灰色と青 (69)
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01.灰色から脱獄

 なんのために生きているんだろう。

 帰りの最終電車で、真っ暗なガラスの窓に映る自分の疲れ切った青白い顔を眺めながら、そんなことを考えた。

 毎朝、弁当の具材みたいにぎゅうぎゅうに詰められた満員電車に揺られ、出勤する。やっとの思いで辿り着いた会社で、錆びた歯車のように働き続ける。当たり前のように残業をして、最終電車に乗って帰る。酒や汗の臭いでむせ返る車内から吐き出されると、また明日と言わんばかりに当日運行終了の旨を知らせる電光掲示板をぶら下げた駅のホームに迎えられ、無機質な毎日に嫌気がさして憂鬱になる。

 次第に、変わり映えしない日々の中に灰色を感じるようになってくる。見慣れた景色が、ひどく色褪せて見えてくる。

 生きる意味とか、そんなご大層なものは求めていないが、これからも無味乾燥な人生を送ると思うと、なんとも言えない抵抗感を覚えた。

 

 まばらな人の流れに沿って駅を出る。ぽつぽつと革靴の音を落としながら、できるだけぶっきらぼうに歩く。ガードレールの下でうずくまった黒猫が、金色の瞳を光らせて、にゃあと鳴いた。

 深夜の帰り道、空を見上げる。ビル群に切り取られた夜空は、地上の光に侵食されて自然的な美しさを損ねていた。

 同期は皆、仕事を辞めてしまった。SNSで様子を見るに、転職してからとても活き活きしていることがわかる。僕はそんな彼らを自分と比較し、勝手に落ち込む。そのあと、自分に嫌気がさす。辞める勇気が無くて、縋り付いているだけの僕には、彼らと比較する資格もないはずだと気付いていた。

 学生の頃は、まだ将来に期待があった。それはとても漠然としていたものだったけれど、少なくとも不安ではなかった。根拠のない自信が、鎧のように心を覆っていた。

 けれど、そんなものは幻想に過ぎなかった。青い春の全能感を信じてひた走った先に待っていたのは、まっさらな灰色だった。

 

 夜の色に塗りつぶされた住宅街は、まるで死んでしまったかのように閑静だ。ぺこんと鳴る靴音がやけに響く。小心者の僕は、できるだけ慎重に歩くことを心がけて、足の指先にキュッと力を入れた。

 月がそっぽを向いているせいで、足元は暗くおぼつかない。先には一定の間隔で電柱が立っており、電柱の半ほどに付いた街灯が根元を照らしている。今はその頼りない光源が唯一の救いだった。

 のろのろと歩いていると、やがて十字路が見えてくる。十字路の横にも電柱が立っている。ここを左に曲がれば、もうすぐ僕の家だ。

 ぼんやりと歩きながら電柱を見つめる。すると、その見慣れたはずの電柱に違和感を感じた。電柱そのものではなく、電柱の下の方。電柱の下に、ぽつんと人が立っている。見るからに女の子だ。

 風が吹き抜ける。四月とはいえ、深夜の風は驚くほど冷たい。運ばれてきたその風に、冷えた手を背中に突っ込まれたような感覚をおぼえ、身震いした。

 視線の先の女の子は、まるで主人の帰りを待つ忠犬みたいに洗練された佇まいをしていた。けれど、くしゅんと晒した可愛らしいくしゃみから、勝手に親しみを抱いた。

 十字路に差しかかる。街灯に見下ろされた女の子の姿がハッキリする。凍った水面のような色の長い髪に、目を見張るほどの美貌。夢にまで出てきそうな美人だ。でもその佇まいから人形と間違えてしまいそう。

 女の子は、白いシャツの上に、灰色のカーディガンを羽織っている。それだけでは寒そうだ。ひらひらと揺れる膝丈のチェックスカートが生き物みたいに蠢いて見えた。

 女の子の横に黒い大きなケースが並んでいる。あれは多分ギターケースだ。それと3泊4日くらいの大きさのキャリーケース。女の子の髪の毛とよく似た色。

 ふと、腕時計に目を落とす。時刻は深夜の1時を回っていた。そういえば、明日も仕事だったなと、場違いなことを思い出した。

 そんなことを考えていると、僕はすぐ近くに居る女の子を周りの風景と同じように認識した。あるいは、女の子を認識しなかった。

 

「あの」

 

 歪んだ拡声器を通したかのような無気力な声が、僕の意識を下手くそに引っ張って、女の子のことを再認識させた。

 僕はまず、その声が自分に向けられたものか疑った。辺りを見渡す。ただ暗かった。視線を戻すと、女の子の周りだけ街灯に照らされていて、やけに眩しかった。隣の黒いギターケースはボロボロだった。

 

「えっと、僕?」

 

 自分を指さしながらそう返すと、女の子は「はい」という二文字をあっけらかんに零して、項垂れるように頷いた。それから、沈黙が僕達の間を歩いた。それは女の子が意図したものだった。女の子は、口にする言葉を選別するように思案していた。ひどく慎重な沈黙だった。いつか、本で読んだことを思い出す。沈黙は時に詩的だ。

 

「いきなりで、驚かれるかもしれません。でも、よろしければ私のお願いを聞いて欲しいんです」

 

 女の子は丁寧に前置きをする。あるいは、それは注釈めいていた。

 

「うん」

 

 僕は冷静だった。先程まで、仕事の疲れで頭にモヤがかかっているような気分だったのに、今この瞬間、なぜか僕の思考はクリアだった。

 

「タダでとは言いません。それに、できる限りでいいんです。私を、あなたの家に泊めていただけませんか」

 

 言って、女の子が頭を下げた。花緑青の髪がゆらゆらと揺れている。女の子の言葉は、なんの質量もないはずなのに、真正面から僕の胸を強く叩いたような気がした。

 けれど僕は冷静だったので、真っ先に新手のキャッチセールスかと疑った。

 

「どういうこと?」

 

 女の子の髪の毛が深夜の風に揺れる。寒さで身震いする。女の子はまだ頭を下げている。

 

「帰る家が、ないんです」

 

 女の子の言葉がアスファルトの上に落ちる。それは落ち葉のように乾いた音を立てて転がった。

 頭の中で同じ言葉が少しノイズがかって再生される。帰る家が、ないんです。

 

「そうなんだ」

「はい」

「お金もないの?」

「はい」

 

 僕は冷静だった。正直なところ、女の子の言ったことが嘘か本当かは、どうでもよかった。そんなことは問題ではなかった。

 

「いいよ」

「えっ」

 

 ようやく、女の子が顔を上げた。死にかけの若葉みたいな瞳が揺れている。ひどく朧気で、頼りない。吸い込まれてしまいそう。

 

「なんで頼んだキミが驚くのさ」

「少し、意外で」

「初対面なのに、意外も何もないでしょう」

「それは、そうですが。ただ……」

「ただ?」

「不用心だなと、思いまして」

「あぁ、そうかもしれない」

 

 仮に、女の子が金目のものを盗むのが目的だとして、僕はそれでも構わなかった。

 

「でもそれは、キミが気にするところではないよ」

「そうですね」

 

 女の子は曖昧に頷いて、慣れた手つきでおそるおそるギターケースを背負った。なんともアンバランスな仕草だった。

 

「ついておいで」

 

 別に、キャッチセールスでも窃盗でもなんでもいいと思った。思いつきではなかった。むしろ渇望ですらあった。灰色から脱獄できるのなら、なんでもいい。

 

「はい」

 

 女の子が、何度目かの二文字を送り出した。

 

 

 

――――

 

 

 

 どうぞ、と言って扉を開けた。お邪魔します、女の子の控えめな声が暗闇に飲み込まれた。

 手探りに明かりを付ける。薄白い人工的な光が、狭苦しい玄関と短い廊下を照らした。廊下の途中、左側にはトイレと風呂のそれぞれの扉がある。右側には洗濯機と冷蔵庫、ミニキッチンがある。

 

「ごめんよ、狭くて」

「いえ。気にしません」

 

 廊下の先には10畳のワンルームがある。家具は少なく、生活に必要な最低限のものしか置かれていない。

 これが僕の暮らしている部屋。ひとり暮らしの1Kは、女の子が一人入り込んだだけで、幾分か華やかになり、どこか狭苦しくなったような気がした。

 荷物を置くスペースはあったけれど、女の子が寝るスペースを確保するのは難しいなと思った。

 

「シャワーでも浴びるかい。それともキミはお湯に浸かりたいのかな」

 

 問いかけると、女の子はそれまで守ってきた無表情のまま、いえそこまでは、と遠慮した。でも肩がふるふると震えていたから、僕はバスタオルを女の子に押し付けて、そのまま脱衣所に押し込んだ。どれだけ外にいたのだろう。

 少しして、バスルームへの扉が開く音がした。やがてシャワーの流れる音が立ち始める。僕はふっと息を吐く。

 女の子がシャワーを浴びている間、僕は晩御飯を準備する。パスタを茹でて、インスタントのソースをかけるだけだから、すぐにできた。

 テーブルには二人分の皿がギリギリ乗った。そういえば、誰かが自分の家に上がるのは久しぶりだ。昔はよく、同期と仕事の愚痴を零したりしていた。けれど、彼らはもういない。考え事をしながら自分の分を食べているとすぐに食事が終わった。食器を片付けて、冷蔵庫からアルコールの単缶を取り出す。ひと思いに酒を呷ると、刺激的な喉越しが孤独を押し流してくれたような気がした。

 女の子がバスルームから出たのが分かった。ややあって、脱衣所の扉が開かれる。髪に湿り気を残した女の子が、裸のまま僕の目に飛び込んできた。湯上りの頬は赤く色づいている。後方に、綺麗に畳まれたバスタオルが見えた。

 

「着替えが、キャリーケースの中にあって」

「そう」

 

 慎ましくもハリのある胸。お腹から腰にかけてのくびれのライン。濡れた薄い陰毛。細い手足は触れただけで折れてしまいそう。女の子の裸体は、有名な女神の彫像よりも美しく見えた。それは脳髄に直接語りかける無形の絵画だった。

 

「テーブルにご飯置いてるから、食べてね」

 

 どうしてそんなことまで、ポツリと聞こえた女の子の声は、先程までの乾いたものではなく、湯上りのせいか湿っていた。

 

 

――――

 

 

 

 僕がシャワーから上がると、女の子は灰色の上下セットのスウェット姿で綺麗な正座をしていた。ラフな格好は似合わないなと思った。

 テーブルを見ると用意した食器がなくなっていた。稼働する食器乾燥機を見て、どうやら食べてくれたらしいと分かった。

 壁にかけたアナログ時計が規則的な音を立てている。時刻は深夜の2時を回っていた。動き始めてから一切の休みもなく働き続ける秒針に哀れみの視線を送った。

 

「もう寝るよ」

 

 声をかけると、女の子は無言で頷く。沈黙は詩的だ。

 部屋にはベッドが一つだけある。シングルサイズだから、そんなに大きくはない。クローゼットの中に来客用の布団はない。女の子の寝場所どうしよう。

 悩んでいると、服の裾を引っ張られる。それはひどくささやかな呼びかけのようだった。

 応じて振り向くと、ちょうど女の子がスウェットを脱いでいるところだった。蠱惑的な裸体が至近距離にある。魅力が牙を向いて僕の心臓に噛み付く。血が溢れ出るように心拍は加速した。

 

「何をしてるの」

「お金も払わず泊めてもらう訳ですから、相応の対価を。言うなれば家賃です」

「そう」

 

 眠気でぼんやりとした頭は、面倒な思考を放棄した。女の子が僕の首に巻き付くように腕を絡める。小さくも柔らかい唇が押し付けられ、口内におずおずと入り込んだ舌先から甘い快楽が流れ込み、ゆっくりと体内で渦を巻いた。

 僕はいつものようにリモコンに手を伸ばして、部屋の電気を消す。そうすると自発的な暗闇が訪れ、ようやく一日が終わるのだと自覚する。ベッドに倒れ込むと、スプリングが軋んで悲鳴のような声を上げた。

 



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02.古びた群青色

 アラームではなく、着信音で目を覚ました。寝ぼけたままスマホを耳に押し当てて、流れてくる上司の声に心臓を凍らせた。

 生まれて初めてではないけれど、少なくとも社会人になって初めて寝坊した。話の流れで、体調が悪いということで休ませてもらうことになった。社会人になって5年、これまで一日たりとも遅刻も休んだこともなかった。それまでの信頼が、一日の猶予をもたらした。でも、初めての休みが仮病か。なんだか馬鹿らしくて、乾いた笑みが零れた。

 くしゃみをする。それで、自分が衣服を身につけていないことに気が付いた。僕は寝る前のことを思い出して、ベッドの隣の存在を見てしまわないように細心の注意を払いながら、シャワーを浴びに向かった。

 

 女の子は援交少女だったのだと、シャワーを浴びながら思い至った。多分、これまでも同じようなことをして生きてきたのだ。それは予測だったけれど、確信に近い閃きだった。

 僕は女の子のことを何も知らない。自ら進んで知ろうとも思わない。僕はただ、灰色から抜け出したいだけだった。女の子が僕を利用するように、僕もまた、女の子を利用していた。

 火照った体で部屋に戻ると、女の子はすでに起きていて、灰色のスウェット姿だった。やっぱり似合っていない。

 女の子が僕に気づいて、おはようございますと言った。僕もおはようと返す。

 

「ギターを、弾いてもいいですか」

 

 唐突に、女の子は許可を求めてきた。電気のついていない部屋の中に、窓の外から朝日が差し込んでいる。明るい光が女の子のギターケースを舐めるように照らしている。ギターケースに浮き上がる傷跡のせいで、昨夜見た時より一層ボロボロに見えた。

 

「いいよ」

 

 僕の返答を聞いて女の子は頷くと、ギターケースを開けて、中からギターを取り出した。古びた群青色のギター。女の子は竿の先のところに小さな機械を付けて、弦を触りながらネジみたいなのを回し始めた。あの行為はなんと呼ぶのだったか。僕は音楽関係に疎い。

 部屋は少し、いやかなり精神的によくない匂いがする。汗やら他の何やらが入り交じった匂い。昨日の行為を思い出して体が疼く。ただでさえ湯上りなので熱い。僕は女の子の脇を通り抜けて、部屋の窓を開けた。換気の意味合いが強かったけれど、入り込む風が意図せず心地よかった。淫らな空気と共に、女の子のギターの音色が外へ飛び出していく。カラカラに乾いた音色は、四月の空に受け入れてもらえず、宛もなくさまよっている。

 突如、ドンと大きな音がした。どうやらお隣から壁を叩かれたらしい。なんだろうと考えて、嗚呼、ギターがうるさかったのか。初めての体験に嬉しさで笑みを零す。少し、世界が変わって見えた。

 女の子は変わらずギターを弄っている。機械を外すと、今度は本格的に弾き始めた。その傲慢さは、まるで世界に女の子一人しかいないみたいだ。

 僕はこれまた精神衛生上よろしくないシーツをベッドから剥がして、洗濯機にぶち込んだ。洗濯機を稼働させると、機械的な生活音が響き始める。負けじとしてか、女の子の演奏のボリュームが大きくなる。お隣がまた壁を叩いた。さっきより力強い。女の子はギターに夢中だ。素知らぬ様子で火に油を注いでいる。その光景が可笑しくて、僕は声を上げて笑った。

 

 

 

――――

 

 

 

 昼になっても夜になっても、ご飯とトイレの時間以外、女の子はギターを弾き続けていた。手垢だらけの使い古された紙の譜面を乾いた音色でなぞっている。地に足がつかない覚束無い演奏だなと思った。

 ボロボロのギター。ボロボロのピック。ボロボロのギターケース。ボロボロの譜面。ボロボロの指先。女の子のものはなんでもボロボロだ。

 僕は元々ひとり暮らしだったから、二人分の食事を用意し続けた結果、合わせてたったの三食で冷蔵庫の中身が枯渇した。元来料理もそんなにしないから、食材を買い込んでいるわけでもない。夜になり、窓の外は暗い。窓に女の子が映っている。コンビニ弁当でも買いに行こうか。

 僕は一心不乱にギターを引き続ける女の子の肩を叩く。無表情の女の子がちょっとウザったそうに振り向いて、僕の瞳を見上げた。無気力なのに熱の篭った昏い緑の瞳は、岩のように揺るがない。

 

「晩御飯買ってくるけど、なんでもいい?」

「え……あ」

 

 女の子は突如として何かを思い出したみたいに無表情を崩した。まるで雨の日に歩いていて、たった今傘をさし忘れていたことに気づいたような顔。それは小説の余白のように微細な変化だった。ギターの余韻が、瓦礫のように部屋に積もった。

 

「コンビニ弁当でも買ってこようかと思うんだけど」

「……はい」

 

 女の子は時々、僕のことを忘れる。もしくは、この世界に女の子と古びた群青色のギターしか存在していないみたいに振る舞う。そうして、僕のことを思い出した時、女の子はそれを失態と捉えているように思う。けれど、何処かで諦観の念を感じる。女の子は、何かに取り憑かれるようにギターを弾いてしまう。

 

「じゃあ、行ってくるよ」

 

 と僕は言った。

 

「わかりました」

 

 と女の子は言った。

 コートを着て、財布と鍵をポケットに突っ込む。靴底のすり減ったスニーカーのかかとを踏み歩き、雑に履く。玄関の扉を開けて、外に出た。星の薄い夜空が街を見下ろしている。四月の夜はまだ寒い。

 振り向いて扉を閉める。ちらりと隙間から見えた仄暗い廊下の先で、女の子はボロボロのギターを抱えて俯いていた。

 

 

 

――――

 

 

 

 予期しなかったこととはいえ、折角の休みの日にコンビニ弁当とは如何なものかと考え、行き先を業務用スーパーに改めた。

 業務用スーパーで食材を買い込み、帰路に着いた。買い物袋で両手が塞がるなんていつ以来だろう。思い出せないくらい昔な気がする。

 帰りながら、昨日知り合ったばかりの女の子を一人残して家を出たのは、なかなか肝が据わっているなと思った。自分のことなのに、ひどく当事者意識の低い思考だ。僕はどこか投げやりになってしまう節がある。

 中途半端に年季の入った外観のアパート。所々が錆びた階段を上る。一歩足を乗せるたびにギシリと重たい荒涼が鳴った。

 自分の部屋の扉の前に立つ。鍵を挿して、扉を開いた。玄関の前に女の子が立っていた。僕は少なからず驚いて肩を揺らした。がさりと買い物袋が雑な主張をした。

 

「どうしたの?」

 

 僕は女の子に問いかける。玄関は狭い。扉と女の子に挟まれて、奇妙な圧迫感を覚えた。住み慣れた部屋なのに。

 女の子の指先が、僕の手の甲に触れる。冷たくて、ざらついた感触。

 女の子に手を引かれる。買い物袋を手放してついていく。ベッドに倒れるようにして引きずり込まれた。横向きで女の子と向かい合う。女の子の長い髪からサボンの香りが僕の鼻腔をくすぐった。同じシャンプーを使っているはずなのに、信じられないくらい甘くて扇情的な香りがした。

 

「今日の分です」

 

 女の子が囁いて、顔を近づける。長いまつ毛が綺麗なのに、諦念を湛えた昏い瞳が台無しにしていた。

 

「家賃なんだっけ」

「ええ、そうです」

 

 唇が触れ合う。二人しかいない空間に、ささやかなリップ音がこよりのように絡まって、ひどく遠回りな刺激を僕の下腹部にもたらした。

 女の子は必死に目を閉じている。せがむように唇を啄む仕草が愛らしい。目じりに溜まった涙が美味しそう。晩御飯はこの後か。

 女の子の後ろに窓がある。カーテンが閉められていない窓。窓に部屋の様子が映っている。ベッドに横たわる女の子の後ろ姿に隠れて、僕の姿は映っていない。すると、なんだかこのシンプルな部屋が、あどけない美しさを宿しているように思えた。

 

 

 

――――

 

 

 

「キミはセックスが好きなの?」

 

 風呂を終え、晩御飯を一緒に食べながら、僕は女の子になんとも不躾な質問を投げかけた。それはこの瞬間にはひどく不適当な言葉だったけれど、女の子は嫌な顔一つせずに口を開いた。

 

「いえ、特にそういうわけではないです」

「そうなんだ」

「はい」

 

 テーブルの中央には大きめの皿に豚肉の野菜炒めが盛られている。インスタントの味噌汁を置くスペースがギリギリで、ご飯の茶碗は左手に持っている。僕らは右手の箸を忙しなく動かしている。

 

「ただ」

 

 女の子の箸が止まる。視線が虚空を泳ぎ、ここではないどこか遠くを見つめている。まるで籠の中の鳥のように。

 

「そうすれば、男性は家に泊めてくれるので」

 

 ぼとりと、女の子の言葉が床に落ちる。僕は深い納得でそれを受け止めた。

 多分、残酷な発言だったと思う。けれど、僕はそうは思わなかった。女の子が僕を都合のいい宿主として認識しているように、僕は女の子を灰色からどこかへ連れ出してくれる可能性のある人としか思っていない。お互いがお互いを一時的な寄生先としているだけ。別にキミじゃなきゃダメな理由はない。それは女の子の方もそうだろう。

 

「でも、ご飯まで出してくれたのは、貴方が初めてでした」

「そうなんだ」

「はい」

 

 女の子が箸で白米を口に運ぶ。まるで小さな宝石をピンセットでつまんでいるみたいに、おそるおそる。

 箸の先ごと小さな唇に吸い込まれる。女の子は緩慢に咀嚼して、白い喉で嚥下した。女の子の首は細くて、綺麗で、脆そう。

 

「死にたいって思ったことはある?」

 

 それは極めて唐突な質問だった。ひどく無計画で、冷たいほどに色気がなくて、どうしようもなく極地的。

 女の子は、ただ、小さく頷いて。

 

「はい」

 

 と言った。

 僕は仄かに微笑んで。

 

「そうなんだ」

 

 と言った。

 僕はそれまで所在なげに空中で停滞させていた箸を動かし始めて、ご飯を口に運んだ。気がつけば女の子も同じように、食事を再開していた。

 

「もう、ああいうことはやめようか」

 

 僅かな沈黙を挟んだ後、僕はひどく親しげにそう告げた。

 女の子は不思議そうに首を傾げる。

 

「セックスのことですか」

「うん」

「それは、つまり、私を家から追い出したいということでしょうか」

「違うよ」

「では、なぜ」

「僕は明日から、また仕事なんだ」

 

 それがなんだと言いたげに、女の子は目を細める。

 僕はなんだか可笑しくなって、くつくつと喉を鳴らしながら、僕が留守の間、家事をしてくれると助かるよ。

 女の子は、やはり不思議そうに首を傾げた。あるいは、訝しげに目を細めた。

 



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03.霞む春の隅で

 

 朝は新聞を取っていないからテレビをつける。偏った報道だとしても、ニュースから情報を得ることは大切だ。人生の役には立たないけれど、仕事の役には立つ。

 呆とテレビを眺める。朝のニュースは世間的な話題が多い。ひどく和やかで、まるで自分自身が世界に置いていかれているような錯覚さえ覚える。あるいは、自分だけ別の世界に住んでいるみたい。

 

「できました」

 

 女の子の覚束無い声が部屋に染み渡る。カタカタと、お盆に乗った食器が揺れている。女の子の肩みたいな震え。

 小さな机に二人分の朝食が並んでいく。アンバランスに焦げたトースト、ゴキブリの背中みたいな光沢のドロドロのブルーベリージャム、それと女の子の瞳の奥に宿っているのと似たような色の珈琲。

 

「ありがとう。いただきます」

「いただきます」

 

 今日からしばらく、女の子が家事をすることになった。食事を用意するのも、洗濯をするのも、掃除をするのも、全部女の子の仕事。それがこれからの家賃代わり。セックスより大変ですね、女の子は感情の見えない表情で感想を零した。

 トーストは少し固くて苦い。ブルーベリーのジャムでは隠しきれていない女の子の不器用さがそこにはあった。慣れないことをさせて申し訳ないと思いつつ、用意してくれたありがたさを咀嚼しながら噛み締めた。

 朝食を終えてから身支度をして、仕事行きの準備を終える。玄関で革靴を履く僕の後ろに女の子が立っている。どこか懐かしくて、幻想的な構図。

 僕は靴を履いて女の子に振り向く。無気力な瞳。覗き込んだら自分の瞳まで写ってしまいそうで、僕は通り過ぎるように目を逸らした。

 

「行ってくるよ」

「はい」

「家のこと、よろしくね」

「はい」

 

 機械的な反応を繰り返す女の子。思い返せば、ほとんどの場合で、女の子は無機質だ。

 

「じゃあ」

 

 女の子と話していると、言葉の難しさを痛感する。僕はそれがひどく悩ましくて、時々、不安になる。その不安はとても漠然としている。でも多分、それは誰もが当たり前に抱いているもので、ひどくちっぽけなものだ。なのに僕達は、その不安を過大評価し、いつまでも囚われてしまう。

 

「あの」

 

 臆病な二音が、扉を開ける僕の背中をなぞる。その呼びかけは恐ろしくささやかで、躊躇いがちに袖口を引く心もとない指先の感触に似ていた。

 

「いってらっしゃい」

 

 ひび割れて、軋んだ窓ガラスの向こうから日が差すみたいに、女の子の言葉が僕の頬を撫でる。見間違いかもしれないけれど、少しだけ、女の子の口角が上がっているような気がした。

 

 

 

――――

 

 

 

 仮病明けの出勤で、上司からの第一声はお叱りの言ではなく、はたまた僕の体調を気遣うものですらなかった。残念な知らせがあると告げられた時点で僕は簡単な予想をして、伝えられた内容が見事想像と一致した時、またかとため息のような重たい納得が腹の底に降りてきた。

 どうやら、昨日で新入社員が全員辞めてしまったらしい。今年も全滅か。事実、僕の代も自分しか残っていないし、この会社に留まっている方が稀なのではという気さえしてくる。

 結局、人手不足のために今日も残業が確定してしまった。繁忙期でもないのに、慢性的に残業しないと回らない会社なんて、どう考えても危うい。僕もこの流れに乗れば辞められるのだろうか。嗚呼、でもこの思考は主体性がない。流れに乗らなければ動けない僕は、どうしようもなく矮小で臆病な寄生虫のようだ。

 仕事をしながら、女の子のことを考える。ちゃんと家事はできているのだろうか。トースターの使い方にも一苦労していたから不器用に見えたけど、やればできる子なんだろうと思う。贔屓目かな。

 そこまで考えて、違和感。たったの一日二日で情が移ってしまったか。安易に女の子を定義してしまっている。お互いに、都合よく利用し合っている関係だということを忘れてはならない。

 女の子は多分、必要最低限のことだけやって、後はギターを弾いているんだろう。その姿は容易く頭に思い描くことが出来たし、僕は同時にそうだといいと切に願っていた。

 

 

 

――――

 

 

 

 当たり前のようにクタクタになって、当たり前のように終電で帰る。

 鈍色の窓の外を眺める。過ぎゆく暗い街並み。路線の上を走る電車。外を自分の足で歩いている人がいる。羨ましいと思った。僕は電車の中からどこにも行けない羨望を送った。

 電車から吐き出されて、のろのろと駅の改札をくぐる。

 見慣れた帰路。灰色の日常。散り落ちた春の面影。

 風に飛ばされそうな霞む春の隅で、僕はささやかな足音を落とす。暗い夜道に響く硬質な靴音は誰にも拾ってもらえない。それは僅かな余韻を残して消えていくだけだった。

 子どもの頃は、こうして深夜の道を歩くことは出来なかった。けれど、それが今では当たり前のように日常の一部と化している。あの頃は、帰路に着く時にはいつも隣に友人の誰かが居た。確かにあった安心感は今は遠く、暗闇に僕はただ独りだった。

 時折、今と昔を比較しては虚しくなる。なんのために生きているんだろうと、ふとした拍子に考えてしまう。いつだったか、人生は生き地獄のようだと思った。先の見えない不安に押し潰されそうだった。

 見慣れた十字路に差し掛かる。そこにはぽつんと一本の電柱が立っている。付随した電灯が、今は何故だかひどく眩しく映った。

 そこを左に曲がると、直ぐにアパートに辿り着く。錆び付いた階段を上る。階段が軋む音、革靴が薄い金属を叩く音。それらの音に混じって、乾いたギターの音色が聞こえる。理解が及ぶと、思わず口角が上がった。

 自分の部屋に近づくにつれて、ギターの音色が鮮明になる。扉の前に立つと、紙が貼ってあるのが分かる。随分と大きく乱暴な字で、ギターの演奏が五月蝿く迷惑だ、ということが書き殴られている。僕はその紙を乱雑に引き剥がして、ぐしゃぐしゃに丸めて上着のポケットに突っ込んだ。四隅の千切れた紙の端がセロテープと共に取り残された。

 鍵をあけて扉を開く。だらだらと流れる錆び付いた音が僕を出迎えてくれた。

 

「ただいま」

 

 女の子は応えない。女の子は部屋の奥で一心不乱に群青色のギターを弾いている。何かに囚われているように、何かに追われているように。

 僕の声が聞こえていないみたいだ。おそらく実際にそうで、今日だって扉に紙を貼られる前に、先日のように壁を叩かれたり扉の前で騒がれたり、幾つか犯人からの抗議があったに違いない。

 でも女の子には届かない。

 女の子がギターを弾く時、その世界はひどく孤独で、隔絶されている。僕たちは同じ世界に居ない。外の世界の住民である僕らが干渉することはできない。女の子がその鎖された世界の片隅で、気まぐれのように予測のつかない開港をする瞬間を待つしかない。

 部屋の隅に荷物を置いてスーツを脱ぐ。スーツは着ると気が引き締まるけど、脱ぐと逆に気が抜ける。

 女の子がギターを弾いている間に風呂に入る。浴槽には湯が張られていたけどもう冷めていたから、熱めを足して入れるようにした。シャワーを浴びている間にギターの音色は枯れてしまった。けれど、僕の耳の奥には、あの乾いたメロディがこびり付いて離れなかった。

 浴室から出ると、感情の読み取れない表情の女の子が全裸の僕を迎えた。

 

「おかえりなさい」

 

 と女の子は言った。

 

「ただいま」

 

 と僕は言った。

 その何気ないやり取りはひどく郷愁的で、胸に突き刺さる。朝と同じような感覚が僕の心臓を揺さぶった。

 

「いつの間に帰っていたのですか」

 

 女の子の瞳は夜の奥みたいに昏い。本来であれば淡緑色であるはずのそれは、今はひどく濁っている。

 

「ついさっきだよ」

「帰ったのなら言ってくれれば」

「キミの邪魔をしたくなくて」

「そう、ですか」

 

 女の子との会話は続かない。いつものことだ。けれど、今は何故か、それを心地よく受け入れることができた。

 

「夕食を用意します」

 

 言って、女の子は脱衣所から出ていく。僕はくしゃみを零す。そういえば、まだ体を拭いていなかった。

 着替えて部屋に戻った頃にはもう食事が用意されていた。時間から考えて、今作った訳ではないようだ。

 

「いつ作ったの?」

「お昼です」

 

 要するに残り物らしい。いや、それにしては量が多いから、夕食も見越して作ったと考えるべきだろう。片手間のものとはいえ、誰かの手作りを食べるのは久しぶりだ。見た目は正直、良くはない。肉がところどころ焦げていたり、野菜の切り方がアンバランスだったり。けれど、それが寧ろ食欲をそそった。

 いただきます、二人で合唱して夕食を食べる。そろそろ気温が上がってくる時期だ。体を拭くのが遅れた割には、湯冷めしなかった。

 



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