雨あがりの小径 (さくらみや)
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雨あがりの小径
「来ちゃう! 急いで!」
「は、はいぃ、が、がんばります…」
目的のバスの音を後ろに感じて、あたしは走る速度をあげる。
茜も頑張って追いつこうとする。
でも、バドミントンで鍛えたあたしの足も敵じゃない。そんな風に言いたげにバスはあたしたちの横を越えてゆく。
「ま、間に合わないかもぉ…」
半分諦めかけ、速度を緩めるあたしとは逆に茜は速度を変えず…と言ってもあたしと同じくらいだけど…駆けてゆく。
10m…5m…あたし達は心臓がおかしくなるんじゃないかって思うくらいの速度で走って走って…無事、目的のバスに乗ることができた。
本当はバスがずっと待っててくれたんだけどね。
「カシャン」
音を立てて出てきた整理券の番号は6。他にお客さんはなし。
あたしたちは一番後ろの席に並んで座る。
と、ふと、バックミラーに運転手さんの顔が見えたから小さく頭を下げる。
待っててくれてありがとう、って。
そんなあたしを見て、茜も同じようにおじぎする。
おじさん、美女ふたりを待っててくれたんたんだもの。今日はいいことがあるよ。
バスはゆっくり音を立てて走り出す。
少しだけ強められてた冷房が、走ってきたあたしたちの体に気持いい。
茜はノースリーブだったから少し寒そうに見えるけど、
その肩にうっすらと浮かぶ汗を見れば、それほど心配はいらないかも。
でも、その肩が軽く上下に揺れているのをみると少し無理させちゃったかなって思う。
「…? どうしました?」
あたしの視線に気がついたのか、茜が振り向いて首を傾げてくる。
「うん。今日も茜はかわいくて美人さんだなって思って」
「…ありがとうございます」
全く変わらない、平坦な口調と無表情の返事。いつもと同じだからあたしはなにも気にしない。だって、今の茜が大げさに喜ぶところなんて、想像できないもの。
1日6本くらいしかないこのバスは、山を越えて遠く離れた小さな駅へ向かうバス。
まずよっぽどのことがないと行かないその駅の前に素敵なケーキ屋さんができたと聞きつけた茜。早速その週末にあたしを誘ってきた。
茜のお願いだからふたつ返事で受けたあたしは、答えてから少しだけしまったと思った。もし、あのワッフルみたいなのがあったらどうしようって。
でも、普通のケーキ屋さん…茜基準だけど…そう聞いて、少しだけ安心したけど…
バスが進むにつれてだんだんと茜の声が嬉しそうになる。だんだんと言葉数が多くなってゆく。
どんなケーキがあるのか、とか、当然ワッフルがあれば食べます、とか、また一緒に山葉堂のワッフルを食べに行きましょう、とか…そんな楽しそうな茜を見ているとあたしまで楽しくなってきて、お話に付き合ってしまうのだった。
話をしているうちにあたしたちを乗せたバスは、軽い坂を登りながら山の中に入っていく。
沢山だった茜の口数が少なくなって来たからあたしはいつもどおり肩を軽く抱いて、あたしの腕によりかからせる。
「あ…ごめんなさい…」
薄く瞳を開いて、それだけ言うと再び腕へよりかかる茜。そのまま、あたしは茜の枕を続けることにした。
じっと、茜の表情を見つめる。
長いまつげ、まだ、少しだけ紅い頬、ぷるんってしている唇、少しだけ、額に汗で張り付いている淡い栗色の髪。
どれもが茜のかわいさを、美人さを引き立てていて、心がさざめくのを感じてしまう。
でも、さざめかせるだけ。それ以上の気持はだめだから…
あたしの心がどうにかなっちゃう前に、緑の木々が覆う窓の外に視線を移した。
緑の視界、揺れる木の葉、外は涼しそうって思ってふいに冷房が弱められていることに気づく。茜が寝たのを見て弱めてくれたのかもしれない。あたしはますます運転手のおじさんが好きになった。
山から抜けて少し、道が平たんになるとともに近づく駅。いつの間にか目を覚ました茜は少しだけ様子がおかしかった。
こういうとき、そわそわはいつものことだけれども、それだけじゃない。
駅のほうを見つめて、目を輝かせて、時には溜息をついたり。
恋する乙女みたいでかわいいけど、あえてそれは言わないことにする。
言ったら最後、茜はむすっとしてつまらなさそうな顔しかしなくなるから。
お金を払うのももどかしい、そんな様子がありありと見える茜。
「おじさん、本当にありがとう!」
あたしの挨拶、茜の軽い会釈。
その時間すらも惜しむように、ついにはあたしの手をひっぱる茜。
そんな茜に手をひっぱられてたどり着いたお店はとてもおしゃれでかわいかった。
「かわいい…」
つぶやく茜、あたしも同意するように頷く。
赤い屋根に白い壁、輝く空色にとても映えている。
かすかに漂う甘い香り、お腹が少し空いてきた。
それは茜も同じみたいで、うずうずと手を動かす様子はあたしの手を振りほどいて走り出すんじゃないかってくらい。
「入る?」
これ以上は茜がイライラし始めちゃうかも。あたしはお店に入ることを提案するととても嬉しそうな顔で、それこそ、今まで見たことがないような笑顔で茜は頷いた。
「いらっしゃいませ」
可愛いお姉さんが笑顔で迎えてくれる。
目の前にショーケースがあって、奥にテーブルと椅子がいくつかあって、持ち帰るだけではなくてここでも食べらるみたいだった。
「ここで食べていく…よ…ね…」
途中から茜の顔は「何を言っているのですか?」そう言わんばかりに変わる。
茜はここで食べられることも調査済みのようだった。
色とりどりのケーキたち、ぷるぷるおいしそうなプリン、まんまるに太ったクリームたっぷりシュークリーム。
どれもがとてもおいしそうに見えて迷ってしまう。
「こんなにおいしそうなのが並んでいると迷っちゃうな~」
あたしの声なんてもう届いていないのかもしれない。茜はじっと中を見つめて品定め。
この時ほど、真面目な顔の茜はそうそうお目にかかれない。
そんな茜の横顔にあたしは少しだけ釘づけ。
でも、あたしの視線に気づいたのか、茜が冷たい視線を向ける。
「早く決めてくれないと困ります」
「ごめんごめん」
あたしは謝りながらケースの中に再び視線を向ける。
ショートケーキもおいしそうだし、モンブランなんてのもいいかも。
いや、チョコレートも…あっ!
「あたしき~めた。茜は?」
チョコレートケーキの横に並ぶザッハトルテを見て即決。
茜はまだまだ迷っているようだった。
たしかに、どれも美味しそうだものね。茜だったら迷っちゃうのは仕方がない。
あたしは飲み物のメニューを眺めながら待っていた。
「おまたせしました」
かわいい店員さんの笑顔、これだけでも結構おなかいっぱいになりそう。
テーブルに置かれるのはあたしのザッハトルテと紅茶、
そして、茜の…
「さすがにこれは…」
ショートケーキとミルクレープとチョコレートシフォンケーキ、そして、クリームたっぷりワッフル。想像以上の量にあたしは思わずつぶやいてしまう。
でも、そんなあたしの様子に茜は首をかしげる。これくらい普通って言いたげに。
いや、茜、それ、どう見ても茜のほうがおかしいよ。
「そ、それじゃ、食べよ?」
あたしの言葉に首を軽く縦に振るか振らないかのうちにフォークを持った手をあわせてさっそくシフォンケーキに手を伸ばす。
「慌てなくても取らないから」
見た目はお嬢様のようにゆっくりと優雅に食べているけど、その実、結構慌てて食べている茜。こんなに慌てて食べていてもはたから見たら優雅に食べているように見えるから、やっぱり美人は有利だなって少し思ってしまったり。
「おいしいです…」
手を休めて感想を一言。
顔を見ればわかるよ、茜。
でも、茜の顔を見ることをしなくても、ザッハトルテを一口食べただけでわかった。少し甘くて少しビターでふんわりで、とってもおいしくて、こんな田舎じゃなくて都会にお店を出しても人気になりそうなくらい。
もうすでにほとんどのお皿を空にした茜はあたしの顔を見て小さく微笑んだ。あたしの顔がおいしいって顔になっていたのかもしれない。
紅茶も香りがとてもよくて、心の中がほっと落ち着いてくる。
ザッハトルテにフォークを伸ばそうとすると、その上をさっと鳥影が通り過ぎる。外に広がる青空はもう夏を感じさせる。
早く夏にならないかな、途中の梅雨も早く過ぎてしまえばいいのに。
雨の日は茜がとても悲しそうにするから嫌い。
いつからそうなったかわからないけど、理由も全くわからないけど、雨の日の茜は悲しそうな顔をよくする。
何もない空き地にぽつんと立っていることもよく見かけた。誰かを待っているような、そんな雰囲気で。
そのたびに声をかけようと思うけど、でも、その時の茜は本当につらそうで、この世の中にひとりだけ、そんな世界を作っていて声をかけることがどうしてもできなかった。
でも、今の茜にはそんな感じはみじんもない。おいしそうに、楽しそうに、ケーキを平らげてゆく。あたしはその姿をしっかりと目に焼き付けておこうと思ってもう一度茜を見る。
「あげません」
「取らないってば」
そんな冗談を交わしたり、お互いのケーキを交換したりしながら、普段のこと…お互いの学校のこと、かわいい澪ちゃんのこと、甘いもののお話、将来のお話、とても素敵で楽しいゆるりゆるりとした時間に、そして、幸せそうな茜を見ることができてあたしも幸せだった。
でも、運命は意地悪なのかもしれない。
小さな音が部屋に響く、ぽつ、ぽつ…やがて、ざーっと。
茜の顔が険しくなる。
その視線は窓の外、灰色の空へ。
あたしはその横顔を一瞬だけ見て、同じように空を眺める。
「降ってきちゃったね」
周りを山に囲まれたこの場所の天気は変わりやすいのかもしれない。
お店からバスまで走ればそれほど濡れないかな、バスの発車時刻があと20分ぐらい…食べ終わるころにはちょうどいい時間で…頭の中で計算をしながら一口残ったケーキを口に運ぶ。茜も黙々と、ケーキを口に運んでいた。時々恨めしそうに雨の空を見つめながら。
土砂降り。お店へのごちそうさまもそこそこにあたしたちは駆け出す。
バスのドアをめがけて一直線。ここまで来るバスに乗った時も同じだったけど、気持ちは全然違う。あの時は笑顔だったのに…そんな言葉が頭に浮かぶ。
整理券はなし。他のお客さんもなし。あたしたちは行きの時と同じように一番後ろの席に並んで座る。
窓際、茜はずっと外を見続けている。雨が流れる窓ガラス、雷の音も聞こえてきた。
やがて、バスはゆっくりと動き出す。
赤い屋根のお店も雨のカーテンにさえぎられてよく見えない。
小さな駅も雨にかすんでしまって、どこにあったかわからなくなってしまいそう。
そして、行きの時と同じように山へと入るバス、少しずつ、雨は強くなっていく。
でも、行きと違って茜はただ外を眺め続けているだけ。
その表情は普段と変わらないように見えて、少し苦しそうな思い悩んでいるような…
でも、あたしは声をかけることもできず、ただ、早く着くことを願っていた。
やがて、到着したあたしたちの降りるバス停。
山を抜けるころには雨は小雨になって、降りる頃には空は夕焼けの色に染まっていた。
茜の綺麗な横顔。少しだけ微笑んでいるように見えて、あたしの胸は少しだけほっとする。
「茜、おいしかったね」
少しだけ、ためらいがちに声をかけると茜は小さくうなずく。
「また行きたいね、あの素敵なお店。今度は澪ちゃんも誘って」
あたしの言葉が聞こえているのかいないのか、茜はもう一度ただうなずくだけ。
雨のことを思い出しているのかもしれない。茜を苦しくさせる何かを思い出しているのかもしれない。
でも、それに触れることもできず、あたしたちは無言で茜の家に向かっていった。
やがて、到着する茜の家。
「またね、茜」
玄関へと足を進める茜。こちらには一度も振り返らない。
苦しいとき、悲しいとき、そんなときの茜はいつも同じ。
あたしは小さく、わからないようにため息をついて、いつものように玄関の中に消える茜の背中を見つめ…て…?
…でも、今日は違っていた。
ゆっくり振り返る茜。小さな笑顔。じっとあたしを見つめる。
「えっと…?」
いつもと違う茜にあたしは言葉も見当たらずそれくらいしか口にできない。
茜はゆっくりこちらに近づいてくる。
スカートが風に揺れて、その白い色は茜色に。
小さな笑顔のまま、茜はその小さな口を開く。
「どうして…詩子はいつも一緒にいてくれるのですか?」
「どうして、って…」
思いがけなさすぎる質問にあたしはまた言葉に詰まってしまう。
「私は今日、詩子に少し嫌な気持ちにさせたと思います。今までも時々…」
茜の言葉が止まる。そんなことない…あたしのその言葉は口の中で消える。
風に揺れる葉っぱの音が聞こえてくる。茜の笑顔は消えてまじめな顔に。
「それなのに、どうしてですか?」
「もちろん、大切な幼馴染だから、大事な友達だから…」
大好きな女の子だから…その言葉は胸の中で小さくつぶやくだけ。
少しだけ、頬が熱くなっているのに嫌でも気づいちゃう。
茜の表情がやわらかい微笑みに代わる。
あたしも小さく笑顔を向ける。
「実は…私には、内緒にしていることがあります」
うん、知っていたよ、茜。ここ3年くらい、ずっと、あたしにも話せないくらいの秘密。
どうしてもあたしにはわからない、茜を悩ませているその秘密。
「でも、私自身も上手に説明できないと思うので…」
ふっと視線を落とす茜。思い出してしまっているのかもしれない。でも、
「でも、いつかは詩子にもお話ができる日が来るかもしれません」
しっかりとあたしを見つめて茜はそう言ってくれる。あたしの胸は嬉しさに少しだけどきっとした。
「でも、その時は…」
一歩近づく、茜。
見つめてくるその瞳はあたしをとらえて離さない。
「詩子の内緒にしていること、教えてくださいね」
そう言うとゆっくりと振り返り、玄関へと戻る茜。
扉を開けるともう一度こちらに振り向いて小さくお辞儀をする。
「またね、詩子」
その姿がとても綺麗で、あたしは見とれていて…
「う、うん、また明日ね。茜!」
「学校に毎日のように来られるのは困ります」
少し返事が遅れてしまったあたしに苦笑しながら返してくれる。
あたしたちは手を振りあって別れた。
今日は、少しだけ、本当に少しだけかもしれないけど、茜との距離が少しだけ戻った気がして、あたしはとても嬉しかった。
明日からも、もっともっと、茜に近づきたい。あの頃のあたしと茜の関係になれたら…あたしはずっと胸の中で思っていた。
山のほう、夕暮れの色、かすかに見える虹、その虹の方向、家へ向かう小径を歩きながら。
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