月を見上げる君がいるから (世嗣)
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月を見上げる君がいるから

アニメの真菰が破茶滅茶に可愛かったのでムラっときて書きました。




 

 

 

 

 

 

 男として生まれたなら強くならなければならないと思う。

 

 強くないと守れないからだ。親とか、兄弟とか、友達とか。後は仲良くしてくれる近所の人だとか、知らない人だって守れるなら守ってあげたい。

 

 そして何より、自分の一番大好きな女の子を守ってあげられない。

 

 だから僕は強くなりたかった。

 

 才能がなくても、まだ若くても、足が遅くても、力が強くなくても、鬼には敵わなくても、勝てない相手がいるのだとしても、大好きな女の子を守れるだけの力が欲しかった。

 

 だから僕は、死ぬほど鍛えた。

 

 結局できるのはそれだけだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「龍児、お前は鬼狩りに向いていない」

 

 そう言われたのは狭霧山に来て何年目のことだったろうか。

 

 いや嘘。今でもはっきり覚えている。僕が九つの時、つまり狭霧山に来て九年目の事だった。

 

 その日はとても暑い日でこれでもかというほどに強くお天道様が顔を出していてぎらぎらと照らしていたんだ。

 

「向いてないんですか、僕」

 

「言い換える。お前は鬼狩りにはなれない」

 

 一応聞き返してみたけど聞き間違いではなかったらしい。

 

 鱗滝さんは夕餉の支度をしている僕に何時もの天狗の面の向こうからそう言った。面越しで多少はくぐもっていたけれど僕たちが鱗滝さんの言葉を聞き間違えるはずないもんな。

 

 僕はすっごく小さな時に親に捨てられるなり、親が途中で死ぬなりして狭霧山の麓に転がっていたらしい。

 ぎゃんぎゃんと泣き喚き、数刻もすれば山の中にいる(しし)なり山猫なり──若しくはもっと恐ろしいもの──にとって喰われるところだった僕を助けてくれたのが、この鱗滝さんだ。

 

 それ以来僕は人里離れた狭霧山に住む鱗滝さんに、同じ様に拾われた子どもや鱗滝さんに師事する人と一緒に暮らしている。

 

 鱗滝さんは『育手』だ。

 体いっぱいに空気を取り込むことによって身体能力を飛躍的に向上させることのできる特殊な呼吸法《全集中の呼吸》という技術を伝授する事を生業としている。

 《全集中の呼吸》を用いれば人の目には追えない速度で動いたり、岩を斬ったり、はたまた極めれば延命すら可能になるらしい。

 

 じゃあ埒外の技術《全集中の呼吸》で何を狩るのか、と聞かれれば答えはシンプルに一つとなる。

 

 ──鬼。

 

 人喰い鬼。生き血を啜り、殺し、嬲り、生命を犯す。『日常』の破壊者。

 

 《全集中の呼吸》はその為に存在し、人喰い鬼を狩る事を生業とする者たちを『鬼殺隊』と言うのだ。

 

 そして鱗滝さんに育てられた子どもたちは鬼殺隊を目指しており、僕もまたその一人だった。

 

 けれど、この日僕は鱗滝さんにきっぱりと言われてしまった。

 

「お前は鬼殺隊になるには身体能力が足りん」

 

「生まれつき骨は硬いがそれだけだ」

 

「このままではお前は最終選別にも生き残れない」

 

「儂はむざむざ子供を殺すつもりはない」

 

 そう淡々と言われてしまった。

 

「んだけども、真菰はどう思う?」

 

「それって私に言っちゃって良かったの?」

 

「駄目だったかな?」

 

「駄目じゃないけど、龍児が私に言うとは鱗滝さんも思ってなかったと思う」

 

 何時ものでっかい岩に腰掛けて僕と話すのは真菰だ。彼女は僕と同い年で同じように鱗滝さんに育てられた子供だ。物心がついた頃からずっとそばにいたから、たぶんずっと側にいたりするんじゃないだろうか。勘だけど。

 

「しかし、やっぱり僕は鬼狩りに向いてなかったか」

 

「龍児は足が遅いもんね。それに鈍臭い」

 

「それは真菰が速すぎるせいもあると思うよ」

 

「そうかな」

 

「そうだよ。真菰は速くて巧くて僕じゃ何も敵わない。勝てるのは芋転がしくらいだ」

 

「ふふ、ご飯作ってる時の龍児の方が龍児っ『ぽい』よ。私はあの龍児の顔好き」

 

「でもだからといって諦める理由にはならないんだ。なあ、真菰」

 

「なに?」

 

「僕も真菰達みたいに強くなりたいんだ。どうやったらなれるだろう」

 

 岩に背を預けて首を上に向けて真菰に問う。

 ふ、と真菰が春に野花が咲くように、よもすれば見逃してしまいそうなほど自然に頬を緩ませた笑みを見せた。

 

「死ぬほど鍛える。やっぱりできることはそれだけだと思う」

 

「だよね。僕もそんな気がしていたんだ」

 

 よーし、やっぱり鍛えるしかない! 死ぬほど素振り! 死ぬほど走り込み! 死ぬほど体力増強! とにかくやりまくるぞ!

 

 えいえいおー! と拳を振り上げると、くすくすと真菰が身を震わせた。

 

 真菰はとても可愛らしい女の子だ。花柄の着物に艶やかな水に濡れたような黒髪。タレ目がちでほんわりとした不思議な瞳は深い森の緑色。

 

 そんな真菰が笑うと僕は胸の中がいつもふわふわして、なんだか嬉しくなってしまう。

 

「やっぱり真菰は可愛らしいなぁ。錆兎よりも真菰の方が兎みたいだ」

 

「誰が何だって、龍児」

 

「げ、錆兎」

 

「陰口を言うとは何だ、それでも男か」

 

「陰口じゃないよ錆兎。ただ真菰は可愛いなあって話だよ」

 

「だからと言って俺の名前を引き合いに出さなくてもいいだろう」

 

 いつの間にか僕の背後にはおんなじ鱗滝さんに育てられた兄弟子、錆兎が立っていた。宍色の髪に頬を走る大きな切り傷が目を引く少年だ。

 

 錆兎がどむどむと僕の頭を叩いていると、隣にいた黒髪の少年が錆兎の肩を軽く叩いた。

 

「錆兎、龍児は才能がないって言われたばかりなんだ、もっと優しくするべきだろう」

 

 労わるように僕を見て錆兎を諌めたのは錆兎と同い年の義勇さん。この人だけは鱗滝さんに拾われたんじゃなくて自分から師事を願い出た人だ。

 

「きっと傷ついてるんだからもっと労わるべきだ、錆兎」

 

「義勇、お前……」

 

「うん? 人には優しくするのが普通だ。それが弱者ならなおさらだ」

 

「ははは、義勇さんは悪気がないのがわかるから却って怒りにくいなぁ」

 

 そうか? とムフフと含むように笑う義勇さん。

 

 何というか、今の会話でわかる通りこの人は社交性がないというか、一言多いんだか少ないんだか、配慮に欠ける事をつい言ってしまう人だ。しばらく一緒にいれば間違いなく良い人だってのはわかるんだけど。

 

 錆兎が額を抑えて溜息を吐くと、僕たちの会話をぼんやりと聞いていた真菰に声をかけた。

 

「真菰、組手だ。行くぞ」

 

「うん、わかった」

 

 ひらり、と真菰が岩から飛び降りると錆兎と義勇さんに並んだ。

 

「あ、錆兎僕も行くって」

 

「いやお前は駄目だ。型がまだ四つしか使えないだろう」

 

「う」

 

「俺と義勇は来年最終選別だ。暫くはその為の訓練も増える」

 

「で、でも真菰は行くんだろう」

 

「真菰は龍児と違って全部型を使えるから足を引っ張ったりしない」

 

「義勇」

 

「? 間違ったことは言っていないだろう」

 

「……そうだな、だからお前はタチが悪い」

 

 こてんと首を傾げる義勇さん。

 

 錆兎が軽く僕の肩を叩く。

 

「俺は龍児を信じる。お前ができる男だと思っている」

 

「なんで?」

 

「お前は頑固だからだ。きっと何と言われても諦めない」

 

 ……そこまで言ってくれるなら頑張らなきゃな。

 

「ああ、それでこそ男だ」

 

 頭をわしわしと撫でられる。そして次の瞬間にはひゅっと三人はあっという間に目の前から消えてしまった。

 きっと僕ではまだいけない狭霧山の深くに行くんだ。

 

「悔しいなぁ」

 

 錆兎と義勇さんに負けちゃうのは、まあ仕方ない。

 錆兎は格好良い。己の厳しくて他人に優しい理想の男だ。

 義勇さんは不思議なところがあるが他人を慮れる心がある。言葉にすると伝わりにくいだけだ。そして錆兎と同じかそれ以上に才能がある。

 それでいて二人とも僕より三つも歳上だ。

 

 けど真菰は違う。

 あんなに華奢で剣なんて似合わない見た目なのに、同い年の僕よりも立派に戦える。

 それは悔しい。男なら女の子よりは強くありたい。守ってあげられるくらいになりたい。

 

「……まあでも、真菰には錆兎がいるからなぁ」

 

 あの二人はほとんどおんなじ時に拾われて育ったそうだからとても絆が強い。態々(わざわざ)僕なんかが守る必要なんてないのかもしれない。

 

「よし、取り敢えず死ぬほど鍛錬をしよう」

 

 才能がない。結構、なら死ぬほど鍛錬をして鱗滝さんを見返してやろう。

 

 よーし、僕も真菰や錆兎や義勇さんみたいに水の呼吸をガンガン使えるようになるぞ!

 

 

 それからは僕は死ぬほど鍛えまくった。

 

 これは比喩の『死ぬほど』じゃなくて本気で、死ぬかと思うほどって意味だ。

 

 狭霧山の一歩間違えば死ぬような罠がそこいら中にある山道をお天道様が登る前から沈み切るまで延々と周回したり、滝に命綱無しで飛び込んで水を感じてみたりだ。勿論素振りも欠かさない。

 

 そして錆兎に頼んで稽古だってつけてもらった。

 

「──ぐ、がぁっ」

 

「遅い。鈍い。脆い」

 

 木刀による突きをくらってごろごろと転がる。

 突かれた肩がじくじくと痛む。

 いくら真剣でないとは言え叩かれたら痛いし、痛いと心が折れそうになる。

 

「はあ、はあ、はあ……」

 

「どうする、もうやめておくか」

 

 問われて、ふと、視界の端にいつもの様に岩の上に腰掛ける真菰の姿が映る。

 

「冗談! こんくらいで、寝てられない……!」

 

「良い顔だ、それでこそ『男』だ、龍児」

 

 集中、集中、身体の細胞一つ一つに意識を向けろ。

 

 ──《全集中・水の呼吸》

 

 ヒュゥゥゥゥゥゥ、と風が逆巻くような音と共に身体に大量の空気を取り込む。狭霧山の薄い空気を吸い尽くすように肺に取り込み、心臓を通して血管の一本一本まで、血液の隅から隅まで空気を行き渡らせる。

 

 震、と空気の鳴動だけが耳に届く。

 

「来い!」

 

「ぜ、ああああああッ!」

 

 裂帛の気合の怒号の刹那で、木刀が弾けて轟いた。

 

 またある日はもうめちゃくちゃに飯を食べた。

 

「龍児は一杯食べるね」

 

「風の噂で聞いたんだ! 食事をすれば健やかな身体になるんだって! もしかたら呼吸だってもっと上手くなるかもしれない!」

 

「鱗滝さん、そうなの?」

 

「極稀に非常に胃袋が大きく力が強い特異体質の者もいる。龍児がそうだとは言えんが、食事は力になる。悪いことではあるまい」

 

 まあ何にせよ飯を食うのは悪いことではないわけだ。

 うむ、こういう時に飯当番が自分だとある程度融通が利くからいいな。

 

「義勇さんはあんまり食べないんですね」

 

「……俺は龍児ほど食べられないからな」

 

「義勇は燃費がいいんだね。いつもぼんやりしてるからかな」

 

「それは真菰もだと思うがな」

 

「ええ、そうかな」

 

「もっと義勇も食べて良いんだぞ」

 

「いえ、俺はこれで良いです」

 

 義勇さんの膳には僕の半分、錆兎の三分の二ほどしか飯がない。まだ九つの真菰とおんなじくらいしか食べていない。

 

 義勇さんだって半年後には錆兎と一緒に最終選別なんだ。生をつけて欲しいんだけど……そうだ。

 

 義勇さん、以前アレ好きだって言ってたな。

 

「義勇さん、はいご飯!」

 

 こんもりと麦飯が山盛りの茶碗を義勇さんへと渡すと、ほんの少し眉を顰められる。

 

「龍児、俺は」

 

「まー、そう仰らず。こいつを見てから決めてくださいな」

 

 台所の真菰に声をかけるとすっと真菰が器を差し出した。

 

「鮭大根?」

 

「義勇さん好きだって言ってましたよね」

 

 む、目を丸くされてしまった。

 

「いやまあ、なんというか、景気付け? みたいな。お姉さんのには程遠いでしょうが、一応頑張って作ってみました」

 

 以前義勇さんが錆兎と話している時に「姉の作る鮭大根は好きだった」って言っていたのを思い出したのだ。僕は作り方を知らなかったから麓の村まで行って知っている人に教えてもらった。

 

 義勇さんは暫くじいっと鮭大根の器を見つめていたが、箸を手に取ると大根に箸を入れて、ぱくりと一口頬張った。

 

「……美味いな」

 

 ほわ、と義勇さんが口角を緩めて優しい表情を見せた。

 

「良かったな、義勇」

 

「うん。…………龍児」

 

「はい?」

 

「これからも時々作ってくれるか、鮭大根」

 

「勿論ですとも」

 

 その日は、義勇さんもやたらとご飯をお代わりしたのを覚えている。

 

 

 またある日は、瞑想をしてみることにした。

 

「ーーーーーー」

 

 皆んなが寝静まった辺りで狭霧山の滝辺りまで行く。そしていつも飛び込みをする時の崖で座禅を組むと静かに目を瞑った。

 ヒュウヒュウと小さく息を吸いながら心の波紋を静めていく。

 

 瞑想は集中力が上がるんだと鱗滝さんは教えてくれた。

 

 錆兎よりも力がなくて、義勇さんより才能がなくて、真菰よりも足が遅い僕は、せめて集中力くらいは高めてやろうとよく瞑想をする。

 

 聞こえるのは鳥の囀り、葉の擦れ合う森の鳴き声、爆発するかのような滝の叫び、己の呼吸、心臓の鼓動。

 

 思い出すのは鱗滝さんの教え。繰り返し繰り返し決して忘れることのないように頭に刻み付ける。

 

 嗚呼、糞、僕はどうして弱いんだろう。

 

 鍛え始めた年は真菰と同じだ。聞けば錆兎も同じ歳の頃剣を握ったそうだから皆んなが贔屓されているということはない。

 なのに僕だけ置いていかれて、あまつさえ遅れて師事した義勇さんにも追い抜かれた。

 

 強くなりたい。『男』なのだから誰よりも強くなりたい。

 

 ヒュウ、ヒュウと全集中の呼吸を意識して夜の空気を肺に取り込んでいると、不意に頭に何かが載せられた。

 

 ふわり、と香るこの香りは、シロツメクサだと思う。座禅を解いて手を伸ばすと、どうやら載せられたのは花の冠らしいということがわかる。

 

 僕にこういう事をするのは一人しかいない。

 

「真菰」

 

「こんな夜中に何してるの、龍児」

 

 滝の前で瞑想をしていた僕の隣に、真菰がちょこんと腰掛けた。

 

「瞑想だよ。きっと何かの役に立つ」

 

「夜はちゃんと寝ないときついよ。明日も朝早くから錆兎に稽古をつけてもらうんでしょ?」

 

「うん、でも努力はしてもしたりない。三年後には僕も行くんだ。ちゃんと鍛えておきたい」

 

「三年後、私たちが十三の時だね」

 

「うん、十三の時だ」

 

 夜の闇の中でぶらぶらぶらぶらと足を振る真菰。

 月明かりに照らされた真菰の横顔はとても綺麗だ。背後の滝との対比で際立った深い森の様な色の瞳。白雪のような肌は、髪の色と同じ夜の闇に良く映えている。さながら絵の中から抜け出してきたかのようだった。

 

 きっと『可愛らしい』という単語は真菰のためにある言葉なんだろう。

 

 本当は違うのかもしれないが、少なくとも僕にとってはそうだ。

 

「ねえ龍児」

 

「なに真菰」

 

 ぼう、と月を見上げたまま真菰の口が動く。

 

「どうして諦めないの」

 

 何が、とは聞かない。聞くまでもない事だ。鱗滝さんも錆兎も義勇さんも聞いてはこないけど、たぶん心の奥ではおんなじ事を思っていると思う。

 

「龍児は弱いよ。たぶんどんなに鍛えても錆兎みたいにはなれないよ」

 

 そこでも錆兎の名前が真っ先に出るんだなぁ。

 ぽりぽりと頭をかきながら同じように空を見上げる。

 

「……月は綺麗だよな」

 

「え?」

 

「とても綺麗だ。それはみんな思う。

 月みたいに綺麗になりたいって思う人はいるかもしれない。

 月みたいに綺麗だって言われる人もいるかもしれない。

 でも月そのものになれる人はいない。でも僕らは月を見上げる事をやめたりしない」

 

 夜闇の中の三日月は、鬼の時間である夜に置いておくのが勿体無いほどに、眩しく光る。

 

「僕は強くなりたい。例えなれないんだとしても諦めたらそこで足は止まってしまう。

 『男』に生まれたからには進むしかないんだ。辛くてもやめたくなっても、進んで進んで、進み続けるしかない」

 

「……それ錆兎も言ってた奴だね」

 

「バレちゃった? 自分流に改変してたんだけど」

 

「ふふ、うん。ちょっと龍児が言うには熱苦しすぎた」

 

 くすくすと真菰が笑う。

 

「でも嫌いじゃないよ、その考え方」

 

 なら良かった。

 いつか、君の横で同じ事を言って似合うぐらいには強くなれたらいいな、なんて思ってるんだよ、僕はさ。

 

 

 そうして僕は相も変わらず四つしか型が使えないまま半年が過ぎて、錆兎たちが最終選別に赴く日になった。

 

「じゃあ行ってきます、鱗滝さん」

 

「行って参ります」

 

「必ず生きて戻れ、錆兎、義勇」

 

 がっしと鱗滝さんが錆兎と義勇さんを抱いた。

 ここ数年、鱗滝さんの下を巣立った剣士で生還した人は()()()いない。きっと鱗滝さんも不安なんだ。

 

 錆兎が鱗滝さんの腕の中で抱かれたまま、さっき貰った狐の面をズラして、僕と真菰を見た。

 

「真菰、龍児、行ってくる」

 

 わしわしと錆兎が僕らの頭を荒っぽく撫でる。

 

「錆兎、怪我しないでね」

 

「勿論だ。俺は今回の最終選別、誰も死なせるつもりはない」

 

 さらっと凄い事を言う錆兎。

 でもきっと錆兎の事だから本当にそのくらいやってのけるのだろうなと思ってしまう。

 

「義勇さん、頑張って下さい」

 

「……ありがとう、龍児」

 

 義勇さんは表向きはいつもと変わらないけど少しだけ声が震えている。何だかんだで緊張しいな人だ。ここは少し勇気付けておこう。

 

「僕、鮭大根用意して待っておきます! 無事に帰ってきたら五人でまた食べましょう!」

 

 鱗滝さんと、錆兎と、義勇さんと、真菰と僕で。

 

「ああ、それはいいな」

 

 義勇さんがにっこり僕らに笑いかけてくれた。

 

 二人が鱗滝さんから渡された日輪刀を帯刀して、最終選別の舞台である『藤襲山』に向かう。

 そこには鬼殺の剣士たちが捕らえた『鬼』たちが閉じ込められており、その山の中で七日七晩生き残れれば、晴れて鬼殺隊の一員となる。

 

「錆兎たち、帰ってきてくれるかな」

 

「帰ってくるよ。錆兎も義勇さんも岩を斬ったんだ。鬼なんかには負けないよ」

 

「……そうだと、良いな」

 

 

 僕はこの時わかっていなかったんだ。人の死なんてのは酷くありふれていて、きっと自分にも等しく訪れるって事を。

 

 

 

 

 錆兎が死んだ。

 

 

 それを伝えてくれてのは義勇さんだった。

 

 左目を包帯で覆った義勇さんは呆然とした僕たちにとつとつと最終選別のことを語ってくれた。

 

「錆兎はとにかく強かった」

 

 義勇さんは山に入って暫くは一人で戦っていたらしい。けれど、やがて十体余りの鬼に囲まれてしまった。

 なんとか三体は倒したものの、頭にに傷を受けてしまったのだそうだ。最早此処までかと思った時、錆兎が駆けつけてくれたのだと。

 

「錆兎はあっという間に七体の鬼を屠ると俺を他の少年に託して、助けを求める声を聞いて山の奥へと行ってしまった」

 

 義勇さんは淡々と話を続ける。

 

「俺は意識が朦朧としていて、気づいたら七日の最終選別は終わっていた」

 

 過去例に見ないほど多くの人間が隊士となったらしい。

 そして、死んだのはたった一人、錆兎だけ。

 

「きっと錆兎が粗方鬼を倒してしまったんです。話を聞く限り、彼は、七日目に消息を絶った」

 

 義勇さんが手が白くなるほどに強く拳を握っている。右目と包帯の隙間からは透明の雫が溢れ、頬の輪郭をそって落ちる。

 

「……嘘」

 

 ぽつりと真菰が呟いた。

 

「そんなの、嘘」

 

 彼女の緑の瞳を水の膜が覆っている。

 

「そんなの嘘ッ! 錆兎は、錆兎は……!」

 

 ぼろり、と膜が決壊するように雫が溢れた。すると真菰はそれを隠すように慌てて手で覆うと、小屋を出て駆け出した。

 

「真菰!」

 

「よせ龍児!」

 

 後を追おうとしたけど服の裾を鱗滝さんに掴んで止められた。

 

「でも鱗滝さん真菰は泣いて……!」

 

「少し、待ってやれ。人には、見せたくない顔もある」

 

 鱗滝さんの表情は天狗の面に隠されていてわからない。

 でも、わかる。鱗滝さんも今とても悲しんでいる。生まれた時からこの人に育てられたのだ、わからないはずがない。

 

 目を閉じると錆兎のことを思い出しそうになる。

 

 だから僕も必死に歯の根を噛んで、無理矢理に笑みを浮かべてみせる。

 

「義勇、さん。鮭大根、食べませんか。今回のはかなりの自信作で……」

 

 そうだ、みんなでご飯を食べよう。錆兎はいないけどみんなで食べればきっと……。

 

 だが、そんな僕の提案にも義勇さんは小さく首を振るだけだった。

 

「俺は、もう此処にはいられない。せっかく作ってくれたが、俺には食べる資格もない」

 

 それが義勇さんと交わした最後の言葉だ。彼はふらりと立ち上がると鱗滝さんに深く頭を下げるとそのまま狭霧山を後にした。

 

「……鱗滝さん、僕、真菰を探してきます」

 

 きっと真菰は泣いている。そんなの放っては置けない。

 

「……そうか」

 

 鱗滝さんは小さく頷くだけで今度は止めようとはしなかった。

 小屋を出ると狭霧山の中に入る。

 

 薄い霧のかかる山道を走っていると、涙が自然に溢れそうになる。

 

「糞、泣くな、泣くいちゃ、駄目だ」

 

 この山は錆兎との思い出が多すぎる。

 この山道では前を走る錆兎の背中をいつも追っていた。

 あっちの岩の前では何度も錆兎に稽古をつけてもらった。

 そこの木に二人で登っておにぎりを食べたことがあった。

 

 ただ此処にいるだけで錆兎の姿が、声が、目蓋の裏に蘇ってきて、じわりと視界が歪むのを感じた。

 

 駄目なんだ、僕は『男』だから、軽率に泣いてはいけない。強くなきゃいけないんだよ。

 そんなこと、わかっているのに。

 

「──く、そ、錆兎ッ……」

 

 心の刃が(こぼ)れて、堪えきれなかった涙が目蓋から(こぼ)れる。

 必死に目元を抑えて次から次に雫があふれてでて、霧の中に溶けていく。

 

 そして、走って走って、真菰を見つけた。

 

 彼女はいつか僕が瞑想していた滝の前で、膝を抱えると声をあげて泣いていた。

 

「錆兎、さび、と…………」

 

 真菰が泣いているのなんか初めて見た。

 真菰が大声を上げているのなんて初めて見た。

 

 いつも微笑みを絶やさなかった真菰。

 不思議な目でどこかを見ていた真菰。

 落ち込んだ僕を励ましてくれた真菰。

 

 今の彼女はそんな僕の記憶の中にある彼女とはあまりにも違って、真菰がどれほど錆兎を大切に思っていたかが痛いほどに伝わってきた。

 

「真菰…………」

 

 何かを話しかけようとして、泣いている真菰に手を伸ばす。けど、名前を読んだ後の言葉が続かない。

 

「龍、児……さび、とが……、ごめん、わたし……」

 

「良いんだ、何も言わなくて良いんだ」

 

 まるで幼子のように涙を流す真菰を抱いて軽く背中を叩く。すると真菰はまるでえづく様に錆兎の名前を繰り返し読んで僕の服を涙で濡らした。

 

 

 ……僕は一体、この時の真菰に何と言ってあげれば良かったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 錆兎が死んで一年が経ち、二年が過ぎて、三年目がやって来た。

 

 三つも歳上だった錆兎はいつのまにか同い年になってしまった。

 

 あの日以来、真菰は錆兎の名前を全く出さなくなってしまった。

 そうしてまるで自らを追い詰めるかのように過酷な鍛錬を己に課していた。

 三年前に全部使えた型の練度は研ぎ澄まされ、威力は錆兎や義勇さんに及ばないものの、その速度は誰よりも速くなっていた。きっと、今では鱗滝さんでも真菰には及ばないかもしれない。

 

 義勇さんは鬼殺隊の一員として頭角を現しているらしい。風の噂で聞いただけだが、何でも先日上位の鬼の一人を倒したらしい。

 

 そうして、僕は三年経って最終選別を受けられる歳になっても、型が四つしか使えないままだった。

 

 

 

 斬、と僕と鱗滝さんの目の前で真菰が岩を斬ったのは最終選別の半年前だった。

 

「まさか、本当に……」

 

 鱗滝さんが呆然としたように声を漏らした。

 きっと女で小柄の真菰が岩を斬るのはずっと先だと思っていたんだろう。もしくは斬れないと思っていたのかもしれない。

 

「岩を、斬りました、鱗滝さん、私も最終選別に行っていいですか」

 

「ああ、認めんわけには、行くまいよ」

 

 軽く頭を下げて、荒い息で声を漏らす真菰。

 最終選別に行くには岩を斬って鱗滝さんに許可を貰わなければならない。それは錆兎も義勇さんも、今までの人達もそうだった。

 そして今、真菰も岩を斬って最終選別の場所である藤襲山に行く権利を手に入れた。

 

「真菰、君は藤襲山に……」

 

「うん、行く。私も、鬼殺隊に入る」

 

 そう言う真菰の瞳に迷いはなかった。深い森の色はそのままにその奥には昏い決意が宿っている。

 

「龍児は、どうするの?」

 

「僕は…………」

 

 そんなの君について行きたいに決まっている。けど、それができない。

 僕は型が全て使えないし、それにまだ岩が斬れていない。

 

 真菰が岩を斬った夜、僕山深くにある岩の前に行ってみた。

 

 しめ縄の巻かれた身の丈にも迫るほど巨大な岩。

 

 手を触れると、ヒュゥゥゥ、と教えられた《全集中の呼吸》で深く息を吸い込む。身体の隅々にまで空気を行き渡らせると、刀に手をかけ抜き放ち、正眼に構えた。

 

「──シッ!」

 

 最大限に力を込めて、鱗滝さんの教えを、錆兎との稽古を、三年間続けてきた鍛錬の成果を集約し、目の前の岩へと振り下ろした。

 

 そして響く、カキン、という刀が弾かれる音。じいん、と手の先から肩まで痺れが伝わって思わず刀を取りこぼす。

 

「僕は、岩が斬れない」

 

 わかる。わかってしまう。龍児という人間は余りにも非才だ。これは刀を振るということだけではなく、水の呼吸に身体が順応出来ていないと。

 

 ずっと錆兎の背中を見て過ごしてきた。

 真菰の隣に立ちたいと思って強さを求めてきた。

 

 でも、僕はあの二人に追いつけない。

 

「糞、糞、なんで、なんで僕は強くなれないんだ……!」

 

 地面に拳を打ち付けると、悔しさから目頭が熱くなった。次に瞬きしたら涙が溢れそうで、慌てて上を向いて堪えた。

 

 見上げた夜空には無数の星と、僕なんかが見上げるにはもったいない三日月が浮かんでいた。

 

 あの日、真菰と二人で見た三日月。

 

 僕はどうすればいいんだろう。真菰について行くべきなのか、行かないべきなのか。

 もう、諦めてしまうべきなんだろうか。

 

「逢いたいよ、錆兎……」

 

 呟いたのは今まで決して口にしていなかった弱音。

 

 

 

 「死人に縋るな! 見苦しい!」

 

 

 

 ふと、声が聞こえた。

 

 今の、声は。

 

「錆、兎……」

 

 弾かれるように振り返って、息を呑む。

 

 そこに、錆兎がいた。

 

 宍色の髪、頬を走る大きな切り傷。そして鱗滝さんからもらった狐の面に日輪刀。

 

 見間違えようがない、三年前の最終選別の日に別れた錆兎の姿そのものだった。

 

「な、なんで……」

 

 ふらりと幽鬼の如く立ち尽くす錆兎に手を伸ばそうとして、ばちん、と横っ面を思いっきり張られた。

 

「さ、錆兎」

 

「弱い。脆い。鈍い。腑抜けたな、龍児」

 

 錆兎はへたり込んだ僕にそのまま言葉を続けた。

 

「何故お前は鍛え続けない! 努力を諦めようとしている! 俺との稽古の中で言った言葉は嘘だったのか!」

 

「そ、そんな、こと、そんなことあるわけがないだろッ!」

 

 巫山戯るな、巫山戯るなよ。

 錆兎の襟を掴むと、至近から目をにらんで吠える。

 

「僕が今までどれだけやってきたと思うんだ! 死ぬほど鍛えた! やれることは何だってやった! あんたに、錆兎に追いつきたくて頑張ってきたんだ!」

 

 三年の間に錆兎との背の差は無くなってしまっていて、見上げていた顔も、今はもう見下ろせてしまう。

 

「でも、でも、駄目なんだよ。わかってしまうんだ、()()()()()()()()()()()()()()。守るなんて、夢のまた夢なんだ」

 

 自然と襟から力が抜けて、地面に崩れた。

 そんな僕の頬を錆兎はまた張る。唇が切れて、口の端から一筋の血の川が流れた。

 

「その顔は何だ! その涙は何だ! その涙で人を守れるのか! 真菰を守れるのか!」

 

「──ッ! 死んじまった奴が好き勝手言うな! 錆兎さえ生きてればこんなに迷うことなんてなかった! 真菰だって、錆兎が守っていれば……!」

 

 張られた頬が熱を持つ。歪んだ視界を元に戻そうと必死に目を擦るが、次から次に雫が出てしまう。

 

「なんで、なんで死んだんだ、錆兎……」

 

「……人はいつか死ぬ。それは強き者も、弱き者も、若き者も、年老いた者も同じだ。俺はそれが少し早かっただけだ」

 

 なあ龍児、と錆兎が僕の肩に手を乗せた。

 

「龍児は真菰が大切か」

 

「そんなの、当たり前だ……」

 

 でも、僕は弱い。僕に真菰を大切だとか、守りたいだとか言える強さはなくて、だから強くなろうとしたけど、それも駄目だった。

 

「錆兎、僕はどうすればいいのかな」

 

「そんなこと死人に聞くな。決めるのはお前だよ、龍児」

 

 だが、と錆兎が膝をついて僕と目線を合わせた。

 

 

「お前が『男』なら誰かの為に強くなれ。辛くても歯を食いしばって、転んだって立ち上がり続けろ」

 

 

 光の宿った強い瞳で錆兎が僕を見つめた。

 

 

「お前が守るべきものを全力で守り抜け。それさえできれば、お前は『男』だ」

 

 

 錆兎が言うや否や、ぐんにゃり、と地面が歪んで意識が、錆兎の姿がぼやけて遠のいて行く。

 

「錆兎、錆兎ッ……! 僕は──」

 

 必死に手を伸ばすが、錆兎はそれ以上振り返ることなく霧の中に足を進めてしまう。

 

 

 ──必要なのは、覚悟だ、龍児。

 

 

 

 

 次に目を覚ました時、僕は山の中に一人でいた。

 

 月はもうすっかり姿を隠してしまって、森の向こうに登り始めていた朝日が見えていた。

 

「そうだ錆兎は────」

 

 昨晩突然現れた死んだはずの錆兎。その姿と痕跡を探すが、どこにも彼がいたという跡を見つけることができない。

 

「夢、だったのか」

 

 あんなに張られたはずの頬も今ではほとんど痛く────

 

「なんだ、これ」

 

 頬に触れると何かがぽろり、と剥がれて落ちていった。ざらりとした感触が残る指に恐る恐る目を落として、ああ、と声を漏らす。

 固化した血。昨日、錆兎に張られて切れた口から流れたもの。

 

「錆兎、僕は…………」

 

 ぎゅっと拳を握る。

 

 もう僕は迷わない。

 僕は『男』だ。だからもう、迷わない。

 

「鱗滝さん! 真菰!」

 

「龍児、昨日はどこに……」

 

 小屋の扉を開けると、もう後には引けないように言い放つ。

 

「僕は真菰と一緒に最終選別に行く」

 

「龍児、でも……」

 

「真菰、僕は頑固なんだ。これだけは絶対に譲れない」

 

 鱗滝さんに良いですか、と尋ねる。

 

「……儂にそれを止める権利はない。だが龍児最終選別に行くには」

 

「はい、だから後半年以内に僕は岩を切ります」

 

「それが、どれほど困難かわかっているのか」

 

「分かってます。()()()()()()()()

 

 僕が、男だから、やる。

 

 じっと暫しの間鱗滝さんと視線を合わして、やがて鱗滝さんが静かに頷いた。

 

「やってみろ、龍児」

 

 そして、僕の戦いが始まった。

 

 

 

 しめ縄の巻かれた岩の前で刀を握る。

 

「よし」

 

 今僕が岩を斬れない理由はいくつかある。

 一つ、身体能力が足りない。

 全集中の呼吸を使っても僕の筋力は高いとは言えない。けれど、当時の錆兎にはおそらく負けていないし、真菰や義勇さんよりは上だと思う。だからこれは問題になり得ない。

 二つ、技の練度が足りない。

 僕は他の三人のように水の呼吸の十ある型の全てを使いこなせず、それぞれの練度も低い。今まで足を引っ張っているのはこの部分だった。

 三つ、そして何より僕には『覚悟』が足りなかった。

 なんとしても岩を斬るという、鋼の如き覚悟。決して折れず、曲がらず、ただただ、固く、硬く、堅い、そんな覚悟が。

 

 時間は半年。師匠はいない。技術は足りない。

 それでも岩を斬る。これは、絶対に絶対だ。

 

 

「一」

 

 刀を振るう。

 正眼に構えて振り下ろす。鱗滝さんに教えられた基本の技。

 

「二」

 

 刀を振るう。

 刀の向きと斬る方向は違えず一直線。

 

「五」

 

 刀を振るう。

 初めて刀を握った時のことを思い出した。まだ錆兎も義勇さんもいた頃の話だ。

 

「二十三」

 

 刀を振るう。

 何で迷っていた。どうして刀を振るうのに理由を求めた。ずっと自分の中には答えはあったはずなのに。

 

「五十七」

 

 刀を振るう。

 いや理由はわかっている。僕は怖かったんだ。この想いが、この願いが、叶わないのだと突きつけられるのが恐ろしかった。

 

「百八十九」

 

 刀を振るう。

 『男』。男とは何だろうとずっと考えていた。錆兎はそれにこだわっているようだったから。

 

「三百五十二」

 

 刀を振るう。

 今なら、わかる。男として生まれた僕が何の為に戦うべきかということ。

 

「七百六十九」

 

 刀を振るう。

 もう腕の感覚は当にない。でも刀を振るのはやめない。諦めてはいけない。それが男だ。

 

「千五百七十三」

 

 刀を振るう。

 視界が歪んできた。最近は飯を食うか寝る時以外はいつも岩の前で刀を握っているせいか。

 

「五千六百二十一」

 

 刀を振るう。

 まだ岩は斬れない。刀は何度も刃毀れして、その度に研いできたからか短くなってしまった。全部終わったら、鱗滝さんに謝らなきゃ。

 

「一万二千三百六十二」

 

 刀を振るう。

 まだ、斬れない。

 

「三万二百十七」

 

 刀を振るう。

 真菰。君との日々を忘れたことはない。君が何とも思ってなくても、僕にとっては宝物のような日々だ。

 

「九万九千六百五十八」

 

 刀を振るう。

 いつか、君の隣に立てたなら、この気持ちを伝えられる日が来るのかな。

 

 

 

 

 唯ひたすらに剣を振るい続けた。

 

 その期間、およそ百七十八日間。飯、四時間の睡眠を除いて全ての時間を岩の前で剣を振り続け、その回数が()()()()()()()()()、僕は鱗滝の元を訪れた。

 

「うろこ、だき、さん……」

 

 その頃にはもう刀なんで脇差と言われても疑わないような長さになってしまってた。そんな刀を杖代わりにして、僕は無理矢理に笑ってみせる。

 

「岩、斬りました」

 

 僕が言うと真菰は驚いたように目を開いていた。

 

「斬った。斬ったんだ、僕は。見て、くれますか、鱗滝さん」

 

「え……でも龍児は」

 

「真菰、見に行こう。龍児の斬った岩を」

 

 その時、鱗滝さんは驚いたり、僕を問い詰めたりせず静かに僕がいた岩へと向かった。

 

 そして、僕の斬った岩を見て、小さな小さな嘆息を漏らした。

 

「最初から、これを狙っていたのか」

 

「はい。僕には、岩を斬る力がありませんでした。だから、こうするしかなかった」

 

 もしかしたら鱗滝さんにとっては落第かもしれない。けど、僕が岩を斬るにはこの方法しかなかったんだ。

 

「でも龍児に岩を斬る力は……まさかっ」

 

 真菰が、僕の斬った岩を触って、その後断面をじいっと見つめて、何かに気づくと瞠目した。

 

「嘘、でもこんな……」

 

 鱗滝さんが言葉を失った真菰の台詞を引き取った。

 

「毎日千回以上、半年で百万に届こうかという数、()()()()()()()()()()刀を振るい続けたか、龍児」

 

「……はい」

 

 毎日毎日正眼に構え同じ箇所に剣を振り下ろす。その時岩には僅かに傷が付く。もちろん最初は大したものではない。

 けれど百万もすればそれは大きな斬撃へと変わり、いずれ堅い岩を断つ剣に変わる。

 

 けれどこれは言ってしまえば僕は逆に()()()()()()と言っているようなものだ。

 僕は積み重ねと、諦めない心によって岩を斬ったのであり、それは鱗滝さんの求めていたものとは違う。

 

 でも、僕はどうしても今年最終選別に行かなければいけなかった。

 

 真菰と一緒に、藤襲山に行く為に。

 

 

 暫く、誰も何も言わなかった。

 

 僕は疲れていたし、真菰は困惑していたようだった。

 

 そして、鱗滝さんはやはり黙したまま僕の手を触りはじめた。

 

「……良い手だ。諦めず、戦う信念を持った、『男』の手だ」

 

 その言葉はまるで自分に言い聞かせるようなもので。

 

「龍児、よく頑張ったな。今のお前なら、必ず生き残れる」

 

「……鱗滝さん、僕は、僕は、最終選別に行っていいんですか」

 

「当たり前だ。今の龍児を弱いと言うなど、天地がひっくり返ってもあり得ん」

 

 涙が溢れそうになった。

 初めて、自分の努力が報われたように思えた。

 

 けれどまだだ。

 

 まだ、僕が満足するには早い。

 

「真菰、僕は君について行く。君と、藤襲山に行く」

 

 

 君を、守りたいから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 龍児はとても不思議な男の子だ。

 

 錆兎と同じ大好きな鱗滝さんに育てられた子供達の一人。

 

 物心ついた時から一緒で、錆兎の次に同じ時間を過ごしていた子。

 

 同じ年に刀を握って、鱗滝さんに鍛錬を始めてもらった。

 

 けど龍児には才能がないみたいだった。

 

 私が半年でできたことが龍児には一年経ってもできなかった。

 

 私が錆兎と組手をしている時も、龍児はまだ一人で山道で走り込みをして、型を覚えていた。

 

 そして私が半年前、一太刀で岩を斬った時、龍児はまだ型が四つしか使えなかった。

 

 正直、龍児は戦うのに向いていないと思う。

 

 水の剣士としては吃驚するくらい足が遅いし、連撃系の型ととても相性が悪いのか軒並み失敗してしまう。

 でもご飯を作ったり、畑を耕しね野菜を育てたりするときの顔は、どの龍児よりも龍児『らしい』。

 

 私も錆兎も、きっと義勇や鱗滝さんもそういう龍児の方が好きだと思う。

 だから多分鱗滝さんも龍児に「才能がない」と言ったんじゃないかな。

 

 だから、わからない。

 

 どうして龍児は私と一緒に最終選別に来たいのか。

 きっと鬼殺隊になりたいんじゃない。龍児には龍児の目的があって、藤襲山に行くんだと思う。

 

 いつか、私にも教えてくれるのかな。

 

 

「凄いな、季節じゃないのに本当に藤の花が咲いてるよ」

 

 ホワホワと藤の花を見せてくれる龍児。

 

 これから鬼と戦うのに龍児は緊張していないんだろうか。

 

 龍児と二人で山の中腹に足を踏み入れると、咲き乱れる藤の花の中に、真っ赤な鳥居があり、その周囲に十五人ばかりの少年少女の姿がある。

 

 みな服装も歳もバラバラで、けれどただ一つ同じところを挙げるとすれば、皆大正の時代には不似合いな一振りの刀を帯びていることだろう。

 

「ここにいるみんな、か」

 

 私たちがその場にやってくると、藤の花の合間から二人の童女が姿を見せた。

 

 一人は黒、一人は白の対照的な二人。

 

「皆さまようこそお集まりくださいました」

 

「この藤襲山(ふじかさねやま)には鬼殺の剣士さま方が生け捕りにした鬼が閉じ込めてあり外に出ることはできません」

 

「山の麓から中腹には鬼共の嫌う藤の花が一年中狂い咲いているからでございます」

 

「しかしこれより先には藤の花は咲いておらず、鬼共がおります」

 

「この中で七日間生き抜く」

 

「それが最終選別の合格条件でございます」

 

「では皆さま、行ってらっしゃいませ」

 

 言うや否や他の人たちは迷いなく鳥居をくぐって山の中へと足を踏み入れていく。

 

「じゃあ、僕たちも行こう」

 

 龍児が私に声をかけた。

 

 きっと、これは一緒に行こうという意味なんだろう。

 なら、駄目だ。私は龍児の手を振り払う。

 

「龍児、私たちは別々に行かなきゃ」

 

「え、でも……」

 

「一人で戦えない剣士は、この先も生きていけない」

 

「それは、そうだけど」

 

「錆兎も義勇もそうだった。だから私たちも自分の力で頑張らなきゃ」

 

 龍児は少し嫌そうだったけど、渋々という様子で「わかった」と首肯した。

 

「でも真菰、約束してほしい」

 

「──?」

 

「もし危なくなったら僕を呼んでくれ。絶対に、真菰の元に駆けつける」

 

「……わかった。約束」

 

「うん、約束だ」

 

 きゅっと小指を結んで切ると、私と龍児はそれぞれ山の中に足を踏み入れた。

 

 藤襲山は広く、少し歩けばあっという間に人の気配は感じられなくなった。

 

 鱗滝さんみたいに鼻がよければ別だったのかもしれないけど、錆兎や義勇や私、勿論龍児もそこまで鼻がいいというわけでもなかった。

 

(……鱗滝さん)

 

 そ、と鱗滝さんに貰った狐の面に手を添える。私の着物とよく似た柄が入った厄除の面。

 

 そして、懐から一枚の布切れを取り出した。

 緑と黄、私たちの目の色を思わせる色合いの、私たちの手元に帰ってきた唯一のもの。

 

「……錆兎」

 

 三年間、思い出さない日はなかった。

 兄妹のように育ってきて、これからも五人での日々が続くのだと思っていた。

 私たちが鬼殺隊になってからも、正月とかには鱗滝さんの元に帰って、龍児が義勇の好きな鮭大根を作ったりして、錆兎はそれを楽しそうに見る。

 

 そんな日常があると思っていた。

 

「それを壊したのは、ここにいる鬼」

 

 あの日から三年が立っているが錆兎を殺した鬼が、生き残っていないはずがない。

 

「私が殺して、錆兎の仇を取らなきゃいけないんだ」

 

 出来なければ、ここに来た意味がない。

 

 絶対に私が狩らなきゃいけない。他の誰でもなく、私が。

 

 

 一日目は三体の鬼と出会った。初めて鬼を斬ったけど思いの外衝撃は少なかった。

 

 少し、可哀想だとは思ったけれど、それでも相手は人を殺している存在だ。情けをかけてはいけない。

 

 二日たち、三日たち、四日が過ぎた。

 その間鬼たちは次々に襲ってきたが鱗滝さんに教えられた《全集中・水の呼吸》と日輪刀は鬼たちを寄せ付けなかった。

 

 しかし、何体狩っても錆兎の仇には巡り会えない。

 

 そうして、やってきた六日目に、事は起こった。

 

 

 夜闇を誰かの悲鳴が切り裂いた。

 

「──ッ」

 

 知った声ではなかったけれど、その声を聞いた途端反射的に駆け出していた。人を救うのに理由はいらないと、鱗滝さんに教えられていたから。

 木々を足場に加速しながら、声の元へ向かって、そして、見た。

 

 転がる二、三の死体。血に濡れた中で、ずんぐりとした異形が佇んでいる。

 

「たすけ──」

 

 無数の腕持つ異形の鬼に少女が一人囚われている。鬼の手は嬲るように力を増していき、あと数瞬もすれば、少女の命を奪うだろう。

 

 《全集中・水の呼吸》

 

 息を吸うと、風が逆巻くような音が辺りに響いた。

 

 肆ノ型 打ち潮

 

 水の呼吸、その中でも特に単発の威力に優れた横薙ぎが、最大限に体重の乗った加速とともに振るわれる。斬、と日輪刀は一撃で腕を斬り落とし、締められていた少女を解放した。

 

「げ、げほげほっ……」

 

「早く逃げて、こいつは私が」

 

「で、でも」

 

「早く!」

 

 髪に蝶々の髪飾りをつけた少女は、一瞬迷うような素振りを見せたが、私がもう一度叫ぶと小さく「ありがとう」と言い残して走り去る。

 

 

 「ほお、来たな、俺の可愛い狐が、また一匹」

 

 

 醜く肥大化した無数の手に覆われた巨大な身体。最早人の原型すら留めていないその『鬼』は、指の隙間からぎょろり、と私を見下ろした。

 

 「相も変わらず鱗滝は愛弟子をここに送り込んだのか」

 

「──鱗滝さんを、知ってるの」

 

 腰に帯びた日輪刀に手を伸ばす。

 

 「俺をここに閉じ込めたのは鱗滝だからなぁ、よおく知ってるさ」

 

「う、そ……」

 

 鱗滝さんが現役の鬼殺隊士──その頂点の『水柱』だったのは明治を超えて、江戸の頃。

 コイツの言葉を信じるならば、コイツは、少なくとも四十年以上この藤襲山山にいるということになる。

 

 もし、もし、そうなのだとしたらコイツはここで一体何人の子供達を殺したのか。

 

 自然と息が荒くなる。鱗滝さんに教えられた全集中の呼吸が乱れそうになる。

 

 鬼が私の面を見て、ふうむ、と唸った。

 

 「一、二、三年ぶりかァ、狐がここに来るのはァ」

 

「さん、ねん」

 

 「あぁ、そうだな、前に殺したのは────」

 

 息が、荒い。

 

 

 

 「────頬に傷のある、宍色の髪のガキだったな」

 

 

 クスクス、と鬼が無数の腕で口元を抑えて醜く笑い声をあげた。

 

(────コイツが、錆兎を)

 

 自分の中で、大切な何かがぷちんと切れた。

 

「私はオマエを許さない」

 

 

 《全集中・水の呼吸》

 

 

 ヒュゥゥゥゥゥゥ、と風が逆巻いた。どくん、と心臓が大きく跳ねて、肺いっぱいに取り込まれた空気が身体中に浸透し、体温がぐんぐん上がっていく。

 

 捌ノ型 滝壺

 

 一歩、それで最高速度に至り、そして目の前の無数の腕を上から振り下ろした刃で切り刻む。

 

 「ぐ、おお」

 

 ダン、と地に足をつけると、また水の呼吸の歩法を使って移動、加速して鬼の背後に回り込む。

 

 私には錆兎のような一撃の火力はない。けれとその代わりに、小さな身体による素早さがある。

 

 だから、敵の視界に入れない。

 

 コイツは確かに強いけど、それでも勝てないほどの敵じゃない──!

 

 「この、狐娘がァッ!」

 

 ぼこぼこ、と鬼の身体が泡立つと先ほど切った腕があっという間に回復していく。

 

 鬼を殺す方法は二つ。

 太陽の光を浴びさせるか、日輪刀──鬼を殺せる特殊な刀──で弱点、(くび)を斬る事だけ。

 それ以外は瞬く間に鬼たちは回復してしまう。

 

 だから、斬る。

 

 最速で、最短で、一直線にこの鬼の首を斬る。

 

「ーーーーー」

 

 息を吸って、刀を構える。

 

 《全集中・水の呼吸》

 

 狙うは頸。一撃で相手を絶命させて、錆兎の仇を取る。

 

 肆ノ型 打ち潮

 

 刃が加速する。

 

 そして私の練り上げた一閃は無数の腕に覆われた異形の鬼の頸を斬り裂く────

 

 

 

 

 「甘いんだよ、狐娘」

 

 

 

 ──ことはなく、日輪刀が半ばから真っ二つに折れた。

 

 

「──え?」

 

 

 きらきらと、鉄の雨が降る中、呆然と鬼の頸を守る腕を見る。

 

 頸を守る腕には半ばほどまで傷を残しただけで致命傷など程遠い。

 この鬼の頸は、ただひたすらに硬い。

 きっと私が斬った岩よりも遥かに。

 

 「ぼんやりしてたら喰っちまうぞ」

 

「きゃあっ!」

 

 空中に留まっていた刹那を狙いすました鬼が、背中から生やした無数の腕で私を殴る。

 ぎりぎり両腕を重ねて防御ができたけど、上にしていた左腕からは鈍い音が聞こえた。

 じくじくと絶え間なく痛むし、僅かな吐き気を感じるから、たぶん折れてしまったんだと思う。

 

「鱗滝、さん……」

 

 ヒューヒューとか細い息を、深呼吸で整えながら頭の側面に付けている狐の面に手を触れる。

 

 私は、負けれないんだ。

 

 「狐娘ェ、ちっこいのに頑張るなぁ」

 

「オマエを、倒す。錆兎と、鱗滝さんの、為に……」

 

 「そうかぁ、じゃあ、いいこと教えてやるよ」

 

 聞くな、会話をしてはいけない。

 私はコイツをただ倒せばそれでいいんだから。

 

 「お前らの狐の面、それ鱗滝から貰ったものだろう。見間違えるはずもない、彼奴のつける天狗の面と同じ掘り方だ」

 

 聞くな、息を整えるんだ。

 

 

 「俺は今までそれを付けてたガキ、全員食ってやったよ。面のおかげで一目で鱗滝の弟子ってわかるからな」

 

「ーーーー」

 

 「ククク、滑稽だよな、鱗滝。彼奴の優しさが、お前ら狐のガキを殺すんだ!」

 

 

 嗚呼、駄目だ、()()()()()()()()()()

 

「────ッ!」

 

 気づけば思考は怒りで真っ赤で、折れた刀を手に鬼へと駆けていた。

 それほど許せなかった。鱗滝さんの優しさを、私たちへの愛を、こうして殺しに利用した鬼がいることが。

 

 「呼吸が、乱れたな」

 

 突如、死角から無数の腕が飛び出して私を虚空へと吊り上げた。

 

「地面の、下、から……」

 

 「駄目だろ、このくらいで呼吸を乱したら、鱗滝に教わらなかったのか。フフフフッ」

 

 めき、めき、と鬼の腕が私を締める。

 

 「さあて、まずどうしてやろうか。フフフフッ、少し手こずったからな、じっくり遊ばせて貰うぞ」

 

 鬼の腕が四肢を掴んで私を宙に磔にした。

 

 「まず一本ずつ手足をもごう。後はそうだな、お前まだ処女(おとめ)だな、お前の絶望を肴に下腹から血を啜ろう。なあに、安心しろ、人は案外丈夫だ、手足がなくなって五分は生きているからな。フフフフッ」

 

 ここで、私は死ぬの。

 

 まだやりたい事があった、言いたい事があった、鱗滝さんの元に帰るって約束したのに。

 

 こんな、ところで。

 

 「泣いてるのかァ、ハハハハハッ、良い良いぞッ! もっと俺に涙を見せてみろッ!」

 

 涙が止まらない。コイツを愉しませるとわかっているのに、それでも瞳からは雫がとめどなく溢れた。

 

 

 

 ────もし危なくなったら僕を呼んでくれ。絶対に、真菰の元に駆けつける。

 

 

 

 

 ふと、一つの約束が脳裏を掠めた。

 

 

 ああ、そういえば、こんな約束をしていたな。

 

 こんな山奥で私の声が聞こえるなんてとても思わないけど、それでも、龍児は、来てくれるのかな。

 

 馬鹿らしいとは思うけど、それでも、あなたは私を助けてくれるのかな。

 

 

「────龍、児」

 

 

 空気が逆巻く音が聞こえた。

 

 

 「この音は、まさかッ!」

 

 

 一陣の風が吹くと、四本の腕それぞれに丁寧な四つの全力の斬撃が叩き込まれた。

 

 

 斬、と腕が千切れ、私の身体が横抱きに誰かに受け止められた。

 

 

 烏羽色の髪に深い藍色の瞳の、狐の面をつけた少年。私と約束を交わした男の子。

 

 

 

「真菰、待たせた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「真菰、待たせた」

 

「龍児……なんで……」

 

 横抱きにした真菰がぽかん、と僕の顔を見上げている。

 

「真菰、さっき一人女の子助けただろう?」

 

「う、うん」

 

「あの子が助けを呼びに来たんだ。探していたのは本職の剣士だったみたいだけど、運良く僕が彼女と出会えた」

 

 運が良かったのだと思う。

 偶然僕がか細い悲鳴を聞いてこっちに来ていて、尚且つ女の子が助けを呼んでいて、真菰が持ち堪えてくれていた。

 

 全部、運が良かったで片付くけど、みんなが動いてなければ起こり得なかった偶然だ。

 

 そっと横抱きにしていた真菰を近くの木に背中を預けるように座らせた。

 

「少し休んでて、真菰」

 

「休むって、龍児は……」

 

「彼奴を倒してくる」

 

「む、無理だよ……、アイツの頸は私でも斬れなくて…………それに錆兎だってアイツが──」

 

 すっと、叫ぼうとする真菰の口を手で塞いだ。

 

 ありがとう、心配してくれて。でもだからってここから逃げるなんてできないんだ。

 

 だって、君が後ろにいるんだから。

 

 僕がしばらく見つめていると、真菰が力を失ったように気を失った。きっと痛みと気力の限界だったのだろう。

 

 控えめに真菰の髪を撫でると背後の鬼に向き直る。

 

 「ほお、狐のガキ、俺を相手に勝つつもりかァ」

 

「違うよ、お前に勝つつもりなんか僕にはない」

 

 鱗滝さんから渡された日輪刀を抜いた。

 

 

 「僕はお前を殺すんだ、人喰い鬼」

 

 

 僕が啖呵を切るとクスクスと異形の鬼が笑った。

 

 「やってみろ、ガキ」

 

「言われなくてもやってやるッ!」

 

 だん、と地面を踏みしめると、大きく息を吸い込んだ。

 

 《全集中・水の呼吸》

 

 ヒュゥゥゥゥゥゥ、と風が逆巻く音と共に辺りの藤の香りの空気を限界まで吸い込む。すると心臓が爆ぜて、血液を通して細胞の一つ一つまで遍く空気を運び、過剰な酸素の供給により体温が上昇する。

 

 そうして、唯の人間の身体の身体能力を鬼と同等のレベルまで跳ね上げる。

 

 鬼が背中から生えた細い腕を束ねると矢を射るかの如き速さで、三本同時に僕を狙った。

 

 僕は他のみんなのように足が速くない。だからこの攻撃を避け切ることはきっとできない。

 

「なら、此方から叩き斬る──!」

 

 選んだのは僕の使える四つの方、壱ノ型、弐ノ型、肆ノ型、伍ノ型、のなかで最も初速が速いもの。

 

 壱ノ型 水面斬り

 

 震、と空気の鳴動が刀にまとわりついて、僕に向かってきていた三本のうちの回避が難しかった二本の腕を横薙ぎに斬り裂いた。

 

「ぜ、ああああッ!」

 

 横合いから僕を殴りつけようとしていた残りの一本は身を屈めて地面を滑る事で掻い潜る。

 (ゴウ)、と異形の剛腕が髪を数本巻き込みながら突き進むのを躱すと、滑り込みの勢いをそのままに身を低くしたまま刀を構える。

 

 弐ノ型 水車

 

 全力で地面を蹴ると宙で一回転、鬼の首を狙おうとして、刃が届く前に鬼の腹部から突き出した腕に日輪刀ごと吹き飛ばされた。

 

 殴られた拍子に爪が左目から額にかけて裂傷を刻み、ついでとばかりに刀の峰が食い込んでがこん、と肩が外れた。そして吹き飛んだ体はそのまま背後の樹木に激突した。

 

「──カ、は」

 

 肋が軋んで、肺が押しつぶされて空気が体の外に出て行ってしまう。

 あっという間に全集中の呼吸が途切れて、さっきまであった身体の熱さが引いて、足の先から冷たさが広がっていく。

 

「ぐ、ぎ、ぎ……」

 

 肩が痛い。僕は生まれつき骨が硬いから骨が折れたことなんて今まで一度も無かった。故に、関節が外れるなんて身体の内側に響くような痛みは初めてで、額に玉のような冷や汗が浮かぶのを感じた。

 

 視界が赤いのは、コイツの爪で裂かれたせいか。

 

 「おいおい、ガキ、お前さっきの狐娘より弱いじゃないか。警戒して損したぞ、フフフフッ」

 

 異形の鬼は小馬鹿にするように、僕を見下ろすと高らかに笑う。

 

 「格好つけて来た割にあっけない終わりだ! フフフフッ、これじゃあ狐娘の死が少し先延ばしされただけだったな」

 

「やめ、ろ……」

 

 「ンン、なんだ、お前この娘が大切なのかァ、じゃあ、尚更お前の絶望に歪んだ顔が見てみたくなったァ!」

 

 異形は肥大化した腕にぎりぎりと力を込めると、ニイ、と醜悪な邪悪な笑みを浮かべた。

 

 「ほうら、絶望しろよ」

 

 鬼が腕を振るう。その先はさっき気を失った真菰。

 

 恐ろしい速度と質量を兼ね備えた異形の鬼の一撃は、真菰の小さい身体などまるで塵芥のごとく消し飛ばすのだろう。

 

 

 ────お前が守るべきものを全力で守り抜け。それができればお前は『男』だ。

 

 

 蘇る言葉がある。

 託された想いがある。

 誓った約束がある。

 

 なら、ならならなら!

 

 僕は、こんな所で寝ている場合じゃねえだろッ!

 

 お前が、『龍児』が真菰を大切なのならば、本当に守りたいと思うのなら、心から愛しているのなら、全力で守り抜け。

 

 

「これ以上、僕から何も奪うんじゃねェェェッ!」

 

 

 《全集中・█の呼吸》

 

 

 本能的に身体の動かし方の最適解を理解する。

 

 今までのような錆兎や真菰の後追いではない、僕だけの身体の動かし方を、頭ではなく心で感じ取る。

 

 爆音、そして、衝撃。

 

 

 「なん、だとォォォッ!」

 

 

 異形の鬼が、吹き飛ばされていたはずの僕が自分の拳を刀で受け止めている僕を見て、絶叫した。

 

 「何が、何が何が何が何が何がァァァァァァァッ」

 

 そんな事、僕が知るか。

 でも、一つはっきりしていることはある。

 

「貴様を、殺す」

 

 今の僕は、背後に真菰がいる僕は、間違いなく今までのどの僕よりも強い。

 

 絶叫した鬼が体から生やした無数の腕を僕へと向けて打ち出した。

 

 そして、僕はそれ応対し、全力で息を吸い込んだ。

 

 ヒュゥゥゥゥゥゥ、という風が逆巻く音で空気を吸い込んで、日輪刀を()()()()()()

 

 斬、と醜い腕の壁を一閃した。

 

 これは水の呼吸の型ではない。

 鱗滝さんに教えられた型には正眼に構える型は存在しない。

 

 故に、これは僕だけの型。

 そして、百万回以上振ったこの型は間違いなく僕の中で最強の技だ。

 

 一太刀、一太刀に全力を込めて、肉の壁を斬り裂きながら地を駆ける。

 

 あと一歩、それで鬼の首に刃が届く────

 

 

 「甘いんだよォ!」

 

 

 突如、地面から無数の腕がせり上がり僕の腹部を握りしめると宙に掲げた。

 

 

 「フフフフッ、俺の勝ちだ狐のガキ────」

 

 

「いいや、僕の勝ちだ、鬼」

 

 

 跳ねあげられた刹那で、先ほど斬り飛ばした鬼の腕の一部を足場に、ダン、と大きく踏み込んだ。

 

 

「貴様は、『悪』だ、異形の鬼よ」

 

 

 狙うは、真菰がつけた未だ治りきらぬ刀傷。

 

 

 日輪刀を、太陽の光を宿した刃を正眼に構える。

 

 

 

「────悪鬼鏖殺」

 

 

 

 

 斬、と寸分違わず真菰の刀傷をなぞり日輪刀が頸を斬り、異形の鬼の首が宙を舞った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……真菰、真菰」

 

 龍児が眠っていた真菰に優しく声をかけると、ゆっくりと深い森の色の瞳が瞼の下から現れる。

 

「龍児……」

 

「もう、朝だよ七日目の、朝だ」

 

 龍児に抱き起こされて、真菰が空を見上げる。

 

 そこには先ほどまで光を発していたであろう三日月が朧に浮かんでいた。じきに、この朧月も森の向こうから顔を見せ始めていた太陽によってしばらくの間別れることになるのだろう。

 

「鬼は…………」

 

「倒した。倒せた。真菰が傷をつけてくれていたから、鬼の頸に届いたんだ」

 

「そっか……」

 

 それ以上真菰も龍児も何も言わない。

 

 しばらく互いに支えあうようにして歩いていると、真菰が意を決したように口を開いた。

 

「ねえ、龍児、どうして私の側にいるの」

 

 真菰が足を止めると、至近から深い紫の龍児の瞳を見つめた。

 

「ずっと龍児はそうだった。錆兎がいた時も、いなかった時も、私の側にいて、きっと私を守ってくれようとしていた────ねえ、どうして?」

 

 ぼう、と熱に浮かされたような真菰の瞳に、龍児は暫く目を閉じて、そして、小さく息を吐いた。

 

「僕はずっと、君の隣に並びたかった」

 

 でもそれには自分は弱すぎた。

 

「だから、強くなりたかったんだ。君の隣に並んで、伝えたいことがあったから」

 

 龍児が、隣を見る。今並んで歩いている真菰を。

 

 

「言いたいことがあるんだ、真菰」

 

 

 

 

 

 

「僕は君の事が────」

 

 

 

 

 

 



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