モスラ 創世 (場理瑠都)
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少女
少女


悔い改めなさい、人よ。

 自分たちが犯してきた、数えきれないほど多くの罪たちを、思い出しなさい。

 あの方は、悔いておられる。

 お前たちを見て、悔いておられる。

「産まなければよかった」と。

 償いなさい、人よ。

 あの方を失望させた罪を。

 その命を我らの剣で刈り取られることで、その命をあの方にお返しすることで、償いなさい。

 我らは、あの方の代行者。

 あの方より最も深き愛を恵まれた「幼子(インファント)」たち。

 この星に生きるすべてのものの偉大なる母であるあの方の御名の下に、我らはお前たちに罰を与える。

 我らの偉大なる母、「モスラ」の御名の下に。

 

 

 その言葉が世界中で流れた時、すべてが始まった。

 いや、「終わった」というのが、より適切な表現だろうか?

 

物凄く久しぶりに玄関の扉を開けたら、ぶわっ、と吹き込んできた風の勢いに押されて、私は一瞬目を閉じた。

 目を開けた私の目に飛び込んできたのは、不気味なくらいに青く澄んだ空と、その下に広がる、廃墟と化した街の光景だった。

 コンビニや病院や市役所や不動産会社や喫茶店の、砕けてしまったガラスが散らばって空の青を反射している道路。

 かろうじて元が車だったのだろうなとわかるレベルで「ぺしゃんこ」につぶれてしまって、道路の上や建物の上に激突した状態でさらされている車たち。

 風に吹き飛ばされてバラバラにちぎれて、もはや誰も来ることのないセールの存在をかろうじて主張しているような広告ポスターの切れ端たち。

 かつて「東京」と呼ばれた町の残骸が、そこにはあった。

 私は、そんな街の地面に、足を踏み下ろした。

 ぺたん。

 もう、とても長い間、私の足は地面を踏んでいなかったのに、踏み下ろした私の靴の裏を、地面は半ば忘れかけていた懐かしい感触で迎えてくれた。

 玄関を出たところで、私は振り返った。

 私が生まれてからずっと過ごしてきた家は、前に見た時と全く変わらない姿で、そこに立っていた。

 他の建物は、みんな大なり小なり、壊れてしまっているのに。

 きっと、モスラがこの家を守ってくれたのだと思う。

 母に抱かれて病院からやってきたこの家を。

 父に挨拶をして学校へ向けて出て行ったこの家を。

 モスラは、守ってくれたのだ。

 私は、踵をまた返して、歩き始めた。

 ガラスを靴が踏む「ざりざり」って音と。

「おうおう」と音を鳴らして吹く風に包み込まれながら、私は歩み始めた。

 行き先はわかっている。

 ここから遠いということもわかっている。

 だから、昔のことを、歩きながら思い出していた。

 世界が滅ぶ前に、私が見てきた出来事を。 

 

 私の母は、私を生んでから一年後に亡くなった。

 事故死だった。

 飲酒運転をしていた車にひかれて亡くなったのだ。

 小さなころの私にとって、だから母親とは、物語の中でしか知らないような存在だった。王子様やお姫様や、魔女や怪獣と同じ、概念として知ってはいても、身近な存在として実感できる存在ではなかった。

 たいていの女の子が最初に出会う自分以外の女性を、私は物心がつくころにはすでに失っていたわけだ。

 その上、私は一人っ子だった。

 だから、私の人生において、他者として意識した初めての女性は、きっと上羽(あげは)だったのだと思う。

 南野(みなみの)上羽。幼稚園で出会った彼女もまた、私と同じ母親のいない女の子だった。

 そして、上羽は、いつも一人ぼっちでいる女の子だった。

 誰とも遊ばず、いつも一人でいる女の子だった。

 そんなところも、私と同じだった。

 上羽と出会った時の光景を、私は今でも鮮明に思い出すことができる。まるで昨日起きた出来事だと言われても信じてしまいそうで、不思議なことだと思う。

 その時、私はいじめられていた。

 同じ幼稚園に通っていた男の子たちに、体を押さえつけられ、泥団子を投げつけて遊ぶ標的とされていた。

 それは私にとって、特別に珍しいことではなく、日常的に受けていた加害行為の一つに過ぎなかった。

  私は、弱かったから。今でも強くはないけれど、当時はもっと弱かったから、男の子たちにとっては、反撃を受ける心配のないままに安心して虐げることができる好都合な玩具であったのだ。

 だからその時も、私は泥団子を投げつけられていた。

 私は「やめてよ」とも「いやだ」とも声を上げることもなく、ただ、自分の体に泥団子が当たる気持ち悪い感触を、味わっていた。来ている服がどんどん汚れていくから、お父さんに叱られちゃうなあ、なんてことしか、感じることができなかった。

 私は、二人の男の子に、両側から体を押さえられていた。

 一人の男の子が、私に泥団子を投げていた。

 頭に当たったら60点、胴体に当たったら50点、足に当たったら30点。そんなルールに従って、彼らは私を押さえつける係と、泥団子を当てる係を交代しながら、競っていた。

 そんな時、私は上羽と出会ったのだ。

 彼女は、私に泥団子を投げた男の子の後ろに「ぬっ」と、前触れもなく唐突に近寄って、彼の後頭部を両の拳で勢いよく殴打したのだ。

 男の子は、急な衝撃にびっくりして、泣き出した。

 上羽は泣き続ける彼の頭を、間断なく連続して「ぼかすか、ぼかすか」と一瞬のためらいなく殴り続けた。

 私を押さえていた二人の男の子が、手を離した。

 急に攻撃を受けて泣き出した友達を、助けに向かうために。

 彼らは、上羽に殴りかかった。

 ぼかっ。

 上羽の両頬に、二人の男の子のパンチが激突する音を、私は聞いた。

 でも、彼女は泣かなかった。

 一瞬ひるんでも、すぐに彼らへの反撃を開始した。

二人対一人。

 そんな不利な状況下で、上羽は戦った。

 大して時間もたたないうちに、幼稚園の先生が駆けつけて来た。

 泣き声を聞いたからだ。

 

 それが、私と彼女との出会いだった。

 

 後で、私は彼女に聞いたことがある

「どうしてわたしを助けたの?」と。

 不思議だった。その後ずっと一緒に彼女は、私以外には誰に対しても、そんなことはしなかったからだ。

「べつに」

 彼女はそう答えると、少しだけ黙って、ぽつりと独り言をつぶやくみたいに言った。

「おまえ、きれいだったから」

 彼女はいつも、私のことをお前と呼んでいた。彼女自身のことは、俺と呼んでいた。

 私は、その言葉を聞いても、納得できなかった。わたしがきれい? そんなこと、信じられなかった。むしろ私は、上羽の方がずっとずっと、私を含めた誰よりもきれいだったと思っていたし、今でも変わらない。でも私はそれ以上、彼女に対して質問を重ねたりはしなかった。

何故かといえば。

 彼女にきれいだと言われたとき、不思議なことに、とても嬉しくなって、それ以上は何もかもどうでもよくなってしまったからだ。

 

 閑話休題。

 私と上羽は、初めて出会ってからいつも、二人きりで遊ぶようになった。

 上羽は、はっきり言って、周りの子どもたちから、恐れられていたと思う。

 別に彼女は、他人に暴力自分から振るうような子ではなかったのに。

 自分にちょっかいを出してきた相手に対する反撃の苛烈さと、常に他者を見るときに彼女の瞳に垣間見える、世界をすべて焼き尽くしてしまいそうな錯覚を感じさせる激しさによって、彼女は恐れられていたのだ。

 彼女の他者に対する態度には一切の差別がなく平等だった。

 唯一の例外は、私だ。

 彼女は私に対してだけは、花のような笑顔をよく見せてくれた。私に対してだけは、優しい目つきを見せてくれた。

 幼稚園を出て、小学校、中学校と私たちは一緒に過ごしていったけれど、それはずっとかわらなかった。

 そして私も、彼女に対してだけは、心からの笑顔を見せることができた。

 私は弱いから、弱さに伴うこととして、当然のように卑怯だった。他人に嫌われることが怖くてたまらなくて、何度も何度も愛想笑い作り笑いを見せてきた。

 でも上羽の前でだけは、私は安心できた。

 安心して、泣きたいときには泣いて、笑いたいときには笑うことができた。

 私が彼女の前で、自分の感情を偽ったのは、そう。

 中学二年の夏の、あの雨の日の時だけだったと思う。

 その頃、私は一人の男の子に恋をしていた。

 彼は、私の先輩だった。

 その時の私は、彼のことが本当の本当に好きで、それが「恋に恋する」感情なのかなんて疑うこともないほどに、毎日毎時間毎秒、彼を想って生活していた。

 ある日、私は彼に、彼の自宅に誘われた。

 よく晴れた日の午後だったけれど、私が彼の家を出た時には、雨が土砂降りだった。

 私は、雨の降る道を、傘もささずに歩いて行った。

 夕方に雨が降るって天気予報で聞いていたから、ちゃんと傘だって持って行ったのに。

 傘を忘れて、雨の中を、私は体を濡らしながら歩いて行った。

「おい! 詩(し)穂(ほ)!」

 私の名前を、呼ぶ声がした。

 声のした方を振り向くと、上羽がいた。

 傘をさして、私へ向かって走ってきた。

「何やっているんだよ、詩穂! 傘もささずに」

 走ってきた彼女は、私の上に傘を掲げた。

 彼女自身が濡れるのも構わずに。

 その時の私は、彼女に会いたくなかった。

 今すぐ彼女から、離れたかった。

「ううん、なんでもないの」

 私は微笑んだ。

 偽りの笑いだった。

 彼女の前で見せた、最初で最後の作り笑い。

「なんでもないの、傘もいいの。家、近いから、またね」

 そういって私は、彼女の持つ傘の下から、逃れようとした

「待てよ、詩穂!」

 上羽は、私の腕をつかんだ。

 その時だった。

 それまでの人生で、一度も経験してこなかった感覚を、私は味わった。

 突然、何の前触れもなく始まるフラッシュバック。

 さっき、先輩の家で経験した出来事が、私の意思を無視して私の脳内に無理やり再生される。

 ベッドに押し倒されたときに見た天井の色とか。

 スカートを脱がされる感触とか。

 私を写真にとる時にスマートフォンが出した音とか。

「これをばらまかれたくなかったらさあ、これからも仲良くしてくれよ。天羽(あもう)」

 そういって、ニタニタと笑う先輩の口元とか。

 やめて、と心中で叫んでも、否応もなく、私の脳裏にそれらの感覚が呼び覚まされる。

 心の中から迫ってくるから、目を瞑り、耳をふさぐことで逃れることもできなかった。

 それは、すぐに終わった。

 経験しているときは、延々と長く感じられたのに。

 終わってみれば、それが一瞬の出来事だったことが分かった。

 我に返った私の前には、上羽が立っていた。

 私を、茫然とした表情で、見つめている。

 彼女の表情を見ただけで、私は理解した

 ああ、知られてしまったんだ、と。

 何の根拠もなく、私は、さっき私が感じたことを、見た光景を、上羽もまた体験したのだと、知ってしまった。

「詩穂、お前・・・・・・」

 何かを言おうとする彼女を、振り切るように。

 私は、雨の中を、駆け出した。

 全速力で。

 私は、上羽にだけは、私が汚された姿を、見せたくなかったから。

 もう、一瞬だって、彼女のそばにいることが、耐えられなかった。

 何度も何度も転んで、泥だらけになりながら、一度も後ろを振り返らず、私は家まで走ってきた。

 玄関のドアを開けて、靴を脱いで部屋に直行して、ベッドに倒れこんだ。

 それから三日間、私は家から一歩も出なかった。

 

三日目の夜に、上羽が先輩を殺したという話を聞いた。

 

 

 

 上羽は、あの雨の日から三日後、学校で先輩をカッターで刺したのだ。

 彼女はその場で取り押さえられた。

 先輩は死んだ。

 私の初めて恋をした相手だった先輩が、死んだ。

 彼女は殺人罪で逮捕された。

 動機を聞かれても、彼女は決して答えなかった。

 何一つ、答えなかった。

 それを聞いて、私は泣いた。

 

 彼女は、遠くへとさった。

 あの雨の日を境に、私たちは、離れ離れになってしまったというわけだ。

 

 これが、第一の物語。

 世界が滅んだお話の、第一話というわけだ。

 

 

 



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信仰
モスラ


 はるかな昔、この星は命なき星だった。

 ただ、水と、わずかな陸地だけにおおわれた星が、そこにはあった。

 ある時、宇宙のはるか深淵より「モスラ」が飛来した。

 巨大な羽を持つ、光り輝くわれらの偉大なる母、モスラ。

 モスラは、この星で「命」を生み出した。

 小さきものも、大きなものも。

 動くものも、動かぬものも。

 泳ぐものも、飛ぶものも。

 知性あるものも、知性なきものも。

 この星にあるすべての命は、モスラによって生み出された原初の命を祖としている。

 モスラは、この星に命が満ちてゆくのを見届けると、より高次元へと「アテンション」し、星から姿を消した。

 しかし今でも、モスラはこの星に存在するすべての命を、高次元より見守り続けている。御身の似姿である、人が蛾や蝶と呼ぶ、しもべたちの目を通じて

なぜなら、モスラは、母だからだ。

 この星に生きるすべての命の、母だからだ。

 わが子を愛さない母はいない。

 モスラは、この星に生きるすべての命を愛している。

 しかし、そのモスラの愛を、踏みにじり続ける生物が、この星にはいる。

 人だ。

 人は、モスラに対して、罪を犯し続けている。

 モスラが愛している、この星に生きる命を奪うという罪を。

 強欲に基づいて行われる環境破壊

 正義の美名の下で行われる、戦争という名の残虐なる人同士の殺戮。

 この星で、人ほど命を奪い続ける生物はいない。

 モスラは、嘆いている

 お前たち、人を見ることによって。

「産まなければよかった」と。

 人よ。

 悔い改めなさい。

 自分たちが犯してきた数えきれない罪を直視するのです。

 他者を害するために作り上げた、すべての武器を捨てなさい。

 他者からの略奪によって手に入れた、すべての繁栄を捨てなさい。

 他者へのすべての憎しみを、他者の財産に対するすべての強欲を、捨てなさい。

 そして、愛するのです。

 この星に存在するすべての命を、愛するのです。

 偉大なる母、モスラがそうしているように。

 そうすれば必ずや、モスラはあなたたちをより一層愛するようになるでしょう。

 愛を示す者には、愛が与えられる。

 だが、愛を示さないものに対して、モスラが愛を注ぐ時間は、遠からず終焉を迎えるであろう。

 審判の日は、近い。

 モスラは再び、この星へと降臨する。

 傲岸不遜にして罪深きお前たち人を罰するために。

 全てのものが、本来あるべきであった姿へと戻る日がやってくる。

 母の胎内へと戻るのだ。

 あの安らかな時間へと戻るのだ。

 そして、その後、モスラから愛を与えられる資格を持つものたちだけが、新たなる生誕の時を与えられるのだ。

 悔い改めなさい、人よ。

 愛しなさい、人よ。

 モスラの愛を、得るために。

 

そこまで読んで、私は本のページを閉じた。

 別に理由はない。

 もっと言うと、この本を駅でもらったこと自体、理由はないのだ。ただ、わけのわからない気まぐれのような好奇心に従って、「インファント」の人たちが無料で配布していた本を受け取っただけだ。私に本を上げた時に彼が「ありがとうございます!」という言葉とともに見せた満面の笑顔に感じた一ミクロンの罪悪感。

 いや、本当に。

 なぜ、あんなことをしたのだろう?

 

 閉じた本を置いた机から離れて、私はベッドの上に横になった。

 仰向けになって、空っぽの頭で天井を見上げる。

 天井と、それから本棚。

 私の部屋に、天井と、本棚と、それと机ぐらいしかないといっても過言ではない。

 本の数が多いのだ。

 哲学の本が多い。

 高校に入ってから、急速に興味が湧いていった本たちだ。

 漫画とか、小説とかは、ほとんどない。

 高校に入ってから、急速に興味を失っていった本たちだ。

 私の高校での生活は、中学の時と比べて特段の変化はない。

 今でも、私は孤独だ。

 昔と同じ、いや、昔よりも孤独だと思う。上羽が、遠くに行ってしまったから。

 まあ、表面上は、多少は昔に比べて社交的になったという自覚はある。

 休み時間には、ほかの女子たちや男子たちと、あはははって笑ったりもする。登校したらおはようって元気に言って、下校するときにはさようならってちょっと寂しい漢字を見せながら言って、休みの日には数人と遊んだりだってする。カラオケとかにも行く。

 でも、そんな日常は、ただの仮面だ。

 擬態だ。

 弱い虫が、葉っぱに擬態して身を守るように、私は「平凡な女子高生」という、ありふれているように見える景色に擬態しているんだ。

 だって、私は今、心の底から笑えていない。

 上羽という、たった一人の友達が、そばにいた時のようには、笑えないのだ。

 そんな孤独を紛らわすために、暇さえあれば本を求め・・・・・・新興宗教のパンフレットなんてものにも、気まぐれに手を伸ばしてしまっているのであろう。

 ベッドのわきにあるスマホに、手を伸ばした。

 すでに電源が入りっぱなしだったその画面から、ネットにアクセス。

 何の因果か、ちょうど目に入ったのは「インファント」のニュースだった。

【『モスラ教』若者に信者急増、彼らが惹かれるわけ】

 というタイトルの記事だった。

 一枚の写真と文章で、その記事は構成されていた。

 写真には、壁に描かれた蛾や蝶のように見えるシルエットに向かって、沢山の男女混じった人たちが頭を下げている姿が、写っていた。

 キャプションには「インファント施設内での礼拝写真」と書かれていた。

[近年、先進国を中心に信者を増やし続ける宗教団体「インファント」通称、「モスラ教」]

[10年前、アメリカ在住の女性、ベルベラ・ガル氏によって創始]

[全生命の母とされる、蛾の姿をした女神、モスラを信仰]

[「モスラの教えに出会って、私は変わった」東京在住の会社員女性は語る]

 記事に踊るいろんな文面を流し読みしながら、私の目は、教祖であるベルベラという女性のインタビューに止まった。

「太古、世界を創造した神は、女性であると信じられていました。しかし、男性中心社会の成立と同時に、神は男の姿をしており、女は劣った生物として創造されたという認識が広まっていった。それは平和や愛といった女性的な美徳への軽視へと繋がり、戦争に代表されるような暴力の温床となりました。私は、モスラから啓示を受けたのです。真の信仰を再び広め、人類を平安へと導くのだと」

 その時、ドアがノックされる音がした。

「入っていいか? 詩穂」

 父の声が、ドアの向こうから聞こえた。

 不快だった。

 文章を読んでいるときに、邪魔されたから。そして。

 声の調子から、父が私にとって愉快な話をしに来たわけではないと、わかってしまったから。

 でも、返事をした。

「入っていいよ。お父さん」

 ドアのノブを回す音がして、部屋に入る足音が聞こえた。

 ベッドの上で体を起こすと、目の前に父が立っていた。

 重い表情だった。

「手紙が、届いたんだ」

 そういって、父は封筒を見せてきた。

 上羽からの、手紙だった。

 私は、ベッドから降りて父に駆け寄って、その手紙を乱暴に奪い取った。

「詩穂。もう、南野さんと連絡を取るのは、やめた方がいい」

 私は、ため息をついた。

 もう、ずっと、私たちはその話題で言い争っている。

「なんで? 私と上羽が手紙のやり取りをすることで、お父さんに何か迷惑をかけた?」

「私は心配なだけだ。もうあの子は、詩穂とは住む世界が違うんだ。他人に関係を知られたら、詩穂だって変な目でみられるぞ」

「そんなこと、どうだっていいでしょ」

 私が意地を張るのは、上羽の話題だけだ。

「よくない。人殺しと知り合いだなんてことが知れたら、きっと就職にだって悪影響があるぞ」

「たった一回人を殺しただけで、そんないい方しないでよ! お父さんに、上羽の何がわかるっていうのよ!」

 叫びとともに、私は手紙を持って、部屋から駆け出した。

「待つんだ! 詩穂!」

 父の声を後にして、私は階段を駆け下りて、靴を履いて、玄関を勢い良く開けて、外へと走り出した。

 ずいぶんと、走った。

 家から離れたところで、私は体を休めて、手紙を読んだ。

 内容は、いつもの通りだった。

 私の体調を気遣って、自分自身は元気だというだけ。

 それだけの手紙でも、私は読んでいて、嬉しかった。

 この世界に、彼女が存在しているということ、私と今でも繋がっているんだってことを、確認できたから。

 周りを見渡すと、人が多かった。

 私は気分を落ち着かせながら、そんな人たちの間を歩いた。

 何気なく目に入った電器店のショーウィンドーに置かれたテレビで、ニュースをやっていた。

「連続児童殺人事件で逮捕された容疑者が、『自分はモスラへの捧げものとして、あの子たちを殺した』と供述していることが、判明しました」

 モスラ。

 また、その名前を聞いた。

 

 

 



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供物

 空の半分を占めるほどの大きさの月が、青く輝いていた。

 月の下には、鬱蒼と茂る森と、燃え盛る炎。

 炎の前には、何十人もの人がいる。

 みんな、半裸だった。

 下半身に腰巻だけをつけた姿だ。

 大きく分けて、人は二種類に分かれていた。

 立っている人たちと、座っている人たち。

 立っている人たちは、多くが大きな包丁のように見えるものを持っていて。

 座っている人たちは、みんな目隠しをされていた。

 木で作られた台があった。

 台の上には、豊かな乳房と長い髪の女性が立っていた。

 彼女は、顔に仮面をつけていた。

 巨大な複眼が特徴的な、虫の顔のような仮面。

「モスラに供物を!」

 彼女の叫びが、月夜に響く。

 続いて響く、沢山の人たちの、おたけび。

 振り下ろされる刃たち。

 大地に落ちていく、目隠しをされた人たちの、首。

 鮮血。

 転がる首に、赤い血が、かかっていく。

 そして、それと同時に、地震が起きた。

 揺れる世界。

 月を背にして、何かが現れた。

 龍のような、或いは蛇のような、或いは芋虫のような姿をした、巨大な黒い姿。

 泥と見分けがつかない肌と、丸みを帯びた形と、巨大な目と、牙を持つ、あの姿は。

「モスラよ!」

 女性の声が、また聞こえた。

 彼女は、その巨大な生物に向かって跪いていた。

「我らの供物を、どうかお受け取りあれ!」

 その叫びに、生物は咆哮によって答えた。

 その音とともに、その夢は終わり、私は目を覚ました。

 全ては消え、私の目の前には、部屋の天井があるばかりであった。

 

 おかしな夢から目を覚ました後で、部屋を出た。

 キッチンでは、もう父が朝ご飯を並べてテーブルに座っていた。お米と目玉焼きとウインナーがお皿に載っていた。

「おはよう」

「おはよう」

 挨拶を交わして、私はテーブルに着いた。

 テレビから流れる声を聴きながら、私たちは食べ始めた。

「昨日、アメリカ合衆国カリフォルニア州において、インファントの施設の一斉捜索が行われ、30人を超す遺体が発見された事件について、ネルソン米大統領は『彼らはもはや、文明の敵である』とのコメントを、twitterで述べました」

 また、インファントのニュースだった。

 ここ数日、彼らの名前を、テレビで聞かない日はない。

 連続児童殺人事件の犯人が、殺害した子どもたちを、「モスラへの供物」と呼んだと報道されて以来、ずっと。

 あれからすぐ、現地のインファントの支部が捜査され、犯行の指示を彼らが出していた事実が発覚した。

 世界中のあちらこちらで、インファントへの捜査が始まった。

 そして、多くの施設で、死体が見つかり始めた。

 殺害された死体が。

 「モスラへの供物」と、逮捕されたインファントのメンバーたちが呼ぶ死体たちが。

 インファントは、反社会的勢力として、認識されるようになった。

 大量殺人指示の容疑で逮捕命令が出されているベルベラ・ガルは、現在行方不明。

 数日前まで駅前でいつも見かけていたインファントの本を配っている人たちの姿も、もう見なくなっていた。

「今日な」

 父が、コーヒーを一口飲んでから、口を開いた。

「遅くなる。夕飯は冷蔵庫に保存しておいたのがあるから、それを食べて先に寝てくれ。戸締りをきちんとするんだぞ。父さんは、ちゃんと鍵を持っているからな」

「うん、わかった」

 父に返事をして、私は食事を終えた。

 

 世界で大変なことが起こっていても、私の日常に変化はない。

 昨日もそうしていたように、今日も私は自転車をこいで登校した。

 ただ一か所、昨日の朝と違ったことが、今朝は起きた。

 下駄箱に、手紙が入っていたのだ。

「放課後、校舎の裏にいらしてください」と、丁寧な字で書かれた手紙が、上履きの上に置かれていた。

 

「天羽先輩、好きです! 付き合ってください!」

 放課後。

 手紙に書かれていた通りに校舎の裏に一人でやってきた私を待っていたのは、そういって頭を下げる後輩の男の子の姿だった。

 名前は、熊山君というそうだ。眼鏡をかけた、優しそうな顔立ちの子だった。

 私は、ちょっといいづからかったけれど、返事をした。

 正直な気持ちで。

「ありがとう。でも、ごめんね。私は、君とは付き合えないかな。」

 彼は泣きそうな顔になった。

「やっぱり・・・・・・彼氏が、いるんですね。天羽先輩には」

「彼氏……じゃないけれど、好きな人がいることは、確かかな・・・・・・」

 男の人じゃないけどね、と、心中で付け加える。

「気持ちは嬉しかったよ。ごめんね」

 そう言い残して、私は彼に背を向けた。

 そのまま、この場を歩み去ろうとするとき。

 後ろから、首筋に何かを当てられる感覚がしたかと思うと。

 私の世界は、暗転した。

 

 



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 闇に、意識が包まれていた。

 温かい闇に。

 だけどその心地よい感触は、覚醒という不快な現象の侵入によって、徐々に消されていった。

 私は、目を覚ました。

 天井が見えた。

 私の部屋の天井とは、違っていた。

 私は、今までの人生の中で、一度もいたことのない部屋のベッドに、横たわっていた。

 外国の童話の中にでも出てきそうな、優雅なベッドが、絨毯の上に載っているような部屋にいた。

 柔らかい毛布にくるまれていた私自身の服装はといえば、学校にいた時と変わらない制服で、この部屋にあるオーラとは完全な不調和を示していた。

 ベッドから降りた私は、そばに綺麗に並んでおかれていたスリッパをはいた。

絨毯の上を起きたばかりのよろよろとした足取りで歩み、ドアの前まで来た。

 ドアノブをひねった。

 だけどドアは、開かなかった。

 大した期待は、元からしてはいなかったのだけれど。

 ベッドに戻った私は、その上に腰を下ろすと、この混乱した状況に思いを巡らせた。

 まず間違いなく、私は誘拐された。

 放課後、私に告白をしてきた熊山君に。

 あの後頭部に感じた衝撃は、きっとスタンガンとかの、人を気絶させる道具だろう。体に感じる妙なだるさからして、何か薬品の注射とかもされたのかもしれない。

 なんのために?

 犯すため、では、ないような気がした。

 こんな用意が難しそうな部屋に連れ込む必要なんて、ない気がしたから。

 その時、鍵を開ける音がした。

 さっきまで私がその前に立っていた、ドアの向こうから。

 内側に向かってドアが開かれ、人が一人、部屋の中へと入ってきた。

「お目覚めの気分は、いかがかしら? 天羽詩穂さん」

 その人物の顔を見て、私は、心臓が止まりそうなショックを感じた。

「手荒な真似をしてごめんなさいね。許して頂戴」

 その人物……女性は、ベッドまで歩いてくると、私の隣に座った。

「驚いたかしら? 私の顔、今散々テレビで流れているから」

 ベルベラ・ガル。

 大量殺人を指示した容疑で世界から追われている、モスラ教の教祖が、私の目の前にいた。

 吐息さえ感じるような、近くに。

「でも、怖がる必要はないのよ」

 ベルベラ・ガルは微笑んだ。

 優しい微笑だった。

 私自身は経験したことがないけれど、母親がわが子に向けて見せるような、微笑。

「殺すの? 私を」

 私の口が、声を発した。

 妙に、落ち着いていた。

 私は、殺人犯を前にして恐怖を感じることでさえ、上手にできないらしい。

 ベルベラは、首を振った。

「そんなこと、しないわ。だって、あなたは供物ではないし、供物にすべきではない。供物になるべきではない。あなたは、巫女なんですもの」

 巫女。

 私が?

 悪い冗談としか、思えなかった。

 こんな、他人より劣った部分ばかりの女の子が、そんな存在であるはずがない。

「……人違いよ」

「自分の経験したことが、言葉すら使わずに、他人に伝わってしまった経験を、したことがないかしら?」

 衝撃を、覚えた。

「・・・・・・・え?・・・・・・」

 あの中学時代の雨の日。

 先輩にされたこと。

 私の手に触れた上羽の手。

 あの時起こったフラッシュバック。

 上羽が見せた、あの表情。

 私と、上羽との、私たち二人だけの、二人が一緒にいた最後の思い出。

「どうして」

 知っているの、と、意志に関係なく、言葉が出そうになった。

「思い当たることが、あるようね」

 私が言い終わるより前に、ベルベラが口を開いた。

「それに、変な夢を見たことも、あるのではないかしら? 夜の森、虫の仮面、首を切られた人たちに、巨大な芋虫が出てくる夢を」

 頷くことしか、できなかった。

「それこそ、あなたが巫女である証。私と同じ、モスラによってえらばれた女である証なのよ」

 この女性と、同じ。

 人殺しと、私が同じ?

「私は、何? あなたは、何なの? ベルベラ」 

 初めて、その名前を口にした。

「ついてきて頂戴」

 そういって、ベルベラは立ち上がった。

「この世界と、あなたについての真実を、一から教えてあげるわ」

 そういって、ドアを開いて部屋の外に出ていくベルベラを、私は夢遊病者のような足取りでついていった。

 

 

 

 



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 虹色が、視界を占領していた。

 太陽の光の欠如した、地下の広い空間に、その虹色の球体は圧倒的に存在していた。

 球体、といっても綺麗な球ではない。縦より横の幅が大きい、大きいというよりかは広いという言葉がより似合いそうな球体だった。

 縦だけでも、三階建ての建物が容易に入り、横だけでも、学校の教室がいくつか入ってしまいそうな、こんな大きさの球体を、私はこれまでの人生の中で、一度も見たことがなかった。

「これは、何?」

 誰にともなく、私は問いを口にした。

「卵よ」

 私の隣で、ベルベラが、答えた。

「これは、モスラの卵なの。この綺麗な卵から、母なるモスラは生れ出るのよ」

「モスラ?」

 私は、彼女へと向いた。

「モスラは、卵から生まれるの?」

 あの部屋から出た後、私はベルベラに連れられて、この巨大な地下室へとやってきた。

 そこで真っ先に目にしたのが、この巨大な虹色の球体だった。

 これが「卵」だなんて信じられなかったし、モスラがこの中から出てくるなんて、もっと信じられなかった。

「そうよ」

 ベルベラは、頷いた。

「嘘。モスラなんて、あなたがみんなをだますためについた嘘でしょう。モスラなんて蛾の神様は、現実にはいない。神様なんて、現実にはいない」

「いいえ、違うわ」

 ベルベラは、首を振った。

「モスラは、実在する。私は、モスラから本当に啓示を授かったのよ」

「神様が、卵から生まれるの?」

「もちろん、これは普通の意味で言うところの卵ではないわ。高次元に存在するモスラが、地球の属する次元に降臨するにあたって、この卵というゲートを必要とするというだけの話」

 ベルベラは、それから、まるで詩を朗読するかのように、言葉を重ねた。

「『母なるモスラは、虹色の卵を内より砕き割り、その黒く長き姿を現す。モスラは天に届く塔を打ち倒し、その御身を白き衣にて包み、しばし眠りにつく。眠りから覚めた時、母なるモスラは、大いなる翼と足を兼ね備え、極彩色に彩られた真の姿を、天空に見せるであろう。』これは、私たちの聖典の一節よ。もはや誰もその存在を知らない、古の本に記された予言の詩」

 古の、という言葉が、妙だった。

「モスラ教は、あなたがはじめたのではなかったの?」

「もちろん、そうよ。ただ私が啓示を授かるよりもはるか前に、同じようにモスラの声を聞いた人が、何人もいたってこと。この一節が記された書物は、そんな人が書き残したもの。モスラの教えは、古の時代に、既に地球に伝わっていたのよ。だけどそれは、歴史の流れの中で忘れ去られていった。その理由が何か、あなたはわかるかしら?」

 私は、無言で首を振った。

「男よ」

 ベルベラは言った。

「野蛮な男たちが、モスラの教えを抹殺した。魔女狩りという言葉を、聞いたことがあるかしら?」

「歴史の授業で、習った。中世のヨーロッパで、沢山の人たちが、魔女だってされて殺された。教会の命令で。火やぶりにされたりして」

「本当はね、モスラの教えを受け継いでいた女たちが、殺されたのよ。キリスト教という、造物主は男だと信じている宗教にとって、唯一の神は女だとする信仰は、邪魔だった」

 まったく聞いたことがない歴史を、ベルベラは断定的に語った。

「同じような出来事が、地球のほかの地域でも、沢山起きた。人類の歴史は、男尊女卑社会が成立していく歴史であったことは、わかっているでしょ? 男たちはモスラを信じる者たちを虐殺し、真の神に対する信仰の芽を刈り取っていった。モスラが私たち人類にもたらしてくれた愛と平和の教えもかき消され、あるいはその本質をゆがめられ、人類の歴史は、惨憺たる破壊と殺戮の際限のない繰り返しとなっていった。

 でも、それはもうすぐ終わる。

 モスラが、私を選んでくれたから。

 モスラ自身が、この星にその姿を現すから

 私と、そしてあなたが、モスラの使徒として、新世界への門を開くのよ」

「・・・・・・どういう、こと?」

「あなたもまた、啓示を受けた女だからよ。これまでも、モスラは人の中から使徒を選ぶとき、必ず二人の女を選んできたの

 一人でもなく、三人でもない。必ず二人。

 それはね、この世のすべてが、二つの存在の対立によって成り立っているからよ。

 光と闇。

 太陽と月。

 男と女。

 正義と悪。

『易に太極あり。太極より両儀が生ず。両儀は四象となり、八卦へと至る。』

 これはね、この世の真理を語った中国の書物の一節よ。

 両儀とは、二つ。この宇宙は、太極が二つに分裂した時から始まった。

 即ち、二つとは、全て。

 だからこそ、モスラの使徒もまた、二人いなければならない。

 でもそれは、必ず女でなければならない。なぜなら、二人いながら真に一つでいられるのは、女にしかできないことだからよ。女だけが、異なる存在でありながら、わかりあうことが出来る。

 私たち二人こそが、この地球上で唯一、モスラの巫女であることが出来るのよ」

 ベルベラの言っていることは、よくわからなかった。

 ただ一つ分かったことは、ああ、自分は普通ではなかったのだな、ということだけだ。

 この女の人が言っていることが、仮に嘘だったとしても。

 そんな嘘でだまされる相手として選ばれたというだけで、私は普通ではないのだ。

「でも、何故。女なら何人もいるのに、何故、私が」

「きっと、あなたが清らかだからよ。巫女は清浄な存在だと決まっているわ」

 笑い出したくなった。

 でも、どうでもいいことだから、笑わなかった。

「あなたが何故巫女として選ばれたのかは、私にはわからないわ。私はただ、モスラに導かれただけだから」

「・・・・・・それで。あなたの言うことが、仮に本当のことだとして」

 私は、生まれて初めて、自分の存在の意味を問うた。

「私は、何をすれば、良いの?」

 

 

 



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神意

「『声』を,聞くのよ」

 私の問いに、ベルベラは答えた

「声?」

「そう。モスラの声を聞くのよ。そしてそれを、民に対して伝える。その伝えられた声が、民にとっての道しるべとなるわ」

 ベルベラは、歩き出した。卵に向かって、腕を広げながら。

「モスラによって新世界がきても・・・・・・、そこで、人は生き続ける。人が生きる限り、そこには統治が、政治が必要となるわ。そのための言葉を届けるのが、私たち二人の役割」

「王様になるの? 私たちは」

「半分は間違っているけれど、半分は正しいわね。私たちは、自分の判断で政治を行うわけではない。あくまでも、モスラの声を代弁するだけよ。だけどそれは、王という役割の元来の姿でもある。王とは本来、神の意志を代弁するものに過ぎなかった。神の言葉を聞けない民衆に対して、自分だけが聞くことが出来る神の言葉に基づき、統治を行う存在、それが王よ。なのに、傲慢な男たちが、」

「私だって、モスラの声なんか聞こえない」

 思わず、遮るように、私は言った。

「これまで生きてきて、モスラが何か言ってくれたことなんかない。神様の言葉なんて、私は一度だって聞いたことがない」

「いいえ、言葉はずっと届いているはずよ。あなたはまだ、それを理解することが出来ていないだけ。私もそうだった」

 ベルベラは、卵を背にして、私に振り返った。

「子どものころから、私にはずっと違和感があった。自分がほかの人間とは違うのではないかという違和感が。普通の人間が歓喜するような幸福が、私には小さな虫ほどの価値さえ感じることが出来ないものだった。大人になって、その理由がようやく理解できた。私はずっと、モスラの啓示を受け取っていたのだということが、理解できたのよ。あなたにだって、きっと、理解できるわ」

「・・・・・・どうやって?」

 ベルベラは、ただ、微笑んだだけだった。

 彼女は、着ている服のポケットから、携帯を取り出して、操作して、耳に当てた。

「『彼』を、連れてきて」

 それだけ言うと、耳から携帯を離して、また操作して、またポケットに入れた。

「彼って誰?」

「この場で、待っていてちょうだい。あなたの知りたい答えが、わかるわ」

 そういわれれば、そうするしかなかった。

 私は、待つことにした。

 私の目は自然と、この巨大な地下室に鎮座する、巨大な卵にじ、と引き寄せられた。

 その虹色の卵は、不思議だった。

 美しかった。

 禍々しかった。

 懐かしかった。

 守りたかった。

 守られたかった。

 壊したかった。

 脈絡もなく、相反さえする感情が、その卵を見ていると、私の心に沢山わいてきた。

 まるで、その卵を見た沢山の人たちが、それぞれに抱えるであろう思いが、私の中に一度に存在しているかのような、不思議な感覚。

 どこかで、足音が聞こえ始めた。

 カツンカツンカツン。

 足音は、段々と、自分に近づいてきた。

 だけど、私は、卵に魅入られていた。

 カツンカツンカツン、ピタ。

 足音が、止まった。

「詩穂・・・・・・?」

 声がした。私の声でも、ベルベラの声でもない。

 その、何度も聞いたことがある声色が、私を引き戻した。

 私は、声のした方向を、見た。

「おとうさん・・・・・・?」

 父が、立っていた。

 

 

 



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生誕

どうして、父がここに?

「詩穂。体は大丈夫か?」

 私の衝撃など関係なく、父は語りかけてきた。

 父の外見は、今朝家を出るときに見た時と同じ、綺麗なスーツ姿だった。

 右手には、いつも仕事に行く時と同じように、鞄を持っている。

「手荒な手段でさらったと聞いた。私が説得して連れてくるからそんな必要はないと、反対したのだが。結局は計画に従った私を、どうか許してほしい」

 反対。

 計画。

 そんな単語だけで、わかってしまった。

「・・・・・・おとうさん。いつから、インファントに入っていたの?」

「母さんが亡くなったころからだ。あの頃、私はモスラの教えに出会い、救われた。黙っていて、すまなかった」

 父は、頭を下げた。

「だけど、私は嬉しいよ、詩穂。まさかお前が、モスラに選ばれた存在だっただなんて。大変名誉なことだ。もしも母さんが生きていたら、きっと喜んだだろう。私はずっと、お前がいい子だって信じていた」

 父は、鞄を置いた。

「それに、もっと嬉しいことは、私のような凡庸な男が、お前のために、モスラのために、供物となれるということだ」

 鞄を開いて、父が取り出したものを見て、私は声にならない叫びをあげた。

 父の手には、拳銃が、握られていた。

「ありがとう。詩穂。お前と生きることが出来て、私は幸せだった」

 銃口を、自身の頭部に当てながら、父は言った。

 それが、私が聞いた、父の最後の言葉だった。

 やめて、と、私が叫んだのと。

 弾丸が発射される音が聞こえたのは、ほぼ同時のことだった。

 床に倒れ、頭から血だらけになった父に駆け寄って、私は、ただ、泣き叫んだ。

「女にとって、父親は敵よ」

 ベルベラの声が、聞こえた。

「父親は、私たち女を支配する。私たちに暴力で服従を強いることで、女は男より劣った生物だという考えを植え付けて、私たちが本来発揮するはずだった力を奪う。父親とは、存在自体が私たち女に対する暴力なの。だけど喜んで、詩穂さん。あなたは今、それから解放されたわ。かつて、私がそうだったように」

 彼女の言葉なんが、ずっと私の耳に侵入してきた。

 理解なんてできなかった。

 理解なんて、したくもなかった。

「父親の死を目にすることで、あなたはモスラの巫女として、真の覚醒を遂げるはずよ。これで、準備は整ったわ」

 そして、泣き叫んでいる私の耳は、ベルベラが叫ぶ声を聞いた。

 夢の中で聞いたのと、よく似た叫びを。

「モスラよ! 時は満ちた! 御身に仕える、二人の巫女が揃ったのだ! 今こそ、再臨の時! その黒く長き姿にて、この堕落した世界に裁きの鉄槌を!」

 

 

 音が聞こえた。

 何かが割れる音が。

 いくつも続いて。

 

 世界が揺れた。

 巨大な何かが、這うように動き出したことに、地面が悲鳴を上げるかのように。

 

 私は、顔を上げた。

 夢の中で見た姿と、寸分の違いもない、龍のような、蛇のような、芋虫のような、丸みを帯びた体の巨大な生物が、虹色の卵を突き破る姿を、私は目にしていた。

 

 モスラの、生誕を。

 



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 その暗黒は、多摩の山中に、突然に出現した。

 手も足もなく、二つの目と、横に開いた口から太い牙を見せる、百メートルは超えるであろうその巨体は、出現から数時間のうちに付近の集落を這うことで滅ぼした。

 現地の警官たちが打つ弾丸も、その肌には傷をつけることすらかなわなかった。

 芋虫。

 それは、その巨大生物の形状に最も似ている姿をした生物の名前。

 しかし、大きさが違う。強度が違う。

 唯一、人類にとって救いとなりうる共通点があるとしたら、這って進むしかない故に遅いという一点のみ。

 それ故に、この怪なる獣の出現に対して、日本政府が緊急に対策を決定する時間が、存在した。

 緊急招集された閣議において、この巨大生物が国民の生命財産に対する脅威となりうることと、あくまで国家やそれに準じる武装勢力ではないことから自衛権発動の三要件には該当しないという認識が共有され、害獣駆除という法的形式に基づいた同生物への攻撃が決定された。

 それとほぼ時を同じくして、一本の短い動画が、ネットワークに存在する各種動画サイトを通じて、全世界に公開された。

 その動画には、現在米合衆国司法当局が大量殺人容疑で指名手配をしている、宗教団体「インファント」の指導者、ベルベラ・ガルが、たった一人で、映っていた。

「悔い改めなさい、人よ。」

 ベルベラは、そういって、語り始めた。

 人類に対する、宣告を。

「自分たちが犯してきた、数えきれないほど多くの罪たちを、思い出しなさい。

 あの方は、悔いておられる。

 お前たちを見て、悔いておられる。

 『産まなければよかった』と。

 償いなさい、人よ。

 あの方を失望させた罪を。

 その命を我らの剣で刈り取られることで、その命をあの方にお返しすることで、償いなさい

 我らは、あの方の代行者。

 あの方より最も深き愛を恵まれた『幼子(インファント)』たち。

 この星に生きるすべてのものの偉大なる母であるあの方の御名の下に、我らはお前たちに罰を与える。

 我らの偉大なる母、『モスラ』の御名の下に」

 その短い動画は、ただこれだけの言葉を言っただけで、終わっていた。

 その言葉とともに、すべてが始まった。

 いや、「終わった」といった方が、適切だろうか?

 

 その動画の公開と同時に、世界中で、インファントによるテロが発生し始めた。

 アメリカでは、地下鉄に毒ガスがまかれた。

 フランスでは、教会にインファントの信者が銃を携帯して押し入り、乱射。

 中国では、人民解放軍のパイロットが、操縦する戦闘機ごと、都市の市庁舎に対して自爆突撃を行った。

 国を問わず、民族の違いを問わず、同類の事件がベルベラのメッセージ動画を合図としたかのように、起こり始めた。

 そして日本では、彼女が「モスラ」と呼んだ芋虫に酷似した巨大生物が都心部に向けて這いはじめ、地上に惨劇という名の花を咲かせ始めた・・・・・・。

 

 

 



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自分の体が存在するという感覚が、全くなかった。

 手も。

 足も。

 服の感触を感じるはずの肌でさえも。

 なのに、五感は確かに存在していた。

 匂いも。

 音も。

 光も。

 むしろ、いつもよりも、鋭敏になっている気さえする。

 これは、矛盾だ。

 おかしい。

(何もおかしくはないわ)

声がした。ベルベラの声だ。

どこから聞こえているのだろう?

いや、そもそも、私は今、どこにいるのだろう?

(どこでもないわ。私とあなたは今、空間という矮小な概念で語れるような関係性にはいないの。今、私はあなたで、あなたは私なのよ)

意味が分からない。

そもそも、どうして、今こういう状態にいるのだろう。

私が最後に覚えているのは、虹色の卵を破って視界を覆った、モスラと呼ばれる存在の巨大な姿だけだ。

(記憶がショックで混乱しているのね)

 そうかもしれない。目の前で父親が自殺して、ショックを受けない人間の方が、きっと珍しいだろう。

 と、その時になってようやく気付く。

 父が死んで、私は泣き叫んでいたのに、今の私は、心中が穏やかだ。

 自分の心に対して、初めて疑問を抱いた。

(何も心配することはないわ。あなたは今、大いなる存在の一部となっているのよ。悲しみや怒りなんて苦痛を感じないのは普通のことよ)

 大いなる存在。

 ・・・・・・モスラ?

(そうよ)

 思い出した。

 あの時、父が死んだあの地下室で、誕生したばかりのモスラの体から無数の糸が出現して私をとらえ、モスラの中へと引きずりこんでいく記憶を。

 私は今、モスラの中にいる?

(少し違うわ。今、正確には、あなたという存在が有していた物理的肉体は、この宇宙のどこにも存在しない。今のあなたは、あなたという存在が存在する前、誕生以前の状態、モスラの一部であった、はるか昔と同じ状態にあるのよ)

……死?

(無知で不遜な輩は、きっとそう呼ぶでしょうね。でも私に言わせれば、今のこの在り方は、死という言葉がまとっている悲惨さとは程遠いわ。だって、こんなにも温かくで、穏やかなのですもの)

 それは、認めざるを得ない事実だった。

 今、私は、これまでの人生の中で一度も感じたことがないほどの、安心感の中にいる。

 何故か、懐かしい感覚があった。

 ずっと昔、確かに私は、前にもこんな状態の中にいたことがある。自分を脅かす存在のことなど考える必要さえ感じない、

 これは、きっと、そう。

(母親の胎内にいた時と、同じ感じでしょう?)

 そうだ。

 でも、なんで?

 なんで今、私はこういう状態になっているのか、わからない。

 私が、「モスラの巫女」という存在だから?

(そうよ。モスラに選ばれた存在として、真っ先に、その慈愛に包まれる幸福を与えられたの)

 真っ先に?

 じゃあ、ほかの人たちも?

(ええ、全人類が、そう遠くない未来に、今の私たちと同じ状態に置かれることになるわ。そのために、今モスラが行っていることが、あなたにも見えているはずよ)

 その通りだった。

 こうやって、コミュニケーションを行っている間も、私には、今地球という星で起こっている出来事が、ずっと見えている。聞こえている。嗅げている。

 映像のように、一つの画面の中で、一部の場所で起きている出来事を、見ているようなのとは、根本的に違う感覚として。

 私は今、地球のすべての場所で起こっている出来事を、視野というくくりさえ放棄された状態で、見ている、聞いている、嗅いでいる。

 感じている。

 最初に聞こえるのは、悲鳴。

 逃げ惑う人たちの、悲鳴。

 無数の悲鳴。

 彼らは、限界まで足を酷使して、都市を貫く道を走り続けて逃げ続けている。

 何から、逃げている?

 モスラからだ。

 都市の大地を這い、立ちふさがる建造物を、車を、その巨体で押しつぶしながら進撃するモスラからだ。

 銃撃が聞こえる。

 兵士たちの放つ銃弾の音だ。

 それはモスラの皮膚に当たる。

 だけど、モスラの肌に対して、傷の一つもつけることはできていない。

 兵士たちもまた、モスラによって、押しつぶされる。

 会話が聞こえる。

「全滅だ! 全滅だ!」

「さようなら、お母さん!」

「いやだ、死にたくないいい!」

「逃げろ、逃げるんだ!」

 飛行する戦闘機が見える。

 モスラと同じように、キャタピラで道路を這う戦車が見える。

 爆発。

 都市の空に、激しい爆音と、爆炎と、黒煙が彩りを与える。

 だけど、どんな種類の攻撃も、モスラには効果がなかった。

「ごめん、わたし、もう、むりかな。ほっといて、先に行ってくれない?」

「パパー!、ママー!」

「息子が、息子があそこにいるの! 行かせて!」

「あきらめろ! もう手遅れだ!」

「この恩知らず! 私を置いていくのか! 待て! 待てええ!」

「もうすぐお父さんのところへ行けるのよ、行けるのよ・・・・・・」

「お前も道連れだあ!」

「みなさん、この放送ももうおわりです。さようなら、さようなら・・・・・・」

 男性。

 女性。

 子ども。

 お年寄り。

 いろんな人たちの、色んな姿が、私には見えてしまっていた。

 いろんな叫びが、色んな怒りが、色んな悲鳴が、聞こえていた。

 スーツを着て、綺麗な部屋の中にいながら、叫んでいる人たちの姿が見えた。私はその人たちを、テレビで見たことがあった。

「国民などどうでもいい! 私を優先的に助けるんだ! お前らはそれが任務だろう!」

 遠く離れた国の光景でさえ、私には認識することが出来た。大統領、と呼ばれている年配の男性が、電話を通じてだれかに命令をしていた。

「黄色いサルどもが何匹死のうが構わん。あの化け物を確実に殺せるように、ありったけの核をトウキョウに打ち込むんだ! わかったな!」

 東京の空に、大きな音とともに、不思議な形の雲が、生まれた。

 キノコ雲だ。

 かつて、この国で二つの町の空に生まれた雲の形を、私は写真で見たことがあった。

 その雲の下でも、モスラは生きていた。

 生きて、這い続けた。

 大地に降り続ける黒い雨に濡れながら、這い続けた。

 都市の残骸を、その巨体で押しつぶしながら。

 方々で聞こえる、弱弱しい生存者(のこりかす)の声を、BGMにして。

 モスラは、這い続けた。

 何を、目指して、モスラは這い続ける?

 その答えは、その進路にあった。

 東京タワー。

 その、東京という都市を象徴する赤い塔は、核の洗礼を浴びてもなお、ぼろぼろの肉体を、世界にさらしていた。

 モスラが、やってくるまで。

 モスラは、その巨体を、東京タワーに絡みつかせ、上り始めた。

 ゆっくりと。

(天に届かんとする塔は、人の傲慢さの象徴よ。唯一の神がそれを打倒すのは、当然のことだわ)

 ベルベラの、言葉と共に。

 東京タワーは、モスラの重量に耐え切れず、崩壊した。

 生じた土煙が、世界を一瞬、その色で覆う。

 後に残ったのは、無残に散らばる東京タワーの残骸と、そこにたたずむモスラのみ。

 今、モスラは動きを止めていた。

 卵を壊してこの世界に生誕してから初めて、モスラは動きを止めていた。

 頭部の大部分を占める大きな二つの眼が、世界(はいきょ)を見つめる。

 その体から、白い光が生まれ始めた。

 黒い、土のような肉体から生まれていく、無数の輝き。

 その輝きは、糸だった。

 巨大で、長い、糸。

 それは徐々に量を増やしていき、ついにはモスラの全身を覆った。

 モスラの肉体が、徐々にその姿を隠していく。全身から出てくる輝く光に包まれていくとともに。

 そして。

 かつて、東京タワーと呼ばれる塔が存在した地に、巨大な白い塊が、鎮座した。

 それは、蛹だった。

 

 

 

 

 



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 モスラが、蛹の中で一度の眠りについてから、しばしの時を経てのち。

 私は、再度自身の存在する実感を取り戻した。

 私の足は大地を踏みしめ。

 私の瞳はたった一つの光景のみを捉え。

 私の耳は、周りから聞こえる音だけを聞いていた。

 私は、森の中の地面に立っていた。

 目の前には、ベルベラがいた。

「ひとまずの幕間よ」

 私は無言で、彼女を見つめた。

 その森には、私とベルベラだけがいた。

「今、モスラは天に届く塔を打倒し、その儀式の半分を終えた。後は、あの蛹で力を蓄えながら、真の姿になる時を待つのみよ。美しく巨大な羽を持つ、モスラの真の姿を」

 熱に浮かされたように、彼女は言葉を紡ぐ。

「今、世界中で、インファントたちが、モスラへの供物をささげているわ。それを糧とすることで、モスラは今、真の姿への階段を一歩、また一歩と上っているわ。そしてモスラがその真の姿を天に見せた時、世界は終わる。いえ、始まるのよ」

 ベルベラは、恍惚を表情に見せ、天を仰いだ。

「輝ける大いなる羽を駆使して、モスラは、空をかける・・・・・・。空から、世界中の都市に、そこに住む堕落した人類に、裁きを与えるのよ。その六つの足で高層ビルを破壊し、その御身から放たれる光線によって逃げ惑う大衆を焼き尽くす。七日間よりは長く、だけど四十日よりは短い時間のうちに、この星から人間という生物はいなくなるわ。でも、それは、一時のこと」

 ベルベラは、また、私を見た。

「今、一度はモスラの一つとなっていた私たち二人が、こうして肉体を取り戻しているように、モスラによって刈り取られた命たちも、同じモスラによって、再び生を与えられるわ。もちろん、モスラから慈愛を与えられるにふさわしい、美しく清らかな魂だけが、ね」

 ベルベラは、傍らの木に手を当てた。慈しむように、その肌をなでる。

「モスラによって生まれる新世界に、他者を害することしか知らない魂、自己の欲望のためだけにしか生きられないような魂はいらない・・・・・・。その世界に生きるのは、美しい魂、正しい魂、優しい魂だけよ。そして、一切の争いの根絶された、モスラによって守られた千年王国が、この星に誕生する。一緒に頑張りましょう、天羽さん。共に手を携えて、新世界を導くために」

「残念だけど、それは無理」

 私は、この森に来てから、初めて口を開いた。

 その言葉は、ベルベラにとって、衝撃であったらしい。

 彼女は私を、信じられないものを見るように見つめた。

「……何故?」

「私は、美しい魂でも、正しい魂でも、優しい魂でもないから。あなたの言うよう新しい世界に、私は生きる資格がないから」

「……そんなことは、あり得ないわ。モスラによって選ばれた貴方が、正しい魂の持ち主でないわけがない」

「あなたは、私のことを何も知らない。父と同じ」

 首を振りながら、私は言った。

「私は、名前すら知らない沢山の人たちへの慈愛の心なんて、持っていない。さっき、そんな人たちが嘆きながら、怒りながら死んでいった光景を私は見たのに、私の心は全く痛まないから。私は、私の知らない多くの人たちが死ぬことよりも、私にとって大切なたった一人が傷つくことの方が、ずっと痛い。私の、たった一人の友達が傷つくことの方が。それとね、ベルベラ。私は、気づいたの」

「……何に、気づいたのかしら?」

「貴方が、嘘をついているっていうことが」 

 



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「嘘?」

 ベルベラは、私の言った言葉を繰り返した。

「私が? 天羽さん、あなたは今まで何を見てきたのかしら。モスラは実在した。私が嘘を言ったわけでないことは、明らかじゃないかしら?」

 私は首を振った。

「そのことじゃない。そのことじゃないの、ベルベラ。モスラは嘘じゃなかった。でも、あなたはモスラの意志を偽った」

 ベルベラは、私を見て、黙った。

 私の言っていることが、よくわからず、必死で理解しようとしているかのような、そんな様子であった。

「……理解、出来ないわ。私は確かに、モスラからの啓示を聞いたのよ」

 初めて、私は、彼女を哀れだと感じた。

 少なくとも彼女自身の主観では、ベルベラは真実を語っていたのだと、理解したから。

「そう。でもそれは、あなたがそう思い込んだだけ。モスラは、そんな言葉をあなたに告げたりなんかしていない」

「嘘よ……嘘!」

 ベルベラは、頭を激しく振って、叫んだ

「そんなことこそ、嘘に決まっている! あなたはどうして、そんなことがわかるのよ!」

「私が、モスラの意志を、知ったから」

 ベルベラは、口を閉じた。

「私が、モスラの巫女だっていうことは、本当のことだった」

 私は言葉をつづけた。

「そして、父の死によって、私が覚醒したのも本当のこと。そしてさっきまで、モスラと一つになっている間、私はモスラの本当の心に触れることが出来た、モスラという存在を、理解することが出来た」

 それは、まさに目まぐるしい体験だった。この世界におけるモスラによる破壊と同時に、私はモスラの思考を、モスラの存在の根本の在り方を、「感じた」のだ。

「モスラの心に、地球に存在する生物への愛なんて、人類への愛なんて、欠片たりとも存在しない」

 私は、断言した。

「すべてを愛することなんて、そもそも無理なの。みんなを好きでいるってことは、誰も好きじゃないのと同じ。モスラは、私たちを愛してなんかいない」

「そんなこと――、そんなこと、あり得ない!」

 ベルベラは、動揺した。

 私の前に姿を現してからずっと見せ来た自信に満ち溢れた態度は、全く伺うことが出来ない。

「そもそも、あなたの言っていることは、最初からおかしかった。モスラが人類を滅ぼし、再生するというお話が。モスラは、何のためにそんなことをするの? だってモスラはあんなにも強いのに。強い存在が、何のために、弱くて愚かな私たちにかかわろうとするの? 導こうとするの?」

「それは・・・・・・、モスラが、その深き慈愛ゆえに……」

「そんな心を、モスラは持っていない。モスラには、善悪の区別がつかない。善も悪も、私たち人類がその矮小な身を守るために生み出した概念に過ぎないのだから。モスラにはそんなもの必要ないから、理解する必要さえない。だから私たち人類が私たち自身の善悪の尺度に照らしてどんなに邪悪であったとしても、モスラには私たちを裁く理由なんてないの」

 私は、一歩、足を踏み出した。

 ベルベラに向かって、一歩近づいた。

「ベルベラ。モスラは、あなたが信じているような都合がよい存在でないの」

 本当に、哀れだと思った。

 でも、許すことはできなかった。

「さようなら。ベルベラ」

 それは、私が彼女にかけた、最後の言葉だった。

「え?」

 それが、彼女が私にかけた、最後の言葉だった。

 音がした。

 肉をえぐる不快な音が。

 ベルベラは、自分の体を無言で見下ろした。

 彼女の胸からは、大量の血が、流れ出していた。

 胸につきたてられた私の腕を濡らしながら、大量の血が、流れ出していた。

 今、私の腕は、人のそれではなくなっていた。

 手の代わりに鋭利な刃の生えた、異形。

 私は、それを引き抜いた。

 ベルベラは、倒れた。

 大地に生まれた赤い水たまりの上に倒れた彼女の脈に、そっと、触れた。

 ベルベラ・ガルは、死んでいた。

 最後まで、何も理解しないまま。

 私が彼女を殺害した理由が、復讐であるということにさえ、きっと思い至らなかったのだろう。

 腕は、すぐに、元の姿に戻った。

 私は、彼女の瞼を閉じてあげた。

 彼女の人生という名の物語は、終わった。

 でも、私には、終焉はまだ訪れてはいない。

 世界にとっての終焉が、まだ訪れてはいないように。

 私は、今眠りについているモスラについて、思いを巡らせた。

 モスラ。

 モスラは、慈悲深い神様などではない。

 神様なんて言う、人類が勝手に作り上げた分類を当てはめることでさえ、きっと正しくはない。

 モスラが壊すのは、裁くためなどではない。

 理由なき破壊。

 子どもが遊ぶのと同じようなものだ。

 私は、モスラが地球に始めてやってきた時を、目撃した。

 何も存在しない、死の星に、モスラが命を生み出したことは事実だ。

 けれどそれとて、何か意味があったわけではない。

 子どもが砂でお城を作るのと変わらない。

 私は、モスラが元々いた世界を、目撃した。

 それは遠い宇宙のどこか、それともべつの次元と呼ばれる世界だったのか、それはわからない。

 わかっているのは、そこがモスラと同じような、巨大なる存在が多くいる世界だったこと。

 背にいくつもの突起がある、四本の指を持った黒い龍が、青い炎をはいていた。

 三つの長い首と、巨大な二枚の翼を持つ、金色に輝く竜がいた。

 高層ビルよりも巨大な、地上に突風を引き起こす翼竜がいた。

 人間を軽々ととらえてしまう程巨大なカマキリや蜘蛛がいた。

 高速で回転して飛行する巨大な亀がいた。

 彼らは、戦っていた。

 牙を、爪を、足を振るい、その身から放射される熱戦や光線を飛び交わせながら。

 大義もなく、利害もなく、ただ、内なる破壊と闘争を求める心のままに。

 その世界にも、人の、文明の痕跡はあった。

 だけど、それらは遠い昔に滅び去り、今は残骸を残すだけになっていた。

 彼らによって滅ぼされたことは、疑いようもなかった。

 今、そこにあるのは、彼らによって行われる、終わりのない暴力の宴のみ。

 そこは、悪夢だ。

 悪夢の世界から、モスラはやってきた。

 そんなモスラが、人類を滅ぼした後で、選ばれた人たちだけにまた命を与えてくれるなんてことが本当かどうかなんて、考えるまでもなかった。

 私は、空を見た。

 青い空が、広がっていた。

 さっき、東京が壊滅して、今も世界中で人がなくなり続けることなんて信じられないほど、綺麗な澄んだ空だった。

 でも、きっとそれが、世界ってものなのだろう。

 私たち人類の歴史は、控えめに言っても悲惨なことの連続であったけれど、どんな時でも、空や海や大地は私たちの事情なんて意に介さずに、ただ在るべき姿でいたのだろう。

 もちろん、人類は、核や汚染物質を用いて、そんな世界にさえ、傷をつけてきたのだけれど。

 私たちは、世界を傷つけることはできる。でも、支配することはできない。

 モスラも、同じだ。

 支配はできなくとも、影響を与えることが不可能なわけではない。

 私はモスラの巫女。

 ベルベラは、私の役割はモスラの言葉を民に伝えることだといった。

 でも、巫女の役割は、神の意志を民に告げることだけではないはずだ。

 祈ること。

 民の願いを、祈りという形で、神に伝えること。

 それだって、巫女の役割であるはずだ。

 最も、私に願いを託してくれる民は、一人だっていやしない。

 だから、これから私が祈るのは、ただ、私一人だけの願いのため。

 私は、人類を滅ぼしたくない。

 別に私は、人類への愛なんてたいそうなものは、持ち合わせてはいないけれど。

 私には、決して死んでほしくない人が、たった一人だけ、まだ残っていた。

 上羽(あげは)

 私の、友達。

 彼女が、この世界で、生きていけるために。

 たとえどんなに悲惨で、どんなに間違っていたとしても、私は人類を、この世界を、守りたいと、強く祈るだろう。

 私は、空を見上げていた顔を、地面に向けた。

 膝を、地につけた。

 両手を、合わせた。

 子どものころから、食事をする前にしているのと、同じように。

 大いなる存在に対する、敬意を示す姿勢だ。

 私の口から、自然と、音が流れ出した。

 歌だった。

 これまでの人生の中で、一度も聞いたことがない歌だった。

 とても穏やかな曲調の歌だった。

 もしかしたらそれは、古の人々が、荒ぶるモスラを鎮めるために歌ったものだったのかもしれない。

 森の中で、大地に膝をつき、手を合わせながら、私は歌い続けた。

 風に、木々の葉が揺れる音を、聴きながら。

 

 

 



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 家を出た私は、目的の地にたどり着いていた。

 そこで「彼女」に会うことが出来るということを、私は目が覚めた時から知っていた。

 その場所は、広かった。

 当然だ。何しろ、飛行機が着陸するために整備された場所なのだから。

 もっとも今、そこに飛行機は一便も存在しない。

 乗客となるべき人が地球のどこにも存在しないのだから、これもまた当然のことだ。

 私は、空港に立っていた。

 青く、どこまでも広がる空を見上げながら。

 かつて見上げた時と変わらないその空の一点に、侵入者が現れた。

 飛行機では、ない。

 それは最初、視界という画面の中の、片隅の小さな点に過ぎなかった。が、点は時間とともに大きくなり、その姿をよりはっきりと見せ始めた。

 徐々に大きくなる、羽ばたく音とともに。

 四枚の白い羽。

 羽を彩る、巨大な目のような模様。

 太く、全体から見れば小ぶりな胴。

 その胴から生える、六つの足。

 頭部の大部分を占める、青い複眼。

 頭部から伸びる、二本の長い触覚。

 私たち人類が、「蛾」と呼称する生物に似たその存在が、空港に降り立った時、生じた突風に吹き飛ばされそうになって、私は必死で大地を踏みしめた。

 その存在は、私と真正面から向かい合う位置に、着陸した。

 遠く離れているのに、その巨体故に、私は、圧迫感を感じた。

 私は、モスラと、向かい合っていた。

 これで、二度目だ。モスラをこんなにも近くで見るのは。

 私が、ベルベラを殺した森で祈りを捧げ始めてからしばらくして、モスラはこの真の姿へと、変貌を遂げた。

 蛹を破り、夜になっていた空へと飛翔した。

 月光を背にして雲の海に浮かぶその姿は、神話に出てくる天使のように、美しかった。

 そして、ベルベラが言ったとおり、モスラは世界を滅ぼした。

 世界中を飛翔し、人類が生み出した全てを、破壊していった。

 巨大な六つの足で高層ビルを崩し、口から放たれる光線で人々を焼き尽くしていった。

 巨大な目が、逃げ惑う地上の人々を見下ろした。

 神の眼のように。

 都市は炎に包まれた。

 世界中でキノコ雲が生まれた。

 だけどモスラは死ななかった。

 丁寧なまでに、執拗なまでに、モスラは破壊をつづけた。

 その結末を、しかし私は知らない。

 まるで眠っている間に見る夢が、どこからかわからない部分で途切れて終わっているように、私にとって、そのドラマはあいまいな時点で終わっているのだ。

 私は、もうどれぐらい前に出て行ったか分からない、自宅で目を覚ました。

 いつもと変わらない部屋で、いつもの朝のように、ベッドの上で目を覚ました。

 そして、ここまで歩いてきたのだ。

 私は、モスラをじっと、見つめた。

「聞いてくれなかったね、私のお願い」

 私は、言葉を口にした。

 もちろん、私なんかの小さな声が、この距離でモスラに聞こえることなんてありえないと、わかってはいる。 

 これはただの独り言。

 第一、モスラに言葉なんて通じないし、私とモスラとの間に、言葉なんて不要なのだ。

 私の祈りとて、言葉になる以前の、ただの思いを強く念じただけだから。

 モスラは、何も語らない。

 私は、それを承知で、言葉を重ねた。

「でも、ありがとう」

 私は、頭を下げた。

「彼女だけを、救ってくれて」

 その言葉と、同時に。

 モスラの眼から、光が出た。

 両方から。

 二つの光は、私の立つ地面の、ちょっと前で交わった。

 二つの光を浴びたその大地に、「それ」が現れ始めた。

 何もない空間に、陰影が生まれ始める。

 空気の中に散らばるチリが、一つになって固まっていくように。

 そこには、物体が出現し始めた。

 数秒を経て。

 私の前に、一人の少女がいた。

 大地に横たわり、目を閉じて、眠っていた。

 私は、彼女の傍らに膝をつき、彼女の頭を、そっと、私の膝の上にのせてあげた。

 安らかな顔をして眠る彼女を、私はじっと見続けた。

 ずっと、会いたかった。

 私の目から、一滴の涙が、彼女の顔に落ちた。

 それで、彼女は目を開けた。

「……詩穂?」

 彼女の口から、私の名前を聞くのは、もう何年ぶりだろう?

「そうだよ。詩穂だよ。上羽」

 私は、彼女の名前を呼んだ。

 私の膝の上で、上羽は、言った。

「俺、死んだのかな?」

「ううん。死んでない、死んでないよ。上羽」

 私は、彼女を見下ろして、その頬に手を触れながら、言った。

「モスラが、上羽だけは、救ってくれたよ」

「モスラ?」

「あれを見て。上羽」

 私の指さした先を、上羽は、見た。

 モスラがいた。

「あの化け物、モスラっていうんだ」

 私は頷いた。

「ずっと一緒だよ、上羽」

 上羽は、黙って体を起こした後で、返事を返してくれた。

「ああ。でも、みんなはどうなのかな。俺とお前以外の全人類は、どうなったのかな」

「みんな、死んでしまったと思う」

「俺たち二人だけで、生きていけるかな?」

「大丈夫」

「・・・・・・どうして?」

「私たちはもう、人じゃないから。きっと、生き物でさえないと思う」

 そう。

 あの時、卵からかえったばかりのモスラによって一度、私は人としては死んだ。

 モスラによって再生された今の私の体は、人のそれではない。

 そしてそれは、今の上羽も同じであることを、モスラの巫女である私は、すでに知っていた。 

 私たち二人は、もう、食べる必要も眠る必要もない。 

 永遠に、この姿のまま、二人だけで、この星で生きていくことが、モスラが私たちに許してくれた運命なのだ。

 上羽は、難しそうな顔をした。

「なんか、お前から聞かなきゃいけないこと、たくさんあるみたいだな」

「うん。私も、上羽から聞きたいこと、沢山あるよ」

 そういって、私は、彼女を抱きしめた。

 暖かかった。

 その時、風が吹いた。

 モスラが、羽ばたいたせいだった。

 モスラは再び、その四枚の羽根を使い、大地から浮かび上がった。

 そのまま、上へ、上へ、飛んでいく。

「どこに行くんだろうな、あいつ」

 上羽が、言った。

 私は、それに答えなかった。

 知らなかったから、ということもあるし。

 今の私には、どうでもいいことだったから。

 これから、私と上羽(あげは)だけが生きる、新しい世界が、始まるのだから。

 

 モスラは、私たちのいる地上から、どんどん離れて行って、遂には一つの点のようになった。

 そして、青い空の彼方に、消えていった。

 

 

 




完結


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