東方穢月譚 (白昼霧)
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プロローグ『白く鋭く儚い一閃』

 重苦しい雨の降る街。頭を、濡れた地面に押し付けられていた。

 

 見知らぬ男に乱暴に頭を掴まれ、胴を踏みつけられていた。

 

 男は喜んでいるのか、顔を紅潮させ興奮した様子でこちらを覗き込む。ぎょろりと、大きく見開かれた双眸が心底不気味だった。顔をそむけると男は不機嫌になったのか、殴り、蹴り、その度に私は血を吐いて、それを見ると男はまた殴る。それの繰り返しだ。

 

 人でなしが、人でなしを詰るように怒鳴りつけていた。とても必死そうな顔をして、私ではない誰かの名前を叫びながら。赤の他人を恨めしい相手の代替品にして、憂さ晴らしのつもりなのか。

 

 男だけではない。暴力、暴言、後ろ指を指しこれまで、私のことを人間として見てくれた人の数など、片手で事足りる。

 

 彼ら彼女らの、その目、その声が、遠くなった今でも忘れられない。烙印のように心に刻まれた陳腐な文言は、いくら胸を毟っても、体を抉り取っても消えてくれない。

 

 お前は化け物だ。お前は人殺しだ。お前は厄災だ。お前は、お前は、お前は──『忌み子』

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 今、何故そんな時のことを思い出したのか分からない。

 

 多分、あの日の横倒しの世界と被ったからだ。あの時と同じように冷たい地面を床にして、頭を、骨を、内蔵を、冷ややかな暴力で潰されていた。

 ただひとつ違うのは、

 

「────」

 

 私を詰る罵詈雑言はなく、代わりに人外の咆哮が鼓膜を揺らしていることだけだ。

 

「ぁは……が」

 

 息を詰まらせる独特の獣臭。猪、と呼んでいいのだろうか。冗談のようなサイズの毛むくじゃらの生物が、自分の矮躯を嘲笑うように見下ろしていた。

 大樹の幹程の大きさにまで肥大化した脚部に人を易々と貫ける程の牙、口を開けばびちゃびちゃと、悪音と悪臭を伴い大量の唾液が周囲に振り撒かれる。顔をそむけようと、動かない首を捻ろうとした。

 

 いや、首どころではない。腕、脚、指一の本にさえ、少しの力も入らない。

 

 ほんの数分前の事だ。私はこの森で眼前の化け猪に遭遇し、そして突進を見舞った。なんとも端的な、それでいて脈絡のない不条理に尽きる話だ。

()()()()という言葉があるが、私が受けた衝撃に対する感想はまさしくそれだった。まるで、私以外の全てを見ていないかのような。何かに憤慨した様子の猪は矮小な人間を鼻先に的確に捉え、あっという間に数メートル先まで吹き飛ばした。

 

 圧倒的な暴力がでく人形の下に振り下ろされた。奇妙な音が内側から響き、奇妙な感覚が体中に蠢く。きっと骨が折れたのだろう。痛いが、痛覚が電撃のような衝撃を孕んで全身を駆けずり回って騒ぎ立て、意識を失うことを決して許さない。

 

 猪は、荒々しい息をしながら未だ嚇怒した様子でこちらを見ていた。獣臭い呼気が鼻腔を犯し、咳が血液とともに飛び出す。びちゃりと、汚い音とともに地面に出来た赤黒いシミが増えた。

 顔を上げれば猪が再び二、三歩退き、鋭い眼光で私を突き刺した。きっと、瞬きの内に襲い来る。

 

『衝撃』

 

 ほら、来た。

 

 聞き馴染みのないおかしな音を立てながら、玩具の人形のように簡単に体が壊れていく。声を出そうにも喉が潰れて、嗄れた声が衝撃とともに少し上がるだけ。しかし、人の体は随分丈夫にできているようで、まだ死は向かいの通りの家から顔を出す気配もない。

 

 痛いのは嫌だ。誰だってそうだろう。しかし私の心中には、ここまで痛めつけられてもなお抵抗する気は起きなかった。腰に携えた刀を、折れた両腕では抜けないにしろ、抜く気概ぐらい生まれたっていいものを、畜生の好きにやらせている。死にたいなんて思ってもいないはずなのだが、自らの身に迫る危機をまるで他人事のようにとらえている。俯瞰めいた考えが頭を過り、それを痛覚が白紙に戻す。その繰り返し。

 

「────!!」

 

 何度目かもわからない、咆哮からの突撃。とうとう、背を預けた木の幹が自分の体を通り抜けた衝撃によって折れた。

 そして意識にはとうとう、ここでないどこかへ沈んでいくような感覚がやってきた。痛みも、奇音も、咆哮も、悪臭も、赤く染まる視界も、全部全部、遠く離れていく。

 

 まるで、冷たい水の底に沈む感覚。寂しい、寒い、苦しい、怖い。

 

 

──なんなのだろうか、この気持ちは

 

 

 待ちわびた状況で、胸に去来するおかしな感情たちに疑問を抱く。

 捨てたはずだ、こんな気持ちは。あの夜に、あの土地で、アイツらにくれてやったはずだ。懐かしいようで、忌まわしい。弱々しい感情だ。見知らぬ土地で、親とはぐれた子供の抱くような不安。

 

 違和感を覚えながらも、体はどんどん壊れていく。曲がらない方向へ関節が曲がり、肉が裂け、冗談な量の血液が噴き出し地面を汚く濡らす。脳と体、順調にバカになりつつあるようで、痛みにもかなり鈍感になってきた。視野が狭い。

 

 

『深くて、底のない水の中を墜ちていく。多分、そんな感じ』

 

 

 ぐちゃぐちゃと気味の悪い音が残響となり、延々と耳の中で暴れ狂う。吐き気が腹部への衝撃と重なり、反射的に嘔吐くが、今更腹の底から吐き出すものなど残っていない。代わりに内臓のどこかが潰れて溢れた赤黒い液体が勢いよく吐き出され、猪の顔面に降りかかる。ざまあみろ、と思った。

 

「────!!」

 

 人智を超えたモノとは畏ろしい。下賎な挑発が通じてしまったのか、魔猪が再び雄叫びを上げる。眼窩がひび割れ、見開けばこぼれ落ちそうになる左眼には、毛むくじゃらの生物が砂埃を上げながら矮躯に飛びかかってくる様子がかすかに捉える。その瞬間、死を隣り合わせに感じた。

 

 

 偶然、人殺しの獣に襲われ、偶然命を落とす。中途半端な自分には、似合いの最期だろう。

 

 

 極限状態に訪れた感慨、それが吐き出すものがなくなった空きっ腹を僅かに満たした直後、風を切る音と、圧迫感が接近するのを感じ取れた。そして再び瞬きの間に、度の超えた力により生み出された衝撃が、深く深く、まだ折れていない骨と、まだ潰れていない臓腑に突き刺ささった──

 

 

「『人符・現世斬』」

 

 気が、した。

 

 聞き覚えのない少女の声が、死の淵にいた少年の片耳に響いた。諦念の中で閉じた瞼を開くと、世界が漂白されたように見えた。

 

「……ぁ?」

 

 反射的に、無理解を示す間の抜けた声が喉から出ていった。白く染まった世界が色づきかけていく中で、私の生殺与奪を握っていた猪が頽れていく姿を、瞳は微かに捉えた。

 重量の物体が倒れ、地面は小刻みに震え、轟音が駆け巡る。やがて森の中に衝撃が浸透していく頃合、何かがこちらに近づいてきた。腕手の五本の指で刀を把持し、二本の脚を交互に動かしながらこちらへと歩いてくる。しかしその身体的特徴をもってして、私にはこちらに近づいてくる生物がとても『人間』だとは思えなかった。

 

 ──まるで、あいつらみたいだ。

 

「生きていますか。それとも、死んでいますか」

 

 銀鈴のように澄んだ声が耳にするりと入ってくる。聴覚ももうまともに機能するとは思えないが、それでもその言葉は全てはっきりと聞こえた気がした。

 妙な問いかけだった。その問いに何も返答をしなければ、一体聞き手はどういった解釈をすればいいのか、少し気になる問い方だった。

 

 逡巡のうちに、とうとう返答は叶わなかった。瞼は、重力に逆らう力をなくして落ちていった。

 

 

 

 私が地上へ落ちた日、その日の記憶はそこまでだ。



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