの国が管理しどのくらいの広さであるのかは知らないといったところだろうか。

「どこかに滞在できる場所があればいいんだけど」

 さすがに宿泊施設がここにだけしかないということはないだろうが、管理されていない施設というのは案外すぐに朽ちていくものだ。ここはイエイヌが住んでおり、結果的に彼女が管理していたから存続していたようなもので、他の施設は恐らく使用不可かそれに近い状態になっているだろう。

「あのう……」

 イエイヌがおずおずと私に尋ねる。

「なんだい?」

「私もついていっても……いいでしょうか?」

 その提案は願ったり叶ったりだった。私としても独りでは心細いし、とてもありがたい。断るデメリットこそあれ、メリットなど一つも無かった。だが、

「もちろんそれはこちらからお願いしたいくらいだけど……君はいいのかい? この辺りに友達がいたりとか」

「私はずっと独りでしたし……さっき独りになっちゃいましたし」

 彼女はラッキービーストの目を見て話す。

「さっき……?」

「ええ、まあ。お家がなくなってしまいましたから。私がここにいる理由もないので」

 少し悲しそうに笑った。答えになっていない答えを追求することができず、なぜか私はその表情から目を離せなかった。

 私は笑みを浮かべて握手しようと手を差し出した。なんとなく、そうするのが正解であり、私がそうしたいと思い、そうするのが義務のような気がしたからだ。

「それじゃあ、よろしくね」

 イエイヌは差し出された手と私の顔を交互に見比べた。少し手を出しかけて、引っ込める。眉をハの字にしてチラチラとこちらを窺う。なんだか迷っているようだった。しかし、意を決して、

「その……お願いします」

 イエイヌは握手を知らず、自分の手をグーにして私の手のひらにそっと遠慮がちに当てた。変則的な『お手』である。私は苦笑して彼女の握った拳を包んだ。



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○○○○○とイエイヌ 2

「ココカラ一番近イ宿泊施設ハ都市区ダヨ」

 ラッキーさんが気絶から回復するのを待って、近くの使用可能な宿泊施設を探してもらった。別に他の個体に聞いても良かったのだが、イエイヌがずっと再起動するまで待つつもりのようだったのでそれに従ったまでである。

「徒歩ダト遠イカラ、乗リ物ヲ使オウ。検索中……検索中……検索終了。コノ近クニ二人ガ乗レル乗リ物ハナイヨ」

「ええ? 無いの? 都市区までどれくらいの距離かな?」

「都市区まで47,29キロダヨ」

 地図を空間に投影して目的地と現在地を表示する。

「47キロ!? ジャパリパークってそんなに広いの!?」

 五十キロ弱となると、休憩なしで時速五キロで歩いても十時間かかる。しかも重い荷物を持って歩くことになるから休憩時間や疲労も計算に入れれば十四、五時間は見たほうがいい。今は昼前だから、今日中に辿り着くことはまず不可能だ。

「お家まで遠いんですか?」

「遠いなんてものじゃないね。歩いていくとなると余裕を持って二日はかかるんじゃないかな?」

「二日……」

 イエイヌは目を丸くした。

「その、さっきいっていたのりものってどんなのなんですか?」

「そうだなあ。いろいろあるけど、基本的には四角い形をした箱に車輪――えーとまんまるいのがついている……って説明で分かるかな?」

 私がイメージしているのはバスやワンボックスカーのような自動車だ。身振り手振りを交えてイエイヌに説明するが、上手く伝わるか自信が無い。

「?」

 案の定首を傾げている。と、自分が野帳を持っている事を思い出した。ボールペンで長方形を書き、その中に窓として小さな長方形を二つ書き入れる。その下辺りに丸を二つ付け足す。我ながら一切絵心がないが、イエイヌは、あ! と声を上げた。

「この形に似たものを見た気がします」

「ホントに?」

「はい! 場所も覚えているので案内できますよ」

 イエイヌは自信満々の表情で尻尾をぶんぶんと振っている。

私は正直なところ半信半疑だった。彼女が嘘をついているとは思わないが、その言葉が正しいのだとするとラッキーさんの検索に引っかからないのはなぜだろうか。

 とにかく行ってみることにするが、かばんは一旦ここに置いて行こう。乗り物を手に入れればすぐに戻ってこられる。私がそういうと、

「はい、分かりました。重いですもんね」

 イエイヌは私の提案をあっさりと受け入れた。困り顔の一つでもするかなと予想していたのだが、特にそんなことはなかった。

 彼女は乗り物がどういうものかはっきり分かっていない様子だったし、荷物も割と命がけでかき集めた大切なものではなかったのかと思ったが、今はそれらを失う危険があるわけでもなし、効率を優先してくれたのかもしれない。

 あったばかりではあるがそれなりに信用してくれているのだろう。しかし、助けられておいて何だが、少し危ういような気もする。まあ、私としても危害を加える気も、不快にさせる意図もないので彼女から見れば正しい判断、ということになるのだろう。ヒトであれフレンズであれ疑うということを知らないだけなのかもしれないが。

 とりあえず、荷物をここに置いておくことを他のラッキービーストに伝える。彼らは腕や手に相当する部位はないが、器用に頭と耳を使ってある程度の重さのものなら移動させることができる。かばんをそのまま持っていくことはできないだろうが、中身を小分けされれば廃棄されてしまうかもしれないので、念のためだ。さすがに十数体のラッキービーストでキャラバンを組んで都市区まで目指すような権限は『お客さん』である私にはない。

 イエイヌの案内についていく。ラッキーさんもついてきていた。宿泊施設が密集している場所から少し離れ、道なりに進んでいく。道といっても舗装などされていない。ただそこに草が生えていないというだけの代物だが。

 目の前に森なのか林なのか木が群生している場所が見えてきた。

「イエイヌさんはどうしてそんなに怪我をしているのかな? いいづらかったら無理に訊かないから」

 色々あって今まで訊けなかったことを訊いてみた。無数のひっかき傷があるので、恐らくはフレンズ同士の喧嘩じゃないかと考えたのだがどうだろう。

 イエイヌは視線を下に落とす。私の身長が彼女より低いので、辛そうな表情がよく見えた。

「これは……ビーストと戦ったときについたものです」

 ビースト。どこかその存在を名付けた人物の敵意のようなものを感じるシンプルな言葉だった。

「それって、フレンズとは違うのかい?」

「はい。私たちと同じようにサンドスターに触れて生まれるんですが、お話できないし、暴れるので危ないんです」

「そうなんだ……」

 私はなぜそのビーストと戦うことになったのかその理由を聞こうとした。ここはジャパリパークで、ジャパリまんという食べ物によって食物連鎖や捕食行為といった行動から解放された場所である。つまり、誰かと生存競争をする必要が無いのだ。共通の敵としてセルリアンという正体不明の存在がいるにいるが、それだって戦う必要は無く逃げればいい。

 にもかかわらず彼女は逃げることなく、ビーストと戦ったといった。ということはつまり戦う理由があったということだ。それが自分のためであれ他者のためであれ傷つくリスクを負ってまで守りたかった何かがあったのだろう。しかし、辛そうな表情をしているということはあまり芳しい結果にならなかったということだ。なので、私はその理由を聞こうとしたが、やめておいた。

「この林で戦ったんです」

「ええ!? 大丈夫? 近くにまだ潜んでいるとかは……」

 いつ戦ったのは分からないが傷の状態からかなり最近に争ったはずだ。下手すれば昨日だった、とかもあり得る。

「大丈夫です。もう匂いがしていないので。多分どこかに行ってしまったと思います」

「そ、そう? イエイヌさんがそういうなら正しいんだろうけど」

「はい。それにまた襲ってきてもわたしが守りますから」

「いや、そこは一緒に逃げようよ……」

 恐らくそのビーストというのはかなり強力なのだろう。イエイヌがちゃんと生還していることから格下ということはないにしても、かなり甘く見て実力はほぼ同等といったところだろうか。だとすれば遭遇しないように祈るばかりである。荷物を置いてきて正解だった。

 林を抜ける。私はイエイヌほど体力が無く、歩幅も小さいので抜けるのに時間がかかってしまった。服の丈があっていないのも歩きにくさに拍車をかけて余計に疲れる。イエイヌは疲れ気味の私を見かねてかおんぶを提案し、それは非常に魅力的に思えたが遠慮した。

「あ。あれです」

 イエイヌが指差す方向に何か見えた。近づくにつれ、それが何なのか分かった。

「すけっちさんの描いた絵に似てますよね!」

「あー、うん。確かに似てる。ごめん、私の絵心がなさ過ぎた」

 イエイヌは私に純粋な瞳を向けて首を傾げる。その仕草は可愛らしくカメラがあれば収めたいほどだった。

「これは乗り物じゃないね。いや乗り物にもなるけども」

 イエイヌが案内してくれたのは台車だった。ラッキーさんが反応しない訳である。しかも車輪が一つ外れており、イエイヌの荷物を運ぶことすらできない。どうしてだか長さの揃った木の棒とロープが近くにある。

 私は野帳を開いて自分の描いた絵と比べてみた。長方形で丸。要素は合致している。車輪の数が一致していないが、自動車を見たことがない彼女にこの絵を手がかりに探せといえばこの台車に辿り着くのは当然といえた。

「ううう、すみません……」

 耳が垂れ、尻尾が内側に丸まった。

「いや、違うんだ。この絵を見たら誰だってこれだと思うよ。イエイヌさんは正しい」

 自分でいって少しグサッときた。

「そうですかあ……?」

「うんうん。というか今確認したら逆にこれ以外を連想するのはおかしいんじゃないかな」

「画像トノ一致率四十二・一パーセント。コレヲ元ニ台車ヲ連想スルカ微妙ダヨ」

「ラッキーさん! 今その情報いらないよね!」

「やっぱり……」

 彼女は少し泣きそうになっていた。

 焦った私は苦肉の策として車輪のゴムを外し転がす。そして木の棒を持って転がした車輪の下に付けて走る。

「イエイヌさん! ほら、見て見て!」

 棒を上手くコントロールして、車輪が倒れないように調整する。倒さないために速度を出さなければいけないので意外と大変だった。

「た、楽しいなー」

 私は走り回りながらイエイヌをチラチラと窺う。遊びで気を逸らそうというあまりにも浅はかな考えだった。

 が、しかし。イエイヌは興味津々で回る車輪を目で追っている。身体がうずうずしていた。

「イエイヌさんもやってみる?」

 ふんふんと首を縦に振る。車輪を掴んで止めて、棒と一緒に彼女へ渡す。見よう見まねで車輪を転がしてそれを棒で押している。

「わー!」

 随分楽しそうだった。さっきまでの失敗はすっかり忘れていてホッとする。草原を走り回っている彼女は子供みたいだ。普段の印象は大人しい感じだが、それは我慢しての事なのかもしれない。本来のイエイヌはこうやって遊びや興味のあることに一直線の、活発な性格をしているのだろう。

「ラッキーさん。ああいうときは沈黙が正解だよ」

 彼はピピピと電子音を発する。まあ、ラッキーさんは私の言葉に反応して私の間違いを訂正しただけなので悪気があってのことではないし、私が咎めたところでプログラムを書き換えられるわけじゃない。なのでこれは、何というかただの独り言みたいなものだった。

「わー!」

 私はラッキーさんの隣に座って彼女の遊びを見学する。地面がデコボコしているので車輪が真っ直ぐ進むことはなく、あっちへこっちへ大きく蛇行しながら進む。イエイヌは車輪だけを見て前を見ずに走っているので本当なら危ないが、ここはかなり開けた草原だ。障害物といえばまばらに生えた木や岩ぐらいのもので、ぶつかる心配もほとんどない。それに彼女の癖なのか右回りにぐるぐるするコースを走っているので遠くに行きすぎることもない。

 彼女の楽しそうな顔を見ながら、私はずっとひとりぼっちだったという彼女の言葉を思い出す。他に友達はいないのかと私が聞いたときに、彼女がいっていたことだ。

 つまり、友達を作ることなくずっと彼女のいうところのお家でヒトの帰りを待っていたということだ。それはどれだけ辛かっただろうか。ヒトとの楽しい思い出だけを胸に、ずっと独りでいるということは。それは何も知らないということよりも苦しいことかもしれない。もし、私の記憶喪失の性質が逆だったら。知識が無い状態でエピソード記憶だけ残っていたら。果たしてそんな状況があり得るのかは別として、その記憶の中にある誰かに対して会いたいと思いながらもどうすることもできず、その人がいた場所でその人を思いながら待つことしかできない、というのはどれほど不安で心細いだろうか。

 そういう意味では、過去を忘れているというのは私にとって一つの救いになっているかもしれない。

 もう一つの救いは、一番初めにあったのがイエイヌだったということだ。彼女からすれば私は大切な場所を破壊した人物で、敵認定してもおかしくない。そんな人間をわざわざ助けてくれたのだ。もちろん、ラッキーさんも。多分、あの時彼が近くにいなければ、私もイエイヌも爆発に巻き込まれて死んでしまっていただろう。

 私がどこから来て、どこに行こうとしていたのか。どうして墜落してしまったのか。それは分からないが、ゆっくり思い出せばいいと考えられるのはひとえにイエイヌがついてきてくれているからだと確信していた。

「すけっちさーん!」

 イエイヌが手を振りながらこちらに向かって走ってくる。私は手を振り返した。車輪を持って近くまで来て渡す。

「すけっちさんもやりませんか? 楽しいですよ!」

 車輪を転がすだけなのだから面白いも楽しいもないだろうと思っていたが、渡されたものはしょうがないので遊びに参加する。

 車輪を棒で押す。たったこれだけのことだったが案外難しい。地面がフラットではないので車輪が真っ直ぐ進まないのだ。それに倒れないようにするにはある程度速度を出さなければならない。結果速度を保ちながら左右へ行ったり来たりを繰り返すことになる。少し気を抜くと車輪は倒れてしまった。

「あ、ああー」

 後ろについてきていたイエイヌが倒れたそれを見て悲壮感のある声を出した。

「むむむ」

 イエイヌがあんなに簡単そうにやっていたというのに。もう一度挑戦する。左右に振れたとき、元に戻そうと意識するあまり余計な力が入ってしまっているのだ。それで更に左右に振れ、また戻そうとして……という悪循環に入ってしまう。

 今度は戻そうとせず、車輪について行ってみる。しかし――。

「あー。倒れちゃった」

「ぐぬぬ。イエイヌさん!」

「は、はい」

「ちょっともう一回走っているところ見せてくれる?」

「え、ええ。いいですよ」

 私は彼女に道具を渡し、そのまま走ってもらい、ついていく。まずは観察しなければ。正しいやり方を見つけるのだ。

 イエイヌは最初ぎこちなくやりにくそうだったが、だんだんさっきまでの調子を取り戻して走り始める。

 私の時と同じように、彼女も車輪に振り回され左右に蛇行する。しかし倒れることなく進んでいく。最初、私はイエイヌの身体能力によって力技で倒れないようにしていたのかと考えていたが、観察していくうちにどうやらそうではないと分かってきた。彼女は微妙に棒を操作している。例えば車輪が右に行こうとしたとき、棒を右に向けている。つまりその操作をすることによって車輪が左に向こうとする。円や球体は面積に対して接地面が極端に小さい。その接地面を軸にして、イエイヌは方向転換を行なっているのだ。例えばビリヤード。球と球を真っ直ぐぶつければ真っ直ぐに進むが球を右にぶつければぶつけられた球は左に進む。それを彼女は車輪と棒で行なっている。

「なるほど……」

「すけっちさん? ちょっとやりにくいです……」

「いや、気にしないで続け――うわっ!?」

 私は石につまずいて転んでしまった。豪快にスライディングをかます。

「大丈夫ですか!」

「い、いや。大丈夫」

 転んだ場所が草の上で長袖長ズボンだったこともあって痛みほどすりむいている様子はない。それよりも輪回しである。さっきのイエイヌのやり方を試してみたい。

 車輪と棒を拾おうとしたが、足が地面から浮く。イエイヌの手が私の脇に伸びて持ち上げられたのだ。

「すけっちさん。ちょっとお休みしましょう」

「なんでさ! 試してみたいのに!」

 イエイヌの拘束から抜け出そうともがくが、手足をジタバタさせているだけで何の意味も成さない。

「すけっちさん?」

 イエイヌは語気を強めてにっこり笑顔になる。すこし背筋に来るタイプの笑みだった。私は大人しくそれに従う。イエイヌは私を地面に下ろした。

「ほら、手が少し擦りむいてるじゃないですか」

 イエイヌはそういって私の手のひらを舐めていく。突然のことで思考が働かない。二、三秒ほど固まり、ようやく思考が追いつく。

「ぬわぁ!? なに!? 急になに!?」

 手を引っ込めようとするが、大きな岩に挟まったようにびくともしない。

「何って、傷を舐めてるんです。動かないでください」

「ちょっと汚いよ!?」

 舐めることが、ではなく私の手のひらが、である。さっき木の棒やら車輪やら触っているし、こけて擦りむいたのだから地面に手をついたということだ。しかし、彼女はそんなことを気にする様子もなく舐める。動物のイヌであれば舐められるという行為にそれほど抵抗はなかっただろうが、彼女はフレンズだ。外見は動物よりもヒトに近い。

「はい。終わりです」

 イエイヌはそういって私の手を解放した。

「…………」

 じっと手のひらを眺めていると舐められたときの感触を思い出しそうになったので首をぶんぶんと振って振り払う。これはイエイヌなりの医療行為であり、何らおかしなことはないのだ。

「さ、さてと。一旦戻ろうか」

「心拍数、血圧上昇シテイルヨ。一時的二休憩スルコトヲ推奨」

「ラッキーさん! 今その情報いらないよね!」



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○○○○○とイエイヌ 3

 イエイヌは輪回しを気に入ったのか、車輪と棒を持ってきていた。とっさの思いつきだったが、そこまで気に入ってくれるとこちらとしても嬉しい。

 しかし、結局当初の目的だった乗り物を手に入れることはできなかった。ラッキーさんの検索に引っかからない時点でやっぱり徒歩で都市区に向かうしかないのだろうか。だが五十キロ弱はきつい。ただ歩くだけならいいのだが、あの荷物がある。捨てていけなんていえないしいいたくないので、何とか方法を考えなければ。

 そんなことを歩きながら考えていると、急にイエイヌがきょろきょろと辺りを見渡すような動きをする。

「……どうしたの?」

「すこし静かに。何かが近くにいます」

 もしかしてビースト? と確認しようとしたがイエイヌの雰囲気ががらりと変わっていて聞くことができなかった。ビーストはどこかに行ったと彼女はいっていたが、また戻ってきてしまったのだろうか。セルリアンという可能性もある。いや、こちらの方が可能性は高い。どちらにしろ危険を感じて私は無意識に身を固くした。

 イエイヌはその何かがいる方向が分かったのか、見渡すことはせずに一点を見つめている。

 徐々に葉っぱが擦れる音が近づいてくる。何かが茂みをかき分けてこちらに向かってきているのだ。イエイヌは私の盾になるように少し移動した。

「イエイヌさん、逃げた方が……」

 私がそういったすぐに、茂みから何かが二つ飛び出してきた。

「何者!」

 イエイヌが鋭く叫ぶ。

「うわ! お、お前こそ何者だ! プロングホーン様! 敵です!」

 私は心の底から安心した。ビーストでもセルリアンでもなくフレンズだ。

「アレハオオミチバシリダネ。グレーター・ロードランナートモ呼バレテイルヨ。脚ガ発達シテイテ早ク走ルコトガデキルンダ」

 ラッキーさんが解説してくれる。そういえばセルリアンなどの危険が近くにいる場合、彼は警告してくれたはずだ。それがないということはこの辺りは比較的安全である証拠だ。

「ぐるる……」

 イエイヌが威嚇している。

「イエイヌさん、大丈夫だよ。フレンズじゃないか」

「……そうですか?」

 私がそういうと彼女は警戒しながらも唸るのをやめた。匂いかなんかで嗅ぎ分けられないのだろうか?

「プロングホーン様? どうしたんですか?」

 ロードランナーがもう一人のフレンズの肩を軽く揺さぶった。揺さぶられたほうは白目を剥いて固まっていた。

「プロングホーンハ最高時速八十キロデ走ルコトガデキルヨ。天敵ハコヨーテヤボブキャットナンダ」

「ああ、なるほど」

 コヨーテはイヌ科の動物で、イエイヌももちろんイヌ科だ。目の前にいきなり天敵の親戚がが現れて、さらに威嚇されたものだからびっくりして放心してしまったのだろう。

「プロングホーン様ぁ!」

「ぬを!?」

 ロードランナーの大声でハッと意識を取り戻す。彼女は再び私たちを認識し、イエイヌを見て短く悲鳴を上げてロードランナーにしがみついた。

「うおう? おい、お前達! こ、この方に何をしたぁ! やんのか! やる気かぁ! 受けて立つぞぉ!」

 ロードランナーは興奮した様子でファイティングポーズを取る。それに反応してイエイヌが牙を剥きだして威嚇する。このままでは喧嘩に発展してしまう。

「ちょっと二人とも落ち着いて! イエイヌさん、私の後ろに」

「でも……」

「大丈夫だから。ね?」

 そういうと、素直に従う。

「二人とも、驚かしてごめんよ。悪気はなかったんだ。この通り」

 私は二人に頭を下げた。

「お、おう。プロングホーン様。こいつらも謝ってますし、許してあげましょうよ」

 プロングホーンはしがみついたままコクコクと頷いている。多分会話の内容は彼女の耳に入っていないようだった。

 私はイエイヌの耳に顔を近づけて囁く。

「イエイヌさん。あの子を安心させてあげてよ。どうやら君にびっくりしたみたいなんだ」

「……分かりました」

 なぜだか少し不満そうではあるが、誤解を解いてくれるようだ。

 イエイヌが私の影から出ると、プロングホーンはびくりと身体を震わせた。本来ならその俊足で天敵から逃げるのだろうが、あまりにとっさの出来事で対応できなかったのだろう。もしかするとロードランナーを置いていけなかったのかもしれない。

「あのう。わたしはイエイヌです。セルリアンとかビーストじゃありませんよ」

 ゆっくり丁寧に。怯えてしまった相手には有効なやり方だ。彼女は手を伸ばし、プロングホーンの頭を撫でる。

「あー! なに触ってんだよー!」

「あなたはちょっと黙ってて」

 イエイヌはギロリとロードランナーを一睨みした。彼女はあう、とひるんで押し黙る。少し不機嫌、なのだろうか。

 撫でられている内に危害を加える意思がこちらにないことが伝わったのか、彼女はロードランナーにしがみつくのをやめ、イエイヌも撫でるのを中断した。

 コホン、と咳払いしてプロングホーンは復活したようだ。

「……すまないな。君をコヨーテと勘違いしてびっくりしてしまったのだ」

「いえ。気にしていませんから。こちらこそ驚かせてすみません」

「プロングホーン様! コヨーテなんてわたしがやっつけますから!」

 彼女、ロードランナーは太鼓持ち属性の持ち主みたいだ。どうしてプロングホーンに付き従っているのかは分からないが。

 イエイヌが私のそばに寄ってきて、じっと目を見つめてくる。綺麗な瞳をしているが、それが訴える意味を汲み取ることができなかった。

「……ど、どうしたのさ?」

 私がそういうと、一瞬だけ、ほんの少しまぶたが細まった気がした。気のせいである可能性が高いが、なぜかそうだとは思えなかった。

「いえいえ。なんでも」

 にっこりと満面の笑みを浮かべて彼女はそういった。やっぱり気のせいだったかもしれない。

「プロングホーン様。もしかしてこいつなら……」

 ロードランナーが私を見ながら彼女に耳打ちをする。イエイヌが腰を低くかがめている。やっぱりまだ警戒しているようだった。プロングホーンは耳打ちに頷き、

「君たちに頼みたいことがあるのだ。ついてきてくれないだろうか」

 突然そんなことをいいだした。顔を見合わせる私とイエイヌ。

「どうしますか? のりものを探さないと」

「うーん。確かにそうだけど……」

「わたしはすけっちさんに従います」

「そんな従うって……」

 どうしても対等というより主従みたいな関係になってしまうのだろうか。私としては友達でありたいと思っているのだが。

「おい、お前。プロングホーン様に喧嘩を売った落とし前は付けろよ」

 ロードランナーは笑ってしまうほど口が悪いが、決してプロングホーンを怖がらせた、とはいわない辺り尊敬しているのだろう。

「私としてもあれとかけっこをしてみたいのだ。茂みの奥で見つけたんだがすごく速そうでな」

「かけっこ? 速そう?」

 私は要領を得ず、オウム返しに聞き返した。

「うむ。しかし、前の時と一緒で、たぶんボスがいないと動かないんじゃないかと思うのだ。あの時もどこからともなくボスの声が聞こえていたし」

「ボス? 誰だい? それは」

「ラッキーさんのことですよ。ジャパリまんをくれるので誰かがそう呼んでいつの間にか広まったんです」

「へぇ」

 あだ名みたいなものか。それにしても可愛らしい外見の割にずいぶん厳ついあだ名がついたものだ。ギャップ萌えというやつだろうか。

「えーと。整理すると、その速そうなものとかけっこがしたいけれど、それを動かすにはラッキーさんが必要、と」

 プロングホーンとロードランナーは頷いた。

 つまりこれは何かの乗り物を彼女らが見つけたということではないだろうか。ついていく価値はありそうだった。ただ、そうなると再びなぜラッキーさんの検索に引っかからないのかという例の問題にぶち当たることになるが、それほど期待せずに確かめるだけ確かめてみてもいいだろう。

「イエイヌさんはどう思う?」

「どう……ですか? わたしは――」

「おい、どうした。びびってんのか? やめるんならいまのうちだぜぇ?」

 じれたのかロードランナーが煽ってくる。それほどイラッとこず、むしろ微笑ましいと思うのは彼女が愛嬌のある顔をしているからだろうか。

「なにおう!?」

 しかし、イエイヌは関係なかったようで、その挑発に乗せられている。

「すけっちさん、行きましょう! ぼこぼこにしてやります!」

 彼女は意外と好戦的なのかもしれない。確かに群れで狩りをする肉食動物だから不自然ではないが。

「喧嘩はやめようね……」

 私は苦笑しながら彼女をたしなめる。ロードランナーにちょっと助けられたかもしれない。

「よし! では私についてこい!」

 プロングホーンは嬉しそうに今来た道を引き返す。彼女の手にキラキラとCGエフェクトのような光が現れ、刺股みたいに先が二手に分かれた角のような武器が出現する。それを左右に振って茂みを払って道を作ってくれるようだ。

「おい。プロングホーン様のやさしさに感謝しろよ?」

 それはわざわざ言葉にすると意味が無くなる。その証拠に先導するプロングホーンは少し俯いていた。こちらからは髪の毛で見えないが、ヒトのほうの耳は真っ赤になっていると容易に分かった。

 

 ロードランナーはプロングホーンに聞こえるのを一切気にせず、いかに彼女が素晴らしく、寛大で、慈悲深く、強くて足が速いのかを力説していた。これはもはや一種の精神的拷問だろう。大変だなあ、などと他人事と思っていると、こちらに飛び火してくる。

「すけっちさんだって! すごい怪我をしてもすぐに治る!」

「へん! そんなのすごくないもんねー。怪我をしなければいいだけだろ!」

「ぐぬぬ!」

 イエイヌはよく分からない対抗をしようとしていた。そういえば、この怪我がどうやって治ったのか分からずじまいだ。

「すけっちさんはやさしいんだ!」

「プロングホーン様だって!」

 そうやって両者ともすごい勢いで褒めてくる。褒めてくれるのは嬉しいけれども、できれば本人のいないところでやって欲しい。どんどん体温が上がってくる。うっすら汗を掻いてきたのは歩いているからという理由だけでは説明できない。いたたまれなくなって二人から距離を取り、プロングホーンの隣を歩くことにした。彼女はロードランナーの褒め殺しを喰らって既に手に持っているものを振って茂みを払うことができなくなっている。ずっと前に突き出して幅の狭い道を作るのに終始していた。

「…………」

 あまりの恥ずかしさに無言のまま目がぐるぐるになっている。

「その……大変だね?」

 私が話しかけるとハッとなり、ぐるぐる目はなくなったが顔は火照ったままだ。

「い、いつものことだ。気にしないでくれ。スケッチだったか。君も顔が真っ赤だぞ」

「そっちもね」

 私とプロングホーンは力なく笑い、妙な連帯感が生まれた。

「プロングホーン様ぁ!」

「すけっちさぁん!」

 なんだなんだと振り返ると、二人が駆け寄ってくる。

「この勝負、すけっちさんが勝ちますよね!?」

「なにいってるんだ! プロングホーン様に決まってるだろ! ですよね? ね?」

「勝負は関係ないが、かけっこならきっと私のほうが速いさ」

「ほらみろ!」

「す、すけっちさん! 負けるはずないですよね!」

「う……うん……」

 イエイヌのすがるような視線を向けられ、歯切れが悪いながら頷く以外の選択肢が見当たらなかった。その乗り物が本当に速いかどうか分からないし、そもそも台車の時のように壊れて動かないかもしれない。そうなったとき、不戦勝とかいってロードランナーがすごく煽ってくるだろうことは彼女の今までの言動から確定している。イエイヌは果たして耐えられるだろうか。考えたくない。

「ここだ。ついたぞ」

 彼女が武器の先端を前のほうに向ける。

 彼女のいっていた『速そうなもの』がそこにはあった。車輪が二つありその上に緑色をベースに黄色のラインが入った車体が乗っかっている。丸い一つ目のヘッドライトで前輪から高い位置に泥よけがついていた。真っ直ぐなハンドルで、後ろにはプラスチック製のボックスが付けられている。

「なんだろう、これ」

 イエイヌが近づいて後ろから匂いを嗅いでいる。

「バイクだね。これも乗り物だよ」

 正確にはオフロードバイクだ。なぜこんなものがここにあるのか疑問だが、恐らくはパークの関係者が使っていたものだろう。『ジャパリパーク』とプリントされている。

「あ、確かにすけっちさんが描いたやつに似てますね」

 二輪なので確かにあの絵に似ている。イエイヌの無邪気な言葉に少し沈む。もしかするとあの絵は乗り物のイデアを捉えているのかもしれない。

 プロングホーンのいうとおり速そうなバイクだが、車体は泥だらけでここに放置されてから時間が経っているように思える。果たして動くかどうか。

 ぴょこぴょことラッキーさんがバイクに近づき、大きく飛んでシートに登った。

「動カスニハ電池ヲ充電シナイトイケナイヨ」

「充電すれば動くの?」

 ガソリンなどの燃料で動くのではなく電気で動く電動バイクのようだ。排気ガスでパークの環境を汚さないようにする配慮かもしれない。地熱や太陽光、波力など自然エネルギーで電気を賄っているはずだ。

「大丈夫。動カセソウダヨ」

 どうやら充電されていなかったから検索に引っかからなかったようだ。しかしそれだと色々と不便じゃないだろうかとも思ったが、まあ使える乗り物が見つかったのでよしとしよう。

「どこで充電できるかな……?」

「検索中……宿泊施設デ充電デキルヨ」

「イエイヌさんのいたところでいいの?」

「ソウダヨ」

 ほとんど焼け落ちてしまったはずだが、どこかに電源が生きているのかもしれない。

「どうだ? その『ばいく』とやらは動きそうか?」

「うん。ちょっとイエイヌさんの家があったところに戻らないといけないけど」

「そうか! なら早く行こう!」

 さっきまでの褒め殺しを忘れて楽しそうにいった。

「それで、ものは相談なんだけど」

「ん? なんだ?」

「いきなりで申し訳ないんだけど、このバイク、譲ってくれないかな? もちろんかけっこは参加する」

「これはプロングホーン様が見つけたんだぞ! あげないぞ!」

「まあ待てロードランナー。私たちには使えないだろう? かけっこさえできればいいさ。うん。君に譲ろう。でもかけっこは付き合ってもらうぞ」

 あっさり彼女はそういった。

「もちろんさ。ありがとう」

「お前、プロングホーン様に感謝しろよ?」

 ロードランナーはずっとこの調子で疲れないのだろうか。



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○○○○○とイエイヌ 4

 私はバイクを押して行こうとしたが、予想以上に重い。動かせないというわけではないが、踏ん張って押していかなければならなかったので、イエイヌが代わってくれた。その代わり彼女が持っていた車輪と木の棒を持つ。バイクをすいすい押して進むので同年代のヒトと比べてもかなり力があるようだ。

 林から出て宿泊施設に繋がる道を行き、到着する。イエイヌは顔色一つ変えず全く疲れている様子はなかった。すごい体力だ。

「ありがとう。助かったよ。もうちょっとお願いできる?」

「そんな。ちょっとといわずいつまででも押しますよ」

「それじゃ乗り物の意味がないでしょ」

「コッチダヨ」

 ラッキーさんの先導で充電できる場所まで案内してもらう。電気スタンドで、三つ穴が空いたコンセントがいくつかついている。私は車輪と木の棒をそこに立てかけた。

「ソコノカバーヲ開ケテ、プラグヲ取リ付ケテネ」

 ラッキーさんの説明通り、シートの下辺りにあるカバーを外し、差し込みプラグを引っ張り出す。それをスタンドに取り付ける。

「どれくらいかかるのかな?」

「満タンマデ、二十分グライダヨ」

 そんなにかからないみたいだ。その間にレースのコースでも決めよう。

「プロングホーンさん。かけっこってどこからどこまで走るつもりなの?」

「走れなくなるまでだ」

 そんなデスマッチみたいなかけっこは聞いたことがない。

「それはちょっと大変じゃないかな……どこからどこまでっていうのを決めた方がいい」

「ふむ。そうか」

「それで考えたんだけど、スタートはここで、林を抜けてまた戻ってきてゴールっていうのはどうかな?」

 折り返し地点にロードランナーかイエイヌに待機してもらって、ちゃんと通過したことを確認してもらう。

「折り返し地点とゴールだけ決めて、コースはどう走っても構わない」

 これならわざわざ道を作らなくてもいいし、自分が得意な場所を走れるんじゃないだろうか。一直線に向かってもいいし、障害物を迂回して走ってもいい。チェックポイントだけおさえれば問題ないというルールだ。

「うむ。いいと思うぞ。ロードランナーはどうだ?」

「わたしもいいと思います!」

「それじゃあ、折り返し地点に誰かいてもらわないといけないんだけど……」

「はいはい! わたしがやるぜ!」

「あ! ずるい!」

 イエイヌが不満を漏らす。ロードランナーは勝ち誇った顔をしていた。この二人随分仲良くなったなあ。対等という感じがして少し妬けてしまう。

「早い者勝ちだもんねー」

「うー。役に立ちたかったのに……」

「ねえ、一緒に乗る?」

 あのボックスを外せば二人乗りはできるだろう。どのみち二人乗りで都市区まで転がすのだ。今のうちに練習ではないが、馴れておいた方がいいかもしれない。

「え! いいんですか!?」

「もちろん」

「……プロングホーン様」

 ロードランナーが物欲しそうな顔で彼女を見ている。二人乗りではないが、背負って欲しいのだろう。

「私は別にいいが、そうすると折り返し地点に誰もいないことになってしまうぞ?」

「……イエイヌ」

「わたしは早い者勝ちに負けたので」

 若干根に持っているようで、素っ気ない。

「……あう」

 がっくりと肩を落とし諦めたようだった。

 それからしばらくして、ピー、とバイクから音が鳴った。

「充電完了ダヨ」

「おおー」

 と、ラッキーさんの報告に四人が声を上げる。プラグを抜いて巻き取り、カバーで覆う。

 いざまたがったものの、足が地面に届かない。ぷらぷらと情けなく足が浮いている。親のバイクにねだって乗せてもらった子供みたいな図だった。

「ラッキーさん、大丈夫かなこれ」

 大丈夫なわけがない。足が付かなければ停止できないし、そもそも私の力ではバイクが倒れたとき起こせない。

 と思っていたのだが、ラッキーさんは大丈夫ダヨと抑揚のあまりないいつもの声でいった。彼がシートに乗りガソリン車であればフューエルタンクに該当する場所に収まる。そこにくぼみがあって、ラッキーさんの特等席だったようだ。バイクが起動し、モータによる微細な振動と音を感じるがエンジンのような身体の内部に響くほどではない。

「念ノタメ、ハンドルヲ握ッテイテネ」

 私はいわれたとおりにハンドルを握る。車体が傾く。いや、真っ直ぐになったのだ。スタンドで支えられていたバイクが、停止しているにも関わらずその助けなしで止まっている。その証拠にスタンドがひとりでに(恐らくラッキーさんが操作したのだろう)上がる。

「低速発進スルヨ」

「おお、すごい」

 バイクが前に進んでいく。メーターは時速一キロを指している。普通なら倒れるはずだが、どういう姿勢制御を行なっているのか倒れない。

「ハンドルヲ操作シテネ」

 右に曲がってみる。倒れることなくスムーズに曲がった。左も同じだ。車体が少し傾くと、戻ろうとする力が働くようで少し感覚的に気持ち悪い部分は否めないが、すぐに馴れるだろう。

「後退スルヨ」

 少しの間停止し、後ろに下がっていく。これも問題なく行えている。バイクで人力ではないバックができるのはかなり便利だ。これも姿勢制御のなせる技だろう。

 これなら大丈夫そうだ。私のような人間を想定して設計された訳ではないだろうが、結果的に操縦できるようになっている。

 バイクを停止させて一旦降りる。自動でスタンドがおり、ラッキーさんが姿勢制御を切ったのかバイクはスタンドに重量を預ける。

 工具はまだ辺りにいるラッキービーストから受け取り(宿泊施設に元からあったものだ)、後ろについたボックスを外す。これでイエイヌも後ろに乗れるはずだ。

「それじゃ、バイクの慣らし運転とプロングホーンさんのウォーミングアップも兼ねて、折り返し地点を決めに行こうか」

 イエイヌとプロングホーンは嬉しそうに、ロードランナーは沈んだ様子で頷いた。

 

「プロングホーン様ぁ! ここで待ってますからぁ!」

 折り返し地点を決めてロードランナーにそこで待機してもらう。地点は林を抜けて道なりに少し行った先にある大きな木だ。そこを通ったことを証明するために、私が野帳に描いた絵を半分に破き、ロードランナーに渡した。これを所持した状態で先にゴールしたほうが勝利というわけだ。プロングホーンは勝敗に頓着していないようだが。

 スタート地点まで戻る。プロングホーンに合わせて時速二十五キロくらいで走っていたが、特に走行上問題はない。それよりも彼女だ。この速度でウォーミングアップとは。最高時速八十キロは伊達ではないようだ。直線で舗装された道ならばバイクが勝利するだろうが、舗装されていなく、障害物もあり直線でないコースを走るわけだから、割と勝負の行方が分からない。スタートダッシュが勝敗を分けるかもしれない。電動バイクは立ち上がりのトルクが高いので、停止から加速がしやすい。彼女がスピードに乗る前に引き離すのだ。

「では、共に走ろう!」

 プロングホーンが先ほど引いたスタートラインに立つ。

「うん。よろしく」

 ラッキーさんの誘導でバイクをラインの前まで持っていく。レースが始まれば転ばないように姿勢制御だけやってもらう。速度管理と操縦は私がやることになっている。まあ、レースとはいえ負けてもデメリットはない。バイクを譲ってくれたお礼みたいなものなのだから、気楽にやろう。

「すけっちさん! 勝ってください!」

「頑張るよ」

 イエイヌがぎゅっと私に抱きつく。高い体温が伝わる。でもまあ、ちょっとはいいところを見せたいとは思う。ロードランナーに煽られるばかりでは彼女もつまらないだろう。

「位置ニツイテ、ヨーイ……」

 アクセルを握る。

「ドン」

 私は一気にスロットルを回して加速する。電動なのでクラッチなどの操作はいらない。ATみたいなものだ。モータ特有の高音を発してバイクは一気に加速した。急発進によるGと風を身体に感じる。

 スピードメータは三十キロ当たりを指している。まだまだ加速しなければ彼女に追いつかれてしまうが、意外と怖い。そんなにスピードが出ている訳ではないが、とてつもなく速く感じる。しかし、速度に馴れるまでもたもたしていると抜かれ――

「お先に!」

 プロングホーンが一気に追いつき、抜き去っていった。

「な、早! イエイヌさん、舌噛むから口を閉じてて!」

「んん!」

 再びスロットルを回す。メータの針はぐんぐん上がり、三十五、四十、四十五と数字が上がっていくごとにどんどん後ろに流れる景色が速くなっていく。

 先ほど離された彼女に近づく。

 五十キロを指したとき、林に突入した。林の道は曲がりくねっているのでインコースをいかに捉えるかが勝負どころだ。

 曲がりくねった道が彼女の速度を落とさせる。それはバイクも同じだが、加減速がしっかりと付けられ、体重移動である程度曲がれるこちら側のほうが有利だ。そういう意味でイエイヌに乗ってもらったのは良かったかもしれない。徐々に距離を詰め、あと少しで併走できる。もう一息速度を出そう、といったところでスロットルを回したが加速感がない。

 スピードメータを確認すると、五十キロを指したままだった。

 おかしいなと思いながらもう一度加速しようとする。しかし、スピードメータは変わらず、実際に感じる速さも変わらない。

「あれ? 速度が上がらない」

「安全第一ダヨ。スピードノ出シ過ギハ危ナイヨ」

「ラッキーさん、これレースだから! キャップ外して!」

「駄目ダヨ。駄目ダヨ」

 くそう、制限を外せないみたいだ。姿勢制御だけ任せていたが、ちゃっかり上限を設けていた。確かに怪我をすれば元も子もないのは頭で理解しているが、もどかしい。

 それに五十キロで制限されてしまうと最高時速八十キロの彼女に対して勝ち目がなくなる。今のうちに追い越して差を広げないと。

「おお? 追い上げてきたな!」

 なんとかプロングホーンに併走する。

「すけっちさん! わたしが驚かせて――」

「駄目だって! それは駄目!」

 それでは正々堂々ではなくなってしまう。イエイヌの勝ちにこだわる姿勢は素晴らしいが、これは喧嘩でも命を賭けた死闘でもない。気持ちよく終わるには手段は選ばなくてはならない。

 そのまま併走して林を抜ける。まずい。開けた場所では彼女の能力を存分に生かすことができてしまう。

 その予想通り、プロングホーンはギアを上げる。せっかく詰めた距離がぐんぐん広がっていく。

「ラッキーさん! ちょっとだけだから! ちょっとの間だけ!」

「駄目ダヨ。駄目ダヨ」

 にべもなく却下されてしまう。当たり前だ。彼の最優先事項は『お客さん』の安全なのだから。

「……ングホーン様ぁ!」

 ロードランナーの声が聞こえる。折り返し地点が近い。彼女が木の下で手を振っているのが確認できた。その手前にプロングホーンが砂煙を上げて走っている。時速六十キロといったところだろうか。最高時速はあくまで最高時速だ。巡航速度ではない。巻き返せるチャンスは折り返し地点で一度止まらないといけないことと、林でのカーブだ。

「うおっとっと?」

「プロングホーン様!?」

 彼女はロードランナーの前で止まりきれず、ロスしている。ラッキーだ。私はアクセルを戻してブレーキを掴み、ロードランナーの前で止まる。

「ちくしょう! まだ勝負は終わってないんだからな!」

 悪態をつきながらも紙を渡す。彼女のいうとおりだ。受け取ると急発進してハンドルを右に曲げ、コースに戻る。

 ミラーで後ろを確認する。二十メートルほど離しただろうか。プロングホーンはちょうど紙を受け取っていた。

「頑張ってください!」

 ロードランナーがここまで聞こえるような声量で声援を送る。心なしか速度が上がっているような気がする。

 とにかく前を向いて走るしかない。どれだけ距離を詰められずにいくか。

 ターニングポイントの林に再び入ろうとしたその時だった。

「危険、危険、危険」

 ラッキーさんの目が赤く点滅しながら警告が発せられる。一瞬、バイクの速度がぐんと上がり、私は驚いて減速した。ラッキーさんが制限を外したのだ。姿勢制御がなければ転倒していたかもしれない。

「すけっちさん! 後ろです!」

 イエイヌが叫んだ。ミラーではなく首を後ろに向けて確認する。赤いバイクのようなものがプロングホーンを追っている。

 バイクの向きを変えて停止させる。

「何だあれ?」

「セルリアンダヨ」

「セルリアンです!」



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○○○○○とイエイヌ 5

 イエイヌとラッキーさんが異口同音にいった。セルリアン。生物や物、場所などの『かがやき』を奪いその形をコピーする存在だ。フレンズが食べられる――取り込まれると元の動物に戻す作用もあるのだという。

 プロングホーンはなぜ逃げない? バイクの突進を避けてはいるが、その場から動こうとはせず、あの二股の武器を出現させている。

 いや待て。よく見ると、あのバイク型セルリアンの触手のような部位に、何かがいる。

 捕まっている。

 あれはロードランナーだ。地面に引きずられている。頭の翼を使ってダメージを軽減しようとしているが完全ではない。

 それを認識したとき、私の頭がカッと燃えるような感覚に陥った。いつの間にかバイクが発進している。助けなければと思ったのは風を感じた後だった。胸の傷が急に痛む。

 彼女たちの元に向かおうとしたがバイクが減速しハンドルが勝手に動いた。

「危険、危険、危険」

 彼の最優先事項は『お客さん』の安全だ。決してラッキーさんが悪いわけではないが、状況が状況である。私はイラッときた。ブレーキを握り停止させるとバイクから降りる。

「すけっちさん!」

 イエイヌが腕を掴む。

「イエイヌさん! 早く助けに行かないと……!」

「すけっちさんがいっても危ないだけです!」

「でも――」

 ロードランナーを放って置くわけにはいかない。イエイヌの手を振りほどこうとしたが、できなかった。彼女の手が震えていたからだ。それに気付き、見上げて顔を見た。

「イエイヌさん……」

 泣き出しそうな表情だ。ヒトを守るのが使命。彼女はそういっていた。

 彼女にとって、ヒトという生物はそれほどにも特別なのだろう。思えば彼女は大切な場所を破壊した私を一切責めない。命を危険に晒してまでかき集めた大切な荷物を、出会ったばかりの私が置いていこうといえばそれに従うし、私が眠っている間、ずっと身動きもせず膝枕をしていた。普通に考えれば足は痺れっぱなしだし、私の頭の重さにずっと耐えなければいけない。それも何時間もだ。どれほど大変なことでも、ヒトを最優先してしまう。

 ロードランナーを助けたくてもヒトを優先してしまう。

 それがイエイヌなのだ。たぶん私が手を離せといえば、いやロードランナーを助けてと『命令』すればセルリアンに取り込まれて元の動物に戻ってしまうことすらいとわずに遂行しようとするだろう。

 それがイエイヌなのだから。

 軽い気持ちで手を離せとはいえなかった。

 だから私はイエイヌの手に触れ、いった。

「分かったイエイヌさん。私は足手まといになる。危険が及ばないところまでラッキーさんと逃げる」

 力のない自分が悔しい。

「だから私のことは気にせず、あなたのしたいことをすればいい」

 この言葉は賭けだった。ヒトの命令ではなく、イエイヌの意思でロードランナーを助けてあげて欲しかった。それができるだけの力を彼女は持っているように思えた。

 だが、この言葉は彼女を苦しめる。

「わたしの、したいこと……」

 すがるような目つきで私を見る。まるで捨てられた子犬のような目だった。呼吸も浅いように思う。悲痛な声なき声が視線に乗って伝わってくる。その重圧から逃げ出したかったが、絶対に逃げたくはなかった。

 私はあなたと対等でいたい。それが私の偽らざる本音だった。

 そう思った瞬間、さっきまでずきずきと心臓の鼓動に合わせて痛みを感じていた傷跡が熱くなる。けれど、不快な感覚ではなかった。

「……え?」

 キラキラとしたCGエフェクトのような光が私の左肩と左手に集まっていく。同様の現象が腰回りにも起こっていた。

 そのままあっけにとられていると、その光がはじけ、手には弓――青いコンパウンドボウが現れていた。肩にはチェストガード、腕にはアームガードがついている。クィーバーが腰に巻かれ、矢が三本入っていた。

「野生……解放?」

 イエイヌが呆けたままそう呟いた。

 私も突然のことで意味が分からない。だが、今は驚いている暇はない。そして今ならいえる。最適解をいうことができる。

「イエイヌさん。一緒に助けに行こう」

 命令でも投げっぱなしでもない。提案ができる。

「あ……はい」

 

「うぉぉぉぉ! ロードランナーを離せぇぇぇ!」

 プロングホーンの雄叫びが辺りに響く。

 バイク型セルリアンは近くで見るとその異形が禍々しい。バイクというベースはあるものの、趣味の悪い改造を施したみたいになっている。

 ヘッドライトが大きなセルリアン特有の目になっており、ハンドルが途中で前方に折れ曲がって鋭利な角と化し、シートには溶けたヒトのようなものが乗っていた。そこから触手が一本伸びており、ロードランナーの足を掴んでいた。セルリアンが取り込もうとしないのは、プロングホーンがそれをさせないように攻撃の手を緩めていなかったからだ。

「プロングホーンさん!」

「スケッチとイエイヌか! ……ってどうしたその格好?」

「説明は後……というか私にも分かってないんだ。とにかくロードランナーを助けないと」

「ああ。だが――」

 プロングホーンは爆走するセルリアンを見る。

 バイク型セルリアンの移動速度は速く、プロングホーンでも捕らえ切れていない。方向転換が優秀過ぎるのだ。ヒトが乗っているわけでもないので、無茶なハンドル捌きができる。バイクという形を取ったが故に、空を飛んだりといったことはできないようだが。

「ここだと相手に有利すぎるな……」

 私は草原を見渡して呟いた。縦横無尽に走行できるので動きに予想が付けられない。これでは矢を当てることもできないだろう。弓矢が現れたときに直感で理解したのだが、矢を使用して二十四時間経てば回復するみたいだ。実質一回の戦闘で三本しか矢は使えない。

 セルリアンが急に方向転換し向かってくる。私はイエイヌに抱きかかえられて横に跳んでいった。プロングホーンは反対側に跳び、セルリアンは間を通過する。触手に引きづられ、一瞬だが苦しそうなロードランナーが目に映った。ぞわりと背筋が冷たくなる。

 後輪を振って方向転換し、プロングホーンのほうへと突進していく。彼女は再び地面を蹴ってそれを避ける。

「プロングホーンさん! あの角を掴んで動きを止められないかな!」

「やってみよう!」

 プロングホーンは武器を草原に放り出し、セルリアンと相対する。突進してくるやつのハンドルの角を両手で掴んだ。しかし、セルリアンのほうが馬力があるのか、彼女の足が地面を抉りながら後退していく。

 私は弓を構え、引き絞る。

「ぐうう!?」

「プロングホーン様! に、逃げてください!」

「馬鹿なことをいうな!」

 シートの下にある『石』に狙いを定め、リリーサーのトリガーを切ろうとした瞬間だった。

 セルリアンの触手が動き射線上にロードランナーを置いた。

「……ッ!」

 発射される瞬間だったので、腕ごと弓を一気に左に振った。矢はロードランナーを逸れて飛んでいく。あれは明らかに盾にする動作だった。

「あっぶね!?」

 ロードランナーがすぐ横を通り過ぎていく矢に対していった。

「くそっ!」

 プロングホーンが耐えきれず横に跳ぶ。セルリアンが勢いよく前進していき、こちらに向き直って停止する。

「何とかして触手を切り落とせれば……」

「……わたしならできるかもしれません」

「イエイヌさん……?」

 爪を出してそういった。けものプラズムによって形成されたものだろう。確かにこの爪ならば触手を切り落とせるかもしれない。

「プロングホーンさん! もう一度お願いできますか!?」

 イエイヌがセルリアンを睨む。

「ああ! 何度でも!」

 プロングホーンがそういうと突っ込んでいく。それに呼応してセルリアンも発進した。少し遅れてイエイヌがプロングホーンの背を追う。セルリアンの攻撃目標をプロングホーンに絞らせるためだ。

 再び角を掴み、停止させる。しかし、イエイヌがロードランナーを捕らえている触手を攻撃しようにもゆらゆらと動いていて当てづらそうにしている。

 私は右斜め前に走った。セルリアンから見て十時の方向で止まり、再び弓を構えて『石』を狙う。

 思惑が当たった。

 セルリアンは前と同じようにロードランナーを『石』の盾にしたのだ。

「イエイヌさん! 今だ!」

「はい!」

 彼女の爪が触手を切り裂き、ロードランナーが解放され地面に落ちた。イエイヌは彼女を抱えて跳ぶ。

 がら空きになった『石』目がけてトリガーを切る。矢は真っ直ぐ、吸い込まれるようにして『石』へ命中した。

 セルリアンが断末魔をあげて破裂した。辺りに立方体が散らばる。

「ロードランナー!」

 プロングホーンは彼女の元に駆け寄り、ぎゅう、と抱きしめた。イエイヌは空気を読んだのか下がる。

「プ、プロングホーン様……苦しいです……」

「すまない、私がふがいないばかりに……」

「そんな、そんなことないです。……ふえぇ」

 ロードランナーは危機から解放され、ホッとしたのか泣き出してしまった。プロングホーンは泣き出した彼女を抱きしめ、頭を撫でていた。

 私が力を抜くとコンパウンドボウがすぅ、と光になって消えていった。イエイヌは野生解放だといっていたが、そうなると私は――

「すけっちさん!」

 イエイヌが駆け寄ってくる。

「イエイヌさん、ナイスだったよ」

 弓を構えていることに気付き、ロードランナーを助けた後すぐに離脱してくれたおかげで石を狙い撃つことができた。

 彼女は何かを期待するような目を向けている。少しかがんで、尻尾もぶんぶんと振って、私がそれを与えることを疑っていないようだった。

 その頭に手を伸ばしかけたが、それをすれば果たして対等でいられるだろうか。

 いられないだろう。普通、友達の頭を良くできましたといって撫でることはしない。

「イエイヌさん両手を挙げて」

「?」

「こういうときはハイタッチをするんだよ」

 友達とセルリアンを倒す機会など中々ないが。まあ一緒に問題を解決したときはそうするんじゃないだろうか。気恥ずかしい感じもするけれど。

 私は彼女の両手に自分の両手をぱん、と合わせる。

 小気味よい音が原っぱに響いた。



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○○○○○とイエイヌ 6

 セルリアンが乱入したためレースは中止となった。戦闘で疲れた状態で再開しても本来の実力は出せないだろう。それに中止を申し立てたのは他ならぬプロングホーンだった。ロードランナーを休ませたいと、そう提案してきたのだ。

 そのロードランナーはプロングホーンに背負われてニコニコ笑顔である。

 一旦、宿泊施設跡に戻る。もう、他のラッキービースト達はいなくなっていた。見分が終わったのだろう。

「本当にありがとう。ロードランナーを助けてくれて」

 プロングホーンはイエイヌと私に何度目かの礼をいった。

「……イエイヌ」

「なに」

「み、認めてやらんこともないぞ!」

「こら、ロードランナー。自分の事だとすぐ突っ張る。素直になれ」

「う……その、助けてくれて……ありがとう」

「……うん」

 二人とも気恥ずかしいのかすぐに顔を背ける。

 私とプロングホーンは目を見合わせて笑った。

「『ばいく』は約束通り君に譲る」

「助かるよ。暇があったら都市区に寄ってよ。私たちそこに向かおうとしてるんだ」

「分かった。折りを見て行くとする。その時はもう一人友達を連れて行くよ」

「楽しみにしてる」

 プロングホーンとロードランナーは宿泊施設跡から去って行った。私とイエイヌは手を振って見送る。彼女たちのおかげで乗り物を手に入れることができたし、後は都市区に行くだけだ。大体一時間くらいで着くだろうから、今からいっても夕方には到着している。

 イエイヌは二人がごま粒のように小さくなってもその背中を見つめていた。私はイエイヌに一言いれてから念のためバイクをもう一度充電しようとスタンドまで行く。ラッキーさんが自動運転してくれているので私がわざわざ押さなくてもいいのだ。

 プラグを差し込むと私も空腹を感じた。イエイヌと一緒に食事にしようと戻る。

「…………」

 イエイヌは被害の一番大きい場所、つまりは彼女が寝泊まりしていたはずのお家を眺めていた。もうそこにはなにもない。

 話しかけようとしたが、どうしても憚られる。彼女の思い出も孤独も知らない。そして、それらを壊してしまった私がかける言葉などなかった。

「行きましょうか」

 イエイヌは振り返らずにそういった。匂いか足音で近くにいることに気付いていたのだろう。私はまるで、声をかけられなかったことすら見抜かれているように感じた。

 そしてそれは当たっていたのかもしれない。少し間をおいてイエイヌが振り返った時、満面の笑みだったからだ。

 私は感じていた空腹を忘れ、頷くことしかできなかった。

 大きな荷物を二人で運び、イエイヌと荷物をバイクに載せる。その後私もまたがる。

「重量オーバーダヨ」

「えっ」

 ラッキーさんがいう。重量オーバー?

「ってことは動かせないの?」

「ソウダヨ」

 その時、はたと私は気が付いた。なぜバイクが検索に引っかからなかったのか。バッテリーが切れていたからではない。私とイエイヌそして彼女の大切な荷物を全て問題なく運べる乗り物を検索していたからこのバイクが対象から外れていただけなのだ。

 なんということだ。これでは都市区には行けない。また振り出しに戻ってしまった。

 サスペンションが少し上がる。

「私はここに残ります」

 イエイヌが荷物と一緒に降りていた。

「イエイヌさん、何をいってるの?」

「実は当てがあるんですよ。そっちを訪ねてみます」

 そんなわけがない。独りだといっていた。バレバレの嘘だった。

「いや、あのねイエイヌさん。それだったらもう少し――」

 荷物を減らせばいい。そういおうとして口をつぐむ。それは命令ではないのか? 私がそう思っていなくとも、彼女がそう捉えればそれは命令だ。それに、大切なものを取捨選択して捨てろというのか? 一番大切な場所を奪っておいて。

 私は何かをいおうとして口を開けて、そのまま閉じた。

「ごめんなさい」

 イエイヌは謝り、爪を出した。そのままこちらに向かって振り下ろしてくる。ラッキーさんはそれに反応し、バイクを急発進させた。イエイヌが遠ざかっていく。

「ちょっとラッキーさん! 違うでしょう! イエイヌさんがそんなことするはずないでしょう! 止まれ!」

 ブレーキを握ろうとしたが完全に自動運転に入っており、ロックされている。振り返るとイエイヌは手を振っていた。

 別れの挨拶だ。

 私は別れたくなどないのに。

 バイクは林に入り、木々が彼女を隠す。そのまましばらく進んだ。自動運転が解除され、バイクは徐々に速度を落としていく。

「…………」

 完全に止まった。ちょうどプロングホーン達と出会ったところだ。姿勢制御は働いているので倒れはしない。このまま戻ったところで、何の解決にもならない。それは痛いほど分かっている。イエイヌに辛い思いをさせるだけだ。結局、ヒトを最優先してしまうのだ。たとえ一時的にあの宿泊施設で一緒にいても、私が眠っている間にどこかへいってしまうかもしれないし、最悪の場合、私の我が儘で大切な荷物を諦めてしまうかもしれない。それは駄目だ。

 私も、イエイヌも、荷物も全部一緒に連れて行ける方法。そんな都合のいい方法があるだろうか。

 私はプロングホーンが作った道を眺めた。特に意味がある行為ではなかった。考えるついでに、ただ無意識にそちらを向いただけだった。

 不意に思い出した。あの時イエイヌは何を持っていたか。車輪と棒だ。それは何の車輪と棒だったか。

 台車だ。

 あの台車は壊れており、片輪しかない。だから荷物を運ぶことすらできない。

 だが、今乗っている乗り物はバイクだ。

 何とかサイドカーにできないだろうか。確か壊れた台車の近くにはロープも置かれていた。いや、するのだ。でなければイエイヌと一緒に都市区に行くことができない。

 私はバイクを急発進させた。

 

 お家に戻ってきて、わたしはなんだかおかしな気持ちになった。もうそこにお家はないのに、そこにいなければならないという強い気持ちが急に湧いてきた。

 ここにはたくさんの思い出がある。嫌なことも楽しいことも、苦しいことも嬉しいことも。その全てがヒトとの関わりで生まれた思い出だ。すけっちさんが『ばいく』を『じゅうでん』するといって離れた後、わたしの足は自然とお家に向かっていた。

 そこにはまんまるを半分にした形のお家があるはずだった。だけど、もうそこにはなにもない。お家の欠片が散らばっているだけだ。わたしはそれを一つだけ持っていこうと考えてしゃがむ。拾おうとしたが崩れて粉々になってしまった。

 だから、もうここで待つことはできない。それは分かっているはずなのに、どうしてもここを離れてはいけないような気がした。

 『ばいく』があるからすぐに都市区に行ける。新しいお家に一時間ぐらいで着けるらしい。ということは、毎日ここに来れるだろうか。でもそれをするにはすけっちさんに毎日頼まないといけない。あのヒトはやさしいけど、それでも限界はあるだろうし、これはわたしの我が儘だからたぶん怒るだろう。

 わたしは立ち上がった。手をはたいて砂になった欠片を払う。

 すけっちさんはお家が壊れたのを自分のせいだと思っているようだった。それでわたしに対して悪く思っている。でも、わたしは不思議とあのヒトに、なんてことをしてくれたんだとか、責める気持ちは全く湧かなかった。

 あの時のわたしはなにも感じていなかった。ただ、わたしじゃないわたしが、勝手に動いて荷物をまとめたのだ。夢を見ていたような、そんな感じだった。

 それに、本当に怒っていたら、わたしはすけっちさんを助けようとするだろうか。うーん。さすがに助けるかな? でも、その後ずっと一緒にいようとは考えないはずだ。たぶん、原っぱにほったらかしにするんじゃないだろうか。傷も治っていたし。わたしの使命の一つはヒトを守ることだ。爆発から守ったのだからそこで使命は終わりだ。

 それでも一緒にいた、ということは怒っていないのだ。ヒトと別れたばかりだったから、というのもあるかもしれないが、それでもお家を壊した相手と一緒にいようとは考えないだろう。それに、わたしからいったのだ。一緒についていってもいいですか? と。

 その判断は正しかったように思う。棒でまんまるを転がす新しい遊びも教えてもらったし、何より一緒にいて楽しい。

 でも、やっぱりここで待たなければならないとも思う。わたしじゃないわたし、とはいったが、それでもやっぱりわたしはわたしなのだ。この荷物だってとっても大切なもので、待つべきヒトとのつながりみたいなものだ。

 ここにいなければという気持ちと、すけっちさんと新しいお家に行ってみたいという気持ちが半分ずつある。わたしはこのおかしな気持ちを生まれて初めて感じた。

 苦しい。

 思い出にあるどれよりも苦しい。自分が二つに引き裂かれるような感覚だった。いや、いっそのこと引き裂いて欲しかった。わたしがもし二人いれば、一人はここにいて、もう一人はすけっちさんと一緒に行けるのに。

 足音がした。すけっちさんの匂いだ。わたしよりも小さい身体なのに大きく感じる。それは違和感ではなくて、不思議とどこか安心する匂いだ。

「行きましょうか」

 わたしは振り向くことができず、そのままの体勢でいった。思い切り笑顔を作るのに時間がかかったからだ。

 わたしが振り向くと、すけっちさんは一度だけ頷いた。

 『ばいく』の『じゅうでん』が終わったらしく、二人で荷物を運ぶ。まず荷物を『ばいく』に載せてすけっちさんが支える。次にわたしが乗ってかばんを背負い、最後にすけっちさんが乗った。

「重量オーバーダヨ」

「えっ」

 ラッキーさんの言葉にすけっちさんが驚いた。じゅうりょうおーばー? ってなんだろう?

「ってことは動かせないの?」

「ソウダヨ」

動かせない。『ばいく』を動かせないと都市区に行くには二日かかるとすけっちさんはいっていた。

 ああやっぱり。

 わたしはなにも感じていなかった。どうして行けないのとか、残念とか、そういった気持ちが一切なかった。

 ああやっぱり。

 そう思っただけだ。

 わたしは『ばいく』から降りた。すけっちさんがこちらを向く。

「私はここに残ります」

 肩に食い込む荷物が、傷の痛みを思い出させる。

「イエイヌさん、何をいってるの?」

「実は当てがあるんですよ。そっちを訪ねてみます」

 我ながらとっさに考えた嘘にしては良くできたと思う。

「いや、あのねイエイヌさん。それだったらもう少し――」

 不意にすけっちさんは言葉を止めた。

 何かをいおうとして、やっぱり何もいわなかった。少し辛そうな顔をしている。早く都市区で新しいお家を見つけてほしい。わたしは一緒には行けないけれど。

 たしか、ラッキーさんはすけっちさんに危険が及ぶとすけっちさんを守るために逃げようとするみたいだった。それはかけっこの時、『ばいく』に上手く乗れていない様子から分かった。

 だからもしかして、と思ってわたしは爪を出した。

「ごめんなさい」

 わたしは腕を振り上げた。肩がずきんと痛む。それを無視して振り下ろした。

 思っていたとおりに、ラッキーさんは『ばいく』を動かした。みるみるうちに遠くなっていく。かけっこの時より速いんじゃないだろうか。

 わたしは肩の痛みを我慢して手を振った。たぶん届いていないと思うけれど、さようならを伝えたかった。

 林に入って見えなくなった。わたしは荷物を降ろした。

 何も心配はいらない。ここでヒトを待ち続けるのはわたしの使命だ。『じゅうでん』する場所に置いておいたまんまると棒もある。お家はなくなってしまったけれど、大切な思い出は一つ増えたのだ。考えようによっては前よりも待つのは楽しいかもしれない。

「あれ……」

 今までにないことだった。待つことには馴れていたはずなのに。これまでより楽しくなるはずなのに。

 頬を伝うそれが止まらない。

 悲しい。

 さみしい。

 それ以上考えるな。

 気付いてしまう。

 けれども止めることなどできなかった。

 一緒に行きたかった。

 ここに残らなくてはいけないという思いと、一緒に行きたいという気持ちは決して半分ずつではなかった。

 だが、もう遅い。すけっちさんは行ってしまった。わたしが無理矢理行かせたのだ。すけっちさんに迷いを断ち切って欲しかったのではない。わたしが迷ってしまうから、あんなことをしたのだ。

 固い地面に丸まった。わたしのことだ。一度眠れば落ち着くだろう。そうすれば辛くもなくなる。いや、起きていたくないだけだ。起きていればずっとさみしい思いをしなければならない。できることならもうずっと眠ったままでいたい。そうすればヒトがここに来たときに起こしてくれるだろう。

 でも、ちっとも眠くならなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、身体も疲れているはずなのに。

 そのままずっとじっとしていた。背中に荷物の感触を感じながら。

 太陽が赤色になって大きく見える。お腹がすいているけれど、ジャパリまんは食べたくなかった。起き上がってかばんを漁る気力が残っていないのもある。

 このまま夜になれば眠れるだろうか。わたしはすけっちさんの匂いを思い出していた。そこから声と顔も連想する。あののりものを描いたやつをもらっておけば良かった。

 ふと、聞き慣れた高い音が耳に入る。でも確かめようと身体を起こすことはしなかった。そんなはずはないからだ。たぶんすけっちさんを思い出していたから、一緒に『ばいく』の音も思い出したのだろう。

 でも、それはどんどん大きくなってくる。しかし、ふとその音が消えた。

 ただの勘違いだったのだ。

 すけっちさんの匂いを感じなければそう思っただろう。

 わたしはゆっくりと身体を起こして匂いのする方を向いた。

「どうして、戻ってきたんですか」

 また会えて嬉しいなんて思わなかった。辛い思いをしてあんなことをしたのに、ニコニコと笑っているすけっちさんを見て、怒りさえ湧いてきた。お家がなくなったときは湧かなかったのに。

 どうして分かってくれないのだ。ヒトは時々よく分からない行動をする。

「どこかにいってよ!」

 わたしは牙を剥きだして威嚇する。今度は本気だった。本当に傷つけてやると思っていた。

「嫌だね」

 でも、すけっちさんはいつもの落ち着いた口調でいった。

「役に立つかもしれないって私はいったよね?」

 何をいっているのか分からず、わたしは眉をひそめた。よく見ると毛皮が土で汚れている。

「まあ見てよ。ついてきて」

 彼女が手招きをしてから背を向ける。あまりにも隙だらけだった。だけど攻撃できなかった。少し距離を置いてついていった。

 隠れるようにして『ばいく』が置かれている。

 それにわたしがのりものだと間違えた木の箱にまんまるがついたやつがくっついていた。太い紐で固定してあるらしい。

「どうも重量オーバーでサスペンションが――じゃなくて、これでイエイヌさんも荷物も乗せて都市区に行けるよ」

 それを聞いてわたしは飛びついた。攻撃のつもりではなく、ただ単に抱きつきたくなったからだ。

「うわあ!?」

 わたしの勢いにバランスを崩して倒れる。

「ごめんなさい……」

 当てがあると嘘をいったこと。

 爪を出してラッキーさんを驚かせて無理矢理ここから追い出したこと。

 戻ってきてくれたのに威嚇したこと。

 すけっちさんは何もいわず、ぎゅっと抱きしめてくれた。

 凍っていた心が溶けていくのが分かった。溶けてかさが増し、溢れた何かがこぼれ落ちて頬を伝う。すけっちさんはそれをやさしく拭ってくれた。

 その行動が、またわたしを溶かす。

 無意識にわたしは彼女に抱きついていた。小さな身体なのに、大きいのはわたしのほうなのに、なぜだか包まれている気がした。

 



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○○○○○とイエイヌ エピローグ

 イエイヌが落ち着くまで私はされるがままだった。台車をバイクに固定するために四苦八苦してかなり汗をかいたから、鼻のいい彼女に抱きつかれるのはかなり恥ずかしかったが、泣いている彼女を拒否するわけにもいかなかった。

 しばらくして落ち着きを取り戻し、慌ててのしかかっていた状態を解除する。目と鼻が泣きはらして少し赤くなっていた。

「す、すみません」

「う、うん。いや、気にしてないよ。その、それより臭くなかったかな? 汗かいちゃって」

「え? いえ、とってもいい匂いです」

「…………」

 にへっと満面の笑みだった。それはそれでどうかと思う。

「それで確認だけど、私と一緒に来る?」

 一応本人の意思を聞いておかないと、というのもあるが、改めて彼女の口から意思表示を聞いておきたかった。それに意味はあるのか分からないが、イエイヌと対等でありたいがための、儀式のようなものだ。

「はい! もちろんです!」

 彼女は勢いよく頷いた。自然と笑みがこぼれる。

「じゃあ、早速荷物を積もうか」

「はい!」

 私とイエイヌでかばんを持ち上げ、台車に乗せる。私とイエイヌがバイクのほうに二人乗りをする。

 さて発進しようかと思ったのだが、イエイヌがレースの時よりも強く抱きしめてくる。首元に潜り込むようにして密着してくるのだ。首筋に髪の毛が当たってこそばゆい。これでは気が散って危ない。ラッキーさんの自動運転で向かうつもりではあるが、ずっとハンドルを握っていなければならないのだ。

「……イエイヌさん? もう少し力を弱めてくれるかな?」

「すけっちさんの匂いが落ち着くんです~」

「ちょっと!? 一旦降りようか!」

 私は慌てて降りた。イエイヌも続く。顔が火照って熱い。

「イエイヌさん。こっちに乗って」

 サイドカーのほうを指差す。荷物が載っているが、まだ十分一人が座れるスペースはあった。

「え? 何でですか?」

 純真無垢な瞳で見つめてくる。困り顔だった。私はうっ、と言葉に詰まる。

「……そっちの方が安全なんだ。危ないことはさせられないよ。一時間も掴まるのはしんどいからね」

 目を逸らしながら私はいった。

「そうですか……でしたら仕方ありません」

 不満そうではあるが大人しく従う。ホッとしたが、仄かな罪悪感を感じる。

 私は再びまたがり、まだ一つやり残していることに気が付いた。

「あ、そうだ。手を出して。横向きにね」

 イエイヌはいわれたとおり手を出した。グーではなくパーの手だ。

「改めて。これからよろしくね」

 私は彼女の手を握る。元気な返事が返ってきた。

 

                         『サイドカーとイエイヌ』 了



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