水面に舞う蝶々 (作倉延世)
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水面(みなも)に舞う蝶々

 その家は、人里離れた所にある。現代で言えば、延々と続く山景色に、畑が続いている所を思い浮かべれば良いだろうか? 何故、そんな所に住むかと言えば、静かな生活を求めての事か、あるいは土地代の関係であろうか。

 その装いにしたって、現代では目にしないもの。木製であり、屋根には瓦が敷き詰めてあり、その周囲にはやはり家主の持ち物なのか畑が広がっている。それを売って生活しているのか、あるいは自給自足なのかは現時点では判断がつかない。

 その人物らしき、男は縁側へと腰を下ろして空を見上げていた。整った顔立ちに細い目元に後ろでまとめた長髪が特徴的な人物であった。身にまとっているのは、紺色の着物でありその上から左右で柄が違う羽織をはおっている。別におかしな事ではないと言うのに、どこか違和感を感じるというのであれば、それは彼の外見であろう。見る限り、その年齢はまだ20代半ば。だというのに、している事はまるで老人のようではないかと誰もが思うであろう。

 それだって、何かしらの事情というものがあるかもしれない。

 そんな彼の元にどこから迷い込んで来たのか、一匹の猫が歩み寄ってくる。どこにもでもいそうで、かと言って全く同じ個体を見つけるというのは難しい猫であった。足元、首元、腹などには白い毛が広がり、そして背中は黒と橙の毛がところどころ、まるで子供が作った張り紙細工のように広がっており、それ自体が着物のように見えてしまう。そう、いわゆる三毛猫というものであった。

 そこで、男も猫の存在に気付いたのか視線を向ける。その眼は黒く、月夜の光を受け輝く海のようでもあり、何を考えているかと初対面の人物であれば、思ってしまいそうなものであり、それを向けられた猫にしても多少は威圧さ――れる様子もなく、特に気にする素振りも見せずに歩き続ける。そして、縁側へと付くと、一飛びで乗り移る。その動きはしなやかであり、艶やかでもあり、猫が単に眠ってばかりの生き物ではないと主張しているようであった。

 そして、猫は男の膝まで寄ると、坂を上るようにその上に乗って、丸まった。男は一連の流れを見ていた訳であり、そして現在膝を不当に占拠された訳であるが、特に気分を害する様子は見られず。再び、視線を空へと向けた。

その先では、雲がまるで、海中を悠々と泳ぐクジラのように流れており、男はしばし空を見ていた。

 一体どれだけの時間をそう過ごしていたのであろうか、男は動くことなく、そして猫も丸まったまま日向ぼっこを楽しんでいるようであった。

 男は再び、猫へと視線を向けた。無表情であり、猫の行いに実は腹を立てているだとか、あるいはこの状況を喜ばしく思っているのかさえ判断がつかない顔であった。

「…………」

 男の視線に気づいたのか、猫も目を開け、男の方を見上げる。しかし、その目は何か警戒しているようでもあり、息も静かにであるが、荒くなっていた。

 男は右手を猫へと伸ばす。撫でようとしたかもしれない。

 しかし――

「ふしゃああ!!」

 その手に、ひらに向けて猫は前足を振るった。その先は当然の如く爪が立っており、ごく最小であるけれど皮膚を切り裂き、途端に赤い血液が流れだす。

「…………」

 男もそれで感じた。自分は猫に拒絶されているのであると、そして手が痛みを訴え始めた事を。それでも、諦めずに手を伸ばし続ける。その事を敏感に察知した猫は爪を振るい続ける。

 猫が振るった2振り目は、小指と薬指の下あたりを切り裂き、男の右手を高く打ち上げる。それでも男は諦めない。再び手を下ろす。その姿に猫は更に威嚇の声をあげ、更に爪を振るう。今度は、手のひらの中央、感情戦と知能線を縦に切り裂いた。その傷だって、浅いものではなく、普通ならば痛みに顔をしかめる所であるのであるが、男の顔にそう言った物は見えず、口を引き結び、目つきが険しくなるその様は何が何でも猫に触れようと、あるいは意地でもそうしてやるという決意が表れているようでもあり、それを見た猫も臨戦態勢を取り、攻防はしばらく続けられた。

 では、どうして猫は男の膝に乗ったのであろうか? という疑問が湧いてくるのは当然であろう。この男が気に入らないのであれば、そもそも膝に乗ったりなどはしないのであるから。答えは簡単。その猫は体が冷えていたのである。生き物であれば、少なからず熱を持つのであり、木製の床と人間の膝であれば、どちらが良いかと言えば当然後者である。

 そう、その猫は体のいい寝床として男を利用していただけであり、別に彼に懐いていた訳ではない。むしろ苦肉の策でもあったのだ。

 そんな猫の心など知る事も出来ない男はひたすらに手を近づけ続け、そして猫はそを迎撃し続ける。このままでは男の手の肉が無くなるまで続けられそうとなった所で奥から彼へと呼びかける声が届いた。彼らの状況をどこか微笑ましく思っているようであった。

「あらあら、()()()()は猫にも嫌われていますか」

「……嫌われていない。遊んでいるだけだ」

「いや、どの口が言いますか」

 その返答に、本気でそのつもりである彼に心底呆れたというように言葉を返すのはこちらも髪を後ろでまとめた男より1つ2つ程若い女性であった。男が下でまとめているのに対して彼女は上の方で髪を結って、そして蝶を思わせる髪飾りをつけていて、装いはやはりと言うべきか着物であった。

 彼女が呆れたのも無理はない。冨岡と呼ばれた彼の右手、そのひらは既に真っ赤であり、それが彼がどれだけ猫に切り付けられたかの証でもあったのであるから。

 彼女は仕方がないと息を吐く。この人物と付き合っていくにはこれ位気にしていたら、きりがないのであるから。

「分かりましたよ、そういう事にしておきます。それより今夜の夕飯はどうしましょうか? ()()()()

 そう、それが彼女がこの場へと来た理由であった。一見下らない内容に見えて、結構重要だったりするのだ。彼女は様々な料理が作れる。故に選択肢が広がり、何を作れば良いのか迷う時だってあるのだ。その時に振舞う相手に要望を聞くなりすれば、その参考にだってなる。

 彼女の言葉に男は右手を止めて、5秒ほど黙ったと思うと答えた。「鮭大根を頼む」

「またですか? 本当に好きですね」それから彼女は彼へと歩み寄ると、膝を曲げて上体を下ろして、その体を指でつつく動作をしながら不満げに言う。「それから、この場合『お前も冨岡だろう』と私に突っ込むべき所ですよ? ()()()()

「そうなのか? 胡蝶」

「ああ、またそうやって昔の苗字で呼ぶんですから」

 本当に分かっていないと言った様子で、更に自分達の関係性を踏まえた時、ありえない言葉を返してくる男に彼女は自分が間違っていたと台所へと戻るのであった。出来るのであれば、名を呼んで欲しいとさえ思いながらも。

 男の名は、冨岡義勇、そして彼女の名は胡蝶(旧姓)しのぶ。二人は夫婦であった。

 彼女はその日の夕飯を用意しながら、彼との関係について思い出していた。

 彼女達2人は、かつて剣士であった。この世界には人を食らう邪悪な鬼がいて、そして人知れずそれと戦う組織があり、そこの所属であったのだ。その鬼たちは人とは比べ物にならない力の持ち主であり、無論、それと戦う彼女達にも相応の力が求められるし、その寿命だって短いものである。

 彼女の姉に、彼と同期の人物も鬼との戦いによって命を落としている。鬼とは人を食らう生き物でもあるのだから。だからこそ、彼女達は鬼を滅する為に刀を振り続けた。

 それでも、限界というものはある。現代でもプロのスポーツ選手の肉体寿命が20代程までと言えば、その過酷さがわかるというものであろう。

 彼女達は既に戦える体ではなく、それは時折着物の間から見える肌を覆っていたり、はたまた彼が猫へと伸ばした右手に巻かれた包帯がどういった理由で彼女達が戦場を離れたかと答えているようであった。

 今だって、鬼との戦いは続いているし、彼女達も何もしていない訳ではなかった。義勇の方は、後任の剣士たちを鍛えはするし、しのぶだって薬の調合は今でもやっている。現役の頃は鬼に有効な毒を作り、それを使って鬼を《斬らずに殺して》きたのであるから。

 だけど、それだって毎日という訳ではなく、こうして暇な日だってある。そんな時は、彼は畑を耕し、彼女は書物を読んで時間を過ごす事が殆んどであった。

 その日もそんな風にして過ごしたなんて事ない一日であった。

 そして、彼女達の関係性、元は同じ組織の所属であったが、現在は夫婦となった理由に関しても多少は事情はあった。正直言って、彼女に彼に対して、そう言った気持ち、恋愛感情等微塵もなく、それは彼にしても同様であった。

 ただ、現役の頃から今は旦那であるあの人物が何かとドジを踏みがちで、そして面倒な性格をしていた為に世話を焼いてはいた。そして、それが原因とも言えたかもしれない。

 ――しのぶさえ、良ければ義勇と一緒になってはくれないかい?

 その言葉をかけてくれたのは組織の長であった人物であった。曰く、彼は一人にしてしまうとどうなるか分からない、からと。その言葉には納得出来るものであったし、実際彼は問題を起こしがちであった。ある時は言葉足らずな態度を取り、仲間と揉め事を起こしているし、またある時は目の前で警察に捕まりそうになった事さえある。その組織はいわゆる政府非公認というものであり、一般の人たちにその存在は認識されていない。だと言うのに、彼はそれを口にした事もある。もっと言えば、この国では現在刀を持つことは許されていない。その組織であれば、許されてはいたが、それだって堂々と人様の前で見せるなんて事は出来るはずがない。それなのに、彼はそれを見つかり、そして捕まりかけた事さえある。

 それを考えた時、確かに思いはした。この人物はこの先1人でやれるのであろうかと、と、それが彼とそうなった理由の3割だ。

 残りは何かと言えば、彼女だって現在の状況をもどかしく思っている。今なお邪悪で、醜悪で、それでいて身勝手な鬼たちは暴れており、自分が目をかけて育てた彼女に、変わった耳飾りをつけたあの少年、そして複雑な事情を抱えたその妹。彼らの同期である、黄色い髪の少年、イノシシの皮を被った少年、自分達と同じ地位にあった彼の弟であり、銃を武器に使う少年。彼らは自分達がこうして悠々と生きている間も命を懸けて戦っているのであるから。

 それが、酷く申し訳なく思えてしまい、自身の限界を感じつつも戦場へと立とうとして、言われたのだ。

 ――生きてください。師範には生きていて欲しいです。

 自身の弟子であった少女にそう言われてしまったのだ。その少女は訳あって、自身と今は亡き姉で面倒を見ていたのであるが、自分達が引き取る前にあった事が原因で自分から何かを発言したり、あるいは行動をすることが出来なかったのである。それが、変化したのは、あの少年と出会ってからであった。

 そんな彼女の願いを無下に出来る訳もなく、後方へと下がったのである。かといって、戦場から逃げたという事実は変わらないし、死んだ人たち、鬼に殺された人に、戦いの中で命を落とした仲間を思えば、どうしてもその胸に抱いた罪悪感というものは消えず。鬼への怒りなどもあり、押しつぶされそうであった。この先、生きる理由を何でも良いから見つけなくてはならなかった。

 そう、それが残りだ。要は、この人物といれば、少なくともこの先の余生、退屈はしないであろうと、それだけである。

(そう言えば)

 と、彼女は考える。自分はそういった理由でそうなる事を承知した訳であるが、彼の方はどう思っているのであろうかと、正直、何を考えているか分からないし、以前のおかしな言動にしたって、ちゃんとそれらしい理由があったのをあの少年から聞かせて貰っている。

 そんな彼がこの状況をどう思っているかとは一度も聞いた事がない。

 彼女は食材を煮込む鍋を見下ろしながら笑う。おかしな話であると、夫婦であるのにこれ程までに互いの事を知らないなんて事があるだろうかと。

 自身の過去だって彼に打ち明けた訳ではないし、世間一般的な考えに照らすのであれば、自分達の関係は「普通」ではない。

 そう、普通ではないのだ。自分も、彼も、鬼という存在に出会い、大切な人を殺されて、その敵を討つために刃を振るい、多くの人を看取り、多くの鬼を殺してきた自分達に今更普通も何もないではないかと、彼女は結論付け、そして夕飯の支度を終えるのであった。

「義勇さん、できましたよ」

「そうか」

 そういう彼は、右手の手当てをしていた。猫もどこかに行ってしまったらしい。それから、居間の中心にあった台に彼女は用意した食事を盛った食器を並べ、夕飯が始まる訳であったが……どうにも彼女は落ち着かず、そしてそれに気付いた義勇も声をかけるのであった。それが、仮にも夫婦であるのだから、彼女を気遣うべきと彼が考えての事かは定かではない。

「……どうした?」

「いえ、何でもありませんよ」

「そうか」

 実際は嘘であった。

(やはり、慣れませんね)

 どうにか彼の視線を自分から好物である鮭大根へと向けさせて、しのぶは内心で力が抜けるのを感じていた。彼との夫婦生活はそこそこ長いものになりつつあったが、それでも彼が好物を前にした時だけに見せるその顔には悪いと思いながらも引いてしまうのであった。

 

 




 ここまでお付き合いいただきありがとうございました。


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