「ふぅ……」
わたくしは一人、生徒会室で書類を整理していました。
誰も居ない生徒会室は、元々静かではあるのですが、より寂しさを感じさせます。
「んっ……!」
わたくしは大きく手足を伸ばして、体をほぐします。
周りに人がいるときは恥ずかしいですし、何より弱いところを人に見せてしまうためできないのですが、誰も居ない今ならいいでしょう。
「今日はこんなところでしょうか」
ある程度書類の整理に見切りを付けたわたくしは、帰る準備をします。
太陽はまだ高く外は明るいですが、今日はこれからピアノのお稽古があるため、早く帰らないといけません。
明日は華道、そのまた次の日は茶道……とにかく、毎日習い事が詰まっています。
「はぁ……」
そのことを考えると、わたくしは軽くため息をついてしまいます。
これも誰かに見られるわけにはいかないため、人の居ない場所でだからこそできることです。
正直な所、今の生活はかなりいっぱいいっぱいだなと自分でも感じます。
毎日のようにある習い事をこなし、お父様とお母様の期待に応えられるように常に最善の成果を出す。
その生活は、わたくしにとってはまるで綱渡りのように感じられました。
「あっ、香久矢先輩! さようなら!」
「おつかれさまですまどかさん!」
廊下に出ると、まだ部活で学校に残っている生徒がわたくしに声をかけてきました。
わたくしは、疲れを見せまいとすぐさま表情と姿勢を直します。
「はい、さようなら」
私は笑顔で彼女らに手を振りました。
すると、彼女らもまた笑顔を返して来て、その場を去っていきます。
何の心配事のないような曇りのない彼女らの笑顔。それを見ただけで、わたくしは少し羨ましくなってしまいました。
「…………」
再びため息をつきたい気持ちになりましたが、わたくしは必死にそれを抑えます。
だって、廊下でため息なんてついたら、誰かに見られるかもしれません。それだけは、わたくしは嫌でした。
学校を出ると、出迎えの車が待っていました。わたくしはその車に乗り込みます。
「やっぱり香久矢先輩ってすごいよねーお嬢様でなんでもできて」
「そうだねー。あー、私も香久矢先輩みたいになりたいなー」
そんな話し声がわたくしの耳に聞こえてきます。
変わりたい、ですか……。むしろ、わたくしのほうがあなた達と変わりたいです。
毎日習い事や両親からの重圧に押しつぶされそうになることのない、気楽な生活を送れたら、どれだけいいか……。
そんなことを思いながら、わたくしは出発する車の窓から、流れ行く街並みをただ眺めるのでした。
◇◆◇◆◇
今日は久々の休日です。
わたくしは、なんとなく街に出ていました。
街では多くの人々が往来し、買い物をしたり、友人と楽しげに話したりしていました。
そんな街中を、わたくしは一人歩いています。何か欲しいものがあったり、目的があったりしたわけではありません。ただ、家にいると息苦しい気分になるので、気分転換で外に出た、それだけです。
ですが、こうして街に出ると、わたくしは強い孤独感に襲われます。人はいっぱいいるのに、世界にはわたくしだけ、そんな気持ちに襲われるのです。
「わたくし……何をやっているんでしょう……」
わたくしは一人、誰にも聞かれないように呟きます。
日々の生活が嫌で、こうして現実逃避に外に出たのに、それでも現実から逃げられない。
香久矢まどかという人間は、結局どうやっても変わらない。そんな事実を突きつけられたかのようで、わたくしな泣きたくなってきました。
ああ、誰か、わたくしを助けてくれないでしょうか。そんな藁にもすがる思いが、わたくしの心をよぎりました。
そんなときでした。
「あら、まどかじゃないの! 久しぶり!」
わたくしの背後から、突如わたくしの事を呼ぶ声がしました。
その声を聞いて、わたくしは振り返ります。
「……もしかして、先輩、ですか?」
「ええそうよまどか。久しぶり」
そこにいたのは、既に中学校を卒業し、今は高校に通っている、昔の先輩でした。
先輩は昔の生徒会で生徒会長であり、生徒会に入ったばかりの頃のわたくしに色々と教えてくれた、優しい先輩であり、わたくしの憧れの人でした。
でも、今の先輩は……。
「先輩、その、随分と雰囲気が変わりましたね……」
目の前の先輩は、昔の頃とかなり変わっていました。
まず、一番に目につくのは髪の色でした。流れる川のようだった長い黒髪は、輝くようなショートの金髪になっています。
そして、耳にはギラギラなピアスを付け、服装は肌の露出が激しい扇情的な服装になっていました。
正直、声をかけられていなければ、先輩と分からなかったでしょう。
「そう? まあ昔は地味だったしねー。まどかはどうしたん? 一人でこんなところで」
「え? わたくしですか? わたくしはその、お散歩を……」
雰囲気の変わった先輩に動揺しつつも、わたくしは応えます。
すると、先輩はそんな私を見てニカっと笑いました。
「そっかー。だったら暇してるって事?」
「え、ええ。そうですが……」
「だったらさー、一緒に遊ばない? 久々に会ったんだし、ね?」
「え?」
わたくしは少し驚きました。確かに先輩とは一緒だった頃には、幾度かお弁当を一緒に食べたりした仲ではありました。
ですが、こうやってどうどうと遊びに誘われることは、初めてでした。
わたくしは少し悩みました。今の先輩についていって大丈夫なのかと。昔と様変わりした先輩です。正直、少し苦手なタイプにも思えます。でも、先輩は先輩であって、お断りするのは失礼でしょう。なので、わたくしは――
「……わかりました。よろしくお願いします」
と、頭を下げました。
「おお、よかったわー! じゃあこっち、ついて来て!」
そう言って、先輩はわたくしの手を掴むと、手を引いて駆け出しました。
「あっ、先輩! ちょっと待ってください……!」
わたくしは慌てながらも駆け出します。
そうして、わたくしは先輩と一緒に街の色んなところを回りました。
街の人気のスタードーナツを食べたり、先輩のウィンドウショッピングに付き合ってみたり……その一時は、普段のわたくしでは味わえないような、楽しいひとときでした。
わたくしはそんな先輩との時間を過ごすにつれ、自然と顔がほころんでいきました。
こんなに楽しいのはいつ以来でしょうか。久しく忘れていた感情が蘇ってくるような気がします。先輩と一緒について来てよかった、そんな気分になりました。
そうして先輩に連れ回されているときに、先輩はこんな提案をわたくしにしました。
「そうだまどか、これから私の友達に会わない? みんな良い奴らだし、まどかもきっと気に入ると思うよ?」
「先輩のお友達、ですか……」
わたくしは少しばかり考えましたが、今の楽しい気分のおかげでしょうか。あまり間をおかずに応えました。
「……ええ、大丈夫ですよ」
「そっか。じゃあこっちついて来て」
わたくしはそう言う先輩についていきました。
そして、訪れたのは少し街の中心からは外れた、カラオケ店でした。
わたくしはカラオケに入ったことなど今までないため緊張していましたが、先輩はそんなわたくしに笑いかけつつ、既にお友達がいるという部屋へとわたくしを案内しました。
「やっほー! みんな!」
「あーやっと来たー!」
「遅いよー! ん? その子は?」
先輩のお友達方がわたくしを見ます。先輩のお友達方は、先輩に負けず劣らず派手な格好をした方々でした。
「あ、あの、わたくし、香久矢まどかといいます……! 先輩には昔お世話になって……!」
わたくしはガチガチになりながらも頭を下げます。
そんなわたくしに、先輩のお友達は――
「へーかわいいじゃん。それにしても先輩かー。あんたがそう言われてるなんてねー」
「うっさい。別にいいでしょー!」
「まあ確かにね。ほらまどかちゃん。こっち座りなよ!」
暖かく私を迎え入れてくれました。それが嬉しく、わたくしは「……はい!」と少し声高に応え、促された場所に座りました。
それから、しばらくわたくしはカラオケで遊びました。先程も言ったように、わたくしカラオケは初めてだったため、どうしていいか少し戸惑いましたが、そこは先輩のお友達が優しく教えてくれたためになんとかなりました。
とても楽しい時間でした。今までに体験したことのないぐらい。
「それじゃあ、そろそろ頼んじゃう?」
そんなときでした。先輩がそんなことを言ったのは。
わたくしはそのときわたくしはよくわからなかったのですが、先輩が電話で店員さんに連絡を取って持ってこられたものを見てもピンときませんでした。
だって、それはただのジュースにしか見えなかったですし、ジュースなら今までも散々頼んでいましたから。
「はいこれ、まどかの分」
先輩は持ってくられたグラスのうちの一つをわたくしに渡しました。そして、先輩が高らかに音頭を取ります。
「それじゃあ……カンパーイ!」
『カンパーイ!』
「か、乾杯……」
わたくしは怖ず怖ずと先輩方につられて言います。
そして、ゴクリとそのグラスに入ったものを飲みました。
それは、今まで飲んだことのない味でした。飲んだ瞬間、なんだか体がポカポカしてきて、頭がぼんやりとしてきます。
この感じは、もしかして――
「先輩、これってもしかして、お酒ですか!?」
「うん? そうだよ?」
あっけらかんと言う先輩に、わたくしは驚きます。
「そ、そんな! わたくし達はまだ、未成年じゃないんですか!? 法律に反しています!」
「相変わらず硬いなぁまどかは。お酒なんてみんな言わないだけで飲んでるって」
「し、しかし……」
「大丈夫だって今更お酒ぐらい誰にも怒られないよ。それにほら、まどかももう飲んじゃったしさ。美味しかったでしょ?」
「そ、それは……」
「ほら気にせず飲みなよ。もったいないでしょ? ま、ちょっとした冒険だと思ってさ」
「ぼ、冒険……」
その言葉にわたくしはそそられました。普段窮屈な生活をしている中での冒険は、とても魅力的に思えました。それに、先輩方だってやっていることですし……と、先輩方を理由に自分もやっていいのではと思えました。
なにより、お酒を飲むことが、普段厳しいお父様へのちょっとした反抗になるように思えて、わたくしの心を昂ぶらせました。
「……そうですね、もう飲んでしましたし……もうちょっとだけ……」
「おっ、わかってんじゃんまどか! それじゃあ、もっと飲んじゃおうか!」
それからはもう止まりませんでした。
わたくしは促されるままにお酒を飲み続けました。お酒は飲めば飲むほど楽しくなっていき、止まりませんでした。気づけば、グラスの山がテーブルの上にできるほどに。
結局、その日は外が暗くなるまで飲み続けました。
その日は家の門限があったため早く帰らせてもらいましたが、その日からわたくしには新しいお友達ができ、新しい日々が始まりました。
先輩と、先輩のお友達方と、毎日のように遊ぶ日々です。
何もない日は先輩のお友達方と、一緒に飲むようになりました。
派手な買い物もするようになりました。家に出入りするときはいつもの落ち着いた服ですが、少し離れた公園などで服を着替え、派手な格好をわたくしもするようになりました。
だって、そのほうが似合うと先輩方が言うのですから。
それに、そんな服装をすることにより、わたくしも開放的な気分になり、とても楽しくなりました。
次第に、わたくしの裏の生活はエスカレートしていきます。
わたくしは、習い事をサボるようになりました。たまにですが。
習い事をしている先に、バレない程度の周期で仮病を伝え、家にはちゃんと習い事に通っていると嘘を付きました。送迎も、自分で歩くと無理を言い止めてもらいましたし。
家族に嘘をつく生活は非常にスリリングで、わたくしの心を昂ぶらせました。
タトゥーを彫ったりもしました。普段は服に隠れて見えない場所ですが、派手な服を来たら分かるような位置にです。タトゥーは、先輩方も彫っていましたし、わたくしも彫りたくなったのです。
自分に彫られたタトゥーをお風呂場で見る度に、わたくしは興奮しました。もうわたくしは言いなりになっているだけのいい子じゃない。その背徳感が、わたくしを興奮させました。
そんな、あるときでした。その日は、お友達の家にお泊りすると嘘をついて、夜のクラブにへとでかけていました。それはすでに何度か使った手でしたので、今更罪悪感など感じませんでした。
「まどかー、何飲む?」
「なんでもいいですよ? アルコールさえ入っていればなんでも」
「わかったー、こっちで適当に選ぶねー」
夜の生活でできた友人にお酒を貰うと、わたくしはそれを飲みながら狂乱に参加します。
胸もお尻も見えてしまうような、破廉恥な格好ですが、今のわたくしにはそれが普通でした。
「ねーまどかーちょっとこっち来てくんない?」
「はい? なんでしょう?」
そんなわたくしに、先輩が声を書けてきました。わたくしは先輩についていきます。
連れられた場所は人気のないところで、先輩とその友達が集まっていました。
そして、先輩が言います。
「まどかもすっかり私達に馴染んだし、そろそろかなーと思ってね」
「そろそろ? そろそろとはなんでしょう?」
「これだよ、これ」
先輩がそう言ってわたくしに見せたのは、白い粉の入った袋でした。
「先輩! もしかしてこれって……!」
「そ、ドラッグって奴だよ。合法じゃなくて、完全に非合法なやつ」
わたくしは動揺します。まさか先輩方がそんなものを使っていたなんて。
「これ、親しいまどかだから勧めてるんだよ? まどかも、使ってハイになりたくない?」
「そ、それは……でも、ちょっと怖いです……」
「ま、最初はそうだよねー。でも大丈夫、最高に気持ちよくなれるから。もうヤバいよ。今のまどかなら、絶対楽しめるって」
「……そ、そこまで言うのでしたら……」
わたくしはそれを怖ず怖ずと先輩の手から受け取りました。
犯罪なのは分かっています。危険なことも。でも、中学生の身で酒を飲み、こうして夜のクラブに繰り出している時点で、わたくしはすでに罪を犯しているのです。
今更、一つ増えたぐらいでなんでしょうか? それに、ここで断ったら先輩の仲間のグループから外されるかもしれません。それはとても嫌でした。
そしてなにより、今まで以上に一線を越える行為ということに、わたくしは非常に興奮していました。
わたくしは先輩が使い方を教わります。広げて、ストローで鼻から吸い込むとのことです。
言われた通り、わたくしはそれを試します。すると――
「っ!!??!!??」
見える世界が、一瞬にして変わりました。目の前に星が現れ、キラキラとトゥインクルするのです。
「ハハッ、アハハハハハハハハ!」
気分は今まで味わったことのないほどに最高で、もう笑うしかありませんでした。
「ああっ、先輩、ありがとうございます! こんな最高のもの、試させてもらって!」
「いいのいいのー、ま、最初だから無料だけど、次からはちゃんとお金払ってよね?」
「はい! これが味わえるならいくらだって!」
そうしてその日から、わたくしの生活の中心は変わりました。
家中心の生活から、クスリ中心の生活へと。
◇◆◇◆◇
わたくしはクスリのためにならなんだってするようになりました。
親の金を盗むことは当たり前で、所謂パパ活にも手を出し始めました。先輩にそういうサイトを教えていただき、スマホから出会い系サイトでオジサマを釣って、お金を頂く。
中年のオジサマ方はチョロく、中学生のわたくしが少し言うことを聞けばすぐにお金をくれました。
わたくしはそれが面白くて面白くて、次々と色んなオジサマとお相手しました。
ときにはエッチなことを要求されるようなこともありましたが、クスリのためならとわたくしは何の嫌悪感もなく要求される行為をしました。
その結果、殿方の恥ずかしい部分だって見慣れたものになりましたし、生娘ですらなくなりました。
でもわたくしは後悔しておりません。
だって、殿方とそういうことをするのは結構楽しいですし、なによりクスリをヤれること以上に幸せな事はないのですから。
もう、日々が最高に楽しく、以前のわたくしには戻れない。そう思っていました。
そんなときでした。
いつか来るとは薄々思っていた日が、ついに来ました。お父様に、わたくしが夜遊びしているのがバレたのです。
「まどか、これは一体どういうことなんだ」
きっかけは簡単なことでした。わたくしはいちいち着替えるのが面倒で、派手な格好のまま家に帰りました。夜遅いですし、どうせお父様は寝ているだろうと高をくくって。
ですが、お父様は起きていました。わたくしが夜遊びしているのを薄々感づいており、その日はどうやら待っていたらしいのです。
「そんな格好でどこに行っていた。香久矢の家のものとして、そんな格好も夜遊びも許した覚えはないぞ」
「…………」
ああ、うるさいな。それがどうしたって言うんでしょうか。もう、わたくしはお父様が想像している以上に遊んでいるって言うのに。
「何か言ったらどうなんだ、まどか! どうやらお金も盗んでいるようだし、一体どうして――」
「……うるさい、です」
「……なっ、今、何と……」
「うるさいと、言ったんです、お父様」
私はついに耐えきれなくなり、お父様に言いました。
「いちいちいちいち細かいことでうるさいんですよ、お父様。何をしようとわたくしの勝手でしょう? それを、いちいちわたくしにああしろこうしろと、正直、ウザいんです」
「な……な……」
「あら、驚いて言葉も出ませんか? でも、これが今のわたくしなんです。もうお父様の言いなりになっていたいい子の香久矢まどかはいないんです。これが現実、残念でしたね、お・と・う・さ・ま?」
私は挑発するように言います。お父様は愕然として声も出ないようでした。
いい機会です。もうコレ以上お父様に付き合うのも面倒ですから、はっきり言ってしまいましょう。
「お父様、わたくし、もうこの家からおさらばしようと思います。香久矢の家のものらしくなんて馬鹿馬鹿しい。窮屈すぎて今のわたくしには合いませんの。なので、さようならお父様。どうか、お元気で」
そう言って、わたくしはお父様に背を向け歩き始めました。
お父様はしばらく呆然としていたようですが、少しするとお父様の声が聞こえてきます。
「まっ、待て! まどか! まつんだ! まどか!」
お父様は叫ぶだけ叫びましたが、私を体を使って引き留めようとはしませんでした。
そんなだから駄目なんですよ、お父様は。
そうしてわたくしは、その日、香久矢の家と完全に決別して、夜の街の闇へと紛れていきました……。
◇◆◇◆◇
――それからしばらくして。
街にあるボロアパート。その一部屋に、わたくしは住んでおりました。
「あー……」
何もやる気が起きず、わたくしは下着姿で寝転んでいます。
最近はいつもこうです、何をするにもやる気が起きず、ただ殿方に体を売ったりクラブで遊んだりするとき以外は、こうして部屋で寝ているだけの日々。
「こういうときは、クスリでもヤるのが一番ですね」
そう言って、わたくしは注射器を取り出し、自分の腕に打ちます。
最近は吸引するタイプよりも、こうして直に血管に打つタイプじゃないと満足できなくなりました。
「ああああああ……」
襲いかかってくる快感に、わたくしは思わず声を上げます。
気持ちいい……これのために、わたくしは生きているんです。
「ふぅ、いいですね……ちょっと、この気分のまま誰かとヤりたくなっていましたね。えっと……」
わたくしはスマホの電話帳から適当に相手を探します。いわゆるセフレという奴です。
「あ、もしもし。わたくしですけど。これから一発どうですか?」
これが今のわたくしの生活。堕落した、どうしようもない生活。
わたくしは今の生活を後悔なんてしていません。香久矢での窮屈な生活と比べれば。
……そう、後悔なんてしていないはず。
ただ、時折思います。わたくしを正しい方向で導いてくれる、正しい方向で新たな世界へと連れて行ってくれる友達ができていれば、どうだっただろうと。
先輩は間違いなく悪い友達でした。でも、もし、わたくしに先輩とは違った、明るい方向で導いてくれる友達ができたら、どうなっていただろうと。
「……ま、そんな子、いるわけないんですけどね……」
わたくしは自嘲気味に笑い、連絡のついたセフレがやってくるのを待ちます。
ただ、そんなわたくしの瞳から、一筋、つつっと何故か涙がこぼれたことだけが、不思議でなりませんでした。
ただ一つたしかなこと。それは、わたくしが綱渡りから堕ちてしまったこと、それだけです。
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