メトロポリタン・ナポリタン (I'll be back)
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Before dawn
プロローグ スマートフォンが壊れまして


 

俺の物語は多分、中学生の春が始まりだ。

 

新1年生として都内の公立中学に入学した俺は、両親にスマートフォンを買ってもらったのだ。

ちょうどその頃はスマートフォンというものが世間に出回り始め、ガラパゴスケータイから移行す人が増えていた時期で家族そろってのスマホデビューであった。

 

今さっき言った通りだが、俺の人生はスマートフォンを手にしたあの日から始まっている。

友人との会話や好きなあのことの初々しいやり取りまで、スマートフォンはいつだって俺の傍にいた。

寝坊助な俺を起こしてくれるのはもちろんスマホ。勉強の時間を知らせてくれるのだってスマホ。友達の声を届けてくれるのだってスマホ。まさしくスマートフォンは俺の体の一部である。

 

 

そんな俺も今日で21歳を迎えた。

大学3年生、いよいよ本格的に人生というものを意識せねばならない時期に差し掛かっていた。

これまでは何となくで生きてきた。言われた通りに勉強し、お手本通りの生活態度。お決まりに次ぐお決まりを俺は守り続けてきた。なぜなら俺たちはそれを強制されていたからだ。

 

しかし、義務教育が終了し、いよいよ大人の仲間入りを果たすとなると、世の中は一気にその態度を豹変させる。今まで散々強制していたくせに急に自由を明け渡してくる。

 

「そんなもんいるか!」 「俺たちは強制されることで生きて行けるんだ! 」

 

誰もがそう思っているはずなのに、俺の周りでそんなことを言っている人間は誰もいない。

_____俺の周りでなくともいない。誰もが受動的だ。

 

考えてみれば、いつから人は喋ることを止めたのだっけ。

思いのすべてを発することを止めたのは、今から何年前の話だろう。

 

だがまあ、そんな事はどうでもいい。

人が話そうが話すまいが、俺の元には今日も今日とて友人が集まってくる。

もうすぐ大学の講義が始まるようだった。

 

『よぉ、万代《よろずよ》。今日は何だか浮かない顔してるんじゃないか?』

『そうかもなぁ...実は、さっきまた転んだんだよ』

 

そう言って俺は足の傷の画像を送る。これは大学に来る途中の駅のホームで転んだときにできた傷だ。階段を上っているタイミングで転んだために、恥ずかしさも相まって最悪であった。

 

『またかよww 相変わらずお前って怪我しやすいよな。スマホは無事なのか?』

『ああ、それは大丈夫だ。大切なものだから壊したくないし、壊れるといろいろ手間だろ?』

『違いないなwww』

 

そう言って笑いの顔文字を送ってくる友人。

そう、彼の言う通り俺はどうやら怪我をしやすい質らしいのだ。

 

この呪いにも近しい性質は俺の人生の始まりと同時に起こり始めた。

俺は必ずといっていい程、毎日どこかしらに怪我を負っている。それは小さいものから大きいものまで様々だが、一日に一回だけ傷を負うのだ。

 

俺が単純にどんくさいのか、それとも神様が俺の運勢ステータスを最底辺に設定したのか。

この奇妙な体質の原因は何をもってしても不明であるが、経験者である俺には一つだけ分かっていることがある。

 

それは、匂いだ。

 

道端で何か変なものにぶつかった時。

自転車にぶつけられた時。決まってあの香りが漂ってくる。

香水とも違ったなんとも言い表せないが、とてもいい匂い。

 

怪我をすることに快感を覚えるわけではないが、この匂いをかぐことに俺は一種の癒しを覚えていた。それくらいにこの匂いがすきであり、嫌いであった。

 

 

 

文系大学生の一日は短い。

お昼近くに家を出て、地下鉄に揺られながら大学へと向かう。

その間は流行りの音楽などを聴いて過ごす。そうすればあっという間だ。

 

大学に着けば講義を受ける。だが、別に講義を受けるといっても勉強をするわけではない。必要なところだけを聞いてその他の不必要を捨てる。

 

俺にとって講義は小さな発見をする場であった。何となく知っているけども、名前は知らない。そんな現象を知るための場所、それが講義。

 

授業を終えた俺が向かうのは食堂。昼頃に飯を食べるなってのは初心者がやることだ。遊園地に行く時に多くの人間がピーク時を避けるように、俺たちもその時間を避ける。いつもと同じ飯を食って、友達との会話を楽しむ。

 

それが終わればいくつか他の講義を受けて帰宅、そして就寝だ。実に単純で明快な一日である。

 

 

今日も今日とて俺はそんな一日を送っている。

地下鉄に揺られ、いつものようにして大学へと向かう。

駅のホームにある階段を三段飛ばしで駆け上がり、校内へと入っていく。

 

『!?』

 

そう言えば、今日はまだ怪我をしていない。

 

一見、不思議でもなんでもないと思われる事であるが、俺にとってはエベレストに登頂できたぐらいの偉業である。

 

『おい聞いてくれ! 俺は今日、初めて怪我をせずに大学に来ることが出来たぞ!!』

 

喜びを発信する。今日は何だかいい日になりそうだ。俺の足取りはきっと軽やかなステップを踏んでいたに違いない。気分を良くしながら、俺はいつもの講義を受けに行く。

 

 

 ____が、しかし、事件は起こった。

 

「あ」

 

教室に入る直前。廊下と教室を隔てるドアを開いた瞬間、俺は見えない何かに正面から追突された。

 

今までも追突されるなんていう事はよくあったのだが、今日のは何かが違った。ドアを開けようとしていたせいか、俺はガラにもなくスマートフォンを片手で持っていたのだ。

 

追突された衝撃で、俺の左手からスマートフォンが跳んだ。

ディスプレイ部分を下にして、スマートフォンは数回はねた後に乾いた音をたてて動きを止めた。

 

「あああああっ!!!」

 

曇る視界に慌ててスマートフォンを拾い上げる。電源ボタンを押すも、ひび割れたガラスの向こう側から微かな光が点滅を繰り返すだけ。とても機能しているとは言えなかった。

 

「こ、これ、これは...壊れちまったかな....?」

 

疑問形なのは壊れていてほしくないという願いからくるものなのか。

俺は渋々講義を欠席し、近くのスマートフォンショップまで行くことにした。

 

 

ショップに辿り着くまでに何度も何度もスマートフォンの電源を入れ直してみたのだが、やはり壊れているらしくうんともすんとも言わない。

 

壊れたスマートフォンと格闘することはや20分。大学から最も近いショップに徒歩で到着した。自動ドアのボタンを押して、店内に入店する。

 

「.........」

 

店の内部は至って普通のスマートフォンショップといった感じで、様々な機種のスマホが展示されている。設置されたモニターにはよくドラマなどで見かける俳優の姿があったが、喋ることもなく無言でスマートフォンを操作していた。

 

そんな姿に疑問を感じつつも、俺は受付カウンターに向かい店員に事の要件を伝えた。

 

「あのー、すいません。これを修理して欲しいんですが」

「......」

 

俺の呼びかけに店員は答えなかった。ただ無言でスマートフォンをいじるばかり。随分と不愛想な店員である。よくもまあこれで働けるものだ。

 

「あの、すいません! これ直したいんですけど!!」

 

先ほどよりも少し大きめの声で呼びかけてみる。が、反応はない。

 

「どうしたもんかな....」

 

こうも話が通じないとは実に困った事である。どうしたものかと、俺は周囲を見渡してみる。

そして、受付カウンターの奥に設置されているパネルにこんな文言を見つけた。

 

【スマートフォンの修理は1週間後に完了します。お支払いはその時にどうぞ】

 

なるほど、ようするにさっさとスマートフォンをこの不愛想な店員に渡してしまえ、ということか。

 

接客態度は大いに気になったが、今大事なのはスマートフォンを修理するという事。俺は店員の目の前にスマートフォンを置いた。

 

すると、先ほどまで石のように動かなかった店員がおもむろに俺のスマホを手に取った。どうやら修理を受け付けてくれるらしい。

 

「俺の名前は万代久遠(よろずよくおん)、すぐそこの○○大学に通っているから何かあったら連絡してくれ。それじゃあまた一週間後に来るから」

 

俺は不愛想な店員にそう告げて、さっさと店を出た。無視されるというのは案外イラつくものである。激昂する前に撤退の意思をみせた俺を評価して欲しいものだ。

 

「さて、これからどうしたものか...」

 

 

こうして、一週間にわたる俺のノン・スマートフォンライフが幕を開けるのであった。

 

 

 



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Days1
1話 世界


 

 異世界生活、異世界転生、異世界物語。最近の若者は何かと異世界にいきたがる。

 

 行くのではない、生きたがるのだ。この現実世界を捨てて、全くの未知が広がる世界で人生を送る。それは何故だろうか。

 

 現実逃避、嫌になった毎日からの脱却。何も持っていない、何の才能にも恵まれていない自分に価値を見出せなくなった。思いつく理由はどれもが極めてマイナス的だ。

 

 マイナス的で真っ黒な、誰にも理解する事の出来ない人間誰もが抱えた闇。ただ生きているだけで感じる理想と現実の明確な差異。あぁ、いつから人間は叶わぬ願いを持つようになったのか。

 

「ああ、ああ! 実に嘆かわしいと思わないか!? はなから高望みなどしなければいいものを!!」

 

 望むのだから、損をする。得ようとするから、得られない。

 

 何事も想定の範囲であってはならないのだ。起こりうる現象に気付いてしまえば、人はそれに期待をしてしまう。絶対的でないことを知っていながらも、それが絶対的なものであると思いこむ。

 

 だからこそ、人間はバカでなければならない。人間はポケットの中に未知を持っていなくてはいけない。

 

 元来、知らないという事は何事よりも恐ろしいこととされてきた。火の起こし方を知らない人間はあっという間に凍え死ぬ。あっという間に野生の動物に食い殺される。すなわち、知識は命に直結するものであったのだ。

 

 現代の人間はそんな命の知識を携えて生まれてくる。誰もが当たり前に火を使うようになったのはいつ頃からだった? 誰もが当たり前のように電気を使うようになったのは? コンドームが遊び道具になったのはいつだったんだ!?

 

 知を得ることで人間は不確かな確実性を手に入れた。半透明な100%の絶対性を手に入れたのだ。そして、それと同時に我々は未知を食いつぶしている。知るという事は、そこにあったものを食べること。言ってしまえば、目には見えない脳の食事である。

 

「バリバリ、むしゃむしゃ、モグモグ。人類は最高に上手い料理を日々食べている! それはアイスキャンディーよりも甘美で、最高級サーロインよりもジューシーだ!!」

 

 人間にとって未知とは恐怖ではなく、可能性。自身の想像の外にある未知とは、際限のない可能性の集合体。それを我々は自覚もないままに食べている。限りがあるとも知らず、出されるままに食べている。

 

「君もそうだったんだろう? このクソみたいな消費主義的社会に飲まれた君も...」

 

 女はそう言うと、クルリと体の向きを変えて俺を鋭い目つきで貫いた。

 

 ツカツカとこちらの方まで歩いてきて、乱暴に俺を蹴り飛ばす。地面は固いアスファルトだというのに、彼女はお構いなしだ。ここが道路のど真ん中であっても、彼女は全くそれを気にしない。他人の目を気にしない。

 

 じんわりと広がっていく痛みに苦悶の表情を浮かべる俺。そんな俺の顔を見て、女の目つきは愛らしいものを見る慈愛に満ちたものへと変わった。

 

 そして、俺は情熱的なディープキスをされる。とても熱く、野性的で、一方通行な愛を押し付けられる。俺は成す術もなく、ただただぐらつく視界に意識を揺さぶられるのみ。唇から伝わる重々しい愛が逆流しそうなほどに胃にたまった。

 

「あぁ...私も君も、今間違いなくここにいる...」

 

 唇を放し、一人また天を仰ぐ女。一切合切を信じることのない、他人とは大きく異なった彼女は_____

 

 この世に生き残る最後の人間であった。

 

 

 ___________________________

 

 

「....やばっ、寝坊した!?」

 

 スマートフォンを手放した翌日。アラームがないことを忘れていた俺は、眩い朝日に慌てて飛び起きた。ソーラー発電のデジタル時計を見ると、時刻は既に昼の1時。

 

「完全に遅刻だ...さすがに学校まで15分じゃ着かねえぞ...」

 

 時計を見るなり、焦る気持ちは穴の開いた風船の如く萎んでいく。頭の中には如何にして早く学校へ向かうかではなく、いったい現状で自分は何回欠席しているのだろうという思考へと変化していった。

 

 軽いため息をついて、のそのそと布団から出る。季節がちょうど春と夏の間であるために、温もりへの執着はそこまでなかった。

 

「何はともあれ、飯だ飯! あー腹減った。すっげえ腹減ったわ」

 

 もう3限目の授業に出れないことは確定しているのだ。だとすれば、限りなく時間を有効に使う以外に道はない。今日は気合を入れて、普段よりも豪華な朝飯にしよう。そんな意気込みを持って、俺は冷蔵庫を開いた。

 

「.....は?」

 

 冷蔵庫を開くと、異様としか言いようのない光景が目に飛び込んできた。冷蔵庫の中に入っていたのは溢れんばかりの牛乳と卵とベーコン。とても一人暮らしの男が消費できる量ではない。

 

「泥棒か? でも、物を増やして逃げるなんていう泥棒がいるか?? そもそも、それって泥棒なのか???」

 

 奇妙な光景に若干思考回路がマヒしてしまう。これはいったいどういう事なのか、いくら頭を働かせてもその答えは見つからない。思い当たる節もないし、どんな因果関係が働いたのか想像もつかない。

 

 冷蔵庫と睨めっこすること、約5分。答えの出ない問題に嫌気がさし始めてきた。このまま時間を無駄にするのも癪である。

 

「こうなったら、やることは一つだ」

 

 覚悟を決めて、俺は冷蔵庫から卵を4つ、ベーコンを8枚を取り出した。両手に食材を抱えながら、ゆっくりと散らかったテーブルに移動させる。

 

「ハイパースペシャル・ベーコンエッグだ、それしかない!」

 

 慣れた手つきでフライパンを転がし、表面に熱が宿ったのを確認した後に料理を始める。その間左手には長めのストローをぶっ刺した牛乳パックが握られていた。今日は何事も豪勢に行こう、そう決めた。

 

「ごちそうさまでした」

 

 ベーコンエッグは量が多くなっても安定の美味しさで、あっという間にぺろりと平らげてしまう。ボールいっぱいに水を入れ、使った皿をそこにぶち込む。風呂に入って髪を整え、いざ学校へと出発した。

 

「それにしても、随分静かになったよな...」

 

 もう何度も通った通学路であるが、こんなにも静かであっただろうか。耳に入ってくるのは通りを行きかう車のエンジン音だけ。街頭モニターの発する鬱陶しい広告の音はおろか、人の話し声すら聞こえてこない。

 

 いつもはスマートフォンを操作していたために、こうやって身の回りを意識してみる機会が無かった。自身を取り巻く環境の変化には敏感でいたいものだが、いつの間にやら鈍感になっていたらしい。

 

 駅に到着し、定期を使用する。乗る電車は毎度おなじみ都営の地下鉄である。俺の使うこの駅はサラリーマンなどの働き者にはあまり縁がないようで、特に学校に行く時のホームはガラガラすぎて寂しいぐらいなのだ。

 

「今日も誰もいないな。このホームにいると、まるで世界に人間が俺しかいないような錯覚を覚えるぜ」

 

 電車が来るまでの間、俺はいつものように設置された椅子を豪快にも5つ使って横になる。プラスチック製の固い椅子ではあるが、駅で横になれる優越感にはたまらないものがある。

 

 そう言えば、世界にたった一人取り残された人間の映画を昔に見たことがある。

 

 その男は最初はそれこそ楽しく生活をしていた。何をやっても自由、世界は今自分の手の中にあり、誰のものでもなく自分のものである。気分はきっと世界征服を成し遂げた皇帝のようであったに違いない。

 

 が、最後に残ったのは耐え切れないほどの悲しみと寂しさ。孤独というのはなによりもつらいことである。『どんなに嫌いな人間が相手でも、会話をする事で満たされるものもある』ということだ。人間にとって真に大切なものは当たり前のものよりも、さらに当たり前のものであるのかもしれない。

 

 そんなこんなで適当な思索にふけっていると、電車が到着した。当然降りる人はおらず、俺はすぐに乗り込んだ。

 

 車内は時間が時間であったためか、思っていた以上に空いていた。シートの両サイドは既に埋まってしまっているものの、いくつか座れる場所があった。地下鉄で席に座れるのはかなりの幸運か、綿密な計画のもとにしか成り立たない。

 

 俺はちょうどシートのど真ん中に腰を下ろした。隣に座っているのはスマートフォンを操作している女子高生とおばさん。というか、車内でスマートフォンを操作していないのは俺だけであった。

 

「うーん、本でも持ってくるべきだったか...」

 

 学校に到着するまでの時間、一体何をして時間を潰したものか。バックの中を漁るも特にこれといって面白そうなものはない。教材と筆箱と財布。必要最低限のものだけ。

 

 仕方なく、ぐるりと車内を見回した。俺はこの数十分を人間観察にでもあてることにしよう、そう思ったのだ。

 

 車内を見渡して、俺が感じたのは視覚的なものではなく聴覚的なものであった。

 

 そう、静かすぎるのだ。確かに電車の中では私語は控え、なるべく静かにするべきだ。という考え方は一般常識的に広がっている。

 

 しかし、それでもスマホの画面をタップする音と電車の走る音しか聞こえないというのは静かすぎる。車内は混雑とはいかないまでも、そこら辺の道路なんかよりも人がいるのだ。もっと賑やかでもおかしくない。

 

 街で感じたものと同じ疑問を持った俺はおもむろに席を立ちあがった。どうも引っ掛かるのだ。この静かすぎる世界に俺は無視できない違和感を覚えたのだ。

 

 先頭車両から徐々に後方へと歩みを進めていく。車両の番号はどんどん大きい数へと変わっていき、それに応じて車内の混み具合も増していった。

 

「.......」

 

 この静けさはいったいどこまで続いているのだろう。そんな疑問を抱えた俺はひたすらに歩き続けたのだが、ちょうど7車両目に差し掛かったころだ。俺の目に不可思議な男の姿が。

 

 ズルズル、ズルズル。

 

 静けさを保った車内で何やら麺を啜る音が聞こえる。こんな音はラーメン屋か大衆向けのファミレスでしか聞かない音だ。

 

 ズルズル、ズルズル。

 

 逸らされることのない俺の視線を男は全く気にすることもなく、ただ麺を啜っている。そして、誰もそれを咎めようとはしない。

 

 ズルズル、ズルズル。

 

 男は、地下鉄に揺られながら、ナポリタンを食べていた。

 

 



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2話 現実世界

 

「な、ナポリタン.....?」

 

 そのあまりに異様な光景に、俺はただそう呟くことしか出来なかった。

 

 地下鉄内での飲食が禁止されているのは前提条件として、この男はいったいどんな気持ちでナポリタンを食べているのだろう。この環境下では、たかがクッキー一枚すら食べることが憚られるというのに。

 

 俺から言わせれば、この男の所業はファミリーレストランという超公衆の面前で、性行為をするようなものだ。恥もなにもない、己の欲のままに従う男が俺の目の前にいる。

 

「お、おいアンタ...それはやりすぎだぞ」

 

 周りの人間は彼を注意しようとはせず、ただひたすらにスマートフォンを操作していた。きっとこの男を恐れているがために文句を呑み込んでいるのでろう。俺はそんな乗客の気持ちを汲んで、男に話しかけた。

 

 ズルズル、ズルズル。

 

 しかし、男は俺の言うことなど聞こえていないかのように、ナポリタンを食べ続ける。

 

 左手でスマートフォンを操作しながら、右手に持つフォークを使いナポリタンを口へと運ぶ。モグモグむしゃむしゃとパスタの麺をかみ砕く。

 

「おい! 人の話を無視してるんじゃねえよ!!」

 

 ここまで完全に無視されると、こっちもこっちで苛立ちが募ってくる。先ほどよりもキツめの口調で俺は再び男に話しかけてみる。が、やはり返答はない。むしゃむしゃするだけ。

 

「てめぇ....」

 

 本気で頭にきた俺は無理やり男の手からスマートフォンを奪い取った。こうでもしなければ、男は一生俺の話を聞くことはないだろう。それほどまでにこの男は頑固であった。

 

「あのな、人の話はちゃんと聞いてくれ。俺だってこんな風に事を荒立てたくはないんだ」

 

 これでようやくまともな話が出来る。そう思った俺はすかさず男に向かって話しかけるのであるが。

 

「最初からアンタが______」

 

 俺は絶句した。

 

 俺は確かにスマートフォンを奪い取った。それは右腕の感触が保証している。ならば、この男はいったい何をしているのだ?

 

 スマートフォンを奪い取られ、その動きが止めると思われた男の左手。しかし、操作するモノがないというのに、男の左手はあたかもスマートフォンを操作しているかのように宙を舞っていた。

 

 視線はスマートフォンがあった場所に向けられ、右手は相変わらず忙しくパスタを運搬する。男の行動に変化は見られなかった。

 

「冗談だろ....?」

 

 その男のあまりにも奇妙な様子に俺は2、3歩後ずさってしまう。

 

 これは何かテレビ番組のドッキリ企画なのか。動画投稿者のイカれた企画動画の撮影なのか。それともこの男がおかしいだけか。頭の中ではこの現象を説明しようと、いくつもの思考がぐるぐると回り始めていた。

 

 慌てて周囲に隠しカメラの存在やカメラマンの姿を確認する。だが、そんなモノは見当たらない。周りに広がっているのはごくごく普通の地下鉄車両内の風景だ。

 

 誰もがスマートフォンを操作し、感情を表に出すこともなく、周りに気を使って私語を慎む。そんな当たり前の______

 

「なんだよこれ...?」

 

 違う。俺の知っている普通はこんな光景ではない。

 

 思い返す必要もなく、家を出てから違和感はあった。だが、それはごくごく平凡的に感じるただの違和感の域を脱していなかった。あくまでもただの違和感であって、危機感でも不安感ではなかった。

 

 しかし、この男と出会って、確信的な違和感を覚えたことによって。俺の記憶の靄が一気にはれた。

 

 こんな現実はあり得ない。いや、気持ちが悪い。

 

 幼い頃に見た街並み。幼い頃に乗った電車。幼い頃に体験した世界。それは賑やかで、鬱陶しく、活力にあふれていた。こんなにも淀んだ世界などではなく、音があって光があって、人がいた。

 

「夢だよな、これは夢なんだよな......」

 

 走ったわけでもないのに、自然と息が切れ始める。ヒューヒューと音をたてながら、俺は目に留まったスマートフォンをひたすらに奪い取った。怒れ、俺を殴り飛ばしてみろ。感情をみせろ、声を上げろ。俺はただただそう願った。

 

 だが、結果は_______

 

「」

 

 俺は電車を降りることにした。

 

 

 _________________

 

 

『世界とは、その個人の認識によって定義され認知される』

 

 自分が見ているのはただの光であり、それを世界とし、人とし、犬や猫とするのは脳みそである。だから、世界なんていうものは極めて曖昧なものなのだ。

 

 地球最後の男が見る世界、それは一体どんな世界だろう。共感性も社会性もない主観性のみが残った世界。公衆便所をカプセルホテルと捉え、一流ホテルを多目的トイレとみなす。

 

 そんな自己解釈を好きに当てはめることのできる世界は、果たして理想郷か。

 

 自分の気分によって二転三転する世界。決まりもない、秩序もない、何もかもが不確かな世界。俺に言わせれば、そんなものはクソみたいな世界だ。

 

 結局は娯楽至上主義。何事も面白くないか、面白いかの二択で決まる人生。当たり前が存在する中で、くだらない妥協と適当な譲歩で成り立つ世界こそが理想郷。

 

 俺は大学生という中途半端で拘束のないモラトリアム人間だ。そして、それと同時にそんな自分に満足していた。今なら確信できる、昨日までの日常はとても素晴らしい毎日だった。素晴らしい世界であった。

 

 

 

 電車を降りた俺はただひたすらに駆け抜けた。

 

 ホームでスマホを弄る奴らを蹴り飛ばし、人間を探した。

 

 しかし、俺の世界はスマートフォンで溢れていた。

 

 誰もがスマホを弄っている。駅員もサラリーマンもOLも男子高校生も女子高生も子供も大人も男も女も。人類皆、スマホを弄っている。

 

 途中、叫んだりもした。だが、反応は無い。誰も発狂している男のことなど見ていない。見ているのは画面だけ。気にしているのも画面だけだ。

 

「...........」

 

 気づけば、俺は都内の人混みの中にいた。

 

 周囲にいるのは俺とは別の世界に生きる者たちではあるが、視界に沢山の人が入っているだけで心の落ち着きを感じたのだ。

 

 こんな状況に気づいてから、時間にすればたったの3、4時間程度。だが、ひとりぼっちの孤独をこれでもかと思い知った気がした。

 

 日本の古い習慣に『村八分』というものがある。これはコミュニティにおける規則を破った者へ与えられる制裁であり、コミュニティ内の人間はその人物を徹底的に無視することを義務付けられるという残酷なものだ。

 

 無視をされる、そんなことが一つの罰として成り立つのか。たかが無視されるだけ、相手には触れられるし殺されるわけじゃない。大学の講義を受けて俺はそんなふうに思っていた。

 

 しかし、こう実際に大規模的な無視をされるとこの罰の残酷さを嫌でも思い知る。これは相当キツい。

 

 生まれてから今に至るまで、俺は孤独を感じたことがなかった。幼い頃は両親がいたし、外に出れば挨拶をしてくれる人がいる。一人暮らしをしている時でさえ、スマホを介して誰とだって繋がることができた。

 

 だが、今はそうではない。俺は本当の意味でひとりぼっちになったのだ。

 

 一体どういうロジックで俺が認識されないのかは分からないが、現実がそうなのだ。どんな事をしてもこの世界の住人はスマホ以外に興味を示さない。スマホを取り上げたとしても、あたかも手にスマホを持っているかのように振る舞うだけ。

 

 

 俺がこの数時間で分かったことは、俺以外の人間は何らかの原因でスマートフォンに極度の依存性を持っているということ。そして、彼らは殴られようが蹴り飛ばされようが全く気にする様子を見せないということ。

 

 流石に命に関わることや道徳観に大きく反する行為は行ってはいないが、したとしてもきっと結果は変わらないだろう。自身の拳から血が出るほど様々な人を殴った俺がいうのだから間違いない。

 

「これからどうすればいいんだよ、俺は....」

 

 人生の先が見えない。食料や娯楽は身の回りに溢れている。しかし、俺はそれを共有することはできない。友人を作ることもできないし、誰かに愛されることもない。

 

 そもそも誰にも認知されない俺に生きている意味はあるのだろうか。もはや、これは死んでいることと何ら変わりがないのではないか。

 

「.....歩くか」

 

 言葉の通りの迷子となった俺は、行くあてもなくトボトボと歩き始める。

 

 流れる人混みに逆らって、目指すは街の中心。これといって思い入れのない、ただ人がよく集まっているイメージしかない場所。

 

 目的地に着き、辺りを眺める。行き交う車の数は思っていた以上に少なかった。人の数が多いだけで、ここは車の交通量が少ないのかもしれない。

 

 そう結論づけようとした俺の視界に無残な姿になった車の残骸が入ってきた。

 

 そりゃあスマホやりながら運転すれば事故るわな。

 

 赤信号のスクランブル交差点を渡りながら、ボンヤリと空を仰いでみる。今日は気持ちのいいくらいの快晴。遠くの景色まで見渡せそうな、そんな気がした。

 

「........何だ、あれ?」

 

 顔を上げた先、目を向けたその先に何やらゆらゆらと動くものが見えた。108ビルの屋上でこちらを見下ろすようにして、突っ立っている人影のようなもの。

 

 それがフェンスを越えた先にいることに気づくまでそう時間はかからなかった。

 

 気づいた時には駆け出していた。人影を目指して、自分でもビックリするぐらいの速さで駆け始めていた。

 

 歩きスマホもここまでくれば立派なもんだな!

 

 たった今、世界に絶望し、生きることに意味を感じなくなった俺の目の前で。こんなにも可哀想な俺の目の前で、誰かが死ぬなんてゴメンである。そう簡単に殺してたまるか、羨ましい。

 

 エスカレーターを数段飛ばしで上っていく。目指す屋上はこのビルの8階。本気で走り続ければ、エレベーターよりもこっちの方が早くそこにたどり着ける。

 

「着いたぞ...この野郎....っ」

 

 火事場のバカ力に物を言わせ、何とか息を切らしながらも屋上のドアを蹴り飛ばす。

 

 108ビルの屋上は子供用の小さな遊園地が広がっており、古ぼけたメリーゴーランドやコーヒーカップがポツリと寂しそうにして立っている。周りに置いていかれたという点では俺と似ているかもしれない。

 

 俺を見下ろしていた人影は未だフェンスの外に立っていた。今にも飛び降りてしまいそうなほどギリギリの場所に仁王立ちし、腕を組んで地上を眺めている。

 

「あんた...そこで何をしているんだ?」

 

 彼女の様子を見るまでは、フェンスの中に引き戻した後で思いっきりぶん殴ってやろう、そう思っていたのだ。

 

 が、その人影の正体は俺の思っていたものとは大きく違っていた。

 

 人影の正体は一人の少女であった。背丈は俺と同じくらいで女性にしては高身長。どこかの高等学校の制服に身を包み、口には一本のタバコを咥えている。短めのスカートを風になびかせるその様子はどこかカッコよさを感じさせた。

 

 しかし、何よりも気になったのは彼女がスマートフォンを持っていないということ。

 

 まともな人間は俺だけかと思っていたのに...

 

 驚きの表情を浮かべ、おそるおそる女に正体を訪ねる俺。その内面では自分と同じ立場にいる人間なのではないか、そんな期待がはち切れんばかりに膨らんでいた。

 

 女は俺の訪問に気づくと、くるりとこちらに向き直った。

 

 ショートともミディアムとれる黒髪の女はニッコリと笑う。それは俺の顔があまりにもマヌケ過ぎたからなのか、はたまた同族の人間に出会えた喜びか。

 

「ようこそ、現実の世界へ。世界は思っている以上にクソみたいだったろう?」

 

 そう言って、彼女は他の誰でもない俺に話しかけてきた。

 



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3話 痛嗅覚記憶

「ようこそ、現実の世界へ。世界は思っている以上にクソみたいだったろう?」

 

 こちらを嘲笑うかのようにニッコリと笑う女。そんな様子を見て呆然と立ち尽くす俺。

 

 第一印象は『意味の分からないヤツ』だった。

 

 自殺をする気だと思って死ぬ気でここまで来てみれば、実際はそんな雰囲気など微塵も漂わせておらず。死ぬ気がないのかというと、そうでもないような。

 

 自殺者のための最終防衛ラインであるフェンスを飛び越え、ほとんど自殺に近い場所でタバコを吸う。死と隣り合わせになりながらも、灰を黒くし緩やかに自殺する。

 

 それは単なるカッコつけか。最近のおバカな不良たちが持っているタバコ=カッコいいの最終進化系がソレなのか。はたまた、キチ〇イか。

 

 ただ、キチ〇イといっても地上の奴らとは違うタイプ。不思議な知性を感じるキチ〇イとでも言い表すのが適切か?

 

「アンタ...いや、君はナニモンなんだ? 見たところ下の奴らとは違うみたいだが」

 

 いくら相手がオカシイとしても、意思の疎通が出来るのであれば。人に飢えていた俺は思い切って話しかけてみた。

 

「私がナニモノかだって? まさか、久遠(くおん)は私の事を知らないのか?」

「....知らないな。記憶のどこにも君の姿は存在しないよ___」

 

 何故、この女は俺の名前を知っているのだ?

 

 ほぼほぼ間違いなく、俺とコイツは初対面である。俺の生きてきた21年間にこの女の姿はない。「同じクラスで、昔は地味な子だったんです...!」なんて言われたとしても、見たことないと答えるくらいに思い当たりがない。

 

 が、それはあくまでも()()()()間違いのない真実。

 

 地下鉄での件がある。スマートフォンを使い始めたあの時から、俺はおそらくどこかおかしくなっていた。それは確実に間違いのない100%の真実。何がトリガーとなって目覚めることになったのかは分からないが、俺もあのキチたちと同じであった可能性は極めて高いのだ。

 

 もしや、その時に何らかの接触を果たしていたのか....?

 

「___と、思ったが俺自身どうにも自分を信用しきれない。できれば君との出会いを教えてくれないか?」

「ふむ。まあ、いいだろう。自覚させてやるさ、既に私たちは出会っているのだと」

 

 そう言って女はフェンスを上って、内側にやってきた。トコトコとこちらに向かって歩いてくる。

 

 自覚させてやる?

 

 女の表現にどこか違和感を覚えた。思い出させるのではなく、自覚させる。この言い方の違いに何か意味はあるのか?

 

「やっぱ意味わかんねえな...」

 

 俺が首を傾げていると、女は俺の近くまでやってきていた。

 

 さてさて、こんなに接近していったい何をする気なのだ。俺は少しばかりワクワクしながら女の次の行動を待つ。

 

「それじゃあ、いくぞ?」

 

 女は最後の確認だといわんばかりにそう言ってきた。俺はかかってこいと無抵抗の意思をみせる。

 

 ワクワク、ワクワク

 

 久しぶりの好奇心に胸を躍らせていると、女がおもむろにシャツの襟を掴んできた。それから右足を俺の足にかけて...って!?

 

 ___俺は今、大外刈りをくらっている。そう気づいたころには俺の体は宙を舞っていた。

 

 全くの無防備であったということもあり、大外刈りが見事なまでに綺麗にきまる。コンマ数秒間の空中浮遊の後に、俺の体はアスファルトに叩きつけられた。

 

「ぎゃっ!?」

 

 それに加えて彼女が自身の体ごとのしかかってきたために、体から一気に空気が抜けて情けない声が漏れてしまった。

 

「よっこらしょ...っと」

 

 こちらにのしかかった女はもぞもぞと動いて、俺の顔を見下ろせるように体制を変えた。瞬きを忘れたかのようにジッと見つめてくる。

 

「どうだ、私のこと知ってるだろ?」

「知ってるもなにも何でこんなこと....」

 

 言いかけて、やめた。

 

 その時気づいたのだ。俺は確かにコイツを知っている。

 

 いや、正確にいうのであればコイツの()()を知っている。

 

「お前...もしかして...でも、そんなことってあり得るのか?」

 

 俺の動揺しきった反応に、満足げな表情を浮かべる女。

 

 この女が持っているこの匂い。大外刈りをかけられ、互いの体が密着しているために嫌でも感じたこの匂いは、俺が怪我をするたびに感じていたあの匂いであった。

 

 ということは、つまり。

 

「俺が怪我をしたタイミング全てにお前が居合わせていたってことか?」

 

 それも、匂いを嗅げる距離に。目と鼻の先にこの女がいたのだ。

 

 久遠は気持ち悪いものを見るような目で女を見つめた。現実的ではないが、考えられるとすればそれしかないのだ。俺がイカれている間、ずっとこの女は俺の傍にいたと。

 

 お互いの息が顔にかかる距離。そんな距離において一方は明確な拒絶を示す中、女は妖艶な笑みを浮かべる。

 

 そして、男の意思など気にする様子もなく言葉を発した。

 

「ちげえよ、バーカ」

「....は??」

 

 女が発した言葉を理解するまでに、俺は数秒の時間を要してしまった。だって思わないだろう? いきなりバカだなんて言われるとは。

 

「私が久遠を殴った。蹴った。突いた。叩いた。突き飛ばした、つまりはそういうことだ」

「.......」

 

 いや、どういうことだよ...

 

 俺は女の言葉にただただ首を傾げるばかりであった。

 

 

 _________

 

 

「なんだ、その...つまりはスマホを持っている人間は外部から完全に遮断されるってことか?」

 

 俺の言葉に女こと、常世(とこのせ)千代(ちよ)は大きく頷いた。

 

 あの後、いつまでも屋上にいるのもアレだという事になり、場所は俺の自室へと移っていた。その間も女の行動に俺は様々な疑問を感じた。

 

 歩く際に千代は俺の前に立ち、迷うことなく俺の家に向かった。道中話す思い出話は俺の記憶と一致していた。家に着くとすぐ、冷蔵庫を開けて牛乳を滝飲みし始めた。

 

 なんでお前は俺の家を知っていたり、俺の思い出を語ったり、俺の家の家具の場所を把握しているんだ? 当然俺はそう尋ねる。

 

 すると、千代はこういった。もう10年近く、久遠と一緒にいるのだと。

 

 

 ようするに、千代の話を極めて簡潔にまとめるとするならば。

 

 ・俺こと、万代久遠はスマホを手にしたあの日から現実世界から遮断され、スマホ世界(仮)で生活を送っていた。

 

 その世界ではスマホを持っている人間のみが互いを認識し、干渉しあう。この点に関しては千代も詳しくは知らないらしい。たった一つハッキリと分かっているのは、何をしようが全く反応しないということ。

 

 ・俺がスマホ世界にいた間、俺は現実世界にいた千代を視認できず、順風満帆で自由奔放な一人暮らしを送っていたつもりが、実際は千代とさながら夫婦のように生活していた。

 

 ・俺が一人遊びをしているときも、自作ソングを書いているときも、常に千代はそれを近くで見ていた。

 

 ・俺が怪我をよくするのも、千代がその都度何らかのアクションを俺に起こしているからであり、今回スマホを壊す羽目になったのも彼女のせいだった。

 

「くっそ...イマイチ分かんねえな。なんで千代は俺に怪我をさせる必要があったんだ? 」

「それは治療のためさ、私が久遠を救ったんだ。スマゾンになった久遠をね」

 

 スマゾン...千代はスマホに精神を犯された人間の事をそう呼ぶ。語感も悪く、俺にとっては違和感しかない単語であるがこの際どうでもいい。

 

 肝心なのは千代が行った治療(暴力行為)によって、俺が元の人間に戻ったという事だ。全く干渉できない世界にいた俺に干渉できたという事実だ。

 

「あれは久遠が両親にスマホを買ってもらった時だ。私はとてもスマホなんて持てる状況じゃなかったから、スマホに夢中になる君に少なくない苛立ちを覚えたんだ」

「ほうほう、それでそれで?」

「私はその日のうちに行動に出た。親のいないタイミングを見て、久遠に本気で金的攻撃をかましてやったんだ!」

「....記憶にあるな。俺が初めてスマホを持った日だろ?」

 

 家に帰り、親がいないということもあってテンションを上げながら楽しくスマホをいじっていたあの時。突如として睾丸に激しい痛みが発生したのだ。

 

 プロボクサーのアッパーを局所的にぶつけられたかのような痛み。間違いなく俺の人生史上最も苦痛を感じた瞬間だった。

 

「普通は反撃してくるだろ? だって、私は睾丸を殴ったんだからな。だが、久遠は私に気付くことすらなかった。ただ...」

「ただ、なんだ?」

「ただ、痛がるリアクションはみせたんだよ。だからその日から毎日攻撃することにした。だって、それだけが久遠と繋がれる行為だったからね?」

 

 私を認識してくれるかもって期待するだろ?

 

 千代はさも当たり前のことを言うかのようにそう言った。

 

「なるほどな、納得はできないが理解はできた。だが戻すのに10年近くかかるとはな...それに俺が殴っても周りの人間は何の反応もしなかったし...」

 

 なんとも酷い話だが、スマホを買ったその日に、まだ依存しきっていないうちに千代が睾丸を殴ってくれたおかげで俺は助かったのかもしれない。彼女のおかげで少しの感覚をこの現実世界に残せていたのかもしれない。

 

 殴って人間に戻す、この荒療治ではスマゾンの問題を解決することは出来そうにない。そもそも10年間も誰かを攻撃し続けるなんて相手がどんなに憎い奴でも出来るとは思えない。

 

 考えてもみろ、「今からお前は目の前にいるお前の大嫌いな男を10年間殴り続けてもらいます」なんて言われたらどう思う。想像できないだろ? つまりはそういうことだ。

 

「単純計算3650回俺を殴ったんだろ? その原動力はなんだ、何がお前にそうさせたんだ?」

 

 俺はふと浮かんだ疑問を尋ねてみた。

 

 すると、千代は一人ベッドに横になりながら答える。

 

「愛だ」

「愛?」

 

 千代から飛び出した言葉に俺は首を傾げた。まさか『愛』だなんて言われるとは思ってもいなかったのだ。

 

 だって、俺の記憶に常世千代なんていう人間はいない。彼女の話しぶりから俺と千代は中学三年生までに出会っているらしいが、中学あたりの頃の俺は女子と絡むようなタイプではなかった。

 

 そんな間柄の俺たちに「愛だ」とは一体どういうことなのか。

 

「久遠はあのスマホを買った日の事をどれくらい覚えてるんだ?」

「あの日か? そうだな、特に変わったことは...あ、そういえば」

 

 そういえば、あの日。自宅のポストに差出人不明の手紙があった。

 

 送り手の名前もなく、送り先すら書いていない手紙。中身を読む前に母親に捨てられてしまった不審な手紙の存在を俺は思い出した。

 

「変な手紙があったな。中身は分からないがとにかく変なヤツだ」

「変な奴ねえ...あれは私から君へのラブレターだったんだよ」

 

 そう言って千代はスカートのポケットから古びた手紙を取り出した。

 

 それはあの日みた不審な手紙だった。

 

「....それってアレだよな?」

 

 非常に気まずそうにそう尋ねる俺。そんな俺を見てニヤリとした千代は「読みたいのか?」と聞いてくる。俺はコクリと頷いた。

 

 が、千代はそれに持っていたライターで火をつける。手紙を俺に渡すわけでもなく、ニヤニヤしながら火をつけたのだ。

 

「なっ、何しやがる!?」

「はっはっは、10年間もこんな可愛い女の子を一人ぼっちにしやがって! これはささやかな仕返しだ!」

「させるかッ!!!」

 

 慌てて火のついた手紙を奪おうとするも、千代はそれを窓の外へと投げ捨ててしまう。俺も窓の外へと飛び出そうとするが、自室がマンションの5階に位置していることを思い出して止めた。

 

「くっ....」

 

 千代の復讐に俺は下唇を噛んだ。今、体育の授業後の女子更衣室以上に見たいものがそこにあったというのに...

 

 あまりの悔しさに震える俺を見て、千代はくすくすと笑った。

 

 彼女自身が言っている通り、千代は可愛らしい。美しいのではなく、可愛い。だからこそ、彼女の笑う顔はとびきり可愛いのだろうと思っていた。

 

 だが、彼女の笑いには何処かぎこちなさがあった。

 

 まるで、笑いなれていないような。そんな感じ。

 

「ほんと、久遠って面白いよ。カッコいいし、頭もいい。そして何よりも優しい。私が好きになるべき人だ」

「そこまで褒められるとは光栄だ。だが、俺の持つお前のイメージは最悪だぞ?」

「へえ、それは調教師としての腕がなるね。私無しでは生きられないようにしてやるさ」

 

 俺と千代の間にバチバチと火花が散る。

 

 こんな世界だ。どうせやることだってないのだから、このよく分からない女に付き合うのも悪くはないのかもしれない。

 

 こうして、俺と千代の二人だけの短い毎日が始まるのだった。

 

 



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