ゼロカラナリキルイセカイセイカツ (水夫)
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ついに終わった幸せ

六章分岐のIFルート。時間が無いため一話だけでもエイプリルフールに合わせて分割投稿します。
コミックアライブ短編の要素多め。


 巨人が、大地を踏み鳴らした。

 そう錯覚するほどに重い足音が迫ってくれば、誰だろうと一度は足を止めて振り返ってみるものだ。そして、振り返ってそれを目にした者は揃って絶句する。喉を出掛かった驚愕が含むのは、二つだ。

 

 一つ。地震もかくやという地響きを伴って迫り来るモノ、その正体が一対の巨大な地竜だということ。

 一つ。二体の地竜に引かれる車体に掲げられて翻る旗が、隣国の国是を如実に刻んだ柄だということ。

 

 描かれたのは剣に貫かれた狼。命を串刺しにされ、けれども鋭利な眼差しから隠しようの無い覇気が煌々と覗いている。

『精強で在れ、さもなくば死ね』といった国柄を端的に表した絵図だ。豪快奔放なまでの在り方を以って大陸の南部に堂々と座する、それは神聖ヴォラキア帝国の二つとない印。

 照りつける太陽の光さえも弾き返す漆黒の地竜が、自らの巨躯をものともしない速度で街路を走り抜ける。国旗を背負って暴走するその重機関車を、呆然とした目で見つめる者はいても止める者はいない。いかに屈強な武力も強大な権力も、搭乗者の前では虫けら程度に過ぎないのだから。そもそもの土俵が違うのだ。

 

 もはや見慣れた反応を窓の外に追いやり、竜車内部の椅子に深々と腰を下ろした男──武力の土俵を別次元に置いた、九神将の『壱』セシルス・セグムントはため息を吐く。とうに見飽きた外の景色もそうだが、室内の冷えた空気を含んだこの状況そのものに、どことなく暇を持て余していた。

 

「ねえ、閣下。こんな悪趣味なものをわざわざ見せびらかす必要あります? 僕の足で一跳び、そうすれば断然早くて楽でしょうに」

「戯け者が。二度は言わぬと、余は先ほど伝えたはずだがな」セシルスの真正面、こちらは権力を遥か天上にかざす美青年だ。ヴォラキアの血を継いだ七十七代目皇帝、ヴィンセント・ヴォラキアは、しかし血気のまるで感じられない冷めた顔で問い返す。「首の上に飾ったその空っぽの頭はさぞ軽かろう。どれ、今すぐ切り刻んで確かめてみるか?」

 

 竜車よりも自身の足の方が早いと豪語するセシルスに、それとはまた別の方向で常軌を逸した発言が空気を震わした。皮肉が皮肉でなくなるどころか、端からヴィンセントの冷徹な言は全て、状況さえ許せば即座に実現してみせる類のものだ。

 ただしその脅迫も通じるか通じないかは相手による。そして相手がセシルスである場合、答えは明白と言えた。

 

「またまた、閣下ったらご冗談を。一国の王ともなるお方が、一人しか連れてきてない護衛をそんな気紛れに手放すわけ……あれ、なんで急に扉を開けるんです? 全開にすると『風除けの加護』が切れるかもしれませんよ?」

「知っているのなら、そうなる前に降りるが良い。剣を要する場面でなくては言葉を解さぬばかりか、相応の礼儀も心得ぬ愚物よ。今飛び降りるならその無礼も特別に許してやろう」

「いえ、あの、え!? 正気ですか!? 僕に、疾走する竜車から飛び降りろと? 特に意味もなく歩いて行けと?」

「これも二度は言わぬぞ。一瞬でも加護が切れて余の体を揺らしてみろ。──飛ぶのは、余の腰か、貴様の首か。見物だな」

「今すぐ降ろさせて頂きます! 主人公が一度や二度飛び降りてなんぼ……うわぁぁぁ──!?」

 

 騒がしい叫び声を扉の向こうに置き去りにして、竜車は荷物を降ろしたとばかりに加速する。立ち並ぶ家々の遥か彼方、遠くからでも堂々と聳える中心部の城へとヴィンセントは視線を向けた。

 相変わらず感情の起伏に乏しい顔のまま、鼻を鳴らして姿勢を正す。丁度、大通りに面した道だ。意も介さず通り過ぎる広場には人だかりが出来ており、彼らの注目を独占する掲示板に一枚の紙がでかでかと張られていた。それも国境を越えてから幾度となく目撃してきた光景だ。

 

『親竜王国ルグニカ王位選抜戦終結、本日を以って即位されるは銀髪のハーフエルフ──エミリア』と。

 

 

 †

 

 

 打って変わって、葉擦れが耳に付くほど長閑な場所もまた存在する。

 

「スバル。……どう、かな……?」

「E・M・Q……」

「え?」

「や、エミリアたんマジクイーンって意味です」

「もう。スバルったら、また変なこと言って誤魔化そうとしても駄目なんだからね! 今回ばかりは、ちゃんとした感想を聞かせてもらいます! 敬語も無し!」

「エミリアたんが急に思春期みたいになった! え、いや、その、似合って、る……よ?」

「人と話すときは目を見る! あと感情がこもってない! どうして疑問系なの!? やり直し」

「なんか、今日のエミリアたんやけにテンション高くない? それにちょっと、顔が、近……っ」

「近い? ──ぁ、いや、違うのスバル。別にそんなつもりじゃ、なくて…………ぅぅ、こっちまで恥ずかしくなってきたじゃない……」

「…………」

「…………」

「………………すごく綺麗、です」

「ぁ………………………………は、はい」

 

 ばんっ!

 木製のテーブルを叩き割らんばかりに振り下ろされた掌が、これに割って入る。

 

「ウチらは何の茶番を見せられとるんや!? 話し合いだかなんだかで呼ばれて来てみたら、関係者そっちのけで痴話交わすたあええ度胸やないか! 外交なめとるんか、ああ!?」

 

 細長いテーブルだ。料亭と見紛うほど派手なクロスの上を銘柄のお茶とお菓子が彩っている。囲むような等間隔で椅子が置かれ、一見すればどこぞの貴族主催の優雅なお茶会にも思える雰囲気だが、その実、ここはルグニカ王城の一室だ。

 その中でも特に贅と意匠を凝らした内装が華々しい応接室兼、今は会議室に使われていた。事前準備、もとい痴話をやめた二人は赤らんだ顔でようやく客人に向き合う。

 

「……えーと、全員集まったようなので、そろそろ始めたいと思います」

「説得力が皆無なんやけど」

 

 煌びやかな装飾が施された室内に、少々緊張感の欠けた声が響いた。有り体に言うなれば、この場を主導することに実感が追い付いていない、が正しい。

 

 それでも震えて声が出ないよりはマシだろう。口元に微笑みの弧を描き、顔を上げるエミリアの表情はとても穏やかだ。艶を濡らした銀光の長髪が、彼女の気持ちを代弁して弾むように靡く。その隙間からちらと覗いた紫紺の瞳も決意を結んで強く輝き、左耳辺りに留めた髪飾りに触れる指先は、透き通る眩さを反射する。

 下に続く白皙の肢体を、彼女は紅白の豪奢なドレスとマントに包んでいる。王族にのみ着ることを許された由緒正しい礼装だ。本来なら滲み出るはずの威厳を見事に相殺した可憐な顔貌で、部屋を見渡してから静かに頷く。

 

 その視線上にいた者たちの面々は、親龍王国四百年の歴史を辿っても希少に過ぎる光景を演出していた。

 グステコ聖王国から聖王、カララギ都市国家から大総領、そして神聖ヴォラキア帝国からは皇帝が出席している。ルグニカ以外に名を馳せる三つの大国、それぞれの頂に立つ代表だ。今代の統治者がこうして一堂に会した場が歴史的偉観であることに誰も異論はあるまい。

 そう。恐らくは初めて顔を合わせた三人が居心地の悪い威圧感を放っていたとしても、どちらにしろそれが偉観であることは論を俟たないのだ。

 

「おほん。えー、それではエミリア様の国王ご即位につきまして、この度、式典の前に顔合わせをしたく……あの、お集まり頂いた訳ですが…………訳です、が……もしもーし……………………あれぇー? これ、もしかしなくても誰も話聞いてねぇな……?」

「うーん……」

 

 そんな圧倒的で絶対的なオーラを醸し出す三人の耳に、今日この日、初めて王座に腰を下ろしたばかりの新米国王とその側近の言葉など届かない。いや、一応は呼びかけに応じて直々に来訪したのだから、拒絶ではない、はずだ。先の痴話で興を削いでしまったなどと、どこの王家が恥も知らずに言えようか。

 しかしそんな儚い希望を、ふと挙手した聖王の第一声が裏切る。

 

「お断り申し上げます。私は聖王様の代わりに派遣された使者でありまして。予め承った公的な言以外は立場上発言が難しい点、ご理解頂きたく存じまする」

 これに、怒りを露にしていたカララギの代表も乗ってくる。「……まあ、ウチもそんなところですわ。互いに発言には気ぃつけようや」

「マジかよ。言われたこと以外口に出せないって、来た意味ほとんどねぇじゃん! え、じゃあ皇帝陛下も……?」

 

 グステコとカララギの代表がまさかの代理という、歴史的偉観など犬に食わせたも同然の茶番劇を広げる中、スバルは最後の希望を求めて皇帝を見やる。

 もはや形式も何も知ったものではない。果たしてヴィンセントは、足を組んで仰々しく頬杖を突く。

 

「ふん。激務にかまけて一国の主としての礼儀を損なうか。揃いも揃って料簡のなんと狭きことよ、所詮は精霊と金銭に恵まれただけの臆病者よな……時に、凡夫。貴様は如何なる理由を以ってして余を許可無く視界に入れるのだ? 死にたいのか?」

 礼儀とは、何だったか。そんな馬鹿らしいことを考える余裕もなかった。「俺側近! エミリア様の護衛! そしてこの場の進行役! でも来て下さったのは誠にありがとうございましたぁ!!」

 

 そしてこの状況、事前の顔合わせとは言っているものの、結局は名ばかりのものに過ぎない。

 国民の総意、そして神龍の選択を受けて国王の肩書きを冠するに至ったエミリアだが、何分それまでの過程が特殊だった。国の根本的な方針が大きく変わる局面で、これまでと同じようなやり方をなぞるだけでは些かインパクトに欠ける。四大国の一角を担う立場として、少しばかり顔が立たないのだ。

 

 約四百年の空白期間、そして亜人戦争という内紛を経た四十年ほど前から、王と神龍との繋がりはルグニカ国内のみならず各国から疑問視されていた。伝承でしか語り継がれない彼の存在の庇護の認識は時が過ぎ行くほどに薄れ、一度はそこに付け込まれて呪龍の暴走を許した事もある。その際は神龍の恩恵によって難を免れたものの、三年前、王族全員の病没が新たに不安を上書きし、それを機に問題は再点火された。

 地盤の安定を取り戻す手段は、新たな王の器を選出し改めて神龍を迎え入れること。龍の威を借りるといえば前代の踏襲に過ぎないが、それが実際、国家間の諍いへの強力な抑止力になるのだから借りない手はない。

 ただ、立ち直すとなれば龍に頼り切りの姿勢もまた廃すべきものだ。ここ数十年の遅れを取り戻すための穴埋め、ひいては国力増強を最優先とする必要がある。

 

 従ってエミリアが国王に即位してまず手をつけたのが、世界へ向けた大々的な政治宣伝だ。

 親竜王国ルグニカは、神龍の庇護を再度その手に収めた。更には血筋を無視した新国王が統治を始め、変革の真っ只中にいる。それはルグニカ一国だけでなく周辺国にも少なからず影響を及ぼしうるものであり、もし誰かが流れを乱しでもすれば、その余波は国単位の問題へと発展する。好機だからといって不安定な足場を壊したら、かえって自身までもを滅ぼす羽目になるかもしれない──とは深読みか、否か。どちらにせよ、好き好んで賭博へ身を投じるほど三国とも愚かではないとエミリアは踏み切った。

 

「だから、どうせなら友好的な関係を結びましょう。相手を蹴落とすんじゃなくて、互いに助け合って進むの。龍の威が怖くても、協力し合ってそれが味方に回るなら、これ以上ない安心になるはずよ。違う?」

「それこそ賭博であろう。そこな代理とやらを見ても分からないのか? 四つの大国間に最も足りないのが、正に、貴様の大好きな友好だ。一方的な信頼に盲目的な信用、それで国が墜ちるのならば素人風情のままごとにお似合いの結果に違いない。貴様は三年間素人なりに精を尽くしたかも知れないが、その狭隘な視野に、国内のみならず周りの趨勢を入れる余裕があったか? 自国民が貴様の歪な理想像を認めたとて、他国からの認識は尚も銀髪のハーフエルフにとどまったままである貴様の言葉に、誰が愚かしく耳を傾けよう?」

 

 銀髪のハーフエルフ。その単語に、エミリアの眉が顰められる。

『嫉妬の魔女』が残した爪痕は、四百年の歳月を経てもなお深々と刻まれている。身体的特徴が似ているというだけの銀髪のハーフエルフでさえ、主に向けられるのは憎悪と軽蔑、良くて同情だ。

 王選が開かれていた三年間、エミリアの必死の奮闘が奏功して今こそその認識はある程度覆ったものの、ルグニカ以外の国では平等な目線を期待するに足りない要素として色濃く根付いている。筋違いの感情と訴えるには未だに理解が遠い、これが現実だ。

 

「そういう貴方は、どうしてわざわざ来てくれたの? ここまで足を運んでくれたんだから、少なくとも他の二国よりは仲良くできると思ったのだけど」

「余の考えを容易に推し量れるなどと自惚れるなよ、小娘。ルグニカとヴォラキアの関係性は頭に入れてあるのか? 長年に亘り小競り合いが続き、今でも国境付近では諍いが絶えぬ有り様だ。不可侵条約があるとはいえ、畢竟、それが機能するのは国が存命である場合のみだろうよ」

「──? 今まで喧嘩してたからって、これからも続ける必要なんてないでしょ? なら私たちがもっと表に出て、仲直りをした方がいいと思うの」

「────はっ……! 必要、必要ときたか。なるほど確かに、互いに消耗し続けるだけの下らん争いに必要性など欠片も見出せぬ」苛烈で容赦のない物言いに反して美形を成したヴィンセントの顔に、嘲笑とも好奇とも取れる色が浮かぶ。「だが、必要はなくとも理由ならあるぞ。人の感情とはそういうものよ」

「……そう。でも、私は諦めないわ。出来れば前向きに考えて欲しい。貴方だって、別に戦争は望んでいないじゃない」

 

 皇帝はこれを不定せず、肩を竦めて瞑目する。話は終わったとその態度が語っていた。

 ふと何かに気付いたスバルが、首を傾げて問いかける。

 

「ところで、皇帝陛下。お側付きというか、護衛はどちらに……?」

「む。そういえば竜車から落として来たのだったな。なに、もうじき走って到着するだろう。さすれば騒がしくなるぞ、拙速に終わらせろ」

「落とした……!? まさかとは思いますが、この場に邪魔だからわざと置いて来たとかそういう……」

「余の考えを凡夫ごときの度量で愚直に推し量るなと、そう──」

 

 ヴィンセントの鬼気迫る忠告は、最後まで紡がれない。

 縦横無尽。鋼の煌きだけが一歩遅れて軌跡を描いたかと思うと、光と音が滂沱として降り注いだ。

 壁一面に切り込みが入り、支えを失った欠片が爆ぜるようにして弾け飛んだように、スバルの目には見えた。瞬きの間に破壊された壁面を更なる衝撃が直撃し、応接室の天上すれすれを横切っていく。

 それが女性の体だと気付いたエミリアは、落下地点を瞬時に判断して手をかざす。ヴィンセントは事情を察した顔で座ったまま、他の二人は自分の身を守る体勢に入っている。

 一方側近でありながら騎士でもあるナツキ・スバルは、壁の外から出現した人物を見た。

 

 そう、見た、だ。

 青色のキモノに、ゾーリを履いた青年──セシルスはすでに駆け出している。誰の視認をも拒む速度で、その手に細長い刀を携えて室内を駆け抜ける。

 制止する暇もなければ、欠片ほどの慈悲もなく彼の刃は振るわれた。血液が付着することさえ許さない雷速の一閃。人の命が、紙くずの如く両断されるに十分たる一撃だった。

 

「待って!」

「止めよ」

 

 直後に迫り上がった氷の壁と、主の声が無ければ、実際それは彼女の命を刈り取っていただろう。冷気を掠めるだけに止まった刀を無言で引き、姿勢を正したセシルスが振り返る。

 

「あれ、閣下じゃないですかぁ! よく見れば王国の王様もいるみたいだし……なんだ、こんなとこにいたのなら先に言って下さいよ! 閣下と陛下の前で血腥いもんを見せるところでした、あぶないあぶない」

「危ないという言葉の意味を知っているのなら、その刀を収めて這い蹲り意思を見せろ。半分が紛い物とはいえ、仮にもここに糾合されたのは四大国家の首脳なのだぞ、セシルス」

「やだなぁ、さすがに王様に斬りかかったりはしませんって! 僕がそんな殺人鬼に見えます? グルービーには戦闘狂と言われましたけどね!」

「騒がしくなるって、普通に人殺しかけてんじゃねぇか……いや、それよりエミリア様!」

 

 ヴィンセントの予告通り、もしくはそれ以上に慌ただしくなった中でスバルはエミリアへと駆け寄る。咄嗟に生み出した氷の魔法で飛んできた女性を受け止めたエミリアは、安堵に一息吐いて胸を撫で下ろしていた。

 衝撃を与えないように四肢を絡めとる形で受け止めることに成功した氷の柱。それをゆっくりと解き、床に下ろす。女性は気を失っており、所々にセシルスの仕業だと見受けられる切り傷が刻まれている。だがさすがに、セシルスが無辜の一般人を襲ったと思えるほどスバルもエミリアも純粋ではない。

 

「セシルス……貴方が、皇帝さんの護衛なの? この女の人は誰? こんな王都のど真ん中で、どうして斬ったりなんかしたの?」

「あー、走って来る途中だったんですが。そこの女性がなんか人目を避けてうろちょろしてたんで、もしやと思って追いかけてみたらなんとピックリ! 得物と腕前を見るに、下っ端のシノビでしょうか? 王城と知らずにかくれんぼしてたー、とかじゃなけりゃ……あ! 他国の間諜なのでは!? なんだ、だとしたらしがない端役ですよ。まあ確かに、主役たるこの僕が斬るまでもなく消えていく役柄でした。反省します!」

「シノビ、か。下級ともなれば、金か女さえ差し出せば誰の背を刺す事も躊躇わぬ半端者どもよ。逆に元の依頼を上回る報酬を掲げて取り込むことも可能だが、この手の末端にはなにも握らせておるまい。捨て駒だな」

 

 殺害一歩手前まで行った張本人の割りには、あまり関心を見せないセシルス。しかし語った内容はまるで無視できるようなものではない。

 他国の間諜が王城に侵入していたと、国王即位式の直前に発言したのだ。それも、あろうことか他三国を交えた話し合いの最中にだ。地盤の安定していないこの状況において、それは爆弾投下以外の何物でもない。

 騒ぎを聞いて駆けつけてきた王城の衛士たちと他国からの護衛や御者も居合わせ、場は混乱の様相を呈する。

 

「ちょっと待って、まだ間諜だと決め付けるには早いわ。とりあえず警備を固めてから、もう少し様子を見ましょう」

「ウチらは知らん、なんて言うて見逃してはくれへんやろな。参ったわ、シノビとなったらまず疑われるのが、ウチらカララギやないの」

「困りました。よもやこのような事態に出くわそうとは……」

 

 各々が緊迫感を抱いて額に汗を垂らす。今この場に集まった関係者の中に、国家間の拮抗を破って矛を掲げた者がいるかも知れないのだ。しかし当然ながら自ら名乗り出るはずもなく、足りない根拠でも疑いの目線を互いに向け合うことになる。

 よりにもよってこんな時に、いや、こんな時だからこそ。誰もが忙しなく状況把握に励む中、ただ一人冷静に物事を眺めていた男が、ふいに口を開く。

 

「──何故、他国だと決め付ける?」

 

 酷く、耳が凍りつくほどに冷めた声音だった。

 

「皇帝陛下? なにを……」

「世界的関心の焦点を、王国からずらそうとしたのではないか? 三国をも巻き込んだ疑心暗鬼の舞台を作り出し、注意を少しでも背ける為に用意した王国の自作自演でないと、誰が言い切れよう?」

「──な、……それこそ、貴方がセシルスとシノビを使って状況を演出していないとの証明もできないはずです! 余計に掻き乱さないで頂きたい!」

「乱すも乱さぬも、事件の明確な関係者は今のところ王国だけだ。加害側の決定的な手掛かりは皆無。此度は偶然居合わせて巻き込まれた賓客でしかない余らに、貴様らが何を強要できる? 余は言いたい事を口にしたまでよ。過去に似たような事件が我が帝国で起きた以上、王国の正式な調査依頼には応じるが、国の柱もまともに機能せず、如何なる態勢も取れていない寄せ集めの集団に合わせてやる道理などない」怒りよりは蔑みに近い感情を淡々と吐き出す声だ。誰一人として、それを遮る術を知らない。「ままごとには付き合ってられぬ。もうこの場にいる理由……いや、『必要性』は見当たらんな。帰還の準備をしろ、セシルス」

 

 意趣返し、エミリアの前言を揶揄した言葉を告げてヴィンセントは応接室を後にする。「えぇー、またあのごつい竜車ですか?」と場違いな不満を垂れるセシルスの後ろ姿を、エミリアたちは呆然と見ているしかない。実際には止めるべきだが、エミリアもスバルも混乱で状況判断がままならない。そして、指導者が迷いを見せればそれは部下にも伝播するものだ。やがて我を取り戻したグステコとカララギの使者も、誰にも止められることなくそそくさと部屋を出て行ってしまう。

 残された面々はしばらくの間、ほとんど何も出来ずにいた。衛士たちが事態の収拾に向けて断片的な情報を整理しているが、結果は期待できない。ヴィンセントの言った通り、あのシノビを尋問したところで有益な手掛かりは出てこないだろう。

 

 だとしたら敵は、何の目的があって末端のシノビなどを送り込んだのか。そしてどんな方法で警備を──それも、国王即位のために一段と厳しくなっているこの時期を選んで──突破したのか。

 疑問は絶えず、燻りだけが胸にわだかまる。

 

「なんでだ……全部うまくいってたのに……!」スバルが体をよろめかせて壁にもたれる。

「……スバル? 大丈夫?」

「ああ、ごめん。ちょっと眩暈がしただけだよ。エミリア……陛下は、とりあえず部屋を移しましょう。ラインハルトが近くにいたはずだから彼に護衛を頼みます」スバルは頭痛に耐えるように、額を手で押さえて案内する。「私は少し、頭を冷やして来ますから」

「そう……分かった。無理はしないでね、スバル」

 

 素直に引き下がるエミリアを横目に、スバルは倒れたままのシノビへ振り返った。半壊した壁から流れた風が僅かに乱れた前髪を揺らす。

 エミリアの姿が完全に見えなくなった後、衛士に命じて人を呼んだ。同時に人払いも。数分が経過し、閉じていた扉がノックされる。一応、エミリアの騎士として前線を駆け巡り、多くの功績も残した分、ある程度の権限がスバルには認められている。

 

「入れ」

 

 短く応じる声と共に一人の男が恭しく入場する。くすんだ金髪を伸ばし、折り目の鋭い礼服と柔らかい上品さを纏った大人の佇まいだ。すらりとした細身はか弱さでなく清々しさを感じさせる。

 見るものが見れば、彼が視覚的な第一印象を重要視しているのだと分かるだろう。仕事柄、常に抜け目無い身嗜みが要求されるためだ。

 

「さてと、話をしようか。適当に座っていい」

「は」

 

 スバルに命じられ、男は姿勢を低くしたまま椅子に腰掛ける。

 内装の派手さに比べて面積自体は広くない部屋だ。その気がなくとも端に倒れている女性に自然と目が行く。しかし男は、特に気付いた素振りも見せずにスバルと向かい合った。感情をあまり表さない癖があるようだ。

 それは仕事上の理由か、はたまた対面した人物の影響か。

 

「お前の肩書きは、何だ」

「商業組合の代表を務めております」

「表ではな。俺は裏の方を聞いている」

「『六枚舌』の長官であります」

「そうだ。じゃあ『六枚舌』はそもそも何だった?」

「秘密防衛機構──王国の、諜報機関」

 

 男の素性は、ルグニカ王国の交易の中心を支える商業組合、その頂上に名を乗せるラッセル・フェローその人だ。国内の重要な物流のほとんどは組合によって管理されており、それを取り締まる彼にとって経済情勢は日常の一部。

 経済とは言い換えれば国の健康状態だ。国内のどこでどのような事があってどう動くか、把握するには広範囲かつ精密に情報網を広げていなければならない。スバルの元いた世界ほどではないにしても、日が昇ってから沈むまで、各地から集まるデータの量は膨大だ。それを上手く組み立てると、等身大のミニチュアの世界が目の前に出来上がる。

 流動する世界の今を知ること。盤上の駒を動かす指導者において、必須でありながら最も難しい類のものだ。しかし一度でも自分のものにしてしまえば、文字通り今の世界を掌握することが出来る。

 

『六枚舌』はそのような事柄を担当し、国の骨子を内部から支える役割を担っている。政治の実質的な柱である賢人会とは裏表の関係にあり、王国を支えるという共通した役割を持っていながら船首を向ける方向は少しばかり違う。

 なにせ諜報機関だ。安全保障という名目の下、謀を是とする機構に法の適否は問われない。非人道的と呼ぶのも憚られるような残酷極まりない行為も、自身の大切な何かを削る捨て身の計画も、国の利益に繋がるのであればラッセルは迷わず実行する。

 その絶対的姿勢にスバルは目を付けた。エミリアが新国王の冠を携えて表舞台へ上がる傍ら、彼は影からラッセル含む『六枚舌』を経由して外部へ干渉を続けてきたのだ。同時に自らの身を置いた王都中心部の防衛も。

 

 それが今日になって、破れた。

 

「どうしてシノビなんかの侵入を許した? 最近騒がしい雰囲気だったとはいっても、アレを見逃すなんて考えられない。やるべきことは……『六枚舌』の任務は、怠ってないよな?」

「信用を裏切ってしまったのは理解の上ですが、もちろんそのつもりです。日々、尽力しておりました」

「俺だって、なにも世界を征服しろとは言ってない。大きくなり過ぎても碌な結末は待ってないだろうしな。そもそも大陸全土の情勢を掴め、なんて無理な話だ。俺はただ、今のこの状態を維持したい。分かるか? 無理して崖を上る必要はないから、その分の余力を落ちないように他へ回せってことだ」

「はい、重々承知しております。私は王国の平穏を願って何もかもを捧げた身ですから」

「なあ、ラッセル」

「なんでしょう」

「口だけは達者だな、商人が」おもむろに歩み寄るスバルが、双眸の奥底に隠し切れない嫌悪を湛えて睥睨する。「尽力してた? それでこのザマか、おい」

 

 跳ね上がったスバルの足がラッセルの腹に突き刺さり、鈍い衝撃音が苦鳴と共に漏れ出る。思わず前屈みになったラッセルを見下ろし、そのままスバルはつま先に力を込めて内蔵を圧迫する。端から見る分には地味でも人間の腸は脆い。少し要領を知っていれば、片足だけでも確実に苦痛を与えられる。

 商人は第一印象が大事だ。顔を傷つけてはいけない。穏便に痛めつけるには、普段は他人に見せない胴体部分が好ましい。彼にはこれからもやってもらうべきことが沢山あるのだから──

 

「いや、待てよ?」

「く……ふ、ぅ」

 

 しばし考えて何かに気付いたスバルは、足を引っ込めてラッセルの背後に回る。そして服を無造作に捲り上げ、背中を覗き込んだ。

 そこに煌くのは奇妙な模様だ。濃い鈍色をした不気味な模様が、痣とは違う痛々しさを滲ませて背中の皮膚に刻まれている。淡く光を発しているのは、それがただの模様ではない超常的な力が施されているという証拠。

 手で触れたスバルの動きに躊躇いは感じられなかった。

 

「呪印は生きてる……なら、お前の言ったことは本当なのか?」

「…………」

「嘘を吐けば体内のマナが暴走する。俺が『六枚舌』を支配する際に、そう、お前に呪いをかけたはずだ」

 

 性質の悪い唾棄すべき術として認識されている呪いだが、やられる側でなくやる側に転じれば、これ以上便利な束縛も存在しない。ラッセルの背に刻印されているのは言葉の真偽を感知するもの。本心と異なる嘘を口に出せば、術が発動して体内を巡っているマナの循環を狂わせるという仕組みだ。マナの制御法によほどの見識がない限りは和らげることもままならない。

 しかし彼の体に、呪印は残っているがそれらしき異常が起きた様子はなかった。となれば単に嘘を吐かなかったという事実が浮かび上がる。

 ラッセルは本当に、彼の全てを捧げて尽力しており、そうにもかかわらず侵入者の襲来を許したのだ。セシルスが見つけていなければ更なる内部まで入り込まれただろうことは想像に難くない。

 

 諜報機関ですら悟れなかったのを、他国の部外者が偶然見つけた?

 偶然にしては不自然なものが目に付くが、果たしてそんな回りくどいことをヴィンセントがするだろうか。彼の物言いは言い方こそ苛烈であれど、内容自体は間違っていなかった。外交を俎上に載せてエミリアの言葉に一つ一つ答えていたのも彼だ。

 全面的に信じるには至らずとも、偽言を疑うほどの人物でもない。スバルはそう判断した。

 

 カチリ。

 今朝まで順調に回っていた歯車の、どこかの歯が欠け落ちたような、気持ち悪い違和感が胸中に生じる。

 

「……ラッセル。お前、国に身を捧げたっつってたよな」

「ええ、その通りです」

「答えろ。あの女を城内に通したのは、本当に見逃したからなのか?」

 

 問いに、答えは返ってこない。

 

「尽力してたんだろ? 俺の言うこともちゃんと理解して、『六枚舌』を動かしてたんだろ? なら、お前が挺身してまで守ると決めた対象、……そこに、俺は入っているか?」

「…………」

 

 沈黙は嘘に含まれない。

 それ自体が明白な答えだった。

 

「そうかよ。お前が俺たち王国を裏切ったのか」

「……それは違いますよ。私は王国に何もかも捧げた身だと、先ほど言ったではありませんか」

「なに?」

「私が裏切ってしまったのは、事情をお知りでないエミリア陛下の晴れ舞台だ。王国を虫喰うあなたに対して忠誠心を向けた覚えなど端からない。輝かしい未来などくれてやるものか……これが、私の本心ですとも」

 

 最初から仕えるつもりなど毛頭なかった。ゆえにこれは裏切り行為といえない。ただ、国王になるエミリアをも巻き込んでしまったのは事実なのだと。

 露骨な反抗意思だ。スバルを騙すために仕方なくエミリアまで裏切って国家間の疑心を招いた。事もあろうに、それが王国のためでもあるとラッセルは言っている。

 

「あなたは一つ、勘違いをしているな。シノビを侵入させた目的は国家次元の混乱じゃない。確かに話し合いは決裂したが、そんなのどうだって良いことだ」どこまでも、どれほどまでにも、この男は徹底的に献身し、王国の未来を見据えて行動する。目先の結果を越えた、更に奥の事象を。「私の命と引き換えに、お前さえ引き摺り下ろせればな」

 

 笑い飛ばす言葉をスバルは持ち合わせていない。睨めつける瞳に燃え滾る熾盛な覚悟が、生半可なものではなかったからだ。少なくとも、筋違いの逆恨みや被害妄想の類ではないと窺える。

 その原動力は私怨か。いや、王国のためというのなら、きっとそれは正義だろう。

 ナツキ・スバルという一人の人間を排除することが、正義に基づく執行だとラッセルは思い至ったのだ。

 

 潮時か? ──断じて、違う。

 まだ終わっていない。この企てに関わっているのはラッセルだけではないはずだ。その全てを炙り出し、二度とスバルの行く道を邪魔できないようにしてやらねばならない。

 それがナツキ・スバルの幸せな人生へと続くのだから。

 

「最期に残す言葉はあるか」

「──残された時間を精々楽しめ、寄生虫」言って、袖裏に隠していたナイフを、スバルの横腹に突き刺した。

「っ、クソ商人がぁっ!」

 

 スバルの態度が限度を超えて爆発した。椅子ごと蹴飛ばし、抵抗もせずに倒れたラッセルへ飛び掛かる。横腹から引き抜いたナイフを、出血も意に介さずに投げ捨てる。赤い斑の軌跡は半壊した壁の穴から外に吸い込まれていった。

 

「クソが、クソが、クソクソクソクソクソクソッ! あァ、忌々しいッ! 何にでも値札をつけやがって、結局自分のことしか頭にない! これだから商人は信用できないんだ! 平気な顔して散々利用した挙句、他人の価値を踏み躙る! せっかく、せっかくここまで来たってのにッ! ナツキ・スバルの人生で最良の選択をしてきたんだぞッ! 誰にこの幸福が壊せるもんか、壊せてたまるか、ふざけるな、チクショウッ!!」

 

 馬乗りになって拳を振るい、スバルは両手を血で濡らしながら叫び喚いた。皮の剥けた拳をラッセルの顔面に叩き付ける度に、骨と骨の擦れ合う耳障りな悲鳴が響く。執拗に、強情に、一方的に、粘着質に、無秩序に。頬骨が削れ、鼻先が折れ、眼窩が潰れ、唇が爛れ、鮮血が溢れ、人としての顔の形が崩れるまでずっと。

 すでにラッセルに意識はなく、殴られるだけのサンドバッグと化していた。しかし、いくら殴れどスバルの歪んだ表情は晴れない。顔を覆った激情と床を汚す血液の色は濃くなる一方だ。

 

「ハァッ、ハァッ、ハァッ……死なせ、ないよ。ラッセル・フェロー!」眼前に開いた掌を、こびり付いたどす黒い血と一緒に舐める。「イタダキ、マスッ!」

 

 客人のために用意されていたお茶やお菓子がテーブルの上に残された応接室。それらには目もくれず、死んだように倒れ伏している男を、食した。名前を、魂を蝕した。

 あらゆる生物が命を繋げるべく本能的に行う食事とは、根底から質の違うものだ。およそ生存の尊厳を侮辱の限りに陥れ、あまねく倫理をも蔑ろにする行為。到底理解の一片も及びようがないそれを本人は飽食と称している。

 

「食って、喰らって、喰らい付いて、噛んで、噛み付いて、噛み砕いて、噛み千切って、噛み締めて、貪り食い尽くして、あァ、暴飲ッ! 暴食ッ! どこだッ、どこの記憶にいるッ!? 私たちを脅かす奴は誰だァッ!!」

 

 咀嚼し、嚥下した記憶をスバル──ではない何かがすぐさま手繰り寄せた。命を奪うよりも惨たらしい摂食の真価は食べた後にこそ発揮される。

 ラッセルの歩んできた足跡を遠慮なく踏み荒らし、好き勝手に引きずり出していく暴挙。家族との縁も友との絆も知ったことか。自身を嵌めた黒幕を突き止めんと、暴食する何かは血眼になって洗いざらい平らげる。

 

 そしてついに、一つの答えに至った。

 

「──ああ、おぞましい。実に陋劣この上ない食事だ。本当に、見ていて不快感しか込み上げてこない」

 

 それとまったく同時に、高い位置から聞こえた軽蔑の声。いつの間にか開かれていた扉に背をもたれる。

 記憶を辿って見つけ出した答えと、鼓膜を震わす声音の主が重なり、繋がった。

 

 怖気と悪寒に引っ張られてつと仰げばそれがスバルを見下ろしていた。

 濃紺の髪を肩より少し下まで伸ばし、その先を奇妙な暗色系の衣装に隠した長身。諧謔的な道化の化粧が施された顔は白く、色合いを別にする二つの瞳に嫌悪の感情が濃く宿っている。血腥い部屋の空気が、彼の情調に呑み込まれてまるで重さを帯びたようだ。

 

 ナツキ・スバルの姿をした何かがなす術もなくしてやられたのは、理由を挙げるならばたった一つ。

 さながら魔人の如き在り様をその身に孕んだ、決して端倪すべからざる男の存在を今際の今まで失念していたこと。

 

「さて、答え合わせの時間だよ」掲げた手、指先と掌に紅蓮の輝きが渦を巻く。「当たっていたのなら苦しみもがいて、間違っていたのなら泣き叫ぶがいい」

「黒幕はお前か、ロズワールゥゥゥ──ッ!!」

 

 網膜を貫く閃光が、輪郭と色彩を消し去りながら迫り来る。血溜まりは熱気に分解され、霞がかって蒸発する。それを横目に。

 灼熱の業火を直に受けた一瞬の猶予の中、ひび割れた断末魔の一声は周囲の空気諸共焼け焦げ、耳朶へ届くより前に掻き消された。




題材とした大罪は『暴食』です。


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そして交わる殺意

『暴食』の権能については未だに不明な点が多いので、『日食』や『月食』などの言及は故意的に省略しています。物語の都合上は不必要な分析も出来るだけ避けました。


 人の気配と、視界の明るさは比例する。

 無論二つが実際に作用し合う訳ではない。ただの経験則で、そう感じたことが多いというだけの話だ。

 夜でも活気付いていればそこは気持ち眩しいし、逆に自分一人の空間では周りの影がやけに大きく見えたりしないだろうか。気分の同調。人は感情によって世界の見方を変える。

 

 そういった尺度で言えば、今のこの場所はとても暗かった。少し前を見るにしてもつい目を凝らしてしまう。

 歩けないほどでもないが、どうにも気になるのだ。こればかりは何度経験しても慣れそうにない。別に慣れなかったところで不都合も無いのだが。

 薄暗闇の中を、裸足で歩く。人気が無ければ音も無い。耳に痛い静けさ。足音だけが、ぺたぺたと響く。

 道は殊更複雑な構造でもなかった。これといって迷うことなく、目的の場所へ近づいていく。時間はたっぷりある。急がなくていい。もう少しだ。

 

 階段を上がる。一段一段に注意を払って進む。慎重に、転ばないように。この歩みがこれからの始まりを告げるものだと、その平穏さを表すものだと、柄にもなく縁起もどきの迷信を考える。

 らしくないと言えば確かにそうかも知れない。でも理解して欲しい。もうすぐなのだ。もうすぐで、希ってきた幸せがこの手に入ってくるのだから。

 

「誰だ、オメエ。何笑ってやがンだ」

 

 ぺちゃぺちゃと最後の段差まで上がりきり、真っ白い部屋へ到達したところで声がかかった。思わず目を眇めたのは、薄闇の世界でも決して見逃しようのない、猛火の如き在り様がそこに立っていたためだ。

 

「俺だよ、ナツキ・スバル。レイド・アストレア、お前最初に会っただろ」

「あぁン? ざけンなよ、オメエ。オメエ、見た目は稚魚だが中身が別モンだろうがよ。オレの前で馬鹿みてえな事ほざいてンじゃねえぞ、オメエ」

「…………」

 

 真っ直ぐに射抜く眼差しは、片方が眼帯で隠れていても焼かれるように熱い。睨んでいる訳でもないのに、レイドの視線と注目を浴びているだけで動悸が治まらない。喉が、心臓が、命が鷲掴みにされている。

 背を向ければ確実に殺される。いや、恐らくは目を離した瞬間に死を押し付けられるだろう。

 

「オメエ、死にに来たのか。わざわざ死ぬために俺の前に現れたのかよ、オメエ」

「あはッ。雑に生きてるようで、案外本質を見抜けるんだ。さすがは初代『剣聖』といったところか……ああそうサ。私たちはお前に殺されたくてき──」

 

 衝撃が、頬を抉った。砲弾を生身に喰らったらこうなるのではないか、という感想が脳裏に過る。

 無論この世界に地球と同じ大砲など存在しないし、そもそも飛来したのは砲弾でもない。レイドの放った左拳だ。

 古来より人間に与えられた、肉体による原始的な物理攻撃。当たり前だが、化学兵器と比べれば爆発はおろか火傷さえも負わせられない。

 

 代わりに、理性を消し飛ばした。

 

「オレは頼めば殺してくれる便利なもんじゃねえンだよ。死にたいつったな、オメエ。なら死なせねえよ、たりめえだろ、オメエ。オレが飽きるまで、オメエが死ぬ寸前まで、生かし続けてやるかンな」

 

 熱を持たない一撃に皮膚と筋肉が破裂、圧壊され、骨が砕け散る。軌道上の全てを等しく薙ぎ倒し、硬度の差をまるで構わず拳は振るわれた。

 ゆえに、抉った、とは過剰表現に値しない。文字通り顔の右側が削り取られてスバルの体は吹き飛んだ。そして、白い壁に激突する。舞い上がる砂塵は無く、弾け飛んだ血と原型を失った肉だけが足元に散らばる。

 無味で無色の空間に色付けられた死の欠けら。強烈な紅の淀みと、鼻腔を潰す異臭。

 

「く……おァ…………ッ、あァァ…………ッ!」

「一度殴られたくれえで伸びてンのか、オメエ。色々垂らしやがって、汚ねえな便所野郎。シャンとしろシャンと」場違いな説教を、レイドは至極つまらなそうに吐く。「それとも、オメエ、まさか女か? だったら稚魚ン中入ってねえで出て来いよ。顔見せろや、オメエ。顔見せて、マブだったら特別に遊んでやンぞ、オメエ」

「ぶ、ァが、ァァ…………はッ」

 

 言いながらレイドはどしどし蹴りを入れる。スバルの方は右下に穿たれた穴から嗚咽を漏らし、崩れ落ちそうな顔を両手で掬うようにして押さえるのに精一杯だ。しかし爛れる皮膚は指の間から滑り落ちて血溜まりに転がる。

 自分がやっておいて気持ち悪そうにそれを眺めるレイドだったが、ふと鼻を鳴らしたかと思うと、表情が険しくなった。

 

 臭いだ。今しがた出血して流しているスバルのものとは違い、ある程度時間が経過した腐臭が漂ってきた。よく見れば彼の足元に黒く変色した血が付着している。階段を上がってきた際に粘着質の音がしたのはこれだったのだ。

 

「下の階の連中を、殺したのかよ、オメエ。いや待て……下には、誰もいねえぞ」

 

 問う声に、やはり返事はない。エミリアたちを皆殺しにしたというレイドの考えは、しかし的外れだ。

 スバルは彼らを殺していない。ただ、食事をする際に、ほんの少し流血が伴っただけのこと。

 

「ォ、あだい、たぢの……名ば、えは……魔ァ女ぎょ、う、だいィ……ざッ、じゅきょう、『ぼゥしょぐ』、の、…………ルイ、アルネブッ」

「────」

「……が、だげと、これがァ、らはァ、──ナツキ・スバルだ」

 

 壁に手を付き、ぐちゃぐちゃになった顎を零しながら、おもおむろに立ち上がるルイは笑っている。口は崩れて呂律も回らないが、確かに彼女は笑みを浮かべていた。

 急に威勢が良くなったというよりは、意志が突き動かしたという方が近い。生き抜かんとする意志を以って自ずから死に急ぐ矛盾。凄絶なまでの執念の一端が、狂気を交えて空気を染め上げる。

 

 ルイの目的は幸せな人生を生きることだ。それは普通、誰だって望むもの。

 誰もが幸福を欲しがり、あるいは始めから手にしている。生まれと環境によって得られる範囲には雲泥の差があるため、スタート地点だけは、どう足掻いても努力の及ばない領域だ。

 ルイはこれをぶち壊した。他人の始まりを奪い、より良い終わりが待っている人生を探した。理想の生き方。唯一の経験。どこの誰であろうとも決して値札を付けられない、最高の人生を味わうこと。

 それがルイの飽食。

 

 ナツキ・スバルを目にするまで、満足する人生は見つからなかった。『死に戻り』という生命としての理を破る力に出会うまで、ルイは世界とまともに向き合わなかった。無造作に食い続け、呑み続け、頂き続けるだけだった。

 そんな中、突如として現れた彼に心を奪われたことを、誰が責められよう。待ち焦がれた運命の人がついに手の届く場所に来たことを、誰が止められよう。

 

 人の身でありながら死を覆し得る存在が他にいるだろうか。──否。

 常に最良の未来を選んで歩むことに勝る人生が他にあるだろうか。──否。

 ナツキ・スバルを喰らい、ナツキ・スバルに成り切り、ナツキ・スバルの代わりに生きることが果たして幸福だろうか。──言うもおろか、応である。

 

 よってルイはスバルを食った。直接は食えないから、食事の始末は兄に任せた。

 そして死を知った。同時に愛も知った。しかし、完全に成り切るにはまだ何かが足りない。油断は禁物だ。絶対に、誰にもばれないよう完璧な振る舞いが要求される。

 人が存在するためには、他人からの観測が不可欠だ。スバルの中身だけではスバルに至らないのではないか。

 

「きォく、がァ……ィ、ひとお、かだぢゥくん、ざァ……ッッ!!」

 

 記憶が人を形作る。

 ナツキ・スバル自身の記憶と、彼を取り巻く周囲の記憶を集めてようやくそれは完成するのだ。

 

 よってルイはスバル以外を食った。手当たり次第に、全員を食い散らかした。

 スバルの幸せな未来になくてはならない存在だが、ならば食う前に『死に戻り』すればいい。

 そうすればエミリアたちの存在は保ったまま、『暴食』した彼らの記憶だけを過去に持ち帰ることが出来る。ナツキ・スバルに一歩近づける。幸せへの、新たな人生の幕開けだ。

 

「チッ、気味悪いもン見せンじゃねえよ、オメエ……あー、もうやめだ、死ね」

 

 頭上から降りかかる死の宣告。

 消し炭も残さず燃やし尽くす獰猛な炎は、けれど始まりを告げる祝福に違いなかった。

 

 

 †

 

 

 あれから、二年だ。二年が経った。

 幸せの絶頂を迎えているはずの今、身を包むのは奇しくも同じ色をした殺意の業火だった。

 

「────?」

 

 疑問を感じたのは、その脅威がスバルの体を焼き払わずに包み込んだことだ。刺すような熱がじりじりと皮膚を焦がし、眼球の水分が蒸発して目が開けられなくなる。

 だがそれだけだ。いまだ指先も燃えてはいない。殺す気がないのか、まさか、躊躇っているのか。今は分からない。

 

 炎の渦に閉じ込められた僅かな間、ライは思案に耽る。

 頭に巡るのは、ラッセル・フェローの記憶の中で見つけたロズワールの痕跡だ。

 

 ──即位式の準備で慌ただしい雰囲気にあった王国、その騒ぎから距離が遠い裏の社会に、とある噂が流れ出した。

『ロズワール・L・メイザースが、神龍殺しを企んでいる』。

 裏社会では、各々の陣地に対する縄張り意識こそ強いものの、ことが情報拡散となると表の道より早く国境を越える傾向にある。それを『六枚舌』が、ましてやラッセルが見逃すはずがない。いち早く噂を嗅ぎつけ、仕事と人目の合間を縫ってロズワールのもとを訪ねた諜報機関の長官は知った。

 噂は、ロズワール自ら、ラッセルと他国の過激派勢力へと送った招待状なのだと。

 

 龍殺し。

 態勢を立て直しつつあるルグニカが、確実に躓く一手だ。王国を崩落に誘う機会を虎視眈々と狙っていた者がこれに食い付いてこない道理は無かった。

 実情もまともに検証せず、裏のルートから王国を崩そうと試みる輩が、遠からず現れる。そこにラッセルの方から接触し、侵入を手伝うと名乗り出て欲しい。

 そう、ロズワールは数少ない友と呼ぶべき人物に話を持ちかけた。もし必要ならば騎士団団長であるマーコス・ギルダークの助力も加える。宮廷魔導師の後ろ盾が欲しければそれも貸してやる。とにかく、間諜でも斥候でも何でもいいから他国の勢力を王国内部に引き入れろ。大事には至らないよう調整する。絶対に王国の不利益に転ぶようなことはしないと。

 

 そしてそのことをスバルにちらつかせれば良いのだと。

 この発言から推測するに、彼の目的は、ナツキ・スバルに成り切った偽者の誘導。

 

 ロズワールに正体がばれた経緯については、ひとまず置いて考える。最優先すべきは彼の処理だ。

 誰にも悟られずにナツキ・スバルに成り切るという目論見が失敗した今、障害が小さいうちに芽を摘まなければならない。ロズワールがラッセル以外にも正体を言いふらした可能性があるからだ。

『暴食』の権能は敵を存在ごと処理するに長けた能力だが、その代価で現在の世界が大きく修正されてしまう。大筋は変わらないまま、事象にすっぽりと穴が出来たり役割が他の存在によって代替されるとはいえ、ロズワールの影響力は計り知れない範囲にまで亘っている。メイザース家の支援が無かったらエミリアはそもそも王になる気すら無かったのだ。スバルとも、出会わなかった確立が高い。

 そうなってしまえば、エミリアの国王即位という事実がかろうじて残ったとしても、何か肝心な部分が欠け落ちていることだろう。それはスバルの幸せとは距離が遠いものだ。

 

 殺すか、食すか。

 まずはロズワールの記憶を食べて正体を知る関係者を全て暴き、一度『死に戻り』でリセットしてから直接殺す。誰にも知られる前に戻れたら先んじてロズワールだけ処理する。これが最適解だ。細かい計画は、記憶を食い尽くしてからで構わない。

 

 そこまで考えたところでスバルは自ら炎の渦に飛び込み、命の灯火をかき消した。指先から伝うように業火が全身に絡みついた。肉体が焼け焦げる、激しい苦痛。

 その瞬間を基点として『死に戻り』の引き金が引かれた。あらゆる感覚が、世界から切り離される。

 刹那にも満たない暗転を経て世界が時間を吐き戻した。まず目に飛び込んできたのは、白い天上。体は寝転がっている状態だ。上体を起こしてみれば、窓の外にはまだ色素の濃い未明の空が見えた。視線を下げれば自室の魔刻結晶が緑色に光っている。

 

「……数時間、前か」

 

 セーブポイントの更新。

 回帰時点は『嫉妬の魔女』の基準らしいが、さすがにこればかりはどうしようもない。ロズワールには既に罠を張られているため、彼の記憶から他の関係者を引きずり出す方向で行く。

 正体に気づいていながらも遠回りな誘導を施したのは、恐らくスバルが偽者だという確証が掴めなかった為だろう。そして、『死に戻り』の発動条件を知らないから、偽者だという証拠を得た途端に殺しにかかった。

 任意に時を巻き戻すと勘違いされているのは好都合だ。何度もやり直しが出来るのならば、彼を殺す方法などいくらでもある。大丈夫だ。まだ取り返しはつく。

 

 『暴食』を内に秘めたスバルは手始めに、彼の居場所を探索することにした。

 必須事項である、ロズワールの記憶の照覧。いま陥った状況の全貌が把握出来なくては何も始まらない。この命を、数個は捨てる前提で取り掛かる。

 

 ベッドから立ち上がり、履き物に足を入れるついでに身嗜みを確認した。普通の寝巻き姿だが、動く分には問題ない。とりあえずは様子見だ。誰かに見つかっても自然な格好が良いだろう。

 手に結晶灯を下げて部屋を出る。即位式を数時間後に控えているとはいえ、深夜の王城は静まり返っていた。ぺたぺたと乾いた足音だけが廊下に木霊する。

 どことなく、二年前のプレイアデス大図書館でナツキ・スバルとエミリアたち全員を暴食した後、レイドの階層へ向かっていた時を彷彿とさせる雰囲気だ。当たり前だが記憶と存在が食われた抜け殻が転がっている訳でもなく、単に人がいないだけ。辺りが暗い理由も光源が少ないという他にない。それでも、死へ赴くという点においては同じかもしれない。

 

 目的地は王城の敷地内に鎮座する対の石塔。二つある内の一つが囚人を収容する監獄塔で、もう一つは魔法の研究施設として開発された建物だ。亜人戦争以降、魔法に対する認識の変化と共に、当時王国屈指の魔法使いだったロズワールに管理権が明け渡されたのだという。

 彼がいるとすれば一番可能性の高い場所だ。ロズワール以外にも多くの魔法使いが昼夜の堺目なく出入りしているが、人を探しに来たといえば特に問題は無い。

 

 案の定、門番に「宮廷魔導師に会いに来た」と伝えたところ、これといった疑いもされずに通された。最上層の研究室にいるらしい。

 ロズワールといえど、スバルの正体を塔内の全員に言いふらしてはいまい。最低限の人物にのみ何かしら指示を飛ばしているはずだ。それとも、更なる黒幕が隠れていたりでもするのだろうか。

 仮の妄想を広げても詮無いことだ。考えを巡らせながらも足は止めずに上層へと向かう。魔法の研究所とは名ばかりではないのか、道中、ゲートが壊れたスバルにも分かるほどに濃いマナの流れが肌に感じられた。

 

 最後の階段を上がり、辺りを見回す。一本の廊下を挟んで左右交互に部屋がいくつも設けられていた。このどれかがロズワールのいる研究室なのだろうが。

 部屋の名前が書かれたプレートを確認しながら態度を改める。一応は本物のスバルの振りをしよう。決定的な証拠が零れ出るまでは、ロズワールも迂闊に手出しできないはずだ。

 第一研究室と表示されている扉はすぐに見つかった。何気ない風を装ってドアノブに手をかける。捻り、開け放った。

 

「あはッ、まったく面白いことを考えるなァ……かくれんぼかい? ベア子」

 

 扉を開けた先には、塔の面積を考えればここだけ外に突き出ているとしか思えないほど、細長い通路が伸びていた。それは、階段を上がった時に見たのとまったく同じ構造だった。

 

 

 †

 

 

「スバルがこの階層まで来たのよ。でも、さっそく間違えてるかしら」

「じゃあ、彼は偽者かーぁな?」

「冗談はよすのよ。……まだ。まだ、判断するには早いかしら。もう少しだけ様子を見るのよ」

 

 扉一つ、そして魔法も一つ跨いだ先の部屋に、その二人はいた。

 研究室に入ってすぐの正面に置かれたソファーに薄く腰掛け、膝を両腕で抱き寄せる少女。そして、扉付近の壁に腕を組んで寄りかかった男。順に人工精霊ベアトリスと宮廷魔導師ロズワール・L・メイザースだ。

 双方とも、魔法という分野において飛び抜けた知識と実力を兼ね備えた鬼才だが、こうして研究室で顔を合わせた目的は別にある。

 

 濃い憂慮の色を浮かばせた可憐な顔を、ベアトリスは真っ直ぐ扉の方へと向けていた。視線で穴を空けんばかりの集中。あるいは焦燥。まるで、向こうの景色を透かして見ているようだ。

 それを片目に収めたロズワールが小さく息を吐き、先ほどと同じトーンで語りかける。

 

「それにしても、こんな時間に来るとはねーぇ。一体何の用だと思う? お手洗いや散歩にしては来るべき道を大きく間違えている」

「性質の悪い質問かしら、ロズワール。これだけじゃ確証には至らないのよ」

「そうは言うが、そもそも私に相談をしてきたのはベアトリス、君じゃーぁないか。君自身、ある程度は気にかかるところがあって来たはずだ。今さら及び腰になって構えたって何も解決しないよ」

 

 押し黙るベアトリス。ロズワールの言い分は最もで、それは最初から知っていたことだ。知っていながらも、口を出る言葉は頑なに事実を否定したがる。

 それでも彼女は往生際悪くしがみ付く。小さな体には重過ぎる感情を背負ったまま。

 まだ事実とは言い切れないことがあるのだ。そしてその究明は目の前に迫っている。もう少しで、真相さえ明らかになれば、背中を押し潰しかねない重責と重圧は無くなるはずだ。

 

 杞憂だったと荷を降ろすか、重さに抗う意味を失うか、どちらかの理由で。

 

「ロズワール。お前、死にかけのスバルを見たことはあるかしら」

 

 口を閉ざしていたベアトリスが、ふとしたタイミングでそんな問いを投げかけた。

 

「彼は割と頻繁に死に瀕していた気がするけどねーぇ」答えるロズワールは彼女の出方を窺っているような態度だ。

「真面目に答えるのよ。敵に襲われて、命が脅かされている時の……スバルの、表情を見たことがあるのかを聞いてるかしら。どうなのよ」

「スバルくんの、表情を? ──いいや、無いな」

 

 懐疑の声を漏らしながらもしばし考えた後、そう言い切った。王選の行われた三年間、運命に徹底して嫌われていた──ある意味ではむしろ好かれていたのかも知れないが──スバルは数え切れないほどの困難にぶつかり、立ち向かった。その度に漏れなく死線を彷徨い、何なら渡ってきたのではないのかと思うこともしばしばあった。

 命がいくつあっても足りない、とはまさに彼の生き様を冠する言葉だ。命からがら、首の皮一枚繋ぎ、這う這うの体で、それでも最後には勝ち抜いて見せた。

 ただ、機会は幾度となくあったにも関わらず、ロズワールはまともに見た覚えが無かった。

 

 絶望を先駆けるスバルの顔を。

 

「いつだったか、一度、違和感を覚えたかしら。ほんの僅かな差異、見間違いだと言われてもおかしくない変化だったのよ」語るベアトリスの瞳の裏に、かつての光景が過ぎる。「目の前に死が迫った時、スバルは、笑っていたかしら」

「——──」

「極度の興奮状態だったとか、奮い立たせるための強がりだったとか、言い訳なら何個も思い浮かんだのよ。でも、一度引っかかった違和感は離れなかった。その後も頭に纏わり付いたかしら」

 

 ベアトリスは『聖域』での騒動以来、彼の契約精霊として、その勇姿を常に特等席から見守ってきた。膝の上に座っている時も。手を繋いで高さこそ違えど肩を並べている時も。

 死と隣り合わせの状況で、その反対側に別のものを見ていたスバルの笑み。そして活路が暗むほどに輝きを増す深黒の双眸をも。

 

「……怖かったのよ。ずっと、見て見ぬ振りをしてきたかしら。普通にいる時は何もおかしなところは無いから。いつも通りだから、勘違いだと思って過ごしたのよ。分かりにくい言葉遣いも、騒がしい雰囲気も、変わりなかった……」膝の上に握る拳を、伏せた両目が朧げに捉える。「それでも、違和感は拭えなかったかしら。そんなはずはないと否定して、ふと思い返してみて気付いたのよ」

 

 それは違和感の発見から数日か、数週間が経つ頃だったと記憶する。慌しい日々だった。どれだけの時間を何をして過ごしていたのか、当時でさえ曖昧にしか覚えていなかった。

 掴みきれない不安に包まれた日常の中、ふと無意識に蘇ったフラッシュバックが、カチリと歯車の狂いを映した。

 むしろ、なぜ見落としていたのか不思議に思えるくらいに単純な盲点だ。

 

「スバルが変わったのは、二年前……プレイアス監視塔で記憶を落っことしてからだったかしら」アウグリア砂丘へ足を運び、賢者の知恵を借りようとした際の話だ。

 その旅路に、ロズワールは同行していない。「記憶喪失……確か聞いた話だと、すぐに戻ってきたんじゃーぁなかったかな?」

「そうなのよ。まるで気紛れだったみたいに、嘘みたいにポンっと戻ってきたのよ。それから、塔の攻略は驚くほど簡単に進んだかしら」

「……悪い出来事には聞こえないけどねーぇ? スバルくんには人を動かす力がある。俗に奇跡と呼ぶべきものも、彼は土壇場で手元に引き寄せてしまう。そういう、因果の下に生まれ育ったのだろう」

 

 これに小さく首肯を返し、ベアトリスは続ける。

 

「その過程でたった一つ、死への感情以外に不審な点があるとしたら……それは都合の良さなのよ」

「というと?」

「あまりにも上手く行き過ぎたかしら。失敗らしい失敗もなく、始終一貫して完璧な選択を選んでくれたのよ。転ぶどころか躓くこともない。それに妙な薄気味悪さを感じたかしら」

「彼が異常に頼もしいことに、かい?」

「村で魔獣が呪いを振り撒いた時、『怠惰』の大罪司教がエミリアを利用しようとした時……ベティーを禁書庫から引っ張り出してくれた時だって、いつもスバルはボロボロだったのよ。肉体的にも精神的にも、傷だらけで走り回ってた。数え切れないほどの小さな失敗の上に、大きな成功を積み重ねてきたかしら。それなのに──」

 

 ——記憶を取り戻してからのスバルには、それがなかった。微々たるミスも許さず、度々に届き得る最善の道を歩き出したのだ。

 一般的に考えて汚点が減るのは良いことだ。人は誰でも、出来るならばより完璧に在ろうとする。わざわざ良くない方向へ行こうとは思わないし、そつがなくこなせるに越したことはないだろう。

 しかし、ベアトリスはスバルを一般論に当てはめる事が出来なかった。

 そんな彼女の告白を受け入れ、変わりに動いたのがロズワールだ。

 

「一応、彼には罠を一つ、張っておいた。もう、私の中ではすでに答えが出ているよ」

「ロズワール。お前はまた、何を……」

「おっと。そう怖い顔はしないで欲しいねーぇ。別に、道徳に反した悪事を働いたつもりはないと断っておこう。単純なことだ。彼がこんな時間に、一度も来た事のない私の研究室を訪ねる理由を限りなく絞っておいた」淡々と語るロズワールの言葉の陰に、ただならぬ剣幕が滲み出る。「ここに来たということは、未来で何かただならぬ出来事が起きる……いや、起きたということであり、それは私による処置の他にありえない。あのスバルくんは偽者だ。何かに、憑かれている。体や記憶だけでなく、力までなにもかもだ」

 

 ベアトリスが懐疑の視線を向けるのも無理はない。彼女は『死に戻り』を知らないのだから。ロズワールも死亡が引き金だという事実までは知らないものの、幸い彼の策略は、それでも十分に機能する。

 ロズワールが推測するに、スバルの皮を被っているかも知れない敵はこの状況を維持しようとするはずだ。監視塔からの帰還後、やけに抜け目無い行動を選んだように、時間遡行を過信して完璧を求めている。翻して、変化を恐れているのだ。

 もしスバルに何の異常も無かったら、シノビの侵入に当惑こそすれど時を巻き戻さねばならないほどの大事に発展しないため、警戒程度を高めるだけに止まる。後は裏で残党処理をすれば済む話だ。それを可能とするだけの力がロズワール、ラッセル、マーコスの繋がりの中にはある。

 

 しかしその際に彼が過剰な反応を見せ、偽者だと判明した場合にのみ、ロズワールは彼を死へ追い詰めると決めていた。殺しはしない。そうすれば、スバルは過去へ戻ってロズワールに接触を試みるはずなのだ。

 仮に、偽者がロズワールにばれないまま時を戻したとしても、ループを繰り返す内にいずれロズワールまで辿り付く。そして事件が起きる前、まさに今のようなタイミングで研究室を訪ねるだろう。そうでなくても万が一の為に、ベアトリスの相談を受けた数ヶ月前から、彼の訪問を警戒していた。

 ゆえにロズワールがしくじる可能性があるとしたら、計画を組むより前に偽者が遡行してしまう場合だ。もしくは、あり得ないとは思うが、本物のスバルが何らかの異常事態に時を巻き戻し、ロズワールのもとを訪ねた場合。

 

 偽者とはいえど、今まで共に過ごしてきたスバルを殺すべきなのか、ロズワールも最初は考えた。

 何か元に戻す方法があるかもしれない。少なくとも、エミリアやベアトリスたちは真っ先にそれを考えるだろう。しかし、やり直しの力までもが敵に渡ってしまっては大変だ。消えた時間での記憶を持ち越せない側からは、戻ったという事実すら知り得ないのだ。

 だからこそ未来でシノビに対する反応を窺い、時を巻き戻せると確信してようやく殺すことにした。早急に、こちらの真意がばれる前に処理しなければならないのだ。

 結果的にエミリアたちに憎まれることになったとしても甘受する。そんな覚悟をもって。

 

「外的な支配か直接な乗っ取りか……契約者の君でさえ見抜けないとなれば、相当に高度な術の可能性が危ぶまれる。私の目にも異常が映らないことから魔法という線も薄いよ。内側から精神を蝕み、身近な者にも悟られないほど隠密性に長けたものねーぇ。私が知る限り、答えは一つしかない」

「……権能、かしら」

「その通りだ。敵は九割方、魔女教の大罪司教だと推測する。そしてこんな芸当が可能なのは『暴食』……何とも、因縁を感じる」静かに細める目は、憎悪に彩られていた。「しかし私は、魂の契約の都合でスバルくんの歩もうとする道筋を真っ向から妨げることが出来ない。何者かに操られた彼を束縛から解放することが、契約に抵触するのかしないのか、それは相互的なことだから分からないが……もしそれが無くても、私はね、ベアトリス」

「——──」

「私は君に、終わらせて欲しいと思っているんだ」

 

 見開かれる群青の目に、映る白い顔は道化のそれではない。蝶の刻まれた瞳孔に迷いと恐れが波打ち、波紋を広げ、小柄な身を振るわせる。それがいかに酷な言葉でどれほど情を排した頼みなのか、他の誰に推し量ることが出来ようか。

 ベアトリスが運命的な決断に至るまでの時間を、ゆえに邪悪な声は与えない。一寸の理解も心遣いも彼の悪意の下には存在し得ないから。

 

「——なんだァ、もうそこまでばれてたの?」

 

 カツン、と。

 足音が、外の床を叩く。

 

 弾かれた二つの顔が扉の方へ向けられた。話し込んでいた隙を突かれてたじろぐベアトリスの肩を、ロズワールが掴む。だが身震いは段々と大きくなっており、身体の中ではより複雑なものが膨張しているだろう。

 思わず息を呑んだ緊張感にゆっくりとした足運びが響き、徐々に近づいてくる。着実に、近づいてくる。近づいてくる。そして。

 

 ガチャリ、と。

 

「っ──く、足音はフェイクなのよ! 背後に回られているかしら、ロズワール──!」

 

 注意を引き寄せる音とは別に、背後から発生した殺意に感付いたベアトリスが叫んだ。俯いていた彼女の目には見えたのだ。

 ロズワールの足元から、濃密な影の手が這い上がってくるのを。

 

 声が響いて一コンマ経ち──吸い込む空気が、引き締められて凍て付いた。

 白く煙る息を吐いたと認識した時、すでに周囲は青みを帯びたまま停止している。影から飛び出た手は霧氷に覆われ、鈍くひび割れながら凍っていた。これだけ急速に温度を下げる魔法は、四百年を生きたベアトリスでさえ知り得ない。恐らくは基本応用とロズワール本人のずば抜けた技量が可能とさせた極の領域だ。

 

「風魔法で足音を偽装するのはオットーくんにでも出来ることだ。そんなものに騙されるようでは、さすがに宮廷魔導師の名を掲げられないよ」

 

 振り向き様に放った回し蹴りが氷の魔手を砕き、粉々に輝かせる。熱を奪われた研究室に道具と資料が凍結の断末魔をカチコチと上げる中、ロズワールだけは己のマントを寒さと共に振り払い、ベアトリスに掛けてやる。彼女は戦意以前に意欲そのものを喪失したのか、椅子から動こうとしない。

 次に腕を大きく振るうと漂うのは六色の光の球だ。純粋なマナに色を与えた塊。それぞれが広い部屋で飛び交い、しらみつぶしに索敵を行う。

 

 数秒後。燃える光が本棚の影に弾かれたのを、ロズワールの黄色の色彩は見逃さなかった。途端、凍える空気を裂いて透明の刃が殺到し、床が無残に引き千切られる。衝撃で吹雪のように舞う紙くず、それが冷却されて硬い音を床に立てるより先に、耳をつんざく轟音が部屋を軋ませた。

 冷気を纏った暴風が追撃とばかりに、崩れかけの部屋の悲鳴を無視して吹き荒ぶ。

 怒涛の魔法攻めに耐性を持たない壁は、いとも簡単に粉砕されて星一つ煌かない夜景を映し出した。塔の最上層だ。遠からず明けようという夜闇を遮るものは何もない。その闇に紛れ、黒い何かが夜空を横切る。

 

「暗器か。影からの出現といい、シノビの技を使うのは私に対する皮肉かな。そうしなくては正面から向かい合えないなんて、馬鹿げた理由ではあるまいしね?」

「いいね、いいさ、いいよ、いいとも、いいんじゃない、いいに決まってる、いいってんだからさ! 暴飲ッ! 暴食ッ! この平穏は僕たちのものだ! この安寧は俺たちのものだ! 誰にも渡さない、渡してたまるかッ! 食ってやる! お前も、お前の策略も、一つ残らずぜーんぶ平らげてやるさッ!」

 

 宙に渦巻く掌大の風が、飛来した何かを受け取る。

 甲高い音色を鳴らして勢いを失った刃物。投擲に適した流線の形状は速度と隠密性を重視したデザインだ。そういった特性から主に暗殺道具として多用されるため、最初の一撃で仕留められなければほとんど意味がなくなる。

 そうと知っていながら無駄に消耗した。自棄になったのでなければ、単なる威嚇以外の意味があるということだ。

 床に落ちたいくつもの刃、その腹に小さい模様を描いた燐光が不気味な赤を灯していた。ロズワールが直後に気付けたのはマナの運用方法に関する深い造詣の賜物か。

 

「これは鋼じゃない──魔鉱石の加工品か! ベアトリスっ!」

 

 魔法で防いだ行動が仇となり、火種を得た爆弾が本来の効果を発現する。

 生じた爆風は、同時多発的に連鎖を引き起こして膨れ上がった。先の猛攻をも上回る威力が、限定された空間内に溜まって荒れ狂い、やはりこれを破壊する。今度は壁だけではない。かろうじて支えていた床も、そして遥か下の階層にまで衝撃波が及ぶほどだ。

 塔の先端が弾け飛んだ光景に、警護のため巡回していた騎士は何を思っただろうか。頭上に倒れて来る瓦礫の雪崩れに、何が見えただろうか。

 

 辺り一帯を呑み込むほどの理不尽な殺意だ。

 悲運の被害者の感情など、喰らう側からすれば斟酌するに値しない空音。そもそも、彼の犠牲が張本人に知られてはいるのか、そこからだ。

 

 生憎とスバルの目には、視線の交差する道化顔しか見えていない。ベアトリスを腕に抱いたロズワールは降り注ぐ破片を遮蔽物にして後退し、スバルは足場として跳躍して追い縋る。

 厳密に言えばそれはスバルではない。要所要所に合った力を持つ体へと姿を塗り替え、多種多彩な手法を以って攻撃と防御を切り替える自由奔放さ。ありとあらゆる状況に適応するその在り様は洗練された魂の集合体。

 純粋な努力で物にしたのであれば尊敬すべき領域を、しかし横から奪い取っただけの彼は土足で踏み躙る。枯れ果てることのない食欲の力量。冒涜を冒涜と悟られない悪質極まりない存在だ。

 

『暴食』を冠するライ・バテンカイトス。その本領が遺憾なく発揮されている。

 

「その人を真にその人たらしめるのは中身! 器なんて外見だけだろォ!? 忘れられた人たちも、みんなみんな、僕たちの中で共に生きているんだッ! スバルくんに、俺に会いたいのなら、俺たちと一緒になればいいんじゃない? それがいいよ! なァ、そうだろベア子! ロズっち!?」

「その呼び方を、お前が口にするんじゃないのよ!」

「私も同感だね。耳が腐りそうだ」

 

 ライの口にした呼称に目が覚め、明色のスカートを大きく翻したベアトリス。自身の背丈よりも長いマントは翼のようにはためき、ムラクだけでも浮遊を可能としている。

 ロズワールが手を差し出せば、ベアトリスは躊躇無くその手を取って前へ向けた。

 空中で寄り添った二人。繋がれた手から、素人目線で見てもおびただしいほどの魔力がその一点に注がれる。魔法という概念の神髄に迫った魔導師と、陰属性の極みを体現した大精霊。継ぎ接ぎだらけの盗人に挑むのは、それぞれ四百年の歳月を背負った途方もない意地と、曲がりなりにも続いてきた兄妹の怒りだ。

 一度に複数の能力を同時使用できないライは地上に降り立ち、迎え撃たんと歯を剥き出した。

 

「ベティーにスバルを終わらせて欲しい? 冗談言うんじゃないかしら、ロズワール! お前も一緒に責任取るに決まってるのよ」

「まったく。やる気を出したと思ったら巻き添えかい、ベアトリス。……いいだろう。君のその意思に、賭けてみようじゃないか」

 

 未明の空を舞う二人は知る由もない。スバルを殺しても、殺意の螺旋は終わらないということを。運命の結末にどうしようもなく気付けないまま、湧き上がる希望に身を任せ、裁きの一撃を憎き得物に照準する。

 太陽はまだ、稜線の向こうに隠れて見えない。



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なおも続く因果

 淡い白を荒塗りにした雲がたなびく未明の空の下、二つの殺意と悪意が対峙する。

 

 先に動きを見せたのは、ライの方だった。

 左足を軸に全身を九十度回転。体のバネを使って素早く駆け出す彼を、空高くに舞い上がったロズワールとベアトリスが目で追う。彼の目指す方向は塔だ。先ほどの衝撃で半ばまでが折れたように断面を見せており、雪崩れ込んだ瓦礫の雨で内部はぐちゃぐちゃになった研究施設。

 一部は外側に崩れ落ちたため破片が周りを囲って迂闊に近づけない環境と化している。しかしライは躊躇無くそこへ飛び込み、自身の倍はあろうかという破片を持ち上げた。

 

 事態を収拾しようとしている、などと呑気なことを考える馬鹿はいまい。

 外壁の崩壊地点だ。両手で振りかぶった鉄の塊を、ライは無造作に放り投げた。ただ、どう見ても体格的に無理がある。スバルはお世辞にも見事とは言えない体つきだ。単純な筋力はもちろんの事、圧倒的に経験が足りていない。

 

 すぐに落ちると思われた鉄塊は、しかし僅かな失速もなく二人のいる上空へと真っ直ぐに飛んでいた。

 

 あり得ない光景だ。

 それはスバルの体だが、明らかに姿が違う。移動する際の癖が、身を強張らせる姿勢が、動作の合間に挟まれる呼吸が、引き締められる筋肉の震えが──何よりも、戦闘態勢に入った所作から自然に滲み出る佇まいが、元のスバルのそれとは全く以って違っていた。

 直前までが俊敏な足運びに主眼を置いていたとするならば、今は重心を低くして巌の如き安定感を得るような体裁きだ。足をどう広げ、手をどこに置き、力をどのように入れれば良いのか。およそ常人とは天と地ほどの差がある離れ業を、常人の身で成し遂げている違和感。

 

『暴食』の大罪司教に向けられる怒りの種類は、個人的な恨みだけではない。

 それは本人の技量とてんで不釣合いな経験の現われに起因する。恐らくは何らかの分野で最高峰の実力を誇っていただろう極点を、あたかも自分の力だとばかりに見せつける性質の悪さ。

 不可侵だったはずの匠の技術を頑是無い子供が我が物顔で扱うのだ。誰のものとは分からずとも、拠り所のない屈辱感が込み上げてくるのは道理だろう。

 

「悲しいなァ。何十年も前、俺が筋肉の動かし方ってもんを叩き込んでやったじゃァないかよォ! だーれのおかげであの重い鉄球を、投擲する武器として使えるようになったのか、もう忘れたのかねッ!? ええ、おい、ロズワールゥ!? 棘付きのやつはどうした。まさか捨ててはないだろォなァ、なあお前さんよォ? ──おっと、モーニングスターはレムにくださったのでしたね、ロズワール様。あの時は助かりました」

 

 ──訂正しよう。頑是無いとは誤りで、その動機は他でもない、悪意だ。

 

「虫唾が走る。それ以上、何も喋るな」

「違うかしら、ロズワール。もう何も喋らせない、なのよ。──ウル・ミーニャ!」

 

 もはや驚くという感情も奴の前では消え失せてしまう。

 ベアトリスの詠唱と同時に大気が震え、陽炎にも似た歪みが細長い杭の形状を帯びる。鋭い切っ先は勢いを殺さずに飛来物の中央を貫通。続く二投目を横から引き裂き、更に二つを串刺しにした。

 破片は大きさの差があるが数自体は多い。弾切れの心配が無いのをいいことに、ライの妨害は止まる事を知らない。

 これに対抗すべく、繋いだ右手からロズワールの魔力を吸い取り、ベアトリスの眼前に生み出される新たな杭。その数、十本。

 それぞれが別方向から迫って来た破片を撃ち落としてなお加速、幾つもの軌跡を紫電に塗り替えながら、ライの元へと急降下する。

 

 ライはすでに、攻撃を諦めて走り出している。行く道を遮るように積み重なった瓦礫の山が現れ、それを両手両足で器用に登るが、空から襲来する魔法の方が断然速い。

 一撃、仰け反ったライの胸元を掠めて遠くに着弾した。横顔を叩く空気の振動に風切り音が交じり、振り返った瞳に映るのは挟撃の三発だ。彼はこれを一瞥で全て把握し、咄嗟に構えを取る。

 まさか素手で弾くつもりか。

 

 そう思わせたが否か、雰囲気が一瞬で切り替わる。黒い瞳が一度闇に呑まれ、次の瞬間には別の光を宿した。

 体裁きではやり過ごせないと判断したのか、目前にまで迫った杭を、瓦礫の山から引き抜いた鉄板で振り向き様に受ける。耳に届くのは、鉄の拉げた音と骨の軋む音だ。

 強引だが斜めにいなされたそれが、頭上の杭とかち合い軌道を狂わせて小規模の誘爆を起こした。そうして明らかな乱れが生まれる。その隙間を縫って抜け出した勢いのまま、ライの足が地を離れる。

 

 狙いを外した杭の弾ける音を背に、彼が飛び込んだ先は研究塔の内部だ。常駐していた魔法使いたちは事情を知らないためパニック状態に陥っている。半壊した施設内を好き勝手に走り回り、ベアトリスの死角に身を潜めるライ。無闇に攻撃を加えては、彼らが巻き添えになってしまうだろう。

 人払いをすべきかとしばし考え込んだベアトリスは、首を振った。そして空いた左手を壁に遮られて見えないライの方へと向ける。その意図を汲み取ったロズワールが高度を下げると、彼女は鼻を鳴らした。

 

「スバルの体は出来れば傷付けたくないかしら。それが、ベティーの殺す条件なのよ」

「あくまで内側の『暴食』だけを始末すると? それはまた随分と都合の良い無茶振りをするもんだ。まあ、かわいい妹分の頼みだからね。やれるだけやってみようか」

「お前の妹だなんて、心底ぞっとしない悪夢かしら」

 

 言い切り、彼女は視線の先に力を込める。施設内をなりふり構わず走り回るライ。その移動を先読みし、意識を照準する。目に見えなくても奴の動きは筒抜けだ。

 仕掛けておいた『扉渡り』は、建物の全域に施されていた。上層が崩れても完全には切れていなかったのだ。

 

 ガチャリ。

 ライの開けた扉の奥が、目に見えない道を辿って別の場所へと繋がる。空間のズレは捻ったドアノブの感触に薄れ、感付かせない。もっとも、感付いたところですでに手遅れだが。

 勢い良く飛び出た先は、下りてきたロズワールとベアトリスの目の前だった。壁が崩落して部屋の形をほとんど残していない場所だ。

 黒の瞳にそれを上回る漆黒が映る。二人の繋がれた手から迸った、成敗の魔法だ。

 

「あ、」

 

 直撃。そして沈黙。

 口だけの狭義ではない。全身が果てない闇の中に投じられ、電源が切れたかのように操作を受け付けなくなる。肉体を制御する意思の沈黙、それがもたらすのは完全な静止だ。毛先の微動も、ほんの少しの空気の震えさえも、沈黙の支配下においては許されない。

 静かに、あらゆる音を排してライの動きが止まった。呼吸と一緒に。

 

 「……スバル」

 

 とうに失われた者の名を口元に運び、ベアトリスは床に降り立った。逡巡の末に、立ったまま動かないライ——スバルへ近寄る。彼の頭を、後ろから優しく撫でた。

 抱き締めるように、膝を折らせて胸に引き寄せる。だらりと力なく垂れ下がった腕は抱き返してくれず、印象の悪い目は眼前の認識も出来ず、呆けて開いた口は何の感情も聞かせてくれない。二年前から、それはとうに奪われていたのだから。

 

 遅すぎる悲哀と後悔が少女の胸中を満たす。許容量を超えた分だけの涙が溢れ出し、スバルの肩を濡らしていく。

 心残りは、山ほどあった。

 四百年を待ち続けてようやく出会ったと思えば、その四百年を真っ向から否定されて。刻んでやると言ってくれた一瞬は、本当に、あまりにも短い時間で。いずれ来る終わりを覚悟していたはずなのに、訪れた結果はひどく呆気なくて。笑い合う未来も共に歩む道も固く繋ぐ手も、だって、全然、足りなかった。

 

 勝手な男だ。いつもいつも、忙しなく面倒事を引っ張り出してくる男だった。

 あれだけうるさく騒ぎ立てながら始めたくせに、終わる時だけこんなに大人しいなんて、何を考えているのやら。馬鹿騒ぎが得意技ではなかったのか。

 差し伸べてくれたその一瞬が、こうなるなら最初から要らなかったなんて思わないけれど。

 でも、一言だけ、文句を言うならば。

 

 せめて、別れの言葉が欲しかった。

 

「──あァ、それなら私たち、ルイ・アルネブが代わりに言ってあげるサ、ベアトリス」

「ぇ、……」

 

 もう一度、手が差し伸べられる。

 ナツキ・スバルの、救いの手が。

 

「離れろ、ベアトリスっ!!」

 

 捕食者が最も弱くなるのは、獲物を狙い喰らう時だという。自身が狙われるという考えに及ばないばかりに、決定的な優位に立った途端、同時に自らの弱点まで無防備に晒すことになるから。

 状況の反転、その間際こそ緊張が解ける瞬間だ。頭では分かっていても、なまじ感情という傷が生まれつき刻まれているために、人はなおさらその過ちを犯し得る。そういうものだと受け止めなければ、納得のしようがないほどに単純で複雑な欠陥なのだ。

 ならば、人が最も脆くなるのはいつなのか。

 

 救いの手が、目の前に迫った時だ。

 

 救われる寸前にこそ、その救いとは最も遠い場所にいるのだと、ベアトリスは気付けない。

 彼女の頬に手が添えられる。流れ出る涙を拭い、肌を這う指先。それをスバルは口元に持っていき、掌から舌で舐めとる。

 

「イタダキマス」

 

 礼儀も尊厳もかなぐり捨てた挨拶。感謝の欠片すらない字面だけの意味で、一方的な食事が宣言された。

 相手に触れて名前を喰らう。これ以上なく簡単なことだ。今まで何百、何千と行ってきた。どれほど強い相手だろうが、一度でも触れられさえすれば勝利が確定する。ただ、その勝負自体が曖昧になるせいで百戦錬磨と認識されにくいことも事実だ。

 けれど『暴食』する目的は勝敗にある訳ではない。戦績が誰の記憶に残らなくても、特に気にすることではない。

 

 食べる行為こそが重要なのだ。

 

 しかし前述した通り──捕食者が最も弱くなるのは、獲物を狙い喰らう時。

 忘れようにも忘れられず、思い出そうにも思い出せない奇妙な理だ。意識しているつもりでも、肝心な場面でいつのまにか手放している。

 

「ふッ」

 

 長い舌は何も取れずに虚空を滑り、挨拶は空振りした。しょっぱい涙の味がするはずだが錆びた鉄の味が舌に落ちる。

 落ちる?

 何が?

 どこから?

 

 落ちたのは、今しがた舐めようとした自分の左手だ。落としたのは、切断された手首からの出血だ。

 腕を顔の高さまで上げた姿勢のまま、スバルの体が、脳からの命令を無視して聞く耳を持たない。しかし、ライがやられたことで肉体の操作を引き継いだルイは、直前までの魔法の影響を受けていないはずだ。はずだった。

 だからベアトリスの急所を突けた。不意打ちが成功した。上手くいったにも関わらず、なぜか今は動けない。

 

「何をしている。誰に、手を出した?」

「────」

「……いい。答えるな」

 

 返事を期待しない声がいつかの記憶を呼び起こす。ほんの数十分前だ。『死に戻り』の切っ掛けを与えた、あの冷酷な声だ。

 焼き尽くされる前に聞いた。耳に焼き付けられた。離れない。激情を抱いた一声が、鼓膜を切り裂いて脳に直接言葉を叩き込んでくる。

 ロズワール・L・メイザースの、憤怒の刃がスバルの手足を斬り刻んでいた。

 

 四肢が胴体と繋がっていないのだから当然動けるはずもない。支えるものも無くなって額を地面に擦り付け、ただ刻まれるのを見ているしかない。頭上に燃え盛る怒りの眼差しに映った、自分の姿を見る以外に出来ることがない。

 

 そう、思わせる。

 ルイは息を止め、ただひたすらに届くことを考えた。

 

「ベアトリス。傷付けずに始末するのは、不可能だ。ごめんよ──」

 

 接触した瞬間に、ルイの勝利は確定する。

 たとえ両手を失ったとしても。触れられるものが、まだ残っているのなら。

 

「あたしたちの目的は最初からお前だったのに、もう忘れたの? ──インビジブル・プロヴィデンス」第三の手が、不可視の手が、望むものに届くための手が、ロズワールの胸元を撫でる。「そして、拳王の掌!」

 

 言うが早いか、固いものが折れる鈍い音がした。

 それは真っ直ぐに伸びたインビジブル・プロヴィデンスがロズワールの胸骨を圧し折る音であり、ルイの骨格が内部構造から変化する音でもあった。

 記憶から引っ張り出した感覚を、自分の胸辺りから伸びた黒い腕に送り込む。『怠惰』の権能に『暴食』の権能で得た力の上乗せ。成功するかどうかはどうでも良かった。彼に触れた時点で、すでに目標は達成されたからだ。

 

 結果は、ロズワールの骨を砕いて内臓まで圧迫し、長身を易々と吹き飛ばして証明された。逆流した血を吐き出しながら、道化の顔が無理解に歪む。魔女因子による権能はどれだけ魔法を極めた人間でも決して及ばない域の代物だ。純粋な努力と、そして才能までもを捻り潰す。

 体は放物線を描いて上空へと舞い上がった。しかし落下すると思われた寸前、ロズワールはマナの震えを伴って自身を空中に縫い止める。呼吸するたびに口腔から溢れ出る鮮血を押さえようともせずに、ジロリとルイだけを見下ろしている。ルイの頭を占める数多くの記憶の中にもあのような飛行術は無い。彼が独自に編み出したと思われる、練磨と研鑽の結晶だ。

 だが反撃に移る時間を、ルイが与えてやる道理は無い。

 

「ロズワール・L・メイザース。お前のミドルネームを知るのには苦労したわ。でも今じゃァ、大図書館で散々探し回ったのも懐かしい思い出だね──イタダキマスッ!」

 

 誰にも共感されない思い出を誰にも聞こえない声量で呟き、喰らう。

 ロズワール・L・メイザース。

 彼の記憶は、その瞬間を以って、世界から失われた。ロズワールという存在を支えていた糸の一つが切れ、彼の体はまさに人の手を逃れた操り人形のように、プツリとの断末魔も無く落ちていく。取り戻しかねた瞳の光が、瓦礫の山に消える。何の抵抗も見せずに沈む。

 終わった。

『暴食』の食事が成功すれば、わざわざ生死を確かめる必要性は無い。効力は確実だからだ。

 

 大切なものを取りこぼした抜け殻が、無様な身を晒していた。

 

 一方ベアトリスは、頬の感触を確かめるように手で触れ、どこか焦点の合わない目で前を向いている。意欲や覇気といったものはとうに霧散していた。彼女には先ほどスバルの姿で手を差し伸べた際の衝撃だってまだ残っている。もはやルイを殺すどころか、敵と認識しているのかさえ怪しい。

 無論、ルイからすればまたとない好機の一つだ。四肢が欠損したままの、ナツキ・スバルに再度変化する。

 

「ベアトリス、お前は俺だけを見てればいいのサ」

「────────────ぁ、す……すば、ぅっ」

「イタダキマス」

 

 二度目の食事は、手短に終わらせた。

 たった今影を掻き消された少女がくずおれるのを尻目にルイはロズワールの記憶を手繰る。ベアトリスに相談を受け、策略を練り始めた辺りから準備と実行に至るまで。誰を引き込みどの程度の情報を共有したのか、その全貌を。

 少しでもライやルイら『暴食』の正体に近づき得る者がいれば、早いうちに処理するためだ。

 

 いや、ロズワールの記憶はもう頂いたのだ。急がなくていい。ゆっくり記憶を吟味し、関係者を暴きだし、始末する。それで解決するだろう。

 一度も死なずに、ルイへの交代だけで達成できたのは僥倖だった。

 今回の経験と戦利品は次に生かせる。次は、きちんと対策を取って掛からなければならない。今回のように記憶だけを喰ったとしても、ロズワールなら事前にそれを別の場所に移していてもおかしくは──

 

「──ァ? なに、これ。記憶を、移す……?」

 

 ふと、思考を掠った違和感にルイは眉を顰める。意識が小さく静かに波打ち、音を立てて広がるのは疑問だ。

 今、何を考えた? 否、どうやって考えた?

 

 ロズワールなら自分の記憶を他に移しているかもしれない、などと。

 

 今の今まで、そんなことを憂慮した覚えはなかった。最初から存在を喰らうか殺すかを考えた時も、記憶喪失にさせるという選択肢は思い浮かばなかった。ロズワールならば記憶がなくてもその厄介さは消えないだろうという予感が無意識にあったからだ。処理するなら徹底的に、決して油断は犯すまいと決めていた。

 その無意識が、急に引っ張りだされた。意図せず触発されて頭の中を巡る不可解な異物。だが一体、何に、どこから?

 

「……こいつ、記憶が、ない。三十年以上前からの記憶が、一つもない! どうしてッ!? 『暴食』は成功したはずッ! 確かに食事は行われたし、奴は抜け殻になったのに、どうして……ッ、あ、あァ」

 

 言いさし、はたと気付いた。

 答えなら今さっき、自分の口で言ったではないか。

 

「──四百年前から、私は自分の子孫を器とし魂の転写先へと利用していた。初代から今代まで……私のこの名には、十二人分の魂が入り混じっている。そこから一つのものだけ選んで食おうなんて、都合が良すぎるんじゃないかな?」

 

 後ろから耳朶を叩くその声。振り返る勇気、以前に力が入らない。

 

 考えてみれば、おかしな点はいくつもあった。

 スバルを騙ったのが『暴食』の大罪主教とまで当たりを付けておきながら、それに抗する対策もまともに立てていなかった。ただただ『死に戻り』の時間遡行に過敏に着目し、疑念の確証と誘導を施す以外のことをしていないように見えた。少なくとも、ライとルイの目には。

 実際、こうしてロズワールとベアトリスは『暴食』の権能を前に敗北を喫したのだ。あれだけ準備をしておきながら本番の勝ち筋を甘く見ていたなど、本末転倒も甚だしい。

 

 道理で上手くいったわけだ。

 

 喉の奥の疼きが全身に熱を伝える。ただちにこの場から逃げろと、本能が騒ぐ。

 動こうとして、今の姿がスバルのままだったことに気付いた。体を起こすには別の誰かに変化しなければならない。

 しかしロズワールは、その準備を待ってくれない。

 

 パンプスの固い靴底が胸を上から床に押し付ける。深く暗色を含んだ藍色の髪はロズワールのそれと相似しているが、グリグリと肺を圧迫されて呻くルイを、冷徹な青の眼差しで見下ろした少女の容貌は正反対と言ってもいい。

 それもそのはず、強烈な威圧感と裏腹に端整な顔立ちをした彼女は。

 

「あ、アンネローゼ、ミロード……どうしてッ!?」

「彼女には本当に悪いことをした。出来れば、こうせずに終わらせたかったんだが。……起きれるかい、ベアトリス」

「な──嘘だ……ッ!」

 

 メイザース家の分家、ミロードの血を十一年に亘り継いで来た少女、アンネローゼ。分家とはいえど血の繋がりは確かだ。父母であるダドリーとグレイスが死没した以上、ロズワールが魂を移すに当たって、最も安定する器は彼女の他にはいないだろう。一番の障害である親和性と道徳性の問題をギリギリ乗り越えられる唯一の鍵と言える。

 ──スバルの成りきりを暴いてエミリーを救ってあげて、と彼女に直接頼まれたから。

 そうしてロズワール・L・メイザースの魂は記憶ごと彼女の肉体に転写された。元々、度重なる転写でない交ぜになった魂だ。更には主体が抜け落ちた残滓で、まともな食事が出来る訳もない。

 

 まだ幼きアンネローゼがルイの傍らに目をやる。その所作も雰囲気も、ルイの知っているアンネローゼとはまるで違う。

 それもそのはず、今や彼女の肉体の制御を行っているのはロズワールだ。

 そして先ほどインビジブル・プロヴィデンスを用いて喰ったはずのベアトリス。彼女まで、壊れかけた壁の向こうに夜明けの空を背負って立ち上がる。薄い逆光を纏った金糸の髪筋に超常的な力が宿り、マナを震わせて発光した。

 

 魔法を行使するのか、とルイは身構えたが違う。

 逆だ。掛かっていた術が、この期に及んで解除されたのだ。解かれてやっと、今まで囚われていたのだとその事実に驚かされる。そうしなければ気付きもしなかった異常。

 知らず視界の端に淀んでいた闇が晴れ、遅れて他の感覚も鮮明になっていく。警鐘を鳴らしていた喉の疼き。それもまた堰を切られて込み上げてきた。

 

 実体を伴わない吐瀉物。

 喰い損ねたロズワールとベアトリスの記憶だ。

 

「一部の感覚だけ返してやるのよ」

「ぅ、おぇ……ッ、ああ、ぶ、あああァァアアアアアが、ぐはッ……」

 

 視界が点滅する激しい眩暈と共に胃酸の辛みが喉を焼く。抑制されていた分の苦しみが一斉に押し寄せ、しかし実際に食道を通るものは何も無いため、どれだけ咳き込めど吐き出せど楽にはなれない。

 あの時、直撃したあの魔法はルイの交代だけで解けるような生半可なものではなかった。五感の鈍っていた体が、食事の失敗をルイ自身に悟らせていなかったのだ。完全に油断していた。嘗めてかかっていた。十分な勝算があると高を括っていた。

 

 とんだ勘違いだった。

 何もかも全て彼らの掌の上だった。まんまと引っかかり、大敗を喫する結果となってしまった。

 

 しかし。しかし、だ。

 元よりルイは、何度か『死に戻り』を繰り返すつもりだったのだ。トライ&エラーを前提に動いたという点で見れば、これだけの情報を一度に引き出せたのはむしろ成功ではなかろうか。

 そうだ、諦めるな。まだ始まったばかりだ。『死に戻り』の真価は度重なる失敗の下に表れる。負ければ負けるほどこの体は強くなるのだ。この程度の絶望で折れてたまるか。次だ。次は裏手を掻いて一歩進める。それでも届かなかったらもう一歩だ。

 その次こそは、必ず──

 

「さて、それでは君の処遇だが。奥の手を明かしたこちらとしては、君のやり直しはとても厄介だ。実経験に基づく完全な未来予知……それをされちゃあ後続の世界で確実に対策されるだろうからね。肉体を保ったまま精神だけ殺す作戦は失敗した。ならば、次は封印だ」ロズワールの思惑がアンネローゼの声音で綴られるのは、些かならず不気味な状況だ。「さすがに、かつて『嫉妬の魔女』がされたような高度な封印は再現できないが、要は君の意思さえ遮断してしまえば、殺せなくとも捕縛は可能なんだ。やり直すという考え自体が出来ないよう、脳の機能だけを止める」

「な、にを……」

「苦痛なく終わらせてやるんだ、これでも十分すぎるほど譲歩した方じゃないか? ベアトリスたちが大切にしていたスバルくんの体だからあまり傷付けられないことを、せめてもの幸いと……ああ、違うな。我々から彼の存在を奪い去ったこと。それこそが最大の失態だったと知れ。尤も、すでに術式に呑まれた君が何かを考えられるのかは分からないが」

 

 人が眠りに落ちる瞬間は、後で起きたらそれがいつだったか思い出せないものだ。

 ルイの思考もまた同じように、曖昧な意識の沈殿によりその堺目を本人に悟らせることなく途切れた。

 

 静まった部屋で一息吐き、ようやっと緊張を解いたロズワールがスバルの体を持ち上げる。しかし彼は現在アンネローゼの肉体だ。四肢を失ってもなお子供には重い青年は、見ていたベアトリスが代わりにムラクを施して抱き上げた。

 同じ高さに並んだ二人は目を見合わせる。

 

「彼の状態は維持するのに常時的なマナの補給を必要とする。この体では私も満足に魔法を行使できないが、ベアトリス、君は……」

「愚問かしら。これは契約精霊としての償いなのよ。偽者の成りきりを許してスバルを救えなかった罪の償い……百年でも千年でも、たとえ二千年が経ったってベティーがスバルを見守り続けるかしら。そしていつか──いつか必ず、取り戻してみせるのよ。それより、お前こそどうなのかしら、ロズワール?」

「……ああ、この体も、アンネローゼに返してやらないとね。今回の騒動をエミリア様が知ったら今日は即位式どころではなくなるだろうが……お互い、やることが山積みだ」

「──それ、どういうこと? ねえ、今の言葉どういう意味なの?」

 

 銀鈴の音色とは程遠い、とても冷ややかな声が場を包んだ。一瞬、二人してその人物が誰なのかを思い浮かべることが出来なかった。

 あまりにも場違いで、あまりにも相応しい人物だったから。

 エミリアの声だ。

 それが耳に届いてやっと、二人は周囲の異様な静けさに気付いた。妙な肌寒さを孕んだ深い静寂。夜明けの時間帯といえば納得するが、状況が状況だ。これだけの戦闘が行われて塔が半壊した現場に、人が寄り付かないのはなぜか。

 研究塔に常駐していた魔法使いたちが下の階層にいるはずだ。騎士を呼びに行ったとしても、警備の衛士の方が先に異変を察知したとしても、もうとっくに来ていておかしくない。だというのに人一人どころか物音すらしないのはなぜか。

 

 次に驚くべきは、その声が触れるほど近い位置から聞こえたということだ。

 どういうことかと問われれば、ロズワールは自身の講じた策略とアンネローゼの体を借りたことに対する了解の旨を伝えただろう。

 どういう意味かと問われれば、ベアトリスはスバルに対して抱いていた違和感と正体、及び彼の身体状態について説明しただろう。

 

 しかしながら両方とも返答に窮しているのは、エミリアへ真実を告げることの残酷さや、二人だけで解決を試みたことの弁明などが理由なのではない。

 エミリアにどう話すべきか、悩んだのは確かだ。出来るだけ彼女を巻き込みたくなかったし、それゆえに仲間外れにしてしまったという意識もある。真にスバルを終わらせる役目に相応しいのはベアトリスよりエミリアだろう。

 だが、二人の頭はさしたる抵抗も無く彼女の可能性から目を背けた。どこかで彼女を信じ切れていなかった。

 

 それは明文化する事の出来ない無意識の内に、エミリアの異常に感付いていたためだ。

 

「二人とも、おかしいわ。だって、そうでしょう」彼女は笑う。疑念も確認も口ばかりで、微塵たりとも信用してなどいない目で。「スバルが偽者だなんて、そんなわけないじゃない。……ね?」

 

 ゆえに彼女は、誰の返答も期待しない。答えさせない。答えによっては信じられなくなるかも知れないから。

 ──そんなのは嫌だ。皆を信じたい。

 そうして世界を氷の中に閉じ込め、信じられる状態のまま保つのだ。そうすれば皆に失望しなずに済むから。

 

「ふふ。ベアトリスもアンネもすごーく良い子よね。……さ、行きましょ、スバル。もう夜が明けるわ」エミリアは新たに出来上がった二つの氷像を優しく撫で、ベアトリスから引き剥がしたスバルの体を抱き寄せる。「スバル。ねえスバル。スバルは、さ。──スバルは、本物、だよね?」

 

 彼女の声は窓を叩く風の音に掻き消される。映る横顔も結露の白みに隠され、窺えない。

 一つの歯車が狂えば、最初に影響を受けるのは一番近い、隣接した歯車からだ。



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やがて始まる不幸

「──スバルは、本物だよね」

「…………ぇ、えみ、りぁ…………?」ふと開かれた視界に見えた者の名を、ルイは口にした。

 彼女は安堵の表情を浮かべ、口元をほころばせる。「良かった、起きたのねスバル。すごーく心配したんだから。大丈夫……じゃないわよね。休んでて。無理しなくていいのよ」

「ここは……えっと、その……」

「ここは私の部屋。まだ朝だし肌寒いと思うけど我慢してちょうだい。外、大騒ぎだったもの。もしかして覚えてない?」

 

 ルイは目を瞬かせる。背中に当たる平坦な床の感触。白い天井と淡く照らす明かり。棚にはスバルが過去にあげた小物や、エミリアの私物が整頓されて並んでいる。

 内装自体は簡素な印象だが、確かにエミリアの部屋だ。身分が身分だけにかなりの面積を誇るが、彼女の性格上、その広大なスペースが飾りやら家具やらで埋まることはない。ルイの操るスバルの身体を、エミリアが運んで来たようだった。

 

 場所の確認を終えて気付く。この身体は手足を全て欠損しているため、満足に身動きが取れない。

 そして頭はエミリアの膝の上に乗せられている。彼女が膝枕をしてくれているのだ。記憶でしか残っていないが、スバルは何度か経験したことがあった。思えばルイとしては初めてだ。

 一通りの状況把握が済むと、新たな疑問が浮かんだ。

 

 彼女が運んでくれたのなら、ロズワールとベアトリスはどうなったのか。

 彼女はルイの正体について知っているのか。

 後者は面と向かって聞く訳にもいかないので、探る形で聞きだすしかない。ロズワールの記憶奪取に失敗したこの周回で、次回に活かせられそうな情報は得ておいた方が良いだろう。

 

 しかしもし、もしもエミリアが取り返しのつかない時点でルイに気付いていた場合は、根本的な部分から態勢を立て直す必要がある。

 ロズワールとベアトリスに続いて彼女まで処分しなければならないとしたら、それはもうナツキ・スバルとして生きる価値がなくなるからだ。そのような人生は幸福と呼べない。折角手に入れた『死に戻り』という唯一無二の力を、二年と少しで手放してしまうのは惜しい。だが背に腹は変えられないのだ。

 ナツキ・スバルの抛棄は、あくまで打つ手が無くなった時の最終手段として残しておく。

 

「ところで、エミリアたんはなんでこんなとこに俺を連れてきたんだ?」

「スバルこそ、どうしてあんな所にいたの? 大きな音が聞こえて、慌てて研究所の方に行ったら建物が酷い状態になってて騎士たちは敵襲だって大騒ぎで……しかもそこにいたベアトリスったらね、スバルのこと偽者だって言うのよ。アンネもなんか変な言葉遣いだったし、一体どうしちゃったんだろう」

「……偽者って?」

「それが、二人とも話がちんぷんかんぷんで、私にもよく分からないの。でもスバルが危ないってことは分かったから、ここまで連れてきたのよ。だってこんな大怪我……私が寝てる間に、いったい何があったの? 魔女教は倒したはずなのに誰がこんなことを」

 

 ロズワールの魔法によって切られた両手両足の切断面は氷で止血されていた。気を失っている間にエミリアが施してくれたのだろうか。

 どちらにせよ、ここで真実を伝えるわけにもいかない。何者かの襲撃に遭ったという彼女の勘違いを利用すべきだとルイは判断した。

 

「ああ、これね……敵が手強くて、ちょっと油断しちゃってさ。エミリアたんこそ、怪我はない?」

「私は平気よ。それよりスバル」一泊置き、エミリアは真剣な眼差しで問いかける。「もしかしてその敵って、操られてるクリンドさんのこと?」

「は……? クリンド、さん? それは、一体どういう……」

「研究所でスバルを運ぼうとしたとき、クリンドさんが来てね。手伝ってくれるのかと思ったんだけどそうじゃなくて、ベアトリスとおんなじこと言い出したの。スバルは偽者です、って。本当にびっくらこいちゃったわ」

「────」

「皆、様子がおかしかった。駆けつけてきたオットーくんやガーフィールまで私の言うことを信じてくれなくて……きっと、悪い人に操られているんだわ。だから傷付けないように、一人ずつ凍らせたんだけど」

「エミリア、お前……」

「だけど、クリンドさんはなかなか捕まらなくてね、とりあえず離脱してきたの。城全体を氷漬けにしておいたから、しばらくは大丈夫のはずよ。安心して」

 

 次々と語られる事実に、ルイは二の句が継げない。

 クリンドという新たな敵──エミリアの言う敵ではなく、正体を知る者としての意味だが──の出現をも霞ませるほどの、エミリアの異変。前の周回、つまり元々過ごすはずだった今日の昼時とはかなり様子が違う。

 王位即位式のために特注した衣装を嬉しそうに着て、恥じらいながらスバルに感想を求めた彼女と同一人物だとは、到底思えない有り様だ。言動と、思考そのものに異常をきたしているみたいだ。これは『聖域』で『試練』を突破する前の精神状態と酷似している。

 

 何があったのか。考えられる原因としては、ライとベアトリス、ロズワールとの衝突だ。『死に戻り』をして初めて観測されたということは、ライが行動を変えたことによって本来起きるはずのない事象が発生したのだろう。

 しかしなぜだ。なぜ、エミリアと直接的な関係もない出来事が彼女にまで影響を及ぼしたのか分からない。それもこの豹変ぶりだ。たった数分から数十分の行動の変化でここまで差が出るものなのか。

 

 それとも。

 エミリアまでもが、とうの昔からライとルイの正体に気付いていたとでも——

 

「──スバルは、本物だよね」

「…………そりゃ、そうに決まってる、だろ」

「うん。そうだよね。ごめんね、変なこと言っちゃって。今、すごーく頭がこんがらがってるの」

 

 常軌を逸した真偽に対する執着心。いや、もはや決め付けに近い。

 言葉こそ問いの形を取っているが、その実、内容はひどく身勝手で一方的な強要だ。自分の望むものを正しいと見做してそれ以外を誤りだと断定している。

 信じたいものだけを信じ、そうでないものを徹底して否定したがる我がまま極まりない姿勢。

 

 それはエミリアが、ルイの成りきりに最も早く気付いた人物だからだ。

 

 いくらルイがナツキ・スバルの記憶を丸ごと所持し、肉体まで乗っ取って成りきったとしても。

 それでも知識として故意に見せる演技と、自然体として無意識に見せる癖には明白な違いがある。自己と他人の分かれ目。確かな限界が、存在するのだ。

 間近で見ていないと気付けないが、場合によっては間近だからこそ見逃してしまう差異。ベアトリスがまさに、方向性の変化という大きな揺れ幅にばかり着目して、日頃の仕草を意識していなかった内の一人だ。

 

 しかしエミリアは更に仔細な違いに気付いた。スバルが記憶喪失を境にズレたことをその目で見抜いた。彼女はライとルイの何気ない仕草からも引っ掛かりを感じ、小さな齟齬の燻りを胸中に積もらせていた。

 結果、それは今日の出来事により許容量を超えて爆発した。溜め込んでいたものが、ようやく開放されたのだ。ただしあらぬ方向へと。

 

「やっぱり、ベアトリスたちの方が偽物なのよね。きっとそうだわ。早く戻してあげないと……」

 

 矛先がルイではなくベアトリスたちを向いたのは、それが都合の良い現実逃避の燃料になるから。

 別にエミリアは、スバルが偽物だと主張する彼らを頭ごなしに跳ね除けている訳ではない。きちんと状況を考えた上で、彼らの心情も斟酌した末に否定している。

 

 信用ゆえの不信。

 何かを信じるということは、他の何かを信じないということだ。

 二つの相反する概念を理屈として区別する術をエミリアは知らない。知りたがらない。知ろうともしない。

 

「──そこまでです、エミリア様」

 

 誰かが指摘しない限りは。

 

「お前は──、」

「危ないスバル!」

 

 ルイが突入してきた男の顔を視認してから、その顔に氷の飛礫が撃ち込まれるまでが瞬きにも満たない刹那の出来事だった。置き去りにされて届くのは凍てつく空気の悲鳴。すさまじい風圧と冷気が頭上を駆け抜け、開かれた扉を木っ端微塵に砕く。

 次に目を開けた頃には、より大きな音がもう二度響いていた。

 遮る壁がなくなって部屋と繋がった廊下。まるで破城槌で殴りつけたようにも思える穿孔は人の背丈よりも大きく、向こうの景色が素通しに見える。

 攻撃が収まってようやくルイも状況を把握した。誰かが、氷漬けにされた城を突破して駆けつけて来たのだと。そして今の一瞬で、エミリアの放った魔法により向かい側の建物が崩壊したのだと。

 

 しかしラインハルト・ヴァン・アストレアは、破壊痕を背に淡然とした態度で佇んでいるということを。

 

 直前の不意打ちに慌てた様子どころか掠り傷一つない。マナの欠片がぱらぱらとダイヤモンドダストさながらに舞い散る中、極彩色の反射光に当てられたその立ち姿。揺ぎ無い信念が燃え盛る赤髪に、際限を知らない蒼空を瞳に映し出した顔貌。かの存在は洗練された一振りの刀が如く鋭利に戦場を穿つ。

 剣は腰に帯びた状態で、彼はエミリアを真っ直ぐに見据えて口を開く。

 

「もうお止め下さい! 無差別な破壊行為で城中は大混乱、甚大な被害と共に死傷者も少なからず報告されています。即位式という晴れ舞台を目前に控えて、なぜこのようなことを……」言い淀み、ラインハルトは倒れたスバルの姿を発見する。「……スバル! 彼を、どうされるおつもりですか、エミリア様!?」

「そう。あなたも私からスバルを奪おうとするのね。いけないわ、ラインハルトまで操られてるなんて……私が、私がなんとかしなきゃスバルと皆が……」

 

 聞く耳を持たないエミリア。歯軋りするラインハルトはまだ、彼女のことを敵だと明確に割り切れていない。突然の変貌に迷いが生じている内はエミリアに声を届けることなど不可能だ。

 だがどちらにせよ、早くスバルを救わねばならない。少なくとも、彼女の手から離さなければ。

 

 そう思ってラインハルトが踏み出すと、案の定エミリアは過敏に警戒心を露にし、スバルを庇う形で立ち塞がった。

 緊迫した二人の間にせり上がるのは氷の壁。驚くほどマナの密度の高い氷壁が部屋と廊下を新たに二分し、更には蔦のように細線が伸びて部屋の内部を侵食していく。一気に低下した気温によって白む息をルイは倒れたまま仰ぎ見た。

 

 何もかも、不毛な悪足掻きだ。考えなくてもそれは分かる。

 ラインハルトの前で、ほとんどの魔法は意味をなさない。彼はマナを引き寄せて己の身に循環させる特殊体質を持っているのだ。

 凝縮したマナを変換させた矢先に術式は砕け、訪れる結果は半減どころか消滅に近い。それを知ってか知らでかエミリアは術式の構築を繰り返すが、そのことごとくが浪費に終わる。距離が縮まれば縮まるほど影響の度合いは顕著だ。詠唱を続ける彼女の顔にも、苦いものが混じってきた。

 それでも完全な無効化ではない。費やす力が莫大であれば多少なりとも魔法は発動し、効力を発揮する。

 

「くっ……ウル・ヒューマ!」

 

 床の下から突き上がった氷柱。胴体より厚い氷は直撃すれば、脆い人体など一溜まりもないだろう。

 ただ、それも抑制されてしまっては到底ラインハルトに届かないのが現実だ。ラインハルトの騎士服に触れる直前に穂先の結合が破綻し、身体に合わせて形状が歪む。本来の数分の一にまで弱まった威力は傷を付けるに足りず、彼の前進を止める要因にはなり得ない。

 エミリアの戦法は無鉄砲な攻撃の繰り返しだ。氷塊が乱舞し、極寒の嵐が猛り狂っても、その全ては逸れ弾となって無効化されている。ラインハルトの歩みに乱れは無い。

 

「無駄な戦いは止めましょう。一旦落ち着いて、話を……」

「アイスブランド・アーツ! アイシクルライン!」

 

 叫ぶと同時に虚空に現れる武器の数々。遠距離射撃を止めたエミリアの取った選択は、直接的な近接戦だ。斧、槍、剣、鎌、槌。近接戦闘へと移行した彼女の足が広い部屋の壁を蹴り、反動で跳躍するかと思いきや重力を欺いてそのまま滑走し始める。

 アイススケートを思わせる身のこなし。壁面と天上を用いた三次元の機動は、靴底に生成した氷製のブレードと、道筋に引いた氷板によって為される技だ。そこに魔法の推進力まで加えて動き回るエミリアはあらゆる角度から打撃と斬撃を叩き込み、時に緩急をつけたフェイントも交ぜながら、防御の隙を探る。

 しかしそれも結局はマナによって創造された武器であることと、単純な戦闘経験、及び技量の差が勝敗を決した。

 

「ご無礼を、お許し下さい」

 

 ラインハルトの一踏みで氷の道が砕け散り、態勢を崩したエミリアの横腹に、手首の捩れを利用した掌底打ちが直撃した。捻じ込まれた掌は衣服越しに衝撃を伝え、呻き声が腹の底から漏れる。ダメージは打たれた箇所ではなく、体内の臓腑に浸透して弾けた。

 生命維持に重要な役割を持った器官が無造作に掻き乱されたのだ。血流の狂いは脳の思考力低下を引き起こし、頭と体、両方にかつてない混乱をきたす。平衡感覚を失った彼女はもんどり打って棚に激突。勢いで棚が倒れ、いくつもの小物が散らばった。

 

 どう見ても、取り返しのつかない事態だ。ベアトリスにやられた魔法の効果が未だ完全には切れていないため、ルイはスバル以外の肉体に切り替えることも出来ず、じっと眺めているしかない。

 早々に『死に戻り』をしてエミリアの状態を詳しく調べたいところだが、自殺しようにも取れる手段が限られている。インビジブル・プロヴィデンスで自分の心臓を握り潰せないだろうか。

 

 駆け寄るラインハルトを横目にルイが考えを巡らせる。さすがに、殺してくれと頼んでも聞き入れてはくれないだろう。

 せめてもう少し時間があればまともに権能を使えるが、彼に捕まったら隙を見て死ぬのも困難だ。

 どうするべきか。

 考えが途切れたのは、ラインハルトが足を止めて何かに目を向けた時だ。エミリアの体と床が微かに発光する。

 

「エミリア様──まさか、氷で城全体に魔法陣を描いたのですか!?」

 

 ラインハルトの驚愕の声が聞こえた途端、城全体を揺るがす衝撃が部屋を貫通した。

 彼の目の前で部屋が崩壊し、ルイとエミリアは迫り来た何かに押し出され、運ばれていく。

 襲来した浮遊感と圧迫する重力に揉まれて三半規管が狂う。加えて激しく回転する視界。ギギギと耳障りな軋む音が部屋中に反響しており、耐え切れず砕けた箇所も見受けられた。

 物に掴まるにも耳を塞ぐにも手が必要だ。ルイは無防備に投げ出され、床や壁に衝突する。

 

 いっそ死んでしまえばいいのに、との願いも叶わず揺れが収まった。肺を凍らす空気を精一杯吐き出し、咳き込む。呼吸を整えると目を開ける余裕が出来た。四方は氷の壁に囲まれており、外の風景を上下左右に見ることが出来る。

 しかしその余裕は、飛び込んできた光景の前に霧散した。

 

 日が昇り、果てなく青を写した寥廓なる大空。

 その中天を、一筋の氷が貫いた。エミリアにより造られた氷の樹木だ。地表から屹立した巨大な支柱は下部で所々に枝分かれして重量を分散させている。外観こそフリューゲルの大樹によく似ているが、その機能は『終焉の獣』と恐れられたエミリアの契約精霊と同じく、周囲から膨大なマナを吸い上げる災いに他ならない。

 

 ラインハルトの周囲で魔法が解かれるのならば、防げないほど遠くで大きく発動させればいい。

 そんな子供じみていて馬鹿げた対抗策を、エミリアは己の尋常ならざるマナの貯蔵量で乱暴に実行した。無論、彼の近くだけは樹木の影響も割と薄いが、それだけではカバーし切れない程の規模だ。

 

 国の基盤を破壊する大災害。王城全体を土壌兼養分として蝕むだけに止まらず、根は城下町にまで張っている。維持するための力を求めて生き物に絡み付き、植物だろうが動物だろうがお構いなしに搾取する。

 木々は枯れて項垂れていく。冷えた大気は日光を弱め、局地的な吹雪を発生させた。見るも壮大な白銀の雪化粧があらゆる色を奪い、地上を覆わんばかりに降り積もる。

 突如として王都の心臓部に出現した脅威と異常気象に人々は驚き、逃げ惑っていた。だが深い雪に足を取られて自由に歩けもしない足場だ。悲鳴が断末魔に変わるまで、数分と掛からない。

 そんな王都の全貌を見渡す高さに——大樹の頂点に、エミリアとルイはいた。元の部屋はとうに粉砕されて残っていない。

 

「はあっ、はあっ……ん、く」エミリアはかなりのマナを消耗したようで、スバルの身体を力無く抱き寄せ、涙を流す。「スバル、ごめん。皆も、ごめんなさい……こうするしか、なかったの……」

 

 密着した彼女の身体はそれこそ氷のように冷たかった。血の巡らない死人ですらもう少し温かいだろう。

 そう思って一瞬の後、気付いた。冷たいのはエミリアの肉体だけではない。

 

「エミリア?」

「大丈夫。ちゃんと、綺麗に凍らせるから。マナを抑え切れなくて私も凍っちゃうけど、この木が吸い上げたマナでパックを起こせば、皆を元に戻せる。それまで、待ってて」

「パック? 戻す? いや、凍らせるって、お前……」

「いい子よ、スバル……少しの間だけ我慢してね」

 

 言い終わるや否や、密着した体から直に冷気が流れ込んできた。けれどそれは凍死させるための攻撃ではなく、肉体の腐敗を止めて長期保存させるコールドスリープの類だ。

 当然、冷凍されれば『死に戻り』は発動しない。いつ起こされるかも分からない。数日か、数ヶ月か、あるいは数十年か。起きる前、正体が暴露されて身動きも取れずに制裁を受けるかもしれない。起きた後、今日の時間帯に戻れる保障などあるはずもない。停滞した時の中で永遠に目覚めない可能性が無いと、どうして言い切れる。

 

 それは、幸せだろうか。

 求めていた幸せが、手に入るだろうか。

 

「な、正気かッ!? 自分ごと凍らせるってお前……、てめ、冗談じゃァ、ないッ! 放せ! 放せってんだッ! クソ、ったれがァ……! いっそ殺せッ! 私たちを、俺を殺せよエミリアァッ!!」

「どうしたの? そんな、殺すわけ、ないじゃない。絶対に、生かす……だって、あなたは、私の……騎士、様……ふふ。一緒に、寝ましょ…………ね」

「ふざ、ふ、ふざけやがって! いい加減にしろよッ! おい、殺せッ! 今すぐ殺せって言ってんだろうがッ! こんな無茶苦茶なもんに、あたしたちを、巻き込むな……ッ、お前一人で、やれ……ッ!!」

 

 言葉を発する為の口が凍る。

 体中の血管と細胞も徐々に凍結され、ただの人間でしかないスバルの生命活動は急速に衰えていく。密閉空間内の薄い空気を吸い込んだところで酸素は運ばれず、かろうじて運ばれたとしても活性化するものなどもう在りやしない。

 届くのは、愛の囁きだけだ。

 

「──愛してるわ、スバル」

「この、アバズレがァッ……!? あァいいサ、殺してやるッ…………イン、ビジブ、ルッ──」堪らずルイは、胸の奥に疼く殺意を解き放った。しかし。「──んあァ!? が、ぇおぐぅ! ぎいッ!? ァァあ、ああァああああァァァァァァ……」

 

 力を濫用した代価はそれ以上の力となって返ってくるものだ。掠れた語尾を気にする余裕が彼女にはもう無い。

 残っているのは生憎と、煮えたぎる熱を伝達する痛覚の神経だ。頭の中が焼き焦げ、掻き乱され、滅多刺しにされているかのような激痛に埋め尽くされる。どこをどう鍛えても負荷による脳の異常は慣れようがない。最初の内は激痛でのた打ち回るし、何度も経験すると精神が障害を負ってそもそもの認識ができなくなるからだ。正常な知性を保ったままそれを乗り越えるなど、如何な奇跡ですら力不足だろう。

 更に言うならば、痛みは他の器官の感覚が鈍っているせいで余計に強調されている。死の直前にまで至ってなお死に切れないというのはなんとも皮肉なものだ。

 

 狂気の淵に立ったルイは濁った視界の中に過去の記憶を見る。

 走馬灯。死に瀕した人間が、それから脱するべく追憶を辿るものだといわれている。

 生き残ることを拒んで死にたがっているルイが走馬灯を見るのも滑稽な話だが、要は本能が突破口を探る行為なのだ。だが、数多い人の人生を溜め込んできた『暴食』の場合、その膨大な記憶を閲覧するには脳の処理速度が追い付かなかったのか、はたまた依り代の影響か。ルイの脳裏に流れたのは、ナツキ・スバル一人の記憶だった。

 

 それでも、見つけ出した。手も足も、血も細胞も使わずにこの状況を逃れる手段を。

 エミリアを殺す方法を。

 

「エミリア。よく聞け。俺は、『死にもど──」

 

 一度だけあったのだ。

 この世界には記録されていないが、スバルの記憶には、深々と刻まれた出来事。

 禁句である『死に戻り』の告白を言い切る前に、やはりそれは訪れた。

 

 時計の秒針が音を消した。世界から一場面が切り取られ、薄闇の額縁に嵌められた。

 唯一まともなのは視覚だけだ。何も聞こえず何も匂わず、体は毛先すら微動だにしない。見ること以外の情報と行動が全て遮断された空間の中、じりじりとにじり寄る絶望が視界の端に過ぎる。

 

 手だ。

 瞬きもしていないのに、影の手がどこからどのようにして現れたのか、ルイには分からなかった。ただ、気付いたらそこにあった。いつの間にか目の前まで迫っていた。

 そうして物理の摂理など我関せずといった動きで肉体を透過する。それはエミリアの背中から入り込み、触れ合った胸を通ってスバルの心臓付近へ。

 冷たい異質感が背筋を舐めると、壊れたはずの免疫機能が脳まで悪寒を伝達した。しかし体温は上がらない。ひたすらに、恐怖だけが鮮度を増していく。

 

 ──何か、様子がおかしい。記憶で見たのと少しばかり違う。

 ルイがそう思うのも仕方ない。

 彼女の狙いはエミリアの死だった。権能を打ち明けた際に出現するペナルティで、一度だけ観測された過去。全てを吐き出すつもりで叫び、彼女を無残に殺したことに対する後悔の念が強く刻まれた記憶があった。

 あの時は影の手がスバルではなくエミリアの心臓を握り潰していた。詳しい理屈は分からないが、今は当時の状況と重なる部分が多い。十分に、試してみる価値はあると踏んでいた。どうせ他に打つ手は無い。

 

 そんな希望も空しく、五本の指は心臓を鷲づかみにした。言うまでもない。スバルの、ルイの心臓だ。

 

 訪れたのは、外的要因による希釈が一切排除された混じり気のない痛み。

 抵抗は許されない。防衛本能を置き去りにして苦痛だけが与えられた。

 身を捩ることも、泣き叫ぶことも、気絶することも、狂うことも、死ぬことすら影は拒む。全身に沁みて滲み込んで染み渡るように、少しの緩和や誤魔化しもルイには不可能だ。

 

 追い剥ぎだったなら全てを投げ出していただろう。拷問だったならとっくに吐いていただろう。

 だが残念ながら、そのいずれでもない。何の見返りも求めない一方的な痛み付け。未経験の美味などとほざく余裕を、完膚なきまでに叩き潰さんとする気概が影にはあった。

 

「────かッ」

 

 再び動き出す秒針。時間は、ようやく一秒が経過したところだ。

 外ではより激しさを増した嵐が吹雪いている。騒乱の吹き荒れる王都の中で、一番静かな場所こそ渦中のこの場所だった。息遣いも凍え、厚い氷壁に囲まれた空間を邪魔するものは何もない。

 愚かしくも『嫉妬の魔女』を利用しようとしたルイの思惑は見事に打ち砕かれ、とうとう指先まで凍て付いた。諸々の苦痛など露知らず、エミリアは目を閉じて微笑する。目尻から流れ落ちる涙が途中で熱を奪われて冷たく凝固し、柔な皮膚に張り付くのも意に介さず。

 

「愛してる」

 

 いつとも知れない再会を誓い、氷の檻の中で二人寄り添って愛を囁いた。なんの皮肉か、至極幸せそうな顔を残して。

 ルイは苦しみと共に、死ねない氷の呪縛に囚われて眠る。白く真っ白な愛に、見当違いな情に、その身を染め上げて。

 

 

 †

 

 

 冷たい熱を感じた。

 夢とも幻とも違う混濁の沼。その奥底から意識が浮上し、水面上に顔を出す。

 冷え込んだ身体を撫でる、清涼で生暖かい外の空気。心地よい風に乗って声が吹き抜ける。

 

「スバル」

 

 目を薄く開けて空に手を伸ばす。濡れた指先が風向を感じ取り、そちらへ視線を移した。

 近づいてくる影があった。顔や姿は分からないが、確かに風はその影から吹いている。

 

「スバル」

 

 伸ばしていた手を、影は大事そうに握った。両手で、優しく包み込んだ。

 しかし温度が無い。触れた手からは、人の温もりが感じられなかった。

 

「スバル、スバル。スバル」

 

 三度、風が吹いた。気付けば身体は凍えていて、手も氷に覆われていた。

 それは徐々に広がりを見せ、腕を伝って首下を侵食する。

 

「スバル。スバル、スバル、スバル、スバル、スバル、スバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルスバルは本物だよね」

 

 足の先っぽまでの感覚が消えた。得られる情報も、考える頭も止まっている。

 全身が凍結壊死したかのようだ。ただただ崩壊を待つだけ。風に乗って消えてなくなるだけ。

 

「スバルは、だよね。ルは、物だよね。本。ね。ね。本だバはスバルねだよねほバルは、は本物ねスバルはスバルだよ本はだねよスバねだもル物よバ本物物バルスルねだものね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。だよね。本物ね。ね。ね。ね。ね。スバルだね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね。ね──……ね?」

 

 崩れていく。ひび割れ、欠け落ち、列衣()けて()れて一丿口九十(くだ)けて ()えていく。

 ただそれだけだ。ただそれだけ。だけ。き()えるだけ。

 きえればなにもない。なにもなくなる。だれもかれもかれもだれもあれもそれもこれもどれもすべてぜんぶなにもかもまるきりいっさいがっさいみんななくなってなくなってなにもなくなる。

 

 むだけ。

 

 むもない?

 

 ない。

 

 。

 

 

 

「────スバル! スバル、大丈夫かい!? スバル!」

「ァ……あ、ッ!?」

 

 二度目の覚醒。ルイは、スバルと呼ばれた拍子にビクリと身を震わせて目を見開いた。

 しかしまともには動けない身体だ。姿勢もそのままに、警戒心を目に刻む。恐怖に色濃いその瞳を覗き込み、起こした人物は胸を撫で下ろした。

 

「……安心してくれ。僕はラインハルトだ。スバル、君が凍る直前に引っ張り出してきたんだ。僕のことが分かるか?」

 

 赤く闘志が燃え滾る髪。見上げる空を虹彩の裡に封じ込め、遥か天上より見据えるかの如く玲瓏な双眸。自身に満ち溢れた姿は誰が見ても雄々しく、常識外れで型破りな異常性を自然なカリスマとして昇華させている。

 エミリアに凍らせられそうになった時は一巻の終わりを覚悟したが、どうやらそうなる前にラインハルトに救われた模様だ。

 隙を見計らって自殺が出来るか、それは分からないが、どうせ行動を起こすにはまだ時間が要る。追っ手であるクリンドの生死も不明だ。彼と一緒にいる限りは良くも悪くも命が保障されることを、最大限に利用すべきだろう。

 

 生きるために。

 

 ──本当に?

 

「────」

「スバル……?」

 

 慄然と、怖気がした。

 信用とも嫌疑ともとれないラインハルトの優しい眼差しに対してではない。一瞬、ほんの一瞬だけ浮かび上がった感情が。

 

 もう死んでしまいたい、と。

 死んで楽になりたいと、心の奥底からの願いが一片だけ覗いた。『死に戻り』は死なない力であると同時に死ねない力でもある。どれだけ朽ち果てることを望んでも、自らの意思でそれを決めることは出来ない。今さら、改めて言うほどのことでもないが。

 ナツキ・スバルに成りきって以来、死への欲望を感じたのは初めてだ。味わうための経験ではなく、真の意味での終わり。次など来ない、生き物本来が持つ一度きりの死。

 

 自分が変化していくことへの恐怖。

 

「……悪い。ちょっと、ぼーっとしてた。心配かけたな。まだ頭がくらくらするけど、ラインハルト、お前のことはちゃんと分かるよ」

「そうか。よかった。でも、怪我がひどい。体温もかなり低くなってるからあまり動かない方がいいよ。フェリスは他の所を回っているし、回復術師たちもさっきの魔法に巻き込まれて動けない者が多い。そもそもここ一帯はマナが枯れ果てているから満足に治療もできないんだ。どうか無理はしないで。……遅くなって、ごめん」

「そんな、お前が謝るようなことじゃねぇだろ。助かったよ、本当に」

 

 本心だ。ラインハルトがいなければ、スバルの身体は歪な愛に閉じ込められたまま氷漬けになっていただろう。

 今ルイが横たわっているのは王城の一般的な寝具。つまりは城内の一室で、所々に先の戦闘で刻まれた傷跡が残っている。だが、それも床が剥がれたり壁に穴が空いた程度だ。見たところあの大災害はこの部屋まで及んでいないみたいだった。

 

 ──いや。ふと見上げた窓の外の景色に、ルイは呆然と、計り知れない戦慄と感慨を覚えた。

 目を疑うだとか、夢から覚め切っていないだとか、そんな次元の話ではない。突き付けられたのは紛う事なき事実。そしてその原因は彼の男、ラインハルト・ヴァン・アストレアの他にあり得ない。

 

「これ……どういうことだよ」

 

 消えたのだ。

 氷の樹木が、忽然と。まるで、最初から無かったかのように。

 まるで、世界が被害を受ける前の姿に復元されたかのように。

 

 記憶の中にある一周目の今日よりも透き通った蒼穹。日差しに照らされた木々が我も我もと緑を風に乗せ、花もまた劣らず多彩な頭を一面に並べている。自然豊かといえば誰もがこのような光景を思い浮かべるだろう爽やかさに、けれど無人の寂寥感がどこか妖しげな雰囲気を以って漂う。

 やはり現実だ。痕跡も無く消えたエミリアの大魔法とは裏腹に、人影の方は全く見当たらない。治療が困難な現状だと残したラインハルトの言が主な理由だろう。

 

「あの木なら消したよ。根こそぎ、切り倒した」ルイの視線を追い、ラインハルトが腰の剣に手を置いて説明する。「ただ、被害に遭った人たちは大勢いるし容態だって芳しくない……事前に、ここまで被害が拡大する前に、防げたはずなのに」

 

 とても、首都の崩落を一人で食い止めて見せた英雄の言葉とは思えなかった。端から見れば過重とも思える責任意識だ。今まで『暴食』して蓄えてきた人間全部含めても、彼の人の良さには付いていけない。

 邪気など皆無の純粋な善意で接してくれる彼に、ルイは息を整える。彼なら大丈夫だろうか。偽物と、そう疑ったりはしないだろうか。ラインハルトになら、頼っても——

 

『あぁン? ざけンなよ、オメエ。オメエ、見た目は稚魚だが中身が別モンだろうがよ。オレの前で馬鹿みてえな事ほざいてンじゃねえぞ、オメエ』

 

 ──いや、駄目だ。

 こいつはあの男と同じだ。レイド・アストレアの子孫だ。見抜かれる。違う。すでに知られているかもしれない。正体も思考も何もかも、彼の掌の上ではなかろうか。

 ならば知っていながら知らない振りをしているのか。まさか敵にまで気を遣っているとでもいうのか。分からない。ラインハルトの無条件の優しさが、ただひたすらに怖い。

 

 もしや、油断させようという魂胆なのでは?

 

 もう誰も信じられない。周りの人間を全て欺いてきたルイには、誰の心も届かない。誰をも騙してきたと勘違いをしていた偽者のスバルには、もはや自分すらも、信用するには値しない。

 疲れた。飽き飽きした。ナツキ・スバルのままごともかくれんぼも、何もかもやる気が湧かない。成りきれたつもりで思い上がって中身の無い二年を過ごして来たのだ。なんと、愚かで虚しいことか。

 贖罪の気持ちなど毛ほども起きないが、幸福だけを追っていた過去の自分はやけに馬鹿らしく思える。夢が折れ、希望が途絶えるとこうも世界は変わるものなのか。

 

「とりあえず、意識が確認できて良かった。まともに稼動してる治療院まで少し遠いから、誰かに頼んで、」

「死にたい」

「え?」

「もういいよ、ラインハルト。……俺には、私たちにはもう、生きる意志がない。茶番は止して、さっさと殺してくれ。どうせ限界だ」

「────」

 

 息を呑む音が聞こえた。遠からず、息遣いも聞こえなくなるだろう。だがそれで良い。

『死に戻り』をしたら、次回はエミリアに抵抗せず素直に凍らせてもらうのだ。百年でも何年でも、起きた時に今よりは生きやすく、あるいは死にやすくなっていることだろう。数分前まであれだけ拒んでいた悪夢が唯一の夢となるとは想像だにしていなかったが。

 これ以上の無価値な人生と際限ない苦しみを味わうくらいなら、死んだほうがよっぽどマシだから。

 

 しかしどんなに待ってもラインハルトのトドメが訪れない。何か妙だと思ってつと見上げ、彼がスバルではない別の方へ顔を向けていることに気付く。

 沈黙が、視線の先の何かによってもたらされたものだとも。

 

「——その願い、私が聞き入れよう」

「君は、誰だ」

 

 唐突に割り込んだ女性の声。幼げな印象が残った、聞き覚えのある高い声だ。

 しかし言葉の癖や雰囲気からはまた違う人物が連想される。それが誰なのか未だ霞んでいる頭には思い浮かばないが、ナツキ・スバルの記憶領域がやたらと警鐘を鳴らしていた。

 絶望とは別種の恐怖心が刺激される。

 

「そうだな。名乗るとしたら、やはりオメガが良いだろう。なんたって、そこの彼に付けてもらった名前なのだからね」

「スバルが……? 申し訳ないが、彼の体はひどい状態で今すぐ治療をしなければならないんだ。悪いけど、話すなら少し待っててくれないかな」

「おや。私が彼の仲間で、心配して駆けつけたのだと、君は本気でそう思っているのかい? だとしたらもしや私の見間違いかな? その剣は、この世に二つと無いはずだが」

 

 微塵も疑念のこもっていない語調で指を差す。

 怪訝な目を向け、『龍剣』に触れるラインハルトの反応は暗い。遠回りな発言を続ける女性にどう接するべきか判断を決めかねているようだ。

 対して女性の方は泰然と微笑み、差した指を虚空に滑らせた。マナの流動が指に沿って燐光を発する。文字のような形を得たそれは徐々に輝きを増し、やがて力として表出される。

 

「待つんだ」

 

 だがラインハルトが近づきさえすれば、それも儚い泡沫に過ぎない。

 直前で砕け、霧散したマナを見て女性が「ふむ」と頷く。

 

「あらゆる魔法を乱す体質に異常なまでの加護……なるほど、オド・ラグナの恩恵を一身に受けられるのも、今代の『剣聖』と考えれば役割付けは妥当か」独り納得し、小さい顔を見上げて目が合う。「まあ、別に私は世間話をしに来たわけではない。分かるだろう、乙女には一分一秒が大切なんだよ」

「…………」

「釣れないね。君も、ナツキ・スバルも。後者については些かならず熟考の余地があるが、なんにせよ、だ。そこの彼の身柄を渡してもらいたい。理由は先ほど伝えた通り、私なら彼の願いを聞き入れてやれるからだ」

「彼に危害を与えるつもりなら、僕は君を止める。スバル自身がそのことを望んでいたとしてもだ。それ以上は何もさせないよ」

 

『龍剣』は抜けない。ゆえに剣の柄から手を離し、遮る形で広げた。

 

「それ以上は何もさせない? 惜しかったな。私の行動は、すでに終わったんだ」

 

 不敵に口端を吊り上げ、女性は大仰な仕草で肩を竦める。その動作に呼応した訳ではないが、事前に施されていた術式が同じタイミングで作動し、目の前に現れた。

 周りの希薄なマナを嘲笑うほどに膨大な量で展開された魔法はラインハルトを全方位から囲み込む。数十、あるいは百をも下らない球状の物体。一つ一つが致命傷を引き起こしうる濃密さを以ってブルブルと振動する。少し離れたルイですら、生存本能が悲鳴を上げて動悸に締め付けられた。

 

 蚊や蜂の羽音にも似た空気の揺れを弾かせ、斉射。

 それだけで爆発したかのような光と衝撃が部屋を埋め尽くした。

 ラインハルトは、動かない。

 

 エミリアの二の舞を演じた。少なくとも、ルイはそう思った。

 ラインハルトには魔法が届かない。届いたとしても、通用するかはまた別の問題だ。散々見せ付けられて実感した。思い描いたのと同じ光景、魔法が彼に触れる直前に形が崩れ──

 

「なっ!?」

 

 ──その中から零れ出てきた、もう一つの術式の信管が、作動した。

 

「二十数年生きていれば、一度くらいはその体質を利用されたこともあるんじゃないかな? いやまあ、もし仮にあったとしても私の構築と比べてもらっては困るけどね」

 

 至近距離で放たれた第二の魔法。それは分解されつつも、同時に構成が歪なものへと変化していく。

 絢爛に瞬く視界の中で、ラインハルトは目を瞠った。

 女性の狙いは最初から、幾重にも織り込まれたこの不整の術式だったのだ。本命の中身は均一でない複数属性の配合とでたらめの演算方式。まともでないからこそ、暴発した際は計り知れない威力を発揮する。

 その事を悟られない為に、普通の魔法を装って耐性を持つラインハルトの油断を誘った。ダミーである外側をわざと破壊させることにより、かろうじて僅かな隙を作ることが出来た。たった一瞬。だが、それさえあれば十分だった。

 

 解けて渦を巻きながら歪な魔法は満を持して炸裂する。

 完璧に計算された誤算が、かつてない相乗効果を生み出した。

 

「以前彼の記憶を見た時、面白いものがあったんだ。それを参考にとはなんだが……外はサクッ(偽装魔法)、中はジュワッ(不整魔法)、って感じかな。いやはや、実に興味深かったよ」

「くっ…………君はまさか、『亜人戦争』の——」問う声は、しかし遠ざかる。

「魔女、だとでも? 残念ながら不正解だ。確かにあれもリューズ・メイエルの複製体だったか。だが所詮は、一方的に魔女と呼ばれ忌避されていただけだろう?」ひらひらと手を振り、別れを告げる彼女。いや。「私はエキドナ。自他共に認める、『強欲』の魔女さ」

 

 事実を言うならば、エキドナの渾身の攻撃を直に喰らってもなお、ラインハルトは戦闘不能に陥ってはいなかった。

 全くの無傷という訳ではない。凝縮された衝撃波が全身を打ち据え、深手を負った部位は皮膚が剥がれて真新しい血も噴いている。吹き飛ばされた状態で体勢を直すにおいても決して容易などとは言い難い。

 ただ、それで戦況が変わるかと問われれば答えは否。結局のところ、一度限りにして一時的な時間稼ぎでしかないのだ。

 

 よってエキドナは彼が戻ってくるまでの数十秒の内に事を済ませなければならない。

 ルイは、若干戸惑いを見せるも彼女に話し掛けた。

 

「本当に、殺してくれるのか」

「もちろんさ。一度言った言葉の保障はしよう。……ただしね。ボクは悪い魔法使いなんだ。君の要望通りに死ねるとは、思わない方がいいよ」

「────」

 

 激突の痕をひょいと飛び越え、正面から見下ろすエキドナが背中に手を回した。そしてどこからともなく取り出したのは、彼女の身体がすっぽり入り切るほどのクリスタルだ。手と足を失ったスバルならば簡単に入る大きさ。

 スバルの記憶がまたしても疼く。エキドナという名前と、やっと見えた薄紅色の長い髪。生気の欠如した二つの瞳。

 

「今から君の体を、つまりはナツキ・スバルの肉体をここに入れる。安心してもいい。痛くはないさ」相好を崩す彼女の表情は、まるで仮面を被っているかの如く発言する内面の感情と噛み合っていない。「ただし君の魂の方だが、そちらには少々、付き合ってもらうよ。──誰もが羨む、魔女たちのお茶会にね」

「ちょ……ちょっと、ま」

 

 栄光に思え、との一言が唇に紡がれるが、聞き届ける暇もなくルイはクリスタルに吸引された。万華鏡を思わせる不可思議な光の乱反射を浴びながら抗えない波に精神だけが流される。意識のトンネルを抜け、招かれた先に一筋の白光が差したのはすぐだった。

 急激な変化に頭が付いていかない。目を開けると、爽やかな空気がルイを出迎えた。思わず感嘆を漏らすほどの大空に大草原。果てしなく続くパノラマの風景に腰を突き、気付けば足元に広がった金髪をおもむろに弄っていた。

 

 金髪。

 簡素な服。

 間違いない。本来あるはずのない空間で、ルイは自分の姿に戻ったのだ。ナツキ・スバルという殻から、この世界に引きずり出された。

 嫌な予感がして周囲を見渡すが、地平線まで同じ景色が続くばかりで、これといって目に付くものが無い。人工的な物が排除され、特筆すべきものもない平坦な自然だけが取り残された風景だ。

 

 まさか何も無い空間に閉じ込められたのか。そう思ったのは、ほんの数秒だけだった。

 

「──すんすん。あれぇ~? この匂い……もしかしてぇ、新しいお客さんですかぁ~?」

「ひッ!?」

 

 直前まで誰もいなかったはずの背後から声がして振り返る。

 少女だ。見たところ、ルイと同じかそれ以下の年齢と思しい少女が奇妙な棺にその身を入れて佇んでいた。目隠しに拘束具といった格好がまず目を引き、次に全体としての雰囲気に圧倒される。人間のようでいて、人間とは決定的に違う雰囲気が本能の嗅覚とでもいうべき感覚に引っ掛かった。

 この女は危険だ。だが一方では妙な親しみも感じる。胸の奥に潜んだ『暴食』の欲望が何かを叫んでいた。歓喜か、畏怖か。鏡を覗き込んだのに自分でない存在が映っていたような、そんな引っ掛かり。

 

「なんかぁ、懐かしい匂いもしますねぇ~。うぅ~、がじがじ」

 

 小さく生え揃った歯を鳴らす仕草が、異様に嫌悪感を掻きたてるようでルイは尻餅をついたまま後ずさりする。

 だが、それで終わりではない。

 

「新しいというか、かなり特殊な客が来たさね、はぁ。あの子以来に面倒なことが起こりそうで胃が痛いよ、ふぅ」

「もう、セクメトはまたそうやってやる気を削ぐんだから! 久しぶりのお茶会でしょ! ちゃんとしなきゃ駄目じゃない!」

「んー? はは、ルバに叱られてるのか? 叱られてるってことは、はは、アクニンなのかー?」

「お……お客さん、困って、る、みたいだか……ら、落ち着いて、お茶で、も……ん、お話、はどう、かな?」

 

 幻覚、瞬間移動、悪夢。現状を説明できる様々な理屈が頭に思い浮かんでは、即座に否定して次の希望を探す。しかし無駄なことだった。どれだけ考えても答えは一つしか無く、どれほど遠ざかっても逃げられない。右に左に、どこを向いても人ならざるものが囲んでルイをこの場から離さない。

 そして極め付きは、最後に姿を現した影だ。気が付いたら傍にいた他の化け物とは違い、虚空から出現するのを両目でしかと見届けたにもかかわらず、一番不可解な雰囲気を纏った存在。

 

 いいや。

 ルイはスバルに成りきっていた際に、あれを目にしていた。

 ついさっきだって、顔は見れずとも大事な部分を握られた。

 

 無意識に避けていた記憶と忘れようも無い痛みが胸に蘇る。

 

「ぐ、ぁッ……し、『嫉妬の魔女』……!?」

「────」

 

 無言のプレッシャーにルイは身震いを禁じ得ない。気を抜けば、魂ごと吸い寄せられるような威圧が僅かな反抗心をも叩き伏せる。戦意を、徹底して砕く。

 そこにいるだけだ。佇む、ただそれだけで決着が着いた。

 

「君が少し前に『死に戻り』を告白してアレと繋がりを作ったせいで、侵入を許してしまったようだ。つくづく、他人の意思を踏み躙る自分勝手な在り方には吐き気がするが……まあ、今回ばかりは不問に付そうじゃないか。君のナリキリ行為を、アレの『嫉妬』がどう判断するか。興味が無いと言えば嘘になるから、ね」

 

 声が聞こえる。

 エキドナの、『強欲の魔女』の、悪い魔女の歓迎の声が。

 

「──ぜひ、ご賞味あれ」




みんなの力で成し遂げた快挙。

魔女のお茶会はもう少し書きたかったのですが、重要さに欠けたのと、結の部分を引っ張りすぎても退屈だろうという理由から割愛しました。
いつか機会があれば、『暴食ちゃんと七人の魔女─ドキドキ(魔)女子会編─』でも書いてみたいなと思います。

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