ベビースパイダー嬢は青春ブタ野郎に夢を見る (紺野咲良)
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1話

 入学して間もなく、あなたの噂を耳にしました。

 そのときからずっと気になっていました。けれど、その感情が具体的にどういったものなのかは、未熟なわたしにはさっぱりで。

 遠目に見つめるだけでした。

 密かに憧れるばかりでした。

 ねぇ、先輩。

 あのとき、わたしとあなたとの間に見えた糸。色は……わからなかったのだけど。

 運命の糸だった、って。

 そう、思ったんです。

 

 

    ◇    ◇

 

 

「あれが(くだん)岡崎(おかざき)先輩ですか?」

 放課後。多くの生徒が部活動に励んでいる中、秦野(はだの)綾音(あやね)はグラウンドの脇をさりげなく歩く。連れ立って歩いている加西(かさい)先輩こそが、本日の依頼人だ。

 お目当ての岡崎先輩は、野球部に所属する二年生。加西先輩の同級生であり、想い人でもある人物だった。

「うん。どう……かな?」

「ん~、もう少し近くに……」

「も、もっとぉ?」

 今にも泣きだしてしまいそうな、情けない声をあげる加西先輩。こればっかりは致し方ないので、潔く諦めていただく他無い。

 現在の有効範囲は、せいぜい五メートル程度。対象同士がそのぐらいまで近づいてくれないと、見えないのだから。

「む? ラッキーです、こっちに来ます」

 交代なのか、守備位置についていた岡崎先輩がこちらへ走ってくる。

「えっ、ウソでしょぉ……!?」

 慌てふためく加西先輩。これでは必要以上に目立ってしまう。

「ダメですよ。自然にしててください、自然に」

 心中お察しするが、「なるべく相手には気づかれないようにお願い」と言い出したのは加西先輩の方だ。もう少しだけ頑張って耐えてほしい。

「うぅ~……」

 (うつむ)き、縮こまる加西先輩。逆に不自然さが増してしまったが、綾音の身体で隠しやすくなったので、まあ良しとしよう。

 距離が近づくにつれて、岡崎先輩の顔もはっきりと視認できるようになる。外したキャップの下に見えたのは、いかにも野球部らしいさっぱりとした短髪で、汗の(したた)る表情すらも好感触な、とても爽やかな印象を受ける人だった。

 綾音は震える加西先輩の手を引いて、じりじりと二人の距離を詰めていく。目標距離まで、およそ……五歩ほどだろうか。

 はやる気持ちを抑えつつ、一歩、二歩、三歩。

 すると突如として、『それ』は現れる。

「……おっ」

 見えた。

 それは綾音の目にしか映らず、ぼんやりと幻想的な光を(まと)っている『糸』。

 加西先輩と岡崎先輩とを結んでいたのは、『赤い糸』だった。

 期待の眼差しで見守っている加西先輩へ向け、静かに親指を立てて見せる。作戦完了の合図。

 わかりやすいほどに目を輝かせ、叫び出してしまいそうな加西先輩。綾音は人差し指を自らの口に当ててみせ、「お静かに」と無言のジェスチャーで告げる。

 はっとして両手で口を押さえた加西先輩を促して少し歩き、ある程度グラウンドから離れた辺りで切り出した。

「ちゃーんと結ばれてますよ。問題なっしんぐです」

「はぁ~……よ、よかったぁ……」

 ずっと呼吸もまともにできなかったのだろう。加西先輩は安心した様子でため息を吐いた。

「話には聞いてたけど……ほんと、すぐ終わるんだね」

「そですか? これはこれで、なかなかお手間を取らせてしまってるように感じておりますが」

「まぁ、確かに私には別の意味でけっこーしんどかったけど。占いっていうからさ。生年月日を聞いたり、手相を見たり、もっと色々するのかと思ってたよ」

「そこらへんの必要な情報は、まぁ、ある程度はあらかじめ抑えてありますので」

 これは半分は嘘ではあるが、まったくの嘘というわけでもない。

 綾音には他者の情報や噂話などを集める趣味もあった。たとえば加西先輩なら、お菓子作りに関しては校内随一だと、もっぱらの評判だったりする。

「へぇ~。なんだか綾音ちゃんが本物の占い師さんに見えてきたよ」

「これはこれは、嬉しいお言葉を。占い師を名乗っちゃってもいい感じですか、わたし」

「うん、いいと思う」

 冗談で言ったつもりが、加西先輩の大真面目な表情に危うく吹き出しそうになる。

「でも綾音ちゃんの占いってさ、具体的にどんなことから判断してるの?」

「ふふん。それは企業秘密なのです」

 実際のところは『糸』の有無を見るだけなのだが、そのことはあまり広めたくない。

 綾音の想像が正しければ、それはありがたい『能力』などではなく、よからぬ『症状』なのだから。

「えー、けちぃ」

 ぷくーっと頰を膨らませる加西先輩。どう見ても怒っているのではなく、単にふざけて拗ねているだけだ。

「ただ、慢心はしないでくださいね。これはあくまで『占い』でしかないので」

「わかってるよ。でもよく当たるって評判だし、こういうのが有るのと無いのじゃ全然気持ちが違うから」

 こくりと大きく頷く加西先輩。次の瞬間には、何とも晴れやかな笑顔に変わっていた。

「ありがとね、綾音ちゃん。おかげで勇気でた、すっごく」

「いえいえ。健闘をお祈りしてます」

「上手くいったら、また改めてお礼しにいくね!」

 加西先輩は大きく手を振り、元気よく駆け出していく。先輩に対する表現としては失礼かもしれないが、かわいらしい人だと思った。

 綾音はしみじみと首を上下させる。子の巣立ちを見送る親心とは、きっとこんな感じなのかもしれない。さすがにこの後すぐという訳ではないだろうが、彼女は近日中に踏み切るはずだ。

 岡崎先輩への、告白に。

 念のために慢心はするなと忠告しておいたが、失敗することはないと思っている。これまで二桁を越える依頼人を見送ってきたが、例外なく成功報告をしにきてくれたし、その中の誰かが破局したという話も聞かない。そのぐらい、綾音に見える『糸』の効力は折り紙つきだった。

 それは誰もが一度は耳にしたことがあるであろう、『運命の赤い糸』の伝説にも比肩(ひけん)するほどに。

「や、綾音」

 ぼんやりと歩いていたら、よく聞き覚えのある声がした。なんとも綾音らしいのんびりとした動作で、そちらへと身体ごと向き直る。するとそこには同じ一年二組であり、唯一無二の親友でもある、高坂(たかさか)恭子(きょうこ)の姿があった。

「む。恭子ちゃん」

「どうだったの、首尾は?」

「うん。ばっちぐーでした」

「おー、すっかり占い師が板についてきたみたいだねぇ。感心、感心」

 そう言った恭子も、すっかり慣れた手つきで頭を撫でてくる。恭子にとって、綾音は愛玩動物のようなものらしい。別に嫌じゃないので何も文句は無い。むしろ大歓迎だ。もっと頻繁に褒められたいし、もっと素直に甘えたいぐらい。

 恭子とはこの学校、県立峰ヶ原高等学校に入学してからの付き合いだ。

 かれこれ半年ほどでしかないが、度々それよりもはるかに長い時間を共にしてきたような錯覚をしてしまう。中学時代までは独りでいることの多かった綾音に事あるごとに構ってくれて、それでいて息苦しさを一切感じさせない絶妙な距離感で接してくれていた。

 同学年でありながらも包容力があり、頼りになる。まるで姉のような、下手をすれば母のような存在だった。

 

 そんな恭子にだからこそ、綾音に見える『糸』のことも、当然のごとく話した。

 初めて言葉を交わしてから一ヶ月ほどが経った、ある日の昼休み。この不思議な現象に関して、恭子ならばどのような感想を抱き、どのような見解を示すのか。そんな興味本位から、まるで世間話でもするかのような軽いノリで話をした。

「へぇ、なに? あんたって霊感かなんかある感じ?」

「ん~、それに近い感じなのかもしれません」

 正直さっぱりわからなかったので、曖昧(あいまい)に言葉を濁す。実際その通りかもしれないし、まったくの的外れかもしれない。

 ただ、一番『それっぽい』候補となる現象の名は、綾音の中ではほぼ定まっていた。

 しかしそうだと確定したわけでもないし、さすがに『その名』を口に出すのは、いくら恭子であろうと一笑に付される可能性が高いので、この場ではまだ黙っておく。

「あたしは羨ましいと思っちゃうけどな、正直」

「うらやましい……ですか?」

「べつに害があるわけでもないんでしょ? なら、何もないよかお得感あるじゃん」

「はぁ……」

 お得と言われても、いまいちピンとこない。綾音からすれば「目に楽しい」というぐらいで、利用価値があるとは思えなかった。

「人と人の関係性が、目に見える糸として現れる……ねえ」

 唸りつつ、何やら考え込む恭子。

 綾音の心境を見透かしてのことだろう。たとえばどのような使い道があるだろうかと、真剣に悩んでくれている。

 その間、綾音はじっと恭子を見つめる。

 一緒になって考え込む気などさらさら無い。恭子の方が早く閃くことが明々白々なので、とぼしい脳細胞を酷使したところで労力の無駄なのだ。

 期待していた通り、早くも恭子が「お」と短く声を発し、人差し指をピンと立てた。

「試しに占いでも始めたら?」

「占い、ですか?」

「うん。ウチらぐらいの子って占いとか好きな人種じゃん。特に恋愛がらみとなれば」

「ほむほむ」

「その、綾音に見える……糸? ってのが、どのくらい信憑性(しんぴょうせい)のあるものなのかも確かめられるし。当たるようなら人気占い師、外れてもゴメンネで済むでしょ。ただの女子高生が、趣味でやってるだけの占いなんだから」

「おぉ、なるほど」

 一理ある、と思った。

 ほぼノーリスクで『糸』のことを知ることができるのなら儲け物だ。一度稼働を始めたら収まりのついてくれない探求心が疼いてしまっている。

 それに、占い。

 個人的に占いには、『恋する乙女たちを応援するもの』という認識があった。もし自分が行動を起こすことで誰かと誰かが結ばれるようなことが叶うなら、それはなかなか素敵なことだ。

 占いをやってみる価値はある。そして、この不思議な『糸』にも、価値を見出せるかもしれない。

「んっ。ちょとやってみようかと思います、占い」

「おーっし、やってみるかぁ。あたしも手伝えることは手伝うからさ」

「ありがとです、恭子ちゃん」

「いいのいいの。なんか面白そうだし」

 始めはクラスメイトからだった。

 恭子が推し進めた手順というのは、あまりにも粗雑(そざつ)というか強引であり、率直にいって困惑しかなかった。というのも、現在進行形で片想いをしている子を恭子が適当に見繕(みつくろ)い、半ば拉致に近い形で連れて来て、誰々が好きだということを強引に白状させる。その上で二人の間の『糸』の色を、実際に確かめにいくのだ。

 幸か不幸か、誰かを好きになった経験はまだないが、自分ならば絶対に遠慮したいところだと、綾音は内心恐怖に震えていたのをよく覚えている。

 全ては恭子の人柄やコミュニケーション能力あってのものだが、よくもまあ一切の波風を立てずに済んだものだと感心する。綾音には絶対に真似できない。本当に恭子が手伝ってくれてよかったと思う。

 その後も、恭子に連れて来られた相手は、戸惑いながらも比較的(とどこお)りなく話は進み、途中からは(こころよ)く協力をしてくれて、最終的には無事に成就し、笑顔で感謝さえされた。そんな具合でことごとく成功を重ね、『糸』の精度は確たるものであることが判明した。

 

 そうしていくうちに、綾音による占いの評判は、口コミで徐々に広まっていった。

 半年が経った現在では、加西先輩のような上級生にも(とどろ)くこととなり、依頼を持ち込まれることは当然として、それ以外の用件でも様々な人々と交流を持つことになった。

 綾音の心持ちの変化によるところが大きいが、占いを始めてからの日々は充実していて、中学までの綾音には考えられないほど、学生生活に彩りをもたらしてくれた。恭子の言った通り、本当にお得な能力だと感じた。

 だがそうなってくると、いくつか()に落ちない点が生まれてくる。

 たとえば、『なぜ自分は誰とも結ばれていないのか』ということ。

 考えたところで答えなど永遠に出ない。だから、仕方がない。この不思議な現象は、きっとそういうものなのだ。そう割り切り、諦めるしかないのだと思う。

 そんな風に頭では理解できていても、納得できるかどうかは話が別だ。他者同士のものしか見えないなど意地が悪い。運命の相手がいるのなら是非とも知りたいのにと、やきもきしてしまう。

 せめて恭子とだけでも何かしらの色の糸で結ばれていて欲しかった。『親友』などを意味する『緑の糸』であれば、なおよし。

「意外とさ、綾音がくっつけてる可能性ってない?」

「まさか。わたしには見えるだけですって」

 それは無い、と思う。なおさら恭子と綾音が結ばれてないことを疑問に思ってしまうし、赤の他人でも否応なく見えてしまうのだ。名も知らぬ人たちの人間関係を応援できるような、聖人君子であるつもりもない。

「でもさぁ。恋愛がらみのが案件が、軒並(のきな)み成功で終わるってのも……なーんか、妙な話だし」

 しかし恭子の疑問ももっともだ。それも腑に落ちない点の一つであった。

「そりゃ、皆さんの恋が上手くいって欲しいなーとは常々思っておりますけども……」

「んんー……考えすぎかなぁ。さすがにそんなことできてたら、大事(おおごと)だもんね」

「ですよ。仮にできるなら、真っ先に恭子ちゃんを素敵な殿方(とのがた)と結んで差し上げますのに」

「あははっ、そのときはお願いしよっかな。……って言っても、あたしは誰かに相談とかする前に、自分で好き勝手に突っ走っちゃってそうだけど」

「それでこそ恭子ちゃんですね」

 度々驚かされているが、恭子の行動力は素直に尊敬するし、憧れもする。どうか変わらず、そのままの高坂恭子を貫いてほしいものだ。

「あ、ごめん、このあと待ち合わせしてたんだ」

「おろ、そうでしたか」

「うん。また明日ね、綾音」

「またです、恭子ちゃん」

 笑顔で手を振り、別れる。

 女子としては高めな身長に、すらりと伸びた足。歩く姿も颯爽(さっそう)としていて、どこぞのモデルさんかと見紛(みまが)ってしまうほどに美しい後ろ姿だった。

 恭子の姿が小さくなっていくにつれて、手の動きは弱弱しくなっていき、笑顔も消えていく。

「わたしが、くっつけてる……ですか」

 半ば無意識に、恭子の台詞を反芻(はんすう)する。

 人と、人を、結びつかせる。

 仮にそんなことが可能だったら、恭子も言った通り、本当に大事だ。

 綾音に見える『糸』には様々な色があり、その色によって意味合いも違ってくる。たとえば、結ぶ糸が青色であれば、互いに癒し合う関係に。黄色であれば、互いに高め合う関係に。

 それらを綾音の意思で、自在に結ぶことが叶うのなら……。

「そんな大層な能力、わたしなんぞにあるはずがありませんて」

 でも、もし……もし、本当にそんな力があるのなら。

 多くは望まない。たった一つの『糸』でいい。

 どうかあの二人のことを、結ばせて欲しい……。

 

 

 放課後になれば、部活動のない生徒は大半がまっすぐに帰宅をする。

 綾音も本来であればその例に(なら)うべきなのだろうが、あえて時間をずらして下校するようにしていた。時間の潰し方はその日によってまちまちで、この日のように占いの依頼を受けたり、何をするでもなく校内をぶらついてみたり。

 その理由としては、なぜか綾音にだけ見える『糸』の存在のせいだ。

 それ自体は目障りに感じることもないし、見えた糸の色と照らし合わせながら人間観察に勤しむのは、なかなか楽しい。

 けれど、あまり目にしたくない色の糸がある。近いうちに起こり得る、不穏な事件を予期させるような色もあるのだ。

 そんな糸を見かけてしまう度に、無力感に(さいな)まれる。これから悲劇が待ち受けているというのに、綾音には何もできない。

 ――あなたによからぬ『相』が出ています。今後、あの方と関わることはお控えください

 見ず知らずの他人に急にそのようなことを言われたところで、いったい誰が耳を貸すというのだろう。

 仮に綾音がそう言われたならば、絶対に食いついてしまう。目を輝かせさえする自信がある。しかし、自分が異端な思考回路の持ち主であるという自覚も、十二分にあった。

 まともな世間一般の人々であれば、一笑に付される。気味悪がられて避けられる。下手をすれば、もっと酷い扱いを受けるかもしれない。

 そういうものなのだ。現在綾音の身に起こっている、この不思議現象の正体というものも、口にするだけで奇異の眼差しを向けられてしまうものなのだ。

 おそらくは、『思春期症候群』なのだから。

 

 

 校門をくぐった後の帰路では、誰も見かけず、誰ともすれ違わなかった。ほっとしたような、うら寂しいような……そんな気持ちが入り混じると余計にもやっとしてしまい、自然とため息がこぼれる。混ぜるな危険。

 ほんの数分歩くだけでたどり着く最寄りの駅、七里ヶ浜駅。

 時間帯が時間帯なら、この小さなホームには収まりきらないほど、峰ヶ原高校の生徒でごった返すに違いない。それが今は、片手で数えられる程度の人数だ。

「……おぉ?」

 その中に、よく見知った顔があった。心なしか気分も高揚する。

「本日も相変わらずの風格です」

 彼は峰ヶ原高校二年一組に所属する先輩だ。

 いつもながらの眠たげな目。ポケットに両手を突っ込み、背筋は曲がっている。ところどころ跳ねている髪型はそういうセットなのか、単なる寝ぐせなのか判別がつかない。どことなくゆるキャラを彷彿(ほうふつ)させるような、なんとも良い塩梅(あんばい)の脱力感が漂っている。

 綾音と同様に人込みを嫌ってなのか、部活以外の用事があるのか、はたまたのんびり屋さんなのか。理由は定かではないが、帰宅時の電車を共に待つ機会が多い。

「ほんと、よくお会いしますねぇ……『病院送り』の先輩」

 彼には、いましがた綾音が発した呼び名のままの、あんな外見からは想像もつかないような噂がある。中学時代に暴力事件を起こし、同級生三人を病院送りにしたという噂が。

 こうして観察しても体格は良い方ではないし、その目にも危険な光は見えない。むしろ生気すらも感じられない。要するに強そうには見えない。まったく。

 そんな先輩の姿を見かける度に、口惜しく思う。

 想像力には()けている方だと自負しているのに、先輩が人様を病院送りにしている光景が浮かばないのだ。どうしても、どうあがいても。

「人は見かけによらぬもの、ですね。わたしもまだまだです」

 何事も見た目だけで判断してはいけない。愛くるしいゆるキャラの中にも、とっても凶暴なやつもいたはずなのだ。たぶん、それと同じこと。

 ただ、綾音が入学してからというもの、病院送りの先輩に関する武勇伝はさっぱり耳にしたことがない。代わりに記憶にあるのは、その呼び名とかけ離れすぎてしまっている『グラウンドの中心で愛を叫んだ事件』だ。

 さすがの先輩も、愛を知って丸くなってしまったのだろうか。もしそうだとすれば、かなりのショックを受けてしまう。密かな憧れだったのに。

「いえ、諦めるのは早いですよ、わたし!」

 まだそうと決まったわけじゃない。これはなんとしても真偽を確かめる必要がある。これからも観察、及び調査を続けるべきだ。そんな決意を、改めて胸へと刻み込む。

「んん~……」

 調査対象、あの眠そうな目をした先輩。

 二年一組の、病院送りの、先輩。

 綾音は唸る。唸り続ける。腕を組み、首を捻り、額やこめかみに指を当てる。

 これは、困った。非常に、困った。

「……病院送り先輩のお名前、なんでしたっけ?」



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2話

 綾音は幼い頃、後の人生を決定づける出会いを果たした。

 それは『運命の赤い糸』の伝説との出会いだ。

 きっかけは、当時放映されていたドラマだったような気がする。作品の内容はまったく覚えていない。十年以上も前のことだから仕方がない部分もあるが、最大の原因は『運命の赤い糸』のインパクトが強すぎたせいだ。他の全ての記憶が(かす)んでしまうほど、その糸に関して触れた場面だけが強烈に印象に残っている。

 生まれた時から、自身の小指と、いずれ出会う運命の相手の小指を繋いでいる赤い糸。決して切れることのない、揺るぎない絆の糸。ひとたび出会えば互いに()かれ合い、約束された幸せな未来を示唆(しさ)してくれる、この上なくロマンチックな伝説。

 ――赤い糸で結ばれた人との出会いって、どんな感じなんだろう

 ――わたしも、運命の相手と結ばれていたいなぁ

 そんな具合で恋すら知らない綾音は、まだ見ぬ運命の相手を求め、劇的な出会いに憧れ、恋に恋をした。以来ずっと、変わらぬ夢を見続けている。

 それを機に伝説や神話、噂話などといったものをこよなく愛するようになった綾音は、小学生にして早くも立派な中二病患者と化していた。そして程無(ほどな)くして、現実とファンタジーとを(へだ)てる、絶望的な境界線の存在にも気づいた。

 綾音が好むもの、求めるもの、望むもの。それらはファンタジーの世界でしか存在し得ない。妄想するだけ、渇仰(かつごう)するだけで我慢するしかない。そう諦めた。

 しかし、中学三年生になったある日、突如として発現したのだ。人同士の繋がりが『糸』として可視できるという、一種の共感覚(シナスタジア)に似た現象が。

 その時の心境は、今でもはっきり覚えている。

 戸惑いや恐怖など一切なかった。涙さえ流しかねないほど感激に震え、よくぞ我が身に訪れてくれたものだと手放しで喜んだものだ。ただ、過剰なまでに期待に胸を膨らませてしまっていた分、後になって自分自身の糸は見えないという事実が判明し、「思ってたのと違う!」と、酷く落胆もしたのだが。

 謎の『糸』の正体に関してネットで調べていく中で、とある現象の名を知ることとなる。

 その名も、『思春期症候群』。

 思春期特有の、不安定な精神状態から引き起こされるという不可思議な現象。誰からも存在を認識されなくなってしまった『透明人間』だとか、同じ日を繰り返してしまう『タイムリープ』に、自分とまったく同じ人間が顕現してしまう『ドッペルゲンガー』などなど、発生する現象は多岐(たき)にわたるらしい。

 それは誰もが信憑性皆無な都市伝説や創作話と思っている中、UFOやUMAの存在ですら信じている綾音は、世にも珍しい肯定派だった。なので、ある程度の予測を立てる。自分の身に起こっているこれは、思春期症候群なのではないか、と。

 断定まではすることができず、疑念が残ってしまった原因としては、「なぜ発症したのか」という点。

 引き金となった出来事に心当たりはあった。というより、一つしか思い当たらなかった。それほどまでに中学時代の綾音の日常は、なんとも平和で、なんとも味気ないものだった。

 けれど、それでもわからない。

 ネットの掲示板で見た事例は、どれも壮絶で凄惨(せいさん)なものばかりだった。発症の引き金となった事件も、時が経ち悪化した症状も。

 それと比べて自分はどうだろうか、と綾音は首を捻る。

 心当たりである唯一の出来事が、自分にとってそこまで衝撃的だったのだろうか、と。

 ただ「妙な糸が見えるだけ」という自分の症状が、どこをどうすれば恐ろしいものへと変貌(へんぼう)を遂げるのだろうか。同じくくりに入れては、散々に苦しんだ他の方々に失礼なのではないかとも思ってしまう。

 それゆえ思春期症候群かもしれないと思いながらも確信は持てず、危機感も芽生えていない。

 解消への糸口は一向に見つからず、そもそも解消しようという気構えすら、綾音には芽生えていない。

 

 

    ◇    ◇

 

 

 この日の授業は全てが滞りなく終了した。綾音は帰りの支度をしながら、今日一日を振り返る。

 珍しく眠気をもよおすこともなかったし、勉学とは関係のない思案や妄想にふけるようなこともなかった。教師の話もよく聞けたし、ノートもきちんととれた。総じて、自らに花丸をあげたいほどに。

 誰に向けるでもない得意げな表情を浮かべる。その成果が試験で現れてくれるかどうかは、また別の話である。

「あっ。綾音ちゃん、綾音ちゃん」

 自己満足の余韻に浸っていたら、誰かが呼ぶ声がした。きょろきょろと辺りを見渡してみると、ドア口で手招きをしている人物がいる。

 先日の依頼人、加西先輩だった。

 綾音は少し首を(かし)げながらも、席から立ち上がり、ぱたぱたと駆け寄る。

「どうしました?」

「あ、うん。あのね……」

 周りの視線を気にするかのように目を泳がせ、そわそわ、もじもじと落ち着かない様子だった。

 それを見た綾音は、ますます首を傾げる。けれど問い返すことも、急かすようなこともせず、加西先輩が自ら口を開くのを待った。決して気遣いなどではなく、ただ単に混乱してしまい、思考が停止していただけなのだが。

 やがて意を決したように、加西先輩が耳打ちをしてきた。

「無事……成功、したの。……告白」

 蚊の鳴くような声でそう告げてくる。

 一瞬何を言われたのか、わからなかった。加西先輩がなぜ頰を染めているのかも、さっぱりわからない。

 思考回路の再起動を(うなが)すために、目を何度かぱちくりさせる。その(まばた)きが十回に及んだ頃、ようやくその意味を把握した綾音は、今度は両手を「ぽんっ」と叩いた。

「おぉっ、おめでとうございます」

 加西先輩がより一層赤くなる。気の毒にも耳まで真っ赤だ。

「あ、ありがと。岡崎くんもけっこー前から意識してくれてたみたいで……びっくりするほどすんなりでさ。もう、夢みたい」

「ほほう。『実は、俺もお前のこと……』って感じですか」

 聞いたことはないが、岡崎先輩の声をイメージして真似てみる。我ながらなかなかのイケボが出た。

「そうそう、まさにそんな……ってやだ、先輩をからかうんじゃないの」

 むっとしたように頰を膨らませ、上目遣いで軽く(にら)んできた。本人なりに怖い顔を作ったつもりなのだろう。加西先輩には悪いが、そんなのかわいいだけだ。

「……怒られてるのに、なんで笑うのよ?」

 どうも内心がばっちり表情に反映されてしまっていたらしい。なんたる失態。

「とんでもない。びびってます、めっちゃ」

「ほんとに?」

「ほんとーですってばぁ」

 嘘じゃない。正真正銘、綾音はびびっている。かわいすぎて。

 何が一番かわいいかって、自分の表情が相手にどんな印象を与え、どれほどの破壊力を持っているかを、加西先輩が一切自覚をしていないところだ。この人は本当に同じ生き物なのだろうかと疑ってしまう。ずるい。ずるすぎる。

「……なら、いいけどぉ」

 いまいち釈然(しゃくぜん)としない様子だったが、迫力皆無な怒りの表情を解いてくれる。

 すると今度は一転して、ぱっと花が咲くように笑った。

「話を戻すけどね、その時は特に思ったよ。綾音ちゃんにお願いしてよかったーって」

「お役に立てましたかね?」

「すっごく助かったよぉ。私一人じゃずーっとうじうじしてばっかで、絶対に踏ん切りつかなかったし」

「それは何よりです。占い師冥利(みょうり)に尽きます」

 心からそう思った。

 この占いを始めた当初の理念、『恋する乙女たちを応援したい』をまさに体現してくれている。加西先輩のような人の背中を押すことが叶ったのなら、万々歳だ。

「ほんと噂通り。すごいね、『美少女占い師』さん」

「……」

 綾音は返答に(きゅう)した。

 間違ってはいない。確かに自分はそう呼ばれている。間違っていないのだ、『音』は。

 しかし、大間違いなのだ。加西先輩の口調や表情から察するに、『漢字』を間違えてしまっているのだ。綾音ごときが『美少女』などと称されてしまうのは、あまりにもおそれ多い。

 正しくは、『微妙』と『美少女』を掛け合わせた、『微少女』なのだから……。

「どしたの?」

「い、いえ、その……」

 はっきりと訂正しておくべきだと、綾音の脳内の天使が訴えかけてくる。

 けれど、この加西先輩という御方は、本心から綾音のことを『美少女』だと思ってくれているのだ。こんな純粋な人物は貴重だ。この世に二人としていない絶滅危惧種だ。そう悪魔も(ささや)きかけてくる。

 綾音は迷った。実に、迷った。

 その時間……およそ、コンマ一秒。

「なんでもありませんよ、先輩」

 天使はあえなく瞬殺された。悪魔の完全勝利だ。

 だがこれは必要な犠牲だったのだ。綾音だって一人にぐらい『美少女』だと思われていたい。

「……そう?」

 きょとんとする加西先輩に、有無を言わさぬキレイな微笑みを向ける。

 やはりどこまでも純粋な加西先輩は、それ以上は何も言及してこない。ちょろかった。

「あ、そうだ。これ、お礼にって焼いてきたの。よかったら食べて」

 そう言って手のひら大の小袋を差し出してくる。ご丁寧にもラッピングまでされていて、一見お店で買ってきた物かと見紛ってしまう出来だが、台詞的に手作りなのだろう。

 そういえば加西先輩はお菓子作りが趣味だと聞いていた。そしてその腕前は舌を巻くものがあるという噂も耳に届いている。

「おぉっ、やはりですか」

「やっぱりって?」

「先ほどから馥郁(ふくいく)たる香りが立ち込めておりましたので!」

 以上のことから、中身は間違いなくお菓子だ。包装ごしの感触から予想するに、たぶんクッキーが大本命。

「そ、そんなに匂いしてた?」

 加西先輩が狼狽(ろうばい)してしまう。周りへの配慮不足を危惧してのことだろう。納豆やニンニクのような臭いとは違っていたとしても、気にする人は気にするものだ。

「ふっふっふ。わたしは甘い物には目がないのですよ」

 しかしこれは単に綾音の鼻が(いや)しいだけだ。そう言わんばかりに胸を張る。

 こと空腹時における嗅覚は、犬にだって負ける気がしない。聞いたところによると、動物界ではアフリカゾウが最強クラスらしい。さすがにその域には達している自信は無い。

 綾音は無邪気な微笑みを浮かべ、受け取ったお菓子を大事そうに胸元に抱く。「これはもう自分の物だから、誰にも渡しません」のポーズである。

 それを見た加西先輩も、つられたように笑顔になった。

「心ばかりの品ですが、どうぞお納めくださいな」

「ありがたく頂戴いたします、先輩っ」

「本当にありがと、綾音ちゃん。じゃあね!」

 去り行く背中へ元気よく手を振りながら、

「おめでとうございました、どうかお幸せに~!」

 と、声をかけた途端、加西先輩がピタリと立ち止まる。

 ひょっとしなくてもボリュームの設定を間違えた気がする。ついでに言葉の選択もだ。

 放課後になったとはいえ、ここは廊下。もちろんまだ人はちらほらいるし、声もかなり響く。周囲の視線が声を発した綾音へ一斉に集まり、次いでその声が向けられた加西先輩へと、これまた示し合わせたように一斉に移っていく。

 加西先輩がゆっくりと振り返った。その顔は火が出そうなほど真っ赤で、口をぱくぱくさせている。綾音は「やっちまいました」と言わんばかりに頭をこつんと叩き、笑顔で誤魔化すことにした。

 加西先輩の心境は、表情を見たのでは判断が難しい。綾音の失言を加味すれば、きっと怒っているはずだ。でも怒っているようにどうしても見えない。どうあがいてもかわいい。

 そんな表情の加西先輩と、無言で見つめ合った。

 周りのひそひそ声が余計に際立つ。どうも好奇の眼差しが残らずこちらへ向いているらしい。この場に居合わせた人々の心を、完全に掌握(しょうあく)してしまったようだ。

 加西先輩はそのままたっぷりと五秒ほど悩んでいたが、不意に回れ右をして逃亡した。その様はまさに脱兎のごとく、疾風のごとく。

 綾音はその背中を茫然と見送りながら、

「……廊下は走っちゃだめですよ?」

 と、無意識に呟いた。

 場所的には正しくとも、状況的にはあまりにも場違いな綾音の台詞は、残念ながら加西先輩の耳には届かない。その姿はもうはるか彼方だ。おそらくだが、通常のスピードの三倍は出ているのではなかろうか。真っ赤だったし。

 きっと、色んな葛藤(かっとう)があったのだろう。理性が働き、怒鳴り散らしたい気持ちを(こら)えたのかもしれない。羞恥心が勝り、これ以上注目の的となるのは御免だと思ったのかもしれない。はたまた綾音の可憐な笑顔に、毒気を完全に抜かれてしまったのかもしれない。

 いずれにせよ、こればっかりは全面的に綾音が悪い。後で謝りに行こう。

「怒った顔がかわいい人って、反則ですよね」

 とてつもない中毒性がある。あんなものを見せつけられては、また怒らせてしまいたい。

 今後、加西先輩と顔を合わせる際には、どうにかして理性を保たねばならないようだ。これはかなり苦しい戦いになる。

 

 自分の席へと戻った綾音は、机の上で早速受け取った包装袋を開けてみる。

 予想は見事に的中し、中から姿を見せたのはクッキーだった。

「これは、これは……」

 一つを手に取り、色んな角度から眺める。

 食べやすさを考慮し、一口サイズで作ってくれたみたいだ。焼きにムラは無く、欠けた部分も見当たらない。大きさ、色、形、どれをとっても素晴らしい出来栄え。全てが完璧すぎる。

 そんな芸術作品のようなクッキーに感化されてか、綾音自身も美術品の鑑定を行う大御所のような貫禄を放てているような気分がする。それでもこのクッキーに値段など到底つけられない。加西先輩の手作り、プライスレス。

「いただきます」

 小さく口を開き、一口サイズのさらに半分ほどを、ひとかじり。

 サクッという小気味よい音がして、バターの風味がふわりと広がる。その後に訪れる、なんとも形容しがたい口どけ感。これがいつぞや聞いた、サクホロ食感というやつなのだろう。

「おぉっ」

 思わず感嘆の声がこぼれる。

 このクッキーと邂逅(かいこう)してからというもの、感動に次ぐ感動であったが、最も特筆すべきは味だった。綾音がこれまで食してきたクッキーの中でも極上の一品だ。文句なしのナンバーワンだ。

 この美味しさを全力で表現したい衝動に駆られる。それこそ漫画のように叫び上がりたくなってしまうが、かろうじてぐっと堪えた。絶対にヤバいやつだと思われてしまう。噂は好きだが、自分が噂されるような事態はなるべく避けたい。

「加西先輩こそ、お噂に(たが)わぬ腕前ですねぇ」

 残りの半分を口へ放り込み、うっとりと目を細めながら咀嚼(そしゃく)する。なんたる至福なのだろう。

 落っこちてしまいそうな頰を両手でおさえる。心の方は完全に落ちた。このクッキーに骨抜きにされてしまった。

「そだ。恭子ちゃんにも分けてあげなきゃ」

 先ほど「誰にも渡さない」と胸に誓ったばかりではあったが、こんな至宝を一人で賞味しようなど、おこがましいにもほどがある。というより勿体ない。この感動を誰かと分かち合いたい。

 教室内をぐるりと見渡す。が、恭子の姿が見当たらない。もう帰宅してしまったのだろうか。

「……んぃ?」

 そう思ったけれど、恭子の席に鞄がある。まだ校内には残ってるようだ。

 ドア口に立ち、きょろきょろと廊下を捜してみる。恭子らしき人影はない。

「んんー、どうしましょ」

 無闇に捜しに行き、すれ違ったりしては本末転倒だ。鞄が残っているのなら、いつになるのかは不明でも、教室へ戻ってくることは間違いない。素直に待つのも手だろうか。

「む?」

 ふと、階段脇のスペースで立ち話をしている人がいることに気づく。その姿はちらりとしか見えないため、女子生徒であるということしかわからない。

 けれど、あれは恭子だと思った。なんとなく、直感的に。もしかしたら、動物的な本能。ご主人様を探し当てる犬のような嗅覚を発揮してしまったのかもしれない。

 人違いだったら困るからと、念のためこそこそと近寄った。壁で体を隠しつつ、ひょっこりと覗いてみる。

「あっ、恭子ちゃ……」

 綾音が言葉を失う。

 それは確かに恭子であった。でもひとりではない。よくよく考えてみれば、立ち話をしていたのだから当たり前なことなのだが。

 一緒にいたのは、見知らぬ男子生徒。

「高坂の友達?」

 恭子よりも先に、その男子が綾音の存在に気づいた。

 高坂。一瞬誰のことだかわからなかったが、それは恭子の苗字だ。

 男子であるならば、同学年以下の女子を苗字で呼び捨てにするというのは珍しくもない。しかし、すっかり恭子のことを呼び慣れた様子の声音は、綾音の心に良くないものを植え付けてしまう。

 はっきり言って……不快でしかなかった。

「あ、綾音」

 今度は、息を呑んだ。

 振り向いた恭子の表情が、綾音にも滅多に見せないような笑顔だったから……。

 ――どちらさま?

 そんな心の声が駄々漏(だだも)れだったのだろう。恭子は笑いながら答えた。

「紹介するね。この人は守谷(もりや)先輩。で、先輩、この子はクラスメイトの……」

 恭子が目配せしてくる。「名乗ってあげて」ということだろう。

 反射的に、慌てて口を開く……が、ぱくぱくと無様に動くだけで、声が出ていなかった。

「秦野綾音、っていう子です」

 見かねた恭子が、代わりに答えてくれた。

「よろしく、秦野さん」

 ぺこり、と機械的に会釈(えしゃく)をする。声はしばらく出せそうもない。

「ごめんね、先輩。この子、ちょーっと人見知りするから」

 フォローまで入れてくれた。ありがたいけれど、今は素直に喜べない。

 ――どういったご関係で?

 これまた無言で首を傾げていると、その疑問にはあろうことか守谷先輩が答えた。

「付き合ってるんだ。俺たち」

 綾音は大きく目を見張った。

 予想ならできた。できてしまっていた。

 だけど……信じたくなかった。

「……あれ? あたし、綾音に言ってなかったっけ?」

 ――初耳でした

 そう言わんばかりに、弱弱しく首を振る。

「ねえ、どうしたの綾音?」

 さすがの恭子も(いぶか)しんで、顔を覗き込んでくる。綾音にも自覚はあるが、これはもう人見知りというレベルでは済まされない。心配されて当然だ。

「いきなりすぎてビックリさせちゃったかな」

「そ、それは悪かったと思うけど……」

「まあ、行こうか。秦野さんにも悪いから」

「あ、うん……そだね」

 守谷先輩が綾音を気遣った素振りを見せる。意外と紳士的らしい。

「ほんとごめん。後でちゃんと話すから」

 恭子がそう囁いてくる。申し訳なさそうに笑いかけながら、両の手のひらを合わせ、謝罪の意を示すジェスチャーも添えて。

「また明日ね、綾音」

 恭子と守谷先輩は、並んで階段をのぼっていく。

 その足並みは揃っていて。顔を見合わせての談笑をしていて。どんなに認めたくなくても、どう見ても仲の良いカップルの姿でしかなくて。

 やがて二人は踊り場へと到達し、折り返しによりその姿も見えなくなる。

 足音も、声も、遠ざかり、消えていく。

 訪れた深閑(しんかん)

 綾音はただ独り、その場へ(たたず)んでいた。

 

 

 再び綾音の時を動かしてくれたのは、校舎内にいても聞こえてくる、運動部の元気な掛け声。

 つい先日に野球部を間近で拝見した際にも感じたが、彼らはいったいどこから声を出しているのか不思議だ。綾音には逆立ちをしても出せる気がしない。「腹から声を出せ」というフレーズをよく耳にするし、まさか本当に彼らの声の発生源はお腹なのだろうか。残念なことに綾音の腹部に声帯は搭載されていないので、きっと体の構造が根本的に違うのだと思って諦めることにしておく。

 そういえばと、以前に聞いたある一言が不意に頭を過った。

 ――ごめん、このあと待ち合わせしてたんだ

 加西先輩からの依頼を終え、その後ばったり出くわした恭子が放った一言。今にして思えば、あれは守谷先輩との待ち合わせだったのだろう。

 いつから。いつの間に。あんなにも一緒にいたはずなのに、馴れ初めの一切を知らなかった。それはそれでショックではあるが、そこはまだ些末(さまつ)なことだ。

 今の綾音は、そんなものとは比較にならないほど震撼(しんかん)させる事実に心をとらわれてしまっている。

「……なんで」

 こぼれ落ちた、絶望に満ちた呟き。

 見えてしまったのだ。恭子と守谷先輩の間に、見えてはいけないものが。

「なんで……恭子ちゃんに、あんな『糸』が……?」

 常々、綾音が目にしたくないと忌み嫌っていた色。仮にその他のものが『正の糸』だとすれば、『負の糸』と呼ぶべき不穏な糸。よりにもよってその内の二種類の糸が、あの二人を繋いでしまっていた。

 一つは、一見して赤に見えてしまいそうな、桃と深紅のマーブルがかった『薔薇色』の糸。この色の糸で結ばれた関係は、『遊び目的』……要するに、『体目的』であることを示している。

 そしてもう一つが、最も厄介な『黒』の糸。その色から受ける印象のまま、不吉な意味合いを持つ糸であり、結ばれた二人を不幸な結末へと導いてしまう『悪因縁』の関係を示す糸だ。イメージとしては『赤い糸』とほぼ真逆に近い。

 守谷といったあの先輩は、どのような人物なのだろう。人畜無害とまでは言わないが、傍目(はため)にはそう危ない人物に見えなかった。それでも本性はまったくの別物なのかもしれないので、安心なんてできない。

「守谷、先輩……。もりや……?」

 綾音は脳内データベースに検索をかける。この峰ヶ原高校における守谷という苗字の生徒は、一人しか心当たりがない。仮にその人であるならば三年生の生徒であり、すでに引退はしたがバスケ部に所属をしていたはず。

「……バスケットボール部、ですか」

 綾音は顔をしかめる。

 バスケ部の三年生には、前々からよからぬ噂があった。とあるグループの男子たちが、手当たり次第に女子を食い物にしているという、きわめて不快な噂が。

 高校生にしてそのような真似をするなど誠に懐疑(かいぎ)的である。けれど、火のないところに煙は立たないとも言う。元バスケ部の三年生が、何かしらの怪しい行動をしているのは確かなのだろう。

 そして先ほど見えた『糸』の色からしても、その噂の信憑性が増してしまっているのだ。

「放ってはおけない、ですね」

 余計なお世話かもしれない。人間関係に……特に恋愛事情に首を突っ込まれるなんて、恭子が嫌がりそうなことの代表格だ。

 でも……大切な友達が傷つくかもしれないとわかったら、おとなしく黙っていることなど、できるはずもない。

「ひとまず、家に帰ったら電話しますかね」

 守谷先輩やバスケ部の噂をそれとなく話し、控えめに忠告するだけでもいい。あの恭子ならば十分に自衛できるだろうし、自力で解決もしてくれそうだ。そんな想像なら、いくらでも容易にできてしまう。失礼だとは思いつつも、恭子が泣いたり傷ついたりしてる様を想像するのは非常に難儀だ。

 そう思えたことでようやく安堵(あんど)し、おとなしく下校しようと教室へと引き返す。

「あ」

 一歩を踏み出そうとした途端、突然ある事柄に気づいて、ピタリと動きが止まった。

「家に、帰ったら……?」

 今しがたの自らの台詞を反芻(はんすう)する。戦慄(せんりつ)が走り、嫌な汗が吹き出る。そして次の瞬間には走り出していた。

 急ぎ二人の後を追い、階段を一気に駆け上がる。

 三階までたどり着くと、廊下を切羽詰まった形相で睨みつけ、念のために屋上へ続く階段も同様に見やる。

「……いません」

 時すでに遅く、恭子と守谷先輩の姿は見えない。

 守谷先輩は部活動を引退しており、恭子も帰宅部である。だからてっきり、これから一緒に下校するものと思い込んでいた。けれど思い返してみれば、教室には恭子の鞄が残っていたのだ。

「恭子ちゃん、どこに……」

 鞄も持たずに、いったいどこへ行く。階段をのぼる必要性が、いったいどこにある。

 一縷(いちる)の望みを託し、二階へと引き返す。そこでも廊下を確認するも、人影は一切見当たらない。

 放課後。人気がなくなりつつある校内。

 いまだに校内に残っている生徒がどれほどいるのか、どこにいるのか、さっぱり不明だ。これだけ広いと鉢合わせる心配もほぼないだろうし、かくれんぼなんて始めてしまった(あかつき)には鬼役が過労死してしまいそうだ。そう考えると、逢引(あいびき)にはかなり適しているのかもしれない。

 全てが綾音の杞憂(きゆう)であるならば、純粋に健全に逢引だけが目的であるならば、それに越したことはない。けれど、言いようのない胸騒ぎがする。

 本来であれば神聖な校内で妙な行為に及ぶなど考えられないが、逆にそういったシチュエーションに興味を持ち、興奮を覚える者がいることも知っている。恭子がそれに該当しなくとも、『無理やり』であれば十二分にあり得る。

 あまり考えたくはないが、そんな未来すらを示唆(しさ)する『糸』が見えてしまっていたのだ。

「……どうしたものですかね」

 もし想像したような事件が起こってしまうならば、綾音がひとりで駆けつけたところで無力だ。あらかじめ誰かに助けを求めておく必要がある。

 しかし綾音は恭子とは違い、人見知りが激しく、おまけに口下手だ。必死になって話したところで理解など得られない。むしろ相手にもされないだろう。

 ましてやそれが、『糸』を……『思春期症候群』かもしれないものを根拠としてしまうならば、なおさらに。

 

「……?」

 ちょうどそのとき、二年一組の教室から出てくる人影があった。

 素敵に跳ねた髪型。気だるそうな歩き方。ちらりと見えた横顔、安定して眠そうな目。

「あれは……」

 以前は名前を思い出せなかったが、ちゃんと名前を調べ直しておいた。

 病院送りの先輩、梓川(あずさがわ)咲太(さくた)

 こっそりと後をつけたい場面ではあるが、残念ながら今はそんなことをしている状況じゃない。咲太ほどではないにせよ、危険としか思えない人物が、恭子を毒牙にかけようとしているかもしれないのだから。

「……あっ!」

 その時、綾音に天啓(てんけい)が舞い降りた。ほぼ同時に、この場におあつらえ向きな格言が浮かぶ。

「『毒をもって、毒を制す』、ですね」

 守谷先輩が危険人物であるというのなら、より強い『毒』によって駆逐(くちく)をするしかない。人命、正義、未来……そういったもののためには、時に小さな悪に目をつぶらないといけないともよく言ったものだ。

 なりふりなど構っていられない。今こそ『病院送り』の先輩の本領を発揮していただくべき時がきたのだ。

「助けてくれませんか、先輩!」

 その声に反応し、咲太が振り向く。そして綾音と目が合った……かと思えば、なぜか辺りを見回し始める。

 どうも人違いを疑ったらしい。しかし咲太の他に人の姿が一切見受けられないことから、怪訝(けげん)な表情で問い返してきた。

「先輩って、僕のことか?」

「はい。『病院送り』の先輩ですよね?」

「……一年の間ではその呼び名で通ってるのか」

「たぶんそですね。でもなんでです?」

「前にも他の一年の子にそう呼ばれたことがあるんだ」

「なるほど、なるほど」

 思えば『梓川先輩』と呼ぶ一年生はほとんどいない。無論、綾音もその例に漏れない。そのせいもあり、度々、咲太の名前を忘れてしまう。

「で。助けてくれ、って言ったか?」

「はいっ、その、緊急事態で……」

「断る」

 咲太は断固とした口調ではっきりと告げる。

「えとえと、上手く説明できないけど危ない先輩がいて、友達が酷い目にあいそうで……」

 けれど、必死な綾音の耳には届いてなかった。

「……そうか、なら教師か警察でも頼ってくれ」

 面倒くさいという内心を隠そうともせず、咲太が正論で応じた。

 それで話は終わりだと言わんばかりに、綾音の横をすたすたと通り過ぎていく。

「ちゃんと話を聞いてください!」

 その後を慌てて追いかけ引きとめようとするも、咲太は立ち止まる気配がなかった。めげずに小走りで食らいつく。

「ごめんな。このあと用事があるんだ」

「あのあのっ、わたし……」

「お前こそ人の話を聞けよ」

 今度は聞こえてはいたけど、聞き入れる気は毛頭ない。

「わたし、見えるんです!」

「壺なら買わないぞ」

 主語が抜けていたためか、盛大に勘違いをされてしまったらしい。

「いえ、霊感商法とかではなくてですね……あぁでも、似たようなものが見えてしまうと言いますか……」

「はあ?」

 訂正をしなければと思いつつ、あながちそう遠いものでもないなとも感じ、口ごもってしまう。

 綾音の置かれている境遇を隠しながら、回りくどく説明をしようとしてもダメだ。頭も良くない上に口下手なのだから、こうなれば破れかぶれ、ド直球で攻めるしかない。

「き、奇妙な『糸』が見えるんです!」

 そう口にした途端、なぜか咲太の歩みが止まった。

「……糸?」

 理由は定かではないが、これでようやく落ち着いて話ができそうだと、ほっと胸を撫で下ろす。

「はい。『運命の赤い糸』、って知ってますよね?」

「そりゃもちろん知ってるが」

「なぜだかわたしだけに、それと酷似(こくじ)した変な糸が見えるんです」

「……」

 咲太が沈黙してしまう。なんだか困惑した様子で。

 本来ならば相手の応答を待つべきなのかもしれないが、綾音としては一刻を争う場面なので、話を続行した。

「で、あれって赤のほかにも色々な種類があるんですよね。色だけに」

「座布団没収だな」

「手厳しいです……」

「笑いの道は甘くないぞ」

 深い悲しみに包まれた。そこそこ上手いことを言えた自信があったのに。

「まぁ、その、結ばれていた糸の色によって、その二人の関係性がわかっちゃうわけですよ」

「へえ」

「それを利用して、占い師の真似事を生業(なりわい)としておりまして」

「ふーん」

「それでちょと、友達にあまり良くない色の糸が見えてしまっていたと言いますか……」

「はあ……」

 面白くなそうに生返事ばかりしてきた咲太が、とうとうため息まで吐いてしまった。ちゃんと聞いてくれているかも心配になる。

「こんなの誰に言っても信用されないし、時間がないかもです。危ないのは今すぐかもなんです!」

 言葉にしてしまうと余計に焦りが生じてくる。咲太の協力を(あお)げないとなると、非常にまずい。

 咲太ならば綾音には思いもよらぬような破天荒なことをしでかしてくれそうだし、最も適任かもしれないと感じていた。何より常識的な一般人の方々と比べ、頭のネジが一つ二つ外れてそうだし、こんな突拍子も無い話にですら乗ってくれそうだと思っていた。

 裏を返すなら、咲太ですら説得できないようであれば、綾音には他の当てが無くなってしまう。

「占い師、ねえ」

 ぼやく咲太の表情をじっと見つめる。

 心底面倒臭そうで、どこか諦めたような。そんな表情に思えた。

「どうも僕は、こういう星の下に生まれているらしいな……」

「……なんですと?」

「なんでもない」

 言葉を濁されてしまった。気にはなるが、追及している暇はない。

「そりゃ嘘みたいでしょうけど、にわかには信じられないでしょうけど」

「信じるよ」

「ですよね、でもでも本当に本当でして!」

 反射的にムキになって詰め寄った。

「いや、だから、信じるって」

「……えっ?」

 予想と反した咲太の言葉に、ぽかんとしてしまう。

「いま、なんて……?」

「何度も言わせるな、信じるっての。友達に不吉な糸とやらが見えて、もうすぐ危ない目に遭うかもしれないんだろ?」

「あっ、は、はい」

 てっきり、もっと詳しく『糸』のことを聞かれるかと思った。あまりにも物わかりが良すぎて完全に拍子抜けだ。

「代わりに、そのことが無事に済んだら、付き合ってくれ」

「……ふぇ?」

 綾音が固まる。

 瞬きすらせずに、たっぷりと、五秒ほど。

「ええぇぇぇぇっ!?」

 突如、絶叫が木霊(こだま)した。綾音本人としては峰ヶ原高校敷地内すべてに響き渡るような声を発したつもりだったが、悲しいかな、そんな声量は持ち合わせていない。きっと届いたのは、目の前にいる咲太にだけだろう。

「おい、急にどうした?」

「そのような対価を要求するなど、想像以上の鬼畜でした」

 どうりで話が早すぎると思った。

 きっと内心では「何言ってるかわかんねーし面倒くせーけど、適当に相手してやれば付き合えるってんなら儲けもんだな」などと思っているに違いない。下手をすれば欲情さえしたのかもしれない。汚らわしい。今時そんな(やから)が三次元に存在するなど信じたくなかった。

「……本気で『そういう意味』で受け取るやつ、いまだにいるんだな」

「こっちの台詞です」

「いいか、占い師」

「よくないです」

「いいから聞けって」

「おとなしく言うことを聞けと? そんなのだめです、わたしには幼い頃から心に決めた、まだ見ぬ運命の相手がいるんです」

「それ、実在してないやつだろ」

「ぐぬっ……!」

 鬼畜な輩はいるというのに。運命の相手はいない。この世はなんて理不尽なのだろう。

「お前、糸とやらが見えるって言ったよな?」

「言いましたけど」

「ちょっと知り合いのを見て欲しいんだよ。面白そうだから」

 急に何か言い出した。

 綾音が渋ってるのを見て要求を切り替えてきたのだろうか。だが、いくらなんでもハードルが格段に下がりすぎだと思う。

「あ。そういう話になりました?」

 綾音としては願ったり叶ったりなので、自然と明るい表情になる。

「最初っからそのつもりで言ってる」

 はて。これはどういうことだ。

 幸か不幸か、すぐに一つの可能性に思い当たった。

 綾音の盛大な勘違いという、赤っ恥な可能性に。

「……『付き合う』って、そういう?」

 咲太が無言で大きく頷く。

「こ、これは失礼いたしました。たいへんお見苦しいところを……」

 慌てて、ぺこぺこと頭を下げた。

 日本語って本当に難しい。つくづく、そう思った。

「気にするな。第一印象から何も変わってないから」

「ほんとですか?」

「本当だ」

 片や弾んだ声、安堵したため息。片や呆れたような声、疲れたようなため息。

 なんだかまた噛み合ってないような。気のせいだろうか。

「で、どうなんだ?」

 返答を促された。いまいち腑に落ちないけど、話が進まないので素直に応じる。

「なるほどなるほど、そういうことならお安い御用です」

 占い師としての依頼に応じるぐらいならば訳ない。「お任せください」と胸に手を当てる。めでたく交渉成立だ。

 そしてこれにて勝利が確定したも同然だ。『病院送り』の先輩を味方につけることが叶った今、大船どころか豪華客船に乗った気分になれるのだ。氷山にエンカウントさえしなければ無敵だ。

「こほん。自己紹介が遅れました、一年の秦野(はだの)綾音(あやね)と申します。よろしくです、病院送り先輩」

 礼儀正しく、深々と頭を下げる。

「梓川咲太だ。梓川サービスエリアの『梓川』に、花咲く太郎の『咲太』で、梓川咲太」

 長ったらしく妙な文面を付け足してくる。漢字まで思い浮かべられるようにした、咲太なりの粋な配慮だろうか。

「何やら風変わりな自己紹介の仕方ですね」

「パクるなよ」

「パクりませんて。そもそも『秦野』はサービスエリアが無かった気がします」

 秦野は神奈川県にある市の名前だ。藤沢市や茅ヶ崎市と同じく湘南地域に含まれるが、その二つとは正反対の最西部にある。さらに内陸に位置しており、山に囲まれ海に隣接していないためか、一般的に湘南地域として扱われることがないと聞いた。同じ秦野の名を冠しているがゆえに感情移入してしまい、その際は大変不憫(ふびん)に思ったものだ。

「僕の記憶が確かなら、開設予定じゃなかったか?」

 なんということだろう。その情報はまだ仕入れていない。

「まじですか」

「まじだ」

「秦野もとうとう全国デビューですか」

 不遇な扱いを受けた秦野が、日の目を見る時がきたのだ。これほど喜ばしいこともない。

「全国へ名を轟かせるのは無理があるな」

 無慈悲にも冷静な一撃を食らう。道のりは高く険しいことぐらい理解しているが、少しぐらい夢を見させて欲しい。

「いえ、秦野は必ずや全国の舞台へ羽ばたいてくれるはずです、梓川先輩なぞ目じゃないです」

「ふーん」

「さては(あなど)ってますね。秦野など眼中にないのですか、そーなのですか」

「正直、どうでもいい」

「がーん」

 大げさに頭を抱えてみる。しかしそんなポーズに相応しいほどのショックを受けていないことに気づいた。どうも秦野への愛が足りなかったようだ。そういえば行ったこともないし。

 それよりも一つ、先ほどのやり取りの中に引っかかる点があった。

「あの、梓川先輩」

「なんだ?」

「なーんか『梓川先輩』って、呼びづらい気がします」

 改めて口にしてみても言いにくい。あと、覚えづらい。こんなのまたすぐ忘れる自信がある。

「『病院送り先輩』よりマシだと思うぞ」

「そちらはあまり深く考えませんでしたけど、さすがに長すぎますもんね。長い名前ってなんか偉そうで腹が立ちます」

「勝手に呼んでおいて、なんだよその言い草は」

「そっかなるほど、『あずさがわ』が五文字なのが悪いんですね。多くの方の苗字は三文字か四文字ですもん。そりゃあ呼びづらいわけです」

「はいはい、悪かったよ。なら好きに呼んでくれ」

 咲太がちっとも悪びれることなく、投げやりに応じてくる。

 当然か。自分の苗字は自分では選べないのだから、咲太に非がある訳でもないし。

「んん~、あずさがわ……さくた……。あずさ……はなさく、たろう……?」

 首を捻りながら、ぶつぶつ呟く。鈍い頭を必死に回転させる。

 綾音にしては珍しく、そう経たずして脳内でぴこーんと電球が輝いてくれた。

「おっ。『さくたろう先輩』でいいですか」

 ぽんっと手を叩く。我ながらナイスなネーミングだと思った。

「字数が変わってないんだが」

 しかし咲太はどうもご不満らしい。細かいことを気にする人だ。

「でも『さくた先輩』と呼ぶのもあれですし。いきなり下のお名前でお呼びするなど恐れ多いですし」

「『さくたろう』なら平気なのか」

「愛称ならば別です」

「お前の価値観がわからん。いっちょんわからん」

「いっちょんわかってください」

「……」

「……」

 二人して黙り込む。綾音は何やら首を傾げて。咲太は綾音から発せられるであろう言葉を待つように。

 ほどなくして、その静寂は破られた。

「……『いっちょん』って、なんですか?」

「だろうな」



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3話

 咲太を味方に引き入れた綾音は、ようやく恭子の捜索を開始した。

 ぱたぱたと小走りで先導しつつ、時折(ときおり)思い出したかのように背後を見る。咲太の逃亡を警戒してのことだ。良い意味でも悪い意味でも、この先輩は何をしでかすかわからない。

 これまで誰かと遭遇することはなく、話し声も物音も一切しなかった。静かすぎて不気味な感じ。校舎内には人っ子一人いないのではないかと思ってしまう。

 それでも念のために先ほど一年二組の教室を再度確認してみたが、恭子が鞄を取りに来た様子はなく、まだ校内には残っているはずなのだ。

「いっちょん見つからんですね」

「いっちょんな」

 謎の単語の意味はちゃんと教えてもらった。『いっちょん』とは『全然』や『ちっとも』といった意味らしい。いっちょん知らなかった。

「そもそもなんで僕に助けを?」

「病院送りの先輩のお噂は、かねがね(うかが)っておりましたので。人助けという大義名分の下、合法的に暴れられるとなれば、喜んで協力してくれるかなと思った次第なのです」

「いったい人をなんだと思ってる」

「血に飢えた戦闘狂(バーサーカー)、もしくは暗い過去を背負った闇英雄(ダークヒーロー)のように思っておりました」

 そう語る綾音の目は生き生きとしていた。少女ではあるが、少年のような輝きをした目を咲太へと向けていた。

「……そうか」

 その代償として咲太の目が死んだ。これは絶対に呆れ返っている。

「なんですか、その目は!」

「きれいな目してるだろ?」

「死んだ魚のような目という表現が、これほどまでにしっくりくる目をした方を、わたしは生まれて初めてお目にかかりました」

「秦野の人生経験が浅いだけだ。そんなの毎日だってお目にかかれるぞ」

「またまたご冗談を。そんな目をした人間がごろごろいたら困ります。世紀末ですか、パンデミックですか」

 この世界に生きたまま死んでいるような、ゾンビのような生命体が溢れかえってしまっていることになる。想像しただけで楽しそうだ。

「嘘じゃない。顔を洗う時とか、歯を磨く時とかな」

 その行動は主に洗面所で行う。つまり咲太が言わんとするところは、鏡の前だということ。

「なんだ、さくたろう先輩がゾンビなんじゃないですか」

 咲太の目は四六時中死んでいるらしい。自分のせいじゃなくて良かったと、少しほっとする。

「秦野は怖くないのか?」

「常々お近づきになりたいと思っておりました」

「冗談だろ」

「美味しくいただかれたくはないですよ?」

「いや、ゾンビのことじゃなくて、僕のこと」

 少し話が食い違っていた。けど、どちらもお近づきにはなりたかったし、美味しくいただかれたくもない。微々たる違いだと思う。

「自分で言うのもなんだが、『病院送り』だろ? そんなあだ名のやつとは関わりたくないってのが普通の感覚だと思うが」

「おぉ、そういえば」

 ぽんっと手を叩く。

 確かに咲太の言う通りだ。現に咲太と積極的に関わろうとする同級生はいないし、姿を見かければ逃げる人も多い。それが世間一般的な反応であり、この学校における不文律(ふぶんりつ)なのだろう。

「んー。でも同じことですよ、ゾンビと」

「へ?」

「たとえ危険であっても……いいえ、危険だからこそ、病院送りの先輩には密かに憧れておりましたから」

「正気かお前」

「ええ、この上なく。本気と書いてマジってやつです」

「マジだったか」

「なのであとでサインください」

「怪しげな契約書にか」

「いえ、悪徳商法とかではなくてですね」

 そんな行為に手を染めるつもりなどさらさら無いが、万が一そうなったとしても相手ぐらい選びたい。こんなあからさまにひねた人は嫌だ。もっと純粋な人がいい。

「まっ、お近づきにはなりたい、けど噛みつかれたくはない。さながら動物園のライオンのような感じでしょうか」

「どうせならパンダにしといてくれ」

「好きなんですか?」

「妹がな」

「ほう、妹さん」

 妹がいたとは初耳だ。心のノートへ、しっかりと赤字でメモっておく。

「つまり妹さんに好かれたいがために、パンダキャラを目指してるのですか」

 そして『シスコンの疑いあり』ともついでに記す。

「……それは、困るな」

「はい?」

 咲太が真剣に眉をひそめている。まさか今の発言は図星な上に、地雷だったのだろうか。

「妹の半分は、僕への想いで出来てるらしいからな。これ以上浸食したらシャレにならないだろ」

「何やら頭痛によく効きそうな妹さんですね」

「そのせいで僕は逆に頭痛をもよおしている」

 どうやら妹さんが重度のブラコンだったようだ。さっそく修正しておこう。

「まあ、単純に温厚そうだろ。パンダって」

「パンダって、襲ったりしてこないんですかね?」

 パンダは漢字で『熊猫』と書くはずだ。熊としての遺伝子を残していたら危険なのではなかろうか。そもそも猫だって十分に凶暴な気がする。

「たぶんな」

 眠たげな目と気だるげな声のおかげで説得力が皆無だった。なんとも無責任な人だ、余計に不安になってしまうではないか。パンダのそばには金輪際(こんりんざい)近寄らないと心に決めた。

「でもこうして間近で見ても、確かにさくたろう先輩はライオンとかみたいな雰囲気がないんですよねぇ。人様を病院に送れるような豪傑(ごうけつ)にはまったくもって見えないです」

「秦野には人を見る目があって嬉しいよ」

「むしろ弱そうです。わたしでも勝てそうです」

「なら、試してみるか?」

「えっ」

 (くすぶ)っていた闘志に火をつけてしまったようだ。さすがに失言だったらしい。

 こうなれば致し方あるまい、(いさぎよ)く腹をくくろう。

「ちょっと待っててくださいね、聖剣とってきますんで」

 どこかに何か良い武器はあっただろうか。傘では少々心もとない。せめてバールのような物ぐらい装備せねば。

「物騒なもん持ってるな。何と戦う気だ」

「もちろん」

 じーっと咲太を見つめる。「あなたとです」と視線で訴えかける。

「人は見かけによらないと言いますからね。用心するに越したことはないです」

 実在する人間の中では最強のラスボスのように思っていた、病院送りの先輩なのだから。

「用心って段階を越えてないか?」

「わたしの世界の常識ではまだまだ不十分です」

「お前、どこの世界の住人だよ」

「れっきとしたこの世界の住人ですってば。まぁ、いつか異世界へ転生してみたいなーという憧れは抱いておりますが」

 咲太がわざとらしく盛大なため息を吐いた。

「……なら、憧れの異世界に行けるまで聖剣とやらは置いとけ。僕ごときに使うな」

 きっと心の中で(さじ)を全力で投げ捨てていたに違いない。不法投棄とはなんたることだ。許すまじ。

「では、素手で戦えと? いたいけな女子高生になんてことさせる気ですか」

「安心しろ。武器なんてなくても僕が負ける」

「……女子供には手を出せないっていう、紳士的なあれですか?」

「見くびるな。単純に秦野に勝てる気がまったくしないだけだ」

 いったい何の冗談だろう。

 どこまで本気で言っているのかと咲太の表情を確かめてみるも、その目の色に変化はない。相変わらず死んでいる。

「わたし、頼る相手を間違えましたかね?」

 すっかり忘れかけていたが、咲太には助けを求めたのだ。綾音のようにかよわい女子では、守谷先輩のような年上の男子に何もできないと思い、応援を要請したのだ。

 それがなんたることだ。『病院送り』は偽りの称号だったとでもいうのか。

「って、あぁっ!」

「なんだよ、急に大声出して」

「恭子ちゃんがピンチなんでした」

「まさか忘れてたのか?」

「忘れてなどいません。忘れかけていただけです」

 些細な違いに聞こえるかもしれないが、そこには大きな差がある。きっぱりと否定しておかねばならない。

「僕は関わる相手を間違えた気がしてきたな」

「そんな悲しいことおっしゃらず、どうかお願いします」

「ちゃんと捜してるだろ、こうして」

「あれからけっこー経っちゃってます、もっと急がないとマズいかもしれません」

 思い出したらまた気持ちが急いてきてしまった。いや、忘れてなどいないのだが。

「いいか、秦野」

「はい?」

「廊下は走っちゃいけないんだぞ」

「……」

 おっしゃる通りだ。ぐうの音もでない。これ以上は急ぎようがない。

「じ、じゃあせめて、当たりをつけて捜すとか……」

「当たり?」

「ええ。闇雲に捜してても、(らち)があかないですから」

「一理あるな」

「ってことで、さくたろう先輩。どっか知りませんか? 人気スポットとか、穴場とか」

 綾音の希望的観測だが、咲太は一匹狼のような性分のはずなのだ。たぶん独りになりたい時があるはずなのだ。その時のための隠れ家候補だって、きっと幾つもあるに決まっている。

「穴場、ねえ……」

「はい、穴場です」

「……」

 咲太が黙り込んでしまう。そして表情がすごいことになっている。嫌悪感に満ち溢れてたオーラを発している。これはいったい何事だ。

「ど……どうかしました?」

「あんまり、いてほしくないんだがなあ」

「おぉ、お心当たりが?」

 咲太がなんとも憂鬱そうな足取りで階段をのぼり始めた。その後をいそいそとついていく。

 向かった先は三階だった。綾音はこの辺りにまだ来たことがなく、何に使っている教室なのかわからなかったが、どうも何にも使っていない教室らしい。つまり、空き教室。

「わっ、とと」

 前を行く咲太が、不意にぴたりと立ち止まり、危うく激突しそうになる。

 その背中に文句をぶつけてやろうとしたら、

「……まじか」

 と、ため息まじりに咲太がぼやいた。

「え? ……あっ」

 空き教室な上に放課後。本来ならば誰もいないはずの室内から、かすかな話し声が聞こえてきた。

 ここでもまた動物的本能を発揮する。中にいるのはおそらく、恭子だ。

 咄嗟(とっさ)に中へ飛び込もうとするが、咲太に行く手を(さえぎ)られた。

「しっ」

 咲太が「静かにしろ」と手振りで伝えてくる。

「さくたろう先輩、なんで!」

「人違いかもしれないだろ」

「う……な、なるほど」

 もっともだ。あくまで直感的に感じ取っただけであり、まだ恭子と決まったわけじゃない。

「それに危ない目に遭うとかいうのも、秦野の勘違いって線もある」

「なっ、いまさら疑うんですか?」

「そうじゃない。近いうちに何か不吉なことが起きるとは言っても、今すぐかどうかはわかってないんじゃないか?」

「あっ……」

 あんな態度でいても、話はちゃんと聞いてくれていたらしい。

 咲太の指摘は正しいのだ。これはそもそも恭子と守谷先輩の間に不穏な糸が見え、その後とった不可解な行動から、不吉な予感がした。つまるところ綾音の想像でしかなく、もっと乱暴な言い方をしてしまえば、現状ただの綾音の暴走に近い。

 はっきりしてるのは、二人の間に『何かしら』の事件が『いつかは』起きる、ということだけなのだから。

「だから、ちょっと待て。様子を見る」

 客観的に、冷静な判断をしてくれるだけで大分頼もしい。やはり助力をお願いして良かったと思う反面、少しだけ気になる点がある。

「一応、お聞きしますけど」

「ん?」

「ヘタレたわけじゃないですよね?」

 先ほどまでのやり取りから、一気に頼りない印象が植え付けられてしまったので、そんな疑いを持ってしまう。

「平和主義者なんだよ」

「避けられる争いは避けたいということですか」

「ま、そんなとこ」

 意外と穏健派らしい。良いことなのだろうけど、綾音としては少し複雑な心境だ。想像していた『病院送り』の先輩像と、着実にずれていく。

「あと、何より、面倒くさい」

 単なる面倒くさがり屋さんだった。察するに、そっちが一番の本音だろう。どう考えても。

「やっぱり頼る相手を間違えました……」

「そう言うな。いざとなったら、ちゃんとなんとかしてやるから」

「ほんとにですか?」

「本当だ。僕の目を見てみろ」

「すっごく眠そうです」

「やばそうだったら起こしてくれ」

 そう言ってしゃがみ込む咲太。まさかここで眠る気だとでもいうのか。

「ちょ、ちょと、さくたろう先輩……?」

「だから、静かにしろって」

 どうやら教室内を覗き込もうと(かが)んだだけらしい。早とちりしたのは悪かったと思うけど、誤解を招くような言い方をする方が悪いと思う。

 綾音が文句の一つでも垂れてやろうかと思ったとき、

「なにするんですかっ!?」

 と、唐突に中から女子の怒声がした。

「……恭子ちゃんの声、です」

「良い雰囲気……じゃ、ないな」

「……」

「……」

 綾音は無言でじっと咲太の横顔を見つめる。咲太の表情は真剣そのものだ。きっとこの場を打開する策を練ってくれているのだろう。

 それにしてもものすごい集中力だ。先ほどから微動だにせず、瞬きすらしてない気がする。

「……さくたろう先輩?」

 呼び掛けても反応がない。

「……」

 これ、目を開けたまま寝ているのではなかろうか。

「あのっ、さくたろう先輩!?」

 しびれを切らし、一向に動き出そうとしない咲太の肩を揺さぶった。揺すられるがままに頭をぐらぐらさせている。どこからどう見ても、意識が無いようにしか見えない。

「お気を確かに! 寝たら死にますよ!」

「それは困るな。あと百年は生きたいのに」

 意外にもあっさりと返事があった。声も目もいつものごとく眠そうに感じられるので、寝起きか否かの判断は困難を極める。

 しかしあと百年と申したか。ギネスブックに掲載されることでも目指しているのだろうか。

「起きてるなら起きてると言ってくださいよ、まったく」

「寝てるから寝てるって言っとくな」

「ちょっとー!?」

 再び肩を揺さぶる。が、今度は先ほどのように揺られてはくれなかった。

 びくともしないというほどではなくとも、綾音程度の力であれば余裕で支え、受け止めてくれるだけの強さを感じる。性格や見た目がこんなでも、ちゃんと年上の男性なのだという意識を否応なくさせられる。

「なあ、秦野」

「は、はい?」

 少しどきまぎとしてしまい、声が上擦(うわず)ってしまった。

「なんていったっけ。友達の名前」

「高坂、恭子……ですけど」

「高坂さんね」

 なんとも億劫(おっくう)そうではあったが、咲太がゆっくりと立ち上がる。

「まあ、任せとけ」

 

    ◇    ◇

 

「なにするんですか!?」

 恭子は反射的に守谷の体を押し退ける。何の前触れもなく、守谷が迫ってきたのだ。気づいた時には息の触れそうな距離にまで顔が接近しており、あと少し遅ければ、奪われていた。

 無理やりに、唇を。

「なに、って……決まってるでしょ?」

「は、はあ?」

「『はあ?』はこっちだよ」

 守谷が片手で顔を覆い、大きなため息をついた。

「見た目も派手だし、色々と緩そうだったから、声かけたんだけどなあ。いまだにキスもNGとか、期待ハズレもいいところだよ」

「な、なに……言って……」

「高坂ってそういう感じだったわけ? 白ける、ほんと」

「それって、つまり……あたしが『簡単にヤれそう』って思ってたってこと?」

「身も(ふた)もない言い方をすればね。おかしい?」

「おかしい、って……」

「高坂ぐらいの子ってみんな興味津々じゃん。付き合うのオッケー出した時点で、その先のことまで見越してるに決まってるでしょ、普通」

「……」

 恭子は何も言い返せない。あまりにも滅茶苦茶な理屈に、完全に絶句してしまっていた。

「興味がまったくないわけでもないでしょ? 悪いようにはしないからさ」

 守谷が恭子の腕を掴み、壁際へと追い込む。

「い……、嫌っ、離してよ!」

 (あらが)おうにも守谷は男子であり、引退したとは言え運動部に所属していた。力の差は歴然としている。もしかすると、暴れる相手のあしらい方すらも慣れていたのかもしれない。

 このままでは()(すべ)もなく、いいようにされてしまう。恭子はそんなの御免だと必死に頭を回転させるが、猶予(ゆうよ)は与えられず突破口も見当たりそうもない。突きつけられた現実に絶望し、半ば諦めかけていたら、

「お盛んですね」

 と、割り込んだ声があった。この場にそぐわない、なんとものんびりとした声。

 動きの固まった守谷の隙を盗み、恭子が腕を振りほどき、ばっと離れた。

「なに、君?」

 ゆらりと振り返った守谷が、不機嫌も(あら)わに問い掛ける。

「人間ですが」

「は?」

「そっちはさかりのついたサルですか?」

 端正だった守谷の顔つきが怒りに(ゆが)む。

「ずいぶんと失礼な物言いだね。俺たちは付き合ってるんだよ。当然の成り行きじゃないか」

「嫌がる相手を無理やり、ってのが、あんたにとっての当然なのか」

 (あお)るように咲太が鼻で笑った。さすがにあからさますぎたのか、守谷は乗ってこない。まだまだ冷静さを残しているらしい。

「まあいいや。とりあえず、ケータイ貸してくれ」

「……なんだって?」

「先に呼んでおいてやろうと思って。救急車」

 守谷が真顔になる。咲太の突拍子もない台詞に唖然としてしまい、全ての感情を忘れてしまったかのように。

「君、頭は大丈夫?」

「あいにく、大真面目だから」

 言葉通り、咲太の目は笑っていない。

「三年の先輩だったよな」

「そういう君は、高坂の同級生……って感じじゃないね。二年生かな」

「ああ、知らないんだ? 僕のこと」

 小馬鹿にするように笑った。咲太のあまりにも下級生らしくない態度に、守谷も怪訝(けげん)な顔になる。

「大変な時期だもんな。受験なんかのストレスから、妙な行動に走る気持ちはよくわかるよ」

「……何を、言っているんだ?」

「あんたを取り巻く全ての悩みから解放してやるから。安心してゆっくりしてきてくれ」

「だから、さっきっから何の話をしているんだ!」

「明日っからしばらく、あんたの住まいは病院になるって言ってるんだよ」

 守谷の表情が引きつる。

 出し抜けにたどり着いてしまった。考えうる限り最悪の人物が、目の前にいるかもしれないという可能性に。

 恐れ、(おのの)き、反射的に後ずさりする。震えた唇から、かすれた声で問いただした。

「君は……まさか、『病院送り』の……!?」

 咲太は言葉を発さず、ただ不敵に笑う。

「な、なんで……君が……」

 なぜこの場に、何のために。ただただ、信じられない。動揺しきった守谷からは、そんな焦燥(しょうそう)がありありと伝わってくる。

「ここ」

 おもむろに咲太は床を指差した。

「……は?」

「ここ。どこだか知ってる?」

 唇を端を吊り上げ、そんな質問を投げ掛ける。

「空き教室……じゃ、ないのか……?」

「それが、ただの空き教室じゃないんだよなあ」

 咲太がもったいぶった足取りで歩き出す。教室の中央へと立つと、ぐるりと辺りを見渡しながら語り出した。

「僕が贔屓(ひいき)にしてるんだよ、ここは。要するに、お気に入りの場所ってやつ」

「……あ」

「たとえばさ。自分の部屋を、他人に土足で踏み(にじ)られるのって、いったいどんな気分なんだろうな?」

「っ!」

 目に見えて守谷の顔色が悪くなった。

 ここは決して咲太の部屋ではない。今の例えが横暴な言い草であることぐらい守谷にもわかっている。ただ『病院送り』という名が、そんな理不尽を押し通せるだけの力を有してしまっていた。

「それと、その子」

 咲太が恭子のことを指差す。

「……な、なんだ?」

「知り合いなんだよ、僕の」

 守谷が恐ろしい形相で恭子へと向き直った。「本当なのか!?」と、血走った目で問い掛ける。

 依然(いぜん)としてこの状況にさっぱりついていけず、戸惑う恭子であったが、

「な、高坂?」

 咲太に自分の苗字を呼ばれ、同時に向けられた目配せにも気づき、ゆっくりと頷いてみせる。それを認めた守谷が、ごくりと生唾を飲み込んだ。

「あんたが置かれてる状況、理解してくれた?」

 守谷の頬に一筋の汗が伝う。

「わかんないか」

 口を動かすことも、首を振ることもできない。

「いいさ、時間ならこれからたっぷりある。ゆっくり考えてくれ。病院の白いベッドの上でな」

 咲太が気だるげに首を捻る。これから成そうとしていることの、準備運動だと言わんばかりに。

「受験には間に合わないだろうし、下手したら出席日数も足りなくなるか? 留年って可能性も十分あるよな」

 守谷を正面から見据え、悠然とした一歩を踏み出す。

「そしたら同級生か。なら、同じクラスになれるといいな」

 二歩、三歩と進むにつれ、着実に二人の距離がゼロへと近づいていく。それは守谷からすれば、死へのカウントダウンに等しいものだった。

「その方が、楽しそうだろ?」

 咲太の口元が邪悪に歪む。

 守谷の目に映る咲太の姿は、まるで悪魔のようで。

 見る者全てを畏怖(いふ)させ、逆鱗(げきりん)に触れた者全てへと(しか)るべき制裁を()り行う。『病院送り』としての風格を存分に漂わせていた。

「来年もよろしくな、先輩」

 また一つ、歩を進める。もう間もなく、咲太のリーチ内に収まろうとしていた。

 それを悟った守谷は慌てて飛び退くやいなや、両手を上げ敵意がない事を示し、(あえ)ぐように絞り出す。

「も、もう、近づかない……この教室にも……高坂……さん、にも……だ、だから……!」

「だから?」

 厳粛(げんしゅく)な声に先を促された守谷が、肩を震わせ、徐々に項垂(うなだ)れていく。

 込み上げてくる様々な感情を堪えようとしてか、ぐっと唇を噛みしめた。

「……ゆ、許して……くれないか」

 喉に何か絡んだような、ひどくかすれた声だった。

 わざとらしくため息を吐いた咲太が、恭子へと顔を向ける。

「高坂、どうする?」

 まさか急に自分へ振られるとは夢にも思わず、恭子がびくっとした。

「許してやるか?」

 恭子は一度、守谷の方を見てから、咲太へと視線を移動させた。

 錯綜(さくそう)とした状況の全てが把握できたわけではない。それでも咲太がどんな答えを要求しているかを瞬時に察し、深く頷きながら口を開いた。

「……もう、関わらないって、約束するなら」

「そうか」

 咲太が満足げに頷きを返す。恭子の聡明さを称賛し、感謝もしながら。

「今回は高坂に免じて見逃してやるけど」

 つかつかと守谷へ近づき、その正面で立ち止まった。

「二度と、こんな真似しないでくれ。僕だって暇じゃないんだ」

 わずかに屈んで守谷の顔を覗き込み、しっかりと釘を刺す。トラウマという名の、そう容易く抜けることのない釘を、念入りに。

「も、もちろん……」

 守谷は必死になって、千切れんばかりに首を上下させる。そしてその直後、脱兎のごとく全速力で駆け出していった。

 逃げ足の速さに呆れ半分、感心半分でその背中を見送った咲太と恭子は、ほぼ同じタイミングでほっと胸を撫で下ろす。

「あ、あの……ありがとうございました。その……」

「礼なら友達に言ってあげて」

 咲太が顎で視線を誘導する。その先には、ドアの陰で顔だけを覗かせている綾音がいた。

「あ、綾音……?」

「よかったぁ、恭子ちゃん……!」

 勢いよく抱き付く綾音、なおも戸惑う恭子。

 役割はもう果たした。この先は水入らず、異物はさっさと去るに限る。

 咲太はそう思い、静かにその場を後にした。

 

 

「たまには役に立つもんだな」

 咲太に与えられた、『病院送り』という不名誉な二つ名。

 これまで何一つとして良いことなどなかった。ようやくほとぼりが冷めて、あとは時間の流れと共に忘れ去られていくばかりと思っていた。

 それが、こんな形で利用価値があった。なかなか感慨(かんがい)深いものがある。馬鹿と鋏は使いよう、ということなのだろう。

「ふう」

 しかし、演じるというのは思いのほかしんどかった。慣れないことはするもんじゃない。もう二度とやりたくない。

「こんなこと、いつもやってるのか」

 その感想は、とある人物に向けられていた。

「すげえな、役者って」

 今日は学校を休んでいる、三年生の先輩。

 地方でドラマの撮影があるのだと言っていた。誰もが知っている国民的女優でありながら、咲太の大好きな彼女でもある人、桜島麻衣。

 真っ先に頭に浮かんだのは、初めて出会った時に見たバニーガール姿。

「今、何してるんだろうなあ」

 咲太は空を見上げる。

 今この瞬間にも、どこかの空の下で演技に励んでいるのだろうか。

 いや、麻衣のことだ。NGなど滅多に出さない麻衣と、その彼女が太鼓判を押す共演者とスタッフならば、とっくに撮影は終えているのかもしれない。

「いつ帰ってくるかな」

 なんだか無性に、麻衣に会いたくなった。

 

    ◇    ◇

 

「あっ、さくたろう先輩!」

 ぱたぱたと小走りで追いかける。咲太は立ち止まることも、振り返ることもしてくれない。すこぶる薄情だ。

「さっきのめっちゃカッコよかったです。完全に誰彼構わず病院送りにするやべーやつでした」

「名演技だったろ」

「感動しました。あれこそがまさにわたしの思い描いていた先輩像です」

「秦野の脳内もかなりやべーな」

「手元にビデオカメラが無かったことが悔やまれます。ぜひとも文化祭で上映したかったです」

「やめろ、それはまじで洒落(シャレ)にならない」

「仕方がないので心のメモリーに永久保存しときました」

「厳重に保管して二度と取り出さないでくれ」

 要するに口外厳禁、墓場まで持っていけということらしい。もったいないが、個人的に楽しむだけにしておこう。

「そういや友達は?」

「帰りました」

「一人にして大丈夫なのか?」

「いえ、その……なんと言いますか」

「ん?」

「なんか、すっごく怒ってまして」

「は?」

「今は自分に腹が立ってダメだから、後で話して欲しいと……」

 きっと感情の整理が必要なのだろう。仮にも恋人だった相手の豹変(ひょうへん)っぷりに、怯えるでもなく、落ち込むでもなく。「見る目がなかった」と憤慨(ふんがい)し、自身の慧眼(けいがん)を恨む様は、なんとも恭子らしくて。

 綾音のよく知る、いつも通りの恭子だった。

「そういう子なのか?」

「そういう子なのですよ」

「強い子だな」

「えへ~」

 照れくさそうに笑う。

「褒めたのは秦野のことじゃないぞ」

 そんなことはわかっている。

 けれど、やっぱり嬉しいのだ。

「恭子ちゃんは、自慢の友達ですから」

 咲太がわかりやすく瞠目(どうもく)する。

「……どしました?」

「いや、なんでも」

 今度は口元を(ほころ)ばせていた。

 穏やかで、優しさに満ちた、初めて見る表情。こんな顔もできたのかと、思わず見蕩(みと)れてしまう。

「ほら、行くぞ」

「ふぇ?」

 呆けていたら、急に咲太が歩き出した。半ば無意識にその後に付いていく。

「約束だったろ? 次は僕の用事に付き合え」

「あっ、はい、了解で……」

 言葉が途切れ、足が止まった。

 突如として、綾音と咲太の間に、まばゆい神秘的な光が生じたのだ。

 目をぱちくりさせ、ごしごしと擦る。その時にはもう、光は消えてしまっていた。

「……なんで?」

 その光の中に、見えたのだ。一瞬だった上に目がくらんでしまい、残念ながら色までは判別できなかったものの、確かに見えたのだ。

 これまで、一度たりとも目にしたことがなかったのに。

 綾音と他者との間を結んだ『糸』が、初めて顕現(けんげん)した。

「まさか……さくたろう先輩、が……?」

 ようやく、出会えた。

 幼い頃から恋焦がれてきた、運命の相手……。

「……なんですかね?」

 胸にそっと手で触れてみる。心に問いかけてみる。

「うん」

 やはり、ちっともときめかない。ついでに言うと、さっぱり嬉しくない。むしろ(しゃく)だ。

 こんなのが恋であるはずもなく、あんなのが運命の相手であるはずもない。

「気のせい、でしょうね。たぶん」

 そう自らに言い聞かせるように、強く頷いた。

 けれど同時に、こうも思う。

 まだ何一つとしてはっきりしていない。これはなんとしても真偽を確かめる必要がある。

 本当に見間違いだったのか、それとも……。

 今一度頷き、ぱたぱたと小走りで咲太の後を追いかける。

「待ってください、さくたろう先輩!」

 

 

    ◇    ◇

 

 

 思えば、この時から。

 月並みな表現かもしれないけれど。

 止まっていた歯車が動き出したような。

 砂時計をひっくり返したような。

 そんな感覚。

 

 何かが、変わりそうで。

 何かが、変わってしまいそうで。

 それが、この時、この瞬間。

 

 終わりへの、始まりだったんだ――



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4話

「どこへ向かってるんですか?」

「体育館」

 歩きながら、咲太が短く答える。

 まさか今から部活動へ参加するつもりではないだろう。いくらなんでも重役出勤にもほどがある。

 それに綾音の仕入れた情報が正しければ、咲太は帰宅部だったはずだ。

「さきほどおっしゃっていた用事というのも、そこで?」

「バスケ部の友達が紅白戦をやってるみたいでな」

「ほう、紅白戦」

「ああ。前にやったときは負けたから、そのリベンジらしい」

「なるほど、お友達の応援ですか」

 ようやく納得できた。意外にもなかなか友達思いみたいだと、感激すらしてしまう。

「さすがにまだ終わったりしてないよな」

 ――このあと用事があるんだ

 思い返せば咲太はそう言っていた気がする。綾音をあしらうための嘘かと疑ったが、どうやら本当だったらしい。

「さくたろう先輩……その、ごめんなさい」

「ん?」

「強引に助けをお願いしちゃって」

 自分のせいで大事な試合を見逃してしまったと申し訳なさが(つの)り、らしくもなくしょんぼりと項垂(うなだ)れる。

「気にするな。僕は試合が見たいわけじゃない」

「え?」

「再び惨敗したあいつの姿を拝めればそれでいいんだ」

「……はい?」

 聞き間違いだろうか。むしろ何かの間違いであった方がいい。

「あの、いま、なんて?」

「あいつが負けて悔しがってる顔が見たいって言ったな」

 もっとわかりやすく酷い台詞になってた。

「おかしくないです? 普通は見たいのって、活躍してる姿とかじゃ……」

「活躍なんか見ててもつまらん。むしろむかつく。ばりむか」

「ばりむからないでください」

 反射的にそう言うも、首を(かし)げてしまう。

 なんだろう、デジャヴだ。

「あの、さくたろう先輩」

「却下する」

 先を読まれてしまったらしい。

 けれど綾音はくじけない。ここで退いては、夜も眠れなくなってしまう恐れがあるのだ。そしてその場合は昼に眠ることになってしまうのだ。つまりは、授業中。

「『ばりむか』ってなんですか?」

 咲太はたまに不思議な言葉を使ってくる。いったいどこの言語なのだろう。

 実は異世界の住人なのではなかろうかと期待してしまう。仮にそうだとするなら、ぜひとも転移の手段や転生の経緯を教えて欲しい。

「なんでもそうやすやすと教えてやれるか」

「えぇ~、そうおっしゃらずにぃ」

「ぶっちゃけ僕もよく知らん」

 それならば仕方がない。

「いや、知らないなら使わないでくださいよ」

「ニュアンスだけは把握してるからいいだろ」

「ごもっともでした」

 激しく同意だ。言葉なんて、なんとなくわかってればいいのだ。

「まあ、考えるな。感じろ」

「ふむぅ……」

 とりあえずアドバイス通り、感じたままに述べてみる。

「ばりっとして、むかっときたんですかね?」

 口にしておいてなんだが、結局さっぱり意味がわからない。

「秦野は天才だなあ」

 大体当たっているのだろうか。ならば謎は謎のままで構わない。金輪際(こんりんざい)いただくことができない『天才』の称号の方が百倍嬉しい。咲太の目が死んでる気がするが、平常運転なのだから問題など無いはずだ。

「いえいえ、さくたろう先輩の教え方が上手いのですよ。案外、教師とか向いてるかもしれませんね」

「ま、僕はプロだからな。教えられる側の」

「おぉっ、さすが……」

 いま、咲太はなんと言ったのだろう。

「……『られる』?」

「『られる』」

 咲太が平然と頷きを返してくる。

 なんだそのプロは。初めて聞いた。まったくもってカッコよくないし、微塵(みじん)たりとも尊敬できない。

「わたしの夢をことごとくぶち壊してくださるプロではありますね、間違いなく」

 これはそろそろ訴訟ものだ。出会ってからここまでの全てを返して欲しい。目の輝きとか、胸のときめきとか、その他もろもろ。

「そう言うなよ。ちゃんと大事なことは教えてやったろ」

「なにをです?」

「現実」

「……おお」

 悔しいが感服してしまった。

 やはり咲太は教師としてかなり優秀なのではなかろうか。『反面教師』という名の、だが。

「ひとまず、さくたろう先輩が思ってた人と全然違うってことは痛感いたしました」

 咲太が教えてくれた現実とは、あまりにも残酷であった。幻滅の一歩手前だ。

「秦野が夢を見すぎてただけじゃないのか」

「そーいうお話とはまた別です。いったいどんだけ器ちっちゃいんですかね」

「知るか。器の大きさなんて見たことないし」

「さくたろう先輩とお友達でいられる方の神経を疑います。無条件で尊敬しそうです」

「きっと驚くぞ」

「そんなにすごい方々なのですか?」

「ああ、すごいな。僕にはもったいないぐらいだ」

「ほほ~」

 どちらかと言うと『類は友を呼ぶ』なのではなかろうか。咲太だって綾音から見れば十分すごい。たぶんベクトルが正反対なレベルで違うと思うけど。

「一番すごい人はいないんだよな、今日」

「お休みですか?」

「撮影でな」

「さつえい?」

 一口に撮影と言っても、そこには様々な解釈がある。

 写真などの静止画の撮影に、映画やドラマといった動画の撮影。そして撮る側なのか、撮られる側なのか……。

 そこまで考えたところで、ぴんときた。

「あっ、桜島先輩のことですか?」

「ああ」

「まじでちょーすごい方がきましたね」

 峰ヶ原高校三年一組、桜島麻衣。

 彼女はまず間違いなく校内一の有名人だ。日本一の有名人と称しても過言でないかもしれない。それが決して大げさに聞こえないほどの国民的女優であり、大スターなのだ。

 同じ学校にそんな人物がいるというのも信じられないが、あろうことか麻衣は咲太と交際をしている……らしい。

「そいえば本当に成功してたんですか? あの伝説の告白」

「伝説になってるのか」

「そりゃーそうでしょう。あんな面白い出来事、全校生徒の記憶にこびり付いちゃいますよ。頑固な油汚れだって目じゃないこびり付き具合ですよ」

 忘れもしない、今年の五月。

 試験の真っ最中だというのに、咲太が突然、グラウンドの中心で愛を叫んだ事件。未来永劫(えいごう)語り継がれてもおかしくない怪事件だった。

 多くの人が笑い話にした反面、情熱的だの、ロマンチックだのと、憧れてしまう人々も少なからずいる。そして、あの梓川咲太のような者でも、あの桜島麻衣を心を射止めることができる。その絶大なる衝撃から、『事件』は『伝説』へと変貌(へんぼう)を遂げた。

「グラウンドの中心で告白をすれば、どんな高嶺の花でも落とせるのだと。そのような伝説が水面下で芽吹いてました」

「なんとも傍迷惑な伝説だな」

 本当に迷惑だと思う。そして一番迷惑を被るのは、たぶん教師たち。咲太のときも皆が試験そっちのけで校庭を眺めたり、私語に走ったりで、収拾をつけるのが大変そうだったことをよく覚えている。

「でもいつまで経っても水面下なのです。このままでは自然消滅しちゃいそうです。なにゆえですかね?」

「後続が全然現れないだけだろ」

「おぉっ、たしかに」

 よくある『伝説の樹の下で』とかなら、こっそりひっそり行えるから、実際には誰も成功者がいなかったとしても、ある程度は広まってくれる気がする。

 対して『グラウンドの中心で』は目立ちすぎる。目撃者が誰もいないなど、まず有り得ない。成否のいかんに関わらず、実行者がいれば一気にその噂は広まるだろうし、逆に言えば噂が立っていない現状は、誰も実行に移していないということだ。あのような血迷った真似に走れる度胸を持つ人物など早々いないのだろう。

「あんなことができるメンタルの持ち主なら、もっと上手いやり方が他にいくらでもあるだろうしな」

「ですよねぇ。あんなことやる人の神経の図太さ、ぜったいやべーですよね」

「本当にな」

 あたかも他人事のような口調で、どこか遠くを見つめている。

 咲太にとっては、とびきりの美人と付き合えるようになった良い思い出のはず。それが照れるわけでも、得意げになるわけでもなく、むしろ「不本意ながら仕方なく」といった印象を受ける反応だった。

「あっ、でも、一年生の間ではそこそこ好感触でしたよ」

「一週回ってありってやつだっけか」

「ですです。わたしといたしましては、恋にうつつを抜かして丸くなってしまわれたのかと、ものすんごくショックでしたけども」

「僕は元々(とが)ってなんかいない。ひねくれているだけだ」

「それ、似たようなもんですて」

 

 そこでふと、賑やかな歓声が聞こえてくる。いつの間にやら体育館のすぐそばまでたどり着いていたらしい。

 正面の入口から中へと足を踏み入れてみると、わかりやすく空気が変わった。夏も過ぎ去り、秋の陽気へと移り変わっているというのに、体育館内は酷く熱く感じ、息苦しささえ覚える。これは気温の問題ではなく、試合中の選手たちの白熱した緊迫感のせいだ。紅白戦とは言っても、交流目的やレクリエーション感覚ではないらしい。

 それとは対照的に、観客の女子たちは色めき立っていた。憧れの先輩なり、意中の同級生なりの姿を見に来ているのだろう。帰宅部がほとんどだろうが、他の部活動の方々もちらほらいる。サボタージュとはいただけない。

「とりあえず、あの二人かな」

 そうは言うが、体育館内には結構な人数がいた。これでは咲太の目線を追ってみるだけでは到底わからない。

「どのお二人です?」

「コート内にいる一番のイケメンと、それを熱っぽい視線で見守っている眼鏡をかけた女子」

 なんとも雑な説明ではあるが、思いのほか絞り込めた。

 コート内にいる、つまり試合中の人物というのは全部で十名しかいない。比較的整った顔立ちばかりではあったが、ゼッケンを着用しているチーム側に、特に人目を引くオーラを放っている男子がいた。

 モデルやアイドルなどにスカウトをされたとしても、何ら不思議じゃないほどの容姿だ。一番のイケメンと称された人ならば、まずあの人しかいないだろう。

「おろ。国見先輩ですね」

「ああ」

 現在進行形で物凄い量の黄色い声援を受けている男子、二年生の国見佑真。

 多くの観客がボールの行方を追う中、わかりやすく佑真のことばかりを見つめている女子もかなりの人数がいた。というか女子の大半は佑真が目当てではなかろうか。バスケのルールとか、勝敗の行方とか、あまり興味が無さそうな。

「……む?」

 ゆくりなく、一際異色な存在感を放っている女子に目が留まる。

 その女子はコートからやや離れた位置で静かに(たたず)んでおり、咲太が挙げた特徴の一つである眼鏡をかけていた。眼鏡の奥に覗かせる瞳はどこか物憂(ものう)げで、さらにはこの場にそぐわない白衣が理知的で大人びた雰囲気を(かも)し出し、なんともミステリアスな……魔女のような印象を受ける人だった。

 ただ一点だけ他の女子たちと共通していたのは、その視線はボールを追っていないということ。彼女もまた、佑真のことだけを見つめる女子たちの内の一人だった。

「もう一人は、あちらの方ですか?」

「よくわかったな」

 感心したように咲太がやや目を見張る。

「ほほう……双葉先輩ときましたか」

 咲太や佑真の同級生である女子、双葉理央。

 確か彼女の背丈は、綾音よりも若干高い程度に小柄だったはず。それでいて遠目でもわかるほど胸が大きい。人間の不平等を(いちじる)しく表している典型的な例だ。

 生徒でありながら、いつも白衣を(まと)っている姿は良かれ悪しかれ目立ってしまう。麻衣ほどではないにせよ、理央もかなりの有名人だった。

「あのお二人は、多くの一年生の憧れの的なのですよね」

「そうか。まあ、そうだろうな」

「国見先輩は、入学直後にファンクラブが発足するほどでしたねぇ。そりゃーもう飛ぶ鳥を落とす勢いでした」

「へえ」

 心から面白くなさそうな反応である。

「双葉先輩は、夏休み明け直後から人気が(うなぎ)のぼりですね。絶賛赤丸急上昇中です」

 一学期の頃は下ろしていた髪を、夏休みが明けてからは頭の後ろで一つにまとめあげている。そのイメチェンの効果は抜群で、それまで理央に見向きもしなかったり、あまり快く思ってなかったりしていた男子でさえ、理央へ憧れや恋心を抱くこととなった。本当に女性というのは、髪型一つで印象ががらりと変わる。

「あれがバスケ部の爽やかイケメンさんに、科学部のエロかしこいさんですかぁ。なるほど、お噂に(たが)わぬ美男美女っぷりですね」

 聞かされていた通り、咲太の知己(ちき)はそうそうたる顔ぶれだった。麻衣を筆頭に、こうも美形が揃い踏みになるとは。悔しいが驚くしかない。

「あまり二人には聞かせたくない評価だな」

「『爽やかイケメン』は別に良くないです?」

「そのまますぎて腹が立つ。ばりむか」

「さくたろう先輩ってば、まじで器ちっちぇーですね」

 かろうじて一歩手前で耐えていたというのに、このままではそろそろ幻滅に至ってしまう。

「ちなみに、双葉先輩に『エロかしこい』ってのを聞かせたら?」

「仮に僕が言ったとしたら、汚物へ向けるより酷い目で見られながら『死ね、ブタ野郎』と(ののし)られるだろうな」

「ご褒美ですね、さくたろう先輩にとっちゃ」

「僕をなんだと思ってる」

「なかなか『そっちのけがある』ように思ってます」

「麻衣さんになら言われてもいいんだがな」

「ははぁ、こいつぁブタ野郎さんですね」

 何やら咲太の視線を感じる。さすがに調子に乗りすぎてしまっただろうか。

「……んにゃっ」

 不意におでこへ、こつんという衝撃を食らった。

「ちょっ、なーにすんですか!」

「ちょうどいい具合の広さだったから、つい」

 食らったものの正体は、デコピン。

 綾音は髪を真ん中でわけているため、おでこがむき出しだ。恭子を始めとした同級生にも幾度となく頂戴してしまったが、断じてそんなことをされるためのスペースではない。いくばくもない脳細胞をどうか労わってほしい。

「……あんまし痛くないですね?」

 これまで浴びてきたどのデコピンよりも、かわいい威力だった気がする。

 想像通りの人物であったならば、綾音などデコピン一発で病院送りにされそうなものなのに。無事だったことを素直に喜べない。本当に綾音ですら、純粋な力比べで勝ててしまうのではなかろうか。

「もう一回いっとくか?」

「いえ、間に合ってます」

 全力の一撃の威力は別次元かもしれないし、先ほどのやつも内部的にはダメージを負っているのかもしれない。何度も食らってたら頭がはじけてしまう系統の技の使い手という可能性も捨てきれない。小敵と見て(あなど)るなかれ、雨垂れ石をも穿(うが)つ、だ。

 

「そいでひとまず、あのお二人の糸を見ればよいのですね」

 話が逸れに逸れたが、そろそろ本題へと引き戻す。

「ああ、頼む」

「しばしお待ちください」

 他の女子たちは迷惑なんじゃないかと思うほどコート付近で前のめりになってるというのに、理央は隅っこの方から一歩も動こうとしない。選手たちの邪魔にならない配慮とみれば良いことかもしれないが、声援すら一切ないので、模範的な観客と呼べるかは微妙なライン。

 そんな理央と一緒になって、コート上で走り回っている佑真を眺めているが、二人がなかなか接近してくれない。『糸』の有効範囲内に一向に収まってくれない。

「……む?」

 ボールがコートの外に出た。ゼッケンチーム側のボールらしく、それを佑真が率先して取りに行く。絶妙なことに、理央が立っている方向。

 綾音はじっと目を凝らす。ボールを回収した佑真は即座にコートへと戻るだろうし、理央との距離が縮まるのも一瞬だけだろう。この機を逃しては次はないかもしれない。

「……おっ」

 見えた。

 予想通りほんの一瞬だけだったが、はっきりと視認することができた。

 佑真と理央の間に現れたのは、『緑の糸』だった。

「ん~、『緑の糸』ですね」

「緑?」

「はい。意味するところは、親友だとか、ソウルメイトだとかだそうで。めっちゃ仲の良い友達って感じです」

「……そうか」

 咲太の返答に、少しの間が空いた。心なしか浮かない表情だ。

「残念そうですね?」

「いや。わかっていたことだから」

 察するに、咲太がわかっていたことというのは、どちらかが……状況から見ればおそらくは理央が、佑真に片想いをしていること。

 そしてその想いは、結ばれることがないであろうこと。

「……願っていたんですね、『赤い糸』を」

 事情は、わからない。それでも何かしらの揺るぎない事情があることだけは、ひしひしと伝わってくる。

 届かない、応えられない、叶わない。友人同士の複雑な恋愛事情。

 いずれの立場も経験のない綾音には想像することしかできないが、それでもある程度はわかり、心ともなく感情移入してしまう。

 なんて、切ない……。

「そんなんじゃない。ただ、もし見込みがありそうだったら、勇気づけてやろうかとは思ったけど」

「ほんとですか?」

「実はからかってやるつもりだった」

 期待した答えとは全然違うものが返ってきた。

「さくたろう先輩ってば、ほんっとーに良い性格してますね」

「そう褒めるなよ」

 胸を締め付けられる思いであったというのに、咲太のせいで一気に霧散(むさん)してしまった。暗い気分になってしまった綾音を気遣ってのことだったら大したものだが、この先輩はそんなたまじゃない。

「それにしても……男女間で、緑の糸……ですかぁ」

「珍しいのか?」

「えぇ。大人ならともかく、青春まっただ中の男女ですから。内面が大人びているというか……達観されているのだと思います、お二方とも」

「それは言えてる。あいつらはよくできた人間だからな」

「素敵ですね、ああいうの」

 半分無意識に、そんな感想がこぼれ出た。

 綾音としては最も(うらや)むべき関係性だった。将来は赤の糸よりも、緑の糸で結ばれた相手を伴侶(はんりょ)として迎えたいと願っているほどだった。

 一緒に遊んで、他愛もない会話をして、毎日笑顔が絶えない。夫婦でありながらも、友人同士のような関係を築きたいと常々思っていた。

 現在の綾音の家庭から、最もかけ離れた光景を夢見ていた。

「ちなみに、僕とあいつらの糸は見えるか?」

「距離が遠くて見えないです、残念ながら」

「距離に制限なんてあるのか」

「ええ。なかったらわたしの視界が愉快なことになっちゃいますよ」

 この体育館内にいる全員の糸が見える状態でも大変なことになりそうだ。ただでさえ試合に出ていないバスケ部の人たちや、観客の女子たちが大勢集まっている辺りは、様々な糸が複雑に絡み合っていて訳がわからなくなっているというのに。

「確かにやばそうだな」

「でしょう。めっちゃカラフルで目に楽しそうですもんね、テンション爆上がりですよ」

「愉快ってそのまんまの意味かよ」

「もちろんです。想像してみましょうよ、どんな殺風景だろうと素敵に彩られるのですよ? 毎日がエブリデイですよ、全域がエブリウェアですよ」

「秦野の脳内の方がよっぽど愉快だと思うぞ、僕は」

「いやぁ、それほどでも」

 ありがたい褒め言葉をむずがゆい気持ちで受け取っていると、試合終了のホイッスルが鳴らされた。

 ゼッケンを着用している選手たちが、一斉に佑真へと駆け寄って行く。嬉しそうにハイタッチを交わしたり、背中や肩を叩き合ったりしている。今の今までスコアを見ていなかったが、どうやら佑真のチームが勝てたらしい。

 ちらりと横目で咲太の表情を確認してみると、あからさまに不機嫌そうだった。ばりむかなご様子だ。

 再び佑真へと視線を戻せば、ちょうど誰かに気づいて駆け寄り、笑顔で話しかけているところだった。

 その相手である理央は、おそらく佑真の活躍を称賛しているのだろう。互いに笑顔で……特に理央は、同性でも思わずどきりとしてしまうような、魅力的で柔らかい微笑みを見せていた。

 あんな様子を見せつけられては恋人同士かと錯覚してしまうが、見えた糸から察するに、二人の関係は恋愛感情では結ばれていないはずだ。ともすれば、男女間を越えた友情というものが生み出してくれた表情なのかもしれない。

「やっぱり、あいつはイケメンだなあ」

 揶揄(やゆ)するような口調ではあったものの、頰がわずかに緩んでいる。その目もいつものような眠たげなものではなく、温かい光が宿っていた。

 なんやかんやで佑真の勝利は嬉しいことであり、理央と仲睦(なかむつ)まじく言葉を交わしている様は喜ばしいことなのだろう。

「よし、行くか」

 咲太はそう言って、あっさりと校舎の方へと引き返していってしまう。

「いいんですか? お二人に声とかかけなくて」

「わざわざ邪魔するのも悪いから」

「あぁ……なるほど、です」

 咲太は気遣ったのだ。せっかく良い雰囲気の二人に、水を差すような真似をしたくないと。

 見えた糸が『赤』であったなら、綾音も心から応援できた。しかし残念ながら、見えた糸は『緑』だ。だからきっと、あの二人は恋仲にはなれない運命なのだろう。

 そう、残念ながら……。

 

    ◇    ◇

 

 校舎へ戻ると、帰宅するためにそれぞれの教室へと鞄を取りに行く。

 一年生の教室は一階、二年生の教室は二階。なので必然的に綾音の方が早く下駄箱へ着いた。

 遅れてやってきた咲太は綾音に見向きもせずに、さっさと靴に履き替え、すたすたと外へ出て行ってしまう。なんとなくそうなる予感がしてたので文句は言わない。

 特に話題もなかったので、黙って後ろを歩いていたら、「なんでついてくるんだよ」と、逆に文句を言われてしまう始末だった。

 さすがにあんまりだと思う。あれだけ一緒に電車を待った仲だというのに。なんと薄情なのだろう。

 そうこうして到着した七里ヶ浜駅。日頃よりもさらに遅い時間帯であったためか、いつにも増して空いていた。閑静なホームで、二人して何をするでもなく、ぼーっと佇む。

「なあ、秦野」

 急に咲太が、こちらへ顔も向けずに呼びかけてきた。

「はい?」

「お前に見えてる糸ってさ、思春期症候群だよな?」

 あまりにも唐突すぎる奇襲に息を呑んだ。

 一つ、大きな深呼吸をしてから、口を開く。

「……驚きました。さくたろう先輩から、まさかそのようなお言葉が飛び出てくるとは」

「秦野も薄々そうなんじゃないかと思っていたわけか」

「えぇ、まぁ」

 根拠も自信も皆無であり、綾音の願望に近い想像でしかなかった。薄々もいいところだ。味だったら無味に近いぐらい、紙だったら向こう側が透けて見えるぐらいの薄さだ。

「信じているんですか? あんな、都市伝説的なもの」

 それも『誰もが信じていない』、だ。恋愛に興味を示すことなんかよりも、はるかに咲太らしくない気がする。

「色々あってな」

「いろいろ?」

「そう、色々」

 皆まで聞いてくれるな、ということだろうか。

 少し考えてみれば当然だ。口ぶりから察するに、咲太は思春期症候群の当事者となり、不思議な現象を目の当たりにした経験があるのかもしれない。発症したのが咲太なのか、他の人なのかは定かではないが、その件について話すということは、咲太自身はもちろん、発症した人のプライバシーにも関わってくる。掘り起こすにはあまりにも根深く、安易な気持ちでは踏み込めない問題なのだ。

 ただ、もしかしたら、単に話すのが面倒くさいだけかもしれないが。

「まぁ、たぶん、一番『っぽい』んですよね。思春期症候群が」

「僕もそう思う」

 咲太に同意してもらえたことで、胸がすーっと軽くなるのを感じる。あまり自覚ができていなかっただけで、正体不明の不可思議な現象というのは、やはり少なからず不安要素であり、知らず知らずに精神的な負担となっていたらしい。

「秦野は糸が見えるようになった原因とか、わかるのか?」

「んー。心当たりはかろうじてあるんです、けど……」

「けど?」

「ほら、思春期症候群って、精神的な苦痛から引き起こされるらしいじゃないですか」

「そう言われているらしいな」

「わたし、あの出来事がそんなにもショックだったのかなぁって。自分でもよくわかってないのですよ」

「なんだそりゃ」

「あとぶっちゃけ、糸が見えるようになったことに対して、ありがたみしか感じてないです」

「……そんな気はしてたよ」

 咲太が複雑そうな苦笑いを浮かべる。勘付いてはいたが、信じたくはなかったといった心境が見て取れる。

「ここまで楽しそうに思春期症候群と付き合ってるのも、秦野ぐらいだろうな」

「ネットで見る限り、あまり良い事例とか出てきませんもんね」

 症候群、というからには病気なのだ。病気とは一般的には()み嫌われるもの、治して(しか)るべきもの。それを綾音はすっかり受け入れてしまっている。それどころか、正直手放したくないという気持ちが強く芽吹いている。

 この症状のおかげで、日々が彩られているのは確かなのだから。

「お前がそう言うなら別にいいんだが。周りへの悪影響が出なければ、っていう条件付きだけど」

「おやさしいのですね」

「特に、僕のことを巻き込むのはやめてくれ」

「ご自分の心配でしたか」

 きっとそれが一番の重要事項なんだと思う。咲太は間違いなくそういう人。

「またなのか、って双葉に面倒くさがられるんだよ」

「なぜそこで双葉先輩のお名前が?」

「双葉は物知りだし」

「ふんふん」

「洞察力もすごくてな」

「はぁ」

「まあ、色々と頼りになるやつなんだよ」

「ほうほう、なるほどなるほど。わたしには釘を刺しておきながら、ご自分は平気で人を巻き込むのですね」

「人聞きが悪い。相談しているだけだ」

「さいですか」

 どこまでも器が小さい人だ。ここまでくると幻滅すらできない。色々とすっ飛ばして、一周どころか三周ぐらい回って、尊敬に値してしまう。

「まっ、わたしはきっと大丈夫ですよ。なんやかんや充実した日々を送らせていただいてますので」

「なのに発症してるってのは余計に変なんだけどな」

「それには激しく同意です。けど、なってしまったものは仕方がないですし、なんとか折り合いをつけられればいいなと思ってます」

 そこで電車が到着する。咲太が乗る、藤沢方面への電車だった。

 綾音は正反対の方角の鎌倉方面なので、ここでお別れ。

「僕も心からそう願うよ」

 咲太が背を向けて、電車へと乗り込んでいく。

 席に座り込んだ咲太は、大きなあくびを一つしてから、どこか遠くを見つめている。その目はもう、こちらを向くことはなかった。

 気づいてくれるか、届いてくれるかはわからない。

 けれど、

「今日はありがとうございました、さくたろう先輩!」

 と、ありったけの感謝の思いを込めて、元気よく深々と頭を下げた。



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5話

 秦野(はだの)綾音(あやね)は中学生だった頃、独りだった。

 いじめに遭っていたとか、()け者扱いや()れ物扱いをされていたとか、そういう話ではない。単にグループに所属をしなかったというだけだ。

 どこかのグループから声がかかればその時の気分次第で合流し、どこも特別視することなく、適度に当たり(さわ)りなく、まんべんなく付き合う。それはあたかも自由気ままな野良猫のような生活。

 上がることもなく、下がることもなく、過剰なまでに安定した日々。

 楽しいだとか、寂しいだとか、そういった感情とは一切無縁な、なんとも味気ない日々。

 長い長い三年間という時間を、心に何一つとして植え付けることなく、ただただ流れていくだけ、消化していくだけの中学時代を過ごしていた。

 そんなある日、事件は起こる。

 季節は冬。卒業も間近に迎えた、三年生の時のこと。

 その時期ともなれば、放課後を迎えた際の行動はおおよそ二分(にぶん)される。受験勉強のためかまっすぐ帰る人と、名残(なごり)を惜しんで少しのお喋りに興じる人に。

 綾音もお喋り組だったが、好んでそうしたわけではない。のんびりと帰りの支度をしていたら、席の近いクラスメイトたちの会話に巻き込まれたのだ。断る理由もなく、嫌というほどでもなかったので、まあいいかと素直に応じておいた。

 話も一区切りつき、誰かが「そろそろ帰ろうか」と切りだしそうな雰囲気になった頃。それまで平和だった教室内に、突然「ばちん!」という乾いた音が鳴り響いた。

 綾音を含むクラスメイトたちの視線が、音の発生源へと一斉に集まる。

 込み上げる様々な感情に震える手で、頰を押さえている子。

 先ほどの音や現在のポーズから察するに、おそらくビンタを浴びせた子。

 二人が目を血走らせ、今にも泣きだしそうな形相で睨みあっている。

 数秒おいて、周りがざわめきだした。そこからさらにワンテンポおいてから、二人とも()(たま)れなくなったのか、かろうじて怒りを抑え込んだ様子で、別々の出口から正反対の方角へ向けて足早に去っていく。

 その間の綾音は、体も頭も完全に固まってしまっていた。

「あぁ……やっぱり」

「とうとうやっちゃったか、あの二人」

「バチバチだったもんねぇ~……」

 周りの級友はどういうことか揃って訳知り顔だった。綾音の混乱は輪をかけて加速する。

「あの、どういうことでしょう?」

「あぁ、秦野さん」

 クラスメイトたちがぎこちなく笑いかけてくる。綾音のことを気遣ったような苦笑いで。

「気にしないで、あんまし」

「放っとくのが一番かな~」

「でも……」

 そう易々と納得することはできない。はいそうですかと引き下がることはできない。

「あんなにも、仲良くしていらっしゃいましたのに……」

 彼女らは幼稚園の頃から一緒な幼馴染であり、クラスの中でも特に際立(きわだ)って仲の良い二人組。そういう認識だったのだから。

「まっ、色々あったっていうか」

「そそ。何するにも一緒だと、特にさ」

「幼い頃から一緒、部活も一緒、志望校も一緒。極め付きには、男の趣味まで一緒、となれば……ねぇ?」

「何も起こらない方がおかしいよね」

 皆、それだけで納得できているようだった。

「そういうもの、なのですか」

 綾音には、わからない。何に対して疑念を抱いているのか、わからない。

 泣きたい気分に見舞われた。それはさながら、自身の苦痛や不快を言葉で表せないからと、泣くことで主張しようとする幼児のように。

 綾音は小学生の頃から……否、それより以前から、下手をすれば赤子の頃から、成長などしていなかったのかもしれない。

 その事件から、数日後。

 事情を知る多くのクラスメイトたちが楽観視をしていた。綾音以外は誰も心配していなかったように思う。

 そんな周囲の予想をさらに裏切る形で、皆が残らず呆気に取られてしまうほど、二人はあっさりと仲直りを果たしていた。

 その事件の収束と入れ替わるようにして、綾音は発症してしまった。

 不思議な『糸』が見えるという、思春期症候群を。

 

 

    ◇    ◇

 

 

「ただいまもどりました」

 返事は無い。

「……いませんかね、二人とも」

 一般家庭におけるリビング以上の広さの玄関に、綾音の声は一層寂しく響く。

 共働きといえばまだ聞こえはいいが、綾音の両親は何よりも仕事を大事にしている人たちだ。当然、家庭よりも。

 それに見合った収入に比例して家も巨大だ。世間的には豪邸と呼ぶのかもしれなくとも、綾音には何のありがたみも感じられない。

 両親が何をしているのかは、よく知らない。いや、まったく知らない。

 綾音が物心がついてからというもの、家族の団欒(だんらん)という時間が設けられた試しがなかった。

 各々が食事をとり、各々が風呂に入り、用事の時間になれば家を出る。そういったタイミングがたまたま一致し、ごくごくまれに顔を合わせることがある程度で、それ以外は基本的に全員が部屋にこもりっきりだ。同じ屋根の下で暮らしていても、起きているのか寝ているのかもわからないし、居るのか居ないのかすら怪しい。

 二人の間の糸は、いまだに見ていない。

 見えなかったのではない。綾音が思春期症候群を発症してからというもの、二人が一緒にいる姿を見たことがないのだ。つまり、かれこれ一年近くは、家族三人が揃ったことがないことになる。

 家族が久方ぶりに一堂に会したとしても、何の感動もなく、何のいさかいも起こらない。何事もなかったかのように、普通に、事務的に会話をする。そして名残もなしに、普通に、淡泊に別れる。また何日も、何か月も家族が揃わなくなるのだとしても。

 それがこの家にとっての『普通』なのだ。

 そんな生活にもすっかり慣れた。だからといって、何も感じないわけじゃない。

 高校一年生にもなり、人同士の繋がりが可視化された糸が見えるようになったともあれば、他の家庭と……他の夫婦との差異に嫌でも気づかされてしまう。

 夫婦であれば、何かしらの色の糸で結ばれているものだ。

 もちろん愛する者同士を意味する『赤』で結ばれていることが多いが、そばにいることで安心感を得られるような関係の『青』や、高め合い支え合うような関係の『黄』、隣にいることが当たり前である親友のような関係の『緑』の夫婦だってよく見かける。

 あまりよろしくないが、金品が目的である『金』も、いずれは離婚を迎えてしまいそうな『黒』だって、少なからずある。

 しかし、わかっている。

 両親は糸で結ばれているはずがない。あの二人の間には、何の繋がりも存在しない。

 仮に両親の間に糸があるとするならば、きっと『無色透明』なのだろう。

 互いに何の関心も抱かず、何の利益も不利益ももたらさない糸。そんな色の糸が存在するのであれば、だが。

 

「……ひゃぅっ!?」

 鞄の中で何かが暴れ出した。同時に軽快な音楽も鳴り始める。それも、結構な音量で。

 これは綾音が好きな、異世界転生ものアニメの主題歌だ。どうやらスマホのマナーモード設定を忘れていたらしい。鳴ったのが学校や電車内でなくて良かった。

 相手は確かめるまでもない。昨今ではお手軽なメッセージでのやり取りが主流となっている中、前触れなしに直に電話を掛けてくる人物など恭子(きょうこ)ぐらいなものだ。

「はいはい」

「……」

 応答がない。

「どしました、恭子ちゃん?」

「……」

「もしもし? あなたの愛しの綾音さんですよ?」

 せっかくなのでお茶らけてみる。

「……つく」

「はい?」

 よく聞こえなかったので、スマホを耳へ押しつけていたら、

「あー、もうっ! ムカつくーっ!!」

 という、恭子の大絶叫が、無防備な綾音の鼓膜へと襲い掛かった。

 キーンとするが、恭子の荒い息遣いがちゃんと聞こえている。鼓膜は一命をとりとめてくれたらしい。それよりも意識が危うい。視界がちかちか、ぐるぐるしている。

「そ、そんなに、怒らずともよくないです?」

 少しおふざけが過ぎたかもしれないが、こんなに怒鳴られるほどのことをした覚えはない。かわいいかわいい、ちょっとした(たわむ)れではないか。

「あぁ、ごめんごめん、綾音のことじゃなくて。あの変態野郎のこと」

「なーるほど」

「あんたの寝言なら聞いてなかったし」

「そんな、いけずなぁ」

 なかったことにされるぐらいなら、怒ってくれた方がまだ良かった。

「でもさ、ありがとね」

「……ふぇ?」

 恭子は時たま話が飛躍する。いきなり礼を言われても、何のこっちゃだ。

「助けに来てくれたこと」

「あ~」

 今回は比較的流れを汲んでおり、マシな飛び方だった。ぱっと思い当たらない綾音側が鈍かったぐらいかもしれない。

「わたしは見てただけですから。なんもかんも、病院送り先輩のおかげです」

「まぁ、それもそっか」

「……」

 あまりにあっさりすぎる納得に言葉を失う。

「ちょ、ちょっとぐらい、褒めてくれても……!」

「だったら、はじめっから卑下(ひげ)するような言い方しないの。綾音の悪いクセだよ?」

「うっ」

 不意打ちでお叱りときた。これまでも散々似たようなことを言われてきてるので立つ瀬がない。

「はい、ごめんなさいでした……」

 縮こまり、この場にはいない相手へ向けて頭を下げる。

「んっ。よく頑張ってくれたね、綾音。ありがとう」

 電話越しでも、恭子の微笑みが目に浮かぶようだった。

 面と向かっていたならば、頭を撫でてくれていたのだろうけど、同時にそうでなくて良かったとも思う。だらしなく緩み切った頰を絶対にもてあそばれていた。

「そういえば、病院送りの先輩と面識あったの?」

「いえ、今日初めて言葉を交わしました」

「なのに、助けてくれたんだ?」

「えぇ、まぁ」

「へー。良い人じゃん、フツーに」

「……」

 素直には頷けない。結果として助けてくれたことは感謝しているのだが、果たしてあれを「良い人」と評していいものかどうかは微妙な線。

「噂って、あてにならないもんだね」

「……です、ねぇ」

 曖昧(あいまい)な乾いた笑いがこぼれた。噂通りではあってほしかったのに。結局手合わせには至らなかったが、本人(いわ)く綾音にすら勝てない軟弱者だったらしい。

「先輩にも後で改めてお礼言わなきゃ。なんて言ったっけ、病院送りの先輩の名前」

「……えと」

「うん?」

「あ、あず……あす? いえ……あさ……あさ、かわ……? うう~ん、もっと呼びにくい名前だった気がするんですが……」

「まさか、忘れちゃったの?」

 忘れてなどいない。ほんの少し、ど忘れしてしまっただけで。

「いえ、ここまで出かかってるんです。ちょっと待っててくださいね、あとすこし、もうすこーし……」

 きっと思い出せるはずなのだ。ずっと前からの憧れの人であり、今日この日は窮地を救ってくれた恩人なのだから。

 風変わりな自己紹介をしてくれた。その流れで『秦野』にサービスエリアができるかもしれないことも教えてくれた。他にも色んなことを話し、色んなことを教えてくれた。主には残酷な現実とか。

 綾音は唸る。唸り続ける。腕を組み、首を捻り、額やこめかみに指を当てる。

 そうして思い浮かんだ、最善解。

「さくたろう先輩です」

「……へっ? なんて?」

 (いさぎよ)く諦めることに決めた。



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6話

「……あ」

 放課後を迎えたところで、綾音は大事なことを思い出した。

 ――先輩にも後で改めてお礼言わなきゃ

 恭子もそう言っていた通り、自分も挨拶に行くべきだった。恭子のことだから既に終えてるかもしれないが、もしまだならば一緒に行こうと思い、教室内を見渡してみる。

「んー、いませんね」

 恭子の行動は綾音には読み切れない。友人とどこかで話をしているか、もうすでに帰ってしまったか、はたまた先に咲太のところへ向かったか。

 いずれにせよ、今するべきことは定まった。あんまりのんびりしていたら、咲太の方がどこかへ行ってしまう。

 綾音は小走りで二年一組の教室へと向かった。

 

    ◇    ◇

 

「おっ」

 タイミング良く教室から出て来るところで、相変わらず素敵に跳ねた髪型が目に留まった。

 本音としては寝ぐせを疑っていたが、いつ見ても似たような感じであるため、これでもちゃんとセットされた髪型なのだという線がかなり有力視されてくる。

「あ、さくたろ先輩。どうもです」

「なんだ、秦野か」

 なぜか咲太が固まった。

「……?」

「……?」

 これまたなぜだか、互いに怪訝(けげん)な表情で見つめ合う。

 鼓動が早くなっていくのを感じる。なんとなく居心地が悪くなり、小首を傾げて愛想笑いをしてみる。苦笑いに近くなってしまったかもしれない。

「なあ、秦野」

「はい?」

「もう一度呼んでくれるか?」

「さくたろ先輩」

「『う』はどこに消えた」

 なんということだ。さらっと呼べばバレないと思ったのに。こんなにも眠たげな目をしておいて、鋭いところはちゃんと鋭いだなんて。

 こうなってしまえば、是非もなし。授業中に練りに練ってきた言い訳をぶつけるしかなさそうだ。

「クビです」

「は?」

「戦力外通告です。この先さらに激化する戦いに、やつがいては足手まといです」

「ポテンシャルを信じてやれ。劇的に成長するかもしれないだろ」

「そいつぁ無理な注文です。だって好かんのですよ。生理的に、先天的に」

「お前は『う』になんの恨みがあるんだよ」

 これまた鋭い指摘だった。確かに恨みがあるのだ。だがしかし、それを悟られてはいけない。なんとしても誤魔化さねばならない。

「あいつは……良いやつでした」

 ここはプランBに移行し、露骨に株を上げる作戦に賭けてみる。話を逸らせるだけでも良かったはずなのに、さすがになかなか手ごわい相手だ。

「『う』は自発的に離脱をされたのです、迷惑をかけまいとして……」

「ふーん」

「彼はわたしたちの心の中で生き続けます」

「そうか」

「はい、そうなのです」

 最悪、興味が失せてくれていい。事件が迷宮入りさえしてくれれば、その過程など些事(さじ)なのだ。すっかり見慣れてしまった死んだ魚のような目からは感情が読み取れないが、そろそろ呆れ返ってるに違いないのだ。

 後生だから、面倒くさくなって話題を切り替えてほしい。祈るような気持ちで咲太の顔色をうかがった。

「つまり、呼びにくかったってことだろ?」

「名探偵がここにいました」

 祈り届かず、あっさりと犯行動機を見抜かれてしまった。

「なんでそんなことを隠し通そうとしたんだよ」

「その、さくたろ先輩のご指摘を認めるのが悔しかったと言いますか……」

「『梓川』と字数が変わってない、ってやつか?」

「ええ。試行錯誤の結果、やはり四文字がベストだという結論に達しました」

 たった一文字お亡くなりになっていただいただけで劇的に呼びやすくなったのだ。字数の重要さを身にしみて感じた。童謡の『桃太郎』でも、『ももたろうさん』とは歌わずに『ももたろさん』と歌う。きっとそれと似たようなこと。

 さらに言えば三文字の方がもっと呼びやすい気もしたが、まさか『さくた先輩』と呼ぶわけにはいかない。そればっかりはおそれ多く、とてもじゃないが口にすることなどできない。

「まあ、好きに呼んでくれって言ったしな」

「おぉぉ……!」

 どうやら認可が頂けるらしく、お(とが)めもないらしい。なんと寛容なのだろう。言葉を交わしてからというもの、初めて素直に尊敬をしたかもしれない。

「で、何か用だったか?」

「あ。昨日は本当にありがとうでした。恭子ちゃんとも話したんですけど、ぜんぜん平気みたいでした」

「ああ、高坂さんなら朝一番に来たよ」

「さすが早かったです」

「しっかりしてるよな、誰かさんと違って」

「ですね、わたしとは違って」

 やはり恭子の行動力は凄まじい。綾音と違って出来の良い子だというのも自覚しているので、素直に賛同しておく。

「じゃ、またな」

「あっ、はい。またです」

 反射的に頷いて、歩き出した咲太の後ろ姿へと手を振る。

「……」

 別に他の用があったわけでもないし、最低限伝えるべきことは伝えたと思う。

 けれど、なんだか()に落ちない。こうまでにべもなく去られるのは、なんか(しゃく)だ。というか、寂しい。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよっ、さくたろ先輩!」

 ぱたぱたと急ぎ追いかける。もし教師に見つかっても、お叱りを受けない程度の速度で。

 咲太が首だけでこちらを振り返った。向けられた眠たげな目に、色んな感情がまじっている。面倒くさいとか、鬱陶しいとか、明らかに歓迎されてないやつが満載だった。

「なんだよ、まだ何かあるのか?」

「かわいー後輩がこうして会いにきたんですよ、もうすこーしなんかあったっていいじゃないですかぁ」

「はいはい、秦野はかわいいなー」

「心が微塵たりともこもってませんね! これでもそこそこ噂の『びしょうじょ』なのですよ?」

「『微妙』な『少女』って書いて『微少女』か」

「やはり名探偵です」

「……当たってたのかよ」

 当てずっぽうの推理が的中してしまった名探偵の気持ちを味わわせてしまったようだ。

 周りの人々は解決さえすれば万々歳なのだろうが、きっと本人は肩透かしを食らったように物足りないはず。漫画や小説であれば、絶望的に尺が足りないに違いない。

「そんなんでよく胸を張れたな。あまり無いくせに」

「何を失礼な。わたしは身の丈に合ったサイズなだけです」

 綾音のように小柄で細身な体型では、あまりに大きいと不釣り合いだと思う。それは偽りない本音だ。

 ゆえに悔しくなどない、決して。

「もろもろ含めた上で『微少女』か。誰だか知らんが上手いこと言ったもんだな」

 最初に言いだしたのは誰だっただろうか。あまり深く考えるまでもなく、どうせ恭子だろうけど。

 それよりも咲太が口にした『もろもろ』の内訳が気になってしょうがない。でも気にしたら負けな気がする。詳しく聞いたら絶対に悲しくなるやつだ。好奇心は猫を殺すという名言もあるし、開けてはならないパンドラの箱という物もある。つまりは、知らぬが仏。

「どんなものであれ、二つ名がいただけるなんて光栄じゃないですか。それに字に表さなければ響きは良いですし」

「男だと『残念なイケメン』って感じだな」

「それでも、『ただの美形』とかより良くないです?」

「そうか?」

「そうですよ」

 咲太は首を横に倒し、対照的に綾音は縦に振る。

「やっぱお前の価値観がいっちょんわからん」

「普通なのはつまらんです、ユーモアってめっちゃ大事です」

「秦野が普通とかありえないから、安心しとけ」

「その言い方、なんか微妙な気分になりますね」

「微少女だけにってか」

「……急になに言い出してんですか? ドン引きですよ」

「……」

「上手すぎて思わず引いてしまいました。手元に座布団が無いのが悔やまれます、どーんと三十枚ぐらい差し上げたかったです」

 無言でデコピンの構えをとられたので、慌てて訂正しておく。

「そんな大量の座布団、どうしろって言うんだよ」

「もちろん、全部重ねて上に座っていただきます」

「もはや曲芸の域だな……」

「どうかご安心を。ちゃんと崩れないよう、わたしが支えておきますから。その後で『放すなよ? 絶対に放すなよ?』とでもおっしゃってくれればよいです」

「伝統芸の方だったか」

 某トリオ芸人による伝統芸は、日本でも五本の指に入るほど有名なもののはずだ。咲太にも無事に伝わってくれてよかった。

「ばっちり成し遂げてみせます」

 すっかり癖になりつつある、得意げに胸を張るポーズをとっていたら、何やら咲太の視線を感じる。

「それ、(むな)しくならないのか?」

 いちいち小さいことを……いや、つまらないことを気にする人だ。言い方を改めた点に他意など無い。

「わたしはこれっぽっちもコンプレックスと思ってませんし」

 これはこれで需要があるのだとか、希少価値があるのだとか、誰かがそんな風に言っていた気がする。

 だから虚しくなんてない。絶対に悲しくなんてない。

「……ぜんっぜん、思ってませんし」

 おかしい。視界がぼやけている気がする。

 その原因は涙などではない、断じて。

「女子の価値は胸で決まるわけでもないしな」

 意外にもやさしいフォローが飛んできた。視界が、ぱぁっと明るくなる。

「こんなわたしでも大丈夫でしょうか?」

「いいんじゃないか。人それぞれだし」

殿方(とのがた)はちゃんと欲情してくださいますかね?」

「相手によるだろうけどな」

「では、さくたろ先輩は?」

「勘弁してくれ。なんの拷問だよ」

「……」

 どすんっ、と鈍い音が脳内に響いた。ぐさっ、とかいう、かわいらしい擬音じゃない。全身をぺしゃんこにされるほど超絶怒涛の衝撃だった。

 希望を持たせておいて、絶望の深淵へと突き落とす。なんと極悪非道なのだろう。だが、この鬼畜さがあってこそ『病院送り』の先輩だとも思ってしまう。すごく複雑な気分。

「まあ、かわいさで言えば普通だと思うぞ」

「どういうこっちゃです?」

「秦野は普通にかわいいってこと」

「……ふ、ふぇっ!?」

 今度はいきなりのデレときた。まさに青天の霹靂(へきれき)。もしかすると鬼の霍乱(かくらん)

 ゲインロス効果、と言っただろうか。マイナスからプラスへ転じる幅が大きいほど、人の心に与える度合いが強くなると聞いた。咲太に対する綾音の心証は、これ以上は下がりようがないほど下がっていたので、そんな些細な一言でも効果が絶大だ。顔が熱い。

「でも今は、世界一かわいくて怖い人を待たせているんだよ」

 不慣れな感覚にわたわたとうろたえていたら、咲太がそんなことを言ってきた。

 綾音を冷たくあしらってまで、どこへ行こうとしているのかと気になってついてきてしまったが、どうやら下駄箱へ向かっていたようだ。まとめると、誰かと一緒に下校する約束をしていたということだろう。

 ――世界一かわいいくて怖い人を待たせているんだよ

 それは頭の回転が鈍い綾音でも、誰が待っているのかが即座に思い当たる、なんとも的確な言い回しだった。

「あ、それって、もしかして……」

 その人の名を口にしようとしたら、

「遅い」

 と、凛とした声が聞こえてきた。なぜだか尋常じゃないほど怒気を孕んでいるような声。

 

「ひっ……!?」

 その矛先は自分ではなかったというのに、恐怖からか変な声がもれた。未曾有(みぞう)のプレッシャーに肌がぴりつき、呼吸が上手くできない。

 以前に、こう思ったことがある。

 咲太がいてくれれば、大船どころか豪華客船に乗った気分になれるのだと。氷山にエンカウントさえしなければ無敵だと。

 間違いない。今、目の前に現れた彼女こそが、咲太にとっての氷山だ。

「……」

 咲太は黙り込んでいた。見たところ、その表情に変化はない。しかしこの状況、内心は穏やかではないはずだ。きっと断頭台へのぼるような心境に違いない。

 対峙する相手は、三年生の桜島麻衣。あの、桜島麻衣なのだ。

 こんなにも至近距離で姿を拝んだことなどなかったが、一目でわかるほど、何人たりとも寄せ付けないほど、過剰なまでに強烈な一流芸能人としてのオーラを放っている。

 麻衣には友人がいないという噂も耳にしたことがあるが、これでは仕方がない。仮に綾音のような小物が面と向かって会話しようものならば、数分と持たずに病院送りにされてしまう。心臓が潰れるか破裂するかしてしまいそうなので、下手したら黄泉(よみ)送り。

 指一本触れることなくそれを成し遂げられるあたり、咲太とは別次元の危険人物な気がする。お近づきになりたいと到底思えそうもない。真の恐怖とはここにあったのだ。

「ちょっと変なのに捕まってまして」

 そう言って咲太は(あご)で綾音のことを示そうとするが、

「言い訳する気?」

 と、麻衣の鋭い視線は咲太から離れる様子がない。かなりお冠のようだ。

 不運にも鉢合わせてしまった修羅場に、綾音は生きた心地がしない。むしろできることなら殺したい。息と気配を。

 正直今すぐこの場から逃げ出したかったが、凄まじいプレッシャーのせいで足が動いてくれないのだ。ならばせめてこのまま、蚊帳の外でやり過ごすことが叶えば万々歳である。

 そんな綾音の切なる懇願をよそに、咲太は観念したように神妙な面持ちで麻衣へと向き直る。

「廊下を走るという最大の禁忌を犯せなかった僕が悪いです」

「他に言うことは?」

「麻衣さんに踏んでもらえて今日も幸せです」

 綾音は耳を疑った。次いで、目を疑った。

 二人の足元へと視線をずらすと、麻衣が(かかと)で咲太の足を踏み、ぐりぐりしていたのだ。あれは割と本気で痛いやつではなかろうか。

 そんなことをされておきながら、咲太は嬉しそうににやけている。目の前の光景が信じられない。こんなのが綾音が憧れた、病院送り先輩の本性だったなんて。

「あの、麻衣さん」

「なによ」

「一応後輩の前だから、そのぐらいで勘弁して欲しいなあ」

 咲太がそう言ったことでようやく気づいた……いや、気づいてしまったらしく、麻衣の目が綾音へと向けられる。

 背景と化す作戦はあえなく頓挫(とんざ)してしまった。そういえば咲太は平気で人を巻き込む性分だったなと、いまさらながら思い出す。

「……早く言いなさいよ」

 麻衣がさりげなく咲太の足を踏むのをやめた。その頰が心なしか赤い。

「最初に言ったと思うんだけど」

「『変なの』じゃわからない」

 ちゃんと聞いてはいたらしい。

「想いは通じ合ってると思ったのに」

「咲太と通じ合うとか不快でしかないし」

「え~」

 なんとも冷たいお言葉。人を『変なの』呼ばわりしたから罰があたったのだ。いい気味だと内心ほくそ笑む。

「一年生の子?」

 いきなり氷の眼差しで射抜かれ、びくっと背筋を伸ばす。完全に咲太のとばっちりを食らった感じ。三日三晩恨んでやる。

「……あっ、し、失礼しました。お楽しみの邪魔をしてしまって」

「楽しんでなんかいないわよ」

 むっとした様子の麻衣。なんだか照れ隠しのように見えた。

「お初にお目にかかります、桜島先輩。わたしは一年の秦野綾音と申します」

 麻衣が女王様さながらの貫禄を放っていたので、淑女らしいカーテシーまで行いたくなる。さすがに大げさだと思い直し、普通にぺこりと頭を下げた。

「さくたろ……」

 慌てて口をつぐんだ。まさか『さくたろ先輩』と呼ぶわけにもいかない。初対面の相手への挨拶ならば、『苗字プラス先輩』の形で呼ぶべきだという常識が働いてしまった。

 しかし困ったことに、やはり思い出せない。咲太の苗字はなぜこうも覚えにくいのだ。無限に、永遠に忘れ続ける自信がある。

「……せ、先輩には、先日、ただならぬほどお世話になりまして……」

 結局そんな形になる。

「お世話?」

 じろりと不信感に満ちた眼差しが咲太を貫く。

 肩をすくめた咲太は、抵抗しない方が賢明だと思ったのか、あっさりと言い放った。

「たぶん、秦野も思春期症候群なんです」

「……そう」

 詳しい説明を省いた、簡潔すぎる一言。それだけで険しい雰囲気がすっかり霧散した。

「解決はしたの?」

「いえ、まだ」

「どんな症状?」

「人と人を繋ぐ、妙な糸が見えるらしいです」

「妙な糸?」

「本人いわく、運命の赤い糸的なやつだそうで」

「へえ……」

 つらつらと説明を続ける咲太。真剣に耳を傾ける麻衣。

 この状況は絶対におかしい。さすがに黙っていることなどできず、口を挟んだ。

「あの……どうして思春期症候群って聞いて、平然としているんですか?」

 咲太が思春期症候群を信じているというだけでも驚愕ものだったというのに、麻衣までもがこんな奇天烈な噂を信じているなんて一大事だ。世間を震撼させてしまうほどの大事件だと思う。

「いいですよね?」

 咲太が麻衣へ何かを問いかける。

「ええ」

 承諾の意を示すよう、麻衣が小さく頷いてみせた。

 それを受けて、咲太が綾音へと向き直り、柄にもなく真摯な態度で切り出した。

「麻衣さんも、経験者だから」

 これまた簡潔すぎる咲太の一言。しかし綾音に与える衝撃は計り知れないものだった。

「……経験者、って……思春期症候群の、ですか?」

 首をたっぷりと横へ傾けながら、呆けたように問い返す。

「そう、思春期症候群の」

 やさしく、言い聞かせるような麻衣の声。おかげで恐怖こそ感じなかったが、今度はなんだか恐縮してしまう。

「ま、まじですか。別の意味でも先輩でしたか」

「不本意なことにね」

 そういえばと、以前に咲太が言っていたことを思い出す。

 ――色々あってな

 あの時は濁されてしまったが、きっと麻衣のことだったのだろう。

 そして、咲太の台詞が過去形であることから、経験済み……解決済みということなのだろう。

 おそらくは、咲太が関わり、手助けをしたことにより……。

「……あれ?」

「どうした?」

「ってことは、例のグラウンドのあれって、もしかして……?」

 伝説となった咲太の奇行。

 咲太がなぜあのような行動に走ったのか、麻衣もなぜあんな酔狂な真似に付き合ったのか、ずっと疑問だったが、ここにきてようやく合点がいった気がする。

「思春期症候群の解消のため……とか、でしたか?」

「無駄に察しがいいな」

 正解をいただけたことは素直に嬉しく思う。ただ、いったいどこをどうしたら、あんな恥ずかしいことをしなければならない状況に(おちい)るのだろう。純粋な好奇心からも、解消する際の参考までにも、事の顛末(てんまつ)をぜひとも知りたい。

 しかし綾音にだって最低限の分別はついている。不調法に、無思慮に踏みこんだりしてはいけない。思春期症候群という病には、思春期特有の繊細な背景があるはずなのだから。

「ほえ~……。となると、わたしも治そうと思ったら、ああいったことをしなきゃならんのですかね……」

 想像するだけで憂鬱だ。余計に治したい気持ちが薄れてしまう。

「ところで、どうなんだ?」

「んい?」

「当然見えてるよな? 僕と麻衣さんの間に、赤い糸」

「あっ……そういえば」

 言われるまで、すっかり忘れていた。

 昨日、知り合いとの糸を見るという契約を交わし、助けてもらったのだ。言うまでもなく、咲太にとって麻衣が一番気になる相手に違いないのだ。それを今の今まで忘れていたなんて。忸怩(じくじ)たる思いに駆られてしまう。

 ……でも。

「あの……非常に、申し上げにくいのですが……」

「ん?」

「無い……んです、よね。赤い糸どころか、糸自体がきれいさっぱり」

「……は?」

 そう……言われるまで、忘れていた。

 いくら綾音でも、見えていたならすぐさま思い出し、伝えていたはずだった。

 だが現実には、咲太と麻衣の間に……交際している二人の間に、何の糸も存在していない。

 ()頓狂(とんきょう)な声を発して目を丸くさせている咲太には誠に申し訳なく思うが、それは綾音にとっても前代未聞の事態だった。

「いや、あるだろ? 丸太のような赤い糸が」

「それ、糸って言うんですか?」

 糸とは、一般的にそこまで太くない気がする。でも咲太の神経は、絶対に丸太よりも図太い。

「ん~……でも、見えないものは見えないんですよ」

 念のために、咲太の周りをぐるぐるしてみる。しゃがみ込んで、下から上まで眺めてみる。ぴょんぴょんと跳ねて、頭頂部まで確認してみる。

 やはり糸らしきものは、さっぱり見当たらない。

「お前、このタイミングで急に治ったりしてないよな?」

「いやいや、ありえませんて。今日一日……というか、つい先ほどここに来る道中でも、他の方々の糸はばりっばり見えてましたもん」

「なんだよ……なんの嫌がらせだよ」

「そんなつもりは毛頭ないのですが」

 仮に赤い糸が見えていたならば、どんなに癪だろうと、どんなに気に食わなくても、正直に伝えていた。糸に関しては嘘偽りなく、誠実に向き合う。それは綾音の中にある、占い師としての矜持(きょうじ)

「せっかく麻衣さんへ言う台詞のシミュレーションしてたのに」

 内容をほんの少し想像しただけでも胸糞悪くなる。すごくウザいことを口走りそうな予感がひしひしする。

「そういう邪念とかが、なんかこう、悪い方向へ作用しちゃったとかじゃないですかね」

「もしそうだとしたら、赤い糸なんて存在しなくないか? 下心がない人間なんていないだろ」

「健全に恋人同士やってる皆様に謝ってくださいよ」

 確かに真理かもしれないが、身も(ふた)も無いことを言うのはやめてほしい。これ以上残酷な現実を教えないでほしい。まだまだ夢見る少女で居続けたいのに。

「案外、さくたろ先輩がそんなだから、実は愛想をつかされてるんじゃないですか?」

「僕の一方的な片想いだってのか? 悲しいなぁ」

「誠に心苦しいですが、どうか現実を受け止めてくださいませ」

 緊張感など微塵も感じられない、冗談めかした、しょうもないやり取り。

 綾音は、咲太とのそんな会話に夢中だった。

 この場には、他にももう一人の人物がいたことを、すっかり忘れてしまうほどに。

 

「秦野さんの言ってること、間違ってないわよ」

 

 突然、絶対零度を思わせるほど、恐ろしく冷たい言葉が二人を襲った。

 その顔からは感情が読み取れず、無表情そのもので。

 その瞳からは光が消え失せ、何も映してなさそうで。

 出会い頭の、あからさまに激怒していた様子が、かわいく思えるほどで。

 それほどまでの剣幕に、咲太と綾音は呼吸をすることすら忘れ、完全なる氷像と化してしまった。

「私、咲太のこと、なんとも思ってないもの」

 麻衣がそんな捨て台詞を残し、すたすたと足早に去って行ってしまう。

 その後ろ姿がすっかり見えなくなってから、

「え、ちょっと……麻衣さん!?」

 と、一足先に解凍に成功した咲太が、慌てて追いかけ始める。

 ひとり取り残された綾音は呆然としたまま、ひとりごちた。

「やっぱ、人間関係ってむずかしーですね……」

 今しがたのやり取りの、何かが麻衣の忌諱(きい)に触れたのだろうか。

 それとも、咲太が遅刻したことに対する怒りが収まってなかったのだろうか。

「いっちょん、わからんです」

 途中から麻衣は黙り込んでしまい、咲太と綾音の二人でばかり話してしまった。それが(かん)にさわったか、疎外感を受けてしまったか。

「……焼きもち、でしょうか?」

 仮にそうだとしたら、悪いことをしてしまった。ただし、償えるかどうかはまた別の話。

 こういうことは他人がしゃしゃり出ることでもないだろうし、そもそも力になれる気がしない。無責任なようかもしれないが、こればっかりは当事者の力で解決するしかないと思う。咲太と麻衣、二人の度量が問われるべき場面なはずだ。

「早く仲直りできるといいですね、さくたろ先輩」

 それは偽りない本心からの台詞だった。

 少なくともこの時は、そう思っていた。



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7話

「ただいまもどりました」

 返事は無い。

「……」

 誰かがいるのか、いないのかすら、わからない。

 確かめることは許されない。両親の部屋へ押し入ることは禁止されている。仕事はもちろん、貴重な睡眠時間の邪魔をしてはいけない。そう教育された。

 綾音の両親の関係は冷め切っている。いや、元々熱が無かった。世間一般的には『仮面夫婦』と呼ぶのだろう。

 隣に置く人物として相応しい、地位、収入、容姿、知性……そして何よりも、価値観。相手に求める条件がたまたま一致したから、既婚であった方が世間体が良かったから、契約を結んだに過ぎない。

 受け継いだものはない。両親はどちらもその道の第一線で働くほどに優秀、らしい。けれど、綾音にはその片鱗が見られない。

 受け取ったものもない。親の背を見て子は育つと言うらしいが、姿すらろくに見せてくれないのだから、咲太のような『反面教師』にもなってくれない。

 親子であることに猜疑心(さいぎしん)を抱いてしまう。家族であることに悪感情を抱いてしまう。

 自分の価値とは、意義とは、いったいどこにある。

「……いっそ」

 ――いっそのこと、別れてしまえばいいのに

 はっとして、頭をぶんぶんと振る。

 口が裂けても、そんなことを言ってはいけない。思ってしまった時点でもう手遅れなのかもしれないが、せめて胸の内に留める。

 仮に離婚をしてもらったところで何が変わる。少なくとも良い方向には変わってくれない。そんな結論を望むのは、考えることを放棄し、やけになってしまっているだけだ。

「……」

 そう頭ではわかっていても、沈み切った気分はどうしようもない。

 何もせず、ただ耐えることで、この現状を受け入れるようとするには無理があった。もう、心が追いついてくれない。

 だから、口にするのは、ほんの少しだけ、建設的な道。

「一人暮らし、しよっかな」

 現状と大差ない。けれど無駄にだだっ広い家より、一緒に暮らしていても孤独を感じるより、ずっと気が楽だろう。

 家に帰宅する度にさいなまれた虚無感がなくなる。今日こそは両親と言葉を交わすことができるだろうかと、不毛な緊張をする必要もなくなる。

 もし両親の都合がつくようなら、またこの家へ来ればいい。

 綾音がこの家へ帰る時は、両親と会える時。そう変わってくれた方が、ずっとずっと楽しみだろう。

 一人暮らしをしたいと言えば、きっと二つ返事で許可をくれる。

 両親に心配という概念はなく、「その程度できるに決まっている」と思われているから。

 信頼されているのは綾音自身ではない。『自分』と、『自分が選んだパートナー』との子供だから。

 むしろ、もとより興味すらないのかもしれないが。

「あっ……」

 不意に咲太と麻衣の顔が浮かんだ。

 なぜか糸こそ見えなかったが、少々奇抜な『お楽しみ』をされていたぐらいだ。カップル間の嗜好は千差万別、ああいった愛情表現の形もあるのだろう。

 最後には喧嘩のような雰囲気で終わってしまったが、それもきっとよくある痴話喧嘩。まともな男女の関係であるならば、あって(しか)るべき通過儀礼だろう。

「そっか」

 興味や、感心や、期待。そういったものがあるからこそ、ぶつかり合う。

 その上で歩み寄り、譲り合い、擦り合わせることで、人間関係とは築かれていく。

 一緒にいて楽しくも嬉しくもなく、離れていても何も感じることがないならば、それは繋がりとは呼ばない。

 中学時代は、独りで。家族は、ばらばらで。

「羨ましかったんですね……わたし」

 中学時代の友人たちは……咲太と麻衣は、確かに繋がっていた。

 そのことが、たまらなく羨ましかった。

 

 

    ◇    ◇

 

 

 放課後になり、いつものように時間潰しへ奔走(ほんそう)しようと、ひとまず教室を出た。

 しかし、早々に首を捻る。

 連日、野球部にバスケ部にと見に行ったせいか、運動部を見学するというのもなかなか乙なものだと思いつつあった。なので次はどこへお邪魔させてもらおうかと、一時は胸を躍らせていたはずが、今はどうも何もする気が起きなかった。

「うわっ、とぉ!?」

 ぼんやりと廊下を歩いていた綾音は、突如眼前に現れた何かを避けようとして、反射的に身をよじる。

「……むぐ」

 ひどくバツが悪い思いに襲われた。その『何か』の正体は、綾音にだけ見える『赤い糸』だったのだから。

 恐る恐る周囲の様子を伺う。幸い、綾音を見ている人物は誰もいなかった。もし今しがたの奇行を目撃されていたらと思うと、ぞっとしない。自分に関する妙な噂が立っては困る。そんなのはなはだ不本意だ。

「ううーん」

 ただ、それとは別の問題が一つある。

「どこから……どなたからの糸なんでしょう……?」

 この糸の出所が、わからなかったのだ。

 これまで見えていた糸というのは、せいぜい同じ教室内にいる人同士ぐらいの距離まで。それも綾音がその二人を視認できている状況でしか見えなかった。

 それが今はどうしたことだろう。先ほどの赤い糸とは別に、他にも様々な色の糸が、縦から横から壁や床をすり抜け、どこからどう伸びてきているかわからない。誰と誰を結んでいる糸なのか、さっぱりである。

「悪化、なんでしょうね……どう見ても」

 比べるまでもなく、距離の制限が明らかに伸びている。深く考えるまでもなく、思春期症候群の症状が進行してしまったのだろう。

 何となしに目に映る糸の本数を数える。全部で、十三本。

 数え終えると同時に虚しさを覚え、放心する。

 ふと思い出したのは、以前に綾音自身が口にした言葉。

 ――わたしの視界が愉快なことになっちゃいますよ

 それは本心のはずだった。想像する限りでは、目に楽しいものと思ってた。

 しかし、実際に目の当たりにしてみると、なかなかどうして。

(わずら)わしい、ですね……」

 ぽつり、そんなことを呟いた……その瞬間だった。

「……えっ?」

 綾音は目を瞬かせる。無意識にごしごしと擦り、今一度改めて目を凝らす。

「……なんで?」

 やはり、無い。

 視界にあった全ての糸が、きれいさっぱり消失してしまったのだ。

「いったい、なにごと……」

 そう小首を傾けている間に、徐々に糸がうっすらと見え始め、ほぼ元通りの光景へと戻っていく。今度はしっかり数えたりはしないが、十本程度の糸が視界にある。

「……」

 たまたまか、気のせいか、単に疲れていただけかもしれない。

 綾音は、再び糸が現れたことに安心しきっていた。それ以上は気に留めることなく、廊下をぽてぽてと歩きだす。

 そう……安心しきっていた。

 

「あ」

「あ」

 この頃すっかりお馴染みとなった人物と、ばったり出くわす。お互いが同時に発した一文字は同じはずなのに、ニュアンスが大分違った。

 綾音は明るく弾んだ声。対する咲太は、暗く沈んだ声。

「これはこれは、さくたろ先輩」

「助けてくれ、秦野」

 何やら弱り果てている咲太。非常事態だ。空から槍でも降るんじゃなかろうか。

「え、なんですか(やぶ)から棒に」

「縁結びとかできるだろ、占い師なんだし」

「それって神社かなんかと勘違いしてません? わたしには『見える』だけですよ、残念ながら」

「使えない奴だな」

「しかしあなた様に(つか)える後輩です」

「なら、遠慮なくこき使うか」

「どんとこいです、馬車馬(ばしゃうま)のごとく働く所存です」

 得意げに胸を張り、ぽんと手で叩く。

「秦野」

「何も言わないでください」

 何を言いたいかはわかる、わかってしまう。すこぶる気の毒そうな咲太の視線が、胸に突き刺さってきて痛い。謎言語を借りて表現するならば、たぶん『ばり痛い』ってやつ。

「そんで、どしたんです? 急に縁結びがどうとか、これより待ち受けるイベントのためにハーレムでも築くおつもりで?」

 待ち受けるイベントというのは、直近では十一月の文化祭。十二月にはクリスマス。次いでお正月、バレンタインと、恋人と過ごすにはもってこいなイベントが目白押しだ。多くの人間が血眼になり、縁結びの神などに願いかけたりするのも無理はないかもしれない。

「でもダメでしょう。さくたろ先輩には、桜島先輩という心に決めたお方がいらっしゃるのですから」

「その麻衣さんのことだ」

「はい?」

「あれから麻衣さんが口もきいてくれないんだよ」

 あれからというのは、すぐに思い当たった。そしてその瞬間に恐怖で震え上がる。脳裏にこびりついてしまった修羅場の全容が、まざまざと蘇ってくる。

「……あれから? ずっと?」

「ああ」

 咲太と麻衣の痴話喧嘩を目の当たりにしてから、かれこれもう三日も経った。

 改めて思い返してみても、そこまで長いこと怒るような理由が見当たらない。咲太の弱り具合も頷ける。(わら)にもすがる思いで、綾音にですらすがりたかったのだろう。

「なるほど、いい気味です」

「そうか、こいつがお望みか」

「たいへんお気の毒です」

 咲太がデコピンの素振りを始めていたので、慌てて言い直す。

「そうは言っても、わたしは桜島先輩のことをあまりよく存じ上げませんからねぇ。情報としては押さえてあっても、お人柄に関してはさっぱりでして」

「まあ、それもそうか」

「ええ。なので国見先輩か双葉先輩あたりに相談された方が、幾分(いくぶん)か意義があるのではないかと思ってしまうわけですよ」

「いや、それがな……」

「んん?」

 何やら歯切れが悪い咲太。常軌(じょうき)(いっ)した事態だ。いよいよもって空からカエルでも降ってくるかもしれない。それは『怪雨』もしくは『ファフロツキーズ』という名の、実際に起こった現象らしい。げに恐ろしきかな、くわばら、くわばら。

 しばし待つも、咲太はなおも言いよどんでいる。それほどまでに話しづらい内容なのだろうか。

「あの、さくたろ先輩?」

 さすがに見かねて、先を(うなが)してみる。

 それによりようやく決心がついたのか、咲太は肩をすくめつつ、重い口を開いた。

「あの二人も、僕の相手をしてくれないんだよ」

「……はい?」

 予想だにしなかった台詞に、きょとんとしてしまう。

「あの、どういうこっちゃです?」

「なんていうか、入り込む余地がないんだよな」

「それは、その……国見先輩と双葉先輩が、良い雰囲気で……ってことですか?」

「ああ、腹立たしいぐらいにな」

 咲太には妙な節がある。

 思えば、体育館での時もそう。佑真と理央の邪魔をしないようにと、声もかけずに立ち去っていたことがあった。それは決してやさしい気遣いなどではなく、後で二人をからかうネタのためとか、単に面倒くさがってとか、そんなところだと思うけど。

 それを踏まえた上で咲太が入り込めない状況というのは、いつ見ても二人が一緒にいるような状況、ということだろうか。

「二人だけの世界へと旅立ってしまわれましたか」

「それを素直に応援できない僕がいる」

 咲太が素直になる時など、永遠に来ない気がする。たとえ地球最後の日にだって、咲太は咲太らしいまま過ごすに違いない。

「このまま先輩方を失えば、お友達がゼロになってしまうからですか?」

「僕を(あなど)るな。友達なら三人もいるぞ」

「それって、国見先輩と双葉先輩も数に入れてますよね?」

「当然だろ」

「では最後のお一人は桜島先輩?」

「麻衣さんは恋人だからノーカウント」

 要するに、佑真と理央を除けば、あと一人しかいないということ。『三人も』と、さもたくさんいるような言い分に聞こえるが、はたしてそれは多いのだろうかと内心首を傾げる。

「あと他の学校にももう一人いるか」

「なら、問題ありませんね」

 お一人様追加の駄目押しにより、あっさり得心(とくしん)した。よくよく考えてみれば、友達がただ一人のみである綾音よりは断然多いし。

「他に何か不都合でも?」

「……」

「……さくたろ先輩?」

 綾音の呼びかけに、咲太がはっとする。

「いや、考えすぎか。あいつらに限ってそんなこと……」

「……?」

 よく聞き取れなかったが、小さく頷いているところを見るに、咲太の中では何かの結論を出せたらしい。この件に関しては、それ以上の詮索をやめることにした。

「んん~、皆さんどーしちゃったんですかねぇ」

 こうも立て続けに知人に距離を置かれるというのは変な話だ。他の人の話であれば、いじめを疑ってしまうが、あの先輩たちがそんな陰湿な真似をするとも思えない。

「なーんかやらかしちゃってませんか? さくたろ先輩ってば、いちいちデリカシーに欠けてますし。ふつーの人なら避けるような言葉も平然とぶっこみますし」

「記憶にないな」

 いっそ清々しいまでの瞬時の即答。

 でも、この時の咲太には、妙な説得力があった。

「怒らせるの、得意そうですもんね。空気も読まないでしょうし」

「喧嘩なら買ってやるぞ」

「いえいえ滅相(めっそう)も無い。得意なんですよ、空気も読めないんじゃなくて読まないんですよ」

「その心は?」

「機嫌を損ないそうな自覚がありながら、意図的にするんですよね。つまり、無意識にするようなことがないんです。そんなさくたろ先輩がまったく心当たりがないってのは、本当に何もしていないってことだと思うのですよ」

 思春期症候群を発症してからというもの、自然と人間観察をする習慣ができていた。それ以前の綾音は他人の心の中などさっぱりだったが、最低限の分析ぐらいできるようになってきたと思う。

「はれ? 的外れでした?」

「買い被りすぎだ。僕がそんな思慮深い男に見えるか?」

「見えません、さっぱり」

「だろ」

 そこそこ自信ある見立てだったのに。まだまだ修行不足なようだ。

 

「あ」

「う?」

 咲太が何かに気付いたように、短く声を発した。視線の先を追ってみれば、一人の女子がこちらへ歩いてくる。

 綾音もその顔には見覚えがあった。

 名前は、古賀朋絵。綾音と同じ一年生の、クラスは四組。綾音とは違い、誰もが口を揃えて『美少女』と呼ぶであろうお人。

「げっ、先輩」

 朋絵は露骨に顔をしかめる。

「そんなに嬉しそうな反応するなよ」

「今のがそう見えたの?」

「聞こえたんだよ、古賀の心の声が」

「えっ、うそ!?」

 慌てて左右の手で、口と胸をそれぞれおさえていた。

 心の声とやらが漏れないようにしたつもりなのだろうか。たとえ無意味だったとしても、そうしてしまう気持ちはすごくわかる。

「嘘に決まってるだろ」

「も、も~! また変なことにでも巻き込まれてるのかと思ったじゃん!」

「……変なこと、ね」

 咲太は意味深な眼差しを綾音へ向けてきたかと思えば、

「まあ、まだセーフか?」

 と、勝手に一人で納得していた。

「セーフってなにが?」

「古賀の体型かな」

 朋絵が頬を赤らめ、先ほど同様に両手で体をガードした。しかし、真っ先に隠した場所が、なぜお尻なのかが気になってしょうがない。普通ならお腹とか、さっきみたいに胸とか、とりあえず前面ではなかろうか。

「先輩ってばまじむかつく、ばりむかつく」

 朋絵の台詞に、はっとする。謎言語の使い手がここにもいた。

 ずいぶんと親しいようだし、まさかとは思うが同郷なのだろうか。咲太はともかく、朋絵は異世界人には見えない。

 それにしても奇妙な光景だ。咲太と好んで関わろうとする人間など、自分ぐらいなものだと思っていた。特に同じ一年生ともなれば、なおさら。どのような経緯で二人は知り合ったのだろう。

「……んん?」

 そこに関わってくるのかは定かではないが、先ほどの二人のやり取りの中で、朋絵が聞き逃せない発言をしていた気がする。

「あの……『また』って?」

 ――また変なことにでも巻き込まれてるのかと思ったじゃん

 にわかには信じがたいが、話の流れから推測するに、『心の声が聞こえた』と同程度の『変なこと』が、過去にこの二人の間にあったということに思える。

 綾音の言わんとするところを察したのか、咲太がなんとも面倒臭そうにため息をついた。

「色々あってな」

 さらっとした一言で、疑惑は確信へと変わる。

 ――色々あってな

 それは以前に、なぜ思春期症候群を信じるに至ったのかと問いただした際の、咲太からの返答とまったく同じ文言だった。

 ならば朋絵も、その『色々』のうちに含まれるのだということ。

 つまりは、麻衣と同様、朋絵も思春期症候群の経験者ということなのだろう。

「な、なるほど……」

 思春期症候群とは、誰もが信じていない、噂話や都市伝説。世間一般には浸透してくれないほどに、多くの人々が一生のうちに一度たりとてお目にかかれないほどに、ごくごく希少な超常現象のはずだ。

 綾音のことも含め、こう何度も関わってしまう咲太の境遇を羨ましく思う反面、正直同情もしてしまう。

 ――僕のことを巻き込むのはやめてくれ

 そんな風に釘を刺されてしまうのも無理ない気がした。思うに、咲太はかなりの不幸体質なのではなかろうか。

「……はれっ?」

 すっかり意識の外にあったが、咲太と朋絵との間には、糸があった。

 確か、『親友』のような意味合いを持つ『緑の糸』だったように思う。

 それが……いつの間にやら、きれいさっぱり無くなっている。

「どうした?」

「い、いえ……」

 なぜ無くなってしまっているのか、そもそも緑の糸は本当にあったのか。話すべきか、話すとしてどう説明すべきか。頭の中を様々な思考がぐるぐると巡り、うろたえていたら、

「秦野にも古賀の心の声が聞こえたか」

 と、咲太が茶化すように言ってくる。いつもながらの空気を読まない発言をしただけかもしれないが、今はありがたい助け舟だった。

「まぁ、そんなとこです」

「えっ!?」

「もちろんジョークです」

 朋絵が大いに衝撃を受けた表情のまま固まる。心の中で「ごめんなさい、古賀さん」と両手を合わせる。恨むなら咲太を好きなだけ恨んでほしい。

 

「初めまして。四組の古賀朋絵さん、ですよね?」

 思えば挨拶も済ませていなかったなと、占い師業で培った営業スマイルを向ける。

「あ、う、うん……えと、ごめんね、その……」

 当然別のクラスの綾音の名など知らず、朋絵は心底申し訳なさそうに言葉を選んでいる様子だった。

 噂にも聞いていたが、たったそれだけでも高慢とは無縁な、控えめでやさしい性格をしているのだということがよく伝わってくる。

「いえいえ、どうかお気になさらず。単に古賀さんが有名なだけですから」

「ゆうめい?」

「一年生における、『かわいい女子ランキング』の五本指に間違いなく入る逸材ですゆえ」

「そっ、そんなのいつの間にできてたの!?」

「ふっふっふ。トップシークレットなのです」

 別にできたわけではない。綾音の独断と偏見による、綾音の綾音による綾音のための勝手なランキングだ。

 けれどそう捨てたものではないとも思っている。実際にアンケートを取ることができれば、上位十名ほどは限りなく予想に近い結果が出るはずだ。そして朋絵は五本指どころか、一、二を争うに違いない。

「さすが、古賀はかわいいなー」

「か、かわいいっていわないで」

 咲太が茶化すと、朋絵がぷくーっと頰を膨らませていた。かわいい。

「まあ安心しろ、秦野の情報網が異常なだけだ。僕なんて同じクラスのやつの名前もろくに覚えていない」

「それ、威張っていうことじゃないし」

 綾音としては、なんとも咲太らしい言い分だと思った。内心ほっこりしてしまう。

 他者に興味など持たぬ、一匹狼、孤高の存在。これぞ綾音の抱く『病院送り』先輩像。

「あ、申し遅れました。わたし、二組の秦野綾音と申します。以後お見知りおきを、古賀さん」

 すっかり失念してしまっていたなと、いまさらながら名乗る。

「あ、うん。よろしくね、秦野さん」

 漫画であれば大見開きになりそうなほど、魅力的な笑みを向けてくれる。花が咲くような笑顔とは、このことを言うのだろう。

「ちなみに、こちらのさくたろ先輩の忠実なる下僕です」

「うわっ……」

 一転して、咲太にはゴミでも見るような目を向けている。

「さくたろ先輩のご命令とあらば、あーんなことや、こーんなことも、逆らわず遂行いたす所存です」

 半分は冗談でも、半分は本気。咲太は綾音に欲情することは拷問だとまで言うぐらいだ。綾音が断れないほどの鬼畜な命令を下すこともないはず。強気に出てもリスクなど無い。

 実はかなりの策士であり、それが油断させるための作戦だとしたら……その時は、その時で。是非も無し。

「先輩、まじでなに考えてるの? 桜島先輩っていう美人の彼女がいながら」

「僕はいつだって麻衣さんのことしか考えてないぞ」

「それはそれで、気持ち悪い」

 一切容赦のない軽蔑の言葉。胸がすくようだ。本当は綾音が勝手に言いだした設定なので、咲太は何一つとして悪くないのだが。

「ま、無為に公言するのは控えときますよ。桜島先輩の耳に入ったら大変ですもん、状況悪化待ったなしですもん」

 少し面白そうだと思ってしまった。本当にほんの少しだけなので、どうか許して欲しい。

「なに? 桜島先輩とケンカしたの?」

「振られる寸前みたいです」

 ちょっとだけ希望的観測が混じってしまっている。これも本当にちょっとだけなので、どうかご勘弁を願う。

「思ったより早かったね。ご愁傷様、先輩」

「お悔やみ申し上げます」

 両手を合わせた朋絵につられて、綾音も同じポーズを取る。

「よくできた後輩たちを持って幸せ者だな、僕は」

「あーもう、やめてってぇ」

「んうう……」

 咲太の手により、二人して頭をわしゃわしゃされてしまった。綾音はともかく、朋絵のかわいらしく整えられていた髪型が台無しにされてしまったのは忍びない。

 上目遣いで(にら)む朋絵。その視線を涼しい顔で……どことなくやさしい表情で受け止める咲太。

「仲、いいですねぇ」

 半ば無意識に心の声がこぼれる。

 ――友達なら三人もいるぞ

 この学校における友人の最後の一人というのが、朋絵のことだったのだろう。そう確信できるほど、温かな繋がりを感じられる光景だった。

「ま、尻を蹴り合った仲だからな」

「ちょっ、先輩!?」

 突然の衝撃告白に、綾音の興味のメーターが一気に振り切れる。

「お尻を? どのようなご経緯で?」

「あれは忘れもしない、よく晴れた日曜日のことだったか」

「ふん、ふん」

 咲太をじっと見つめ、傾聴(けいちょう)の姿勢に入る。

 男女がお尻を蹴り合う経緯など想像もつかない。前代未聞の珍事件、詳細を押さえておかねば末代までの恥だ。

「……?」

 少し待てども、咲太の次の言葉がない。

 いったいどうしたのかと、小首を傾げる。するとなぜか、咲太も同様に小首を傾げた。

「……古賀?」

 咲太の表情に怪訝(けげん)な色が見え始めた瞬間、

 

「それ言うの、ほんっとやめてってばッ!!」

 

 と、急に朋絵が大声を上げた。

 離れた位置にいた生徒もびっくりしてこちらを向いてしまうほど、校舎内全域に響き渡ってしまったかもしれないと思うほどの大音量だった。

「どうした古賀。また太ったのか?」

「うるっさい先輩、まじウザいっ! 大っ嫌いっ!」

 ひとしきり叫んだ後、肩を怒らせて去って行ってしまう。

 取り残された二人は口を半開きにさせ、世にも間抜けな面を晒してしまっていた。

 

「……さくたろ先輩」

「なんだ」

「これ、古賀さんとのいつものやりとりなんですか?」

「の、はずだったんだが……」

 二人揃って腕を組み、首を捻る。

「どうしたんでしょうね?」

「難しいお年頃なのかもな」

「あ。お年頃の女子に、体重の話はあかんですね」

「毎度おなじみの挨拶みたいなものなんだよ」

「なら、溜まりに溜まった鬱憤(うっぷん)がうんぬんってやつじゃないんですか」

「溜まったのは贅肉(ぜいにく)の方だと思うぞ」

「……」

 さすがに言葉を失い、(さじ)をぶん投げた。だめだこの先輩。

「ああ、秦野」

「はいはい?」

「古賀と僕の間に、糸は見えたのか?」

「いえ、それが……」

 改めて考え直しても、答えが出てこない。

 それまでそこに存在していたはずの糸が、急に消えてしまう。この糸ともそこそこ長い付き合いになるが、前例などなく、綾音にも何が起こったのかさっぱりで、説明がつかないのだ。

「見えなかったのか」

「……えぇ、まぁ」

 何かまずいことになっているというのなら、あまり積極的に関わらせたくもないし、単純に綾音の見間違いだった可能性もある。今は言葉を濁すほかなかった。

「またかよ。本当に使えない奴だな」

「わたしの方に非があると決まったわけじゃありませんからね。桜島先輩のときにも申し上げました通り、知らぬ間にお相手の気持ちが離れてるのかもしれませんからね」

「まじか」

「まじだと思うんです」

 咲太の表情に変化は見受けられない。綾音の軽口など、まったく利いていないようだった。

 このぐらいで絶望に打ちひしがれるような神経をしていないのか、不幸体質な咲太の感覚ではまだまだ絶望とは程遠いのか。

 あるいは……綾音の『糸』なんかよりも、強く信じているものがあるのか、だ。

「ただまぁ、糸の方は残念ながら、だったんですけど」

「ん?」

「浮気は、ほどほどにしましょうね?」

 綾音にだって、このぐらいは気づけてしまう。

 朋絵はきっと、咲太のことが好きだ。もしくは、好きだった。

 けれど、咲太には麻衣がいる。だから諦めた。叶うはずがない恋だと、結ばれてはいけない想いだと、痛いほどにわかっていたから。

 だから、友達でいることを望んだ。自らの意思で『緑の糸』で結ぶことを選んだ。

 なんとも儚く尊い、男女間の友情。

 素直にそう感じた……はず、なのに。少しだけ、胸に引っかかるものがあった。

「僕は麻衣さん一筋だからな」

 その言葉はなぜか、耳にすんなりと入ってくれなかった。

「……そう、願います」

 その台詞はなぜか、発するまでにわずかな間があった。



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8話

 咲太はまだ学校へ残るらしく、軽い挨拶を交わして別れた綾音は、何となしに下校を始めた。

 そのことを、すぐさま後悔することとなる。

 校門を出て、目の前に見えてきた踏切。ちょうど警報が鳴っている最中であり、そこで待つ幾人かの生徒の姿があった。

 右手方向にある七里ヶ浜駅には、それよりも多くの生徒たちが待ち受けているに違いない。踏切にいる者と駅にいる者とを繋ぐ、おびただしい数の糸が、すでに綾音の視界には映っていたのだから。

「……やっちまいましたかね」

 人込みを避けるため、おとなしく引き返す。これまでの綾音であれば、それが当然の選択だった。しかし今となっては、ほとんど意味を成さない。

 どこにいようと、どこからともなく糸が現れてしまうのだから。

 糸から逃れられる場所など、もうどこにも無くなってしまっているのだから。

「あっ……」

 小さく、声がもれた。思わず目を伏せ、顔を背けたくなる。

 認めてしまった。多くの糸の中に一つ、不穏な色が紛れ込んでいることを。

 恭子の時にも見えた、『黒い糸』が存在していることを。

「また、ですか」

 早々に出会うことがないはずの糸だった。かれこれこの思春期症候群とも一年近くの付き合いになるが、片手で事足りる程度の本数しかお目にかかったことがない。

 それがどうしたわけか、今日はもう三度目だ。最初は登校時に鎌倉駅のホームで。次は直後の電車内で。そして三度目が、今。

 偶然という言葉では到底済まされない。頻度が飛躍的に高まっている。あまり深く考えるまでもなく、可視範囲が伸びてしまったことに……思春期症候群の悪化に起因されるのだろう。

「……あんな糸」

 ――あんな糸、切れてしまえばいいのに

 ちらりと、そんなことを思ってしまった……その瞬間。

「……えっ?」

 綾音は大きく目を見開いた。目の前で起こった現象が信じられなかった。

 ふっと消えてしまったのだ。視界に映っていた、『黒い糸』が。

「いえ、そんな……」

 たまたまか、気のせいかと思った。できることなら、そう思いたかった。

 それにしてはタイミングが絶妙過ぎたし、ピンポイントで『黒い糸』だけが消失してしまった。さらにはほんの一時間ほど前、学校の廊下でも似たような現象に遭遇したばかりでもあった。

 ――(わずら)わしい、ですね

 綾音がそんなことを口走った直後、視界から全ての糸が消えた。すぐに元通り見えるようになったが、今にして思えば、その前後で本数が違っていた。少なくとも、二、三本は確実に減ってしまっていた。

「まさか、あの時も……?」

 ともすれば、咲太と朋絵の間に見えていたはずの糸。

 あれも、綾音が断ち切ってしまった、としたら。

 だから……朋絵が豹変(ひょうへん)してしまった、としたら。

「……」

『まさか、そんなこと』と、否定しようとする思考。『いや、でも』と、それをまた否定しようとする思考。二つがせめぎ合い、無限のループを繰り返してしまう。

 じれったくなり、確かめてみたい衝動に駆られるが、試してしまうわけにもいかないと、すんでのところで踏みとどまる。

 たとえそれが『黒の糸』であろうと、人同士の関係を捻じ曲げてしまうなどと、そんなおこがましい真似をするわけにはいかない。

 赤の他人が……自分ごときが。

「意図的に、断ち切れる……ですか? ……糸だけに」

 馬鹿なことを口にしてみても、気休めにもならない。

 全然笑えないし、笑いごとじゃない。

「これは、なかなか……由々しき事態ですね」

 廊下で見えた糸。咲太と朋絵の間に見えた糸。今しがたの、誰のものかもわからない黒い糸。わかっている範囲でこれだけある。

 本当に、糸を消してしまえるのだろうか。

 だとしたら、いったいいつから、そうなっていたのだろうか。

 綾音が把握できていないというだけで、無意識に消してしまった糸が、他にいくつあるのだろうか。

 考えれば考えるほど、どつぼにはまり。

 言いようのない不安だけが、ただただ(つの)っていく。

 

 

    ◇    ◇

 

 

「ただい……ま?」

 普段と違う雰囲気に首を傾げた。

 どうも人のいる気配がするし、リビングの方からはかすかに話し声も聞こえてくる。

 話し声、ということは一人ではないということ。そして綾音は三人家族。それすなわち。

「ただいまもどりました、お父さま、お母さま」

 思わずにやついてしまいそうになるが、かろうじて耐え切った。だらしない表情をしては二人が気分を害してしまう恐れがある。許されているのは、にこりと淑女らしく微笑むことだけ。

「あら、綾音。おかえりなさい」

 表情を一切変えずに、母が応じる。笑顔など滅多に見たことがない。

「綾音か。ちょうどいい」

 父からは『おかえり』の言葉さえなかったが、こういう人だ。

「なんでしょう?」

「どちらについていくか、選べ」

「……はい?」

 唐突(とうとつ)過ぎて話がさっぱり読めない。『ついていく』ということは、長期間どこか遠くへ行くつもりなのだろうか。仮に出張だとしても、そんなことを言われた経験もない。綾音がついていくことに意味など何もなく、ただひたすらに邪魔なだけなのだから。

 いくら考えても答えにはたどり着けそうもない。両親を交互に見やり、目で問い掛ける。

「私たち、離婚することに決めたから」

 相変わらずの無表情で、さらっと、何でもないことのように母が告げる。心臓がどくんと跳ね上がり、息が上手く吸えなくなる。

「……なんで、ですか?」

 少し間が空いてしまったが、懸命に平静を(よそお)って問い返す。

「なんで、か……」

「そう、ねえ……」

 はっきりと思い当たる動因がなかったのか、両親は揃って視線をさまよわせ、考え込んでしまう。

「……」

 今度こそ、綾音は言葉を失ってしまう。ありえない光景だった。

 あの父が。あの母が。いつだって合理的で、要領がよくて、理路整然としていて、悩む素振りなど一度たりとも見せたことがない、あの両親が。

 綾音は呆然と立ち尽くす。なおも、二人は悩み続ける。実際には一分にも満たなかったのだと思われるが、恐ろしく長く感じられた。

 ようやく考えがまとまったのか、父が居住まいを正す。その口からおもむろに発せられた台詞は、さらに驚愕(きょうがく)してしまうものだった。

「ふと思い立って、か」

「へっ?」

 思わず変な声が出てしまった。

 こんな失態、両親の前で見せて良いものじゃない。本来ならば、眉をひそめられる。下手をすればお叱りを受ける。

 しかし今回はなぜだか、それに関して(とが)めることもなく、いまだに首を捻っている。両親らしからぬ様相に、綾音の動揺は留まるところを知らない。

「まぁ、何となくよね。それが偶然にも一致しちゃったのよ」

時宜(じぎ)だった、ということだな」

「ええ。綾音ももう高校生だし、いい頃合いかと思って」

 一応は、理に(かな)っている。

 でも、違う。

 こんなの、綾音が知る両親らしくない。

 思い立って。何となく。そんな不明瞭(ふめいりょう)な動機から決断を下すような人たちじゃない。

 いつものように、反論できる余地のない正論を、高圧的に一方的に厳命してくれた方がまだ良かった。まだ、諦めがついた。

「余計な(しがらみ)無しに身軽でいた方が、お互いやりやすいだろうしな」

「……」

 余計な柵。

「そうね。わざわざこの家に帰るのも、面倒だったし」

「……」

 面倒。

 どこか言い訳じみた、後付けの理由にしか聞こえない。いまいち釈然としていない自らへ向けて、躍起(やっき)になって弁明を図っているようにしか感じられない。

 それにしたって、あんまりだと思った。

 実家への……家族への表現として、それらの言葉は、いかがなものなのだろう……。

 内心に募っていく不満を、筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい激情をぐっと堪え、笑顔で取り(つくろ)う。

「それなら、わたしは一人暮らしがしてみたいです」

 その台詞は予想していなかったのか、両親はわずかに瞠目(どうもく)していた。

「大丈夫なの?」

「はい。今の高校にも、このまま通いたいので」

 どちらかについていくにしても、この家を離れなければならなくなる。となれば、転校を余儀なくされてしまう。

 それは、どうしても嫌だった。

 両親と離れ離れになることよりも、ずっと、ずっと。

「わかった。住む場所を決めたら私に言え」

「ありがとうございます、お父さま」

 契約などは父が済ませてくれるのだろう。そのことは素直にありがたいと思い、感謝の言葉を述べる。

 能面のような、人形のような、とっておきの作り笑顔を添えて。

 

    ◇    ◇

 

 思えば、二人の間に糸は見えなかった。

 結ばれているはずがない、と。

 何の繋がりも存在しない、と。

 そう、決めつけていたから。

 繋がりがあることを、認めずに。許さずに。

 ――いっそのこと、別れてしまえばいいのに

 そう、願ってしまったから。

 父と母の間に存在していたはずの糸を、断ち切ってしまったんだ。

 

 だから。

 両親の離婚は、わたしのせいだ――



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9話

 この日、綾音はいつもより三十分ほど早く家を出た。

 理由としては二つ。

 一つは、早急に咲太と話がしたかったから。

 もう一つは……視界が、悪かったから。

 

 

    ◇    ◇

 

 

 なんとか無事に学校へ到着した綾音は、教室へ鞄を置くこともなく、まっすぐに二年一組の教室へと向かった。

 開いていた入口から、こっそり教室内を覗かせてもらう。さすがに早すぎたらしく、まだ五名ほどしかいない。残念ながらその中に咲太は含まれなかった。

「……まだ、きていませんかね」

 先に下駄箱を確認すべきだったなと、遅まきながら後悔する。気持ちに余裕が無く、冷静さを欠いている証拠だ。いったん出直そうと思い、来た道を引き返していく。

 ここは二階。廊下には結構な人数の、二年生とおぼしき生徒たちがいた。

 登校してきたばかりの、自分の教室へと向かっている人が多くを占めるが、朝一で駄弁(だべ)っている人もいる。ご苦労なことに、早速委員会だか日直だかの仕事に取り掛かっている人もいる。

 綾音が一方的に知っている人はちらほらいるが、直接関わりを持ったことのない人ばかりだ。誰々は何が得意だとか、誰々は何に悩んでいるらしいだとか、そういった情報や噂話を押さえているだけ。

 その中の一人と、はたと目が合った。それも数少ない、綾音が言葉を交わしたことのある人物。

「加西先輩?」

 占い師として直近のお客様であった、加西先輩だ。

「あ……綾音ちゃん」

 年上ながら、いつでも明るくかわいらしい印象の人だったはずが、ぱっと見で心配になるほど表情が暗い。

「んと、どうかしましたか?」

「うん……」

 浮かない生返事をされる。そして、なぜか気まずそうに目を逸らされた。

 かと思えば、今度は俯きがちに、ちらちらと綾音の顔色をうかがい始める。何かをためらっているようだった。

「……」

「……」

 あの加西先輩をこうまで暗くさせ、こんなにも長く躊躇(ちゅうちょ)させてしまうだなんて、ただならぬ出来事があったに違いない。たぐいまれな緊張感に、喉がからっからに渇いてしまう。

 こういった際における気の利いた一言など、綾音に浮かぶはずもなく。かといって、逃げることもできず。どんよりとした空気の中、だんまりを決め込むほかなかった。

「あの、ね」

 ようやく加西先輩が重い口を開いてくれた。固唾(かたず)をのんで次の言葉を待つ。

 

「別れちゃったんだ。岡崎くんと」

 

「……はい?」

 意外にもあっさりとした口調ではあった。けれども内容はつゆも理解できず、放心してしまう。

「え、あっ……なん、で……? どうして、ですか……?」

 数テンポ遅れて愕然(がくぜん)とし、喘ぐように言葉を絞り出す。

 前代未聞の事態だった。『赤い糸』で結ばれていたはずの関係が破局を迎えてしまうことなど。

「ん、その、なんていうか……」

 視線を泳がせ、首を傾け、唇に指を当てて、苦悩している。

 今、この場で、初めてその理由を考え、整理しているかのように。

 まるで……自分でも、自分の行動に納得がいってないかのように。

「なんか……急に、思ったんだよ、ね。別れた方が良い……ううん、別れなきゃ、って……」

「……」

「……ごめんね、こんなんじゃわけわかんないよね。なに言ってるんだろ、私……」

 言葉を発せずにいる綾音を気遣ってか、「あはは」と、力なく笑いかけてくる。

 その姿は、なんとも痛ましくて。

 ――何か、言ってあげなきゃ

 そう思っても、頭が真っ白で。

 まるで幼児退行でもしてしまったかのように、「あ」とか、「う」とか、意味を持たない声を、小さく、小さく喘ぐばかりだった。

「ごめん、ね……せっかく、綾音ちゃんの、おかげでっ……」

 それ以上は言葉にならなかった。

 加西先輩は咄嗟に口元を手で隠し、顔を背け、わずかに肩を震わせている。嗚咽(おえつ)を、噛み殺している。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。

 ほとんど無意識に、視線を(せわ)しくさまよわせる。加西先輩の体からは、いくつかの糸が伸びていた。その色は、青、緑、そして黄。

 その中に、岡崎先輩と結ばれていたはずの色の糸は無かった。『赤い糸』は、無かった。

「……まさか」

 以前、廊下を歩いていた時。

 ――煩わしい、ですね

 そう呟いた瞬間、目に映る全ての糸が消えてしまった。すぐに再び見えるようにはなったが、明らかに何本か減っていた。何本か、消してしまっていた。

 その前後の光景を間違い探しのように照らし合わせてみると、一つだけ、はっきりと覚えている糸がある。

 あの時、綾音の眼前に現れた糸。咄嗟(とっさ)に身をよじり、避けようとしてしまった糸。

 その『赤い糸』は、確かに無くなってしまっていた。

「まさか、あれは……加西先輩と、岡崎先輩の……?」

 糸を断ち切られたら、どうなるのか。

 その結末を、目の前の加西先輩が明瞭(めいりょう)に物語っていた。

 強迫観念に(さいな)まれ、関係を矯正される。

 想いを捻じ曲げられ、踏みにじられる。

 それはいわば洗脳か、心の改ざんか、はたまた運命の操作か。

「そんなの……そんなの、って……」

 いくらなんでも、むごすぎる。そんなの誰にだって……たとえ神だろうと許されていい行為じゃない。

 両親も、咲太とその知人たちも、同様に。

 おそらくは、綾音のせいで……。

「……そろそろ、平気かな~って、思ってたんだけどなぁ。まだ、ダメだったかぁ」

 加西先輩が、照れ隠しをするように笑いかけてくる。かすかに涙まじりの声ではあったが、以前に聞いたような明るい響きをすっかり取り戻していた。

「ほらほら、もうチャイムが鳴っちゃうよ? 早く教室に戻ろうね」

 この期に及んでも、先輩らしくあろうと気丈に振る舞ってくれる。

「ほんと、綾音ちゃんは気に病まないでね。悪いのは、私なんだから」

 包み込むようなハグをされ、背中をやさしく叩いてくれる。

 辛いのは、加西先輩の方で。

 悪いのは、綾音の方だというのに。

「……違うん、です」

 立ち去る加西先輩の背中へ、必死に声を振り絞る。

「わたしが、あなたたちを断ち切ってしまったから……!」

 その声は、あまりにも小さくて、ひどく(かす)れていて。

 加西先輩の耳には、届いてくれなかった。

 

 

    ◇    ◇

 

 

 この日の授業は、何一つとして頭に入ってこなかった。幸い教師も綾音の異変に気付かず、指名されたり注意されたりすることもなかった。

 何も考えず、ただただ無心で過ごす。昼休みになっても、昼食をとることすら忘れて、ふらふらと校内を放浪する。

 その様は、壊れた玩具か、魂なき人形か、さまよえる亡霊か。見る人が見れば、心配して声をかけられたり、奇異の眼差しを向けられたりしてしまう。

 周囲の視線を気にする心の余裕は、もうなかった。

 周囲の人間をまともに視認できるだけの視界を、もう持ち合わせてはいなかった。

 

 

「あ、綾音」

 帰りのショートホームルームを終え、教室を出ようとした矢先に、恭子(きょうこ)に呼び止められた。

「なんでしょう?」

「占って欲しいって人がいるんだけど……なんか忙しそう? ってか、どうかした?」

 さすがに恭子には一目で異変に気づかれてしまい、心配そうに顔を覗き込まれそうになる。

 それを拒絶するよう、微笑んでみせた。

「ええ、すみません。このあとは、ちょと」

 自分でもわかるほど、ぎこちない苦笑いにしかならなかったけれど、この場においてはそう不自然じゃないと思うので良しとする。

「ん、そっか。また今度、手が空いてたらよろしくね」

 余計な詮索はしてこない。朗らかな笑みを浮かべ、手を振りあっさりと去っていく。恭子のこういうところは、心からありがたいと思った。

 現在の精神状態でこれ以上一緒にいては、自分が何を口走ってしまうか、自分でもわからなかったから。

「……行きます、か」

 この時の綾音の胸中を占めていたのは、いま最も会わなければならない人のこと。

 避けては通れないし、先延ばしにしてもしょうがない。

 たとえそれが、その人の逆鱗に触れることになろうとも。

 

 

 恭子と別れた綾音は、すぐに目的地へと向かい始めた。

 はやる気持ちを抑え、壁に手をつきながら、階段の手すりにしがみつくようにしながら、周囲の人とぶつからないよう注意しながら、一歩一歩をしっかりと踏み出す。

 やっとの思いでたどり着いた、二年一組の教室。

「さくたろ、先輩……」

 意図せずその名を呟き、祈るような思いで中を覗き見た。

 到着に時間を要したためか、教室内の生徒の数はもう半分以下にまで減っていた。そんな少人数にもかかわらず、視界に映る糸が邪魔して、一人一人の姿をきちんと確認していくことは困難を極める。

 それでも綾音が見紛うはずがなかった。幾度となく拝んできた、憧れの先輩の姿を。

「……いませんか」

 この時も咲太の姿はなかった。肩を落とし、大きなため息をつく。

「でも……結果、オーライ……なんでしょうかね」

 同時に、いなくて良かったとも思った。肩には明らかに力が入りすぎていたし、こぼれたため息にも、どこかほっとしたような心情が含まれていた。

 こんな気持ちのまま、会いたくない。こんな顔、見せられない。

 おとなしく日を改めることにして、(きびす)を返す。

 明日になっても状況は改善しないどころか、悪化すらしているかもしれない。

 だけど、明るい表情ぐらい、作れるようになっているだろうから。

 

 

    ◇    ◇

 

 

 慣れ親しんだ通学路。目を瞑っても歩けるというのは大げさかもしれないが、多少視界が悪かったところで、登下校にそこまでの支障はない。

 自宅や学校でも同様だ。生活を続けていくことに、さして苦労などない。

 だから、大丈夫。

「絶景、ですね」

 乾いた笑いがこぼれた。

「想像をはるかに超えて、愉快です」

 徐々に、着実に、張り巡らされていく糸。すでに視界の半分はゆうに超えて浸食されてしまった。

 縦横無尽に伸びる糸は、触れられる距離にあるはずなのに触れることが叶わず、もはや目を閉じていた方が距離感や平衡(へいこう)感覚を維持できる。過剰なまでにカラフルな原色は目に毒で、あまり直視しすぎると吐き気をもよおしてくる。色彩感覚も狂ってしまいそうだ。

「これは……『あれ』、でしょうかねぇ……」

 自嘲(じちょう)気味に呟いた綾音の脳裏に、とある存在がちらつく。

 その名は『アトラク=ナクア』。

 しばしば蜘蛛(くも)のような姿で描かれる、神話に登場する架空の生物。日夜延々と糸を張り続けており、やがて巣が完成した暁には世界を終焉(しゅうえん)に導くという恐ろしい逸話(いつわ)がある。

 とはいえ、そこまで大それた存在だとは思わない。綾音の目に映る糸は、いくら張り巡らせたところで巣として相成るものではなく、断ち切りさえしなければ無害であるはずなのだ。

 だからこれ以上、何一つとして断ち切らなければいい。

 その為に、成すべきこと。何も感じず、何も願わず。全てを諦め、全てから目を背け。そして……視界を、心を、全てを閉ざす。

 そうして断ち切られるのが綾音の未来だと言うならば……破滅を迎えるのが綾音自身だというならば、甘んじて受け入れよう。

 それが、与えられた運命。

 それが、この思春期症候群の末路。

 

 ――愚鈍で、未熟なわたしは……さしずめ、『子蜘蛛(ベビースパイダー)』といったところでしょうか――



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10話

 一刻も早く、咲太の下へ行かねばならない。そんな焦燥(しょうそう)も当然あったが、朝一で乗り込むような真似はせず、放課後まで待った。心を落ち着かせるために、今日一日を費やした。

 念のためトイレへ寄り、鏡を見る。

 その表情にぎこちなさは一切感じられない。これならば、たとえ恭子(きょうこ)にだって心境を見透かされるようなことはない。

 大丈夫。

 いつも通り、笑えてる。

「行きます、か」

 今一度、鏡に映る自分へ向け、微笑んでみせる。

 こうして自分の顔が拝めるのも、これが最後になるかもしれない。ならばせめて、最上級にきれいな微笑みを目に焼き付けておこう。

 そんな思いで作った表情は、力ない嘲笑(ちょうしょう)にしかならなかった。

 

 先日の失敗に(かんが)みて、二年一組の教室へは向かわない。真っ直ぐに下駄箱へと行き、咲太の靴があることを確認した。

「よっし」

 小さくガッツポーズ。これでもうすれ違ったりすることもなく、会えることが確約されたも同然だ。ここで待ち伏せしていれば、いつかは必ずきてくれる。

 どんな長期戦になろうとも耐え忍ぶ心づもりでいたが、幸い程無くして待ち人は現れた。

「これはこれは。奇遇ですね、さくたろ先輩」

「待ち伏せしておいて奇遇はないだろ」

 心なしか疲れたような声の咲太。きっと綾音(あやね)の気のせいではないはずだ。

 咲太が現在置かれている状況というのはわかっている。そしてその原因が、綾音にあるということも。

「まーまー、細かいことはお気になさらずに」

 心の中で頷き、その手応えを噛みしめる。

 大丈夫。

 いつも通り、話せてる。

「まあいい、丁度良かった」

「はい?」

 これも普段の綾音らしく、きょとんとした顔で首を傾けてみせる。

 けれど、続く言葉は予想できている。

秦野(はだの)に話がある」

 裁かれる覚悟は、とっくにできている。

 

 

    ◇    ◇

 

 

 どこで話をすべきか。そう悩んだとき、まず思い当たったのが海だった。

 なるべく人気のない場所を選びたかった。咲太がどんな反応をするかわからなかったし、視界を(ふさ)ぐ『糸』の量も、多少はマシになってくれると思ったから。

 校門を出て、すぐに見えてくる踏切。先ほどから、かすかな警報音が耳に届いていたが、もう電車は通ったあとらしく、降りていた遮断機が持ち上がってくるのが見える。すんなりと踏切を通過し、緩やかな坂を下り、突き当たりにある国道を渡る。

 そうしてたどり着いた、七里ヶ浜の海。

「……ダメ、ですか」

 綾音の思惑は外れ、ここでも糸の量に大した差はなかった。海の方角は比較的まばらではあったが、それも気休め程度。もうじき視界は完全に糸に覆われ、この海の姿すら拝めなくなるのだろう。

「大丈夫か?」

 咲太に声をかけられ、自分の表情が曇ってしまっていたことに気づかされる。慌てて笑顔で誤魔化そうとしたら、

「顔色が悪いぞ。ダイエットか?」

 という、デリカシーの欠片もない心配の仕方をされた。それがなんとも咲太らしくて、自然と笑みがこぼれる。

「ばれてしまいましたか、お恥ずかしい」

 そういえば、近頃まともに食事をとっていなかったことに気づかされる。まさか咲太がそこに勘付くとは思いもよらなかった。こんなところで目ざといなんて、ずるい。

「古賀はともかく、秦野でも体重が気になるのか?」

「衣服を(まと)っているからまだマシですけど、脱いだらなかなかあかんやつなのですよ」

「女子は大変なんだな」

「体重計とのにらめっこが日課です」

 たぶん、朋絵もそのお仲間。

「そいで、お話とはなんでしょう?」

 本当はこのまま軽口を続けていたかった。

 沈んだ表情が、(すさ)んだ心が、ゆっくりと解きほぐされていく感覚が、どうしようもなく心地よかった。久方ぶりに、飾らない自分でいられた気がした。

 それは、じわりじわりと綾音の心によからぬ思いを植え付ける……甘い、甘い、毒で。このまま(ゆだ)ねてしまえば、揺らいでしまいそうで、折れてしまいそうで。

 振り払わなければならなかった。この先に迎える結末を、真正面から受け入れるために。

「……?」

 待てども、咲太は一向に言葉を発さない。

 少し距離が遠くて……かなり視界が悪くて、表情が確認しづらい。一歩、二歩と咲太へ近づき、顔を覗き込む。すると咲太は、なんとも言えない(しぶ)い顔をしていた。

「……さくたろ先輩?」

 綾音がそう(うなが)したことでようやく腹が決まったのか、ため息をつき、頭をぼりぼりと掻きながら口を開いた。

 

「国見と双葉が、付き合い始めた」

 

 まったく予想していなかった内容に、ぽかんとしてしまう。

「それは……よかったです、ね……?」

 半ば混乱しつつ、素直な感想を述べた。

「それが、よくないんだよ」

「なにゆえです?」

 あの二人が結ばれること。それは咲太も望んでいた未来だと思っていた。

 咲太の顔を、じっと見つめる。浮かない表情の奥で、いったい何を考えているのだろう。どこに、どんな不都合があるというのだろう。

「秦野が、二人をくっつけたんだよな?」

 またしても予想外の質問。どこか確信めいた、咲太の口調。

 けれど咲太には悪いが、あまりにも的外れな指摘だと拍子抜けしてしまう。自分の心が、すっと冷たくなるのを感じる。

「正直、さくたろ先輩が孤立してしまっているのは……わたしのせいかな、って。そう、思ってます」

 加西(かさい)先輩の破局。そして、両親の離婚。

 それらが綾音の仕業(しわざ)であるなら、咲太の現状もおそらくは綾音の仕業だ。麻衣や朋絵との糸を断ち切ってしまうだけの心当たりは、十分すぎるほどにあった。それを認めてしまうのは、少々どころかかなり(しゃく)だったのだが。

「僕もそう思う。麻衣さんや古賀がおかしくなったのも、秦野がその場にいた時だし。秦野が会ったことがない妹とか、他の学校の友達とかは、普通に接してくれてるからな」

「なら、間違いないですね」

「ああ、だから……」

「でも」

 声に力を込め、咲太の言葉を(さえぎ)る。

「国見先輩と双葉先輩がお付き合いされていることは、わたしは無関係だと思うんです」

 けっして言い逃れをしたいわけじゃない。

 だって、そんなの、おかしいんだ。

「わたしにそのような力、あるわけがないんですよ」

 誰かと、誰かを、くっつける。

 綾音の思春期症候群に、そんな力が(そな)わっているはずがない。

 発症した当初、真っ先に願った。ずっとずっと願い続けた。綾音と両親との……そして、両親同士の『糸』を。ごくごくありふれた家族らしいことをできるような家庭になって欲しいと、性懲(しょうこ)りもなく渇望(かつぼう)し続けた。

 それがどうだ。結局一年もの間、家族が一堂(いちどう)(かい)したこともなく、ようやく三人が揃ったかと思えば、あまりにも唐突な離婚の話だった。

 綾音の思春期症候群は、他者同士の関係が見えるだけの症状だった。そこへ、新たに断ち切る力が備わっただけ。そのことは綾音自身が痛いほどにわかっている。

 そして、咲太の方こそ……咲太の方が、わかっているはずだ。

「さくたろ先輩だって、わかってるでしょう? あんなにも仲睦(なかむつ)まじくいらしてたのですから。国見先輩と双葉先輩がお付き合いされるというのは、自然な成り行きだと思うんです」

 それどころか、交際していなかったことが不思議なほどですらある。そしてできることなら、そうなって欲しいと願っていた。

 あの二人が結ばれることは、誰にとっても喜ばしいことだと思っていたから。もちろん、綾音にとっても。

 むしろ、綾音が最も強く望んでいたぐらいかもしれない……。

「……」

 胸に、どろっとした嫌な感覚が湧きあがる。

 密かに(ずる)く、汚く醜い。そんな自分の胸の内が、このような状況を引き起こしてしまったのだと痛感させられる。

 綾音の本質は受け身だ。両親からは命令を待ち、クラスメイトからやさしく声を掛けられるのを待つ。

 神や伝説、運命といった不確かなものも信じて頼った。思春期症候群という不可思議な能力を頼り、恭子の助けを借り、交友関係を広げていった。

 これまでの人生を振り返り、改めて思う。

 綾音自身は労してなどいない。自分からは決定的な行動を起こそうとせず、(こいねが)うだけ。

 造網性(ぞうもうせい)蜘蛛(くも)のように、張り巡らせた糸に獲物がかかるのを、ただひたすらに待つだけ。

 この思春期症候群の結末を悟ってからも、それは変わらない。

 (いだ)いてしまった願望や、胸に秘めたる想いに対する報いなのだと、罪を認め罰を受け入れ、(あらが)うことなく最期の時を待ち続けるだけ。

 変化を恐れ、成長を(こば)んだ、愚かで哀れな子蜘蛛だ。

 

「上里って女子、知ってるか?」

 

 その名を聞いた瞬間、どうしてだか心臓が跳ね上がった。

「かみ、さと……?」

「ああ。僕と同じクラスの、上里沙希」

「上里、沙希……先輩……」

 うわ言のように(つぶや)く。

 かすかにではあるが、その名には記憶がある。

「僕は上里にはめちゃくちゃ嫌われててな」

 そう、確か全校生徒を通じても特にかわいいと評判であり、当然一年の男子の間でも人気な先輩だ。

「あいつとは顔を合わせる度に、『バカ』だの『死ね』だの暴言を吐かれたりでさ」

 そんなキツい性格がまた良いだとか、自分も叱られてみたいだとか、同じクラスの男子が話していたのを耳にしたことがある。

「決まって言ってくるんだよな。『佑真としゃべんないで』とかって。僕なんかと一緒にいたら、国見の株が下がるんだと」

 ――でも相手が国見先輩じゃ、分が悪いよなぁ

 沙希のことが好みのタイプだと熱心に語っていた誰かが、そんな風に肩を落としていた覚えもある。

「……あっ……」

 たどり着いてしまった。

 佑真と理央が、交際に至れなかった事情に。

 咲太が、喜べるはずもない不都合に。

 そして、自分の失態に。

「上里は国見の彼女だ。……いや、彼女だった」

 朋絵が、咲太に片想いをしていたと気づいた時のことを思い出す。

 朋絵は咲太への恋心を諦めた。それは決して卑屈になったわけでなく、相手の立場や気持ちを尊重した上で、前向きに別の関係を選んだのだと感じた。

 咲太には、麻衣がいたように。

 佑真にも、沙希がいた。

 だからこそ朋絵も、理央も……。

「上里がさ、泣きついてきたんだよ」

 表情を取り(つくろ)うことも忘れて、ただただ絶句する。

「『佑真がおかしくなっちゃった』って。『佑真のことが全然わからなくなっちゃった』って。『助けてよ』って。よりにもよって、大嫌いなはずの、この僕に」

「……」

「屈辱だったろうな。でも、他にどうしていいか、わからなかったんだろうな」

「……」

 記憶の片隅にある、沙希の表情、雰囲気。あの先輩が誰かに泣きつくような姿も、なりふり構わず他人を頼るような姿も、想像がつかない。

 けれど、咲太の悲哀に満ちた口調が、その光景をまざまざと伝えてくれた。

「国見が、上里を泣かせるような真似をするはずがないんだ」

 打って変わった強い口調に、肩をびくっと震わせる。

「双葉が、国見にそんなことを望むはずがないんだ」

 (うつむ)いたまま、唇をぎゅっと噛みしめる。

 咲太はとっくに勘付いていたはずだ。近頃自分を襲っている異常事態。その原因が思春期症候群によるものだと……おそらく、綾音のせいだということを。

 今日この場にきて切り出されるのも、咲太がもっとも(ごう)を煮やしている事柄も、麻衣に関してのことだと思っていた。しかし、咲太にとっては違った。

 沙希のことをないがしろにして、佑真と理央が恋人同士となることの方が、信じがたいことで。

 友人たちの想いを踏みにじられたことの方が、許しがたいことで。

「……そう、ですか」

 咲太らしからぬ真摯(しんし)な声や雰囲気に呑まれる。咲太の中には、確固たる芯が通っている。説得力も、根拠も、十二分だ。

 認めなければならない。綾音には、他者の心を捻じ曲げ、断ち切り……そして、結び合わせる力があると。

「そっか」

 咲太を取り巻く人間関係を、滅茶苦茶にしてしまった。

 なんとなく、そうなってくれたら良い。そうなれば、もしかしたら、自分にもチャンスが訪れてくれる。小さな、小さな……けれど確実に胸の内に(くすぶ)っていた(よこしま)な感情が、この事態を(まね)いた。本当に心から、慚愧(ざんき)の念に堪えない。

 だけど……悪いことばかりでもない。

「そう、だったんですね」

 光明を、見出せた。

 自然と口元が緩む。作り物ではない、長らく見せることの叶わなかった、心からの微笑み。

 断ち切る力しか無い。そう思い込んでいた。

 結ぶこともできるのなら、よかった。

「そうとなれば、早急になんとかします」

 繋ぎ直せばいい。本来の、正しい関係に戻せばいい。

 咲太の周りの、全ての人間を。できることなら、加西先輩も。

 そして、それが終わったら……。

 終わったら。

「なんとかって、お前な……」

「さくたろ先輩、連れてってくれませんか。皆さんがいそうなところへ」

 あれからそう時間は経っていない。特に部活動のある佑真や理央は、まだ校内に残っている可能性が高い。

「ほら、のんびりしてたら帰っちゃいますよ」

 咲太の返答も待たずに、学校へ向けて早足で歩き出す。

「待てって、秦野」

 呼び止める声が、ずいぶんと遠かった。

 ついてきてくれないどころか、あらぬ方角へと逃亡を(はか)ったのだろうか。そんな馬鹿な話があるかと思うが、この先輩は何をしでかすかわからない人だ。

「もうっ、ちゃんと……」

 ――ちゃんと、ついてきてくださいよ

 そう言おうとして、振り向いた。

「……秦野?」

 咲太は、すぐ後ろにいた。

 なのに、その声は、先ほどよりも一層遠くに聞こえた。

 何気なく首を傾けた……と思いきや、同時に妙な感覚に襲われる。景色が(ゆが)み、地面が回る。

 傾いていたのは、綾音の体そのものだった。

 砂浜へと倒れ込む。音も、衝撃も、痛みも……感覚の全てが無い。

「秦野!」

 駆け寄ってきた咲太は、叫んでいるようだった。

 見たこともないほど、必死な形相(ぎょうそう)で。何度も、何度も。

 それなのに……その声は、もう耳に届いてくれない。その顔が、徐々に闇へと包まれる。

 

 世界が、閉ざされていく。

 絶望の色へと、染め上げられていく……。

 



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11話

 ずっと、良い子の仮面を被り続けてきました。

 でも、あなたの前では……わたしは、わたしらしくいられたんです。

 ねぇ、先輩。

 運命の出会いって、もっと劇的で、もっと特別なものと思っていました。

 だから、これはそう大それたものではなく。誰もが経験するような、ごくごくありふれた、ただの青春の一ページ……なのでしょうね。

 きっと。

 

 

    ◇    ◇

 

 

「ん……」

「気が付いたか」

 うっすらと目を開ける。

 いつもながらの代わり映えしない『糸』だらけの光景。もはや幾重にも織り込まれた『布』と称した方がいいほどの膨大な量。

 でも今はそんなものにでも感謝をし、心の底からほっとしていた。

 まだ、目は見えているのだから。

 まだ、時間は残されているのだから。

「ここは……?」

「病院だ」

 そう言われてみると病院特有の独特な香りや雰囲気がするし、綾音(あやね)が寝かされているベッドのシーツのぱりっとした手触りも病室のそれらしい。左手の手首あたりに何かの違和感があるのは、かすかな痛みから察するに、点滴をされているようだった。

「……されちゃいましたか、病院送りに」

 咲太が救急車を呼び、病院へと送り届けてくれたのだろう。だいぶ語弊があるが、これも言い様によっては『病院送り』だ。咲太に流れている不穏な噂も、もしかしたらこんなシチュエーションから派生してしまったのかもしれないとも思ってしまう。

「噂に(はく)がついたら秦野(はだの)のせいだからな」

「責任は取りかねます」

 直後、足音が聞こえてくる。

 闖入者(ちんにゅうしゃ)と咲太との会話の内容に聞き耳を立てていると、その正体は医者だとわかった。どうも咲太がナースコールを押して呼んでくれたらしい。

 まだ頭が若干ぼんやりしてるみたいだの、受け応えはきちんとしているだの、ありがたいことに咲太が代わりに答えてくれている。なぜか医者とのやり取りがずいぶんと慣れている様子なのは少し気になったが。

「顔色も大分良くなりましたね。特別これといった異常も見られません。栄養失調に、寝不足、心身の疲労が原因でしょう」

「……そう、ですか」

 相槌(あいづち)がワンテンポ遅れてしまった。

「あの……入院、とかは……?」

「その必要はなさそうです。今日中にお家に帰れますよ」

「……」

 今度はとうとう放心気味に黙り込む。

 世間一般的な反応としては、胸を撫で下ろす場面のはずだ。無言で悲壮感ただよう表情をいつまでもさらしていては、何らかの気がかりがあるのかと、さすがにそろそろ心配されてしまうだろう。

「良かったな」

 そんな綾音の様子に目ざとく気付いたのか、咲太が声をかけてきた。はっとして、ぎこちないながらも微笑んでみせる。

「……はい。ありがとう、ございます」

 医者が言うからには間違いないのだと思う。ろくに食べず、ろくに眠れず、心身共に疲弊してしまっていた自覚はある。だが、綾音の身に降りかかっている本当の異変には、医者にでさえ気づいてもらえない。その現実をここにきて痛感した。

 それでも取り乱したり、食い掛かったりはしない。

 ネットで散々調べてきたことだ。ここで過剰に騒いでも無為に時間を浪費するだけだし、下手をすれば違法薬物の接種を疑われたり、精神異常者扱いをされてしまう。それは綾音の望むところではなかった。

「趣味に没頭するのも構いませんが、しっかりと睡眠はとってください。それと、無理なダイエットも控えてくださいね」

「……?」

 怪訝(けげん)な表情で咲太の方を見やるも、そっぽを向かれてしまった。

 どうやら眠っている間に事情の説明をしてくれていたらしい。日常的に夜更かしをして、近頃では減食ダイエットに励む、すこぶる不健康な生活をしていた不良少女。きっとそんな説明を。

「面目ないです」

 否定してもややこしいことになるだけなので、おとなしく受け入れる。咲太には、後でたっぷり文句を言ってやると胸に誓って。

「あまりお兄様を心配させてはいけませんよ」

「……はいっ?」

 思わず声が裏返ってしまう。

 先ほどより一層怪訝な顔で再び咲太を見やると、「話を合わせろ」と死んだ魚のような目で訴えかけてきた。

「ご……ごめんなさい……」

「ま、大したことなくて何よりだよ」

 妹の無事に安堵(あんど)する、人並み程度にやさしい兄。そんな立ち位置らしい無難なセリフ。

「点滴が終わる頃、また来ますね」

 こつこつと踵を鳴らし、医者が退室していく。

 その足音が遠ざかり、静寂が訪れた頃合いを見計らって、口を開いた。

「……なんですか、お兄さまって」

 咲太へ向けた、恨めしい気持ちが満載の眼差し。

 色々と言いたいことがてんこ盛りであったが、特にその一点に関しては大至急はっきりさせておかねばならなかった。

「身内って言っといた方が手間が省けるんだよ」

「それは……そうなのでしょう、けども」

 それにしたって、こんな兄など持ちたくない。

「秦野だって、無理なダイエットがたたって倒れただなんて、両親に知られたくないだろ?」

 こういった場合は真っ先に身内へ連絡がいってしまう。あの両親が仕事を投げ出してまで駆けつけてくるとも思えないが、スマホぐらい手に取って確認しただろうし、そんな労力でさえ、かけさせてしまうのは嫌だった。

「ま、まぁ……そうです、ね……」

 要するに、付き添ってくれるために、綾音の両親へ迷惑をかけないために、偽りの兄妹を演じてくれたということになる。

 率直に言って、限りなく完璧に等しい配慮だった。地面にめり込ませる勢いで頭を下げ、感謝の気持ちを述べたい気持ちでいっぱいだった。

 その相手が、咲太でさえなければ。

「……」

 尊敬なんて、したくない。

 やさしくなんて、されたくない。

 もう、これ以上は……。

「それとも彼氏とでも言っておけばよかったか?」

「お心遣い痛み入ります、お兄さま」

 心の一切こもっていない、得意の作り笑顔で即座に応じた。あっけらかんと、とんでもないことを言い放つ咲太に内心舌打ちをしながら。

 

 ふと、窓の外に視線を向ける。

 当然そこにあるのも、まったく代わり映えしないカラフルな糸だらけの景色。そんなことわかりきっている。

 気にしたのは、時間帯。

 どうやら日は沈んでしまっているようだが、そこまで薄暗くもないように見えた。

「今、何時ですか?」

 点滴が終わり次第学校へ向かえば、部活動が終わる前に着けるかも……佑真や理央と会えるかもしれない。交際して間もないのだから、一緒に帰宅の約束だってしている可能性だって大いにある。運よくその場面に出くわすことができたなら、二人の関係を元に戻すことができるはず。

 綾音に与えられた猶予(ゆうよ)が、あとどれほどあるかわからない。

 一分でも、一秒でも、早く安心したかった。

 早く……楽に、なりたかった。

「知らん」

 この先輩は本当にブレない人だった。

「いやいや……病人にまで意地悪しないでくださいよ」

 思わずこぼれる苦笑い。

 肩透かしを食らった気分だが、おかげで肩の力もだいぶ抜けた。どんな状況においても空気を読まず、重苦しくなりかけた雰囲気すらをもことごとくぶち壊すことができるのは、もはや咲太の才能だと思う。

「無いんだよ、時計が」

「へ?」

「病室には置かないとこも多いからな」

 それは初耳だった。(うなず)きつつ、「へー」と(つぶや)く。

「でしたら、スマホなんかは?」

「あいにくそんな便利な物は持ってない。なんてったって僕は、原始人だぞ」

「なんですかそりゃ」

「前に古賀に言われたんだよ。『今時ケータイも持ってない原始人』ってな」

 このご時世において文明の利器を所持していない、時代錯誤(さくご)の原始人。なかなか言い得て妙だ。

「そういうことだから、時間なら自分で確認してくれ」

「もうっ、使えない先輩ですね」

「なんだよ、せっかく鞄持ってきてやったのに。ほら」

 ぼすん、と何かがベッドの上へ乗せられたようだ。流れから察するに、おそらく綾音の鞄なのだろう。

 記憶がおぼろげだが、そのまま帰宅するかもしれないと、念のため鞄を持って海まで移動したことを思い出す。咲太がこうして拾ってくれてなかったら、今頃は七里ヶ浜の砂浜へ放置されたまま。最悪、誰かに盗られてしまったり、波にさらわれてしまったりしていたはず。

「さっすが頼りになる先輩です」

「だろ」

 視界の正面は、ほぼ(ふさ)がっていた。端の方にあるわずかな隙間に鞄の姿をとらえ、引き寄せる。手探りで中身を漁り、スマホを取り出す。親指でボタンを押してみようとしたら、あるはずの物がそこになかった。少しうろたえるも、スマホが上下逆さまだっただけらしい。

「秦野、お前……まさか、目が?」

 そんな奇妙な行動をしていては、さすがに勘付かれてしまうのも無理はない。

「いえいえ、まだ見えてますよ。かろうじて、ですが」

 もはや隠し通せる気もなかったので、おとなしく認めておく。

「でも、こうして近づければ、はっきりくっきり見えますし」

 ほんの、十センチメートルぐらいだろうか。そこまで近づけさえすれば『糸』にさほど邪魔されることなく、比較的鮮明に見える。スマホの液晶画面を見てみれば、午後五時を回ったところだった。

 点滴の残りの量を見るに、まだまだ時間がかかりそうだ。この分だと学校へ到着するのは、七時近くになってしまうだろうか。

 これでは、たぶん今日はもう……。

 そんな胸中の焦りが表情に出てしまわぬよう(こら)え、笑顔で咲太へと向き直る。

「さくたろ先輩のご尊顔だって、ちゃーんと拝めますから」

 たとえて表現するならば、ピースがごくごくわずかだけ埋められたジグソーパズルのように、咲太の体の部位がところどころ見えているだけ。目を合わせようとしても片目づつしか視界に収まらないし、口の動きを見ようとすれば今度は目が隠れてしまう。お世辞にも『見えている』と言っていい状態ではなかった。

 こんな視界では、歩くこともままならないだろう。今日はなんとか家まで帰れたとしても、明日にはこれよりも悪化してしまうかもしれない。

 だとすれば、今とっておくべき策としては。

「さくたろ先輩。ひとつ、無理を承知で……」

「断る」

 ずいぶん前にもこんな対応をされた覚えがある。なんだか懐かしい。

「あの、まだなんにも言ってないんですけど」

「どうせ明日の朝、家まで迎えに来てほしいとかだろ?」

「うっ」

 悔しいが、ご明察。

「秦野の家って、僕とは正反対の方角だったよな。どんだけ早起きさせる気だよ」

 これまたおっしゃる通り、おそらく普段の通学時の二倍か三倍の時間を費やす羽目になる。無論その分だけ早く起きてもらわなければならない。

「そこをなんとか。一生のお願いです」

「お前が僕の家まで来て起こしてくれるっていうなら考えるぞ」

「それ、なんか意味あるんですか?」

 外を出歩くことが困難を極めそうだからこそのお願いだというのに。学校よりも遠い咲太の家まで出向くなど、本末転倒もいいところ。

「まぁ……断られる気しかしていませんでしたし、構いませんけど」

 一つ、大きなため息をつく。

 そうは言っても、ここまではっきりとした拒絶を食らうとは思ってもいなかった。毎度毎度、この先輩は綾音の想像の上をいともたやすく超えてくる。普段は冷たいようで、ごくまれに気遣い上手。実はやさしいようで、見ての通りの人でなし。

 また一つ、大きく息を吸って、吐く。

 今度は先ほどのため息とは違う、緊張を和らげるための深呼吸。

「ごめんなさい」

 ベッドに座ったまま、上半身を大きく折りたたみ、頭を精一杯深々と下げる。

「どうした、急に」

「ほら、その……いろいろと、ですよ」

 合わせる顔がないと、そのままの姿勢のまま、歯切れも悪く答える。

 すっかりタイミングを逃してしまっていたが、言わずもがな謝っておくべきだった。ただ、そうするべきと思ったものの、謝るべき事柄が多すぎて、具体的にどこをどう謝ればいいのかは(きゅう)してしまった。

「秦野は知らなかったんだろ」

「はい?」

 のっそりと顔を上げ、首を捻る。

「上里のこと」

「……えぇ、まぁ」

 声が小さくなる。曖昧な笑顔になる。

 完全に失念していただけで、知っていたはずだった。沙希の名も……そして、佑真の彼女だということも。

「怒って……ないんですか?」

「怒ってないように見えるか?」

「はい、そう見えます」

 これまで交わした綾音とのやりとりは通常運行だったように思えるし、今しがたの咲太の声からも綾音を責めるような響きが一切感じ取れない。表情からも怒りの色は汲み取れないし、すっかり見慣れた眠たげな目をしている。こう見えて実は業腹(ごうはら)なのだとすれば、恐るべきポーカーフェイスだと感心してしまう。

「当然だろ」

 咲太が小さく、ふっと笑ったかと思うと、

「あたっ」

 油断しきっていたら、デコピンをいただいてしまった。

 条件反射で額をさするも、やはり痛みはまったくない。

「怒ってるに決まってる。僕を巻き込むなって念を押しておいたのに」

「むぐ……」

 相変わらず自分本位で薄情な言い分だと思うが、今回のことは反論できない。まんまと咲太が懸念した通りの……いや、それ以上の状況に陥ってしまったのだから。

「だから、さっさと治せ」

 ゆっくりと、大きく頷く。

「はい、早急に皆さんの糸を結び直します」

 どんなに困難だろうと、それだけはまっとうしてみせる。それこそが与えられた猶予で成すべき、最後の使命。

 その想いだけが綾音を動かしていた。綾音の心を、繋ぎとめていた。

 けれども、ピンと張り詰めた想いの糸は、あまりにも細くて、今にも千切れてしまいそうなほど脆くて。早急に、と口にしたのも、無論のこと咲太のためでもあったが、何よりも綾音自身のため……自らの心残りを無くし、早く楽になりたいがためだった。

「今日はもう遅くなってしまったので、明日になってしまうかと思いますが……」

「そうじゃない」

「はい?」

「お前の思春期症候群を、だ」

 何を言われたか瞬時にはわからず、目をぱちくりさせる。

「……そちら、ですか」

 弱弱しい苦笑いがこぼれた。

 思春期症候群が解消さえすれば、それによる全ての影響もきれいさっぱりなくなるという話も聞いたことがある。綾音の場合であれば、糸を断ち切り、捻じ曲げてしまった関係性が元通りに戻るのだと思う。当事者となった経験のある咲太が『治せ』と命じてくるあたり、なおさら信憑性(しんぴょうせい)が高まる。

 きっと、万事が収まるはずだ。綾音も、平穏無事に高校生活を送れるようになる。それが皆にとっての最善策なのだろう。

 だが、それでも。

「たぶんですけど……思春期症候群を治すのって、本人の意思が大事なんだと思うんです」

「だろうな」

 思春期症候群とは、不安定な精神から発症してしまう、心の病。ゆえに解消するにも、綾音本人の精神的な面が最も重要視されると推測する。

 だというのに。

「でも……治したいと、思えないんですよ……わたし」

「は?」

 咲太が()頓狂(とんきょう)な声を発する。

 無理もない。綾音自身、妙なことを口走った自覚はある。

 けれど、それが偽りない本心だった。

「ずっと、付き合ってきたんです。たくさん、お世話になったんです。わたしの願いを、叶えてくれたんです。だから、その……愛着が湧いてしまったと言いますか……」

 申し訳なさそうに、ぎこちない笑みを浮かべながら、ぽつり、ぽつりと続ける。

「この先もずっと一緒に在るものだと、どこかで思っちゃってました。心の拠り所でした。依存さえ、しちゃってたと思います。わたしにとって、なくてはならない存在にまで昇華してました」

「……」

 口を挟まず、傾聴(けいちょう)の姿勢を保つ咲太。

 何を考えているのか、表情からは読み取れない。すぐに茶化されたりするかと予想していたのに、一見して真摯(しんし)な雰囲気を(かも)し出されていると、非常にこそばゆい。あげく、こんなにも素直に自らの胸中を吐露(とろ)した経験など無かったなと思い、ますます照れくささが込み上げてきてしまう。

 それらを誤魔化すような乾いた笑いをこぼし、頰をぽりぽりと掻きながら、なおも続けた。

「なので……都合が悪くなったから、『はいさよなら』ってのは……なんか、違うかな、って。思っちゃうんですよねぇ……」

 こんな状況に(おちい)ってなお、失ったときのことを考えると胸が締め付けられてしまう。

 こんな状況に陥ったのも、愚鈍で未熟な自分が背負っていくべき罰だと感じてしまう。

 この思春期症候群が導き出す結末を見届けたいと思ってしまう。最期の時まで共にあるべきだと、内なる自身が訴えかけてくる。

 そんな心境でいたら、治るものも治らない。

 綾音に、この病は……治すことなど、できない。

 考えれば考えるほど、その思いは高まっていってしまう一方で。思春期症候群により生み出される糸は、綾音の思考までをも縛りつけ、雁字(がんじ)(がら)めにしてしまっている。

 これは完全なる、負の連鎖。

「だから……わたしは、これでいいんですよ」

 独り言のように呟き、なにとなしに天を仰ぐ。

 そこにあるのはもちろん空ではなく、天井のはずだった。その天井さえも、ろくに視界に映っていない。ぼんやりと、糸だらけの虚空を見つめる。

 ほどなくして脳裏をよぎったのは、無二の友人である恭子(きょうこ)のこと。

 綾音の症状や、想いの全てを知られたとき、彼女はどんな反応をするだろうか。

 泣いてくれるだろうか。いや、きっと憤慨(ふんがい)するだろう。なんでもっと早く話してくれなかった、なんで頼ってくれなかった、と。そして必死になって説得してくるに違いない。諦めないで、必ず解決策を見つけてくるから……そんな風に。

 そういった光景がありありと目に浮かび、恭子には悪いと思うが、自然と頰が緩んできてしまう。彼女と出会えたことは、綾音にはもったいないぐらいの幸運だった。

 でも。

 それに引き換え、両親は。

「……」

 心が、すっと沈んでいく。

 これまでも、この先も、思春期症候群のことを両親に話すつもりは微塵(みじん)もない。ゆえにどんな反応をされるのか、まったくの未知数ではあった。

 しかし、想像することだけならできる。できてしまう。

 いつになるかはわからずとも、いずれ綾音が不登校になっていることが両親の耳にも届き、詰問(きつもん)される日が来るだろう。(いさぎよ)く正直に綾音の身に起きている異変を事細やかに話したところで、まともに耳を傾けてもらえず、妄言かとあしらわれる。最悪精神に異常をきたしたのかと、どこぞの施設へ隔離、及び監禁。そうしておよそ人間らしい扱いなどされず、そのまま生涯を終えることにさえなってしまうかもしれない。

「……ご安心ください。さくたろ先輩と皆さんの関係は、元に戻してみせますから」

 (つの)っていくわだかまりをどうにか抑え込み、にっこりと有無を言わさぬ笑顔で告げる。

 それを受けた咲太は、疲れたような……心底面倒くさそうなため息をついた。

「秦野がそれでいいって言うなら、別にいいけどな」

 いまいち煮え切らない様子で頭をがしがしと掻きながら、言葉を続ける。

「けど、これだけは約束しろ」

「はい?」

「ちゃんと、学校には来いよ」

「……」

 言葉に詰まってしまった。

「僕に(つか)える後輩なんだろ。だったら立派に勤め上げてみせろ」

 はっとして、咲太の方を向いて固まってしまう。

 ありがたい申し出だった。涙が込み上げてきてしまうほどに、心からそんな日々を望んでいた。

 しかし、おもむろに(うつむ)き、首を横に振る。

「それはもう、できません」

「なんでだよ」

 今日この後、一人で家に帰ることぐらいはおそらくできる。しかし明日、学校へ無事にたどり着ける自信は皆無だ。

 どんなに多く見積もったとしても、確実に一週間以内には全ての視界が視界が閉ざされてしまうだろう。ましてや思春期症候群による影響が、それだけに留まるとも限らない。さらなる心身への異変が襲い掛かってくるかもしれない。

 学校に通い続けることは、現実的に考えて不可能だ。

 でも……理由は、それだけじゃない。

 仮に何らかの奇跡が起き、思春期症候群が解消されたとしても、もう。

「わたし、あなたの傍に居る資格、ないんです」




すこーし他のことに取り掛かってしまい、更新が遅れてしまいました…申し訳ないです。
ちまちまと再開いたしますので、よろしければお付き合いくださいませ。


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12話

「わたし、あなたの(そば)に居る資格、ないんです」

 

 言葉の意味を(とら)えられなかったのか、咲太は困惑の(にじ)んだ表情で首を捻っている。

「雇用条件をそこまで厳しくした覚えはないぞ」

 今度は綾音が困惑する番だった。

「いえ、そういうこっちゃなくてですね……」

「じゃあ、なんだっていうんだよ」

「言葉の通り、です」

「わからん。いっちょんわからん」

 この様子では、咲太には理解しようとする気概(きがい)さえなさそうだ。そう思うと苛立ちが一層(ふく)らみ、なかば自棄(やけ)になり、吐き捨てるように胸の内をこぼす。

「なんで、国見先輩と双葉先輩を結び付けたと思うんですか」

 体育館で二人の姿を拝んだ際。

 一目でお似合いだと思った。これまで見てきた中でも、間違いなく上位に食い込むほどの……下手をすれば、ベストカップルとさえ感じた。

 そのときの咲太の反応を見るに、二人には交際できない事情があるように思えた。しかし、事情の有無にかかわらず、結ばれてほしいと願ってしまった。そして、それが叶った際の咲太の喜ぶ顔が見たかった。

 だが、それ以上に、

「あの二人を、あなたから遠ざけたかったんですよ」

 あのあと咲太は、二人が良い雰囲気だからと、そこへ水を差すのも悪いと、気を利かせて声もかけずに立ち去った。仮に交際しているともあれば、なおさらそんな場面は増えることだろう。

 そうして、二人だけの世界へと入り込んでしまえばいい。

 そうすれば、二人が咲太に構う時間は必然的に減るはずだから。

「なんで、古賀さんや桜島先輩との糸を断ち切ったと思うんですか」

 こちらはもっと単純明快な話。

「嫉妬、しちゃったんですよ」

 以前目の当たりにした、朋絵や麻衣とのやりとり。

 咲太が意外にも多彩な表情を見せていたことに驚いた。それを拝めたことは喜ばしいことだったが、同時に綾音の心にもやもやしたものを植え付けた。

 当時はその不快感の正体に思い当たることはなかった。想像していた『病院送り』の先輩像と、あまりにかけ離れていたからだと思うことで、無理やり納得してみたりもした。

 今にして思えば、はっきりとわかる。

 あのとき、自分は確かに嫉妬をしていたのだと。

「そうやってあなたの周りの人たちを、全員残らず排除してしまいたかったんです」

 もとを正せば、咲太へ抱いてしまった勝手なイメージ。

 病院送りという異名から、他者を寄せ付けない孤高の存在であるとまで想像を膨らませてしまった。

 誰のものでもあってほしくない……咲太と接点を持つ前までならば、そんな幼稚でわがままな願望のみのはずだった。それだけならば、大事に至ることもなかっただろう。

 しかし、思いはそれだけに留まることがなく。いつしか芽生えたのは、ずるくて、醜い欲望。

「そうすれば……あなたを独り占めできるかな、って……思っちゃったんですよ……」

 神話に登場する伝説の英雄たちに抱くような、ただの憧れのままならば良かった。

 TV画面ごしのアイドルに対して抱くような、漠然(ばくぜん)とした好意であれば良かった。

 間近でふれあい、言葉を交わしてしまい、(おろ)かにも手の届く存在だと錯覚してしまったことが、此度(こたび)の騒動の発端(ほったん)

「最低です……わたしは」

 自らへの怒りのあまり、シーツをぎゅっと掴む。いたたまれなくて、顔を伏せる。

 無自覚で無意識だったとはいえ……いや、だからこそ余計にたちが悪い。

 両親や加西(かさい)先輩のことがなければ、咲太の周りで起こった異変の原因が綾音にあることに気づくこともなかっただろう。

 むしろ、チャンスとさえ思ったに違いない。

 咲太の不幸に、傷心につけこみ、嬉々としてアプローチを仕掛け、絶対に振り向かせてみせると意気込んだはずだ。

「どうしようもないです……本当に……」

 己の(いや)しさが、着実に浮き彫りになっていく。

 こんな自分では、咲太の傍にはいられない……いたくない。

 人を慕う資格なんて、ない。

 人と関わる資格なんて、ない。

 だから……独りで、最後を迎えよう。

 全ては、思春期症候群の導き出す結末のままに。

 それが、咲太の大切な人たちを一人残らず奪おうとした罪に対する、相応な罰だと思うから。

 

「普通だろ」

 不意に耳に届いた声に、綾音は目を丸くさせる。

 弾かれたように顔を上げると、心底呆れ果てた様子で肩をすくめている咲太がいた。

「どこもおかしくなんてない。誰だって焼きもちぐらい焼くだろ」

「でも……」

「僕も麻衣さんが他のやつにばっか構ってたら、すげえ嫌だと思うし。独占したいって思うときもあるしな」

 それも咲太の本心なのだろう。心にもないことを言ってまで、慰めてくれるような人ではない。平静時であったならば、そのぐらいすぐにわかり、笑って軽口さえ返せたはずだった。

 しかし、今この瞬間に限っては気遣われているとしか思えず、咲太のやさしさは胸を攻め立てるばかりで。

「わたしとさくたろ先輩とでは違いますよ。だって……」

 ――あなた方は、れっきとした恋人同士なのですから……

「……」

 喉元まで出かかったセリフをのみこんでしまう。

「だって?」

「いえ……」

 弱弱しく首を振り、言葉を濁す。

 そのセリフを口にすること自体に抵抗もあった。恋人同士であれば嫉妬したり、独占したりする権利があるというのも、おかしな話だとも思った。

 そして何より、もっとも重大な事実として、そもそもそういった立場の違いがなくとも、咲太は他者を排除したいと願ったりはしない。

 麻衣のことが、大切だから。

 麻衣のことを、信じているから。

「違うんですよ……ぜんっぜん……」

 咲太の耳には届かないほどの、小さな呟き。

 独りよがりな綾音とは決定的に違う。咲太には、相手のことを尊重できる心の余裕がある。

 たった一つしか離れていない歳。にもかかわらず、これまでの人生で(つちか)ってきたものからくる、大きな違い。綾音が選んだ生き方によりもたらされる、致命的な弊害(へいがい)

「それにな、秦野。お前はわかっていない」

「……なにをです?」

「何があっても、友達は友達だろ」

「……」

「ちょっと無視されたぐらいで、ちょっと冷たくされたぐらいで、僕はあいつらの友達をやめるつもりはない」

 また一つ、思い知らされる。

 自分が、どれほど愚かだったかを。

「そう……ですよね……」

 以前、咲太と友人との間に糸が見えなかったと告げた際。そのことを綾音が茶化したりしても、さほど意に(かい)する様子はなかった。

 咲太は最初から、目に見えない糸を……絆を、固く信じていた。

 それは綾音にはない、咲太が持つ強さ。

 綾音は誰のことも……もちろん両親のことも信じていない。無二の友人であるはずの恭子(きょうこ)のことすらも、心から信じたりしていない。どこかで線を引き、それ以上は踏み込まない境界を、踏み込ませない領域を設けていた。

 蜘蛛(くも)のように獲物を捕獲するためじゃなく、ただ自らを守るための巣を作った。

 それは綾音が臆病なゆえの自衛手段。そして、それが綾音自身から伸びる糸が見えなかった最大の要因。

 他者と深く関わり合うことを、ずっと避け続けてきた弊害だった。

「お前もだよ」

「……はい?」

 きょとんとして、咲太の顔を見つめる。

「何があっても、秦野も僕の友達だ」

 その言葉を額面(がくめん)通りに受け取ることができていたら、どれほど幸せだっただろう。

「……ありがたいお話ですね。涙が出てきちゃいますよ」

 咲太がそんなふうに思ってくれていた。そのこと自体は嬉しい。でも、それ以上に悲しみでいっぱいだった。

 友達以上の関係になるつもりはない……そうとも聞こえてしまった。

 何があっても、友達が友達であるように。何があっても、思い人は思い人のまま……未来永劫(みらいえいごう)、咲太が好きな人はただ一人なのだと伝わってきてしまった。

「さくたろ先輩こそ……」

 咲太の方こそ、わかっていない……そう言いかけて、口をつぐむ。

 咲太は決して鈍いわけじゃない。きっとわかっている。わかっていながら、平然と相手の神経を逆撫でするような人だ。

 もとより、今この瞬間にいたっては咲太に落ち度などまったくないのだ。素直に元気づけようとしてくれた咲太の言葉を、綾音が勝手にネガティブに受け取ってしまっただけなのだから、咲太を責めるのはお門違(かどちが)いというもの。

「不満があるなら言ってみろ」

 何かを言いたげな綾音の様子を見かねてか、しれっと咲太が言う。

「お前はたぶん抱え込み過ぎなんだよ。たまには思いっきり叫んでみろ、僕みたいに」

 思い出されるのは、グラウンドの中心で愛を叫んだ珍事件。

 咲太はあれを、思春期症候群を解消するための行為だと言っていた。ならば、綾音にも効果的な手段となってくれるかもしれない。

「けど……わたしが望んでしまえば……」

 できる限り、頭に思い描かないようにしていた。言葉にして発してしまえば、願望がより明瞭(めいりょう)にかたどられてしまう。その願望が力を発揮してしまえば、咲太の感情さえ捻じ曲げてしまいかねないのだ。

 沙希という彼女がいながら、理央と交際を始めてしまった、佑真のように。

「望みがあるなら、叶えてみせろ」

 血迷ったとしか思えない咲太の発言に、目を大きく見開く。

「……なにを、言ってるんです?」

 綾音の心は、今にも擦り切れてしまいそうなほど危うい。それをぎりぎりのところで繋ぎとめてくれているのは、咲太の存在だった。

「どういうことになるか……わかってて、言ってるんですか……?」

「なんとなくはな」

「だ、だから……それじゃ、さくたろ先輩まで……!」

「僕のことなら気にするな」

「そういうわけにはいきませんって!」

 咲太の感情まで(ゆが)めてしまったら、もう……。

 心が、保てなくなる。

 そんな綾音の心中を知ってか知らずか、涼しい顔で咲太は続けた。

「秦野自身の言葉で結んでみせろ。糸とかいう、妙な力に頼ったりせずに」

「……」

「言うだけならタダだぞ」

 とんでもない話だった。

「そんなわけ……ないじゃ、ないですか……」

 タダで済むはずがない。綾音の糸の力は……思春期症候群は、その人にとって、絶対にあり得ないような感情を植え付けてしまう。それまでの自分にとって、大切だった人のことさえ(ないがし)ろにさせてしまう。

 加西先輩や麻衣が、そのことをすでに体現してしまっている。

「だめ、です……」

 首を左右に振る。

「だめ……だめ、なんですっ……!」

 頭を抱え、髪を振り乱し、必死に払いのける。

 これまでも、散々振り払ってきた。言ってはいけないこと。思ってはいけないこと。その度に思考を殺し、自分を殺し、良い子になろうとしてきた。

 だから、慣れている。

 そのはずだったのに……今なお、しつこくまとわりついてくる。

 ()むべき願望が。

 唾棄(だき)すべき感情が。

「なんでっ……どう、して……!」

 もう、はっきりと頭に思い浮かべてしまっている。今にも胸を食い破ってしまいかねないほどに膨らんでしまっている。

 綾音が叶えたい願いが。

 咲太へ伝えたい想いが。

「ずっと、そうやって押し殺してきたんだな」

「……っ」

 表情が歪む。咲太の指摘を肯定したも同然だった。

「だめなんかじゃない」

「だめに決まってるじゃないですか!」

「いいんだよ。お前の心を抑え込む必要なんてないんだ」

「あるんですよ、だって!」

「無理に良い子でいようとするのは、もうやめろ」

 その口ぶりからもわかる。

 やはり咲太は、もうすべて気づいてしまっているのだろう。気づいた上で、ずけずけと踏み込んでくる。これまで誰にも侵させなかった、綾音の巣に。

「無理して、なんか……」

「してるな」

 クラスメイトとは、付かず離れずの楽な距離感を守り続けてきた。両親とは、手間のかからない娘でいることを演じ続けてきた。

 誰にも悟られることなく、今日までを生きてきた。

「あなたは……いったい、なんなんですか……」

 咲太とは初めて言葉を交わしてから、たった数日の付き合いでしかない。だというのに、なぜここまで綾音の心を見透かしてくるのだろう。

「わたしの、こと……どこまで、わかっちゃうんですか……」

 心を丸裸にされているようで、恐ろしい。

 自分のことを理解してくれているという嬉しさも、もちろんあった。けれどその感情は、また別の恐怖心も生み出してしまうもので。

 このままでは、これまで以上に咲太に頼ってしまう。甘えてしまう。

 

 咲太のことが……欲しくなってしまう。

 

「……」

 そこで、唐突に腹が決まった。

 このあと何を言われようとも、どこ吹く風といなし、なんとしてもお帰り願おう。

 咲太には、帰るべき場所がある。咲太のことを、待っている人がいる。

 全力で咲太を拒絶してみせる。

 皆、綾音の身勝手な欲の犠牲になっていい人たちじゃないと思うから。

 最後まで、自分は良い子でいられたと思いたいから。

 何より……咲太のことが、大切だから。

「……ね、さくたろ先輩」

 あらゆる感情を隠して、笑う。

 しかし、咲太のことだ。おそらく一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない。

 どうしても居座られたら、恩を(あだ)で返すようで悪いが、強硬手段に出てしまおう。医者や看護師を呼び、この人は本当は兄などではなく、赤の他人であると……いっそストーカーなのだと(わめ)いてしまおう。そんな物騒なことを考え始めたとき、

「知るか」

 そう、咲太がばっさりと言い放った。

「……はい?」

 目がまん丸になる。せっかく作り上げた笑顔が、きれいさっぱり消え去ってしまう。

「お前が抱えてる諸々(もろもろ)のことなんか知らん。何一つとしてさっぱりわからん。けどな」

 ひどく面倒くさそうな様子で、ため息混じりに言う。

「僕の知るお前は、いつだって急に変なこと言い出す、なんとも傍迷惑な後輩だよ」

 あまりに簡単すぎる答え合わせに、苦笑いがこぼれる。

 わかってみれば、至極単純なこと。なぜこちらの心を見透かすかだなんて、愚問中の愚問だった。

「……ひどい、言われようですね」

「けど、それが秦野だろ」

「そう……でした、ね……」

 思えば咲太の前では、気を張ることもなく、飾ることもなく。良い子でいようとしたことも、仮面を被ろうとしたこともなかった。

 敬意も、駆け引きも、遠慮もなく。ただ思うがまま、冗談を言っては笑って、突拍子(とっぴょうし)も無いことを言っては困らせて。それがどうしようもなく心地よくて、楽しくて。

 咲太の前ではいつも、綾音は綾音らしくいられた。

「さくたろ、先輩……」

 咲太が、綾音の言葉を待っている。『良い子』としての言葉じゃなく、本当の綾音の言葉を待っている。

 微動だにせず、静かに、真剣な目で……どこかやさしい目で見守ってくれている。

 綾音の想いを、受け止める覚悟をもって。

 綾音の思春期症候群に、向き合ってくれる覚悟をもって。

 だったら、応えなければならない……そう思った。

「……後悔、しないでくださいね?」

「ああ」

 小さく頷いた咲太に、こちらも頷きを返す。

 伝えるべきセリフを頭に浮かべ、いざ口を開こうとしたら、早鐘(はやがね)を打つ心臓が邪魔をする。声が出そうもなく、息もうまく吸えない。ぱくぱくと無様に(あえ)ぐばかりだった。

 不安げな眼差しで、咲太の顔を見つめる。

 (ふさ)がれかけた視界に映る、一筋の光明。

 温かくて、心安らぐ、憧れの先輩の顔。

 憧れだけでは、もう足りなかった。

 どんなに認めたくなくとも、気持ちを偽ることは、もうできない。

 目を閉じ、胸に手を当てる。落ち着いて……と、自らに言い聞かせながら、大きく深呼吸。

 今一度息を吸い込んでから、意を決し、思いの(たけ)を告げる。

「好き、なんです……さくたろ先輩の、ことが……」

 叫ぶほどの声量のつもりだったが、声にすらなっていないほど弱弱しい。

「……だい、すき……です」

 言い直してみても、そう大差のない、か細くて、震えた声。

 こんな大事なときに、なんとも締まらない。情けなくて目の奥がツンとしてしまう。気を緩めたら涙があふれてきてしまいそうだった。

 だが、今は泣いてる場合じゃないと懸命に気力を奮い立たせ、最後の一言を絞り出す。

「だから……わたしと、お付き合い……して、いただけませんか……?」

 なんとか言えた。とうとう言ってしまった。二つの感情が入り混じるも、後者である後悔の念が圧倒的に(まさ)っている。

 すでに交際している相手がいる人に、こんな(よこしま)な想いを告げるなんて、正気の沙汰ではない。自己嫌悪のあまり、潰されそうになる。

 それでも、認めなければならない。これが、本当の自分の姿なのだと。

 クラスメイトを前にしても、両親を前にしても、ひた隠しにしてきた。

 それまで築いてきた関係が壊れてしまうことも怖かった。迷惑をかけてしまうことも、心配をさせてしまうことも、怖かった。

 ただ、嘘偽りない本音を話すこと。そのことが、他の何よりも怖かった。

 良い子などとは程遠い。この上なく臆病で、ずるくて、幼い。

 それが、秦野綾音という人間だった。

「そうか」

 咲太が発したのは、たったの一言。それっきり、口を閉ざしてしまう。

「……」

「……」

 永遠とも思えるほど、長い長い沈黙。

 二人っきりの病室。完全なる無音。聞こえるのは、綾音自身の心臓の音ぐらいなもの。

 おそらく実際はほんの数秒なのだろうが、地獄のような静寂(せいじゃく)だった。

「……あの、なんか言ってくれません?」

 さすがに耐えかねて、先に口を開いてしまう。

「声が小さいな。叫べって言ったろ」

「えと……ここ、病院ですし」

「僕なんて全校生徒の前で叫んだぞ」

「いやいや、病院で叫ぶ方がはるかに難易度高いですて」

「あと、声が上擦(うわず)っていた」

「そ、そりゃ……初めてですもん、こんなこと……」

「へえ」

 興味なさげな空返事(からへんじ)を最後に、再び咲太は黙り込んでしまった。

「……それだけ、ですか?」

 身を乗り出し、むくれてみせる。

「そういうダメ出しじゃなくってですね……もっと、こう……!」

 求めてる返答は、頭にある。

 けれど、一例としてでもそれを教えるのは絶対に嫌だし、それをそのまま咲太の口から言わせるのも何か違う。でも、もう少し何かしらは言ってもらわないと困る。

 そんな葛藤(かっとう)がもどかしくて、うまく言葉にできなくて、どうすれば良いかと苦悶(くもん)していると、

「よくがんばったな」

 という、咲太の声。いつになく、やさしい声。

 意図せず、背筋をぴんと伸ばす。

 全身が火傷するほどに熱く感じる。鼓動が先ほどまでよりも激しく暴れ出す。あまりの緊迫感に、意識が持っていかれてしまいそうだった。

 咲太が、次の言葉を発そうとしている。その口の動きが、走馬灯かと思えるほどスローに見える。

 耳に、全神経を集中させた。

「これからも、よろしくな。友達として」

 それが、咲太からの答え。

 綾音の願いに……綾音の思春期症候群の力に、微塵(みじん)たりとも影響されていない、紛れもない咲太自身の言葉。

 咲太は、変わらない。咲太との関係も、変わることはない。

 この先、ずっと。

「……振られちゃいましたね」

 肩をすくめ、ため息をつく。

 全身から力が抜け、それと一緒に溜まりに溜まった嫌なものが、すーっと抜けていく感覚。

「まぁ、負け戦なのはわかりきっていたことですから」

 自分でも驚くほど、思いのほかあっさりとした感想がこぼれた。

 拍子(ひょうし)抜けしてしまうほど、本当に何もない。込み上げてくるのは、苦笑いぐらいなもの。

「当然だろ。秦野ごときが麻衣さんと張り合おうってのがおこがましい」

「これはまた、ひっどい言い草ですね……」

 この空気を読まない人でなしは、傷口に塩どころかハバネロを情け容赦なく擦り込んでくれる。いっそ清々しい。

「いやそりゃ、桜島先輩と渡り合える女性など、日本中探しても存在するかどうか怪しいですけど」

「世界中を探したっていないな。なんてったって、僕の麻衣さんだ」

「つい先刻(せんこく)振った相手の前で、堂々と惚気(のろけ)ないでくださいよ」

 ため息だって、そろそろ打ち止めになってしまいそうだ。

「あーあ、私の初めてでしたのに。(けが)されちゃいました」

「エロい言い方をするなよ」

「振り方も妙にこなれてませんでした? いったい何人の女性を無残に斬り捨ててきたんですかって感じですよ」

「僕がそんな人間に見えるか? 国見じゃあるまいし」

 確かにモテるのかもしれないが、佑真は絶対にそんなことはしないと断言できる。

 それよりも、この場で引き合いに出されるのが友人の名なのはどうかと思った。ある意味、とても咲太らしくはあるのだが。

「でも、きっと幸せでしょうね。さくたろ先輩に振られる人は」

「その心は?」

「こんなろくでなしのこと、一時でも好きだとか思ったのが馬鹿馬鹿しくなります。瞬時に目が覚めちゃいます」

「気づかせてやるのも、やさしさだからな」

「えぇ。なので」

 一呼吸を置き、顔を上げ、まっすぐに咲太を見つめる。

後腐(あとぐさ)れなく、友達としていられます」

 そんなセリフが自然にこぼれ、自然に微笑んでいた。

「これからも、良きお友達でいてくださいね」

「ああ。ずっとな」

 綾音が自らの意思で、言葉で、初めて結んだ関係。

 電車を待つ駅で会えたら。ばったり校内で顔を合わせたら。なんとなく、暇だったら。

 他愛ない話をして、困らせて、笑いあって。そうやって、この先もきっとうまくやっていける。

 友達として、ずっと傍に居られる。この人とならば。

 心から、そう思った。

 

「はぁ~……慣れないことしたら、変な汁が出ました」

 自分の顔を、ぱたぱたと手であおぐ。

「仮にも女子が汁とか言うなよ」

「仮にとは失礼な。正真正銘の微少女ですってば」

「微少女な」

 おもむろに(うなず)いているあたり、使われる漢字が『美少女』でないことは、しっかりと覚えてくれているようだ。誠に遺憾(いかん)ながら。

「まー、なのでそろそろお帰り願います」

「なんだよ冷たいな。振られた腹いせか?」

「そうじゃありません。流れから察してくださいよ、もうっ。体ぐらいゆっくり拭かせてほしいのです」

「僕は気にしないぞ」

「お兄さまであったり、恋人であったりすれば手伝っていただきましたけどぉ」

「友達に甘えてもいいんだぞ、病人なんだから」

「……む」

 少しだけ悩む。不覚にもほんの一瞬、一理あると思ってしまった。

「いやいや、とっととお帰り下さいませ。桜島先輩にあることないこと吹き込みますよ?」

後生(ごしょう)だからやめてくれ」

「……なんでニヤついてんですか?」

「元々こういう顔なんだよ」

「ほんっと、救いようのないブタ野郎さんです」

 何気なく言ってしまったが、ふと既視感(きしかん)が脳裏をかすめる。以前にも似たような流れを経験した気がした。

 そのときは確か、デコピンを華麗に頂戴してしまったはず。今回もそろそろ飛んできそうな予感がして、必ず防いでみせると身構えていたら、

「秦野」

 咲太の声のトーンが不意に変わる。

「いいんだな?」

 あまりに簡潔すぎる投げ掛け。けれど幸か不幸か、それだけで十分に通じてしまった。

「……えぇ。もう、大丈夫です」

 覇気(はき)のない笑顔で応じる。

「そうか」

 感情の読めない真顔で頷く咲太。

「はい。本当に、ありがとうございました」

「また学校でな」

「はい。また、です」

 咲太がのそりと立ち上がる。

 背筋の曲がった、不格好な後ろ姿。だらしない足どり。

 億劫(おっくう)そうに片手で病室のドアを開け、こちらをちらりとも見ることなく廊下へ出る。

 医者のものとは大分違う、ひどく脱力感ただよう足音が、徐々に遠ざかっていく。

「ったく、とんでもない人です」

 その足音がすっかり聞こえなくなった頃、ぶつくさと文句を垂れ始めた。

「デリカシーなんて欠片(かけら)もないし、面倒くさがりだし」

 でも。

「めっちゃ弱そうだし、いっつも眠そうだし、髪型なんて寝癖みたいだし、まったくもってカッコよくなんてないし」

 ……でも。

 

 初めて、好きになった人だった。

 

「っ……」

 初めて味わう、失恋の痛み。

「うっ……ぁ、ぅ……」

 こんなにも辛いだなんて、思ってもいなかった。

「……ふっ、く……うっ、うぅぅ……」

 抑えきれない嗚咽(おえつ)。とめどなくあふれる涙。

 いつ以来だろう。下手をすれば、物心ついてから一度たりとて流していなかったかもしれない。

「あうっ、ぁ……うあぁっ……うわああああ……」

 幼子のように泣きじゃくる。涙を流した分だけ、悲しみが降り積もる。その中へ埋もれ、呑み込まれていってしまう。

 この寂寥感(せきりょうかん)を、この虚無感(きょむかん)を、知らない。それゆえあまりに堪えがたく、どこまでも深く沈み、冷たく(くら)(よど)みへと堕ちてしまいそうになる。

「せん、ぱい……」

 救いを求めるようにその名を呼ぶ。おのずとその顔が浮かんでくる。

 いつも眠たげな目をした、代わり映えしない顔。そのせいか時折(ときおり)見せる違った表情は、一段と魅力的に思えて。

 そのほとんどは、綾音ではない他の誰かを想っての表情だった。

 いつか、自分のためだけに、もっと色んな表情を見せてほしかった。

「さくた、先輩……」

 呼び慣れた愛称から、たった一文字削っただけなのに、言いようのない愛しさが込み上げてくる。

「さくた……さん……」

 より一層、胸が締め付けられる。

 いつか、そう呼べるほどの仲になりたかった。

 改めて知る。綾音が思うより、ずっと、ずっと。

「好き、だったんだなぁ……っ」

 気づいていたのだろう。綾音が今にも泣きだしそうな顔をしていたことぐらい。

 知っていたのだろう。涙を流すとき、誰かが(そば)にいてくれる安心感を。

 無神経で、空気を読まない人。

 でも、ここぞというときは、誰よりもやさしくなれる人。

「っ……あぁっ、あぁぁぁぁ…………!」

 そう思った瞬間、余計に涙があふれてくる。

 あのやさしい先輩に、もっとやさしくされたかった。

「さくた、さん……っ……あぅっ……あ、あっ……」

 肺が上手く空気を吸えない。胸に爪を突き立てる。

 今この場に咲太がいてくれたら、どれほど救われたことだろう。

 けれど、ここで甘えるわけにはいかなかった。

 この想いと決別するために。

 新たに結びたい糸のために。

 

 良薬は口に苦し、という。

 思春期症候群という心の病に対する薬は、胸に痛いものなのかもしれない。

 痛くて、苦しくて、張り裂けそうで。一向に(やわ)らぐ気配もなく、永遠に続く責め苦かと思うほどで。

 しかしながら、同時に感じる。

 自らの意思で、望む関係を……友達を作れたことに対する(よろこ)びを。

 

 いつしか表情は、泣き笑いへと変わる。

 負ったのが、一生癒えない傷だとしても。

 新たに得た、一生消えない絆があるから。

 明日からはきっと顔を上げ、歩いていける。

 大好きな、友達と共に。

 

 だから、今はこのまま、もう少しだけ……。



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13話

「……おはよございまふ」

 いつになくぼんやりとした声での、誰に向けるでもない挨拶。

「うぐぅ……」

 両手で頭を抱え、(うめ)く。尋常じゃないほど重くて、痛い。

 昨日、病院から帰宅した直後、猛烈な空腹感に襲われた。しばらくろくに物が喉を通らなかったのだから、当然と言えば当然なのだけど。

 胃にやさしそうな物を軽く口にしていたら、嫌というほど泣いてきたはずなのに、再び涙が込み上げてきた。

 その後も発作的に、お風呂に入っていても、歯を(みが)いていても、自室へ向かう途中の階段でも、度々目が潤んでしまった。布団へ潜ってからもそれは同様で、眠れる気がまったくしなかったし、頭も胸もいっぱいいっぱいで、寝ようという意思すら湧かなかった。

 それでも目が覚めたということは、いつのまにやら眠りについていたということ。きっと涙も枯れ果て、泣き疲れたからだろう。

「どんだけ泣くんですか、わたし」

 そんな自分に(あき)れて、思わずぼやいた。

 警告音を鳴らしっぱなしの頭をさらに酷使し、昨日の出来事を思い返す。

 本当に色んなことがあった。あまりに怒涛(どとう)の一日だったために、すべては夢の中の出来事だったのではないかと疑いたくなるが、容赦なく襲い来る頭痛が紛れもない事実だったことを教えてくれる。

 痛む頭を片手でかばいながら、這うようにしてベッドから降りる。変な体勢で寝てしまったためか、体の節々までもが痛い。

 物憂(ものう)げにカーテンを開ける。目が(くら)むほどの陽の光を全身に浴びる。

 頭も、体も、未曾有(みぞう)なまでに重くて、痛い。

 けれど。

「良い朝、ですね」

 心も、視界も、この空のように晴れ渡っていた。

 

 ぱたぱたと階段を降りる。が、その途中、その足取りがピタリと止まった。

「……?」

 誰かがいる気配がする。耳をすませてみれば、物音がするのはキッチンの方からのようだ。

 多忙な両親がまだいるとも考えにくい。普段ならば、最低でも三十分ほど前には家を出ているはずだ。

 となると、まさか。

「……まさか、ポルターガイストさんですか?」

 ポルターガイストとは、もはや説明無用なほど有名な心霊現象。誰も触れていないのに物が動いたり、音が鳴りだしたりするという奇奇怪怪な現象だ。

「えぇぇっ……ど、どど、どうしましょ……!」

 想到(そうとう)した綾音はうろたえる。

 ごく一般的な女性としての反応よろしく、綾音もさぞ恐怖に震えているかと思いきや、

「動画……は、さすがに気分を害されてしまうでしょうか……。で、でも、写真の一枚ぐらいはお許しいただけますかね……? あぁっ、どうしましょどうしましょ」

 その目に恐怖の色はなく、きれいに輝いていた。スマホをぎゅっと握り締め、わくわく、そわそわと、今にも踊り出しかねない。

 そんな素敵な賓客(ひんきゃく)がいらしているなら、邪魔をしてはいけない。しかし、是非ともその雄姿を拝ませてほしい。かような二つの思いがせめぎ合った結果、

「一目だけ……一目だけ、失礼いたします!」

 という結論に至り、断腸(だんちょう)の思いでスマホをパジャマのポケットにしまい込んだ。

 抜き足、差し足で、キッチンへと向かう。壁に体を隠しつつ、ひょこっと顔だけを覗かせ、中を確認してみる。

 しかし、そこにあったのは、期待していたような物がひとりでに宙を舞っている光景ではなかった。代わりに、ちゃんと生身の人間の姿が見える。

「あれ? お母さま?」

 綾音の声に振り向いた母が、わずかに目を見張った。

「あら。おはよう、綾音」

「お、おはようございます」

 下手をすれば、心霊現象よりも珍しいかもしれない光景に反応が遅れたが、慌ててぺこりと頭を下げる。

「……?」

 普段ならば、間髪入れずに次の言葉が飛んでくるか、忙しそうにどこぞへ去って行ってしまう場面だった。

 しかし、なぜか母は固まり、綾音の顔をじっと見つめている。

「ねえ、綾音」

「はい?」

「どうかした? 目が赤いようだけれど」

「えっ……!」

 反射的に顔を両手で覆い隠す。

「あ、こ、これは……その……す、少しばかり、夜更かしを……してしまいまして……」

 直後、心臓が凍る。

 昨日あったすべてのことを話すなど言語道断だが、両親を相手に嘘をついたり、誤魔化したりした経験など皆無だった。そのため目が泳いでしまい、どもったあげく、ひねり出した言い訳も『夜更かし』だなんて。自己採点0点の返答だった。

 びくびくと縮こまり、母からの断罪の言葉を待つ。

「そ。睡眠はしっかりとりなさいね」

「は……、はい! 以後、気を付けます」

 なぜ夜更かしをしていたかの言及も、大したお(とが)めもない。よほど信頼されているのか、さほど興味がないのか定かではないが、ひとまずこの場では、ほっと胸を撫で下ろす。

「あの……お母さまこそ、どうしたんですか? まだ外出されてないだなんて。時間、大丈夫なんですか?」

「駄目ね。だからもう出ないと」

 母は肩をすくめて苦笑し、きびきびとした動きで身支度を整え始めた。しかし、やはり長居しすぎたようで、その動作にやや焦りが見えている。いったいこんな時間になるまで、何をしていたのだろう。

「ああ、綾音」

「はい?」

「ご飯、よそってあるから」

「へ?」

 何を言われたのかわからず、間の抜けた返事をしてしまう。

 ほうけて母の顔を見つめていると、無言で(あご)で視線を(うなが)される。意図せずその先を追ってみたら、ダイニングテーブルの上に用意されている朝食が目に飛び込んできた。

「……あっ。は、はいっ!」

 先ほどの言葉をようやく理解することができた。晒してしまった無様な醜態(しゅうたい)をなんとか()(つくろ)おうと、咄嗟(とっさ)に背筋をぴんと伸ばし、元気よく返事をする。

「あと、よかったらそれ、学校に持って行って」

 再び母の視線を追ってみる。するとテーブルの隅っこの方に、お皿の上に鎮座(ちんざ)している、二つの白い物体の存在に気づいた。海苔(のり)の巻かれていない、シンプルな真ん丸の(かたまり)

「おにぎり……ですか?」

「ご飯、それでちょうど終わりだったから」

「は、はぁ……」

「慣れないことはするものじゃないわね」

 母はバツが悪そうに肩をすくめる。

 なぜ遅くまでいたのか。その理由は要するに、綾音への朝食と昼食を用意してくれていたということ。わかってみれば、至極単純な話。ごくありふれた一般家庭であれば珍しくもない、日常的な朝の一コマなのだろう。

 しかし、秦野(はだの)家にとっては……綾音にとっては、そう簡単な話ではない。様々な異常事態が連続的に襲い掛かり、過剰な負荷にさらされた綾音の思考回路は、もうショート寸前だった。

「じゃ、行ってくるから」

「あっ、あの、お母さま!」

「なに?」

 呼び止めたはいいが、いまだに頭はまともに動いてくれない。

「えと……」

 首だけでこちらを振り向く母が、「早くおっしゃい」と言葉なしに目だけで命じてくる。

 聞きたいことも、言いたいこともたくさんあった。

 けれど一向に考えがまとまる気配はないし、何より急いでる母をこれ以上引き留めるわけにもいかないという理性が働く。

「ありがとう、ございます」

 口から出せた言葉は、結局それだけ。

 たったそれだけなのに、なぜだか目の奥がツンとして、泣き笑いのような表情になってしまっている気がする。

「変な子ね」

 そう言った母の目尻は下がり、口角は上がっている。

 それは紛れもない、笑顔だった。

 物心がついてから、初めて目にしたかもしれない、母のやさしい笑顔。

「行ってきます」

 母が颯爽(さっそう)と身を(ひるがえ)す。

「あっ……」

 その表情に見蕩(みと)れてしまっていたために、またしても反応が遅れてしまった。

 急ぎ後を追いかけるも、すでに玄関は閉ざされ、母の姿はない。

「……行ってらっしゃいませ、お母さま」

 何ヵ月か、何年かぶりに家族らしいやり取りができたことを嬉しく思う反面、最後の最後で一番大事な言葉を告げられなかったことを悔やんだ。よくよく振り返ってみれば、ところどころ言葉足らずでもあったし、どこまでも愚鈍(ぐどん)な自分のことを恨んでしまう。

 ぽてぽてと引き返し、改めてテーブルの前へと向き直る。

「……」

 日々の食事は、綾音が自分で作り、自分で食べる日が多い。けれど週に数回、時間に余裕があれば両親のどちらかが作ってくれることもある。

 母はもっぱらの洋食派であり、対する父は和食派だ。それが秦野家における、暗黙の了解。用意されている料理により、誰が作ったのかが一目瞭然だったりする。

 今日のメニューは、焼き鮭に、ほうれん草のごまあえ、きゅうりとかぶの漬物、玉子と水菜のお吸い物。

 完璧主義な父らしい、お手本のような一汁三菜。

「わたし……ばか、ですね」

 秦野家では、家事の分担が特に定められていない。言わずもがな両親は多忙であり、活動時間帯すらも不定期であるため、分担などしたところで意味を成さないからだ。

 かと言って、家のことは全て綾音に任せっきり、ということもない。

 今現在綾音の眼前に用意されている朝食のように、忙しい中に暇を見つけ、時間を作り、いつの間にやら各々ができる家事を済ませている。

 本当に綾音に興味がなかったのなら、このようなしっかりとした朝食を用意してくれることもないだろう。目が赤いなどという、細かな異変に気づくこともないだろう。

 寂しさに視野を(せば)めてしまっただけで、両親のやさしさを感じられる事柄は、何気ない日々の中にいくつも転がっていたのだ。

「こんなことも、わかってなかったんですねぇ……」

 ぽたり、ぽたりと、テーブルへ雫がこぼれ落ちる。

 涙はもう、枯れ果てたと思っていたのに……。

「ほんと……ばかです……」

 結局、二人の間の『糸』を見ることもなく終わってしまった。

 でも、今ならわかる。

 必要以上に言葉を交わさずとも、阿吽(あうん)の呼吸で万事をそつなくこなす両親たち。おそらくは互いを高め合い、支え合うような『黄色の糸』で結ばれていたはずだ。

 そんな関係もまた、素敵だと思った。

「……んっ!」

 涙に濡れた目を、片手でぐいっと(ぬぐ)う。

 両親が離婚すると言い出したのは、綾音の思春期症候群に起因(きいん)されるだと思う。それが治った今、別れるなどとはもう言わないのかもしれない。

 けれど、どちらにせよ、

「させませんよ、離婚なんて」

 いつぞや話した一人暮らしの件だって、もちろん撤回だ。

 この家に意地でも居座り続ける。この家で、何日だろうと、何ヶ月だろうと待ち続ける。

 家族が(つど)う日を、ずっと、ずっと。

「ぜったい(のが)してなるものですか。あなた方が帰る場所は、この家なんですからね! お父さま、お母さま!」

 

 

『子はかすがい』、と言うけれど。

 わたしは二人を繋ぐ、『糸』になろう。

 わたし自身の言葉で繋いでみせる。

 家族としての絆を、結んでみせる。

 

 ――そう、ですよね?

 

 さくたろ先輩……。

 



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14話

 学校へ到着し、席に着くなり、慌ただしい来訪が……いや、来襲があった。

 あの加西(かさい)先輩が人目もはばからず、ひどく興奮した様子で二年一組の教室まで押しかけて来たのだ。

 どうにかなだめつつ事情を聞いてみれば、昨日、深夜だというのに岡崎(おかざき)先輩へと電話をし、つい先ほど直接会って話をして、見事即座に復縁を果たしてきたらしい。

 察するに、綾音の思春期症候群のせいで抑圧されていた感情が爆発してしまったのだろう。ぎりぎりまで引き絞られた弓矢のごとく、その呪縛から解放された途端に勢いよく放たれたということ。

 いずれ徐々に好転するものと思っていたが、まさかここまで急転直下に解決するものだとは。嬉しい誤算だった。

 ひとしきり話し終えたところで、加西先輩は自分が教室中の注目を一身に集めてしまっていることに気づき、気の毒にも顔を真っ赤にさせ、ぎくしゃくとロボットのような動きで逃げ去って行った。

 控えめでおとなしそうな加西先輩でさえ、こうなのだ。本人から直接話を聞かなければなんとも言えないが、この分ならおそらく大丈夫。

 今頃は咲太の方も、皆と元通りの関係へ戻ることができているはず。

 

 

 放課後になるやいなや、今度は恭子(きょうこ)が詰め寄ってくる。

「結局、見えなくなっちゃったんだ? 例の糸」

「ですです」

 一緒に昼食を食べながらも話をしたものの、その際は糸が見えなくなったと伝えただけで時間切れになってしまった。というのも、数年ぶりに母が作ってくれたおにぎりに感激しすぎて、話を切り出すのが遅くなっただけなのだが。

「ふ~ん」

「なんです?」

「いやー。ここ最近、ずっと()えない顔してたのにさ。なーんか今はすっきりしてるみたいだから」

「……えぇ、まぁ」

 綾音自身、もう少し引きずるものだと思っていた。

 長い付き合いだった。その期間もさることながら、それに(ともな)い起こった出来事があまりにも濃密であり、良くも悪くも綾音の人生を大きく動かした病。

 失うことが怖かった。いつかは消えてしまうのだと……治ってしまうのだと、想像するだけで胸を締め付けられた。

 ゆえにしばらくは抜け殻のようになり、何にも手がつかなくなるかと思いきや、恭子が言った通り、驚くほどすっきりしている。

「綾音はもう、納得ずくなんだね」

「はい!」

「んっ。ならよし!」

 普段はずけずけと物を言う恭子ではあるが、こういう場面では何かを鋭く察知するセンサーでも働いているのか、深く踏み込んできたりしない。

 そのことが今は特にありがたかった。事件の子細を話すべきか否か、悩んでいたから。

 昨日も思ったように、なぜもっと早く話さなかったのかと憤慨(ふんがい)させてしまう恐れはある。だが、そこに関しては全面的に綾音が悪く、それに対する怒りをぶつけられる覚悟はすでにある。

 それよりなにより、恭子に責任を感じさせてしまうかもしれないことが怖かった。

 恭子の勧めで、占い師としての活動を始めた。恭子のおかげで、思春期症候群との付き合いに楽しみを見出(みいだ)すことができた。

 綾音としては、恭子には感謝しかない。しかし、そんな日々があったからこそ、思春期症候群から離れがたくなったのもまた事実で。恭子がそこに責任の一端を感じてしまうのも、ごく自然な成り行きで。話し方をしくじれば、いたずらに恭子に嫌な思いをさせるだけで終わるかもしれない繊細な問題なのだ。

 綾音を襲った不可思議な現象のこと。その際の綾音の思いや、選ぼうとしてしまった結末のこと。それらを話すべきか、否か。話すにしても、どこからどこまでを、どのように話すのか。

 答えを出すには、まだ少し時間が必要だった。

「けど、ちょっぴり惜しい気もするかなあ。楽しかったのにね、占い」

「そう……ですねぇ」

 クラスを、学年を超え、綾音一人では知り合うことのなかった人たちと関われた。その過程で他者への興味を示すようになり、情報や噂の収集に没頭もした。『病院送りの先輩』への興味をより深めたのも、思えばその頃から。

 何度振り返ってみても、過ごした日々のすべてが(とうと)く、いとおしい。

 そう思えるのも、綾音の手を引いてくれた、恭子がいたから。

 綾音の想いに……綾音の思春期症候群に向き合ってくれた、咲太がいたから。

「楽しかったです。本当に」

 晴れやかな笑みを浮かべたはずが、かすかに曇る。

 これまでのように占いを続けることは、もうできない。それは同時に、恭子が綾音に特別構う動機もなくなってしまったことになる。

 思春期症候群の糸は、綾音と恭子の仲を繋いでくれる糸でもあった。

 共に過ごす時間は確実に減っていくだろう。もしかしたら疎遠(そえん)にすらなってしまうかもしれない。もう帰らぬ日々や、いずれ訪れる未来を思うと、一抹(いちまつ)の寂しさが心をよぎる。

「さってぇ。これからどうしよっか」

「ふぇ?」

「もう占いはできなくなっちゃったんだろうけどさ。また何かしよーよ。あんたといると退屈しないし」

 唐突な申し出に、目をぱちくりさせる。

「……いいんですか?」

「もっちろんでしょ。それともなに? 糸の切れ目が縁の切れ目っていうの? ひっどいなあ」

 繰り出された妙な名言を茶化(ちゃか)す余裕もない。目の奥がツンとしてしまい、油断したら泣き出してしまいそうだった。

 これまで泣いた経験がほとんどなかった反動なのか、すっかり涙もろくなってしまったなと、内心苦笑する。

「あんたの妙な糸がなくなったからって、うちらの関係まで途切れるわけじゃないし。それに」

「それに?」

「ちょい待ってね」

 そう綾音を制してから、恭子は鞄の中を(あさ)り、ソーイングセットをさっと取り出す。その後も手際よく何かをしている。きょとんとしてその様を見守っていると、

「ほらっ」

 再び綾音へと向き直った恭子の小指には、糸が結んであった。その反対側の先は輪っかになっていて、そちらを綾音にそっと引っ掛けてくる。

「あたしたちは、こうしてちゃーんと結ばれてるんだからさ」

 そう言って小指を立てて見せつつ、朗らかに笑いかけてきた。

「恭子ちゃん……」

 糸の色は、赤。

 単に恭子が好きな色だったからとか、たまたま目に留まったからとか、そんな理由で他意はないのだろうけど。顔が糸と同じ色に染まってしまいそうになるし、緩み切った涙腺への追い打ちも勘弁してほしい。

 ただしそれもこれも、ある一つの問題に目をつぶれば、の話で。

「……あの」

「ん?」

「その……」

「どうかした? 感動しちゃって言葉が出ないかんじ?」

「い、いえ……そういうのではなく」

「じゃあ、なんだっていうのよ?」

 綾音が戸惑う理由がさっぱりわからないといった様子で、恭子が問い詰めてくる。

 そのせいで一層の戸惑(とまど)いが渦巻(うずま)くも、こればっかりははっきりさせるべきだと思い、(いだ)いた疑問そのままを述べる。

「これ、結ぶ位置、間違えてません?」

 なぜか綾音側の糸は、首に引っ掛けられていたのだ。

 綾音の常識が間違っていなければ、こういうものは小指同士で結ぶべきはずなのに。恭子渾身(こんしん)のボケだろうか。ならばもう少し気の利いたツッコミを入れればよかったなと後悔する。

「え、なんで? 間違ってないでしょ」

 なおも恭子は真顔で首を傾げる。ふざけてる様子には見えない。これでは自分が間違っていたのではないかと、徐々に自信をなくしてしまう。

「で、でも……これじゃ、まるで首輪……」

「うん」

 やや食い気味に(うなず)かれる。

「……はい?」

「あんたとあたしの関係性って、こうじゃない?」

 つまりは、ペットと飼い主ということだろうか。実に的確だなと危うく得心(とくしん)しかけるが、

「ちょっ……ひどくないですか!?」

「なに? 文句あるの?」

「そりゃーありますよ! わたしは恭子ちゃんのこと、一番のお友達と思ってたんですからね!」

 頰を膨らませて、ぷりぷりと怒る。

 薄々そんな風に思われてる気はしていたが、こうしてはっきりと突きつけられると辛い。

「……」

 するとなぜだか恭子は無言で固まり、こちらの顔をじっと見つめていた。

「……恭子ちゃん?」

 呼び掛けても身動き一つ取らない。いぜんとして、穴が空くほど凝視されている。

「な、なんですか?」

「いや、綾音の口からそんなセリフが飛び出してくると思ってなかったから」

「はい?」

「だって初めてでしょ。はっきり友達って言ってくれたの」

「……そうでしたっけ?」

「うん」

 そこで初めて気づかされる。ずっと綾音が無二の親友と心の中で思っていただけで、言葉にしたことはなかったらしい。

 そう言われてみると、直接的な表現というのは苦手だった……はずで。意図せず口からこぼれた今しがたのセリフに、我ながら違和感を覚えた。

「あたしが勝手に絡んでただけだし。あんたってその笑顔の下で何を考えてるか、わかんない時もけっこーあるから。最悪、いじめっこぐらいに思われてるかなーって」

「なんでそんなこと……」

 反射的に否定しようとして、今現在綾音の首にある赤い輪の存在をふと思い出し、言葉に詰まる。

「……」

 確かにこの状況は、客観的に見て、いじめに(あたい)してしまうかもしれない。

「でしょ?」

 綾音の沈黙を見て、恭子がしたり顔で念を押してくる。

「でしょ? じゃなくってですね!」

「あっはっは。ごめんごめーん」

 少しも悪びれた様子なく、あっけらかんと笑う。

 しかし、恭子のことばかりを責められない。先も考えた通り、綾音の意思表示が足りていなかったのは確かなのだから。

「に、しても……ふぅーん、へぇー」

「なっ、なんです?」

「そっかぁ、あたしが一番のお友達かぁ~」

「……そ、そうですよ。悪いですか」

「んーん、悪くないよ」

 にんまりとした顔で見つめられたかと思うと、

「ほんと、変わったね。綾音」

 そう言って頭を、よしよしと撫でてきた。悪い気分なはずもないが、正直むずがゆい。

「変わった……の、でしょうねぇ……」

 恭子のあたたかな手を受けながら、しみじみと(つぶや)く。

 変化に思い当たる節は、すでにいくつもある。昨日あれほどの出来事があって、何もないというのは逆に変だ。それにしたって、たった一日でこうまで世界が変わって見えるとは。

 まさしく感慨(かんがい)無量(むりょう)。本当に、貴重な体験だった。

「ねぇ、恭子ちゃん」

「ん~?」

「これからも、良きお友達でいてくださいね」

 昨日、咲太へ言ったのと同じセリフ。二人へ(いだ)く、綾音の心からの願い。

 先ほどは何となしにぽろっと出たが、改めて口にすると想像以上に面映(おもは)ゆくて、はにかんだ笑顔を恭子へ向ける。

「あったりまえでしょー。なーに言っちゃってんのよ、この子はぁ。もうっ」

「ふにゃっ」

 さすがの恭子も照れ隠しなのか、デコピンをお見舞いされてしまった。そこそこ痛い。

 

 あの不可思議な現象は、綾音の成長のために……綾音が真なる繋がりを得るために訪れてくれた奇跡だったのかもしれない。

 やはり、ちゃんと話そうと思った。恭子にはもちろん、家族にも。

 綾音の身に降りかかった出来事に始まり、その都度綾音が考え、感じた思いを……それが思春期症候群だったということを含め、あますところなく、すべてを。

 そして、恭子とも、両親とも……本当の意味での、友達として、家族として。より良く、より深い関係を築いていこう。

 でも……今はまだ、泣いてしまいそうだから。

 また、今度。

 

「よっし。このあとどっか寄ってく? お()びに何かおごるからさ」

「あ~……すみません、このあとは少々用事がありまして」

 申し訳なく思いつつ、ぺこりと頭を下げる。

 非常に嬉しいお誘いに後ろ髪をぐいぐいと引かれるが、その用事は絶対に外すことができない。咲太の方がどうなったか、念のため早めに確認しておきたかったから。

「ははーん……なるほど?」

「ふぇ?」

「あんたもそういうお年頃、ってことかあ」

「な、なんですか?」

 にやにやと意地悪そうな笑みを浮かべる恭子。応じる笑顔が引きつってしまう。

「でも、よりにもよって難儀(なんぎ)な相手に()かれちゃったねえ」

「な……なな、なんのことでしょーかぁ」

「とぼけても無駄。あんたあの先輩に会いに行くとき、毎度毎度、目ぇきらっきらさせてたでしょうに」

「え、ええぇっ!?」

 勘付かれるだけならば仕方がないと腹をくくっていたが、驚いたことに、恭子は綾音よりもずっと先に、綾音の気持ちに気づいていたことになる。恭子の洞察力が末恐(すえおそ)ろしい。

「まっ、悔いのないよう玉砕(ぎょくさい)しておいで。骨ぐらい拾ってあげるからさ」

「……」

 つい、目を逸らしてしまった。

「……綾音?」

 呼びかけにビクっとして、おそるおそる目を合わせ直す。しかし時すでに遅く、その微妙な反応一つでも、相手が恭子では命取りだったようで。

「え? まさか、もう……?」

「あ、あははっ……」

 誤魔化(ごまか)すように笑う。無意味だとわかっていても、そんな風に笑うほかなかった。

「ねえ……いっくらなんでも色々と早すぎない? あんたがそんな手の早い子だったなんて、ビックリなんだけど」

 だらだらと嫌な汗が噴き出す。目がぐるぐると(せわ)しなく泳ぎ出す。

 朝よりはマシになったものの、いまだに重く、時折(ときおり)痛む頭に、さらなる重労働を課す羽目になってしまった。身命を()してこの窮地(きゅうち)に立ち向かわなければならない。

「おーい? なんとか言いなさいよー?」

 恭子の追及から(のが)れる手は。この状況を打開する手は。煙が出るほど頭をフル回転させ、無い知恵を懸命に振り絞る。

「あー、やー、ねー、ちゃん……?」

 もはや、手は一つしか残されていない。

「しっ、失礼しますー!!」

 いくら振り絞ったところで、やはり無いものは無い。逃げるが勝ち。そう思い、脱兎のごとく駆け出した。

「あっ、ちょっとぉ!? あとでみっちり話してもらうからね、綾音!」

 恭子の叫びを背中に浴びつつ、必死に走り続けた。

 (さいわ)い廊下に人影はあまりなく、それをいいことに思い切り駆け抜ける。体育の授業ですら、ここまでの全力を発揮した覚えはない。それをあろうことか、神聖なる学校の廊下で披露(ひろう)してしまうとは。

 息が上がるまでたっぷりと走り回った後、徐々に速度を緩めていき、ぴたりと立ち止まる。

「ぷっ……ふふ、あははははっ」

 不意に吹き出し、体をくの字にして笑い出す。何がそこまでおかしいのか自分でもわからないけれど、なおもお腹を抱えて笑う。

 恭子のあの様子では、近いうちに洗いざらい吐かされるに違いない。

 笑われるだろうか。(なぐさ)めてくれるだろうか。(あん)(じょう)いの一番に浮かんだのは、怒っている姿。さっき逃げ出してしまったことも含め、散々に(しか)られてしまうかもしれない。

 けれど、ちっとも不安じゃなかった。

 ――何があっても、友達は友達だろ

 綾音は跳ねるような足取りで廊下をゆく。

 そう言ってくれた、大好きな友達に会うために。

 



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15話

 恭子(きょうこ)から逃げのびた後、まっさきに二年一組の教室に向かってみたが、咲太の姿はなかった。どうせそんなこったろうと思っていたので、迷わず下駄箱へと向かう。

 たどり着くなり、適当な壁に背中を預け、嬉々として待ち伏せを開始した。

 どういうわけか、自然と頰が緩む。今に鼻歌でも歌いだしかねない。通りがかる人たちに奇異(きい)の目を向けられても、どこ吹く風と受け流す。

 ただ誰かを待つという行為が、こんなにも楽しい。また一つ自身の変化を実感し、つい先ほどの笑いの発作がぶり返してきてしまいそうだった。

「あっ!」

「げ」

 待ち人、きたる。出会いを咲太もおおいに喜んでくれているようだ。その喜びを表してか、咲太は何も見なかったかのように綾音(あやね)の前を素通りしていく。

 予想の範疇(はんちゅう)の扱いなので、気にせずその背中へと弾んだ声をかける。

「これはこれは、さくたろ先輩。またしても奇遇ですね。こうも偶然が続くと、もはや運命と言っても過言じゃないですよね!」

「運命って案外お手軽なんだな」

「運命とは、時として自らの手で手繰(たぐ)り寄せるものだと思うんです」

「そうか。じゃあな」

 まったく興味なさげな空返事をした咲太は、下駄箱から取り出した靴を履き、綾音を一瞥(いちべつ)もせずにすたすたと去って行ってしまう。

「ちょっと待ってくださいってぇ、もうっ」

 慌ててこちらも靴を履き、ぱたぱたと後を追う。すっかり慣れたもので、こんな風に咲太を追いかける方が逆にしっくりくる。これも、もはや様式美(ようしきび)

「ったく、つれないですね。昨日、あんなにも濃密な時間を過ごした仲ではありませんか」

「記憶にないな」

「ひどいです、あんまりです。あれだけのことをわたしにしておいて……」

「何もしてないっての。秦野(はだの)の恥ずかしい姿も拝んでいないしな」

「なっ……」

 それは、体を拭くのを手伝わせなかったからお披露目(ひろめ)できなかった、綾音のあられもない姿のことを言っているのだろうか。

 それとも……綾音がみっともなく泣きじゃくる姿のことを言っているのだろうか。

「……」

 やめておこう。この話題を掘り下げるのは、どう考えても綾音に分が悪い。

「と、ところで、どうでしたか? 皆さんのご様子は」

「……はあ」

 咲太がわざとらしいため息をつく。

「お前、本当に治ったのか?」

「それは……どういうことで……?」

「麻衣さんが相変わらず口をきいてくれないんだよ」

「えっ」

 想定外の事態に動揺を隠せず、言葉も出ない。

 再度のため息と共に、咲太は続ける。

「国見だって僕に構ってくれないし」

「ま、まじですか」

「まじだ。朝からずっと上里に付きっきりなんだよ」

「それは……弱りましたね」

 加西(かさい)先輩同様、皆とすっかり仲直りを済ませているかと思いきや、いぜんとして絶縁状態が継続していただなんて。腕を組み、天を(あお)ぎ、どうしたものかと「うーん」と(うな)る。

 たっぷり五秒ほど、そうしてたたずんでいると、

「……んん?」

 今しがたの咲太の発言に、おかしな点があることに気付いた。

「あのっ、さく……」

 絶句した。隣にいたはずの咲太が、忽然(こつぜん)と消えてしまったのだ。

 ただ、それは決して瞬間移動の能力保有者というわけではない。綾音が悩んでいる間、咲太は普通に歩いていたらしく、その姿はすでに校門の外にあった。

 仕方なく、またもぱたぱたと後を追う。本当に薄情な先輩。

「あのあの、国見先輩と上里先輩は、仲直りされた……ということでしょうか?」

「ああ。あいつ、いったいどんな手品使ったんだ? チートだろ」

 それを聞き、ほっと胸を撫で下ろす。

 こんなにも身近にチートスキルを持つ人間が存在するのならば朗報ではあるが、これはそういうのでなく、きっとすごく簡単な話。

「それは単に、国見先輩の人間性の成せる(わざ)だと思うんです」

 そして咲太が麻衣と仲直りできないのは、咲太の人間性の問題。

 もっとも他の誰であろうと、あの桜島麻衣の機嫌を損ねた時点で絶望的なのかもしれないが。

「イケメンだもんな」

「イケメンですもん」

 咲太とは違って。心の中で、しっかりとそうつけ加えることも忘れない。

「ほんとイケメンって敵だな。あ~むかつく。ばりむか」

「……」

 どうやら咲太と佑真との間にある差は、縮めようもないほど強大なものらしい。

 

 何はともあれ、咲太の表情や態度を見るにさほど大きな問題はなさそうなので、綾音が一番気にしていた人物の名を挙げることにする。

「ちなみに、双葉先輩の方はどのようなご様子で?」

「ついさっき、会ってきたんだが」

「はい」

「めちゃくちゃ不機嫌に、『寄るなブタ野郎。()ね』ってすぐ追い返された」

 できることならば、これも咲太の日頃の行いのせいだと思いたい。

 けれど、綾音には明確な心当たりがあった。

「それってやっぱり……国見先輩とのことが原因でしょうか……?」

「夢のような悪夢を見せられてたんだ。無理もないだろ」

「うわっちゃあ……」

 思わず顔を(おお)う。

 理央には本当に悪いことをした。ある意味、今回の騒動の一番の被害者かもしれない。

 思春期症候群により支配されていた間は夢のような時間を過ごしたのかもしれないが、それが覚めてしまえば、待ち受けるはただの生き地獄。

 互いに操られていたとはいえ、佑真本人や、佑真の彼女への罪悪感は少なからずあるだろう。言葉を交わすことはおろか、顔を合わせるのも辛いはず。

 そして何より、理央が理央自身へ抱く感情が致命的だ。

 憤怒、羞恥、後悔。想像を絶するほど複雑な感情が入り乱れているに違いなく、いっそ殺してくれと叫び出しかねないほど、不安定な精神状態だとしても何らおかしくはない。

「あの、さくたろ先輩」

「ん?」

「どうにか、謝罪の場を設けていただけたりは……」

「双葉にか?」

「はい」

 咲太も理央にはよく相談をしていると以前に言っていた覚えがあるし、おそらく思春期症候群に関する理解はあるはずだ。

 だが、一度顔を合わせた麻衣や朋絵と違い、理央とは面識がない。

 急に現れた見ず知らずの人間が持ち込んでいいような軽い話題でもないし、咲太が間に入ってくれた方が話もスムーズになると思った。

「やめておけ。命が惜しかったらな」

 その一言で早くも心が折れそうになる。咲太の目から見ても、理央はそこまで激昂(げっこう)してしまいそうなほどの状態なのだろうか。

 仮に、あの理知的な先輩の眼鏡の奥から放たれる鋭い眼光で射抜かれ、咲太が常日頃から浴びているという罵倒を頂戴してしまったとしたら、綾音ごときではオーバーキルもはなはだしい。

 それでもあっさりと(うなず)くわけにもいかず、食い下がる。

「で、でも……多大なるご迷惑をおかけしてしまったわけですし……」

「だからやめとけって。どす黒い液体と、謎の白い粉でおもてなしされてもいいのか」

「ふえっ!?」

 比喩(ひゆ)とか精神的な話でなく、会いに行けば本当に物理的に命が危ういらしい。

 その光景は想像にかたくない。さながら魔女のように、怪しい実験をしている姿がすごく似合う先輩だ。

 しかし、このまま何もしないというのも嫌だ。謎の物体の実験台になることで(つぐな)えるというならば……真面目にそう悩み始めてしまったとき、

「ま、心配するな。双葉はそんなやわなやつじゃない」

 と、咲太がのんきな声で言った。

「大丈夫……でしょうか……?」

 不安な気持ちを抑えきれない、消え入りそうな声で問う。

「大丈夫だ。なんてったって、あいつは僕の友達だからな」

 隣を歩く咲太の顔を、じっと見つめる。その目はいつものごとく眠たげで、真剣さなど欠片(かけら)も感じられない。

 少し冷静に考えたら、こんな口調や態度で、そんな謎理論を持ち出されたところで納得できようはずもない。

 けれど、不思議とすんなりと耳に入り、一気に心が軽くなった。

「ん、わかりました。双葉先輩のこと、よろしくおねがいします」

 ぺこり、頭を下げる。

「まかせとけ」

 理央の友達である咲太の言葉なら、信じられる。

 綾音の大好きな友達の言葉だから、信じられる。

 友達とはなんともありがたく、なんとも頼もしい。心から、そう思った。

「それよりも。なあ、秦野」

「はい?」

「僕に女心ってもんを教えてくれ」

 察するに、麻衣が何に対してお(かんむり)なのか、どうしたら機嫌を直してくれるかを聞き出したいのだと思う。

 でも、その質問はまったくもっていただけない。

「昨日振ったばかりの後輩にそれを聞くあたり、終わってますけど」

「まじか」

「まじですよ」

「いっちょんわからん」

 一段と生気を欠いた目をして、肩を落とす。早くも(さじ)を投げたらしい。

「まぁ、これも一つの勉強と思って。存分に悩むがよいですよ、ブタ野郎さん」

 不意に殺気を感じ取り、反射的に後ろに飛びのき、距離を取る。ついでに、おでこを両手で隠す。

 その予感は的中したようで、咲太はデコピンの構えを取っていた。

「逃げるなよ。友達だろ?」

「その大切なお友達を、殺人犯に仕立て上げないための配慮ですって!」

 咲太のデコピンは、恭子のものと違ってまったく痛みを感じない。それが余計に恐怖を駆り立てる。

 これまでに受けたデコピンにより蓄積されたダメージが、そろそろ臨界点に達してしまう恐れがあるのだ。この一撃をいただいては、綾音の頭が破裂してしまうかもしれないのだ。

「デコピンじゃ人は死なないぞ。せいぜい骨が砕けるぐらいだろ」

「じゅーぶんやべーですけど」

「勘違いするな。砕けるのは僕の指だ」

「そいつぁ大変です。『病院送られ』先輩になってしまいますね」

 そこでなぜか、咲太は綾音の顔をじっと見る。

 何事かと首を(かし)げていたら、

「なるっていうか、元々そうだぞ」

「はい?」

 

「その噂な。正しくは、僕が病院に送られたんだよ」

 

「……へっ?」

 言葉の意味がさっぱり()み取れず、茫然(ぼうぜん)と立ちすくんでしまう。

 綾音としてはそう長いフリーズではなかったと思うのに、気づけば咲太の姿は、はるか遠く。急ぎ駆け足ですがりつく。

「ちょ、ちょっと! 待ってくださいよ、さくたろ先輩!」

「なんだよ」

「今のお話、詳しく!」

「断る」

「そんな、殺生(せっしょう)なぁ」

「無事に麻衣さんと仲直りできたら話してやらんでもない」

「……諦めます」

「おい」

 気にはなるが、その前提条件は絶望的だと思う。

「秦野も何か考えてくれよ、作戦とか」

「いっちばん大事なとこを他人任せですか。わたしにあれだけ偉そうなことをおっしゃっておいて!」

 咲太だって、咲太自身の言葉で関係を繋ぎ直すべきなのだ。

 ただし本音としては、そんな無理難題に立ち向かいたくないだけで。もっと言うなれば、麻衣に歯向かうような真似もしたくないだけ。

 ――私、咲太のこと、なんとも思ってないもの

 そう言い放った際の麻衣の姿。今思い起こしてみても、ぞっとする。生きた心地がしない。すっかりトラウマと化してしまった。

「元はと言えば秦野のせいだろ。たまにはお前が使えるやつだってところを見せてくれてもいいんじゃないか」

「ぐぬっ」

 それを言われると弱い。

 しかし、(がん)として自分の意思を通す。

「いえっ、その命令には承服しかねます!」

「お前、僕に仕える気あるのか?」

「そりゃー、もちのろんってやつですよ」

 胸を張り、ぽんと叩いてみせる。

「……」

 その平たい胸に咲太の視線をひしひしと感じる。決して性的なやつでなく、可哀想なものを見る目をされている。

 何かを言いたげな咲太より先に、やや早口で続けた。

「でもですね。無理に仲直りなんかせずとも、さくたろ先輩には、わたしというキープがおりますからね。乗り換えるという選択肢を自ら潰すのは愚挙(ぐきょ)ってもんなのです」

「いつのまにそんな話になった」

「いつでも友達以上に昇格させてくださってもよいのですよ?」

()りないやつだな」

「言うだけならタダ、ですから。ねっ?」

 これも昨日、咲太に言われたセリフ。その意趣返(いしゅがえ)しにと、悪戯(いたずら)っぽく微笑む。

「はいはい」

 無情にも、咲太の心には微塵(みじん)も響かなかったようだ。

「ま、冗談はさておき」

「秦野にも冗談とか言えたんだな」

 懐疑的(かいぎてき)な眼差しも意に(かい)さず、先ほどと同じように微笑みかける。

「早いとこ、仲直りしてくださいね。わたしのために」

 咲太がぽかんと、世にも無様な間抜け面を晒した。

「……なんでお前のためになるんだよ」

「ふふん。それはですねぇ」

 得意げに人差し指をぴんと立ててみせる。

「結局、見えずに終わってしまったんですけど。さくたろ先輩と桜島先輩って、運命の赤い糸で結ばれてたと思うんですよ」

「当然だろ」

 即答で断言できるあたり、素直に尊敬してしまう。

 ツッコミを入れたいのはやまやまだが、話が大きく逸れてしまう恐れがあるので、ぐっと(こら)えた。

「そんなお二人が、最高の相性であると示す占い法があるとしたら……それって、かなり信頼できると思いません?」

 そこで踏切に差し掛かり、咲太の足がぴたりと止まる

 つられて綾音も立ち止まるが、いくら待てども踏切は降りてこないし、そもそも警報も鳴っていない。

 ならばこれまで散々置いてけぼりにされたお礼にと、(ほう)けている咲太を今度は綾音が置き去りにして、ぴょんぴょんとリズミカルに渡る。

 渡り終えたところで、くるりと振り返り、

 

「わたし、続けたいんですよ。占い」

 

 そう、満面の笑顔で告げた。

 自分を振ったのだから、幸せになってくれないと困る。そういった色眼鏡を抜きにしても、麻衣のことを想う咲太の表情は、いつでも幸せそうで、これまで見てきた誰よりもやさしくて。

 ――まぁ、負け戦なのはわかりきっていたことですから

 本当は告白する前からわかりきっていたのだ。咲太と麻衣は、必ず結ばれる。そんな運命にあることに。

 だが同時にそれは、今の綾音にとって福音(ふくいん)でもあった。

 運命の赤い糸で結ばれた確かな二人がいる。咲太と麻衣というサンプルをもとに、信憑性(しんぴょうせい)の高い独自の占い法を探すことができる。そうして見つけた綾音自身の手法で、言葉で、他者の縁を結ぶことが叶うなら……なおのこと格別なのだろう。

 ただ糸の色を見るだけでよかった、思春期症候群の時とは違う。調べることも学ぶことも膨大(ぼうだい)で、考えるだけで頭が痛くなる。間違うことも多々あるだろう。これまでの評判も失墜(しっつい)し、これまで贔屓(ひいき)にしてくれた人にも失望されてしまうかもしれない。決して楽な道じゃないことは百も承知だ。

 それでも……この先もまた、占い師としての日々を(つむ)いでいきたいと願うから。

 もう一度、恭子と一緒に。

「そうか」

 ふっと笑い、歩き出した咲太。当然のように綾音の前を素通りしていき、またしても置き去りにされる。

「なんですか今の笑い。さてはバカにしてませんか」

 ぱたぱたと小走りで食らいつく。

「改めて思い直しただけだ。秦野は天才だなって」

「そ、そうです? えへへっ」

「だからその知恵を貸せって」

「もうっ。しょうがないですねぇ、ブタ野郎さんはぁ」

 調子に乗って油断しきっていた綾音の額に、咲太のデコピンがクリーンヒットした。まだ頭が破裂せずにいてくれて良かった。

 

 その後も絶えない、他愛のない会話。

 駅に到着してもそれは同様。咲太が麻衣と仲直りするための作戦会議と(しょう)しての、何一つ建設的でない、くだらなすぎる会話。

 そんなことでも、嬉しくて、楽しくて。自然と心が弾み、笑顔がこぼれて。

「秦野はほんと使えないやつだな」

「さくたろ先輩は、ほんっとろくでもないお方ですねぇ」

 

 ――そんなところも、いとおしいのですが……

 

 以前にたった一度、ほんの一瞬だけ見えた、綾音と咲太を繋ぐ糸。結局あの糸は何色だったのだろう。

 一つ確かなことは、残念ながらあれは赤い糸ではないはずだ。

 ならば、共にいると安心できるような青の糸? それとも、好敵手のような存在を示す黄の糸? はたまた、親友を意味する緑の糸だろうか。

 しかし咲太のことだ。一緒にいると良くないことが起きてしまうような、黒の糸である可能性も十二分にある。

 けれどそれらも、いずれにせよ些末(さまつ)な問題。

 たとえ何色の糸だったとしても、大好きな先輩であることに変わりはなく、運命の相手であったことにも違いないのだから。

「今度は何を(たくら)んでるんだよ」

「なんと失敬な。これは幸せを噛みしめている表情です」

「はあ?」

「ふっふ~♪」

 

 天を見上げる。そこにはきれいに染まる空。ほんのり哀愁(あいしゅう)ただよう、茜色(あかねいろ)の空。

 おのずと浮かんできたのは、思春期症候群と共に()った日々。

 そして、初めての恋心。

 

 ――さようなら

 

 小さく(つぶや)いて、今一度の別れを告げた。

 

 隣に立つ、咲太へと目を移す。ちょうどあくびをしている最中だったようで、いつにも増してみっともない横顔を晒していた。

 

 ――ありがとう

 

 気づかれないよう、さっきよりも小さく、小さく。

 

 この先、(あゆ)んでいく未来がある。そこには迷いも、(うれ)いもない。

 思春期症候群という奇跡が遺してくれた絆は、途絶えることなく続いていくのだから。

 大好きな人たちと共に、これからの日々を紡いでいけるのだから。

 





これにて完結となります。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
またいずれ、どこかで。
 


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