灼眼のシャナ~ブラッディメモリ~ (くずたまご)
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プロローグ

 扉を浮かび上がらせる四角い枠の明りが、ぼんやりと部屋を照らす。

 薄闇を塗りつぶした部屋の真ん中、少々体格のよい青年が瞼を上げた。

 目覚めた青年……前田 慶次(まえだ けいじ)は、視界に広がる薄暗闇を呆然と眺める。

 徐々に覚醒する意識の中、慶次には記憶にない場所、としか分からなかった。

 

 

「……っ!?」

 

 

 そうして眺めること十数秒後。

 半分閉ざされていた瞳が突如、驚きで大きく開かれた。

 慶次の身体をあずけるパイプ椅子。クッションもない、とても安価なオブジェクト。なぜか、彼の全身はそこに縛り付けられていた。

 

 

(な……なんなんだよ、一体!?)

 

 

 手は動かせない。

 足も動かせない。

 そして、一文字に張られたテープが、慶次に声を上げることさえできない。

 そもそも、どうして自分がここにいるのかさえ分からない。

 慶次は自分が置かれた状況の危機をようやく理解する。

 同時に胸を焼くような感覚がせり上がってきた。

 焦燥か、それとも恐怖か。異様な気持ちの悪さが駆け巡り、慶次の心を削る。

 しかし、彼は状況を否定しない。恐怖に駆られ、自暴自棄になりはしない。

 これは、彼が本能に任せる愚を理解しながら、人並み以上の度胸を備えていたからだ。ゆえに、彼はこの逆境でもパニックに陥ったりしない。

 状況を受け止め、最善を探す。

 

 

(何が何だかわからんが……とにかく、どうにかしないと)

 

 

 慶次は激しく視線を巡らし、解決法を探る。

 拘束は思った以上に強く、逃げ出すことは不可能。

 口を塞がれた上、ここは密室。助けを呼べば救助より先に犯人が来るのは自明の理。 

 どうしようもない状況だった。それでも、慶次は脱出方法が何かあるはずだと、希望を捨てずに思考を続けるが、

 

 

(……まずい、全く妙案が思いつかん)

 

 

 暑さとは関係ない汗が顔を一筋、二筋と伝う。

 打開策が全くと言っていいほど浮かばなかった。そもそも、慶次は肝が据わっている以外、普通の高校生だ。成績は中の辺りをぶらぶらしてるだけ。器用だとよく言われるが、特に秀でているわけではない。

 緊縛という特殊状況下を突破できるような稀有な技能は持ち合わせていない。

 そして、出た答えは、

 

 

(……何もできない)

 

 

 取った行動は、何もしない。

 ただし、諦観はしない。

 来るべきチャンスに備え決して諦めず、かといって楽観を構えるわけではなく、知覚出来る全ての情報に甲乙付けず、事実として受け取る態勢を取り、そこから逃走のヒントを得る。砂中に埋まった米粒でも探すような、途方もない可能性に自身を賭けるのだ。

 そう決心し、心も身体も身構えた瞬間、

 

 

「準備はできた――」

「っ!!」

 

 

 細い糸をピンと張りつめたように鋭く高い音律が。

 ぬるり、と。

 まるで闇という海から抜け出すように『そいつ』は眼前に現れた。

 

 

「………」

 

 

 このタイミングで現れたのだ、間違いなく『こいつ』が犯人であろう。

 慶次は縛り付けられたまま見上げ、疑問符が一つ浮かび上がる。

 およそ百八十センチ前後ある痩身はジャケットとジーンズに包まれていた。

 十二月中旬にこの出で立ちはどうかと思うが、もしかしたら寒さに強いのかもしれない。まあ、問題なのは服装の防寒ではなくその“色”だ。

 白。

 あらゆる光の波長を反射し、暗闇でも映える明るい色。にも関わらずこいつは本当に目の前に“突然”現れた。加えて、顔面だけは今も闇が漂っている。

 例えるなら、黒く塗りつぶされた夜空に突如浮かび上がる月の“クレーター”。陽光に大きく照らされたはずの部分が見えず、減光された部分だけが見える。見つかるべきときに見つからず、見えるべきは場所は決して見えないという異常。

 慶次の直感が告げる。

 こいつの存在そのものが“異常”だ。

 こいつに関わるべきではない。

 今以上に最悪な事態が起きる。

 だが、椅子に固定された身体は逃げ出すことはおろか、動くことさえ出来ない。

 

 

「計画は順調だ――」

 

 

 『奴』は悠然と歩を進め、白色を纏った右腕を振り上げる。

 先端が鈍く輝きを放つが、手首から先が見えない。

 

 

「終わる――」

 

 

 言葉は慶次に向けられていない。

 それは独り言のようであり、または慶次には見えない第三者に向けられているようで――ここでようやく慶次は唐突に理解する。

 言葉が自分に向けられていない以上、『奴』にとって慶次は興味の対象ではないのだ。

 価値とか優劣ではない。

 『奴』にとって、ここにいるのは誰でも良かったのだ。

 『奴』の歩みが止まり、上がった右腕の先端が徐々に下降の軌跡をとる。

 二人の距離は一メートルもない。

 このまま腕が振り下ろされれば、得体の知れない“モノ”が慶次に触れる。

 

 

(まず――っ!!!!)

 

 

 何かが分からないが、“あれ”が慶次に届けばその時点で終わりだ。

 慶次は必死に離れようとするが、椅子は微動だにせず、縄が軋む音が響くだけだ。いや、音を立てるだけでもいい。僅かでも『奴』の意識を逸らして、光の動きを鈍らせようとする。

 

 

「世界が終わる――」

「っ!?」

 

 

 しかし、慶次の希望はあまりに呆気なく砕かれ、鈍い光は彼の首筋に触れた。

 ――プスッ、と。

 先端が慶次の皮膚を突き抜ける。

 血管を蹴破り、

 肉を切り裂き、

 脂肪を掻き分け、

 ぬるりぬるり、と不快な行進が慶次の体内で続き――それは、突如終わりを告げ、

 

 

「っ!?」

 

 

 無造作に何かを押し込まれた。

 注射器だったと慶次はようやく気付く。が、気付いたところで何もできない。慶次にはどうしようもない。

 “死”が急に現実味を帯び始め、慶次を支えていた希望が崩れ落ち、恐怖と絶望が溢れる。静かに流れていた汗が全身に広がり、止め処なく噴き出し、

 

 

「――っ」

 

 

 唐突に慶次の意識は尾を引いていった。

 何が起きたのか、何をされたのか、慶次は全く理解できないまま視界は黒く染まっていき、

 

 

「世界は救われる――」

「――っ………………」

 

 

 意識が落ちる直前、その一言が妙に頭に残された。



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第Ⅰ話 夢と現

 冬の寒さもいよいよ本格的になり始め、マフラーを手放せなくなったこの頃。堂森市の南部、旧市街地の一角に位置する豪奢な建物の一つ。

 

 

「あああああああぁああぁっ!! ――……………ぁあ?」

 

 

 豪邸の一室、暖房も付けずにカンカンに冷えたリビングで前田慶次は“自分の絶叫”で目を覚ました。他人に見られたら悶絶モノの光景だったが幸い? にもここの住人は慶次だけで、彼が羞恥を感じることはない。

 暗がりの中、妙に夜目が利く視界を眺めながら何となくソファーから起き上がり、周囲を見渡す。手提げ黒塗りのカバンや真っ白なマフラー、学ランなどが部屋のあちこちに散らばっていた。どうも学校から直帰した後、そのままソファー寝てしまったらしい。

 徐々に覚醒していく意識が、帰宅までの記憶を呼び戻していく。

 

 

「あー……そういや、朝から具合悪かったんだっけ? 美代には心配かけちまったな」

 

 

 幼馴染の少女の事を思い浮かべため息を吐く。

 隣人という事で何かと気にかけてもらっているが、あまり迷惑を掛けるのは慶次としては本意ではない。

 首を回し身体の調子を確かめながら立ち上がると、壁に立てかけられた年季物の鳩時計の短針は何の冗談か『3』を指していた。

 

 

「まだこんな時間かよ……」

 

 

 明日も学校があるのに、と付け加えるが冷静に考えればすでに日を跨いでいるので正確には“今日”だと思い直す。が、今はそんな些細な問題よりも自身の体調の方が重要だ。

 肩や首を回し体調を調べると、身体の節々の気だるさが残っている。いや、むしろ日中よりもダルさが増している気がして、不調の身体を見下ろす。いつも寝巻代わりに着ているジャージではなく、防寒着代わりのTシャツを重ね着していた。

 

 

「なんちゅー格好だ、俺」

 

 

 こんな格好で寝て治るわけがない。

 慶次は秒針のカチカチと規則正しい音だけを刻む部屋を横断すると、隅に畳まれた毛布を一枚取り出す。その柔らかな感触をしばらく楽しむと、今度はソファーへ飛び込む。

 とりあえず、普通に身体を暖め寝ることにする。芋虫の如く毛布に包まると、瞳を閉じ睡眠態勢に入る。

 眠りに向かいながらも思い浮かべるのは今日の献立。

 一人暮らしの慶次は当然ながら家事を自分でこなさなければならない。そのせいか、こういった僅かな時間を用いて家事を効率的に行う方法を組み立てる癖がついていた。

 冷蔵庫の中身を思い浮かべる。そういえば、先日購入した魚はまだ残っていただろうか。残っているならば、朝食のおかずは魚の塩焼きに決定。あとは簡単にみそ汁や漬物を添えれば良いな……とまで思考して、

 

 

「寝れねぇ……」

 

 

 時間は深夜の三時。早寝早起きを基本とする慶次にとって、睡魔が訪れることが必然の時間帯。本来ならあっという間に眠気に塗れ夢の国へと旅立つ頃だというのに、瞼は一向に重くならない。毛布を頭から被っても、震えは収まらない。

 理由はすぐに分かった。

 さっきの絶叫の原因。

 

 

「……………っ」

 

 

 夢。

 内容は覚えていない。

 恐怖だけが深く心に刻まれている。

 少なくとも、眠れられないほどに。

 慶次は一人暮らしだ。ここには彼以外誰もいない。無論、学友はいるが『怖い、一緒に眠って!!』と深夜の真っただ中に頼まれ、それを快諾するような“お人好し”が居るわけがない。

 

 

(でも、美代だったら本当に来そうだな……)

 

 

 もちろん、慶次とてそんな事が出来るほど気が大きい訳でもないし、やったらやったで(主に美代の両親から)社会的制裁が来る可能性の方がもっと怖い。

 つまり、慶次はこの恐怖を一人で乗り切らなければならない。この四年間、独りの寂しさで苦しくなった時と同じように。そう、今までように。

 

 

(……“らしく”ねーな)

 

 

 しかし、今日に限って感情が全く呑み込めない。今までやってこれた事が、全然上手くいかない。慶次は己が思っていた以上に、まだまだ子どもだったのだろうか。

 慶次は髪をわしゃわしゃと掻き乱すと立ち上がり、壁に立てかけられた金属バットを取り上げる。こういったときは、身体を動かすのが一番だ。この際、中途半端な事などせず、思いっきり身体を動かして調子が悪いのも吹き飛ばしてやろう、と思い部屋から屋外へ飛び出す。

 

 

「さむっ!!」

 

 

 寒風が室内を駆け抜け、慶次は思わず叫ぶ。

 開け放した扉の先には、暗雲が立ち込められた寒空の下、大雑把に整備された庭園が広がっている。これは慶次宅の庭で、彼が手入れしたものである。というのも、専門の庭師に依頼する金銭の余裕が慶次にはなかったからだ。そのため慶次の手入れは素人らしく、維持を念頭に置いたもので、余計な草は根こそぎ刈り取り、木々の葉も綺麗に取り払うだけのものだった。ついでに美的感覚も欠落していたので、木々の全てが疎らに配置されている。

 常人ならあまりの無様さに心を痛める所だが、慶次はそれらを気にする素振りすらみせず、庭の中心に立つとバットを振り始める。

 

 

「……………」

 

 

 バットが空を斬る。

 一振り。

 二振り、と。

 慶次は回数を積み重ねていく。

 それに従い、力も、速度も増していく。

 一人には大きすぎる家の。

 一人では広すぎる庭で。

 慶次はただ一心不乱に、バットを振り続けた。

 

 

「……………………………………ふう」

 

 

 どれだけ長い間、バットを振り続けていたのだろうか、慶次の額には大粒の汗が浮かんでいた。彼はポケットからハンカチを取り出し、拭う。暖まった身体は何時の間にか、恐怖と気だるさを吹き飛ばしていた。

 

 

「やっぱ運動はいいねー。スッキリするなー」

 

 

 慶次は口笛を吹くと、家屋に向かう。その表情には先の恐怖を微塵も感じさせない笑顔が浮かべ、脳内では朝食の献立を組み立てていると。

 

 

 ――突如、空が赤く燃え上がった。

 

 

 もし、今までの生活が“日常”と言うならば、今日この時を以って慶次の“日常”はなくなってしまった。



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第Ⅱ話 出会い

 溢れ返った赤の奔流。

 あまりに唐突過ぎる現象に慶次は、

 

 

「……は?」

 

 

 と、茫然と声を上げるしかなかった。

 不可思議な紋章が地を走り、噴き上がった炎が物を、人を呑み込むように周囲に立ちふさがっている。そして、それはある地点を境にピタリと止まっていた。まるで、そこが世界の狭間とでも言うように。

 幻想としか受け取れない光景に、慶次は動くことができない。

 が、その現実逃避も現れた“奴”に粉々に砕かれる。

 

 

「なっ!?」

 

 

 四足歩行の生物、所謂犬が石垣を打ち破り、先まで慶次がいた庭の中央を踏み砕く。

 慶次は驚愕の表情でこれを眺める。正確には、眺めるしか出来なかった。

 そいつは全長で言えば人間ほどある……犬の型に合わせるなら大型犬に分類されるだろうか? とにかく、そいつは大きく、特徴的な白毛は口や目を覆うほど伸びきっている。『コモンドール』という体毛の長い犬種は存在するが、それにしては身体が細すぎる。加えて、毛は針を連想させるほど直毛だった。

 ここまでなら『慶次の知らない犬種』で、別に驚きもしなかっただろう。

 問題はその頭頂部だ。

 犬は基本的に口で呼吸をする。この犬は、それに則って(?)巨大な口で呼吸をしていた……ただし、一つではなく、二つ。頭頂部とその腹部に、鋭い牙を浮かべて。 

 

 

「オオオオオオォォォォォッ!!」

「ブオゥォォオォォォォッ!!」

「っ!?」

 

 

 化け物の瞳に慶次の姿が映る。ただし、頭に付けられた双眼ではなく、全身から逆立った体毛の下、本来なら皮膚が見える部分。そこには幾十、幾百もの血走った“眼球”が慶次を捉えていた。“それ”の機能は本当に“見るだけ”なのだろうか、守るためのまつ毛や瞼はない。

 日常では決してあるはずのない、明らかな“異常”。

 あまりにもありえない現象が、慶次の心を強く揺さぶる。

 

 

(い、一体何が――っ)

 

 

 化け物の持つ幾百の眼球。その全てが慶次を捉える。

 そこには明確な殺意が燃えている。

 心臓の鼓動が飛び上がる。

 ――殺される。

 それは混乱する慶次が、唯一確信を持って告げられる事実であった。

 

 

(なんで――っ)

 

 

 それはあまりに理不尽な事実であった。

 しかし、世界とは身勝手で、どんなに慶次が矮小な存在であっても容赦しない。それは“六年前の事件”で慶次が学べた少ない事柄だ。目の前に決して甘受できない現実があるなら、立ち向かい打ち破るしかない。

 慶次は恐怖を、身勝手な世界に苛立つ怒りに変え、二の足で地面を踏みしめる。

 

 

「くそっ!!」

 

 

 慶次は悪態を吐くと、バットを構え相手の直線状から外れるように、化け物を中心に円状に歩を進める。四足動物である以上、左右の動きは制限される。ならば、前後の動きに横移動で対応すれば隙が出来、おのずと勝機は見えてくる。

 大きく息を吐き出し、右へ一歩。

 慎重に歩を進める慶次の眼に、化け物の後ろ脚が土を掴む。化け物が跳躍の準備に入っる。慶次はいつでも横に避けられるよう、足に力を込める。

 後は奴の飛び込んできたタイミングに合わせて、避けて殴りかかるだけ。

 決して慌てず騒がず、慶次は冷静に場を見極めていた――はずだった。

 

 

「――――ぇ」

 

 

 奴の踏み切り音とともに避けようとしたとき、慶次の眼前に奴がいた。

 振り下ろされた爪を、ギリギリのところで避けると――彼は宙を舞っていた。

 なぜ、と思う暇もなく背中から地面に叩きつけられる。

 衝撃で肺から空気が無理やり押し出され、激痛が頭からつま先まで襲いかかってくる。

 

 

(一体何が起き――っ!?)

 

 

 自分はさっきまで化け物の前に立っていた。もちろん、ただ突っ立っていただけではなく、何が起きても反応できるようにしていた。さらに、奴の動きも計算した上で動いて――次の瞬間に奴は目の前にいて。爪が振り下ろされたときには、自分は地に足がついていなかった。

 何が起きたのか分からない。

 思考が混乱する。

 

 

(馬鹿、な――っ!?)

 

 

 起きた事象に理解が全く追いつかなかった。何が起きているのか全く分からなかった。しかし考えを纏めるどころか、全身を苛む痛みがまともに息を吸うことさえも阻害する。

 それでも、視線だけは周囲を巡らし状況の把握に努めると、化け物の足元にクレーターが出来ている。

 もし先の一振りでクレーターを作ったとしたら、慶次が衝撃のみで吹き飛ばされたことになる。

 

 

「嘘、だろ……」

「オオオオオオォォォォォッ」

 

 

 再び咆哮が轟き、跳躍の態勢に入る。

 現状を否定している暇はない。

 

 

「ぐ……ぉお……っ!」

 

 

 しぶとく掴み続けていたバットを盾にしながら、その場を跳び退る。しかし、煌めく閃光が一陣はバットをすり抜け、脇腹に数筋の爪跡が走る。

 

 

「が……っ!!」 

 

 

 慶次は咄嗟に脇腹を左手で、噴き出す血を押さえつける。手に爪跡に沿って、皮も肉も骨も抉りとられた感触が伝わる。

 口の中が血の味で溢れ返す。

 ヤバい。

 殺される。

 本能が必死に警鐘を鳴らし、転がるようにその場を離れようとするが、足が絡まり上手く走れない。

 意識が遠のく。

 必死に意識を繋ぎとめようとするが、揺れる視界は安定しせず、足取りはさらにふらつき、ついには倒れる。

 

 

(ちょ……冗談、だろっ!!)

 

 

 うつ伏せに倒れた慶次の前方から、砂を踏み躙る音を聞こえる。

 力を振り絞り霞んだ視界を前に向けると、正面に化け物が立っていた。

 幾千の眼球が慶次に焦点を合わせる。

 暗闇にあっても怪しく爪牙が輝き、跳躍の態勢に入った。

 化け物が地面を蹴り上げ、一瞬で幾百の眼球と双口が慶次の眼前まで迫る。しかし、慶次に抵抗する力は残っていない。

 

 

(なん……でだよ……)

 

 

 名家に生まれ、己の才能の無さに絶望した幼少期。

 家族を喪い、遺族に財産を食い散らかされた思春期。

 そのいずれを乗り越え、ようやく平穏が訪れたというのに。

 

 

(俺は……ここで、死ぬ……)

 

 

 化け物の鋭い爪牙が慶次に振り下ろされる。それは慶次の急所を捉え、五臓六腑を斬り裂き命を狩る。明確な死が慶次の脳裏に浮かんだ。

 次に気付いたときはあの世か、はたまた衝撃による激痛か。どちらにせよ、慶次にはもう、打つ手はなかった。

 

 

(悪い、みんな……ちょっと早いけど、みんなのところに、逝くわ)

 

 

 覚悟を決め、強く目を閉じる。

 

 

「……………………」

 

 

 しかし、いつまで経っても衝撃はこなかった。

 痛覚を感じる暇もないのか、とも思ったが手足の繋がった感覚はしっかり残っている。

 息も吸える。

 肺に冷たい空気が入ってくる。

 僅かだが指も動くし、自分が地面に突っ伏しているのも分かる。

 生きていることへの疑問も、ここまで来ると生存の確信へと変わり、再び別の疑問が湧き上がる。

 

 

(何、で……?)

 

 

 閉じた視界を無理やりこじ開け、霞む世界で慶次は見つけた。

 それは気味の悪い双口の化け物ではなく、小さな背中。 

 紅蓮の火の粉を舞い落しながら、腰まで伸びた艶やかな髪を流していた。

 

 

(……って、そんなことより――!) 

 

 

 少女? の先にはあの化け物がいた。

 彼女が立っているのは慶次と化け物の間……つまり、最も危険な場所にいるのだ。手に武器(身の丈ほどもある刀?)が握られているが、一振りできるかさえ怪しい。無論、身を守れるとは到底思えない。

 そこまで思い慶次は危機感をそのまま口にする。

 

 

「あぶな――」

 

 

 ザッ、と慶次の言葉を遮るように土煙が舞う。

 しかし、それは化け物の発した音ではなく、眼前の少女が起こしたもの。信じられないことに、少女から化け物に飛びかかっていたのだ。しかも、奴より疾く。

 疾走する少女は瞬く内に大太刀の間合いに詰め、逆袈裟に一閃。跡には薄桜色の火の粉が舞い散るだけ。

 

 

「すごい……」

 

 

 髪と瞳を紅蓮に滾らせた少女。

 それは可憐に舞い落ちる花弁のように現れ。

 戦場にも関わらず、少女の一歩は舞踏のようでもあり、戦慄を奏でているようで。同じ場所にいるはずなのに、自分とは別世界に立っているのではないかと思う。

 そんな現実離れした感覚以上に。

 

 

 ――美しい。

 

 

 幼く整った顔立ちは、しかし意思の込められた紅蓮の瞳が、決してあどけなさを感じさせない。

 か細い指に絡め取られた、身の丈を遥かに超す大太刀を軽く振る。

 見た目だけではない。存在自体が圧倒的だった。

 

 

「――――」

 

 

 灼熱を灯した艶やかな髪をたなびかせ、少女は振り向きざまにどこか幼さを残す声で呟くが、聞こえない。

 疑問を呈する暇もなく視界に再び霞がかる。

 瞬間、力強さに儚さが加わり、世界が一つの景色になった。

 思わずそれらを掴み取りたくなり掌を伸ばすが、赤い絵の具が世界を穢す。

 

 

「――! ―――っ!!」

 

 

 急速に力を失っていく身体に、慶次はそのまま意識を失った。

 

 

 

 

 ゆっくりと目を開けた先には、白の壁紙とシャンデリアが広がっていた。慶次の生活空間、リビングの天井だ。

 その意外な景色に、慶次は少なからず動揺した。

 陽炎のドーム。

 百目の二口、四足の化け物。

 その攻防、奴からすれば戯れに過ぎない一撃は、確かに彼の身体を引き裂いた。重傷を負ったはずだった。ならば、慶次が次に目覚めるのは病院か、それに準ずる場所でなければならない。

 少なくとも、自宅というのはありえない。

 

 

(一体何が――っ!!)

 

 

 背中を柔らかに押し返すソファーから半身を起そうとすると、激痛が腹部に走る。化け物に抉り刈られた部分がズキズキと痛んだ。

 どうにか起き上がると毛布がずり落ちる。身体を見下ろすと、上半身に包帯が巻かれていた。

 おかしい。

 気を失った時、失血死してもおかしくないほど大量に出血していた。この程度の治療で済むはずはない。

 何か腑に落ちないものを感じていると、

 

 

「やっと起きたわね」

「っ――!?」

 

 

 やや不機嫌そうな声が掛けられる。

 振り向いた先には、“異常”を完全に証明する少女がいた。

 看病しやすいように椅子をソファーの隣に寄せ、慶次の顔を覗きこめるように座っている。

 なぜか瞳と髪は燃え滾る紅蓮ではなく、冷えきった黒色を宿している。さすがに眠いのか、鋭い眼差しは潜めていた。

 

 

「えっと……とりあえず、さっきはありがとう。助かった。で、早速で悪いんだが、これってどういう状況?」

「お前は“紅世の徒”の下僕、“燐子”に襲われたのよ」

「リン……って、何だ?」

 

 

 少女にとっては常識なのか、さらりと訳の分からない単語を大量に用いられ、慶次は思わず疑問を呈す。

 それを聞いた少女は、殊更落胆を示すようにため息を吐くと、視線を胸元のペンダントに落とした。

 

 

「はあ……こんなのに聞かなきゃいけないの、アラストール?」

 

 

 少女は慶次の謝辞と疑問を軽く無視すると、ため息を一つ吐き、視線を胸元のペンダントに落とす。

 こっちがため息を吐きたいよ、と思いながら慶次もつられてペンダントを見る。

 

 

「“燐子”が喰らった跡がない以上、“燐子”に襲われたこやつから情報を訊き出すしかあるまい」

「………………」

 

 

 胸元のペンダントが遠雷のように低く轟く男の声で、同様の難解語を喋った。

 通信機にしては小型過ぎる、声が通り過ぎるなど不審な点が数多あるが、これは何かの通信機だ……と慶次は自分を思い込ませる。内容はおいおい理解しよう、と自身の未理解は脇道に投げ飛ばす。

 静かに混乱する慶次に対して、少女は仕方ないといった風に答える。

 

 

「紅世っていう“この世の歩いていけない隣”。その住人の事を“紅世の徒”。そして、その“徒”が作った下僕を“燐子”って呼んでいるのよ」

「……はい?」

 

 

 さらに話が飛んだ。

 歩いて行けない隣? と頭に疑問符を浮かべる慶次を、少女は露骨に面倒くさそうな表情をする。彼女にとって、これは“常識”と呼ぶべき知識なのかもしれない。ここで慶次が“非常識”だと(彼にとって)一般的な感覚で反論しても、話しが進まなくなるだけだろう。

 とはいえこのまま流れに任せ、話を聞くべきなのか判断できない。

 慶次は寒さで身震いをする。部屋はなぜか、暖房の類が使われておらず、カンカンに冷え切っていた。

 

 

「ストーブ点けていいか?」

 

 

 纏まらない思考を誤魔化すように、慶次は少女に尋ねる。

 少女は何か言おうと口を開くが、吐息が白い事に気付き言葉を呑み込み、

 

 

「……いいけど」

「そっか。んじゃ、点けるぞ」

「ちょっと待って」

 

 

 何気なしに立ち上がろうとする慶次に、少女は制止の声を上げる。

 

 

「……何?」

 

 

 奇妙な姿勢で固まった慶次は、首だけを少女に向けて訊く。

 

 

「その“宝具”を放さないで」

「“ホウグ”とは何なのか、具体的に教えてくれたら非常に助かるんだけど?」

「はあ……お前の右手にあるバットのこと。手放すと傷口が開くわよ」

「開っ――!?」

 

 

 ギョッとして右手を見ると、確かに少女の言うとおり慶次の金属バットがある。しかし、バットと傷口と関係あるとは、慶次には到底思えない。が、少女の表情は真剣そのものである。

 

 

(―――――もう訳分からん)

 

 

 慶次は半ばやけくそにバットを強く握りしめ、ストーブを点ける。上半身包帯(よく見たら下手)に巻かれた男が金属バットを片手にストーブを操作する……何ともシュールな光景である。

 作業をしながら、慶次は今までの出来事を反芻する。

 陽炎の壁。

 謎の四足動物。

 そして、それを退治した紅蓮の少女(今は黒)と、なぞの通信機。

 

 

(どうすりゃいいんだろうね)

 

 

 おそらく、化け物……少女風に言えば“燐子”について情報収集を行うことが彼女の目的であろう。あんな物騒な奴に対処してくれるなら、慶次は喜んで協力するつもりだ。

 だが、少女は普通ではない。化け物を一撃で屠る身体能力に加え、瀕死の状態であった(今はなぜか動けるまで回復しているが)慶次を自宅に留めた。病院へ運ぶ、という至極真っ当な選択を少女はしていない。慶次の常識とかけ離れた彼女も危険と判断せざるを得ない。

 そんな少女の口から語られる内容が“まとも”なはずがない。さっきは興味本位で質問をしたが、これ以上踏み込むべきなのだろうか。引き返すとしたら今しかないだろう。

 

 

(でも、逃げたところで状況が好転するとは思えないんだよな)

 

 

 悩んだ末、少女の言葉の真偽は置いといて、情報を求めることにする。聞かなかったからといって、再び不幸が舞い降りてこないとは限らないのだ。むしろ、先とは比べ物にならない理不尽が襲いかかってきた場合、少女の情報は不可欠となる。腹をくくるしかない。

 ストーブでは青い炎が力強く静かに燃え上がる。

 

 

「時間取らせた。続き、話してくれないか?」

「……分かった」

 

 

 ソファーに座り直し、少女と膝を突き合わすよ。彼の明らかな変化に面食らったのか、少女の返答が僅かに遅れた。



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第Ⅲ話 この世の真実

「本来この世界に『存在しないもの』である“紅世の徒”が顕現するには、“存在の力”っていう根本的なエネルギーが必要なの。彼らはその“存在の力”を人間を喰らって集めて、“自在”に操ることで存在する」

「…………でも、そんなことしたら気付きそうなもんだけどな」

「“存在の力”を喰らうっていうのは、人が食物を摂取するのと同じじゃないわ。存在自体を喰らわれると、その人は最初からいなかった事になるの」

「じゃあ、今もこうしてる間に――」

「そう、人は喰らわれ続けている」

 

 

 曰く、“紅世”から来訪した“紅世の徒”は人を喰らう。

 曰く、人を喰らうとは“存在の力”を集めること。

 曰く、喰らわれた人は“いなかったこと”になる。

 幾千年、幾万年。

 人類が誕生してからという途方もない昔から、“紅世の徒”はこの世を跋扈してきた。

 今この時も。

 誰かが喰われ、誰かがいなくなり、そして誰も気づかない。

 

 

「これがこの世の真実」

 

 

 少女は告げた。あまりにも残酷な理不尽を、常識のように。極寒とも思える冷たさで。

 慶次は俯く。頭の中には彼女の言葉がグルグルと渦巻く。

 

 

「でも、そんなことやってたら、絶対おかしな事が起きるんじゃ――」

「そういった“災厄”を恐れる“徒”も当然いるわ。そこで、私のような“紅世の王”と契約した『フレイムヘイズ』が乱獲者たちを討滅するってわけ」

 

 

 右手に掴んだバットを強く握りしめる。

 今こうしている瞬間、この堂森市で知人や、その家族が喰われているかもしれない。もしかしたら、すでに喰われて忘れてしまったのかもしれない。

 悲しむこともなく、今も―――。

 

 

「そこのミカンとって」

「あいよ……ってくつろぎ過ぎだろ!?」

「いいから早くとりなさいよ」

 

 

 思わず突っ込みを入れる慶次を、少女は逆に睨めつけ返しこたつの端に置かれたミカンを所望する。

 そりゃ慶次もストーブを点けたり、『こたつで話さないか?』と寒さのあまり口走ったりした。が、今の彼女は緊張感が欠けているというレベルではない。ごっそり抜け落ちているとしか思えない。

 

 

「別にいいでしょ、私が何したって」

「そりゃそうだけど……」

 

 

 幾ら注意しても少女は毅然と答えるのみで、慶次は肩を落とすしかない。

 

 

(こんな子だったとはな……)

 

 

 言葉を交わして分かった事だが、この少女とにかく気遣いや愛想がない。先の話もオブラートに包むことなく『喰われる』や『滅する』など普段聞かない少々暴力的な言葉遣いで憮然と説明するのだ。

 彼女は言葉を飾ることは一切ない。それは同時に裏表がないとも受け取れるのだが、物騒な現状では気休めな解釈でしかない。

 直情径行……これほど彼女を体現するのに相応しい言葉はないだろう。そして、こういったタイプに無闇矢鱈と逆らうのは得策ではない。一の攻勢を十にして反撃される。

 慶次はため息を吐くと、しぶしぶと言った感じにミカンを手渡す。もちろん、質問することは忘れない。

 

 

「そんな事してたらさすがに気付くんじゃないのか? 昔はそれでも良かったかもしれないけど、さすがに社会が成熟した現代じゃ誤魔化し切れないだろ」

「そうでもない。人間は不自然な事があっても、説明できないものは結局“そういうもの”としか処理できないの。それに“徒”は喰らった後に“トーチ”っていう人間の代替物を設置して歪みを和らげてるのよ」

「トーチ?」

 

 

 またも訊き慣れぬ単語に、慶次は訊き返す。

 ミカンを食べ始めた少女に替わり、今度は胸元のペンダントが答える。

 

 

「空いた存在の空白を一時的に埋めるものだ。突如、存在の空白が生まれれば歪みが大きくなり、フレイムヘイズだけではなく人間にも気付かれるやもしれぬ。そこで、彼奴らが喰らった人間の残り滓とでも言うべきトーチを設置し、徐々に存在の穴を埋めていくことで歪みを軽減させるのだ。お主が始めに見た“封絶”も、その一助となっておる」

「ああ、あの炎の壁みたいなものか?」

「正確にはその内側の空間だ。あれは外界と因果を切り離すゆえ、内側たる空間で人は如何なる事象も認識できぬ。我らのような“この世の因果から外れた”者か、お主のような特別な『宝具』を所持した人間でなければ、な」

「ふーん……で、今更だけど、このバットって何?」

 

 

 何となしに慶次は自然と少女の剥いたミカンに手を伸ばすが、別の手がそれを遮る。

 主を見れば、あげるのは質問の答えだけだと言わんばかりに、真っ黒に冷めた視線で慶次を一睨みすると、ミカンを美味しそうに頬張る。

 

 

「んぐ、“紅世の徒”がこの世で作った道具のことよ。はぐ、お前のは人間を“封絶”内で動けるようにするだけじゃなくて、身体能力も向上させる物みたいだから、相当物好きな奴が作ったんでしょうね」

「うちのミカンなんだしさ、一口ぐらい食べさせてくれてもいいんじゃないか?」

「嫌。食べたいなら自分で勝手に食べなさい」

「じゃあ看病と言う観点で、怪我人に食べさせるという発想は?」

「……何でお前に食べさせなきゃいけないわけ?」

「ですよねー!」

 

 

 再び睨まれて、慶次は慌てて前言を引っ繰り返す。

 すっかりリラックスした少女に毒されて普段通り軽口を叩いてしまったが、どう考えても彼女は冗談を嫌うタイプだ。

 

 

(うう……ただでさえ、色々あったのに。俺の周りには、もう少し愛想の良い女の子はいないのかよ)

 

 

 今日何度目になるか分からない落胆を感じながら、慶次は今まで得た情報を整理する。

 “紅世の徒”と『フレイムヘイズ』。

 “存在の力”といずれ来たる“大災厄”。

 人の代替物である“トーチ”と『宝具』。

 そして、“封絶”。

 

 

「……………」

 

 

 全てが考えることも億劫で残酷な話。

 世間話のように語る少女の言葉は、剛直であるがゆえの妙な説得力で耳に届いた。

 少女の人と成りを信じるなら、言葉に嘘はない。

 

 

「……………」

 

 

 だが、慶次は彼女の話を信じる気にはなれない。

 もし彼が“徒”に襲われ、喰われかけ、トーチを目にしたのなら信じただろう。しかし、事実は『化け物に襲われた』だけだ。“存在の力”の欠片も慶次は体感していない。

 少女には悪いが、信じるに足る情報が圧倒的に不足していた。

 そして何より、

 

 

「その話、矛盾してないか?」

 

 

 彼女の語るこの世の真実に相反した事実に気付いた。

 そのような反応をされるとは思っていなかったのか、少女は眠気を吹き飛ばし訊き返す。

 

 

「どういう意味よ?」

「あの化け物は俺を喰らおうとしたんじゃない。“殺そうとしていた”。だけどお前の話じゃ、“紅世の徒”がわざわざ人間を殺す理由なんてないだろ?」

 

 

 通常、“徒”が人間を喰らうことはあっても、殺すことはない。

 あるとすれば個人的な恨みしかないのだが、それならば燐子に任せるのではなく“徒”本人が手を下すはずだ。仮に手を汚す事を嫌うなら、燐子ではなく人間の殺し屋の一人でも雇った方が手っ取り早く、面倒事も少ない。

 慶次の場合、宝具を持っていた。もしこれが狙いだとしても、彼が家にいないうちに盗んでしまえば済む話であり、話しの筋が通らない。

 少女には悪いが、彼女の話は矛盾だらけであった。

 ――と、ここまで慶次が説明した所で、少女の口元が感心したように曲がる。

 

 

「そうよ。お前の言う通り説明がつかない。でも、理由が思いつかない訳じゃない。あるとすれば――」

「個人的な理由……恨み、とかか?」

「もしくは、奴の行動……“殺す行為そのもの”か“封絶を張る事”に意味があったかもしれない」

 

 

 少女が手を止める。

 少しの間、沈黙が二人の間に割り込んだ。

 慶次は宝具を所持していたとはいえ、自身にそれほど価値があるとは思えない。何より、慶次と化け物を結ぶ接点があるとは思えなかった。

 少女もわざわざ封絶を張ってまで殺すほど、慶次に価値はないと思っていた。幾らかは彼の冷静さを評価してみるが、価値には結びつかない。

 だとしたら、行為そのものに意味がある……とも思ったが、当の慶次が“紅世”に関する知識が皆無。到底、“紅世の徒”と関係を持っているとは思えず、この論も説得力を持たない。

 お互いが同じ結論に至りつつも、全く信じていなかった。そのせいか、二人とも二の句が継げなかった。

 沈黙を破ったのはペンダントであった。

 

 

「我らは当面、お前を守護しながら彼奴らの真意を探ることになろう」

 

 

 相手の出方が分からない以上、相手の狙い(慶次)に張り付くのは至極当然の答えだろう。無論、慶次は死にたくないのでこの結論に否やはない。

 

 

「そういうことだから、しばらくお前の近くにいると思う」

「まあ、俺に手伝えることがあったら遠慮せずに言ってくれ。せめて、助けられた分は返したいし」

「別に助けたわけじゃない」

「そうかい」 

 

 

 慶次は感謝の意を込めるように、自然と弾けるような笑みを浮かべていた。何となしにした慶次の行為に少女は目を見開くと、慌てて視線を逸らした。

 

 

「どうした?」

「何でもない」

「変なやつ……なんていなかったな、うん」

 

 

 睨まれる前に慶次は訂正すると、立ち上がった。無論、右手にはバットが握られている。少女は不思議そうに慶次を見上げる。

 

 

「どうしたの?」

「いや、そろそろ朝飯の時間だからな。準備しないと」

 

 

 縁側の引き戸から、淡い光が差し込んでいる。いつの間にか、日が昇り始めていた。そろそろ、朝の準備をしないと学校に遅れてしまう。

 ついでに少女の分も用意しようと考えて、慶次は大事なことを聞き忘れていたことを思い出す。

 

 

「前田慶次」

「は?」

「まだ自己紹介してなかっただろ? 前田慶次。それが俺の名前だ。君の名前は?」

「…………え」

 

 

 予想外の質問だったらしい。少女は顔を曇らせた。凛々しさが失せ、僅かに儚い寂しさが浮かぶ。胸元のペンダントを手で弄びながら、愁いを込めた視線を流し、小声で答える。

 

 

「私はアラストールと契約したフレイムヘイズ、それだけよ。それ以外に、名前なんかない」

 

 

 顔から寂しさは消えていたが、今までの凛としたものとは違う。

 表情を無理やり消した顔だった。

 

 

「他のフレイムヘイズと区別するために、“『贄殿遮那』の”って付けて、呼ばしてはいたけど」

「ニエ……?」

「『贄殿遮那』。私が持ってる大太刀の名前」

「そうか。じゃあ、そうだな……」

 

 

 『贄殿遮那』のフレイムヘイズ。

 大仰な上に長ったらしくて、名前とするには不適切だと慶次は思う。

 慶次の頭にふと、『贄殿遮那』の略して“シャナ”などと思い浮かんだが、女の子の名前を武器から取るのは、正直気が引く。

 目の前の少女を見る。

 意志の籠った黒鉛の瞳。潤った唇は強く引き結ばれ、少女の力強さをさらに際立たせる。腰まで伸びた黒髪は、無作法に伸びているにも関わらず艶やかに輝き、強さと美しさが織りあっている。

 だが、これは少女の一面でしかない。

 紅蓮の眼光。紅蓮を宿した炎髪。少女と言う存在自体を昇華させた、炎髪灼眼の討ち手の姿。

 今の少女と炎髪灼眼の討ち手が合わさってこそ、彼女と言う一個の芸術品となる。

 慶次は失礼だと思いながらも、率直にそう感じた。

 

 

椿(つばき)

「えっ?」

「俺は今度から君の事を“椿”って呼ぶことにする」

 

 

 緑の黒髪を少女が、戦いの時だけに見せる炎髪。 

 青々しく茂る葉の先に綺麗に咲き誇る赤色の“椿”と少女が、慶次には重なって見えた。

 慶次にとって気に入った呼称ではあったが、当然と言うべきか。椿と呼ばれた少女にとってはどうでもいいことらしい。彼女は首を傾げて、軽く答える。

 

 

「勝手にすれば? 呼び名なんかどうでもいいし、私は私の役目を果たすだけ」

「それは心強いことで。それより椿、うちの朝食は和食なんだが、大丈夫か? 一応、パンもあるぞ」

 

 

 椿はあからさまに怪訝な顔つきになる。

 

 

「勝手に名付けて、いきなり呼び捨て? ま、いいけど……それって、用意してくれるってこと? それなら、パンでもなんでもいいわよ。お前を看病していたせいで、何も買ってないの」

 

 

 これを聞いた慶次は苦笑を浮かべる。見てただけだろ、と思ったが口にはしない。

 慶次は宝具をバットケースに仕舞い込み、背負う。身体に異変はない。どうやら宝具を所持しているだけで、効果があるようだ。これで両手が自由に使える。

 慶次がキッチンに立つ(エプロン装備)。

 

 

「それじゃあ、とびっきりの朝食を用意しよう」

「期待してないで待ってる」

「おう!」

 

 

 快活な声がリビングに響き渡る。数時間前まで、夢に震え、化け物に恐れ、死にかけていたはずが、いつもの自分に戻っていた。慶次は自分のふてぶてしさに笑った。でも、これでいい。椿といつも通りに接していける。少しでも距離が縮まれば、今のような漠然とではない、明確に事態を把握できるようになるはずだ。

 椿が慶次を見ていた。それに気づいた慶次は笑顔で見返し、

 

 

「あっ」

「どうしたの?」

 

 

 慶次の様子を見て、椿が訝しむ。

 

 

「いや、その。なんだ……」

「なによ、はっきりしないわね。何かあるなら言いなさいよ」

 

 

 しどろもどろに答える慶次に、椿は苛立ちを見せる。

 椿に気を遣ってのことだっがのだが、彼女には余計なお世話らしい。でも言ったら言ったで怒るんだろうな、と思いながらも、慶次も気分が良いので口を滑らせる。

 

 

「しかめっ面ばかりしてたけど、ちゃんと笑えるじゃん」

「っ!?」

 

 

 慶次が椿の顔を指差す。慶次の笑みにつられたのか、その頬は緩んでいた。

 椿の頬がみるみる朱色に染まっていく。これを見て、慶次は思わずニヤニヤと嫌な笑い方をする。

 

 

「可愛いところ、あるじゃないか」

「うるさいうるさいうるさい!! 早くその喋りすぎる口を閉めなさい!!」

「まあまあ、褒めてるんだから照れるなって」

「照れてないっ!!」

 

 

 耳を劈く怒声が、慶次のいるキッチンまで響く。

 さすがにやり過ぎた、と反省し慶次が口を開こうとすると、氷点下を突破した冷たい眼光が貫く。喋るな。椿の視線が、それだけを語っていた。

 冷たい汗が慶次の全身から一斉に噴き出す。椿の機嫌を直す方法はないか考えてみるが、そもそも彼女の事は何も知らない、出会って数時間の関係だ。こうして話しているのも、奇跡なのだ。それを、こうして慶次がぶち壊しているのだから、馬鹿としか言いようがない。

 一気に空気が悪くなった室内で慶次が悩んでいると、

 

 

「手が止まっているぞ」

 

 

 唯一の大人(?)のアラストールが、やれやれという感じで声を上げた。

 朝食を作ると言ってから、全く進んでいない。

 

 

「わ、悪い! すぐに作る!」

 

 

 慌てて調理を始める慶次。すぐさま伺うような視線が椿から飛んできたが、慶次と目が合うとすぐに逸らされた。

 結局、椿は朝食が炬燵に並べられるまで、決して慶次と目を合わせなかった。




※今後本作は、灼眼のシャナの二次創作を名乗りながら、シャナのシの字も出てこないタイトル詐欺となります。


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第Ⅳ話 宝具

※本話は独自解釈が含まれています。


 炬燵の上に、慶次の用意した朝食が並べられた。

 湯気を上げる白飯とみそ汁。味がしっかりと染み込んでいる煮物。そこへ添えられたほうれん草のおひたしと、絶妙な焼き加減の鮭。慶次の言った通り、寸分違わず和食であった。

 慶次が一品ずつ、箸で口に運ぶ。

 白飯。見た目が艶やかで美しいだけではない。しっとりとした食感と甘みが、口の中に広がる。

 みそ汁。濃すぎず、薄すぎず。上品な味わいの後には、白味噌特有の爽やかな香りが残る。

 焼鮭。絶妙な焼き加減は余分な脂と塩分を追い出し、香ばしい匂いと鮭の旨みだけを上手に封じ込めていた。

 おひたし。出し汁のすっきりとした味わいが、他の料理の味を引き立てていた。

 美味い。

 食材の旨みを引き出すことを念頭に作った。短い時間だったが、達成できたと言える。気合を入れて作っただけあった。

 だが、問題は椿の口に合うかどうか、である。

 ちらりと対面に座った少女を盗み見る。憮然と箸を進めていた。

 慶次は戦々恐々と尋ねる。

 

 

「椿さん……その、いかがですか?」

 

 

 黒髪の奥の大きな瞳が、ギロリと慶次を睨みつける。

 そしてポツリと、

 

 

「………………美味しい」

 

 

 言葉とは裏腹に、不機嫌そうに呟いた。

 それ以上は一言も発せず、食卓は沈黙した。しかし、先刻の重苦しさとは違った。あのときはどちらも話したくなかったが、今は何を話すべきか分からない『意図しない沈黙』であった。

 お互い食べる事しかやることがないので、食はどんどん進んでいき、気づいた時には、完食していた。お椀には米粒の一つも残っていない。

 

 

「………ごちそうさま」

「お粗末様でした」

 

 

 食後のお茶を差し出すと、椿は黙ってそれを受け取った。どうやら、機嫌は直ったようだ。

 一時はどうなるかと思ってが、彼女の事が少しだけ分かった。

 凛々しさと、剛直に事実を叩きつける冷酷とも取れる態度。そこに隠れた、一人の少女としての部分。

 戦いだけではない。人並みに美味しい料理が好きで、人一倍負けず嫌いで誇り高くて。今はそれぐらいしか分からないが、他にもたくさん別の椿はいるだろう。無論、フレイムヘイズの部分も、もっとたくさん存在するはずだ。まあ、そこまで分かる前に事件が解決し、そのまま別れる可能性大だが。

 

 

(解決したときぐらい、ちょっとお祝いぐらいさせて欲しいな……)

 

 

 来る未来に、一抹の寂しさを覚えながら慶次は立ち上がると、 

 

 

「それじゃあ、食器片づけてくる」

 

 

 一言断ってから食器を持って洗い場に向かう。汚れたらすぐに片づける。それが慶次の台所ルールの一つだ。

 黙々と食器洗いをする。食器の量は二人分とはいえ少なく、食器洗いはすぐに終わった。

 

 

「ねえ」

 

 

 終わるタイミングを見計らっていたのか、蛇口を閉めると同時に椿が声をかけてきた。

 

 

「どうした?」

「さっきから随分と歩き回ってるけど、そんなに身体の調子がいいの?」

 

 

 慶次は自分の耳を疑った。

 “椿が他人の身体の心配をしていた”。

 これはもしかして、機嫌の反転が、椿に気遣いを覚えさせたのかもしれない。

 そんなことありえないと思いながらも、喜色を潜めて慶次は恐る恐る訊く。

 

 

「椿が俺の身体の心配を、」

「ううん、宝具の能力を確かめてるだけ」

「ですよねー!」

 

 

 がっくりと肩を落とす。彼女に気遣いを求めるのはお門違いだと分かってはいたが、もう少しどうにかならないものか、と慶次は心底思う。

 

 

「何を期待してたか知らないけど、早く質問に答えなさいよ」

「はいはい。それで、体調だっけ? まあ、あの重症を考えれば十分過ぎるほど体調は良くなってる。けど、やっぱり全快ってわけじゃない。ちょっと調子が悪いって感じだな」

「うーん……人間用の宝具にしては優秀だけど、やっぱり“それだけ”でしかないわね」

 

 

 椿が顎に手をやり、考え込む。慶次は思った疑問を、そのまま口にした。

 

 

「なあ、このバット……宝具って、そんなにすごいものなのか?」

「珍品であるのは間違いないわ。だけど、それ以上の価値がない」

「こんなすごい再生能力持っちまうのに、そんなもんなのか」

「そんなものよ」

 

 

 驚異の再生能力から、バットを伝説の武具のように思っていた慶次にとって、この発言は少なからずショックであった。一本あれば、医学界を変えてしまうほどの宝具でも、椿ら“紅世”に関わるものからしたら、『珍品』の一言で片づけられるのだ。“紅世の王”にもなれば、一体どんな化け物が出てくるのか。正直、慶次は想像もしたくなかった。

 慶次が“紅世”の事で戦々恐々としていると、

 

 

「それじゃあ、次は脱いで」

「……はいっ?」

 

 

 椿が真顔で変な事を言った。

 脱ぐ。

 つまり、この少女は慶次の裸体が見たいということか。

 ありえない。

 これは慶次の直観だが、この少女は絶対乙女だ。裸なんか見られた日には、ボコボコにされた上で大太刀を振り下ろすに違いない。他人の裸に関しても、治療など目的がなければ、それこそ頬を赤く染めるはずだ。なのに、こんな真剣な表情で言えるわけがない。それに仮に裸体が見たいとすれば、椿なら自分で無理やり剥いて見る。キスがしたくなったら、無理やり唇を奪う。椿とは、そういう直情径行の少女のはずだ。

 ならば、どういう意味なのだろうか。そこで慶次が考え付いたのが“紅世”。このバットでさえ、『珍品』と言い切る異常な世界。慶次にとって非常識でも、それは“紅世”では常識なのかもしれない。

 ――ということを、慶次は本気で考えた。

 迷うことはない、と慶次は抵抗なくズボンのベルトを外したところで、椿は飲みかけの茶を噴いた。

 

 

「大丈夫か椿!?」

「げほっ、げほっ……! ばっ……だ、大丈夫か、じゃないわよ! なにしてんのよ、一体!?」

「えっ? さっき、脱げって……」

「確かに言ったけど、今の話の流れでどうしてそういう事になるのよ!! 宝具の効果を確かめるために、その“エプロンを脱いで”怪我を見せなさいってことでしょ!!」

 

 

 椿がズビシッ! と慶次のエプロンを指差す。

 

 

「――そういう意味か!」

「そういう意味しかないでしょ! お前は自分の行動に疑問を持たないの!?」

「いや……もしかしたら、フレイムヘイズ流の身体測定法があるのかもしれないと思って」

「あるわけないでしょっ!!」

 

 

 興奮して立ち上がった椿が、炬燵の机に拳を振り下ろした。生半可な重機よりも強固な拳は、机上にその形をクッキリと跡を残した。それでも、加減しているようだったが、どちらにせよ、机が使い物にならなくなった。

 

 

「ああっ!! 一体、どうしてくれるの!?」

「怒らすお前が悪い!!」

「でも、替えの机なんてねーぞ! 炬燵でご飯食べられないぞ!!」

「それは困……じゃなくて! そんなことより、早く傷を見せなさい」

「いや、これは食後に見ない方がいいと思……って、ちょっと待ってください椿さん!?」

 

 

 驚愕に目を見開く慶次に業を煮やした椿は、無駄にフレイムヘイズの力を使って距離を縮めた。もちろんやることは、エプロンを捲って包帯を外すだけである。

 慶次の理解が追いつく前に事は終わり、傷が晒される。

 傷跡は透明な薄い皮に覆われており、その皮の下で血管もないところで血液だけがぐるぐると循環する。欠けた肉と骨の表面がまるで生き物のように蠢き、失った部分を補おうと増殖を繰り返していた。

 透明な膜の下、内臓の一端がうねうねと動くのを見て、椿が一言。

 

 

「……気持ち悪い」 

「ぐはっ!」

 

 

 鋭い言葉のナイフが、慶次の心を刺し貫いた。

 

 

「俺も見たとき思ったけど、はっきり言わないで。めちゃくちゃ傷つくから……」

 

 

 化け物に付けられた傷跡は、数本の真っ直ぐな爪痕。傷は骨まで達しており、爪の通った跡は骨まで抉り刈っていた。人間なら再生不能の重症だった。それを短時間で動けるまでに回復させるとなれば、普通の再生法なわけがない。ないのだが……もっとビジュアル的に頑張れなかったものかと、慶次と椿は珍しく意見が合った。

 二人が同じような感想を抱いている中、アラストールが別の視線から物を言う。

 

 

「ふむ、随分と特殊な方法を取っておるな」

「……えー」

 

 

 その意見に若干引く慶次。対して、椿はすぐに気を取り直し、賛同するように頷く。

 

 

「生物的な観念から見れば、理に沿っているとも言えなくもないけど」

「しかし、相当の変わり者が創作したに違いない」

「人を傷つけておいて、勝手に話を進めるなんて酷くないか?」

「ああ、もう面倒ね」

 

 

 椿は文句を言うが、それでも説明してくれるらしく、口を開く。本当に、律儀な少女だ。

 

 

「どうして“紅世の王”たちが人間と契約する方法を取ったか分かる?」

「そりゃ、討滅しに“紅世の王”が行ったら、本末転倒だからだろ。居座るだけで“存在の力”を、同胞と戦うために“存在の力を”。そんなことしてたら、逆に世界のバランスが崩れちまう」

「どうしてその閃きを普段から使わないのよ……」

「何か言ったか?」

「なんでもない。それで話を戻すけど、お前の言う通りの理由で人間と契約をするの。その代り、契約者はあるものを“紅世の王”に捧げなくてはいけない」

「それは……?」

「生きていたらあったはずの“過去と未来”よ」

 

 

 慶次の耳には、椿の口調が僅か固くなったように聞こえた。

 

 

「“過去と未来”?」

「今以外の自分、と言ってもいいわね」

「それで、捧げるとどうなるんだ?」

「そいつは“いなかった”ことになる。その代り、本来あるはずだった自分を“紅世の王”が埋めて、力を貸し与えられる。だから、このコキュートスはアラストールの意識を外に向けるためのもので、実際は私の中を満たしているってわけ」

 

 

 “過去と未来”を捧げ契約し、内に“紅世の王”を蔵した者が『フレイムヘイズ』。

 おそらく、“過去と未来”にはその人が存在するための力がある。それを“紅世の王”が所持し、介することで“存在の力”として引き出せるようになるのだろう、と要点だけ掻い摘んで勝手な解釈を入れる。

 

 

「それで、それが俺の傷とどういう関係が?」

「つまり――」

 

 

 椿は言うなり、突如自身の親指を口に含み、

 ぷつり。

 何かが千切れる音がしたら、唇から赤い線が一筋滴り落ちた。

 椿が慶次の眼前に親指を差し出す。ぷっつり噛み千切られ、血が噴き出していた。

 慶次が何かを言おうとした瞬間、それは起きた。

 まるでコマ送りのように、皮膚が塗り替わっていった。あったはずの皮膚を取り戻すように、次々と新しい皮膚に取って代わっていき、気づいた時には傷はふさがっていた。跡には、流れた血痕が転々と散らばっているだけだ。

 治った……なんて、生易しいものじゃない。

 言うならばこれは、

 

 

「――復元」

「その通り。“今”しかないフレイムヘイズは、怪我を負っても“今”に向かって復元するの。いいえ、“今”しか存在しないフレイムヘイズは“今”にしかなれない。もちろん、命を落としたら“今”さえなくなって、復元なんてできないけど。余程のことがない限り、フレイムヘイズは“今”のままでいられるってわけ」

「不老不死ってことかよ」

「正確には、“今”に向かって復元を繰り返しているだけだから、僅かに老いもするわよ。でも、それ以上の速度で復元を続ける」

「確かに、これは“再生”とは根本的に違うな……」

「全く、この宝具を作った奴は変わり者よ。常識を無視して、わざわざこんな方法取るなんて」

 

 

 慶次は背負ったバットの重みを改めて感じる。これが、どれほど珍品であるか、ようやく気づいた。そして、椿が変わり者と言った創作者の気持ちがちょっと分かった気がした。

 フレイムヘイズのように、一つの状態『A』を持ち続けるんじゃない。もしかしたら、次の瞬間の『A´』が最高だったかもしれない。もっと先の『A´´』が最高かもしれない。だから、この宝具は過去の自分『A』を見ない。見えない未来の自分『A´』を目指すため、もっと高みを目指すため、復元ではなく再生という手法を選んだのではないか。根拠もないが、慶次はそう思った。

 

 

「言い忘れていたけど」

「まだあるの?」

 

 

 椿は何を思い出すように紡ごうとした刹那。

 ぐー、と。音源が分かりやすすぎる、気の抜けた音が割って入った。

 

 

「わ、悪い! 真面目な話してんのに、胃袋がどうも辛抱足りなくて!」

 

 

 さすがの慶次も恥ずかしさで、顔を赤くする。椿も怒るだろうな、と予想し身構えるが、何時まで経っても怒声は来ない。むしろ、何か納得したような顔をしていた。

 

 

「気にしてないわよ。逆に納得しただけだから」

「納得?」

「その宝具の動力源としている“存在の力”をどこから調達しているのかは別として、お前は今、実際に再生している訳だけど……これって、新陳代謝を宝具なりのやり方で促進しているだけなのよね」

「新陳代謝の促進……要するに、傷を早送りで治してるみたいなもんか。で、それのどこが問題なんだ?」

「新陳代謝を促進するって事は、通常よりも速くエネルギーが消費されるって事よ。お前はどうやって、治療のためのエネルギーを摂取しているのかしら?」

「……食事」

「その通り。そういう事で、今のお前は高速治療と引き換えに、ご飯食べなきゃ再生のし過ぎで倒れる身体なのよ」

「そういう大事なことは、先に言ってくれよ!?」

 

 

 叫ぶように非難を上げる慶次を、椿は聞き流す。今までの仕返しのつもりなのだろうか。だが、今は彼女を責めている暇はない。

 慶次はキッチンの上段左端の棚を勢いよく開き放つ。受験対策に用意していた、保存食貯蔵場所だ。その中の、一番上に鎮座した固形保存食を大人買いして詰め込んだ箱を取り出す。少量で素早くエネルギー補給するならば、これ以上適したものはない。

 慶次は箱から適当に引っ掴むと、学生鞄に大量に入れながら、一つを口に運ぶ。部屋の隅の掛け時計は、いつもなら登校する時間を示していた。

 これを見ていた椿が、訝しそうに声を上げた。

 

 

「何してるの?」

「んぐっ、もうすぐ学校の時間だ、食ってる暇がない。こうなったら、授業中に大量摂取してやるしかねぇ」

「ふーん……」

「まだ伝え忘れた事とかあるのか?」

「別に」

 

 

 慶次は鞄に食料を詰め込む作業を止め、反応の薄い椿を見やる。思いの外、あっさりとした反応だ。勝手に動くな! とか、強く指摘されると思っていたばかりに、少々拍子抜けするが、そもそも彼女が慶次に対して強い反応を示した方が少なかった。

 看病は最小限で宝具任せ。怪我で歩き回っても、興味の先は慶次ではなく宝具。もしかしたら、使命に関わるもの以外には全く興味ないのかもしれない。

 そこでふと思うのは、自分以外の人間。もし、慶次と学校の友人たちが同時に危機に陥ったらとしたら。学校に行くなら、それは十二分にあり得ることだ。

 そのとき、椿は一体どうするつもりだろう。

 自分だけを助けるのか。それとも、他のみんなも助けるのか。

 

 

(分からねぇ)

 

 

 確かに、彼女の中核を成すものはフレイムヘイズとしての使命。友人たちの生命が使命に引っかからない限り、助けるという手段は講じないだろう。だがしかし、おいしそうにミカンを頬張るなど、彼女にも人間らしさ(本人は否定するかもしれない)があった。そういう一面を知っている慶次には、助けないと断ずるには少々椿と触れ合い過ぎている。

 

 

(もしかしたら、家で椿と一緒にいるのが安牌かもしれないが――)

 

 

 慶次には大切な人がいる。彼らの無事を電話で確かめる事もできるだろうが、やはり自分の目で見て安心したいと言う想いもある。椿の行動の如何はさておき、今は自分の目で見て街に異常がないか確認したかった。

 

 

「もっとほら……『あの非効率な教育機関?』とか、『懐かしいわね。卒業して何年になるかしら……』とか、『給食食べたい』とか、色々あるだろ?」

 

 

 慶次は会話を続けるために、適当に質問を投げかける。

 

 

「私ね、さっきから喧嘩売られてる気がするんけど、そう受け取っていいのよね?」

「んなわけないだろ! 俺は神経細いけど、デリカシーないので有名なんだぜ!」

「堂々と言わないでよ、馬鹿」

 

 

 椿は冷めた視線を慶次にぶつけ、これ見よがしにため息を吐いた。

 

 

「ガッカリしたのは分かったよ! それで、何か学校に思い入れとかないの?」

「そんなに答えてほしいわけ? 別にいいけど。で、学校についてだけど、行ったことないから何も言えなかっただけよ。だから、非効率かどうかも分からないし、懐かしくともなんともないわ」

 

 

 学校へ行ったことがない。

 慶次は妙に納得した。 

 目覚めたとき、部屋がカンカンに冷え切っていた。

 炬燵をあんなにも気に入っているのに、慶次が入るまで提案さえなかった。

 会話も、慶次から投げかけられない限り、自分から話そうとしない。

 時に非常識とも取れる態度は、自らが選択したのではない。そういう態度しか、知らないのだとしたら。

 学校へ通っていないのならば、彼女の常識が欠けているのも頷ける。

 非常識だからといって、非情であると慶次は断言はしない。

 例えば、椿はここへ駆けつけたとき、燐子の討伐を後回しにし、慶次の救出を優先させた。あれだけの力があれば、討滅を優先してもいいはずだった。それでも、真っ先に慶次の前に立った。普段の言動には現れないが、椿の行為の端々に人としての優しさもあった。

 慶次は固形食品を飲み込むと、鞄を肩に担ぎあげる。

 

 

「それじゃあ、行ってくる――っと、そうだ」

 

 

 慶次は鞄から鍵を取り出すと、椿に投げ渡す。

 

 

「これは?」

「家の合鍵だ」

 

 

 椿の人となりは分からないが、ただ一つ分かる事がある。

 それは化け物に対抗する手段が、椿だけという事実。

 例え椿が非情だとしても、決して彼女を敵に回してはならないのだ。そのためには、慶次自身が彼女の味方である伝える必要がある。そして、できれば彼女を出来る限りバックアップする。鍵の譲渡は信頼の気持ちを伝え、かつ堂森市での彼女の生活を援助するための証だった。

 

 

「ここにいるうちは、使うといい。自慢じゃないが、ここは広いし道具も多い。拠点にするには便利だろう」

「じゃあ、遠慮なく使わせてもらうわよ」

「ああ、使ってくれ。ただし、戸締りにはくれぐれも気を付けてくれよ。残念なことにリビングで二回ほど、泥棒に遭遇してことがある」

「……その言葉、そっくりそのままお前に返すわ」

「返す言葉がないな」

 

 

 軽口をたたき合える。最低限の信頼関係は築けただろう、と慶次は内心満足して椿の呆れた声音を背に、リビングを出た。



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第Ⅴ話 日常1

 外は慶次の現状を反映したように暗かった。空は厚く黒い雲が延々と立ち込め、日の光を完全に遮断し、暗さを象徴するように道に点々と配された街灯が、煌々と光を注いでいる。

 吐く息は出た傍から白くなり、寒さを表す。しかし、いつものような肌を刺すような寒さではない。宝具の効果で身体能力が向上しているせいだろうか。

 昨晩、命の危機を乗り越えた。

 いつもと違う朝。せめて、天気だけは明るくあって欲しい、と慶次はぼんやりと思う。その刹那、膝から力が急激に抜けていった。慶次はそれに逆らわず、扉に背を投げ出し、脱力。

 

 

「はあぁぁぁぁっ……」

 

 

 白いため息を、長く大きく吐き出す。

 燐子、紅世の徒、フレイムヘイズ。

 耳を疑うような情報が飛び交った。その中で、瀕死の重傷だった一介の高校生が、見事にやり切った。慶次は我ながら立派にこなしたと思う。

 

 

(我ながら、よく自我を失わずにいられるよ。ご褒美に、今日の夕飯はちっと豪勢にするかな)

 

 

 慶次は内心自画自賛しながら荒い息を吐くと、凝り固まった身体が解れていく。椿に軽口を叩いていたが、虚勢に近いものだったのかもしれない。特に、常時戦場の緊張感を漂わせる椿は、話しているだけで疲れる。最後はかなり肩の力が抜けていたが、それでも威圧感は半端ない。

 

 

「少し休みたいな……」

 

 

 思わず弱音が口からついて出て、両頬を手のひらで引っ叩く。燐子は“紅世の徒”の僕。謂わば、先刻の事態など、前哨戦に過ぎない。まだ事件の一端も解決していないし、始まってもいない。気を抜いている暇ではない。

 

 

(昨夜もそうだが弱気すぎるぞ、俺)

 

 

 少し先の事を考える。

 登校する。

 友人に会う。

 授業をこなしながら、異変について尋ねてみる。

 エネルギー補給の飲食も忘れてはならない。

 

 

(あれ? これって、いつもとあまり変わらないような気がする)

 

 

 いつも通りの日常。そこに僅か、異変が紛れ込んだだけ。

 

 

(まあ、俺は俺のできる事やるだけだな)

 

 

 頭が悪いなりに知恵を、気力を振り絞り、足掻いた結果の行動だ。不足はあるかもしれないが、悔やんでも仕方がない。

 それよりも、今は友人たちへの立ち振る舞いを気をつけなければならない。

 友人たちは慶次より遥かに優秀だ。学業から日常物資まで、何度も助けてもらっている。慶次が困難にぶち当たれば、必ず相談するし、向こうも文句を言いながら助けてくれる。それだけの信頼関係もある。

 だが、今回は違う。信頼の有無ではない。能力の優劣が問題ではない。“人間”では駄目なのだ。『フレイムヘイズ』もしくは、それに準じる者でないと敵わない。あくまで、“人間”である友人たちでは役に立たず、危険に身を晒すだけである。

 

 

(あいつらには、絶対にバレちゃいけない。これだけは肝に銘じておこう)

 

 

 慶次が密かに決意する。

 そこへ突き刺さるような鋭く冷たい声が掛けられた。

 

 

「そんなところで何をなさっているんですか?」

 

 

 セーラー服の少女が格子状の門を僅かに開け、隙間から顔を覗かせていた。間違いなく美人と分類される容貌、吊り上った二つの双眸が慶次を睨む。何してんだ馬鹿! と怒っているのではなく、これが彼女の素面である。

 

 

「……おはよう、美代」

「おはようございます、慶次さん。体調の方は……まだまだのようですね」

 

 

 慶次が挨拶をすると、刺々しい声で体調を気遣ってくれる。本当は慶次の不調にいてもたてもいられないのに、こういう言い方しかできない。相変わらず感情表現が苦手だなと思う。

 新発田 美代(しばた みよ)

 隣人であり、幼馴染であり、クラスメートでもある少女は慶次が上げた優秀な友人の一人。

 慶次が住む旧市街地――堂森市南部の平野部――の学生は、堂森高校のある新市街地――こちらは近年開発された堂森市北部の山岳部――にあるため、一度最寄りのバス停に向かう必要がある。隣人の美代とは同じバス停に向かうため、一緒に登校するようになっていた。家族のいない慶次にとって、最も多く時間を共に過ごす人物であると同時に、最も“注意すべき”相手でもある。

 慶次は服に付いた汚れを払いながら立ち上がり、美代を見やる。

 何の感情も篭っていない様な冷たい眼差し。しかし、その奥に熱っぽいものがあると、慶次は知っている。

 

 

(早速、最大の難関が来たな)

 

 

 ずばり言ってしまうと、美代は慶次が好きなのだ。慶次の様子がいつもと僅かでも違えば、異変に気づかれてしまうかもしれない。

 

 

(まあ、美代でも数時間で異変に気付くなんてことないよな)

 

 

 とはいえ、美代と共に過ごす時間は数時間。彼女が“十年に一度の天才”などと囃し立てられるほど優秀でも、すでにいつも通りに動けるようになった慶次の異変に気付けるだろうか。

 だが、何を切っ掛けに気づかれるか分からないので、いつも通り接することを慶次は心得る。

 

 

「そんなところで何をなさっていたんですか? もしかして、まだ学校へ行くには体調面で不安があるのでしょうか?」

「別に。ちょっとボーっとしてただけだって」

「そうですか。それで、そのバットは……?」

「今日、体育あるだろ。せっかくだから、今年最後の授業は野球にしようと思ったんだ」

「どうしていきなり野球なんですか? というか、病み上がりに体育はやめた方がいいと思います」

「部屋の掃除してたら昔の野球ゲームが出てきて、それを見てるうちにやりたくなったってところ。まあ、体調の方は良くなったんだからさ、今年最後の体育なんだ、大目に見てくれよ」

「うーん……」

 

 

 美代は小さな口から唸り声を上げると、豊満な胸部に垂らしたサイドポニーを指で梳く。彼女が考えるときの仕草だ。慶次の言動に何かしらの疑問を持ったのかもしれない。

 あくまでも、不自然なところがないように振る舞い、美代の隣に立つ。その間、美代は疑惑の眼差しで慶次を食い入るように見つめていた。

 腕時計を見る。そろそろ、バスが到着する時間だった。

 

 

「急ごうぜ。このままじゃ、バスに遅れちまう」

 

 

 慶次は考え込む美代を促す。絶対に秘密が漏洩し得ないが、何がきっかけで気が付くか分からない。早急に思考を中断させて、損はない。

 そう判断したところへ一言。

 

 

「怪我をしていますね、慶次さん」

「っ!?」

 

 

 慶次の覚悟をあっさりと破壊する一言を、美代は告げた。

 

 

(なななな、なぜバレた!? 仕草、態度、口調!?)

 

 

 内心の動揺を何とか抑え込み、表面上は平静を保つ。が、打開策は何も見つからない。そもそも、弁舌で彼女に勝てる見込みはゼロ。このままでも、こちらが口を割ってしまう可能性さえある。

 

 

「……何を言って、」

「まず、一つ」

 

 

 冷静さを装い返答する慶次を遮り、美代は指を一つ立てる。慶次は中断させることもできず、美代の言葉に耳を傾ける。

 

 

「腹部の筋肉や皮膚を伸ばさないように背筋を曲げています……三ミリほど。それも、不自然な形で。そこから、腹部を庇うような動作だと判断しました」

「いやいやいやいや!? 三ミリとか誤差でしょ!? んな、判断するなよ!?」

「三ミリは冗談ですが、いつもより背筋が曲がっていたのは確かです」

「いやいやいやいや!? そもそも、どうしてお前が俺のいつもの姿勢を記憶してんだよ!?」

「それで、二つ目ですが」

「おい、無視すんな!」

 

 

 美代が二本目の指を立てる。

 

 

「隣に立つだけで、消毒液の匂いがしました。包帯にでも消毒液を染み込ませたんですか? 何にせよ、大量の消毒液を使用しなければならない状況なんて、負傷以外考えにくいです」

 

 

 あまり気にしていなかったが、確かに消毒液特有の刺激臭が鼻孔を突く。

 咄嗟に、椿がアラストールにぶーたれて、慶次に包帯を巻く光景が思い浮かぶ。おそらく、一々傷口を消毒するのが面倒だったのに加えて、彼女には細かな作業を行う器用さが足りなかったから、こんなことになったのだろう。ついでに言うと、ガーゼ等は使用しておらず、包帯の巻き方がとても下手である。実際、宝具の効果で傷口は隠す程度で良かったが、今はその不器用さと処置を恨めしく思う。

 その間も、演説のように美代は朗々と述べる。

 

 

「そもそも、慶次さんは野球経験がお遊び程度ですし、学校の備品は必要数以上揃えられています。“やりたいからバットを持っていく”なんて不自然です。そうなると、バットを持参する理由も変わってきます。持ちやすく振りやすい、持っていても不自然じゃない、などバットの特性から考えますと、例えば……」

 

 

 美代は一旦声を切り、大きく息を吸うと、

 

 

「護身用」

「ぶっ!」

 

 

 確信をもって美代は言った。その確信に満ちた言葉と態度が、殊更慶次に動揺を与える。暑くもないのに、額から汗が噴き出す。

 

 

「当たってますか? それとも、外れていますか?」

(当たりまくって逆に怖いわ! お前は俺に盗聴器でも仕掛けているのかよ!?)

 

 

 家を出て数歩で、負傷が漏洩されかけている。油断がなかった、とは言わないがここは素直に美代の洞察力を褒めるしかない。

 

 

(どうする!? 考えろ、俺!)

 

 

 美代が慶次の小さな変化に気付けたのは、彼女が慶次の事を気にかけているからこそだ。それ自体は本当に嬉しく思うが、皮肉にも悩みの種を増やす結果になっている。

 悪意のない善意。だからこそ、誤魔化しの効く状況ではない。しかし、真相を話すわけもいかないし、何より彼女を事件に巻き込む事だけは絶対に避けたい。

 幸いなことに、美代の証明は状況証拠のみ。学ランの下、“徒”による斬撃の跡さえ見つからなければ、美代の妄言で片付く。美代も証拠がない以上、そこまで強硬手段には打って出ないだろうと思――。

 

 

「慶次さんが素直に口を割らないので、今から警察……いえ、この場合救急車ですか? とにかく、通報してきます」

「ちょっと待ってくれませんか、美代さん!?」

「嫌です」

 

 

 訂正。こちらの事情をおかまいなしで、公的権利を発動させてきた。普通なら間違った時の事を考え、証拠が揃うまで控えると思うのだが、彼女にそういった想像は皆無なのであろう。

 天才少女に失敗はない、という事か。何にせよ、慶次の意に反した行動であり、止める必要がある。

 慶次は美代の前に立ち塞がり、進路を塞ぐように身構える。が、美代は予想に反し慶次を避けるのではなく、逆に掴みかかってきた。

 

 

「捕まえた」

 

 

 美代の口角が持ち上がり、鋭い眼差しが冷笑に染まる。

 捕まえた理由は慶次の負傷箇所を調べるためだろう。嵌められた。それも、とても単純な手管で。

 精神的に疲弊した所に次々と仕掛けてくる美代の容赦のなさに泣きそうになる。それでも、素直に傷を見せるわけにはいかないので、学ランのボタンに差し掛かった美代の手を引っ掴む。

 公道のど真ん中で、慶次と美代が睨み合う。

 

 

「いい加減諦めたらどうですか? 今、あなたが抵抗していることが私の言葉が正しいという何よりの証左なんですよ」

「往来で脱がされそうになったら、抵抗するのは当たり前だろ!? この手を離せ変態!」

 

 

 火花を散らす二人。美代が攻め、慶次が防ぐ。言い争いながら、手と手が激しくぶつかり合う。

 

 

「慶次さんの身のためなら、変態の称号も甘んじて受け入れましょう。それでは、とっとと脱いで下さい」

「俺にも僅かながら矜持があるんだよ! お前は良くても、俺は全然良くない!」

「大丈夫です。女の子に簡単に捕まってしまう男の子に、プライドなんてないようなものですから。大人しく脱いで下さい」

「お前は言ってはならないことを言ってしまったな……」

 

 

 お互い段々と引っ込みがつかなくなり、目的がどうでもよくなってくる。最早、どうにかして払う、もしくは吐かせる事だけに没頭する。

 互いの声が、近所迷惑のレベルに引き上げられる。

 

 

「脱ぐわけがないだろ、この変態娘が!」

「いいから、脱いで下さい!」

「何だその言い草! 最早立派な変態だな!!」

「黙って下さい! そして、脱げ!」

「脱ぐか!」

「脱げ!」

「脱がん!」

 

 

 段々と膠着状態になっていく中途、

 

 

「……何時までやってるのよ」

 

 

 そこへ割って入るように、呆れきった声が掛けられる。

 

 

「「うわっ!!」」

 

 

 互いに他人の目を気にする程度の羞恥心は残っていたのか、弾かれるように離れた。

 二人して声の方角……慶次宅を振り向くと、フレイムヘイズの少女が今日何度目か分からない呆れかえった瞳で慶次を見ていた。

 声を掛けたのは彼女なりの手助けだったのだろう。

 

 

(いや、今はそれよりも――!)

 

 

 一人暮らしの男性宅から、少女が出てきた。これが、第三者から見た事実だ。そして、そこからどんな推察をされるか。考えるだけで恐ろしい。

 慶次は恐る恐る美代を見ると、彼女の目尻から滴が零れ落ちていた。

 斜め上の事態に慶次は狼狽する。

 

 

「えっ、ちょ、いや、なんで泣いて、」

 

 

 原因は間違いなく、椿であることは分かる。もしかして、生き別れの妹? などと現実逃避しながらも、慶次の中にはすでに一つの解が見つかっていた。

 

 

(こ、こいつ、絶対勘違いしてやがる!)

 

 

 椿とは“そういう”関係ではないと言うのは簡単だ。だが、美代は必ず言葉の証明を求める。椿との関係を証明すれば、自ずと慶次の傷と“この世の真実”に触れることになる。それだけは、絶対に阻止しなければならない。

 嘘を吐けばいい、などと思うかもしれないが、それが簡単ではない事は、今しがた美代の推理力で証明したばかり。

 慶次はどうすればいいのか分からなくなり、結果、黙することしかできなかった。

 張りつめた空気。

 先に動いたのは美代であった。

 

 

「慶次さん……!」

 

 

 美代は震える唇で涙声を無理やり絞り出すと、身を翻し駆けだす。

 

 

「やっぱりロリコンだったんですね!!」

「この状況で、どうしてそういうことを真っ先に口走る!?」

「こんな事になるなら、あの時あの本を燃やしておけばよかった!!」

「酷い捨て台詞……って、おい!!」

 

 

 美代の後姿が遠のいていく。

 酷い置き土産を捨て置き、去って行きやがった。

 慶次は美代を追いかけなかった。

 言葉が見つからない、というのもあるが、先に誤解を解くべき人が一人――否、二人いるためである。

 

 

「…………」

「嘘! 美代の言ったことは嘘だから! お願いだから黙って距離を開けないでくれ!」

「本当にそういう趣味はないんだな?」

「アラストールまで言うか!?」

 

 

 本気で懸念するアラストールに慶次は本気でへこむが、落ち込んでいる暇はない。

 椿の性格を考えれば、足手まといの上、変態となれば最小限の接触以外禁止と言われかねない。最悪、護衛さえ打ち切られる可能性もある。

 

 

「…………」

(うわっ、その目は噂に聞いたアレか)

 

 

 黙する椿が、ゴミを見るような目で慶次を見下す。ちょっと死にたくなった。

 

 

「誤解! 全部誤解だから俺の話を聞いてくれ――」

 

 

 遅刻を覚悟して、慶次は二人の誤解を解きに掛かった。

 




見つけた本はC〇mic L〇


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第Ⅵ話 日常2

 一時間目。

 学校指定のジャージを着た慶次は顔に色濃い疲労を滲ませ、堂森高校の広いグラウンドにいた。自然と口から溜め息が漏れる。

 思い出されるのは、連鎖的に勘違いを起こした主に二人の少女についてである。

 椿(とアラストール)に関しては遅刻ギリギリまで時間を使って、何とか誤解は解けた。そこに至るまでに、精神的に大事なものを色々と失ったかもしれないが、自分の命は拾えただけマシである。

 次に美代だが、こちらはあまり状況は改善されていない。むしろ悪化したぐらいだった。

 あれから、美代は泣いたまま登校した。何名かは途中で呼び止め泣き止まそうと慰めたらしいが、治まったのは教室に着いた時。結果、彼女のあられもない姿は通学路から教室に至る各所で目撃された。加えて、目撃証言を集積し泣いた原因が慶次だと割り出されてしまった。

 つまり、慶次が美代を泣かせたことは校内で周知の事実となっていたのだ。

 学校生活を送る上で、これだけでも大問題なのだが、事態はここからさらに荒れる。

 問題になったのは慶次の行動だ。

 慶次は椿を優先した。命の危機があったとしても、結果的には美代を放置した形になった。冷静になっていく美代の頭には恐らく、嫉妬とも失望とも取れる感情が渦巻いたのだろう。泣き止んだ十数分後『私よりもあの子どもの方が大事なんですね』と呟いたとか。当初こそ悲壮感を漂わせていたはずが、いつの間にか殺気に変わっていたらしい。

 堪らないのは、クラスメートたちだ。事情は分からない、犯人は分かっている。なのに、殺気だけはヒシヒシと当てられる。理不尽だった。だが、それも奴が登校するまで。後は、放たれた殺気は全てそいつに集中するはずだ。クラスメートの大半がそう判断し、慶次の来訪を今か今かと苛つきながら待ちわびたであろう。

 しかし、このとき慶次は椿の誤解を解くのに必死で、実際に登校したのは始業時間ギリギリであった。よっぽど怖かったのか、慶次が教室に入るなり、青い顔でタコ殴りにされた。あれは色々な意味で恐怖を感じた。

 今は街の異常を確認する、など悠長にしている状況ではなく、兎にも角にも美代をどうにかしなければいけなかった。

 

 

(美代の誤解を解かないと、“この世の真実”がバレるかもしれない。でも、下手に嘘を吐くと朝みたいに芋づる式にバレるかもしれない。……どうしろっちゅーねん)

 

 

 ちなみに、今年最後の体育は美代の『ソフトボールをしましょう』の一言でソフトボールになった。多分、というか絶対、慶次に対して気を遣った。慶次のバットに気づいた数名が、迷わず蹴飛ばしてきたので間違いないだろう。

 

 

「それじゃ、私が独断と偏見でチームを決めるわよー」

 

 

 準備がひと段落したところで、黒縁メガネの少女が手を叩く。クラスの仕切り屋・奥村 福子(おくむら ふくこ)が、勝手に二つのグループへ分けていく。幾名かは文句を垂れるが、授業の時間は限られておりチーム分けに時間を割く暇などない。分け方も交友関係、野球経験、そして美代と慶次は分断、とバッチリな分け方だったため、反対意見はほとんど上がらなかった。

 後攻のチームがグラウンドに散らばる。

 慶次のチームは先攻。とりあえず、打順と守備位置を適当に決めて各々がくつろぐ。

 

 

「……で、何でお前たちは俺の周りを囲んでるんだ?」

 

 

 その端、慶次の周囲をずらりとクラスメートが囲んだ。

 

 

「おいおい、惚けてんじゃねーぞ?」

 

 

 ジャージをだらしなく着飾った大柄の青年、佐久間 正守(さくま まさもり)が仰々しく答えた。モデル顔負けの整った容貌とスタイルのせいか、むしろカッコよく見えるから腹が立つ。

 

 

「まあ、私たちにもそろそろ新発田さんが泣いていた訳を……いえ、どうして泣かせたのか教えて欲しいわけよ」

 

 

 と黒縁メガネの福子が続け、

 

 

「ケイくんお腹空いたの? 朝から一杯食べて元気イッパイだねー」

 

 

 超小柄(身長百三十五センチ)で天然娘の笹 成実(ささ なるみ)が流れをぶった切るが、いつも通りなので誰も突っ込まない。ちなみに、慶次は固形保存食をすでに一ダースほど食していた。宝具使用のカロリー消費量は予想以上に激しい。

 それはともかく、成実を除いたチームメイトが、美代に何をしたのかそろそろ説明しろと迫ってくる。

 

 

「……説明と言っても、どう説明すればいいものか。そもそも、俺が泣かせたわけじゃないし」

「あんたの意見なんか訊いちゃいないの。いいから、とっとと説明しなさい」

「どうせ、お前がいつもの朴念仁っぷりを発揮したんだろ? 詳しく話せ、俺らがお前に代わって適切な対処をしてやる」

「いや、話し合えば絶対に分かってくれるはずだ! それで駄目だったときは、相談させてくれ!」

 

 

 説明しろ、との級友たちの言葉を慶次は跳ね除ける。もちろん、“この世の真実”を知らせないためである……のだが、それ以上に彼らに知られてはならない事があった。

 それは椿に生活スペースを提供している事である。

 

 

(椿の外見はまんま小学生。もし、こいつらに椿が家に住んでる事がバレたら……社会的に死ぬ!)

 

 

 せめてボン、キュッ、ボンのお姉さんだったら……と思ったら、なぜか背筋が冷えた。この思考は危険だと、頭の隅から追いやる。

 そんな頑なに拒否する慶次に、福子が即座に言い返す。

 

 

「はっ? 泣かせたあんたが言っても全然説得力ないし。それにこっちは迷惑してんだから、早いとこ解決したいの」

「でも、」

「でもじゃない。話しなさい」

「いや、だから、」

「どうしてあんな献身的な子を泣かせたのよ」

 

 

 取りつく島もない、とはこのことか。福子はピシャリと慶次の反論を叩き潰す。どうしてこうも気の強い女性ばかり集まるのか。女性恐怖症になりそうな慶次だった。

 

 

(ん? 今こいつ、何て言った?)

 

 

 慶次は福子が自然に漏らした言葉が引っかかった。

 献身的な子。普通に考えれば、いつも無表情と無関心を貫く美代が受けるには、有り得ない評価である。ただし、美代の好意に気づいていれば、その限りではない。

 もしかしたら、彼女たちは美代の気持ちをもっと以前から知っていたのかもしれないのではないか。

 慶次は疑問をそのまま口にする。

 

 

「つかぬことを伺いますが」

「何よ?」

「美代って俺の事、好きだったり、ぐえぇぇぇっ!!」

 

 

 クラスの半数が一斉に慶次を蹴っ飛ばして、発言が途切れた。

 

 

「ご、ごめん! そんなわけないよな、美代のような才色兼備の美少女が俺の事なんて、ぐえぇえぇええええええぇぇっ!!」

「死ね! 今すぐ死ね!!」

「ギブっ! ギブアップだって!! つーか、お前ら見てないで助けてぇぇぇっ!!!」

 

 

 福子が慶次の腕を極め、クラスメートが可哀想な奴を見る目で慶次を眺める。

 この態度、この表情。

 慶次はようやく、美代の好意が周知の事実だったと気づかされる。

 

 

「えっ? ええっ!!?」

 

 

 成実も慶次と同じく埒外の事だったらしく、オロオロと取り乱す。

 その間も、クラスメート(成実を除く)執行人による公開処刑が続く。

 

 

「さっきの発言は取り消す! 取り消すから!!」

「ふんっ、少しは反省した?」

「反省し、いでででででっ!!!!!?」

「まあ、いいでしょ」

 

 

 ひとしきり痛めつけたところで慶次は解放された。息も絶え絶えになりながら、反省のほどを示すために正座になった。

 その情けない姿を、圧力を増した包囲網(成実を除く)の内で晒す。

 正直、なぜこれだけの人数(成実を除く)が気づいたか、慶次には不思議でならなかった。

 美代は頭もいい。容姿もスタイルも申し分ない。その反面、感情の表現方法が非常に不器用であった。常に無表情を貫き、端的で無駄に丁寧な言葉遣いが、気遣いではなく距離を感じさせる。ゆえに、初対面の人間では好意どころか感情の一欠けらさえ理解できないことも珍しくない。

 美代から、なぜ好意を読み取れたのか。

 どうして自分(成実を除く)が既知なのか知りたくなった。

 

 

「そんなに、美代って分かりやすかったか?」

「お前はまだそんなことを言うのか」

 

 

 呆れ顔の正守に続いて、他のクラスメートが続けてため息を漏らす。彼らにとって、手に取るように分かった、とでも言いたいのか。

 

 

「そうなのか?」

「そうなの?」

 

 

 この中で唯一、慶次と同じ認識を持つ成実が、慶次と同じ疑問をぶつける。

 その二人に対して、正守が何時も以上に仰々しくキメる。

 

 

「どうしてもこうしてもないだろう! 毎朝一緒に登校し! 昼も一緒に食べて! 放課後は一緒に勉強! そして、どんな時間でも下校も一緒! 毎日朝から晩まで一緒にいて、そう思わない方がどうかしてる!」

 

 

 クラスメートたちも頷いて同意を示す。

 反対に慶次と成実は首を傾げ、疑問を表す。

 

 

「それって、友達同士でもやってることだろ。どうして、それが好意に結びつく?」

「ケイくんの言うとおりだよ。私だって、全く同じことマサくんにやってもらってるけど友達だよ。そうだよね、マサくん?」

 

 

 成実の言葉に、正守が固まる。

 空気が、雰囲気が、おかしくなる。

 

 

「マサくん?」

「っ……、いや、その……何と、言えばいいか」

「えっ、ちょっと、ええっ」

 

 

 言い淀む正守と、狼狽する成実。

 羞恥からか二人の顔は常の三倍は赤い。それでも目線は決して離さず、成実の艶っぽい視線と、正守の優しい眼差しが絡み合う。

 二人だけの世界。

 先刻まで会話に関わっていたはずの慶次が、一瞬で蚊帳の外に吹き飛ばされていた。

 

 

(う、動けない……! これが噂に聞く封絶か!? 人間も使えるたぁ、驚いた!)

(変な事呟いてないで、どうにかしなさいよ!)

(そう言われても、どうやってあの空間に割り込めと?)

 

 

 慶次が指差した先では、全く要領の得ないやり取りが繰り広げられる。

 

 

「その、だな……」

「……ぁ」

「ぅ…………」

(何よ、この馬鹿なやり取りは!? 甘ったるくて鳥肌が立ったじゃない!!)

 

 

 福子がジャージの裾を捲ると、そこは確かに鳥肌が立っていた。正直、気持ち悪いから見せて欲しくなかった。

 

 

(痒い! 背中が痒い!! ああ、これだからクリスマスが近づくの嫌なのよっ!!!)

(お前は恋人のいない三十路手前のOLかっ!?)

(彼氏いなくて悪いか! 彼氏がいるとそんなに偉いのか! 彼氏いない歴=年齢で悪かったわね!!)

 

 

 段々と福子が壊れてきた。周りも福子と似たような反応を示し始めている。そろそろ事態の収束を図らないと、色々とまずい。というか、“紅世”の面倒事まで背負いたくない。

 慶次は福子の指示通りに、二人をどうにかしようとする。

 

 

(どうしてあの二人はこうも平然と自分たちの世界に浸っていられるんだよ……)

 

 

 慶次は軽く嘆息すると、周囲を見渡す。ちょうどバッターボックスでは、元野球部の井村が三振を喫していた。

 まだ打順は決まっていなかったので、次は正守の番ということで声を掛ける。

 

 

「次、正守の出番だぞー?」

「…………」

「正守!」

「……成実」

「無視だよ……」

 

 

 普通に無視されてちょっと本気で泣きそうになる。このままでは、慶次も福子のようにな壊れちゃう。

 

 

(――逃げよう、この嫌な空間から。つーか、いつの間にか呼び名が『成実』に変わってるし)

 

 

 幸い、バッターボックスが空いている。球技に夢中になれば、あの空間から離れられるはずだ。心の安寧を得られるはずだ。

 慶次は嬉々としてバッターボックスに向かい、バット型の宝具を構える。そういえば、尋問をされていたため、敵チームについて全く把握していなかったことを思い出す。

 

 

「俺のマイバットの被害者第一号は誰だー?」

「新発田美代です。……被害者になるかは分かりませんが」

「うえっ!?」

 

 

 返ってきた声に、慶次はギョッとマウンド上に目を向ける。髪を後ろに一纏めにしたジャージ姿の美代が立っていた。全身に闘志を漲らせて、右手の白球を力強く握りしめている。もしかしたら、選択肢を間違ったのかもしれない。

 

 

「おはようございます、慶次さん」

「お、おはよう、美代さん」

 

 

 なぜか挨拶から始まった。

 

 

「今朝は取り乱してすいませんでした。正直、今朝の私どうかしていました」

「そうか。分かってくれたなら、いいんだ」

「そういうわけで、この勝負で負けた方が相手の言うことを三つ聞くというのはどうでしょうか?」

「どういうわけだよ!? 全然脈絡がない上に三つとか多いよ!?」

「慶次さん、あなたには『はい』か『イエス』としか答えられません。さあ、どうしますか?」

「どうしますか、じゃないよ!? それ、答え決まってるだろ!?」

「あ、そうですね。それでは、勝負を始めましょう、慶次さん」

 

 

 どこから取り出したのか、マウンド上の美代は滑り止めをたっぷり右手に塗りたくる。

 慶次はため息を吐いて、美代の気持ちを慮る。

 

 

(ったく、どこまで献身的なんだよ)

 

 

 本来なら、何が何でも慶次を病院に叩き込みたい美代。だが、慶次が無意味に怪我を隠すとは思えない。けど、怪我を見過ごすようなまねはできない。ならば、“勝負”という形で無理やり自分を納得させてみろ。

 一見、無茶苦茶と思える美代の提案は、思いやりと信頼、そして葛藤の末の結論なのだ。

 

 

「後でエロい命令されて泣くんじゃねーぞ」

「安心して下さい。短パンと白長靴下を履くのは慶次さんですから」

「何だよ、そのマニアックな要求は!? 俺の事、ロリコンとか言いながら、お前がバリバリのショタコンじゃねーか!?」

 

 

 互いに軽口を叩き合い、慶次は右バッターボックスへ、美代はワインドアップポジションにつく。

 突然始まった勝負に、(正守と成実以外の)クラスメートの心に火がつく。

 

 

「新発田さん、負けないでー!!」

「美代ちゃーん! 頑張って前田君の短パン姿を私たちにも見せてー!!」

「「見せてー!!」」

「新発田さん、前田をぶっ殺せ!!」

「前田氏ね」

「お前ら、少しは俺も応援しろよ!? つーか元演劇部三人娘、あの要求は絶対お前らの影響だろ!?」

 

 

 受験勉強のストレスが溜まっているせいか(と信じたい)、ほとんど慶次の罵倒ばかり飛ぶ。それよりも、ショタ好き元演劇部三人娘……彼女たちには、これ以上美代に変な事を言い含めないよう、しっかり話し合いをする必要がある。

 そんな事を慶次が考えている間も、美代はどこ吹く風、無表情のまま小さく身体を沈め、大きく踏み込み腕を回転させながら上半身を捻り上げ、地面を蹴る。

 激しい上下運動で美代の大きな胸部が跳ね上がる。

 刹那、

 

 

「――」

 

 

 ズドン! と。

 揺れた……ではなく、投げた、と思ったときには、すでにキャッチャーミットにボールは収められていた。

 遅れて審判(体育教諭)が若干引き気味にストライクを告げ、キャッチャーの元野球部主将・長島君がお世辞なしに『すげぇ……あ、胸じゃねーぞ?』と呟く。

 勝負を仕掛けたのは、美代の気遣いだと思った……さっきは。

 だが、これは――。

 

 

(あいつ、どうあっても俺の口を割るつもりだ!)

 

 

 ボールを受け取った美代が無表情で口の端を吊り上げる。気遣い? 何それおいしいの? と言わんばかりの態度。訂正、美代はどうあっても慶次を病院送りにするつもりだ。

 そもそも、慶次は今朝『野球をやりたい』と言った。それがいつの間にか、『ソフトボール』になっている。

 美代は自分が得意で、かつ不審に思われにくいソフトボールを選択したに違いない。

 

 

(ちくしょー! 嵌められた!)

 

 

 ソフトボール部でもないのにウィンドミル投法とか、高校体育のレベルじゃない。最早、手心を加えてくれるとか、男女の身体能力差とか考えて、勝てる状況ではなかった。

 スイングはコンパクトに、力強くをイメージ。慶次は警戒レベルを最大まで上げ、バットを短く構える。

 二球目。

 美代の腰が小さく沈み、再び剛速球が飛んでくる。だが、今度は一球目のように胸は見ない。心の眼で揺れたと確信し、ボールだけを見る。

 軌道はど真ん中。慶次は鋭く、早くバットを振る。

 が、バットはボールの軌道の遥か下で――、

 

 

「――っ!?」

 

 

 再びズドン! と。

 慶次のバットは大きく空を斬り、捕球音が鳴り響く。

 真ん中だと確信して振ったのに、ボールはその上。

 美代はソフトボール特有の“浮く”変化球『ライズボール』を投じていた。

  

 

(……もしかして、もう詰んでる?)

 

 

 カウントは2ー0。あと一球でもストライクを取られたら、慶次の完全敗北。

 ウィンドミル投法、ライズボール……何でそんな事ができるんだと問い詰めたいが、そういえば、美代は運動も天才的だった事を思い出す。天は美代に二物どころか、三物も百物も与えていたのだ。冷静に考えれば、美代と勝負をして勝てるわけがなかった。

 でも、負ける訳にはいかない。美代を、理不尽な事件に巻き込む訳にはいかない。しかし、勝てる要素はない。

 

 

(どうする!? どうする!?)

 

 

 “徒”に追い詰められても、冷静さを失わなかったくせに、慶次はどうでもいい勝負には弱い。

 追い詰められたせいか、あっという間にテンパり――。

 

 

「美代っぱい!」

「!!?」

 

 

 人として大事なものをぶん投げた。

 美代が受け取ったボールを無表情で溢し、動揺を示す。

 

 

「ななななな、何を仰ってるんですか!? れれれれれえ冷静になってくだらしゃい!」

「いやー、投げるたびにぶるんぶるん揺れるね、美代っぱい! そんなに揺れて痛いだろ?」

「ななななな!? 何でそれを知って……!?」

「適当に言っただけなんだけどなー」

「うるさい! うるさいですよ、慶次さん!」

 

 

 もう色々吹っ切れたのか、いい笑顔で恥も外聞もなくセクハラをしまくる慶次。対して、人一倍羞恥心の強い美代は、男子の視線を意識して胸を左手で隠す。落ちたボールを拾おうとするが、何度も何度もお手玉をしてしまう。

 

 

「そういや、何カップになった? おばさんが庭にブラジャー干してるとき、『私よりも大きくなって……恨めしい!』って言ってたぞ」

「~~~~~~っ!! そうやって、私を動揺させようとするなんて最低です!」

「負ければ短パン勝てばヌードなんだ。勝てれば最低でも結構!」

「くっ……! 清々しいほどの下衆っぷりですね! っというか、ヌヌヌヌードって、どうしてそんなことになってるんですか!? 幾らなんでも、そんなことまでしません!!」

「しょうがねぇ、絆創膏まで許してやる」

「意味が分かりません!!」

 

 

 ボールを拾うまでの間も、慶次は美代を言葉責めをする。

 無論、この非道を外野(特に女子)は黙っていない。

 

 

「前田君の変態!」

「外道!」

「新発田さんを苛めるな!」

「慶次……さすがの俺らも、ドン引きだ」

「はっはっは! 女子の黄色い声援が心地良いよ!」

 

 

 もちろん、慶次はもう色々とはっちゃけてるので今はノーダメージ。後でボコボコにされる事も忘れて、悠々と打席に立つ。

 

 

「この一球で仕留めます!」

 

 

 ようやく拾って投球モーションに入るが動きに切れはなく、ボールは大きくアウトコースに外れた。

 

 

「この一球で仕留めます! だって――」

「……ぅぅ」

「あっ」

 

 

 慶次はさらに煽ろうとするが、いつの間にか無表情で涙目になっていた。

 普段はもっと打たれ強いのだが、どうも美代は慶次限定で打たれ弱いのだ。好意を持っているからなのか、それとも単に相性が悪いのかは分からないが。

 それはともかく勝負とはいえ、慶次が美代を再び泣かそうとしている。クラスメートは冷たい視線を慶次に全身を滅多刺しにする。

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

 やりすぎたと思い、謝りながらバッターボックスに立つ。無論、これ以上の煽りとセクハラは禁止だ。

 ごしごしと目を擦る美代。それだけで立ち直れるわけもなく、続けざまに投げた球も大きく外れ、あっという間に2-3となった。

 

 

(やっとここまで漕ぎ着けたか……)

 

 

 美代もようやく熱が冷め、再び滑り止めを右手で弄ぶ。

 もう失投は期待できそうにないし、慶次も平静を取り戻したせいか、セクハラする気も起きない。おそらく、次の球で勝負が決まるだろう。

 今回の勝負、自力の差は明白。真っ向勝負は分が悪い。

 だが、競技はソフトボール。塁にさえ出れば、慶次の勝ちだ。

 

 

(悪いが、どんな手段を使ってでも、勝たせてもらうぞ)

 

 

 ならば、取るべき策は奇襲。相手の意表を突けば、塁に出る確率はぐんと上がるはずだ。

 

 

「スタンドに叩きこんでやる!」

 

 

 投げる前、強気な発言をして美代の闘争心を煽り立てる。ついでに、大物っぽく大仰に

バットを構える。口で、態度で、お前のボールを打ってやると、挑発する。

 しかし、これは擬態。美代が逸って打ち取りに来たところ、バントでいなし出塁する算段だ。

 口は、態度は、堂に入ってるだけに、残念過ぎると思えるほど見事な小物っぷりである。

 とはいえ、ギャラリーも最高潮まで盛り上がった上での慶次の口上は、非常に効果的であった。誰もが一発か三振を期待し、敵内野陣は長打を警戒し守備位置を深くしていた。

 作戦は上手くいっている。慶次がそれを確認すると同時に、美代が投球モーションに入った。

 再度、剛腕がうねり声をあげ、剛速球が投じられる。

 後は当てるだけ――そう思い、すぐさま慶次はバットを地面と平行にし、所謂バントの構えを取るが、

 

 

(ここでライズボールとか、どんだけ捻くれもんだよ!? まあ、俺が言えた事じゃないけど)

 

 

 慶次の策に気づいたのか、美代はストレートではなくライズボールを投げていた。これでは、コントロールが難しくなり、守備の深い箇所に転がしにくい。しかも、どういう訳か美代自身が前に詰めてきている。どうやら、慶次の考える事など、お見通しの様だった。

 だが、読まれているなら読まれているなりのやり方がある。美代が前に出て来るなら、彼女を躱す様に強く転がすだけだ。

 

 

(だったら――押し込む!)

 

 

 美代の手が届かない範囲に、強い打球が飛ぶように。慶次はインパクトの瞬間、力強く押し込んだ。真芯を捉えた打球は予想以上に速く強く、美代の頭上に飛ぶ。

 美代は手を伸ばそうとするが、グラブが届きそうにない。

 

 

「――っ、ショート!」

 

 

 すぐに捕球を諦め、打球方向の守備に指示を出すが、

 

 

「え、ショ、え、あれ?」

 

 

 打球は落下の気配さえみせず、そのままショートの頭上を越えていき、

 

 

「え? え?」

「ちょ――!?」

 

 

 目を白黒させる美代の彼方、外野の頭上を越えてボールはようやく落下した。

 “バントホームラン”。

 打った本人である慶次も、この事実を理解するのに数秒の時間を要した。

 そして、一瞬の静寂の後、

 

 

「新発田さん、どんまい!」

「まあ、こういうこともあるよね!」

「前田、そこは負ける所だろうが!」

「はぁっ!? お前たち、何を言って――」

 

 

 再び上がる、罵詈雑言。

 クラスメートは“バントホームラン”という非現実に歓声を上げていた。

 慶次の頭に、今朝の椿の言葉が反芻される。

 

 

(そういえば、人間は不自然な事があっても、説明できないものは結局“そういうもの”としか処理できないって、椿が言ってたな)

 

 

 慶次がマウンド上を見返す。

 唯一、現状の異常さを理解した美代が、目を大きく見開きクラスメートを見ていた。心なしか、顔色も悪い。

 

 

(まあ、“異常”を理解している美代にとって、悪い夢にしか見えないよな……)

 

 

 どこまで気づいたかは分からないが、少なくとも美代にはバレるのも時間の問題だろう。そう思った慶次だったが、美代はこの後、慶次に声を掛ける事はなかった。

 結局、慶次のバントホームランが決勝打となり、大盛況のまま今年最後の体育は幕を閉じた。




燃えろ!! プロ野球


ちなみに、時系列の問題でボールカウントはSBOにしています。


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第Ⅶ話 考察

書き溜めがないので今週は投稿間隔が空きます。
ご了承ください。


 堂森高校は進学校である。高校三年生の大半は受験生であり、十二月現在は午前授業で終了し、かなり早いが放課後となる。無論、人生の岐路に立つ受験生諸君がせっかく得た自由時間を無駄に浪費する事などなく、各々が学力の不足分を補うために、学校や予備校で学力に向上に励む。

 慶次も受験生なので、いつもなら美代に昼食を奢った後、その見返りと言う形で個人レッスンを受ける。が、現在は残念ながら事件の渦中におり、さすがに学習に時間を割く訳にはいかない。

 

 

「すまんが用事が出来たから、先に帰るぞ」

「あっ、えっ、」

「夜にまた連絡するからな」

「わ、分かりました」

 

 

 誰かに誘われても困るので、慶次は未だ呆然としている美代に、不意打ち気味に断りを入れると、さっさと教室を出て行った。

 慶次はホッと息を吐く。何か勘付いていたとしても、この世の真実を知らないに越した事はない。美代が現実を受け入れるのに時間が掛るなら、その間に慶次は進んでいくだけである。

 

 

(それじゃ、椿と合流しますか)

 

 

 廊下を早足で過ぎながら、慶次は椿との合流地点を考える。

 朝は椿が自宅から出てくる所を見られてしまい、少々厄介な事になった。余計な面倒事を背負いこまないためにも、迂闊な事はしない方が良い。

 

 

(まあ、そんなことぐらい椿も考えるだろうし……とりあえず、人が少ない場所に行くか)

 

 

 おそらく、椿は慶次に気づかれないように護衛している。椿も朝みたいなことは避けたいと思っているはずなので、慶次は兎に角人気が少ない場所を目指し学校を出た。

 堂森高校周辺は近年開発されたばかりの市街地。その多くが住宅だ。真昼間となると多くの住宅が不在となり、死角は多く存在する。慶次は死角の一つ――独身者が多く住む地区――に立った。

 しばらくの静寂の後、どこからともなく椿が音もなく現れた――汚らわしい物を見る目つきで。

 

 

「つ、椿さん?」

「変態」

「がはっ!?」

 

 

 椿は慶次に答えるのではなく、言った。言われた。

 そう、椿は慶次の護衛のためずっと隠れてついてきていたのだ。したがって、慶次が美代に重ねたセクハラの数々をばっちり見ていた。

 

 

「家でも学校でもあんなことして、頭おかしいんじゃないの?」

「ぐはっ!?」

「つまり、朝のアレは誤解じゃなかったってことよね」

「ごはっ!?」

 

 

 容赦なく椿が畳み掛ける。というか、こればかりは正論過ぎて、椿が厳しいとか無愛想ではなく、慶次が全部悪かった。 

 

 

「違うんです。これは違うんです。何かの間違いなんです」

 

 

 それでも、『私は変態です』とは素直に言うのは恥ずかしくて、慶次はみっともない抵抗を見せる。そっちの方が恥ずかしいのに。

 椿は絶対零度に冷え込んだ声音で返す。

 

 

「へぇー。どう違うのか、説明してみて」

「えっと。これはきっと、燐子にやられたときにウイルスか何かをうつされて、普通じゃなかったんです。普通じゃなかったんです」

「世界を渡り数百年、人間が己が変態行為の言い訳に燐子を使うとは……」

 

 

 慶次の言い訳に、アラストールが呆れを通り越して驚愕の声を上げた。

 妙に潔癖なところがある椿は兎も角、懐の深そうなアラストールに言われて慶次はけっこう本気で傷つく。全部自業自得だけど。

 

 

「いいじゃない、ちょっとぐらい平和を満喫したって。したって……」

 

 

 慶次は自棄になって開き直るが、そこへ椿がピシャリと一言。

 

 

「平和を満喫する事と、セクハラする事は関係ない」

「……ごもっともです」

 

 

 結局、椿の機嫌が直るまで、慶次は謝り倒すのであった。

 

 

 

 

 

 ところ変わって前田邸。慶次は昼食をとっていた。炬燵(新しい机は帰宅途中に購入)を挟んだ向かいには、椿が美味しそうにクリームパスタを頬張っている。

 あれから何度も謝った慶次だが、その度に心を突き抜ける言葉を吐かれ、ボロボロになった。でも、椿が不機嫌になったのは自分が原因である。慶次は諦めたりせず、(料理やお菓子で釣りながら)何とか彼女の機嫌を直した。そのせいで、買い物がかなり大きくなり財布が寂しいが……まあ、自業自得なので仕方ない。

 

 

「そういえば、幾つか気になった事があるんだけど」

 

 

 昼食を完食し、食後の緑茶を湯呑みに注いでいると、椿がそう切り出してきた。

 おそらく、“紅世”に関する事だろうと思い、慶次は身構えながら次の言葉を待つ。

 椿はおもむろに蜜柑を一つ引っ掴む。

 

 

「球を打った時、相当量の“存在の力”が流れてたみたいだけど、一体何したのよ?」

「何した、って言われてもな……」

 

 

 慶次が頬を掻きながら、授業を思い出す。セクハラしまくった事と、美代との勝負が予想以上に盛り上がった事しか記憶にない。正直、こんな緊急事態に何やってんだと思う。

 

 

「俺もあんな球を打ちたくて打った訳じゃないからな。無我夢中だったとしか言えない」

「じゃあ、質問を変えるわ。昨日、燐子に襲われた時と何が違う?」

 

 

 昨日。椿がいなければ、確実に命を落としていた、燐子による一方的な暴虐。

 今でも、思い出すだけで身が震えそうだった。それでも震えを堪え、昨日と今日の何が違うのか真剣に考える。

 

 

「あの時は何が何やら分からなかったし、攻撃くらってから逃げる事しか考えてなかったから……あえて言うなら、昨日は『逃げる』とか『怖い』とか“後ろ向き”に。今日は『勝つ』とか『脱がす』とか“前向き”に無我夢中になっていた……って所か」

「……ねぇ、『脱がす』とか言って、まだ反省が足りない?」

「す、すまん! つい本音を、あがっ!?」

 

 

 なお悪いわ! と慶次の顔面に蜜柑が直撃する。

 慶次が鼻を押さえながら机に突っ伏しているのをしり目に、椿はもう一つ蜜柑を取る。

 

 

「お前の言ってる事が本当なら、特定の感情に反応して“存在の力”を増幅させる可能性が一番高いわね」

「いてて……なんつーか、何でも“あり”なんだな、宝具って」

「お前の宝具が特殊すぎるだけよ。普通はそんな便利な機能は付いてない」

 

 

 早朝、珍品だと言われた宝具は、珍品中の珍品だったようだ。

 慶次は背負ったバットを流し見ながら、その重みを感じる。

 

 

「だけど、それだけじゃ俺が襲われる理由にはならないんだろ?」

「うん。それに、お前を見るついでにもう一度町の方を観察したんだけど、やっぱり一つもなかったのよね……トーチが」

「はぁっ?」

 

 

 トーチは存在の力の残り滓。言うなれば“紅世の徒”の喰い滓……世界の傷跡だ。

 トーチが一つもないと言う事は、徒は堂森市に滞在していない事になる。近隣の街に滞在してる可能性もない訳ではないが、それだと態々隣町から燐子を放って慶次を襲ったという事になり、あまりに非効率で不自然だ。

 偶々慶次を見かけて襲った、という線もあるが、それだとなぜ燐子だけが出てきたのかが分からない。

 

 

「なぁ、マジで一体何が起きてるんだよ?」

「それが分かんないから、こうして悩んでいるんでしょ」

「いや、そうだけどよ……」

 

 

 何にせよ、不可思議だった事件がさらに不可解になったという事だった。

 

 

「そういえば、お前って学生のくせに豪邸に一人暮らしよね。家族が徒が喰われたとかってない?」

 

 

 竹を割ったようなどころではない。竹を爆砕したような表現で椿が質問を剛速球でぶつけてきた。

 

 

「……仮に喰われていたとしても、もっとオブラートに包んだ言い方できないの。ていうか、くせには余計だよ。くせに、は」

「いいから教えなさいよ。もしかしたら、お前の家族が関係してるかもしれないでしょ」

 

 

 全く気遣いの一つもしない少女であった。

 

 

(まあ、教えるにはちょうどいいか。昨日から、拝んでなかったしな)

 

 

 家族の事を説明すると、必ず気を遣われる。慶次は一応、家族の事は整理できているので、そういう気遣いは個々苦しいだけであった。今回ばかりは、椿の無神経さがありがたい。

 慶次は立ち上がり「付いてきてくれ」と告げると、そのまま隣室の和室へ入った。

 

 

「ちょっと、ここがどうしたのよ」

 

 

 ぐちぐち言いながら椿が遅れて入る。

 隣室には仏壇と、遺影が“五つ”置かれていた。

 聡い少女は、それだけで全てを悟った。

 

 

「……お前以外、死んでたんだ」

「ああ。それじゃあ、一昨日ぶりに線香を上げるとするか」

 

 

 慶次は仏壇の真正面に正座すると、蝋燭に火をつけ線香を上げる。その横で椿も正座し、慶次の見よう見真似で線香を上げた。

 それから合掌、黙祷。

 短い静寂の間、慶次は様々な報告をした。

 学校の事、進学の事。燐子に紅世に……そして、椿も。

 ここから先、何が起こるか分からないが、理不尽に命を奪われた家族のためにも、拾った命を大切に使う事を誓う。

 

 

「何があったの?」

 

 

 椿なりの気遣いなのか、慶次が拝礼し目を開けたところで、声を掛けてきた。

 

 

「喰われてない事は証明できたんだ。胸糞の悪い話だし、訊かない方がいいと思うけど?」

「それを決めるのはお前じゃない、私よ」

「ごもっともで」

 

 

 いつもと変わらない椿の態度に慶次は苦笑する。正直なところ、腫れ物を扱うように接するのではなく、彼女のようにズバズバと言ってくれた方が気が楽だった。

 慶次は一度、椿の言動に頬を緩めてから、家族の事を話した。

 

 

「じいちゃんは四年前に病死……父さんと母さん、兄貴と妹は六年前に殺されたよ」

「っ!? ……続けて」

 

 

 事件があったのは、ちょうど六年前のクリスマスイブ。政治家であった父・利期(としまつ)が珍しく休暇を取れた日の悲劇だった。

 一家でクリスマスパーティを開いてた前田邸を犯人は強襲し、瞬く間に家族四人を惨殺した。その時、クリスマスツリーの飾りつけの買い出しに行っていた、慶次と慶次の祖父・期家(まついえ)はたまたま難を逃れる事ができたが、期家は四人が殺された事が余程ショックだったのであろう。犯人の死刑が執行されてほどなくして、病でこの世を去った。

 

 

「――ここまでが家で起きた事件の顛末だが……何か気になる点はあったか?」

 

 

 今でも、死んだ犯人の事は許せない。政治家として評判の悪かった父の自業自得だと言う無神経な輩なんてぶちのめしたい。

 それでも、驚くほど滑らかに言えた。慶次が彼らの死に向き合えたからなのか、それとも風化して来たからなのか。

 

 

「…………」

 

 

 椿は押し黙って一つの遺影を見つめる。知らず知らずのうち、彼女は口をへの字に歪めていた。

 遺影はまだ赤子とも幼子とも判別がつかない、幼い女の子。無邪気に笑う子どもは、慶次の妹・幸子(さちこ)。三歳にもなっていなかった彼女も、無残に殺められた内の一人だった。

 たっぷり数十秒は経っただろうか。おもむろに、椿は口を開く。

 

 

「そういえば、宝具はどこで手に入れたの?」

「確か八歳年上の兄貴の持ち物だったはずだけど……でも、俺が物心ついた時にはあったんだよな。だとすると、兄貴が買ったんじゃなくて、父さんか母さんかじいちゃんが買って、プレゼントしたのかもしれない」

 

 

 椿は説明に納得いかないのか、眉間に皺を寄せる。

 

 

「そうなると、お前の兄はかなり長い期間、宝具を所持してた事になるわね」

「えっと、俺が覚えている限りで最初に兄貴が宝具を持っていたのはだいたい十歳前後で、亡くなったのは二十歳だから……十年前後か?」

 

 

 十年。そう考えると、かなりの時間宝具を持っていたのだと、妙なところで感心してしまう。

 対して椿は、神妙な顔つきを崩さない。

 

 

「それだけ持ってて、この宝具の性能に気づかなかったのかしら?」

「いや、それはないだろ。俺だって、一日使っただけで気づけたぐらいなんだから――」

 

 

 とまで口にし、慶次は椿の持っている違和感に勘付いた。

 

 

「待て待て。つまり、兄貴はこんな便利機能付きのバットがあるって知っていながら、簡単に殺されちまったって事か? あの兄貴が?」

 

 

 道具本来の用途はどうあれ、身体能力をあれだけ向上させるバット。家が襲撃されたとなれば、兎にも角にも使おうとするはずである。

 そもそも、慶次の兄・利実(としざね)は父の後継者として英才教育を施された文武両道の傑物だった。無才の慶次と違い、明らかな失策を取るような人物ではない。

 

 

「長兄が冷静に対処できなかった可能性もあるが……ふむ、やはり腑に落ちないものがあるな」

 

 

 アラストールは別の可能性を示唆しながらも、慶次と椿と同じくどこか釈然としないものを感じていた。

 

 

「……」

「……」

「……」

 

 

 三者三様の沈黙。

 手の打ちようがなくなり、最低、疑問を一つ潰せればいいと軽いノリで慶次が振り返り、椿が踏み込んだ六年前の惨劇。当初の予想を裏切り、全く違う様相を呈し始めていた。

 

 

(だけど、そうなると四年前に死刑執行された犯人は一体何だったんだ? あの判決は、本当に正しかったのか? 真犯人は別にいた場合、じいちゃんが死ぬまで追い続けた真相は一体何だったんだ?)

 

 

 今まで真実だった事が、正しいと思っていた事が、いよいよ分からなくなってきた。

 

 

(どうも、俺も腹を括らなきゃいけないみたいだな……)

 

 

 今まで慶次は、事件に巻き込まれた被害者として、受け身で接してきた。だが、六年前の事件が深くかかわっているとしたら、当事者であった慶次は何時までも受け身の姿勢ではいられない。

 慶次は覚悟を決める。もうこの事件に受け身で関わらない。どんな手段を使ってでも解決してやる、と。

 

 

「父さんの書斎に事件のファイルがある。見に行くか?」

「ええ」

「うむ」

 

 

 慶次の力強い言葉に、椿も強く頷き返した。




結構その場のノリで書くので、六年前が五年前になったり二年前が四年前になったりします。


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第Ⅷ話 調査

 クリスマス。

 少年はイルミネーションに照らされる街中を、嬉々として祖父の手を引いていた。すれ違う人々が男女で在る意味や、そもそも何に対して祝うのかクリスマスについて全く理解していなかったが、街中を包み込むやさしい空気は彼を笑顔にするには十分であった。引きずられる祖父も、それにつられるように、ただ頬を緩ませ幸せそうに可愛い孫を見つめていた。

 少年の母が作ったおいしい料理に、愉快な兄が準備した数々の催し物。妹と彼と祖父が慣れない作業に四苦八苦したクリスマスツリーも、つい先ほど買い足した飾り物でようやく完成する。普段は忙しい父も、今日ばかりは早めに仕事を切り上げ、すでに家にいる。

 そう、まだ始まってもいない。

 本当に楽しいのはこれからだ。

 最高の思い出になる、と半ば確信に似た気持ちが彼の足を早める。

 真冬の寒空の下、強く冷たい風を切り、どこまでも軽い足取りで家に辿りついた。

 なぜか、玄関の扉が開いていたが、少年はそんなこと気にしなかった。

 とにかく、早く。

 早く、目の前にある幸せを感じたい。

 それだけを想い、靴を蹴飛ばすように上がりこんだ場所は。

 

 

 ――焼けつくような赤色で染まっていた。

 

 

 

 

 父の書斎。三メートル近い書棚が壁沿いに幾つも並び、その全てが書籍で埋まっている。部屋のやや窓際に置かれた机の美麗な曲線と目麗しい木目が、書棚に負けず劣らずな厳かさと気品の良さを漂わせ、置かれた黒塗りの椅子も牛革である。小図書館と通称されるに相応しい壮観な洋室であった。

 が、近頃受験勉強にかまけて掃除をしていなかったせいか、机や書棚には薄らと埃がたまっており、その荘厳さは半減していた。それを他人に晒して慶次は恥ずかしく思うものの、性格通り掃除という概念が損失しているのか、肝心の他人が全く気にした素振りを見せない。ホストである慶次としては歓迎すべき態度なのかもしれないが、正直女の子として色々とまずいと思う。まあ、注意した所で「うるさい」と一蹴されそうなので、慶次の胸にしまっておく。

 

 

「何か言いたそうな顔してるけど、何?」

「掃除したいナー、って思っただけデス」

「何で片言なのよ。あと、そういうのは全部終わってからにしなさい」

「はい」

「返事はいいから、早く出しなさいよ」

「承知」

 

 

 兎にも角にも、今は慶次の祖父がまとめたファイルを確かめるのが先である。

 慶次は本棚にあるはずのファイルの捜索する。ファイルはすぐに見つかった。

 辞書の倍ほどもあるキングファイル。これほど目立つ物を見つけるのに、時間が掛るはずもなかった。

 慶次が椿にファイルを手渡す。すぐさま、彼女は中身を閲覧した。

 

 

「へぇー。筆ペンで書いてるのが気になるけど、中々まとまってるじゃない」

 

  

 椿はどっかり椅子に座ると、ページをペラペラ捲りながら感嘆の声を上げる。

 

 

「まあ……な」

 

 

 祖父が命を削り、慶次を放置して書き上げたファイルだ。まとまっていなければ困る。

 

 

「事件の概要は必要か?」

「うん、お願い」

 

 

 椿が事件の概要部分を開いてから、慶次はなるべく客観的に感情を抑えて説明を始めた。

 

 

「まず、事件が起きたのは今から六年前のクリスマスイブ……12月24日の午後六時頃だ。犯人は堂々と玄関から侵入すると、書斎にいた父・利期を鉄パイプで撲殺した。その時、悲鳴を聞きつけた兄・利実は、書斎に駆け付ける中途の廊下で犯人と遭遇し、同じく撲殺された。その後、家屋に隠れた妹・幸子を絞殺してから、母・ユウキを殴殺。それからほどなくして警察が踏み込み、犯人は逮捕された」

「聞く限り、“普通の猟奇事件”みたいだけど――」

 

 

 椿はページを一気に飛ばし、兄に関する部分を開いた。そこには、殺人現場の詳しい見取り図が載っていた。ちょうどこの部屋から出て少し奥に進んだ所……玄関からリビングに続く廊下である。

 彼女は見取り図を見るなり、口の端に笑みを乗せる。そこには、被害者の傍にバットが落ちていた事。そして、そのバットで抵抗を試みた事が記してあった。

 

 

「ねえ、このバットって宝具の事?」

「ああ、同じ物……のはずだ」

 

 

 宝具は祖父が警察から受け取った遺品の一部だったので、ここに記されているバットと同一のはずだ。

 

 

「じゃあ、犯人は宝具持ちの人間を、あっさりと殺したって事になる。そんな事、普通の人間に出来るわけない。“紅世の徒”が関わっているのは確定ね」

 

 

 椿が明るく言う。ようやく、事件の尻尾を掴んだからだろうか。

 対して、慶次の顔つきは険しいものになる。

 

 

「犯人は父さんに色々と圧力かけられてて、殺す動機は十分にあった。なのに、なぜか公判中は『悪魔が乗り移っただけだ』って主張して無実を訴えてた。当然、却下されたが、つまりこれって――」

「それが本当だとしたら、“紅世の徒”に操られていたんでしょうね」

「……マジかよ」

 

 

 呆然と慶次が呟く。

 “紅世”という黒幕がいるならば、死刑となった犯人は一体何だったと言うのだろうか。

 

 

「だが、それはあくまで可能性の話だ。現状、“紅世の徒”が関与していると仮定して調査は進めるが、状況証拠のみ。“紅世の徒”以外の可能性も頭の隅に残しておけ」

 

 

 慶次の心中を察したアラストールが、思考の偏向を注意する。

 

 

「うん、分かってる」

「あ……ああ。覚えておくよ」

 

 

 椿と慶次は素直に頷くが、やはり慶次の頭から“紅世”の言葉が抜けない。

 一瞬で四名を殺した手際の良さ、犯人の裁判における不自然な発言。不可解だと思いつつも、殺人犯の言動がまともな訳がないと斬り捨てていたが、全てが“紅世”が関係していたと考えると辻褄が合う。合ってしまう。

 当事者の慶次にとって、その可能性は衝撃が大きすぎる。

 考えてもみて欲しい。今まで犯人だと思っていた奴が、実は慶次と同じ被害者だと。残りの命を燃やし尽くした祖父の苦労が、全て徒労だったと。四年前、死刑が執行された犯人は、本当に冤罪だったかもしれないのだと。

 可能性を考えるだけで、慶次の手の震えは止まらなかった。

 

 

(――ちくしょう。感情が、頭が、まとまらない)

 

 

 解決しようという覚悟は決めた。その想いは変わらない。

 だが、今は椿とアラストールのような冷静“過ぎる”思考を保てそうになかった。今の状態では調査の邪魔にしかならない。

 

 

「……すまん。ちょっと頭冷やしてくるついでに、茶でも取ってくるわ」

 

 

 少し頭を整理させるため、慶次は椿に一声掛けてから部屋を出て行く。椿は椅子に踏ん反り返っているだけで、後ろから「うむ」とアラストールの返事だけが聞こえ――慶次は振り返る。椿はファイルから目を離さない。何となく、見られている気がしたが気のせいだったようだ。

 

 

「何?」

「……紅茶でいいか?」

「砂糖とミルク。あと、お菓子」

「ああ。菓子はさっき買ったメロンパンでいいよな」

 

 

 コクンと頷く椿。十分も時間を掛けて厳選したメロンパンをここで食べてしまうらしい。

 椿に背を向けると、慶次は今度こそ書斎を出た。

 椿は一度も顔を上げなかった。

 

 

 

 

 珈琲で一息着いた後、慶次の気持ちも落ち着き、何とか手伝えるまで回復した。

 それから先は黙々と、日が暮れるまで二人にして三人は六年前の資料を調べ続けた。事件の概要から被害者である前田家四名の死因、殺人犯の最期と隅々まで目を通した。しかし、一向に“紅世の徒”の関与を決定付けるものは出ず、逆に疑問ばかりが膨れ上がった。

 中でも二つの疑問が、椿とアラストールを悩ましている。

 

 

「そもそも、“紅世の徒”が人間殺しに関与した理由が分からないのよね」

 

 

 夕食のハンバーグに舌鼓を打った椿は、食後のおやつである市販のソフトクリームを炬燵で舐めながら、一つ目の疑問を言う。緊張感の欠片もない姿だが、語る内容は大真面目である。

 対して、慶次も緊張感皆無のエプロン(背中に金属バット)姿で食器を洗いながら答える。

 

 

「“紅世の徒”が隠ぺいしたって線は?」

「そういう痕跡は確かにあるわ。けど、“紅世の徒”は基本的に目立ちたがりの語りたがりよ。奴らの本質を考えると、不自然過ぎる」

 

 

 二つ目の疑問。

 “紅世の徒”は世界のバランスを考えない放埓者たちである。他人の迷惑を考えないような輩が、“たかが人間を殺す”のに関わった痕跡を全て消すなど、普通は有り得ない。おそらく、何かしらの理由があると考えられるが、幾ら事件を洗ってもそれらしい理由は出てこなかった。

 

 

「ああもう、なんなのよこの事件は! もやっとする」

 

 

 八つ当たるようにガブガブとソフトクリームに喰らいつく椿。

 半日調査に中てたが、まだ事件の全体像さえ掴めていない。彼女の言い分には慶次も大いに同意する所であった。

 

 

「六年前の惨劇が関係あるって分かっただけでも収穫だけど……なんつーか、まるで靄を相手にしてるみたいだな」

「靄なんてとっとと晴れて、餌に引っかかってくれないかしら」

「勘弁してくれよ」

 

 

 彼女と丸一日付き合い、荒っぽい物言いにも慣れてきて、慶次は苦笑を浮かべて受け流す。

 と、

 

 

「お」

「わっ」

 

 

 家の固定電話が甲高い電子音を鳴らした。椿は電話に慣れていないのか、僅かに驚きを声に混ぜている。

 彼女の意外な反応に、慶次はニタニタ笑いながら電話に出る。

 

 

「もしもし、あがっ!」

 

 

 自分が笑われたと思ったのか(実際その通り)、椿が慶次の後頭部にみかんをぶつけた。仕返しのつもりなのか、ちょうど電話に出たタイミングでぶつけられたせいで、相手に変な声を聞かれてしまう。

 受話器から心配する声が聞こえる。

 

 

「だ、大丈夫ですか、慶次さん!?」

「お、おう。大丈夫だ。心配するな」

「そうですか? 結構、すごい声を出していたようですが……」

「そ、それより何か用か?」

「…………」

 

 

 このまま話を引っ張るとボロが出そうなので、美代の言葉を待たず強引に話題を変える。受話器の先で何か言おうとする気配がするがそれはすぐに止み、そのまま会話に乗っかってくれた。

 

 

「いえ、連絡が中々来ないので少し心配しただけです」

「そりゃ悪かったな。俺はこの通りピンピンだから、心配するな」

「ですが、何か困っていたのではありませんか? いつもより、声が少し気落ちしています」

「……お前はエスパーかよ」

「すごいんですよ、恋する乙女は」

「お、おう」

「……さっきのは忘れて下さい」

 

 

 慶次の顔に引き攣った笑みが浮かぶ。おそらく、美代なりに慶次を和ませようとしたのだろうが、悲しいかな彼女が言うと全然洒落になっていない。

 とはいえ、少しだけ肩の力が抜けた気がする。美代の気遣いは袋小路に入り始めた慶次にとって非常にありがたいものであった。

 

 

「あ、そうだ。少し訊きたい事があるんだが、いいか?」

「構いませんが……」

 

 

 美代は慶次の隣人。当然、六年前の惨劇についても知っている。もしかしたら、慶次たちの知らない何かを知っているかもしれない。

 ――きっと、慶次の心は全然整理なんてできていなかったのだろう。

 朝に失敗したばかりにも拘らず、慶次はそんな軽いで尋ねてしまった。

 

 

「六年前の事で何か知ってる事があれば、教えてくれないか?」

「六年前と言うと……その、慶次さんの、家族が……」

「ああ。あの事件の事だ」

「――っ」

 

 

 受話器越しに美代が息を飲む。それが驚愕なのか、それとも恐怖なのか慶次には分からなかった。

 

 

「慶次さんも、事件の不審な点に、気づいたのですか……?」

 

 

 十数秒の沈黙の後、美代は迷いながら何かを確かめるように慶次にゆっくりと尋ねた。

 

 

「あ、ああ」

 

 

 慶次はなぜ美代がこうなったかも分からず、何も考えずに返す。

 再び口を閉ざす美代。答えは返る事無く、受話器からは掠れた吐息だけが聞こえた。

 慶次の質問は続く。

 

 

「なあ、美代が気づいた事件の不審な点ってなんだ?」

「……お義兄様の殺害状況です。犯人と同等の装備を持っていながら、頭に攻撃を当てるだけならまだしも、一撃で脳天を割るなど人間業、ではありま、せん」

(っ――俺は馬鹿か!!)

 

 

 美代の声に湿っぽいものが混じる。慶次は事ここに至って、彼女が何を迷い、何を悲しんでいるのか分かった。

 慶次が頭を激しくかき乱す。なぜ、気づかないだろうなどと、淡い希望を抱いたのか。相手はあの美代だというのに。

 六年前の不審点、慶次の怪我、体育での異常。六年前の常軌を逸脱した敵が現れ、慶次が傷を負った。敵の対抗策として、あのバットを持っていた。

 美代の中で全てが繋がったのだ。そして気づいたのだろう。今も常軌を逸脱した敵が慶次を狙い、立ち向かおうとしている事に。

 それが怖くて、悲しくて。だけど、慶次を止める事もできず、慶次はただただ美代を突き放す。

 それでも慶次の事が心配で。嫌われるかもしれないけど、関わらずにはいられない。

 

 

「……悪い。怪我した上にこんな事に関わろうとしてるんだ、心配するよな」

 

 

 ここまで想われて、知られて。慶次にはもう、美代に嘘を吐く事はできなくなった。

 

 

「やっぱり、怪我していたのですね……。慶次さんが、私に黙っているのです、危険な事件だという事は分かっています。ですが、慶次さんがこれ以上関わって、あんなになったら、わ、私……!!」

 

 

 美代の声が慶次の耳を劈く。じんじんとする耳以上に、悲痛な声音が慶次の胸を抉った。

 

 

「すまん。だけど、もう止める事はできないんだ」

「そんな……!」

 

 

 もう慶次は命を狙われているのだ。引く事は出来ない。

 そして何より、六年前の事件が関わっていると分かった以上、絶対に逃げたくなかった。

 

 

「だったら、私に手伝わせてください! 慶次さんがこれ以上、傷つくの見ているだけなんて、耐えられません!!」

「――っ」

 

 

 美代の悲痛な叫びが、慶次を揺さぶる。

 泣かれて、知られて、そして求められて。いっその事、彼女の訴えに頷いてしまいたくなる。

 だが、それは駄目だ。宝具を持っていた慶次でさえ、“紅世”と相対したとき、何もできなかったのだ。“紅世”に対抗する術を持たない美代が、“紅世”に関わっても最悪の結末しか生まない。

 

 

「ダメだ」

 

 

 はっきりとした否定の言葉。しかし、美代も諦めない。

 

 

「どうしてですか! 事件を解決したくないんですか!」

「どうして、お前は俺のウィークポイントを的確に突くんだよ!」

「慶次さんを独りにしたくないからに決まっているでしょう! それで、事件を解決したいんですか、したくないんですか!!」

 

 

 ぐっ、と慶次は口を噤む。

 美代をこれ以上、事件に巻き込みたくない。しかし、六年前の情報を少しでも手に入れたい。

 一度は拒絶しながらも、僅かながら慶次に迷いが生まれてしまう。無論、それを逃す美代ではない。

 

 

「あれから六年、今では前田家よりも新発田家の方が情報網はあります。当然、あの惨劇についても、六年の積み重ねがあります。そこには、絶対に慶次さんが欲しい情報があるはずです」

「……魅力的な提案、どうもありがとう。だけどな、お前がこれ以上関わるのは駄目だ。危険すぎる」

 

 

 慶次の反論。しかし、そんな行き当たりばったりな反論を美代は叩き潰す。

 

 

「何を仰ってるのですか。すでにマスコミを始め他にもたくさんの人が調査なさっていますよ? その中で、調査中に不審死を遂げた方などいらっしゃいません。そのような心配は無用かと思いますが?」

「あ、相手は隠ぺいを得意とする奴なんだよ! 俺が気づかない内に消されるかもしれないんだぞ!」

「心配なさらずとも、私自ら調べる事は致しません。既存の資料をかき集め、まとめるだけです。そのかき集める作業も、外部に頼みます。慶次さんがなぜそこまで危険視なさっているのかは分かりませんが、これで危険だと仰るなら私はこの堂森市では何もできませんよ?」

「うぐっ……!」

 

 

 危険だと言う慶次の懸念を、全て美代に打ち消された。反論する余地がない。

 

 

「あー、もう分かったよ!」

 

 

 慶次は頭を掻き毟りながら、投げやりに許諾する。

 心情的には巻き込みたくないが、あの頑固な美代の事だ。どうせ、慶次が止めたところで勝手に調査する。それならば、いっその事許可を出し、手元に置いた方がまだ安心できる。

 

 

「情報収集は許す。だけどな、絶対にお前が直接するんじゃないぞ! 慎重に、絶対にお前がやったってバレないようにやれよ!」

 

 

 それでも不安なので、一応釘を刺す。

 

 

「分かってますよ、慶次さん」

「本当に分かってるんだろうな?」

「はい」

 

 

 どことなく声を弾ませる美代に、若干不安になる慶次。

 好意を持っている相手に心配されて嬉しいのだろうが、今から危険な事をするのだ。もう少し危機感を持って欲しい。

 

 

「いいか! 絶対に油断するなよ、浮かれるなよ、調子に乗るなよ!」

「分かっています。それではまた明日、お会いしましょう」

「……ああ、おやすみ。気を付けてな」

「心配性ですね、慶次さんは――っと、そういえば」

 

 

 受話器を切る直前、美代は何かを思い出したのか、慶次に待ったをかける。

 

 

「慶次さんの方では慶次さんのお義父様と前田家について調べて頂けませんか?」

「親父に俺ん家だって?」

「はい。事件当時から思っていたのですが、どう考えてもお義兄さまやお義母様たちが狙われる理由がありません。ですから、事件の直接の原因はお義父様、もしくは前田家自体にあるのではないかと、推測しました」

 

 

 確かに、偶々帰省した大学生の兄や、専業主婦の母に事件が起きた原因があるとは考えにくい。政治家であった父、もしくは江戸時代から続く名家である前田家に原因があると考える方が自然であった。

 

 

「あ、それとさっき、親父たちの発音がちょっとおかし――」

「それでは今度こそ、また明日」

 

 

 おやすみなさい、と美代が告げると、思いの外あっさりと通話が切られる。きっと、徹夜で資料をまとめるのだろう。慶次のために、一分一秒が惜しいのかもしれない。本当は、もっともっと話したいくせに。

 

 

(全く……どこまで、献身的なんだよ)

 

 

 慶次は受話器を見つめると、今までの美代との日々を思い出す。

 碌な料理が作れないと知ったときは、作ってくれるだけではなく作り方まで教えてくれた。勉強で分からない所があると言ったら、いつでもどこでも分かりやすく教えてくれた。

 いつもいつも助けてくれた。その裏に、慶次に対して想いがある事も知っていた。慶次は毎日生きるのに必死で、気づきながらも目を背け続けた。いつまでも美代に甘え続けた。

そんな慶次にいつまでも美代は尽くし続けてくれた。

 

 

(“こっち”も逃げ続ける訳にはいかないようだな)

 

 

 慶次は一つ決意を新たにして、振り返る。

 

 

「話は……聞いてたみたいだな」

 

 

 椿がティッシュで口の周りに付いたアイスを拭いながら立ち上がっていた。

 

 

「美代がもう一度事件を洗い直すが……俺たちはどうする?」

「そいつの指示通り、あんたの父親と家を調べるに決まってるじゃない」

「おお、随分と素直な事で」

「たったの数時間で“この世の真実”に近づいた奴の助言よ。家でも外でもセクハラする変態男の言葉と、比べるまでもないでしょ」

「ごもっともです、ごめんなさい」

「分かったなら、資料のある場所に案内しなさい」

 

 

 慶次はあからさまな対応の差にがっくりしつつ、もう一度父の書斎へと椿を案内するのであった。




巻き込みたくない(巻き込まないとは言ってない)。

そして、なぜか食べてばかりのフレイムヘイズ。


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第Ⅸ話 一日終えて

 むかしむかし、山奥に悪い悪い鬼がいました。

 鬼は山の麓の街を訪れるたびに、人を攫いました。

 困った人々は鬼に多額の賞金を懸け、腕に自信のある男たちを集めました。しかし、誰一人として鬼を退治する事はできませんでした。

 このままでは、街が廃れてしまう。

 故郷の街を憂えた一人の少年は、刀一つで鬼に挑みかかりました。

 

 

『お前のような小童に、俺を倒せるか』

 

 

 鬼の云うとおり、少年の刀は傷一つ負わせることができませんでした。

 三日三晩、鬼と戦い続けた少年は、とうとう精根尽き果て、倒れてしまいました。指一本動かせない少年は、それでも諦められず、鬼に噛みついてでも挑みました。

 とうとう怒った鬼は少年の手足を折り、歯を砕き、眼を抉り取りました。

 

 

『もう俺も、ここで終わりなのか』

 

 

 いよいよ動けなくなり諦めかけたその時、少年の前に天の御使いが現れました。

 少年の強き心に打ち震えた天人が、彼の心に応えようと神器を与えたのでした。

 

 

『強き者よ。この“鬼灯の剣”を以って、かの悪鬼を打ち滅ぼせ』

 

 

 御使いの言葉に従い神器を抜いた少年は、みるみる傷を治し一太刀の元、鬼を打ち滅ぼしました。

 鬼の死体からは鬼灯が花が咲き乱れ、これを以って神器は“鬼灯の剣”と呼ばれ、街を守り続けました。

 

 

 

 

 鬼灯の剣。

 今や絵本となった物語だが、前田家が成った切っ掛けとなった事件を元に作られた伝承である。

 初めて読んだときは、何の変哲もない昔話だと思っていたが、“この世の真実”を知ってから読んでみると、全く別の視点が見えてきた。

 鬼とは“紅世の徒”で鬼灯の剣とは『宝具』。

 おそらく、江戸時代初期に“紅世の徒”に度々襲われていた旧堂森市に、宝具を持った人間が現れ、徒を討滅した。“鬼灯の剣”が宝具であるならば、それ以外考えられない。

 

 

「でも、“鬼灯の剣”は刀……このバットとは違うよな、椿?」

 

 

 自身の背負った(バット)と絵本の“鬼灯の剣”は似ても似つかない。

 珍しく美代の予想が外れたのか、と思い絵本を閉じながら椿に問うてみるが、返事が返ってこない。

 書斎の机を見れば、椿は突っ伏したまま瞼を閉じていた。どうやら、夢の世界へと飛び立っているようだ。時計はすでに深夜の三時を過ぎている。二夜続けての徹夜はフレイムヘイズでもきついのか、はたまた、椿だからなのか。

 少女の肩の力が抜け切った姿に、慶次は思わず微笑みを一つ零す。

 最初、椿と話した時はどうなるかと思ったが、今の彼女の姿を見るに信頼関係は築けたのだろう。ご飯を作ってあげたり、ご機嫌取りにお菓子をあげたり謝り倒したり……何だか小間使いとか餌付けしかしてないような気がするが、そこは結果オーライである。

 それよりも、今は“鬼灯の剣”に関してだが、彼女の安心しきった寝顔を見て、完全に訊く気が失せた。まあ、急ぎの用、という訳でもない。

 起きてからでいいだろう、と慶次は判断すると、椿の小さな体躯に毛布を一つ掛けてから、夜食のせんべいを齧りながら本棚の前に立ち調査に戻った。

 いつの間に外したのか、机の上の神器“コキュートス”から、労わるような声がかかる。

 

 

「その子は徹夜に慣れておらぬでな。手間をかける」

「いいさ、これぐらい。手間のうちに入らないって」

「して、まだ続けるのか?」

「まあ、足を引っ張ってばかりだから、これぐらいは頑張らないと。つーか、今働かないと、働ける場所がない」

「……少し休め。今、貴様に倒れられると、我もこの子も困る」

 

 

 アラストールの意外な言葉に、慶次は思わず振り向く。

 

 

「おいおい、どうしちゃったんだよ。あれだけ変態扱いして、急にそんな事言っちゃって。俺、調子に乗っちまうよ?」

「客観的な事実だ……変態である事も含めて、な。それに、倒れられると護衛がしにくい……それだけのことだ」

「はっはっは、照れるな照れるな」

 

 

 おどける笑う慶次に、アラストールは溜め息で返す。今日一日、慶次と接するようにから、アラストールたちの溜め息の回数が増えているのは、気のせいではないだろう。

 再度、慶次は資料と向き合う。資料の内容は父が手掛けた都市計画の練り直しと、新たな産業の振興についてだ。新市街を建ててから、すぐに都市計画の練り直し……事情があったのかもしれないが、なんとも行き当たりばったりである。新たな産業の振興も、介護・医療分野でありこれまた人気取りのような支援策が盛り沢山。

 この年になってようやく、父に政敵が多かったと言うのも納得できる。

 今度は慶次のため息が、決して狭くはない部屋に響く。

 それから数分。たっぷりと間をおいてから、今度は慶次からアラストールに声を掛ける。

 

 

「お前たちって、案外似た者同士だよな」

「どこが似ていると言うのだ?」

「なんつーか、イメージ的にどっちも厳正な裁判官みたいだな。もう有罪なら有罪、無罪なら無罪ってズバズバ言い切っちゃうのに、ついつい面倒を見ちゃうところとか」

「……そうか」

 

 

 慶次は手を止め、アラストールの方を振り返る。

 

 

「どうした?」

「いや……何でもない」

「ふん。変わった男だ」

 

 

 声が、何となくだが、嬉しそうに聞こえたような気がしたが、気のせいだったのだろうか。アラストールの声音は元の厳めしいものに戻っていた。

 

 

「……まあ、この子が甘味以外を食べる、と考えれば、役に立っていない事もない」

「ま、そこはホント、俺が好きでやってるところだから気にしなくていいさ。一人だと、どうしても料理が手抜きになっちゃうからな」

 

 

 独りの食卓。己の食欲を満たすために料理の腕を奮えるほど、慶次は食い意地は張っていない。食卓に一人、しかも美味しそうに食べてくれる人がいるだけで、十二分にお釣りが返ってくる。

 慶次は資料を本棚に戻すと、背伸びをする。割と身体に負担のかかる所作だったが、傷口が痛むような事はなかった。

 ふと、昨日からまともに風呂にも入っていない事を思い出す。傷口も塞がってきたし調査も停滞中。肝心の椿は夢の国の住人。汗を流すには、調度いい頃合いだろう。

 

 

「ちくっと、シャワーでも浴びて来るかな」

「浴室はここから少々離れておったな。念のため、この子を起こせ」

 

 

 アラストールに言われて、椿を見遣る。その顔に何時もの厳しさや鋭さはなく、ただただ穏やかに瞼を閉じている。これを潰せとアラストールは言っている。

 

 

「アラストールが起こせよ」

「……うむ」

 

 

 さすがのアラストールも罪悪感が湧いたのか、唸り声だけ上げてそれきり黙る。椿にはとことん甘い契約者である。

 

 

「どうせ、一緒に浴室には入れないんだ。アラストールが来るだけでいいだろ?」

「……手早く済ませろ」

「分かってる。あまり、椿の手は煩わせないさ」

 

 

 慶次はコキュートスを引っ掴むと、そろりそろりと忍び足で浴室へ向かった。

 

 

 

 

「……ぅ」

 

 

 険の取れた呻き声を上げ、身じろぎ一つをすると、少女は目を覚ました。寝ぼけ眼のまま突っ伏した身体を起こすと、毛布が肩からずり落ちる。

 はて、と可愛らしく小首を傾げる。こんなものを掛けた覚えはない。となれば、己以外の“誰か”となるのだが、その“誰か”は一人しかありえないのだが、

 

 

「――っ!?」

 

 

 瞬間、少女の両目が大きく見開かれ、同時に頬が赤くなる。

 たかだか『人間』に途轍もなくみっともない姿を見られた。ほとんど初対面の相手に見せてしまった己が失態に、気恥ずかしさや情けなさやらで悶絶したくなる。

 幸いと言うべきか、あの男は室内にはいない。いたら、きっと羞恥心が二倍、三倍になって顔もまともに見れなかっただろう。

 今のうちに気を落ち着かせるため、何度も何度も深呼吸をする。

 ようやく、眠気も完全に覚めて冷静な思考ができ始めた頃、少女の頭には疑問が渦巻いていた。

 

 

(どうして、こんな“失敗”をしたの?)

 

 

 過去、強力な宝具を持った『人間』が“紅世の徒”を討滅した例もある。少女が取った“不覚”は、一歩間違えれば己が命が潰える事になるかもしれなかった。二夜続けての徹夜だったとはいえ、これはあってはならない事だった。

 だが、いつもならこんな当たり前の事、出来ていた。出来て当然だった。

 みるみる少女の顔は不機嫌に染まり、口は大きくへの字を描く。出来ていたことが出来なくなる。己の不甲斐無さと怠惰に腹が立つ。

 だが、ちょっと待て、とその感情に一旦ストップをかける。慶次と出会う前は普通に出来ていたのだ。それが、慶次と会ってたったの一日でこの体たらく。慶次に何か原因があると考えるのが自然である。

 今日一日の行動を振り返る。

 燐子討滅後(慶次を救出した、とは言わない)、この世の真実や今後の方針を話し合った。一緒に情報を共有し、事件の調査も行った。それ以外は、慶次に食事の準備やらの身の回りの世話をさせた……のではなく、これは勝手に慶次がやった。別に強制させた訳じゃない。

 他には、揚げ足取ってからかわれたり、蜜柑をぶつけて黙らせたり、本当に下らない事ばかりで。後、あるとしたら、あいつが変態で人をイラつかせるのが得意で、何度も苛々した、という事ぐらいだろうか。

 特に“学校”に言っている間の慶次が、特にイラついた。家にいる時の慶次と、学校に行っている時の慶次に大差がなく、同じように他の人間と接して何かを謝っていた。それは裏表なく少女と接している証拠であったが、同時に他の人間と少女を同等に扱っている事でもあった。

 別に偉ぶりたい訳ではないが、自分が“特別”じゃないと思った途端、ムカムカしたものが胸に広がった。それを何とか抑えつけようとしてもできず、結果慶次にそのままぶつけた。自分でも信じられないような冷たい声が出た。

 だが、彼と会話を重ねていくと、分からない感情は抜けていった。これも、よく分からなかった。

 

 

(本当にあいつと一緒にいると、よく分からない事ばかり……でも、肝が据わってて案外役に立つから困――っ!)

 

 

 そこでふと気づく。たかが人間が、自分の近い所で一緒に“徒”と戦っている事に。自分が慶次といる事を受け入れている事に。

 そう考えると、段々背中がむず痒くなってきた。別に、背中に虫がいる訳ではなく、何と言うか気恥ずかしくてじっとしていられない感じだ。

 何が気恥ずかしいと問われれば、居心地がいいのに居心地が悪いと言うか……とにかく、言葉では表現しにくかった。

 でも、今の慶次のような存在を、少女は幾度となく考えた事があった。自身の世話役として身の回りをし続けてきた女性。少女がフレイムヘイズになる前は、その女性と、白骨の師匠と一緒に世界を回れれば、と夢見ていた。その時、女性がフレイムヘイズだったと知らなかった少女は、身の回りの世話をして一緒に事件を考える……そんな役割を、女性がやってくれればと夢見ていた。

 

 

(……っ!? あいつは変態、あいつは変態――)

 

 

 もし、彼がそれを引き受けてくれたら――とまで考え、少女は呪文を心で唱えながら、頭を左右に大きく振った。そんな“惰弱”な考えが吹き飛ぶように、と。

 

 

(こんなんじゃ、駄目だ)

 

 

 出来ていた事が出来なくなったのに、まだそんな温い事を思う。あってはならない事だ。

 

 

(私はアラストールのフレイムヘイズ。私は『完全なフレイムヘイズ』)

 

 

 緩んでいた手綱を引き締めるように、強く強く心に念じる。『炎髪灼眼の討ち手』たる使命が、“本来あるべき”フレイムヘイズの姿で自分を塗り固めるように。

 再び、瞳に力を漲らせた少女は、一つ心に決める。

 

 

(“紅世の徒”を討滅したら、すぐにここを離れよう)

 

 

 完全なフレイムヘイズであるために。どこまでも気高く、そして冷酷なほどに強く、彼女は決断を下した。

 

 

「あれっ?」

 

 

 そして、何気なしに首元の神器“コキュートス”を弄ぼうとして――ようやく気づく。アラストールがどこにもいない事に。

 意外な事態に若干動揺するが、そもそも神器はフレイムヘイズか紅世の王のどちらかが望めば、フレイムヘイズの手元に現れる。つまり、アラストール同意の元、ここにいないのだ。慌てる必要はない。

 ――と、平静をすぐに取り戻した少女だったが、また斜め上の事態が起きる。

 

 

「ぬわーーっ!!」

「!?」

 

 

 尋常ではない男の叫び声が上がった。例えるなら、とてつもなく大きな火の玉をぶつけられた時のような、断末魔であった。

 

 

(――しまった!)

 

 元々、少女が慶次の傍にいるのは“紅世の徒”が彼を狙っていると判断したからだ。“徒”気配は感じられなかったが、詰まる所、慶次は普通の人間だ。別に“燐子”でなくとも、彼の命は簡単に狩れる。

 少女は己の油断に歯噛みしながらも、すぐさま頭を切り替えて書斎を飛び出る。

 音源は書斎の外、キッチンのさらに奥の方だ。

 

 

「慶次! 大丈――っ!?」

 

 

 慌てて飛び込んだ先で見た光景に――少女は絶句する。

 

 

「傷が微妙に沁みるぅ――っ!?」

「なぜ奇声を上げ――うぬぅっ!?」

 

 

 湿気の多い、靄の掛かった部屋。その靄の先に、お湯をちびちびと腹部に当てていた慶次がいた……全裸で。

 

 

「……」

「……」

 

 

 慶次とアラストールも予想外過ぎる状況に呆然とする。

 その光景に段々と少女の頬に赤みが差してくるが、なぜか目を離さないまま慶次の身体を見つめる。

 

 

「……」

 

 

 起伏の激しい隆々とした筋骨。自身の凹凸の少ない緩やかな曲線とは一線を画した力強さが、はち切れんばかりに主張していた。治療の時はあまり意識しなかったが、すっかり傷の塞がった腹筋も綺麗に六つに割れている。

 すごい――素直にそう思った少女は、そのまま腹部から下の方へ視線を移そうとして――。

 

 

「ぬおぉぅっ!!」

「き、貴様!? やめ――」

 

 

 ようやく再起動した慶次が、目の前の清純な少女の無垢な所作を察し、咄嗟に両手で大事な場所を隠した。少女にトラウマを植え付ける訳にはいかない。

 この際、右手にコキュートスが握られていて、アラストールが慶次の股間に接触してしまう……寸前、討ち手の元に戻れる機能を無駄に駆使し、少女の首に瞬間移動。何とかこちらもトラウマ回避に成功した。

 

 

「こら! いつまで見てんだよ、椿! 早く閉めろよ、ハリーハリーハリーハリー!!」

「うむ! このままでは、幾ら馬鹿とはいえ風邪を引くやもしれぬ! 急ぎ、戸を閉めよ!」

「……っ!? う、うん、分かった!!」

 

 

 慶次とアラストール、二人がかりで説得(というか絶叫)されて、少女もようやく機能不全から立ち直り、扉を勢いよく閉める。

 扉を隔てて三人が、同じように荒く息を吐いた。

 

 

 ――ちなみに、椿は午前中の間ずっと、慶次と目をあわせられなかった。

 

 

 

 

「危惧していた事が起きていたか」

 

 

 闇に塗られた一室。日の光も刺さない深い深い暗闇の中で、真っ白のカッターシャツだけを浮かび上がらせた“何か”が小さく呟いた。

 次いで、闇夜に灰色の瞳が、ぬらりと現れる。視線は壁の一点、さらに言えば画鋲で止められた一枚の写真に注がれていた。

 

 

「前田……やはり、もっと早い段階で殺すべきだったか。否、そもそも関わるべきではなかったな」

 

 

 貼り付けられた写真を睨みつけ、“何か”が苦々しく告げる。そこには、若干の後悔が含まれていた。

 次、再び眼が動き、別の写真に視線を向ける。敵愾心を持っていた先と違い、今度はどこか温かみのある眼差しでその写真を眺める。

 

 

「とはいえ、危機が起きたからこそ『炎髪灼眼の討ち手』と邂逅する機会が得られた」

 

 

 ふっ、と少女の写真の前に人差し指が現れる。と、その先端が何度も何度も少女の頭をなぞる。粘着質があるように、粘っこく、ねっとりと。

 

 

「これも天の采配なのかもしれない」

 

 

 指を動かしながらニカリ。暗闇に白い犬歯が浮かべ、“何か”が笑い、

 

 

「作戦は少々変えるのはしょうがないとして……そろそろ、始めるか」

 

 

 刹那、“何か”が全て闇夜に解けていく。

 

 

「世界を救うために」

 

 

 ――その言葉を深く深く刻みつけるように残して。




サ、サービス回。

書いてて一番楽しかったです、すいません。


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第Ⅹ話 明暗

遅れましたが、第10話です。


 早朝、と言っても浴室の出来事から数時間も掛かっていない時分。朝食後、慶次はせっせと皿洗いをしていた(金属バット装着)。椿といえば、炬燵に首まですっぽり潜り込んでおり、慶次をちらちら横目で伺いながら決して視線は合わせようとしなかった。

 

 

(恥ずかしいのは分かるけど……どうにかならないもんかな)

 

 

 椿の浴室突入事件(と勝手に命名)で奇跡的にトラウマを回避した三者であったが、やはりと言うべきか、椿が一番ダメージを受けていた。浮き世離れしてて常識知らず……薄々感じてはいたが、それは“そっち”の知識に関してもそうだったようだ。

 おそらくだが、あそこまではっきりと“異性”の肉体を見るのは初めてだったのだろう。己との肉体との差異が“男性”というものをこれでもかと強く意識させられ、本能的な恥ずかしさが慶次の顔さえも見られなくさせたのだと推測した。

 これが立場が逆――椿が見られる側――であるのならば、原因である慶次をぶっ叩いてすっきりして終わっただろう。だが、実際は椿の軽率ゆえの結果であり、椿はぶつけるべき矛先がなく、悶々とするしかないのだ。

 まあ、こういうのは気持ちの問題。気の持ちようでどうにでもなる、と慶次は考え気分を変えるために、朝食をイチゴジャムたっぷりの食パン。スクランブルエッグとソーセージ、そして昨日の安売りで買ったグリーンサラダとリンゴを添えた王道洋食を出してみた。だが、その程度で羞恥心が吹き飛ぶはずもなく。

 慶次はすっかりフレイムヘイズの意外と純情な一面に困り果てていた。

 

 

(まあ、あるべき女性の姿だよな。それを変えろ……と言うのは、ちょっと違うか)

 

 

 とはいえ、これは淑女としてあるべき姿。でも、だからといってこのまま沈黙一個では本日の活動に支障が出る。

 慶次は仕方なしに、箱入り娘に声を掛ける。

 

 

「椿、そろそろ出てこないか? 顔を合わせて話し合おう」

「今日は寒いんだからしょうがないでしょ。それに、このまま話しても問題ない」

 

 

 ん、と窓の外を顎で指す椿。

 そこは昨日の午後から降り続けた雪が、庭を一面の白に変えていた。今も吹雪、と言っていいほどの降雪が続いている。

 

 

「……アラストール」

「む」

 

 

 決して目を合わせようとしない少女から、ターゲットを保護者(アラストール)に変える。

 

 

「お前からも出るように説得してくれよ。淑女なのはいいが、それも過ぎると箱入りだぞ?」

「箱入りじゃない!」

「悪い、炬燵入りか」

「そういう問題じゃない!!」

 

 

 否定しながら、椿が蜜柑を慶次に向けて投擲する。慶次は顔を逸らして回避する。

 

 

「ふははは! そう何度も同じ手を――がはっ!」

 

 

 と、実は二個同時に投げられており、綺麗に顔面に蜜柑が直撃する。

 鼻を抑えてながら、ちょっとイラッとする慶次。気恥ずかしくて、隠そうと言うのは分かる。だけど、照れ隠しで蜜柑をぶつけるのはないだろう。そもそも、見られたのは慶次だというのに。蜜柑をぶつけられただけなのに、昨日のソフトボールの件に続き、慶次の大人な部分が全部噴き飛んでいく。

 

 

「今日の予定はどうするのかな!」

「!?」

 

 

 慶次は手早く皿洗いを済ませると、エプロン姿のまま首だけの椿の前に立った。目が合うと椿は慌ててぷいっ、とそっぽを向く。真っ赤な耳が慶次の前に来る。

 慶次はすぐさま横移動し、椿の前に立つ。今度は椿が反対方向を向く。また椿が反対を向く。慶次が前に立つ。

 

 

「……っ! ……っ!」

「……! ……!」

 

 

 二人とも黙って真剣に何度も繰り返す。お互い段々意地になっていく。

 

 

「……」

「あっ!」

 

 

 慶次が小癪にもフェイントを入れ出したあたりで、椿が頭もすっぽり炬燵に入る。ほとんど間を置かずに、他の場所から顔を出した。慶次がそちらに回り込もうとすると、再び潜り込み、別の場所から顔を出す。

 それから、何度も目を合わそうと慶次がチャレンジするが、椿が無駄に早くて全然追いつけない。そんな慶次を横目で見て椿が鼻で笑った。やめておけばいいのに。

 慶次の思考が悪ふざけから真剣(マジ)に変わる。ついでに、常識も投げ捨てる。

 

 

(これは言うならば、北風と太陽! なら俺は――!)

 

 

 慶次は室内にあるとある機器の位置を一瞬で確認すると、素早く部屋を回る。

 そしてストーブを、エアコンを、炬燵を、ホットカーペットの温度設定を、

 

 

「太陽になる……!」

 

 

 ――最大にした。

 

 

「あっつ!?」

「うっひゃっひゃっひゃっひゃっ!! あっつ、だってよ!!」

 

 

 堪らず炬燵を飛び出す椿を見て、指を差して大笑いする慶次。当初の目的なんてすっかり忘れている。色々と酷かった。

 

 

「どうだ、参ったかぐへぇっ!?」

「うるさいうるさいうるさい! 予想外な事ばかりして! 変な声が出ちゃったじゃないのよ!!」

「痛い痛い! ごめんなさい参りました!!」

 

 

 調子に乗った慶次を容赦なく椿がボコボコにする。もちろん、手加減はしているが宝具がいい塩梅で効いているので、常人なら気絶するぐらいの勢いであった。

 

 

「この! この! ……あんた、殴るのにちょうどいいわね」

「丁度良くないって! って、ボディはダメ! 傷口が開いちゃう!!」

「……ふぅ……」

 

 

 アラストールのため息にも気づかず、椿は喜々として半泣きの慶次を追い回す。さっきまでぎこちなかった雰囲気は、いつの間にやら吹き飛んでいた。

 

 

 

 

「いてて……」

 

 

 朝からサンドバックにされていた慶次は、傷が開く前にほうほうの体で脱出した。我が家なのに、とも思わなくもないが、正直さっきは調子に乗り過ぎたのでしょうがない。

 椿のご機嫌をどうやってとるか考えていると、

 

 

「おはようございます、慶次さん」

 

 

 雪降り積もる寒空の下、格子門の先に傘を差した美代が待っていた。今日は首元にファーを巻き付けており、彼女のはっきりした目鼻立ちと相まって、いつもに増して大人っぽく見えた。

 

 

「……おはよう、美代」

「どうかなさいましたか、慶次さん?」

 

 

 と思っていると、手には可愛らしいミトンの手袋。子どもらしい可愛らしさが良いギャップになり、不覚にもちょっとドキッとする。

 

 

「あー……その、今日は何と言うか、可愛いな」

「……ありがとうございます」

 

 

 美代が一応、という感じで礼を述べる。照れ隠し……と言う訳ではなく、普通に不服なだけなのであろう。というのも、実は美代は頭脳や運動神経だけではなく、ファッションセンスも天才だったりする。だが同時に、どれもこれも一般人の理解力では追いつけない先進的なファッションであり、普段着としては使えないものばかりだった。

 だからこうして、慶次に褒められる場合は、往々にして美代の母親や友人が選んだものであり、褒められたとしても彼女自身が褒められている気になれないのであった。

 

 

「それで、まだどこか痛みますか?」

 

 

 これ以上、服装に触れるな、という事なのか。美代があからさまに話題を変える。

 

 

「全快だ。今日は健康体そのものだぞ」

「……色々と突っ込みたいところはありますが、とりあえず治って良かったです」

「すまん、心配かけた」

「そう思うのでしたら、早く結果を出して下さい」

 

 

 はい、と美代がファイルを突きつけてくる。どうやら、頼まれた資料を一日足らずでまとめたようだ。しかもご丁寧にも表紙を数学にして、カモフラージュしている。慶次とは違って本当に仕事が丁寧で早い。

 

 

「さんきゅ」

 

 

 慶次は鞄にしまいながら、ちょっと罪悪感が湧いてくる。

 

 

(まとめたって事は、事件の内容を見直したって事だよな……)

 

 

 椿でも最初は辛そうに訊いていた事件だ。メンタル弱めの美代には、かなり苦しかったと思われる。労いの一つでもかけたいところだが、敵がいるかもしれない往来で言う訳にはいかない。それに頭の良い美代の事だ、慶次の忠告を忠実に守るため、辛さをおくびにも出さないのだろう……逆に、そのせいで高い請求が来るかもしれないが、それはそれで致し方ない。

 慶次は心の中で美代に感謝しつつ、傘を差して歩き出す。その半歩後ろを、美代が付いていく。

 路面はほとんど雪に覆い尽くされている。一歩ごとに靴の半分以上が、雪に埋もれる。

 会話は“紅世”関連から、日常へと変わる。

 

 

「またバット背負っているのですか。今日は終業式だけだからいいですけど、フォローするこっちの身にもなって下さい」

「大丈夫大丈夫。あの馬鹿どもなら、どうとでも誤魔化せる。それよりも、今日って終業式だったんだな。すっかり忘れてた」

「忘れてたって。しっかりしてくださいよ、慶次さん」

「まあまあ。つーか、これだけ降ってるんだから、休校にならないの?」

「まだ成績表貰っていませんから、別の日に行かないといけません。冬休みが一日潰れても良いなら、それでもいいのではありませんか?」

「んじゃ、さっさと受け取ってさっさと帰りますか……」

 

 

 バス停で足を止める慶次。美代は足を止めずにそのまま行こうとする。

 

 

「乗らないのか?」

「こんな積雪で正常に動いている訳ないじゃありませんか」

「マジかよ……」

 

 

 確かに、目の前の道路を通る車は、全てがノロノロの徐行運転。というか、ほとんど止まっているのと一緒だ。こんな状態で、バスが正常に運行している訳がない。

 慶次たちのいる旧市街地から学校のある新市街地までバスで十数分。これが徒歩となれば最低数十分かかる。

 

 

「そこまで苦労して、手に入れるのは?」

「成績表」

「俺たち三年生に意味あるのかよ?」

「先生たちの仕事が終わります」

「先生も仕事終わらせなきゃいけないのは分かるけど、何か納得できねぇ……」

 

 

 進学志望の慶次にとって、大事なのは来月のセンター試験。成績表が良くても悪くても、そもそも受け取っても受け取らなくても、何の影響もない。

 こんな事なら“紅世”の事もあるし、いっそ休んだ方が良いかも知れない……何て慶次が考えていると、隣の美代が鋭い目つきがみるみる鋭利なモノに変わっていく。

 

 

「出席日数」

「わ、分かってるよ! ずる休みしねーから、そんな目で見るな!」

「本当ですか?」

 

 

 美代が胡散臭いものを見るような目で慶次を伺う。

 実は慶次、今年度の前期はかなり学校を休んでいた。アルバイトに免許取得等々、正当不当諸々の理由があるが、詰まる所それらは全て金策の一つであった。

 正直なところ、慶次が祖父や両親から受け継いだ遺産は少ない。原因は語るのも空しい遺産争いだ。慶次は確かに、この年の子どもとしては神経が図太く、勘も冴える。だが、大人たちの権謀術数を潜り抜けるには、明らかに能力と経験が足りておらず、あの手この手で見知らぬ親戚たちに遺産を食い荒らされていたのだ。

 今年に入って、慶次は大学進学に十分な資産を捻出するために、出席日数を犠牲にして金策を行っていた。美代は度々止めていたが……それが今になって足を引っ張るとは、全く以って美代の慧眼には恐れ入る。

 ともかく、そういう経緯があり、慶次は全く信用されていなかった。まあ、慶次も慶次で信用させる気がないので、すごく適当に答える。

 

 

「ホントホント」

「棒読みやめて下さい。そもそも慶次さんはですね、何でそんなに私の忠告を無視するんですか? 夏の時もそうです。素直に短期アルバイトにしなさいと言っているのに、宅配のアルバイトがしたくて二輪免許取ったって聞いた時は、本気で頭を疑いましたよ」

 

 

 それは受験の現実逃避とストレス発散でやった事なのだが、正直に言ったら、もっとうるさくなりそうなのでやめておく。

 

 

「今回だって、もっと早く相談していただければ、もっとやりようがあったでしょう」

「ああ、やだやだ。うるさいうるさいガミガミおばけが出てきたよ。そんな小さなことをいつまでもネチネチと。乳はデカいのに器は小さい事で」

「だ、誰がガミガミおばけですか! というか、むむむむむ、胸の事は関係ないじゃないですか!? セクハラですよ!! それに、人間小さいのは、慶次さんじゃありませんか!!」

「あー、聞こえない聞こえない。あと、小さくて結構」

「あっ、待って下さい! しっかり聞こえているじゃないですか!」

 

 

 美代の耳の痛い小言が多くなってきたので、慶次は足を速める。美代も慌てて並走して説教を続けるが、慶次は涼しい顔で聞き流す。こんな態度を取りながら、慶次の事が好きだと言うのだから、女とはよく分からない。

 

 

(全く。そういうところが、好意が分かりにくいって言うんだよ……分かり易かったら、めっちゃ困ってたけど)

 

 

 慶次は勝手な事を思いながら、旧市街地から新市街地へと抜ける大通り――堂森市の中心部でもあり最も栄えている――を眺める。

 今は十二月の下旬。建物から樹木、果ては店先のマスコット人形に至るまで、色彩豊かなイルミネーションが輝いていて、街はクリスマス一色であった。

 

 

(もうこんな時期か。全然気づかなかったな)

 

 

 今になって気づいた事に、慶次は嘆息する。受験に資金繰り、さらには“燐子”に椿、と騒動が続いたとはいえ、今になって気づくとは慶次が思っている以上に自分に余裕がなかったのだろう。

 

 

「それで慶次さん、明後日に予定は入ってますか? 受験勉強以外で」

 

 

 そんな事を考えていたせいか、ついつい口を滑らせてしまった。

 

 

「勉強以外? 面倒事解決すりゃ、特に予定はない……っは!」

「それでは、時間を空けておいて下さい。朝から勉強を見て差し上げますね」

 

 

 美代が小さな口を歪めて、まるで獲物を狙い定めるように薄く笑う。密かに右手を強く握り、ミトンが可愛らしく丸くなる。

 本日は二十二日。明後日は二十四日、クリスマスイブ。勉強を見るなど方便だと、さすがの慶次も気づく。

 

 

「今のなしで!」

 

 

 慶次はほとんど反射的に拒否反応を示した。美代の表情から、何となく危険な香りがしたからだ。

 対して美代は、慶次の反応にさっきまでの凶悪そうな顔を引っ込め、困惑気味に突っかかってくる。

 

 

「何ですかそれは!? 予定はないって言ったじゃないですか!? せっかく、ここ数日の遅れを取り戻そうと、善意で申し上げているのに! 浪人したいんですか!? そ、それに、私と一緒にイブの夜を過ごせるんですよ!! 寂しい寂しい独り身の慶次さん、一体何の不満があるのですか!?」

「うっせぇ! 微妙に反論できない事、言うんじゃねぇ!」

 

 

 美代が危険なワードを織り交ぜながら、チクチクと耳の痛い事を言う。誘うなら誘うで、もっと甘い言葉を囁いて欲しいものである。

 どうしたものかと思いながら、とりあえず慶次は美代の方を伺う。寒いにもかかわらず上気した頬、潤んだ瞳が慶次を上目遣いに睨む。その表情は怒っている、というよりか艶っぽい。美代を毎日見ている慶次だが、これはちょっとぐらりときた。

 

 

「イブの夜に二人っきり……ね」

「ほ、本当の目的は、ただの勉強会ですからね! 偶々イブに二人っきりになるだけですからね!」

 

 

 そっぽを向いて、言い訳がましく美代が叫ぶ。どうやら、先の表情は無意識だったらしい。もし、意識して使われたりしたらと思うと、末恐ろしい。

 それはともかく、本当にどう答えるべきか。正直なところ、ここ数日の遅れを取り戻したいのは事実だ。誘いは抜きにしても事件が解決次第、勉強は教えてもらいたい。

 でも、今の美代に『イエス』と答えるのはちょっと……いや、かなり怖い。

 普段の慶次はヘタレで、器が小さくて、考え無しの甲斐性無しだ。もし、何かあったとしたら、混乱して何もできない自信がある。受験は……まあ、今まで頑張ってたのだ。これぐらいの遅れ、どうにかなるだろう。

 慶次は強く頷くと、小心なのか図太いのか分からない直感を信じて、首を横に振る。

 

 

「すまん、予定は入ってないけど断るわ」

「あの、その断り方、全く意味が分からないんですけど……!」

 

 

 美代はムッと顔を顰める。と、すぐに気を取り直し、今度は打って変わって慶次の耳元に妖しく囁く。

 

 

「私たちは高校三年生……推薦受かっている私はともかく、他の方も受験勉強に精一杯なんです。私ともあろう者が、冬休みに何も予定が入っていないんです。慶次さんと同じく、イブに独り身なんです」

「…………」

「もし、慶次さんが明後日に予定を空けて下されば、私は一日中慶次さんの勉強を見られます。私もイブの予定が見事に埋まります」

「……」

「慶次さんは勉強を見てもらって幸せ。私は予定が埋まって幸せ。二人とも幸せなんです――断る理由なんてどこにもありませんよ?」

「――っ!」

 

 

 なるほど! と思ってしまう慶次。何だか本当にそんな気がしてきた。というか、いつもより美代がしつこいので、面倒になってきた。

 もうこのまま承諾してしまおうかと思っていると、

 

 

「マサくーん! 明後日はクリスマスイブだね!」

「成実、予定はもちろん空けているよな?」

「もう何言ってるの! マサくんとデートする予定で埋まっているよ!」

「あっ! そうだったな! 悪い悪い!!」

 

 

 市中心部を抜け、真新しい建物ばかりの新市街地に差し掛かったところで、傍から見れば連れ去られる小学生と怪しい男にしか見えない凸凹コンビを、慶次と美代は視界の端に捉える。成実と正守だった。どうやら、昨日の体育の後、無事に結ばれたらしい。ご丁寧に相合傘までして、バカップルを見せつけてきている。

 

 

「あいつら、付き合う事になったみたいだな」

「……好きな人と想いが通じ合って、良かったですね」

「…………」

「どうして目を合わさないんですか?」

 

 

 美代が二人を祝福しながら、ジロリと慶次を睨みつけてきて、堪らず目を逸らす。自業自得とはいえ、すごく居心地が悪い。

 学校までもう少し。慶次がこのまま一気に走って行こうと思った所で、

 

 

「へぶっ!?」

「マサくーーーんっ!!」

 

 

 目の前のバカップルが比喩なしで襲われていた。

 

 

「はっはっはっ!! 失せろ失せろ失せろ!!」

「くっ……! 成実、ここは俺に任せて先に痛い痛い痛い!? やめてくれぇっ!!」

「そんな!! マサくんを置いては、あべっ!? もうやめてよぉっ!!」

 

 

 馬鹿みたいな高笑いを上げながら、黒縁メガネの女生徒がおろおろしている少女を二人引き連れて、雪玉の全力投球でバカップルを駆逐していた。というか、奥村福子だった。

 

 

「福子さんは一体何を……!?」

「大方、今年も増殖したカップルの駆除でもしているんだろ。独り身の女の嫉妬は恐ろしいぜ」

「そ、そうなんですか……」

 

 

 美代がちょっと頬を引き攣らせて呟く。

 慶次も福子がよく『爆ぜろ!』とか叫んだり、カップル見ただけで鳥肌立てたりしていたのは知っているが、まさか本当に通り魔になるとは思っていなかった。福子の心の闇は想像以上に深かったようである。

 

 

「せ、先輩……!」

「これでもう十人目ッスよ……! もうやめましょうよ……!」

「天誅よ、天誅! つまり、正義なんだがら、あんたらももっと堂々と投げなさいよ!!」

「ひぃっ……!」

「もうやだぁっ……!」

 

 

 どうやら後輩らしい女生徒二人に、福子が無理やり雪玉を握らせる。昨日の慶次と美代を慮っていた姿はない。完全に暗黒面に堕ちていた。

 と、成実と正守の駆除をそこそこで切り上げた福子は、目敏く慶次と美代を見つける。

 福子はニヤッ、と女の子がしちゃいけない形に顔を歪めた。

 

 

「げっ! 見つかっちまった。逃げるか、それとも迎撃するか!?」

「それは、福子さんが来ると言う事ですか!? つ、つまり、私たちがそのカカカカカ、カップルに見えて――!!」

「そんな事、言ってる場合か!?」

 

 

 美代の心の琴線に触れたのか、何やら呟きながら顔を真っ赤にして硬直した。もちろん、そうしている間にも、福子は迫ってきている。

 

 

「ほら! とっとと逃げるぞ!」

「そ、それにしても、い、いやですね、私と慶次さんを、その、勘違いなさるなんて、私と慶次さんは、まだまだそんな――」

 

 

 トリップした美代を促しながら、学校へ向けて逃げ出そうとするが、なぜか福子の足が止まった。慶次たちも合わせて止まる。

 福子は美代を一瞥すると、

 

 

「……同類か」

「!?」

「あんたも、後で参加しなさいよ」

 

 

 福子は美代の肩を優しく叩くと、ちょっと嬉しそうに笑いながら、後輩二人は頭を下げながら、慶次たちの脇を通り抜けていった。

 美代が無表情で硬直する。

 

 

「そ、その美代さん?」

「…………」

 

 

 慶次はショックで固まっている美代からジリジリと距離を離す。散々、美代の好意から逃げ続けたのは慶次だ。福子に同類項扱いされた原因が慰めても、傷口に潮を塗りこむのと同意だ。

 

 

「明後日、予定空けてますから……その、元気を出して下さいね?」

「…………」

 

 

 美代が可哀想なので、慶次はそれだけでも告げると、すぐにその場を逃げ出した。なぜか知らないが朝から災難続きだ。これ以上留まったら、何が起きるか予想もできない。

 降り積もったばかりの柔らかい雪を踏みしめながら、一人で学校へ続く坂道を歩く。

 

 

(どうしてこういう時に限って、色々起きるんだろうね)

 

 

 思い出すのは、朝から続いた他愛もないやり取り……そして、六年前の事件と“紅世”だ。

 

 

(あー……一人になると、どうしても思い出しちゃうな)

 

 

 少し長く白い息を吐いてから、遠くを眺める。喧噪の市中心部、閑散とした旧市街地。新市街地は丘陵にあるため、雪が降り注ぐ堂森市が朧気ながらも見渡せた。

 慶次は歩く速度を緩めて、堂森市を見下ろす。

 日常と異常。最初は“徒”や六年前の事件の一端に触れてしまい動揺していたが、今ではすっかり落ち着いていた。

 

 

(俺にとっては、どれも失うものだから……なのかな)

 

 

 三か月も経たないうちに、慶次は卒業し……この街から離れる。何気ない日常も、恐ろしい非日常からも、遠い遠い場所に行ってしまう。

 楽しい事も、辛い事もあった堂森市。慶次はこの街は嫌いじゃなかった。だが家族、そして遺産さえも失いかけている慶次にとって、堂森市は住みづらかった。だから、高校卒業を機に離れる事を決めていた。

 

 

(もうすぐ終わるから、落ち着いていられるんだろうか)

 

 

 もし、変えたくない日常があったら、取り乱していただろう。これからも、この街に住むならば“紅世”が許せなかっただろう。でも、慶次には終わりが見ている日常だった。

 すぐに堂森市を離れる慶次には、この街を意地でも守る理由はなかった。今の平穏も一時のものだと察していたから、“燐子”に殺されかけた時も、淡々と事実を受け入られたのかもしれない。

 だけど、それでも踏ん張っている。終わりが見えているのに、逃げ出さずに頑張っている……否、見えているからこそ、よりよい終わりを迎えたいのかもしれない。終着点を、ゴールを知っているからこそ、迷いながらも真っ直ぐ進めているのかもしれない。

 

 

(何とも後ろ向きな理由でして……まあ、どんな理由でも、最後までやりきるだけか)

 

 

 そんな自己分析をしている間に、慶次は校門前に辿りつく。だが、ここを潜り抜けず、堂森市を見下ろす。何名かの生徒が慶次を不思議そうに目を見遣り、そして通り抜けていく。慶次は彼らを気にせず、丘陵から堂森市を眺め続ける。何となく、今だけは堂森市をこの目に焼き付けていたかった。

 

 

 だが、慶次の想いを嘲笑うように、“敵”は現れた。

 

 

 視線を戻し、再び通学路を歩き始めようとした、その矢先。慶次は駅とビルの立ち並ぶ堂森市中心部を薄桜色の陽炎が囲った。最初に慶次を閉じ込めた結界みたいなもの、“封絶”だ。

 

 

「ちっ!」

 

 

 このタイミングで何でだよ、と慶次は悪態をつきながら、校門を通り抜ける。目指すのは校舎裏など人気の少ない場所。椿と合流するためだ。さすがに、学校周辺に人気のない場所は少ないので、校内で合流するしかない。

 慶次は新雪の降り積もった校庭を突っ切り、おそらく人気が少ない代表格のような場所……体育館裏に辿りついた。さすがにこの雪中から朝練をするような猛者もおらず、体育館はシンと静まり返っており、それに合わせるように裏も静かだった。その代わり、という訳ではないが、校庭よりも多くの雪が積もっていた。

 

 

「椿!」

 

 

 慶次の行動を読んでいたのか、そこにはすでに椿が立っていた。どういう訳か、椿の周りに足跡一つもないが、今はそれどころではない。

 慶次は背を向けた椿に問いかける。

 

 

「“徒”が来た……のは分かっていると思うが、これからどうする!?」

「私が、仕留める」

 

 

 冷え切った声が、返ってきた。

 慶次は一瞬、別人かと思った。初対面は確かにこんな声だったかもしれないが、あれから一日経ってそれなりに打ち解けた。今は確かに戦闘前だ。とても明るい声で話せる雰囲気ではない。目に映る小さな体躯や、黒く艶やかな長髪、凛とした声と後姿は椿のそれだが、慶次は違和感を感じずにはいられなかった。

 慶次が動揺している間も、少女は畳み掛けるように告げる。

 

 

「私が封絶に入って、奴を仕留める……それで終わり」

「はぁっ!? お前、何言ってんだよ!?」

 

 

 少女の言葉に、慶次は動揺を押し殺して反論する。

 

 

「今回の事件は六年前の事件と繋がってんだろ! そんな壮大な計画が、敵の首領倒したぐらいで終わる訳ねーだろ! それに封絶に入るって……普通に考えれば、あれは罠だ! 行くにしても、もう少し対策を練ってから――」

「今回の事件が六年前と繋がっているのは、そもそも可能性の話。本当に繋がってる確証はない。それに、仮に繋がっていて“封絶”が罠だったとしても、あの場所は堂森市内で人口密度が高い場所の一つ。放っていれば、大量の人が喰われて世界は歪む。それを黙って見ている訳にはいかない」

「…………」

 

 

 残酷までにゆっくりと、丁寧に椿は慶次を突き放す。

 慶次には、これ以上反論できない。その間も、椿は続ける。

 

 

「だから、お前はここに残る。分かった?」

「…………」

「それじゃあ、行ってくる」

「待――」

 

 

 ――ありがとう、おいしかった。

 慶次の耳が壊れていなければ、確かに彼女はそう告げた。

 慶次がまたたきする間に、少女の姿は消える。

 一対の足跡だけが、そこには残っていた。

 

 

 

 

「は、ははは」

 

 

 乾いた笑いが出た。真相の一端を知り、解決へ臨もうと覚悟を決めて一歩を踏み出したその先で……終わったのだ。

 

 

「は、はーっはっはっは!!」

 

 

 慶次は大いに笑った。弾けんばかりに笑った。

 柄にもなくキメたと思ったら、全てがするりと抜けおちていく。何と滑稽であろうか――慶次も、“椿”も。

 慶次は椿が最後まで……六年前の真相が分かるまで協力してくれると、勝手に思っていた。だが、そうではない。彼女は今の事件さえ、“紅世”とこの世のバランスさえ守れれば、それでいいのだ。

 慶次は少女の事を分かったつもりだけでいた。そして、それは椿も、である。

 

 

「全くよ……よくも、やってくれたな」

 

 

 慶次はふてぶてしく笑うと、走り始める。もちろん、封絶のある市中心部に向けて。

 

 

「こんな中途半端にされて、逃げられると思うなよ!!」

 

 

 燐子? 紅世の徒? 命の危険? 関係ない。過去を掻きまわすだけ掻きまわして、こんな気持ちの悪い状態で放っておかれて、さよなら。そんなの納得できるわけがない。

 所詮、慶次は図太くても小心者で甲斐性無しの考え無しの、器の小さい男。椿がそんな身勝手をするなら、慶次だって身勝手で応えるだけだ。

 だけど、そんな騒いでいたら誰かに見つかる訳で。

 

 

「慶次さん、何かありましたか?」

「げぇっ、美代!?」

「って、どこに行こうとしているのですか!! ちゃんと出席するって約束したばかりなのに!!」

 

 

 慶次はよりにもよって、完全復活した美代に見つかってしまった。だけど、椿を今ここで逃がせば二度と会う事はない。慶次は足を止めることなく、校門へと向かった。

 ――当然だが、それが美代の逆鱗に触れる事となる。

 美代は大きく舌打ちをしてから鞄を捨てると、どこからともなく大量の雪玉を取り出して、投擲してきた。

 

 

「こっちは昨日から本気で心配して、忠告までしているのに!! いい加減にしてくださいよ、慶次さん!!」

「痛い痛い痛い!! 慶次さんのお尻壊れちゃう!! というか、その大量の雪玉……まさか奥村と一緒に――!?」

「い、いいから早く止まりなさい!!」

 

 

 次々全力投球する雪玉は、なぜか全弾慶次の臀部に命中した。ケツばかり狙うなんて、お仕置きされているみたいで地味に精神ダメージも通る。だけど、若干『宝具』で強化されている慶次には肉体的なダメージは薄く、止めるには至らない。

 そうして、ぐんぐん美代を引き離し、ちょうど校庭のど真ん中辺りに差し掛かった時だ。

 

 

「っ!?」

 

 

 ぞくり、と。

 突如、寒さとは違う悪寒が慶次を襲った。

 

 

「はぁ――ぁっ――!」

 

 

 それはまるで、幾十の、幾百の線が身体を貫くような感覚。腹の底から、怖気が上がってくるような悪寒。寒いはずなのに、汗が止まらない。

 慶次はそれが何を意味するのか知っている。本能が、覚えている。

 

 

「マジ……かよ……」

 

 

 それは四足歩行の生き物。

 犬に近い身体構造だが、その体毛は有り得ないほど長く直毛で、とても寒さを凌ぐためのものとは思えない。口は有り得ない事に、頭と腹に一つずつ付いており、どちらも舌と涎を垂らしながら、二つ呼吸音を重ねていた。

 そして、何よりも目を引くのは、頭も、顔も、足も、腹も、尻尾にさえにも埋め込まれた、幾十、幾百もの眼球である。その眼球には須く瞼は存在せず、真っ赤に腫れあがって、明確な敵意を持って慶次を射抜いていた。

 

 

「“燐子”……!」

 

 

 昨日、慶次を襲った“燐子”が『封絶も張らずに』立っていた。

 混乱する慶次の耳に悲鳴が届くまで、差して時間はかからなかった




遅くなった理由:話を積め込みすぎ

これでも、何個もネタを没にしているから恐ろしい。
次話からは、なるべくテンポよく行きたいと思います。


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第ⅩⅠ話 襲撃

※残虐描写有


「良かったのか?」

「…………」

 

 

 建物の屋根伝いに堂森市中心部、薄桜色の“封絶”に向かう途上。胸元のペンダント、神器“コキュートス”からアラストールが神妙に問うた。

 何が、とは訊かない。

 慶次の懸念は最もだった。確実に封絶は罠だろう。六年間の集大成が今回の事件ならば、首謀者を討滅して終わるほど生易しいものではないはずだ。

 少女は慶次の言葉は決して間違えではないのと理解していた。それなのに、少女はそれを理不尽にも真っ向から斬り捨てた。

 だけど、今はこれで良かったと思っている。

 最初はこれ以上慶次にかき乱されたくない一心に、適当に離れる理由を探していた。そうやって、慶次の粗探しをしていたはずが、いつの間にか彼と過ごした時間を思い出していた。

 ――最初は有象無象の人間の内の一人としか思わなかった。

 ――瀕死の傷を負い、死を覚悟しても、『宝具』を決して手放さなかった隠れた闘争心に、ちょっと興味が湧いた。

 ――頭の回転も速く“紅世”の視点から考えることが出来る希少な存在で、彼となら協力関係を築けると思った。

 ――普段の慶次はただのお調子者で、少し、いや、かなり失望した。

 ――少女の想像もしない過酷な過去を背負っていて、それを微塵に感じさせないほど彼は強かった。

 ――彼の作る料理は、既製品の物とは比べるまでもなく美味しく、なぜか温かいと感じた。

 

 

(……前田、慶次)

 

 

 どれもこれも初対面では想像も出来ず、共に同じ時間を過ごして初めて分かる事だった。

 そして、気付いてしまった。少女が慶次の事を決して嫌っていない……むしろ、好ましいと思っている事に。

 

 

「あいつの懸念が、的外れじゃないって理解してる。真相を知るためにも、あいつの力を借りる必要があるって、分かってる。だけど――」

 

 

 ――私はフレイムヘイズであいつは人間だった。

 

 

「……それだけよ」

「…………」

 

 

 少女は起伏のない、感情を押し殺したような声で言った。

 結局、慶次が人としてどれだけ強くても、好ましい人物だったとしても、所詮人間でしかないのだ。フレイムヘイズにとって小さなミスでも、人間にとってそれは命に係わる事態に発展してしまう。

 だからこそ、少女と青年は離れなければならない。慶次をこれ以上、過酷な運命から離すために。

 それきり口を噤んだ少女に、アラストールはそうか、と返す。

 しばらくの熟考の後、ちょうどビルとビルの間を飛翔したタイミングで、

 

 

「それにしても、我もあのような変わった人間と接したのも、久方ぶりか。いつの世も、人間とは想像を超える者がおる」

 

 

 と、アラストールらしからぬ、冗談めかした事言った。彼らしくない言葉と、すでに慶次が過去になっている事に、寂しさと嬉しさを混ぜて笑う。

 

 

「アラストールから見ても、あいつは変わってるんだ?」

「我を掃除と称して入浴剤を混ぜた湯船に落とそうとした事など……うむ、思い出しただけで腹が立つ」

「はぁっ!? あいつアラストールに何しようとしてるの!? 次会ったら、ぶん殴ってやる!」

 

 

 前田慶次。

 流浪の中で出会った一人の人間。

 少女のありのままを受け止め、短い間だが共に協力した人。

 どうやら、しばらくの間は彼の事を忘れられそうにないらしい。

 会話をしているうちに、封絶はすぐそこまで迫ってくる。

 

 

(私はフレイムヘイズ)

 

 

 少女は強く念じて、フレイムヘイズたる使命を『炎髪灼眼の討ち手』である己に刻みつける。

 

 

「アラストール」

「うむ」

 

 

 アラストールが短く答え、燃え滾る紅蓮を艶やかな黒髪と瞳に宿し『炎髪灼眼の討ち手』が薄桜色の陽炎に飛び込む。その姿に、迷いや戸惑いはない。己が選択に疑いはなく、自信に満ちていた。

 

 

 ――そして少女は、この選択を後悔する事になる。

 

 

 

 

 二つの口に、百を超える眼球。見間違いようもない、慶次を瀕死に追いやった“燐子”が校門を背に立っている。“燐子”を中心に周囲から上がる悲鳴を、どこか遠くで聞いているように感じながら、慶次は対峙した。

 

 

「封絶も張らず、どういうつもりだ?」

 

 

 回答を期待していない詰問をしながら、慶次は鞄と傘を投げ捨て、背負ったバットケースを握る。中には唯一“燐子”に対抗できるバット型の宝具。慶次はやや乱暴な所作で宝具を取り出し、両手で構える。

 向かえるのは百を超える視線。敵意を漲らせたそれらを慶次は決して強くはない身で、全てを受け止める。揺るがず騒がず、冷静そのものと思える慶次だが、その内心は穏やかではない。

 

 

(……マジでやべーぞ)

 

 

 慶次は“燐子”を視界の中心に捉えながら、置かれた状況の悪さに舌打ちする。

 本来なら、戦闘は全面的に椿が担当するはずだった。しかし、その肝心の椿はすでに封絶内に入ってしまっている。

 

 

(確かアラストールが言ってたな。『外界と因果を切り離す』って。椿が帰ってこないってことは、中から外の様子は見えないって事かよ……)

 

 

 おそらく、椿は慶次が襲われている事に気づいていない。つまり、今回は椿の助けが期待できない。加えて、周囲には巻き込まれた生徒たち。

 敵が封絶を張らなかった理由など、疑問は尽きないが、兎にも角にも慶次は己が力のみで、この窮地を潜り抜けなければならなかった。

 心なしかチリチリと腹部が痛み始め、無意識に唾をゴクリと飲み込む。宝具は前向きの感情に反応し、持ち主に力を与えると推測されている。こんな弱気な心根では、十全に力を発揮できない。

 少しでも弱気を和らげ前向きに考えられるように、慶次は一先ず寒さだけのせいではない、硬直し始めた身体を落ち着かせるため、長く細く白い息を吐き出した。固まった身体が、徐々にだが解されていく。

 

 

(今は宝具の使い方も分かってる。時間も稼げば、椿も来るはずだ。落ち着いて対処すれば、どうにか――)

「何が起きているのですか、慶次さん!?」

「美代!?」

 

 

 そうして慶次が精神的な余裕が出来た頃。彼の背後、ようやく追いついた美代が方々から上がる悲鳴に異常を察して、“慶次を助けるために”駆け寄ってきていた。いつもは喜ぶべき彼女の献身も、“燐子”を相手取っている今は悪手でしかない。

 

 

「待て!! 来るな!!」

 

 

 慶次が慌てて声だけで制止してしまった。己が行動の迂闊さを呪うも、一度取った行動を撤回する事は出来ない。

 振り返りもせず、必死に美代を止めようとする慶次の姿。それは常日頃から慶次を想う美代にとってどう見えるのか。当然、身を駆り立てる燃料にしかならない。

 

 

「慶次さん! 今行きます――っ!?」

 

 

 全身を覆う黒く長い直毛。逞しい四足の先には、人など容易に斬り裂いてような大きく鋭い爪。そして、耳を引く重ならない二つの呼吸音と、目を引く全身に散らばった幾百の眼球。

 美代は取り巻きに“燐子”を目撃してしまった生徒たちと違い、真正面からこの悍ましいモノと対峙してしまった。

 

「――あっ」

 

 

 そんな気の抜けた声を上げたと思うと、ストン、と。あまりにあっけなく、美代はその場にへたりこんでしまった。振り返る事の出来ない慶次の耳に、かちかちと歯の根が合わない音が届く。

 慶次の顔が一気に強張る。ただでさえ最悪の事態なのに、美代を庇いながら戦えるほど、今の慶次に余裕はない。幸いにも、“燐子”がすぐに仕掛けてこないから良いものの、このまま戦闘になれば――考えるだけで、慶次はぞっとする。

 慶次はあらん限りの声で叫ぶ。

 

 

「美代! ここは俺に任せて先に逃げろ!」

「分かっています……! 分かっています、けど……!」

「俺の事なら気にするな! すぐに追いつく!!」

「そうじゃないんです……!! 身体が……身体が震えて動かないんです……!!」

「――っ!!」

「動いて……!! お願いだから、動いてぇ……!!」

 

 

 美代が泣き叫びながら懇願するが、彼女の身体は震えるばかりで指一本でさえ動かなかった。それがさらに、美代の焦燥感を募らせる。

 

 

「動いて!! 動いてよ!!」

「落ち着け! お前が行くまで、俺も一緒にいるから!」

「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ……!!」

「……っ、大丈夫。慌てんな」

「ごめんなさい……! ごめんなさい……!」

「いいからいいから。ゆっくり……な」

 

 

 慶次が何度声を掛けても、美代の恐慌は解けない。

 考えてみれば当然の事だった。美代が優秀だと言っても、中身は闘いとは無縁の女の子なのだ。一つの身から二つの呼吸音。百を超えた真っ赤に充血した目玉。この世に非ざる幾百の視線は、女の子には刺激が強すぎる。

 例え想い人が守ってくれたとしても……否、想い人が守っているからこそ、喪ってしまう事を恐れ、ここまで取り乱してしまったのかもしれない。

 

 

(何にせよ、美代が動けないなら、動けないなりに腹括って戦うしかない)

 

 

 現状、美代に何をしても恐怖は収まらない。とてもじゃないが、動けない彼女を置いて戦い、良い結果が得られるとは到底思えない。だが、慶次に逃げ出すという選択肢はなかった。

 一人なら、昨日の惨敗を思い出し、遮二無二逃げたかもしれない。しかし、今の慶次は“独り”じゃない。美代が、正守が、成実が、福子が……ここには、慶次と同じ時を過ごした人が巻き込まれてしまっている。慶次が戦えば彼らを助けられる、とまで自惚れる気はない。それでも、僅かでも皆が生き残る可能性があるなら慶次は――戦う。

 突如、宝具が薄く淡く輝き出す。慶次の強い覚悟に宝具が反応したのだろう、今までの比ではない力が湧き上がってくる。

 身体は羽のように軽く。しかし、宝具を軽く一振りするだけで、まるで剛腕で振り抜いたかのように暴風を生む。

 自然、口角が上がる。今なら、“燐子”が相手でも十分に戦える……否、討滅だってできるかも――と、何時の間にか踏み出そうとしていた足を、慶次は慌てて踏み止まる。

 

 

(リスクなし、とはいかないよな!)

 

 

 自分の感情がそのまま力になる。戦うと覚悟した分だけ、戦える力が与えられる。その感覚を味わって慶次は事ここに至ってようやく、この宝具の危険性に気づく。

 感情が昂り過ぎるのだ。考えてみて欲しい。訓練やらの過程をすっ飛ばして、想った分だけ力が手に入る……それがどれだけ甘美で背徳的な感覚か。その高揚感や、一瞬でも気を抜けば、感情のまま戦ってしまうほどだ。残念だが戦闘の素人である慶次に、そんな状態でまともに戦える技術はない。

 制御するのも一苦労な宝具。しかし、今の慶次にそれを使わないという選択肢は存在しない。使わなければ、真っ先に殺されてしまう。慶次は生死を掛けた戦いの中で、自身の感情も御さねばならなかった。

 

 

(ホント、悪いときには悪い事が重なる!)

 

 

 幸い、と言うべきか。慶次は逆境や土壇場こそ力を発揮する。

 悍ましい化け物と対峙しながら、美代たち仲間に気を配りつつ、己が感情の手綱を握るという無茶苦茶も無難に対処しつつ“燐子”を牽制する。

 雪吹き荒ぶ極寒の中、慶次と“燐子”が睨み合う。

 

 

「ゥゥゥゥゥゥゥッ……!」

「グルゥゥゥゥゥゥゥッ……!」

「…………」

 

 

 “燐子”も慶次の力を警戒しているのか、いつの間にか二つの口からは、不愉快な呼吸音ではなく敵愾心を燃やす唸り声に変わっていた。これを合図に“燐子”の意識と視線が全て慶次に注がれ、周囲の生徒たちは我先に避難し、美代はふらつきながらも立ち上がった。

 

 

(このまま行ってくれ……!)

 

 

 後は美代さえ距離を置けば。そんな慶次の小さな願いを打ち砕くように、突如として“燐子”が頬まで裂けた頭部の口を限界まで開いた。その尋常ならざる形相に、美代は小さな悲鳴を上げると、再びその場にへたり込んだ。

 慶次に背後の美代に声を掛けるほど余裕はない。ただただ“燐子”の行動とその異形に困惑する。

 

 

(このタイミングでどういうつもりだ!? 威嚇、って事はないだろうが……)

 

 

 ――まるで、口から何かが飛び出てきそうな。

 ぞわぞわ! と一気に悪寒が背後を駆け上がる。相手は常識の通じない化け物。有り得ない、などと考えている暇はない。

 慶次は直感に従いその場を反転、ガタガタと震え座り込んでいる美代を抱え、あらん限りの力で横に跳び退る。

 瞬間、“燐子”の口からは人の大きさほどもある巨大な炎の弾が飛び出し、先まで慶次と美代がいた場所に着弾、爆発する。

 慶次と美代は直撃は避けたものの、困惑した分だけ回避が遅れ、至近距離で爆発を受けてしまう。

 

 

「ぐっ!!」

「きゃあああああああっ――あうっ!!」

 

 

 驚愕する暇もなく、炎と爆風を受けた慶次は吹き飛ばされ、背中から雪が溶解した地面に叩きつけられる。熱波が肌に突き刺さり、全身至る所に火傷を負う。燃え上がるような熱さと、身体の芯を揺さぶる衝撃に、慶次は宝具を手放さないのが精一杯だった。迂闊にも、腕の中から美代が投げ出される。

 

 

「うっ……ううっ……」

「っ!? 美代!!」

 

 

 慶次の耳に美代の呻き声が届く。痛みを堪え立ち上がると、美代は慶次から数メートル離れた場所に手足を投げ出して仰向けに倒れていた。ただし、頭からは血を流し、着飾った白いミトンは黒く焼け焦げ、腕を、腹を、足を――そして、顔を半分以上赤く爛れさせ、目は虚ろだった。

 その痛ましい姿に、慶次の胸の内から後悔、絶望が次々に湧き出てくるが、歯を食いしばり無理やり抑え込む。慶次と違い、宝具の効力もなしに至近距離で爆発を受けたのだ。傷はとてもではないが軽傷と呼べるものではない。後悔も絶望も後に回しだ。今すぐにでも治療しないと命に係わる。

 

 

「けい、じ、さん……たす、け……て」

「待ってろ! 今すぐ――っ!?」

 

 

 慶次は美代を治療しようと駆け寄ろうとするが、視界の端に“燐子”が飛びかかってくるのを捉える。避ける時間はない。

 

 

「オオオオオオォォォォォッ!!」

「ブオゥォォオォォォォッ!!」

「――っ!」

 

 

 咆哮と共に吹雪を突き破り襲い掛かる“燐子”の爪を、慶次は宝具で受け止める。

 

 

「――がはっ!!」

 

 

 拮抗は一瞬だけ。耐えきれなくなった慶次は、錐もみしながら吹っ飛ばされた。雪の上を二転、三転した後、再度立ち上がった時には、すでに“燐子”が猛然と爪を振り下ろしてきている。

 

 

「調子に、乗んな……!!」

 

 

 慶次は宝具を思い切り下から振り上げる。工夫も何もなく突っ込んできたためか、宝具は難なく“燐子”の顎に直撃し、身体を浮かび上がらせる。さすがの“燐子”も空中では身動きが取れない。慶次は打ち上げられた隙だらけの体躯を追撃、全力で殴打した。決して小さくはない“燐子”を数メートル吹き飛ばす。

 

 

「――っ!」

 

 

 慶次は歯噛みする。おそらく、さっきの一撃は現在、与えうる最大の攻撃。しかし、“燐子”は苦しんだ様子もなく、すっくと立ち上がった。対して、“燐子”の攻撃を真正面から防御し、殴打した慶次の両手は痛みと衝撃で痺れ始めている。拙いながらも宝具を使えるようになったが、未だ“燐子”との力の差は歴然だった。

 

 

(感情をもっと込める……のはダメだ。今の俺じゃあ、これ以上やったら感情がコントロールできなくなる。それよりも、あいつの弱点を――っ!)

 

 

 “燐子”が地面を踏み抜き、雪が舞い上がる。対抗策を練る暇さえない。再びカウンター気味に殴打を与えるが、やはりダメージが通った様子もなく手の痺れだけが増す。

 さすがに馬鹿の一つ覚えの突進では当たらないと悟ったのか。今度は慶次の周囲を不規則に飛び回ってから、突っ込んでくる。

 一撃目は何とか横っ飛びに回避するが、もはや反撃に移る余裕もない。四方八方を動き回る“燐子”を目で追いかけるのが精一杯で、慶次はただただ翻弄される。

 

 

「どいてくれよ!! このままじゃ、美代が……美代が――っ!!」

 

 

 焦燥感のまま叫ぶ慶次を嘲笑うように、“燐子”が次々と攻撃を仕掛けてくる。慶次はその度に吹っ飛ばされ、地面に叩きつけら、傷ついていく。

 小さな生傷は塞いでいくものの、再生速度以上の速さで蓄積されていく痺れは抜けきらず、防御は杜撰になっていく。

 

 

「……はぁっ、はぁっ……」

 

 

 数度目の攻撃を受け切った慶次は、息も絶え絶えで立ち上がるのもやっとだった。美代を助けるどころか、時間稼ぎさえ覚束なくなっていた。

 

 

(くそっ、せめて、美代を避難させないと……こっちも、“賭け”に出られない……)

 

 

 何も考え無しに慶次も攻撃を受け続けた訳ではない。策、と呼べるほどのものではないが、一つだけ“方法”を見つけていた。だがそれは、確実に周囲を巻き込むだけではなく、己が命を賭けなければ成功しない無茶な策だった。せめて、美代の安全が保障されなければ、踏ん切りがつかない。

 そのとき、幾百の眼球が慶次から逸れた。

 

 

「ほら、独り身美人! “私たち”が来たんだから、しっかりしなさい! おら、このバカップル男、しっかり踏ん張れや! バカップル女は、とっとと治療しな!」

「お、おう」

「わ、分かってるから、そんなに怒鳴らないで名前で呼んでよぉ……!」

 

 

 福子が、正守が、成実が、いつの間にか美代を担いでこの場を離れようとしていた。

 慶次と目が合った正守は親指を立て、成実は笑顔で手を振って、福子は“燐子”に向けて中指を突きつけながら唾を吐きかける。

 どいつもこいつも、頬は引き攣って指先まで震えているくせに、いつも通りの“らしい”姿を慶次に見せつけてくれる。

 自然と頬が綻んできた。痺れが嘘のようになくなり、力が沸々と湧いてきた。

 『宝具』の力は感情を身体強化に転換する事。仲間たちが尋常ならざる“燐子”を、そしてその化け物と平然と渡り合っている慶次を目の当たりにしても、その身を顧みず手助けする……その想いと行動が、慶次の心の内から形容しがたい歓喜を呼び起こし、戦う力に変えてくれる。

 無論、仲間たちが『宝具』の能力など知る由もない。なのに、彼らは慶次の元に来てくれた。それがさらに力を与える。

 美代の避難も始まり、身体も今までで一番強化されている。“賭け”に出るなら今しかなかった。

 

 

(それじゃ、やるとするか!!)

 

 

 “燐子”は慶次に背を向け美代たちを追いかけようとする。

 ――そのコンマ一秒先に、慶次は躊躇なく策を実行していた。

 瞬間、慶次の感情は歓喜に飲み込まれ、『宝具』は光り輝き出す。未だ嘗てない力で地面の蹴り上げると、一足で背中を見せた“燐子”との距離を縮める。

 策というのは何の工夫もない……ただ感情に任せて、『宝具』を振るう事だった。その時の身体能力は“燐子”にも匹敵し得るだろう。ただし、感情のまま戦い続けてしまうという欠点もあったが、幸いにも、“燐子”は慶次が攻めてこないと思ったのか、愚かしくも背を向けた。これならやりようはある。

 

 

「ふざけてんじゃねぇーぞっ!!」

「ガフッ!」

「ギャウンッ!」

 

 

 慶次は勢いそのまま“燐子”を押し倒す。距離がゼロになってしまえば、考えるも何もない。ただ力のままに、本能のままに、獣のように戦うだけだ。

 

 

「っ―――このっ! 大人しく、しやがれっ!!」

「ゥウッ!」

「ガウッ!」

 

 

 力と力がぶつかり、もみ合いになる。慶次は宝具で“燐子”の首を圧し折ろうと、“燐子”は慶次の喉笛を噛み千切ろうと。

 力は互角。一人と一匹は揉みくちゃになりながら二転、三転する。

 そして、

 

 

「うぐっ!」

「オオオオオオォォォォォッ!!」

「ブオゥォォオォォォォッ!!」

 

 

 慶次の幸運もここまでだったのか。勢いが止まった時には、“燐子”が慶次を地面に押さえつけていた。鋭い爪が両肩に突き刺さり、血が噴き出す。

 絶体絶命。だが、感情に飲み込まれた慶次は、臆する事はない。

 

 

(倒す倒す倒す倒す倒す!!)

 

 

 “燐子”の首を宝具一本で押さえ、迫る牙をいなしながら、空いた右手で何度も何度も腹を殴りつける。爪が肩を引き裂いていき、右手も段々と血まみれになっていくが、感情に埋め尽くされた慶次は一心不乱に攻撃を続ける。

 

 

「グゥゥゥ――グ、フッ!」

「オォォォゥ――ガ、フッ!」

 

 

 “燐子”が初めて、苦悶の声を上げ、二つの口から薄桜色の火の粉を噴き出す。慶次の執念についに“燐子”にも余裕はなくなっていく。

 慶次が倒れるのが先か、“燐子”が倒れるのが先か。

 そう思った矢先、

 ガコン、と“腹部の口”が限界まで開いた。

 

 

「て、めえっ、正気かよ!!」

 

 

 慶次に残った僅かな理性が叫ぶ。慶次と“燐子”の間にほとんど距離のない現状、炎弾など飛ばせば慶次だけでなく、“燐子”も無事では済まない。

 答えは返ってこなかったが、腹部の口は限界まで開いたまま慶次を向いていた。考えるまでもない。“燐子”は己を爆発に巻き込んでまでも、慶次を殺そうとしていた。

 抜け出そうと慶次は何度も殴りつけるが、“燐子”は薄桜色の火の粉を吐き出すばかりで、ちっとも力は緩まない。むしろ、慶次を噛み殺そうと余った頭部の口で喰らいついてくる。

 二度目になると、“燐子”に“何か”が集まっていくのが分かる。そして、それが終わるまでに抜け出す事は、不可能だということも――。

 

 

「くそっ――」

 

 

 慶次が再び右腕を振るったのとほぼ同時に。

 “燐子”を中心に爆発が起こり。

 慶次は爆炎に包まれた。

 

 




王大人「死亡確認」


遅筆が治る秘密道具が欲しい。


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幕間Ⅰ 美代と慶次

12話冒頭を書いていたら、長くなったので分離。
灼眼のシャナとはあまり関係ない箇所が多いので、サラッと読んで下さい。


「それでは今度こそ、また明日」

 

 

 何か慶次が言いたそうにするが、どうせ『お義父様』呼びが気になったとかその程度だ。おやすみなさい、と美代は慶次に告げ問答無用で電話を切った。

 

 

「ふぅっ……」

 

 

 電話を終え、美代は自室のベッドに寝転がると、思わずため息を吐く。ため息の理由は、大好きな人と会話できたから……などと可愛い理由だけではない。

 

 

(私とした事が、思わず嘘泣きをしてしまいました。ですが、慶次さんが怪我をしていたと白状させましたし、六年前の事件と関わっていると分かりました。嘘を吐いたのは心が痛みますが、協力の許可も出ましたし、今朝の減点を取り戻したと考えましょう)

 

 

 心の中で慶次を騙した事を謝りながらも、その本心は彼の手伝いができる喜びに染まっている。美代は本当にどうしようもないほど、慶次に惚れていた。

 

 

(……こんなに夢中になるなんて。“一年前”は考えもしませんでした)

 

 

 上半身だけ起こすと、美代は自身の机の上に置かれた写真立てを見つめる。そこには、ちょっと硬い表情の美代と満面の笑みの慶次が写っている。去年の冬、修学旅行の時の写真だった。

 美代はそれを見ると顔を僅かに綻ばせるが、すぐに暗くなった。

 

 

(慶次さんとのツーショットがこれ“一枚きり”だなんて……馬鹿馬鹿。昔の私は本当に馬鹿です)

 

 

 自分と想い人だけが写った思い出の品。

 美代と慶次は同い年で家も隣り合わせの幼馴染なのに、二人だけで写った写真はこの一枚だけだった。

 これだけ慶次に惚れている美代だ、さぞかし昔から一途に想い続けていたのだろうと思われるが、実はそうでもない。美代が慶次の事が好きになったのは――正確には気づいたのは――たった一年前だった。それどころか、高校入学辺りまで犬猿の仲だったりする。

 理由は簡単だ。

 父親同士が政治家で、性格的にも馬が合わなかったから。

 相手が苦手とか、話が合わないとかではない。親同士が嫌い合っていた。

 本当に、それだけで嫌いだった。

 

 

(幼かったとはいえ、お父様の唯々諾々と聞いて慶次さんを嫌って……本当に愚かでした)

 

 

 慶次と初めて会った時から、お互い罵りあうような仲だった。

 それが次第に知恵を付けていくと、美代は自身の才覚を見せつけ、慶次の無能を嘲笑うようになった。

 慶次は慶次で能力では敵わないと悟ったのか、徹底して美代を無視した。いないものとして扱った。

 そこまでくると、親同士が嫌い合っていたからとか関係ない。本当に本心で、お互い嫌いになった。大嫌いだった。

 親もそれを止める所か、むしろ煽っていた。

 少しでも相手に優位に立とうと。少しでも相手を貶めてやろうと。そんな汚い心根がぶつかり合い、美代と慶次の関係も心も汚くねじ曲がっていった。

 

 

 ――それが変わったのは、五年前の話。二人が中学一年生の時だ。

 

 

 美代が夏休みに行った海外旅行のお土産を、慶次に届けろと母と言われた。

 さすがに外聞もあるので、お互いあからさまに嫌い合う事はなくなったが、それでも嫌いなのは変わらなかった。正直、この外面向けの“お付き合い”は億劫だった。

 それなのに、母は何かにつけて慶次に合わせようとした。おそらく、父親同士のいがみ合いが、自分の子どもにも引き継がれているを心配していたのだろう。美代はそれを理解していたが、あんな『無才で無能な男』を今さら普通に扱うのも癪だったので、聞く事はなかった。

 それでも、『家族を惨殺された男』を邪険に扱うのは後味が悪いので、母の命令には素直に従った。

 

 

(あの時、久しぶりにあった慶次さん……今思えば、逞しくなっていて素敵でしたね)

 

 

 当時、美代と慶次は別々の中学校に通っており、顔を合わせるのは実に小学校卒業以来だった。

 美代は慶次の噂だけは耳にしていた。

 ――知らない親戚に遺産を奪われた。

 ――妄念に獲りつかれた祖父が、あくどい方法で犯人を死刑に追いやった。

 ――事件は当主につきたいがために行った、慶次の自作自演であった。

 噂のほとんどが悪いもので、美代は慶次がどれだけ落ちぶれたのか、後ろ黒い期待をしていた。

 それが会うなり厭味ったらしく旅行を自慢した美代に対して、『今まで冷たくして悪かった』と謝ってきた。

 てっきり舌打ちだけされて終わると思っていただけに、パニックになった。

 薬でもキメたのか、高度な皮肉を覚えたのか、記憶喪失になったのか――などなど、かなり失礼な事を訊きまくった。その度に突っ込まれて、訂正されて、ようやく慶次が本心で謝っていると分かった。

 だが、謝った理由は分からなかったので、ついでにそれも訊いた。『そもそも何で俺たち喧嘩してたんだ?』と笑いながら訊かれ返された。

 

 

(あのまま慶次さんに指摘されなければ、私はもっとねじ曲がっていたでしょうね)

 

 

 それから、今までの不仲が嘘のように仲良くなった……なんて事はなかったが、嫌い合うような事はなくなった。学校は違った事もあり、会話もほとんどなかったが、良い意味で段々と慶次に興味を持つようになった。

 ――遺産を理不尽に食い荒らされて、どうしてあんなに冷静でいられるのだろう。

 ――祖父が事件ばかり構って、見向きもされないのに、どうして一緒に暮らしていられるのだろう。

 ――どうして、あんなに素直に謝る事ができたのだろう。

 そんな事を、前田家を見かける度にぐるぐると考えた。自分と慶次を比べて、ようやく答えが出た。

 強いのだ、人として。

 ――世界が理不尽だからこそ、全てを失ってしまわないように真っ直ぐ進み続ける。

 ――例えどんな仕打ちを受けても、本当に大切な人だからこそ寄り添っていられる。

 ――そして何があっても、人として大事なものを守り抜き、自分の生に誇りを持つ。

 どれだけ美しくても、どれだけ才能を秘めていようとも、美代には決して持つ事はできない。慶次が過酷な人生の中で育て上げた、儚くて悲しい強さだった。そこまで強くなるのに、どれだけの困難と苦悩があったのか、美代は想像もできなかった。

 答えが出てから、さらに慶次の見方は変わった。

 美代には決して持ちえない、強さを持った人。相変わらず会話は少なかったが、そんな彼を心の底から尊敬すると同時に、彼以上の強さが欲しいと、ライバル視するようになった。

 

 

 ――それが、間違った一方的な答えだと気づくのに、一年以上の月日を必要とした。

 

 

 中学二年生の秋。美代と慶次が仲直りして一年後、慶次の祖父・期家(まついえ)が亡くなった。殺人犯の死刑が執行されてから、いよいよ酒浸りになっていたのが原因だったのか、死刑執行から一カ月も経たない内の悲報だった。

 葬儀は喪主が中学生とは思えないほどに、滞りなく行われた。

 この葬儀には美代も参加した。だが、その心の内は亡くなった者に対する弔いではなく、少し先の彼の未来だった。

 きっとこの困難も、慶次なら乗り越える。また強くなって、美代の前に現れる。だから自分も負けない様に強くなる――そんな一方的な想いを勝手に描いていたのだ。

 

 

(……あの時の私は、きっと酔っていたんでしょうね、自分と慶次さんに)

 

 

 葬儀が終わってから、美代は慶次を訪ねた。その心を慮ったのではない、慶次の今後の身の振りが気になって、尋ねようと思っただけだった。

 だが、幾ら呼び鈴を鳴らしても、慶次は家から出てこなかった。もう寝たのか、とも思ったが、窓を見れば電気は点いている。

 腑に落ちないものを感じながら、美代は何となし窓の中を覗きこんだ。

 そこには慶次を何人もの大人たちが取り囲み、全員が慶次を口汚く罵り蔑み貶めていた。軽い気持ちで訪れた美代にとって、その光景はとても見るにも聞くにも耐えられないものだった。気づけば、目を閉じ、耳を塞ぎ、大人たちが去っていくのを待っていた。

 それから、数十分後――もしかしたら、数分後だったかもしれないが――とにかく、美代にとって長い長い時間が過ぎた頃、誰かが肩を叩いた。

 慶次だった。目の下には色濃く隈が浮かびあがっており、肌は荒れていた。よく見れば、殴られたような傷があった。なのに、彼はすごく心配そうな顔で美代を見ていた。

 美代は無理やり家に押し入り、慶次を治療しながら何があったか訊いた。

 

 

『面白みのない話さ』

『じいちゃんが死んだから、俺たちにも遺産寄越せだって』

『断ったら、殴ってきやがって』

『警察? 一応言うつもりだけど、あいつら変な団結力あってさ。口裏合わされて上手くいかないんだよ」

『裁判? その前に、弁護士が裏切りやがったから、他のも合わせて一からやり直しだよ』

『嘘吐いてもしょうがないから言うけど、正直ヤバい』

『辛いさ。でも、これ以上失うのは嫌だから、できる所までは頑張るよ』

 

 

 これが美代が尊敬していた強い人の等身大の姿。

 美代は自分が大きな思い違いをしていた事に、ようやく気づいた。

 結局、慶次が強かったのは精神力だけだった。本当に凡庸な男なのに、大人たちは慶次に過酷を強いて、慶次はもうボロボロだった。それなのに、大人は誰一人慶次を助けようとしない。独りぼっちの慶次に、誰も手を差し伸べようとしない。それどころか、寄って集って足蹴りにしている。

 比喩ではなく、このままでは慶次が死んでしまう。なのに、誰も状況を変えようとしない。

 美代は恐ろしかった。状況を理解してなお非道な行いに走る大人たちも、凡庸ゆえ状況を理解しきっていない慶次も。

 気づいてしまって、見て見ぬふりはできなかった。

 美代は何かと理由を付けて、慶次に口を出すようになった。

 家事や勉強などの日常的な技能から、裁判やら警察やら公的機関の適切な使い方など専門知識まで、美代が手助けできる限り口やかましく助言をした。

 つまり、元々美代の献身は慶次が好きとかではなく、本当にこのまま放置したら死んでしまうという結構ガチな危機感からだった。

 周りは『通い妻』やら『ダメ男製造機』などと囃し立てたが、そうでもしないとこの男は死ぬまで突っ走るんだ。美代はそんな周囲の言葉など無視して、慶次の元に何度も足繁く通った。だが、学校が違うので一緒にいられる時間が短く、全然事態が好転しない。

 美代は進学先を堂森高校に変えてまで慶次を追いかけ――後は、今の美代と慶次だ。

 

 

(というか、相手を追いかけて進路変えるって、どう考えても好きじゃないですかー! 余裕がなかったのは事実ですが、何で昔の私はそんな事も気づいてないのですかー!!)

 

 

 美代はベッドにうつ伏せになり、ポカポカと枕を叩く。

 皆は慶次を鈍感と言って叩いていたが、当時の美代は本気で自分の気持ちに気づいておらず、好意を持っているという素振りを一切見せなかった。それどころか、慶次の巻き起こす騒動のせいで一切の余裕がなく、ニコリともしなかった。それで慶次を責めるのは、酷というものだろう。

 

 

(そのせいで、今も慶次さんの前で自然に笑えないという有難くない副産物まで残っていますし! ああもう、昔の私は馬鹿すぎる!!)

 

 

 結局、慶次が去年にクラスメートを巻き込んでまでセッティングした修学旅行デート(本人は日ごろのお礼のつもり)を経て、ようやく自分の本当の気持ちに辿りついた。

 他人より余分に手の掛かる人。何度も苦労させられたが、その度に土壇場で乗り越えて思った以上の結果を見せてくれて。美代の親が政敵で今も危険視しているのに、そんな色眼鏡で見て接する事は決してしなくて。慶次と一緒に入られる時間はとても大変だけど、同時にとても楽しくて自分らしくいられて。これからもずっとずっと、一緒にいたいと想っていたと……ようやく気づいた。

 で、気づいた時には高校生活も残り一年であり、嫌い合っていた時間の方が長いし、色っぽい思い出は修学旅行だけだし。それどころか、すぐに美代の気持ちを慶次に見抜かれてしまって。

 もう出遅れて過ぎて、全てが手遅れだった。

 

 

(いや、気付かれたのは私をよく見て下さっているって事で嬉しいんですけど! ですけど、この状況、慶次さんじゃないですけど詰んでますよね、これ!)

 

 

 一年間、さりげなくオシャレとかボディタッチとかしてみたが、進展はない。もう告白するべきかとも考えるが、慶次は好意に気づいてなお、美代を放置しているのだ。慶次が受験などで普通に忙しいという状況もあるだろうが、告白した所で玉砕する未来しか見えなかった。

 

 

(……考えても落ち込むだけですし、今は慶次さんを手伝う事に集中しましょう)

 

 

 気を取り直してベッドから立ち上がると、本棚から背表紙が何も書かれていないファイルを一つ取り出す。以前、慶次の身辺整理の一環で、六年前の事件をまとめたファイルである。

 美代はファイルを見直しながら、慶次の異変を推察する。

 

 

(昨日までの慶次さんと今日の慶次さんの一番の相違点はバット……そういえばお義兄様はバットを持ってお亡くなりになっていましたね。なるほど、『バントホームラン』を打てるような異常なバットを持っていて、お義兄様が殺されてしまったのは確かに甚だ疑問です。ですがそれが分かったところで、どうして六年前の事件を洗い直す必要があるのか……ここで慶次さんの負傷が関わってくるかもしれませんね。関わってくるとなると、慶次さんに危害を加えた犯人と六年前の犯人を、慶次さんはどういう訳か結び付けている、と)

 

 

 ここで美代は手を止め、さらに今回の騒動の切っ掛けとなったであろう人物を思い浮かべる。

 

 

(あの黒髪貧乳少女が、今回の事件と六年前を繋いだのでしょうか? 六年前と今回の事件、地続きになっている事も念頭に置いて追加調査をするべきでしょうか?)

 

 

 美代は首を小さく振ると、ファイルを鞄の中に入れる。

 

 

(慶次さんの動きが、朝と昼では見違えていました。これがバットの効果だと考えると、おそらく、昨日の体調不良も治したのでしょう……あれだけ便利なバットを持っていても、警戒しているのです。私の想像もできないような恐ろしいものがあるのかもしれません。ともかく、もう少し慶次さんから『敵』と『少女』の事を詳しく訊く必要がありますね)

 

 

 今後の対策を練っていると、ガチャガチャとドアノブを回す音がする。

 美代はウンザリしながら、ドアの向こうに立っている人物に声を掛ける。

 

 

「お父様、何の御用でしょうか?」

「美代、ここを開けなさい! 大事な話がある!」

「……お父様、私でなければ一生、口を利かれない事をしているという自覚を持って下さい」

「私はお前の父親だ。何の問題がある?」

 

 

 予想通りの返答に、美代は大きくため息を吐く。

 この傍若無人な態度の人物は、美代の父・勝美(かつみ)。政治家として尊敬はしているものの、日常生活――特に慶次関連――で美代と大きく意見が喰い違い、最近ではとても仲睦まじい親子とは言えなかった。

 今日も恐らく“あの件”だろうと思いつつ、美代は尋ねる。

 

 

「それで、早くご用件を仰って下さい」

「……ふん、まあいい。来週、見合いが決まった。相手の資料を置いておくから、目を通していろ」

「……ちっ」

 

 

 想像とそっくりそのままの答え。心構えはしていたにもかかわらず、やはり決して受け入られない内容に美代は舌打ちする。

 父はそれを分かっていながらも、話すのを止めない。

 

 

「先方もお前をいたく気に入ったみたいでな、すぐにでも会いたいと言っている。粗相のないようにしなさい」

「……何度同じ事を言わせるつもりですか」

 

 

 なるべくゆっくり、静かに、感情を漏らさない様に美代は言うが、言葉の端々には殺気が漲っていた。

 対して、父の方も思い通りにならない娘に、苛立ちを隠さず言う。

 

 

「口答えをするな」

「口答えもします。だって、私は高校生ですよ? そんな小娘を気に入って、さらに会いたい? これが一般人なら110で一発逮捕です。その方が学生でないのなら、そんな一般常識も携えていない社会人、こちらからからお断りです」

「違うな、一般常識がないからこそ良いのだ。頭はほどほど悪い方が、手綱を引きやすい」

「ですから、私も新発田家次期当主の自覚はあるので、そういった方でも私が大学生になれば吝かではないと言っているでしょう! あ、もしかしてお急ぎですか? なら、他に年も近くピッタリの方がいますから、そちらにします」

「……もうすぐ野垂れ死ぬ男に、まだこだわるか」

「っ! 今、何て言いましたか!!」

 

 

 父の言葉に、美代は感情のまま壁に拳を叩きつける。

 父は慶次の父親・利期が死んでなお、前田家を敵視していた。利期が死んでなお、父は前田家を敵視し、慶次を目の敵にしていた。慶次の事を口にする父は、容赦なく、残酷で、残忍だった。そして、慶次の不幸の幾つかは、彼が手引きしていた。

 美代の行動原理は、慶次が死なない様にする事。いつもはある程度、美代も我慢できるが、今日のこの言葉――もうすぐ野垂れ死ぬ――は許せなかった。

 

 

「その言葉、今すぐ撤回して下さい!」

「そろそろ現実を見たらどうだ? あんな無能な小僧、もうすぐ死ぬ」

「追いつめている張本人のくせに……!! もういい加減、やめて下さい!!」

「それでお見合いだが、」

「もう話しかけないで下さい!!」

「来週の、」

「話しかけないで!!」

 

 

 美代は布団を頭からかぶり、耳を塞ぐ。父の言葉は何も聞きたくなかった。

 

 

(……慶次さん)

 

 

 無音になった世界で、慶次の事を想う。

 美代の好きな人は、今度は一体何に関わっているのか。美代はまた彼を手伝い、助ける事が出来るのか。一体、慶次は美代の事をどう思っているのか。

 色々想いは交叉するものの、美代は目を閉じながら絶対に揺らぐはずのない一つの想いを心に刻む。

 

 

「あっ、パックしなくちゃ……慶次さんは私の綺麗な肌が好きですからねー」

 

 

 ――その想いが、たった一息で吹き飛ばされる事を、彼女は知らない。

 

 

(今回も絶対助けます、慶次さん)




ラブコメ系ヒロインですか? いいえ、昼ドラ系ドロドロヒロインです。
どうしてこうなった……。

ちなみに、『幕間1』とありますが、2が出る予定は今のところありません。


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第ⅩⅡ話 絶望

遅くなりました。
気づいたら、約三話分……内容もちょっと[※残虐描写有]なので、
時間と心にゆとりがあるときに、ご覧ください。




 奮闘する慶次を背に、美代、成実、正守、福子の四人は後ろ髪を引かれる思いで、避難を急ぐ。

 

 

「結局、俺たちには何もできないのかよ……!」

 

 

 正守が苦々しげに呟き、成実が悲しそうに俯き、福子がギリギリと歯を食いしばる。

 現在、化け物が生徒(けいじ)を襲撃する異常事態に、大半の生徒は教師の判断の元、一階を除いた二、三階の教室に閉じこもっていた。というのも、学校外部に避難した所で数百名の人間を収容する場所はない上に、そもそもこの積雪の中、統率して進む事は困難だ。ゆえに、教師たちはなるべく化け物が入りにくい二、三階に生徒を集め、出入口を教師が守る事にしたのだ。

 もしもの時は、教師たちが盾になる。そういう覚悟を込めた陣形であったものの、誰も美代を、慶次を助け出そうとはしなかった。あの戦場に近づく事は、命を捨てる事と同意にしか思えなかったからだ。何百人もの生徒が後ろにいて、そんな短絡的な行動に出られるはずもなかった。

 しかし、それはまさに“賢い大人”の勝手な考えだ。成実、正守、福子の三人にとって、友が命を失う瀬戸際。黙って見てなどいられず、若さにかまけて教員たちを突破し、何とか校舎から抜け出した。

 美代に、慶次に近づけば、何かできるのではないか、という希望的観測。無論、そんな彼らに都合の良い幻想など、化け物を目の前にして一瞬で吹き飛んだ。

 幾百の目玉を張り付けた悍ましい外見。炎の弾に車など優に超す速度と跳躍力。その怪物に辛うじてだが、喰らいついている慶次。それらを間近で見て、三人は嫌というほど理解した。

 彼らに出来る事はない。戦う手段を持たない、そもそも戦った経験さえないに等しい彼らに、何か出来るはずがない。三人はせめてもの悪あがきに、慶次を励まし、化け物を挑発し、美代を助け出す事ぐらいしか出来なかった。

 

 

「……はぁっ、はぁっ……けいじ、さん……」

 

 

 正守と福子(成実は小さすぎておまけ)に担がれた美代は、荒い息を吐きながら朦朧とした意識の中で慶次を呼ぶ。その様子を正守は直視できず目を逸らし、福子と成実は悲痛に顔を歪める。

 美代の長く艶やかだった黒髪は、その半ばまで焼け落ち。セーラー服は黒く煤けて、腕の、足の、腹の露出した箇所は、雪の様に真っ白だった珠肌を真っ赤に爛れさせている。特に顔は、その右半分が黒く焼け焦げており、かつての美貌は面影さえも残っていない。美代は女性として大事なものを、あの炎で一瞬のうちに失っていた。同性の福子と成実は、心を痛まずにはいられなかった。

 

 

「何で、こうなっちゃうの……」

 

 

 成実の小さな呟きが、嫌に正守と福子の耳に残る。ここにいる誰もが、成実と同じ気持ちだった。

 慶次はただ毎日を懸命に生きていた。美代は慶次を助けるために、一生懸命だった。その結末がこんな悲惨な結果だというなら、あまりにも理不尽過ぎた。

 だが、理不尽を止める手段を成実、正守、福子の三人は持っていない。そもそも、何が起きているのかも分からない。どこまでも彼らは無力だった。

 

 

「奥村、佐久間、笹!! お前たちって奴は――!!」

「説教は後! 今はあの子が優先!」

 

 

 四人は校舎の入り口に辿りつくと同時に、若い男性が目を怒らせ、中年の女性は救急箱を持って、それぞれ校舎から飛び出してくる。担任の滝川教諭と篠崎養護教諭だ。人数が二名と少ないのは、百名を超す生徒を抑えるには、これ以上教員数は割けない、という事なのだろう。

 篠崎教諭の指示に従い、すぐに治療を始める。広げたシートの上に美代を横たえる。女性陣が手分けして美代の治療にあたり、男性陣はその視線を慶次に転じる。滝川教諭は校舎へ戻れ、とは言わない。慶次のために、命を張った生徒たちなのだ。言った所で従わないと、分かっていた。何より、彼も自分の生徒である慶次が心配で、ここから離れたくなかった。

 全員が黙して、慶次と化け物の戦いに注目する。

 

 

「っ! 慶次、負けるんじゃないぞ!!」

「前田……頑張ってくれ……!!」

 

 

 戦いは佳境に差し掛かっていた。

 慶次を押し倒した化け物が、慶次の肩に爪を喰いこませながら、鋭い牙で首を噛み砕こうとしていた。慶次はギリギリのところでそれを抑えながら、拳から血を流しながら殴り続けている。

 ここまでくれば、戦闘の素人である正守たちにも分かる。この戦いは慶次が死ぬか、化け物が死ぬかでしか、決着する方法がない、と。

 身体が傷つく事も厭わず戦い続ける慶次と、誰もが代われるものなら代わりたかった。だが、ここにいる誰もが祈って見守るしかできなかった。

 

 

「―、――っ!!」

 

 

 慶次が何かを叫んでいた。正守たちからは未だ情勢変わらず、慶次が殴り、化け物が喰らおうとしているようにしか見えないが、明らかに慶次は焦り拳を何度も何度も振るっていた。

 一体、何が――それを推察しようとした刹那、

 轟音と爆風が吹き荒れた。

 成実たちも治療の手を止め、爆発の根源を振り返る。

 全員が見つめる中、爆炎が慶次を飲み込んでいった。

 

 

「……うそ……」

 

 

 その言葉は誰が呟いたのか、しかし全員の心中を代弁していた。

 雪降り積もったグラウンドの中央、吹雪く視界を吹き飛ばすほど煌々と炎と煙が舞い上がる。

 全員が、あの“化け物”が炎を吐く瞬間を見ている。あの炎を出したのは“化け物”に相違ない。ならば、あの炎は――。

 全員がこの情景の示す悲劇に辿りつき、表情を凍りつかせ、絶句した。

 

 

「……大丈夫、です……けいじ、さん、は、生きて……います……」

 

 

 誰もが絶望に打ちひしがれる中、妙に明るく調子っぱずれな声が上がった。

 一同が声の主に目を向け、その人物にぎょっとする。美代だった。しかし、その明るい声音とは違い、瞳からポロポロと涙を零し、唇は小刻みに震えていた。

 美代はボロボロの身体を無理やり起こし、想い人を包む炎を見つめる。

 

 

「これぐらいで、けいじ、さんが……やられる、わけ……ないじゃない、ですか……」

 

 

 現状を否定する言葉が、次から次へと美代の口から零れる。感情が、現実を受け入れる事を拒否していた。しかし、頭のどこかでは慶次の死を認めていた。だから言葉とは裏腹に、涙を止め処なく流していた。

 今の美代は、感情と理性が乖離していた。

 

 

「……でも、怪我、しています……今、助けに……」

「あんたもうじっとしてなさい!!」

「美代ちゃん!! もうやめようよ……!」

「離して!!」

 

 

 このままでは、美代が壊れてしまう。福子と成実が半ば確信を以って美代を止めようとするが、彼女はそれを跳ね除ける。

 焼け落ちた黒髪、半分以上焼け焦げた顔、焦点合わない視線で狂ったように美代は叫ぶ。

 

 

「生きてるんです……! 慶次さんは、絶対に生きてるんです……!! 私は、慶次さんを、助けないと――!!」

 

 

 美代の鬼のような形相に、成実と篠崎は気圧される。

 福子だけは、それがどうしたと歯を食いしばり、美代の傷が広がらないよう、細心の注意を払いながら抑えようとする。

 

 

「だから!! あんたは怪我してんだから、動いていい訳ないでしょ!!」

「それが何です!! 私は慶次さんを助けるって、約束しているんです!! 怪我なんて、そんなのどうでも――」

「よくない!!」

 

 

 睨みつける美代を、福子は優しく抱きしめる。その耳元に嗚咽交じりの声を響かせる。

 

 

「どうでもいいとか言うな! あ、あんたまで、前田みたいになったら……! 私……どうしたら、いいのよ!! す、少しは、私の気持ちも、考えなさいよ!!」

「福子さん……!」

 

 

 福子の感情の吐露が、美代の心に響く。それが、美代の乖離していた感情と理性を段々と近づけさせる。

 猛々しかった美代の心は段々と悲しみに沈んでいき、嗚咽交じりのものに変わる。

 

 

「だって……だって……助けるって、言ったのに……!」

「分かってる……分かってるわよ……!」

「それどころか、あっさり見捨てて……足まで引っ張って……私のせいで、慶次さんが……!!」

「そんなことないから……もうそんな事……!」

「これでは――!!」

 

 

 ――お父様と何も変わらない!

 美代の慟哭に福子が、成実が、正守が、違うと否定する。

 もちろん、ここに至るまでの過程や、込めた想いは正反対だ。しかし、事実は美代が慶次を追い込み、そして“死”に至らしめた。経過は違っても、もたらせた結果は父と同じ……否、それ以上だった。

 美代の胸の内に渦巻く感情は悲しみだけではない。胸を引き裂かんばかりに膨らむ罪悪感が、彼女の心を苛んでいた。

 それは幾ら泣いても叫んでも、友に慰められても、その温かさに触れても、癒す事はできない。できるとしたらただ一人だが、その一人は――。

 

 

「な、なあ、お前ら、あれを見てくれ!」

「んだよ佐久間! ちっとは空気読んでよ! こっちは忙しいの!!」

 

 

 突然、正守が間に入ってきて、福子がやさぐれる。

 

 

「わ、分かってるっつーの、それぐらい!! でもあれは、」

「だから何なのよ――!?」

 

 

 正守が指を差した先は、爆発の中心地。

 雪も地面も吹き飛び、円形状にできたクレーターのちょうど真ん中に、

 人影が一つ、何か棒のようなものを支えに、立っていた。

 

 

「なあ! あれって、もしかして――」

「前田に決まってるでしょうが!!」

「だよなー!!」

「あ、あはは……」

 

 

 正守と福子は歓喜で手を取り合い、成実は腰が抜けてその場に座り込む。

 

 

「いい生徒をもったよ」

「……羨ましいね」

 

 

 滝川は慶次の事を誇りに思い、篠原は優しく微笑む。

 絶望が歓喜に変わっていた。

 

 

「…………」

 

 

 美代は静かに涙を拭う。涙は止まり、胸を覆う悲しみと罪悪感は、いつの間にか吹き飛んでいた。

 

 

「慶次さん……」

 

 

 能力は悲しいほど凡庸だが、土壇場を、絶望を一瞬でひっくり返せる。それが前田慶次だと、自分が好きになった人だと、今さらながら気付かされた。

 

 

(一昨日も、昨日も、今日もハラハラさせて……でも、やっぱり最後は――!?)

 

 

 誰もが歓喜に湧きあがる中、冷静さを取り戻した美代は、その明晰な頭脳が正しく働き出す。

 本当にこれで終わりなのか、と。

 

 

(あの異常なバットを持った慶次さんでも、あれだけ苦戦した化け物……なら、どうして昨日の慶次さんは“運動に支障がない程度の怪我”で済んでいたのでしょうか……? 敵は自爆も厭わない化け物、見逃すはずがありません)

 

 

 生まれる矛盾。美代はそれに対する解をすぐに弾き出す。

 

 

(まさか、昨日の少女があの化け物を倒した……!? 普通ならあり得ないですが、でもこれなら、慶次さんが無事でいられた道理も、見ず知らずの女の子を家に招き入れた理由も、慶次さんが頑なに時間稼ぎに拘っていた訳も、筋が通ります……!)

 

 

 だがそれは同時に、これが見せかけの歓喜であると、深く深く理解してしまった。

 二日続けて化け物に襲われた慶次、

 戦力と成り得るはずの少女が未だ不在、

 唯一残された戦う手段を持った慶次は満身創痍、

 警察はおろか、未だ外部から大人の一人も来ない学校、

 有無を言わせず、生徒を校舎に閉じ込めた教職員、

 それらが繋ぐ答えは一つ――。

 

 

(堂森市を“化け物たち”が襲っている……!)

 

 

 絶望は終わらない。

 

 

 

 

(は、ははっ……まさか、生き残るとは、思わなかったな――っ)

 

 

 爆炎に包まれた慶次は、徐々に晴れていく薄桜色の火の粉を見ながら、全身を苛む痛みに、生を噛みしめていた。

 最後の一振り。慶次が無我夢中で振り抜いた右腕は、偶然にも“燐子”の腹部の“口”に打ち込まれた。腹部の口は、炎弾の発射口……慶次は意図せずして、発射口に蓋をしたのだ。結果、炎弾は“燐子”の外部に出る事はなく、そのまま内部で誘爆。『宝具』が慶次の意志を汲み取り、右腕が強化していたのも相まって、爆発はその指向を空へと向けた。身体を襲ったのは爆発の余波だけとなり、慶次はその命を繋ぐ事ができた。

 あの時、右腕を振ったから、

 あの時、“燐子”の腹を狙ったから、

 あの時、“存在の力”が篭っていたから、

 本当に幾つもの偶然が重なり、慶次は生きていた。

 生き残れたのは、意図した訳ではない。まさに奇跡、僥倖だった。

 ――だが、その代償は決して小さいものではなかった。

 右腕の感覚がなくなっていた。燃え尽きていたのだ、右腕の肘より先、全てが。

 

 

(……これは、さすがに……キツイな……)

 

 

 左腕に伝わる、宝具を、物を握る感覚。それが、右腕にはなかった。

 喉を、肺を襲う熱い痛みよりも、全身を苛む燃えるような熱よりも、それは途轍もなく、痛くて空虚だった。

 

 

「……ぃ……ぅ……」

 

 

 だが、それを嘆いている暇はない。

 思い出されるのは、椿の言葉。

 

 

『今のお前は高速治療と引き換えに、ご飯食べなきゃ再生のし過ぎで倒れる身体なのよ』

 

 

 喉が、肺が、肌が、炎に焼かれた。『宝具』が新たな細胞を次々と産み出し、黒く焼け焦げた皮膚をボロボロと追い落としていく。奪われた水分を、肌に染み込ませていく。尋常ならざる再生、だがそれを支えるエネルギーが明らかに不足していた。その証拠なのか、再生したはずの皮膚は干乾びており、心なしか頬もこけてきた。

 早く食事を取らなければ倒れる……では済まない。

 死ぬ。

 

 

(ここまできて、餓死はダメだろう……!)

 

 

 酷く喉が渇き、思考が回らない頭で、慶次は宝具を杖替わりに立ち上がる。焼け爛れた皮膚がボトリと落ちるが、それを気にする余裕はない。

 

 

(……飯、鞄の中に詰め込んでたっけ……? で、肝心の鞄は、美代に渡したっけ? それとも、教室だっけ? ……ダメだ、全然考えがまとまんねぇ……)

 

 

 水を、食料を求めて、慶次は歩き出すが、その歩みは安定しない。フラフラと、右に左に蛇行する。右腕を失ったのだ。左に重心が傾き、真っ直ぐ歩けなくて当然だった。

 だが、栄養の不足した頭では、そんな当たり前の事も気づかず、雪道にたたらを踏む。

 

 

(傷が深い……真っ直ぐ歩けな――)

「慶次!!」

 

 

 足場の悪い雪道でバランスが取れるはずもなく、慶次がその身を地面に投げ出しそうになった時、誰かが傷ついた身体を受け止めた。

 慶次は朦朧とした意識の中で、そいつを見上げる。

 

 

「……正、守――?」

「先生!! 早く!!」

「分かってる!!」

「? ……っ!?」

 

 

 ぼんやりしていると、突然、何かを口に入れられ、冷たいものが流し込まれた。それがペットボトルで、スポーツ飲料水だと気づく前に、喰らいつく様に飲み込んだ。

 水分が通る度、火傷した喉に激痛が走ったが、そんなの無視した。飢えに飢えて、何でもいいから腹に何かを溜めたかった。

 口元から溢れるのも構わず、何度も何度も喉を鳴らし飲み干す。

 そしてやがて、渇望が枯れ果て潤いを取り戻し、喉が、肺が正常な機能を始める。

 

 

「――ぷはっ!! し、死ぬかと思った!!」

 

 

 声を上げる。呼吸をする。慶次が生きている証だった。たったそれだけの事が嬉しくて、息を吸って、吐いた。何度も何度も、命を確かめるために繰り返した。

 

 

「はぁっ、はぁっ……! 生きてるっていいな……! っていうか先生たち、よく気づきましたね。再生に食料がいるって」

「……まあ、新発田から聞いたからな」

「つーか鞄の中、飯ばっかりだな……」

 

 

 生の喜びを噛みしめている慶次とは対照的に、滝川と正守の表情は暗かった。

 

 

「全く、二人してそんな暗い顔して。この前田慶次が生きてたんだから、もっと喜ばないと!」

「そうは言っても慶次……お前、右腕が――!」

「くそっ……何だよ、勝手に舞い上がって……! 本当にすまん! 私がもっとしっかりしてたら――!」

 

 

 正守と滝川が声に悔しさを滲ませる。不謹慎とは思いながらも、慶次は嬉しくなるのを抑えられない。

 慶次は化け物と戦うだけでは飽き足らず、焼け焦げ化け物のような形相になるまで戦った。彼らからすれば、今の慶次は力も容姿も正真正銘の化け物だろう。なのに、受け入れてくれたどころか、心配までしてくれる。

 彼らと直に話して、しみじみ思う。険しい道しか記憶にない人生の中で、本当に良い仲間に恵まれたのだ、と。

 そして、慶次に助力する余裕もないはずなのに、一番欲しいタイミングで一番欲しい物をくれた美代。彼女がいたからこそ、慶次はこの場に立っていられる。

 だからこそ、慶次はこの言葉を言わねばならないだろう。

 

 

「ありがとう先生、正守」

「前田……」

「慶次……でも――」

 

 

 申し訳なさそうに何かを言おうとする二人を、慶次は制する。

 

 

「本当に感謝してるから、もう自分を責めないでくれ」

「「…………」」

 

 

 こんな恐ろしい異常な事態なのに、今この時、この場所に、自分以外の誰かがいる。それがどれだけ恵まれた事か。彼らには理解されないかもしれないが、それは何ものにも代えがたい事だった。

 だから絶対、負い目なんて感じて欲しくなかった。

 

 

「大丈夫。飯食ってれば、腕なんて生えてくるさ……多分」

「そこは、多分を付けるな――じゃなくて、腕は生えてこねーよ!」

「……ふふっ」

 

 

 慶次がおちゃらけて、二人は小さく笑う。これで少しでも心が軽くなればと思う。

 

 

(さて……)

 

 

 雰囲気が柔らかくなった所で、慶次を校舎に運ぶ流れとなる。

 慶次は正守に引きずられ、滝川に食料をぶち込まれながら、警戒を厳にする。確かに“燐子”は倒した。だが、それで全ての危険が取り除かれた訳ではないのだ。

 慶次は恐る恐る視線を、堂森市中心部へと向ける。

 

 

(封絶は……まだ消えてない……)

 

 

 未だ消えぬ薄桜色の陽炎に、慶次は大きく舌打ちをする。封絶が未だ消えていない……それは“紅世の徒”が今もなお生きている証左であった。堂森市から危険は去っていない。

 慶次に黙々と食料を与える滝川に、少しの間、中断するように伝える。状況を少し、把握したかった。

 

 

「んぐ、先生、ちょっといいですか?」

「どうした?」

「他のみんなはどうなってますか?」

「校舎にいるが、それがどうした?」

「……校舎に篭る様に指示を出したのは、誰でしょうか?」

「校長と教頭だが……本当に、それがどうしたんだ?」

「最後に一つ! ……警――」

 

 

 察、と繋げようとした慶次の耳に、けたたましいサイレンが届く。重厚感のある、どこか危機感を煽る音。パトカーのサイレンだった。

 だが、サイレンは学校に近づくことなく、堂森市の市街地から延々と鳴り続けている。

 

 

「……この通り、サイレンは聞こえるが、来る気配がないな」

「…………」

 

 

 黙する慶次、内心に動揺が走る。

 二日続いての“燐子”の強襲。

 これだけの異常状態にも拘わらず、パトカーの一台も来ない学校。

 校舎に生徒たちを押し込めた校長と教頭。

 ――導き出される答えは一つである。

 

 

(“封絶”は椿をおびき寄せるための陽動、本命は“燐子たち”の堂森市襲撃か……!)

 

 

 “封絶”を人口の密集地である堂森中心部に展開して椿を釣り出し、温存していた残りの“燐子”――おそらく、慶次が対峙した二体以外にも、大量にいたのだろう――を堂森市に放逐、戦う手段の持たない一般人を“燐子”が襲う。それが堂森市の現状であり、敵の取った作戦だったのだろう。

 椿は孤立し、慶次は重傷。堂森市全域は“燐子”に蹂躙され……つまり、慶次たちはまんまと一杯喰わされたという事だ。

 

 

(くそっ! このまま、奴らの自由にさせる訳にはいかないのに……!!)

 

 

 視線を右に流せば、肘から先のない腕。こんな状態で、慶次に出来る事はあるのか。

 事態をいち早く把握した校長と教頭は、“燐子”から守りやすいように生徒を一か所に集めている。校舎入口のような狭い場所なら、ある程度戦えるかもしれないが、今の慶次は満身創痍。五分……いや、一分持つかさえ怪しい。

 加えて、校舎に残れば必然的に街を見捨てる事になる。全てを守る、何て傲慢な事は言わない。だがらといって、すんなりと割り切れるか訳がない。

 何か少しでも、事態を好転させる手立てはないか考えるが、

 

 

(ダメだ、悪いイメージしか湧かない。椿がいないと、俺一人じゃ何も出来ん)

 

 

 考えれば考えるほど、今の事態は慶次の処理能力を遥かに超えているとしか分からなかった。

 と、慶次の様子に何かを感じ取ったのだろう。不安そうな顔で、正守が慶次に声を掛ける。

 

 

「なあ、慶次。今のお前に訊くのは酷だと思うが……一体何が起きているんだ? それに、何の目的でこんな酷い事を……」

「すまん。今、状況を整理している所だ。もう少し待ってくれ」

「……無理すんなよ」

 

 

 正守が疑問を呈し、慶次は深く考え込む。正守の言う通り、そもそも“紅世の徒”の目的が全くの不明だった

 

 

(六年前の惨劇と今回の事件が繋がってるって思ってたけど、違うのか? そもそも、何で“燐子”は俺が来る前に『人間』を喰らわなかったんだ? 俺はともかく、普通“紅世”の奴らが人を襲うのって、“存在の力”を補給するためだろ? それとも何か、前提が違って――)

 

 

 前提が違う――ここまで考えて、頭に思い浮かんだ不埒な疑惑を吹き飛ばす様に、慶次は首を左右に大きく振る。

 

 

(馬鹿か俺は! 椿を疑ってどうするんだ!!)

 

 

 “紅世”から渡りし“徒”が、人知れず人を喰らい、この世を跋扈している。椿から教えられた『この世の真実』。慶次は“燐子”には二度も襲われたが、“紅世の徒”を見た事もなければ、人が喰らわれる所に出くわした事もなかった。椿が語る真実を、一度も体験した事がなかったのだ。

 少女の言葉を疑うには十分な状況かも知れない……だが、一日共に過ごし椿の人となりを知った。

 甘党で、

 嫌味なくらい正論で、

 だけど、どこか常識外れの箱入り娘で、

 戦う姿は……美しかった。

 状況は疑うに値する。しかし、椿という少女は信を置ける人物だった。それだけは、胸を張って言える。

 

 

(そういや、そうだったな――)

 

 

 慶次は思い出す。

 あの薄桜色の陽炎の中、慶次の存在はちっぽけだった。柄にもなく、命を諦めてしまった。それが、あの紅蓮に守られ、命を紡いでくれた。

 あの時、あの場所から、慶次の命運は『炎髪灼眼の討ち手』に委ねられていたのだ。ゆえに、慶次に出来る事はただ一つ。

 

 

(椿以外、解決できないんだ。俺はあいつを信じて、あいつを手伝う。それしかないんだ)

 

 

 敵の目的も分からず、対処法も思いつかない。だが、椿を信じる……この一点だけは揺るがしてはならなかった。

 ならば慶次のやる事は一つ。彼女が戻ってくるまで踏ん張る。それまで、“紅世の徒”の目的やら対処法は、全部頭の中からも叩き出す。

 

 

(自分の命が掛かってるのに、他力本願な事で)

 

 

 己の無力さを自嘲する。だが、悪い気分ではなかった。

 と、慶次の薄ら笑いに正守が、不安を隠さず尋ねる。

 

 

「慶次……何か、分かったのか……?」

「ん、まあ、分かったと言えば、分かったんだが……」

 

 

 慶次は正守たちに、自分が立てた予想を話すかどうか迷う。伝えたところで、対処法など時間稼ぎしかないのだ。彼らに余計な絶望を与えるに過ぎない。かといって、絶望は必ず来るのだ。伝えなかったところで、それは問題の先送りにしかならない。むしろ、事前に教えて心だけでも備えさせた方がいいかもしれない。

 

 

「……今以上によくない知らせになるが、本当に聞くか?」

「まだ悪いことがあるのか……!?」

「…………」

 

 

 情けないと思いながらも、慶次は決断が出来ず逆に二人に訊き返した。

 二人はしばらく沈黙した後、頷いた。それが二人の決断だった。

 慶次はしばらく迷った跡、意を決して来る絶望を口にする。

 

 

「実は昨日、あの“化け物”に襲われたんだ。多分、“化け物”は一匹じゃなくって、街に溢れかえってる」

「っ! そう、か……」

「……ははは」

 

 

 二人は慶次の予想を、否定しなかった。薄々勘付いていたのだろう。だが、理性では納得しても、心は受け入れ難かったのか、どちらも血の気が引いていた。

 慶次を引く正守の身体は、小刻みに震えていた。慶次に食事を与えようとする滝川は、何度も食料を取りこぼした。

 話して良かったのか分からない。もしかしたら、もっと賢いやり方があったかもしれない。だが、過去は変えられない。この選択が、より険しい道を進むことになっても、慶次は歩みを止める事は出来ない。

 

 

(それじゃあ、俺は残って時間稼ぎをして、正守と先生には――)

 

 

 慶次は、まずは正守に指示を飛ばす。

 

 

「正守、校舎に着いたら笹の傍にいてやれよ」

「っ! だ、だが慶次! “化け物”が街に溢れかえっているなら、俺が残って戦った方が――」

「言っちゃ悪いが、最後になるかもしれないんだ。お前は好きな人の傍にいろよ」

「……お前はどうする気だ……?」

「もちろん、残って時間稼ぎを、」

「――っ、ふざけるな!!」

 

 

 正守が慶次を怒鳴りつける。目を怒らせ、慶次を睨みつける。勝手な事を言うなと目が語っていた。

 慶次は思わず噴き出した。相手が大切だからこそ、勝手な理屈で勝手に行動する。結局、慶次は椿と何も変わらなかった。だが、慶次は自身の行動を省みるつもりはない。感情だけで残ると言っている訳ではないからだ。

 慶次は冷静に、冷徹に正守に告げる。

 

 

「あのな、別に格好つけてる訳じゃないんだぞ?」

「じゃあ、何で残るなんて――!!」

「お前らが周りにいると、バットの巻き添え喰らう事になるだろ」

「だ、だったら、バットなんて振らなければいい! 俺が、代わりに戦ってやる!!」

「それこそ、ふざけるな。お前たちが目の前で襲われて突っ立ってられる程、俺は図太くないし、化け物を見ただけで震えるお前に何が出来る?」

「っ!」

「悪い、ちょっと言い過ぎた……でもな、これしか方法がないんだ。だから、俺を人殺しにさせないためにも、少しの間だけ一人にさせてくれ。大丈夫、俺も自己犠牲なんてする気はないさ。ちょっと遊んだら、とっとと逃げるよ」

「……すまない」

 

 

 正守は慶次から目を逸らした。肩が震えていた。

 慶次は僅かに届く嗚咽を無視し、滝川に視線を移した。悲しみに染まった目が、慶次を射抜く。

 

 

「先生はクラスの奴らと一緒にいて下さい。さすがに、これ以上一人の生徒を依怙贔屓にするのは、良くないでしょう」

「……すまん、最後まで力になれなくて」

「謝らなくてもいいですよ。それに、俺の仲間が来れば、あんな奴ら一撃ですから」

 

 

 慶次は小さく笑い椿の存在を匂わすが、冗談と思われたのだろう。二人はそれきり口を噤み、黙々と前に進んだ。

 重苦しい空気が場を支配した。慶次はこの空気を破る術が思いつかない。ただ、されるがままに正守に引きずられ、滝川に口に食料を詰め込まれた。

 

 

「ケイくん!」

 

 

 校舎入口に辿りつくと、成実が救急箱を持って急いで慶次に駆け寄る。福子は校舎入口数メートル地点で、養護教諭の篠崎とシートに寝かせた人を治療していた。二人に隠れて姿は見えないが、焼け落ちたスカートから推察すると……美代、なのだろう。慶次は美代の傷ついた姿を思い出し、無意識に『宝具』を強く握りしめる。

 その慶次の様子に何かを感じ取ったのか、それとも欠けた右腕を直視し過ぎたのか、成実は血の気の引いた顔で、

 

 

「ケ、ケイくん、右腕……ど、どうしたら――」

「笹、先に服持ってきてくれないか?」

 

 

 所々焼け落ちた学ランは、今や服としての役割を果たしていなかった。『宝具』の効果であまり寒くはないが、裸同然の格好でいるのは居心地が悪い――というのは成実をこの場から逃がす口実だった。

 素直に取りに行くと思った成実だったが、なぜか中々動かない。直視したくないのか、必死に右腕の傷を視界に入れないようにしながら、それでもチラチラと傷口を覗きながら、

 

 

「え、でも、治さないと、右腕、」

「んな救急箱じゃ、何もできないだろ。それより、早く服。何なら、パンツ貸してもいいぞ」

「う、うん、分かった。今、脱いでケイくんに――って、しないよ。確かあっちにコートが一着あったから、そっちに――」

 

 

 成実は一瞬、下着に手を掛けようとしてから、とうとう慶次に押し通され、校舎の中に走っていった。あれは本当にノリツッコミではなく、半分本気のような気がしたが、今はそれは置いておく。

 慶次は中々動こうとしない正守(こいびと)の肩を突き飛ばし、追いかけろと促す。だが、正守は慶次の事が心配なのか成実を追いかけようとしない。

 

 

「な、なあ。やっぱり俺――」

「早く行け! この彼女持ちが!」

「いっ!? こ、この野郎! ガチで蹴りやがって! 後で覚えていろよ!!」

 

 

 慶次は問答無用で正守の尻を蹴り上げた。結構、遠慮なしで蹴ったせいか、正守は尻を抑えながら校舎に入っていった。

 

 

(さて、次は――)

 

 

 支えが無くなった慶次、短時間に貪り食い、エネルギーは十分。未だ傷口と火傷を治そうと、細胞が活発にポコポコと蠢いているが、動く分には体力は戻っていた。心配なのは右腕だが、“焦げ”が削げ落ち、綺麗に骨やら肉やらが丸見えになってる。が、出血自体は収まっているので、こちらも動作に問題はない。

 今度は隣の滝川に、慶次は声を掛ける。

 

 

「先生。みんなをよろしくお願いします」

「本当に、来ないんだな?」

「はい。それに正直なところ、一発当てたら全力で逃げる予定なんで。本当にご心配なく」

「……分かった。無理は、するなよ」

 

 

 滝川は泣いているのか笑っているのか、よく分からない形に顔を崩して、校舎の中へ入っていった。

 慶次はすぐさま校庭に身体を向け、“燐子”に対して備える。

 

 

(“燐子”に一当てしたら、そのまま“封絶”に向かって逃げるか)

 

 

 この場に留まって守り抜く力は、残念ながら慶次にはない。今の慶次にできるとしたら、“燐子”を引き連れ、椿と合流を目指し“封絶”を目指すだけだろう。その場合、“燐子”と鬼ごっこする訳だが、一体どのくらい持つであろうか。せめて、美代たちが逃げるぐらいの時間は稼ぎたらと思う。

 と、そんな策とも言えない策を慶次を考えていると背後から、

 

 

「放して!! 最後ぐらい、慶次さんの傍にいさせて!!」

(……頭が良いのも、考え物だな)

 

 

 よく聞いた女性の金切り声に、慶次は思わず嘆息する。

 おそらく、声の主は美代で、“燐子”が複数いる事に気づいて、そして……未来に絶望してしまったのだろう。だからこそ、あの物分かりの良かった彼女が、迷惑も考えず喚いているのかもしれない。

 慶次は後ろを振り返った。

 美代は座り込んだまま滝川や福子、篠崎を押しのけ、這ってでも慶次の元へ行こうとしていた。美代の白い肌は余さず包帯に覆われており、所々血が滲んでいる。顔もほとんど全てが包帯であり、そこから僅かに除く目は涙を湛えていた。

 慶次と美代の目が合う。それだけで、美代はボロボロと涙を零した。

 

 

「慶次さん、お願いです!! 私は守らなくてもいいから、最後まで隣に――」

「美代」

 

 

 慶次は美代の言葉を中途で切る。最後まで慶次の……好きな人の隣にいたい。家族を喪った慶次だからこそ、全てとは言わないが彼女の気持ちは理解できた。だが、美代の願いはそんな悲観的なものじゃない。生きている限り、慶次に寄り添い想いを通わせ、そして幸せになる。とても純粋で、くすぐったいものだったはずだ。だからこそ、慶次は聞くわけにはいかない。

 

 

「大丈夫。絶対戻ってくるから、少しの間だけ安全なところにいてくれ」

「何を惚けた事を仰っているのですか!! またあの“化け物”が来たら、私たちは誰も逃げられません!! 殺されます!! だから、最後は慶次さんの隣にいさせて!!」

「やめてくれ。お前の本当の願いは、そんなんじゃないだろ?」

「っ!! で、ですけど、」

「先生、早く行ってくれ」

 

 

 慶次が冷たく突き放す。滝川が、福子が、篠崎が美代を担ぎ上げ連れていく。

 

 

「放して下さい! お願い、慶次さん、見捨てないで――!!」

「――っ!」

 

 

 慶次は慌てて美代から目を逸らした。

 人が本当に絶望に染まる瞬間。それを見てしまった。美代に与えてしまった。決して、そんな事をさせるつもりじゃなかったのに、させてしまった。

 胸の奥深く、冷たい冷たい感触が競り上がってくる。正守と滝川と別れた時には、全く湧かなかった感覚だった。嫌な感覚だった。だが、どれだけ嫌悪しても止まってくれなかった。

 

 

(……切り替えろ。全部は生き残ってから、椿と合流してからだ)

 

 

 慶次は気持ちを入れ替えるために大きく息を吐く。

 今日一日、後悔ばかりだった。それを晴らすためには、生き残るしかない。

 胸に去来する感情を抑え込み、再び戦う覚悟を決める。

 と、ほぼ同時に校舎から悲鳴が上がった。

 慶次は今も吹雪く、霞んだ視界の先に目を凝らす。

 “燐子”がいた――それも、三体。

 さすがの慶次も、これには顔が引きつった。

 

 

(は、はは……一発当てて、逃げる? 腕一本捧げて、ようやく一体討滅だぞ。それが三体って……左腕、左足、右足失くして、俺に達磨になれってか?)

 

 

 冗談にならない事を考えながら、それでも諦めずに左腕一本で『宝具』を構える。背後ではドタドタと階段を下りる音の塊がする。再び襲いかかてきた“燐子”を見て、生徒たちが慌てて逃げ出しているのだろう。

 

 

(中央を突破してそのまま“封絶”に行くしかないか!)

 

 

 最早、校舎入口で時間稼ぎなど言ってられない。“燐子”を突破し、そのまま椿の所へ駆け込む。後は運任せだ。“燐子”が慶次を追いかけてくれればよし。追いかけなければ、とっとと合流する。生き残るには、仲間たちを僅かでも生き延びさせるには、それしかない。

 “燐子”が三体、横一列で駆けだす。慶次は強く地面を踏みしめる。

 チャンスは一度。“燐子”が飛びかかってきた瞬間、こちらも地面を踏み抜き、一気に突破するしかない。

 そう考え、迫る“燐子”に慶次が集中していると、

 

 

「うわあああぁっ!!」

「やめろ! 来るなあぁぁぁっ!!」

「あ、ああああ、誰か助け――!!」

「なっ!?」

 

 

 背後で上がった絶叫に、慶次が驚愕に振り返る。

 ある者は爪に引き裂かれ、

 ある者は牙に喰らいつかれ、

 ある者はその剛力に吹き飛ばされ、

 ある者は余波に巻き込まれ、壁に、床に、天井に叩きつけられる。

 二体の“燐子”に人が、襲われていた。

 

 

「や、やめろ……」

 

 

 その中に、慶次の仲間たちもいた。

 正守は成実を庇い、爪に背中を引き裂かれていた。

 滝川は吹き飛ばされた生徒に巻き込まれ、壁に叩きつけらえていた。

 福子は立ち向かおうとしたが、為す術なく爪に斬り裂かれた。

 

 

「ぁ……ぁあっ……」

 

 

 贓物を撒き散らした父。

 脳ミソを垂れ流した兄。

 首が潰れた妹。

 六年前の惨劇と、目の前の現実が重なる。

 乗り越えたはずの感情が、徐々に頭をもたげてくる。

 

 

(だ、ダメだ……! 感情に、身を任せたら、俺は――)

 

 

 このままでは、感情に心が支配される。感情のまま宝具を振るってしまう。五体の“燐子”に囲まれた上、自身を制御出来なくなれば、死は避けられない。だが、目の前の情景に、とてもではないが慶次はこれ以上、感情を抑えられそうになかった。

 慶次が懸命に感情を制御しようとしている間も、惨劇は広がる。

 そしてとうとう、“燐子”は美代に牙を向けた。

 猛然と迫る“燐子”。

 壁に追いつめられた美代。

 振り下ろされた爪は、寸分違わず美代の胸を狙う。

 追いつめられた姿が、吐血した母の姿に重なる。

 慶次の理性は呆気なく、吹き飛んだ。

 

 

「やめろおおおおおおっ!!」

 

 

 感情が爆発し『宝具』がこの日、最大の輝きを見せる。しかし、怒りに塗りつぶされた慶次は、感情のままに校舎の中へ入ってしまった。当然、迎え撃つ予定だった三体の“燐子”に背を向ける事となる。その明らかな隙を見逃すほど、彼らは甘くない。

 

 

「うぐっ!!」

 

 

 背後から左腕を、右足を、左足を、それぞれ一体ずつが、慶次の身体に喰らいついた。慶次は咬み付かれたまま、うつ伏せに押し倒される。牙が皮膚を、肉を食い破る。血管が引き裂かれ、ボタボタと血が流れる。しかし、それだけでは足りぬと、“燐子”たちはさらに咬む圧力を増し、残った手足を引き千切ろうとする。

 

 

「――や、やめ、ろ……!!」

 

 

 関節が外れそうになるのを、何とか歯を食いしばりふんばる慶次。だが、こうしている間も惨劇は進み、夥しい血痕が壁に、床に、天井に飛び散っていった。そして、その血痕の一部には……美代のものも、すでに含まれていた。

 美代は胸に真新しい傷を刻み、壁に身体を預け呆然と惨劇を見つめていた。在りし日の母の姿と同じだった。

 慶次の手足の引力が、さらに増す。

 

 

「ぐっ、あぁあっ……!」

 

 

 関節が、耳障りな音を立て始める。もう心も身体も限界だった。このままでは、冗談ではなく手足をもがれ、達磨にされて……慶次は壊れる。だが、今の慶次に、有効な手立てはない。ただただ、絶望を待つだけだった。

 

 

「あははっ」

 

 

 広がる惨劇、悲劇。

 壊れたような明るい笑い声が上がる。

 

 

「あはっ、死ぬ。みんな、死んじゃう」

 

 

 声の主は気絶した正守に下敷きにされ、今なお無傷でいる成実だ。

 その瞳は、恋人を捉えていない。

 ただ、そこにある空虚を、焦点の合わない瞳で眺めているだけだった。

 

 

「みんな死んじゃうんだよおおおおっ!!」

 

 

 慶次も、美代も、正守も、福子も、成実も。

 全ては壊され、壊れていって。

 

 

「――――――」

 

 

 その終端、

 突如、世界は揺れた。

 

 

 

 

 慶次は壁に叩きつけられていた。意外にも、“まだ失ったのは右腕”だけで。それでも、二の腕からは血が流れ、右太腿の皮は捲れ、左足の指はそれぞれが変な方向に曲がっていたが。

 四肢を喰い千切ろうとした“燐子”は、なぜか中途で慶次を放り出したのだ。それでも、危機が去った訳ではない。“燐子”は今も、慶次の眼前にいた。しかし、二体は傷つき怯え沈黙する生徒の間を歩き、三体は慶次に向けて唸るばかり。どの“燐子”も決して襲おうとしなかった。

 

 

(一体、何、が……)

 

 

 血を流し過ぎたのか、思考がまとまらない。それでも、命を拾った千載一遇の好機をみすみす見逃すわけにはいかない。慶次は朦朧としながらも視線を巡らせ、状況を探る。

 状況は荒れている、の一言だった。

 靴や傘の小物は乱雑に散らかり、棚という棚は須く倒れ、ガラス片が床を埋め尽くしていた。“燐子”がやった……にしては無駄が多すぎる。

 

 

(そういえば、最後の揺れは……)

 

 

 全てが壊れていく、刹那。地面が隆起したかのように、衝撃が押しあがり、揺さぶられた。咬み付かれ全然余裕がなかったが、あれは冷静に考えると――、

 

 

(地震、か)

 

 

 これだけの物が散らかり、ガラスが割れる。地震に相違なかった。しかも、かなりの規模な大地震だった。

 

 

(堂森市は、本当に、どうなって、いるんだよ……)

 

 

 “燐子”に襲われ、止めの大地震。正直、堂森市は呪われているのではないかと思うほど、連続して不幸が訪れていた。だが、理由は分からないが、地震が起きてから“燐子”は人を襲うのを止めている。もしかしたら、この地震は悪い地震ではなかったのかもしれない。

 と、ここで慶次は状況把握を止める。結局、どこまで考えても推論ばかりだ。今は事実――“燐子”は大人しくなり、慶次は生きている――を受け止め、次に何をするかを決めるべきだった。

 状況はより悪くなっている。今までは、生き残る術を模索、実行してきた。端的に言えば、生きるために何かをしてきた。だが、それも終わりかもしれない。

 

 

(命を懸ける、時か――っ!!)

 

 

 そろそろ命を賭け金にしなければならない、か。

 慶次が悲壮な覚悟を決めようとした時、

 ――待ちに待った紅蓮が来た。

 

 

「は、はは……」

 

 

 火の粉が舞い散り、瞳が、髪が、炎が燃え立った少女。

 『炎髪灼眼の討ち手』がようやく来たのだ。

 

 

「遅かった、じゃ、ねーか……」

 

 

 校舎に入った『炎髪灼眼の討ち手』。

 一歩一歩、ゆっくりと近づく椿は、どこかその足取りは覚束なかった。

 

 

「……おい、何か、あったのか?」

「……っ」

「……椿?」

 

 

 明快な椿から答えが返ってこない。それどころか、煌めく紅蓮の瞳を不安そうに揺らしていた。そこには凛々しさの欠片もなく、まるで迷子の子どものようであった。

 彼女が、椿が、炎髪灼眼の討ち手がいれば、命が繋げられる。みんな助かる。そういう確信を持っていたからこそ、慶次は絶望の中を突き進んで来れた。だが、今の彼女は……とてもではないが、希望には見えなかった。

 

 

「お、おい……やめろ、冗談、だろ……?」

 

 

 そもそも、なぜ“燐子”を前にして、椿は戦おうとしないのか。なぜ、慶次を見ているだけなのだろうか。

 手が震える。喉がカラカラに乾く。『宝具』の光が弱くなっていき、再生速度が落ちていく。気持ちを切り替えねばと必死に思うが、嫌な想像が止まらない。

 もしかして椿は最初から『 』だったのではないか。

 もしくは、さっきの間に『 』になってしまったのではないか。

 心臓の鼓動が嫌に大きく聞こえる。時間が経てば経つほど、鼓動は早くなっていく。

 

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 

 

 慶次は荒れた呼吸で、震える声で、椿に問う。

 

 

「“燐子”は敵、なんだろう? なあ、早くそいつらを、倒してくれよ? その、俺を……守るんじゃ、なかったのか?」

「それ、は……」

 

 

 椿は答えに詰まると、俯いて口を強く結んだ。鬱屈としたものが、慶次の中に積み重なっていく。醜いそれを、椿に向けて全てぶちまけたい衝動に駆られてしまう。

 でも、ダメだ。それをしてしまえば、取り返しのつかない事になる。無能な上、心まで醜くなってしまう。人として、それだけは絶対に嫌だった。

 慶次は何とかギリギリの所で感情を抑えつけ、のろのろと立ち上がりながら、次はアラストールに問う。

 

 

「教えてくれよ、アラストール」

「…………」

「お前は、お前たちは――」

 

 

 異常な静寂。唾を飲み込む音が、こびり付く様に耳に入る。

 これを訊けば、後戻りはできない。

 ――訊きたい。聞きたくない。

 ――信じたい。信じたくない。

 相反する思いで、しかしはっきりと、慶次は尋ねた。

 

 

「『敵』――なのか?」

「っ!? 違――」

 

 

 “コキュートス”を握り、椿が慌てて否定しようとして、

 それを遮る様に。

 

 

「お前ら矮小な者に敵も味方があるか。たかが人間が調子に乗るな」

「……っ!」

 

 

 アラストールではない男の声が、割り込んできた。

 慶次は椿の背後に、椿は振り返り、声の主を見遣る。

 

 

「それにしても、まだ(・・)生きていたとはな。前田慶次……しぶとい人間だ」

 

 

 そこにいたのは、純白のジャケットと藍色のジーンズ背の高い痩身の男。容姿も整っているとはいえ、街に入れば埋もれてしまうような、ごくごく平均的な顔つき。一見すれば、普通の男に見えるそいつは、しかし、身体には誰もが目を引く特徴があった。

 左足一本で立ち、それを右手の松葉杖で支える。彼は右足と左手が、ほとんど動いていなかった。

 男は松葉杖で己を支えながら、一歩一歩着実に歩き、そして――椿の隣に立った。

 椿は動かない。まるでこの男が隣にいる事が当たり前だとでも言うように、男はそこにいる。

 椿の隣に立つ男が、“紅世の徒”なのか。いや、そもそも“紅世の徒”……『フレイムヘイズ』などいるのか。

 “燐子”と戦おうとしないどころか、『敵』と思われる男の隣にいる椿。もう慶次には、何を信じていればいいのか、分からなくなってしまった。

 

 

(俺は、一体、どうすれば――)

 

 

 呆然とする慶次の眼前で、

 

 

「だがそれも、ここで終わりだ」

「っ!?」

 

 

 慶次が驚愕に目を見開かせた。男がいつの間にか距離を縮めて、松葉杖の先端を慶次の胸に向けていた。

 

 

「――!!」

 

 

 男の背後、椿が口を大きく開き何事かを叫ぼうとするが、その声が届く前に、

 トン、と慶次の胸は軽く小突かれ、

 慶次は力なくうつ伏せに倒れこんだ。

 

 

(あれ――?)

 

 

 立ち上がろうとしても、力が入らない。

 それどころか、瞬きも出来ない、指も動かない、息も吸えない。

 自分の身体なのに、何一つ思い通りに動かない。

 なのに、頭だけは空気が澄みきったかのように、クリアだった。

 

 

(そういえば――?)

 

 

 妙に冴える頭が、ふと気づく。

 先まで、全然収まってくれなかった胸の早鐘が、いつの間にか止まっている事に。

 

 

(――っ)

 

 

 “燐子”と正面切って戦った。

 片腕を失っても、“燐子”に囲まれても抗った。

 全ては大切なものを守るために、

 そして、生き残るために。

 心が折れない様に、絶望の中、僅かな希望に縋りついていた。

 二度の死の境地も、幸運と機転、そして何よりその強靭な精神力で潜り抜けた。

 しかし、

 

 

「…………」

 

 

 今まで抗ってこれたのが奇跡だったのだろう。

 三度の危機に、慶次に為す術なく。

 ――心臓を止めてしまった。

 

 

 

 

 時は少し遡る。

 前田慶次が校庭で“燐子”と対峙している時を同じくして、少女もまた“封絶”で『敵』と相対していた。ただし、慶次が明確に危機感を抱いているのに対して、少女が抱いた感情は――戸惑い。

 妙に煌めいて見える純白のジャケットを羽織った、痩身の男。左足一本で立ち、右手の松葉杖で支えている、一見すればただの“障碍者”。だが、彼から漂っていくる気配は、普通の人のそれ(・・)ではない。しかし、“紅世の徒”のようなこの世にいる事自体、不自然な存在ではない。

 そう、彼は――。

 

 

「『フレイムヘイズ』……!」

 

 

 『敵』の意外な正体。その戸惑いは、早くも呟きと共に露へと消える。

 『フレイムヘイズ』は“紅世の徒”を討滅するという共通項を持っているが、その実、一枚岩ではない。元が『人間』である『フレイムヘイズ』は、当然その生い立ちや思想、理念、信条は個々人異なる。目的がぶつかり合い戦う事は、決して珍しい事ではなかった。少女もアメリカ大陸で起きたフレイムヘイズ同士の内乱、“革正団(レボルシオン)”側に一部フレイムヘイズが付くなど、聞き及んでいた。ゆえに、戸惑いは一瞬。

 堂森市市街地に立ち並ぶ雑居ビルの一つ。その上で、少女は大太刀『贄殿遮那』を構え、対峙する。

 と、少女が訊こうとしたその先、まるで機先を制するように名も分からないフレイヘイズは嬉しそうに……本当に嬉しそうに笑った。

 

 

「久しぶり……というより、初めましてと言うべきか? それと、出来る事なら、武器は下げて欲しい」

「あんた何て、知らない」

 

 

 少女は構えを崩さぬまま、眉を怪訝そうに顰める。

 このフレイムヘイズが言っている事が、全然分からない。以前、会った事あるなら『久しぶり』という言葉は確かに適切だ。なのに、『初めまして』の方が相応しいと言う。矛盾しているのは勿論だが、そもそも少女にはこのフレイムヘイズに見覚えが全くなかった。

 困ったように男が笑うと、今度は視線を少女の胸元へ神器“コキュートス”へ向けた。なぜかその視線が、アラストールと再会を喜ぶ『震威の結い手』と被って見えた。

 

 

「ほとんど初対面の相手に言われて、下げるほど愚かじゃないのは当たり前か」

「……お前は、なぜ……」

「っ!?」

 

 

 “紅世”真正の魔神であり、誰よりも尊敬しているアラストールの声が震えていた。恐れとも戸惑いとも取れる声音に、少女は少なからず衝撃を受ける。

 一体この男の何が彼をこうさせたのが分からなかった。唯一分かるのは、あの(・・)アラストールがその心根を隠せなくなるほどのフレイムヘイズだと言う事。

 少女は警戒のレベルをさらに上げ、決して油断する事なくアラストールに尋ねる。

 

 

「アラストール。こいつは、何者?」

「っ……それは……っ」

 

 

 アラストールが言い淀む。幼き日から、アラストールと共に過ごしてきた少女は、彼のこんな姿は知らない。

 少女はようやく気づく。

 これはただの妙な事件ではない。普通では考えられない、異常事態が起きている事に。

 だからこそ、このフレイムヘイズが何者なのか、知らなければならない。

 

 

「アラストール!」

「…………」

 

 

 少女は強く促す。

 それでもアラストールは中々口を割らない。

 

 

「…………」

「…………こやつは、」

 

 

 しかし数瞬の後、とうとう諦めたように重い口を開く。

 

 

「こやつの名はカル……先代炎髪灼眼の討ち手候補(・・・・・・・・・・・・)だ」

 

 




王大人「死亡確認」


すみません、変なところで区切って。ですが、ここじゃないと区切る個所がないし、
話が全然進まないので、ここで終わるしかありませんでした。

ちなみに、伏線は(多分)全部出したので、ここから先はどんどん回収に向かっていきます。
推理……と呼べるほどの謎を散りばめられたか分かりませんが、そういう面でも楽しめたら
と思います。

それと、どなたか小説を自動で作ってくれるようなAGEなシステムを持っている方は、
いらっしゃいませんか?


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第ⅩⅢ話 使命

た、大変長らくお待たせしました。
もう腕のなさやら、リアルやら、色々ありましたが、どうにか完成した所存であります。

今回は、まあ前回の引きから予想できそうですが、ちょっとアレな回なので心が余裕がある時にお読みください。


 フレイムヘイズ。

 “紅世の王”に在ったはずの過去、現在、未来を奉げる事で異能の権現を借り、掌る者。その大半は、“紅世の徒”に対する復讐心によって契約、誕生する。

 しかし、少女が成った『炎髪灼眼の討ち手』はその大半の中から外れた、例外の中の例外だった。

 数百年前の“大戦”で契約者を喪った“天壌の劫火”アラストールは、己が使命と運命(さだめ)を果たすに相応しい契約者を欲した。そして同志たちと共に、移動式城塞宝具『天道宮』にて討ち手候補となる人間に、苛烈な鍛錬を施した。時に多数、時に一人の人間を育てたが、その大半は討ち手となる資格(・・)を手にする事無く、『天道宮』より出された。

 数百年と数百人の果てに、ようやく“天壌の劫火”アラストールに認められ、『炎髪灼眼の討ち手』として契約したのが少女であった。

 

 

「先代炎髪灼眼の討ち手候補……」

 

 

 目の前のフレイムヘイズが過去に炎髪灼眼の討ち手候補だった(・・・)としても、今まで数百人の候補がいたのだ。その中の誰かがフレイムヘイズになったとしても、特別珍しい訳ではない。ましてや、アラストールが動揺する理由になり得ない。何か他にも事情があるとしか思えなかった。

 

 

「まさか、お前がフレイムヘイズになっておったとは……」

「くくっ、驚くのも無理はないか。まあ、俺からすればアラストールがこんなに早く契約した事の方が驚きだ。後、百年は契約者が見つからないと思っていたが……おっと、その前に紹介がまだだったな。“理治の薙(りちのてい)”ナベルスのフレイムヘイズ『弐得の巻き手(ふたえのまきて)』だ。間違えるなよ?」

「……ああ。忘れぬ」

「…………」

 

 

 少女は久しく持たなかった寂しさを感じる。アラストールが自分の知らない相手と話すとき、決まって過ぎる感情だった。

 と、少女は眉根を寄せて、しかめっ面を作る。惰弱な感情を抱く己を嫌って、慶次から進んで離れたのだ。ここでまた、そんな無駄な感傷に浸っていたら、ここまでの行動が全て無意味になる。

 何より、封絶に飛び込んだのは、事件を解決するため。アラストールの動揺、先代炎髪灼眼の討ち手候補の出現と想定外が続いたとはいえ、やる事は変わらない。

 少女は贄殿遮那を降ろすも、決して警戒を緩めずカルに訊く。

 

 

「お前が討ち手候補だった事なんて興味ない。“燐子”を操ったのは、前田慶次を襲ったのは、お前なのか。それとも別に首謀者がいるのか。それだけ、答えて」

 

 

 凛とした、聞く人によれば慄然とする声音。

 カルはなぜか呆れたように肩をすくめ(左腕はほとんど動いていない)、ため息を吐いた。

 今度は見せかけではなく、不快にしかめっ面になる。

 

 

「……何よ」

「生まれた時からアラストールに育てられた影響か? 性格がアラストールに似すぎだ。だから、あまりアラストールと一緒にいさせるなと、ヴィルヘルミナにも言ったのだが……オムツ変えていた時の面影は、どこにいったのやら」

「はぁっ!? て、適当な事言ってんじゃないわよ!!」

「適当かどうかは、アラストールに訊いてみろ」

「アラストール!!」

 

 

 少女はカルの無神経な言葉に激怒しつつ、アラストールを睨む。

 

 

「……そんな事も、あったか」

「~~~~~~!!」

 

 

 思わぬ肯定に、少女の顔が一瞬で赤くなり、カルは小さく笑う。その笑いが癪に触って何か言おうとするが、反論しようにも事実を指摘されただけなので言葉が思い浮かばない。

 

 

「あ、赤ん坊の時の事はいいから、早く答えて!」

 

 

 少女は結局、話を無理矢理元に戻して誤魔化す。まるで、自身の養育係と話しているようで、やりにくくてしょうがなかった。

 ――が、そんな懐かしい空気も、ここまでだった。

 

 

「ああ。『宝具』で“燐子”を作り、人間を襲わせた。確かに、全部俺の指示だ」

「――っ」

 

 

 カルは事もなげに、あっさりと告げた。

 柔らかい空気が霧散し、緊張感が周囲に蔓延する。

 羞恥の赤みは一瞬で高揚の赤面に変わった。

 場の空気は戦場のそれとなる。

 

 

「一体、何を企んでいるの」

 

 

 言いながら少女は贄殿遮那を構えると、カルはまるで駄々っ子を扱うかの如く困ったように笑う。それが不愉快で、少女の贄殿遮那を握る力が思わず強くなった。

 

 

「企むとは人聞きの悪い。当然、フレイムヘイズの使命を果たすためだ」

「……はっ」

 

 

 今度は少女が笑った。ただし、明らかに相手を小ばかにした嘲笑だった。

 『宝具』を使ってまで“燐子”を作り、人間を襲う。それが、フレイムヘイズの使命たる、この世と“紅世”のバランスを保つために必要だとカルが言う。

 当たり前の話だが、人間を一人殺したところで“紅世の徒”は減らない。世界の歪みも、元には戻らない。

 カルは頭がおかしい、もしくは、ふざけているとしか思えなかった。

 が、

 

 

「……まさか、“紅世の徒”の排斥を……『天道宮』で我らに語った夢を、成すつもりなのか……?」

「!?」

 

 

 少女はアラストールの真剣な問いかけに驚愕する。

 彼は決して戦場で冗談を言うような性質じゃない。カルの言葉の真偽はともかく、アラストールの見立てでは、カルはふざけている訳ではなく、本当にフレイムヘイズの使命を果たすために慶次を襲ったのであろう。

 少女はカルの言葉を戯言と聞き流す事を止め、一言も聞き逃すまいと耳を傾ける。

 

 

「ああ。俺の計画が成った時、“紅世の徒”はこの世からいなくなる。世界は救われる。俺の、俺たちの夢が、現実に成る時が来たんだ!」

 

 

 “神器”らしき深紅の宝玉が埋まったペンダントを握り、目に力を宿し熱く語るカル。

 少女には彼が嘘を言っているようには見えない。これで騙っていたとしたら、余程の狂人かペテン師だろう。もちろん、嘘を言っていないとしても、彼を信じるかどうかは別問題である。

 

 

「……そんなの、不可能よ」

「不可能ではない……と言いたいところだが、まあ、その反応は当然だな。いきなり信じる奴がいれば、そいつはただの馬鹿だ」

 

 

 少女の否定は想定内だとカルは頷く。

 だが、とカルは言葉を続け、視線を神器“コキュートス”へと向ける。

 

 

「だが、アラストール。お前なら分かっているだろう? 俺が嘘を言っていない事も、俺がそれを成すだけの知恵と力を持てる可能性があった事も」

「……」

 

 

 アラストールは否定しなかった。それは無言の肯定だった。

 少女の胸の鼓動が大きく跳ね上がる。もし、カルの言う通り、“紅世の徒”をこの世から追い払える方策があるなら。フレイムヘイズの使命を完遂できる言うなら。使命のために生きる『炎髪灼眼の討ち手』たる少女にとって、これほど心躍る言葉はなかった。

 だが、そんな上手い話、本当になるのだろうか。アラストールの肯定があっても、疑念は拭い去れない。むしろ、アラストールの異常な動揺を見たせいか、疑念はますます大きくなる。

 

 

(使命を完遂(・・)するなんて、考えた事もなかった)

 

 

 しかし、それと同程度に心惹かれているのも確かだった。カルを信じるか否か。少女の心は揺れる。

 と、それを迷う少女を見たカルは、これ以上ない大きいため息を吐き、最上級の落胆を示した。

 

 

「考えた事もなかった、と?」

「……そんな非現実的な事、普通は考えないわ」

「そうだな。普通のフレイムヘイズでは、考えもしないよな。ふ、ふふっ」

「……?」

「まあいい。それよりも、だ」

 

 

 カルはどこか粘っこい視線を少女に向け、

 

 

「前田慶次を殺してくれないか?」

 

 

 あまりに簡単にそれ(・・)を口にした。

 

 

「……えっ」

 

 

 その唐突な言葉を聞き、少女は呆然と呟く事しかできなかった。

 慶次を殺す。使命を果たすのに、なぜそんな事をしなければいけないのか。意味が分からなかった。

 だが、それ以上に少女を戸惑わせたのは、“吐き気”だった。

 今まで、使命の遂行のため、幾度となく人を、トーチを消してきた。無論、一度たりとも自らの意志で進んで行った事はない。が、使命の為なら躊躇せずやってきた。

 しかし、僅かながらも時を共に過ごした彼の顔を思い浮かべるだけで、その行為に嫌悪しか感じられなくなっていた。

 

 

「……どうして、そんな事する必要があるの」

 

 

 少女は不愉快なそれを無理矢理飲み込み、冷静を装って訊く。

 カルは明快に答える。

 

 

「あいつは俺の計画には邪魔だ。早々に殺す必要がある」

「お前の計画は、たかが人間一人に崩されるほど、脆いものなの?」

「そうではないが、蟻の一穴とて馬鹿にし失敗しては、目も当てられないからな。懸念があるなら、全て潰すべきだろう?」

「……っ」

 

 

 喉がヒンヤリと冷えて、酷く乾く。たまらず飲み込んだ唾の音が、酷く耳にこびり付く。

 使命の為なら、人の死さえ厭わない。少女も幾度となく、そういう選択をしてきた。使命を完遂するという大義の前では、それも致し方ないと思った。

 だが、なぜか心は燃え上がらず、どんどん冷めていく。頭ではどれだけカルの言い分が理解できても、少女の感情は一片も納得できない。

 口から出てくるのは否定ばかりだった。

 

 

「本当に、殺す必要があるの?」

「ある……と言っても、計画の詳細を知らなければ分からんか。だが、今のお前の様子を見る限り、どうも信用しきれないんだよなぁ……」

「どういう意味?」

「たかが人間を殺すだけで、拒否反応を示し過ぎだ。そんな覚悟で、世界を救う事などできん。計画の全ても、とてもではないが教えられんなぁ」

「それぐらいの覚悟、私だって、」

「馬鹿かお前は。世界を救う大仕事……それを前にして、使命を信条とする『炎髪灼眼の討ち手』が燻っていて信用できるか。そもそもだな、俺が信用できないならできないなりに何かすればどうだ。例えば、口先だけでも承諾し、内情を探ればよいだろう? だが、お前はそれさえもできない。口先だけでも飲み込むと言えない、加えて、使命を完遂するという到着点も直視できない……そんなお前の覚悟など、とてもではないが“信用に値しない”」

「……っ」

 

 

 少女は答えに窮する。

 カルの言う覚悟……己が全てを使命の完遂(・・)に捧げる覚悟。

 使命の完遂など、世界から戦争を無くすに等しい非現実的な思想。そんなもの少女は考えた事もなかった。当然、それに相当する覚悟など持っているはずもなかった。

 しかしながら、夢とでも言うのだろうか。

 ――いつか、自分の手で、全てを終わらすことが出来たら。

 覚悟というにはあまりに幼稚過ぎるものが、少女の心の隅に確かに転がっていた。

 だからと言って、そんな非現実的な計画に、簡単には乗れない。

 肯定も否定も出来ない。ならば、傍観が少女の取るべき行動なのだが――、

 

 

「まあ、お前が殺す気がないなら、俺が前田慶次を殺すだけだが。まさか、やめろとは……言わないよな?」

「っ! それ、は……」

 

 

 傍観、それはすなわち、慶次を見殺しにする事。これが少女が答えに窮する、悩む理由だった。

 慶次を突き放したのは、弱くなっていく己が許せないというのもあった。使命遂行の邪魔になる、という理由もあった。が、それと同程度に、慶次をこれ以上危険な目に遭わせたくないという、感情のままの願いもあった。

 傍観すれば、彼は危険な状況に陥る。もちろん、そんなの嫌だった。

 だが、反対してしまえば、使命を完遂するという大義を妨害する事になる。“その程度”の理由で妨害してしまえば、それは今までの使命そのものを否定する事になるのではないか。できれば、こんな選択肢は取りたくなかった。

 大義を果たしたいという使命感。

 慶次を助けたいという正義感。

 少女はその狭間に立たされ、どうすればよいのか分からなくなっていた。

 

 

「……はぁっ」

 

 

 一転、カルは長い溜め息を吐き、目を細める。失望、とその顔には書いてあった。

 

 

「……本当に来る気はないんだな?」

「何であんたにそんな事――」

「『炎髪灼眼の討ち手』……その称号の重みを知っていれば、前田慶次だから殺したくない、などと下らない感情は抱いてはならない。そう思わないか?」

「……私には、慶次が邪魔をするとは、思えないんだけど」

「また下らない感傷を……まあ、お前もまだ若い。そう思っても仕方ないかもしれないが、使命のために人間の知り合いを殺す程度(・・)あまり気にするような事ではない。それにあれぐらいの男、探せば幾らでも代わりはいる。そのうち誰か一人ぐらい、見繕ってやろうか?」

「そんなこと……!」

 

 

 ――“慶次”は一人しかいない。

 ――喪えば、二度と会えない。

 そんな“人間の常識”を、少女は声にする事が出来ない。

 ――“トーチ”がないから、代わりに死にかけの人間を“存在の力”に変え、封絶内を修復する。

 ――人に狼藉を働く“紅世の徒”を止めるのではなく、討滅こそに力を注ぐ。

 今まで少女が人間に対して取っていた行動の数々。目の前に使命と人間がいれば、使命を選び続けていた。カルの人間に対する価値観は、使命の為だけに生きるフレイムヘイズである少女と、大差なかったのだ。ゆえに、そんな当たり前の常識も、口にする事は憚られた。

 否定も出来ない。でも肯定もしたくない。そんな状況――。

 

 

「話しはこれぐらいにしよう。そろそろはっきりと、答えを聞かせてくれないか?」

「…………」

 

 

 頭の中がぐちゃぐちゃになって、もう何が何だか分からない。それでも、カルは今すぐに答えを欲している。迷う暇さえない。

 

 

「……その前に、教えて」

「? 何だ?」

 

 

 少女は今にも掻き消されそうな声音で、カルに尋ねる。答えを出す前に、知らなければならない事があった。

 

 

「最初にお前を見た時のアラストールの態度は普通じゃなかった。一体、お前とアラストールの間に何があったの?」

「――っ!」

 

 

 胸元のペンダントから、震えるような衝撃が伝わってくる。

 この、アラストールの異常とも言える反応。その意味を知らない限り、とてもではないが、カルを信じる事はおろか、答えを出す事なんて出来なかった。

 

 

「待――」

「教えて。何が、あったの?」

 

 

 何か言おうとする彼を、少女は神器を握り無理やり黙らせた。ほとんど初めてと言える少女の反抗だった。

 カルは満足そうに唇を歪めると、視線を少女に真っ直ぐ向け……本当にあっさりと告げる。

 

 

「俺は『炎髪灼眼の討ち手』になる直前に排除されたんだよ。他でもない、白骨に、ヴィルヘルミナに……アラストールに」

「っ!?」

 

 

 少女は言葉の衝撃に身を固めた。

 カルは続ける。

 

 

「フレイムヘイズは過去と未来を奉げる。当然、現在をベースとした姿でフレイヘイズとなる。お前だったら、子どものままの姿で、『震威の結い手』だったら年配の姿、といった感じにな。言い換えれば、契約時の状態で姿が固定されるんだ」

「じゃあ、その左手と、右足、は……」

「ああ、俺をフレイムヘイズにさせたくない三人が、二度と動かせない様に完璧に腱やら神経やらぶった斬った。こうなってしまえば、生まれるフレイムヘイズは五体不満足。で、五体不満足の『炎髪灼眼の討ち手』は不要だと言う事で、実に合理的に排除された、という訳だ」

「何で、そんな事を」

「少々頭に血が昇って、三人と口論になってな。その際、先代のフレイムヘイズの在り方を批判した……」

「……それだけ、なの?」

「ああ」

「アラストール?」

「……っ」

 

 

 アラストールは何も言わない。たったそれだけの事なのに、いつも頼もしく思っていたネックレスが、とても小さく感じた。

 カルは小さく鼻を鳴らし、続ける。

 

 

「だが、俺はあの時の言葉を撤回するつもりはない。どれだけアラストールたちが先代を大事に想っていたとしても、使命の完遂も夢見さえせず、一人で勝手気ままに彷徨う非効率的な旧世代的フレイムヘイズは、使命と『炎髪灼眼の討ち手』の在り方に反している……無論、今のお前も、な」

「……あんたに、私の在り方を指図される覚えはない」

「お前が数百の年月と屍、俺という理不尽の上に立っていなければ、それも通じるかもしれないな。もちろん、事実は違う」

「……っ」

「だが、今ここで手を結べば、お前はその“間違った在り方”を正す事ができる……まあ、一先ずそれは置いておいて、アラストールの過去の所業は以上だ」

 

 

 少女は口を閉ざした。

 アラストールが否定しないのに、少女にこれ以上反論できるはずがなかった。

 カルの過去が事実だとすると――。

 

 

「アラストールは、アラストールたちは、あんたの才を認めた上で、自分たちの思想に反したから『炎髪灼眼の討ち手』にさせなかったの?」

「ああ」

 

 

 事もなげに頷くカル。

 実力不足ではなく、感情でカルを排除した。しかも、少女の尊敬する人たちが。

 思った事もない嫌な考えが、少女の頭を過ぎる。

 

 

 ――“そんな事”あるはずがない。いや、そうだったとしてもだからどうと言うのだ。

 

 

 思い浮かぶそれを何度打ち消しても現れる。

 鼓動がうるさいほど胸を叩き、息が震える。

 明らかに顔色を青くする少女を前に、カルは止めない。言葉一つ一つで、少女の小さな胸を抉り続ける。

 

 

「しかし、俺を潰した後に“自暴自棄で拾った捨て子”がここまで育つとは、予想外だったな。まあ、それでも俺より才も使命感もないが――」

「……それは、どういう、意味……!」

「あのな、どうしてお前のような“捨て子”を育てようなどという発想に至る? 才能の有無も分からず、どうして一人の赤子に英才教育を施そうとする? 簡単だ、俺という至宝の“穴埋め”をしたに過ぎない」

「……っ」

 

 

 考えてみれば、おかしい箇所は幾つもあった。

 ――完全なるフレイムヘイズを育てるなければならないのに、なぜ偶然目に留まった捨て子を拾ったのか。

 ――拾ったとして、どうして適切な施設に預けなかったのか。

 ――育てるだけならまだしも、なぜ物心つかない内から苛烈な鍛錬を施したのか。

 通常であれば、何一つ起きなかった事柄。

 しかし、現実はその全てが少女に起きている。

 少女をフレイムヘイズにしたものは、愛情などと甘い物ではなく、使命などと崇高な物ではなく、カルを損失した事による狂気ではないか。

 そんな嫌な考えが、少女の脳裏にこびり付く。

 

 

「代替品、オモチャ、操り人形……表現する言葉は無数にあるが、少なくとも、全員お前をまともな精神状態で育てたはずがない」

「だとしても、私は、何度だってこの道を選ぶ……!」

「さすが、『炎髪灼眼の討ち手』に選ばれただけある、いい心意気だ……俺の後じゃなかったらな」

「っ!!」

「――やめよ!!」

 

 

 堪らず、アラストールが割って入ってきた。だが、そのあからさまな感情の発露が、少女を庇っていると分かり、彼女はさらに傷つく。

 言い合いは続く。

 

 

「確かに、我はあの行為を悔いておる。貴様を想わなかったと言えば、嘘になる。だが、例えあの事がなくとも、我はお前を契約者に選ぶことはない! 必ず、我はこの子を育て、契約者に選ぶ!」

「ほう。つまり、能力の優劣ではなく、お前の好みで契約者を選んだ、と? 完全なるフレイムヘイズはどうした?」

「そうではない! 我にとって、この子は――」

「うるさい、うるさい、うるさい!!」

 

 

 少女は絶叫を上げた。

 ここは自分が選んだ場所だ。フレイムヘイズは自分が望んだ使命だ。二人の間に何があろうと、それが少女にとっての全てであり事実だ。

 それを人形だの、選ぶだの、まるで自分が意志も何もないモノだと言われているようで、これ以上こんな嫌な言い合い、聞きたくなかった。

 

 

「はぁっ……! はぁっ……!」

 

 

 知らず荒れた息を整えるために、呼吸を繰り返す。少しだけ頭に上った血は落ち着いたが、胸の気持ち悪いモノは止まらず、むしろ悪化していた。

 

 

「……すまん。我は勝手な事を、」

「謝らないで。私も、冷静じゃなかった」

 

 

 少女はアラストールにそう答えるものの、頭の中はちっともまとまらない。彼女が思った以上に、アラストールに、そしてカルに告げられた事実は、少女の心を傷つけていた。

 それでも答えは出さなければならない。少女は使命と己が誇りを支えに、灼眼に燃えた瞳でカルを睨みつけ、精一杯を口にする。

 

 

「二人に何があったか分かった。あんたの言い分も……きっと、一理あると思う。その上で私は……やっぱり、あんたは信用できない。何も計画について説明されないままで、信用できる訳ない」

「ならば、手伝わないと?」

「……手伝う。私もあんたの夢が実現できるなら、実現したい。だけど、計画がおかしかった場合のために、私は慶次を殺さず宝具を預かる」

 

 

 宝具を預かる。使命も感情を守れる選択は、これしかなかった。

 

 

「……ほう、前田慶次という保険を残し、しかし力を削ぐ、か。」

「計画の邪魔になる可能性を持ちながら、でも実際は実行するための力を持たない鍵にする。お互い、当面の信頼を得るには丁度いい条件でしょ」

 

 

 カルは視線を外し、僅かに俯く。

 考えがまとまったのか、外した視線を再び少女へと戻すと大きく頷いた。

 

 

「よし、分かった。お前が前田慶次から宝具を回収すれば、殺すのは止そう。もちろん、計画の全ても話す」

「……決まりね」

 

 

 少女は安堵のため息を漏らす。

 もし断られたら、カルと協力する道は絶たれる。そうなれば、戦うしかなかっただろう。そうなったら、今の心理状態では結果がどう転ぶか分からなかった。少なくとも、無傷で済まなかった。

 カルはそんな少女の心情を知らないのか、口の端に笑みを乗せながら、封絶を解く。

 

 

「あの日から十余年……あの時はもう駄目かと思ったが、ようやくお前たちと共に夢へ踏み出せる」

 

 

 薄桜色の陽炎が上部から消えていく。色彩の変わっていた景色は、徐々に本来の色を取り戻し、そして、地面の紋章も陽炎のドームも完全に消え失せた時、隔絶された世界とこの世が繋がった。

 

 

「っ!?」

 

 

 現れるこの世の堂森市の姿に、少女は、アラストールさえも絶句した。

 幾本も上がる黒煙。

 木霊する悲鳴。

 電柱は倒れ、生垣崩れ、人々は降り積もった雪の上に倒れ伏していた。

 そして、街道に積もった白雪の上を駆け回る黒点たち。彼らが赤く染まった粉雪の原因である事は、明白であった。

 少女がカルに詰め寄る。

 

 

「――『弐得の巻き手』!! これは、どういう事!!」

「無論、計画のためだが……地震か? また余計な横槍が入ったか」

「こんなのが、あんたの言う計画なの!?」

 

 

 少女はカルの胸倉を掴み、引き寄せる。カルの視線が少女を射抜く。細められた視線は、それがどうしたとでも言わんばかりに冷めていた。

 少女は両目を見開き、強烈な敵意をカルに向ける。

 彼はため息一つ吐くと、逆に目を滾らせ睨み返し、少女は僅かに怯んだ。少女のような感情の発露から来るものではなく、そこには確かな覚悟が感じられた。

 

 

「世界を救う計画の一端を、こんなのとは何だ」

「……これが計画だなんて、正気じゃない!」

「この程度で正気じゃないとは……お前は本当に使命を果たす覚悟があるのか? 使命のために人間を襲う、その程度の覚悟を持たないお前に」

「でも、幾らなんでも、これは……!!」

「いい加減にしろ。計画のために、“燐子”を使って人間を襲っているだけだ。世界のバランスは崩れていない。そもそも、なぜ人間どもの命と使命を比べる? 使命を果たすためなら、人間の命など安い」

「……っ!」

 

 

 少女は音が鳴るほど強く歯軋りする。

 眼前の惨劇の元凶たるカルが、この上なく許せない。

 だが、それ以上に――。

 

 

(何で、こんな嫌な気持ちになるのよ……!)

 

 

 感情は、口が良く回るこの男をぶん殴りたいと叫んでいる。だが使命……それを考えると、湧き上がる感情が、己が取ろうとしている行動がとても間違っているものに感じられて、手も足も出せなくなる。

 フレイムヘイズの使命が、自ら決めて選んだ道が、誇りを持って生きていた全てが己を雁字搦めにしている。それが途轍もなく悔しくて、惨めだった。

 その苛立ちのまま、少女はカルを突き飛ばす。カルは抵抗もなく、そのまま力なく尻もちをついた。

 

 

「何をする」

「うるさい!」

「おい、どこに行くつもりだ? 早く宝具を――」

 

 

 少女はカルの制止を振り切り、足裏に紅蓮の爆発を生む。

 堂森市を襲った惨劇。計画を潰すにしろ手伝うにしろ、その惨劇の只中にいた慶次がとても無事にいられるとは思えない。すぐにでも、慶次の元に駆け付けるべきだった。

 

 

(慶次……!)

 

 

 物という物が崩れ壊れた堂森市。悲鳴とサイレンが混じり合う街を眼下に、少女は一点に向けて飛翔する。

 向かう先は新市街地、堂森高校。慶次が先刻までいた場所だ。

 堂森高校にはすぐに着いた。

 校門に着地し、少女は祈るような気持ちで周りを見渡し、すぐに見つけた戦闘の跡に息をのむ。

 校庭のほぼ中央。そこには四足動物特有の小さな足跡が無数と、何かが叩きつけられて雪が抉られた跡、そして……人を飲み込むほどの大きなクレーターがあった。

 “燐子”と戦える者は、『宝具』を持った慶次以外考えられない。この戦闘跡を見て、とてもではないが慶次が無事とは思えなかった。

 しかし、慶次らしき人影は外にはない。それどころか、人もいない。

 少女の向かう先は自然と校舎内へと向かう。

 彼女は胸を刺す冷たくものを懸命に抑え込み、正面から校舎に入った。

 

 

「……っ」

 

 

 校舎の中は、まさに惨状だった。

 物という物は壊れ、人という人は傷つき、血と煙の臭いが充満していた。そして、その中でも一際傷つき、血を流していたのが慶次だった。

 数えきれない小さな切り傷に打撲。所々穴の開いた衣服から見える肌は赤く焼き爛れ、右肩にはあるはずの腕が損失していた。

 そして何より少女の目を引いたのは、彼の瞳だった。静かなさざ波を思わせる、落ち着いたそれを、少女は知っていた。白骨――戦いを教えてくれた師――が最後の力を振り絞り、少女と戦った時も同じ瞳をしていた。

 ――今まさに、慶次は命を燃やし尽くそうとしている。

 なぜ、こうなったのか。

 答えは明確だ。

 

 

(私の、せいだ……)

 

 

 心をかき乱されたくない。それだけの事で、慶次を突き放した。分からない感情から逃げた。

 その結果、何一つ守れなかった。

 

 

(私は――)

 

 

 全ての惨状は、慶次の制止を無視したせいだ。言い訳のしようのない失態だった。

 どんな失敗でも糧にした。より強くあろうとした。

 だが、眼前の片腕を失った慶次。彼の腕は、もう戻ってこない。そんな当たり前の事を、慶次を通して突きつけられた。たったそれだけの事で、その“反省”が途轍もなく無責任で理不尽なような気がして、少女はいつものように強くある事ができなくなってしまった。

 強くなれないのは、それだけではない。

 

 

(この慶次から、『宝具』を奪う――)

 

 

 先に結んだカルとの約定通り、今の慶次から宝具を奪えば……間違いなく死ぬ。ならば、奪わなければいいのか言えば、そうではない。どうしても、カルの計画が知りたいからこそ、苦肉の策としての約定だったのだ。それを簡単に覆してしまったら……フレイムヘイズの使命を軽んじた事になる。そして、それは即ち、自分の生き方をも否定する事になる。自らが選んで生きていたからこそ、それはとてもではないが、簡単に選べるものではなかった。

 ぐるぐると結論のでない思考を繰り返している間に、慶次がとうとう少女の気配に気づき、視線を向けてきた。

 

 

「遅かった、じゃ、ねーか……」

「!?」

 

 

 死を覚悟していた瞳が、一瞬で生へと生まれ変わっていく。自分のせいで絶望へと叩き落とされたはずなのに、希望へと変わっていく。少女にはもう、慶次を直視する事は出来なかった。

 

 

(他に、何か方法は――)

 

 

 必死に思案するが、妙案は思いつかない。

 とにかく、まずは慶次を治療しようと少女が近づこうとすると、

 

 

「……おい、何か、あったのか?」

「……っ」

「……椿?」

 

 

 目敏く少女の異変に気付いた慶次が、彼女の瞳を覗き込み、次いで徘徊する“燐子”に目を向け――顔が再び絶望へと染まった。

 しまった、と思った時にはすでに遅かった。『宝具』の輝きは弱くなり、目に見えて傷の再生速度が落ち始めていた。

 

 

「お、おい……やめろ、冗談、だろ……? “燐子”は敵、なんだろう? なあ、早くそいつらを、倒してくれよ? その、俺を……守るんじゃ、なかったのか?」

「それ、は……」

 

 

 少女は答えに詰まると、俯いて口を強く結んだ。

 確かに守ると言った。慶次の命を最低限守るために、勝手な約定まで結んだ。それなのに、慶次の全くの正反対の状況に追い込んでいる。

 こんな情けなくて、惨めったらしく、そして残酷な事……幾ら少女が直情径行と言えども、とてもではないが、本人を前に口にする事はできなかった。

 少女が逡巡していると、指一本動かく事さえ辛いはずなのに、慶次は立ち上がった。もはや、その瞳に希望も絶望もなく、ただただ呆然と少女を見つめ、

 

 

「教えてくれよ、アラストール」

「…………」

「お前は、お前たちは――」

 

 

 ごくり、と。

 慶次は一際大きく、唾を飲み込むと、

 

 

「『敵』――なのか?」

 

 

 それはあまりにも的外れで、しかし残酷過ぎるほど正鵠を射た、慶次の現状であった。

 

 

「っ!? 違――」

 

 

 

 “コキュートス”を握り、少女が慌てて否定しようとした。

 使命と慶次。そのどちらもとった結果が今なのだ。決して、見捨てた訳でも、ましてや『敵』になった訳でもない。

 そう伝えようとした矢先、

 

 

「お前ら矮小な者に敵も味方があるか。たかが人間が調子に乗るな」

「……っ!」

 

 

 カルが、来た。

 少女は振り返り、カルを見遣る。

 

 

「それにしても、まだ(・・)生きていたとはな。前田慶次……しぶとい人間だ」

 

 

 どう交渉すれば、慶次を生かせるのだろうか。

 それを必死に考える暇もなく、

 

 

「だがそれも、ここで終わりだ」

「っ!?」

 

 

 カルがいつの間にか距離を縮めて、松葉杖の先端を慶次の胸に向けていた。

 

 

「慶次っ!!」

 

 

 床を蹴り上げ、手を伸ばす。

 ――あの松葉杖さえ止めれば。

 しかし、間に合わない。

 

 

「慶――」

 

 

 少女の手が杖の先端に届く事はなく、トン、と慶次の胸は軽く小突かれ、

 慶次は力なくうつ伏せに倒れこんだ。

 どっ、と肘から先がない右腕から血が噴き出す。

 指先の一本も微動だにしない。

 胸の鼓動も聞こえない。

 

 

「けい……じ……」

 

 

 少女はただただ、呆然と呟くしか出来なかった。

 

 

 

 

「いやあああぁぁぁぁっ!!」

 

 

 自失していた少女の意識を取り戻したのは、女性の悲鳴だった。

 声の主は新発田美代。綺麗な黒髪と、非常に利発で運動神経もいい女性だったと記憶していた。

 だが、今の彼女は髪を半ばまで焼き落としており、全身のほとんどに包帯を巻き、胸に大きな切り傷まで負っていた。

 地面を這いずりながら、異様に瞳を見開き、倒れ伏した慶次に近寄ろうとしていた。

 

 

「嘘、ですよね……。慶次さん? 慶次さん!? 返事をして、慶次さ――」

「黙れ」

「ひっ!?」

 

 

 カルは煩わしいとばかりに、必死に呼ぶ美代に怒声を浴びせるどころか、松葉杖を振り下ろした。“存在の力”で強化された杖は、美代の顔面のすぐ横を穿ち、人の頭ほどの大きさを床を砕ききっていた。もし、これが顔に振り下ろされていれば、頭蓋ははじけ飛び、無残な死体が一つ増えていただろう。

 

 

「今すぐ殺されたくなかったら、静かにしていろ。分かったな」

「――っ!」

 

 

 カルに脅しつけられ、口を押え何度もカクカクと頷く美代を見せられて、ようやく少女は自失から完全に立ち直る。

 

 

「――『弐得の巻き手』!!」

 

 

 大太刀『贄殿遮那』を抜き放ち、カルの首筋に突きつける。斬りかかる、まさに直前。怒りと不甲斐無さに震える少女の、感情が抑制できるギリギリ場所がここだった。

 

 

「ひぃぃっ!」

「もう嫌だぁっ!」

 

 

 砕けた床、身の丈を遥かに超える大太刀、そしてそれを軽く持ち上げる少女。

 常識という常識をぶち壊した光景に、周囲から一際大きな悲鳴が上がり、這うように生徒たちは去っていった。ただし、美代だけは顔面の真横に穿たれた松葉杖、人の身を大きく超える大太刀を眼前で見せつけられ、身を抱くようにして縮こまる。

 少女は怒りに顔を強張らせ、カルは松葉杖を壁に突き立てたまま、視線だけが交錯する。

 

 

「これはどういう意味だ?」

「約束を破って……慶次を殺して、どういうつもりよ!!」

 

 

 倒れ伏した慶次を指差し、空気を震わせるほどの怒号をカルに浴びせる。しかしカルは全く堪えた風もなく、汚らわしいモノを見るかのように、見下した視線を倒れ伏した慶次に向ける。

 

 

「その点に関しては済まない。まさか、“燐子”に立ち向かうとは俺の想像以上にこの人間は愚かだったようだ」

「っ! 質問に答えて!」

「どうせ、あのままでは死んでただろう? 生きていたとしても、あの身体じゃ辛いだけだ。だから、苦しまない様に、止めを刺した」

「……そんな理由で、あんたは……!」

「両腕が使えるお前には、分からないだろうな……まあ、それは兎も角、これでお前も気兼ねなく『宝具』を回収できる。相手を苦しませず、目的を達成する……一石二鳥だとは思わないか?」

「一石二鳥って……!!」

 

 

 逆に感謝しろと言わんばかりに傲慢な態度で受け応える。

 切っ先が、震えた。

 こんな理不尽な理由で、慶次は殺されてしまったのか。

 もう怒りは湧いてこなかった。ただただ、慶次に対して申し訳なくて、それ以上に、カルが許せなかった。

 音が鳴るほど、歯軋りする。今にもカルを斬り捨てようとしているように見えるが、

しかし、切っ先は震えるばかりで振り下ろされない。否、振り下ろせない。

 結局、使命……その言葉が脳裏を過ぎり、最後の一歩を躊躇させていた。

 その姿を見て、カルは鼻で笑った。

 

 

「何とも半端な覚悟だな、『炎髪灼眼の討ち手』? 逆らうなら逆らう、従うなら従うでそろそろ腹を決めて貰えないか。こちらも、対応に困る」

「……っ」

「答えられないなら、こちらで選択肢を用意するぞ」

 

 

 そう言うと、カルは慶次の残った左腕を――正確には『宝具』――松葉杖で差す。

 

 

「一つ、今すぐ『宝具』を前田慶次から奪う。前田慶次は確実に死ぬが、お前は俺から計画の全てを聞き出せ、かつ俺に対する対抗手段を得る事になる」

 

 

 次いで、カルは松葉杖を床に着く。

 

 

「二つ、何もしない。前田慶次が死ぬだけで、特にメリットもデメリットもない。まあ、強いて言うならば、間近で俺の使命の完遂する瞬間を見られるだけだ」

 

 

 そして再び、カルは松葉杖を慶次に向け、

 

 

「三つ、前田慶次を助ける」

「っ!」

 

 

 カルに言われ、少女は慌てて振り返る。

 うつ伏せに倒れこんだ慶次。欠けた右腕から止め処なく血が流れ、心臓さえも動かない骸のような姿だが、その左腕には今もしっかりと『宝具』が握られていた。

 校舎に飛んできた時と姿形は変わらない――ただ一つ、心臓が止まっている事を除けば。逆に言えば、蘇生処理を急いで施し心臓を動かせさえすれば数分前の姿に戻り、再び『宝具』の力で息を吹き返す可能性もあった。だが、同時にとある予測も立てられる。

 

 

(こいつ、私が試すために、こんなことを……!)

 

 

 眼前の惨状を仕組んだのは目の前のカル。慶次の心臓を的確に止めたのは、三つ目の選択肢を残し『炎髪灼眼の討ち手』の覚悟を問う試金石にするためだったのだろうと容易に予想がついた。

 

 

(こんな事のために、理不尽な……!)

 

 

 少女はカルを睨みつける。普段なら、敵を怯え、震え上がらせるはずの眼光は、今や苦し紛れの物に過ぎず、カルは余裕の薄ら笑いで返しながら選択を迫る。

 

 

「さあ、選べ」

「……私は……!」

 

 

 選択肢は『協力』『傍観』『反対』の三つ。今、こうしている間にも『反対』の選択肢は失われつつある。

 感情的には『反対』を選びたい。だが、使命を考えれば、『フレイムヘイズ』の同士討ちも使命完遂の大義も捨てたくない。瀕死の慶次を目の前にしても、少女の心境は何一つ進んでいなかった。むしろ、慶次が生き残る可能性を提示されて、焦りは積もるばかりだった。

 

 

「私は――」

 

 

 まともな精神状態ではなかった少女が、それでも決断を下そうとした矢先、今まで決して声を発しなかった人物――アラストールが、その重い口をとうとう開いた。

 

 

「前田慶次を助けろ」

「えっ?」

「っ! それは正気か、アラストール?」

 

 

 少女も、そしてカルさえも予想外だったのか、二人のフレイムヘイズは驚愕をその顔に浮かべる。対照的に、アラストールは今までの揺らぎが嘘だったかのように、遠雷のように重厚で尊大な声を響かせる。

 

 

「お前の意志に反するかもしれぬが、今だけ我の願い(・・)を聞いてくれぬか」

「アラストール!?」

「……気でも触れたか、アラストール」

 

 

 これまで、“契約者”(もちろん、仮も含む)の意志を尊重し続けたアラストールに珍しいお願い(・・・)。当然、付き合いの短くない二人は理解が追いつけず、カルは正気まで疑った。

 アラストールはあくまで冷静に続ける。

 

 

「手遅れになるかもしれん。早くせよ」

「う、うん!」

 

 

 少女は首肯すると、慶次の傍へ寄る。素早く傷の状態を確かめると、特に大きな出血箇所を『夜笠』から包帯を取り出し、簡単に止血をする。

 応急手当てを終えると両の掌を胸に置き、心肺蘇生――所謂、心臓マッサージ――を始めた。

 

 

「……意味、分かっているのか」

 

 

 アラストールが選んだのは三つ目の選択肢。それはカルと敵対する事を意味する。当然ながら、アラストールはそれを理解していながら、『反対』を選択している。

 アラストールは重々しく口を開く。

 

 

「お前のその命を弄ぶ行動を見て、我は確信した……我が知っている『炎髪灼眼の討ち手』になり得るカルは死んだのだ、と」

「死んだ? 確かに、お前たちに俺の道は絶たれたが、死んだは言い過ぎだろう?」

「……何を見て、我はお前が『炎髪灼眼の討ち手』になり得ると確信したか、知っているか?」

「知らないな。無論、知ろうとも思わない」

「貴様が提唱した『フレイムヘイズ育成計画』を知らされた時だ」

「っ!? ふざけるな!!」

 

 

 アラストールの言葉を聞き、カルが初めて激情を現した。

 

 

「『フレイムヘイズ育成計画』だと! あれは、お前たちが俺を排除する切っ掛けにした計画ではないか!! お前は俺をおちょくっているのか!!」

「“虹の翼”メリヒムを『カイナ』に据え全教育の道筋を立案し、『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルが補佐と実行、資金源や人材は我とカルが調達する……我ら三名の数百年を活かしつつ、我らの未来を提示した“お前らしい”計画だった」

 

 

 『フレイムヘイズ育成計画』。

 大仰な名前に似合わず実際の計画は至極簡単、空になったこの世に“紅世の徒”を留め置く宝具『カイナ』に、教育係だった“虹の翼”メリヒムを据え、そのまま『フレイムヘイズ』の育成を続ける……というものだった。

 だが、とアラストールは語尾を強める。

 

 

「今のお前は何だ! 自らの恋心さえ抑え込み、“虹の翼”を『万条の仕手』を理屈だけではなく、感情でさえも救おうとしたお前が、なぜ人の命を弄んで――!」

「その計画を否定したのは、お前たち三人だろう! それを今になって……仮にその時の『カル』が死んだのは、お前のせいだよアラストール!!」

「お前の言うとおりだ! だが、だからこそ……今のお前に使命は完遂できん! 完遂できるだけの実力がない事を、我は確信した! ゆえに、我はお前を止めねばならん!」

「っ! だったら、止めてみろ。俺はお前が何を言おうとやり遂げる」

 

 

 それだけ言い残すと、カルは一跳びで校舎を飛び出した。

 あとに残された少女は、その間も黙々と慶次の胸を規則的に両の掌で押し込み――時にその口に息を吹き込み、

 

 

「――っ、アラストール!」

「! うむ」

「――っは!!」

 

 

 適切な蘇生術が功を奏し、慶次は息を吹き返した。

 少女はほっと胸を撫で下ろすが、まだ事態は何も好転していない。むしろ、悪化の一途をたどっているだけだ。

 浅い呼吸を繰り返す慶次。彼の欠けた右腕を見ながら、少女は暗澹たる思いになるのであった。




精神攻撃は基本(キリッ


表現が難しかったので、一応、我らがシャナが結構早い段階で精神的に参っていた理由を説明すると、

1、アラストールが認めた人だったから、使命を完遂という尊大な題目をちょっと真に受けて考えてしまった
2、1という理由があるのに、感情だけで慶次殺害を躊躇してしまった
3、自分の育った環境が、カルの替わりと思ってしまい、今までの愛情(大なり小なり、感じていた)が本物かどうか信じられなくなった

と、かなり複合的かつ複雑になります……というか、なってしまいました。
また、最初に協力しようとしたのも、『私は替わりじゃないし、使命の完遂ぐらいできんだからね!』という見栄が少々含まれますが、結局はカルを信じきれずアラストールを信じているという迷走っぷり。

ここら辺の心理描写をもっと上手く表現できるように努力……の前に、まずは早く書けるようになりたいと思います。


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第ⅩⅣ話 絆

 鼻孔を突く刺激臭。最近、すっかり嗅ぎ慣れた消毒液の匂いに、慶次の意識は数瞬もしない内に覚醒する。

 ゆっくりと瞼を開いた慶次の目の前には、薄暗い白い天井が広がっていた。胸の鼓動は規則正しく脈打っている。意識を失う直前、止まったはずの心臓は動いていた。あの絶望的な状況から何が起きたかは分からないが、全身包帯の重傷ではあるものの、生き残れたのは確かのようだ。

 しかし、慶次の胸の内に湧き出るのは、生き残った喜びはない。ただただ、悔しさばかりが込み上げてくる。

 

 

(くっそ……俺は、一体何をやってるんだ……!)

 

 

 生き残った。力なき人間である慶次にとって、それは何よりも喜ばしい事かもしれない。

 目の前で起きた惨劇に、慶次は懸命に立ち向かった。それも、賞賛されるべき勇気あるこうなのかもしれない。

 だが……何も守れなかった。

 己の()を考えれば、出来た方だろう。しかし、慶次は眼前で全てを壊され、傷つけられた。そんな仕打ちを受けて、喜べるはずもなかった。

 能力の有無なんて関係ない。敵がどれほど強大であろうと、立ち向かう事がどれだけ無謀であろうと、絶対に敵は許せなかった。

 そしてそれ以上に赦せないのは()だ。

 

 

(本当に、俺は馬鹿だ……!)

 

 

 少女に吐き捨ててしまった残酷な言葉。あの時、椿は酷く傷ついた顔をしていた。慶次の無神経で暴力的な言葉が、命の恩人を……否、少女の心を深く深く傷つけてしまった。

 

 

(最っ低だよ、ホント)

 

 

 今、慶次は生きている。本当に裏切った奴が、慶次を生かすはずがない。あんな顔をするはずがない。

 

 

(……謝らないと)

 

 

 謝って済むような問題ではないと分かっている。それでも、謝らなければ前に進めない。

 

 

(とにかく、先に状況を把握だ。それから、椿の居所を――)

 

 

 部屋の壁や天井は白く、しかし異様に寒く、暗い。強いアルコール臭から、おそらく病院だろうと推察するが、個室なのだろうか。慶次の横たわるベット以外では、備え付けの家具が設置しているだけだった。

 周囲を確認し、段々と慶次にも心の余裕が出来てくる。

 ――と、ここでようやく、慶次は自分の左半身に何か柔らかく、温かいものが“しがみ付いている”事に気づく。

 

 

(? 一体何が――)

「すぅっ」

「!?!?」

 

 

 肩に熱い息を感じ取り、慶次はぎょっとして振り向くと、熱を帯びた瞳と視線がぶつかる。

 顔の半分は包帯に覆われ、長かった黒髪をバッサリ切ってはいるが、間違いなく“あの”美代が隣にいた。というか、腕を足を慶次に絡みつけていた。ただし、いつもの感情をひた隠しにした冷徹な表情ではなく、頬を上気させ、熱い吐息を絶え間なく吐き、大きな瞳から熱線を放ち続けている。

 吐息は頬に掛かり、一つ身じろぎすれば柔らかな弾力が腕を押し返す。少し寄りかかれば、唇さえ奪えるであろう距離。

 哀れ、一瞬で慶次の頭の中から椿が吹き飛び、視線は美代に固定される。

 ――そして、美代はそっと目を閉じた。

 

 

「ちょ、おま、そこで目を閉じるなって。おかしいおかしい空気がおかしい」

「…………」

「おい、やめろって口をこっちに突きつけんなだからヤバいヤバい雰囲気がヤバい」

 

 

 慶次が訴えても答えは返ってこない。代わりに、可愛らしく唇を突き出して、仄かな甘い香りと共に慶次のまともな思考を奪ってくる。

 暑くもないのに異様に喉が渇き、思わず唾を飲み込んでしまう。ごくり、という音が聞こえ、皮肉にもその淫靡な響きに慶次は理性を叩き起こされる。

 

 

(落ち着け。ワガママボディの幼馴染が、時と場所を考えずに色仕掛けをしているだけだ。冷静に対処しよう。俺ならできる、かもしれない)

 

 

 慶次は理性と本能を綱引きさせながら、結局、異常状態を放置している間も、事態は悪い方向へ進行していく。

 

 

「おいこら、おま、顔が近づいて来てるってこの野郎止まれ――」

 

 

 貞淑な彼女はどこへ行ったのか、ぐいぐいと唇を押し付けようとする美代。慶次は逃げようともがくが、がっちり左半身を捉えられており身動きが取れない。右腕で押し退けようともしたが、そもそも右腕は炎上して無くなった事を思い出す。

 

 

「ああ、右腕生えてこないんだ――」

 

 

 そんな事を悠長に呟いている隙に、美代が一気にその距離を詰め、まさにゼロになろうとして――その側頭部に拳が落ちて大きな痛々しい音をたてる。

 

 

「何やってんのよ!」

「~~~~っ」

 

 

 痛みに悶絶する美代を気遣う事を忘れ、息が、心臓が止まるかと思うほど、慶次は驚いた。

 薄暗闇に溶けるほどの黒く艶やかな長髪。椿が美代の背後にいた。安っぽいパイプ椅子に座っている彼女は、綺麗な姿勢も相まってどこかアンバランスな印象を受ける。ただし、その瞳はどこか不安に揺れ、声音も張りがなく、いつもの凛とした彼女の姿はどこにもなかった。

 

 

「『宝具』を使うために一緒に寝かせてるだけでしょ!? 何でキ、キスしようとしてんの!? というか、起き掛けの怪我人に、本当に何やってんのよ!?」

 

 

 ――ないのだが、ツッコミのキレだけは健在のようだ。

 慶次はそんなどうでもいい事を考えながらも、状況に得心がいった。

 美代の負った傷は、慶次に次いで重い物だった。おそらく、あのまま放置していたら、命を失っていたかもしれない。そこで、慶次の左手に握られている『宝具』を共有させる事で、命を繋ぎとめようとしたようだ。栄養補給は左腕に繋がれた点滴から行っており、輸液の減る速度が異様に早い。口で吸っている訳でもないのに、まるで管をストロー替わりに吸っているようで、かなり不気味だ。

 

 

(栄養補給は楽だけども、何かいよいよ化け物って感じだな……ここは、見なかった事にしよう)

 

 

 それはともかく、美代に何かを言われたのかもしれないが、隣に寝かせるのはけしからん。

 

 

「そもそも、誰が抱きついて良いって言った!? 私はバットを握ってるだけでいいって言ったでしょ――って聞いてるの!!」

「…………」

「こっち見なさいよ!」

 

 

 慶次の隣で、明後日の方向を睨みつける美代を、叱りつける椿。慶次の与り知らぬところで、随分と仲が良くなったようだ。

 その時、慶次に視線を向けた椿と目と目が合うが、すぐにどちらともなく視線を逸らした。謝らなくては、と思いはするが、いざ本人を目の前にすると躊躇してしまう。というか、普通に気まずくて話づらい。

 

 

「……よっこいしょ」

 

 

 誤魔化す様に(全然誤魔化せてない)慶次はゆるゆると身体を起こす。寝たままでは話づらい、というのもあったが、今は少しでも心を整理する時間が欲しかった。ついでに美代が左腕にくっ付いてくるが、これも心配を掛けた責任だと思って諦める。

 ベッドの上に座り、椅子に座った椿と向かい合う。気まずい空気は変わらない。それどころか、膝を突き合わせるほど近づいたせいか、相手の緊張感がダイレクトに伝わり、もっと気まずくなった。

 慶次は我ながら情けないと思いながらも、ついつい第三者である美代に話を振ってしまう。

 

 

「……あー、何つーかお互い生き残れて何よりで。何か恥ずかしい事言いまくったかもしれないけど、今のところは置いといて、身体は大丈夫か? ……片腕の俺が言うのも変な話だけど」

「…………」

「その、どこか痛い所とかないか?」

「…………」

 

 

 何度も美代に尋ねるが、なぜか答えが返ってこない。替わりと言うべきか、慶次に強く腕に抱きついてくる。まるで『大丈夫』とでも言うように。

 慶次は美代の事を多少なりとも分かっているつもりだが、それでも声で聞かねば何も分からない。

 

 

「どうしたんだよ、美代? どこか痛いのか? 話してくれなきゃ、幾ら俺でも――」

「慶次」

「――っ」

 

 

 今度は強く尋ねようとした慶次を、椿が悲痛な声と面持ちで遮る。

 椿の表情と声音。嫌な予感しかしなかった。

 

 

「どうした?」

「……その…………声が出ないの」

「――っ!」

 

 

 声が出せない。怪我の大小よりもまず先に、慶次は自分の知らない間に、さらに美代は傷ついていた、その事実に大きな衝撃を受ける。もし、自分が倒れなければ、などとまでは思わないが、それでも後悔は沸々を湧き上がった。

 椿は心なしか先よりも痛々しそうに続ける。

 

 

「……あんたが胸を突かれた後……その、美代が叫んでいたのが、『敵』にとって気に喰わなかったみたいで。『喋るな』って脅されて……」

「それじゃあ、今は心因性のショックで喋れないって事か?」

「ええ」

 

 

 慶次はようやく、いつもの美代では考えられない、まるで心の箍が外れたような、よく言えば情熱的、悪く言えば狂気の籠った姿に合点がいった。

 おそらく、美代が今まで望んでも出来なかった事を行い、負荷の掛かり過ぎた心のバランス保とうとしているのだろう。もしくはただ単に、慶次を喪う危機感から極端な行動を取っているのかもしれない。

 

 

「…………」

「――っ、美代」

 

 

 美代が慶次にもたれ掛り、肩に頭を乗せる。目尻を下げ、頬を緩ませ、警戒の欠片もない安心しきった表情を慶次に向けてくる。その依存しきった姿が、今まで起きた惨劇を象徴しているかのようで、鈍い痛みが胸に走った。

 

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

 

 誰も声を発しない。

 嫌な沈黙だった。

 

 

「……ふぅー」

 

 

 慶次は荒れた心を落ち着かせるため、長い息を吐きながら周りを見渡す。

 隣見れば、心身ともに傷ついた幼馴染。

 前を見れば、今にも不安に揺れる命の恩人。

 そして、窓の外は薄暗闇にも関わらず、電灯一つ点いていない荒廃した街。

 どこへ目を向けても、事件の暗い影が落ちている。惨劇の逃げ道など、どこにもなかった。

 

 

(逃げられない、か)

 

 

 だが、追いつめられたからこそ、逆に腹が据わった。

 逃げられないなら、辛い現実と向かい合い、出来る事からやっていく。それだけだ。

 

 

「椿」

「――っ」

 

 

 慶次は逃げ腰ではなく、真正面から僅かに目を伏せた椿と向かい合う。

 

 

「すまん!」

「――え」

 

 

 慶次は頭を深く下げた。

 無意味に少女を傷つけた。それを癒す術も、慰める方法も慶次は知らない。慶次にできる事と言えば、謝る事だけだ。

 椿の顔が見れない。覚悟を決めたのに、それっぽっちしか出来きなくて、正直、嫌だった。情けなかった。

 それでも、それが慶次の唯一出来る事なら、どんなに情けなくても、彼女と再び手を取り合うために、慶次は何でもするつもりだった。

 

 

「八つ当たりみたい当たって、本当にすまなかった」

「――めて」

「お前が裏切るはずないって、分かってたのに。謝って済む問題じゃないってのは分かってる。けど、今だけは謝らせてくれ」

「――だからっ!!」

 

 

 それで少しは伝わると思った。

 ――だからこそ、無関心でもなく無愛想でもなく、少女が本気で激昂した意味が本当に分からなかった。

 

 

「やめてって言ってるでしょ!!」

「…………」

 

 

 今にも胸倉に掴みかかりそうな勢いで椿が立ち上がり、頭を上げた慶次に怒声を浴びせかける。

 何を間違ったのだろうか。致命的なミスを犯してしまったのだろうか。

 危機感、不安、恐怖が押し寄せ、全てを投げ出したくなるが、左腕に伝わる温もりと、胸に宿った確かな覚悟が慶次をその場に踏み止まらせてくれる。

 衝撃は一瞬で飲み込み、決してその場から逃げ出さず、真正面から少女の瞳を見つめ返す。不安に揺れる瞳は、確かに慶次を見ていた。しかし、そこには慶次を映してはいなかった。

 

 

「何でよ、何でなのよ! あんたの言う事を訊かなかったのも、あんたを追いつめたのも私でしょ! 私が悪いでしょ!! それなのに何で、何であんたが謝ってるの!! 何で私を責めないの!! そんなのおかしいでしょ!!」

「……どんな事情があったにせよ、俺がお前を傷つけたのは事実だ。その事は、謝らなくちゃいけない」

「うるさいうるさいうるさい!! 何よ、何なのよあんたは一体!! 私の事、何も知らないくせに、知ったような口利いて!! もう、あんたに会ってから、滅茶苦茶、全部、あんたのせいで――っ!!」

 

 

 あ、と今にも消え入りそうな声で、椿が呟いた。小さく「ごめん」とだけ言うと、安いパイプ椅子に腰掛け項垂れた。

 両手で顔は覆われており、その表情は伺えない。唯一隠されていない小さな唇はわなわなと震え、白い息が何度も何度も吐き出されていた。

 

 

「確かに、お前の軽率で俺は……俺たちはこうなったかもしれない。だけどな、それはだたの結果だろ? 結果が伴わなかっただけで、世界のバランスを守るために、戦ったんだろう? それに、失敗したとしても、そこから俺たちを救ってくれたじゃないか。感謝はあっても、責める訳がない」

「っ、そういう事、やめて。あんたが何て言おうと、私の軽率で、慶次の腕はなくなった。街が壊された。どっちも、もう取り返せない」

「だから、そんな自分を卑下するような事、言ってくれるな。失ったものもあるが、生きてさえいれば、取り戻せるものだってあるだろ? これから一緒に取り戻しさえすれば、それで十二分じゃないか」

「……それだけじゃ、ないの」

 

 

 慶次はありったけの感謝を込めるが、椿は言う先からぎこちなく、首を横に振る。

 

 

「……まだ、迷ってるの……」

「何を?」

「…………」

 

 

 打てば響いていたはずなのに。

 椿から、中々答えが返ってこない。

 言えない事なのだろうか。それとも、言いたくないのであろうか。

 椿は何度も息を、唾を、声を飲み込んでしまう。

 

 

「あ、あんた、を……」

「…………」

 

 

 やっと、吐き出す様に出した声も、唇だけがふるふると震えて最後まで続かない。左腕には、今まで以上に強く美代が抱き着いてきて、汗ばんだ手が緊張感を伝えてくる。もしかしたら、慶次も美代と同様に緊張しているかもしれないが、今はだた、椿を言葉と姿に目と耳を向ける。

 そして、しばしの沈黙の後、か細い声で、椿は言った。

 

 

「あんたを、生かすべきか……まだ、迷っているの……」

「っ――美代!」

 

 

 言われた瞬間、慶次はその言葉の真意まで測り仕切れなかった。唯一分かるのは、その発言は明らかに美代の感情を逆なでするものだという事。事実、慶次の左腕にあった温もりが離れようとしていた。

 

 

「っ! ――っ!!」

「待て!」

 

 

 慶次は左腕だけでなく、とっさに半身を使って美代を抑えつけた。彼女の左腕には、何時の間に盗ったのかメスが握られており、目を怒らせ歯をむき出しにし、椿に飛びかかろうと――より正確に言うならば、椿を殺そうとしていた。

 美代の純粋な想いが、狂気に、殺意に変わっていく。そうなってしまえば、きっと美代は人として大事な物を失ってしまうであろう。慶次は己に対する想いで、人の道を外すなど絶対にさせるつもりはない。

 

 

「なあ、お願いだから、落ち着いてくれよ!」

 

 

 慶次は何とか宥めようと、遮る様に美代の前に回り込む。

 自然、椿に背を向ける形になる。美代はメスを投げ捨て、慶次の肩を掴み無理矢理どかせようとするが、慶次は決して動こうとしなかった。

 慶次は美代の大きな瞳を覗き込む。どこか焦点の定まっていない殺意の込められた瞳は、徐々にその熱を冷ましていく。

 

 

「美代、これで分かっただろ? この子は大丈夫だから、俺に話を続けさせてくれ」

「っ、……」

「本当に、ありがとな」

 

 

 こくり、と頷いた美代に、慶次はほっとしながら礼を言うと、再び椿と向かい合う。

 いつの間にか、顔を上げた椿と目が合った。充血した丸々とした目に、慶次が映る。

 

 

「悪い。それで、さっきの続きだけど……」

「――分からない」

「ん?」

「私には、あんたが分からない」

 

 

 椿は視線を慶次の隣、美代に移すと、

 

 

「あんな事をされて、どうしてこいつみたいに怒らないの? あんただって、頭が悪い訳じゃないのに……どうしてそこまで、私を信じられるの? 私の、どこが信じられるの? 私には、あんたが、分からない……」

 

 

 それだけ言うと、気まずそうに椿は再び俯いた。

 

 

「……あー」

 

 

 実のところ、そんなに深く考えて話している訳ではない。ほとんど感情に従って口にしているだけで、何でと訊かれるとちょっと困った。

 敢えて言うならば、『信じたいから信じる』。だが、それだけでは椿は納得しないだろうし、今のままでは和解もままならない。

 慶次は頭を捻りながら、少しずつ椿にも分かる様に頭の中を紐解いていく。 

 

 

「正直、『信じれる』ってよりも、『信じたい』って方が強い。まあ、理屈じゃなくて感情って事だな」

「…………」

「だけどな。やっぱり、こうして話してると、『信じれる』って段々思えるようになってきた。もちろん、お世辞じゃないぞ」

「……なん、で」

「そりゃあれだよ。あれ……! そう、背中見せても、何もしなかっただろ!」

「……たった、それだけの事で……?」

「……いやいや、他にもあった! あった、はず……」

「はず?」

「!? えっと……そうそう、わざわざ犯人の事を『敵』って表現した所とか! それに、迷ってるって言った時も『生かすかどうか』って言ってくれたじゃないか。『殺すかどうか』って言やいい場面なのに」

「――っ」

「細かい事って言われたらそれまでかもしれないけどな。俺はそういう細かい所に、人の本音が隠されてると思ってる。だから俺は……自然と、“また”椿を信じる事が出来たんだと思う」

「……あんたは、何も知らないから、そう言えるだけよ」

「じゃあ、教えてくれよ。お前が教えられる事、全部。俺は全部受け止めるつもりだぜ」

「っ……馬鹿。私は、あんたが思っているような人じゃ、ないわ」

 

 

 椿は一度、小さな口を強く切り結ぶと、ポツリポツリと語り始める。

 

 

「『敵』の正体は“紅世の徒”じゃなかった」

「っ!? “紅世の徒”じゃないって……えっ、ちょ、ま、まさか……『フレイムヘイズ』か!?」

「それだけじゃない。『敵』はアラストールの愛弟子『弐得の巻き手』。私の兄弟子に当たる相手よ」

「……弟子? 話しの全体像が、全然つかめないんだが……」

「それは――」

 

 

 椿の話は、衝撃の連続だった。

 『敵』が『フレイムヘイズ』である事。

 『敵』が元『炎髪灼眼の討ち手』候補で、アラストールの愛弟子だった事。

 堂森市に起きた惨劇は、フレイムヘイズの使命を完遂するため……世界を救う計画の一端だという事。

 慶次はその計画を破綻する可能性を持っているという事。

 慶次を救うために、勝手な約定を取り付けた事。

 ――そして、椿が『フレイムヘイズ』に使命を遂行するためだけに生きる、選ばれた『フレイムヘイズ』だという事。

 慶次のみに降りかかった事と、それに関連する事柄のおそらく全てを、椿は話してくれた。

 

 

「私はあやふやな理由であんたを傷つけるのは嫌。それだけは、はっきり言える。でも、完全なるフレイムヘイズとして使命の完遂はしたい。完遂の可能性があるなら、出来れば計画も潰したくない」

「…………」

「そんな事を延々と考えてたら、あんたか使命か迫られてた。あんな奴の言う事何て、やりたくなかった。でも、使命の完遂って言われて……私は慶次の心臓が止まっているのに、アラストールに言われるまで、答えが出せなかった……今も、答えは出せていない」

「…………」

「はっきりしてるのは、過去、現在、未来……あんたの不幸には私たちが関わってる。だから、あんたは我慢しなくていい。その気持ちは、間違いなく私たちのせいなんだから」

「…………」

 

 

 長い長い独白が終わると、椿は徐に席を立ち、部屋の隅の冷蔵庫から何かを取り出した。輸液バッグ――おそらく、栄養剤が入ったもの――だ。よく見れば、点滴が切れかけている。

 慶次はバッグを取り換えている椿を眺める。この行為に意味はない。本当に、ただなんとなく。

 居心地が悪いのか、しかし立場上、反論も出来ないのだろう、椿は妙にぎこちなく黙々とバッグを取り換える。

 

 

(……あ、そうか)

 

 

 そんな等身大の少女を見ていたせいだろうか。まるで靄が晴れるように、はっきりと彼女の心が見えた……気がした。

 

 

「お前ってさ……ホント、不器用だよな」

「……は?」

 

 

 今の会話の流れで、どうしてそんな言葉が出るのか。訳が分からず、椿はポカンと口を開ける。だが、慶次の口は容赦なく回る。

 

 

「昨日の包帯の巻き方だって、幾らなんでもガーゼもなしに傷に直接巻くのはダメだろ」

「え」

「箸の使い方だって、ありゃなんだ。行儀が悪すぎだろ」

「ちょ」

「みかんの皮もぐちゃぐちゃに剥きやがって。掃除が大変だったぞ」

「ちょっと! 今それ、関係あるの!?」

「あ、すまん。少し脱線した」

「少し?」

「おっと」

 

 

 椿がちょっと本気でイラつき始めたので、慶次は慌てて佇まいを正し、考えを纏める。

 

 

(こんな事になるなんて、誰も思っていなかったよな……)

 

 

 堂森市に降りかかった惨劇。椿の言葉が正しければ、それは“紅世の徒”ではなく、全て『フレイムヘイズ』……椿たちを中心に起きている。

 人の手にはどうする事も出来ない事件。それを解決できるはずの椿が、カルを自由にさせるという致命的なミスを犯してしまった。それだけではない。さらに言えば、事件の発端が彼女の契約者であるアラストールだった。使命に生きる少女は、惨劇から目を背く事も出来ず、かと言って重すぎる事態に乗り越える事も出来なかった。

 それでも、責任感の強い彼女は全てを背負った。だからこそ、何一つ解決しない内に慶次の謝罪――彼女からすれば赦し――を受け取る事が出来なかったのだろう。

 

 

(不器用……つーか、クソ真面目だな)

 

 

 慶次は苦笑いを浮かべる。

 彼女らしいと言えば彼女らしいかもしれないが、そんな凝り固まっていたら雁字搦めになって当然だ。答えなんて、出るはずもない。

 もう一度、慶次が椿と手を取り合うためには、この雁字搦めになった鎖の結び目を解くしかない。

 

 

(鎖の数は……三つか?)

 

 

 ――慶次を傷つけたくない。

 ――カルの計画に賛同したくない。

 ――使命の完遂はしたい。

 おそらく、この三つが絡み合い、椿を迷わせているのだろう。複雑に絡み合ったこれらを、どうすれば解けるのか――。

 

 

「――簡単だな」

「えっ?」

「なあ、椿……迷うぐらいなら、全部やっちまおうぜ」

「……はぁっ!?」

 

 

 しばらく呆けるが、頭の良い彼女の事だ、すぐに合点がいったのだろう。慶次の真意を察し、驚愕に目を丸くさせ、唇をわなわなと震わせた――心なしか、口角が上がっているのは慶次の気のせいではないだろう。

 慶次は続ける。

 

 

「お前だって、本当は気づいているだろ。もうここまで来たら、それしかないって。もう迷子の振りはやめようぜ」

「……あ、あんたは知らないからそんな事、言えるのよ!」

 

 

 椿は否定する。

 全てをやる。それは言ってしまえば、ただの“夢”。それがどれだけ無謀で愚かで……甘美な事か。

 一度口にしてしまえば、もう後戻りは出来ない。夢を言葉にするとは、それだけの魔力が秘めている。そして、それを叶えるだけの強大な力を持つ椿なら、なおさら……である。

 無論、慶次は“そこまで深く考えずに”ガンガン押していく。

 

 

「ああ、知らないな。だけどな、お前がそれを選ばないんなら、“嫌な事”するしかないぞ?」

「!? けい、じ……」

「やったら、ぜ~~~~~~ったい、後悔するぞー? いいのかー? いいのんかー?」

「……こいつ殴りたい……! ていうか、あ~~~~もう!!」

 

 

 椿は拳を震わせたり、髪を掻き毟ったり、なぜか悶絶していた。理由に皆目、見当がつかなかったが、慶次が分かるのは一つ。椿の瞳に、再び力が戻った事だ。

 椿は先と違う、凛とした眼光を胸元に落とす。

 

 

「アラストール」

「ふっ、まさか“何も知らない者”に気づかされるとは」

「ええ……ホント、馬鹿みたい」

「カルに心を乱されたとはいえ、気づかぬとは。我もお前も、まだまだ未熟という事か」

「うん」

 

 

 椿は力強く頷くと、視線を慶次に向ける。瞳は黒く冷めており、紅蓮は灯っていない。だが、そこには燃えるような感情が確と込められていた。

 

 

「慶次」

「おう」

「ごめん。私の軽率で右腕を……謝って済む問題じゃないけど、謝らせて」

「生きてただけで儲けものさ。それに、俺もお前を無意味に傷つけた。こちらこそ、すまなかった」

「いい」

「じゃあ、これでお相子だな」

「うん」

 

 

 それだけで、慶次と椿はそっぽを向き、謝罪は切り上げた。こうやって、お互い面と向かって謝るのは、かなり気恥ずかしかったからだ。それに……もう十分、伝わりあっていた。

 これ以上、謝罪の言葉は必要ない。今必要なのは、前に進む勇気である。

 再び、二人は真正面から視線を交わす。

 

 

「慶次」

「おう」

「私は『フレイムヘイズの使命を完遂させる』……ただし、私なりのやり方で。もちろん、『弐得の巻き手』のやり方は認めない。計画の障害と成り得る慶次と『宝具』は絶対に渡さない」

「……」

「だから――」

 

 

 椿は笑顔で右腕を差し出すと、躊躇う事無く言った。

 

 

「もう一度、私と一緒に戦って」

 

 

 慶次も笑って頷いた。

 

 

 

 

「――ところで、その右腕は何だ?」

「っ!? あ、ごめん、えっと、これはその、つい――って、ニヤニヤすんな馬鹿!!」




前田慶次(1日ぶり2度目の瀕死)



何やら幼馴染をガン無視して二人で盛り上がってますが、全然物語が進んでいません。

一体、いつになったら謎解きが始まるのか……。


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第ⅩⅤ話 無双

※本話には顔文字が出現します

8/19追記:後半部分の説明文、一部追加。


 “天壌の劫火”アラストールの『フレイムヘイズ』に選ばれた少女は、何度も何度も失敗を重ねてきた。酷く挫かれる度、より強くなってきた。それは少女が元来備えていた性質に起因するが、直接手は貸さずとも、常に彼女の理解者が傍にいてくれた事も大きく関係していた。その中の一人に、アラストールは当然入っていた。

 しかし、此度の惨劇の原因の一端を、そのアラストールが負っていた。それだけではない。彼女の理解者、その全員が……深く深く、惨劇に関わっていた。

 もちろん、彼らは失敗しないとまでは思っていない。だが、不幸にも少女は致命的なミスを犯し、巻き起きた惨劇も少女の想像を遥かに超えていた。

 崩れ落ちる街、そこかしこから上がる悲鳴。そして……血塗れの慶次。

 自身の失態とアラストールたちの罪、フレイムヘイズの使命が一斉に圧し掛かった。それは少女が一人で背負うにはあまりに重すぎた。

 使命、感情、信念……それら全てが少女を雁字搦めにし、気づけば足を止めた。

 アラストールは何も言わなかった。否、言えなかった。原因の一端である彼の言葉は、今回に限ればあまりにも軽すぎた。とてもではないが、少女を導けるほどの力は存在しなかった。

 進む道が見えない。頼りのアラストールは、助言一つ下さない。

 こんな事、初めてで、もう不安で不安で堪らず、どうすればいいのか分からなかった。

 

 

「慶次」

「…………!」

 

 

 それを晴らしたのが、慶次だった。

 弱いくせに、

 苦しいくせに、

 今すぐでも逃げたいくせに、

 決して逃げ出さず、真正面から椿()を受け止めてくれた。

 そして、一番欲しかった言葉を掛けてくれた。

 

 

「慶」

「……! ……!」

 

 

 後に残ったのは、新たなる覚悟と、晴天のような晴れやかな気持ち。

 思えば、彼は最初からそうだった。

 腹が減れば食事を持ってきて、事件に詰まっていたらどこからともなく情報を持ってくる。本人は大したことないくせに、気付けば椿が必要なものを持ってきてくれた。だからだろう、彼といるとすごく居心地が良くて、ついつい甘えてしまい……自分が弱くなるのではないかと、不安になった。

 だが、それが杞憂だと今なら分かる。椿が道を間違えそうになれば、慶次は必ず正してくれる――『嫌な事はするな』と伝えてくれた、今の様に。

 もう、人間だからとか関係ない。

 慶次なら。慶次だから……一緒に戦いたい。

 だから――。

 

 

「け」

「……!」

 

 

 …………さっきから、慶次と話そうとする度に目の前をチョロチョロするこの女を、ぶん殴っても構わないだろう。

 

 

「……ちょっとの間、動けなくしてあげるわね」

「ホントすまないけど、堪えて下さい椿さん!!」

 

 

 

 

 慶次と椿が再び手を取り合った後、慶次は現状の説明――特に慶次の心臓が止まってから――を求めた。椿は順を追って、病室に来るまでの過程、そして堂森市の状況を説明した。

 慶次の心臓が止まった後、椿は心肺蘇生を行った。『宝具』の力か、はたまた対処が早かったためか、ほどなくして慶次の心臓は動き出した。とはいえ、片腕の喪失、全身大小の骨折、裂傷、内臓破裂等々、聞くだけで意識の遠のきそうな瀕死状態。心肺蘇生が成功し、『宝具』を持っているとしても油断できる状況ではなかった。

 椿は急ぎ慶次を病院に担ぎこみ、手術と点滴でその場を凌ごうとした。その時、慶次の次に重傷だった美代もついでに病院に連れ込んだとの事だ。

 手術を行うまでに、生きている事を疑われたり、霊安室に運ばれそうになったりと、それなりに波乱万丈だったらしいが、椿のフレイムヘイズパワーや、美代の七光りパワーで脅しすかして、どうにか危機は脱したとの事だった。

 

 

(色々あったけど、とにかく二人には感謝感謝、だな)

 

 

 現状、右腕を失ったせいか、若干バランスは取りにくいものの、動けるまでに回復している。このまま順調に進めば、明日までには全快するだろう。

 それよりも問題なのは、堂森市だった。

 “燐子”に傷つけられた街は、当然ながら混乱に陥った。加えて、混乱を収拾しようにも昨晩から積りに積もった雪が妨害し、何一つまともな対処が行えなかった。

 そこに、止めの大地震だ。

 水道管は破裂し、送電線は断線され、交通と通信網は断絶。今や堂森市は都市機能を完全に失い、陸の孤島となっていた。

 

 

(あれで、全部インフラがぶっ飛んだみたいだな。病院と学校のあった新市街地の方は、建物が新しい分、まだマシだろうけど……旧市街地は、もうダメだろうな)

 

 

 慶次が認識していた以上に、状況は悪化の一途を辿っている。しかし、交通と通信が遮断された現状、外部の助けは期待できない。慶次たち堂森市の人間だけで、この困難を乗り越えなければならなかった。

 

 

(まあ、今は街の事よりも、目の前の事だな)

 

 

 はぁ、と慶次がため息を吐く。視線の先には、犬歯を剥きだしに怒る椿とそっぽを向いて慶次にしがみ付く美代だ。

 事情も大体把握した所で、これからどう戦うべきか? と慶次が椿に話しを持ち込んだあたりから、美代が両腕で大きなバツを作りながら、二人の間に不自然に割り込んで妨害してくるようになった。

 一旦、一触即発までいった二人だ。いがみ合って、当然とも言えた。たが、これから先それでは困る。

 

 

「それでこれからの方針は――」

「……、……」

「……人の前をぶんぶん飛んで……! この、蠅女!」

「ま、待て待て。落ち着けって」

「っ、こいつ、慶次を盾にして……!」

 

 

 まあ、最初は「相手は人間だ」と、(珍しく)耐えていた椿であったが、これ幸いと美代が調子に乗って延々と続けるものだから、椿もそろそろキレそうだ。

 慶次は宥めるが、美代が冷笑を浮かべて慶次に背中にくっ付いて盾にしているのが気に喰わないのか、椿の目尻がどんどん吊り上っていく。

 ともかく、このままでは埒が明かない。それどころか、椿の怒りの矛先が慶次に向かってきてもおかしくない。

 

 

「か、紙とか筆記用具はないのか?」

「あ?」

「っ!? そ、そうだよな、持ってたら使ってるよな」

 

 

 せめて二人が意思疎通できれば椿に尋ねるが、けんもほろろな回答が返ってくる。他に方法がないか訊きたかったが、そもそもそんな方法があればすでにやっているだろうと思い直す。決して、椿が怖かった訳ではない。

 手話、読唇術など、他に何か方法はないか考えるが、そもそも日本語以外話せない慶次にそんな高等技術は持ち合わせていない。

 もう諦めて紙をじっくり探そうとすると、肩をツンツンと美代が突き、どこから拾ってきたのかスケッチブックと黒色のマジックを差し出した。

こんなのも持ってないの? といった感じで美代が口角を上げながら椿を見る。

 

 

「こいつ……!」

「待て待て! 暴力はダメだ! それと美代! そういう煽っていくスタイルは自重してくれ! 俺の胃に悪い!」

 

 

はーい、と唇だけで答える美代。本当に分かったのか一抹の不安を覚えながら、慶次の目の前で美代は文字を書いていく。

 

 

「無駄に上手いわね……」

「相変わらずだな……」

 

 慶次と椿が美代の達筆な文字にやや呆れ気味感心している間に書き上げる。

そこに書き上げられた文字は、

 

 

『一緒に戦う( ゚Д゚)<ハァ?』

『そんなあなた達の稚拙な想いを打ち砕いてあげます。とっととかかって来いよ( ´Д`)y━・~~』

「……へー」

「……ほほう」

 

 

 まさかまさかの挑発に、慶次と椿が揃って額に青筋を立てる。

 

 

「……もうこいつ無視しない?」

「まあ待て。お前の気持ちもわかるが、美代の事だ。どうせ常識外れの手段で俺を守ろうとする。無視したら、何をするか分からないぞ」

「そう言えば、そうだったわね」

 

 

 思い出されるのは、昨日のソフトボール。あの時もそうだが、美代の行動は全て慶次から危険を遠ざける事に終始している。今回も恐らくそうであろう。

 とはいえ、相手は美代。さっきから変な行動ばかり取っているが、比喩やお世辞ではなく天才だ。放置していたら、何をやらかすか分かったものではない。

 そして何より、椿と一緒に戦うと誓ったばかりなのだ。はいそうですか、とすぐに撤回など出来る訳がない。

 ここは一つ、ガツンと言う必要があるだろう。決して、安い挑発に乗った訳ではない。

 

 

「よし、俺に任せろ」

「……不安しかない」

「す、少しは信用しろよ!」

「はいはい」

 

 

 椿のじと~っとした視線を浴びながら、慶次は美代とベッドの上で向かい合う。なぜか喋る前から美代のペンは走っているが、今は気にしない。

 

 

「いいか美代。確かに無謀な戦いかも知れないが、これは六年前の惨劇も、俺の命も関わっているんだ。こんな事に関わるのは危険かもしれないが、もう俺たちは覚悟を――」

『そういう精神論は良いんで、一つだけ質問に答えて下さい』

「お、俺の決意表明を遮って……! ま、まあいいだろう、俺は大人だ。ドンと来い」

 

 

 慶次が胸を張って待ち構えると、美代は珍しく悩む様に眉根を寄せた。しかししばらくすると、まあいいか、と唇だけ動かして再びペンを走らせる。

 そして、慶次は書きあがった文章を見て、

 

 

『慶次さんって役に立つんですか(?´・ω・`)』

「    」

 

 

 ――絶句した。

 

 

『慶次さんって役に立つんですか(?´・ω・`)』

「    」

 

 

 もう一度、スケッチブックを突きつけられ、慶次が完全に凝固する。

 慶次は片腕もなければ、まともに歩く事もままならない半死半病人だ。当然、戦闘の役には立たない。

 ならば情報収集という点はどうかというと、こちらも役立てそうにない。昨日の捜索で情報はほとんど出し尽くしていたのだ。昨日、美代に情報提供を依頼したのも、すでに情報を持っていないという証左でもある。

 つまり現状、慶次が出来る事は皆無であり、美代の質問の答えは――役立たず(NO)

 もうこれは覚悟とか以前の大問題で、役立たずだと的確に美代に指摘されてしまった。

 

 

「    」

「……!」

 

 

 美代は容赦せず、黙った慶次に追撃を掛ける。

 

 

『慶次さんって、今は何も出来ないですよねヾノ・∀・`)ムリムリ』

『役立たずですよね(*´・∀・)ニヤニヤ』

『出来もしない協力って、それって足手まといじゃないですかヾノ・ω・`)㍉㍉』

『やっぱり役立たずですよねΣ(゚ロ、゚;)<ヤダー』

『それに、次に“化け物”に遭って生き残れる保証もないでしょうd(`・д´・ )<ムリ!』

『やっぱり役立たずですよね(*/∇\*)<バケモノコワイ』

『ですから、二人とも不幸にしかなりません(乂`д´)<アウト!』

『共闘はやめましょうねヽ(*゚д゚)ノ<ロンパー』

「……お、俺だって、食器洗いぐらいは……ぅぅっ」

「ちょっと、子どもみたいに泣かないでよ! それに食器洗いって、他にももっとあるでしょ!」

 

 

 美代に畳み掛けられ、頬に涙が伝う慶次。不安な的中した、とがっかりしながら椿が間に割って入る。

 

 

「全く……何が任せろよ。十秒で論破されてるじゃない」

「返す言葉もございません」

「まあ、期待してなかったからいいけど」

「!?」

「こいつ放っておいたら何するか分かんないし……はぁ、私が説得するしかない、か」

 

 

 それに私も約束を取り消したくないから、とまでは言わない。

 椿はため息を吐くと、慶次を押しのけベッドに座り美代と向かい合う。慶次はいじけて、ベッドの端っこに丸まった。

 椿は慶次をゴミを見るような目で一瞥してから、闘志を滾らせた椿と、無表情の美代が先の議論を引き継ぐ。

 

 

「慶次が役に立つかどうかは、正直()()()()()わ」

『分からないような人に、協力を仰ぐのは危険です。すぐに撤回しましょう』

 

 

 対して、美代も今回は顔文字もなく、文字も美術的な崩しがない。こちらも本気、という事だろう。慶次の時とは大違いだった。

 

 

「なら訂正する。()()()()()()

『同じじゃないですか』

「全然違うわよ」

『では、どう違うのか説明を』

 

 

 椿の語気が荒く、美代の筆跡が荒々しくなる。二人が段々と議論にのめり込んでいく。

 

 

「一応訊くけど、慶次のような凡人が“燐子”を一匹でも倒せるって予想できた?」

『こんな凡庸でヘタレな男が、“化け物”倒せるなんて思う訳ないじゃないですか』

「私もこんな馬鹿で変態な生き物が、“燐子”倒せるなんて少しも思ってなかったわ」

『同じく』

「……あの、慶次くんってすごく繊細なんで、あまり虐めないでくれませんか?」

 

 

 ガンガンと言葉の流れ弾が飛んできたので、一応抗議してみる。

 

 

「事実よ」

『真実はいつも一つm9(^Д^)<プギャー』

「…………」

 

 

 だが、二人してこれだ。彼女たちがいつもの調子に戻った、と喜ぶべきなのだろうが、これではあんまりである。

 ともかく、ここにいても傷だらけになるだけ。慶次はこっそりベッドから下りて、部屋の隅で『の』を書く作業を始め、現実逃避する事にした。

 その間も、二人の議論は白熱する。

 

 

「話を戻すけど、慶次には私たちも想像できない“予想外の力”があるの。意外性、と言ってもいいわ」

『慶次さんのカッコいいところですね。でも、それは私だけが知っていればいい事ですので、そのうち忘れて下さい』

「ええ……えっ」

 

 

 あまりに自然に書いていたせいか、椿は一瞬頷きかけていた。不自然な内容、のはずなだが、美代は何事もなかったかのように続きを書き始める。

 ここで話の腰を折るのも何となく憚られたのか、椿は首を傾げながら再び議論に戻る。

 

 

『ですが、意外性だけで無茶をさせるのは、軽率ではありませんか。慶次さんの命は、そこまで軽くありません』

「私も普通だったらそんな事させないわよ」

『つまり、慶次さんの“計算できない力”に頼らざるを得ないほど、状況は悪いという事ですか?』

「……悔しいけど、今は敵の目的が分からない。抜本的な解決策がない。だからこそ、敵も私たちでさえも予想できない慶次が、必要だと思う」

『意外性があるとはいえ、慶次さんはやはり凡人です。荷が重すぎませんか?』

「もちろん、慶次に全部を任せはしないわ。万が一、億が一の一手として、無茶にならない範囲で働かせる」

『  』

 

 

 ここで美代のペンが止まり、椿も一旦言葉を切る。慶次も『の』の字を書く作業をやめる。

 何となしに、慶次と椿の視線が交錯し、ため息が漏れた。

 慶次と椿の共闘。慶次もある程度了承しているとはいえ、改めて事細かに言葉にすると滅茶苦茶だった。

 慶次は過去、現在、未来……その全てがカルと関わっているからこそ、逃げ出すわけにはいかない。

 椿も己が不足から、無闇に惨劇を広げてしまった。しかも、敵の計画は壮大で、その一端さえも見えていない。慶次の力が例え小さくても、今は縋らなければ計画は防げない。

 いっそ清々しいと思えるほど、好材料が一つもない、消極的な共闘だった。

 

 

(これ以上惨劇を広げないためには、俺たちが協力するしかない……美代、お前はそれでも俺に戦うなと言うのか?)

 

 

 この状況で、天才と言われた美代が指し示す答えとは。じっ、と慶次と椿が美代に注視する。

 美代は俯くと、再びペンを高速で走らせ始めた。

 そして、二人は気付く。

 彼女の口の端が、上がっている事に。

 

 

『ツバキさん、先ほど慶次さんは“計画の障害と成り得る”と仰いましたよね?』

『それなのに戦わせるのは、軽率を超えて愚かではありませんか?』

「そもそも、慶次が計画の障害になる理由が分からないのよ。確証がない事由で、慶次を遊ばせておく余裕はないの」

『敵は二回も慶次さんの命を狙っているのを、お忘れでしょうか?』

「命を狙われているからこそ、戦うべきでしょ」

『いいえ、現在、見逃している所から判断すると、慶次さんは敵からしたら“大した障害ではない”と評価されていると考えるのが妥当です』

『しかし、機があれば殺しに掛かっています。おそらく、計画の障害になるのは事実なのではないのでしょうか』

「……確かに、それなら『弐得の巻き手』の不可解な行動も、一応筋は通るわね」

 

 

 理路整然とした推測に椿が頷く。一度見聞きしただけで、ここまで推察できるとは、椿も慶次も改めて美代の頭脳に驚嘆する。

 だが美代が、女の子が浮かべちゃいけない口の歪め方をしたのだ。おそらく今はまだ序論。

 椿もそれが分かっているのか、決して美代を遮る事無く、続きを待つ。

 

 

『以上の点をもちまして』

『①慶次さんが敵の計画を阻む可能性』

『②慶次さんの計算できない力』

『敵からすれば、①の方が嫌がられると思うのですが、それでもツバキさんは②に賭けるのでしょうか?』

「それは出来れば①がいいけど――」

『私にいい作戦があります』

「作戦……?」

 

 

 美代が目を輝かせて椿を遮る。彼女の様子から、その作戦とやらに承諾させるために、わざわざ議論に持ち込んだのだろう。

 一体どんな作戦なのか、椿と慶次は期待半分、あと半分は共闘撤回は恥ずかしいので大した作戦じゃない様に、という情けない祈りで、作戦発表を待つ。

 そして、美代はウキウキしながらスケッチブックを二人に見えるように掲げる。

 

 

『愛の逃避行作戦』

「……」

「……」

 

 

 慶次と椿の目が合う。どういう意味? いやいや、お前が話を聞いてみろよ、と目だけで語り合う。結局、二人とも目で会話しただけなので、部屋には嫌な沈黙が流れた。

 空気に耐えきれなくなった美代は、作戦名の書かれたページを破り捨て、音のない咳払いをした。

 

 

『皆さんの緊張も解けたようですし、作戦の詳細を説明しましょう』

「……慶次。結局、さっきのはどういう――」

「いいから聞き流せ! そ、それで作戦ってのは何だ?」

「~~~~」

 

 

 美代は首筋まで真っ赤にして俯く。恥ずかしがりながらも、否、恥ずかしかったからこそ素早く続きを書き始めた。

 

 

『慶次さんに堂森市外部から援助の要請をさせます』

「外部? ……って、俺に逃げろって事か!?」

「っ! あんた、それをどこで――!」

 

 

 慶次がその提言に噛み付こうとすると、椿が珍しく慌てた感じで美代に詰め寄った。

 美代はまだちょっと赤い耳で冷静に書き返す。

 

 

『現代社会で情報は命です。あなた方にも当然、情報を取り扱うための互助会のようなものが存在するのではないのですか?』

「確かに、外界宿(アウトロー)っていう組織はあるけど、あんたがどうして知ってるのよ!? 本当に何者なの!?」

「そこも流せ。一々考え出したら、心が持たなくなるぞ」

「…………」

 

 

 美代のほとんど推測の提言が的中しており、相変わらずの明晰な頭脳に慶次は呆れを含んだ注意を椿に告げる。

 慶次の言葉が不服だったのか、美代はやや唇を尖らせて説明を続ける。

 

 

『慶次さんが計画の障害になり得る。まずは、これが不可解だという事をしっかり理解して下さい』

「……?」

 

 

 何が不可解か分からない慶次に、椿が長いため息を吐く。

 

 

「考えてみて。“燐子”を何十匹も抱える『弐得の巻き手』は、私じゃなくてあんたを“計画の障害になり得る”って言ったのよ? “燐子”を一撃で倒せる私じゃなくて、一匹倒すだけで命がけなあんたを」

「……マジ、意味わかんないんですけど」

「うん、私もそう。でも、そっか……だったら、慶次は外部に行かせた方が――」

「椿?」

「っ、何でもない。続きお願い」

 

 

 一時、思慮に耽った椿は、何やら納得顔で続きを促す。

 慶次はとんと思い当たるものがないが、それも美代の説明を最後まで聞けば分かる、と判断して再びスケッチブックに目を向けた。

 

 

『これが異常に不可解だと理解できたところで質問です。果たして、敵を倒しただけで“計画”は崩れるのでしょうか?』

「その程度で崩れる計画なら、真っ先に私を狙っているわね」

『その通りです。だからこそ、今、一番大切なのは、敵を倒す事ではなく惨劇を止める事』

『そして、惨劇の根源が敵の言う“計画”であるのならば、計画の阻止を第一目的に動かなければなりなりません』

『となると、私たちが優先して行わなければならないのは、計画の調査でしょう』

『しかし、私たち三名では明らかに人材不足。でも、足りないと分かっているならば、足せばいい』

「だから慶次は、活躍できるか分からない戦闘じゃなくて、確実に遂行できるメッセンジャーとして使え、と」

 

 

 美代はコクリと力強く頷く。

 

 

『調査が終わった時には、慶次さんは計画の障害に“なり得る”から、本物の障害に“成る”』

「その間、私は計画が露呈するまで足止めをする、と」

『不服でしょうか?』

「ううん、感心してるのよ。どうせ私は集団戦に向いてないから、戦いに専念できるのは願ったり叶ったりよ。それに、有り得ないけど、仮に負けたとしても慶次はすでに堂森市の外って事でしょ? 私がしくじっても、慶次という切り札は外界宿(アウトロー)に確実に渡る。悪くないんじゃない?」

 

 

 そこまで言うと、椿は黒寂びた瞳に強い炎を宿して好戦的に笑う。

 正直、慶次は堂森市の外部に行く、という点にやや後ろめたいものを感じる。が、美代の言う事は理路整然としており、反論の個所が見当たらないし、何より椿がかなりの乗り気だ。

 

 

「おい、椿。この作戦に乗るのか? まあ俺は……あまり乗り気じゃなけど、他に何も思いつかねえ」

「そうね……それじゃあ、幾つか質問」

 

 

 椿は声に期待を乗せ、美代に尋ねる。

 

 

「まず、この積雪と地震で交通網が遮断された堂森市から、どうやって脱出するの?」

『私の家に登山道具がありますし、何よりそのバットがあります。私のナビゲートを加えれば、確実に堂森市からの脱出できるでしょう』

「“燐子”対策は?」

『化け物に襲われた終わりです。ここは事前に外部への連絡隊を結成して、撹乱させておきましょう。新発田家と前田家の名前を使えば楽勝です。あと、私と慶次さんが出立するのは、私たち以外には秘密にしたらどうでしょうか?』

「囮じゃねぇか!?」

「ふうん」

「ふうん、って、お前……」

 

 

 あからさまに外道な提案に慶次は突っ込むが、椿は対照的に楽しそうな声を上げる。作戦に対する評価だけではなく、そこには純粋に美代という人への称賛も含まれていた。慶次が命を懸けてようやく得たものを、こうも簡単に得る……ここまでされると、嫉妬よりも先に感心してしまう。

 ここで椿は、今ではすっかり普通のペンダントっぽくなったアラストールに視線を向ける。

 

 

「アラストール、どう思う?」

「適材適所、上手く配置された作戦だ。我に異論はない」

 

 

 椿はアラストールから簡単に承諾を得ると、不敵な笑みを浮かべ、

 

 

「分かった。その作戦、乗ったげる」

「……ま、そうなるよな。んじゃ、俺も腹括って、お前に賭けるか」

「――っ!」

 

 

 美代の、おそらく短時間に練り上げたであろう作戦に、全員が承諾した。美代は思わず右拳を強く握って、小さくガッツポーズを取る。

 慶次は彼女の可愛らしい姿に頬を緩めていると、ベッドから飛び降りた椿が真っすぐ慶次へと向かっていった。

 

 

「ほら、ぐずぐずしないで。そうと決まったら、早速準備よ」

「了解了解……と、その前に、少しいいか?」

「何?」

 

 

 慶次を促す椿。素早い準備の大切さは分かるが、慶次はその前にどうしても言いたい事があった。

 

 

「お前も論破された」

「っ!?」

 

 

 椿がそれを今掘り返す!? と、目を丸めて慶次を見る。

 だが、慶次はそんなの構わない。根が小心者だからこそ、仕返しできるうちに仕返しする。

 

 

「説得する? 説得されてんじゃん。というか、一緒に戦うのはどうしたのさ?」

「う、うるさいうるさいうるさい! これは説得されたとかじゃなくて、効果的な作戦に変更しただけで、あんたみたいなボロクソに叩きのめされたのとは違うの!!」

「へへへ。ナカーマ」

「あ、あんたと一緒にしないで!」

「ナカーマ」

「――こ、の! ニヤニヤすんな!!」

「いっ!?」

 

 

 椿が慶次の減らず口とイヤラシイ笑顔を止めるために、両の頬を思いっきり引っ張る。ある程度、手加減されているとはいえ、フレイムヘイズの怪力は強い。滅茶苦茶痛い。

 だが、慶次にも意味不明な意地がある。なぜか引きはがすなどの抵抗は全くせず、体操座りをしながら『仲間』と。それだけを言う。

 ちなみに、美代は超高速筆談が祟ったのか、現在、ガッツポーズが留めになって右腕が攣っている真っ最中でそれどころではない。

 

 

「ニャ、ニャ……ガマ……」

「何でこういう時だけ頑張るのよ……!?」

 

 

 病室の隅で体操座りをする男子高校生。

 その男子高校生の両頬を引っ張る外見小学生。

 そして、右腕を抱えて静かにベッドで悶絶する美少女。

 重い空気を吹き飛ばし、確かな一歩を踏み出そうとしていた若人たちが、いつの間にかおかしな事になっていた。

 これを見て、アラストールが一言。

 

 

「どうしてこうなった」

 

 

 ――アラストールの呟きは、来訪者による小さなノックで掻き消された。




無双(無双するとは言っていない)



アラストールに酷い仕打ちをしていると思ったあなたへ。
プロットの段階では、もっと酷かったです!
さらに言えば、今話に限れば全員もっと酷かったです!(おい
ですので、どうか寛容な気持ちで、ここは一つよろしくお願、。・゚・(Д゚(○=(゚ω゚=)


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第ⅩⅥ話 急転

 病室に入ってきたのは、トレードマークの黒縁メガネはないが、慶次のクラスメートの奥村福子だった。傷が浅かったのだろうか、慶次と美代を比較すれば、身体の包帯は明らかに少なかった。しかし、満足に動く事はできないのだろう。福子は車椅子に座っていた。

 そんな彼女が、病室を見渡す。

 隅っこには、なぜか体操座りの慶次(隻碗)と、その頬を引っ張る外見小学生の女の子。そして、ベッドで悶絶する親友の美少女。

 

 

「え? あんたら何やってんの? ――えっ!? あんたら本当に何やってんの!?」

 

 

 思わず二回突っ込んでから、項垂れる福子。彼女からすれば、傷ついた友人を見舞う、いや、もしかしたら最悪の事態が広がっているかもしれない――そういう悲壮な覚悟で来たのに……このカオス。身体が健康だったら、ドロップキックの二、三発叩きこんでいる所である。

 

 

「あーも~……あんたが生きてるって聞いて、頑張って見舞いに来たのに、何なのよも~! もう、私が悪かった! あんたたちを、一般人と同類に扱った私が悪かった! ……あと、あんたたちが無事で、本当に良かった……!」

 

 

 本気でガックリしながらも、友人たちの無事にホッと胸を撫で下ろす福子。その友人を想う姿に、慶次たちは「マジで何やってんだろ、()たち」と恥ずかしくなり、慌てて動く。

 慶次と美代がベッドの上に座り、椿はベッドの傍らに立つ。福子は彼らの対面に車椅子を移動させる。

 これで病室に元通りだ――否、そもそもカオスなんてなかった! 全員がそういう認識で慶次が福子に話しかける。

 

 

「無事……とは言い切れないけど、俺は大丈夫だ。そっちはどうなんだ?」

「あ、普通に流すの。いいけど……で、こっちは見ての通り。歩くのが痛くて痛くて、こうして車椅子借りてんの。まあ、あんたからすれば、ただのかすり傷ってところね」

「なあ、もう歩けない、なんてことは――」

「心配性ねー。そんな事ないから安心して。というか、私からしたら、あんたの方が百倍心配っつーの」

「ですよねー」

「それで、新発田さんは大丈夫なの?」

 

 

 福子が美代の様態を尋ねる。今の美代は声が出ない。当然、答えることが出来ず、代わりに喉の前で小さくバツ印を指で作った。

 福子が息を呑む。異常な動揺が慶次にまで伝わってきた。これは間違いなく、勘違いしているだろう。美代は右腕が攣って文字が書けないし、椿は説明する気ゼロだ。

 ここは慶次が美代の様態を代弁する。

 

 

「え、その……え……」

「待て待て。何か嫌な想像したかもしれないが、半分不正解だ」

「えっと、どういう事?」

「声が出ないのは確かだが、肉体的なものじゃなくて精神的なものだ。いつかは絶対治る」

「あーもー、ビックリした! もう二度と声が出ないって思ったじゃない」

「…………」

 

 

 美代が頭を下げて、言葉足らずを謝る。福子はいいのいいの、と手を振って、素直に治る見込みがある事を喜んだ。

 惨劇の中、壊れていく人々と街。その中に残された友人という僅かな日常存在が、慶次の心を何よりも落ち着かせてくれた。

 

 

「それで……状況は、どうなんだ……?」

「…………」

 

 

 慶次はそれとなく、他のクラスメートに水を向ける。

 壊れてしまったものもある。だが、こうして変わらず残っているものもある。まだ残っているものを守るためにも、現状と向かい合わなければならない。

 福子は悔しそうに唇を噛みしめてから、ポツポツと語り始めた。

 

 

「……佐久間の奴ね、あんたがやられるの見せられたくせに、危ないから逃げろって言われたくせに、結局、笹さんを庇ったの。先生も、あんたが助けられないなら、一人でも多くの生徒を助けようとして……最後は自分が逃げ遅れて、一発、よ」

「奥村」

「笹さん、佐久間に向かってね、やめてって。ずっとやめて、自分を庇って傷つかないでって言ってるの。それなのに、あの馬鹿やめなくて……気づいてた時には、笹さん、嗤ってた。壊れるって言って、嗤ってた。佐久間の奴、傷ついて欲しくなくて庇ったのに。笹さん、壊れたの……あいつ、頑張ったのに理不尽よね」

「奥村……!」

「みんなも似たようなもの。身体が傷ついているか、心が傷ついているか……もしくは、その両方。このまま、みんなどう――」

「奥村!!」

「――えっ」

 

 

 語れば語るほど、福子の目から涙が流れ落ちていた。これ以上は語らせてはいけない。慶次が福子を遮り、美代は彼女の傍に立つとその頭を胸に抱いた。

 福子は抵抗しなかった。代わりに、何か言おうとするがそれも言葉にならず、すぐに顔はくしゃくしゃに崩れ、嗚咽が彼女の口から洩れるようになった。

 慶次は自分の迂闊さが、また嫌になった。

 慶次の様に武器もなければ、心強い味方もいない。傷ついていないはずがないのに、僅かな日常が心を緩ませ、酷い事を訊いてしまった。本当に、浅はかな自分が嫌になる。

 

 

「悪い。辛い事、言わせて。俺と違って全部見てるのに、大丈夫な訳ないよな。気づかなくてごめん」

「違、私、大丈……っ、だって、みんな、頑張って、私、何もしてなくて……だから、大丈夫じゃないと」

 

 

 福子が嗚咽交じりに、胸の内を吐露する。

 自分は何もしなかった。何も出来なかった。他の人は頑張ってるのに。だから、今は、頑張らなかった自分が、傷ついている暇はない。何もしなかった自分が、大丈夫じゃない訳がないと。

 

 

「なのに、私、何も出来なくて……っ、だから、二人に、何か出来ないかと、っ……でも、二人とも、もう大丈夫で」

「そんな事ないから、もう自分を責めるな。俺も美代も、お前にまた会えて、本当に嬉しいんだから」

「っ、ぅぅ……!」

 

 

 慶次は優しい言葉を福子に語りかけた。美代は静かに福子の髪を撫でた。苦しそうだから、辛そうだから優しくする。ともすれば、残酷にしかならない優しさを振りまく。それが今の二人に出来る精一杯だった。

 

 

「……これが、計画とでも言うの……っ」

 

 

 椿はそれだけ言うと、何かに耐えるように真一文字に口を切り結び、静かに瞳を閉じた

 押し殺した嗚咽が、嫌に大きく部屋に響く。

 時間にして十数分程度だろうか。

 美代は福子の頭を優しく撫でて、慶次は大丈夫だと呼びかける。それが功を奏したのか、嗚咽はいつの間にか収まり、目を真っ赤に腫らした福子は、車椅子に座ったまま頭を抱えていた。

 

 

「見舞いに来て慰められるとか、馬鹿か私……!!」

 

 

 こんな時だからこそ、傷が浅い自分が友人たちの一助にならなくては。

 純粋な友情で慶次たちを見舞い、よしんば力になろうとしたはずが、心の奥底に溜まった不安と絶望をを言い当てられた。それだけでなく、鬱屈したものを解放してくれた。

 ――助けるつもりが、助けられていた。

 これほど恥ずかしいものもないと、福子は頭を掻き毟って悶絶していた。

 これを見て、慶次と美代が微笑む。

 

 

「いつもの調子に戻ったみたいだな」

『いつもの福子さんに戻って一安心です』

「ぅあっ! あんたら、その微妙に被った内容を同時に話すんじゃないわよ!! 『俺たち、通じ合ってるぜ』みたいなの、鳥肌立つんだから! って、新発田さん、何時まで撫でてんのよ!?」

「調子、戻り過ぎたか……っと、それよりも」

「それよりもじゃない!」

 

 

 慶次は平静を失った美代と被害者の福子を無視して、話を進める。

 

 

「他に何か報告はないか? ……できれば、良い報告がいいんだが」

「他に? これ以上は特には――」

 

 

 福子が何かを思い出したのか、言葉の途中で止まる。

 良い報告か、悪い報告か……いや、この状況で良い報告はないだろう、と半ば諦観の気持ちで待つ。

 福子は幸運とは言えないけど、と前置きしてから、

 

 

「誰かが亡くなったって話、一つも耳にしてないわね」

「……これから出てくる可能性は?」

「ない訳じゃないけど、ま、一番被害の大きかった学校と、病院内で話しが出てこないんだから、これからも出てこないでしょうよ」

「マジか?」

「マジよマジ。まさに不幸中の幸いってやつかしら――」

「それ本当?」

 

 

 得意気にペラペラと話す福子。それを遮ったのは、椿であった。

 慶次と美代も、このタイミングで椿が割って入ると思っておらず面食らう。当然、椿にそんな彼らを気遣うなどあるはずもなく、ずかずかと福子に訊く。

 

 

「本当に誰も死んでないの? 聞き間違いとか、勘違いじゃなく?」

「……さっきから訊こうかと思ってたんだけど……誰、このチビッ子」

「……誰がチビですって……?」

「えっと! この人、俺の命の恩人なんだ! だから、質問に答えて貰えると、俺も非常に嬉しい!」

 

 

 椿を必死に宥めながら福子に弁解するも、『本当に?』と疑いの眼差しを向けてくる。それでも、慶次の顔を立てたのか、福子は彼に従い説明する。

 

 

「ほら、昨日からあれだけ雪が降ってたでしょ? どうも、事前に災害に対して準備していたから、インフラがぶっ飛んでも適切に対処できたみたいよ。ま、一番の理由は派手に暴れた割に、怪我が浅かった人が多かったみたいだけど」

「……」

「何? まだ疑うの?」

「いい。分かった」

「……ふん」

 

 

 椿はそれだけ言うと、再び顎に手をやって思考に耽る。福子の表情もあからさまに不機嫌になる。

 椿の事だ、まだ憶測でモノを喋りたくないから、返答がぶっきらぼうになったのだろうが、福子からすれば訊くだけ訊いて後は放置されただけだ。何で無愛想を通り越して、相手を苛立たせようとしているしか思えない。もう少し気遣いを……と慶次は思うが、それを椿に期待するのは無理というものだ。

 美代は美代でやはり思考に耽っている。

 結局、慶次が間を取り持つ事になるが、

 

 

「へ、へー。確かに、それは不幸中の幸いってやつだな。みんな俺みたいになってたら、やば……かった……!?」

「? 前田、どうしたの? 確かに、みんなあんたみたいに……!?」

 

 

 その言葉の中途で二人は、なぜ椿がああも福子を疑ったのか思い至る。

 

 

「な、何でだよ……! 何で、あいつら、俺を、人なんて何時でも殺せる力を持ってるのに、死人が出てないんだよ……!」

「わ、私に訊かないでよ……! 私だって、どうしてそんな――!」

 

 

 全身に飛び散った夥しい充血した眼。限界まで裂けた、頭部と腹部の双口。地面を穿つ爪に、全てを焼き尽くす破壊の炎。

 化け物――“燐子”――は力が……否、そもそも“存在自体”が人間を凌駕しているのだ。そんな奴らにとって、人を殺すなど造作もない事なのだ。なのに、誰も死んでいない……そこに何かしらの思惑があるのは、明白だった。

 しかし、ならば慶次を除いた人間をわざわざ生かした理由は一体、何なのか。全く見当がつかない。

 慶次と福子が言葉を失っていると、利き腕が回復した美代がスケッチブックに書きなぐる。

 

 

『ここでいくら考えても答えは出ません。慶次さんと私も動けるようになりましたし、私の家に向かいませんか?』

「……それもそうだな」

 

 

 計画を遂行するには登山道具が不可欠で、それは今のところ新発田家しか所在の心当たりがない。早かれ遅かれ行かなければならないなら、早く済ませるべきだろう。

 加えてここは病院、しかも個室だ。慶次が重傷だった数時間前ならともかく、今は動けるまで回復している。正直、一室占領しているのは心苦しい。

 念のため、慶次は椿に視線を送ると、頷き返される。

 

 

「それじゃ、行くか」

「えっ、ちょ、マジで行くの!? チビッ子と新発田さんはいいけど、あんたは包帯だけでほぼ全裸の上、重症じゃない!?」

 

 

 慶次が立ち上がろうとしたところ福子に突っ込まれ、彼は自身の身体を見下ろす。腕、肘、肩、胸、腹、脚……確かに全身くまなく包帯に巻かれているだけで、せいぜい衣装はパンツ(ボクサー)ぐらいだ。

 慶次は今になって、“燐子”の炎弾で服がほとんど焼け落ちた事を思い出す。

 

 

「マジでほぼ全裸だ!」

「今気付いたの!?」

「いや、だって寒くないし……」

「あんたは本当にどんな体の構造になっちゃったのよ!?」

 

 

 本気で突っ込む福子に、まさか馬鹿正直に『このバットのおかげだぜ』と言う訳にもいかず、日ごろの行い、とだけ答えておく。

 それはともかく、寒さを感じないのは『宝具』の効果で身体能力が向上しているためだ。有難い事に、ミイラ男になっても異常に寒いとは感じない。きっと外に出でも、『宝具』の効果でほとんど寒いとは感じないだろう。

 猥褻物陳列罪に問われそうだが、肝心の警察も忙しいはずだ。つまり、今の慶次を遮るものは(衣装的な意味でも)ほとんどない。でも、普通に服は欲しい。

 

 

「まあ、服も欲しいし、家帰るわ」

「そうしなさい……じゃなくて!」

「うわっ!」

「っ!?」

 

 

 福子が慶次と美代の腕を掴み、手繰り寄せる。二人は福子の行為の意味が分からず、されるがままになる。

 

 

「な、何を――」

「こんな時に外に出るって、あんたたちは何を考えてるの!!」

「奥、村……」

 

 

 福子が至近距離で、慶次と美代に責めるような視線を向ける。

 思えば、当たり前の事だった。何てことはない。慶次たちが福子を慮ったように、福子も慶次たちを心配していたのだ。

 嬉しかった。こんな時でも、慶次たちを想ってくれる福子が。だが、もう慶次たちの覚悟は決まっていた。もう福子の言葉では、揺らがない。

 慶次たちは、翻らない。しかし、今の吹っ切れた福子では、納得させなければ決して引かないだろう。そして、それは慶次たちにとって、残念ながら避けるべき事だった。

 どう説明し、納得させるか。慶次が悩んでいると、美代が肩を叩いた。私に任せろ、という事だろう。

 

 

「すまん、奥村」

「っ!? ちょっと、まだ話は――」

『話しは私が承ります』

「わ、私を論破するつもりなんでしょ!?」

 

 

 慶次は福子の手を振りほどく。彼女は悲しそうに慶次を見つめたが、決して慶次は揺らぐことなく、椿と話し合う。

 

 

「椿、出発の準備は?」

「私は何時でもいいわ」

「さすが……で、俺の準備は?」

「何で私があんたの……って言いたいところだけど、そういえばあんた、さっきまで気を失っていたわね。ああもう、分かったわよ。『宝具』を入れる袋と、さすがに寒いだろうから『夜笠』を貸すわ。それ以外は、家に着くまで我慢しなさい」

「悪い、助かる」

「別に。それで、あいつだけど……終わったみたいね」

 

 

 話を切り上げ、椿は視線を福子と美代に向ける。そこには、両手で顔を覆った福子と、やりきった表情でため息を吐く美代がいた。何が起きたかは……訊かなくてもいいだろう。

 

 

「……お、奥村……それじゃあ、俺たちは旧市街地に向かうからな?」

「分かりました! 私が浅はかだったって認めるから、早く行ってきなさいよ!」

「そ、その……あんま、落ち込むなよ?」

 

 

 慶次は投げ遣りな福子を慰めながら、『宝具』をケースに入れ、椿から受け取った黒寂びたコートに袖を通す。生地というには頑丈で、防具というには伸縮し、風も冷感も通さない。常識はずれな性能に、慶次は思わず感嘆のため息を漏らす。

 

 

「うおっ。やっぱ、すげーな」

「当たり前でしょ」

「だな……って」 

 

 

 ちょっぴり誇らしげに言う椿は、なぜか慶次を右肩に、美代を左肩に抱える。

 美代は“常識”から、訳が分からないと首を傾げるが、少なからず椿と付き合っている慶次には、何となくこの直情径行な彼女の思考回路が読めてしまった。だが、まだ常人から半歩しか飛び出していない慶次には、彼女の正気を訊かずにはいられない。

 

 

「あの……椿さん? 念のため伺いますが、俺たちをどうしようと?」

「時間が惜しい。跳ぶわよ」

「やっぱりそうだと思ったよ!!」

 

 

 慶次は嫌な予想が当たり半ば自棄に叫び、美代は『冗談でしょ? 冗談なんでしょ!?』とでも言いたそうに、挙動不審に慶次を見る。

 実際、積雪のせいで道は通りにくいし、時間が惜しいのも事実。残念ながら、これは場を和ませるジョークなどではなく、『フレイムヘイズ』の常識に沿った合理的な“決定”であり、慶次たちに拒否権はない。慶次は諦めろ、と静かに首を振った。美代が泣きそうな顔になった。

 

 

「何か異論でもある?」

「怪我しないならオッケー、って、いてぇっ!?」

 

 

 『何でオッケーするの!?』と美代が慶次を殴って抗議するが、それで椿が止まるはずもなく。ずんずんと二人を抱えながら、窓へと向かう。

 美代が慶次の頭を左手で激しく叩きながら、右手を目一杯開いてみせる。察するに、五階だと伝えたいのだろう。

 五階。およそ、二十メートル。きっと、落ちたらすごく痛い……何だか今になって、慶次もやめたくなってきた。

 

 

「椿」

「何?」

「トイレ」

「うるさい」

「はい」

 

 

 慶次の無駄な抵抗も終わり、椿が窓を蹴破る。もう数秒もしない内に、慶次は堂森市の空を舞う。

 慶次は現実逃避に病室を見渡す。福子がドン引きして慶次たちを見ていた。

 

 

「あー……頭が痛い。もう何が何だか分からなくて、あんたたちには付いていけないわ」

「付いてこなくていいさ……そう、付いてこなくていいんだ……」

「な、何か悪いわね。あんたたちにばかり、面倒な事させて」

「いいさ、好きでやってる事だし。つーか、どうせ片腕の俺と声を出せない美代じゃ、ここにいても出来る事ねーし」

「……そう」

「それじゃあ――」

 

 

 ――みんなの事、頼んだ。

 それだけ言うと、椿は窓に足を掛けて跳躍。絶叫する慶次と、目の死んだ美代を抱えて、少女は次々と屋根伝いに跳んでいった。

 

 

「……つくづく非常識な奴らね」

 

 

 言いながら福子は車椅子の向きを変える。

 

 

「それじゃあ、私は私の出来る事をやりましょうか」

 

 

 向かう先は、重傷者が集まる一角。今度こそ、己が為すべき事を遂げるため、福子は前に漕ぎ出す。

 病室には誰もいなくなった。

 

 

 

 

 堂森市の南部、旧市街地の一角に位置する豪奢な建物の一つ。古き日本家屋を趣を残しながら、インターフォンや街灯、監視カメラなど現代的な利便性を取り入れた屋敷。前田家の真隣である、新発田家の玄関先に慶次たち三人にして四人はいた。ただし、今は美代と慶次は恐怖(と寒さ)で絶賛震え中である。

 

 

「し……死ぬかと思った……!」

「っ! っ!」

 

 

 慶次の心からの叫びに、美代もぶんぶんと顔を縦に振る。

 あの屋根伝いに跳び回る度に、上下左右シェイクされる世界と内臓。思い出しただけで、慶次と美代は胃から消化物が込み上げてくる。

 

 

「も、もうお前には、絶対に頼まねぇ……!」

「っ! っ!」

「な、何よ、二人とも……! そんな、大袈裟な――」

「大袈裟じゃないよ!! おかげでちょっと、もらしそうになっちゃったよ!!」

「…………」

 

 

 瞬間、椿の身体が紅蓮の炎に包まれる。

 

 

「て、手前! 清めの炎を使いやがったな!? 冗談に決まってるだろうが……って、美代までジリジリ下がるな!! こんにゃろ……お前ら後でまとめてセクハラしてやる!」

「!?」

「あんた何言って――」

 

 

 椿が近寄る前に、慶次がチャイムを鳴らす。新発田家のインターフォン(カメラ付き)は別電源で動いているため、停電した今でもその機能を失っていない。きっと、椿が何かをすれば全て向こう側に伝わる。無用な騒ぎを見られても、益は一つもなく不利益ばかりだ。

 慶次の小狡い行為に椿が動きを止めていると、インターフォンからがさごそと誰かが立つ気配が伝わってくる。

 

 

「すみません、前田ですけど」

『前田君? 本当に前田君なの!?』

 

 

 呼びかけると、すぐに返答が来た。

 美代から刺々しさを抜いて、感情の起伏を加えたら丁度こうなるのではないか、と思えるほど瓜二つの声。顔は見えないが、美代の母親、依子(よりこ)と慶次は当たりを付ける。

 美代を見れば、母親の無事が確認できたためか、若干目を潤ませていた。慶次は美代に代わり来訪……否、帰宅を告げる。

 

 

「はい、前田です。美代さん、ただいま連れて帰りました」

『――!!』

 

 

 美代の無事をカメラ越し確認したのだろう、途端にインターフォンから伝わっていた気配が遠ざかっていく。数秒もせず玄関が開く。

 飛び出してきたのは、美代によく似た釣り目を真っ赤に腫らした女性。彼女は美代を確認するなり、飛び付く様に抱きしめた。ただし、身長は美代の方が高いため、抱きつくような形だが。

 

 

「もう……本当に、心配、したのよ……っ!」

「……っ!!」

 

 

 アンバランスな母娘。だが、やはり美代は娘なのだろう。声にならない叫びを上げながら、依子に縋りついた。まるで、今まで溜まっていたものを吐き出す様に慶次が目を覚ましてから、一回も流さなかった涙を流す。

 

 

「…………」

「どうしたのよ、変な顔して」

「ん、いや、ちょっとな……」

 

 

 椿に問い詰められ、慶次は言葉を濁す。

 本来なら、再会を喜ぶべきなのだろうが、慶次は素直に喜べなかった。

 開かれた玄関には、無造作に脱ぎ捨てられた、男性物の濡れた革靴があった。新発田家の柵の外には、黒塗りの車も乗り捨てられている。間違いなく、美代の父親も家にいた。

 

 

(夫婦そろって数時間以上、一人娘を放置して、本当に心配してたのか? ……っ、やめやめ! 嫌がらせさせられたからって、つまんない事考えてんじゃねーぞ!)

 

 

 余計な考えを吹き飛ばす様に、慶次は頭を掻き毟る。

 

 

「…………」

 

 

 そんな不審な慶次を椿は怪訝そうな表情で見た後、彼の視線が辿った軌跡――黒塗りの車と、濡れた革靴――を目でなぞった。

 椿はそれ以上、慶次に尋ねなかった。

 

 

 

 

 それから応接間に案内された慶次と椿は、一通り自分たちの身に起きた事を説明した。無論、“化け物”に襲われたという事実だけを説明し、“紅世”に関する事柄は完全に伏せた。もちろん、椿も適当にでっち上げて伝えている。

 

 

「……そんな事に、なってただなんて」

 

 

 石油ストーブの仄かな明るみだけの部屋で、テーブルを挟んでソファに座った依子が、ぽつりと呟く。

 吹っ飛んだインフラも、壊れた家屋も、直す事ができる。美代の声も、時が必ず癒してくれるだろう。しかし、慶次の片腕は何をやっても戻ってこない。

 化け物、地震……彼女も現状を理解していたつもりでいたのだろう。だが、慶次を目の前にして、ようやく事態の深刻さを真の意味で理解したようだった。

 ちなみに美代は今、父・勝美から情報収集をするため書斎にいる。理由は言わずもがな、慶次が彼に一方的に嫌われているからである。

 まあ、それはともかく、今は慶次と美代に分かれて情報収集だ。慶次は怪しまれない範囲で、依子に当時の状況を訊く。

 

 

「おばさんは、ずっと家にいたんですか?」

「ええ。夫から、危ないから絶対に外に出るなって言われてから、ずっと中にいたわ。幸い、化け物は家を襲わなかったし、家も頑丈だったから、地震で倒壊する事もなかったし」

「じゃあ、化け物の話はおじさんから?」

「それと少しでも、情報を集めたかったから外を覗いていた時に見たわ。夫が絶対に出るなって意味が、その時、ようやく分かったわ……っ、でも、あなたたちに比べたら、私なんて……」

「おばさん……みんな生きてる、それでいいじゃないですか」

「……あなたは強いわね」

 

 

 お茶入れてくるわね、と依子が部屋を出て行く。

 

 

「へぇ。あんた、腹芸できたんだ? ……すごい下手だけど」

「う、うっせぇ」

 

 

 扉が閉まるのを確認するなり、椿が面白いものを見たとでも言いたそうに、愉快そうに笑う。

 椿の言いたい事は分かる。友人たちと同じ、いやそれ以上に社交的に依子と接していた。腹の底では信用していないと思っているにも関わらず、である。

 だが、椿にはそれがあからさま過ぎて、明け透けて見えていたらしい。いかにも小馬鹿にする様子に、慶次も大人しく認める気になれなくなる。

 

 

「出来ない腹芸は、するものじゃないわよ」

「腹芸なんかじゃないですよー。慶次さんの社交性だよー。つーか、お前さっきから黙って、コミュニケーション能力がなさ過ぎ――」

「…………」

「って事はないかなー」

 

 

 間近から睨みつけられ、慶次はすぐさま前言を撤回する。ただただ情けない男の姿に、椿はため息だけで答える。

 

 

「……」

「……」

 

 

 何となく、それで会話が途切れる。事件の相談をするには情報の不足は拭えず、下らない日常会話を続けるには、なんというか空気が重い。だが、嫌な沈黙じゃなかった。

 二人して何も喋らず、他人の家にも関わらず、ソファに寄りかかって寛ぐ。今日一日、色々あり過ぎてこうやってゆっくりする時間もなかったのだと、今になって気づかされる。

 ――できれば、この沈黙をもう少し。

 

「――! ――!!」

「……何かあったのか?」

 

 

 慶次のそんなささやかな願いは、突如として騒がしくなった廊下に打ち破られる。

 

 

「『フレイムヘイズ』の気配はしないわね」

「まあ、何にせよ警戒は必要だな……全く、ゆっくりする暇もないものかね」

 

 

 愚痴りながらも、慶次はケースから『宝具』を取り出す――それとほぼ同時に、応接間の扉が開く。

 

 

「前田慶次!!」

「っ!?」

 

 

 慶次の目が驚きに開かれる。

 それは怨嗟を込めた声で呼ばれた事でも、美代に大きく受け継がれた端正な人相が、疲労のせいなのか禍々しく変貌した事でもない。

 美代の父・勝美の手に持たれた筒状の銃身……猟銃が慶次を真っ直ぐ捉えていた事だ。

 

 

「待――」

 

 

 ――身体能力が上がっていた慶次でも反応できないほどの即決即断で、勝美は引き金を引いた。




話数を原作っぽく変更。
話数が30を超えたら? そこも原作っぽく気にしない方針で!


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第ⅩⅦ話 前進

前回のあらすじ:新発田さん家に来たら撃たれた


 耳を劈く銃声。その瞬間、黒色だった長髪を紅蓮に灯した小さな、しかし力強い背中が、慶次の視界を埋めた。

 コンッ、とくぐもった音が、小さく部屋に響き、椿の足元に無数の銃弾が転がる。何という事はない、椿はその身一つで全ての銃弾を受け止めていた。

 

 

「ひぃっ」

 

 

 勝美はあり得ない情景に目を剥き、小さく悲鳴を上げ、まるで化け物を見るように怯えた視線を椿に向ける。その視線は、美代や福子たち、慶次の友人が“燐子”に向けたものと同質のものだった。椿はそれに大した感慨も浮かべず、ただ淡々と猟銃を奪い取り、後ろ手に縛り上げる事で応えた。

 慶次は落ちた弾丸に目が奪われるが、それは一瞬。勝美が引き金を引き、誰が一番傷ついているか。それを考えれば、呆然としている暇はなかった。

 

 

「すまん、椿!」

「ちょっと、勝手に動かないでよ!」

 

 

 椿の制止を振り切り、慶次は弾丸を踏み越える。

 開け放たれた扉の前には、美代がへたり込んでいた。動いてもないのに、荒く息を吐き、焦点の合わない視線が、弾丸を、勝美を、ゆらゆらと行き交う。

 慶次は美代の姿に一瞬言葉を失うが、美代の気持ちを考えれば、この逡巡は無駄でしかない。

 

 

「美代!」

「っ!」

 

 

 彼女を少しでも慰めようと、慶次は声を掛ける。だが、それは逆効果だった。

 漂っていた視線が慶次を捉えた瞬間、瞳には怯えが浮かび上がり――ごめんなさい、と。

 音にならない口で、何度も何度も謝罪の言葉を形にしていた。

 

 

「――! ――!」

「お、おい!」

 

 

 堪らず慶次は止めようとするが、彼女は後ずさりながら、口を動かし続ける。

 今まで美代は慶次を助けるために行動しているはずだった。しかし、学校では慶次を死地に追いやり、挽回しようと無理矢理説き伏せて付いて行けば、今度は実親が殺そうとする。自身の“好意”が悉く慶次を追いつめている事が、美代の心を深く傷つけていた。

 慶次を想い行動しているのに、それが逆に慶次を追いつめる。ボロボロになった美代は、もうどうしていいか分からず、謝るしか出来なくなったのだろう。

 だが、そんなのはおかしい。美代が慶次を考えて、助けるために行動しているのは明らかだ。そもそも、実の父親が慶次を狙うなど、誰が予想できるか。何より、慶次も椿も彼女の提言に賛成してここまで来たのだ。美代だけが悪いなど、絶対にありえない。

 慶次は目線を美代に合わせ、必死に何度も呼びかける。

 

 

「――! ――!」

「俺は大丈夫だから、もうやめろって!」

「――! ――!」

「美代!」

「っ、――」

 

 

 慶次の声が届いたのか、壊れたように動いていた口は止まる。

 ごめんなさい、と先とは意味の違う謝罪をする。しかし、慶次とは決して目を合わさない。どころか、慶次の一挙手一投足に、怯えるように身体を震わせる。

 少しは落ち着いたが、完全に立ち直った訳ではない。一体、どうすれば――慶次が途方に暮れていると、

 

 

「さっきの音は――!?」

 

 

 台所で作業をしていたのだろう依子が、銃声を聞き部屋に飛び込んできて――絶句。

 いつの間にか真っ赤になった女の子が旦那を縛り上げ、

 バットを持った近所の男の子が号泣する娘の前にいる。

 この情景を見て、普通はどのような判断を下すか――。

 

 

「あ、あなたたち、目的は何なの!?」

「だろうと思ったよ!」

 

 

 案の定、勘違いした依子が棚の上の花瓶を掴み取り、いつでも投げられる構えをとる。何でこうも、面倒事が重なるのか。慶次はいもしない神を恨みながら、少しでも相手を落ち着かせるために『宝具』をケースにしまう。

 

 

「おばさん、別にあなたたちに危害は加えようとしている訳ではありません! お願いですから、話を――」

「旦那を縛りながら言われたって、聞ける訳ないでしょ!」

「あのですね、こっちは撃たれたんですよ! 縛らない訳にはいかないでしょ!」

「うちの旦那は意味もなくそんな事しないわ! ……そうよ、きっとこの女の子に原因があるんだわ!」

「おばさん!」

 

 

 慶次は依子に説明しようとするが、とりつく島もない。

 

 

(くっそ! これだから、この人は信用ならないんだよ!)

 

 

 美代には悪いが、慶次は勝美よりも依子の方が嫌いだった。

 依子は何に置いても妻が旦那を立てる……そう言えば聞こえがいいかもしれない。だが、依子のそれは、あまりにも度が過ぎている。

 例え、普段どれだけ慶次に良い顔をしていても、勝美がダメと言えば、普段の顔など躊躇なく捨て去る。善悪も価値観も、勝美の言動でその場その場で変わる。ある意味、勝美よりも本当に性質が悪い女性だった。その反動で、美代は慶次にズバズバ言うようになったのかもしれない。

 ともかく、依子を宥めるには一旦、勝美から離す必要があった。

 

 

「急に真っ赤になるなんて、おかしいわ! もしかして、外もあなたが――」

「――!!」

「っ、み、美代ちゃん!? ちょっと、何で引っ張るの!? お父様が危な、って痛い痛い痛い!?」

 

 

 なおも喚く依子を、美代が引っ張って行く。合気だろうか、普通に引っ張って見えるのに、依子はすごく痛そうにしていた。

 

 

「……美代」

 

 

 美代は涙にぬれた顔のまま一礼すると、依子を引いたまま部屋を出て行った。だが慶次には、痛がる依子なんかより、美代の方が痛みを耐えているように見えた。

 いや、“ように”ではない。実の親が眼前で想い人を殺そうとした……美代は声にできないだけで、誰よりも痛かったに決まっている。

 このまま放っておく事などできない。そう思っているのに、慶次は一歩を踏み出せない。 仮に美代を立ち直らせたとして、その先はどうなるのか。その時は単純明快、再び想いのまま慶次の傍にいる。そして思う。果たしてそれでよいのだろうか。このまま遠ざけた方が安全で、幸せではないだろうか、と。

 

 

(……っ、アホか俺は! んな事は、立ち直ってから考えればいいだろうが!)

 

 

 慶次は不安を振り払い、美代を追いかけようと――の前に、椿に一声掛ける。

 

 

「椿、何度もわがまま言って申し訳ないが、こっちは任せてあっちに付いてていいか?」

「は?」

 

 

 怒気を纏わせた椿が、苛立ちを隠さずに返す。勝美が原因だと分かっていても、ちょっと怖い。

 

 

「だ、ダメか?」

「……ごめん。八つ当たりした」

 

 

 椿は気持ちを落ち着かせるため、大きく息を吐いてから答える。

 

 

「あいつたちが何かしないか見張ってくれるんだから、私に文句はない。けど、あんたはそれで本当にいいの?」

「いや、放置って訳にはいかないだろ?」

「そうじゃなくて……こいつが命を狙った理由、直接聞きたくないの?」

「うーん……聞きたいような、聞きたくないような……」

「この、化け物、いい加減離、ぐぅっ!?」

「うるさい」

「くっ……!」

 

 

 騒ぐ勝美をもう一度、強く締め上げてから、椿は続ける。

 

 

「私はこのまま新発田美代に関わらせるのも反対。あいつが優秀なのは十分わかったけど、このままだと本当に“壊れる”。そうなったら、あんたの精神状態に悪影響が出るし、あいつもただの荷物になる。どっちにとっても良い事は、何一つない」

 

 

 慶次の懸念と不安を、椿は一気に指摘する。

 全くもって、椿はどこまでも正しかった。遠ざければ、これ以上関わらせずに済む。傷つかずに済む。あんな悲しい顔も、見なくて済む。

 慶次は一度は同じことを考えた。だが、なぜか素直に頷く事が出来なかった。

 

 

「訊きたい事はたくさんある。美代だって、限界がきてる。全部、お前の言う通りなんだろうけど……」

 

 

 言葉に詰まる慶次。こんな時、消耗する前の美代だったら何と言うか。出来ない事はするな、思っていない事を言うなと、仏頂面で慶次の精神力をガリガリと削っていただろう。だがそれはきっと、慶次に能力以上の行為をさせないためであり、厳しい叱責は優しさの裏返しである。

 慶次が間違えば叱り、何と思われようと正しい道へ戻す。全ては慶次のために。

 

 

「なあ、椿」

「何よ」

「仮に遠ざけたとして、美代はこの“現実”と向かう機会は、またやってくると思うか?」

 

 慶次の問いかけに椿は小さく首を横に振る。

 

 

「今、堂森市で起きる事象のほとんどに“紅世”……いいえ、『フレイムヘイズ』が密接に関わっている。事件が終息すれば、結果の内容に関係なく“日常”が戻ってくるでしょうね。いえ、他の『フレイムヘイズ』が全力で戻す。世界の歪みを元に戻すために」

「じゃあ、逃がすにしろ戦うにしろ、“現実”と向かい合うには今しかない、って事か」

 

 

 故郷が壊された事も。

 自身の過失で慶次を追いつめた事も。

 父親が慶次を殺めようとした事も。

 今この時を逃せば、真正面から向かい合う機会は失われる。そして、もし美代が向かい合う事がなければ、例え生き延びたとしても、椿の言う“日常”に戻れるだろうか。

 ここでようやく、慶次は自身の想いに気づいた。

 

 

「勝手に遠ざけたら、美代のためにならないんじゃないか」

 

 

 事実と向かい合わず、ただただ遠ざける。そうすれば、きっと生き残れる。傷つく事もない。

 だが、例え悲惨な現実だとしても、向き合わなければ解決の時は来ない。そして、向き合う機会は今この時を除いて存在しない。美代の事を本当に思うなら、遠ざけるだけでは駄目だ。そして何より、もし慶次の美代の立場が逆であれば、美代は慶次の為ならあの手この手で向き合わせただろう。ならば慶次も、今だけは美代のために向き合わせる手助けをしたかった。

 断じる慶次を椿が真っ直ぐ見つめる。椿の黒く大きな瞳が、まるで慶次の覚悟を問うように見つめる。慶次はそれを真正面から受け止めて……椿は観念したように、ため息を吐いた

 

 

「……そこまで言うなら仕方ないわね」

「さんきゅ」

「あなたの意見を取り入れたのは、その『宝具』は感情を力に変えるからよ。こんな事でへそ曲げられたら、能力が安定しないじゃない」

「まあまあ、そう照れるなって、あだっ!?」

「照れてないっ! 全く、すぐ調子に乗るんだから……」

「だ、だからって蹴るなよ……おじさん拘束してるのに、こういう事ばかり器用あだっ!?」

 

 

 椿は勝美を拘束しながらも、器用に足で慶次を蹴りながら、視線を胸元のペンダントへと向ける。

 

 

「えっと、それでアラストール? 慶次に付いていて欲しいんだけど……」

「うむ」

 

 

 恐る恐る尋ねる椿に、快諾の返事をするアラストール。慶次の感情を考慮した結果だが、結論は二人で出したものだ。否やはなかった。

 しかし、やはり多少は不満もあるのか。苦言を添えて返答する。

 

 

「だが、決して貴様たちの感情を鑑みた訳ではなく、あくまで戦闘での性能を考えてであって……」

「ア、アラストール!」

「分かってる。ありがとな、アラストール」

 

 

 その保護者根性丸出しのアラストールに、椿は口を尖らせながら、神器“コキュートス”を手渡してくる。慶次も念のため、漆黒のコート・夜笠を返す。隻碗となった全身傷だらけの包帯姿が晒され、勝美が何やら驚く。

 だが、そんなもの知った事ではない。勝美を無視して、慶次と椿は続ける。

 

 

「それじゃあ、そっちは任せた」

「――は、それで――ぉ」

 

 

 椿が何やら小さく呟くが、慶次の耳には届かない。

 

 

「? 何か言ったか?」

「……何でもない」

 

 

 尋ねても、何でもないと返ってくるばかり。椿が言わない事を追及するのも気が引けたので、慶次は大人しく引き下がる。

 

 

「それじゃ、任せた」

「うん」

「アラストール、悪いけどしばらく頼むな」

「うむ」

 

 

 慶次は椿とアラストール、それぞれ声を掛けつつ部屋を後にする。

 

 

「ま、待て前田慶次!! 私をこんな化け物の傍に置いていくのか!? おい、待――」

 

 

 何やら聞こえる絶叫に、慶次は扉を強く閉める事で答えた。

 

 

○ 

 

 

 バタン! と強く扉が閉まる。何となく、慶次らしくない行為と思う。もしかしたら、彼にも何か思う事があったのかもしれない。

 

 

「……あんたはそれで本当にいいの」

 

 

 三度、その言葉を口にし、もやもやしたモノが胸の内に渦巻く。慶次が自身の意志で『やりたい事』を選んだと分かっているのに、胸のもやもやは決して拭えない。

 椿も手酷く失敗したことがあった。その度に学び、強くなってきた。そういう自負もあった。だが、未知の出来事に対して、何と弱かった事か。初めて、自分の“過去”と“使命”を否定され、如何に無力だった事か。

 しかし、慶次は違った。

 “紅世”に過去の悲劇。そして、今も進む惨劇……経験した事ない、想像もした事ない事態に揺れながらも、真っ直ぐ進んだ。ともすれば『フレイムヘイズ』である自分を引っ張っていくほど、強く真っ直ぐ。

 ――だが、慶次は弱い。ここにいる、誰よりも。

 慶次は確かに強い。どんな困難が来ても、苦境が訪れても、迷いながら自分の答えを見つけて真っ直ぐ進んでいく。だがそれは同時に、立ち直った回数だけ傷ついたことを意味する。

 身体も心も、慶次には数えきれない傷を負っている。そして今、慶次はまた傷つき、その傷を癒す間も無く、自分の出来る事を……慶次の言葉を借りるなら『自分のために』出来る事を始めた。

 慶次は強い。そして弱い。どれだけ傷ついても、強く真っ直ぐ進んでいける。だがその弱さゆえに、何時倒れてもおかしくはない。

 慶次の強さが本当に尊敬できる事だと、椿は心の底から思っていた。だが、同時にその底に潜む危うさも分かった。新発田美代がどうしてあんなにも慶次を大事にしていたのか。そして、なぜあの時、己が無意識に彼を突き放したのか、事ここに至ってようやく理解した。

 

 

 ――あんたはそれで本当にいいの。

 

 

 それは彼の生き方を知ったからこその疑問。彼を知ったからこその疑念。そしてそれは、この街に来る前なら、決して思い浮かばなかった思考であった。

 

 

(……やめよう)

 

 

 椿はすぐさま、この疑問を解決する事を諦める。

 今は使命とは関係ない事を考えている場合ではない。何となく、今の自分に解決する力がないと分かっていた。それに今は相談する相手――アラストール、次点で慶次――が傍にいない。きっと、幾ら考えても答えは出ないだろう。

 

 

「放せ! 放せと言っているだろう、化け物!!」

「……」

 

 

 後ろ手に縛った勝美が叫び、思考が途切れる。元々、思考を止める予定であったものの、無理矢理止められると何となく不機嫌になる。

 というか、そもそもこの男は無駄に慶次を傷つけ――否、殺そうとした。その事を思い出すと、急に沸々と怒りが湧いてきた。それは本来、慶次が抱くべき感情だと分かっていても(アラストールという目がない事もあって)湧き上がるものが抑えきれなくなる。

 

 

「……」

「うがぁっ!」

 

 

 少女からすれば、軽く投げ飛ばしただけだが、常人からすればとんでもない力で勝美は壁に叩きつけられた。衝撃に息が止まった勝美は、受け身も取れずに床に落ちる。

 椿は悶える勝美に冷たい視線を送りながら、淡々と尋問を始める。

 

 

「今から私の質問に、正直に答えなさい。今この時から、無駄な発言、欺瞞、沈黙は全て許さない」

「……っ、こんな事をして、ただで済――」

 

 

 蹲った姿勢からの、力ない反論さえ椿は許さない。目にも止まらぬ早さで、身の丈ほどもある大太刀『贄殿遮那』を鼻先に突きつける。

 勝美は眼前にそびえる死を運ぶ大太刀と、それを躊躇なく振るうと確信に足る鋭利な眼光、そして少女の純粋な膂力の強さに、反論の全てを封じられる。

 

 

「……わ、私は、新発田、勝美、だ……」

「……」

 

 

 恐怖に足も立たないくせに、僅かなプライドで無駄に口を開く。

 椿は何も言わず、大太刀を勝美の右手に切っ先を刺した。

 

 

「あああああああああああっ!」

 

 

 僅かに筋肉に達しただけの刺し傷なのに、勝美は叫び右手を抑えて苦しんだ。

 

 

(一番傷ついてる慶次は、痛いって、一度も言ってないのに……!)

 

 

 引き攣った笑顔で耐える慶次と、感情のまま喚く勝美。あまりに対照的過ぎる姿に、さらに不快感が掻き立てられる。

 もう一度、ぶっ刺してやろうかと大太刀を正眼に構えたところで、勝美はようやく根を上げた。

 

 

「分かった! 全てを話す! 話すから……もう、やめてくれぇっ!!」

「……」

 

 

 その足元には、椿の気のせいでなければ、新しい水たまりが出来ていた。“これ”が慶次と同じ人間とは、とてもではないが信じられなかった。

 

 

「どうして、慶次の命を狙ったの」

「お、お前たちが来る少し前に、『奴』に全ての原因は前田慶次にあると、言われたんだ! だ、だから、私は、この街のために、前田慶次を殺――ひぃっ!」

「お前の良い訳なんて訊いてない」

 

 

 椿は大太刀を眉間に突きつけ、余計な事を喋る勝美を黙らせる。というか、はっきり言って不快だ。街のためなどではなく、街のために戦ったという“免罪符”が欲しいだけなのが、明らかだったからだ。

 

 

「その『奴』の情報を知ってるだけ吐きなさい」

「……ぃっ!?」

「沈黙は許さない。そう言ったはずよ」

 

 

 押し黙る勝美に、椿は僅かに贄殿遮那押し当てる。舞い落ちる前髪、額から零れる一筋の血に、勝美は堪らず口を開く。

 

 

「し、知らないんだ! 本当に、私は何も知らないんだ! 『奴』の名前も、経歴も、容姿も全て!」

「……」

 

 

 今度は椿が黙る番だった。

 何も知らない奴の情報に踊らされ、慶次を殺そうとしたと言うのだ。あまりの愚かさに、罵倒の言葉さえ出てこない。

 どうして、と尋ねる事さえ馬鹿らしい。椿は尋問を進める事にする。

 

 

「そんな怪しげな奴と、いつ、どこで接点を持った?」

「八年前、新市街地開発により市財政が悪化して、しばらく経ってから奴から手紙がきた」

 

 

 新市街地。昨日、椿が調べたところによれば、新発田邸と前田邸がある旧市街地の丁度真向かいにある地域の事だ。

 およそ十年前から始まった開発で、新市街地には住宅街や医療施設、新設の教育機関が次々と建った。今では、堂森市で最も活気のある地域と資料にはあったが、どうも勝美の言葉からして良い面だけではなかったらしい。

 

 

「よそ者のお前は知らないだろうが、十年前から前田家主導で旧市街地の真向かいの開発が始まった。医療、教育、情報……今、最も活気のある分野を集積した地域だったが、結局は堂森市など中途半端な地方都市だ。予定の半分も企業の誘致は進まず、負債ばかり増えた。そんな時、奴から連絡がきた」

「負債の返済を手伝った、と?」

「手伝った? そんなレベルの話ではない。奴は『幾つかの指示を遂行する』だけで、企業、住民、国からの補助金を引き出した。奴のおかげで、前田家のせいで疲弊させれた堂森市は立ち直った。立ち直ったんだ……だから、私は……私は……!」

 

 

 言いながら、言葉の端々には悔しさが含まれている。勝美も心から『奴』を受け入れている訳ではなく、それしか選択肢がなかったのだろう。だからといって、椿に彼を許す気は更々ない。

 

 

「手紙は?」

「全て燃やした」

「指示の内容は?」

「指定された積み荷の輸送。もしくは、土地や建物の斡旋だ。さすがに積み荷の中身は知らんが、念のためリストアップだけはしておいた。私の書斎から持って行け」

「現状について、何か知っている事は?」

「さあ、な。私の援助が、現状の一端を担っている事ぐらいしか、私には分からん」

「……」

 

 

 椿は今まで出た情報を整理する。

 『奴』……このタイミングで慶次の抹殺を仄めかした事から、『弐得の巻き手』で相違ないだろう。とすると、『弐得の巻き手』は八年前から堂森市で何か活動をしていた事になる。そして、現地の政治家を懐柔、利用する事で『計画』を完成させた――となるのだが、

 

 

(わざわざ人間に協力させる必要性は何? 積み荷が人間にしか入手できない代物なのかしら? いえ、そもそも“たったの”八年で使命を遂行するための『計画』が完成するの?)

 

 

 なぜ、人を利用したのか。それは勝美の持つリストを見れば、予想がつくかもしれない。だが、使命完遂という大命が、僅か八年で完成する……これが一番解せなかった。

 過去に世界を変えてしまうような大戦が、“紅世の徒”と『フレイムヘイズ』の間で起きた事がある。いずれも、数十年という人間からすれば途轍もなく長い戦であった。八年とは、“紅世の徒”や『フレイムヘイズ』が事を成すには、あまりにも短すぎる。

 新たに増える疑問。とはいえ、確実に解決の糸口は見え始めている。

 

 

(これだけ集めたら十分かしら)

 

 

 勝美から絞り出せる情報も、あまりないだろう。そう考えた椿は、尋問を止め情報を精査しようとして――何か確信があった訳ではない。本当に何の気もなしに、ある一つの質問をした。

 

 

「六年前の事件で、何か知っている事を言いなさい」

「っ!?」

 

 

 勝美の肩が、不自然に跳ねた。それだけで十分だった。

 気付けば椿は、勝美の横っ面に拳を叩きこもうと振りかぶっていた。だが、その拳は寸前で止まる。

 前田家の惨殺の一端を知っていながら、のうのうと六年もの間、被害者である慶次の隣に住んでいた。吐き気を催すような事実を知り、殴りもしないなど絶対に嫌だったが……さらに元をたどれば、元凶はアラストールたちの不手際。椿に、尋問以外の理由で彼を殴る権利があるとは思えなかった。

 

 

「ち、違う! わ、私は悪くない!」

 

 

 勝美は震えながら拙い言い訳を始める。喋らなければ、尋問を理由にぶん殴れたのに……と、思って耳を傾ける。

 

 

「あいつが……前田利期が余計な調査などするから……! わ、私は調査に関係している人物を全員『奴』に報告しただけなんだ!」

「……それだけ?」

「た、確かに、私が報告した後にあいつは殺された! だが、本当にそれだけなんだ! それ以外、私は何も――!」

「うるさい。もういい」

「ま、待ってくれ! 私は本当に知らないんだ! 何が起きているか教――」

 

 

 それだけ言うと、椿は夜笠に贄殿遮那を仕舞う。そして、今度こそ勝美に背を向ける。背後からは、何やら言い訳の数々が飛んでくるが、そんなものどうでもいい。

 

 

(やっぱり、全部繋がってたんだ……)

 

 

 六年前の事件と今回の惨劇。それが先の勝美の証言で、とうとう繋がってしまった。今まで慶次の身に降りかかった不幸の根源が、アラストールたちにあると分かってしまった。

 

 

「それなのに、一緒に戦おう、なんて……」

 

 

 自嘲気味な笑いが込み上げ、すぐさま自己嫌悪に陥る。

 確かに、共に戦って欲しいと言いながら、戦いの原因が己にある。慶次からしたら、椿の誘いは酷い皮肉だった。だが、慶次は椿の不手際から生死を彷徨ったのに、罵声の一つも上げなかった。それどころか、椿と共に立ちあがってくれた。

 そんな彼が、この“事実”を皮肉と受け取るはずがない。否、そう思う事さえ、覚悟を持って臨む慶次に失礼であった。慶次を想えばこそ、今ここで椿が足踏みしてはいけない。

 この“事実”は決して漏らさずに慶次に伝えよう――そう椿は心に決めるが、これが重い事実である事には変わりない。さすがの椿も『慶次の両親が殺害されたのは、アラストールが遠因』と馬鹿正直に伝えられるほど、面の皮は厚くないし、慶次との付き合いも乾いたものではない。

 適切な助言を与えてくれるアラストールはいない。相談する相手はおらず、そもそも相談する時間もない。

 椿は腹を括って慶次の元へ向かう。ただし、その足取りは常では考えられないほど重いものであった。




このシャナ初登場時以外、まともに贄殿遮那振ってないような……


毎度、お待たせしてすみません。
とりあえず、今投稿できるところまで投稿しました。
次話は……ちょっと彼らを自由に遊ばせすぎたので軌道修正して
からになります。


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第ⅩⅧ話 覚悟

 ストーブと蝋燭の淡い光が照らす薄暗闇のリビング。

 慶次は廊下へと続くドアを塞ぐ様に立ち、部屋の中を見渡す。依子と美代は中央の椅子に座り、同じように机に視線を落とす。二人の間に会話はない。ただただ黙して、時を刻む。

 慶次の首にはペンダント型の神器“コキュートス”がある。必然的に距離は近くなり、慶次とアラストールはごく自然に声を潜めて話していた。

 

 

(最初、どうなるかと思ったけど、案外暴れなかったな)

(貴様の姿が余程堪えたようだな)

(……やっぱそう?)

 

 

 慶次は包帯だらけとなった身体を見下ろす。右の肩口から先はなく、包帯の所々は赤く染まり、消毒液と血の匂いが鼻にこびり付く。

 

 

(これでよく生きて延びておったな)

(アラストールがそう言うぐらいの傷だもんな。こんなの直視したら、やっぱりショックだよな)

 

 

 最初、リビングに着いた時は依子が夫を庇い、美代が父を責める。母娘が不毛で、やるせない言い争をしていた。

 言い争いは依子が慶次を見た瞬間、止まった。漆黒のコート『夜笠』を取り払い、曝け出された慶次の傷に、思わず言葉を失った。そして、勝美を庇う気持ちを萎ませていった。どんな理由があっても、重傷……いや、ともすれば死んでいた人間を撃つなど、到底まともではないと気づいたのだ。

 そのまま場は母娘は口を噤み、今も重い沈黙が場を包んでいた。慶次は何か気の利いた言葉の一つでも掛けようと思ったが、そんな魔法の言葉があるはずもなく、慶次も一緒に沈黙するしかなかった。

 とはいえ、椿から『コキュートス』を借りてまで、二手に分かれたのだ。あまりうだうだ時間を潰していたら、椿の顔に泥を塗る事になる。すぐにでも行動を起こすべきだった。

 

 

(俺は美代に向き合って欲しい。そのせいで、『戦う』っていう選択肢を選ぶかもしれないが……まあ、まずはあいつが立ち直らないと始まらないな)

 

 

 そう改めて決意する慶次が、美代に声を掛けようとするも、胸元の『コキュートス』に宿ったアラストールがこれを遮る。

 

 

(待て)

(何だよ)

(我に任せてはもらえないだろうか)

「……はいぇ?」

 

 

 アラストールのあまりに意外な提案に慶次が素っ頓狂な声を上げる。母娘が怪訝な眼差しで慶次を見るが、適当に手を振ると余裕がないのだろう、勝手に納得されて俯く。

 それはともかく、アラストールである。

 

 

(あ、ちょ、あれ、お前が美代を、でも)

(混乱し過ぎだ、馬鹿者)

(いや、だって、もしかしてアラストールも風邪引くの?)

(そんな訳あるか!)

 

 

 アラストールは慶次に優しくするのではなかった、と若干後悔しつつも、律儀に説明をする。

 

 

(我も人の心情に疎い方だが、新発田美代が相当に貴様を好いている事ぐらい分かる)

(っ、そ、それが今、何の関係が――)

(だからこそ、その言葉が呪いになりかねん)

(……呪い)

 

 

 呪い、と言われ、思い出すのは学校での出来事だった。

 美代が絶望の果てに、『守らなくていいから、最後まで隣に』と言った。原因は“燐子”たちにあったとしても、その発言の源は慶次への好意があった。

 その好意を慶次も――おそらくだがアラストールも――悪いものだとは思っていない。だが、純粋な想いも時と場面によっては呪いのように負の面を見せてしまう……あの時の美代の様に。

 そしてアラストールは今、慶次の言葉がその呪いを再び甦らせる可能性がある……そう言いたいのだろう。

 

 

(その点、我は好かれておらん。むしろ、恨まれているかもしれんが)

(いや、それはそれでダメなんじゃねーの?)

(貴様があの娘を制御出来ん死兵にするより、幾分かマシだ。それにそうなっては、貴様にも悪影響であろう)

 

 

 アラストールの言い分は一々最もだった。絶望されて自暴自棄になってあんな酷い顔をされるよりも、アラストールに任せる方が良いだろう。とはいえ、アラストールがそんな単純な、さらに言えば椿に益のない事を進んでするとは思えない。

 

 

(そりゃごもっともだけど、本当にそれだけか?)

(認めたくはないが、我らだけでは知恵が足りん。あの者の慧眼は此度の解決には不可欠だ。不本意ではあるが、な)

 

 

 美代の鋭すぎる頭脳。カルの計画の一端さえ見えない現状、それは喉から手が出るほど欲しい能力であった。しかし、どれだけ頭が切れても美代は一人の少女に過ぎない。彼女に背負わせるには、あまりにも重すぎる荷であった。今の美代では、それに触れた途端そのまま壊れてしまうかもしれない。そうなってしまえば、計画の一端どころかさらなる悲劇しか呼ばない。だからこそ、アラストールは美代を真の意味で立ち直らせようと声を上げたのであった。

 

 

(全く、少しは言い方ってのがあると思うんだが)

(どうでも良い事だ)

 

 

 ともすれば、美代を利用しようと言う宣言だったが、慶次はそれを止めるつもりはない。確かに、慶次とアラストールの目的は異なるが、向かう先は同じ。すなわち、“美代に立ち直って欲しい”。目的は違えど同じ結果を求めているなら、止めるのは賢い選択とは言えないだろう。むしろ、アラストールの方が効果的に行えるならば、愚かかもしれない。アラストールの事だ、慶次がそこまで察すると計算しているのだろう。

 包み隠さない打算に慶次は苦笑を浮かべるしかない。とはいえ、幼馴染を任せるのだ、一言ぐらい言っていも良いだろう。

 

 

(あんまり虐めんなよ)

(……善処しよう)

 

 

 慶次の苦言にアラストールは苦々しげに返す。こればかりは、本当に自信がないのかもしれない。

 気を取り直し、慶次は視線をコキュートスから美代に変える。同時、アラストールは声を上げていた。

 

 

「新発田美代」

「……」

 

 

 呼ばれた美代は聞いているのか、それとも聞いていないのか微動だにしない。

 

 

「お主は何も悪くはない」

「……」

 

 

 『誰っ!? どこっ!?』と狼狽する依子を余所に、アラストールは語りかける。

 美代は一点を見つめたまま動かない。アラストールはそのまま続ける。

 

 

「この堂森市の災禍を止められなかったのは、全て我らの力不足だ。全ての責は我らにある。すまない」

「……」

「聡いお前の事だ、それを理解した上で己が不甲斐無さを詰っておるのだろう。我もお前のその気持ちは否定せん」

「……」

 

 

 アラストールは美代の気持ちを認めた上で、だが、と続ける。

 

 

「なぜ、前田慶次の傍を離れた?」

「……っ」

「再び前田慶次を傷つけるのが怖いからか? 再び前田慶次の足枷になりたくないからか? 顔の熱傷を慶次に見られたくないからか?」

「ちょっと前田君! 携帯か何か知らないけど、この失礼な人を止めて!」

 

 

 音源は分からなくとも会話が娘に、しかもかなり辛く当たっている事に気づき、依子が間に入ってくる。慶次は無言で欠けた右腕の包帯を動かし、傷を塞ごうと不気味に蠢く肉と真っ白な骨を見せつけ、『意見をするなら、これと向かい合え』と暗に告げる。彼女は気づいたのか気づかなかったのか、口を押えるとゴミ箱に駆けていった。

 邪魔者がいなくなったところで、今度は美代が躊躇しながらもスケッチブックに文字を書く。

 

 

『私が弱いからです』

「確かにお前は弱い。だが、それは前田慶次から離れる理由になり得ん」

 

 

 アラストールは断じて、真っ向から美代の言葉を否定する。

 

 

『いえ、私がもっと優秀だったならば』

「ならば、なぜ前田慶次はこの場に立っている?」

「……っ」

 

 

 指摘され、美代の手が止まる。美代の視線が慶次の胸元、神器“コキュートス”に向く。

 優秀であれば残れたと言うのならば、贔屓目に見ても秀才とも言えない慶次が踏み止まっている事実と相反する。さらに、置かれた立場も違うが何度も瀕死になった慶次の方が立場は厳しく、逃げる理由はあっても残る理由にはならない。

 つまり、優劣でもなく環境でも境遇でもなく、美代が慶次から離れてしまった理由は――、

 

 

「お前には覚悟が足りない」

「っ!?」

 

 

 美代の瞳が大きく開かれる。

 “燐子”に襲われた時も、カルに脅された時も、父が慶次を襲った時も。

 死の恐怖と戦おうとしたか、命を顧みず動こうとしたか、身と挺してでも止めようとしたか。

 美代は己が命が懸かった場面で、何一つできていなかった。それは単に、慶次を守るという覚悟がなかったから。逆に慶次は、危機の度にそれだけの覚悟を持って挑んだ。二人の違いは、それだけに過ぎなかった。

 無論、そんな悲壮な覚悟を闘いとは無縁だった女性に問うなど、常軌を脱した事だろう。だが、惨劇の渦中に立つには、それが最低限の条件だった。

 

 

「これまでの結果にお前の責は一切ない。己を責める事も、感情を考慮すればそれも致し方ない。無論、これから先お前が前田慶次の傍に立てなくてとも、何ら責はない。それでも()()()()に来ると言うのなら、覚悟を決めよ」

「……」

「よく考えて、答えを出すがいい」

 

 

 それだけ言い切ると、アラストールは再び口を閉じた。美代もアラストールから視線を外し、再び机に目線を落とす。

 

 

(覚悟……か)

 

 

 慶次は慶次で問われた内容を――己が持っている覚悟を考えていた。

 濁流のように激しく変わる状況に、慶次は流され翻弄されながらも腹を括った。少しでも踏み止まり前に進むには、それしか方法がなかったからだ。はっきり言って、そこに信念や理念はなかった。

 確かに、身の丈に合っている。だがこれから先、さらに戦いが激しくなった時、果たして慶次が立ち向かっていけるのか不安であった。

 ――と、その前に廊下に続く扉が小さく開く。慶次が扉から退くと、長髪を黒く冷ました椿が、眉根に皺を寄せて入ってきた。

 

 

「椿、終わったのか?」

「……うん」

「? どうした? 何かあったのか?」

「えっと、その……」

「?」

 

 

 慶次は椿に怪訝な眼差しを向ける。すぐにでも説明を始めると思ったのに、どういう訳だが歯切れが悪い。

 

 

「覚悟して、聞いて、欲しいって言うか……何と言うか……」

 

 

 悩みながら選んだ言葉も途切れ途切れで、迷っているのが丸分かりだった。

 

 

「どうも、あまりいい話じゃないみたいだな。けど、珍しいな、お前がこんな悩むなんて」

「……直接伝えると『宝具』に影響が出るかもしれないから、慎重に対処してるだけで……他に深い意味はない」

「そうか。俺は椿が気遣いを覚えた思って、ちょっと感動してたんだけどな」

「勝手に期待しないで」

 

 

 冗談交じりで返す慶次に、素直じゃないようで、とても素直な反応が返ってくる。悪い話は確定のようだ。

 

 

(気遣ってるって言ってるようなもんだろ、それは。全く、慣れない事はするもんじゃないっての)

 

 

 慶次は彼女の不慣れな気遣いに、思わず苦笑いを浮かべる。とはいえ、何でも直球に伝える椿が躊躇するのだ、それが如何に重い事か、言わずとも分かった。

 どこまでも悪化していく状況。未だ“底辺”は見えない。

 依子は不安そうに慶次と椿を見ていた。対して美代は、口を真一文字に結び感情の分からぬ瞳で、机の一点を見つめていた。

 慶次は大きく息を吐き、胸を過ぎる不安と恐怖を飲み込み、覚悟を固める。

 

 

「ゆっくりでいいから、話してくれないか」

「……でも」

「時間もないんだ。面倒な事はとっとと片づけようぜ」

「……分かった」

 

 

 椿が勝美から集めた情報を話し始めた。

 慶次を撃った理由、『弐得の巻き手』との関係。そして――六年前の惨劇との関連。

 

 

「――という事なんだけど……」

「そう……か」

 

 

 全てを聞いた時、リビングには母娘が静かにすすり泣いていた。

 実の親が、夫が、間接的にでも六年前と今の惨劇に関わっている。それはあまりに過酷な事実だった。慶次はせめて自分だけが先に聞いておけばよかったと、少しだけ後悔した。

 

 

「それで、慶次……」

「俺は平気だ。お前のおかげだよ、サンキュー」

「だから別に私は……はぁ、もういいわよ」

 

 

 伺う椿に、慶次は感謝を伝える。すぐに受け入れられたのも彼女のおかげなのは間違いない。それに、慶次を気遣ってくれた事は素直に嬉しかった。

 

 

(まあ、今は俺の事は後回しだな)

 

 

 慶次は涙を流し続ける母娘に視線を転じる。どれだけ心苦しくても、時間は待ってくれない。悲しみに暮れる彼女たちに、慶次は決断を迫らなくてはならなかった。

 

 

 

 

 最初、リビングに真っ先に訪れた慶次を見た時、美代は全く喜べなかった。むしろ、罪悪感で胸が締め付けられる思いだった。

 普段、助けるなどと息巻いているくせに、肝心な時に足を引っ張るに飽き足らず。病院では形だけの覚悟で、慶次をさらなる危険に誘う。美代はそんな現実に向き合うことが出来ず、彼らの邪魔になる――いや、椿からすれば障害にもなり得ない――母を連れ出すという大義名分で、慶次から離れて行った。

 頭の中では分かっていた。慶次が自分を心配し、立ち直らせたいだけだ、と。そこに美代を責める気持ちも、利用するなどという打算もない、と。

 だが、美代にはそれを真正面から受け止める事が出来なかった。また、慶次を裏切るような事をしてしまったら……それを考えると、慶次の傍にいる事さえ怖かった。

 だから、アラストールに話しかけられた時は心底ほっとして……言葉はやや辛口だったが、一つ一つ丁寧に諭され、ようやく自分に足りないもの気づけた。しかしそれでも、芽生えた罪悪感はすぐには拭えず結論は……覚悟は決まらなかった。

 そうやって悩んでいる内に、さらに悪い事実が知らされた。

 

 

(……お父様が、六年前の惨劇の遠因……私はそんな事にも気づかず、隣でのうのうと……)

 

 

 慶次を助けたいから傍にいる。父親の非道も知らず、そんな事を嘯いていた自分が心底嫌になった。そして、助けたいという気持ちは本物だったからこそ……悲しくなった。涙が、止まらなかった。

 覚悟も何もない。もう目の前の事実を受け止める事さえ、美代は出来なかった。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 唐突に母はそう言うと、涙も拭いもせず真っ直ぐと部屋を出て行った。

 この期に及んで、父の傍へ行った。慶次が否が応でも見えていたはずなのに『ごめんなさい』の一言で行ってしまった。

 

 

(何なんですか……誰も彼も、自分自分自分。自分の事しか考えていないじゃないですか……お父様も、お母様も……私、も)

 

 

 父も母も美代も、自分たちしか見ていない。自分しか見えていないから、平気で慶次を傷つけ、現実から目を逸らして、自分の好きなところに逃げ込む。

 

 

(悲しい、苦しい、怖い……六年前の事も、今の惨状も、これから慶次さんの傍にいるのも……だけどこのまま、お父様やお母様の様に自分たちの事だけ考えて、楽な方に逃げた……)

 

 

 慶次は母を止めなかった。いや、それどころか見てもいなかった。見ているのは、美代だけだった。

 

 

(また、ここに残って、私は逃げるの……)

 

 

 慶次は美代の決断を待っている。共に戦うのか、それともここに残るのか。慶次の事だ、決して美代を強請する事なく、自ら下した決断ならそのどちらでもいいとでも思っているはずだ。

 手助けもせず、強要もせず、ただ促す。

 

 

(今、自分とも、慶次さんとも……目の前の全部に向き合わないのが、本当に逃げる事……その結果がお父様とお母様なら、私は逃げたくない)

 

 

 美代は目元の涙を拭い、慶次を真正面から見た。滲みの取れ切らない淡い視界の中、満身創痍の慶次の姿が目に入る。

 

 

(っ、私の馬鹿――)

 

 

 こんな時なのに胸が僅かに高鳴り――美代は当たり前の事に気づく。

 自分はどうしようもなく、慶次が好きだという事に。

 そして、その気持ちは障害の数や大きさで、諦められるものではないという事に。

 これまでも、そうだったように、これからも。

 なら、どうして今も足踏みしているのか。

 

 

(本当に、覚悟が足りなかっただけじゃないですか)

 

 

 全部、アラストールが指摘した通り。何があっても慶次の傍にいるという覚悟が、決意が足りなかったせいだ。

 また関われば慶次を傷つけるのでは。今度こそ、慶次は無事では済まないのではないか。そういった不安は尽きない。時間が経てば経つほど怖くなってくる。

 だが、そんなのもので潰えるほど、美代の想いは小さくなかった。むしろ、さらに恋の炎は大きく燃え上がる。

 

 

(私は……絶対お父様とお母様みたいに、逃げません。真実と向き合います。そして……慶次さんとも、この気持ちで真っ直ぐぶつかります)

 

 

 美代は覚悟を決める。

 

 

「……っ、慶次さん」

「っ! 美代、お前声が――」

 

 

 自然と声が出ていた。

 慶次は驚愕しながら嬉しそうに笑い、すぐさま表情を引き締める。

 

 

「もう一度、私に手伝わさせて下さい」

「分かっちゃいると思うが、この中の誰かが欠けるかもしれない」

「……はい。覚悟はできています」

「今より辛い事が絶対に起きるぞ。それでもいいのか?」

 

 

 慶次が念を押す様に問う。これに頷けば、もう逃げ出す事はできない。だが、それがどうしたというのだ。だってもう、逃げる事はないないのだから。

 

 

「大丈夫ですよ、慶次さん」

 

 

 彼に向けて、美代は自らの呪縛を解き払うように宣言――してしまう。

 

 

「私は慶次さんの事が好きなんですから」

「「っ!?!?!?」」

「……あっ」

 

 

 最後の最後にやらかしてしまった美代に、慶次と椿は盛大に噴き出す事で応えた。

 

 

 

 

 美代は爆弾だけ投下すると、「準備してきます」と言い残して、とっとと部屋を出て行った。何ともいたたまれない空気の中に放り出された慶次たちは、新発田家に残るのは精神衛生上悪いのに加え、慶次がほぼパンツ一丁なのに居た堪れなくなり、自宅に戻った。

 包帯の上に無造作にジャージを着た慶次は、美代が来るまでの間に休息を取る事にした。椿も合意し、リビングで電気の点かない炬燵に入り、お互いミカンを頬張っているのだが、

 

 

「……」

「あの、そんなに睨まれると、非常に食べにくいのですが」

「別に睨んでない」

「いやいや、どう見ても怒りの籠った強烈な眼差しが……」

「怒ってもない!」

 

 

 断じる椿であるが、思いっきりしかめっ面で目尻を吊り上げている。誰がどうも見ても怒っているようにしか見えないのだが、なぜか彼女はそれを認めようとしない。何か理由があって認められないのか、それとも……そもそも、なぜ怒っているのか、自身の感情が掴めず認められないのか。慶次は後者のような気がするが、特に確証がある訳でもない。

 慶次はとりあえず、尋ねる事にする――ミカンを左手で庇いながら。

 

 

「怒ってないならいいけどさ、言いたい事あるなら言ってくれないか?」

「誰もあんたのミカンが欲しいとかじゃないわよ!」

「そうなのか? じゃあ、一体なんだよ?」

「……新発田美代」

 

 

 ぷいっ、とそっぽを向きながら椿が小さく呟き、やっぱりそれか、と慶次は苦く思う。慶次だって美代の好意は察していたとはいえ、あの時、あのタイミングで言われ困惑しているのだ。加えてこれは恋愛事であり、はっきり言えば当事者でもない椿に突っ込まれたくない。まあ、尋ねる椿はおそらく……いや、絶対恋愛などした事ないし、そもそも気遣いとか無縁だ。

 どうやって説明したものか慶次が思案している間にも、椿が続ける。

 

 

「励ますとか言ってたくせに、本当は一体何してたの?」

「何もしてないって」

「どうだか。尋問とか面倒な事を私に押し付けて、楽しんでたんじゃないの?」

「ンな事するか!」

 

 

 ほとんど言い掛かりのような内容に、慶次は堪らず反論する。だが、やはりどう説明するべきか思い浮かばない。そもそも、何でこんな事に頭を悩ませねばならないのか疑問に思ってくる。

 

 

(これもあれだ、アラストールが椿を箱入りで育てたせいだ)

 

 

 全てアラストールの育て方が悪いという事にして、慶次は彼に丸投げする事にした。

 

 

「つーか、喋ってたのはアラストールだけで、俺は本当に何もしてないんだぞ。な、アラストール?」

「ぬっ!?」

 

 

 アラストールは、まさか振られるとは思っていなかったのか、素っ頓狂な声を上げる。そして、怒りの眼光は疑惑の眼差しへと変わり、椿の胸元の神器“コキュートス”へと注がれる。

 

 

「貴様、元々あの者が好いていた事を知っていたであろう! なぜここで我の名を――」

「アラストール?」

「ぬっ!?」

「本当なの?」

「じ、事実ではあるが」

「……」

「事実ではあるが! 不埒なやり取りは一切ない! そも、あのような結果は、この馬鹿の日ごろの行いが――や、やめろ……! 前田慶次を見るような目で、我を見るな……!」

「おいこら。何だよ俺を見るような目って……まあ、いいけど」

 

 

 アラストールに濡れ衣を見事におっ被せて、慶次はへらへらと笑う。そして、ここでやめておけばいいのに、調子に乗って椿のミカンへ手を伸ばした。丁度、ミカンを奪った所で、椿が手癖の悪い左手を気付く。

 

 

「あっ」

「ちっ、こうなったら仕方ない」

「ちょっとあんた何で私の――って、全部食ってんじゃないわよ、この馬鹿!!」

「んぐ、これも『宝具』の影響だ……って、痛い痛い!」

「そんな訳ないでしょーが!」

 

 

 いつもならぶっ飛ばす所、慶次が重傷だからなのか椿は耳を引っ張るに留める。それでも、フレイムヘイズの万力で引っ張られる……というより締め付けられるので、痛いには変わりない。

 上手く矛先が慶次に戻って、アラストールが密かにほっとしていると、

 

 

「お待たせしました」

 

 

 準備が終わったのか、美代が廊下に続くドアからリビングに入ってきたが、その姿は様変わりしていた。

 太腿部までの黒色のタートルネックワンピースに、白いラインが入った黒い薄めのタイツ。いずれもタイトなせいか、胸部や腰部や脚部の女性らしい丸みを大いに強調していた。ばっさり切っていただけの髪型も、左耳だけ髪が掛かったショートヘアに整えられている。よく見れば薄く化粧もしており、彼女の美麗な目鼻立ちをさらに際立たせていた。ところどころ白い包帯が目につくが、それでもその立ち姿は大人の女性を思わせ、さらに言えば色気さえ漂わせていた……足元の巨大なバックパックに目を瞑れば。

 そんな文句なし綺麗な美代だが、慶次の耳を引っ張る椿を見るなり肩を落として落ち込む。

 

 

「そりゃムードも何もなかったですし、慶次さんの眼中にない事は知ってましたけど、もう少し何かあってもいいんじゃないですか……というか、こんな非常事態にイチャつくとか、やっぱりロリコンじゃないですか」

「……手癖の悪い馬鹿を躾けていただけで、別にイチャついてなんかない」

「はいはい、そういう事にしますから、早く適正距離を取って下さい。もう躾は十分です」

「あの……ナチュラルにロリコンとか躾とか言われると落ち込むんで、やめてくれませんか?」

 

 

 椿はまだ満足していないのか、不満そうに美代を睨みつけるが、美代も腹が据わったもので日常で見せる例の無表情で受け止める。ここまで慶次の主張は二人とも完全に無視だ。

 しばし睨み合った後、椿は慶次の剥いたミカンを口に詰め込んでから、慶次の真正面の位置から炬燵に入った。

 美代は口に微笑を浮かべると、慶次の横に座ろうとして――やっぱり恥ずかしくなったのか、炬燵の空いていた場所に座った。

 

 

「それでは、先ほどの情報の精査に入りましょうか」

「あ、普通に始めるのか……まあ、いいけど先に一つ訊いていいか?」

 

 

 先の事を完全に無視し音頭を取り始めた美代に、慶次が間に割って入る。話を始める前に、慶次は少し疑問に思っていた事を尋ねる。

 

 

「何かすごい自然に話に加わっているけど、美代ってどこまで“真実”を知っているんだ?」

「そんなの“紅世”も『フレイムヘイズ』も全部に決まっているじゃないですか」

「えっ!?」

 

 

 驚愕に表情を変える慶次に、椿が呆れながら答える。

 

 

「あんたが寝てる間に全部話したに決まってるじゃない。さすがに説明してもいない奴を付いてこさせないわよ」

「でも、あの時は声が出せなかったし、どうやって会話したんだよ?」

「手話よ……まあ、こいつが手話できた時には、私も最初は驚いたけど」

 

 

 すると美代は慶次には分からない手の動きを見せる。

 慶次が目線で椿に訊くと、

 

 

「右手が恋人、前田慶次」

「おいこら、ムッツリスケベ」

「な、何でムッツリスケベになるんですか……! そ、そういう想像する方がスケベです……!」

「ねえ、スケベってどういう事? 手が恋人ってどういう意――」

「それで、前田慶次の質問は以上か?」

「あ、ああ」

「それでは、新発田勝美より引き出した情報の精査に入るぞ」

 

 

 話しがどんどん脇道に逸れ始めたところで、アラストールが何とか手綱を取って元に戻した。

 美代はわざとらしく咳払いしてから、椿に話を振る。

 

 

「お父様の書斎にあった『敵』のリストから、何か分かる事はありましたか?」

「……これがリストだけど、正直お手上げね」

 

 

 椿がどこから出したのか、一つのファイルを炬燵の上に広げる。数十ページに及ぶファイルには、何時、どこで、何を購入したか事細かに書かれていた。土地や建物といった大きな買い物から、鉛筆や消しゴムといった自分で買えるだろうという物まで書かれている。 ここまで徹底して撹乱されると、カルの作戦に本当に必要だった物を割り出すのは不可能と言えた。しかし、美代はリストを見るなり、不審そうに眉根を寄せる。

 

 

「……おかしいですね」

「おかしいって……まあ、鉛筆ぐらいテメエで買えよ、とは思うが……」

「いえ、そうではなく……あまりにも情報が()()()()()ます」

「! なるほど、確かにおかしいわね」

 

 

 椿も得心がいったのか頷く。と、ここで二人から一斉に視線を注がれる。同時に可哀想な眼差しに変わる。

 一瞬で核心に迫るお前たちの頭がおかしいんだよ、と慶次は思うものの、黙って彼女たちの説明を待つ。

 

 

「新発田勝美の証言によれば、前田利期が行っていた調査っていうのは、ここに載ってるリスト……カルに頼まれて新発田勝美が購入や交渉、運搬した物に関してよ」

「それで、そのどこがおかしいんだ?」

「ちょっと訊くけど、リストを見てあんたは不審に思った?」

「いや、不審に思う以前に、内容がごちゃごちゃし過ぎて何が欲しいのかも全然分からん」

「私も同意見よ。だけど、前田利期が調査したって事は、何かリストに不審な点を見つけた……そういう事にならない?」

「! なるほど。確かに、リストの内容と父さんの行動の整合性が取れないな」

 

 

 ここまで説明されて、ようやく慶次も理解する。

 

 

「つー事は、父さんはこのリストを見て何か不審な点……っていうのは無理だから、リスト以外の情報から不審な点を見つけた……って所か?」

 

 

 椿と美代は揃って頷いてから、今度は美代が言葉を引き継ぐ。

 

 

「慶次さんのお父様は評判の悪い政治家でしたが、在任中は常に地盤は盤石でした」

「えっ? それ関係あるの?」

「大ありです。いいですか、地盤を盤石にするには、とにかく在任中失策を無くす事が肝要です。そのためには、石橋を叩いて叩いて叩きまくるのが、慶次さんのお父様ですよ」

「あんまり聞きたくない、親の一面だが……つー事は、そんなに慎重な父さんなら、ちょっと不審なだけじゃ調査はしないって事か」

「おそらく、確たる証拠がなければ、動かなかった」

「逆を言えば、父さんの手元には勝美のおっさんを調査するに足るほどの、証拠が揃っていた」

 

 

 情報の精査を重ねて進めていく推理。

 靄の掛かっていた六年前の事件が、段々とその姿を現してきた。

 

 

「そうなると、慶次さんのお父様を殺害した理由はどうなるのでしょうか?」

「そんな理由は後で考えて、その証拠とやらを探そうぜ」

 

 

 慶次の答えに、女性陣が二人揃ってため息を吐く。

 

 

「な、何だよ」

「あのね、慶次。書斎ひっくり返しても見つからなかった証拠が、本当に残ってるとでも思ってるの? 残っていたとしても、この六年間でカルが隠滅したに決まってるでしょ」

「うっ……」

「だから、今考えるべきは六年前の事件で残った一番の不審点、殺害の理由よ」

「……証拠持ってたからじゃねーの?」

「あのね、カルは『フレイムヘイズ』なのよ。わざわざ証拠が残る“殺害”をしなくても、証拠と記憶を消去すれば、事足りるでしょ?」

「……でも、実際は……」

「悪手だって分かっているのに、わざわざ人間を使ってまで“殺害”した。悪手を使わざるを得なかった」

「そして、その悪手の原因を突き詰めていけば、お義父様が持っていた“証拠”も見えてくるはず……なんです、が」

 

 

 うーん、と二人の美少女が揃って頭を捻る。

 おそらく、あと一歩。その一歩さえ詰めてしまえば、六年前の事件から今回の惨劇に繋がる情報が得られるはず。だが、その一歩が途轍もなく遠い。

 慶次も頭は捻ってみるものの、何も思いつかない。そのうち、凡人である俺に分かる訳ないと開き直り、のんびりとミカンを食べながら気楽に考え始めた。




相棒パート
もうちょっとだけ、続きます。


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第ⅩⅨ話 推理

推理パートの続き

※10月7日:夕飯がワープしていたので修正


「衝動的に殺害した……とは、考えられないですよね」

「当たり前でしょ。そんな奴だったら、慶次だってあんただって学校で殺されてるわ」

「明らかに私たちに苛立ってはいましたが……確かに、感情だけでは一線を超えませんでしたね」

「とはいえ、殺害する利益があるなら、あいつなら殺す事も厭わないでしょうけど……」

「殺害に利益、ですか……何とも邪悪な判断基準ですね。まあ、私では口封じぐらいしか思いつきませんけど、そこまでメリットがあるようには思えません」

「……私たちの知らない何かが、他にもあるかもしれないわね」

「殺害しなくてはならなくなる、何か……」

 

 

 あーでもない、こーでもない、と二人の美少女が言い合う。

 慶次はそれをミカンを食べながら、のほほんと聞いて……などいなかった。出てくる単語が殺害やら物騒だったのに加え、二人は慶次が足元にも及ばない才女同士だ。すぐに天才特有の飛躍する会話に付いていけなくなって、もはや慶次は考える事もやめていた。

 椿と美代は、それを特に咎めることなく議論を続ける。もちろん、二人とも慶次の態度には言いたい事はあったが、栄養補給は慶次の傷を癒すために必要な行為。これも立派な彼の役割であるため、好きにさせる事にした……まあ、たまに慶次の足を踏みつけるのはご愛嬌だろう。

 

 

「……もう一度、資料を見直しますか」

「……そうね」

 

 

 二人の白熱した議論が途切れたところで、険しい表情で美代が切り出した。

 行き詰った推理を打開するために、昨日の資料――慶次と椿がまとめた前田家に関する資料と、美代がまとめた六年前の事件に関する資料――を見直す。椿と美代が回し読みしているせいで、慶次の手元には資料が来ない。仕方なく二人が読んでいるものを覗き見る。

 

 

「椿、美代、何か分かったか?」

 

 

 慶次が尋ねると、二人揃って微妙な顔になる。

 

 

「殺害状況に、裁判の推移、事件後の堂森市……駄目、どこからも『弐得の巻き手』の関連性が見つからない」

「歴代前田家当主、前田家の功績、堂森市成立までの軌跡、前田家と『鬼灯の剣』……なんですか、この前田家賞賛の資料は? これがこの家から出て来たって、どれだけ自画自賛しているのですか?」

「こんなのしか出なかったんだからしょうがないだろ! つーか、そうじゃなきゃお前に頼らなかったっつーの!」

「それもそうですね」

 

 

 はぁっ、と三人揃ってため息をつき、資料を投げ出す。

 全ての情報は見直した。情報の精査も重ねた。今の推論に間違いはないと、椿と美代は自信を持って言える。

 だが、肝心要のカルの計画がまだ見えてこなかった。核心に迫る証拠に近づいてはいるものの、実際に判明するところまでいかない。あと少し……それが近くて、限りなく遠かった。

 議論の停滞に訪れる一瞬の沈黙。石油ストーブの淡い光だけが照らす凍えた部屋に、チクタクと時計の音だけが響く。一秒、また一秒、時を刻み、少しずつ夜へと向かっていく。たったそれだけの事が、無性に慶次たちに焦燥を駆り立てていった。

 

 

「昨日に続いて、スッキリしねぇな……」

 

 

 ――その言葉は、そんな苛立ちの末に漏れたものだった。

 

 

「いっその事、どっかに落ちてないものかね」

 

 

 慶次の発言に、女性陣二人して眉間に皺をよせ、厳しい目つきで慶次を見た。

 ちょっと軽口叩きすぎたか、でもこれも場の空気を変えるためなので見逃して欲しい、などと慶次が心内自己弁護に必死になっていると、

 

 

「落とした……いえ、()()()()とは、考えられませんか?」

「……なくはないけど」

 

 

 美代が言い直すと、椿が神妙な顔で肯定とも否定とも取れない返答をする。慶次としては単なる愚痴だったが思いの外、良い仮説だったらしい。椿と美代が揃って、何やら真剣に考え込んでいる。

 

 

「慶次の父親は慎重な男って聞いてたんだけど、そこはどうなの?」

「何事にも予想外は付き物です。どれだけ石橋を叩いても、一度の馬鹿で全てを崩す人だって、いるのですよ?」

「おい、そこで俺を見るな」

 

 

 慶次は反論するものの、心当たりがあり過ぎた。

 この話の流れは胃が痛くなる、と判断して話題を変える。

 

 

「そもそも、あれだ……何で失くしたってなると、可能性があるって事になるんだよ?」

「少し『弐得の巻き手』の立場に立てば分かるわよ」

「……分かんねぇよ」

 

 

 慶次が不機嫌を隠さずに言う。

 敵の立場に立つ。

 それは戦いにおいて、非常に大切な事だろう。だが、己の両親を殺すと下した思考……いくら時間が経ったとしても、感情が邪魔をして出来なかった。

 

 

「全部説明してくれ」

「……仕方ないわね。今回は特、」

「口封じが、必要になるんですよ」

 

 

 椿が説明する前に、美代がピシャリと言い切る。椿がじろりと睨みつけるが、美代は無視して説明を続ける。

 

 

「順を追って説明しましょう。まず、慶次さんのお父様が証拠を持っているという情報を『弐得の巻き手』が知る。そうなれば、『計画』を成功させたい『弐得の巻き手』は必ず証拠の隠滅に走ります。彼は『自在法』を使って、慶次さんのお父様の記憶を消去し、後は証拠の居場所と、他に証拠を知る者はいないか、尋問を行うでしょう……ですが、そこで証拠を()()()()となれば、どうなるでしょう?」

「……どう、なるんだ?」

「記憶を消去しても、自らの手で証拠を消していない。つまり千分の一、万分の一の確率ですが、証拠を再び見つける可能性がある。そして、慎重な慶次さんのお父様なら、このような重大な証拠を不自然に見落としている状況……自分の行動の不審な点に気づき、自らの手に負えないと判断を下すでしょう。きっと、政府などもっと大きな機関に情報を投げ捨てます。つまり、『弐得の巻き手』は万全を期すなら――」

「親父を、殺すしかなくなる……か」

 

 

 慶次は舌打ちすると、机に突っ伏す。

 色々美代と椿が説明してくれるが、何と言われても慶次には殺害理由がいまいち理解できない。いや、理解したくない。どんな理屈をこねようとも、たった一つの事実は変わらなかったからだ。

 

 

(やっぱり、母さんも、兄さんも、幸子も……全然、関係ないじゃないか)

 

 

 考えれば考えるほど胸糞が悪くなる事実。しかし、こうやって不愉快になっている時間もない。慶次は顔を突っ伏して隠したまま、話を続ける。

 

 

「だとしてだ。俺たちの次の手は、その失くした証拠を探すってところか?」

「まあ、そうなんですが……」

 

 

 歯切れの悪い美代。その先を、椿が引き継ぐ。

 

 

「時間が経ち過ぎよ。そもそも、六年間『弐得の巻き手』がここを一切調査してない訳ないでしょ」

「まあ、そうだよな……って、じゃあ、俺が何回も泥棒に遭遇したのは――」

「あいつの手の者って考えるのが自然でしょ」

 

 

 さらりと椿が背筋が凍ること言う。

 一歩間違えていたらどうなっていたか、考えるだけでゾッとした。

 でも、と椿が続ける。

 

 

「何回も遭遇するって事は、『弐得の巻き手』が証拠を中々見つけられなかった事でもある。案外、探したら見つかるかもしれないけど……」

「けど、何だ?」

「そもそも、どうして証拠を失くしたの? どうして、そんな事になったの?」

 

 

 腑に落ちない、と椿が頭を掻く。

 隣で美代も神妙に頷き、

 

 

「そうですね。六年間、見つからない場所にどうして失くしたのか……時間がない以上、せめてそれが分からないと、私たち三人では決して見つからないでしょう」

 

 

 二人の美少女が再び唸りながら考え始める。

 慶次は突っ伏した姿勢のまま顔だけを上げると、小さくため息を吐いた。

 

 

「……お前ら、これはそんなに難しく考えなくていいんじゃないか?」

「何言ってるのよ。危ない情報を『フレイムヘイズ』でさえ見つけられない場所に、六年間も隠す……普通の事じゃないわ」

「慶次さんが思っている以上に、これはすごい事なんですよ。きっと、普通の人では――」

「ああ、だからそんな難しく考えるなって」

 

 

 ややこしく考える二人を慶次は制止する。

 慶次の家族を死に至らしめ、『フレイムヘイズ』を翻弄する。確かに、行為の結果を考えれば、これはある意味偉業だ。だが、そもそも惨劇を引き起こす事まで読めるほど天才で、前田家を出入りできる者など存在しない。つまり、これはただの結果に過ぎないず、意識して引き起こした事ではないのだ。

 となると……というか、そもそも前田家で父の物が紛失するなど、()()()を除いて考えられない。

 

 

「幸子しかいないだろ、そんな非常識な事するの」

 

 

 悪戯盛り、甘え育てられた妹の名を、慶次は迷わず挙げた。

 

 

 

 

 慶次が幸子の名を上げると、真っ先に慶次から生前の幸子の行動範囲を訊き出し、捜査に取り掛かった。懐中電灯片手に、幸子が入れるであろう部屋から、隙間とも言える僅かな空間にも手や頭を突っ込み、証拠がないか進めていった。しかし、重症の上に隻碗の慶次には、身体を屈める事も、狭い場所に腕を入れる事もできなかった。

 

 

「で、俺は何をすれば?」

 

 

 身を屈めた事で、四つん這いとなった二人に慶次が尋ねる。ちなみに、慶次の立ち位置は彼女たちの背後であり、極々自然と臀部を慶次に突きつける形になっている。もちろん、慶次は彼女たちの集中力を削がせない……という建前で以て、教えなかった。

 

 

「六年前の妹の行動を思い出していなさい」

「まあ、やるだけやってみるけど……」

 

 

 椿に言われ、慶次は六年前のあの日を思い出してみる。視線は美代と椿に固定したまま。

 

 

「六年前ってーと、うちのお姫様は滅茶苦茶不機嫌だったな……ま、そのおかげで俺とじいちゃんは助かったんだけどな」

「助かった?」

「ああ。せっかくのクリスマスだってのに、ずーっと不機嫌だったから、ご機嫌取りにオリジナルのクリスマスツリー作ってたんだけど、それでもあれが欲しい、これが欲しいって言われてな。それで言われた通りの物を買い出しに行って買ってくると……まあ、結果的に幸子の我が儘で、俺は助かったって訳だけど…………あっ」

 

 

 突如、固まる慶次。徐々によみがえる記憶。その中に、なぜ今になって思い出すのかと問い詰められそうな内容が、ぎっしり詰まっていた。

 何時の間に振り返った美代と椿が、不審と語っていた眼差しが、次第に呆れに変わっていく。

 

 

「慶次さん」

「な、なんでしょうか?」

「今度はどんな重要な事を今さら思い出したのか、とっとと吐いて下さい」

 

 

 椿と美代が捜索の手を止め、慶次に詰め寄る。二人とも、目が真剣(マジ)だ。

 慶次は冷や汗を流しながら続ける。

 

 

「えっと……幸子の不機嫌の理由は……」

「理由は?」

「幸子が父さんの書斎から、大事なものを取っていって、珍しくかなり怒られたからでした……」

 

 

 慶次の目の前で、苛立ちで二人が青筋を立てていく。なぜもっと早く言わないのかと、表情が訴えかけてくる。慶次自身、その意見には同意するが六年も前の事なのだ、大目に見て欲しい。そもそも、思い出した事を褒めて欲しい。もちろん、この空気で慶次が言えるはずもなく、最後の爆弾を投下する。

 

 

「あと……」

「……あと?」

「その時、家中探してました! つまり、家の中に例の“証拠”とやらは、六年前からありませんでした!」

「「…………」」

「あだだだだ!!」

 

 

 椿と美代は、無言で慶次の耳を引っ張った。

 

 

 

 

「庭? 本当にそんなところにあるの?」

 

 

 椿が疑いの気持ちを隠さずに、訊き返す。

 慶次が椿と美代の折檻から解放された後、最後の心当たりを告げた。それが、今や見るも無残な有様になった、前田家の庭だった。

 家の中を除いて、幸子が行動可能な範囲を考えれば、庭しかないという消極的な理由。それに加えて、もう一つ思い当たる節が慶次にはあった。

 

 

「小学校の時、一時期タイムカプセルでも埋めないかって話があったんだよ。で、幸子にその話をしてたら、しばらく色んなところに穴掘ってたから、もしかしたら一緒に埋めたかもしれん」

「……本当?」

「俺も一緒に幾つか埋めたから、可能性は十分ある」

「一つじゃないの!?」

 

 

 椿は右手のシャベルを、次いで前田家の広大な庭(ほとんど手入れなし)を見てげんなりする。封絶を張って、そこらをぶっ飛ばしてから証拠品を復元……とやりたいが、そうすればカルに椿たちの狙いがバレる。したがって、この広大な庭を椿が己が手で掘らねばならないのだ。幼児の幸子が埋めたため深くはないとはいえ、これだけ広い庭を掘るのは、例えフレイムヘイズでも少々骨が折れる。

 

 

「ほらほら。分かったらキリキリ掘る」

 

 

 それに加えて、縁側で饅頭を頬張りながらお茶を啜る慶次(ばか)

 無論、彼が重傷で今すぐにでも栄養補給が必要とは分かっている。分かっているが、自分が単純労働に励むのに対し、こうも堂々と寛がれては不満が大きくなる……ちなみに、美代は台所で夕飯作っており、ここに来てからというもの、すでに慶次の数倍は働いている。

 

 

「わっ! こら! こっちに飛ばすなって!」

 

 

 椿は土を掘るついでに、調子に乗った慶次に雪の混じった土をぶっ掛ける。二、三回土を被ると、慶次は口に饅頭を詰めて片手に湯呑みで逃げ出す。彼の情けない姿に溜飲を下げたところで、作業に集中する。

 すでに外は暗闇に包まれている。しかし、決して雪は途切れることなく降り続け、今もなお白い絨毯を分厚くさせていた。インフラの吹き飛んだ堂森市で、当然灯りなどない。降り積もった雪をかき分け、数年前に埋められたタイムカプセルを掘り起こす……フレイムヘイズの椿でも、気を抜けば見落とす可能性は十分にあった。とはいえ、時間も無限ではない。慎重かつ迅速に。相反する二つを、椿は慣れない作業の中で拙いながらも果たしていった。

 

 

 

 

 時間にして二時間ほど。

 庭のおよそ三分の一を掘り起こした頃、ちょうど縁側の死角になっている場所で、シャベルの先が何かにぶつかった。椿はそれを傷つけないように、手慣れた手つきで雪を、土をかき分けていく。そして現れたのは、光沢を失った金属製の箱だった。

 

 

「これで()()()か……」

 

 

 額の汗を拭いながら、抑揚のない声で椿が呟く。一個目、二個目で盛大にぬか喜びし、三個目で慶次に飛び蹴りと一緒に箱を投げ飛ばしてからの、四個目。さすがに、喜びよりもまたか、という気持ちの方が大きくなっていた。

 それでも、もしも、という事がある。箱に付着した泥を僅かに掃うと、縁側で待機している慶次に持っていく。

 縁側の死角から離れると、慶次と一緒に美代もいた。

 

 

「椿さん、それで四つ目ですね」

「ええ……どうして、こんなに埋まってるんだか」

「しかも、テストの答案まで入っているだなんて、これを埋めた人は恐ろしく卑怯で卑屈で愚鈍な人間だったのでしょう」

「きっとスケベで頭が悪――」

「悪かった! 俺が悪かったから、二人して俺を詰らないでっ!!」

 

 

 無駄な苦労させやがって、と椿と美代が慶次をチクチク責めながら、光沢を失った箱を開ける。中にはお菓子のおまけの玩具屋、訳の分からない金属片など、今までと変わり映えのない、幸子目線の宝の山が出てきた。

 また外れか。全員の気持ちは一致するが、それでも念のために箱をひっくり返し、中の隅々まで目を通すと――一枚の紙がヒラヒラと宙を舞った。

 今まで出た物はプラスチック類や金属片など、金属光沢や鮮やかな色彩を放つ、子ども目線に分かりやすい宝物だった。だが、この一枚の紙はそれらとは一線を画しており、明らかに異質であった。

 椿が紙を引っ掴み、慶次たちは椿の隣でそれを覗きこむ。写真だった。そこには、薄汚れた小さな箱の中に、虚ろな目でぐったり横たわった小型犬が映し出されている。

 慶次にはそれ以上の事は分からなかったが、椿と美代には何か分かるものがあったのか、二人とも表情を変えた。特に美代の様子は普通ではなく、明らかに顔が強張っている。

 

 

「美代、何か分かったか?」

「まさか……しかし、これなら辻褄が……でも、そうなれば私たちは……」

 

 

 美代はぶつぶつ呟きながら、胸元で右手を何かを梳く動作を見せる。彼女が深く思案する際の癖だが、髪が焼け落ちた今となっては、美代の異常を知らせるだけだ。

 慶次は思わず椿を見るが、彼女も小さく首を振る。

 

 

「私が分かったのは、この写真に写っている犬が“狂犬病”に疾患しているって事ぐらいよ」

「狂犬病? あの狂犬病……つっても、まあ俺は詳しく知らんが、そんなにヤバいものか?」

「一応、人に感染し発症した場合の死亡率はほぼ100パーセントだから、十分に危険なウイルスと言える。けど、こいつがこれほど取り乱す理由にはならないわ」

 

 

 椿も見当もつかないのか、彼女も困惑した表情で美代を見る。

 相も変わらず、独り言を呟きながら忙しく右手を動かす美代。その様子は確かに尋常ではなく、顔色も悪いが瞳から力は失っていない。今の美代なら、自暴自棄になる事もないだろう。

 慶次は美代を信頼し、彼女が落ち着くまでしばらく待った。

 五分も経たないうちに、美代は呟くのを止めた。そして、慶次と椿を見るなり、

 

 

「パンデミック……それが奴の狙いです」

 

 

 恐ろしく青白い顔で、美代が絞り上げるような声で言う。パンデミック――カルは世界的な感染症の流行を狙っている――と。“紅世の徒”『フレイムヘイズ』と違い、慶次の“日常”……というより、人間社会側に属する言葉ではあったが、それでもやはり現実離れしており、慶次には今一つ緊張感が伝わらない。

 

 

「それは、一体どういう意味?」

 

 

 椿も美代の真意を測りかねているのか、彼女の質問も要領を得ない。

 

 

「……一から順に説明します」

 

 

 長くなりますから、と美代は付け加えると、リビングへと向う。

 リビングには美代が調理していた、シチューの匂いが溢れていた。蝋燭とストーブの淡い光しかなく、まともに視界が確保できないせいなのか、匂いだけで空腹が促されていく。

 これだけの料理を、手元に灯りはなく材料も乏しい中、作ったのだ。相変わらずの才女っぷりに内心感心する慶次だが、今の美代はそんな事も頭の片隅にもないのか、料理の用意もしないまま炬燵に座る。椿が匂いの元のキッチンをチラチラ見ているが、慶次が先に炬燵に入ると諦めたように彼女も腰を下ろした。

 椿と慶次が座った事を確認するなり、美代は話を切り出す。

 

 

「まず前提条件として、確認しなければならない事があります。敵……すなわち、『弐得の巻き手』の目的『フレイムヘイズの使命を完遂する』とは一体何でしょうか?」

「そりゃ、使命完遂なら……“紅世の徒”の討伐じゃねーの?」

 

 

 慶次の回答に、椿は首を横に振る。

 

 

「私たち『フレイムヘイズ』の使命は、『この世と“紅世”のバランスを守る』事よ。“紅世の徒”の討滅は、そのための一手段でしかないわ。その証拠に、“屍拾い”と呼ばれる“紅世の徒”は消滅しかけたトーチのみしか集めないから、例外的な“徒”として見逃されているのよ」

「うへぇ……そんな奴もいるのかよ」

「まあ、今は“屍拾い”の話はいいわ。ともかく、『フレイムヘイズ』の使命は『この世と“紅世”のバランスを守る』……それを完遂って事なら、『この世と“紅世”のバランスが崩れなくする』ってところかしら」

「つまり、敵の目的は現在の対処療法的な“討伐”ではなくて、『歪みの原因そのものを断ち切る事』だとは考えられます」

 

 

 美代は言いながら、紙に一文を書く。

 ――“紅世の徒”は『人間』から“存在の力”を奪う。

 世界から歪みが生まれる仕組みを、端的に表した一文だ。

 

 

「敵の狙いは、この文章が成り立たない様にする事です」

 

 

 慶次が『なるほど』と頷いている間に、“存在の力”の上に一本、横線が引かれる。

 

 

「“存在の力”はこの世に存在するための、根源的なエネルギーです。これをどうこうするのは、議論の埒外でしょう。となると、通常なら“紅世の徒”を討伐、もしくは追放する方法を考える所ですが……」

 

 

 続いて、“紅世の徒”の上に×印が付けられる。

 

 

「敵の戦力や“存在の力”を採取していない事から、武力や『自在法』による解決を画策していないと判断されます。そうなると――」

「待て待て待て!」

 

 

 慶次は思わず叫んで美代を制止してしまう。

 一文の中、美代が残した箇所は『人間』。

 

 

 ――“紅世の徒”は『人間』から“存在の力”を奪う。

 

 

 この文章を不成立させるために、『人間』をどうすればいいのか。彼女が初めに言った『パンデミック』と繋がり、恐ろしい想像が浮かび上がってくる。

 

 

「人間を、滅ぼそうとしてるとでも、言うのか……!?」

 

 

 言いながら、慶次は己の言葉が身体を透き通るような錯覚に襲われる。

 そう、単純に考えれば、『人間』を失くしてしまえばいい。だが、全く現実味が湧いてこなかった。されど、焦燥感や不安はどんどん積もっていく。まるでこれが現実であるかのように……否、紛れもなくこれが慶次たちの現実だった。

 愕然とする慶次で、椿は僅かに眉根を寄せただけで、美代に問いかける。

 

 

「『人間』を滅ぼす事ができれば、“紅世の徒”は“存在の力”を補給できなくなり、自然消滅するけど、それじゃあ慶次は何で襲われたのよ?」

「慶次さんが感染者だったからです」

「うえっ!?」

 

 

 美代の回答に、取り乱す慶次。突然、訳の分からないウイルスに感染している、と言われたのだ。取り乱さない方がおかしい……と慶次は思うのだが、椿も美代もアラストールも落ち着き払った目で慶次を見る。

 

 

「大丈夫ですよ、慶次さん。いえ、むしろ大丈夫だから、慶次さんは襲われたんですよ」

「……あの、意味が分かんないんですけど」

「『宝具』の効果、覚えていますか?」

 

 

 覚えているも何も、現在進行形で慶次は『宝具』を使用している。このバット型の『宝具』の事なら、慶次は椿よりも分かっている自負があった。

 

 

「そんなもん、身体の強化と再生……って、あ!」

 

 

 再生……その効果は、傷の治りを早くする事を意味する。

 ――だが果たして、それは傷だけに適応されるのであろうか。

 答えは否。

 事実、慶次は“燐子”に襲われた日、身体が怠かった――今思えば、あれがウイルスのせいだったかもしれない――が、『宝具』を振っている内に治っていた。『宝具』の効果は病にも適応される。

 慶次は知らず知らずのうちに、カルの計画の根幹たるウイルスに対する抗体を作っていたのだ。

 

 

「つまり、俺が襲われたのは、本来なら発病して堂森市を滅茶苦茶にするはずだった俺が、いつの間にか超元気になっていたから?」

「ま、一人分の抗体だから、対した障害とは思ってないみたいだけど」

「元気じゃなかったらそのまま死んで、元気になったら殺されそうになるって……んな理不尽な」

「今さらでしょ」

「……だな」

 

 

 がっくりする慶次を、椿がばっさり斬る。もう少し言い方があると思うが、まあ不幸で理不尽な目に遭っているのは事実。変に慰められるよりも、はっきりと言われた方が慶次も開き直れるので、椿に感謝の念だけを送る。

 

 

「時系列にまとめてみましょう」

 

 

 美代が一際大きな用紙を広げ、流れるような筆遣いで時間を追っていく。

 ――まずは、八年前。

 

 

「ウイルスの作成には医療関連の研究施設が必要です。この堂森市は新開発の際に建てられた、しかも余っている施設がありました。敵は、そこに目を付けて、お父様の弱みに付け込み、拠点を手に入れたのでしょう」

 

 

 ――続いて、六年前。

 

 

「ウイルスの作成には、既存のウイルスを変容をさせるのが一番の近道です。その一環として、狂犬病のウイルスを輸送したようですが、慶次さんのお父様に見つかってしまった。事態の収拾を試みるも失敗し、惨殺事件に見せかけて証拠の隠滅を行った」

 

 

 ――時間は一気に飛び、数日前。

 

 

「八年間でウイルスが完成した。秘密裏に慶次さんに感染させ、人知れずウイルスを拡散させようとしました」

 

 

 ――慶次の人生が決定的に変わった、二日前。

 

 

「慶次さんの病状も進行し、拡散もいよいよとなった時、彼にとっても予想外の事が起きた。慶次さんが『宝具』を偶然手にした事です。病状が一気に回復している事に気づいた敵は、“燐子”を差し向けましたが、寸での所で椿さんが来てしまった」

 

 

 ――そして、現在。

 

 

「積雪によるウイルス拡散の鈍化と、椿さんによる調査……敵にとって、時間は決して味方してくれない状況になりました。ゆえに、敵は作戦を変更し、堂森市に一気にウイルスを拡散する方針に変えた。しかし、ここでも予想外の事態――地震が起きました。結果、インフラが完全に壊されてしまったため、ウイルスは完全に堂森市内で留まり、敵は事態を静観するしかなくなった……」

 

 

 美代の手が止まる。

 ――ここから先は、まだ書き記す事の出来ない。慶次たちの行動次第で決まる未来。

 

 

「感染爆発が起きるまで、どれぐらいの時間が残ってそう?」

 

 

 椿が美代に問い質したのは、絶望までのタイムリミット。美代は問われ、ただでさえ悪かった顔色をさらに青白くする。

 慶次たちに残された時間……それは、大きく見積もり過ぎれば、ウイルスの拡散を許してしまい、少なすぎれば慶次たちの道筋を極端に狭めてしまい、カルに隙を与えてしまう。これは慶次たちの選択肢を決める、重大な予想だった。

 彼女の明晰すぎる頭脳が、問いの重責にいち早く気付いてしまったのだ。だが、美代も半端な覚悟で()()にいる訳ではない。重責を振り払うように鋭く息を吐くと、椿の目を見て真っ直ぐに答えた。

 

 

「これだけ広範囲な地震と降雪です。周囲の市町村も堂森市と同じような状況と考えても、天候が上向き次第、状況把握の人員はすぐに辿りつくはず。となれば――」

 

 

 ここで美代は立ち上がると、カーテンを一気に開け放つ。蝋燭の淡い光が庭を照らす。雪は未だ降り続けていたが、朝に比べれば格段に弱まっていた。

 

 

()()

 

 

 美代は慶次たちを振り返り、震える唇で言った。

 

 

「……」

 

 

 あれだけの災害があって、人も物も壊されて……不幸の中に偶然落ちてきた幸運は、たったの一日だけ。慶次はすぐには声を返せなかった。それだけ、美代の口から告げられた事は衝撃的だった。

 

 

「カルの狙いはパンデミック……という事でいいか?」

「ええ、私からは異論はないわ」

「我からも特にはない」

 

 

 念のため慶次が確認すると、椿とアラストールから肯定が返ってくる。それが推論により真実味を持たせる事になり、慶次の胸に何か重たいものが圧し掛かるような感覚に襲われる。だが、それがどうした、と慶次は重くなる胸を努めて無視し、一番重要な事を、その口から吐き出す様に問う。

 

 

「――それで、どうする?」

「戦う」

 

 

 間髪入れず、椿から答えが返ってきた。

 打てば響くその答えに、以前までの迷いはない。それどころか、黒寂びた眼光は慶次が今まで見た彼女の中で、一番燃え上がっている。

 

 

「人類を滅すれば、世界が救われる? 使命が完遂できる? ……怒りを通り越して呆れるわ。世界はそんなに簡単に出来てない。人類がその数を急激に減らすような事になれば、残った“存在の力”の奪い合いになる。そうなれば、未だ嘗てない闘争が、世界に大きな歪みを生む――そんな事、断じて認められない」

 

 

 椿がそれに、と付け加えると、視線を別の方角へ向ける。その先は、仏壇がある部屋だった。

 椿は吐き出すように続ける。

 

 

「不愉快なのよ。人間の全てを奪う、“紅世の徒”のような行動が」

 

 

 椿は不快を隠さず言い放つ。そこに使命もフレイムヘイズもない、ただ一人のヒトとしての感情が込められている。負の感情であれ、初めて彼女の本音を聞けた気がして、慶次は少しだけ嬉しかった。

 

 

「その戦い、もちろん私も参加させていただきます」

 

 

 いつの間にか戻ってきた美代が、炬燵に入りながら続ける。

 

 

「敵の計画の成否に関わらず、パンデミックが起きてしまえば私たちの生きる場所はなくなってしまいます。この地に……いえ、この世界に生きる一人の人間として、全霊を持って協力しましょう」

 

 

 これで三人中、二人が『戦い』を選択した。

 答えを示していない残りは一名。自然と全員の視線が慶次に集まる。

 慶次としては、選択肢は一つしかない。もちろん、同調圧力などではなく、カルに直接命を狙われているという、差し迫った危機があるためである。しかし、それがなくても……きっと慶次はその選択肢を選んでいただろう。

 過去の惨劇を本当の意味で、終わらせるため。

 真の意味で過去と決別し、新たなる未来を始めるため。

 慶次は覚悟を込めて、その選択を声にする。

 

 

「俺も戦う」

 

 

 慶次の覚悟の意味を、椿と美代がどこまで理解したのかは分からない。ただ二人とも、静かに頷いてくれた。

 

 

「「「…………」」」

 

 

 突如、しんみりした空気が流れる。真っ先に耐えきれなくなった慶次は、あからさまに話題を変える。

 

 

「そ、それじゃあ、これから飯にするか!」

「「………」」

 

 

 全員が覚悟を決めた直後に食事……もう少し、せめて作戦会議とか、もっと話題の変えようがあるだろうと、椿も美代も揃って笑い出す。だが、二人とも異論はないのか、美代は準備を始め、椿は指示に従う。

 すぐに炬燵には、シチューとサラダが並んだ。

 三人は揃ってスプーンを手に取る。

 

 

「そうは言っても、さっきからずっと、お預け状態じゃんよ。どうせ、飯食いながらでも話はできるんだしさ、とっとと食おうぜ」

「はいはい」

「しょうがないですね、慶次さんは。それでは、」

 

 

 ――いただきます。

 三人は声を揃えて、笑いがながら言った。

 

 

 

 

 

 

 椿の胸元の神器“コキュートス”で、アラストールその様子を感慨深く見ていた。

 食べるという行為に、ただ一種の娯楽としか見てなかった少女が、今や食べる以外の楽しみをそこに宿していた。それを必要な事とはアラストールは思わない。ただ、少女のこういった姿を見るのも、決して悪くはないというのも事実だった。

 ――この時が再び来るように。

 椿の胸元の神器“コキュートス”では、アラストールが魔神らしからぬささやかな願いを祈った。




ようやく、事件の大よその概要が判明。
分からないところがあればご質問ください。


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幕間Ⅱ 決戦前夜(前編)

遅くなってすみません。

ここからまた完結目指して頑張ります。


 白い息を吐きながら、身体をソファーに投げる慶次。そのだらしない姿には、でかでかと『疲れた』と書いてあった。それもそのはず、夕食後に始まった作戦会議は議論に火が……否、炎が燃え上がり、終わった頃には夜も更けに更け、日付が一日進んでいたのだ。『宝具』の力で肉体的な疲労は回復したが、精神的な疲れは如何ともし難く、慶次はすっかり疲労困憊であった。ちなみに、『宝具』の扱いにもすっかり慣れたもので、ケースを肩に掛けながらも、器用に寝転がっている。

 慶次のだらしない姿に、炬燵の上の“コキュートス”から呆れた声が上がる。

 

 

「貴様、疲れた顔をしておるが、黙って聞いてただけではないか」

「うっ……」

 

 

 確かにアラストールの言うとおり、数時間の議論中、慶次はほとんど聞くだけだった。だが、これには慶次にも言い分がある。

 

 

「いやいやいやいや、あのワープ議論に入れって方が無理だろ!」

 

 

 天才と言っても差し支えのない頭脳を持つ椿と美代。そんな二人が時間的余裕のない現状で議論を行った事で、恐ろしい化学反応が起きた。

 それがワープ議論(慶次命名)。論理の過程をすっ飛ばして、互いの結論だけで会話をする凡人泣かせの議論法だ。例えるなら、早押しクイズで二人して問題文が読まれる前に解答する――というのは少々大袈裟だが、それだけ二人の会話が慶次を置き去りにして行われたという事だ。

 凡人たる慶次にとって、あんな議論とも思えない議論は、理解するだけで精一杯であり、十分疲労に値するものであった。もちろん、働いたかと問われれば目を逸らしてしまうしかないが。

 

 

「それに作戦の内容が内容だけに、な」

「うむ……」

 

 

 ため息を吐く慶次に、アラストールも重く唸る。

 椿と美代は文句なしの天才だ。その二人が、全身全霊で日を跨ぐほど議論を重ねて出した作戦は『杜撰』の一言だった。裏を返せば、そんな作戦しか立てられないほど、状況は最悪だった。当然、病院で決めた作戦は全て却下となっている。

 

 

「と言う訳で、俺も女性陣たちに倣って、しっかりと休息を取らせてもらうわ」

「貴様はずっと休んでおろうが」

「ははは」

 

 

 慶次はアラストールの苦言を流しながら、視線を浴室のある方角へと向ける。水が弾ける音と、姦しい女性たちの声が漏れ出ている。

 椿と美代は現在入浴中であった。どうせ明日には決着は着くのだ。彼女たちには本日の労働の正当な対価として、災害時の水不足に対応するための慶次宅の貯水タンクを贅沢に使ってもらっていた。入浴までに、椿が『清めの炎で十分』などとのたまって入浴を拒否したり、その女性らしからぬ発言に美代が割かし本気の説教をしたりなど、紆余曲折があったのは余談だ。

 ともかく、今、リビングには慶次とアラストールしかいない。

 慶次はソファーに思いっきり身を預ける。慶次が生まれる前に購入した物のためか、キシキシとスプリングのどこか小気味の良い音が聞こえる。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

 瞬間、訪れる沈黙。意外にも椿が潤滑油となっていたのか、気まずい空気が僅かに流れる。

 

 

(いや、意外なんかじゃないか)

 

 

 真実が分かったからこそ、慶次とアラストールの間に僅かなわだかまりが生まれていた。それが表出しなかったのは、直接は関係ない椿が間にいたからだった。

 おそらく、椿が戻ればまた隠れるであろう溝だが、“後の事”を考えれば放置しておくのは拙い。

 慶次はソファーに身を預けたまま、虚空に向けて声を上げた。

 

 

「なあ、アラストール」

「なんだ」

「カルの事……話してくれないか?」

「……」

「俺は、もっと知りたい」

 

 

 六年前の惨劇と現在が繋がった今、慶次にとってカルは明確に仇となった。そして、アラストールはその仇の育ての親で、しかも事件と遠因となった。しかし、話しは全て椿の口から聞いていた。アラストールからは当時の詳細も、彼の気持ちも聞いていない。

 話したくないのか、話せないのか。慶次には、その判断もつかない。分かっているのは、本来ならゆっくり話し合うべき繊細な問題だという事だけだ。しかし、生憎と時間は残り少なく、再び時間が取れるとも限らない。

 今この場で話すしかなかった。そして、そのためには必要以上に相手の心へ踏み込み必要がある。その際、醜い所を多少なりとも晒す事になるだろう。その姿を、椿や美代に見せるのは慶次の望むところではない。おそらく、アラストールにとっても。

 話すなら今を置いて機会はない。

 

 

「結局、どうしてこうなったんだよ?」

 

 

 何が原因となって惨劇が起きたのか。まずはそれを知るために、慶次は椿のお株を奪うような、容赦のない質問をアラストールに浴びせた。

 アラストールは数瞬置いてから、答えてくれた。

 

 

「カルは……いや、我もカルも彼奴らの事を理解できていなかったのであろうな」

 

 

 普段の数段低い声であった。

 

 

「彼奴ら? っていうと、病院で椿が話した『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルと、“虹の翼”メリヒムの事か?」

「うむ」

 

 

 『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルと“虹の翼”メリヒム。

 病院で椿から語られた、彼女の出生の秘密。その中に出た知識・戦闘両面の師が彼らであった。

 当時、アラストールは『カイナ』という『宝具』の中に留まっているだけだった。力を具現化する事もできなければ、“存在の力”を繰ることも出来ない。彼が動けないとなると、単純な引き算で『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルと“虹の翼”メリヒムの両名、もしくはいずれかがカルに重傷を負わせた、という事になる。

 アラストールは非常に言いづらそうに続ける。

 

 

「あの子は、先刻は説明しなかった、いや知らなかったのだがな……まあ、その、我らの中でも恋愛というものがあって、な」

「へー、“紅世の徒”も恋するんだな……って、この話、関係あるのか? 個人的にはもっと聞きたいけど」

「関係あるのだが、その……ヴィルヘルミナ・カルメルは“虹の翼”を好いていて、な」

「養育係同士“紅世の徒”と『フレイムヘイズ』の禁断のラブロマンスか」

「いや、“虹の翼”は先代の『炎髪灼眼の討ち手』を好いていて、な」

「……ほう、敵味方同士“紅世の徒”と『フレイムヘイズ』の禁断のラブロマンスか」

「……我とマチルダは互いに愛し合っておって、な」

「……それは、また随分と、胃が、うん、痛くなる環境だな」

 

 

 アラストールの説明に、慶次は思わず頭を抱えたくなる。

 どんな事情があったかは知らない。きっと彼らとて、そんな環境を作りたくと作った訳ではないだろう。それに、最終的に椿と言う非常に優秀な『フレイムヘイズ』が誕生したのだ、各々が仕事に徹したのだって分かる。しかしだからと言って、昼ドラが一本書けそうな愛憎飛び交う四角関係(故人一名)の中で人を育てていたとは、とてもではないが慶次には正気の沙汰とは思えなかった。

 慶次は目頭を指で揉みながら、先を促す。

 

 

「それで、理解していなかったっていうのは、どういう事なんだ?」

「彼奴らが()()に協力した訳はそれぞれ異なるが、その根幹にあったのは先代『炎髪灼眼の討ち手』マティルダ・サントメールに対する愛だ。我とカルはその深さを見誤っていた」

「……」

「“虹の翼”など、我が彼奴の最期に感謝を伝えた際、激怒された。我の為ではない、マティルダの愛の為だ、とな。分かってはいた……彼奴も、我に劣らずマティルダを愛していた、と。だが、真の意味で理解はできていなかった」

「そう、だったのか」

 

 

 『フレイムヘイズ育成計画』。彼らの人間関係を知ると、そこにはさらに別の意味がある事を慶次は理解した。

 『カイナ』に“虹の翼”メリヒムを置き全体の運営管理、その他の実務的な運営を『万条の仕手』ヴィルヘルミナが行い、『フレイムヘイズ』を育てる……つまり、メリヒムとヴィルヘルミナが一生そこにいられる環境を作る、その隠れた意味は――。

 

 

「暗にマティルダさんからヴィルヘルミナさんに乗り換えろってか? ……言い分は分かるが、さすがに、それは無神経すぎないか?」

「それは極論ではあるが、結果的にそうしろと勧めていたのは確かだ。だが、あのまま続けておれば、“虹の翼”は死に『万条の仕手』は親友に続けて愛する者も失う事は確定していた。事実、“虹の翼”は最後にはあの子と戦い、死に、『万条の仕手』は消えぬ傷を負った。カルは、その確定した未来をどうにかして変えたかっただけであった……それが例え、己の愛を捻じ曲げてしまう結果になろうとも、な」

「それだけ愛していたのか」

「ああ。だからこそ、全てを踏み躙られてしまった、あの時……カルはすでに壊れていたのやもしれぬ」

 

 

 アラストールのポツリと零したそれに、どれだけの悔恨が篭っていたのか。慶次は何とも言えぬ気持ちになる。

 誰も彼もが自分の大切な人を愛していた。深く深く愛していた。だからこそ、後戻りすることが出来ず、閉ざされた未来しか見ることが出来なかった。

 カルもそんな彼らを愛していた。彼らが雁字搦めにされた鎖を解こうとした。だが、その優しすぎる救いの手は、無情にも断たれた――愛するがゆえに。

 愛する人たちに拒絶され、未来を断たれて、正気でいられるはずがない。狂ったカルは、『使命』に縋るしかなかったのだろうか。どんな手段を用いても、『使命』を完遂さえすれば全員の()に報えると思って――。

 あまりにも、救いがなかった。

 だからこそ、だろうか。先刻、アラストールには珍しく、直接美代に助言を与えたのは。

 愛の強さだけではない。愛の恐ろしさも知っているからこそ、ただ盲目にならないように。

 ――それでは、まるで。

 そして慶次は、ずっと目を逸らしていた事実に気づかされる。

 

 

「なあ、アラストール」

「何だ」

「…………一つ、訊きたいっ」

 

 

 慶次の喉が酷く乾いて、声が詰まる。いっその事、訊かなければ、言わなければ誰も気づかないと、頭の片隅でそっと囁かれる。

 ――それでも、アラストールが答えてくれたように。

 慶次は掠れる声でアラストールに問うた。

 

 

「家族の過ちは、どうやったら償える?」

「…………」

 

 

 六年前の惨劇で一人の男性が犯人として捕まった。祖父は彼をあらゆる手で追い込んだ。息子を、その妻を、孫を、愛していたから。そして逮捕から僅かに二年後に、死刑は執行された。

 だが、全てはカルが仕組んだ事であって、男性に罪はなかった。

 もし、祖父が愛に壊れていなかったら。きっと今も裁判は続いていただろう。例え判決が出ていたとしても、死刑は執行されていなかっただろう。死ぬ事だって、なかっただろう。

 これは日常を過ごしてさえいれば、決して気づく事がなかった祖父の過ちだった。

 

 

「致し方ない事だ。それに、お前が背負う業ではない」

 

 

 確かに、アラストールの言う通りそこから目を逸らし続けるのは簡単だった。真実を知る者は慶次とアラストール、そして椿と美代だけ。加えて、これは日常から離れた『非日常』の出来事。日常に生きる人々は、絶対に気づけない。きっと、誰も慶次や祖父を責める事はないだろう。

 それでも、慶次はその罪から目を背けたくはなかった。

 

 

「そりゃ、俺がやった事じゃないし、仮に償ったとしても誰も褒めてくれないし、気づきもしないだろうな」

「ならば、なぜだ?」

「じいちゃんが大切だから。大切な人を、間違ったままにしたくない」

 

 

 亡くなる直前まで、惨劇に囚われてしまった祖父だったが、それでも慶次は彼が好きだった。否、大好きだった。だから、彼を間違ったままにしておけなかった。

 カルが愛していたように、アラストールもカルを愛していた。だからこそ、壊れてしまった彼を止めると決意した。

 胸に秘めた志も信念も、慶次とアラストールの間には天と地との差があるだろう。だが、他者を想う気持ちで動くのは同じだった。

 互いに、どこか似た感情で動いているからこそ、慶次は自分に何ができるのか、アラストールに訊きたかった。

 

 

「もう一度訊く。家族の過ちは、どうやったら償える?」

「我も明確な答えを持ち合わせてはおらんが……形にせねば償えぬと我は考えている」

「具体的には?」

「我らはカルを止めた後は、この街の復興とお前の援助を行うつもりだ。それで償えたとは思わんが、何もしないよりは良い……して、その男に家族はいたか?」

「……ああ。妻と子ども二人」

「ならば、お前が最初に出来る事は彼らの支援ではないか」

「……そうか……」

 

 

 慶次は再びソファーに身体を投げ出す。

 当然、その事は慶次とて考えた。だが、慶次の身の上はただ苦学生。当たり前だが、三人も養える資金力はない。加えて、現在三名とも堂森市にはいない……否、堂森市にいられなかった。

 まずは彼らを探す所から始めるか、と慶次が考えていると、解決法は意外なところ……というか、アラストールだった。

 

 

「先も伝えたが、我らはお前の支援も行うつもりだ。彼らの支援も、その際、取り図ろう」

「えっ、いいのか……じゃなくて! こういうのは俺がやるべきじゃ、」

「馬鹿者。彼らが救われる事が重要なのであって、手段は問題ではない」

「いや、そうだけど。でも、それでいいのか?」

「お前が我に言わなければ為せなかった事だ。他者を使うのも己が力の一つだと、納得せずとも、理解はしろ。それに……」

「それに?」

「……もっと我らを頼れ。もうお前は十分やっている」

 

 

 魔神らしからぬ、小さな小さな呟きは、しっかりと慶次に耳に届いた。

 こんな僅かな会話で、全てのわだかまりが消えた訳ではない。だが、互いの腹の内は曝け出し、訊きたくない事も言った。言いたくない事も言った。今はそれで十分だった。

 慶次はアラストールに笑顔で応え、それが合図となって、ただの雑談に戻る。

 

 

「それじゃあ、頼むな」

「うむ」

「それと、一応訊いておくけど、誰の財布から出すんだ?」

「昔の知人だ」

「アラストールじゃないとは思っていたけど、まさかの椿でもなければ、古い知り合いかよ!? それって大丈夫なのか!?」

「仕方あるまい。そもそも、我らに固定収入などない」

「そりゃ、椿の見た目があれだし、アラストールはペンダントだし、金策なんて出来ないけどよ……金の無心に行く昔の知人って、結構性質の悪い奴じゃね?」

「むっ……しかし、我らに他に金銭の当てなどないが……」

「さっき言ってたフレイムヘイズの支援組織『外界宿(アウトロー)』にでも頼めよ。つーか、こんな事態になるまで放っといたんだから、適当に金品その他かっぱらっても罰は当たらないと思うぞ」

「……さっきよりも性質が悪い話になっておらんか?」

「いいじゃん、どうせ普段使ってないんだろ? 知り合いに嫌われるより、赤の他人に嫌われる方が万倍いいって……それに、少ない友達は大切にした方が――」

「き、貴様、口が過ぎるぞ! それに少ない訳ではなく、減少しただけだ!」

「それはそれで悲しいな……ま、それならやっぱり『外界宿(アウトロー)』に集る方向でいいだろ」

「……少しは、言葉を選べ」

 

 

 “紅世”真正の魔神を金の無心に行かせるという、古参の『フレイムヘイズ』が聞けば卒倒しそうな事案が進んでいると、浴室の扉が開いた。どうやら、いつも間にかそれなりの時間、話し込んでいたようだった。

 

 

「湯加減はどうだ――」

「!?」

 

 

 暗闇から近づいてくる人影に、慶次は何気なく視線を向け固まり、動いてもいないはずの『コキュートス』から動揺が伝わる。

 蝋燭の揺らめく灯りから浮かび上がってきたのは、美代だった。濡れそぼった黒髪が上気した頬に張り付き、いい得も知れない艶っぽさを出している。何でそんなにエロくなるんだよと言いたいが、彼女からすれば風呂に入って出ただけなので、そこは目を瞑るとする。

 問題は顔から下、服装である。

 所謂、ネグリジェと呼ばれるワンピース型の寝巻。袖も裾も十分長く、美代の制服の上からでも分かった豊満な身体を覆っているのだが……覆い過ぎていると言うべきか。余計に身体の凹凸が浮かび上がって彼女の艶めかしい姿態を強調してくる。

 アラストールとの雑談からの突然の事態に、慶次は頭が真っ白になりながら跳ね起き、必死に口を回す。

 

 

「ば! お前、何でわざわざ、そんなもん着るんだよ!?」

「わ、私は、いつもこの服で寝てます。ですから、今日もこの服で寝ます……何も問題ないでしょう?」

「問題だらけだっつーの!!」

「そんな事より、何か言う事はありませんか?」

「!?」

 

 

 言いながら美代は距離を縮め、遠目で薄暗かった身体が一気に明るくなる。

 全身白一色の生地は非常に薄く、彼女の赤く火照った白い珠肌、そして下着を僅かに透かしていて――そこまで一瞬で瞼に情報を焼けつけた慶次は、ある一つの事に気づく。

 

 

「……火傷、治ったのか?」

「……」

「ひいっ!?」

 

 

 ぎりり、と目の前で歯軋りが聞こえて、慶次は思わず仰け反る。言葉の選択を間違えたと後悔している間に、美代は不機嫌を隠さず慶次の左隣に座った。膝と膝が触れ合い、慶次は慌ててそっぽを向く。きっとこの距離ならば、目を凝らさなくても美代の素肌が見えてしまう。

 ちなみに、アラストールは空気を読んで空気になったので、助力は期待できない。

 

 

「……慶次さんの意気地なし」

 

 

 当たり前だが、美代は慶次を誘惑してきている。その元になる感情については……今さら、考える必要もない。重要なのは、貞淑な彼女にとって、こんなあからさまな誘惑は、かなり勇気がいる行為であった事だ。だというのに、傍から非難が一つ上がっても、慶次は彼女に指一本触れようとしない。まさに美代の言う通り、意気地なしである。

 美代は溜め息一つ吐くと、慶次の肩に枝垂れかかった。風呂上がりだけのせいではない熱さが伝ってきて、慶次まで体温が上がり……それでも、慶次は動かない。

 

 

「火傷は慶次さんが気を失っている間に、病院で『宝具』を共有して治しました。包帯をつけていたのは、塞がった傷をすぐに晒すのが怖かったからです」

「そうだったのか……それで、あー……悪い。こちとら余裕がなくて、全然気づかなかった」

「慶次さんは危篤状態だったんです、気にしないで下さい。ただ、今訊く事ではなかったですね」

「はい、すみません」

「……まあ、私もこんな時にこんな事をしているのです。お互い様でよろしいですか?」

「おう」

「…………それで、ですね……」

「うん」

 

 

 美代は一旦言葉を切ると、何度も何度も深呼吸をする。リラックスするための行為のはずが、枝垂れかかった美代の身体から伝わる鼓動は、その速度を一向に落としてはいない。むしろ、より早く、より強くなっていた。指先も震えている。

 こんな時に――とは慶次は思わない。覚悟を決めて、最後の夜にかもなるかもしれないからこそと、美代の心中を慮る。

 

 

「慶次さん」

 

 

 慶次も覚悟を決めて美代を見れば、目尻からも涙が溢れてきている。だが、その瞳には今まで奥に秘めていた熱い想いが宿っており、真っ直ぐと慶次を見つめていた。

 慶次は内心、密かに狼狽していた。

 今回の事件を通して、何度も美代の気持ちを感じ取ってきた。いち早く慶次の危機を察知し、しつこいほどに何度も献身をしてきた。慶次が瀕死の重傷を負った時には、心を乱し狂いかけた。先刻など、想いの強さゆえか思わず口にしてしまっていた。

 何かある度に、彼女の愛情を垣間見てきた――見てきたと思っていた。

 今、初めて美代は自身の想いを覆い隠さず、覚悟を決めて真っ直ぐに向き合っている。その姿がこんなにも熱くて、大きくて、そして美しいものかと。慶次は彼女の想いを知っている気になっていただけだと、今さらながら気付かされた。

 だが、それもまだ言葉に、形にされた訳ではない。慶次は、彼女の想いの、ほんの表面上しか見ていない。

 ――もし、それが形になってその深くまで見せられたら。

 慶次の鼓動もまた、知らないうちに高鳴っていた。

 

 

「……慶次、さん……あの、私……」

「お、おお」

「慶次、さん」

「――っ!」

 

 

 中々踏み出せない美代。それは勇気を振り絞るためなのか、それとも他の効果を狙ったのか、美代は無意識の内に慶次の手を握っていた。

 絡みつく指は、まるで縋る様で。優しく包み込む掌は、全てを受け止める様で。たった一つの所作だったが、慶次にはまるで彼女の恋と愛が詰まっているような気がした。

 次から次へと現れる慶次の知らない美代。聞いているだけ、見ているだけ、触れ合っているだけ、のはずだが、慶次は段々と混乱を極めていく。もう何がどうなっているのか慶次には分からなかった。

 そして、混乱する慶次を余所に、ついにその時は訪れる。

 

 

 ――好き。

 

 

 その呟きにどれだけの勇気が、どれだけの想いが籠っていたのか。声は大きくはなかった。言葉も長くはなかった。だが、今まで漏れ出た小さな想いではない。真摯に、ただ慶次だけを想い、慶次に向けた言葉。胸の中はどうしようもなく温かく、嬉しかった。

 小さな小さな呟きは、確かに慶次の心に響いた。

 

 

「きゃっ」

 

 

 慶次は左腕一本で、美代の身体を抱きしめる。柔らかさと同時に、見た目以上の小ささ、そして自身の思わぬ行動に動揺する。どうして、己がこんな事をしているのか全く分からないまま、腕に段々と力が込められていく。

 

 

「あの、け、慶次さん、これは、その」

「頑張ったな」

「……はい……! 私、慶次さん、好きなんです……! 大好きなんです!」

「ああ」

「もう、慶次さんがいれば、慶次さんが、慶次さんなら、どんなことも、どんなところも……!」

「――本当に、ありがとう」

 

 

 以前から、慶次の中には、美代を想う気持ちは確かにあった。だからこそ、美代が傷ついた時、最も姿の近かった母が重なった。でも、それは異性に向ける愛ではない。友や家族に向ける親愛だった。きっと、美代の半分ほども、彼女の事を想えていなかった。

 だから、何をされても、何を言われても、慶次の答えは決まっている――決まっていると、勝手に思い込んでいた。

 柔らかい美代の身体を撫でると、その度に緊張が解けてく。彼女が慶次に身を任せてくる。それに、ひどく安心している自分がいて、慶次はまた驚いた。

 

 

(ははっ……まさか、告白一つでこうなっちまうなんて、どこまでチョロいんだよ、俺。だけど――)

 

 

 慶次は自身のあまりにも早い心変わりに自嘲しながら、再度己に問いかける。

 

 

(もし、これが美代以外の人だったら……ありえないが、奥村や椿だったら、俺はどうしていたんだ?)

 

 

 時や場所、言葉や人物を幾ら入れ替えても、出てくる答えは一つだった。

 

 

(俺は美代以外だったら、絶対に打ち震えていない)

 

 

 もしかしたら、親愛と思っていた感情の下に、慶次は美代と同じ想いがあったのかもしれない。

 それは勝美の事や家の事、様々な障害や懸念があって決して表には出てこれなかった。だが、その全ては壊れてしまった。そうして初めて、慶次は美代の告白を、想いを素直に受け止められたのだろうか。

 

 

(いや、今は理屈なんてどうでも良いか)

 

 

 慶次の想いが美代と同質だろうと、そうでなかろうと、思いの丈は彼女のものの半分もない。美代に応えるには、慶次の想いはあまりにもちっぽけで、浅く脆いものであった。

 ――それでも慶次は、彼女の想いに応えたかった。理屈ではなく己が感情が、そう訴えていた。

 慶次はどこまで己は身勝手なのだろうと思う。勝手に彼女の想いを理解した気になって、勝手な思い込みで適当な結論を自分だけで抱えて。気付いた時には、明日には死地に赴く身。数年来想い続け、やっと通じ合ったというのに見送る事しか出来ないという状況。どこまで彼女を弄ぶのか、慶次は自分のことながら情けなくなってしまう。

 もしかしたら、慶次の選択は間違っているのかもしれない。彼女を、また縛ってしまうだけかもしれない。それでも、今は、この瞬間だけは、この想いを信じたかった。この温もりを手放したくなかった。

 

 

「美代、悪いんだけど、先に俺の話を聞いてくれないか?」

「っ……ぁい、なんで、しょうか……」

「ありがとう……それと、ごめんな。俺、全然お前の想い、分かってなかった。全然、理解できてなかった」

「あ、謝らないで、下さい。慶次さんには、その……自分なり、と言いますか……それなりに、隠してたつもりでしたから……バレてたかとは思いますが」

「……ああ、そうだな」

 

 

 今日一日、割と隠してなかった上に、クラスメート(成実を除く)にも以前からバレバレだったというのは、今だけはその事は隠しておく。無論、面白そうなので絶対に教えるが、今はもっと大事な事がある。

 抱きしめていた身体を、名残惜しさを込めて、ゆっくりと離す。彼女を見て、彼女に見てもらって、大事な言葉を贈りたかった。

 吐息がかかる距離で見つめ合う。

 慶次は美代に伝えたい事を、感じたままに口にする。

 

 

「俺は、美代が好きだ。その……誰よりも」

「……」

 

 

 慶次の言葉がよほど予想外だったのだろうか。美代は口を半開きにしたまま、固まってしまった。

 そして数度の瞬きの末、ようやく理解が追い付いて。

 

 

「……ぅ」

 

 

 今まで堪えていたものが決壊し、美代の目から涙が溢れ出てくる。

 美代はたまらず、慶次の胸に飛び込んだ。

 

 

「け、慶次さん、私、私……!」

「あー、ごめんな。また泣かせたみたいで」

「好きです、私も、誰よりも、慶次さんが!」

「ありがとう。本当に、嬉しいよ」

 

 

 感情を爆発させしがみつく美代を、慶次はただ抱き寄せる。抱きしめて、抱きしめられて。互いの違う体温が、一つになるように高くなって。傍にいるんだと強く感じる。

 

 

「慶次さん! 好きです! 大好き、です!」

「俺もだ。好きだよ、美代」

 

 

 好きだと、何度も何度も繰り返す。この気持ちを、大切な人に伝えたかった。同じ気持ちだと、伝えて欲しかった。

 ――それでも、足りなくて。

 世界で一番愛しい女性が、世界で最も近い場所にいると、心と身体で、確かめたくなる。

 ふと身体を離して慶次と美代は顔を向けあうと、どちらともなく唇を押し付け合った。

 そこに好きな人がいる。今、あなたと触れ合っている。互いの体温や鼓動、息遣いを感じ合うようなキスだった。

 いつまでも離れたくなくて。長い長いキスは、互いの息継ぎで終わりを告げた。

 

 

「――っ、慶次、さん」

「っ、美代……」

 

 

 ――それでも足りなくて。

 もっともっと感じたい。今、自分たちは同じ想いを抱いて、同じ場所にいて、互いを受け入れあっているのだと。

 キスの、もっと先を――。

 

 

(っ!? 今、俺は何を――)

 

 

 ふと慶次は我に返り、『宝具』を流し見る。そこには、ケースに収められているにも関わらず、一際輝き出した『宝具』が見てとれた。

 

 

(――いやいや、そりゃ三大欲求の一つだけども、それはないだろ)

 

 

 どうやら、“そういう感情”にも反応するらしい。これには慶次も、感心を通り越して呆れ返るが扱いづらい事も既知。昂りに流されかけながらも、しっかりと感情の手綱を引いた。

 とはいえ、さすがにこのまま美代を抱き締めていて理性が保てるほど、慶次の意思も強くない。何より明日は決戦である事に加え、アラストールも椿も傍にいる。

 名残惜しいが常識的な判断で離れようとして――ソファーに倒れる。

 呆然とする慶次に、僅かな重みと胸やら何やらが押し付けられ今までの数倍の柔らかさのし掛かってくる。どうやら、美代に押し倒されたらしい。

 

 

「いや、ちょ、えぇ……?」

 

 

 困惑する慶次を、美代は吐息が掛かるほどの距離で見つめる。その顔は異様に熱に浮かされ溶けているが、瞳だけはギラギラと鋭さを増していた。どうやら、またも美代の感情が暴走してしまっているようだが、何となく今までとは様子が違う。

 慶次は違和感を覚えながらも、まずは彼女を止めることを優先する。

 

 

「気持ちは分かるが、そういうのはまた今度……!?」

 

 

 諭しながら押し返そうとして慶次の顔が驚愕に染まる。美代の身体はビクともしなかった。嫌な怖気が、慶次を襲う。どうか杞憂であってくれと、恐る恐る横目に『宝具』を見て、驚愕に目を開く。美代の脚がガッツリ『宝具』に絡みついていた。

 

 

(えっと、つまり美代も『宝具』を使っている訳で、推察するからに現状は――)

 

 

 ――美代が『宝具』を暴走させていた。

 動力源は当然()()()()()()である。さらに『宝具』の特性上、感情に沿った行動を取る。現状から察するに、美代はこれから欲望剥き出しで襲って来る。対して、平静を保つ慶次は今に限り美代より非力で――要約すると、慶次の貞操の危機だった。

 

 

「おい、馬鹿! 『宝具』に流され――んんっ!?」

「ん――」

 

 

 喚く慶次の口を、美代の口が塞ぐ。瞬間、暖かいものが慶次の口内に侵入する。美代の舌だと気づいた時には、まるで慶次の内側を蹂躙するかのように口内を暴れていた。今までの、確かめ合うようなものではない。相手を喰らうような、激しいキスだった。

 舌と舌が絡み合う。口の中は唾液が混じり合い、くぐもった淫靡な音を鳴らす。身体の内側から貪られるような感覚。しかしそこに不快感はなく、むしろ頭の中まで溶けるような快感が走り、慶次の身体の端々から力が抜けていった。

 

 

(この天才、そっちの方面まで天才かよ……!?)

 

 

 慶次は快楽に溺れないように、そんな栓無き事を考えるしかできず、されるがままだった。どうにか意識を繋ごうとするものの、強烈な快感が頭の中を瞬き、どこか思考は途切れ途切れになる。

 

 

「っ、はぁっ……!」

「――んぅっ……」

 

 

 気づいた時には、美代の唇は慶次から離れていた。突如消えた感触……それが嘘ではないと証明するかのように、美代の唇と慶次の唇を透明な糸で繋いでいた。それを視界に入れた美代は、妖艶な微笑みを浮かべた。それは慶次が初めて見る美代の表情で……慶次に()()()促すには十分だった――普通の甲斐性がある男であれば。

 

 

「アリャストールゥ……」

 

 

 慶次は呂律の回らない口で、真正の魔神を助けを呼んだ。この期に及んでこの様……状況が状況とはいえどこまでも残念な男であった。

 

 

「我を巻き込むでない……!」

 

 

 たまらないのは呼ばれたアラストールだ。せっかく気を遣って空気になったというのに、何が悲しくて“紅世”の中でも最上位の権能を持つ天罰神が、人間の男女の睦事に口を挟まねばならないというのであろうか。

 それでも、純真な少女が()()()()に乱入するという悪夢を避けるため、アラストールは介入するしかなかった。

 

 

「新発田美代、落ち着け。いずれあの子が戻ってくる。その際、この様子を見れば如何にあの子でも……うぬぅっ!?」

 

 

 美代の返答はスケスケのネグリジェだった。投げつけられたネグリジェが、神器“コキュートス”に被さる。

 

 

「…………」

 

 

 今まで色んな暴力暴言を“紅世の徒”から受けてきた魔神も、この扱いには閉口するしかなかった。

 下着姿になった美代は、慶次のズボンに手をかけ、

 

 

「お気遣い感謝します。ですが、必ず椿さんの利益になりますので、ご容赦ください」

「普通に話せるのか……」

 

 

 アラストールが困惑する。さすがに声に熱を帯びてはいたが、暴走状態でも美代は割りといつもの調子で喋っていた。

 

 

(何? こいつ、暴走状態でコントロールしてんの? それとも、いつも発情してるから暴走してても変わんないの? ……もしかして、『宝具』の効果が切れて――!)

 

 

 普通に話す美代に淡い期待を込めて力を込めるが、起き上がる事はできない。暴走は続行中だった。慶次は全てをアラストールに(勝手に)託した。

 

 

「まずは、前田慶次を脱がすのを止めろ!」

「まあまあ、非常識な行動なのは理解しますが、ここは是非、協力をお願いします。椿さんのためにも……!」

「あの子の……いや、これは利益の有無が問題ではなかろう!?」

「まあまあ、とりあえず聞いてから決めて下さい」

「あふん」

 

 

 慶次が情けない声を上げると、ズボンが宙を舞う。慶次の慶次を守るものが、また一つ失われてしまった。というか、パンツ一つだった。アラストールに助け求めたはずが、先よりも事態が悪化している。

 ――そして慶次は気づく。アラストールだけでは、美代を止める手立てが無いことを。言葉だけで発情期の獣を止められるなら、慶次はここまで苦労していないのだ、と。

 それでも少女のため、アラストールは無謀な戦いに挑む。

 

 

「聞くから、一旦止めよ!」

「いいですか、“すれば”私と慶次さんの二人が極度の興奮状態になります。その時、『宝具』に触れれば、大量の“存在の力”を得ることができ、『短時間で回復』する事ができるのですよ。“作戦”を早める事だってできます。椿さんは作戦が早まって満足、慶次さんは怪我治って満足、私は結ばれて大満足! ほら、誰も損していません!」

「筋が通っているように聞こえるが、貴様たちの負傷はすでに完治の目処が立っておろうが! 今更、博打を打つ必要はない! それに、あの子は……性教育を受けておらん。そんな子が、見たら――」

「だったら、実技で教えて差し上げましょう……!」

「おふ」

 

 

 美代はトンデモ理論を唱えると、もう我慢の限界なのか、布切れが一枚宙に舞う。慶次は下半身がとても寒くなった。

 

 

「前々から思ってはいたが、貴様はなぜ前田慶次が絡むと馬鹿なる!? 冷静になれ!!」

「ダメです、『宝具』のせいで冷静になれません。やはり、一回ここに腰を落ち着かせなければ――」

「!?」

 

 

 やはり、手も足もないアラストールには、荷が重たかったのか。奮戦? 虚しく、まさに慶次の貞操が失われてしまおうとした――刹那、らしくない大きな足音鳴らして、少女が来てしまった。

 

 




長くなったので分割。

後編に続きます。


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幕間Ⅱ 決戦前夜(後編)

後編です。

こんなもん出張の合間に何年も書き続けてたから、頭おかしくなるんですよ。


 慶次とアラストールの語らいとほぼ同時刻。前田家の大きな浴室で、少女が人生初めての体験をしていた。

 ――それは、湯船に浸かるという、日本人なら誰でも体験したことのある文化的習慣だ。

 

 

「おお~……!」

 

 

 椿は初めての湯船に、少々外見に相応しくない感嘆の声を上げる。浴室独特の反響する声音が薄暗闇の浴室に響き、さらに少女を上機嫌にさせる。入浴までに美代と一悶着あった椿だが、なるほどと今は納得していた。

 最初こそ、石鹸を泡立たせ全身を洗う事の何と面倒なと思ってはいたが、実際にやってみると全然違った。“清めの炎”では、汚れを落とすという感覚だった。入浴では、洗った先から汚れが落ちていくのではなく……『綺麗になっていく』とでも言うのであろうか。とにかく、新鮮かつ好ましい感覚だった。

 さらに温かな水流が身体を伝う感触。湯船に浸かった際の身体の芯から温め、身も心も解されていくような感覚。これはシンプルに気持ち良かった。“清めの炎”では絶対に気持ちいいという感想は出てこない。

 詰まるところ、椿は入浴が大好きになっていた。

 

 

「お気に召したようで、良かったです」

 

 

 椿の正面から、そんな安堵の声が上がる。美代が椿と同じ浴槽に入浴していた。彼女と共に入浴しているのは、燃料の効率や前田家の浴槽か広かった事もあるが、一番の理由は椿が入浴というものを、そもそも知らなかったからである。

 

 

「……悪くは、ないわね」

 

 

 椿はぶっきらぼうに返しながら、向かいの美代を観察する。病院にいたあの短時間で治ったのか、“燐子”に傷つけられた切傷も火傷も、完全に塞がっていた。それどころか、懐中電灯のみの薄暗闇でも映えるほど、肌は白く透き通っており、瑞々しく水を弾いている。

 そして何より目を引くのは、胸の脂肪分。浮いてた。浮くものなんだ。そもそも、何を食べたらこんなに膨れるのか。なぜ、個々人でここまで成長が異なるのだろうか。

 椿が人類の神秘について考えていると、美代が咳払いをする。

 

 

「さすがにそこまで見つめられると恥ずかしいのですが……」

「だって、浮いてるし、大きいし」

「声に出さないで下さい!」

 

 

 美代が胸を両手で隠しながら湯船に沈める。手が二つも必要なんだ、と椿が妙なところに感心していると、

 

 

「……一つお願いがあるのですが、聞いていただけませんか?」

 

 

 椿が視線を少し上げ、不覚にもドキリとした。

 緊張しているのかやや顔を強張らせ、弱弱しく眉尻と目尻が下がっている。どこか切なげで、触れてしまうだけで崩れてしまうような気がして。

 強くない。凛々しくなんてない。脆い。儚い。

 そんな感想しか出てこないのに、どうしてだろうか。彼女が……彼女の表情がとても良い、思っていた。

 椿が言葉を継げないでいると、美代が慌てた様子で続ける。

 

 

「あ、その、別に変なお願いではないですよ! ……慶次さんと大事な話があるんです。大事な、大事な――」

 

 

 段々と小さくなる声音。浴室でほんの僅かに反響するだけで、椿にしか届かなかった。内容だって、何て事のない日常会話の一つ……なのに、どんな絶叫よりも耳に残り、どんな演説よりも心に刻み込まれていた。

 一体、これの正体は何なのだろうか。椿には分からなかった。ただ漠然と、目の前にある“これ”は己にとってとても大切なものだという事だけだった。

 

 

「その……しばらく、二人きりにしていただけませんか?」

「……勝手にすれば」

 

 

 ただ、それを素直に口にすることはできず、つい投げ槍な返事をしてしまうが、

 

 

「ありがとうございます!」

 

 

 美代は感謝と共に、満天の笑みを添える。己とは正反対の態度。さらに気恥ずかしくなった椿は、全身を湯船に沈める。静かに出ていく美代を水中で見送ってから、顔の上半分だけを水面から出した。

 出口、磨硝子の扉へと目を向けると、女性のシルエットが映し出されている。シルエットはモゴモゴと動いていたが、五分もしないうちに磨硝子の外側へと消えていった。

 

 

「……」

 

 

 先まで姦しかったのが、嘘のような沈黙。どこからか水が滴る音だけが浴室を反響する。

 

 

「……」

 

 

 一人になった湯船で思い切り手足を伸ばす。広々とした浴槽を一人で独占する優越感に頬を緩ませながらも、頭にはどうしても先の美代が残る。

 今日一日、彼女は理不尽な目に遭い、何度も何度も打ちのめされていた。そして、立ち上がった美代はとても聡明で強い女性だった。そんな彼女の見せたあの表情は、一体何だったのか。なぜ、何が、良いと思ったのか。彼女がその表情を見せるに至った『大事な話』とは何なのか。

 そんな疑問が次々と沸き起こるが、どれだけ考えても答えは出てこない。なぜなら知らないのだ、美代の事も……そもそも人間というものを。

 世界の真実を知ってはいた。しかし世界の全てを知っていたわけではなかったと思い知らされる。

 カルが否定した人を。カルが否定した世界を。自身が肯定した世界を、まだ何も知らなかった。

 

 

 ――知ろう。

 

 

 気付けば、少女はそんな言葉を呟いていた。それは少女が、自らの意思で己の世界から外へと踏み出した瞬間だった。

 早速、行動に移ろうと湯船から立ち上がり――しかし、そのままの姿勢で固まる。そもそも、何から取り掛かれば良いのか検討もついておらず、奇しくも外へ踏み出した第一歩目から躓く事となった。

 仕方なしに再び湯船に浸かり、不快そうに眉根を寄せる。身体が温まりきったせいか、それとも単純に湯の温度が下がったのか、最初に感じた気持ちよさが全く感じられなくなっていた。暖め直したいところだが、さすがにこれ以上の燃料の消費は憚られた。かといって、こんなところで美代の用件が片付くまで浸かるのも耐え難い……とまで考えて、そもそもの疑問が頭を過る。

 

 

(いつまで待ってたらいいのよ……)

 

 

 美代の事だ、終われば報告に来るだろう。だが、いつ来るか分からない彼女を、ぬるま湯で待ち続けるのは嫌である。

 ではどうすればいいのか、と考えたところで少女の思考は停止してしまう。少女と“人”の交流は食料の購入という、まさに必要最小限しかなく、他の全てはフレイムヘイズの使命の遂行。少女にとって、思慮の埒外の問題だった。

 

 

「……出よう」

 

 

 そんな彼女の出した結論は、とりあえず気持ち悪いぬるま湯から出て、とりあえず美代の様子を確認するという行き当たりばったりなものだった。

 さらに、美代の願いを承諾する旨を伝えた手前、堂々と浴室を出るのは憚られた結果、ノロノロコソコソと浴室を抜け出すという、何とも半端な行動となった。

 いつもの鋭い決断力は鳴りを潜め、知らない世界で四苦八苦する等身大の少女の姿が、そこにはあった。

 

 

「まだ……終わってない、のかな……?」

 

 

 美代の用意したジャージ(なぜかサイズがピッタリ)に袖を通し、フレイムヘイズの身体能力を発揮したところ、二人の気配はまだリビングにあった。

 

 

「……これは確認、ただの確認……」

 

 

 まるで言い訳のように呟いてから、当初の予定通り? 少女はリビングに足を踏み入れる。足音はもちろん、息も殺し気配も消して、美代と慶次(ついでにアラストール)から死角となる位置まで動く。リビングの片隅に身を潜め、彼らを覗き見――そして赤面する。

 

 

(な、何であいつら、『大事な話』はどこ行ったのよ……!)

 

 

 慶次と美代が、抱き締め合っていた。それは、とても強く、激しく。しかも、好きだ好きだと、愛を囁きながら。

 少女とて、街中で抱き合うカップルぐらい見たことはある。愛の言葉だって、聞いたことはある。だが、知り合いがそれらを行う……ただそれだけの違いが、何とも表現しがたい羞恥心を呼び起こし、少女の頬を赤く染めていた。

 

 

「――………………っ!?」

 

 

 そうして湯だった頭で二人を見つめる事、数秒。いつの間にやら、ただ覗き見ているだけの己に気づき、再起動する少女。徐々に頭の熱が下がっていき、ある事に気づく。

 

 

(……何なの、これは……)

 

 

 それは二人の表情。

 ――慶次は笑っているのに、どこか寂しそうで。

 ――美代は喜んでいるのに、泣いていた。

 胸に手を当てる。傷もないのに、胸に冷たい痛みが広がっていた。

 

 

(明日には、死ぬかもしれないから……?)

 

 

 明日の決戦。慶次、美代、アラストール、そして少女、各々が使命遂行の役割がある。現状は窮地……この中の誰が命を落としてもおかしくなかった。

 だから、彼らは――とまで考えて、少女は首を横に振る。

 

 

()()()()で揺らぐような、覚悟じゃない。それは目の前で見た、私が一番分かってる)

 

 

 ならば何が、彼らをそうさせているのか。

 ――好き。

 彼らが、何度も繰り返している言葉。

 似たような言葉なら、少女も好きな人に贈ったことがあった。受け取ってもらえて、さらに贈り返してくれて、胸の奥がほのかに温かくなった。

 だけど、彼らが贈り合っているのは、きっと温かいだけじゃない。もっと熱くて、どうしようもない気持ちが込められている……そんな気がした。

 きっと、目の前の光景は二人にとって唯一無二のものであって、他者が踏み入れてはいけないもの。その考えに至り――少女は己の状況を再認識。今度は罪悪感が背中にのしかかってきた。

 

 

(バレないように、ここを離れ――っ!?!?!?)

 

 

 場を離れようとした直後、慶次と美代の行動に少女は度肝を抜かれた。

 

 

(キ、キキキキキキ――っ!?)

 

 

 ――キス。少女も親愛を表す意味で行ったことはあるが、それは頬。しかし、二人は唇と唇。想像するだけでも気恥ずかしい行動を目の前にし、少女の頭が熱に浮かされる。

 彼女の茹った頭から『離れる』という選択肢は完全に蒸発し、息を止めて、ただただ二人の色事を眺める。

 

 

「……ぁっ!?」

 

 

  そうして十数秒後、少女が息苦しさから呼吸する事を思い出したころ、ようやく二人の唇が離れる。

 

 

(うわぁ……息継ぎしないで、苦しくないの……?)

 

 

 場を去る事を完全に忘れ、見入る少女。当初の目的は完全に吹き飛び、真っ赤な顔で窃視する。

 もちろん、少女の存在など二人が気づくはずもなく、情事は進んでいく。

 

 

(押し倒して――っ!?)

 

 

 美代が慶次を押し倒し、今度は強引に唇を奪う。

 

 

(こ、こんなことまで、するんだ……)

 

 

 少女が息をのみ注視していると、耳にやや粘着質な音が聞こえ始める。即座にフレイムヘイズの強力な聴覚が音源を特定し――頭が沸騰した。

 

 

(し、しししし、舌、口に舌っ!?!?!?)

 

 

 あまりに刺激的すぎるその行為に、少女の思考回路はもちろん、五感がまるで麻痺したかのように、指先が動かなくなる。

 自身が立っているのか、座っているのかさえ分からない。ドクドクと心臓の音がうるさいほど高鳴っているのに、痛いほど静寂で他の音は何も聞こえない。

 

 

「はぁっ、はぁっ――!」

 

 

 原因は、目の前の行為。目を逸らせば、心を落ち着かせれば、呪縛から解かれる。分かっているのに、目を離すことができない。

 なぜ、と思う反面、これに似た感覚をよく知っていた。

 

 

(――違う)

 

 

 だが、それはあり得ない。そんな、目の前の想像さえもした事がない行為で、興奮しているなど――。

 

 

(違う! こんな感覚、知らない――!!)

 

 

 無論、これは大なり小なり誰でも持ち得る感覚で少女がおかしい訳ではない。

 しかし、少女は自身の感覚を認める事ができず、ただただ否定した。なぜなら、知らなかったから。こんな感覚、聞いた事も感じた事もなかったから。

 だが、否定したところで正常な反応を止めることはできない。

 

 

(違う違う違う! これは、違う!!)

 

 

 だから、少女は恐怖した。自身に湧き上がる感覚に。湧き上がる感覚自体に。

 それを正しく指摘してくれる大人は現在、使い物にならず、このままでは遠からず少女は心に大きな傷を負ってしまう――その刹那、一枚の男物の下着が、宙を舞った。

 幸か不幸か、これが止めの一撃となった。

 

 

「っ!?!?!?!?!?」

 

 

 叫び声にならない叫びを上げながら、もはや隠密行動など忘れたかのように駆ける少女。それも美代と慶次に向けて。

 そして、半裸で絡み合う慶次と美代を見るなり、口をパクパクさせたり。慶次の下半身を見て顔を赤くさせたり、床の下着を見て青くさせたり。

 もちろん、現状についてこれっぽっちも理解していない。目の前の光景に受け止めきれる許容量を超えたがための、ただの暴走だった。

 余談だが、彼女が冷静なら『宝具』の暴走と当たりをつけられたかもしれない。もちろん、遠目で見るよりも近い方がさらに官能的であり、気を落ち着かせるのとは程遠い光景。当然、冷静になれるはずもなく――、

 

 

「椿さん……見てていいですよ」

「――へっ!?」

 

 

 まるで少女に追い打ちを掛けるように、美代は慶次にしがみつき、再び唇を貪り始めた。

 少女の頭は再沸騰し、視線が接触部分に固定される。

 

 

「止めろ! いや、見るな!」

「えっ? ええっ!?」

 

 

 アラストールも美代が保健体育の実演授業を、有言実行するとは思ってはいなかったのか、要領の得ない指示ばかり飛ぶ。少女も一々、アラストールの指示に従い、結果、ヘンテコなステップを踏む。

 ――事ここに至って混沌は頂点となった。

 

「んんっ――、っあ、慶次さん……」

「アリャフトールゥ……」

「我が指示する! お前は目を塞いで、耳を塞いで――!」

「あわ! あわわわわっ!」

 

 

 もう、訳が分からなかった。何でわざわざ決戦数時間前に、彼らがこんな事をしているのか。そもそも『慶次さんと大事な話がしたい』と風呂場で切な気に告げられ、気を遣ったはずが、なぜこうなっているのか。そして……この恥ずかしさしかない行為から、なぜ己は目を逸らせないのか。恥ずかしさ以外の、妙に昂る、これは――いやでも、そんなはずは――何もかもが、分からなかった。

 もう思考がグチャグチャで、何をしたいのか分からなくなって、

 

 

 ――プツン。

 

 

 そんな音が聞こえたような気がすると、彼女の脳裏に単純明快な解決法を示された。

 

 

「うふっ。うふふふふふっ!」

 

 

 その解答に、少女は薄気味悪い笑みを漏らすと同時。シュバッ、という空気を斬る音。

 二人と一つが、その音の意味を理解する前に、

 

 

「痛いっ!?」

「ありがとうございます!」

「我もか!?」

 

 

 贄殿遮那を夜笠より取り出し、二人と一つにそれぞれ一閃(峰打ち)。アラストールは机にめり込み、慶次はソファーで白目を剥き、美代は壁に叩きつけられる。『フレイムヘイズ』らしい……というより、彼女らしい腕力にものを言わせた、脳筋的解決法だった。

 少女は満足気に微笑むと、不埒者二人を簀巻にして放置。自分は布団に潜り込んで就寝――の前に、

 

 

「アラストールはそのままね」

「………………」

「分かった?」

「……うむ」

 

 

 こうして、騒がしく全く緊張感のない夜は更けていき――決戦の時を迎えた。

 

 




ちなみにこの後、正式に慶次から美代へ破局の申し込みがあったそうです。


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第ⅩⅩ話 決戦

お待たせしました。


 ――堂森計算センター。

 計算センターと銘打っての通り、膨大な機械計算を行うためのスーパーコンピュータが設置されている。医薬品を始めとした研究施設も併設されており、有名無名の企業が周辺にひしめき合う、まさに堂森市新開発・新市街地の目玉である。

 朝日も昇らない未だ薄暗闇の時分、少女は堂森計算センターの入り口に立っていた。ただし、彼女の傍には隻腕の青年もいなければ、少女をここに導いた才女もいない。ただ一人、黒く冷めた瞳で眼前の建物を睨み付ける。

 スーパーコンピュータに薬品の研究施設……美代の推察通り『弐得(ふたえ)の巻き手』の目的がパンデミックならば、新市街地の堂森市計算センターはまさにおあつらえ向きの場所であった。仮に現在いないとしても、新発田家への関与から研究の痕跡が残っているはずであり、少なくとも計画の一端を探る事も可能だろう。だが、少女はそんなまどろっこしい事を考えていない。

 薄暗闇の天空を見上げれば、そこに広がっているのはただの黒い闇、雲一つない晴天。足元には未だ脛の辺りまで雪が積もっており、人や車が動くには苦労するだろう。しかし、天気の峠は超えていた。堂森市が孤立から抜け出すのは時間の問題であり、それはすなわ少女たちに残された時間は少ない事を意味した。

 ――計画を潰す。

 少女の考えているのは、それただ一つだけ。

 そして、それを成すための近道は――、

 

 

「封絶」

 

 

 少女の小さな口から漏れ出ると同時に降り積もった雪の下から紅蓮の模様が立ち上る。堂森計算センターを覆い余るほどの巨大な円形の紋章が地走り、円の外周に陽炎の壁が揺らめき立つ。

 陽炎より内を、世界の流れから切り離す因果孤立空間“封絶”。通常、『フレイムヘイズ』と“徒”の戦いの舞台として利用される“封絶”だが、使い方それだけではない。

 

 

「いた」

 

 

 “封絶”内で動く気配。もちろん、“封絶”で普通の人間は動くことができない。堂森市内に“紅世の徒”の存在は確認していない。“燐子”と考えるには、強大すぎる存在感。

 とすれば、この気配の正体は――。

 

 

「『弐得(ふたえ)の巻き手』!!」

 

 

 怒号と共に少女は入り口に立ち――自動ドアのため開かず――殴り飛ばす。ガラス張りの自動ドアは、ガラスを粉々に砕かれながら、扉ごとビルの中へと吹き飛ばされていった。

 ――パチパチパチ。

 一瞬の静寂ののち、返ってきたのは拍手であった。

 

 

「俺がここいると、よく分かったな。僅かあれだけの証拠からここを割り出すとは、さすがは『炎髪灼眼の討ち手』に選ばれた事はある」

 

 

 闇から浮かび上がる白。

 妙に煌めいて見える純白のジャケットを羽織り、右手の松葉杖を使い、左足一本で歩いてくる痩身の男――『弐得(ふたえ)の巻き手』カル――であった。

 目的の『敵』を見つけ闘志滾る少女に対し、カルは笑みをたたえながらエントランスから歩み寄る。しかし、それは少女の姿を視界に捉えるなり、嘲笑へと変貌した。

 

 

「だが、やはりお前の覚悟とは、()()()()のようだな。そのようなヘンテコな格好をするとは、よほど使命より『人』が大事なようだな」

「……格好は関係ないでしょ」

 

 

 眉をひそめる少女だったが、こればかりはカルの指摘する通りであった。

 まず、紅蓮に染まった長髪を、一纏めにしている。幼い印象を与えていた容貌は、その鋭い眼光も合わさり僅かに大人びている。

 そこまではいい。問題は髪から下だ。

 衣装は季節感を全く無視した()()で、色合いは美しい椿の花模様。動きやすいように袖は引き絞り、履物も動きやすさを重視したのかブーツで、着こなしが完全に大正時代であった。

 さらに顔には、少女らしからぬ派手な化粧が施されていた。特に目に付くのは、肌も見えないほど色濃い黒のアイシャドウに、唇の真紅の口紅。もはや綺麗に魅せる、というよりも派手に見せる事に主眼を置いた化粧である。

 もちろん、このファッションセンスは少女ではなく、どこぞの才女のもの。『士気を上げるのです』という謳い文句を筆頭に、無垢な少女をあの手この手で口車に乗せた果ての姿であった。

 ちなみに少女は内心、この戦装束(と思っている)をちょっと気に入っている。そこには、非日常的な姿で臨む特別感もあったが、この衣装が自分ではない他人が準備した……その事実が、少しだけ『天道宮』での日常を思い出せて嬉しかったからだった。

 少女はそんな感情をおくびにも出さず、カルを見据える。

 

 

「そんな事より昨日の質問、私の答えを持ってきたわ」

「だいたい察しがつくが、一応訊いてやろう。俺と共に来るのか、傍観するのか、それとも――」

「私の、答えは――!」

 

 

 刹那、少女は地を踏み切る。コンクリートの床は砕け散り、少女は一足で一陣の風になり目にも止まらぬ速さで砲弾をも勝る右拳を振るった。

 轟音が堂森計算センターの広いエントランスに響き渡る。少女の拳は、カルの右腕に止められていた。

 

 

「私の方法で世界も『彼ら』も“紅世の徒”から守る!!」

「一番愚かな答えだな……!」

 

 

 少女は答えなかった。カルに伝えたいことはない。戦い、そして勝つ。それだけだった。

 

 

「はぁっ!」

 

 

 少女は一喝とともに、間髪入れず蹴り上げる。寸分違わず顎を狙った蹴りは、しかし風を切り裂くだけで終わる。少女の数メートル先に、すでにカルがいた。

 必殺……とまでは言わないが、少なくとも当てるつもりで放った蹴りが、完全に避けられていた。

 カルの動く足は左足一本。松葉杖を持った右腕は、少女の拳を防ぐために使っていた。普通に考えれば、あの間合いでカルが少女の蹴りを避ける術はない。それなのに避けたという事は、何かしらのカラクリがあった。

 無論、少女はすでにそのカラクリを看破している。

 

 

(足に力を入れた様子も、踏み切った後もない……“存在の力”を『運動エネルギー』に変換してる)

 

 

 通常、ありえない事象を引き起こす“存在の力”。カルは何でも引き起こせるはずの力を、日常にありふれている『運動エネルギー』に変換しているだけであった。とはいえ、その“だけ”も相当な技量がいるのは確かだった。

 例えるなら、走るという行為。考えずに行っているその行為を、どれだけの力でどのような手順でやれば走れるのか、説明するのは難しい。“存在の力”を『運動エネルギー』に変換し動く事は、その難しい説明を実際に行う事と同義と考えてもよい。

 どれだけの“存在の力”をどこに使えば、身体のバランスを崩さず、攻撃を避けられるのか。それもとっさの判断で。少なくとも、少女に同じ事はできない。

 とはいえ、同じような“真似”はできる。“存在の力”で身体能力を上げて、思いっきり走ればいいだけなのだ。カルがそれをしないのは、身体を満足に動かすことができないから……つまり、目の前で見せられた芸当は、カルの苦肉の策なのだ。

 

 

(身体に欠点があるけど、“自在師”としての技量が高い。今の私に、遠距離の攻撃手段はない……それなら!)

 

 

 無論、それで油断するような少女ではない。事実は事実として受け入れカルの技量を高く評価し、再び距離を詰めようとする。

 もちろん、それを許すカルではない。右腕を振るい、薄桜色の炎弾を数発叩き込む。“存在の力”の漏れも形成の揺らぎも見られない、お手本のような綺麗な炎弾だった。

 少女は憎々しげに一瞥すると、避けるのではなくさらに地を踏みぬく。さらに加速したことで、幾つかの炎弾の射線から外れるが、それでも直撃は避けられない。

 しかし、少女は決して慌てる事なく漆黒の黒衣を自身の盾にした。

 『夜傘』。『炎髪灼眼の討ち手』が身に纏う黒衣だ。ただのコートのように見えるそれだが、実際は鉄筋コンクリートが直撃してもこゆるぎもしない、強力無比な盾であった。

 ただの炎弾、それも一発や二発の直撃では傷さえ与えられはしない。それを証明するかの如く、『夜傘』は数発の炎弾の直撃を受けるが、触れる先から爆炎を弾き飛ばした。だけでなく、衝撃さえも完全に遮断し、少女は一切の速度を落とさず、炎弾の雨霰の真っただ中を突き破った。

 カルは再び距離を取ろうと“存在の力”を込めるが、今度は少女がそれを許さない。

 カルが高速で後方に動くのに合わせ、少女は足元に紅蓮の爆発を起こす。“天壌の劫火”アラストールの力、その(ほんの一部分の)力の顕現だ。

 爆発の推進力を使い、少女はカルとの間合いを詰めた。

 

 

「ちっ」

 

 

 舌打ちするカルを少女は容赦なく左足を蹴る。いかな“存在の力”による高速移動も、その始点となる箇所が必要だ。その始点となる左足を、少女は真っ先に奪おうとした。

 堪らず、カルは“存在の力”を用いて上方へと飛ぶ。

 

 

(これで――っ!?)

 

 

 少女は追撃を掛けようとするが、彼女の直感がそれを否定した。

 咄嗟に頭上で両腕を交差させると、衝撃が両腕にのしかかる。カルの左足が、少女の両腕を穿っていた。

 

 

「うぐっ……!」

 

 

 余りの衝撃に少女は真正面から受け止める事を諦め、衝撃のまま身体を後ろに投げ出す。今度は少女が数メートルの後退を余儀なくされた。

 吹き飛ばされながらも、カルの追撃を警戒。さらに、視線をカルが飛んだであろう中空へ投げる。あれだけの速度で跳んだにも関わらず、天井には傷一つついてなかった。

 

 

(今度は“存在の力”で『運動エネルギー』を相殺したの? 器用な奴……!)

 

 

 今回もおそらく、“存在の力”の応用。“存在の力”で天井へと跳んだ勢いを、今度は逆の要領で“存在の力”を使って勢いを殺したのだ。その後は再び“存在の力”で高速移動し、少女に蹴りをあびせた。

 確かに、彼の体術には“存在の力”の多用という無駄が、確かにあった。しかし、物理法則を無視した縦横無尽な動きが、その無駄を補うほどの働きを持っていた。

 苦肉の策、などではない。一つの戦術として、それは確立していた。

 

 

(分かっていたけど、一筋縄じゃいかない)

 

 

 アラストールが見出し、愛した才能。その片鱗に少女は戦慄する。

 だが、それは少女とて同じ。天賦の才を、同じくアラストールに認められた身だ。決して気後れせず、再び足裏に紅蓮の爆発を起こす。爆発の破壊力は推進力となり、少女はさながら弾丸のように高速でカルに躍りかかる。

 カルは淡々と“存在の力”を込め、踏み込みなしで真横へ跳び退る。

 それに対して少女は、床が割れんばかりに踏みしめ急停止し、傍ら、視線だけでカルを追うと――カルは音もなく急停止、再加速。瞬く間に、少女へ蹴りかかってきた。

 少女はそれを『夜傘』の裾を翻し、受け止める。

 刹那、『夜傘』が広がる。頑健なだけでなく、『夜傘』はある程度、伸長や形体を変える事ができる。その性質を利用し、少女は『夜傘』をカルへ巻き付けようとするが、コートの裾は空を切った。カルは少女の思考を看破し、すでに至近距離から退いていた。

 少女は裾の長さを元に戻し、再びカルを視界に捉える。カルはつかず離れずの絶妙な距離で、立っていた。

 

 

(強い)

 

 

 一つの事実として、少女がカルの実力を改めて認める。だが、少女もカルもここまでは小手調べ。戦いはこれから、さらに激化が予想された。

 警戒をさらに一段階高める少女に対して、カルも油断なく少女を見据えながらも、何かを探るような視線をよこす。

 

 

「どういうつもりだ」

「何が?」

「なぜ、あの業物を使わない」

「……」

 

 

 業物――おそらく、『贄殿遮那』の事だろう――を一度も抜かない事を不審に思ったのだろう。少女の真意を探るため、問いだった。

 無論、これは少女……否、少女たちの策の一つだった。少女はそれに正直に答えるつもりはない。ないが――、

 

 

「使う必要、あると思う?」

「欠片も思っていないことを言うな。一瞬でバレるぞ、馬鹿が」

「……」

 

 

 一瞬で看破される少女。

 戦闘中の会話は、単なる戯れではない。相手の思考を読み取るだけでなく、誘導する事もできる……と習った事はあるが、今でも少女はこれが不得手だった。特に、今回はそのせいで、大きな痛手も被った。

 

 

(今まで不得手だからって避けてたけど、今度からは頑張ろう)

 

 

 少女が内心、本格的に交渉術の習得を決心している傍ら、カルは松葉杖をとある一点を指し示す。

 

 

「そして何より、なぜ、いない」

「……」

 

 

 それは少女の胸元だった。そこにはあるはずのもの、神器『コキュートス』――すなわち“天壌の業火”アラストール――がいなかった。

 

 

(そろそろ……よね)

 

 

 少女が僅かに表情に緊張が混ざる。事前に話し合った作戦であれば、いつ事が進んでもおかしくない……と、少女が思ったこのタイミングで、状況が変わる。

 封絶に囲まれた堂森市計算センター、その上階に新たな気配が加わっていた。

 

 

「――前田慶次かっ!!」

 

 

 『フレイムヘイズ』二人を除き、“封絶”内で動ける者は――そんな単純な引き算から、カルは答えを導き出す。

 予想外の展開に、さしもの彼も動揺をその瞳に現すが、それは刹那。すぐさま唇を残酷に歪め、軽蔑の眼差しを少女に向けた。

 

 

「俺を足止めすれば、安全に探れると思ったのか? あまりに愚かな選択だな」

 

 

 言うな否や、再び“封絶”内の状況が変わる。堂森市計算センター、その屋上に次々と新たな気配が現れていた。

 少女やカルと比べるとか細い存在……その力から察するに、“燐子”であろう。

 前日の戦闘、慶次は片腕を犠牲にしてようやく“燐子”を一体を屠った。それが、一群となって真っ直ぐ慶次と思われる存在に、殺到していた。

 間違いなく、慶次の危機。だが、少女は揺らがない。

 

 

(大丈夫――)

 

 

 それどころか、その表情には自信さえ漲っていた。

 

 

「愚かかどうか、確かめてみる?」

「ああ、証明してやろう。前田慶次の死体でな」

 

 

 建物内を駆け降りる“燐子”。一群となった奴らの足音が徐々に大きくなる。一階で対峙する少女たちの近づいている証であると同時に、慶次に迫っている証左でもあった。

 そして、一階が“燐子”の踏み鳴らす音で埋め尽くされ、今まさに“燐子”と慶次がぶつかる瞬間――カルの表情が驚愕に変わる。

 

 

「まさか……貴様……何と愚かな選択を……!!」

「それしか言う事ないの?」

 

 

 少女は見やる。

 カルはまるで理解できない、別の生き物を見るような視線を寄越していた。

 少女から慶次の様子は分からないが、どうやらカルには“燐子”越しに慶次の状況を把握できるのだろう。

 そして確信する。慶次が十二分に作戦を遂行している事を。

 静かに少女が拳を構える。だが、その内心は熱いモノが身体の奥底から沸々と湧き上がってくる。

 

 

 ――慶次が来てくれた。

 

 

 確かに事前の作戦で、慶次は少女と別行動で突入する手筈になっていた。慶次もそれを承諾した。

 それでも、だ。それでも、人間が単独で“燐子”と対峙する。それも、都合二度も散々に打ちのめされた相手に、策を持っていても――普通の人間が立ち向かえるか。

 答えは……否。でも、慶次は事実、来て、戦っている。

 そして、それだけではない。慶次に殺到していた“燐子”の気配が、確実にその数を減らしているのだ。

 “策”とも言えない、無茶苦茶な“方法”。彼はそれを、この苦しい状況で成し遂げてくれていた。

 

 

「全部見えてるみたいだから訊きたいんだけど――」

 

 

 だから、カルに言わずにはいられなかった。

 

 

「私は使命のためだって納得したことなら、“アラストール”だって『贄殿遮那』だって人間に預けられる。人間の囮にだって、なってあげる……お前には、その覚悟もないの?」

「……っ! 貴様、もう手遅れのようだな……!」

 

 

 熱い鼓動を胸に秘め、少女は再び拳を振るった。

 

 

 

 

 時は少し遡り、少女が攻勢を仕掛ける前。堂森市計算センター近辺の建物の屋上に、前田慶次は立っていた。

 片袖だけに改造した学ランを羽織り、『宝具』入りのバットケースを身体に巻き付けるように背負い。そして、その胸と左手には通常では有り得ないものがあった。

 ――神器『コキュートス』と『贄殿遮那』。

 いずれも少女の物で、慶次が持つべきではないもの。それが二つ、慶次の手中にあった。無論、弱い慶次を慮った処置ではなく、全ては使命のためだ。

 昨日、天才同士の話し合いで、どうしても解決しなければならない問題が一つ上がった。それはウイルスへの対応だ。

 慶次たちの勝利条件は『ウイルス拡散の阻止』。極論を言ってしまえば、ウイルスが堂森市内で留まるのであれば、カルを制裁しなくてもよかった。

 とはいえ、カルが大人しくしている訳がない。おのずと奴を抑える役割の者が必要となり、それを成せるのは椿ただ一人だった。

 しかし、何度も言うが慶次たちの目的は『ウイルス拡散の阻止』だ。カルの相手は、あくまで勝つための手段であり、目的ではない。とはいえ、椿はカルを抑えるだけで椿は手一杯になるはずで、本来の目的への対処がおざなりになることが予想された。カルが椿に敗れ暴走し、研究所を吹き飛ばす――などといった最悪の事態にも備えもある。椿に代わりに、研究施設への探索は必要不可欠であった。

 必然的に『宝具』を扱え、ウイルスの抗体を持つ慶次に白羽の矢が立ったが、その役割を果たすには大きな問題があった。

 “燐子”の存在だ。

 カルの側も椿への対応で手一杯の状況。となれば、研究施設の警護にあの悍ましい犬を使わない道理はない。一対一でも辛勝だった慶次が“燐子”の大群と戦えば、結果は火を見るより明らかだ。

 ――そのための神器『コキュートス』と『贄殿遮那』だった。 

 攻撃力を『贄殿遮那』を底上げし、足りない戦闘経験を歴戦を潜り抜けた“アラストール”で補う……言葉にすればそれだけのものだが、問題は“椿の戦闘能力を減らす”という大きすぎる代償を払っていた事だ。

 椿も、提案した美代も、愚策としか思っていなかった。

 

 

「それでも、勝つにはこの方法しかない……か」

 

 

 作戦開始を間近に迎えた慶次は、苦笑を浮かべて呟く。その脳裏には、二人の女性の苦渋の表情が過ぎっていた。

 力強い声で策を伝えながらも、今にも泣きそうな美代。口を強く引き結び、黙っているだけの椿。こんな事を言いたくない、こんな事をさせたくない、でも全員が生き残るにはこの方法しかない……そんな声が彼女たちの表情を見ていると、聞こえてくるような気がした。

 覚悟を決めた。戦うと決めた。それでも苦しんで、信じて、託してくれる。それはきっと、何ものにも替えられないものだと慶次は思う。

 嬉しかった。だが同時に、二度とこんなものを受け取りたくない、そんな顔をさせたくないとも思っていた。

 だからこそ“もう一つの策”――これも策とも言えない、ただの方法だが――は例えぶっつけ本番でも、必ず成功させてやろうと決意する。

 浅く白い息を吐きながら、目を瞑る。その時はすぐに来た。

 

 

「前田慶次」

 

 

 胸元の神器『コキュートス』から慶次を呼ぶ声が上がる。

 

 

「そろそろ時間だ」

「おう」

 

 

 慶次は短く返すと、大太刀に重さに振り回されながら、何とか肩に担ぎ上げる。僅かに腰を落とし跳躍の姿勢に入りながら、今度は白い息を長く吐く。そして、“策”を実行しようとこれまでの事を思い返す。

 “燐子”に襲われた。椿に会って救われ、世界の恐ろしき真実に触れた。いつしかそれは、己の乗り越えたはずの過去にも及び、さらには世界を巻き込んだ騒動へと発展した。

 いつの間に、なんて事態に巻き込まれているのだろうか。だがそれでも、慶次は己が意思でここに立っている。全てに立ち向かい、解決するために慶次は誓いを叫ぶ。

 

 

「アラストール、俺は俺のやれる事を全てやり遂げる!」

「うむ」

「俺の身も心も、全て使う!」

「ああ」

「後は頼んだぞ『親友』!!」

「戦闘は我の領分だ。後は任せておけ、『我が友』」

 

 

 アラストールのその言葉が鍵となったのか、慶次の『宝具』が眩い光を放つ。先日、慶次が“燐子”に使った『宝具』の暴走であった。そして、これが“もう一つの策”だった。

 何のことはない、『宝具』の暴走を意図的に起こし、慶次の身体能力を上げる事であった。だが、先日のような暴走ではとてもではないが、探索はできない。だからこそ、美代と椿が要求したのは暴走の原因となる感情を、限定することだった。

 

 

 ――アラストールを信じる。

 

 

 信頼、ともすれば狂信とも言えるほど感情を持てば、暴走状態でもコントロールできるのではないか、という予想の元、考えられた方法だった。

 無論、試行する時間も余裕もなかった。そもそも、実行できるかどうかも定かではなかった。

 だが昨日の邂逅を経て、慶次とアラストールは確かな絆を持った。今、互いに臆面もなく友と言い合える仲となった。死地へと向かう直前も、アラストールを信じ、そしてアラストールに信じられている……それは莫大な感情となり、『宝具』を意図した暴走へと導いた。

 ここまでは第一段階。大事なのはこの先。アラストールを信頼し、暴走状態となった慶次を操れるかどうかだ。

 

 

「建物へ飛び込め」

 

 

 しかしアラストールは一瞬の逡巡もなく、慶次に命を下していた。それは言外に、慶次を信じていると伝えているようでもあった。それはさらなる慶次の糧となり『宝具』の輝きは増し、そして――慶次は堂森市計算センターの中階へと飛び込んでいた。

 ぶち破った窓ガラスが飛散する中、慶次はド派手に屋内へ着地する。

 

 

「左の部屋からだ。探索は我がする。歩き回れ」

 

 

 すぐにアラストールの次なる指示が飛ぶ。カルに気づかれたのか、上階から“燐子”が殺到していた。時間はない。

 慶次は指示通り? 扉を蹴破ると、部屋の外周を歩き回る。束の間、アラストールは『コキュートス』から周囲を見渡す。ここには、ウイルスに関する物は見当たらない。

 ここでアラストールが一喝する。

 

 

「迎撃準備!」

 

 

 応えるように慶次は大太刀を構える。それとほぼ同時に、外の廊下に通じる壁が吹き飛ぶ。

 “燐子”だ。それも三体。数百を超える夥しい眼球で慶次を捕らえ、三つの咢が彼を食い破らんと殺到する。

 それに対して、アラストールの指示は短い。

 

 

「右へ突」

 

 

 慶次が床を踏みしめる。床はひび割れコンクリートが舞い散る。刹那、一つの突風となった慶次は“燐子”たちを置いて、破れた壁から廊下へと飛び出た。ただし、大太刀の切っ先に“燐子”を貫いて。

 “燐子”の口から背中へと飛び出た大太刀。そこから、血のように薄桜色の火が吹き出ると、“燐子”は崩れるように火の粉へと舞い散った。

 ――今、慶次が……否、慶次()()が“燐子”を完全に超えた瞬間だった。

 だが、慶次とアラストールの目的は“燐子”の討滅ではない。ウイルスに関する情報を取得し、椿を援護すること。そして、カルの野望を阻止することだ。

 “燐子”の討滅は単なる手段。そして何より、数が多すぎた。見つかって一分足らずにもかかわらず、廊下にはすでに十体を超える“燐子”がいた。これを全て一度に相手をするには、今の慶次でもさすがに心もとない。

 

 

「数が多いか……天井を突き破れ。このまま上階の捜索だ」

 

 

 慶次が思い切り飛び上がる。とても人間の頭とは思えない頑丈さで、鉄筋やコンクリートを突き破り、無傷で上階へとたどり着いた。

 事前に薬品を取り扱う部署や、隠し部屋がありそうな範囲は絞ってある。こうやって近道を作れば、戦闘も探索も最小限で行える。

 

 

「三体ほど追撃を斬ってから、探索に移れ」

 

 

 慶次は指示通り、彼が開けた穴から追いかけてきた“燐子”を斬る。さすがの“燐子”も空中で『贄殿遮那』を受ける手段はなく、あえなく火の粉へと帰る。後続は無残にも斬り捨てられる同胞を見て、直接の追撃を断念し他の道へ行く。どうやら、“燐子”に新しい穴を開けるなどという思考はなかったようだ。

 僅かに得られた時間で階を調べつくし、次の階へと向かった。



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第ⅩⅩⅠ話 敗北

酷いネタバレ
それとちょっと残虐描写あり。


 慶次の役割――ウイルスの捜索――は順調であった。

 最も懸念されていた意図的な『宝具』も暴走も成し遂げた。アラストールの指示も、問題なく聞き分けている。暴走の継続時間もアラストールが指示を出し、慶次がそれに応える度に、さらに互いの信頼感を高まり『宝具』は強い輝きを放っていた。今や“燐子”は慶次たちを足止めする事さえ叶わず、最上階まで探索を許していた。

 

 

「斬り飛ばせ」

 

 

 アラストールの指示に、慶次は逆袈裟に『贄殿遮那』を振るう。片腕で振った上、本人の技量不足により太刀筋は乱れていた。それでも神通無比の大業物による一撃だ。難なくコンクリートの壁を斬り飛ばし、壁の奥のがらんどうを曝した。

 

 

「ここにもない、か」

 

 

 確認するように小さく呟くアラストール。

 堂森計算センターで隠れて研究できる個所を、美代主導でビルの設計図から事前に抽出していた。そして、今の個所が最上階の最後――さらに言えば、設計図から割り出せる最後の場所であった。

 事前に割り出した場所には何もなかった。となれば、残り場所は――。

 

 

「――後ろだ!」

「ギャウッ!?」

 

 

 アラストールの鋭い指示に、慶次は振り向き様に大太刀を振るう。“燐子”は斜めに真っ二つに斬り裂かれ、薄桜色へと散る。しかし、その後ろには数十の“燐子”が狭い廊下を行列を成し、慶次に襲い掛からんとした。

 さすがに数が多い。今の慶次でも、一度にこれだけの“燐子”を相手にはできない。

 

 

「窓へ向かえ」

 

 

 幸い“燐子”は律儀に通路を使って移動している。アラストールは数の少ない外――窓へ向けて動くよう慶次に命令する。窓へ駆ける慶次。数体の“燐子”が彼の前に立ち塞がるが、大太刀の間合いは広い。“燐子”が飛びかかる前に、慶次は全てを斬り捨て、難なく窓へとたどり着く。

 そしてアラストールは、

 

 

「外壁の足場から、屋上へ飛べ」

 

 

 思わず足を止めるような滅茶苦茶な指示。

 しかし、アラストールは出来ると判断した。慶次も彼の指示を信頼している。慶次は一瞬も足を止めることなく窓を突き破ると、外壁沿いの足場を器用に駆ける。そして僅かにつけた助走で跳躍する。慶次は悠々と屋上の柵を飛び越えた。

 屋上へと着地するまでの一瞬に周囲の状況を見渡すアラストール。そこには、アラストールの想像通りの光景があった。

 階下へと繋がる扉と排水溝しかない殺風景な屋上。しかしそこには十数匹の“燐子”がおり、そしてその中心にはまるで守るかのように一匹の白い小さな犬がいた。

 

 

「くぅーん……」

 

 

 空中にいる慶次を見上げ、フルフルと震える子犬。おおよその人間が可愛いと評するであろう外見。しかし、そこからあふれる気配は、決して生物のモノではなかった。

 当然だが、“燐子”も討滅すれば数が減る。だというのに、突入時から“燐子”が減る様子は全く見られなかった。ならば、この“燐子”たちは事前に作られたものではなく、今、作られているのは自明の理。そして、それを叶えるモノといえば――。

 

 

(『宝具』か!)

 

 

 おそらく、半自立型の『宝具』。あらかじめ“存在の力”を込めておくことで、自動で“燐子”を補充していたのだろう。そして、今も『宝具』は“燐子”を生み出している。このまま放置をすれば、状況が悪化するのは明らかだった。

 窓伝いに移動したことで、階下では未だ数十体の“燐子”はまごついている。屋上には『宝具』を中心に十数匹が円陣を組んでいる。一度に相手にするにはともかく、一角を崩し突入するのは、そこまで難しくない。

 防備も薄く、難易度も低い。無論、これはアラストールが“燐子”と動きと習性を解析し、“燐子”を誘導した成果だった。『宝具』を破壊するなら今しかない。

 

 

「子犬を狙え!」

 

 

 慶次が着地と同時に、アラストールが叫ぶ。

 慶次は屋上のコンクリートが割れんばかりに踏み抜く。一瞬で風となった慶次の前に、慌てて“燐子”が『宝具』の前に立つ。しかし、円陣を組んでいた事が災いし、瞬時に立ち塞がったのは僅かに三体。

 慶次は一体を斬り飛ばし、二体目は刺突。そのまま勢いを止めることなく駆け抜け三体目も串刺し、最後は“燐子”ごと大太刀を『宝具』へと叩きつけた。

 “燐子”と大太刀の下敷きになり、子犬は僅かばかり痙攣をする。それが切っ掛けとなったのか、徐々にその身体は崩れていき霞となって消え去った。

 周囲にいた“燐子”も同様に身体を崩していき、数瞬後には静寂が屋上に訪れた。

 慶次とアラストールの完勝だった。

 

 

「良くやった」

「――――」

 

 

 アラストールの短い賞賛に、慶次は『宝具』の輝きで応える。『宝具』の暴走は止めない。まだ戦いは終わっていないのだ。

 

 

「ああ、そうだな。お前には今しばらく負担を強いるが、頼むぞ」

「――――」

「作戦通り次は――」

 

 

 ここまでは、今までの不幸や理不尽が嘘のように順調にいっていた。それでも、慶次もアラストールも決して気を抜いていなかった。むしろ、気を引き締め一分の油断さえしていなかった。

 それでも一瞬の隙が生まれた理由を上げるとすれば……信頼しすぎていた。互いを――そして、椿を。

 紅蓮に染まった世界。『炎髪灼眼の討ち手』による“封絶”。それが慶次たちの目の前から、突如として消え去ったのだ。

 椿が維持していた“封絶”が消える……彼女の身に何かが起きたとしか思えなかった。

 

 

「っ!?」

 

 

 アラストールが常にはない驚愕に染まる。己は成し遂げた。そして、慶次でさえも成し遂げた。ならば、選ばれた者である彼女も必ず成し遂げる――慶次とアラストールが固い絆で結ばれたからこそ起きた、無根拠な過信であった。

 そして、過信が驚愕を呼び越し、一瞬の隙を生み出す。

 

 

「まさか――」

 

 

 指示が滞ったため、自らで動けない慶次は完全な棒立ちとなり、無防備を晒す。その耳には僅かな電子音が届いていたが、その意味を『宝具』が暴走した慶次では理解する事もできず。

 ――カチッ。

 一際大きな電子音と共に、屋上は爆炎に包まれた。

 

 

 

 

「はっ!!」

 

 

 足裏の爆発と共に、椿が拳を振るう。何度目になるか分からない攻撃。だが、それはカルへと少しずつ、そして確実に届いていた。

 

 

「――っ!」

 

 

 舌打ちしたカルが“存在の力”で突如として真横へと動く。椿の拳が、先までカルがいた空間を通る――と思われた、その瞬間。

 

 

「しっ!!」

 

 

 再び紅蓮の爆発が椿の足裏に生まれる。無理やり推進力を真横へと変えた彼女は、しかし寸分違わずカルへと迫る。そしてその勢いのまま左足を振り上げ、カルを蹴り下した。カルの右腕が少女の蹴りを防ぐが、

 

 

「ぐっ――!?」

 

 

 苦悶を漏らし吹き飛ばされる。飛ばされながら、椿の追撃を防ぐため炎弾を数発放つが、それは苦し紛れの攻撃。『夜笠』を盾にした椿に難なく突破され、再び距離を詰められ右拳で一撃。

 

 

「っ!?」

 

 

 カルは寸でのところで右腕で受けるが、態勢が不十分。無様に吹き飛び、二転三転してようやく止まった。

 右腕だけで器用に立ち上がるカル。純白のジャケットはすっかり煤けており、彼を支えていた松葉杖は手にはない。激闘の中、真っ二つに折れ床に投げ捨てられていた。

 対して椿は再び格闘の構えをとる。新品同然だった着物は血と汗と埃で薄汚れていた。ただし、落ちにくい素材を使っているのか、化粧だけは戦闘前と変わっていない。

 二人の戦いは、椿が有利に進めていた。確かに、カルは技量の高い自在師だ。しかし、椿がほとんど力技で、カルの高速移動を封じ込めたのもあり、左手と右足を埋めるほど動きはできていなかった。

 今まで、決定打こそないものの確実にダメージが大きいのはカル。そして何よりも――。

 

 

「慶次は探索が終わったみたいね」

「本当に、しぶとい人間だ……!」

 

 

 “封絶”内の気配をたどれば、慶次の居場所はすでに最上階。おおよそ探索を終わらせ、それでも動きを止めていない。

 

 

(つまり、建物内にウイルスの情報はなかった。こいつが一階で待ち受けていたのも勘案すると、やっぱり地下に研究施設があるんでしょうね)

 

 

 慶次の行動と作戦前の会議から、椿もアラストールと同じ結論にたどり着く。後は彼らが地下に行きやすいようにカルをこの場から離すか、それともここで一気に決着をつけるか。どちらにせよ、時間は椿の味方――と僅かな思案の間に、さらに事態は進む。“燐子”の気配が、封絶内から一斉に消えていたのだ。

 探索だけではなく、“燐子”の討滅まで成し遂げていた。慶次に出来得る、最大限の成果だった。この土壇場で、あんな杜撰な策で。

 椿の口角が思わず上がる。ここまで期待に応えてくれて、心が燃えない訳がなかった。

 だからといって、感情のまま流される訳ではない。頭の芯は冷めきっており、カルの一挙手一投足を見逃していない。もし、アラストールが今の椿を見れば絶好調だと評していたであろう。

 ――だからこそ、相手の『殺し』が変わっていた事を感じ取れた。

 

 

「本当にこの程度だったか」

「……どういう意味?」

 

 

 訊きながら、椿はさらに集中力を高める。何が変わったのか、何をしようとしているのか。一手も見逃さぬよう、カルの指先一本の微動もその眼に焼き付ける。

 そして、気づく。

 

 

「あと二、三手はあるかと警戒していたが、まさか前田慶次で全部だったとはな」

「『自在法』!」

 

 

 カルの右手を包み込む、薄桜色の光。一瞬の内に『自在法』を展開していた。

 今まで、なぜ使わなかったか。色々疑問に尽きないが、一つだけはっきりと分かる事がある。長年培った勘が、あれは危険だとはっきりと警告していた。

 さらに集中力を高める椿。いかなる攻撃にも備え防御を固める少女に、カルは軽く腕を振るった。

 瞬間、薄桜色の光は消えた。何が、と思う椿の前で、変化はすぐに起きた。

 自身が展開していたはずの“封絶”。その核となる自在式が一瞬の内に壊されていた。

 

 

「何で――!?」

 

 

 困惑する椿の前に、隔絶された世界が戻ってくる。捲れ上がったコンクリートの床や、砕け堕ちた壁にガラス。二人のフレイムヘイズによって起きた戦闘の余波は、もう戻すことができない。

 あの『自在法』は何なのか。一体、カルは何のために“封絶”を破壊したのか。

 次々と湧き出る疑問の中、その思考は一つの音でかき消される。

 

 

「これは――」

 

 

 ビル全体を揺るがす、爆発音。そこに“存在の力”は感じられない。となれば、それは爆弾の類だろうが問題はその爆発が起きた場所だ。

 音の震源地は、音の近さやビルの揺れから、この建物の屋上。そして、先まで屋上にいたのは――。

 

 

(慶次を狙っていた……!?)

 

 

 浮かんだ予想に、椿は冷たい汗をかく。屋上に『宝具』(もちろん、現状からの推測)を設置したのも、慶次を半ば放置した事も、“燐子”が討滅される事も、全て計算済みだった事になる。

 そして、慶次を排除したその次は、

 

 

「もう終わりにするぞ」

「っ!? させない……!」

 

 

 滑るように動いて近づくカル。何度も見た、彼特有の移動方法だ。しかし、今までにない『自在法』を右手に纏わせている。

 椿はそれをあえて迎え撃つ。逃げても状況が好転しないことに加え、おそらく先の爆発で慶次は戦闘不能。最悪を考えれば、もう慶次は――。

 

 

(全部取るって決めたの! 誰かが欠ける終わりなんて……絶対に嫌!!)

 

 

 嫌な想像を、椿は振り払う。決意を新たに、心を燃やして戦う。

 先に動いたのは椿であった。右腕の『自在法』。それさえなければ、椿の有利は揺るがない。『夜笠』をカルの右腕に向けて、巻き付けようと伸ばした。

 避けるか、それとも離れるか。カルの動きは椿の予想に反する。いや、そのどちらでもなく、ただ真っ直ぐ突っ切った。

 『夜笠』が『自在法』に触れた瞬間、それは起きた。

 

 

「!!」

 

 

 炎弾でさえ小動もしなかった『夜笠』が、まるで綿のように斬り裂かれていた。カルは減速せず、そのまま右手を振りかぶる。そこには『自在法』はすでに展開されていない。

 連続で使えないのか。それとも、フェイントか。ぐるぐる巡る思考の中、確信しているのは『自在法』に触れれば無事では済まない事だ。椿は『自在法』の展開を見逃さぬよう感覚を研ぎ澄ませ、攻撃に備える。

 そして、カルはそのまま右手を振り抜いた。

 右手を左腕で受け止めた椿は、しかしその顔を苦悶に歪め――吐血した。

 

 

「かはっ……!」

 

 

 腹部に走る激痛。

 視線を下に巡らせ、椿は驚愕する。

 カルの左腕が、少女の腹部を穿っていたのだ。

 

 

「っ、あ、んた……!?」

 

 

 さすがの椿も、これには動揺を隠せなかった。

 白骨……メリヒムたちによって、失われた左腕と右足。失われたからこそ、フレイムヘイズとしての道を閉ざされたのがカルなのだ。だからこそ、椿は左腕と右足を思考から除外していた。

 だが、それは欺瞞だった。十数年、この一撃のため。

 

 

(こんなの、私――)

「分かったか」

 

 

 意識が飛びかける椿に、カルが一気に畳みかける。

 右の回し蹴りが少女の首を刈るように振り下ろされる。

 ほとんど直感で両腕で受けようとし、椿はぎょっとする。奴の右足を包み込む薄桜色の光。まずい、と思った瞬間には遅かった。

 不十分な体制では威力に受け流すことができず、地面に叩きつけられるように吹き飛ばされる。

 そして、

 

 

「あああああああああっ!!!!」

 

 

 椿は常にはない絶叫を上げた。カルの蹴りを……否、『自在法』を受けた細腕が、内側より破裂していたのだ。筋肉も、神経も、骨も出鱈目の方向を向き、血が止めどなく噴き出し、美しかった着物を真っ赤に染め上げる。もはや原型を留めぬ両腕に、少女も激痛にのたうち回り、立ち上がることもできなかった。

 人であれば、心を痛めるような光景。しかし、カルは口を三日月に歪め、少女に近づく。

 

 

「お前とは」

「!!」

 

 

 カルの接近に気づき、椿は口を真一文字に結ぶ。カルを睨み付けるが、激痛はまだ収まっておらず、全身からは異常な汗が流れ続けていた。

 カルは止まらない。足を上げる。狙いは椿の頭。このまま降ろされたら、意識を刈り取られるだろう。

 だが、椿は動けない。両腕だけではない。腹部に攻撃を受けた時、内臓も傷つけられていたらしく、力が入らなかった。

 

 

(みんな、あんなに頑張ってくれてるのに……! 肝心の私が、こんな体たらくなんて……!)

 

 

 人間である慶次が美代が命を張っているのに、己の現状が、悔しかった。

 それでも、自身の敗北を告げる攻撃を前に、ただ見ているだけしかできなかった。

 

 

「積み上げた覚悟が違うんだよ」

(ごめん――)

 

 

 降りてきた足に、椿は一瞬も抵抗できず、意識を失った。

 

 

 

 

「――っ、――!!」

「ぅ……ぁ……」

「覚醒せよ! 前田慶次!!」

「――ぁあっ……!」

 

 

 胸元のペンダントからの怒声に、慶次は沈んでいた意識を浮かび上がらせる。しかし、覚醒とまではいかく、茫然と中空を眺める。霞んだ視界から見る空は、昨日の悪天候が嘘のような明るい快晴だった。しかし、背中に伝わる冷たく柔らかい感覚が、大雪の名残を伝えてくれる。

 その間も、何度もアラストールが怒声を上げるが、どうにも気持ちが引き締まらない。そうして数瞬、晴れ渡る空を見ていると、

 

 

「……封絶! 封絶がないぞ、アラストール……!」

「ようやく、意識が覚醒したか! それも気になるが、慶次、早く補給しろ!!」

「補給って、なんで――っ」

 

 

 アラストールに指摘され、慶次の記憶が朧気ながら戻ってくる。

 突入後、順調に探索を終え“燐子”を討滅した事。そして突如、封絶が消えて動揺のまま屋上が吹き飛ばされ――、

 

 

「いてぇっ!! 全身、メッチャ痛い!!」

 

 

 現状に思い至った瞬間、思い出したかのように激痛が身体を襲った。確かに、宝具によって慶次の肉体は強化されていたが、それでも人間。例え人間が作った爆弾であろうと、屋上全部を吹き飛ばす爆発に無事で済むはずがなかった。全身の大火傷に加え、受け身も取れずに地上まで吹き飛ばされ、全身骨折であった。

 

 

「今更か!? まあよい、近くに自動販売機がある。そこから飲料水を採取しろ」

「あいっ……!」

 

 

 返事も絶え絶えに、慶次は贄殿遮那(奇跡的に手放さなかった)を杖代わりにし、自動販売機ににじり寄る。そして、ポケットから財布を――、

 

 

「馬鹿者!! そんな律儀な真似をせずともよい!! 早く叩き斬れ!!」

「す、すまん……こんな時も、小市民で……」

 

 

 アラストールに一喝され、贄殿遮那をフラフラと振りぬく。雑に斬ったため部品や液体が飛び散るが、もはやそれに気をやっている時間もない。斬った先から零れ落ちた飲料水。片手では開けづらいので、プルも斬り飛ばす。そこから、貪りつくように摂取した。

 そうして、自動販売機の飲料水がおおよそ底をついた時、ようやく一息付く。

 

 

「――ぷはぁっ! ど、どうにか、助かった……って、訳じゃないよな」

「うむ」

 

 

 慶次とアラストールは視線を一点に集める。

 堂森センタービル。

 椿とカルが激しい戦闘を繰り広げている場所……のはずが、今は封絶のみならず、断絶的に続いていた戦闘音も止んでいた。

 

 

「椿が勝って動けないって線は?」

「分からん。しかし、楽観視はせぬ方が良いだろう」

「なら、次は――」

「!? 前田慶次!?」

 

 

 言葉を続けようとして、慶次がふらりと倒れかける。宝具により、かなり回復したがそれでも火傷が骨折が完治した訳ではない。慶次が思っている以上に、彼の容態は重かった。

 身の安全を考えるなら、ここで慶次は引いたほうが良いが――、

 

 

「……捜索、しよう」

「待て、もうお前は限界だ。成果も十分出した。これ以上、無理をするのは――」

「最悪と最良を考えたら、動くしかないだろう」

 

 

 制止するアラストールに、慶次は否を示す。

 

 

「もし仮に最悪……椿が負けていたとしたら、俺は逃げきれない。どの道、殺される。だとしたら、今、俺が生きているのは敵の油断だ。油断を突けるのは、今しかない」

「……続けろ」

「最良の場合……椿が勝って動けない場合でも、すでに封絶も解けて屋上も吹き飛んでる。いつ、ビルが崩壊してもおかしくない。その前に、ウイルスに関する情報を集めなくちゃ、勝った意味がなくなる」

「……こんな時に、成長しおって」

 

 

 アラストールが珍しく悪態を吐く。感情でなく理屈で説き伏せられては、反対することができなかった。

 

 

「それでは、地下へと向かう」

「ああ……つっても、意識保つので精一杯だ。指示、頼むぞ」

「うむ。まずは裏口から入り、予想箇所を一つずつ……違う、そちらではない。右だ」

 

 

 慶次はアラストールの指示に従おうとするが、だんだんと意識が定まらなくなる。視界も朧で、どっちに進めばいいかも分からなかった。

 アラストールは苦言を呈することもなく、丁寧に、それこそ子どもに教えるような細かさで、慶次を案内した。

 

 

「止まれ」

 

 

 そして、いつの間にか着いたのか、アラストールが制止の声を上げる。慶次はノロノロと贄殿遮那を肩に担ぐと、重さに任せて床に振り下ろした。まるでバターのように大太刀がコンクリートに吸い込まれると、そのまま乱雑に斬り返す。コンクリートに鉄骨が捲り返り、粉塵が舞う。

 しばらくして粉塵が収まる。

 薄暗闇の下には、四角い空間が広がっていた。斬り落とされたコンクリートの破片に埋もれたパイプ椅子があり、窓はなく端っこには扉が一つだけあった。

 慶次はこの部屋を見て、茫然とした。

 

 

「さすが新発田美代の予想だ。建造物の鉄筋の数と位置から、完璧に場所を割り出すとは……」

「なあ……アラス、トール……」

「どうした?」

「俺……この部屋、知ってる……」

「何っ!?」

 

 

 椿と出会う十数分前。慶次は一室に閉じ込められる悪夢を見て、跳ね起きた。その悪夢と、今の部屋が完全に一致していた。

 今思えば、あの瞬間に『宝具』に触れていたのだろう。触れて、消された記憶が夢となって、思い出されていたのだ。

 

 

「お前たちに、会う前、ウイルス打たれて……くっそ……早く、思い出して、れば……こんな、時間掛けずに……」

「やめよ。今は前だけ見て進め」

「……ああ……悪い……」

 

 

 ダメージが大きいのか、慶次の思考が自然と後ろ向きになる。このままではダメだと僅かに首を振ってから、地下へと飛び降りる。見覚えのある真っ暗な部屋を通り抜け、扉を蹴破る。

 瞬間、嫌な臭いが鼻を突き、不快な不協和音が鼓膜を揺らした。

 所狭しの並べられた棚には、蜘蛛や百足や見たこともないカラフルな生物が透明な箱に閉じ込められていた。さらに少し大きなケージとなると、蜥蜴のような両生類、ついには人間サイズの犬などの哺乳類もいた。ただし、こちらはそのどれもが目が虚ろで、カサカサという不規則な音に交じって、弱弱しい鳴き声を上げていた。

 さらには、薬品の匂い混じった糞尿と腐臭。そこは、生物研究所とでも言うべきか、不愉快な空間が広がっていた。

 

 

「……これは」

「我が指示を出す。お前は足元だけを見ていろ」

「……頼む」

 

 

 これらを直視するのは耐えられない。さりとて、目をつぶれば不快な異臭と異音で、頭がかき回される。慶次は素直に視線を足元に落とし、無心でアラストールの声を聞いた。

 そうして、アラストールの指示に従い部屋を進んでいくと、重厚な扉が表れた。恐る恐る慶次が開けると、先の生物的なものとは正反対の、定期的な機械音が聞こえてきた。

 大型の計算機……いわゆるパソコン、サーバー機が納められた部屋だった。天井まで伸びた巨大サーバーの数々が、幾重にも連なって置かれている。おそらく、ここでウイルスの解析などをしていたのだろう。

 そう当たりをつけながら、さらに奥へ進む。すると、机と椅子に一台の個人向けパソコン一式があった。

 

 

「これだけ、何か、浮いてんな」

「うむ。とりあえず、電源を上げよ」

「ああ」

 

 

 頷くパソコンのスイッチを入れる。起動するまでの間に、贄殿遮那を壁に立てかけどっかり椅子に腰かけた。休んでいるはずなのに、疲労が次から次へと湧いてくる。一瞬でも気を抜けば、意識が飛びそうだった。それでも、立ち上がる気力が起きず、つかの間の休息をとった。

 ほどなくして、慶次でも知っている有名なロゴがディスプレイに表示される。休息は終わりと背筋を伸ばし、マウスを左手で何とか操作するも、

 

 

「……パスワードか」

 

 

 ログインしようとした直後、早速躓いた。当然のようにパスワードを要求された。

 

 

「どうすっよ、アラストール……」

「――wilhelmina」

「ん?」

「『wilhelminacarmel(ヴィルヘルミナ・カルメル)』と入力しろ」

「あ、ああ……」

 

 

 半信半疑のまま、慶次は左手の人差し指でキーボード入力する。かくして、あまりにあっけなくログインできた。

 研究所の乱雑さとは異なり、日記や研究の進捗が、一目で分かるように時系列で整理整頓されていた。

 

 

「……どれを見るか」

「……ああ。そこの、ああ、それを開け」

 

 

 アラストールの指示に従い、カーソルを動かす。整理整頓されていたこともあり、目的の資料にはすぐにたどり着いたらしい。というのも、その全てがアルファベットで、さらに専門用語の羅列とあり、とてもではないが慶次には読む事はできなかった。

 その上、

 

 

「これ、何語?」

「英語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語が混ざっている」

「……は? 暗号文でも作ろうとしたって事?」

「……奴の割には、文脈の乱れが所々見られる」

「素かよ!?」

 

 

 暗号……というより、壊れた精神状態で書きなぐったためか、数か国語に渡る論文になっていたらしい。研究所といい、パソコンの状態にパスワード。おおよそ、カルの精神状態が正常でない事がひしひしと伝わってきた。

 慶次が精神力をガリガリ削られながら、アラストールに資料を読ませること数分。読了したらしく、アラストールの指示が止まる。

 

 

「――まずい」

 

 

 胸元のアラストールが珍しく声に焦燥を乗せ、危機を口にした。

 慶次の頭に嫌な予想が過ぎる。

 

 

「……もう、手遅れって事か」

「そうではない。そうではない、が……現状を鑑みるに、その可能性は高い」

 

 

 アラストールの言に、慶次は思わず喰らいつく。

 

 

「どうしてだよ。拡散はまだしてない。ウイルスの情報も今、手に入れたんだ。何とか外部に知らせれば――」

「狙いが、違ったのだ」

 

 

 慶次が首を傾げる。カルの狙いは人類の滅亡。街を襲い、その大部分を傷つけ、感染させた事でほぼ狙いを達しているはずだ。それなのに、アラストールの言葉はまるで()()()()にも狙いがあり、今まさにそれが成就しようとしていると言いたげだった。

 だが、どうしても慶次の頭の中では、ウイルスとその()()が浮かんでこなかった。

 そうして待つこと十数秒。アラストールが重い口を開く。

 

 

「カルの狙いは初めからあの子――『フレイムヘイズ』だ」



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