由比ヶ浜にタピオカを奢ったら、みみみに※※された。 (菓子子)
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序章『総武高校』
一話『視』


語り部はオリ主です。
設定はできる限り原作に準拠しています。まちがっている場合は、ご指摘くだされば可能な限り修正したいと考えています。
一部の原作キャラが、不幸な目に遭う可能性があります。
オリ主がヒロインと絡んでいく展開が好みでない方は、ブラウザバックをオススメします。
『それでもいいよ!』という方は、どうぞお付き合いくださいませ(_ _)


「はぁっ……ふっ…………」

 

 頭が痛い。目頭が熱い。横っ腹がズキズキする。

 

『……なんでそんなひどいこと、言うの……?』

 

 彼女に言わせてしまった言葉を思い出して、また涙が出た。

 泣くことはきっと許されないことなのに。

 彼女はまだ、僕が抜け出したアパートにいるだろうか。

 それとももう、出て行ってしまっただろうか。

 内心で、後者を望んでしまっている自分に、ほとほと嫌気が差す。

 

「くっ…………ううっ……」

 

 僕が悪いんだろう。

 でも思わず、問わずにはいられない。

 酸欠で朦朧とした頭の中で。額を通過していった涙を、ゴシゴシと拭いながら。

 自分自身で、自分自身を問わずにはいられない。

 

 

 ――まちがっているのは、どっちだったんだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また、誰かに見られている気がする。

 始まりは、定期中間考査の結果が分かった頃合いだったように思う。

 気配を隠そうとすらしない、敵意に満ち満ちた視線。

 一体誰なんだろう。全く心当たりのない胸の中を、もやもやとさせながら歩みを進めていると、程なく目的地に着いた。

 

「……」

 

 なんの変哲もない、教室の廊下の隅にある一室。

 ここが……平塚先生の言っていたところか。

 ちょっとした躊躇を振り切って、扉をスライドさせると――、

 

「うーーーーーん………なんでだろ……」

 

 ――茶色に髪を染めた女子高生が、長机に肘を乗せながら、用紙片手にうんうん唸っていた。

 名前は……ええと、なんだっけ。確か、鎌倉にある海辺の名前だったはずなんだけど……ええと、そうだ。

 

「七里ヶ浜さん?」

「由比ヶ浜だし! ……って、え、ヒッキー……じゃない?」

 

 違った。ごめんなさい。

 即座に怒り顔でツッコミながらも、僕の顔を見るなり表情を変える。驚きからか、持っていた紙を取りこぼす。

 感情表現が豊かな人だな……。

 

「あ、わ、ちょっ……!」

 

 由比ヶ浜から放たれたその紙は、開けた窓から吹く浜風に揺られながら、僕の足元に音なく落ちる。

 怪しがりて、寄りてみるに、裏から赤ペンの跡が滲んでいた。拾って、裏を向けてみると、無数のナイキのロゴマークと、ほんの少しの丸が、乱暴な筆跡で赤く染まっている。

 そして、何より……そのテスト用紙右上には、『27』と、定期テストに於いて意味するところの赤点が、でかでかと下線付きで書かれていた。

 数刻の硬直……の後に、

 

「見……見ん……見んなし!」

 

 真っ赤にした顔を隠そうとしないで、初対面の僕の肩をバシバシと叩く由比ヶ浜。

 扉と窓からは、部活動に勤しむ生徒の声が聞こえてくる。また吹いてきた穏やかな風が、僕が手に取った紙を鳴らす。

 それが僕の、思ったより長い付き合いになる、由比ヶ浜結衣との出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 

『高校生活を振り返って』 2年F組 佐倉葉一

 

 高校一年生で出会った単元や分野は、往々にして難しかった。

 序盤では等加速度直線運動で躓きかけた。あまり十分に理解しないまま、一次元的だったはずの運動が二次元にまで拡張された時は本当にきつかった。X軸とY軸に速度を分解して考える発想は僕にとっては真新しく難しいように思ったけれど、なんとか理解することができたように思う。

 中盤では三角比の扱いに苦労した。正弦や余弦の値を、既存の三角形を想像しながら出す方法に固執し過ぎて、単位円を描いて導き出す手法がどうしても取っつきにくかった。一時はゴリ押しで解こうかと一瞬本気で考えてみたものの、三角関数に入った時に泣きを見ることは火を見るよりも明らかだったので、頑張って克服した。

 終盤では古文でコケた。序盤中盤で、『古文と言ってもどうせ元々の日本語だったのだから大丈夫だろう』と高を括っていたことが響いた。やっぱり、どの教科も侮ってはいけないと思った。油断は大敵である。

 このような紆余曲折があったにせよ、一年間を通して目標としていた成績を収めることはできたように思うので、引き続き、新しく転校してきたこの総武高校でも頑張っていきたい。

 

 

 

 国語教師の平塚静は、時折ため息を挟みながら、わざわざ僕の作文を音読してくれた。

 文章に関する感想は特にない。でも、自分が書いた文章を誰かが喋ってくれることは、なんかこう、不思議な感じがした。アニメ化志望のライトノベル作家の夢を、一足先に叶えてしまった気分だ。

 平塚先生は読み終わると額に手を当てて、深々とまたため息をついた。

 

「なぁ、佐倉。私が授業で出した課題は何だったかな?」

「……ええと、『高校生活を振り返って』……でしたっけ」

「そうだな。それでなぜ君は犯行声明……失礼、勉強の感想文を書き上げてるんだ? 頭がいいのか? それともバカなのか?」

 

 平塚先生はため息をつくと悩ましげに髪を搔き上げた。

 そういえば、意味の似ているあの二つの単語はため息よりも、吐息と言った方がエロさが増すように思う。……なんか今、誰かに意識を乗っ取られた気がする。

 そんなことを考えていると、紙束で頭をはたかれた。

 

「真面目に聞け」

「すみません」

「はぁ……君は成績はいいんだが、何かが決定的にズレている気がするんだ」

「ふむ」

 

 僕の何かが他生徒の何かと決定的にズレている。

 それは当たり前で、僕だけにじゃなく誰にだって当てはまることだ。

 と言うや否や、先生による鉄槌が振り下ろされるのは目に見えているのでやめておこうか。

 先生の顔の皺を増やす趣味も、もちろん僕は持っていないのだし。

 

「こちらから見れば、危なっかしいことこの上ない」

「放っておいてくださいよ」

「馬鹿者。それが教師の仕事で、使命なんだよ」

「……なるほど」

 

 なんてないことを名言っぽく言ってのけた平塚先生の表情は、心なしかドヤ顔が混じっている気がして。

 まさかとは思うけど……この人、今頃になっても少年ジャンプとか読んでいる口だろうか……いや、まさか。

 

「それに……嫌いじゃないから、な。そういう役回りは」

「?」

「なんでもない。それより……」僕からの追及を嫌ったのか、平塚先生は話題を戻した。「普通、『高校生活を振り返って』と聞かれたときは、定期テストの成績じゃなく、自分の生活を省みるものだろう」

 

 なん……だと……?

 

「……っ!?」

「おい……どうして今、コペルニクス的転回を得たような表情になる」

「その発想はなかった……ですね」

「……」

 

 要領の悪い僕に腹を立てたのか、平塚先生は僕を睨んだ。

 この状況で僕が出せる選択肢は、一つしかなかった。

 

「すいませんでした。書き直します」

 

 謝罪と反省の意を表すのに最適化された言葉を選択。

 だが、平塚先生には満足いただけなかったご様子。なぜだ。自分の非を認めて謝っているのに、平塚先生の表情が和らぐ様子は一向にやってこない。

 平塚先生は、はちきれそうな胸ポケットからセブンスターを取り出すと、フィルターをとんとんと机に叩きつける。おっさんくさい仕草だ。葉を詰め終わると、百円ライターでかちっと火をつける。ふぅっと煙を吐き出すと、至極真面目な顔でこちらを見据えた。

 

「……あ、いや、悪い。怒っているわけじゃないんだ」

「はぁ」

「君と同じような受け答えをした生徒がいてな……そいつが、本当に手のかかりそうな奴で……、」

「ええと?」

「なんでもない」平塚先生は言う。「ところで……君も、部活はやってなかったよな?」

「はい、まあ」

 

 親が転勤族だから、入ったとしてもすぐに抜けないといけないから。……という自分語りは面倒なので伏せておこう。

 

「……友達とかはいるか?」

「そうですね。まだ、あまり作れてないです」

「そうか! じゃあ、」

「だから、先生の気持ちも分かりますよ。新米の市立高校の教師って、よく異動で飛ばされるらしいですね。なので、他の先生と深い付き合いができない。……平塚先生が独り身なのも、仕方がないのかなって」

 

 風が吹いた。

 グーだ。ノーモーションで繰り出されるグー。これでもかというくらいに見事な握り拳が僕の頬を掠めていった。

 

「次は当てるぞ」

 

 マジな平塚先生を見て、僕は先生の持っている地雷を踏み抜いてしまっていたことを悟る。

 友達がいないことを喜ばれてしまったことの意趣返しだったつもりなのに、なんて割に合わないしっぺ返しなんだ。

 ともあれ素直に謝らないと。

 

「すみません」僕は言った。「でも、嘘じゃないです」

「……あのなぁ、佐倉、」

「僕は六月にはもうこの学校にはいないんです。だから、友達が作れたとしてもせいぜい馴れ合い止まりでしょう。だから、平塚先生が気を遣う必要はない……と思います」

 

 中学の頃に、自分が一方的に仲が良いと思っている友人がいた。別れ際に年賀状を送り合おうとか、時々LINEでやり取りしようとか、そんなことを約束した。数年経った今、僕は彼の顔も、声も口癖も、ほとんど思い出すことができない。

 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、平塚先生は食い下がってこなかった。

 

「……そうか。なら、他に相談したいことがあれば――」

 

 『なんでも私に相談するといい』。今時珍しい、熱い血が入った平塚先生の次の言葉が読めた。だから、その言葉に対する返答も、即座に口に出すことができるだろう。

 でも、違った。

 

「――奉仕部に行ってみるといい」

 

 ……奉仕部?

 混乱する僕の頭を他所に、平塚先生はハッとするような優しい目で、僕を見つめている。

 




よろしくお願いします(_ _)


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二話『手』

 顔を真っ赤にして、その顔を両手で覆っている由比ヶ浜さんのことは、ひとまず置いておくとして。

 僕はそのテスト用紙を眺めてみる。

 数学か……円の方程式とか、解と係数の関係とか、その他諸々。この分野は、テストを終えた感想としては、図形と方程式……なんてざっくばらんに纏められている通り、あまり込み入った話や概念はなくて、理解力や論理思考力より、単純な暗記力が物を言う範囲……だったと思う。軌跡はあまり理解していない部分もあったけれど、なんとかノリで乗り越えることはできた気がする。

 でも……。

 

「由比ヶ浜さん」

「え、な、なに?」

「数学のテスト勉強、ちゃんとした?」

「ギクッ」

「いざ勉強始めようって時に、スマホ開いたり、机の上の整理とか始めなかった?」

「ギクギクッ」

「『テスト勉強できないー(><)』なんて文面、インスタとかツイッターに投稿しなかった?」

「ギクギクギクッ」

 

 図星らしい。

 ……ていうかこの構図、勝手にテスト用紙を見た人が、勝手にその結果について説教をしているそれになってないか。

 

「……あ、いや……」

 

 さながら炎上したツイッターの投稿のリプ欄のような所業に、自分が恥ずかしくなる。

 

「なんでもない。えっと……ごめん、勝手に結果見ちゃって」

「あ、うん別に……って、よくないし!」

 

 うん、よくないね。

 座っている由比ヶ浜の元に寄って、おずおずとその紙を返す。

 閑話休題だ。

 

「……で、」

 

 渡した紙を、由比ヶ浜は丁寧に鞄の中にしまいながら、僕を見た。

 

「……ええと、その」

 

 由比ヶ浜さんは、何か考え込むように頭を掻きながら下を向いている。

 流石に察することができたので、質問される前に名乗っておこうか。

 

「佐倉葉一」

「え?」

「僕の名前」

「……ああ! 佐倉くん……ね、オッケー。……でも、どっかで聞いたような……?」

「クラスメイトだからかな」

「……ハッ」

 

 しまった、と目を見開く由比ヶ浜さん。……分かりやすい人だな。

 でも確か、僕がこの学校に来て初めて教室で自己紹介した時、あんな特徴的なピンク色がかった茶髪の人は見かけなかった気がする。一番僕が印象にのこる日に、体調不良か何かで休んでいたとしたら、それはそれで仕方のないことだろう。

 

「でも、なんかまだ忘れてる気がするんだけど……なんだっけ」

 

何か気になることをボソリと呟いた由比ヶ浜さんは、そんな気になることを振り切るように、一つ首を振った。

 

「ま、いいや。えっと……なんでここに来たの?」

「あ、ええと」平塚先生から話は通っていないのか。「平塚先生に、ここに行けって」

「なんで?」

「なんでって……相談を聞いてもらえるって、平塚先生に聞いたから」

「そうだん……ハッ、ああ、奉仕部!」

 

 何かを思い出したのか、由比ヶ浜さんは左の手のひらを、右の握りこぶしでポンと叩く。

 奉仕部?

 

「あー……いや、今ちょっと、ヒッキー帰ってなくて」

 

 ヒッキー?

 

「ゆきのんも最近顔出してくれないし……」

 

 ゆきのん……?

 僕が知ってる前提で話されている、謎の固有名詞が多すぎる。そんなに伏線めいた謎単語を沢山ばら撒いて大丈夫か……。

 ともかく。

 

「由比ヶ浜さんもここの部員なんだよね?」

「そだよ。……ってか、別に由比ヶ浜でいいから」

「分かった」僕は仰々しく頷いた。「じゃあ、僕のこと佐倉で」

「うーん...」

「どうしてそこで難色を示すのかな...?」

 

 由比ヶ浜は何故が、僕の名前を苗字で呼ぶことに納得がいっていないらしい。

 しかし、他の呼び方が見つからなかったようで、しぶしぶ由比ヶ浜は口を開いてくれる。

 

「佐倉君は……ぇ、ええと?」

「はい?」

「佐倉くんだよね?」

「はい」

「あの?」

「どの?」

 

 急に、僕の苗字の前に『that』が付けられた僕を他所に、由比ヶ浜は続けた。

 

「あの……その……なんていうかさ、えへへ……」

「……?」

「勉強、教えてくんない?」

 

 

 

 定期テストの解答用紙を返されると、基本的にどの高校も『テスト直し』という課題を課せられる。内容はその名の通り、テストで間違った部分をノートか何かで直して来るというもの。あくまで間違った部分なので、いい点を収めた生徒にとっては十数分で終わる作業ゲーだけど、赤点を叩き出してしまった生徒にとっては地獄の無理ゲーと化す。

 由比ヶ浜さ……由比ヶ浜は先に見た通り後者で、こうして部室に入って用紙と睨めっこしていたようだ。睨めっこしただけではその課題が終わるはずがないだろ……という無粋な突っ込みは、今後の由比ヶ浜さ……由比ヶ浜との円滑なコミュニケーションを育む上で大きな痛手となってしまいそうだったので、やめておいた。

 

「こんな媒介変数表示の時は、とりあえずこの……そう、tを消そうと思いながら式変換したらいいと思う」

「ばいかいへんすうひょうじ……」

 

 覚えたての長い言葉をなんとか飲み込もうとする園児のように、天井を見つめながら復唱する由比ヶ浜。

 ……これはダメかもわからんね。

 

「……とにかく、この連立方程式を、tについて式変換してみて」

「今、心の中でバカ扱いされた気がする……」

「なんでそこの嗅覚は鋭いんだ……とにかく、この、t、早く消す、お前」

「は、はい」

 

 しぶしぶながらも、なんとかtを消すことに成功した由比ヶ浜。

 心なしか、さっきよりも自信に満ちている気がした。

 

「それで?」

「それが答えだ」

「おお……! なんか私、ちょっと賢くなったかも、えへへ」

 

 そう。それくらい単純な方がいいんだ。一問解ける度に、それが自信になっていけばモチベーションもグングン上がっていく。

 その問題を皮切りに由比ヶ浜は火がついたのか、めっきりペンを回す回数と、視線が横に逸れる回数が少なくなった。言葉数もそれに比例していって、女子生徒の近くで数学を教えるという、もっと他に生々しい書き方をすれば、かなりの非日常という部類に入りそうなシチュエーションに、知らず知らずの内に浮ついていた僕の頭も冷えてくる。

 周りを見渡すと、奥の机の椅子の脇に、様々な形状の本(小説?)が積まれていた。由比ヶ浜に本を読む趣味があるかどうかは分からないけれど、積まれている本の場所からして、きっと違う部員のものだろう。

 一方でその視線を翻してみれば、何も置かれていない部屋の隅ではギリギリ視認することのできる埃が薄く広がっている。妙に生活感のある場所と、逆に生活感のないスペースが存在している、ビフォーアフターの中間を見させられているような気分だ。

 

「……んんん……」

 

 謎のうめき声に視線を戻すと、由比ヶ浜は……ええと、どうやら円の接線の方程式の問題に手こずっているようだ。ここで僕が下手に口を出して、自己満足に解答を教えることも吝かじゃない。

 でもそれは、由比ヶ浜のためになるかと言われると、そうはいかない訳で。

 手が止まっている由比ヶ浜が視界に入る。肩までの茶髪に緩くウェーブを当てた、人目見ただけでお洒落に気を遣っていることが分かるヘアスタイル。追加で項目を付け足せば、胸元に光るネックレスや、やや短めのスカートと、多分校則に間違いなく引っかかっていそうな出で立ちだ。髪の色と併せて一つをアウトとすればとっくにチェンジしている乱れっぷりである。

 ……し、しかし結構、胸が……中々……いやでもあまり、無意識にでもソレを視界に収めるのは不誠実ではないかという疑問が当然頭によぎるっちゃよぎるけど陳腐で使い古された先人達の言葉をあえて借りるとするならば僕も一般的な高校生な訳で……。

 ……。

 …………。

 

「ぷあー!!」

「わあ!?」

 

 唐突に奇怪な声を上げた由比ヶ浜に反応して体がのけぞる。パイプ椅子を支えている一方のパイプが床から離れる。崩れる。落ちる。

 

「あ、わわ、大丈夫?」

 

 それに気づいた由比ヶ浜は、情けない姿で床にへたり込んでいる僕に手を差し伸べてくれた。僕はありがたくそれに手を伸ばすと、同年代の女性の手を握った経験があんまりなかったことも相まって、その手の感触に気を取られて、お礼の言葉を継ぐのを忘れてしまった。

 

「それで……何? 今の声……」

「へっ? あー……あ、そうそう!」由比ヶ浜は何かを思い出したように言った。「この問題、分かっちゃって。それでついつい嬉しくなって、その……ごめんね?」

「ああ……いや」僕は言った。「こっちこそ、ごめん」

 

 その謝罪は二つの行為に対するものだったが、由比ヶ浜はそれに別段気にするようなこともなく、たははー、と、その場の空気を弛緩させるような笑みを投げかけた。

 すると、その間を縫ったように放課後の終了を告げる予鈴が鳴った。どちらからともなく机に広げてあった教科書累々を鞄に詰めて、どちらからともなく扉へと向かう。

 別れの挨拶をいつ切り出そうかと思案していると、由比ヶ浜がこちらに近づいてきた。

 

「今日は、その……助かっちゃった。ありがとね」

「ああ、うん」僕は頷いた。「また……これくらいなら僕、見られるから」

 

 見られるから、なんだろう。僕は彼女に何を言おうとしたのだろう。

 分からないまま、由比ヶ浜は僕の曖昧な返答に頷いてくれる。

 

「そっか。……あっ、もし何か佐倉くんも悩んでることとかあったら言ってね! 転校したてで、この学校の勝手とか、分からないことも多いだろうし……ここ、奉仕部っていう部活の部室でさ。困ってる人とかを手助けする部活だから、もしよかったらって感じで」

「ああ、そっか」

 

 その言葉で、僕はようやくわざわざこの部室に来たその理由を思い出した。

 でも、もう終わりの時間だ。ここで話題をまた出して、由比ヶ浜を引き留めるのも気が引けたし、賢い選択ではないだろう。今日はさっさと引き上げるか。

 

「じゃあ、また、機会があれば」

「うん。ばいばい」

「おう」

 

 ばいばい、という言葉にどことなく歯がゆさを覚えながら、僕は由比ヶ浜とその部室を後にする。

 

「はぁ……」

 

 今日の夢に出てきそうなレベルの手の柔らかさだったなぁ。

 僕は心の中で独り言ちて、校門を目指した。



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三話『陽』

「ぐ、ぐ……」

 

 近くに誰もいないのに、お気に入りのシャーペンであるドクターグリップを力強く握って、歯を食いしばりながら呻く僕。

 

(しゅ、集中できない……)

 

 直近の問題である、授業合間の十分休憩等に時折刺さってくる視線。

 それが気になって気になって、今日も英単語帳の進捗がよろしくない。

 由々しき問題だった。貴重なスキマ時間を勉強に充てられないとなると、家に帰ってからしなければならない課題の量が増えてしまう。校内で消費できなかったタスクを、持ち帰ってせかせか消費している昨今の僕は、さながらブラック企業に入社してしまった要領の悪い新入社員のようだ。

 

(やっぱりもう一度、行こうかな……)

 

 奉仕部へ行って相談することを勧めてくれた、担任の先生とゆい……なんだっけ?

……ナントカ浜さんの言葉を思い出す。

 人に頼ることは慣れていないのだけれど、今は藁にも縋る思いだった。睡眠不足で判断力が低下していることも、要因の一つとしてあるのかもしれない。

 放課後ということもあって、まばらなクラスメイトと机の間を通って教室を抜ける。

 潮風に、ここが海の近くにあることを感じさせられながら廊下を抜け、階段を降りると、

 

「ねぇ」

 

 誰かに声を掛けている、制服姿じゃない女の人とすれ違う。

 

「ねぇってば」

「……え?」

 

 肩を叩かれて振り返ると、その女の人は僕のことを見ていた。

 そこでようやく、その人は他でもない僕に話しかけていることに気づく。

 ……誰だろう。

 

「佐倉葉一って子を探してるんだけど、知らない?」

「えっと……」

 

 にしてもキレ―な人だ。初対面なのに距離が近い。なんかいい匂いがする。物理的にも、精神的にも距離を感じさせない。なによりなにより、胸囲の主張がやや強めなのも、佐倉的にポイントが高い。

 この人と知りあいの人も、さぞかし色んな意味でレベルの高い人なのだろうと、益体のないことを考える。

 ……一方で、彼女は僕のことを知っているみたいだが。

 

「僕、ですけど……」

「あっ、ホントに? よかったラッキー」

 

 警戒と緊張を悟られないように、言葉少なに返す。

 すると彼女は、僕の肩を叩きながら破顔した。

 

「いやー、雪乃ちゃんを負かした子がどんな子か知りたくなっちゃって。へぇ……君が……ねぇ?」

「あ……あの……」

 

 そしてめっちゃジロジロ見られるんですけど。あと雪乃ちゃんって誰ですか。ついでに貴方も誰ですか。

 唐突にぶっ込まれた超絶怒涛の情報量に目を白黒させていると、僕の戸惑いと疑問を察知してくれたのか、彼女は『ああ!』と思い出したように言った。

 

「わたしは雪ノ下陽乃。雪ノ下雪乃のお姉さん」

「はぁ……お姉さん、ですか」

「なんでもは知らないけどね」

「なんでも知ってるおねーさんではない、と……」

 

 整理すると、雪乃という、僕が何かで負かしてしまったらしい妹がいる雪ノ下陽乃さん、僕に興味を持って学校に乗り込んできた……ということか。

 なるほど、ぼやけた輪郭がなんとなく……くっきりとはまだ見えないけれど、前後の繋がりは分かってきたぞ。

 

「でも、まぁ、いいや。何か見たら冷めちゃった。あんまり面白そうじゃないし。またね、佐倉くん」

 

 もう、二度と会うことはないと思うけど。

 そんな捨て台詞を吐いて、雪ノ下陽乃さんはあっさりと階段を引き返していく。

 謎のまま放り出された情報と、モヤモヤと胸につかえる言葉を、僕に残して。

 

「まるで得体の知れない人を見て、何をどう反応すれば分からないとでも言いたげな表情をしているな、佐倉」

「う、お」

 

 思わぬ至近距離から放たれた、かなり的確な比喩に対しても、十分なリアクションを取ることができずに、僕は階段の上でたたらを踏む。普通に危ない。

 

「先生」

「近くで快活そうな私服姿の女性を見かけなかったか?」

「雪ノ下陽乃さんのことですか?」

「……話が早くて助かる」

 

 はぁ、と大きなため息をつく先生。

 その息のニオイに対してリアクションを取るべきかどうかちょっとだけ迷って。

 とりあえず、無言で鼻をつまむことにした。

 

「ヤニ臭い先生で悪かったな」

「冗談ですって」

 

へそを曲げられてしまいそうだ。

ここは強引に話を戻そうか。

 

「で、彼女がどうかしたんです?」

「あ、いや」先生は言った。「突然、あいつが職員室にやって来てな。『今二年生で一番賢い生徒の名前を教えて』だと。、礼の一つもくれずに出て行ってしまったんだ。それで追って追いかけてきたという訳だよ」

「なるほど」

 

「……もしかして、僕の名前を言いました?」

「察しがいい、かつ自覚があって助かる」

「いや、別に……そうじゃなくて」僕は訂正を期して言う。「その……雪ノ下さんが僕の名前を聞いて回っていたので。想像です。……それに……」

「なんだ?」

「僕は僕の偏差値ほど頭はよくない」

 

 特別に論理思考力が他より優れている訳じゃない。物覚えも、百歩譲って平凡だ。自分の家や自転車の鍵を閉めずに離れてしまうことがままある程度には、おっちょこちょいだ。

 その自覚はいくらでもある。……だから、先生が言ったような自覚はあるはずがないし、その事実もない。

 

「私の作ったテストで90点台後半を取った上で、頭がよくないと言われてもな」

「先生は授業中に、先生が大事だと思っている部分や表現を、よく強調して教えてくださるので。だから、そこをしっかりと押さえておけば八割は固い」

 

 あとは漢字のしっかりとした暗記と、問題集をしっっっかりとよく読んでおけば90点は押さえられる。後は気合いで詰められたり、詰められなかったりする。今回は運がよかっただけだ。

 だから、学力で勝ち取った96点ではないから、国語の点数だけで自分が賢いと判断するのは大きな誤りである。

 

「それが賢いと言っているんだよ」

「……え」

 

 でも。

 先生の出した答えは違ったらしい。

 

「私が覚えて欲しいところを覚える。それはテストの点数を上げたいと思った時にすべき、当たり前の行いだ。でもその当たり前が当たり前のようにできなから、人はまちがうんだよ」

「それは……」

「君はもっと、当たり前のことを当たり前にできない人間のことを知るべきだ」

「……分かりました」

 

 僕が渋々頷くと、平塚先生は胸の前で腕を組んで、満足げに頷く。

 ……もしかしてだけど。

 

「もしかして先生、今僕のこと褒めてくれてました?」

「ああ、そのつもりだが?」

「遠回りすぎでしょう……」

「じゃあ、嬉しくなかったのか?」

「それは…………まぁ、」僕は少し恥ずかしくなって、視線を横に逸らして。「嬉しくない……ことはないですけど」

「じゃあ、私は正しい褒め方をしたということだな」

「……ぐぅ」

 

 ぐぅの音も出ないほどに論破されてしまった。

 ぐぅの音は出たけど。

 

「君が、ここのOGである雪ノ……陽乃に何を上から目線で唆されたのかは知らないが、学力という土俵の上では目線は一緒だからな。まぁ、気に病むことはないだろう」

「え、え」聞き捨てならないことを聞いた気がするぞ?「雪ノ下さんって高校生の頃、テストで一位獲ってたんですか?」

「ああ。基本的には、そうだったかな」

 

 綺麗で私服のセンスがよくて、胸囲の主張が強くてお喋りも上手そうな上に、頭もいいだって?

 そんなチートめいた人が、この地球上に存在していいのか?

 

「なんだか、それって……」

 

 妹さん、大変そうですね。

 と滑らせかけた口が、寸前になって踏みとどまる。

 勝手に、知ったような口をきいてしまうところだった。

 

「何だ?」

 

 急に口ごもる僕を不思議に思ったのか、先生は訝し気に訊き返した。

 僕は少しだけ考えて、言い直した。

 

「ラスボスみたいな性能ですね」

「はは」先生は笑った。「倒すつもりなのか?」

「いえいえ、そんな」僕は笑わずに言った。「僕はカレーでも作って食べておきます」

 

 僕の軽口をどう受け取ったのかは分からなかったけれど、先生は『そうか』と短く相槌を打って、元来た道を引き返していった。まだ何か職員室でしなければならないものでもあったのだろう。

 不意に目線を上げてみると、もう既に先生の姿は見えなくなっている。

 僕も取り残されないように、少し深呼吸をしてから、奉仕部の部室へと歩みを進めた。

 



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四話『穴』

奉仕部の扉を開けると、赤みがかかった茶髪の子に加えて、新たに一人の生徒が

男の人。

黙々とライトノベル片手に読書に耽っている男の人。

目の下に大きな隈を蓄えている。

ナントカヶ浜さんとは対照的な人みたいだな、と。

第一印象はその程度だ。

その、同級生らしい男子よりも先に、ナントカヶ浜さんの顔があがる。

僕が挨拶代わりに手を挙げるや否や、由比ヶ浜は口を開いた。

 

「ガリ勉じゃん」

 

 どうやら、一部のカーストでは、なるはやで知人のあだ名をつけて、距離をグッと近づける習わしがある……という噂は、どうやら本当らしかった。

 ともあれ僕は、ナントカヶ浜の中で、とりあえず隙あらば勉強しているがり勉キャラとしての地位を確立しているようだ。

 僕の、ナントカヶ浜に対する『とりあえず最後に浜のつく、テンション高めな陽キャラ』という認識と、いい勝負だと思う。

 

「九十九里浜」

「違うし?!」

「……白浜?」

「近くなったけど違うから……もしくは通り過ぎてる……」

「由比ヶ浜」

「ん。今日はどしたの……ってかあっ、そっか、相談か。……ね、ヒッキー」

 

 ナントカヶ浜、改め由比ヶ浜は、だらしない恰好でパイプ椅子に座っている彼に声を掛ける。

 その男はヒッキー、というらしい。

 一言二言、彼女と会話を躱した後、無理な体勢で本を読み続けていたからか、両手を挙げて伸びるような仕草の後、僕に向き直る。

 

「それで、相談って何だ?」

「あ、えっと」

 

 挨拶を飛ばして、いきなり本題に入ろうとする彼。

 なんとかついていかないと。

 

「由比ヶ浜さんから聞いてない?」

「一応は」彼は言った。「でも、いまいち要領を得なかった。だったら、本人から聞いた方が手っ取り早いだろ?」

「あたしの説明にずっと生返事で返してたの、そういうことだったんだ……」

 

 一応、由比ヶ浜さんは彼に説明を入れてくれていたようだ。

 ありがたい。ありがたいけれど、その努力が全て水の泡だったことに気づいた由比ヶ浜は、目元に虚しさを湛えた笑みを、彼に向けていた。

 それから僕は、彼に説明を入れた。

 最近、誰かに見られているような気がすること。

 その視線で、いつもに比べて勉強に集中できないこと。

 それで困っているので、先生の勧めに従って、この部室の扉をノックしたこと。

 

「……ふんむ……」

 

 彼は悩んでいるようなアクションを見せる。

 しかしそれには芝居がかかりすぎていて、初対面の僕でも全然悩んでいないことが分かった。

 そして、十分な間を取った後に、彼は口を開いた。

 

「ただの風邪ですな」

「そっかー風邪かー。最近季節の変わり目で温度差激しいもんね……ってえ、風邪!?」

 

 流れるようなノリ突っ込みを見せたのは僕じゃなく、由比ヶ浜だ。

 

「メイアクト、出しときますね」

「しっかりと抗生剤を処方しようとしている……」

「めいあく……何?」

 

 因みに抗生剤は、風邪が治り掛けた時に飲むのを止めると、その抗生剤に対する抗体が体内でできてしまって、逆に悪化するらしいから、処方された抗生剤は飲み切った方がいいらしいぞ!

 ……じゃなくて。

 

「僕、ピンピンの健康体なんだけど」

「だったら自意識過剰だ」彼は僕の反応を予想していたように、即座に吐き捨てた。「いや、分かる。分かるぞ俺には。俺もな……っつか俺の友達の友達の話なんだが……」

 

 それから彼は、彼の友達の友達が、中学の頃にとあるクラスメイトの視線を受信して、『もしかして……自分のことが好きなのでは!?』と思い至って自分から告白した結果、派手に玉砕し散った話を、かなり仔細に、懇切丁寧に教えてくれた。

 

「……」

「……」

 

 どう考えても彼自身の黒歴史に関する話だった。

 ……僕と由比ヶ浜は終始ドン引きしていた。

 

「ともかく、だな」そんな僕たちのドン引きを意に介さず、彼はまとめる。「クラスメイト……引いては他人の99割はお前のことなんて路傍の草程度にしか思ってねぇんだよ。むしろ逆だ。赤の他人は全員自分のことを嫌っている程度に思っときゃ、余計に傷つかなくて済むからオススメ」

「リスクヘッジが大げさすぎる……」

「クラスメイトって他人じゃなくない?」

 

 各々の指摘を処理しきれなかったのか、バツが悪そうに下を向く彼。

 でも。

 そんな彼の言い分はユニークだと思ったし、何か胸にストンと落ちる感覚があった。

 なるほど。自意識過剰か。

 

「確かに……そうかも」僕は頷いた。「最近こっちに越してきたばかりだから、ちょっと神経質になりすぎていたのかもしれない」

 

 そう思うと、やにわに恥ずかしくなってきた。

 自分のことを絶えず見ていた誰かが、僕の自意識によって作り出された幻想だっただなんて。

 穴があったら入りたい。

 

「ありがとう。帰ります……」

「ちょ、ちょっと待って」

 

 帰りながら、ちょうど人一人が埋まりそうなサイズの穴でも探そうか……などといった算段を立てていると、由比ヶ浜に止められる。

 由比ヶ浜は、彼が出した結論に納得がいっていないのだろうか。それとも……?

 

「ま、まだゆきのん来てないから。それまで待ってかない?」

「ゆきのん……?」

 

 って確か、昨日も由比ヶ浜が口にしていた渾名だ。

 

「ゆきのん……って、この部活の部員?」

「そうそう!」

 

 言われてみれば、この部室には誰かが座りそうなスペースが、もう一つだけあった。

 堆く積まれた小説累々……が囲んでいる、最後の一つのパイプ椅子。

 そこが、俗にゆきのんと呼ばれる部員の所定位置のようだ。

 

「まだ来てないけど……で、でも、もう今日は来ないって決まった訳じゃないから、ちょっと待ってかない?」

「今日はもう来ねぇだろ。こんな時間だし」

 

 由比ヶ浜の誘いを、目つきの悪い彼が制した。目線はライトノベルの方に預けているみたいだが、さっきからページをめくる様子はない。

 一応会話には参加してくれているみたいだ。

 

「で、でも……」

「話は解決した。……それに、昨日だって来てなかったんだろ?」

「そう、だけど……」

 

 由比ヶ浜は、悲しそうに目線を下に落とした。

 ゆきのんは昨日もこの部室に来ていない。それは僕が目の当たりにしているから、それは確かだ。

 もしかして……。

 

「その……ゆきのんって、幽霊部員なのか?」

「そうじゃねぇけど」

「最近……来てくれなくってさ」

 

 最近。

 つまり最近まではこの部室に足を運んでいた。

座り主のいないパイプ椅子の周りの生活感が、そのことを如実に表しているようにも見えた。

 

「そっか」

 

 それなら、あまり部外者が首をつっこむべきではないだろう。

 どう考えても僕が詳しく話を聞き出すのは悪手で、相手にとってはありがた迷惑な話だ。

 双方が損を被るだけだ。

 

「じゃあ……また、何かあったら相談しに来ていい?」

 

 六月にはまた、転校しちゃうんだけど。なんて微妙なことは口にしないで、僕は精いっぱいの愛想笑いを浮かべる。

 彼はつまらなさそうに『おう』と言った。彼女は『う、うん!』と健気に応じてくれた。

 僕は最後にもう一度だけ感謝の言葉を述べてから、奉仕部を後にする。

 外に出ると、夜になっても冷え込んでいない空気が漂っている。昼とは打って変わって、沖に向かって吹く陸風の温度が心地よかった。

 もし。もし僕がずっとこの高校にいることになるならば、例えば奉仕部のような部室に入り浸って、他愛もない話を繰り広げていたんだろうか。

 そんな感傷的な空想をしてしまう程度には、夜の帳は降りていて。

 しっかりと穴を探すことを忘れないように心に止めながら、僕は家路についた。

 



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五話『雪』

 昼休憩中は、各々の場所を囲んで、友人と会話に勤しみながらモソモソとご飯を食べるのが一般的だ。

 ぼっちを除いて。

 ぽっと出の転校生に、優しく話しかけてくれるクラスメイトを期待することは烏滸がましいから。

 今日も今日とて、他人の談笑をBGMに一人飯を遂行している。

 

『だったら自意識過剰だ』

 

 昨日の、奉仕部にいたユーモラスな彼の言葉を思い出す。

 奉仕部に行って、初めて見た人。少なくとも、この教室にはいるようには見えない。各々が笑いながらご飯を食べているどのコロニーの中にも、彼の姿は見当たらない。

 ……そういえば、いつも何かと笑っている由比ヶ浜もいないな。

 一人、ずっと机に突っ伏して寝ている人はいるようだが……ともあれ。

 自意識過剰。

 自意識が肥大化して、赤の他人の何気ない視線の動きや、自分とは関係のない人へのうわさ話の矛先が、自分に向けられているものと錯覚してしまうらしい(グーグル調べ)。

 だから、自分のような話は、その一例に過ぎないと、彼は言った。

 僕はそれに納得していた。納得して、穴があったら入りたいと思った。

 

「……」

 

 だから。

 だから、()()()()()()()()()()のも、やはり勘違いに違いなくて。

 僕は購買で買ったメロンパンを、知らない振りをしてかじり続ける。

 ……。

 でも。

 最後に一度だけ、振り返ってみてもいいんじゃないか。

 もちろんその先に誰か僕を見ている人がいるとは、もう毛ほども思ってはいないけれど。

 ただ、『自分を見ている人』が本当にいないことを、自分の中で実感として持たせるために。

 と、僕は自分を納得させてから、目を横に思いっきり動かして、それから少しだけ首を回しながら、振り返ってみる。

 果たして――。

 

「…………え」

 

 いた。

 普通にいた。

 姿かたちは隠れて伺うことはできないが、体……の一部が扉からはみ出していた。

 彼……いや、彼女の名は。

 

「由比ヶ浜」

「ひぇっ!?」

 

 僕は席を立って、気づかれないように十分に近づいた後、声を掛ける。

 先程から丸見えだった、お団子ヘアーが驚きで揺れる。

 頭隠して尻隠さず……ならぬ、身体隠してお団子隠さずだ。

 

「ガ……ガリ勉」

「こんなところで何してるんだ?」僕は尋ねた。「もしかして……自分の教室忘れちゃった……とか?」

「そんなことないしっ!? ってかここ、自分の教室だし……」

「じゃあ入りなよ。……それとも何か、ここで用事ある?」

「……」

 

 由比ヶ浜は少しだけ目を見開いてから、「うう」とうなだれて、背中を壁にくっつける。

 何か言いづらいことでもあるらしい。

 後ろめたいことをこれから話すつもりなのか、彼女は目線を横に逸らしながら口を開いた。

 大体、彼女の言いたいことの見当はついているけれど。

 

「あ……あの。信じてもらえないかもだけど、あたし……」

「うん。信じるよ」僕は言った。「君は自分が犯人じゃないって言いたいんでしょ? それは分かってる。もしそうなら、もっと早く見つかってたはずだから」

「そ、そっか……」

 

 由比ヶ浜は、困惑と安堵を感じさせる、口だけの笑みを浮かべた。

 しかし安堵が勝っているのか、言葉を選べずに由比ヶ浜を少しだけこき下ろしてしまった事実には、彼女自身は気づいていないようだ。

 

「……関係ないけど、話の腰折らないでよ。人の話は最後までちゃんと聞くって、誰かに言われたことない?」

「少なくとも、国語の教科書にはそんなこと書いてなかったな」

「これだからガリ勉は……」

 

 ゲンナリした表情をしたまま、右手でやれやれと額を抑える由比ヶ浜。

 

「あはは」僕は笑った。「全くだ」

 

 これでおあいこか。

 由比ヶ浜も緊張が解けたのか、屈託なく笑う。

 そろそろ本題に戻ろうか。

 

「で。何やってたんだよ?」

「あ、やー……そのね?」由比ヶ浜は言った。「ほら、ガリ勉って誰かに見られてるって言ってたじゃん。だからその、見張ろうと思って……」

 

 え?

 そうだったのか?

 ……でも。

 

「……ありがたいけど」僕は一応、お礼の言葉を挟む。「彼の話、聞いてただろう? あれは別に本当に見られてた訳じゃなくて、僕の自意識過剰だったんだって。……ああ、思い出したら恥ずかしくて穴に入りたくなってきた……何か近場でちょうど人が入るサイズの穴とかない?」

「や、ないけど……」引きつつも、由比ヶ浜は答えてくれる。「でも、前行ってた高校じゃそんなことなかったんだよね?」

「でも、僕は納得してて、」

「あたしが納得いってないの」

 

 と。

 由比ヶ浜は僕の意に介さず、キッパリとそう言った。

 いつもの軽い調子とは違う、ほのかに意志の強さを感じさせる強い声。

 僕が見ていたいつも由比ヶ浜は、ほんの一部だったのだろうと。

 そんなことを思う。

 

「……あ、や。あたしもそういうの、経験がないこともなくてさ……。迷惑だったらごめんね?」

 

 思っていると、いつの間にか由比ヶ浜はいつもの由比ヶ浜に戻っていた。

 驚きの変わり身の早さだ。

 

「……あ、ゆきのん!」

 

 その変わり身の早さに恐れおののいていると、由比ヶ浜は明後日の方向に顔を向けた。

 釣られて僕もそちらを見ると、そこには……う、お。

 げぇ。

 由比ヶ浜に勝るとも劣らない端正な顔つきの同級生が、こちらをじっと見ている。

 僕の周りの顔面偏差値が、僕を加えても優に70は越えてしまっている。

 その辺りの地方医大でも一発合格に違いない……何を言っているんだ僕は。

 

「……そこで何をしているのかしら?」

「話せば長くなると言いますか……」

 

 顔面が不細工だと、近くに綺麗な顔の人がいると、生物的な劣等感を感じて平静ではいられなくなる。

 これは一般論ではなく、僕の持論だが。

 ともあれ、緊張して会話に参加できるテンションじゃない。

 

「誰を見てたの?」

「そういうんじゃなくって……」

「……まさか、自分の教室の場所を忘れてしまったの?」

「だから違うからっ!? そんな可哀想な子犬を見るような目で見ないで~」

「それは二重表現よ……暑い、由比ヶ浜さん……離れて……」

 

 僕が冷静さを取り戻している間に、目の前では女子高生二人によるイチャイチャが繰り広げられていた。

 正直……眼福です。アーメン。

 ぐぐ……由比ヶ浜一人だったり、雪ノ下ナントカさん一人だったりの時は大丈夫だったんだけど、美人さん二人となると……ううん?

 

「お前……雪ノ下か?」

 

 表情も、まとっている雰囲気も、髪の長さも、第一印象も、表情筋の使い方も違うのに。

 何故か……いや、面影だ。

 陽乃さんの面影が、彼女のそれと重なって見えて。

 僕は不躾にも、初対面でそんなことを聞いてしまっていた。

 

「なぜ、貴方が……」

 

 そして、雪ノ下の表情が変わる。

 陽乃さんの面影すらもなくなった、暗くて、怖い表情に、変わる。

 

「えっ、ガリ勉ゆきのんのこと知ってるの? すごーいゆきのん有名人」

 

 しかし、その怖さで僕が尻餅をつく前に、由比ヶ浜は雪ノ下の話の腰を折った。

 ……。

 話の腰、折ってる……。

 



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六話『タ』

 静かな図書室でせかせかと、次のテスト考査のために英単語や数学の公式の確認などをしていると、周りの席を立つ音で我に返る。

 時計を見ると、もう下校時刻の十分前を切っていた。そういえば野球部の掛け声や、サッカーのボールを蹴る音、静謐な図書室に聞こえてこなくなっている。

 

「……帰るか」

 

 僕は図書室だったり、本屋さんだったり本が沢山置かれている場所特有の、インクの匂いが好きだった。ガソリンスタンドの周りのニオイに並ぶ、分かる人には分かる、その匂いを鼻から吸い込むだけで、なんとなく落ち着いた気持ちになる香り。

 そして何より静か。

 それ故に、ここは外せない勉強スポットとなっている。

 

「……」

 

 もうそこそこいい時間なのに、帳を下ろすつもりはないらしい空は、薄くて広い春らしい雲を浮かせながら、その雲を朱く照らしている。

 そして、その真っ赤空以外はまだあまり見慣れない、アパートまでの帰り道を一人で歩く。

 見慣れないけれど、暇を埋めてくれる程度の景観が広がっている訳でもなく。

 僕はいつものようにイヤホンを両耳にはめて、プレイリストに入っている曲をランダムに再生させながら、特に何かを考えることはしないで歩みを進めていた。

 だから。

 

「うーん………………」

「…………あ、」

 

 店先にガラスで保護された、タピオカミルクティーの模型を食い入るように見つめている由比ヶ浜をスルーしてしまいかけた。

 

「鳴尾浜」

「阪神タイガースの二軍の本拠地じゃなくって、あたしは……って、ガリ勉じゃん」

 

 じっと見つめていた、タピオカ増し増しのそれから一旦目を離して、僕を見る由比ヶ浜。

 そして相変わらずの、『浜』に対する造形の深さだった。

 

「入らないのか?」

「えっ!?」

「いや……何驚いてんだよ」僕は素直に突っ込む。「ここ、タピ屋の前。お前、女子高生。条件は揃ってる」

 

 タピ屋の扉を開けられる条件が……って待てよ?

 なのにその店先で立ち止まっているということは。

 やはり、どの店にも一人で入ることに抵抗があるのだろうか。

 一人焼肉然り、一人ラーメン然り。

 いつもたくさんの人といる由比ヶ浜は、お洒落なお店でも一人では入りづらいのでは?

 

「もしかして、由比ヶ浜ってこういった店に一人で入られないタイプ?」

「や、それは大丈夫」

 

 大丈夫なのかよ。

 考えて損した……なら。

 

「えぇ……じゃあ、」

「財布……忘れちゃって」

「あぁー……」

 

 思ったより、どうしようもない理由だった。

 

 

 

 

 

 

「さっきからそわそわして、どしたの?」

「してないよ」僕は首を横に振った。「全っ然そわそわしてない」

 

 『内装がいいみたいだし、せっかくだから中で飲もうよ』という鶴の一声で、由比ヶ浜のみならず僕までも、タピ屋なる異空間へと誘われてしまった。

 なんかいい匂いがする。……紅茶だ。出所は間違いなく、お客さんの各々が持っているそのタピオカミルクティーだろう。

 その白く濁った液体を、一心不乱にドゥルドゥルと吸い続け……ることはなく、時折口に運びながら、且つインスタグラムでタイムラインに投稿しながら、対面だったり隣の友人と気兼ねなく話している。

 

「いやいや、めっちゃそわそわしてるし」

「しょうがないだろ。……こういう店入るの、初めてなんだよ」

「へぇ、意外……でもないか。言われてみればそりゃそーかって感じ」

「うん……」

「……あー、や、いい意味でね? 逆にね?」

「お、おお」

 

 上手い返しが思いつかなかったので、由比ヶ浜に気を遣われてしまった。

 どこをどう、逆に捉えても、今の言葉をいい意味に解釈することはできないだろうけど。

 ……というか。

 

「……別に、僕も飲まなくてもよかったんだけどな」

「いーじゃん。だって、いままで飲んだことなかったんだよね?」

「まあ……そうだけど」

「人生経験で一回飲んどけば、損にはならないって」

「うむむ……」

 

 確かに、自発的にはこの店に入って飲むことはなかっただろう。

 だから、由比ヶ浜に唆されたことが、この店に入る切っ掛けになったのも、きっと何かの縁で。

 膨大な人生経験の一つとして、この日のことが残るのなら、アリなのかもしれない。

 と、好意的に解釈すれば、情状酌量の余地はあるように思えた。

 ともあれ。

 

『ガリ勉……その、お金貸してくれない?』

 

 由比ヶ浜は両手を合わせて、頭を少し下げた。

 なんでも、一人で帰っていた時に、この店の前を通っていて。

 そこで、今日が安くタピオカが売られている月一の日だったことを思い出して、ソロだがいざ入ろうとしたところ。

 財布を忘れたことに気づき、かと言って素直に諦めることができなくて、うんうんと頭を悩ませていたらしい。

 そんなちょうどいい時に、僕がイヤホンで曲を聞きながら、通りがかったようだ。

 

「にしてもさ、めっちゃ安くない?」

「ん?」

「スタンダードで300円だって」

「ああ」僕は頷いた。「高いな」

「ねー……いやいや、ガリ勉人の話聞いてた?」

「要するにミルクティーなんだよな? 午後ティーはスーパーで買ったら100円もしない」

「うっわー……」

 だから、キャッサバを加工したものを入れた程度で、その値段が三倍になるのはおかしい、と。

 伝えてみると、由比ヶ浜は軽く引いていた。

 まぁ、ある程度予想はしていたが。……理由は分からないけれど。

 

「……そういや、ガリ勉ってシャーペン何使ってる?」

「は? ……いきなり何の話?」

「今のと関係ない話。普段使ってるシャーペンの種類、教えてよ」

「ドクターグリップ、だけど。五百円くらいの」

 

 急な話の転換に驚きつつも、一応投げられたボールを返してみる。

 アルファゲルでもなく、デルガードでもなく、クルトガでもなく、僕はなんとなく書き心地がいいからという安直かつ大切な理由で、中学の頃からドクターグリップをずっと使っている。

 

 

「そっか。あたしは百均のかわいいデザインのシャーペンを使ってるんだけど」

「そうなんだ……?」

 

 とりあえず、相槌は打つけれど。

 由比ヶ浜がそんなどうでもいい自分語りをするだろうか?

 疑念が自然と湧いて、意図を勘ぐってしまう。

 

「そんなあたしが、『五百円のシャーペンって高すぎ』って言ったら、何て返す?」

「……」

 

 ……なるほど。

 由比ヶ浜の言いたいことは分かった。

 

「お前は、ドクターグリップの書き心地を何にも分かってない」

「えへへ」

 

 また貸してね、と続けて由比ヶ浜は言った。

 由比ヶ浜の言いたいことは分かった。なら、素直に吟味しようじゃないか。

 程なくして二つのモノノミが運ばれてくる。

 一つは普通のもの。もう一つは、タピオカ抹茶ラテ。

 前者は僕、後者は由比ヶ浜に配膳して、愛想のいい笑顔を浮かべた店員さんは『ごゆっくり』と僕達に声を掛けた後、レジの方へと向かって行ってしまった。

 ……。

 深呼吸。

 

「ん~~!」

「……ふぅ……」

 

 由比ヶ浜はもう一口目を済ませていて、ほっぺが落ちないように左の頬に手を当てながら、その味に舌鼓を打っている。

 僕もさっさと飲んでしまおうか。

 ストローに口をつけて、一思いに啜ると。

 

「……んんっ!?」

 

 なんだ!?

 何か得体の知れない球状のモチモチが、口内に侵入してくる!

 それは喉を素通りして、それらのいくつかは食道へ直行して行って。

 一つは気管に触れてしまったようで、僕は派手にむせてしまった。

 

「ちょっ……ガリ勉大丈夫!?」

「あ、あぁ……グフッ……だいじょ……ケッホ……」

「全然大丈夫じゃないっ!?」

 

 タピオカで窒息しかける僕。

 ハンカチを差し出してくれる由比ヶ浜。

 四方八方から突き刺さる他のお客さんの視線。視線。視線。

 とんだ恥を由比ヶ浜にかかせながら、僕は咳が収まるまで口を抑えることになった。

 

「……ごめん。みっともないところを見せた」

「い、いいのいいの。その、あたしも経験あるし」

「『人は死に方を選べない』って言葉が、骨身に染みたよ」

「流石に神様も、そんな悲しい最期は避けてくれるって」

「……なるほど」僕はその考え方に、少し感心してしまった。「神様サマサマだ」

「うん。……ほら、早く……や、落ち着きつつ早く飲んでみてって」

「難しいことを言うな……分かったけど」

 

 改めてストローに口をつける。

 上品な紅茶が鼻腔をくすぐる。遅れて、午後ティーよりかは甘味の薄いミルクティーの味がやってきた。かと言っても味が薄い訳じゃなくて……なんだろう、とにかく美味い。

 

「でしょでしょ?」

「うん……これは悔しい美味しさだ」

「でしょでしょ??」

 

 でしょでしょと、何故か自慢げにでしょる由比ヶ浜。

 流行るモノは、流行るモノなりに理由があるらしい。

 しかし少し結構そこそこかなり悔しくて、意地悪なことを言ってしまいたくなる。

 

「何かヤバい物でも入ってない?」

「入ってないし……はぁ~美味しい……」

 

 一方の由比ヶ浜の方も、抹茶ラテがお気に召しているようで、口をモゴモゴと動かしながら、タピオカの食感に浸っている。

 本当に美味しそうだ。見たことがないような笑顔で飲むものだから、言葉要らずでその飲み物の美味しさが伝わってくる。

 食レポのリポーターになれば、一生食べていけるんじゃないか? ……もちろん二つの意味で。

 

「うん?」

 

 僕の様子を伺うような由比ヶ浜の視線でようやく僕は、不覚にも由比ヶ浜に見惚れていたことに気づく。

 慌てて視線を外しても、由比ヶ浜は見逃してくれなかった。

 

「どしたの?」

「なんでもないよ」僕は努めて冷静に首を横に振る。「たまたま視線が合っただけだ」

「にしては、結構見られてた気がしたんだけど……」

「う……」

「……あげないからね? 抹茶ラテ」

「い、いらねぇよ」

「あ、でも奢ってくれたんだから……えっと、一口なら……いいよ?」

「だ、だから」頬が熱くなっているのを感じながら、なんとか返す。「いらないって」

 

 由比ヶ浜は、そういったことに免疫がない人なのか。

 それとも今日日、高校生が間接云々ごときで戸惑うのは、流石に童貞が過ぎるのだろうか。

 それとも由比ヶ浜ただ、『そうなる』ことに気づいていないだけなのか。

 

「…………あ」

 

 どうやら後者だったようで、

 

「や……ちゃ、違うから。うん。そ、そう意味じゃなくて……」

「わ、わかってる」

 

 僕は冷静に返そうと……したが失敗して、結果どちらもどもってしまった。

 やっぱり僕も、少しだけ動揺しているらしい。



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七話『夕』

「あ……そういえば、ヒッキーって誰?」

 

 気まずい空気をなんとか払拭しようと、斜め下を見ながら頬を朱に染めている由比ヶ浜に、強引に話題を提示した。

 由比ヶ浜も由比ヶ浜なりに、気まずさを感じてくれていたのか、多少のぎこちなさはあったけれど、その話題に乗っかってくれる。

 

「えっとね。……ヒッキーは、ヒッキーかな」

「なるほど」僕は彼女から放たれたキラーパスに、半ばやけくそになって頷く。「完全に理解した」

「なんていうか、言葉じゃ上手く言い表せなくって……や、あたしのボギャブリーが、ひ、ひんじゃくなのかもだけど」

「……そうなんだ?」

 

 ボギャブリーじゃなくて、正しくはボギャブラリーだという指摘は、話がかなり脱線しそうなので言わないでおく。

 

「えっと……根暗で、言ってることはよくわかんなくて、地雷いっぱい持ってて、あたしのことをいっつもバカにして……でも、ちょっとだけ、ほんの時々、カッコよくなる」

「……その長い前置きで、全然カッコいいようには思えないんだけど」

「でも、やっぱりそうじゃないの。言葉にすればするほど、ヒッキーの……なんていうかな、ヒッキーを言い表せてない感じがして……うあー、モヤモヤするー」

 

 目を閉じつつかぶりを振って、眉間に寄った皺をグリグリと両手で押さえる由比ヶ浜。

 言葉で語りつくせない人……か。

 当たり前だ。言葉で語りつくせる人なんて、きっとこの世にはいない。

 その人を知れば知るほど、その人のことが分からなくなったりすることだってある。

 ……それはもちろん、自分自身も含めて、だ。

 

「ちょっと前もさ、初対面であたしのことをビ、ビッチ……って言ったし……そんなの普通、一番のっけに言わなくない?」

「え、ビ……何て?」

「な、なんでもないっ」

 

 だから、由比ヶ浜はその人と向き合っているのだろう。

 だから、まちがう。沢山の時間を経て、その人の本質を捉えた言葉を見つけられたとしても、数多ある膨大な本質を捉えるにはきっと、生きて死ぬまでの時間じゃ少なすぎる。

 だから、由比ヶ浜は……。

 ……。

 

「それにヒッキー、先週も、」

「あ、そういえばさ」僕は言った。「雪ノ下雪乃も、奉仕部なんだっけ?」

 

 ……あれ?

 僕は今、どうして話題を変えたんだ?

 これって……いや、まさか。

 そんなはずは。

 

「えっ……?」ほら、由比ヶ浜も困っているじゃないか。「あっ、ゆきのん? ゆきのんはねー……ゆきのんもゆきのんかなー」

「……いやいや。そうかもだけど、もっと何かこう……あるだろ。お前は語彙力が低下して『尊い』と『エモい』しか言えないオタクか」

「えっ何急に……とおといって何? 二日前?」

「それは一昨日。……愛らしいとか、見守りたいとか、いじらしいとか、庇護欲がそそられるとか、そういった感情をひっくるめた便利な言葉だ」

「えっじゃあ三日前?」

「それは一昨昨日だ……っじゃなくて、人の話聞けよ」

 

 さきおととい、な。

 因みに、三日前のことをわざわざ一昨昨日と言う輩には注意した方がいい……と、この前死んだばっちゃが言ってた。

 生きてるけど。なんなら言ってないけど。

 

「いやー今日はゆきのんに会えてよかったー」

「……最近会ってなかったんだ?」

「……うん」少し間を空けて、由比ヶ浜はコクリと頷く。「前も言ったかもしんないけどさ、最近、集まり悪くて……いや、ゆきのんもやらなきゃいけないこととか、事情があるって分かってるんだけど……ちょっと、ね」

「寂しい」

「言うなし!」

「まあまあ」僕はガーっと噛みついてきそうな由比ヶ浜を宥めながら言う。「確かに、僕が行った時は二回ともゆきの……雪ノ下、来てなかったもんな」

「うん……一回聞いてはみたんだけどさ……うまくはぐらかされちゃった」

 

 えへへ、と仕方なく笑う由比ヶ浜。

 僕はその笑顔を見て、何故か少しだけ悲しくなる。

 

「あの時……ガリ勉と会った時も、ゆきのんに教えてもらいたかったんだ」

「ああ」

 

 僕が初めて奉仕部に行って、初めて由比ヶ浜と会った日のことか。

 そこで由比ヶ浜に、テスト直しで分からないところを教えた。

 あれは本来、雪ノ下が負うべきタスクだったのか。

 

「賢いのか?」

「うん?」

「雪ノ下は」

「うん。ずっと学校で一番だったみたい」

「へぇ」

 

 確かに理知的な人だったもんなぁ……その時はすごい剣幕で睨まれてしまったけれど。

 

『雪ノ下さんって高校生の頃、テストで一位獲ってたんですか?』

 

 ……。

 ……由比ヶ浜の言葉で、僕が先生と話した時の、僕自身の言葉を思い出した。

 雪ノ下じゃない。雪ノ下さんだ。

 つまり雪ノ下陽乃は、学年で一番賢かったということだろう。

 そして、雪ノ下雪乃は。雪ノ下陽乃の妹であるところの、ゆきのんさんは。

 

「ガリ勉?」

「…………ん?」

「や。ん? じゃなくて」

「なんだよ」

「急に黙るから……何かあたし、変なこと言った?」

「えっ……あ、ああいや、言ってない。全然言ってないよ」

「ほんとに? もしそうだったら、ごめんね?」

「だから違うって」

 

 そんなに気を遣わなくてもいいのに。

 不意に机を見てみると、ちょうど僕と由比ヶ浜のミルクティーの中身が空っぽになっていた。長居してもお店の人に迷惑だろうし、そろそろ出ようか。

 鞄の中から長財布を取り出すと、由比ヶ浜はそれだけで察してくれたようで、『ごちそうさまでした』と律義に手を合わせてから、僕に合わせるように席を立った。

 早くレジへと向かって……と、その前に。

 

「あのさ、由比ヶ浜」

「うん、由比ヶ浜だよ。何?」

「雪ノ下のことだけど……その内来るようになる」

 

 少なくとも、六月には。

 

「そっか。……うん、あんがと」

 

 そんな予言は、由比ヶ浜には僕からの励ましだと思われたようで。

 素直な優しい笑みを、僕に向けてくれた。

 

 

 

 

 

 右に曲がっても、左に曲がっても、由比ヶ浜は隣にいた。

 たまたま自分のアパートと、由比ヶ浜宅が近くにあったという偶然……で片付けていいのか分からないレベルで、僕達は家路を共にしている。

 まだ辺りは明るい。だから、別に最後まで由比ヶ浜を送る必要はないだろうと、そんな算段を立てる。

 僕は二人きりで無言でも気にならないタイプだから、気の知れた人とはあまりこのようなシチュエーションでも言葉を交わさない。

 でも、由比ヶ浜がそういったタイプだとは限らないし、むしろ反対のイメージがあった。だから僕は、下手っぴながらも、なんとか三秒ルール(三秒間互いが黙ってしまうのを避けること)を守りきっている。

 特別楽しいとは思わなかった。あまり面白くない話題に移った時は、『音楽でも聴きたいなぁ』なんてことを思ったりもした。

 でも。

 こんな少しだけ非日常な帰り道が、毎日続くような想像を、思わず働かせてしまうくらいには、愉快で、落ち着いた時間だったように思う。

 

「あ、そういえば」

「ん? なになに?」

「もう、僕のことはいいから」

「えっ……どういうこと、かな」

「手を出していない人に手を差し出す必要は、ない。……少なくとも、僕には。もう、僕は大丈夫だから」

 

 視線を感じても、六月まででこの総武高校とはオサラバだから。

 大丈夫だから。

 と。

 言う。

 

「で、でも……あたしは」

「それは分かってる」

 

 きっと、それが君のいいところで、強いところなんだ。

 打算的なことを何一つ考えることはしないで、手を差し伸べることができる人。

 それは茨の道だ。手を差し伸べた人に、いつ裏切られるか分からないのに。実際、この年まで生きているのだから、裏切られ、その優しさに付け込まれ、利用されて、傷ついた経験だってあるはずなのに。

 それでも由比ヶ浜はまだ、僕に手を差し伸べようとしている。

 それはとても強いことで、僕も、そしてほとんどの人ができないことだ。

 

「そういうところが、きっと僕は……僕は、」

「……」

 

 思わず言いそうになった言葉を飲み込んで。

 代わりに僕は。

 本音を、もう一つの本音とすり替える。

 

「ちょっとだけ、羨ましいと思ってる」

「うらや……い、いやいや! あたし、別に、そんなんじゃ……ない、し」

「あ……いや、いやいや。こっちこそいきなり、キモいこと言ってごめん」

 

 苦しい弁明を続けていると、手前にT字路が見えてきた。

 そろそろ潮時だろう。

 

「あ、えっと」少し言葉を切って、僕は言った。「この角、由比ヶ浜はどっちなんだ?」

「え、えーと……右かな」

「そうか。俺は左だ」

「あっ……そっか」

「またね」

 

 僕は早口でその場を後にしようと、その分かれ道を左に曲がった。

 変なことを言ってしまって、少し恥ずかしかったというのもある。これは枕に向って叫ぶコースまっしぐらだな……と、嘆いていると。

 

「ガリ勉!」

 

 後ろから、大きな声が聞こえて思わず立ち止まる。

 その声の主は、唯一僕のことをその名前で呼ぶ、由比ヶ浜しかいない。

 恐る恐る振り返ってみると、西日が眩しくて目を細める。けれども確かに、陰になって見えづらい由比ヶ浜の笑顔が、そこにある。

 

「今日はあんがと。助かっちゃった」

「あ……」

「じゃね!」

 

 由比ヶ浜は手を挙げて、僕も遅れて手を挙げる……前に、由比ヶ浜は右の道を、走って行ってしまった。

 僕は、中途半端に上げられた右手の力を、仕方なく抜いて。

 どう考えても否定することのできない気持ちを胸に抱きながら、ほんの少しだけ早足でその場を去る。

 

「……ちょろすぎるな、僕」

 

 だって、今日は少しだけ、遠回りをしなくちゃならないから。

 

 



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八話『影』

 六月らしい、時折温かくて優しい風が指の間を通り抜けていく。

 時刻的には間違いなく夕方なのに、空は澄んだ青を主張していた。それが特段不思議に思わないのは、陽が日没時刻を毎日少しずつ遅くしているから。ゆっくりと変化しているものは、往々にして人々の目からは認知することができないから。

 

「こんなところに呼び出して……なんのつもりかしら」

「聞きたいことがあったから。直ぐに済むよ」

 

 そんな陽とはかけ離れた印象が変わらない、雪ノ下雪乃は底冷えしそうな眼で僕を睨みつけていた。

 案の定、僕はまだ嫌われているようだ。いや、それが雪ノ下雪乃にとっての平常運転なのか……あるいは。

 

「それで...何かしら?」

「ここの国語のテストって難しいと思わない?」

「...は?」

「だから、この学校の国語のテストだよ...平塚先生の作った」僕は呆気にとられている雪ノ下に説明する。「大問が3つある構成になってるよね? 一つ目の大問は、授業でやった内容から出てくる。これが50点。そして二つ目は、学校から配布された補助教材で指定された問題のいずれかがでる。これは25点。そして残りの3つ目は......完全にランダムなんだ。どこかの教授の哲学的で難しい小論文から引っ張り出してきたものかもしれないし、名前だけは聞いたことのある文豪の小説かもしれない」

 

 要するに、範囲が広すぎて対策のしようがないんだ。理論的は75点まではきっちり勉強をすれば保証されているものの、残りの25点は一発勝負で稼ぐしかない。

 だから今回も国語に関しては、八割を取るので精一杯だった。

 確か、その三つ目の問題に出てきた小説の題名は......『砂の.....』なんだっけ。

 

「砂の女よ。......阿部公房が書いた、砂の女」

「よ、よく知ってるね」

「ええ...読んだことがあったから」

「ええ?」

 

 国語で出題された問題を、以前読んだことがあっただって?

 そんなことがあるのか。

 

「マジか.....すごいな」

「日本人なら読んでて当然の文学作品よ」雪ノ下は、こめかみを押さえながらハァとため息をつく。「貴方も、外国育ちの黄色人種と間違われたくなかったら、読んでおくことね」

「...はい」

 

 言われてしまった。

 遠回しに、文学小説を触ったことのない日本人だと揶揄されてしまった。

 気を取り直さないと。

 

「まさか、そんな愚痴を聞かせるために私を読んだ訳じゃないのよね」

「うん......まぁ」

 

 それはそうだ。

 今のはただの前哨戦で、他愛のない会話だ。

 僕は躊躇なく本題を切り込んでいく。

 

「僕のことをずっと見ていたのって、もしかしたら雪ノ下さんなのかなって、思ったんだけど」

「はぁ……話したことも、名前も知らない人からされたものにしては、いいご挨拶ね」

 

 雪ノ下雪乃は余裕を崩さずに言う。

 僕から屋上へ呼び出しを受けてから、ここに来るまでの時間で準備した言葉なんだろう。

 あるいはやっぱり、僕の勘違いか。

 後者はあまり想定したくないけれど。

 

「雪ノ下さんは、定期テストの順位のトップを、他の誰かに明け渡すことはなかったって、平塚先生から聞いてる」

「……ええ、そうね。それがどうかしたのかしら」

「でも、その牙城は一人の転校生によって崩された。何も知らなかった彼は、君の城にずけずけと土足で上がりこんで、学年一位という名のオタカラを盗んでいった」

「どうも何かのゲームに影響されたような口ぶりね」

「うむ」僕は頷いた。「それは否定しない」

 

 面白いから仕方ないね。

 ……話題を戻そう。

 

「だから、一位を取られた雪ノ下さんは……僕に対抗心を燃やした。勉強量を増やした。だから、放課後に奉仕部に行くことも減った……勉強時間を捻出するために」

「……」

 

 僕は手札を切り続ける。

 出し惜しみはしちゃダメだ。

 切り札以外は。

 

「僕の勉強法も盗もうとした。敵を知るにはまず己の勉強法から。だから、勉強中に決まって視線を感じることが多かったんだ」

 

 僕は雪ノ下の目を見る。

 彼女の瞳から目を逸らさない。逸らせない。自分に自信がないことを、気取られない為にも。

 

「ずっと見ていたから、由比ヶ浜が教室の前でただ立っていた時も、『誰を見てたの?』って言えた。もしかしたら、誰かを待っていただけかもしれないのに。ただ教室に入りづらかった理由があったかもしれないのに、まるで由比ヶ浜が誰かを見ていたことが前提であるかのように、君は由比ヶ浜に話し掛けた」

 

 そしてテスト準備期間を迎えたその後、土日を挟んだ五日間に及ぶ本番が始まった。

 僕はとうとう手を抜く理由が見つけられなかったから、手を抜かずに毎日、せかせかと計画を立てつつ勉強に臨んだ。気の乗らない日にモンスターエナジーを飲んで誤魔化しつつ、特に疲れた日にはキレートレモンを飲んでクエン酸を摂取した。

 何も考えたくない日は英語と古文と国語の単語帳を行ったり来たりして、その都度予定を修正しつつ、きっちりと理系科目の時間を確保して。特に数学は問題の解説を読んで分かった気になることが多いから、間違えた問題はちゃんと翌日に実践してみて、案の定間違えたら萎えてその日もモンスターの効能にあやかったりして。

 中学の時から地道に培ってきた、自分なりの要領のいい勉強法を携えて、僕は雪ノ下と勝負をした。

 そして僕が雪ノ下に勝てば、彼女を屋上へ呼び出そうと決めていた。

 そして、僕は、その勝負に。

 だから僕は彼女に伝えなければならない。

 

「はぁ……貴方は、そんな妄想を伝えるために私を呼び出したの? 聞くに値しないわ。一応、貴方が勉強がお得意であることは把握していたけれど……興醒めね」

「認めないのか?」

「認めるも何も、そんな荒唐無稽な話を誰が信じると思ったの?」

「質問を質問で返さないでよ」

「それでも……答えは変わらないわ」

 

 そうか。

 認めてくれれば、スムーズに話が進むはずだったのに。

 

「……そうか。僕の勘違いだったみたいだ。疑ってごめん」

「ええ、そうね。……だったら、早くここから失せなさい」

 

 僕は彼女に従って、雪ノ下の脇を通って、屋上の扉を目指す。

 一つ会話を終えて、油断させたかったんだ。

 切り札を悟られないように。

 

「……あのさ、」

 

 ここから僕が言う事は、賭けにすらならない言葉だ。

 でも、僕の一言で彼女の将来のどこかで波が立ってほしい。きっと、あまり実入りのない運命に、分岐点が生じて欲しい。その岐路に彼女を立たせる原因……とまで言うのは烏滸がましいけれど、一つの切っ掛けになって欲しい。

 そのうすら寒くて仕方のない自己満足は、けれども確かに僕の希望だった。

 僕は言う。

 

「姉の影を追うのは、やめた方がいいと思うよ」

「……っ!」

 

 そして雪ノ下は。

 ようやく僕を僕として見てくれた……んだと思う。

 目を見開き、両肩を怒りで震わせて、その感情を勢いに任せて言葉にしようとして、ギリギリで飲み込んでいる。

 彼女の勉強に対するモチベーションに気づいたキッカケは、先生の一言だった。

 雪ノ下雪乃の姉である雪ノ下陽乃は、ずっと学力で他を寄せ付けない実力をここ総武高校で誇っていた。

 だから、姉には負けられない。

 もし雪ノ下雪乃が負けず嫌いの性質を持っていると仮定するならば、そんな暗くて純粋な闘志を燃やすことは不思議じゃない。

 

「君は君で、雪ノ下陽乃は雪ノ下陽乃だ。だから……だから君は、姉の人生を模倣するんじゃなくて、君の人生を誠実に生きればいいと思う。賢くなるのも、生徒会長になることも好きにすればいいことだし、褒められて然るべきことだ。でも……何かもっと他に、ないのかな。例えばやっぱり奉仕部に顔を出してみたりとかさ、」

「貴方に関係のない話を、よくも……ズケズケと、恥ずかしがらずに言えるわね」

「……そうだね」

 

 それを言われると、肯定する以外にできることはない。

 僕に関係が一切ない話。

 よくできた姉に対して劣等感を抱く妹が、何かその姉に勝るものを掴み取ろうと躍起になったとしたって、それは誰も責められる訳がないし、無論、当の姉にもその責任はない。いくら由比ヶ浜がヒッキーが、雪ノ下が奉仕部に顔を出すのを待ち望んでいたとしても、それとこれとは話が別だ。君の人生は君の人生だと言ってみたところで、それは、彼女の人生に以前も今後も一切関わることがないだろう赤の他人による戯言に変わりはない。そもそもそんな言葉を発している僕にしたって、僕の人生を誰にも影響されずに、真っ当な自分らしい人生を歩んでいるかと言われればそんなもの、頷くことはできないんだ。

 ああ、嫌だな。

 これじゃあ自己満足じゃなくて、ただの自己嫌悪じゃないか。

 自己嫌悪に浸っている自分すらも好きになれそうにない。当分は。

 

「……でも……」

「学力なんて表層的な部分でマウントを取って、勝ち逃げして……今、どんな気分かしら?」

「……ああ」

 

 最高の気分だよ。

 しかし、その皮肉が、ちゃんとしたそれとして雪ノ下に届いているのかどうか。

 そんなこと、明日の僕には関係ない。そう自分に言い聞かせるしかない。

 今度こそ僕は扉を開けて、階段を下る。扉を閉める時に最後に、屋上を振り返ることはとうとうできなかった。

 多分、きっと雪ノ下は自分なりに姉と自分との折り合いをつけるのだろう。

 でも、それは間違いなく今日じゃなくて。

 差し伸べた手を受け取ってくれるのも、間違いなく僕じゃない。

 それはきっと、彼か彼女か。

 それを見届けることなく、僕は舞台を降りたんだ。



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九話『師』

 僕がこの学校に行く最後の日。

 親の転勤に伴って、住んでいた待ちからサヨナラバイバイしなくちゃならない日。

 平塚先生が、僕がクラスに友人がいないことを察してくれていたのか、今日の朝のホームルームも恙なく終わって、いつもの放課後は恙なく始まった。

 全然クラスで馴染めていないのに、前の担任が余計な気を遣って、『お別れ会』と評された催しが開催された日はひどかった。

 露悪趣味はないから、詳細は省かせてもらうが、地獄が仮にあるとするならば、ああいった辱めを受ける地獄もあるのかもしれない……とボンヤリ思った程度には地獄だった。

 

「……んー……」

 

 今日は潔く帰るか、それとも少しだけ図書室で勉強しようか少しだけ悩む。

結果前者を選んだ僕は、そこそこの量の参考書が入った指定鞄を右肩に提げて、教室を出る、と。

 

「佐倉」

「う、お、」

 

 教室から見て死角になっている場所で出待ちしていたのは、

 

「平塚……先生」

 

 だった。

 

「ようやっと私の名前を憶えてくれたようだな」

「ああ、はい」僕は頷いた。「長期記憶に刻まれているかどうかは、怪しいですけど」

「ほぅ? なら、その身に刻んでおくか?」

「はい……? って先生、その構えは何ですかもしかしてその身に刻むって、そういうことですか」

 

 確かにその方法なら、この身にも記憶にも、長い年月平塚先生の名前は刻まれてしまうだろう。

 最後の日に徒手空拳を僕に披露した、暴力教師として。

 

「冗談ですよ。多分、ずっと憶えてます……平塚先生のことは。僕、担任の先生の名前を憶えたのって初めてなんです」

「それは光栄だな。……一応、理由を聞かせてくれるか?」

 

 そういう優しいところですよ、と僕は言いたかった。

 でも、きっとそれだけじゃ伝わらないだろう。国語の問題だとヒントの少ない悪問だ。

 だから僕は、いつもよりほんの少しだけ言葉を選びながら、平塚先生に伝える。

 

「僕の家族は転勤族なんです。だからどの高校にいる期間も、半年も持たないことが多くて……もちろん、この総武高校も。だから、クラスメイトにも先生にも相手にされない。初めは興味本位で近づいてくる人もいるにはいる……でも、人畜無害で面白みのない人だと分かれば、すぐに離れて行ってしまう」

 

 誰が悪いという話じゃなくて。

 強いて悪者を挙げるとするならば、紛れもなく自分自身になってしまうけれど。

 とにかく、そんなクラスメイトや先生の反応は当たり前だと言いたかった。僕が逆の立場だったら、きっとそうしている。

 

「コイツと仲良くなっても、コイツに勉強を教えても、ほぼ百パーセントの確率で自分の将来からは消えていなくなっている。そんな予想は誰にでもできる。だから僕と関わりを持つことに価値を見出す人なんて一人もいない。……はずなの、に、」

「……」

「平塚先生は、こんな僕の話に黙って耳を傾けてくれている。僕が金を払ってカウンセラーを頼んでいる訳でもないのに、僕の自分語りのために貴重な時間を費やしてくれている。そんな物好きな先生は、人より少しだけ多いと自負している歴代担任の先生の中を探しても、どこにもいないんです。……だから僕は憶えているって言えます。……高校の名前は忘れちゃったけど、変な先生がいたなって」

「変な先生って言うなよ」

 

 ほら、そうやって。

 全然本筋とは関係のない部分を突っ込んで、僕を叱らないでくれている。

 だから平塚先生にこの話ができたんだと思う。

 

「……あの、」

 

 『どうして僕に構ってくれるんですか?』

 不意に、意味がなくて、しかし興味のあることを訊きたい衝動に駆られる。

 でもきっとそれは、また先生の時間を浪費してしまうだけになるだろう。

 先生は先生なりの信念を持っていて、その信念によって突き動かされて、僕に話しかけているのか。

 それとも、過去に僕とよく似た生徒がいて、その彼と自分とを重ねているだけなのか。

 ただの僕の勘違いなのか。

 きっとその三つのどちらかなのだろう、と僕は勝手に納得して。

 

「……いえ、なんでも」

 

 優しい顔を浮かべてる平塚先生から、視線を逸らした。

 廊下の隅で相対している僕達を、不思議に見つめながら一人の女子生徒が通り過ぎる。

 澄んだ空を窓が切り取っている。木々が騒めいているのを見て、浜風の強さを改めて感じる。

 

「佐倉。……関係のないことを訊いてもいいか?」

「……はい」

「常々思っていたことなんだが」

「ええ」

「お前は、『自分は主人公になれない』なんて思っているな?」

「本当に全然関係なさそうな話じゃないですか!」

 

 思わず突っ込んじゃったよ!

 僕の述懐が、冗長な前置きとして雑に使われちゃったよ!

 

「だがな、佐倉。確かにジャンプの主人公は確固たる意志と揺らぎのない価値観を持っていて他の人たちを導く立場にあることが多いが、」

「ちょ、ちょちょちょっと待ってください。全然話が入ってこないです勘弁してください」

「なんだよ」

「えっと……『自分は主人公になれない』って、僕が思っているかどうかについての質問ですか?」

「ああ」

 

 先生は簡単に首肯して、簡単に主張権を移譲してくれる。

 それに僕はありがたく甘えることにして、少しだけ考える時間を置いてから、先生に向き直った。

 

「……当たり前でしょ。いや、流石に高2で、自分が主人公だなんだの言ってるのはキツイですって。皆もう、オリアイとか、ミノタケとか、その辺りの言葉の意味が実感として分かってくる時期なんですよ」

 

『姉の影を追うのは、やめた方がいいと思うよ』

 

「……っ、だから、くだらないです」

「そうか。なら、質問を変えよう。……君は主人公になりたいか?」

「あ……」

 

 言葉が止まる。

 言葉が止まってから、図星だったことを理解する。

 ……でも。

 『……だったら、早くここから失せなさい』

 でも。

 

「なりたかったです」

 

 僕は笑った。

 自然と笑みが零れた。

 絶対、誰にも向けたことのないような笑みで、多分、今までしたことのない笑みだった。

 僕は身の程を知ってしまった。星のように、どうあがいでも、どうもがいても届かないものは届かないモノを知ってしまった。

 これ以上、頑張ろうという気には、どうしたってなれなった。

 平塚先生は。

 

「…………そうか。なら、」

 

 笑わなかった。

 そして先生は、本当に本当に、残念そうな表情を浮かべて。

 

「私が教えられるのは、ここまでだ」

 

 そして、ようやく僕は気づく。

 平塚先生は、僕に手を差し伸べようとしていたことに。

 差し伸ばされていた手を、僕は無意識に振りほどいてしまっていたことに。

 今、この瞬間の僕の選択が、まちがっていたかもしれないという可能性に。

 

「さようなら、先生」

「ああ、またな」

 

 踵を返した先生の背に向って、僕は言う。

 すると先生は、振り返らずに右手を挙げた。

 



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十話『予』

「ガリ勉」

 

 ありきたりで、且つ言い得て妙なニックネームで呼ぶ人は後にも先にも彼女しかいない。

 

「……由比ヶ浜」

「そそ、神奈川県鎌倉市南部の相模湾に面した海岸の名称こと、あたしの苗字は由比ヶ浜」

「うん」

「……やっと憶えてくれたじゃん」

「ああ」僕は頷いた。「地理のいい勉強になったよ。本当にありがとう」

「わー……ブレないねー……」

 

 靴を履くために、玄関前の靴箱に手を掛けていると、後ろから声が掛けられて。

 振り向くと、いつも通りの和やかな笑みを湛えた由比ヶ浜が、後ろで自身の手を繋ぎながら立っていた。……今は何故かドン引かれてしまっているみたいだけれど。

 

「お見送りか?」

「うん。そだよ」

「……お、おお。そうか」

 

 そう素直に言われてしまうと、ドギマギせざるを得ない。

 ということはつまり、玄関前で待ってくれていたのか。きっとそうだろう。多分。……そうだったらいいなぁ。

 

「本当に行っちゃうんだね」

「おお。……」

 

 『寂しいか?』という直截的すぎる質問を飲み込んで。

 少しだけ考える。

 

「由比ヶ浜がちゃんと卒業できるか見届けられないから心配だ」

「いやいや、留年とかしないから」

「本当に?」

「……う、うん!」

「言い淀んじゃったし、言い詰まっちゃったし、目も逸らしちゃったよ」

 

 三拍子揃っている由比ヶ浜が可笑しく思えて来て、我慢し切れずに笑い声を零すと。

 「もー」と言いつつも、由比ヶ浜も笑ってくれた。

 よかった。こちらはシリアスになりそうにない。

 

「……あ。そういえば、ゆきのんちゃんと奉仕部に戻って来たよ」

「そっか」

「ガリ勉の言う通りだったね」

「うん」僕は頷いた。「時間が解決してくれることも、少なからずあるから。今回がたまたま、そうだったんだろう。……自分があまり友達のいない人だから、なんとも言えないけど」

「うん。……でも、本当にそれだけ、なのかな」

「……え?」

 

 適当に流そうとしていると、由比ヶ浜は笑顔をその顔に留めながらも、少しだけ、眉をひそめるようにして。

 

「本当に、ゆきのんが戻ってきてくれたのは、時間が解決してくれたからだって思ってる?」

 

 由比ヶ浜は僕に聞く。

 ……多分。

 

「……」

 

 きっと、僕を疑っている。

 僕が雪ノ下に何か根回しをした可能性を勘ぐっている。きっと、奉仕部での雪ノ下との会話で違和感に気づいたのだろう。

 僕は。

 

「あぁ、うん」

 

 素直に頷いた。

 その首肯で、『僕は何も知らない』ことが由比ヶ浜に伝わればいい。もしくは、『知っているけれど、由比ヶ浜に伝えるつもりはない』意志が伝わってもいい。

 雪ノ下と由比ヶ浜は友人だ。きっとこのまま仲良くなれば、雪ノ下本人が抱える悩み事に気づいたり、打ち明けられたりすることはあるはずだ。

 だから僕は何も言わない。言うべきじゃない。情報をフライングゲットさせるべきじゃない。そもそもこんなカミングアウトを望んでいる人なんて、世界中のどこを探してもいない。

 

「……そっか。ごめんね? 変なこと訊いて」

「ううん」

 

 そんな僕の反応をどう受け取ったのか、由比ヶ浜は僕に謝る。

 気にしてないことを伝えるために、僕は首を横に振って。

 少しの間が空いた。気を紛らわすために視線を右往左往させてはみたものの、結局彼女の顔に戻ってくる。

 茶髪の前髪が揺れる。その髪が目に入るのを嫌って、色素のやや薄い瞳を瞼の内に隠す。

 けれども数刻もしない内に、まるで予定調和みたいに戻って行く。

 いつも僕に向けてくれる笑顔。見るだけでホッとして、しかし内心ドキドキしてしまうような、そんな相反した感情にさせられる素直な表情。

 それも今日で見納めだ。

 だから今日くらい、少しだけ多めに見ても、許されるんじゃないか。

 ……と、その辺りの背伸びで折り合いをつけるはずだったのに。

 どうしても、『それをまだ見ていたい』という、どうしようもない欲望が疼いてしまうんだ。

 

「……あっ、あのさ」

「……」

「これ、タピオカ代。渡しそびれちゃってたね……って、ガリ勉? 聞いてる?」

「……っ」聞いてなかった。「あ、あぁ。なにこれ。貰えるの? 別れの餞別?」

「せんべつ? や、違うと思う……前、タピオカ代貸してくれたじゃん? 返しとかなきゃって、思って」

「なるほど」ようやく合点がいった。「別に、よかったのに」

「まーまーそう言わずに、ね?」

 

 言って由比ヶ浜は、ぶら下げていた僕の左手を腰の高さまで持ち上げて、その手のひらに小銭を乗せる。

 唐突な距離の詰められ方に思わずたじろぐ。

 たじろいたことを気取られないよう、なんとか二の足で踏ん張った。

 

「はい。これ」

「あ……」

 

 そして、由比ヶ浜の手が僕の手から離れる。

 離れてしまう。

 

「…………あの、さ、由比ヶ浜」

 

 言わないはずだったのに。

 伝えちゃダメなはずだったのに。

 口をついていた。

 

「……うん? どしたの?」

「言いたいことが、あるんだけど」

 

 僕の胸の高鳴りとは無関係に、由比ヶ浜はキョトンとしたままで。

 まだ引き返せる距離で。

 でも、寂しいと思ってしまった僕の口はもう、止められそうになくて。

 僕は。

 

「僕さ……」

「あっ、ヒッキーじゃん」

 

 すんでのところで、由比ヶ浜は明後日の方向に視線を移した。

 思わずそちらを向くと、奉仕部で見た眠たそうな同級生が、マッ缶を片手に持ちながらこちらに歩いてくるところだった。

 

「げ」

「げ、とはなんだ、げって。……もしかして部活、サボろうとしてない?」

「してねーよ。別に、明日発売のゲームをフラゲ日に買って、その日にクリアしようとかいう計画とか立ててねーよ」

「一部始終語ってるし……」

 

 ゲンナリする由比ヶ浜と、人目も憚らずにマックスコーヒーを音を立てて吸い上げる彼と、途端に会話という名の蚊帳の外に放り出される僕。

 頭の熱は既に引いていた。

 …………あっっぶねぇ、マジか。由比ヶ浜をただ困らせてしまうところだった。

 知らない世界線に入ってしまうところだった。

 でも、このやり取りで……二つだけ、知ってしまったことがある。

 

「……」

 

 一つ目は、どんなに普段冷静に努めようとしていても、いざという時には全くてんで使えない脳みそになってしまうこと。

 

「あっ…そいえばガリ勉、何だっけ?」

「ああ、いや、なんでも。……さようなら。えっと……ヒッキーも、世話になった」

「お、おぉ……誰だっけ?」

「えっ、ちょ、ちょっと待っ…………ば、ばいばい!」

 

 二つ目は、由比ヶ浜がヒッキーに対して。

 僕に向けたことのない笑顔を見せていたことだ。

 だからきっと、それだけで解としては十分で。

 議論の余地がなく、自分の言葉の続きを言うことが許されていたとしても、結末が変わっていなかったことは明白で。

 

「あぁ」

 

 僕は校門を出てから、早足で家路を急ぐ。

 

「……分かってたよ」

 

 だから悲しくない。悔しくもないし、涙も出ない。

 

「分かってたんだ……」

 

 どう努力しても今の僕じゃ振り向いてくれないこと。

 僕が主人公にはなれないこと。

 担任の先生に導いてもらえないこと。結局自分でなんとかするしかないこと。

 自分のことは自分が一番理解しているから。

 分かっているから、予想通りのことが実際に起きたところで、何の感慨も湧かないし、興ざめもいいところだし、なんなら無感情以外何もないはずで。

 

「……ふ、」

 

なのに。なのに。なのに。

 

「……ぅ、く」

 

 この胸が張り裂けそうなくらいに痛いのは……なんで?

 



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一章『関友高校』
十一話『注目』


ここからは設定を捏造...もとい、想像して書いています。
そういったモノが苦手な方はブラウザバックをオススメ致します。
そうでない方は、どうぞお付き合い下さいませ(_ _)


 英単語を覚えれば覚えるほど、数学や物理の公式の使い方を理解すればするほど、忘れられそうな気がする。なのに、ふとしたきっかけで、あの日のことを鮮明に思い出してしまう。

 その癖に、昨日十回書いて暗記したはずのイディオムを忘れていたりもするのだ。記憶のデータ構造はスタック型になっているのではないかと、最近はそんなことを半ば本気で考えている。

 薄い青が広がっている空の中に、どんよりとしたグレーの雲が点々と浮かんでいる。教室の中の黒板にはでかでかと『自習』の二文字が書かれている。空気中には、受験期特有のピリピリとした空気と、ペンを走らせる音と、小さな喋り声だけが存在していた。

 

「ねぇねぇ」

 

 集中が切れていた僕に、小さくも芯のある声が掛けられた。

 

「ちょーっとだけ、聞きたいことがありまして」

 

 右を向くと、えーっと、えー……。

 

「紅海」

「やーっ、確かに七つの海の一つだけれども……くくっ……あはは! そんな間違い方する? 普通」

 

 笑いを堪えられなかったらしい紅海(?)さんは、見事にその笑い声で静寂を壊した。

 一斉にこちらに抗議の目をしたクラスメイトの視線が飛ぶ。

 彼女が『ゴメン、ゴメン』と全方向に謝って、なんとか事なきを得そうではあるけれど。

 ……なんて度胸のあることをするんだ。

 

「七海ね、七海。わたくしの名前」

「りょ、了解」コクコクと僕は頷く。「七海。えっと……聞きたいことって?」

「数学の微分じゃない方の問題で、ご質問があります」

「ああ、積分? ……なんで、僕に?」

 

 なんで友達に聞かないんだ?

 なんでわざわざ、席が近いとも言えない微妙な場所に座っていた僕に聞いたんだ?

 そんな諸々の意図を含んだ質問を、七海が、休憩中等でよく友達を喋っているのを見かける程度には喋り慣れている七海が、分からないはずがないと思ったのに。

 

「……ダメ、かな?」

 

 どうして、分からないふりをしたんだろう。

 僕は反射的に、

 

「……今、取り込み中の問題があるから。それに、気心の知れた友達に訊いた方が、要領はいいと思うよ」

 

 突っぱねた。

 なのに、七海は悲しそうな顔一つしないで。

 

「ん、そっか! ごめんね? 勉強の邪魔しちゃって」

「あ、いや……」

「また何かあったら聞かせてね?」

 

 満点の笑顔のまま、僕の席から離れていく。

 その様子を目だけで追うと、ちゃんと七海はいかにもカーストの高そうなクラスメイトに、おどけた口調で積分の問題を訊きに行っていた。

 ……なんだったんだ。いつにも増して、勉強が手に着かない。

 

 

 

 三年生にもなれば、休憩中や放課後にも参考書を広げてスキマ時間を埋める生徒が増えてくる。春や、夏休みに入っていない内はまだ少ない。でも、夏休みが明けると途端にそれが普通の光景になる。

 つまるところ、空気が変わる。休憩中にはっちゃけたり、大声を出したりして休憩らしい休憩を取っていた生徒が顰蹙を買う可能性がグンと増す。

長い目で見れば、休憩中に息を抜いて勉強するしないにメリハリをつけることは、決して悪い方策じゃないのに、『休憩中でも勉強している奴らが正しい』という空気が蔓延っていて。

そんな空気の悪さに加担しているような気がして、そのような時間帯に教室で勉強をすることが、最近少しだけ嫌になった。

といっても今のところ、その()()が勉強を続ける動機に勝つ様子はないので、今日も夕陽の差す教室で勉学に励んでいる訳だが。

 

「あのさ、西日が目に染みてるところ、ちょっと悪いのですが」

 

 顔を上げると、僕の目と鼻の先に顔を近づけた七海が立っていた。

 

「う、お」

「あはは! 『う、お』だって! そんな喃語みたいな驚き方ある?」

「……あまりにもびっくりして精神が赤ちゃんに戻ったんだよ」

「あはは! なるほどなるほど~」

 

 ふむふむ、と大げさに頷いてみせる七海を前に、なんとか冷静さを取り戻してくる。

 そして、訊くべき言葉と、持つべき疑問が頭に浮かんだ。

 

「……で、何の用だよ、七海」

「あっ、苗字憶えてくれてる! 嬉しいー」

「流石に昨日の今日じゃ憶えてるよ」

「でも人間って、一日で憶えたことは明日になったら半分も憶えてないんでしょ?」

「尖った角度から僕の揚げ足を取ろうとするな。その知識、絶対『効率のいい勉強法 受験』とかでググって調べた蘊蓄でしょ」

「おおーっ、流石。ごめーさつですねー」

 

 何が流石なのかはちっとも分からなかったが、突っ込むと沼に嵌りそうなので止めておく。

 あと、全然話進まねぇ。なんだかイライラしてくる。

 一方の七海はイライラじゃなく、ケラケラと笑うばかりで全然話が進んでいないことを、全然気にしていないみたいだ。

 これが人間の器の大小の違いか。それとも、人間としての性質の違いか。

 閑話休題。

 

「で、何の用だよ、七海」

「あっまた言った! 逃さないよ~」

「で、何の用だよ、七海」

「これ、決まった選択肢選ばないと先に進まないやつだ……」七海は一呼吸置いてから、「電位と電場のとこで、分からない問題があるんだけど」

「……えぇ?」

 

 また?

 性懲りもなく、また僕に勉強の質問をしに来たのか、七海は。

 やっぱり、七海には信頼できる友人が沢山いるはずなのに。

 どうしてだ。全然分からない。少なくともきっと、その電位と電場の問題よりかは分からないと思う。

 だから。

 

「その前に、一つ聞いていいか、七海」

「私を呼ぶ時は『みみみ』でいいよ」

「どうして僕に訊くんだ?」

「あー私の提案、無視された感じですねー」

「七海」

 

 少し、苛立ちを含ませて僕は言うと。

 七海はちゃんとシュンとしてくれる。

 

「えーっとですね。正直に申し上げますと、佐倉くんって頭いいですよ、ね? この前もテストで学年一位獲りましたよね? だから、校内で一番頭がいい人の元へ、このわたくし、七海みなみは分からない問題を持って馳せ参じたので……、」

「ちょ、ちょっと待ってよ」僕は慌てて言う。「なんで、僕が一位獲ったこと知ってるんだ? 担任に訊いたのか?」

「あっ、やっぱりあってましたかー。そーだと思ったんですよねークックックッ……」

「ぐ……この……」

 

 くそ。

 鎌を掛けられていたのか。

 なんて単純な鎌に……いや、これは七海の策略だったのか?

 それも分からない。でも。

 

「ある程度、当たりはつけてたってことだよね」

「ん。そーだよ。……ひょっとしなくても、訊きたい?」

「まぁ……うん。ただで聞かせてくれるなら」

「よかろう。……私、ずーっとテストで二位だったのよ。でも君がこの学校に入ってきた途端、三位に転落しちゃって……およよ。これは絶対、奴……謎の転校生に違いないと、そう私は踏んだ訳ですよ」

「へぇ」

 

 その推測の正確さより、七海の学力が校内で二位だったことが驚きだった。

 いかにも感覚派っぽいし。言動が理知的だとは、先程の会話からでは、流石に思えないけど。

 

「……あー、もしかして今、結構失礼なこと考えられてる? 考えられちゃってる?」

「思ってないよ」僕は頷いた。「思ってない」

「あはは、嘘ってわかりやすいねー佐倉って!」

 

 言って、七海に肩を叩かれる。

 七海の言うことは間違っていなかったので、叩かれたことにを抗議しづらかったから。

 僕はその叩かれた肩をさするだけに留めて、七海の次の言葉を待った。

 

「で、どう? そろそろ教える気になった?」

 

『勉強、教えてくんない?』

……。

少しだけ僕は、逡巡してから。

 

「……分かったよ」

「ほんとに! ありがとう! じゃあ早速なんだけど、」

「でも、そんな理由だけで訊きにくるのは今回でなしだから。……僕が七海に勉強を教える義理なんてないでしょ?」

「あーうんおっけー! えっとね、この電位の求め方で、」

「いや絶対分かってないでしょ適当に流さないで」

 

 と僕が突っ込むと、七海はやっぱり「あはは!」と笑って、まばらにいるクラスメイトの注目を集めていた。

 

 



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十二話『土足』

三年の夏休み明けに関友高校に編入してからも、昼休憩を単語帳との睨めっこしながら過ごす日々は続いていた。勉強は模試の点数が上がるだけじゃなくて、一人でいるためのいい言い訳になった。勉強に集中しているふりをしていれば、周りの気遣いによって話しかけられずに済む。何より自分は特に勉強が嫌いじゃなかった。だから僕達は、Win-Winの関係を築けているのだと思う。

 

「まーた勉強してんねー。飽きないの?」

 

 英単語の海にどっぷりとつかっていると、またもや右隣から声が掛けられた。七海だ。七海による日頃の反復練習によって、既に彼女の苗字を僕の記憶に刷り込まれてしまっていた。

 

「飽きないよ」

「昼休憩くらい、友達と喋ったらいいのになーって、みみみは思う訳ですよ」

「……それは、僕に友達がいないことへの揶揄いか?」

「えっ……いるじゃん、普通に」

「はい?」

「私……とか?」

 

 みみみは何の躊躇いもなくそんな恥ずかしいことを言ってから、「はて?」と不覚にも可愛らしく首を傾げる。

 

「はぁ~~アホか」

「アホ!?」

「たった一言二言話しただけで、その人のことを友達認定とか、友達の定義広すぎるだろ」

「えー! ダメなの?」

「ダメじゃないけど……でも、少なくとも僕は、ちょっとだけ会話を交わしただけの人を、友達とは呼べない」

「よよよ……みみみ、もしかしてフラれました……?」

 

 

 よよよだったり、みみみだったり、よくもそんな舌が縺れそうな言葉をスラスラと言えるものだ。

 あと、七海の『みみみ』推しが強い気がする。

 もしかしてなくてもこれ、僕が『みみみ』と言うまで続けるつもりだよな……。

 僕が折れるのが先か。それとも、みみみの僕に対する興味を失うのが先か。

 

「そもそもさ、七海」僕は英単語帳を片手で押さえながら言う。「もう自分が……その、成績がいいからという理由で、分からない問題を訊きに来ないでって言ったよね」

「うん! だから今日はそんな小難しいことじゃなくって」

「うん?」

「普通に話しかけただけだよ」

「ああ、うん」よく分からないので、とりあえず頷いておく。「それで?」

「いやだから、何もないんだって。……あ、その机の中に入れてある赤い本、もしかして……エッチなやつなのでは!?」

「わざわざ自分の机の中にエロ本を隠す勇気のある人は、一度自分の危機管理能力を見直した方がいいと思うよ。というかこの分厚さ的に、まずねぇよ」

「じゃー、何?」

「何って、赤本だけど」

「へぇー、見せて見せて?」

「わ。ちょっと勝手に……」

 

 他人の机の中をまさぐらないでよ。と僕が言い切る前に、七海はそれを取り出した。

 決して軽くないはずの赤本をひょいと持ち上げる七海。

 一方で僕は、プライバシーを障られた気がして、少し恥ずかしさを憶えた。

 

「へー、佐倉くんってここなんだ」

「……まあな」

「もうちょっと上でも目指せそーなのに」

「大きなお世話だ」

「あははっ、確かに!」

 

 屈託なく笑う七海。

 ……どうやら七海は、友達の定義が広いだけじゃなくて、笑いのツボと多いようだ。

 

「へぇーっ、でも、そうなんだ。ふーん」

「何?」

「それじゃあ、大学に入ってもお世話になりそうだなーって、思いまして」

「……!」

 

 なるほど。

 志望大学が一緒なのか。

 それなら。少し落ち込むような姿勢を取って。

 

「入る大学、考え直すか……」

「えー!? そんなのってないよ~……」

 

 深刻そうにポツリと呟くと、七海は案の定乗ってくれる。

 

「……ぁ」

 

 ……しまった。軽くあしらうつもりが、七海の底抜けに明るい雰囲気にあてられて、つい陽気なことを言ってしまった。

 そんな後悔が顔に出ていたのか。

 

「へへっ」

 

 七海はしたり顔で笑う。

 そして、僕が弁明をする前に、タイミング悪くなった昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴ったのと同時に、とっとと自分の席に戻って行ってしまった。

 

 

 

 

 翌朝、七海は親しそうな友人と教室に入ってくるやいなや、昨日僕が持って来ていた赤本と同じ物を、机の上に広げた。

 

「な、何?」

「おはよー」

「ああ、うん。おはよう……じゃなくて、何?」

「いやー今日の夜に、赤本に挑戦してみたんだけどさ。全然分からなくって……ほらここ。……ここの積分の式って、どうやって導出するか分かる?」

 

 僕は一応、その開かれているページの内容を読んでみる。それは、奇しくも先週辺りに触った問題とよく似ていた。

 

「……分かるけど、」

「え、本当に! さっすが佐倉くん、できる男は違うね~」

「雑に褒めてもな、何も出ないぞ」

「にしては口元がニマニマしている気がするの! ですが!」

「してないよ」僕は口元を手で隠しながら念を押す。「全然してない」

「ダウト!」

「そんな話はどうでもいいよ。……七海、何のつもりだ?」

「へ? いや……だから、教えて欲しくて」

 

 何も後ろめたいことがないらしい七海は、きょとんとした間抜けな表情を浮かべている。

 

「だから。僕はそもそも、七海の勉強を見る義理はないって言ったでしょ?」

「でも、志望大学は一緒じゃん」

「それが何?」

「え、ほらー。同じ志を持つ者云々は、助け合うのが世の定めって言うでしょ。私はただ、その決まった定めに従ったまでさー」

「それは……取引になってないよ」

「や、取引じゃなくてさ」

「取引だよ」僕は一呼吸置いてから、言う。「僕が七海に問題を解説する時間を差し出そうとしよう。そして……失礼なことだというのは承知の上で言わせてもらうけど、僕が七海に勉強を教えてもらう機会は必要ないよ。だから、七海が僕に差し出せるものは何もない」

「……むー」

「それとも何か、七海が僕に差し出せるものはあるのか?」

「…………え、」

 

 七海はそれから動きをフリーズさせるような様子を見せると。

 

「身体……とかって、こと?」

「ちっ……、」

 

 今度は、僕がフリーズする番だった。

 

「がうわ、アホ。七海ホントあほ。お前、顔を赤くするぐらいなら、んな変なこと言うなよ……」

「いっ……いやいやいやいや!? 赤くなってるのはそっちもだから!?」

「当たり前だよそんなこと言われたら普通の一般高校生はそうなるわアホ」

「アホアホ言うなー。私、こう見えても結構賢いんだからね?」

 

 知らないよ。……いや、知ってるけど。

 学年二位の学力らしいし。勉強の解説をしている時は、かなり飲み込みがよかったし。

 でもそんなことは、今となっては関係がないだろう。

 

「今日のところはとりあえず、お引き取りください」

「そ、そういう訳には! 女の子に恥かかせたんだから、男として責任は取るべきなのでは!?」

「マッチポンプにも程があるわ」

「でもさ! 同じ大学に行く同級生に、貸しを一つくらいは作っておいてもいいんじゃない!? いざという時に便利だよ?」

「なんで七海はそうやって頑なに食い下がるんだよ」

「それ、は……」

 

 七海は何かを考えるよう上を向いた。

 

「私と貴方が、似てると思ったから……かな?」

 

 それをただ、僕は七海の何気ないボケだと思った。

 だから僕は、何気ないツッコミを返す。

 

「僕と七海の間に共通項があるとするなら、それは『人間』なだけだ」

「そうかな……あ、葵が呼んでる。もう、葵に聞いちゃうもんねー」

「……それで僕に一体何のデメリットが発生するんだ?」

 

 それを七海は聞いていないようで、「ふーんだ」と、葵と言うらしい、何かものっ凄くスペックの高そうな七海の友達の席へ向かって行く。

 なんなんだ、これは。一体僕は何の茶番に付き合わされているんだ?

 『勉強を頑張っているから喋り掛けてこないでタイム』を、いとも簡単に壊した上に、厚かましく勉強について訊いてくる七海に何か、僕の心の大事な部分を土足で上がり込まれている心地がして、落ち着かない。

 



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十三話『魔王』

「ねぇねぇ」

「うん?」

 

 ここ数日で、『変に会話を嫌ってグダグダと長引かせるより、逆に即対応して会話を終わらせる方が手っ取り早い』ことに気づいていた僕は、素直に顔を上げる。

 ……なんだか七海に調教されている気がして、釈然とはしないが。

 

「佐倉くんて、普段はどんな勉強してるの?」

「知ってどうするんだ?」

「参考にしようかなって、思いまして」

 

 上機嫌に七海は言うと、掛けていない眼鏡をクイッと上げる。

 

「言ってもいいけど、参考にならないと思うよ」

「えーっ! なんで?」

「絶対、僕とみ……七海の頭の構造が違うから。頭の構造が違うから、適切な勉強法も違ってくる。だから参考にならないし、むしろ逆効果になる」

「えー……そうかなぁ?」

「だって七海、僕と違って勉強は感覚でやってるでしょ?」

 

 と言えば、七海は『あはは! たしかに!』と笑い飛ばすことを予想していた。

 期待してもいた。そうして、この話を終わらせたかった。

 でも。

 

「ううっ、そ、そっかー……まぁ、そうだけど……さ」

 

 普通に落ち込んで、普通に声の調子を落とした。

 いつもの快活さは鳴りを潜めていた。でも、そんなちょっとした違和感に七海自身も気づいたらしく、直ぐに顔をあげて。

 

「でもっ、なんか、ない!? ほ……ほら、秘密のパスワードみたいに簡単な方法とかさ……」

「あるよ」

「あーやっぱないよねー……って、なんですと!? あるの! 教えて!」

「いやだ。教えない」

「そんなご無体な……私たちの関係って、一体なんだったの……?」

「簡潔に言うと、たった数日のカジュアルな関係だな」

 

 僕の机に寄りかかる七海に、僕は淡々と言葉を吐く。

 また七海が食い下がることは分かっている。だから、それをどう頑張って乗り切るか、だ。

 

「頼むよー。将来の同回生を助けると思ってさ」

 

 助ける。

 

「助け……」

 

 ……助けるだって?

 そんなの、僕の手に余る所業だ。

 今までだって、全然人を助けてこられなかったじゃないか。

 主人公に……なれなかったじゃないか。

 ここで七海に何か提言をして、そのアドバイスが功を奏すとは決して限らないし。

 失敗した場合は、どうしてもその責任が付きまとうし。

 そもそも、そんな後ろ向きな可能性に怯えている地点で、人を助けようなんて烏滸がましい。

 だから僕は言う。

 

「助けないよ、僕は」

「えっ」七海は惚けるように首を傾げた。「人は勝手に助かるだけだって?」

「言ってない」僕は首を横に振る。「そんな、手を貸す前振りみたいな台詞は言ってないよ」

 

 そして、七海にお茶を濁される前に僕は畳みかける。

 

「あと、そういった事なら……ええっと、いつも七海といる人に相談した方がいいと思う。当たり前だけど僕より七海のことは知っているはずだし」

「たまのこと?」

「ええと……分からないけど綺麗めで」

「……たま?」

「めっちゃスペックが高そうなクラスメイト」

「ああ、ああ。葵のことかー」

「うん。多分」

「で、でも……」

「でも、何?」何かを言いかける七海に続けて僕は言った。「でもやっぱり、付き合いの長いクラスメイトより、どこの馬の骨とも分からない生徒のアドバイスの方が、信頼できそう?」

「だ、だって一位、だし……」

「一位だなんだって、関係ない。そもそも本当に頭のいい人は、こんな学校が決めた定期テストの範囲に縛られないで、きっちり目標に向けて勉強してる。だからそのテストの順位には出てこないだけで、模試とかになったら僕の点数を上回る同級生は少なからずいるよ。……もしかしたら、その、葵って人もその中の一人かもしれない」

「…………そっか」

 

 反論させる隙……をなるべく隠しながら、僕は七海を諭すように目を見ると。

 七海にしては長い間逡巡した後、手を引いてくれた。

 

「うん。分かった。ごめんね? 時間取らせちゃって」

「……別に」

「じゃ、またね!」

 

 不安げな表情を強引に歪めて、いつもの調子に戻すその所業は、コミュニケーションに関しては無学の僕から見ても、中々に目を見張るものがある。

 でもお得意の、おどけたりして僕の罪悪感を軽くするような気配りを見せる余裕は、今の七海にはなかったみたいだ。

 

「……関係ない」

 

 関係ない。

 と、僕は僕に言い聞かせて、もう一度参考書と向き合う他ない。

 

 

 

 

 

 数日後、記述模試が返ってきた。

 順位の欄を覗くと、相変わらず学年順位一桁ギリギリを死守していた。きっと上位8位には要領と記憶容量が化け物級の同級生がひしめいているのだろう。

 そんな中途半端な韻を思わず踏んでしまう程度に、内心この成績に満足していた。この時期は引退した運動部達が、最後の追い込みとばかりにグンと点数を上げてくるらしい。そんな荒波に振り落とされずに現状を維持できたのだとしたら、順位が上がらなかったことにそこまで悲観的にならなくていい。

 

「……」

 

 各々の成績を比べ合っている中で、一際大きな声のする方向に自然と目が向く。

 

「わ! すっご……一位だなんて、やりますね~!」

 

 やっぱり七海だ。ええと……確か、葵という友人と喋っているようだ……って、え?

 一位? 葵……さんが?

 マジか。前々からスペックが高そうだな、とは思っていたけれど、まさかそんな……。

 

「え……わ、私!? いやーそれはちょっと難しい相談ですねー」

 

 そんな葵の成績は盗み見た癖に、自分の結果は見せたがらない七海。

 葵さんはそれに不満を示すのかと思われたが、七海への追及はそこそこに終わって、とうとう返ってきた答案用紙の答え合わせを始めてしまった。

 取り残された七海は、手持ち無沙汰に辺りを見渡す。

 急いで視線を外して、僕も負けじと答え合わせをした……けど。

 その時に一瞬だけ目に映った七海の横顔に、焦りの色が見えたのは、多分見間違いじゃない。

 

 

 

 

 自習前に立てた勉強計画通りに上手くいくことは稀だ。大抵は分からない問題にぶち当たったり、眠気に勝てなかったり、隣の席にいる人の寝息が耳障りだったりで、何かしらの予期せぬ妨害を受けることが多い。

 

「……♪」

 

 だからこそ、そのような妨害を受ける確率をすり抜けて、つまり勉強が捗った時の喜びはひとしおだ。今日はもう絶対に勉強しないぞ。なんならご褒美として行きつけのラーメン屋でも行こうか。と静かに意気込みながら、図書室から教室へ抜ける廊下を歩いていると。

 

「……――なみさんは……今のま…――では……」

 

 自クラスを通りかかった時に、そちらの方から担任の声が漏れているのを聞きとがめた。

 否が応でも聞き耳を立ててしまう……そういえば今日から、三者面談の日程が入っていたっけ。

 

「難しいですか?」

「そうですね……今の七海さんの成績では、志望大学を下げることも、一考すべきだと思います」

 

 え。

 そう……なんだ。ちょっと前の七海の様子から、模試の結果が芳しくないことは想像に難くなかったけど、まさかそこまでとは……――、

 ――じゃ、なくて。

 なんで盗み聞きのような真似をしているんだ、僕は。

 早く去らないと……でも。

 

「また、こちらの大学では、志望されていた大学とは異なって、センターの点数がより多く加味されます。なので、センター模試では安定した成績を収めている七海さんにとっては、いい条件だと言えるでしょう」

「家からも通える距離ですし……ならみなみ、それでも悪くはないわよね?」

 

 そうか……七海は、来られないのか。

 僕が合格するとは限らない。でも、絶対に来年の入学式に七海と同じ場所にいる可能性はない。

 当たり前だけど特に悲しくは感じなかった。

 

「……」

 

でも、無感情に切って捨てられない程度には、七海は僕の生活の中に入り込んでいるらしかった。

 

「嫌です」

 

 そんな。

 そんな感傷に浸って、それで終わるはずだったのに。

 

「わ、私はこの……大学に行きたい、です。ずっと目標にしていた大学なんです。だから……行き、ます」

 

 少しの焦燥が混じった七海の声で、ふと我に返る。

 

「悪いことしてる」

「いっ……!?」

 

 と同時に、後ろから声が掛けられて、変な声をあげながら振り返る。

 

「あ……」君は。「日南」

「あっ、名前憶えてくれてるんだ、嬉しい! 佐倉くん……だよね?」

「お、おう……」

 

 日南は控えめで、かつ清潔感のある香りを辺りに漂わせながら、僕の名前を呼んだ。

 ……やばい。ただ相手も僕の名前を憶えていただけなのに、そんな嬉しさを全面に出したような笑顔を見せられたら、こっちまでニヤニヤしてしまう。

 ただ、名前を呼ばれただけなのに。

 

「ダメだよ、そんなことしちゃ」

「あ、あぁ」

「ほら、ここだけの秘密にしてあげるから……ね?」

「う、うん」

 

 ……やばいやばい。ただ覗き見していたことを咎められているだけなのに、相手と秘密を共有した気になって、ついつい心が躍ってしまう。

 ただ、間違いを指摘されただけなのに!

 

「受験勉強、頑張ろうね!」

「お、おお」

 

 あと、まだ僕は言葉らしい言葉を一つも発していないのに、リア充と充実した会話ができたと勘違いしてしまいそうだった。

 ただ……ただ相手に会話をリードされているだけなのに!!

 ダメだ……理由は分からないけれど、とにかくこの場にいちゃダメだ。

 僕は自分の身にせまる危機を察知して、逃げ帰るように廊下を抜けて、校門を目指して。

 

「やっべぇ……」

 

 ただ、元クラスメイトの戸部のような言葉を吐くことしかできなかった。



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十四話『拉麺』

 豚骨プラスアルファ塩か醤油かを選べることができて、ニンニクや塩コショウ等置かれてあるトッピングが豊富で、特徴的な薄黄色のスープに太麺が程よく絡んだ、うずらとほうれん草と焼き海苔とチャーシューが乗ったラーメン。

 そう、何を隠そう、僕は家系ラーメンの美味しい店に足を運んでいた。

 高校生のお小遣いでは、週に一度も通うことが限界のラーメン屋。転校初日に挑戦してみてから、すっかりとここの虜になっていた。

 

「お……」

 

 そして幸いにも、店の前で並ばずに入ることができそうだ。

 勉強が捗ったり、寒い中で並ばずに済んだり……今日はきっと、俗っぽく言えばツイている日なのだろう。

 そして案の定、その店の扉を開ければ、開いているカウンター席にそのまま通された。

 僕は店員さんに『醤油の固め』と告げてから、スマホを見つつ、あちこちから放たれているラーメンの匂いによって刺激され続ける唾液腺を自制しつつ暇を潰す。

 『嫌です』

 

「……」

 

 だから、先程の七海の言葉が自然と思い起こされた。

 七海は他の大学に……第一志望に比べて偏差値を落とした大学を受けることを拒んでいた。

 あそこまで、他の大学を受けることを拒む理由は何なのだろう。あ、いや、別に知りたくな……くなくはない、か。ほんの少しだけ、興味があった。

 でもその理由を簡単に類推できるほど、僕は七海のことは知らない。自分のことを『みみみ』と呼ばせたがる、僕に何か理由を付けて関わりを持とうとしてくる、クラスカーストの高い天真爛漫で変なクラスメイト。

 そんな表層的な部分しか知らないんだ、僕は。

 ヒントが少ない。あまりにも少ないから、そもそも問題にすらなっていない。

 それでも、ラーメンが来るまでの暇つぶしには十分で、

 

「久しぶりだな、佐倉」

「う、お…………え?」

 

 じっと黙って考えている時に、横から声を掛けられて情けない声を漏らしてしまうのも当然で。

 僕は、隣のカウンター席に座った、妙にヤニ臭いその女の人を見る。

 そして視界に収めるや否や、僕にしてはかなりの処理速度で名前を思い出した。

 

「そっちの担任の名前は、もう憶えたか?」

「いえ、それが」僕は言った。「まだなんです」

「情けないな」その女性は息を吐いた。「では……私の名前は、どうかな?」

 

 ああ。

 忘れる訳がない。

 忘れられる訳がない。

 僕は、驚いていることを悟られないように、努めて冷静にその名を呼んだ。

 

「お久しぶりです……平塚先生」

 

 

 

 

「どうして埼玉にいるんですか」

「単身赴任だよ。千葉から埼玉とは……全く、上の人も人遣いが荒い」

「ああ」僕は頷く。「若いから」

「そうだ。若いから、まだ先生歴の浅い人はよく飛ばされるんだ」

「ああー……って痛い痛い先生、僕の足踏んでますなんでですか」

「なんでって、私のことを馬鹿にしたからに決まっているだろう。等価交換だよ」

「してませんって」

「いや、しただろ」

「そうでしたっけ?」

 

 再会早々、火花がバチバチと飛び交う展開になりかけていたところを、第三者……もとい、店員さんが仲裁した。

 つまりラーメンができあがったので、運んできてくれた。

 同時にラーメンを届けられた僕たちは、無言で箸を割ってから、蓮華でスープを啜る。

 十分にスープの味を堪能した後、割った箸で麺を啜る、啜る、啜る。

 

「「はぁ~~」」

 

 ため息が被る。僕は少しだけ気恥ずかしさを感じて、先生はニコリと不敵に笑う。

 

「よくここに来るのか?」「はい。行きつけです」

「そっちで友達は作れたか?」「……ぼちぼちでんなぁ」

「急に関西弁になるなよ」「すみません……でも」

「うん?」「大方お察しの通りだと思います」

「……そうか」「……」

 

 箸が進む。

 熱々のスープが、少しだけ温くなっていく。

 

「友達を作らずに一人でいて、寂しくないか?」「あんまり感じたことはないです」

「そうか。君は強いんだな」「は? 急に……そんなことない、ですけど」

 

 急に強キャラ認定されて、平塚先生を見る。相変わらず平塚先生の目は、眼前のラーメンに注がれていた。

 そしてそのまま、先生は言う。

 

「いいや、強いよ。孤独でも大丈夫な人は、きっと佐倉が思っているよりずっと少ない」

「……少なければ強いなんて道理はないですよ」

「そうだな。しかし孤独が平気な人は即ち、心の拠り所を必要としない人だということだ」

「別に平気って訳じゃ……僕だって時々、ラーメン一緒に行ける人がいたらいいなぁ、なんて思いますし」

「……それは私を口説いているつもりか?」

「や、違いますよ別にそういう訳じゃ。……うう、失言だったな」

「はは」

 

 上手く乗せられた僕は、恥ずかしさを誤魔化すためにスープを啜る。

 ……本当にうまいなぁ。

 

「……でも、多分」

「ん?」

 

 口直しに水を飲んだ後、自然と僕は口をついていた。

 平塚先生の視線を感じる。

 僕から話題を持ち出すことなんて滅多にないのに。スープの油で舌がよく滑っているからか。それとも少しだけ、ほんの少しだけ平塚先生のことを信頼しているからか。もしくはただの気まぐれか。

 

「僕が孤独で平気なのは、『孤独じゃないこと』を知らないからだと思います」

「……」

「ずっと独りで人生を生きるならそれでもいい。でももし僕の人生の近くに誰かが入り込んでくれば、きっと戻れなくなる。孤独なことに耐えられなくなる。そんな気がします」

「だから?」

 

 だから?

 だから、何だろう。

 もう一度、自分を見つめ直してみる。

 その、胸の中にあった感情は……純粋な恐怖だった。

 

「……怖い」僕はポツリと呟いた。「独りぼっちだった人生が、他人を必要とする人生に挿げ変わることが怖い。……その後の自分は多分、今の自分よりも少しだけ大人になっていると思うから、なんとか折り合いをつけて生きていくんだと思います。でも、今はやっぱり怖い。一人でもへっちゃらな今の僕には、想像しただけでも怖い」

「怖いか」

「はい」僕は頷いた。「今まで、こんなことを思ったの、なかったのに……」

「じゃあ」先生は言った。「誰かが今、君の人生の近くにいるということだな?」

「……っ」

 

 一歩、先生に踏み込まれた気がして、僕は先生を見る。

 先生はいつの間にかスープを完飲していた。

 そしてやっぱり先生は、きっと僕に手を差し伸べているんだろう。

 それは、一年前の僕が取らなかった手だった。

 

「…………」

 

 きっと僕がもう一度はぐらかせば、先生は手を引いてくれるんだろう。

 僕は――、

 

「………………あの」

「なんだ?」

「聞いて欲しいことがあります」

「そうか」先生は言った。「……そうか」

「なんですか。……僕が相談事なんて、そんなに珍しいですか」

「あ、あぁ……そうだな、ハレー彗星が見えるくらいかな」

「75年に一度……!?」

 

 僕は驚愕してみせると、先生は今日一番の大きな笑顔を見せた。

 



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十五話『蛇足』

 七海が勉強面に関して僕を頼ろうとしていること。

 彼女の目的が、自分と同じ大学を受験し合格すること。

 しかし、思うように成績が上がらず、そもそもその大学を受験できない危機に瀕していること。

 頼られることを拒んでいたけれど、先程の三者面談の一部を目撃して、その気持ちが揺らいでいること。

 仮に僕が手を貸したとして、七海の成績が上がる保証はないこと。

 もし上がらなければ、七海の貴重な時間を奪ってしまうこと。

 その事に対して責任を持つのが怖いこと。

 

「……」

 

 頭の中でグルグルと渦巻いていたものを、隣に立って歩いている平塚先生に僕はそのまま吐き出していた。

 それだけで、僕の心が軽くなる気がした。

 きっとこれが、甘えるということなのだろう。

 僕は今、平塚先生に甘えている。

 気恥ずかしいような、返って清々しいような、なんともいえない気持ちだ。

 

「……そうか」

 

 話終えた後、相槌も打たずに目を細めていた先生は、そう一つだけ零した。

 

「お前はどうしたいんだ?」

「……分かりません」

「そうか。……なら」先生は言う。「やってみろ」

 

 言って、先生は立ち止まる。

 ラーメンのおかげで、少しだけ温度の上がった息を吐く。

 

「君は賢いから、そう言わなければ『助けてはいけない理由』を探してしまうんだろう。さっき君が言ったこともその最たる例だ。受験期の七海の貴重な勉強時間を奪うことが怖い? そんなもの、やってみなければ分からない。物事に100%はないし、悪い可能性についての議論は詐欺師がやることだ。前途ある学生がすべきものじゃない」

「……そういうものですかね」

「といって、君が難色を示すことも織り込み済みだ」

 

 意地の悪いことを言う先生を見ると、確かに意地の悪い顔をしていた。

 

「一つ訊いていいか」

「はい」

「もし君が新しい勉強方法を実践してみて、結果そこまでテストの点数が上がらず失敗してしまったとしよう。その場合、君はどうする?」

「……どうして失敗してしまったのか、考えます。考えて……もし原因が分かれば、改善しようとします」

「それと一緒さ」

 

 平塚先生は両ポケットに手を突っ込んだ。

 

「君が彼女を助けようとして失敗する可能性は、もちろんある。当たり前だ。私とは違って、君には誰かを教え導く経験はないからだ。大事なのは失敗した上で、君が今後どう行動するかだ。失敗を、如何に人生の糧とするかだ」

「で、でも……それだと七海は……」

「ああ。場合によっては落ちるかもしれないな。でもその失敗を恐れていては、君は前に進めない」

「……前に……」

 

 進めない。

 そうだった。僕は二年の春頃から、ちっとも前に進めていない。

 でも……先生。

 

「結構、現実的なことを言うんですね」

「そうか?」

「はい」僕は頷いた。「先生なら、誰もが幸せになれるアドバイスをしてくれるのかなって……あ、いや、心の底でちょっとだけ思っていたというか」

「そんなものがあれば苦労はしないさ」

「じゃあ……どうしてそれが、先生なりの最善策なんですか?」

「佐倉は私の元教え子だからな」

「……?」

 

 どういう意味だろう。

 頭に?マークを浮かべていると、先生は見兼ねて付け足してくれる。

 

「そしてその、七海という生徒は……私の教え子じゃ、ない」

「……ああ」

 

 なるほど。

 そこが判断基準か。

 僕の利益が最大化されるような案を提示して。でも、その他の先生の人生には関わりのなかった人に関しての不利益については気にしない。

 そういう価値観なのだろう。

 ……。

 

「……でも」

「……なんだ?」

 

 本当に先生がそんなことを考えるだろうか?

 ある意味で冷酷とも取れる考え方を、僕に与えるような人だったか?

 少なくとも、僕の中での先生は違った。

 色んな人に手を差し伸べて、結局全部引っ張ってしまうような、そんなお節介で優しくて強い先生だった。

 そんな先生が、こんなことを言うのは何故?

 そんな先生に、こんなことを言わせてしまっているのは誰?

 

「……あぁ、」

 

 間違いなく僕だろう。

 一年も足踏みを続けている僕だろう。

 その僕を無理矢理引っ張り上げる為に、先生は自身のポリシーを押し下げて、僕がもう一度立ち上がれるような提案をした。

 そういう解釈が……今更ながら僕の頭をもたげてくる。

 

「いえ、なんでも」

「なんだよ」

 

 なら僕には、その期待の通りに頑張ることでしか、先生に報いるための選択肢は残されていないのだろうと。

 そう納得することにした。

 ……ともあれ、横目に睨んでくる先生の追及から逃れないと。

 

「なんでもないですって」

「嘘をつけ。私の目は誤魔化せないぞ」

「……ぶっちゃけると、言うのを途中で止めたフリをして、先生にモヤモヤさせることが目的でした」

「二度と遠近を感じられない体にしてやろうか?」

「……」

「……あ、片目を潰すという意味だからな」

「分かってますから!」

 

 直截的に怖いことを言わないで欲しい。

 ともあれ、愉快な会話だった。

 何も言わずに、僕達は十字路を真っ直ぐに突っ切る。

 様子から見るに、まだ平塚先生と別れる場所は先のようだ。

 しばらく相手の出方を伺うような、逆に隣を気にせずに歩いているような、そんな微妙な空気が続いて。

 先に沈黙を破ったのは先生だった。

 

「なぁ」

「はい?」

「もしも私が、その……七海の勉強を見てやろうと提案していたら、佐倉はどう思っていたんだ?」

「お人よし過ぎて、将来マルチ商法に関わることになったら、標的にするリストに入れたいと思います」

「そうか。……まぁしないが」

「はい」僕は頷いた。「お人よしがどうか以前に、先生……やっぱり、忙しそうですし」

「あ、あぁ。まあな」

 

 やや狼狽えながら、先生は言う。

 

「まだまだ若手ですもんね。やっぱり、上からの皺寄せが来るから――」

「あぁ……そうだ、な!」

「ぐぇ」

 

 思いっきり足を踏まれた。

 渾身の一撃だった。

 

「ふ、ぐ、おぉお……」

「としても、だ。……もし実際近くにそのような人がいれば、君はどう思う?」

「や、ちょ、あの……先生。しんみり言われても入ってこない……めっちゃ足痛い……」

「軟弱だな。どれ、その痛みを紛らわせるために、別の場所に刺激を与えようじゃないか」

「し、しげき?」

「……顎を差し出せ」

「砕かれる!?」

 

 理不尽な暴力の理不尽な正当化だった。

 顎を手で守りつつ、先程受けたダメージを回復する。

 

「えっと……何でしたっけ? 自分を犠牲にしてまで優しくする人をどう思うか、ですか?」

「まぁ、そんなところだ」

「……何かの心理テストです?」

「なんでもないよ。……ただの暇つぶしだと思ってくれていい」

 

 はぁ。暇つぶし。

 それにしては意味深な質問のように思えた。でも、あまり邪推しても仕方がなさそうだ。

 僕は考えることを放棄して、素直に考えることにした。

 

「苦しい、かな。……あ、勿論彼が向けている優しさが、僕の交友関係と遠ければ遠いほど、ですが。だから僕は、先生がもしも七海と関わろうとしたら、止めると思います。……これはきっと、七海と僕の問題なので。……あ、でも……」

「なんだ?」

「ちょっとだけ、カッコいいです」

「ほう」先生は僕を見た。「カッコいい?」

「はい。……僕って結構自分が大事なんで。だから自分を犠牲にして、他人を助けようとするなんて、僕みたいな人種からすると結構すごいなぁって思うんですよ。それは。自分には一生できないことだから」

「できるさ」

「気休めは大丈夫です」

「それが気休めになるかどうかは、これから佐倉がどのような人生を歩めるかに掛かっていると思わないか?」

「……なんですか、それ。変に綺麗に纏めようとしないでください」

「はは、確かに」先生は笑った。「参考になったよ、ありがとう」

「いや、別にお礼を言われるようなことでは……まぁ、はい」

「私はこの道を右だ」

「へ?」

 

 前を向くと、T字路が眼前に差し掛かっている。

 かなり喋っている間に歩いていたらしい。

 

「あぁ。僕は……左です」

「そうか。じゃあ……じゃあな」

「はい」僕は頷いた。「さようなら」

 

 言って、僕と先生は背を向けた。

 七歩歩いた当たりで気になって、僕は後ろを振り向いてみる。

 そしてずっと、西日を背に悠々と歩いている先生を、見えなくなるまで見送った。



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十六話『博打』

 放課後。

 いつもいる友人の輪から外れて、帰りの用意をしている七海の元に僕は向かった。

 その行動に七海は面食らったのか、準備の手を止めて呆けた顔でこちらを見ている。

 しかし。

 

「七海」

 

 と僕が、彼女の苗字を言うや否や、開かれていた目がスッとジト目に変わる。

 

「……つーんだ。私は七海じゃないですー。『みみみ』という、親に付けてもらった立派な名前がありますー」

「七海みみみ……!?」

 

 なんてアグレッシブな名前なんだ……いや。

 

「七海みなみでしょ。流石に知ってるから」

「じゃあ『みみみ』って呼んでくれてもよくない?」

 

 何が『じゃあ』なのかは分からないが、七海のことを『みみみ』と呼んでやる義理はない。

 半ば僕も意固地になっていた。

 

「七海」

「……」

「七海じゃないのか?」

「違います」

「ああ、そう。そうか」と、僕はクジャクヤママユを盗られた青年のように言った。「僕、七海みなみって人に勉強法を提案しに来たんだった。でも君は七海じゃない。どうやら僕の人違いだったみたいだ。ああ、ごめん『みみみ』さん。僕は――、」

「ちょちょちょちょ!! えっ、勉強法! なにそれ! 詳しく! ケーダブリューエスケー!」

「いや、でも僕は――、」

「そんな大根役者の真似はいいから!」

 

 言って、目を輝かせながら両手で机の側面をガッシリと掴んだ七海は。

 絞り出すような小さな声で、僕に訊く。

 

「ホントに……?」

「うん」僕は頷いた。「とりあえずこの問題、解いてみて」

 

 

 

 

 

 

 七海に渡したのは、志望大学のとある数学の過去問……とよく似た、別の大学の過去問だ。

 七海は元々そのまま帰るつもりだったらしく、友達と視線を交わしながら今解くことに難色を示してはいたけれど、同時に僕が教えたい勉強法も喉から手が出るほど欲しかったようで、その友達に別れを告げてから、渋々と問題を解き始めた。

 僕は答案用紙代わりのルーズリーフを逆さに見ながら、七海の様子をじっくり観察。

 

「……うん」

 

 僕の思っていた通りだった。

 僕の問題を解くプロセスと、七海の解くそれは真っ向から違っていて。

 つまりは、僕の勉強法はまったく役に立たない。

 そう確信せざるを得ないほど、僕の目から見た七海の解答は、変だった。

 

「……いよっし。できた!」

「……すごい」

 

 素直に僕はそう言った。

 

「どう? どうどう! 合ってる?」

「うん、合ってる」

「マジ!?」

「計算結果は間違ってたけどね」

「ええ! じゃあダメじゃん! ダメ、じゃん……」

 

 直ぐ水を掛けられた子犬のようにシュンとなる七海。

 彼女を元気づけるためだけじゃないけれど、僕は七海を見た。

 

「でも解法は合ってる。その愚直な解き方で最後までやり遂げるのは、やっぱりセンスがあるんだと思う」

「ええっと……? もしかしてわたくし、間違ったのに褒められてる……?」

「七海」

「は、ひゃい?」

「数学の問題って、いつもどうやって解いてる?」

「んんっと? 普通っちゃ普通だと思うけど……ええと、ね」

 

 彼女なりの『普通』をどうにか言語化しようとしているのか、七海は首を捻りながら左斜め上を向く。

 口を開くのに、そこまで時間は掛からなかった。

 

「広大な土の中に埋まってる、一つの金塊を掘り当てるイメージ……なのかな。その金塊を公式という名のスコップを使って掘り当てる……みたいな!? 分かる?」

「うん。なんとなく分かる」

 

 なるほど。金塊が答えで、公式と思考そのものが土を掘るスコップか。

 短時間で思いついたにしては、言い得て妙だと思う。

 

「でも、それだと」僕は言った。「初めに掘るべき場所が分からない?」

「そう! そうなの!」七海は頷いた。「初め式変形してみよっかなーとか、とりあえず平方完成してみよっかなーとか、掘る場所多すぎてもうそれだけで頭が痛いよね! 難しい問題ほど多い気するし……」

「うん。うん。……でも、今の問題はちゃんと解けた」

「まあ、それはね? ……正直勘と言いますか……シックスセンス的なアレと言いますか……」

「それだよ」

「うぇっ!?」

 

 ゴニョゴニョ言っている七海に言葉を返すと、変な声をあげた。

 構わず僕は続ける。

 

「七海はその『解き初めに正解のルートを引く勘』がもの凄くいいんだ。……多分、僕よりずっといい」

「そ、そんなお世辞……いいっていいって」

「いいや、お世辞じゃない。僕ならこの問題で、七海ほど自信満々に、まず方程式の微分を取ろうとしない」

 

 でも、七海はその問題に取り組むや否や、真っ先に示された関数の接線を求めはじめた。

 数学を感覚で解くとは、このことなんだろうと思い知らされた。

 七海は間違いなくそのセンスを持っている。勿論先天的なものもあるだろうけれど、何年間に及ぶ数学の演習で研ぎ澄まされてきた、確かなセンスが。

それは、答えから逆算して解き始めるタイプの僕にはないものだった。

 

「でも……この解き方、安定しなくてさ」

 

 七海は困ったように笑う。

 

「解ける時はもう、トラックで走ってる時みたいに集中してズバズバ解けるの! でも……分からない時は全然、ペンが走らなくって」

「……」

「...あ、走るだけに?」

「後付けで駄洒落を誇張しなくていいから」

 

 ともあれ。

 七海の言う通りだった。正解までのルートを初めに決めつけて解くやり方は安定しない。

 一方で、『答えを知るためには、何を知ればよいのか』と、正解から引き返して、ある程度当たりをつけてから解き始めることが一般的で、安定するやり方だ。

 でも試験直前の今更になって、七海にその方法を試させることは危険だし、身につかない可能性の方が高い。

 それなら。

 

「それなら、分からない時がなくなるまで、そのセンスを磨けばいい」

「え……?」

 

 七海の尖ったやり方を更に鋭くすればいいんじゃないか?

 これが、僕が考え抜いて出した結論だった。

 

「これ」

 

 僕は、左手に持っていた薄い参考書を七海に差し出した。

 

「あげる。黒くて分厚い参考書と、黄色くて小さい参考書と、橙色と青色の二種類ある参考書に比べて、かなり難しいやつ。これを解いて解いて解きまくって欲しい」

「えっ……でも、先生には頻出問題を覚えてって言われたよ?」

「数列と整数の性質……は二次には出ないか。……ええと、数列みたいな覚えゲーは勿論暗記が安定だけれど他の分野はそれが多すぎて間に合わないと思う。それに概念をしっかり理解しないまま勉強すれば丸暗記になって効率が悪い」

「なんか急に饒舌になった!?」

「……え、あ、おぉ」指摘されて初めて気づいた僕は、しどろもどろになりつつも返す。「まぁ……オタクだからな」

「オタクって……勉強の?」

「うん、まぁ」

「おぉ……それって……」

 

 流石に引かれたか。

 引かれてしまったか。

 なぜだか、七海と()()の面影が重なって、

 

「カッコいい、ね!」

 

 一瞬で、ブレた。

 ……え?

 

「いやー、やっぱり何かに本気になれるって、やっぱり私みたいな人から見れば、憧れちゃうなーって……うんうん、やっぱり佐倉くんは私の見込んだオトコだねー!」

 

 そして七海らしからぬ、自虐的な言葉で。

 それは間違いなく、七海の本質が顔を出した瞬間……なのかな。

 なんて考察を入れていると、七海に左肩をバシバシ叩かれる。

 

「痛い痛い痛いから」

「そう? ……じゃあ代わりに二度とアルコールが分解できない体になってみる?」

「その流れは前にやった!」

「えっ? ……肝臓を、」

「それもやった!」

 

 直接言われる前に、なんとか七海の言葉を遮って。

 僕はツッコミに乗っかってくれた七海に向き直る。

 そして視線で、七海の意志を問う。

 

「んじゃ……早速やってみますか!」

「……え、本当に?」

「いや、なんでそこで聞き返すの! あはは!」

「だって、結構博打みたいな方法だから……」

 

 安定択はもちろん、先生が言っていたらしい頻出問題を解いて解法を暗記することだ。

 でも、僕は七海の数学を解くセンスに賭けた。

 そもそも、センスとは曖昧なもので、実際は閃きだったり勘だったりと色んな要素が――、

 

「まーまー細かいことはいいから! ね? だから一緒に頑張ろ?」

「う、うん……って、え?」

 

 一緒に?

 と、訊き返そうとして前を見た先に、七海の姿はいない。

 振り返ってみると、僕の隣の席には黒髪のポニーテールが……。

 

「ほら、早く。私、近くにライバルがいた方が燃えるタイプだから! いいよね! ね!」

 

 目を輝かせながら、渡した参考書を早速広げている七海を見て。

 流石に、『僕は近くに人がいない方が集中できるタイプなんだ』とは言えなかった。

 



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十七話『利用』

「「はぁー……」」

 

 勉強で本当に疲れた時は、家へ帰ることさえも億劫で、今の間だけ時間を任意に進めることができる能力者になって、その能力を操作して家へ帰っている時間まで時を進めたくなる。

 と、そんな妄想をしてしまう程度に僕は疲れていた。

 そしてきっと、七海も。

 

「いやー! こんなに勉強したのめっちゃ久しぶりかも! 佐倉は毎日こんなことやってるんだ!? すごいね!」

 

 いや。

 全然疲れていなさそうに見えない。

 少なくとも、数時間集中して勉強した直後に、こんな元気溌剌とした声を上げられない。

 

「ああ、うん……」

 

 だから、しっかりと嫌でも耳には届いていたけれど、生返事のように曖昧な返事をすることしかできなかった。

 でも、それだけじゃ冷たいだろう。

 なんとか会話のボールをよいしょっと返す。

 

「なんでそんなに元気なんだ?」

「えっ? いや、私も超々疲れたよ?」

「超々疲れてたらそんな声出せないよ」

「超々々疲れてなくても、佐倉ってこんな声出さなくない?」

「超々々々疲れてたから今、七海に揚げ足を取られたんだ」

「あはは!」

 

 めっちゃ笑っている。

 疲れていたら渇いた笑いしか出せなくなる僕は、そんな彼女の姿を見て殆ど感動していた。

 

「んー。でも、あれかもね」

「……?」

「ほら、私運動部だったから。だから、基礎体力には自信アリ、かも?」

「あー……」

 

 なるほど。

 受験期運動部あるある……と言えば、あるあるだ。

 夏頃にはてんでダメな成績だったのに、三年生の夏の大会が終わったのを契機に、成績がグンとあがるケースが多い。それはただ勉強に覚醒した訳じゃなくて、帰宅部や文化部に比べて体力が有り余っているから、長い時間勉強してもあまり疲れを感じないから。

 つまり勉強の対価として消費される体力が無尽蔵にあるから、ガス欠をすることが少ない。因みにこのケースは野球部に多い。

 

「すごいなぁ」

「でしょ? ……あれ今私、佐倉に褒められた?」

「え……うん」僕は謎の確認を不思議に思いつつも、頷く。「そのつもりだったけど」

「ふ、ふーん……らしくないじゃん」

「……そうかな?」

 

 どうだっけ。

 分からない。思い出そうにも、思い出そうとする行為自体が億劫に感じられて、思考が前に――というより、後ろに進まない。

 疲れているんだろう。うん。

 だから。

 

「七海ってどうして、そんなに勉強を頑張ってるんだ?」

 

 踏み込んだ質問をしてしまったのも、きっとそのせいだった。

 七海の会話のテンポが、少しズレたのを感じる。

 つまり、中々七海は口を開かない。

 

「……なんで?」

「いや……七海の目指してる学部って、少しレベルを下げた近くの大学にもあるみたいだし」

 

 その情報が、三者面談で盗み聞きして得られたものだとは、流石に言えなかったけれど。

 僕は続ける。

 

「だとしたら、単に偏差値の高い大学に受かって、少しでも就職に有利でありたい……という考え方が妥当なのかな。それでも、七海だったら苦労しないと思うけど。性格はいい……? かどうかは置いておいて、明るい性格だと思うし、顔もいい……? かどうかは置いておいて、愛嬌はあると思うから」

「ん? んん? ……私もしかして、口説れてます? 口説かれちゃってます?」

「は? 急に何の……ぅ、」

 

 あ? 僕……今なんて言った?

 流石に思い出す。思い出せる。

……顔が赤くなるまで、ものの数秒も掛からなかった。

 

「忘れてください……」

「あはは! これは七海選手、忘れられませんね~~」

「……確か頭にもの凄い衝撃を与えれば直前の記憶は飛ばせられるはずだから試しにちょっとやってみることも視野に入れても、」

「ノ、ノー! ノー現実逃避! ノーライフ!」

 

 顔の前で手を横にブンブンと振る七海だった。

 閑話休題。

 

「私……中途半端が、苦手なんだ」

 

 おもむろに、七海はトーンが落ちた声で話し出した。

 志望大学を変えなかった理由を。

 そしてきっと、その大学へ行くために、僕を利用した理由も。

 

「別に、行きたくない大学を悪く言ってるんじゃないよ? でも、ここで妥協して、先生に勧められた大学を受けちゃったら……なんか、そういう人間になっちゃいそうで」

「そのことが、怖い?」

「そ、そうなの! 佐倉も分かる?」

「いや分からん」

「さっすが佐倉……ってぇ、分からんのかい!」

「でも、理解できる気はする」

 

 見事なノリ突っ込みを決めてくれた七海に、僕は正直に返す。

 『分かるよ』なんて責任の重い言葉、口先で言える訳がないだろう。

 でも、理解はできていると思う。

例えば、重い荷物を運んでいるばあちゃんを見かけた時。例えば、意図せず持ち物を落としてしまった人を見かけた時。例えば、人として悪いことをしてしまいそうになった時。

 もし、今の僕にとって相応しくない選択をすれば罪悪感を覚えるだろう。それでもする度に慣れていって、罪悪感は薄れて、終いにはなくなる。そういう人間になることが……怖い。

 それとよく似たモノを、七海は感じているんだろう。

 

「たまも……あっ私の親友、たまって言うんだけどね。高校卒業したら、親が開いてるお店を手伝うって言ってるし。葵も……東大に行って、学びたいことがあるって言ってるし。私だけ……なんだ。中途半端なの」

「……」

「だから、せめて……元々目指してた大学だけは、譲りたくない……って! そう思い至ったのですよ! 私は!」

 

 自分のせいで、やや沈んでしまった空気を感じ取ったのか、最後は元気に締めくくる七海。

 自分語りタイムだったのに、最後まで人の気遣いをしている変な奴だった。

 しかしそれが彼女の性質であり、魅力の一つなのだろうと。

 勝手に納得する。

 ともあれ、七海の強い意志は感じた。あとはその目標に向かってひた走るだけだ。

 ……でも。

 

「じゃあ……」

「……うん?」

 

 僕はまた一つ、彼女に踏み込もうとする。

 

「やっぱり、僕に近づいたのは……その大学に合格するため?」

「……」

 

 七海は一瞬だけ口を開いた後、しかしキュッと口を噤んでしまう。

 きっと、数日前の彼女なら、迷いなく頷いていたはずだ。

 彼女は何か僕に隠し事をしている。

 僕をあとほんの少しだけ踏み込ませるか。それとも、はぐらかすか。

 確率は五分五分といったところか。

 

「私……」

 

 そして、たまたま。

 ここが、七海がはぐらかさない世界線だった。

 それだけの話で、深く考えるべき事象じゃないように思えた。

 

「私ね?」

「うん」

「……好きだった人が居て、さ」

「……あぁ」

 

 僕は頷く。

 そのやりきれない表情から、悲恋を察したことも含めて、頷く。

 よくある話だから。

 明るい性格の同級生が、誰かに想いを寄せていることなんて、よくある話だということを。

 僕は一年前に学んでいる。

 だから、素直に頷いた。素直に……頷くことができた。

 

「そして、多分ね……今も好きなんだと思う」

「あぁ……」

 

 かと言って、頷くこと以外にできる行動なんて知らなかったが。

 なんとなく僕は彼女の顔を見ることが躊躇われて、前を向きつつ七海の歩幅に合わせる。

 

「その人は、ずっと……本当に前ばっかり見ててさ……全然前に進めない私が、めっちゃ情けなく見えるくらいにね。だからね! 私はずっと、遠く見えなくなってく彼に、本当に……正直、本当にムカついて! でも! 同時に……ムカついてる自分が嫌になって……あっゴメン、脱線しちゃった。あはは」

「ああ、うん」

「とにかく、ムカついたんだけど……やっぱり、憧れてたんだと思う。どうかな。諦めてた……のかな。分かんないけど……だからこそ、見返したくなったんだ。見捨てられたみみみも、まだまだ結構やりますよ! ……って、言いたくなってさ」

 

 それに。

 と言って、七海は立ち止まる。目の前の信号が赤だったから。

 七海からの視線を感じる。

 釣られて僕も、彼女を見る。

 そして、白い息と共に七海はポツリと呟いた。

 

「……寂しかったんだ」

 

 寂しかった。

 それは絶対、周りに人がいないことが原因じゃない。だって、七海は沢山の友達に恵まれているから。

 では何故、七海は寂しさを覚えていたのか。

 その寂しさを紛らわせるために、何故僕を選んだのか。

 考えを巡らせていると。

 

『私と貴方が、似てると思ったから……かな?』

 

 七海が、僕に向かって言放った言葉を思い出した。

 僕と七海は似ている。似ている部分がある。

 性格か。思想か。容姿か。成績か。視力か。コンプレックスか。

 それとも……経験か。

 

「あ……」

 

 そして気づく。

 僕が、七海にとって奇跡的と言っていいほど、都合のいい人だということに。

 

「ねぇ、私たち……似た同士、いいバディになれそうだと思わない?」

 

 そう言って笑う七海の表情は強かで。

 今にも……崩れてしまいそうな儚い笑顔だった。

 



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十八話『取引』

「ぐ……」

 

 僕と七海が同盟を組んでから数カ月が過ぎた。

 と言っても何か劇的な変化があった訳ではなく、ただ自分の生活の一部に七海が入り込んできただけで。

 

「ぐぐぐ……」

 

 強いて挙げるとすれば。

 

「佐倉ーっ。おはよー、今日は会えたねー」

「……ああ。おはよう」

 

 七海が僕をくん呼びしなくなって。

『佐倉』のイントネーションが、『桜』寄りになったことくらいか。

 

「七海」

 

 そして相変わらず、『七海』は『七海』のままだった。

 

「うーさっぶ……って佐倉、どうして苦虫を嚙み潰したような表情してるの?」

「放っとけ」

「苦虫でも嚙み潰したの?」

「嚙み潰すか! ……普通に緊張してるんだよ」

 

 普通に。逆に今日緊張しなくて、いつ緊張するのか。

 試験当日。大事を取って、大学の近くのビジネスホテルに泊まってからの、最寄り駅で下車してからの行く道。

 たまたま会った僕と七海は、足並みを揃えて校門へと目指している。

 

「えぇ! なんで! だって佐倉、この前の模試じゃA判定だったじゃん。……それとも何―? もしかしてC判だった私への嫌味か! 嫌味なのかうりうりー」

「勉強すればするほど、失敗した時にこれまでの努力が無駄だった事に気づきたくないから嫌なんだよ。それに……」

 

 言うべきかどうか迷ったが、ついつい口に出してしまう。

 

「……七海への責任もあるし」

 

 落ちたら、とか、滑ったら、とか。流石にそんな直截的なことは言わないけど。

 もし七海が受験に失敗したら、殆どが僕のせいだ。

 その覚悟でやってきた。だから素直に怖いし、緊張してしまう。

 

「だから、いいって。まーた余計なもの背負おうとしてるねー」

「背負わせようとしてきたお前が言うな」

「あはは! 確かに!」

「全く……」

 

 なんでだよ。

 なんで大事な日なのに、単語帳すら見ないでこんないつもの談笑に耽っているんだ、僕達は。

 そのことが無性に可笑しくて。

 

「あー……何かニヤニヤしてますねー」

「してないよ」僕は口元をマフラーで隠しながら言う。「全然してない」

 

 ついつい、緊張が解けてしまう。

 校門を抜け、キャンパスの中へ入って、色々な種類の建物を横目に目的の試験会場へ足を踏み入れてから、各々の教室を探して慣れない校内をウロウロする。

 僕の方が先に見つかって、足を止めた。

 それだけで七海は察したのか、今日一番の笑顔を見せながら、両腕をグッと手前に引き寄せて

 

「頑張ってこーね! 佐倉」

 

 ちょっと意地悪なことを言いそうになったが、ここはしっかりと我慢して。

 

「ああ。……七海もね」

「うん!」

 

 曲がり角に消えていく七海を見送った。

 それから指定された席に着いて、待って。英語、数学、物理化学の順にテストをこなして。

 あまりにも集中しすぎたせいで、全ての試験を終えた頃には、七海の具合なんて確認できる余裕もないくらいに疲れ切っていた。

 それからフラフラの身体で電車を何本か乗り継いで、家路についた。

 

「あいつ、大丈夫だったかなぁ……」

 

 心配になってくるも、確認する術はなく。

 アパートの戸を開けた頃にはすっかり、夜の帳が降りていた。

 

 

 

 

 

「ぐ……」

 

 翌日。

 僕はベッドの上で、七里ヶ浜に打ち上げられたワカメのように横たわっていた。

 

「ぐぐぐ……」

 

 受験勉強を終えた反動で、精も根も尽き果てて体調を崩したか。

 それとも試験会場に風邪菌を持ち込んだ、バイオテロ受験生がいたか。

 受験が終わった翌日には、自分へのご褒美としてあのラーメンに行こうと密かに画策していたのに。予定が狂ってしまった。

 

「気持ちは分かるけどさー。でもやっぱり、ちゃんと寝てなきゃダメだって」

「ああ……」

「お粥作ったげたからさ。ね? 食べれる?」

「うん……」

 

 お粥か……久しく食べてないな。

 七海の言う通り、茶碗にはお粥……の上に、でかでかと梅干しが鎮座している。

 僕が言うべき言葉は。

 

「梅干し苦手……」

「分かる!」

「分かるのかよ」

「でも、こんな時こそちゃんと食べなきゃって言うよ?」

「うぅ……分かったよ」

 

 背に腹は代えられないし、せっかく七海が作ってくれたのだから、その優しさを無下にはできない。

 七海はそのお粥をスプーンで掬って、僕は口を開けて。

 こう言った。

 

「……なんで七海が僕のアパートにいるんだ!?」

 

 ベッドから飛び起きる僕。

 呆気に取られて、スプーンを僕の口に運ぼうとしていた姿勢そのままに、目をしばたかせる七海。

 

「えっ? いや、だって鍵開いてたし」

「七海は鍵の開いてる部屋があれば不法侵入してしまう輩だったのか?」

「そ、そんなわけないじゃん! 佐倉の部屋だったから入ったんだって……って、そ、そんな恥ずかしいこと言わせないでよ……」

「頬を染めて何かい、いい雰囲気にさせるようなことを言うな!」

「あはは!」

 

 どもる僕を笑う七海だった。

 じゃなくて。

 驚きと体内の熱でオーバーヒートしてしまいそうな頭をなんとか抑える。

 

「というか冷静に考えて、何で?」

「えっ? そりゃあ、風邪引き用のご飯と言えば、お粥じゃん」

「一番どうっでもいい疑問に答えるな」

 

 閑話休題。

 僕は作ってくれたお粥を、遠慮して自分の手で食べながら、七海がここに来た経緯を聞いた。

 朝、いつものように高校に行くと、佐倉がいなかった。

 いくら試験後の高校とは言え、真面目な佐倉が高校に来ないのは不思議だった。

 そこで担任に伺って、佐倉が体調不良で休んでいることを知った。

 七海は佐倉の見舞いをしたいと担任に訴えて、住所を聞いた。担任も担任で、僕に渡したい書類があったらしく、その書類を七海に渡すことで、手間が省けるというメリットがあったらしい。

 そして七海は、行きがけのスーパーで買い物をしてから、スマホの目印を頼りにアパートまで辿り着き、ベルを押してみるも佐倉が出てこない。

 試しにドアノブを捻ってみれば、簡単に扉は開いて。

 簡単に不法侵入でき、簡単にキッチンでお粥を作れた――ということらしかった。

 

「あー……」

 

 扉の鍵、閉め忘れていたのか。確かに言われてみれば、閉めた記憶はなかった。

 いくら試験を終えたからって、気を抜きすぎでは……僕。

 

「とまぁ、そういう訳なのですよ。いやーっ、健気だねー。泣ける努力の女だねー!」

「なんか言ってる……いや……でも、助かったよ。ありがとう」

 

 僕はお粥を平らげて、米粒一つ残っていない茶碗を返す。

 

「だから、これで……終わりにしよう」

 

 それを受け取った七海の目を見て。

 僕は続けた。

 

「十分借りは返してもらった。僕は七海に勉強を教えて、七海は僕にお粥を作ってもらった。取引完了だ」

「と、取引って……へ? 一体全体、何の話?」

 

 茶碗を持ちながら、七海は問う。

 惚けているんだろうか。だとしても、返す言葉は変わらない。

 

「いや……だから、お粥作ってくれたのって、そういうことでしょ? 別に僕は見返りを求めてなかったけれど……でも、これでスパッと僕と手を切りたかったのだとしたら、甘んじてそれを受け入れよう。勉強を教えた対価としてお粥は……まぁ……うん、初めて食べた親以外の手料理だったから、新規特典としてチャラってことで。それでいいよね?」

「な……」

 

 七海からの見返りが欲しくて、僕は勉強を教えた訳じゃない。

 ただ、自分を変えたかったからだ。助けを求めている人に手を差し伸べることが怖くて、いつまでも躊躇っていた僕自身を変えたかったから。

 その地点で既にWin-Winの関係は保たれていたんだ。

 でも、その事を七海は知らなかった。だから一方的に他人の時間を搾取している気になって、そのことに対して罪悪感を覚えても仕方がない。

 だから僕の住所をわざわざ担任に訊き出して、世話を焼こうとした。

 そういった七海なりの策略だったのだろう。いや、そうに違いない。

 そうだろう? 七海。

 

「なんで……」

 

 その策略に、乗ってあげたはずなのに。

 なんで七海は両腕を震わせて、目に涙を溜めて。

 

「なんで、そんなひどいこと……言うの?」

 

 そんなことを、言うのだろう。

 



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十九話『』

モチベーションが限界になってきたので、一旦途中まで書けている部分(1000文字程度ですが)を掲載してお休みします。
再投稿時期は未定ですが、遅かれ早かれあと5話程度の連載になる予定です。
申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。


「は……え……?」

 

 僕は、七海が急に声を荒げた意味が分からなくて。

 ベッドの上で腰を曲げながら、呆然と目に涙を浮かべている七海を見ていた。

 

「別に、いいじゃん。友達なんだからさ……もしかして、見舞いに来られるの、迷惑だった?」

「いや……遠回しに迷惑だってことを伝えてる訳じゃなくて。僕はただ……」

「だったら、さぁ」

 

 七海は立ち上がって、それでも僕を睨みつけたままで。

 荒げても、よく通った声で、僕に伝えてくる。

 

「素直に……受け取ってよ。熱出したって聞いて、心配だったんだって。ずっと今まで、私の面倒を見てくれた感謝を……さ」

 

 素直に……七海の感謝の気持ちを、だって?

 そんなことを言われても……困ってしまう。

 七海は受験のために僕を利用した。僕は僕を変えるために、七海を利用した。

 ただの共利共生の関係にあった……はずなのに。義理や優しさなんて、温もりのある気持ちが一切発生していない関係だったはずだったのに。

 それなのに……僕は急に相手の気持ちを持ち出されて、素直に困っていた。

 

「それとも……何? いいバディになれるって思ってたのは……私だけだったの?」

「だからそれは……受験期の間だけの話だって……そういうことだったんだろう?」

「……ひどい」

 

 分からない……本当に分からない。

 ただ一つだけ分かることは……僕が七海を、言葉で深く傷つけてしまっていること。

 それは、今まで友人を作ってこなかった僕へのツケのようだった。

 喋る度に泥沼に嵌っていきそうな感覚。

 

「そもそもさ……バディとか友達とか何だか知らないけど、それならそれこそ……たま? って人とか、葵とかが相応しいよ。自分を卑下する趣味はないけど……でも、君の周りの人が持っているモノより、僕が手に持っているモノの方がよっぽど少ないと思う」

 

 僕のことは僕が一番よく分かっているから。

 小さな自尊心と、繊細な正義感と、あと、勉強で培った知識だけ。

 それが僕の殆どで、且つ殆どの人が持ちうる凡庸な性質で。

 明るくて、気が遣えて、中途半端が嫌いで、可愛げがあって、誰とでも仲良く接することができて、そこそこ頭がよくて、運動ができて、元気溌剌としてて、一途に一人を想い続けることができて――数え出したらキリがない七海の性質は、殆どが僕にないモノで。

 憧れずにはいられない。

 そんな羨望の気持ちがある限り――僕と七海はいつまでも、対等になれない。

 

「そ……そんなことないって」

 

 ほら――またそうやって。

 情けない僕を気遣って、励まそうとしてくるじゃないか。

 自分の怒りさえ差し置いて。

 

「そんなこと、あるんだよ!」

 

 それが、頗る僕の癪に障った。

 自身の気持ちを犠牲にして、柄にもなく卑屈な言葉を吐いた僕を宥めようとしてきた七海に、イライラした。

 いや……イライラしたのは、同級生に慰められている、情けない自分自身か。

 分からない。頭が回る。クラクラして、思わずベッドの上に手をついた。

 

「あのな、七海。お前は、」

 



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