おぉ、我が姉よ (泥人形)
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おぉ、我が姉よ_1

「おめでとうございます。貴方には『戦艦:大和』への適性が確認されました。」

 

 幼い頃、隣に座っていた姉が軍服を着た女性に静かにそう言われたことを良く思い出す。

 当時の僕はその言葉の意味をちゃんと理解できなくて、ただ何となく「姉が祝われている」と思ったのを良く覚えている。

 だから僕は、軍服の女が去った後、姉に「おめでとう」と言ったのだ。

 姉はそんな僕の頭をグリグリとなでつけ「ありがとう」と言った。

 その声は、今思えば震えていた気がする。

 けれども当時の僕は、そんなことに気づきすらしなかった。

 いや、気づいていたような気もするが、気のせいだと思って切り捨てた気もする。

 しっかりものの、姉だったのだ。

 六つ離れていた姉と、その弟である僕には親と呼ぶべき人間がいなくて、幼い間に色んな親戚をたらい回しにされてきたから、そのせいかもしれない。

 生来責任感の強い人だったから、僕という弟がいたことが、彼女のその性質を高めてしまったということもあるだろう。

 ともあれ、非常に頼りになる人で、とにかく周りに頼るのを遠慮したがる人だった。

 頑固な人だったのだ。

 あの人の背中を見ながら、ご迷惑をおかけするわけにはいきません、という言葉を何度聞いただろうか。

 親戚の手元も、姉が中学を卒業した頃には離れたくらいだ。

 親が残した財産は多少なりともあったので、それ自体は大きな問題でも無かったが、もう少しお世話になっても良いのではと思ったことがあるくらいだ。

 けれど、それにも何かしら理由があったのだろうとも思う。

 無意味に助けの手を振り払うような人ではなかった。

 自分のためならいざ知らず、こと僕が関係してくれば何でもするような姉だったのだ。

 所謂ブラコンであったか、と問われればそれは違う。

 強いて言葉にするのであれば、それは姉としての責任であり、義務だった。

 親を失った姉は、僕のことを自立できるまで育て上げるという意志を常に持ち歩いていた。

 齢二十にも満たない子供が持つには、大きすぎるし、重すぎるものだったと思う。

 決して万人が出来ることでもなければ、大の大人でも軽々と持てるようなものでもない。

 だがあの人はそれを苦にするようなことは一切口にしなかったし、態度に見せることもなかった。

 誰に言われた訳でもなければ、いっそ僕のことを見捨てても良かったにも関わらず、あの人は僕の手を離すことはなかった。

 いつだって、どんな時だって手を引いて、僕を導いてくれた。

 姉は万能な人だった。

 勘違うことが無いよう言っておくが、決して他人を驚かせるような天才だったという訳ではない。

 どちらかと言えば、不器用で、弱点は多い人だった。

 けれどもその反面、とても強い人でもあった。

 万に通じるような天才ではなかったが、姉は努力の天才だった。

 弱い部分を弱いままにはすることはなく、むしろ己の強みにすら変えられる人だった。

 どんなに高い壁でも平気で登ろうとすることができるくらい、姉は強かった。

 それ故に頼り甲斐が非常にあって、良く話を聞いてもらったものだ。

 優しい人だったから、どんな悩み事でも、困りごとでも、話せば何だって解決の手段を一緒に考えてくれる人だった。

 決して答えをそのまま渡してくれるような人ではなかったのだ。

 身に余ることではない以上は、僕のことは僕自身に考えさせて、行動させることを常としていた。

 甘さと優しさの違いを理解していて、上手く使い分けられる人だったからだ。

 失敗したら慰めてくれて、立ち直った頃に共に反省点を考えてくれる人だった。

 間違ったら真剣に叱ってくれて、道を踏み外さないようにしてくれる人だった。

 どんな些細なことでも、自分のことのように喜んで、恥ずかしくなるくらい褒めてくれる人だった。

 いつだって、僕を思って大切にしてくれる人だった。

 大切に思ってくれる故に、己を犠牲にしやすい人でもあった。

 自分の身を顧みないのが、姉の唯一治らなかった欠点だと公言できるくらいだ。

 親戚の手元を離れて三年、姉が高校を卒業して、僕が中学に入学する頃合いだった。

 真っ白な軍服に袖を通した女性が、僕等の家を訪ねてきた。

 僕にとっては突然のものだったが、それは僕だけにとってのものだった。

 二人の間では想定されていたもので、示し合わせられたことだったのだ。

 後から説明されたその話は、端的に言えばそれは姉の就職先についてであった。

 無論、言うまでもなく特殊な仕事先。

 その半面、今もっとも有名な職でもあった。

 『艦娘』

 艦船の娘、と記されるそれは、言わば軍人のようなものである。

 特定の女性が、専用の装備を持ち、世界のために、海にて人外の生物───深海棲艦と戦う。

 今の時代、最も高給、最も知名度が高く、最も讃えられ、最も尊敬され、最も畏怖され、そして──最も、死亡率が高い。

 それが艦娘だった。

 そして僕の姉はこの時、それに選ばれたのであった。

 そうある話ではない。

 艦娘というのは上記の通り()()()()()()()がなれるものだ。

 この特定、というのは努力云々でどうこうなる話ではない。

 言ってしまえば才能であり、素質の話だ。

 そもそも、娘という文字が入っているだけあって、艦娘というのは女性しかなることが出来ない。

 その中から更に選別されなければならないのだ。

 勿論、学力や身体能力、常識等で選ぶわけではない。

 『妖精さん』とか言う、実にファンタジーな生物が選ぶらしいのだ。

 冗談だと思うだろう、誰だってそう思う、僕だってそう思った。

 だけどそれは冗談みたいな話なだけで、事実だった。

 その妖精さんとやらを、この眼で見てしまった以上僕にも疑う余地はなかった。

 この事実を知るのは、各国のお偉いさんと艦娘になる本人とその家族のみで、箝口令が敷かれる。

 まあ、言ったところで誰も信じないことではあったが、それでもだ。

 ダミーとして学力テスト等までしているお陰で、戯言にしか聞こえないだろう。

 ともあれ、そういう条件を僕の姉はクリアした。

 クリア、してしまったのだった。

 きっと、僕がもう少し年を重ねていたら、止めていただろう。

 きっと、僕がもう少し年を重ねていたら、姉は艦娘になろうともしなかっただろう。

 残されたお金は僅かで、今の時代を生きていくには足り無さ過ぎた。

 世界は困窮していて、このままでは僕等の未来はあまりにも色彩がなさ過ぎた。

 故の判断だった。

 二人暮らしだった僕等の生活は、この日から一変した。

 姉は家を出ていって、戦艦:大和として、とある鎮守府に着任した。

 毎日笑顔で帰ってくる姉を出迎える日常は消え失せて、代わりに毎月莫大な金額が口座に振り込まれるようになった。

 途端に暮らしは裕福になって、僕の心は何だか貧相になってしまった気がした。

 どこか寂しさを覚えども、それでも僕は、僕だけは文句なんて言っちゃいけないと思って僕は勉学に励み続けた。

 時折かかってくる電話と、毎月送られてくる手紙だけが、僕が姉の生存を確認できる唯一の方法だった。

 そんな暮らしがどれだけ続いただろうか。

 梅雨の季節だったと思う。

 酷く雨が降っている中、高校から急いで帰ってきた僕の家の前にいつか見た女性が立っていた。

 どうしたのだろうかと思えば彼女は頭を下げて。

 所々砕けてガラクタとなった大和の装備の一片と、姉の少ない私物が受け渡された。

 

 

 




三話完結


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おぉ、我が姉よ_2

 数年後、僕は高校を出てから直ぐ様海軍兵学校へと入り、今では提督候補生というやつになっていた。

 書いて字の如く、提督の卵として僕はとある鎮守府に着任していた。

 とある鎮守府───いや、ぼかすのはやめよう。

 僕は、かつて姉───戦艦:大和がいた鎮守府にて勤務していた。

 断っておくが、決して僕自らここを志願したわけではない。

 僕の上司──つまり、この鎮守府の提督が、わざわざ僕を指名したのだ。

 提督からの指名なんて、そう有るものではないし、ましてやこの鎮守府は世界という括りで見ても大層有名な所でもあった。

 そんなところの提督が何故僕を、とも思ったが、上記の通り姉が此処に居たということで僕は全てを悟った。

 つまり、ここの提督はあの日姉を連れて行った白い軍服の女性だったというわけである。

 因みに僕と提督の関係は、あの日から一般のものより親密なものとなっていた。

 といっても、惚れた腫れたといったようなそんな甘酸っぱさの感じられるようなものではない。

 語弊を気にせず断言してしまうが、そこにあるのは強い自責と罪滅ぼしの感情だった。

 聞けば提督は数年前のあの日まで一度も艦娘を沈めたことのない提督───"不沈の提督"とそれはもう、世界にその名を轟かすほど有名だったらしい。

 当然、それほどの手腕なのだからあの日からだって一度たりとも誰かを沈めたことは無い。

 つまりこの鎮守府では、我が姉が今の所轟沈した唯一の人というわけだ。

 酷いショックだったのだろう、己の選択で命を奪ってしまったと、まだ成人すらしてない子供から最も近い親類を奪ってしまったと、後悔したのだろう。

 故に提督はあの日から随分と僕を気にかけるようになったのだ。

 まるで赦して欲しいと、罰を求めるように。

 正直に言えばこれは気持ちが悪いの一言だったが、同時にちょうど良いとも思った。

 僕だって姉が沈んだと聞いて何も感じなかったという訳ではない、多少の喪失感のようなものは確かに覚えた。

 が、それでもその程度だった。

 多分、僕は現実を受け止めきれていない。

 物心がついた時から既にそばに居た姉が死んでしまったということに僕はあまり現実味を抱かなかったのである。

 ここ数年は一緒に居なかったことも加味されているのもあるだろう。

 何はともあれ、自分でそう分析出来るくらい、僕は意外とショックを受けなかった。

 そんな中悔し涙を滲ませながら偉い人が謝ってくるのだ、僕はこれを好都合と捉えた。

 責める気はまるで無かった、多分姉は誰かを、何かを守るために死んだのであろうことは聞かなくても分かっていたから。

 姉はそういう人間であることは、随分と昔から知っていたことだったから。

 だから僕は、提督を目指すことにして、彼女に提督へのなり方というのを聞いた。

 姉が居た場所に行き、同じ目線を持ってみれば少しは現実味も湧くのではないかと思ったからだ。

 それに、こうすれば彼女の罪悪感も少しは消化されるとも考えた。

 そういった経緯があって、僕は海軍兵学校へと入学を果たした。

 一応言っておくが不正等は一切していない、勉強は見てもらったが精々その程度だ。

 いやまあ、その程度、のお陰で僕は入学することが出来たのだが。

 何はともあれそこからトントン拍子でことは進み、僕は今の地位を得ていた。

 現状は提督の仕事の補佐が主な仕事だが、他にもやることは案外多い。

 毎日担当が変わる秘書艦と一緒に書類を片したり、作戦等の立て方や考え方を教えられたり、近海の見回りをする際の編成を考え、実際に出撃させたり、各艦娘達と交流したり、ついでに掃除洗濯料理………雑用関係はほとんど全てやっていた。

 言葉にしてみればちょっと長いなぁ、くらいだが実際にやってみれば相当ハードだったりする。

 一日のノルマが終わる頃には既にヘトヘトである。

 手の空いている艦娘達が好意で手伝ってくれていなければ今頃ベッドでお休みなさいをしているのは確実だ。

 艦娘達と話すということは、最初は正直抵抗があったが、すぐにそれも無くなった。

 彼女らだって本を正せば普通の人間だし、それに何より姉───いや、ここでは大和か───の話が聞けるというのは、僕にとって非常に喜ばしいことだった。

 "僕の姉"ではない姉の話というのはとても新鮮で面白みがあったのだ。

 亡くなった人の話というのは、あまり話題にしやすいものではないが、こと僕に限ってみればそれは真逆で、弟であったということを話せば皆一様に色々なエピソードを語ってくれた。

 酷く面倒見が良いだとか、滅茶苦茶お酒に強かっただとか、戦場では良く無茶をしたし、させられただとか、良く助けられただとか、お洒落にはとんと疎かっただとか、口を開けば弟の自慢話しかしない、だとか。

 彼女らは姉に強い恩や友情を感じていたようで、何でも話してくれた。

 客観的に見ればそれは可愛がってもらっていたとも言えるだろう。

 少し照れくさく、恥ずかしくもあるその話は、尽きることがまるで無い。

 どの艦娘も何かしらのエピソードを持っていたからだ。

 そんな中でも戦艦:武蔵から聞いた話には驚いた。

 どうやら姉はこの鎮守府で最も強い艦娘だったらしいのだ。

 この鎮守府自体が、世界で見てもトップクラスといえば、その凄さが伝わるだろうか。

 そしてその姉が沈んだというのも、やはり普通ではない事情があった。

 その日も何時も通り六人一艦隊での見回りだった。

 姉を旗艦に任務を遂行中だった彼女らは突然深海棲艦に出くわした。

 新種の深海棲艦で、その数も膨大なものだったらしい。

 抵抗を試みたが最初から不意打ち気味に奇襲された上に、物量に差がありすぎた。

 既に大破している仲間もいたことから、姉は一人残り他の艦娘を逃し応援を呼ばせた。

 鎮守府とはさほど離れている場所ではなかったことからの判断で、そして応援は間に合わなかった。

 眼の前で起こった爆発と共に姉は沈んだらしい、言葉を遺すことすら出来ず、深海棲艦達と相討ち気味に沈んでいったと。

 やはりと言うか何というか、あまりにも予想通りで思わず笑ってしまったものだ。

 残された人のことを考えないその感じ、正しく姉である。

 まあそんなこんなで僕と艦娘達はかなり仲良くやれていた。

 最近ではスキンシップが過ぎるんじゃないの? と軽く提督に窘められるくらいの順調さだ。

 徐々に仕事もこなれてきて、夜の晩酌にも付き合うくらいの余裕を見せられるくらいになり、このまま行けばまあ、一端の提督くらいにはなれるだろうと何となくそう思っていた時だった。

 出撃していた第一艦隊が、轟沈寸前で逃げ帰ってきた。

 旗艦は件の武蔵だった。

 この鎮守府にて現在ナンバーワンの実力者。

 何度でも言うがこの鎮守府は世界という括りで見てもトップクラス。

 当然、武蔵以外の艦娘達だって全員精鋭中の精鋭だ。

 そんな彼女らが死に体で帰ってくるなんて尋常なことではなかった。

 提督は悲鳴にも近い声を上げ、僕は思わず息を飲んでからハッと我に返って駆け寄った。

 肩を貸そう、と思った僕を武蔵が掴む。

 酷く、弱々しい力だった。

 どうした、何があった、誰にやられた、いや、そんなことより早く入渠するぞ、と焦って捲し立てる僕に、良いから聞けと彼女は言う。

 瞳は不安げに揺れていて、けれども真剣だった。

 震えた声で肯定すれば、武蔵は血を吐き出しながらこう言った。

 

 「あれは、大和(お前の姉)だった」と。

 

 

 




ポカポカと陽気に包まれているかのような明るい物語ですね、間違いない。


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おぉ、我が姉よ_3

 

 『敵は沈んだはずの大和だった』

 本来なら一笑に付されるようなその言葉はしかし、聞き捨てられることはなかった。

 そう言ったのは他の誰でもない、大和の相棒だった女だからだ。

 疑う余地は無かった。

 ───いや、違うな。

 皆は疑おうとしなかったのだ。

 むしろ、その話を信じたがった。

 勿論、武蔵本人への信頼が高いということは一因であったが、この場合はもっと違う所に理由があったからだ。

 敢えて言うのであれば、藁みたいな希望にすらすがりたい気持ちであった、といった辺りであろうか。

 結局皆、過去を忘れることも出来なければ、悔いを忘れることも出来ず、ズルズルと思い十字架を背負った気分でいたということである。

 ───僕を除いて、ではあるが。

 そもそもの話、姉が死んだという現実自体に現実感を見出だせていないが為に、似た立場へ近付こうとしている僕である。

 それが実は生きていました、と言われても正直反応に困るといったところだった。

 いや、勿論生きているのであればそれは嬉しいのだ、それだけは間違いない。

 死んでいるよか、生きている方がずっと良いのは当たり前だ。

 ただ、僕等は死に別れる前から既に何年もあっておらず、何だか会わないことが普通になっていたことも加味されてか、非常に曖昧な気分だった。

 だからだろうか、皆が希望を見つけた、とでも言わんばかりの期待に胸を膨らませる中、僕は何となく居心地の悪さを感じていた。

 皆が僕を見るたび「必ず連れて帰ってくるからな」と、力強くかけてくる言葉に何と返せば良いのかすら分からなかったのだ。

 提督が向ける潤んだ瞳に、少しばかりの罪悪感すら抱いた僕は、それから逃げるように武蔵に問いかけた。

 適当に言った言葉だった。

 「何で大和だって分かったんだ?」なんて口の中で生まれたような言葉に、武蔵は少し困ったように首を傾げた。

 そしてそれからゆっくりと笑って「お前も見れば分かるだろうさ」と言った。

 背中を電流が走ったかのような気持ちを覚える。

 そうか、そうだな、その通りだ。

 回りくどいことなんかしないで、実際に会えば手っ取り早いじゃないか。

 そうして僕は飛び出した。

 感情の赴くままに、海へと飛び出した。

 

 

 陽の光に明るく照らされた、緩やかな流れの海にそれはいた。

 迷うことは無かった、一目で分かるくらいそれは人外の()()()だったからだ。

 肌は絵の具で塗られたみたいに真っ白く、袖を通している服と装備は吸い込まれるような黒。

 色を抜かれたように彩りのない髪の毛は一つに結ばれていて、瞳は紅く輝いている。

 海上をぼんやりと、ゆっくりと滑るように我が鎮守府へと向かってきていた深海棲艦と目があって、その瞬間そいつ───姉と僕は、互いを認識した。

 一目で分かった。

 雰囲気とか、見た目とかじゃなくて。

 僕にはアレが姉であると、何故だか理解出来てしまって、その変わり果てた姿に僕は何故だか()()()()()()()

 おかしな話だ。

 散々現実味が湧かないの何だのとほざいておいて、結局僕は目をそらしていたかっただけなのだと痛感する。

 常々抱いていた姉への申し訳無さを何とか正当化させようと必死になって言い訳を積み重ねていたことを自覚する。

 一度姉の姿を見ただけでこれである、何と愚かで何と脆弱な精神だろうか。

 ボートのスピードを落としてゆっくりと接近する、姉も同様に、更に速度を落として僕に近づいてきていた。

 備え付けられている無線機から激しい声がするが、全ては耳を通り抜けていて、僕は先頭に立って姉を見た。

 姉もきっと、既に僕のことを弟であると理解している確信があったからだ。

 気味の悪いくらい白く染まった腕で、姉は僕を抱きしめた。

 身体はほんのりと、暖かい。

 姉は真紅の瞳をつむり、「コレカラモ、ワタシガ、マモルカラ」と片言気味に呟いた。

 ───本当に、この人は。

 

「姉ちゃん」

「ダイジョウブ、オネエチャンガ、マモルカラ」

「姉ちゃん」

「シンパイハ、イラナイカラ」

「姉ちゃん」

「オネエチャンニ、マカセテ」

「姉ちゃん!」

「コワイオモイナンテ、サセナイカラ」

「姉ちゃん!!」

「オネエチャンガ、ゼッタイ────」

「姉ちゃん!!!」

 

 ───頼むから、聞いてくれ。

 弱々しくなってしまったその言葉は、しかし姉の耳にはやっと届いたようで、ゆるりと腕が解かれた。

 震える心をそのままに、僕は前を向く。

 

「姉ちゃん、よく見てよ。僕、もう二十歳超えたんだぜ? そろそろ姉ちゃんの歳に並ぶんだ」

「………………」

「だからさ、もう大丈夫なんだよ。僕はもう、守ってもらわなくても、大丈夫」

「モウ、ダイジョウブ……?」

「そう、大丈夫。もう、大丈夫なんだ。僕はもうひとりでも、生きていける」

「ヒトリ、でも?」

「うん、うん。だから、もう心配はいらないよ」

「ソンなノ、無リダよ」

「無理なんかじゃない。僕は姉ちゃんの弟なんだから、大丈夫」

「ホン、当に?」

「うん、本当に。いい加減、信じてくれよ。過保護かよ」

 

 徐々に姉は、その姿を元に戻していっていた。

 色素の抜けた髪色は綺麗な黒に戻っていて、肌は赤みをましている。

 真っ黒な装備はガチャリと海に沈んでいた。

 元の色に戻った瞳からは、薄っすらと涙が流れていた。

 

「だって、私は、お姉ちゃんだから。お父さんと、お母さんに、貴方を育てきるって、誓ったから」

「それなら、もう果たされた。僕はもう、酒だって飲める歳なんだ」

「でも……」

「でも、もクソもあるかよ。もう心配はいらないから」

 

 だから、もう休んでくれ。

 そう言った僕の眼からは涙がこぼれていた。

 姉をここまで追い詰めたのは、僕のせいと言っても過言ではない自負があったからだ。

 そんな僕を、姉はゆっくりと抱きしめる。

 

「私の知らない内に、とっても優しい人に育ったね」

「身内に馬鹿みたいに良いお手本がいたからな」

「へへ……何だか、照れちゃうね」

「褒めてないからな」

「残念ながら、褒め言葉にしかなってないからね?」

 

 まぁでも、安心できた───いや、させられちゃった、かな。と姉は呟くように言って、僕の身体を離した。

 それからワシャリと頭を撫でて、そして姉は僕に背中を向けた。

 僕は何だか不安になって声をかけたが、姉は気の抜けた返事をしたままこちらを見ない。

 嫌な予感がする、不意に思って僕は何とか身を乗り出したが姉はふらりと避けて、遠ざかる。

 

「どこに行くつもりなのさ」

「どこにも行かないよ、お姉ちゃんはいつだって、──の中にいる」

 

 そう言って姉は僕を指す。

 涙で濡れた形跡のある姉は、それでも少しだけ微笑んだ。

 吐き気にも近い悪寒が、僕の心を通り過ぎる。

 振り払うようにもう一度姉を呼ぼうとして、それは起こった。

 姉の姿が、ぼやけていく。

 さながら泡になるように、輪郭がボヤケて解けていくのだ。

 思わず言葉を失う僕を、姉が呼ぶ。

 からかうような声音で、僕に言う。

 

「もうひとりでも、大丈夫なんでしょう?」

 

 ドクンと心臓が鳴った。

 反射的に交わす言葉はこれで最期になると、そう思った。

 けれども口にしなきゃ後悔するとも感じれた。

 だから、僕は言う。

 

「当然だ、姉ちゃんの分まで、立派に生きやる。百年くらい先で待ってろよ」

 

 姉はほっとしたように笑って

 

「ばいばい」

 

 と、そう口だけ動かして、そしてその姿を綺麗に解かした。

 

 

 

 

 

 

 




終わり!


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