家族だから (カフェいろ)
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番外編
一から五


 いらっしゃい。この場は番外編の舞台。案内を務めるはこの私、中野七海。

 ここでは、物語やキャラクター達の設定に関することを公開したり、本編の回想、短編などが主な内容(スケジュール)となっております。今回は、本編五話『どうして』まで読了された方のみ、ご覧ください。

 一粒で二度おいしい。とまではいきませんが、副菜程度には味わって(楽しんで)頂けたら嬉しく思います。

 それでは、もう一つの幕を上げるとしましょうか。始まり始まり。

 

 

 

 

 最初は、私に関することですか。興味がある人なんて大していないでしょうに。

 とはいえ、この段階では私のことなどよく分からない。そういった人が多いのも事実。そんな現状、少しでも読者(皆さん)想像(イメージ)しやすくするには、良い試みかもしれませんね。

 今、私の手元にはイメージを加速させるのに大いに役立つという資料があります。中身には、まだ目通してはいないので一緒に拝見しましょうか。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 これは、私の絵ですね……。他人に描かれたのは初めての経験なので、気恥ずかしい。皆さんにも見られてることを考えると、顔を正面に向けておくのは難しそうです。

 ……四葉姉、どうかしました?……何でしょう、紙だけ押し付けて走りさるなんて、らしくない行動ですね。

 まあ、読めということで間違いないでしょう。何々……?

 先程、私は羞恥の感情を顕わにしましたが、どうやら、すぐに慣れる必要がありそうです。というのも、提示した資料を参考とした、(イラスト)を募集するからです。

 貰えたイラストは、番外編で紹介したり、場面に合うものは、本編の挿絵として活用する予定。

 募集する場面(シーン)は……たくさんありますね。一気に記載しちゃいましょう。

 

 一話『だって』から。

 冒頭、母親と姉達に幼い七海が手を伸ばそうとして、遮られるシーン。

 早朝、四葉が七海を驚かすシーン。

 帰宅後、薬がなくなっていることに気づき、血の気が引く七海。

 食後、水面を見つめる七海。

 

 二話『今度こそ』から。

 冒頭、幼い四葉が同じく幼い()()()手を離してしまうシーン。

 脱衣中、先輩呼びされて脳内電球が眩く光る、もしくは点滅する四葉。

 ラスト、四葉が七海の手を強く握るシーン。

 

 三話『そうだよね』から。

 昼休み、保健室で七海が起きて握られた手の先を見ると、一花が寝ているシーン。

 放課後、中野家で風太郎が七海にテスト問題を出す直前で、合格ラインを下げたので苦笑いする七海。

 

 四話『分かってる』から。

 ラストシーン、らいはの様子を想像しながら苦笑して、優しく「分かってる」という風太郎。

 

 五話『どうして』から。

 夜分、自室で露出した谷間を見ながら過去に怯えていたことを思い出すシーン。

 同じく夜分、三玖の自室で眠るお姫様を抱っこするシーン。

 ラスト、屋上で二乃と七海が向かい合うシーン。

 

 上記以外にも、気に入ったシーンがあれば気軽にお送りください。その他、自由な題材の絵(フリーイラスト)や登場キャラクターの関係性を表した一枚、制服以外の七海の格好(デザイン)も募集しています。今のところ思い当たるのは、寝巻き、普段着、学校の制服でブレザー着用時、バイト先での制服などでしょうか。

 

 複数色(カラー)白黒(モノクロ)は指定しません。絵柄も資料に似せる必要もないです。様々な人が表現する私達を見れたらなと思います。あ、でも年齢制限に引っかかる絵(えっちぃのやグロテスクなの)は送られてきても載せられないので悪しからず。

 

 ……何だか舞台袖が騒がしいですね。

 

「どうしました?」

「上杉君が一枚もこないんじゃないか、なんて意地悪を言ったので裁判にかけていました」

「そ、そうですか……」

 

 私も同様のことを思っていましたが、胸に納めておいてよかった。あぁ、判決が下されたようです。彼、四話の回想までに戻ってこれるでしょうか。

 

 

 

 

 次は、本編の回想です。

 まずは、一話『だって』から振り返っていきましょう。呼ばれた人(ゲスト)は、この人。

 

「一花お姉さんだ!」

「……中野一花さんです」

「あ、あれ?なんか七海、冷たくない?」

「そんなことありませんよ。ただ気分上々(ハイテンション)だなぁと、引いていただけです」

「やっぱり冷たい!」

「どうせ、一話の回想だから一花でいいだろ。みたいな、安直な発想で呼ばれただけでしょうし、そこまでのテンションで臨まなくてもいいと思いますが」

「それは無理そうだなぁ。だって……」

「だって?」

「ううん、何でもない。後がつかえてるし、始めよう?」

 

 特に否定する理由も見当たらないので、頷くことした。

 

「一花姉は、どこか気になったシーンはありましたか?」

「うーん、いくつかあるけど、四葉が七海を驚かしたところを実際に見たかったなぁ」

 

 からかう様な表情でこちらに視線を送ってくるが、望み通りの反応などする気はない。

 

「そこは募集しているイラストにもありましたね。なら、私が一花姉を驚かしたところも絵にならないかと期待しましょう」

「そ、それは五話の内容でしょ!今は、一話を振り返る時間だから禁止!」

「ふふ、そうでしたね。この話は終わりにしても?」

 

 先程の私同様、否定できまい。激しく首を縦に振ったのを確認してから進行する。

 

「他に気になるところは?」

「なんか、丸投げしてる感じが……」

「そんなことありませんよ。この話の語り部は私なので、気になるところと言われても思いつかないだけです」

 

 お得意の嘘である。しかも、丸投げという部分は一切否定できていない。でも、誤魔化せればいいのだ。

 

「そっか、じゃあ私がドンドンあげていかないとね」

「ええ、頼りにしています」

「一花お姉さんに任せなさい!」

 

 姉としての自覚回路(お姉ちゃんスイッチ)がオンになった様子。

 

「ビックリしたのは、先輩呼びだったなぁ」

「あれですか。適当な思いつきによるものでしたが、みんなは何が気にいったのでしょう?」

「気にいるな、というほうが無理あるよ」

 

 答えになっていないが、私としては利用価値があるとわかっているのでいいか。

 

「あとは、Oh!バレテーラ。かな?七海ってたまに古臭い表現するよね?昔のテレビとか見てるの?」

「正確には、()()()ですね。これについては、そのうち語る機会があるので今は置いておきましょうか」

「……そっか、待ってるね」

 

 えぇ、待っていてください。いつか、必ず……。

 

「うーん、他には何があるかなぁ……」

「一つのシーンに注目する以外にも、この話全体に関してはどう感じましたか?」

「全体……一話は、七海とみんなの関係が描かれてるね」

「そうですね。特に、(困った人)達との関係性は、大方察せられる内容に思えます」

「あはは、特に二乃は……ね」

 

 さも、自分はそうではないかのように言っているが、私からすれば姉達全員大差はない。

 けれど、最も困ったちゃんなのは、きっと私自身。

 

「私達の関係性が、後にどう変わっていくか楽しみですね」

 

 関係性だけでなく、考え方や皆さんの印象、そして私達自身が。

 

「さて、そろそろ次話の回想に移るとしますか。お疲れ様でした、一花姉」

「え、もう出番終わり!?」

「五話分の回想があるんです、早く退場してください」

「そんなぁ!」

 

 ゲストの中野一花さんでした。はい、拍手ー。

 

 

 

 

 次は、二話『今度こそ』の回想になります。ゲストはこの人!

 

「な、中野四葉です……」

「どうしました?元気がありませんね」

「そ、その。二話なのに二乃じゃないから、私に厳しい視線が……」

「語り部は四葉姉なので、文句を言われても困ります」

「きっと二乃も分かってるから、文句の代わりに視線を飛ばしてきているんだと思う……」

 

 このままでは、進行するのにも支障がでかねない。助け舟を出すか。

 

「ぶっちゃけ、二話が最も少ない文字数なので、出番も必然的に……」

 

 この先は言わなくてもわかるだろう。ただの脅しだが。

 

「ええー!そんなあ!一花よりも少ないの?!」

 

 耳元で叫ぶな叫ぶな。でも、らしくない(静かな)彼女よりはまだ良い(マシ)か。

 

「その代わり、丸投げしていた一花姉の時と違って、私が気になる点を言っていきますね」

 

 四葉姉に突き刺さる視線は消えたが、今度は舞台袖が煩い。

 

「ほら、ぐずぐずしてると時間なくなっちゃいますよ?」

「それはヤダ!」

「では、始めますね。まずは、四葉姉が私を驚かしたシーンから」

「あれ……?さっきも同じところを話してなかった?」

「よく気づきましたね。使いまわしです」

「え」

「冗談ですよ」

 

 本当は冗談でもなんでもないただの事実だ。だが、話相手が変われば内容も変化する可能性がある。また違った角度からの回想が期待できるのだ。

 

「一花姉だけじゃなくて、四葉姉とも話したかったんですよ。今回は当事者二人での会話(トーク)なので、より深く話せるかなと」

「そっかぁ。あの時は浮き足だってて、七海には申し訳ないことしちゃったな」

「それだけ楽しみにしてくれていた、ということは嬉しく思います。自分の通っている学校での生活を楽しみにしてくれる人がいる。それが身内となれば尚更ね」

「学校もそうだけど、やっぱり一番は七海と一緒に通えることだったよ」

五話時点(現在)では、一回しか一緒に登校していませんが……回数、増やせるように配慮しますね」

「う、うん!やったあ!」

「登校といえば、先輩呼びの時はすごく喜んでいましたね」

「あ、あれ?それも一花の時に――」

「――気のせい気のせい」

 

 語り部が違うだけで前半は一話と似た内容なのだから、仕方ない。

 

「一花姉からは、要領を得ない回答しか貰えなかったので気になりますね」

「え?えーっと、とにかく嬉しかったとしか……」

 

 素敵なハニカミ笑いは見ていて気持ちが豊かになるが、結局理由は分からずじまい――で済ませるような私ではない。一番相手だと追及しても望む結果が得られるかはわからないが、四番ならいけると判断した。

 

「納得できません、なので質問していきますね」

 

 尋問のお時間(ターイム)

 

「な、なんか七海、怖いよ?」

「そんなことありませんよー。もしかすると四葉姉は、普段の私に何らかの不満があったりしませんか?」

 

 嬉々の感情を抱いたということは、感じるまでの気持ちと比べて落差――とまではいかないまでも、差があったのは確実だ。

 

「不満なんて……ただ、もうちょっとお姉ちゃんを頼って欲しいなぁ……って思ってたり」

 

 それは彼女の自己満足でしかない。そう簡単に処理してしまうには、躊躇われる何かが私の中で燻っていた。

 

「なるほど。私は末っ子なのでそれに共感はできませんが、頭の片隅には入れておきます」

 

 彼女が隠したがっていた胸の内を吐かせたのは私だ。なら、これぐらいのことはしておこう。

 

「そういえば七海、上杉さんが来る日が早くなったって言ってたよね?」

 

 私が話題を振る流れのはずなのだが……まあ、この形が私達の普段通りに近いからいいか。

 

「ええ、パパに放った余計な一言が原因のあれですね」

「あの時はスルーしちゃったけど、一体何を言ったの?」

「落第しかけて転校するのに、悠長に構えている時間なんてあるんですかねぇ。そう言いました」

 

 一日早めたところでどうこうなる問題でもない。だが、私の言葉はあくまでも切っ掛けでしかない。あの日の父は、普段と様子が違ったのだ。

 

「あはは……うん、そうだよね。頑張らなくちゃ、私」

 

 それについては言及しない。もし、本編で語った言葉に何かを付け加えるとするならば、誰かの力を借りることだ。その『誰か』は分からないが、一応私だった時の為に準備はしておこう。

 そこまで考えて、先程彼女の気持ちに共感できないと返したことを思い出す。あれは撤回するか。

 

「そんな意気込みを見せてくれたところで、二話の回想は終わりです。お疲れ様でした、四葉姉」

「え、もう終わり!?」

「そのくだりやったので、他のリアクションでお願いしますね?後続の方々」

「最後は私に話しかけてすらいないー!」

 

 ゲストの中野四葉さんでした。はい、拍手ー。

 

 

 

 

 三話『そうだよね』の回想に登場するゲストは、この人!

 

「…………ん」

「中野三玖さんです!」

 

 とてとてと(マイペースに)歩いてきては、碌な挨拶もないという他の姉達なら小言を零す登場の仕方だったが、この人相手なら特に思うこともあるまい。

 

「オッケー」

「はい?」

「オッケー」

 

 急に表情を変化させて謎の承認を連呼する奇行には、困惑する選択肢しか持ち合わせてない。

 

「……ああ!一花姉の真似ですね」

「うん、どうだった?」

 

 必死に考えてなんとか搾り出した正解だったが、返ってきた言葉は想定外のもの。

 

「どうだったって……似てましたよ?」

「それだけ?」

「え?」

 

 それ以外に何か求めている言葉があると。

 

「……可愛らしいですよ。元気がでてきました」

 

 一番の物真似でも間違ってはいないが、正確には五番が一番を真似したのだ。それを見て、当時の私は可愛らしく感じて、少し気分が晴れたのを思い出した。

 

「……ん。そっか」

 

 物真似なんかより、今のほうがよっぽど可愛らしい。そう感じるほどに素敵な笑顔。

 

「それじゃ」

「なに満足して帰ろうとしてるんですか?」

「でも、回想したよ?」

「ワンシーンだけです。最低三箇所はお願いします」

「わかった。任せて」

 

 言えば素直に頷いてくれる。これは事前に伝えてなかった私の落ち度だ。

 

「二つ目は、朝食の時が凄かった」

 

 任せての言葉に偽りなし。登場の時と真逆のペースで進行してくれる。

 

「ソースアートのことですね。あれは自信作でした」

「私と四葉以外に、五月は星、ニ乃は黒リボンだったけど、一花はどうする予定だったの?」

「ああ、一花姉は寝坊してきたせいで作らなかったのでしたね、そういえば。一応、何種類かピアスでも描こうかなと、それで反応のよかった絵に似た物を次の他人の誕生を祝う日(クリスマス)か誕生日の最も楽しみな要素(プレゼント)とする算段でした」

「な、なんて計画的な」

「二乃姉も耳に穴開け(ピアスデビュー)でもしようか、見たいな事を言ってましたし、まとめて反応を伺うつもりでしたが、まぁいいでしょう。別の機会はいくらでもあります」

 

 それに最も悩むことになるのは、多分三番へのプレゼントだ。

 

「……プレゼント」

「あの、物のついででの調査みたいなものですから、あまり気にしないでくださいね?」

 

 駄目だ聞こえちゃいない。これ以上何かを言っても無駄だろう。私に出来ることといえば、プレゼントを貰えるであろう、その日を楽しみにしておくことぐらいか。

 

「他には何かありますか?」

 

 今は回想の時間。プレゼントを考えるのは後回しにしてもらわねば。

 

「他……もう無理しないで」

 

 やだ。そう返したくもなったが、それよりも優先すべき言い分があった。

 

「そもそも無理をしていた自覚がなかったんです」

「言い訳しないの」

 

 ごもっともで。

 

「なら、約束でもしますか?」

 

 一話の時みたいに。

 

「ううん、必要ない。約束しても守りそうにないから、七海」

 

 よくわかってらっしゃる。

 

「次、七海が無理してる時は、もっと早くに気づくから大丈夫」

「その自信は、一体どこから出てくるんですかねぇ」

「だって、私達はお姉ちゃんで先輩だから」

 

 目上にいるからこその自信。私も一度ぐらいは感じてみたいものだ。

 

「今度こそ、絶対に無理させない」

 

 ん?

 

「そうだよね?みんな」

『勿論!』

「……あの、そんな無理して今までのタイトル回収しなくていいんですよ?」

「あっ、ばれた」

 

 この人なりに、ゲストとしての役割を果たそうとしてくれたのだろう。

 

「ふふ、見てくれているというのなら、自分のことを心配する必要もありませんね」

 

 私のやりたいようにやらせてもらうとしよう。その先に、求める光景があると信じて。

 

「って、もういないし」

 

 中野三玖はクールに去ったとさ。はい、拍手ー。

 

 

 

 

 四話『分かってる』の回想まで来ましたが……語り部は不在のままですか。取り敢えずゲストに登場してもらいましょう。

 

「…………」

「あの、二乃姉?なんで(だんま)り?」

 

 三番ですら『ん』ぐらいは発していたというのに。

 

「だって、今はちょっと気まずいし……」

「ああ、五話ラストのことを言ってるんですか?気にしなくてもいいのに」

 

 諍い事に発展するのではと危惧してるわけか。

 

「そう……?」

「まあ、あの後喧嘩に発展するなら、それはそれで楽しみだったり。喧嘩って、したことないんです」

 

 仮想敵を殴る動作(シャドーボクシング)を繰り返す私を見て、二番の表情が変化する。

 

「どうしました?顔色悪いですよ?」

「い、いや、なんでもないわ。この話は終わりにしましょ?」

「そうですね。今は、四話の回想をする時間でした」

 

 今度は安堵のため息。それほどまでに、不仲になる未来を想像するのが嫌だったということかな。

 

「それでは始めていきましょうか。二乃姉、どこか気になる点は?」

「七海、あんた態々あいつのこと、入り口まで迎えに行ってたのね、そんなことする必要もないでしょうに」

「一応お客様なわけですし、出迎えたほうがいいかなと」

「お客様って、ただの家庭教師でしょ」

「あれ?家庭教師って認めているんですか?」

「認めてない!家庭教師なんていらないのよ」

「そうですねぇ。話が急でしたから、そういう意見が出るのも無理ないかと」

 

 それ以上に生徒のほうに問題があったから、急な話でも押し通されたわけだが。

 

「でしょ?パパもパパよ。いきなり、あんな奴を私たちの家に入れるなんて」

 

 おっと、矛先が父のほうへと向いてしまった。そちらに衝突されても困る。今は、上杉先輩との接触時間を延ばす方針に誘導せねば。

 

「パパに突っかかっても変化は望めないかと」

「分かってる。どうやって追い出してやろうか、あいつ……」

 

 勉強のほうもこれぐらいの意欲で取り組めば、家庭教師の話もでなかっただろうに。

 

「その方法は後で考えてもらうとして、次はテストの場面を振り返っていきましょうか」

「あー、あれ結構自信あったんだけどなぁ」

「みんなの中でも、二乃姉の一喜一憂っぷりが見ていて楽しかったです」

 

 後ろから眺めていた私だが、それぞれのテストに挑む様を見てるだけで以外にも楽しんでいたのだ。

 

「見せ物じゃないのよ」

「あまり無遠慮に(ジロジロ)見るつもりはなかったんですが、二乃姉が物事に取り組む時の真剣な表情、好きなんでつい」

 

 実際、当時は角度の都合上、表情など分かりやしなかったが、普段の様子からどんなだったかは想像がつく。

 

「ウソ!どんな、表情だったの?!」

「ふふ、秘密です」

「ナマイキ!教えなさい!」

 

 こちらに伸びてくる手を捕まるかどうかのところで躱し続ける。……爪長いなぁ。

 

「くっ、素早い。なら、これでっ――」

「――あっ」

 

 二番が勢いをつけて飛び掛ろうとして足をほつれさせた。本人よりも早くそれに気づいた私は、すぐ様受け止める態勢を整える。

 

「わぷっ」

「大丈夫ですか?」

「…………」

 

 衝撃はしっかりと吸収したはずだが、反応がない。

 

「ひゃうっ!」

「つーかまーえたー!」

 

 不意に(くすぐ)ったさが私を襲い、思わず変な声が出てしまった。

 

「にゃっ、にっ、ねあっ、なんでっ」

「ははぁ、これがいいのね」

 

 普段は肌を刺激されても、こんな敏感に感じることはない。誰かと体を洗いっこをした時だって大丈夫なのに何故。

 

「つぇ、つめ?」

「ピンポーン」

 

 知らなかった、肌を爪で撫でられるだけでここまで感じる体だったとは。

 

「しゅっ、すとっぷ」

「放すと思ってるの?普段から、私のスキンシップをひょいひょい躱す悪い子には、ここでお仕置きしてあげないと」

「みゃ、みゃって、しょこ、だめっ!」

 

 強く抵抗すればこの拘束は解けるだろうが、今は加減ができそうにない。怪我をさせる可能性もある以上、この状況から脱する手段を見出せないでいた。

 

「ほ、ほんとにっ、これいじょうは!」

「……はっ!」

 

 必死の声を上げると、やっとのことで開放される。

 

「はぁ……はぁ……。あの、どうしました?」

「……エッロ」

「はい?」

「なんでもないわ。私、もう戻るわね」

「え、ちょっと!まだ二箇所しか回想してないんですが」

「服、乱れてるから直しときなさい」

「あ、はい……って行っちゃった」

 

 ゲストの中野二乃さんでした。えっと、拍手ー。

 ……ほとんどじゃれ合っていただけ終わってしまった。どうしよう、次に行っていいものか。

 

「ぜぇ……ぜぇ……」

「あれ、戻ってきたんですね」

 

 さっきの私以上に呼吸を乱れさせて登場したのは、上杉先輩だ。

 

「汗、すごいですよ?これ使ってください」

 

 小さな手ふき布(ハンカチ)では、額ぐらいしか拭えないだろうが、ないよりはマシだろう。

 

「いや、必要ない」

「そうですか」

「って、おい」

 

 相手が遠慮したからといって、こちらが合わせる理由はない。素早く距離を詰めて、玉の汗を拭く作業を開始する。

 

「拭きにくいので動かないでくださいね」

 

 抵抗される前に釘を刺したが固定できず、首が横に向いてしまう。

 

「って、動かないでって言いましたよね」

「近いんだって、自分で拭けるからいい。やっぱり借りるぞ」

 

 強引にハンカチを奪われてしまった。

 

「なんかお前、普段より……」

「普段よりなんですか?」

「いや、なんでもない。ハンカチは、後日洗って返す」

 

 私はそのまま返されても気にしなかったが、他人に自身の汗が大量に付着したものを手渡すのには抵抗があるのだろう。ここは頷いておく。

 

「さっきまで二乃姉が居たんですが、先輩と交代する形になりましたね」

「そうだったのか。確か、回想をしているんだったよな」

「その通りです。姉達のテストが終わったところまで回想しました。それ以降でどこか印象に残っている箇所はありますか?」

 

 この話の語り部は彼だ。私と違ってすぐに思いつくといいが。

 

「それ以降と言われても、後はお前のテストぐらいしか話はなかった気がする」

「何か感想は?」

「俺が言うべきことではないのだが、何でお前が教えないんだ?」

「妹に?勉強を?」

「あー、いや、もういい分かった」

 

 例え一歳差しかなかったとしても、彼女らにも姉としての矜持があるだろう。

 

「その反応で思い出しましたが、先輩は妹さんがいますよね?名前は――」

「――ラストは見るな。そう遠くない未来で会えるから、その時を楽しみにしておけ」

「そこまで言うなら、いい妹さんなんでしょうね」

「ああ、最高の妹だ」

「あー、その台詞、私の姉からも偶に聞きます」

「なら、気が合うかもな」

「へえ、それは楽しみです」

 

 これで三箇所(ノルマ)は達成した。上杉先輩も疲れているようだし、お帰りいただこうか。

 

「ありがとうございました。このままでは、本編の文字数平均より多くなりそうなので退場してください」

「理由がひどいな。まあいい、それじゃあな」

 

 ゲストの上杉風太郎さんでした。はい、拍手ー。

 

 

 

 

 ついにラスト。五話『どうして』の回想です。ゲストはこの人!

 

「……中野五月です」

「あれ、またですか?元気なく登場する人が多いですねぇ」

 

 結局、一番だけが登場から花が咲くような笑顔を見せてくれたのか、辛辣な態度をとったのは今更ながら申し訳なく思った。

 

「どうして……」

「え?」

「どうして私の出番がないんですかあ!」

「あー……」

 

 至極真っ当な文句だった。

 

「一花も!二乃も!三玖も!四葉も!それどころか上杉君ですら出番があったのに、私だけ……」

「確かに台詞はなかった。しかし、実は描写されていないだけで登場はしていたんです!」

「え……?」

 

 描写されてないのは、登場していると言えるかは怪しいが、流れで押し切る。……一話でも似たような感じだったなぁ。

 

「それは食堂でのこと、三玖姉を呼びに行ったはずが、何の収穫もなかった二人にも負けないぐらい、五月姉は目立っていました!」

「そ、それって」

「私の隣に座っていた五月姉は、正直身内だと思われたくないぐらいに大量のご飯を食べていたのです!」

「そんなことだろうと思いました!しかも、フォローになってません」

 

 あ、あれ?

 

「間違えました。素敵な笑顔で食事をする五月姉は、食堂にいる生徒みんなの視線を集めていましたよって話で」

「今更訂正しても遅いです。というより、食べてる姿をみんなに見られてるなんて、恥ずかしいじゃないですかぁ……」

「それだけ美味しそうに食べるってことですよ。見習いたいぐらいにね」

 

 食堂という場でも、生徒が学べるものはたくさんある。様々な人間が見せる姿を見て、聞いて、感じることもその一つ。

 

「さて、時間も余り残されていません。効率良く(テキパキと)進めていきましょう。ほら、元気出してください。今度、新しく出来た(オープンした)凄いサンドイッチ(ハンバーガー)屋を案内しますから」

「ハンバーガー?」

「ええ、お肉いっぱいらしいです」

「……行きましょう。どこですか?」

「いやいや、今じゃなくてね」

「ならいつですか!」

「こ、この舞台が終わったらみんなでいきましょうか」

 

 首がもげないかと、心配になる勢いで首を縦に振る五番。

 

「そ、そんなに行きたいんですね。なら、早く終わらせちゃいましょう?」

「ええ、任せてください」

 

 三番と同じ『任せて』のはずだが、不安しかないのは私だけか。

 

「回想すればいいんですよね。なら、まずは七海の寝起きシーンから」

「そこからですか、何か気になるところありました?」

「ええ、七海が怯えていたところです」

「その節は心配をかけました」

「ほんとうに心配したんですよ?」

「でも、私としては五月姉の事が心配です」

「はい?私ですか?」

「ええ、もう少しうまく物事を進めてくれれば、この気持ちを抱くこともないのですが」

「ど、努力します」

 

 それはすでに行っていること、でもうまくいかない。彼女がそういった現状を変えるのに必要なものが何なのかを私も探してはいるのだが、答えは見つけられずにいる。

 

「次は、一花との夜食です……羨ましい」

 

 垂れてる垂れてる。何がとは言わないが。

 

「これどうぞ」

 

 今日は、ハンカチをよく貸す日だ。

 

「ん゛ん゛。見苦しいところをお見せしました」

「次、いきましょうか」

 

 これ以上続けても、互いの空腹度が増すだけだ。

 

「今度は三玖ですね……こ、これは、伝説のお姫様抱っこ!」

「そこですか。重さとかは問題なかったんですが、髪を傷めないように持つのに苦労してたり」

「私でも大丈夫でしょうか……」

「大した差もないでしょうし、余裕かと」

「うぅ、そう言ってくれるのは七海だけです」

 

 そう、()()()()()()差がないように感じるだけだ。他者の意見は考慮していない。

 

「次のシーンは――」

「――待って待って(ストップストップ)!もしかして、一つ一つ全部のシーンを振り返るつもりですか?」

「はい、そうですが?」

 

 こういうところだ。あれだけハンバーガーを食べにいきたい意志を見せていて、早く終わらせようという私の言葉も聞こえていたはずなのに、真面目な部分が邪魔して物事をうまく(スムーズに)進められずにいる。

 

「私、実はお腹が空いているので、幾つか飛ばして欲しいです」

 

 今は、私が軌道修正することにした。だが、いつか彼女が歩みたい道を見つけた時、私は力になることはできないと考えている。

 その時、五番に寄り添ってくれる人がいるか、一人でも歩んでいけることを望んではいるが、先行きは不透明だ。

 

「そういうことなら……わかりました。では、次はラストのシーンですね」

 

 極端だなぁ。まあ、空腹だというのも嘘ではない。せっせと終わらせよう。

 

「ど、どうなるんでしょうか。大事にならなければいいのですが」

 

 気持ちを表すかのように唾を飲み込むのを見て、苦笑しながら言葉を返す。

 

「大事って、ただの話合いなんですから、そんな心配しなくても」

 

 もしかすると、私が五番のことを心配する以上に、逆の形で心配されているのかもしれない。

 

「で、でも――」

「――大丈夫」

 

 昔、毎日のように呟いて、それと同じぐらいに掛けてもらった言葉。根拠などないが、安心を伝播させる功能があると信じている。

 

「うまくやりますよ。五月姉と違ってね」

「……やっぱり、生意気になりました。七海」

「そうですか?」

「ええ、生意気で……ちゃんと生きてます。うん、大丈夫……」

「さっきから大げさなんですよ。さて、そろそろ空腹もつらくなってきました。早くハンバーガー食べにいきましょう?」

 

 促すと同時に五番の腹が獣のように鳴る。私のと全然違う音だなぁ。

 

「そ、そうしましょうか」

 

 よし、回想終わり!ゲストの中野五月さんでした!はい、拍手ー。

 

 

 

 

 ……第一回番外編は、これにて終了。と行きたいところですが、皆さんには最後に問題(クイズ)を出題します!

 

 問題。本日登場したゲスト六人の内、登場した回想のタイトルを発言(回収)していないのは誰でしょう。

 

 複数回答有り。答え合わせは次回の番外編になります。

 

「七海?早く行きましょう。みんなも待っていますよ?」

「はいはい、今行きます」

 

 それでは、またの機会に。司会はこの私、中野七海でお送りしました。

 



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本編
だって


「お母さん!」

 

 私の大好きな人達へと手を伸ばす。

 

「お姉ちゃん!」

 

 後少しで届きそうな手は、横から伸びてきた腕に阻まれた。

 

「行ってはダメだ。言うことは聞けるよね?だって――」

 

 

 

 

 目を開く。目覚めの気分は最悪で、寝巻きが肌に引っ付くほどに汗をかいていることが要因の一つだった。

 ベッドから降りて、カーテンを開けると朝日が私を照らした。気分も明るくなるかと思ったが、ただただ鬱陶しく感じるだけに終わってしまう。

 

「まぁ、いいか」

 

 気分を上向きにさせることは諦めて、考えを改める。これだけ嫌な気分なのだから、そうそうにはこれより下振れになることはないだろうと前と後、どっちを向いているのかすらわからない思考を帰結させて自室を出る。

 

「お父さんは、もう出ましたか」

 

 早めの起床ではあったけれども、目覚めの挨拶もお出かけの挨拶も送るには遅かったらしい。

 階段を降りて、誰もいないリビングもスルーして目的地へ一直線。

 戸の前に到達したところで水の流れる音を拾う。どうやら、先客がいたようだ。

 扉の向こうで流れている水量には当然劣るが、多量の発汗をした私も一刻も早く中に入りたかった、が……。

 

「……はぁ」

 

 取っ手まで伸ばそうとした腕は、まるで静電気に弾かれるのを恐れているかのように触れることなく、最後には重りでも付いているかのごとく、だらけた。

 そもそも、壁を一枚抜けたところであるのは脱衣所であり、もう一枚の壁を突破しなければ先客とも鉢合わせることはないのだが、入ったことに気づかれて中に引きずり込まれでもしたら面倒だ。

 結局、一刻も早くこの汗を流したい気持ちはあったが、それ以上に面倒を嫌って先客に催促することもなく、順番待ちの為に並ぶような形で、扉の前から一歩横にずれて突っ立っている私がいた。

 

「…………」

 

 微かに聞こえる水の流れる音と普段は気にしないような、水槽に設置されたエアーポンプが発する音だけがやけに大きく聞こえる。

 自身の呼吸音さえ抑えるように努めていることを自覚し、そんなことをしたところで大した意味などないと頭を振っては、また溜息が零れる。

 このまま無為な時間を過ごすのもどうかと思ってきたので、先客の正体が誰なのか推理してみることにした。

 容疑者は五名。ご丁寧に容疑者の名前には一から五の漢数字が振り分けられているのでまとめやすくて助かる。

 まずは容疑者一番から考察していこう。一番は、私生活ではズボラで起床順もドベなことが多い上、昨日も帰ってくるのが遅かったので可能性は最も低いだろう。

 次は容疑者二番。二番は、料理が得意でその日の気分にもよるが、朝食やお弁当を作る為に早起きすることもある。それに、今日は容疑者達にとって少々特別な日でもあるから、身嗜みを気にして朝早くからシャワーを浴びている可能性も十分にある。特に身嗜みに気を使うことの多い二番は、やはり有力候補か。

 さて、次は――。

 

「どうしたの?」

「わっひゃひゅい!?」

「わおっ!」

 

 いつの間に近づいてきたのか、俯きがちに思考の海に潜っていた私に声を掛けてきたのは、容疑者三番……ではなく四番だった。

 

「ごめんなさい。驚かせてしまいました」

「わ、私こそごめんね。何だか気分が悪そうに見えたから、心配で声掛けたんだけど」

 

 的を射た発言ではあったけれども、驚いたのは声を掛けられたからではなくて顔を上げたら眼前に他人の顔があったせいだ。つまるところ――。

 

「近いです。四葉(よつば)(ねえ)

「うん!おはよう七海(ななみ)

「……おはようございます」

 

 言外に離れろと込めてみたが、まるで届いちゃいない。

 

「大丈夫?やっぱり体調が悪いんじゃ――」

「いえ、大丈夫です。少し汗をかいたせいで不快な気分だっただけです」

 

 アプローチの角度を変えて、この距離間からの離脱を試みる。

 

「そうなんだ。それじゃあ、一緒にシャワー浴びよう!」

「……ぇ」

 

 そう言って、四番は私の腕を掴んで扉の向こうへ。

 おかしい、ただ距離を取りたかっただけなのに、気づけば布一枚すら隔てることができない状況にまで追い込まれていた。

 衣服すらなくなったとあれば、残るは皮膚のみ。愛称(ニックネーム)でもつけて頑張ってもらうことにしようか。命名、ひふみん。私の最後の砦として頑張ってくれたまえ。

 

「あの」

「ん?どうかした?」

「……いえ、なんでもないです」

 

 私にとっては、朝日よりも眩しい笑顔で振り返られては、抵抗する気力も削がれた。

 だが、不意に拘束は解かれ、距離が空いた。何故?

 

「脱がないの?」

 

 至極真っ当な理由でした。さすがに脱衣する時まで引っ付きながらとはいかない。

 言葉では返さず、行動で答えることにする。

 隣で上機嫌にアニメの主題歌を口ずさんでいる姉を横目に、私も寝巻きのボタンを外してゆく。

 四番は、普段から他人との距離が近いのだが、今日はいつにも増してその特性が濃くなっている気がする。私のような親しい間柄の相手ならともかく、この調子では初対面の相手にすらこの対応をしてしまいそうで心配だ。

 二枚目の衣服を剥いだところで、不意にハーモニーが止まった。

 

「ふふ、今日から一緒の学校だね」

 

 そう、それこそが四番が上機嫌かつ、その持ち前の特性が強化されている源。さっきのくだらない推理パートでも出てきた『少々特別な日』というのは、私の通っている学校に彼女()が編入してくる日のことである。

 

「そうですね。四葉先輩……とでも呼べばいいですか?」

「先輩……それいい!」

 

 適当に口から出た呼称だったが、どうやらお気に召した様子。これなら、皮膚のひふみんも受け入れられるだろうか。などと、くだらない思考をしている間に目的の風呂場に行くにあたって、不要な物はすべて取り除けた。

 お隣も同じ格好になっていたのを確認して、戸に向かおうとした時、その奥から水の滴る音が響いてきた。

 

「あ」

 

 四番の襲撃(ハイドアタック)によって、記憶領域から弾き飛ばされた情報を思い出した。中には先客がいることを。いつの間にかシャワーは止まっていたようで、拾った音から察するにお湯に浸かっていたところを今上がったといったところか。

 そして、案の定ドアが開いてご邂逅。せんきゃくだーれだ。

 

「おはよ」

「おはようございます。三玖(みく)(ねえ)

「おはよう三玖!」

 

 正解は三番でした。正解者には、私に対して文句ありげに頬を膨らましている姉への対処をお願いしたい。

 

「え、えっと?」

「…………」

 

 普段は表情の変化に貧しい三番が、こんなにも露骨な反応を見せるのは珍しい。だが、そんなレアケースの対処法を私に求められても困る。

 風呂場こそ広めの我が家だが、さすがにその入り口までは何人も通れるほど大きくはない。まったく動く気配のない、この難敵をなんとかして退かさなければならなかった。

 とはいえ、私には到底無理そうだと判断。アイコンタクトを送信だ。へるぷみぃ四番。

 

「ほら、三玖が待ってるよ」

 

 待っている?一体何を?皮膚のひふみんの紹介を?まさか、私が諦めるのを待っているとでもいうのか。

 

「四葉だけ、ずるい」

 

 何が狡いというのか。気だるげな脳の稼働率を上げて答えを探ってはみたが、収穫はない。

 これ以上は不快な感覚だけに留まらず、汗が冷えて体調を崩す(おそれ)もあった為、何でもいいから退いてくれという気持ちを込めて言葉を発した。

 

「今じゃなくて学校で、というのはどうでしょう?」

「むぅ……。わかった、約束」

 

 そう言って三番は、小指を私に向けてきた。反射的に私も長さに大差ない指を絡ませて、腕を軽く上下に降った。

 朝っぱらから何をやっているのだろうか、私は。こんな場所、格好でする事が普通ではないことだけは確かだ。

 自らの現状を客観的に見て溜め息が出そうになったが、日本ではお決まりの恐ろしい契約は結ばれなかった為、心中安堵した。これで内容もわからないこの約束を違えようとも、見るも無惨な姿になる心配はしなくて済む。

 まあ何にせよ、この場を凌ぐ為だけの適当な発言ではあったものの、無事に障害を取り除くことには成功した。

 大半の人が無表情に捉えるであろう三番の微笑みを横目に、やっとのことで目的地への入場を果たしたのだった。

 

 

 

 

 案の定、過度なスキンシップを迫られて、気分をリフレッシュする為の朝のひと時は、心労を蓄積させるに終わった。あんなくだらない推理ゲームなんてしていなければ、四番の接近にも気づけてこのイベントも回避できたかもしれないのに。

 脱衣所に戻ってきた直後には、乱暴に体を拭いてバスタオル一枚を身に纏い、脱兎のごとく自室へ避難。道中、四番からの静止の声と寝ぼけ眼の二番が挨拶をしてきたが、どちらも無視した。前者は、体を拭き終わってないので無理に追いかけてはこないだろうし、後者はどうせコンタクトレンズをつけていなくて、挨拶した相手が誰かも識別できていないだろうから、問題ない。何にしても朝っぱらから、これ以上面倒事に巻き込まれるのはごめんだったのだ。

 登校する為に身だしなみを整え、鞄を手に持って自室の扉を極力音を立てないように開けて、顔だけ出す。周囲に誰もいないことを確認して、差し足で玄関までの道のりを進んでいった。無事、誰とも遭遇することなく玄関まで到達。靴を履いたところで朝日が私を照らした。その理由は――。

 

「おはよ。七海」

「おはようございます。一花(いちか)(ねえ)

 

 ――一番が帰宅したからだった。てっきり、寝てるものだとばかり思っていたが、珍しいこともあるものだ。四番と同様に新しい学校への期待などによる影響か。

 

「ジョギングですか?」

「うん、早くに目が覚めちゃって。時間を持て余しててね」

 

 まだ、登校するには早い時間帯。分泌された汗の具合から察するに結構な距離を走ってきたのだろう。相当早くに起床したらしい。

 

「そうなんですね。では私はこれで、いってきます」

 

 早口で言い切った私は、一番の横を通り過ぎて家を出る。

 

「えー!もう行っちゃうの?!一緒に登校できるって楽しみにしてたのに」

 

 三番と違って通してはくれたが、文句を言われてしまった。

 

「ごめんなさい。今日は先生方が忙しいらしく花壇への水遣りを頼まれているんです」

「あ、それってもしかして私達のせいだったり」

 

 勿論嘘だったが、この理由なら相手が勝手に想像を膨らませては、勝手に遠慮する。

 とはいえ、楽しみにしていたというのならば、こちらも嘘だけついて煙に巻くのも気が引けた。私が登校時に一緒にいない分の楽しみを埋めることができる言葉でも贈ろうか。エレベーターが来るまでの時間で少しだけ考えて、ふと思い浮かんだのは四番が大層気に入ってた呼称だった。

 

「また、学校で。一花先輩」

「え」

 

 驚愕の表情で固まる一番を置いて丁度開いたエレベーターへ乗り込む。一度も地上まで止まりそうにない閉鎖空間の中で大なり小なり、今日を楽しみにしていたであろう彼女達の学校生活が明るいものであることを願った。

 

 

 

 

「焼肉定食、焼肉抜きで」

「はいよ」

 

 間髪入れずに差し出されたトレーを受け取って、空席を探す。早速、二席ワンセットの場所を見つけたがスルーした。あの席は、いつも使っている人がいるので、他に座る席がないならともかく授業が終わってすぐ、まだ席の数には余裕があるであろうこの時間においては遠慮した形だ。

 予想通りすぐに他の空席は見つかった。朝食は抜いてきたので空腹感は強く感じてい為、早々に手と手を合わせて食事開始の挨拶を行い、口に物を入れる作業を始める。

 普段は弁当を自分で作るか二番に渡されるかして学食は利用しないが、今朝のように億劫な気分の時や時間に余裕がなかった日は学食を利用している。メニューはいつもこの『焼肉定食、焼肉抜き』で、この学校に入学して以来、他のメニューは頼んだことはない。

 このメニューは、ここでの最安値のメニューになっており、ライス単品と同じ二百円にプラスして味噌汁とお新香が付く。私が始めてここの学食を利用した際、前に並んでいた先輩が頼んでいたメニューだった。密かに貯金をしている身としては、ありがたい裏メニュー?だ。きっと、苦学生から苦学生へと伝統的に受け継がれてきたメニューなのだろう。いや、知らないけど。

 大した量があるわけでもないので、周りの生徒と比べて早く食事が終わる。食べる前と同様に挨拶を済ませて立ち上がろうとした時、聞き覚えのある声が食堂に響いた。この声は五番だ。食堂の生徒、その大半が彼女の方へと視線が向いていた。

 どう見ても、悪目立ちしている。今は絶対に関わりたくなかった。少し立ち上がるタイミングをずらして、他の生徒に紛れるような形で食堂を後にした。

 

 

 

 

 お手洗いを済ませて、後は教室に戻るだけ――だったのだが。

 

()()()()。七海」

 

 階段にて二番が立ちはだかる。

 

「今は、こんにちは、ですよ。二乃(にの)(ねえ)

「いいえ、先におはようを済ませるべきだわ。今朝、私の挨拶を無視したわよね。その挨拶を終わらせてからよ」

 

 Oh!バレテーラ。何故。

 

「四葉があんたのこと呼んでたのが聞こえていたわよ」

 

 口にも表情にも出してもいないのにご丁寧お答えいただき、どーも。

 

「おはようございます。二乃姉」

「ええ、おはよう」

 

 にこり顔の二番の横を通りすぎようとしたが、手で制された。

 

「こんにちは。二乃姉」

「ええ、こんにちは」

 

 再度、表情を確認する。よし、さっきより深い笑みになった。今度こそ――。

 

「まだよ」

 

 ――はい?

 

「挨拶は終わったわ。でも、一花と四葉に言って、私には言ってないことがあるんじゃない?」

「あ」

 

 ここに来てようやく私は今朝、三番が待ち望んでいた答えを理解した。

 

「今日からよろしくお願いします。二乃先輩」

「ん、よろしく七海」

 

 再三の笑顔になるが、それは確かにさっきまでとは比べ物にならない素敵な笑顔だった。なるほど、これが『合格』の笑顔か。覚えた。

 

「もー、困っちゃうわよ。朝から一花と四葉ったら七海に先輩って呼ばれたってうるさくてうるさくて、それに三玖も――」

 

 こちらに背を向け階段を上がって行った二番だが、そっちは二学年の教室がある階だ。付いて行く事はせず、自分の一学年の教室へと向かう。なにやら喋ってたような気もするが、ただの独り言だろう。そういうことにしておく。

 

 

 

 

 本日のカリキュラムを終えた私は、早々に帰宅した。

 少し急ぎ足だった為、私以外に家に人はおらず、今朝と同じ静寂な空間だったが、エアーポンプの発する音は気にならなかった。

 手洗いとうがいを済ませて、動きやすい私服へと着替える。身だしなみを整え直し、コップ一杯の水を飲み干しては再び家を出た。

 向かう先は、勤めているケーキ屋『REVIVAL』だ。

 

「おはようございます。店長」

「おはよう、中野さん。今日もよろしく」

「よろしくお願いします」

「中野さんに出てもらうようになってから、ウチも随分楽になったよ。結構な日数出てくれてるが、学業のほうは大丈夫かい?」

 

 バイト先に着いたのはいいが、まだ時間には余裕があった。店長も休憩中なようで、一人時間を持て余してたところに(はなしあいて)がのこのことやってきた、といったところだろうか。

 

「ええ、問題ありません。すべてのテストは三桁でした」

「解答こそ完璧だが、その返答に百点はあげられないね。君ぐらいの年頃は、もっと素直な笑みで『満点です』と言えばいいんだよ」

「ふふ、店長の返し方こそ満点には程遠いように感じるのですが」

 

 最も私が点数などつけなくても、ハングリー精神旺盛なこの人であれば、自己採点で満点をつけることもないだろう。

 

「そう、その笑みで今日も頼むよ」

 

 ……どうやらこの会話も、私という素材の長所を最大限に生かす為のものだったらしい。なら、返し方は一つだ。

 

「任せてください!」

 

 きっと、今度は満点を貰えただろう。

 

 

 

 

「ただいま」

『おかえり』

 

 返ってきた声は三人分。一、二、三番か。

 

「バイトお疲れ様。ご飯作ってあるけどすぐに食べる?」

「……いえ、先にお風呂を済ませてからにします」

 

 二番に昼間、勝手にいなくなったことを咎められるかと警戒もしたが、その素振りは見えなかった。それを忘れるだけの出来事があったということか。私の自意識過剰なだけの可能性もあるが。

 一度、自室に戻ろうとしたところを一番に引き止められる。

 

「聞いてよ、七海。今日来た家庭教師の人、同学年の男の子だったんだよ」

「それは驚きですね、お名前は?」

「上杉風太郎君」 

 

 その名前は知っている。私と同じ、学年主席の人だ。そして、私にとっては――。

 

「それで、肝心の教師としてはどうだったのでしょうか?」

「それが、碌に教えることもせずに寝ちゃったんで送り返してやったわ」

 

 一番を遮るように二番が答えてくれた。

 

「ね、寝た?」

「うん」

 

 一番と三番にも視線で確認を取るが、どうやら事実のよう。二人共に頷いたが、一番の表情がなにやら……。

 

「あはは……」

 

 何かを隠すような苦笑い。この反応にはどんな意味がある?

 そもそも、教え子と同学年の家庭教師とはいえ、教えることもせずに寝るなんてありえるのか?彼が学食で私と同じメニューを頼むことは知っている。苦学生であっても、貯金をしている人であっても、お金を欲していることには間違いないだろう。そんな人間が引き受けた家庭教師という職務を半ば放棄するような行為をするか?まずないだろう。なら、何故途中で寝たのか。本人が寝ようと思って寝たわけではないとすれば。

 

「あれ?お風呂入るんじゃなかったのー?」

「き、着替えを先に用意しようと思って」

 

 三人に背を向けながら答えた私の表情は、どうなっていただろうか。

 自室のドアノブに手をかけ、押す。……開いた。当然だ、内側から鍵をかけれるが、外からは不可能な設計なのだから。

 LED照明のスイッチをオンにして室内を照らす。一直線に向かったのは、ベットから手が届く壁に取り付けた小さめの戸棚。

 中を確認する為に戸を開く。摩擦によって発生した音がいやに大きく聞こえた。

 

「……ある」

 

 ちゃんと、そこにあるはずの物があった。念のため袋の中身も確認する。

 

「え」

 

 再三確認する。だが、何度見ても数え間違いなんてことはなかった。

 減ってるのだ。薬が。私の使っている()()()が。

 自室にある鏡など見なくても、私の顔から血の気が引くのがわかった。

 すぐ近くにあったポーチを鷲掴んで、自室を飛び出す。

 

「ひゃあ!な、なに?」

 

 大きな音を経てた為に、二番を驚かせてしまったが気遣う余裕はなかった。

 

「あ、七海。今日、学校で会えなかったから明日はお昼に学食で……あれ?いない」

 

 当然、三番に対しても構ってる暇はない。

 

「ちょっと、お風呂入るんじゃなかったの?」

 

 玄関まで追いかけてきた二番に声を掛けられる。

 

「ごめんなさい。先に入ってもらって結構です。ちょっと外に出てきます!」

 

 靴を履くわずかな時間で、顔も見ることなく返答する。

 

「え。……行っちゃった」

 

 エレベーターの停まっている階層を確認して、すぐにボタンを押すのを止め、代わりに階段への扉を開けた。

 平均より一段が低めに設計されているそれを()()()()()で降りてゆく。

 手すりをうまく利用して、踊り場のコーナリングも素早く行う。三十階建てのタワーマンションの階段を使う人などごく少数な上に、他の利用者が居ても音が響くのですぐにわかる。対向者にぶつかる心配はない。

 何にせよ一刻も早く、上杉先輩のところへと向かわなければならなかった、のだが……。

 

「上杉先輩の家、知らないじゃん私」

 

 自分が間抜けであると気づいたのは、地上まで下り終えた時でした。

 一度立ち止まると、急速に冷静さを取り戻して、思考の大部分を占めていた焦燥感は消えていました。

 

「七海。どうしたんですか?こんな時間に」

五月姉(いつきねえ)

 

 マンションのロビーに現れたのは、五番。

 

「この時間に帰ってくるのは珍しいですね」

「今日来た家庭教師の人を家まで送っていたんです」

 

 確かに誰が送り返したかは言っていなかったが、さも自分が撃退したかのように話す二番のせいで勘違いしていた。

 

「へぇ、家まで」

「ええ、カレーをごちそうになりました」

 

 食事に関しては、ちゃっかりしすぎだこの人。

 

「そうですか。では、教えてください」

「え?何をですか?」

「上杉先輩の住所」

「はい?」

 

 頭頂部から生えたアホ毛が動いた。

 

「教えてください」

「え、ちょっと待ってください。どうしていきなり、そんな」

「教えてください」

「え、えぇ?」

 

 外はすっかり暗くなっている。急がねば。

 

「お願いします。教えてください。今、ここで!」

「あの、理由を」

「お願いします!」

 

 気迫でゴリ押す。実際、人命に関わるかもしれない問題でもあるのだ。必死さは籠められているだろう。

 

「わ、わかりました。教えますから」

 

 ちょろい。

 

「ありがとう五月先輩!」

「先輩!?」

 

「あ、でも――」

「――うん、大丈夫。住所の覚えている部分と、近くにあった建物とか教えてくれればいいから」

 

 早口で先回りすることで、必要な情報以外を喋らせずに迅速に目的地へのピースを入手した。

 

「それじゃ、いってきます」

「はい、いってらっしゃい。って、え?こんな時間に……もう見えない。それにしても、砕けた口調の後輩七海ですか。いいですね……」

 

 夜の闇に紛れた私に、彼女の呟きは聞こえていなかった。

 

 

 

 

「夜分遅くにごめんください。中野という者ですが」

 

 チャイムを鳴らして、声量を抑えつつ呼びかける。

 

「五月か?何か忘れ物でも――」

 

 開かれたドアから出てきたのは目的の人物。

 

「――初めまして、中野七海です。一から五の姉がお世話になっております」

「は?」

 

 思考停止したかのように一瞬固まる上杉先輩。

 

「な、七海だと……?五つ子じゃなかったのか?」

「五つ子で合っていますよ。私は、一つ年下の妹です。そして、貴方と同じ学校に通う後輩にあたります」

「後輩ね……。姉達と一緒に転入してきたということか?」

 

 澄んだ瞳で射抜かれる。

 

「いえ、四月から入学してます」

「まさか、お前も教え子なのか」

「それも違います」

「それじゃあ、なんだ?五月の代わりに忘れ物でも取りにきたのか?」

 

 回答文ばかりで会話するのも味がないので、話を進める意味も込めて言葉を返す。

 

「今日は、謝罪に来ました」

「謝罪?」

 

 訳がわからないといった様子の上杉先輩をよそに、私は両膝を地面に着けた。

 

「は?一体何を――」

「――この度は!」

 

 手を地面に着き、頭を垂れて。

 

「誠に申し訳ございません!」

 

 土下座である。

 

「なっ……」

 

 地面と接吻できそうな距離で見詰め合っている為、彼がどんな表情をしているかはわからないが、きっと唖然としているだろう。

 すぐに頭を上げることはせず、相手の反応(リアクション)を待つ。しかし、止まった私達の時が動く気配は一向になかった。

 そろそろ頭を上げようかと思った時、静寂を破ったのは別の人物だった。

 

「風太郎。女の子を家の前で土下座させるって……」

「お、親父!これは、こいつが勝手に――」

「――お父さん?お兄ちゃん?誰か来たの?」

「ら、らいは?!おい、話は別の場所でするぞ!」

 

 なにやら私の頭上では、慌しいことになってるなあと他人事のように考えていたら、強引に腕を掴まれた。特に抵抗する理由もないので、されるがままに引っ張られる。

 人気のない夜道に男女が一組。逢引とも取れるシチュエーションだが、生憎そんな雰囲気は微塵もない。

 

「ここら辺でいいだろ」

 

 連れて来られた先は、公園だった。

 腕の拘束は解かれ、上杉先輩がベンチに座った。こちらに視線を向け、お前も座れと促してくる。……ふむ。

 

「ってなんで砂場に正座するんだよ!そんなに俺の隣が嫌だったのか?」

「いえ、目上の人に相対するわけですし、より低い位置にと……」

「いいから、そういうの。お願いだからまともなところに座ってくれ」

 

 溜息を吐いてまで懇願されては、従わないわけにもいかない。ブランコにでも座るか。

 

「そんなに俺の隣が嫌なんだな、よくわかった」

 

 そうではない。けれど、口にすることはしなかった。より正確に表すなら、そういったことに気を回すだけの精神的な余裕がなかった。

 ベンチとブランコの距離は、話をするには遠すぎるので上杉先輩は、私の乗っている二つ隣のブランコに座って漕ぎ始めた。

 

「やっと話が進められる。それで?どうしていきなり土下座なんかしたんだ?」

 

 少し大きめに声を張り。世間話でもするかのように緩く語りかけてくれる。正直、そういった気遣いはありがたかった。

 漕いでいるブランコを目で追いながら話すのも億劫で、前を向いて話す気分でもなかったから下を向いて語る。

 

「今日の家庭教師業務の最中に寝てしまったそうですね」

「あ、あぁ。だが、それはお前の姉が――」

「――そうです。私の姉が先輩に睡眠薬を盛りました」

「なんだ、知っているのか。姉の代わりにわざわざ謝罪に来たのか?随分と――」

「――あの薬は!」

 

 思わず語調が強くなる。それに一番驚いていたのは、私自身だった。

 

「……あの薬は、重度の入眠障害である私に処方された特別強力な効果のある物なんです。健常者が服用したらどんな異常がでるかわからない!しかも、なくなっていたのは()()()でした。もし、先輩の身に何かあって姉が犯罪者にでもなったら……っ!元はといえば、私の管理不十分が原因です。お願いします。私が何でも言うことを聞きますからどうか――」

 

 唐突にチェーンがぶつかりあった、大きな音が鳴る。

 

「――落ち着け。体に異常もなければ、誰かに言いふらすつもりもないから安心しろ」

 

 気がつけば上杉先輩が目の前にいて、私の頭に手を置かれていた。撫でられているわけではないが、その動作には慣れが感じられた。

 そういえば、先程の土下座の最中に『お兄ちゃん』なんて声も聞こえたので年下の扱いに慣れているのだろうか。なら、このまま年下の弱いところをアピールすればこの後の交渉もうまくいくかな。なんて、我ながら下衆なことを考え始めたあたり、冷静さを取り戻しているだろう。

 しかし、思考が冷えると今度は体が熱くなってきた。異性に手が頭に乗っているという慣れない現状に対する羞恥でだ。

 

「の、飲み物買ってきます」

「ああ」

 

 手を振り払うように立ち上がり。駆け足で近くの自動販売機に向かう。

 ポケットから携帯電話を取り出し、買うのはミネラルウォーターと麦茶。好みを知らない相手に対するチョイスとしては、こういうった味の薄い物が無難だろうと思っての判断だ。

 公園に戻ると上杉先輩はベンチに移っていた。一人分の距離を空けて、私も腰掛ける。

 

「お好きなほう、どうぞ」

 

 選ばれたのは麦茶でした。その選択に迷いがなかったあたり、麦茶が好きなのだろうか。

 

「これ、少し苦いな」

「市販の麦茶は、それぐらいが普通ですよ。安価なパックの麦茶とかだと苦味が薄いことが多いので、それと比べてませんか?」

 

 単純に飲み慣れてない味ということもありますけどね。そう付け加えると納得したような仕草を見せた後、顎に手を置き私を見つめてきた。

 

「こっちの水、飲みますか?」

 

 また羞恥心が込み上げてこないように、視線から逃げるような形で話題を広げる。

 

「さっき、何でもするって言ったよな?」

 

 会話の流れを無視した言葉に、無意識に肩が跳ねた。

 

「そんなに怯えるな。五月にも言ってあるんだが、明日の放課後にお前の姉達を集めておいてくれないか?五月だけに任せてちゃ、全員集まるか不安でな」

「明日は特に予定もないので大丈夫ですけど。何かするんですか?」

「ああ。せっかくだから、お前も参加しろ。サービスだ」

 

 そう言って、得意気な表情をするのを見て『あ、これダメなパターンだ』と悟りました。

 

 

 

 

「ただいま」

 

 そう呟いて自宅の玄関にて靴を脱ぐ。姉達はこの時間では寝ているか、自宅に篭っていることがほとんどだ。

 だからこそ、返事があったことに小さく驚く。

 

「おかえり、七海君」

「パパ。今日は早いお帰りですね」

 

 私が帰るには遅い時間だが、多忙な父親が帰ってくるには早い。

 

「七海君の方は、遅い帰宅だね」

「ええ、少し野暮用で。普段はもっと早いので心配はなさらずに」

 

 そう言うとそれ以上の追求はなく、こちらとしてはありがたい限りだ。状況によっては、平然と嘘を付く人間な自覚はあるが、嘘を吐かなくていいならそれに越したことはない。最も、誤魔化しや隠蔽の類も嘘を吐くことと大差はないのかもしれないが。

 

「晩御飯はもう摂りました?」

「いいや、まだだよ」

「二乃姉が作ってくれているので、今暖めますね」

 

 慣れた手つきで作業をこなしていく。

 

「お待たせしました」

「ああ」

『いただきます』

 

 口数が多い相手ではないので食事に集中する。

 お互いに食事のマナーも心得ている為、食器同士の接触音すら耳に付くことが少ない。

 そんな静寂の食卓は、どちらかが食事を終えるまで続くかと思われたが、意外なことに父親のほうから話しかけてきた。

 

「今日は、君の姉達の家庭教師が来る日だったが、何か聞き及んでいるかい?」

「はい。家庭教師の業務中に直接あった訳ではありませんが、名前は聞きました。学校でも数回ですが話したことのある先輩です」

 

 嘘と真実を織り交ぜて会話を組み立てていく。

 

「君から見て、信用に値する人物かい?」

「さすがにそこまでの判断はできませんが、家庭教師としてのやる気は十分だと思います」

 

 ですが、と付け加えて続ける。

 

「教わる側とのモチベーションのギャップに苦労はしそうですが」

 

 そこは、お手並み拝見ということで。そう言って締めた私に感心するような声音が返ってくる。

 

「ありがとう。参考にするよ」

 

 娘を任せるばかりか我が家の敷居を跨ぐ相手のことも、碌に知らなかったのか。と、思いはしたが口には出さない。人それぞれの事情があるし、思うだけなら不和が生じることもないだろう。

 この会話が切っ掛けとなり、近況報告を主とした話題が広がっていく。私のことだけではなく、姉達のことも含めてだ。

 一通りの雑談を終えた辺りで席を立つ。食器を洗い始めた私に対して、要領の得ない評価が送られる。

 

「七海君は、人のことをよく見ているね」

「はい?」

「こうして会話をするとよくわかるよ」

「興味のある人にだけですよ。普通のことかと」

 

 視線は手元に向けたまま、思った通りの言葉を返す。

 

「当然、パパのことも見ていますよ」

「そうかい?」

「ですが、興味があるだけです」

 

 仮面を被って人と接することの多い私にしては、不思議とこの時は本音が溢れ出た。まるで閉まりきっていない、蛇口から漏れる水のように。

 

「パパは、少し面倒な性格をしています」

「…………」

「一花姉は、大事なことを隠すことが多くて」

「…………」

「二乃姉は、勝手に人の物を使っちゃうし」

「…………」

「三玖姉は、やたら私との間が悪いことばかり」

「…………」

「四葉姉は、距離が近すぎで」

「…………」

「五月姉は、空回りしすぎて見ているだけでも辛いです」

「…………」

「正直言って、みんなのことは苦手なんですよ」

「……その評価の割りには、よくみんなに尽くしているように見えるがね、僕は」

 

 蛇口から垂れた水滴が、食器に溜まった水面に落ちて、そこに映る私の顔が歪む。

 輪郭のぼやけた私の分身が一瞬、()()父親に視えた。

 

「それは……だって――」

 

 『行ってはダメだ。言うことは聞けるよね?だって――』

 

「――私達は」

 

 『――僕達は」

 

「家族だから」

 



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今度こそ

「しっかり握っているのよ。四葉」

「うん!」

 

 幼き日の光景。お母さんからの言葉に頷く私。

 繋いだ先には、愛おしい妹の手。私より、一回り小さいその手を優しく握る。

 

「おねえちゃん!フウセンがあるよ!」

 

 そう言って妹が空いた腕を伸ばして指差した先には、確かに風船が木の枝に引っかかっていた。

 

「わたしがとってきてあげる!ここでまってて」

 

 いいところを見せたくて、そんな理由で言い付けを破ってしまう。

 それが、妹()との別れになるとも知らずに。

 

 

 

 

「眩しい」

 

 カーテンを開けっ放しにして寝たから、朝日が差し込んでくると同時に目覚めた。

 少し汗を掻いていることに気がついて、シャワーでも浴びようかと自室を出た。

 道中、階段を降りる足取りがいつもと違う気がした。きっと浮き足立っているのだろう。そういった気分をリフレッシュする意味でもシャワーを浴びるのは、今の私にいいことかもしれない。

 目的地へと歩みを進めていると、下を向きながら突っ立っている妹をミッケ!

 

「どうしたの?」

「わっひゃひゅい!?」

「わおっ!」

 

 奇天烈なリアクションに思わず私まで驚いてしまった。

 

「ごめんなさい。驚かせてしまいました」

「わ、私こそごめんね。何だか気分が悪そうに見えたから、心配で声掛けたんだけど」

 

 先に謝られて、驚かせてしまったこと以上に申し訳ない気持ちになった。

 

「近いです。四葉姉」

「うん!おはよう七海」

「……おはようございます」

 

 元気付かせるように挨拶をしたけど、返って来たのは弱めの挨拶。

 

「大丈夫?やっぱり体調が悪いんじゃ――」

「いえ、大丈夫です。少し汗を掻いたせいで不快な気分だっただけです」

 

 その言葉を聞いた瞬間、私の脳内電球が光った。

 

「そうなんだ。それじゃあ、一緒にシャワー浴びよう!」

「……ぇ」

 

 何かを言おうとしてたのには気がついたけど、多少強引でもとにかくシャワーを浴びるのが先決だと思って、腕を引っ張る。

 

「あの」

「ん?どうかした?」

「……いえ、なんでもないです」

 

 やたらと眩しそうな顔をして、そんなことを言う七海。さっきの私のように、朝日が目にしみたのかな。

 脱衣所の戸を開けて、中に入ったところで腕を放す。

 

「脱がないの?」

 

 今度は、不思議そうな顔をしながら突っ立っていたから疑問を口にする。

 返事はこなかったけど、すぐに脱ぎ始めたのを確認してから、私も寝巻きのボタンを外していく。

 まだシャワーは浴びていないけど、隣に七海がいるだけで気分が上向く。自然と私は、好きな曲を口ずさんでいた。

 サビに入ろうか、というところで歌を中断して話しかける。

 

「ふふ、今日から一緒の学校だね」

 

 七海は、私達と同じ学校に進学するとばかり思っていたので、違う学校に行くと聞いた時はショックだった。

 理由を聞くと将来のことを考えた、しっかりとした答えが返ってきたので文句を言うこともできずに諦めたのだけれども、まさか私達が編入することになろうとは。

 何にせよ、今日から妹と一緒の学校に行けることこそが、私が浮き足立っている一番の理由。

 そんな落ち着きのない私に、更に燃料を投下する言葉が投げられた。

 

「そうですね。四葉先輩……とでも呼べばいいですか?」

「先輩……それいい!」

 

 脳内電球はさっきよりも眩く光って、ついには点滅し始めた。

 

「あ」

 

 何かを思い出した様子の七海の視線の先で、お風呂から上がる音がした。

 中に人がいたのに全く気づかなかった。一体誰だろう?

 

「おはよ」

「おはようございます。三玖姉」

「おはよう三玖!」

 

 中から出てきたのは、私と同じ五つ子の三玖――なのだけど、頬を膨らましたままお風呂の出入り口から動こうとしない。

 

「え、えっと?」

「…………」

 

 七海が私のほうを見るけど、三玖が求める言葉を私が言っても意味がない。

 

「ほら、三玖が待ってるよ」

 

 促しては見たけど七海の口から中々言葉は出てこない。恥ずかしがっているのかな。

 

「四葉だけ、ずるい」

 

 すでに服は脱ぎ終えていて、このまま通せんぼされ続けると体が冷えてしまいそう。

 

「今じゃなくて学校で、というのはどうでしょう?」

「むぅ……。わかった、約束」

 

 そんな私も気持ちが通じたのか、話が進んでそのままの流れでユビキリゲンマンが行われる。

 出入り口から退いた三玖の表情は七海の頭で見えなかったけど、きっと私と似たものだったと思う。

 

 

 

 

「そういえば」

「うん?」

 

 意外なことに、お風呂場で先に話しかけてきたのは七海のほうだった。シャワーも浴びて少しはスッキリできたからかな。

 

「家庭教師の件、今日からでしたよね。すみませんでした」

「え?」

「本当は明日からだったらしいのですが、パパと話している時に私が余計な一言を放ってしまったせいで今日からになったんです。転入日の放課後にというのは、急すぎるでしょう?みんなの人間関係を構築する時間を奪ってしまう形になりました」

 

 一体何のことかと思えば、そんなことか。

 

「気にしなくていいよ。放課後予定が入ってるなら、そのぶん放課後までに仲良くなるようにすればいいから!」

「……四葉姉らしい答えです」

 

 ホントウニ。そう七海の口が動いた気がした。

 私らしい。本当にそうなのだろうか、私は――。

 

「本当ですよ」

 

 ――エッ。

 

「エスパー?!」

「さあ?どうでしょうね」

「むむっ!種を明かさないとはナマイキな。バツとして私が体を洗ってあげる!」

 

 さあ、観念せーい!と言って伸ばす私の腕を七海は避けることなくあっさりと捕まる。

 

「四葉姉、本当に力強いですね」

「ふふーん。逃られまい」

 

 得意げな私に対して、淡々とした様子の七海。

 そんな妹の足が少しだけ動いた気がした。それに気を取られて目を離した瞬間、掴んでいた筈の腕が離れていた。

 

「え……?」

「離してくれるんですね。それじゃあ、体も洗わなくていいということで」

 

 たしかに力を入れてたはずなのに、どうして。いや、今はそれよりも!

 

「あ、洗う!洗うからあ」

 

 すぐにまた捕まえ直して、ボディタオルを手に取る。そのままボディソープをつけて、なるべく優しい手つきで体を擦っていく。

 

「シャワー浴びるだけじゃなかったんですかね」

「いいのー」

 

 適当に流す。それは、七海の言葉よりも体に意識を持っていかれてたから。

 私は、姉妹の中で一番、体を動かすことが好きだ。その影響か、姉妹同士で見比べると筋肉量などの違いで体つきに差がある。そして、七海の筋肉も私と大差なくついている。けど、私のような主にスポーツで発達した筋肉とは違った感じなんだ。

 それに昔はあんなにも小さかったのに、今では身長も追いつかれちゃって、私なんかよりもよっぽどしっかりしてる。これじゃあ、どっちがお姉ちゃんかわかったものではない。

 

「…………」

「あの?手、止まってるんですが」

 

 言うとおり、私の手は止まっていた。視線の先には、痛々しい傷跡。

 この傷跡に、私達姉妹が触れたことは一度もない。直接もそうだが、話題を振るという意味でも。だから、いつ、どこで、傷付いたのかは知らない。わかっているのは『誰か』に付けられたということ。それだけは、傷を見れば明らかだった。

 幸い、服を着れば見られない場所にあるから、普段は目立つことはない。けど、肌を晒せば嫌でも目に付いてしまう。

 

「ここまででいいですよ。今度は私が洗います」

 

 いつも七海は、こんな風に傷そのものがあることにすら気づいていないような素振りを見せる。

 或いは、なんとも思っていないのか。なんて、楽観した考え方は私にはできない。できるはずもない。

 

「うん。じゃあ、お願いしようかな」

 

 七海の洗い方は、効率的の一言だった。あれよともこれよとも言う暇もなくて、隅々まで丁寧かつ迅速に、そして気付いたら終わっていた。

 

「あ、あれ?もう終わり?」

「次、頭洗いますよー」

「え」

 

 私が洗ってないところだろうとお構いなし、全身のほとんどを洗い尽くされた。

 

「はい、終わりです」

 

 そう言い放つと、すぐさま自身の洗ってない箇所を洗い始める七海。それもすぐに終わって、風呂場を出ようとする。

 

「え、ちょっと待って!」

「まだ、何か?」

「お、お風呂!三玖が入ってたからお湯溜まってるよ。せっかくだから入ろ?」

「……四分だけです」

「うん!」

 

 何とか引き止めれた。

 こういった時、七海は指定した時間などの数字を必ず守る。今回は四分。これ、一花だったら一分になってたのかな。さすがに短すぎるから十分?なんて考えてもどうしようもないことに時間を使ってる私に声が掛けられる。

 

「入らないんですか?」

 

 先に七海は入っていた。まずい、七海が入った瞬間から間違いなくカウントダウンは始まっている。私を待ってくれているなんて楽観した考え方は、傷跡のくだりと同じぐらいにできない。

 

「えへへー」

「近いです。四葉姉」

「うん!」

「……ふぅ」

 

 大きく息を吐いた七海を見て、やっぱりお風呂に浸かるとリラックスできるなと思った。

 手を繋ぐ。幼き日と違って、私と同じ大きさになったこの手を。

 もう、二度と掴むことはできないと思っていた。でも、こうして帰ってきてくれた。生きていてくれた。

 

「痛いです」

「あ、ごめんね」

 

 無意識に力が入ってしまった。力を緩めようとするけど、思ったように力が抜けない。結局、さっきよりは弱めたものの手を握るにしては大分強い力なままだ。けれど、七海は文句は言わずにされるがままになってくれてる。

 

「私、頑張るね」

「いつも頑張ってる人がなに言ってるんですか」

 

 そう言う本人の方が私以上に頑張ってる。そう思いはしたが口には出さなかった。代わりに――。

 

「ならもっと頑張るんだ」

 

 ――自分に言い聞かせるように。七海以上に頑張るという決意で、力強い言葉が出てきた。

 少なからずこの頑張り屋な妹は、同年代と比べて何年分にも及ぶ勉強の遅れを取り戻してみせた。

 私も今度こそ――。

 

「今度こそ」

「…………」

 

 ――この手を。

 

「離さない」

 



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そうだよね

「眠れない」

 

 ちゃんと薬は飲んだのに。

 なんとなく横を向けば、閉まりきっていないカーテンの隙間から朝日が差し込んできている。

 

「あ゛ぁ゛ぁぁぁ……もう」

 

 ベッドから飛び起きて鏡の前に立つ。

 幸い、目の下に隈はできていなかったので態度にさえ注意を払えば、周りに心配をかけることもないだろう。

 

「上杉先輩との約束を果たさないと」

 

 その為には、まず五番と接触(コンタクト)するべきだ。

 身だしなみを整えて部屋を出る。目的地は隣室。

 煩くならないようにノックをしたら、すぐに扉が開いた。

 

「おはようございます。五月姉」

「おはようございます。七海」

 

 お互いに丁寧な挨拶を済ませた後で話が進む。いつものパターンだ。

 

「珍しいですね。部屋まで訪ねてくるなんて」

「少し打ち合わせしたことがありまして」

 

 私の言葉に五番の首とアホ毛が傾げる。これもいつものパターンな気がしてきた。

 

「昨日――」

「――昨日と言えば!先輩呼び、よければもう一度してくれませんか?」

 

 あー、そっちかぁ。

 

「それは、学校で」

 

 私からの先輩呼びの何が気に入ったのかは理解できないが、一つ確かなことがある。

 

「そうですか。楽しみにしてます」

 

 それは、人――いや、生物の多くは様々な事柄に慣れる存在なのだ。故に、この呼称も使いどころを考えなければならない。より有効的な局面を選んで手札(カード)は切らないと。

 

「取り敢えず、詳しいことは中で話しましょう」

「お邪魔します」

 

 中の描写はしなくてもいいだろう。中野だけに……。

 

「ど、どうしたんですか!?」

 

 五番が吃驚している。無理もない、私がいきなり頭を壁にぶつけたのだから。

 

「ごめんなさい、寝ぼけてました」

「い、いえ。それより、ぶつけたところは――」

「――大丈夫です。ご心配おかけしました」

 

 そう、寝ぼけていただけ。そういうことにしておいてください。

 

「それで、話なんですが」

「昨日のことでしたね。そうです!あの後、上杉君の家に行ったんですか?」

 

 う、うるさい。頭に響いて仕様が無い。

 

「えぇ、少し用事があったもので。その時に五月姉だけでは、みんなを集められるか不安だと言われて私も協力することになりました」

「な、なんですか不安って!」

 

 悪いけどそこに関しては上杉先輩と同意見だ。というか誰に頼もうが教え子がアレな以上、不安になるのは仕方ない気がする。

 

「まだ信頼関係が構築できてない以上、仕方ないかと。不安だというのも、思わず洩れてしまった一言だと思います」

 

 ですので大目に見てあげてください。そう括ると、素直に頷いてくれる。うん、ちょろい。

 

「それで打ち合わせの話に入りますが、すでに声を掛けたメンバーは?」

「直接話せたのは、一花だけですね。メールは全員に送りました」

 

 確りとできることはしているよう。こういう真面目な部分は五番のいいところなのだが、真面目に動いたうえで空回りすることが多いのが彼女である。

 

「返事はどうでしょうか」

「一花はオッケーとのことですが、メールの方はまだ一つも」

 

 一番の「オッケー」を控えめに再現している様子を見て、思わず笑みがこぼれてしまう。

 

「え?え?私、何か変なこと言いましたか?」

 

 焦った様子もセットで可愛らしいと感じる。

 

「ふふ……。少し、五月姉から元気を貰っただけですよ。ありがとうございます」

 

 おかげで気分が晴れた。当の本人は、何のことだかわかっていない様子。

 

「カーテン、開けてもいいです?」

 

 すぐに許可が下りた為、勢い良く全開にする。

 

「うん、眩しい」

 

 少し前の私なら鬱陶しいとしか感じなかっただろうが、今は上向きな気持ちを更に持ち上げてくれる光だ。

 

「ごめんなさい、話が逸れてしまいましたね。私のほうからもメールを送っておきます」

 

 内容は、みんな一緒での登下校を促すもの。

 送信すると、すぐさま近くの携帯が鳴る。五番がそれを手に取ったのを見届けて私は立ちあがる。

 

「これでよし。朝食、作ってきますね!お邪魔しました」

「あ、はい……。いつも私達は、みんなで登校しているんですけどね」

 

 軽い足取りでキッチンに向かう私に、五番の呟きは聞こえていなかった。

 

 

 

 

「おはよう七海!今日、一緒に学校行くって本当?!」

「おはようございます四葉姉。そんなことで嘘はつきませんよ。あと、下校も一緒です」

 

 嘘ですが。勿論、登下校の話は本当だが、状況によってはこういった事柄でも嘘はつく。

 

「やったー!」

 

 兎といい勝負ができそうなぐらいに飛び跳ねる四番。もしかして、私はこれに類似したやり取りを後、三回するのか。

 

「朝食、できていますよ。すぐに食べますか?」

「うん!食器出しておくね」

「ありがとうございます」

 

 律儀なことに、後に来るであろう姉妹達の食器を出してからこちらに向かってくる。

 

「お願いします!」

 

 食堂の職員も、こんな素敵な笑顔の生徒がトレーを受け取ってくれれば、さぞ遣り甲斐を感じられるだろうなと思いながら、手渡された食器に盛り付けていく。

 最後に皿の開いた部分へ、四番のトレードマークであるウサギ調のリボンを模した形にソースを引いて完成。

 

「どうぞ」

「すごーい!ありがとう!」

 

 このままだと洗いものが嵩む。先に使用済みの調理器具だけでも洗い終えよう。

 

「あれ?七海は食べないの?」

「私は、後でいいですよ」

「え?でも一人で食べるのは寂しい」

 

 面倒な――そう思いはしたが上杉先輩との約束もある、気分を損ねるような対応は避けるべきだ。

 

「四葉姉だけに贔屓したと見抜かれ(バレ)たら、何て言われるか。一々、食事中に席を何度も立ち上がるのは、マナーが悪いので」

 

 贔屓とは、先程のソースアートのこと。それにすぐ――。

 

「……いい匂い」

 

 ――扉の開く音がして、誰かが階段を降りてくる。

 

「おー、おはよう三玖」

「おはよ」

「おはようございます。三玖姉」

 

 来たのは三番か……難易度高いのきたなあ。

 

「今日、一緒に――」

「――それについては、四葉姉に聞いてください。それより、朝食はすぐに食べますか?」

 

 対応も面倒になってきたので、四番に役立ってもらう。

 それよりも今は集中だ。洗い物を中断して、盛り付けを開始する。すぐに仕上げの時間がくる。……よし。

 

「……ふぅ、できました。」

『す、すごい』

 

 二人から揃って、賛美の言葉が贈られた。

 私がソースで描いたのはヘッドフォン。三番のトレードマークだ。

 ただでさえ表現難度の高いそれを、難しい角度(アングル)で精細に表現した自信作。

 

「どうぞ」

「あ、ありがとう」

 

 最早、賞賛というより若干引かれてるような気もするが、得てして芸術とはこういうものなのだ。多分。

 

『いただきます』

「召し上がれ」

 

 二人が食事を始めた時、また扉が開く。次は誰だろうか。

 こうした流れで朝の一時は、段々と賑やかさを増していった。

 

 

 

 

 想定外の事態だった。まさか――。

 

江端(えばた)さん、送ってくれてありがとうございます」

 

 ――リムジンで登校することになろうとは。

 今、お礼を言った一番の起床が遅れたことこそが原因である。

 ()()()()()で私は、今いる空間が苦手なのだ。運転手やリムジンという車種が原因ではない。()()()というのが問題だった。

 自分のものではないかのように、肉体が硬直しているのがわかる。緊張状態によるものだ。

 だが、周囲に悟られるわけにはいかない。折角ご機嫌な様子の姉達なのだから、ここで心配をかけたり機嫌を損ねるようなことになって、上杉先輩との約束を守れないのはまずい。最悪、私の体調が心配で勉強が手につかないなどとほざき始めて、今日の家庭教師授業自体が中止になる可能性すらある。

 上杉先輩が求めているものは結果。試みはしたけど失敗しました、では駄目なのだ。

 今はまだ、私に話題が振られてきてはいないが、それも時間の問題。いざその時がきたら、うまくやり過ごせる気がしない。現に一番がこちらに違和感を感じはじめている節がある。

 どうする。そう考えては何も思い浮かばず、また周囲の様子を見てを繰り返す。このループから抜け出せた時は、私が話を振られた時だろう。

 半ば諦めかけていたで場面(タイミング)で予想通り、その時がきた。

 

「七海は、どう思う?」

 

 視線が私に集中する。

 

「わ、私は――」

「――お嬢様方、談笑中失礼いたします。少し止めてもよろしいでしょうか?」

 

 介入したのは、このリムジンの運転手でもあり、父親の秘書でもある人。

 特に反対意見を言うものは出ず、すぐに車はコンビニエンスストア近くの駐車場に止まった。

 

「少し通話をさせていただきます。外に出る方はいますか?」

 

 即座に返事をして、店内に入る。そのまま、店員にお手洗いを利用する許可を得る。

 狭い個室で呼吸を整える。学校まで車で後、五分程度か。

 大丈夫。そう自分に言い聞かせるが、押し寄せてくるのは不安と気だるさ。前者はともかく、後者は気を抜いたことによって寝不足の影響が表にでてきた為だろう。

 これ以上長引くと心配をかける、店内に戻ってワンコインでガムを購入してから外に出た。

 

「何買ったの?」

「ガムですけど、何でみんな外に?」

 

 と聞いてはみたが、答えが返ってくる前に理由を察した。

 

「あぁ、急用が入ったんですね。時間に余裕があるわけではないので、もう歩き始めましょうか」

 

 ただでさえ存在感がある車種なのに、この店の前から見たら絶対、最初に視線が向かうあろうそれがいなくなっていた。

 

「……気遣わせてしまったようですね」

「何か言いましたか?」

「いいえ、何でも。それよりも今日の放課後の話をしましょうか」

 

 ()()()とは違って、今は誰かが助けてくれるこの環境に心から感謝した。

 

 

 

 

 暢気に話しながら登校していたので我が校の門が見えてきた時には、始業までの猶予は瀬戸際が視えそうなほどだった。

 

「いっそげー!」

 

 四番に言われなくてもそうしてる。だが、明らかに遅れている者が一名。

 

「三玖姉、頑張って!」

 

 そう声を掛けるが返事が来ることはなく、むしろペースが落ちる有様。仕方ない、手札(カード)を切るか。

 

「登校二日目から遅刻なんてカッコワルイですよ?三玖()()

 

 コンクリートの地面と、にらめっこしていた顔が前を向いた。

 

「が、がんばる」

 

 効果はあったようで安心する。本当は、こんなことで呼ぶつもりはなかったが、先程他人に助けられたばかりなのだ、私も誰かの助けになることができればと思ってしまったが故、致し方ない。

 私から促したからかはわからないが、放課後の件も全員からいい返事がもらえた。これなら上杉先輩との約束も果たせそうだ――そう思った瞬間、眩暈がした。

 

「七海!?」

 

 最後にやらかした。もう下駄箱まで到達していて、すぐそこの廊下にさえでれば別れられたというのに。だが、他の姉達はもう先に行って見えない。なので、三番の口封じ(説得)にさえ成功すれば何の問題もない。

 

「大丈夫?体調悪いんじゃ」

 

 下駄箱を壁にして寄りかかった私にすぐに近づいてくる三番。

 あれ?この人今、さっきよりも早い速度で駆け寄ってきませんでした?

 

「大丈夫ですよ。それより今、やたらと早くありませんでした?最初からその調子(スピード)で頼みますよ」

 

 少しだけ怒気を醸し出して、自らの体と三番の両方を騙せるように言葉を紡ぐ。

 

「ほら、まだ教室じゃないんだから急がないと。家庭教師だけじゃなくて学校での授業も頑張ってください」

 

 ここまでは、いい巻き返し(リカバリー)だ。問題はこの後、私の体調に関することを吹聴させないようにせねば。

 

「さっきのは、虫を見つけて避けようとしたらバランスを崩しただけです。決して、体調が悪いわけではないです」

 

 安心させるように微笑みかける。だが――。

 

「嘘」

 

 ――見抜かれ(バレ)ていた。と決め付けるにはまだ早い。鎌をかけているだけの可能性もある。故に表情筋に変化は起さない。

 

「嘘じゃないですよ。ただ――」

「――一花が言ってた、七海の様子が変だって」

 

 ちぃ、やはり車内で勘付かれていたか。私がコンビニ入ってる間に伝えたとしか考えられない。

 

「はぁ……ただの寝不足ですよ。そんなことで心配されるのも恥ずかしいのでみんなには言わないでくださいね」

 

 こうなったら、説得から交渉に切り替えるだけだ。

 

「やだ」

「は?」

 

 今なんと?

 

「保健室に連れて行く。後、みんなにも言う」

 

 交渉失敗どころか、これじゃあ三番まで遅刻扱いになるじゃないですか。

 

「ちょ、ちょっと待ってください。保健室なんて大げさな」

「いいから言うこと聞く。先輩の言うこと聞けないの?」

 

 ちょっとぉ?だーれ、この人に先輩とか意識させた奴。

 

「お願いだから、一緒に来て。お姉ちゃんからのお願い」

 

 お願いに始まりお願いに終わる。そんな必死さを籠められては、頷くしかなかった。

 保健室にはすぐに到着して、中に入ると鏡が目に入った。それを見た瞬間、驚愕する。

 

「え゛」

 

 顔色が真っ青だった。これで心配するなというほうが無理な話。

 固まっている私は、肩を掴まれてベッドにまで押される。

 

「先生呼んでくるから。横になって待ってて」

 

 駆け足で出て行った三番を見届けて、思考を巡らす。

 校門を通るまでにも顔は見られていたわけだし、走ったことで一気に表に現れた形か。

 思えば、昨日アルバイトから帰ってきた辺りから、所々でテンションがおかしかったような気もする。

 夜眠れなかったのも、体調を崩して薬が効きが悪かったからか。今朝、ただの寝不足だと楽観視したのは愚かな判断だった。

 

「大丈夫?中野さん。お姉さんから話は聞いたわ」

 

 養護教諭がいつの間にか入ってきていた。

 

「姉は」

「あら、お姉さんいなくて心細かったかな。授業に行かせたわ。ごめんなさいね、切り離すような真似をして」

「いえ、安心しました」

「え?」

 

 学校の授業ですら心配で参加できないなどとほざこうものなら、家庭教師の授業の時だって言うに決まっている。

 

「まぁ、いいわ。いくつか質問するわね。ゆっくりでいいから答えて。喋るのがつらいなら首を振るだけでもいいから」

 

 三番の言いつけを守らず、ベッドに腰掛けていた私は首を縦に振った。

 

 

 

 

「大丈夫だよ、七海」

 

 大丈夫、そう繰り返す姉こそが一番大丈夫とは思えなかった。

 でも、その言葉を呟くことでしか精神を支えることができない。

 二人一緒なら大丈夫。いつかまた、大好きな人達と再会できる。ただそれだけを希望として日々を生きていた。

 今度は、私が呟く。

 

「大丈夫、そうだよね――」

 

 

 

 

 目を開く。目覚めの気分は良好で、カーテンの隙間から漏れていた暖かそうな日差しが今の私に適していた。

 

「いつ寝たのか覚えてない……」

 

 首を縦に振ったところまでは覚えているのだが、それ以降の記憶は抜け落ちていた。

 体を起こしたところで違和感に気づく。

 

「この手は……」

 

 視線を動かした先には、大事そうに私の手を握る一番の姿。

 

「おーい」

 

 呼びかけて見るが反応はない。一番遅くに起きてきたくせして、随分と気持ちよさそうに寝てる。

 

「離しては……くれませんよね」

 

 さて、どうしたものか。ここから動くことなく出来ることといえば。

 

「もう昼休み……」

 

 それも終わりそうな時間だった。悠長に寝させている場合ではない。

 

「一花姉、起きて」

「んー?七海だあ。……って七海起きてたの?!」

「誰かさんが隣で気持ちよさそうに寝てるので、私が起こさないとと思いまして」

「あ、あはは。それより、体は大丈夫?」

「ええ、大分よくなりました」

「ごめんね。車の中でちょっと変だなとは思ったんだけど」

「その話はいいので早く授業に向かってください。お昼の休憩時間、終わっちゃいそうですよ?」

 

 私も先生と話をつけてから授業に出ますので――そう話しを括ると納得しきった様子ではなかったものの手を離してくれた。

 

「少しでもつらいと感じたら無理しちゃダメだからね!放課後迎えに行くから」

 

 一番を見届けて、私も先生を探しに行こうとベッドから降りる。

 上靴を履いていざ行かんと意気込んだところで対面のカーテンで視界の遮られたベッドから声を掛けられる。

 

「なあ、アンタ」

「あ、お騒がせして申し訳ありません」

「いや、それはいいんだけどよ。アンタ、一花さんの妹……で合ってるよな?」

「はい?そうです。中野一花の妹、七海と言います。一学年に在籍しています」

「そうか……」

 

 静寂が訪れた。聞いてきたのはそっちでしょうに。

 

「あの、それで私に何か?」

「いや、それで、あーっと」

 

 煮え滾らない物言いに、どう対応したものかと悩む。会話の流れから察するに、初対面であることは間違いないだろう。いや、今は顔さえ合わせていないのだから初対面という表現ですら適切ではないのかもしれない。

 こちらが自己紹介をしたにも関らず、相手は何の情報も開示してこない。声の低さから判断するに男性だろうが、わかるのはそれだけだ。姿形さえわからない相手に付き合う義理はない。

 

「私、授業に出るのでもう行きますね」

「まっ、待ってくれ!」

 

 どうやら相手にも、引けない何かがある模様。

 

「話しがあるのなら、顔と名前ぐらいは知りたいのですが」

 

 仕切りのカーテンが勢いよく開かれ、やっとのことで対面する。

 

「あ、あぁ。俺は、前田っつうもので二年だ」

 

 先輩だったか。

 

「初めまして、よろしくお願いします。前田先輩」

「あぁ……」

 

 またも訪れた静寂。どうやら、私が潤滑油としてこの会話を動かさないといけないらしい。

 

「私に用があるというよりは、姉に興味があると見受けました。例えば好意を抱いているとか」

「えっ」

 

 だが、潤滑油を垂らすだけではこの会話がいつ終わるかわかったものではない。ならばと、火種に油をぶちまけるかのごとく、本題を切り出すことにした。

 

「抱いてみたはいいものの、近づく為のきっかけが得られず、妹がいると知ってそこからヒントを探ろうとしたが、いざ話しかけてみたら何を喋ればいいのかも考えていなかった――とかでしょうか?」

 

 最早、言語での返事はなく、首を縦に振り続ける反応だけが送られてくる。

 

「一花姉はドラマをよく見て、日課はジョギングです。ほとんど話したことのない相手が、自分のことを知りすぎていると警戒されるでしょうから、好物などはご自身で聞いてください」

 

 もう行っていいですか?そう目線で語りかける。

 

「あ、ああ!ありがとう」

 

 あ、だけで半分を占めそうな感謝をいただきながら、そういえばここは保健室だと思い出す。

 

「私は、もう出ます。養護教諭に会いにいきますが伝言などはありますか?」

「よ、ようご?」

「保健室の先生のことです」

「いや、サボってただけだから特に何も言うことないっす」

 

 何だか、最初と態度が変化したような印象も受けたが、気に留めることなく保健室を後にした。

 

 

 

 

 あれから、午後に予定されていた教程をすべてこなしたが、再び体調が崩れることはなかった。一先ず、安堵の溜息を吐く。

 一番は迎えに来ると言っていたが、まさか教室にまで迎えに来るというのか。お手紙入れ(メールボックス)や通話履歴に目新しいものはない。少し待機して、様子を見ることを選択する。

 数分待ったが、誰も来ない。登校時の話し合いで決めた校門前へ向かおうと立ち上がった時、姦しい集団が現れた。

 

「七海!大丈夫だった?無理してない?おんぶしようか?」

 

 やめてよして触らないで恥ずかしいから。

 まさか、全員で来るとは。まだ教室にはちらほらと生徒が残っており、視線が私達に集中してる。

 

「四葉姉なら本当におんぶしながら帰れそうで怖いです。冗談……ですよね?」

 

 頼むから冗談だと言ってくださいな。

 

「え?」

「……大丈夫です。無理はしていません。おんぶも要りません!」

 

 自身が健康であることを必死に主張(アピール)する。

 

「そう?でもつらかったら何時でも言ってね?」

 

 落胆と期待を込めたその言葉に、首を縦と横、同時に振りたい気持ちからか結果、斜めになった。

 

「おーい?早く帰るわよー」

 

 羞恥心と恐怖心で必死の抵抗を見せていた私に助け舟を出してくれたのは、教室の出入り口で留まっていた二番だ。

 揃って返事をした姉達が先に行く中、待っていてくれた救世主の前で止まる。

 

「ありがとうございます。二乃姉」

「ん。……みんな大げさすぎなのよ。遭難したかもしれない、みたいなことならともかく、少し体調を崩した程度で」

「心配かけた張本人としては、何とも言えませんね。でも、内心最も心配してくれるのは二乃姉だと思っています」

「っ……。学校では――」

「――二乃先輩、ですね」

「はぁ……。ほら、行くわよ。遅れちゃうわ」

「はーい」

 

 歩き始めて、校外へ出たところで先程の会話での違和感に気付いた。

 

「二乃姉は、家庭教師に否定的かと思いましたが、そうでもないんですか?」

「……ちょっと言わなきゃいけないことがあるの。あの上杉とかいう奴に」

 

 昨夜の会話で得た印象とは、また違う。昨日は、撃退して清々した。今日は、撃退じゃ飽き足らず打ちのめしてやるといった気概が感じられる。……私が暢気に寝ている間に何かあったと見るのが妥当か。

 上杉先輩の授業に全員参加するところまで見届ければ、大事をとって自室に篭っていようかと考えていたが、私も同席したほうがよさそうだ。

 

「そうなんですね」

 

 何の気もない風を装い、会話を区切る。

 一日は後、三分の一の時間が残っている。昨日と今日の出来事(イベント)を思い返せば、当然この後に起こりうるそれらも易々と終えることはないだろうと、確信に近い予感が脳内を(よぎ)った。

 

 

 

 

「今日は、よく集まってくれた!」

 

 やってきてしまいました。家庭教師のお時間です。

 取り敢えず、約束は果たせたことに安堵の溜息を漏らす。

 だが、参加している面々の反応は様々で、とてもいいものとは言えない。

 瞼がほとんど閉じている者、膝枕として利用されて苦笑いの者、軽侮の眼差しの者、睨みつけて黙している者、終いには携帯端末をいじくってる者までいる始末。そんな不安しかない生徒達がソファーに座っている様子を私は、高めの椅子(チェア)を支えに立ち、後方から見学中。

 

「だったら、それを証明してくれ」

「証明?」

「昨日できなかったテストだ」

 

 気付けば話は進んでいて、自信あり気に机上の紙へと手をついた上杉先輩が宣言する。

 

「合格ラインを超えた奴には、金輪際近づかないと約束しよう」

 

 そこまで聞いて、一つ気付いたことがある。それは――。

 

「勝手に卒業していってくれ」

 

 ――彼は、教えることそのものに興味があるわけではない、ということだ。少なくとも今現在は。

 恐らく、金銭さえ得られればいいのだろう。そのこと自体に文句はない。だが、考えが甘い。

 

「わかりました、受けましょう」

 

 抗議の声も存在したが、五番が承諾したことにより、全員がテストに挑むことになった。

 合格ラインは五十点。

 

「凄ぇ、百点だ!!全員合わせてな!!」

 

 これからのことを思い、汗が止まらないといった様子の上杉先輩を見て、姉達は逃亡した。

 静寂の訪れた広いリビングルームに、二人だけが残される。

 

「お前も赤点候補ってことはないよな?」

「ご心配なく、昨夜も言ったとおり教え子でもないです」

「ホントウか?」

 

 現実逃避でもしてるのか、疑心暗鬼に陥っている。

 

「近いです……」

 

 言えば離れてくれる。ありがたい限りだ。どっかの誰かさんは、同じ言葉で離れてくれないから。

 

「受けろ」

「はい?」

「お前もテストを受けるんだ」

 

 なんか言い出したぞ、この人。ありがたさは露と消えた。

 

「テストって、用紙の予備はあるんですか?」

「ない」

 

 コピー機はあるが、もう解答欄が埋まってしまっている。

 

「作る」

 

 あぁ、もう……。さっきと同じ反応するのも馬鹿らしいので黙っている。

 

「今から作る。待っていろ」

「嫌です」

「は?」

 

 何時になるかもわからないそれに、付き合う気は毛頭ない。

 

「口頭で問題を出してください。それなら付き合います」

 

 思い返してみれば、昨夜にお前も参加しろとかなんとか、言われた記憶がある。私も上杉先輩もすっかり忘れていたようだが。

 

「……特別にお前は、合格ラインを三十点に下げてやる」

 

 この人、弱気になりすぎじゃないですか?

 

「第一問!」

 

 

 

 

「凄ぇ、百点だ!!お前一人でな!!」

 

 余裕でした。

 

「というか、一部の問題はまだ授業で習っていません。私が一学年だということ忘れてませんか?」

「なんでこいつが生徒じゃないんだ……」

 

 私の指摘は右から左に抜けていってるご様子。

 先程も思ったが、考えが甘いのだ。これまでの発言から察するに『卒業』させることこそが最終目標の家庭教師業務なのだろう。だが、多くの場合は受験を合格しての『入学』を最終目標としたもの。上杉先輩は、後者の基準が脳内に残っていたのだろう。前者と後者の教え子の学力には差があって当然。他者に多額の金銭を払ってまでする依頼内容が、そんな簡単ことばかりではないのを体験していない人だと推測する。

 

「あの、これ……」

 

 話しかけはしたものの、現実逃避は続いているようで反応がない。

 机の上に置いてあった、テスト用紙。私は、何気なく手に取ったそれを見て驚愕していた。

 

「すごい……」

 

 驚愕は、すぐ賞賛に変化し口から零れる。

 すべて手書きなのだ。五枚ある紙のどこを見ても。

 問題文に解答欄、更に名前の記入欄まで違和感のない均整の取れた配置で丁寧な文字と線が引かれている。

 紙同士を重ね、照らし合わせる。すると、ほとんどが差がない。

 この人、この(クオリティ)で卒業が視えるまで続ける気なのか?

 たった数枚の紙。それを見ただけで私は、この人の授業を受けてみたいと思ってしまう。

 印刷技術が発達した現代において、均整の取れていない文章や配置は、見ている側にストレスを与える要因となりうる。元は白紙なのだ。均整をとる為の基準も自分で作り、多くの時間を費やして作成したのだろう。適当に書いてできる物ではない。

 

「おい、どうした?」

 

 いつの間にか復活した上杉先輩が近づいてきていて、私は顔を上げた。

 

「こ、これ――」

「――ちょっと、七海!そいつに近づいちゃダメよ!」

 

 私の肩に手をかけたのは二番だ。こちらもいつの間に戻ってきたのか。

 

「あんた、七海に余計なことしてないでしょうね?」

「何もしてねーよ」

「……七海は体調崩してたんだから部屋で大人しくしてなさい。私はコイツに話があるから」

「えっ、ちょっと!」

 

 問答無用、といった形相で自室に押し込まれる。

 部屋に入ってしまうと防音機能が高水準の為、リビングで発する声は届いてこない。

 気にはなったものの、二番も心配して私を押し込んだのだ。無下にするのも気が引けた。

 着替えてからベッドに潜る(イン)。とにかく寝よう、また同じ失敗を繰り返すのは御免だ。

 目を閉じるとすぐに眠気は襲ってきた。まどろみに飲み込まれるまでの間で思考を巡らせる。

 真っ先に思い浮かんだのは、先程のリビングでの出来事。

 あの紙のおかげで私の上杉先輩に対する評価は急上昇した。私自身が彼の授業を受けてみたいと思うほどに。だが、受けるべきは姉達だ。

 この先、姉達を授業に参加させるところから、家庭教師としての仕事が進んでいくだろう。

 私もそれを手伝うところから始めようと思う。何でもすると言ったからでも、姉達が心配だからでもない。私自身の意思で行う。理由は、彼の授業を受けて欲しいと思ったから。元から、私は誰かの為に動くより、自分自身の為に動いたほうがうまくいく性質(タイプ)だ。だからこれでいい。いや、これ()いい。

 僅かな間だったが、思考の大部分に靄がかかってきていた。最後に明日からがうまくいくよう、祈るがごとく呟こう。

 

「大丈夫――」

 

 『大丈夫だよ――』

 

「――そうだよね」

 

 『――七海』

 

六海(むつみ)

 



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分かってる

「焼肉定食、焼肉抜きで」

「はいよ」

 

 この学校に入学してから、何度頼んだのかも覚えていないこのメニューを今日も今日とて頼む。

 すぐに差し出されたそれを手に、いつも使っている席へと直行しようとしたが、特徴的なアホ毛を見つけて声をかける。

 

「五月。昨日の話はどうなった?」

「上杉君……」

 

 やたらとご機嫌な様子だったからチャンスだと思ったのだが、俺に気づくと五月の表情は歪んだ。

 

「……七海が話をまとめてくれました。全員参加するとのことです」

「そうか」

 

 どうやら、あいつに頼んで正解だったようだ。昨日は、用意したけど出番のなかったテストが日の目を見ることになりそうで安心する。俺にとっても他人、それも同年代へ向けてのテストなんて作ったのは初めてだったんだ。自分の勉強だけではなく、睡眠の時間だって削りながら作ったそれが、お蔵入りとあっては心にくるものがある。

 

「それより!七海から聞きました。私だけじゃ……」

 

 勢いよく切り出してきたかと思えば、すぐに言葉は萎んでいく。

 

「だけじゃ?」

「……いえ、なんでもありません。それより、なんで七海が貴方を手伝うことになっているんですか?」

 

 お前一人じゃ不安だから助力してもらうことにしただけだ。それにどちらかと言えば、俺を手伝うというよりかは、五月に手を貸すということ。だが、それらを指摘したところで話が拗れるだけ。

 

「それは……」

 

 今度は、俺の言葉が萎む。頭を過るのは、昨夜のこと。こいつの妹が見せた必死の表情が、脳裏に焼き付いていた。その光景がストッパーとなった形だ。

 

「……忘れ物を届けてくれたんだよ。律儀な奴だな、あいつ」

 

 少し悩んで、嘘をつくことにした。だが、後半の部分は本心だ。

 

「答えになっていませんよ。なんで手伝うことになったのか聞いたんです」

 

 おっと、いけない。嘘を考えるのに集中しすぎて、会話の流れを無視してしまった。

 

「律儀な奴って言っただろ?あいつから申し出てきたんだよ」

 

 これに関しては、嘘と事実、どちらとも取れる。実際『何でもする』とは言ったのだ。まあ、なんであれ、一応の納得はしてくれたのか、追求はこなかった。

 全員の参加さえ確認できれば、今のこいつに用はない。

 

「ちゃんとお前も参加し――」

「――五月ー?もうみんな集まってるよー?」

 

 捨て台詞の途中で介入してきたのは、二乃……だったか。

 よくも昨日は、と口から出そうになったが、昨夜のことがまたも過っては唇を噛むに終わる。

 

「何話してたの?」

 

 そう聞く二乃は、俺のほうを一瞬だけ見て、すぐに最初から居なかったかのように視線を五月に戻した。

 

「それは」

 

 元から離れるつもりだった俺は、いつもの席へと向かう。だから、五月がその先に放った言葉の内容は、食堂の喧騒に掻き消されて耳に届くことはなかった。

 

 

 

 

「何度見てもでっけー。家賃は月十万はするだろうな(適当)」

 

 放課後、二回目となる家庭教師業務の時間だ。

 中野家の住むタワーマンションの前で、仰け反るように天を見上げる俺がいた。

 

「こんにちは、お待ちしていました。みんなが待ってるリビングまで案内します」

 

 そう言って入り口から現れたのは、五月達の一つ年下の妹、七海だ。……律儀律儀と何回か口にしたが、想像以上に律儀な奴だな。ここの最上階だったはずだ、彼女達の家は。昨日は必死で階段を登っていたから、最上階が何階かは覚えていないが、外から見れば相当高いのは明らかだ。私服なのだから、一度家に戻って着替えたのだろう。エレベーターとはいえ、わざわざ降りてまで出迎えるのは面倒そうだ。

 

「と、言っても。昨日もいらっしゃったのですから、案内は必要なかったでしょうね」

 

 まあ、お客様であることに違いはありませんし。俺の返事も待たずにそう呟いた七海を見て、何でこいつが教え子じゃないんだと思ってしまう。少なからず、名前だけ書いてその先が一切進まなかったり、いつ起きてるのか疑問に思うぐらいにすぐ眠くなる奴や、剰え(あまつさ)俺に薬を……やめよう、またあの表情が過るだけだ。

 

「あの、行かないんですか?」

「あ、あぁ。今行く」

 

 やっべ、何かを操作してこのマンションの入り口のドアを開いた気がしたが、どうやったのかを見過ごした。昨日は、不法侵入のような形で開いているところに滑り込んだからわからない。まぁ、適当に操作すれば開くだろ。多分。

 今更聞くのも若干の恥ずかしさがあって自己完結で終える。

 

「そういえば」

「んあ?」

「昨日は、自信ありといった得意気な表情をしていましたが、何か秘策でも?」

 

 エレベーターが来るまでの場繋ぎとして放ったのだろう。何の気もなさそうな語調で語りかけてきた。

 

「ふっ、それは始まってからのお楽しみだ」

 

 答えると同時になんだか高級そうな音が鳴る。

 

「お待たせしました」

 

 エレベーターが来ても先に乗ることはせず、片腕を中へ向けて広げることによってお先にどうぞと促してくる。高級ホテルとかではこういった扱いの案内をされるのだろうか。

 

「あぁ……」

 

 こんな丁寧な対応をしてくる奴の姉達を、これから俺は赤点候補者以外はほったらかすことで楽しようとしているのか、俺は。そう考えると罪悪感が沸いてきたが、何より大切なのは金銭を得ることだ。こちらにはこちらの事情がある。自身の勉強も両立させないといけないんだ、負担は一人分でも軽くなるにこしたことはない。そう考えて罪悪感を振り払った。

 

「私は、後ろで見学させてもらうことにします。言われたとおり、楽しみにしておきますね」

 

 エレベーター内で後ろの壁によりかかっていた俺には、ドア横にある操作盤の前に立った七海の表情は見えなかった。

 

 

 

 

「今日は、よく集まってくれた!」

 

 本当は、昨日ここで行われた悪行を心優しい俺が許す趣旨の発言から始めようと思ったが、本日再三となる例の表情が過って省略した。

 それにしても、教え子達の反応はそれぞれ違うがひどいものだ。五つ子の少し後方で立っている妹が、視線で謝罪をしてくる。

 

「家庭教師はいらないって、言わなかったっけ?」

「だったら、それを証明してくれ」

「証明?」

 

 俺の言葉が想定外だったのか、若干の不安を覗かせる二乃。

 

「昨日できなかったテストだ」

 

 机の上にテスト用紙を手と一緒に叩きつける。

 

「合格ラインを超えた奴には、金輪際近づかないと約束しよう」

 

 この場にいる全員が大なり小なりの反応を示す。その中で一番気になったのは、後ろで見学している七海。

 あまり驚いた様子はないが、視線が鋭くなった気がする。何を考えているかはわからないが、こちらに引く気はない。

 

「勝手に卒業していってくれ」

 

 何せよ、これで俺の負担は減るんだ。

 

 

 

 

 

「凄ぇ、百点だ!!全員合わせてな!!」

 

 減るはずだったのになぁ。

 

「お前ら……まさか……」

「逃げろ!」

 

 そう叫んだのは誰だったか、この時のことを未来で思い返すと曖昧だったが、五つ子達全員が一斉に逃亡したことは鮮明に記憶していた。

 当時の俺が制止の声をかけたところで、彼女らの逃亡を阻止できるはずもなく。五つ子は各々の自室に退避した。

 学校の教室かよ、と感じるぐらいには広いリビングで残ったのは俺一人かと思っていたが、もう一人こちらを見つめる視線があることに気づく。

 

「お前も赤点候補ってことはないよな?」

「ご心配なく、昨日も言ったとおり教え子でもないです」

「ホントウか?」

 

 もう、何もシンジラレナイ。残っていた七海の眼前まで近づき、視えもしない心の中を覗くように瞳を見つめ返す。

 

「近いです……」

 

 言われて、その日何度も思い返していた昨夜のこと――から更に後に起きた出来事を思い出す。

 

「悪い」

 

 すぐに離れる。一応、こいつは俺にとっては――いや、今その話は後回しだ。それよりも昨夜のことで他に思い出したことがあった。

 

「受けろ」

「はい?」

 

 俺の突然の発言を聞いて、意味がわからないといった表情の七海。それは、昨日俺が穴だらけの秘策を思いついた時に見せた五月の表情とそっくりだった。

 

「お前もテストを受けるんだ」

 

 他に思い出したこととは、昨夜の会話でお前も参加しろとかなんとか言ったことだった。この様子では、俺もこいつも忘れていたようだが。

 

「テストって、用紙の予備はあるんですか?」

「ない」

 

 即答。ないなら。

 

「作る」

 

 俺の教材製作テクニックは、進化を遂げた。五人分のテストだけではなく、先の授業分だってストックを作った今の俺なら、わずか25問のテスト一つを作るぐらいわけない。自分の才能が恐ろしいぜ。この場でささっと作ってみせる。

 

「今から作る。待っていろ」

「嫌です」

「は?」

 

 さっき放った俺の即答よりも早く返され、思わず声が漏れる。

 

「口頭で問題を出してください。それなら付き合います」

 

 仕方ない、付き合ってやるか。そんな感情を隠そうともしないその態度を見て、後悔するなよと脳内でさっき行ったテストよりも難しい問題を組み立てる。

 数分後、問題を決めたはいいものの、少し難しくしすぎたかと思って保険をかける。……後になって思えば、こいつの学力を鑑みると失礼にも程がある行為だったが。

 

「……特別にお前は、合格ラインを三十点に下げてやる」

 

 俺の情けが不満なのか、眉をひそめた七海。だが、テスト内容は容赦なしだ。

 

「第一問!」

 

 

 

 

「凄ぇ、百点だ!!お前一人でな!!」

 

 文句なしの満点だった。解答もすべて即答。しかも、こちらが問題を出している最中でも答えられただろうに、一門一門、最後まで聴き終えてからの即答だ。これなら、クイズに出てくるような引っ掛け問題でも不正解にならなかっただろう。

 

「なんでこいつが生徒じゃないんだ……」

 

 エレベーターでも思った、この一言に尽きる。

 しばらく現実逃避を続けていたが、扉の開く音に気付いて顔をあげる。

 階段を降りてきていたのは二乃。彼女を視界の端に捕らえてはいたが、それより近くにいる七海の様子がおかしいことに気づき声をかける。

 

「おい、どうした?」

 

 よく見てみれば、俺のテストを手に持っている。

 そんな七海は、動揺と敬意の念が合わさった眼差しで口を開いた。

 

「こ、これ――」

「――ちょっと、七海!そいつに近づいちゃダメよ!」

 

 何を言われるのか気にはなったが、二乃に遮られてしまう。

 

「あんた、七海に余計なことしてないでしょうね?」

「何もしてねーよ」

 

 ただテストを受けてもらっただけだ。結果は、お前達五つ子の合計と点数が同じだったぞ。なんていじわるを言おうかと思ったが、余計なことを喋ろうものなら噛み付いてくるかもしれない剣幕だったのでやめた。

 

「……七海は体調崩してたんだから、部屋で大人しくしてなさい。私はこいつに話があるから」

「えっ、ちょっと!」

 

 七海の肩を押して部屋へと閉じ込めた後、再び俺の元に戻ってきた二乃。

 

「五月から聞いた。七海から手伝いを申し出たって。本当?」

 

 そう切り出してきた二乃の雰囲気は、さっきまでの刺々しいものとは何処か違うように感じる。

 

「本当だ。だが元はと言えばそれはお前が……」

「私?一体私と何の関係があるっていうの?」

 

 今日何度目か数えるのも面倒になってきた、例の表情による効果でブレーキがかかる。

 

「な、なに」

 

 言葉は途中で留めることに成功したが、お前のせいだという非難にも似た感情までは抑えきれるものではなく、表面に出てしまう。

 

「そんなに気になるなら、妹から直接聞けばいいだろ」

「七海は、平然と嘘を付くからダメ」

「嘘……」

 

 昨夜の俺との会話も嘘や演技の類だったのだろうか。だが、何度回想しても『あれ』がそういった類のものだとは思えなかった。

 

「教えてくれないならもういい。最後に一つだけ言っておく、七海にこれ以上関わらないで」

「あ、おい!」

 

 掛けても無駄だと思いながらも、制止の声を出さずにはいられなかった。

 

「あいつ、お前達のことが心配で俺に協力なんて申し出たんだぞ。それを――」

「――分かってる!……分かってる……そんなこと、言われなくたって」

 

 今日一番の激しい剣幕で俺の言葉を遮ったかと思えば、すぐに意気消沈して自室へと姿を消した。

 

「まったく、どいつもこいつも七海七海って。……俺が家庭教師としてうまくいってないのは、実は全部あいつのせいなんじゃないか?」

 

 そこまで言って、考えを改める。

 

「って、そうじゃないだろ」

 

 さっきのは戯言だ。理由は何であれ、あいつは俺に協力してくれていて、その証拠にちゃんと五つ子達を集めてくれた。そのおかげで、少なからず生徒全員の学力は把握できたのだ。これでどういった教材を作っていけば良いのかの指標になる。感謝こそすれど、責任を押し付けていい相手ではない。

 

「……一応、もう一度全員に声を掛けるぐらいはしてみるか」

 

 階段をあがって一番近くにある七海の部屋はスルーし、五月の部屋からノックをしていった。

 

 

 

 

 結局、誰一人として、勉強させることはできずに中野家を後にする。

 数時間ぶりとなる地上の空気を大きく吸って、ゆっくりと吐き出す。その動作に連動するようにマナーモードにしていた携帯電話が振動した。

 開いたメールボックスには、大量の受信記録。

 

「一体何通きてるんだよ」

 

 差出人は全部同じ。

 

「内容は、どれも似たようなものか」

 

 一通だけ返信をしたところで、また振動する。今度は、メールではなく通話を知らせるものだった。

 

「もしもし」

 

 電話口からは、甲高い声が鳴り響いてくる。

 

「昨日からそればっかりだな」

 

 通話先の相手は()()から同じようなことばかりを繰り返し言い続けてくる。

 内容は、七海がどうとか、七海に失礼のないようにだとか、七海七海と口を開けばそればかり。正直なところ、耳に胼胝(たこ)ができそうな思いだ。

 中野家で放った戯言は、こういった事情があって思わずでてしまったものだった。

 回想している間にも、一方的な弾丸トークが終わる様子はない。俺にとっては、口撃と言っても過言ではないので、なんとか止める為の言葉を探る。いくつか候補はあがったが、先程、二乃が去り際に放った言葉を借りるとしよう。

 

「分かってる」

 

 『いい?七海さんは、私にとって()()なの』

 

「らいは」

 



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どうして

 一日は二十四時間ある。

 例え、午後九時に就寝する人でも、起床する時間が翌日になるとは限らない。何かの拍子に目が覚める可能性だってあるのだ。ならば夕方頃、床に就いた私が同日の夜分に覚醒したのは、何の不思議もない話だった。

 

「私は寝ています」

 

 なんて呟いてはみたけれども、一度瞼を開いたことにより映った自室の風景は、神経細胞(ニューロン)が活発になるに、必要十分な情報量だった。

 

「起きますか」

 

 二度寝は諦めてベッドから降り、真っ先に向うは鏡の正面。薄く塗られた銀のおかげで、手前と奥が逆転していることを除けば、肉眼で見るのと遜色ないであろう私の姿が映る。

 異常な箇所は見当たらない。軽く、手首足首肩周りを重点とした、立ったまま行える柔軟運動(ストレッチ)をこなしながら、自身の状態を確かめてゆく。

 

「よし」

 

 一日の終わりが近い時間に気合を入れる。別に大したことをする予定もないが、今日という日は、まだ終わってないのだ。『何か』が起こった際に、注入したこの気力が物事を左右する……かもしれない。

 櫛を手にして、踏み荒らされた草木のように乱れた髪を梳いていく。

 肩先まで伸びた先端部分に視線がいったところで、寝巻きの止め具(ボタン)が一つ取れていることに気づいた。動いた時に引っ掛けたのだろうか、この部屋のどこかにはあるはず……なのだが、いくら探しても見つからない。

 捜索に時間を浪費したせいで、予備のボタンを引っ張り出すのも億劫になってしまい、その気持ちを表すかのように視線を落とせば、開いた胸元から谷間が露出していた。

 

「大きくなるものですね」

 

 五つ子の姉達と()()した時、栄養不足で痩せこけていた私の体は、適切な食事を摂り続けることによって、合成樹脂の加工品(スポンジ)が水を吸収するかのごとく、肉や脂肪がついていった。その中でも胸は、最も成長の過程に驚かされた部分だ。

 

「一体どこまで成長するのかと怯えていたっけ」

 

 今でこそ苦笑するだけに済ませれる話だが、当時は心の底から恐怖していた。最終的に体の内側から破裂して死ぬのではないかと布に包まって震えていたほどだ。

 勿論そんなことになるはずもなく、姉達と似たサイズに落ち着いた。

 

「まぁ、このままでもいいか」

 

 首元のボタンは残っており、留めれば胸元も曝さなくて済むが暑苦しいのでやめる。

 自室を出ようとドアノブに手をかけたところで、胃が空っぽになった合図(サイン)を送ってきた。

 

「はいはい。今からご飯ですよー」

 

 聞き分けのない子供をあやすように、お腹を撫でながらリビングへと向かった。

 

 

 

 

「うーん、何もないなぁ」

 

 誰かが箱の中に顔を突っ込んでいる。

 

(うち)の冷蔵庫に限って、(から)なんてことは滅多にないと思うのですが」

「わっほぃ!」

 

 昨日の早朝、四番に襲撃されたときの私と似たような反応をしたのは、一番だ。

 

「び、びっくりしたよ。七海()()()、体調は大丈夫なの?」

「……大丈夫です。ご心配おかけしました」

「えー?ホントかなあ?今、少し返事が遅れたからなあ、怪しいなあ」

 

 なあなあなあと、冷蔵庫を隠すように詰め寄ってくる姉を鬱陶しく思いつつ躱す。

 返答が遅れたのは、一番の小さな異常(サイン)に気づき、それを怪訝に思ったからだ。つまり、私も彼女と同じ気持ちということ。

 

「隠し事、してるんじゃないですか?」

「ギクッ!」

 

 少々心配したのだが、擬態語(オノマトペ)を一々口にするような余裕があるというのなら、大して重要な秘密でもないのだろう。

 

「なんだ、十分に食材はあるじゃないですか」

 

 朝食を作ったのは私なのだから、あるだろうなとは思っていた。けれど、家には矢鱈(やたら)と食う人間が一人いるので一応確認した次第だ。

 

「えーっと、塩辛いものが食べたいなー、なんて思ってたり……」

「はいはい。食べたいのは塩辛いものじゃなくて、塩辛そのものでしょう?」

「あはは……はぃ」

 

 苦笑いで誤魔化そうと試みてはいたが、すぐに白旗をあげた。

 

「少し、後ろを向いててください」

「え?」

「いいから、早く」

「は、はい」

 

 指示通りに体の向きを変えたのを確認して、戸棚の隠し空間(スペース)を開く。

 

「はい、もういいですよ」

 

 素早く中にある物を取り出し、台所の上に置いた。

 

「これは……?」

 

 一番が不思議そうに見つめる先にあるのは、片手で持つには少し大きい壺。

 

「ふふ、なんでしょうね。開けてみてください」

 

 恐る恐るといった様子でゆっくりと蓋が退かされる。中身は――。

 

「し、塩辛だあああ!」

 

 大げさな反応(リアクション)をしてもらって悪いが、まだ味見すらしていない試作品である。品質の保証はできない。

 

「でも、初めて見る塩辛だね。これ、どうしたの?」

「作りました」

「え゛」

 

 それも初めての挑戦、味はどんなものだか。

 

「ま、ま、ま」

「ま?」

「毎日私に塩辛作ってください」

「毎日は、ちょっと……」

「そこをどうにか!」

「嫌です」

 

 膝から崩れ落ちた一番を尻目に、白米を装って温める。その間に付け合せとなるサラダを作っていく。

 

「ほら、いつまで項垂れているんですか。もうできますよ、食べないんですか?」

「た、食べる!食べます!絶対!」

「なら、早く手を洗ってきてください」

 

 起床時間もこれぐらい早ければ文句なし、そう思える速度で戻ってきた一番と共に、席へと着く。

 

『いただきます』

 

 当然と言わんばかりの表情で、真っ先に箸が向けられたのは塩辛だった。

 それは湯気上る白で埋まった茶碗に乗せられ、共演を果たす。そして、(そら)へと架かる箸の力を借りて口へと運ばれた。瞬間、嬉々としていた表情は至福へと昇華した。

 

「その様子なら、成功と捉えていいかもしれませんね」

 

 私が食して下す評価よりも、作っているとき最も食べて欲しいと思い浮かべていた人物が見せるこの表情こそが、他の何物にも代え難い最高の報酬だと常々思う。

 

「うん!最高!」

 

 偶然にも最高という部分が一致したようだ。

 

「……って、もうないじゃないですか」

 

 物凄い食べっぷりだった為、若干引き気味で眺めていたのだが、気づいたときには塩辛が全滅していた。

 

「えー?!そんな……!」

 

 それはこっちの台詞である。私、まだ一口も食べてないんですが。

 

「試作品だったから、大量に作っていたわけではありませんが……」

 

 こちらの言葉など聞こえていないのか、愕然の面持ちで固まる一番。

 

「食べすぎですね。しばらくは控えましょうか」

「え゛」

 

 しっかり聞こえているじゃないですか。

 

「まっ、待って!そんな殺生なぁ」

「また作りますよ。毎日は無理でもね」

「ムリ!もう私の体は、アナタ(の塩辛)なしでは生きられないの!」

 

 急に芝居じみた大げさな動作で、こちらに手が差し伸べられた。

 

「食事中です。邪魔なので引っ込めてください」

「アッハイ……」

 

 払うことすらせずに、一言で退かす。

 

「今日、体調を崩した私が言えた義理ではないのですが、体調管理だって実力の一つなんですよ?一花姉には、やりたいことがあるのでは?」

 

 そう言った私に見せてきた一番の表情は、昨日とは少し違った何かを誤魔化すような笑み。

 

「別に言いたくないのなら、深く追求するつもりはありませんよ。……そうですね。一方的に制限を設けるのも悪いですし、次作る時は塩分をもう少し控えめにして作りましょうか。勿論、味もまた『最高』と言ってもらえる品質(クオリティ)でね」

 

 一度頂へと到達しても、きっと次なる目標ができる。それは新たなる頂か、はたまた違った光景か。それらを追い続けていくことこそが、人生というものなのかも知れない。そう思えるひとときだった。

 

 

 

 

 時刻を確認すれば、まもなく今日が終わろうとしている。

 一番と別れてから一通りのことをこなし、再び床に就こうかと自室へ足を向けたところで扉の開く音がした。

 

「眠れないの?」

 

 三番の登場である。

 

「寝ようとは思っていましたが、すぐに眠れるかどうかは……体調は快復したのでご心配なく」

「なら、少し付き合って」

「一体何に?」

 

 私の疑問に答えが返ってくることはなく、腕を引っ張られる。

 

「いらっしゃい」

 

 到着したのは、三番の自室。

 

「お邪魔します」

 

 一体これから何が行われるかはわからないが、入室の挨拶だけは済ませる。

 

「明日がつらくなるので、三十分だけですよ?」

「休日だから大丈夫……三時間」

 

 私が大丈夫じゃないのだ。

 

「三十分です」

 

 譲らない意志を見せる。

 

「……三万秒」

「増えてる増えてる」

 

 平日なら登校してる時間だ。

 

「……三千秒」

「……いいでしょう」

 

 五十分。うまく引き伸ばされた形になるか。

 さすがに体内時計だけで、これだけの時間を正確に把握するのは骨が折れそうなので携帯のアラームを振動(バイブレーション)だけで知らせるように設定(セット)する。

 

「それで、何をするんですか?」

 

 まさか授業が受けたいなんてことはあるまい。

 

「ゲーム」

 

 この答えを聞いて、私の表情は微妙なものへと変わった。三番は、普段からヘッドフォンをよく首にかけている為、音楽を聴く以外にもこういったことに使用していることに不思議はない。問題はジャンルなのだ。勝手な想像(イメージ)になるが、対戦ゲームなどをやる傾向(タイプ)には見えない。となると――。

 

「これ、協力しないとクリアが難しいの。手伝って」

 

 ――こういった内容になるのは、想像に難しくない。

 そもそも、私は協力という行為が苦手――といっては語弊があるが、適切な言葉を探すなら……そう、経験が少ないのだ。

 だから、断ろう――そう口に出そうとした時に過ぎったのは、上杉先輩のテストだった。

 あれを見て、私は彼の仕事を手伝おうと決めた。それは言い換えると『協力』するということだ。なら、今回の三番からのお願いにだって、逃げるわけにはいかない。経験がなかったから――そんな言い訳が通じるほど、現実もゲームも甘くないだろう。

 

「わかりました。任せてください」

 

 ゲームの内容は、日本の歴史上の人物達を題材としたアクションゲームだった。

 プレイするのは初めてなので、基本的な操作を教えてもらってから問題のステージへと挑戦する。時間は限られているのだ、悠長に他のステージで肩慣らししている場合ではない。

 

「上手だね。七海」

「そうですか?」

 

 褒められはしたものの、疑問の声で返す。

 まだ、攻撃の判定や発生時間(フレーム)、敵の行動規則(パターン)も理解していないのだ。評価を貰うだけの土俵にすら立っていないように感じていた。

 

「ここまでの印象では、そう難しい内容には思えませんが、この後に何か起こるんですか?」

「うん。出てくるボスが――」

 

 『何か』それは、自室から出る前に覚悟していたことだった。日付は変わってしまったが、それは確かに私の前に現れた。

 正直なところ、現実はゲーム以上に困難だろうから、こんなところで躓くわけにはいかない。そんな気持ちで私はこのお願い(ミッション)に挑んでいたのだ。だが、その考えこそが甘かった。何故、協力が必要だったのか。何故、やたらと長い時間を要求してきたのか。それらの意味を探ることなく、無防備な状態でのこのこと『何か』の前まで来てしまった。

 

「この強敵(ボス)不具合に侵されて(バグって)ませんか!?」

「うん、体力ゲージがすっごく……」

『長い……』

 

 というか、画面に収まりきっていなかった。

 

「あ、あの……これって修正(パッチ)とかを待ったほうがいいんじゃ……」

「これが最後のパッチ」

「Oh……」

 

 なんてこったい。

 

「ちなみに、これの攻略法は……」

「ハメ殺し」

「……いつ終わるかは」

「わからない」

 

 ステージの途中で保存(セーブ)できないことは確認済み。

 

「五十分じゃ、終わらないかもしれませんよ?」

「終わるかもしれない」

 

 即答である。そもそも、ここまでくるのに時間を使っているので五十分すら残されていない。

 

「嵌めパターンは難しくないから、頑張ろう」

 

 深夜の共同作業が始まった。

 

 

 

 

 集中する。この行為は、私が得意なことの一つだった。物事に没頭しているといってもよい。必要な情報を逃さず取得し、不必要な情報は意識の外へと追いやる。海中深くから、わずかに差し込む光へと向けて少しずつ、少しづつ近づいていくかのような感覚と共に終着点(ゴール)へと――。

 

「三玖姉!減ってます!減ってますよ!」

「ふぁ?」

 

 数十分に及んでいた戦い――と呼ぶには一方的過ぎたが、とにかく一向に減る気配のなかったボスの体力にやっとのことで変化が起きた。

 だが、それより早く変化が訪れていたのは三番のほうだった。十分ほど前から、瞼が落ちかけていたのだ。

 

「ほら、よく見てください。……あっ」

 

 私はこの時、失敗(ミス)した。例え、瞼が落ちかけていようとも何十分と繰り返していた作業は体が覚えていて、無意識に入力され続けていた。だが、私が喋りかけたことにより、その動作に変化が訪れてしまう。

 今まで反撃の余地などかけらもなかったボスは、鬱憤を晴らすかのごとく怒涛の連続攻撃を決める。結果、三番が操作していたキャラクターは地に伏せ、残るは二人の武将のみ。ここからが本番――というより、ボスからすればやっとまともに戦えるといったところだった。もし、このまま私も倒されてしまえば、今までの苦労が水の泡。

 

「がんばぁっ……すー」

 

 ほとんど落ちかけている三番の応援が合図となって、一騎打ちが始まった。

 三番は言っていた、協力しないとクリアは()()()と。つまり不可能ではないのだ。……多分。ねぇ、寝言でいいから同意して?

 

 

 

 

「かっ、勝った……」

 

 激戦だった。少なくとも私にとっては。今し方、地に伏せた彼にとってはどうだったのだろうか。生き残る者と散りゆく者。両者には様々な差があったが、勝敗を分けたのは隣に誰かがいたこと……かもしれない。

 

「終わりましたよ」

 

 死者と違って――というのは偏見かもしれないが、とにかく生者にはやるべきことが多いのだ。真っ先に取り掛かるべきは、生きているんだか死んでいるんだかわからないぐらい、静かに瞼を閉じるお姫様を在るべき場所へと誘導すること。

 

「……セーブ」

「はいはい」

 

 適当に返事はしたものの、すでに終わらせてある。ただ安心させるために放った言葉。だが、その選択(チョイス)は悪手だった。

 

「あの……?」

 

 反応はなく、静寂が訪れる。安心させてしまったが故、現実(ここ)とは違う何処かへと旅立ってしまったようだ。

 

「はぁ……」

 

 背中と膝裏に腕をかけ、お姫様を包み込んでくれる王子様の元へと運ぶ。鳴る寸前だった携帯端末と部屋に存在する光るもの達を消灯していき、立ち去る前に退室の挨拶を呟いたところで、もう一つこの場面(シーン)に適した挨拶があることに気づいた。

 

「おやすみなさい。三玖姉」

 

 良い夢を。

 

 

 

 

 先ほどまで集中していたせいか、眠気など当分来そうにもなかったので、一度リビングへと戻り『とある物』を手にして自室へと向かう。

 

「さて、やりますか」

 

 手に持ったものを机の上に広げる。

 

「綺麗に正解した箇所が被っていない」

 

 私が向かい合っていたのは、昨日行われたテスト用紙だ。それは自身のではなく姉達の物。

 五つ子の不思議(パワー)によって成せる技なのだろうか。全員で一枚のテストに挑んでいれば満点を取れていた内容だった。

 だが、用があるのは正解した箇所ではなく、不正解に終わった問題。

 一つ一つ、一人一人、どういった間違い方をして、どうやったら次の機会に彼女達が正解できるかを考えながら、注釈を加えていく。

 彼女達が類似した問題にもう一度向かい合うかどうかの保障などない。それどころか、この紙にまた目を通すかどうかすら分からない。だが、先が見えない状態でも今の私に、何もしないという道を通る気にはなれなかった。

 

「これでよし」

 

 再びリビングへと戻り、元の位置に。

 種は蒔いた。後は水をやり続けるだけ。まだ見ぬ明日に、彼女達の満開に咲き誇る笑顔があることを願いながら。

 

 

 

 

「夜に薬の力なしで眠れたのは、久方振りですね」

 

 私にとって、それは快挙と表現しても過言ではない。このまま薬の必要ない体へと戻れるのが理想だ。

 ()()()な休日を過ごせたおかげで、このような形で朝を迎えることができたのだろう。()()()には三度の感謝をしておこう。

 いつものように鏡の前に立つ。髪は乱れていなくて、整える(セットする)のが容易そうだ。無意識に上がった口角が、今の私の状態を的確に表している。

 できることなら、この気分を維持(キープ)したまま一日を終えたい。先週(前回)と同じ要因(パターン)で崩れることなど、想像することでさえお断りしたい。

 ならば、せっせと自宅を出てしまうに限る。自身の朝食は抜いても問題ないだろう。だが、観賞魚の分は忘れずに与えておく。

 

「いっぱい食べてね」

 

 返事などあろうはずないが、行動で示された。

 

「いってきます」

 

 一際目立つように、素早い動きで泳ぐ魚達。早く行けと。

 

「はいはい」

 

 私が玄関の扉を開けると同時に、家の奥からも同様の音が聞こえてきた。さっきの催促は、これを予知したものだったのだろう。

 

 

 

 

 太陽が真上にある頃。食堂にて、いつものメニューを頼んだ私は、トレーを手に空席とある人物を探す。

 

「七海みーっけ!」

 

 貴方はお呼びじゃない。

 

「こんにちは。四葉姉」

「うん!一緒に食べよう!」

 

 挨拶を返し忘れるほど、一緒に食事を共にしたかったということなのだろうか。ならば、無下にするのも気が引ける。

 

「構いませんが、席は何処にしますか?」

「みんなも来るから、大きなところにしよっか」

「なら、あそこですね」

 

 四番の希望に沿う候補はいくつかあったが、こちらもある条件を満た(クリア)した席がいいので指定させてもらった。

 特に反対意見がでることもなく、席へと着いた。

 

「それだけでいいの?」

「ええ、あまり食欲がなくて。体調は万全なのでご心配なく」

 

 今日も今日とて、真実と嘘を練り合わせて会話を組み立てていく。

 

「でも、ちゃんと食べないと。これ一個あげる!」

「ふふ、ありがたく頂戴しますね」

 

 マナーの良い行為とはいえなかったが、施しは受ける(貰える物はもらう)主義だ。

 そんな遣り取りをしているうちに、続々と姉達(みんな)が集合する。後、揃っていないのは三番か。

 

「あ、上杉さんだ」

 

 四番の言葉につられるように視線を向けた先には、確かに枝分かれしたアホ毛があった。それは私の探し人だった。

 

「私、行ってくる!」

 

 静止の声などかける暇もなく飛び出していったウサギリボンを見て、もう一人が席を立つ。

 

「近くに三玖もいるし、私も行ってくるかな」

 

 仕様がないなあ。そんな素振りで追いかける一番を見届け、再び視線を上杉先輩へと戻す。

 遠目からではあるが、異常はないように見える。土下座したあの日、本人は体に異常なしと言ってはいたが、後から何らかの症状が現れる可能性も否定できない。しばらくは様子見するつもりでいた。

 一、三、風。これらだけなら嵐にはなりそうもないが、そこに四も加わっているのだ。思わず目を背けたくなる突風が吹いていた。やがて風は止み、二人が戻ってきた。

 

「あの、三玖姉は……?」

『あ』

 

 本当に仕様がない人達だ。

 

 

 

 

 放課後、バイトの時間まで余裕があったので、学校の図書室で読書に勤しんでいた。

 静寂の空間に突如訪れる重量感を思わせる音。何事かと視線を向ければ、大量の本が受付(カウンター)に乗せられていた。

 

「全部貸し出しで!!」

 

 ドン引き。この空間にいる人間の大多数がそういった表情をしていた。

 

「意地でも勉強教えてやる!!」

 

 きっと、口角が上がっていたのは本を借りた彼と私だけ。

 

「これも借りては?」

 

 積み上がった本に一冊追加する。先程まで私が読んでいたものだ。種別(ジャンル)は歴史に該当する。それも時は戦国。夜中に三番と一緒にやったゲームも同じ時代背景を題材としていた。

 どういった経緯で彼がこの(タワー)を作るに至ったかは知らないが予想はつく。

 

「読み終えても不安なようなら、私に声を掛けてください。他の資料をご用意します」

 

 想像以上に彼が関わることによって描かれる未来は、私にとって理想の光景なのかもしれない。

 単語カードに連絡先を記載して端に置く。いい頃合いなので、返事を待つことなく立ち去った。

 

 

 

 

「お願い……聞いてくれる?」

 

 どうして――。

 

「最後まで……頼りないお姉ちゃんでごめんね」

 

 ――謝るの?

 

「これが……ワガママだってことはわかってるの」

 

 どうして――。

 

「生きて」

 

 ――そんなにも他者を想えるの?

 

「分かってるんだ……七海が死にたいと思ってることは」

 

 どうして――。

 

「それでも……私は」

 

 ――笑顔なのよ!

 

 

 

 

「……態々、夢にまで出てこなくてもわかっていますよ。えぇ、わかってますとも」

 

 さすがに二日連続で薬いらずとはいかなかった。気分よく床に入ったのまではよかったが、いざ瞼を閉じても寝付くことはできず。もしかすると、そんな期待を胸に粘りはしたが、結局最後には観念したあたりで記憶は途切れている。

 薄暗い自室に点滅する物体が一つ。それに指を添えれば光量は増し、部屋の全体とまではいかずとも、天井まで照らされる。

 未読の着信は二件。

 一通目。用件……放課後の予約。待ち合わせ場所……屋上。

 

「告白かな?」

 

 そんな冗談を呟いてしまうのも、無理のない内容だった。だが、相手のほうに無理がある。

 態々屋上にまで呼び出してきたのだ、色恋沙汰ではないだろうが、何らかの重大な用件である可能性は考慮しておこう。

 次のお便り。差出人……不明。

 

「誰?」

 

 最初は上杉先輩かと思ったが、内容に目を通せば支離滅裂な文章となっており、幼稚な印象も受ける。だが、それ以上に強く伝わってきた感情がある、それは緊張の類だった。

 文章を吟味し、何とか読み取れたのは『とにかく会いたい』ということだけ。何て返そうかと少し悩んだが、冷静な文章で質問を送る。一度に多くの情報を送信しては、相手方の緊張が増すかもしれない。なので、一つ一つ聞いていこう。まずは――。

 

「あなたの名前は何ですか?」

 

 これが私にとって、家族以外で初めての大切な関係性を築くことになる人物との、最初の交信だった。

 

 

 

 

「もう読み終えたんですか?」

「いいや、まだだ。今回は別件になるな」

 

 授業の合間、小休憩の時間に私は上杉先輩に呼び出されていた。

 秘匿性を要する内容ではないらしく、人の多くが行き来する廊下での立ち話。

 

「お前、テストに何かしたのか?」

「何かとは?」

 

 惚けることを選択する。

 

「いや、それはわからないんだが……」

「そもそもテストとは、一昨日私達の(中野)家で行われたものですよね?」

「それで合ってる」

「心当たりはありませんね」

 

 この件を隠すこと自体に深い意味はない。なんだったら、暴かれ(バレ)てもいいのだ。

 

「そうか……」

「他に用件がないのなら、もう行っても?」

「あぁ、時間を取らせて悪かった」

「お気になさらず」

 

 仮面を被り、他者を欺き続ける存在。痛い目に合っても懲りず、嘘を付かない方がいいと分かっていながら……いいや、本当は分かった気になっているだけなのかもしれない。勉学に励もうとも、世間を知ろうとも、大切なことは未だ修められずにいる。そんな愚者の歩みは不意に止まった。

 人の数は増していて、振り返っても上杉先輩の姿は見当たらない。だが、さっき私達がいた辺りから、こちらを見つめる視線を強く感じたのだ。

 気味が悪かったが、次の授業(タイムリミット)が迫っている。後ろ髪を引かれる思いで、その場を後にした。

 

 

 

 

 告白。それは、この学校に入学してから何回か経験済み(された)。その中でも一番多い指定場所は、今私が立っているここ、屋上だった。といっても、手の指を折り曲げて数え切れる回数なので、統計を取るには心許ないが。

 これから来る予定の人物は、今述べたような色恋沙汰の類に属する用件ではないだろう。けれど、『何か』を伝えたくて私をここに呼び出したことは確かだろう。

 扉が開かれ、待ち人が姿を表す。お互いの髪が風で揺れているが、中途半端な長さの私より、()()のほうが乱れていて大変そうだ。しかし、風の影響を強く受けているのは髪だけではない。彼女の手に握られているそれも、髪同様乱れていた。

 

『どうして――』

 

 手に持ってるものは髪ではなく()。数は……五枚か。

 

「――アイツに協力するような真似してるの?」

「――みんなのテストを持っているんですか?」

 

 告白なんて可愛いらしいものではありませんでした。これでは詰問ですね。

 

「七海」

「二乃姉」

 



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知っている

 知っている。

 この温もりを私は知っている。

 昔、何度も頭を撫でてもらった。何度も抱きしめてもらった。

 その時に感じた気持ちを誰かに伝えたくて仕方なかったんだ。

 

「一花」

 

 名前を呼ばれた。伝えなくちゃ、言葉にして。

 

「ねえ、お母さん。私ね――」

 

 

 

 

「うーん……今何時ー?」

 

 答えてくれる人はいない。私の一人部屋なんだから当然か。

 

「夜かー。これは二度寝かなあ」

 

 夜じゃなくても、二度寝どころか三度寝だって歓迎するけど。 

 

「あーでも、お腹空いた……起きますか」

 

 すぐに部屋を出ようとしたけど、ドアノブに手をかけたところでやめる。人様にお見せするには照れる格好だったからだ。

 床に散らばってる服の中から適当に拾う。このままの格好だと、妹達にならともかくお父さんに見つかったらと何を言われるか。

 今度こそ部屋を出て、冷蔵庫の前まで辿り着いた。

 

「うーん、何もないなぁ」

 

 口にはしたものの、私の探す『何か』とは好物のことだった。ちゃんと冷蔵庫の中に食材はたくさんある。

 

(うち)の冷蔵庫に限って、(から)なんてことは滅多にないと思うのですが」

「わっほぃ!」

 

 後ろから声を掛けてきたのは七海だった。

 しっかり者のイメージがある妹にしては、パジャマの上のほうのボタンが外れて谷間が覗けてしまうだらしない格好だった。私の適当に選んだ服も、人のことは言えないんだけどね。

 

「び、びっくりしたよ。七海ちゃん、体調は大丈夫なの?」

「……大丈夫です。ご心配おかけしました」

「えー?ホントかなあ?今、少し返事が遅れたからなあ、怪しいなあ」

 

 こんな夜遅くに、体に悪そうな物を食べようとしていたと知られたら、何か言われるかもしれない。そう考えて、冷蔵庫から意識を遠ざけるように七海詰め寄った。

 だけど七海は、ひょいっと私を躱してしまう。

 

「隠し事、してるんじゃないですか?」

「ギクッ!」

 

 バレてる。

 躱されても冷蔵庫の中身だけは見せまいと阻止していたのだけれど、一瞬の虚をついて覗かれてしまった。

 

「なんだ、十分に食材はあるじゃないですか」

 

 これ以上、七海相手に隠し事をしても、バレるのは時間の問題かな。

 

「えーっと、塩辛いものが食べたいなー、なんて思ってたり……」

「はいはい。食べたいのは塩辛いものじゃなくて、塩辛そのものでしょう?」

「あはは……はぃ」

 

 無意識に誤魔化してしまった。それもすぐに看破されて私のお姉ちゃんゲージはみるみる減少。

 

「少し、後ろを向いててください」

「え?」

「いいから、早く」

「は、はい」

 

 いきなりの命令に困惑したけど、それ以上にきつめの口調とは裏腹に優しい笑顔だったのを不思議に感じながら指示通りにする。

 なにやら後ろで物音がしてる。気になってしまい、我慢できずに後ろを向こうとしたところで声をかけられる。

 

「はい、もういいですよ」

「これは……?」

 

 台所の上に置いてあるのは壺だった。

 

「ふふ、なんでしょうね。開けてみてください」

 

 こういう時はなんて言うんだったか、オニが出るかヘビが出るか。みたいな?

 

「し、塩辛だあああ!」

 

 言われたとおりに蓋を開けて出てきたのは、イカでした。

 

「でも、初めて見る塩辛だね。これ、どうしたの?」

「作りました」

「え゛」

 

 これを七海が……!?

 

「ま、ま、ま」

「ま?」

「毎日私に塩辛作ってください」

 

 結婚するならこういう人がいいなあ。

 

「毎日は、ちょっと……」

「そこをどうにか!」

「嫌です」

 

 渾身のプロポーズは敢え無く撃沈。

 

「ほら、いつまで項垂れているんですか。もうできますよ、食べないんですか?」

「た、食べる!食べます!絶対!」

「なら、早く手を洗ってきてください」

 

 さっきまであった眠気は吹っ飛んでいた。

 素早く手洗いを済ませたつもりだったけど、私以上に七海の準備のほうが早かった。

 すでに料理はテーブルに並んでいて、すぐに座れるように椅子まで引いてある。

 

『いただきます』

 

 最初に手をつけるのは勿論私の大好物(塩辛)

 ご飯と一緒に口に入れた瞬間、顔がニヤケるのを抑えられなくなった。

 

「その様子なら、成功と捉えていいかもしれませんね」

 

 大成功だ。味も食感も理想の塩辛だった。けど、このニヤケの原因はそれだけではない。嬉しかった、七海が作ってくれたことが何よりも。

 

「うん!最高!」

 

 箸が止まらない。止められない。

 

「……って、もうないじゃないですか」

 

 言われても、すぐに脳が理解できずに空いたお皿の上で箸が空を切っていた。

 

「えー?!そんな……!」

 

 少し遅れて現実を直視したけど、やっぱり認められそうにない。

 

「試作品だったから、大量に作っていたわけではありませんが……」

 

 これで終わりなんて。

 

「食べすぎですね。しばらくは控えましょうか」

「え゛」

 

 ヒカエル?ひかえる。控える。

 

「まっ、待って!そんな殺生なぁ」

「また作りますよ。毎日は無理でもね」

「ムリ!もう私の体は、アナタ(の塩辛)なしでは生きられないの!」

 

 本日、二度目のプロポーズ。

 

「食事中です。邪魔なので引っ込めてください」

「アッハイ……」

 

 伸ばした手は触れることすら叶わず。

 

「今日、体調を崩した私が言えた義理ではないのですが、体調管理だって実力の一つなんですよ?一花姉には、やりたいことがあるのでは?」

 

 そう言って私に見せてきた七海の表情は、昔の記憶にあるお母さんの表情によく似ていた。

 

「別に言いたくないのなら、深く追求するつもりはありませんよ。……そうですね。一方的に制限を設けるのも悪いですし、次作る時は塩分をもう少し控えめにして作りましょうか。勿論、味もまた『最高』と言ってもらえるクオリティでね」

 

 誰よりも、私達の幸せを願う表情に。

 

 

 

 

 休日、私は日課のジョギングをしていた。

 ギリギリ朝日と呼べないこともない光を浴びながら、慣れたコースをゆっくりと走ってゆく。

 すれ違う通行人の中には、ペットの散歩をしている人もいた。私はそれらを目で追う。

 あれはワンちゃん。あれはネコちゃん。あれもワンちゃん。またもワンちゃん。これはヘビちゃん。……ってヘビ!?

 

「だ、誰のペット?!」

 

 さすがに足が止まる。苦手というほどではないけど、若干の恐怖心はあった。

 

「ペットなわけないでしょ」

 

 次に現れたのはオニでした。

 

「二乃!」

 

 ワンピースのスカートを強く握り締め、苛立ちを抑えきれない様子でご登場。何があったかは分からないけど、こういった時の原因は大体が姉妹関連なことがほとんどだ。ついでに、二乃は後になって落ち込むタイプなので、ついさっき何らかのトラブルが発生したのも想像がつく。

 

「って二乃?そこヘビいるよ?」

「ヘビがなんだっていうの」

「なんだって……危ない?」

 

 人ならともかく、ヘビ相手には普段ならしないような強気の発言に、思わずハテナマークが浮かぶ。

 

「危ない……?ってヘビ!?」

 

 やっぱり、私の言葉も目の前にある光景も半分ぐらいしか認識していなかったみたいで、足元まで近づいたところでやっと気づいた。

 急いで私のほうに避難してきた二乃。背中の後ろに回られて盾にされる。これは、七海を除く妹達が偶にしてくる行為だけど、二乃相手にされたのは随分と久しぶりな気がする。

 

「ほら、もう行ったよ」

 

 ヘビも周りの動物達と同じで散歩だったのか、私達に興味を示すこともなく、茂みへと消えていった。

 

「はぁ、もうなんなの、今日は……」

「色々あったみたいだね」

「そうなの!七海が――」

「――あっ、それは後でお願い。先にジョギング終わらせちゃうから」

 

 決まったコースを走りきりたいのも嘘ではないけど、今の二乃相手は面倒そうだ。クールダウンしてから話を聞きたかった。

 

「もう、聞いてきたのはそっちでしょ」

「あはは、また後でね」

 

 早々に別れを済ませて、足を動かす。

 

「あれは……」

 

 ニ乃と別れてから数分経ったあたりで噂の七海を見つけた。声を掛けるには遠い距離で、すぐに建物の影に隠れて見失ってしまう。見ていたのは僅かな時間だったけど、捉えた雰囲気に違和感を覚えて首を傾げる。

 

「怪しい」

 

 それは何かを楽しみにしている表情なんだけど、私の知っているものとは何かが違う。でも、どこかで見たことがあるような……。

 

「……あっ」

 

 思い出した。あれは、この前見たドラマで不倫した妻がしていた表情に似てる!つまり。

 

「男かー!?」

 

 わ、私という人がいながら!……いや、振られているんですけどね。それも二回。

 

「これは、みんなを招集する必要がありますな」

 

 こうしてはいられない。ペースをあげて、急いで帰宅した。

 

 

 

 

「これより、第五十回五つ子会議を開催します!」

 

 私の高らかな宣言と共に、参加者である七海を除いた妹達の視線が集まる。

 

「はい!」

「どうぞ、四葉くん」

 

 元気よく伸ばされた手に指差して、発言を許可する。

 

「議長、今回の議題は何でしょう?」

「議題は……」

 

 深刻な面持ちで溜めを作る私を見て、みんなが息を呑む。

 

「七海に好きな人ができた!」

『な、なんだってー!』

「……かも」

「男……」

「つまり彼氏!?」

「あわわ、どうしよう。こういう時は赤飯かな!?」

「ふさわしくない奴だったら、どう調理してやるか……」

 

 私の補足の呟きは掻き消されてしまったよう。三玖と五月ちゃんは妥当な反応だけど、四葉は話が飛躍しすぎで、二乃は物騒すぎた。

 

「静粛に!」

 

 別の人――例えば私達五つ子に同じような話が出てきたとしてもこういった反応にはならない。二乃はロマンチックな恋愛に憧れているから、あんな発言はしないだろうし、私と四葉はきゃーきゃーと騒いでいただろう。けれど、七海となれば話は別だ。

 

「あくまで、かもしれないというだけです」

 

 加えてジョギング中に見たことを話したけど、反応は微妙なものだった。

 

「一花の勘違いということでは?」

 

 何人かの気持ちを代表して、五月ちゃんが聞いてくる。

 

「五月くん、貴女がそう思うのも当然です。なので、証言人を用意しました」

 

 私の言葉が終わると同時に立ち上がったのは――。

 

「二乃?」

 

 ニ乃は私達を一瞥したあと、息を一度大きく吐いてから喋り始めた。

 

「今日、七海を買い物に誘ったんだけど断られたの」

 

 それ自体は珍しいことではない。だけど――。

 

「その時、理由を聞いたんだけど……答えてくれなかった」

 

 ――理由を聞けば、必ずと言っていいぐらいには答えてくれるのだ。

 

「しかも、答えてくれないだけじゃなく『ふふ、何だと思います?』って……あれは絶対怪しい。調査すべきよ」

 

 落ち込むというより、少し拗ねてるような二乃を見て、五月ちゃんが励ますように口を開く。

 

「で、でもそれだけじゃ彼氏云々の話にはならないのでは?もしかしたら私たちにサプライズな何かを用意しているのかもしれません」

 

 その反応は想定済み。

 

「結論を出すにはまだ早いです。もう一人用意しました」

 

 無論、証言人のことだ。

 

「もう一人?あと残っているのは……」

 

 まず視線を向けられたのは四葉だったけど、首を大きく横に振って否定する。

 

「なら――」

「――私だよ」

 

 残るは三玖しかいない。

 

「今朝、七海がお菓子を作ってるのを見た」

「それなら、私たちの目の前にあるじゃないですか」

 

 そう、私達が集まっているリビングのテーブルには、置手紙と共にお皿に盛られたラング・ド・シャがあった。

 

「その時、ここにあるのとは別に包装してたの……おいしい」

 

 サクサクと良い音を鳴らしながら頬張る三玖に続くように、みんなで一口。

 

「確かにおいしー!でも、挟んでいるチョコレートの中にあるのはなんだろう?」

「これは……ジュレね。食感の邪魔にならないぐらいの舌に触れるとすぐ溶ける少量で、わずかに広がる酸味とひんやりとした感覚がいいアクセントになってる。味はベリーかしら」

 

 四葉の疑問に答えたのは、七海同様に料理が得意な二乃だった。

 

「ベリー?ブルーベリーとかラズベリーってことだよね。私のはミカンぽかったよ」

「私のはリンゴですね」

「私のはブドウ」

「私のはモモかな?」

「ラング・ド・シャ自体、作るのは簡単なほうだけど、蓋を開けてみれば予想以上の作り込み。色んな味があるのは、まだ相手の好みがわかってないから……」

 

 二乃の推理で想像は加速する。

 

「つまり、これは余り物ってことかあ!」

 

 私の叫びにみんながざわついた。

 

「この先、クリスマスもバレンタインデーも彼氏優先ってことだよね。あくまで私たちはついで」

『ついで……』

 

 三玖の言葉に、今度は意気消沈。

 静まり返った空間で思い起こすは過去の光景。七海から初めてプレゼントをもらった時のことだ。

 

 『いちおねえちゃん!これ、くりすますぷれぜんと!ゆきがふらないから、おりがみでゆきだるまつくったの!』

 『え?でも、わたしなんにもよういしてないよ?』

 『いいの!ぷれぜんとがほしいんじゃなくて、ぷれぜんとをあげたいの!』

 

 次に思い浮かんだのは()()して最初の年。

 

 『あの……一花姉さん。これ、クリスマスプレゼント……です。えっと、えっと、体を冷やさないようにマフラーを編みました。受け取って……くれますか?』

 『勿論!ありがとう。ありがとうね。七海……!』

 『苦しい……です。でも、暖かい……』

 

 そして現在では。

 

 『一花姉。これ、クリスマスプレゼントです。今年は冬用のランニングウェアにしました』

 『おー!ありがとう。動きやすそうだし、可愛いね。これ、どこのメーカーの?』

 『メーカー品ではありませんよ。私が作りました』

 『えっ』

 

 体が成長して、私への呼び方が変わっても、想いの篭った作り物を贈ってくれることに変わりはなかった。おそらく、みんなも似たようなことを思い出しているはずだ。

 そんなこんなでしばらく沈黙が続いていたけど、それを破ったのは五月ちゃんだった。

 

「……いいじゃないですか、私たちにとっても喜ばしいことなはずです。だって、今まで普通の学生らしいことを全然できていなかった七海が恋をするなんて、昔では考えも及ばなかった――」

「――本当にいいの?もしかしたら、ついでどころかプレゼントすらないかもよ」

 

 みんなに語り掛けてはいるけど、何処か自分に言い聞かせるような五月ちゃんに、三玖の容赦ない追撃が入った。それは――。

 

「良いわけないじゃありませんかー!議長ー!」

 

 ――辛うじて保っていた強がりを崩すには、十分だったみたいだ。

 

「よーしよし、頑張ったねー。お姉ちゃんだもんねー」

 

 涙目で私に抱き着いてきた五月ちゃんのアホ毛を寝かすように撫でながら、今後について考える。

 

「むー、何にせよ情報が足りませんな」

「まずは情報収集からだね」

 

 私の呟きを三玖が拾ってくれた。反対意見は出なかったので、議論を進めることに。

 

「何かいい案ある人」

「はい!直接聞けばいいと思います!」

 

 他人との距離感が近い、四葉らしいストレートな回答。と言いたいところだけど、そうではない。四葉はデリケートな問題などは敏感に察知して、一歩引いたりするのも珍しくはない。だけど、七海相手にはブレーキが利かなくなったみたいに距離を詰める。超えてはいけないラインのギリギリにまで。

 そこまで考えて、最近四葉が七海と同じぐらいの距離感で接している相手がいたことを思い出す。

 

「まさか……ね」

「……う?」

 

 今まで男の影もなかった七海に急に浮上した疑惑。つまり、相手がいるとしたら最近出会った人物である可能性は高い。そして、私達も最近になって出会った男の子がいた。

 

「……ちか!」

 

 それは――。

 

「もう、一花ってば!」

「え?」

「え、じゃないよ。さっきから呼んでたのに」

 

 どうやら考え事に集中しすぎてたみたい。

 

「大丈夫?具合いが悪いんじゃ……」

「ごめんね。ちょっと考え事をしてただけだから、心配しないで」

 

 今は私より七海のことだ。

 

「それじゃあ、意見の善し悪しは置いといて、先に案を出し切っちゃおうか」

 

 続々と意見が挙がって、それを五月ちゃんが記録してくれたので、その紙を読み上げていくんだけど……。

 

「尾行、誘導尋問、盗聴……えっと、この先は全部消そっか」

 

 今言った案だけでもひどいのに、他のはとても人様に見せられるものではなかった。

 

「いちばんマシなのは、やっぱり最初に挙がった四葉の案だね。これでいこうか」

 

 当然、反対する人はいない。問題は誰が実行するか。

 

「ん?どうしたのみんな、私のほう見て」

 

 この場にいる五人中四人の視線が一人に集中する。

 

「こういうのは言いだしっぺがやるべきよね」

「え?」

「そうですね。そもそも四葉で無理なら他のみんなでも同じでしょうし」

「ええ!?」

「頑張って」

「ま、待って一人じゃ不安――」

「――四葉」

 

 私は、不安がる四葉の言葉を遮った。

 

「貴女に私たちの未来を託します!」

「えっ」

 

 託すもなにも、どんな聞き方をしたところで七海の回答は変わらないと思うけど、もし本気でうざがられたりでもしたら、今の私達には致命傷になりかねない。被害は最小限に抑えなければ。

 

「四葉隊員に敬礼!」

 

 一斉に立ち上がって綺麗な敬礼を決めた四名と、一人だけ座ったまま呆然と見上げる四葉。

 

「これにて、第五十回五つ子会議を終了します!」

『お疲れ様でした』

 

 そのまま座りなおすこともなく解散する。

 

「一花はバイトだっけ?」

「うん。帰ってくるのは少し遅くなるかも」

「そっか。なら三玖と五月、一緒に出掛けない?」

「私はパス。夜更かししてたから、眠い」

「私は大丈夫です。ついででいいので新しくできた駅近くのお店に寄ってもいいですか?」

「また食べるの?」

 

 各自、この後の予定に向けて動き出していく中で一人だけ取り残されたのは人物の名前は言うまでもない。

 

「ど、どうしよう」

 

 ……このままでは、さすがに可哀想だ。フォローはしておこう。

 

「四葉」

「い、一花」

「大丈夫。あくまで四葉のは第一案ってだけだから。はぐらかされたりすれば私たちが他の手段を実行するし、私はその場には居ないかもしれないけど、他のみんながフォローしてくれるよ。とにかく、反応を見ないことには次にどう動けばいいかも分からないから、最初は頼んだよ」

「うん、分かった。任せて!」

 

 単なる私の勘違いで終わればそれでよし。だけど、もし相手がいるようなら……。

 

『見極めなくちゃ』

 

 

 

 

 結局、四葉が聞いてくれたものの「彼氏はいませんが、()()()()気になる人はいます」という、グレーには変わりない返答だったらしい。

 

「第二作戦を開始します」

 

 五つ子会議の翌日、今日も七海は出かけるけど行き先は秘密と聞いて、暇していた三玖と一緒に尾行することにした。

 

「うん。変装は完璧」

 

 意気込む相棒は頼もしいと言いたいところだけど、変装道具がおかしかった。

 

「それ何?」

「何って、お面」

 

 それは分かってる。

 

「目立っちゃうんじゃないかなー……」

 

 キャップ帽を被りながらマスクにサングラス姿の私に対して、三玖はキツネのお面を被っていた。それも妖怪チックな。可愛くもあるけど、ちょっと怖い。

 

「一花だって十分目立つ格好だよ。お互い顔は隠せてるから問題ない」

 

 そう言われると反論できない。

 

「それより、七海が動いたよ。追いかけなきゃ」

 

 通行人の視線が痛い。完全に怪しい人を見る目だ。街中なのもあって、人が多いのから痛さ倍増。

 三玖は気にした様子もなく、小走りで尾行している。お面のおかげで恥ずかしさなどもシャットアウトできているのだろうか。

 

「ペースはやっ」

 

 先ほどから小走りをしている理由、それは七海が歩く速度が早すぎて見失いそうになるからだ。普段一緒に出かける時などは、こちらに合わせてくれていたのだろう。思い返してみれば、昨日もすぐに見失ってしまっていた。

 マスクのせいで息がしずらくて、少しつらくなってきた。私ですらこうなのだ、体力のない相棒はというと……。

 

「ハァ……ハァッ……」

 

 当然、私以上に息を乱していた。

 

「み、三玖、大丈夫?」

「も、もう無理……」

 

 そう言い放って地面に座り込んでしまうキツネさん。

 

「頑張って!七海のこと見失っちゃうよ」

「……もういないけど」

「え」

 

 目を離していたのは、ほんの僅かな時間だったのに、言われたとおり振り返ってみれば姿は見当たらない。

 

「ど、どっち行った?」

「左……私に構わず先に行って」

「え、でも……」

「いいから」

「うん……わかった」

 

 早くも脱落してしまった相棒の為にも、なんとかして追いついて見せないと。そう意気込んで走ってはみたけど、一度見失った七海のことを再び捉えることは叶わなかった。

 

「これは気づかれてたのかなー」

 

 そういった素振りは一切見られなかったけど、七海は鋭い子だ。尾行がバレていても何の不思議もない。

 

「諦めますか」

 

 三玖にメールを送ったけど先に帰ってしまったと返信が来たので、近くの喫茶店で休憩することにした。

 さすがに喫茶店内でも変装道具を身につけたままとはいかないので取り外す。

 

「ふぅ……」

 

 やっとのことで息苦しさから開放される。店内に入ればクーラーが効いていて、走って上がった体温を冷やしてくれる。

 注文したフラペチーノを受け取り、空いている席を探す。ちょうどお昼時なこともあって、中々見つからない。周囲を見渡していると、こちらを見つめる視線に気づいた。ワイルドな大人の男性。でも、どこかで見たことがあるような……?

 男性の座っている席はもう一人分空いている。もしかして、座れということだろうか。でも、知らない人相手に相席する勇気は持ち合わせていなかった。

 

「あった」

 

 他に空席を見つけて安堵する。男性もすでに視線を外していて、さっきの座れ云々は私の勘違いだったよう。

 一冊だけ持ってきていた本を取り出して、読書を開始する。昔は読まなかったけど、七海に薦められた本は肌に合うのか苦もなく読めたので以降、仕事の休憩や移動時間に読むようになった。

 本を半分まで読み終えたところで、少し離れた席で談笑が盛り上がっていることに気づく。声の主はさっきの男性のようだ。他にも会話をしている席はあるので詳しい内容までは聞き取れなかったけど、見た目と同じく声もワイルドだった男性は本当に楽しそうな声音で話している。

 ある程度雑音があっても読書を再開すれば、すぐに集中して気にならなくなるだろう。そう思って一度テーブルに置いた本にもう一度手を伸ばした時、聞き覚えのある声を耳が拾った。

 

「七海……?」

 

 声のほうに顔を向けても、仕切りが邪魔してここからは見えない。だけど、話している相手は見えた。さっきの男性だ。単なる聞き間違いの可能性もあると思ったけど、男性と一緒に楽しそうに笑う声を聞いて確信する。七海で間違いないと。

 

「……の……は……か?」

「それ……とき……なあ」

 

 必死に耳を澄ましても、会話の断片しか聞き取れない。何を話しているか非常に気になる。そもそも相手との関係は?まさか気になる人ってこの男の人?七海は彼氏はいないって言ってた、つまり残る可能性は援交!?

 と、そこまで考えては居ても立っても居られなくなった。見つかるリスクを冒してでも会話を盗み聞こうと決意する。

 店内に置いてある無料の小冊子をとるフリをして、男性と七海に近づく。ここなら死角になっているうえ、会話も聞き取れる。

 

「そんな裏話があったなんて驚きです」

「別に大した話じゃねーよ」

「パパなりに、頑張っていらっしゃるのですね」

 

 パパ!?もしかして、これは噂に聞くパパ活というやつでは……!?

 

「やめてくれ。さすがに恥ずかしい」

「ふふ、過去を暴露された本人のほうが恥ずかしいでしょうし、これぐらいの言葉は素直に受け止めてください」

「あー、やっぱ似てるわ、嬢ちゃん」

「誰にですか?」

「いや、何でもねえ。そろそろお開きにしようか」

「……?もう、こんな時間ですか。そうしましょうか」

 

 二人が席を立ったので急いで席に戻った私は、フラペチーノを飲み干して先に店を出た二人をなぞるように追う。外に出ると同時に変装道具を付け直して尾行する。

 数分歩いて住宅地まで来たところで二人は立ち止まった。すぐに別れないからさっきの『お開き』が()()の合図かと疑っていたけど、どうやらここで別れるようだ。よかった、本当に。

 

「今日は、ありがとうございました。イサナリさん」

「おう。こっちこそありがとな。久々に昔話ができて楽しかった」

 

 イサナリさん。イサナリさん。……覚えた。

 

「そうだ。お父さん云々の話で思い出したが、近いうちに父親として礼に行くから、その時はよろしく」

「はい?」

 

 父親として礼?!つまり、パパ活のお金を渡すってこと!?

 

「そのうち分かる。それじゃあな、気ぃつけて帰れよ」

「あ、はい、さようなら。……そのうち分かる、ね」

 

 こちらの心配をよそに、あっさりと別れたのを見て一先ず安心。七海も自宅のほうに歩き去っていった。って、いけない。すぐにでも追いかけて、あの男性のことを問いただす――。

 

「一花」

 

 ――為に走りだそうとしたところで、呼び止められた。

 

「三玖?帰ったんじゃ」

「また外に出たんだ。一花は、今帰るところ?」

 

 喫茶店に入った時は、まだ太陽が真上にあったけど、今はもう沈みかけていた。

 

「うん。でも七海が……」

「ん?七海がどうかした?」

 

 さっきのことを話そうとして思い止まる。変に不安を煽っても仕方がない。まずは、私のほうで七海に聞いてからにしよう。

 

「……さっき、一人で家のほうに帰っていく七海を見かけたけど、もういなくなっちゃったなって」

「そうなんだ。私もちょうど帰るところ。一緒に帰ろ」

 

 今からじゃ追いつくのも大変そうだし、後で聞けばいいか。そう考えて、二人で歩き始める。

 

「いつまでそれ、着けてるの?」

「あっ、忘れてた」

 

 指摘されて初めて、変装道具一式を着けたままなことに気がついた。

 

「三玖こそ、お面つけっぱだよ?」

「……忘れてた」

 

 私のように顔の正面につけていたわけじゃないけど、頭の上にキツネさんが乗ったままだ。

 

「一度帰ったのに、着けたままもう一回出掛けたんだ。実はその仮面気に入ってたりする?確か、三玖はネズミが好き――」

「――ネズミじゃなくてハリネズミ」

「あー、うん。ハリネズミね、ハリネズミ」

 

 いけない。三玖は気にいったことには、とことんこだわるタイプ。表情は変化しないけど、怒ったりもする。ここは面倒な展開になる前に、話題を元に戻そう。

 

「それで、その仮面はどうなの?キツネも好きだったっけ?」

「ううん。キツネが好きなわけじゃない。でも、七海に貰った物なんだ」

「へぇ……」

 

 七海からのプレゼントには、毎回ちゃんとした理由がついてくる。本人のことを考えた物であるのは言うまでもないけど、他人にプレゼントをした時に理由を聞くと、表向きとは違う隠された意味を教えてくれることがある。ちなみに、プレゼントした本人には絶対に教えないらしい。

 確か前、四葉にカラフルな手袋をプレゼントしてた時は、表の理由がスマートフォンを操作しやすいように指を好きな時に開ける物を。裏の理由が嫌いなピーマンを食べられるように願いを込めてで、ご丁寧に裏地に種まで描いてある徹底ぶり。後日、四葉はカラーピーマンを色んな料理に仕込まれてたのに気づくことなく、それはそれは美味しそうに頬張っていた。

 

「あれ?でも、お面って、どんな理由で貰ったの?」

 

 お面なんて裏どころか表向きの理由でさえ、想像つきそうにない。

 

「それは……秘密」

「えー、気になるなあ」

 

 でも、よくよく考えてみたら裏の理由は、なんとなくであるけど浮かんできた。

 三玖は私達五つ子の中で、姉妹に変装して演技をするのが最も得意だ。だから私も、仕事と学校の用事が被った時とかは、三玖に頼んで替え玉として入れ替わって貰う事も多い。勿論、他の姉妹間で頼み頼まれることもあるけど、やはり頼まれることが一番多いのは三玖だ。

 目ざとい七海のことなので、私達が入れ替わりをしていることに、そしてその回数が三玖に多いことにも気づいているだろう。なので、大方ボロを出さないように願いを込めてとかそんな感じだと思う。キツネが化けるエピソードは、よくあるからね。

 だけど表の理由、つまり七海がどんな使い方をしてほしくてお面を渡したのか、それが謎だ。まさか、今日みたいに尾行する時用に渡したわけじゃあるまいし……。

 

「そんな大事そうに持っちゃって、やっぱり相当気に入っているんだね」

「…………」

 

 反応の返ってこない妹を不思議に思って表情を覗こうとしても、下を俯くような姿勢なので長い髪が邪魔して分からない。

 

「三玖?」

「……えっ、何?」

 

 名前で呼べば、今度はちゃんと反応してくれた。バッとこちらを見上げた顔は、いつもの無表情。

 

「何って、そのお面、気に入ってるんだねって話だよ」

「気に入ってる訳じゃない。ただ、思い出していただけ」

「思い出すって何を?」

「約束」

「約束?一体どんな?」

「秘密」

 

 それは、さっきも聞いた言葉。でも、今度は即答。そして、心なしか力強く感じた。

 

「教えないよ。だって――」

 

 私が何かを言う前に、先を封じるように喋った三玖の表情は――。

 

「――これは私と七海、二人だけの秘密の約束だから」

 

 ――確かに微笑んでいた。

 

 

 

 

 三玖と一緒に帰宅した後、七海と二人になれる機会を窺ったけど、その時は訪れなかった。

 

 翌日の月曜。七海と一緒に登校しようと頑張って早起きしたけど、すでに七海の姿はなくて、ならいっかと二度寝したら危うく遅刻しかけた。おかげで今日もみんなでリムジン登校だ。前回との違いがあるとすれば七海がいないこと。

 学校の前まで着いたのでリムジンのドアが開く。すると五つ子会議の時、七海の彼氏かもと密かに疑っていた人が、何故かすぐそこにいた。

 

 

「お前ら、この前はよくも逃げて――」

 

 怒られると察知して、すぐさま逃走。

 

「――ああっ!また!」

 

 みんなも私と同じ考えみたいで、見事に動きがシンクロしていた。

 

「よく見ろ!俺は手ぶらだ、害はない!!」

 

 その言葉に、これまたみんなで足を止める。でも、私達五つ子は疑り深いのだ。

 

「騙されねーぞ」

「参考書とか隠しない?」

「油断させて勉強教えさせてくるかも」

 

 二乃と私と三玖の順番で警戒する言葉を投げかけられた彼は、まともに取り合わず何故か一番近くにいた五月ちゃんに近寄った。なにやらヒソヒソ話を行っていたけど、それもすぐに終わって五月ちゃんがこっちの輪に入ってくる。

 

「私たちの力不足は認めましょう。ですが、自分の問題は自分で解決します」

「勉強は一人でもできるもん」

「そうそう、要するに余計なお世話ってこと」

 

 五月ちゃんの宣言に、三玖と二乃の援護射撃が入る。私も乗ろうかと口を開こうとしたところで、七海のことがちらついた。きっと七海も、私の過保護気味な行動を知ったら余計なお世話と思うだろうと。

 

「そ、そうか……!!」

 

 ポンッと手を拳で叩いた彼は、出会ってから初めて見せる笑顔で私達にこう言った。

 

「じゃあ、この前のテストの復習は当然したよな!」

 

 その言葉に時が止まったかのごとく、私達は固まった。

 ある者は背中を向けたまま。ある者は視線を逸らして。ある者は口を開いたまま。

 私を含む、この場にいる全員が冷や汗を掻いている。そう思っていたんだけど、視線を逸らしていた私は、視界の片隅でただ一人、冷や汗は垂らしていないのに冷たい目をしている人物が気になっていた。その子は顎に手を当て、なにやら真剣な表情で考えこむような仕草をしている。

 

「問一。厳島の戦いで毛利元就が破った武将を答えよ」

 

 問題を出してきたけど、分かるはずもない。なんたって、私はテストをどこにやったのかさえ覚えていないんだから。……あれ?ホントにどこやったっけ。テストの答えあわせをして、合計百点を告げられて、みんなで逃げて……それっきり見てないような?

 膠着状態のままかと思われた状況で動いた人物が一人だけいた。五月ちゃんだ。

 これはなんとかしてくれるかも!そう期待したけど、すぐに涙目で頬を膨らませて、プルプルと震えるだけに終わった。

 五月ちゃんで無理なら、もう取れる選択肢なんて一つしかない。私達は踵を返して、何事もなかったかのようにその場から立ち去った――。

 

「やっぱり…」

 

 ――のだけれども、私達から少し離れた後方には、相変わらず優等生くんが付いて来ていた。まあ、同じ学年なのだから教室まで道のりも同じなだけで、好きで付いて来ているわけではないんだろう。……多分。

 集団の先頭を歩く私は後ろの様子を窺う。ブツブツいいながらノートと私達を交互に睨めっこしているのが一名。どう見ても怪しい人にしか見えない。もしかして、昨日の私と三玖もこんな感じに見えていたのだろうか。うん、しばらく尾行は控えることにしよう。

 

「あんな奴、視界に入れないほうがいいわよ」

 

 私のすぐ斜め後ろにいた二乃が忠告してくる。でも、私が本当に様子を見たかったのは二乃のことだった。理由は、さっき学校の前で固まった時、真剣な表情をしていたのがこの子だったから。

 

「……私の顔に何か付いてる?」

 

 いけない。二乃ばかりをジロジロ見すぎた。ここは下手に誤魔化すより、ストレートに聞こう。

 

「さっき凄く真剣な表情してなかった?それが気になってて」

「ハァ?なにそれ、そんな表情した覚えない」

 

 少しムキになってるというか、イラついた返事ではあったものの、嘘をついているようには見えなかった。

 

「うーん。なら、やっぱり気のせいだったのかな。……ただ」

「ただ?」

「似ていたんだ。七海の表情に」

 

 そう、私が()()を知った、あの日の表情に。

 

 

 

 

「あ、上杉さんだ」

 

 お昼休み。食堂で妹達と一緒に食事を取っていた。

 

「私、行ってくる!」

 

 飛び出していった四葉の向かう先には、唯一まだ集まっていなかった三玖の姿も見えた。

 

「近くに三玖もいるし、私も行ってくるかな」

 

 視線で七海がお願いしますと語りかけてきた。ウインクで返す。お姉さんに任せなさい。

 

「上杉さん!お昼、一緒に食べませんか?」

「うおっ」

 

 意外にも四葉が話しかける前に、私は追いついていた。何故かというと、彼を驚かそうとでもしていたのか、すぐに話かけることはせずにチャンスを窺っていたからだ。

 

「なんだ四葉か。お前はいつも突然なんだよ」

「あはは。朝は逃げちゃってすみません~」

 

 すぐ傍には三玖もいる。どうやら二人で何かを話している最中に、四葉が入っていったみたい。

 

「それで三玖――」

「――これ見てください、英語の宿題」

「さっきの話――」

「――全部間違えてました。あはははは!」

「……」

 

 一体どこに隠していたのか、いつの間にか手に持っていた紙を見せびらかす四葉は、会話の仕方が強引すぎるように感じる。それだけ彼のことを気に入っているということかな。だとすれば、どこをそんなに気に入ってるんだろう。この時の私には、到底解りそうにない疑問だった。

 何にせよ、今は会話を邪魔されて睨み付けてくる視線をなんとかしなければ。

 

「ごめんねー。邪魔しちゃって」

 

 四葉をわき腹を捕まえて、回れ右をさせる。今は、ここから離れたほうがよさそうだ。……何かを忘れているような気がするけど……まっ、いっか。

 

「一花も見てもらおうよ」

 

 会話の流れ的に勉強のことだろう。

 

「うーん、パスかな」

 

 だって。

 

「私たち、ほら、バカだし、ね?」

 

 やんわりとお断りを入れるように笑顔で振り返って言うと、何故か彼の顔が少し強張る。

 

「だからってなぁ…」

 

 それも一瞬のことで、すぐに呆れ顔に変わった。

 

「それにさ、高校生活、勉強だけってどうなの?もっとエンジョイしようよ」

 

 そう。

 

「恋とか!」

「!」

 

 私が言い放ったその瞬間、空気がガラリと変わる。

 

「恋?」

 

 その異常に気づいた私は、男女の恋仲を表すように手と手を合わせていたまま固まった。

 

「アレは学業からかけ離れた最も愚かな行為だ。…したい奴はすればいい。だが、そいつの人生のピークは学生時代となるだろう」

「この拗らせ方、手遅れだわ…!」

 

 優等生くんになるまで、色々なものを犠牲にしてきたんだね。

 

「あはは…。恋愛したくても、相手がいないんですけどね」

 

 そうなんだよね。七海が男の子なら、こんな悩みもなくなるのに。……家族だからアウトみたいな指摘は受け付けていません。

 

「三玖はどう?」

 

 四葉は私のリアクションを見て、こっちのことはスルー。唯一望みがありそうと睨んだ三玖に問いかける。

 

「好きな男子とかできた?」

「えっ」

 

 おっ、この反応は!

 

「い、いないよ!」

 

 ダッシュで逃げていく三玖を見届けた後、私と四葉は顔を見合わせる。

 

「?急にどうしたんだ…」

 

 やはり、勉強に頭が支配されてしまった優等生くんには分からないか。

 

「あの表情、姉妹の私にはわかります。三玖は、恋をしています」

「……」

『キャー』

 

 盛り上がる私と四葉に対して、冷や汗を垂らしている拗らせくん。彼にはまだ早い話だったか。

 

「あれ、行っちゃうんですか?一緒にご飯食べましょうよー」

 

 四葉の声など聞こえていないのか、その場から去っていってしまう。

 

「今日は気分じゃないんだと思うよ。また今度誘えばいいでしょ」

 

 私の言葉に、四葉は一瞬残念な仕草を見せたけど、すぐに頷いてくれる。

 

「いけない、みんなが待ってる!戻らないと」

 

 私も頷き返して元の席に戻ると、七海が呆れた目をして待っていた。

 

「あの、三玖姉は……?」

『あ』

 

 私たち、ほら、バカだし、ね?……はい、今すぐ三玖を呼んできます。

 

 

 

 

 放課後は私も七海も仕事が入っていたので、二人っきりになるチャンスはなかった。なので帰ってきた後、七海の部屋をノックしてみたけど、何の反応も返ってこない。

 こうなったら、メールで明日の放課後を予約するかな――。

 

「一花」

 

 ――みたいなプランを、七海の部屋の前で練っていた私に声を掛けてきた人物は、同じく七海に聞き出したいことがあるそう。本当は私一人で聞き出すつもりだったけど、一人じゃ問い詰めても躱されそうだし、一人ぐらい仲間がいたほうがいいかと思って、彼女の出してきた()()に乗った。

 

「それじゃ、明日はよろしく」

「うん。任せて」

 

 翌日の火曜日。晴れてこそいるが、やたらと風が強い。登校中はスカートを抑えるのに苦労したし、昨日組むことを決めた彼女は、髪が凄く乱れていて私以上に大変そうだった。

 そんな荒れそうな日でも、いつも通り行われる眠くなる授業を終えて、やっときた放課後。私は、駆け足で階段を上がっていた。ショートホームルームがショートというには無理があるほどに長引いたせいだ。

 向かう先の屋上では、組んだ彼女と呼び出してもらった七海が待っているはず。

 一歩、また一歩と階段を上っていくたび、外で風が吹く音が大きくなる。後にして思えば、それは屋上にいた二人の口論が、荒れに荒れてることを表していたのかもしれない。でも、この時の私は、そんなことを察せられるわけもなく、軽い足取りで屋上のドア前までに辿り着いて、自室に入る時と同じようにドアノブへと手をかけた。

 

「ごめん、遅れちゃった。待たせた?」

 

 勢いよくドアを開けた瞬間、予想していた強風が襲い掛かってきた。でも、それは予想以上のもので、体が倒れそうになる程とはいかなくても、教室より広い屋上の真ん中で何かを話していた二人には、風切り音が邪魔して声が届かなかった。

 

「……すか?……なら……しょう?」

「……ダメ……たら……るの?」

 

 当然、こっちの声が届かなければ、あちらの話している内容も聞き取れない。そう思っていたけど、向こうはなにやら話がヒートアップしているのか、声が大きくて僅かに聞き取れた。

 詳細は分からないけど、七海が口喧嘩なんて珍しい……どころか初めてのような?

 何にせよ、近づかないと私の存在に気づいてもらえそうにない。向かい風に負けないように踏ん張りながら近づいて、組んだ彼女――二乃の肩に手をかける。

 

「きゃあ!」

「っ!」

 

 やっぱり、私のことには気づいていなかったようで、不意打ちのような形になって驚かせてしまった。それは七海も同じかと思ったけど、すぐに違うことがわかる。

 

「ちょっと、七海!?」

 

 二乃が驚いたせいで手に持っていた紙束を放してしまい、それが風に煽られて宙に舞ったからだ。

 

「え?」

 

 そのまま空の彼方に飛んでいくかと思われた紙たちは、七海が驚くほどに早い動きで回収していく。

 一枚、また一枚。私がリアクションした直後には、四枚を回収し終えていた。だけど、残る一枚は胸の高さ程ある落下防止用の壁へと、風に叩きつけられるようにして引っかかっている。それも、今にも再び舞い上がりそうなギリギリの位置に。

 

「え、ちょっと!?危ないよ!」

 

 そんな私の忠告が言い終わる頃には、七海はダッシュで壁の前まで辿り着いていた。でも、すでに紙は屋上の外に吹き飛ばされていた。

 

「ちょっ、嘘でしょ?!」

 

 隣の二乃が驚く。そりゃそうだ、七海は何の躊躇もなく、ダッシュした勢いを落とさずに壁を乗り越えて――。

 

『七海!』

 

 ――跳んだのだから。

 私と二乃の悲鳴にも似た叫びが響き渡る。当然、それによって時が止まるわけでも、夢から覚めるわけでもなく、だけどゆっくりに感じるこの空間の中で私達は、顔を青ざめながら目を見開いていた。

 届くはずがない手を伸ばす。間に合うはずのない足を動かす。想像したくもない光景が見えてしまう……!

 私達の伸ばした手は届かなかった。しかし、七海の伸ばした手は紙へと届いた。その直後、七海が優しい声音で何かを呟いた気がした。

 

「……った」

 

 どうして?どうして、そんなに安心したみたいな声なの?今から落ちちゃうのに。落ちたら凄く痛くて、死んじゃうかもしれないんだよ?せっかく再会できたのに、また、居なくなっちゃうの?また、失うの?また、あの時の感情を私は……!

 

「嫌あああ!」

 

 それは私と二乃、どちらが発したものだったか。後になっても思い出せなかったその叫びは、スローに感じていた現実が突如加速するトリガーになった。次の瞬間、七海の姿は見えなくなる。それでも私の足は止まらない。

 さっきの七海と同じように、近づいても減速せずに壁を乗り越え――。

 

「一花!」

 

 ――ようとしたら、悲痛な叫びと共に私の動きは止まった。

 

「二……乃?」

 

 振り返れば、顔は青ざめたまま、涙を流して、体を震わした二乃が私の体に抱き着いていた。その腕には、ありったけの力が込められてるように感じる。

 

「お願い、一花まで居なくならないで……」

 

 その言葉を聞いて、壁にかけていた手を放した。二乃のお願いを叶えようとしたからではない。ただ、私は怖くなっただけ。この壁を越えた先、下にある光景を見るのが。

 

「私が……見てくる」

 

 地面にへたり込んだ私から離れて、二乃が様子を確認しにいく。それを私は、ぼーっとしながら眺めていた。

 ふわふわとした現実味のない感覚に包まれながらも、痛いほど鼓動が早くなっている心臓を今更自覚し、これは現実なんだと訴えかけてくる。その鼓動は二乃の動きに合わせて、更に加速していった。

 

「…………」

 

 もう、心臓が張り裂けるんじゃないかと思ったタイミングで、ついに二乃が下を覗いた。けれど、だんまりを決め込むせいで、何も分からない。

 

「な、七海は……」

「……え?」

 

 痺れを切らして、自分のとは思えないぐらいに掠れた声で聞いてみたものの、返ってきたのは疑問の声だけ。

 

「七海はっ!七海は無事なの?!」

 

 自分で見に行こうともしない人が、何を叫んでいるの。

 そんなことよりも、七海がどうなったかを早く教えて。

 場違いなことを考える冷たい私と、身を焦がされるかのように熱くなっている私。別々の私が、心の中で渦を巻くかのごとく存在しているようだった。

 

「い、いないの。居ないのよ……どこにも。というか――」

「――居ないって一体どういうこと?!」

 

 『居ない』というワードがトリガーにでもなったのか、やっとのことで私の体は動いた。

 ニ乃の隣まで行き、壁に手をついて同じように下を覗く。

 

「……え?」

 

 そうして搾り出されたリアクションは、ニ乃と全く同じものだった。

 

「何やってるんですか?二人とも」

『え?』

 

 後ろから声がして振り返る。そこに居たのは――。

 

『七海!』

 

 ――落ちたはずの愛おしい妹だった。

 

「そんな幽霊でも見たような顔っぷ!?」

 

 横にいたはずの二乃が、いつの間にか七海の元に駆け寄って抱きしめていた。

 

「よかった!よかった!よかった……!」

 

 二乃の心からの叫びを耳にしながら、私はぼーっとしたまま突っ立っていることしかできない。

 

「むー!むーっ!」

 

 頭を抱きこむような形で捕まってる七海は、二乃の背中を何度もタップしていた。いけない、このままじゃ今度こそ本当に七海が逝ってしまう。

 

「二乃。離さないとやばいかも」

「え」

 

 私の指摘でようやく開放された七海。

 

「ぷはあっ!……抱きしめるなら、もう少し私が苦しまない形でやってくれませんか?」

「それなら、私たちのことも心配させないで欲しいんだけど?」

 

 笑顔なはずだけど、なんだか怖く感じる。そんな攻撃的な笑顔とでも言える表情で七海の肩を掴んだ二乃。

 

「……そういえば、二乃姉達は最近転校してきたばかりでしたね。なら、心配をかけたのにも納得です」

 

 七海の言っていることは、さっき見た屋上の外。その下を覗かなければ何のことかと疑問に思っていただろう。

 

「まさか、七海が跳んだところにも屋上があるなんてね」

 

 そう、二乃の言うとおり、もう一つの屋上があったのだ。私達が今立っている屋上の外周、その一階下の高さに。

 

「屋上でも間違ってはいませんが、ルーフバルコニーですね。正確には」

 

 注釈と同時に横へと視線を逸らす七海。

 

「あそこに階段があるのに、気付かなかったんですか?」

 

 言われた通り、ここからルーフバルコニーへと続く階段が確かにあった。あそこから七海は戻ってきたのだろう。

 

「あはは、さっきは必死だったから、気付かなかったよ」

 

 ジト目で指摘する七海に押されて思わず謝ってしまった私に対して、二乃の反応は真逆そうだ。

 

「うん、気付かなかった。誰かさんがあんな紙切れの為に身を投げ出すなんて、思ってもいなかったもの」

 

 やっぱり怒ってますね、これは。

 助け船は出せそうにない。というか、私も怒りたくなってきた。

 

「……取り敢えず、ここは風が強くて話すのに向きません。場所を変えませんか?」

 

 あ、隙を見て逃げる気だ。

 

「そうね。話しは家でじっくり……ね?一花」

 

 呼ばれて七海の脇に立つ。

 

「あの……これは?」

『逃げないように捕まえたの』

 

 私は右腕、二乃は左腕、二人で分担して両腕をがっしりホールド。

 

「これじゃあ、歩きにくいんですが?」

『…………』

「オーケー。行きましょう」

 

 無言の圧力に屈したのか、すぐに歩きだした七海。それに合わせて、私達は縋りつくような形で動く。

 

「あの、扉を開けられないので、どちらか開けてもらえます?」

 

 二乃が空いている左手で屋上のドアノブに手をかける。

 

「な、なにこれ。開かないじゃない」

 

 ガシャガシャとドアを無理に開けようとする音と、断続的にくる風切り音だけが、この場に響いていた。

 

「どうやら鍵を閉められてしまったようですね。屋上を確認せずに閉めるなんて、教員の誰かが生徒に頼んだのかもしれません」

 

 これだけ風が強ければ、屋上を立ち入り禁止にするのも無理ないかー。

 

「ルーフバルコニーの方にも扉がありますし、そちらも確認しましょう」

 

 一人では行かせまいと、腕に籠める力を強くしてみんなで向かう。

 

「こっちもダメみたい。もしかしなくても私たち、閉じ込められちゃった……?」

 

 今度は私が確認したけど、結果は同じ。

 

「屋上に閉じ込められるという表現は、果たして適切なんでしょうかねぇ……」

 

 焦り始めた私と二乃に対して、七海は暢気な発言をして余裕がありそうだ。風は更に勢いを増しているっていうのに。

 

「なんで七海はそんなに落ち着いてるわけ?」

 

 私の気持ちを代弁するかのように、二乃が聞いてくれた。

 

「まあ、今ここは風を凌げますし、この扉も開けようと思えばいつでも開けられますので」

『え?』

 

 風向きの関係で、今いるルーフバルコニーなら風に曝されなくて済むのはわかる。でも、扉を開けられるって一体……?

 

「そして、ここから脱出するには私の腕を自由にしてもらう必要があるんですが……」

『……逃げない?』

「家で話をするなら逃げようがないと思いますよ。いつかは帰らなきゃいけないんですし」

『に・げ・な・い?』

「……逃げませんよ」

 

 観念したように言う七海。でも今は信用していいものか、一人では決められなかったので二乃とアイコンタクトを交わす。数回の瞬きの後、作戦を決行した。

 

「更に歩きにくくなったんですが?」

『いいから扉を開けて』

 

 七海が言ったのは腕を自由にしろということだったから、お腹に縋り付くことにした。

 体勢の関係で顔をうずめるような形になってしまったので、七海の匂いがよくわかる。女の子といえば甘い匂い。そんなイメージとは違った、爽やかな香りが鼻をくすぐる。

 

「二乃姉がちょうど掴まってる部分の内ポケットに、ツールボックスが入っているので放して欲しいのですが。片方掴まってれば十分でしょう?」

「確かになんか硬いのがあるわね。私が取るから七海は動かないこと」

「はいはい」

 

 七海のワイシャツが(めく)られる。引き締まって健康的なお腹が晒された。

 

「手が冷たいです。というか、内ポケットはワイシャツにあるので下のシャツまで捲らないでください」

「……うん、わかった」

「全然わかってないじゃありませんか!(まさぐ)らないでください!」

 

 まったく、二乃は何をやっているんだか。ここは、一花お姉さんに任せてみなさい。

 

「一花姉まで捲らないで!しかも顔を突っ込もうとするなんて、変態みたいですよ!」

「いやぁ、七海からいい香りがするからもっと嗅いでおこうと思って。ところで今の変態って部分、リピートしてもらっても?」

「本当に変態じゃないですか!」

「あんたら何やってんの。もう取ったわよ」

「元はと言えば二乃姉が……あぁ、もういいです」

 

 元はと言えば七海が心配をかけるからいけないんだ。

 

「それでどうやって開けるの?」

「この箱には色々便利グッズが入っているので、それを用いてね」

「ふーん、ピッキングツールでも入ってるわけ?」

「ええ、他にも手縫い針や糸とか。今扉を開けるので少しお待ちを」

 

 カチャカチャと音が鳴るかとも思ったけど、意外なことに静かに作業は始まった。その間、暇なので私とニ乃交互に質問をして時間を潰すことにした。

 

「そういうのって、どこで手に入れてくるの?」

「基本的に色んな店を渡り歩いてですね。ジャンク品などの安い物ばかりなので、自分用に使いやすく改良しています」

「改良って、一体どうやって?」

(ねっ)して変形させたり、他の物と組み合わせるのが主ですね」

「熱してって、鍛冶屋さんみたいに?危なくない?」

「鍛冶屋さんって……ふふっ、一花姉は赤く変色するほどに熱した金属を叩く、みたいなのを想像していませんか?そんな派手なものじゃありませんよ。小さなパーツをアルコールランプとかで軟らかくして変形させるんです」

 

 ほへぇ、本格的ですな。

 

「開きました。お先にどうぞ……はいはい、一緒にね」

 

 なんだかやたらと長く居た気がする屋上ともおさらば。実際は数分しか居なかったんだけどね。

 

「閉めるのでまたお待ちを」

 

 開いた時と違って、閉めるのは一瞬だった。

 

「後は紙を――付箋でいいか」

 

 呟いた通り、七海は取り出した付箋に素早く何かを書いてドアノブ近くに貼り付けた。

 

「何々……?『鍵を閉めるときは、屋上に人がいないか確認を!』って……」

 

 七海らしい、気遣いのある対応だ。私達が取り残されたことを先生に報告したら、閉めた誰かが怒られちゃう。それを回避しつつ、注意書きを書くことによって同じ失敗が繰り返されないように配慮した行動。単純に自分で報告したら、どうやって出たのかを訊かれて困るっていうのも理由の一つなんだろうけどね。

 

「もう一つの出入り口のほうに寄っても?」

「う、うん」

 

 再び二人で七海の両脇に位置取って、腕を捕まえながら歩き出す。

 

「ホントに七海は気遣い上手ね。……()()()に協力するのも、ただの気遣い?」

「あいつ?」

 

 何の話だろう。

 

「上杉先輩のことです」

「優等生くんのこと?」

「さっき必死に拾ってた紙切れも、あいつの作ったテストだったってわけ」

「テストってこの前の?」

「ええ、これ要ります?皺だらけになっちゃいましたが」

 

 手渡された紙は、確かにこの前やった私のテストだ。でも、最後に見たときは採点までしかされていなかったはずなのに、今は問題の解説などが書き足されていた。

 

「さっきのケンカ?もこれが原因?」

「ケンカ……?そっか私、喧嘩したんだ……」

「……七海、あんたケンカして笑うなんて、やっぱりどこか打ったんじゃないでしょうね」

 

 ニ乃の心配を余所に、七海は微笑むばかりで何の返事もしない。

 

「ほら、七海だってケンカの一度ぐらいしてみたかったんじゃない?私たちも昔はよくケンカしたしさ」

「それは……まあ、そうね」

 

 最も、昔私達がしていたケンカは言い争いを通りすごして物理がまかり通っていたような気もする。

 何にせよ、うまくフォローできたみたいで何より。私はひっそりと息を吐いた。

 

 もう一つの出入り口にも、何事もなく付箋を貼り終えて帰路につく。

 道中、色んな生徒や通行人が私達に注目していた。両手に花状態なんだから、それも仕方ないことか。花を持っている本人も女の子だけど。

 

「それで、何を話すって言うんですか?」

 

 ラブラブカップルにも負けないぐらいの密着度で家まで帰ってきた私達は、屋上での話の続きをしようと七海の部屋にお邪魔していた。

 

「それは……あいつに協力するような真似をやめろって話よ」

「そもそも、私は上杉先輩に協力しているんでしょうか?」

「は?」

「偶々リビングに置いてあったテストを見つけて、自分の勉強も兼ねて注釈を書き加えただけですよ。勝手にいじったことは反省しなければなりませんね。ごめんなさい」

「ふざけないで、五人分もいじったっていうの?同じ問題なのに」

「……意外にしっかりと目を通していますね。筆跡も真似ていたはずなんですが、どうやって気づいたんですか?」

「勝手なイメージだけど、あんなカラフルにペンを使い分けるようなタイプじゃないでしょ。あいつは」

「なるほど、今後の参考にします」

 

 なんだか私一人が蚊帳の外で、会話に入れる隙間なんてなさそうだ。

 

「認めたってことでいいのね?」

「ええ。二乃姉達と同じ学校に通い、同学年の成績最優秀者。家庭教師の人選としては申し分ない相手なはずです」

 

 七海の眼には、強い意志を感じる。

 

「とはいえ、五人分を一人で受けもつのは大変だと思うので、協力は惜しまない考えです」

「……これ以上何を言ってもムダそうね。もういい、なら私にも考えがあるから」

 

 そういい残して出て行ってしまった二乃。私と二乃は元々、七海と一対一じゃ言いくるめられそうだったから、加勢しあおうって狙いで組んだわけなんだけど、話し合いに割って入ることすらできなかった。これでは私の味方をしてほしい、なんて理由で引き止められるはずもない。

 

「会話に入ってこなかったところをみるに、一花姉の用件は違うようですね」

「うん、一昨日のことなんだけど……」

 

 勿論聞き出すのは、あのワイルドな男性との関係性だ。

 

「一昨日?ああ、大人の男性と一緒にいるところを見かけでもしましたか?」

「う、うん。あの人との関係は?危ないことに手を出してない?」

「あの人は、上杉先輩のお父上ですよ」

「えっ!?……でも、確かに面影があったような」

 

 驚く私をよそに、七海の話は進んでいく。

 

「そもそも、なんで上杉先輩に家庭教師の話が回ってきたのか不思議に思っていました」

「た、たしかに。同じ学校に通う生徒が家庭教師なんて普通はないよね」

「そして、その答えはパパの旧知の仲である上杉先輩のお父上が知っていそうだったので、お話を伺っていたというわけです。色々と面白い話が訊けて、私としては満足でしたね」

「お父さんの知り合いかあ」

「まあ、そんなわけで危険性のあることには関わっていませんよ。納得していただけましたか?」

 

 意外にも素直に白状してくれて助かった。私一人じゃ、誤魔化されたら追求できそうになかったから。

 

「うん、安心した。でも、面白い話って気になるなあ」

「それは……本人達のプライバシーの為にも私の胸に納めるつもりなので話せません。ごめんなさい」

 

 謝ってはいるけど、柔らかい笑顔は隠せていなかった。

 

「お話はこれで終わりですか?」

「あっ!他にもあった」

 

 パパ活の疑いが晴れたらもう一つの疑問がおのずと浮かんでくる。

 

「四葉に聞いたんだけど、気になっている人っていうのは?一花お姉さんに話してみなさい」

「構いませんよ」

「えっ、本当!?一体――」

「――ただし、一花姉も教えてくれるならですが」

「え゛」

 

 それは、ちょっと恥ずかしいような……?でも、今気になる人はいないんだし、素直にいないと答えれば教えてくれるかな?

 

「勿論、今いないというのならこの先できたら、真っ先に私に教えてもらいます」

「う、うん。やめておくね」

 

 やっぱり、私一人じゃ七海からあれこれ聞き出すのには無理があった。危険なことに関わっていないと収穫があっただけマシか。

 

「さて、そろそろ夕食を用意しなければなりません。話はここで終わりにしましょう」

 

 本当は二乃と話していたことも追求したかったけど、返事も待たずに部屋を出て行ってしまう。一人残された私は周囲を見渡した。

 

「…………」

 

 私のと比べては失礼になるけど、綺麗に整頓されいる部屋だ。床も机も……ベッドも。

 

「ダーイブ……なんて」

 

 気の迷い。魔が差した。表現なんてなんでもいいけど、とにかく私は屋上で嗅いだ七海の香りが忘れられなくて一番匂いのついてそうなベッド目掛けてダイブしたのだ。

 なんとなく、そうなんとなく枕に顔をうずめる。屋上でも嗅いだ爽やかな香り。それとは別に、微かだが甘い香りがした。これが七海本来の匂いだろうか。

 甘くて、どこか暖かい。この香りを私は知っている。昔何度も嗅いだ匂いだから。

 意味もなく足をバタバタと動かす。このまま寝ちゃいけないと分かっていても、一度閉じた目を開くのは億劫だった。

 まどろみに包まれながら私は……。

 

 

 

 

「ごめんなさい」

 

 夢を見ている。

 

「ごめんなさい」

 

 繰り返される謝罪の言葉。それを受けて私たち五つ子は、立ち尽くすばかりで何も返すことができなかった。

 

「ごめんなさい」

 

 見ているだけでも痛々しい痩せこけた体。額を床に擦り付けながら強く握られた拳を見て、謝罪を繰り返すこの子――七海が必死に謝っていることがよくわかる。

 

「二人で帰れなくて……ごめんなさい」

 

 とても言い表せそうにない強い感情の波が襲ってきて、私の目から涙が溢れ出した。それは、みんなも同じだったと思う。

 

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 

 握られた拳か俯いた口からか、床に滴った血が少しずつ私たちの元へと流れてきていた。それでも謝罪は止まることはない。

 何故この夢を見ているか、それはわかっている。屋上での出来事が原因だ。

 今日の私は、この夢の――過去の私となにも変わっていなかった。

 大切なはずなのに、満足に抱きしめてあげることもできない。何も出来ずにただ見ているだけ。

 

「ごめんなさ――」

「――七海!」

『お母さん!?』

 

 永遠続いてしまうんじゃないか。そんなことを思ってしまう空間を壊したのは、今は亡き母だった。

 

「お母さん、今は安静にしてなくちゃいけないんじゃ」

 

 代表して私が聞いたけど、取り合ってはくれなかった。

 

「あ、あ、あの私――」

「――ありがとう」

「っ!」

 

 お母さんは床の血を気にすることもなく七海に近づいて、顔を上げさせてから抱きしめた。

 

「生きていてくれて、ありがとう」

 

 お母さんのその言葉を皮切りに、嗚咽が漏れる。それは私達五つ子のものでもあり、お母さんのものでもあり、七海のものでもあった。

 

 場面が切り替わる。

 

「急っげ!急っげ!」

 

 エレベーターを待つこともできず、階段を駆け上がる私がいた。七海のお見舞いに向かうためだ。

 肉体的にも精神的にも状態がひどかった七海は、私達と再会してもすぐ一緒に暮らすことはできなかった。なのでこの頃の私達は、お見舞いが許可されている日は必ずと言っていいほど病院へと足を運んでいた。

 七海のことが心配だったのも理由の一つだったけど、それ以上にこの頃にはもう亡くなっていたお母さんに、七海のことを任されたという部分が何よりも大きかった。

 

「ふぅ、到着。七海、喜んでくれるかなあ」

 

 階段を上り終えた私は、手に持ったプレゼントを両手で抱きしめて病室へと向かう。別に何か特別な日というわけでもなかったんだけど、この日は私以外のみんなそれぞれに事情があって遅れるとのことだったので、私が一番に七海の笑顔を見るんだ。そんなことを考えながら目的地の前にたどり着いた。

 

「あれ、ちょっと開いてる……。七海ー?いる――」

「――ごめんなさい」

 

 開きかけのスライドドアに触れたところで、中から漏れてきた声にビックリして心臓が跳ねる。

 

「全部、私が悪いの」

 

 七海はベッドの上で眠っていた。どうやら寝言らしい。

 

「私のせいで死んじゃった」

 

 悪夢でも見ているのだろうか、その目からは涙が流れていた。

 

「お母さんも――」

 

 そんなことないよ。そう語りかけて、夢の中の七海を安心させてあげようとしたとき、続く言葉を聞いた私は目を見開いた。

 

 

 

 

「……あー、寝ちゃったのかぁ」

 

 起きて周りを見渡せば、すぐに状況が理解できた。

 

「七海には悪いことしちゃったな」

 

 七海の姿は見当たらない。私の部屋で寝ているのかな。

 

「五時……か」

 

 一体私は何時間寝ていたんだろうか。普段なら二度寝するシチュエーションなんだけど、七海のベッドでするのは申し訳なく思ってやめる。

 

「少し走ってきますかぁ」

 

 昨日の夕食を取っていなかったけど、今は気分じゃない。日課を済ませてからシャワーを浴びようと決める。

 音を立てないように、ゆっくりとドアを開ける。忍び足で中に入って適当に落ちている服を拾おうと、手を伸ばしたところで違和感に気づいた。

 

「あ、あれ?七海いないの?」

 

 ベッドに人がいなかったのだ。しかも――。

 

「一体どこで寝たんだろう……」

 

 ――掛け布団もシーツも乱れたままだった。他人のベッドを使って、七海がこんな状態で放置しておくはずがない。まず間違いなく、最後に私が使った後そのままだ。

 

「まさか、変なとこで寝たんじゃ」

 

 リビングにあるソファーなら寝ることはできるけど、それでは体のどこかを痛めてしまってもおかしくない。

 適当に拾った服に着替え、風呂場を確認するけど誰もいない。残るは他の家族の部屋だけど、今の時間じゃ確認するわけにもいかなかった。

 まあ、後で聞けばいいか。そう考えてジョギングをするために家を出る。

 エレベーターで地上まで降りた私に朝日が浴びせられる。正直なところ、今の気分はあまりいいとは言えなかったから、この光は無理やりにでも気分を上げるのに役立ちそうだ。

 少しでも長く朝日を浴びていたくて、いつものコースから外れて寄り道することにした。

 朝早い時間だからか、休日の時と違ってペットの散歩をする人は見当たらない。代わりに私と同じで走ることが目的な人とはボチボチすれ違う。

 そうして何人目とすれ違った時だっただろうか、前から猛スピードで近づいてくる人を捉えた。

 ジョギングをしているだけの私と比べるまでもなく、歩幅からして全然違う。フォームも陸上をやっている人みたいに綺麗で乱れがない。

 邪魔になるかと思って道を譲るように端に寄る。日課をこなして、気分をリフレッシュさせたい程度の気持ちで走っている私と違って、あの人は必死に走っているように感じたからだ。

 何回かチラ見して容姿を確認する。フードとサングラスを被っていて顔は見えない。でも、身長も胸も私と同じぐらいだったから、年の近い女の子だと思う。もしかすると、同じ学校に通う子かもしれない。

 なんてぼんやりと考えているうちに、あっという間に訪れたすれ違いの瞬間、覚えのある香りが鼻についた。

 

「えっ、もしかして七海?」

 

 あれだけ七海の匂いに包まれながら夜を過ごしたんだ、見間違う――じゃなくて嗅ぎ間違うはずもない。

 

「はっ、はやー……」

 

 速い速いとは思っていたけど、近くを通り過ぎると想像以上だった。速すぎて私の呼びかけにも気づいてもらえなかったみたい。

 振り返ってみると、どんどん七海と思われる人の姿は小さくなっていく。とてもじゃないが、今から追いかけようとは思えなかった。

 まあ、今呼び止めなくても後で話を聞けばいい。家にいたときと同じ結論を出して、いつの間にか止まっていた足を再び動か――。

 

「あのー、お話を伺ってもよろしいでしょうか?」

「はい?」

 

 ――そうとして、呼び止められた。

 この時、私が足を動かしていれば未来は変わったのかな……。

 

 

 

 

 結局家に帰ってきたとき、七海の姿はなかった。今日も早くに家を出てしまったみたい。……すごく今更だけど、もしかして私って避けられてる?

 

「はぁ……」

 

 お日様浴びて気分アゲアゲ、シャワーでリフレッシュ、共に試しても効果は薄かった。みんなで一緒にという気分でもなくて、私にしては珍しく一人で登校することに。

 下を向いて、トボトボと通学路を歩きながら、考えるのは七海のこと。

 私が――私達五つ子が七海に対して過保護気味なのには、ちゃんとした理由がある。それを思い起こす為に、過去を振り返っていくことにしよう。

 

 昔、私達家族は母子家庭だった。しかも子だくさんだったから、貧乏ここに極まれりな暮らし。だけど、毎日が賑やかで輝いていたことを覚えている。

 そんな私達が幼い頃に、妹が行方不明になったことがそもそもの始まり。そのときの行方不明者というのが七海とその双子の姉、六海の二人。この事件が起きたとき、最後に六海と七海の手を握っていたのが四葉だった。当時――いや、今でも四葉はこの時のことに責任を感じているに違いない。

 行方不明になった二人の捜索は長期に渡って行われたけど、様々な臆測や情報が飛び交うなかだったからか、事態が進展することはなかった。

 やがて捜索の規模は縮小していき、それに伴って私の記憶からも世間の記憶からも二人のことが薄れかけていた頃、唐突に七海が保護されたという情報が流れてきた。遠い異国の地で……。

 日本に帰ってきた七海に、私達は急いで会いにいった。今のお父さんが用意してくれたリムジンに乗りながら、最初はなんて言葉をかけようか。そんなことを考えていた記憶がある。今までどこに行っていたの?とか、どうして居なくなったの?とか、予定していたのはそんな感じの言葉だっただろうか。だけどそれに意味なんてなかった。何一つ言葉になんてできやしなかったんだから。その理由は――。

 

「あの時、どうしたらよかったんだろう」

 

 ――六海が亡くなったと聞いて、頭が真っ白になったからだった。

 

 この時のエピソードが今日見た夢の――過去の出来事。

 その後、お母さんが亡くなってしまい、再婚していた今のお父さんとの父子家庭に。この頃から似たり寄ったりの容姿をしていた私達五つ子は、それぞれの個性がでるように変わっていく。でも、変化したのは外面だけじゃなく内面もだった。

 年齢のことを考えれば、変化が訪れるのに不思議はない。だけど、そんな私達の中でも大きな……を通り越して異常とも言える変化をした子がいた。

 それが四葉と五月ちゃんだ。

 四葉は、七海に対する距離が非常に近くなった。でも程度の違いこそあれど、これは私達五つ子全員に言えることだ。四葉が責任を強く感じているのを加味すれば、それも仕方がないことだと思う。

 五月ちゃんのほうは、お母さんの真似をするようになった。姿、言動、その他とにかく様々なところを。その様子は、傍から見るだけでもつらいものがあったけど、色々な出来事が重なって余裕のなかった当時の私に、五月ちゃんのことを気遣うのは難しかった。……これはただの言い訳でしかないか。

 そして、実はもう一人ある日を境に異常に変わった子がいた。

 

「……ん?」

 

 考えごとを中断する。学校が見えてきたあたりで、私と同じように登校している周りの生徒達が、ざわついていることに気がついたからだ。

 

「なにあれ……」

 

 顔を上げてみると本がいた。正確にいうなら、本を高くまで積み上げて持つ人だ。しかも、高すぎて顔が見えない。さっきまで下を向きながら歩いていた私が言えることじゃないけど、あの人、前見えてるのかな?

 

「って危ない!」

 

 本が傾いたのを見て、急いで駆け寄る。

 

「せ、セーフ」

 

 幸いにも崩れる前になんとか支えるのが間に合った。

 

「その声は……一花か?悪い、助かった」

 

 なんと私の家庭教師でした。

 

「どうしたの?この本」

「図書室で借りたんだ。返そうと思ってな」

 

 手で持っている分だけではなく、鞄がパンパンに膨らんでいる。中身は聞くまでもないだろう。

 

「半分持ってあげる。貸して?」

「あ、あぁ。助かる」

 

 ようやく顔が見えるようになった彼を横目に、残り少ない道のりを再び歩き出す。

 

「これ、全部歴史の本?勉強熱心ですなあ」

「まあ、そうだな……」

 

 なんだかそっけない。出会って少ししか経ってない間柄だけど、いつもはもう少し愛想がよかった気がする。

 とはいっても、それは今の私も似たようなものかもしれない。こちらから積極的に話しかける気にもなれず、しばらく沈黙が続いた。

 

「悪いが、図書室まで付き合ってもらってもいいか?」

 

 下駄箱で靴を履き替えたところで確認してきた。いつもと違って時間に余裕のある登校だったから、塞がった両手の代わりに首でオッケーする。

 

「……なあ、お前は知っているのか?」

「んー?何を?」

 

 図書室につくまで、また沈黙が続くかとも思ったけど、彼のほうから話題を振ってきた。気づけば周りに人がいない廊下まできている。愛想が普段より悪いと思っていたのも、話を切り出すタイミングを見計らってたからそう見えたわけだ。

 

「あいつが……七海が病気だって」

「うん、知ってるよ」

 

 特にためることもなく、正直に答える。……ここまでは。

 

「そうか、ならなんで――」

「――不眠症っていうのはね、あくまで症状なの」

「は……?あぁ、まあ不眠()だしな」

「そう、つまり原因は別にあるはず」

「……まさか、それが知りたいから教えてくれなんて言わないよな?」

「言わないよ。ちゃんと知ってる」

 

 そう、私は知っている。

 

「で?それが一体どうしたって?」

「……情報交換しようよ。質問に一つ答えたら、今度は逆に質問する――みたいな感じで」

 

 一人で見舞いにいったあの日、病室で私は聞いてしまった。知ってしまった。あの子の秘密を。

 

「ああ、いいだろう」

 

 三玖の言ってたような、二人だけの秘密というわけではない。

 私だけが知っているんだ。

 

「それで、どっちが先に質問するんだ?」

 

 『私のせいで死んじゃった』

 

「さっきキミの質問に答えたでしょ。だから、今度は私からだよ」

 

 『お母さんも――』

 

「ふっ、なんだったら勉強のことを訊いてくれてもいいんだぞ」

 

 『――()()も』

 

 あの子のほとんどが偽りなんだって。

 

 

 

 

 

 

 

 

「キミだよね」

 

 知っている――私は知っているんだ。

 だから、これは質問なんかじゃない。ただの確認。

 

「七海と六海が――私たちの妹が()()されたとき、現場にいた目撃者って」

 

 本当に知らなくちゃいけないことを、この時の私は何一つ知らないままだった。

 



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それなら

 風が強い。そして、目の前にいる二番の当たりも強かった。

 

「答えて、七海」

「私の質問にも答えてください」

 

 先程から似たような遣り取りを繰り返している。

 会話が始まった時よりも風は強さを増していて……あぁ、二番の下着が少し見えた。ふむ、チェリーピンクか。今後役に立つかは不明だが、しっかりと脳裏に焼き付けておこう。

 

「ちょっと、ちゃんと私の目を見て」

 

 待って、後少し、今吹いている風が止むまで。

 

「はいっ。見ました。ありがとうございます」

「なんでお礼……?」

 

 別に布切れ一枚に強い拘りがあるわけではない。だけど、なんだか見ておかないと勿体無い気がしたのだ。

 ……少し脱線してしまった、話を戻そう。

 どうしてこの人は、強風の日に屋上なんかを指定してきたのかが疑問だ。人が寄り付きにくいという条件なら満たされているが、話し合いをする場所としては相応しくない。だが、私はここから離れる提案をすることができなかった。たった一言を告げればいいだけなのに、どうしてそうしないのか。いくら考えても答えを導き出せないでいる。

 

「先に私の質問に答えて。本当は、あいつと話一つしてほしくないのよ」

 

 『あいつ』というのは上杉先輩のことだ。一体何故、こんなにも嫌悪の感情が篭った言葉が出てくるのだろうか。

 二番の性格なら、単純に自身の(テリトリー)に突如として踏み込んできた人間だから、毛嫌いに近い形の感情を持っている――そう考えるのが最も違和感がない。だが、決め付けるのは早計だ。私の知らない事情があってもおかしくない。

 

「どうしてですか?先輩後輩の間柄なら、話をするぐらい普通のことでしょう?」

「ダメったらダメ。あいつがオオカミにでもなったらどうするの?」

「狼って……」

 

 狼に変身した上杉先輩を脳内で形を作(イメージす)る。……ふむ。あの枝分かれしたアホ毛と、密かに気に入っている彼の目が残っているというのなら、触れ合っ(モフモフし)てみたいという結論が出た。

 

「アリですね」

「アリ!?」

 

 あのアホ毛は、私にとってスパゲッティ(メジャーなパスタ)をフォークで巻くかのように弄るか、それともヘリコプター(空中で静止できる航空機)のプロペラみたいに高速回転させるのか、どちらかを選べと言われたら長考しても決められそうにない魔性の毛だ。五番のアホ毛と取り替えてもらえば、毎日家で弄り放題なのだが……どこかにアホ毛の交換技術を有する職人はいないものか。

 

「あんた、それマジで言ってる?」

「いえ、狼って」

 

 返答を中断する。鳴り響く風切り音の中で、微かだが人の足音を拾ったからだ。

 

「きゃあ!」

 

 足音の主はすぐそこにいて、動作(アクション)を起こした。それによって状況が動く。

 

「っ!」

 

 足音に気づいていなかった二番が肩に手を掛けられ、驚いた拍子に持っていた(テスト)を手放してしまったのだ。

 当然、強風の吹く屋上でそんなことをすれば、テストは宙に舞う。

 数は五枚。彼方へと消えてしまう前に回収できるかは判らない。だが判断を下すよりも先に、私の体は動いていた。

 テストが舞った方向にいた二番の脇を最小限の動作で躱すように抜けて、散らばってしまった五枚のうち、一枚目を掴む。十二点、外れ。

 次に近かった一枚を一旦放置し、最も高く舞い上がっていた一枚を、跳躍して人差し指と中指の間で挟んだ。文字通り紙一重でのキャッチだったが、点数は二十。これも外れだ。

 片足で着地して、空いた片足と腕を前へと伸ばす。三枚目も確保。三十二点、また外れ。

 四枚目は、タイル(スレスレ)を滑るように動いていた為、(ひざまず)きつつ上から押さえつけた。八点、今度こそ当たり。ではあるが――。

 

「え、ちょっと!?危ないよ!」

 

 ――狙うは大当たりだ。

 囲壁(パラペット)に風で押し付けられていた、最後の一枚目掛けて迷うことなく駆ける……が、この手が届く前に紙は宙に舞った。

 

「ちょっ、嘘でしょ?!」

 

 二番の驚きに満ちた声を背にしながら、勢いをそのままにパラペットを飛び越える。

 

『七海!』

 

 当然、その先には飛ぶ前と同じ高度の床があるわけではないので、投げ出すように飛んだ我が身は、すぐにでも落下を始めるだろう。

 そうなる前に、私は五枚目を掴むことに成功した。

 

「よかった」

 

 姉達の中では、最も勉強に意欲があるのが五番だ。そんな彼女なら、このテストを有効活用してくれる可能性が高い――そう考えて、大当たりという表現を用いたのだった。

 『落ちる』というより、私にとっては『引っ張られる』ような感覚を受けながら、着地の瞬間を待つ。

 

「っと」

 

 難なく綺麗な着地に成功。無論、飛び降りたの先は地上の地面ではなく、一階分下にあったルーフバルコニーだったからこその着地だ。

 これ以上、ここにいても良いことはないと判断して、バルコニーから屋上へと直接繋がっている階段を上る。

 

「なにやっているんですか?二人とも」

『え?』

 

 パラペットに手を掛けていた姉二名は、私に呼ばれると目を見開きながらこちらを向いた。

 

「そんな幽霊でも見たような顔っぷ!?」

 

 二番が唐突に突進してきたので当然のように避けようと試みたのだが、先程の着地で足を痛めてしまっていたのか、鋭い疼痛(とうつう)で動きが止まり捕まってしまう。

 

「よかった!よかった!よかった……!」

 

 全然よくない。胸で窒息しそうだ。

 

「むー!むーっ!」

 

 私の意識が失われるまで、まだ少しの猶予はあるが早めに主張(アピール)しておく。

 

「二乃。離さないとやばいかも」

「え」

 

 一番の呼び掛けで、ようやく開放された。

 

「ぷはあっ!……抱きしめるなら、もう少し私が苦しまない形でやってくれませんか?」

「それなら、私たちのことも心配させないで欲しいんだけど?」

 

 おっと、これは形勢不利だ。話題を逸らすのが最適解(ベスト)か。

 

「……そういえば、二乃姉達は最近転校してきたばかりでしたね。なら、心配をかけたのにも納得です」

 

 言外に心配かけてごめんなさいと込めてみたが、伝わったかは不明だ。

 

「まさか、七海が跳んだところにも屋上があるなんてね」

「屋上でも間違ってはいませんが、ルーフバルコニーですね。正確には」

 

 大して意味のない注釈と共に視線を逸らすが、二番は態々私の視界に入るように回り込んでくる。

 

「あそこに階段があるのに、気付かなかったんですか?」

 

 少し呆れるような声音で、流れをこちらに引き寄せようと試みるが……。

 

「あはは、さっきは必死だったから、気付かなかったよ」

「うん、気付かなかった。誰かさんがあんな紙切れの為に身を投げ出すなんて、思ってもいなかったもの」

 

 一番はともかく、二番に効いた様子はない。苦し紛れの発言で引いてくれるような相手じゃないか。

 

「……取り敢えず、ここは風が強くて話すのに向きません。場所を変えませんか?」

 

 ならば、ここは逃げに徹するとしよう。

 

「そうね。話しは家でじっくり……ね?一花」

 

 呼びかけに反応して、一番もこちらに近づいてきた。

 

「あの……これは?」

『逃げないように捕まえたの』

 

 両腕に抱きつかれ、暑苦しくて仕方がない。

 

「これじゃあ、歩きにくいんですが?」

『…………』

承諾しました(オーケー)。行きましょう」

 

 無言の要求を呑んで、少しでも早くこの状態から開放される為にも歩き出す。

 

「あの、扉を開けられないので、どちらか開けてもらえます?」

 

 一瞬静寂が訪れたが、二番がドアノブに手をかけてくれる。

 

「な、なにこれ。開かないじゃない」

 

 無理やりあけようと力を込めている。ここで扉を壊されでもしたら面倒だ。

 

「どうやら鍵を閉められてしまったようですね。屋上を確認せずに閉めるなんて、教員の誰かが生徒に頼んだのかもしれません」

 

 二重の意味で適当な推理をして――

 

「ルーフバルコニーの方にも扉がありますし、そちらも確認しましょう」

 

 ――続けざまに別の糸口(アプローチ)を提案して破壊活動をやめさせる。

 

「こっちもダメみたい。もしかしなくても私たち、閉じ込められちゃった……?」

 

 今度は一番が確認してくれたが、結果は同じ。

 

「屋上に閉じ込められるという表現は、果たして適切なんでしょうかねぇ……」

 

 不安や焦燥を覗かせる姉二人を落ち着かせるように、故意に暢気な発言をしてみた。

 

「なんで七海はそんなに落ち着いてるわけ?」

 

 概ね予想してたとおりの言葉が返ってきた。

 

「まあ、今ここは風を凌げますし、この扉も開けようと思えばいつでも開けられますので」

『え?』

「そして、ここから脱出するには私の腕を自由にしてもらう必要があるんですが……」

『……逃げない?』

「家で話をするなら逃げようがないと思いますよ。いつかは帰らなきゃいけないんですし」

『に・げ・な・い?』

「……逃げませんよ」

 

 家に帰るまでに似たような遣り取りを後何回繰り返すのか、予想しかけたが虚しくなってやめた。まぁ、何が言いたいのかと言うと、拘束されたままでは無駄な思考をしてしまうぐらいには、できることがないということだ。

 

「更に歩きにくくなったんですが?」

『いいから扉を開けて』

 

 腕は自由になったが、腹に縋りつかれた。これ以上抗議するのはやめよう。一刻も早く家に帰ることだけを考えるんだ。

 

「二乃姉がちょうど掴まってる部分の内ポケットに、ツールボックスが入っているので放して欲しいのですが。片方掴まってれば十分でしょう?」

「確かになんか硬いのがあるわね。私が取るから七海は動かないこと」

「はいはい」

 

 もうなんでもいいから早くしてくださいな。

 

「手が冷たいです。というか、内ポケットはワイシャツにあるので下のシャツまで捲らないでください」

「……うん、わかった」

「全然わかってないじゃありませんか!(まさぐ)らないでください!」

 

 まさか頭を(はた)くわけにもいかず、ついさっきやめようと決めた抗議をするほかない。

 

「一花姉まで捲らないで!しかも顔を突っ込もうとするなんて、変態みたいですよ!」

 

 この姉達は……もう!

 

「いやぁ、七海からいい香りがするからもっと嗅いでおこうと思って。ところで今の変態って部分、リピートしてもらっても?」

「本当に変態じゃないですか!」

「あんたら何やってんの。もう取ったわよ」

「元はと言えば二乃姉が……あぁ、もういいです」

 

 余計なことは考えない考えない……。

 

「開きました。お先にどうぞ……はいはい、一緒にね」

 

 投げかけられた質問に適当に答えながら無事開錠。そのまますぐにでも帰途につきたかったが、鍵を開けたままでは後から面倒が起きかねないと考え、施錠まできっちりと行った。

 

「後は紙を――付箋でいいか」

 

 念には念を。問題が起こってからでは遅い。同じことが繰り返されないためにも、注意書きを貼り付けておく。

 

「もう一つの出入り口のほうに寄っても?」

「う、うん」

 

 一番の返事は歯切れこそ悪かったが了承は得られたので、すぐに移動する。

 

「ホントに七海は気遣い上手ね。……あいつに協力するのも、ただの気遣い?」

「あいつ?」

 

 そういえば、一番は遅れて屋上にきたから何を話していたか知らないのだった。

 

「上杉先輩のことです」

「優等生くんのこと?」

「さっき必死に拾ってた紙切れも、あいつの作ったテストだったってわけ」

「テストってこの前の?」

「ええ、これ要ります?皺だらけになっちゃいましたが」

 

 流れで手渡したものの、こんな物は使い道に困るだけか。

 

「さっきのケンカ?もこれが原因?」

 

 何気ない質問を聞いて、私の体は自然と止まっていた。そして、止まった体の代わりと言わんばかりに口が呟く。

 

「ケンカ……?そっか私、喧嘩したんだ……」

 

 喧嘩――それは、私が経験したことのなかったことだ。交友関係が希薄なことが要因の一つだったが、昔は喧嘩をするだけの余力すらなかったというのが理由の大半を占めている。

 何やら両隣で会話が繰り広げられているが、それらは耳に留まることはなく帰宅した。

 

「それで、何を話すって言うんですか?」

 

 帰宅直後にどこで話すかを聞いてみたら、私か二番の部屋で話そうという案が出た。当然のように省かれている一番の部屋は今度掃除しておこうと心に決めつつ、最終的に私の部屋に集まることでまとまった。

 

「それは……あいつに協力するような真似をやめろって話よ」

「そもそも、私は上杉先輩に協力しているんでしょうか?」

 

 我ながらふざけた返しだ。だが、最終的に行き着く結論がわかりきっているこの会話、無駄にしないためにもお互いの気持ちの整理に利用しようと決めていた。

 

「は?」

「偶々リビングに置いてあったテストを見つけて、自分の勉強も兼ねて注釈を書き加えただけですよ。勝手にいじったことは反省しなければなりませんね。ごめんなさい」

「ふざけないで、五人分もいじったっていうの?同じ問題なのに」

「……意外にしっかりと目を通していますね。筆跡も真似ていたはずなんですが、どうやって気づいたんですか?」

「勝手なイメージだけど、あんなカラフルにペンを使い分けるようなタイプじゃないでしょ。あいつは」

「なるほど、今後の参考にします」

 

 単純に私が間抜けだっただけか。

 

「認めたってことでいいのね?」

「ええ。二乃姉達と同じ学校に通い、同学年の成績最優秀者。家庭教師の人選としては申し分ない相手なはずです」

 

 他人ではなく自分自身に確認させるように放った言葉。

 

「とはいえ、五人分を一人で受けもつのは大変だと思うので、協力は惜しまない考えです」

「……これ以上何を言ってもムダそうね。もういい、なら私にも考えがあるから」

 

 今決心がついたと言わんばかりの態度で部屋を出て行った二番だったが、私が関係してなくてもその『考え』は変わらなかっただろう。遅いか早いかの違いでしかない。

 

「会話に入ってこなかったところをみるに、一花姉の用件は違うようですね」

 

 さて、こっちの姉との話も手短に終わらせて夕食を作るとしますか。

 

「うん、一昨日のことなんだけど――」

 

 

 

 

「四葉姉。夕食ができたのでみんなを呼んできてもらえますか?」

「うん、わかった!」

 

 駆け出していく四番を尻目に、効率よく食器に盛り付けていく。いつもなら盛り付け方に拘るところだが、そうせずに考えるのはこの後の予定だ。

 先程の二番との会話で、改めて上杉先輩の協力をしようと決めた。私がどれだけの力になれるかは不明だが、協力する相手に隠しながら動くのはやめよう。ならば、明日にでも上杉先輩にこの件を持ち掛けるか。

 残る問題は、くしゃくしゃになったテスト。新しい紙に書き写さなければいけないが、すでに渡してしまった一番はともかく、二番と三番に対しては受け取ってもらえるかすら怪しいのが現状だ。つまり、優先すべきは四番と五番の分だ。今日中に仕上げておこう。

 

「七海。呼んできたよー」

「ありがとうございます――一花姉と二乃姉がいませんね」

 

 後者に関しては、今会うのが気まずいといった類の理由だろうが。前者がいないのは気にかかる。

 

「二乃は後で食べるって」

「一花姉は?」

「それがどこにもいなくて」

 

 眉を『へ』の字にしてこちらを見つめる四番からは、憂いの感情が強く伝わってくる。一番を捜索する前に、彼女の笑顔を取り戻すほうが先か。

 

「誰も家の外に出た様子はないので、心配しなくても大丈夫ですよ。私が探してきますね。先に食べててください」

「え……でも」

 

 しまった。四番相手にこの対応は悪手だったか。なら、別の対象に興味を移させることで対処しよう。

 

「ほら、五月姉が涎を垂らして大変なことになっています。四葉姉を律儀に待っているからでは?」

「うわっ、ほんとだ」

 

 笑顔を引き出せはしなかったが、憂いの帯びた表情を変えることには成功した。気を取られているうちに、ここから離れてしまおう。

 

「さて、どこにいるのやら」

 

 いただきますの声を背にしながら捜索を開始する。高級タワーマンションと言っても、そこまで広くはない。探す場所も大してないのだ。

 真っ先に向かうは、行方不明者本人の部屋。当然ここは四葉姉が探した場所だろうが、念のためもう一度確認する。

 

「一花姉。いますか?」

 

 ノックをし終えてから呼びかけるが返事はない。

 

「開けますよ」

 

 中で寝ている可能性も考慮して部屋に入る。

 

「いないか……にしては」

 

 汚い。雑誌やメイク道具など様々な物が散乱している部屋だが、最も散らばっているのは衣服だ……。

 

「はっ!気がついたら畳んでいた」

 

 今は部屋の主を探さなければ。だが、次に足を踏み入れたときには全てを片付けてやる。

 今日は決意をよく固める日だと思いながら部屋を後にした。二番の部屋にも寄っていこうかと考えたが、今は一人にしたほうがいいと判断して通り過ぎる。そのまま携帯を取りにいこうと、自室の扉を開けた先に彼女はいた。

 

「人のベッドで気持ちよさそうに寝ちゃって……」

 

 一番との話し合いは、私のほうから少々強引に切り上げたのだった。その時、彼女を置いていく形で部屋を出たので、このような事態が発生しているのだろう。

 

「制服のままだし」

 

 これでは皺だらけになってしまう。起こすか否か迷ったが、あまりにも気持ちよさそうに寝ているせいでそれも憚れた。となれば、明日の為にも替えの制服を用意しておかなければならない。

 携帯電話を手に取り、電子メールが来ていることを確認する。今までは家族相手にしか使わなかった機能だったが、初めて家族以外を相手にしたとあって、新鮮な気分が味わえていた。

 

「ふふっ」

 

 内容を見て、思わず笑みが零れた。なるべく私の思いが伝わるように文章を熟考(じゅっこう)してから返信をする。

 そう遠くない未来に、私とこのメールの主は出会う――いや、再開を果たすだろう。その時、私が最初に掛ける言葉はすでに決まっている。

 

「楽しみだなぁ」

 

 呟いたものの、いつまでもこの感情に浸っているわけにはいかない。今は他にやるべきことがある。まずは部屋を後にし――。

 

「そんなことない!」

 

 ――ようとしたところで、唐突に眠っていたはずの一番が叫んだ。視線を向ければ、先程まで幸せそうだった表情は苦悶のものへと変わっている。目は瞑ったままなので、ただの寝言ではあるようだが……。

 そのまま何も聞かなかったことにして部屋を出ようと試みたが、まるで呼び止めるかのごとく私の名前を呼ばれたので引き返すことに。

 

「大丈夫ですよ」

 

 過去に病院で、保健室で、時折目を覚ますと一番が私の手を大事そうに握っていたことがあった。それを模倣した形で、今回は私から握る。

 だが、私はこの人みたいに、起きるまで握り続けることはできそうにない。握り方だって、どんなに似せていようとしていても、きっと違うのだろう。そこに篭められている思いも同様にだ。

 

「大丈夫。きっと|貴女達五人なら、どんな困難でも乗り越えていけるから」

 

 『大丈夫。きっと私たち二人なら、どんな困難でも乗り越えられるよ』

 

 ……また一つ、私は嘘を重ねた。

 

 

 

 

「七海、どうだった?一花はいた?」

「ええ、部屋で寝てましたよ。随分と深い眠りに就いていたので、起こさないであげてください」

 

 私が階段を降りると同時に、こちらに駆け寄ってきた四番。反射的に返事をしたあとで不思議に思う。もう食事を終えたのかと。

 

「遅かったから心配したんだ」

 

 どうやら自室で文章を考えたりしているうちに、結構な時間を消費していたようだ。

 

「……あれ?でも、私がさっき見たときはいなかったけど」

「入れ違いになったのでは?」

 

 間違っても『誰の』部屋かは言わないでおく。本当は私の部屋で寝ていて、ベッドが空いていないなんて伝わったら『せっかくだから』とかいう私には到底納得できそうにない理由で彼女のベッドまで引っ張られるのが目に見えている。 

 ちなみに、一番のベッドが空いているという正論を振りかざそうとも、この人に通らないのは経験済みだ。

 

「そっかぁ、一花寝ちゃったんだ……」

「……どうかしました?」

 

 言葉尻で勢いが無くなり、不思議に思って尋ねたみたが、何だか嫌な予感がする。

 

「え、えっとぉ……お、お姉ちゃんと一緒に寝ない……?」

 

 到頭(とうとう)理由もつけずに誘ってきました。だが、今の彼女には理由以上に勢いがない。いつもなら有無を言わせぬ怪力で腕を引っ張ってくるのだが……。

 まぁいい、今なら軽く断るだけでも引いてくれそうだ。早速言葉にして――。

 

「構いませんよ」

 

 ――ないのですが。どうした私の口。

 

「ほ、ホント!?」

 

 ウソです。今のナシ。キャンセルで。

 急いで訂正しようとする心から、まるで乖離(かいり)したかのように望む言葉が出てこない。

 

「やったぁっ」

「いや、あの……はぁ」

 

 もういい。嬉々の感情を体中から滲み出している四番を見たらどうでもよくなった。

 少なからず、今日の一番と二番の密着よりかはマシなはずだ。そう思わないとやってられない。

 

「……この後やることがあるので、十時になってしまいますがいいですか?」

「うん!大丈夫!部屋で待ってるね」

 

 足に羽が生えている光景を幻視するほどに、ノリに乗ったスキップ歩きで去っていく四番。その羽で作った布団は、さぞ軽いことでしょう。

 くだらない想像をやめて、早いとこやることをやってしまおう。時間を指定した以上、遅れるわけにはいかない。

 食事や入浴などの日常習慣を済ませ、一番を起こさないように静かに自室に入る。そうして真っ先に手にしたのは、皺だらけになったテストだ。

 リビングへと再び戻り、白紙の紙に問題文や解答を書き写していく。筆跡、字間、消し跡、皺がつく前と何一つ変わらない状態の物へと複写する作業は、かなりの集中力を消耗することとなった。

 

「……ふん」

 

 作業終了と共に姿を現したのは二番。こちらを一瞥したが、すぐに何も見なかったかのように風呂場のほうへと去っていった。

 私が嫌われること自体は何の問題もないが、それによって他の姉妹に八つ当たりする展開だけは防がなければならない。何かしらの対策は考えておくべきか。

 もう一度自室へと戻り、薬を手にしてから四番の部屋に向かう。指定した時刻限り限りで気持ちが表に出たせいか、少々荒っぽいノックになってしまう。

 直後、中からも荒々しい物音が聞こえてきた。片付けでもしているのだろうか、大人しく待つこととする。そうして待つこと数十秒、勢いよく扉は開かれた。

 

「いらっしゃい!七海!」

「お邪魔します」

 

 限度一杯で来た私を、元気一杯で出迎えてくれた四番。これから寝ることを解っているのだろうか、この人は。

 

「寝る前に少しゲームしない?」

 

 なるほど、直ぐに寝る気なんてないからこそ、あの出迎え方だったわけか。

 

「その前にこれ、拾いましたよ。どうぞ」

「これって……私のテスト!」

 

 私が手渡したのは、先程複写したテストだ。前はリビングに起きっ放しにしたがため二番に全部取られてしまったが、今回は各人に手渡しすることで同じ失敗を防ぐ考えだ。

 そういえば、結局二番が全員分のテストを持っていた理由を聞き出せなかったと、今更ながらに気づく。

 

「よかったぁ。失くしちゃってどうしようかと思っていたんだ。ありがとうっ!」

「どういたしまして。十一時までには寝たいのでゲームは四十分だけですよ」

 

 拾った経緯を聞かれると面倒だ。話を進めることで追及されるのも回避する。

 

「えぇ?!四十分だけ!?急いで準備しないと」

 

 一体何時間やるつもりだったんだか。明日も学校なことを忘れているのではなかろうか。

 

「じゃじゃーん!今回やるのはコレ!」

 

 準備が終わるとすぐモニターに映し出されたタイトルは、様々な有名タイトルのキャラクターが使用できる対戦アクションゲームだった。前に三番とゲームをした時は協力型のゲームだったが、今回は違う。ネットワークに繋がっている為、オンラインで見知らぬ人とも遊べるが、四番が望んでいるのは私と一対一での対戦だろう。

 

「いつも通りの規定(ルール)でいいですよね?」

「うん。大丈夫だよ」

 

 私が確認したかったのはルールだけではない。同時に四番がどのぐらい集中しているかも見ておきたかった。先程までとは別人かと思うぐらいに、落ち着きを帯びた声音が返ってきて()()する。

 

「それじゃあ、最初の使用キャラを書きましょうか」

 

 四番と二人っきりでゲームをするのは、今回でちょうど百回目だ。そして、そのほとんどに共通していることがあった。それは――。

 

「負けないよ。七海」

 

 ――本気(マジ)でやっているということだ。

 

「…………」

 

 返事はしなかった、四番も気にした様子はない。

 ゲーム内で操作キャラクターを選択してから、先程紙に書いたものと間違っていないかをお互いに確認する。 

 キャラクターセレクトを終え、ステージ選択の画面に移ったところで、私はコインを右手の甲に乗せてから左手で覆い隠した。

 

「表」

 

 腕を突き出せば、何も言わなくても答えが返ってきた。これが当たっていればステージの選択権は四番に、外れていれば私になる。

 余談になるが、最初はじゃんけんで決めていたのだけれども、あまりにも私に勝率が偏ってしまう為に、こういった手法に変わった経緯がある。

 

「表です。当たったので四葉姉にステージ選択権がありますね。ステージ拒否は、これでお願いします」

 

 ゲーム上では、選べるステージ数が百を超えるが、私達二人で遊ぶ時は総数の十分の一にも満たない。更にその中から拒否されたステージも選択できなくしているので、最終的に選べるのは片手の指で数え切れるまでに減る。

 これらのルールは賞金などが出ている大会を参考にしているが、最初からこういった遊び方をしていたわけではない。私達が二人でゲーム遊び始めた頃は、協力ゲームなどを和気藹々とプレイしていたが、何回か遊んだ頃には四番が求めている遊び方がこういったものではないことに気がついた。それからしばらくして私が提案した遊び方というのが、今やっているような本格的なルールで対戦ゲームをプレイすることだった。決して、私が協力することが苦手だったから逃げたわけではない。ないったらないのだ。

 

『…………』

 

 張り詰めた空気が、空間を支配している。普段の私達からは到底考えられないような雰囲気なので、他の姉達がこの様子を目撃したら、何事かと喫驚(きっきょう)することとなるだろう。

 読み込み(ロード)が終わり、試合(マッチ)が始まる。今回選んだ互いのキャラクター相性は五分五分だったと記憶しているが、最近のゲームは調整(アップデート)されることが多い。このゲームも先週アップデートが適用されたばかりで、その内容を私は知らなかった。

 現代では、無知を罪とする見方が多数ある。そして、罪は露呈すれば咎められることがほとんどだ。

 

「……その攻撃、発生フレーム減ったんですね」

 

 返事はなかったが気にしない。今さっき、私の操作キャラクターが攻撃を食らったばかりで、態々聞かなくても気づいていたことだからだ。自分自身に意識させるために呟いた意味合いのほうが大きい。

 キャラクター相性や得手不得意、それに適したステージ選び、操作技術、駆け引きなど、このゲームで役に立つ要素を自分なりに最大限利用して、互いが目指す結果は唯一つ――。

 

「よしっ!まず一本!」

 

 ――勝利のみだ。

 

「……やりますね」

 

 ワンマッチが終わり、結果(リザルト)画面に表示された勝者は四番の操作キャラクターだった。しかし、三本先取制を採用しているので、すぐに次へと意識を切り替える。

 

「ステージ拒否は、これでお願いね」

 

 先程は操作キャラクターを先に決めたが、今度はステージが先だ。そして、ステージの拒否と選択をする立場も逆になっている。その後のキャラクターセレクトでは、直前のマッチで勝者だった四番からキャラクターを選ぶ流れだ。

 このように、負けた側が次のマッチで有利になりやすいルールになっている。故に、最終マッチにまで(もつ)れ込んで接戦となることも多い。単純に私達の実力が拮抗していることこそが最大の要因ではあるが。

 私にとって、勝負とは接戦であるほど面白い。それに加え(プラスし)て、勝利したほうが更に面白く感じられるのは、勝負事が好きな人には言うまでもないことだろう。

 

『絶対勝つ!』

 

 今という時間だけは、この気持ちを胸に全力を尽くす。これこそが、私と彼女が最も心を通わせる瞬間だろうから。

 

 

 

 

 最終マッチにまで縺れ込んだ戦いは、四番の勝利に終わった。敗因はいくつか思い当たったが、反省よりも先にすることがある。

 

『ありがとうございました』

 

 握手を交わす。これも毎回やっていることだ。調子(コンディション)が万全でなかったとしても、結果がどうだったとしても、私達は今という限られた時の中で力を尽くしたことには違いない。ならば、それに感謝することを忘れてはいけないと私は考える。

 

「時間的に、次をやるには無理がありますね。検討でもしますか?」

 

 昨今のゲームには、便利なことにリプレイ機能というものが搭載されていることも多い。それを用いて反省会をしようと提案してから、あることを思い出す。

 

「あっ!何だったら、この前やった上杉先輩のテストでも復習しませんか?」

 

 茶化すように、思いついたことをそのまま口に出しただけの提案。当然断られるだろうなという私の予想は、大きく外れることとなる。

 

「お、お願いできる……?」

「……はい。それでは、すぐに片付けちゃいましょうか」

 

 一瞬動揺したが、おくびにも出さずに了承する。

 屋上での一件。八点の――四番のテストは『当たり』と表現したのだが、五番のテスト同様『大当たり』に訂正したほうがいいのかもしれない。

 

「でも、復習って七海の解るところなの?」

「ご丁寧に書き加えられていた解説を見たので大丈夫です」

「あっ、ホントに書いてある。いつの間に……」

 

 さっき手渡したとき、名前と点数の部分にしか目を通さなかったなこの人。

 

「その解説を見て解答欄を埋めれば、充分復習になると思うので読み進めてみては?それでも理解できなかったら、私に聞いてください」

「う、うん。分かった……」

 

 首は縦に振られたものの、不安感が隠しきれていない。八点しか取れなかったテストを、いきなり復習しろと言われれば無理もないか。

 

「四葉姉は、家庭教師の話が出た時にどちらかといえば賛成派でしたよね?」

「そう……だね。五月のほうが賛成していたと思うんだけど」

 

 それがどうして、あんなにも敵視したかのような態度を取っているんだか。

 

「今の五月姉を見てると、家庭教師に……というより、上杉先輩に教えを乞うことに反対しているようですが」

「あはは……。あの二人、相性悪いのかな?」

 

 何か原因があるはずだと遠まわしに聞いてみたが、回答を持っていないのか、あるいは隠蔽しているのか、判断はできなかった。……まぁいい、それよりも今は四番のやる気が出るように努めなければ。

 

「それに比べて、四葉姉は相性良さそうですね。上杉先輩と」

「え゛っ……えぇ!?そ、そんなことない……よ?うん。多分っ!」

 

 随分と露骨な反応だ。面白いのでもう少し突いてみよう。

 

「そうでしょうか?四葉姉のテンションに付き合ってくれる人、中々いないと思いますが」

「……もしかして、私のテンションって面倒に感じる?」

 

 調子に乗って要らない発言をしてしまった。好奇心で動くと碌なことがないな。

 

「そんなことありませんよ。私は、四葉姉にいつも元気を貰っているので感謝しています」

 

 どの口が言うのだか。自分のことなのに、内心非難せずにはいられない。

 

「相性はさておき、上杉先輩は不安なんじゃないでしょうか?」

「不安?」

「ええ、あの人は成績こそ優秀と聞いていますが、教える経験が豊富ではないのだと思います。そんな中、いきなり教え子を五人も持って、そのほとんどが非協力的。これから上手く行くのかと、不安を感じていてもおかしくありません。もしかしたら、今も不安で眠れていないかも!」

「上杉さんが、そんなにも思い悩んでいたなんて……!」

 

 よくもまあ、これだけ適当を言えるものだ。今さっき非難したばかりでなんだが、今度は関心してしまう。

 

「こんな現状の中、誰か一人でもテストを復習してきてくれてたら、上杉先輩すっごく安心するだろうなぁ」

 

 適当なことは確かだが、的は得ているだろう。さすがに、今も眠れていないというのは大袈裟だと信じたい。

 

「そうだよね……上杉さんを安心させなきゃ!私頑張る!」

 

 やる気が出たなら何より。上杉先輩と四番の関係性は多少気になったが、私にとって重要なのは利用価値があるかどうかだ。今回のように行動を制御(コントロール)するのに役立つというのなら、詳細など知らずとも問題はない。

 早速テストと睨めっこを始めた四番を、少し離れた位置から見守る。

 

「な、七海。早速聞いても……いい?」

「はい。どの問題でしょうか?」

 

 遠慮がちな姉の不安感が増さないよう、平静を帯びた声音で答える。

 すぐに指差された箇所は、一問目だった。……これは、二十五問全てに質問される可能性も考慮しておいたほうがよさそうだ。いや待て、二問は正解していたから二十三問かもしれない。……大して変わってないな。

 

「えっと、解説は読んだんですよね?」

 

 すぐに首が縦に振られる。なら一体何を聞きたいというんだ。自分で書いておいてなんだが、相当わかりやすく解説は書いたし、上杉先輩の筆跡を真似したとはいえ、元の字自体が綺麗だったので読みにくいなんてこともないはず。

 

「これ、なんて読むのかなって」

「……陶晴賢(すえはるかた)ですね。私も初めて見たときは、どう読むか分かりませんでした」

 

 そういえば、振り仮名(ルビ)は振っていなかった。私の配慮が足りないことは確かだが、それ以上に私の学力と四番の学力の違いによって生じる常識のずれを把握出来ていないことが大きい。すべての漢字にルビを振るわけにもいかないし、難しい漢字だけに振れと言われても()()()区別がつけられないのだ。調べることも可能ではあるが、それでは非効率がすぎる。

 

「ありがとう!七海」

「どういたしまして」

 

 満点をあげたくなる笑顔でお礼を言われたが、それよりも今は、次のテストで満点に近づけるように頑張って欲しいものだ。

 

「それでー……こっちも聞いていい?」

 

 ……あぁ、教えるって難しいな。次は、一体どんな質問がくるのか想像もつかない。上杉先輩は、これを五人同時にか……。とても私にはできそうにないと、四番に気付かれないよう、静かに息を吐いた。

 

 

 

 

「終わったー!」

「お疲れ様です」

 

 本当に疲れた、私が。最初から最後まで多種多様な質問の嵐で、十数分あれば終わるかと思っていたの……に?

 

「って、時間!……ちょうど四十分……十一時の」

「あはは……。ごめんね、付き合ってもらっちゃって」

 

 アラームをセットし忘れた私の落ち度だ。普段の四番は就寝が早いので、こんな夜遅くまで起きているだけでもつらいはず……なんだけど。

 

「お気になさらず。それよりも四葉姉、全然眠くなさそうですね」

「え゛っ……そ、そんなことないよー?スッゴク眠くて、今すぐにでも夢へと旅立っちゃうかも!」

 

 目一杯見開きながら言われても、説得力の欠片もない。

 

「私が来る直前まで寝てましたね?」

「はぃ。ごめんなさい」

 

 ノックした時に聞こえてきた物音は、飛び起きたからだったわけだ。

 

「別に責めてはいませんよ。ただ、無理してまで私に合わせた理由は気になります」

「それは……えっと、その」

 

 それこそ無理してまで聞くことでもないか。

 

「まぁ、いいです。明日も学校ですし、早く寝ましょうか」

 

 濡れた薄い紙(ウェットティッシュ)で手を拭いてから先にベッドに入る。私と偶に寝るからか、一人で寝るには少し大きいサイズになっているベッドの奥側へと体を寄せて、四番を手招く。

 

「っ!七海!?」

 

 ゆっくりと近づいてきた彼女の手をとり、一気に引っ張る。ちんたらしていたら明日になってしまう。

 

「眠くないかもしれませんが、目は瞑ってください」

 

 間違っても抱き枕にされないよう、手と手は繋いだままにしておく。

 

「そういえば、四葉姉に報告しておくことがありました」

 

 どうせ、私も四番もすぐには眠れないだろうし話題を振ることにした。

 

「え?」

 

 握った手の力が強くなる。そんなに警戒しなくても、大したことではないのに。

 

「私、上杉先輩の家庭教師業務を手伝うことにします」

 

 報告はあくまでもついで、宣誓の意味合いのほうが大きい。

 

「どうして?」

「単純に五人一気に受け持つのは、負担が大きいと思ったからです」

 

 現時点じゃ五人も参加しないと思うが、余計なことは口にしない。

 

「七海が……」

「はい?」

 

 不自然に会話が途切れたので、疑問に思い目を開く。

 

「寝てるし……」

 

 今さっき布団に入ったばかりなんだけどなぁ。私が話題を振った時には、すでに寝ていたのだろうか。

 

「はぁ……」

 

 溜め息を吐かずにはいられない。何故ならば、私の手が痛いほどに強く握られているからだ。話題を振った瞬間から徐々に強くなってきていたのだが、もう無視(スルー)できそうにない。そして――。

 

「似合いませんよ。その表情は」

 

 ――苦しそうな彼女の表情を見ていると私の胸が締め付けられるようで、手の痛み以上に苦しくて仕様がないのだ。

 悪夢でも見ているのだろうか。まさか夢の中に介入できるはずもなく、対処法は思い浮かばない。

 こういった時、今は亡き母ならどうしたのだろうか。母親の代わりになど成れるはずもないが、何らかの糸口(ヒント)を得る為に古びた記憶を探る。

 しかし、どの記憶も靄がかかったようで顔すらも曖昧だ。姉達の中なら、最も似ているのは誰なのだろうか。

 

「あっ」

 

 そこまで考えて、今日私の部屋で一番に似たようなことをしたのを思い出した。

 空いていた片手も繋いでいた手に重ね、優しく包み込む。

 

「大丈夫。きっと貴女達五人なら――」

「――どうして、七海が生きているの?」

「ッ!?」

 

 心臓が停まったのかと錯覚するほどに驚いた。

 ……残念ながら、四番の寝言に対する答えを私は持っていない。なんだったら、私のほうが教えて欲しいとさえ思う。

 

「どうして、私なんでしょうね……」

 

 意味などないと分かっていても考えてしまう、何故私が生き残ったのかと。

 何度考えても答えになんて辿り着けない。そもそも答えが存在するのかさえ分からないのだから。それでも思考を放棄することをしないでいるのは、この先後悔することになった時の言い訳の為でしかないのだろう。

 四番に――中野四葉にとって、中野七海という存在は罪そのものなのだ。ただ視界に入れるだけで、声を聞くだけで、思い出すだけで、罪悪感が彼女を襲う。

 無論、私自身は四番のことを恨んではいないが、どう接するのが正解なのかは日々悩んでいた。私が人知れずくたばってさえいれば、四番がこんなにも苦しむことはなかっただろうに。

 だが、もう遅い。再会して――いいや、私の生存が四番に知られた時点で、死ぬ機会を逃してしまったのだから。

 

「うぅ……」

 

 なんだか、さっきよりも四番の表情が苦悶に染まっている。より恐ろしい悪夢を見ているのかと思ったが違う、いつの間にか力を込めていた私の手が原因だった。

 

「あっ、ごめんなさい」

 

 反射的に謝ったが、届いたかは不明である。それと同時に手を離そうと試みても、四番の方が離してくれなかった。

 結局、私の手は強く握られたままだ。このままじゃ痛みで眠ることさえ叶いそうにないが、もうそれでも構わないと諦めることにした。四番の表情自体は、少しはマシになったので私が我慢すればいいだけの話。

 この痛みは……そう、私への罰だと思えばいい。罰に対して良いイメージを持つ人は少ないだろうが、罪を背負って下ろすことのできなくなった人間にとって、時に罰は救いになりうる。

 

「違うよ……違うんだよ」

 

 何が違うと言うのだろうか。この時の私には、全くもって分からなかった。生き残った理由も、罰だと思い込んでいた『それ』の正体も、本当は凄く簡単な答えがあるというのに。

 

 

 

 

「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」

 

 一定の間隔(リズム)で荒い呼吸を繰り返す。意識するのは、吸うときではなく吐くとき。多くの息を吐いた分だけ、意識せずとも体が勝手に吸ってくれる。

 そうして、雑念を振り払うかのごとく疾走する私の姿が早朝の郊外にあった。求めるのは速さ(記録)であり、その為に必要なことだけを意識する。

 四番との粒子の交じり合いは、早朝になってようやく終わった。私の手より、一晩中力を込めていた四番の手のほうが心配だ。

 

「って、違う!」

 

 思わず叫んでしまった。周りに人は見当たらなかったが、少しだけ頬が熱くなる。まぁ、全身が暖まっているので誤差だということにしておこう。……って、この言い訳じみた思考も要らない。

 姿勢を最適化し、呼吸と鼓動をリズムよく刻むように心掛け――。

 

「お話を伺ってもよろしいでしょうか?」

 

 ――たかったんだけどなぁ……。曲がり角で待ち伏せしていたのか、唐突に姿を現した二十代後半と思われる女性に声をかけられた。

 

「すみません。今、急いでいますので」

 

 態々言わなくても分かることを強調して言う。何の効果も表れないと、これまた分かっていながら。

 

「この前の件、考えてくれましたか?」

 

 文脈など無かったかのように進む会話。これではキャッチボールになっていないどころか、ドッヂボールですらない。互いに相手の投げたボールを避けながらも、懐から出したボールを投げている感覚だ。しかも、投げたボールは地面に転がったままで。

 

「…………」

 

 一度断りを入れたので無言を貫く方向性にシフトし(切り替え)て、今は記録(タイム)を出すことに力を注ぐ。

 

「私と組みましょうよ。あなたの体験談を本にすれば間違いなく売れます」

 

 私の過去なんて不幸自慢にすらなりはしない。ただただ私の愚かさを世間へ晒すだけに終わるだろう。

 

「ビジュアルだっていいのだから芸能界でだってやっていけますよ」

 

 友人の一人すらいないのに芸能界でやっていけるとはとても思えない。

 

「だから私と組みましょうよ?ね?」

 

 それが一番だと言わんばかりの口調で、同じ言葉を繰り返す。このような形で、この女性の勧誘は過去何度も行われてきたが、いつも『あなたならあなたなら』と、私の可能性のことばかりを主張してくる。例え、芸能界や出版に興味がある人物でも、このような勧誘方法では成功するとは思えない。自身や所属会社の実績、メリットなどをアピールするほうが効果的だと思うのだが、それは私が素人だからだろうか。

 

「ぜぇっ……!ぜぇっ……!ぜぇっ……!」

 

 女性が私と並走し始めて、まだ一分も経っていなかったが早くも呼吸が乱れている。やがて並走は追走へと変わったが、それでも諦めてはくれなさそうだった。何故ここまで私に執着するのか、直接聞いたわけではないが想像はできる。

 きっと、それは私が姉達に幸せな未来を歩んでいって欲しいと望む、身勝手な押し付けとなんら変わらないのかもしれない。他者に可能性を感じ、未来を(想像す)れば、他者の瞳を鏡にするかのように、自身の未来も想像しやすいからだ。尤も、瞳に反射させて視えた光景など、未来のほんの一部でしかない。想像した未来に至るまでの道のりは、平坦でないことだけは確かだろう。

 

「…………」

 

 到頭、息切れの音すら私の耳に届かなくなった。だが、足音だけはまだ辛うじて拾える。いい加減楽にさせてあげよう。

 走り始めてから、ほとんど変化させていなかったペースをここにきて一段上げる。すると、すぐに振り払うことに成功して、女性の姿は見えなくなった。

 道中、何人か私と同じように走る人とすれ違ったが、目線を合わせることもせずに駆け抜ける。前だけを見て、目を背けたい過去から逃げるように。

 人生は選択の連続である。私は、今日という日の朝も様々な選択をした。それは、四番を一人にして家を後にしたこと。女性を振り払ったこと。すれ違った人物に目を合わせず、よく姿を確認しなかったことなど、挙げればきりがないが、それらの選択一つ一つが未来を形作る、重要な欠片(ピース)であることを私は理解していなかった。

 

 

 

 

 三十八分二十一秒。それが、今回十kmを走り終えた私が出したタイムだった。途中、気が散るイベントがあったり、昨日屋上で感じた疼痛がまたこないかと警戒しながら走ったせいで自己ベストよりは幾分か遅い。それでも、一般的には決して遅くはないタイムだが、同じ日本人女子高生という括りでも三十分台前半の記録は存在する。それらを更新したいとまでは強く思わないが、同じ三十分台前半を目指している私にとって、残り四分弱は余りにも遠く感じた。

 『がっかり』或いは『しょんぼり』。そんな気分で帰宅した私は、今日も今日とて姉達に捕まる前に家を出ようと行動する。

 

「居ない……」

 

 家を出る前に着替えや登校の準備をする為、自室に入ったときは昨日と変わらず一番が私のベッドで寝ていたはずなのだが……シャワーでも浴びているのだろうか。私もこれから浴びようと思っていたので、なんとか鉢合わせないようにできないかと策を練りながら浴室に向かったが、予想は外れて無人だった。

 

「まぁ……いっか」

 

 今は、一番のことよりシャワーだ。さすがに多量の汗を掻いたまま登校したくはなかったし、今の気分も一緒に流してしまおうという考えだった。

 滴る水の音を耳にしながら、家族のことを想う。といっても、今回は姉達のことではなく父親のことだ。

 あの人と顔を合わせる機会は、同じ家に住まう家族とは思えない程に少ない。帰宅時間は夜遅く、朝は早くに出て行く、そもそも帰宅そのものをしない日も珍しくはなかった。

 現在、こうやって綺麗な水で体を洗い流せるのも、私達姉妹が学校に通えているのも父のおかげだ。しかし、私は与えてもらうばかりで、父に何一つ恩を返すことができていない。

 この生活は、当たり前だと思ってはいけない。当たり前だと思っていた日常が、ある日唐突に終わるのを私は身を持って体験している。それでも愚かな私は、忘れそうになってしまう。だから戒めるのだ。己の体に刻まれた傷を見ることによって。

 

 『嫌っ!離して!』

 『……がぁ”っ”!ぁ”……な……ぜ』

 

 体が熱かった。碌な言葉も発することができず、目を見開きながら手を伸ばすことしか出来なかったあの日のように……?

 

「って、あっつ!」

 

 急上昇したシャワーの温度に遅れてリアクションする。浴室の外からも温度の調整ができる為、誰かが変えたのだろう。問題は誰が変えたかだ。

 急いで浴室を出ようとしたが、その前に温度を変えた犯人が先に戸を開けた。

 

「おはようございます。五月姉」

「おはようございます。七海。ごめんなさい、中に入っていたのに気付きませんでした」

「いえ、お気になさらず」

 

 口調こそ丁寧な挨拶をしたが、態度はあまりいいものとはいえない軽い会釈をして通り過ぎ――。

 

「待ってください」

 

 ――ようとしたところで腕を掴まれる。

 

「二乃と喧嘩したそうですね」

 

 急にシャワーの温度が上がった時は一体誰がやったのかと少し頭に来たが、姉達の中で最も()()な人物だった為、すんなり通してくれそうだから良かったと思っていた。しかし、今日の五番は面倒そうだ。

 

「えぇ、軽い言い争い程度ですが」

 

 深刻な事態ではないと言外に込める為、即答する。

 

「二乃、落ち込んでいましたよ」

「何かしらの補い(フォロー)は考えているので、ご心配なさらず。二乃姉が他のみんなに当たることにはならないよう配慮します」

 

 努めて平静を装う。この会話において重要なのは、私の感情を表に出すことでもなければ、二番の心配をすることでもない。五番に安心してもらうことが何よりも大切なのだ。

 

「そうではなくて――」

「――そんなことよりも、この前上杉先輩が出したテストを拾いました。解説なども書き加えられていたので、復習に使ってみては?リビングの卓上に置いておくので、今度は無くさないでくださいね」

「そんなことって……」

 

 どうやら、言選を誤ったらしい。しかも、発言の頭から誤ったが故に、後続の発言に意識が向いてもいない。もし、今の発言を自己採点するとしたら零点だ。

 

「……ごめんなさい。家族の問題なのに、投げ遣りな発言をしたら心配になりますよね」

 

 誤りは謝りで修正する。傷口が広がる前に、迅速な対処を行うことが私の処世術だ。

 

「責めているわけではないんです。ただ……」

 

 沈黙が生まれる。

 途切れた言葉の先は、大方の予想が付く。それは、ただ心配なだけなのだろう。心配だけど、具体的な案は思い付かない。心配心配と繰り返し伝えたところで、事態は一向に好転しないのだから。

 

「ただ――」

 

 代わりに、私が言葉を引き継ぐ。

 

「――心配しすぎなんですよ。二乃姉も、五月姉も……そして、私も」

 

 無論、他の姉や……或いは父だって。みんな、心配するばかりで動けないのだ。良い案が思い付かない。時間が取れない。感情が邪魔をする。理由は様々だろうが、こんな心配だらけで思うように動けない関係性も、家族のよくある形なのだろう。

 でも、少なからず明日生存しているかどうかを不安に思う生活よりかは余程良い。

 

「七海も……ですか?」

「はい、私もです。何が心配か分かりますか?」

 

 唸りのお時間(シンキングタイム)に入った五番には申し訳ないが、このままでは私の体が冷めてしまう。答え合わせは、また今度にさせてもらおう。

 

「答えが出たら教えてくださいね」

 

 そう言い残して浴室を後にした私は、五番の腹の足しになりそうな物を調理してから登校した。

 

「おはようございます」

 

 教室に入ると同時に、同じ一室で学ぶ彼ら彼女ら(クラスメート)に挨拶を行う。お世辞にも交流値(コミュニケーション能力)が高いとは言えない私だが、挨拶と返事さえしっかり行えば、なんとかやっていけると考えている。

 

『おはよう――』

 

 まだ教室には、総席数の半分すら生徒は集まっていなかったが、幾人かの生徒が挨拶を返してくれる。

 

()()さん』

 

 挨拶までは、普段となんら変わりのない定形句であったが、後に続いた私の呼称は、クラスメートの口からは聞き慣れないものだった。

 内心不審に思ってはいたが、(おくび)にも出さずに会釈をしてから席に付く。

 小さく息を吐いてから思考する内容は、当然私の呼称についてだ。

 昨日までは、間違いなくクラスメートからは『中野さん』と称されていた。それがどうして今日になって変化したのか。

 

「おはよう」

「おはー」

 

 女子生徒一人が入室してきた。彼女は、特定の生徒にのみ挨拶を投げ掛けるが、挨拶されれば誰が相手でも返す性質(タイプ)だ。その習性を利用して、今回は情報収集させてもらうこととしよう。

 

「おはようございます」

「おはよう。七海さん」

 

 彼女が私の席近くに来た時、こちらから挨拶を投げ掛ける。するとすぐに返事が返ってきた。ご丁寧に名前(ファーストネーム)付きでだ。

 明らかにおかしい。私からは彼女の名を呼んではいないのに、あちらだけが名前を呼んでくる。まるで、私の名前を呼ぶ行為が決まりごとかのように。

 彼女が入室してきて最初に行った挨拶では、相手方の名は呼んでいなかった。勿論、普段の挨拶でも同様だったと記憶している。

 その後、他の生徒と挨拶するたびに名前を呼ばれ続け、愈々(いよいよ)気味悪くなってきた。

 自身の肩を抱きしめたくなる衝動を抑えながらも、更に時間は経過していく。席が生徒で大方埋まったあたりで、教師が入ってきた。

 挨拶を終えてから、点呼が始まる。つまり、名前が呼ばれるということだ……まさか!

 気づいた時には、呼ばれる寸前だった。思わず生唾を飲み込む。

 

「中野さん」

 

 いつも通りの苗字呼びでした。

 

「中野さん?……中野七海さん!」

「あっ、はい!」

 

 返事を忘れたが故に、結局姓と名(フルネーム)で呼ばれることに。

 クラスメート達から、小さく笑い声が漏れていた。肩を抱き締める動作こそしなかったが、竦めることにはなった朝だった。

 

 

 

 

 昼休み。私は、上杉先輩を探していた。正式にと表現するのかを適切かどうか疑問の余地があるが、家庭教師業務の手伝いを申し出る為だ。

 しかし、中々見つからない。数時間前に呼び出しのメールは送っておいたが音沙汰なし。いっそのこと、そのままメールで用件を済ましてしまおうとも考えたが、こういったことは直接伝えたほうが良い結果をもたらす(プラスに働く)だろう。それに加えて、出来うる限り早期に伝えるのが最良(ベスト)だ。

 食堂、教室、図書室。その他様々な所を探しても成果は出ない。ならばと外に出てみたら、唐突に私の足下へとバスケットボールが転がってきた。

 

「放ってくんないー?」

 

 女子生徒が一人こちらに向かって手を挙げ(ジェスチャーをし)たので、直ぐ様ボールを拾い上げ御注文通り()()こととする。

 目標までの距離は、バスケットコートで言えばハーフライン数歩手前ぐらいだ。

 下半身で充分に溜めを作り、地面から脚を離す。跳躍の最高到達点付近で手にしていたボールを放った。

 回転したボールは、放物線を描いてリングを通過する。それを確認した私は、目標から背を向けてその場を――。

 

「待って」

 

 ――去らせてはくれないようだ。いくら何でも、無言でシュートして背を向けるのは失礼が過ぎたか。

 

「ちょっと相手してよ。骨のある相手を探してたんだ」

 

 どうやら、遊び相手が欲しくて呼び止められたようだ。

 

「ごめんなさい。今、人を探しているので」

 

 当然断る。私の中での優先順位は、そう簡単には揺るがない。

 

「誰?」

「上杉先輩という方です。頭頂部で二つの髪が跳ねているのが特徴的な方なのですが」

「あー……あの人ね。それならさっき見かけたよ。そうだな……私と一対一(1on1)してくれたら教えてあげる」

「……三本勝負でいいですか?」

 

 前言撤回。少し悩みはしたが、優先順位はすぐに入れ替わった。五番のことをちょろいと評していたが、私も大して変わりないのかもしれない。

 

「オーケー」

「準備するので、少々お待ちを」

 

 髪を一つに束ねながら、四番と勝負(ゲーム)する時と同様に集中力を高める。情報提供の条件に勝敗は関係なかったが、相手は真剣勝負がお望みらしい。

 軽く汗を流(ウォーミングアップを)しながら、対戦相手の様子を確認する。

 私と身長に差が無い少年風(ボーイッシュ)な彼女は、クラスメートではあるが交流したことはほとんどない。

 そんな彼女が、何故いきなり私に対して勝負を仕掛けてきたのか、それは深く考えずとも理解できる。

 

「お待たせしました。やりましょうか」

 

 校庭と同じ砂に白線が書かれた簡易コートに足を踏み入れた。ここは、体育館が他の部活に利用されてる日にバスケ部が練習場所としている場所だが、昼休みは体育館と違って事前の申請がなくても自由に利用可能だ。

 

「……いいね。楽しめそう」

 

 バスケットボールというスポーツを少人数で行う際、コート全体(オールコート)ではなく、その半分――ハーフコートを使用するのが一般的である。

 

「アンタから先でいいよ」

 

 彼女が言っているのは攻守のことだ。つまり、先攻を譲ってくれたことを意味する。

 地面で一回弾み(ワンバウンドを経て)、ボールが私の手に渡った。開始の合図だ。

 それと同時に、重心を低く構えながらも上半身はしっかりと起こしている守り(マーク)に付かれた。……簡単には勝たせてくれなさそうだ。

 私もドリブルを開始する。足元でボールを遊ばせながら揺さぶりをかけてみるが、前かがみになることも、変に力が入ることもなく自然体のままで隙はない。

 状況を打開する為、一瞬だけ後ろに重心を持っていき、そこから一気に切り込む(ドライブを仕掛ける)

 それに反応して、相手はお手本にしたいぐらいのステップを駆使して対処してくる。その後も切り返しや欺き(フェイント)など、いくつかの方法で仕掛け(アプローチし)てみたが抜くことはできなかった。

 しかし、それらは失敗に終わったわけではない。抜くことはできずとも、ゴールまでの距離を詰める事には成功したからだ。

 バスケットボールというスポーツは、相手を抜き去ること目的ではない。リングにボールを通過させることが目的なのだ。

 

「ちっ!」

 

 舌打ちが聞こえる。勢いを付けていた私が急停止をするところまでは良かった。しかし、その直後に再びボール持った私が、左足を軸にして後退する動きに対して反応が遅れたからこその舌打ちだろう。

 後退の勢いをそのままに跳躍する。体が後ろに流れたままではシュートの成功率は下がるが、先程のドリブルでゴールまでの距離を詰めたことにより、それなりの確率で入る。

 体勢を維持してボールを放つ。相手も跳躍のタイミングこそ私とほぼ同時だったが、距離が空いている為、ボールに手を伸ばしても届かないだろう――そう思っていた。

 

「だあ!」

 

 雄叫びをあげた彼女の指先が、僅かにではあるがボールに触れた。それによって弾道が逸れる。

 間違いなく外れると判断する前に、体がリバウンドをするためにゴール下へと向かう。

 着地は私の方が早かった。しかし、シュートの時は有利要素だった距離が不利に働く。先にゴール下へと到達した相手に妨害(スクリーンアウト)をかけられ、その後のリバウンド勝負にも敗北したのだった。

 

「ほい」

 

 ボールを取られたので攻守交代。今度は私からパスをするのが開始の合図な為、一度ボールが渡される。

 その時、相手と視線が交差する。随分と得意げな表情だ。これの意味することは……。

 

「…………」

「どうしたの?もしかして、作戦でも考えてる?」

「はい、その通りです」

 

 正直に答えると同時にパスを出す。

 

「それは楽しみ……だっ!」

 

 マークに付いたら、まずは私から見て左側に誘導するように構えた。すると、相手は私からボールを遠ざけるように行動するので、右手中心でドリブルしてくるだろう。

 学校生活での彼女は、左手を主に使用していたと記憶している。意図してそういう生活を送っていない限りは、左利きで間違いないだろう。態々、相手の得意なことをさせる道理はないのだ。

 しかし、ドリブルだけでバスケットボールは成り立ってはいない。パスする相手がいなくとも、放る先は他に存在する――そう、彼女はいきなりシュートを放つ体勢(モーション)に入ったのだ。

 それを見た私は、冷静に対処する。少しだけ距離を詰めて、相手の動きをよく観察した。結果、今の動作はフェイントだったようで、すぐに始まったドライブに付いていく。それは、私よりもキレのある動きだった。

 ここまでの動きを視るに、バスケットボールにおける技術は相手の方が上手だと結論付けていた。だからこそ、相手は得意な(プレー)に持ち込み易く、行い易いと考える。

 相手が急停止をした。反応こそできた私だが、バランスを崩しかける――ここまでは先程した私の攻撃と似た流れだ。違ったのは、相手が垂直に跳躍したことだった。

 私は、先程作戦を()()()はいたが、練りはしなかったのだ。より正確に表現するなら、細かな作戦を考える必要性を感じずに放棄した。

 何故なら、普通にプレーしていれば相手のほうから高さ勝負に持ち込んでくると踏んだからだ。

 無論、先程の私の攻撃で、高さでは勝てないことを理解している。だから、勝負するのは高さではない。速度で勝負するのだ。それも、走ったりする平面によるものではなく、跳躍による上昇速度で。

 

「なっ!?」

 

 驚愕の声が聞こえる。数瞬遅れて跳躍した私が、シュートを放つ前にボールを弾き落としたからだ。

 ルール上は身体の接触はないので反則(ファウル)にはならないが、審判がいればシュートモーション中にボールが放たれる前のブロックはファウルをとられやすい。しかし、今ここには審判がいないからこその選択だった。

 着地も先に完了した私は全力で駆ける。すると、ボールがコート外へと出る前になんとか回収することができた。これでまた攻守交代。

 

「どうぞ」

「……さっき考えていた作戦に見事にハマったってわけか」

 

 『見事に』ではなく、『勝手に』が正しいかもしれない。

 私のシュートをブロックした後の表情や、お互いにバスケットボールをプレーする姿が初見であることを加味すれば、得意なこと(高さ)で勝負してくるのも読みやすかった。

 敢えて緻密な作戦を立てなかったのは、意図した動きで誘導すれば悟られる可能性が高いと判断したからだ。

 そして、跳躍速度という特技を隠し持っていたが故に、開幕のシュートモーションを用いたフェイントにも余裕を持って対応していた、というわけである。

 

「…………」

「どうしたの?余所見なんかして、勝負はこれからでしょ。早くやろう」

 

 最後の部分には同意するが、勝負はすぐに終わらせるつもりだ。

 ボールを受け取り、私の攻撃が始まる。

 何の揺さぶりもかけずにドライブを仕掛けるが、当然それでは簡単に阻まれる。

 スリーポイントラインの内にすら入ることはできずに、到頭コートの隅にまで追い込まれた。だが、これでいい。ハーフコート側の隅に追い込まれたならともかく、ここはスリーポイントライン手前の隅――私の最も得意とする位置だからだ。

 ゴールリングは見ない。地面を見て()()()を確認する。そして、上から俯瞰した時にゴールからちょうど零度の角度となる位置で私は止まった。

 そこからゴールに対して体を向けず、地面を見たままシュートを放つ。軽くステップでもするかのような小さな跳躍から放ったのは、片手で弧を描く(フック)シュートだ。

 想定外だったのか、ブロックどころか跳躍することすらできずにボールの行方を眺めている相手を横目に、コートを出ようと歩き出す。直後、気持ちのいいネットとボールの摩擦音が聞こえてきた。

 

「ちょっ、ちょっと待ってよ!まだ勝負は終わってない!」

 

 敗者が付き纏ってきた。

 

「終わりですよ」

 

 返事こそしたが足は止めない。

 

「は?」

「私、言いましたよね。()()()()だって」

「……え?だから、三本勝負でしょ?」

「ええ、三本勝負です。三セット勝負ではありません」

「は……はあぁっ?!そんなの普通、攻守三回ずつって思うじゃん!私を騙したな!」

「勝手に勘違いしただけです」

「あ、わかった!あんた勝ち逃げする気でしょ!」

 

 大正解。これ以上やったら、私の負けは目に見えている。

 

「ちょ、ちょっと待ってってば……そうだ!人探していたんでしょ?えーっと、うえ、うえ、うえ……もと?」

「上杉先輩です」

 

 呼称すら曖昧……まさかこの人。

 

「そう!その人の居場所、決着付けないと教えてあげない」

「そもそも居場所なんて知らないのに、よくそんなことが言えますね」

「え”っ……なんでわかったの」

「ふっ……」

 

 居場所どころか、上杉先輩自体が誰なのかすら分かってなさそうだ。

 

「あっー!また騙したな!」

 

 騙したのはそっちだろう。それに今のは騙したわけではなく引っ掛(鎌をか)けただけだ。

 ちなみに今の遣り取りで重要なのは、疑問系ではなく責めるように発言したこと。これによって否定されにくい。

 

「ねぇ、騙したのは謝るから勝負しようよー」

 

 そもそも情報が欲しくて勝負したわけではない。誘ってきた時の表情が、四番の表情と似ていたから思わず承諾してしまっただけだ。そんな理由だったが故に自身のことをちょろいのかもしれないと疑っていた。

 そして、勝負を唐突に終わらせたのにも理由がある。

 

「この格好じゃ全力も出せないでしょう。今度時間を作るので、その時にやりましょう」

 

 今の今まで制服姿だったのだ。上はともかく下のスカートが問題で、動き難いだけならともかく、途中で校内の窓から見物人(ギャラリー)が出始めていた。私は下着を見られるぐらいなんとも思わないが、彼女の気持ちを考慮すれば早くに終わらせておくのが良いと判断した。

 

「ホント?!約束だからね!いつにする?放課後?」

 

 表情だけでなく、私への距離感も四番と似ている。正直面倒くさい。

 

「今日の放課後は先約があります」

「えー、誰よそいつ。私がキャンセルするように言うから教えて」

「誰かは分かりません」

「は?」

「手紙で屋上に呼び出されているんですよ」

「まさか告白?」

「さあ?」

「さあって……。誰が出したかもわからない手紙なのに律儀に従わなくてもいいんじゃない?というかこのご時勢に手紙って……」

「とにかく、他にも用事があるので時間が確保でき次第お伝えします。それまでお待ちいただけますか?」

「わかった。絶対だよ」

「あぁ、それと」

「ん?何さ?」

 

 片手を差し出す。どんな形であれ勝負をしたら行おうと決めている行為だ。

 

「握手です。対戦ありがとうございました」

「……嫌。次に決着をつけたときにしようよ」

 

 まさか拒否されるとは思っていなかった。私が約束を反故にすると怪しまれているのだろうか。

 

「分かりました。……昼休みが終わるまであまり時間は残されていませんし、私は更衣室で汗を拭おうかと思っています。貴女はどうしますか?」

「あー……私もそうしよっかな」

 

 すぐに更衣室へと辿り着き、早速タオルを取り出す。

 

「にしてはさ、アンタ気持ち悪くないわけ?」

「はい?」

 

 唐突な質問の意味が解らず首を傾げる。

 

「朝から色んな奴に名前で呼ばれてたじゃん。それを澄ました顔でスルーして、誰にも理由を聞きもしない。私があんなことされたら気味悪すぎてソッコー家に帰ってたかも」

 

 家に帰るのは度が過ぎているが、気味が悪かったのには同意だ。

 

「何か理由を存じているんですか?」

「まぁね」

「ただでは教えてくれないと」

「おっ、察しがいい。出来る限り早くに再戦したいからさ、そうなるように動いてほしいなって」

 

 やはり疑われているか。

 

「……正直、今の私では数戦すれば種が尽きて貴女相手には勝負にならなくなります。なので、練習する期間を経てから再戦したいというのが本音です」

「意外と負けず嫌いなんだ……。そういう理由ならいいよ、何とか我慢してみる。けど、やっぱり早い方が嬉しいな」

「ご理解感謝します。制汗剤、使いますか?」

「お、サンキュー」

 

 返事と同時に制汗剤を放る。

 

「言葉使いは堅苦しいくせに、こういう部分はラフだね。さっきのゴールも見ないフックシュートといい」

「別に誰に対してもこういった行動をするわけじゃありません。しても問題ない相手だと判断したまでです」

 

 シュートに関しては条件が揃わないといけないことは匂わせないでおく。駆け引きに使えるカードは曝すべきではない。

 

「ふーん……。あっ、いい匂い」

「そうですか、なら良かった。臭いがきついと隣の人が不憫ですから……ごめんなさい、これでは貴女が臭うかのように聞こえてしまいますね。飽くまで私の話です」

「いや、私はそういうの気にしないからいいけど……というか、アンタなら汗かいたままでも歓迎されると思うけど」

「そんなわけないでしょう」

「……アンタってさ、自分が人気なことに気づいてる?」

「友人の一人もいない私が人気者だとしたら、全員人気者になると思うのですが」

「あー、もういいわ。この話は終わり」

 

 要領を得ない会話だ。彼女――ではいい加減ややこしいので、バスケットボール女子を省略して『バス(じょ)』とでも呼ぶとしよう。とにかく、そのバス女を見ていてふと思った。もし私に姉妹がいなかったとしたら、バス女のような感じに育っていたかもしれないと。

 そうバス女に話したら『なんだぁ?!私に姉妹がいれば、この無駄にでかい胸もあったって言うのかー!』と、意味不明な叫びと共に私の胸を揉まれることになるのだが、それはまだ先のお話。

 

 

 

 

 放課後。私は二日連続で屋上に佇んでいた。

 昨日と違って風は大人しい。スカートが捲れて下着を見られる可能性もないなと、どうでもいいことを考えながら待っていると扉が開かれる。

 

「ごめん、待たせちゃったかな」

 

 現れたのは一人。今朝、教室で最初に私の名前を呼んだ男子生徒だった。

 

「それほど待っていませんのでお気になさらず」

「あはは……そっか……」

 

 現れてからここまで、彼は両の手を握って開く動作を繰り返している。緊張によるものだろうか。しかし、私には他に予定が控えている為、相手の気持ちを汲んで悠長に時間を浪費するわけにはいかないのだ。早々に話を進めさせてもらおう。

 

「それで、ご用件は」

「あーっと、それは……」

 

 また沈黙か。

 

「言い難いことでしたら、また後日でもよろしいですか?」

「あっ!いや、待ってくれ。今言うから」

 

 三分間だけ待ってやる……嘘だ、実際はそんなに待たない。

 

「中野七海さん。あなたのことが好きです!付き合ってください!」

 

 やはり告白か。入学して一、二ヶ月の間はされていたが、最近はなかった。何故今なのだろうか――そう疑問に思ったが何よりも優先すべきは返事の言葉だ。

 

「ごめんなさい。私は、誰かと付き合う気がありませんのでお断りします」

 

 お得意の嘘は混ぜない。何かを告白するという行為は、とても勇気のいることだから。その勇気に少しでも見合った言葉で返すことにしている。

 

「……やっぱり断られたかぁー」

「分かっていながらも行動したのですね」

「あー、それは……」

「差し支えなければ教えてくださいませんか?」

 

 渋る彼には悪いが、未来で役に立つ情報かもしれない。引き出せるだけ引き出しておこう。

 

「えーっと、先週のことなんだけど――」

 

 先週?何かあっただろうか。

 

「――放課後、お姉さん達が教室に来た日があったよね」

 

 おぅ。思い出させないで欲しい。あれは恥ずかしかった。

 

「その時、お姉さん達との遣り取りで見せた表情が、普段のクールなものと違って……こう、胸にきた?といいますか」

 

 要するに普段との違い(ギャップ)にときめいたわけか。なるほど、よーく分かった。姉達には教室に来ないよう釘を刺しておこう。

 

「ありがとうございます。参考になりました」

「いや、例を言われるほどのことじゃ」

「思いの丈を教えてくれたんです。感謝ぐらいは受け取ってください」

「あ、あぁ。……にしても恥ずかしいなぁ。明日から誰かにいじられたりするかも」

 

 こちらに顔を見られないよう、天を仰ぐような形で呟く彼を見て、私の口から自然と言葉が出た。

 

「堂々としていればいいんですよ」

「え?」

 

 上を向いていた顔が私を――前を向く。

 

「堂々としていればいいと言ったんです。自身の想いを打ち明けるなんて簡単にできることじゃありませんから。それも色々と下準備をしたのでしょう?」

「そんなことないよ。さっきも言ったとおり、衝動的に告白しただけ――」

「――嘘」

「え”っ」

「アプリのグループ会話で、クラスのみんなに私の名前を呼ぶよう誘導したんですよね?」

 

 ちなみに、そのグループに私は参加していない。学校生活が始まった最初の頃、私は忙しくてクラスメイトと碌に交流をしようとしなかったので誘われなかったらしい。

 

「な、なんで知って」

「クラスメイトから聞きました」

 

 バス女のことだ。更衣室を出た後、約束通り事の詳細を教えてくれた。

 

「し、知られたくなかった」

「私は、知れてよかったと思っています。だって、理由はどうであれ私がクラスに馴染めるような行動をしてくれたんですから」

 

 名前で呼ばれること自体を気味悪く思っていたわけではない。あくまで原因が分からなかったからだ。

 

「……ただ告白する時に名前で呼びやすいようにしたかっただけでも?」

「それはまぁ……随分と女々しい理由ですね」

「ごふっ!」

 

 あぁ、しまった。急所を抉る気は無かったのだが、つい。

 

「では、こういうのはいかがでしょうか?」

 

 彼は先程嘘をついた。ならば私も一つ、思ってもいないことを言葉に混ぜるとしよう。

 

「貴方のした告白は、これから胸を張って生きるに十分自信と成り得る経験だと思います。例え結果が失敗に終わっていても、その相手は私――中野七海なんですから」

 

 私は今どんな表情をしているだろうか、それは目の前の彼のみぞ知ることだろう。

 

「なんだそれ。めちゃくちゃな理屈だな。というか、そういうキャラだっけ?」

 

 そんなわけない。しかし、私に告白してきてくれた人達に少しでも誇れるような自分に成らなければとは考えている。

 

「さあ?どうでしょうね」

 

 知りたいことは知れた。もうここに留まる理由もない――そう思って歩き出したが、すぐに呼び止められる。

 

「七海さん!」

「……貴重品を投げないでください。落としたらどうするんですか?」

 

 投げ渡されたのは携帯端末。

 

「コントロールには自信あるんでね。それに、七海さんがあの程度の軌道でキャッチミスしないことぐらいは知ってるよ」

 

 画面に映されていたのは、バーコードの発展型(QRコード)

 それを自らの携帯端末を懐から取り出して読み込んだ。すると、グループ会話への招待状が届く。

 

「っと、落としたらどうすんの?」

 

 渡された時の軌道を真似て投げ返すと、苦笑と共に質問が返ってきた。

 

「それぐらいは難なく捕ってください。正捕手、狙っているんでしょう?」

 

 偶々耳にしていた情報を利用して返答と言い訳をした。

 

「では、私はこれにて失礼しますね」

 

 屋上を後にした直後に、グループ会話へと参加する。

 

「よろしくお願いします」

 

 呟いた言葉と同様の意味を表すスタンプを投稿すれば、すぐに多数の返信がきた。

 そのほとんどは挨拶だったが、一つだけ質問が混じっていたので答えることとする。

 内容は、投稿したスタンプの入手手段が知りたいとのことだったので、自作品だと返すと一気にグループ内の会話が盛り上がって行く。

 正直、成り行き(ノリ)で入ったグループだったが、上手くやっていけそうだと感じて密かに胸を撫で下ろした。

 だからだろうか、普段ならすぐに気付くような熱を帯びた視線が、背後から突き刺さっていることに気付かなかったのは。

 

 

 

 

「見つけました」

「…………」

 

 無視。

 

「もしもーし、聞こえていますか?」

「…………」

 

 帰り道にて、偶々上杉先輩を見つけたので声を掛けたのだが、話しかけても反応が無い。

 

「先輩?……っ!」

 

 唐突に私にもたれ掛かるよう倒れてきたので、驚きながらもなんとか支えた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 距離が近くなったことによって、彼の呼吸音が聞こえてくるが随分と苦しそうだ。

 

「……このままでいいです。付いてきてください」

「あ、あぁ……」

 

 大量の発汗。鈍い応答。ふらついた体。それらの症状から考えるに熱中症だろうか。とにかく、少しでも涼しい場所へと移動しなければ。

 

「ここに横たわってください」

 

 周りに建物もなかったので、日陰で我慢してもらうことにした。ベンチにタオルを敷いて、枕代わりにした応急ベッドに寝かせる。

 

「スポーツドリンクです。自分で飲めますか?」

 

 私の飲みかけで悪いがこれしか持ち合わせていない、また我慢してもらうとしよう。

 もしこれで飲めないようなら、医療機関に連れて行こうと決めていた。

 

「……ぷはぁ!悪い、助かっ――!?」

 

 無事飲んでもらえて安堵したのも束の間、すぐに動き出そうと体を起こした彼を抑えつける。

  

「今さっき倒れかけたばかりなんですよ。何すぐに起き上がろうとしているんですか?」

「いや、もう大丈夫――」

「――五分」

「え?」

「五分間だけ休んでください。お願いします」

 

 物理的に押さえつけるのは簡単だ。しかし、この後に控える本命の願い事を通すためにも、先に簡単なお願いをすることにした。

 

「お願いします……」

 

 見下ろす形で目を見つめ、繰り返しの要求を行う。すると、返事こそなかったが大人しくなった。

 

「…………」

 

 沈黙。何か話した方がいいのだろうか。彼が元気になるトークなど思いつくはずもないが、今に至った経緯でも聞くとするか。問診代わりにもなるだろう。

 

「症状から見るに、熱中症だと思います。どうしてこうなったか原因は思い出せますか?」

「しりとり」

「は?」

「しりとりをしていたんだ」

 

 この人、大丈夫だろうか。しりとりと熱中症のどこに関連性があるのか全く分からない。やっぱり医療機関に運んだほうがいいのでは?

 そう検討している私を置いて、話は進んでいった。

 まとめると、走りながらしりとりをした後、水分補給を怠ったことが原因だったらしい。しかも、しりとりをした相手には飲み物を買い渡しておいて、自身の分は買わなかったとのこと。

 

「そうですか。以後、注意してくださいね」

 

 大雑把な内容だったが、省かれた部分も大方察することができる。なので詳細は聞かない。しりとりの相手が誰だったのかも、結果がどうだったのかも。

 

「そろそろいいだろ」

「あと一分です」

「細かいな、お前」

 

 貴方の作ったテストほど()()じゃない。

 

「……今度こそ五分経っただろ。ありがとな、助かった」

 

 チャンス到来。この感謝に故事付(こじつ)けて要求を通してやる。

 

「礼を言うなら、一つ願い事を叶えてはくれませんか?」

「願い事?」

「ええ、家庭教師の件です」

「なんだ?お前も生徒になるとかか?」

 

 似たような台詞を過去に何度か聞いた気がする。そして、私の返答も変わりはしない。

 

「違います。先輩の手伝いをさせてもらいたいだけです」

「は?」

「先輩は、過去に家庭教師の経験がないんですよね?」

「あ、あぁ」

「いきなり五人の相手は大変でしょう。なので、少しでも力になりたいと思いまして」

「い、いや、そんなことない。俺なら余裕だから手伝いなんていらないから」

 

 断られたか。なら、別のカードを切るまでだ。

 

「さっきの感謝は、所詮上辺だけのものだったんですね」

 

 責めるような口調で心に揺さぶりをかける。

 

「そういうわけじゃない」

「それなら――」

「――とにかく!」

 

 強い語気共に距離を詰められた。咄嗟に後退するが、すぐに近くの木にぶつかって追い詰められたような形になる。先輩もバランスを崩したのか、私の顔の真横に手をついた。……このシチュエーション、前に一番の部屋に開かれたまま落ちていた女性誌で見たことがある。なんというのだったか。

 

「あ、悪い……。とにかく、手伝いはいらない」

 

 断るのに何か特別な理由があるのだろうか、意固地になっているかのような態度を見るとそう思わずにはいられない。

 ……仕方ないか。必要とあらば嘘をつく、それが私のスタイルだ。手札が無ければ今ここで作るとしよう。

 

「断られても困ります。一応、父から監視の役割を任されているので」

「監視?!」

「先輩と直接お会いしたことがない程に、父は多忙の身です。ですので、私にそういった役割が回ってくることにも不思議はないでしょう?」

 

 嘘は真実で嵩増し可能。そうすれば露呈する可能性も低くなる。時間が経過するほどバレやすくもなるが、それまでに私の有用性を示せばいいだけの話だ。

 

「まぁ、手伝いはおまけみたいなものだと考えてください」

「……わかった」

 

 随分と渋ったうえでの了承だった。

 

「ご理解いただき感謝します」

「はぁ……」

 

 笑顔の私とは対照的に、疲労感を除かせる先輩。きっとまだ熱中症から回復しきれていないのだろう。そうに違いない。

 

「早速ですが前回のテスト、四葉姉だけは復習してくれました。昨夜のことですがね。次回に行う授業でどのぐらい記憶できているか確認してみてはいかがでしょうか」

「ほう、四葉がか、関心だな」

「随分と頑張っていたので、褒めてあげるとやる気(モチベーション)も上がるかもしれませんね」

 

 頭を撫でてあげると尚良い。あれは気分が高揚しつつも落ち着くという矛盾を孕んだ効果がある。なんだったら私が勉強する前にやってほしいぐらいだ。

 

「これ、テストの復習に使った物です」

「これって……」

 

 鞄から取り出したのは、余分に作っておいたテストのコピーだ。

 

「この解説、やっぱりお前が書いたんだな」

「前に否定したはずですが」

「前は、何かしたのかと聞いただけだ」

 

 おっと、いけない。鎌をかけられていたか。やはり断言されると引っかかりやすいな。

 

「そうでしたっけ?」

「とぼけるな」

「あぁ、失礼。つい悪い癖が出てしまいました」

「お前、やたらと姉達から心配されているんだな」

 

 そう、心配だけは一丁前なのだ。

 

「私も心配しているのでお相子ですよ」

「おあいこ……ね」

「あまり遅くなるのもいけませんし、そろそろ帰りましょうか」

「露骨に逃げたな」

 

 逃げてはいない。だって――。

 

「おい、お前の家は逆だろ」

「――家まで送りますから」

「は?」

「ほら、行きますよ」

 

 道は覚えていたので、引っ張るような形で先導していく。

 

「そう言えば、次の授業はいつですか?」

「明日の放課後に図書室でやることになっている」

 

 何人来るかは知らんがな。と、投げ遣り気味に付け加えた彼の表情を盗み見れば、不安と期待が入り混じっていた。

 

「私からも声は掛けます。きっと来てくれますよ」

 

 一人か二人は。

 

「というか、お前足早いぞ!俺のこと全然心配してないだろ」

「そんなことありません」

 

 ただ貴方のことはついでなだけだ。足早になるのにも理由がある。

 

「本当かよ……」

 

 背後から訝しむ視線を送られつつも、上杉家へと辿り着く。

 

「おい、どこまで付いていくる気だ」

 

 そりゃあ。

 

「中まで」

「は?中までって今は――」

「――いるんでしょう?らいはさん」

 

 そう、上杉先輩の妹。上杉らいはさんこそが本命。

 

「なんだ、約束していたのか」

「いいえ」

 

 玄関の前にまで来たところで答える。

 

「はっ?それはまずい!」

「まずいって、何が――」

「――お、お、お、お、お兄ちゃん……?」

 

 壊れかけのレディオような声が背後からした。

 

「な、なな、なななな」

 

 振り返れば、彼女はいた。

 

「ま、待て!落ち着くんだ、らいは」

 

 エコバッグを持った小さな手に力が込められるの視認した私は、数瞬先の未来を予期して身構える。

 

「なんで七海さんを連れてきちゃうの!?お兄ちゃんのバカー!!」

「す、すまん!」

 

 目を瞑りながら兄に突撃した妹は、エコバッグを振り回そうと遠心力をつけた。

 とはいえ、そこまで力の篭った攻撃ではないので大事には至らないだろう……頭部にさえ命中しなければ。

 目前の兄妹には身長差がある為、立ってさえいれば頭部に命中することはなかったはず。しかし、兄の方が謝罪して頭を垂れていたのだ。これでは綺麗に命中(クリーンヒット)してしまう。

 当然、その光景が訪れるのを阻止する為に上杉兄妹の間に入る。

 体で受け止めれば無事に終わる――そう考えていた私の耳が、特徴的な音を拾った。それは、プラスチックの音擦れる音だった。

 エコバッグを手にして帰ってきたということは、買い物帰りの可能性が高い。もし予想が当たっているのなら、プラスチック容器に食材が入っていたとしてもおかしくない上、そのほとんどは衝撃に対して脆弱だ。

 

「えっ!?」

 

 攻撃が当たる寸前でようやく目を開けた彼女は、標的ではない私が目の前に居ることに大層驚いていた。

 だが、勢いのついた動作は止まらない。

 

「きゃっ!? 」

 

 可愛らしい悲鳴が聞こえたが、私も動作を止める訳にはいかない。

 

「っと」

 

 なるべく衝撃が少なく済むように、らいはさんの腕とエコバッグを受け流す形で物体との衝突を回避させる。

 

「お怪我はありませんか?」

「え?……は、はい」

 

 状況が理解できていないのか、呆けた表情で返事がきた。これまた可愛らしい。

 

「それは良かった。バッグの中身はどうでしょうか?」

「あっ!卵!」

 

 どうやら、私の危惧は無駄ではなかったようだ。

 

「ほっ、よかったぁ~。どれも割れてない」

「んあ?何かあったのか?」

 

 ようやく頭を上げた『ついでの人』は放置して会話は進行していく。

 

「あ、あの!ご、ごめんなさい!」

「こういった時は『ありがとう』と言ってもらえると嬉しく思います」

 

 また思ってもない嘘を吐いた――そう思っていた。

 

「え、えっと、ありがとうございます!」

 

 ただ会話を誘導する為だけに吐いた嘘は、目の前の少女によって(まこと)へと変えられた。やはり、私の抱いた感情に間違いはなかったか。

 

「礼を言うなら、一つ願い事を叶えてはくれませんか?」

「おい、それってさっきの――」

「――心配無用です。無茶な要求をするつもりはありませんから」

 

 とは言ったものの、声音は自分でも驚くほどに固かった。

 その理由は、私が緊張しているからだ。

 屋上で告白してきた彼も、似たような気持ちだったのだろうか。

 

「らいはさん」

「は、はいっ!」

「もし、私に感謝してくれているのなら」

 

 同じ意味の言葉を、意味もなく繰り返す。これは、足りない勇気が満ちるまでの時間稼ぎでしかない。

 

「もし、貴女さえ良ければっ」

 

 さっきまで感じていなかったはずの喉の渇きは、まるで十kmを走り終えた時以上だ。

 

「それなら――」

 

 最近メールで遣り取りを始めた相手、それがらいはさんだった。

 そして、その過程で芽生えた想いこそが今から口にする願い(告白)だ。

 

「――私と友達になってください!」

 

 高まる鼓動とは裏腹に、緩やかに感じる時の流れがもどかしい。

 しかし、今は我慢の時だ。私に告白してきてくれた人達同様、ちゃんと答えを待たねば。そして、少しでも誇れる自分に成れるよう――。

 

「ごめんなさい!」

 

 ――……誇りは塵と化しました。今すぐ泣いて逃げ出したい。

 



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