われても末に、逢わむとぞ (ろっくLWK)
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1.鎧塚みぞれ

 ピピピ、と鳴り出した目覚まし時計に手をやり、アラームを切る。

 そのままむくりと起きあがったみぞれはまず正面に腕を突き出し、次にそれを頭上にまっすぐ掲げて大きく伸びをした。ゆうべは久々にぐっすりと眠れたような気がする。窓の外では薄ぼけた朝焼けの空にスズメたちが鳴き声を響かせているが、それでも普段起きる時刻よりはずっと遅かった。セミの声は、聴こえない。彼らの季節はもうすぐ終わろうとしているのだろう。

 被っているシーツからは嗅ぎ慣れたにおいがするのに、その肌触りには違和感を覚える。それもきっと、自分があっちでの生活に慣れてしまったから。そんなことを考えつつもぞもぞとベッドから這い出て、立ち上がったみぞれは己の全身を姿見に映した。いつもより自分の表情は柔らかい。それはきっと、これから楽しいことが待っているから。そんな想いに胸をさわさわとくすぐられる。寝ぐせでぼさぼさになっている髪の毛を軽く撫でつけ、それからみぞれは、自室のドアを開けた。

「おはよう、みぞれ」

 リビングに入るとすぐに台所奥から朝の一声が届けられた。おはよう、と返事をしつつみぞれは台所へと向かう。何かの焼ける「ジュウ」という音と香ばしいにおい。台所では既に朝食の用意が始まっていた。最初に目に飛び込んだのは、高い位置で結わえられた黒い髪の後ろ姿。短めのポニーテールがポンポンと跳ねるその光景を目の当たりにして、思わず唇の端から吐息が漏れてしまう。

「もしかして、そろそろ出る時間?」

「まだ大丈夫」

 戸棚からグラスを一つ取り出し、蛇口をひねって水を注ぐ。グラスを満たす透明な液体の中では、小さな泡がガラス玉のようにきらきらと淡い輝きを放っていた。その一つひとつが映し出す景色を、みぞれの視力ではうまく捉えることができない。そうしているうちに泡は一つずつ弾け、水の中へと溶け込んでいった。グラスのふちに口をつけ、くいと傾ける。渇きかけていた喉の奥にたくさんの冷たい潤いが流し込まれ、ボンヤリしていた意識がそこでようやく覚め始めるのを感じる。

「出来た。さあ、お迎えが来る前に朝ごはん済ませちゃおうか」

 目の前のポニーテールがくるりと翻る。そこにあったのは、いつも通りの穏やかな笑みを湛える母親の顔だった。

 

 

「今日は何人で出掛けるんだっけ」

「四人。希美(のぞみ)と、あと二人」

 おみそ汁のお椀をテーブルへ置き、みぞれは母に応える。支度を終えた母は髪を下ろし、ちょうど対面の席で目玉焼きの上に箸を踊らせていた。こうして母と食卓を囲むのも、大学進学と共にみぞれが一人暮らしを始めてからはすっかりご無沙汰になっていた。けれど、そのことには特になんの感慨も無い。実家には定期的に帰っているし、都度連絡も入れている。家族とはいつでもつながっている。そのことを、みぞれは改めて認識していた。

 器用に黄身を避けつつ白身を一口大に切り分けていく母と、つぶれた半球から広がる黄身に浸された白身を箸でつまむ自分。血のつながった親子なのにどうしてこうも違うのだろう。こんな母をもっとずっと小さい頃から真似していたなら、今ごろ自分はもう少し器用な人間になっていたのかも知れない。けれどそれはきっと、自分そのものじゃない。みぞれはほかほかと湯気の立つご飯を口へと運び、小さな白い粒を奥歯でよく噛み締める。

「今日迎えに来るのって、希美ちゃん?」

 ううん、とみぞれは母の問いに首を振る。

夏紀(なつき)が来てくれる」

「夏紀、ちゃん?」

 いぶかしげな反応を示した母に、あ、とみぞれは思う。母の前でその名を出すのはこれが初めてのことだった。

「高校の時に同じ吹部だった子。希美たちと同じ大学に通ってる。あと、高校の同級生で、」

「そうなんだ。その子も高校からの友達?」

「うん。三年間おなじクラス」

 改めて説明しようとすると、どうにもしどろもどろになってしまう。どうせならば「夏紀とは中学も同じ」とでも付け加えた方が母にはもっと伝わりやすかっただろう。口頭で何かを表すのは昔からあまり得意ではなく、何かを喋る度についつい言葉足らずになってしまう。けれどそのことに気付くのはいつだって、口を開いてからずっと後のことだった。そう、例えば、あの時だって。

「良かった」

 そこで母が緩やかな吐息を洩らした。どうして? とみぞれは母に尋ねる。

「みぞれが高校でたくさん友達作ってたんだなあ、って思って」

 感慨深そうに目を伏せた母は箸を置き、そのまま湯飲みに手を伸ばしてお茶をすすった。母の言わんとしていることは、何となく分からないでもない。話題にのぼるか実際に家へ来たかして母が存在を認識していたのは、希美と優子(ゆうこ)、あとは何人かの後輩たち。それだけ。だから母が他の子たちの存在を知らないのも無理の無いことだ。とはいえ今みたいに言われるのも何となく信用されていないような気がしてしまって、それはそれでちょっぴり面白くない。

「お母さんは心配し過ぎ」

「そう? ふつうだと思うけど」

 湯飲みにもう一度口をつけ、それから母親はふわりと包み込むような笑みを浮かべた。

「だって娘のことだもの。心配ぐらいするよ、どこにいたって」

 

 

 

「やー、それにしてもびっくりした。みぞれってお母さん似なんだね」

 自分へと向けられた声に、みぞれはゆるりと車窓の景色から視線を外す。

「玄関開いた時、一瞬気付かなかったわ。あれー、なんか今日のみぞれ美人過ぎない? ってさ」

 声を掛けて来たのは夏紀だ。彼女はこちらを向かぬままで会話を繰り広げている。それもそのはずだ。自分たちが乗っているこの車、それを運転しているのが夏紀なのだから。

「思わず想像しちゃったよ。みぞれがもっと大人になったらこんな風になるのかなー、って」

「そんなことない」

「いやいや、そんなことあったって。なんかこう、儚いカンジがそっくりっていうか――」

「バカなこと言ってないで、アンタは運転に集中しなさいってば。こっちが怖いから」

 夏紀の隣、つまりはみぞれの目前にある助手席からキンと響くお説教。背もたれの上からはピョコン、と良く見慣れた黄色いリボンがはみ出ている。時折前方へと視線を送りつつ背もたれから覗かせたその横顔は、言うまでもなく優子のものだ。

「免許取りたての初心者なんだってこと、忘れないでよね。話に夢中になって事故ったりしたらシャレになんないでしょ」

「私がそんなヘマするわけないって。アンタじゃあるまいし」

「どうだか。さっきだってみぞれん家に来る時、大通りでの転回でもたついてたじゃない」

「もたついたんじゃなくて安全運転してるだけですから。大体、バック駐車でポールにこすった優子サンには言われたくありませーん」

「それは教習所での話でしょ。それにこすったって言ってもホントに軽く触った程度なんだから。ちゃんと免許取った今じゃ、あんなのノーカンだし」

「おん? じゃああっちに着いたらアンタが駐車やってみる? もしぶつけたら修理代はトーゼンそっち持ちで」

「そっちこそ、駐車に自信無いからそんなこと言い出したんじゃないの? もしぶつけそうで怖いなら、しょーがないから私が代わってあげるけどぉ」

 かしましい二人の会話もいつも通りで、みぞれはこっそりと安堵する。車のサイドウインドウに映る宇治の街並みは、まだ早朝ということもあって静謐な眩さをひっそりと湛えていた。見慣れぬ街の風景をしばらく通り過ぎ、幾つかの大通りを経て入り組んだ市街地にまで至ると、前方に見えるコンビニの辺りからははっきりと土地勘があった。そこの角を曲がって緩やかな坂を少し上っていった、その先には。

「ほら、着いたよ」

 かちかち、とウインカーが一定のリズムを刻む。路肩に車を停めた夏紀は優子と二人、先んじて車を降りていった。私も行かなくちゃ。シートベルトのバックルを外すのに多少もたつき、それからゆっくりとドアを開けると、むわりと温まり始めた外気がみぞれを出迎えた。

 二階建てアパートの階段を小走りに駆け上る最中、僅かに覚えた息苦しさ。いや、それは走ったせいではない。いつだってこうだ。緊張。期待。そして、微かな不安。あの子と会う時はいつも同じ気分になる。けれどそのことを不快には思わない。今はただ彼女に会える喜びの方が、ずっと勝っているから。

 階段を上り切ったみぞれは、目指すべき部屋へとまっすぐに焦点を合わせる。玄関の前には既に夏紀たちがいて、どうやら部屋のチャイムを鳴らした後らしかった。ガチャリ、と緩やかに開いた玄関扉。そこへ向けて夏紀が挨拶を投げ込む。

「おはよ――って何だ、すっかり準備万端って感じだね」

「そりゃもう、今日が来るのをずっと楽しみにしてたからさ」

 扉の開き口はこちらから見て反対側にあった。夏紀に応えた彼女の快活な声は聞こえど、その姿は扉に遮られてここからでは見えない。

「それじゃ行こうか。って、みぞれは?」

「今こっち来てるとこ。みぞれー!」

 優子に名を呼ばれるまでもなく、みぞれはそこに向かって歩みを進めていた。ゴロゴロ、と扉の向こうから何かの転がるような音。みぞれがそこに辿り着くのと玄関の扉が閉まったのは、ほぼ同時だった。

「おはよう、みぞれ」

 耳がひとりでにぞくりとする。姿を現した希美は昔からずっとそうであった通り、目いっぱい膨らんだ蕾のような瑞々しい笑顔をみぞれに見せてくれた。

 

 

 

「それじゃ荷物は後ろに積んでよ。あ、頼んどいたアレは中の方にね」

「はいはい」

 夏紀に返事をした希美が車のバックドアを開ける。希美の荷物は自分のそれと比べて随分と多く、底に車輪のついた淡いピンク色のキャリーケースに紫紺(しこん)色のショルダーバッグ、それとどこにでもありそうなトートバッグを抱えていた。これに勝るとも劣らないのは優子の荷物だ。先に積まれていた彼女の荷物はボストンバッグ一つだけなのだけれど、中身がパンパンに詰め込まれたバッグの容量はかなり大きい。そんな彼女たちとは対照的に、みぞれと夏紀の荷物はコンパクトにまとめられていて、おおよそ優子の半分ほどのサイズしか無かった。

 そんな自分からしてみれば、希美や優子の行動原理がもう一つ分からない。これだけ手荷物が多かったら、いちいち積み下ろす際にも相当に苦労を強いられてしまうことだろう。こういう時に、あれもこれもなんて持ち出す必要は無い。みぞれ自身はそう考えていた。

「中に持っていくの、どれ?」

「うん? コレだけど。ごめんみぞれ、コレ持っててくれる?」

 希美に頷くと、それじゃお願い、と希美がこちらにトートバッグを差し出した。受け取ってみるとずしりと重たい感触。果たして中には何が入っているのやら。

「それ持って先に乗ってて。私もすぐ行くから」

「わかった」

 返事をして、それからみぞれは改めて自分たちの乗る車をしげしげと眺める。ここまで自分たちを運んでくれた夏紀のマイカー。それはどうやら中古で買ったものらしく、黒々と艶を放つボディはよくよく見れば小さなキズや凹みがあちこちに見つかった。さして車に詳しくもないみぞれには車種やメーカーなど詳しいことはさっぱり分からない。四人乗ったらたちまちギュウギュウになってしまうほど小型で、卵のように丸っこい形をした車。正直を言えば夏紀にはちっとも似合っていないとは思うのだけれど、その車のデザインは可愛らしくて、嫌いじゃなかった。

 ドアを開け、さっきと同じ助手席後ろの座席へと乗り込む。少し硬めな後部シートの座り心地と窮屈さは、けれど却って寛ぎを覚えるものがあった。ほどなくして希美の荷積みも終わったらしく、バタン、とバックドアが閉まる。続けてみぞれの反対側、つまり運転席後部のドアを開けた希美がみぞれの隣に腰を下ろした。彼女の肩には手のひらサイズよりは少し大きめのバッグが提がっている。

「こっちはオッケー」

「忘れ物ない?」

「ありません! みぞれ、さっきのバッグ貸して」

 言われるがまま、みぞれは大事に抱えていたトートバッグを希美に引き渡す。中身をがさごそと掻き回した希美は、そこから取り出したいくつかのペットボトルを夏紀たちへと差し出した。

「言われてたジュースもこの通り。保冷材でキンキンに冷やしてあるから、優子もみぞれも好きなの選んで」

「ありがと希美。それじゃ私はほうじ茶で」

「こっちはカフェオレちょーだい」

「はいはい。みぞれは?」

「サイダー、ある?」

「もっちろん」

 得意げに、希美の手がバッグの中からボトルを引き抜く。白を基調に濃いグリーンでアクセントされた爽快感たっぷりのラベル。それはみぞれの一番お気に入りの炭酸ジュースだ。

「ちゃんと用意しといたよ、みぞれの好きなヤツ」

 その一言に、しゅわあ、と胸の中を甘い刺激が突き抜けていく。まだジュースを飲んでもいないのに。

「飲み物も行き渡ったね? そんじゃ行くよー、出発進行!」

「おー!」

 車内に全員の鬨の声が響く。

 高校の同窓生同士、車での遠出。それは初めての、四人だけでの旅行だった。

 

 

 

 

 

 

 発端は数カ月ほど前。希美からもたらされた突然の連絡、そして彼女の看病をしに行ったみぞれが、逆に風邪に倒れてしまった時のこと。

 希美から連絡を受け駆けつけてくれた優子と夏紀は、身動きすらできなくなったみぞれを見てこんなことを口走っていた。

『こんなことになるなら、免許ぐらい持っとけば良かった』

 結局体調が持ち直すまでには更にもう一日かかり、その間希美にたっぷり看病してもらえたみぞれは大層ご満悦だったわけなのだが、その間一緒に付き添ってくれた優子と夏紀にとってはそれでは済まない話だったらしい。果たしてその思いは希美も同じだったようで彼女たちはほどなく自動車学校へと通い始め、三人揃って無事に免許を取ったという報せがみぞれの元に届いたのは、ちょうど先月の終わりぐらいのことだ。 

 せっかくだし、記念に四人でどこか旅行にでも行こう。そんな夏紀の提案にみぞれたちも賛同し、それぞれに予定のある中でスケジュールを合わせて出掛けることにしたのが今日、夏休みも残り数日というこのタイミングだった。ちなみにみぞれは大学以外にサークルの活動もあったし、何より元々車の免許を取るつもりも無かったので自動車学校には行かなかった。自分には車の運転なんてできない。みぞれはそのことを確信していた。

「それにしても、今年の夏はヤバかったよねぇ。酷暑続きでダウンするかと思ったよ」

 そう言って希美は手に持ったカメラを運転席へと向ける。車内に持ち込んだバッグに入っていたそれを、希美は車が動き出すと同時に取り出していた。レンズの部分が大きく隆起した、自分のコンデジよりもだいぶ高級そうなカメラ。それにはきっと彼女のこだわりが詰め込まれている。

「希美がそれ言うの、冗談に聞こえないからやめてよ。ところでさっきからカメラ向けっぱなしだけど、何か撮るつもりなの?」

 助手席の優子が希美へと首を巡らせる。

「ん? 何撮るっていうか、現在進行形で撮影中だよ。これ動画モードもあるヤツだから」

「はあ?! ちょっと、動画録るなら録るって言いなさいよ」

「旅の思い出録っときたくてさ。なんて言うかこう、被写体のありのままの姿を映したい、みたいな?」

「だからって勝手に録るなって言ってんの、ヘンなの映ってたらマジ最悪だし」

 ぶうぶうと文句を垂れる優子に、そんなこと無いから、と希美は軽やかに笑う。

「おやおや、優等生の優子ちゃんはそりゃー不味いですよねえ。気付かず録画されてたら全部暴露されちゃうもんね、普段ネコかぶってることとか」

「ネコなんかかぶってませんー。ってかそういう下らない問題じゃなくて、プライバシーとかそういう意味の話をしてんだってば」

「プライバシーも何も、この四人だけで録って観るだけの動画だったら別に気にする必要なくない? 私は録られて困ることなんて何も無いし」

「あーハイハイそうですネ。アンタみたいにデリカシーのない人間なら確かに気にしないはずだわ。けど、私とかみぞれみたいに一般的な感性の持ち主は気にするもんなの。ねえみぞれ?」

 やにわに話を振られ、みぞれは口をつぐんでしまう。正直を言えば夏紀と同じく、何を撮られようが特に困ることなんて無かった。撮影をしているのが希美なら、尚更。

「えー、みぞれだって平気だよね。あ、それとももしかして、黙って撮られるのイヤだった?」

 改めて希美に問われ、みぞれの心臓がぎゅるりと短く跳ねる。

「……イヤじゃ、ない」

「ほら、みぞれもこう言ってるし」

「ちょっと希美、今のはズルい。アンタがそんな訊き方したら、みぞれだってそう答えるしかなくなるでしょ」

 とにかくカメラ止めなさい、という声と、カメラを止めるな! という嬉々とした叫びとが前席の間で飛び交う。流石にどうしたものかと表情を曇らせかけた希美を見て、みぞれはそっと、優子の肩に手を伸ばした。

「ほんとうにイヤじゃないから。優子もいっしょに映ってくれると、うれしい」

 優子の体が小さくピクリと震える。ややあって、ハア、という大げさな溜め息と共に、優子のリボンがプイとそっぽを向いた。

「勝手にしなさい」

 良かったぁ、と希美が胸を撫でおろす。優子はまだ納得し切れていないのかも知れないけれど、彼女が自分の気持ちを察してくれたと感じて、みぞれもまたホッとしていた。

 こうして一行を乗せた車はやいのやいのと賑わいつつ、目的地に向け順調に進んでいく。京都の市街地から南に下ること数十分、背の高い木々に覆われた長い道へと至る。夏紀の解説によればここは『どんぐり街道』と呼ばれているらしい。どうしてどんぐりなのかを考えているうちにそこを抜け、再び建物の並ぶ街の中へ。「みぞれ、このへんが奈良だよ」と優子のナビゲートを受けつつ、見送る車窓の景色はさらに変化していく。

「こっからちょっと有料区間だけど、ここの料金は私が持つから」

 そう告げた夏紀の足元で『ポーン』と何かの機械音が鳴る。目前に迫ったゲートはタイミングを計ったようにスルリと開き、車はノンストップで料金所を通過した。エンジンの音が少し大きくなり、それと共に速度を増した車体が、魚の群れのようにひしめく他の車の流れにすんなりと混ざってゆく。

 希美の家を出発してから既に一時間あまり。この間、みぞれが夏紀の運転に恐怖を感じることは全くと言っていいほど無かった。免許を取ったばかりであるにも関わらず、夏紀の運転は相当に上手い。必要以上にスピードを上げることも決して無ければ、ふらついたり急減速を掛けることも無く安定している。友達を乗せているからというのもあるのだろうが、まるで夏紀の全神経が車体と繋がっているみたいに隅々まで気を配られているような丁寧さだ。カーブを曲がるときでも体が左右に振られることはほとんど無くて、ハンドルを握る夏紀の凛々しい横顔は頼もしさすら覚えるものだった。その安心感とエアコンの利いた車内のほど良い涼しさが、みぞれの全身を包む。

 移ろう景色を眺めていた視界が、徐々に小さくなっていく。折角の旅なのに、景色を観ないのはもったいない。そんな風に思ってはいても、じわじわと広がってくる眠気に最後まで抗うことは、できなかった。

 

 

 

 ――みぞれ。

 その呼び声に応じて、みぞれは雲の中を泳いでいた。声は方々から聞こえてくる。一体どこにいるの。その問い掛けに、彼女は答えてくれない。雲の中は夕日の如く真っ赤で、あたかも周りの全てが燃え上がっているみたいだ。熱さは感じない。けれどそれと同時に、身体の重さもまるで感じられなかった。ふよふよと漂う風船のようにそこへ浮いているばかりで、いくら手足を動かしてもちっとも前へ進まない。それでもみぞれは泳ぐ。ただ一心に、声のする方を、それだけを目指して。

 ――みぞれ。

 声が近付く。こっちだ。きっとこっちにいる。そう思った途端、ふわふわしていた身体がジェットコースターみたいに凄まじい勢いでそちらへと進み出す。いや、引っ張られているのか? どっちなのか判然としない。でもどっちでも良かった。行きたいところへ、あの声の元へ、少しでも早く辿り着けるのなら。速度はぐんぐん上がっていき、雲の壁が切り裂かれて両脇をすり抜けていく。目指す先は、あれだ。そう直感し、みぞれは顔を上げる。

 

 

「みぞれ」

 

 視界を埋め尽くす、強烈な、光。

 

 

 

 

「そろそろ着くって。起きなー、みぞれ」

 んう、と喉の奥から間の抜けた音が漏れる。ゆるゆる目を開けると、窓の外から強烈な日差しが自分の顔目掛けて突き刺さっていた。おもむろに目をこすり、それからみぞれは声の出どころを向く。

「希美、」

「起きた? みぞれ、ずっと気持ちよさそうに寝てたよ。よだれ垂らして」

 眼前の希美はカメラを構えたままの姿勢でこちらを見ていた。カメラの録画ランプは、しっかり点灯している。

「……録ってたの?」

「え、うん。あんまり気持ち良さそうな寝顔だったから、これも旅の記念に良いかなーって」

 ギョロリとこちらを覗き込む大きなレンズ。先ほど希美は「よだれ垂らして」と言っていた。ということはつまり、その光景はばっちりカメラに記録されている。ぐわり、と体の芯から湧き上がる羞恥の念。フレームに収めた希美の記憶からその模様が忘却されたとしても、デジタルの記録はいつまでも色褪せることは無い。

「――もう」

 苦悶の呻きはそんな音にしかならなかった。けらけらと笑う希美に「だから言ったじゃん!」と再び声を荒げる優子。いたたまれない気持ちに堪えかねそっぽを向いた窓の外には、文字通り一面に広がる(あお)の塊があった。

 

 

 

「海だああああ!!!」

 先陣を切って突っ走った夏紀が元気よく、水平線の彼方目掛けて第一声を上げる。待ちなさいよ、と後を追いかける優子もまた声を弾ませていた。車を降りたみぞれは希美と二人、夏紀たちの後をゆっくりとついていく。

「みぞれは海ってよく見る?」

「あんまり。希美は?」

「私もかなー、やっぱ宇治って周りに海無いしさ。一応北の方になら海はあるけど、(あまの)橋立(はしだて)までってそうそう行かないじゃん? なじみ薄いよね」

 うん、と頷きつつ、みぞれは希美の後ろ姿をじっと見つめる。今日の希美はいつもと同じポニーテール。彼女の歩くリズムに合わせ、その黒い毛並みが楽しげにピョコピョコと左右に跳ねている。それが嬉しくて、懐かしくて。みぞれはつい希美の後頭部を凝視してしまう。目の前できらきらと輝く美しい大海原の存在をも、すっかり忘れてしまうほどに。

「いやぁー最高じゃない? まだそんなに肌寒くもないし、その割に他のお客さん少ないしさ。やっぱ私の見立ては間違い無しだったね」

「なんか自分だけの手柄みたいに言ってるけど、アンタのアバウトな意見を絞り込んで宿まで決めたの私ですから。すっトボけないでよね」

「まあまあ、夏紀も優子もそのへんで。二人のおかげでこんなにキレイな景色見れてるわけだし、ここは一つ北宇治吹部部長と副部長のコンビネーションの勝利、ってことにしようよ。あぁみぞれ、足元気を付けて」

 そこかしこに転がるごつごつした石くれをピョンピョンとまたぎながら、希美は時折振り返ってはこちらを気遣ってくれる。大丈夫、と返事をしてから、みぞれは改めて周囲の光景をぐるりと眺め回した。スウと息を吸い込むと、潮風の香りが胸いっぱいになだれ込んでくる。海を見るのも久しぶり。そんな思いに焦がされたこの胸の疼きは喜びが半分。もう半分は、そう、感傷とでも呼ぶべきものだ。

 今回の旅行に際して、議論の焦点となったのは行き先だった。大まかに言えば山へ行くか海へ行くか。ちょうど夏と秋の中間とも言えるこの時期、連休でもないこの日なら旅行客の混み合いに巻き込まれて宿を取れなくなる心配は少ない。けれど涼しい風の吹き始めた季節だ。今さら海水浴でもないし海は無いだろう……こんな会話の流れにあって、それに真っ向から逆らったのはみぞれだった。

「海がいい。海、見たくて」

「みぞれがそう言うんなら、私も海がいいかな。夏紀と優子はどう?」

 みぞれの意見に希美が賛同してくれたことで、あとの二人にもそれ以上の異論は無かったらしい。海に行くなら寒い北より暖かい南、と夏紀が提案し、それならちょうど良いところがある、と検索をかけてくれた優子によって詳細な目的地が決まり、あとはとんとん拍子に話が進んでいった。

 唯一の心配はこの時期まれに訪れる台風だったのだが、本日の天気は快晴と言って良く、夏の気配を取り戻すかのように熱気漲る陽光が天空を支配している。少し汗ばむぐらいの気温に、こんなんだったら水着持ってきても良かったかな、と希美はぽつりと洩らした。

「希美、泳ぎたかった?」

「こんだけ暑かったらねー。泳がなくても、水際でばしゃばしゃやってるだけでも結構楽しいしさ。みぞれは泳ぎたくない?」

「私、泳ぐの苦手」

「そっか」

 今日の希美の表情は昨今見たことが無いと言えるほど、ずっと穏やかなものだった。そのことにみぞれは少し安心する。高校を卒業して以来、いや正しく言えばそれ以前から、希美とのやり取りにはぎこちなさを感じることも少なくなかった。けれど今日はそれが無い。ううん、本当はそれも違う。希美が柔らかくなったのはきっと、あの夜からだ。風邪に倒れた希美の看病をしに行った日。彼女と二人で過ごした、あの思い出深い月明かりの夜。そう、あの夜から希美は、そして、自分は。

「わきゃっ」

 突然奇妙な声がして、みぞれはそちらを見やる。手前の砂浜にはシンプルなデザインのスニーカーとおしゃれなストラップミュールが、ごろりと転がっていた。あれは夏紀と優子のもの。そして、その少し先では。

「やったな!」

「ボーっとしてる方が悪いんでしょ。ホラホラ食らえ、ナツキのみずでっぽう!」

 水際ではジーンズの裾をまくり上げた夏紀と、フレアスカートを太ももの高さで結んだ優子とがきゃっきゃと水遊びに興じている。両手を組んだ夏紀の指の隙間から『ぴゅー』と飛び出した水の塊がシャワーとなって、優子の全身に降りかかった。おかえし! と叫びながら優子がバシャンと海水を巻き上げるも、夏紀は器用に水しぶきを躱していく。

「あーあー、あの二人ったらこんなトコではしゃいじゃって。これから宿に行くまでまた運転しなきゃなのに、あんなズブ濡れになったら車に乗れなくなっちゃうよ」

 呆れ顔を浮かべつつ、希美はそんな彼女たちへとカメラを構える。カシャ、とシャッターの動作音。道中では録画一辺倒だったが、どうやら今は撮影機能を静止画モードにしているらしい。そのまま海や砂浜の景色を何枚か撮っていた希美が、ひょいとレンズをこちらに向けてきた。

「鎧塚さん、いまの心境をお願いします」

「え、」

 みぞれは言葉に詰まる。こんな風に何か発言を求められるのは、みぞれにとって最も苦手とする領域だ。それもカメラ付きでとなると、それは尚更のことで。

「何でもいいから、率直なひと言ちょうだい。こういうのにも慣れておく必要あるでしょ?」

 慣れる、必要。みぞれは口の奥でその語句を反芻する。そんなものが本当にあるかどうか、なんて正直ピンと来なかった。でも、希美が求めている。率直なひと言。今のこの気持ちを一言で表すとするならば、それは。

「……嬉しい」

「うれしい?」

「希美と、ううん、みんなと一緒に海に来れて」

 それは本当の気持ちだった。今のみぞれにとって、大事なものは一つじゃない。自分のことを心配してくれる友達も、支えてくれる存在も、それがどんなに貴いものであるかということも。みぞれはそれをとうの昔に知っている。

「希美は?」

「私?」

「希美はいま、どう思ってるの」

 希美はその質問に間髪入れず、こう答えた。

「私も嬉しいよ、こうしてみんなと一緒に思い出作りの旅行が出来て。勿論、みぞれとも」

 良かった。そういう思いに自然と顔が綻ぶ。その瞬間をカシャ、と希美のカメラが捉えた。

「今の表情すごく良かった。あとで宿に行ってから、一緒に見よう」

「うん」

 自分を客観視するのはあまり得意じゃないし、好きでもない。けれど希美によって見せられる自分の姿は嫌いじゃない。そんな風にみぞれは思う。

「あ、貝殻!」

 カメラを首に提げるや否や、声を張った希美があさっての方向に駆け出す。ざふざふ、と砂の上に足跡を刻みながら、みぞれもその後を追った。

「うわー、結構でかい。なんの貝だろ?」

「さあ、知らない」

 希美が拾い上げた貝殻は縞模様になっていて、白色を基調とした中にところどころ茶色と薄い青が入り混じっている。形からするに二枚貝の一種のようでもあったが、それ以上のことはあいにくみぞれにはサッパリだった。

「ちょうど二枚揃ってるよ。それにしても、超きれい」

 貝の一片を、希美は天に向かってかざした。強い既視感を覚える光景。その時みぞれはこっそりと、一枚の青い羽根を脳裏に思い描いていた。今でも大事に飾ってある思い出深いあの羽根が、希美の手にある貝殻と重なって見える。海で洗お、と水辺に寄った希美がじゃぶじゃぶと貝殻を洗い、丁寧にハンカチで拭う。そしてその片方を、おもむろにみぞれへ差し出した。

「あげるよ」

 それもいつぞやと同じ。あの時はへんてこな返事をしてしまった。でも、今は。

「ありがとう」

 滑らかにそれを受け取ることが出来た。二枚の貝が一つずつ、自分と希美の手のひらに収まる。

「みぞれ、貝合わせって知ってる?」

「なに?」

「貝ってさ、人の指紋とかと同じで、個体ごとに貝の形が全部違うんだって。だから二枚の貝殻を合わせてぴったりになるのって、それぞれ対になるものしか無いらしいんだけどさ」

 そう言われれば、そんな話をどこかで聞いたことがあったような。微かな記憶の手応えを、みぞれは必死にほじくり返す。

「前に授業で習ったかも。生物、じゃなくて、古典?」

「だと思うよ。高校の時に国語の先生から習ったヤツだから、多分同じ先生」

 希美が手に持った貝の内側をこちらへ向ける。ホラみぞれも、と急かされ、みぞれは貝の内側を希美へと向けるように持った。近付いてきた希美の貝が自分の貝に重ねられ、カシャリと乾いた感触がする。

「平安時代の貴族たちはこれで神経衰弱みたいな遊びもしてたんだって。それを貝合わせ、っていうの。正解なら貝がぴったり合わさるし、ハズレなら全然合わない。他にも貝合わせのことを短歌にしたり、この内側のとこに上の句と下の句を書いて百人一首をやってたって話もしてたかな」

「そうなんだ」

「風流だよねー、いかにも貴族ってカンジ」

 みぞれは曖昧に頷く。貴族なんてものを実際に見たことも無ければ興味も抱かぬみぞれには、その光景をもう一つ想像することは出来なかった。そんな折、希美の口が何かを唱え始める。

「せをはやみ、いわにせかるるたきがわの」

 なに? とみぞれは小首を傾げる。

「百人一首だよ。下の句が『われても末に逢はむとぞ思ふ』ってやつ。聞いたことない?」

「ない」

 ふるふると首を振るみぞれに「そっか」と、希美は苦笑にも似た息をつく。

「どういう意味?」

「んー、私もうろ覚えなんだけどさ。確かこんな感じ」

 そこで希美は俯き、記憶を辿るようにぽつぽつと続きを紡ぐ。

「川の流れがとても速くて、岩にさえぎられた水が二手に分かれちゃうの。そこから流れは全然別の方向にいっちゃうんだけど、それでも永遠に離れ離れなわけじゃなくて、いつかはまた一緒になるよ……っていう、そんな意味の歌」

 何だかいまいち要領を得ない。そのときみぞれの頭に浮かんだのは何故か、ごうごうと流れる急流で川下りをしているカッパの映像だった。

「まあ平安時代の歌だからさ。そうやって何かの事情で別れなくちゃいけなくなった恋人同士が、今はそうなっちゃうけどいつかは再会してきっと添い遂げましょう、って、そういう想いを密かに込めた歌なんだと思うよ」

「そう」

 恋人。その単語はみぞれにとって全く興味の対象外で、同級生たちが恋愛話で盛り上がっていてもまるで琴線に触れることが無い。だからそのように離れ離れになる恋人たちの姿を思い描くことも難しかった。恋人じゃないなら? そう思い当たって、次に心の中に浮かび上がったのは。

「希美もこっちおいでよー、海水ぬるくてチョー気持ちいい」

「今行くー!」

 希美の大きな返事に驚き、みぞれの身体がびくりと震える。その拍子に、くっついていた貝がするりと離れてしまった。それを持つ二人の手と共に。あ、と思わずみぞれは声を洩らす。

「宝物にしようね、旅の思い出、第一号で」

「――うん」

 こくりと頷き、みぞれは貝殻を大事にポーチへとしまい込む。希美ももう片方の貝をハンカチに包んでカメラバッグへと収め、そして二人は、夏紀たちの待つ波打ち際へと駆けていった。

 



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2.中川夏紀

「はー、いや気持ちかったぁ」

 のれんをくぐった夏紀は開口一番、感嘆の声を上げる。昼間に海辺でたっぷり遊んだ後、潮水でべたべたになってしまった体を宿の風呂で洗い流したことで、ようやくサッパリすることができた。館内は軽く冷房が効いていて、ほかほかと湯気を立てる体にこの涼しさがまた心地良い。首に提げたフェイスタオルでごしごしと髪の毛の湿り気を拭いつつ、浴衣姿の夏紀はついさっき出てきた浴場ののれんを振り返った。

「いいお風呂だったねー。露天風呂になってるなんて思わなかったよ。さすがは優子、お目が高い」

「でしょう? 宿泊サイト見て最初にピンと来たのよ、ここしかないって」

 続けてのれんの奥から姿を現したのは希美と優子だ。二人とも自分と同様、宿が用意してくれた浴衣に身を包んでいる。湯上がりで髪をアップに留めた希美のうなじはいつもと違う色気が匂い立っているみたいで、みぞれじゃあるまいし、などと思いつつも夏紀の視線はそこに釘付けになってしまう。

「なにボーっとしてんのよ。もしかして湯あたりでもした?」

「何でもないよ。いい湯だったなーって、そう思ってただけ」

「その割には見てた方向がお風呂じゃなくて、希美だったと思うんですけど」

「まさかー。夏紀が私なんか見てどうするの」

「優子が勝手にカン違いしてるだけだから、無視して無視」

「何よ、しらばっくれちゃって。……まあそういう事にしといたげるか。これから美味しい夕食が待ってるっていうのに、ここでアンタとやり合ってたら折角のご飯もまずくなっちゃうもんね」

「さっすが優子サンは大人でちゅねー、えらいえらい」

「人が目を瞑ってやろうって言ってんのに、この上ケンカ売る気?」

「まあまあ、二人とも」

 そんなやり取りをしているところに、さらにもう一人がのれんをくぐって出てきた。長い深黒の髪を束ねて肩へと流したそのたおやかな姿に、夏紀はおろか優子たちも思わず息を呑む。お風呂上がりのみぞれは浴衣の上に薄手の紺羽織をまとい、入浴後の火照りと心地良さに白い頬をいくぶん上気させていた。

「おお……」

「どうしたの?」

「いやみぞれ、しばらく見ないうちになんていうか、こう」

「ねえ」

 どぎまぎする希美と優子を見て、みぞれは困惑したように小首を傾げる。夏紀はその時、優子たちとは別の印象を抱いていた。肩にかかる黒く長い髪。それはまるであの人みたいで。唐突に湧き上がった過去の記憶が、夏紀の胸をチクリとくすぐる。

「でもほんとにいいお宿だよね、ココ」

「だね。優子にしては良くやったってカンジ」

 気を紛らわせたかった夏紀が希美の述べた感想に乗じると、優子は照れ隠しのつもりなのか「フン」とそっぽを向いた。優子の見繕ったこのお宿。区分としては民宿なのだが、多少くたびれた外観に反して内装は実に綺麗で掃除の手も隅々まで行き届いている。座卓やテレビといった部屋の設備はそこそこ新しいものが揃えられているし、琥珀色のゆったりとした色調を灯すランプや風情を感じる黒木目の床からは『ちょっとした高級旅館』と形容しても良さそうな気配すら感じられる。恐らくは割と近年リフォームを施したに違いない。大部屋こそ無かったため部屋は二人ずつで、という条件こそあれど、希美たちがそれに不満を覚える一分の隙も無いほどに、ここは良質な宿泊体験を提供してくれそうな上宿だった。

『これで料金は飲食含めてバッチリ予算内。みんな、私に感謝しなさいよ』

 ここに来る車中の会話にて、手柄顔の優子に希美とみぞれぱちぱちと賛美の拍手を注いでいた。それに辟易と溜め息をついてみせた夏紀だったが、まあ今回ばかりは優子にしては良い仕事をした、と内心では思っている――()()()()()()()()()()()()。希美たちは知らなくても良いことだ。だから自分の振る舞いとしては、これで良い。

 湯上りの一行は二階の客室には戻らず、いくつもの生け花や絵画で飾られた廊下を抜けて一階奥にある座敷へと向かう。四人連れということもあって部屋で食事をするのは多少窮屈になってしまう為、お食事は共用のお座敷でどうぞ、と来館時に女将から伝えられていた。

「うわー、すっごい!」

 座敷に上がってまず最初に優子が感嘆の声を上げた。その横では希美が、更衣室まで持ち込んでいたカメラでパシャパシャと卓上の光景をシャッターで切り取っている。古びた木目の和卓、その上には山海の幸が複数の大皿にこれでもかとばかり並べられていた。

「昼間からずいぶん撮ってるけど、メモリとかバッテリーとか大丈夫?」

「ご心配なさらず。どっちも替えのヤツ、たっぷり持ってきてるから」

 ぱん、と気前よくカメラバックをはたく希美はいささか得意げだった。さすが希美、と夏紀は苦笑を堪え切れない。カメラ好きを自称する希美は今回の旅行に際して自ら撮影係を買って出ており、その為の準備も抜かりはないみたいだった。道中の車窓。浜での戯れ。それらの光景を希美は余さず残しておいてくれるだろう。四人で過ごすこの時間、その中で浮かべた幾つもの笑顔もいっしょに。彼女の後ろ姿を眺めながら夏紀はうっそりと笑む。

「こちらが本日の夕食の会場になります。どうぞごゆっくり」

 ともあれ今は夕餉を楽しむ時間だ。女将に案内され夏紀たちは卓に着く。美味しそうな魚の刺身の盛り方はいわゆる尾頭つきというやつで、これだけでも四人で食べきれないのではと思える量があった。その隣では小さなかまどに載せられた鉄皿の上で、ぶ厚い牛肉がジュウジュウと胃袋に突き刺さる音を立てている。他にも小鉢によそわれた煮物や漬け物など沢山の小料理、こんがりと焼き上げられた魚の開き。そして数本の瓶ビールが、そこにはあった。

「まずは最初の乾杯からだね。あ、希美はまだダメだっけ」

「誕生日が十二月だからねー。私に構わず、みんなジャンジャンやっちゃって」

「ではお言葉に甘えまして」

 栓抜きを手に取り、夏紀はそれを瓶ビールへとあてがう。シュポン。景気の良い音を立ててバッジのような形の栓が抜け、夏紀はまず最初にみぞれへと瓶を向けた。

「私も希美と同じのでいい」

「まあそう言いなさんなって。折角の機会なんだし、最初の一杯ぐらいは挨拶のつもりで」

「そうだよみぞれ、これからはいろんな場所で飲む機会もあるだろうしさ。今は練習だと思って、夏紀たちと飲んどけば?」

 このご時世だし本気で嫌がるならやめるつもりだったのだけれど、「分かった」とみぞれは思いのほかスムーズに首肯した。それも或いは希美の勧めがあったからなのかも知れない。差し出されたみぞれのグラスに、夏紀は泡立つ黄金色の液体をいっぱいの高さまでトクトクと注ぐ。続いてウーロン茶のボトルを手に取り、希美のグラスにも丁寧にお酌をした。

「じゃーあとは各自、好きなものを好きに飲むってことで」

「ちょっと夏紀! 二人に注いで私には注がない、ってなんなのよ」

「そのぐらい自分でできるでしょ、子供じゃあるまいし」

「絶対分かっててやってんなコイツ」

「しょうがないなぁ。ホラ、注いであげるからとっととグラス出しな」

 二人の時とはうって変わってぞんざいに、夏紀はビールをドボドボと優子のグラスにそそぎ入れた。

「うわーへったくそ。泡まみれじゃんコレ」

「あれぇ、優子サン知らないんですかぁ? 注がれるときにグラス傾けてないとこうなっちゃうんですよぉ」

「よっぽどビール瓶で殴られたいみたいね、アンタは」

「おー怖っ。これだから困るわ、手の早い人は」

 ぎゃあぎゃあとかしましくしながらも、最終的には夏紀も優子のお酌でビールに満たされたグラスを手にした。

「じゃあここは希美、アンタが音頭取って」

「ええ? なんで私なの。優子がやったらいいじゃん、北宇治吹部の元部長なんだし」

「それ以前に私にとっちゃ、希美は南中吹部の部長なの。この四人だったら取り仕切りするのにいちばん適任でしょ。もういいから、泡が引けちゃう前に早く」

「何それー。中学なんてもう五年も前の話だし、とっくに時効だってば」

 などとおどけつつも、希美は一段高くグラスを掲げる。みぞれ達も胸の前にグラスを構え、各々顔を見合わせた。

「えー、それでは不肖わたくし傘木希美めが、乾杯の音頭を取らせていただきます。この四人の友情と、楽しい旅行のひと時に、乾杯!」

「乾杯!」

 カシャン、とグラスの交わる音。料理を楽しみ、会話を楽しみ、四人の宴はどんどん盛り上がっていった。

 

 

『うぎゃー! 服にかけないでって言ってるでしょ!』

 絶叫する優子の声がスピーカーから飛び出す。食事のあと、部屋へと戻った四人は希美のカメラに収まった動画を宿のモニタに映して鑑賞会としゃれ込んでいた。

「優子、とっても楽しそう」

 そう呟いたみぞれはさっきからフワフワしている。それも無理は無い。結局のところ、夕食に供されたビールを一番多くいただいていたのはみぞれだった。夏紀も優子もほど良く酔いの回ったところで酒からお茶に移行していたのだが、その場に残っていたビールをみぞれが一人で全て空け切ったことは驚嘆に値する。当のみぞれは大して顔色が変わるでもなく平気そうに見えたのだけれど、こうして部屋に戻ってゆっくり過ごすうちに酔いを感じ始めたのだろう。昼間の疲れも手伝ってか、やがてみぞれの瞳は少しずつ、とろんとゆるみ出した。

「みぞれ、もう眠い?」

「だいじょうぶ」

 優子の問い掛けにみぞれがぼそりと答える。本人はまだ起きていたがっているようだが、とは言え本人の姿勢は今にも船漕ぎを始めそうなほどに縮こまっている。それに夜もだいぶ深まってきた。頃合いだろう、と夏紀は優子にそっと目配せをする。

「それじゃ今夜はそろそろお開き。明日に備えてもう寝ましょ」

「だね。まだまだ楽しみは盛りだくさんなことだし」

 優子に賛同して動画を止めた希美が立ち上がり、モニタからケーブルを引っこ抜く。彼女がそれらを手早くまとめているうちに、夏紀と優子は足元に広げていたたくさんのお菓子やジュースを部屋の隅に寄せてあったテーブルへと運んだ。これで床の上に残っているのは、二人分の布団だけだ。

「明日は七時起きだからね。くれぐれも夜更かしして朝ご飯に間に合わない、なんてことの無いように」

「ヘイヘイ」

「あと、そっちのことはよろしくね」

「お任せされました」

 ヒラヒラと優子に手を振ってみせ、それから夏紀は髪を結わえていたゴムを引き抜く。ばさり、と跳ねっけの強い髪の毛が、顔の周辺に散らばった。

「じゃあ行くわよ」

「うん。おやすみ夏紀、みぞれ」

 就寝の挨拶をして部屋を去る優子の後にもう一人分の後ろ姿が続く。今夜優子と相部屋になった人物。それは、希美だった。

 

 

 

 

 それは宿に着いて程なくのことだった。

「割り当てはコレで決めるよ」

 二人ずつに分かれると予め知っていたのもあり、『部屋の割り当てをどうしようか』という問題への解決策を夏紀はきちんと用意してあった。手に握ったのは紙で作った四本のひも。こういう時は平等にクジ引きで決めよう、ということだ。

「赤い印つきの人同士、ついてない人同士がそれぞれ同じ部屋ってことで。先に行っとくけど、結果についてはノークレームでお願いしまーす」

 一応の断りを入れつつ、夏紀は希美に向けてクジを差し出す。

「じゃあまずは希美から、順番にどうぞ」

 はーい、と何の気なしに希美はクジを引き抜く。クジの先端には赤い印がついていた。それを覗き込むようにして、優子が希美とみぞれの間に割り込む。

「次はお隣の優子さん、どうぞ」

「任せなさい、こう見えてもクジ運は強い方なんだから。絶対負けないからね」

 何の勝負してんの、などと希美に突っ込まれつつ、エイヤっと優子がクジを抜く。そこにも赤い印。その瞬間、ペアは決まった。

「なんだ、二人目で早くも終了じゃん。せっかくクジ作ったのに」

 拍子抜けだわー、と二人から回収した分も含めて旅行かばんにクジを押し込み、夏紀はみぞれを向く。

「というわけで私たちがペアだね。今夜一晩よろしく、みぞれ」

 こくり、とみぞれが頷く。彼女はこの結果を内心残念がっているかも知れない。だがそれで良いのだ。「今夜はよろしくー」と呑気にしている希美を尻目に、夏紀はこっそり優子を見やる。交わる視線。希美たちに気付かれぬよう、二人は小さく頷き合った。

 

 

 

 

 パチリ、と照明を落とすと、なんだか他の雑音まで一緒に掻き消えてしまった気がする。静まり返った室内には、寄せては返す波の音だけが遠く響いていた。

 みぞれは先に寝床に入り、すうすう、と穏やかに寝息を立てている。それを眺めながら夏紀も布団に腰を下ろした。昼間の運転の疲れもあるし、それに役割はじゅうぶん果たした。さっさと寝て明日に備えよう。そう思い、もそりと掛け布団をまくり上げる。

「夏紀?」

 それは布団をかぶって枕に頭をつけたのと同時だった。耳元に沁み込む涼やかな声に、はたと夏紀はそちらを向く。

「みぞれ。ごめん、起こしちゃった?」

「起きてた」

 布団を被ったみぞれは目だけをしっかりとこちらに向けていた。てっきりあのまま寝付いたとばかり思っていたのだが、どうやらそうでは無かったらしい。

「夏紀と、話がしたくて」

「私と?」

 みぞれの言を、夏紀は少しばかり意外に思う。希美や優子ならまだ分かる。けれど、自分とみぞれの接点はせいぜい高校時代の同級生、それと吹部の仲間であったという、その程度だ。決して仲が悪いわけではないけれど、かと言ってあの二人ほど親密な関係でもない。それに有り体に言って「鎧塚みぞれ」という人物に、夏紀は複雑な感情を抱いてもいた。

「話って、どんな話さ?」

「大したことじゃない。でも、いまじゃないとできない気がする」

「ふうん」

 相槌を打ちつつ足をもぞりと動かす。布団の中はまだひんやりとしていて、眠気を催すにはもう少し体温が移るのを待つ必要がありそうだった。

「夏紀は、希美のことが、すき?」

 げふ、と夏紀は思わずむせてしまう。その質問はあまりに予想外過ぎて、受け止める準備ができていなかった。

「そりゃまあ友達だし、今もこうやって一緒に旅行に来てるぐらいだし、好きっちゃ好きだけど」

「ずっと考えてた。夏紀が吹部に入った理由。もしかして、希美のこと追いかけてたのかなって」

「へえ」

「そうだったの?」

「どうだったっけ。しばらく前の話だし、もう忘れちゃったなー」

 天井を向いて、夏紀はみぞれの問いをはぐらかす。暗がりの中でも天井にはいくつかの黒い染みを数えることが出来た。

「強いていうなら、高校でなんかそれまでと違うことをしたかった、ってのはあったかもね」

「ちがうこと?」

「中学の時は帰宅部だったからさ。ギターとかは弾いてたけど、他に趣味らしい趣味も無かったし。せっかく高校生になったのに学校行って予備校行ってあとは家帰るだけ、ってのも味気ないじゃん。だから何かしたかったって、そんな感じ」

 すん、とみぞれの鼻が鳴る。果たしてそれは納得の意思を示したものなのか。あまりの捉えどころのなさに焦れて、夏紀は切り返しを図る。

「そういうみぞれは? 希美のことどう思ってるの?」

「私は、希美のこと、」

 答えは解り切っていた。みぞれならばきっとこう答えるのだろうと。だから夏紀は目を瞑り、意識を沈めることに集中する。布団にも次第に己のぬくもりが移り始め、これなら気持ちよく眠りに就けそうだと感じ始めた、そのときだった。

「――好きだった、と思う」

 その回答に、寝ぼけかけていた夏紀の意識は一瞬で覚醒してしまった。

「だった?」

 枕から頭を上げ、夏紀はみぞれを見やる。横向きになりながら少し俯き加減に掛け布団へと顔をうずめ、そのままの姿勢でみぞれはぽつぽつと紡ぎ始めた。

「昔はそうだった。希美のことが好きで、だから高校でも一緒に居たいって思って、希美が選んだ北宇治に私も行くことにした。でも途中で希美が吹部を辞めて、ひとりになって。それが辛かった。苦しかった。なにより嫌だったのは、そうやって希美に執着してる自分のこと。なんでこんなこと考えるんだろう、気持ち悪い、ってずっと思ってた」

 みぞれの口からぼろぼろとこぼれ出す、凄絶な告白。それに息を呑まずにはいられない。気持ち悪い。この子が自分自身をそんな風に思っていただなんて、優子からも誰からも聞いたことが無かった。きっと過去、誰一人としてこの告白を受け止めた者はいないに違いない。そんなことを考えつつ、夏紀は黙ってみぞれの言葉を受け止める。

「高校二年の時、希美が帰って来てくれて、嬉しかった。また一緒に、ううん、これからはずっと一緒にいられるって、そう思ってた。けど三年生になって、コンクールの時に色々あって、希美とは別々のところへ行くことになった」

「だね」

 返事をしつつ、夏紀も当時のことを思い返す。あの頃、希美は何度か自分に相談をしに来ていた。進路のこと。みぞれのこと。それと共にあの日の出来事が頭に浮かぶ。希美とみぞれ、二人の道が決定的に分かたれた、あの瞬間。悔しさに泣き濡れたまま、いずこかへと姿を消した希美の横顔。それらは今でもはっきりと覚えている。

「その時は私、希美の気持ちが全然分かってなかった。だから希美に八つ当たりみたいなことしちゃって。でも最後は希美にちゃんと送り出してもらえて、私は一人でもがんばるしかないって思った。どんなに辛くても、寂しくても」

 うん、という己の返事がどこかぎこちない。思えばこうしてみぞれの言い分を聞くのもこれが初めてのことだ。今までは想像と優子の証言によって補われていたみぞれの心理。それが今は剥き出しになって、猛然と夏紀の聴覚に襲い掛かってくる。

「でも音大に入ってからもずっと、私の中には、希美がいた」

 みぞれの瞳に悲壮感は浮かんでいない。まるで心の棚おろしをするみたいに、ひも解いた過去の記憶をあるべき場所へと並べ替えているかのような雰囲気のまま、みぞれは淡々と語り続ける。

「どこかに希美がいるんじゃないか。すぐ隣に希美がいてくれたら。気が付けばそんなことばっかり考えてた。それは、希美が私にとって特別だったから。希美がずっと、私を照らしてくれてたから」

「なんとなく分かるよ、それは」

「でも、こないだ希美が風邪引いて、希美のことを看病してて、思った。何とかしてあげたい、私も希美のことを照らしてあげたい、って。その時に少しだけ、こんな事も思った」

「何を?」

「私、今までずっと、自分勝手だったんじゃないかって」

 ひょう、と一陣の風が窓ガラスを叩きつける。つられて目を向けたその先には、ぼんやりと滲んだ月が寂しげに虚空を舞っていた。

「それまでは希美の方が勝手だって思ってた。急にいなくなったり、一方的に結論出して私の言うこと全然聞いてくれなかったり。だからそれを希美にぶつけたこともあった。でももしかしたら私も、私の思う通りの希美であって欲しいって勝手に思ってた、そんな気がして」

 しゅるり、とみぞれの布団から衣擦れの音が聞こえる。なにかに縛られたように、夏紀は口を挟むことが出来ぬままでいた。

「……それまではずっと、私は希美に『して欲しい』って思うばっかりだった。希美に『してあげる』って思うことがなくて、だから、私はずっと希美に期待ばっかりしてたんだと思う」

「どうなんだろうね、それは」

 そうとしか夏紀には言えなかった。肯定も否定もできない。けれど何かがひとつ、核心に向かって近づいている。そんな気がする。

「けれどそれじゃいけない、って気が付いて。あれからずっと考えてた。私が希美にできること。希美が私に求めてること。それが分かるようになったらきっと、私と希美、今までとはなにかが変わる気がしてる」

「それって何だと思うの? 希美が求めてるもの、って」

「まだ分からない」

 ぱちり、とみぞれの瞼がおもむろに瞬く。喋り疲れてきたのだろうか。それとは対照的に、夏紀には睡魔の忍び寄る気配などこれっぽっちもありはしなかった。

「夏紀にも、分からない?」

「悪いけどサッパリ」

「そう」

「でもなんとなく思うよ。多分、今のみぞれの気持ちは間違ってない、って」

 それは本心からの一言だった。みぞれが目を瞠るのを見て、夏紀は改めてみぞれに問う。

「それで今の希美のことは、どう思ってるワケ?」

「いまは、――希美のこと、今は……わたし……」

「みぞれ?」

 みぞれの声は次第に減衰していき、そしてふつりと途絶えた。さっきまで月明かりを映していた彼女の瞳も、今はもう完全に瞼に遮られてしまった。ふう、と一息をついて、夏紀は布団をかぶり直す。とても寝るどころじゃなくなってしまったが、ともかくあのみぞれがこんな事を考えていたとは。ほんの少しだけみぞれの心を汲むことは出来たがさてしかし、と夏紀はぼんやりと思索を巡らせる。

「あの子だったらこういうとき、どうしたんだろう」

 夏紀には高校時代、出来の良い後輩が一人いた。人の輪の中にそっと溶け込んでいるようでいて、何かとあればその心を搔っ捌いて露わにし、そこから何かを繋ぐ。そんな凄い能力を持った子。彼女に救われた人は多い。自分だって何度も助けられた。そんなあの子を自分が救ってあげられたことが、たったの一度でもあったかどうかは分からない。彼女のことを思い出すときはいつだって、あり余るほどの温かさと、ほんの少しの悔しさがあった。自分なんかがどう頑張ったってあの子のようには振る舞えない。そういう類の悔しさが。

「さて、あっちは今ごろどうしてんのかね」

 呟きながら寝返りを打ってみる。視線を向けるその先から物音は一つたりとて聴こえやしない。ちゃんとうまくやってるだろうな、アイツ。などと考えているうちに波の音に誘われるようにして、夏紀の意識は少しずつ、夢の沖へと漕ぎ出していった。



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3.吉川優子

「で?」

「で、ってなによ」

 部屋に入るなり声を掛けて来た希美に、優子はじとりと視線を向ける。

「またまたとぼけちゃって。とっくに気付いてるよ」

「だから何がよ」

「部屋割り。細工してたんでしょ、クジに」

 どすり、と肝に重たい衝撃が走る。まさか。優子が凝視したその先で、希美はこちらの反応に確信を得たかのようにニヤリとほくそ笑んでいた。

「……いつ気付いたの?」

「あえて言えば最初っからかな。こんな良いお宿なんだし、ホントは四人で泊まれる大部屋もあったんでしょ? それなのに二人部屋しかないって言うし。わざわざ空き部屋調べたりはしなかったけど、これはなんかあるなって。で、いざクジ引いてみたら都合よく私と優子の二人が連続アタリ。さすがに怪しいって思うよ」

 それもそうか、と優子は降参の溜め息を洩らす。希美の慧眼を前にして、これ以上ごまかすことはもはや不可能そうだ。

「でも、だったらどうしてあのとき夏紀にツッコまなかったのよ? クジに細工してるでしょ、って」

「いくら私だってそこまで野暮じゃないよ。それに私はけっこう本気で、誰と一緒の部屋になっても良いって思ってたし」

「それはみぞれでもそれ以外でも、ってこと?」

「もちろん」

 しっかりと首肯する希美。それは優子にとっては少々意外な展開だった。てっきり希美はあの子と一緒の部屋が良いと思っているに違いない、とばかり考えていたのだが。

「それより細工の仕込みが知りたいんだけど、どうやってたの?」

「カンタンよ。全部のクジに印つけといて、あとは順番固定で引かせるだけ。わざわざ私が希美とみぞれの間に割り込んだのはそれが理由」

「なるほど、シンプルで確実な方法だね」

 クツクツと希美が喉を震わせる。そんな彼女の不審な様子を、優子は注意深く観察していた。この感じ、希美も別に怒ってはいないのだろう。かと言って、純粋な好奇心からこんなことを尋ねているわけでも無い筈だ。果たしてこの子の心中は。希美の表情からそこまでを探り出すことは、もう一つできなかった。

「言っとくけど、バレてたって話、夏紀には絶対しないでよね。アイツなりにけっこう頑張って演技してたんだから」

「はいはい。ホント優子は素直じゃないよね。そういうの、もっと本人に言ってあげたらいいのに」

「バカじゃないの。あんなヤツに言うわけないし」

 さっきから希美の振る舞いはやけに軽妙で、却ってこっちが調子を狂わされてしまう。まるであの先輩が希美に乗り移っているみたいだ。そんなことを思いつつ、優子はテーブルに置いてあったペットボトルを手に取りキャップを捻る。あとでトイレに起きることになるかも知れないのは少々億劫だけれど、今はそんなことよりも、緊張と動揺のせいですっかり渇き切ってしまった喉を潤したかった。

「それで? 誰とでも良いと思ったって、どういう心境の変化よ」

「まあそれは、お布団の中でってことで」

 希美はそう言って足元を指さす。事が露見してしまった以上、場の主導権は完全に向こうに握られていた。優子はしぶしぶ布団に潜り込み枕に片肘をつく。希美も隣に寝そべり、二人はそのまましばらく睨み合う恰好となった。

「怒らないの? 私たちがいろいろ仕込んでたこと」

「なんで怒んなくちゃいけないの?」

 怪訝そうに希美が尋ね返す。それは、とまで言い掛けて、優子はその先をしばらく口にすることができなかった。

「一応は、希美のこと騙したわけだし」

「そんなの気にしないって。いいかげん付き合いも長いんだし」

 声量を抑えつつくすくすと、希美は笑った。

「むしろ感謝してるよ。優子とこうやってじっくり話す機会、あんまり無かったし」

「それはそうね」

「だからこの組み合わせにしたのもきっと、優子が私に言いたいことあるんじゃないかなー、って思ってた」

「そこまでお見通しなら、さっさと本題に入った方が良さそうね」

 片肘を崩し、そして優子は布団から身を起こす。

「私の話は、もう薄々勘づいてると思うけど、アンタとみぞれのこと」

 キッ、と優子は真摯な眼差しで希美を見据える。それを受ける希美もまた、うっすらと浮かべていた笑みを引っ込めた。

「最近みぞれとはどうなの?」

「どう、ってば?」

「だから普通に連絡取り合ってるかとか、一緒にどこか遊びに行ったりするかってこと」

「んー、一緒に遊んだりはないかな。みぞれも忙しかっただろうしね。でもあれ以来、ちょくちょく二人でメッセージのやり取りはしてるよ。今日大学でこんなことあったよーとか、あそこのアイス美味しかったから今度食べてみてとか、そんな感じのことばっかりだけど」

「ふうん」

「優子だって知ってるんでしょ?」

「まあね」

 優子は日頃からみぞれと連絡を取り合っている。そしてそのみぞれからは『希美からこんな連絡が来た』という報告がひっきりなしに寄せられていた。つまり希美とみぞれの会話内容は、ほとんど優子に筒抜けだった。

「それが私にはけっこう驚きでさ。希美、ついこないだまでみぞれには直接連絡すること無かったじゃん。そりゃあアンタの気持ちとか事情は私も知ってるし、いろいろ分からないじゃないけど」

「でもホントはちょっと私に怒ってたでしょ、優子」

 そりゃあ勿論、というのは偽らざる優子の本心だった。だいたい希美はいつも勝手が過ぎる。みぞれに何の相談もなしに吹部を辞めて、自分が戻りたいからという理由だけで吹部に戻ろうとして、みぞれと同じ音大に行くと言い出して、それをあっさりと撤回して。そんな希美の身勝手な行動にみぞれの心が翻弄されっぱなしだったのは、疑いようの無い事実だ。

 悲しみ、苦しみ、そして呻くみぞれの姿を、優子はずっと彼女の傍で見て来た。みぞれのことが可哀そうだ。もっとみぞれと向き合うべきだ。ずっとそんな思いを抱えながら、それでも努めて一人の友人として、優子は希美と接し続けてきたのだった。

「だからなのかな。このタイミングで優子と話しといた方がいいかなって、そんな風に思ってて。だから却って良かったよ、優子と同じ部屋にしてくれて」

「それって皮肉のつもり?」

「残念ながら混じりっけなし、濃縮100%の感謝です」

「ホント、今夜の希美には調子狂わされてばっかりだわ」

 ハー、と大げさに憤懣を吹き飛ばし、優子は天井を仰ぎ見る。そこに浮かぶ大きな染みには流石に宿の年季というものを感じ取ることが出来た。けれどそれもまた、この宿が培ってきたであろう年月の妙を慮ることができて、悪い気はしない。

「まあ、最近みぞれと普通にやり取りできてるのは、こないだの風邪のおかげかな」

「こないだって、五月のアレ?」

 うん、と枕に頭をつけたまま、希美が頷く。

「あのときはホントヤバくてさ。私このまま死ぬんじゃないかー、ってぐらい辛かったんだよね。けど、そこにみぞれが来てくれて。まぁ呼んだのは私だし、それも熱のせいで操作ミスったからなんだけど」

「後から真相聞いた時は呆れたけどね。自業自得っていうか、出来の悪いドラマみたいな話だし」

「だけどね。あのときみぞれが来てくれて、私のこと一生懸命看病してくれて。ちょっとあちこち抜けてたのはみぞれらしかったけど、それでも頑張ってくれるみぞれを見てて、何て言うのかな、今まで色々抱えてたものが全部バカらしくなっちゃったって言うか」

「バカらしい?」

「みぞれ自身は本当に、ただ『みぞれ』なだけなんだなあ、って。私が勝手にあの子はすごいとか舐められたくないとか、そんな風に思ってただけで」

 それは今まで固く封じられ決して表に出ることの無かった、希美自身の本音。そうと直感して優子はおもむろに布団に寝そべる。それはいま希美に目線を合わせるべきだと、そんな風に自分の心が告げていたからだった。

「私さ、たぶん自分で思ってたよりずっと、音楽が好きなんだと思う。今だって結局オケやってて音楽からは離れられてないし、実のところ他の人たちにも負けたくないって、そう思ってる」

「実際うまいでしょ希美は。少なくとも私なんかより」

 ありがと、と微かにはにかんで、希美は続きを述べる。

「自分の好きなことで、音楽で、他の誰にも負けたくなかった。努力を続けることが、好きでい続けることが何より一番の才能なんだって、そんな風に考えてた時期もあったと思う。だからあのときは、そういう考えを全部みぞれに粉々にされた気分だった。本物の才能に、それも自分で掘り起こした才能に、努力っていうものの価値を全部否定されたっていう、そんな気分」

 黙って希美の語る言葉を聞きながら、優子はだいぶ前にみぞれから聞いた話を思い出していた。みぞれが中学で吹部を選んだ理由。それは希美に誘われたから。教室でいつもひとりぼっちだった自分に最初に声を掛けてくれたのが希美だったから。そう語った時の、少し嬉しそうだったみぞれの横顔と一緒に。

「これ以上がんばったって、私じゃどうにもならない。それを目の前に突きつけられたときはサイアクだったよ。私に与えられなかったものを全部持ってるみぞれはずるいって、実際に本人にそう言ったこともある。いろんな意味でカッコ悪かったなあ、あのときの私。ホント、今思い返しても、サイアク」

 ふ、と乾いた希美の自嘲が室内に跳ね返る。圧倒的なうまさ。どうにもならない壁。それに打ちのめされた経験は優子にもある。それも自分自身ではなく、心から尊敬する対象がそうなってしまった瞬間に立ち会うかたちで。

「コンクールの時、せめてみぞれのソロを完璧に支えてやるって思ったのは、私の意地だった。才能なんて無くたっていい。努力以外に能のない人間でもいい。それでもここまでやれるんだって、みぞれに、周りに、見せてやる。多分そういう気持ちが私の中に燻ってたんだと思う。そのせいで私はずっとみぞれを避けてきた。だけど一度ぶつかり合って、それのおかげで、ちょっとだけみぞれのことが解った部分もあったんだ」

「解ったって、どんなこと?」

「口じゃうまく言えない。けど何となく、みぞれはこう考えるだろうな、とか。みぞれならきっとこうする、とか」

 思い当たる節は無いでもない。話を遮るような真似はせず、優子は小さく相槌を打つ。

「それからはずっと私の中にみぞれのことを認めたくないって気持ちと、みぞれのことを解りたいって気持ちとが、ごちゃごちゃになって混ざってた気がする。それが風邪の時に、なんでか分かんないけどスルッてほどけた感じになってさ。みぞれがどんな風に私のことを思ってても、私がどんな風にみぞれを見てても、それとお互いの気持ちとは関係ないことなんだ、って。そう思ったら急に、みぞれと普通に接していられるようになった」

 ジジ、とつけっぱなしの蛍光灯が、むずかるように己が存在を主張する。消さないと、なんて気持ちには到底なれなかった。少し首をすくめ、たっぷりと日干しされた布団のかおりを肺の奥に吸い込みながら、優子はじっと続きを待つ。

「私ずっとさ、みぞれと一緒に過ごしてきたのに、みぞれのこと何にも知らないままだったんだと思う。みぞれはこういう子だって決め付けて、思い込んで、本当のみぞれを知らないままで過ごしてた。才能がどうこうなんて関係なく、あの子自身のことをもっとちゃんと見てあげてたら、きっと私はあの頃でもみぞれのことをきちんと祝福して送り出せてたんじゃないか、って」

「希美がそんなふうに思ってるなんてね」

「意外?」

「チョー意外よ。おかげで、言いたかったことまで忘れちゃうぐらい」

 本当は今日この場で希美に言ってやりたいことが幾つもあった。そしてそれが、本来の目的を果たすことにも繋がる筈だと。けれどもしかしたらその問題にも、希美の中ではもうとっくに答えが出ているのかも知れない。あるいは答えに辿り着いていなくても、いま希美が向いているのは限りなく、それに近い方角だ。そんなことを、優子は希美の雰囲気から感じ取る。

「それで? これからのことはどうするつもりなの」

「みぞれとのこと?」

 んー、とそこで希美は考え込むような仕草を見せた。

「分かんない、かな。私がどうこうってより、こうしてるうちに自然にどっかに辿り着いていくんじゃないか、って気がする。なるようになるっていうか、多分そんな感じだよ、きっと」

「ずいぶんとまあ、楽天的なことで」

「優子はどう思う? 私とみぞれがこれからどうなるか、どうするべきか」

「アンタたちに分からないことが、私なんかに分かるワケ無いから」

 すげなく告げて、優子は頭を枕に押し付ける。重しを掛けられた枕がミシ、と苦しげな声を上げた。

「当人同士の問題、ってやつでしょ。少なくとも私は、何か行動するから何かが変わる、って思ってるけど」

「そうだね。――優子もさ、けっこうあの後輩の子の影響受けてるよね、何気に」

「どうかな」

 誰のことを言われてるのかすぐに思い当たり、優子は希美の反対側へと寝返りを打つ。今夜はこのまま寝落ちてもいい。ここから先の領域は自分たちが関わるべきじゃない。そう判断することができたのが、一番の理由だった。

「……そんなふうに考えられるようになったのは、あの夜のこともあるけどさ」

 自分の背中に声を掛けるように、希美がぽつりと洩らす。

「いつまでもこうやって一緒に過ごせるとは限らないって、それに気付いたから、かな」

 え、と優子は息を詰まらせる。

「希美?」

 振り返った先にあった希美の表情は、何かを想像する時のようにうっそりと温度の低い笑顔を形作っていた。じわ、と背骨のあたりを何かが這う感覚。後ろ手に背中をこすり、追って尋ねようとしたその言葉を、しかし優子は呑み込んでしまった。

「だから、優子には感謝してる。もちろん夏紀にも」

 やめてよ。そう言いたかったのに、言葉が喉につっかえてうまく出てこない。そのまましばらく、二人とも押し黙ってしまった。

「それにしても、優子も思い切ったよね。わざわざ旅行組んでまでこんな話するつもりだったなんて、けっこう勇気要ったでしょ?」

「……まあね」

 話題を急にすり替えられ、うろたえつつも優子は肯定する。実のところ、食事の席で慣れないお酒を飲んだのもそれが理由だった。素面じゃとてもこんな話は出来ない。普段優子がこの話題を丁寧に避けてきたのは半分はみぞれの為であり、もう半分は希美の為でもあったのだから。

「でもようやくこういう話ができて、今はちょっとスッキリしてる。ありがとね、優子」

「どういたしまして」

 目を合わせ、そしてクスリと笑い合う。こんなやり取りを希美と交わすのもこれが初めてのような気がする。希美は希美なりにいろんな思いをしてきた。いろんなことを考えていた。そして希美は今、その全てに向き合おうとしている。それが解っただけでも、優子にとってはもう充分だった。

「ところでさ。実は私も、前から優子に聞きたい事があったんだけど」

「なに?」

「優子、いま夏紀と一緒に暮らしてるでしょ」

 突然の図星に、はあ?! と優子は素っ頓狂な声を上げてしまった。

「な、ちょ、希美、なんでそれ、」

「さすがにバレてるよー、みぞれは多分気付いてないけど」

 愉悦の表情を宿らせた希美が、その詳細を次々と述べていく。

「部屋のあちこちに優子のシュミじゃないものが置いてあったりするし、食器の数も前より増えてるし。それとたまに夏紀と街中でバッタリ会うけど、駅と全然違う方向に帰ってるからね。で、その先にあるのが優子のアパートでしょ? 今回の件も併せて考えると、そりゃあ二人がアレコレ仕込めたハズだよね。時間はたっぷりあっただろうし」

 あわわわ、と口からヘンな音が洩れてしまう。よりにもよってそこに気付かれるとは。そのときの優子の気分はまさしく、サイアクだった。

「二人がどういう関係になってるのか、詳しく聞きたいなー? これだけ私も話したんだし」

 うぐぅ、と自分の喉が悔恨の念をがなり立てる。あらゆる意味でのアドバンテージを希美に握られ、もはや優子にはどうすることもできそうになかった。

「……希美はホント、変わったよね」

「そう?」

「視野が広くなったっていうか、目ざとくなったっていうか。心の余裕ができたせい?」

「それはあるかも」

 ニタリ、と希美の口角が引きつるように持ち上がる。その表情はやっぱりあの優秀で偉大な先輩が良く浮かべていたそれにそっくりだった。一つ息を吐き、それから優子はありったけの恨めしさを込めてたっぷりと、希美を睨みつける。

「言っとくけど、これも絶対言わないでよね、夏紀には」

 はいはい、とにやつきを崩さない希美。どうやら今宵は長い夜になりそうだ。そう覚悟する優子の耳には、浜辺の奏でるザザアという潮騒の音が響いていた。



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4.傘木希美

 ふと目が覚めて、それから希美はあたりの様子をそっと窺った。

 ゆうべ遅くまで話し込んだせいか、隣の布団にいる優子は未だ深い眠りについている。それはお酒のせいもあったろう。先に寝落ちたのは彼女の方だったし、部屋の灯りを消したのも自分だった。ふう、と軽く息をついて、むくりと起き上がる。近くに置いてあったカメラバッグを手に取り、物音を立てぬよう静かに動き、紺色の羽織に袖を通して、希美はそろりと部屋を抜け出した。

 

 

 高校までの習慣のせいか、毎朝の早起きはすっかり体に沁みついている。むしろ早起きをしない日は却って体調が悪いと感じるぐらいだ。皆が起きるまでそぞろに散歩でもしてこよう。そう思い、玄関のサンダルをつっかけた希美はぶらぶらと近くの浜辺へ向かった。後ろの山際から昇り始めの陽光が射し込み、辺りの光景は薄いオレンジの光を帯びている。海岸沿いの道路をひょいと渡り、浜辺へと降りる階段の途中で、希美は浜に一人佇む先客の存在に気が付いた。

「希美」

 先に声を掛けてきたのは、自分と同じく浴衣に羽織姿のみぞれだった。おはよう、とあいさつをしながら希美はみぞれの元へと近づく。

「早いね。何か用事あった?」

「ううん。いつもこの時間に起きてるから、くせで。希美は?」

「私もそんな感じかな。夏紀は……まだ寝てるよね」

「ぐっすり。たぶん、お酒のせい」

「それ言ったら、ゆうべ一番飲んでたのはみぞれだと思うけど」

 今朝のみぞれはやけに涼しい顔をしていた。こう見えてみぞれはけっこうザルな体質なのかも知れない。お酒に酔う気分とは一体どんなものなのか、まだ飲んだことも無い希美には想像することすら難しいものがある。

「せっかくだし、朝の海でも撮っとこうかな」

 そう思い立ってカメラバッグのふたを開けようとした拍子に、バッグの端から丸められたハンカチがするりと落ちてしまった。さく、と軽やかな音を立てて砂浜にめり込むハンカチ。みぞれがそれに手を伸ばし、彼女はおもむろにその包みをほどいていく。

「きのうの、貝殻」

 取り出された貝殻の半片。それは朝日を浴びてきらきらと、えもいわれぬ輝きを放っていた。その眩しさに目をすがめつつ、希美は素直にきれいだ、と思う。貝殻も、それを持っているみぞれのことも。

「はい」

 滑らかに貝殻を捧げるみぞれに、希美は一瞬うろたえてしまう。ありがとう? というへんてこな返事に、みぞれは微かに喉を震わせた。受け取った貝殻を一旦羽織のポケットにしまい込み、それから希美は改めてカメラを取り出してファインダーを覗き込む。

「ありがとう」

 不意にそんなことを言われ、いったい何に? と希美はカメラを構えたままの姿勢で振り返る。

「一緒に旅行、来てくれて」

「なんで? 私だって旅行来たかったし。優子たちともそうだけど、みぞれとは特に」

「だから、ありがとう」

「お礼を言われるようなことじゃないって」

 希美は構えたカメラを下ろさなかった。今のこの表情を、みぞれには捉えられたくない。だって、まだ旅行は、続くんだから。

「優子からは、もう聞いてる?」

「なんのこと?」

 そ知らぬふりを貫いて、希美のレンズは日の昇る山際を向く。眩しい。目が焼けつく。きっとそのせいだ。今の自分が、こんなふうになっているのは。

「来月から私、海外に留学する」

 ぽつりと告げられたその宣告を、希美は聞こえないふりをしたかった。けれど辺りにさざ波の音しかないこの場所では、それも叶わぬことだった。

「音大の先生に勧められて、二年間。すごく有名な奏者が教えてくれるから、プロになるためには行った方がいいって。いろいろ考えたけど、そうした方がいいって自分で決めたことだから、だから私は海外に行く」

 そうなんだ、と答える自分の声が震えているのがはっきりと分かる。みぞれがいなくなってしまう。その事実を随分前から希美は知っていた。だからこそだった。この機会に免許を取ろうと考えたのも、夏紀が旅行しようと言い出したのも、優子が今回自分と話をする為に画策していたのも、それは、全部、なにもかも。

「だから、良かった。その前にみんなと、希美と、たくさん思い出が作れて」

 喉から嗚咽が漏れそうになる。しっかりピントが合っているはずのファインダーには何も映らない。ただ寄せては返す波の音だけが、胸に巻き上がる正体不明の感情をざらざらと撫でつけている。

 不思議だった。

 あんなに痛いと思ったのに。

 あんなに苦しいと思ったのに。

 あれほどまでに打ちのめされたはずなのに。

 当たり前だと思っていたものが、すぐそばにあると思っていたものが、ずっと遠くにいってしまう。それがこんなにも痛くて苦しいものだなんて、思ってもいなかった。そしてそのことに、これほどまで自分が打ちのめされる事になるだなんて。

「すごいじゃん、やっぱりみぞれは流石だよ」

 明るい声でそうとだけ言って、希美はみぞれへとカメラを向ける。きらきらと輝きを帯びるみぞれの姿。それは今までに見たどんなみぞれよりも美しくて、儚げで、綺麗なみぞれだった。

「希美は、うれしい?」

「嬉しいに決まってるって。みぞれがもっとすごいところに行くんだよ? 自分のことみたいに嬉しい。私、応援してるから」

 嘘ではなかった。もっと言えばほんの少し、みぞれのことを誇らしくさえ思う自分もいる。がんばれと願う気持ちだって本物だ。そうだ、嘘ではない。ただ、それだけじゃないだけで。

「だったらどうして、泣いてるの」

 やっぱりダメだ。カメラじゃごまかし切れない。カメラを握る希美の手から力が抜けていく。ファインダーにびっしりとこびりついた自分の涙。みぞれの顔をまともに見ることは、できなかった。

「なんでだろ、自分でも、良くわかんない」

 一生懸命我慢していた嗚咽が、とうとう溢れ出してしまう。何に憚ることもなく、そのまま希美は暫くの間、ただ砂の上にぽつぽつと涙を落とし続けた。

 ようやく向き合えると思ったのに。ようやく解ってあげられると思ったのに。その相手はまた遠くへ行ってしまう。それも今度は、物理的に。気軽に会える距離じゃない。今までより忙しくなるみぞれを煩わせるわけにもいかない。その現実に、希美は完全に打ちのめされていた。

 そっと頬に、何かが添えられる。それはさっきのハンカチ。みぞれはそのハンカチで、希美のこぼす涙を拭ってくれていた。

「泣かないで」

 その一言を聞いた時、もう感情を堪えることは無理だった。希美はおもむろに手を伸ばし、子供が親にそうする時のように只々みぞれへ縋り付く。いやだよ。さみしい。そんな言葉を吐くことなんて、自分には許されない。だから希美は声を押し殺し、ひたすらにみぞれの温もりをこの手に抱き続けるしかなかった。

 やがて、噴き上がった感情も少しずつ収まってきた。希美はゆるりとみぞれから離れる。ゴメン、とだけ言ってみぞれからハンカチを受け取り、希美はまだ目頭に残る涙をごしごしと拭う。

「分かれても、」

 唐突に、みぞれが何かを言い掛けた。そのまま惑うような彼女の仕草に、どうした? と努めて明るく、希美は尋ねる。

「きのう希美が言ってた短歌。思い出せなくて」

 ああ、と希美はみぞれとのやり取りを思い出す。そしてポケットにしまった貝殻を、そっと取り出した。

「みぞれもこれ、持ってきてる?」

 少し怪訝そうにして、それからみぞれはこくりと頷き、希美と同じように羽織のポケットから貝殻を取り出した。そうして二人とも言葉無く、互いの貝殻をカシャリと擦り合わせる。

「瀬をはやみ、岩にせかるる滝川の、われても末に、逢わむとぞ思う」

 みぞれに教えた百人一首。それを詠み上げてから、希美も気付いた。みぞれの言いたかったことに。

「留学期間が終わったら、必ず帰ってくる。希美のところに」

「うん」

「だから、希美には笑顔でいてほしい」

「うん」

「希美」

「なに?」

「私、希美のことが、すき」

 日の光がいっそう強くなる。それを照らし返す海原の水面もまた、燦然と輝いていた。

 目の前のみぞれに返す言葉はもう、とっくに決めていた。カシャ、と乾いた音を立てる手の中の貝殻ごと、希美はみぞれの手を握り締める。シャッターを切った景色が自分の心に刻まれるのと同じように。いつか離さなければいけないのだと知っていても、その手触りとぬくもりを、いつかきっともう一度掴む日の為に。

 朝焼けはどこまでも柔らかく二人を包んでいた。みぞれに答えを返してから宿に戻るまでの間ずっと、二人の手は固く繋がったままだった。



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エピローグ

「行っちゃったね、みぞれ」

 遠のくジェットの轟音へ向けて、夏紀が何かを噛み締めるようにぽつりと呟く。うん、と頷いて、希美はみぞれの旅立った空の軌跡へと目をやった。

 見送りの場にはもちろん、当のみぞれを含めた四人全員が揃っていた。みぞれのアパートからここまでの道のり、運転を担当したのは希美だった。優子や夏紀には任せたくない。みぞれを送り出すのは自分の役目だ。そんな自負のような想いがあったことは確かだ。そのとき名乗りを上げた自分に、それまで運転手の座を巡って争いを繰り広げていた優子も夏紀も、何も言わずハンドルを譲ってくれた。友人たちのさり気ない気遣いは、いつだって自分たちを包み込んでくれている。そのことに今は感謝の念しか無い。

「四人で撮った写真、綺麗に撮れてるかな?」

「どうだろ。他の人にお願いしたヤツだし。見てみたいけど、今はガマンだね」

 優子の問いに希美は肩をすくめて答える。当然というべきか、空港まで来たのは希美たちだけではなかった。大学の知人友人、先輩や後輩、恐らくは音大の講師と思われる高齢の人物、そしてみぞれの両親。その全てに温かく、涙と笑顔でもって見送られ、みぞれを乗せた飛行機は遠く空の彼方へと羽ばたいていった。このカメラに収められている四人揃った写真は旅立ちの直前、場に居合わせていた高校時代の後輩にお願いして撮影して貰ったものだ。

 この写真を見るのは、次に四人が揃ったとき。

 それが別れ際に交わしたみぞれとの約束であり、同時に再会への誓いでもある。いつ帰れるかわからない、というみぞれと自分たちを繋ぐための、それは言わば四人につけた枷。けれどそれを厭う者なんて、ここには一人だって居やしない。

「さーて、そろそろ帰ろっか。途中どっかで美味しいものでも食べていこうよ、せっかくここまで来たんだし」

「そうね。希美はなに食べたい?」

「私はお好み焼きがいいかなー。最近食べてなかったから割と飢えてるし」

「夏紀は?」

「こっちまで来たら、やっぱたこ焼きっしょ。なんだったら優子と早食い競争してもいいけどね。たこ焼き三十個、早食い競争」

「はあ? なんでここまで来てアンタなんかと勝負しなきゃいけないの」

「おやおやぁ、自信が無いんですか優子サン? イヤなら別にいいですけどぉ?」

「ムカつく。今回は夏紀のヘタクソな挑発に乗ってやろうじゃないの。その代わり、負けた方が帰りの運転担当だからね」

「はいはい。けどくれぐれもポールにミラーぶつけないでよ、旅行の帰り道みたいに」

「あ、あれはちょっと手元が狂っただけだから! あれから練習しまくったし、もうあんなことにはならないんだからねっ」

「まーせいぜい頑張ってちょうだいな。勝負も帰りの運転も」

 優子と夏紀のやり取りは相変わらず喧々として刺々しい。希美にはそれが、なんだかとても暖かいとさえ感じられる。

「二人とも、ありがとね」

 やにわに告げた感謝の言葉に、優子と夏紀は揃ってこちらを向いた。

「なんの話? さあ、グズグズしてないでさっさと行くわよ。こうなったら夏紀に完勝して、ぐうの音も出ないぐらいにしてやるんだから」

 ふんふんと息巻いて、優子が先に踵を返す。それに続こうとした夏紀がはたと立ち止まり、希美へと振り返った。

「希美。だいじょうぶ?」

 少し心配そうな表情の夏紀。そんな彼女に、うん、と希美は笑顔で頷いてみせる。

「ちゃんと約束したから、みぞれと」



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