晩春行き切符 (青木々 春)
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晩春行き切符:前編
18歳の春。俺こと比企谷八幡の高校生活はついこの間幕を閉じた。
長いようで短かったこの三年間。いや、二年間が正しいのか。
とにかくあいつらと過ごした時間は目まぐるしく過ぎていき、いつのまにか卒業の季節になっていた。
相変わらずの材木座に、可愛い戸塚。
一色の号泣に、小町のしみじみとした表情。
そして雪ノ下の満面の笑み。
彼女のあの顔は、きっとこれからも忘れられない。
今まであんな顔をしたことなんてなかった。
由比ヶ浜や一色たちに囲まれて笑っているあいつの顔を見ていられなくて、俺は足早にそこから立ち去った。
その時に見せた由比ヶ浜の複雑そうな表情。
彼女は何を言いたかったのか。
そんなことはわかりきっている。しかし俺に答えなんて出せるわけがない。
結局いずれ崩れる関係を先延ばしにしているだけだというのに。
眺めていた窓から目線を外し、今一度辺りを見回す。
床は木造の古い作りの列車の中。それが今の俺のいる場所だ。
ガタンゴトンと揺れるその列車は、少し古いもののように感じるが、これも旅の雰囲気をお客さんに味わってもらうためのこだわりだとかなんとか。
俺にはよくわからんがな。
そんな列車の雰囲気と、美しい景色が売りのその列車の切符はやはりお高い。
普通の鈍行列車のはずなのに、下手をすれば新幹線より高いかもしれない。
そしてそのせいか、お客もかなり少ない。
いるのは本格的な写真家か、金持ちそうなご老人くらいだ。
もっともこの第六号車には誰もいない。
いるのは俺と──
「比企谷くん。喉乾かない?」
──陽乃さんだけだ。
二人がけの向かい合わせのクロスシート。俺と陽乃さんは向かい合わせで座っている。
そして俺と彼女の間には古い木のテーブル。
テーブルに肘を立て、頬杖をついているだけで絵になるこの人は本当にズルいと思う。
小洒落た列車の風景や、窓から差し込む光も相まって、まるで絵画のようだ。
何も知らない人が見たら1発で惚れてしまうであろうその美貌の中に、この人はとんでもないものを隠し持っている。とりあえず恐ろしい人だ。
「いえ、大丈夫です」
「そっか」
何気ない会話。俺が断ると、陽乃さんは再び窓に視線を移す。
ぼーっとしている様子はない。一体何を考えているのか、全く読めない人だ。
「比企谷くんさ。私のこともっと知りたいって言ってたよね」
またしばらく無言が続いた後、彼女は再び俺に問いかけてくる。
はて、そんなこと言ったことがあったか。いや、言ったのかもしれない。
知らないという事に恐怖を持つ俺のことだ。言っていてもおかしくはない。
それも相手が陽乃さんなら尚更だ。
彼女は底が知れない深い深い穴のような人だ。
そんな彼女を知りたいのは人間として当然の欲求かつ、安心感が得られるのかも知れない。
「言ってたかはわかりませんが。そうかもしれないです」
「ふ〜ん…そっか」
少し興味をなくした風に、陽乃さんは机に置いてあるグラスの縁を指でなぞる。
机には水の入っていない俺のグラスと、陽乃さんのグラス。そして小さな空色の花瓶しかない。
その空色の花瓶には、春を思わせるような桃色のチューリップが飾ってある。
何枚か花びらが散り、その花びらは机の上で優しく揺れている。
「私も、比企谷くんのこともっと知りたいなぁ」
嘘なのか本当なのか。全く分からない表情で彼女は俺を見つめる。
彼女は少し考えた素振りを見せた後、イタズラそうに笑う。
あ、これは変なこと考えた時の顔だな。
「ズバリ比企谷くんは〜、雪乃ちゃんが好きだ」
「〜っ!?あんたはなんて質問してんだよ…」
陽乃さんから飛んできた予想外の質問に、吹き出しそうになる。
「比企谷くんのこともっと知りたいって言ったわよ?」
可愛らしく首をかしげる。くそっ、憎たらしいのに可愛い…!
「だとしてもその質問はないでしょう」
「ぶー…」
頰を膨らませて不機嫌そうになる陽乃さん。
だいたいさっきの質問、俺にメリットが全くないじゃねぇか。
答えても地獄答えなくても地獄だ。まるでフェアじゃない。
「それじゃあさ、私のことも教えてあげよっか。それでフェアでしょ?」
すると俺の心を読んでいたかのように、陽乃さんはそう言う。
陽乃さんのこともか…。確かにそれはきになる。しかし…
「嘘の尽きようありすぎるでしょ…」
「うん。だから今この場だけは嘘と誤魔化しは絶対なし。それは比企谷くんも」
言ってることは理解できるが、いかんせん俺が不利のように感じてしまう。
陽乃さんほどポーカーフェイスが得意な人間がいるだろうか。
いいやいない。その仮面の内側を完璧に読み取れる人なんて誰一人としていないだろう。
そう、誰一人としてな。
「質問に答えるのは『YES』『NO』。もしくは黙秘のみ」
俺の疑問も構わず進めていく陽乃さん。
なるほど。逆に言えば、はいといいえで答えられる質問しか出来ないというわけか。
しかし黙秘もありか。しかし使う事はないだろう。
だって黙秘なんてしたらまるで───
───肯定しているようなものだ。
「ルールはこれでいい?」
「いや、待ってくださいって。嘘とか誤魔化しは無しって言いますけど、陽乃さんならいくらでも誤魔化しききません?」
「そうかな?私って案外わかりやすいよ?」
そんなわけねぇだろ…。
どれだけ自分が分厚い仮面を持っているというのか。
その奥を見極めるなんて至難の技だ。はるのん検定何級必要なんだよ。
「それじゃっ、比企谷くんからどうぞ」
俺の文句も置いとかれ、陽乃さんは俺に質問を促す。
「それじゃあ…陽乃さんは妹が好きだ」
まずはジャブ。軽めの質問。
この人相手には、こうやって慎重に見極めていかないとな。
「うん、大好きだよ」
いい笑顔で答える陽乃さん。ダメだ分からん。
雪ノ下への待遇を見るに、嫌いではないのだろうが、嫌いだからこそやっているようにも見える。
結局この人が真実を言っているのか。嘘を言っているのか、まったくもって分からない。
「やっぱりやめにしません?このゲーム」
「ダ〜メっ。それじゃあ次私ね」
俺の意見を聞く気がないぞこの人…!
「比企谷くんは…奉仕部が好きだ」
…絶妙に恥ずかしい質問を…!
相変わらず陽乃さんは容赦がない。
痛いところばかりついてくる。
「…はい」
「んふふ、そっかそっか」
俺の答えに満足そうに頷く陽乃さん。
これほどまでの屈辱があるだろうか。
やはりやるとなれば俺も責めなくてはいけない。
このまま陽乃さんに一方的なリンチにされてたら、俺の体はボドボドになるからな。
橘さんも銃使わないで殴るレベル。あ、いつもか。
「次は俺の番ですね」
「うん、なんでもいーよ」
顔を真っ赤にして言う俺と、余裕そうな表情をしている陽乃さん。
しかしこれから俺の逆転劇の始まりだ。余裕そうな顔してられるのも今のうちだぞ…!
…なんか今の台詞負けフラグっぽいな。
「陽乃さんは、自分が嫌いだ」
「…ううん、別にそんなことないよ」
すると一瞬、ほんの一瞬だけ違和感があった。
何故だろう。いつもと変わらない陽乃さんの声に、喋り方。
それなのに違和感があった。
「嘘はなし、ですよ?」
もしかしたらと思って、言ってみる。
「ぇ?ぁ、あはは。そっか、そういえばそうだったね」
すると驚いたように、恥ずかしそうに、そして何故か嬉しそうな表情をしながら、陽乃さんは俯く。
その綺麗な髪を指でくるくるさせながら、グラスを見つめている。
本当に嘘だったのか…。
一歩間違えれば分からなかった嘘にヒヤヒヤしつつも、俺が陽乃さんの内側を見抜けたという嬉しさもある。
「正直に言うと…。そこまで好きじゃないかな」
陽乃さんはガラスのグラスをギュッと握る。
氷の入っていたグラスはすっかり汗をかいていて、その水滴が陽乃さんの掌を濡らす。
陽乃さんにしては珍しい切なそうな表情に、少しドキッとしてしまう。
「…………」
こんな時、気の利いた事でも言えればいいんだがな。残念ながら俺だ。
そこに広がるのは沈黙ばかりだ。
沈黙の間。ただただ列車の走行音が響くだけだった。
ガタゴトガタゴト、そしてたまに金属が擦れる高い音。
その静かとも言えない沈黙を破ったのは陽乃さんの方だった。
「それじゃ、次私ね」
今までの表情が嘘だったかのように、いつもの笑顔にになる。
やはりこの人は読めない人だ。
「卒業式で、ガハマちゃんに告白された?」
そしてやはりこの人はイジワルだ。
こんな痛いところをつく質問。空気を読むと言う言葉を知っていればしないはずだ。
「………いいえ」
首を横に振る。
決して嘘はついていない。首を横に振るのも難しいことじゃない。
しかし痛い質問であるのは確かだ。
「へぇ〜、どうしてだろ?君は分かる?」
笑顔も無くイジワルに質問してくる陽乃さんの顔は、ひどく恐ろしいものだった。
「次の質問は俺っすよ…」
その視線から逃げるように話を戻す。
「うん、いいよ」
陽乃さんは俺を冷たく見つめた後、諦めたようのそっぽを向いて言う。
いつまでたっても慣れないものだ。
陽乃さんが外を眺めている間、俺は頑張って質問を捻り出す。
「じゃあ…陽乃さんは、結構寂しがり屋ですか?」
結局出てきた質問は、なんだか幼稚なものだった。
「………あっはは!なんだか君の質問は優しいね」
いや、あんたの質問が厳しすぎるんだよ。
驚いたような顔をした後大笑いする陽乃さんを軽く睨む。
「うんうん、でも的を得てはいるよ。答えは『YES』」
本当かよ…。
「あ〜、お姉さんを疑ってるなぁ〜?」
確かに疑ってはいるが、嘘を付いている様子には見えない。
「でも陽乃さんが寂しがり屋って、全然イメージないですよ」
「そう?でもさっきの質問は、自分で言って自分で腹立たしかったわよ?」
…………?
どう言うことだ?
国語の成績はいいから理解力に関しては自信があるが、今の陽乃さんの答えは正しい答えだっただろうか。
そんな俺の疑問も置いとかれ、陽乃さんは軽く息を吹く。
グラスに入った水に口をつけ、喉を鳴らして一口飲んだ後、口を開く。
「それじゃあ次は私ね」
陽乃さんがそう言った瞬間。列車は停車した。
山の多い田舎道を走っていたから気付かなかったが、この列車は一応各駅停車だ。
駅の少ないこの辺り。しばらく長く走っていただけあって、すっかり忘れていた。
なんとなく外を眺めてしまう。
質問をしようと思っていた陽乃さんも窓の外を眺めている。
そこにはこじんまりとした小さな田舎の駅。
木造で古臭く、駅員もいないような駅だ。
背景の田畑や山をバックに、誰一人としていない駅。
そこにこの列車は止まった。
ドアの開く音が聴こえて、アナウンスが流れる。
何度か聞いたことのある駅名だ。
「比企谷くん、喉乾かない?」
再び陽乃さんが聞いてくる。今度は水筒を差し出しながら。
そういえばしばらく飲んでないから喉が渇いた気がする。
「えぇ、もらいます」
水筒に手を差し伸ばし、受け取る。
中はただの水だ。特に変哲のない水。
グラスに水を注ぎ、水筒を陽乃さんの元へ返す。
「本当に、静かね」
未だ外を眺めながら言う陽乃さん。
乗客も乗ってくる様子はない。駅に人の気配もない。
少し遠くの方に見える畦道に、子供たちが水鉄砲で遊んでいるのが見える。
ああやって小町と遊んだっけな…。
「えぇ、何もないでしょ?向こうに着いてもこんな感じです」
当たり障りのない会話。窓から目線をテーブルへ移す。
そこには空色の花瓶に飾られた桃色のチューリップが一本だけ、気持ち良さそうに揺れていた。
テーブルに落ちていた花びらはいつのまにか無くなっている。
きっと列車のドアが開いたから飛ばされてしまったのだろう。
「そっか」
窓の外を見つめる陽乃さんをちらりと見ながら、グラスに注がれた水を一口。
乾いていた喉がすぐに潤う。
『次は──次は──お出口は右側です』
ドアが閉まり、列車が再度発車したと重ったらアナウンスが流れる。
ゆっくりと動き出した列車は、少しづつ駅から離れていく。
いずれ窓からあの駅や田畑たちも見えなくなり、見えるのは山々だけとなった。
もう少しだ。もう少しでつく。
ガタゴトと列車に揺られてもう何時間経ったか。
あと30分もすればつくであろう場所に、ようやくの開放感を感じる。
流石に高い列車の切符を買って、良いシートに座っているからといって、やはり電車の中は窮屈だ。
俺と彼女を乗せた列車の旅は、もう少しで終わる。
また一枚、チューリップの花びらが落ちる。
感想や皆さんの陽乃さんの解釈など、書いていってもらったら喜びます。
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