特定事象対策機関 クロユリ (田口圭吾)
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悪意の病巣
悪意の病巣 第一話


 

 日本の首都。東京の某所にて二人の男女が向かい合って座っていた。

 その内金髪を肩のあたりで切りそろえた青い瞳の美女が、ハーブティーの入ったティーカップを手に持ち、目の前にいる十代後半ほどに見える黒髪の少年にゆっくりと言葉を投げかける。

 

「この国はね。神話の時代からして、他者を受け入れる気質があった。かつての国津神と天津神争いの果て、国譲りによって国津神は天津神にどんどんと勢いを抜かれていったけど…… それでも、この国には今尚その物語が語り継がれ、それを祀る場所も今なお残り、人が詣でることもある。ある種の宗教戦争とも言えるその流れを経てなお、そんなことが起こっているっていうのは世界全体を見ても珍しいの」

 

 そこまで言って、女性はゆっくりとティーカップの中身を啜った。長々と言葉を紡いでいたせいで乾いていた喉を潤すようにして。

 少年はそんな彼女とは対照的に、ティーカップに注がれたハーブティーを啜ることは無い。既にそれを飲み干していたらしく、そのティーカップは空になっている。少年はハーブティーを飲んだおかげか、落ち着いた様子でエレインの言葉に耳を傾け続けていた。

 そんな彼の様子を見て、女性はティーカップを置いて再び言葉を紡ぎ始める。

 

「話が少しそれたけど、そう言った様々なものを受け入れる受け皿があって、神話の時代から他の国、或いは大陸から流れて来る妖魔の類がそれなりに居たの。それが決定づけられたのが、キリシタンの弾圧。それがあったせいで、吸血鬼などの妖魔、或いは魔術師たちがこの国に一定数流れ込んできた」

「天敵である相手がいないところに逃げ込む…… 確かに合理的ですね」

「そういうこと。まあ、そう言った経緯があって、この国では様々な妖魔の混血が進んだの。それだけじゃなく、東洋の呪術や陰陽術と西洋の魔術がまじりあって様々な術式が生まれたわ。そして、当然そう言った風に妖魔や術式が増えれば、それに伴ってオカルト方面の犯罪の類も当然増えていく。いろんなものを受け入れ過ぎたせいで犯罪が増えるなんて皮肉もいい所よ」

「辛辣ですね……」

「事実だもの。まあ、そう言った事情があったから私みたいなのも生まれたんだけれどね…… 今、国を守る立場に立ってみれば、色々と考えさせられるところがあるのよ」

 

 エレインは苦笑を浮かべながら、ティーカップに残ったハーブティーを飲み干した。

 そして、ゆっくりと息を吐いて言葉を続ける。

 

「そんな事情に端を発して、オカルト事象に対抗するために作られた組織の一つが私の所属している組織。魂の力である霊力を用いて妖魔や魔術師、科学者たちが垣根なく参画し、オカルト面の犯罪に立ち向かうために生まれたのがこの特定事象対策機関。通称クロユリよ」

 

 

 

 

 

*****

 

 

 梅雨のじっとりとした空気の中で雨が降る。夜闇の中で息をひそめる者たちの気配を隠すかのように。

 

『麗華、こっちは目標を確認した。そっちはどうだ?』

「こっちはまだかな。今は、目標が出てくるのを待ってるとこ…… おっと、噂をすればってやつだ。暗視用の呪具のおかげで、ばっちり見えたよ」

 

 麗華と呼ばれた雨合羽をかぶった少女は、自信満々の笑みをフードの下からのぞかせ、獰猛な野生動物が如く眼光で隣の廃ビルを見下ろしながら、屋上のフェンスの上に立っていた。

 それを諌めるように、彼女の耳についた通信機から男の声が発せられる。

 

『遊びじゃないんだぞ、麗華…… オペレーター、周囲の状況は?』

『周囲の交通状況を操作し、今から三十秒後に約五分間、麗華さんの周囲が空白地帯になります。その間に目標二人を確保してください』

『了解。話は聞いていたな、麗華』

「言われなくても、聞いてたってば…… 小姑みたいに言わなくても大丈夫だよ、恭二」

 

 麗華は唇を尖らせながらそう言った。だが、ふてくされているようでありつつも、瞳は油断なく目標の周囲を探っている。

 

『お前はたまに全く話を聞いていないことがあるだろ…… まあいい。そろそろ三十秒だ』

「りょーかい! じゃ、行ってきまーす!」

『は⁉ おい、まて!』

 

 麗華はそう言うと、立っていた五階建てのビルの屋上から飛び降りる。通信機越しに聞こえた男の声を聞き流しながら。それと同時に、彼女の両手に紫電が走った。それは世闇を切り裂いて、はいビルの中にいたものの姿を映し出す。

 

「――――⁉ まずい、襲撃だ! 取引を嗅ぎつけられた!」

「クロユリのニンゲンか⁉」

 

 片方は人間の男だったが、もう片方は人間と同じように直立しつつも、異様にとがった牙と獣のような顔立ちをしており、明らかに人間のそれではない姿かたちをしている。

 

 だが、麗華はそれに臆すること無く笑った。

 

「あはは! ――――ちょっと気づくのが遅かったんじゃない?」

 

 そう言って目を細めるのと同時に、彼女の手に収束していた紫電が解放され、廃ビルの中に立っていた男たちにめがけて宙を走った。その一撃によって、ビルの上に立っていた男の内、数名が気絶し、地面へと崩れ落ちる。

 雷撃から逃れた男も数人いたが、それでも体勢を立て直すために、僅かな隙が生まれた。その隙に、麗華はそのまま廃ビルの中へと転がり込んだ。そしてそのまま、拳銃を懐から引き抜き自身へと向けた男に近づくと、その腕を捻り上げ、そのままへし折って見せる。

 

「さあ、かかってきなよ」

 

 口元で余裕の笑みを見せ、麗華はそのまま男の顎を蹴り上げた。腕を折られた痛みと、顎を蹴り上げられた衝撃で、彼の意識はそのまま闇へと落ちる。

 その光景を見ていた男たちは俄かに色めき立った。軽い調子で仲間が数名、目の前で容易く無力化されたのだ。それも当然と言える反応だ。冷静さを失った男たちのうちの一人が、ドスを引き抜いて麗華へと襲い掛かる。

 

 麗華はその鋭い突きを掻い潜ると、その男の腕を掴み捻じりながらその軸足を払うことで、地面へと顔面から叩き付けた。その最中、襲い掛かってきた男の背後で残った男の一人が銃を構えるのが彼女の感覚がはっきり捉える。

 

 だが、それに焦ることなく、麗華は男が取り落としたドスの柄尻目掛けて渾身の力で右足を振りぬき、遠方に居た相手めがけてそれを蹴りぬいて見せた。

 

「ぎゃ!」

 

 瞬間、すさまじい勢いで飛んだドスが銃を構えた男の手に深々と突き刺さり、それと同時にドスから紫電が舞い散った。

 その非現実的な現象を起こした力の源は霊力と呼ばれる魂に起因する特殊なエネルギーで、その特質により様々な現象を引き起こすことが出来るものだ。彼女は自身が最も得意とする雷系統の術式を用い、雷という現象を発生させた。

 そして、発生した雷撃は彼女の狙い通り、その付近に居た敵も巻き込んだことにより、計三名が地面に崩れ落ちる。それを見届けた麗華は、未だに立っていることが出来た二人の男へと視線を向けた。

 

「さて、と…… 残ってるのはアンタたち二人だけだよ。私って、アンタたちみたいな犯罪者が大っ嫌いだからさ、手加減とか容赦とかは期待できないし、投降をオススメするけど…… 聞く耳もたずって感じだね」

 

 そう言った彼女の視線の先では、片方の男が袖口からロッドのようなものを取り出し、もう片方の男はその姿を狼のような姿に変化させていった。

 

「魔術師にウェアウルフってとこ? なんにせよ、ぶちのめしてあげる」

 

 前者はともかくとして、後者の獣人は十中八九妖魔だ。普通ならば絶対にお目にかかりたくはないタイプの存在であるそれは、獰猛に喉を鳴らしながら鋭い爪を伸ばし、臨戦態勢を取って見せる。そして、魔術師の男がロッドの戦端から風の刃を放つのと同時に、獣人はその肢体に力を入れ、弾丸の如きスピードで駆け出した。

 

 風の刃は空気の塊であるため、当然不可視の攻撃であるし、妖魔の攻撃は常人にはとても躱せるスピードのものでは無い。きっと、成すすべもなく殺されてしまうだろう。

 だが、悲しきかな。

 彼らが相手をしているのは、常人の類ではない。さらに言うならば、常人の中でも常軌を逸している部類の存在だ。それは、間違いなく彼らにとって不運だった。

 

「甘い」

 

 そんな言葉が聞こえたかと思った瞬間、麗華はまるで見えているかのように次々と放たれる不可視の刃を躱して見せる。それと同時に彼女のフードが一瞬めくれ上がり、ショートの赤髪と整った目鼻立ちが顔を覗かせる。

 その口元には獰猛な笑みを、その瞳には冷え切った色を浮かべながら、麗華は次いで接近してきた獣人の一撃を右腕で、その鋭い爪を避けるようにして受け止めた。しかし、爪の部分を避けて受け止めたとは言えども、その膂力は人間のそれを優に上回っている。それこそ、人の骨など容易く粉々にしてしまいかねないほどに。

 だが、麗華はそんな筋力の差をものともしない。右腕にかかる力を全身で流し、回転動作を交えてそのすべてと自身の力を左腕で獣人の鳩尾へとねじ込んだ。瞬間、獣人は口から血をまき散らしながら吹き飛んでいき、壁に激突してようやく止まった。

 「次は」と呟きながら彼女はロッドを構えた魔術師相手に向き直る。

 

「アンタの番だよ?」

 

 その泰然とした態度に、魔術師の男は気圧され後ずさりながらも次々と風の刃を放とうとロッドを構えた。

 しかし、サイレンサー越しに消音されているであろう銃声と共にその思惑は潰え、四肢から次々と血を流して地面に崩れ落ちた。

 

「ありゃりゃ…… 獲物を盗られちゃった」

「そう言うな。と言うより、犬が逃げようとしてるぞ」

 

 背後から響いた言葉に、麗華はギョッとして顔を上げる。

 

「あ、こら! 逃げるな駄犬!」

 

 彼女の視線が捉えたのは、先ほど吹き飛ばした獣人がボロボロになった体を引きずり、窓枠から宙へと身を躍らせた瞬間だった。それを確認するのと同時に、猟犬が如き眼差しで獣人を見据えて重心を落とし、霊力の放出と共に一気に加速。そのまま彼女も宙へと身を躍らせ、飛び出した獣人の首根っこを掴んだ。

 

「捕まえた」

 

 そのぞっとするような声色に、獣人の目が恐怖に見開かれた。だが、麗華は一切の容赦をすることは無い。その可愛らしい顔立ちをした少女の容姿と裏腹に、繰り出される手札は悪辣無比。地面が近づいていく中じたばたと暴れる獣人の抵抗をいなし、獰猛な笑みを浮かべる。

 

「さて、悔い改める時間だよ」

 

 そして、重力加速度によって乗った勢いすべてを獣人を通してすべて地面に流し、平然と受け身を取って見せる。

 

「はいおしまい。一応規則だから、アンタらがなんで私たちに追われてるか言うけど、違法薬物、及び違法術式の行使による殺人、窃盗、等々の罪を犯したから。いくらアンタたちが裏の存在だからって、やっていいことと悪いことがあるんだよ」

 

 麗華はゴミを見るかのような眼で、地に臥した犯罪者を見つめながらそう言うと、懐から札を数枚取り出し、グッと力を籠めるように目を見開くと、霊力を流し込んでそれを地に臥した異形の犯罪者に投げつけた。

 

 それらから光の帯が伸び、その体を拘束していく。

 

 その頭上から男が一人、麗華のすぐ横へと着地する。男は短く切りそろえられた髪の毛をガリガリと掻きながら、ダークブラウンの瞳を彼女へと向ける。

 

「お前な…… もともとはそっちがビルの上から雷撃を降らせて、その隙に俺が拘束する手筈だったのに、なんで飛び降りてるんだ……」

 

 麗華の背後から現れた男は眉間に皺をよせ、その疲れたような声色が彼の疲労感を際立たせている。

 

 そんな男に麗華は慣れ親しんだ様子で言葉を返した。

 

「えー? だって、恭二は私よりもヨワヨワなんだから、こっちで始末した方が安全じゃーん! さっきだって、そっちが殆ど手出しするまでもなく決着が着いたしね」

 

 雨合羽のフードの下から、整った顔立ちに、悪戯っぽい笑顔を浮かべた表情を覗かせ、彼女はニンマリと笑う。

 

 恭二、と呼ばれたその男は、彼女の態度にがっくりと肩を落としてため息をついた。

 

「うわ、ホントのことだからってズバズバ言いすぎだろ……」

 

 そんな様子の彼に対して、麗華は頬をポリポリと掻きながら言葉を紡いだ。

 

「いやだって、補助系と治癒系の術式がメインの恭二がこいつらを相手取るよりは、私がちゃちゃっとぶっ飛ばして拘束した方が手っ取り早いし、ね?」

「そうだな。一理どころか百理ぐらいある理論だ。だけどお前が拘束に回って、犯人が原形をとどめてたことあるか? 見ろ、こっちの獣人なんてお前にクッションにされたせいで、骨は砕けてる上に、うわ! 少し削れてるな…… 顔面がタコとゴーヤを交配させたみたいになってるじゃないか」

 

 そう言いながら恭二はしゃがみ込んで気絶した獣人の頭を掴みあげる。すると、獣人の顔は鼻血や吐血で真っ赤に染まっており、顔の骨は砕けてどことなくブヨブヨとした状態になっていた。二人分の落下の衝撃を受けるクッションとして利用されたのだからそれも当然だろう。

 

 獣人の血まみれの顔面を指でつついていた恭二は、疲れ切った様子でため息をついて、獣人の顔に手を翳す。

 

「まあ、軽く手当をしておくが…… 何のために俺が治癒術式を修得したと…… 霊力も有限なんだぞ?」

 

 ぶつぶつと文句を言った彼の手が薄ぼんやりと光ったかと思うと、獣人の顔がゆっくりと癒えていく。が、完全に治癒したわけではなく、程よくダメージを残した状態で治療は打ち切られた。

 

「まあ、このぐらいでいいか。下手に直し過ぎて、また暴れられても困るからな…… オペレーター。こっちは片付いたから護送車を用意してくれ」

『既に手配は完了しています。貴方たちも護送車が目標を収容したのを確認してから、本部へと帰投してください』

「了解。ほら、話は聞いてたな? 帰るぞ」

「おー、やっと帰れるのかぁ…… 夜更かしは女の子の大敵だからねぇ……」

「女の子限定じゃなくて、人類の大敵ともいえるけどな…… ま、それは置いといてとっとと帰るぞ」

「はーい!」

 

 麗華はおどけたような調子で手を上げながら返事を返し、グッと伸びをする。そして、軽く息をついてから彼女はこう言い放った。

 

「あ、そうだ。帰りに本部の近くにあるバーガーショップでポテトでも買ってかない? あそこ、テイクアウトも出来ておいしいし」

「デブるぞお前……」

「大丈夫大丈夫! 食べた分はしっかりカロリー消費してるからさ。ね、いいでしょ?」

「あーハイハイ。ご褒美に買ってあげますよっと」

「お、やりぃ!」

 

 麗華は嬉しそうにくしゃりと顔を歪め、待ちきれないと言わんばかりに駆け出した。

 

「そうと決まれば早く早く! チーズバーガーは待ってくれないんだから!」

「いやぁ…… 別に逃げはしないと思うんだが……」

「御託は並べない!」

「あー、うん。分かった分かった。だから、もう少し落ち着け」

 

 最早チーズバーガーのことしか目に入っていない麗華に対し、恭二は苦笑を浮かべつつ生返事を返すと、路地の向こうへと視線を向けた。

 

「まあ、護送車もついたみたいだし後はあっちの人らに任せるか」

 

 そんな恭二の言葉通り、護送車が到着しており、黒い衣服で身を包んだ性別不明の人間が数名、そこから降りてくるのが彼らからも確認することが出来た。

 彼らが手早く現場に残された戦闘の痕跡を隠滅していくのを横目に、麗華は思いっきり伸びをしながら言葉を紡いだ。

 

「じゃ、本日のお仕事はしゅーりょー! 帰ってチーズバーガー食べないとねぇ!」

「それはさっきも聞いたよ…… 待ちきれないのは分かったから走るな。車の運転はどうせ俺しか出来ないんだから」

「だったら、恭二も走ろうよ! こっちはとんでもなくお腹すいてるんだから!」

 

 そう言言いながら麗華は恭二の元まで駆け足で戻ってくると、その腕を引いて車の方へと駆け出した。

 

「若いねぇ…… おじさんそのノリにはそろそろついて行けなさそうだ……」

「何言ってんの? まだ二十八でしょ。まだまだ体は動くよ多分。ていうか、恭二よりも年取ってる村正のおじさんがいるんだから、もう少しシャキッとしなよ」

 

 そんな他愛のない会話をしながら、彼らは雨降る夜闇の中を歩いて行く。

 その姿から、日本が誇る対オカルトの機関に属している機関員だなどと、誰が想像がつくというのか。

 通称、クロユリと呼ばれる霊的防衛機関に所属している二人は、つかの間の日常へと帰っていく。

 

 

 

 

 それから数分と経たないうちに、彼らがそこにいた痕跡は洗い流されたかのように消え去っていた。

 

 

 

 

 

 

 



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悪意の病巣 第二話

「倉田恭二、ただいま帰投しました」

「有栖川麗華、かえったよー」

 

 バーガーショップの袋を片手に、本部へと帰投した恭二と麗華は対照的な態度で、本部の入り口に備え付けられたカメラに向けてそう言い放った。

 だが、一見真面目ぶっている恭二も麗華と一緒にポテトをもさもさとむさぼりながら歩いてきているため、緊張感はゼロである。

 

『顏認証完了、声紋確認、モーションパターン照合完了、霊子パターン照合完了…… お帰りなさいませ』

 

 そんな電子音声と共に開かれた扉をくぐって、二人は無機質な白い廊下を歩いて行く。

 

「こんな白い廊下見てると、ホラー映画のワンシーンを思いだすんだよねー」

「やめろよ…… 俺、ホラー苦手なんだから」

「毎度思うんだけど、どの口が言ってんの?」

 

 麗華は先程ぐちゃぐちゃになっていた獣人をつついていた恭二の姿を思い出し、訝し気な表情になる。あの光景の方がよほどホラー染みていたからだ。

 それに、そもそも彼女らが所属しているのは対オカルト事象に対する組織である。それなのにホラーが苦手とはおかしな話だ。

 それに対して、彼は渋面を作りながら言葉を紡ぐ。

 

「いや、人間が人間をビビらせるために作り上げたものと、ガチモンのオカルト事象は違うっていうか……」

「どっちも似たようなものな気がするんだけど…… ま、感性は人それぞれだしね」

 

 任務も一区切りつき、すっかり緊張感をなくした様子で仲間がたむろしていることの多いロビーへと足を進める。

 すると、ロビーの方からこんな声が二人に聞こえてきた。

 

「私たちクロユリの人間は、日本の妖怪とかそう言ったオカルト面での犯罪行為に対する警察組織っていうのはさっき話したわね。ここに来る前にも話していた霊力についての話は覚えてるかしら?」

「えーっと…… 確か、いろんな現象を引き起こす不思議パワーでしたよね?」

「そうね。で、現象を実際に引き起こす際に指輪とか服とかに施してある術式を通すことで、どんな現象を引き起こすかを決定できるの。まあ、霊力の適正によってそのあたりは制限されるけれどね。そう言った制約を超えるために使うのが札で、持っているだけで効果があるのが呪具ね。まあ、札の場合一回使ったら、特殊な方法で霊力を込め直さないと使えないのが玉に瑕なんだけど」

 

 一人は女性の声で、もう一人は少年といって良いような若い声。その内の女性の声が麗華と恭二が所属している組織であるクロユリや霊力などの基本知識について話をしているのが二人の耳に届く。

 その声を聞いて、麗華は懐かしそうな表情となった。

 

「うっわ! 懐かし! 私が初めてクロユリに来た時と似たような話をしてる」

「そうだな…… でも、新人が来るような話ってあったか?」

「さあ? なかったような気がするけど…… それに、この声って……」

 

 そう言って二人が会話を繰り広げながらロビーへと足を踏み入れると、金糸のような髪を肩のあたりで切りそろえた青い瞳の女性と、黒髪で穏やかそうなたれ目が印象的な少年がソファーに腰かけて話をしているのが見えた。

 金髪の二十代前半ほどに見える美しい女性を視界にとらえた麗華は、パッと顔を輝かせて彼女の元へと駆け出し始める。

 

「やっぱり、エレインだ! 休暇中だったはずなのに、なんでここにいるの? 確か久しぶりに取れた長期休暇だ―って言ってものすごく楽しみにしてたのに!」

 

 エレインと呼ばれた女性の着込んでいる白衣には、医療部門の統括者であることを示す刺繍が施されており、背後から見た立ち姿だけで麗華は話していた相手が誰か悟って、その背に飛びついた。

 エレインは、麗華に飛びつかれ一瞬だけ目を丸くするが、すぐに苦笑を浮かべる。

 

「ああ、麗華。相変わらず元気ね。何で私がここにいるかだけど、色々あって休暇が台無しになったわ。それについてボスの方から話があるから、二人は自分の部屋に帰らず、あいつの所に行きなさいな」

「え⁉ なにそれ、せっかく仕事が終わって休めるところだったのにさ……」

 

 エレインから放たれた言葉に、麗華は唇を尖らせて文句を垂れる。

 だが、それも仕方ないことだ。麗華はクロユリの戦力として上から数えても早い方ではあるが、年齢は十七歳になったばかりの少女。そんな未成年者に対して夜遅くまで働いた上で、残業を言い渡したようなものなのだから当然だ。

 というか労働基準法に照らしても、ギリギリアウトである。

 

 そんな正当すぎる文句を垂れている麗華に対して、エレインは困ったように微笑みながら言葉を返した。

 

「まあ、私たちは裏のお仕事をしてるわけだし、労基に期待するのは間違ってるけど、埋め合わせはきっちりされるはずよ。そのあたり、うちのトップはしっかりしてるわ」

「用は補償だけはしっかりとこなすブラック企業でしょ」

「ま、酷い言い方だけど、その通りね。私も実に二、三年ぶりの長期休暇だったし…… 思いだしただけで腸が煮えくり返ってきたわ。まさか、久しぶりの休暇中にあんな不愉快な状況に立たされるなんてね」

 

 そう言って目を細めたエレインの表情は、一切の感情が抜け落ちたかのようで、麗華は思わず後ずさる。

 

「うわ…… エレインがこんなに切れてるの久しぶりに見たかも……」

「おい誰だこの狂犬キレさせた奴」

 

 恭二も思わずそう言ってしまう程、エレインが纏っている空気が剣呑なものとなっていた。

 そこで、麗華は新人がその殺気に耐えられるのかという事に気が付いて、心配そうに同年代であろう少年の方へと視線を向ける。

 

「あのさぁ…… 一応、新人君がいる前でそんな物騒な気配ばら撒くのどうかと思うんだけど」

「え? あ、ああ、僕は大丈夫ですよ。一日くらい前まで、これより酷い状態のエレインさんと一緒にいましたし。あと、僕は新人って訳でも無くて…… えっと、エレインさん。説明お願いします!」

 

 少年は突如として話を振られたので、困ったような表情になりながら、エレインにすべての説明を丸投げした。

 それに対して彼女は目を伏せて説明を始める。

 

「ああ、この子は私が出先で巻き込まれた事件の生き残りの一人よ。要はただの一般人」

 

 その言葉を聞いた麗華と恭二は顔を見合わせた。裏の事情に関わっている以上、目の前にいる少年のような事例と関わることも多いが、流石に先ほど繰り広げた会話は無神経すぎたかと肝を冷やしたのだ。特にこの二人にとって、こう言った事例は嫌という程身に覚えがある。

 

 それだけに二人は、恐る恐るといった様子で少年に視線を向けた。

 しかし、麗華には少年がそれほど大きな精神的ショックを受けているようには見えなかった。だからと言って、エレインがこんな質の悪い冗談を言うタイプではないと知っているため、内心に混乱が広がっていく。

 一方、恭二は少年の立ち振る舞いに何か感じ入るところがあったのか、すぐに気を取り直して彼に言葉を掛けた。

 

「まあなんだ。大変だったみたいだな。お近づきのしるしに、ここからすぐそこにあるバーガーショップのポテトをやろう。うまいぞ」

「あ! いいんですか? 実は事件に巻き込まれたせいで、僕、昨日から何も食べてないんですよ」

「あなた、昨日あんなことがあったばかりなのに…… 神経が太いっていうより、最早神経が切れてたりしない?」

 

 ポテトを受け取った少年の様子に、エレインは顔を引き攣らせながらそう言った。

 それに対して、少年はポリポリと頬を掻きながら言葉を返す。

 

「いや、だって考えてみてくださいよ。ここに移送されるまでに、ちょっとした水分補給は出来ましたけど、固形のものは食べれてないんです。お腹がすいてもおかしくないでしょう?」

 

 少年はそこまで言って、恭二が手渡してくれたポテトをありがたそうに咀嚼し始める。

 

「五臓六腑に染みわたる…… ポテト、ありがとうございました。えっと……」

「倉田恭二だ。こっちにいる赤毛のは、俺が預かってる有栖川麗華だ」

「ご丁寧にありがとうございます。あ、僕は並木藤次です」

 

 少年は受け取ったポテトを机の上に置いて、ぺこりと礼をする。一つ一つの所作から少し抜けている印象を受けるが、藤次と名乗った少年は基本的に礼儀正しい人間であることが伺えて、恭二はうんうんと頷いた。

 

「できた若人だな。うちの麗華にも見習わせてやりたいよ」

「ちょ、今私の話は関係ないでしょ⁉」

「いや、お前なら差し出されたポテトに喰らいついて、俺の指までかみちぎる勢いでポテトをむさぼりつくすまであるだろう」

「あ、昔の話を引き合いに出すのはずるいってば! 私があの時何歳だと思ってるのさ!」

 

 ぎゃんぎゃんと実に息の合ったやり取りが繰り広げられ、藤次は面食らった様子で麗華と恭二の掛け合いを眺めることとなった。

 エレインはそんな二人の様子にため息をつくと、未だに騒ぎ続けている彼らを指さしてこう言った。

 

「藤次、あんまりあの二人と関わるのはやめた方がいいわ。問題児がうつるから」

「も、問題児がうつるって…… か、風邪か何かじゃないんですから……」

 

 藤次はエレインの言葉に、クスクスと笑いながら言葉を返した。

 そんな様子の彼を見て、恭二はやれやれと肩を竦めた。

 

「いや、麗華はともかく、俺まで問題児扱いは勘弁願いたいんだけどな」

「ほざきなさい、問題児コンビのヤバい方が何言ってるのかしら」

「エレイン、お前、もしかしなくても俺がさっき狂犬って言ったこと根に持ってるな……」

「さあ、どうかしら?」

 

 エレインは実にいい笑顔を浮かべながら、恭二に言葉を返す。

 口は災いの元。そんな言葉を思い浮かべつつ、彼は引き攣り笑いを浮かべた。

 

「怖い怖い…… ま、俺らは機関長に呼ばれてるみたいだし、そろそろ行くわ」

「うわー エレインが怖いからって逃げたよこの男」

「麗華、お前は少し空気を読んで黙るとかしような……」

「空気は読むもんじゃなくて、吸うものだよー? 恭二ってば、そんなことも分かんないのー? って、あだ⁉」

 

 わざとらしく語尾を伸ばし、ニヤニヤと笑いながら下からのぞき込んでくる麗華に対し、恭二はデコピンをかまして黙らせた。そして、額をさすり始めた彼女の首根っこを掴んで、機関長の元へと歩き出す。

 その最中で、彼は首をひねってエレインと藤次の方へと視線を向ける。

 

「そういう訳で、俺らはこのあたりで今度こそおさらばする。とっとと仕事は終わらせるに限るからな」

「そうしなさいな。私ももう少ししたら仕事に入らないといけないから、ちょうどよかったわ」

「あ、ポテト、本当にありがとうございました!」

 

 恭二は二人の言葉を背に、麗華を引きずってそのままロビーを後にする。

 そして、エレインと藤次の姿が見えなくなったあたりで、麗華がおもむろに口を開いた。

 

「恭二って、人にすぐ食べ物あげるよね。私の時もそうだったし」

「まあ、腹が減ってるときに、それが満たされるだけでも人ってのは元気になるものだからな。衣食足りて礼節を知るってやつだよ」

「ふーん? ま、お腹が満たされるのは確かにいいことだね」

 

 麗華はそう言いつつ、袋からポテトを新しく取り出し食べ始める。

 それを横目でちらりと見やり、恭二はやれやれと苦笑を浮かべた。

 

「食べるのもいいが、一応機関長の前では控えろよ」

「そう? 小太郎はそこのあたり気にしないと思うけど」

「いや、たしかにあの人はそのあたり気にしなさそうだけど、目の前で食べてたら、ポテトを数本要求されるぞ」

「あ、それは嫌かも」

 

 麗華はそう言うと、残りのポテトをまとめて口の中に放り込んだ。それを見た恭二は「食い意地はってんなぁ」と呟きながら、組織の長である存在がいる部屋のドアを三回ノックする。

 

「倉田恭二です。入室してもよろしいですか?」

「ああ、入っていいよ」

 

 部屋の中から返事が聞こえたことを確認して、恭二は麗華を引きずったまま入室する。

 部屋の中で座り心地のよさそうな椅子に腰かけていたのは、彼らが所属している霊的防衛機関クロユリの長である浦部小太郎だった。彼は病的なまでに白い髪の毛を揺らし、黒猫を膝の上で撫でながら笑みを浮かべる。

 そう言った所作や、幼く見える顔立ちに身長。一見すると組織の長になどは見えないが、クロユリ最強の戦力であり、全ての戦闘職に就いている存在の教導者でもある。そんな男は紫水晶が如き瞳を、恭二と彼に引きずられている麗華に向けると静かにこう言った。

 

「まあ、座って。これから面倒な話をする必要があるからね」

 

 



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悪意の病巣 第三話

 

 機関長こと小太郎に切り出された言葉に、恭二と麗華は露骨に顔を顰めた。彼がこのようなことを言いだしたときは、一切の嘘偽りなく、相当面倒な仕事が割り振られるからだ。それも、危険度の高いものが。

 そんな風に顔を顰めた両名を見て、小太郎は先ほどまでの笑みを引っ込め、真剣な表情で言葉を紡いだ。

 

「まあ、察してもらえただろうけど、今回の案件は重要度、並びに危険度が相当高いものだ。なので、恭二君に首根っこ掴まれたままでもいいから、麗華ちゃんもしっかり話を聞くように」

「うーん…… 真剣な話みたいだし、恭二も手を放してくれない?」

「そうだな。これは、真面目に聞かないとまずそうだ」

 

 麗華と恭二はそんな風に会話を交わし、居住まいを正して小太郎の体面にあるソファへと腰かける。

 そんな二人の様子を見て、彼は小さく頷きながら言葉を続けた。

 

「ロビーを通ってきてだろうから、分かっていると思うけど、今回エレインが休暇を潰される原因になった奴らが相手でね。詳しくはこの映像を見て欲しい」

 

 そう言って、小太郎が手元の機会を操作すると、部屋の壁に映像が映し出された。

 そこに映し出された光景に、麗華と恭二は絶句する。

 まるで、出来の悪いゾンビ映画のように、人間が凶暴化し、人間に襲い掛かっている映像が映し出されたからだ。

 それを見た恭二はすぐさま映像についての分析を始める。その顔を仮面のような無表情で覆いつくしながら。

 

「死霊術……? いや、あれは間違いなく生きている人間。ってことは操作系の術の類によるものだろうけど、これだけの大人数を操るなんて……」

「そう、通常なら不可能なんだ。だけど、今回の事件ではそれを可能にしている。エレインがこの事件が起きた場所に偶然居合わせなかったら、事態の究明が遅れてたのは確実だよ」

 

 小太郎はそう言って、機械をもう一度操作し、次の映像を映し出した。

 

「これが、今回の騒動の種だ」

「え、これって…… 微生物?」

 

 映し出された次なる映像によって示されていたのは、現役高校生である麗華が教科書などで見るような微生物に酷似している。

 そして、彼女の言葉を裏付けるかのように小太郎も鷹揚に頷いて言葉を紡ぎ出した。

 

「大体そんな感じだよ麗華ちゃん。まあ、正確に言うならばウイルスなんだけど、これは自己増殖し、霊力を生成し、発動する厄介な術式だ」

「ウイルスが、術式……?」

「その通り。術式っていうのはどんなに小さくても、その意味が通るように組んで刻めば効力を発揮する。これはまあ、分かってるよね? 二人とも、術式をミクロ領域で刻み込んであるものを複数所持しているはずだし」

「確認しなくても、流石に分かってるってば」

 

 麗華の返事に、「よろしい」と言って頷き、小太郎はさらに言葉を続けた。 

 

「その術式をウイルスの構成情報に組み込んだんだらしくてね。まず、霊力を生成する特性を持ったウイルスが体内で増殖して、それから十分な霊力をウイルスがため込んだ時点で起動キーとやらを使って術式の発動をしているらしい。感染経路は飛沫感染及び接触感染によるものだ」

 

 さらりと小太郎は言ってのけるが、そのとんでもない内容に恭二は眩暈を覚える。

 

「細菌よりも小さいウイルスにパターンを組み込むとか、普通あり得ないでしょう…… それが飛沫感染とかで拡散とか悪夢にも程がある」

「普通なんて、オカルト事象を相手にしている俺たちが言えた義理じゃないでしょ。非常識な事なんて今更だよ」

「それもそうですけどねぇ……」

 

やれやれ、と恭二は頭をかいた。事の厄介さに顔を顰めながら。

 

「調べるとなると、ウイルス研究が出来る設備を片っ端からですか?」

「いや、場所の見当は大方ついているんだ。エレインが事件に巻き込まれた時、しっかりと情報を持ち帰ってきてくれたから、それの解析を待っているところ」

「そりゃ心強い」

「まあ、自分たちで作ったウイルスとは言え、容易に流出するような環境では扱いたくないだろうっていうのは確かだけどね。なにせ、霊力を喰らう上に体内から作用するような術式だ。霊的な耐性が強くても、容易に操られかねない。そんなものにうっかり感染したくはないだろう。もっとも自分たちには作用しないような環境をとっくの昔に整えている可能性もあるけど」

「……で、エレインが仕事をしに戻ってるってことは、もちろんそのウイルスとやらの対策は出来てるんですよね?」

 

 恭二の問いかけに対し、小太郎は「もちろん」と言って、小型の注射器と札をセットにした袋を机の上に取り出した。

 それを見た麗華は、怪訝な顔をしてその袋を手に取ると、小太郎に対して言葉を投げかける。

 

「これで、どうやってその対策をするの?」

「まず、注射器の方だけど、そいつはウイルスを変異させるための代物でね。変異によってウイルスに組み込まれた術式のパターンを台無しにしたうえで体内から駆逐する代物だけど、エレイン曰く、地面をみじめにのたうち回りたくなる程度の激痛が十分程度続くらしい」

「えー? なにそのドМ御用達みたいな代物は…… そんなの使いたくないんだけど……」

「まあまあ、落ち着いて。そう言うと思ってこっちの札を用意したんだ」

 

 そう言って、小太郎は袋の中に入った札をトントンと指さした。

 

「こいつにはたっぷり霊力を詰め込んであってね。こいつに刻んである術式は、ウイルスの変異によって与えられる激痛を遮断する効果がある。まあ、ウイルスの変異の過程でで発熱などの症状が出るから、確実なのはウイルスに感染しないことに尽きるけど」

「それなら、もうちょっとその注射の本数と札の量を増やしてよ。二度目以降の感染をすると、確実に詰むじゃん」

「エレイン曰く、一日にこれ以上注射による投薬量を増やせば命の保証はないそうだ」

「あ、それなら仕方ないね」

 

 麗華は真顔になってそう言うと、袋を受け取った。これ以上の質問は特に無いらしい。

 それを見てとった小太郎は、任務の概要の説明に移った。

 

「さて、君たちに担当してもらうのは、他でもない。このウイルスに刻まれた術式の起動キーとやらの破壊だ。不可能であるならば、確保という形でなんとしても差し押さえて欲しい」

「機関長、その仕事を俺達だけに任せるつもりですか? 正直、村正さんや九鬼さんをあてがった方がよっぽど確実だと思いますけど」

「あの二人には別件の仕事を割り振っててね。他のメンバーには、各国の大使館の護衛や、ウイルスが貯蔵されている場所への急襲を担当してもらっている。正直な話、人員がカツカツでね。この任務は君たち以外に割り振ることが出来ない」

 

 小太郎の言葉に、恭二は硬い表情で「了解」と返した。そんな彼の様子に、麗華がニンマリと笑ってその背中を叩いた。

 

「大丈夫だって。私と恭二ならパパッと片づけて帰ってこれるよ!」

「はは、そうだな」

 

 麗華のいつもと変わらない態度に、恭二は小さく苦笑を浮かべつつそう返した。だが、その表情は先程よりも柔らかい。

 そのやり取りを見ていた小太郎は、ふむ、と息をつきながら顎を撫でた。

 

「まあ、話はまとまったみたいだし、下がっていいよ。起動キーのある場所への急襲は、明日の午前四時から向かってもらう。それまでには情報の解析が終わり、正確な位置まで割り出せているはずだ。今回はヘリで目的地まで移送することになるけど、移動中にブリーフィングをすることになるから、仮眠はしっかり取っておくように」

「了解」

「りょうかーい」

 

 そう言って、恭二と麗華は部屋を退室しようとする。が、そこで小太郎が声を上げた。

 

「ああ、恭二君は少し残ってくれるかな? ちょっと話があるから」

「え? はい、分かりました。麗華、そう言う事だからお前はもう寝とけ」

「ん、分かった。さっき買ったチーズバーガー食べてから寝るよ」

「……デブるぞ」

「その分、明日の朝消費するから問題ないよーっと」

 

 麗華は軽く舌を出しながらそう言って、部屋を足早に去っていった。

 その背中を呆れたような表情で見送ると、恭二は軽く息をついて小太郎に向き直る。

 

「それで、機関長。話って何ですか?」

「君と麗華ちゃんのことだ。あんまり、過保護すぎるのも考え物だよ?」

 

 突如として投げかけられた言葉。それに対して、恭二は困ったような声色で言葉を返した。

 細められた彼の瞳に映るのは、自嘲と悔恨。

 

「過保護…… に、見えますかね?」

「彼女は自分の意志でこの機関に所属し、文句を垂れながらも仕事をこなしてる。君も、その意思を尊重して、相棒として一緒に戦っているのも確かだ。けど、今回のような危険度が限りなく高い仕事が回ってきそうな時は、できるだけ避けてきたのも事実だろう?」

 

 小太郎の鋭い指摘に、恭二はバツが悪そうに頬を掻いた。その言葉が他ならぬ事実だったからだ。

 

「あいつはまだ若いですし……」

「それでも、君に引き取られ、クロユリに所属してから既に八年だ。現場に出るようになって五年目。今回のレベルの危険度の仕事も、クロユリに所属していれば往々にして遭遇することもある」

「ですが、だからと言って今回の仕事はあまりにも…… 危険度に関しては百歩譲るとしても、重要度に関しては近年類を見ないレベルでしょう…… それをクロユリの最年少に任せるのは信用問題にかかわりますよ」

 

 恭二の言葉。其れもまた事実だ。

 そも、今回のように集団をコントロールできる代物は、戦争を引き起こす引き金として用いたり、国家間の摩擦を生み出すことなどに用いれば絶大な効果を発揮する。

 だからこそ、クロユリが擁する恭二と麗華以外の機関員に、大使館の護衛任務が割り振られた。群衆が操られ、大使館になだれ込んだ時に、最後の砦とするために。

 そうすることで、最悪の場合に陥ったとしても国同士の軋轢を最小限にとどめるために。

 だが、そんな恭二の懸念を一掃するようにして、小太郎は静かに言葉を紡いだ。

 

「俺は君たちが適任だと判断した。君が居たからでも、彼女が居たからでも無い。君たち二人だからこそ任せられる」

 

 それは、クロユリという機関の長としての厳命だった。

 恭二は、この決定が覆されることが無いと分かってはいたが、改めて突きつけられた気分となりため息をつく。

 そんな様子の彼に対し、小太郎は静かに言葉を紡いだ。

 

「恭二君が麗華ちゃんを引き取ってもう八年。もう少しで、実の親と過ごした時間よりも長く君たちは共に過ごしたことになる。これが良いことか悪いことかはさて置き、それだけ長い間共に過ごしたんだ。死なず、また死なせるな。この命令は覆ることは無い。だから、それだけを意識して行動しなさい」

「なら、もう少し安全な役割を割り振って欲しいんですけどね……」

「ははは! 他の機関員も似たような立場だ。麗華ちゃんが若いという理由だけで、君たちを特別扱いするつもりは無いよ」

 

 機関の長としてあくまでも冷徹に、小太郎はそう断言した。

 本音を言えば、彼は誰にも死んでほしくないし、死なせたくはないのだろう。だが、それでも決断を迫られるのだ。機関の長というのは否応なしに。

 そんな小太郎の決断だからこそ、恭二はその命令を渋々と受け入れる。

 

「分かりました。もう文句は言いませんよ。誠心誠意、力を尽くし、二人して生き残ることを誓いましょう」

「うん。その返事を聞けて安心したよ。話はこれだけだ。特に無いなら君も仮眠を取りなさい」

 

 小太郎がそう言うと、恭二もこれ以上会話の必要性を感じなかったらしく「失礼しました」と言って部屋を去っていった。

 その背中を見送り、小太郎は小さくため息をつく。

 

「はあ…… 責任の多い立場じゃ無ければ、俺が現場に行って方を付けるんだけどね…… ままならないな」

 

 その呟きは彼の膝に乗っていた黒猫以外の誰にも聞きとられることなく、部屋に吸い込まれるようにして消えていった。

 



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悪意の病巣 第四話

 

*****

 

 

 

 そして、翌日の午前三時。

 仮眠から目を覚ました麗華は、マガジンや札などを格納できるベストを羽織って、耳に差し込んだ小型の通信機越しにオペレーターから己の装備へのアドバイスを求めていた。

 

「うーん…… オペレーター、なんかおすすめの装備とかってある?」

『そうですね…… やはり、操られている人間と戦うことを想定して、拘束用の札を多めに持ち運んでおくことでしょうか。それと、火器使用の許可が出ているので、麻酔ゴム弾もセットで持っていくと良いかと。また、あなた二人の場合、結界など空間を遮断できる術式に適性が無いので、そちらの札も持って行ってください。あとは、今回はウイルスを扱う場所が任地ですので、飛散を防ぐために爆裂符の類は控えることぐらいでしょうか…… それと、霊視用と暗視用の呪具は忘れずに装備していってくださいね。暗所での戦闘と、操られている人間を見分けるうえで必要になりますから』

「りょーかいっと。お巡りさんが使ってるような手錠や手榴弾と違って、何十枚と持ち歩けるのがお札のいいとこだよねー」

 

 そう言いながら、つらつらと並べ立てられたオペレーターのアドバイスを参考に、彼女は次々と回復系と攻撃系の札や銃弾、及び麻酔ゴム弾などのマガジンを懐やバックパックに詰め込んでいく。

 さらには二挺の自動拳銃を両脚に付けたホルスターに納め、二本の特殊警棒を腰に取り付けた。

 任務の準備をする手を一切休めず、麗華はオペレーターに言葉を投げかける。

 

「そう言えば、恭二はまだ起きてないの? そろそろ準備しないとまずくない?」

『倉田さんは、準備を終えてから仮眠を取られたので、あと三十分は起きてこないと思います』

「ふーん? 一応確認しておくけど、恭二はどんな装備を持ってってるか分かる?」

『はい。事前に申請があったので、倉田さんの装備一覧をそちらの端末に転送しておきますね』

 

 オペレーターの言葉と共に、恭二の装備データが麗華の端末に転送された。

 それらを一通り確認し、彼女は端末をしまう。

 

「ま、予想通りって感じ。結界と拘束に使う補助系が多いとことか、一撃必殺を狙える札を何枚か持ってるとこが特に。あとは、クロユリの医療部門印の薬品数点って感じだね」

『あなたたち二人は、装備データをわざわざ閲覧しなくても、大体互いの足りない分を補っていますからね……』

「付き合い長いし、私がぺーぺーの頃から恭二に面倒見てもらってるからねー そりゃ、装備品の趣味嗜好や、得意とするところが分かりやすくなるのも当然だよ」

 

 軽く返しながらも昔のことを思いだし、「もう八年か」と小さな声で麗華は呟いた。

 そこにどんな思いを込めたのかは、彼女以外に推し量ることは出来ない。

 しかし、次々と溢れて来そうになる思いを押しとどめると、麗華はゆるりと立ち上がった。

 

「ま、そんなことはさておき! 作戦開始まで時間があるし、少しだけ本部の中をぶらついてくるよ」

『体力の消費をするようなことは推奨できませんが……』

「大丈夫大丈夫! ちょこっとロビーのあたりでうろちょろしてるだけのつもりだからさ」

『遠足が楽しみな子供ですか貴方は…… そろそろ落ち着きを持ってくださいと何度言えば……』

 

 通信機越しに、呆れたような声色でつらつらと並べ立てられる小言に、麗華は口笛を吹きながら部屋の外へと足を進める。

 そんな彼女に、オペレーターは小さくため息をついた。

 

『はあ…… そう言ったところは全く成長しませんね』

「いやぁ…… 大変申し訳ないナー」

『まあ、貴方らしいと言えば貴方らしいですし、それでいいんじゃありませんか?』

「お、何々? これ、俗にいうデレ期ってやつ? でも、私、今のところ百合っ気は無いんだけどなー」

 

 麗華は、ニシシっと笑いながら、揶揄うようにそんな言葉を紡いだ。もしかしたら、面白い反応が返ってくるかもしれないなどと彼女は考えての軽い言動。

 

『違います。貴方の気負いすぎないところを評価したつもりですが、同時に玉に瑕でもありますね…… 一度、新人教育からやり直して来ればいいのに。大体あなたは……』

 

 しかし、通信機越しに返ってきたのは、極寒すら生ぬるいと感じるような冷え冷えとした声色だった訳だが。

 そのあまりの声色の冷たさに、麗華は身を竦めて「おー こっわ!」と呟きながら、そそくさと通信機へと手を伸ばす。

 

「じゃ、じゃあ、任務開始まで私は適当に休んでるから、一旦通信切るね!」

『あ、こら、まだ話は終わってませ』

 

 オペレーターが言い終わらないうちに、彼女は通信を打ち切った。

 それから、麗華は冷や汗を流しながらため息をつく。

 

「ふぅ…… 任務終わった後で絶対小言を言われそうだなぁ……」

 

 そして、これから訪れるであろう未来に軽く頭を抱える。が、どうあがいても自業自得なので、逃げられないと悟って、またため息をついた。

 

「ま、今回のは生真面目なオペレーターに対して軽口が過ぎたかもしれないし、後で謝らないとなぁ…… その前にお説教が飛んでくるんだろうけど」

 

 そう言って、彼女はロビーへと足を進めた。その背中に、いつか来るであろうお説教に対する哀愁を漂わせながら。

 

 

 

*****

 

 夢を見ている。

 ひどく懐かしく、残酷な夢を。

 走っていた。息を切らせていた。血を流していた。

 それでも、早く、速くと男は駆けた。

 全身の肉が裂け、骨が砕け、それでも間に合うのならと彼は走り続けたのだ。

 嗚呼、それでも彼は間に合わなかった。

 彼が駆け付けた時には、既に相棒の男はこと切れていた。その腕の中に、自分の大切な娘を抱いて。最後のひと時まで守り通して。

 その娘は、ずっと一人で泣いていたのだろう。

 大切な人の、たった一人になってしまった家族すら失い、その温もりが失われていくのを肌で感じながら。

 そして、娘は泣きはらし、絶望を湛えた瞳を男に向けると、ただ一言。小さく呟いた。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■?」

 

 

*****

 

 

「夢……」

 

 ぱちりと目を見開き、あたりを見回した恭二は静かにそう呟いた。

 

「時間か」

 

 移送開始三十分前きっかりの時間に、彼は目を覚ました。悪夢にうなされながらも、しっかりと時間通りに起きることが出来る自分の体内時計の精密さにあきれながらも。

 身体を起こすと、まとめてあった装備一式を手に取って、ロビーまで歩き始める。任務開始までに時間があるとは言えども、すぐに移動できる体勢は整えておかなければならないからだ。

 その道中で、恭二が装備一式の中に含まれているサブマシンガン、及び強化プラスチック製のライオットシールドの具合を確かめつつ歩いていると、ロビーの方からこんな声が響き渡ってきた。

 

「えー こんなの着なきゃいけないの⁉ 今、夏だよ? しかも梅雨だよ? 蒸れっ蒸れだよ?」

「しょうがないでしょう? 感染を防ぐために、露出は出来るだけ減らさないといけないんだから……」

 

 その声を聞いた恭二は、ガリガリと頭を掻いた。その表情に、呆れを滲ませながら。

 

「麗華とエレインか。何やってんだあいつら…… おーい! 俺が入っても大丈夫か?」

「あ、恭二! 大丈夫大丈夫、別にロビーで脱いでるわけじゃ無いから!」

 

 そんな元気の良い返事が返ってきたので、ならば問題は無いと、彼はロビーへと足を踏み入れる。

 そこには、エレインの手に特殊部隊か何かが付けていそうなガスマスクと、服の上から着ることできる長い丈の防護服、及び手袋のセットが二つ分握られていた。

 そんな二人の前で立ち止まった恭二に、麗華が眉間に皺を寄せ、親指でそれらの装備を指し示しながら言葉を投げかける。

 

「この時期にこの装備ってきつくない?」

「確かに少しきついな…… でも、これを着ないと、ウイルスに感染、からの術式起動で相手の操り人形待ったなしなんだろう?」

「分かってるんだけどさぁ…… 愚痴の一つや二つ言いたくなるよ」

 

 麗華は、「あーあ」と言って、エレインからそれらの装備を受け取った。

 そんな彼女に対して、エレインは苦笑を浮かべつつも言葉を返す。

 

「これでも、貴方たちの戦闘の阻害にならないだろうものを選んだつもりよ。これ以上文句を言うなら、いっそ感染覚悟で防護服を着なければいいんじゃないかしら」

「勘弁勘弁! 分かったよ、文句はもう言わないから」

 

 エレインの苦笑の中に含まれた僅かな怒気を敏感に感じ取り、麗華は勘弁してと言わんばかりに両手を上げ、一旦札やマガジンなどを入れてあるベストを脱いでから、受け取った装備を身に着け始める。

 そんな彼女の様子を見つつ、エレインは二人に向けて腕輪のようなものを取り出した。

 

「ああそれと、これもあなたたちに渡しておくから、腕に装着しておいて」

「なんだ、これ?」

「血中で件のウイルスが検知されたことを知らせてくれる装置よ。原理はウイルスの特性を利用して体内での霊力変動を観測して…… まあ、細かい原理は気にしなくていいわ」

「なるほど…… こいつはかなり重要だな」

 

 ウイルスの感染を知らせる装置を受け取った恭二は、真剣な表情でそう呟いた。

 感染に気付かないまま戦闘を続け、敵の傀儡になる、などという事を防ぐことが出来るからだ。リスク回避ができるというのは、現場で戦う二人にとってありがたいものである。恭二はうんうんと頷きながら、その腕輪を眺め回した。

 そんな風にありがたがっている恭二に向けて、エレインは「ただし」と言って指を突き出した。

 

「覚えておいて欲しいのは、感染した人間は個人差はあるけど、凡そ十五分から二十分程度で人体の制御を持っていかれることになる。妖魔なら三十分から四十分ってところなんだけど…… 貴女たち二人とも純人間でしょう?」

「つまり、十分から二十分までの間にもらった注射をぶち込まなくちゃいけない、と」

「そう言う事ね。だけど、私の採取したデータを元に装備科の人たちが急ピッチで作ったモノで、出来上がったのもついさっき。だから、精度のことを考えると、実際の時間はもう少し短くなるわ。デッドラインは、その装置が感染を検知してから十分程度だと思っておいて。発症した後だと、注射器の薬液の効果が表れた後でも、しばらくの間敵の支配が残るみたいだから、感染したらできるだけ迅速に投与しなさい」

 

 エレインは真剣な表情で二人にそう言い放った。その一つ一つの情報は、彼女が実際に件のウイルスが用いられた現場に居合わせたからこそ入手できたもの。その重みは計り知れないものだ。

 だが、その重みを噛みしめつつも、防護服を着終えた麗華はにんまりと笑った。まるで、何の問題も無いと言わんばかりに。

 

「ま、いつも通りだよ。さっと行って、さっとぶっ潰して来ればいいんでしょ? エレインの休日ぶっ潰した連中を軽くのしてきてあげるよ」

「簡単に言うねお前は…… ま、その通りだ。吉報を期待しておいてくれ」

 

 一切ぶれることのない麗華に、恭二は苦笑を浮かべつつ同意する。その中にエレインを安心させておこうという親切心から来る言葉を織り交ぜながら。

 だが、その言葉を聞いたエレインは心底胃が痛そうな様子で言葉を紡いだ。

 

「私の仕事を増やす筆頭問題児コンビが言うと、不安しかないんだけど…… お願いだから、私の仕事を増やさないでね? ふりじゃないわよ。本当に増やさないでね?」

「努力はするよ」

「望み薄な気もするけどな」

「気持ちだけの結果に終わりそうな返事をありがとう。期待しないでおくわ……」

 

 麗華と恭二が返した気の無い返事に、エレインはがっくりと肩を落とした。処置無しとはこういうことを言うのだろうと、まざまざと突きつけられたのだから当然ともいえるが。

 だからこそ、目を細めて彼女は言葉を紡いだ。

 

「死んでなきゃ、大抵の傷や欠損も治せるけど、死んだら治せるものも治せないのよ?」

「分かってるよ。だから、私がちゃちゃっと敵をやっつけるって言ってるんだから」

 

 麗華は一瞬、一切の表情を取り払った真剣な表情でエレインの顔を見つめる。だが、それをすぐにおさめて彼女はいつも通りの表情になった。

 その表情の変化を横目で見やりつつ、恭二は軽くため息をつく。そして、後ろから麗華の頭へと手を伸ばすと、その頭をガシガシと撫でてやりながら、エレインへと言葉を投げた。

 

「まあ、バランスとりはしっかりやるよ」

「そう…… 精々崖っぷちでもいいから生き残りなさいな。そうしたら、私が手を尽くしてあげる。ただし、心臓にダメージを受けるのはやめて頂戴ね」

 

 彼女はそう言うとくるりと踵を返し、顔だけを恭二と麗華に向けた。

 

「さて、私は仕事に戻るわ。これでも、貴方たちに渡した注射器の中身を改良するので大忙しなの」

「じゃあ見送りと装備の受け渡しは他の人に任せとけばいいのに……」

「今は、薬液の構成をいくつかの案を採用して組み替えたり、作成時に使用する術式組み替えたものを片っ端から試して反応を見てるところだから、部下に任せられるもので私の時間自体はあったのよ。でも、もうすぐそれらも終わるから私も仕事をしなきゃってだけの話。じゃ、わざわざ見送りに来てあげたんだから、しっかり生きて帰って来なさいな」

 

 背を向けたまま、エレインはひらひらと手を振って、立ち去っていく。

 しかし、何か思いだしたかのように立ち止まると、彼女はいい笑顔で麗華に顔を向けた。

 

「あ、そうそう。防護服は移動するヘリの中で着込むといいわ。ずっと着てたら暑いでしょう?」

「あ、あ~! さっき怒って、わざと私にこれを着込むように仕向けたでしょ⁉」

「さて、何のことかしら?」

 

 エレインはいたずらっ子のように舌を出し、今度こそ立ち去って行く。

 その背中を見送りながら、麗華は心底悔しそうに地団太を踏む。

 

「くっそー! 騙された! こうなったら、意地でも目的地までこれを脱ぐもんか!」

「意固地になるな。あっちは、見た目若くてもかれこれ百年以上生きてる人外の一人だぞ? 老獪さで勝てるわけないだろ」

 

 唇を尖らせてしまった麗華にそう言うと、恭二は彼女の背を押しながら、共にエレベーターへと乗り込んだ。

 ヘリポートのある屋上へ向かうためのスイッチが押されると、僅かな沈黙が場を支配した。

 それを打ち破るかのように、麗華が言葉を紡ぐ。

 

「任務終わってないっていうのに、なんだかどっと疲れちゃったんだけど」

「ダダ捏ねたから揶揄われたんだろ? 自業自得だ」

「ちぇっ」

 

 拗ねたような舌打ちの音と共に、エレベーターのドアが開き、屋上へ到達したことを二人に知らせてくる。

 麗華と恭二は並んで足を踏み出すと、夜風が二人の顔を撫でた。ヒートアイランド現象によってたまり込んだ熱のせいで、爽快とは言い難いものだったが。

 

「う…… むわっとする」

「暑いしとっととヘリに乗り込むぞ」

 

 二人は顔を顰めながらそう言うと、視線の先にあったヘリコプターへと乗り込んだ。

 そこで、二人の通信機からオペレーターの声が響く。

 

『二人とも、ヘリに乗り込みましたね。これから作戦内容の説明を行います』

 

 

 

 

 

 

 



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悪意の病巣 第五話

 

 

 オペレーターの声を聞いて、二人は居住まいを正した。特に麗華は先程怒らせてしまったという事もあり、オペレーターの声を聞いて、ビクリと身体を震わせる。

 パイロットがヘリを飛ばす準備を進める中で、通信機からオペレーターのさらなる言葉が紡がれる。

 

『作戦の概要ですが、まず任地を霊視カメラを用いて上空から撮影した映像をあなたたちの端末と、ヘリに備え付けてある端末へと転送しますので、そちらを確認してください』

 

 オペレーターの言葉と共に、ヘリコプターの内部に取り付けられたモニターに任地である医療施設らしき建物が表示され、その建物を囲むようにして、白や黒、赤色などの線が幾重にも周囲に張り巡らされているのが映像から見て取れる。

 それを見た麗華は盛大に顔を顰めながら、忌々し気に吐き捨てた。

 

「最悪…… 探知用に捕縛用、迎撃用の術がたくさん張り巡らされてるじゃん」

「おいおい、こんなに数が多いと、潜り抜けるだけでも時間がかかる。潜り抜けるにしたって、映像を見る限りだと、いくつかの術がが絶えず動いてるから大分きついぞ。動き回る地雷原の上を走り抜けろって言ってるようなものだ」

『さらに悪い知らせが。この映像の範囲に、監視カメラなどの視界を視覚化したものを追加するとこのようになります』

 

 オペレーターの言葉と共に、監視カメラの視界も表示されたが、その範囲を見た恭二は即座に理解した。

 

「これじゃ隙間がない。監視カメラの視界に入った時点で、迎撃用の術が起動状態になるだろうし、その視界に入らないようにしても、探知用の結界に引っかかってどっちにしろ起動状態まで持ってかれる」

 

 これでは、ほぼ間違いなく警戒網を気づかれることなく突破するのが不可能だという事実を。

 そして、恭二の言葉を聞いた麗華は、思案顔でその映像を見つめた。

 

「私の雷撃で監視カメラを無効化するのは?」

「やったとしても、相手に気付かれるのは確実だ。迎撃用の術が発動して、内部への侵入が困難になる。気づかれるとしても、建物内に侵入した後じゃないと中にいる奴らに態勢を整えられる羽目になるぞ」

「だよねぇ…… 中に入ったら、まあ、確実に気づかれるだろうから、そこは気にしなくていいんだろうけど、これじゃあ入る前に気付かれちゃうよね……」

 

 どうしたものか、と二人は顔を見合わせた。

 だが、そんな二人に対し、オペレーターは自身に満ちた声でこう言い放った。

 

『いえ、内部に侵入するまでに、相手に気付かれない方法が一つだけあります』

「お、さっすがオペレーター‼ それって、どんな方法⁉」

 

 麗華は、先ほどびくりと体を震わせたことなど忘れてしまったかのように目を輝かせ、その言葉に喰らいついた。

 オペレーターは心底楽しそうな声色で返事を返す。

 

『映像を見ても分かりづらいと思いますが、上空の警戒網は他と比べて僅かに薄くなっています。この警戒網は絶えず動いていますが、ほんの一瞬だけ隙間が空く瞬間が存在します。そこに時速二百キロ以上の速度で突入することが出来れば、警戒網に捕まることなく施設屋上へと着地することが出来るでしょう』

「「は?」」

 

 麗華と恭二は、その言葉を聞いて異口同音に間の抜けた声を上げてしまう。

 一瞬、何を言われたか理解できなかった二人だが、しばらくしてその言葉の意味が理解できたらしく「はあ!?」とこれまた同時に声を上げ、猛烈な抗議を始めた。

 

「ちょっとオペレーター! それって、着地じゃなくて墜落って言ってもいいレベルだよね⁉ ていうか、そのためのヘリ移動⁉」

「さすがに無謀が過ぎるだろ…… 肉体への強化を多重化すれば、骨を何本か犠牲にして着地するぐらいならできるかもしれないけど、防護服やガスマスクまでには手は回らない。そうなったら、相手の思うつぼだ」

 

 恭二は自身が施せる強化の限界を想定してそう答えた。一人ならばともかく、二人分の装備と肉体の強化を時速二百キロの衝撃に耐えきるようにするのは不可能だと判断したのだ。

 普段なら、そこまで装備のことを気にしなくてもよいのだが、今回に限ってはウイルスに対する防壁がなくなってしまう。それでは結局、敵の傀儡になってしまうので、意味が無い。

 早々に自身に出来ることを判断し、結論に至った恭二にオペレーターは呆れたような声色で返事を返した。

 

『麗華さんはともかく、倉田さん。やろうと思えば耐えきれるんですか……?』

「頑張ればの話だぞ。頑張れば、の。 ……それはさておき、こんな無茶なこと言いだしたってことは、それなりの対策はあるんだろう?」

『はい。ヘリの中に、手のひらサイズの赤い箱があるはずですが、その中に札が二枚入っています』

「赤い箱…… これかな?」

 

 オペレーターと恭二の会話を聞いた麗華が、ヘリコプター内部に置いてあった箱を手に取った。

 

『そう、今麗華さんが手に取ったその箱ですね。その中に収めてある札は、使用することで着地の衝撃を肩代わりしてくれます』

「身代わり系の札かぁ…… 普通は大きい一撃を防ぐのに使うものだけど、まさか上空からの墜落に使うなんてねえ?」

「まあ、普通はそんなことに使わないよな」

 

 恭二は苦笑を浮かべて、麗華に言葉を返した。しかし、割と高いコストがかかる身代わり系の札を、上空からの侵入の為だけに使うという大胆さと、侵入における作戦のとんでもなさを考えると、それも仕方のないことだろう。

 だが、何処か呆れたような二人の態度を気にせず、オペレーターはさらに言葉を紡いでいく。

 

『着地についての問題点をご理解いただけたようで何よりです。次に着地地点ですが、東棟の屋上へと着地してもらいます。その時点で、監視カメラの視界に捉えられることになりますので、即座に屋内に侵入してください。また、麗華さんは敵の電気系統を破壊する際は出来るだけ監視カメラのものだけにしてください。ウイルスの保管施設の電源が落ちるたり、証拠となりうるデータが消し飛ぶことは避けたいので』

「ん、りょーかい」

『分かっていただけたようで何よりです。次に、侵入したのちの動きについてですが、各階の制圧をできればベストですが、そのような時間は残念ながらありません。なので、防火シャッターを麗華さんが雷撃を用いて起動させ、要所のルートを閉鎖しながら進んでください』

「分かったけど、私の仕事、ちょっと多くない?」

 

 オペレーターから次々と放たれる作戦内容に、麗華は少しだけ不満そうな表情でそう返した。

 それに対して、少しだけ気づかわしげな声が通信機の向こうから返ってくる。

 

『雷撃を使えて、電気系統をうまくいじくれる時点で、こう言った時に負担が大きくなるのは仕方のないことです。その分、今回の任務が終わったらたっぷりと手当てが出るので、それでおいしいものでも食べてください』

「ま、それならいいや。頑張って仕事するよ」

「お前、軽いなぁ」

 

 オペレーターの言葉を聞き、あっさりと不満を引っ込めた麗華を見て、恭二は苦笑を浮かべた。だが、それをすぐに引っ込めると、オペレーターに対して彼は問いを投げかけた。

 

「それは置いとくとして、施設の概要と目標の存在する地点については?」

『まず東棟は五階と屋上からなる建造物です。事前の調査と、エレインさんが持ち帰った情報から、目ぼしい情報をさらったところ、施設の地下にウイルス研究用の施設を秘密裏に増設したらしく、そこを目指すことが第一目標になります』

 

 恭二は目を細めて、それらの情報を吟味する。そして、何かを思いだしたかのように、オペレーターに問いを投げかけた。

 

「最後に、周囲の封鎖や俺たちが失敗した場合についてはどうなってる?」

『それについてですが、機動隊やSATからこちらの事情に詳しい人間を数名引き抜いて、各種ポイントについています。その中にクロユリの下部構成員を数名配置し、数百枚単位の結界用の札を発動させ、当該地域を物理的及び霊的に封鎖します。そして、失敗した場合は……』

 

 オペレーターは僅かに言いよどむ。しかし、彼女は情報の伝達係であり、二人をサポートする存在だ。故に、一切の感情を排してオペレーターは言葉を紡いだ。

 

『儀式呪法により、結界内部を焼き払うことになるかと』

「まあ、妥当だな」

「そうなっちゃうよねぇ」

 

 恭二と麗華は驚くこともなく、そう言い切った。この任務を聞かされた時点で、失敗した時の対応がどういうものになるか、おおよその見当は付いていたからだ。

 麗華を危険な目にあわせたくはないと、恭二は常々思っているが、当人が覚悟を決めて任務に挑んでいる時点でそれにどうこう言う事は無い。

 まして、適当な態度を取ることが多くても、人一倍正義感が強い気質の麗華にとって、ウイルス研究所は叩き潰すべき標的だ。どうこう言っても、任務に選ばれた時点で、それを為すのは彼女の中で決定事項になっているであろうことは、付き合いの長い恭二にとって容易に想像がつくことだった。

 

「ま、そう言う事ならとっとと片づけて、安心して帰れるようにしたいよな」

「賛成っと。そうしないと、施設内にいる一般の人たちまで巻き添えにしちゃうしね」

 

 麗華は目を細め、真剣な表情で言葉を紡いだ。それは、彼女にとって最も避けたい事態だ。それで、もしもいつかの自分のような思いをする人間がいるのなら。そう考えるだけで、麗華は顔を顰めてしまう。

 年不相応の覚悟や実力を持ち合わせていても、表情に大きく出てしまうのは、やはり若さゆえのものなのだろう。それを察して、恭二は彼女の背中を軽く叩き、柔らかい声色で声を掛けた。

 

「気張るなよ。さっきまでの威勢はどうした」

「気張ってなんかないよ。ちょっと思うとこがあるだけだから。そっちこそ、任務が始まる前は心配そうな顏してたじゃん」

 

 また心配をかけてしまったことを察してか、何処か拗ねたような表情で麗華はそう返す。言外に、「私の事、信用できないの?」と言わんばかりに。

 その様子を見て、先ほどのような少しばかり重苦しい雰囲気が霧散したことを確認し、恭二は小さく微笑みながら言葉を返した。

 

「まあ、俺は一応お前の保護者だからな。危ないことに関わることになりそうなら、顔の一つや二つ顰めもする。まあ、仕事には私情を持ち込んだりはしないさ。そんなことが出来るほど若くもないしな」

「ふーん、そう」

 

 麗華はその返答を聞いて、複雑そうでありながら、満足そうな色を混ぜ合わせた微笑みを浮かべ、座席の背もたれに体を預けた。そんな彼女と同じように、恭二もまた背もたれへと身体を預ける。

 二人とも、最早質問などは無い様子で、任地までの移送を待つばかりの体を取り始めた。

 

『まったく…… これだから、貴方たちは…… では、これよりあなた方の端末に任地のマップ情報を転送します。移送は間もなく開始されるので、任地につくまで念入りに確認しておいてください』

 

 通信機越しにオペレーターのどこか呆れたような声が響く。

 

 

 

 それから間もなくして、彼らを乗せたヘリは上空へと舞い上がった。

 



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悪意の病巣 第六話

 

 

*****

 

 数十分後。

 

 麗華はガスマスクを顔に着け、空飛ぶヘリコプターから顔を覗かせ、地上を見下ろしていた。

 

「こっわ! 今、上空何メートル⁉」

『上空四千メートルです。スカイダイビングとしては、一般的な高度ですよ。お二人が載っているヘリがとることが出来る限界に近い高度でもありますが。それに、怖い怖いと言ってはいますけど、麗華さんは高高度からの降下訓練を受けてますよね?』

「あのさぁ…… 降下するのと、墜落するのは天と地ほどの差があるからね?」

 

 麗華は、通信機から響くオペレーターの声に、戦々恐々とした声色でそう返した。

 

「パラシュート無しって考えると、結構高いよこの高度…… 精々四百メートルぐらいから落とすと思ったのに、なんで予想の十倍以上を持ってくるのさ」

『その高度だと、ヘリの接近を相手に悟られてしまう可能性が高かったので。それに、空気抵抗の影響で、最も面積の少ない頭から落ちても、時速三百キロ程度で加速は止まります。と言うか目標の時速二百キロを超えるためには、頭から落下するほかないわけですし、問題は無いのでは? この高度からなら、確実に目標の速度を超えられますし』

 

 心底「麗華が何故騒いでいるか分からない」と思っているような声色で言葉を紡ぎ、オペレーターは通信機の向こう側で首を傾げた。

 その様子が麗華にも容易にイメージ出来るようで、彼女は大きく肩を落とした。

 その背後から麗華と同じくガスマスクを装着した恭二が顔を出す。

 

「まあ、落ちても死にはしないだろ。もちろん、札を地面に墜落する前にちゃんと発動させとけばの話だけどな」

「ははは、サイコー」

 

 皮肉たっぷりに麗華はそう言うと、ヘリコプターから身を乗り出した。

 

「ま、うだうだ言ってても仕方がないし、さっさと飛ぼうか! どうせそろそろつくでしょ?」

『ふふ、察しが良いですね。麗華さんの言う通り、間もなく降下地点となります。落下速度を考慮して、タイミングはこちらが指示します。降下準備を開始してください』

 

 その言葉を聞いて、恭二も麗華と同じくヘリコプターから身を乗り出した。背中のバックパックの上からライオットシールドを背負い、サブマシンガンを手に持つ姿は、いっぱしの特殊部隊か何かのようである。

 

「何度見ても、亀みたいに見えるね。それ」

 

 最も、麗華にとっては、そんなものよりも例えに挙げた動物のそれにしか見えていないようだが。

 しかし、そんな彼女の感想に気分を害した様子もなく、恭二は慣れた様子で言葉を返した。

 

「亀で結構。ウサギと亀の競争も、最後は亀が勝ってたしな。そう考えると、その評価も実にいいものだと俺は思う」

「ま、かわいくていいんじゃない? 短い手足がぴょこぴょこしてるし」

「人を短足呼ばわりするんじゃない! これでも、俺は平均より少し高いぐらいの身長だし、足の長さも一般的だろうが」

 

 麗華の言葉に、恭二は眉を顰めながらそう返した。事実として、彼は日本人の平均身長よりも少し高いし、足も決して短いという訳ではない。

 しかし麗華は、顎に人差し指を当て、人の悪い笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。

 

「そう? 東京の本部にいる戦闘班の中だと、恭二がたぶん一番小さいじゃん」

「他の奴らがでかいだけで、俺が小さいってわけじゃない。悪意のある比較はやめろ」

 

 そんな風に軽口をたたき合っていた二人の会話を断ち切るように、通信機からオペレーターの声が響いた。

 

『二人とも、仲がよろしそうで何よりですが。解析の結果、三十秒後に降下すると、警戒網を抜けるのに一番良いタイミングであると分かりました。降下に備えてください」

「「了解」」

 

 その言葉に、二人は気を引き締めて返事を返した。

 そして、オペレーターのカウントダウンが通信機から響く。針に糸を通すような精密な作業が用いられるからこそ、普段ではしないようなそれを彼女は刻む。

 

 確実に任務開始の時が迫る中で、麗華と恭二は視線を合わせて短く言葉を交わした。

 

「死なないでね」

「そっちこそ」

 

 たったそれだけの応酬。

 それだけで、二人は視線を外し、カウントダウンへとすべての神経を注ぎ込んだ。

 

『十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、今です!』

 

 その言葉と共に、二人は空中へと身を躍らせた。

 それと同時に、恭二は声を張り上げる。

 

「視覚強化! 身体強化! 耐久強化!」

 

 その言葉と共に、麗華と恭二の身体が一瞬、うっすらと光る。

 彼の用いる術式は強化と治癒。今回用いたのは強化だ。そして、言葉にすることで各部へ施す強化のイメージを補強し、恭二はその精度を高めている。

 施された強化により、落下に伴って二人にかかる空気抵抗などによる負荷から肉体や装備が守られた。さらに、感覚器官へと施された強化により、彼らは常人ならば点にしか見えないような地上の風景を視認することが可能となっている。

 さらに、二人は呪具の効果により、昼間と同じように地上を視認することができ、さらに敵が隠ぺいした状態で施した術の範囲も可視化出来ていた。もし、呪具を装備していなかったのなら、夜闇で視界は効きづらく、相手の隠ぺいが為された術を視認するために霊力を瞳に流し込まなければならなかっただろう。

 そんな中で、オペレーターの声が通信機越しに響いた。

 

『お二人がそのまま落下していけば、病院の東棟。その上空二十メートル地点に警戒網の穴が出来ます。そこを通過できることさえできれば、問題なく屋上へと降り立つことが出来ます。監視カメラの視界に捉えられた時点で、敵は迎撃用の術を用いて、屋上にいる貴方たちを排除しようとするでしょう。其れよりも早く、屋内へと潜り込んでください』

 

 その言葉を聞きながら、麗華と恭二は事前に渡されたマップに示された警戒網の穴が開く場所を脳裏に浮かべて、落下地点への修正を行っていく。

 強化によって、身体への負担は其れほど苦になっていないとはいえども、人体が滅多に感じることのない加速を受けて、頭から落下し続けている麗華の背筋に寒気が走った。五階建て程度の建物からならば、術の補助なしで容易に飛び降りることの出来る彼女でも、流石に上空四千メートルからパラシュート無しで降下するともなれば冷や汗の一つはかくらしい。

 しかし、それを誤魔化すように麗華はオペレーターに問いを投げかける。

 

「結構早い…… オペレーター、今、時速何キロぐらい?」

『現在、時速二百キロを突破したところです。そのままの体勢を維持し、病院屋上の目標地点へと降下を続けてください』

「たしか、時速三百キロぐらいまで加速するって言ってたよね…… うわぁ」

 

 最終到達速度が時速三百キロだと知っているがゆえに、いまの速度よりもさらに速くなることに麗華は一瞬白目をむいた。

 そんな彼女のすぐ隣で、恭二は施した強化の維持を行いながら、地上との距離を測っている。亀の甲より年の功という言葉通り、経験豊富な恭二はこの状況でも冷静だった。

 それを見た麗華は「ま、何とかなるか」と小さく呟き、落下位置の微調整に戻る。

 だが、隣にいた恭二から「おい」と声を掛けられたので、ちらりとそちらに視線を向けた。

 

「ん、どうかした?」

「一応、警戒網をくぐる段階になった時点で、反応速度にも強化を施そうと思ってな。あれ、かなり体に負担がかかるから、念のため事前申告したんだよ」

「まあ、いいけど。使うことは確定事項なんだ」

「そっちの方が、着地した後も対処が早く出来て便利だろう? それとも、強化なしで着地したいか?」

「まさか! じゃ、その時が来たら頼んだよ」

 

 麗華は軽い調子でそう返すと、小さく笑みを浮かべて地上へと視線を戻した。

 目標地点までの距離を半分以上過ぎ去ってしまっている。最早、一瞬の気の緩みも許されはしないだろう。

 恐ろしいほどの速度で、地上へ二人は近づいていく。視覚に施された強化によって、地上の風景をつぶさに観察できるため、感じる恐怖も人一倍以上に鋭いものだ。

 それでも、二人は怯むことなく地上を向き合い続ける。

 そして、上空二百メートルに到達する頃、恭二はさらなる強化を施した。

 

「反応強化!」

 

 今までの強化に重ねて施されたそれは、先ほどの会話でも話していた通り、反応速度を強化するものだ。

 それ故に、その効果が出るのと同時に、二人の視界中でゆっくりと景色が流れ始める。

 時速三百キロに到達した彼らの速度は、秒速に読み直すとおよそ八十三メートル。つまり目標地点から二百メートル離れていたのに、激突するまで三秒を切るほどの速度だった訳だ。

 しかし、反応速度の強化が施されたことで、地面に落ちるまでの体感時間が大幅に引き延ばされ、その中で警戒網の穴に向けて体勢を整える余裕が生まれる。

 それを一切無駄にすることなく、二人はオペレーターの予告通りに出来た警戒網の穴へと、その身を寄せ合うようにして体を滑り込ませた。

 術によって空中に張り巡らされた無数の光線は、どれか一つに引っかかるだけで空中にいる二人をズタズタに引き裂くための罠が起動してしまう代物だ。故に、二人は最大限の注意を払いながら、無数に伸びる光線の隙間を潜り抜けていく。

 そして、警戒網を抜けると同時に、身代わり用の札を発動させ、迫る屋上の床めがけて、二人は片手を突き出した。

 

 直後、すさまじい衝撃が駆け抜けるが、そのすべてを札が受け持ち、粉々に砕け散る。

 

 そして、何事もなかったかのように二人は体勢を立て直すが、その頭上では監視カメラの映像を敵が確認したため、迎撃用の術が発動し、熱量でジワリと肌が焼けるような感覚が襲い始めた。

 そんな状況の中でも、麗華は冷静に屋上の扉へと視線を向ける。

 そして、その扉の鍵が電子ロックのものだと看破すると、口元を釣り上げて雷撃を放った。その雷撃により、電子ロックが誤作動を引き起こし、鍵の開く音が小さく響く。

 それと同時に、麗華の足から力がガクンと抜けた。

 彼女に施された強化が解けたのだ。

 しかし、彼女は慌てない。既に、鍵は開いている。

 ならば、身体強化を一つにまとめ、より早い速度で駆け抜けた方が効率がいいのは自明の理だ。

 麗華の思考がそこまで至った時点で、力強い腕によって彼女の身体は浮き上がった。

 彼女に施された強化を解除し、己の肉体に掛けた強化の精度を大幅に上昇させた恭二が、その体を抱え上げたのだ。

 そして彼は、麗華を抱え上げるのと同時に、鍵の開いた扉へと疾走し、それをすさまじい速度で開け放つと、その中に素早く転がり込んだ。

 瞬間、先ほどまで二人が立っていた屋上は、すさまじい熱によって焼き払われる。

 それを熱によって変形してしまった扉越しに見つめながら、恭二は大きく息を吐いた。

 

「やれやれ、心臓に悪いな…… 一歩間違えば、ミンチかウェルダンにされたぞ」

「運が悪いと、どっちとも味わう羽目になってたかも……  っつう⁉ あ、ヤバい。反応強化の反動で頭がガンガンしてきた」

 

 麗華も恭二と同じように、息を吐く。だが、彼女は突如として襲った頭痛のせいでうずくまってしまった。反応強化は脳に負担がかかるため、施した後しばらくすると反動で激痛が走る羽目になるためだ。

 恭二はそんな彼女の近くによると、いたわるようにしてその頭に手を置いた。その掌が光り、あたたかな感触が麗華を包みこむ。

 

「これで大丈夫か?」

「ありがと、助かったよ…… 毎度毎度、この痛みだけには慣れる気がしないや」

「そうか? 俺は慣れたけどな」

「それは恭二が変態なだけだよ。九鬼さんでも顔を顰めるんだよ、これ」

 

 麗華は「恭二って、やっぱりネジが飛んでるなぁ」などと失礼な事を呟きながら、付近の監視カメラに向けて雷撃を放ち、破壊していく。

 

「これで、今は見られる心配はなくなったかな?」

「敵の腹の中にいるのは変わらないだろ」

「だったら、食い破るまでってね」

 

 そう言って、麗華は二挺の拳銃の内、麻酔ゴム弾を装填したものを取り出し、安全装置を外した。

 そんな彼女に対して苦笑を浮かべつつ、恭二も背負っていたライオットシールドを左手に装備し、サブマシンガンの安全装置を解除する。

 と、そこで通信機からオペレーターの声が響いた。

 

『二人とも聞こえますか?』

「感度良好。結界内部と外部の特殊通信システムに異常なし」

「こっちも聞こえてるよ」

『それは良かった。早速ですが病院の敷地内の動体反応多数。どうやら敵が動き出したようです。速やかな行動を』

「退屈しないで済みそうだね」

「おじさんに優しくないな本当に……」

 

 互いに顔を見合わせ、二人は肩を竦めると階下へと駆け出した。

 

 

 

 



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悪意の病巣 第七話

 

 麗華は階段を駆け下りながら、霊力を壁や床の中に潜む電気系統に浸透させ、その動作一つ一つを解析し始める。

 

「電気制御系解析っと…… 地下には直接的に繋がっている電気系統は無し、か。でも、この下の階もシャッターが同じ場所にあるね。じゃあ、全部閉じちゃおうか!」

 

 悪い笑みと共に紡がれた言葉と同時に、全ての会の西棟と東棟を繋ぐ通路の防火シャッターが閉じていく。

 そんな集中力を要する作業をしている麗華の隙を補うようにして、恭二は周囲を油断なく見回した。そして、オペレーターに向けて言葉を投げかけた。

 

「オペレーター、動体反応は?」

『お二人のすぐ横の階段から上がってくる反応が二人分あります。この速度だと接敵までおよそ一分とかかりません。また、西棟からあなた方のいる東棟へと向かう反応が複数。おそらく、施設に常駐していた警備員や研究者たちだと思われます』

「確か、西棟に研究室やらが集中してるんだったな…… 東棟は機材とかの保管施設が多いんだったか…… なら、とっとと下に向かうぞ。早くしないと、サンドイッチにされる」

「オッケー じゃ、行こうか!」

 

 麗華はゆるりと立ち上がると、恭二と共に、階段を下りていく。その道中にある監視カメラを破壊することも忘れずに。

 その行く手を阻むように、警備員と思しき服装に身を包んだ男が二人現れ、明らかに日本の警備員が持つべきではないものが手に握られていた。

 黒光りする其れは、恭二が手にしているタイプとは違うが、サブマシンガンのであり、握っているのはうつろな目をして、十中八九操られているであろう警備員。

 霊視用の呪具を装備している二人には、その体が薄ぼんやりと不気味な色の光に包まれているのが見えた。

 目と鼻の先に出現した二人警備員を認識した恭二は、雄叫びを上げる。

 

「らぁ!」

 

 気合一閃。

 

 恭二はライオットシールドで、彼から向かって左の警備員が握っていたサブマシンガンを殴り落した。

 しかしもう片方の警備員が、サブマシンガンを叩き落した際の僅かな隙に恭二の頭へ向けてサブマシンガンの照準を合わせる。

 その引き金に指がかかり、今にも銃弾が彼の脳漿をぶちまけんとするが、

 

「させないっての!」

 

 彼の背後から同時に進行していた麗華が、その隙を潰すように蹴りを放っていたので、それもまた叩き落される。

 彼女の表情は、絶対零度でも生ぬるい程の冷たさを湛え、それでありながら目には燃え盛るような怒りが宿っていた。

 そんな麗華によって放たれた一撃は、サブマシンガンの銃身を捻じ曲げるほどの威力を誇っている。

 銃が使えなくなったと悟ると、警備員たちはうつろな目で麗華と恭二に掴みかかり、二人の喉元を食い破ろうと牙をむいた。

 

「放して!」

 

 麗華は掴みかかってきた腕を介して、電流を流し込む。そうして、警備員は痙攣しながら地面に膝をつくが、それでもなお彼女に向けて噛みつこうとしたので、膝蹴りで地面に転がることとなった。

 その隣では、掴みかかってきた警備員のわき腹に向けて、恭二が強引に麻酔ゴム弾を撃ち込み、動きが鈍ったところを盾で殴りつけて、強引にそれを引きはがす。

 そして、素早くその背後に回って膝裏を蹴りぬき、体勢を崩させた。

 恭二はそこで、サブマシンガンを上空に放り、懐から札を二枚取り出した。それは先の任務でも彼が使用したものであり、拘束符と呼ばれる代物だ。

 恭二はそれに微弱な霊力を流し込み、発動させる。

 瞬間、二枚の札から光の帯が伸び、敵の手に、足に、首に、顔に、体中のいたるところに巻き付き、拘束していった。

 警備員らは、なおも動こうともがいているが、そこから抜け出すすべもなく、地面をのたうち回る。

 その姿を横目に、空中から落下してきたサブマシンガンを器用にキャッチした恭二は小さく息をついた。

 

「三十路に足突っ込んでるおじさんにはきつい作業だな……」

「操られてるだけの一般人を、できるだけ怪我させないように拘束するのってきっついね……」

「お前の高圧電力を遠慮なくぶち込めるわけでも無く、強化した筋力で骨を殴り砕ける訳でも無い。動きを何とか封じて拘束するしかない訳だからな…… 確かにきつい」

 

 麗華が先ほど雷撃を放たなかったのも、そこに理由がある。

 空気は優秀な絶縁体であるが、それを突き抜けて進むような雷撃は、総じて電圧が高く、人体に用いるのは危険なのだ。

 霊的な攻撃故に、霊力を一定以上持ち合わせている人間は、霊力を用いた攻撃に対する耐性をある程度持ち合わせているため、容赦なく雷撃を叩き込むことが出来るが、今回は操られているだけの一般人。それ故に、遠距離からの雷撃を叩き込むと、死に至る可能性もあるので、麗華は近接攻撃という手段を用いていた。

 恭二もまた、彼女と同じような理由で攻撃を手加減せざるを得ない。

 さらに、下手に肉体にダメージを与えすぎて、血液が飛び散るようなことがあればそれだけで感染のリスクが高まる。諸々を考量すると、接敵は避けるべきだ。

 二人の顔には、操られていた一般人を無事拘束できたことに対する安堵と、心底めんどくさいという感情が滲みだしており、面倒をしでかしてくれた敵に対しての怒りで完全に目が据わっている。

 

「これが各国にばら撒かれるとか、ちょっと、いや、かなり考えたくないんだけど」

「奇遇だな。俺もだ…… エレインは巻き込まれたと言ってたから、すでに一度、惨劇は引き起こされているはずだ。こんなもの、これ以上使わせたらだめだな…… 不愉快極まる」

「うん、どれだけ死者が出るか分からない。すくなくとも、この施設にあるっていう起動装置は絶対に確保しないと……」

 

 そんな言葉を紡ぎながらも、二人は階下へとゆっくりと足を進める。急がなければならないが、階下に反応に引っかからなかった敵がいる可能性があるため、警戒しながら進まざるを得ない。それに敵の罠が無いとも限らないため、気を緩めることが出来ないのだ。

 その中で、麗華は眉間に皺を寄せながら言葉を紡ぐ。

 

「それにしても、施設のあちこちにいた人間が私たちが侵入した時点でほぼ間違いなく感染してたってことだよね? じゃなきゃ、あそこまで早く人を操って行動するなんてできない筈だから」

「敵さんは、感染が拡大しても、自分たちは感染しないような手立てを既に持ってるってことだろうな…… あるいは術式の効果を受けないようにする手段でもあるのか、だ」

 

 恭二の眉間も、麗華と同じように深いしわが刻まれた。

 

「操られてる人たちが、いつ感染したかは知らないが、事態は悪い状態といって良い。感染したのが24時間以内なら、敵は俺たちがここに突入することを事前に察知していたってことだ。こっちの方が可能性としては高い。ただ……」

「もっと前に感染したのなら、感染は既に拡大してるってことだよね……」

 

 前者なら相手の体勢が整っている可能性が高く、後者なら既に事態は想定を超えるレベルでの広がりを見せている可能性が高い。もし、そうであるならば既に都市一つを封鎖しなければならない可能性すらあるのだ。

 そこで、恭二は素早くオペレーターに向けて言葉を放った。

 

「オペレーター、俺たちの状況から事態は分かってると思うが、この施設周辺の封鎖の範囲を広げることに関しての協議とかはどうなっている?」

『こちらでも対応と協議を進めていますが、それに関しては時間がかかりそうです。また、西棟にいた動体反応が一階に向けて集結しています。シャッターで東棟への侵入を防がれたため、一階から侵入を試みているようです』

「急がないとまずそうだな…… ありがとう、敵の動体反応が近くなったら言ってくれ」

『分かりました』

 

 オペレーターとの会話が終わると、沈黙が訪れる。

 だが、本来ならば重いと感じるようなそれも、二人にとっては想像しているほどの重圧には成らなかった。

 任務をこなしていれば、その程度のことは往々にして起こるというのもあるが、それ以上に隣にいる存在が大きい。

 

 八年。

 

 それが二人が共に過ごしてきた時間だ。

 年若い麗華にとって、それは人生の半分近い時間であるし、恭二にとってもその時間は決して短いものでは無かった。そしてその内の五年は、二人がコンビとして活動した時間でもある。

 それは相手への確かな信頼の裏返しでもあるのだ。

 だからこそ、互いが生きているうちは、緊張から冷静さを失うことはほぼ無いと言ってもいいだろう。

 

『――――‼ 麗華さん、倉田さん! 突如としてあなた方の上の階から巨大な動体反応が検出されました! 来ます!』

 

 階下へと確実に歩を進めていた二人に、オペレーターの悲鳴のような声が響き渡った。

 いつもなら、接敵までの時間すら情報として渡すオペレーターが、ただ一言「来ます」と叫んだ。麗華と恭二は、それがどれだけ異様なことで、どれだけ切迫した状況なのか、一瞬で理解できた。

 それすなわち、彼らの命が刈り取られんとしていることを示していると。

 恭二は己と麗華に強化を施し、ライオットシールドを力強く握り込で咄嗟に背後を振り返った。次いで、麗華も麻酔ゴム弾の入った拳銃を握っていない左手で、特殊警棒を引き抜き振り返る。

 しかし、彼らはそろって顔を多く歪めることとなった。

 なにせ、そこには、

 

「ガォオオオオオオ!」

 

 通常の二倍ほどの体躯の巨大な猛虎が、咆哮とともに壁を蹴り、二人に爪を振り下ろしていたのだから。

 

「――――っ!」

 

 息を飲む間すらありはしなかった。声にならぬ叫びをあげながら、二人は寸でのところでその一撃を躱す。

 直後、衝撃が二人の身体を襲った。

 狙いの外れた猛虎の爪が、床を抉りぬいていたのだ。

 そのすさまじい威力に、二人の背筋を冷や汗が流れ落ちていく。

 

「恭二が強化を掛けて無かったら、今頃あの世行きだったかもね……」

「シャレになってないぞこれは! 何の妖魔だこいつは!」

 

 麗華は息を飲んで、恭二は心底忌々し気に吐き捨てた。

 その言葉通り、彼の強化が間に合っていなければ、二人仲良く猛虎の爪に抉りぬかれていただろうし、こんな常軌を逸した風体をした獣など、妖魔以外にあり得ないだろう。

 しかし、それがどんな妖魔であるかなどは、特定することが出来なかった。しかし、それも仕方のないことだ。もとより、古来から語られる妖魔は長い年月の中で人間や、他種の妖魔と血が混じり合い全く違う特質を残していることが多い。

 故に、初見でその特性を見破ることは、千年を生きている妖魔であっても難しい。

 だが、今はそのようなことは些事でしかない。

 重要なのは、目の前の猛虎がすさまじい力を持ち、二人の命を刈り取らんとして、唸り声をあげているという事実だろう。

 

 それは間違いなく、麗華と恭二の命を現在進行形で脅かしているのだから。

 

 じり、と恭二は思わず後ずさろうとするが、階段という地形がそれを邪魔してしまう。その事実に恭二は歯噛みした。

 平地ならいざ知らず、階段という足場の悪さ。加えて、階段の下り方向には、通常の虎の二倍以上の巨体を誇る猛虎がいる。この状況は酷くまずい。

 もし、引き返そうと背中を向ければ、猛虎は確実に後背を食い破るだろう。さりとて、正面から相手取るには難しい相手でもある。

 そのまま、一歩ずつ後ずさるようにして階段を上るのは、体勢が不安定になるため隙を突かれる可能性が高い。

 地形一つで、猛虎は二人に対しての凶悪なアドバンテージを手にしたのだ。

 その事実に、麗華も恭二より一瞬遅れて気付いたらしく、大きく顔を顰めた。

 そして、二人は確信に近い思いを抱く。それすなわち、これは操られている敵などではなく、自意識を持ち合わせたまま行動している、というものだ。

 

 そして、先ほど襲い掛かってきた警備員は、明らかに攻撃のみにしか行動の基準が置かれていなかった。なにせ、接近され、サブマシンガンを叩き落されて尚、回避行動の一つも取らずにそのまま掴みかかってきたのだ。

 しかし、目の前の猛虎は、攻撃の間合いを測るようにじりじりと迫ってきており、尚且つ階段という麗華と恭二が闘い辛い地形、その中腹にいる時点で攻撃を仕掛けてきた。それは、目の前の猛虎が知性を残して、つまるところ操られず、自身の意思で二人に攻撃を仕掛けているという事だ。

 霊視用の呪具のおかげで、確かに先ほどまでは操られているように見えたが、今はそれが無い。おそらく二人を騙すためのフェイクだったのだろう。

 それらの事実は、目の前の存在が敵の首魁と関りがあるという事に他ならない。

 

「まいったなぁ…… これ、武器の選択をミスったかも」

 

 麗華は軽い口調だが、苦々し気な表情で左手の特殊警棒を構える。

 背後からの奇襲を想定し、特殊警棒でのカウンターを考えてそれを引き抜いた彼女だったが、今の状況を鑑みるに、実弾入りの拳銃を引き抜いた方が良かったと彼女は思ったのだ。

 もとより右手に握っている拳銃には麻酔ゴム弾が仕込んであるが、それは対人使用を想定したもので妖魔相手に使うものでは無い。人間に使う麻酔も効果が無いとは言わないが、それも微々たるものであることは明らかだ。

 

 しかし、それは後の祭り。

 

 「さて、どうしたもんか」、と恭二は思考を巡らせる。

 

 前門の虎、とはよく言ったもので、後ろには狼がいるわけではないが、相手にとって有利な地形であるという事実は揺るがない。

 猛虎は唸り声をあげながら、敵意の滲んだ瞳で、麗華と恭二を見据え続ける。

 

 

 

 

 

 まるで、お前たちはここで死ぬのだと言わんばかりの態度で。

 

 その体に、膨大な殺気を滾らせながら。

 

 

 



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悪意の病巣 第八話

 

 目の前の猛虎の存在に、歯噛みをしながらも恭二は思考を巡らせる。

 仮に、一人に対して全力で強化を施したとしても、逃げ切るには難しい状況だ。元より、肉体のスペックは目の前にいる猛虎の姿かたちをしている妖魔の方が上。なにより、さらなる強化を施そうとした時点で、微妙なバランスで成り立っているにらみ合いは終わる。

 それは、猛虎と二人の戦端が開かれるというのと同義だ。

 そして、恭二の隣にいる麗華もそれは充分に理解できている。

 

 ならば、いっそのこと。

 

 そう考えた彼女は、重心を僅かに低くする。

 それだけで麗華が何をしようとしたのか、恭二には伝わったらしく、「まったく」と口の中で呟いて、彼もまた重心を低くした。

 その口元に小さく笑みを浮かべて、彼は叫んだ。

 

「耐久強化!」

 

 それと同時に、恭二は己のライオットシールドと、麗華の持つ警棒に強化を施す。

 それと同時に、猛虎は恭二に向けて跳びかかった。同時に壁に沿って放たれた左足の一撃が、すさまじい速度で彼に振るわれる。

 明らかに、麗華よりも体術にすぐれないであろう自身を狙う猛虎に対して、彼は「賢い判断だ」と内心で悪態をつきながら、獰猛に笑った。

 弱い相手から仕留める。実に合理的な判断と言えよう。

 しかし、恭二とて黙ってやられるつもりなどなかった。

 元より、彼我の肉体のスペックの差を、身体能力の強化だけで埋め立てられるなどと彼は思っていない。

 

 恭二が重ね掛けできる強化は精々四段階。

 

 それもそれは個人に重ね掛けできる範囲のことであり、二人ならばその回数は半減する。或いは、効力を半減させた上で強化を限度分まで施すかのどちらかだ。

 個人に肉体強化を限界まで施せば、この猛虎に組み付いても問題ないほどの腕力を得ることが出来るかもしれないが、現在の状況が示している通り、それは限りなく困難である。

 故に、彼は肉体にではなく、装備へと強化を施した。力だけで真っ向から受けるのは不可能となれば、別の方法で攻撃を受けるしかないからだ。

 そして、恭二は自身の両腕でライオットシールドを支え、猛虎が振るった爪の一撃を受ける。

 瞬間、彼の両腕にすさまじい衝撃が襲った。もし、ライオットシールドに強化を施していなければ、左足と接触した時点で粉々に砕け散っていただろう。

 ミシリ、と骨が嫌な音を立てるのを耳にしつつ、恭二は軸足を中心に体を一回転させることで力を背後へと受け流し、ライオットシールドとその体を素早く猛虎の下へねじ込んだ。

 もとより、力がはるかに上の敵との戦闘などクロユリのメンバーは織り込み済みで訓練を受けている。麗華ほどの化け物じみた力の制御は行えないが、恭二の披露した受け流しもその訓練の賜物だ。

 自身の指導を担当した妖魔の顔を思い出しながら、口元を歪めて恭二は叫ぶ。

 

「うちの上司の攻撃よりは…… 軽いんだよ!」

 

 その雄叫びと共に、恭二は妖魔の身体の下に滑り込ませたライオットシールドに向けて力を籠め、その巨体を大きく浮かせた。

 彼の思い浮かべた上司曰く、「どんなに筋力が強くとも、身体が浮いてたら十全に力を発揮できない」とのことだ。その言葉を思い出し、そのままライオットシールドで打ち上げるかのようにして、力を籠める。

 同時に霊力を放出することにより、瞬間的な力を爆発的に向上させ、猛虎の身体を空中へと打ち上げた。

 

「麗華!」

「分かった!」

 

 恭二の言葉に麗華は鋭く返事をすると、猛虎へ向けて雷撃を放ちながら、恭二の身体を抱えるようにして、出来上がった隙間へと飛び込んだ。

 ごろごろと、もつれるようにして転がりながら、三階の廊下へと二人は身を躍らせる。

 だが、空中で器用に天井を蹴ったらしい猛虎は、階段の上で素早く反転し、恭二たちに再び襲い掛かった。

 麗華と恭二は、顔を引き攣らせながら横へ飛び、その攻撃を躱す。

 

「私の雷撃、あんまり効いてないみたいだね……」

「もしかして、雷獣の類か?」

 

 麗華の雷撃をものともせず襲い掛かってきた猛虎を冷静に観察しながら、二人はそんな言葉を交わした。

 先ほどの雷撃はかなり強い部類の威力だった。それに耐えたという事は、雷撃に対する耐性があるという事だ。

 雷撃を司る雷獣は、その性質上、雷撃に対しての耐性を示す。現在の状況から考えて、そう言った類の妖魔であることも思考の隅に置きながら、麗華は実弾を込めていた方の拳銃へと持ち替えて。

 

 そして、その巨体へと向けて照準を合わせ、

 

「とりあえず、体重が増えるまで鉛玉いっとこうか」

 

 容赦なく弾丸を叩き込んでいった。

 薬莢が次々と排出され、床へと落ちていく音が響く中で、次々と弾丸がその肉体を抉る。

 猛虎は苦痛に歪んだ咆哮をあたりに響かせながら、階段の方へと姿を眩ませた。

 それを追撃しようと麗華は走るが、恭二がその肩を掴んで止める。彼女は鋭い視線を階段の方へと向けながら言葉を紡ぐ。

 

「追撃しなくていいの?」 

「身体がでかいのと分厚い毛皮のせいで、弾が当たっても大したダメージになってない。それに、あいつが逃げていく途中で体の傷がふさがっていくのが見えた。痛がってたのも、俺たちを釣るための演技の可能性が高い」

「うわ、ホント? やっかいだなぁ……」

 

 恭二の言葉に、納得の得心がいったような様子の麗華は、弾丸を使い切ったマガジンを換装する。

 そんな彼女をしり目に、隣の男は冷静にオペレーターへと通信を繋いだ。

 

「オペレーター、相手の動体反応は?」

『敵生体の動体反応ロスト…… 再び観測が出来なくなりました』

「そうか、厄介だな……」

 

 恭二は頭が痛そうにため息をついた。そんな彼に追い打ちをかけるようにオペレーターの声が響く。

 

『さらに悪い知らせが。西棟にいた動体反応が、東棟一階に到達。お二人が下っていた階段とは反対のものを上ってきています。このままだと、お二人がいる三階まで到達するのにおよそ四十秒。数は十四です』

 

 それを聞いた麗華は、肩を竦めた。

 

「休ませてくれないみたいだね」

「喜べ。おかわりが来たぞ」

 

 恭二は皮肉たっぷりにそう言うと、サブマシンガンの照準を階段の方へと向ける。そして、そのまま麗華へと言葉を紡いだ。

 

「麗華、ここの部屋の電子ロックを外してくれ。最悪の場合を考えて、退避する場所が欲しい」

 

 窓の外は上空を突破してきた時と同じように、術によるトラップが所狭しと仕掛けてあるため、飛び降りるという選択肢はない。そして、階段の方に進むという事は、先ほど奇襲を仕掛けてきた敵か、階段を上ってきている敵を足場の悪い状態で倒さなければいけないという事だ。

 あるいはその両方という可能性もある。どちらにせよ、どちらかは三階で撃破しなければ、安全に地下を目指して進むことが出来ないという事だ。それ故に、安全策を取っておくべきという判断である。

 その意を的確に汲み取り、麗華はニンマリと笑った。

 

「了解、ちょちょいのちょいで開けてあげるよ」

 

 麗華はそう言うと、その言葉通り十秒もかけずに電子ロックを解除した。自慢げな表情で、ふふんと鼻を鳴らしながら、彼女は倉庫の扉を開く。

 内部に罠がある可能性も考え、ゆっくりとした動作で。

 しかし、内部に敵影及び罠が存在していなかったため、短く言葉を投げた。

 

「クリア」

 

 それを聞き届けた恭二は、「よろしい」と言って己の装備を強く握りなおす。

 オペレーターの告げた、接敵予想時間まで残り十五秒を切った。

 彼の背後で電子ロックを開いていた麗華も、麻酔ゴム弾を装填した拳銃と、特殊警棒を構えてその時を待つ。

 

「今回も、操られてる人間だと思う?」

「さてな…… それは、見てみるまでは分からない。少なくとも、オペレーターが特に言及してなかったってことは、少なくとも人の形をした何かではあるんだろうさ」

 

 恭二は言葉を切ると、うつろな目をしてぞろぞろと会談を登ってきた研究者や警備員たちを見つめる。

 彼らは一様にうつろな目をしており、その手には、拳銃やナイフ、日本刀などの凶器が握られていた。

 

「まったく…… よくもまあ、これだけ銃刀法に引っかかるものを集めたもんだよ」

 

 そう言いながらも、恭二はサブマシンガンを用いて、麻酔ゴム弾を現れた人間に向けて乱射しながら接近する。できるだけ、重要な器官の少ない下半身に向けて。

 ライオットシールドを構えている恭二の背後についていく形で、麗華もまた走る。

 ゴム弾の有効射程は十メートル程と短い。故に、ある程度接近しなければ効果が望めないためだ。

 当然敵も無抵抗という事はあり得ない。その手に握った銃から、実弾を次々と二人に向けて撃ち込みながら接近してくる。

 しかし、恭二は冷静にライオットシールドへ強化を施し、それによって弾丸の雨を防ぎながら強引に突き進んだ。

 そして、近接戦の間合いに入った時には半数近い敵が、麻酔ゴム弾の効果で行動不能に陥っていた。

 それを好機ととらえた麗華は、恭二の背後から飛び出して、紫電を纏わせた特殊警棒を、麻酔ゴム弾の雨にさらされても未だに立っていた研究者に向けて叩きこむ。

 

「ぎゃっ……」

 

 研究者は先ほどと違い、麻酔ゴム弾の効力で身体機能が鈍っていたのもあってか、そのままゆっくりと地面に崩れ落ちていく。

 しかし、そんな彼女に向けて日本刀を持った警備員が襲い掛かった。

 が、麗華はそれを特殊警棒で受け流しながら、電流を流し込むことによって、警備員の動きを止める。その隙を逃さないように、恭二がライオットシールドで殴り飛ばし、転倒させた。

 ただ転倒させるだけでは、頭部を強く打ち付けて死亡する可能性もあるので、身体のマヒから立ち直りかけていた研究員の方へと向けて、だ。

 それにより、操られていた二人は仲良く地に伏せる。

 次いで、麗華は至近距離から麻酔ゴム弾を相手の足の動脈へと打ち込み、三人の敵を無力化。

 

「次!」

 

 先ほど恭二がサブマシンガンで放っていた麻酔ゴム弾は、元の銃の口径が小さいというのと、太い血管に向けて狙いをつけて打っていたわけではないのもあって、無力化し損ねる敵もいたが、今回はそうもいかなかったのだ。

 膝から力が抜けて、ゆっくりと地面に伏していく。

 恭二は、倒れ伏した研究者や警備員たちを拘束符を使用し、光の帯で拘束していきながら、いつでも麗華をサポートできる距離を取りつつ、苦言を呈した。

 

「おい、麗華。あんまり前に出過ぎるな。サポートしづらい」

「ごめんごめん。でも、今回に限っては、ホントに私が相手した方が良いだろうから…… さ!」

 

 麗華は返事を返しながら、右手に握った拳銃の銃身で振るわれたナイフの一撃を受け流し、鋭い回し蹴りを襲ってきた警備員に叩き込む。

 警備員がたたらを踏んで、近くにいた他の研究員の動きも阻害。

 麗華はその間に飛び込むようにして、両名の喉元を掴み、しりもちをつかせるような形で耐性を崩させ、電流を流し込み、行動不能にする。

 一連の流れに一切の迷いがなく、無駄がない。

 そしてそのまま、体勢を低くした彼女の脳天を唐竹割にしようと、鈍器を振り上げた男に向けて転がり、立ち上がりながらアッパーカットを放った。

 のけぞった男は、上体を戻そうと力を入れるが、今度はその力を利用して、床へと投げ飛ばされる。

 そこへ、絶妙なタイミングで恭二が拘束符を発動させ、身動きを封じた。

 

「お見事!」

「大半を片付けといてよく言うよお前は…… しかし、拘束符札を結構使ったな…… 本命を拘束するのに足りるかどうか」

 

 消費した札の枚数を心の中で数えながら、恭二は小さくため息をついた。

 消費した枚数は十五枚。

 彼が持ってきた拘束符の半分近くの量を三階での戦闘で費やしてしまった。その事実に、恭二はまたため息をつく。

 だが、そんな恭二に対して麗華はにいっと笑いながら言葉を紡いだ。

 

「ま、早く地下に向かおうよ。制圧するのが早いことに越したことは無いんだし」

「そうだな。とっとと仕事を、終わら、せ……?」

 

 麗華の言葉に、いつも通り返事を返そうとした恭二は、猛烈な違和感に襲われる。それも、どこか嫌な予感が伴ったものが。

 太陽が西から東へと昇ると言われた時のような違和感。

 そんな強烈で、どこか不気味な違和感が、じわじわと彼の脳髄を蝕んでいく。

 そんな恭二の表情を見た麗華は、一瞬で気を引き締めた。長年の付き合いから、彼がこんな表情をしている時は、ロクでもないことに気が付きそうな時だと知っているから。

 じっとりと、背中に汗をかきながら恭二は違和感の元を探ろうと頭を巡らせる。

 何が原因だろうか、と思考をめぐらせたところ、ある事実に彼は思い至る。

 すなわち、数が合わない、という単純な事実に。

 

 オペレーターは確かにこう言っていたのだ。「数は十四です」と。それに対して、恭二が使用した札の枚数は十五枚。

 

 普段の任務ならば、二人いた人間が近くにいたため、間違った数の検出を行ってしまったのだろうと見過ごせた。

 だが、今は違う。

 正体が分からず、動体反応を悟らせずに彼らに接近した、雷獣の疑いがある猛虎。そんな存在が、この施設の中にいるのだ。

 じわりと滲む汗を無視して、恭二はゆっくりと顔を上げる。

 だが、声を上げることは出来ない。もし、彼の推測が正しいとするならば、拘束し、無力化した一般人の中心に立っている麗華の命が危険にさらされているからだ。

 そして、恭二の危惧を裏付けるかのように、麗華の足元で男を拘束している光の帯から、何かが飛び出した。

 

「麗華!」

 

 彼の叫びを聞いて、咄嗟にその場を飛びのく麗華だったが、意識の外の角度から飛び出してきた何かをよけきることが出来ず、右腕に巻き付かれてしまう。

 それを振り解こうと、麗華はすさまじい雷撃を左腕から放った。

 

 しかし、彼女の腕に巻き付いたそれは……

 

「シャァ!」

 

 蛇の形をした何かは堪えた様子もなく、鎌首をもたげて彼女の喉笛へとその身を躍らせた。

 

 



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悪意の病巣 第九話

 

 

 麗華は、素早く左手に握った特殊警棒を蛇の口にかませて押し返そうとするが、すさまじい力で逆に押し返される。

 

「――――っ!」

 

 彼女は息を飲んで、その力を横へと逸らした。

 狙いが逸らされた蛇は、それでも余裕そうな態度を崩さず、再び麗華の首を食いちぎらんと鎌首をもたげる。

 しかし、首を引き戻した時の力を利用して、麗華が素早くその頭を雷撃を叩き込みながら押しのけるが、蛇はそんなことは関係ないと言わんばかりに、麗華の右腕を締め付けた。

 バキリ、とすさまじい音が響く。それと同時に、麗華の右腕の肉が裂け、砕けた骨も露出し、鮮血があたりに舞い飛んだ。

 

「いっぁあ!」

 

 襲い掛かったあまりの激痛に、麗華は悲鳴を上げた。

 すさまじい力と雷撃への耐性。それだけで厄介この上ないというのに、右腕も使い物にならなくなった。その事実に、痛みに彩られた彼女の表情は青ざめる。

 蛇は彼女が痛みで気が逸れてしまった隙に、特殊警棒をすさまじい咬筋力で食いちぎった。

 そして、再びその喉笛を食いちぎらんと鎌首をもたげる。

 

「させるか!」

 

 しかし、恭二はそれをみすみす見逃したりはしない。既に彼は、自身に強化を施しながら全力で駆けだしていた。

 そして、襲ってきた人間の一人が持っていた日本刀を蹴り上げ、右手に取ると、彼は流れるような動作で蛇の頭部へと突きを放つ。

 その一撃を蛇はその驚異的な咬筋力で押し止めた。まるで、「無駄だ」と言わんばかりに蛇は口唇を歪める。

 だが、恭二はそれを意に介することなく、日本刀の柄尻を殴り飛ばした。

 その衝撃で、蛇はたまらず後方へと吹き飛んでいく。

 だがそれ見届けた恭二には、喜びの表情は無い。むしろ、ひどく忌々し気な表情で刀身が砕けてしまった日本刀を投げ捨てる。

 

「くそ、ダメージを逃がされた…… それより麗華! 右腕は大丈夫か?」

 

 だが、すぐに麗華の傍によって、その右腕に治癒を施しながらそう言った。

 激痛に顔を顰めながら、麗華は言葉を返す。

 

「腕、全然動かないや…… ちょっと、まずいかも」

「悪いが、今は止血と痛み止めぐらいしかできそうにない」

「みたいだね……」

 

 彼らの視線の先で、吹き飛ばされた蛇の身体が黒い靄のようなものが吹き出し、膨れ上がり始めていた。それが形作っていくものを見ながら、治癒に回せる時間がそれほどないと二人は悟ったのだ。

 回復用の札を用いるにしても、目の前のそれは許しはしないだろう。何より、片手を使えないため、札を取り出そうとすれば、武器を手放さなければならない。それでは、今目の前の相手に対処が遅れてしまうのだ。

 おぞましく体を変化させ続けているそれに、視線を向けたままで二人は言葉を交わす。

 

「変化…… というよりは、身体を作り替えてない? あれ」

「しかも、雷撃に対しての耐性が強い…… さっきの妖魔と同一存在と見ていいだろうな…… 動体反応が無かったのは、さしずめセンサーに引っかからないサイズの動物に変化していたってところか」

 

 体を作り替え続けている何かから視線を逸らすことなく、麗華と恭二は言葉を交わした。

 その間に、通信機から声が響く。

 

『妖魔の情報解析を進めています。その間に死なないでください!』

「了解」

 

 その言葉に返答を返しながら、恭二は締まっていたサブマシンガンを取り出し、実弾の込めてあるマガジンへと差し替える。

 そして、身体を作り替えていた妖魔は、「大正解」といって口元を歪めた。

 自身の推測に対して、肯定が帰ってくるが、それもブラフの可能性を考慮し、恭二は気を張り詰める。

 妖魔は、髪の毛は黒と黄色、白が混ざりパターンを作り出す派手な頭をした人間の男の姿で、二人の視線の先に立っている。異様な風体をしたそれは、悠然と顔を上げた。

 そして、彼は口元にいやらしい笑みを浮かべたまま、ゆっくりと間合いを詰めてくる。

 

「いやいや。まさか、早々に種が見破られるとは思わなかったよ。さっきのも、そっちの女の子の首を食い破る気だったんだけどねぇ」

「うちのバカ娘をそうそう殺らせるわけにはいかないからな。精一杯邪魔させてもらったよ」

 

 恭二も口元に笑みを浮かべたまま、仕舞っていたサブマシンガンを取り出し、心臓に向けて構える。それと同時に、妖魔もまたその体に雷を纏わせた。

 表面上は穏やかな態度を取っているが、その実、互いに心穏やかではない。

 後見人を務めている娘を殺されかけた恭二は言わずもがな、先ほどの奇襲を防がれた事は妖魔にとっても喜ばしいことではない。

 目障りなクロユリの機関員。その片割れを葬るための奇襲だったが、それを脅威と認定していなかった人間に覆された。それほどの屈辱はそうそうないだろう。人であれ、妖魔であれ、自身のミスで引き起こされた事態には冷静でいられないものだ。

 

 それ故に、妖魔の心中は穏やかではない。

 

 ぞくり、と背筋が粟立つような殺気が妖魔から放たれる。

 瞬間、妖魔はすさまじい勢いで、恭二との距離を詰めると、その頭部へと左の拳を突き出した。

 

「じゃあ、お前から死ねよ」

 

 右頬の肉を切り裂かれながらも、恭二はぎりぎりのところで致命傷を回避する。怒りの矛先が自分であろうことを予測していた恭二が、何とか回避を間に合わせたのだ。

 

 続く二撃目が放たれる。

 

「身体強化!」

 

 それを、自身の肉体へ身体強化を重ねることで、何とか回避。

 防御の隙などありはしないし、本来なら反撃など不可能だったであろう状況。

 だが彼は、経験則から妖魔の動きを予測し、サブマシンガンの照準を頭部へと合わせた。

 

「さっきの言葉に関しては、丁重にお断りさせてもらう」

 

 その言葉と同時に、発砲。

 一分間あたり八百発のレートで放たれる弾丸が、次々と銃口からせり出し、その顔面をそぎ落としていく。

 だが、妖魔は構わずに追撃を放った。

 それは、広範囲を薙ぎ払うようにして放たれた回し蹴り。

 それにはたまらず麗華と恭二は後方へと飛んだ。そうして距離を取りながら、恭二は現状を確認していく。

 まず、麗華の腕だが、先ほどの攻撃のせいで治癒しきることが出来ていない。戦闘能力は恭二より高いが、現状を鑑みると、接近戦の能力は彼よりも落ち込んでいるのは確実だ。

 だから、恭二は麗華に視線を向ける事すらせずに言葉を紡ぐ。

 

「麗華、援護に徹してくれ」

「……本気で言ってる?」

「本気も本気だ。今のお前に接近戦を任せる方が恐ろしい」

「…………分かったよ」

 

 彼の言葉は合理性に基づいたものだが、麗華はどこか不服そうにそう返した。その裏側にある感情がどうであれ、今はそうするほかないと理解はしているのだろう。

 そして彼女は、妖魔から距離を取るようにして後方へと下がった。

 それを見て、二人の眼前にいる敵はクスクスと嗤う。

 

「いいのかなぁ? 相方を下げちゃって。お前よりは、あっちの方が強いんだろう?」

「慧眼、恐れ入るよ。その減らず口を閉ざしてくれれば、なおのこといいんだが」

「そんなつまらないこと言わないでくれよぉ」

 

 妖魔は、すさまじい速度で恭二に接近すると、拳と蹴りを多彩に織り交ぜ、容赦なく攻撃の雨を降らせる。

 対して恭二は、自身のライオットシールドに強化を施した。

 

「耐久強化」

 

 ライオットシールドと妖魔の拳、或いは蹴りがすさまじい轟音を立てながらぶつかり合う。

 その力を何とかいなしつつ、時に回避を交え、恭二はサブマシンガンの引金を引きながら振り下ろした。

 頭部から股下にかけて一直線に叩き込まれた弾丸は、人間ならば確実に死に至らしめただろうダメージを与える。しかし、相手は人間ではない。まして、顔面に何発もの弾丸を喰らってなお立っていたのだ。

 その程度で倒れるはずが無い。それを理解していた恭二は、弾切れを起こしたマガジンの交換に移る。

 

「させるか」

 

 マガジンの交換に置いて生じる隙を見逃すほど妖魔は優しくはない。そんな甘い判断を下した頭蓋を砕かんとして、容赦のない拳が頭部へと繰り出される。

 その一撃を何とか躱す恭二だったが、生じた隙は致命的なものとなった。

 次いで放たれた追撃は、タイミング、速度、恭二に生じた隙。そのすべてを完璧にかみ合わせて放たれ、寸分たがわず彼の頭蓋を砕く。

 

「私を忘れるなって話!」

 

 はずだった。

 麗華の言葉が聞こえたのと同時に、彼の右目を弾丸が抉る。

 

 あり得ない。それが妖魔の抱いた結論だ。

 

 発砲音と弾丸が着弾するまでの時間を考えて、明らかに恭二が回避動作に入るのと同時に弾丸が放たれていた。加えて、弾丸の軌道は先ほどまで彼の頭部があった場所。

 一歩間違えば、その弾丸は恭二の後頭部を抉り飛ばしていた。

 味方を殺す可能性が限りなく高い、そんな射撃をするなどと誰が考えるというのだろうか?

 右目を抉られた衝撃と驚愕による僅かな硬直で、妖魔の動きが鈍る。そのせいで、彼は恭二に放った追撃を飛んで躱されてしまった。

 その跳躍のタイミングに合わせるように、地面を雷撃が走る。

 この妖魔にとって、雷撃は大したダメージにならない。だが、動きを僅かに阻害する程度の効力は発揮する。それによって、飛んで距離を取った敵へ追撃を完全に果たせなくなった。

 

「クソ、痛いじゃないかぁ!」

 

 苛立ちに任せた咆哮。

 

 一方、距離を取ることに成功した恭二は、しっかりとサブマシンガンに新たなマガジンを装填していた。そして、彼はニヤリと笑う。

 

「さっき、させるかとか聞こえた気がしたが、気のせいだったか?」

 

 その顔は実に憎たらしく歪んでおり、それを見た妖魔の脳天へと一気に血が上った。

 ビキリ、という音を立てて、彼の尾てい骨のあたりから蛇が生えていく。先ほどと同じように体を作り替えたのだ。

 

「その軽口、いつまで続くかなぁ!」

 

 恭二の露骨な挑発を受け、完全に堪忍袋の緒が切れてしまったのだろう。妖魔は、肉体を異形のものへと変質させることでさらなる手数を増やした。

 攻撃の手数を増やしてきたことは、麗華と恭二にとってマイナスだが、妖魔が冷静さを失っているのはプラスに働く。それらを総合してみてみれば、差し引きゼロよりもプラスに傾くだろう。

 恭二はそう判断して、サブマシンガンによる射撃を再開した。

 妖魔は放たれる弾丸を躱し、或いはその肉体を用いて叩き落しながら、すさまじい速度で距離を詰める。

 それは床から跳び、壁を、天井を蹴って、縦横無尽に駆け巡り行われたもの。その最中、撃ちぬかれた右目の修復を施しつつも、妖魔はすさまじい速度の蹴りを恭二の首元へと叩き込む。

 それを耐性を低くすることによって躱す恭二。

 同時に、彼の背後、つまるところ妖魔にとっての死角から弾丸が放たれる。

 

「ぐっ!」

 

 放たれた弾丸は、妖魔の腹部、胸部、頭部を的確に捉え、抉り飛ばした。

 しかし、そのダメージにひるむことなく、蹴りを放った際の遠心力を利用することで、尾のように形成された蛇が鞭のようにしなり、恭二へと放たれる。

 

「とっとと死ね!」

 

 その一撃に、彼はライオットシールドを滑り込ませたが、トラックが衝突したのかと思ってしまうほどの轟音が鳴り響いた。

 当然、そのような衝撃を真っ向から受け止める形となった恭二も無事では済ない。

 それこそ、交通事故にでもあったかのように、地面を跳ねながらすさまじい速度で吹き飛んでいく。

 

「―――――っ!」

 

 衝撃で声を上げる事すら出来ず、彼の身体は宙を舞う。

 だが、麗華は吹き飛んでくる恭二の肉体を、自身の拳銃の銃口を隠すためのブラインドとして利用し、残りの弾丸を撃ち尽くした。

 その弾丸の内、妖魔は数発を躱すことに成功。残りを体に喰らいつつも、着地と同時に再び地を蹴った。

 射線を隠していた恭二の身体が、先ほどよりも離れたために、弾丸を視認できる距離が伸びた。

 だから、妖魔は弾丸をある程度避ける分だけの余裕を得ることが出来たのだ。

 麗華は、その結果に顔を顰めながらも、身体に紫電を纏わせる。

 そして、吹き飛んできた己の相棒を、半身を逸らすことで躱し、銃を投げ捨てた。

 

 札を引き抜く暇がない。

 銃に弾を装填する時間もない。

 故に残った一本の腕を正面に構える。

 圧倒的に不利な状況。だが、その目に恐怖は無い。

 むしろ、口元に笑みすら浮かんでいる。

 

「来なよ」

 

 そんな言葉を紡いだ不敵な少女に向けて、妖魔は右腕を叩き付けるように、容赦なく振りぬいた。

 

 



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悪意の病巣 第十話

 放たれた一撃。

 それに対して、麗華は妖魔が想定していなかった程のスピードで彼の腕を掴んだ。

 ぐるり、と妖魔の視界が反転する。

 彼の抱いた思いは、ただ一つ。単純に「速すぎる」というもの。先ほどまでの動きから、麗華の肉体のスペックをしっかりと確認していた妖魔は、強化が掛けられていない筈の彼女がすさまじい速度で動いたことに驚いたのだ。

 そして、そう認識した瞬間には既に麗華は投げの体勢に入っていた。妖魔のスピード、投げの勢いに加え、霊力の放出によって最大限加速されたそれは、まともに喰らえば、この妖魔であってもただでは済まない。

 しかし、確かに驚愕を顔に浮かべはしたが、ニヤリと妖魔の口元が歪む。

 

「甘い!」

 

 投げの動作に入るという事は、それだけ体が密着するという事だ。普通の人間なら、ここまで綺麗に投げの動作に入られてしまえば、反撃の目は無いが、彼は人間ではない。

 ずるりと、彼の臀部から生えた蛇が麗華の首に巻き付かんと、鎌首をもたげる。

 だが、それでも麗華の顔に恐怖が見えない。

 彼女の動きを見ていた妖魔は、今から自身がやろうとしていることをしっかりと理解できる程の実力があるはずだと分かっている。

 だからこそ解せない。麗華から流し込まれる電流は、確かに妖魔の動きをある程度阻害できるが、首をへし折ろうとする蛇の動きから身を逸らすには足りないことは理解できているはずなのだ。

 コンマ一秒以下の時間で、妖魔はそれだけの思考を巡らせた。

 だが、次の瞬間。

 

「だから、させないって言っただろうが!」

 

 そんな叫び声と共に、すさまじい速度で何かが飛来し、麗華の首に巻き付こうとした蛇を弾き飛ばす。

 そして、自身の力を全て利用され、地面に叩き付けられる瞬間、彼は見た。

 左腕を振りぬいた体勢で、地面に膝をついている恭二の姿を。

 つまり、投げつけられたのは、彼の持つライオットシールドの破片だったのだ。

 それを理解したのとほぼ同時に、妖魔の視界は床の中に深々とめり込んだ。人外の力を超人的な技術で華麗に受け流し、地面へと容赦なくめり込ませた麗華は、素早くそこから離れる。

 

 そして、地面にめり込んだ妖魔に注いだまま、背後にいる恭二へと声を掛けた。

 

「大丈夫? 結構派手にぶっ飛ばされたけど」

「一応な…… 左腕の骨が砕けたのがすさまじく痛いが」

「骨が折れた状態で、左腕を振り回したんだ…… いや、バッカじゃないの⁉」

「必要に迫られたからしょうがないだろう…… まあ、そのせいで筋繊維がぶちぶちと千切れたけど、必要経費だ。必要経費」

 

 恭二は何でもないことのようにそう言い切るが、骨が筋肉を内側から引き裂き、はれ上がった左腕は痛々しいものだった。

 先ほど投げたものはライオットシールドの破片。つまり、それが砕けてしまうほどの衝撃を左腕が受けたのだから、当然の結果ともいえる。

 背後に視線を向けはしないものの、恭二の現状が手に取るように分かり、麗華は歯噛みをした。

 

「ああ、もう! なんでまだ起き上がってくるかな!」

 

 その苛立ちをぶつけるように、身体をゆらりと起こした妖魔に向けて、剣呑な視線を叩き付ける。

 しかし、妖魔はそんな視線など全く気にせずに、だらりと全身から力を抜いていた。頭部からは、だらだらと血が流れ落ち、首もおかしな方向にねじ曲がり、顔のほとんどが潰れてしまっている状態で、彼はかすれた声で言葉を紡ぐ。

 

「なるほど…… 失策だ。完璧なタイミングでの援護を小娘に出来るんだから、おっさんにも出来て当然と考えるべきだったなぁ」

 

 先ほどの怒りに満ちた表情はなりを潜め、唯々冷徹な声色で紡がれる言葉。

 それに対して、「まずい」と恭二は身を固くした。

 

「さっき、そっちの小娘が異常に早く対応できたのは、強化を施していたから。さっき雷撃を身に纏っていたのは、強化の際に発生する燐光を誤魔化すためってところかなぁ」

 

 どちらも正解。

 吹き飛ばされた恭二が、麗華とすれ違うタイミングで強化を施し、纏った雷で発動の兆候を覆い隠す。それが二人の取った連携だったのだ。

 だからこそ、その種を言い当てられてしまった麗華は小さく顔を顰める。

 

「熱しやすく冷めやすいって感じ? さっきと全然感じが違うんだけど」

「俺が一番嫌いなタイプだ。温度差で風邪を引きそうになる。どうせなら、イキリ童貞みたいなテンションで最後まで貫き通してほしかったんだけどな……」

 

 さらり、と恭二は言葉に毒を織り交ぜた。先ほどと同じように、冷静さを失わせようという魂胆だったが……

 

「残念ながら、俺は非童貞かつ非処女なんだ。よってイキリ童貞の定義に当てはまらないってわけなんだよねぇ」

 

 妖魔はそんなことを意に介さずに、ゴキリと捻じれていた頭部を元に戻すと、ふらつきながらも、恭二たちの元へと近づいく。

 

 一歩、一歩、確実に。

 

「騙されたよ。さっき、そこの小娘に下がるように言ってたけど、それは俺に警戒させず、接近戦を挑ませるためのフェイク。おかげで、綺麗に投げられたからなぁ」

「さて、何のことやら? 俺にはさっぱりだ」

 

 そう言いながら、恭二は素早く数枚の札を懐から取り出した。

 とぼけた態度を取ってはいるが、先ほどから正確に自身が行った小細工を言い当てられているため、内心では冷や汗を流しながら目の前の難敵を睨みつけている。

 

「もう少し、札は取っておきたかったんだが…… あいつ、頭に上る分の血までなくしたみたいだな」

「だね。余力を残す事とか、考えてる暇はないかも」

 

 相手の動きが早いのと、即応性が術式よりも劣るという事があり、札を使ってはいなかったが、この状況では使わなければ抵抗むなしく殺されるのが落ちだ。

 なにせ、銃撃で倒すことが出来ず、麗華の会心の一撃も妖魔を沈めるには至らなかった。しかも、二人は片手を潰され、治癒をする暇も与えられていないと来ている。状況は限りなく悪いと言って良いだろう。

 そもそも、恭二が妖魔を煽っていたのは、相手に冷静さを失わせるだけが目的では無かった。

 

「さて、今度は悪党らしく、もっと狡猾に行ってみようかぁ?」

 

 妖魔がそう呟くのと同時に、尾のような蛇を近くに落ちていたあるものに巻き付け、すさまじい勢いで投げ飛ばしてくる。

 それは、先ほど二人が拘束した人間の内の一人だった。

 恭二が真っ先に煽りを入れたのは、こう言った事態を防ぐためだったが、今ではそれも無意味なことと化している。

 

「あいつ!」

 

 操られ、襲い掛かってきたとは言えども、相手は単なる一般人。麗華は、顔色を変えて、すさまじい勢いで飛んできた成人男性の肉体を空中で掴んだ。

 そのまま、勢いを殺すためにぐるりと体を回転させながら着地し、発生した力を見事な体捌きで床に逃がした。

 

「馬鹿、誘いに乗るな!」

 

 恭二の切羽詰まった声が響いた。

 その投げ飛ばされた人間の裏側にはりつくようにして、妖魔も地を蹴っていたのだ。それは先ほど、麗華と恭二が互いの身体を目隠しとして使っていた戦法を単騎で行ったもの。

 まるで意趣返しでもするかのように、弾丸を思わせる速度で麗華へと肉薄する。今度は、加速に霊力の放出までも絡めて。

 眼前に迫る妖魔のを前に、彼女は抱えた人間の身体を庇うようにしながら、霊力を放出して限界まで体を逸らした。

 先ほど、強化を施し、ライオットシールドで妖魔の攻撃を受けた恭二は、できうる限り力を背後に逃がしていたにも関わらず、左腕の骨が砕けてしまったのだ。 

 今、麗華に施された強化の効果は既に切れてしまっている。攻撃をもろに喰らえば即死。よくて重体は免れない。下手をすれば、ザクロのように肉体が弾け飛ぶ。

 それを理解できているからこその対応。

 麗華を庇ったによって生まれた僅かな時間に滑り込むようにして、恭二が札を発動させた。その札、結界符の効果により、結界が生成され、麗華の身を守る。

 

 だが、一撃。

 

 たった一撃でその守りは砕け散った。

 その反動で後方へと飛ぼうとしている妖魔に対し、恭二は躊躇いなく追撃を放ちながら言葉を紡いだ。

 

「おいおい…… 一応、ロケットランチャーぐらいは砕けず耐えるだけの強度はあるはずなんだが。お前、九鬼さん程じゃないけど、とんだ馬鹿力だな」

 

 彼の感心したような声があたりに響く。

 元の人外としても飛びぬけている膂力に加え、霊力の放出による加速。それは、相当な火力を誇る携行用のロケットランチャーをも上回るものにまで押し上げている。

 彼の場合その厄介ごとに対する苦汁よりも、感心が勝ってしまったのだ。そんな生ぬるいとも言えるような言葉とは裏腹に、追撃の手は悪辣極まっているが。

 引き抜いたうちの札の内、結界符は既に使ったが、次いで発動させた二枚の拘束符から光の帯が妖魔の退路を断つようにして背後へと回り込み、後退させまいと動きを阻害する。

 そこに麗華も取り出した札を発動させ、強烈な冷気が、氷が妖魔の身体を包み込んでいった。

 

 しかし

 

「痛いなぁ…… 何をするんだ。酷いじゃないか」

 

 バキリ、という音と共に氷の縛めが砕け、妖魔はゆらりと体を揺らした。

 そんな様子を見ていた麗華は、目を細めながら言葉を紡ぐ。

 

「あれをきっちり倒さないと、下に行かせてくれそうにないねぇ」

「あいつの目的が時間稼ぎの場合、目的は達成されていることになるけどな。簡単に逃げられるような囲いはしてないから、他の誰かが下にいるとして逃亡を図るにも時間はかかる筈」

「じゃあ、時間を掛けたら逃げられるかもしれないってことでしょ」

「そう言う事だ。要は早く片付けるに限る」

 

 軽口を躱しながらも、長期戦は危険だという、共通の認識を二人は持ち合わせている。

 その中で、恭二は麗華の様子を伺いながら思考を巡らせた。

 先ほど、投げ飛ばされた人間を庇ったことや、諸々の態度から分かるように、彼女は直情的で傷つく人間を放って置くことが出来ない。

 

 それを念頭に考えて、恭二は「麗華が民間人を庇って無茶をしないうちにどうにかしないとまずい」という結論に至った。

 

 彼らが闘っている廊下は、妖魔が投げ飛ばすのに丁度いいものが多すぎる。

 だからこそ先ほども後退を阻止し、拘束された人間が密集している場所から近づかせなかったのだが、それでも妖魔の手が、いや、尾のような蛇がそれに届く射程範囲だ。

 まだ、飛んでくる可能性があると考え、麗華は重心を低くしている。

 また人間が投げ飛ばされてきたら、間違いなくそれを助けに動くことは想像に難くない。

 

「やれやれ、先が思いやれられる」

 

 そして、妖魔もそれに気付いているであろう事実に、恭二はまたため息をついた。

 相手の弱みを嗅ぎつけ、的確についていく。それがこの妖魔の得意とするところなのだろう。

 ニタニタと悪辣な笑顔を浮かべ、彼は臀部から生えた蛇をさらに伸ばし、増やしていく。

 

「げ!」

 

 麗華が露骨に顔を顰める。それは、有体に言って最悪な事態だ。

 何せ、それは単純に投げつけられる人間の数が増えるという事だ。それは麗華が、救うために対応しなければいけない人間が増えるという事を意味している。

 そして、その仮説を裏付けるかのように、妖魔は次々と人間へと蛇を伸ばしていく。

 

「この、やめろ!」

 

 麗華は切羽詰まった声で叫んだ。。

 雷撃は効果が薄いため、先ほどのように札を使用したいところだったが、発動までに一瞬の間がある札では間に合わないと悟り、雷撃以外の選択肢が掻き消えた。

 だから、今まで施設の電気系統を破壊しないために、ある程度の手加減をして放っていたそれを、最大限の威力を開放して彼女は放つ。

 

 閃光。そして、何かが解けるような音が響く。

 

 雷撃が通り抜けた場所が、一部プラズマ化するほどの威力を秘めた雷撃。それには、流石の妖魔も顔色を変えて腕を交錯させる。

 直後、全身の血の気が引いてしまいかねないような異音と、すさまじい爆風が廊下を駆け抜ける。そんな中でも恭二は薄く目を開けて、決して状況から目を離さない。

 

 だからこそ、

 

「おいおい、嘘だろ……」

 

 消し飛んだ窓枠や、天井、最早三階と四階の区別がつかないほどの破壊がもたらされた建物。

 其れほどの一撃だというのに、未だ立っていたそれに対し、信じられないような視線を向ける。

 振るわれた腕や全身の皮膚は、高電圧によって発生する熱によって焼けただれているものの、未だ脅威といって良い殺意を滾らせながら、妖魔はニタリと嗤う。

 

「さて、第二…… ラウンドだ、なぁ?」

 

 

 



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悪意の病巣 第十一話

 

 麗華が叩き付けた際に首や顔の骨が砕けた。札の効果で一度氷漬けにした。

 そして今、麗華の手加減なしの雷撃で全身の皮膚も焼けただれている。だが、それでも妖魔は倒れない。雷撃は倒れている一般人に当たらないように、上半身を狙って放たれた雷撃は確かな効果を発揮してはいたが、とどめには至らなかった。

 恭二はそんな事実に心底うんざりしたような表情で言葉を紡ぐ。

 

「何やったら倒れるんだよお前…… あれだけやられたんなら倒れるだろう、普通は……! タフさだけなら、うちの機関長とか頭のおかしい九鬼さんとかの上司連中にも並ぶんじゃないか?」

「ぎ、ぎ、ひ、ははは! お褒めに預かり光栄だなぁ…… あれらと比類するなんて言われたら、調子に乗り過ぎてそのまま天に昇っちまうような気分になる」

「そのままテクノブレイクでもしてろ。そっちの方がよっぽど、世のため人の為だ」

 

 容赦のない言葉の応酬。

 

 じりじりと焼けつくような緊張が高まっていき、先ほどの雷撃で砕けた天井や壁から崩れて落ちる瓦礫の音が響く。過剰な電圧を流し込まれ完全に溶断した配線の音が空間に流れ落ちていく。

 それらが、嫌に大きく聞こえるような錯覚すら覚えるほどの殺気が空間に充満する。

 だというのに妖魔は「実に愉快だ」と言わんばかりに口元を歪ませた。

 

「いやはや、それにしても驚いたなぁ! まさか、あんな高威力の雷撃を放てるなんて、あいかわらずクロユリの連中は頭がおかしいのが多い!」

「うちの組織の昔馴染みか…… まあ、その不細工な面だと誰か特定するのは難しそうだけどな」

「私は腐りきった性根が鼻につくから、一回見たら顔を変えても分かると思うけどね」

 

 麗華はそう吐き捨てた。一般人を盾にして戦う目の前の妖魔に対しての嫌悪をその顔に滲ませて。

 そんな中で、この状況をある程度冷静に判断していた恭二は通信機へと意識を集中させる。この会話を聞いていたなら、確実にオペレーターが機関の古株に確認を取ると踏んだからだ。

 

 しかし、

 

『―――――――』

 

 通信機からの返答はない。返答どころか、本来聞こえるはずのオペレーターの息遣いや、彼女が操っている機器類の電子音までが聞こえない。

 僅かに眉の寄った恭二の様子を見て、妖魔はニタニタと笑う。

 

「ああ、それ使い物にならないんじゃないかなぁ?」

「妨害電波……! さっき、敵の数が合わなかった時点でオペレーターの通信が無かったのはそう言う事か…… 随分とこざかしい真似を」

「ご名答! よく分かってるじゃないかぁ。まあ、もう少し冷静さを失ってくれてもいいと思うけどねぇ?」

 

 妖魔はパチパチとわざとらしく手を鳴らしながら嗤う。

 だが、そんな相手に対して、麗華は嘲るように鼻を鳴らした。

 

「尊大ぶってムカつく態度取ってるけどさ。そっちだって余裕はないんじゃないの? さっきから、話してるだけで傷の修復以外してないよね」

 

 そんな言葉を紡ぐのと同時に、彼女は紫電を体に纏わせる。

 

 バチリ、バチリ、バチバチバチバチ!

 

 空気を引き裂く紫電は、先ほどよりも苛烈さを増して爆音を奏で上げた。

 

「ああ、恐ろしい! 恐ろしいなぁ!」

 

 それでも、何が楽しいのか妖魔は笑い続ける。愉快に、痛快に、明快に顔を歪ませて。

 対する麗華は、絶対零度ですら生ぬるいと感じてしまうような冷たい殺気を顔に滲ませた。

 

「あっそ」

 

 どこか投げ槍ともいえるような言葉と共に、麗華は雷撃を放つ。

 

 そのはずだったのに、

 

「ははぁ! それ、無理なんだよなぁ。残念無念、お次は来世で頑張れってオハナシだ」

 

 完全に割れてしまっている窓ガラスの向こうから、何かが飛来した。

 

「え――――」

 

 そして、それから数瞬後。三度目の正直と言わんばかりに、今度こそ鮮血の花弁があたりに舞い飛んだ。

 

 

 

*****

 

 

 

「そちらの状況は⁉」

『現在、病院の三階部分で強烈な爆発音が二度響き渡りました。地形の関係上、それ以上の状況はこちらからは掴めません』

「こちらの状況は、結界内部で妨害電波を発せられ、内部に突入した倉田恭二、有栖川麗華の両名との通信が完全に遮断されています! 屋外に展開している部隊は、結界の外部でドローンを飛ばして内部の状況を映像に映してください! 倉田さんと麗華さんの状況を確認しなければ決断が早まることになりますよ!」

 

 通信が途絶した通信の向こう側で、オペレーターもまた戦っていた。妨害電波は結界内部から発せられているものなので、外部には全く影響が無い。だからこそ、病院周辺に展開している部隊へ少しでも内部の状況を探れるように指示を飛ばし続けている。

 二人、あるいはそのどちらかのの生存が確認できなければ、儀式呪法使用へのカウントダウンが早まってしまう。そうなれば、自身が預かる二人の命と、施設に勤めていた無辜の民が虐殺されてしまう事を意味するからだ。

 それだけは、絶対に彼女は許すことが出来ない。

 八年前にあったある事件以来、オペレーターの情報は、名前ですら機関員に知らされることは無くなった。だがそれでも、その時からずっと彼女は麗華と恭二の担当オペレーターなのだ。

 国を裏から守る者たちの支えになるという矜持と、長年培ってきた絆を胸に、クロユリに所属する二人の担当オペレーターとして、少しでも二人の生存確率を上げるため、ありとあらゆる手段を尽くし続ける。

 だが、最悪のタイミングで通信が切断されたのは確かな事実。だからこそ、オペレーターとして冷徹な面が彼女から滲みだす。

 

 そんなことは、したくない。

 

 したくないが、それでもしなくてはならないことがある。

 

「儀式呪法の使用の第一段階の展開準備も並行して進めてください。このままでは、最悪の事態も覚悟しなければなりません」

 

 その言葉を彼女が紡いだのとほぼ同時に、施設周囲に展開していた部隊からの通信が入った。

 

『ドローンの映像、出せます』

「っ! 分かりました、こちらに映像を表示してください」

『はい、映像出力します! っ! これは……』

 

 通信機の向こう側から、下部構成員の息を飲むような声が響く。

 そこに映し出されたのは、まず完膚なきまでに崩壊していた三階の壁の一画。

 そして、腹部を引き裂かれ、顔に着けたガスマスクに内側から血が飛び散っている状態で地に伏している麗華の姿と、ガラス片や瓦礫で全身をずたずたに引き裂かれた満身創痍の状態で何とか立っている恭二の姿だった。

 オペレーターは、血がにじむ程に強く拳を握りしめる。怒りで視界が真っ赤に染まるような錯覚を覚えながらも、彼女は心を落ち着けるために息を吐いた。

 

 大丈夫。まだ生きている。

 

 映像を確認したオペレーターはそれを確認できただけでも良かったと思いなおし、さらに一拍置いて、展開している部隊に指示を飛ばした。

 

「内部で戦闘行動をとっていた戦闘班の二名が戦闘の継続が困難な状態に陥りました。各員、内部にいる敵性存在が結界を破って、逃亡を図る可能性があります。より一層の警戒と、戦闘準備を整えておいてください」

『了解!』

「それと―――――― 儀式呪法の第二段階の解放をいつでも行えるようにしておいてください。第二段階の解放はこちらから指示します」

 

 オペレーターはそう言って通信をいったん打ち切った。昏い色を宿した瞳のままで、どうしてこうなったのかと唇を噛む。

 まだ、恭二だけは確実に生存していることは確認できたが、それでも状況的に絶望的であることには変わりはない。先ほど指示を出すために落ち着けた精神が再び、焦燥に焼かれていく。

 

「二人とも、どうかご無事で……!」

 

 情報収集や作戦指示の為に一切手を止めることが無いまま、それでも彼女は祈るようにそんな言葉を紡いだ。

 それがどれほど空しい願いかはわかっていても、オペレーターは一人の仲間としてそれを祈らずにはいられなかった。

 

 

*****

 

 

 

 

 時は僅かに遡る。

 

 それは、窓から何かが飛来した時のこと。

 麗華は驚愕に顔を歪ませながらも、身を捻って飛来したものから距離を取ろうとした。だが、その膝からがくりと力が抜ける。それはあまりにも唐突で、不調を起こした麗華本人ですら予測も対処も出来なかった。

 そして、彼女の視界に映った飛来したものの形を見て、「あ、死んだ」とどこかあきらめにも似た思いを抱く。

 それは、何処かパイナップルを思わせるような形状で、黒い色をしていた。詰まるところ、手榴弾が彼女の見開かれた瞳に映ったのだ。

 麗華は襲い掛かるであろう爆風と破片にさらされることを一瞬で理解する。冷や汗と、恐怖が噴き出す中、彼女は咄嗟に身を引こうとするが、その意思に反して体は動かない。

 

「麗華!」

 

 だが、恭二があらかじめ使用する体勢に入っていた結界符がギリギリのところで発動し、結界によって手榴弾と彼女の身体だけが遮られた。

 

「恭二!」

 

 そう、彼女の身体だけが、だ。

 何とか麗華の身を守るために、結界符の発動を間に合わせた恭二だったが、自身の身を守るまで手が回らなかった。

 

 当然、放り込まれた複数の手榴弾の爆風と破片が彼の身体を飲み込でいく。

 

 八年前の光景が、血の海に沈んでいく麗華の父親の姿が、彼女の脳内でフラッシュバックした。その動揺と恐怖で身体が硬直する。それは人間としてはありふれた反応で、そして戦闘に携わる者としてこの状況で最も取ってはいけない行動だった。

 

「こんな鉄火場で、よそ見するなんてダメじゃないかぁ」

 

 ねっとりとした声が麗華の耳に届くのとほぼ同時に、結界を突き破って振るわれた妖魔の爪が容赦なく彼女の身体を引き裂いていく。

 それをどこか他人事のように眺めながら、口から血がせりあがってくる感触と咄嗟に取り出そうとした札の感触を最後に、麗華の意識は暗闇へと沈んでいった。

 

「はぁ…… 気持ちよかったなぁ…… あいつもいいタイミングで援護をしてくるもんだよ」

 

 何処か恍惚とした表情で妖魔は、地下へと意識を向けながら「ふぅ」とため息をつく。

 

「これで、こっちの仕事に集中できるなぁ? ……ん?」

 

 ちらりと、崩れ落ちた麗華に視線を向けた妖魔は、彼女にまだ息があることに気付いた。

 

「へえ、満足に体も動かなかっただろうに、咄嗟に致命傷だけは免れたわけだ…… 本当にやるじゃないか」

 

 その顔からは、先ほどまでのような遊びは一切消え去り、今の日本で言うところの成人年齢にも達していない少女が自身の詰めの一撃を何とか凌いだことに純粋な賞賛が浮かび上がっている。

 

「だけど、ここまでだなぁ」

 

 だが、この妖魔は敵対した相手に温情を掛けてやるほど甘くはない。

 容赦なく、彼女の元へと近づき、その足を振り上げる。

 

「死ね」

 

 そして、そのままその足を振り下ろした。

 ぐしゃり、と頭部が弾け飛ぶさまがその脳裏には克明に映し出されていたことだろう。

 

「―――ぇいぁ!」

 

 獣のような唸り声をあげて、恭二がその体へとぶつからなければ、きっと現実のものになっていたに違いない。

 死にぞこないの身体のどこにそんな力が残っていたのか、と妖魔はすさまじい勢いで吹き飛ばされながら唇を舐める。

 

「死にぞこないが、よくもまあ動くなぁ…… 正直、まだ動くとは思っていなかったよ」

 

 あばらが砕けた感触に、口笛を吹いて妖魔はそう言った。

 対する恭二は、言葉を発することもない。否、言葉を発する余裕すらないのだ。それでも、血まみれの状態で、目の前にいる妖魔を睨みつける。

 だが、そんな手負いの獣を前に、妖魔は油断のない視線を向ける。筋肉の僅かなうねり一つすら見逃さないと言わんばかりに。

 確かに、単体火力としてみれば、恭二は麗華の足元にも及ばない。

 だが、妖魔は彼がどんな札を持っているかは知らない。そして何より、目の前にいる男が、厄介なのは単純な力によるものでは無いと短い戦いの中で看破している。

 戦いの中で、先陣を切るのも攻撃の要も確かに麗華だったが、要所要所での攻撃の差し込みや、状況判断の鋭さは恭二が随一だった。

 砕けたあばらを再生させながら、妖魔は動かない。

 何せ相手は虫の息。攻撃をしなくても失血のみでじりじりと体力が削られていく。そして、読みが深い相手に自身から仕掛けるのは、逆に攻撃を貰いかねないと判断したのだ。

 麗華は地に伏し、恭二も満身創痍。一見すると妖魔のみが有利なように見えるが、先ほど指摘されていた通り、彼のダメージも大きく積み重なっていた。

 下手に攻撃を貰えば、それが致命的なものになりかねないのは妖魔とて同じことなのだ。

 

 「厄介だなぁ」と呟きながら、体勢を低くした。

 

 それと同時に、臀部から伸びる蛇もゆらりと鎌首をもたげる。だが、その蛇の動きは、先ほどのような精彩を欠いている。

 互いに油断の出来ない状況で、痛みの走る体に鞭を打つ。

 そして、状況は一気に傾いた。

 

 先に動いたのは、

 

「おぉ!」

 

 恭二だ。



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悪意の病巣 第十二話

 

 血に塗れながら、恭二は駆ける。

 手榴弾の爆風と破片の直撃を受けた体はボロボロで、目を覆いたくなる程のものだった。

 それでも、彼は全力で走る。元よりボロボロだった身体を、文字通り全力で稼働させる。そんなことをすれば、肉体が自壊するのは自明の理だというのに。

 

 それでも彼は駆け抜けた。

 

 最早、言葉を紡ぐ余裕すらない筈なのに、彼は雄々しく吠える。

 

「あの人の忘れ形見に…… 俺の馬鹿な相棒に何してくれる」

 

 強化によって高められた筋力と、タガが外れてしまっている恭二の拳が容赦なく振り下ろされる。

 その言葉の荒々しさと、強化によって限界まで高められた筋力によって生じる荒々しさとは反比例するかのように、彼の拳は精密な身体運用によって、無駄なく、今できる最速で妖魔の頭部を叩き潰しにかかっていた。

 それを阻むように妖魔は臀部から生やした蛇を恭二の頭部へと伸ばす。当然、リーチと自力の差から、妖魔の攻撃の方が早く着弾するのは自明の理だ。

 

 だが、そんなことは恭二も分かっている。

 だから彼は、衝撃で右手の皮がずるりと剝けてしまうのも厭わず、その蛇をつかみ取った。

 

「――――――っ⁉」

 

 妖魔は直後感じた浮遊感に息を飲んだ。

 

「飛べ!」

 

 荒々しい言葉と同時に、恭二はぐるりと体を回し、容赦なく屋外へと妖魔を投げ飛ばそうとした。

 

 しかし、妖魔は投げ飛ばされる最中でコンクリートの床に足を突き立て、逆に蛇を掴んでいる恭二を屋外へと放り出そうとする。

 だが、それでも彼は自身の身体の一部を掴んでいる男の掌の上から逃れることが出来なかった。

 それを見越していた恭二は、妖魔がコンクリートに足を付ける直前に、もう飛んでいたのだから。

 

「堕ちろ」

 

 ぞっとするほど冷たい声で、彼は容赦なく左腕を相手の鳩尾にねじ込んだ。

 その一撃は、妖魔にとって予想の埒外と言っても過言では無いものだった。既に恭二の左腕の骨は折れ、少し動かすだけで激痛が走ったはずだ。それに例え左腕を振るえたとしても、既に折れた腕では満足な威力は望めないと踏んでいた。

 だが、その予想は見事に裏切られたのだ。「がふ」と言う、自らの口から血と空気が洩れ出る音と共に。そして、すさまじい衝撃と共に妖魔の肉体は、今度こそ屋外へと吹き飛ばされていった。

 その姿を見送ると、恭二は忌々し気に舌打ちをしながら踵を返す。

 

「くそっ…… 仕留め損ねた」

 

 後の危険を考えれば、ここで先ほどの妖魔を仕留めておきたかったのだが、先ほど恭二や麗華がしていたように、いくらか力を逃がされてしまった。その事実に、彼は体から力が抜けていくような感覚を覚えながらも、顔を顰める。

 反動で、元々折れていた左腕の骨は、見るも絶えないほどぐちゃぐちゃに歪んでいた。当然の報いだ。だって、彼は強化を施された状態であっても、自身の肉体が自壊してしまいかねないほどの力で妖魔を殴りぬいたのだから。

 骨折していなかった右腕で殴ったとしても、反動で腕の骨が砕けただろう威力を秘めたそれを、相手の意表を突くという目的の為だけに。

 

 だが、「そんなことはどうでもいい」と言わんばかりの態度で、彼は妖魔が吹き飛んでいった地上を見下ろした。

 

「ああ…… でも、しばらくは上がってこれない…… だけど…… これは、きつい、な……」

 

 幸か不幸か、失血で遠のきそうになる意識を、ずたずたに引き裂かれた肉体が焼けるような痛みを訴え続けているおかげで、彼は何とか意識を保つことが出来ている。そのおかげで、彼は妖魔を一時的に無力化できたことを確認できたし、何より、今倒れ込むことだけは避けられている。

 

 「皮肉な話だ」とその事実にさらに顔を顰めつつ、恭二は体を引きずるようにして倒れ伏した麗華の元まで歩いて行った。その足取りは鉛のように重く、彼は倒れ伏した家族の元へと辿り着くための数メートルが酷く遠いように感じる。

 自身の肉体に最低限の治癒を施し、ある程度動けるようにしつつ、恭二はようやく麗華の元までたどり着いた。

 

 今すぐにでも治療を始めたいと彼は心底思っているが、先ほど屋外へと大ダメージを与えてたたき出した妖魔や、手榴弾を窓の外から放り込んできた敵がまた攻撃を仕掛けてくるかも分からない。

 不幸中の幸いというべきか、麗華の出血量が想定していたほどではなかったのが唯一の救いといったところだろう。そうでなければ、確実に彼女の命は燃え尽きていた。

 今にも消えそうな命の灯を繋げるために、恭二は念のために扉を開放していた部屋へと麗華を抱え上げ、歩いて行く。そして、部屋の前まで到達すると、倒れ込むようにしてその中へと身体を滑り込ませた。

 

「部屋…… 封鎖しない、と」

 

 途切れそうになる意識に、言葉を与えることで目的を与え、何とか体を動かした。そして、懐の中にしまってある結界符を十数枚取り出すと、それらをまとめて発動させる。

 それと同時に、部屋の壁を、窓を、天井を、床を覆うようにして結界が張り巡らされた。先ほどは一枚だけだったおかげですぐに破られてしまったが、これならばそれなりに攻撃に耐えられるだろう。

 そう判断して、恭二は薄れそうになる意識を必死に手繰り寄せつつ、麗華を床に降ろし、傷の具合を確かめていった。そして、ある事実に気が付き、彼は小さく微笑みを浮かべる。

 

「とんでもないな、お前は…… まさか、治癒符を発動させてるとは、思わなかったぞ」

 

 恭二は、麗華の掌に握り込まれた札を見て、想定していたよりも失血量が少なかった理由にたどり着き、彼女の優秀さに舌を巻いた。

 ダメージを受けるその直前に、麗華は無意識に自身が持っていた回復用の札である治癒符を発動させていたのだ。その効力で最低限の止血だけは出来ていたのである。最も、治癒の効力は札の発動をした彼女の意識が途絶えたために、力の指向性が定まらず、その効力が十全に発せられることは無かったようだが。

 そのおかげで、札が発動する際の僅かな発光が妖魔に視認されなかったのは不幸中の幸いだろう。

 奇跡的な状況の連鎖の上で、何とか命を繋ぐことの出来た麗華に彼は惜しみなく「運のいい奴め」と言葉を投げかけた。

 

「それでも、内臓の破裂に、断絶…… あばら骨の骨折…… 肺も片方がほとんど潰れ、かけている…… すぐに治療しないと」

 

 だが、重傷であることに変わりはない。恭二はすぐに顔を引き締めると、自分と彼女の血に塗れた右手を翳して、霊力を術式に通して治癒の力を麗華へと流し込んでいく。その際、こまめに純粋な霊力を彼女の体内へと流し込み、砕けた骨の欠片などを元の位置に戻してやりながら傷を治していく。

 その最中で、麗華は掠れた声でうわごとの様に何かを呟いた。

 それは、あまりにも微かな音で、恭二には何と言っているのかは聞き取ることが出来なかったが、夢見が悪いのだろうとあたりを付ける。なにせ、どう頑張っても安らかとは言い難い、苦悶の表情を浮かべていたのだから、それも仕方のないことだ。

 

「何の、悪夢を見てるか知らない、けど…… すぐに起こして…… やるから、な。心配するな。一人にはしないって」

 

 失血の影響で、恭二の言葉は途切れ途切れになっているが、それでも確かな力強さを持った声色で、彼は麗華に向けて励ましをかける。

 その言葉を聞いたせいか、それとも体に負った傷を治療されたせいか、麗華の苦悶の表情は幾分和らいだ。

 

 それを見て、恭二は少し安心したように微笑みながら、溢れた血によって彼女の顔にへばりついていた前髪をずらしてやる。

 

「まだ、死ねると…… 思うなよ」

 

 そう言って、麗華の右腕の治療に移ろうとしたところで恭二の身体からがくりと力が抜けた。

 

 当然だ。いくら麗華の方が緊急性の高い重症だったとはいえ、彼も死んでもおかしくはない重傷を負っていたのだから。

 

 恭二はそんな事実に対して忌々し気に舌打ちすると、麗華の身体の治療をいったん中断し、自身の身体に治療を施していく。

 

「左腕はぐちゃぐちゃだし…… 爆風と破片で全身裂傷と骨折のオンパレード、か…… 破片が地味に痛いな……」

 

 地味に痛い、程度の感想で済むはずも無い怪我なのだが、彼はあくまでもそう嘯いた。

 

 そして、麗華が負った傷の中でも、特にひどい右腕の怪我を睨みつける。

 

「酷いが…… これでも、治癒の術式の扱いはエレイン仕込み、だからな……」

 

 少しずつ冷たくなっていく体とは裏腹に、その瞳にはギラギラとした熱が揺らめいている。こんなところで死にたくないし、死なせたくもない。そんな思いが恭二を突き動かす。

 

 彼の瞼の裏に移るのは、八年前の惨劇。もう二度と、その時のような思いだけはしたくない。

 

 そして、彼は目を見開くと再び麗華の治療に移る。自身の怪我の治りは中途半端だが、失血して遠のきそうになる意識を繋ぎとめるには、ある程度の痛みがあった方が都合がいい。

 

 だから、彼はあえて骨折などの怪我は直さず、完全な止血と生命活動の維持に支障をきたすような傷のみ治療し、それ以外は放置したのだ。

 

 どのくらいで自分が死ぬのか、或いは意識を落としてしまうのか、その境界線を理解していなければ、ここまで綱渡りのような治療行為を続けることは不可能に近い。だが、それを可能にするだけの経験を秘めた恭二は、淀みなく麗華の身体の傷を治療していった。

 

「うぁ…… 恭二……?」

「ようやくお目覚めか、眠り姫」

「何に合わないこと言ってるの…… 正直、気持ち悪いよ……」

 

 起き抜けに恭二の顏を見た麗華は、小さく笑いながら遠慮のない言葉を紡いだ。それを受けて、恭二は苦笑を浮かべながら言葉を返す。

 

「起き抜けに辛辣過ぎないか、お前」

「だって、ホントに似合わなかったんだからしょうがないでしょ……? あと、無理してしゃべらなくていいよ…… 普通に見せてるけど、大分きついんでしょ?」

「なんだ…… バレてたのか」

 

 麗華の口から少しだけ気怠そうな調子で紡がれた言葉に、恭二は弱々しく、途切れがちな声でそう返した。少しだけ普通に喋っていたのは、彼女に心配を掛けまいという思いからのものだが、あっさり看破されてしまったので、彼は小さく苦笑を浮かべる。

 

 麗華は眉間に皺を寄せて、そんな態度の恭二を見つめた。その瞳には、僅かな苛立ちと、彼の容体を案ずる色が滲みだしている。

 そして、彼女は恭二のボロボロになった左腕を見つめると、どこか泣きそうな声色で、苦虫を噛み潰したような表情で言葉を紡いだ。

 

「私がさっさと相手を倒して、恭二がこんな怪我しないうちに倒すつもりだったんだけどなぁ…… ごめんね、無茶させちゃって」

「謝らなくてもいい…… いつもは…… お前がよく前に出てるから、なぁ……」

「そうだね…… でも、こんなことが無い方が良いよ」

「それもそうだ……」

 

 恭二は、麗華が目を伏せて呟いた言葉に小さく頷いた。

 こんな怪我をするような事が無い方が良い。それは、彼も抱いている共通認識だ。怪我の痛みも、怪我に苦しむ仲間の姿も、苦しいだけで何もいいことなどないのだから。

 

「ああ、そうだ。恭二、そろそろ自分の怪我を治しなよ。こっちはもう大丈夫だから、ね?」

「ぶりっこみたいな…… 喋り方をしても、正直似合わないぞ……」

「余計な一言が多いってば!」

 

 麗華は、むすっとした表情で恭二に抗議の声を上げる。その声は平時と同じぐらいの元気を滲ませており、恭二の治療のおかげでほとんど調子を取り戻してきたようだった。

 

「まあ、それはいいとして、ちゃんと怪我を治してよ? 左腕もそうだけど、ほら、ここなんて、流血が殆どないことをいいことに、破片が刺さりっぱなしになってるじゃん!」

 

 麗華は、恭二の腹部につく刺さっているガラス片を指さして、怒鳴り声をあげる。倒れてしまったことに対する悔恨と、妖魔に対する怒りが滲みだし、バチリ、と彼女の周りで火花が散った。

 感情が嵐のように荒れ狂い、霊力が音を立てて弾けているのだ。その様を見ていた恭二は、もう問題は無いだろうと判断し、彼女の言葉にコクリと頷いた。

 

「分かった…… だから、そんな心配そうな顔をするな…… それに、破片は下手にぬくと失血死しかねない、からな…… 一応、お前が起きてからじゃないと…… 倒れた時の対処が出来ないだろう……」

「だからって……」

 

 彼女は「無茶をしないでよ」と続けそうになった言葉を必死に飲み込んだ。その無茶があったからこそ、自分は今ここで息をすることが出来ているのだから。

 

 それに、普段は麗華自身が無茶をやらかしているため、言葉に出したとして「お前が言うな」と返されていただけだろう。

 

 そうして、彼女が言いよどんでいるうちに恭二は淡々と腹部に刺さった破片の類をゆっくりと引き抜き、その最中で治癒の術式を発動させることで、血を噴き出さないように怪我を治し始めた。そして、眉ひとつ動かすことなく治療を終えると、彼は小さく息をついた。

 

「これでよし…… 後は、エレイン特製の造血剤でも飲んでおくか…… ほら、お前も飲め」

 

 恭二はそう言うと、バックパックから錠剤の入った赤い瓶を取り出し、その中身を麗華の手に渡してやった。そして、二人は淡々とその錠剤を飲み下す。

 すると、先ほどまで失血の影響で青ざめていた二人の顏に、赤みがさしていく。

 

「相変わらず、良く効くねぇ」

「おかげで、何とか体を動かせそうだ」

 

 疲労がたまり始めているが、それでも怪我らしき怪我はほとんど治っている。すぐにでも起きて行動を再開しようと二人はゆるりと立ち上がった。

 だが、ある事実に気付き、恭二は眉を顰める。

 

「ああ…… 追撃を警戒していたのに、来なかったのはそう言う事か」

 

 その冷え冷えとした声に、麗華は彼の視線を辿るようにして顔を動かしていく。

 そして、彼女は見た。恭二の右腕に取り付けられた装置が真っ赤に染まり、件のウイルスに感染していることを示すサインが現れているのを。

 

 



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悪意の病巣 第十三話

 

「これは…… まずいね」

「ああ、まずい。それに、俺が感染しているってことは、そっちも感染している可能性が高い。さっき投げ込まれた手榴弾に何か仕込まれていたか…… あの妖魔自信がウイルスの保菌者だったか……」

 

 麗華と恭二は顔を見合わせて、そんな言葉を交わす。冷静に状況分析をしている二人だが、それでも顔に滲みだした苦渋の色は隠せない。

 

「さっきの攻撃で、お前の右腕の装置は壊れたみたいだな…… 赤くなるどころか、そもそもピクリとも反応しないぞ」

「うん…… 罅だらけで酷いことになってるし、当たり前と言えば当たり前だね」

「薬を打つまでに、腕輪が光ってからおよそ十五分ぐらいの猶予があるとは聞いているが……」

「まあ、ギリギリまで粘る利点より、リスクの方が大きいからさっさと使っちゃおうか」

「その前に、消毒はしておかないとな…… 汚れのせいで感染症を発症しましたじゃシャレにならん。それに、普通の方法でウイルスをどうにかするわけじゃ無いから、即座に再感染ってこともあり得る」

 

 恭二はそう言うと、バックパックの中からスプレー型の消毒液を取り出した。それを麗華や自身の頭のてっぺんからつま先まで、まんべんなく吹きかけていく。

 そんな風にスプレーを吹きかけられながら、彼女は小さく肩を竦めた。

 

「こういうのって、普通、治療を施す前にするものじゃないの?」

「さっきは緊急性が高かったから仕方が無いだろうが…… 治療しないと、今頃仲良くあの世行きだったんだぞ?」

「分かってるってば。言ってみただけだから、そんなに気にしなくていいよ」

「なら言うなよ…… まあいい、それよりさっさと注射をしておこう。じゃないと、相手の操り人形だ」

 

 そう言うと、二人は事前に渡されていた札と注射器を取り出した。それを恐る恐るといった様子で麗華は腕の静脈へと近づけていく。

 それを見ていた恭二は、呆れたように肩を竦めた。

 

「なんだ? 怖いのか?」

「あのねぇ…… 地面をのたうち回るような痛みが走るって言われて、怖気付かない方が難しいってもんじゃないの」

「いや、今この状況だと、痛みより相手の手駒になる方が怖い。何が悲しくてお前と殺し合いをする可能性を残さなくちゃならないんだ」

 

 恭二はそう言うと、躊躇なく血管に注射器を突き刺し、そこに収められた薬液を流し込んでいく。瞬間、彼の顏が歪み、床に膝をついた。

 

「~~~~~っ!」

 

 そして、声には出さないが、苦悶にもがく吐息を口から漏らしつつ、彼は素早く札を発動させた。

 

「はあ、はあ、ふぅ…… ありえん…… いや、本当にありえん。さっき腹に刺さってた破片や骨折の怪我よりはるかに痛い。ものすごく痛い」

「あ、ははは…… 痛みに強い恭二がそう言うってことは、かなりヤバそうだね。あの、注射打った後の札は、そっちが発動させてくれない? ほら、そっちの方がノータイムで発動できるし」

「この野郎……!」

「野郎じゃなくて、女の子ですぅ! ね、自分の相棒に痛い思いをさせるのは色々とあれでしょ? ね?」

「む、むかつくなお前…… でもまあ、しょうがない。札をこっちに渡せ。お前にまた気絶されたら、起こすのも面倒だ」

 

 その言葉を聞いた麗華は小さく息を吐くと、「良かった、任せるね」と言って微笑んだ。激痛を味わう時間が短くなり、心底安心したのだろう。

 

「現金な奴め…… ほら、とっとと注射を打て。じゃなきゃ、相手の操り人形だ。さすがに、お前を相手取るのはきついぞ。ていうか、死ぬ。確実に死ぬ」

「ずいぶんと情けないことを断言しないでよ…… ま、まあ、それは置いておくとして。注射打つから、頼むよ本当に」

「念押ししなくてもちゃんとやる」

 

 恭二は苦笑を浮かべながら言葉を紡いだ。続けて「そんなに信用無いのか」と言葉を返す。その言葉を受けた麗華は、「そんなことは無いけど」といった後、小さく呻いた。まあ、それはそれとして怖いのだろう。

 

「じゃあ、今度こそ打つから、後は任せるよ……」

「任された」

 

 恭二の力強い返答を聞いた麗華は、意を決して注射器を自身の身体に突き立てた。それと同時に、恭二は宣言通り札の効力を発動させる。

 そのおかげか、麗華は苦痛に顔を歪めるようなことは無く、そのまま小さく微笑んだ。

 

「良かったぁ…… 何とか痛みは無くて済んだみたい」

「俺がタイミングを合わせて無かったら、麗華は今頃床とキスをしてたかもな」

 

 恭二は小さく笑いながらそう嘯いた。それに対し、麗華もまた軽い調子で言葉を返す。

 

「かもね。でも、痛みが無かったからモーマンタイってやつ? 霊力の残りはこっちは五割ぐらいあるし、何とかなるでしょ」

「こっちは治療でガンガン霊力を消費したから、残りは三割五分ってところだ」

「長期戦は期待できそうにないねぇ……まあ、なんだかんだいって、これで体勢を立て直せたみたいだし、行こうか。こんな面倒なことをしなくちゃいけなくなった現況っていうやつに会いにさ」

「ああ、行こう。でも、次の感染に対する手段はなくなった。それに、さっきの妖魔がお前に何をして、あんな結果になったのかが分かっていない。油断するなよ」

 

恭二の神妙な表情に、麗華もまた真剣な表情で頷き返す。先ほどの不自然な脱力が戦闘中に起これば、今度こそ命を落とすかもしれない。

 

「分かってる。それに、手榴弾を飛ばしてきた伏兵も、相当な使い手だろうしね」

 

 監視カメラを完全に破壊されたため、麗華たちの位置取りを完全に把握することは難しかったにも関わらず、完璧なタイミングで手榴弾を飛ばすその技量を鑑みるに、実力が並大抵のものでは無いことは明らかだ。

 

「ああ、だから一つ緊急時の策をお前に預けておこう」

 

 

 

*****

 

 

 

 薄暗い地下室、この施設の最新部で、二つの影が視線を合わせることもなく言葉を交わす。

 

「どうする? アンタが追撃をしなくていいって言ったんだよなぁ? それで、相手に立て直す隙を与えちゃ世話ないと思わないか?」

「まあ、それも予想の範囲内ですよ。このウイルスの対抗策も、あそこの医療部門の面子なら容易に用意できるでしょうしね…… あ、これ笑うところですよ?」

「嘲笑って良いっていうのなら盛大に笑ってやるが」

「嘲笑われるのは嫌いですねぇ」

 

 そう言って、オールバックの男はマグカップのコーヒーを啜った。

 

「ふぅ…… しかし、監視カメラが使えないのは痛いですね。相手の雷撃使いは相当な腕前と見えます。最初は的確にカメラの電気系統だけ破壊されましたから。それに、雷撃に強いあなたの全身を丸焦げにするぐらいですしねぇ?」

「丸焦げになってない。レアかミディアムレアぐらいだ。そこの所、間違えるなよ。なぁ?」

 

 些か、険悪ともいえる雰囲気でオールバックの男と妖魔が睨みあう。

 しかし、男はすぐにため息をついて言葉を紡いだ。

 

「まあいいでしょう。こちらからウイルスに刻んだ術式の反応がなくなったのも事実。ですが、いくらクロユリの医療部門と言えども、僅かな時間で完全なワクチンを作成するのは難しいでしょう。元より、ワクチンを作りづらいウイルスと、疫鬼の力をベースに今回のウイルスを生み出した訳ですし」

「あぁ怖い怖い! そんなことを断言できるなんてストーカーか何かか?」

「そう言われても仕方ありませんねぇ。でもほら、才能への挑戦ほど心躍るものはありませんから。こういった見極めも楽しいものですよ」

 

 男は、心底楽しそうに言葉を紡いだ。そして、何処かうっとりとした表情で、つうっと目の前にある設備の上に指を滑らせていく。

 

「幸か不幸か、この実験場のデータは既にボスの方へと転送してあります。おかげでデータのことを気にする必要はなさそうです」

 

 そう言って男は自身の目のまえにあるパソコンや設備を見つめた。それぞれにこの施設で行われた貴重な実験データが詰まっているが、そのほとんどのデータを転送してあるため問題は無い。

 そこまで思い浮かべたところで、設備の上を滑っていた男の指が、ウイルスの培養管の上でぴたりと止まった。

 

「しかし、このままでは、この施設は放棄することになりますねぇ…… この子たちが無駄死にしてしまいますし、ここは、盛大に花火を打ち上げたいところですが……」

「それはいいなぁ! でも、連中がそれを許すとでも?」

「どちらでも構わないでしょう。今回の実験の目的は既に達せられています。なんにせよ、この施設とももうすぐお別れですねぇ。まあ、それは仕方のないことと割り切って、運動不足の解消にいそしみましょう。しばらく、運動の出来る機会はなさそうですからね」

 

 そう言うと、男は下弦の月を思わせるような笑みを口元に浮かべ、ウイルスの培養管のその奥で、ぼこりと泡を立てながら培養液の中に浸かっているそれを見つめた。

 

「起動装置はこちらの手から離れることになりますが、データがあるならまた作り上げることも可能です。しばらく地下に潜ることになりますが、お互い慣れたものでしょう?」

「狭苦しいとこは苦手だけどな…… まあ、アンタの言う通り、運動不足にならないよう精一杯暴れさせてもらおうか」

 

 暗闇の中で、二つの影は緩やかに蠢いた。

 

 

 

*****

 

 

 

 

 一方、状況を外部で分析していたオペレーターは、ドローンの映像に、恭二と麗華がうつり込んだのを見て安堵の表情を浮かべていた。

 

「良かった…… 二人とも、何とか無事だった……」

 

 固唾を飲んで事態の推移を見守っていたオペレーターは、戦況を映し出している映像から視線を落として安堵する。自分の担当しているコンビが完全に復活したことが分かったことで、何とか精神的な落ち着きを取り戻したようだ。

 しかし、すぐに気を引き締めると、真剣な表情でモニターを睨みつける。状況は最悪を脱しただけで、予断を許さない状況であることに変わりはない。少しでも気を抜いてしまえば、きっと二人はその喉笛を食いちぎられるだろう。

 

「妨害電波さえなければ…… いえ、それを言っても仕方がありませんね。二人が行動できる状態なら、それを前提として儀式呪法の構築状況や、包囲網を作り替えて…… それに、通信が回復した時のことも考えないと……」

 

 そうして、再び彼女の手がキーボードやコンソールの上を慌ただしく行き来する。確実に、敵の息の根を止めるために。

 

「おいたのツケは、しっかり払わせてあげます」

 

 その瞳に、仲間を傷付けられたことの怒りを滾らせて。

 

 

 

 

****

 



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悪意の病巣 第十四話

「ここが、地下への入り口?」

「らしいな…… ご丁寧に、術による人払いと、強固な結界まで同時に施されている」

 

 廊下に落ちていた自身の装備と、敵が持っていた装備を強奪して身を固めた二人は、地下へと続く扉の前で静かに言葉を交わした。恭二は左手に日本刀を握り、麗華は拳銃を二挺構えて眼前で自信を阻むものを見つめる。

 その扉には、恭二の言葉通り、認識阻害や結界が施されており、一般人はどころか妖魔や術師の類であったとしても簡単に通り抜けられないようになっていた。

 現に、二人もそれが「扉である」という事はかろうじて認識できるが、その形状や鍵の位置、どのような開き方をするかさえうまく識別できていない。

 

「こう言った類の術に対して効果を発揮する霊視用の呪具を身に着けていてこれだし、素の状態では発見すら難しかったかも」

「そうだな。オペレーターに持っていくように言われたが、警戒網の通り抜けや、トラップの回避以外で役立つ場面があるとは思わなかった」

「おかげで、地下があることが分かってるのに、入り口が見つからないなんて最悪の事態は避けられたんだし、オペレーター様様だねぇ!」

 

 麗華はそう言うと、雷撃を纏わせた蹴りを扉に叩き込んだ。しかし、強固な結界で保護された扉はびくともしない。

 

「ありゃ、これ破るのにかなり時間がかかりそう……」

「感じた手ごたえは?」

「さっき妖魔にぶち込んだ威力の雷撃を五、六発分ってところだね。でも、そんな事したら霊力が切れちゃうよ」

 

 恭二の問いかけに、彼女は少しばかりむっと表情で言葉を返した。施された守りを突破するのが難しいとたったの一撃で理解したからだ。

 だが、恭二は特に焦った様子もなく扉をでなぞる。

 

「外の警戒網と違って、攻撃性能は無いみたいだな……」

「まあ、さっきノックしても反応無かったし、妥当なんじゃない?」

「あれはノックじゃなくてキックだろうが…… まあ、そんなツッコミは置いておこう。漫才をやってる場合じゃ無いしな」

 

 恭二はそう言うと懐から一枚の札を取り出した。それを見た麗華は、全身を総毛立たせながら彼の元から距離を取る。

 

「は⁉ なんてもの取り出してるのさ! そんな高威力の札を結界破るためだけに消費するとか狂気の沙汰なんですけど⁉ 給料何か月分⁉」

「そんなこと言われてもな…… 札を使おうにも、さっきの妖魔みたいなやつが相手だと発動する前に潰される可能性も高いし、こっちの方がよほど無駄遣いにならなくて済む。さっきの手榴弾を投げ込んできた奴がどれくらい強いか分からんが、妖魔は確実に一緒にいるだろう。アイツの回復力を考慮すると、それなりに怪我が治っている状態で、だ。それに、相手が治癒系の術式か札を使えば、さっきの傷も完治してる可能性だってある」

 

 恭二は、麗華に対して状況をかみ砕いて説明する。その間にも、札に霊力を流し込み、発動させる準備を整えながらも。

 そんな彼の言葉と態度に、麗華は乾いた笑みを浮かべながら一歩下がった。

 

「いやぁ…… 一応、ウイルスが飛散する可能性も考えて、もうちょっと自重するっていうのは? ほら、一応この施設を壊さないようにって言われてはいるんだし」

「さっきコンクリートが一部プラズマ化するようなレベルの雷撃を放った奴にだけは言われたくない…… それに、結界を破られてすぐに破壊されるような所に制御系の機会は置かないだろう。まあいい。もう何を言っても手遅れだしな」

 

 恭二は見るものを凍り付かせるような凄絶な笑みを浮かべる。その手に握られた札は、燐光を放ち、その力が解放される瞬間であることを如実に示していた。

 それを見た麗華は、その時ようやく理解した。

 

「あ、ヤバい。恭二がキレてる」

 

 その言葉が響いた直後。すさまじい衝撃と轟音があたりに響き渡り、結界どころか階下まで一直線に猛火が突き抜けた。

 完全にぶち抜かれた、というか溶け落ちた扉を前にして、麗華は冷や汗を流す。その顔に引き攣り笑いを浮かべながら。

 

「あの…… この任務が始まる前に、感情を表に出すほど若くないみたいな事を言ってた人はどこのだれでしたっけ?」

 

 恐る恐るといった様子で、紡がれた言葉に恭二はにっこりと笑いながら言葉を返す。

 

「何を言っているんだ。こんなに笑顔なんだぞ。これのどこが怒っているように見えるんだ?」

「え、あ、うん。はい、はい。そうだね。うん」

「お前、さっきやられた時に頭も打ったのか? 二回返事を返すのは、混乱している時の反復行動にも見られ……」

「あ、違う違う。そう言うのじゃないから。気にしなくていいよ」

 

 彼女は彼の言葉に、勢いよく首を振った。決してそう言う事ではない、と強く示すために。

 今の恭二は、麗華をもってしても怖いと感じるほどに怒りを滾らせている。顔は笑顔だが、目には温度がこもっていない。声もどこか平坦で、先ほど彼女自身に投げかけられた言葉に宿っていた温かみというものの面影も一切ないと来ている。

 こういう時は、恭二がすさまじく怒っていると彼女は経験則で知っていた。そして何より、麗華は失念していたのだ。彼女が傷つけられた時に怒らないような男ならば、そもそも自分がなつくことなど決してあり得なかっただろうという単純な事実を。

 それに今の今まで気が付けなかった自分の察しの悪さを呪いながら、恭二が怒っているという事実に少しばかりの嬉しさと焦りを感じながら、彼女は視線を自身の相棒へと向ける。

 相変わらず薄く笑みを浮かべた恭二は、周囲に最大限の警戒を払いながら階段へと一歩踏み出した。その背後をカバーするように、顔を引き攣らせた麗華が付いていく。

 地下への入り口が、まるで魔物が大口を開けているかのように感じてしまう圧迫感をものともせず、彼は階下へと突き進んでいく。一歩、一歩進むごとに、その顔から表情が抜け落ちていくのを、麗華は小さく肩をすくめながら盗み見た。

 

「こっわいなぁ…… 私の為に起こってくれてるんだろうけど、相変わらず、シャレにならないキレ方するんだから……」

 

 能面の様に無表情になった恭二を見て、彼女は小さくぼやいた。その呟きが聞こえているのかいないのか。恭二は黙々と地下へと進んでいく。

 だがその姿に、麗華は少しだけ違和感を覚えた。

 

「あのさ、恭二。ヤバいキレ方してるのはいつものことだけど、ちょっと元気がないよ。まだ具合が悪い?」

「いや…… 少し気になることがあってな。まあ、気にするな。大したことじゃない」

「まあ、それならいいんだけどさ……」

 

 そう言うと彼女はちらと向けていた視線を地下の先へと戻した。そうして、進んでいくうちにやがて、終着点が見えて来る。

 広い空間の中には、様々な機材や巨大な培養管が並んだ異様な光景が広がっていた。

 そこには先ほどの妖魔と、白衣に身を包んだ黒髪をオールバックにした男が二人を迎えるようにして立っている。

 

「ようこそ。地獄の窯の底へ。歓迎しますよ」

 

 口元に、感情を感じさせない笑みを浮かべながら。先ほどの札の効果で所々で燃え盛る火が見え、本当に地獄の窯の中のような有様だった。

 そんな炎の中で浮かべられた笑みを、視線だけで凍り付かせてしまうのではないかと思うほどの冷たい視線で睨みつける男が一人、無言で右手に握ったサブマシンガンの銃口を突きつける。

 

「あんたが黒幕か。もうちょっといかつい奴がいてくれると思ったんだがな」

「いやですねぇ。ここは医療施設ですよ。そう言うのは、警備員やここにいる奴みたいなのが担当すべきことで、私にはとてもとても!」

 

 そう言ってオールバックの男は身をよじらせる。

 

「黙れよ」

 

 端的な言葉と共に、恭二は容赦なく引金を引き絞った。乾いた発砲音が連続で響き渡り、次々と弾丸が放たれる。

 

「酷いですねぇ。もう少し話を聞いてくれてもよろしい気がするのですが?」

 

 男は焦ったような様子もなく、パチンと指を鳴らした。それと同時に、無数のトランプが男の懐から飛びだしてくる。それらのトランプはまるで意志があるかのように宙を舞い、銃弾を遮るようにして展開された。

 そして、容赦なく放たれた弾丸が次々とトランプに着弾していく。勢いを殺された弾丸は、耳に残る金属音と共に地面へと落下した。

 

「さっき手榴弾を飛ばしてきた念動系の術式を使っていた奴はやっぱりお前か」

「ご明察です。このぐらいはやはり分かりますか」

 

 男はクスリと微笑んだ。言葉の裏に、その程度のことは分かってもらわなければ困ると言わんばかりの態度を滲ませてながら。

 

「下手くそだなぁ…… ちゃんとこいつの頭に鉛玉をぶち込んでやればいいのに」

 

 妖魔は、心底つまらなさそうに頭の後ろで手を組むと、小さく舌打ちをした。

 

「あのですねぇ…… 貴方はどちらの味方なんですか?」

「少なくとも、お前とは一応、ビジネスパートナーってやつだ。それ以上でも無いけどなぁ」

 

 あまりにもあまりな態度に対する男の呆れたような言葉に、妖魔は飄々とした態度でそう嘯いた。

 そんな言葉を受け、深々とため息をつきながら、男はくるりと二人の方へと向き直る。

 

「これのことは置いておくとしましょう。では、改めまして、私はプロフェッサー、ギルバート。以後お見知りおきを」

「いや、黒髪黒目、完全な和顔で何ほざいてるんだお前」

「おやおや、これは一本取られました。まあ、名前なんてどうでもいいでしょう? 悪党が名前を教えて身バレするとか、ギャグですよギャグ。捧腹絶倒ものの」

 

 軽い調子と態度で言葉を紡いで入るが、ギルバートという明らかな偽名を名乗った男は隙だらけのように見えて、隙が無い。

 先ほどの動きから見せたように、そもそも彼は防御のために体を動かす必要があまりない。そして、その反応速度は銃弾の軌道にトランプを滑り込ませることが出来るほどに鋭敏だ。そもそも、身体の動きは求められないからこそ、その動作一つ一つに無駄があっても問題にならない。

 それに、彼の隣に控えている妖魔がにらみを利かせているために、容易に踏み込むことは出来ず、その妖魔は麗華がにらみを利かせることで、同時に踏み込ませてはいない。

 先程、二人でも互いに重傷を負った相手が一匹に加えて、仮称ではあるがギルバートという男を相手にしなければならない。

 たらり、と麗華の額から汗が流れ落ちる。彼女の脳裏に、先ほど目を覚ました時に見た、血まみれで、ボロボロになってしまった恭二の姿がよぎった。僅かに過ったイメージが、彼女の脳裏にこべりつき、集中力を乱していく。

 緊張と最悪の想像のせいで、麗華は喉の奥がひりついていくような思いを抱いた。

 だが、恭二はそんな彼女の様子を知ってか知らずか、静かに言葉を紡ぐ。

 

「そっちは任せるぞ。なに、いつも通りやればいい。こっちもそうする。お前もそうする。そうだろう?」

「……恭二に励まされるなんて、私も焼きが回ったかな」

「まだ二十歳にもなってない小娘が何言ってるんだ…… 行くぞ」

 

 その言葉が合図となり、二人は同時に左右へと別れた。恭二はギルバートの側面へ、麗華は未だ全貌の開かされない妖魔の側面へと回り込むように。 

 そして、コンマ一秒のずれもなく、二人は同時に攻撃を放った。

 

「ふむ…… 良い判断ですねぇ」

 

 小さく、「なるほどなるほど」と呟きながらも、ギルバートはそう評価する。

 

 短絡的に二人が先ほどの様に互いの身体を目隠しとして利用する戦法を取ったなら、彼は負荷が大きいが直接相手の身体に干渉してバランスを崩すつもりだった。

 そうすれば、僅かな感覚のずれで連携が為されず、恭二と麗華は味方の攻撃で地に伏すことになっていただろう。

 だが、早速その目論見は外されてしまう形になる。そしてそれを為した二人の判断力に、ギルバートは小さく笑みを浮かべながら、トランプを自身に迫る男めがけて飛ばした。

 殺到する無数のトランプを銃弾で撃ち落とし、或いは回避しながらも、恭二は眉を顰めた。

 

「……何が楽しいんだ。お前」

「それは、もちろん、貴方のような才能ある方と戦えることでしょうとも。最近は運動不足でしたので、それの解消にもってこいでもありますから」

 

 そう呟きながら放たれているトランプは、本来は武器として成り立たないものでありながら、先ほどから銃弾を弾き飛ばし、よけ損ねた分が恭二の頬を切り裂いている。

 文字通り肌で感じた威力は、直撃すれば間違いなく臓腑まで達すると思わせるだけのものを秘めていた。その事実に彼は小さく舌打ちをする。

 

「は、そうかい。口の減らないやつだな。それに銃弾防ぐとか、そのトランプ何で出来てるんだ? 強化してるわけじゃ無いだろう。他人の霊力がこもってるものは、念動で相当動かしにくいはずだからな」

「今はやりの防弾トランプというやつですよ。通販で売っていたので衝動買いしてみました。軽いから動かすのにも霊力をあまり使わずに済むのでまさに一石二鳥といった感じですよ」

 

 ギルバートは小さく舌を出しながら、トランプを左右に振って見せた。その態度一つ一つが恭二の癇に障る。だからこそ、盛大に顔を顰めながらも自身の肉体に強化を施して、トランプの嵐の中へと飛び込んだ。

 襲い来るトランプを日本刀ではじき、強化した膂力で地を蹴り、縦横無尽に駆けながら正面、背面、側面と四方八方に回り込んでその肉体を切りつけていく。

 しかし、下手な人外よりも素早く、そして鋭い恭二の攻撃を、ギルバートは寸でのところで防ぎきる。そして、お返しと言わんばかりに攻撃へと転じた。舞い飛んだトランプが咢を思わせるような形を描き、恭二へと食らいついた。

 それを背後に飛びながら躱し、片手に握っているサブマシンガンを連射しながら距離をとる。だが、銃弾の雨もギルバートが構築しているトランプの防壁の前には無力で、甲高い金属音と共に地に落ちていった。

 それを見た恭二は、僅かに切れた頬から血を流しながら、忌々し気に吐き捨てる。

 

「厄介だな……」

「喜んでいただけたようで光栄至極。それでは、踊っていただきましょうか?」

 

 恭二とギルバート、二人の言葉が火花を散らした。片や殺意、片や愉悦に満ちた言葉。

 そして、それが合図だったかのように、両者は再び激突する。



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悪意の病巣 第十五話

 

「ほらほら、どうしたどうした。これで終わりなのか?」

 

 そこから僅かに離れた場所で、妖魔が猛々しい声を上げて麗華へと肉薄する。その過程で体を人間に近い者から、虎のようなものへと作り替え、鋭い爪で目の前の獲物へと襲い掛かった。

 

「っ! この!」

 

 麗華は寸でのところでそれを躱し、すれ違いざまに銃弾を妖魔の頭部へと頭部へと叩き込む。

 しかし、妖魔はそれを意に介したような様子もなく、その尻尾を蛇へと変貌させることで、背後へと回り込んだ麗華へと追撃を放った。

 その追撃を、ゴロゴロと地面を転がりながら距離を取ることで躱すと、彼女はすさまじい威力の雷撃を放たんと霊力を充填させる。

 

「させると思っているのか? あぁ⁉」

 

 だが、妖魔はすぐさま比重の軽い人間の身体へ戻ると、ふわりと地面に着地し、そのまますさまじい速度で反転した。

 妖魔が虎の肉体のままなら比重が重く、確実に地面を抉り、余計な力を発生させて僅かに動きが鈍っただろうが、人の身体で着地したことによってそのロスを殺したのだ。そして、跳躍に際して再び獣のものへと自身の肉体を作り変え、その膂力で再び麗華へと迫る。

 

 まさに変幻自在。

 

 妖魔は攻撃の最中に肉体を作り替えることで、重心や筋肉の配列を変えて、即座に最大威力が出せるように調整し続けている。三階の廊下での戦いよりも、確実に動きの精度が上だ。

 

「さっきは本気じゃ無かった、ってこと?」

 

 麗華は、右手に握った銃身でその一撃に込められた力をうまく受け流す。その力を回転力に変え、霊力の放出によってすさまじい勢いを生み出した。

 そのすべてを左手に握った銃にのせ、相手をなぐりぬくように抉り込ませながら、銃弾を叩き込む。反動と衝撃で左手に握られた銃身が粉々に砕け散り、彼女は武器を失うが、相手から距離を取ることに成功する。

 それを受けた妖魔は舌打ちをしながら、背後へと後退する。

 

「そっちも、両腕が使えると、ずいぶんと言い動きをする。最初の奇襲で、腕をもぎ取ることが出来なかったのは痛手だったなぁ」 

「お互い、一番の痛手はあの時に相手を仕留められなかった事でしょ!」

「あっははは! 違いない!」

 

 妖魔は、はしゃいだ子供のような笑い声をあげると、身体を蛇に変えて、遮蔽物の合間を縫うようにして身を潜めた。

 麗華は地下に置かれた機材の上へと飛び乗ると、素早くその上を移動しながら視線を巡らせて、蛇に変化した妖魔を探す。

 

「いない⁉ どこに……」

 

 彼女が驚愕の声を上げたのと同時に、ビキリと彼女の足元の機材が軋むような音を立てはじめたのだ。

 瞬間、ゾワリと麗華の全身が粟立った。そして、本能的に、彼女は自身が飛び乗っていた機材から飛び降りる。

 ぐしゃり、と彼女が数瞬前まで立っていた機材がひしゃげながら上空へと浮き上がった。機材の中身を食い散らかしながら、空中へと飛びあがった存在のせいで。

 そして、それを為した妖魔は人の形に戻りながら、口元を拭う。

 

「げっふぁ…… まっずいなぁ…… 金属とか生物が食って良い者じゃないんだぞ?」

「鉄分接種には効果的だったでしょ。機械には貴金属が含まれてるっていうし、金も接種できたんじゃない? あれ、適量なら体にいいらしいじゃん」

 

 麗華は皮肉たっぷりに言葉を紡ぐ。内心に走った動揺を押し隠すように。

 あと一秒でも遅かったら、間違いなくやられていた。彼女は背筋を流れていく冷や汗の感覚を覚えながらも、そう結論付ける。

 そんな麗華の思いを知ってか知らずか、妖魔は意気揚々と言葉を紡ぎあげる。

 

「昔、金が体にいいって信じて、摂取しすぎたから死んだ馬鹿な貴族だか、王族だかが西洋にはいたらしい。馬鹿な話だと思わないか? それと同じ末路を辿るのは御免だなぁ」

「そのままその末路を辿ったら? 私は歓迎するよ。ついでに馬鹿笑いもしてあげる」

「怖いなぁ…… 近頃の若いのは、なんでこうも血の気が多いのやら」

 

 妖魔は喉の奥で、くつくつと嗤う。この瞬間という快楽に耽り、むさぼっているのを隠そうともしない。彼にとって、この血沸き肉躍るような戦いが、化かし合いが楽しくて仕方がないのだろう。

麗華はそんな妖魔に対して、嘲笑を浮かべた。

 

「楽しくて仕方が無いって顔してよく言うよね。その二枚舌、切り落として豚に食わせてあげる」

「食われるのはそっちの方だ」

 

 二人がそう言うや否や、雷撃があたりを抉り、焼きながら、すさまじい爆音と共に両者は激突した。

 

 

 

 

「元気ですねぇ、若い子は。おかげでこちらの馬鹿も昂ぶっちゃってるじゃないですか」

 

 そう言ってギルバートは、困ったような笑みを浮かべ、肩を竦める。

 余裕綽々といった態度の彼は、それを裏付けるかのように傷一つ負っていない。

 一方、恭二は僅かに息が上がり、身体のいたるところに血の跡が付いていた。

 

「はあ…… もう少し、懐に入れてくれてもいいんじゃないか?」

「嫌ですよ。貴方、肉を切らせて骨を断つを地で行く戦い方をするじゃあないですか」

 

 ギルバートは「おー怖い怖い」と喉の奥で呟き、目の前の男へと視線を向ける。まるで、実験動物を見るかのようなその視線が、恭二の神経を逆撫で、彼の眉がピクリと動いた。

 

「相も変わらず不愉快な視線だな。その眼球を抉り落してやりたいよ」

「おやおや、口汚いですねぇ。あちらにいる娘さんが真似してしまったらどうするんですか?」

「安心しろ。そのことに関しては、たぶんもう手遅れだ」

 

 恭二はそう言いながら、飛来してきたトランプを切り捨てた。いや、弾いたといった方が正しい。彼の言う防弾トランプとは、どうやら斬撃も通さないようだ。

 だから、彼は左手に握った日本刀を、自身の脇へと寄せて腕を大きく後ろへと引いた。そして、足裏へと霊力をかき集め、踏み込みと同時に放出。

 放たれた弾丸の如きスピードで、彼は一気にギルバートとの距離を詰める。

 当然、飛来する無数のトランプが恭二の手を、足を、胴を抉り飛ばすが

 

「まあ、長期戦は嫌でしょうし、こうなったら気にしないですよねぇ!」

 

 ギルバートの言葉通り、全く意に介することなく、止まることもなく、彼の元へと肉薄した。

 

「身体強化!」

 

 そして、強化の施された恭二の筋肉が音を立ててうねり、すさまじい速度の突きが放たれる。それは、ギルバートの周囲を舞っていたトランプの防壁すら貫通し、彼の眼球へと迫った。

 

「っ! やりますねぇ…… そうこなくては、そうでなくては!」

 

 しかし、寸でのところで致命傷を免れたギルバートは、頬からたらりと血を流しながらも、長い舌でそれを舐めとった。そして、興奮が抑えきれないらしく、頬を染め上げ、大きく息を吐く。

 その様を見ていた恭二は心底からこう思った。

 

「気持ち悪い」

「気持ち悪いとは失敬ですねぇ…… これは気持ち悪いのではありません。気色悪いというんですよ」

「……何が違うんだ?」

「言葉の、ニュアンス……?」

「お前も分かっていないのかよ……」

 

 恭二は疲れたようにため息をつきながら、その脱力した言葉とは裏腹に、恐ろしい速度の突きの雨を降らせる。その一つ一つの言動も、相手の油断を誘うためのフェイクだ。言葉のトーンや所作、攻撃の動と静を使い分け、相手の油断を誘う。

 だが、ギルバートにはそれがほとんど通じずに、大きな隙を作ることが出来ずに距離を取られた。だが、無傷で、という訳にはいかなかったらしく、その体にはいくつかの傷が刻まれている。

 それをしげしげと見つめながら、彼は小さくため息をついた。

 

「怖いですねぇ…… 少しでも油断をすれば、そのまま食いつぶされてしまいそうだ」

「釣れないくせによく言うよ。お前はもっと油断してくれていいんだけどな」

「そうも言っていられません。防弾トランプの守りも突破されてしまいましたから」

 

 そう言って、彼は恭二の日本刀に貫かれている己の武器を見据える。

 

「防弾トランプの種はケプラー繊維。銃弾も防げるし、斬撃に対する耐性もある優れもの。ですが、刺突には弱い。いやはや、あっさりと見破られてしまうとは」

「強化が施されてないなら、銃弾を防げる素材を頭の中で羅列して、後は片っ端から試すだけだ。オリハルコンとかが織り込まれてなくて本当に良かったよ。オカルトの絡んだ物質だったら、突破は難しかった」

「あれはコストが高いですからねぇ…… 悪の組織というのも、お金がかかるんですよ。貴方たちにはスポンサーが居ますが、こちらはそれを見つけるのも一苦労ですから。というか、スポンサーが居ても手に入るようなものでは無いでしょうそれは」

 

 ギルバートはそう言って小さく肩を竦めた。そして、新たにトランプを手品師の様に手元から取り出すと、口元を歪める。

 

「ですが、まだまだおかわりはありますし…… それに、貴方の先ほどの特攻は些かダメージの交換効率が悪かったようですね。結果的に、貴方の受けたダメージの方が多い」

「……みたいだな」

 

 恭二は淡々とそう返した。その表情に、少しばかり苦いものを浮かべながら。実際問題、ギルバートの言葉は状況を正しく映し出すものだったからだ。

 先ほどの突貫により、腹部を一か所トランプが貫通し、銃を握っていた右腕は腱が断たれてしまっている。決して少なくない失血と、怪我による痛み。断たれた腱。

 これでは、銃を撃つことは不可能だ。さらに、治癒にいくらかの意識を割けば、その隙をついて目の前の男が自身を殺しに来るのは確実である。

 

 それを正しく理解した恭二は、それでも少しばかり顔を歪めた程度の反応しか返さなかった。それ以上の反応を返す必要が無かったからだ。詰まるところ、不利な状況ではあるが、勝ちの目はあると確信しているという事に他ならない。

 そんな男の僅かな表情の変化を、ギルバートは目を細めて注視をする。そして、その意味を正しく読み解くと小さく笑みを浮かべた

 

「……実に面白い」

 

 そして、静かに。本当に静かにそう呟くと、彼は一瞬だけその顔から表情を消した。だが、すぐに堪えきれないような笑みをこぼすと、ゆるりと右手を上げる。

 それと同時に、周囲にあるトランプ、妖魔の破壊した機材の破片やネジ、といった軽量の物体が一斉に浮き上がった。

 

「ですが、精々楽しませてもらいますよ。なにせ、最近本当に退屈で退屈で、仕方がありませんでしたから」

 

 言葉と共に、浮き上がった凶器と狂喜の雨が、一斉に恭二めがけて降り注いだ。それを、先ほどの強化の影響が残っている己の肉体を限界まで酷使し、機材の影へと転がり込む。

 次の瞬間、ガリガリとすさまじい音を立てながら、彼が隠れた金属製の機材が大きく削り取られた。その音を背後に聞きながら、恭二は自身の負った傷に出来る限りの処置を施していく。

 僅か数秒にも満たない時間だったが、何とか止血だけは済ませることが出来た。だが、それまでだ。それ以上の治療を施すような暇を与えてくれるほど、ギルバートは優しい相手ではない。

 恭二が身を隠していた機材を削り取った金属片やトランプの大群は、まるで意志を持った生き物のようにうねりながら、二股に分かれて、挟み込むように襲い掛かってくる。それを見た恭二は即座に理解した。

 

 逃げ道はある、と。

 

 だが、それは相手がわざと残した逃げ道だという判断を同時に下した。その逃げ道を使ったとして、突破できなくはないが、ダメージは確実でリターンはゼロ。

 

 ならば、と彼は獰猛な笑みを浮かべる。

 

「誰がお前の誘いに乗ってやるかよ…… 反応強化、身体強化、開始」

 

 反応速度の強化により、恭二の視界に映るもの全ての動きが緩慢になる。次いで施された身体強化により、その緩慢な視界の中で、彼はいつも通りの速度で動くことが可能となった。

 多重の強化により、残り少ない霊力がすり減っていくが、構うものかと恭二は行動に移す。

 そんな中、彼が行ったことは酷く単純な事だ。自身が身を隠している機材に手を掛けて、思いっきり力を入れたというだけの話。

 

 ミシリ、と機材を地面に固定していた金具が嫌な音を立てた。その音を聞いたギルバートは、口元に浮かべた笑みを極限まで釣り上げながら、本能の赴くまま側面へと跳躍する。

 

 瞬間、彼が立っていた場所を薙ぎ払うかのようにして、重さ百キロは優に超える機材が吹き飛んでいった。

 

 恭二の予測通り、ギルバートは彼の逃げ道を限定することで、確実に仕留めるつもりだった。だが、結果はこの通りだ。ギルバートから見ても、残り少ないであろう霊力を、相手の予測を超え、活路を見出すために、迷いなくすり減らした。

 凡人ならば、その選択は間違いなく躊躇するだろう。例え、状況の打開に繋がるとしても、残り少ない虎の子の霊力を切るのには少なくない勇気が必要だ。しかもその勇気は、蛮勇として終わるリスクもある。その判断が間違いだった場合、さらなる窮地に陥ることになるからだ。

 

 だが、ギルバートの目の前にいる男は違う。自身の命を確実につなげたばかりか、的確に相手の嫌がる行動を行い、次に繋げて見せた。

 そして、繋げられた次の攻撃は、もう彼の目の前にまで迫っている。血走った獣のような眼光と、心臓めがけて突き出された日本刀という、これまでにない程分かりやすい組み合わせで。

 

「御見事」

 

 ギルバートの口から、自然とそんな言葉が漏れた。単純な戦闘能力においては、確かに麗華よりも見劣りするが、その判断能力はとても厄介なものだった。彼が知りうる限り、クロユリの面子の中でさえ、ここまでの割り切りを見せる男はそうそういないだろうと思わせるほどに。

 

 だが、それだけだ。

 

 ギルバートは自身の周囲に漂わせていたいくつかのトランプや機材の破片を寄せ集め、日本刀の軌道を急所から逸らした。それでも、右の肺を深く抉り飛ばされたが、その痛みに目を見開きながらも、彼は防御に用いたそれらを、自身の身体を切り裂いた体勢ですれ違った男めがけて殺到させる。

 生き物のようにうねる金属片の群れは、その狙いに違うことなく恭二の身体めがけて襲い掛かった。完全に刀を振りぬいた体勢ゆえに、そのままでは攻撃を避けることなど到底かなうはずも無い。

 

 それでも、ギルバートの目の前にいる男の口元に浮かんだのは……

 

「馬鹿め」

 

 勝利を確信した人間の笑み。

 

 

 

 そして次の瞬間、すさまじい雷撃がギルバートの肉体を貫いた。

 

 



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悪意の病巣 第十六話

 

 

 何が起こったのか。それを説明するには、麗華の戦いを知る必要がある。

 

 妖魔と再び激突した麗華は、霊力の放出を利用して加速。踏み込みに載せた力と、その加速によって生じた運動エネルギーを余すところなくその掌底に乗せて、妖魔の腹部へと叩き込んだ。

 

「いいねぇ! だが」

 

 しかし、妖魔はそれを予測していたかのように、身体を頑強な組成へと変質させることで、ダメージを軽減。さらに、そのままつきこまれた麗華の掌底を食い潰さんと、腹部に大口を作り上げる。

 

「次はこっちの番だ」

 

 そして、腹に作り上げた大口で麗華の左腕を食いちぎらんとしつつも、左腕を巨大な狒狒のものへと作り替えて彼女へと殴り掛かった。

 同時に行われた二点攻撃に対し、霊力の放出と持ち前の対裁きで麗華はその二つの攻撃を何とか回避する。

 

 しかし、

 

「ガっ!」

 

 彼女は低いうめき声をあげながら、地面を転がることとなった。

 

「どうした? お前、地面に口づけを落とす趣味があるとは知らなかったなぁ」

 

 妖魔はそんな彼女を見ながら、自身の身体から生やした蛇の身体を指でなぞる。詰まるところ、妖魔が行ったのは、二点同時攻撃ではなく、時間差で本命を当てるための二段構えの攻撃だったのだ。

 麗華はそれを読みきることが出来ず、本命である三撃目を喰らってしまった。それでも、吹き飛ばされながら体勢を整え、彼女の身に加わった力をいくらか地面へと流すことで、ダメージを逃がすことが出来たのは流石というべきだろう。

 だが、受けたダメージは決してゼロではない。現に彼女は腹の底からせり上がってきた血を口から吐き出していた。

 

「ごほっ! はぁ、はっ! くそ、やるじゃん……」

 

 精一杯の虚勢を張るが、麗華は自身の受けたダメージが大きいことを理解している。口から血を吐いたことで、内臓系をいくらかやられてしまったことがすぐに分かった。

 そして訴えかけてくるような痛みの位置から、消化器系に損傷が出たのだとあたりを付けて、彼女はゆるりと右手に握った拳銃を構える。

 負ったダメージ加えて妖魔のスピードに対抗するために、霊力放出を回避と攻撃の一つ一つに乗せることによる霊力の消耗。じりじりとリソースがすり減っていくのを感じ、麗華は小さく舌打ちをする。

 対する妖魔は、先ほど与えられたダメージをいくらか回復したらしく、蛇を撫でるという余裕の態度だ。だが、隙だらけの状態で蛇を撫でているように見えて、一歩でも間合いに踏み込めば容易く喉を食いちぎられてしまいかねないほど、神経を研ぎ澄ませている。

 

 慢心しているように見せかけているのも、相手の油断を誘うための演技という訳だ。

 

「なるほど、さっきは気づかなかったけど、確かにいい性格してるよ。恭二と同じで、あざとい戦い方が得意なんだ」

「あざとい、っていうのは初めていわれたなぁ! だけどまあ、お前の保護者と俺が似たような戦い方っていうのは、まあそうなのかもな。あっちは小賢しい手管の使い所をよく理解していた」

 

 妖魔の思考の隅に、三階廊下での戦いの記憶が過る。その時も、痛みに呻いたふりをして撤退し、追撃を誘ったのだが、あっさりと自身の思惑が読み解かれてしまっていた。

 

「化かし合いってのは、俺みたいな奴の領分なんだが、小娘、お前の保護者はずいぶんとそれに長けている。軽く千年は生きてきた俺が保証してやるよ」

「千年生きてるって割には、大分うかつなところがあるじゃん。まだ二十年も生きてない手負いの小娘相手に舐めぷかまして、大やけどを負ったのはどこの誰だったっけ?」

 

 麗華はそう言って妖魔を挑発した。その裏で、治癒符に霊力をいくらか流し込むことで、札の発動を促し、自身の傷を癒していく。

 だが、妖魔は挑発に乗ることなく、彼女の思惑を看破すると、鋭い蹴りを放つことでその作業を強制的に中断させた。その一撃を回避することは出来たが、麗華は札の効力を自身の患部にうまく集めることが出来ずに、散らしてしまったからだ。

 パンパンとわざとらしく拍手をしながら、妖魔は憎たらしげな表情で言葉を紡ぐ。

 

「おっと危ない。そんな見え見えの回復、させると思ってるのか?」

「まあ、無理だよね。でも、少しは傷は治せたし、万々歳って感じ?」

「言うじゃないか…… で、そのよく回る舌を動かしているうちに、この危機的状況を乗り切るための策の一つでも思い浮かんだのかぁ?」

「さて、どうかな。それはここから先の、お楽しみってね!」

 

 その言葉と同時に、麗華は右手に握った拳銃の引金を引いた。

 放たれた弾丸は、妖魔の頭部へとまっすぐ飛んでいく。だが、それを彼は当然の如く躱して見せた。そして、口元にニヤニヤと笑みを浮かべながら、妖魔は麗華へと視線を向ける。

 

「これがお前の策か? だとしたら、期待外れもいい所だなぁ」

「そう言ってられるのも、今の内だよ?」

 

 そう言って、麗華はニヤリと笑うと、素早く妖魔の背後に回り込むようにして駆けながら、次々と引金を引いていった。

 次々と放たれる弾丸を躱しながら、妖魔は目の前の標的へと、次々に体を作り替えながら肉薄する。

 そんな妖魔をちらりと見やりながら、麗華は飛んだ。そして、近くにあった壁に足を掛けると、そのまま妖魔めがけて体を反転させる。そして、霊力の放出を伴って、その壁を全力で蹴りぬいた。

 その突進力はすさまじいものだった。だが、妖魔は冷然とした態度で言葉を紡いだ。

 

「窮したか?」

 

 壁を蹴り、空中に身を躍らせるなど、他の相手ならばともかく、いま彼女が相対している相手には悪手だったからだ。相手が単純に接近戦をこなすタイプであったならば、その攻撃の力と自身の勢いを利用して地面に叩き付けるぐらいならば平気でやってのける。

 だが、いま麗華が相手にしている存在は、自身の身体を作り変え、攻撃をされながらも自身の攻撃を問題なく行えるのだ。そんな存在に対し、地に足が付かず、切り返しの難しい状況で挑みかかるのが愚の骨頂だ。

 

 そして、そんなまな板の鯛を見逃すはずも無い。妖魔は空中に浮かんだ麗華めがけ、自身の左腕を蛇へと変形させたものを振るう。

 だが、麗華が手にしているものを視界に収めると、その判断が間違いであったことを知った。

 

「札! それが狙いか」

「ご名答! でも、気づくのがちょっと遅かったんじゃない?」

 

 麗華の左手には、氷結符が握られており、そこには少量の霊力が流し込まれ、その効力を十二分に発揮しようと光輝き始めていた。

 壁を蹴り、身体を反転させる一瞬のうちに、相手に悟らせることなく、彼女は一枚の札を抜き取っていたのだ。そして、壁を蹴り態々空中から襲い掛かるという致命的な隙をさらしたのも相手のエラーを誘うため。

 今まで駆け引きの主導を担っていたのは恭二だったため、麗華の駆け引きの強さを妖魔は見誤ってしまった。

 確実に叩き落すために、相当の力を込めて変形させた腕を振りぬいた為、今から回避行動を行うのは非常に難しい。ならば、と胴体からさらに蛇を増やして攻撃に回そうにも、札の効力で確実に止められる。少なくとも、それが出来るだけの札を麗華が選んでいると妖魔は確信を持てたし、実際にそれが出来る氷結符が手に握られていた。

 その状態で、攻撃を何度も叩き込まれれば、妖魔と言えども無事で済むかは分からない。

 

 ならば、と妖魔は思考を巡らせた。

 

 既に麗華は札の効力を発動させて、伸ばされた蛇を外気事凍り付かせながら彼の元へと肉薄してきている。これでは、蛇で絡めとって、絞め殺すという選択肢を取ることが出来ない。

 それどころか、麗華は蛇を凍り付かせながら、それを足場にしてもう一度加速した。

 

「踏み台、ご苦労さま」

 

 挑発的な言葉と共に、弾丸のようなスピードで麗華は妖魔へと肉薄する。

 だが、彼女は知らなかった。麗華が札を発動させようとするよりもずっと早くから妖魔が布石を打っていたという事実を。

ニタリと嗤いを浮かべた標的が視界に収まったかと思うと、すさまじい勢いで突進していた麗華の身体から力ががくりと抜けていく。

 

「なっ⁉」

「お前が踏みつぶされろ!」

 

 これが妖魔の布石。自身のもう一つの能力で、麗華の動きを止める事こそが彼の目的だった。彼女の動きを止めることが出来るのならば、厄介な受け流しからのカウンターを喰らう心配もない。

 だが、それを為すためにはある程度の時間がかかる。だから、妖魔は最初からずっと止めの一手を取るために行動を積み上げていた。その行動がピタリと嵌まり、麗華は絶体絶命の危機に陥っている。

 空中で力の抜けてしまった彼女は、体勢を崩して無防備に妖魔の元へと、慣性の法則に従って頬りだされてしまった。妖魔はそれを見て、無情で冷淡な笑みを浮かべると、ギチギチと鈍い音を出しながら、左腕を麗華の腹部へと振るう。

 そして、狙いに違わずその一撃は叩き込まれた。空中で、麗華の身体がくの字に曲がる。

 

 だが、表情を歪ませたのは、麗華では無かった。

 

「引っ掛かったね……!」

「な…… 手癖の悪さは保護者譲りか!」

 

 妖魔が大きく顔を歪ませる。叩き込んだ拳に伝わってきたのは、人体を突き破るような柔い感触ではなく、硬質なもの。そして、それも雲をつかむような手ごたえと共に、彼の手から離れた。

 麗華が持っていた残り一つの拳銃で、受け止め、受け流したのだ。

 自身の渾身の一撃が受け流されたことに対する驚愕は無い。麗華はそれが出来るだけの技量を持ち合わせていたからだ。

 

 問題なのは

 

「どうして動ける⁉」

 

 なぜ動くことが出来るのかという事だ。

 だが、それを考える間もなく、麗華の身体がすさまじい速度で回転した。受けた力のほとんどを回転エネルギーへと変換したのだ。そして、その回転エネルギーのすべてを、妖魔の動体へと抉り込ませる。

 

「が……ぁ」

 

 あまりの衝撃に、うめき声すら満足に上げることが出来ずに、妖魔は口から血を吐き出した。吹き飛ぶことすら許されず、その力を体内で炸裂させられたからだ。内臓をいくつも破裂させた会心の手ごたえに、彼女は小さく笑みを浮かべる。

 

 だが、それだけで麗華は終わらなかった。

 

「ちょっと、バチバチいってみようか」

 

 そんな言葉と共に、すさまじい威力の雷撃を妖魔に叩き込む。先の戦闘で甚大な被害を周囲にもたらしたものに匹敵するレベルのものを。

 いくら雷撃に耐性があるとは言えども、内臓を破裂させられた所にそれ叩き込まれたとなれば、ただでは済まない。

 うめき声と共に、妖魔は体をのけぞらせた。

 

 だが、妖魔は倒れない。千年生きてきただけに、その生き汚さは折り紙付きだ。

 

「やばっ……」

 

 倒しきれなかった。それは、麗華にとって致命的な事実だ。大ダメージを与えるために、妖魔が最大限の力で攻撃せざるを得ない状況へと追い込み、その力を利用し、己の一撃にのせて叩き込んだ。

 つまるところ、妖魔と麗華の距離は恐ろしく近い。それこそ、目と鼻の先という言葉がそのままぴったりと当てはまるような状況だ。

 それ故に、掴まれてしまえばいくら力の制動がうまい麗華と言えども、なすすべもなく骨を潰される。

 咄嗟に身を引こうとした麗華だったが、既に妖魔はその手を彼女めがけて伸ばしていた。

 

「逃がすかぁ……!」

 

 視界いっぱいに広がる妖魔の手に、麗華は声を上げる暇すら惜しんで重心を後ろへと倒す。だが、本能的に彼女は理解していた。

 

 間に合わない、と。

 

 だから、こうなれば腕一本くれてやることになっても、後一発叩き込んでやる、と麗華は覚悟を宿した瞳で、妖魔の動き一つ一つに集中力を注いで観察する。

 腕一本で済めばいい。だが、それを許さないと言わんばかりに、首めがけて手が伸ばされている。だから、麗華はその軌道に己の腕を割り込ませた。

 あとは、痛みに耐えられるかどうかだ。彼女は、恭二ほど痛みに対して耐性があるわけではない。腕が引きちぎられるような痛みを体験したのは、一度だけ。

 

 その時は、恭二がすぐに助けてくれるような状況であったから、何とか助かった。だから、今回ばかりはだめかもしれないと心の隅で思いながら、それでも生存への意思を燃やして、最後まで目を見開いて敵を睨みつける。

 痛みへの覚悟を決めた麗華の腕に妖魔の手が迫った。触れられたのと同時に動かせるように、麗華はすべての集中力を己が両腕に集めた。

 

「がっ!」

 

 だが、妖魔の短い悲鳴と、交通事故でも起こったかのような轟音があたりに響き渡った。

 驚愕に目を見開いた麗華の視線の先で、妖魔の身体がすさまじい勢いで飛んできた機材と共に吹き飛んでいく。そして、何かが砕け、潰れるような音と共に壁に激突し、ようやく停止した。

 麗華は機材が飛んできた方向へと、半ば呆然とした表情で視線を向ける。その先で恭二がギルバートを深々と切り裂いたところが彼女の目に飛び込んでくる。

 だが、麗華はその光景を見て、大きく目を見開いた。恭二の攻撃は、確かに大きなダメージを与えることに成功しているが、相手の意識を刈り取るに至っていない。つまり、念動使いである相手の攻撃は問題なく行われるという事だ。

 だというのに、彼は刀を振りぬいた体勢でニヤリと笑った。他ならぬ、麗華に視線を向けたままで。

 

「ほんっと、恭二の癖にカッコいいことしてくれるじゃん」

 

 たったそれだけで、彼女には恭二が何を思って笑っているのかが理解できた。

 止めは任せるという彼の想いが、その視線だけで理解できてしまったのだ。麗華がミスするなどと、欠片も思っていないその視線だけで。

 だから、彼女は一切の迷いなく、残りの霊力全てをかき集めると、全力で雷撃を放った。完全に意識の外から放たれたそれは、狙いに違わず標的の身体を駆け抜ける。

 

 ギルバートが驚愕に目を見開いて崩れ落ちていく様を、麗華は何処かすっきりとした様子で見下ろすと、鼻を鳴らしてこう言い放った。

 

「とっととお縄につきなよ。糞ったれ」

 

 中指を立てるというおまけ付きで。

 



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悪意の病巣 第十七話

 

******

 

 それは、二人が地下に向かう少し前の事。

 

「策って何さ?」

「あの妖魔と戦った時、お前の身体から力が抜けた時があっただろう? あれは十中八九、妖魔の能力だろう。その対策を考えずに相手するのは、いくらなんでも無謀が過ぎる」

「まあ、それはそうか。このままあっちに突っ込むって言われたら、どうしようかと思ってたし、聞かせてよ」

 

 麗華の言葉に、恭二は小さく頷いた。そして、真剣な表情で先の戦闘で起こった事象についての考察を述べていく。

 

「まず、俺が今回の策で重要視しているのは、さっきの戦闘で身動きが取れなかったお前が、札の発動自体は出来たことだ」

「ああ! あの時は咄嗟に札を使ってたけど、確かに霊力を使う分には問題なかった気がする」

「そ、まずはそこが重要なところだ。それさえできれば、お前なら何とか出来るだろう」

 

 恭二は簡潔にそう述べた。その言葉に、微塵の疑いも無いといった様子で。

 しかし、麗華は訝し気な表情で言葉を返した。

 

「でも、例え霊力が使えても、私の術式は雷だからあいつ相手だとあんまり効果が無いよ?」

「だろうな。でも、誰があの妖魔相手に雷を撃てなんて言ったんだ?」

「じゃあ、札を使う? それでも、仕留めきるだけの攻撃を当てるのは難しいんじゃない?」

「もっともな指摘だが、それも違う」

 

 恭二はきっぱりと彼女の言葉を切り捨てていく。それには、麗華も少しばかり頬を膨らませるが、すぐに彼の言わんとしていることを理化したのか、それも一瞬で萎んでいった。

 

「まさか、自分に?」

「そう言う事だ」

「えっと、つまり、えーっと? 自分の身体を微弱電流を流して強制的に動かせってこと?」

「大正解。お前も、かなり頭が柔らかくなってきたな」

 

 恭二の素直な賞賛に、麗華は少しだけ顏を緩ませるが、すぐにその無茶苦茶な要望に対しての文句を並べたてる。

 

「って、い、いやいやいや! 流石に無茶が過ぎない? 体内に流れる電気信号を再現するのってそれなりに神経使うし、それを使って、普段と同じぐらいの精度で体を動かすのは無理があるってば!」

「でも、それを使わなきゃいけない時が絶対に来る。仮に地下で戦闘をするとしたら、妖魔の相手はお前。もう一人の伏兵の相手は俺だ。逆は無い。理由は分かるな?」

「まあ、残りの霊力を考えたら、治癒を行っていた恭二も強化を使える回数が限られるし、流石にそっちが無強化であれを相手にするのは無理だから、そうなるのは分かるんだけどさぁ……」

 

麗華は、頭の片隅で自分たちと相手の戦力を思い描く。恭二の攻撃手段や、白兵能力を考えると彼一人に妖魔の相手をさせるのは難しい。

 

「でも、別に一対一での戦いにする必要はないんじゃない? 相手は確実に二人以上だし、二対複数で相手すればいいじゃん」

「そうもいかない。最後に放り込まれた手榴弾は、明らかに念動系の術者の手によるものだ。それも相当な使い手のな。あのレベルの奴だと、霊力の多い俺達みたいな人種の人体に直接力を作用させられる。其れなのに、連携を取ろうとしたら、そこを狙って確実に崩される。それで同士討ちでもしたら目も当てられないぞ」

「うぅ、それもそうだね…… 今回は残りの霊力も少ないから、普段よりも簡単に干渉されちゃう可能性もあるし、連携を重視するとある程度近くで戦わなきゃいけないし、確かに無理っぽい」

「そう言う事だ。だから、今回は基本的に一対一、ないし、一対複数の相手をしなくちゃいけないことになる」

 

 淡々と恭二の口から語られた事実は、ズシリと麗華の心にのしかかる。援護は期待できないし、援護することもできない。

 

「心配するな。俺が念動使いをさっさと片付けられれば、後は二人で戦っても問題は無いし、どうとでも料理できる。アイツは俺たちに手札をさらし過ぎた」

「それ、相手にも言えることだよ。私の手札以外に関しては、だけどね」

 

 ニヤリと笑いながら紡がれた言葉は、自身に満ち溢れたものだった。恭二は「おー怖い怖い」と、茶化すように肩を竦める。

 

「まあ、だからこそお前に任せるんだ。あの時と違って、両手が使えるんだからその点は心配してない。そこで問題は最初に戻る」

「妖魔のアレ、だよね。電気流して強制的に動かすのは分かったけど、相手は確実に殺すつもりで詰めてくるよね? だとしたら、全力で攻撃してくる」

「その通り。そこがあいつを攻略する上で一番重要だ。その力を受け流して利用できれば、大きなダメージを期待できる」

 

 恭二は自信満々にそう言い切ったが、麗華の表情は芳しい者とは言えなかった。

 

 そして、不安げな声色で言葉が紡がれる。

 

「さっきも言ったけどその状態で、あの妖魔の全力の一撃を受けきれるかな……」

「安心しろ。俺は、お前に出来ないことをしろなんて言った覚えはないし、今までで一度もない。保証してやる。お前のセンスはピカイチだ」

「……よくもまあ、はずかしげもなく人のことを褒められるね。分かった、やるよ。どっちにしろ、やらなきゃ生き残れないんでしょ?」

 

 麗華の心底嫌そうな言葉に、恭二は大笑する。

 

「頼りにしてるぞ」

「こんな時だけ調子がいいんだから…… もう、どうなっても知らないよ」

「いざというときは、助けてやるから安心しろ」

「逆に、私が恭二を助けるようなことにならないことを祈るよ」

 

 そうして軽口を言いあいながら、二人は戦いへと歩みを進めたのだ。

 

 

 

******

 

 そして今、何処か冷め切った言葉を投げつけるのと同時に、麗華は戦闘の影響で砕けた機材の破片を手に取った。その行為に内心で疑問を抱きながらも、恭二は彼女に聞こえないくらいの小さな声で言葉を紡ぐ。

 

「まったく、何が普段と同じ精度で体を動かせない、だ。ばっちり動かせてるじゃないか」

 

 出来ると確信してはいたが、いざ見せつけられると苦笑が浮かぶ。才能の違いをまざまざと見せつけられた気分で、少しばかり複雑ではあるが、勝利を収めたという事実に笑みを浮かべた。

 そんな恭二めがけて、麗華は普段と変わらぬ様子でとんでもない提案を投げかけた。

 

「どうする? 私、霊力使い果たしちゃったからこれで縫い付けとく?」

 

 そう言って、麗華は近くに落ちていた機材の残骸、その中でも特に大きく、先端のとがった金属片を足で小突いた。

 

「物騒だな⁉ お前が問題児呼ばわりされるのは、そういうところだぞ…… そういうところだからな?」

 

 何処か戦々恐々とした声色で彼はそう呟いた。時折見せる彼女の冷淡さは、やはり過去の記憶が関係しているのかと、恭二は内心で複雑な思いを抱く。だが、それを奥備に出すことなく、彼は懐から拘束符を取り出した。

 

「こっちは、札を発動するくらいの余裕はあるから、俺が拘束して回る。お前はサポートを頼んだぞ」

「了解っと。とりあえず、今はあっちで潰れてる妖魔を警戒しとくから、そっちは頼んだよ」

「そうしてくれ」

 

 恭二はその言葉に小さく頷くと、手近にいたギルバートめがけて手にした札を発動させる。それと同時に光の帯が伸び、地面に崩れ落ちた犯罪者の身体を拘束していった。

 その様を横目で見ながら、麗華は拳銃に新しいマガジンを装填し、妖魔が機材に押しつぶされている壁の方へと視線を向ける。

 

「今のところ動きは無し、か…… あれだけダメージ与えたんだし、どっちにしろ、あと一分くらいは動けないだろうけど」

 

 裏を返せば、一分ほどあれば身動きが取れる程度には回復する可能性があるというのだから恐ろしい。

 拳銃を握る手に力を籠め、彼女はあたりに視線を巡らせる。まだ伏兵が居ないとも限らない。だが、油断なく警戒を続けている彼女の心配を裏切るように、着々と恭二の作業は進んでいく。

 

「よし、拘束完了。あっちの妖魔みたいに肉体を変化させられるような奴でもない限り、そうそう簡単に抜け出せないだろう。拘束用の術が打ち破られない限り、霊力が外に漏れる心配もない」

「なら安心、とはいかないでしょ。右腕のそれ、赤くなってるよ」

 

 麗華の言葉の通り、恭二の腕輪は赤く発光しており、二度目の感染という危機にさらされていることを示していた。

 だが、彼の表情に驚きはない。むしろ、当然のこととして受け入れている。

 

「まあ、あれだけ出血を伴う怪我をして、ウイルスに感染してないっていうのもおかしな話だからな。そう言う事もある」

「それで済ませていい問題じゃないと思うけど?」

「想定出来たことだろ? それよりも、さっさと仕事を済ませるぞ」

 

 恭二がそう言うと、麗華は心底頭が痛そうに眉間に寄った皺をもみほぐす。

 

「ほんと、これだから…… それはもうしょうがないとして、赤くなってからどのぐらいたったか覚えてる?」

「ざっと三分と四十秒ほどだな。要は、余裕をもって動きたいなら、あと五分でこいつらが仕込んだウイルスの情報を持ち帰れるようにしないといけないってことだ」

 

 恭二はそう言いながら、懐から札を取り出すと警戒しながら機材に押しつぶされた妖魔の元へと足を進める。時間が無いと誰よりも理解しているだけあって、その動きには一切の無駄が無かった。

 そして、取り出された札を見て、麗華は呆れたようにため息をつくことになる。

 

「それ、拘束に使うような札じゃないよね……」

「逆に聞くが、あいつが普通の拘束符で動きを止められるほどやわな奴だとでも思ってるのか?」

「……思って無いけどさぁ。もうちょっと、ねえ?」

 

 そう言いつつ麗華は恭二が発動させようとしている札を見つめた。それは、彼女が先の戦闘で使っていた氷結符の上位互換ともいうべき札で、生み出される冷気は絶対零度に迫るほどのものだ。本来、拘束などに用いることが出来るようなものでは無いが、今回相手にした妖魔の生命力を見て、使用しても問題ないと判断したのだろう。

 だからと言って、やはり拘束の為だけに使用していいような安いコストのものでは無いのは確かである。それに、その札を見た麗華は思うところがあった。

 

「なんでさっきの戦闘でそれ使わなかったのさ、持ってたの知ってたから、いつ使うのかとずっと思ってたのに」

「まあ、あそこに転がってるやつ相手だと過剰な威力だし、使うにしても避けられそうな場面が多かったからなっと」

 

 そう言いながら、恭二は札に霊力を流し込み、その効力を発動させた。それと同時に、すさまじい冷気が生じ、妖魔の肉体とその周囲を凍り付かせていく。

 

 しかし

 

「し…… ねぇ!」

 

 最後のあがきと言わんばかりに、妖魔の身体から蛇が伸びる。その標的は、札を発動させた恭二だ。だが、彼は焦らない。それどころか、避けようともしなかった。

 

「残念だったな」

 

 その言葉と同時に、数発の銃弾が蛇の頭頂部へと叩き込まれる。それによって勢いが殺され、遂には恭二の元へとその咢が届くことは無かった。それが届く前に、冷気による凍結が追いついたからだ。

 それを確認したらしく、ほっと息をついた麗華は、形のいい眉を吊り上げて声を荒げた。

 

「ちょっと、ちゃんと避けれるものはよけてってば! なんで私が迎撃しなきゃならないわけ⁉」

「サポートは頼んだって言っただろ? 信頼の証だ」

「よく言うよ……」

「なんだよ、あそこで避けたら、集中が逸れて札の効力が中途半端になる可能性もあったわけだし、必要経費だろ? 必要経費」

「でも、恭二なら誤差の範囲に収められるでしょ……」

「その誤差の範囲が怖い相手だから言ってるんだ。油断できる相手じゃないからな。ほら、分かったら愚痴を言って無いで次に行くぞ。こいつらを潰したからって、俺が操られない保証は無いんだからな」

 

 恭二の言葉に、麗華は「う」と小さく唸って、その言葉に渋々頷いた。

 

「まあ、例の起動装置とやらを抑えれば何とかなる、と思う。こればっかりは賭けだがな」

「ずいぶんアバウトだけど、ホントに大丈夫? シャレになってないんだけど」

「こうでもしないと勝てそうに無かったからしょうがないだろう。お前と違って、俺は凡人なんだ」

「……どの口が言うのさ」

 

 恭二は淡々と「この口だ」と返しながら視線を巡らせる。

 

「それより、さっさと起動装置を探すぞ」

「だね、ただでさえ時間無いんだし」

 

 麗華もそれに倣ってあたりを見回した。機材や培養管が立ち並ぶ中で、どこかに起動装置らしきものが無いかを探すために。

 そして、二人の視線がこの地下空間の奥にある扉を捉えた。それと同時に、恭二と麗華はその扉めがけて疾走する。

 二人は蹴破るようにその扉を潜り抜けると、その先には先ほど二人が闘っていた空間よりもいくらか手狭だが、人ひとりが容易に収まってしまいそうな培養管や機材が立ち並んでいた。

 

 その最奥に鎮座する巨大な培養管の中に、唾棄すべき悪行が浮かび上がっている。

 

「まさか、これが…… 起動装置?」

「だとしたら、相当悪趣味だな」

 

 二人の視線の先では、齢十にも満たないような子供が培養液の中に浸っていた。その体のいたるところに機械が取り付けられ、規則正しい電子音のオーケストラの中で。

 

 ただ、静かに。

 



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悪意の病巣 第十八話

 

 この子供が起動装置なのではないか、という仮説の裏付けはすぐに取れた。子供の身体に取り付けられた機械、そこから伸びるケーブルの先にあったコンソールの操作項目がウイルスの術式起動に関するデータで埋め尽くされていたからだ。

 

「この機械で強制的にこの子の脳髄に干渉して、ウイルスの起動術式を発動させてるの……⁉ なんてひどいことを…… こういういかにもな非人道的実験は、創作の中だけだと思いたかったんだけど」

「残念だが、これが現実だ。早く手を動かせ、どうするにしろ、早くしないとまずことになるぞ」

 

 あまりにも現実離れした、そして人の尊厳を踏みにじった光景に、年若い麗華は思わず体を強張らせる。悪意に満ちた探求心をありありと感じることの出来るそれは、まだ年若い少女にはあまりにも残酷に映ってしまった。

 一方、恭二は嫌悪感で表情を染め上げながらも、一切止まることなく一番手近にあった別のコンソールに手を付ける。

 

「麗華…… 気持ちは分かるが、止まっている場合じゃ無い。この子の為にも、今は手を動かせ」

「……! ごめん、そうだね」

 

 麗華もそれに倣って、ぎこちなさはあるが子供に繋げられた機械に繋がっているコンソールに駆け寄ると、操作を始めた。残り時間は既に二分を切ろうとしている。

 彼女の表情には強い焦りが浮かびあがった。霊力が残っている状況ならば、すぐにでも電子機器の電気信号を読み取り、データだけ残して必要な部分の機能だけを破壊することが出来る。

 

「霊力が尽きてさえいなければ……」

 

 だが、先の戦闘で彼女の霊力は底を尽き、その手は使えない。いざとなれば、すぐ近くでコンソールを操作している恭二の相手までしなくてはならないという二重苦の状況だ。さらに、そこに時間制限という焦りを助長する状況まで加味されてしまっては、たまらないだろう。

 

 麗華はウイルスと刻印術式の軌道項目を自身が操作しているコンソールから発見し、「あった」と声を上げた。アクセス項目は多岐にわたり、パスワードが設けられているため操作が不可能になっている。もちろん、麗華は緊急停止のために必要なパスワードなど知らないし、それは恭二も同様だ。

 

 これでは、どうしようもない。いざとなれば、情報が破壊される可能性もあるが、あたりの機器を片っ端から壊していくことも考えなければならない。麗華は頭の片隅でそんな事を考えながら、額から冷や汗を流し、どこかに抜け道が無いかを必死に探す。機材の周り、その配線に至るまで、一つ一つを肉眼で確認しながら。

 だが、同じく危機的な状況にさらされているはずの恭二は、特に焦った様子もなくコンソールを操作し、懐から情報端末を取り出すと、それを麗華が捜査していたコンソールの接続機器に繋げ始めた。

 

 そして

 

「これでよし。オペレーター、聞こえるか?」

『妨害電波の停止を確認。オーダーを』

 

 そんな二つの声を聞いて、麗華は目を丸くした。妨害電波のせいで、オペレーターとは連絡が付かなかった筈なのに、何故連絡を付けることができているのか、と。

 だが、そんな驚愕に思考を染め上げた彼女を待つことなく、状況は目まぐるしく変化する。

 

「起動装置と思しき装置を発見。アクセスしようとしたが、あいつらご丁寧に鍵までかけてやがった」

『当然と言えば当然ですね。分かりましたこれから端末にアクセスします。少し時間を下さい。すぐに停止させて見せます』

「急いだほうがいいぞ。今ちょうど、一分三十秒を切った」

『は? ……っ! まさか、二度目の感染を⁉』

 

 恭二の淡々とした声色に、通信機の向こう側から、ギョッとしたような声が返ってきた。今の今まで状況をモニタリングできる状況では無かったので、それも当然のことだろう。

 だが、息を飲んだのも一瞬で、すぐさまカタカタとキーボードを叩くような音が通信機越しに響き始めた。

 

「さすが、仕事が早い」

 

 薄く顔に笑みを張り付けて、恭二は小さく呟いた。そんな彼の背後から、麗華がおずおずと言葉を投げかける。

 

「ねえ、どうやって妨害電波の解除をしたの?」

「そもそも俺がいじってたのは妨害電波の発生を制御するためのコンソールだ。いじってみれば、うちの特殊な通信を妨害できるよう、デジタル空間上に術式を多重積層してあったよ。でも、お前は真っ先に例胸糞悪い起動装置の方しか見てなかっただろう?」

「それはそうだけど…… そっちにだってパスワードは掛かってたんじゃないの?」

 

 麗華は当然の疑問を投げかけるが、恭二は何でもないことの様にこう返した。

 

「もちろん、かかってたとも。だから、単純にこっちの装置をぶっ壊した。電波障害はこっちの装置のせいで発生してたみたいだしな」

「ぶ、ぶっ壊したって…… いつの間に……」

「お前が焦って、血眼になってコンソールをいじっている間にな」

 

 そう言って不敵に笑った恭二の手元には、引きちぎられたのであろうコードの類がまとめて握られていた。それを見た麗華は、深々とため息をつく。

 

「はぁああ…… それで、こっちの機械が壊れるとか思わなかったんだ」

「見たところ、こっちとそっちの機会は完全に別系統で作ってたみたいだからな。その心配は全くなかった。どうせお前のことだから、いざとなったら機器類をぶっ壊そうとか考えてたんだろう?」

「う、そ、そうだけど……」

 

 麗華はすっかり自身の思考回路を熟知してしまっている恭二の言葉に、小さく身を縮こまらせた。

 

「それが間違いだ。そもそも、こう言った機械のプログラムなんて俺たちが分かるわけがない。かと言って情報を入手できないのも困る。だから、餅は餅屋だ」

「で、オペレーターが通信できるように、電波障害の元を取り除いた、と」

 

 麗華のどこか疲れたような言葉に、恭二は「その通り」と言って軽い調子で頷いた。真面目なことを言ってはいるが、彼の態度は完全に仕事終わり酒を飲みに行こうとしているオッサンのノリそのものである。

 その事実に、件のオッサンを保護者に持つ少女は心底頭が痛そうな表情になった。

 

「そんなんだから、問題児コンビのヤベェ方とか言われちゃうんだよ……」

「失敬な。俺は必要な事を片っ端から行って、問題を片付けて行っているだけだ。お前と違ってな」

 

 言外に、オカルトがらみの犯罪者に対して、過剰なダメージを与えようとしていることに対する含みを持たせた言葉は、麗華の心にチクりと刺さる。

 

「お小言は御免ですよーだ……」

「拗ねるな拗ねるな! 必要な時ならしてもいいが、必要ないときはしなくていいってだけだ。責めてるわけじゃ無い」

 

 むくれた麗華に対し、恭二は小さく苦笑を浮かべながらそう言った。

 二人がそんな会話を続けていると、通信機越しにどこか疲れたような声が響く。

 

『起動装置の停止を確認…… 何とか間に合いました』

「一分二十九秒…… 本当にぎりぎりだな。助かった、ありがとう」

 

 笑みを浮かべて、彼は小さく感謝の言葉を述べる。その隣で、麗華もほっと息をついた。

 

「終わったぁ…… 今回も生き残れたぁ」

 

 麗華は安心したように、近くの機械へと体重を預けた。そんな彼女の様子をしり目に、恭二は一瞬目元を和らげるが、すぐに表情を引き締めてオペレーターに言葉を投げかける。

 

「オペレーター、地下の動体反応は、俺たち以外のものはあるか?」

『いえ、お二人以外の反応は確認できません。概ね、その施設の制圧は完了したとみて間違いないかと。しかし、伏兵の可能性も捨てきれませんので、油断はなさらぬように』

「了解。麗華、お前ももうちょっとだけ気を引き締めろ」

「了解。じゃあ、もう少しだけ頑張ろうか。この子も、早く助けてあげないといけないし。こんな胸糞悪い機械から解き放ってあげないと」

 

 麗華はそう言って、培養液の中に浸かっている子供の姿を見つめた。

 その姿を見た恭二は何かを思いだしたかのように顔を顰める。

 

「本当に、胸糞悪いよな……」

 

 そして、数秒間黙り込んだかと思うと、通信機に向けて言葉を投げかけた。

 

「ああ、そうだ。拘束対象は、二名。片方は妖魔で体を作り替えることが出来る奴だ。人体に干渉して何らかの不調を引き起こす力も持っている。もう片方は…… 念動使いで、手品師みたいに武器を取り出して戦うやつで、態度が鼻につく慇懃無礼な蛆虫野郎だ」

「恭二、なんかものすごく私怨が籠ってない? そんなこと言うなんて、珍し…… くも無いけどさ」

「こちとら、腹にトランプで風穴を開けられたからな。恨み言の一つでも言いたくなる」

 

 麗華の微妙な表情に、恭二はさらりとそんな言葉を返した。内容は私怨に塗れた汚いものであったが。

 そんな彼の言葉を聞き届けたオペレーターは、生真面目な態度で言葉を返した。

 

『了解、最上級の護送車を手配しておきます。倉田さんは二度目の感染をなさっているとのことですが、麗華さんの方はどうなっていますか?』

「正直分からないんだよねー 作ってもらった腕輪が完全にぶっ壊れててさぁ」

『分かりました。感染の可能性はあるという事ですね。では、医療部門での検査と治療を受けるまでの間、こちらで拘束させていただくことになります』

 

 オペレーターの言葉に、麗華は露骨に顔を顰めた。

 

「仕方がないとはいえ、拘束されるのは嫌だなぁ……」

「そう言うな。どうせ、本部に帰るまでそこまで時間はかからないだろうしな。あと、オペレーター。データを漁っていたから分かってると思うが……」

『そちらの起動装置として利用されていた子供の保護の準備は整っています』

「それを聞けて安心した」

 

恭二はそう言うと、ゆっくりと息を吐いた。そんな風に少しだけ気を緩めていると、彼の隣にいた麗華がゆっくりと口を開く。

 

「恭二」

「ん? どうした」

「お疲れ様」

「ああ、そうだな…… お疲れ様」

 

 ふっと二人は微笑みあって、互いの労をねぎらった。そんな中、恭二は何かを悪いことを思いつたらしく、不気味な笑みを浮かべる。

 

「ところで、オペレーターと出発前に何かあったみたいだが、あれ、何だったんだ?」

「今それを言う⁉」

 

 麗華は、そんな恭二の言葉におろおろと慌てながら、通信を切断しようとする。

 だが、一歩遅かった。

 

『ああ、そう言えば。任務前のアレについて、まだお説教をしていませんでしたね」

「あ、はい……」

 

 麗華は思わず居住まいを正した。すぐ隣にいる恭二を恨めし気に睨みつけながらも。

 

 それを見て、普段悪戯を仕掛けられている分の仕返しに成功した恭二は、楽しそうに笑うのだった。

 

 

 

 

 ******

 



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悪意の病巣 第十九話

「あら、お帰りなさい。思ったよりも速かったわね」

 

 クロユリの本部。その医療セクションでそんな言葉を投げかけたのはエレインだった。疲れているのか、彼女の顏には隈がうっすらと浮かび上がっている。

 そんな彼女の視線の先には、空気の循環器が取り付けられている強化ガラス製のケースに入れられた麗華と恭二の姿が映っていた。

 当然、そんな待遇を受けていることに不服そうな少女は、すこしだけむくれた表情で言葉を返す。

 

「ただいまぁ…… この箱に入れられて移送されるの、なんか精神的に来たよ…… それに、オペレーターの説教が延々と続いたし」

「何かヤバいのに感染しただけなら、防護服を着てストレッチャーにでも載せて搬送するけど、今回は事情が特殊でしょ? 動きを封じるっていうのと、厳重に感染に関する管理をしなくちゃいけないっていう観点から考えると仕方ないのよ。あと、後者については自業自得だと思うわ」

「でもさーぁ……」

「でもじゃないの。どうせ、移送される前とその途中でも似たような文句を言ってたんでしょう?」

「鋭いな、エレイン。まったくもってその通りだ」

 

 恭二はやれやれとケースの中で肩を竦める。だが、麗華は半眼になって彼のことを睨みつけた。

 

「いや、拘束されるって聞いてたから、手錠とか掛けられるのかなぁ、とか、拘束符でぐるぐる巻きにされるのかなぁ、とか思ってたのにこんなけったいなケースの中に詰め込まれるとは思ってなかったんだってば! 動物園のサルにでもなった気分なんだけど」

「いや、お前はやろうと思えば素の身体能力でも掌底でコンクリートを割れるだろう。どちらかというとごりらぁあ!」

 

 その言葉尻は悲鳴と化した。麗華が恭二めがけて拳を振るったのだから当然である。

 

「仮にも、乙女に向かって! ゴリラ呼ばわりするとか! 恭二は、ホンットにデリカシーっていうものが欠如してるんじゃない⁉」

「分かった! 悪かった、謝るからドつこうとするな!」

 

 彼女は目の前にいるデリカシーが足りていない男めがけて、何度も何度も怒りの籠った拳を振るった。それらを恭二はあまり広くないケースの中で器用によけ続ける。

 しかし、それにも限度はあるようで、何度か拳が直撃し、「痛い!」と小さな悲鳴が上がっていた。

 その様を少し微笑ましそうに見つめながら、エレインは小さくため息をつく。

 

「元気ねぇ…… そっちも相当無茶をやらかしたんでしょう? もう少し、落ち着くとか、身体を休めるとか…… もっとこう、あるでしょう」

 

 呆れを大々的に滲ませたその声色の向こうで、青い瞳の中に少しだけ何かを懐かしむような色が浮かび上がる。しかし、彼女は小さく首を振ってそれを振り払うと、二人目掛けてピシャリと言葉を放った。

 

「まあ、とにかく! 二人とも、じゃれ合いはそのあたりにして、さっさとウイルスとか怪我の治療をさせなさい! 分かったら動かない!」

 

 その鋭い声色に、ケースの中にいた二人はぴしりと身体を強張らせた。そして、異口同音に「怖い怖い」と呟きながら居住まいを正す。

 その様を見て、今度は少しばかり頭が痛くなってくるエレインだったが、それでも必要な作業へと取り掛かることにした。これ以上この光景を見せられていると、疲労を蓄積するだけだろうと判断したからである。

 

「はあ…… 最初からおとなしくしててくれれば良かったのに。はい、じゃあゴリラ二匹がおとなしくなったところだし、まず感染隔離室まで移動させるわよ」

 

 エレインは近くで作業をしていた自身の部下に向けてそう言葉を掛けた。その一言で、二名の部下はテキパキと二人の人間が入ったケースの移動に取り掛かる。

 その様を眺めながら、恭二は小さく疑問を投げかけた。

 

「なあ、エレイン。お前、ウイルスの解析をしたって言ってたよな。だったら、気付いてたんだろう? アレが単純にウイルスに術式を刻んだ者じゃなくて、妖魔由来のものだったってことは」

「ええ、もちろん。でも、普通に考えたら分かることでしょう? 普通のウイルスは、術式をきちんと発動させるだけの霊力を生成したりなんてしないんだから」

「ま、それはそうなんだが……」

 

 恭二は少しだけ歯切れが悪く言葉を濁した。その姿を見て、麗華は強烈な違和感を覚える。そんなことは麗華とて言われずとも可能性としてあるだろうとは思っていたし、目の前の男がそんなことが分からないような鈍い奴ではないと長い付き合いから知っていたから。

 だからこそ、眉を顰めながら彼女は彼の顔を覗き込んだ。

 

「恭二、どうかしたの? そんな当たり前な事を確認するなんて、恭二らしくないと思うんだけど」

「ああ、そうだな…… 少し疲れてるのかもしれない。まあ、今は少し休ませてもらうさ。大仕事の後だし、二、三日は休みが貰える。だろう?」

「まあ、流石にそれくらいは最低でも貰えるんじゃないかしら。貴方たちは特に激戦が繰り広げられた訳だしね。私は、さんざん激戦を繰り広げたうえで、ウイルスの対策に奔走する羽目になったワケだけれど……」

 

 恭二の言葉に、エレインは恨み言をぶつぶつと呟いた。どうやら、仕事がひと段落ついて、久しぶりのまとまった休みが台無しになったことを思いだしてしまったらしい。

 これはまずいと、恭二は自分たちの入っているケースを移動させているエレインの部下に、こんな言葉を投げかけた。

 

「急げ急げ! あいつが癇癪起こしかけてる」

「「合点承知!」」

 

 ノリのいい二人の医療スタッフはそう言って恭二と麗華の入ったケースを運んでいった。麗華も少しだけ心配そうな色を残したままだが、苦笑を浮かべてから「きゃー」とものすごく棒読みで悲鳴もどきを上げる。

 そんな彼ら彼女らの様子を見て、エレインは消え入りそうなほど小さな声で呟いた。

 

「まあ、多分あれで伝わったでしょう。今回ばっかりは、殴られても仕方ないわよ。小太郎」

 

 様々な事情を加味し、様々なしがらみに苦慮しながら、今回の人選を為した男を頭の中に思い描きながら。普段の様にボスとは言わず、その名前を口に出してエレインはそういった。

 そして、やれやれと首を振ると、何かを思いだしたかのように小太郎のいる部屋の方へと視線を向ける。

 

「そう言えば今ごろトンちゃんと連絡とり合ってる頃かしら」

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 クロユリの機関長である小太郎は、自身の部屋のモニター越しに、でっぷりと太っているが趣味のいいスーツを身に纏っている男と向き合っていた。

 彼はクロユリのスポンサーの中でも、随一の財力と発言力のある男で、名を細川栄一と言う。名は体を表すとは言うが、どうやら彼には当てはまらないらしいことが一目見て分かる体つきをしているため、機関のメンバーからはトンちゃんだの豚さんだのというあだ名をつけられている始末だ。

 そんな彼は嫌味たっぷりに言葉を紡ぎあげる。

 

『まったく、あんな若い子を行かせるなんて、他のスポンサーの文句を聞き流すのも面倒なんだから、やめてよねぇ? そっちは僕なんかより、ずっとずっと爺なんだから、文句が出ることぐらいは分かるでしょ』

「それでも、あの二人が今回の任務に最適だと判断したんだ。今回は、事が事だから、現場での判断能力に優れた恭二君と、若くて判断能力に少しだけ欠けるけど実力なら申し分なしの麗華ちゃんを行かせる。これ以上の組み合わせはそうそうないよ」

『はっ! 狸だよねぇ? ま、そう言う事にしておいてあげる。精々頑張りなよ。八年前みたいにならないようにね』

 

 モニターの向こう側にいる男は、厭味ったらしくそう言うと、くるりと自身の座っていた椅子を回した。その背に向けて、小太郎は小さく笑いながら言葉を投げかける。

 

「今回の件、スポンサーの方々の意見をなんとかまとめてくれたみたいだね。助かったよ。やっぱり、世界でも指折りの富豪ともなると、発言力も違ってくるみたいだ」

『分かっているのなら、もう少しだけ敬意を払ってくれてもいいんじゃない? こっちがどれだけそっちに投資してると思ってるのさ』

「そう言われてもねぇ? 俺にとって、君は小便を漏らしていた小さな子供のままさ」

『昔の話をこねくりまわすのはやめてくれないかなあ!』

 

 椅子をくるりと回して背を向けていた男は、モニターの向こう側でぐるりと振り返り、つばを飛ばしながら怒鳴り散らした。

 そんな彼の姿を見て、小太郎は大笑する。

 

「昔話は爺の特権なんだ。やめろって言われてやめられるものじゃ無いさ。ウイルスの製造工程と研究データは奪取できたから、次に似たような手を用いられても、ある程度の手を打つことが出来る。それだけでも上々だ。二人はよくやってくれたよ」

『すでに、ウイルスのデータは悪意の大本に渡っていた以上、そのデータは値千金の価値がある。まあ、精々諸外国との外交カードの一枚としてうまく使わせてもらうさ』

「ま、そこら辺の交渉は任せたよ。昔っから、どうにも権謀術数とかが苦手でね」

 

 小太郎はそう言って目を細める。モニター越しにそれを見た男は、『どの口がほざいているのやら』と毒々しく吐き捨てた。そして、深々とため息をついて、真剣な眼差しへとシフトする。

 

『そっちが抱えている優秀なオペレーターたちが居てなお、起動装置とやらがあった施設からデータ転送された場所が見つからなかった。事態を起こした連中の大本にたどり着けなかった、ていうのはどういう事情があっての事?』

「まあ、気になるか…… じゃあ、出血大サービスで教えよう。スポンサーの中で真っ先にこの情報を手にするのは、栄一君だ」

 

 そう言って小太郎は、無表情になって手元のコンソールを操作する。そして、とあるデータにアクセスするとそこに収められていた映像を栄一の元へと転送した。

 

『……? なに、揶揄ってるの? これと言って目立つようなものは何もないよ、この映像には』

 

 その映像はとある山奥の無駄に広い空き地を映し出しているのみで、目ぼしい所はどこにも存在していなかった。それ故に、栄一の顏には戸惑いが浮かび上がる。

 

 その反応を見て、小太郎は小さく頷いた。

 

「そう、目立つようなものは何にもない。だからおかしいんだ。それで、こっちにある画像を見てもらおうか。ネットでも見ることの出来る、衛星写真の画像だよ。更新日は丁度昨日の日付だ」

『これは……』

「そう、おかしいんだ。昨日まであったはずの建物が、痕跡を一切残すことなく消え去っている。ちなみに、衛星から逐次データは送られて、保存されている訳なんだけども、そっちのデータを漁ってみると、一瞬でそれだけの建物が消失してるんだよ」

 

 「不思議だよねぇ」と最後に付け加えられた言葉を最後に、一瞬だけ場を沈黙が支配した。だが、頭の回転の速い栄一は、ねっとりとした口調とともにその映像を睨みつける。

 

『こんなことが出来るのは、空間転移を行えるような高等な技術を持った術士か、或いは神隠しを行える相当な力を持った神か…… どちらにせよ、厄介な相手だねぇ……」

「そう言う事。今回の問題、相当根が深い」

 

 蠢いている影の大きさは、未だはかり知ることは出来ない。

 一つだけ確かなことがあるとするのなら、相手は強大で厄介な存在であるという事ぐらいだろう。

 

「ほんと、厄介な話だ」

 

 何処か疲れたような声色が、ぽつりと浮かび、煙のように溶けていく。

 

 許されざる悪意は絶えることを知らない。

 

 

 



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悪意の病巣 第二十話

 

*****

 

 そして、それから一時間後。

 

 病衣へと着替えた恭二と麗華は、本部に併設されている病棟にて怪我の治療を受けていた。ウイルスの治療を終えて、すぐにこれである。流石の麗華もげんなりとした表情だ。

 

「うぅ…… 寝たい…… 朝日が眩しい……」

 

 仮眠をとっただけで、一晩、ほとんど働き通しだったため、その声色はとても弱弱しい。先ほどまでは、ウイルスが体内に残留していたこともあり、ある程度気を張っていたのだが、その治療が終わったため完全に気が抜けてしまったのだ。

 そのせいで、今まで脳内麻薬が誤魔化していた疲労や眠気といったものが、完全に噴出してしまっている。

 そんな彼女の様子を医療スタッフの一人である女性、ついでに言うならケースの運搬に関わった一人でもある藤原京子が、苦笑を浮かべながら言葉を紡いだ。

 

「疲れてるみたいだし、もう寝ちゃったらどうです? もうウイルスの感染による支配の可能性はなくなりましたし、治療はこっちでやっておきますから」

「うん、そうする…… おやすみぃ……」

 

 そう言うや否や、麗華の意識は闇の底へと落ちていった。その姿を微笑まし気に見つめ、京子は小さく微笑んだ。

 

「この光景も、もうお馴染みですねぇ……」

「こんな餓鬼がこの場所にいる光景がお馴染みなんて世も末ですよ」

 

 だが、恭二は其れとは逆に硬い表情でそう呟いた。いつか消えてしまった命の灯、その面影と、他の誰でもない彼女らしさの滲む顔を眺めながら、静かにそんな思いを吐露してしっまったのだ。

 それを聞いた京子は、大きく目を見張ると、少し目を伏せて謝罪の言葉を述べる

 

「すいません。無神経でした……」

「いや、いいんです。こいつのことを、こっちの人たちが大切にしてくれてるからこその言葉だって、よく分かってますから。ただ、どうしても麗華がクロユリに所属した経緯を考えると、どうも、ね」

 

 難しい顔でそう言ってから、恭二はすぐに表情を和らげた。。

 

「ですが、まあ、こんな風にボケボケと寝てる顔を見たら、なんだか悩んでるのが馬鹿らしくなってくるのも事実ですよね」

「ふふ、そうですね。確かに、彼女は危なっかしくて見ていられないときもありますが、天真爛漫でうちのスタッフもよく元気をもらってます」

 

 そう言いつつ、京子はテキパキと麗華の身体を調べていく。

 

「内臓に一部損傷の跡…… 相当受け流しづらいのを貰ったみたいですね…… 打撃による攻撃でこう言ったダメージを受けるのは珍しいですから。ですが、恭二さんの治療がしっかりしているから、そこまでの大事には至ってませんね。霊力切れの影響か、一部損傷が残っていますが」

 

 クロユリの医療スタッフに選ばれるだけあって、京子の診断は適切だ。実際、打撃を受けたのも事実だし、恭二がそれに対して治療を施したのも事実だ。そして、麗華の服をたくし上げると患部を手を当てた。

 

「これなら、治癒の術を使うだけで、お腹に手を突っ込む必要はなさそうですね。霊力透過によって内臓の位置を整えて…… あとは……」

 

 ぶつぶつと口で症状や治療の手順を確認しつつ、京子は自身の霊力をすり減らし、麗華の治療を行っていく。

 それを横目で見つつ、恭二はゆるりと視線を移した。扉が開く音とともに現れたのは、先ほどケースの移動を手伝っていたもう一人の男、藤原京一は何処か疲れたような表情で恭二の元へと歩いてくる。

 

「おのれマイシスター! 俺がトイレに行っている間に楽な方の患者の治療に移りやがったな!」

「なんで俺の方は楽じゃない患者って断定できるんだよ……」

「経験則。恭二さんいい人だけど、麗華ちゃんとは別方向にとんでもない無茶をやらかす人だから、怪我の内容が普段の立ち振る舞いから判断できないことがあるでしょ。そういう訳で、とっとと診断させてもらいますよ」

 

 そう言って身体をまさぐりだした京一の顔に、すさまじい勢いで苦いものが広がっていく。その様子を、内心で「やばい」と思いながらも、恭二は素知らぬ顔で審判の時を待った。処刑台に送られる死刑囚とはこんな気持ちなのだろうと空々しい想像を繰り広げながら。

 そして、診断結果という名の死刑宣告が京一の口から紡がれる。

 

「あんた、ふざけてるのか?」

「ふざけてなんかはいないぞ。俺は、いつでも大真面目極まっている。今回もこう言った無茶が無ければ、最後の戦いのとき、霊力が足りなくて詰む可能性があったんだから仕方がない」

「ああ、くそ! 俺と京子の奴が入ってきたときに、外傷実例の見本市と言われただけのことはあるな、こん畜生!」

 

 京一は荒々しく悪態をつく。だが、すやすやと眠っている麗華のことを思ってか、その声は恭二にのみ聞こえるような小さな声で紡ぎ出された。もっとも、その鋭さに満ちた言葉は、小さいながらもしっかりと鼓膜に突き刺さることとなったが。

 

「あんたも治癒の術式に適性があったから、こっちの研修もばっちり受けさせられたんでしょう。なら、自分の症状は分かってるはずだ。手榴弾の破片を体の中に残したまま傷口を閉じ、戦闘を続行するなんて狂気の沙汰ですよ」

「急所や大きな血管に近い所の破片は摘出してあるよ。だから、ものすごく痛いという事を除けば、そこまで大きな問題にもならない」

「ええい、くそ。ああいえばこう言うなアンタ。どっちにしろ、これは一回傷を開かないとだめだ。局部麻酔と、手術室の準備しないといけないから、安静にしててくださいね!」

 

 そう言うと、京一は慌ただしく駆け出していく。その背中を見つめ、自分より二つほど年嵩のはずなのに、妙に若々しさを感じるその後ろ姿に、恭二は妙に感心してしまった。

 

「なんでこう、京一からは若々しさを感じるんだろうなぁ……」

「京一から感じられるのは、若々しさというより馬鹿馬鹿しさだと思いますよ。麗華さんと似たタイプなんです」

 

 麗華の治療にあたっていた京子が辛辣の一言に尽きる言葉を投げる。その言葉を聞いて、恭二は「なるほど」と呟きながら小さく頷いた。

 確かに、タイプとしては近い所があるかもしれないと即座に納得出来てしまったからだ。なんというか、麗華も京一も時々、びっくりするぐらい真直ぐなところがある、と。

 そうやってしきりに恭二が頷いていると、京一が手術の準備を終えたらしく、処置室へと戻ってきた。

 

「じゃあ、お腹を開ける準備が済んだので、さっさと手術しに行きましょうね」

「あ、はい。じゃあ、麗華の事、頼みましたよ」

 

 恭二はそう言うと、京一に運ばれて手術室へと消えていく。

 そんな慌ただしい二人の背中に向け、京子は軽く手を振って答えた。

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 次に麗華が目を覚ましたのは、翌日の昼頃だった。

 

 快眠を得られたことによって、すっきりとした目覚めを得ることの出来た麗華は、思いっきり伸びをして、身体の筋を伸ばす。

 

「んー! よく寝たー」

「おはよう、ずいぶんと寝てたな」

 

 麗華は声の方向へと視線を向ける。その先では、恭二がペラペラと冊子のページをめくって時間を潰しているのが見て取れた。寝癖が付いているので、どうやら彼もつい先ほど起きたところらしいと彼女は検討を付ける。

 そんな彼女に向けて、恭二はゆるりと微笑みながら言葉を紡いだ。

 

「ウイルスの感染拡大自体は食い止められたらしい。あと、起動装置として機械に括り付けられていた子供は、無事に目を覚ましたそうだ。だが、その研究データは大本がまだ握ってる。これから、エレイン達が頑張ってウイルスに対する対策をさらに講じたり、オペレーターの人たちが情報を集めていくことになる」

「ちょっと問題は残ってるけど、そればっかりは大本を叩かないとどうにもならないからねぇ」

 

 麗華はそう言って、頭の後ろで腕を組んだ。恭二はぺらりと手元の冊子をめくりながら、横目で彼女のことを見やる。その口元に、微笑を浮かべながら。

 

「まあ、なんにせよ。俺たちは五体満足で戻ってこれた。お互い、命にかかわるような状態じゃないし、ウイルスも完全に除去された。あいつらなら、対策はばっちりと取れるだろう。お互い、まだまだ長生きできそうだな」

「そ、よかった」

 

 たった一言。それだけだったが、麗華はほっと息をついて口元に笑みを浮かべる。ようやく日常に戻ってくることが出来たと、歓喜を滲ませながら。

 そして、こんな穏やかな日を迎えられるのが無性に嬉しくなり、麗華は無邪気に隣のベッドで体を起こしている恭二へと声を掛けた。

 

「ところで恭二。なに読んでるの?」

「外傷の症例をいくつかと、クロユリで行われた治療の例をいくつかな。こういうのは、現場で俺が治癒系の術式を使うときに役立つし、これと言って時間を潰せそうな雑誌も無かったから読んでたんだよ」

 

 それを聞いた麗華は「まじめだねー」と呟いてから、少し疑問に感じたことを率直にぶつけることにした。

 

「時間を潰すなら、情報端末を使ってネットに接続でもしてれば良かったのに」

「生憎、俺は動画とかには興味はないし、文章は基本的に紙媒体で読みたい人間なんだ。よって、ネットの類は無し。まあ、これは実務でも役に立つし、紙媒体だし俺が求める読み物としてはピッタリだ」

 

 そう言って、恭二はピラピラと小難しい症例などが書かれている冊子を揺らした。これには、流石の麗華もあきれ顔である。

 

「恭二もぎりぎりネット世代でしょー もうちょっとこう、時代に適応する気はないわけ? ていうか、せっかくの休みなのにそんなもの読んでて気が重くならないの?」

「俺なりに適応してるから問題ない。だけどまあ、せっかくの休みにこんなもの読んでるのも気が引けるっていうのも確かだ」

 

 恭二はそう言うと、ベッドから体を起こして、ゆっくりと立ち上がる。

 

「もう昼だし、お前も起きたし、腹減ったから飯を買ってこようか?」

「お、いいねぇ! じゃあさ、向かいのショップでチーズバーガーを……」

「昨日喰ったばっかりだろ…… だから、今日はそれ以外でな」

「えぇ…… いいじゃん、恭二のけち」

「いや、育ち盛りの娘がバーガーばっかり食ってるっていうのもなぁ……」

 

 恭二は微妙な表情で顎を撫でる。栄養が偏り過ぎてはいないだろうかと、思案しているのだ。

 思い悩んでいる彼の様子を見て、麗華は「それなら」と提案をする。

 

「今日は自炊する? 久しぶりに私が何か作るよ。いつもは恭二が作ってるからね」

「あー それもいいかもなぁ…… で、何作るつもりだ?」

「もちろん、チーズインハンバーグを!」

 

 自信満々といった様子で紡がれた言葉に、恭二は心底頭が痛そうにため息をついた。

 

「それは外さないんだな…… 分かったけど、ある程度野菜もとれよ」

「交渉せーりーつ! ってね。じゃ、買い出しに行こうか。挽肉はキッチンに置いてなかった筈だからね。他のメニューはそっちで決めちゃおう」

「その前に、財布取りに行って…… あと、服も着替えないとな。今の格好だと、病室を抜け出してきたっていうのがバレバレだ」

 

 そう言うと、二人は顔を見合わせて頷きあい、気配を殺して病室を抜け出していく。

 二人はそれなりに重傷を負っていた。そしてその治療をしたのだから、もちろん安静にしていなければならない。だが、食欲には勝てなかったらしく、二人そろって病室を脱走するという暴挙へと踏み出したのだ。見つかったら、もちろん怒られる。

 

「今俺たちに必要なのは、病室で安静にしている事じゃなくて十分な食事だ。よってこれは仕方ない。そうだな?」

「そうそう。早くご飯食べたいなぁ……」

 

 だが、そんなことは知らんとばかりに二人はそんな言葉を紡ぎあげた。基本的に恭二は真面目ではあるのだが、必要ないと思ったことはとことんしない、従わないという困った悪癖がある。そして、元からじっとしていることの出来ない質である麗華と一緒に脱走を企てたのだ。

 そうして、それなりに広さのある病棟を横切り、その途中で監視カメラに向けて口元で人差し指を立てることも忘れず、本部の居住スペースへと二人は歩みを進めた。

 その途中で、恭二は何かを思いだしたかのように立ち止まると、麗華に向けてこう言った。

 

「すまん、ちょっと用事を思いだしたから、先に行って着替えと金の準備を頼めるか?」

「分かったけど、用事って何?」

「でっかい方の雉撃ち」

「雉……? まあ、よく分からないけど、とりあえず準備しておくね」

 

 麗華はイマイチピンとこなかったが、とりあえず頷いて自室へと急ぎ足で向かっていった。

 その背中を穏やかな表情で見送ると、恭二は見るものに恐怖を感じさせる程の怒りを身に纏い、ある場所へと歩き出す。

 

「ちゃんと話を聞かせてもらわないとな」

 

 

 

*****

 

 

 

 それから十分以上経ち、麗華は既に私服に着替えて準備を済ませていた。

 

「ちょっと遅いなぁ…… 何してるんだろ」

 

 自分の部屋の前で時計を確認していた麗華は、ぼそりとそう呟いてみせる。元より恭二は、時間にとても厳しい所があり、所用があると言っても十分以上人を待たせるような事をしない人間だ。それを知っているだけに、麗華の中に少しずつ疑問が広がっていく。

 

「ちょっとしたようなら、五分も経たずに終わらせてくるはずなんだけど…… もしかして、怪我の具合が? でも、うちの医療スタッフの人たちが動かしちゃいけない状態の人を動ける状況で放置するわけがないし……」

 

 ぶつぶつと状況を確認していく。

 しかし、そんな彼女に言葉が投げかけられた。

 

「お前、俺のことを心配し過ぎだろう…… なんだ、そんなに信用が無いのか」

 

 それと同時に、自身の考えが杞憂であったことを知った。声の主が恭二で、ゆったりとした様子で麗華の元へと歩いてきていたからだ。

 そんな彼の様子をジト目で睨みつけ、彼女は言う。

 

「いや、だって恭二って平気な顔して怪我を隠してたりするじゃん。もしかしたらどこかで倒れてないかと心配で心配で」

 

 口調は少しふざけているが、それ以上に冷たい響きがその言葉に含まれている。そして、何処か探るような視線で恭二の身体を睨みつけた。

 

「もしかして、今回も怪我を隠して動いたわけじゃ無いよね?」

「多少なりとも無茶をしたのは事実だが、お前が心配しなくちゃいけないほどの事でもない。なんでそんな冷たい目を向けられなくちゃならないんだよ」

「自分の胸に手を当てて考えてみたら?」

 

 麗華のジト目とともに向けられた言葉に、恭二は「ふむ」と顎を撫でてから、自分の胸にそっと手を置いた。

 

「で? 何か思うことの一つや二つぐらいはあるんじゃない?」

「うーん…… そうなだな。平たい」

「はぁ…… もういいですよーだ」

 

 これ以上本人に追及しても意味が無いと考え、麗華は追及の手を緩めた。

 

「ま、恭二に聞いても話してくれなさそうだし、後で京一に聞いてみるよ」

「あ、はい」

 

 恭二は白目をむきたくなるような思いで、不自然にならないようにそんな言葉を紡いだ。

 

 内心では「あいつ、黙っててくれるかなぁ」などと考えながらも、普段通りの様子を装って。

 

 かくして、互いに思うところはあれども、二人は束の間の日常へと戻っていく。

 

「今日もいい天気だね」

「ああ、そうだな」

「でも、データ自体は敵の手元にある」

 

 だが、それでも心の中に僅かな蟠りがあった。それに対して、恭二は静かに目を細める。

 

「……ああ、そうだ」

「だから、とっとと連中の大本を叩かないとね」

「まあ、それまでにはまだ時間がかかる。だから、俺たちもまだまだ鍛えないとだめだが…… 今は休もう。せっかく何とか守り抜いた平和なんだ」

 

 本部の外へと出た二人は、燦燦と降り注ぐ日光に目を細めた。一歩建物から足を踏み出せば、車のエンジン音や、クラクションの音、疎らに聞こえる人の気配が感じられる。

 

 瀬戸際でさらなる大惨事を食い止める事に成功し、この日常を守ることが出来た事に、二人は少しばかりの安堵を覚えた。そして、自分たちの食欲を満たすという実に個人的な願いの為に、二人はそろって歩き出す。

 

「ま、なんにせよ、今回も最悪の事態だけは回避できたみたいだし、リラックスタイムに突入だ!」

「元気だなぁ、お前……」

「そりゃあもう、休みは満喫しないともったいないじゃん! あ、そうだ! 帰りにゲーセン寄らない? 久しぶりにシューティングやりたくてさぁ」

「お前、昨日あれだけぶっ放しておいて………」

「リアル銃器は別腹だよ!」

 

 そんな他愛のない言葉を交わしながら、二人の姿は雑踏の中へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 当然のことながら、後で病室からの脱走を怒られたのは言うまでもない。

 



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感染する悪意のマリオネット症候群
感染する悪意のマリオネット症候群 第一話


 

 

 並木藤次は平凡な人生を送っていたと自負している。黒髪で平凡な顔立ちに、明るいブラウンの瞳を持つ少年は、確かにただの一般人であったはずだったのだ。

 それが今、とんでもない事件に、それも彼の既存の常識すべてをぶち壊してしまうような事件に巻き込まれ、その最中で起こった事象の聞き取り調査が行われている。

 

「藤次君。これから、君にはあの島で何が起こったかを話してもらう。巻き込まれてすぐにこんなことを聞きたくは無かったんだけど、出来るだけ、詳細に頼めるかい?」

 

 目の前で手を組んで人のよさそうな笑みを浮かべている白髪の男は、紫水晶がごとき瞳を申し訳なさそうに細めながらも、藤次に向けてそんな言葉を投げかけた。彼はクロユリという組織の長で、名を浦部小太郎と言う。

 心底申し訳なさそうにしているが、組織の長としての言葉であり、どちらかと言うとお願いと言うよりは命令に近い言葉だ。クロユリに所属している訳ではない藤次ではあったが、それも仕方のないことだと分かっているのでコクリと頷きを返す。

 

「ええ、大丈夫です」

「少しでも辛いと思ったら多少中断しても構わないから、ゆっくりとね」

 

 小太郎の隣にいたエレインは、青い瞳を細めながら藤次にそんな言葉を投げかけた。

 しかし、彼はゆるりと首を振ってこう言葉を返す。

 

「いえ、早く話してしまいましょう。じゃないと、記憶が薄れて重要な見落としをするかもしれませんから」

「そう言ってくれて本当に助かるよ。まず、事件が起こる前の話から頼めるかな?」

「はい。あの日はたしか…… 高校生活最後の夏休みでしたから、その景気づけに旅行へ行ったのがそもそもの始まりです。楽しい旅行、そうなる筈でした。結果はご存知の通りでしたが」

 

 そう言って藤次は記憶の海の中へと沈んでいった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「おー綺麗だ!」

 

 そう言って藤次は、穏やかそうなたれ目を細め、フェリーの柵に捕まりながら、カモメが飛び交う海を眺める。

 太陽光が反射しきらきらと輝く海面と、風を捕まえて飛ぶカモメの姿が彼の心を掴んで離さない。フェリーの行き先は知る人ぞ知るといった島で、観光客もそれなりに多いその場所は、名を大欄島と言う場所だ。そこは島の半分が山と森におおわれており、その豊かな自然の中には珍しい生き物や美しい光景を見ることが出来る。

 孤島めぐりが趣味の彼はその島で、高校生活最後の夏休みを友人と共に送るつもりだった。しかし、隣にいるはずの友人は、急用ができたため来られなくなってしまったのだ。

 だから藤次は、そんな友人のため懐からスマートフォンを取り出すと、その光景を一枚の写真に収めた。会心の一枚と呼ぶにふさわしい出来で、彼は満足そうに頷く。

 

「よし、これでアイツにもいい土産話が出来そうだな。せっかく高校最後の夏なのに、急に来られなくなったってんだから、このぐらいはしてやらないと」

 

 友人想いなところがある穏やかな少年は、写真をSNSで友人に向けて送りながら食堂へと歩みを進めた。しかし、スマートフォンに気を取られていたせいか、曲がり角から出てきた人影とぶつかってしまう。

 

「あら⁉」

「うわ⁉ すいません!」

 

 声の高さから女性だと判断し、恭二はすぐさま謝罪をしながらそちらの方へと視線を向けた。

 瞬間、藤次は息を飲む。視界に飛び込んできたのは、セミロングにカットされた金糸のような髪、深い青の瞳、そして一目見て分かるほど均整の取れた顔立ち。一目見て美人であると断言できるような、用紙を持ち合わせた二十歳前後と思しき女性が立っていたからだ。

 一瞬息を飲んで体を硬直させる藤次だったが、すぐに正気を取り戻すと再び謝罪を始める。

 

「すいません、大丈夫でしたか?」

「ええ、少し驚いたけれど、特に怪我とかはしてないわ。こちらこそごめんなさいね。私も少し考え事をしていたから……」

 

 そう言って互いに頭を下げて、藤次と女性は自分たちの進行方向へと改めて進んでいった。

 そして、女性からある程度距離を取れたところで、藤次は小さくため息をつく。

 

「あっちゃぁ…… やっちゃったな。昔から少し抜けてるって言われてたけど、これじゃ否定できないかも」

 

 頬をポリポリと掻いて、彼は背後を振り返った。

 

「それにしても、綺麗な人だ…… 外人さんっぽかったけど日本語うまかったな。もしかして、ハーフだったのかな」

 

 どことなく人間離れした美しさを滲ませているその女性は、周囲の視線を釘付けにしながらデッキの端の方でこれから向かう島を眺めている。藤次はその姿に後ろ髪をひかれつつも、空腹を満たすのを優先したかったので、そのまま足を進めた。

 少し錆びているせいか、キイキイと甲高い音を立てるドアを開けて、藤次は食堂の中へと足を踏み入れる。中は食事時から少し外れた時間だったせいか、人の姿がまばらに見受けられた。そして、彼は一番見晴らしが良さそうな窓際の席を見つけると、そこに座る。

 

「ここからの眺めも中々いいなぁ…… もう一枚とっておこうかな」

 

 そう言って、藤次はぽやぽやと笑いながら再び写真を撮る。そんな彼の元へと、店員がメニューを差し出した。

 

「こちらがメニューになります。ごゆっくりどうぞ」

「ありがとうございます。オススメとかはありますか?」

「それなら、オムレツのセットなどはどうでしょう? シェフのこだわりが詰まった逸品です」

 

 藤次は店員が指し示したオムレツセットの写真を見て、よだれが口の中に溢れるのを感じた。黄金色に輝くオムレツとトースト。それに加えて、紅茶が並んでそこに移っていたからだ。これはおいしそうだと確信が持てたため、コクリと頷いて言葉を返す。

 

「なら、このセットを一つと、追加でトーストを五枚、あと、今ポタージュもお願いします」

「畏まりました。少々お待ちください」

 

 そう言うと、店員は軽くお辞儀をして去っていった。その後ろ姿をぼんやりと見送ると、藤次は再び窓の外へと視線を向ける。

 そんな彼に、近くの席に座っていた男が声を掛けた。

 

「そこな人。大欄島に行くのは初めてかい?」

「はい! お兄さんは、大分ファンキーですね……」

 

 藤次が振り返った先にいた男は、側頭部の部分で黒に近い茶髪を編み込み、はだけたシャツの下には壊れた時計をあしらった入れ墨が施された肌が覗いている。細身に見えるが、筋肉が全身に無駄なく付いており、細い眼の下からは灰の色の瞳が怪しい光を放っていた。

 そんな怪しいの一言に尽きる風体をした男に声を掛けられ、藤次の顏には微妙なものが浮かんだ。しかし、そんなことは知らないとばかりに男は陽気に言葉を紡ぎあげる。

 

「正直だね! まあ、気にしないよ。よく言われるし。むしろ、いかにも危なそうなお兄さんに話しかけられたら、観光地と言えどもちびっちゃうよね」

「いや、流石にちびりはしませんけど……」

 

 いきなり何を言いだすんだろうかこの人は。

 

 そんな思いが藤次の顔にありありと浮かびあがる。それ以上に、自分で言っては元も子も無いのではないだろうかと、彼は訝しんだ。

 そんな藤次の様子に気付いた上で、男は快活に笑う。

 

「まあ、細かいことは良いじゃない。そこで笑って流せるくらいの度量が無いと、この先やっていけないよ?」

「なんで、絡んできていきなり上から目線なんですか……」

 

 先ほど美女を見かけて、少し上向きになっていた藤次の気分が微妙なものとなる。

 その反応すら楽しみながら、男はからからと笑った。

 

「いやはや、ごめんごめん。こんな人畜無害そうなお兄さんをそんなに警戒するなんて思わなくてさ」

「あれ、さっきと言ってることが違いません? ま、まあ、いいのかな…… それで、一体何の用ですか?」

 

 長々と話していると、色々なものが削られそうだと悟った藤次は、早々に本題へと切り込んだ。うんざりとしたような声色と表情から、彼の対応がぞんざいなものになっていくのが傍目から見ても分かることだろう。

 だから男は、表面上だけは申し訳なさそうに、へらりと笑いながら返答を返した。

 

「いやぁ、こう見えてもお兄さん、大欄島には何度か行ったことがあるんだ。だから、初めてを経験する若人にちょっとしたアドバイスをしようと思った次第でね」

「……突っこみませんからね」

 

 少しばかり下ネタの要素を織り交ぜた言い回しに、藤次は苦笑を浮かべながらそう返した。

 

「おやおや、突っ込まないという事は突っ込まれるのが好きなのかい? ……冗談だよ、そんなに白い目を向けないでくれ」

「白い目を向けられなきゃいけないようなことを、白昼堂々、しかも初対面の人に言うのもどうかと思いますよ」

「ノリが悪いなぁ。もう少しノッテくれてもいいじゃないか…… まあ、お詫びに島の隠れた名所を教えてあげるよ。罪滅ぼしにね」

 

 そう言って、男はぱちりとウィンクをする。妙に様になっていて、女性ならば少しくらりとしてしまうかもしれないが、生憎と藤次は男性だ。そして、同性に興奮する質でもない。それ故に、少しばかり生暖かい視線を男へと向けてしまう。

 

「そもそも、大欄島に始めていく人にアドバイスをしようって話じゃありませんでしたっけ…… まあいいか。それで、隠れた名所っていうのはどこですか?」

「うーんノッテきたね。じゃあ、まず一つ目はキャバクラだ。住所は三丁目に唯一ある店だから、地元の人に聞いたら分かりやすい」

「いきなりとんでもない所に行きましたね⁉ 観光地特有の場所とかじゃなくて、よりにもよってキャバクラですか」

 

 藤次は思わず声を上げてしまう。だが、そんな彼の戸惑いと驚きなど知らないとばかりに男は自分が持っていたマンゴージュースを啜った。そして、「ふう」と一息つくと再び言葉を紡ぎ始める。

 

「その場所に行かないと出会えない。そう言った意味で言うと、キャバクラも観光地の名所と言って過言じゃないさ」

「ああ、いや…… 僕はあんまりそう言った場所に行かないので、とりあえずそれ以外の場所でお願いします」

「そうか、残念。きみ、チェリーっぽいし、しょうがないか……」

「ホントに失礼だなアンタ⁉ 僕がおとなしくなかったら、ぶっ飛ばされてるかもしれませんよ?」

 

 藤次は心底面倒くさそうに、投げやりな態度でそう返した。

 ちょうどそこへ料理を作り終えた店員が、机の上に配膳をしながら苦笑を浮かべる。

 

「あはは…… お客様、あまり大声を出さない方が良いですよ。少し目立ってますから」

「す、すいません……」

「あっはー 怒られてやんの」

 

 男は飄々とした態度で、傍の机から適当なヤジを飛ばし始めた。

 そんな態度に、怒ることすらせず。と、言うよりは怒る気力も尽き果てたといった体で、藤次は店員に向けて言葉を紡いだ。

 

「店員さん、席を変えてもらって良いですか? できるだけ、この人から離れたところが良いです」

「まったまった。ちょっと待った。お詫びにここの代金は俺が払うからさぁ。もうちょっとお兄さんの話し相手になっておくれよ。いまなら、追加のドリンクもつけちゃうよ」

 

 現金なもので、そう言われると少しためらいが生まれてしまうのが人間の悲しい性と言うもの。その隙に男は追加のジュースの注文を済ませ、店員を店の奥へと再び追いやってしまった。

 藤次は逃げるための最大のチャンスを棒に振ってしまったことを悟り、小さくため息をついてしまう。

 そんな彼の肩を叩き、男はニヤニヤと笑いながら言葉を紡いだ。

 

「まあまあ、そんなに気落ちしないでよ。ジュースも奢って上げたんだしさ」

「はあ…… 分かりました。話し相手になりますよ」

「うんうん。快諾してくれて嬉しいよ。あ、そうそう。自己紹介がまだだったね。お兄さんの名前は時実っていうんだ。よろしくね」

 

 名乗りに対して、返事を返さないのも失礼かと思って、藤次は居住まいを正して言葉を返した。

 

「並木藤次です。時実さんは、おしゃべりが好きなんですね」

「それはもちろん。有り余る時間も、会話をしていれば忘れることも出来る。退屈しのぎにもってこいの娯楽だからね」

 

 そう言うと時実と名乗った男は、ジュースを氷が入ったグラスを手元で弄ぶ。彼がグラスを揺らすたび、氷が笑うような音を立てた。

 そんな音を聞きながら、藤次は一口オムレツを口へと運ぶ。

 

「あ、おいしい」

「ここのオムレツのセットはおいしいからね。おすすめの食べ方は、トーストの上にのっけて、まとめて頂くことかな。バターは塗らない方が良い。なにもつけずにシンプルに行くのが肝だ」

「なるほど…… あ、今初めてまともな意見を言ったんじゃないですか?」

「あれ、そうだったかな? ま、そんなこともあるでしょ。じゃ、次なるおすすめスポットは定食屋だ。こっちが本命で、さっき紹介したキャバクラの蓮向かいにあるお店だ。地鶏をこだわりの卵で包み込んだ親子丼が絶品なんだ。あ、これは昼限定だから食べたいならお昼に行った方が良いね。そして、夜はキャバクラへゴー!」

「どれだけ僕をキャバクラに行かせたいんですか…… まあ、その定食屋には行ってみます」

 

 藤次はそう言うと、時実のオススメの食べ方でセットメニューを食していく。一口齧り付くだけで、カリカリに焼き上げられたトーストと、とろりとした半熟のオムレツの食感が口の中に広がり、そこに絶妙な味付けと元の素材の風味が絡まることで絶妙なハーモニーが生み出された。

 

「やばいやばい。彼岸が見えた。おいしいですね、本当に」

 

 そのおいしさに、意識が遥か彼方まで飛びかけたが、藤次は寸でのところでそれを繋ぎとめる。それを面白そうに眺めながら、時実は人差し指を立てた。

 

「おっと、そろそろ時間だ。こう見えても、お兄さんは社長って役職を押し付けられててね。そろそろお仕事の時間なんだ。悪いがこのあたりでお別れだ」

「そうですか、残念なような、嬉しいような……」

「あ、そう? 結構お兄さんのトークを気に入ってくれてたんだ。へーぇ、商談に向けて自信が湧いて来ちゃうなぁ」

 

 ニンマリと笑いながら紡がれた言葉に、藤次はチベットスナギツネのような表情になって黙り込む。確かに迷惑だと思っていたのは確かだが、退屈しなかったというのも正直な感想だったからだ。

 しかし、それを認めるのはどうにも癪なので、沈黙と言う手段で自分から相手へと伝わる情報をシャットアウトしてしてる。

 だが、相手は正に百戦錬磨と言った様子で彼の表情を読み解くと、満足そうに何度も頷いた。

 

「うんうん。良かったよ。満足してもらえたみたいで」

「その前向きさには閉口せざるを得ませんね……」

「閉口する? 今口を開いてるじゃないか」

 

 時実は鬼の首を獲ったかのようにそう言い放つと、財布から紙幣を二枚抜き取って机の上に置いて席を立つ。

 

「じゃあ、本当にここでおさらばだ。おつりはいらないよ」

「だからって、福沢諭吉を二枚はやり過ぎじゃないですか?」

「いやいや、最後まで付き合ってくれたお礼だよ。最近じゃ、うちの社員は誰もお兄さんの話に付き合ってくれなくてね」

「その社員さんたちは随分と賢いようで……」

「あ、ひどいねぇ、君。でもまぁ、頭がいいっていうのには同意するよ。うちにはすごい医療機関で働いてた腕利きの研究員とかがいるからね」

 

 藤次は「それはすごい」と、気のない返事を返しながら、セットメニューでついてきた紅茶を啜る。

 

「あ、これもおいしい」

「君は色気より食い気って言葉がよく似合うねぇ。おっと、本当に時間がヤバい。じゃ、お兄さんは今度こそお暇するよ」

 

 そう言うと、時実はくるりと踵を返して去っていく。

 と、見せかけて、三百六十度回転して藤次の方へと向き直った。

 

「あ、そうそう。一つ質問をしたかったんだ。君は、人形劇は好きかな?」

 

 それは、単なる質問であったはずなのに、何故か不気味さを感じて、藤次は背筋に寒気を感じる。その姿を、時実は楽し気に体を揺らしながら細い眼で観察した。

 

「いえ、人形劇には興味が無かったので、見たことすらありません」

「あ、そう? なら、きっと気に入るよ。じゃ、お兄さんは今度こそ本当にここを去らせてもらうね。三度目の正直ってよく言うじゃない」

「仏の顏も三度まで、とも言いますよ」

「あ、怒った? 怖いなぁ、もう。退散退散っと」

 

 ひらひらと手を振りながら、時実は背を向けて今度こそ去っていく。

 それと同時に運んでこられたジュースで喉を潤しながら、藤次は一息つくのだった。

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第二話

 

 

 

****

 

 それからしばらく経ち、島についたフェリーのタラップを下りながら、藤次は感嘆のため息をついた。

 

「ここが大欄島か…… すごいなぁ……」

 

 透き通る海と長閑な自然、美しさと雄大さを兼ね備えた光景が、次々と彼の視界に飛び込んで来たからだ。そして何より、東京住まいの藤次にとっては、空気そのものが澄んでいるように感じられ、胸いっぱいに息を吸いこんだ。

 鳥の鳴き声もどこかからか聞こえてくる。その音にも耳を澄ませながら、藤次はこの光景を親友と共有できないことを心底残念だと思った。

 

「あいつも、来られれば良かったのにな…… でも、過ぎたことを言ってもしょうがないか」

 

 僅かに顔を曇らせながらも、その言葉と共に気持ちを切り替えると、藤次はあたりに視界を巡らせる。フェリーから降りた観光客が、彼と同じように島の自然に感嘆の声を上げながら、写真を撮っていた。

 その中には、藤次がぶつかってしまった女性の姿もある。

 

 しかし

 

「あれ? 時実さんが見当たらないな……」

 

 その中に時実の姿が無く、彼は小さく首を傾げてしまう。

 

「まあ、僕が周りを気にしているうちに、どっかに行っちゃったのかな。何だか、仕事の話がどうのって言ってたし」

 

 藤次はそのように納得をして、自身の観光へと乗り出すために一歩足を踏み出した。

 

「ホテルに荷物を置いて、この島の神社にでも行ってみようか」

 

 大欄島のマップをスマートフォンに表示しながら、何処かいい写真が取れそうな場所を探していた藤次は、その中で見つけた神社の地図記号を見つけ、行き先を決定する。

 メインとなるような観光地は他にあるが、初日は地元の街並みや生活に溶け込んだ風景を楽しみながら、地形の把握に努めると決めていた。別に観光名所に行くだけが観光地の楽しみ方ではないからだ。

 心の底からそう思っている藤次でさえ、フェリーの中で出会った時実が言っていたようなキャバクラに一人で行く勇気は流石に無い。

 そこまで考えて、彼は思考の中から失礼な男の影を締め出すべく小さく頭を振ると、ホテルに向けてまっすぐ進んでいった。

 

 

 

*****

 

 

 大欄島某所。

 

 薄暗い部屋の中で、二つの影が言葉を交わしていた。その内の一人は、藤次がフェリーで顔を合わせていた時実その人だ。そして彼は、もう一つの影へと向けて、いつものようにどこか人を食ったような態度で言葉を紡いだ。

 

「じゃあ、時間もないしとっとと仕事を始めようか。時は金なりってね」

「社長、仕事の話ですからもう少し真面目に話を進めることは出来ないのですか」

 

 神経質そうな女性の声が響き、その凛とした声色が部屋の空気を張りつめさせる。だが、そんなことは知らぬとばかりに、時実はその態度を崩さない。

 

「まあまあ、落ち着きなよアイリス。こればっかりは性分なんだし、どうしようもないよ。それに、何のためにお兄さん、そしてなにより君がここに足を運んだと思ってるの? もう少し落ち着かないと、愛しの彼の為のお仕事が台無しになっちゃうよ」

「っ! 失礼しました、以後気を付けます」

 

 アイリスと呼ばれた女性は苛立たし気に唇を噛みながら、それでも反論することなくそんな言葉を紡いだ。そんなつれない反応に、時実は退屈そうにため息をつきながらぼそりと呟いた。

 

「あーあ、つまらないなぁ…… そんなだから愛しの彼が振り向いてくれないんだよ。ここで言い返せるぐらいの度量と度胸が無いんじゃ、そもそも目は無いのかもね。これじゃあ、フェリーで出会った少年の方がよっぽどマシってものさ」

 

 その言葉を聞いたアイリスはキッと時実の事を睨みつけた。

 

 だが、次の瞬間

 

「何?」

 

 彼の身体から発せられた圧倒的なプレッシャーに、彼女の勢いがすさまじい速度で削がれていく。それどころか、呼吸の仕方も忘れてしまったかのように、口をパクパクと動かしながら、全身の汗腺から冷や汗を垂れ流し始めた。

 その様相を見て、本当につまらなさそうにため息をついてから、時実はニコリと笑ってアイリスへと語り掛ける。

 

「そんなに怖がらなくていいよ。お兄さんがこんなことで本気で怒るわけないじゃないか。ジョークだよジョーク。ほら、これで汗を拭くと良い」

 

 そう言って時実はハンカチを差し出すが、アイリスはそれを受け取ることなく、荒い呼吸を落ち着かせてから言葉を紡いだ。

 

「結構です…… それより、早く仕事の概要を確認させていただきたいのですが、よろしいですね」

「うーん…… まあいいよ。じゃあ、作戦概要の確認から、ね?」

 

 不穏な思惑が、ゆるりと真夏の観光地を包み込もうとしていた。

 

 

*****

 

 

 

 

 何も知らない、知りえるべきでは無かった少年は、ホテルの部屋につくのと同時に猛烈な眩暈に襲われた。長旅のせいで体調を崩してしまったのだろうか、と藤次は思ったがそれもすぐに収まったので、首を傾げながらホテルからしばらく歩いた先の神社へと歩みを進める。

 先ほどの眩暈が嘘のような足の軽さに、彼は自分が少し疲れていたからああなっただけだろうと思い、あたりの自然や建物に視線を巡らせながら神社へと踏み込んだ。

 神社の中はセミの鳴き声があたりに鳴り響いているが、木々に囲まれているおかげで夏の日差しが和らぎ、清涼な空間が出来上がっていた。そして、木漏れ日が僅かに差し込んでいる光景はある種幻想的ですらあり、セミの鳴き声に交じって聞こえる潮騒の音が藤次の心を穏やかな気持ちへと誘っていく。

 

「なんというか、神聖な空気っていうのを感じるな…… ここでも一枚、写真を撮っておこうかな」

 

 そう呟いて、藤次はスマートフォンを取り出すと、その光景を写真に収める。

 

「あ、そうだ。そろそろ撮った写真をあいつに送ろうかな。あいつも来たがってたわけだし」

 

 そう言うと、彼はスマートフォンからSNSを用いて今まで撮った写真を送り、『神社なう』というメッセージも合わせて送った。すると間もなくして、返信が返ってくる。

 

「え、返信はっや。あいつにしては珍しい」

 

 目を丸くしながらそんな言葉を紡ぎ、藤次はその内容に目を通した。

 

「えっと何々…… 受験戦争に負けないように、お供え物を備えて神様にお祈りをささげていくと良い……? 余計なお世話だよ、あの野郎」

 

 顔に苦笑を滲ませながらそんな言葉を紡ぐと、彼は何かを探るようにごそごそと鞄の中を漁り始めた。そして飴玉を一つ取り出すと、それを眺める。

 

「さすがにこれはまずいよな…… 神社のお供えって、基本的に野菜のイメージがあるし……」

 

 先ほどの言葉とは裏腹に、しっかりとお祈りとお供えをしていく気はあるようで、藤次は悩まし気な表情になった。そのことについて、SNS越しに彼が友人に相談を送ったところ、『どんな神様でも、基本的にはお供え物が無いよりはあった方が嬉しいものだから、へーきへーき』と返信が帰ってくる。

 

「それは、そう、なのかな……?」

 

 少しばかり疑わし気に首を傾げる藤次だったが、意を決したように顔を引き締めると、飴玉をお供えとして供えて彼は両手を合わせた。

 

「受験戦争に勝ち残れますように」

 

 そんな彼の背後から、老女の声が響いた。

 

「あら、若い子が珍しいねぇ」

 

 その声に藤次が振り返ると、一人の老婆が杖を突きながらそこに佇んでおり、穏やかな微笑みを浮かべていた。そんな老婆に藤次もまた、笑顔で言葉を返した。

 

「ああ、こんにちは。実はこの島に旅行に来てるんですが、受験が近いのでそのお祈りに、と。まあ、最初から神頼みと言うのも少し恥ずかしい話なんですが」

「あらぁ、そんなことないわよ。誰だってそんなときは祈りたくなるもの」

 

 老婆は穏やかな口調でそう言うと、藤次の隣に並んで祈り始めた。

 

「お婆さんは何を祈りに?」

「私はもうすぐ孫が小学校に行くから、そっちでうまくやっていけるようにってね。今、うちの娘と娘婿は出稼ぎに出てるから、こっちにいないことも多いんのよ。あの子も寂しい思いをしてるから、どうにも心配でねぇ…… あら、いけない。ごめんね、年寄の愚痴に付き合わせて」

「いえいえ、聞いたのはこちらですし、別にお気になさらなくても大丈夫ですよ」

 

 一方的に話していたことに気付き老婆は頭を下げるが、藤次はそんなことは気にしていなかったので、慌てて否定の言葉を放った。そして何より、先ほどフェリーでとても失礼で不躾な男と会話をしていたため、彼の心は今現在、海の様に広い状態になっている。

 そんな事情を知らない老婆は、彼の言葉を聞いて安心したように微笑んでみせる。

 

「あら、そう? 亭主にもよくお前は喋り過ぎだって言われるのだけど……」

「それはきっと、ご主人の気が少し短いだけでは……?」

「ふふふ、そうかもしれないわねぇ。あの人、結構そそっかしい所があるから」

 

 二人は和やかに言葉を交わしながら、祈りの為に合わせていた手を降ろした。

 

「じゃあ、私はそろそろ家に戻るから、お元気でね」

「ありがとうございます。それでは…… あ、いや、ちょっと待ってください」

「あら、何かしら?」

「あの、三丁目にある定食屋がおいしいって聞いたんですけど、そこってなんてお店か分かりますか?」

 

 その言葉を聞いた老婆は、目を丸くして驚いて見せる。そして、すぐに目を細めて微笑むと、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

 

「運がいいわね。その店、多分亭主の店の事よ」

 

 その言葉を聞いて、今度は藤次の方が目を丸くしてしまう。そんな彼の表情を、老婆は楽しそうに微笑みながら見つめるのであった。

 

 

 



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感染する悪意のマリオネット症候群  第三話

 

 何処となく嬉しそうに微笑んでいる老婆に後ろについて、藤次は頬をポリポリと掻きながら緩やかな傾斜の道路を歩いていく。かつり、かつりと言う杖の音をただぼんやりと聞きながら。そうしているうちに、定食屋の暖簾を下げている建物が見えてきた。

 

「あそこがそうですか?」

「ええ、そうよ。向かい側にキャバクラがあるから目印にすると良いわ。あそこの子たちもうちの常連よ」

「あ、そうなんですか?」

「ええ、お客様は神様ってよく言うでしょ。よそはどうか知らないけど、うちの島じゃ珍しいことでもないわ。地元の漁師さんも、そこで出会って結婚をしたっていう人が結構いるもの」

「ほえー すごいですね! 今度行ってみようかな」

 

 なんとなく、キャバクラといった場所に引け目を感じていた藤次だったが、そう言った話を聞いていると身近に感じてくる。そんな若者の心のうつろいなど、長い時を生きてきた老婆にとっては手に取るように分かるのだろう。クスリと微笑みながら、「若いわねぇ」と言われて彼は顔を少し赤くして頭を掻いた。

 

「あはは…… お恥ずかしい限りです。それに、まだ未成年なので、よくよく考えたらまだいけないですね」

「人生みな経験よ。若いうちはそのぐらいの勢いがあった方が物事がきっとうまくいくようになるもの」

 

 老婆はニコニコと微笑みながら、そんな言葉を紡ぎ出した。

 

「あら、大分曇ってきたわ…… 予報では今日は一日中晴れるって言ってたのに……」

「ありゃりゃ、せっかくの旅行ですし、晴れて欲しいんですけど」

 

 そうして話しているうちに、定食屋の扉の前までたどり着いた二人は、引き戸を開いてその中へと足を踏み入れる。

 

「ただいま。吾郎、お客さんを連れてきたわよ」

「おう、タエ。おかえり! そいつは景気が良いな。今、ちょうど客が佩けて暇だったから丁度良かった。おーい、ゲン。お客さんを席に案内してやりな」

 

 しわがれてはいるが、元気のよい男性の声が響き渡る。髪の無い、形のいい頭をパシパシと叩きながら、吾郎と呼ばれた老人はカカカっと景気の良い笑い声を上げた。

 その後ろから、小学生の低学年に差し掛かろうかというぐらいの子供が「はーい」と返事を返しながらトテトテと駆けてくる。ゲン、と呼ばれたその子供は、藤次の元へと駆け寄ってくると、ニンマリと笑ってこう言い放った。

 

「お客さん、こっちの席にどうぞ!」

 

 そんな元気のいい言葉に、藤次は小さく顔を緩ませてその背についていく。

 

「小さいのに、おじいちゃんの手伝いするなんて偉いね」

「そう? へへへ、ありがとね、お兄さん」

 

 ゲンは嬉しそうに鼻をこすりながら、藤次の言葉に照れくさそうな言葉を返した。そんな純朴な少年の反応に、微笑ましいものを感じながら、案内されたカウンター席へと腰を下ろす。

 ちなみに、藤次は先程食事をしたばかりだが、そんなことは関係ないとばかりに食欲が彼の身体を駆け巡っていた。店の中に足を踏み入れたと同時に感じた料理の匂いが、彼の食欲を大きく掻き立てたのだ。そればかりか、ぐうっと小さく腹が音を鳴らし始める。

 その音を聞いたゲンが、笑いながら彼に言葉をかけた。

 

「お客さん、そんなにお腹すいてるってお昼食べて無かったの?」

「いや、食べたんだけどね? おいしそうなにおいを嗅いでたら、こう、ね? ほら、なんというか、そんな感じで」

 

 照れくさそうな笑みを浮かべ、藤次は目を細めながら頭を掻いた。だが、そんな彼の様子に吾郎は嬉しそうに顔を歪ませる。

 

「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。ボウズ、何か食いたいもんがあるならいいな。少しだけ多めに作ってやるよ」

「あ、ほんとですか? なら、さっき知り合った人に勧められた親子丼をお願いします。そのほかにオススメがあるならそれも頂きたいです」

「そうだな…… 親子丼以外なら、とれたて車エビの酒蒸しだ。うちの自家製のタレに付け込んで食うとこいつがまたうまい! コメが何倍も進むってもんよ!」

「お、良いですね! じゃあその酒蒸しと、追加でご飯を二杯。あとは……」

 

 唇をぺろりと舐めながら、店の壁に掛けてあるメニューを真剣な表情で見詰め始めた藤次は、視線を巡らせて一品一品の名前を確かめていく。そんな獲物を狙う獣のような眼光を光らせる彼の後ろから、無邪気な声が響いた。

 

「あ、もう一品頼むならマグロの和風ハンバーグがオススメだよ! おじいちゃんの自家製ダレと合わせて食べるとおいしいんだ」

「お、なら、ゲン君のオススメもいただいてみようかな…… じゃあ、この二品と御飯、みそ汁をセットにしていただいてもいいですか?」

 

 背後から響いたゲンの声に目を丸くしながらも、藤次は深く頷きながらその品を合わせて頼むことにしたようだ。その言葉を聞いた吾郎は、ニヤリと笑う。

 

「おうともよ。ちっと待ってな。すぐにたらふく食わせてやる」

 

 そう言うと、彼は手際よく車エビやマグロを調理していく。その一つ一つの手さばきは美しく、無駄が無かった。その横でゲンがちょこちょこと歩き回りながら、皿を出したり

 そんな中、機嫌よく鼻歌を歌って料理が出来るのを待っていた藤次は、ホテルで感じた頭痛を再び感じ、眉間を抑えた。

 

「いっつ……!」

 

 一つ違うのは、先ほどよりも遥かに痛みの度合いが酷いという事だろう。藤次は椅子の上で体を小さく強張らせた。

 その様子にいち早く気付いたらしく、タエが彼の元へと駆け寄って背中を撫でる。

 

「大丈夫? 顔色が悪いわよ」

「いえ、多分旅の疲れが出ただけだと思いますし、多分大丈夫です」

 

 そう言って、藤次はタエにお礼を言おうと思い振り返り、

 

「ありがとうございまし…… え――――?」

 

 その表情を凍り付かせた。

 

 彼が顔をタエの元へと向けた刹那、机が整然と並んでいた店内が荒れ、どこか様子のおかしい男がナイフを手に握った状態で、振り返りざまにタエの喉ものを掻き切った映像が彼の目に飛び込んで来た。だが、それもすぐに立ち消え、心配そうにのぞき込んできているタエの顏が浮かび上がる。

 

「あの、本当に大丈夫?」

 

 一瞬浮かんだ光景に、血の気が引いていた藤次だったが、その言葉で勝機を取り戻した。

 

「え、ええ! 大丈夫です。本当にありがとうございました」

 

 未だに顔色が悪いが、それでも先ほどよりも幾分かマシな顔色で、彼はそう返す。そんな様子を見て、厨房にいた二人も、気づかわし気な視線を向けた。

 

「おいおい兄ちゃん。気分が悪いならあんまり無理しない方が良いぞ?」

「そうそう、今から消化のいいものをおじいちゃんに作ってもらう?」

「本当に大丈夫です。そこまで体調が悪いわけじゃ無いんですよ。まあ、こんな時こそご飯をたくさん食べて、もりもり力を付けたいですね。……白昼夢ってやつだったのかな?」

 

 藤次はそう言って、ニコリと微笑んだ。話しているうちに、彼の顔に血の気が戻り、頬に赤みが差してきた。最後に小さく呟かれた言葉は、他ならぬ彼が己自身へと言い聞かせるように紡がれたもので、それ以外の何物でも無いだろうと彼は思う。

最後の呟きは聞こえていなかったらしく、定食屋の一家は安心したように微笑んで、自分たちの作業に戻っていく。

 と、そこで定食屋の入り口が開く音が鳴り響いた。食事処という事もあって、藤次はそれを特に気にすることもなく、さっと出されたお冷を口に含む。先ほどの生々しい白昼夢を忘れるために。

 だが、彼以外の面々がゆるりと入口の方へと顔を向けたため、藤次の脳裏に先程の白昼夢の光景が浮かび、背筋に冷や汗が流れた。

 

「いらっしゃい。えらい別嬪さんが来たもんだ」

 

 吾郎のそんな言葉に、藤次は自身の考えがただの杞憂であると知って、入り口に視線を向ける。そこにはどこかで見たことのある金髪の女性が立っていた。

 

「あれ、フェリーで会った……」

「あの時ぶつかった歩きスマホの人」

 

 思わず藤次が上げた声に、金髪の女性も少し目を丸くして辛辣な言葉を返す。

 

「お、知り合いかい? なら、こっちで飯を食いながら俺の話し相手になってくれないかい? 食いしんぼうの兄ちゃんと、別嬪さんがいるってんなら飯を作るテンションも上がるってもんよ」

 

 その言葉に、藤次と女性は顔を見合わせた。

 

「「まあ、そっちの人が良いなら」」

「なら、決まりだな」

 

 異口同音に紡がれた言葉を聞いて、吾郎は面白そうに大笑することとなった。

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第四話

 

 金髪の女性は、藤次の隣の席に座るとメニューをざっと見て何を食べるか考え始める。そして彼女は悩まし気な表情で言葉を紡いだ。

 

「迷うわね…… ごめんなさい、少しいいかしら?」

「おうとも、何だい。嬢ちゃん」

「オススメは何かしら?」

「それだったら、そっちのボウズが頼んだのが俺とうちの孫のオススメになるな。ちょうど、今作ってるのがそれだ」

 

 吾郎の言葉に、女性は彼の手元を覗き込んだ。すると、彼女の目がきらりと光る。そして、にこやかに微笑みながら、彼女は小さく頷いて言葉を紡いだ。

 

「なら、私もそれを頂こうかしら。調理中だけど、とてもおいしそうだし、何よりいい匂いがしてお腹が減ってきちゃったもの」

「おう、そうかいそうかい! そっちのボウズといい、嬢ちゃんと言い、料理人冥利に尽きることを言ってくれるじゃねえか。まってな、アンタら二人の飯を、うんとよりを掛けて作ってやるからよ。まってな、そっちの兄ちゃんが注文したもんと一緒に作っちまうからよ」

 

 吾郎は心底嬉しそうに笑いながら、手さばきを速くしていく。素早く手を動かしているが、その一つ一つの行程における精度は一切落ちておらず、熟年の技術を感じさせるものだった。

 それを傍から眺めながら、藤次は隣にいた女性に少しだけ申し訳なさそうに言葉を紡いだ。

 

「フェリーでの件はすいませんでした」

「あら、いいのよ本当に。あの時言った通り、私も少し考え事をしてたからお互い様よ」

「いや、でも第一印象が歩きスマホの人ってなんかあれじゃないですか。やっぱり気にしてたのかなぁ、と」

 

 女性の言葉に対し、彼は眉を下げて困ったように言葉を返す。それを聞いて、彼女は少し目を丸くした後、クスクスと悪戯っぽく笑いながらさらに言葉を返した。

 

「ふふ、そんなことないわよ。流石に穿って考えすぎじゃないかしら」

「そう言ってもらえて安心しました。えーっと…… お姉さん」

「エレインよ。流石にお姉さんって呼ばれるような歳でもないし…… あ、自分で言ってて悲しくなってきたわ」

 

 エレインと自身の名前を名乗った女性は、自ら紡いだ言葉に遠い眼をしてため息をついた。

 その言葉を聞いた吾郎は、不思議そうに首を傾げながら言葉を紡ぐ。

 

「あれ、嬢ちゃんそっちのボウズと同じくらいの年齢じゃないのか?」

「ちょっと、吾郎! 女の子に歳を訪ねる物じゃないわよ」

 

 流石に、自分の伴侶という事を差し引いてもその言葉の無神経さには語調を強くしたらしく、藤次とエレインの背後からタエの鋭い声が響いた。

 突如として響いた鋭い言葉に、吾郎のみならず、二人も僅かに体を強張らせて苦笑を浮かべる。

 形のいい頭を撫でまわしながら、己の伴侶に向けて彼は引き攣った顔で笑った。

 

「は、ははは…… まあいいじゃねぇか。そんな細かいこときにするもんじゃない。そうだろう、ゲン」

「ちょ、おじいちゃん! 俺を巻き込まないでってば!」

 

 被害を拡大させようとした吾郎に対し、ゲンが酷く迷惑そうな声と表情で僅かに身を引いた。まさに四面楚歌と言った様相で、彼は参ったように視線をさまよわせる。

 武士の情けか、その情けない姿を出来るだけ視界に移さないようにしながら、藤次とエレインは言葉を交わし始めた。

 

「あ、そう言えば僕の名前を教えてませんでしたね。並木藤次って言います。エレインさんはどうしてこちらに?」

「えっと…… 知り合いがここのお店の味が最高って言ってて、休暇にかこつけて来てみたの。まとまった休みが久しぶりに取れたから、こう言った長閑なところでゆっくり体を休めたいとも思っていたのもあるけれどね」

「久しぶりのまとまった休みって…… 普段はどんな仕事を?」

「医療関係の仕事をちょっとね…… やりがいのある仕事だけど、休みが中々取れないのよね……」

 

 エレインはそう言って小さく苦笑を浮かべた。彼女は事実として自身の仕事に誇りを持っていたし、やりがいも感じてはいるが、それ以上に休みが取れない、或いは休みが取れないほどけが人や病人が発生する事実にそうならざるを得なかったのだ。

 藤次はその表情から、込められた想いすべてを読み取ることは出来なかったが、それでも感じ入るところがあったらしく、小さく目を細めた。

 

「まあ、やりがいがあるならいいんじゃないですか。それだけ、それに打ち込めるってことですし、命を助ける仕事をするっていうのは、それだけでもすごいことですから」

「そうね…… そう言ってもらえると嬉しいわ」

 

 紡がれた言葉に対し、エレインは小さく微笑みながらそう言った。

 なお、そんな風に真面目な会話をしている二人の近く、といってもカウンター越しではあるが、未だに吾郎がタエの小言の雨にさらされている。その中でも、一切調理の手が緩むことが無いのは流石としか言いようが無いが、いい加減疲れてきたのか視線だけで客である藤次とエレインに助けを求め始めていた。

 流石にここまでくると、無視するのもかわいそうになってくるので、二人は小さく顔を見合わせた後、ゆるりと言葉を紡いだ。

 

「そう言えば、あとどのくらいで料理が出来そうかしら?」

「あ、それ僕も気になっていました。もう、お腹がぺこぺこで」

 

 二人が出した助け舟に、これ幸いと吾郎は乗ることにした。

 

「あ、ああ、もうちょっとでできるから待ってな。ほら、タエもお客さんの前だし、あんまり目くじらをたててくれるな」

「そのお客様に失礼な事を言ったのは、貴方でしょう…… でもまあ、いつまでもぐちぐち言ってても仕方ないわよね」

「……ようやく終わった」

「何か言った?」

「いやいや、何も言ってねぇよ! ほら、ちょうど出来上がった。ボウズ、おまちどう! ついでにおしぼりも渡しておくな。嬢ちゃんの方はもう少しだけ待っててくれよ」

 

 タエの鋭い言葉に吾郎は誤魔化すように大声を出しながら、出来上がった品とおしぼりをを藤次の元へと差し出した。

 それを受け取った藤次は、おしぼりで手を拭うと「いただきます」と言って、まず車エビの酒蒸しを一口食べる。瞬間、彼の口の中に豊潤な香りと車エビの甘みが広がり、身のぷりぷりとした感触が噛むたびに伝わってきた。

 

「おいしい!」

 

 藤次は目を輝かせながら、次々と酒蒸しを口の中へと運ぶ。そして、それなりの量があった酒蒸しをぺろりと平らげてしまった。その驚異的ともいえる食事のスピードに、周りにいた面々は目を丸くしてその様子を眺める。

 だが、彼の箸は止まることを知らず、次の獲物へと標的を移した。魚肉を叩いて作られたハンバーグへと。まず、箸をそのハンバーグへと差し入れ、小さく分ける。その一欠けらを口に入れて咀嚼すると、程よい肉汁と、魚独特の匂いを感じさせないために入れられたであろう具材の青物が程よい食感のアクセントを生み出し彼の口の中で混ざり合った。

 そこに、一緒に頼んでいたご飯を掻きこみもぐもぐと咀嚼する。米を焚くこと一つをとってもこだわっているのか、しっかりと立っているコメの食感と甘みが口の中に広がり、それがさらに食欲をそそった。

 

 と、そこで藤次はハンバーグと一緒にだされたタレと大根おろしに目を付ける。

 

「そうだ、これもつけないと……」

 

 熱病に浮かされた患者のような様相でそう呟くと、彼はそれらをハンバーグの上に一緒に掛けた。そしてもう一口、タレと大根おろしを上からかけたハンバーグを咀嚼する。

 元から脂身の少ない所を使っていたのか脂っこい感じの無い肉質に加え、さっぱりとした大根おろしと少し濃いめの味付けのタレ。総合的にみるとあっさりとしており食べやすく、さりとて少し濃いめの味付けのおかげでご飯が次々と進んでいく。

 そして、最後に残るのはお勧めされていた親子丼だ。一口噛めば、口のんかに広がるふんわりとした卵と、鶏肉の食感がまた素晴らしい。そして、味付けはシンプルな醤油ベースの中に、酒と何かのだしを使用しているのか、旨みと香りが絡みつき、藤次の食欲を駆り立てる。

 

 一品一品の料理のおいしさが、彼の理性を刈り取り、すさまじい勢いですべての料理を平らげていった。

 そして、彼が正気に戻った時、その目に移ったのは空っぽになった器だけ。その段になって、ようやく彼は自身が出された料理を完食したという事実に思いあった。

 

正直なところ、藤次はまだまだ食べたりないと感じていたが、自身の財布の中身を考慮して、ぐっと食欲を堪える。そして、ぱちんと手を合わせて、こう言った。

 

「ごちそうさまでした」

 

 少し名残惜しさを感じながら静かに両手を合わせ、藤次はそう言って箸を置く。時間にして、数分にも満たない時間で、それなりの量があった料理をぺろりと平らげてしまった。

 その様子を横から見ていたエレインはどこか呆れたように言葉を紡いだ。

 

「食べるの速すぎじゃないかしら…… なんというか、昔の知り合いを思いだすわ」

「そうですか? おいしいとつい箸が進んじゃって……」

 

 藤次は少し照れくさそうに頭を掻いた。自分が大食漢のきらいがあることは分かっていたつもりだが、それを改めて人に言われると恥ずかしいのだろう。

 そんな彼の様子をゲンはまじまじと見つめながら言葉を紡ぐ。

 

「その細い体のどこにそんなに入るの? さっきも食べたばっかりって言ってたのに……」

「そういわれても…… 胃袋としか言いようがない気がするなぁ」

「いや、それにしてももうちょっとふつうお腹がでたりするんじゃ……」

 

 まるで妖怪でも見たかのような視線に、藤次はポリポリと頬を掻いた。そう言われても、昔から大ぐらいなのは変わらないことであったし、それであまり腹が膨れたように見えないのも幼いころからそうだったのだから仕方がない。

 本当はまだ食べたりないが、今、まだまだ食べられるといったら、絶対にドン引きされるという自信が藤次にはあった。故に、彼はそっと口を噤んで時が過ぎるのを待つ。

 そんなやり取りの最中、料理が配膳されていたエレインも中々の速度でそれらを平らげていた。ゲンはそちらに視線を向けると、また呆れたような表情になる。

 

「そっちのお姉さんも食べるの早いし……」

「あら、そう? まあ、私の場合仕事の関係上、早く食事を済ませたいっていうのがあるから、多分それのせいね。そっちの彼みたいにたくさん食べているわけでも無いし、常識の範囲内よ」

「そっちのにお兄さん、すごい食べっぷりだったからねぇ」

 

 ゲンはうんうんと頷きながらそんな言葉を紡いだ。それに対して、藤次は少しばかり首をひねる。

 

「そんなに非常識な量を食べてますかねぇ…… 僕の友人はこの倍以上は軽く食べるんですが……」

「あ、貴方の友人は、もっと食べるのね…… 生物学的に、胃袋がどうなっているのかがすごく気になるところだわ」

 

 そう言いながら、エレインはちらりと彼の食べたご飯の量を思い返す。酒蒸しとハンバーグだけで、計五杯程のご飯を頬張っていた。それも、大盛のものを。さらには、親子丼まで平らげたのである。その倍、という事は大盛のご飯を十杯は軽く平らげると言う事だ。

 

「貴方の友人はフードファイターか何かなの?」

「将来的に、そう言った道も考えているらしいですから、ある意味正解かもしれません」

 

 大喰らいを絵に描いたような友人の姿を思い浮かべ、藤次は小さく苦笑を浮かべる。その姿はフードファイターと言うより、食べ物を吸いこむ掃除機と言った方がよほど正しいのではないかと思わせるもので、おおらかな性格をしている彼ですら、少しばかり引いてしまうほどのものだった。

 

「本人曰く、つい食べ過ぎちゃうそうですが、それにしてもあれは…… うん、ちょっと引きますね」

「そ、そうなんだ……」

 

 話を聞いていたゲンは「おおぐらいってすげぇ」と口の中で呟いて、藤次が平らげた料理の皿を下げていく。そんな中で、

 

「そう言えばお兄さん、さっき具合悪そうだったから、そっちのお姉さんに見てもらったらいいんじゃない? お姉さんはお医者さんなんでしょ?」

「あら、藤次君、貴方具合が悪かったの? 少しだけ見させてもらってもいいかしら」

 

 医者と言う職業柄、病人の疑いがある人間を放って置けないのか、ゲンの言葉を聞いたエレインは目の色を変えてぬっと身を乗り出した。

 それに対して藤次は狼狽する。エレインは顔立ちの整った美女と言っても差し支えの無い女性だ。そんな女性に身を寄せられて、ドギマギしないほど女性に免疫があるわけでも無い。

 単なる医療行為と分かっていても、ほんのり顔が赤くなっているのは若さ故か、男の性故か。どちらにせよ、藤次が気恥ずかしさを感じているという事に変わりはない。

 そんな彼を、定食屋の一家はニヤニヤと笑いながら見つめていた。

 

 なるほどいい性格をしている、などと藤次は現実逃避をしながら白目を剝いてしまう。そんな中でも一切躊躇することなく、エレインは彼の容体を確認していく。

 

「見たところ、容体にこれと言って変わったところは無いわね。少し血の気が引いた痕跡があるけど、至って健康体だと思う、わ……?」

 

 そこまで言って、彼女は言葉を濁らせる。そして、その瞳を大きく見開いて、藤次の肩をすさまじい力で押さえつけた。

 

「あ、あの…… エレインさん、どうかしましたか?」

「少し動かないで…… 外部からの…… 元の素養に影響して…… でも、ほとんど影響が出てない…… しかも、これは…… でも、一体だれがこんなことを」

 

 呟かれた言葉の一つ一つの意味は藤次には分からないが、エレインの深刻な声色と表情が、途轍もなく嫌な予感を駆り立てる。その張りつめた空気に、定食屋の一家も何事かと目を見開いた。

 どこか重苦しい空気の中、エレインがゆっくりと口を開く。

 

「貴方は……」

 

 しかし、それはすさまじい勢いで開かれた扉の音で遮られることとなった。

 店の中にいた全員がそちらを振り返ると、うつろな目をした男がゆらりと体を揺らしながら佇んでいる。その男の顔を見た藤次は、その両目を大きく見開いた。

 先ほどの白昼夢で見た、タエの喉元を切り裂いた男と寸分たがわぬ姿をしていたからだ。

 

 

 

 

 かくして、並木藤次の人生の中で最悪の一日が、緩やかに幕を開けた。

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第五話

 

「おいおい、どうしたロクさん! そんなふらふらで、大丈夫かい?」

 

 その男はロクと言うらしく、どうやら定食屋の一家の知り合いらしい。だからこそ、その様子のおかしさを訝しんだ吾郎が、心配そうに声を掛けた。

 だが、その言葉にロクと呼ばれた男は僅かにうめき声をあげるだけで、ゆっくりと歩いて藤次たちの元へと近づいてくる。その様子を見て、もっともロクに近い場所に居たタエが見かねたのか、杖を突き名が近づいていった。

 

「ダメだ! おばあさん!」

 

 先ほど見た白昼夢。その光景が頭にへばりついて離れなかった藤次は声を荒げて、彼女へと静止の声を投げかけた。それと同時に、彼は椅子を蹴り飛ばすようにして立ちあがり、ロクとタエの間に体を滑り込ませる。

 それと同時に、ロクは隠し持っていたナイフを取り出し、振りぬいた。咄嗟にそれを防いだ藤次の左腕から鮮血が舞い散り、歴史を感じさせる店内の壁紙へと飛び散る。

 

「っつぁ!」

 

 経験したことのない痛みに、彼は思わず悲鳴を上げる。だがそれも、あまりの痛みにすぐに立ち消え、藤次は脂汗を流しながら歯を食いしばった。

 永遠にも感じられるような刹那の静寂。だが、それはすぐに怒号と悲鳴の中に消え去った。

 タエはよろりとよろめきながら、その場に釘付けになってしまい、吾郎はそんな彼女に声を荒げて「逃げろ」と叫びながら、恐怖に引き攣った顔で皿を取り落としたゲンを後ろ手に庇うように、ロクのいる場所から遠ざけようとしていた。

 

 場を混迷と混乱が駆け抜ける中、ロクはすさまじい力で藤次に掴みかかると、そのまま彼の首めがけてナイフを滑らせる。

 

「―――――っ!」

 

 声にならない悲鳴を上げながら、藤次は傷ついていないもう片方の腕を強引にナイフの軌道に滑り込ませようと必死に体を動かした。しかし、痛みで強張った体は思うように動かず、やけにゆっくり流れて見える光景に彼は防御が間に合わないと死を覚悟する。

 咄嗟に体を滑り込ませてしまったが、そのせいで命を落としかけているという現状に、藤次はどこか他人事のように自嘲した。そのくせ、先ほど自身が見た光景を認められないと、気に食わないと思って飛び出してしまったのだから手に負えない。

 だが、死を覚悟しても生を手放した訳ではない。少しでも受ける傷を浅くしようと、身体も彼が出来る限界まで捻る。無駄なあがきかと思われた彼のその行動は、

 

「どきなさい!」

 

 定食屋の中に居た面々の中で、唯一動けていたエレインの行動により結実した。彼女は藤次めがけて一度目のナイフが振るわれた時点で素早く跳躍。その勢いを乗せ、強烈なドロップキックを繰り出したのだ。

 その細身の身体からは想像できないほどの威力を持ったそれは、ロクの肉体を店外へとはじき出した。

 

「大丈夫?」

「え、ええ…… ありがとうございます。おかげで助かりました」

 

 流血と恐怖によって完全に血の気が引いているが、しっかりとした声色で藤次は返事を返す。その言葉を聞いて満足そうな表情をしながらも、エレインは店の外から視線を外さない。

 

「あの人、明らかに正気をなくしてるわね。普通なら、痛みと骨折でもう立てないくらいのダメージを与えたのに、あの通りよ」

 

 そう言って、エレインが顎で指示した方へと視線を向ければ、明らかに腕が曲がってはいけない方向に曲がっているのに、まるで痛みを感じていないかのようにゆらりと立ち上がった。

 

「右腕の複雑骨折、足の骨に罅、あばらも三本折れている。普通の人間なら、痛みで起き上がることすら難しい重症、なのに立ち上がってくるなんて異常の一言。まったく、何処の誰が仕掛けてきたのかは知らないけど、私の目の前で、一般人にあんなことをさせるなんていい度胸してるじゃない」

 

 そう言ったエレインの表情は、静かな怒りに染め上げられている。触れれば切れてしまいそうな冷たさを湛えた彼女の気配が、藤次には重傷を負ってなお立ち上がりこちらに向かってくるロクよりも恐ろしく思えた。

 

「あの男は私が鎮圧するけど、貴方は出来るだけ傷口を強く圧迫して出血を抑えてなさい。今、あれを鎮圧するまでは安心して治療が出来そうにないわ。まったく、とんだ休日ね…… 札の類も持って来れば良かったわ」

 

 最後にぼそりと呟かれた言葉は、藤次の耳に届くことは無かったが、それでも止血の指示を受けてコクコクと頷きながら後ろへと下がる。ナイフを持った男相手に、平然とした態度を貫く彼女の姿に気圧されたのだ。

 だが、彼の戸惑いを置き去りにしてエレインは素早くロクの元に接近すると、迎撃のために振り下ろされた左腕をするりと躱して背後に回り込み、袖口から細いワイヤーを取り出した。そのワイヤーは、まるで生き物のようにするりとエレインの手の中で蠢いたかと思うと、次の瞬間、ロクの手足に巻き付き拘束せしめた。

 そのあまりにも鮮やかな手技に、藤次は怪我をしていることを一瞬忘れてしまうほどの驚嘆を覚える。しかし、すぐにぶり返した痛みが彼を現実へと引き戻した。

 ロクを拘束し終えたエレインは痛みに呻く藤次の元へと駆け寄ると、すぐにその傷の状態を確かめ始める。

 

「結構深く切られてるわね…… 一応消毒するから、焼酎を貰えるかしら?」

「お、おう! 分かった」

「なら、タエさんは一応、警察への連絡を」

「わ、分かったわ……」

 

 一通り傷口を見聞した彼女は、店の奥でゲンを庇うようにして立っていた吾郎と、未だ体を硬直させていたタエに向けてそんな言葉を投げかけた。それを聞いて正気を取り戻したのか、二人は指示された通りに動き始める。

 それを見届けるとエレインは、おしぼりを包帯代わりに使えるサイズまで引き裂いた。

 

「普通に治療するなら縫合するのが一番いいんだけど、とりあえず応急処置だけしておくわね。流石に麻酔無しで縫うのは嫌でしょう?」

 

 そう言ったエレインは酷く口惜しそうな表情になりつつも、吾郎から差し出された焼酎を受け取り、それを藤次の傷口へと豪快にぶっかけていく。その消毒の荒々しさは、目の前にいる患者にしっかりとした治療を施せないもどかしさを感じたものなのか、

 

「いだだだだ! 染みる、染みてます!」

「消毒してるんだから当たり前よ。ほら、次は傷口を縛るからもっと痛いわよ」

 

 エレインは淡々と言葉を紡ぎながら、すさまじい速度で傷口へ処置を施していった。流石は医療関係者と言うべきか、その手際は鮮やかで無駄が無い。しかしながら、恐ろしい程の力で傷口を締め上げられている藤次はたまったものでは無く、痛みに悶えながら脂汗を流した。

 

「も、もうちょっと優しくしてもらえたりとかは……」

「優しく縛って、失血の量を増やしたいのかしら?」

「あ、何でもないです……」

 

 返ってきた言葉の容赦のなさに、藤次の抗議は一瞬で封殺されてしまう。素人目に見ても相当な量の流血をしていたので、これ以上の流血は流石にまずいかもと彼も感じたのだ。

 患者が納得したのを確認すると、エレインはテキパキと処置を終えていく。

 その最中で、エレインは電話を掛けているタエに向けて言葉を投げかけた。

 

「タエさん。警察には連絡がついたかしら?」

「そ、それが…… 何度かけなおしても繋がらないの……」

「何ですって?」

 

 エレインはその言葉を聞いて、素早く自身のスマートフォンを取り出して電波状況を確認し始める。だが、そこに表示されたのは電波が出ていないことを示すアイコンのみだ。それを確認した彼女が小さく舌打ちした。

 

 それと同時に、

 

「な、なんだ⁉」

 

 すさまじい爆音が立て続けに響き渡った。

 

 

 

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第六話

 

 突如響いた爆音に、一同は身を強張らせる。だが、エレインだけが目を大きく見開いて、その爆音の意味に真っ先に気が付いてしまった。

 

「まずい…… 港の方からだわ.船を潰された」

 

 エレインの静かなつぶやきに、真っ先に反応したのは藤次だった。

 

「連絡も出来なくて、船も潰されたんだとしたら、この島は完全に外部との連絡手段が断たれたってことになりますよね……」

「ええ、悪い冗談だと言って欲しいくらいよ。でも、まだ最悪の事態ってわけじゃないわ。最悪の事態っていうのは……」

 

 エレインはそう言いながら視線を通りの先へと向ける。藤次も傷口を抑えながら店の入り口から顔を覗かせ、彼女の視線の先を追うように通りを見渡すと、その表情を凍り付かせた。

 そこには、先ほどのロクと同じようにうつろな目をした男たちが、ゆらりと体を揺らしながら手に凶器をもって通りを横切っていったからだ。

 

「ああいうことを言うのよ」

「あれって!」

「ええ、この人と同じでしょうね。店の中に戻るわよ。あいつらがこっちに気付く前にね」

 

 そう言って、エレインは拘束したロクを店の中へと引きずり込んだ。それと同時に、吾郎目掛けて言葉を投げかける。

 

「このあたりで、立てこもれそうな頑丈な建物に心当たりはある?」

「お、おい! なんであの人たちまでロクさんと……」

 

 多少は動揺が残っているようだが、それでも努めて冷静さを保ちながら状況を確認しようとしている吾郎に向けて、エレインは人差し指を口元で立てる。

 

「静かに。今から言う事がどれだけ悪いことであっても、冷静さを保って頂戴。これはここにいる全員に言っているわ」

 

 そう言ってエレインは、店の中にいる一人一人の人間の顔を見回した。その中でも、最も若く動揺が激しいゲンの近くにしゃがみ込み、彼女は静かだが、力強い声色で言葉を紡ぐ。

 

「おじいちゃんとおばあちゃんと、まだまだ一緒に過ごしたい?」

 

 その言葉に、ゲンは震えて声も出せる状態ではなかったが、力強く頷いた。それを見届けると、エレインは小さく頷いて言葉を続ける。

 

「そう…… なら、その覚悟を大事にしなさい。さっき通りの先にいたのは、ここで倒れているロクさん、だったかしら? 彼と同じ状態の人間が、凶器を持ってさっき通りを横切っていったの」

「そ、それって……」

「そう、今現在島中でそこに倒れている彼と同じ症状・・の人間が徘徊していると考えた方が良いわ」

 

 エレインの口から静かに紡がれた恐ろしい事実に、彼女以外の全員が身を強張らせた。そして、先ほどのロクの様子が頭の中でフラッシュバックする。全身に大小様々な傷を負いながらも、まるで痛みを感じていないように立ち上がり、エレインに再び襲い掛かったその姿が。

 そんな存在が島中に徘徊している。それを思い起こし、全身に冷や水をぶちまけられたかのような悪寒を感じた藤次は思わず唾を飲んだ。そして、自身に食い込んだナイフの刃を思いだす。その荒々しい振りのナイフは彼の腕を切り裂き、いや、抉り割いた。

 直に感じたその異常な膂力。ナイフで切られるなど、初めて体験した藤次ではあったが、それでもそれが異常だと判断できるほどの力をロクは持っていた。

 先ほどの出来事を思いだしただけで、応急処置を施された藤次の腕の傷がズキズキとうずく。先ほど命を失いかけたという事実を訴えかけて来るかのように。

 額に汗が滲みそうになるのを必死に堪えて、藤次は震えているゲンの横にしゃがみ込んだ。

 

「まあ、最悪明日の昼頃までどこか頑丈な建物にでも立てこもれば、フェリーが来てこの島の異常を察知してくれるし、何とかなるんじゃないかな。なりますよね?」

 

 前半は己自身やゲンに。後半はエレインに問いかけるように、祈るようにその言葉は紡がれた。

 だが、エレインの表情は硬い。

 

「そうね…… そうなることを祈るわ」

 

 その言葉に、声色に、何より表情に希望的観測の余地はない。だが、それを言及出来るほどの精神的余裕も藤次には無く、ただ小さく「そうですか」とだけ返して彼は立ち上がった。

 それを横目で見ながら、エレインは静かに言葉を紡ぐ。

 

「どちらにせよ、ここは立てこもるのに向いていないわ。早く移動しないと…… なんでこんな風に人が凶暴化するかも分かっていないもの。一応、確認しておくけどこの人は、こんなことをするような人間だった、或いは酒癖などが悪かった。なんてことはあったかしら?」

「いや、それは無い。元からかなり穏やかな人だったし、酒も飲まん。まして、犯罪に手を染めるような人間じゃあなかった」

 

 吾郎は力強く断言した。普段から付き合いがあったらしく、その言葉は自身に満ちたものだった。それだけに、ワイヤーで拘束され、ピクリとも動かなくなったロクの姿を見て、悲しそうに目を伏せた。そんな吾郎の肩にタエがそっと手を添える。

 エレインは二人が比較的落ち着いていることを確認すると、少しだけ安心したように息を吐いて言葉を紡いだ。

 

「分かったわ。それを確認できただけでも充分よ。確認したいことは確認できたわ。今から、ホテルまで移動しましょう。あそこはコンクリート製の建物で頑丈だし、周りも鉄柵で囲まれているから、立てこもるならあそこが良いわ」

「だけど、そうなると私みたいな足の悪い年寄りは足手まといになる、わよね?」

 

 落ち着いている。落ち着いてしまったがゆえに、タエが真っ先にたどり着いてしまった結論に、エレインの表情が初めて強張った。

 

「…………それは、何を言いたいのかしら?」

「私は、さっきも動けずに立ちすくんでいたでしょう? あれじゃあ、足手まといになるわ。だから、置いて行ってくれないしら。それに、私は吾郎とは違ってそこまで足腰が強い訳じゃないのよ」

 

 その言葉の一つ一つを聞きながら、ゲンは不安そうに視線をさまよわせた。幼い彼にはタエが何を言おうとしているか分からなかったが、それでも不穏なものを感じたのだろう。子供は、意味は分からずとも、こう言ったことには敏感で、どうしようもない程に悟ってしまうものだから。

 何処か悟りを開いたようなタエの声色に、何を言おうとしているのか悟った他の面々は、それぞれ表情に苦いものを浮かべた。そんな中で彼女はさらに言葉を紡ごうとする。

 

「だから私は…… ここに」

 

 残る。そう続こうとした言葉を吾郎が差止めた。

 

「結論を急ぐもんじゃねぇぞタエ。ゲンが泣いちまうだろうが」

「だけどねぇ……」

「おじいさんの言う通りですよ。もし、さっきの言葉の続きを言おうものなら、僕、怒りますからね。じゃないと僕の左腕の犠牲はどうなるんですか」

 

 藤次の言葉に、タエは怯んだ。先ほど身を挺して庇ってくれた若者の前で、命を捨てるような言葉を吐き出そうとしているという事実に思うところはあったのだろう。それを好機と見て、畳みかけるようにエレインがタエの耳元で囁いた。

 

「私は、自分から死のうとする人間が大っ嫌いなの。もし、私が考えているような事をあなたが考えているとしたら…… それで私の手元が狂って、お孫さんと家族、そしてあなたの命を救ったお客さんの命を守ることが出来なくなるかもしれないわね。冷静さを失って」

 

 その言葉を聞いて観念したのか、タエは小さく肩を落とす。そして、力なく微笑むとエレインや藤次に向けて言葉を紡いだ。

 

「お客さんたちはお人好しね…… そこまで言うなら、私たちの命貴女に預けるわ。貴女が一番この状況の中で冷静に動いていたみたいだからね」

 

 不穏な考えを捨てた様子のタエに、吾郎はホッと息をつき、状況を理解しきれていなかったゲンもそれを見て体の力を抜いた。

 藤次もそんな光景を見て安心したように表情を緩める。しかし、店の外から悲鳴が響き、その表情はすぐに引き締まった。

 

「悲鳴が近い…… 長居しすぎたわね。吾郎さん、この店に裏口はあるかしら?」

「ああ、もちろん。あるにきまってるじゃねえか。厨房の奥だ。ついてきてくれ」

 

 そう言って店の奥へと消えていった吾郎の後を追うようにして、タエの手を引くゲンが続いた。藤次もそれに続こうとしたが、ふと、エレインがロクの近くにしゃがみ込んで何かをしているのが見えたので、訝し気に振り返った。

 

「エレインさん、何をしてるんですか?」

「少し、気になることがあってね…… でもいいわ、今は時間が無いからこれだけで。行きましょう」

 

 そう言うと、彼女はさっと立ち上がる。そして、藤次と共に吾郎の後を追って店の奥へと消えていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 暗闇の中で、モニターを見回していたアイリスは満足そうに微笑んだ。そのモニターには、大欄島の各所の映像が映し出されいる。

 

「島の制圧状況は、上々といったところでしょうか。これならプロモーションとして十分な効果が望めそうですね」

 

 彼女は白髪を揺らしながら、その口唇を歪める。

 

「これなら、あの人もきっと満足してくれるでしょう。ああ、楽しみで仕方ないわ!」

 

 そう言った彼女の表情は恋する乙女、と言わんばかりのもので、頬は紅潮して実に幸福そうな笑みを浮かべていた。しかし、モニターの映像の内の一つを目にした途端、アイリスの表情は激変する。

 

「あら、あらあらあらあら…… この顔は知っています。知ってるいわ…… クロユリの医療部門統括者だもの、あの人のお気に入りですもの」

 

 モニター越しに揺れる金糸のような髪が揺れるエレインの後ろ姿を食い入るように見つめながら、彼女は狂気に染まった目をぎらつかせている。

 

「社長も人が悪い…… 知っていて島の中に足を踏み入れさせましたね。本当に、あの人って苦手です。きらいじゃあないんですけど……」

 

 しかし、冷静な思考は出来るようで、こう呟いた。

 

「まあ、いいでしょう。そんなことはどうでもいいです。殺して差し上げますよ。エレインさん」

 

 どろり、と粘ついた声で紡がれた声が、不気味な響きを持って暗闇の中へと消えていった。

 

 

******

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第七話

 

 店の裏口から息を潜めて脱出した面々は、可能な限り音を立てないようにホテルへと向かっていた。地形に明るい吾郎とこの面々の中で最も戦闘能力が高いであろうエレインが務め、中間をタエとその腕を支えているゲンが歩き、最後尾を藤次が務めている。

 あちこちで煙があがり、悲鳴が聞こえてくる状況の中で、エレインは瞳に静かな怒りと焦りを滲ませながら小さく呟いた。

 

「本当に、何処の誰のせいか知らないけど、覚悟しなさい」

 

 地を這うような声は、聞いたものの背筋を凍り付かせるような冷たさをもって紡がれた。だが、彼女は冷静になるために、小さく頭を振って息をつく。どうやら、それを聞きとがめたらしいものが居ないことに安堵しながら。

 そんな中で、吾郎と藤次は盾代わりに厨房から持ってきたフライパンを手に持ち、エレインは袖口に仕込んであるワイヤーをいつでも取り出せるように、周囲を警戒しながら歩く。その中で藤次だけは少し浮かない表情をして思考の海に沈んでいた。

 彼は先程店で起きた白昼夢と、それが現実として起こったという事実を未だうまく消化できずにいた。あれはなんだったんだろう、そんな思いが彼の頭の中を駆け巡り続けている。彼が見た白昼夢はあまりにも現実味を帯び過ぎていたし、それと寸分たがわぬ光景が繰り広げられようとしていた。

 

 藤次が少しでも飛び出すのが遅ければ、それは現実のものとなっていただろうことは想像に難くない。それと同時に、腕を切り裂かれた際に感じてしまった死の恐怖を思いだし、ぶるりと身体を震わせた。

 

 そんな藤次の手を誰かが握る。ふと、彼がそちらに視線を落とすと、ゲンが心配そうな表情で見上げていた。

 

「大丈夫?」

 

 それはとても小さく顰められた声で、ともすれば聞き逃してしまいそうなものだったが、それでも確かに彼の耳にそれは届いた。自分よりはるかに小さく、幼い子供にこんな状況で心配を掛けてしまったことに、藤次は申し訳なさを覚えた。

 

「大丈夫、ありがとう。ゲン君は優しいね」

 

 だが、それでも体の震えが止まってくれたので、彼は穏やかな表情でそう呟いて、ゲンの頭を優しくなでてやる。彼の頭に乗せた手から小さな震えが伝わってきたので、うっすらと目を細め、優しく安心させるような手つきになって。

 それでゲンも少しは安心できたのか、彼の震えもある程度収まった。それを見たタエは、藤次に目線の身で礼を告げた。それに小さく頷きを返し、藤次は再び周囲への警戒を強める。

 

「止まって」

 

 その時、先頭を歩いていたエレインが一同を制止した。

 

 彼女の視線の先には、ホテルの敷地内。そこに、身体を不自然に揺らしながら歩いている目つきがうつろな男女三人。それぞれに返り血を浴びて、身体を所々赤く染め上げている。

 そして、その足元には血だまりの中に沈んでいる一組の男女と、がたがたと身体を震わせていた。彼らが立っているのは、ホテルの入り口。戦闘は避けて通れない。さらに、ゲンが思わず声を上げてしまった。

 

「マリちゃん!」

 

 その声に反応し、凶器を手にした三名の相手はぐるりと首を回し、エレイン達を睨みつけた。ゲンはやってしまった、と顔を青褪めさせるが、それでもそのマリという少女から三人の気を逸らすことに成功する。

 それが意図したものでは無いのは確かだが、どちらにせよ敵に気付かれたことには違いない。

 エレインは目を細めながら素早くワイヤーを手繰った。次の瞬間、まるで生き物のようにワイヤーが宙を走り、三人の男女を拘束せしめる。そして、そのままワイヤーを更に手繰り、宙に釣り上げたうえで電柱に磔にした。

 

「すごい……!」

 

 その手技を見た藤次は、そのすさまじい技術に改めて舌を巻く。彼女の様にワイヤーをあそこまで巧みに操り、戦える存在などバトル漫画かラノベの世界だけだと思っていたからだ。そんなすさまじい技術をどのようにして身に着けたのかは分からないが、今はそんな技術を身に着けている彼女が藤次には頼もしかった。

 だが、そんな感心を彼はすぐさま投げ捨てた。今はそれに見惚れている場合ではないし、座り込んでいるマリと、その両親と思われる男女が血の海に倒れ込んでいる。全身に切り傷や刺し傷、果ては噛みつかれたような跡。その凄惨な傷跡と出血量を考えて、放置することなど出来なかったからだ。

 

「大丈夫ですか⁉」

 

 一同、はすぐさま倒れている男女とマリに駆け寄った。特にゲンは、マリとは知り合いらしく倒れ込んでいる男女を見て顔が真っ青になる。それでも気丈に振る舞い、自身の祖母の手を支えているのは、彼の精いっぱいの強がりなのだろう。

 タエとゲンはへたり込んで涙を流しているマリの傍によると、その背をさすりながらなんとか立たせようと手を取った。だが、彼女の視線は血まみれで倒れ込んでいる二人に釘付けになっており、動こうとしない。うわごとの様に、「お父さん、お母さん」と言葉を紡いでいる。

 そんな中でエレインは、素早く血まみれで倒れ込んでいる二人の容体を確認する。そして、自身の鞄に入っていたらしい医療用手袋を手に装着すると、残りの面々に向けてこう言い放った。

 

「貴方たちは先にホテルの中に行って! 私はこの人たちに出来るだけの処置を施してからそっちに連れて行くわ」

「だけど、そうなったらエレインさんが一人になっちゃいますよ⁉」

「いいから行きなさい。私は一人だからってやられる程やわな女じゃないわ。でも、貴方たちは違うでしょう? それに、この患者はここから動かせる状態じゃない。だから、ここで治すしかないの」

 

 エレインは藤次の言葉に、鋭くそう返した。それは事実なのだろう。だが、それでもエレインを置いていく理由にはならない。藤次はなおも言い募ろうとするが、彼女の鋭い視線に何も言う事が出来なくなった。

 

「いい? 貴方たちはホテルの中に入って、部屋に立てこもりなさい。私はまだやることがあるし、どっちにしろついていくことは出来ないわ」

 

 突き放すような言葉だった。だが、それに反論するほどの力もなく、藤次は小さく肩を落とした。その表情に苦いものを浮かべながら、彼は言葉を紡ぐ。

 

「分かりました。だけど、エレインさん一人でその二人を運べるんですか?」

「さっきそこの電柱に三人釣り上げたわよ。腕力に関してはそれで十分だと思わない?」

「そうでしたね……」

「ああ、それと、ホテルの中にさっきの奴らみたいなのが居ないかどうか、警戒を怠らないように、ね!」

 

 その言葉と同時に、エレインは路地から飛び出し、襲い掛かってきた男を近くの電柱へと釣り上げた。

 それをどこか引き攣った顔で見詰めながら、それでも心配そうな表情を消し去れない藤次だったが、踏ん切りをつけて他の面々に向き直った。

 

「エレインさんがこう言ってますし、二人は任せて先に行きましょう。ここにいても僕たちは何も出来ないし、逆に足で纏いみたいです」

「ああ、そうだな…… ゲン、マリちゃんの手を引っ張って立たせてやんな。その子も連れてってやらないと」

「うん、分かった」

 

 ゲンは吾郎の言葉にうなずいて、一旦タエの手を放し、マリの手を引いて彼女を立たせた。未だ顔色が悪く、倒れている両親に視線が釘付けになっているが、手を握られたおかげで少し安心できたのか、何とか立ち上がることが出来たようだ。

 マリは涙で赤くなった瞳で、エレインへを見つめる。

 

「お父さんとお母さん、助かる?」

 

 その言葉は、聞いたものの肺腑を凍り付かせてしまうのではないかと思わせるような響きを持っており、同時に小さな少女の絶望と僅かな希望が滲みだしている。

 エレインはそこに何を見たのか。彼女の表情に一瞬浮かんだのは、怒り、寂寥、哀しみ。そう言った感情がまじりあってその目を大きく見開いていた。

 

 それを敏感に見てとった藤次は、何故そんな表情を浮かべたのかと、心の奥底で僅かに疑問を浮かべる。

 そんな表情を浮かべたエレインだが、彼女は決して楽観的な言葉も悲観的な言葉も返さない。

 

「手は尽くすわ。でも状況が状況だからどうなるかは分からない。とにかく、貴方は他の皆と一緒にホテルに入って安全を確保しなさい。今は、自分の事だけを考えて。いいわね?」

 

 その言葉にマリは息を詰まらせるが、それでも何とか頷いて自信を起こしたゲンの手を強く握った。そんな彼女にエレインは力強く頷きを返す。

 

「ええ、今はそれでいいわ。さあ、分かったら行きなさい。私は二人を治したら、門を閉めて追いかけるから」

「分かった……」

 

 マリはなんとか声を絞り出し、返答を返した。そんな中、藤次は最後に一言だけエレインに言葉を残した。

 

「エレインさん、無理だけはしないでくださいね。さっき会ったばかりとは言え、知り合いが死ぬとか勘弁ですからね」

「分かってるわ。貴方は他の人たちをお願いね」

「はい…… 306号室で待ってます」

 

 藤次はエレインの言葉に力強く頷いて、他の面々と共にホテルの中へと消えていく。

 その後ろ姿を見送りながら、彼女はボソリと呟いた。

 

「これで、私の治療が見られる心配はなくなったわね。これで、心置きなく治療できるわ。こればっかりは緊急時とは言え見られるのはよろしくないし」

 

 そう呟いたエレインの両手が仄かに光を帯びる。ぶわりと彼女の周りの空気が押しのけられていく。

 その最中、藤次の不安げな表情を思いだし、小さく苦笑を浮かべた。

 

「それにしても、あの坊やは…… 私はあんなに心配されるほどやわじゃないわよ」

 

 その苦笑の中に穏やかな温かみがあるのは、その厚意をしっかりと理解しているからだ。だが、自身が呟いた言葉を反芻し、小さく目を見開いた。

 

「やだ…… 坊やとか言ったら、歳をとり過ぎたって実感しちゃうじゃないのよ……」

 

 彼女がそう呟きながら燐光を帯びた手を倒れ込んだ二人の傷口に向けて翳すと、その傷口がすさまじい勢いで塞がっていった。その様はまるで巻き戻された映像の様で、普通ではありえない速度での治癒が行われていく。

 だがそれは紛れもなく起こっている現実だ。夢幻の類では断じてない。エレインは霊力と呼ばれる精神と肉体に宿るエネルギーを用い、その力をもって現実に干渉する術を持つ。彼女はその中でも治癒を得意とし、現代医療における各種技能も網羅している正真正銘のプロフェッショナルだ。

 クロユリと呼ばれる機関に所属するエレインにとっては、今行っていることは日常茶飯事とも呼べる行いだ。だが、これは一般人の目に移れば、異常、不可解、不可思議なものに移るだろう。故に秘匿されなければならない。

 

 だからこそ、彼女は藤次たちを遠ざけた。ただでさえ異常事態だというのに、そんな中でこのような光景を見せられてしまえば、何が起こるか分からない。精神が追い詰められている状態で、そんな光景を見せられてしまえば、精神の針がどう動くかが分からないのだ。

 そう言った事情から、エレインは藤次の傷に対して今のような処置を施すことは出来なかったし、彼らをホテルの中に追い立てるまでは倒れている二人に処置を施す事すら出来なかった。だが、今は違う。彼女は自身が持つ現代医療の知識と、今引き起こしているオカルト染みた光景に対する知識。その両翼を、存分に振るうことが出来る。

 千切れた血管をつなぎ合わせ、避けた皮膚を塞ぎ、細胞一片一片という細かいレベルの治療を施していった。だが、その最中でエレインは小さく舌打ちをする。

 

「傷は塞げても、血が足りないわね…… 造血剤を投与しないと…… それに少し、ホントに少しだけだけど術による治癒の速度が遅いわね……」

 

 自身の行うべき治療の手順を口に出して確認しながら、彼女は注射器を取り出すと薬液の詰まったアンプルから中身を吸いだした。そして、その薬液を吸いだした注射器を倒れている二人の血管に向けて突き刺し、中身を少しずつ流し込んでいく。

 処置の際、医療部門の統括者である彼女のレベルだからこそ気づけた違和感に、眉を顰めながらも。

 そうこうしているとようやく容体が安定し、マリの両親の顏に赤みが差してきた。

 

「これなら、動かしてもよさそうね。あの子たちを追いかけないと…… 流石に、違和感の原因を調べている時間はなさそうね。後は包帯を巻いて元の傷口を隠してっと」

 

 そう言って軽く処置を施すと、エレインは藤次たちが消えたホテルへと視線を向ける。

 

「中が安全、とも限らないし…… 無事でいなさいよ」

 

 そう呟くと、彼女はホテルからいったん視線を切って、くるりと踵を返した。

 己の為すべきことに向き合うために。



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感染する悪意のマリオネット症候群 第八話

 

 エレインを置いて先にホテルの中へと踏み込んだ一行は、荒れ果てたロビーを見て絶句することとなった。椅子や机などが倒れ、或いは完全に砕けた状態で散らばっており、ところどころに血の跡が見られる。

 

「荒れてるな。でも、死体が無い……?」

「それでも、荒れてるっていうことはロクさんやさっきの三人みたいになってるやつらがいるって事だろう? あんまし油断するんじゃねぇぞ、ボウズ」

 

 吾郎はそう言って、油断なく視線を巡らせる。その通りだと思って、藤次もまた気を引き締めた。

 

「ボウズ、アンタの部屋は何階の何号室だ?」

「三階の306号室です。三階にありますが、この状況でエレベーターを使うのは……」

「よろしくねぇな…… タエの足に無理させちまうが、階段で上に行くしかなさそうだぞ」

 

 そう言いながら吾郎は、二つある階段の方へと視線を滑らせる。そちらの方にも血の跡が続いており、決して安全とは言い難そうな状況だ。それでも、敵と遭遇した時のリスクを考えれば、階段を登らざるを得ない。停電でエレベーターが止まる可能性もあるし、エレベーターのついた先で敵と遭遇した時に逃げ場が殆どないという欠点もあるからだ。

 少し動くのにも、膨大なリスクを伴うこの状況では、僅かな判断ミスが命取りとなる。移動手段一つ、移動経路一つといった小さな要素が、自身の命運を分けるというのだからたまったものでは無い。

 じっとりと汗がにじむのを感じつつも、藤次は二人の子供と老婆に視線を向ける。

 

「みんなもそれでいいですか?」

「ええ、私はあなたたちの判断に任せるわ」

「俺も、それでいいよ」

「私も……」

 

 それぞれが硬い表情で、頷きを返す。それを確認した藤次は吾郎と視線を合わせると深く頷きあった。

 

「じゃあ、さっきと同じで吾郎さんが一番前、僕が殿を務めます。僕の部屋へは…… あっちの階段の方から登ったほうが近いです」

「おう、分かった。後ろは任せたぞ、ボウズ」

「腕がこれじゃなきゃ、先頭を歩いてたんですがね」

「そう言うな、そいつはうちのタエを助けるために折っちまった傷なんだ。その分、俺がきっちりと働いてやるからよ。心配すんな」

 

 吾郎はドンと胸を張ってそう言うと、階段の方へと歩き出した。一行はその背についていく形で移動を開始する。そして、階段の前まで差し掛かったところで、吾郎は慎重に身を乗り出して、その先に視線を巡らせた。

 

「大丈夫、階段には奴らはいないみてぇだな…… よし、行くぞ。ゆっくり、音を立てないように」

 

 吾郎のその言葉に従って、一行はゆっくり階段を上っていく。

 普段なら何とも思わないような距離が途轍もなく遠く感じられる。体がしっかりとしている藤次でさえそうなのだから、足腰の弱いタエにはとても辛い道のりなのだろう。彼女の額にはうっすらと汗がにじんでいた。

 そんな彼女と精神的に追い詰められているマリを気遣うように、ゲンは二人の手を握っている自身の両手に力を込めている。少しばかり力がこもり過ぎているのは、他ならぬ少年自身の不安なのだろう。

 そんなゲンを安心させるように藤次は後ろから小さなな声で言葉を掛けた。

 

「後ろと前は大丈夫だから、ゲン君は安心して二人の手を握ってて」

 

 突如かけられた言葉に、ゲンは少し驚いたような表情になるが、それでもどこか安心したような表情になって頷いた。そんなゲンに笑顔を返しながら、藤次はさらに言葉を続ける。

 

「まあこの子、頼りがいのあるナイスガイなんで、二人も安心してこの子を頼ってあげてください。短い付き合いの俺でも分かるんですから、二人はもっと分かっているでしょう?」

 

 ホテルまでの道中で、他ななぬ藤次自身が励まされたからこその言葉。それは、確かな力をもってタエとマリの心に染み込んでいった。そして、彼女らもゲンの手を力強く握り返す。

 

 言えることはすべて言えた。

 

 藤次はそう思いながら、階段をゆっくりと上がっていく。これ以上今は出来ることもないし、あまり話に集中して周囲の警戒が疎かになるのもよろしくはない。

 

 そしてゆっくりと歩いて行くうちに、一行は三階の踊り場までたどり着いた。だが、そこで先頭を歩いていた吾郎ができうる限り押し殺した声で一同に静止を掛ける。

 

「まて、やつらだ……」

 

 その言葉に、緊張が一気に高まった。よりにもよって三階、藤次がとった部屋のある階で足止めをくらったとあって、一同の顔に苦い者が走る。

 吾郎は通路の先に視線を外さないようにしながら、背後にいる藤次たちに向けて言葉を紡いだ。

 

「どうする? 一階に戻って、別の部屋の鍵を盗ってくるか?」

「もし、部屋の中に立てこもっている人間が居たら、ろくなことにならないと思います。この状況で部屋の扉が勝手に開いて、入ってきた相手に心穏やかでいられる保証なんてありませんから。他の部屋はそうなる可能性が少なからずありますが、それでもいいなら」

 

 藤次がそう返すと、吾郎は眉を顰める。

 

「それはよろしくねぇな…… それに、タエの足のことも考えると、仲良しこよしで下まで降りるのは相当難しい。二手に分かれて鍵を盗ってくるとしても、片方の戦力がガタ落ちすることになる。実際問題、この中であれとやり合って逃げられるのは俺とボウズぐらいだ」

「ですよねぇ…… アイツら、ふらふらしてますけどトップスピード自体は速いみたいですし……」

 

 今から下に戻るのも、誰かがカギを取りに行くのも大きなリスクを伴う。見つかれば、少なからず犠牲が出てしまう可能性も十分にあり得るのだ。

 

「無難な線としては、エレインさんを待つのが一番いいと思います。あの人、軍医なのか何なのか、妙に戦いなれてましたから」

「そうだな…… あの腕力もワイヤーを操る技術力も普通じゃ無かった。それに、いかにもこう言った事態になれてますって様子だったし、合流できれば何か分かるかもしれねぇ」

「なら、出来るだけここで……」

 

 「ねばりましょう」そう続けるつもりだった言葉は、階下から鳴り響いたガラスの割れる音とどこか遠くから鳴り響いた炸裂音の残響にのまれて消えていく。

 藤次は目を大きく見開いて、呆然とした声で呟いた。

 

「なんだ…… 今の?」

 

 一般人には縁遠いその炸裂音が銃声だと、混乱していた彼らは気づくことは出来なかった。

 

 

 

 

 今はまだ。

 

 

 

*****

 

 

 時間は僅かに遡り、エレインが治療を終えた頃。

 

「さて、私も早くあの子たちに追いつかないと……」

 

 彼女はそう呟きながら彼女はワイヤーを無造作に操り、正門へと絡みつかせた。そして、そのままその人外の腕力をもってして、鉄製の門を勢いよく閉じる。

 

「門はこれでいいとして…… 流石に、ある程度片付けておかないとまずいわよね?」

 

 そう言うと、エレインは周囲をぐるりと見回した。どこから集まってきていたのか、敷地内にいたであろう人間が、ゆらゆらと身体を動かしながら、彼女に向けて近づいて来るところが彼女の視界に入る。

 それだけでなく、ホテルの上階に居たであろう大勢の人間がとエレインと同じ地上へと飛び降り、四肢を蜘蛛の様に地面へと突き出して次々と着してきた。そして、ゆらりと体を揺らしながら立ち上がると彼女に向けて敵意に満ちた視線を向ける。

 それを見て、エレインはその数をゆっくりと数え始めた。

 

「ひーふーみーよ…… ざっと十人以上はいるわね。今も遠くから悲鳴がちらほら聞こえるってことは、島全体ではもっとか……」

 

 エレインは冷静に、そして冷徹に思考を巡らせていく。彼女には今動いている人間たちの症状に見覚えがあった。精神的、肉体的に相手を操り支配する類の術。使うのは日本の裏側、オカルトの面を司る法によって、固く禁じられているそれを使われたものとよく似た特徴をしている、と。

 それに思い至ると同時に、彼女の声は絶対零度の域にまで冷え切っていった。

 

「支配系の術を用いても、これだけの人数を操るなら、それ相応の霊力が必要なはず…… 流石に、それだけの霊力を用いた術の発動に気付けないほど鈍ったつもりは無い、と思いたいわね。一体、どんな手を使ったのかしら」

 

 ぶつぶつと言葉を呟いて、一向に彼女は動こうとはしなかった。それを好機と見たのか、集まってきた人間の一人がエレインめがけて襲い掛かる。

 

「思考の邪魔」

 

 たった一言。それだけ呟いて、彼女はワイヤーでその男の足を絡めとり

 

「どきなさい」

 

 そのまま無造作に振り回し、そのまま数人をなぎ倒した。もちろん、そんなことをすればワイヤーに絡めとられた男も無事では済まない。だが、彼女はそんなことは知らないとばかりに、それを地面へとすさまじい勢いで叩き付けた。

 

 ゴシャリ。

 

 そんな、何かが砕ける音と潰れた時の音が混ざり合ったかのような音が、あたりに響き渡る。

 

「安心なさいな。殺しはしないわ。仮にも私は医者で、貴方たちはどこかの誰かに操られているだけの一般人。でも、貴方たちがそうなった原因をどうにかするまでは、動いてもらっちゃ困るの。犠牲者が増えるのは、医者として看過できないのよ」

 

 彼女の宣言通り、明らかに即死したと思ってもおかしくはないようなダメージを受けた男は、ビクビクと身体を痙攣させながらも生きていた。だが、起き上がることも出来ず、唯々身じろぎを繰り返すばかり。

 

「私が持ってるワイヤーはかなり長いけど、長さには限りがあるのは自然の摂理。皆仲良しこよしで拘束してあげられないわ。だから」

 

 操られている人間が、もしも正気であったのなら心臓の音が一瞬止まってしまうのではないか。そう思わせる怒りに満ちた昏い瞳でエレインは言葉を朗々と紡ぐ。

 

「壊しながら治してあげる」

 

 世界を魅了するような艶然と笑みを浮かべながら。

 

「さあ、こっちを見なさい。どこの誰だか知らないけど、その思惑を正面から叩き潰してあげる」

 

 その言葉が切欠となったかのように、操られている人間の首が一斉にエレインへ向いた。そして、彼女以外のものが視界に入っていないと言わんばかりの様相で襲い掛かる。だが、そんなものエレインにとっては物の数でしかない。

 まず先頭をきって近づいてきていた女の足にワイヤーを巻き付けると、そのまま一本釣りにされた魚の様に空中に釣り上げ、そして放り出した。

 そして、空中で投げ出された女は、そのまま背後から迫っていた人間に向けて落下。そのまま数人が折り重なるようにして転倒する。それよりもある程度の距離をとった場所に居た人間は、それを避けるようにしてエレインへと接近を繰り返す。

 

「攻撃性は充分、凶器を使う、障害物も問題なく避ける。人間本来の知性も想定以上に残っているわね。門を封鎖しただけじゃ安全確保は難しいか……」

 

 最初に襲い掛かってきたロクを見た時は、緊急時という事もあって深くその行動を分析することは出来なかったが、今はそもそもの状況も観察できる母数も違う。だからこそ、その行動原理を見て予想よりも知性が残っていることに、驚きと焦りを覚えた。

 本来、支配系の術式を大多数に適用する場合、ここまで知性を残して操ることは難しい。だが、動きは少しばかりふらふらとしているとはいえ、知性をある程度感じられるレベルで残している。

 これでは、立てこもったとしてもすぐに人が居ると察知され、逆に建物を包囲されてしまう可能性が十分にあり得てしまうのだ。

 

「先にあの子たちを行かせたのは失敗だったかしら……」

 

 先に行かせた藤次たちのことを思い、彼女は少しばかり表情を曇らせる。

 

「さっさと片付けさせてもらおうかしら。残念だけど、付き合いの長さはあの子たちの方が少しだけ長いから、あっち優先させてもらうわよ。少し雑な施術になるけど、悪く思わないで」

 

 そう言ってエレインはワイヤーを精緻に操り、腕を交差させるように振るった。彼女めがけて迫ってきていた人間たちにワイヤーが巻き付いていく。これだけなら、先ほどと同じだ。

 だが、彼ら彼女らに巻き付いたワイヤーは、そのまま服を切り裂き、そのまま引き絞るようにして皮膚を、肉を、骨を一瞬で通り抜けた。

 一見しただけで致命傷を与えたと判断できる行為を行ったエレインは、表情をピクリとも変化させずに、次々とワイヤーを操り、次々と襲い掛かってくる人間を切り裂いていく。

 そして最後に、鉄パイプを持って襲い掛かってきた男の攻撃を躱し、すれ違いざまにワイヤーを体に巻き付け、一刀両断にした。

 エレインは無表情で自身の行いによって地に伏した人間たちを見つめる。

 

「四肢の神経及び骨の切断完了…… 確認の呼吸器に異常なし。他の切断部位の治癒完了」

 

 倒れ伏した一人一人の身体は、彼女がとった行動に反して、バラバラにはなっていなかった。それは先程エレインが言った通り、壊しながら治しているからに他ならない。

 地面に叩き付けた男も、宙に放り投げられた女も、骨が折れ、肉が裂ける瞬間にエレインが術を用いた治療を同時に行っていたのだ。

ワイヤーが通り抜けるまでにかかる時間は、コンマ一秒以下。つまり、それほどの速度で通り抜けたワイヤーの傷を塞ぎ、それどころか神経や骨の損傷のみを残すという、まさに神業と言ってもいい治療の腕を彼女は持っている。

 だが、流石にそれほどの腕を持っているとは言えども、大量の操られた人間相手に大立ち回りをしながらそれを行うのは彼女にも難しかったらしく、小さく息をついた。

 

「ふぅ…… さっさとマリちゃんの両親を担いで、あの子たちに合流しないと…… この人たちがどういう風に操られていたかは調べないといけないけど、人命第一ね」

 

 優先すべきはあくまでも人命である。それはオカルトの側面が大きく絡んだ技術を用いているとは言え、医者としての矜持であり、譲れない一線だ。

 だが、もうこの場所に彼女が治療を施せる人間はいない。操られていた人間は、未だにうめき声をあげながら身じろぎをしているが、神経と骨を寸断されてしまっているため身動きが取れず、脅威とはなりえない。最早、人を襲うことが出来ない以上、相手をする必要はないのだ。

 

 故に、彼女はこの場所にもう用はないと踵を返した。

 

 しかし――

 

 

 

『油断なんてしちゃだめですよ?』

 

 

 

 

 急いで藤次たちの元に向かわなければ、そう思い焦っていたからだろうか。彼女は遠くから自身を狙う銃口に気が付くことが出来なかった。

 次の瞬間、倒れ伏したマリの両親にワイヤーを巻き付け、担ぐ体制に入っていたエレインの肉体を、衝撃が突き抜けていく。それから僅かに遅れて、ガラスの割れる音と銃声が彼女の耳に届いた。

 

「ぐぁ!」

 

 それと同時にエレインの口から血がせり上がる。

 そこで、彼女はようやく自身が狙撃されたという事に気付く。

 エレインに着弾した弾丸が貫通し、ホテルの玄関のガラスを粉々に打ち砕いた様を見て、彼女はおおよその狙撃位置を頭の中で割り出すと、左手でワイヤーを手繰り近くにあったホテルの看板をその射線上に割り込ませた。

 直後、次いで放たれた弾丸がそれを貫通するが、そこには既にエレインの姿は無い。

 それを見た狙撃手は、アイリスは小さく舌打ちをする。

 

「逃げられましたか…… あの程度の傷なら、すぐにふさがれてしまいますね。ですが、まあ、まだ手はありますよ」

 

 そんな不気味な言葉を残して、狙撃地点から姿を消した。一度狙撃をしてしまえば、凡その位置を特定されてしまう。

 ならば、狙撃位置を変えるか、他の手を考えるしかない。

 

「さて、次の手は……」

 

 アイリスは暗く笑い、くるりと身を翻した。

 

 

 

 

 

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第九話

 

 血に塗れた体を庇うようにして、エレインは体をホテルのロビーへと滑り込ませた。は、は、と短い呼吸を繰り広げながら、彼女はマリの両親と自身の肉体を階段の前まで引きずっていき、膝をつく。

 痛みで玉のようなを流しながら、彼女は自身の肉体の損傷具合を確かめ始めた。

 

「左肺損傷…… もう少しずれてたら、心臓いって、たわ…… まず、痛みを止めないと、治療もまともに出来ないし……」

 

 痛みで集中力が乱れれば、霊力を用いた術で治療を施す際の制御に乱れが生じかねない。攻撃系の場合は其れほどの影響があるわけではないが、治癒となどの繊細な術を用いる場合はそうではない。妙な傷の癒着が起きてしまえば、再切開が必要になる場合もある。

 左肺を損壊するほどの重傷の痛みを放置できる程、彼女は痛みに強いわけではない。戦闘は出来るが、もとより戦闘職ではない彼女にとって自身が重傷を負うことは少ないので仕方のないことではあるのだが。

 そこまで考えたところで、これほどの重傷を負ってもなお痛み止め無しで治癒を施せる男の顔を思い出し、エレインは小さく顔を顰める。

 

「まったく…… こう言った時にあの問題児を思いだすなんて…… 胃が痛くなってきたわ」

 

 心底嫌そうな声色でそう言った彼女の顔色は悪い。悪いが、痛みを止めることには成功したらしく、損傷した肺の細胞一片一片を繋ぎ合わせ始めた。傷口が燐光を帯び、少しずつ傷がふさがっていくのを感じながら、エレインは努めて冷静に周囲の気配を探る。

 狙撃手の追撃は無く、ホテルの入り口及び周辺に操られた人間の足音は無い。だが、すぐにホテルの周りは騒がしくなってしまうだろう。狙撃手の腕は操られた人間が撃ったとは思えないほど正確であったことから、十中八九この島の惨状を引き起こした人間か、その関係者だ。

 そうである以上、エレインと言う脅威を放って置くほど相手も甘くはないだろう。むしろ、真っ先に狙撃を仕掛けてきたことから、彼女のことを脅威と認識して既に潰しに来ていたと言っても過言では無い。

 

「厄介ね…… 私を殺すために相手が人をこっちに差し向けるとしたら…… あの子たちを巻き込まないようにしないと……」

 

 だからこそ、藤次たちの身を案じてエレインは目を細めた。巻き込まれただけの一般人をこれ以上危険な目には合わせたくはない。それが自分のせいでとなると尚更だ。

 彼女にとっての優先順位は、生き残ることと知り合った藤次たちを生き残らせることが上位に来ている。彼らとは出会ったばかりと言えども、言葉を交わし、共に時間を過ごした。そんな人間に死なれてしまったら寝覚めが悪い。

 

「あの子たちと一緒にホテルに入るのは見られたから、一緒にここから逃げるか…… それとも、私が打って出るか…… どっちにしろ、早く動かないとまずいわね…… 私の他に、患者も二人いる事だし」

 

 ちらり、と彼女は地に倒れ伏したマリの両親を見つめる。治療と並行して、二人をどうやって無事に上に届けるかと頭の中でルートをシミュレートし始めた。元から彼女もこのホテルに宿泊する予定だった。だからこそ、その地理は頭に入っている。

 

「私の部屋は…… こっちの階段から登った方が速いけど…… 306号室はあっちからね……」

 

 だが、その上で問題になるのが、藤次たちが通ったルートと自分が通るべきルートを精査する。

 

「狙撃されるリスクを取って早く合流するか…… それとも安全なルートを取って少し遅れて合流するか……」

 

 どちらを取るべきか、傷がふさがるまでに考えなければならない。一歩のミスが、現場では致命的だ。そして、この場所にはそのミスを埋めることの出来る相棒がいるわけでも無い。その一歩のミスが死を招くのだ。

 だからこそ、クロユリでは二人以上のメンバーを仕事に投入する。だが、この状況で戦える人間はエレイン一人。そして足手まといの一般人が数名。そして何より、彼女は常日頃から現場に身を置いているわけではない。

 そのすべての要素が自身の事を嘲笑っているかのようで、エレインは冷や汗と共に深く息を吐きだした。

 だが、彼女の思考が纏まるよりも前に、上階からけたたましい金属音が鳴り響く。

 

 とても嫌な予感が彼女の背筋を這い上がり、上方を見上げたエレインは思わず叫び声を上げた。

 

「藤次⁉」

 

 

*****

 

 

 

 藤次たちは階下から響いた音に身を強張らせたが、それ以上に彼らを硬直をさせたのは

 

「まずい…… やつが音につられてこっちに来たぞ……」

 

 吾郎が放ったその言葉に対してだ。

 こちらに来る、という事は接敵は避けられないことを意味する。足の悪いタエがいる以上、藤次か吾郎のどちらかが闘わなければ、タエは確実に見つかってしまう。

 沈黙は一瞬だった。だが、最後尾にいた藤次は一瞬視線をさまよわせると、決然とした表情になって言葉を紡いだ。

 

「僕が囮になります」

 

 最後尾からゆらりと前へと身体を押し上げた。その腕を掴もうとタエは手を動かそうとするが、彼女の両手は子供たちと繋がっているため動かすことは出来ない。

 

「おい、ボウズ……!」

 

 声は抑えているが、そこには鋭さが満ちており、吾郎は藤次の手を掴もうと伸ばされる。だが、その手を逆につかむと、藤次はその手に何かを握らせた。

 

「僕の部屋の鍵です。いったん下がって、他の皆を守ってあげてください」

 

 そして、そのまま腕だけをするりと引き抜いた。そしてそのまま、吾郎が覗いていた通路の先へと消えていく。

 

「あの馬鹿…… なんて表情で突っ込みやがる…… くそ!」

 

 だが、それを引き留めることは終ぞできず、そのチャンスを彼は失ってしまった。既に藤次が廊下へと姿をさらしてその先へと歩みを進めた以上、これ以上の長居は残ったタエや子供たちをも危険にさらしてしまう。

 

「あのボウズの言う通り、俺たちは一旦下に行くぞ。もう、これ以上何をしてやることもできない」

 

 吾郎は苦々し気にそう言うと、今にも泣き出しそうなゲンとマリ、そして不安の滲んだ表情を浮かべたタエが、彼のことを見つめ返した。

 

「あの馬鹿の覚悟を無駄にする気か……⁉」

 

 その静かな、それでいて鋭い吾郎の一喝に、他の面々はびくりと体を震わせながら階段の中腹まで下がっていく。そして一行が階段を再び降りていく中で、吾郎は先程すれ違う際に見た藤次の顔を思い出し、苦々し気に吐き捨てた。

 

「あの馬鹿垂れ…… あんな泣きそうな顔をするんだったら初めからするんじゃねぇよ」

 

 思い描いたその表情は、恐怖で引き攣っている癖に、目だけは妙に覚悟に満ちたものだった。とんだお人好しでだと、吾郎は心底からそう思う。そして、あの若者ではなく自身が行くべきだったのだろう、とも。

 だって、彼には命を懸ける動機が薄い。付き合いの短い自分たちなど助けようとはせず、逃げてしまえばよかったのだ。そうすれば、自分だけは助かることが出来ただろう。その代り吾郎たちの命が危機に瀕することになっただろう。しかし、普通ならそうするのではないだろうか?

 

 それでも、藤次は自ら囮を買って出た。

 

 そして、廊下を駆け抜ける間際に見せた顔。あんな顔を見せられてしまっては、逃げてしまえばよかったのだという思いが吾郎の頭にこべりついて離れない。自分が今からでも助けに行くべきかという思考が過る。

 だが、吾郎まで通路に出て行ってしまえば、藤次の献身のすべてが無駄になるのだ。

 

「死ぬんじゃねえぞ…… ボウズ」

 

 それは奇しくも、エレインが彼らの背中に残した言葉と同じものだったなどと、吾郎は知る由もなかった。

 だが、そこに込められた思いは祈りにも似ていて、揺らぎそうな何かを繋ぎとめるための必死の努力だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

「こわぁ…… やっぱ逃げとけば良かった」

 

 通路で凶器を持った男と対峙した藤次は、さっそくカッコつけて囮を引き受けたことを後悔していた。目の前の男は、先ほど襲い掛かってきた連中と同じく虚ろな瞳で彼のことを睨みつけている。

 その虚ろな瞳に、店内で深々と腕を切りつけられたことを思いだして、藤次の身体はぶるりと震えた。

 そんな彼の様子に隙を見出したのか、男はゆらゆらと不安定な足取りで走りながら、藤次めがけて肉薄する。だが、恐怖が限界まで振り切れていたのか、男が走り出すのと同時に藤次もまた走り出していた。

 数メートルも離れていない距離は、一瞬にして埋まり、互いの獲物の間合いに彼らは踏み込んだ。

 

 瞬間、男の身体が弓の様にしなったかと思うと、すさまじい勢いでナイフが振り下ろされる。

 

 それを寸でのところで躱し、藤次は男の身体を壁めがけて突き飛ばすようにして、すれ違った。当然、強い力で押された男は強かに壁に体を打ち付けることとなったが、痛みなど感じていないかのように首を巡らせ、再び襲い掛かってくる。

 だが、藤次は戦うような真似はせず、そのまま自身が出て来た方と反対にある階段めがけて全力で疾走した。まともにやり合ったら命が危険だ。だからこそ、全力で逃げる。背後から男が追ってくる事を確認しながら。

 

 これなら、あちら側に相手が行くことは無いと、藤次は半泣きになりながらもほくそ笑む。しかも、男はのトップスピードは藤次に劣っているため、一定以上距離を詰められる心配もない。少なくとも、体力が尽きるまでの間は。

 

 これなら、ある程度惹きつけてから逃げ切れるかもしれない。

 

 そんな風に藤次が確信を持った時、それは起こった。 

 視界に入るノイズ。今見ている視界ではない光景。そして、階段の影から飛び出してきた男に腹部を一突きにされる感触と痛み。そして、背後から襲い掛かってくるもう一つの衝撃と痛み。

 そこまで認識したところで、藤次の意識は現実に引き戻された。

 時間にしてコンマ一秒にも満たないうちに見せられたその光景は、あまりにも衝撃的で、痛みまで伴う生々しいものだ。彼の意識が一瞬真っ白に染まり、意識を手放しそうになるが、必死にそれを繋ぎとめる。

 しかし、幻視した光景は今まさに藤次が向かっている階段で行われたもの。廊下を全力で駆け抜けたせいで、もう数メートルの距離もない。

 だから咄嗟に、彼は手に持っていたフライパンをナイフが刺さったであろう場所へと何とか滑り込ませた。

 

 直後、すさまじい金属音と衝撃。

 

 藤次が幻視したように階段の影から男が飛びだし、手に持ったナイフを突き出したのだ。手に持っていたフライパンで防いだため何とか腹部にそれが突き立てられるのを防ぐことが出来たが、それでも手に伝わる衝撃波すさまじく、フライパンが大きくへしゃげていた。

 さらには、その衝撃のせいで藤次はフライパンを取り落としてしまう。

 

「まず……⁉」

 

 そのせいで体を硬直させてしまったのがまずかった。自身の身を守るための盾足りえるものがなくなったことによる精神的動揺を差し引いても、ここでそれはとんでもない悪手に他ならないのだから。

 

「ぁあ!」

 

 不気味なうめき声をあげながら、男は藤次の腕をすさまじい力で掴んだ。みしりと骨の軋む音が響き、彼の表情が苦痛に歪む。

 だが、痛みに呻いている暇など藤次には存在しない。背後からナイフを持った男が突進してきている。

 

「くそ! どけぇ!」

 

 だが、藤次は諦めなった。火事場の馬鹿力と言うべきそれで、強引に突破を試みる。

 そして彼は自身の腕を掴んだ男に突進するようにして、そのまま一緒に階段の手すりを乗り越えた。そして、重力に引かれるまま階下へと落下していく。

 まずいと思ってももう手遅れで、藤次はきつく目を瞑った。 

 

「藤次⁉」

 

 その最中、彼の耳朶に透き通るような女性の声が届く。

 

「なんて無茶するのよ、あなたは……」

 

 そんな言葉と共に、藤次の身体に何かが巻き付くような感触が伝わり、落下動作がピタリと止まった。

 藤次が恐る恐る目を開けると、階段の手すりやその途中についているランプなどを経由したワイヤーが彼の身体に巻き付き、宙につなぎとめたのである。

 そんな彼の近くでは、ナイフを持っていた男が同じようにして拘束され、じたばたともがいているのが確認できた。

 

 蜘蛛の巣に捕まった蝶みたいだ、とどこか現実逃避染みた感想を脳内に描きつつ、藤次はへにゃり、と情けない笑みを浮かべる。

 

「助かりました…… ありがとうございます、エレインさん」

 

 そんな藤次の顔を見たエレインは、小さく目を見開いた後、深々とため息をついた。

 

「思ったより元気そうね……」 

 

 エレインもまた、どこか安堵したような声と表情で深々とため息をついた。

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第十話

 

 呆れたようにつぶやかれた言葉は、それでも確かに安堵の色を滲ませて藤次に耳に届いた。それを聞いて、彼は照れくさそうに頭を掻いて見せる。

 

「いやぁ…… これでも、また無茶しちゃったところなんですけどね」

「自慢げに言う事じゃないわね…… そんな事、上から降ってきたのを見たら、言われなくても分かるわ」

「それもそうですね」

「納得してもらえたようで何よりだわ。今から貴方だけを降ろすから、あんまり動かないでね。貴方の後ろにも吊るしているのがいるから」

 

 そう言って、エレインは真剣な表情でワイヤーを手繰り始めた。そんな彼女の言葉に、藤次はギョッとして自身の耳に意識を集中させる。すると、背後でもがくような音と、うめき声、そして何か骨が折れて砕けるような音が聞こえてきたので、ピシりと身を強張らせた。

 

「は、早く。出来る限りゆっくり、慎重に早く降ろしてください……」

「落ち着きなさい。言ってることが矛盾しているわよ」

 

 そんな藤次を見て、エレインは苦笑を浮かべる。流石に、彼の背後で虚ろな瞳で操られている人間の四肢を砕くのは少しまずかったかもしれないと思いながら。

 

「まったく、度胸があるんだか無いんだか…… 動かなければ大丈夫よ。だからじっとしてなさい」

 

 続けて紡がれたその言葉に、藤次は一も二もなく何度も頷いた。先ほどまでは助けたいと思った対象の為に動けていたが、気が緩んで情けなさが滲みだしてしまっている。

 だが、藤次の状況から考えて、彼が相当な無茶をしたことだけは理解できたエレインは、そんな彼を笑うようなことはせず、安心させるように微笑んで、「大丈夫よ」と言いながらゆっくりとその体を降ろしていく。そして地に足がつく状態まで体を降ろされた藤次は、息も止めていたのか軽くせき込みながら深呼吸をした。

 

「ごほっ! ごはっ! ふぅ…… あ、ありがとうございます。本当に死ぬかと思いました」

「それはさっき聞いたわ」

「改めてお礼を言いたくなったので……」

 

 エレインはそんな藤次の言葉に、「律儀ね」とだけ返してへたり込んだ。傷口の治癒の最中に藤次が落下してきたので、傷口が中途半端に開いていたからだ。

 ほっと息をついていた藤次は、その段になってようやくエレインの様相に意識がいったらしく、ぎょっとして彼女に駆け寄った。

 

「エレインさん! これ、血が出てるじゃないですか! こんな怪我で、僕を受け止めるなんて……」

「ええ、ちょっとへまをしてね…… 実戦から身を引いた期間が長かったせいで、咄嗟に対応が出来なかったのよ」

 

 こともなげに言って見せるエレインだったが、その言葉を聞いた藤次はさらに表情を険しくして言い募る。

 

「狙撃って…… じゃあ、さっき音は?」

「ええ、私が撃たれた時の音よ。おかげで、このありさまってこと」

「笑い事じゃありませんよ! 銃なんて…… それに、怪我をしてるなら、何か、何か…… 止血を……」

 

 力なく笑って紡がれた言葉に、藤次は猛然と返すが、その言葉尻はだんだんと小さくなっていく。彼は正真正銘の一般人だ。だから、銃創なんてものの治療の仕方なんて分からないし、正しい応急手当の方法すらおぼつかない。

 だが、エレインはそんな藤次を攻めたりせず、また微笑んだ。

 

「大丈夫よ。これでも、ある程度の処置はもう済んでるの。だから、貴方が心配するようなことは無いわ。でも、動けるようになるまでもう少しだけかかりそう」

 

 まさかオカルト的なものを用いて傷はほとんど塞いだ、とは立場上言うことが出来ず、彼女はそんな風に言葉を濁した。この状況化である以上、話してしまった方が円滑に事を運べる可能性も高いが、逆に目の前にいる心優しい少年の混乱を助長して事態が悪化する可能性だってある。

 オカルトの要素も合わせているとは言えど、人を救う医者として藤次のその優しさは好ましいと思っているエレインは、出来るだけ彼のことを危険に晒したくはない。それに、出来るなら知らない方が良いのだ。世界の裏側でどんなものが蠢いているか、などという事は。

 

 だが、藤次の肉体から感じた違和感が、それを許さない。間違いなくそれは、彼のことを裏側の世界へと引きずり込んでしまう。

 葛藤の末、エレインは躊躇いがちに言葉を紡ぎ出した。

 

「ところで藤次、貴方…… 何か体に違和感を感じたり、普通では考えられないようなことが起こったりしていないかしら? そう言ったことがあれば、教えて欲しいのだけれど」

「――――っ!」

 

 彼女の言葉に、藤次は静かに息を飲んだ。だが、少しだけ引き攣った笑みを浮かべながら、彼はこう切り返す。

 

「普通じゃない、なんて…… 今この状況が、まさに普通じゃ考えられないような事ですよ…… 急に人が人を襲うようになるなんて…… まるで質の悪いアクション映画か何かの登場人物にでもなった気分です」

「それもそうね…… 普通は、こんなことはあり得ないものね。でも、私が言いたいのはそのことじゃない。貴方も、分かっているんじゃないかしら?」

「そうですね…… まあ、ある意味この状況よりも信じられないことが起こっていると言いますか……」

 

 藤次は視線をさまよわせながら言葉を濁す。何せ、彼が先ほどから幻視した一つ一つの光景は、

 

「目の前に未来の光景でも映し出されでもした?」

 

 彼女の言葉通り未来を写し取ったものだったのだから。

 

 だが、それをエレインは知っているかのように言葉を被せた。そして、藤次が驚愕に満ちた表情を見せたことで、彼女はその言葉を確信のものとする。

 

「やっぱりね…… そんな事だろうと思ったわ」

「な、なんでそれを……」

「昔、貴方と同じような人と知り合いだったの。貴方はその人と同じように、まるで何が起こったか分かってたみたいに動いてたわ」

 

 そう言って目を伏せたエレインの表情は、ただの知り合いを語っているようには見えず、藤次は目を丸くしてその表情を見つめた。

 そんな彼の様子に気付いたのか、「なに?」と彼女は小さく返した。

 

「え、いや…… すいません。でも、本当にそれだけ、ですか? この際、隠し事は無しです。なんで人が人を襲うようになったのか。エレインさんは何を知っているのか、包み隠さず教えてください」

 

 エレインは明らかにこういった状況に対して場慣れをしている。だからこそ、何か知っていると踏んで彼はそう切り出した。

 藤次は彼女に命を救われた。二度も命を救われたのだ。例え、どんな言葉が飛び出してきたとしても、それを受け止める覚悟を彼に決めさせるには、それだけで十分すぎる。

 そんな彼の想いを汲み取り、エレインは自身の怪我の治癒を継続しながら目を細めた。そして、意を決したかのように目を見開くと、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。

 

「貴方、オカルトってどのくらい信じる?」

「今この状況なら、どこまででも信じちゃえそうです」

「それは良かったわ。腕の怪我を見せて」

「え? それが今の話とどう関係が……」

「いいから」

 

 真剣な表情のエレインに気圧され、藤次はおずおずと怪我をした腕を彼女に差し出した。それを優しく手に取ると、傷口に向けて手を翳す。

 藤次が少しだけドキドキしながら何事かと事の推移を見守っていると、彼女の手が燐光を帯び始め、それと同時に自身の怪我の痛みが引いていくのを感じ、彼は表情を驚愕に染め上げた。

 

 完全に痛みが引いたのを確認した藤次は、包帯の結び目に手を掛ける。その最中で、彼が視線だけをエレインに向けると、彼女は小さく頷いたと頷いた。それを確認すると、藤次はそのまま結び目を解いていく。

 そこから覗いた肌は、ナイフで深々と切り付けられた跡などきれいさっぱり消え去っており、傷口があったなどと言われても信じられないほど綺麗なものだった。

 

「これって……」

「まあ、世の中こんな風に不思議な力っていうものがあるのよ。私たちは霊力って呼んでるけれど、貴方のそれはこれと似た類のものよ。そして、今回の騒動はどこかの誰かが霊力を使って、島にいる人間を操っているって事かしら。ここまで言ったけど、信じてもらえる?」

 

 そう言ったエレインの表情は、何処か心配そうで、僅かに瞳が揺れていた。そんな彼女に対し、藤次は軽く肩を竦める。どこか力のない笑みを浮かべながら。

 

「信じるしかないでしょう…… だって、さっきの怪我ももう塞がってますし、命も助けてもらいましたし、現に未来らしきものも見えてしまいましたから。でも、その島の人間を誰かが操っているって話ですけど、どうやって操ってるんですか? 操るにしても、何かしらの条件が必要なはずでしょう?」

 

 藤次は苦笑を浮かべながらも、冷静に言葉を並べたてる。その事にエレインは深く驚かされた。

 

「貴方…… 冷静になるが早くないかしら…… 衝撃の事実を知ったんだからこう…… 葛藤とか、感慨とか、無いの? ほら、もっとこう、あるものでしょう」

「とりあえず僕は生き残りたいので、そこらへんは後でまとめて驚くことにします。いや、ほんと、いっぱいいっぱいなので、今は深く考えたくないだけですけどね……」

 

そう言った藤次の声はどこか震えた声で、その視線もどこか落ち着きない。それを見て取ったエレインは、小さく目を伏せる。

 

「そうね…… 動揺してない筈が無かったわね。ごめんなさい」

 

 そう返しながらも、彼女は静かに思う。これでも、かなり落ち着いている方ではあると。この力をさらしただけで、恐慌状態に陥り、逆に危険な状態になった人間を彼女は何人か知っている。

 だが、それでも当事者にとっては大混乱であることには変わりはない。無神経であったとエレインは自戒する。

 

「いえ、攻めてるわけじゃ無いんです。気にしなくて大丈夫ですよ。それより、島の人間はどんな手を使われて人を襲うように?」

 

 話題を切り替えるように紡がれた言葉に、エレインは難しい表情になった。

 

「あの様子だと、人を操るための術を用いてるんでしょうけど…… あんなたくさんの人数をまとめて操るとなると…… どんな方法を用いたかまでは詳しくは分からないわ。それだけの異常事態よ」

「それはまた…… 難儀なことになりそうですね」

 

 その言葉を聞いた藤次は、顔を引き攣らせながら天を仰いだ。こう言った事態になれているであろう彼女がそう言ったことで、この状況が如何に危険なものであるか、嫌という程理解できてしまったのだろう。

 そんな彼に対し、エレインは安心させるような声色で言葉を紡ぎ出した。

 

「安心しなさい。これでも私、それなりに強いのよ?」

「そうはいっても、銃弾で左胸をぶち抜かれてるじゃないですか……」

「うっ…… さっきも言ったけど、実戦の現場から離れてそれなりに経っているから、多少は…… ね?」

「なんででしょう。なんだか急に泥船に乗った気分になってきました」

 

 だが、それは逆効果だったようで、逆に藤次が白目を剝いてしまう。流石にそれはまずいと思ったのか、エレインは額に冷や汗を流した。安心させるつもりが逆に不安にさせてしまったのは間違いなく彼女の失策である。体の傷は治せても、精神的なケアまで完璧、という訳ではないようだ。

 だが、逆に慌てたエレインを見たおかげで藤次は落ち着きを取り戻す。そして、その焦りように相好を崩しながら言葉を紡いだ。

 

「あはは! すいません、意地悪言っちゃって。頼りにしてます。でも、左胸の怪我、本当に大丈夫ですか?」

「ええ。今完全に塞がったわ。そろそろ上へ行きましょう。他の子たちが心配でしょう?」

 

 そう言ったエレインの服は、狙撃によって開いてしまった穴はあれど、血の汚れもきれいさっぱりと消え去っていた。そんな様子を見て、コクリと頷いた藤次は少し安心したような表情で言葉を返す。

 

「ええ…… 一応、いったん下がるように言って囮を買って出たので、首尾よく進んでいれば、今頃僕の部屋にいるはずですけど…… 早く合流することに越したことはありません」

「でも、その前に腕にまた包帯を巻いて傷口は隠しておきなさいな。それが消えていることを知られたら、いくらなんでも怪しまれるわ」

「おっと…… それは確かにそうですね。この状況でそれはまずいです」

 

 そう言って藤次は腕に包帯を巻きなおし、階段の上へと視線を向けた。その表情を真剣なものへと切り替えて。

 

「悪夢ならさっさと覚めて欲しいですよ、ホント」

 

 彼の微かなつぶやきが、何処か空しく響いた。

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第十一話

 

*****

 

「狙撃は失敗したみたいだね」

 

 時実は、ライフルを担いで拠点へと戻ってきたアイリスに向けてそんな言葉を紡いだ。

 だが彼女は実に楽しそうな声と表情でそんな皮肉はものともしない。

 

「ええ! 流石は主任に気に入られているだけはあって、すさまじい治癒の能力でした。ああ、本当に嬉しいです」

 

 ライフルを胸に抱き、彼女は心底楽しそうに体を一回転させる。

 

「本当に、壊しがいがありますから」

 

 背筋を凍らせるような声色で、うっとりと呟いて見せながら。

 

「怖いねぇ、女の子の嫉妬っていうのは。古今東西、どこでもそれは変わらない」

 

 そんな彼女を面白そうに見つめながら、時実は面白がっていることを隠しもしない声色でそう呟いた。不愉快な言葉が聞こえたアイリスは無表情になって背後の存在を鋭く睨みつける。

 

「……せっかくの楽しい気分が台無しです。慰謝料を要求したいくらいですよ」

「これは失礼。お兄さん、空気を読めないことに定評があってね。おかげで、口を開くたびに黙れって言われることがしょっちゅうなんだ。それは君もよく知ってるだろうし、言うだけ無駄ってものさ」

「自覚があるなら、少しぐらい是正するくらいの努力をなさってはどうですか?」

「ヤダ」

 

 時実は人喰ったような態度を崩すことなくそう言い切った。浮かんだ笑顔は憎たらしいにも程があり、アイリスはその顔面を殴りつけてやりたい衝動に駆られる。だが、それもあえて目の前の男は受けてしまうだろうが、無礼が過ぎればどんな理不尽が待っているか分からない。

 時実と言う男は、気まぐれで、気分屋で、とても心変わりがしやすいロクデナシだ。自分を楽しませてくれる相手ならばどんなことでも受け入れるが、そうでないならば冷淡に、容赦なく破滅に導き、その過程を見て楽しむといった悪癖まで持ち合わせている。

 例え味方であったとしても恐ろしい。それほどまでに気まぐれなのだ。

 

「ロクでもないものですね。貴方みたいな方と話していると、常々そう思います」

「言ってくれるねぇ? でも、それは君たち人間だって変わらないだろう?」

 

 心底楽しそうに、時実はクスクスと嗤う。アイリスの言葉を否定することなく、超然とした態度で。だが、それをすぐに収めると、彼はその視線を海上へと向けた。

 

 その先には、暗雲。

 

 豪雨と稲光を侍らせ、ゆっくりと黒い雲が広がりを見せ始めている。

 

「おっと…… お客さんだ。思ったより気づかれるのが早かったねぇ…… という訳で、だ。お兄さんはこのあたりで失礼させてもらおう。流石に、アレに邪魔をされるのは気に食わないからね。データの収集だけはしっかりするように。其れさえできれば、後は好きなようにしても構わない」

「いいんですか、言っては何ですが、今の私は何をしでかすか分かりませんよ?」

 

 一件冗談めかしているように見えるが、アイリスの狂気に満ちた瞳がそれを事実だと知らしめている。だが、そんなことは気にしないとばかりに、むしろそちらの方が面白そうだと言わんばかりに、時実はクスクスと笑う。

 

「それはいい。油断と狂気で足をすくわれるもよし、逆に相手をくらいつくすもよし。どちらに転んでも、目的さえ達せられているのならそれで構わないさ。お兄さんは、心が広いからねぇ」

「先ほどの私に対する対応は、心が広い、とは言い難いものだった気がしますが?」

「嫌だなぁ。あれは犬の躾だよ。たまにはどちらが上か、はっきりわからせてあげないと、飼い犬はつけあがるだろう」

「私を犬扱い、ですか」

 

 複雑そうな表情で歯噛みをするアイリスを見ながら、時実はうっそりと嗤う。

 

「違うのかな?」

「違います」

 

 あくまできっぱりとアイリスは否定の言葉を述べた。

 

「ふぅん? まあいいさ。では、そろそろ行かせてもらうよ。これ以上島に近づけたら、あいつが何をしでかすか分からないからね。今回の人形劇は、あいつにだけは邪魔させるわけにはいかないんだ」

 

 幾分か真剣な表情でそう言うと、時実は手の中に大鎌を出現させる。

 

「ああ、最後に一つだけ。君はもっと我慢しない方が良い。激情に身を任せてね。そっちの方が、よっぽど面白い事になりそうだ」

 

 その言葉を残し、時実は姿を消した。まるで、最初から誰もいなかったかのように。

 

「相変わらず、おしゃべりな人ですね…… いえ、そもそも人じゃありませんでしたか」

 

 それだけ言って、アイリスは小さくため息をついた。しかし、すぐにその表情を引き締めると、島の各所を映すモニターをこまめにチェックしながら、口元を喜悦に歪ませる。

 

「島の中で今で歩いている人間は…… まあ、いないですね。残っているのは私たちの手駒と死体、或いは怪我で動けなくなった人間だけ。残りはさしずめ、閉じこもって門をきつく締め、震えながら必死にもがいているというところでしょうか。良い判断ですね。デモンストレーションにはもってこいです」

 

 そう呟いたアイリスは、手元に置いたノートパソコンを操作し、いくつかのプロテクトを解除していく。

 

 画面に映った文字は、とあるシステム起動の可否を問うもの。それを見て、彼女は小さく微笑んだ。

 

「是非お願いするわ」

 

 そして、彼女は迷いなくエンターキーを強く叩いた。

 

*****

 

 

 

 

「三階に人影はいますか?」

「いえ、特にそれらしきものは居ないわね…… エレベーターホールに隠れているのなら別だけど…… 何にせよ、流石に人を抱えた状態での戦闘は避けたいわ」

「同感です。もう命の危機はお腹いっぱいになるまで詰め込まれましたから」

「それでも、危機はやってくることがある。気を引き締めなさい。どちらにせよじっとなんてしていられないからね」

 

 そう言って階段の影から三階を覗いていた藤次とエレインは、小さく頷きあいながら、通路へと慎重に歩みを進める。響くのは二人の僅かな足音と、呼吸音のみ。ホテルの廊下は不気味なほど静かさに満ちていた。

 部屋の中でもしかしたら誰かが息を潜めているのかもしれない。或いはこと切れているのかもしれない。

 だが、それを確認して回る精神的余裕も、時間的余裕も無い。確かにあるのは、残酷なまでの現実と静寂だけだった。

 そんな中で、二人は何事もなく306号室の前までたどり着く。

 

「藤次、ノックは任せるわ。私は、音につられて何かが出て来たら相手をするから」

「はい、分かりました」

 

 一旦マリの両親を床へ降ろしたエレインの言葉に、そう返しながら頷くと、藤次は冷や汗を流しながらゆっくりと拳をドアに近づけていく。のどがひりつくような感覚に、ごくりと唾を飲み込みながら、彼はノックを三度行った。

 すると、部屋の中から微かな物音が聞こえたかと思うと、鍵がゆっくりと開かれた音が藤次の耳に届く。そして、固く閉じられていた扉が静かに開かれた。

 

「無事だったかボウズ。さっさと中に入れ」

 

 中から顔を出した吾郎の言葉に、藤次はどこか安堵したような表情で頷きを返す。そして彼はエレインに手招きをしながら部屋の中へと足を踏み入れた。

 その様子を見ていたエレインは、マリの両親を担ぎなおし、部屋の中へと滑り込んだ。

 部屋の中に二人が入ると、別行動をする前の面子が勢ぞろいしており、各々がホッとした表情で息をついた。そんな中で、マリはエレインの元に駆け寄り、言葉を投げかける。

 

「エレイン先生、お父さんとお母さんの怪我は……⁉」

「大丈夫。傷も塞いだし、しばらく安静にしてれば、命を落とすようなことは無いわ」

 

 柔らかく微笑んで告げられた言葉に、マリも安心したのか、エレインに抱き着き、「ありがとう」と微かな声で呟いた。

 

「お医者さんのお仕事は、命を救う事だもの。出来る手を尽くしただけよ。あの二人は運が良かったわ」

 

 エレインは何でもないことの様にそう返すと、抱き着いて来たマリの頭を優しくなでてやった。それに安心したのか、少女の瞳からぽろぽろと涙がこぼれだす。そんな彼女の手をずっと握っていたゲンも一緒にすこし涙ぐんだ。

 嗚咽を漏らすマリと涙ぐんでいるゲンの背を撫でてやりながら、エレインは部屋の奥へと視線を向けた。そして、窓のカーテンが閉まっていることを確認すると、部屋にいる人間に向けて静かにこう言い放つ。

 

「あまり窓に近づいちゃだめよ。危ないから」

「言われんでも近づけん。奴らに見つかったらと思うとどうにもな」

「賢明な判断だわ…… これから言えることは、絶対に近づいてはダメってこと。どこの誰だか知らないけど、ライフルでさっき狙撃してきたのが居たから」

「狙撃って…… アンタ、大丈夫だったのか⁉」

「なんとかね…… それより、けが人を寝かせたいから、ベッドを使わせてもらっていいかしら?」

「え、ええ構わないわ。私は椅子の方へ移るから」

 

 エレインの言葉に、ベッドに座っていたタエがゆっくりと立ち上がり、部屋に置いてあった一人掛けのソファへと腰かけた。どすりと座り込んだ老体は、疲れが酷く滲みだしており、何処となく枯れ木を思わせるような有様だ。

 見渡してみれば誰もかれもが似たような状況であったが、それでもけが人を優先して気を使えるだけの優しさと、道徳心を持ち合わせた人間ばかり。そんな状況と、足が悪いのにわざわざ立ち上がってくれたタエに対して礼を言いながら、エレインは二人の怪我人をゆっくりとベッドの上へと降ろした。

 そんな二人に心配そうに寄り添ったマリに対し、彼女は出来るだけ落ち着けるような優しい声色で、静かに告げる。

 

「多分、もう少し寝ていれば目を覚ますと思うわ。それまで、ちゃんと休んで。じゃないと、身体が持たないわよ」

「うん…… 分かった」

 

 その言葉を聞いて、マリは小さく頷いた上でちょこんと床に座り込んだ。ゲンはそんな彼女と祖母の間に胡坐をかいて座り、無意識ではあろうが、どちらにも気を配れるような位置を取る。ゲンはそんな彼の背後にどかりと座って、その頭を撫でてやっていた。

 それぞれの様子を見守りながら、藤次は彼らから離れたところにいるエレインの傍で壁に寄りかかり、小さな声で言葉を紡ぐ。

 

「これからどうしますか? この件を企んだ相手の次の手が来るまで、そう時間は無いんですよね」

「どちらにせよ、マリの両親が動けるようにならないと何とも言えないわね。後十分で動けるようにならないなら、他の面子を残して私が一人で打って出るしかなくなるわね。でも、その場合」

「僕たちがものすごく無防備になりますね…… それに、僕が悪党なら生存者が居そうな場所に火を放ちます」

「その程度で済めばいいのだけれどね…… それならまだ逃げる時間が無い訳じゃないでしょう? 確実に殺しきれるわけでも無いし、煙に隠れて逃げられる可能性だってある。こんな周到に逃げ場を潰してくる連中が、その程度ですませてくれる気がしないわ…… 絶対に、もっと厄介なことを仕掛けてくる」

 

 藤次はエレインの言葉に唾を飲んだ。自分でも打たれたら最悪と言える手を考えて発言したというのに、それを上回るものを仕掛けてくるというのだからそれも当然の反応だろう。

 だが、その厄介な手と言うのが何を意味するのかはエレインとて分かっていない。ただ、あるのは漠然とした予感と、経験則から来る予測だけだ。外れる可能性が無いわけではない。

 

「なんにせよ、何があってもすぐに動けるようにしないといけないわ。だから、貴方も座りなさい。それだけでも、いくらか身体は楽になるわ。少なくとも、十分は休めるはずだから、それまでに少しでも体力を回復させなさいな」

 

 そう呟かれた言葉に、藤次も硬い表情で頷きを返した。そして、彼女の言葉通り床にだらりと座り込んだ。その隣に、エレインもまた座り込む。

 

「まあ、大抵の傷は治せるし、大抵は命があれば呼び戻してあげられるから、気楽に大けがをしても大丈夫よ」

「大けがする時点で気楽でも何でもないような気がするんですが……」

「ま、普通はそうよね。でも、私の知り合いに、それはもうポンポン大けがをするとんでもない奴がいて、いつも医療スタッフが悲鳴を上げる羽目になってるのよ……」

「それはまた…… とんでもない人が居るもんなんですね。その人、修羅道か何かに落ちてるんですか?」

 

 藤次はエレインの疲れ果てた表情を見て、心底慄いたような表情で目を見開いた。彼女のタフさは目の当たりにしてきたし、そう簡単にこんな表情をするとも思えなかったのだ。それだけに、エレインにここまで疲れ果てた表情をさせる人物に、藤次は少しばかり興味を抱いた。

 

「新人に治療の練習をさせるのにはちょうど良かったのだけれどね…… ひどいときは絶妙にギリギリ治せるラインの傷を負ってくるから、新人も私も毎度冷や汗を流してるのよ。しかも、その傷を負わないと別の角度から致命傷を受けかねないような状況だったりすることが多いから、きつく責めても本人は全く反省しないっていうおまけつきよ」

「うわぁ…… そこまで言われるその人の顔を見てみたいような、見たくないような……」

「まあ、そう言った怪我をしてくる以外は常識人だし、基本的に気遣いが出来る男だから、貴方ともすぐに仲良くなれるんじゃないかしら」

「なんで僕とその人が出会う事前提なんですか……」

 

 小さく苦笑を浮かべながら藤次は気楽にそんな言葉を紡いだ。しかし、エレインは真剣な表情で彼の顔を見つめ返すと、少しだけ厳しい声色でこんな言葉を紡ぐ。

 

「貴方の目…… というより、身体全体かしら。今日発現したそれは希少なものの可能性が高いから、こっちで保護できないと厄介なことになるわよ。下手な悪党に捕まれば、一生実験動物として扱われかねないくらいには」

「……マジですか?」

「大マジよ」

 

 エレインの言葉に、声色に、その表情に。どれをとっても一切の遊びが無く、それが紛れもない真実であると告げている。それを聞いた藤次としては、「勘弁してください」と呟いてしまう程厄介な事実であったわけだが。

 そんな疲れ切った表情を見せた彼に対し、エレインは優しく背中を叩きながら軽い皮肉を飛ばしてみせた。

 

「前途は明るいわね」

「眩しすぎて目が焼け付いちゃうくらいにですか?」

 

 うっすらと白目を剝きながら藤次は皮肉に皮肉を返した。そのぐらいの余裕はあるようだが、それでもロクでもない事実を聞かされたことに変わりはない。彼が少しばかり恨めし気な表情でエレインのことを睨み返してしまったのも、仕方のないことだろう。

 だが、彼女はそんなことを歯牙にもかけず、クスクスと楽しそうに笑った。

 

「皮肉を返せるくらい元気なら、この島も生きて出れそうね。安心したわ」

「だからと言って、今その衝撃の真実を告げなくても……」

「ごめんなさい。でも、島から出た後にこのことを言って、上げて落とすようなことはしたくなかったのよ。今なら、奈落の底から這いあがるだけだから、精神的なショックはこっちの方がきっと少ないわ」

 

 そう言って笑ったエレインの表情は妙に悲し気で、藤次は反論を紡ごうとした口を自ら噤んだ。妙に生々しい実感がこもったそれに、反論をするのが躊躇われたからだ。

 そうして、言葉を詰まらせた藤次が何かを言おうと口を開いた時、突如としてマリの声が部屋に響いた。

 

「お父さんとお母さんが起きた! エレイン先生、こっちに来て」

 

 その言葉に弾かれたように顔を上げ、エレインはベッドの方へと駆け寄っていった。そんな彼女の背を追うようにして、藤次もまた同じように速足でベッドの方へと向かう。

 

 そして駆け寄った二人が目にしたマリの両親は、目を覚ましたばかりなせいか、どこか虚ろな色を湛えていた。

 

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第十二話

 

 ゆっくりと身体を起こしたマリの両親は、虚ろな瞳で視線を巡らせた。そんな二人にどこか不安そうな表情で、ゆっくりとマリが近づいていく。

 

「お父さん、お母さん…… 大丈夫?」

 

 おずおずと駆けられた言葉に、ベッドに寝かせられていた二人の瞳の焦点が緩やかに定まりはじめ、その顔に穏やかな笑みが浮かんだ。

 

「ああ、マリ…… ケガはない?」

「確か俺たちは…… 島で暴動が起きて…… それから逃げようとして…… その、色々あって大けがをしたよ、な?」

「うん。でも、あっちのエレイン先生が、二人の怪我を治してくれたの」

 

 そう言って、マリは安堵し、微笑みながらエレインの方を指し示した。それを受けた彼女の両親は、共々頭を下げる。

 

「ありがとうございます。おかげで、命拾いをしたみたいで……」

「これで、まだまだこの子の成長を見守れそうです」

「ふふふ…… 医者としてやることをやっただけよ。それより、貴方たち二人が目覚めて良かったわ。状況を簡単に説明させても裏うけれど、今はまだ島から出られたわけじゃ無くて、その中で立てこもっているだけ。だから、もう少ししたら移動しなくちゃいけなくなるかもしれないの」

 

 エレインはマリの両親からの感謝を受け止めつつも、現状を簡潔に説明し、弛緩していた空気を引き締めた。二人が目を覚ましたのは実に喜ばしいことだが、窮地であることには変わりはない。だから、状況を把握できていないマリの両親に、簡潔かつはっきりと状況を告げたのだ。

 

 放たれた事実に空気はピンと張りつめ、緊張が一室を包み込む。エレインの思惑通り、マリの両親にこの先を生き残るため必要な事を注意することが出来た。過度の緊張は人に破滅をもたらすが、過度の安心もまた毒となりえる。

 だからこそ、これは必要な事だったのだ。

 再会の喜びに水を差してしまった申し訳なさがエレインの胸に去来するが、そう言い聞かせて彼女はさらに言葉を紡いだ。

 

「一つ聞かせて欲しいのだけれど、動けそう?」

「走るのは難しいですが、歩くくらいなら何とか」

「こっちも似たようなものですね」

「それだけ動ければ充分よ。どう動くかは、その都度考えましょう。奴らが来たときは私が相手をするから、せめて安全なところに移動できるだけの力があれば問題ないわ」

 

 そう言い切った彼女に、マリの両親は顔を見合わせる。

 

「いや、しかし…… かと言って若い女性を一人、囮にするのは……」

「大丈夫。エレインさん、さっきの人たちみたいになってる人をたくさんやっつけてたから」

 

 マリはそんな両親に対し、自慢げにそう言って微笑んだ。自身の子供の言葉に、二人は半信半疑でうな浮きながら、視線だけを吾郎の方へと向ける。彼はその視線に対して重々しく頷いて見せた。

 

「ああ、その子の言ってることは本当だ。たぶん、今の俺らが束になってかかっても瞬殺されちまうだろうさ」

 

 そんな吾郎の態度と言葉の重々しさに、マリの両親はごくりと唾を飲みながらエレインへと視線を向ける。彼女は自身に向けられたそれに軽く肩を竦め、苦笑を顔へと張り付けた。

 

「まあ、ある程度ならの話だけれどね。そろそろこの事態を引き起こした相手が次の手を打ってくるでしょうし、とにかく警戒をするようにして。あと、今起きた貴方たち二人には言っていなかったけど、窓の方には絶対に近づいたらだめよ。死にたくなかったらね」

「っ! わ、分かりました」

 

 最後に付け加えられたその言葉はあまりにも物騒で、そしてこの状況では現実味を帯びている。それ故に、それを初めて聞いた二人は身を強張らせて言葉を返すこととなった。

 そんなマリの両親を見て、これで窓に近づく可能性はなくなっただろうと、エレインは小さく息をつく。そして、少々引き締め過ぎた空気を少し緩めるため、未だに聞いていなかった二人の名前を聞くことにした。

 

「そう言えば、貴方たち二人の名前を聞いていなかったわね。教えてもらってもいいかしら?」

「え、ええ。私の名前はマコトです。夫の名前は……」

「理科の理と書いてオサムです」

「あら? という事は、マコトさんの名前の字は真実の真かしら?」

 

 エレインはマリの名前と、オサムの名前の字からそう推察して言葉を紡いだ。それにしっかりと頷きを返しながら、マコトは小さく微笑んだ。

 

「ええ、そうなんです。この子の名前は私たちの名前からとって、真理と名付けたんです」

「あら、貴女、いい名前を貰ったわね」

 

 そんなマコトの言葉を聞いたエレインは、マリへと視線を向け、その頭を優しくなでながらそう言った。その言葉に、小学生に上がる前の少女は照れくさそうに微笑みながら、首を引っ込めてオサムの背中に隠れるように引っ付いてしまう。

 

「おや。照れちゃったみたいだ。この子、基本的に照れ屋なので」

「あら、それは悪いことをしたわね。まあ、今の内にしっかりお父さんに甘えておきなさい。もう少ししたら、自分の足でまた歩かないといけないわよ?」

「うん。大丈夫。ありがとう、エレイン先生」

 

 マリはオサムの背中に隠れながらも、しっかりとした返事を返す。それを聞いた彼女の両親は、少したくましくなった自分たちの娘の反応を見て顔を見合わせた。そして、何とも言えない表情で笑いあう。確かにそれは成長と呼べるものであろうが、こんな危機的状況の中で引き起こされたものを素直に喜べなかったのだ。

 親としてはやはり、のびのびとして安全な環境で子に育ってほしいと思ってしまうものなのだから。

 だが、二人はその葛藤を口には出すことなく胸の内にしまう。それは今言っても仕方のないことだし、幼い我が子を混乱させるようなことは避けたかったのだろう。

 そうして口を噤んだ二人の視線はエレインの背後に居た藤次へと移った。

 

「えっと…… そう言えば、そちらの人は? エレインさんの名前はさっき娘から聞きましたが……」

「そう言えば、名前を聞いていなかったような」

「僕ですか? 僕は並木藤次って言います。吾郎さんのお店でおいしいご飯を食べさせていただいた流れで今回の騒動に巻き込まれちゃいまして」

 

 突然水を向けられた藤次は、そう言って苦笑を浮かべた。それを聞いた二人は得心が言ったように頷きを見せる。

 そして、オサムはそんな藤次に気遣わし気な視線を向けた。

 

「なるほど、そう言った経緯で…… この島の人ではなさそうですし、旅行者の方でしょう? それがこんなことになるなんて……」

「ええ、高校最後の夏休みにここに旅行に来たんですが…… ちょっと間が悪かったみたいです。綺麗な景色も見れたし、美味しいものをたくさん食べられたのは良かったんですけどね」

 

 そのどこか食い意地の張った答えに、隣で聞いていた吾郎が小さく笑った。

 

「こんな状況でもそんな感想が出て来るとはなぁ…… 料理人冥利に尽きるが、お前さん、ちょっとずれてるんじゃないか?」

「あははは…… こればっかりは性分なので……」

 

 藤次は照れくさそうに頬を掻き、視線を逸らした。そんな彼を見ながら、ゲンがマリの袖を小さく引いて、小さく耳打ちをする。

 

「マリちゃん、このお兄さん細い体をしてるのに、ご飯を何杯も食べて、その最後に親子丼まで食べたんだよ」

「すごいね。お兄さん、大食いの選手なの?」

「違うみたい。でも、お兄さんの友達はもっと食べるって言ってたし、もしかしたらそっちが大食いの選手なのかも」

 

 そんな会話が聞こえてきたものだから、藤次はいたたまれなくなって顔も背けてしまった。そんな彼を見て、悪い人ではないと判断したマリの両親は、小さく微笑みあって顔を寄せる。

 

「面白い子ね」

「ああ、こんな状況じゃなかったら、もっと話をしてみたい所だ」

「そこまで言われるようなことではないと思うんですけどね……」

 

 そんな言葉に、藤次は照れくさそうな表情で頬を掻いた。

 適度にリラックスした空気が流れる中で、エレインはするりと束の間の団欒を繰り広げている一行から距離を取り、部屋の周囲の気配を探る。

 

「この部屋の上下左右と廊下に人が動く気配はない…… そっちからの奇襲は今のところ可能性は低そうね…… 気配が無いなら、どちらかにぶち抜くぐらいはしても大丈夫かしら?」

 

 そして、物騒な言葉を口の中で呟きながら、袖口に仕込んであるワイヤーに手を掛けていつでも奇襲を受けても大丈夫なように気を張り巡らせる。

 島全体で生存者たちが部屋の中に立てこもり始めた時分であろうとエレインは推論を立てる。だからこそ相手は確実に何かを仕掛けてくるはずだ。それがどのような形で行われるかは分からないが、必ず。

 まして、エレイン達が立てこもっているホテルは場所も割れているため、何も仕掛けられないなどと言う希望的観測をすること自体が難しい。

 だからこそ、彼女はホテルの外から操られた島民や旅行者が押し寄せてくる気配が無いことに不気味さを感じていた。相手が仕掛けて来るであろうと考えた十分の刻限ももう間もなく過ぎようとしているというのにである。

 

「ダメね…… こう言ったのは現場にいる人間ならすぐに分かるんでしょうけど…… やっぱり勘が鈍ってるわね」

 

 戦うことは出来ても、実戦の現場から遠ざかって久しいエレインは自身の錆付いた勘と戦闘の思考に小さくため息をついた。元より医者という立場もあって戦闘の場に出ること自体が少なかったが、ここ最近ではそれすらも必要ない程度にクロユリの状況も安定してきている。

 それがこの状況になって裏目に出てしまったのは何とも皮肉なことだ。其れなりに平和な期間が続いたため、敵ならどう動くか、どうされるのが一番嫌な事なのか、自身にとって最善の動きとは何か。そう言ったことを考えるために必要なものが衰えてしまった。

 そればかりは仕方のないことと言えど、最悪の事態の前ではそれに恨み言の一つもこぼしたくなるというものである。しかし、それを飲み込んで小さく息を吐くと、エレインはそのまま壁にもたれかかった。

 そして、視線をカーテンのかかった窓へと向ける。彼女の耳には遠くから雷鳴が鳴り響く音が聞こえてきた。さらに、カーテンから透ける光が暗くなっていることから、天候がさらに悪化していることが分かる。

 

 だが、その音はある一定の距離から不思議とそれ以上島に近づいてくることは無かった。雷鳴の近づいてくる音から考えて、もうその悪天候が島に到達していてもおかしくはないはず。其れなのに、まるで足止めされているように一定の距離から近づくことが無い。

 

 そのことにエレインだけでなく吾郎も気が付いたらしく、訝し気な表情で窓の方へと視線を向けた。

 

「妙な天気だな…… 島がただでさえ大混乱だっていうのに、お天道様までご機嫌斜めとはよろしくねぇ」

「やっぱり…… この天候は島に長く住んでいてもおかしいと感じるものなの?」

「おうよ。台風が来たときみたいな音がするくせに、それが島の近くで行ったり来たり。こんなことは長年この島に住んでいて一度も無かった。まったく、どうなってるってんだ……」

 

 吾郎はこの場にいた面々の想いを代弁するかのように紡がれた言葉が部屋の中にジワリと溶けていく。

 そんな中、先ほどまで元気に話していたマコトとオサムが急に胸を抑えて苦しみ始めた。

 それに慌てて駆け寄ったのはエレインだ。何せ自身の診た患者でもあるし、その治療も問題の無いものであったという自負もあった。それなのに、二人は実際に苦しみ始めている。彼女は医者として何故そんな症状を訴えているのかを知らなければならなかったのだ。

 

 だがその義務感はこの場において致命的なものとなる。

 

「エレインさん!」

 

 藤次が鋭い声を上げた。

 それは他の面々の様にマコトとオサムの異状に動揺し、気遣うようなものでは無くどこか深刻な響きを持っている。

 

 だが、それも仕方のない事であろう。

 

 それはエレインに対して、警告をするために紡がれた言葉であったのだから。

 だが、それに彼女が気づいた時は僅かに遅く、虚ろになった瞳を揺らしたマコトに噛みつかれた時になってからであった。

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第十三話

 

「ぐっ……!」

 

 エレインは咄嗟に右腕を滑りこませ、何とか首だけは死守する。しかし、その異常と言うべき咬筋力によって皮膚どころか筋肉まで深く裂かれ、骨が砕ける音があたりに響き渡った。

 マコトとオサム。

 両者の様相をこの部屋まで無事にたどり着いた面々は良く知っていた。

 なんせその異常な力、意思を感じない虚ろな瞳、おそらくは痛みも感じていないであろうその様相は、島のあちこちで見てきたのだ。

 一行を襲った島の人間たちと全く同じであると、混乱した状況の中でもそう断じてしまう事が出来てしまうほどに。

 

 だが、その異常な咬筋力を発揮したせいでマコトの顎が外れ、だらりと下顎が垂れる。それどころか骨や歯も所々砕けてしまっている有様だ。それでもなお、操られたマコトは攻撃をやめようとしない。

 

 しかし、顎が外れた瞬間、生まれた隙を利用して何とかエレインは彼女を突き飛ばし、距離を取って左腕でワイヤーを手繰った。

 

「っの‼ 正気に戻りなさい!」

 

 そう言いながら、ワイヤーでマコトの身体を器用に縛り上げ床に叩き付けるようにして強引に動きを止める。だが、そのすぐ横にいたオサムもまた彼女へと襲い掛かってきた。

 現在、エレインの右腕の筋肉は裂けてしまっており、そちらでワイヤーを手繰ることは不可能だ。左腕もマコトを拘束するワイヤーを手繰ったばかりで防御に間に合わせることが出来ない。

 だから、彼女は咄嗟に使い物にならなくなってしまった右腕でそれをガードしようとする。

 

 だが、それよりも早く藤次がオサムのことを突き飛ばしてエレインから距離を取らせた。彼もその反動で地面にしりもちをつきながらも、そのままずりずりと後ずさりながら彼女に言葉を掛ける。

 

「大丈夫ですか!」

「ありがとう、何とかね…… だけど、状況は最悪よ」

 

 そう言ったエレインの視線の先で、オサムが体をゆらりと揺らしながら起き上がる。

 そんな中、吾郎は絶望と混乱で凍り付いた子供たちを抱き寄せオサムとマコトから距離を取りながら声を荒げた。

 

「どうなってるんだ嬢ちゃん! いくらなんでも最悪すぎないか? ゾンビ映画じゃないんだぞ!」

「私にも分からないけど、あの二人も島であふれかえっている人たちを同じような事になっているみたいね……」

 

 そう言いながら、エレインはオサムを厳しい視線で睨みながら、じりじりと距離を測る。その最中、噛みつかれた右腕に対し、周囲の人間にバレないように霊力を用いて治癒を施しながら。

 じりじりと自身が使用するワイヤーの残量がすり減っていくことに歯噛みをする。手足をへし折るなりすればワイヤーを減らさなくても済むが、流石に二人の子供の目の前でそれをするのは躊躇われた。それ故に、再び襲い掛かってきたオサムに向けてワイヤーを放ちその動きを拘束することとなる。

 

 一本のワイヤーをそれによって失う事となった。だが、それでもマコトとオサムが平穏無事に捕まっているかと問われればそうではない。元より、痛みなど気にせず動きまわる性質を持ち合わせているために、じたばたと暴れるたびにワイヤーが体に食い込んで血を流し始めた。

 

「さっきよりも抵抗が激しい……!」

 

 エレインは脂汗を流しながらワイヤーを握る手に力を入れて打開策を模索する。

 

「ひっ」

 

 そんな光景を見たマリが動揺のあまり顔色を悪して小さく悲鳴を上げる。ゲンもタエも似たようなもので、顔面蒼白になって彼女と一緒に身を寄せ合っていた。

 そんな中で、藤次は多少顔が青くなっているものの、比較的平静さを装ったままでエレインに小声で問いを投げかける。

 

「どうしますか? このままだと、失血多量になるかもしれませんよ?」

「手っ取り早くするなら、まあ、ちょっと色々外したりするんだけど…… 流石にあの子たちの前でやるのは……」

 

 エレインはそう言いながら、ワイヤーが食い込んで傷ついていく二人の身体を、先ほどから自身に行っているように術の発動における霊力の燐光が殆ど見えないレベルで少しずつ治癒を施していく。

 だが、そうやっているうちは、本格的な治癒を施すことが出来ない。当然、少しずつ出血量が増えていく。こうなっては仕方がないと、エレインは振り返って吾郎に向けて言葉を投げかけた。

 

「ねえ、その子たちを連れて、少し浴室の方にでも隠れていてくれないかしら? ちょっと二人をおとなしくさせたいんだけど、あんまり見せられるものでもないから」

「一つ確認させてもらうが、アンタの仕事は命を助けることだ。それに、間違いは無いんだな?」

 

 言外に、こうなってしまったマリの両親に何か危害を加えるのではないか、と問いかける吾郎。

 

「もちろん。ただ、治療行為に抵抗する患者を制圧するのも医者の仕事なの」

 

 それに対し自信に満ち溢れた微笑みを浮かべ、紡がれたエレインの言葉に、吾郎は頭が痛そうに眉間に皺を寄せた。それはまさしく、吾郎の言外の問いに対する肯定であるのと同時に、医者として患者を救うために多少の荒事は辞さない彼女の考えを嫌という程感じ取れるものだったのだ。

 

「そいつは…… また、なんというか、本当に医者の仕事なのか?」

「ええ。うちの患者は病室でバカ騒ぎをしたり、脱走して勝手に近場のバーガーショップにチーズバーガーを買いに行ったり、酒を飲んで病室を破壊したり…… まあ、色々と濃いのが多いのよ。それより、早く浴室の方へと移ってもらえる? 早く処置しないと手遅れになるけど、それでもいいの?」

 

 それは、医者として刻一刻と患者の命が迫ってくることが感じ取れているからこその固く、そして真摯な言葉。

 だが、吾郎も患者を助けるためとは言えども、何か荒っぽいことをしようとするエレインに対し、思うところがあるのかその瞳を強く見つめた。

 

 永遠とも感じられるような刹那の睨み合い。

 

「……仕方ねぇ、とりあえず浴室に移るぞ。ゲン、マリちゃんの手をしっかりと握っててやんな。タエは、俺の手に捕まってろ」

 

 先に折れたのは吾郎だった。彼はそう言うとタエたちを浴室の方へと誘導するが、その間をすり抜けるようにしてマリがエレインに飛びついた。

 

「エレイン先生…… お父さんとお母さん、どうなるの?」

 

 先ほどまでが希望が確かに宿った声と表情であったとするならば、今は絶望のどん底に突き落とされたと表現するしかないような表情でその言葉は紡がれた。

 実際、もう助からないと心の隅で確かに感じた絶望を救い上げられたその直後に、さらなる絶望に突き落とされたのだから、それも当然だろう。

 エレインはそんな事実に、そしてなにより人の命と尊厳を踏みにじるかのような悪逆に深い憤りを覚えた。滲みだす怒りと、それに対して明確に対処をすることが出来ていない自身への怒りが、彼女の血が滲み出るほど強く握り込まれた拳によく表れている。

 それを抑え込むようにして彼女は深く、とても深く息を吐いてからマリと視線を合わせるように膝をついた。

 

「私は患者とその家族に気休めの言葉は言わないようにしているわ」

 

 残酷であったとしても、幼い子供には受け止め難い事実であっても、それでもエレインは一切嘘を交えない言葉を紡いだ。それが彼女に尽くすことの出来る精一杯の誠実さであり、信念でもあったから。

 それが例え幼い子供であったとしてもそれだけは出来なかった。

 いや、幼い子供だからこそまっすぐ向き合い、エレインはマリの潤んだ瞳を覗いて真摯に言葉を紡いだのだ。

 

「だからはっきりと言うけど、このままじゃ危険よ。だから、大きなけがをする前に、痛いことをしてそれより酷いことにならないようにする必要があるの」

「痛いことするの?」

「そう、とってもね。でも、このままだとあの二人は痛いことすら分からなくなってしまうの。だから、今はこうしないといけないのよ。その歳の女の子に分かれ、とは言わないけれど、知っておいて欲しいとは思うわ」

 

 分かれ、なんて彼女は口が裂けたとしても言えなかった。それに誤魔化すなどと言う選択肢も取ることが出来なかった。

 

「エレイン先生……」

 

 そして、まだまだ幼いマリは、その言葉をうまく噛み砕き、飲み下すことは出来なかったが、心の奥底でその真摯な思いを感じ取っていた。だからこそ泣きそうな顔で、否、既に泣き出している顔でエレインの名前を静かに紡いだのだ。

 縋るように、祈るように、何処か悲しむように、そして父母をこれから傷つける医者を責めるように。

 それを真っ向から受け止めながら、エレインは彼女の身体を押して踵を変えさせることで、オサムとマコトから視線を外させた。

 そして、吾郎とゲンに視線を向けて、無言で連れて行くように促して見せる。

 それを受けて、二人はマリを伴い浴室の方へと移っていった。

 その背中を見届けると、エレインは藤次の方へと視線を向けて言葉を紡ぐ。

 

「ほら、貴方も行きなさい。素人が見ていて気分のいいものじゃないわよ」

「いえ、何かできることがあるなら手伝います。この部屋にいる生存者の中で、今一番エレインさんの治療に馴染みがありますから」

 

 藤次は出来るだけ軽い調子でそう言うと、彼女と視線を合わせた。だが、その瞳に映った感情の色は真摯なもので、彼なりに今の状況を何とか打開するためにあがきたいという思いが滲みだしている。

 そんな藤次の想いを感じ取ったエレインは小さくため息をつき、そして微かに苦笑を浮かべた。彼の意思は固そうだとその目を見て理解できてしまったから。

 

「そうね。そこまで言うなら手伝ってもらうわ。まず、そこに置いてある椅子で出来るだけ処置する患者の身体を抑えていてくれないかしら。私が少しでも鎮圧作業をしやすいように」

 

 そんな彼女の言葉に藤次は力強く頷きを返した。どこか乾いたものでありながらも、確かな力のこもった微笑みを浮かべて。それは彼なりの強がりであった。だが、それでもその意思は固い。

 

「分かりました。僕の気が変わらないうちに速く済ませちゃいましょう」

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第十四話

 彼は若干情けない返答を返しつつも、部屋に置かれていた椅子を手に持ち、全体重を掛けてマコトの身体を押さえつけた。それにより、彼女の身じろぎが弱まり、僅かに処置がしやすくなる。

 そこに、医療用のゴム手袋を着用したエレインが近づき、まず、その顎の関節を外して噛みつきを出来ないようにした。関節が外れる際のガコリと言う音に、藤次が僅かに体を強張らせるが、彼はそれを何とか抑え込んで自分のすべきことに集中する。

 そんな様子をちらりと横目で見つつ、エレインは的確に関節を外し、腱を断ち切っていく。彼女はそれと同時に、ワイヤーに食い込み血を流していたマコトの身体に治癒の術を施していき、その傷を塞ぐことにも努めた。

 

 だが、そんな二人の行動をあざ笑うかのように問題が発生する。

 まるで、ホテルの中が一斉にひっくり返されたかのように、階下あるいは階上で何かが割れるような音や争うような音が響き渡り始めたのだ。

 

「エレインさん、これって……」

「ええ、間違いなくこれがこの事態を引き起こした犯人の次の手ってところでしょうね。負傷者を連れてねぐらに閉じこもれば、内側からそれを瓦解させるなんて、いい趣味してるわ」

 

 心底忌々しそうな表情で、エレインは小さく歯噛みをする。この音から、ホテルの他の部屋に立てこもった生存者たちの間でも、自分たちと同じことが起こったのだろうと察してしまったからだ。

 

「でも、どうやってこんなことを? エレインさんが言うには、何らかの条件を満たさないとこんな風に人が操られるような状態にはならないんですよね?」

「そこが問題なのよね…… 今のところ、こうなった二人の共通点は怪我をしたってことぐらいだけれど、そもそも最初に襲い掛かってきた人間は怪我らしい怪我なんてしていなかったから、それが条件っていう訳ではない筈なのよ」

 

 だからこそ、エレインは解せないのだ。

 

「それに、連中の動き…… 本気で殺しに来るなら、もっとやりようはある筈…… これだけのことが出来るなら、もっと早く大人数を連れて襲わせるくらいのことは出来たはずよ」

「相手は、僕たちをなぶり殺しにしようとして楽しんでいる精神異常者か何かですか?」

「そんなのが相手だったら、もう少し楽に対処が出来たかもしれないけど…… 違うわね。何らかの意図をもって、生存者たちを段階的に追い詰めているような気がしてならないわ」

 

 二人は会話をしながら、確実に処置を進めていく。藤次は骨が折れ、関節が外れ、腱が切れる音が響くたびに体を少し震わせるが、それでも自身の役割を放り出すようなことはしなかった。

 明らかに肉体を破壊することを目的とした施術を見て、顔色を悪くするだけで目線を逸らしたりしない彼に対し、エレインは思った以上にタフな人間であると評価を上方修正する。

 そんな一見すると異常としか言いようのない状況の中で、二人は言葉を交わし続けた。

 

「仮に、仮にですよ。もし、エレインさんの言う通り、相手が段階的に生存者を追い立てているとして、その目的はなんですかね? それに、こう言った孤島を選んだ理由は?」

「そうね…… 妥当な線としては、実験かしら。そう考えると、不可解な点も納得できる。第一段階でパニックを起こし」

「第二段階で、立てこもった人間をさらなるパニックに陥れるってことですね」

「そう言う事。理解が早くて助かるわ…… もしこれが国家や組織を相手取った場合におけるモデルケースだと考えるなら…… 事態はもっと悪い方向へ動いていくことになるかもね」

 

 その一言と共に、オサムの番へと移っていた処置の最終段階が完了し、最後にガコリと鈍い音が響き渡った。何度も響き渡ったその音に、いい加減慣れてきたのか藤次は体を震わせることはしない。だが、未だに顔を顰める程度にはその音に苦手意識を持っているらしい。それでも大した順応力ではあるが。

 そんな藤次であっても、エレインの言葉は無視できなかったらしく、不安げな表情で問いを投げかける。

 

「まずい方にと言うと、どんなふうにですか?」

「考えても見なさい。集団であやつられた人間が、組織だって国の施設を襲う光景を。それはちょっとした紛争を引き起こすには十分すぎるくらいの事じゃないかしら? 例え、それが同盟を結んだ国家間であったとしてもね。だから、ちゃんと臨んだ効果が得られるか、この事態を引き起こした犯人は何処からかこの事態を記録、観察しているはず」

「……なるほど」

 

 納得がいった藤次は少々顔を青くしてその言葉に頷いた。昨日味方だったはずの人間が武器を持ち、徒党を組んで襲い掛かってくるというのはそれだけのことを引き起こしかねないと即座に理解できてしまったからだ。

 

「と、言う事はこの島はその兵器の実験場に選ばれたわけですか」

「そう言う事になるわね。しかも、ご丁寧に曇り空の日を狙ってきてるから、衛星で事件を察知することは不可能。逃走に使えそうな船は爆破するという徹底ぶり。計画的だし、無駄が無い。ただ、あの嵐は少し不可解だけど」

 

 そう言って彼女がちらりと視線を向けた先では、未だに不気味な嵐が島の近傍を這うようにして停滞していた。

 

「あれを不審に思ったうちの人間が、誰かをこっちに差し向けてくれるとありがたいけれど…… どれだけ時間がかかるか分からないし、やっぱり救助は望み薄ね」

「そうですね…… このホテルも随分と騒がしくなってきましたし、出来るだけ早く移動しないと……」

「ホテルがダメとなると山の中に分け入るぐらいかしら? そうすれば、多少は時間を稼げるとは思うけれど、今この部屋にいる生存者の面々を考えると…… やっぱり厳しいわね」

 

 出来るだけ民間人を安全な場所へ、そう考えはしても状況の特異性がそれを許さず、エレインは小さく歯噛みをした。そんな彼女の言葉に頷きながら、藤次も深刻そうな表情で言葉を紡ぐ。

 

「ええ。それに加えて、いつ僕もあんな風になるか分かりません。怪我をしたこともああなる条件に関係があるなら、僕だってそれに当てはまりますからね」

「それが一番の問題よ。どういう条件で操るための土壌を整えているか分からない。もしかすると、私もああなるかもしれない。そうなると、戦闘能力の面から考えて、生存者全体の命を危険に晒すことになる。それだけは、何とか避けないと……」

「こうなると、本当におじいさんが行ってたみたいにゾンビ映画みたいですね。僕らは差し詰め感染者か何かでしょうか」

「この期に及んでまだそんな冗談をいう余裕があるとは恐れ入ったわ…… 正直、温厚そうな腹ペコキャラか何かだと思っていたのに」

 

 確かに顔色は悪くなってはいるが、それでもこんな状況でまだ冗談を言う余裕がある。そんな藤次のタフさは、エレインからしてみても中々のものだと思えるものだった。だが、何処か呆れたようにに緩んだ彼女の顔から、何かに気が付いたかのようにして少しずつ表情が抜け落ちていく。

 彼女の背後で、藤次が先ほどの言葉に対してぶつぶつと反論をしているが、そんなことは一切耳に入っていない様子で思考の海へと沈んでいった。

 

「まって、ゾンビ映画……? 吸血鬼とグール、いえこれに関しては今回当てはまらないわね…… ウイルス…… そうよ、ウイルス! もしそれを媒介に何らかの術を施しているなら、結界で遮断したとしても、元株さえあればその縁を辿って術式の発動くらいは容易にできるわ」

「どういうことですか?」

「まず、呪いや支配の術式などはある程度の前準備が必要って言ったけど、遠隔からそれらの効果を発するには、術者と対象に何らかの縁を結ばなきゃいけないの」

 

 エレインはそう説明しながら、自身の鞄から採血用の道具を取り出し、それをマコトの腕へと突き刺した。少しずつ血液が器具の中を満たしていき、所定の量を超えた時点で彼女は針を引き抜いた。

 

「例えば…… 有名どころだと藁人形とかがそうね。あれは呪う相手の髪の毛という縁を手繰って効力を発揮するの。それと同じ要領で、ウイルスの元株とそこから分裂して増えた子株の縁を辿って効力を発揮してるんだとしたら……」

 

 確証はまだないが、それでもほぼ確信をもって彼女は言葉を紡ぎ続ける。そしてそのまま、血液の入った容器を小型の機器に差し込むと、手元の情報端末と有線接続を行い、表示された映像を見て禍々しく笑った。

 

「なるほど…… ウイルスの構造に術式を組み込むことで、支配を行っていたわけね。この計測値を見るに、微弱ではあるけど霊力の生産も…… それを用いての術式の発動をしている。厄介極まりないけど、これなら反撃の方法はある」

「でも、エレインさんは噛みつかれていたわけですし…… 感染しているんですよね? その状態でどうやって反撃を……」

「このウイルスは自己複製をして増えて行っているわけだけど、個々の霊力の生産能力は低い。ある一定以上までウイルスが増殖するか、ウイルスが霊力を一定以上まで生産してため込むかのどちらかの条件を満たさないとああいう風にはならないわ。それまでにウイルスに対して何らかのアプローチをすれば問題は無いわ」

「ワクチンとかを作る時間も設備もここには……」

 

 藤次は言葉を濁しながらも、現在の状況を的確についたものだ。通常のウイルスに対するワクチン作成など、常識的に考えて時間が全く足りていないし設備も無い。

 

 こんな無い無い尽くしの状況で、どうウイルスに対処するというのだろうか。

 

 そんな疑問が彼の顔にありありと浮かび上がっていた。

 

「私が使える治癒の術式はね。なにも怪我を治すだけが使い道じゃないわ。相当レベルで使いこなせるようになれば、怪我の塞がるプロセスを改ざんして強制的に変異を起こすもよし、細胞を異常活性させてエネルギーを使いつぶさせるもよしと、中々便利なものなのよ? ただ、今回は…… 死滅させるのは設備もなしだと厳しいわね…… 流石に術とウイルス自体に対策はされてるみたい。精々変異させるのが精いっぱいってところかしら」

 

 そう言いながら、エレインは目を細めて自身の体の中にあるウイルスに霊力を用いて干渉を始めた。その体は、よほど注意をしてみなければ分からないほど微かではあるが、燐光を帯びる。

 体内でウイルスに対しての変異を行うという、実に危険な作業をしている彼女を見て藤次は少し顔を引き攣らせながら言葉を紡いだ。

 

「それは…… 怖いですね。いろいろな意味で」

「怖いのは当たり前。技術っていうのは人を救うけれど、それと同じくらい人を殺すものなのよ。それが欠片も怖くないなんて言うやつは、何処か頭のネジが外れてる飛んでもない異常者か、よほど調子に乗っているガキかのどっちかよ」

 

 エレインはどこか苦々しさを含んだ口調で言葉を紡ぎ、薄く目を細めた。その瞳に映る感情の色はいかなるものか。藤次はそれを察することが難しかったが、一つだけ理解できたことがある。

 その感情の色はきっとよくないものを滲ませているのだろうという事だ。それを察せられる程度には藤次は鈍くなかったし、エレインの発した声色も固いものだった。

 なんと言葉を返せばいいか分からない藤次が固まっているうちに、エレインは次なる言葉を紡ぎ出す。

 

「体に負荷は掛かるけど、何とかあっちの連中みたいにならずに済みそうだってことが分かっただけでも僥倖ね。でも、ホテルに立てこもっていた何組かが内側から食い破られたみたいだし、そろそろ移動しないとホテルの中が戦場になるわよ」

「次は何が起こると思いますか?」

「戦術的に見て、第二段階までで事の首謀者は十分すぎるほどの成果を得ているわ。なら、あとは後始末をするだけでしょう? 私なら、証拠は残さない」

 

 その言葉の意味するところを悟り、藤次はピクリと眉を動かしながら視線をさまよわせる。冷や汗をじっとりと滲ませながら、彼は小さくこう呟いた。

 

「まずいですね」

「ええ、まずいわ。今操られている人間は何らかの形で殺されるでしょうし、そう言った運命にある彼らが一斉に私たちに襲い掛かってくるでしょう。それに、さっきも少し言ったけど実験が目的なら島全体の監視、及び記録位はしているはず。どこを通っても私たちは敵に発見されることになる」

「逃げ場なし…… もう、僕たちは終わりですか?」

 

 思わず漏れてしまった藤次の弱音が、エレインの耳朶を打つ。そのどこか縋るような響きに応えるべく、彼女は力強く言葉を紡いだ。

 

「いえ、まだ手の打ちようはあるわ」

 

 そして、その言葉と共にエレインはゆるりと立ち上がる。

 

「手品の種は割れた。そろそろ、こっちから打って出ないとね」

「まさか…… 一人で操られた島民全員を相手にするつもりですか?」

「ええ、そうよ」

 

 藤次の投げかけた問いに、エレインは泰然とした態度でそう返した。そこに一切の気負いはなく、また油断らしいものも見当たらない。純粋に、ある程度の勝算があるからこそ、それを掴み取りに行こうとしているのだろう。

 現に凶器を手に持った十数名ほどいた人間を片っ端から彼女は軽々と片づけて見せた。操られた人間程度なら彼女は物の数では無いだろう。

 

 問題があるとするならば

 

「狙撃をしてきた相手はどうなりますか? もし、あの明らかにヤバい操られたひとたちをどうにかエレインさん一人で制圧できたとしても、さっきみたいに体に大穴が空けられたら?」

「それが唯一かつ最大の問題点ね。それを考慮して、私が今回の事態を引き起こした奴に勝てる可能性は五十パーセントってところかしら。覚悟と準備さえ出来ていれば、撃ちぬかれるのとほぼ同時に治癒を施してダメージを限りなく抑えられるけど、それでも痛みで集中力が乱れるのよね」

 

 事の首謀者。それが誰なのか二人は知らないし、どこから狙撃してくるかも分からない。

 それ故に、いつ、どこから、どのようにして自分に攻撃を仕掛けられるかが分からないというのがネックなのだ。

 

「でも、それにも問題はあるわ。相手は私が単騎で相手取ろうとすれば、確実に貴方たちが孤立しているってことがバレる事になる。貴方たちの方に余った戦力を投入するぐらいのことはするでしょう。そうなれば貴方達は確実に敵の手に落ちる。特に、貴方は特異な体質をしている可能性が高いから、見る人が見れば最優先目標が貴方に切り替わることも考えられるわ」

 

 エレインは淡々と言葉を紡ぎながら、藤次の顔を覗き込んだ。

 緊張、不安、混乱、そして恐怖。様々な感情が顔を覗き込まれた彼の中を駆け巡り、彼の喉をからからに乾かしてく。藤次が体験した不可思議な体験。それは、オカルト事象の中に身を置いているエレインですら稀少と断定するようなものだ。

 そんな降ってわいた能力のせいで、自身の進退が窮まる可能性が高いなど、彼からしてみれば厄ネタ以外の何物でもない。

 

 ごくり、と唾を飲む音が小さく響いた。

 

 それとほぼ同時に浴室のドアが開く音もあたりに響く。

 その中からマリが歩み出てくるのを見て、藤次は先ほどまでの緊張を振り払うかのように、慌ただしい様子で彼女へと駆け寄った。

 

「あ、ストップ。もうちょっとだけ待っていてくれないかな? 身動きは出来ないようにしたけど、まだ、見せられるような状態じゃないから」

 

 そう言いながら、藤次は咄嗟にベッドの布団を剥り、エレインの方へと投げ渡した。先ほどまでは皮膚がズタズタになっていたが、エレインの治療によって皮膚に出来た傷はきれいさっぱり消え去っている。エレインの事情をほとんど知らないマリがそれを見れば、不審がられてしまうのは確実だ。

 この状況下で、不審がられてしまうのはあまりよろしくはない。

 小さな不和が命取りになる。それは、エレインが自身の術を出来るだけ隠そうとしていたことからも、藤次はよく理解できていた。

 そんな彼の投げ渡した布団の意図はしっかりと汲み取られ、マコトとオサムの身体にそっと被せられる。咄嗟とは言えども、先ほどまで極度の緊張状態で唾を飲んでいた人間と、状況を出来るだけ客観的に述べた結果それを与える原因となった医者と言う即席のコンビの連携は中々のものだった。

 それを確認した藤次はほっと小さく息をついて、マリの元に駆け寄り、その視線の高さを合わせるようにしゃがみ込む。

 

 

 そして、彼はようやく気が付くことが出来た。そう、気が付くことが出来てしまったのだ。

 

 

 やや俯いた彼女の顔を覗き込んだ時、藤次はぞっと背筋が凍るような思いを抱く。

 なぜなら、その瞳は他の操られた人間たちと同じように、何処か虚ろな色を湛えて彼の瞳を見つめ返したのだから。

 

「え?」

 

 チリチリと脳裏に火花が散ったような感覚が、この島で既に数度目になる感覚が彼を襲う。

 マリはニチャリ、と子供がするべきではない、何処か粘着質な笑みを浮かべ、彼女は藤次の喉笛を食い千切った。

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第十五話

 

 

 そんな光景と痛みを幻視した藤次は、驚愕の表情で身を引こうとする。が、元から腰を落としていたという事もあってかよけきることが出来ず、自身の喉笛が引き裂かれる感触と舞い散る鮮血を視界に収めることとなった。

 

「ぁ……」

 

 満足に声を上げる事すら出来ず、彼はマリを最後の力を振り絞って突き放し、喉から声ともただ空気が漏れる音とも取れるような微かな音を漏らしながら、ゆっくりと後ろに倒れていく。

 

「藤次!」

 

 どこか遠くに聞こえるエレインの叫び声が、藤次が意識を失う前に聞き取ることの出来た最後の音だった。

 そして、意識を失い倒れていく彼の背後からワイヤーが伸び、マリの肉体を拘束する。そして、すぐさま藤次に駆け寄ったエレインは、地面に叩き付けられそうになった彼の肉体を咄嗟に支え油断なく浴室と部屋の入口へ視線を向けた。

 

「くそ! ウイルスの感染力が想像以上に高い…… 飛沫感染と接触感染まで持ってるっていうのかしら? だとするのなら……」

 

 そう呟きながら、エレインは藤次の喉に出来た傷口を力強く抑えながら、治癒を施し、それを塞いでいく。

 だが、それでも状況は予断を許さない。マリがこの状態で出て来たという事は、即ち、浴室にいた生存者たちも当然のことながら

 

「そう、なっているわよね……」

 

 ぞろぞろとマリの後に続くようにして、見知った顔が浴室の中からうつろな目をして歩み出てくる。それを見たエレインは怒りに震えながら、歯を食いしばり、視線だけで人を殺せそうな怒気を纏ってワイヤーを構えた。

 

 しかし、状況は非常に悪い。出来るだけ傷を与えないように拘束してはいるが、マリも体をじたばたと動かして皮膚が裂け始めている。

 手足にダメージを与えてから拘束したわけでも無いため、先ほどのオサムとマコトの様な状態になっているのだ。

 

 このままでは二人の二の舞だ。それだけでなく、部屋の入口のドアもすさまじい力で何度もたたかれ、蝶番が不吉な音を立てて歪み始めている。

 おそらく、数分と経たないうちに部屋の中へと操られた人間がなだれ込んでくるだろうことは想像に難くない。

 

 エレイン一人ならば、この状況でも部屋から出ることなく操り人形とかした吾郎たちを完全に無力化することは可能だ。しかし、傷ついた藤次を片腕に抱え、治癒を施し、さらには自身の体内のウイルスに干渉し続けているこの状況では、それも難しい。

 先ほど相手取った人間たちとは違い、相手の身体を傷付けながら修復するという芸当が非常に難しくなっているのだ。これで先ほどと同じことをしようとすれば、致命的な損傷を残しかねない。

 かと言って彼女の後ろ、つまるところ窓へと身を躍らせれば、外部からの狙撃のリスクがある。

 エレインは藤次の喉と、傷つき続けているマリの肉体に治癒を施しながら、彼女はじりじりと迫りくる操り人形と化した守りたかったものから距離を取った。

 

「仕方ないわね…… 一応、保険だったのだけれど、こうなったらそうも言ってられないわ」

 

 エレインはそう言うと、目をカッと見開いて、大きく腕を振るった。彼女の手で手繰られたワイヤーが狙う先は、操られた吾郎たち、ではなく上階へと繋がる天井だ。

 まるで溶けかけのバターに食い込んでいくように、ワイヤーはするりと天井の内部へと侵入し、切り取られたそれはエレイン達と吾郎達の間に落下し、轟音と埃を舞いあげた。

 その衝撃で操られた吾郎たちは、僅かに体勢を崩し、たたらを踏んだ。

 

「残念だけど、相手をするつもりは無いわよ」

 

 そう言いながら、エレインは藤次を抱えた状態で、足の裏に集中させた霊力を集中させる。それを一気に放出することで、勢いよく上階の床へと彼女は着地して見せた。それとほぼ同時に、マリを拘束していたワイヤーを解き、回収すると彼女は着地した部屋の扉を蹴破るようにして廊下へと躍り出る。

 彼女が元いた部屋に入った時、上下左右に敵がいないかを確認していたのは、安全確保の意味もあったが、それ以上に咄嗟に逃げるための逃げ道の確認の為だったのだ。

 

「下に来てたから、こっちにはいないわね…… でも、駆けつけてくるのも時間の問題か」

 

 忌々し気に顔を歪めながら、エレインは必至に視線を巡らせる。自身に感染したウイルスに対する精密な干渉、藤次の食い破られた喉元の治療、現状を打破するために割いている思考、動かし続けている身体。

 どれか一つか、或いは二つまでなら、エレインならばどうということは無いのだが、流石にこれだけの量を同時にこなすとなるとそうもいかない。

 しかも、状況は常に悪い方へと流動し続けている。喉元を食い破られた藤次は、ほぼほぼ確実に術式が仕込まれたウイルスに感染しているだろう。だが、彼の体内にあるウイルスに干渉している余裕がエレインにはない。

 

「流石に、確定事項とはいかないけど…… 藤次の体質に賭けるしかないわね」

 

 エレインは小さくそう呟くと、上階を目指して廊下を疾走しながら、自身が感染したウイルスの治療と、藤次の傷の治療に専念する。その最中、部屋の扉から操られた女が飛び出してくるが、

 

「治してあげる余裕はないから、死にたくなる程度に痛いわよ!」

 

 エレインは素早く攻撃を躱すと、力強く相手のつま先を踏み抜き、身体を一回転させて、態勢が崩れた女の膝を後方から蹴りぬいた。ガクリと膝が曲がり体勢を崩した女は、そのまま地面に倒れ込む。

 踏み抜かれたつま先の骨は粉々になり、通常なら立つ事すらままならないだろうダメージだというのに、女はエレイン達がこれまで見た人々と同じように、這いずりながらでも追いすがってきた。

 エレインはそんな女に向けて小さく「ごめんなさい」と呟くと、その腰に向けてその足を振り下ろした。

 

 背骨が砕ける音が響き、女はそのままほとんど動かなくなった。それでも、上下する胸と、ぎょろりとさまよわされている虚ろな瞳が彼女の生存を見るものに訴えかけている。

 一見悲惨とも言える状態ではあるが、この状況で生命活動に大きな支障をきたさない程度のレベルで脊椎を破壊できたのは、エレインが人体についての造詣が異常なまでに深かったおかげだ。

 そうでなければ、体術に秀でているとは言い難い彼女の脚力で、襲い掛かってきた女は絶命していただろう。

 

 だが、たった一人を無力化したところで、敵は次々とやってくるのだ。現に、ホテルにある二つの階段からは、それなりの数が駆け上がってくる足音が響いている。

 

「ああもう! 厄介極まりないわね…… 藤次の傷は、大体塞がった。後は、私の体内のウイルスと、出来れば藤次の感染したウイルスの対処もしないと」

 

 そう言いつつ、エレインは階段ではなくエレベーターホールへと走った。相手が両脇を詰めてくる、さらには狙撃の危険もある以上、フロア中央に位置するエレベーターに向かう以外に選択肢はない。

 それに、怪我人を抱えた状態ではあるものの、エレインの行動の枷が大きく減った今なら、多少の無茶は押し通せる。

 枷が減った事と、見知った顔が敵の手に落ちてしまったことが同義であることが、彼女にとって忌々しい事実に他ならなかったが、今は抱えた患者と自身の命と正気を保つのが最優先事項だ。

 エレインまで敵の手に落ちてしまえば、それこそ何もかもが台無しにされてしまうだろう。

 

「私が生きているうちは、手駒として操った人間はある程度は生かしておくはず……」

 

 操られた人間の命を確保するという意味で、彼女は絶対に敵の手に落ちるわけにはいかない。

 そんな思いを抱いた彼女の瞳に、エレベーターの扉が映る。そして、それと同時にワイヤーを伸ばし、行く手を阻む扉をバラバラに切り裂いて見せると、そのままそこへ飛び込んだ。

 一瞬の浮遊感が過ぎ去り、二人の身体は暗闇の中へと吸いこまれるように落下していった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 ホテルの廊下に仕掛けられた隠しカメラから、内部の様子をうかがっていたアイリスはふむ、と息をついた。

 

「ふむ、エレベーターの縦穴の中に逃げ込みましたか。中にいるマリオネットたちを縦穴に飛び込ませるのもありですが…… それでは仕留めきれないでしょう。仕方が無いですし、別の指令を与えてあぶり出しにかかりましょうか。確実に仕留めに行きたいですからね」

 

 そう言って彼女は、ホテル内部にいるあやつった人間の内の何人かに特定の指令を出し、アイリスはクスリと笑いを浮かべる。

 その背後では、虚ろな目をした数人の男たちが床に置かれた箱の中から、黒光りする銃火器を取り出し、ゆらりと体を揺らした。

 その様を愉しげに見つめながら、彼女は油断なく状況を詰めて行く。

 

「私が勝つか、貴女が勝つか…… どちらにせよ、これから先は血に塗れた闘争劇の始まり始まり! さあ、チェックメイトはもうすぐよ。これは、私なりの証明です。あの人に対してのね」

 

 口元を歪ませた彼女は、混沌としたこの状況の中で、偶然転がり込んできたエレインと言う一人の女を殺すために戯曲を紡ぎ、演目を作り上げた。実験さえ済ませてしまえば、好きにしていい。

 その言葉の通り、アイリスは今まさに自身の悪意を引き出し、相手を追い詰めていっている。

 自分が相手なら、やってほしくはない事をやるのは戦いにおいての常道だ。それ故に、今の彼女程厄介な相手と言うのもそうそういないだろう。

 

「ウイルスに対しての干渉は、繊細で緻密な霊力の操作が要求される。しかも、足手まといを抱えた状態での戦闘行為となると行動のリソースもそれなりに削がれるでしょう。そんな中で、出来るだけ相手を殺さないように立ち回る。そんなことが、いつまで続くでしょうね?」

 

 そう言って、彼女は椅子から立ち上がると自身の愛用のライフルを手に持ち、踵を返して部屋の入口へと向かう。その途中で、机に置いてあったナイフと札を懐にしまい込み、アイリスは顔から表情を消し去って静かに言い放った。

 

「データの収集と転送は完了しました。貴方の言葉通り、好きに暴れさせてもらいますよ。社長」

 

 不気味な呟きと共に、彼女はカツカツと足音を残し、部屋の中から姿を消した。

 

 銃火器で武装した、数人の男を引き連れて。



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感染する悪意のマリオネット症候群 第十六話

 

*****

 

 

 

「さて、これからどうしましょうか……」

 

 エレベーターの縦穴に逃げ込んだエレインは、小さく息を吐きながらワイヤーを頼りに、壁に張り付いている。

 

「とりあえず、ワイヤーを張り巡らせたから、上から何が落ちてきても絡めとれる準備は出来たけれど…… 根本的解決にはなっていないわよね」

 

 そう言った彼女の視線の先では、その言葉通り、蜘蛛の巣を思わせるようにワイヤーが張り巡らされていた。

 だが、守りを固めたところで状況が好転するはずも無く、むしろ相手に次の手を打つための時間を与えるばかり。

 

「いつまでも穴熊を決め込むわけにはいかないわね…… こういう時はやられる前にやるのが常道だけど、それには相手の位置が分かっていないのが痛い。私を囮にして相手を釣りだすにしても、藤次の身の安全は保障されない。ウイルスは今尚私たちの身体を蝕んでいる。流石に、これだけ並べたてられると、少しきついわね」

 

 状況を確認するためと、自身の精神を落ち着けるために、独り言をつぶやきながら彼女は皮肉っぽく笑った。

 きっと、一人でなら彼女は逃げきれる。民間人の犠牲を厭わなければ、相手を逆に追い詰め、捕縛することも高確率で可能だろう。

 だが、それは彼女には出来ない、仕事、と言うのもあるが、それ以上に彼女の心情がそれを許さなかった。

 

「でも、そうも言ってられないか…… 救い出せる命があるなら、手を尽くすのが医者の務めってね」

 

 命にかかわることに関して、出来ないことならばともかく、出来るかもしれないことを放り出すのは医者を志したエレインにとって、許しがたいことであり、そして屈辱だ。

 そして、相手も彼女を殺すまでは操った民間人に対して、それ以上の危害を加えていないところを見るに、それを分かったうえでギリギリのラインを攻めているのだ。

 自縄自縛によって、エレイン自身が首を括る羽目になるのを狙って。

 彼女の思考がそこまで至った時点で、何かが焦げるような臭いがあたりに充満し始めた。それとほぼ同時に周囲の温度が上昇し、階下からせり上がってくる。

 

「はは、なるほど。文字通り炙り出すつもりね。絶対これ、性格の悪いジョロウグモみたいな女の仕業。間違いないわ」

 

 エレインは少し口汚く事の首謀者を罵りながら、数瞬の間思考に耽る。

 そして、何事かを決心したかのように頷くと、彼女はハンカチを取り出し藤次の口と鼻を覆うようにワイヤーで巻き付た。煙を吸いこんで、呼吸に障害が出ないように。

 

「ちょっと熱いけど、我慢してね」

 

 エレインはそう言うと、目を細めて煙の立ち上ってくる階下へと飛び降りた。

 

 

****

 

 

 ちりちりと焼けるような感覚が皮膚を焼いている感覚。それが藤次にとって微かに感じることの出来た感覚だった。

 それと同時に、肌を焼くような熱の中で誰かに背負われている温もりを感じ、薄ぼんやりとした意識の中で彼が瞼を開くと、その視界いっぱいに金糸の様にさらりとした金髪が広がっているのが見える。

 自分はどうなったのか。

 マリやゲン、吾郎やタエはどうなってしまったのか。

 そんな疑問が藤次の脳裏をかすめるが、失血のせいでうまく思考が纏まらずに、再び彼の意識はゆっくりと閉ざされていく。

 

 そんな中で、彼は確かに幻視した。してしまったのだ。

 

 自分のものか、それとも他者のものか。血に染まり、包帯を巻かれた己の手と、悲し気に自分を見下ろしてすすり泣いている誰かの姿を。

 その光景が歪んでいく中で、藤次が意識を失う前に感じたのはすさまじい浮遊感であった。

 

 

*****

 

 

 アイリスはホテルを狙撃できるような位置にある民家の二階に身を顰め、手持ちの端末から送られてくる情報と、自身がカーテンの隙間から様子を伺いながら、エレインが現れるのをじっと待ち続けていた。

 そんな彼女の視線の先では、火が放たれたホテルからもくもくと煙が立ち上っており、いたるところから火が噴き出している。

 

「穴熊を決め込むのもそろそろ辛くなってくるでしょう? さあ、何処から出てくるつもりですか?」

 

 ホテルの内部にいた人間は、エレインと藤次以外すべてがアイリスの支配下に落ち、彼女の手駒として今はホテルの周囲を包囲するようにして佇んでいる。その中には、二人がよく見知った顔もあり、虚ろな瞳に燃え上るホテルを映していた。

 そこに一切の人間らしい感情は無く、唯々操り人形としての役割に徹している。いや、そのように強要されているといった方が正しい。

 そんな中、遂に状況が動き出した。

 二階の壁がバターの様に切り裂かれ、煙と粉塵が内部からあふれ出し、うっすらとその中に人影を捉えた。その瞬間、アイリスは即座にその方向へとライフルを向け、狙いを付ける。

 

 そして、煙の中から現れた存在に瞠目した。それは彼女にとっての標的ではなく、まるで射出されたといって良い程の勢いで空中に放り出された藤次だったからだ。

 彼を撃っても意味は無い。むしろ、手駒となるであろう人間を減らすことになるし、何しろエレインにとっての荷物であるはずの彼を殺すのは得策ではない。

 

 しかし、そんな藤次を放り出すような真似をエレインがするとは考えづらい。まだ完全にウイルスの進行が進んでいない状態、つまりまだ操られていない人間を放り出すような事をするような相手ではないと、アイリスは情報として良く知っていた。

 だからこそ、彼女の頭にこんな疑問が過った。なら、エレインは何をたくらみ、何処へ行ったのだろう、と。

 そんな思考をアイリスが浮かべた次の瞬間、最も炎の勢いが強い一階の壁を切り裂き突き破るようにしながら、エレインが姿を現した。

 

「こっちよ! さあ、私を見なさい」

 

 彼女はそう言って、妖艶にほの暗い笑みを浮かべる。

 それと同時に、アイリスの視線は吸い寄せられるようにそちらの方へと滑っていった。

 最も可能性として少ないと考えていた場所からの出現に加えて、二階の壁をわざわざ切り裂き藤次を囮として射出するという型破りな行動に、アイリスの表情に一瞬動揺が走るが、それをすぐに収め、即時狙撃の体勢へと移る。

 

「ちっ!」

 

 だが、艶然と微笑むエレインの表情を見て、ぐらりと頭の中がかき回されるような感覚に陥り、彼女は舌打ちをしながら引金を引き絞る。

 瞬間、彼女の手にしたライフルから音速を遥かに超える速度の弾丸が撃ちだされたが、タイミングをずらされたことによって、その一撃は容易に躱されてしまった。

 そして、はっきりと弾丸の飛んできた場所を視認したエレインは、獲物を前にした猟犬が如きスピードで一直線に走り始める。

 

「くそ…… やりづらいですね。流石はインキュパスと倩兮女の混血児なだけはあります。強烈な視線誘導に、精神干渉…… 普段は抑えているようですが、箍を外した…… いいえ、外してしまったようですね」

 

 忌々し気にそう呟きながら、彼女はライフルを自身の肩に担ぐと、狙撃位置を変えるため、反対側の窓へと駆け出し、そこから飛び降りた。

 二階の高さからではあるが、彼女はそれを感じさせない程に見事な受け身をしながら着地し、それと同時に自身の霊力をぶわりと励起させながら、無線機に向けて静かに呟く。

 

「各自散開。標的を誘い込んでから、十字砲火を浴びせなさい」

 

 

*****

 

 

 ホテルから飛び出したエレインは、即座に放たれた弾丸を躱し、その軌道と自身の能力、というよりも生まれ持った性質の影響下にある者の中から、的確に下手人の位置を割り出して見せる。

 

「そこか…… 待っていなさい、生まれてきたことを後悔させてあげるわ」

 

 そう呟き、彼女は人外の膂力をもってして一気に駆け出した。

 その速度は、人間が出せる限界を超えており、操られた人間はやや反応が鈍い。その半数以上が彼女の動きをとらえきれず、するりと横を抜けられていく。

 だが、一人に対して相手は数十人以上いる人間。それも、肉体の箍が外れ、常時よりも遥かに強い膂力を持ったものたちだ。

 数をもってして壁となり、反応し動き出した人間が、エレインの行く手を阻むようにして囲いが厚くなる。

 

「生憎、この程度は時間稼ぎにもならないわ、よ!」

 

 彼女はそう言うや否や、跳躍し、手を伸ばしてきた男の肩に足を掛けると、放出しながら再度跳躍。

 勢いよく宙へと飛びあがったエレインは、先ほど狙撃手に対しての囮として利用してしまった藤次を両腕で受け止め、目を伏せながら小さく「ごめんなさい」と呟いた。

 相手が彼のことを彼女にとっての足かせとして認識している以上、撃たれない可能性が高いであろうという計算ではあったが、それでも危険に晒した事には変わりはないのだから。

 

 だが、そんな罪悪感に浸っている暇などは無く、エレインは素早く頭を切り替えると、藤次を抱えたままくるりと宙で一回転し、軽やかに着地して見せた。

 それでもホテルを囲うようにして展開していた人間たちとはまだまだ距離が近い。

 それを理解している彼女は、藤次を左肩に担ぐように抱えなおし、右手でワイヤーを繰って、襲い掛かってきた相手を転倒、或いはその手足の腱を断ち切って最低限の制圧行動をとりながら、そのままホテルの周りを囲っている柵へと飛び乗ってそのまま敷地の外へと飛び出した。

 そこで、小さく舌打ちをしながらエレインはこう呟く。

 

「撃ってこない……? 精神干渉の影響を受けた視線も感じないし、視線誘導の効果をうまく振り切ってかくれんぼってところかしら」

 

 つくづく用心深い相手だと実感し、彼女は心底厄介だとため息をつく。そんな様子でありながらも、油断なく周囲を警戒し、視線を巡らせながら一直線に狙撃手が居るであろう場所へと駆けていく。

 そう、一直線に、だ。道も、民家も、それを囲う塀も関係ない。

 それらを時に飛び越え、時に切り裂きながら、エレインは最短距離を通って相手との距離を詰めて行く。

 

 だが、操られた人間が手にしていた凶器、或いは石などが豪速で飛来し、彼女は忌々し気に顔を顰めながら民家に飛び込んだタイミングで素早く物陰へと身を滑り込ませた。

 飛来したそれらの凶器は、人間の箍が外れてしまった腕力によって投擲されたものであり、その一つ一つがちょっとした弾丸並みの威力を持っている。

 しかもそれらがかなりの精度でエレインの背中めがけて殺到したのだ。

 彼女だけならいざ知らず、藤次を抱えているこの状況で、それらをさばき切ることは難しく、物陰に身を隠すという方策を取らざるを得ない。

 そんな状況に、彼女は苛立たし気に声を荒げながら、藤次を守るように体を丸めて、それらをやり過ごす。

 

「ああもう! これだから視線を集めるのは嫌なのよ…… 既に操られている人間に精神干渉のほうは効かないみたいだし、これじゃいい的だわ」

 

 彼女はインキュパスと倩兮女の混血児である関係上、男女問わず視線を強制的に集め、精神に干渉してしまうという体質を持ち合わせてしまっている。 

 エレインは生まれつきそうだった。

 だからこそ、自身の影響下にある存在はすぐに分かる。すぐに分かってしまう程、彼女はその体質に幼いころ振り回されていた。

 幾人かの存在との交流を経て、エレインはそれを抑え込む術と心構えを身に着けることが出来たが、今は治癒の術やワイヤーを繰るのに神経を注ぎ込んでいるため、それが出来なくなっているのだ。

 それ故に、彼女は今視線を集めやすく、隠れても発見されやすい状態になっている上に、視線を集めるという特性上、相手が飛び道具を扱う際、その命中率が上がるというおまけつき。

 操られている人間は既に精神を完全に掌握された状態であるため、彼女の体質による精神干渉が入り込む余地が存在しなくなっているため、彼らに対してはほぼほぼデメリットしか存在していないという訳だ。

 

 囮として動く時ならいざ知らず、お荷物を一人抱えた状態でそれはあまりにもまずい。

 惹きつけてしまう攻撃は、そのまま藤次の命を危険に晒してしまう。だから、先ほどの彼を投げ飛ばしたエレインの行為は、ある意味で最も確実に命を守るために必要な行動でもあったのだ。

 

「シーソーゲームは好きじゃないのに…… 本当に厄介な相手ね」

 

 彼女は忌々しげにつぶやきながらも、投擲の間隔が緩んだ瞬間に、ワイヤーを伸ばして飛び込んだ屋内にあった小さな鏡を絡めとると、それを傾けて周囲の様子を探る。

 

「あはは…… うそでしょう……!」

 

 そして、エレインは、半ば悲鳴に近い声を上げながら、藤次を抱えてホテルとは対角線上の方向へと弾かれたように駆け出した。

 彼女が見たもの。それは、アサルトライフルを構えた男が、その銃身に取り付けられたグレネードランチャーの引金を引き絞る光景。

 

 反射的にエレインが行動を起こした次の瞬間、彼女の背後で耳をつんざくような爆音が響き渡った。

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第十七話

 

 爆熱と爆風で飛び散った破片が、活路を強引に切り開いたエレインの背中へと襲い掛かった。

 防ぐ余裕のない彼女は、自身の急所と藤次がそれに巻き込まれないように庇いながら、背中でそれらを受けとめる。

 

「つぁ……! いったいわね!」

 

 その表情を苦悶で歪ませながら、エレインはワイヤーを繰り、攻撃をしてきた男の手にあるアサルトライフルへと巻き付けた。

 

「その物騒な得物、よこしなさい!」

 

 そして、痛みと怒りが滲みだした雄叫びと共に、彼女はアサルトライフルを男の手から強引に引きはがし、自身の手元へと引き寄せて見せる。

 新たな武器を手にしたエレインだったが、状況が好転したとは言い難い。元より操られている人間は、単なる一般人。下手に鉛玉を浴びせようものなら、即座に命を落としかねないため、不用意に発砲することが出来ないのだ。

 故に、彼女は歯噛みをしながら即座に銃をワイヤーで体に括り付けるだけにとどまった。

 

 さらに、

 

「銃火器持ちが、ざっと四、五人ってところかしら……」

 

 エレインは自身の魔性の制御を手放したことで集まる視線を敏感に察知し、その位置取りから他の火器を装備した人間がいると推察した。

 そして、その過程を裏付けるかのように彼女が視線を感じた場所から、銃声が鳴り響く。

 短い間隔でなり続ける銃声と比例するかのように、エレインの肉体を掠めるようにして次々と弾丸が放たれる中で、彼女はワイヤーを操り自身に当たるであろう軌道を描く弾丸目掛けて瓦礫を飛ばし、致命的なダメージを防いで見せた。

 だが、弾丸を防ぐことに成功してもその表情が晴れることは無く、むしろ険しくなる一方。

 

「少なくとも、今感じる視線の主の中に黒幕はいない、か…… 流石に、今の私を直接視界に入れるほど相手も馬鹿じゃないわよね」

 

 そう忌々し気に呟きながら、エレインは眉を顰めながら迫りくる弾雨を躱し、或いは障害物の影や家屋の内部を通り抜けることで射線を切ってやり過ごしつつ首謀者が居る可能性の高い場所へと駆けていく。

 だが次の瞬間、彼女はぞくりと背筋に寒気が走ったのを感じ、咄嗟にその場を飛びのいた。

 

 直後、彼女の頬を掠めるようにして一発の弾丸が通り抜けていく。

 咄嗟に弾道から発射方向を割り出し、素早くその場所めがけてアサルトライフルの弾丸を数発発射するエレインだったが、

 

「あの隙間を通して狙撃したの? 馬鹿げてるわね……」

 

 彼女の頬を掠めたであろう弾丸がどんな軌道を描いたのかを理解した瞬間、すぐさま射撃を取りやめた。

 小さく毒づいた彼女の視線の先には、立ち並ぶ建造物の間にある数センチにも満たないような隙間があり、狙撃を受けた位置から飛びのいたことで完全に射線が遮られてしまったことを悟る。

 だが、エレインには驚愕で足を止める余裕など与えられなかった。

 ほとんど息をつかせる間もなく別角度からの狙撃が彼女のわき腹を掠めたからだ。

 

「っ……!」

 

 その狙撃もまた、数センチにも満たないような隙間を通して行われたもの。それが路地を全力で駆けるエレインへと数秒おきに襲い掛かってくる。

 

 さらには、銃火器持ちが建物の屋根の上を走りながらの銃撃を行い、その他の人間たちは大小さまざまな物品を空高くに投擲することで、彼女めがけて文字通り雨のような攻撃が降り注いだ。

 エレイン一人なら、或いはウイルスの感染に対する対処を行うためのリソースを攻撃に回せるのなら、容赦なく反撃に徹することが出来るだろう。しかし、黒幕であるアイリスはそれらを許さないように、絶妙なバランスで状況を動かし続けている。

 

「流石に、やってらんないわね……!」

 

 エレインとてそれにいつまでも甘んずるようなことは無く、ワイヤー以外にも殴打、蹴り、投げといったありとあらゆる方法で操られた人間への反撃を繰り出していた。

 それによって相手の初動の遅さを見切り、ある程度の人数に対して行動が困難なレベルまでダメージを与えているが、それでも島民のほとんどが操られている現状では焼け石に水と言ったところだろう。

 だが、それでも彼女の眼は死んでいない。その瞳の奥で、冷静に思考を巡らせていた。他でもない、こんな悪夢のような現状を作り出した黒幕を仕留めるために。

 

「ライフルの狙撃音は同じ…… 同時に行われる狙撃は無い…… なら、相手の数は多くない」

 

 その結論に達した彼女の瞳は、煮えたぎる怒りと不快感が滲みだし、おどろおどろしい色を湛え始めていた。

 

 

*****

 

 

 引金を引き、即座に移動する。そんな行動サイクルを繰り返していたアイリスは、建物の隙間や、壁のなどを蹴ることで縦横無尽に島を駆け巡りながらも、腕に括り付けた端末に送り届けられる島に仕掛けたカメラの映像を見てうっそりと嗤った。

 

「ふふ…… 順調に手傷が増えて行っていますね。ウイルスの影響を殺すためにリソースを削がれているから、治される様子もない。足手纏いを切り捨てるか、襲い掛かってくる人間を殺しつくしてしまえばなんとでもなるでしょうに、本当に馬鹿な人。ああ、いえ、正確に言うならばそもそも人じゃありませんし、馬鹿な人外とでも言うべきでしょうか?」

 

 そう言いながらも、彼女は一見無造作に見えるような動きでライフルを真横に構え、その引き金を引き絞った。

 だが、放たれた弾丸は恐ろしい程の精密さをもって、微かな隙間を縫うようにしながらエレインの元へと迫る。それを寸でのところで彼女は躱し、狙撃手であるアイリスを探すため再び走り出した。

 それを端末で確認しながら、アイリスは目を細めながら思考に耽る。

 

「ふむ…… 流石にしぶとい。狙撃に即座に対応して躱す反応速度と言い、狙撃位置を素早く特定して距離を詰めてくることと言い、厄介極まりないですね」

 

 狙撃、操った人間を用いた攪乱と奇襲。様々な手段を用いて攻撃を仕掛けているが、未だに仕留めキレていないことも考慮すると、いずれ発見されてしまう可能性も十分にあり得る。

 

「下手に接近されると、視線誘導や精神干渉に逆らい難くなる…… そろそろ仕留めたいところですが……」

 

 そう呟きながら、アイリスが再び端末に視線を落とすと、そこでは全身の至る所から血を流しながら仁王立ちをして立ち止まるエレインの姿が映し出されていた。

 その映像を見たアイリスは一気に警戒を高める。

 ただ立ち止まった。

 諦めて立ち止まった。

 そう思えるような相手ならどれだけ楽だったのだろう。だが、いま彼女が相手をしているのは、一癖も二癖もあるクロユリの医療部門統括者だ。

 何を仕掛けてくるか、何を企んでいるのかも分からない。

 

「身体能力向上開始」

 

 故に彼女は、自身の身体能力を術式によって強化する。わざわざ言の葉を紡ぐことでイメージの補強を行いながら。何を仕掛けられても即座に対応できるように。

 限界まで警戒心を高め、限界まで研ぎ澄まされた彼女の感覚が空を切る何かを捉えた。

 

「……っ!」

 

 咄嗟にアイリスは体を捻り、髪を数本とライフルを切り取られながらも、何とか地面から迫りくるそれを、紛れもなくエレインが操っているであろうワイヤーを躱す。

 

「見つかりましたか……!」

 

 確かに彼女は迫りくるワイヤーを躱した。

 だが、致命傷を避けられたとは言えども、もっと重要なことがある。

 それは、アイリスがエレインの射程圏内に踏み込んでしまったという事だ。

 

 

*****

 

 

 ぞくり、と背筋が凍るような殺気を纏うエレインは、ワイヤーから微かに感じた手ごたえに獰猛な笑みを浮かべる。

 

「もう逃がさない……!」

 

 逃げ回りながらも、彼女は相手がどのように自身の居場所を入手しているかを冷静に分析していた。まず、エレインの体質と先ほどの相手の同行から考え、直接視認しているという可能性はほぼゼロ。

 次に、探知系の術式を用いている可能性もあったが、その可能性も低いと彼女は考えていた。探知系の術式はあらかじめ仕掛けておく設置型と、術者を中心にして周囲を探る自発型の二種類がある。

 前者の場合は熟練の術者でも数秒の時間を要するため、逃亡中に仕掛けられたという可能性は限りなくゼロに近い。事前に島中に設置されていた可能性もあるが、クロユリに属している職業病故か、そう言った不審な術式の有無は島に入ってから何度か確認したためほぼほぼ無いと断定できた。

 ならば後者の場合はどうかと言われれば、その可能性も低いと彼女は断定できる。設置型と違い、自発型は即座に術の発動が行えるが、その術式の発動を察知されやすいというデメリットがあるからだ。今まで彼女はそう言った術の発動の片鱗を感じなかったからこその断定。

 故に、残る手段として考えられるのは鏡やカメラと言ったものを利用して、位置の把握を行っているという可能性が一番現実味を帯びてきた。

 

「もうこれ以上好きにさせない」

 

 だからこそ、エレインはそれを確かめるべく、いくつもの行動をいくつも積み上げた。

 防御に必要なリソースを削り取り、ワイヤーを可能な限り排水溝や塀の影と言った地面すれすれの死角へと滑り込ませながらまるで蜘蛛の巣のように周囲へと張り巡らせた。

 この段階で、直接の視認や探知系の術式を用いていた場合、彼女の行動は完全に相手に把握されていただろう。だが、その行動に対する反応や対策らしき行動が見られなかったことから、彼女は攻勢へと転じた。

 エレインは容赦なくワイヤーを手繰り、手ごたえのあった場所までに仕掛けておいたワイヤーを一気に跳ね上げる。

 狙撃のタイミング、狙撃の音、相手の攻撃のタイミング。ありとあらゆるものを考慮し、彼女は限界ギリギリまでワイヤーを伸ばし、相手を絡めとるための蜘蛛の巣を形成していたからこそできる芸当。

 そして、自らを立ち止まることで餌とし、相手の警戒心を煽ることで敵の行動を煽り、強化を施すために紡がれた言葉を、いやその呟きによって生まれた空気の振動を、移動の際に生じる音の振動を、練り上げられた霊力の揺らぎを彼女はワイヤーから敏感に察知していただ。

 

 そして、エレインの手によって手繰られたワイヤーは、ありとあらゆる障害物を建造物を切り裂いていく。

 深く冷たい彼女の怒りを表しているかのようなその鋭い切れ味をもってして、黒幕であるアイリスへの最短ルートを作り出したばかりか、その姿を炙り出していた。

 既に行く手を遮る障害物は無く。

 アイリスのライフルによる狙撃も無い。

 操られた人間が、エレインに対して行動をとろうとするが、遅い。

 

 そのすべてを置き去りにして、エレインは張り巡らせていたワイヤーを手繰りながら、一気にアイリスの元へと肉薄する。

 

「初めまして、ロクデナシ。標本にしに来てあげたわよ」

「初めまして糞ビッチ。さっさと死んでいた方が楽だったでしょうに」

 

 そして、遂に対面した両者の、対面してしまった両者の言葉の応酬に、空気が軋んでいく。まるで悲鳴を上げるかのように。

 両者とも、自身の得物に指を掛け、抜き身の殺気を隠そうともせずに言葉を紡ぐ。

 

「酷いわね。私、これでも貞淑なつもりなのだけど? それに、非戦闘員相手にあんな大量の人間をけしかけるなんて、どんな神経をしているのか解剖してみたいわ」

「生憎と、貴女のような藪医者に解剖など死んでもされたくはありません。それに、それは不可能でしょう。だって、ことが終わるころには貴女の腕はもう二度と動かなくなっているでしょうから」

 

 あくまでも、表面上はにこやかに笑いながら、じりじりと間合いは詰められる。

 

 

 そして、両者の殺気が高まり、最高潮まで上り詰めた時、戦いの火蓋は切って落とされた。

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第十八話

 

 

 先に仕掛けたのは、標的に肉薄して見せたエレインだ。

 彼女はワイヤーを手繰り、次の攻撃の仕込みをしながら、容赦のない蹴りを放つ。

 だが、アイリスは身体強化を施した自身の肉体をもってして、その攻撃をさばいて見せた。しかし動きに精彩がなく、異常なまでに見開かれた瞳はエレインに注がれたまま動かない。

 そんな彼女の死角から胴体を切り落とさんとワイヤーが迫る。当然、アイリスはそれを見ることができない。

 

 しかし、

 

「舐めないで!」

 

 視覚から襲い掛かったそれを、彼女は咄嗟にナイフを引き抜き、それを滑り込ませることで致命傷を避けて見せた。そして、もう片方の手で素早く拳銃を引き抜くと、敵めがけて容赦なく引金を引く。

 放たれた弾丸がエレインに迫るが、彼女はそれを躱してワイヤーを手繰りつつ、賞賛の言葉を紡いだ。

 

「なるほど、いい予測ね。でも、この距離だと私の視線誘導も、精神干渉からも逃げるのは不可能でしょう? 見たところ貴女、耐魅了の効果の呪具を持ち合わせていないみたいだし…… 結界系統の術士でもない。早々に降参することをオススメするわ」

「私がそんなことをするように見えますか? でしたら、眼科に行くことをお勧めします。そちらこそ、私と同じ土俵に立った程度で思い上がらないでください。私にはあなたたち二人以外の島の人間が付いていることをお忘れなく」

 

 互いに言葉を叩き付けるようにして紡がれる中で、格闘、ワイヤー、銃弾が乱れ飛ぶ。そんな中、アイリスはあくまでも不敵な態度を崩さず、挑発の言葉を投げかけた。

 だが、そんな挑発をエレインは鼻で笑い飛ばす。

 

「さて、どうかしら? なまじ敵味方の区別が出来る程度の知性が残っているから、操られている人たちの動きが鈍いわよ。どう攻撃すればいいのかってね。彼らが下手に攻撃をするなら、貴女まで巻き込まれることになる。さて、本当に追い詰められているのは、どっちかしら?」

「さあ…… どちらでしょうか!」

 

 アイリスはそう言いながらも、その背中を冷や汗が滑り落ちていく。

 エレインが言った事もまた事実であったからだ。操った人間に下手に攻撃をさせれば、彼女自身がそれに巻き込まれかねないし、そうでなくとも何らかのエラーの原因になりかねない。

 それ以上に彼女にとって問題なのが、エレインの間合いに踏み込んだ状態であるというのに、精神干渉と視線誘導が猛烈なまでに影響を及ぼしているという事だ。

 視線を動かせないせいで、ワイヤーの動きを読み切れず、アイリスの体に生傷が増えている。

 さらに、精神干渉の影響でエレインへの攻撃を肉体が拒否しようとするのだ。彼女の意思にかかわらず。

 それでも、何とかナイフを、そして拳銃を用いてワイヤーを弾き、エレインが繰り出す蹴りをさばいて見せる。

 だが、そんなアイリスの抵抗をあざ笑うかのように、バックステップで距離を取ったエレインの指がワイヤーを爪弾いた。

 

「さっきまでのお返しよ」

 

 それと同時に、アイリスの全方位を囲むようにしてワイヤーが迫る。先ほどまでとは比べ物にならないほどの密度のそれは、彼女の全身の皮膚をそぎ落とし、否、全身を粉砕し、砂粒以下にしてしまえるほどのものだった。

 現在アイリスを苛んでいる視線誘導と精神干渉の影響を加味していない状況であっても、対処するのが困難であろうそれに、彼女は獣のような雄叫びを上げながら一息で踏み込んだ。

 

 破れかぶれの突撃?

 

 断じて否。それはアイリスが唯一活路を見出した血路に他ならない。その場に留まれば、砂粒如何にバラされるというのであれば、強引にワイヤーの囲いの突破を試みる他方法は無いのだから。

 

「身体能力及び強度増幅開始!」

 

 彼女は自身に強化を施し、ナイフを振るい、直近にあるワイヤーを弾き飛ばす。

 だが、自身に迫る殺意を一つ弾き飛ばしたところで、まだ命の危機が去ったわけではない。まだ幾重にも張り巡らされたワイヤーは彼女を切り裂かんとしてその包囲網を狭め続けている。

 

 ナイフで弾いて、弾いて、弾いて弾いて弾いて弾いて弾いて弾いた。

 

 ワイヤーの壁は薄くなるが、それでもまだアイリスの体を通せるだけの隙間には届かない。

 強化した身体能力をもってしても、そのすべてを弾き切るに至らなかった。

 だが、それでもその勢いは止まらない。緩められることは無い。

 彼女は急所を守るようにして腕を交差させて、そのまま迫るワイヤーへと突っ込んだのだ。当然、そんなことをすれば、無事では済まされない。

 

「ぅあぁあああああ!」

 

 アイリスの腕の、足の肉をワイヤーが切り裂き、骨へと達する。当然、まともな痛覚遮断など行えているはずも無く、彼女の表情は苦痛に歪んだ。

 しかし、ワイヤーは骨に達した時点でギリリと言う音を立てながら停止する。

 そして、アイリスは手足を深く切り裂かれながら、否、最早手足の肉をそぎ落としながらも、強引にワイヤーの囲いを突破した。

 

「まずっ!」

 

 エレインは咄嗟に身を引いたが僅かに遅い。

 アイリスのナイフがその体を深々と切り裂いた。

 彼女はそのまま追撃に移行するが、エレインは体を切り裂かれながらも、ナイフの間合いからギリギリ外へと逃れる。

 

「っつ! 精神干渉と視線誘導のせいで満足に戦えないでしょうに、よくもまあそれだけ動けるわね……」

「く、あはは! そちらこそ、ウイルスへの対応と足手纏いを抱えている状況なのに、よくもまあそれだけ動けますね!」

 

 心底から愉しそうにアイリスは笑う。手足の肉が一部削げ落ちるほどのダメージを受けながらも、こみ上げるくらい喜びが苦痛を押し流しているのだ。

 だが、その傷も見る見るうちに塞がっていく。治癒の術を掛けたかのようなスピードで、だ。

 アイリスがそう言った系統の術を使っているという訳ではなく、それだけにその回復力は異常の一言に尽きる。

 

「治癒系の特異体質持ち……!」

 

 その事実に忌々し気に表情を歪め、エレインはワイヤーを手繰り僅かに距離を取った。

 治癒能力のことも含め、近距離戦闘の実力は間違いなくアイリスの方が上だと判断したからだ。

 エレインは医者であり、本来は最前線で戦うような立場ではない。彼女の実力はクロユリでも上から数えた方が早いが、それでも戦闘職を主として戦う相手に近接戦を挑まれれば些か分が悪いのだ。

 間接的に取られた映像から針の意図を通すような狙撃で獲物を追い詰める射撃能力。

 ナイフを振りぬく速度、状況判断、異常なまでの再生能力。

 そして何よりエレインの有する体質によってさまざまな影響が出ている中で戦い続けているその精神力。

 アイリスに備わっているものは、どれをとっても一級品である。

 詰まるところ、彼女は遠距離も近距離も辛口の万能タイプという訳だ。

 そんな厄介極まりない相手は、容赦なくエレインと距離を詰める。狂気的な笑みをさらに深めながら。

 

「ですが、もう仕込みをする時間は与えませんよ?」

 

 アイリスの言葉に、エレインは内心で冷や汗を流す。彼女の言葉が示す通り、先ほどの攻撃は元からの仕込みがあったからこそできた芸当だ。

 ウイルスと戦い、藤次を担いでいる関係上片腕も塞がれている現状では、一息であれほどの攻撃を行うのは非常に難しい。

 

 しかも、先ほどの様に藤次をいったん投げるという芸当も出来ないのだ。

 何せ、至近距離にアイリスがいるし、周りにいる操られた人間が放り投げられた藤次にうっかり目がいかないとも限らない。

 視線はエレインが惹きつけているとは言えども、そうならないという保証は一切ないのだ。

 エレインはそんな状況を打破しようと必至に策を巡らせるが、相手は待ってはくれない。

 

「次はこちらの番です」

 

 その言葉と共に、アイリスは先ほどよりも数段苛烈な斬撃を雨の様に降らせた。

 エレインが咄嗟にワイヤーを網の様に展開し、それらを防ぐが、一つ一つの斬撃がすさまじい衝撃を伴い、ワイヤーの防壁をたわませる。

 ワイヤーがたわむという事は、防壁に隙間ができる。その隙間に向けて、アイリスは容赦なくナイフを滑り込ませた。

 

 その一撃で、また鮮血が宙に舞う。

 

 それを瞳に焼き付けながら、アイリスは拳銃を構えた。そしてその照準をエレイン、ではなく、藤次に合わせて引金を引き絞る。

 

「っこ、の!」

 

 エレインは素早く身を捻って、藤次を弾丸の軌道から逃がす。

 だが、アイリスはその隙を逃さない。ナイフを真一文字に振るい、エレインの今度は胸部を切り裂いた。

 

「足手纏いが居ると大変ですね。そんなにその少年のことが大事ですか?」

「さてどうかしら。今日初めて会った訳だし、そこまで命を懸ける必要が無いと言われたらそうかもしれないわ。でも、これが私の仕事で、曲げるつもりもないの」

「立派な志ですね…… 笑いはしませんが、心底から馬鹿だと思いますよ、それ」

 

 アイリスの言葉通り、そこには一切の嘲りが存在していなかった。あるのは憐れみにも似た視線のみ。

 そんな彼女に対し、エレインはあくまでも艶然とした態度で笑う。

 

「損する質なのよ、昔っからね!」

 

 そんな言葉と共に、エレインはナイフの攻撃を片腕で器用にさばき、相手の足めがけて鋭い蹴りを繰り出した。

 しかし、アイリスはそれを足さばきのみで躱すと、懐に潜り込んでナイフを担がれている藤次へと再び振るう。

 そして、当然の如くエレインは彼を庇った。あくまでも自身の信念に従って。

 だが、彼女自身は無事では済まず、ナイフがかすった場所からだらりと血が流れだす。

 

「甘い! そんな甘ったるい考えだから、そうやって手傷が増えていくんですよ? 貴方の精神干渉は、その足手纏いを狙えば発動しない。それを庇いだてする以上、貴女には勝ち目がない。さっさと見捨てることをお勧めします」

 

 アイリスの言葉には、どうしようもないほどの喜悦が滲みだしている。

 だが、そこに一切の油断や侮りは存在していない。あるのは相手を殺すという強い意志と、底の見えないどろどろとした何か。ただの敵に向けるものとしては異質なそれに、エレインは違和感を覚える。

 ワイヤーではなく、腕でナイフをさばき、拳銃の銃口の向きを警戒しながら彼女は、そんな違和感を払拭するために挑発の言葉を投げかけた。

 

「は、面白い冗談ね…… それにしても貴女、妙に私に対する殺意と悪意がねばついて無いかしら。それに、妙に突っかかってくるところといい、私怨を感じるわ。私に引っかかった誰かのの中で貴女の意中の人でもいたのかしら?」

 

 あくまでも相手の神経を少しでも逆なでできればいい。そんな思いから発せられた言葉であったが、効果は劇的だった。

 アイリスの顏から先ほどまでの喜悦が抜け落ち、その瞳には憤怒の炎が灯る。彼女は先程よりも明確に殺意を昂らせながら拳銃の引金を引き絞った。

 

「あら…… 図星、だったみたいね」

 

 エレインは放たれた弾丸を躱し、相手の腕を絡めとって銃口を自身からそらし、的確に対処をしながらそんな言葉を紡ぐ。相手の神経をさらに逆なでするように、口元を歪めながら。

 しかし、アイリスは激しながらも冷静さを完全には失っておらず、すぐさま絡められた腕を自身の腕で挟み、加わる力を利用して相手の体勢を崩した。

 そして、たまらず片膝をついたエレイン目掛け、彼女は逆手に握ったナイフを振り下ろす。

 

「お顔が真っ赤よ」

 

 それを見越していたのか、エレインのワイヤーがナイフを握った腕に絡みつき、宙に縫い付けた。そしてすかさずエレインは地面に手をつき、相手に足払いを掛ける。

 だが、アイリスは近接格闘に置いて、彼女はエレインよりも格上だった。

 

「黙りなさい!」

 

 ワイヤーに絡めとられた腕を強引に捻じり、血をまき散らしながら拘束を振り解くと、足払いをバックステップで躱して反撃に次々と拳銃の引金を引いていく。

 だが、激情が籠った言葉と共に放たれた弾丸は、エレインの頬を掠めるにとどまった。

 

「危ないわね…… 男とか女とか関係なく、嫉妬っていうのは見苦しいわよ」

「貴女はどうやら、人を怒らせるのが好きなようですね……」

「知り合いに煽り性能が振り切れた問題児が居るから、きっとそいつのせいね。おかげで、私まで口が悪くなっちゃったわ」

 

 「いやねぇ?」とわざとらしく肩を竦め、エレインは頬から流れ落ちた血を拭う。それと同時に、彼女は体の奥底から冷え込むような感覚に悪寒を覚えた。

 あくまでも余裕たっぷりといった態度を取ってはいるが、度重なる狙撃や今回の戦闘。それらで負った傷一つ一つは致命傷に至らずとも、総合的な出血量は馬鹿にならない。人外の生命力で何とか持たせてはいるが、人間ならば既に死んでいる量を超えていた。

 それを見抜いているのか、アイリスは激情を収めるように鼻で笑う。

 

「強がりはそれまでにしたらどうですか。いくら人外とはいえ、それだけ盛大に出血していれば、そろそろ行動にも支障が出てくるでしょう?」

「さて、どうかしら…… そっちこそ、弾切れを起こした銃のリロードの心配はしなくていいの?」

「貴女が死んでから、じっくりさせてもらいます。だから、安心して…… 死んでください」

 

 そう言うと、アイリスは弾切れになった拳銃を素早く投擲した。

 エレインはそれを躱し、背後でコンクリート塀が破砕する音を聞きながらワイヤーを手繰る。

 だが、彼女が僅かに意識を逸らした隙に、アイリスは懐から何かを取り出して見せた。

 それを見たエレインは、顔を引き攣らせながらワイヤーを取り出されたそれめがけて放つ。

 

「残念、それじゃ芸が無いですよ」

 

 そう言ってアイリスは取り出したものを、攻撃用の術を封じ込めてある札を守るようにして、ナイフを用い、ワイヤーを弾き飛す。

 

「さあ、焼けて踊ってくださいな。惨めにね」

 

 ぞっとするほど冷たい言葉と共に、札から解放された術が炎のうねりを伴って、エレインへと襲い掛かった。



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感染する悪意のマリオネット症候群 第十九話

 確実にエレインを捉えるため、広範囲に広がるようにして放たれた炎は、その思惑に違わず彼女の肌を焦がしていく。

 焼ける肉の匂いがあたりに充満し始める中、エレインは息を止め、咄嗟に霊力を全身から放出することで炎を散らし、強引にその中を突破した。

 藤次を庇うように体を傾けて炎を突破したその先にアイリスの姿はない。

 

「どこに……」

 

 エレインはあたりに視線を巡らせ、アイリスの姿を探す。

 そんな彼女の足元に影が落ちた。

 

「っ!」

 

 それが意味することを瞬時に悟り、エレインは咄嗟にワイヤーを自身の頭上目掛けて放った。

 ワイヤー越しに鈍い感触が伝わり、鮮血が彼女の頭上から滴り落ちる。

 確実に人体を捉えた感触であったが、エレインの表情は固い。

 

「囮!」

 

 空中で絡めとり、確かに捕らえた人間はアイリスではなく、操られた人間の一人だった。

 ならば、アイリスはどこにいるのか。

 その答えは、すぐに判明するなった。

 

「もう、諦めたらどうですか?」

 

 背後から聞こえたその言葉によって。

 

「っ!」

 

 咄嗟に身を反転させようとするエレインだったが、足元で札が光り、彼女の身体を拘束せんとして透き通る鎖のようなものがそこから伸びた。

 エレインは咄嗟にアサルトライフルとまとめて担いでいた藤次を、投げ飛ばした。

 最早自身は逃げ切れないと悟っての行動。

 そんな行動を断行したエレインの身体に札から伸びた鎖が巻き付いてく。

 

「あ、はははは! 最後まで足手纏いを庇ったんですね! なんて、なんて愚かな人なんでしょう! そこまで行くと、本当に賞賛に値します」

 

 そんな彼女に向けて、アイリスの勝ち誇ったような声が降り注いだ。

 鎖に繋がれ、地面に縫い付けられるようにして叩き付けられたエレインは、血と土で薄汚れた顔を上げる。

 その視線の先では、アイリスが肩で息をしながら、勝利を確信したような笑みを浮かべて立っていた。

 

「はぁ…… はぁ…… ああ、おかしい! 意地でも一般人を殺そうとはしませんでしたが、それもここで終わりですね。貴女の今の有様を見るに、さきほどの霊力放出で術のコントロールが疎かになっていた。加えて、拘束符によってさらに霊力の制御が難しくなっている。この状況では、貴女ももうすぐ堕ちるでしょう?」

「ふ、ふふ…… よく回る舌ね。ねちねちねちねち、さっきから癇に障るわ。もう少し、寡黙になったらどう? でないと、意中の相手に嫌われちゃうわよ? 貴女、元から性格悪そうだし、そこのところ気を付けないと」

「ご忠告感謝します。これからはその言葉を胸に刻んでおきましょう。もっとも、貴女はここで終わりですが」

 

 アイリスは自身に向けられた言葉を鼻で笑いながら、懐から新たな札を取り出した。

 今から獲物に近づくのは下策中の下策といってもいい。エレインは不利な状況から彼女をここまで追い詰めたのだ。

 拘束され、地面に縫い付けられているとはいえ、下手に近づいて手痛い反撃をくらう事だけは避けたいのだろう。

 そして、あやつった人間を使わないのは確実に獲物をしとめるため。

 それを地に伏したエレインも十分すぎるほどに理解している。

 今まで、確実に自信をを詰みの状況に追い込むために、慎重に行動しているアイリスを見て嫌という程に理解できてしまったのだ。

 だが、エレインはあくまでも泰然とした態度で彼女を見つめる。

 

「なるほど、目障りな相手は消しておきたいってワケ…… 普通、私みたいな立場の人間は利用価値があるから生かしておくものだと思ったのだけれど?」

「生憎、そんな余裕はありませんので。元より、私が受けているオーダーは島で事を起こすことと、その後始末。その方法は私に一任されています。そこに、貴女の意思も価値も介在することは無い」

「なら、今までの行動の中に貴女の意思が介在していないなんて言えるのかしら? どうにも独断専行が過ぎるように感じるわよ。どうしても、私を殺したいってね」

「否定はしません。ですが、それを含めて私に一任するとのことですので、貴女は余計な心配をしなくてもいいんです」

 

 嫌という程冷たい殺気があたりに充満する中で、霊力を流し込まれた札から込められていた術が解放され、光が空中で剣の形に編み上げられていく。

 

「じゃあ、今度こそさようならですね」

 

 その言葉と共に、アイリスは腕を掲げる。

 それに呼応するようにして、光の剣が一斉にエレイン目掛けて切先を向けた。

 そして、掲げられた腕が振り下ろされようとした瞬間、突如として笑い声が上がる。それは、拘束され地に伏しているエレインのものに他ならなかった。

 その様相にアイリスは訝し気な表情をして腕を止めてしまう。それほどまでに今のエレインは不気味だった。

 追い詰められているはずなのに、まるで勝利を確信しているかのようなその表情は、明らかに異質かつ不気味なものだった。

 気でも狂ったのかと、そんな思考が過るアイリスだったが、そうではないと彼女の経験が告げている。

 そんな中で、エレインはあくまでも理性的な色を瞳に宿したまま、静かに言葉を紡いだ。

 

「いい気分で私に止めを刺そうとしているところ悪いけど、貴女の負けよ。今なら土下座しておとなしく投降するって誓うなら許してあげる」

「この状況で何を言っているんですか、貴女は? そちらは拘束され、地面に縫い付けられている。その上、ウイルスが全身に広がり、いつ自身の肉体のコントロールを手放してもおかしくはない。何をもって勝ったなどといえるのか、理解に苦しみます」

「今に分かるわ」

 

 あくまでも、よゆうたっぷりと言った態度でエレインはそう締めくくる。

 アイリスはその態度に嫌な予感を覚えたが、これ以上戯言に付き合わずに殺すべきだと判断した。

 

 

 もっとも、その判断はあまりにも遅すぎた、と言わざるを得ないものだったが。

 突如として銃声が鳴り響き、彼女の全身をくまなく抉る。

 

「な、ん…… で」

 

 アイリスは驚愕と痛みに歪んだ顔を銃弾の飛来した方向へと向ける。

 そこにいたのは、失血の影響で顔色が悪くなっているものの、瞳に力強い想いを抱いている藤次であったのだ。

 だが、そんなアイリスの驚愕を、致命的な隙をエレインは見逃さない。

 

「藤次! 私を縛ってる鎖が伸びている札を!」

「はい!」

 

 その叫びを受けた藤次は、正しく意図を汲み取り、弾かれたようにエレインの元へと駆け出した。

 しかし、その進行ルートを阻害するようにアイリスは身を躍らせる。全身に受けた銃創から血を噴き出しながら、それでもすさまじい気迫を纏い、彼の前に立ちふさがった。

 

「させる、ものですかぁ!」

「どけ!」

 

 そんなアイリスに対し、藤次は弾切れを起こしたアサルトライフルをフルスイングした。

 だが、彼女は左腕を盾にアサルトライフルを受け止める。

 骨が砕ける嫌な音があたりに響き渡った。

 痛みと戦闘時の高揚故か、アイリスの瞳は大きく見開かれる。一切の妥協も慢心もしなかった筈の計画を、こんなところで邪魔させてなるものか、と。その瞳はそんな激情が揺れている。

 

「邪魔をするな!」

 

 そして、彼女は無事な手に握ったナイフを藤次の首めがけて振るった。

 完全な不意打ちで強化の術は完全に途切れてしまっているが、それでもよく訓練されたであろうそのナイフ捌きは見事なもので、戦闘の素人である彼が避けるのは非常に難しいものである。

 もちろんそれは、藤次がただの一般人であるならば、の話であるが。

 アイリスは知らない。

 藤次がどんな能力を持っているのか。

 何故、エレインがあそこまで命を懸けて守ろうとしたのか。

 それを知っていれば、結末は違っていたかもしれない。

 

 嗚呼、だが藤次は既に知っていた。数秒先の未来を。

 ナイフの軌道も、切り裂かれ、血を噴き出しながら倒れる自身の姿も、傾いていく視界も。

 故に、彼はそのナイフの一振りに何とか対応し、薄皮一枚の所で致命傷を回避した。

 その斬撃は、ほんの一ミリでもズレていれば頸動脈に達していたであろう。

 だが、藤次は確かにそれをしのぎ、アイリスの懐に潜り込んだ。

 

「ぉおお!」

 

 気迫に満ちた叫びと共に、彼の右ストレートが容赦なく彼女の鼻っ面にめり込んでいく。骨が砕ける鈍い感触が藤次の拳に伝わるのと共に、アイリスは体を大きくのけぞらせる。

 そこに生じた隙が自身に、いや自分たちに残された最後の活路である。そう確信した彼は、不格好に転がりながらエレインの元へと転がると、地面に置かれた札を引きちぎり、遂にその束縛を解き放った。

 

「ありがとう、後は任せて」

 

 藤次はその言葉を聞いて酷く安心するのと同時に、ぞくり、と背筋に悪寒が走るのを感じた。

 ひどく矛盾しているその二つの感覚は、他ならぬエレインによってもたらされたもの。

 彼女の言葉に込められた藤次への気遣いと、アイリスを無残に叩き潰すというすさまじい殺意があたりに充満し、寒暖差の激しい場所に叩き込まれたかのような感覚を彼に与えてしまったのだ。

 直接向けられたわけではないというのに、思わず寒気を感じ体を震わせてしまうほどの殺気。それを直接向けられているアイリスはたまったものでは無いだろう。

 状況は彼女にとって最悪といっていい。先ほどの銃撃で全身にダメージを負い、強化は途切れ、流れ落ちた大量の血は彼女に貧血の症状をもたらしていた。

 

 しかも、ダメ押しと言わんばかりに右ストレートが顔面に叩き付けられ、ぐらぐらと視界が揺れ始めている。

 それをエレインが見逃すなどあり得るはずがない。彼女はしゃらりと音を鳴らしながら、ワイヤーを手繰り、未だに足元がおぼつかないアイリス目掛けて容赦のない攻撃を放った。

 体を捻って見せるが、先ほどまでの精彩はなく、回避しきれなかったワイヤーが容赦なくその肉体を刻んでいく。

 アイリスは自慢の再生能力でダメージを回復していくが、それでも圧倒的に受けたダメージの方が上回っている。

 その状況を、まともに働いてくれない頭でも正しく理解したらしいアイリスは、全身を切り刻まれながらも強引に後退し、懐から新たな札を取り出した。

 

「転移門の札……! させない!」

 

 取り出された札が何かを理解し、エレインは驚愕の声を上げるが攻撃の手は一切緩めない。

 踊り狂うようにして宙を舞うワイヤーは、遂にアイリスの眼球を切り裂きその視界を奪った。

 それでも彼女は札に霊力を流し込む作業を中断させることは無い。最早、自身が受けるダメージのことなど度外視して、術を確実に発動させることだけを意識しているようだ。

 既に手足の指も数本完全に切断され、耳も片方削げ落ちているというのに、彼女は一切の淀みなく霊力を札に流し込み、ついに内包されていた術を自身の背後に展開させた。

 そして、それと同時に彼女はナイフを投擲する。狙うはワイヤーを手繰っている憎き相手の心臓だ。

 ワイヤーの隙間を縫うように投擲されたそれを、エレインは身を捻って躱す。

 その隙に、アイリスは自身の背後に構築され始めた黒い穴のようなものの中に身を沈めていく。

 

「くっ…… 今回は、退かせてもらいます…… でも、次はしっかりとその薄皮をはぎ取って、中身をさらけ出させてあげましょう。それまで、私以外の人に殺されないでくださいね?」

「待ちなさい!」

 

 エレインは咄嗟にワイヤーを放ち、逃げ行くアイリスへと攻撃を仕掛けた。しかし、彼女の胴体を捉えるには僅かに遅く、黒い穴から覗いていた腕を切り落とすにとどまった。

 

「くそ! これじゃ、トカゲのしっぽ切り…… 逃げられたわね」

 

 エレインの悪態がぽつり、と空に溶けていく。こうなった以上、最早追跡をすることなど不可能だ。

 かくして、アイリスは穴の中へと完全に姿を消し、やがてその穴も最初から存在などしていなかったかのように消えてしまう。まるで、空気に溶けるかのようにして。

 

「いえ、でもこれなら何とかなるかしら?」

 

 渋い顔をしていたエレインであったが、彼女は何かに気付いたかのように顔を上げると、切り落された腕を拾い上げ、そこについていた端末を回収する。

 そんな彼女の近くまで寄ってきた藤次は、僅かに体を震わせながら、静かに呟いた。

 

「今日、初めて人を撃ちましたよ……」

「現代日本の人間は、人を撃つ事なんて無いし、それは当たり前。怖くて震えるのも当然の事よ」

 

 エレインはそう言うと彼の肩を軽く叩いて、「少し休みなさいな」と言葉を掛けた。

 しかし、藤次はびくびくとした様子であたりを見回すと、顔を青くする。

 

「あ、あの…… 休みたいのはやまやまですけど、敵のボスっぽい相手を撃退したのに周りの人たちがまだまだ操られたまんまな感じなんですが……」

「でしょうね。あの女は戦闘中に支配系の術式を一切使っていなかった。だから、彼女が術者って可能性は大分薄まるわ。そもそも、この惨事を引き起こしている術者がこの島の内部にいるかどうかすら怪しい所よ」

 

 そう言いながらエレインは、拾い上げた端末に切り落としたアイリスの腕を押し付け、ロックを解除した。そして、周囲の人間にいつ攻撃されてもいいように警戒しながら端末の中の項目をスクロールしていく。

 

「だから、緊急事態のことを考えて、現場から術式を緊急停止するくらいの手段は何らかの方法で持っていたはず…… あった!」

 

 エレインは起動キー 術式起動の緊急遮断と言う項目を見つけ、それを迷いなくタップする。

 それと同時に、二人を取り囲んでいた人間は、まるで糸が切れたマリオネットの様に地面へと崩れ落ちていった。

 

「終わったんですか……?」

「みたいね…… これで、少しは安心かしら」

 

 エレインがそう言うや否や、藤次はどさり、と地面へしりもちをついた。

 

「なんかもう、今は立てそうにありません」

「休むなら、とりあえず物陰に隠れてからにしましょう。操られてる人間がとりあえずいなくなったとはいえ、これからどうなるかは分からないわけだし、ね?」

 

 エレインの言い聞かせるような言葉に、心底安心したような表情で藤次は小さく頷いた。

 

「はい…… 分かりました」

 

 のそり、と藤次が立ち上がったのを確認すると、エレインは彼を伴って近くの民家へと移動する。

 その最中、島のあちこちから立ち上る黒煙を見て、彼女の心はズシリと重くなるのであった。

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第二十話

 二人は近くの建物に入ると、その一室に立てこもり、壁に背を預けてずるずると座り込んだ。

 

「これで一安心、ですか?」

「とりあえず、一時的に術式を停止できたみたいだけど…… 機械の遠隔操作で緊急停止を掛けられる術式、か…… 嫌な予感がするわね」

 

 エレインは何か嫌なことに気付いてしまったらしく、そんな言葉を紡いだ。

 それに対し、藤次は疲れたような表情で肩を竦める。

 

「それって、今すぐにでも相手方に術式? の再起動がされる可能性があるんじゃないですか?」

「少なくとも、緊急停止用のプロトコルを行った訳だし、しばらくの所は大丈夫でしょう。でも、いくつか引っ掛かることがあるわ」

「引っ掛かることって何です? これ以上、どんな悪い知らせが?」

 

 藤次はもううんざり、と言ったように頭を垂れながら、視線だけをエレインへと向ける。

 そんな彼の顔を覗き込むようにして、エレインはゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「いい? こういう緊急事態を想定したプロトコルを行うには、いくつかのコードを入力するようにするのが基本なの。今時、生体認証だけで停止するものなんて、こう言ったものに限ってあり得ない。今回の計画を練るような連中が、そんな初歩的なミスをすると思う?」

 

 エレインはそう言って、アイリスの腕からもぎ取った端末をプラプラと揺らした。

 彼女はこの島で体験したあまりにも悪辣な攻撃の数々を思いだし、それと反比例するかのようなあっさりとした幕切れに何か嫌なものを感じている。

 エレインの言わんとしていることを理解した藤次もまた苦い顔をした。

 

「つまり、今回の黒幕はわざと緊急停止のプロトコルにロックを掛けなかったってことですか」

「そう言う事。じゃないと、こんなちぐはぐな事にはならないでしょう?」

 

 エレインの言葉に、「なるほど」と顎を撫でながら藤次が唸る。

 そう言われてみれば、最後に彼女が手にした端末。そこに仕掛けられていた緊急停止のプロトコルは明らかに不自然なものだ。それこそ、わざとそうした、と言われた方が納得がいくほどに。

 

「ああ、そうだ! エレインさん、確か今日は久々の休日だって言ってましたよね。それ、今回の相手に漏れていたんじゃないですか? それが分かっていたから、今回の件を仕込んだとか」

「その可能性は低いと思うわ。今回のウイルスの運用方法からして、実験的な目的が強いように感じられた。だから、実験の不確定要素になるであろう私がいると分かってたなら、真っ先に始末していたはずよ。それなら、相手にとって私は百害あって一利なし。生かしておく価値なんてないでしょう? 現に、ホテルの前についた時点で、容赦のない狙撃が私の胸を抉ったわけだし」

「はぁ…… ですよね。でも、それなら一体何のために?」

 

 藤次は、いつの間にか眉間に寄っていた皺を伸ばしつつ、頭を振った。様々なことが起こってパンクしかけた頭を何とか回転させようとしているらしい。

 エレインはそんな彼の様子を見て、難しい顔をしながら言葉を紡ぐ。

 

「おそらく、この事件の黒幕…… さっきのアイリスとか言う女じゃなくて、もっと上にいる存在は、ウイルスが島全体まで浸透した時点で、私みたいな存在が動くことを期待していたんじゃないかしら。そして、ある時点でこの端末を回収されることを予期していた……? だとしたら、私が来ることを見越してわざと、野放しにした可能性も十分にあり得るわ…… まあ、なんにせよあの女も所詮は捨て駒として扱われていたって事かしら」

「全身が穴だらけになっても戦闘続行できるような人が、捨て駒ですか…… オカルトの世界って怖いですね」

「それは言えてるわ。でも、貴方はそれに頭の天辺まで浸かることになりそうよ?」

「ホテルで言ってたアレの事ですか?」

 

 藤次の言葉に、エレインは「そ」と言いながら小さく頷いた。

 

「でも、それについての詳しい話は後ね。これ、一応敵の端末だし、私たちの会話が聞かれてるかもしれないから」

 

 彼女は指でアイリスの端末を右手の指でつつきながらそう言って、左手の人差し指を口元でぴん、と立てる。

 そんなどことなくチャーミングとも言える仕草を見て、藤次は場違いにも少しだけドギマギしてしまった。自身の中に沸いた小さな雑念を振り払うかのように、彼は勢いよく頭を振ると、こう切り出した。

 

「ところで、エレインさんの端末は電波が通じないって言ってましたけど、その端末はなんで緊急用のプロトコルを発動できたんですか? 電波が完全に封鎖されているんなら、それだって使い物にならなかった筈でしょう?」

「いい質問ね。まあ、簡単に言うならオカルト的な手段で縁を繋いでいたんじゃないかしら? 呪術の応用よ。それと電波の技術を併用して用いれば、よっぽどのことが無い限り情報を送受信することが出来るから」

「それはまた…… 電話会社に喧嘩売ってるような技術ですね」

「ふふ! これを聞いて出てくる感想が電話会社の心配? 貴方ってやっぱりちょっとずれてるわ」

 

 エレインは藤次の言葉に、小さく笑いを零しながらそんな感想を述べた。

 戦闘の連続で緊張しきっていた精神がいくらか癒されたのか、彼女の纏う雰囲気は幾分か柔らかくなってきている。だが、それでも何かが起こった際にすぐ動けるよう、ワイヤーを指に掛けたままだ。

 そんな彼女に対して、藤次は恐る恐ると言った様子で言葉を投げかける。

 

「ところで…… あの子たちはどうなりましたか?」

「相手の手に一度落ちた。その後、炎に巻かれたホテルの外で、あの部屋にいた人間は全員いたのを確認できたわ。あの女をぶっ飛ばしたおかげで、今は術の影響が途絶えているから、今頃どこかで眠っているはず」

「良かった。のどにつっかえていたものが取れた気分ですよ」

 

 藤次は無意識の内に喉元をするりと撫で、そんな言葉を紡いだ。

 先刻、幼い少女に食い破られた喉元の皮膚は再生したばかりで色がなじんでおらず、生々しい爪痕が残っている。

 その傷跡を見たエレインは申し訳なさそうに目を伏せた。

 

「御免なさい…… 状況が切迫してたとはいえ、ちゃんと治してあげられなかった」

「いえ、とんでもない! だって、おかげで今も僕はぴんぴんしてます。明らかに千切れちゃいけないとこまで千切れてた気がするのに、今もちゃんと喋ることが出来てるじゃないですか」

「そう言ってもらえると少し気が紛れるわ。でもね、緊急時だからって、不完全な処置になったのは事実よ。きちんと治せるはずのものを治せなかったっていうのは、医者としてのプライドが許せないの」

 

 エレインはそう言うと、藤次の喉元へと手を伸ばし、霊力を昂らせて術を発動させる。すると、彼の喉元が燐光を帯び、少しずつ皮膚の変色が収まっていった。

 

「これで、過去の汚点を一つ清算できたわ」

「あ、さっきよりすべすべしてる…… ありがとうございます」

 

 藤次は喉元を撫でながら、満足げなエレインにそう返した。それと同時に、そこまで気にしなくていいのに、と静かに思う。だが、傷跡を治してもらってありがたいのも事実だし、わざわざ相手の気分を害するようなことも無いだろうと、御礼の言葉を述べるにとどまったのだ。

 二人が先ほどまでの激闘による精神の疲弊を回復させるかのように言葉を交わしていると、突如として島の上空から何かが高速で回転するような音が響き渡る。

 

「何ですかこの音……」

「ヘリのローターの音ね…… 島の外から接近してきてる」

「エレインさんのお仲間のヘリですか?」

「そう願うわ…… 味方のにしては、駆けつけるのが早すぎなのが気になるけれど…… 付いてきて、この状況であなたを一人にすると危ないかもしれないから」

 

 そう言うと、エレインは目が据わった状態で建物の外へと歩みを進めた。指に掛けたワイヤーを弾いて、周囲に張り巡らせながら。

 その背中を追うようにして、藤次もゆっくりと前進する。

 そして、二人が建物の外へと進み物陰から空を見上げると、そこからいかめしくガラガラとした声が響き渡った。

 

『あーあー! なんだぁこりゃ! どうなってやがる…… おーい、誰か起きてるやつはいないのか! あと、エレイン! 無事かぁ! エレイィン!』

「えーっと…… エレインさんの言うところの味方、でいいんですか?」

「だと思うわ…… 正直なところ、あんな大きな声で人の名前を連呼するオッサンなんて知り合いじゃ無いって言いたいところなんだけれどね」

 

 藤次のどこか困惑したような問いに、エレインは心底はずかしそうに額を覆いながら肯定の言葉を返した。そこには、確かに安堵が入り混じってはいたがそれ以上に羞恥心が勝っているようだ。

 そんな彼女の様子に苦笑を零しながら、藤次は空を見上げる。そこには黒い百合の紋章が描かれた巨大なヘリコプターが浮かんでおり、ようやく安全な場所に行けるのか、と安堵のため息と笑みがこぼれた。

 隣で恥ずかしそうにしているエレインには申し訳のない事だが、ガラガラ声の主は一般人である藤次にとってやっと訪れそうな安寧への切符であり、騒動が起こってからようやく満足な安心感を得ることが出来たのだ。

 それ故にこみ上げてきた笑いを何とかかみ殺しながら、エレインの背中を叩く。

 

「味方なら、居場所を教えてあげた方が良いんじゃないですか?」

「ああ、ちょっと待って…… 本当に私が知っている奴かっていうのと、操られていないかってことを確認しなくちゃ……」

 

 そう言って彼女はワイヤーをヘリコプターへと伸ばした。

 それを見た藤次がギョッとして声を上げる。

 

「ちょ! え?」

「ああ、静かに。別にヘリを落としたりなんかしないわよ。さっき言ったでしょう? パイロットが本当に本人で、操られていないかを確認するだけよ」

 

 エレインは苦笑を浮かべながら伸ばしたワイヤーをヘリの内部へと滑り込ませ、内部の様子を探った。ワイヤー越しに伝わる微かな振動や、霊力の僅かな揺れを頼りに、パイロットへとワイヤーを伸ばしていく。

 そして、その体にワイヤーを触れさせることで、その体に異常が無いか、そしてそれが誰であるかを丹念に調べ上げていく。

 

「ん、間違いなく本人ね。操られている形跡も無いし、姿を見せても大丈夫でしょう」

 

 そう言うと、エレインはゆっくりと物陰から姿を現した。そして、近くにあった道路標識を切断すると、それをワイヤーで振り上げ全力で地面に叩き付ける。

 

「こっちよ! ハリー」

『あん? おぉ、そんなとこに居やがったか。待ってろ、今そっちに行く!』

 

 ハリーと呼ばれたパイロットの声が響き、ヘリコプターが二人の頭上へと飛んでくる。

 そして、ヘリコプターからケーブルが降ろされた。

 

『掴まりな! 引き上げてやる。エレインと…… ボウズ!』

「と、言う事らしいわ。さあ、藤次。これに捕まって」

「……落ちたりしませんよね?」

「その時は、ホテルの階段みたいにワイヤーで捕まえてあげるわ。さあ、掴まって」

 

 戦々恐々とした様子の藤次に苦笑を浮かべつつ、エレインはその手を取ってケーブルを握らせる。

 そして、彼女自身もケーブルを握ると、そのタイミングでケーブルの巻取りが始まり、二人の身体はするすると宙へ登っていく。

 それと同時に、藤次が顔を青くして情けない声を上げた。

 

「はひぇ」

「く、ふ…… ちょっと藤次、何今の情けない声は? 笑ってワイヤーを放すところだったじゃない」

「わ、笑わないでくださいよ…… 慣れない浮遊感のせいで変な声が出ただけじゃないですか…… て、あれ? そう言えば、マリちゃんに喉をぱくっとやられた後、ちょっとだけ意識が戻ったんですけど……」

 

 そこまで言って、藤次はその時幻視した光景を思い出す。

 包帯を巻かれた自身の腕を誰かに伸ばした光景。

 あれは、一体何を暗示するものだったのだろうか。

 そんなことを考えながら、彼は包帯を巻かれた自身の腕をじっと見つめる。

 

「……藤次? それで、どうかしたの?」

「え? ああ、何でもありません。何だかその時、妙な浮遊感を感じたなぁ、と思っただけです」

 

 エレインの訝しげな声に、藤次は慌てて言葉を返した。

 何にせよ、そのような事態は結局島の中で起こることは無かった。ならば、脳の記憶が見せた何らかのフラッシュバックだったと考えるのが一番妥当な考えだろう。

 

 もしかしたら、本当は意識など戻っておらず、ずっと夢の中だったのかもしれない。

 

 そんな風に、彼は自身を納得させることにした。

 しかし、誤魔化すように返された藤次の言葉に、エレインはビシリと身体を強張らせる。

 

「あ、はははは…… そ、その話はまた後でしましょう。ね?」

「アッハイ」

 

 何処か有無を言わせぬような雰囲気を纏った言葉に、藤次は少し目を丸くしながらコクコクと頷いた。

 二人がそんな風に言葉を交わしているうちに、ヘリコプターの搭乗口がすぐ目の前にまで迫る。

 

「分かってくれて嬉しいわ。ほら、早くヘリに乗り込みましょう! ほら、早く」

 

 エレインは妙に慌てた様子でそう言うと、ケーブルに掴まっていた藤次をヘリコプターの機内に放り込み、彼女もそのまま乗り込んだ。

 機内に放り込まれた藤次は、尻を強打したらしく涙目になってエレインを睨みつけていた。それに両手を合わせて謝意を示しつつ、彼女は操縦席へと視線を向ける。

 そこには、ヘッドセットを付けた金髪の男が、いかめしい顔をしながら操縦桿を握っていた。



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感染する悪意のマリオネット症候群 第二十一話

 

「おう、エレイン。元気そうあねぇか! そっちのボウズはナニモンだ?」

 

 金髪の男、つまるところパイロットであるハリーが、ヘリコプターに乗り込んできた二人目掛け、大声で言葉を投げかけた。

 エレインはヘリのローター音にも掻き消されないその大声に苦笑を浮かべつつ、ヘリの内部にあったヘッドセットを装着する。藤次にもヘッドセットを渡しながら、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「ああこの子は…… この騒動で偶然一緒になった最重要保護対象よ。このことに関しては、あんまり他言しないように。こんなロクでもないことに巻き込まれたんだから、少しでも一般人の情報は秘匿されるべきよ」

「穏やかじゃないねぇ…… 空を飛ぶときは面倒なことが起こっているのは俺の気のせいか?」

 

 おどけたような口調で紡がれた言葉に、エレインは呆れたようなため息をつきながら言葉を返す。

 

「それはそうよ。貴方が飛ぶことになるのは、いつも厄介なことが起きたと判断された時だけでしょう? じゃなきゃ、こんなに早く救援が来るはずないものね。この島の電波は完全に封鎖され、天候のせいで衛星の情報さえ満足に届かない。ここは田舎で異常を察知するのにも時間がかかる。それでも早々に貴方が来たのはやっぱり……」

「ああ、察してるとは思うがこの島周辺で起こっていた異常気象。クロユリが保有している監視衛星に映ったそれに、一瞬だけ異常な霊力の波動が感知されてな。それから調べてみると、この島の電波は遮断され、連絡が付かないときやがった。説明してくれ、一体何がどうなってこんな状況になったんだ」

 

 彼はあくまでもおどけたような口調を崩さないが、その節々には真剣な色が滲みだし、それが事態の重さを物語っているようだった。

 その視線の先にあるのは島の至る所で上がる黒煙、そして島の道に敷き詰められるかのようにして倒れている人間の数々。

 

「確証は無いけど、贈り物よ。遺産と言ってもいいかもしれないわね。忌まわしい過去からの」

 

 エレインは忌々し気にそう吐き捨てると、ヘリコプターの内部に備え付けられたボックスを開き、その中にアイリスから奪い取った端末を放り込んだ。

 

「それよりも、まず私は遺留物の封印処理を行うわ。だからハリー、貴方は本部に増援をよこしてもらって。電波の届く場所まで移動してからね。島の人間をこの人数だけで対処しようなんて無謀にもほどがあるわ」

「了解っと。それじゃあ、一旦島から離れるぞ」

 

 ハリーはそう言うと、操縦桿を切って急旋回し島から離れていく。

 そして、操縦を続けている彼にエレインは再び言葉を投げかけた。

 

「ああ、それと派遣する人員全員が感染対策の防護服の着用を義務付けるように指示をお願い。理由は、この子に聞いて頂戴」

「おいおいおいおい! 防護服とは物騒だな…… ボウズ、いったいどういう事なんだ。エレインが最重要保護対象なんていうぐらいなんだから、事情は大体分かってるんだろう?」

 

 暗に、オカルトが関わる世界について知っているのか、という意図も織り交ぜられた言葉に、藤次はコクリと頷きながらゆっくりと口を開いた。

 

「ええ、大まかなことは。ウイルスを縁として支配系統の術が発動されて、島のあちこちで暴動染みたことが発生して…… 犯人と思われる女性を追い詰めて、その端末で事態を一時的に収めたんですが…… いつ、島民たちが再び操られるか分かりません。オカルト面のことは、僕はさっぱりで詳しい原理なんかは分からないんですけど……」

「ウイルスを利用しただぁ? そいつは…… くっそ! やっぱり厄介ごとじゃねぇか。ついてねぇなぁ、おい!」

 

 ハリーは紡ぎ出された言葉を聞いて眉間に皺を寄せた。そして、島から十分に離れた距離に達した時点で無線を繋ぐ。

 

「こちらハリー。異常事態の被害は島全体に及び、テロ勢力がウイルスを島内に散布。テロ組織はそれを利用し、島民が支配系の術式の影響下にある。島内の鎮圧と一般人の保護のために対ウイルス装備を着用した人員の投入を求む」

『了解しました。予備隊及び戦闘班の人員を送ります。念のため確認しますが、医療部門統括の保護には成功しましたか?』

「もちろんだ。じゃなきゃこんな詳細に事情を説明できてるわけ無いだろう? アイツは今、敵から回収した端末を封印処理してるとこだ。まあ、今回はウイルスが絡んでたってことだし、返ったら俺ら三人とも仲良くメディカルチェックを受けなきゃだ。厳重な歓迎を期待してるよ」

『分かりました。ヘリが到着次第、消毒と隔離を行います…… 待ってください、三人?』

「おう、エレインが保護した一般人が一人このヘリに乗ってる。まあ、詳しくは帰ってから二人に聞いてくれや」

 

 ハリーはそう言うと、無線機を切ってエレインと藤次の方をちらりと振り返る。

 

「ところで、お前さんらウイルスの感染は大丈夫なのか? 島ではばら撒かれたって話だろう?」

 

 紡がれたのは当然とも言える疑問。回収したのは良いが、ウイルスに感染したままで帰投などすれば目も当てられない。

 

「当然よ。相手に拘束された時、しっかりと自分に感染してるのは治しておいた。その時コツを掴んだおかげで、藤次に感染した分はさっき怪我を治すついでにウイルスも除去したわ」

「相変わらずやるねぇ。その腕前にほれぼれしちまうよ」

 

 ハリーはおどけた調子でそう返すと、視線を前方へと戻した。

 

「だけど、返ったらしっかりとメディカルチェックは受けるんだぞ。本部でそんなヤバいウイルスがバイオハザードを起こすとか、俺は勘弁願いたいからな」

 

 しかし、藤次は今の会話の中に猛烈な違和感を覚えて首を傾げる。

 エレインは確かに「さっき怪我を治すついでにウイルスも除去した」と言った。

 

 これは実におかしい。何故なら、その言葉が事実であるとするなら、藤次がアイリスを撃った時に彼はウイルスの影響下にあったはずなのだ。それなのに、何故アサルトライフルの引金を引くことが出来たのか。

 藤次はそんな疑問を投げかけるかのように、エレインへと視線を向けた。

 だが、彼女はその視線を真っ向から受け止めると、しばし思案したのち「詳しい話はうちのボスも交えて」と言ってそれ以上の言及を避けた。

 そう言われてしまえば、藤次も追及をすることが出来ず、小さく頷いて黙り込む。

 こうして、二人はクロユリの本部へと移送されることとなった。

 

 

 

****

 

 

 

 

「と、ここまでが僕たちが分かっていることです。後はそちらのご存知の通りかと」

 

 語られた事件の顛末を一つ一つ吟味するかのように、小太郎は目を細めて顎を撫でる。小柄で幼く見える普段の様子とは違い、その姿からは老獪で長年の時を生きてきた男としての貫禄が滲みだしていた。

 

「なるほど…… 事件の概要はよく分かったよ。この悪辣極まる手腕、相手取るには苦戦を強いられそうだ。それに、時実黒乃、か」

「ええ、事件の最中は追い詰められていて思いだしている余裕はありませんでしたが、今ならはっきりと思いだせます。だからこそ、あの人が言っていた言葉の一つ一つが今回の事件を暗示していたようでなりません」

 

 人形劇と言う言葉を用い、藤次が事件に巻き込まれることをあらかじめ分かっていたからこその振る舞い。そうであったと言われなければ説明できない態度の数々。

 どれをとっても時実と言う男が真っ黒であると裏付けているようなものだ。

 だからこそ、藤次は理解できなかった。いや、理解したくなかったというべきか。

 

 何故、時実は彼にそんな意味深な言葉を残したのか。

 その一つ一つの疑問が藤次の心に重くのしかかる。

 それらを解消するかのように、小太郎の口からゆっくりと言葉が紡がれた。

 

「それは、おそらくその時実と言う男が君の能力に目を付けたからだろう。未来を見通し、体感することの出来る君の力にね」

「僕の力、ですか?」

「うん、そうなんだ。未来視の能力は元々数が少なく、稀少なものだが、藤次君のはその中でも特に異質で稀少なものなんだよ」

 

 小太郎が紡いだ言葉に、藤次はうなだれながら小さく言葉を溢した。

 

「何だすごい力みたいですけど、いい迷惑です…… 稀少なもの、と言われても、それがどれぐらいかなんて僕には分かりませんし」

「ま、確かにそうだね。降ってわいたような力なんて、実感もわかないし、何よりも迷惑だ。分かるよ」

 

 思うところがあったのか、小太郎も目を細め、神妙な表情をしながらそんな言葉を紡いだ。だが、彼はすぐにどこか重苦しい雰囲気を振り払うと、ぴんっと人差し指を立てる。

 

「まあ、かなり分かりやすく、今風に言うと…… ソーシャルゲームのSSレア、その中でも期間限定でしか排出されないようなレベルのものっていえば分かりやすいかな?」

「すっごく分かりやすいですけど、なんだかすごくスケールがチープになりませんでしたか今⁉」

 

 あまりにも俗っぽい例えに、思わず藤次はツッコミを入れてしまう。

 だが、小太郎はあくまでも真剣な態度を崩そうとせず、肩を竦めながら言葉を返した。

 

「分かりやすさというものは、説明をする以上もっとも重要なものだ。それで藤次君も理解が及んだんだから、何の問題も無いだろう?」

「そ、そうですけども……」

「分かってくれたようで何よりだ。こっちが馬鹿みたいに課金をしている横で、無償分のガチャ一発で欲しい限定SSレアを引き当てられた時なんて、本当に殺したくなるだろう? つまりはそう言う事なんだよ」

 

 何処か濁りきった瞳で小太郎は天を見つめる。その視界の先に何を捉えているか、それすらわからないほど虚ろな何かを感じ、藤次はそっと彼から距離を取った。

 

「あの、なにか私怨が籠ってませんか?」

 

 藤次は困惑が隠せないような表情で、小太郎を見つめる。

 先ほどまで組織の長としての威厳に満ち溢れていた気がするのに、今は最早ただの廃課金者にしか見えなかったからだ。

 そんな彼の思いを感じ取ったのか、エレインは額を抑えながらため息をつく。

 

「小太郎、話がずれていないかしら……」

「わざとずらしたんだよ。ほら、少しでも空気を軽くする努力は必要だろう? 胃が痛くなるような話だけを続けてたら、その内本当に胃潰瘍になるからね。これ、実体験」

 

 小太郎はそう言うと、小さく咳払いをして藤次に視線を向けた。

 先ほど空気が弛緩したはずなのに、それだけでどこか空気が張り詰め始める。

 

「でも、そろそろ本筋に戻そうか。あまり焦らすのもよろしくないからね」

「そうして下さると助かります。腹は据えました」

 

 藤次は真剣な表情で、小太郎の瞳を見つめ返す。

 彼はそんな眼差しを見て、小さく頷きながら言葉を紡いだ。

 

「よろしい。では、君の能力についてだけど、一見するとただの未来視の様に見える。未来視については多分字面からどんな能力化は分かってもらえると思うけど……」

「まあ、普通に未来が見えるってことでしょうか?」

「その通りだよ。で、その未来視の原理についてだけど、因果律などの揺らぎを観測するためのチャンネルがある存在がその能力を得ることが出来る。逆に言えば、そのチャンネルが無ければ未来の可能性を見通すなんてことは到底不可能だ。まあ、これは魔眼とか霊感とかにも通じるところがあることだけど」

「つまり、霊感がある人は幽霊を見るためのチャンネルが存在しているから見ることが出来るって言う事ですか?」

「そう言う事。まあ、霊視自体はチャンネルが無くても、霊力を目に込めれば出来るんだけど…… それは置いておくとして、この未来視に必要なチャンネルを持つものは非常に珍しくてね。人間に限定するなら世界全体で数えても三百人いるかいないかってところじゃないかな」

 

 藤次はその言葉を聞いて、それがどれだけ異常な数値なのか理解できた。

 人間と言う種族は世界の至る所に、膨大な数が存在している。その中で、たったの三百人。

 

「世界の人口って今どれくらいでしたっけ……?」

「確か、世界の人口は七十億をこえているはずだから…… 三百人という数字が、とても少ない数であることは疑いようのない事ね」

 

 藤次が思わず呟いた疑問に、エレインは口元に手を当てながら大まかな数字を答えた。そして、同時にその能力の稀少性を裏付けながら。

 そんな二人の会話に頷きながら、小太郎は静かに言葉を紡ぐ。

 

「だけど、それだけじゃない。未来視はさっきの例えで言うなら、ただのSSレア。藤次君の力は期間限定排出のSSレアだ。君の特異性は何も未来視が出来る事じゃない。それには君自身も心当たりがあるだろう?」

「はい…… 支配系の術式として利用されていたウイルスに感染したのに、僕自身は何の影響も受けることはありませんでした」

「その通り。そして、それこそが藤次君の特異な能力が何なのかを決定づける重要な要素だったのさ。それを説明するために、君がこっちに移送されてから採取した血液を利用して支配系、精神干渉系の術がどれだけ君の霊子に影響を与えるかを観測してみたんだ。まあ、すると面白い結果が表れた」

 

 そう言って、小太郎は自身の手元にあるコンソールを操作すると、モニターに二つの線グラフが現れた。片方は起伏が限りなく少なく、ほぼ真一文字を描いているもの。もう片方は途中まで緩やかだが、ある一点から数値が跳ね上がっているものだ。

 その内の起伏が限りなく少ない方のグラフを指さしながら、彼はゆっくりと説明を開始する。

 

「これが、君の霊子に支配系、精神干渉系の術がどれくらいの影響を及ぼしたかを表すグラフ。そして、その隣がある程度の霊力を持った人間のものだ」

「こうやってみると、明らかに僕に与えられている影響が少ないですね」

「ああ、その通り。さらに、グラフの起伏が小さくて分かりずらいけど、君の場合はある一点を超えた時点で完全に影響が無かった時点と変わらない値になっている。普通は隣のグラフみたいに、本人の耐性値を超えた時点で、その影響力が強くなっているにも関わらず、だ」

 

 そこまで言葉を紡ぐと、小太郎の目はすうっと細められた。そして、そのまま藤次の顔を覗き込むようにして顔を横に倒す。

 

「元からそう言った類の術に対してかなり耐性が高いようだけど、それだけじゃあ説明がつかない。まるで、大きな力によって強制的に修正をかけられたかのように綺麗さっぱりと影響が無くなってしまったんだ」

「大きな力? それはまた、どうして……」

「君の力は並木藤次という個人のデータを用いて、そう言った異常を修正しているのさ。これは物理的な損傷には効力を発しないが、先ほど挙げたような精神干渉や支配などの術に対しては異様なまでの修正力を発揮する。簡単に言うと、パソコンがウイルスを検知した時に、セキュリティが働いてそれを駆除するようなものだよ。そして、セキュリティ自体はパソコンの物理的な破壊を防げない」

 

 小太郎の例えに、藤次は「なるほど」と言って小さく頷いた。身近にあるものを例えに挙げられたことで理解が深まったのだろう。先ほどと違い、俗っぽい例えでなかったおかげもあって、戸惑いなく知識の吸収が出来たというのも大きい。

 そんな藤次の様子に満足そうな笑みを浮かべながら、小太郎は居住まいを正して言葉を続けた。

 

「こう言った特性を持った能力は過去に数度観測していてね。君の能力はそれらにピタリと当てはまる」

「それは一体どんなものなんですか?」

 

 藤次はゴクリと唾を飲んでその言葉の続きを待つ。部屋に置かれた時計の針の音が嫌に大きく感じられる中で、小太郎はゆっくりと息を吸って口を開いた

 

「それは様々な名を冠していてね。叡智の記録者、レコード・ホルダー、プロビデンスの目、ラプラスの魔…… まあ、これについてはさして意味のない事だ。名前なんて言うのはただの記号。大事なのは、その本質だ。君の持つ力は因果律を観測するのではなく、因果律に干渉しあうこと。歴史の分岐点に現れるという世界の触覚そのものだ」

「……は? え、なんというか、それは…… 壮大ですね」

「ははは、まあ、実感が湧いていないみたいだけど、未来視が出来る、とでも思っておけばいい。それに、精神干渉などに異常なほどの耐性がある以外は、通常の未来視に加えて過去視が出来るくらいしか違いはないし、それ以上のことが出来るようになったなんて事例も無い」

 

 困惑が隠しきれない様子の藤次に、小太郎は手をひらひら振りながらそんな言葉を紡ぐ。

 そこに気負った様子などなく、あくまでも世間話をするようなその態度を見て、エレインは額に手を当ててため息をついた。

 

「小太郎、相手の精神状態を慮るのは良いけど、気を使ってるだけじゃいつまでたっても話が進まないわよ。早く話を進めないと、この子も休めないでしょう?」

「……分かったよ。エレインの言う事にも一理ある。さて、ここまで軽く話してきたが、この手の力は貴重でね。通常の未来視の能力を持った人間ですらも、国が囲い込んで保護するレベルなんだ。君のような特殊な例ならばなおさらね」

「じゃないと利用されて、解体されて、悲惨な結末を辿ることになるかもしれない。いえ、過去に事実としてそうなったのよ。未来視の持ち主は、時の権力者や悪党、それだけじゃなくて一般人すら喉から手が出るくらい欲しがるような代物だから」

 

 小太郎に続いたエレインの言葉に、藤次は身を強張らせる。悲惨な結末。その言葉から、彼は島の惨状を思いだしてしまったのだ。

 僅かに項垂れ、藤次はゆっくりと口を開いた。

 

「また、あんなことが起こるかもしれないんですか?」

「可能性は大いに、ね。島に入る前に会ったと言っていた時実って男のことを考えると、あり得ないとは言えないわ」

「エレイン、流石にそれは拙速が過ぎる。彼が萎縮してるじゃないか」

 

 小太郎は諌めるように言葉を紡ぐが、藤次はそれを手で制した。

 

「大丈夫です。エレインさんの直球さは島で慣れましたから。それで、そうならないためにはどうすれば?」

「まずは、私たちが貴方を保護するわ。可能な限り、手厚い環境で。と、言う事でいいわよね小太郎?」

「やれやれ、気持ちは分からないでも無いけど、あまり肩入れをし過ぎないで欲しい所なんだけど…… まあ、本部内で生活をしてもらう分には信頼度の高い安全を保障しよう。だけど、ただで飯を食べさせてあげられるほどこっちも暇じゃないし、それなりの労働は覚悟してもらわないといけないけどね」

「例えば、事務職とかですか?」

「もちろん、そう言った安全な仕事を多く割り振るつもりだが……」

「小太郎!」

 

 小太郎が続けようとした言葉を察知して、エレインが咎めるように声を荒げるが、それに構わず彼は言葉を続けた。

 

「静かにしなさい、エレイン。君が言った通りさっさと要件を終わらせるだけだ。それに異議を唱える権利は君には無い」

 

 取り付く島もない、と言うのはこう言う事なのだろうと、藤次は静かに思う。そして、居住まいを正しながら続く言葉を舞った。

 既に彼の腹は据わっている。

 

「君の存在は既に知られている。そうでなければ時実と言う男があんな行動をした意味が無い。そして、既に存在が知られていた以上、どれだけ気を配ってもその痕跡を辿って奴らは君にたどり着くだろう。なら、この場所に居ても完全に安全とは言い難い。だから、君に選んで欲しいんだ」

 

 そこまで言うと、小太郎は言葉を切って息を吸いこんだ。そして、少しだけ悲しそうに目を細め、ゆっくりと口を開く。

 

「死ぬまでクロユリの保護下で一生震えながら過ごすか。それとも、危険は伴うが裏側の仕事に赴き、背後に潜む何かを引きずり出すために剣をとるか。この二者択一の選択肢をね」

 

 



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感染する悪意のマリオネット症候群 第二十二話

 

 

****

 

「疲れました…… いろんなことがあったせいで、頭の中がぐちゃぐちゃです」

「お疲れ様。流石に、こればっかりは同情するわ」

「ありがとうございます…… あれだけ言われたら、流石に自分の身がどれだけ狙われる可能性があるか嫌でも分かりましたし、仕方のない事だとは分かっているんですけどね」

 

 藤次とエレインはどこか疲れた様子で言葉を交わしながら、ロビーへと続く道を歩いていた。そんな二人の脳裏には、小太郎との会話の顛末が浮かんでいる。

 

 度重なる難事に加え、それを乗り越えた先に待っていたのは人生を左右するような二者択一である。

 まして、藤次は一般人。今までよく平静を保てていたものだと、称賛されてしかるべきだろう。

 エレインは重い選択を迫られ元気のない彼を気遣うに、その肩に手をのせる。

 

「あれについての返答はゆっくりと考えなさい。きちんと自分の納得のいくような答えが出せないと、きっと後悔するわよ」

「ええ、こればっかりはちゃんと考えないと…… 保護を受けないなんて選択肢が無い以上、あのどちらかしか選択肢はあり得ませんから。そうしないと、家族や友達にも被害が及ぶかもしれませんし……」

 

 藤次が思い浮かべるのは、自分にとって大切なものたちだ。

 きっと自分はそれらが傷つくことを許容できない。彼はそう断じることが出来る。

 元より、知り合って間もない人間を助けようと思えてしまう程度には人の好い藤次は、容易に想像できてしまい、小さく身震いをする。だが、そんな自身の恐れを振り払うように、努めて明るい声で言葉を紡いだ。

 

「そう言えば、保護を受ける場合は僕の家族にもその恩恵を受けてもらえるんですよね?」

「もちろん。その点については心配はないわ。でも、貴方の周りの人ではなく、貴方自身が最優先されるのは忘れないで。例えあなたの家族や友人が危機に陥っても、貴方の身に危険が及ぶようならば容赦なく切り捨てられるわ」

「それは、厳しい話ですね…… 僕としては家族もしっかりと助けて欲しい所ですが」

 

 エレインの言葉に、藤次はそう返すことしかできなかった。実際そのような危機に直面したとして、きっと彼女は、いや、クロユリという組織はその言葉通りの対応をするのだろう。

 エレインは凡そ嘘と言うものをつかない。それは、島での経験から藤次は嫌という程に理解できている。彼女は余計な期待を持たせず、いざというときの為の覚悟を事前に固めさせるのだ。

 そのスタンスは、幼い子供にすら発揮されていた。それ故に、エレインが藤次に遠慮した物言いをする可能性は低い。

 それを裏付けるかのように、エレインは平坦な声色で言葉を続けた。

 

「口外は出来ないけど、これでもお役所仕事なの。だから、基本的に最大多数の幸福を突き詰めるために多少の犠牲は切り捨てられるわ。それが、どれだけ納得のいかないものであってもね」

「エレインさんも…… やっぱり、そう言う事はありましたか?」

「ええ、もちろん。こう言った人の命が消えていく場所で働いているから、なおさら。嫌な話よ」

 

 紡がれた問いかけに、彼女はどこか自嘲的に言葉を紡いだ。そのあまりにも冷たい響きに藤次は息を飲んで、それ以上何も言うことが出来ずに小さく俯いてしまう。

 二人の耳に足音だけが嫌に大きく響いて聞こえた。

 かつり、かつりと響く音が二つ。それ以外の音は無く、沈黙が場を支配し始める。

 そんな嫌な沈黙を打ち破ったのは、金糸のような髪を乱しながら頭を振ったエレインだ。

 

「あーもうやめましょう! 暗い話ばっかり続けてたら際限がないわ。こういうのはその時にならないとどう動くかなんて本人ですらわからないんだし、今は雀の涙程度の覚悟を固めておくくらいしかできないでしょう。だから、ロビーでハーブティーを入れてあげるから、それを飲んで今日は寝なさい」

「あ、ははは…… すいません、気を使わせちゃったみたいで」

「いいのよ。私は人生経験豊富で、いろんなことを経験してきたけど、貴方はたかだか二十年も生きていない一般人。むしろ、私が気を使うのは当然の事よ。そんないちいち畏まらなくても大丈夫だから」

 

 エレインは恐縮している藤次に対し、苦笑を浮かべながらそう言って、行き先をロビーへと変更した。

 

「じゃ、あっちにロビーがあるからついてきて。私たちがここに来るときは通らなかったけど、正面玄関の近くにあるかって覚えておけばいいわ」

「そう言えば、僕らがここに来るときは正面じゃなくて、上から来てましたね」

 

 慌ただしく空輸されてきたことを思いだし、藤次は少しだけ遠い眼になってそう呟いた。

 それを耳ざとく聞きつけたエレインはクスクスと微笑みながら言葉を紡いだ。

 

「まあ、ヘリで移動することなんて私たちでも滅多にないし、それだけ緊急性が高かったってことよ。まあ、今は其れよりもロビーの方なんだけれど……」

 

 空気が必要以上に重い方向へと向かわないよう、彼女は露骨に話題をすり替えた。やや強引ではあったが、そこには気遣いが多分に感じられ、藤次は微笑みながら言葉の続きを促した。

 

「ロビーには何があるんですか?」

「ロビーには何人もの人間がくつろげるようにソファーや机がそこらに並べられているわ。大きなキッチンも隣に併設されているから、自室のキッチンじゃ狭く感じるメンバーはあっちで調理してご飯を食べたりもするわね。あそこの食材はタダで使わせてもらえるし。まあ、私はもっぱら自室で食事を作って食べるか、ありあわせのもので済ませるんだけど……」

「へぇ、そうなんですか…… あ、自炊もするってことは、エレインさんは料理が出来る人なんですね」

「……まあ、栄養面に関しては最強のものが作れるという自負があるわ」

 

 エレインは藤次から察と視線を逸らしながらそう言った。今の彼女をよく見てみれば、うっすらと冷や汗をかいているのが分かることだろう。

 そして最後の最後に、蚊の鳴くような小さな声でエレインはこう付け加えた。

 

「……味はともかく」

「……そ、そうですか。でも、まあ栄養価が高いのは良いことだと思いますよ。ほら! 健康第一って言いますし」

 

 しかし、藤次にはしっかりと聞こえていたらしく、返ってきたのはなんとも生暖かい視線と気遣いに溢れた返答だった。感心したばかりの所に「味はともかく」と返ってくればそれも当然と言えるが。

 そんな彼の優しさがエレインの心を抉る刃と化している。優しさとは、時に残酷なものなのだ。

 どこか気まずくなった空気を変えるようにして、藤次は咄嗟にこんな質問を切り出した。

 

「あ、そ、そう言えば! エレインさんはなんで僕が変わった体質だって分かったんですか? おじいさんの定食屋で、既に僕の体質に気付いていましたよね?」

「それは…… 貴方がもう少しこっちの事情に慣れてから話そうと思うの。ほら、貴方はまだまだ裏の事情に関わり始めたばっかりだし」

「エレインさん。今更、大抵の事じゃ驚かない自信はありますし、無事に帰れたら話をするって言ってましたよね?」

 

 藤次はそう言ってエレインの顔を覗き込んだ。彼の目は細められ、じーっと彼女の瞳を捉えて離さない。

 最早、話すまで梃子でも動かないと言わんばかりの態度に、エレインはやれやれとため息をついた。

 

「一応、一緒に死線をくぐった相手との信頼関係に罅を入れるような真似をしたくはないんだけれどね…… そこまで言うなら、心して聞きなさい」

 

 しかし、話をする気にはなったようで、彼女は歩きながら居住まいを正して藤次に向き直る。

 

「いい? まあ、世の中には色々と不思議なことがあるの。貴方が島で体験したこと然り、まだ知らないことだってたくさん。ここまではいいかしら?」

「ええ。世の中っていうのはまだまだ広いものだと実感できましたから」

「なら、話を続けさせてもらうと、世界にはね。まあ、あんまり知られていない独自の生態を持った生き物もいるというか…… まあ、ずばり妖怪とか悪魔、妖精に神様…… そんなのがたくさんいるの。実在していると知られていないだけでね」

「それはまた…… というか、この話の流れで言うと、エレインさんはつまり……」

「そう、今言った人外に連なる種族って言う事。まあ、具体的に言うならインキュパスと倩兮女の混血なのよ…… 驚いた?」

 

 エレインは恐る恐ると言った様子で藤次に問いを投げかけた。短い間とはいえ、命の危機を共に乗り切った相手に否定的な態度を取られるのが怖かったのだろう。

 しかし、そんな懸念など知らないとばかりに、彼はキョトンとした表情で首を傾げた。

 

「え、それだけですか?」

「それだけって…… 貴方、もうちょっとこう、なにか、あるでしょう?」

 

 あまりにも拍子抜けな態度を取った藤次に、エレインがむしろ困惑してしまう。

 だが、あくまでも彼はその告白に対し思うところは無いらしく、ポリポリと頬を掻きながら笑った。

 

「え、いや、だって…… 命の危機にさらされて、助けてもらいましたし…… 霊力とか言う不思議パワーがあるなら、そう言うのだってあってもおかしくは無いですし…… ぶっちゃけた話どうでもいいというか」

 

 藤次の「正直どうでもいい」という所感に、エレインは呆れを通り越して絶句する。そして、再起動までに数秒を要し、ゆっくりと息を吐いた。

 

「なんというか、島にいた時も言ったと思うけど、貴方やっぱり図太過ぎないかしら。普通はもう少し驚くものよ」

「そうですかね……? まあ驚くと言えば、エレインさんが僕のことをホテルからパチンコ玉みたいに射出したって話の方が、よっぽど驚いたんですけどねぇ?」

 

 藤次のジトっとした流し目を受け、エレインはビクリと身体を強張らせた。そして、冷や汗を流しながら、視線を辺りにさまよわせる。

 

「うっ…… あれは、状況的にそうしないとまずかったというか…… 他に方法が無かったのよ。悪かったとは思ってるんだけど、その……」

「えー本当ですかぁ?」

「えーっと、その、ご、ごめんなさい……」

 

 エレインは申し訳なさそうに身を縮こまらせると、蚊の鳴くような声でそんな言葉を紡いだ。

 それを見て、藤次は小さく噴き出してその肩を叩く。

 

「はは! すいません、そんなに怒ってるわけじゃ無いですから、そんなにビクビクしないでください。何だか僕が悪いことをしているみたいじゃないですか」

「いいえ、絶対嘘ね。さっきまでは割と本気で怒ってたでしょう。ちゃんと謝ったから許したっていうだけで」

「いえ、そんなことは無いと思うんですけど…… 精々、この人何やってくれてたのぉ⁉ って思ってたくらいですし」

「それは割と本気で怒ってたってことでいいんじゃないかしら…… なんだか調子が狂うわね」

 

 エレインは引き攣った笑みを浮かべ、力なくそう返す。その脱力具合を表しているかのように、彼女の纏う空気がどことなく弛緩したものに変わっていた。

 対する藤次は、「そうですか?」と言ってやや首を傾げる。本人の認識としては、怒っているというよりも、ただものすごく驚いただけといったものだったからだ。

 しかし、よくよく考えてみればこれはもっと怒って当然のことだったのだろうと藤次は思う。ならば、何故怒りが湧いてこなかったのかを考え、彼はゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「でもまあ、ちゃんと謝ってもらったっていうのも大きい気もしますね。そのおかげで、驚いただけで怒りに発展しなかったていうのは確かにあるかもしれません。でも、そもそもが命を助けてもらったわけですし、本当に怒っていたわけじゃ無いですよ」

「どうかしら。私の知り合いに、怒るとものすごく怖い人が居たけど、さっきの貴方はその人と似た雰囲気を漂わせてたわよ」

 

 エレインは戦々恐々と言った様子で鳥肌の立った肌をさすっている。そんな彼女に対して、藤次は微妙な表情を作りながら言葉を紡いだ。

 

「怒ると怖い人? たぶん、島でのエレインさんには敵いませんよ。あの時、背後に鬼を背負ってましたから…… それより、結局なんで僕の体質に気付けたのかの話がまだですよ」

「ええ、そう言えばそうだったわね。それで、話の続きだけど、まずインキュパスと倩兮女は、精神干渉と視線誘導を起こす能力と体質を持ち合わせているの。まあ、普段は周りに迷惑が掛からない程度に抑えてるんだけど……」

 

 と、そこまでエレインが言ったところで、藤次は首を傾げながら疑問の声を上げた。

 

「そう言う割には、人の視線を集めていたような……」

「その、なんというか…… 気が緩んだりすると視線誘導の方は漏れちゃうことがあるのよ。精神干渉の方は割と深刻だから、呪具も使って常に抑えるようにしているんだけど……」

「ああ、なるほど。つまり、そっちの方が深刻だから、視線誘導の方は若干おざなりになっちゃうことがある、ってことですね」

 

 藤次の言葉に、エレインは「そういうこと」と返しながら頷いた。そして、ゆっくりと説明の続きを始める。

 

「それで、定食屋で近くの席に座って、貴方に私の体質の影響を全く受けていないって気が付いたの。それから、緊急事態に陥った時の素人とは思えない対応速度で動いたのを見て、貴方の能力がどんなものか確信を持った。まとめるとこんな感じかしらね」

 

 そこまで言ったところでエレインは言葉を切った。二人が話しながら歩いているうちに、ロビーに到達していたからである。

 

「じゃ、私はキッチンの方で紅茶を入れてくるから、そっちのソファーで休んでて」

「はい、わかりました」

 

 そう言ってキッチンへと向かったエレインの背中に返事を返し、藤次はソファに体を沈み込ませる。彼はその態勢で顔を両手で覆い、深くため息をついて天井を見上げた。

 

「おなか減ったなぁ……」

 

 昼頃から何も食べずに危機にさらされ続けていたため、彼の疲労と空腹感はピークに達していた。

 だが、今更キッチンにいるエレインに食事が欲しいなどと言う気力もなく、先ほどの会話からまともなものが出て来るのか不安という事もあり、藤次はソファに沈み込んだままぐったりと身体を休ませる。

 そうしていると、時計の針の音が彼の耳に響いて聞こえた。ロビーには趣のある立派な古時計が置かれおり、さらにそこからゆっくりと視線をずらせば、ところどころに歴史を感じるアンティークがぽつぽつと並んでいる。

 

「結構古いものが多い…… やっぱり、昔からあるところなんだろうな……」

 

 ぼんやりとそんな言葉を呟きながら、藤次は時が過ぎるのを待つ。

 そうしていると、ハーブティーを淹れたらしいエレインがお盆にティーカップとティーポットを乗せてゆっくりと歩いて来た。

 

「ほら、これを飲んだら少し落ち着くから」

 

 そう言って彼女はテーブルにお盆を置くと、ティーポットを手に取ってハーブティーを注いだ。

 

「ありがとうございます…… あ、おいしい」

 

 注がれたハーブティーを口に着けた藤次は、目を少しだけ輝かせながらそう呟いた。

 そんな彼の様子を見て、エレインはホッと息をつく。

 

「まずいって言われたらどうしようかと思ったわ」

「いえいえとんでもない! 料理が苦手って言っていたので、ちょっと心配だったのは確かなんですけども……」

「さすがに、ハーブティーを淹れるだけでとんでもない味にしたりはしないわよ…… でもまあ、その様子を見るに、喜んでもらえたみたいで何よりよ」

「ええ、とってもおいしかったです。なんだか心の落ち着く味と香りでした」

「そう…… それなら良かった。カモミールのハーブティーは心を落ち着けるから、今のあなたにぴったりだと思ったのよ」

 

 エレインはそう言って、自身のティーカップにもハーブティーを注ぎ、ゆっくりと啜った。

 対する藤次は、よほどその味が気に入ったのか、まだ熱いだろうに中々のペースでハーブティーを飲み進めている。

 そんな彼の様子を見て、エレインは少し嬉しそうに微笑みながらティーポットを指し示した。

 

「おかわりはあるから、飲みたいだけ飲みなさいな」

「ありがとうございます。でも、その前に少しだけ聞いておきたいことがありまして……」

 

 藤次は空になったティーカップをテーブルに置くと、体面に座ったエレインに対して真剣な表情で向き直った。

 

「この組織について…… 詳しい話を聞かせて頂いてもいいですか? 今までの話から、ああいった事態に対する抑止力を担っているっていうのは分かってはいるんですが……」

「構わないけど…… 明日にした方が良いんじゃないかしら? 貴方、大分疲れているでしょう」

「ええ、それはまあ…… でも、今のうちに聞いておきたいんです。心の整理を付けたいので」

 

 藤次は「お願いします」と言って頭を下げた。

 対するエレインは少しだけ困ったように微笑んで、小さく息をつく。

 

「そこまで言うなら仕方がないわね…… じゃあ、どんな経緯でこの組織が作られたのか。そこから話していくわよ」

 

 エレインはそう言うと、ゆっくりと自身が所属する組織の成り立ちを語り始めた。

 



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43話

 

*****

 

 窓から差し込む西日がうっすらと照らす部屋。

 その部屋の空間に、黒いシミが滲み出るようにして穴が広がり、その中からアイリスは転がるようにして姿を現した。

 

「ここは…… 私の部屋? 何故、ここに……」

 

 そして、部屋の内部を見回したアイリスはそんな疑問の声を上げる。転移門の札の登録先は、ここではない別の場所のはずだった。そのはずなのに、何故、いま彼女は自身の部屋にいるのか。

 その疑問に答えるようにして、部屋の中に男の声が響いた。

 

「ああ、おかえり。ずいぶんとボロボロだけど、大丈夫かな?」

「右腕を千切られている状態を大丈夫、だと思うのなら、眼科の受診をオススメしますよ…… それに、そっちこそ、手酷くやられているようですが?」

 

 千切れた腕を抑えたアイリスは、自身に声を掛けた男、時実にどこか冷ややかな声色で言葉を返した。だが、彼女の額には冷や汗がびっしりと滲み、その声もどこか弱弱しい。どうやら、千切れた腕と失血が大分響いているようだ。

 そんな様を見て彼はやれやれといった様子で肩を竦める。

 

「確かにお兄さんも人のこと言えないぐらいボロボロだけど、君みたいに今にも倒れそうなほどじゃないしねぇ?」

 

 そう言った時実は、身に纏っている衣装はズタズタで、全身の至る所から血を流しているものの、あくまでも楽し気で、余裕に溢れた立ち振る舞いをしていた。彼の言葉通り、それなりの余裕があるらしい。

 そんな態度が気に入らないのか、アイリスは露骨に顔を顰めながら彼を見上げた。

 

「それより、どういうことですか? この札の緊急退避先は大欄島の近くにある離島だった筈です。何故、本拠地であるここに直接飛ばされたのか説明をしてほしい所なのですが?」

 

 彼女の語気が少しずつ強くなる。それに比例して、千切れた腕を補うようにして肉と骨が盛り上がり、出血も収まり始めていた。

 そんなアイリスの様子を見て、時実は小さく「トカゲのしっぽみたい」と呟き、彼女からぎろりと睨みつけられる。

 

「おっと、そんな怖い顔しないでくれないかな。君の大好きな彼の計画さ。お兄さんに文句を付けられたら堪ったものじゃない」

「あの人が……? だとしたら、私は体のいい捨て駒に近い扱いを受けたってところですか……」

 

 時実の言葉を聞いたアイリスは目を大きく見開いた後、ガクリと項垂れて床に座り込んだ。

 彼女はその言葉だけで、自分がどう言う立ち位置で立ち回ることを望まれたのかを理解できてしまったらしい。

 時実は落ち込んでしまった様子のアイリスを元気づけるように言葉を掛ける。

 

「まあ、生きて帰ってくるって確信してたからこその扱いなんじゃないのかな? 君は彼の期待するところをよく理解し、決して彼が許さないであろう一線を越えることは無い。だから、この仕事に出発する前に無事に帰ってくるように、なんて君に釘をさしたんだろう?」

「……貴方がそんな風に人を気遣うなんてどういう風の吹き回しですか?」

 

 アイリスは訝し気に問いかける。だが、それを聞いた時実は大爆笑しながら彼女の背中を軽く叩いた。

 

「気遣う? 何を言ってるんだ君は? 馬鹿にしてるんだよ。わざわざ俺が君が君の思うように行動すれば、君の楽しい狩りが全うできるだろうって言ったのに、結局彼の言う通り『無事』に戻ってきたんだろう? 随分と躾のいい犬じゃないか」

「はぁ…… そんな事だろうと思いました。人を嘲笑うことに関しては一家言があるようで何よりです」

 

 アイリスはそう言って嫌そうな顔をしながら彼の手を払いのける。

 だが、時実はそんな彼女の態度と言葉に肩を竦めながらこう言った。

 

「そんなに邪険にしなくてもいいだろう。馬鹿にしてるのは本当だし、嘲笑ってるっていうのも本当だ。うちの兄弟は大体そんな感じだし、これは性分なんだよ。でも、褒めてもいるんだ」

「褒める? その態度でですか?」

 

 訝し気に尋ねられたその言葉に、時実は鷹揚に頷いて見せた。

 

「そう、これでも褒めてるの。忠誠心が高いっていうのは信頼が出来るってことだ。だから彼も君を重用しているんだろうしね」

「お褒めの言葉、ありがとうございます。次からはそのよく回る口を縫い合わせてから人を褒めることをお勧めしますよ」

「お褒めに預かり、光栄至極って感じかな?」

 

 あくまでも悪びれず、飄々とした態度を取る時実。そんな彼に対して、とても大きなため息をつくと、アイリスは顔を上げて立ち上がり、ふらふらと体を揺らしながら歩いて行く。

 

「ちょっと? ツッコミ位入れてくれても罰は当らないと思うよお兄さんは」

「こう見えて、いえ、見ての通り怪我人なので医務室に行こうかと。それとも、まだ何か?」

 

 心底うっとうしいと思っていることを隠そうともしない態度に、時実は苦笑を浮かべながら「別に、そろそろ行くと良い」と言って歩いて行く彼女を見送った。

 そして、その背中が完全に見えなくなったところで、彼は顔に浮かんでいた笑みを引っ込め、小さく呟いた。ここにはいない、誰かに語り掛けるようにして。

 

「さーて、人形劇はまだまだ終わらない。だけど、お前の思惑通りに事が進むかな? まあ、進まなかったとしても、それはそれで楽しむか……」

 

 誰に聞かせるでもなく、ただ確認するように時実は自身の言葉を噛締める。そして、彼は再び口唇を釣り上げ、天井を見上げた。

 

「ま、人間が抱くあり方としては大分窮屈そうだけど、精々楽しませてもらうよ。共犯者殿」

 

 時実はそう呟くと、何処からともなく酒瓶を取り出し、その中身を一気に呷る。

 そして、楽し気な笑みを浮かべながら彼もまた部屋の外へと歩みを進める。

 

「俺は休暇を楽しむとするさ。あちこちにちょっかいをかけながらね」

 

 あくまでも、悪辣な思考を巡らせながら。

 

 

 

*****

 

 

 

 

 エレインから凡その話を聞き終えた藤次は、案内された部屋のベッドに転がり、ぼんやりと天井を眺めていた。

 

「クロユリ、か…… 妖怪とか、魔術とか、そんなものちょっと前までは眉唾物だって笑い飛ばせたのになぁ……」

 

 彼はそんな事をぼやきながら寝返りを打った。微睡が少しずつ藤次の意識を飲み込んでいくが、それでも完全に眠りに落ちることは無く、ぼんやりとした思考を浮かべている。

 きっと普通の一生を送っていれば、知る必要すらなかったそれらの真実は、彼の人生を大きく変えることになるのだろう。未だその実感はなくとも、すぐにそうなると藤次は漠然と感じていた。

 

「まあ、なるようになるしかない、かな…… 生きてるなら、そのうち心も決まる…… 筈だし」

 

 自身に言い聞かせるようにして呟かれた独り言は、それでも断言することなどできず、どこか頼りない。それを他ならぬ藤次自身が分かっているために、彼は眠たげな表情の中に苦笑を滲ませた。

 だが、そんな表情はどこか痛々しいものへと変わる。

 

「おじいさん、おばあさん、ゲン君にマリちゃんも…… ただ普通の生活を送ってただけなのに」

 

 彼の口からそんな言葉が漏れた。

 

「あんなことになったのは、やっぱり許せないから…… 僕は……」

 

 紡がれる言葉は次第に小さくなり、藤次の瞼は落ちていく。だが、ぐしゃりと握られたベッドのシーツは、彼が抱いている苦々しい思いが滲み出ているようだった。

 そして、しばらくすると部屋の中に規則正しい寝息が響き始める。

 カモミールのハーブティーを飲んだおかげか、精神的にある程度落ち着いていたことと、激動の一日で蓄積した疲労。それらは彼にそれ以上の思考を許さず、眠りの世界へと誘ったのだ。

 

 

 不穏の影が蠢く中、藤次はこれからの険しい道のりを歩いて行くことになる。

 嗚呼、それでもきっとその眠りだけは、彼に安らぎを与えたに違いない。

 

 

 

 

 例え、その先にある運命がどれだけ残酷なものであったとしても、今はただ安らかな眠り中へ。

 

 



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