カーマ!サンモーハナ! (廓然大公)
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カーマ!サンモーハナ!
女の話をしよう
女はすべてを持っていた。
至る者の無い美貌を
及ぶ者の無い知性を
踏み入れる者の無い愛情を
そしてそのすべては人へと注がれた。
愛らしい人へ
愛しい人へ
愛する人へ
そして愛を求める人へ
愛あるものへの祝福は
義務か権利か鎖か頸木か
一方通行の愛の積み重ねは
なかなかどうして破綻は間近
囁く言葉は蜜の様
振る舞う仕草は華の様
触れる先には無垢なる少年
恋を知らぬは愛無き女神
はてさて真に初心なるものの
末路は愛か、それとも恋か
目が覚めたのは規則的に響いてくるその音が聞こえてきたからだった。
微かに、しかし確かに聞こえてきたその音に動かない体へと血を回していく。元より弱い朝遅刻ギリギリとは言わないまでも決して朝に余裕がある方ではない。しかし、ベッド脇のサイドテーブルに置かれていた携帯で確認すると時刻は午前七時六分。いつもより随分と早い起床だった。薄らと空けた先、広がっているのは良く見慣れた自宅の寝室の風景。自分のベッドと小さな机と箪笥。何処にでもある様なその光景。しかし、確かにそこにはいつもの物が置かれていない。脱ぎ散らかされた服も、何かに使ったか分からないタオルも、コンビニの袋も、飲みかけのペットボトル、お菓子の袋、絆創膏の箱、化粧品の小瓶やポーチが散乱しているはず。いいや正確に言うならばいつもの光景がそこには存在していない。無意識に歯をかみしめる。
またか
脳内に浮かんだその言葉に石のような体に力を入れ自分の体に火を入れる。
「つっ」
布団をよけ、立ち上がれば微かに二日酔いの倦怠が襲ってきた。この状況からすれば昨夜飲んだことは間違いないらしい。元より飲まない日などはほとんどないのだ。チューハイをかっくらい、意識を失うように眠りに落ちる。それ以外の眠り方など忘れてしまった。しかし、そうであるならばなぜ自分はきちんと布団に入っていたのか。その答えは簡単、誰かが運んでくれたから。
起き抜けの片頭痛を頭の端に追い込みリビングへと続く扉を開けると漂ってきたのは炊き上がりの白米の香りだった。随分と嗅ぐことの無いその香り。それに追随するように鼻腔をくすぐるのは納豆と目刺しとそして蜆汁の朝の香りだった。
「藤丸君」
「あ、カーマさん、おはようございます」
丁度台所から卵焼きの皿を持って現れたのは『衛』と印刷されたエプロンをした青年だった。まだ少しだけあどけなさを残した青年。高校生か、大学生か。精悍な顔つきの青年は頭にいくつかの寝ぐせを残しながら笑いかけてきた。
「駄目ですよ、リビングで寝てちゃ、まだ朝は一桁になるくらい寒い日だってあるんですから。それにエアコンの下で寝てたらもっと体に悪いです」
その言葉にテレビ前のいつもの定位置へと目をやるとやはり既に昨夜の晩酌の空き缶やごみは既に片付けられ、代わりに小さなスズランの花瓶が置かれ、硝子のテーブルは綺麗に吹き上げられていた。
「そう言う話をしているんじゃないんですけど」
「それに洗濯物は洗濯籠に入れておいてください。後でタオル忘れてたとか給食袋忘れてたなんて言っても洗濯してあげませんよ」
「話を聞きなさい、藤丸君」
「何でしょうか」
少し笑みを湛えながら青年は振り向いた。
「これは何」
「なにと言っても朝食ですが。卵焼きは何も入れずに食べるとか、逆に醤油とかケチャップをかけてもいいんですけどやっぱり朝ごはんなら出汁かなと思いましてね。それにこの卵焼きに少しだけ秘密がありましてね、隠し味に」
「卵焼きの話をしているんじゃありません」
少しだけ語尾を強め、彼の言葉をとぎるように言った。
「それでは何の話をしているので」
「最初に行ったでしょう、私は部屋を貸す。あなたはその部屋で暮らす。ただそれだけ。私のことを気にする必要はない。私に干渉することは許さないって」
「ええ、聞きましたとも」
「じゃあ、なんで朝食を用意しているの」
「そんな殺生なこと言わないでくださいよ。僕も基本ハラヘリな大学生ですよ。朝ごはんを食べなきゃ死んでしまいますよ」
「ならば自分の分だけを用意しなさい」
「いつもの癖で多く作ってしまうんですよ。それに案外一人の分量ってむずかしいんですよね。だからついでだし二人分くらい作ってしまえって」
能天気な少年に微かに舌打ちが出ていた。
「なら自分で処分しなさい」
「せっかくだしカーマさんも食べませんか。もったいないし」
「あなたが勝手に作ったこと、ならあなたが自分で責任をとりなさい」
「そんなご無体な」
少しだけ芝居がかった青年の行動に一つ舌打ちを打つと
「勝手にしなさい」
「せめて蜆汁だけでも」
返答することもなくリビングを出て行く。元より朝は小食な身、食欲など沸かない。今までならば目が覚めるのはリビングの机の上。寝落ち、いいや気絶ともいえるその眠り。昨夜もそうだった。晩酌の後に意識を失うように眠りに入った。それを運び部屋を掃除し、そして朝食を作っている青年。無意識につめを噛むと一つ深く呼吸をするとその怒りを腹の底にしまい込み。いつものように洗面所へと向かい鏡を見つめた。そこにはいつものように幽鬼のような女の顔が写っていた。
「うるさいのよ」
藤丸立香という少年が家に転がり込んで切ったのは四日前のことだった。少し離れた親戚で、正確に言うならば従姉の旦那の甥らしい。十年以上昔に一度、親戚の集まりであったことはあるもののほとんど言葉を交わした記憶はない少年。元より東京に出てきてから親戚付き合いなどは皆無でここに三年は実家にも帰っていない程のカーマの下を突然訪れた青年。彼が持っていた従姉の手紙によれば今年から大学生になり、その大学がカーマの自宅から近いこともあり、どうやら下宿させてほしいという事であった。全てが事後承諾であり、目の前には大荷物を背負った青年がいる。元より高飛車で高慢なところのある従姉ではあるものの、前の勤め先から現在の勤め先への転職の際には少しばかり力を貸してもらった恩もある。
そしてもとより、生憎とカーマという者に否定という選択肢は持たされていなかった。
カーマから同居に当たって突きつけたのは一つのルールだった。それは不干渉である事。カーマが藤丸へ、そして藤丸がカーマへ、互いに存在していない様にあくまで干渉しないことを条件にマンションの一室を与えリビングや、台所などの共用スペースは説明した。その際にカーマ個人の部屋への制限に関しても注意は行った。しかし、次の日に見つけたのは綺麗に片付けられたカーマの部屋であり、そして塵一つない程に片付けられた家だった。
すぐさま問いかければ
「ついででしたから」
と軽く笑う。歯噛みはするものの少しだけ注意することしかできない。翌日の朝、聞こえてきたのは今日と同じ包丁が漬物を切る音。用意されていたのは今朝のようなちゃんとした朝食。今日と同じようにリビングで寝ていたところを藤丸によって寝室に移されたらしかった。
「リビングが共用スペースならそこで寝ている人は道端で寝ている人と同じわけです。そしてその人が知り合いで、その人の部屋を知っているなら送り届けるのが筋というものでは無いでしょうか」
屁理屈だ。しかし、否定することのできないこの身ではその言葉を受け入れるしかない。
いつもより少しだけ急いでシャワーを浴び、化粧とそして着替えを終えるとそのまま家を出ようとした。リビングの方からは朝の情報番組の音が聞こえた。まだ彼は朝食を食べているのだろう。声をかけることなく。きれいに並べられたいつものハイヒールに足を通した。そして、ふと気が付いた。玄関の脇には薄いピンクの包みが置かれている。かわいいペガサスのイラストの入った保冷バッグの中に入れられているのはまだ少し暖かいこじんまりとした弁当箱だった。それは男子大学生が食べるには小さすぎる大きさ、まるで女性のランチのようなそんな大きさの包みだった。
一瞥すると、やはりそれを手に取ることは無く、誰にも声をかけることなくカーマは部屋を出て行った。
鍵を閉める小さな音が玄関に響いて、そして消えた。
「今日も随分と酷い顔をしているものね」
そう声をかけてきたのは同僚であるメイヴだった。いつものように白いパンツに薄い青色のシャツの胸元は大きく欠けられておりシャネルの五番を漂わせながら指先、毛先までパッケージングされたように完成されている。広告代理店ノウムアートワークスの企画部チーフプロデューサーである彼女が背後に立っていた。
「なんで企画部のあなたが総務にまで顔を出しているんですか。自分の仕事してください」
「今は昼休みよ、ならどこにいたっていいじゃない。私、ちゃんと給料分しか仕事しないの」
勝ち誇った彼女の表情に笑みを浮かべつつも内心では大きくため息をつく。確かに時計は何時の間にか正午を少し過ぎ辺りのデスクからも人がちらほらと昼食へと向かって言ったようだった。
「ほら、なにぼさっとしているのよ。さっさと行かないと混み始めるわよ。その不摂生な体にどれだけでも肉が付いてもいいなら強制はしないけれど」
「一々癇に障る言い方をする人ですね、そうだから魚屋の彼に振り向いてもらえないんですよ」
「あら、なにそれ、挑発。安いわね。私を燃え上がらせるならもっと情熱的でなくっちゃ高根の花は手折れないわよ。うだうだ言って無いでさっさと行くわよ」
「ちょっと」
そう笑いながらメイヴはカーマの襟をつかむとそのまま否定することなく仕方なく付いて行く。オフィス街を抜け、歩いて十分弱、たどり着いたのは落ち着いた喫茶店だった。昼時にしてはごった返すような人の行列も無く見渡せばちらほらとは空席も見受けられる。繁忙店とは言えないもののそれなりには客入りはあるらしい。穴場なのかそれとも次元のはざまにでも落ちてしまったようなエアポケットのように時間の流れがゆったりとしている喫茶店だった。
「こっちだ」
その声に振り向けば、奥の方のボックス席から白く線の細い男がこちらを呼んでいた。
「あら、カルナ、もう戻ってきていたの」
「ああ、ジナコは予定通りの進行具合だったからな。一度昼食に戻り、その後に再び催促に行くことにした」
「締め切りいつだっけ」
「今日の午後三時だ」
「ランチなんてしてる時間あるの、尻ひっぱたいて書かせないと間に合わないんじゃない」
「あの様子ならば一二時間ではどうにもならないだろう。ならば昼食を食べさせてその後に書かせた方が効率的といえる。それにジナコに伝えてあった最終締め切りも一日短く伝えている」
「でも、あのチャーシューまた逃げるんじゃない」
「問題ない、既に社内に隔離してある。監視をキルケーに頼んでおいた」
「さすが仕事が早い、そして一言多い」
企画部のチーフの一人でもあるカルナは主に外部のデザイナーのスケジュール管理をしている。能面のような無表情と一言多いその言動ではあるもののそれなりに有能らしく担当のデザイナーたちからの評判はどうあれ締め切りを逃したことは無い。件のジナコも又締め切りを守らない専属デザイナーの一人であったものの彼が担当に着いてから締め切りを落とすことは無くなり、代わりに先日担当変更の嘆願書は既に三ケタを超えた。しかし、結果が出ている以上その願いが答えられることは不可能にも近い。いつも渡すときに念を込められた嘆願書を渡されるのはどういうわけか偶然ではあるもののカーマが多く、その泣きっ面にも辟易しせざるをえない。
「いつも怨念のこもった嘆願書を渡される身にもなってください」
「そうか、ならば今後嘆願書は私に見せてくれると助かる。ジナコが私に何か不満があるとすればその内容が分かれば改善しよう、デザイナーが気持ちよく働ける環境を整えることも折衝役の仕事であるからな」
「そう言うところよ、カルナ」
「そう言うところとはどういうことだ」
不思議そうに首を傾げる彼にはメイヴも乾いた笑いを浮かべるしかない。
「太陽の御子の高潔さはほっといてさっさと食べてしまいましょう」
何故かつるむようになった三人組、仲がいいわけでも、気が合うわけでも、遊びに行くわけでもない、それでも今日も又いつもの昼食会は開かれた。いつものように年若いウェイターに注文を託すと数刻と待たずして品物は出てきた。
「さて、それで今日は何があったわけ」
snsにでも掲載するためだろうか食事の写真を取りながらメイヴは向かいに座ったカーマへと問いかけた。その言葉に手にしたスプーンはそのままにカルナも頷いたように見える。
「確かに昨日と比べると少しばかり目の下のくまが濃く、気持ちばかりむくんでいるようにも見える。深酒の兆候はいつもの事だが今日は何か腹立たしいことでも起こったようだ」
人の心を手玉にとるメイヴと人の体を見透かすカルナにとってカーマの少し濃いめの化粧というなけなしの防護策など意味は無く、じっと見透かすような二人の視線がそらされることは無い。
「別に大したことじゃありませんよ、ちょっと同居人が増えただけです」
「同居人って、彼氏でもできたってわけ」
「ほう、ともに有る伴侶が出来たとは喜ばしいことだ」
「違いますっ、ただ親戚の子を下宿させることになっただけです」
「それでその男の子と生活スタイルが上手く合わなくてストレスってわけ」
「自分のインナースペースに異物が混入するということは精神的には大きな負担となる、先日取引先からもらったミカンをやろう」
「ストレスというほどじゃなりません。あの子が過干渉なだけです。それになんで親戚の子が男の子だって思うんですか」
「そんなこと私に分からないわけないじゃない」
さも当然のように言うメイヴにはため息しか出てこない。しかし、同時に彼らの言葉にも否定できることは何もなく押し黙るしかない。
「別にすぐになれますよ、大学生になるってはしゃいでるだけですし。すぐに落ち着くでしょうし」
「ふーん」
「なんですか、その意味深な笑い方」
メイヴの含みを持たせたような言葉ににらみのような疑う様な敵意の視線を向けるもそれでも彼女はそれを意に介した様子は無く小さく切り分けたサラダチキンを口へと運んでいく。
「べつに、ただ、案外そのその子の方が分かってそうだなって思っただけ」
「何がですか」
「さてね、何でしょうね」
これ以上答えてはくれなさそうな彼女に仕方なくカルナへと視線を向けた。
「何がですか」
「俺に人間の機微について聞くとしたらそれは筋違いもいいところだろう。俺が言えるのはあくまで肉体の不調だけだ」
「聞いた私がばかでした」
話は進まないだろうと頼んだサンドイッチのセットに手を付けた。いつものように軽い昼食、腹立たしい腹のうちの怒りを顰めて口へと運ぶ。それでもいつもより少しだけ味がした気がした。
午後八時、家の鍵を開けるとそこには誰もいないようだった。藤丸の靴は無く、見慣れた自宅があるだけ。電気をつけたリビングテーブルには小さなメモ用紙が置かれていた。綺麗とは言い難いその文字によるとどうやら住民票やいくつかの手続きのために一度実家に帰らなければならなくなったらしい。少年がここへ来たのは三月の六日、大学が始まるのはせいぜい四月の三日か四日かその程度だとするといささか早すぎる。早く実家から出たかったのか、それとも気持ちだけ急いたのか。それで手続きを忘れていれば仕方ない。メモには二日で戻ってくると書かれていた。カレンダーを見れば今日は九日水曜日、明日明後日、そして土曜日日曜日、土日を挟むのならば二日とは言っていても帰ってくるのは日曜日の遅くだろうか、と意味のない邪推をする。
「だからこんなメモもいらないっていうのに」
異物の居なくなったいつもの自分の部屋で一息つく。ここ数日疲れが出てのか、それとも別のものなのか肺の底に溜まったような何かを吐き出す様に大きくため息をついた。頭には無駄に笑う藤丸の顔が頭に張り付き、途端に胸の奥から苦いものを感じた。羨望なのか後悔なのかそれとも違った何かなのは分からない。しかしそれは確かにカーマ自身には持っていない者のように感じられてそしてまた少し眉をひそめた。
否定するようにメモ用紙を破ろうとする。しかし半ばまで破いた時、裏面にも何か書かれていることに気が付いた。
『スズランの花は一日一カイ水を変えておいてくださいね』
「回が書けない人が大学生になれるんですかね」
そのままメモを破り捨て燃えるゴミに放り投げた。女は手にした夕食の総菜をテーブルに置くとそのまま部屋へと鞄を置きに行った。
その少し後、流し台からはコップに水をくむには少しだけ長い水の流れる音が聞こえて、そしてお惣菜の暖め終わった電子レンジの軽快な音が聞こえた。
年度末と言う奴はどこの企業もたいてい忙しくなる。
それは此のノウムアートワークスも例外ではなく、決算や人事異動、年度末の事務整理など今年も又その季節がやってきていた。大きな会社では無いものの業界ではそれなりに名の知れた広告代理店、それに見合っただけの雑務も又膨大な量だった。忙しいものの手慣れた作業、元より仕事の早いカーマにとってその作業は大変なものでは無かった。
しかし、
「こっちはこれでオーケーです、カーマさんは」
「こっちももうあと少しですから、もう上がっちゃってください」
「それではお言葉に甘えて、お疲れさまでした、そうだ、ニュースで未明から雨が降り始めるって言ってましたからカーマさんも気をつけてくださいね」
「ええ、お疲れさまでした」
フロアではカーマたちの一角だけに電灯がつけられていた。時刻は午後十一時過ぎ、カーマの他に残っていた一人の若い男社員が返っていく。あと数時間と経たずに日曜日になるだろう。本来ならば八人いるはずのカーマの班、しかし、そのうちの二人が遅めのインフルエンザで轟沈したと知らせを聞いたのは木曜日の朝、そして金曜の朝にはその感染とみられる新たに二人ダウンしたと連絡を受けた。残ったのは四人、しかしうち二人はパートタイムの職員であり機密に近い書類の作業は任せられない。そのためにカーマと、そして若い男性社員にその負担は集中した。本来であるならば五人でするはずの業務を二人でこなす。二人とも仕事はむしろ早い方でもある、しかし、如何せん時間が足りなかった。おかげでちょうど木曜日から帰宅は日を跨ぎ何とか終電に飛び乗る日々。晩酌をする時間も無い。せっかく青年の居ない間に羽を伸ばそうと思っていたのにそれも叶わなかった。
辺りには既に人影は無く、守衛の見回りも随分前に来た。
「今日、見たい映画あったんだけどな」
本来であれば金曜日に帰ってくると言っていた藤丸もやはり今朝になってもその姿は無かった。大方、両親になにやかにやと勧められ、実家に引き留められているのだろう。元より受験勉強から解放された春休みだ、多少の怠惰は許されるだろうし、その方がカーマとしても多少の自分の時間が増えて僥倖だと、そんな風にも考えていた。
だから八時ごろに自宅に電話を掛けたのはただの気の迷いだった。誰もいないはずの自宅、今夜テレビでやる映画を録画しておいてほしい、そんな取るに足らないような伝言を伝えるための電話。取られることが無いなんてそんなこと百も承知だったのに。
「なにをしているんだろう」
自分から不干渉を求めたはずなのに。
誰も信じたくはないから。
誰でも信じてしまうから。
「馬鹿な女」
軽薄にうそぶいて再びキーボードをたたき始めた。
窓の外に月は見えることは無く、冷たい流星が窓を叩き始めていた。
結局、すべてを片付け終えたのは日付も変わった終電間際の事だった。
「本格的に降り出しちゃったか」
自宅の最寄り駅を出た時まではパラパラとちらつく程度だったその雨も自宅へと向かう間際に本降りになってしまっていた。最寄り駅の売店は既に閉店時間で、生憎と折り畳み傘は持ってくるのを忘れてしまっていた。近くのコンビニで買おうにも駅からは少し遠く、走れば間に合うかなと横着してそのまま歩いてきてしまった。おかげで家まであと一キロない程度ではあるものの深夜の大雨、何とか見つけた公園の屋根付きベンチで一人、星のない空を見上げていた。
「スーツは少し濡れたけどその程度、鞄は、コンビニのビニール袋も案外役に立つものね」
大きめの袋に入れられた鞄、防水性は皆無で、濡れれば中に入っているタブレットなどの電子機器もこの雨ではどうなるか分からない。小さくため息をついた。手詰まり、なんとなくそんな言葉が頭に浮かんできた。コンクリートで作られた硬いベンチ、持っていたタオルで拭ってはいるものの深々と冷えたそこからはゆっくりと体の熱を吸い取られるように流れ出していくような感覚と、ズボンとそして体の内側まで湿っていくような不快感が登ってくる。公園に設けられた街灯は遠く、自分の指先すらもままならない。夜の闇のような黒い布を顔に押し付けられたような息の詰まる閉塞感と尖塔のてっぺんに立たされたような不安感。寒さのせいなのかしゃくり上げる様な呼吸はゆっくりと灰を蝕んでいく。よく知っているその感覚、いつも夢に見る、いいや、いつも感じているその感覚と共に夜の闇に沈んでいくよう。
そうだ、あの日も今日みたいに雨が降っていた。
人間は嫌いだった。
日本人なんてその本当の意味なんて知らずにジューンブライドがいいだなんて言いだして、そして当日には梅雨の真っただ中、大雨になってテンションが下がるとか、何とかケチをつける。横暴で、我儘で、自己中心的。このプランは高いとか、このプランはチープだとか難癖をつけていく。新郎と新婦の意識もうまくそろえてられなくて式場の下見も、ドレスの着付けも、招待客の選定の時も傍から見ても喧嘩しているのが分かって、ギクシャクしているのが目に見えていて、果てはその場で喧嘩してしまうカップルだって大勢いた。泣き出してしまう新婦を前におろおろする新郎だって見てきた。
浄土宗なのに挙式はチャペルがいいとか、ウェディングドレスがいいとかいう新婦と家のしきたりとして神前式でなければいけないという母親、披露宴でウェディングドレスとバージンロードを作った。
希望のドレスに合うようにひと月で五キロやせるといった新婦がいた。幸せ太りだとか言って三キロまでしか減らせなかったがドレスを少しだけ補正し直して対応した。
最低プランよりも少ない予算しか用意できなかった新郎が何としても妻のために挙式を上げたいと懇願してきたときがあった。近くの市民ホールと新郎と新婦の友人たちを総動員して手作りの挙式を作り上げた。
泣くわけがないとか言っていた新郎が新婦の両親への手紙の時に一番泣いていたり、新婦の父が不器用なピアノを弾いてみたり、新郎の母がひそかに新婦へと自分の嫁入り衣装の帯を送っていたり。
入場はゴンドラがいいとか、ケーキは凝ったのがいいとか、音楽は楽団にお願いしたいとか。どの客も言うことは千差万別で好き勝手なことを言って、そのたびにあちこちを駆けずり回る。その一人一人に併せる様に手を変え、品を変え作り上げていく。彼らの主役の時を、横暴で、我儘で、自己中心的でそして彼らが主役であるその時を作り上げていく。
チープだ、安っぽく、量産品で、どこにでもある。日本では一日に何件も起きているワゴンセールで安売りされる程度のどこにでもある、そして、ここにしかないもの。
照れたようにそして忙しいように、そしてどこか現実感の無い様な彼らの初めての幸せを与えてきた、与えている。そう思ってきた。
そして
『あんなものは望んでいなかった。まったく下らない』
いつもの呪いの言葉が聞こえた。
眠っていたわけではなく意識がなかったわけでもない、けれどふと目が覚めた。いつも見る夢、いつも見る悪夢。意識のない、無防備な状態で刺してくるその刃、毎日目が覚めると思い出す、見慣れた刺し傷だった。聞こえるのはまだ止まない雨の音で子守歌には程遠い。最悪の目覚め、しかし、いつもの陰気な陽光と少しだけ違ったのは右隣に感じる少しミカンのような彼の匂いだった。
「大学生とは言え、深夜徘徊はいかがなものですかね」
「正確に言えばまだ高校生ですからね」
「より悪いじゃないですか」
「それに不干渉なんじゃなかったんですか」
「ならこれは行きずりのお姉さんからの忠告です」
「なら僕もただの通りすがりの学生ですよ」
「通りすがりというにはずぶ濡れ過ぎるんじゃないですか」
「待ち人がいましてね。家に帰ったら土曜日だっていうのにいないし、会社に連絡してもつながらないし、それに携帯も電源切っているらしくって繋がらないんです」
「あら、二日で戻るって言ってたのに三日も経って帰って来た人のセリフとは思えませんね」
「二日って何ですか、ちゃんと十二日に戻るって書いてあったじゃないですか」
「なにそれ、知りませんよ。あなたが書き間違えたんじゃないですか」
「間違ったかなと思ってわざわざメモわざわざ探したらばらばらにちぎってるって酷くないですか、復元も大変でした」
手渡されたメモ用紙には『事務手続きをしてくるので2日後になります』
よく見れば確かに『で』の濁点が三つついているのが分かる。元より少し大きいと感じていたその三つ目はどうやらアラビア数字の1だったらしい。
「メモ書きを書くならもっときれいに書かないと読めません」
「じゃあメモを書いたら読んでくれるんですね」
「そういう意味じゃありませんっ」
少し怒ったようなその声に青年は微笑むように笑った。
「人が怒っているのに笑うなんて変態みたい」
「それでもいいですよ」
青年の声はどうしようもなく優しくて、叫びたくなるほどどこか懐かしく聞こえた。
「あなたが生きている顔を見せてくれるのならば、僕は変態にだってなります」
ただそう言う青年に返す言葉は無かった。
嫌味だって、
屁理屈だって、
拒絶だって、
嫌悪だって、
そして呪いだって消えたわけじゃない。
軋んだ音が聞こえる
嘆きの音が聞こえる
苦痛の音が聞こえる
どれだけの叫びがあったかなんて覚えていない
どれだけの流せない傷があったなんて数えていない
それでもその時感じたのは彼の濡れたシャツが冷たくて、
だからこの頬を伝うものが雨だったのかは分からないといい、
それだけ。
「東京って言うのはすごいですね」
少しだけ雨も弱まった頃、手に持っていた小さなビニール袋を振りながら言った。
「二十四時間営業のレンタルビデオ屋さんなんてあるんですね」
取り出したのは少し昔のハリウッドの映画だった。
「録画は出来なかったので代わりにとおもって」
だから
「おかえりなさい」
その雨は少しだけ暖かかった。
目が覚めたのは規則的に響いてくるその音が聞こえてきたからだった。
微かに、しかし確かに聞こえてきたその音に動かない体へと血を回していく。元より弱い朝遅刻ギリギリとは言わないまでも決して朝に余裕がある方ではない。しかし、ベッド脇のサイドテーブルに置かれていた携帯で確認すると時刻は午前七時八分。いつもと同じ時間だった。薄らと空けた先、広がっているのは良く見慣れた自宅の寝室の風景。自分のベッドと小さな机と箪笥。何処にでもある様なその光景。そして、確かにそこにはいつものように何も置かれていない。脱ぎ散らかされた服も、何かに使ったか分からないタオルも、コンビニの袋も、飲みかけのペットボトル、お菓子の袋、絆創膏の箱、化粧品の小瓶やポーチも。いいや正確に言うならばいつもになった光景がそこには存在していた。
またか
脳内に浮かんだその言葉に石のような体に力を入れ自分の体に火を入れる。
「つっ」
布団をよけ、立ち上がれば微かに二日酔いの倦怠が襲ってきた。この状況からすれば昨夜飲んだことは間違いないらしい。レンタルビデオと熱燗とあたりめと。元より飲まない日などはほとんどないのだ。チューハイをかくらい、意識を失うように眠りに落ちる。それ以外の眠り方など忘れてしまった。しかし、そうであるならばなぜ自分はきちんと布団に入っていたのか。その答えは簡単、誰かが運んでくれたから。記憶の端に見上げるその姿が写っていた。
起き抜けの片頭痛を頭の端に追い込みリビングへと続く扉を開けると漂ってきたのは炊き上がりの白米の香りだった。随分と嗅ぐことの無いその香り。それに追随するように鼻腔をくすぐるのは納豆と目刺しとそして蜆汁の朝の香りだった。
「藤丸君」
「あ、カーマさん、おはようございます」
丁度台所から卵焼きの皿を持って現れたのは『衛』と印刷されたエプロンをした青年だった。まだ少しだけあどけなさを残した青年。高校生か、大学生か。精悍な顔つきの青年は頭にいくつかの寝ぐせを残しながら笑いかけてきた。
「駄目ですよ、また炬燵で寝てちゃ、まだ朝は一桁になるくらい寒い日だってあるんですから、風邪ひきますよ」
そうは言いながらも少しだけ神妙な彼に彼女は言った。
「私は甘い卵焼きが好きなんです」
テーブルの上には小さなスズランの花が揺れていた。
誤字修正を行いました
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