RE:ヒカルの碁 ~誰が為に碁を打つのか~ (faker00)
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1話

 

 

 

 

 

「佐為に打たせてやれば良かったんだ……初めっから……」

 

 日本棋院。大都会東京、そのど真ん中に位置するこの場所は、現在国内に凡そ200万人いると言われる、囲碁を嗜む者ならその誰もが知っているであろう、文字通りの総本山である。

 しかしながら、実際にその場を訪れ、ましてや内部にある棋譜の保管庫を訪れたことがある人間は一体どれほどいるだろうか?

 数日前に行われたようなタイトル戦から遠い昔、年号を数個飛び越えるほど遥か彼方のものまで。その歴史は確かに同じ足跡の中に連なっていることを証明する。

 

 この日は雨が降っていた。それは、現在この場所を訪れている少年にとっては、その叫びをかき消してくれる幸いだったか、それとも彼自身の心を映すものだったのか。それは誰にも分からない。

 ただ、咽び泣く声と嗚咽だけが、少年──進藤ヒカル以外誰もいない室内に反響する。

 

「誰だってそう言う。俺なんかが打つより佐為に打たせた方が良かった──全部! 全部!! 全部!!!」

 

 全てを吐き出すような絶叫。

 それでもヒカルの激情は収まらない。棋譜が煩雑にばらまかれた机に両の拳を叩き付けると、目に写るそれら全てが心を逆撫ですると、思いっきり右から左に払い除ける。

 まるで散っていく花びらのようにヒラヒラと空を舞う"彼"の棋譜。

 それすら見たくなくて、自らが犯した最大の失着を受け入れられなくて、ヒカルは天を仰いでまた叫ぶ。

 

「俺なんかいらねえ! もう打ちたいって言わねえよ! だから──」

 

「神様! お願いだ! はじめに戻して! アイツと会った一番はじめに時間を戻して!!」

 

 それは、心からの願いだった。

 だが、それに応える声など有りはしない。この時期特有の冷たい雨の音だけが、何もかも吐き出したヒカルの耳に、静かに響く。

 

 

「ははっ──そんなの無理に決まってるよな……」

 

 最大の奇跡と幸福は今まですぐ目の前にあったのに、それを投げ棄てたのは他ならぬ自分だ。

 そんな自分がまた何かを願うなんて、どうかしてるとしか言い様がない。

 自身のムシが良すぎる考えに吐き気を催しながらヒカルは空虚に笑った。

 その瞳は光を失い、頬を涙が伝いつづけている感覚すら最早無くなっていた。

 そのまま覚束無い足取りで保管庫を出ると、玄関へと歩を進める。

 

 

 

 

「おい、きみ──!」

 

「大丈夫、大丈夫だから」

 

「そんなわけがないだろう! ほら、貸してあげるから持っていきなさい!」

 

「……ありがとう」

 

 この雨空の中、傘も差さずに外へ出たヒカルは明らかに異常だったのだろう。血相を変えた職員が彼の後を追い、ただならぬ空気に気圧されながらも傘を差し出す。

 その傘を力無く受けとるヒカル。

 その間も、彼の顔には先程からの渇ききった笑い……いや、嗤いが一時として離れること無く張り付いていた。

 

 

「あの子は──何もなければ良いが」

 

 今夜は雷も落ちるらしい。

 とぼとぼと、今にも崩れ落ちそうになりながら去っていくヒカルを不安げに見守りながら、職員は雨足が強くなってきた空を眺めた。

 

 

「ははは……」

 

 俯いたままのヒカルは、まるで壊れてしまい、そのまま止まらなくなった玩具のように機械的に嗤い続けた。

 ことこのタイミングにおいて、降りしきる雨は彼にとって幸運だったと断言できる。

 そうでなければ、一目で異常と分かる彼は早々に警察に通報されていたことだろう。

 

 ヨロヨロと揺らめく。歩道と車道の区別の無い道でその歩みは余りに危険だった。

 

 

「──!! バッキャロー! 気を付けやがれ!!」

 

 大きなクラクションの音と共に怒号が降りかかる。

 それが自らに向けられたものだとヒカルが気付いたのは、その発信源である軽トラックがとうに自分の横を通り抜け、先にある曲がり角に差し掛かってからだった。

 

 ──いっそのこと、俺を轢き殺していってくれればよかったのに

 

 ボーッとする頭で、なんの感慨もなくそんなことを考える。

 そうすれば、もしかしたら自分がいなくなったスペースを埋める為に佐為が帰ってくるのではないか、なんて思考が頭を巡る。

 

 消えてしまいたい。それが今のヒカルにあるたった1つの感情だった。

 

 

 

「あ──」

 

 そのような事を考えていても、習慣は身に付いているようだ。

 目の前の信号が赤になっていることに気づき、ヒカルは足を止める。

 絶え間なく横切っていく車の波、ぶつ切りのフィルムのように色もなく断片的に視界に入ってくるそれを流し見る。

 

 何故佐為は消えたのか──知らない、けどアイツに打たせてやっていればこんなことにはならなかった

 

 何百回、何千回、それこそこれまでヒカルが佐為と打ってきた碁の数と同じくらい繰り返した自問自答の答えは決まっている。

 自分が打とうと思ったのがいけない。全ては囲碁の神に愛されたアイツに捧げるべきだったのだ。そう、江戸時代、佐為の実力を理解し、委ねた虎次郎──本因坊秀策のように。

 自らもプロとなった今なら分かる。アイツなら、佐為なら、この時代の囲碁をより高みに導けた筈なのだ。

 

 ──ごめんな、塔矢

 

 これまで佐為一色だった脳裏に、ライバルだと信じたかった青年の顔が浮かぶ。

 そうだ、自分は彼からも道標を奪ってしまったのだ。終生の道標を。頑固な塔矢の事だ。何年も、何十年も、もういない佐為の亡霊を、いつまでも追いかけ続けるに違いない。

 初めから分かっていた。その隣にいるべきは自分ではなく、前を行く佐為こそふさわしかったのだ。

 出来ないものに憧れて、全てを壊してしまった。

 

 悔恨の念は止まることを知らない。

 

 

「……俺は、もう打たねえ。もしも打つことがあるとしたら──」

 

 それは佐為とだけだ。アイツの為に俺はいる。

 進藤ヒカルなんて碁打ちは、この世にいらない。

 

 信号が赤から青に変わる。

 水溜まりに足が嵌まることも気にせずヒカルは一歩を踏み出し──

 

「え──」

 

 眩しい光と、耳をつんざくブレーキ音に気付くと同時に意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

────

 

「ヒカル……起きなさい! ヒカル!!」

 

「んー……なんだよ。今日は日曜日だろ……」

 

「何言ってんの! あかりちゃんそろそろ来ちゃうわよ!」

 

「あかり──?」

 

 なんのことだろうか。台所にいるであろう母である美津子の呼ぶ声に、ヒカルは目を擦りながらゆっくりベッドから起き上がる。

 いつの間に自室に戻り寝てしまったのだろうか。

 そもそもあかりがもうすぐ来るとは何の事なのか?

 

 色々と気になる点はあるが、取り敢えず聞けば良いだろう。そう結論付け、ベットから降りて壁に掛けてあるはずの制服を取ろうとし──

 

「あれ──」

 

 本来あるべき場所にそれが無いことに気がついた。

 脱ぎ散らかしたのかと思い辺りを見渡すが、どこにも見当たらない。

 しかし、それ以上にヒカルに違和感を覚えさせたことがある。

 

「碁盤が……ない」

 

 有り得ない。

 ヒカルは背筋から血の気が引くのを感じた。あの碁盤が、佐為と何度も何度も碁を打った思い出の碁盤、常に部屋の中央、そしてヒカルの人生の真ん中に位置していたそれが、無くなっている。

 

「うそだろ!? そんな、そんなわけ!!」

 

 漫画が散らばる床を掻き分け、ベッドの下もくまなく探すが見当たらない。

 無い、無い、無い、混乱と焦りだけが募っていく。

 

 

「なんで、なんで、なんでなんだよぉお!!」

 

「煩い!! さっさと支度しなさい!」

 

「ほっといてくれよ!!──」

 

 端から見れば完全な八つ当たりだが、当のヒカルが気付くわけもない。

 ドアを開けたのであろう美津子を思いっきり睨み付け──その後ろからひょこっと顔を出した少女の姿に言葉を失った。 

 

 

「ヒカル……早くしないと6年生初日から遅刻しちゃうよ?」

 

 幼なじみの藤崎あかり、彼女がここに来ること自体はそれほど珍しいことではない。

 昔からそうであるし、ヒカルが囲碁に打ち込むようになってからも彼女も囲碁部に入部することで、彼が院生になり、プロになっていくなかでその頻度こそ落ちさえすれど、交流自体が無くなることは無かった。

 

 だからそれは良い。ヒカルが言葉を失ったのは彼女がここにいる事実そのものについてではないのだから。

 問題は──

 

「あかり……お前、何でランドセル?」

 

 現在中学3年生として受験勉強真っ盛りの筈の彼女が、何故当たり前のような顔をして真っ赤なランドセルを背負っているのか、と言うことだ。

 

 

 

 

 

─────

 

 

 

「ねえ風鈴(すず)

 

「ん、どーかした?」

 

「いや、入学式の直前に言うことじゃないけどさ……あんた、ほんとに高校進学なんかして良かったの? 忙しいでしょ、囲碁のプロって。只でさえ中学の後半は結構休んでたってのに」

 

「まあどうにかなるでしょ。最悪ギリギリの出席日出ておけば後はテストの点数さえ取ってれば卒業は出来るだろうし」

 

「……風鈴は腹立つくらい頭良いからね。寄越せ、その顔か頭脳か、どっちか半分で佳いから寄越しなさい!」

 

「ちょっ!? やめて、まだ入学式すら終わってないのに目立つのは嫌だって!」

 

 中学からの友人であるあっちゃんが私の頬を摘まむ。

 基本的に入学式なんてものは、皆静かに、杓子定規か! と言いたくなるくらい同じように背筋を伸ばし、同じように姿勢を正して座っているものである。

 そんな中でこれは不味い。周りからの嫌な視線を感じて、直ぐにあっちゃんの手を振りほどいた。

 

 

「はいはい、分かった分かった。勿体無い……風鈴はなんもしなくても美人なのに、中身は基本囲碁の事以外スッカラカンの残念で見ているこっちがやきもきするわほんと」

 

「余計なお世話だよ。私はね、ただ楽しく学校生活を送りたいの。囲碁は大好きだし、将来人生懸けて戦っていく覚悟もある。けど、学生生活は今、この時、10代でしか楽しめないんだから……!」

 

 星木風鈴(ほしきすず)という名前は、見る人が見ればピンと来るかもしれな。

 そう、星目風鈴、ほぼ囲碁用語のこじつけだ。

 

 こんな名前を付ける時点で私の家族構成は大体分かるだろう。大の囲碁馬鹿と言ってなんら問題ない。

 まあその囲碁馬鹿成分の内訳は父6:私3.5:母0.5程度でほぼほぼ父が引っ張っているようなものではあるのだが……

 

 とにもかくにも、私の人生は碁盤と共にあった。何せ、学校行事以外のプライベートで幼少の頃から撮られてきた写真を見返してみれば、碁盤、もしくは碁石が私と一緒に写っていないものが無いのだ。

 例外1つ無い。幾らなんでも海の写真で碁石を持ってピースしてるのは流石にどうなのか? 白に黒縁取りの浮き輪だけでは満足できなかったのか?

 

 そんな私が囲碁に興味を持ち、のめり込んでいくのはある意味必然だったのかもしれない。

 段位を付けるなら、アマ有段の中でもかなり高位に位置できるだろう父と毎日毎日飽きるでも無く打ち続け──何故プロになろうとしなかったのか不思議なほどの情熱である──絵本を読んでくれるのかと思い父の膝に乗ってみれば、何故か月間囲碁ワールドの音読と父の解釈論評が始まるなんて事も日常茶飯事な我が家において、私は普通ではあり得ない常識の中で私はメキメキと力を付け──そして中学1年生の秋にはプロになった。

 

 女流でこれはかなりの快挙であるらしいことは、当時の私にも何となく理解出来た。

 そうしてプロの世界での道を進んでいくなかで、1つの違和感が生まれていることに私は気がついた。

 そう、今考えてみればまともな学生生活を送っていなかったのだ。

 

 部活動、16時には帰宅して21時まで基本囲碁オンリーだったのですがどこにそんな時間が?

 友達、同上。あっちゃんには本当に感謝している。因みに私は運動はそう得意ではない。

 恋愛……父に殺されること請け負いだ。誰がと言われれば、私も、その可哀想な彼氏も、両方である。

 

 

 そんなことに気がついたのは、上へと勝ち進むことが増え、対局が忙しくなり、中々学校に顔を出せなくなり始めた中2の冬の事だった。

 いくらなんでもこれは寂しすぎる。遅かれ早かれ20や其処らからは人生の100%を囲碁に注ぎ込むつもりでいるというのに、残された時間もこれなのは如何なものか?

 

 その事実に焦り、囲碁に裂く時間を減らさないことを条件に父に土下座までして頼み込みなんとか高校への進学を許可してもらい、受験勉強に励み今に至る。

 冷静に考えれば娘に中卒を当たり前のように勧める父親もどうかしてると思うが……囲碁社会は普通じゃないから仕方無いと諦めるしかあるまい。

 

 

「はいはい。分かった分かった。それならひとつアドバイス。普通のJKはヒカルの碁を鞄に10巻も詰め込んでこない。覚えておきな」

 

「う……仕方無いじゃない。好きなんだから……」

 

 そんな私の数少ない娯楽。それが、十数年程前に一世を風靡した囲碁漫画、ヒカルの碁である。

 まさしく聖書、まさしくバイブル。キャラクターの魅力は元より、囲碁に懸ける情熱がどこまでも心地よいのだ。

 と言うわけで常日頃から持ち歩いているのだが……異常だという自覚はある。自重する気が無いだけだ。

 

 

「その言葉と上目使いを向ける相手を私じゃなくて男にすれば良いのに。あ、先生入ってきた」

 

 皆の視線が一斉に前へ向かう。見てみれば、校長先生と思わしき初老の男性が壇上に上がったところだった。

 

 前置きが長くなったが、なんにせよ、私の輝かしい高校生活はここからはじまりのだ!

 なんて事を考えているうちに私の瞼はどんどんと重くなり──そのまま眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

────

 

 

 

「な、なにこれ……」

 

 目を覚ました私に待っていたのは絶望だった。

 説明しろと言われても無理だ。だって私にも分からないのだから。

 現状を整理しよう。私は星木風鈴、15歳、今日から花の女子高生である。

 県内でも可愛いと評判の制服をバッチリ着込み、入学式に挑んでいた筈である。

 だというのに──

 

「今日から皆のお友達になる、星木風鈴ちゃんです。皆、仲良くしてあげてね」

 

 何故私は、ランドセルを背負い、転入生として優しそうな先生の紹介を受けているのか?

 そして、ワタシよりも5つほど年齢が下である筈の小学生から熱烈な歓迎を受けているのか。

 何も理解出来なかった。

 

 

「──もしかして私の高校生活、始まる前に終わった?」

 

 

 

 

 

 




どうもはじめまして!faker00です!

ヒカルの碁、大好きですし素晴らしい二次名作もあるのですが、現行作はやはり中々少ない……と言うことで、私自身で書いてみようと思い当たった次第です

"未来の本因坊"更新されないかなあ……

と言うわけで、宜しくお願いします!

評価、感想、お気に入り登録どしどしお待ちしております!!


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2話

 

 

 

「星木さんは名古屋から転勤でこっちに来ました。知らない土地で不安だと思いますから皆、仲良くしてね!」

 

 先生。生まれて15年と少し、私はずっと都民です。

 そんな冷静な切り返しを即座に出来るほど私は冷静ではなかった。

 

 まてまてまて、いくらなんでも急展開にも程がある。

 これが入学式での居眠りがバレて、目が覚めたら職員室だった。という位ならまだ受け入れられる。でも、今の状況は明らかに違う。

 常識というか、普遍的な筈の前提条件が全て崩れ去っている訳で……え、私は一体どうなった?

 

 

「──えっと……」

 

 一つ深呼吸をして状況を整理してみよう。

 どうしたのかな? という表情の先生を無視して、その全体、そこから自分自身、そして首を捻って如何にも転入生にワクワクと言った空気を全面に押し出している"同級生達"を見る。

 

 先生がまるで巨人に見える。いや、違うな。これは私が縮んでいるんだ。

 そうじゃないと教壇があまりに巨大すぎる。

 よし、取り敢えず一つ納得だ。

 

 じゃあ次……あれ、この服私がお気に入りにしてたやつだ。当時小学生の頃だけどホントにいっつも着てたなあ……

 まあとにかく把握した。

 

 そして最後。30人くらいはいるであろう子供達だけど……不味い。これは不味すぎるぞ。

 緊張とは別の汗が一筋、つーっと額から落ちるのを感じた。

 それも仕方がないだろう。だってこの教室には

 

「私の記憶にある人が誰もいない……!」

 

「初めての学校だからねー。最初だけだから大丈夫だよ」

 

 心の声が思わず出てしまい、咄嗟に口許を抑える。

 子供達のからかうような声も聞こえるが、そんなことはどうでも良い。

 この教室のなかに、私が知っている人は誰一人としていないのだ。

 そう、このあり得ない現実を受け入れると仮定するなら、私は何の前情報も無しに当の昔に終了した筈の小学校生活を、また新たに構築していかねばならないと言うことになる……!

 せめて逆戻りなら、まだあっちゃんや少ないなりにはいた筈の他の友人と絡んでいれば、その内元に近いところに辿り着くという希望もあったはずなのに!

 

 

「はい、それじゃあ星木さんの席は右奥の……隣の子が今ちょっと遅刻してるから空いちゃってるけど窓際の方ね」

 

「はい……」

 

 どうやら私の隣は小学生にして遅刻をかますというかなり大胆な少年のようである。

 漫画ではそう珍しくもない光景なのだろうが、現実問題小学生で遅刻ってあるのだろうか?

 少なくとも、私は実際に見たことはない。

 

 本当は色々と質問攻めしたいところを、ホームルームということで抑えているのだろう。

 好奇に満ち溢れた視線の中を潜り抜け席に座るとようやく一息つくことが出来た。

 

 

「なんだかもう訳分かんないよ……」

 

 その瞬間、どっと現実が押し寄せてくる。

 さっきは無理やり理屈を付けて自分を納得させたが、本来そんなものでどうにかなるわけがない。

 あまりにも非常識すぎる。高校生が小学生になり、全く見知らぬ学校に児童として紹介されている。

 

 時間だけは金で買えないとは良く言ったものだ。こんな意味不明なこと、たかだか金程度で実現してはたまったものではない。

 

 

「これが夢なら」

 

 そんなことを口にし、それもないだろうと首を振る。

 夢にしてはあまりにも感覚がはっきりしすぎている。確かなことは、今目の前にあるのが私にとっての現実であり、これまで過ごしてきた筈の15年の方が致命的に"ズレている"それだけだ。

 

 仮に理解出来たとしても、受け入れられるわけがない。

 

 

「こんな訳の分からない状態になるなら、少しくらいマシな事でもなきゃやってられないわよ。ほんと……」

 

 もうこの期に及んで出来ることと言えば、現実逃避以外にはあるまい。

 先生の話も聞き流しながら、今まで私が知っているのと変わらない青い空と、流れる白い雲を頬杖を付きながらボーッと見る。

 

「ああ、これが私の知らないどこかの世界だって言うなら」

 

 ──ヒカルの碁の世界とかなら良いのに

 

 それなら文句無し。寧ろウェルカムである。

 くだらない妄想と分かっていながら頬がにやけるのを自覚した。

 どのみち囲碁に全力投球すると決めている人生だ。なら、何処までも魅力的な打ち手がたくさんいる世界の方が楽しいに決まっている。

 

 歴史上最強棋士であるかもしれない藤原佐為、私が元いた世界のナンバーワン棋士ですら敵うかどうか分からない凄まじい打ち手である塔矢行洋先生、老獪という言葉を人の形にしたような桑原先生、一柳先生や座間先生と言ったタイトルホルダー経験者の方々に、若手筆頭格である倉田さんや緒方先生も捨てがたい。

 

 

 それに、なにより

 進藤ヒカルと塔矢アキラ、原作終了時に本来の私と同い年だった2人の天才。

 もしも、この2人と競いあっていくことが出来たなら──

 

「こんな幸せなことはないよねー」

 

 溜め息と共に幸せな妄想の本を閉じる。

 そんな都合の良いことが起こるほど運の良い人間なら、そもそもこんなことにはなっていないはずだ。

 

 とにかく、先ずはこの不思議体験初日をなんとか乗り切きる事が先決だろうと姿勢を正して向き直る。

 家がどこにあるかすら全く分からないのは痛手以外のなにものでもないが、そこは恥を忍んで先生に聞くしかないだろう……そして私の家族は変わっていないのか確認をする。それをしない限り次のことは考えられそうにない。

 

 

 

「すいません先生! 遅れました! ほら、ヒカルも早く!!」

 

「ち、ちょっと待てよあかり! 俺朝飯も食ってないんだぜ!」

 

 

 

 そう方針を決めたというのに、勢い良く音を立てて開かれた扉の向こう側に反射的に目を向けた瞬間、今まで考えていたことは全て吹き飛んでしまった。

 これまでの人生で受けた衝撃全てを束にしても届かないと思うほどの衝撃。

 比喩表現では何度となく目にしてきたが、実際に体験するのは初めてだ。

 思わず私は息を飲んだ。

 だって、私の目の前に現れたのは──

 

 

「遅いわよ"進藤"君、"藤崎"さんまで巻き込まないの」

 

「え、あかりはお咎め無し?」

 

「当たり前でしょ! 私はヒカルが起きるの待ってただけなんだから!」

 

「嘘でしょ──」

 

 誰がどう見たって間違える筈の無い、前髪だけが金色の見るからに生意気そうな少年。今後数十年囲碁界に旋風を巻き起こすことになる天才、進藤ヒカルその人だったのだから。

 

 

 

 ──やった……!

 

 

 今にも立ち上がって叫びたいところをグッと堪えて机の下で拳を握るだけに留める。

 私の感情は180度、ひたすら沈んでいた気持ちはどこへやら。今まで悪態を付きまくっていた神様とやらに感謝の気持ちで一杯だった。

 

 

「ん? 何お前、転校生?」

 

 先生にひとしきり怒られたヒカルが頭をかきながらこちらへ向かってくると、昨日まではいなかった私という異物に気が付き、訝しげな表情を浮かべる。

 いくらなんでも初対面の女子にその態度はないだろう、と普段の私なら思ったかもしれないが、今のご機嫌メーターが振り切れた私には気にもならない。

 そんなヒカルに対して満面の笑みで立ち上がり、右手を差し出す。

 

「うん、私の名前は星木風鈴、よろしくね!」

 

「そっか! 俺の名前は進藤ヒカル、よろしくな、星木!」

 

 流石は原作でもコミュニケーション能力の固まりだったヒカルは動じない。

 直ぐにこの状況に順応したのか、いかにも子供っぽい屈託の無い笑顔で私の手を握り返してくれた。

 

 その流れでチラッと彼の後ろの空間を見る。そこには何も無い。もしかすると佐為がいるのかも知れないし、まだいないのかもしれない。

 だが仮にいなかったとして、彼が囲碁の道に導かれていく日はそう遠くないはず。

 そう考えただけで、私の心は弾みっぱなしだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

──────

 

 

「訳分かんねえ……」

 

「もう、いつまでボヤいてるのよ。ヒカルが寝坊するのがいけないんでしょ」

 

「そういうのじゃねえって」

 

 5年前よく着ていたジュニアサイズのシャツとジーンズに着替え、幾分普段より高く見える家々や電信柱を眺めながらヒカルはあかりと共に通学路を小走りに行く。

 残念ながら遅刻だ。それも大幅な。その事実は覆しようがない。

 

 しかしながら、ヒカルの心中を埋めていたのはそんな些事ではなかった。

 

 ──何が悲しくてまたランドセルなんて背負ってるんだ俺は……!

 

 この段階はとうに卒業したはず。

 それなのに、何もかもが自分だけを置いて逆戻りしている。

 盤上のこれからを読むのは得意でも、こんな状況におかれ冷静に立ち回る頭をヒカルは備えてはいなかった。

 

「エイプリルフール……でもないな。あーもう、わっかんねえよ!」

 

「ヒカル、どこか体調悪いの……?」

 

 バカ野郎! と自分を怒鳴り付けたくなるすっとんきょうな考えしか浮かばない。

 自分が知っているのに比べかなり幼いあかりが本当に心配そうな表情に変わり脚を止める。

 それは、何となく恥ずかしかった。

 

「何でもねえ……悪い」

 

「それなら良いけど」

 

 いくらなんでも小学生の女子に心配をかけるなんて情けないにも程がある。

 そう冷静な考えに至った途端、ヒカルは混乱していた頭がすっと落ち着くのを感じた。

 今ジタバタしてもどうにかなるものでもないのは確かだ。

 それならまず、無駄に波風を立てずに過ごす方が良い筈だと。

 

 ──訳分かんないことには変わり無いけど、母さんもあかりも、少なくとも俺の全く知らない二人じゃない。ならそこまで焦る必要ないじゃんか

 

 

 全く知らない世界に放り込まれるよりはよっぽどましだ。

 そんな的を射ているのかいないのかよく分からないポジティブ思考に辿り着くと、ヒカルの中に1つの考えがすっと浮かんできた。

 

「待てよ──戻ってるってことは……」

 

 朝見当たらなかった碁盤や制服は、無くなったのではなく、そもそもそこに無いだけ。当然だ。今の自分はまだ囲碁を始めていなければ、中学に上がってもいない。

 なら逆はどうだ? 時の流れと共に失われたものがあるのなら、それによって得られるものもあるはず。

 そう、この時期に合ったことと言えば──

 

「もしかして、俺はまだアイツに会ってない……? それなら」

 

 雷に打たれたような衝撃がヒカルを貫いた。

 

 辻褄は合っている筈だと。本来ならあるはずのものが、時間の流れに沿って失われている。

 それなら逆もまた然りだ、本来ならもう無いはずのものが、この時間の逆行によって戻らない道理がない。

 

「──っ!」

 

 今すぐにでも土蔵に行きたい。

 そんな衝動にかられながらも踏みとどまる。ここで戻ればあかりに余計な迷惑がかかる。それになにより

 

 ──もしも違ったら、俺もう立ち直れねえよ

 

 そんな、悲しすぎる理由でヒカルは躊躇った。

 

 

 

 

 

 

 

「すいません先生! 遅れました! ほら、ヒカルも早く!!」

 

「ち、ちょっと待てよあかり! 俺朝飯も食ってないんだぜ!」

 

 

 教室にたどり着いたのは、登校時間に30分遅れてのことだった。

 あかりによると、今日は転入生が来るらしい。ヒカルの記憶にはこの時期の転入生というイベントはなかったはずだが、些細なことだろうと特に気にも止めなかった。

 懐かしさすら覚える先生の説教を受け、呆れたように自分の席に座るよう促される。

 

 

「へいへい……あれ?」

 

 何年経っても慣れないものは慣れない。久しぶりの説教に頭をかきながら席へ向かうと、その隣の席に座り、こちらを凝視している少女に気が付いた。

 長い黒髪にパッちりとした目、スッキリとした鼻立ち、もしも精神年齢まで同世代だったなら赤面していたに違いない美少女だった。

 そんな少女の記憶はヒカルには無かったが、彼女が先程あかりの語っていた転入生に違いないと直ぐに合点がいく。

 

「ん? 何お前、新入生?」

 

 だというのに、口をついて出たのはあまりにも失礼な物言いだった。

 "やばっ"とヒカルは心の中で冷や汗をかく。どうやら自分自身この身体に合わせて逆行している部分もあるらしい。

 緒方センセにも良く指摘されると同時に拳骨を落とされたりもしていたが、自分自身あまり礼儀作法がなっているとは言えない。

 だが、幾らなんでも初対面の相手にこの態度はないだろう。

 

「うん、私の名前は星木風鈴、よろしくね!」

 

 有り難いことに、この失礼な態度に少女は特に思うこともないのか満面の笑みで右手を差し出してくる。

 気分を害さずに良かったと安心し、ヒカルも同じように手を出す。

 

「そっか! 俺の名前は進藤ヒカル、よろしくな、星木!」

 

 そうして握り返した手に、ヒカルは違和感を覚えた。

 握手をして手を離したあと、マジマジとそのしなやかな手を見つめる。

 

 ──こいつ、もしかして碁を打つのか? それも相当な……

 

 

 手はその人の人生を写す鏡だと、お喋りが大好きな一柳先生に語られたことを思い出す。

 人の手には、様々な癖が出る。その人がどんなことをして人生を過ごしてきたのか、そんな細かいことはヒカルには分からないが、1つだけ分かることがあった。

 それが、囲碁を嗜んできている人の手である。理屈ではない。ただ何となく、その凹凸か、碁石特有の感覚か、よく分からないが分かるのだ。

 それは練度の高い打ち手であればあるほどにはっきりと。そして、今握った彼女の手はその中でもレベルの高い人にしか感じない感覚だった。

 

 

「──?」

 

「な、何でもない」

 

 不思議そうな目で覗き込んでくる星木から目を反らして席に座る。

 いきなり"お前は碁を打つのか?"なんて聞くのはハードルが高すぎるだろう。

 当時の自分を思い出してヒカルは嘆息する。小学生からすれば碁はマイナーにも程があるのだ。

 

 

 そうして、流石に5年前ともなれば簡単に思える授業を久々に受けながら、いつの間にか夢の世界に導かれてヒカルの逆行生活初日は過ぎていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あった……」

 

 時は流れ夕方。

 夕焼けが差し込む倉の中でヒカルは遂に見つけた。

 古ぼけた碁盤、それはヒカルの人生を変えたもの。あの時と変わらず埃を被って、まるで彼を待っていたかのように記憶と全く同じ場所にいた。

 

 

「──」

 

 心臓が早鐘を打つ。汗が止まらない。

 いまヒカルが立っているところからでは"シミ"があるかどうかは分からない。"アイツ"の流した悔し涙。

 それが見えればきっと……逆になければ……

 

「ええい! ビビってられるかよ!」

 

 勢いでもって手を突っ込み、一思いに引っ張り出す。

 埃が空を舞うが、知ったことではない。

 少しばかり噎せ返り、その向こうに見た碁盤には──

 

 

「……あった──」

 

 いとおしいものを見つけたと、ヒカルはその"シミ"を元いた世界では見えなくなっていたその"証"をなでる。

 より濃く、よりはっきりと。シミはヒカルが触れても消えることはなかった。

 

 

"聞こえるのですか──"

 

 それに続くように脳に直接響く声に、今までとは全く真逆に心臓が止まる。

 分かっていた。シミを見つけることが出来たなら、彼が戻ってくるに違いないと。けど、それでも、ヒカルは涙が溢れ出すのを止められなかった。

 

「ああ、聞こえるよ──お前は一体──」

 

 

 

 藤原佐為の帰還、本来存在しない少女と進藤ヒカルの邂逅で物語はいよいよ回り出す。

 

 だがそれは決して、彼や彼女が望んだハッピーエンドに直結する道ではないことは、まだ誰も知らない──

 

 

 




連続投稿でございます

ではまた!


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3話

 

 

 

 

 ──ヒカル

 

 ああ、私は消えたのだ。

 何もない虚無の中、藤原佐為は理解した。

 

 光も無い、音も無い、自らの身体も無いのだろう。ただ、自らの意識だけがその存在を主張する。

 揺れて、流れて、いつかは自我も消えて、私は完全なる無となるのだろうと。

 その後はどうなるのだろうか? 輪廻転生の輪とやらで、全く知らない他の誰かになるのか、それとももう次はないのか。

 

 ──全く、千年も永らえたと言うのに知らないことばかりですね。私は

 

 そう自嘲して、これが最期と今までを思い返す。

 この千年は、全て碁に費やした。神の一手を求め、どこまでも打ち続けた。

 その中での数多くの好敵手との出会いは、長く世に居座ったことでの幸運だったと胸を張って言えることだろう。

 

 生前の無念、遂には届かなかった神の一手に悔いが無いとは言わない。

 だがそれ以上に、囲碁から貰ったものは多く、計り知れなかった。

 

 ──それでも、一つだけ心残りがあるとしたら

 

 最期に自らと向き合っていた少年の顔を思い出すと、身体も無いのにどこかが締め付けられるような思いが佐為を包んだ。

 ヒカル、まだ彼は幼く、未熟で、それでいて何処までも輝かしい未来が待っていて。

 そんな未来に嫉妬してしまった自分が、最期にきちんと別れを告げてあげられなかったのはどうしようもない失策である。彼が私を探しても、もう私はどこにもいないと言うのに。

 

 ──けどヒカルならきっと大丈夫。ヒカルなら、私の行けなかった世界を見てくれる

 

 しかしながら、そのような安心感を得ていたのも確かである。この千年が、彼に繋ぐ為の永い、永いリレーであったのだということは、本当はとうに理解している。

 彼ならばきっと、極めてくれる筈だと。

 

 

 ──おや

 

 何も動きがないこの場所で、1つの流れを感じて佐為は不信感を覚えた。

 上手く言えないが、何かが起ころうとしている。

 

 誰かが私を読んでいる、誰かが私を引っ張っている。その流れに流されて、自らがまた形どられていく不思議な感覚。

 

 ──神よ……まだ私に役割があるというのか? ヒカルに全てを託した私に?

 

 あの時と同じだ。

 不意に全てを理解した。どうやら私には、藤原佐為としてやることがあるらしい。

 理屈はいらない。結論が分かればそれで良い。

 

 ──良いでしょう……貴方が何を望むのかは知りませんが、このまま消え行く身を何かの為に活かせるなら……!

 

 

 

 そうして、藤原佐為は再び現世へと舞い戻る。

 

 

 

 

 

────

 

 

「……ここは?」

 

 気が付けば、佐為は真っ暗な何処かにいた。しかし、これ迄とは明らかに違う。

 この場所を形取っている床も、柱も、屋根も、確かな形として見ることが出来る。

 そして、慣れ親しんでしまったこの感触。どうやらこの身は虎次郎、ヒカルの時と同じように幽体としてここにその根を下ろしたらしい。

 

「自分の体が見えるというの久しぶりですね。しかし──」

 

 この違和感はなんだろうか。佐為は首を傾げる。

 あまりにも昔のことで細かく思い出せないのだが、ここは初めて来た気がしないと。

 その違和感の正体を確かめるべく何度か辺りを見渡し、覚醒したばかりで寝起きのようにぽわぽわとする頭を無理矢理に動かし、辿り着いた1つの結論に言葉を失った。

 

 

「ここは……ヒカルのじいちゃんの蔵」

 

 有り得ない。その答えを否定するように何度も頭を振る。

 だが、一度辿り着いたことで堰を切ったように溢れでる記憶の断片が、その考えをさらに否定する。

 ここがどこであるか、推測はいつしか確信へと変わっていた。

 

 

「馬鹿な。神は私にまたここで一体何を為せと言うのだ?」

 

 

 それと同時に、ヒカルの前から消える直前、搭矢行洋との一戦から滑り落ち初め、いつしか0になっていた時の砂が充足し、また止まっていることを実感する。

 その事実が何を意味するのか、佐為には分からなかった。

 

 

「気になることばかりですが……この身は霊体、何をしようにも私を見える誰かを待たぬことには……」

 

 

 自分ではなにもできないのがこの身体の辛いところだと肩を落とす。

 読んで文字のごとく無力な存在が私であると。

 

 とにかく誰かが自分を見つけてくれないことには状況は現状から一歩たりとも進歩しない。

 問題はそれがいつになるのか、今日か、明日か、それとも虎次郎からヒカルへの時と同じく数百年か、それすら分からないのがもどかしい。

 

 そうして、開始早々に詰みに陥り数時間、突如として状況は進展する。

 

 

「誰か来た──」

 

 がしゃん、と錠が外れる音が佐為の集中力を呼び戻す。

 

 夕焼けに伸びる影が、ここを訪れた人間が一人だということを伝えている。

 自分が気付かれることはないと分かっていても、佐為は反射的に身構えた。

 

 

 ──誰だ? 未来のヒカルか? それとも……

 

 彼の家族か、それとも名も知らぬ誰かか。予想はするだけ無駄というものだろう。

 誰が来てもこれまでと同じように呼び掛け、応えるかどうかを試すだけである。

 

 そうして、どこか焦ったように飛び込み、何かを探す少年を視界に収め、佐為は絶句した。

 

 

「そんな……馬鹿な……」

 

 

 何があっても動じないだろうという自信はとうに消え失せ、混乱が彼の頭を支配していく。

 何故だ。その思いが一気に膨れ上がり、一度見た筈の心理を否定する。

 有り得ない。その一言が全てを埋め尽くす。

 

 息を切らせて目の前に現れた少年は、この世に過去、現在、未来、全ての時間軸に存在しうる人間の中で、今この場に最もいるはずのない少年だったから。

 

 

「ヒカル──?」

 

 ガラクタを掻き分け佐為自身の機転となる碁盤に手を伸ばす少年の名前を、震える呟いた。

 

 間違いない。あの特徴的な風貌、雰囲気、何もかもが彼と合致する。

 何故だかは理解できないし、意図も分からないが、今置かれている状況だけは理解できた。

 

 あの日、ヒカルと初めて出会ったあの日。自分がいるのはその日であると。

 

 

「ヒカ──!」

 

 そう呼び掛け、その身体に触れようとして、伸ばした手をすんでのところで止める。

 まだ彼は碁盤に触れてはいない。あれに触れて、何かが繋がるまでは私の声は届かないからと。そしてもうひとつ、ある推測が佐為の中で動いていた。

 

 ──この時のヒカルはまだ私を知らない。この状況でヒカルを知っている態度を取れば

 

 あまりの恐怖に、彼は私を永遠に拒絶するに違いない。

 むしろそれが道理だと納得する。

 

 ならばどうする?

 そう佐為は自分に問いかけ、即座に結論を弾き出した。

 

 

「──っ!!」

 

 目の前でヒカルが碁盤に触れる。彼は今再び、いや、初めて私の悔し涙を見るのだと意識したその時、佐為に不思議な感覚が走る。

 

 

 繋がった。

 

 

 その感覚を覚えたのは自分だけではあるまい。

 ヒカルが自分を見つけたという確かな感触。その懐かしい感覚に、先程とは違う意味で震えた声で佐為は問いかける。

 

 ──聞こえますか?

 

 ヒカルが向き直る。なんと言えば良いのか分からない、様々な感情がない交ぜになったその表情の真意を図ることは難しいが、きっと好意的なものではないのだろう。

 そして、彼は確かにこちらを見据えて問いに応えた。

 

 

 

「ああ、聞こえるよ──お前は一体──」

 

 

「私の名前は藤原佐為、かつて平安の時代に置いて生を受けていた棋士です」

 

 こうして、藤原佐為と進藤ヒカル

 互いの意図が致命的に食い違う、奇妙な二周目が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

─────

 

 

「……取り敢えず家族には変化無し、と。後は漫画で示された情報は漫画通り、それ以外は私の知っている通り。うん。これならどうにかなるかも」

 

 花のJK生活がまた遠のいた事を除けばね!

 

 なんて愚痴を溢しながらベットに転がり、今まで分かったことを書き連ねたノートを見て頭を整理する。

 幸いなことに、私の知っている町、家族はそのままだった。どちらかと言えば、葉瀬小学校を筆頭に、ヒカルの碁に関わりがあるものだけが私の世界に割り込んできたようなものである。

 

 その証拠に、結局先生の厄介になることなく自宅に戻ることが出来たし、家族とも普通に接し、自室で寛ぐことが出来ている。あれもこれもが十数年前の型式に戻っているので古いなと思うことこそあれど、まあ生活に際して大きな支障はない。

 最初は絶望したが、思ったよりも状況は悪くない。

 今の私にはそれで充分と言うものだ。

 

 

「あっちゃんがいないのは残念だけど──人間関係だけは完全にゼロからだなあ」

 

 唯一想定を下回ったのは、人間関係の部類だと溜め息をつく。

 小学校は勿論の事、昔の知り合いや近所内での付き合いも含めて、家族以外私が知っている人間は誰もいなかった。

 当然親友であるあっちゃんも例外ではない。元々人付き合い、交遊がそこまで広いわけではないが、流石に完全ボッチは辛すぎる。その点だけは懸念事項と認めざるを得ない。

 

 

「まああかりちゃんも凄く良い娘だし仲良くはなれそうだけど……てか何あの超絶美少女、あんな娘にアプローチされて何年も無反応ってヒカルの鈍感スキルやばすぎない?」

 

 全く知らない子供達──現状同い年なのだが──からの質問攻め、そんな辛すぎる状況を打破するべく、一方的な親近感から敢えてこちらから声をかけた少女の姿を思い出す。

 藤崎あかりという少女は漫画通りの天使だった。と言うよりもそれ以上。

 あれだけの女子に好かれていながら無反応なヒカルは某動画サイトのネタのごとく、ヤバい方面に進んでいっても不思議はないと本気で思ったほどだ。

 

 まあそれはさておき、まずは彼女と友達になりたい。これは囲碁関係を抜きにしてもだ。

 

 

「で、あかりちゃんと仲良くなれば自然とヒカルとも接点は増えるだろうし……その内搭矢君の碁会所にも行きたいなあ……」

 

 ただそれはもう少し後の方、少なくともヒカルと彼が接触してからの方が良いだろう。

ノートの一番最初に大きく書いた言葉を見直して落ち着き直す。

 

 "バタフライエフェクト"

 

 私はこの世界に置いて異物だ。その私が動くことによって原作に淀みが生じる可能性は充分ある。

 無論、多少はそれも想定のうちだ。実際問題それを無しにしようと思うと、今後私は碁を一切打てなくなる。そんなのは絶対に御免だ。

 だが、絶対に越えてはいけない一線が有ることも同時に理解している。

 それは──進藤ヒカルと搭矢アキラの出逢い、ライバル関係の始まりの邪魔をしてはいけない。と言うこと。

 

 この世界は全てここから動き出す。何があっても、そこに無駄な波紋を立ててはいけないのだ。

 本気の彼等二人と勝負をしたいと言うのなら。

 

 

「けどねー。分かってるけど打ちたいものは打ちたいのよー」

 

 ベットの上をゴロゴロと転がる。

 原作を歪めることなく刺激的な碁を求めるならどうしよう? 囲碁教室に行き、ちょっと囲碁が得意な少女として白川先生の目を引き、指導碁を打って貰う流れで本気を引き出すのはどうか?

 

 考えてから直ぐにその案を引っ込める。

 先生もそこまで大きくはないが、原作、そしてへの関わりはある。無駄なリスクは負いたくない。

 となるとやはり──

 

 

「佐為がヒカルに取り憑いて、囲碁大会のチラシを貰ってくるのを待つしかないかな」

 

 いつになるかは分からないが、それくらいは我慢しよう。

 

 そう結論を出すと、子供らしく9時を待たずして私には眠りにつくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チャンスが巡ってきたのはそれから二週間後の事だった。

 

 困惑したように私に報告してくるあかりの話を聞きながら、彼女には申し訳ないが私の胸は高鳴っていた。

 

 一週間前にヒカルをデートに誘いに──彼女は頑なにその事実を認めはしなかったが──行ったところ、彼女と同じように困惑した彼の母親から囲碁教室に行っていると言う事実を聞かされた。

 そして、どうせ飽きるだろうとたかを括っていたところ、昨日はなんと囲碁大会のチラシを貰ってきたらしい。

 

 確定だ。ヒカルが救急車に運ばれるイベントがなかったのは気にかかるが、今そんなことはどうでも良い。佐為はヒカルに取り憑き、ヒカルは搭矢アキラに出会った。

 となればもう自重する必要もない。遂に、私も思う存分碁が打てるのだ……!

 

 

「──ちょっと──ねえ、風鈴ってば!」

 

「え、ああごめんあかり。ちゃんと聞いてるから大丈夫だよ?」

 

「──じゃあ今私が聞いたこと言ってみて?」

 

「……ごめんなさい。分からないです」

 

「もう! ケーキバイキングに行きたいって言ったのは風鈴の方でしょ! だからどこに行こうか案を出してたのに!」

 

「ご、ごめんってばー」

 

 時は放課後、机越しにぷくーっと頬を膨らませるあかりに両手を合わせる。

 怒る姿も含めて、今日もあかりの可愛さは絶好調だ。

 しかしながら、今の私にはそれ以上にやることがある……!

 

 

「ごめんあかり! ちょっと用があるからこの話はまた家帰ってから電話で良い?」

 

「え……まあ良いけど。ちゃんと電話してね!」

 

「分かった!」

 

 もう一度あかりに手を合わせてから立ち上がる。

 クラスの半分くらいは既に帰っているが、まだお目当ての相手のランドセルは机の横にかかっている。

 となると向かう先はトイレかどこかか……そう思い廊下へ出ると、ちょうど戻ってきたのだろう彼とばったり鉢合わせた。

 

 

「あ」

 

「あ、とはなんだよ。星木。なにか用か?」

 

「うん、ちょっとヒカルに用があってね……」

 

 緊張で鼓動が凄いことになっている。

 まるで一世一代の告白のように、その一言一言を噛み締めながら、私はヒカルに告げた。

 

「ヒカル、最近囲碁を始めたんでしょ? 私と一局打ってくれないかな?」

 

 

 

 

 

 

 

 




ようやく実質的なプロローグが終わった……

それではまた!

感想とか頂けると凄く嬉しいですので是非是非( ノ;_ _)ノ


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4話

 

 

 

「別に良いけど、お前そんなに打てるのか星木? 俺、多分強いぜ」

 

 ぶつくさ言いながらヒカルの横を歩く私は昨日に引き続きご機嫌が振り切れている。

 時折鼻歌やスキップが交じるのも致し方無いと言うものだ……ちょっとヒカルが苦笑い、いや、若干引いているような気がしないでもないが見なかったことにしよう。

 なにせヒカルの解答は私が求めていたものそのものだったのだから。

 

 

「大丈夫! お父さんといっつも打ってるから!」

 

 彼の顔前でグッと握り拳を作る。

 搭矢アキラと佐為の一局を見た今のヒカルは、少なくとも、囲碁がよく分からないが難しい、と言うところまでは理解している筈である。

 それでいて自分が強いと大言出来る理由はただ一つ。この一局を打つのがヒカルではなく、佐為だということに他ならない。

 

 ──いつかはヒカルとも打ちたいけど、今のヒカルじゃ相手にならないからね。

 

 今日は私が楽しむことに専念しよう。

 久しぶりに打てる全力の碁、それも本来なら長いトーナメントを勝ち抜いていかなければ対戦の叶わない圧倒的格上との一戦に、私の心は更に舞い上がっていったのだ。

 

 

 

 

 

 

「こんにちは。進藤君、おや、今日は藤崎さんとは違う女の子なんだね。全く……君も隅に置けないな」

 

「こんにちは。そんなんじゃないですよ。こいつ、碁を打てるって言うんで」

 

「こんにちは! 私、星木風鈴と言います!」

 

「こんにちは。僕はこの囲碁教室の講師をしている白川と言います。宜しくね、星木さん」

 

「は、はい──」

 

 

 ヒカルが碁盤を持たず、私もいきなり男の子を家に上げるのも不自然ということで、向かう先は一つだった。

 白川先生主催の囲碁教室、ここなら全ての問題は解決である。

 

 ──それにしても

 

 膝に手を当て、私と目線を合わせてにっこりと微笑む白川先生に思わず赤面する。あかりちゃん、ヒカルに続いて何なんだこの世界は、美男美女以外存在しないのか。

 元よりルックスに対して自信があるわけではないが、この世界では更にへし折られるというものだ。

 

 

「それじゃ先生、向こうの席借りていい?」

 

「ええ、子供達が碁を打つのは大歓迎です。好きなだけ使ってください」

 

 

 満員とまでは言わないまでも其れなりに人が集まり活気のある教室内、その角に位置するテーブルを使うよう促されそちらに向かい、ヒカルと対面する。

 いよいよだ。江戸時代に最強として名を馳せ、今もなお歴史に残る棋士として称賛される本因坊秀策、その秀策と遂に打てる……!

 

「あ──」

 

 緊張に震える身体、まるでヒカルと二度目の対面を果たした搭矢アキラと同じように碁石の蓋を落としてしまう。

 いけない。蓋を拾うために机の下に潜り込み、一瞬冷静になった頭、その瞬間私の頭に1つの都合の悪い予測が閃いた。

 

 ──あれ、けどこのままだと佐為は打ってくれても指導碁になるんじゃ

 

 今の私は中学1年生にしてプロ入りを果たし、そこから2年でタイトル奪取にこそ至らないものの、それに限りなく近付いた……自分で言うのも何だが、この世界で言うなら倉田さんのような立ち位置で注目されている棋士ではない。

 ただの小学生だ。そんな私に佐為が本気で打ってくれる訳がない。

 

 そんな当たり前の事に、今更気が付いて顔面から血の気が引く。

 どうする。指導碁では佐為の真価をこの目で見ることは敵わない。それでは意味がないのだ。

 

「おーい、大丈夫か?」

 

「うわっ!?──うん、大丈夫だから気にしないで」

 

 中々出てこない私を心配したのか、ヒカルも机の下に潜り込んでくる。

 それにビビって後頭部を机の裏にぶつけてしまったが……小学生に本気で心配をかけるわけにもいかない。

 年上の意地で涙をこらえた。

 

 

「あ、そうだヒカル」

 

「なんだよ?」

 

「せっかく打つのに何もなしじゃつまらないじゃん? 折角だから私と賭けをしようよ」

 

 

 それに、一つ良いことを思い付いた。満面の笑みを浮かべてヒカルに問う。

 

「賭け?」

 

「そう、私が勝ったらヒカルは何かあかりちゃんの言うことを一つ聞く、ヒカルが勝ったら……そうだね。一週間給食の好きなメニューをヒカルに上げるよ」

 

 我ながら素晴らしい作戦だと、自身の知略に感嘆した。

 ヒカルもそろそろ思春期入りかけの良いお年頃である。そんな中であかりの言うことを無条件に聞くというのは、そう思っているだろうと言う風に想定するのが不本意ではあるが、相当に恥ずかしい筈。

 これで乗ってこない訳がない。そして勝負の結果次第ではこの鈍感主人公と天使あかりの関係まで進展させることが出来る。

 

 ナイスだ私。ありあまる才能が恐ろしい。

 

 自画自賛を繰り返す間も、予想通り難しい顔で黙りこむヒカル、待つこと数秒。

 彼が出した答えは私が求めていたものだった。

 

 

「……いいぜ、後悔するなよ?」

 

「当然、ヒカルこそ後で待ったは無しだからね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 パチン、と綺麗な筋で黒の碁石が打ち込まれる。

 

 右上スミ、小目

 

 ヒカルが放ったその手に私は確信する。

 間違いない。佐為だと。

 

 目の前のヒカルは一人だ、だが私は彼の後ろにいるもう一人の姿を幻視する。

 

 ──凄いね……夢が一つ叶った。

 

 もしも佐為と打てたなら、今まで何百、何千と想像の中でシミュレーションを重ねてきた。

 私の逸る気持ちを表すかのように、ノータイムで白石を返す。

 その姿を見てヒカルが少し笑いながら返す。

 

「おいおい、そんな焦って大丈夫かよ?」

 

「当然、喋ってる暇があったら集中したら?」

 

 

 一度ふわりと浮かんで、静かに沈む。

 良い集中だ。碁盤がまるで等身大になり、その中の私がいるような感覚。この果てなき路を、その局面に置いての最善手を探して歩み続けるのだ。

 私はヒカルの、佐為の応手を待つ。

 

 

 

 

 

 

 

────

 

「おいおい嘘だろ……」

 

 ──まさか、ヒカルと年を同じくするこの少女がこれ程までの実力とは……!

 

 佐為、お前打てよ。

 

 ヒカルと佐為はそれ以降言葉を交わしていない。

 だが盤面も進み終盤、そろそろヨセも近くなってきたタイミングで、彼等二人は全く同じ感想を抱いていた。

 それは驚愕だ。こんなことが有り得るのか?

 佐為の打ち込みにも動じずに対等に渡り合ってくる。布石をしかけようものなら、時折長考を交えながらその狙いを看破し、そこに生まれた隙を突いて反撃を仕掛けてくる。

 時折年齢相応の粗さが見えることもあるが、それにしたってほぼ無いに等しい。

 率直に言えば、搭矢アキラでも100回勝負して、一つの勝ち星を掴めるかどうか……

 衝撃的な才能に抱く感情は一つしかなかった。

 

 

 ──打ちてえ

 

 心のなかにふと沸いた感情を、ヒカルは直ぐに首を振って消した。

 自分はもう打たない。この一局も、これからも、全ては自分の後ろにいる佐為の為のものなのだから。

 

 ──まあそれはそれとして

 

 ヒカルの中で一つの疑問が沸いてくる。それは根本的なものだった。

 

 ──なんで元の世界で、こいつはプロになってないんだ?

 

 あまりにも不自然だ。現時点で元の世界での搭矢と同等、若しくはそれ以上。はっきり言って天才と認めざるを得ない。

 それだけの実力があるのに、星木風鈴と言う名前に聞き覚えすらないのはどうなんだと首を捻る。

 これだけ特徴的な名前、そしてこの容姿だ。話題にならないわけがない。

 それなのに──ヒカルは自らの問いに対する答えを持たなかった。

 

 ──お……!

 

 珍しい佐為の長考、それが終わって打ち込まれた一手にヒカルの思考は中断させられる。

 盤面は終わりに近付いてきた。いよいよここが勝負どころ。

 

 

 

 

─────

 

 

 ──なんだこの化け物は

 

 初めての相手に言う言葉でないと分かっているが、それ以外に言葉が見つからない。

 この時代に来て佐為はまだ2戦目の筈、こちらは改良の進んだ布石も織り交ぜながらの勝負。

 だと言うのに、相手は明らかに序盤緩めていた筈なのに、盤面は5目半のコミを含めてどうにか五分、更に主導権はずっと握られっぱなしときた。

 凄い、凄すぎる。これが神に選ばれし天才、藤原佐為。

 

 その一手一手の読みの深さに驚嘆する。

 こちらも何とか食い下がってはいるが、正直に言って偶然以上の力で勝てるイメージは"現状"沸かない。

 別にこの一番だけではない、棋士としての根本的な力の差を感じると共に、喜びすら沸き起こる。

 間違いない。この先私はもっと高く、もっと楽しい碁をこれから数えきれない程打てる……!

 

 

「え──」

 

 

 佐為の長考が終わる。

 そして放たれた一手に、今しがた感じていた喜びは吹き飛び、冷水を頭から浴びせられたような悪寒が走った。

 

 ──この手は……取れない。

 

 四方に広がる戦場、その全てがギリギリの危うい均衡を保っていたのだが、その中でも最も細かい勝負になり、逆に言えば私にとって勝ち目があった左下段に打ち込まれた一手に呼吸が止まる。

 

 こちらが攻める為に、勝利する為にこの一局の中で構築してきた布石がその効力を失い、逆に佐為には、私から見ても何本かの──彼にはもっと多くが見えているのかもしれない──選択肢が出来た。

 仮に凌ぎきったと仮定した所で待っているのは、不利な状況でのヨセ勝負。

 ヨセは閃きではない、上手さだ。その勝負に、よりによって千年碁を極めてきた佐為に勝てるか?

 

 答えはノーだ。考えるまでもない結末を導き出す。

 

 さあどうしようか。手堅く今の一手で生まれたリスクをとにかく消し続けて不利なヨセまで粘るか?

 それとも碁が崩れるリスクを冒してでも右上を攻めるか?

 

 結論を出すのにそう時間はかからなかった。

 碁笥に手を突っ込み白石を掴み、碁盤へと導く。私が選択したのは──右上

 こんな楽しい碁で挑戦しないで、一体いつ挑戦する?

 

 分が悪い賭けに身を投じる。さあ、ここからが大勝負だ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやあ……ごめんねヒカル。最後は碁が壊れちゃった」

 

「そんなことないだろ。強かったぜ」

 

 分からないくせに適当言ってるな?

 そんな本音をグッと飲み込む。ここまで綺麗に上回られてしまったら拗ねたくもなる。

 投了を宣言した後、悔しさが押し寄せる。

 

 これ程までにやられたのはいつぶりだろうか。碁盤を眺めてみる。

 最後の賭けに私は敗れた。細かいヨセを待つまでもない中押し負け。しかしながら、その結果以上に濃い碁であったことは間違いない。

 悔しさの後にやってくる充足感。

 初めの一歩としては上々だろう──もちろんこの結果は悔しすぎるが。何せ完全に上をいかれたのだから。

 

 

「じゃあ折角だし検討を──」

 

「君達──この碁は一体」

 

 驚きに満ちた声が後ろから響く。

 しまった。あまりの楽しさに失念していた自分を恥じる。この場には一人プロがいて、私もその存在を良く理解していた。だと言うのに、小学生同士でこんな碁を打ってその異常性に気付かれないわけがないじゃないか──!!

 

 

「あの、これは──」

 

「棋譜並べです。先生この間言ってたじゃないですか。上手い人の碁を並べるのはそれだけでも勉強になるって」

 

「そうだっけ……? けどこの棋譜は面白いね。どちらも相当レベルが高い……黒が秀策流だけど、そこを昇華させたようなアレンジも入っていて、白もそこには至らないけど綺麗で尚且つ大胆な……プロの中でもレベルが高い人なんだろうけど」

 

 助け船を出したのは意外なことにヒカルだった。

 原作でもずば抜けていたクソガキっぷりを遺憾無く発揮し、流れるように納得の行く嘘をつく。

 しかしながらそれを咎めることはしない。今は間違いなく私が助けられているのだから。

 この流れに乗っかることにしよう。

 

 

「そうなんです! あ、もうこんな時間! 私もう帰らなきゃ! それじゃあヒカルもまたね!」

 

 我ながら酷い大根役者だが押し通すしかない。

 白川先生の制止を振り切り碁石を片付けると、そのまま公民館を出る。

 出てこないところを見るとヒカルは先生に捕まっているのかもしれないが──まあそれは仕方あるまい。

 

 ごめん、と一旦振り返り頭を下げ、私は家路を行く。

 

 今日は完敗だ。だと言うのに、私の心は晴れやかだった。

 これだけ楽しい碁をこれから何度でも打てると思うと楽しみで仕方ない。

 この後はまた時間を見つけて搭矢アキラの碁会所へ行って、その後時期を見計らって院生になろう。

 伊角さん、和谷、本田さんに同じ女流になる奈瀬さん、魅力的な人はまだまだいるのだから。

 

 

 

「ヒカルも綺麗な打ち方するから本当目の前に佐為がいるみたいだったなー……あれ──」

 

 何度目になるか分からない今日の振り返り、その中で一つのモヤモヤと言うか、違和感にたどり着き、夕陽を背中に受けながら足を止める。

 そうだ、あまりに綺麗な流れすぎて気に求めなかったけど……

 

 

「この頃のヒカルって、もっと初心者丸出しの打ち方してなかったっけ?」

 

 

 

 

 

 





星木ちゃん、違和感を覚える

それではまた!

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5話

 

 

 

「ふっふっふ──遂に来たわよ、塔矢アキラと進藤ヒカルの因縁の場所!」

 

 今の私の後ろにはババーン、って感じの効果音が付いているに違いない。

 ヒカル──いや、佐為との対決から一週間。日曜日の昼下がりに小学生が碁会所の前でドヤ顔しながら腕を組んで仁王立ちしている姿は、端から見ればさぞかし訳が分からないことだろう。

 ポケットの中にあるお金はあと800円、帰りの電車賃200円、この碁会所の料金500円を考えれば、残金はもはや無いに等しい。

 だがそんな状況において私はポケットでじゃらじゃらとゆれる小銭に底知れぬ優越感を覚えていた。

 なぜかって? 小学生の千円は、高校生の一万円程に価値があるのだ!

 

 最近はいつもこんな感じな気もしないでもないが、本日も私のテンションは高い。最高にハイってやつだ。

 

 率直に言えば、何がなんでもという意識で原作に合わせるのは先日のヒカルとの一戦までと決めていた。

 変えてはいけない運命の歯車が動き出した以上、後は自分で道を切り開いていくまで。

 どこまでもワクワクするのを抑えられないのも仕方ないと言うものだ。

 

「と言う訳で来たのだけど──」

 

 一つ。重大な可能性がここに来て頭を過る。

 それは──

 

「塔矢君がいなかったら私の500円は無駄になったあげく、次にここに来れるのは来月なんだよね」

 

 とても重要な事実である。

 そう、塔矢アキラはいつもここにいるイベントキャラという訳ではない。

 空振りをして平均年齢50は堅いおじ様方の好奇の目に晒されるだけになる可能性も捨てきれない。

 それも、なけなしの全財産の半分を注ぎ込んで、だ。

 笑えない。しかしながら行ってみないことにはそれすら分からない。

 

「まあなるようになる……かな?」

 

 結局のところ行かない、という選択肢はないのだ。

 いくら悩んだところでどうしようもならないと、私はエレベーターに乗り込むのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あらいらっしゃい! 可愛いお客さんね! あの、ごめんね。アキラ君、今日いないのよ……」

 

「まじですか」

 

 

 絶望とはこの事だろう。

 障子を模した自動ドアの先、受付で快活な挨拶をしてくれた市川さんの顔が、何かを察したのか曇る。

 何を以て判断したのかは知らないが、その予想は当たりだ。

 塔矢アキラは不在、その為かどこかこの空間そのものに活気がない。

 まあ原作でも彼はここにいる全員の師匠であり、憧れであり、アイドルだった。

その人物がいないとなれば、この常態もまあ仕方のないことである。

 

 それにしても、例によって市川さんもスーパー美人である。原作では年齢不詳感が半端なかったが、どうみても20台中頃にしか見えない。

 

「──? 私の顔に何かついてるかしら?」

 

「い、いえ! ただ、何で塔矢君目当てって分かったのかなあって」

 

「ああ、そりゃあ子供で囲碁を打つ子は珍しいからなんとなく分かるわよ。まあ、私もここに勤めはじめてからランドセル背負った子供なんて見たのはアキラ君以外一人だけなんだけど」

 

「そうなんですね」

 

──ヒカルのことだ。

 

 チロッと舌を出して微笑む市川さんを横目に見ながら

 良かった、と胸を撫で下ろす。

 これで歴史が変わっていないことは確定だ。どこかホッとしたような安堵が私を包む。

 

「アキラ君は凄いのよほんとに。素人の私でも分かるくらい……けど、その小学生は彼以上だったの」

 

 まあその正体は本因坊秀策だから、それも仕方のない話である。むしろ速攻で見込まれただけ大したものというものだ。

 

「今考えると、その子もアキラ君目当てに訪ねてきたから、もしかしたら何処かのプロの息子さんなのかも知れないわねー。あのアキラ君が、僕には何もかも足りていなかった。それを思い知らされる一戦でした、なんて言う完敗だったんだから。いっつも打ってますって言うだけあったわね」

 

 うむうむ。流石は佐為である。こうして塔矢アキラは彼を追いかけていくのだろう。

 

「それで、今日はどうしようか? アキラ君いないし、帰っても良いけど」

 

「えーと……折角なので打っていきます! ここまで来たのに勿体ないですし!」

 

「りょーかい。それじゃあ500円ね」

 

 迷っていたが、結局囲碁の熱気に当てられた私にこのまま帰るという選択肢は選べそうにもなかった。

 500円玉を渡して意気揚々と中へ進んでいく。

 よくよく考えてみれば、元の世界でも同じようなことはさんざん経験している。

 まあ先ずは舐めてかかってこられるのは目に見えているのて……大人げないけど、碁に対するモチベーションを奪わない程度の最低限の配慮はもちろんするが思いっきりやるのだ。

 

 

 そうして、この碁会所にはその後こんな噂が流れるようになる。

 それは、プロレベルの実力を誇る子供が3人も定期的に現れるというにわかには信じられらないとんでもである。

 

 そんなことになるとは露も知らず、私はおじ様方に頂いた大量のお菓子をランドセル一杯に突っ込み、飴玉を口の中で転がしながら、ご機嫌のまま帰路を行くのだった。

 

 

 

 

 

────

 

「だー、投了だ。やっぱりお前強すぎるんだよ、佐為」

 

「いえいえ。それよりヒカルも素晴らしいですよ、とても初心者とは思えません」

 

「そ、そうかな……?」

 

 えへへ、と頭を掻くヒカルを見ながら佐為は満足そうに頷いた。

 

 ──私の知っているヒカルとは大違いです

 

 そんなことを思いながら心の中で苦笑する。

 佐為はまだ、何故自分が再びこの世に舞い戻ったのか、よりによってヒカルなのか、全く分からずにいた。

 だが少なくとも、今この時、彼は幸せだった。

 

 ──この世界のヒカルは碁への興味が元々深い。そして驚くほどに素直で穏やかだ。

 

 次だ次、と石を持てない自分の分まで整理するヒカルを見ながら扇子を口許にやり、ふふっと微笑む。

 塔矢アキラの存在も、このヒカルは前から知っていたらしい。あれほどの逸材だ、多少でも碁に興味があれば知っているのが当たり前で、むしろ以前のヒカルが無知過ぎたのかもしれないとさえ思う。

 だからこそ、最初は指導碁を打とうとした私を制し、わざわざ本気に近い──ある意味獅子が子を崖から叩き落とすような──碁を打つように言ったのだろう。

 ギリギリまで追い詰めることで、龍は高く舞い上がり、虎は雄々しく吼えるように。

 

「ん? どうかしたか、佐為」

 

「いえ。ですがヒカル。良いのですか? 私以外とは打たずに、折角なのですから碁会所や囲碁教室では貴方が打てば」

 

「俺!? ムリムリ、人と打つなんて恥ずかしくって。お前みたいに凄い奴を見ちゃったらさ」

 

「そうですか──」

 

 一つだけ気になることがあるとしたらこれだと佐為は残念そうに呟く。

 佐為が別れを告げられなかった、かつてのヒカルは自らどんどん打ちたがった。

 その思いが、実力が、とてつもない勢いで開花していく中で確かに軋轢も生まれたし、あのような終わりを迎えてしまったのかもしれないが、それでも、そんなヒカルの成長が佐為に取っては愛おしく、楽しく、何より幸せだったのである。

 

 今回のヒカルは──と言うよりも時間が巻き戻っている時点で根本的に"何か"が違っているのだろう──センスは自分の知っている彼以上だ。

 年相応の子供ではあるが、何処か大人びた知性もある。

 しかし、迸るような情熱が、かつて塔矢アキラを追いかけたあの熱量は感じない。

 少なくとも、外向きには。

 

 ──だがそれはただの私の我儘だ。それに……

 

 またこうして彼に会えただけでもこれ以上ない至福なのだ。今回こそは彼と後悔無く、いけるところまで。その中でゆっくりと伝えたいことを伝えていければ良い。

 

「どうしたんだよ佐為、握るぞ。次は絶対負けないからな! 嫌って言うまで打ってやる!」

 

「ふふ、良いでしょう。私に参ったと言わせるのはそう簡単ではありませんよ?」

 

 黒を持ったヒカルの一手が、じいちゃんからせしめた新しい碁盤に打ち込まれる。

 

 右上スミ、小目

 

 願わくば、この幸せな時間が、今度はいつまでも続きますように。

 佐為は心からそう願った。

 

「そう言えばヒカル」

 

「なんだ?」

 

「本当にもらったチラシの囲碁大会は行かないのですか?」

 

「ああ──いいや、やめとく」

 

 

 

 

 

─────

 

「この碁を……同じ小学生が打ったと言うのか……?」

 

「先生……これは……有り得ないです。この打ち手が本当に小学生と言うなら──」

 

 その子供は既に自分を越えているやも知れない。

 認められるはずのないそんな言葉を、緒方精次は呑み込んだ。

 碁盤を挟み目の前に座る少年、塔矢アキラは打ちのめされたように顔を上げない。これが囲碁界の誰もが注目している天才──緒方から見ればずば抜けすぎて天才と勘違いされている秀才──だと誰が信じられようか?

 信じられるとしたらこの人だけだろう。

 

 盤面を渋い顔をして見つめる自らの師、塔矢行洋の表情をチラッと見る。

 

 

 

 ──この碁は一見乱暴なだけに見えるが……そうではない。実に高度な、指導碁を越えた実践での稽古に近い。

 これだけの実力差があるなら、叩き潰そうと思えばもっと容易く捻り潰せただろう。

 それをせずに、どこまでも分かりづらいながらも一本の正解を用意し続けたのが何よりの証拠。

 それに気付けなかったのはアキラの実力不足だが……それは責めるまい。これだけの碁を読めというのは酷。まるで、3年後のアキラの成長を想定し、その姿を対象にして打ったかのようだ。

 

 確かな驚きをおくびにもださず、塔矢行洋は心の中で唸った。

 最近息子のアキラの様子がどうもおかしい、覇気と言うものが完全に消え去った。

 確かな成長を続けていた彼の碁からも一切の昂りを感じなくなり、怯え以外の感情を感じない。

 そして極め付きは、物心ついて以来一度として休んだことのない碁を打つことを、自らの意思で拒んだことだ。

 

 これはおかしい。

 

 四冠棋士として多忙を極める日々、世の家族思いの父親に比べて、碁以外の面で息子の成長に疎いという自覚を持っていた行洋にもすぐに理解できた。

 その領域を越えた人としての問題。

 理解してからの行洋の行動は早かった。方々に頭を下げてスケジュールを確保し、自分に直接弱味を見せることは出来ないだろうというアキラの心情を察し、誰よりも付き合いが長い緒方を呼び寄せたのだ。

 

 そして、状況を把握した緒方の説得でどうにかアキラを碁盤の前に呼び寄せ、躊躇う彼をどうにか諭し、その結果として震える手で並べたのがこの一局だ。

 アマチュアの野試合では有り得ないだけの力量、あまりにも隔絶した実力。

 この碁を打った相手の意図ではない。むしろ真逆である筈だが結果として、行洋が同世代の人間との試合にアキラを出さなかった理由が目の前に形として表れている。

 "若い芽、育つ前の才能を摘んでしまう"

 塔矢アキラは完全に自信を喪失しまっていたのだ。

 

 

「……怖いか」

 

「……はい」

 

 長い沈黙の後、行洋の投げた問いはとても短いものだった。

 その一言だけでアキラは意味を理解したのだろう。正座したままビクッと肩を震わせて数秒、ついに観念かのしたかのように、俯いたままか細い声で応えた。

 

「あの日から、あの一局が僕を常に追い掛けてくるんです。何をしても越えられない圧倒的な壁、それだけならまだ良い……まるで僕の思考を先読みして、あざ笑うかのように……」

 

 実際はその逆だ。行洋は口には出さず呟く。

 嘲笑うのではなく、勇気に対する活路を用意して、向かってくるのを待っていた。それに気付けずに萎縮してしまっただけ。

 だが、今はそれを責めるときではない。

 

 

「アキラ、強い碁打ちの条件を知っているか?」

 

「──」

 

「それは辛酸に耐えることではない。その苦行とも思える積み上げを、心の奥底で楽しいと思えるまで碁を愛することだ。今のお前は、根の部分で碁を楽しいと感じられない、今打つことは……無意味だ」

 

 先程よりも一層大きく肩が震えた。

 それを見て行洋は安堵する。ここで逃げることを良しとするなら、もっと手を焼く事態になるところだったが、どうにか最悪の事態は避けられたらしいと。

 

 そこからなにも言わずに立ち上がり、襖を開けると緒方に目配せをし、行洋はアキラに聞こえないよう部屋の外に出ると戸を閉めた。

 

「緒方くん」

 

「はい、先生」

 

「来週末棋院で行われる子ども囲碁大会だが、確か君も出席予定だったね?」

 

「ええ、それがどうかしましたか? 確か先生も出席予定だったと思いますが」

 

 着いてきたまま不思議そうに返す緒方に行洋は淡々と告げる。

 

「その件だが、私は今日の埋め合わせもしていかねばならぬから欠席しようと思う。主催者側には私から話を付けておこう。幸い一柳先生が子供を笑わせたいのに折角の機会を私に取られたとぼやいていたから、代わりには困らないだろう」

 

「は、はあ……それは……」

 

「それでだ、一つ頼みがある。その日だが、囲碁大会にアキラも連れていってくれないだろうか?」

 

 

 

 

 

 

 




佐為、時代のギャップにやらかす

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