ウソツキのコンプレアンノ (とうゆき)
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ウソツキのコンプレアンノ
深夜、百城千世子はエゴサーチする手を止めた。
少し前からネットに流れる彼女に関する話題の量が急激に増えると共にそれまでの傾向から変化が生まれていた。
新作ドラマのリークだとか熱愛発覚だとか、当事者である彼女からすれば明らかに嘘だと分かる内容ばかり。
だがそれも当然か、と視線をノートパソコンの脇のデジタル時計に移す。時間は零時を数分経過した所で一緒に表示される日付は四月一日。
エイプリルフール。
一年の中で一日だけ嘘を吐いても良い日。逆に言えば残りの三六四日は違う。気心の知れた間柄での冗談に近い嘘ならともかく、一般の社会で虚偽や隠蔽は重大な背信行為である。そんな中にあって日常的に嘘を吐いても許され、巧みであればあるほど評価される稀有な職業。それが役者だ。
虚構をあたかも現実のように錯覚させる仕事。
子供の頃、四月一日が誕生日だと言ったらからかわれた。千世子ちゃんは嘘吐きだと。当時の彼女は嫌な気分になったが、今にして思えばあの子達は慧眼だったのかもしれない。なにしろ今こうして
物心つく頃には多くの人間が現実は儘ならないと気付く。思い通りにならない現実に嫌気が差すから綺麗な嘘、気持ちの良い嘘に騙されたい欲求がある。
正義の物語には喝采を送りたいし愛の物語には心を満たしたいし悲劇の物語には涙を流したい。その望みを叶えるのが役者だ。
画面を隔てた先で繰り広げられる物語はどんなに現実に近かろうと決して現実ではないから、余計なしがらみに囚われず心置きなく感情を向けられる。憧れてもいい。愛してもいい。憎んでもいい。
けれど三文役者の茶番劇は観る者をつまらない現実に引き戻す。架空の世界もくだらないものだと思わせてしまう。
役者の吐く嘘は美しいからこそ許され、存在価値もある。つまらない嘘などただの失言でしかない。だから彼女はいつでも真摯に嘘の吐き方を考えていた。
軽く伸びをするとエゴサーチをひとまず中断して仕事の予習に移る。
取り出すのは夏に撮影が開始する原作付き映画の台本。「デスアイランド」という題名の作品で千世子は主演を務める事になっていた。
内容は所謂デスゲーム。
彼女が演じる主人公のカレンは絶望に挫けず、いつも友人達を案じて皆で生還しようと懸命に足掻く。悪意に汚されない美しい存在。
「百城千世子」が演じるに相応しい役柄だろう。彼女に我が身可愛さに他人を殺すような役は回ってこない。
台本を読み込んで台詞を暗記する。そんな事は当然だ。けれどそれだけでは不十分。
脚本に即した演技と観客の欲する演技が必ずしも一致するとは限らない。カレンではなく「百城千世子」を観に映画館に足を運ぶファンも多いのだから。
そこまで考えた時、彼女の口元が小さく吊り上がる。
役者という生き物はカメラの向いていない時でも嘘を吐いている。
スターズの役者は偶像としてのイメージを損なうような事は避けなければならない。未成年の飲酒、喫煙、異性問題などのスキャンダルはもっての外だし公式のプロフィールに嘘を載せる事もある。
千世子もまた、好きな食べ物は生クリーム、ビスケット、マシュマロと記載されているが実際にはなまこ、このわた、松前漬けが好きだ。
オキナワオオカマキリ、ヤエヤママルヤスデ、ロイコクロリディウムのような昆虫が好きという情報はそもそも公開されていない。いずれは世間受けしやすい好みが記載されるかもしれないが。
虫は虫でも蝶のように美しい見た目の虫が好きであったら可愛いと言われたに違いない。カブトムシやクワガタなら意外な一面だと好意的に受け止められたかもしれない。
だが、千世子の好みは見た目がグロテスクなものが多かった。
「気持ち悪い虫が好きな可愛い子」という需要は存在するだろう。けれどそれは女の子らしい趣味を演じた時と比べると圧倒的に利益が小さい。
大衆という最大公約数の為にあるスターズにイロモノは不要だ。
自分が天使と呼ばれるのはぴったりだと彼女は思っていた。天使もまた大衆の願望が反映された偶像だから大先輩と言える。
彼女は演技に対して思い入れがある。この業界に飛び込んだ人間は大なり小なりそうだろう。
たが観客にとっては日々消費していく娯楽の一つにすぎない。演じる側には見る側が必須だが、見る側にとってはなければないで他に行くだけ。選択肢の一つ。
役者がどれだけ努力しようが演技に熱意を込めようが観客が満足しなければ無意味。
そういうアンバランスで残酷な世界だ。だからこそ遣り甲斐もあるが、それさえも観客は知った事ではないと切り捨てるだろう。
メイキング映像やインタビューで役者やスタッフの意気込みが語られるのはそれがドラマとして作品を構成する一部に組み込まれているからで、結局の所どこまで行っても観客が主体の世界。
それでも趣味の集まりだったなら自分本位なやり方でも許されただろう。
しかしながら彼女の元に来る仕事はたった十五秒のCMでも企画に数ヶ月、スケジュール調整に数週間、撮影や編集に数日かかり、出来栄え一つでスポンサーの業績が左右される事をあり得る。そんな代物だ。
だから観客が望む「百城千世子」という仮面は外せない。
会社員は仕事に行く時にスーツを着てネクタイを締める。スポーツ選手ならユニフォームを着るし医者なら白衣を纏う。
これらはその職に就くなら最低限の身だしなみだ。千世子にとっての仮面はそれら仕事着と同じだった。
ある評論家は観客に媚びているだけだと言い、彼女はその論評を笑って受け取った。
媚びるにも知識と技術がいる。客が求めていない演技、表現を押し付けてさも「こういうのが見たかったんでしょ?」と振る舞えば不愉快にさせるだけだ。
媚びを媚びと意識させずに媚びる。彼女はそれに心血を注ぎ、これまで結果を数字という形で出してきた。
実績があるなら批判は気にならない。むしろ槍玉に挙げる事で世間の関心を引けると認識されているのだから光栄ですらある。
事務所に頼んで取り寄せた撮影スタッフの名簿にも目を通す。
幸い、スターズと関係の深いスタッフが多くメイン級とは概ね面識がある。
個々の技量や演出の癖などを計算に入れて頭の中で演技を構築していく。
同じ事を機材や共演者でも行いたいが、機材までは資料に載っていない。
役者に関しても今回の映画は半数がオーディションで選ばれる。まったくの無名が選ばれる事は少ないだろうから過去の出演作からある程度の個性は掴めるだろうが、それも限界がある。現場で適宜修正していく必要があるだろう。
ふと時計を見ると一時を回ったところ。本日の仕事内容を思い起こすがまだ大丈夫。
千世子は来年まで予定が埋まった過密スケジュールだが、それでも合間合間には短くない余暇がある。彼女だけではない。スターズ所属の俳優は人気が出てきても他の事務所ほど仕事を詰め込まない。
一過性の人気で終わる事も多いこの業界で取れる時に仕事を取らないというのは営利的には失敗かもしれない。だがそれが不幸な役者を出さないという星アリサの姿勢であり、そんな中でプライベートまで捨てて演技に奉仕するような千世子の生き方はアリサの想いに背いている。
星アリサは百城千世子を自身の最高傑作だと評した。
役の感情を掘り下げず客観視を徹底的に突き詰めた己と真逆のスタイル。彼女ならば自分のようにはならないだろうと役者の道を勧めた。
役者は芸術家ではなく労働者、芝居は芸術ではなく商品と割り切れる百城千世子は、それが出来ずに心を壊し、幸せになれる役者しか育てないと決意した星アリサの理想を体現する存在……の筈だった。
星アリサにとって誤算だったのは千世子が「百城千世子」という役作りに一切妥協しなかった事か。世紀の大女優の目に留まる少女が及第点を満たすだけで満足する要領の良い役者な訳がなかったのだ。
眠る事すら忘れて仮面作りに没頭する、常人なら苦行としか思わず、アリサの信念に反する作業。だが他人の視線に怯え、現実の世界が生き辛かった千世子にとってはその工程に幸福すら感じたのは皮肉な話だろう。
仮面を厚くすればするほど一人になる。けれど素の自分を出しても人は離れていくと小学生の時に学んだ。
だから人と仲良くなる事は諦めた。どちらにせよ孤独なら実利のある方で良い。
後日、事務所から脚本の変更が通達されてきた。
撮影開始後の変更ですらよくある事なのでそれ自体は問題ではない。だが気になるのはオリジナルキャラクターの追加であった。厳密に言うなら原作キャラクターの代わりにオリジナルキャラクターの投入。
はっきり言って原作付き作品の大きなメリットである原作ファンの来館を鈍らせる危険性に見合うメリットを感じない。首を傾げるしかないが、上の都合に振り回されるのも役者の常。彼女は彼女の立場で全力を尽くすだけだ。
オリジナルキャラクターは主人公であるカレンの親友役。終盤まで目立った活躍はないが、クライマックスでカレンを庇って命を落とす。
ここまでの物語で観客は保身や私欲で殺し合う生徒の姿を見ている。だから我が身を省みずカレンを助けようとする姿は感動を呼ぶ……かもしれない。
思い描くだけなら容易いが、果たしてそう簡単にいくか。
作中の扱いと観客の認識は可能な限り一致させなければならない。
終盤に至るまでに観客にカレンの強さ、優しさ、友人との絆を伝えられなければ「そこまでするほどの相手じゃない」「ただの友達の為に命をかけるなんて理解出来ない」と観客の熱が冷める。
感動的な筈のシーンが一気に取って付けたような陳腐な場面に成り下がる。役者も生きた人間からただの舞台装置に成り果てる。
そんな事はさせない。多大な製作費と大勢の人間が関わる企画だ。必ず売れる作品に仕上げてみせる。
オリジナルキャラクターの出番に多くの尺は取られていない。カレンとの共演も短い。
見返すハードルが高い映画という媒体の性質も考慮すれば、多少アドリブを入れても観客に「友情」を印象付けておいた方が良いかもしれない。
演技の是非に関わらず反発が避けられないだろうオリジナルキャラクターはオーディション組。
千世子にとっては面倒であっても問題とまではいかない。役を掘り下げない彼女は初対面の相手でも内心で嫌いな相手でも、友情を感じさせる演技が出来るからだ。
この時の千世子はまだ見ぬ友人役については共演者以上の感情を持っていなかった。
その出会いが星アリサと並んで人生の転機になる事を彼女はまだ知らない。
千世子ちゃん誕生日おめでとうございます。
以下、本文に上手く組み込めなくて没にした部分。
彼女にとって誕生日が特別な日だという印象はあまりなかった。盛大に祝う事もない。
ファンからの贈り物は事務所のスタッフが数日かけて検査して安全と判断されたものだけ渡してくる。
幼馴染といっていい間柄の彼なら何か用意しているかもしれないが、彼の性格を考えるとコンタクトしてくるのは日中だろう。
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