ロード・エルメロイⅡ世との事件簿 ―Case Files with Lord El-Melloi II― (ニコ・トスカーニ)
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序章

書き足し、序章です。
オリ主とウェイバーの出会い。


 ロード・エルメロイⅡ世。

 生来の名はウェイバー・ベルベット。

 時計塔の名物講師で前々回、第四次聖杯戦争に参加したマスター陣、唯一の生き残り。

 

 私が彼と知己を得たのは十年以上前、丁度聖杯戦争が起こった年だった。

 

 時計塔では通常、全体基礎を五年ほど学び、それから各人の適正や家系を考慮して十二ある学部のどこかに進むことになる。

 

 入学前から実地で基礎を学んでいた私は全体基礎の行程を免除され、最も歴史が浅く、古典的な魔術師からは軽んじられていた「現代魔術論」へと進んだ。

 

 魔術師であっても、現代科学に特に抵抗のない私にとっては最適に思えた。

 

 しかし、大抵の生徒は一つの学部ではなく補佐、発展のためサブとして別の学部へも籍を置く事が多い。

 

 私もその中の一人で、サブとして「降霊」のクラスにも籍を置いていた。

 彼を知ったのはそこでだった。

 

 彼とまともに関わりを持つ事になったのは聖杯戦争終結後、各地で見聞を広めた彼が帰還してからのことだった。

 そのため、いつが出会いだったのかはっきりと分からない。

 私にとって彼はクラスのなかの大勢の一人に過ぎなかったし、彼にとってもそうだったはずだ。

 

 聖杯戦争がまたも不完全な形で終結し、マスター陣唯一の生き残りとして時計塔に帰還した彼は

色々な意味で話題の人物となった。

 

 当時の私にとって聖杯戦争は遠い世界の話であり、日銭を稼ぐためにビジネスパートナーのむさ苦しいユアン伯父さんと夜な夜な

ヤクザな仕事に精をだして、昼は時計塔で惰眠を貪り成果を発表する際には出来損ないの論文を講師に突き返されるという

冴えない日々を送っていた。

 

 そんなある日、不真面目な姿勢に対して何度目になるかわからない有り難いお説教を講師からくらった昼下がり

私は遅いランチをとるため憩いの場である中庭に足を進めていた。

 

 いつものベンチに向かい、紙袋に雑に詰め込まれたケバブサンドとチップスを広げようとするとそこには先客がいた。

 貧弱な体格に少女と見間違うような容姿の先客は大判サイズの学術書らしき物を読みふけっていた。

 

 その人物に背後からそっと近寄り、興味本位で本を覗き込んだ。

 彼が読んでいたのはおよそ魔術師とはかけ離れた内容のものだった。

 

『アドミラブル大戦略IV hints and tips(攻略)』

 

 私のようなヤクザな魔術使いならいざ知らず彼のような普通の生徒がそのような本を所有していることに軽い驚きを

覚えつつ読書の邪魔にならぬようそっと声をかけた。

 

「君もそのビデオゲームの愛好家か?」

 

 彼は眉を顰め、いかにも面倒くさそうに――しかし幾分かの興味を含めてこちらを見た。

 

「ウェイバー・ベルベット君だろ?ああ、失礼。その他大勢のクラスメートの事など覚えていなくて当然だな。

僕も大半のクラスメートは名前と顔が一致していない。僕は降霊クラスで一緒の……」

 

 私が紳士的自己紹介に臨もうとすると彼はぶっきらぼうに遮った。

 

「アンドリュー・マクナイト」

 

 その口調は「いかにも面倒」といった友好的な風情に満ちていた。

 

「覚えてくれていたとは嬉しいね。美しい友情の始まりかな?」

 

 私は彼が座ったベンチの隣を指さし「いいかい?(ドゥ・ユー・マインド?)」と許可を求めた。

 彼は何も言わなかったので許可を得たと判断し、隣に腰かけた。

 

「お前、いつも寝てるな」

 

 私が腰かけ、小粋なスモールトークを始めようと試みた先、彼は藪から棒に言った。

 

「一体、時計塔に何しに来てるんだ?」

 

 彼の口調には会話の内容と同様に侮蔑の感情が見て取れた。

 私は答えた。

 

「僕は魔術の講義を聞くと途端に眠くなってしまう特殊なナルコレプシーにかかっていてね」

 

 私は言った。

 

「いつも講義が始まった瞬間は聞く気満々だが、講義が始まった瞬間に気絶してしまうんだ」

 

 その瞬間、私は彼が心底から呆れたことが分かった。

 

「何でお前みたいな奴が時計塔に入れたんだが……」

 

 そう言って深いため息をついた。

 その深いため息には心底からの呆れだけでなく、どことなく嫉妬を思わせるような何かがあった。

 

「その疑問だがな」

 

 呆れる彼に答えた。

 

「限りなくシンプルかつ謙虚さを省いて答えると才能があるからだ。

僕はとうに没落した魔術家系の出身だが、僕の代で魔術回路が先祖返りを起こすという奇跡が起きてね。

それで僕はここにいる」

 

 以前に聞いている。

 彼は三代目の浅い家系に生まれ、魔術回路に恵まれていない。

 魔術回路に恵まれていないということは=魔術師としての才能に恵まれていないということだ。

 

「才能の無駄遣いだな」

 

 と彼は言った。

 

 私のような不真面目な生徒が自分に無いものを持っている。

 遺憾に違いあるまい。

 

「ああ、そうだな。今は亡きケイネス・エルメロイ・アーチボルト先生にもそう言われたよ。

『君がやってるのは才能の無駄遣いだ』とね。正直なところ、アーチボルト先生には一度たりとも好感を持ったことは無いが、その説に関しては御尤もだと思う。

惜しい人を無くしたものだ」

「嘘だろ?」

 

 私は驚いた。

 そして些かばかり遺憾だった。

 

「嘘とはどの点がだ?まさか君は僕が人の死を悼めないような外道だとでも思っているのか?」

 

 彼は答えた。

 

「違う。アーチボルト先生に言われたことに対してだ。お前自身は『才能の無駄遣い』なんて思ってないんだろう?」

「なぜそう思う?」

 

 彼のその日一番の長広舌だった。

 

「お前、魔術使いだろ?魔術使いなら実戦に必要なこと以外わざわざ覚えない。

お前からしたら必要なのは実地で学ぶことで時計塔での講義なんて大して意味がない。

だから夜中の仕事で実戦で学んで昼間の講義中は寝てる。

違うか?」

 

 その口調は確信に満ちていた。

 そして実際に悉く当たっていた。

 

「大した洞察だ」

 

 私は感嘆し、そして弁明を加えた。

 

「だが、一つ弁明だ。魔術師の最終目的は根源への到達。

根源を目指すなんて僕には正気の沙汰と思えないが、根源を目指すということはつまり、この世の仕組みを解き明かそうとするということだろう?

何かを解き明かそうとする試み自体は美しいものだと思う。嘘ではないぞ?」

 

 彼の渋面が幾らか和らいだ。

 

「お前の家、ゲーム機はあるか?」

 

 それが、私と彼が初めてまともな会話をした瞬間だった。

 

 それから、私が時計塔を辞するまでの短い間彼とは時折、私の住む小汚いフラットでユアン伯父さんの高尚な

――主に下ネタと人種に関するジョークに辟易しつつゲームをする同好の士となった。

 

 相当にやり込んでいるらしく、彼は非常に手強い対戦相手だった。

 私が勝てるのは十回に一回かせいぜい二回程度の確率だった。

 

「君の強さの秘密はなんだ?だれか、プロゲーマーの師でもいるのか?」

「アレクサンダー大王だ」

 

 当時、私はそれを彼なりのハイセンスなジョークだと捉えていたが

後にそれが事実であった事を知る事になる。

 

 私が時計塔を辞してから、彼は大出世を果たし時折フリーランスである私に

実験の資材調達などの雑事を依頼してくるようになった。

 

 それなりに交流のあった元クラスメートで雇い主と雇われの便利屋。

 それが我々の関係だ。



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case.不完全な永遠 前編

第一エピソードです。
一気に出してもいいんですが、あんまり字数が増えすぎると長くて読み辛いの二回に分けます。


「相談ってほどじゃないんだけど」

 

 私の友人で首都警察(スコットランドヤード)の刑事であり仕事仲間でもあるエミリー・オースティンは躊躇いがちにそう切り出した。

 

 私は魔術を扱い便利屋で、その依頼元は多岐に渡る。

 そのうちの一つが警察だ。

 

 魔術の世界は基本的に一般社会に門戸を開かないが、魔術の世界が一般社会を侵食することがある。

 その場合に備え、時計塔には法政科という現実世界と折衝を行う部門があるし、法執行機関にも少数ながら魔術回路を持つ者がいる。

 エミリーはそういった手合いの一人だ。

 

 彼女の「相談」を端的にまとめるとこの街のとある地区で行方不明者が増加しているとのことだった。

 

 大都市に失踪者、行方不明者はつきものだ。

 市域人口が800万人を超えるこの街では隣に住んでいる住人の顔を知らない人間も珍しくない。

 隣の部屋の住人の孤独死が隣人の死臭が漂う時点になって発覚するなどという心温まる事態もありうるほどだ。

 

 しかしエミリーが指し示したその地区――ワンズワース地区はロンドンの平均値の2倍という尋常ならざる数値を示していた。

 

「明らかに異常だな」

 

 そう一言、私は感想を述べた。

 続けて疑問を述べた。

 

「しかし、なぜそれを僕に相談する?失踪人捜索は君たち警察の領分だろう。

それに統計的事実が明らかになっているのにどうしてそんなにためらいがちに話すんだ?」

「オーケー。じゃあ、まず二つ目の疑問に答えるわね」

 

 彼女が逡巡した理由はその情報ソースにあった。

 エミリーがこの件に関心を持つきっかけとなったのはとある記者からの情報だった。

 ファルコというその記者はもともとはガーディアンだがフィナンシャルタイムズだかで

真面目な記事を書いていた記者で、そしてエミリーとは恋人関係にあった。

 真面目なエミリーと真面目なファルコは蜜月の関係を築いていた。

 

 しかしそれはファルコの真の姿ではなかった。

 ある日の仕事帰り。エミリーとファルコはソーホーのなかなか気の利いたバーで何杯かの

ショートカクテルを酌み交わしていた。

 ドライマティーニを三杯ほど空にしたところでファルコは突然こう言ったそうだ。

 

「エミリー。僕は本当の自分を騙し続けていた。

これからは自分に正直に生きるよ」

 

 その一か月後、ファルコは誰もが名前を聞くと背筋を伸ばすような名前の新聞社を辞め

誰もが名前を聞くと眉を顰めるタブロイド紙に移籍した。

 以降、

 

「タイタニック号の生き残りを氷山で発見!」

「鮮明写真ビッグフット発見!」

 

 と言った創意工夫に満ちた高尚な記事を生産している。

 

 エミリーはデートの度に明らかなガセネタについて熱っぽく語りかけてくるファルコに

ついていけなくなり二人の関係を終わりを迎えた。

 

「ふむ。二つ目の理由はわかった。では一つ目の理由は?」

「うん。彼の――ファルコからの話なんだけどね。

ワンズワースの失踪者が急増してるエリアなんだけど

――銀色のマネキンみたいな動く人形が目撃されてるんだって。

ファルコ曰く『失踪人が急増してるその原因は神かけてそのマネキンだ』って。

ねえ、これってあなたの領分でしょ?」

 

  〇

 

 私の知る限りで最も謎解きの得意な人物。

 その人物は多忙を極めるが意外にも今日は手隙だった。

 職場ではなく自宅にいると言う。

 

 私にとっては都合のいいことに今日は休暇を取っているとのことだった。

 

 地下鉄でロンドンブリッジ駅に向かう。

 駅を出るとタワーブリッジロードを突っ切ってドルイドストリートに入りさらにそこから横道を一本入る。

 

 ドックランズと呼ばれるこの一帯のエリアは再開発中の場所でありそもそもの人通りが少ない。

 が、この横道を入った先はその点を考慮しても異界だ。

 人通りがない。

 それどころか人の気配や人が現れそうな予感すらない。

 

 これから私が訪問する人物が言うにはここは自然発生的に出来た結界らしい。

 ちなみにその話は結界はもともとブッディズムの用語だとかそもそも人を遠ざけるという概念は魔術よりも日常の脳機能に分類すべき事柄だと続いた。

 

 なかなか興味深い話ではあったが詳細は忘れてしまった。

 そういう話を逐一覚えていられるかどうかが時計塔の講師になれる人間となれない人間の差なのだろう。

 

 目的の建物はすぐに分かった。

 以前よりも煉瓦に絡みついたツタが伸び、隙間から飛び出す雑草が勢力を増しているような気がする。

 好奇心に駆られた五歳児が指で一押ししたら崩れ落ちそうなほどの朽ち果てようだ。

 

 英国人は家を大事にする人種だ。

 大都市ロンドンでも古い建物はさして珍しくない。

 

 それでもこの建物は中々だ。

 好奇心から以前に訪問した際、管理人に聞いたところ産業革命の頃にはすでに存在していたというが納得だ。 

 あくまで感覚値だがサミュエル・ジョンソン博士の家と同程度には古い気がする。

 

 迂闊に触ったらその瞬間に塵芥になりそうな古ぼけたドアを恐る恐る空ける。

 入り口の隣にある管理人スペースでロッキンチェアに座って気持ちよさそうに船をこぐ管理人の老婆を横目にロビーを突っ切り螺旋階段を上がる。

 

 目的の部屋は二階だ。

 ドアの前に立ち礼儀としてノックする。

 ドアを開けたのは目的の人物ではない別の人物だった。

 

 フードをかぶった小柄な少女。

 目的の人物の内弟子だ。

 

「やあ、グレイ」

 

 私はいつもの調子で気安く挨拶した。

 

「アンドリューさん」

 

 彼女はいつものように控えめな挨拶を返した。 

 

「そう。僕だ。フルネームはアンドリュー・ウォレス・マクナイト。

ウォレスと呼ばれたことは両親にも伯父にも無い。アンドリューで結構だ」

 

 少女はフードの下で微かに笑みを見せた。

 素朴ないい笑顔だった。

 よろしい。素朴と素直と無鉄砲は若者の特権だ。

 

 ――が同時に。

 

 フードの下から覗いたその顔に“何か”を感じた。

 ――最近、私は彼女の顔をここでは無いどこかで見た気がする。

 ――いったいどこだったか……

 

「……あの?」

 

 グレイはフードの下から戸惑いの視線を私に向けた。

 私はその思考をいったん遮断し目的の人物の名前を告げた。

 彼女はその名に不思議そうな顔をして小首を傾げた。

 

「ウェイバー?……ああ、師匠ですね。

奥にいらっしゃいます」

 

 グレイに扉を開けてもらい中に入る。

 その瞬間、盛大に埃が舞いあがった。

 

 壁は所々漆喰が剥げ、天井にはシミが散見される。

 

 中はそれなりの面積があったが年代物の書物からカビたパンの欠片、複数種類の家庭用ゲーム機に占拠され足の踏み場に困るほどだった。

 

 私がむさ苦しいユアン伯父さんと生活していたハックニーのフラットも相当な代物だったがここもいい勝負だ。

 

 昔、彼は私のフラットにしばしば遊びに来たが、その度に部屋の散らかり具合を批判していた。

 その時は育ちのいいお坊ちゃま的発想から批判していたものと思ったがどうやらその真なる正体は同族嫌悪だったらしい。

  

 目的の人物は六フィートを超える長身を縮こまらせて奥のソファに寝転がっていた。

 ソファのサイドにあるテーブルには日本製の携帯ゲーム機と飲みかけのブラックティー、食べかけのフィンガーサンドイッチが載っていた。

 

 この状況から導き出される推理は1つ。

 ゲームをしての寝落ちだ。

 

 グレイは床に散乱する物品を破損しないよう慎重にその人物に近寄ると来訪者――つまり私だが――が来たことを告げた。

 目的の人物が目を開けたことを確認し私は言った。

 

「悪かったなウェイバー君。いまはロードエルメロイⅡ世だったな

ウェイバー・ベルベットに会いに来たと君の内弟子に告げたら不思議な顔をされてしまったよ」

 

 その人物は眉間にしわを寄せ「うん」とも「むん」ともつかない唸り声をあげると――見た通りに寝起きらしい――こちらを一瞥することもなく言った。

 

「別に構わん。好き好んで名乗っている名前じゃない。

そもそもお前にロードなどと呼ばれたら調子が狂う」

 

 魔術の総本山はここロンドンに所在する時計塔だ。

そしてロードエルメロイⅡ世ことウェイバー・ベルベットはその時計塔に十二ある学科のうちの一つを統べる君主(ロード)だ。

 

 本来ならば私のようなヤクザな魔術使いなど何の縁も生じるはずのない存在なのだが

些細なきっかけから私は彼と交友を持つようになった。

 

 彼との関係は友人と呼ぶにはドライすぎるし、ただの知人と言うにはディープすぎる。

 知人以上友人未満という表現が適当な落としどころだろう。

 

 現在における私と彼の主な交流は魔術研究の資材を求める依頼人と資材を調達する便利屋で時折ビデオゲームに興じる同行の士で、ごく稀に酒を酌み交わす仲で。

 

 そして今日は事件に対するアドバイスを提供するホームズとそれを拝聴するレストレードだ。

 

 「早速だが君の意見を聞かせてほしい」と切り出し、私はエミリーから伝え聞いた事件のあらましを話した。

『グレイ。ついでだ。君も聞いておけ』という師匠の鶴の一声で辞去しようとしたグレイも同席した。

 

 彼は世界中の不機嫌の2割ほどを集めたような難しい顔をして私の話を聞いていた。

 いつもの反応だ。

 

 私が話し終えると世界中の不機嫌の三割ほどを集めたような難しい顔になり葉巻に火をつけた。

 これもいつもの反応だ。

 

 口内で煙を弄び紫煙を燻らせる。

 何やら沈思黙考中のようだ。

 

 私は自前のリッチモンドを取り出し「ドゥユーマインド?(いいかい?)」と部屋の主に許可を求めた。

 彼は目を細めて私に一瞥くれた。

 解り辛いがこれは彼なりの許可の合図だ。

 私は安物のオイルライタ―でタバコに火をつけた。

 

「マクナイト。その銀色のマネキンみたいな動く人形とやらが目撃された通りの名前はなんだったかもう一度教えてくれるか?」

 

 火を点けるや否や考える男は沈思黙考を止めた。

 私は目撃情報の会った通りの名前を彼に告げた。

 その近所の人間でなければまず用のないような場所だ。

 

「お前はその通りの名前を聞いてどんな感想を持った?」

「そうだな。まず最初に浮かんだのは『どこだそれは?』という疑問だな」

「お前のことだ。当然それがどんな場所かは調べただろう?」

「勿論だ」

「調べた感想は?」

「ダサい。何もないただの住宅地」

 

 そして偉大なる時計塔の講師はまた沈思黙考した。

 今度はぬるくなったブラックティーを啜り部屋にいるもう一人の人物の方を向いた。

 

「グレイ。マクナイトが収集した情報からどんな推論が立てられる?」

 

 完全に不意打ちだったらしい。

 フードから微かに覗く彼女の表情からどうようが読み取れる。

 

自動人形(オートマタ)でしょうか?」

「悪くない推測だ。では、失踪事件の首謀者は自動人形(オートマタ)で何をしようとしていると思う?」

「……すみません。そこまでは」

「イッヒヒヒ。そんなこと聞いたって、こいつにわかるわけないだろ!?頭悪いんだからさ!」

 

 突然、陽気な声が湧いた。

 この場にあるまじき四人目の声だ。

 だが誰も驚かない。全員がその正体を知っているからだ。

 グレイがその四人目――人ではなく礼装なのでその言い方は正確ではないが――にぼそぼそと釈明した。

 

「……拙が頭悪いのは嘘じゃないですけど」

 

 ウェイバーが「まったく」とこぼした。

 よくある光景らしい。

 「まったく」とこぼすとそれに続けて何かを第四の声の主に言おうとした。

 

「アッド」

 

 先んじて私が声を発した。

 私はグレイの右手、声の元に意識を向けた。

 

「彼女は頭が悪いわけではない。ただ知識と経験が足りないだけだ。

君の毒舌に悪意が無いのは分かるが、その言い方はフェアではないぞ」

 

 ぴしゃりとそう言った。

 第四の声はそれきり沈黙した。

 

 グレイはフードの下から驚きの表情を見せ「ありがとうございます」と消え入りそうな声で言った。

 

「では、行こうか」

 

 突然、ウェイバーがコートとマフラーを引っ掴んで立ち上がった。

 私はその単純な言葉の意味を探り当てかねたがやがて結論に達した。

 

「君も来るのか?」

「時計塔にもフィールドワークは必要だ。グレイにとってもいい勉強になるだろう」

 

「え?拙もですか?」と少女は戸惑いの声をあげた。

 しかしすぐに納得――もとい諦めたようだ。

 いつもの光景らしい。

 

「わかった。同行してもらうことは想定外だったが来てくれるなら心強い」

 

 そういう私の前にゲーム機のコントローラーが差し出された。

 

「その前に一戦付き合え。お前も知っての通り最近日本人の弟子が出来たが日本人の癖にゲームに無知でな。相手に飢えていた。協力する報酬がわりと思え」

 

 私はだだ一言答えた。

 

「安い報酬だな」



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case.不完全な永遠 後編

後編です。
密接に関わっているわけではないですが、拙作Fate/in UKのこのエピソードと緩く繋がっています。
https://syosetu.org/novel/49981/34.html



 フラットを出る頃、弱々しい冬の英国の日差しはすっかり翳っていた。

 「一勝負」と彼は言ったが案の定一勝負では終わらなかった。

 今日はいつもの戦略ゲームではなく格闘ゲームだったが五回の対戦が行われ結果は私の全敗だった。

 

 それでもまだ足りないのかウェイバーは「もう一勝負だ」と宣ったが「師匠、日が暮れます」という弟子のありがたい進言により勝負は打ち切りとなった。

 

 ロンドンブリッジ駅から地下鉄に乗りワンズワース・タウン駅に向かう。

 帰宅時間帯を過ぎた地下鉄は空いていた。

 

 ワンズワース・タウン駅で下車する。

 ワンズワースはロンドン南西部に位置する主に住宅街で構成されたエリアだ。

 

 ロンドンは古都であると同時に現在進行形で再開発の進む街であり、古きと新しきが同居している。

 

 老朽化したものはさっさと壊すのが生まれ故郷の香港の流儀だったため移り住んだ当初はこの街並みに不思議な感覚を覚えたものだった。

 

 ワンズワースの目抜き通り(ハイ・ストリート)はその「新しき」の方だ。

 洒落たレストランやバーが軒を連ね中々雰囲気は悪くない。

 

 だが残念ながら銀色の人形が目撃されたのはそう言った場所ではない。

 我々は目抜き通り(ハイ・ストリート)を突っ切り目撃証言のあったハリス・ストリートを目指した。

 

「何か感じるか?」

 

 目抜き通りを突っ切り住宅地に差し掛かるころ、偉大なる時計塔の講師が疑問を発した。

 

「今のはどっちに言ったんだ?」

「君たち両方にだ」

 

 グレイは「……すいません。拙には何とも」とぼそぼそと答えた。

 彼女からはかなり強力な魔力を感じるが魔力の扱い事態は未熟らしい。

 かく言う私も特に何かを感じはしなかったがとりあえずの見解を述べた。

 

「今のところは何も感じないな。ロンドンという土地自体のマナと術者の魔力が混ざっているせいかもしれないが

……」

 

 そう冴えない一次回答を述べた瞬間、体を違和感が走った。

 同じ場所にいるはずなのに何かがズレているこの感覚。

 これは……

 

「結界だな。どうやら三流タブロイド紙の粗探しで終わりではなさそうだ」

 

 おめでとう、エミリー。君の相談はとりあえず無駄骨ではなかったようだ。

 

 さらに通りを進む。

 見た目には何もないただの住宅地だ。

 ロンドンにおける平均的な密度で建物がならび平均的なデザインの家が建っている。

 

 道すがら所々にアルファベットが書き連ねられていた。

 私はウェイバーを呼びその言語らしきものの検分を頼んだ。

 

 ウェイバーは文字を一瞥すると自分が答える前にまず私に見解を問うた。

 グレイにも見解を問うたが彼女はただ「……すいません」とぼそぼそ謝罪するだけだった。

 よろしい。無知もまた若者に許された特権だ。

 

「ドイツ語に見えるが僕の知っているどのドイツ語とも違うな」

「それで?」

 

 うむ。さすがは時計塔の講師だ。

 私のようなヤクザな魔術使い相手でも教師の役目を忘れられないようだ。

 

「ドイツ語という言語は話されている地域の狭さに反して地域差の激しい言語だ。

これは標準ドイツ語(ホッホドイチュ)ではないしスイスドイツ語でもオーストリアドイツ語でもない。

オランダ語でもない……」

 

 さらに書かれた文字を検分し読み進める。

 その未知の言語には所々、ゲルマン系言語ではない別系統の言語と思われる言葉からの借用語が混ざっていた。

 私はロシア語とウクライナ語ならば齧ったことがあるしラテン系言語もなんとなくわかる。

 このドイツ語のようでドイツ語でない言語にはそう言った言葉からの借用語が混ざっているようだった。

 うむ。これであれば見当がつく。 

 

「……イディッシュ語か」

「ご名答。さすがだ」

 

 時計塔の名物講師は口の端を持ち上げて微かに笑った。

 

 呪文(スペル)はその術者がどの文化圏に根差した者であるかの大いなるヒントとなる。

 イディッシュ語はアシュケナージ系・ユダヤ人の文化に由来するものだ。

 するとこの騒動を引き起こした術者はユダヤ文化に根差したバックグラウンドの持ち主か。

 

「さて、マクナイト。次の課題だ」

 

 彼は完全に教師モードに入っているようだ。

 よろしい。ここまで来たらとことん付き合おう。

 

「結界の解析をしてくれ」

「良いだろう」

 

 私は屈みこみいつもの詠唱を口にした。

 

tharraingt sa téad(糸を手繰れ)

 

 細く穿った魔力を周囲に流す。

 解析は器用貧乏な私が唯一得意と言える魔術だ。

 かなり広範な結界だがある程度の精度で解析できそうだ。

 

「アンドリューさんにお任せするんですか?」

 

 グレイは我々の話についてこられないらしくポカンとしていたが天下の時計塔の講師が

ヤクザな魔術使いに何かを頼んだことに軽い驚きを覚えたらしい。

 

「いいんだ。これで。こと魔術の能力に限って言えばこの皮肉屋のお喋り男は私より数段上だ」

 

 ほんの少し彼の瞳が細められた。

 才能という言葉を口にするとき。いつも彼は同じ反応をする。

 そこには夜空に輝く星――手を伸ばしても決して届かないものだ――についてでも語るような熱っぽい心のひだが見え隠れしている。

 

 解析は得意だがこの結界の範囲は中々のモノらしい。

 感覚値だが一マイル以上はあるものと思われた。

 

 さすがにこれは骨が折れる。

 しかし私は秀才で、そして十分な経験値がある。

 段々とその全体像が見えてきた。

 

 そして私の魔術的勘に違和感が走った。

 

 表情から私の奇妙な感覚を悟ったらしい。

 ウェイバーが「どこが奇妙だ?」と問うた。

 

 さすがの観察眼だ。

 

「……恐らくこの結界、相当な広範囲にわたるものだ。

高度な魔術師でなければ構築はおろか設計することすらできないだろう」

「だが?」

「だが、その割にはずいぶん綻びが多いな。

より正確に言えば結界の構成自体は見事なものだが無数の虫食いのような穴がある、

車検を怠ったスクラップ寸前のメルセデスベンツのような……」

 

 そこまで言ったところで気づいた。

 周囲が闇に包まれている。

 

 英国の冬の夜は暗くて冷たいが夜の闇ですら輝いてしまうような漆黒の闇に。

 グレイは戸惑っていたが偉大なる時計塔の講師は落ち着き払っていた。

 

 「結界のへそに入ったようだな。私たちは今、ロンドンのハリスストリートに居ながらそうではない微かにずれた位相のハリスストリートにいる。結界の外からここを認識することはできないだろう」

 

 それはまずい。

 これでは格好の的だ。

 

「なぜかは分からないが妙に綻びの多い結界だ。綻びをついてみる。

恐らく脱出できるだろう」

 

 私は早速、結界の穴を探した。

 やはり綻びが多い。

 楔を打ち込めば簡単に突き崩せそうだ。

 

 私は結界の粗さがしに集中した。

 一方、ウェイバーは別のモノに集中していたらしい。

 

「いや。それは後でいい。それより。グレイ」

「え?はい」

 

 完全に不意打ちだったらしい。

 少女はフードの下で大きな眼を見開いた。

 

「来るぞ」

「え?来るぞって何がですか?」

 

 闇の向こうから何かが近づいてくる。

 音でもない。気配でもない。

 だが確かに何かいる。

 それは闇をすり抜け文字通りその銀色の手を伸ばしてきた。

 

 その手はまずウェイバーに向かって伸びた。

 私はとっさにファイティングナイフを取り出すと魔術で強化しその手を打ち払った。

 この感触、水銀性の自動人形(オートマタ)らしい。

 

 思った以上に弱い力だった。

 自動人形(オートマタ)の遠隔操作などそう簡単にできる代物ではない。

 この術者は相当な術者だ。

 それゆえにこの弱さはどうにも腑に落ちない。

 二度、三度とその手を打ち払う。

 やはり弱々しい。

 

 人形自体は極めて頑丈で何度ナイフで打ち払ってもかすり傷すらつかない。

 しかし人形の力は妙に弱い。

 結界と言い何かがアンバランスだ。

 一体、この術者の意図は何なのだ?

 

 そう私が思考を巡らせていると隣にいたグレイが動いた。

 

「……アッド」

「おうさ!」

 

 彼女の右袖に収まった箱から魔力が迸った。

 朧な燐光に包まれたちまちその形状は大鎌のそれへと変化していた。

 

 私はこの少女の事を知っているようで全く知らなかったことを思い知った。

 

 目くらましなどではない純粋な瞬発力。

 明らかに異常な出来事、魔術という異常な世界にあっても異常な代物だった。

 

 私の強化した視覚ですら捉えられない文字通り人間離れした一閃は人形の片腕を切り落としていた。

 人形はどこかへと去っていった。

 

「ご無事ですか?師匠、アンドリューさん」

 

 少女は大鎌を基の礼装に戻すと言った。

 私は驚きのあまり言葉を失いながらまずは言うべき言葉を述べた。

 

「ああ。ありがとう。

……しかし、驚きだな。」

 

 少女はフードに下で伏し目がちになっていた。

 

「すいません。あまり見せるなと師匠に言われているもので……」

「ああ。見せない方が良い。

その魔力、どう見てもただの魔術礼装の範囲に収まるものじゃない。

見る人間が見れば伝承保菌者(ゴッズホルダー)だと一発で解る。

師匠の判断は正しいな」

「よし。もういいぞ。ここから出よう」

 

 沈黙を守っていた当の師匠がそれを破った。

 理由は分からないが彼なりに考えがあるのだろう。

 それに私とて人の結界に閉じ込められているのは趣味ではない。

 その言葉に従うこととした。

 

 綻びに魔力を込めたナイフを楔として打ち込む。

 結界は思いのほか簡単に崩壊した。

 

 深い闇は晴れ、冬のロンドンの薄暗がりが戻って来た。

 

「では。行こう」

 

 そう言うと彼は颯爽と歩き出した。

 私と彼の内弟子は彼の思考に置いてけぼりだ。

 

「ウェイバー、待ってくれ。少しは説明してくれないか?」

 

 彼は「やれやれ」と言いながら――しかし歩みは止めず――渋々といった様子で語りだした。

 

「君たちの攻防の隙をついてあの人形に魔力でマーキングをした。

具体的に言うと私の魔力を込めた金剛石(ダイヤモンド)をシャープナーのような形状に加工したものに強化をかけて

人形に傷をつけた。

お前なら当然知っているものと思うがダイヤモンドはこの世で最も堅い物質だ。

私の稚拙な強化魔術でも十分あの人形に傷をつけるのに事足りた」

 

 ふむ。さっぱりわからない。

 それなりの経験がある私が分からないのだ。

 未熟な少女はもっと分かっていないようだった。

 

「……あの、すいません。師匠。拙には何のことかさっぱり」

「あの人形はおそらく術者の工房に戻る。追跡すれば首謀者のことがわかる。簡単な理屈だ」

 

 なるほど。シンプルだが悪くない作戦だ。

 だが妥当と思えない。

 

「ウェイバー。君が何をしようとしているのかは分かった」

「だが…と続くんだろ?」

 

 そう言って彼は目を細めた。

 仕方あるまい。あまりあまり言いたくはないが肝要なところだ。

 

「だが、その方法で追跡可能なのか?君のことを悪しく言うつもりはないが

術者としては君はいいところ二流だ。

僕はいいところ一流半の半端ものだが、単純に魔術の能力だけであれば君に劣るものは一つもない。

これほどの結界を使った術者ならば間違いなく僕よりも各上の存在だろう。

君のマーキングなど容易く探知して無効化されるのではないか?」

 

 私の些か不躾な疑問い対し、彼はこともなげに言った

 

「その心配はいらない。私の推測が確かならこの術者にそんな芸当はできない」

 

 ハリス・ストリートをウェイバーに導かれるままにひたすら歩く。

 ほどなくして一軒の家の前にたどり着いた。

 それなりに大きな家だった。

 2階建てで趣味も悪くない。

 なかなか良い家と言えなくもない代物だった。

 

 ただそれだけだ。

 古くも新しくもない家。

 英国人は家を大事にする人種だが「湿っ地屋敷」や「ウナギ沼の館」といった

名称がつくことは決してないであろう没個性的な一軒家だ。

 

 尋常ならざる魔力が漏れ出ていることを除けば、だが。

 間違いない。ここは首謀者の工房だ。

 

「入るぞ」

 

 そう言って先頭を行くウェイバーがドアを開けた。

 仮にも敵の工房だ。無防備に過ぎると思ったが彼には些かの躊躇いもなかった。

 

 私とグレイは示し合わせ臨戦体勢を保って後に続いた。

 

 中に入る。

 まず最初に目についたのは、横たわる幾人もの人々だった。

 何人かは見覚えがある。

 エミリーから見せてもらった資料にあった失踪者だ。

 

 さらに部屋を見渡す。

 部屋の片隅には夥しい量の水銀がちょっとした水たまりを作っていた。

 数分前に我々を襲撃した人形のなれの果てだろうか。

 

「ここではないな」

 

 上の階に向かう。

 先導するウェイバーが先に到着し。

 そして足を止めた。

 その視線が何かカギとなるものを捉えたようだ。

 視線をそのままに彼は我々に語り掛けた。

 

「魔術は本来秘匿されるべきもの。これほどの結界を創れる術者ならば心得ているはず。

にもかかわらず目撃者が発生した。結界に綻びがあったせいだ。

歪な結界、不完全な秘匿。そこから導き出される答えは一つだ」

 

 ウェイバーは視線で「上がってこい」と促した。

 

 グレイと共に階段を上がりその視線の先を見る。

 そこには白骨化した死体が横たわっていた。

 

 死体の周りには今日、散々目にしてきたイディッシュ語の文字が書き連ねられている。

 ――ということは

 

「この哀れなヨリックが首謀者か」

「ああ。これで綻びだらけの結界に説明がつく。

丁寧に構築された結界は魔力さえ充足されれば起動には問題ない。

だが高度な結界は繊細な代物だ。メンテナンスを怠ると徐々に綻びはじめる。

おそらく、この術者はロンドンにたどり着いた時点でもう余命いくばくもない状態だったんだろう。

それで、自分が動かずとも自動的に起動してくれるような結界を考えた」

 

「そのカギが失踪者ということですか?」

 

 グレイはようやく思考が追い付いたらしい。

 素朴な疑問を発した。

 

「ああ。結界を維持するには魔力を流し続ける必要がある。

だが、余命いくばくもないこの術者にはそれが難しい。

無いものは他所から持ってくるのが魔術の基本だ。

まず、体が動くうちに周囲に結界を張り、人気の少ない場所。

例えばこの住宅街に結界のへその部分を置く。

結界のへそに入った人間は異相空間に魔術的に隔離されそれを引き金に自動人形(オートマタ)が起動する。

人間を誘拐させて連れ帰り、魔力を奪う。

術者が魔力を生成できなくなっても自動人形の人さらいは続くから、魔力は補充され続ける。

実に純粋で魔術師らしい発想だ」

 

  〇

 

 私の連絡で駆け付けたエミリーに現場を引き渡し、以降は警察の預かりとなった。

 我々は聴取を受けると解放され帰路に就いた。

 冬のロンドンには夜の闇が到来していた。

 

「あの白骨化した術者だが見当はついているのか?」

「あくまで噂レベルの話だが……」

 

 葉巻の煙を弄び吐き出すと彼はつづけた。

 

「アトラス院でとある研究をしていた魔術師が発狂し失踪したらしい。

その人物の研究内容は魔術による自動防御システムの構築だったそうだ。

その魔術師は元々ユダヤ教のラビの家系だったそうだ。

なんとなく見当はついていたがイディッシュ語で表記された呪文(スペル)を見た時に確信に至った」

 

「あの術者そこまでして何をしたかったのでしょうか?」

 

 今度はグレイが疑問を挟んだ。素直な生徒だ。

 

「恐らく気づいてしまったのだろうな。

人の一生は儚すぎると。

自らが研究してきた自動防衛にシステムに人の身にはありえない永遠性を見出し

それを形にした。失われゆく自らの生の代わりにな」

「延命するという選択肢はなかったのでしょうか?」

 

 その先を私が引き取った。

 

「肉体の唯一性にこだわったのだろう。

その術者の噂は僕も知っているが、彼の家系の魔術師は生まれながら肉体に黄金比を宿していたらしい。

君の言う通り例えばホムンクルスの肉体を作って蝶魔術(パピリオ・マギア)で人格と記憶を移し替えれば

延命は可能だが延命できるのは人格だけだ。

あの術者にとって自身という存在は肉体を含めてのものしかありえなかった。そういう事だろう」

「師匠も興味あるのでしょうか?不老不死、とか……」

 

 うむ。またしても素朴な疑問だ。

 名物講師は何と答えるのだろう。

 

「私が魔術の世界に身を置いている理由は魔術の探究だ」

 

 そう彼は言った。そして言葉が続いた。

 

「仮に私が外法な術を使って千年ほど生きたとしよう。

千年後の私はどうなっていると思う?」

「すみません。拙には見当もつきません……」

「お前はどうだ?マクナイト」

「肉体を若く保つ術はあるが魂の老化を防ぐ術はない。

千年も生きたら目の前の皿に乗っているものがポリッジなのか三歳児のゲロなのかの見分けもつかないだろうな」

 

 英国人にとっての最高の快楽はとっておきのブラックジョークが決まった時だ。

 グレイはポカンとしている。

 ウェイバーはその例えに心底感動したらしく「ハア……」と今世紀最大の溜息をついた。

 

「相変わらずお前は上品だな」

「それはどうも」

 

 ありがたい。時計塔の名物講師お褒めの言葉を頂くとは私も捨てたものではないらしい。

 

「……まあとにかくだ。そんな自分が何者なのかもわからないような状態で魔術の探究など出来るはずもない。

だったら大人しく天寿を全うしたほうがマシだ。

この皮肉屋のお喋り男風の例えを使うなら……そうだな」

 

 そこで一度、ウェイバー・ベルベット流の沈思黙考に入った。

 慣れないアンドリュー・マクナイト式の例えを考えているらしい。

 

「そうだな、ロンドン・プライドとサルの小便の違いも判らなくなったような状態を生きてるとは言えない。

少なくとも私はそう思う」

 

 いい答えだ。

 内弟子の少女はフードの下で小さくクスリと笑い声を立てた。

 

 よろしい。気に入った。返礼をしなければ。

 

「一杯やるか?

ロンドンプライドとサルの小便の違いが分かるうちに」

 

 彼は私をしっかりと見据えて言った。

 

「お前の奢りだな?」

 

  〇

 

 現場からハイ・ストリートまで戻り中々気の利いたパブでアルコールを摂取した。

 私とウェイバーはサンドイッチとパイを注文し二パイント半ずつのロンドン・プライドを飲み干した。

 未成年の上に慣れない酒のせいでグレイは瓶一本のサイダー(リンゴ酒)で酔いつぶれた。

 酒を勧めるには時期尚早過ぎたか。

 

 協力を仰いだ以上それがスジであるため私が全額払った。

 よし。これは後日エミリー経由で首都警察に請求しよう。

 

 店を出るとすでに地下鉄は終わっていた。

 大通りに向かいタクシーを探すことにした。

 よし。これも後日エミリー経由で首都警察に請求しよう。

 

 虚弱体質のウェイバーに変わり、私が酔いつぶれたグレイをおぶった。

 彼女の右袖で毒舌な彼女の礼装は奇怪な笑い声を立てていた。

 「紳士として告げる。アッド、黙れ」というと声はやんだ。

 

 ブラックキャブを呼び、三人で並んで後部座席に体を押し込む。

 まずはグレイの寮に向かってもらった。

 席次はグレイ、私、ウェイバーの順だ。

 

 夜の街灯が窓からチラチラと我々を照らす。

 つくまでひと眠りしようかと思ったが思いのほか明るくて眠れなかった。

 

 何気なく街灯に照らされた少女の顔を見る。

 何の下心もないただの気まぐれだ。

 

 フードをかぶってはいるが昼間にウェイバーのフラットで見た時よりもはっきりと顔の造形が分かる。

 ほのかに酔いが回った頭はふわふわと宙を漂い――私は突如それに気がついた。

 昼間にウェイバーのフラットで彼女の顔を見た時の“何か”の正体だ。

 

 私はこの顔を以前、別の場所で見ている。

 ――セント・マイケルズ・マウント(アーサー王所縁の地)で垣間見たあの少女だ。

 あの少女の顔だ。

 

「どうした?」

 

 若き友人、遠坂凛も中々に敏いが年の功かウェイバーはそれ以上だ。

 特に隠し立てするようなことでもない。

 私はセント・マイケルズ・マウントで垣間見た幻の事を語った。

 

 彼はいつもの仏頂面を驚愕に変えていた。

 

「間違いない。お前が見たのはお前の予想通りの人物だ」

 

 グレイの出身地はこのブリテンにも冠たる最も伝統ある霊園の一つだった。

 アーサー王の墓所の一つと言われている田舎町にある。

 彼は対霊体のプロフェッショナルを求めて彼の霊園を訪れ彼女と対面した。

 そして驚愕した。

 

「私も控えめに言って驚いた。あいつの顔は私が見た剣の英霊(アーサー王)――

に生き写しだったんだからな」

 

 今日は驚きの連続だったが、今この瞬間が最大の驚きだった。

 私はただ一言感想を述べた。

 

「この世は神秘に満ちているな」

 

 ブリテン最高の英雄と瓜二つの少女は静かに寝息を立てていた




ライネス、スヴィン、フラットも出したいんですがどうやって出したものか。


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case.魔女たちの館 前編

 私の前に一葉の写真が差し出された。

 写真の中で中年の男が一人、口から泡を吹いて倒れている。

 

「見たところ、急性左心不全による肺水腫だな。

これが僕の専門分野とどう関わる?」

 

 私は写真を検めて一言見解を述べた。

 

「もちろんこれから説明する。ところでコーヒーはどう?」

 

 私を呼び出した首都警察の刑事、エミリー・オースティンはいつもの彼女らしく私のもてなしの姿勢を示した。

 

「遠慮する。ここのコーヒーはダイエット中のベジタリアンの小便みたいに薄いか、毎晩ビッグマックを摂取している巨漢の血液みたいに濃いかのどちらかだ」

「そう?私は結構好きだけど、ここのコーヒー。じゃあ、スナック(マンチーズ)でも食べる?」

「それも遠慮する。以前、君に勧められたポテトクリスプの袋を見たら1年前に賞味期限が切れていた。食べる前に確認しておいて命拾いしたよ」

 

 「そう」と残念そうにつぶやくと、エミリーは情報の補足を始めた。

 

 被害者の名前はジャスティン・マッケンジー。

 ゲームメーカーのCEOでまだ46歳という若さだった。

 

 ある日、オフィスに現れず連絡もないことを不審に思った彼の秘書が自宅に赴き、事切れている彼を発見した。

 ジャスティン・マッケンジーの妻はライに小旅行に出かけており不在。

 メイドもその日は休暇を取っており、彼は前日の夜から自宅に一人だった。 

 ジャスティン・マッケンジーの契約しているセキュリティー会社によると本人以外の誰かが来訪した記録はないとのことだった。

 

 警察が公表している死因は「心不全」だった。

 心不全は極めて多義的な意味で用いられる用語で、ただ「心不全」と表現されているということは「死因はよくわからない」と言っているのと同義だ。

 状況から考えて「不幸な自然死」として処理されることだろう。

 このような不自然な自然死には法が届かない存在――例えば魔術が絡んでいる。

 

 魔術回路を持つエミリーは現場で魔力の残滓を感じ取った。

 魔術が死の隠された要因である可能性を鑑みたエミリーは万屋の魔術使いアンドリュー・マクナイトに相談を持ちかけていた。

 

 「調べてくれる?」というエミリーの要請に、他に案件を抱えていなかった私は首を縦に振った。

 

 調査の手始めに私はエミリーの手引きで被害者の夫人、マーサ・マッケンジーと面談した。

 チェルシーの洒落たカフェで待ち合わせた彼女はバーキンのバッグを持ち、一目で高級とわかる衣装を身に着けて、いかにも高級そうな香水の匂いを

無料で垂れ流しにしていた。

 亡くなったジャスティンはMMORPGで一発あてて莫大な財産を作っていた。

 

 マーサは亡くなったジャスティンより二回り以上若く、結婚前はウェイトレスとして働きながら女優を目指していたそうだ。

 彼らの結婚は間違いなく純粋な愛によるものだろう。

 

 私は「私立探偵」と立場を名乗るとまず「お悔やみを申し上げます(アイムソーリーフォーユアロス)」というお決まりの文句を口にした。

 「私立探偵」は便利なキーワードだ。米国と違いわが国では探偵を名乗るのにライセンスが必要なわけではない。※

 だが「私立探偵」を名乗ると途端に相手は協力的になる。

 特に今回は首都警察の刑事からの紹介だ。私のあやふやな身分はマッケンジー夫人の前で強固なものとっていた。

 

「夫は人から恨まれるような人ではありませんでした。社交的で人好きのする、とても優しい人でした」

 

 私の「ご主人は誰かから恨まれていませんでしたか}」という質問に夫人は最上の評価を以って答えた。

 

 職業柄、故人がこういった評価を下されるのを幾度となく聞いている。

 統計上、殺人事件の加害者で最も多いのは被害者の親族だ。

 親族からの個人の評価がどんなに高くてもそれを鵜呑みにするの危険と私は経験から学んでいる。

 そもそも「社交的で人好きのする人物」ならば人との接触は多かったはずだ。

 ならば恨みを買うことがあってもおかしくない。

 

 面談を終えた私は現場に向かった。

 現場はベルグレイヴィアの瀟洒な一軒家だった。

 この地区は選ばれた人間だけが住むことの許されるエリアだ。

 渋い街路にはクラシカルな建築物、白漆喰(ホワイトスタッコ)の住居、石造りの教会が並ぶ。

 私は少年時代にロンドンに移り住んでからしばらくの時期をハックニーの小汚いフラットで小汚いユアン叔父さんと共に過ごした。

 あまりの洒脱さに息が詰まりそうになる。

 

 警察の現場検証が済んでいないため家主は実家に戻っているらしい。

 『CSI:科学捜査班』のせいか現場検証は短時間で済むと世間では思われているらしいが実際のところ現場検証は数日にわたるのが普通だ。

 私は鑑識が出払ったタイミングを見て現場に向かった。

 見張りの警察官は顔なじみだった。私は身分証の提示も求められずにあっさり現場に通された。

 

 私は「高級」と壁紙からタイルの一つ一つにまで書き込まれているような現場に踏み入ると現場の解析を始めた。

 程なくして私の経験から来る勘が警報を鳴らした。

 

 おかしい。あまりにも何もなさすぎる。

 すでに誰かが調べるべきことを調べ、後片付けを済ませているように思える。

 「神秘の秘匿」は魔術師にとって絶対の原則だ。

 敵は思ったよりも抜け目なく、手ごわいのかもしれない。

 

 その時。

 誰かの足音がした。

 

 先約が居るようだ。この状況だと犯人の可能性が高い。犯人は現場に戻ってくるものだ。それが心理学的に自然な行動だからだ。

 私はそっとヒップホルスターのH&K USPに手を伸ばすと足音の方を振り返った。

 そこにいたのは意外な人物だった。

 

「ウェイバー?」

「……マクナイトか。奇遇だな」

 

 私の旧友で時計塔の名物講師、ロード・エルメロイⅡ世ことウェイバー・ベルベットだった。

 

「どうやってここに入ったんだ?」

「表の警官か?暗示を使った。少々不安だったが一般人相手ならばさすがに通じた。お前も知っての通り、私は術者としては最低だからな」

 

 聞けば被害者は彼が第四次聖杯戦争の時に日本で居候していたオーストラリア人夫婦の親戚だそうだ。

 オーストラリア人夫婦から葬儀のための準備を手伝ってくれないかと頼まれた彼はその過程で魔術の存在に気付いた。

 そしてこの奇遇な鉢合わせとなった。

 

 ウェイバーにこの場を来訪した理由を問われ、私はお決まりのパターンで警察から非公式に協力を要請されたことを伝えた。

 私の説明を聞いた彼は「お前の方でわかっている情報を共有してくれないか?」と私に要請した。

 

 本来、警察関係の情報を漏らすのは好ましくないが事は法の届かない魔術で彼は信頼のおける人物だ。

 私はエミリーから得た情報を彼に託した。

 特に重要な点、「死亡推定時刻に尋ね人が誰もいなかった可能性が非常に高い」という点を強調して。

 

「遠方から誰かを殺すとして――どのような方法が考えられる?」

 

 私の情報をいつもの渋面で租借すると彼は私に問いかけた。

 答ではなく問いかけをする、彼の癖だ。

 回答を提示する前に考えさせる。評判通りに良き教育者なのだろう。

 

「呪いか召喚術が妥当なセンだろうな。転移魔術や時間制御も考えられなくはないがどちらも汎用性に欠ける手段だし、多大な痕跡が残る。

君のことだ。片づけに入っていたところを見ると既に見当がついているのだろう?」

 

 私の問いに対し、彼は懐から小さな袋を取り私に差し出した。

 

「お前が来る前にこれを見つけた」

 

 見てもいいか許可を取ると私は袋を開き、中身を検めた。

 小動物、恐らく鳥類と思われるものの骨、歯は特徴的な形からしてウサギのものだろうか。

 それに人間の毛髪。

 

「これは――呪い袋……に見えるな」

 

 呪い袋は文字通り、古来より呪殺に使われてきた儀式の道具だ。

 見たところ古典的な黒魔術の様式に従ったもののようだ。

 が、どうにも奇妙だった。

 

「しかしえらく個性的な作りだ。妙な例えだが美大に行っていない絵描きが我流でアカデミックな絵画を描こうとして出来上がった絵のような印象だ」

「良い洞察だ。私の弟子に『天才馬鹿』と称されている胃痛のタネがいるが、少しは見習って欲しいものだ」

 

 「いや、すまない。こちらの話だ」と付け加えると彼はため息をついた。

 天下の時計塔講師とはいえ、彼はその中では若輩者だ。エルメロイ教室は「寄せ集め」と古参のロードから揶揄される曲者の集まりだ。

 彼の苦労が偲ばれる。

 

「呪い袋、まじない袋と呼ばれる呪詛の道具はいくつか種類があるが、これは古典的な黒魔術で使われる素材だ。

ロマのまじない袋とは違うし、ウィッカのような多神教的要素も見られない。典型的な古式ゆかしい方法だ」

 

 「にも関わらず正統派とは言えない作りだな」と彼は考察を締めくくった。

 

 呪い袋の無効化は簡単だ。燃やせば事は済む。

 我々は十分に検分を済ませるとデジタルカメラで写真を何点かとって燃やした。

 

ウェイバーは天下の時計塔の講師であり魔術師だが、多くの魔術師が抵抗を示す現代技術に抵抗が無い。

 家系の浅い魔術の家に生まれたからだろう。

 私はそれなり古い家系の魔術の家に生まれたが、私の家系はとうに没落していたためやはり現代技術に抵抗が無い。

 おかげで彼とは仕事がしやすい。

 

 彼は時計塔の講師で講師としては一級品の才能を持つがそのことにあまり価値を感じていない。術者としての自分が非才であるためだ。

 私は没落した家系の出身だが、魔術回路が先祖返りを起こすという奇跡のおかげで魔術の使い手としてはそれなりに優秀だ。

 私は時計塔の講師にまで上り詰めた彼の才に最大限の畏敬の念を持っているが、彼の方はむしろ私の魔術の才に羨望を感じている。

 

 彼と私は似ているようで似ておらず、分かり合えるようで肝心なところですれ違っている。

 人生とはままならないものだ。

 

 私が短い思索に耽っている間に呪い袋はあっさりと燃え落ちた。

 「簡単すぎるな」とウェイバーは一言感想を述べたが私も同意見だった。

 

「ところでグレイは同行してないのか?」

 

 フードを被った彼の内弟子が今日は同行していなかった。

 私の小さな疑問に彼は短く答えた。

 

「同行させていない。私が個人で勝手に動いていることだからな」

 

 そして予想通りの言葉を続けた。

 

「――それに助手ならたった今見つかった」

 

  〇

 

 現場を後にした我々は、私の仮住まいであるエミールのホテルに向かった。

 年の多くを海外で過ごす私はロンドンに住まいを持っていない。

 郵便物は私書箱充て、荷物は貸倉庫に収容し、必要な宿泊は小汚いエミールのホテルの小汚い部屋で済ませている。

 気の良いエミールは常連を通り越してヘビーユーザーの私に割引価格で部屋を提供してくれる。

 

 エミールのホテルは小汚く、日当たりが悪い最高のホテルだ。

 おまけの猫の小便のようなかぐわしい香りがする。

 このホテルをウェイバーは何度か訪れているが、「嗅覚を遮断しないととても耐えられない」という最大級の評価を下すのが常だった。

 

 ならばウェイバーのフラットの部屋に行った方がいいのではと思ったが、彼の部屋はゴミ屋敷の範疇に確実に片足を突っ込んでいるほど酷い有様なのを思い出した。

 つまり我々が自由に使えるスペースはどちらも大差無い住環境ということだ。 

 

「ジャスティン・マッケンジーは典型的な成金だが、金遣いは荒くなかった。妻のブランド品コレクターの趣味こそ許可していたが、

所持している車は一台で、車種はプリウス。ブライトンに慎ましい別荘を持っている程度で、仕事がゲームなら趣味もゲームだったそうだ。

借金は無く、同業者から恨みを買うような強引な行為もしていない。典型的なギークというやつだな。ただし社交性のあるタイプのギークだ。実に珍しい」

 

 私はまず自身の考察を述べた。

 彼はいつもの渋面で「それで?」と先を促した。

 

「この先は経験則と統計からの仮説だが……犯人はあの二回り年下の細君だと思う。

統計的に言って、殺人事件の加害者は被害者の近親者である場合が最も多い。

動機は大抵、金銭か愛憎劇のどちらかだ。僕は両方関係あると踏んでいる」

 

 ウェイバーはやはりいつもの渋面で私の考察を黙って咀嚼していた。

 このホテルは室内禁煙だ。葉巻を吸えないのが堪えているのか、いつもよりも何割増しかで表情が渋いように感じた。

 

「成程。ブランドもの好きの夫人とはいかにも価値観がすれ違っていそうだな。夫婦円満とは言えなさそうだ」

 

 彼は私の考察を反芻した。

 私はそれに対し疑問を提示した。

 

「しかしあの夫人、魔力は微塵も感じられなかった。とすると共犯者が居るはずだ。それは今のところ皆目見当がつかない。

たまたま魔術の素養がある知人がいたか、或いは倫理観にかける魔術使いを雇ったか……可能性ならいくつか挙げられるがどれもピンとこない」

 

 私は続けて「君の方はどうだ?」と彼の考察を待った。

 

「ヒントはあるがまだ仮説にすら到達していない。私は私で考えたい。少し時間をくれ」




(※2014年からイギリスでも探偵を開業するにはライセンスが必要になりました。この同人は2006-2007年頃の設定で書いています。)


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case.魔女たちの館 後編

 それから半月。

 捜査は一向に進展しなかった。

 

 ジャスティン・マッケンジーの死は不幸な自然死として処理されていた。

 どちらにしてもこの事件は法の範疇ではないが、同様の手口の事件が起こらないとは言い切れない。

 私は内心、焦り始めていた。

 

 ウェイバーからは音沙汰がなかった。

 多忙な時計塔の講師だ。色々と難しいのだろう。

 

 私は被害者の身辺調査を進めていた。エミールのホテルに戻り、収集した情報をまとめていると、私のモバイルフォンが鳴った。

 

「やあ、エミリー」

 

 二コールで電話を取った。

 電話の相手は首都警察の刑事、エミリー・オースティンだった。

 

「……そうか。わかった」

 

 彼女からの連絡は私が懸念していた通りのものだった。

 私は彼女からの電話を切ると、すぐにウェイバーの番号をプッシュした。

 

 いつもの不機嫌以外何物でもない彼の応答を待たず、電話口の彼に簡潔に事実を述べた。

 

「二人目の犠牲者が出た」

 

 

 二人目の犠牲者が出てしまった。

 ハンク・オーウェル。死因は心不全。

 四十五歳でIT企業のCEO。やはり妻は二回り年下だった。

 やはり被害者自宅に一人で、訪問者の形跡は無し。

 エミリーは現場で魔力の残滓を探知。

 これを人は偶然とは言わない。

 

「夫は人から恨まれるような人ではありませんでした。社交的で人好きのする、とても優しい人でした」

 

 私の「ご主人は誰かから恨まれていませんでしたか?」という質問にジョーン・オーウェル夫人は最上の評価を以って答えた。

 

 職業柄故人がこういった評価を下されることは幾度となく聞いている。

 統計上、殺人事件の加害者で最も多いのは被害者の親族だ。

 親族からの故人の評価がどんなに高くてもそれを鵜呑みにするの危険と私は経験から学んでいる。

 「社交的で人好きのする人物」ならば人との接触は多かったはずだ。

 ならば恨みを買うことがあってもおかしくない。

 

 私は型通りのやり取りをした。

 同行したウェイバーはいつもの渋面で隣で話を聞いていた。

 

 やはり夫人からは魔力の滓も感じなかった。

 夫人との面談を終えると我々はエミリーの手引きで現場となったサウスケンジントンのオーウェル氏宅に向かっていた。

 

 道中、「彼らの結婚は間違いなく純愛の結果だな」と私が感想を述べると、ウェイバーは無言で曖昧な表情を私に向けた。

 私のユーモアが通じたに違いあるまい。

 

 現場は見事なエドワード調のシックな一軒家だった。

 サウスケンジントンは芸術家に好まれる閑静で瀟洒なエリアだ。

 

 亡くなったオーウェル氏は美術品のコレクターでもあったらしい。

 リビングの壁にはモンドリアンだかカンディンスキーだかの抽象画が飾られていた。

 

 壁にかかった一枚を見てウェイバーは「その絵、上下が逆さまだ」とありがたい事実を教えてくれた。 

 どうやらオーウェル氏は美術品は好きでも審美眼は無かったようだ。

 

 我々は手分けして現場を捜索した。

 私が二階、ウェイバーが一階だ。

 

 私はフーチを片手に二階を捜索したがこれと言ったものは捉えなかった。

 と、なると……

 

「マクナイト」

 

 下の階からウェイバーの呼ぶ声がする。

 私は階段を下り、彼と合流した。

 

 やはりと言うか。

 彼の手には呪い袋が握られていた。

 

 中身を検めるとベルグレイヴィアのマッケンジー氏宅で発見した呪い袋と酷似した作りだった。

 詠唱に癖があるように道具作成にも術者の癖が出る。間違いない。二件の犯行は同一の人物が関与している。

 

「お前は動機を追え。私は手段を追う」

「わかった。であれば同様の事件が他にもないか並行で調べてみる。この短期間で二件だ。これですべてとは思えない。

勘だがこの一連の犯行、ケンジントン・アンド・チェルシー区の範囲内に収まる限定的なものの気がする。相当に絞れる」

「ああ、いい判断だ」

「君はどうする?」

「ミスター・オーウェルはご愁傷様としか言いようがないが、これでヒントが大幅に増えた。私は手段を考える」

 

  〇

 

 調べてみると同様の事件がこの二年の間にもう二件起きていた。

 現場は私の勘どおり事件はケンジントン・アンド・チェルシー区のエリア内に収まり、いずれも被害者は裕福な男性だった。

 発覚しなかったのはいずれも自然死と断定されていたためだ。

 魔術回路を持つエミリーが今まで捜査にかかわらなかったために「魔術」という現代社会から隠れたファクターが明らかにならなかったのだ。

 

動機も推測がついた。

 

 ジャスティン・マッケンジーは女癖が悪かった。

 惚れっぽい性格のようでところ構わず浮気を繰り返していた。

 だが、あのいかにも計算高そうな夫人だ。

 それだけであれば見逃していただろう。

 

 ジャスティンは別の若い女性に入れあげており、どうも離婚を考えていたようだ。

 彼が離婚の件を相談するために弁護士の元を訪れていたという情報を手に入れた私はその弁護士の元を訪問した。

 本来、弁護士には守秘義務があるがそれはそれ。今起きている問題は殺人だ。

 私は暗示をかけ、魔術という超法規的措置で守秘義務を破ってもらった。

 結果、やはりジャスティンは本気で離婚を考えていたことがわかった。

 さらにジャスティンは生命保険に加入しておりその受取人は妻だった。

 これは立派な動機になり得る。

 

 ハンク・オーウェルはとにかく金遣いが荒かった。彼は片っ端から高価な美術品を買いあさっていた。

 生まれながらの金持ちは成長過程で金を浪費しずぎない方法を学ぶが、成金はそれを学ぶ暇がない。

 彼は稼ぎも相当なものだったが浪費も凄まじく、預金口座は破産に向けて死の行進を行っていた。

 オーウェル夫人は度々その浪費癖を窘めていたが、オーウェル氏の浪費癖はむしろ加速していた。

 そして彼女は夫の生命保険の受取人だった。

 これも立派な動機になり得る。

 

 オーウェル氏の呪殺事件が起きた数日後、私は時計塔のウェイバーの講師室に赴き調べ上げた内容を共有していた。

 講義を終えて講師室に戻ってきたばかりの彼は疲労困憊と言った様で、いつも以上に不機嫌そうな渋面だったが私の話はしっかり聞いていた。

 

「共通して加わっている社交の場があることが分かった」

 

 彼は黙っていたが、経験から話に耳を傾けていることは分かっている。私は続けた。

 

「旅行に行ったり音楽会に行ったり、申し訳程度にボランティア活動をしていたり……まあ、よくあるタイプの婦人会だ。今日、会合があってあと三十分ほどで始まる。

エミリー経由でコンタクトをとった。これからお邪魔して探ってくる」

 

 「そうか」という言うと彼は突如立ち上がった。

 

「少し待っていろ。残りの講義をキャンセルしてくる

――私も同行する」

 

  〇

 

 マクレディ夫人の邸宅はナイツブリッジの賑やかな一画だった。

 この地域の地価は世界でも有数の高価さだが雰囲気はベルグレイヴィアやサウス・ケンジントンとはだいぶ異なる。

 一口に金持ちと言っても趣味は様々なようだ。

 

 我々はランプの精でも迎えに出てきそうな豪奢な門をくぐると、毎朝、ご主人様の新聞にアイロンをかけていそうな古めかしい物腰の執事(比喩ではない本物の執事だ)に案内され

マクレディ夫人がお茶会を開いているリビングに通された。

 

 リビングでは一様に高級そうな装束を身に着けた若い婦人たちが三段重ねのティースタンドをお供にブラックティーを味わっていた。

 ミセス・マッケンジーとミセス・オーウェルの姿もあった。

 

 我々が部屋に踏み入ると、婦人たちの会話の中心にいた人物が我々の前に進み出て挨拶と共に話し始めた。

 

「オースティン刑事からお話は伺っています。ジャスティンとハンクのことですね。惜しい方を亡くしてしまいました」

 

 ミセス・マクレディことメアリー・マクレディはマッケンジー夫人ともオーウェル夫人とも違う雰囲気を纏っていた。

 

 野心が服を着ているような佇まいだったがその目には知性の光が宿っている。

 彼女自身はマンチェスターの労働者階級の出身だと聞いているが、彼女の夫であるミスター・マクレディは成金ではない。

 伯爵(カウント)の爵位を持ち高等な教育を受け、代々堅実に財を築いてきた生まれながらの金持ちだ。

 部屋の中を見渡すと調度品の一つ一つが収まるべきところに収まっているように見える。

 調度品はそれぞれ決して華美ではないが、よく検めると高級品であることがわかる。

 

 労働者階級の彼女が貴族の子息と知り合うなどよほどうまく立ち回ったのだろう。

 

「突然の訪問、失礼いたします。私はウェイバー・ベルベット。彼はアンドリュー・マクナイト。

私立探偵です。ある個人の要請で追加調査をしています」

 

 私が口を開こうとすると彼が先んじて話し始めた。

 彼は社交的な質ではない。話は私に任せるものと踏んでいたので面食らった。

 そして違和感を覚えた。

 

「ある個人?」

 

 マクレディ夫人はアンティークの銀スプーン――ホールマークが刻まれているのが微かに見える正真正銘の純銀製だ――でティーカップを攪拌しながら目を見開いた。

 

「ええ。警察は表向きは自然死と断定したようですが、追加調査を要請されました。

――ここだけの話ですが、私は個人的に他殺の可能性を疑っています」

 

 まさかの発言に私は面食らった。

 依頼元について嘘をついたばかりか「個人的に疑っている」と真犯人かもしれない相手に腹の裡を明かしたのだ。

 とても聡明で思慮深い彼の行動とは思えなかった。

 

 その後も決しておしゃべりでも社交的でもない彼が率先して話した。彼は私が提供した情報を逐一記憶していた。大した記憶力だ。

 彼の行動はひどく不自然に思えたが、彼は率先して私が聞こうとしていたことをことごとく先行して聞いてくれたのでとりあえず私は無言の行を続けることにした。

 

 私はこの会合の参加者に魔力の持ち主が居ないか探った。

 探知できる魔力には閾値がある。

 魔術回路が貧弱であまりに微弱だと直接触れる等して対象との接触点を増やす必要がある。

 握手程度で済めばいいが、残念ながら長めの握手程度では探知は難しい。

 

 結局、「そろそろ夫が戻りますので」とマクレディ夫人に会合を打ち切られてしまった。 

 

「何か思い出すことがあれば」

 

 ウェイバーは名刺を差し出すと、私を促して辞去した。

 彼の名刺は連絡先はおろか、住所まで記載されていた。

 

 タクシーを呼び、まずは彼のフラットに向かう。

 私は彼のらしくない言動の真意を問いただしたが、「敵を欺くにはまず味方からだ」とはぐらかされた。

 

  〇

 

 数日後、私はウェイバーに呼ばれ、例のいかにも朽ち果てそうな彼のフラットに立ち寄っていた。

 彼は自身の帰宅時間を私に知らせ、その刻限に来るように私を呼んでいた。

 

 地下鉄が車両のトラブルで止まってしまい、私はタクシーを使った。

 痛い出費だ。あとで警察に請求しよう。

 

 おかげで刻限に遅れた。

 私は彼の部屋のドアの前に立ち、礼儀としてノックした。

 

 ――返答無し。

 

 ゲームをして寝落ちする彼のことだ。

 気づいていないだけだろう。

 

 そう思い、再度ノックした。

 

 ベートーヴェンの運命交響曲式に四度のノックをしたがやはり返答がない。

 胃の奥から嫌なものがこみあげてくる。

 

 私は散歩下がって助走をつけ、貧相なドアを蹴破った。

 

「マクナイト!袋を探せ!」

 

 私が部屋に入るや否や、ガラクタの山がちょっとした山脈を作っている床に胸を押さえてうずくまったウェイバーが叫んだ。

 

「……お前ならできるはずだ!……渦の中心を探れ!」

 

 頭より先に、体が、魔術回路が動いた。

 

tharraingt sa téad(糸を手繰れ)

 

 詠唱で集中力を高める。

 私の魔術回路のイメージは迷宮だ。

 アリアドネの糸が如く、迷路を糸を手繰って進む。

 

「――そこか!」

 

 旧式のゲーム機が並ぶ一画、時代遅れとなった機械の山をはねのけ――それを引き出した。

 私は呪い袋をつかみ取ると魔術で炎を起こし、葉巻が山盛りになった灰皿に押し込めた。

 袋はあっさり燃え上がった。

 

「――これで得心がいった」

 

 ここまで来て、私は前日の彼のらしくない行動の意図を察した。

 

「まともな魔術師ならば私よりも魔術師として格上なのがお前なのはわかるはずだ。だが、敵は私を狙った。

これが何を意味するか、分かるだろう?」

 

 そう言うと彼は荒い呼吸を整えながら、私が差し出したボトルウォーターを一口飲んだ。

 

「自分を囮にしたんだな?呆れた奴だな。無謀に過ぎる。それで住所までご丁寧に書かれた名刺を誂えたのか」

「無謀ではない。お前がくれば確実に助かると計算したからだ。この時間に呼び出したのは、私の部屋に侵入して呪い袋を置いてもらうためだ。

時計塔の私の部屋に侵入するのは不可能。ならば私が帰宅したときに効果を発揮できるよう私の留守中に呪い袋を仕掛けると踏んだ。

ここのセキュリティは存在しないも同然だからな。それで帰宅する時間帯にお前に来るよう頼んでおけばお前が処理してくれる。

お前は魔術師としては確実に私より上だからな」

「ああ。これであの会合の参加者の中に犯人がいることがはっきりした。首謀者は――やはり彼女か?」

 

  〇

 

「ミセス・マクレディ」

 

 挨拶もノックも省略し、我々はマクレディ夫人の邸宅を訪れていた。

 リビングでは前回の会合と同じ参加者たちが手を取りあい書物を片手に詠唱をしていた。

 

 これで完全にタネが割れた。

 

 ――サバトだ。

 

 この中に極めて微弱ではあるが魔術の素養がある人間が居る。

 サバトは魔女の儀式だが、魔力を同調させる効果がある。

 

 魔術回路が無ければ術の行使はできないが、一般人でも魔力源になることはできる。

 おそらく、彼女たちは数日単位で魔力を集め、それを今この場で開放しているのだ。

 

 ウェイバーは魔術師としては三流だ。

 相手が一般人に毛が生えた程度の相手とはいえ、ウェイバーの魔力抵抗も強くはない。

 だからこそ彼は自身を囮にしたのだ。

 

「警告だ。これ以上はよせ。あなたたちは自分が何を扱っているのかわかっていないのだろう?」

 

 ウェイバーの口調は静かに――しかし微かに怒りを含ませていた。

 

「ミスター・ベルベット。私たちはオカルト本の朗読会をしていただけです。ここは自由の国ですよ。変人扱いされるのは仕方ありませんが、『止めろ』などと言われる覚えはありません」

 

 現場を押さえられたにも関わらずミセス・マクレディは凛として居た。

 大した胆力だ。

 相当な労苦をしてこの地位に就いたのだろう。

 

「ここに踏み込む前に結界を張った。呪いの力はここから出ることができない。放っておくと君たちに跳ね返るぞ。解呪するから儀式をやめてくれ」

 

 もちろん、踏み込む前に我々は策を整えていた。

 ハッタリではない。私の口から出たのは嘘偽らざる真実だ。

 

 私の真剣さは伝わったに違いない。

 微かにだが、彼女がたじろぐのを感じた。

 

 だが……

 

「ミスター・マクナイト。ご冗談は程々に。私たちは読書会の続きに戻ります。さあ、お帰り下さい。次回はアポイントを取っていらしてくださいね」

 

 それが夫人の最期の言葉だった。

 

  〇

 

 嫌な後味を残す幕引きの後。

 私はエミリーを呼び出し、短く報告を済ませると後処理を頼んだ。

 犯人を法で裁くことはできないが、あの場にいた誰一人、二度とサバトを行おうなどとは考えないだろう。

 メアリー・マクレディの死は不幸な自然死として処理され――魔女たちの心のしこりとなって残り続けることだろう。

 

 現場に到着したエミリーと話を済ませると我々は警官にウェイバーのフラットまで送ってもらった。

 フラットにつくとウェイバーは私にブラックティーを勧め、これまでの推理の経緯を話し始めた。

 

「最初の現場で呪い袋を発見した時、これは素人が偶然魔術を成功させた結果だと直感した。

だが確信がなかったので私は……」

「君は?」

「――ネットで検索した」

 

 これは科学技術を忌避する古典的な魔術師では決して辿り着かない発想だ。

 まったく大した人物だと、改めて私はウェイバー・ベルベットという存在に感嘆した。

 

「その結果、ネット上で現場で発見したものと酷似した呪い袋の作り方を見つけた。サバトで少ない魔力を補う方法もネットで見つけた。

それでその婦人会に踏み込むのが最善と確信した。魔術協会の資料を調べたところ、ミセス・マクレディの家系は大昔は魔術師だったそうだ。

すでに魔術回路は無いが、魔術回路の痕跡ぐらいは残っていたのだろう。

たまたま黒魔術と波長が合い、術は成功した。」

 

 そこまで言うと彼は一度言葉を切り、深く息を吸った。

 締めくくりに入ろうとしているのだろう。

 

「最初はほんの悪戯程度の気持ちだったのだろう。憂さ晴らしになればいい程度の気持ちだったのかもしれない。だが、呪いは成功してしまった」

 

 そこまで話すとウェイバーはブラックティーを一服含み、いつもの渋面で嚥下した。

 

「お前の方はどうだ?もはや動機の解明など実際的意味は無いが、お前も何か得るものはあったのだろう?」

 

 そう言ってはいるが興味はあるのだろう。私は自分の見解を述べた。

 

「あの会合は似たもの同士の集まりだ。きっと放って置けなかったのだろう。婦人会の参加者を調べてみたが全員が裕福とは言えない家系の出身だった。

もちろん、ミセス・マクレディを含めて」

 

 彼は私が話し終えると目を閉じた。

 きっとこの数日に起きたことを彼なりに咀嚼しているのだろう。

 

 次に彼が口を開いたとき――私が予想していなかった言葉が飛び出した。

 

「お前は魔術の本流に戻る気はないのか?私の見立てではお前は研鑽を積めばそれなりの地位につけるはずだ。

例えばだが――私の元で学び直す気はないか?」

 

 意外な誘いだった。私は面食らった。

 名誉に感じた。だが答えは決まっている。

 

「僕は君と違い、魔術自体には価値を感じていない。君の元で学ぶのは楽しそうだが、そのうちお互いに嫌になるぞ?

マッケンジー夫妻やオーウェル夫妻みたいにな」

 

 彼は口の端で小さく笑って言った。

 

「想定通りの答えだ」

 



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case.虚構の真実 前編

 日本には『幽霊の正体見たり枯れ尾花』という諺がある。

 

 英語圏で言うなら"One always proclaims the wolf bigger than himself."(狼を見た人はいつも大きく報告する)にあたる言葉だ。

 

 二年ほど前のことだ。

 私は旧友で東京で払い屋をやっている人物から協力の要請を受け、東京を訪れていた。

 依頼は恙無く完了し、私はそのついでで、カナガワケンにある祖父母の墓を訪れていた。

 

 祖父母の墓はカワサキシティ郊外の小高い丘の上にある。

 いかにも日本人らしく無宗教だった祖父母は無宗教の形式でシンプルな墓石の下に眠っている。

 ハイドパークを思わせる公園のような墓地を歩き、私は祖父母に手を合わせた。

 

 冬の良く晴れて皮膚がひび割れそうな乾燥した日だった。

 冬の日は短く、午後五時を回ろうかとその時には、すでにあたりには暗闇は迫っていた。

 

 平日の夕方で人通りはほぼ無し。

 周囲に動くものと言えば、チカチカと頼りなさそうに光る街灯と気持ちよさそうに浮遊する昆虫ぐらいだった。

 

 当然の行動として私は立ち上がり、その場を辞そうとした。

 その時、薄暗闇の中、歩みを進める私の視界の端に白い動く何かが去来した。

 

 この場で私を迎える動くものと言えば昆虫と不安定な電灯ぐらいの筈だった。

 

 ――これはもはや職業病的な脊髄反射だ。

 私はその正体が気になって仕方がなくなっていた。

 

 私はその"何か"の行方を追った。

 

 やがてその白い何かは墓石の間をゆらゆらと漂うと浮力を失い墓石の間へと消えていった。

 私はその何かが消えていった場所へと歩みを進めた。

 

 ――そこにあったのは。

 

 どこかの不心得者が捨てていったスーパーのレジ袋だった。

 

 これはそんなありふれた不思議な物語だ。

 

  〇

 

「そう。不思議なことがあったんだよね」

 

 私の旧友、風宮千鶴(かぜのみやちづる)は東京で祓い屋をしている。

 彼女は高名な旧家のぱっとしない分家に生を受けたが、突然変異的に優秀な魔術回路を生まれ持っていた。

 

 自身は学問と芸術とスポーツ観戦を愛する常識的な人物だが、生まれ持った魔術回路は彼女を放って置いてくれなかった。

 分家から高名な旧家に養子として引き取られ、時計塔で学んだ後に祓い屋になった。

 

 私の母方の祖父は日本人で日本語以外を頑なに覚えようとしない典型的なショーワの頑固ジジイだった。

 その結果、少年時代の私は半強制的に日本語を習得するに至った、

 時計塔に在籍している数少ない日本語話者である私が彼女と交流を持つようになったのは当然の成り行きというものだ。

 今は伊勢にある本家が面倒臭がって引き受けない依頼を引き受ける都合の良い存在として魔術に関する万を引き受けている。

 

 時折遠路はるばる私に依頼をしては東京に呼び出しているが、今回は彼女がロンドンを来訪していた。

 

 実のところ、会うのは二年ぶりだった。

 東京を拠点にしてはいるものの彼女は「出張」が多く、ほぼ常に日本全国を行脚して事件を引き受けている。

 私もここ二年で何度か東京を訪れていたが、そのたびにスレ違っていた。

 

 ロンドンでの要件が済んだ彼女はついでの観光のためにこの街に短期滞在していた。

 幸いにしてか不幸にしてか私は暇だった。

 そしてこの久しぶりの再会となったわけだ。   

 

 パディントンのパブで私と彼女は昼間からエールを煽り、雑談に――主に我々共通の関心ごとである旅について――興じていたが会話の切れ目で彼女が唐突に語り始めた。

 私はうんうんと頷きながら、彼女の話を聞き。

 彼女が話し終わるころにはその話が気になって仕方なくなっていた。

 

「本当は自分で調べたいんだけど……」

 

 翌日の便で帰国する彼女は無念そうに言った。

 

「暇だったら調べてみてよ。アンドリュー。

真相が分かったら教えてね」

 

 私は胸を張った。

 

「いいとも。シャーロック・ホームズのように鮮やかに解き明かして見せよう」

 

  〇

 

「概要は記憶している。詳細を教えてくれ」

 

 結論から言うと、私はシャーロック・ホームズにはなれなかった。

 時間があるのに任せた私は調査を進めたが、真相にはたどり着けなかった。

 

 どうしても真相が気がかりだった私は、私の知る中でも飛び切り探偵役にうってつけの人物、ウェイバー・ベルベット改めロード・エルメロイ二世の元を訪れていた。

 講義を終えた時間帯を見計らって彼に連絡を取り、概要を話すと彼は興味を示してくれた。

 こうして私は偉大なる人気講師の講師室の硬い椅子に腰かけることとなった。

 

 以下がわが友人である千鶴が語った内容だ。

 

 ロンドンで用を終えた千鶴は優雅に観光を楽しんでいた。

 報酬の額がよかったため懐には余裕があった彼女は、少し贅沢をしようと考えた。

 近年、無視できない程の勢いを持ち始めている旅行情報サイトを見ると、「ロンドンのレストラン」の項目に気になるものを見つけた。

 庭付きのログハウスのような外観の写真と共に「ブルースの小屋」というレストランの名前が表記されていた。 

 ブルースの小屋は大陸の料理や東洋の手法を取り入れたモダンブリテッシュを提供するレストランで、最近特にランキングを上げているようだった。

 

 口コミも上々だった。

 

「夫と二人で結婚記念日に利用しました。二週間待ちで予約が取れ、非常に楽しみでした。期待通りでした」

「カナダから両親と観光で来ました。旅行代理店を通じて席を取ってもらいました。最高の体験でした」

 

 ほぼ絶賛一色の内容だった。

 

 店は完全予約制で一日に受け入れる客の数を少数に絞っていると紹介されていた。

 ランチで提供されるロースビーフサンドやベリーソースを使ったサーモンのソテーなど料理の写真も鮮やかで興味を惹くものだった。

 平日ならば行けるかもしれない、と思った彼女は思い切って予約の電話を入れてみた。

 店の連絡先となっているモバイルフォンの番号を彼女はプッシュした。

 

 相手は十回のコールの後に電話に出た。

 忙しいのだろうか。

 予約の話をすると「一か月先までいっぱい」との返答だった。

 

 「そうですか。それは残念」

 

 彼女は電話を切った。

 千鶴は好奇心の強い人物だ。

 「どんな店なのだろう?」と気になり、入れないまでも店を見たいと思った。

 

 店のロケーションはロンドン東部のショーディッチ。

 近年、アートの街として人気が高まっているエリアだ。

 店の住所は通りの名前までの記載で、店に問い合わせたところ「隠れ家にしておきたいので近くまで来たらお迎えに上がる形式にしています」とのことだった。

 

 旅慣れている彼女はすぐに目的の通りに辿り着いた。

 グラフィティアートに彩られたオシャレエリアとは無縁な凡庸な外観をした古い家が並ぶ通りだった。

 

 千鶴はしばらく、目的の通りをウロウロしていた。

 

 「何かがおかしい」

 

 幾ばくかの時間が過ぎたとき、彼女の直感がそう告げた。

 

 その直感は正しかった。

 

 結局、いくらその通りを歩いても、それらしい店は見つからなかったのだ。

 

  〇

 

「ここまでで何か質問は?」

 

 ウェイバーはいつもの渋面で黙って情報の咀嚼をしていた。

 その隣で、ウェイバーの内弟子であるグレイが小さな体躯からそっと控え目に手を挙げた。

 話が始まったタイミング折よく講師室に来た彼女は、レストレードのポジションを私が占めウェイバーがホームズのポジションを担ったことでぽっかりと空いていたワトソンのポジションに収まっていた。

 

 私はグレイを指さした。

 

「グレイ……いや、ワトソンくん。何が気になる」

「気になったのですが、レストランの連絡先がモバイルフォンというのは普通のことなのでしょうか?

拙の生まれ故郷は電話もほとんど無かったので、拙の感覚がズれているのか知れませんが……」

 

 なかなか鋭い指摘だ。

 

「良い質問だが、実のところこれはさして珍しいことではない。小規模な店では固定電話を置かず、オーナーのモバイルフォンを連絡先にするという形にしている場合がある。

件のレストランは小規模経営で限られた数の客しか受け入れないということだから十分にあり得る話だ」

 

 彼女は納得し、フードの下で小さく頷いた。

 私はグレイに向けていた指をウェイバーに向けた。

 

「ある程度の推理は固まっている。もう少し情報を寄こせ」

 

 まったく感じのいい奴だ。

 

  〇

 

 私が最初に辿ったのは千鶴と同じ道だ。

 つまり、電話で予約を申し込み、断られた。

 その足で所在地として記載のあった通りに向かい、フーチを片手に秘匿の魔術の痕跡を探った。

 千鶴は有能な祓い屋で西洋魔術も一通り扱える。

 秘匿の魔術の可能性を疑った彼女が言うには「悪意のある術は感じなかった」とのことだった。

 

 確かに職業的勘で感じるはずの「何か」が引っかからない。

 少なくとも悪意のある術式の類はなさそうだ。

 

 するとますます解らなかった。

 

 続いて私は、この「ブルースの小屋」の事を知っている人間がいないか探り始めた。

 大手旅行サイトでこれほどの評判になっている店だ。

 当たる場所を当たれば結果が出ると思った。

 私はマスコミ関係の友人のコネを使い、旅行関連のメディアとフード関連のメディア関係者を紹介してもらった。

 これほど評判の高い店ならば、誰かが取材していると思ったからだ。

 

 方向性は間違っていなかった。

 片っ端からコンタクトを取って見えると、いくつかのメディア関係者が「ブルースの小屋」に取材を申し込んでいた。

 にもかかわらず、取材に成功したメディアは一つとして存在しなかった。

 

 ここが私の限界だった。

 旅行サイトにこれほど具体的な情報が載っているのだから存在はしているのだろう。

 口コミがある以上、食事にありつけた客も存在するのだろう。

 だが、私にはそれが見つけられなかった。

 

  〇

 

「簡潔な要約だ。学生のレポートもこのレベルにまとまっていればいいのだがな」

 

 いつものように苦みばしった顔のせいで解り辛いがお褒めに預かったらしい。

 私はホームズにはなれなかったが、ベイカー・ストリート・イレギュラーズ程度には有用な存在でいられているようだ。

 

 そしてウェイバーはつづけた。

 

「さて、私の推理を述べる前にまずヒントだ。

ミス・カゼノミヤのことは知っている。優秀な術者だ。

お前も、私と比べれば少なくとも術者としては数段上だ。

仮に私が現地に赴き、魔術的痕跡を探ったところで結果は同じだろう」

 

「だろうな」と私は同意した。

 私の素直な感想に彼は「フン」と鼻を鳴らした。

 

「……という見解には多分に先入観が含まれている」

 

 彼の短い洞察には多くの示唆が含まれていた。

 隣で聞いていたグレイは小さく首を傾げただけだったが、私はウェイバーの一言に天啓を得ていた。

 私は指を一本立てて宣言した。

 

「一日待ってくれ」



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case.虚構の真実 後編

今回はオリジナルからだいぶ書き足しました。


 翌日。私は自分より一回りかそれ以上に若い時計塔の生徒たちと机を並べて講義を聴講していた。

 調査結果の報告に赴いた私は「講義が終わるまで待つ」と主張したが、ウェイバーには「お前にも関係ある話だ」と引き止められたため、有難く時計塔名物講師の講義を拝聴することになったわけだ。

 

 講義が始まると偉大なるロード・エルメロイ二世はまず、大判に拡大した一枚の図を貼りだした。

 それは石に彫り込まれたレリーフだった。

 そのレリーフは一人の人物が棒状のものにまたがり飛んでいるように見えた。

 棒状の物の背後からは炎が噴射されているようにも見える。

 

「これは古代マヤの遺跡から出土した石棺に彫られていたものだ。年代は西暦変換すると七世紀の半ばほどになる」

 

 教室がざわついた。

 このレリーフは素直に見るとロケットに人が乗って飛んでいるように見える。

 いわゆる、オーパーツと呼ばれるものだ。  

 これは魔術というよりも疑似科学の領域だ。

 現代魔術論以外でこのような講義をしたら間違いなくお叱りの対象だろう。

 

「諸君らにはこれが何に見える?」

 

 まず真っ先に金髪碧眼で、いかにも貴族的風貌の少年が手を挙げた。

 講師先生は手を挙げた少年を指さした。

 

「フラット・エスカルドス」

 

 名前を呼ばれた少年は勢いよく立ち上がると勢いのまま答えた。

 

「ロケットです!」

 

 教室から失笑が漏れた。

 ロード・エルメロイ二世は深くため息をついた。

 彼の名誉のために付け加えるとフラット・エスカルドスは才気に溢れる非常に優秀な魔術師だ。

 天才的とすら言える。

 だが、彼には才能以外の面にあまりにも問題がありすぎる。

 そのため、「天才馬鹿」と呼ばれロード・エルメロイ二世の胃痛のタネになっている。

 

「他には?」

 

 再度、ロード・エルメロイ二世が意見を募ると、今度はカールした金髪の少年が手を挙げた。

 

「スヴィン・グラシュエート」

 

 名前を呼ばれた少年が静かに立ち上がり答えた。

 

「その絵の提示の仕方は先入観を煽っています。フェアではありません」

 

 スヴィンは答えた。

 

「ほう?続けてみろ」

 

 そう言われたスヴィンは言葉の通りに続けた。

 

「その絵は本来、九十度傾けた形のものが正しい姿です。それはロケットではなく、十字架です」

 

 偉大なる講師はその答えに満足したようだった。

 

「そう。その通りだ。これは諸君らに先入観を持ってもらうためにあえて誤った角度で提示した」

 

 彼はそう言うと、一度貼った図面をはがし、九十度傾けて貼りなおした。

 

「これはパレンケの石棺と呼ばれている古代マヤ文明の遺物だ。スヴィン・グラシュエートの言う通り、これはロケットではなく十字架。

ロケットに跨り飛行する人物ではなく、十字架に縋りつく姿を表している。この人物はパカル王で、レリーフの彫られた石棺に収まっているパレンケ最盛期の王だ。

このレリーフは全体で死者の世界である地下、人間の住む地上、神々の住まう天上世界を表している」

 

 そして最後に大事な教訓を提示した。

 

「これがロケットに見えるのは文明を謳歌する現代人の先入観によるものだ」

 

 そういう大事な教訓はもっと早く教えて欲しいものだ。

 

  〇

 

「全く、大胆なことをする奴もいるものだ……」

 

 講義の終了後、ウェイバーの講師室を訪れた私は不思議な事件の種明かしをしていた。

 昨日と同じくグレイも同席していた。

 

 結論は限りなくシンプルなものだった。

 

 そのレストランは存在しない。

 

 ただそれだけの事だった。

 

 存在しないから近所を歩いても見つからない。

 存在しないから取材に成功したメディアも無い。

 

 この件に注意を向けさせた風宮千鶴は魔術師で、調査した私も魔術師だ。

 調査が始まった時点で「魔術が関連しているに違いない」というバイアスが掛かっていたのだ。

 ウェイバーの一言でそれに気づいた私は、早々に一つの推論を導き出していた。

 

 あとはそれを証明するだけだ。

 手元にある首謀者につながるものは電話番号だけ。

 調べたところどうやらプリペイドフォンらしい。

 ということは仮に令状を手に入れても購入者に辿り着くのは困難だろう。

 

 なので、私はとっておきのワイルドカードを切った。

 

  〇

 

 私の古い知人であるアラン・ホイルは特殊な魔術回路を持ち、封印指定を受けている。

 彼は現在バーミンガムに潜伏しているが私に借りがあり、時折手を貸してくれる。

 

 私はホイルに事情を説明して協力を仰ぐとそのフェイクレストランの連絡先になっている電話を掛けた。

 私のモバイルフォンとフェイクレストランのモバイルフォンが通話している間に、ホイルに電話会社のシステムに侵入してもらいまんまと逆探知に成功した。

 なお、私は不自然に会話を引き延ばすような真似はしていない。

 一般的なイメージに反し、逆探知は一瞬で終わる。

 特殊能力のおかげであらゆるセキュリティを突破できるホイルは、魔術師であると同時にコンピューターオタクでもある。

 ホイルはキャプテン・クランチの時代から現代に至るまでの電話システムを趣味で調べており、鮮やかに逆探知を成功して見せた。

 

 探知したロケーションを確認すると、場所はロンドン北部の一軒家だった。

 首謀者の自宅らしい。

 

 私は断固たる意志で乗り込み、その冴えない一軒家から出てきた冴えないニキビ面の青年に暗示を与えて真相を聞き出した。

 

 「ブルース」と名乗った彼は駆け出しの売文家で、糊口をしのぐために旅行サイトに偽のレビューを書くというパートタイムジョブをしていた。

 報酬は一本につき十ポンドで、早書きの彼にとってはなかなかに割のいい仕事だった。

 そして彼はこの仕事をかなり楽しんでいた。

 その中から天啓にも近いアイディアを得たからだ。

 

 デマ情報ばかりが流れるこの世界で、世間は自ら望んで、完全なるデタラメを信じ込もうとしている。

 そんな時代なら、偽レストランも不可能ではないのでは? むしろそれこそ、大当たりスポットになるんじゃないか?

 

 彼はその理論を実証するため、シェフとフォトグラファーの友人に協力を依頼してそれらしい素材を用意すると、店の連絡先用にプリペイドフォンを購入し、旅行サイトに掲載の申請をした。

 念のため、ドメインを取得し、友人のウェブデザイナーに頼んで公式サイトも用意した。

 

 申請はあっさり通り、こうして存在しないフェイクレストランはネット上で公式の存在となった。

 存在が認可されるとブルース青年は友人、知人にフェイクレストランのレビュー投稿を依頼。

 口コミで評判を得た「ブルースの小屋」は人気店になっていた。

 存在しないにも関わらず。

 

  〇

 

「口コミを見た時点でだ」

 

 「どの時点で分かったんですか?」というグレイの問いにウェイバーは答えた。

 そして何枚かのプリント用紙をテーブルに広げた手渡した。

 旅行サイトの口コミ部分を印刷したものだった。

 

「片方は実在する人気店。もう片方は今回の調査対象だ」

 

 私とグレイはテーブルの前に集まり、プリントアウトの内容を検めた。

 そのうち、私はある傾向に気づいた。

 

「……こっちは主語が多いな」

 

 「あ、確かにそうですね……」とグレイが隣で頷いた。

 ウェイバーは私の考察に満足したようだ。

 

「そうだ。これは心理学的にも証明されている事象だが、嘘の口コミは主観的出来事の描写が多くなる。

『記念日に夫婦で利用した』『カナダから両親と観光で来た』そういう描写だ。

対して――」

 

 彼は片方のプリント用紙を指さした。

 

「本物の口コミは客観的事実が多くなる。『チーズクルチャがオススメ』『テイクアウェイのコーニッシュパスティが最高』

……これに関してはサミュエル・バトラーが良いことを言っている。

『どんな馬鹿でも真実を語ることはできる。だが、うまく嘘をつくことはかなり頭が良くなければできない』

『夫と二人で結婚記念日に利用』や『友達とランチした』という主観的出来事の嘘を考えるのと、具体的な料理名のような客観的出来事の嘘を考えるのは、どちらの方が頭を使うか?

実に示唆に富んだ事件だったな」

 

 二十一世紀は情報が氾濫する時代だ。

 ゴーストは人の死後に現れるものだが現代では情報の渦からもゴーストは生まれるのだろう。

 

 それはそうと話に続きがある。

 

「『ブルースの小屋』だが評判になったので一日限定で開店するそうだ」

 

 仏頂面のウェイバーの眉がピクリと動いた。 

 

「それで?」

「サクラとして参加してみないかと言われている。勿論タダ飯だ。君たちも一緒にどうだ?」

 

 グレイがウェイバーの方をチラリと伺った。

 彼はただ「フン」と鼻を鳴らしただけだった。

 




補足。オーパーツと言われていたパレンケの石棺についてはこちらをどうぞ。
http://www.nazotoki.com/palenque.html

ロンドン・フェイクレストラン事件は実際にあった事件です。
発起人自らが書いてますのでこちらをどうぞ。
https://www.vice.com/jp/article/434gqw/i-made-my-shed-the-top-rated-restaurant-on-tripadvisor


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case.ゴーストに憐れみを 前編

 病欠との話だったが彼は病院ではなく自宅に居た。

 本当に風邪をこじらせているだけかも知れないが、まさか私に「チキンスープを作ってくれ」などと頼むはずがない。

 

 フラットの彼の部屋を訪ねると誰も居なかった。

 一度入り口まで引き返し、気持ちよさそうに舟をこぐ管理人を起こして確認すると、本来の二階の部屋ではなく一時的に一階に移っているとのことだった。

 風邪を拗らせて寝ている可能性は低そうだ。

 

  〇

 

 一階の仮住まいは二階にある本来の彼の部屋と似た間取りだったが恐ろしく何もなかった。

 碌に家具もそろえず、葉巻を押し付ける灰皿すらない。

 ここが彼の部屋であることを示すのは日本製のゲーム機ぐらいだった。

 

「私は悪霊に憑りつかれている」

 

 私を呼び出したウェイバー・ベルベット改めロード・エルメロイ二世は出し抜けにそう言った。

 隣にはいつものように内弟子のグレイが寄り添っている。

 ウェイバーは、いつものように仏頂面で不機嫌そのものだった。

 

「そうか。実は僕もだ」

 

 彼の表情が「不機嫌」から「関心」に代わった。

 

「昨日の夜、しこたま安物のブレンデッド・ウィスキーを飲んだんだがね。

起きたら床がゲロまみれになっていた。おまけに記憶が無いと来ている。

これは悪霊の仕業に違いない」

 

 「関心」は「呆れ」と「落胆」に変わった。

 

「……私は相談する相手を間違えたようだな」

 

 心配そうにグレイが彼を見た。

 彼女はフードの下からウェイバーの顔色を窺いながら口を開いた。

 

「拙から説明しましょうか?」

「ああ。そうしてくれ」

 

 短いやり取りがあり、グレイが再びを口を開こうとしたが私は制して言った。

 

「いや、状況から見当がついた。幽霊病(ゴースト・シックネス)だろう?」

 

 短い沈黙があり、二人は静かに頷いた。 

 

 幽霊病はその名の通り幽霊に取りつかれることで起きる霊障の一種だ。

 病状は食欲不振、悪夢、呼吸困難など多岐に渡るが何よりの特徴は言い知れぬ恐怖に襲われ、何も手に付かなくなる。

 幽霊病に罹患したものはすべてが恐怖の対象だ。

 ウェイバーが一階の部屋に移っているのは二階に上がることにすら恐怖を感じる状態になっているからだろう。

 いつも吸い殻の山が出来ている灰皿が空っぽなのは火に対する恐怖、机にハサミすら無いのは刃物に対する恐怖だろう。

 

 この病に対する治療法は一つしか無い。

 原因となった幽霊を探し出し、完全に成仏させることだ。

 

 今、彼を苦しめているのは大本の幽霊から移った残留思念だ。

 その霊が呪縛されている土地に赴き根本となる霊そのものを祓う必要がある。

 

「それはそうと、人手は多い方が助かる。君の優秀な学生諸君に協力を仰ぐという手は無いか?」

「天才バカと赤い悪魔とハイエナがいる研究室だぞ?事態を悪化させかねない」

「では時計塔のお偉方諸氏は?」

「冗談だろう?」

「冗談だ」

 

 私はしばし目を閉じ、相談する相手を模索した。

 

「確かに、僕が一番ベターな選択肢かもしれないな。まずは解析だ。痛くしないからじっとしていてくれ」

 

 解析は、私にとって唯一の一応得意と言える魔術だ。

 集中力高め、細く成型した魔力を流し込む。

 魔的な構造が流れ込んでくる。

 

 残留思念の姿が見えてきた。

 しかし、その思念がどのようなものか把握するに至らなかった。 

 思念が、というよりも存在が小さ過ぎる。

 実際に小さい存在なのかもしれない。

 

「幼くして没した子供か……それとも乳幼児の霊かもな。絞れたことは絞れたがやはり容易ではないな。

どこか場所に心当たりは無いか?」

 

 彼ははっきりとした口調で答えた。

 

「エディンバラだ」

 

 話によると二週間前、さる高貴な人物から依頼……もとい強要され彼はグレイを伴ってエディンバラにお使いに行っていた。

 病状が現れたのはロンドンに戻ってきてから。

 エディンバラは古都であり、幽霊話に事欠かない。

 なるほど、大まかなピースは揃った。

 私は「わかった調査を開始する」と告げるとコートを掴んで立ち上がった。

 

「拙もお供させてください」

 

 グレイが悲壮な声で懇願した。

 私は努めて穏やかな口調で宥めた。

 

「亡霊のプロフェッショナルである君の同行は心強いが、今回重要なのは亡霊を祓うことではなく原因となった亡霊を見つけ出すことだ。見つけさえすれば後は容易い。大した敵ではなさそうだからね。それよりも今のウェイバー君は日常動作すら困難な状態だ。君には彼の身の回りの世話という重要な仕事がある。そちらに専念してくれ」

 

 彼女は私の言に素直に従った。

 

「ありがとうございます。……あと、すいません。拙がついていながら」

「気にするな、君たちには僕も助けられいる。お互い様というやつだ」

 

 ようやく彼らに微かな安堵が見えた。

 安堵の材料は増やすべきだろう。

 私は付け加えた。

 

「この件は僕と"彼女"で解決する」

 

 「彼女」に思い当たる節があったらしい。

 私が発言した一瞬の後、ウェイバーは思い切り噴出した。

 

「……知らせたのか?」

 

 私は口の端でニヤリと笑った。

 

「彼女、君が病に臥せっている事を知らなかったぞ。連絡したら『もし兄上が大事なら惜しみなく協力する』と言ってくれた。麗しい兄妹愛だな」

 

 彼の中で幽霊病の恐怖を不機嫌が上回ったようだ。

 「怯え」からいつもの「不機嫌」に戻った。

 

「それは私に対する嫌がらせか?」

 

 私は答えた。

 

「僕なりの愛だ」

 

 彼は吐き捨てるように言った。

 

「そんな汚らしいものは要らん」

 

  〇

 

 翌日の早朝。

 私は黒塗りの高級車ジャガーXJの運転席に座り、ハンドルを握っていた。

 

 鉄道を使ってもよかったがこれからさる高貴な人物ををお迎えする身だ。

 粗相があってはいけない。

 私は適当な理由をデッチあげてルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトからこの黒塗りの高級車を借り受けていた。

 

「そんなことは無いように気を付けるが仮に事故を起こしてスクラップにしたらどうする?」と聞くと

「その時は高級車一台分の労働で返済していただきます。お友達価格にしておきますわ」と回答された。

 

 彼女と私は便利屋の調達屋と名家の当主として貸し借りのない良好な関係を築いているが、ことによっては貸し借りのバランスが私にとって不都合な方に傾くかもしれない、

 

 エルメロイの姫君に不興を買うリスクと地上で最も優美なハイエナに貸しを作るリスクを天秤にかけ……私の中でわずかに前者に天秤が傾いた。

 

 こうして私は運転席でハンドルを握り、その隣にビスクドールを思わせる優美な少女が腰かけることとなった。

 

 彼女の名はライネス・エルメロイ・アーチゾルテ。

 ウェイバー・ベルベットをロード・エルメロイ二世としてエルメロイ家君主代行の座につかせた人物で、エルメロイの正当な時期当主だ。

 そしてロード・エルメロイ二世の胃を破壊する破壊兵器で質の悪いことに義妹。

 今回の一件に限って言うなら彼をエディンバラにお使いに行かせた張本人でもある。

 

 彼女は高貴な生まれから滲み出る優美さで高級車の助手席に自然と収まっていた。

 社内のステレオからはその光景と不似合いなソリッドなギターとシャウトするようなボーカルが響いている。

 これはミスチョイスでは無い。

 彼女はギターの轟音に気持ちよさそうに身をゆだねていた。

 

「レッド・ツェッペリンのセカンドアルバムだね」

 

 レッド・ツェッペリンはロックの伝説そのものだがサブカルチャーの帝王であると同時にアレイスター・クロウリーに傾倒した神秘主義傾向もある。

 魔術師二人が揃ったこの状況には最高のドライブソングだろう。

 

「ああ、好みだろう?」

「気が利くじゃないか」

「こんなものも用意している」

 

 私はその気になればとことん気の利く男だ。

 後部座席に置いたランチボックスに手を伸ばし彼女に渡した。

 箱からは甘い匂いが漂っている。

 

「マカオの知人から送ってもらったエッグ・タルトだ。本場ポルトガルよりも上だと僕は確信している。

安物だがブラックティーも用意した。朝食代わりにいかがかな?レディ・ライネス」

 

 彼女は不審そうな視線を向けた。

 気の利く男、アンドリュー・マクナイトはその反応も予測済みだった。

 

「毒は入っていないよ。僕はそんな真似はしない。ほら、この通りだ」

 

 私は一つを手に取り齧って見せた。

 

 彼女の慎重さは出自に由来するものだ。

 権力をめぐる数々の権謀術数に巻き込まれて来たため、毒を盛られる危険性を常に考慮している。

 私が嚥下し、魔法瓶から注いだブラックティーを含んだところで彼女もエッグタルトに手を伸ばした。

 ゆっくりと味わうように咀嚼し、ブラックティーを含む。

 

「いいね。控えめな甘さだ」

 

 彼女は心底から満足した様子で笑った。

 私は気の利く男らしく返した。

 

「カロリーはそれなりに高いがな」

「君は本当に可愛げが無いな」

 

 彼女は出自通りの典型的な魔術師だ。

 私は典型的なヤクザな魔術使い。

 本来ならば全く相容れない存在の筈だ。

 

 にも関わらず私は不思議と彼女が嫌いではない。

 軽口を叩けるのは親しみの証拠であると双方理解している。

 

「残念ながら兄上は何も話してくれなかった。詳しい状況を聞かせてくれるか、アンドリュー」

「いいとも。君の頭脳なら鮮やかに即時解決だろう。兄上も君を誇りに思うだろうな」

 

 彼女は小悪魔的にニヤリと笑った。

 

  〇

 

「簡潔でいい報告だった。兄上が『学生のレポートもこのぐらい綺麗にまとまっていればいいのに』と言いそうだ」

「『言いそう』ではない。実際に言われたよ」

 

 まず我々二人の共通認識として「何処を探すか」を絞った。

 ライネスはウェイバーとグレイを魔術師の社交界にお使いに行かせたとのことだったが、「そこでは無いのは確実」というが彼女の主張だった。

 私もそう思う。

 魔術師ならば低レベルな霊障など放っておかないだろうし、謀殺するなら呪いか召喚術を使うはずだ。

 

 当日のウェイバーとグレイの行動で引っかかったのは二人が(ウェイバー曰くグレイが興味を示したので柄にも無く)ウォーキングツアーに参加したことだ。

 名所旧跡を巡るよくある催しだが、エディンバラは幽霊話に事欠かない土地だ。ウォーキングツアーで廻ったどこかが原因になったのかもしれない。

 

 情報の提供が終わり、私は彼女に見解を求めた。

 

「そうだな。まず兄上は術者としてかなり下の部類に入る。階位の上では上位の祭位(フェス)だが、

生徒が大成するという実績が無ければいいところ開位(コーズ)か、あるいは長子(カウント)でもおかしくない」

 

 魔術師には七つの階級がある。

 ロード・エルメロイ二世の階位は特殊な一芸の持ち主に与えられるもので純粋に魔術師としての能力を評価されたものと毛色が違う。

 ライネスの見立てでは彼の純粋な魔術師としての能力は良いところ下から二番目が三番目という評価だ。

 冷徹だが正当な評価だと私も思う。

 

「だが、それでも仮にも魔術師だ。魔力抵抗があるはずの魔術師がゴーストに憑かれるなんて、何か別の要因があると考えた方が自然じゃないか?」

「そうだな。しかも、ゴーストハントが専門のグレイがいながら憑りつかれた。相当に異様な事態だな。ちなみに仮説はあるのか?」

 

 彼女は小悪魔的な微笑を辞めて真剣な魔術師の顔になった。

 

「私の仮説は共感だ」

 

 私は彼女に先を促した。

 

「兄上に憑りついたゴーストは兄上に何か共感するものを感じた。そして兄上もそのゴーストに対して――

恐らくは無意識に共感する何かかがあった。共感であって敵意じゃない。それでもグレイの警戒も緩んだ」

「時計塔の講師で凡才な魔術師へ共感するようなゴーストか。これは相当に絞れそうだな」

「ああ。加えて君の解析が確かなら、小さい存在だ。今、思い付くのはそれぐらいだな」

 

 魔術師としての議論が終わり、我々は「史上最高のドラマーはジョン・ボーナムとキース・ムーンのどちらか?」という重要な議論に発展していた。

 私はキース・ムーンを推薦し、彼女はジョン・ボーナムを推した。

 私は譲らず、彼女も譲らなかった。

 

「ところで」

 

 議論の切れ目で彼女が切り出した。

 

「この状況で、例えば私が通りすがりの警官に『助けて!誘拐される!』と叫んだらどうなるかな」

 

 幾度となくウェイバーの胃を破壊してきた小悪魔の微笑だった。

 私は慎重に言葉を選びながら回答した。

 

「その時は『助けて!社会的に殺される!』と全力で叫ぶよ。僕は警察に何人か友人がいる。

少なくとも言い分は聞いてもらえるものと断言する」

「君にはプライドとか無いのか?」

「無いとは言わないが、プライドより今日食べるパンの方がよほど重要だ」

「面白い。君は兄上とは違った意味でいじり甲斐があるね」

 

 ロンドンを離れて早二時間。

 車掌からはどんより曇った冬の空と、ブリテン島北部へと続く田園風景がが広がっている。

 

 エディンバラへの道中は残りおよそ八時間。

 楽しいドライブになりそうだ。



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case.ゴーストに憐れみを 後編

 エディンバラ。

 スコットランドの東岸、フォース湾に面するこの都市はグラスゴーに次ぐスコットランド第二の都市で人口はおよそ四十六万人。

 イングランド併合以前のスコットランドの首都であり、現在はスコットランド議会が拠点を構える政治の中心地だ。

 

 街の中心地は大きく二つの地域に分かれる。

 我々はまず中心地の一つである新市街に車を走らせた。

 ここにエルメロイが所有している控えめなフラットがあるという。

 事件解決までの我々の拠点だ。

 

 新市街は人口過密の問題に対処すべく十八世紀の後半から建設が開始された計画都市で、ジョージ王朝風のシンプルな建物が整然と並んでいる。

 ライネスが「控えめな」と表現したフラットもジョージ王朝風だった。

 それほど大きくは無いが均整の取れたデザインで、シンプルな機能美と歴史的建造物の風格が同居している。

 貴族趣味は好きではないが、いい趣味だと思った。

 

 私のささやかな荷物とライネスの「必要なものだけ持ってきた」という大型トランクをフラットの部屋に収納し(エレベーターは無かった。言うまでもなく私が運んだ)申し訳程度の休息をとるとエディンバラ旧市街に向けて歩き始めた。

 

 スコットランドは雨の多い土地だ。

 「雨はどの時期に降るか?」と聞かれれば「一年中いつでも」と答えるしかない。

 

 今日も御多分に漏れず、どんよりした雨雲がかかり霧雨が風に舞っていた。

 

 新市街を南下し、プリンスィズ・ストリートに突き当たる。

 19世紀の区画整理で出来たプリンスィズ・ストリートは高級デパートやブランド店がならぶショッピングストリートだが建物が通りの北側にしかなく、南側には緑豊かなプリンスィズ・ストリート・ガーデンズが広がっている。

 さながら吹き抜け状態になった通りの南側からは旧市街が見渡せる。

 白で統一され、高さや形状もジョージ王朝様式で一貫して整えられた新市街に対して旧市街は雑然としている。

 建物は茶色く鄙びて、高さの異なる建物が複雑な凹凸を生み出している。

 

 ウェイバリーブリッジを南下すると、聖ジャイルズ大聖堂の威容が見えてくる。

 その先は中世そのものだ。

 古びた煉瓦やかび臭い匂いは歴史の匂いであり、我々魔術師にとっては神秘の匂いでもある。

 

「おっといけない」

 

 私の隣を静々と歩くライネスが漏らした。

 彼女の方を見る。

 その瞳は従来の碧眼から焔色に変色していた。

 彼女は慌てて目薬を取り出して点眼した。

 

 ライネスは魔力に反応する魔眼を所有しており、その副作用により魔力の存在する場所では目の色が通常時の鮮やかな青色から燃え立つような焔色へと変わる

 目薬はその症状を緩和するためのものだ。

 

「古都はこういう時に良くないね。まるで魔力(マナ)のフリーケットだ。うっかりするとつい反応してしまう」

 

 彼女は実に如才無い。

 エディンバラは古都であると同時に市井の人間が暮らす普通の街でもある。

 市井に中にあって焔色の瞳は目立ちすぎる。

 これからその市井に聞き込みに行くのだ。

 その慎重さはありがたい。 

 

 我々はさらに通りを南下し、賑やかなロイヤルマイルに辿り着いた。

 バグパイプの音が聞こえてくる。

 路上パフォーマンス中のようだ。

 

 エディンバラは英国内ではロンドンの次に観光客の多く訪れる街でもある。

 早朝に出発したためまだ夕方の早い時刻だ。平日だが、旧市街のメインストリートであるロイヤルマイルは観光客で溢れかえっていた。

 

「さあ、行こうかグルミット」

 

 彼女は優雅で軽やかな足取りで最初の目的に歩き出した。

 エルメロイの姫君の前では私はお利口なビーグル犬に過ぎない。

 私はその後ろを愚直についていった。

 

  〇

 

「ロンドンの私立探偵さんですか」

 

 私の偽名刺No.11を手に取ったガイドの青年――名札によると名前は「ショーン」らしい――は興味深そうにそれを検めていた。

 

 私立探偵という言葉は便利だ。

 「私は私立探偵です」というと大抵の相手は協力的になる。

 

 ライネスの事は「調査会社のインターン」と紹介した。

 加えて「こう見えて彼女は21歳だ」と言うのも忘れなかった。※

 

 我々が最初に目指したのはウォーキングツアーを受付しているインフォメーションセンターだった。

 ウェイバーが幽霊病を患った理由はまず間違いなく柄にもなく参加したウォーキングツアーだろうと双方一致で踏んでいたからだ。

 

 こういったツアーは突然ツアー内容が変更になることが多々ある。

 当日のガイドに行先を聞くのが最も確実だ。

 

 それで私はいつものように私立探偵を名乗り、当日のガイドに行先を訪ねたわけだ。

 

「少し待ってくださいね」

 

 青年は愛想よくカウンターに置かれたラップトップを操作し始めた。

 

  〇

 

 深夜。

 パブのラストオーダーの時間も終わり、本格的に街が寝静まる時刻。

 

 私とライネスは再びエディンバラ旧市街に赴いていた。

 通り沿いに並ぶ観光客向けの店は閉まり、それらを目当てにした人々もいない。

 

 昼間の長閑な観光地は静寂と神秘、そして霧雨と暗雲に包まれていた。

 鄙びた焦げ茶色の建物を街頭が照らし、霧の中にぼうっと浮かび上がらせている。

 

 我々は辿るべき道を再確認していた。

 

 ウェイバリーブリッジを出発して、エディンバラ城、グラスマーケットにグレイフライアース墓地、ロイヤルマイル、メアリー・キングス・クローズに立ち寄って終着はホリルードハウス宮殿。典型的な観光客ルートだ。

 

 しかし、だから逆に厄介だ。この土地は幽霊単に事欠かない。エディンバラ城とホリルードハウス宮殿はスコットランドの血塗られた歴史そのもの、ロイヤルマイルはこの街の歴史そのものだし、グラスマーケットは連続殺人鬼が暗躍した場所だ。メアリー・キングス・クローズは貧民街で、残りは墓地。

 

 幸いなのはエディンバラ城とホリルードハウス宮殿は除外していいことだ。夜間は開いていないから前を通っただけと当日のガイドから言質も得ている。

 

 我々はロイヤルマイル東端のホリルードハウス宮殿から出発し、西端のエディンバラ城を目指して二人だけのウォーキングツアーを開始した。

 

 しんと静まり返った石畳の道をゆっくり魔術回路に神経を集中させながら歩く。

 冷たい深夜の風に乗ってこの古都自体が帯びた魔力が流れてくる。

 

 今回の敵はおそらく大した相手ではない。

 それでも注意は必要だ。

 

 だというのに、ライネスには恐ろしく緊張感がなかった。

 慎重な彼女らしくない。

 ポイントで神経をとがらせている私に対し、彼女は自慢の自律型礼装を出そうとすらしない。

 

 彼女は昼間中断された「英国ロック史上最高のドラマーは誰か?」議論の続編として「英国ロック史上最高のギタリストは誰か?」という議題を持ち出していた。

 

 彼女はジミー・ペイジを推し、私はエリック・クランプトンを推した。

 

 議論は白熱し、「ペイジ時代のヤードバーズよりもクランプトン時代のヤードバーズの方が上だということを『ファイブ・ライブ・ヤードバーズ』が証明している」と私が主張すると、彼女は「デレク・アンド・ザ・ドミノス以降のクランプトンは中身の無い音楽をアルマーニで包んでいるだけだ」と主張した。

 

 コツコツと靴底が石畳をたたく音が深夜の街に響く。

 

 セント・ジャイルズ大聖堂が見えるあたりまで進んだところで――私は彼女が諧謔的な笑みを浮かべていることに気付いた。

 ある程度の付き合いがあるから分かる。

 

「全く。道理で緊張感がな過ぎると思った。

この事態、すでに見当がついてるんだな?」

 

 彼女はまるで悪びれることなく言った。

 

「君とのおしゃべりと散歩が思いのほか楽しくてね。引き延ばしを計ってしまった。

それで、私の見当だけど……言明するのは止そう。面白くないからね。代わりにヒントだ。君の解析結果の『小さい存在』についてよく考えてみるといい」

 

 私は考え、そして答えに至った。

 

「人ではなく小動物か?」

「そう。動物だよ。エディンバラで動物霊。これで答えは絞れただろう?」

 

  〇

 

 セント・ジャイルズ大聖堂を背にロイヤルマイルを西に進み、ジョージ四世ブリッジを左に折れる。

 ヴィクトリア・テラスを横目にヴィクトリア・ストリートを進むとロイヤルマイルとは違うエディンバラの姿が見えてくる。

 

 ヴィクトリア・ストリート沿いに立ち並ぶ建物はくすんだ茶色ではなくカラフルな装飾で彩られている。この先に広がるグラスマーケットは二十世紀後半の地価高騰により今ではエディンバラで最も活気のあるエリアになったが、"こちら側"の側面から見ると、ここには別の顔がある。

 中世の貧民街で、公開処刑上で悪名高いバークとヘアが暗躍した場所だ。

 深夜のグラスマーケットは静寂に包まれ、土地の怨念のようなものが渦巻いていた。

 

 グラスマーケットを南に向かう。

 そこに我々の目的地グレイフライヤーズ墓地がある。

 幽霊嫌いのグレイからしたらこんな場所(墓地)がウォーキングツアーに含まれていると知っていたら参加していなかっただろう。

 ガイドの青年によると客からのリクエストで当日、急遽付け加えられたらしい。

 

 グレイフライヤーズ墓地は豊かな緑があふれ、目に優しい墓地だ。

 夏の昼間ならベンチで転寝してみたいほどに。

 

 今は冬で、深夜。

 墓地には濃厚な魔力が漂っていた。

 

 魔術回路を励起させ、漂う魔力を解析する。

 種々の魔力に混ざり、知っている魔力――幽霊病に罹患したウェイバーから感じたのと同じものが漂ってきた。

 間違いない。ここに元凶がある。

 

「いい記念碑だね」

 

 グレイフライヤーズ墓地の入り口にあるモニュメント。

 ライネスはその前にたたずんで暢気につぶやいた。

 赤い御影石で作られたモニュメントにはこう刻まれている。

 

「グレーフライヤーズ・ボビー - 1872年1月14日死去 - 16歳 - 彼は、主人への忠誠と愛情とは何かということを、私たちに教えてくれる」

 

 モニュメントにはスカイ・テリア犬の彫像が並んでいる。

 

「三年ほど前だったか?兄上が呪詛をかけられたことを覚えているかい?」

 

 ライネスに言われ、私はそのことを思い出した。

 

 三年ほど前。

 ウェイバーは誰かから命を狙われ、呪詛をかけられた。

 本人も知らない間に一匹の猫が身代わりで犠牲になった。

 

「そのことを兄上は自分が思っていた以上に気に病んでいたんだろう。それが幽霊の『共感』を呼んだんだ」

 

 グレイフライヤーズ・ボビーはエディンバラ市警に夜警として勤務する主人のジョン・グレイに先立たれ、自身が世を去るまでの十四年間を主人の墓石で過ごした忠犬だ。

 ボビーは一個の怨念であると同時、動物霊を象徴する存在でもある。

 私が解析したところ、この墓地のこの場所にはありとあらゆる動物霊が集まっていた。

 ウェイバーに取りついたものがそのうちのどれなのか、本来はどこのモノなのかわからない。

 確かなのは、彼の幽霊病の原因はここに集まった動物霊であるということだ。

 

「アンドリュー。君が兄上から感じたものと同じものがここにある。間違いないね?」

 

 彼女ははっきりした口調で私に念押しした。

 

「ああ。間違いない」

 

 私ははっきりした口調で答えた。

 

「静かにおやすみ」

 

 ライネスは夜霧に消えそうな声でつぶやくと祈りの言葉を口にした。

 

「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。

また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている」

 

 祈りは夜霧に乗り、深夜の暗闇に消えていく。

 

「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である」

 

 ライネスの唇が動きを止めた。

 後には深夜の静寂があるだけだった。

 

  〇

 

 ロンドンに連絡すると、電話口からグレイが元気な声で「師匠がすっかり良くなりました」と答えた。

 私とライネスは念のためもう一日エディンバラに滞在することにし、昼間は観光を楽しんだ。

 ライネスは「私のようないたいけな少女とどう見ても親戚には見えない君が並んでいたら警官にはどう見えるかな?」とにやりと笑った。

 私は「あくまでも保護者だと主張するよ。君のオムツを変える重要な任務があるとも主張するね」と返した。

 

 夜は流行のレストランに予約を入れムール貝とシーフードチャウダーのディナーを味わっていた。

 加えて私は水割りしたラフロイグを、ライネスはトワイスアップしたボウモアを傾けた。 

 ムール貝はスコットランドの名産で、同じく名産品であるスコッチウイスキーと合わせると1+1が2ではなく、10にも20にもなる。

 よく英国の料理は不味いと言われるが、スコットランド人とウェールズ人は「英国料理が不味いのではなくイングランドが不味いだけだ」主張する。

 彼らの主張を全面的に肯定する気はないが、今一時はスコットランド人の主張を受け入れたい。

 

 ライネスが多めのチップを払い、レストランを出るとそのまま新市街ローズストリート沿いのパブに向かった。

 パブに入ると「彼女は21歳だ」と忘れずに主張し、私はベルヘイブンを。ライネスはイニスアンドガンのパイントとショットのグレンフィディックを注文した。

 

 平日の夜だがパブは賑わっていた。

 奥の席では団体客が陽気に騒いでいる。

 会話の内容に耳をそばだててみたがあまりの無内容さに意識を向けるのを止めた。

 

 テレビではレンジャーズとセルティックのグラスゴーダービーの試合が流れていた。

 セルティックはシュンスケ・ナカムラがゴール前絶好の位置でフリーキックを得るという絶好の機会を迎えていた。

 シュンスケの左足から放たれたボールは無情にもゴールポストにぶつかって跳ね返った。

 テレビに近い席では熱心なセルティックファンと見える若い男の二人組がしきりに「ファック」を連呼していた。

 

「さて、今回の総括は?」

 

 パイントグラスの半分ほどまでに減ったビールを観ながらライネスが言った。

 

 私は所見を述べた。

 

 結果論だが私は謎解きのパートナーに最適に相手を選んでいた。

 今回の謎解きはライネスの術者としての能力以上に「ウェイバーという人物をよく知っている」ことがキーになった。

 彼としてはライネスに自分をからかう材料をさらに増やしてしまったことになるが背に腹は代えられまい。

 

 ライネスは悪戯な笑みを浮かべて「うんうん」と聞いていた。

 私はさらに加えた。

 

「これは僕の私見だが、ウェイバー君が憑りつかれたのは、グレイが一緒に居たのも関係あるかもしれない」

「へえ。拝聴しようか?」

 

 私は続けた。

 

「グレイは常にウェイバーについている。僕らは見慣れているが年端もいかない少女が長身の中年に片足突っ込みかけた男に常時ついているのはある種異常だ。親族でも何でもない、関係上は師匠と弟子に過ぎないのにな。

そこから忠犬とご主人を連想するのは意地の悪過ぎる連想か?」

 

 彼女は珍しく眉をしかめた。

 

「君は本当にいい性格してるな」

 

 私は「君ほどじゃないよ。レディ」と答えた。

 

「しかし意外だったのは、ウェイバー君があの猫のことをそんなに気に病んでいたことだ。おそらく、無自覚にではあるのだろうがな」

 

 魔術の世界は時代遅れな権謀術数の世界だ。

 必要とあらば身内であろうと嵌めるし、毒殺しようともする。

 本来ならばそんな甘さが介在する余地もない。

 

 私がそう言うと、さしもの彼女も少しアルコールが回ったか。

 うっかり口を滑らせた。

 

「だけど、まあいい。そういう兄だから、私もエルメロイを任せてみようと思ったのだから」

 

 そして即座に口を滑らせたことを悟った。

 真っ赤になって私を睨んでいる。

 私はニヤリと笑っていた。

 どうやら彼女の癖が感染(うつ)ったらしい。

 

「まったく。素直じゃないな、レディ」

 

 その後、「そんな恥ずかしいことは言っていない」「言った」で口論になり、なぜか飲み比べで決着をつける流れになった。

 ライネスは未成年であることが疑わしくなるほどの凄まじい酒豪だった。

 翌朝、私は完全に記憶を失っていた。

 これも悪霊の仕業に違いあるまい。 

 

  〇

 

 事件は容易く解決し、ロード・エルメロイ二世は何事もなかったように教壇に復帰した。

 若輩者の彼にとって幽霊病に罹患するなど致命傷になりかねないが、その辺りはどうやらライネスがうまく腹芸で切り抜けたらしい。

 本当に抜け目がない。彼女との仲が良好で良かった。

 

  〇

 

 数日の後。

 私はウェイバーに呼び出され、彼のフラットを訪れていた。

 

 部屋は元の二階の、雑然としたごみ屋敷寸前レベルの部屋だった。

 彼は私にスコッチと葉巻を勧め、そのまま居心地悪そうに黙っていた。

 

 グレイはおらず我々は二人きりだった。

 呼び出された理由は見当がついていたが、面白そうなので私は彼が何か言うまで黙っていることにした。

 やがて意を決したらしく、深いため息をついて彼が切り出した。

 

「お前に言うのは極めて遺憾な言葉だが……ありがとう」

 

 私はニヤリとして何も言わなかった。

 彼は長身を居心地悪そうに縮めて深くソファに身を沈めている。

 私が無言で居続けるので、所在なさげにボサボサになった長髪を掻き始めた。

 

 このぐらいにしておいてやろう。

 私は言った。

 

「兄妹揃って素直じゃないな」

 

 彼は吐き捨てるように言った。

 

「うるさい」

 

 

※イギリスの法定成人年齢は18歳ですが、1960年代の法改正まで21歳が成人だったので現代においても21歳という年齢は特別な意味があるらしいです。

私は21歳の誕生日をイギリスのオックスフォードで迎えたのですが、現地の人が「21歳の誕生日は特別」と言っていました。




アニメ、始まりましたね。
第一話は高品質な同人みたいで最高でした。
次回も楽しみ。


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case.彼らの見た夢 前編

 秋は「芸術の秋」と極東の地、日本では言われている。

 かの国で秋は美術展が集中的に開催される時期らしい。

 私はこの大都市ロンドンでも有数の芸術の匂いがするエリアを目指していた。

 

 地下鉄のノーザンラインに乗り換え、ハムステッド駅で降りる。

 赤茶けた駅舎を出ると、その先にはヨーロッパ最大の都市には不似合いな閑静なエリアが広がっている。 

 

 ハムステッドは、ロンドン中心部カムデン・ロンドン特別区にある。

 ロンドンの北郊広大な公園ハムステッド・ヒースとハムステッド・ハイ・ストリートを中心にした緑の多い地区で古くから芸術家や文人に愛されてきた。

 現在は高級住宅地として知られるがヒースの南側には、かつてジョン・キーツやジョン・コンスタブル、D・H・ローレンスが居を構え創作活動に励んできた。

 

 あまり来ないエリアだ。

 一気の気温の下がる秋だが、寒さは真冬に比べればまだ穏やかで雲は多めだが概ね晴れている。

 せっかくなので目的地に向かう前に寄り道をした。

 

 十七世紀に建てられたクラシカルなフェントンハウスの前を通り過ぎ、さらに十八世紀の遺物であるバーグハウスを横目に見る。

 露店で買った濃くて旨いホワイトコーヒーを味わうと、ヤクザな私でも何となく文化的な人間になった気分になる。

 

 ケンウッドハウスで美術鑑賞するプランが頭をよぎったがさすがにのんびりしすぎだと思い、そのプランは廃棄しハムステッドハイストリートに向かった。

 ハムステッドハイストリートはハムステッドに二本ある大通りの一つだ。

 コーンウォールやヨークシャーあたりから出てきたお上りさんなら気絶しそうなほど洒落たショップが軒を並べている。

 細い脇道が大通り沿いに何本か通り、細道には歴史のあるパブやアンティークショップがひっそりと佇んでいる。

 

 目的地は脇道の一本にある。

 「ペリンズコート」の標識を確認し、その脇道に入る。

 ハムステッドはアンティーク好きの間でもよく知られるエリアだが、ここにはアンティークショップがならぶアーケードがある。

 ひどく興味を惹かれるアンティーク店のショーウインドーの前を通り過ぎ、徒歩で数分。

 

 無個性な赤茶けた二階建ての建物の前に辿り着いた。

 住所を確認するとどうやらここで間違いないらしい。

 このエリアの相場からして賃貸料は月額二千二百ポンドというところだろうか。

 

 正面玄関前で呼び鈴を鳴らすとロックが開き、私は目的に部屋に向かった。

 一階の角部屋だ。

 

 部屋の前でノックをする。

 ノック回数は二回でも、三回でも、ベートーヴェン式の四回でもなく、二回+三回の約束だ。

 部屋の主は山ほどの権謀術数に巻き込まれてきた経歴の持ち主なので慎重になるのも仕方ない。

 

 プロトコル通りの奇妙なノックをするとドアが開いた。

 色白なまだハイスクールに通っていてニキビの心配でもしていそうな年頃の少女だ。  

 

「アンドリュー。よく来てくれた」

「ああ、久しぶり……数日ぶりだな。ライネス」

 

 「入ってくれ」というとライネス・エルメロイ・アーチゾルテは私を部屋に迎え入れた。

 

  〇

 

 ライネスから呼び出しを受けたのは今朝の事だ。

 彼女の呼び出しが横暴レベルで急なのは今更驚くことでもない。

 こうして急な呼び出しをするのは私の技量や人格への信用も含まれてのことであり、決して不快とは思わない。

 都合の良い時に呼び出せる便利な存在と思われている可能性も否定はできないが。

 

 部屋は白を基調にした清潔感のある作りだった。

 エルメロイが持っている物件の一つらしい。

 私は月の賃料を二千二百ポンドと踏んでいたが実際の賃料は二千二百と三十二ポンドだった。

 「惜しいな」と私は思った。  

 

 部屋から魔術師のテリトリーに踏み込んだ時特有の違和感がする。

 どうやらこの部屋はライネスの工房になっているらしい。

 工房として不要なものは生活必需品以外排除されているらしく、部屋には箪笥が一棹と椅子と机、あとはブラックティーの香りがするポットとカップがあるだけだった。

 

 そして椅子と机ではルネ・マグリットのシュールレアリスム絵画を思わせる奇妙な光景が展開されていた。

 

「まずはお茶でも飲んで落ち着こう。砂糖はいくつ要る?」

 

 それは名状しがたい奇妙な光景だった。

 ライネス自慢の変形型の自律思考礼装トリムマウが人型の形状で椅子に座ったまま、ただ虚空を眺めていた。

 私は一旦思考を放棄し、ただ問いに答えた。

 

「一つ半で頼む」

 

  〇

 

 ティースプーンがブラックティーを攪拌し、ティーカップのフチにあたるカチャカチャという音が響いている。

 あたりを静寂が包んでいるからこそ、その音がはっきりと聞こえる。

 ティースプーンには本物のアンティーク品であることを示す認証マークがついている。

 おそらく銀製なのだろう。

 銀は錆びやすく、銀製品を持っていることは手入れをする召使を抱えていることを示す社会的地位のシンボルとしての役割がある。

 ただの成金趣味ではない、シンプルだがとても良い趣味だ。

 代々の高貴な家系だからこそこれは彼女によく似合う。 

 

「こちらが何を言っても『お嬢様、これは凄いです』の一点張りだ」 

 

 私のアンティークに対する社会的考察……現実からの思考の逃避をライネスが遮断した。

 人型の形態をとったトリムマウは相も変わらずぼんやりと虚空を見上げていた。 

 

 トリムマウは水銀の礼装に疑似人格を与えたものだ。

 学習能力もある。

 問題は的確な分別を持ち合わせないため、何でも吸収してしまうことだ。

 今回はその「何でも」が相当な劇物だったと見える。

 

「原因は……ソレか?」

 

 トリムマウが座っている椅子には椅子とセットで存在するのが不文律の存在であるテーブルがある。

 テーブルの上には劇場のようなものを再現したミニチュアが載っていた。

 その劇場のようなものを再現したミニチュアのようなものはただならぬ魔力をあたりに放出していた。

 

「近所のアンティークショップで見つけてね、あまりにも異様な存在感を放っていたから思わず購入したんだ。ほんの四百五十ポンドだった。店主の話だと1940年代にフランスで作られたものらしい。正確にはアンティークというよりヴィンテージだね。出所が不確かだからその制作年代も制作国も本当か怪しいものだがね」

 

 私はその謎のヴィンテージ品にそっと近づき、触れないように検分した。

 精巧な作りだった。

 二百席ほどの座席が一つ一つ丁寧に並べられ、舞台の上にはスクリーンがある。

 ぱっと見は劇場に見えたが映画館らしい。

 

「あまりにも異様な魔力を放っていたから解析してみようと思ったんだが、直接触れるのは不味いと直感した。だからトリムマウをバイパスして触れてみようと思ったんだ。そうしたらこのザマだ」

 

 慎重な彼女らしい。彼女はその身を幾度となく狙われてきた経歴の持ち主だ。

 話を聞く限りこのミニチュアは彼女が偶然見出したものだが、誰かの罠である可能性も否定できない。 

 

 トリムマウは何かに囚われているように見える。

 すると、このミニチュア自体が極小の結界なのかもしれない。

 

「これは私の分析なんだがね。どうもトリムマウは夢を見ているらしい」

「夢?疑似人格しか持たないトリムマウがか?」

「夢……というか夢に近いナニカだ」

 

 ライネスですらこの事象を正しく把握できていないようだ。

 するとやることは一つしかない。

 

「それで、高貴なるレディ・ライネスに代わって下賤なるアンドリュー・マクナイトに解析させようと?」

「おいおい。そこまで自分を卑下するな。君は優秀だよ。だから君を呼んだんだ。兄上では触れた時点で囚われてお終いだろうからね」

「評価してもらって光栄だが、僕に解析させようとしてるのは事実だろ?」

「心配するな。君が戻ってこないようなら私も解析に加わろう。君を犠牲にするのは私の本意じゃない」

「犠牲にする気はないが実験台にするぐらいのつもりはあるんだろ?」

「実験台とは人聞きが悪いな。君は私の……そうだな、助手でどうだ?」

 

 彼女に腹芸で敵う気が全くしない。

 ライネスは私にとって重要なお得意様の一人で権力者だ。

 おまけに過去に何度か借りがある。

 受けるしか選択肢は無いようだ。

 「まったく光栄だね」と私は吐き捨てた。

 

「仕方がない。では、やるか」

 

 私は酷く進まない気分で仕事にかかろうとした。

 その時、ドアをノックする音がした。

 

 二回+三回のプロトコル通りのノックだ。

 私とライネス、双方に緊張が走った。

 ライネスは唯一の戦闘手段であるトリムマウが使えない。

 

 気は進まないが妥当な判断として、懐から三十八口径を抜きゆっくりとドアに歩み寄った。

 ドアの向こうの人物は私が歩み寄る気配でも感じたのだろうか。

 私がドアのすぐ前に辿り着くと声がした。

 

「アンドリュー、いるんだろ?開けてくれ」

 

 声の主は日本語でそう呼びかけた。

 私はこの声を知っている。

 そして、その声は思いもかけない人物のものだった。

 

 驚きのあまり、勢いよくドアを開けると声の主はやはり私の知る人物で、そして思いもよらない人物だった。

 

 その人物の来訪はライネスにも驚愕をもたらしたようだった。

 

「……アオザキ……トーコ!?」

 

 思いがけない人物、蒼崎橙子がドアの向こうに悠然と立っていた。



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case.彼らの見た夢 後編

 蒼崎橙子は我々魔術師の間でも伝説的な存在だ。

 

 時計塔において「魔術基板の衰退したルーンを再構築」「衰退した人体模造の魔術概念の再構築」という一代で至るにはあまりにも大きすぎる業績を上げ、時計塔の頂点である「冠位」となった。

 

 しかしその高すぎる技術が仇になった。

 協会から封印指定を受け出奔。

 1990年代に日本の某都市に結界を張って隠遁していた。

 私が彼女と出会ったのはその頃だ。(※エピソード"Tokyo revisited"をどうぞ)

 

 彼女は出会った頃と全く変わらない容姿だった。

 エルメロイⅡ世の推測によれば年齢を「固定している」らしい。

 

 私にとって彼女は旧友でもあるが、しばらく音信が途絶えていた。

 音信が途絶えていた間もどこかで見ていたのだろう、一時を境に時折姿を現すようになった。

 

 橙子は当然のように部屋に上がり込み、テーブルの前に陣取った。

 

「ここに現れたということは、ソレが目的か?」

 

 彼女はニヤリと笑って答えた。

 

「お前は本当に面白いことにばかり巡り合うな。おかげでつい姿を現してしまった」

 

 ライネスと橙子は面識があるようだ。

 当然ながら橙子の術師としての能力は嫌というほどわかっている筈だ。

 部屋に上げるかどうかは多少迷っただろうが、危険よりも益の方が大きいと判断したのだろう。

 

芸術家(アーティスト)だな」

 

 彼女はミニチュアを検めると唐突に言った。 

 

「何だって?」

「コイツを作ったのはアーティストだ。――さあ、早速入ってみるとしよう」

 

 彼女の思考には全くついていけない。

 

「入る?どう意味だ?」

「私の見立てではこれは極小の固有結界だ。面白いことになるぞ。お前も手伝え。万が一があったら私も困るからな」

 

 私とライネスはしばし密談し、結局橙子の言うとおりにすることにした。

 橙子ほど信頼に値しない人物はそう居ないが、かと言って事態を収拾できる者もそうは居ない。

 サマセット・クロウリーならば容易に解決しそうだがあの男がこの事態に興味を持つか微妙だし、時計塔の法政科に連絡したらどう扱われるかわからない。

 両儀式の魔眼なら一振りで破壊できるだろうが彼女は遠い海の向こうだ。

 橙子の要望通り私が彼女と一緒に「入る」ことにし、バックアップとしてひとまずライネスは状況を見守ることになった。

 

 魔術師の取引は基本的に等価交換だ。

 ライネスは危険物の解析にに対する見返りを聞いた。

 橙子は「このミニチュアをくれ」と要求し、ライネスは逡巡の後それを呑んだ。

 

 虚空を仰ぐトリムマウを横目に奇怪なミニチュア状の代物の前に立つ。

 奇怪な代物は妖気とでも形容したくなる異様なオーラを放っていた。

 

「では行くか。シートベルトを閉めろよドロシー。カンザスにはバイバイだ」

 

 腹立たしいほど気の利いた橙子の合図で我々はその奇怪なモノに「入った」

 

  〇

 

 真っ暗な闇が広がっている。

 前後も左右も上下も全くの闇だ。

 

 私はその暗闇の中で全身に浮遊感を感じていた。

 スカイダイビングの時の感覚に似ている。

 落下しているのかもしれない。

 だがスカイダイビングとは違う穏やかな落下だ。

 

 体は浮遊感とも落下感ともつかない不思議な感覚を味わい続け、急にそれは途切れた。

 どこかに体が落ち着いたようだ。

 

 光が見える。

 私はとにかく闇から逃れたかった。

 妥当な本能的判断に従い、私は光の方へ歩みを進めた。

 

 光はドアの形をしていた。

 ドアの形をした光をくぐるとその先は映画館のロビーだった。

 ロビーはガラガラで人の気配がなかった。

 

 ロビーでは懐かしいレトロな音楽が流れている。

 確かこれは『シェルブールの雨傘』のテーマだ。

 父方の祖父は映画好きで、とりわけ古いヨーロッパ映画を好んでいた。

 映画の内容はさっぱり思い出せないが私の脳はこの音楽を記憶していた。

 聴覚的な記憶は視覚的な記憶よりも保存性が高いのかもしれない。

 

 私はそのガラガラのロビーをそぞろ歩きした。

 ロビーには灰皿があり誰かの吸いさしのタバコが煙を燻らせている。

 現代の劇場では見られなくなった光景だ。

 

 壁には『メトロポリス』から『ロード・オブ・ザ・リング』まで様々な年代の作品のポスターが貼られている。

 ここが現実世界でないことがよくわかる。

 

 私はポスターを一枚一枚検めながらロビーをそぞろ歩きした。

 そぞろ歩きしていると一人の老紳士に出くわした。

 

 老紳士は古風なスーツを着て古風なカイゼル髭を生やしていた。

 どこかで見たことがあるような気がする顔だ。

 だが、誰だか思い出せない。

 

 私がひとまず挨拶をしようとすると老人は言った。

 

「そろそろ始まるぞ。お若い人」

 

 古風な響きのフランス語だった。

 そして劇場への入り口と思われるドアを指差した。

 

 ドアを開け、劇場に入る。

 中はかなり広かった、

 客席は二百席はあるのではないだろうか。現実世界で見たミニチュアと同じぐらいだ。

 客席はガランとしていたが、たった一人客がいた。

 トリムマウだった。

 私は声をかけようとし、別の声に遮られた。

  

「面白い。まるで現実の映画館にいるようだな」

 

 いつの間にか隣に橙子が立っていた。

 

「エルメロイの姫君は『夢』と表現していたが確かにこれは夢に近いな。より正確には夢を見ているときにそれが夢と気付いていない時のような感覚だ」

 

 たしかにその空間には異常なまでの実在感があった。

 明晰夢は別として、人は夢を見ているときそれを現実と感じている。

 この感覚は覚醒する寸前に見ている夢に近い。

 

 開演のブザーが鳴った。

 

「面白い。この空間は徹頭徹尾映画館らしい。お前も座れ。目にものを見せてもらおうじゃないか」

 

 橙子は悠然と座り、私にも座るように促した。

 劇場が暗くなり、スクリーンに何かが映し出された。

 

 それは映画だった。

 二十四フレームで構成された連続した絵の連なり。

 複数のカットがシーンを構成し、複数のシーンがシークエンスを構成し、複数のシークエンスが一つの作品を構成する。

 十九世紀にリュミエール兄弟が発明したそれは当時の人々を驚愕させ、現代の人間にとっては当たり前の娯楽であり芸術として受け入れられている。

 

 目の前で流れる映画は異常なまでに魅力的だった。

 魔的と言ってもいい。

 抗う気すら起きないほどに私はスクリーンの世界に没入していた。

 

 私はふと頬に冷たい感触を感じた。

 頬に手を触れると指先が湿った。

 

 悲しくて泣いたのでも嬉しくて泣いたのでもない。

 恐怖して涙したのでもない。

 私はただ感動していた。

 まるで脳にダイレクトにイメージを送り込まれているような異常なまでの感情の高ぶりだった。

 

 そんな時間がどれほど続いたか。

 結界内での時間に意味などない。

 それは一週間だったかもしれないし、五秒だったのかもしれない。

 ただ体感的にはそれが永遠であるように感じた。

 

 それが不意に遮られた。 

 

「もういいだろう」

 

 隣の橙子が平然と言った。

 

「素晴らしい作品と言えなくもないが、この映画には致命的な欠点がある。いつまで経ってもエンドロールが流れないことだ。未完の小説も未完の絵画も未完の交響曲も連載が終わらない漫画も結局どこまで行っても『未完』という欠点がつきまとう。そいつは致命的な瑕疵だ」

 

 スクリーンでは変わらず二十四フレームの創造物が流れている。

 その美しき創造物の呪縛に私は抗えなかった。

 

「結界の呪縛を解いたのか?トウコ」

 

 彼女は答えた。

 

「この結界にそんなカラクリは無い。強制的に縛り付けているのではなく、観客は自主的に席に座っているんだ。そうでなくてはいけないからな。芸術家としては素晴らしい姿勢だ。呪縛を解く方法は一つだけ。ただ席を立てばいい」

 

 そしてその発言の通り、彼女は難なく席を立った。

 

「見ての通り私は席を立った。お前も立て。出来るはずだ」

 

 「嘘だろう」と思いつつ、私は足に力を入れた。

 体はたやすく座席から離れた。

 

 客席から離れるのが名残惜しかった。

 しかし私には現実世界で仰せつかった用事がある。

 

「トリムマウ。行くぞ」

 

 スクリーンを凝視しているトリムマウの肩を叩き、声をかけた。

 

「マクナイト様、いらしてたのですか?」

「ライネスお嬢様が呼んでいる」

 

 礼装であるトリムマウにはこの言葉が最も強制力がある。

 トリムマウはあっさりと立ち上がった。

 

 トリムマウを連れた私は一足早く出口に向かった橙子の後ろに続き、ロビーに出た。

 

「何だアンドリュー。お前、泣いてるのか?」

 

 涙は拭ったはずだったが跡が残っていたようだ。

 私は悔し紛れに言った。

 

「君に貸した金が返ってこないのが悔しいだけだ」

 

  〇

 

「このミニチュアの中の世界は集合的無意識の具現化だ。ただし、映画監督という限定されたカテゴリーのな」

 

 私と橙子、トリムマウの意識が戻ったの確認するとライネスは「分析を聞きたい。それも含めて対価を払う」と橙子に要求した。

 橙子はそれを承諾し、我々はブラックティーに口をつけながら彼女の分析を拝聴した。

 

「アンティークショップの店主が言うとおり、恐らく出自は二十世紀のフランスなんだろう。映画誕生の地だからな。あの地ではリュミエール兄弟が映画を生み出し、多くの映画監督たちが発展させてきた。このミニチュアを作ったのが誰かは知らんが、このミニチュア自体は巣みたいなものだ。映画監督の集合的無意識を集めて飼育するためのな」

 

 ふとロビーでみた老紳士の事を思い出した。

 

「ジョルジュ・メリエスだ」

 

 あの老紳士の顔を思い出した。

 あの顔は昔、写真で見たジョルジュ・メリエスのものだ。

 ジョルジュ・メリエスは映画の技法を一歩先に進めた人物だ。

 映画監督の集合的無意識というカテゴリーに含まれていてもおかしくない、

 

「そうか?私にはジャン・ルノワールに見えたがな。まあ、誰に見えたとしても大して意味はない。それは集合的無意識の中から私たちの意識が抽出したものにすぎないからな」

 

 ライネスは静かにブラックティー攪拌しながら咀嚼するように頷いた。

 

「君たちが見たものは映画監督の集合的無意識が作った映画という概念の黄金比みたいなもの、ということか」 

 

 橙子が満足げに頷いた。

 

「そうだ。仮にメリエスやルノワールが実際に集合無意識の中に含まれていたとしてもそれは構成要素のごく一部に過ぎない。二十世紀初頭の映画と比べると私たちが見たあの映画には余りにもテクニックがありすぎる。複雑な移動撮影もモンタージュ理論もメリエスの時代には無かったものだ。ルノワールの時代の物だってあんなに洗練されてない。確かにあの作品はメリエスなのかもしれないが同時にルノワールでもあるし、ルイ・マルでもある。ゴダールでもあるし、トリュフォーでもあるかもしれない。このロンドンに辿り着いてからデヴィッド・リーンやオリヴァー・リードも吸収しているかもしれない」

 

 そこまで語り終えると彼女は静かにブラックティーを含んだ。

 

「しかし、一つ疑問が残るな」

 

 私は言った。

 それに橙子が鋭く反応した。

 

「何だ、言ってみろ」

「なぜ、あの映画には終わりが無いんだ?芸術家なら作品を完成させることの重要性ぐらい理解しているだろう」

 

 彼女はニヤリと笑った、

 

「芸術の完成に終わりはないということだろう。ジレンマだな」

 

  〇

 

 私はレディ・ライネスへの貸し、橙子は世にも珍しい魔術的逸品という対価を受け取りフラットを後にした。

 体感と違い外の時間は殆ど変わっていなかった。

 秋の英国は日が短くなるが、まだ外は明るかった。

 

「その危険物、どうするつもりだ?」

 

 当然の疑問として私は彼女に聞いた。

 

「そうだな。もう少し楽しんでみたいところだが、サマセット・クロウリーにでも売りつけてみるか。というか奴の事だから、もう事態は把握していそうだがな」

 

 橙子とクロウリーは気の合う間柄だが、腹の内を探り合う仲でもある。

 二人がお互いの腹を読みあう現場など可能な限り居合わせたくない。

 

「お前はどうする?わざわざハムステッドまで来たんだ。私とケンウッドハウスに寄り道でもするか?」

 

 彼女は人格はともかく、魔術師としての腕は超一流で芸術家でもある。

 魅力的な申し出だ。

 

「いいだろう。芸術の秋だからな。日本ではそう言うんだろ?」

 

 私は申し出を受け、彼女は満足そうに頷いた。

 そして私はケンウッドハウスは入場無料だったかどうか記憶を手繰った。



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