海の導き (柴猫侍)
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1.波の導き

 男は慈悲深かった。必要以上の殺生はせず、市民の人々の正義のヒーローとなれるよう、その腕を振るって日夜戦い続けた。

 

 いつしか男には妻が、そして子に恵まれることとなる。

 だが、その幸せはいつまでも続かなかった。

 

 ある日、男の妻と子は海賊に殺される。男に逆恨みした海賊の所業であった。

 男は悲しんだ。妻と子。大切な家族を失った悲しみは、そう易々と癒えるものではない。

 故に彼は失った家族を追い求めるのではなく、これから先の時代を生きる仲間たちをいかに死なすまいかに全力を注ぐことに決めた。

 

 彼は“黒腕のゼファー”。名だたる海兵を育て上げた男。

 

 武装色硬化の腕の色―――その黒色をもじりつけられた彼の通り名を知らぬ海兵は居らぬ。それほどまでに、ゼファーの名は海兵に知れ渡っている。

 厳しいと有名なゼファーであるが、それは海兵を想ってのこと。殉職する海兵が一人でも少なくなるようにという彼なりの優しさであった。

 

 故に海兵は彼を慕う。

 尊敬すべき、皆の先生だった。

 

 しかし、そんな彼が“父親”となる瞬間は不意に訪れる。

 

「おぉ……」

 

 感嘆するような、それでいて驚愕するような声を漏らすゼファー。

 彼が抱える籠の中には、まだ生まれて数か月も経っていないであろうあどけない姿の赤子が眠っている。

 訓練兵を引き連れた海上演習。

 巨大な演習艦にて教官として乗っていた彼の下に、その赤子は届けられた。

 

『その……海上を漂っているのを見つけまして』

 

 おどおどとした訓練兵の言葉が脳裏を過る。

 まさか、赤子が一人籠に乗せられて海の上を漂っていると考えるだろうか。

 放っておけば間違いなく死は免れなかったであろう赤子。ちょうど、ゼファー率いる演習艦が赤子を見つけたのは、『運が良い』の一言では片付けられない出来事だろう。

 まさしく“運命”。命が運ばれてきたのである。

 

「い、いかがなさいますか、教官?」

「……とにかく、この子どもは我々で保護するぞ。いいな?」

「は、はい!」

 

 ゼファーを前に緊張する訓練兵に対し、淡々と指示を述べるゼファーは、そのまま赤子を抱いて教官室へと向かっていく。

 ただでさえ偉大なる航路の海上は危険だ。

 不規則な天候は勿論、化け物のような海獣、海王類が海の中には潜んでおり、いつ襲い掛かってくるのかが分かったものではない。

 無論、元海軍大将であるゼファーにとっては海獣や海王類如きは相手にならないが、訓練兵はそうもいかない。ましてや、生まれて間もないであろう赤子もだ。

 できるだけ安全な場所へという配慮の下、赤子を教官室の机に置いたゼファーは、自然と顔を赤子へと近づけていた。

 

―――似ている。

 

 記憶の中の子どもと重なる。

 海兵としての仕事が忙しく、ロクに家族にも会えていなかったゼファー。そんな彼でも、自分の子の顔はハッキリと覚えていた。

 その記憶の中の我が子と重なる目の前の赤子に、ゼファーは得も言われぬ感覚を覚える。

 赤子など皆似たような姿形をしていると言われるかもしれない。

 だがしかし、ゼファーにとって僅かにでも我が子の面影を感じる赤子を、只の他人―――それだけに留めることはできなかった。

 

「うぅ~」

「おぉ?」

「キャッキャ!」

「あ……コラ!」

 

 マジマジと赤子を見つめていたゼファーであったが、その隙に赤子が彼のかけていた眼鏡を取り上げた。

 思わず叱るゼファーであったが、言葉を理解できぬ赤子は構わず、掴んだ眼鏡を振り回す。

 その姿もまた、死んだ我が子に似ていた。

 

「……」

 

 取り上げられた眼鏡を取り返すこともしないゼファーは、柔らかい笑顔を浮かべ、はしゃぐ赤子を抱き上げる。

 丸太のように太くゴツゴツとした筋肉質な腕で抱かれる心地は、決して良いものではないだろう。それでも赤子は、強面のゼファーへ屈託のない笑みを投げかけた。

 

 その時、彼は決意する。

 

「―――そうだ、『ジール』がいいな」

「あぅ~」

「お前は今日からジール……おれの息子だ」

「う~!」

 

 この赤子―――ジールの父親になると。

 

 

 

 ***

 

 

 

 とある軍港の町。

 そこには、小さな少女を庇うように仁王立ちする小さな少年が、彼よりも大柄な少年たちと睨み合っている。

 一触即発。そんな言葉が似合う状況ではあったが、既に決着はついていた。

 

「く、くっそー!」

「覚えてろよ!」

「今度会ったら、コテンパンにしてやるー!」

 

 捨て台詞を履いて立ち去る大柄な少年たち。

 その様子に、庇われていた少女は花のような笑みを咲かせた。

 すると、彼女の前に居た少年が得意げに笑みを浮かべ、ポーズを決める。片腕を頭上に、もう一方を腹部辺りに構えるその姿は、『Z』をあしらっているように窺える。

 

「正義は勝つ! ぼくはどんな悪党が来たって負けやしない! ぼくは正義のヒーロー……ゼーット!」

 

 高らかに名乗りを上げるその様は、まさしく正義のヒーロー。

 子供らしいと言えば子供らしい遊びだ。いつの時代も、強きを挫き弱きを助ける存在に憧れる者は一定数存在する。

 この大海賊時代にて正義のヒーロー……とまではいかないが、正義とされているのは世界政府に属している海軍だろう。

 

 この少年もまた、そんな海軍―――延いては海兵に憧れる者の一人。

 

 艶やかな空色の髪の少年は、平凡な塩顔であるものの、人を助けるその姿は輝いている。

 

「ありがとう、ジール!」

「また助けを呼んでくれたら駆けつけるよ」

 

 先程まで庇われていた少女は『ジール』と呼ばれた少年の手を借りて立ち上がり、『またね!』と元気よく別れの挨拶を述べ、駆け足で去っていく。

 少女の後姿を満足気に見届けたジールは、自分もと言わんばかり帰路につく。

 小さな歩幅。されどこれからの未来を生きていくという活気に満ち溢れた足取りで走れば、家まではすぐそこだ。

 

「ただいま」

「あら、お帰り。今日もいっぱい遊んできたのかい?」

「遊びじゃないよ。正義のヒーローとして見回りしてたんだ」

「あら、そうかい」

 

 柔和にほほ笑みかけるのは、この軍港の町でジールの世話を看てくれている初老の女性だ。

 酒場を営んでいる彼女とジールに血縁関係はない。

 そもそも、本来ジールの面倒を看るべき父親とも血は繋がっていなかった。

 

 彼は捨て子。

 海を漂っているところ、今の養父が拾ってくれて義理の息子として育てる意思を決めてくれたのだ。

 そんな養父の故郷こそ、この軍港の町であった。

 今日もまた、一隻の軍艦が訪れる予定である。

 

「そろそろ来るかな、義父さん」

「ああ、来るさ。まったく……大将から教官になったってのに忙しいことには変わりないんだから、あんたを育てるって息巻いてる癖してほとんどあんたと遊んでやれてないじゃないか」

「ううん。義父さんは海兵だから忙しいのは分かってるから、ぼくは大丈夫だよ」

「はぁ……小さいってのにしっかりしてるね。親の顔が見てみたいさね」

 

「―――誰の顔が見たいって?」

 

「義父さん!」

 

 不意に酒場に響いた重い声。

 聞き覚えのある声にジールが振り返れば、そこには筋骨隆々で、紫色の髪を短髪に切り揃えている初老の男性が立っていた。

 彼を見るや否や、今日一番の笑みを咲かせたジールは、勢いよく駆け出して男性の胸元に飛び込んだ。それを軽々と受け止めた男性もまた、その強面とは裏腹な柔らかい笑みを浮かべ、受け止めたジールを抱き上げる。

 

「久しぶりだな、ジール。また背が伸びたんじゃあないか?」

「うん。義父さん、海兵のお仕事お疲れ様」

「ああ」

 

 再会の会話を軽く済ませた二人。

 抱き上げられたジールは、そのまま男性に肩車され、目を輝かせる。

 一般的な男性と比べてかなり大柄な彼の背に乗れば、それはもう見える景色は格別であろう。

 

 そんなジールを乗せた男性は、苦笑を浮かべている酒場の店主に視線を遣った。

 

「すまない、ジールの面倒を看てくれて」

「ホントだよ。まあ、また孫ができたと思えば苦じゃないさね」

「孫……か」

「ああ、アンタもわたしももうそんな歳なんだよ、ゼファー」

 

 男性―――ゼファーは、ジールを『孫』と称する酒場の店主を前に、苦々し気な表情を浮かべる。

 ゼファーが60歳を超えている一方で、ジールは12歳だ。

 60代男性は、個人差はあれど孫が居てもおかしくはない年齢。地域によっては、すでに立派なおじいちゃんであろう。

 それでも彼が一教官として海兵を続けているのは、偏に海の平和を望むが故。

 同期の“仏のセンゴク”、“拳骨のガープ”、おつるなど、伝説的な海兵とその名を並べる彼は、まだまだ現役だ。

 

「でも、ぼくは義父さんの息子だよ」

「……ああ、そうだな」

 

 しみじみと自分が年を取ったことを考えていたゼファーであったが、頭上にてジールが言い放った言葉で我に返る。

 

「おまえはおれの大事な息子だ」

「えへへ」

 

 本当の親子のように笑い合う姿に酒場の店主である女もまた微笑む。

 ジールがゼファーに引き取られて早12年。海軍という職業上、中々家に帰ることができないゼファーであったが、それでもジールに慕われる程度には触れあっていた。

 そんなジールの夢は勿論、

 

「ねえ、義父さん」

「ん? なんだ」

「ぼく12歳になったから、そろそろ海軍に入隊してもいいよね? 雑用でも何でもするからさ」

「んんっ……」

「ぼくは義父さんみたいな立派な海兵になりたいんだ」

 

 真摯な声色にゼファーも唸る。

 確かにジールの言うことも分かる。どうやら、正義のヒーローが好きで、海を荒らす海賊が許せないという正義感から海兵を望んだゼファーによく似て育ってしまったようだ。

 しかし、海軍も一枚岩ではない。時には目を背けたくなるような惨劇を目の当たりにすることや、政府からとてもではないが良心が痛むような任務を言い渡されることもある。

そしてなにより、ゼファーは海兵であるが故に海賊に報復を受け、一度家族を失った。そのトラウマは、今尚潰えてはいない。

 元々の海兵の殉職率と、将来的に活躍した頃に作った家庭を奪われてしまう可能性を鑑みれば、ゼファーは同期のガープのように意気揚々と『海兵になれ!』とは言えないという悩みがあった。

 無論、望んで入ってきた者達に対しては厳しく教えるつもりだ。

 だが、義理の息子を自分と同じ道に歩ませたくない想いが、息子が海兵になりたいと願う事実に対し、素直に喜べない理由となっていた。

 

「本当に……海兵になりたいのか?」

「うん。ぼく、ずっと前から決めてるんだ」

 

 子供にしてはやけに落ち着いた印象であるのが、このジールだ。

 しおらしさを感じさせつつも、若き頃のゼファーのような情熱を胸に秘めている。本当に血のつながった親子の如く、ゼファーとジールは似ているのである。

 

「義父さんみたいな海兵になりたい」

「だがなぁ……お前はお前の自由に生きていいんだぞ? おれが海兵だからと、お前まで海兵になる必要は……」

「ううん。自由に生きてって義父さんが言うんなら、なおさらだよ。義父さんみたいな立派な海兵に……正義のヒーローになりたい」

「ジール……」

 

 そこには確固たる意志があった。

 

「……そこまで言うなら仕方ないな。よし、今日からでも海兵として働くか」

「えっ、ホント?!」

 

 唐突な提案に驚くジール。一方で酒場の店主は、目を大きく見開いて非難するように声を上げる。

 

「ゼファー、アンタ正気かい?! こんな小さな子を今から海兵にって……」

「なに。上の者ほど鍛える時期は早かった。ジールも海兵として職務を全うしたいなら、今から鍛えるべきだろう」

「だからってねぇ……」

「いきなり実戦になぞ出すと思うか? 最初は掃除やら食器洗いやら……空いた時間で、おれの知り合いに特訓を看てもらうだけだ」

「―――はぁ」

 

 盛大にため息。誰がどう見ても呆れていると分かる様子だった。

 ゼファーとは数十年来の付き合い。海兵になってからも続く友人関係である以上、彼の性分というものは理解しているハズだったが、12歳の義理の息子をどう扱うかまでは予想できなかった。

 

「わかったよ。持ってきな、どろぼう」

「ジールは元々おれの息子だ」

「バカ。誰が面倒を看てたと思ってるんだ」

「それは……恩に着る」

「海兵としちゃ一流なんだろうけど、父親としては三流以下だよ。覚えときな、あんた」

 

 幼馴染に吐く毒は、きついながらもどこか温かみが滲んでいる。

 ゼファーに対して毒を吐いた酒場の店主の店主は、次にジールへと目を遣った。12年間、血も繋がっていないのにも拘らず、孫のように可愛がった子だ。突然の別れに寂しくないと言えばうそになる。しかし、潮風のように湿っぽい別れは好みではなかった。

 

「ジール」

「うん?」

「あんたは将来結婚するかしないのかわからないけども、子ども持ったらこんな親父にはなるんじゃないよ」

「えぇっ……」

「あんたがイイ子だからね、今までは上手くやれてたんだ。でも、女や子どもが男に愛想尽かす時は一瞬だからね。心得ておきな」

「う、うん」

 

 やや引き気味にジールは応える。

 その間、ゼファーは耳が痛いと言わんばかりの表情で俯いていた。

 父親であるというにも拘わらず、子どもに甘えていたのかもしれない。ジールはとことんいい子だった。正義感に溢れる、どこへでも自慢のできる息子だ。だからこそ、(ゼファーにとって)少しの間目を離していても平気だとばかり思っていた節がないとは言い切れない。

 

「ダメな義父さんで済まないな、ジール」

「ううん。大丈夫だよ」

「ホントっ……いい息子拾ってきたね、あんた」

 

 遠慮もせずそう言い放った酒場の店主に、困り顔のゼファーと満面の笑みのジールは見つめ合う。

 

「さて、と……これからは少し長い船旅だ。ジール、支度するぞ」

「うん!」

 

 それから二人は、ジールの海軍入隊の準備をするべく、普段ジールが使っている部屋へ向かって行った。

 荷物は大した量にはならないであろうが、掃除も含めればそれなりの時間となろう。

 ガタゴトと音が鳴り響く間、酒場の店主はたばこを一本取り出して火をつける。

 すると、

 

「おばあちゃん」

 

 酒場の店主の孫らしき少女が、ぬいぐるみを抱いて奥の部屋からやって来た。

 

「ん? なんだい」

「ぬいぐるみ……破れちゃった」

「あらら……まあ古いからね。生地もボロボロになってきたんだよ。どうする? 新品買ってあげるかい?」

「ううん、これがいいの」

「そうかい……じゃあ、一服終わったらおばあちゃんが直してあげるからね」

「うん!」

 

 修復する旨を伝えれば、少女の陰鬱としていた顔に笑顔が咲く。

 そのまま預かったぬいぐるみをマジマジと見つめる酒場の店主は、物憂げに深く息を吐いた。

 

「この子とも、何年の付き合いになるんだろうねぇ……」

 

 ぬいぐるみを抱いて瞼を閉じれば、脳裏に若かりし頃のゼファーの姿が過る。

 どこにでもありそうなヘルメットに工作を加え、少し太めの枝をトンファーのように腕に装備し、子供なりに一生懸命考えたであろうポーズを決めるゼファーの姿が。

 

 あの頃の思い出を少しばかりジールに話せば、過去の記憶がそっくりそのまま蘇るかのように、ジールは正義のヒーロー『Z』として、港町の悪ガキたちを懲らしめる存在となった。

 

「ホント……お似合いの親子だよ」

 

 

 

 ***

 

 

 

 ―――と、懐かしめたのも昔の話。

 

「ジールゥ! お前は罰として今日のトレーニングを一からやり直しだあああああ!!!」

「ひぃー!」

 

 海兵を育てる海兵学校にて、一人広大な敷地を何周も走らされている。

 これも最近ではよく見る光景。一足早くゼファー主導の訓練を終えて自主練に励んでいた数名が、『またか』と呆れたような眼差しをジールへと送る。

 

「今度は何をしでかしたの?」

 

 艶やかな青色の髪を海から吹き渡ってくる風に遊ばせる女子が、隣に佇む長身の男子―――ビンズに問いかける。

 

「夜に隠れて酒を飲んでたらしい」

「また? はぁ……成績は良いのに玉に瑕ね」

 

 今更ジールがただでさえキツイトレーニングを罰として再度行わされることに驚きは覚えないが、女子はその瞳に落胆と若干の怒りを滲ませ、自分のトレーニングへと戻っていく。

 ジールへ憤る彼女の名はアイン。彼とは同期であり、入学以来他の才能ある入学者と首席を争う才女の一人だ。しかし、現実は入学してから一度も首席に立てたことはない。その原因は現在校庭で悲鳴を上げて走っているジールに他ならない。

 

 まだ新兵にすらなれていない身でありながら、六式と呼ばれる超人体術の内の一つ“剃”を用いて走る様はまさに圧巻の一言だ。それだけの才能がある故に、常に海兵学校の首席に君臨しているジールであるが、先ほどのように度々問題を起こしては地獄のようなトレーニングを課されてヒーヒーと呻いている。

 

 それがアインには許せなかった。首席は首席たる品格を備えていなければならないだろうというのが彼女の持論だ。

 ところがどうだ? 当のジールはアインの考える首席にはほど遠い素行の悪さである。

 人柄が悪いとか、訓練に対して真面目でないとかの問題ではない。寧ろ、誰にでも好かれるような温かさを備えつつも、訓練には誰よりも真面目に取り組んでいる。

 

 にも拘わらずだ。どこか抜けている。

 あのような人間が首席に立ち続けていれば、下に居る自分達の評価が下がってしまう。アインにはそんな予感があった。

 

(今日こそはガツンと言ってやるんだから)

 

 プリプリと怒る間にも日は沈み、アイン達が暮らしている寮の消灯時間になった。

 他の生徒から仕入れた情報から、ジールが隠れて酒を飲んでいる時間と場所は把握している。

 ほとんどの者が寝静まる寮の中、音を立てぬよう細心の注意を払って階段を上った先にあるのは屋上だ。

 

 しっとりとした夜風と海の香りが心地よい。このまま眠りにでもつけば、大層寝心地が良いだろう場所で、酒瓶を片手にジールは柵に寄りかかっていた。

 流石にこれだけ静まり返っている場所では息遣いも聞こえてしまうのか、背後へこっそりと忍び寄ろうとした瞬間、弾かれるようにジールの顔がアインの方へと向く。

 

「アインじゃないですか、どうしました? こんな時間に」

 

 物腰柔らかな口調が鼻につくのも今は仕方ない。

 はぁ、と深いため息を吐いたアインはわざと足音を立てて駆け寄っては酒瓶を取り上げた。

 あ、と情けない声を上げて酒瓶を取り上げられたジールであったが、特段取り返そうという素振りを見せることはない。素直に取り上げられるくらいならば酒を飲まねばいいのに―――アインはそう思わずにいられなかった。

 

「没収よ。またゼファー先生に怒られるわ」

「いいじゃないですか、お酒の一口や二口くらい。アインも飲みますか? シェリー酒」

「の・ま・な・い。それより、なに? シェリー酒って……」

「一番かっこいいお酒ですよ」

「……やっぱり貴方酔ってるわ」

「酔ってませんって」

 

 思ったような的を射ない返答に眉を顰めたアインが早々にシェリー酒の入った瓶を片手に立ち去ろうとするが、それをジールが引き留める。

 まるで酔っ払いに絡まれた人間のように面倒くさそうな面持ちを浮かべるアイン。実際酔っ払いに間違いはないだろうが、月光に照らされて浮かんだジールの表情が真剣そのものであったから、思わず歩みを止めてしまう。

 

 仕方ないと言わんばかりに鼻を鳴らせば、それを話の催促だと受け取ったジールが陽気に語り出す。

 

「クザン大将から教えてもらったんですよ」

「クザン大将に?」

 

 クザン―――通称“青雉”と呼ばれている海軍最高戦力の内の一人に数えられる海兵だ。

 かつてはゼファーも座していた地位に属する海兵に教えてもらったことだとあってか、ゼファーを敬愛するアインはついつい話に食いついてしまう。

 

「ええ、先生の好きな酒だって。だから先生の教え子の海兵は、昔皆で真似して飲んでいたって言いますよ。それこそ今の海軍を支える将校が。ぼくも願掛けに飲んでるんですよ。義父さんや他の将校の方々みたいな立派な海兵になれるようにって」

「……そう」

 

 話として簡潔で単純なものであったが、終わってみればアインは自分が握っている酒瓶から目を離せなくなっていた。尊敬する教官、名を轟かせる将校、そしてどうしても勝てない同期の一人が飲んでいる酒だ。

 すると、どうだろう。まったく興味のなかった液体に得も言われぬ引力を感じ始めた。空いたままの口からは強い酒気が夜風に吹かれて流れ、アインの鼻腔を擽る。

 

 ゴクリと生唾を呑み込んだ音が響く。

 同時に、『それと』と小さな呟きがアインの鼓膜を揺らした。

 

「……ああしてる時間だけは、義父さんがぼくだけを見てくれてる気がするんです」

「―――」

 

 とろんとした瞳を覆い隠すようにジールの瞼が閉じられた。

 眠りに落ちる直前の微睡のように泡沫の幸福に酔い痴れる様子。彼の口角は、楽しい夢でも見ているかのように上がっていた。

 

 そこでアインは察する。

 ジールがゼファーの養子であることは海兵学校では有名な話だ。だから成績が良いという話ではなく、理解するべきは彼がどのような幼少期を送ったかである。

 

 ゼファーは、センゴクやガープのような伝説の海兵の一人だ。一線を引いて教官に就いても、海兵である以上プライベートにかける時間は少なかった筈。

 だからこそ、ゼファーに拾われて養子になったジールは愛に飢えていた。

しかし、海兵を目指して訓練を受けている以上、義父が海兵であることを恨んでいる訳でないことは察せる。寧ろ、家族として互いを大事に思っていることはひしひしと周囲に伝わっていた。

 

 それほどに想うが故、ジールは義父(ゼファー)と二人の時間を欲したのだろう。

 規則を破っても尚―――否、規則を破るからこそ作れる時間を、だ。それが罰としてのトレーニングだったとしても、ジールにはこの上なく義父と居られる幸せな時間だった。

 ならば、積極的に時間を作ろうとするのも自然なことだと納得できる。そして結果的にトレーニングを誰よりも重ね、誰よりも秀でた身体能力を得るのも―――。

 

「……やっぱり貴方は酔ってるわ」

 

 指摘するアインの頬は綻んだ。

 最初は『先生』と呼んでいたのが、いつの間にか『義父さん』と変わっていた事実に。

 

「だからこれは没収」

「あ」

 

 瓶の中に残っていたシェリー酒を一気に煽るアインに、ジールの間の抜けた声が屋上に響く。

 普通のワインよりもアルコール度数が高いのがシェリー酒の特徴であり、一気に飲み干した後に息継ぎをするアインの吐息には、案の定芳醇な酒の香りが含まれていた。

 

 初めての酒の味。美味かと問われれば全力で首を横に振るだろうが、アインは敬愛する先達が愛した味だと己に言い聞かせて、込み上がる吐き気を堪える。

 

 そんなアインを茫然と眺めていたジール。アインから見れば、彼の大切にしていた酒を飲み干されたのだからそうなるのも致し方ない様子だが、どうにもおかしい。

 視線は酒瓶ではなくもっと後ろ。

 ようやく感じ取った威圧感に恐る恐るアインが振り向けば、不気味なほどににこやかな表情を浮かべる巨漢が立っていた。

 

「随分と旨そうな酒を飲んでるじゃないか、お前ら」

「せ、先生……よくここにぼくが居るって気が付きましたね」

「なに、見聞色の覇気があれば規則を守れん悪ガキを見つけるのは簡単だ」

「なるほど。じゃあ、ぼくにも次から先生に見つからないようにその見聞色の覇気を教えていただきたいなぁ~と……」

「安心しろ……言われなくてもお前には叩きこんでやるぞおおお、ジールううう!!!」

「わあああ!」

 

 ジールとゼファーによる鬼ごっこが始まった。

 老齢とは思えぬ速力を誇るゼファーから、鬼気迫る様子で逃げるジール。

 

「……うぷっ!?」

 

 一方、アインは胃袋の中のシェリー酒をモドモドした。

 

 

 

 ***

 

 

 

 順風満帆な日々だった。

 厳しくも優しい義父、切磋琢磨する仲間。血のつながった親の顔を知らないことを踏まえても、ジールにとっては掛け替えのない人間が大勢周りに居た。

 

 

 

 そう―――あの日までは。

 

 

 

 




※3話ほどで完結予定


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2.渦の導き

「モサモサ!」

 

 広い訓練場の中、二人の男子が向かい合っている。

 その内、長身でたらこ唇の忍者然とした軽快な動きで飛び回る男子―――ビンズが、どこからともなく巨大な蔓を生やし、対峙している男子へと向かわせる。

 

「“嵐脚”!」

 

 常人では止めることが叶わないであろう植物の波であったが、横薙ぎに脚を振るうジールが尋常ではない速度で成長する植物を両断した。超高速で脚を振り抜くことによって扇状の鎌風を放つ六式の一つ、“嵐脚”。その鋭さは本物の刀剣に匹敵するだろう。

 嵐脚が蔓を切り裂いた先。本来そこにはビンズが居た筈だが、彼の姿は見当たらない。

 

 しかし、ジールは焦ることなく今度は背後に腕―――否、指を突きだした。

 六式が一つ“指銃”。指先に力を集中させることにより、弾丸に匹敵する威力の一本貫手を繰り出す技だ。

 風を切る鋭い音と共に、これまた凄まじい速度でジールの背後に人影が現れる。

 だが、出現と同時にその人影はジールの指銃の直撃を喰らう。手加減しているとは言っても超人が繰り出す一本貫手だ。鍛えられた海兵であろうとも痛みに悶えることは間違いない。

 

「甘い!」

 

 そんな周囲の予想を裏切ってジールに飛び掛かったのは他ならぬビンズだった。

 ジールの突き刺した人影―――蔓が絡み合い人の形を成した物体が枯れていく。ビンズが用意した植物で作り出した身代わりだ。

 彼は超人系悪魔の実『モサモサの実』の能力者であり、独特なダンスによって植物の成長を促進し、操ることができる。彼の忍者染みた戦法も、このモサモサの実の能力があってこそ。

 

「もらったァ!」

「甘いですよ」

「なに!?」

 

 懐から手裏剣を取り出し、ジール目掛けて放り投げたビンズ。

 しかし、当のジールはと言えばその場からジッと動かない。

 これでは当てろと言っているようなものであるが、迫りくる無数の手裏剣に対してジールの体が徐に揺れた。

 迫り来る物体に対し、自ら躱す真似をとった訳ではない。はらりはらりと紙の葉の如く、遮る障害物に対し文字通り紙一重で体が避けていく。

 

「紙絵か!」

「ご明察」

 

 それは六式が一つ、“紙絵”。敵の攻撃から生じる風圧に身を任せて回避する防御技である。

 一歩間違えれば躱しきれず、みすみす攻撃を喰らってしまう繊細な技だ。だが、最小限の動きで躱したからこそ生まれる隙が少なく、敵の攻撃にすかさず応戦できる。

 “剃”にてビンズに肉迫するジール。

 ビンズもみすみす敵の射程距離まで近づかせる筈もなく、宙でモサモサの実による植物の成長促進にてジールの行く手を阻むように植物の壁を作る。

 

 しかし、敵を阻むための城壁はすぐに切り開かれた。

 “嵐脚”だ。だが、そのことを理解したビンズの視界の中に、すでにジールの姿はなかった。

 

「どこ―――ぶへぁ!?」

 

 周囲を見渡そうとしたビンズの後頭部に強烈な踵落としが入る。

 一直線に地面に叩き落されるビンズ。そして、その横に降り立つのは無論ジールだ。

 舞い上がる砂埃を手で払う彼は、後頭部にできた大きなたんこぶを押さえるビンズに『大丈夫ですか?』と手を差し伸べた。

 

「くぅ……もう少し手心を加えてくれ」

「すみません。でも、覇気を意識すると手加減とかできそうになくて」

「ちなみにできたのか?」

「いいえ」

「……できた暁には、俺はどうなることやら」

「ははは」

 

 からからと笑うジール。

 ビンズが触れた通り、彼は現在ゼファーから覇気について学んでいる。将校の中でも、地位が上の者には最早必須とも言える技術だ。

 その中でもゼファーは武装色の達人であり、現役時代は『黒腕のゼファー』として海賊から畏れられ、海軍内では尊敬を集めていた。

 そんな彼に倣ってジールもまた覇気の習得に精を出しているものの、未だ習得には至っていないのが現状。

 

「早く追いつきたいんですけどね」

 

 そう呟いたジールの瞳には一抹の憂いが宿っていた。

 

「焦っても仕方がないわ」

 

 彼を慰めるようにタオルを投げつけたのは観戦していたアインだった。

 ビンズにも用意していたタオルを渡した彼女は、『それに』と困ったような笑みを零す。

 

「貴方ばかりに強くなられたら、私達も立つ瀬がないもの」

「それは……もっと頑張らなくちゃ、ですね」

「意地悪ね」

 

 からりと笑うジールに、これまたアインは困ったように眉尻を下げる。

 誰もがゼファーの背を追う中、彼等三人の中でも、背を追われ、あるいは追いかける関係が出来ていた。

 それは掛け替えのない思い出。これからを海軍に身を捧げようとする彼等にとって、長い人生に対して一瞬にしか過ぎない、それでも眩い輝きを放つ青春の一ページであった。

 

 

 

―――あのようなことが起きなければ、いつまでも輝きを失わなかったのに。

 

 

 

 ***

 

 

 

「随分と寂しい卒業式でしたよ」

 

 糊の効いた海軍の制服に身を包むジール。この度、めでたく海兵学校を卒業した彼は新兵と為れたのだった。

 だが、その表情からは欠片も喜びは窺えない。

 

 雨に濡れる石碑。それは殉職した海兵を弔う為、遥か昔に建てられた墓碑のようなものである。

 特定の誰かの名前が刻まれている訳でもない墓碑に面と向かうジールの頬には、雨に濡れた所為ではない―――もっと別の理由で溢れる雫が伝っていた。

 

「生きてた3人は……()()元気なんでしょうね」

 

 瞼を閉じるジールが思い返す事件。

 それは数か月前に起こった海賊による訓練艦襲撃事件であった。搭乗していた訓練兵はアインとビンズ以外全員死亡。教官として同乗していたゼファーも、右腕を切り落とされるという重傷を負った。

 

「なんでぼくはあの時居なかったんだか……いえ、居ても大して変わらなかったでしょうけど……」

 

 心底悔やむように顔を歪めるジールは、事件当時、とある用事から演習に出ておらず、幸か不幸か事件には遭遇していなかった。

 ゼファーが片腕を失う程の相手だ。いくら腕利きとは言え、訓練兵のジールでは手も足も出なかっただろう。

 だが、それでも現場に居ればできたかもしれないことが―――助けられた友人達の命があったかと思えば、これほどまでに思い悩むことなかった筈だ。

 

「……きっと義父さんも、こんな気持ちだったのかなと思いますよ。ねえ」

 

 火傷してしまいそうな熱が頬を伝うものだから、ジールは思い切って空を仰いだ。

 責め立てるような激しい雨が顔を打つ。だけれど、まだ足りない。もっと自分が責められて然るべきだと拳を握る。拳から滴る水滴が赤く彩られようとも、強く、もっと強くと握り締めた。

 

 そうしてジールはゼファーの過去を思い返す。

 妻子を海賊の逆恨みで殺害された事件のことを。現場に居合わせさえすれば、襲撃した海賊達など容易く一蹴できたであろう。

 しかし、ゼファーは共に居られなかった。居られなかったから守れなかった。

 それに対して自分はどうだ? 共に居たとしても、きっと友人達を守れはしなかっただろう。

 

「なーんにも足りない。はぁ……人生、ヤんなっちゃいますね」

 

 まったく傲りがなかったかと言えば嘘になるが、誰かに咎められる程、ジールが自身の実力に慢心していた訳でもない。

 それでも、まだやり切れることがあったのではないかと自問自答せずには居られない。

 

「……ああ……あんまり怒らないでくださいね。ぼく、こう見えてメンタル打たれ弱いですから」

 

 ジールはゆっくりと墓碑に手を置いた。

 脳裏を過るのは、十人十色な良さを持っていた友人達の顔。

 遂には恐ろしくて死に顔を見ることが出来なかったが、彼等が生きていた時の希望や夢に満ち溢れていた顔は、嫌なくらい鮮明に思い出せる。

 どんな相手でも、それなりに仲は良かった。

 だからこそ、彼等全員に叱られたならば、きっと心が折れてしまうだろう。飄々とした性格なジールでも、そう確信していた。

 

 暫し悔恨に黙していたジールであったが、雨足が収まってきた頃、思い出したように『そうだ』と口を開く。

 

「ぼくは義父さ……っと、間違えた。先生が指揮を執る遊撃隊に入るつもりです。もう傍に居ないからなんにも出来ないなんて御免ですからね」

 

 右腕を失ったゼファーだが、海軍の科学者により義手兼武器の『バトルスマッシャー』を手に入れ、前線に戻る意向を示している。

 そんな彼は、教え子の海兵をいくらか引き抜いて『遊撃隊』を結成するとのことだ。

 事件で生き残ったアインとビンズは当然のこと、ジールもまた遊撃隊に入ると決めている。

 

 理由は、言った通り守りたい者の傍に居れず守れなかった思いをしたくないから。

 もう一つは―――。

 

(義父さんが……)

 

 あの日以来、憧れていた義父の背中が違う方向へ進んでいる。

 そんな嫌な予感が過っていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ゼファー率いる遊撃隊は、設立程なくして海賊達に恐れられる海軍の一組織として認知されるようになった。

 老いても尚、偉大なる航路前半では敵う海賊が居ない程の強さを誇るゼファーは、海賊の中でも悪魔の実の能力者を狙い、海賊を倒すことに精を出していた。

 

 その周りを固めるのは、ゼファーを慕う彼等の教え子達だ。

 中でも、モドモドの実の能力者であるアインとモサモサの実の能力者であるビンズは、当初新兵の身でありながらも、次第にその頭角を現していった。

 

 ほとんどゼファーの懐刀と言っても過言ではない彼等だが、そんな二人よりも一つ頭の抜きん出ている者が一人……。

 

「死ねい!」

「ヒィ!?」

 

 既に戦意喪失している海賊目掛け、手長族と呼ばれる腕の関節が二つある腕の長い海兵が回転して突進していく。

 しかし、直撃寸前で海賊の姿が攻撃の軌道から消え失せる。

 そのまま海兵は何もない地面に激突することとなったが、少し地面を抉りながら突き進んだ海兵は、何事もなかったかのような無傷の体が立ち上がり、怪訝な視線をとある男へ向けた。

 

「……なんのつもりだ、ジール」

「戦意を失った敵にトドメを刺す必要はありません」

「情けをかけるのか!」

「規範に則っているだけです」

 

 『正義』の二文字が掲げられているコートを羽織る男―――ジール。

 遊撃隊に入ってから数年経ち、以前よりも勇ましくなった顔つきの彼は、怒りを滲ませるシューゾに対し淡々と応え、捕らえた海賊の腕に手錠をかけた。

 非難するような視線をジールに投げかけるシューゾだが、他の海兵はいつものことだと、彼等のやり取りに対し特に思うところもないと言わんばかりに各々の仕事へと戻る。

 

「やめなさい、貴方達」

 

 剣呑な空気の間に割って入る声の主はアインだ。

 太腿に残る大きな傷跡は、数年前の訓練艦襲撃事件の際に負ったもの。その傷跡をあえて見せつける丈であるホットパンツを穿いているのは、あの日の屈辱や怒りを忘れぬ為の彼女なりの行いなのかもしれない。

 

 しかし、そんな彼女の制止を余所に、二人の睨み合いは続いている。

 ジールは、敵が海賊であろうとも―――否、海賊だからこそ、ルールに則ることで彼等の所業に対する然るべき罰を与えんとしている立場だ。それはかつてのゼファーの、海賊が相手でも殺生をしないという慈悲深い姿と重なるものである。

 

 だが、シューゾは違う。

 彼は、遊撃隊の中でも過激的な立場だ。敵が海賊である以上情けは無用。重要なのは海賊を倒した事実であり、生死はそれに付随する結果でしかない。

 

 その姿は―――、

 

「無駄話はそこまでにしておけ」

「っ……ゼファー先生」

 

 重厚な足音を響かせてやって来た巨漢。

 右腕に装着された無骨なスマッシャーは、対能力者のみならず、一兵器として強力なスペックを秘めており、失った右腕以上のものを彼―――ゼファーにもたらしていた。

 

「……義父さん」

「義父さんはやめろ」

「貴方もぼくに規範に則ることを止めろと言うんですか?」

 

 海軍は殺戮集団ではない。

 海の治安の為、賊を討ち取る誇り高き者達の集まりだ。

 海賊を殺すことは簡単であっても、それでは市井の人々に恐怖や苦痛をもたらした罪に対する罰を与える監獄《インペルダウン》の存在意義が消え失せてしまう。そして海軍はそれを推奨している。

 

 そうした規範を理由に自身の行動の正当性を主張するジール。

 彼を見下ろすゼファーの瞳は揺れていた。それが怒りか、はたまた寂しさか。今のジールには理解し難い。

 

「……好きにしろ」

「はい」

「―――ただし、お前が情けをかけた海賊共が復讐しに来る可能性を忘れるなよ」

 

 踵を返しながら言い放ったゼファーの言葉に対し、ジールはゆっくりと面を伏せた。

 遠くへ木霊する足音。否応なしに義父が離れてしまっているという事実を知らしめるようで、思わずジールの顔には影が差した。

 

 『ふんっ』と鼻を鳴らし去っていくシューゾの一方で、アインは心配するようにジールの下へ駆けよる。

 

「……大丈夫?」

「はい……と言えば嘘になりますね。最近……いや、ずっと義父さんとは折り合いが悪い気がして」

 

 『あの日から義父さんは変わった』と尻すぼみになる呟きには、アインも思わず顔を逸らしてしまう。

 

 ゼファーを尊敬し、あるいは心酔して付いてきた遊撃隊の面々。

 そのほとんどが今のゼファーの戦いぶりに疑問を抱かない。しかし、ただ一人―――ジールだけは義父の言動に懐疑的だ。

 

 忘れられぬ凄惨な事件から、ゼファーは容赦が無くなった。

 それを大半の海兵は良い意味で捉えただろう。教え子を殺された悲劇の教官が、義憤のままに海賊を打ち倒していく雄姿には、心を奮い立たせるものさえある。

 だが、欠片程も情けを感じさせなくなったゼファーの海賊に対する扱いに、ジールは追いかけていた憧憬が打ち砕かれてしまったように感じていたのだ。

 

「気持ちは分かります。でも、だからこそあのままで居て欲しかった」

「ジール……」

「誰も責めやしないのにおかしい話ですよ。ぼくも……死んでしまった皆だって、海賊に情けをかけられるぐらい人柄のいい義父さんに憧れていた筈なのに」

 

 ゼファーは鬼になってしまった。否、鬼にならざるを得なかった。

 実の妻子を奪われ、果てには教え子までも奪われたのだ。愛する者達を二度も奪われたゼファーには、最早海賊に情けをかけてまで愛する者達を危険に晒す真似ができる筈がなかったのである。

 

 かつては海賊王ゴールド・ロジャーや白ひげの信念を認めていたゼファーであったが、今や海賊の信念などに見向きもしなくなった。そうさせたのは他ならぬ海賊だ。海賊が彼を変えてしまった。

 

「アインは……」

「え?」

「貴方の正義は……なんなんですか?」

 

 向けられる視線が鋭くなるのを感じ取り、ジールはアインに面と向かう。

 すると、彼女も思う所があったのか、逃げるように視線を外した。アインほどの美女であれば、陰る横顔も絵になるというものだ。

 暫し葛藤しているかのように荒々しくなっていた息遣いも落ち着いた彼女は、揺れる瞳をジールへと向ける。

 

「……分からない。分からないわ。私はゼファー先生の正義が正しいと思ってずっと戦ってきた。けれど、貴方を見てるといつも考えるの。私が……いいえ、私達が憧れていた正義を真っすぐ追いかけているのは貴方だけなんじゃないかって」

「憧れ……まあ、そうですね。ぼくにはずっと憧れてるヒーローが居ますから」

「先生のこと?」

「さて、どうでしょう」

 

 分かり切っている答えを想像し、ふと笑みを零す二人。

 

「ねえ、ジール」

「はい?」

「もしもなにかあったら―――」

 

 そこまで紡いだ口がピタリと止まり、アインは再び面を伏せた。

 何事かと首を傾げるジールに対し、彼女は揺れる青色の髪で朱に染まる頬を隠す。自分が今何を口走ろうとしたのかを咄嗟に理解したからこその行動であった。

 必死に取り繕うとする彼女は、伏せた顔を覗き込もうとする彼から逃げるように踵を返し、改めて告げる。

 

「貴方になにかがあったら私が守ってあげるわ」

「? そうですか、それは頼もしいですが……できるだけ貴方の手にかからないように精進しますよ」

 

 真面目に応えるジールに対し、アインは逃げるように足早に去っていく。

 彼女の歩みに合わせて揺れるコート。将校以上に与えられる『正義』の二文字が刻まれたコートを背負う者には、背負うに値するだけの己の『正義』を抱かなければならない。

 しかし、今の彼女達が背負う『正義』は余りにも危うかった。

 例えるならば、『妄信的な正義』。己の芯たる正義を他人に依拠してしまっている。

 

(アイン……早く君だけの正義が見つかればいいんですが……)

 

 所詮正義など、人それぞれのもの。

 どれだけ他人の正義を信じていようとも、根っこの部分に必ず齟齬は生まれる。その齟齬を感じ取った時、今まで信じていた正義が揺らぎ、迷いが生まれるだろう。それがジールにとっては何よりも恐ろしかった。

 

 迷いの有無は生死を分ける。今は良くとも、いずれ致命的になる瞬間が訪れるだろう。

 その瞬間が訪れないことを願いつつ、ジールはゼファーに付いていく。

 

 

 

 もしも、義父が道を外れた時―――自分が止められるように、と。

 

 

 

 ***

 

 

 

 人一人―――ましてや、自分の義父とさえ分かり合えない現実に、ジールは相互理解することの難しさを痛感していた。

 その契機となったのは、“黒ひげ”マーシャル・D・ティーチが、白ひげ海賊団二番隊隊長ポートガス・D・エースを捕らえたことから始まったマリンフォード頂上決戦だ。

 ゴールド・ロジャーの息子であるエースを処刑することで、ロジャーの血と彼がもたらした大海賊時代を絶えさせるのが目的の戦争だが、船員を『家族』と呼び慕う白ひげとの衝突が免れぬからこそ引き起こされた戦争だが、当初の予想通り、海軍と白ひげ海賊団のどちらにも多数の死傷者が出た。

 

 血で血を洗う。まさしくその言葉が当てはまるような戦場では、戦争の狂気に充てられた海兵と海賊たちが、最早各々の正義や信念など関係なしに殺し合っていた。

 遊撃隊の中、唯一隊を離れて戦争に参加したジール。現場に居らず助けられないのは御免だ―――そのような意思から戦争参加を決めた彼であったが、初めて肌身で感じる戦争の空気には、流石の彼でも震えずには居られなかった。

 

 返り討ちにされる恐怖から、死体をめった刺しにする海兵。

 仲間を殺された怒りから、命を省みず特攻してくる海賊。

 

 どちらも正気とは言い難く、広範囲にわたって繰り広げられる終わりのない戦いに、ジールにできることは数少なかった。

 

 そんな中、一人の海兵が叫んだ。

 

―――命がも゛っだいだいっ!!!!

 

 桃色の髪の海兵。コートを羽織っていない将校未満の階級であることは即座に理解できた。

 そんな彼が、大将であるサカズキの前に立ちはだかり、これ以上の戦闘の継続を止めるよう訴えたのだ。

 結果として、彼がサカズキを制止した数秒の内に四皇の一角、赤髪のシャンクス率いる赤髪海賊団が仲裁に入ったことで、戦争は終結した。

 

 これが、双方にとって余りにも大きい傷跡を残した戦争の幕引きだ。

 

「まったく、やり切れんわい」

 

 そう呟いて煎餅をバリボリと食べる筋骨隆々の老人。因みにここは病室だ。本来ならば、このように飲食していい場所ではない。

 だが、この男を前にすれば規範など関係ない―――と諦めるより他ないと思わせるのが、海軍の英雄ことモンキー・D・ガープだ。

 快活かつ破天荒な性格の彼だが、そんな彼をもってしてこの戦争にはやり切れない思いがあるらしい。

 

「ガープ中将もあるんですか?」

「ん? まあな。なに、とっくの昔に覚悟してたことじゃ」

 

 そうは言うものの、ガープの表情は優れない。

 嘘を吐けない性格なのだろう。

 

「……義父さんは……いえ、ゼファー先生はこの戦争を静観する立場をとりました」

「ゼファーか。まあ、仕方ない話じゃ。戦争には七武海も参戦しとった。奴にとっちゃあ海賊(かたき)と同じモンじゃろうからのう」

「本当に……それだけでしょうか」

 

 ガープの視線がジールへ向いた。

 依然、煎餅を噛み砕く音は絶えないものの、彼なりに聞く耳を持ってくれているようだ。

 そのことを確認したジールは、意を決し言葉を紡ぐ。あの戦争で垣間見た光景と、それを見て抱いた素直な感想を。

 

「きっと先生は……揺らぐのが怖かったんだと思います」

「と言うと?」

「あの場に明確な正義なんてものはなかったんです」

 

海賊を殺す為に海兵を殺そうとした海兵が居た。

弟を守る為に身を呈して命を落とした海賊も居た。

 

 正義とは一体何なのだろうか?

 あれだけの命のやり取りの中、ジールは何度も考えた。

 

 海賊を殺す為ならば、海兵は何をしてもいいのだろうか?

 血は繋がっていなくとも、命を懸けて大切な者を守る姿を『海賊だから』と一蹴し、何も感じないことが正しいことなのだろうか?

 

 あの地獄絵図の中で繰り広げられたやり取りは、誰しも有している自身の正義の根底を揺るがすものがあった。

 

「海兵にも家族が居ます。それは海賊だって同じです」

「じゃが、ゼファーはその海賊に家族を奪われた」

「はい。先生はそのことを忘れようとしている。自分の怒りが風化しないようにと」

「道理じゃな。じゃが、ゼファーの怒りも尤もなモンじゃ。誰だって責められるものじゃあない」

「だからこそ、先生は今瀬戸際なんです。海賊が仲間を守る姿も、海兵が同じ海兵を殺す姿も、七武海(かいぞく)が海兵を巻き込む姿も……あれを見ていたら、きっと義父さんは正気じゃ居られなかったでしょう」

 

 二度も愛する者を奪われたゼファーの心は、既に瓦解寸前であることは容易に想像できた。

 どれだけ気丈に振舞おうとも、大将を下りて教官職に就き、果てには遊撃隊を率いて能力者狩りを行っているのだから、彼自身の考えに変化が起こっていることは明白だと言える。

 

 辛うじて彼を海軍に繋ぎ止めている『正義』。

 それを崩壊しかねない光景が、あの戦争では繰り広げられていた。

 

「ぼくは……義父さんの『正義』が間違った方に進まないかが心配です。ガープ中将、ぼくは……ぼくの『正義(あこがれ)』は守ることができるでしょうか?」

 

 自分の正義が揺らぐ場面に衝突することもあるだろう。

 だからこそジールは求める。決して揺るがぬ確固たる『正義』を。自分の掲げている『正義』がそれに足りるかと、歴戦の海兵であるガープに問いかけたのだ。

 

「う~む……」

 

 頭を痛そうに抱えて唸るガープは、大分長いこと思案した後にジールに面と向かう。

 

「知らん!!!」

 

 余りの勢いのいい声に、ジールはガクリと肩を落とす。

 そうだ、彼はそういう人間であった。彼に理知的な答えを求める方が馬鹿だったのだ。

 深々とため息を吐いて姿勢を正すジール。

 だが、そんな時『そもそも』とガープが言葉を続けた。

 

「守れるかどうかお前次第じゃろ」

「ぼく次第……?」

「ああ。立場の違いで守るべきものが変わる。力の有無じゃあ守れるものが変わる。上の奴ら程そういうモンの板挟みで葛藤しとる。特にゼファーはなぁ」

「義父さんが……」

「じゃから、大事なのは守りたいものになってくる訳じゃ。ブレないモンを真ん中にドーンと据えればいい」

「ブレないもの?」

「それこそが正義じゃ」

 

 やおら、袋から取り出した煎餅を噛み砕くガープ。

 

「傍から見てもゼファーの奴は変わった。じゃがわしには、奴の根っこの部分は変わっとらんように見える。それが何なのかまでかは知らんがの」

 

 そう締めてガープは咀嚼を始める。

 行為こそ大雑把であり、中将に相応しくない口調も多々あるが、それでも長年中将として戦ってきただけの確固たる正義が彼の中にはあるのだろう。

 否応なしに時代が移り行く中、変わらないものがある。

 

それを正義と呼ぶならば……。

 

「―――ぼくにも……あります。変わらないものが」

「……」

「……ガープ中将?」

「グゥ~!」

「……寝てる」

 

 椅子に座りながらであるが、ガープはぐっすり就寝してしまっている。

 そのことに唖然としてしまうジールであったが、気を取り直して外していた帽子を被り直す。

 かつての自分にとっては、正義のヒーローのマスク同然であった代物。新品で真っ白だった昔よりも大分くたびれてしまったが、懇切丁寧な手入れもあり、その白さはかつてと同じ輝きを放っているようにジールには見える。

 

(そうだ、ぼくは……)

 

 病室を去る歩みは勇ましい。

 純粋だった少年時代を思い出す彼の顔には笑みが浮かんでおり、尚更歩みの勇ましさに拍車をかける。

 そうだ。あの港町で悪ガキを懲らしめる時、自分はこのような心持ちで家を出ていた。

 それがいつしか、義父や仲間、そして海賊へ抱く感情が渦のように混ざり合い、形容し難い感情となっては、自分の歩みを億劫にさせていたのだ。

 

 久々に体の芯から震え上がるものを感じるジールに、彼は自分自身へ訴えかける。

 

 

 

Z(ヒーロー)』になりたかったんだろう、と。

 

 

 

 ***

 

 

 

「最近精が入ってますね、ジール大佐」

「そうですか?」

 

 部下の言葉にジールは柔和な笑みで返す。

 マリンフォード頂上決戦より早一年。白ひげが死に、四皇の一角が落ちたことによって海は更なる波乱に見舞われていた。

 『ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)』が実在するという白ひげの最後の言葉により、大海賊時代の始まり以来に匹敵する程の海賊が海に流れ込んできている。

 それに伴い海軍の仕事は増えに増えているという訳だ。

 

「まあ、精を出さざるを得ない情勢であることには違いありませんがね」

 

 だからこそ、ジールは遊撃隊に戻らず船一隻を率いる将校の一人として、海を股にかけ海賊討伐に精を出していた。

 ゼファー率いる遊撃隊たたき上げの海兵であり、尚且つ彼の義息子ともなれば、否応なしに名も売れるだろう。海兵学校時代のように良い噂も悪い噂も流れたものだが、今では素直に実績を認められ、大半の海兵には好意的に捉えられている。

 

(しかし、妙ですね。急に義父さんから呼び出されましたが……)

 

 今後も活躍を期待されているジールであったが、そんな彼に一つ懸念が生まれていた。

 マリンフォード頂上決戦で死亡した元王下七武海の一人ゲッコー・モリアの代わりに入った海賊。

 それからほどなくして、ジールの遊撃隊脱退に対し静観する立場を取っていたゼファーからの呼び出し。

 

(嫌な予感がしますね)

 

 一人の海兵ではない。彼の息子として、今回の呼び出しに対し脳が警鐘を鳴らしている。

 何事もなく終わればそれに越したことはないが……。

 

「―――わざわざこんな時間に……一体どんな用事なんですか、先生。まさかお酒でも飲もうって雰囲気でもありませんし」

 

 灯台と月明りだけが光源の夜中だった。

 揺らめく波が絶えず光を照り返しているが、不思議と目障りには感じない。そんな時間帯に遊撃隊の船に呼び出されたジールの前に立ち並ぶのは、ゼファーともう二人、アインとビンズだ。

 以前の装いともまた変わり、まるでジョリー・ロジャーのようなマークが施されたマントを羽織る彼等からは異様な雰囲気が漂ってくる。

 

 気を紛らわす為に飄々とした口調で問いかけるジール。

だが、夜中にも拘らずサングラスをかけているゼファーが、神妙な面持ちで口を開いた。

 

「お前は何も思わないのか?」

「……と、言いますと?」

 

 答えは分かる。だが、あえて問いかける。

 ゼファーの真意を確かめなければならないと。

 

「……新しく入った王下七武海だ」

 

 やはりか、と。ジールは深々と息を吐いた後、帽子を深く被り直す

 

「……それがどうしたんですか」

「しらばっくれるな。あの海賊はおれ達の訓練艦を襲った海賊だ」

 

 まだ口調は冷静だ。しかしながら、僅かに震えている声から彼の隠しきれぬ憤怒を察することはできる。

 

 彼の怒りはもっともだと言うのも、新しく加入した王下七武海はゼファー率いる訓練艦を襲撃し、数多の学友を殺戮した海賊だった。言わずもがな、それは海軍にとって立場上味方に位置する王下七武海に仇敵が加入したことに他ならない。

 

「何故お前は平然とした顔をして居られる」

「平然に見えますか?」

「ああ……見えるな」

 

 それは怒りと哀しみが混じったような、どっちつかずの声色だった。

 

 それから少し、親子(ふたり)の間で睨み合いが続く。

 口に出さずとも伝わる互いの意思を確認し、果てには牽制し合うような視線のやり取りだ。

 

「……義父さん」

「おれは海軍を辞める」

「義父さん!」

「あんな組織に正義なんてありはしなかった。おれ達の仲間を殺して楽しそうに酒を飲ん出やがる海賊を引き入れる政府なんかにはな。そうだ、最初からそうだったんだ。勝った奴が正義だ。どんなに誇り高く生きようが殺されれば笑って虐げられる」

 

 ゼファーは徐に持っていた酒瓶をジールに放り投げる。シェリー酒だ。ゼファーの好きな銘柄の。

 

「……海軍を辞めて何をするんですか、義父さん。まさか、自警団になるつもりでもないでしょう」

「ああ。おれ達は……海賊を滅ぼす。『ひとつなぎの大秘宝』ごとな」

「は? それは……どういう……」

「理由なら後で教えてやる。付いて来い、ジール」

 

 唖然とするも束の間、ゼファーから差し伸べられる手。

 時には殴られ、時には頭を撫でられた大きく無骨な手だ。よもすれば、そのまま手を取ってしまいそうな情に突き動かされそうになるジール。

 だが、くっと歯を食いしばり、かつて義父に向けたこともないような鋭い眼光を向けてみせた。

 

「……冗談は止してください、義父さん」

「ジール……」

「ぼくは海兵だ。ぼくの正義は……義父さん、貴方の行おうとしていることを認めない」

「正義……か」

 

 明確な拒絶。

 差し伸べる手を振り払い、己が正義に殉ずることを明言した息子を前に、ゼファーの腕はダラリと脱力した。

 そのまま踵を返せば、どこか哀愁を感じさせる背中がジールの目に入る。

 空を仰ぎ、深く息を吸うゼファー。

 

「―――お前は本当に……もういい。アイン、ビンズ。ジールを……アレを始末しろ」

「……は?」

 

 突然の命令に頓狂な声を漏らしたのはアインだった。声には出さずとも、ビンズも同様に驚愕した面持ちを浮かべているが、アインはその比ではない。

 

「ゼ、ゼファー先生! なにもそこまで……!」

「できない、と言うつもりか」

「っ……!!」

 

 思わず振り返るアイン。彼女の視線の先には、目を見開いて立っているジールの姿がある。

 ゼファーの一声で生き残った学友―――戦友と殺し合わされようとしているのだから、彼等の平静で居られないことは容易に想像できよう。

 

 おろおろとゼファーとジールを交互に見遣るアイン。

 その瞳や面持ちは、まるで『助けて』と言わんばかりのものだった。

 

「義父さん! 貴方は感情的になってます! 少し落ち着いて……っ!?」

 

 アイン達の様子を見て居られないと足を踏み出したジールだったが、それと同時に乾いた銃声が港に響きわたった。

 月影に照らされたアインから飛沫が飛び散り、そのまま彼女は倒れ込んでしまう。

 

 なんだ。なにが起こった。

 グルグルと思考がまとまらないジールが、やっとの思いで捉えた視界の先では、ゼファーが拳銃を握っており、その銃身の先からはゆらゆらと煙が立ち上っているではないか。

 

「義父さ……」

「正義とか自由とか……お前らすべてやり直しだ」

「っ、ゼファァアアアアアアアアアアアア!!!!!」

 

 気付いた時、ジールは既に駆けだしていた。

 長年の実践で磨き上げられた“剃”による移動速度は目を見張るものであり、瞬きをする間もなく、彼はゼファーの眼前まで迫っていた。

 だが、部下を―――教え子を撃っても尚平然とした顔を浮かべていたゼファーの前に、刀を抜いたビンズが立ちふさがる。

 

「ビンズ……退けて下さい!」

「それは出来ない! 俺達は先生の理想を……!」

「大切な仲間を傷つけて!! 何も感じないのか!!」

「っ……!!」

 

 それはジールなりの皮肉だ。教え子を殺した海賊が七武海に加入したことで海軍に失望したゼファーが、大切な教え子であるアインを傷つけたことへの。

 

 ジールとビンズの攻防は続く。学生時代はジールの方が上手であったが、互いの実力はあの頃の比ではない。

 お互いに相手の技を知り尽くしているからこそ隙は生まれず、拮抗した戦いへと発展していく。

 

 その間ゼファーは、倒れたアインを見捨てて泊めていた一隻の軍艦へと飛び乗った。

 

「ゼファー!!!!」

「……もう『義父さん』とは呼ばなんだ」

「ぼくは……貴方を止めます!!!!」

「フンッ」

 

 軍艦は錨を上げ、ゆっくりと港を出ていく。

 遠く、遠くへと……。

 

「止めてみせろ、ジール」

 

 それは息子への宣戦布告。

 挑発でもあり、激励でもある言葉を送る。

 

「―――おれはZだ!!!」

 

 夜の海に木霊する義父の声に、ジールは歯を食い縛る。

 『Z』―――それは正義のヒーローの名だ。義父が目指した、そして自分が憧れたヒーローの。

 

「そんな筈が……!」

「余所見をするな、ジール!!」

 

 嵐のように飛来する手裏剣を“紙絵”で躱す。

 休む間もなく、モサモサの実により植物がジールへと襲い掛かるが、これも“嵐脚”によって蹴散らしていく。

 二人の戦いは最早地上に収まらず、六式の一つ“月歩”を用いての空中戦へと移行していた。

 

「ビンズ!! こんなことをしている暇がありますか!!」

「何の話だ!!」

「アインですよ!! 早く彼女を治療しなければ!!」

「アインは……ええい、黙れ!! お前に先生の何が分かる!!」

「君達も分かっていなかったからこうなった!! 土壇場で!! 迷って!! そして撃たれた!!」

「ぐっ……!?」

「ぼくを始末しろっていう命令に、君自身の正義が揺らいだ!! 違いますか!?」

 

 あからさまに動きが鈍くなるビンズに、ジールが“剃”と“月歩”の合わせ技“剃刀”で肉迫する。

 その間、拳を強く握り締めて武装色の覇気を纏わせた。

 刹那、固く握った拳は黒く光り輝く。“武装色硬化”―――覇気を集中させることで硬化し、攻撃力を高める一種の覇気の到達点。ゼファーが『黒腕』と呼ばれた由来の技でもある。

 

 それを目の当たりにしたビンズは刀を構えて防御を試みた。

 だが次の瞬間、振り抜かれたジールの拳は刀を粉砕し、その先に佇んでいたビンズの頬を殴りつける。

 

「ゴッバァ!!?」

 

 真下へと振り抜かれた拳に伴い、ビンズは固い地面へと吹き飛ばされる。

 轟音を響かせて叩きつけられたビンズはと言えば、頬を大きく膨らませ、大の字に手足を広げていた。辛うじて意識は保っているものの、全力の一撃を顔面に受けた為か、ロクに動くこともできないようだ。

 

「はぁ……はぁ……おのれ、か、かなり効いたぞ……」

「ぜぇ……ふぅ……そりゃあ……鍛えましたから……」

 

 命を懸けた戦いの後とは思えぬ言葉をかけあう二人。

 すると、徐にジールの手がビンズへと差し伸べたではないか。

 

「……何のつもりだ」

「……腐っても君はぼくの友達ですから……見捨てません」

「……敵、でもか」

「敵でも……ぼくの憧れる正義の海兵(ヒーロー)は決して友達を見捨てはしない」

 

 半ば強引にビンズを引っ張り起こすジール。

 

「……そうか」

「ええ」

 

「……う、うぅ……」

 

「! アイン!」

 

 最早戦う気など起きなくなった二人。

 そこへアインの呻き声が響いてきた。

 ジールはあっという間に彼女の下へ駆け寄る。月明りで余りよくは見えないが、少量ながら血だまりがアインを中心に広がっていた。

 失血死にはまだ早いが、早々に治療しなければ彼女の命が危ない。

 そう判断したジールがアインを抱き上げた時、薄っすらと瞼を開けていた彼女と視線が交わった。

 

「ジール……」

「アイン、大丈夫ですか……!?」

「え、ええ……なんとか……弾は貫通したけれど……脇腹だったから……」

「?」

 

 不審に思いアインの服の裾を捲る。

 確かに彼女の言う通り、弾丸は脇腹に命中し、背中の方へと貫通したようだ。ただ、それが内臓のある場所であったならば大事に至っていたかもしれない。

 しかし、実際弾丸が命中したのは脇腹の限りなく端の方だ。

 これでは貫いたと言っても、皮と肉ぐらいであり、内臓には掠り傷一つついていない筈。

 

(……まさか)

 

 ゼファーの声が脳内で反芻する。

 

―――止めてみせろ

 

「……」

「ジール……」

「あ……いえ、良かったです。大事でなくて。すぐに救護室に……」

「……ごめん……なさい」

「……はい?」

「ごめんなさい……私じゃ先生を……止めてあげられなかった……!」

 

 ジールの腕の中で泣き出すアイン。

 彼女もここに来るまでの間、彼女なりに葛藤していたのだろう。

 しかし、結果としてゼファーを―――恩師を止めることは叶わず、ただ彼の行うことが正義だと自分を信じ込ませることで付いてきてしまった。

 だが、いざゼファーに友を始末しろと命令された時、迷いが生まれたのだ。

 

 本当に自分達のしていることが正しいのか? と。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

「もう……いいんです。誰もあの人を止めることなんてできはしなかった。時代があの人を鬼にさせたんです」

「でも……っ!」

「だから止めましょう。皆で」

「……え?」

 

 アイン、ビンズと順々に視線を向けるジール。

 その瞳には確固たる決意が宿っていた。

 

「3人で止めるんです。一人でダメなら、皆で……!」

 

 生き残った3人。

 もし、自分達が生きていることに意味があるのならば、きっとこの時の為にあったのだとジールは己に言い聞かせる。

 

「ゼファーを……Zを止めるんです!!」

 

 恩師を―――義父を止める為だ、と。

 



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3.海の導き

 エンドポイント。

 それは新世界に点在する3つのマグマ溜まりの総称であり、これら全てが破壊された時、新世界を焼き尽くす『大破局噴火』が起こるという伝説が伝えられている。

 世間では大抵『ただの伝説だ』『そんな筈がない』と、よくある伝承程度にしか認知されていないが、実はこの伝説は真実だ。海軍の研究者がそれを証明したのである。

 

 故に海軍は悪用する者が現れぬよう情報操作を行い、世界政府の上層部しか知り得ないようにした。

 

 まさか、正義の頂点に君臨するであろう海軍大将が悪用する筈もないだろう。そうした期待を裏切る形で、ゼファー―――否、Zはエンドポイントを襲撃したのだった。

 古代兵器に匹敵する巨大なエネルギーを有す鉱物『ダイナ岩』を用いて……。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ファウス島とセカン島は既に落ちましたか」

 

 ジールの静かな声が甲板に響く。

 隣に立つはアイン。Z率いる『NEO海軍』のジョリー・ロジャーが刻まれたマントは脱ぎ捨て、昔のように『正義』が刻まれたコートを背負っている。

 Zが海軍を離反して早数か月。当初、漠然とした目的しか把握できなかったNEO海軍も、ダイナ岩が保管されているファウス島を襲撃し、大きく動いて出た。

 彼等の狙いはエンドポイント。新世界すべてを破壊し、『ひとつなぎの大秘宝』ごと海賊を滅ぼす魂胆らしい。

 

 傷の癒えたアインとビンズはこうしてジールの船に乗り合わせ、共にZを止める仲間として目的地を目指していた。

 そんな航海の途中の夜の出来事。

 

「残るはピリオ島だけね」

「だからこうしてぼくたちは先回りしている訳です」

 

 恐らくは目指している島を見つめているだろう。

 そんなアインの一方で、ジールは新世界の運命を決める決戦直前だと言うにも拘らず、やけに軽い声色だった。

 これには流石のアインも張り詰めていた空気を忘れ、呆れたようにため息を吐く。

 

「貴方って本当に変わらないわね」

「まあ、それが取り柄だと思ってますから」

「そんな貴方に助けられたから何も言えないわ。……私も変わらなくちゃ」

「そう言わないでくださいよ」

 

 風に煽られて被りが浅くなる帽子を被り直すジールは、ニッと白い歯を浮かべて笑う。

 

「変わらない良さがアインにもありますから」

 

 言っていて恥ずかしくなったのか、途中で海の方へ目を逸らしたジールが告げる。

 それに伴い、アインもまたやや紅潮した頬を隠すようにコートの襟を顔の方へ手繰り寄せた。

 

 ビュウ、と途端に強い風が二人の合間を吹き抜ける。

 上気した頬にはちょうど良い涼しさだ。なんならば、この気まずい空気を何とかしてほしいと思うくらいに……。

 

「……はぁ、とにかく明日には決戦ですよ」

「ええ」

「負けたら新世界どころか、ぼくらも死んじゃいます。気合いを入れなくちゃ、ですねっ!」

「そうね。ダメだったら私も貴方も死んでしまうわ」

「……もう少し軽く流してくれるのを期待していたんですが」

「こういうの期待してたんじゃないの?」

 

 『変わらない良さって』とアインは最後に付け足し、微笑んだ。

 久方ぶりの笑顔だ。やはり彼女は美女だ。笑顔が良く似合う。海兵学校の頃から、男からはかなりの人気があった彼女だ。男らしい下品な話も嗜んだジールとしては、そんな彼女の笑顔を独り占めにできるこの瞬間に感謝した。

 そんな彼女の笑顔も消えてしまうかもしれない。

 そうならない為に戦いに挑むのだが、万が一ということもある。

 ボルサリーノを始めとする名立たる海兵が参加するこの作戦。恐らく、海軍側が勝利する可能性の方が遥かに高い。

 しかし、相手も破壊すれば自分達も死ぬことを承知の上で戦いに臨んでいる。そうした相手との戦いの中で犠牲が出るのは至極当然のこと。歴戦の戦士だろうと、新兵だろうとだ。

 

 もしも彼女が死んだならば―――そう思うと、今この瞬間目の当たりにしている月光に照らされた彼女の横顔が、それはもう儚げで美しく、そして愛おしく思えてしまったものだから。

 

「アイン」

「ええ」

「結婚しましょうか」

「ええ……え?」

「いや、だから結婚しましょう」

「え、え、え」

「その手を仕舞いましょう、アイン。物理的に結婚が許されない体にしようとするのは止めてください」

 

 突然のプロポーズに大困惑するアイン。余りに突然のことで脳味噌が追い付いていないのか、あろうことかモドモドの実の能力で、ジールの肉体を子供に戻そうと試みる程だ。

 幸い手は引いてもらったものの、アインは困惑したままだ。ここまで動揺している彼女を見るのは初めてかもしれないとジールは心の中で思う。

 

 これはこれでアリだな。などと呑気なことを考えているジールに対し、アインはガクガクと震えた口で応える。

 

「な、なんでそんなこと、急に……」

「明日世界が終わるかもしれないと思ったら、君に想いを告げずにはいられなくて」

「ジール……こ、こんな時にそんな冗談はやめてっ……!」

「まあ、おっしゃる通り半分くらいは冗談なんですがね」

 

 シュパァアン! とアインの美脚から放たれた鋭い蹴りがジールの臀部を打つ。非常に痛いことは想像に難くないだろう。現に、あらかじめ鉄塊で防御していた筈のジールが臀部を押さえて崩れ落ちている。

 

「つ……つつ……容赦ないですね……! 半分って言ったじゃないですが……!」

「半分も弄ばれた私の気持ちになって」

「残りの半分もちゃんとした理由ですから」

「じゃあ聞かせて」

 

 顔が怖い。修羅の形相に近しいアインの顔には、流石のジールもヒッと情けない声を漏らした。

 そのように、乙女心を半分弄ぶ結果となってしまったことに反省しつつ、尻の痛みに悶えるジールは答える。

 

「単純な話、こんなぼくにはしっかり者で強いキミが奥さんだったら安心できるっていうものですよ」

 

 ほんのちょっぴり、彼女の頬が綻ぶ。

 

「歳も近いし、美人ですし」

 

 鋭かった眼光も、次第にその鋭さが鈍くなっていく。

 

「義父さんも……『アイン(きみ)がお前の嫁だったら』と太鼓判押してましたから」

「……もう、いいわ」

「アイン」

「分かった……から」

 

 一拍置いたアイン。

 すぅー、と息を吸った彼女は、やおらジールと見つめ合う。

 ジッと見つめること数秒。気が付いた時には彼女の顔だけが視界に映り、同時に唇に熱い感触が奔った。

 高鳴る鼓動を波の音が掻き消す。余計なものを闇に隠す一方で、月光だけは彼女を美しく聞かざるヴェールのように淡い光で照らし上げていた。

 

 長い長い口付け。腰を手繰り寄せ、指を絡ませる熱い時間を繰り広げた彼等は、やっと唇を離して向かい合った。

 

「……答えは……これでいいかしら?」

「勿論」

 

 そう囁いてからもう一度口付けを交わす。

 永遠に思える一瞬を、明日終わらせたくないと願いながら……。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ゼファー先生、もうすぐ着岸します」

「ああ」

 

 NEO海軍の旗艦『ホワイトタイガー号』を筆頭に、ずらりと並んでピリオ島へ向かうZ達。船が何隻も並んで進行する様は、島一つを5つの軍艦で破壊するバスターコールに匹敵する威圧感があったと言えよう。

 

「敵影です!」

 

 しかし、これだけの戦力を以てしても容易く崩すことができない壁が、進むべき道の先に待ち構えていた。

 かき集められるだけ集めた海軍の戦力だ。

 上陸さえ許さないと言わんばかりの布陣を前に、Zはニヤリと一笑する。

 

「おい、誰か。ダイナ岩を一つ持ってこい」

「は!」

 

 Zの指示に疑う素振りも見せず、特殊な溶液に満たされたケースに入れられたダイナ岩を持ってきた兵士。

 そんな彼からダイナ岩を受け取ったZは、大きく振りかぶり、なんとそのまま海軍の船目掛けて投擲したではないか。

 

 かなりの距離こそあるが、Z程の腕力があれば届く距離。

 加えて、ダイナ岩が空気に触れた際に引き起こされる爆発はすさまじく、近くで爆発すれば海軍の軍艦数隻を落とすことなど容易く、直撃せずとも爆風の余波で大津波を起こすことさえ出来るだろう。

 

「さぁ、どう出る!?」

 

 自分から投げておきながら、喜色を孕みつつ試すような声色を発するZ。

 放物線を描いて軍艦に落下するダイナ岩を前にし、海兵達は慌てていることだろう。

 そして遂に、ダイナ岩が一隻の軍艦に落ちた。

 

 身構えるNEO海軍の兵士達。これだけ離れていても爆風は届くのだから、至極当然の反応と言えよう。

 しかし、当の爆風は一向に起こらない。

 待てども待てども爆風どころか、爆音さえ聞こえず、何事かと兵士達が訝しんだところで、海軍からの砲撃が始まった。

 

「フンッ、ひよっこなりに対処してみせたか」

 

 砲撃の雨が降り注ぐ。

負けじと大砲を撃ち返す用意を整える中、Zは事の顛末を想像した。

 

(アインがモドモドの実で対処したか。まあ、それが無難か)

 

 ケースが割れたとしても、ケースが12年前に存在していれば、モドモドの実の能力で破壊される前に戻る。

 0か100の結果が待ち構えている中、どうやら海軍は100の結果をつかみ取ることができたようだ。己の教え子ながら、今だけは誇らしい気分だ。

 

「派手な花火を打ち上げてやろうと思ったんだが……まあいい。()()を投入するぞ!!」

「は!」

 

 砲撃の轟音が轟く中、Zの鼓動もまた、かつてないほどの高鳴りを打ってみせていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ん……なんですか、あれは?」

「あれは……」

 

 海上での砲撃戦を繰り広げていた海軍とNEO海軍であったが、NEO海軍の苛烈な攻撃を前に、海軍は上陸まであと一歩というところまでの接近を許してしまっていた。

 そんな中、ジールはNEO海軍の甲板に佇む巨大な白い影に気が付く。

 すると、それが何なのか知っているのか、アインとビンズはタラリと一筋の汗を頬に垂らした。

 

「PX-Z……!」

「プロトタイプのパシフィスタの改造型だ! 一筋縄じゃいかんぞ!」

 

 ベガパンクの手によって生み出された人間兵器『パシフィスタ』。

 そのプロトタイプでありながらも、実戦用に改造されたのがあのPX-Z、通称“白くま”である。

 

 そうこうしている内に、敵の船に佇んでいたPX-Zは海軍の船へと乗り組み、次々に海兵へその鋼鉄の体を活かした攻撃で襲い掛かっていく。

 

「モサモサ!」

「モドモド!」

 

 ビンズはモサモサの実の能力で植物の蔓を操りPX-Zを縛り付け無力化し、アインはモドモドの実の能力でPX-Zを組み上げられる前の鉄くずへと戻していく。

 一時は敵になりかけた彼等であるが、味方になればこうも心強い。

 思わず笑みが零れるジールも、武装色硬化した拳でPX-Zを殴り壊し、一方で“嵐脚”で鋼鉄の胴体を真っ二つに両断する。

 

 そうした少数の精鋭がPX-Zに対処していくが、彼らがPX-Zへ僅かに時間を取られている間にも、NEO海軍の進撃は続き、とうとう彼等の船の着岸を許してしまった。

 

「くっ……流石は義父さんが率いる軍ですね!」

 

 複数体のPX-Zを海へ殴り飛ばしたジールが、敵ながら天晴と言わんばかりの言葉を吐いてから歯噛みする。

 

「ジール、行け!」

「ここは私達でなんとかするわ!」

「え……!?」

 

 ビンズとアインが吼える。彼等の獅子奮迅の戦いぶりにより、この船に乗り込んできたPX-Zはあらかた片付いた。

 しかし、その他にも乗り込んできた敵兵がまだ残っている。

 時間さえあれば殲滅はそう難しい話ではないが、今は一刻を争う時だ。

 それを考えてか、二人がジールへZを追うように催促する。

 

「ですが!」

「先生を止められるのは貴方なの!」

「頼む! 先生を……!」

「二人とも……分かりました」

 

 目の前の敵を蹴散らしたジールは、本来の副官に指揮の代理を任せ、船を後にする。

 彼程の海兵にもなれば、船から地上へ降りるにもそう手間も時間もかからない。“剃刀”で島へ上陸し、襲い掛かってくる敵兵を一蹴しながら突き進めば、途中空気が一変した。

 

 喉が焼けそうな熱風。ジリジリと肌を焼く熱さに思わず汗が噴き出てくる。

 だが、理由はきっとそれだけではない。

 待っていたかのように腕を組み、堂々と大男が立っていた。彼から放たれる覇気がジールの体を震わせる。いつになっても慣れない威圧感だ。しかし、どこか諦めに似た喜びもあった。彼はずっと自分の前にそびえ立つ壁なのだから、ずっとこうあるべきなのだと。

 

「……Z」

「おれを追いかけるお前の姿が見えてな……お前如きを倒すのにそう時間は取らない。だから、目障りなお前をこうして先に倒す。それだけだ」

「そういうことにしておきますよ」

 

 ニヤリと一笑。お互いに新世界の命運を分かつ責任を負っている身でありながら、この場に似合わない笑みが顔に浮かんでいた。

 時折流れるマグマは、そんな彼等の胸中の想い―――熱を代弁してくれているようだ。

 マグマの所為だけではない熱が辺りに立ち込める。

 腕を武装色の覇気で黒く染め上げた二人は、ほぼ同時に身構えた。

 

「行きます……Z!!」

「若造が……10年早いんだよォ!!」

 

 地面を抉る勢いでの突撃。その果てで起きる衝突は、グラグラと灼熱の(あぶく)を立てていたマグマの表面を吹き飛ばす衝撃を生み出した。

 

「ぐっ!」

「ぬぅ!」

 

 互いの頬に突き刺さる拳。武装色硬化した一撃は重く、気を抜けば一瞬で意識を刈り取られそうな威力であった。

 歯を食いしばって意識を保つジールは、止まれば負けると己の全身全霊を懸けてZに吶喊する。

 

「おおおおおっ!!!」

 

 雄叫びを上げて己を奮い立たせ、拳を、脚を、果てには頭さえ用いて攻撃を仕掛けた。

 

「がああああっ!!!」

 

 Zもまた、常人であれば動かすことさえ一苦労なバトルスマッシャーを振るい、怒涛の連撃を加えてくるジールを弾き飛ばす。

 武器にも防具にもなり得るバトルスマッシャーの内部には爆発物が仕込まれており、打撃を加えた際にそれらが炸裂し、打撃と同時に爆撃を与える仕組みとなっている。

 

 それを長年傍で戦ってきたからこそ把握しているジールは、極力バトルスマッシャーの攻撃を喰らわないような立ち回りでZに仕掛けるが、Zもそういった相手の立ち回りを熟知している為か、中々決定打になるような攻撃を仕掛けることはできなかった。

 

 肉迫と衝突を繰り返す両者。

 その度にジールは肉が裂け、骨が砕けんばかりの痛みを覚える。だが、その表情は痛みに歪むどころか、寧ろ喜色に満ちた笑みが浮かんでいるではないか。

 傍から見れば狂気としか見えぬ様子。

 しかし、そうなるだけの喜びが沸々とジールの胸に湧き上がっていた。

 

 現状、Zとの戦況は五分五分。ここまで自分がZとやり合えるのは当人でさえ予想できなかった程だ。無論、彼を超える為に血反吐を吐く程の努力を重ねてはきたが、こうも実際にやり合えたのは今回が初めてだ。

 背負うものが増えたからだろうか―――ジールの脳裏には大勢の大切な者の顔が過る。

 彼を思えば不思議と力が湧いてきた。それはジールの気迫にもつながり、結果的に覇気の質を高めるに至っていたのだ。

 

一方Zは、歴戦の海兵とは言え、老いによって肺機能が衰えているが為に、戦いが長引けば長引く程、その動きにキレが無くなっていく。

 それこそが勝機であり、かつて一度も勝てたことのなかった義父へ勝利することのできる唯一の隙。

 

「ぐはっ!」

「がはっ! ―――はは、はははははっ!」

 

 殴り、殴られ、突き飛ばされる両者。

 口から血の混じった唾を吐いたZは、途端に笑い始めた。

 

「どうした……お前の正義とやらはそんなモンかァ!!」

 

 と思えば、次の瞬間には怒鳴り声を上げてジールへと肉迫し、バトルスマッシャーをつけていない左腕で彼の顔面に拳を叩きこむ。

 

「がっ……!?」

「温いぞォ!! おれはお前をそんなヤワに育てたつもりはない!!」

 

 殴打、殴打、殴打。

 素手とバトルスマッシャーで交互にジールの体を殴りつけるZ。休憩も入れずにここまでの連撃を行えば、すぐに彼の肺は限界を迎える。

 だが、肉体の限界などお構いなしに連撃を加えるZは、殴打の衝撃で巻き起こる埃の中に隠れてしまった息子へ吼え続けた。

 

「勝者こそが正義だ!! 正義を貫く為には常に勝たなければならん!!」

 

 己をも責め立てるような声は、殴打による轟音の中へ掻き消える。

 それでもZはあらんかぎりの声で叫んだ。喉が張り裂けんばかりに。肺が弾け飛ばんばかりに。

 全ては伝える為に―――。

 

「勝たなきゃ守れんぞ、ジールうううううッ!!!!」

 

 砂煙と血の尾を引いて振り上げられたバトルスマッシャー。

 次の瞬間には、何度も振り下ろされた男の下へトドメの一撃と言わんばかりに勢いよく振り下ろされた。

 奔る激震はマグマと大気を揺らす。

 

「ッ……!」

 

 だが、苦悶の表情を浮かべたのはZの方だった。

 バトルスマッシャーを通じ右腕全体に響く衝撃が、彼の老いた骨肉に余りあるダメージを与えたからだ。

 今にもバラバラになりそうな激痛。

 そんな彼の肉体を表すように、海楼石製である筈のバトルスマッシャーにみるみるうちに罅が入り、砕け落ちていく。

 

 バトルスマッシャーがスクラップ同然になった頃、砂煙がようやく晴れた。

 そこに佇んでいたのは、両腕を突き出すような構えを取っている血みどろのジール。Zの武器を無残に破壊したのは、他ならぬ彼が繰り出した一撃によるものだ。

 

「六王銃……か」

「はぁ……はぁ……最初から、ぼくは……バトルスマッシャー(それ)を壊すのが狙いでしたから……!」

 

 ペッ! と血が混じった唾を吐くジールは、六王銃の構えを解く。六式全てを極めた者だけが体得できる六式の究極奥義“六王銃”。突き出された両拳から放たれた衝撃を送られた物体は、内部から破壊されるという奥義の名に恥じぬ威力を有した技だ。

 まだ誰にも披露していなかった奥の手。虎視眈々と狙っていたZ最凶の武器を破壊を達成するべく、今の今まで取っておいたのだった。

 

 だがしかし、Z最強の武器はまだ残っている。

 

「ここからが……本番です」

 

 肺が焼けるような熱気に覆われる戦場で深く深呼吸したジールは、両腕に武装色硬化を施す。

 戦いが終わるまで解かぬ気概の下握られた拳は、黒く、そして逞しい輝きを放っている。

 その姿にZは思わず若かりし頃の自分を思い出した。

 海の平和を第一に思い、日夜精進に励んでいたあの頃を。センゴクやガープ、つるなどの同期と共に海へ駆り出していた時代は、今の自分にとっては目が眩んでしまう程に眩しい日々であった。

 

「……フッ、フフフ」

 

 先ほどの一撃でずれたサングラスをかけ直すZから、笑い声が漏れる。

 

「フフフ、フハハハハ! 本番か。面白いことを言うな、ジール!」

「面白いもなにも、ぼくはジョークを言ったつもりはありませんが」

「言った筈だァ! 実戦も訓練も関係なしに全力で取り組めとな! だからお前は生温くなった海軍に染まる!」

「何を言いたいんですか?」

 

 訝し気にジールは眉を顰める。

 そんな彼へ告げたZの言葉とは、

 

「まさか、おれが馬鹿正直に正面から攻めるだけだと思ったか!」

「! まさか……」

「コーティングして海の中を進ませた船がある! 予定通りなら、もう設置は完了している頃合いだろうがな!」

 

 コーティング―――それは特殊なシャボンで船を包み、海中航行を可能にする昔から存在する技術だ。白ひげはマリンフォード頂上決戦にて、これを施した船を用い海軍に悟られることなく一気に湾内への潜入を果たしていた。

 Zもまたコーティングを施した船を用い、真正面から攻める軍とは別にエンドポイントの破壊を役割とした軍にも分け、今回の戦いに臨んでいたという訳だ。

 

「さあ、ひよっこ共! おれとお前ら……どっちの勝ちかな!!?」

 

 高らかに天を仰いだZが叫ぶ。

 

 時が止まったように場は静寂に包まれ、ジールもまた微動だにしないZを前に、身構えたままピクリとも動かない。

 何秒経っただろうか? ジールからすればそれ以上の長い時間と錯覚する静寂を経たが、一向に爆発の気配はしない。

 

「―――先生。その部隊なら、先ほど制圧が完了したという情報が入りました」

「無論、正面からのもです」

 

 静寂を切り裂いて現れたのは、アインとビンズの二人だった。

 激しい戦いの後を思わせるボロボロな恰好の彼等は、不動のZへ現実を突きつける。

 

 そう、Zがコーティング船を用いて奇襲を仕掛けようとした一方で、海軍もまた白ひげとの戦争を踏まえ、そういった部隊を警戒して島の各所に戦力を配置していたのだ。

 戦力が分散してしまう危険な賭けではあったものの、どうやら軍配は海軍の方へ上がった。最早、島内に上陸している者に逃げ場はない。

 

「先生……投降して下さい!」

「貴方の負けです……!」

 

 懇願するようにアインとビンズは言い放つ。

 彼等―――否、海兵にとってZは掛け替えのない恩師だ。そんな彼を直接手にはかけたくないという想いから放たれた言葉だった。

 二人の位置からZの顔は窺えない。唯一望むことができるのは、真正面に構えているジールだけだ。

 

 その彼はと言えば、一瞬沈痛な面持ちを浮かべ、すぐさま気迫を込めた精悍な漢の顔になった。

 

「アイン、これを」

「え……?」

 

 ジールがアインへ投げつけたのは、徐に脱ぎ捨てた正義のコートだった。

 将校として背負うべき『正義』を形にした大事な代物。それを脱ぎ捨てるという行為が意味するのは……。

 

「……いいだろう、付き合ってやる」

 

 全てを察したZもまた羽織っていたマントを脱ぎ捨てた。

 海軍への失望を形にしたマークの刻まれたマントは、少し風に運ばれて宙を漂った後、近くにあったマグマへと落ちて燃え尽きる。

 

 共に背負うものを脱ぎ捨てた二人は、静かに身構えた。

 

「これからぼくは、海兵としてではなくて……一人の男として貴方に臨みます」

「……良い顔になったな、ジール」

 

 海軍とNEO海軍の勝負はついた。

 残るは、親子としての決着のみ。

 

 始まりは―――余りにも静かだった。

 声を上げることさえせずに肉迫する両者が、武装色硬化した拳で殴り合う。たがひたすらに。

 

 何度も何度も何度も何度も何度も……。

 

「がっ!」

 

 肉が裂けようとも。

 

「ぐぅ!?」

 

 骨が砕けようとも。

 

「う゛あっ!」

 

 血反吐を吐き、今にも崩れ落ちそうな体で何とか立ち、立ち向かっていく。

 

 拳が相手の体に突き刺さる度、汗と血飛沫が宙を舞う。

 それを幾度となく繰り返す二人の姿に、アインは震えた声を絞り出す。

 

「な、なんで……!? 止めなくちゃ!」

「待て、アイン!」

「ビンズ! どうして止めるの!?」

「漢の戦いに……手出しするではない……!!」

 

 今にも駆けだしてしまいそうなアイン。

 そんな自分を制止するビンズに抗議するような瞳を浮かべて振り返った彼女だったが、目にしたのは大粒の涙を目尻に溜め、自分以上に駆けだしたくなる想いを我慢するように唇を噛む彼の姿だった。

 

「……っ!」

 

 もう誰にも止めようがなかった。否、止めるべきではなかった。

 すでに戦いを終えた将校達は、主犯者であるZの捕縛の為に集まっている。

 だが、彼とジールの殴り合いに加わる様子はなく、先に溢れんばかりの想いに涙を流していたアインとビンズに加わり、沈痛な面持ちを浮かべていた。

 

 誰も水を差すつもりなどない。

 事情を知っている者からすれば、これは最後の親子喧嘩と言える戦いだ。

 正義を担う者として、それを無駄だと言い切るには、Z―――否、ゼファーには余りにも恩義を感じてしまっていた。

 後は戦いの行く末を見守るのみ。

 

 新世界の命運を分ける親子喧嘩は、何十、何百と繰り出された拳の末、ようやく終わりを告げようとしていた。

 本来ならば立つことさえままならない朦朧とした意識。

 それでも二人を立たせるのは偏に漢としての意地だ。

 しかし、それももうすぐ限界を迎える。

 

 これが最後となるだろう―――全てを悟った二人は、覚束なかった足取りでありながらもしっかりと地面を踏みしめ、目の前の漢目掛けて殴りかかった。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!!」

「お゛お゛お゛お゛お゛っ!!!!」

 

 咆哮。直後、鈍い音が響き渡った。

 

 互いに拳が頬に突き刺さったまま、微動だにしなくなる二人。

 しばらくして、ズルリと拳が頬から滑り落ちたかと思えば、支えを失った両者が膝から崩れ落ちる。

 ジールは帽子を、Zはサングラスを零れ落とし、そのままうつ伏せに倒れようとした。

 

「っ~~~……う゛ああっ!!!!」

 

 だがしかし、完全に倒れる直前、意識を取り戻したジールが地面目掛けて殴りつける。

 そうして己の体を支えた彼の一方で、Zは完全にダウンしたのであった。

 

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」

 

 紙一重での決着。

 勝利したのは息子だった。

 

「……義父、さん……」

 

 積年の果ての勝利。

 その感慨は一入であることは間違いなかったが、今のジールにはそれを喜ぶ気力も暇もなかった。

 ここまで来て感じることができるのは、ただただ無念。それだけだった。

 

「もっと……違う形で……」

 

 義父の体を抱き上げる。

 長時間の戦いと場所の関係から触れることが憚られる熱を帯びている体であったが、ジールにはその体から、徐々に熱が失われていっていることがハッキリと分かった。

 

 もっと早くに超えられたならば。

 彼が完全に海軍へ失望するより前に、自分が新たな海軍の希望となれると彼に示すことができたならば。

 

 そんな後悔が今になって止まらない。

 

「……義父さん」

「……な、なにを情けない顔……してる」

「義父さん!」

 

 そんな彼を叱咤するのは他ならぬZ―――否、ゼファーであった。

 

 敵ではなく、一人の親としての顔を浮かべる彼に、思わずジールは涙を浮かべそうになる。

 だが、ゼファーはそれを許さないと言わんばかりに、彼の目尻の涙を強引に拭った。

 

「おれを倒した男が……そんな顔をするな」

「でも……!」

「おれはおれの好きなようにやった……結果がどうであれな……それでお前に……息子に負けるなら、本望だ……」

 

 涙を拭って手が落ちそうになるのを受け止めたジール。

 何度も頭を撫でてくれた。

 何度も頭を殴られたこともあった。

 その手が今、二度と上がらなくなろうとしている。そう思うとジールはこの手を放すことなどできはしなかった。

 

「義父さん……ぼくは……」

「なにも言うな……なにも……」

「いいえ、言います。ぼくは貴方に憧れていた。貴方のようなヒーローになりたくて海兵になった。まだまだ実力は足りないですけれど、いつかは大将にもなって海の平和を守るんです」

「ジール……」

「ああ、それと。アインと婚約しましたからその辺は心配しないでください。彼女は……家族は死んでも守りますから」

「なにっ!? ……そうか……フフ、フハハハハ! なんだ……最期の最後に……良い冥途の土産が出来た……」

 

 実に愉快そうに笑ったゼファーの瞳から、次第に光が薄れてく。

 焦点も合わなくなっていく瞳。もう息子の顔を確かめることができているかさえ疑わしいが、それでもゼファーは最後の力を振り絞って息子の顔を見つめ、言葉を紡ぐ。

 

「ジール……お前は……おれの自慢の―――」

 

 そこから先は聞こえなかった。

 待てども待てども言葉は紡がれない。ただ虚しく風が吹き抜ける音が響くだけだ。

 

「……義父さん」

 

 スッとゼファーの瞼を下ろしたジールは『大丈夫』と続ける。

 

「きっと……待っていてくれてますから」

 

 旅立った彼の道の先には、大勢の仲間と教え子と―――家族が居ることを知っているから。

 

 

 

 ***

 

 

 

「フ~ンフフ~ンフフフ~ン……♪」

 

 陽気な鼻歌に乗せて歌うのは『海導』と呼ばれる、死んでいく海兵を称える歌だ。

 昔は嫌いだった歌だが、今ではよく歌う。

 

「中将」

「っと……なんだ、アインですか」

 

 甲板で潮風に当たりながら歌っていたジールは、背後から話しかけてきたアインに振り返る。

 ゼファーが起こした事件から月日が経ち、ジールは中将へと昇格した。

 アインとビンズもまた彼が率いる部隊に編入され、今では彼を支える重要な片腕として活躍している。

 

「鼻歌なんか歌ってないで。本部から指令よ」

「っと……最近は忙しいですね」

「白ひげが死んで以来海賊の動きは活発よ。それに最近は麦わら海賊団も復活した。これからの動向次第では、今以上に問題が起こる筈ね」

「それは御免ですが、ガープ中将のお孫さんともなると……ああ、なんとも頭が痛い話です」

「情けないことを言っていないで早く部下に指示をして。私達ばかりに指揮を任せていたら、貴方の上官としての威厳が……」

「あ~、はいはい。分かりましたから」

 

 アインの薬指に輝く装飾品を一瞥した後、最近は本当に遠慮が無くなったとため息を吐く。

 それから懐から取り出すのは、一つのサングラスだ。

 それなりに年季が入った代物であり、ところどころに傷が付いている。

 お構いなしにそれをかけたジールは、己の頬を叩いて気合いを注入し、『よし!』と掛け声を上げて歩み始めた。

 

「さ、海の平和の為に頑張りましょうか! 何故なら……」

 

 自身に言い聞かせるような口振り。

 不意に背後に振り返った彼は、地平線まで広がる青い海と空に浮かぶ白い雲を眺める。

 だが、サングラスの奥に佇む瞳は、もっと遠く―――別のものを望んでいるようであった。

 

 満足気に笑うジール。

 そんな自分に微笑むアインと、遅れてやって来たビンズを肩に並べた彼は、サングラス越しに望んだ背中(ゆめ)に向けて告げる。

 

「―――ぼくがZだ」

 

 『憧れの正義』を担う海兵が、夢を追い続ける。

 これはその始まりの物語だったのかもしれない。

 



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