零 -刺青ノ聲- (柊@)
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本編
【零】-虚夢(ウツロユメ)-


幾分か読みやすくなると思うので縦書き設定推奨です。



 夜の帳が下がり、辺り一帯が眠りについた静寂の刻。宙吊りの揺り篭の中で、今宵を憂う少女の姿がある。

 くちなわに自由を奪われ、命を供物として捧げる刺青の巫女。その自ら背負った運命の重さに押し潰されそうになりながら、いつか夢見た未来の欠片に想いを馳せる。もう叶わぬ願いと知りつつも、忘失の過去に縋らずにはいられなかった。

 

 少女の名は、雪代零華。

 代々続く久世家の歴史に終止符を打つことになった、悲劇の巫女である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※1

    懐かしい零華へ

 

 僕は今、母の耳飾りを手にこの手紙を書いてゐる。

 さきほど博士の研究室で見た白昼夢に、いても立つても居られなくなつた。

 僕は牢に囚われた巫女様に手を差し伸べた。

 そして確かに彼女に触れた。

 その耳には僕と同じ耳飾りが揺れていたのだ。

 君と僕とで一対になるやう、村を離れるときに分け合つたこの耳飾りが。

 もしや彼女は君自身で夢と同じやうに、どこかのお社に居るのではないか。

 そして夢の中の君が手の届かぬ場所に連れ去られてしまつたやうに、本当に君にもこのまま永久に逢えなくなつてしまうのではないかと感じてゐる。

 なんとかして君に一目逢ひたい。

 夢と同じであるならば、君がいるのはあの久世の宮という大きなお社だらう。

 博士の聞き取り調査半ばであつたことが気がかりではあるが、いまは一刻も早く君の元へ帰ることだけを考えてゐる。

 どうかそちらへたどり着くまではどこにも行つてしまわないでいてくれたまへ。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

 

 

 おそらく最後になるであろう(かなめ)からの手紙の文章を、ゆっくりと何度も読みなぞり、脳裏に深く刻みながら、零華(れいか)は寝目(夢見)に微睡みつつあった。

 

 いつもより酷い浮遊感に襲われているのは、この吊り牢の揺らめきのせいではない。

 

 零華が力なく手を掲げると、長く垂れ下がる巫女装束の袖がスルスルと捲れ、痩せこけた腕を露わにさせた。取り囲むように備え付けられた灯篭の淡い光を浴びて、零華の肌は、肌とも思えぬ暗い色彩をその瞳に返す。

 

 顔から足の先まで、余す所なく青々と刻まれた(ひいらぎ)。人々の悲哀の想いを、何度も自身の身に請け負ってきた。しかし、もう間もなくその巫女としての役目を終えることになる。それは同時に、己の人生の終焉を余儀なくされる。刺青の巫女は、数多の負の思念が世に災いをもたらすことのないよう、深い闇の底で永遠の眠りにつかねばならない。

 

 零華は軋む四肢を奮い立たせ、よろよろと上体を起こし、鉄格子に背を乗せた。背中から伝わる無機質な冷気は、火照る身体の熱を心地よく奪っていく。

 

 安堵の吐息が一つ零れ、体幹の力が抜け落ちていった。肌蹴た装束からだらしなく姿を見せる肩に、気恥ずかしさを感じている余裕もない。それほどに、儀式の爪痕は零華の活力を蝕んでいた。

 

 もう満足に身体を動かすことも出来なくなっていた。肉体的な疲労は極限に達し、加えて柊による精神の侵食が起こり始めている。

 

 初めて儀式を行った日から、鳴り止まない(こえ)。芯まで深く根ずく蒼き刻印が、人々の呪詛の幻を見せ、零華の心を掻き乱す。数多の柊を背負った零華は今、この世とあの世の狭間にいるような錯覚に陥っていた。

 

 まだ自分は生きているのだろうか。

 そんな単純なことでさえ実感出来ない、極地に立たされている。

 

 しかし、それを怖いとは思わなかった。

 なぜならば、自らが望んで選択した道だからだ。

 

 この不気味な程皮膚を染め上げる刺青に込められた想い。大切な者を失った悲しみがどれほどの重さであるのか。同じ境遇の自分には痛いほどに伝わってくる。そんな人々の苦しみを少しでも和らげることが出来るのなら、こうして犠牲になることも厭わなかった。

 

 けれど、いくら覚悟をしたとはいえ、未だに拭えぬ恐怖に打ちひしがれることがある。巫女の責務を全うし永遠の眠りについた後、自分という存在は露と消え、誰の心からも忘れ去られてしまうのではないかと。想いも、記憶も、全てが塵のごとく離散し、大切な人からも剥がれ落ちていく。時折そんなどうしようもない孤独感に駆られてしまう。

 

 無論、巫女になったことに後悔はない。自分はあの時、全てを失ってしまった。そんな自分がまだ必要とされ、これほどの大役を任されたのだ。むしろ感謝したいくらいだった。久世に拾われなければ、どの道死んでしまっていたのだろう。ただ一つだけ、心残りがあるとすれば……。

 

 零華は手元にある手紙に目を向けた。独特で癖のある、端正な字で文が綴られている。要は誰に教わったのか、子供の頃から達筆だった。字を書くことが苦手だった零華は要に憧れ、時間を見つけては要に教わっていたものだ。幼き頃、いつでも隣にいた要。……今となっては、遠い昔の思い出だった。

 

 それにしても、この手紙の内容を読んだ時は驚いたものだ。虫の知らせというものが本当にあるのだろうか。要は久世に養子入りした自分はおろか、村が滅びてしまったことすら知らないだろう。まるで要がずっと傍にいたかのように感じられる。そして何よりも胸を打つのは、再開を願う要の気持ちだった。

 

 ……しかし、もう叶わぬ願いなのだ。要と別れたあの日とは、立場が大きく変わってしまった。儀式に背き、久世を裏切る事はもう出来ない。それは押しつけられたものではなく、自らの意思だった。

 

 どの道こんな体では、要に迷惑がかかるだけだ。もはや全うに生きる事の出来ない病魔に侵され、あげくに女としての価値も落としてしまっている。要には綺麗な肌のままの自分でありたかった。

 

「要さん……」

 

 無意識に漏れた言葉に、零華ははっと頭を振った。未練はあってはならない。邪な情動は生への執着に変わり、儀式の弊害となりうる。下手をすれば歴代の巫女達に封印された柊が全て還り、前代未聞の大災厄を引き起こしてしまう。

 それだけは何としても避けたかった。でなければ、自分は何の為に生まれてきたのか分からなくなる。要と別れ、家族や故郷を失った自分に、最後に残された使命。せめて死ぬ前に人の役に立ち、ちっぽけで空虚な人生を少しでも飾り立てたかった。

 

 それに……。

 

 もう、諦めたことなのだ。要がこちらを振り返ることなく村を出て行った時に、一度は捨て去った感情だ。なのに、こうして要の文を眺めているだけで、簡単に気持ちが揺らぎ出してしまう。

 

 (零華……)

 

 今でもはっきりと覚えている、自分の名を呼ぶ尊い聲。それは柊の聲に掻き消されることなく、体の隅々まで鮮明に響き渡り、傷ついた身も心も癒してくれる。

 

 他の誰のものでもなく、自分自身が記憶に刻む、淡い柊。

 

 この柊は、禁忌の地で百千と積み重なる惜別の残骸に埋もれながら、人知れず枯れ果ててゆくのだろう。けれど今この時だけは、全てを忘れてこの安らぎに満ちた聲に身を任せていたい。

 

 ……もう手の届かぬ、懐かしい情景の中で微笑む、想い人の聲に。

 

 

 




※1 エンターブレイン発売 「零‐刺青の聲‐導魂之書」 P195から引用

ちなみにおそらく原作において、この要の手紙は零華には届いていません。












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【壱】-刺青(シセイ)巫女(ミコ)- 一ノ刻

片目に広がる、白銀の世界。

そこには空も大地もなく、終わりない無形の空間が支配していた。

 

どうして私は、こんな景色を眺めているのだろう。

何かが半身を抑えつけ、身動きが取りづらい。

前に進もうにも手足の感覚がおぼつかず、その場で這うのが精いっぱいだった。

そう、私は今、うつ伏せに倒れているのだ。

 

……とても寒い。

今にも身体が凍り付いてしまいそうだった。

 

「……っ」

 

突然頭がズキリと痛む。

それをきっかけに徐々に意識が戻り始め、思考が正常に働き出していく。

 

……そうだ。

私は村の子供達に付き合い、雪遊びをしていたのだ。

山中を夢中で駆け回る子供達の後を追っている内に、村から大分離れてしまった。

これ以上先を行けば、村が視認できなくなる。

親を心配させまいと、ごねる子供達をなんとか言い聞かせ、道を戻ろうとした矢先の出来事だった。

 

篠突く雨のような音が、聞こえたのだ。

 

初めはただの耳鳴りかと思った。けれどそれは少しずつ膨張し続け、やがて鼓膜を突く程の轟音に変わっていった。

経験のなかった私は、何事か咄嗟に判断することが出来ず、怯える子供達をただ抱きしめることしか出来なかった。

 

得体の知れない脅威……、その正体は大規模な雪崩だった。

 

壁のように厚みを増した雪が、上方から津波の如く押し寄せてきたのだ。

誰が見ても逃れることは絶望的だった。

それでも私は必死に子供達を誘導し、一番近くに立っていた大木に身を潜めた。

そうして皆が手を強く握り、雪崩が無事過ぎ去るのを待った。

 

……そこから先は覚えていない。

おそらく雪崩に飲まれ、勢いのまま流される内に気絶してしまったのだろう。

体中に痛みがあるが、なんとか生き逃れたようだった。

 

どれくらいの時間が絶ったのかも分からない。

しかし、この寒空の下で、そう長く意識を失っていたとも考えられない。

でなければこうして目を覚ますこともなく、そのまま凍死していたはずだ。

 

……子供達はどうなったのだろう。

 

 

 

 

 

 零華は伸し掛る雪を払い除け、顔を上げた。

 

 砕氷を存分に散りばめた白色の風。荒れる吹雪が一寸先も見えぬほどに、周囲の輪郭をかき消していた。

 

 立ち上がろうとした零華を拒むかのように、強い突風が一つ駆け抜ける。長い黒髪がうねりながら重く靡き、濡れた着物からパラパラと水滴が舞った。零華は身を切るような寒気に大きく身震いし、自らの体を抱き抱えた。……頭痛と眩暈が酷い。気を抜けば今にも意識を失ってしまいそうだった。

 

 零華は折れそうな心に鞭を打ち、白む景色に目を凝らした。吹雪が完全に止むことはなさそうだが、それでも緩やかになる瞬間はあり、周囲の状況を露わにさせる。闇雲に動き回っても無駄な体力を消耗するだけだと考え、零華はその場に留まり、絶え間なく見え隠れする景色を注視した。

 

 延々と続く雪面、揺れる枯れ木……。幾度見ても特に変わり映えするものはない。人の気配など皆無だった。あれほど激しい雪崩だったのだ。皆散り散りになってしまったのかもしれない。そうだとしたら、こうして一人で子供達の行方を探索するのは賢明な判断ではなかった。子供の内の誰かを発見する合間の僅かな時間が、他の子供達の安否を左右しかねないからだ。それを繰り返してゆく度に、発見の遅れた子供の命は着実に削られていく。本来ならば先に村に戻り、大人たちの助力を得るのが最善の手だろう。しかし目先の不安でいっぱいになっていた零華には、どうしても一番遠いであろう村を探す気にはなれなかった。ここを離れれば、子供達の命も遠ざかってしまうように思えたのだ。身に起こった予期せぬ事態に、完全に冷静さを欠き、考えも視野も狭くなってしまっていた。だから零華は頑なに近場に子供達の痕跡がないかを探り続けたのだった。

 

 そうした何度目かの観察の時、ようやく零華の目は映りの乏しい景色の中で、違和感を覚える微細な変化を捉えた。一瞬、少し距離を置いた先で、雪面から何かが突き出ていたように見えたのだ。それを認識した瞬間、零華は走り出していた。考えている暇はなかった。見間違いだったとしても、手遅れになってからでは遅いのだ。いや、もはや一時の迷いで事態が悪化するような状況ではない。運良く怪我がなかったとしても、雪に埋もれた状態では生存は絶望的だ。願わくば、今が雪崩の直後であること。そうであれば、まだ間に合うかもしれない。そんな僅かな希望が、零華の足を前へと駆り立てた。しかし、そんな零華のことなどはお構いなしに、自然は猛威を振るい、相も変わらず気ままに苦難をあてがい続ける。次々と重ねるように穿つ向かい風に煽られ、なかなか思うように前に進めなかった。深雪に足を捕らわれ、一層に歩の勢いを殺されていく。それほど離れた場所ではないというのに、とても長い距離に感じられた。しかしもしあれがそうだったなら、一刻も早く助け出さなければならない。その一心で零華は気力を振り絞り、感覚の麻痺した足が絡まり転びそうにながらも、必死に駆け寄った。やがてその場に近づくにつれ、実体が明らかになっていく。

 

 やはり人の手だった。雪下から伸びるそれは、助けを求めるように半開きのまま固まっている。手首まで埋もれていて、誰のものなのかは分からなかった。

 

 零華は急いで周りの埋め尽くす雪を掻き分けると、すぐに見覚えのある子供の後ろ姿が眼下に現れた。焦る気持ちを抑え、子供の両脇に手を入れ、ゆっくりと引き出した。そのままうつ伏せの子供の首に、手を当てる。……脈は、感じられなかった。

 

 零華は固唾を飲んだ。自分が生きていたことでどこか楽観視していたのかもしれない。不安を抱きながらも、最後には誰一人欠けることなく村に帰れると、なんら裏付けのない理想だけを思い描いていた。しかし現実とは残酷なもので、身勝手な理想には大抵真逆の顛末を突きつけてくるものだ。いざこうして他者の死を目の当たりにすると、怖くて震えが止まらなくなった。当然と言えば当然だが、まだ年端もいかぬ零華は今まで人の死に遭遇したことはほとんどなかった。それもこんな身近な存在が亡くなることなど初めてのことだった。そしてその責任が少なからず自分にあるということ。勿論、ただ子供達に誘われ、付き添っていただけの零華を責める村人はいないだろう。それでも一番の年長者である以上、零華は責任を感じずにはいられなかったのだ。

 

 零華はここから逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。しかし、ここで諦めてしまえば、惨事の拡大は避けられない。己の命も、他の子供達の命も、もはや風前の灯なのだ。

 

 零華は覚悟を決め、小刻みに震えながら、目の前の子供を恐る恐る仰向けに返した。やはり一緒に遊んでいた子供の一人だった。よく悪口や無理を言って零華を困らせていたが、どこへ行くにもべったりと付き、一番懐いていた男の子供だ。数刻前まではしゃいでいた姿が嘘であったかのように、目を開けたまま顔を恐怖に歪ませている。身体は凍り付いたかのように、ピクリとも動いてはいなかった。

 

「そんな……」

 

 零華は男の子供の顔を抱き寄せ、泣き崩れた。

 

「御免なさい……、御免なさい……」

 

 この分では、他の子ももう……。

 

 最悪の結末が、頭をよぎる。このままでは、本当にそれが実現してしまう。体力精神共に窮地に追い込まれた零華は、ようやく成すべきことを認識した。一旦村に戻り、皆に状況を伝えなければならない。こんな凄惨な光景を目の当たりにしているはずなのに、瞼が重く、力が入らない。是戸際の決断だった。

 

「また戻ってくるから」

 

 零華は男の子供の見開いた目を閉じ、優しく頭を一撫ですると、後ろにまわした手を抜きそっとその場へ寝かせた。片手を突いてふらふらとその場を立ち、孤独に眠る男の子の顔に後ろ髪を引かれながらも、断腸の思いで気持ちを切り替えた。

 

 しかし、もう歩くのでさえやっとの状態なのだ。しらみつぶしに動くことは出来ない。なんでもいい、ここから向かうに値する指標となるものを発見できれば。村か、久世の宮……、そのどちらかの方向かが分かれば幸いだった。

 

 零華は吹雪の弱まる機を狙い、辺りに目を走らせた。この周辺で目に付く物はそう多くない。雪により原形を失った山の地形や自然物を指標に目測することは不可能だ。ましてこの悪天候の中では、ある程度の高さや広さがある物でなければ確認することは困難だろう。残念ながらここから直接村は発見できない。であれば、やはりあの大きな久世の宮だけが頼りとなる。

 

 

 村から少し離れた山の麓に立つ、久世の宮。零華が住む村よりも古くから存在し、独自の慣わしと歴史を刻む社。他者の死別と弔いの傷を喰らう蛇の巫女を崇めているだとか、永遠に目覚めることのない眠りについた巫女が祭り上げられているだとか、そんな根も葉もない噂をよく耳にする。きっと久世の逸話が世間を流れていくうちに間違って伝わり、尾ひれがついていったのだろう。事実、近隣に住む人間でさえ、あの社内でどのような神事が行われているか詳しく知る者はいない。久世家自体は重い悲しみに囚われた人々の心の救済、と銘打ってはいるが、頑なにその全貌を明かそうとはしなかった。なんでもその特殊な儀式は門外不出で、人々の精神を蝕む厄を払う為に行われるものらしい。確かその厄を柊と呼んでいたような気がする。

 

それに久世はそれほど外部への積極的な活動をしているわけではなく、その儀式は昔から密かに内輪で行われてきた因習のようだった。なぜなら、噂を聞きつけ救済を願って訪れた客人を拒むことはせずとも、久世自らそういった人間を探し回り、儀式に誘うようなことはなかったからだ。

 

 そのように、久世は儀式が人目に触れるのを極端に嫌い、久世家以外の人間を社内まで招き入れることなど皆無に等しかった。神聖を貫くが故の閉鎖主義なのだろう、それを象徴するかのような大きな外壁が、社と宮下の村をぐるりと囲っていた。社自体も他に見ない程立派で、独特の装飾の施された大きな建物だった。

 

 零華は皆と同様、こんなに近くに住んでいるというのに、久世とは全くと言っていいほど馴染みはない。例えうまく久世の宮へ辿り着いたとしても、久世に面識のない人間がすんなり助けてもらえるものか疑問を抱く限りだった。

 

 そう思うのにはまた別の理由もあった。

 

 この辺りで度々人が失踪する事件が起こっていた。どうも失踪者は久世の宮付近で足取りが途絶えることが多いようだった。ただ単に山を迷ってそのまま帰らぬ人となっただけなのかもしれないが、久世がそういった場所である為、久世の関与を疑う者が後を絶えなかったのだ。しかし、実際この地域は山深く、別の場所でも遭難が相次いでいる。久世も真っ向から否定していて、結局の所、真相は定かではなかった。

 

 そんな悪評が、零華の意思を揺るがせる。もしも久世が人さらいだったとしたら、自分はどうなってしまうのだろうか。ある意味この遭難に似た状況は、恰好の的ではないのか。

  

 しかしもう打つ手がなかった。藁にもすがる思いで、久世の宮を探すしかない。

 

 零華は四方をゆっくりと見渡した。ちょうど風が止んだ瞬間であったせいか、かなり鮮明に周囲の景色が伺えた。

 

 あった。

 

 呆気ないほど簡単にそれは見つかった。それほど吹雪が激しく、辺りを押し隠していたということだ。絢爛とそびえ立つ、大きな社。あれはまさしく久世の宮だった。

 

 零華に希望が満ち溢れた。良からぬ噂はあれど、その慣わしから少し俗世と隔たりがあるだけで、久世も自分達と何一つ変わらない人間であるはずなのだ。困っている人を無下に扱うことはないはずだ。そう零華は己に言い聞かせる。後は言うことの聞かない身体をどうにかしてあそこまで向かわせなければならない。一歩、また一歩と命を繋ぐ道を歩き出す。

 

 久世の宮がこの距離なら、村もそう離れてはいないだろう。そう思った瞬間、零華はピタリと歩を止めた。

 

 なら、得体の知れない久世などに頼るより、村に向かった方が断然良い。そんな分かりきった考えも浮かばなかったのは、村が発見出来なかったせいだ。久世の宮に身体を向け、右手側が山頂である。そして、雪崩に飲まれる前と、久世の宮の距離……、角度による景色がさほど変わってはいない様だったのだ。

 

「まさか……」

 

 零華は確かに、何もないことを確認したのだ。この向きで久世の宮の左外壁が見えるならば、本来後方にあるはずの村。再度確かめるように振り返ると、そこには何もなく、白一色に染められた大地がどこまでも続いているだけだった。

 

 零華は糸が切れたように膝から崩れ落ちた。雪崩は零華達だけでなく、村さえも跡形もなく飲み込んでしまっていた。

 

 唯一心を支えていたものが、失われてしまった。どう足掻こうと、初めから終わっていたのだ。悲鳴を上げ続ける身体に抗うことを止め、前のめりに倒れ込む。視界が掠れ、徐々に意識が闇へと誘われていく。

 

 誰も助からないのなら、自分だけ生きていても仕方がない。

 このまま皆と一緒に……。

 

 そうして零華は己の死の受け入れ、深い眠りについたのだった。

 

 

 

 

 零華が倒れて間もなく、雪を潰す沢山の乾いた音を連れ、ある一行が零華の下へ訪れた。先頭の老婆が首で合図すると、側近の者達が倒れ伏せる零華を抱き起こし、安否を確認し始めた。

 

「生きておるか」

 

 気を失っていた零華だったが、身体を動かされた感覚と、重々とした野太い声に聴覚を刺激され、ゆっくりと目を覚ます。

 

「あの雪に飲まれた村の子供か」

 

 零華の薄目に映る厳格な老婆が、顔を覗きながら尋ねた。

 

「……はい」

 

 朦朧とした意識を現実に引き戻す言葉に、零華は小さく頷く。

 

「私は久世家現当主、夜舟(やしゅう)である」

 

 名乗った夜船は矢継ぎ早に零華に問いかける。

 

「選べ。ここでこのまま死ぬか、久世の巫女となって死ぬか」

 

 唐突な詰問に零華は戸惑った。巫女になるということもそうだが、なったとしても結局死ぬことは避けられないという言い草だった。理解の追い付かぬ零華をよそに、さらに夜舟は言葉を続ける。

 

「巫女になれば、最後の儀式で必ずその命を捧げてもらわなければならぬ」

 

 久世の本性が垣間見えた一言だった。もしそれが事実なら、色々と合点がいく。なぜ久世は儀式を公にしないのか。失踪した人間はどこへ行ってしまったのか。おそらく全ては人身供物を主とした儀式が原因だったということだ。そんな人道に反する行為を古来から行っていたなど、到底信じられるものではなかった。しかし、険しい顔を浮かべる夜舟が冗談を言っているようには思えない。

 

「されどもし巫女になることを選ぶのなら、お主の村の生き残りの散策と救助は約束しよう」

 

 夜舟は付け足す様に、この上ない条件を零華に提示した。夜舟はこのままでは零華が助からない危機的状態であることを理解し、現状零華が最も望むものを見透かしているのだ。だから平気で久世の核心を明かし、既に答えの出ている問答を堂々と投げかけているのだろう。だとしても、まさにその通りだった零華に拒否する選択肢はあり得なかった。むしろ夜舟が絶望の淵から救ってくれる神のようにすら思えていた。

 先ほど見た限りでは村人の生存はほぼ絶望的だった。しかしまだ雪下で奇跡的に命を繋いでいる者もいるかもしれない。そうであるなら今すぐにでも助けなければならない。時は一刻を争う事態だ。

 

「なります」

 

 こんな死にかけの自分の命で救える命があるのなら、喜んで志願したい。それに要の両親が亡くなってしまったら、きっと要はとても悲しむだろう。微々たる希望でもまだ可能性があるのなら、それに賭けてみたかった。

 

「よろしい。此度は実に災難であったな。尽力を誓おう」

 

 合意を得た夜舟はほんの少しだけ表情を緩ませ、顔を側近の者達に向けて頷く。

 

「後のことは久世に任せ、今はゆっくりと眠るがよい」

 

 側近の者達は丁重に零華を持ち合わせの毛布で包み、二人がかりで担ぎ上げた。

 

 何も出来ない自分の代わりに、久世が皆を助けてくれる。多くの人は死んでしまうだろう。それでも、生き残ってくれている人がいると信じたい。零華は肩の荷が下りたように安堵し、柔らかい毛布に心地よさを感じながら再び眠りに落ちていった。

 

 

 



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   -刺青(シセイ)巫女(ミコ)- 二ノ刻

 

 

 それは空に雲一つなく日差しの眩しい、穏やかな日だった。

早朝の緩やかな暖気を感じ、目覚めた鳥達が囀り始めると、村の営みもまたそこかしこでちらほらと顔を見せ始める。雪代家の明け方はそれ程慌ただしくはないが、零華は既に起床していた。寝つけの悪い夜を過ごした零華は頭の重さを紛らわす為、まだ寝ている家族を起こさぬ様、静かに玄関の戸を開け外に出た。

 

 頭上から差し込むうららかな光と、済んだ空気。天候に恵まれた清らかな風が、近くで芽吹いたばかりの草木や花の匂いを運び、零華の鼻孔を擽る。普段なら清々しく一日の始まりを迎えることが出来ただろう。

 

 しかし零華は夜明けが永遠に訪れなければいいとさえ思っていた。けれどこうして当たり前のように時間は流れ、太陽はゆるりと昇る。陽光がその強さを増す度に、零華の心の影が一層に浮き彫りになっていく。

 

 正午を過ぎれば、この村にはもう要はいない。そんな色のない景色の中で、これからずっと独りで生きていかなければならない。

 

 目に映る全ての物が心を抉る。村のどこを見ても要との思い出が転がっていて、自然と涙が流れ落ちてしまう。幾度となく心が通ったような気がした。互いに言わなくても、想いは伝わっているものだと思っていた。

 

 けれど、それはただの独りよがりに過ぎなかったのかもしれない。 

 

 

 

 

 

「要さん……、本当に行ってしまうの」

 

 零華は別れの時が訪れても、愁眉を開くことは出来ず、縋るような眼差しを送る事しか出来なかった。

 

「すまない、もう決めたことなんだ」

 

 己の出生を知る為。それが要の旅立ちの理由だった。

 

 要には幼い頃に見たであろう、奇妙な記憶がいくつもあった。それは明らかにここではないどこかの情景で、自分をあやす両親ではない誰かの姿もあり、要は次第に両親に疑問を抱くようになっていった。初めはうまくはぐらかしていた両親も、要が成長するにつれ、もう隠しきれないと判断したのか、頃合いを見て自分たちが本当の親ではないことを要に打ち明けたのだった。

 要が今の義理の両親と共にこの村に越してきたのは、零華や要が物心つく前のことで、それ以前に要がどこでどう暮らしていたかは、零華はおろか、要自身にも分からなかった。

 なら、本当の両親はどうなったのか。そればかりは義理の両親も頑なに口を閉ざすばかりで、一向に真実を知り得ることが出来ず、要はもどかしく感じていた。生みの親は違えど、育ての親は今の両親なのだ。どんな過去があっても自分の両親は目の前にいる母様と父様だと要が説得しても、義理の両親はただ謝りながら首を横に振るだけだった。

 

 要がなぜそこまで自分の生い立ちに拘るのか、零華には分からなかった。普段は温厚な要が、己の過去を知ることにだけは貪欲で、時折思いがけない行動と一面を露わにする。何かに焦燥し、どこか生き急いでいるようにすら感じてならなかった。

 今回の件もそうである。自分よりも周りの人のことを第一に考える要が、零華にすら相談の一つもなく、一人で勝手に決めてしまったのだ。

 

 要のことだ。ただ知りたいが為だけで、人を蔑ろにするはずがない。そうしなければならない本当の理由がきっとあるのだ。零華にそれを聞き出したい気持ちはあったが、決心の固く真剣な要の表情を向けられると、もうあれこれと詮索する気にはなれなかった。

 

 ……思い知らされたのは、要は自分が隣にいなくても平気だということだ。

 

「私は……」

 

 貴方さえ傍にいてくれたら、それでいいのに。

 そう頭の中では何度でも言えるというのに、聲にはいつも出せないでいる。

 

 零華が口籠ってしまうと、要は困ったような笑顔を浮かべ、優しく零華の頭に手を乗せた。そして肩に担ぐ荷包から何かを取り出した後、零華の手を引き寄せた。

 

「これを君に渡そう」

 

 零華の手を包む要の両の手の平が離れると、零華の手の平の中には小奇麗な装飾の耳飾りが置かれていた。

 

「母様から貰った耳飾りの片割れだ。本当の母親の物らしいから、僕にとってそれは形見になるのかもしれない」

 

「そんな大切な物……」

 

「零華、君にだからこそ渡すんだ。互いを忘れぬよう、分け合って持っておこう」

 距離を越えて、二人を繋ぐ絆。要はその意を込め、零華に託すことにしたのだろう。けれど零華には、その耳飾りの輝きがどこか寂しげに見えた。

 

「やっぱり、私も……」

 

 その続きを聞く前に、要はそれは駄目だと割り込んでくる。零華は俯き、溢れ出そうになる涙を必死で堪えた。

 

「昨日は君を苦しめることを言ってしまった。今思えば本当に軽率な発言だったと思う」 

 

 昨夜、零華は一緒に付いてきてはくれないかと要に誘いの言葉をかけられた。しかし、零華には病弱な母親がいて、昼間仕事で手の空かない父親の代わりに看病をしなければならなかった。弟も母親に似て良く体調を崩しがちで、零華が面倒を見てやることが多かった。そんな家族を置いてこの村を離れられるわけがなく、零華は了承することが出来なかったのだ。

 

「僕は母親の代わりに懸命に家事をする君をずっと見てきたというのに、なんて愚かなのだろう」

 

 何気なく出た一言だったことは、零華も知っている。いつもする他愛もない話の途中でふと要の口から零れたのだ。きっとその気はなかったのだろう。一緒に時間を過ごしている内に、要にも情が込み上げてきたのかもしれない。

 

「君と離れたくない一心で出た言葉なんだ。許してほしい」

 

 それは嘘偽りのない本心であるのだと思う。けれど、その想いがあってなお、要の決意は変わらないのだ。

 ここには過去はないが、大切な人々と人生を歩める今がある。しかし、要は違う道を歩むことを選んだ。……そこに零華がいない道を。

 

「必ず帰ってくるよ」

 

 要は踵を返し、零華に背を向ける。

 

「待っています」

 

 もう、それしか言えなかった。それを聞いた要はゆっくりと歩き出し、村を後にする。

 

 本当にこれでいいのだろうか。要を見送った後、残された自分はまたいつもの日常に戻るしかない。共に過ごした掛け替えのない思い出が、記憶が、目の前をちらつき零華の心を掻き乱す。

 

 徐々に小さくなる要の姿と足音に、零華の心の鼓動が強く高鳴り、早まっていく。

 知らず知らずに手を伸ばし、引き留める言葉を探していた。

 

 置いていかないで。

 

 気づいた時には後を追い、後ろから要の着物の袖を掴んでいた。

 要は足を止めたが、こちらを振り返ることはなかった。

 しばらくの間、お互い動けずにいた。零華は要がこちらを向いてくれることを待っていたが、要にはその気がないようだった。

 

「……もう行かないと」

 

 胸を裂く聲に、零華の手から力が抜け落ちる。

 零華の指を離れた袖が、近づいた距離を越えるほどにまた遠ざかっていく。

 

 この世に変わらないものなどない。人も、その感情も然りだ。零華にはどうしてもこれが要との人生を分かつ分水嶺に思えてならなかった。

 

 村人達が仕事の一段落を終え、それぞれの我が家に戻る中。

 ぽつんと置き去りにされた零華は、消えゆく要の後ろ姿をいつまでも見続けていた。

 

 

 

 

 はっと、零華は閉じられていた瞼を開いた。それと同時に抑えられていた涙が両耳に勢いよく流れ、枕を濡らす。

 

「起きたか」

 

 上体を起こし声の方を見やると、夜舟が囲炉裏に薪をくべていた。

 

「ここは……」

 

「久世の宮下の村じゃ。覚えておるか」

 

 そうだ、自分は巫女になることに同意し、久世に拾われたのだ。……それにしても、後味の悪い夢を見た。脳裏に固く閉ざしていた、思い出したくない記憶。この過酷な境遇がそれを呼び覚まし、心内の悲鳴となって夢に現れてしまったのかもしれない。

 

「あのままでは体に障るのでな。済まぬが勝手に着替えさせて貰った」

 

 零華が目よりも先に探る様に手を身体に回すと、さらりと肌触りの良い感触が伝わった。視線を胸元に落とすと、しわ一つない清潔そうな装束を纏っていた。

 

「それとお主の懐からこんな物が出てきてな」

 

 そう言いながら手を突き出す夜舟の手には、あの耳飾りがあった。目を離すと無くしてしまいそうで、いつも持ち歩いていたのだ。ただ、耳に付けるには人目が気になったので、いつも懐にしまっていた。奇跡的にもあの雪崩の中、無くさずに済んだようだった。

 

「良かった、大切な物なんです。ありがとうございます」

 

 零華は礼を述べて耳飾りを受け取ったが、夜舟の手前、また懐に入れるというのも気が引けた。仕方なく零華は羞恥につつまれるも、覚束無い手つきで耳に飾った。

 

「皆はどうなったんですか」

 

 真っ先に気になったのは、村人達の安否だ。本当は聞くのが怖かったが、知らないわけにもいかなかった。

 

「最善は尽くした。しかし、お主の村は完全に雪に飲まれておって、手のつけようがなかった」

 

 夜舟は済まなそうに顔を歪めながら、また一本と薪を放り投げる。遅れてパチパチと弾ける音が、辺りに響き渡った。

 

「あの積雪では供養するにも、雪解けを待つしかあるまい」

 

「そう……、ですか」

 

 おそらくそうなるだろうとは覚悟していた。しかし、現実はそんなもので心が耐えうるほど甘くはない。零華は悲しみよりも、そう、胸にぽっかりと穴が開いたような、そんな空虚な気持ちに支配された。

 

「ただ、お主の倒れていた近くに、一人だけ生きていた子供がおってな。名は、露葉(つゆは)といったか」

 

 現実のあまりの無常さにあてられ、聞き漏らしそうになった零華だったが、露葉という名前に反応し、もう一度夜舟の言葉を拾い、頭で意味を確かめた。

 

「あの子、助かったんですか」

 

 零華は驚きのあまり、声を張り上げた。露葉はあの時、一緒に遊んでいた子供の一人だ。

 

「ああ、お主より先に目を覚まし、今は外に出ておる。お主の名も、あの場所にいた

ある程度の経緯も、露葉から聞いている」

 

 声を荒げ、食いつく零華とは相反して、夜舟は落ち着いた声色で事実を述べた。不幸中の幸いか、奇しくも村を離れていた者だけが生き残ったのだ。思わぬ知らせが、零華の沈みきった心を僅かにすくい上げた。

 

「時に零華よ、先ほど泣いて目を覚ました様じゃが、件の夢でも見たか」

 

 零華に少しだけ感情が戻る中、夜舟はおもむろに話題を変え、問いかけた。件とは、雪崩のことを指しているのだろう。確かにそれが引き金なのかもしれないが、零華は首を横に振った。

 

「ああ、いえ、違います。自分にとってとても……、とても悲しい過去の夢を見ていたんです」

 

「そうか……しかし」

 

 夜舟は何か考える所があったのか、眉間にしわを寄せた。少し言葉を溜めた後、続きを切り出した。

 

「今は良いが、それも件の悲しみもいずれその内から消してもらわなければならぬ」

 

「どういうことですか」

 

「お主が落ち着いてから順を追って話すが、久世の巫女になるとはそういうことなのじゃ」

 

 零華はまだ久世の巫女について何も知らない。しかし夜舟の話を汲み取ると、巫女は感情を殺す必要があるということなのか。いずれにしても、久世に従うしか零華にはもう道はなかった。

 

「とりあえず、食事を取るがよい。今使いに持ってこさせる故」

 

 夜舟がそう言ったと同時に、既にふすまの向こうに控えていたのか、人の歩く音が聞こえ、遠のいていく。しかし、すぐさままた足音はこちらに近づき、ふすまの前で止まった。

 零華が怪訝に思う中、ふすまがゆっくりと開かれ、座した女性の姿が現れた。

 

「当主様、巫女様の容態がよろしくないようです」

 

 腰ほどまですらりと真っ直ぐに伸びた髪の美しい、大人の女性だった。あまりにも髪が艶やかでそちらに目が行ってしまったが、顔もそれに負けじと非の打ちどころのなく整っていて、恐ろしく淡麗だった。零華は生涯そのような美人にあったことがなく、思わず魅入ってしまっていた。

 

「そうか。もはや流すことも考えねばな……」

 

 夜舟はとても悩ましい表情で項垂れた。呆けていた零華だったが、夜舟の会話のおかしな表現に気づき、思考を引き戻した。流す、とはどういうことなのか。髪の美しい女性の発言に対し、夜舟の発言は明らかに噛み合わず、意味の伝わらない内容だった。もしかしたら、儀式に関係する久世特有の隠語なのかもしれない。流すで直ぐに連想されることと言えば、灯篭流しである。この地域には盆に灯篭と共に死者を送る風習があり、それは今も変わらず続いている。夜舟は巫女は儀式で命を捧げるのだと言っていた。だとすれば、巫女は最後に海に流されるということなのだろうか。

 

「その子が例の養子にございますか」

 

 そう言って髪の美しい女性は零華を一瞥した。目を合わせて初めて、零華はその表情に違和感を覚えた。確かに綺麗な面持ちだったが、それは人が持つ美しさではなかった。まるで路傍の石でも眺めるような、虚ろで、冷たい眼差し。著しく感情が欠け、生気の抜けた様は、さながら精巧に彫られた氷像のようだった。

 

「ああ。もし逆身剥ぎ(さかみはぎ)になれば、すぐにでもこの子を巫女に立てねばなるまい」

 

「逆身剥ぎ……、そうならねば良いですが」

 

 また分からない単語が目の前の二人の間を飛び交った。しかし久世の言葉や巫女、儀式については、おそらく後々説明されるはずだ。零華はとりあえずそういった単語は理解しようとはせず、今は聞き流すことにした。と、その時、髪の美しい女性の、突き刺すような視線に気づく。あれほど無表情だった女性が、零華を食い入るように見つめていた。夜舟もその様子に気づいたのか、只ならぬ女性に対し、何の真似だとおもむろに顔をしかめる。

 

「当主様、私をこの子の補佐役にさせて頂きたく思います」

 

 女性は零華から目を離さず、そのまま声静かに淡々と夜船に願い出た。それがよっぽど予想外だったのか、夜舟は呆気にとられた様子で、すぐに返答は返さなかった。

 

「ならぬ。そんな身勝手は許されぬ」

 

 我に返った夜舟は怒りに震えた様子で、激しく叱咤した。女性はようやく零華から視線を外し、夜舟に向き直った。その瞳の奥には先程とは打って変わって、何らかの底深い激情がちらちらと見え隠れしていた。

 

「母上、私は次期当主です。これは後学の為にも必要かと」

 

 夜舟はピクリとわずかに眉尻を上げたが、頑として首を縦に振ることはしなかった。しかし、女性の鬼気迫る様相にとうとう折れたのか、夜舟はわざとらしくも大きく嘆息をしてみせた。

 

「どういう心の変わりようか。……好きにせい」

 

 そう言って首を振りながら再び深いため息を残し、夜舟はその場を立った。

 

「私は巫女様の様子を伺いに行く。鏡華(きょうか)、後は任せたぞ」 

 

 鏡華と呼ばれた女性が頭を垂れると、夜舟はその横を通り過ぎ、廊下に出た。

 

「過ぎた干渉はするでないぞ」

 

 最後に釘をさす様に言い放ち、夜舟はその場を後にした。

 

 

「……貴女、名前は何て言うの」

 

 鏡華はなぜか部屋に入ろうとはせず、そのまま零華に話し出した。

 

「零華です」

 

「そう。私は久世鏡華。現当主である夜舟様は、私の母にあたるわ」

 

 確かに一度鏡華は夜舟のことを母上と口にした。しかしそれはその時だけで、鏡華は基本的に当主様と呼んでいた。親子であるとしても、久世のしきたりの上では立場をわきまえなければならないようだった。

 

「零華、貴女には沢山話さねばならないことがあるの」

 

 夜舟から任された補佐の役目ということだろう。零華には鏡華が夜舟に、無理を押し通しているように見えた。あれほど無気力を全面に押し出していた鏡華に何がそうさせるのか、零華は不思議でならなかった。はきはきとしゃべる鏡華の別人とも思えるまでの変わり様は、驚きを通り越しておどろおどろしくすら感じられた。

 そうして零華が恐る恐る鏡華の顔色を伺っていると、突然鏡華は何かに気づいたのか、座ったそのままの姿勢で横を向いた。するとまたこちらへ向かう何者かの足音が聞こえ出し、鏡華の隣で止まった。

 

「食事をお持ちしました」

 

 鏡華はそれを待っていたかのように、律儀に正座をしていた足を崩し、すっと立ち上がった。どうやら先程の不可解な足音は、鏡華と食事を用意する者との入れ違いによる所為だったようだ。

 

「私も一旦席を外して、後程また来るわ。難儀でしょうけど、食事はしっかりね」

 

 起きたばかりの零華に気を使ってか、鏡華は優しい言葉を投げかけた。中に入らなかったのは初めからそうつもりだったのだ。

 

「ありがとうございます」

 

 心の整理をする暇を与えてくれた鏡華に、零華はお礼を言った。鏡華は小さく微笑み、食事を置いた使いと共に去って行った。本来鏡華はあの薄ら寒い印象のような人間ではなく、とても温かみのある女性なのかもしれない。零華はそう考えを改めたのだった。

 

 ようやく一人の時間が訪れる。

……僅かな間で、自分の環境が目まぐるしく変わってしまった。なぜこうも、自分から大切な物を奪っていくのだろう。そう零華は己の運命に嘆き、どうにもならない今に諦観せざるを得なかった。

 

 零華は添えられた食事の、湯気を上げる椀を見つめた。食欲はないが、折角出された食事に手を付けないわけにもいかなかった。零華は布団から出て、食事の置かれたお盆の前に座った。箸を持ち、芋粥を口に運ぶ。とても、身に染み入る暖かさだった。

 

 突然、ぽろぽろと涙が零れた。無心を盾に塞き止めていたものが、溢れ出てきてしまう。

 父親も、母親も、弟も、皆死んでしまった。

 

 ほんの数日前の雪代家の食台にも、同じ芋粥が並べられた。家族の数より一つだけ多い、芋粥が。家族の皆が揃い、手伝いに来ていた要も迎えた、小さな村の、慎ましやかな晩食の団欒。この粥ほど芋はなかったが、それは尊く、素朴な幸せだった。

 

 あの日々はもう戻っては来ない。……そう、二度と。

 大切りの芋が中々喉を通らず、悲しみに暮れる零華だった。



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   -刺青(シセイ)巫女(ミコ)- 三ノ刻

 

 

 柊を刺青とし、肌に刻んだ巫女を供物とする儀式。それが、久世が幾多の苦難の道を歩んで辿り着いた儀式である。その因習は秘め事のように、久世の歴史の中で密かに紡がれていったのだ。

 

 現在、久世周辺の村々で夏の風物詩となっている灯篭流し。それは元々黄泉の門である常世海に、柊を流そうとした久世の初の儀式が発祥であった。

 

 ……時は遡る。

 

 初めてこの地に移民してきた久世の祖先達は、落ち着く暇もなく瘴気(しょうき)の毒に当てられることとなり、人々を狂わせる正体不明の奇病に長きに渡り苦しめられることになった。後の柊であるが、なんら知識のない当時の久世には対策を講じることも出来ずに、ただ脅威に晒される日々を送っていた。早くから分かっていたことは、医学的に前例のない不治の病であり、この病が人から人に移るということである。故に、久世は病の拡散を恐れ、この地に留まる他なかった。

 

 望まずして隠者となった久世の衆は、誰の手を借りることも出来ず、一族のみで日々奇病の究明に明け暮れた。しかし、疾患者はその精神にのみ異常をきたすばかりで、身体的な変異はおろかこれといった外傷や内傷もなく、また、環境や土地の状態を念入りに調べた結果、病原体や寄生虫などの感染の線も薄かった為、原因の解明は極めて難航した。

 

 進展の見せない久世と奇病との戦いは長丁場を強いられたが、ある時転機が訪れた。独自に研究を進めてきた久世がようやく儀式の原形に至ったのは、焦点を血液に当て調べ始めた頃だった。どういった作用か、生者と死者の血を混ぜ合わせた混血に病の鎮静効果が見受けられたのだ。不可思議なのは、解毒剤のように体内に摂取し抗体を取り入れるということではなく、混ぜ合わせる生者の血として、疾患者の血を使うだけで効能があるということだ。そうすることで憑き物が落ちたかのように、疾患者たちは皆完治の兆しを見せた。鎮静というよりも、その様は病が血を伝い死に血にそっくり移ってしまったかのようであった。

 

 しかしこれで全てが解決したわけではなかった。劇的な治療法を発見したかに見えたが、その効果は一時的なものでしかなかったからだ。あれほど正常に戻った疾患者達が、一定の時間が過ぎるとまた発作を引き起こし始めたのだ。

 

 医療とは程遠いまじないのような治療法に、医学では説明できない不可解すぎる現象。もはや他に手がかりはなく、久世はこれを突き詰めていくしかなかった。

 

 そうして更なる研究を繰り返していた結果、久世はある見解に辿り着いた。この病が人知を超えた精神の病であり、人以外に死に血に病を移すことが出来るということ。そして、おそらくはその移した血の細胞が死滅すると、病が揮発するように抜け出て、また人に還ってしまうものであるということ。

 

 よもや正気の沙汰とは思えない理屈であったが、確かにその症例は顕著に現れ、その後の追究で確信に至るに十分な成果を上げていった。

 

 それと並行して、久世はこの周辺の古い文献や資料に残る伝承から、常世海の存在を知り、この二つになんらかの因果関係があるのではないかと推測した。

 

 災いの元凶である瘴気を運ぶ黄泉の門。それはあくまで伝承上の話であるが、実際にそれが存在すると仮定すると、死者の国から出ずる瘴気が生者の精神に結びつき、この奇病を引き起こしているのではないか。そう久世は、常識の範疇外から見定め始めたのだ。

 

 であれば、起源は常世海にあったと言える。

 

 そうして生まれた儀式が、灯篭流しであった。灯篭に混血の印を施し、瘴気の温床である常世海へ還そうと試みたのだ。しかし結果は裏目となり、同時期に久世の衆全体の病の進行が早まる事態に陥った。危機にさらされてはしまったが、これは久世にとってまさに目から鱗であった。この件は、やはり瘴気と病が密接な関係であるということを物語っていたからだ。久世の衆の症状が重くなったのは、瘴気が生者の体を求めるように、印の生き血に誘われ引き寄せられたという所だろう。

 

 確信を得た久世は、次なる手立てを考えた。死者の国に近すぎず、またこの世から離れた場所。そこに灯篭のような無機物ではなく、血と心の通う器を絶えず供えればいい。

 

 瘴気は元々この世ならざる無形の概念であるが、その性質から人を捕食する魔物のように感じられた為、鎮めの儀式として生贄を捧げることにした。同時に、疾患者の心を(ひいら)ぐこの奇病を、疼ぐという言葉を語源とした植物から名を借り、柊と呼ぶようになった。

 

 柊にとって死に血は苗床に、生き血は餌となる。それを生ける依り代に刻めば、餌に困ることはない。そうして混血の印を施した人間を、供物にすることにしたのだ。

 

 これまでの過程から、柊は人間以外の感情に乏しい生物には無害で、心豊かな人間の脆弱な精神に宿りやすいということは周知であり、また、幾度か儀式を重ねるうちに、供物は感受性の強い女性と相性が良いということも明らかになった。

 

 そういった背景から、久世一族間で男性排除の傾向は強まり、現在の久世家のような一部例外を除いた女性のみの構成に変わっていった。

 

 ようやくここに、柊をその身に刻む刺青の巫女が誕生した。ついに、今に至る刺青の儀式が完成を遂げたのだ。

 

 柊に蝕まれるのは、多くが親しい人との死別で心を病んだ者達である。その悲しみごと全て受け止め肩代わりしてくれる巫女に、柊の参拝者は心底敬い、神と等しく崇めたのだった。

 

 刺青の儀式の一連の流れは、巫女の宮入りから始まり、刺青を刻む幾度かの『紫魂(しこん)の儀』を経て、最後に『(みぎり)の鏡』を割ることで巫女自身の未練を絶ち、巫女ごと禁忌の地に封印する『(かい)の儀』で終わりを迎える。

 

 『紫魂の儀』にて、巫女は刻女(きざみめ)と言う彫り師の手でその肌に柊を刻まれた。刻女は常に柊と対峙する役目を背負っていた為、災いを直視することで気が触れない様、目玉をくり抜かれていた。同様に、巫女の瞳にも刺青を刻むことは禁じられた。現世を映す瞳を通じて、柊が還ってしまわない為の処置であった。そして刻女が盲目とは思えぬ程精細に仕上げられる刺青は、いつしか蛇を模すようになっていった。理由は侵食するかのように肌を染め続ける刺青と共に、数多の柊に根付かれ段々と症状の重くなってゆく巫女の様子が、徐々にくちなわで締め上げられているように見えた為だった。

 

 『戎の儀』直前で使用される『砌の鏡』は、縁に血の印が施された儀式用の代物である。多くの柊と共鳴した巫女のみその効力が現れ、巫女の姿を映した鏡にその瞳を通して自身の柊を移すとされている。鏡を割ることにより、自身の柊を一時的に絶つことが出来るのだ。

 

 そして柊に肌を埋め尽くされた巫女の生涯の終焉である『戒の儀』は、奈落と呼ばれる大穴の奥深くにある、棘獄(しごく)という祠で行われた。四人の鎮女(しずめ)である幼子にそれぞれの四肢を杭で打ち付けられ、二度とこの世に還らぬよう封印されるのだ。この儀式が失敗すると、棘獄に眠る全ての柊が還ってしまう『破戒(はがい)』が起きてしまう。

 

 だから巫女は、己の想いを全て消し去り、現世との繋がりの一切を絶たなければならない。

 そうして歴代の巫女達は、孤独と共にその身を柊に捧げていったのだった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんな所かしら」

 

 零華が食事を終えた頃、再び部屋に戻ってきた鏡華は零華と向き合い、さっそく久世の歴史、刺青の儀式について教えた。余計な事を省き、要点だけ拾った説明であった為、零華はすんなりと理解することが出来た。しかし、理解は出来ても、すぐには納得することは出来なかった。それはあまりにも現実とかけ離れた話だったからだ。

 

「本当に、そんなことが……」

 

「確かに、にわかには信じ難い話でしょうね」

 

 目を丸くして驚く零華に、鏡華は同調するように言った。

 

「はい、でも……、もしそれが本当なら、巫女は人々を救う為に犠牲になるんですよね」

 

「ええ。あなたのような悲しみを背負う人々の心を、真の意味で癒すことが出来るわ」

 

 鏡華のその言葉は、零華の心に深く響いた。今、自分は行き場のない悲しみに打ちひしがれている。もしもこの胸を刺す痛みを消すことが出来るなら、どんなに楽になれることだろう。同じ苦しみを持つ人の身代わりになる……。そう考えると、例え命を捧げることになっても、幾分か素直に儀式を受け入れられるような気がした。

 

「貴女のような若い女性に、その役目を任せるのは心苦しい所だけれど……」

 

 鏡華の表情は暗く、実に辛そうだ。零華の立場を想い、本当に親身になって考えてくれているようだった。

 

「……嘘ではないことは分かってはいるんですが、やはりすぐには信じられないです」

 

 別に巫女になる事が嫌でそう言っているわけではない。瘴気や柊の存在……、あげくに死者の国とくれば、思考が色々と追い付かないのだ。

 

「そうね、それが普通の反応よ。でも、きっとその体に柊を刻めば、貴女にも柊がどういったものか分かるようになるわ」

 

 当主の娘として、数多の巫女を見てきたのだろう。鏡華の弁には常に重みを感じられた。

 

「……おおまかな説明は終わったけれど、何か聞きたいことはあるかしら」

 

 様々な感情が胸中を渦巻く零華を余所に、鏡華は一息入れ、問いかけた。

 

「そういえば、さっき当主様と鏡華さんの会話で出てきた言葉なんですけど、流す、とはどういうことですか。それと、逆身剥ぎというのも教えてほしいです」

 

 ずっと気になっていたことだった。

 

「……」

 

 鏡華は視線を落とし、口を結んだ。途端にその顔が曇りを帯びてゆく。

 

「あまり気が進まないのだけれど、……話すべきよね」

 

 鏡華はひとしきり俯いた後、意を決したように強い視線を零華にぶつけた。

 

「流すというのは、直接的な意味を示せば、殺すということ。けれど、どちらかといえば、儀式に対してやむを得ない場合の犠牲に対して使うことが多いわ」

 

 やはり、と零華は思った。なんとなく予想はついていたのだ。人を供物とする久世にはもう、世間で通じる倫理は壊れてしまっているのだと。穏やかではない鏡華の発言にも、どこか諦観している自分がいた。

 

「逆身剥ぎは、最後の役目を全う出来ない状態になった巫女に、最終手段として用いられる儀式よ。言葉からある程度察しはつくでしょうけど、巫女の代わりに刺青を刻んだその肌を捧げるの」

 

 零華は言われるままに想像し、背筋に悪寒が走った。

 

「皮を、剥ぐということですか」

 

「……惨いとは、思うわ。けれど、仕方のないことなの」

 

 零華が思う以上に、久世は徹底していた。儀式の遂行の為なら、情けなど露ほどもないのだろう。そうまでして食い止めなければならない破戒とはどれほどに恐ろしいものなのか、零華にはまだ知るよしもなかった。

 

「今の巫女様は、俗世への想いが捨てきれずに、柊に心を蝕まれてしまったの。おそらく、もう……」

 

 鏡華は半ばで黙ってしまったが、夜舟との会話を聞いていた零華には察することが出来た。同時に、自分にはもう巫女になるまでの猶予が残されていないことも悟った。

 

「……最後に聞きたいことがあります。死に血はどうするんですか」

 

「柊に蝕まれる原因となった、参拝者と死別した者の血を使うのが通例ね。殆どない

けれど、原因が死別ではなかったり、死に血の持ち込みが難しい場合はこちらで用意することになっているわ」

 

 鏡華は悪びれなくさらりと言った。零華としては、その久世が用意する死に血の出所について聞いたつもりだったが、鏡華はそれきり触れることなく続けた。

 

「基本的に巫女様は生き残った者と、死んでいった者、両者の血で柊を背負うの。形式上ではあるけれど、それがどれほどの重みか貴女なら分かるでしょう」

 

 零華は口を閉ざし、反芻した。掛け替えのない人達との数々の別れ。……互いに思い半で、もう二度と相見まえることはない。こうなってしまった以上、要とももう会えないだろう。そう思うと、鏡華の言葉が深く突き刺さった。

 

「……」

 

 零華は感傷に浸り、返す言葉を失った。鏡華もその心を汲み取ったのか、口を噤んでいた。

 と、その静寂を破るかように鏡華は突然尻を上げ、前に身を乗り出した。目の前まで鏡華の顔が近づき、零華は恥ずかしさに思わず僅かに身を引いた。

 

「ねえ、その耳飾り素敵ね。とても貴女に似合っているわ」

 

 鏡華の手がゆっくりと伸ばされ、零華の耳元に触れた。

 

「え……、ありがとうございます」

 

零華は傾いた身体を片手で支えながら、逸らす様に畳に目を泳がせた。

 

「どこの店の物かしら」

 

「あ、これは、幼馴染から預かった物なんです。そう、大切な幼馴染から……」

 

「そうなの。差支えなければ、名前を聞いてもよろしいかしら」

 

「はい。要さん……、乙月(おとつき)要って言います」

 

「……その子は、今何処に」

 

「村を出て都会へ行ったきりです」

 

 色恋沙汰が好きなのだろうか。やたら食い下がる鏡華を零華は不審に思ったが、特に隠すことでもないので正直に話した。

 

「そう。じゃあ、貴女の恋人は無事なのね」

 

 ああ、そうかと、零華は納得した。もし要が同じ村の人間だとしたら、事情を知らない鏡華とって、まず雪崩の被害に遭っていないかが気になる所だろう。鏡華は心配してくれていたのだ。

 

「けれど、どうしてそんな間柄の貴女を置いていってしまったのかしら」

 

「……きっと私に魅力がないから、愛想を尽かしてしまったのだと思います」

 

 事実は少し歪曲しているが、こちらを見ようとしなかった要を思い出し、零華は自虐的に答えた。

 

「どうしてそう思うの」

 

 鏡華は耳飾りから手を放し、元の正座の姿勢に戻った。

 

「要さん、出て行ってからずっと帰ってきてくれなかったし、それに、よく遊んでいた子供も私のことを悪く言っていたので……」

 

 零華は落ち込むように俯き、目の下の辺りを指で摩った。鏡華はその様子をしばらく黙ったまま見つめていた。

 

「……貴女が卑屈になっていたら、世の女性も大変でしょうに」

 

 鏡華は呆れたようにため息をついた。

 

「憎まれ口を叩いていたのは、貴女の気を引きたいが為でしょう。子供は素直なものよ。貴女には本当にその子が嫌っているように見えたのかしら」

 

 零華はふるふると首を横に振った。確かに悪口だけで、とてもよく慕ってくれていたように思えた。

 

「その泣きぼくろを何か言われたようだけれど、それがたまたま目に付いただけで、その子にとってきっとなんでもよかったのだと思うわ」

 

 零華は悪口について何一つ言葉に出していないが、鏡華は言い当てた。そうして零華は無意識にしていた行動に気づき、慌てて手を引っ込めた。

 

 「女の私から見ても、貴女は美人よ。自信を持ちなさい。こんな見目麗しい子、他に見たことがないもの」

 

 そんなことを言われたのは初めてだった。むしろそれは鏡華に抱いた印象であったが、鏡華の場合は世辞なのだろうと、褒め言葉に慣れていない零華は困惑しながら勝手に解釈した。

 

「貴女が卑下しているそれも、私には艶めかしく感じるわ。どこか儚げで、守ってあげたくなるような……。その要って子の気持ちが分かるわ」

 

 鏡華はそう言いながら、優しい眼差しで零華の頭を撫でた。途端に、零華は妙な郷愁を覚えた。なぜだろう、鏡華には懐かしい匂いがするのだ。大分若く見えるが、夜舟を考えると鏡華は自分の母親くらいの歳だろうか。鏡華の包み込むような暖かさに、もしかしたら母親を重ねてしまっているのかもしれない。

 

「次期当主の立場で貴女に言っていいことではないのでしょうけど、……大丈夫。要って子には帰れない理由があるのよ」

 

「……そう、なんでしょうか」

 

 鏡華に言われて、零華は少し心が晴れた気がした。そう、要はいつも優しかった。思い返してみれば、要は常に自分を大切に気遣ってくれていた。別れる時に渡してもらった、この耳飾りが何よりの証ではないか。

 ……信じられていないのは、自分の方だったのだ。そう零華は再認識し、思い立った。

 

「お願いがあるんです。要さんから手紙が来るんです」

 

 零華は人生で今までにないくらいの決意の眼で、鏡華に訴えた。

 

「心離れが怖くて、いつも封を開けられませんでした。だけど、最後に要さんの気持ちを知っておきたいんです。どうか、これから来る手紙を私に渡しては貰えないでしょうか」

 

 巫女の事を聞いた今、それがどれだけ無理な願いなのかは分かっていた。それでも、どうしてもこの身が朽ちる前に、要の手紙の内容を読んでおかなければならないと思ったのだ。

 

「……それは、出来ない相談だわ」

 

 零華の熱意に対して、鏡華は冷たく反応した。それもそうだろう、巫女は俗世への想いを絶つべき存在であって、その行為は完全に背反している。ただでさえ当主の娘である鏡華が、それを許容出来るわけがないのだ。諦めきれず苦渋の表情を浮かべながら、もう一度懇願しようとした零華を、鏡華は平手で静止した。

 

「本来なら、ね。どうも私は貴女に思い入れをしてしまったみたい。いいわ、引き受けてあげる」

 

「本当ですか」

 

「けれどそんな事、巫女になる貴女には決して許されることではないの。絶対に、他言無用よ。これは私の立場だけではなく、貴女の身も危うくする案件なのだから」

 

 鏡華は厳しく律した。

 

「分かっています」

 

 零華は真剣な顔でこくりと頷いた。

 

「あと、貴女が手紙を返すことは出来ないし、私が先にその手紙に目を通させてもらうことになるけれど、それでもいいかしら」

 

「構いません」

 

 元々そのつもりだった。ただ、要の想いを無下にしてしまっていることに、いたたまれなくなっただけなのだ。それに、ここまで良くしてくれる鏡華に、これ以上の迷惑はかけられなかった。

 零華が心からの感謝を言葉で表そうとした瞬間、鏡華は口元に指を立てた。

 

「静かに」

 

 誰かが、足早に迫ってくるのが分かった。そうして少しの間も置くことなく襖が勢いよく開かれ、奥に夜舟の姿があった。

 

「鏡華、もう説明は終わっておるな」

 

 夜舟は開口一番に鏡華に尋ねた。

 

「はい、一通りは」

 

 頭を下げる鏡華を一瞥した後、夜舟は視線を零華に向けた。

 

「零華よ、巫女になる覚悟は良いか」

 

 早々激しい剣幕で、夜舟は問いかけた。

 

「では、巫女様は逆身剥ぎに……」

 

 鏡華は悲しげな表情を見せた。

 

「ああ、あれはもう駄目じゃ。完全に柊に侵食され、もはや自我を保っておらん」

 

 夜舟は荒々しい態度で、巫女の現状を早口で語った。

 

「まだ心の整理がついていないのも分かっておる。しかし、ゆるりと構えている暇はもうない」

 

「……」

 

 逃げ道などないことは分かってはいるが、いざ現実に迫ると口が重くなってしまう。そうして押し黙る零華を、夜舟はギロリとした眼光で見据えた。

 

「無論、お主に選択権はないことは承知であろう」

 

 なかなか返答をしようとしない零華に、夜舟は辛辣に言い放った。

 

「はい……、承知しています。大丈夫です」

 

 零華が力なく返事をすると、そのやり取りと見ていた鏡華はさらに深く眉を潜めた。

 

「では、すぐにお主の宮入りの準備を整える。しばし待たれよ」

 

 言い終わるより先に夜舟は襖を閉め、どたどたと豪儀な足音を鳴らしながら部屋から消えて行った。夜舟が退散した後、零華と鏡華の間には、重苦しい沈黙が流れた。

 零華は急すぎる知らせに落胆し、鏡華はそんな零華に憐憫の目を向けるだけで、そのまま言葉が交わされることはなかった。

 

 

 こうして零華は、故郷を失って数日の内に巫女として久世の宮に迎え入れられた。

 ……再び疼き始めた要への想いを胸に秘めて。

 

 

 



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【弐】-鎮女(シズメ)- 一ノ刻

 

 村のもう一人の生き残りである、(つづみ)露葉。零華と同じく偶然が重なり運良く助かったわけだが、それが本人にとって幸せだったのかと言われれば疑問である。なぜならば、久世に拾われた時点で、露葉の人生は選択肢のない一本の道に決定づけられてしまったからだ。今はまだ幼く適齢ではない為、刺青の巫女に選定されることない。しかし、いずれそれは逃れられぬ運命となり、零華の後を追うことになる。……とはいえ、久世のしきたりの下ではあるが、あと幾年かは今までと変わらない生涯を満喫できるはずだった。

 けれどそれを夜舟は許しはしなかった。心に鬼を宿す当主が下した決断。それは見る者によっては、らしくない選択だと捉えられただろう。

 

 

 

 

 社の大広間にて、1人の侍女を4人の子供が囲っていた。これから大役を担う子供達に、儀式における儀礼や作法を学ばせているのだ。そこには仲の良い3人組に馴染めず、浮いている露葉の姿があった。夜舟と鏡華はその様子を、遠巻きに眺めていた。

 

「この件はお前の為にしたことではないぞ」

 

 夜舟は不必要な説明だと分かっていたが、誤解を生まない様、一応鏡華に言葉で表した。

 

「存じております」

 

 にべもなく、鏡華は答えた。

 

「ならよい。子供とはいえ、万が一を考えての事じゃ」

 

 夜舟の指す万が一とは、柊に心を蝕まれる事である。子供はその未熟さ故に、物事に対する考えが浅く、罪の意識に囚われることが少ない。そこに柊が付け入る隙はまずないと言っていいだろう。けれど前例がないだけで、確実とは言い切れない。夜舟の孫に当たる雨音(あまね)は、母親に似てか歳の割に利口であるように感じられていた。

 

「満足か」

 

「……人は皆平等。踏み躙ってよい心などありませぬ」

 

 娘が重役から下ろされたことに安堵を示さないどころか、鏡華は刺々しく物言いをした。

 

「当主様、鎮女は供物に非ず。……ゆめゆめ忘れぬ様に」

 

 鏡華に垣間見える、露葉の扱いを危惧する心。いや、それは零華に対しても言えることだった。鏡華には巫女や鎮女に情を移すきらいがある。夜舟は鏡華に小さな頃から当主としての在り方、その心持ちを嫌というほど叩き込んできたつもりだったが、どんなに厳しく律しようとその心だけは変える事が出来なかった。そんな鏡華は当主として、実に致命的であった。

 

「一端の口をきくようになったものよの」

 

 才覚は十分にある。夜舟と方向性こそ違うが、鏡華は人を掌握する力と、何事にも物怖じしない精神を兼ね揃え、その上勉学においても秀でた知力を持ち合わせていた。人望で言えば夜舟より圧倒的に鏡華が勝っているのだ。それでも後継には全くもって相応しくなかった。当主に最も不可欠なものが足りない。否、人として過剰とも言えるほど足りているせいなのだ。感情……、すなわち鏡華は非常に慈悲が深く、冷徹に成りきれないのである。

 

「全く、私の腹から出てきた子とは到底思えぬな」

 

「いえ、間違いなく私は母上の子供ですわ」

 

 微笑を浮かべ、穏やかな眼差しで鏡華は訴えた。その鋭い切れ長の瞳にどこまでも見透かさせているようで、夜舟は僅かに焦燥感を抱いた。もはや夜舟の内には人情などありはしない。なのに、鏡華は自分と同じ心が夜舟にはあると、疑いもなく確信している様相だった。

 当主の血族として生まれなければとても可愛がられたろうにと、柄にもなく夜舟は思った。

 

「……とにかく、露葉には正式に鎮女として振る舞ってもらわなければならぬ。間違いがあれば、お前も正してやるよう努めるのじゃ」

 

 夜舟は本来現巫女の鎮女候補だった雨音を外し、露葉へと変更したのだ。これで零華の鎮女は氷雨(ひさめ)時雨(しぐれ)水面(みなも)、露葉の4人の幼子に決定された。

 鎮女役割は主に巫女の身の回りの世話をすること。そして、最たるは戒の儀で巫女を封印する時に、巫女の四肢を杭で打ち付ける役目だ。刻目同様、常に柊と隣り合わせの危険な立場であるが、そこに幼子を使う理由があった。

 柊はそもそも病んだ心に巣食う魔物である。初めから情緒に揺れ動く感情がなければ、それほど害ではない。何が善で悪なのか、理解の及ばない未熟な幼子が鎮女には丁度良い。だから巫女に何よりも身近になる当主も、情を殺すことをまず第一に学ぶ。……そう、鏡華がどれ程優れた人間であろうが、ここを欠いてしまっては当主の責務を果たすことが出来ないのだ。

 

「補佐役として、尽力致します」

 

「その事じゃが……」

 

「一度請け負った身。最後までやり遂げとうございます」

 

 先手を取られ、夜舟は喉まで上った言葉を胸に戻す。正直不服だった。来る日も来る日も鏡華に当主を説きながら、なぜ今まで夜舟が儀式関連の実技をさせようとしなかったのか。それは鏡華から巫女を遠ざける為だった。

 

「ならば問おう。秋人の事は傷となっておらぬのか」

 

 柏木秋人(かしわぎあきひと)。その男は鏡華の夫であった。民俗学者であった秋人は、近辺に伝わる眠りの巫女の伝承についての調査の為、久世の門を叩いた。本来久世家は男性禁制である為、立ち入りが許されることはない。その上儀式を嗅ぎまわる学者など話も聞かずに門前払いにする所だが、客人(にいなえ)としてなら別である。若く、健康そうな男性である秋人は利用価値が高く、言うまでもなく夜舟の目にかなった。

 そうして夜舟に歓迎され招き入れられた秋人は鏡華と恋に落ち、間もなくして二人は二児を授かった。先の赤子は不運にも男子に生まれてしまい、久世では忌み子として扱われた。久世の掟で、男子は4歳になるまでに殺さねばならなかったのだ。例に違わず夜舟は側近に命じ、鏡華から赤子を遠ざけ始末した。後の赤子は女子に生まれ、雨音と名付けられた。初の子を失った悲しみからか、鏡華の愛情は強く向けられ、雨音は何不自由なくすくすくと育っていった。

 秋人はしばらく久世に身を置いていたが、ある日突然鏡華を捨て久世を出ていき、二度と帰ることはなかった。

 ……しかしそれはあくまで鏡華に対しての表向きの話。事実は夜舟が秋人を手にかけ殺してしまったのだ。久世の男の客人は、忌み子と同じくそうなる運命にある。跡継ぎが生まれれば、夜舟にとって秋人はもう久世に深入りした邪魔者以外の何者でもなかった。

 首尾よく決行したつもりだったが、頭の良い鏡華はうすうす気づいているだろう。しかし鏡華が秋人について夜舟に探りを入れることはなかった。

 

「もう過ぎた事にございます」

 

 少しばかり気丈に振る舞う鏡華の姿に、夜舟はその想いの深さを感じ取った。

 

「ただでさえ不向きな気性に、その心の患い……。柊の餌食となるぞ」

 

「……心配は無用です」

 

 常日頃、鏡華は儀式に消極的な姿勢を見せていた。それが今回どういったわけか、自ら進んで干渉しようとしている。初めは鎮女になる雨音を心配するあまりの行動かと思ったが、こうしてその懸念は解消されたはずだというのに、鏡華の意思は変わらなかった。どうやら見当違いのようだった。何か企みがあることは分かっていたが、他に思い当たる節もなく、夜舟はその真意を知るには至らなかった。

 

「時に、零華様の様子は如何でしょうか」

 

 秋人についてこれ以上詮索されるのを避ける為か、鏡華は話題を切り替えた。

 

「何も変わらぬ。反発することもなく、人形の如くただ流れに身を任せておる」

 

「きっと心を閉ざさねばやり切れないのでしょう」

 

「好都合ではないか。巫女に感情は要らぬのだ」

 

「人が完全に感情を消すことは出来ませぬ。もし抑え込んだ想いの箍が外れてしまえば、取り返しのつかぬ事態になりましょう」

 

 直前に失敗を経験していた夜舟には痛い言葉だった。おそらく遠まわしに前巫女のことを言っているのだろう。鏡華にしては珍しく責めるような発言である。何か意図があるのだろうと、夜舟は鏡華に乗ることにした。

 

「戯言を。なれば何が最善と考える」

 

「気晴らしが必要にございます」

 

「ほう、それはどのようなものか」

 

「吊牢に閉じ込められてばかりでは気が滅入ってしまいましょう。人払いをし、たまに宮内で自由にさせるのも一つの手かと」

 

「馬鹿な。災厄の権化を社に放つと言うのか。吊牢なくして伝染は止められぬ。過去そのような事が許されたことはないわ」

 

「故に人払いにございます。当主様の仰る通り、吊牢は柊が人目に触れぬよう巫女を隔絶する為の処置にございます。ただそれだけの物で、吊牢でなければならぬという決まり事はありませぬ」

 

「確かに警備を万全にすれば可能やもしれぬ。しかしその様な危険を冒してまで計らう価値があるとは思えぬな」

 

「価値は巫女様の息抜きに留まりませぬ。零華様にとって久世は馴染みの浅い地。そうした計らいが信頼と忠義を生むのです」

 

「……そう上手く行けばよいがな」

 

 口ではそう言ったものの、確かに鏡華の主張は一理あると感じていた。実の所夜舟も良いやりようはないかと模索していた所だった。夜舟が携わった巫女達は皆既の所で正気を保っていた者ばかりであったからだ。前回遂には逆身剥ぎまで追い込まれてしまった。もう失敗は許されないのだ。もしも本当に巫女の精神の安定にそれが必要なら、労を惜しむことはない。

 

「一考してみよう」

 

「零華様は素直で優しい子ですわ。きっと儀式に良い作用を及ぼしましょう」

 

 あれから夜舟も少し零華と話し合いをしたが、確かに鏡華のその印象通りの娘だった。零華は巫女として中々の逸材だ。他人を想うことにより、儀式に前向きであろうとする姿勢が少なからず見受けられている。柊を患う人々に自分を重ね、同情という形で目を向けているのだろう。それでもただ自暴自棄になる巫女よりよっぽど良い素質を持っていた。

 それよりも気がかりなのは、鎮女になる露葉である。露葉は気が弱く、何より零華を慕いすぎている。いざ戒の儀において支障をきたしては、命を拾った意味がない。

 

……早きに試させねばなるまい。

 

 数多の犠牲を積み上げ、ここまでやってきたのだ。もしも鎮女すら務まらぬ様なら、情けをかける余地はない。身体に流れる当主の血が、夜舟にそう囁いた。

 

 

 



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   -鎮女(シズメ)- 二ノ刻

 普段着なれない巫女装束を正しく着るのは、子供にとって難題であるのかもしれない。

 

 露葉は寝惚け眼で両手に袴の帯をだらりと垂らし、首を傾げていた。久世の大人に何度も教えて貰ったのだが、未だどう結んでいいか分からなくなる。

 露葉が助けを求めるように視線を送るが、侍女はただ黙って様子を見ているだけだった。その無言の態度がどうにも怒っているように感じられて、慌てふためきながら試行錯誤を重ねてみるのだが、正解には一向にたどり着けなかった。

 

「……まず後ろへ交差させて、そのまま前に持ってくるのです」

 

 さすがにしびれを切らしたのか、侍女がついに重い口を開き露葉に助言した。

 

「それをまた後ろへ返し固く蝶々結びに……」

 

 露葉は言われた通りに背中に手を回し、帯の蝶を作った。

 

「そう、そうしたら今度は後ろ側の帯を持ち、前で蝶々に結ぶ」

 

「出来た。ありがとう」

 

 露葉ははにかみながら、小さく笑った。

 

「早く一人で着れるようにならなければ駄目ですよ」

 

 眉で八の字を作りながら、侍女もまた薄い笑みを返した。

 

 着替え終われば、後は大好きな零華の部屋へ行くだけだ。鎮女達は数日間の習い事を終え、まだ初儀式を迎えていない零華に対してではあるが、吊牢の中を想定した世話の一端を早くも実践していた。露葉は舞い上がり、足早に廊下へ出ていつもの方向へ曲がろうとした。

 

「ああ、露葉様、今日はそちらではありません」

 

 咄嗟に声をかけられ、露葉は足を止めた。廊下を戻り、襖からひょこりと顔だけを出し部屋の中を覗き込む。

 

「露葉様には特別な習い事があります。境内で当主様がお待ちになっております」

 

 それを聞いた露葉はいかにも嫌そうに顔を歪めた。あの堅苦しい時間をまた過ごさなければならない。久世のしきたりは難しく、聞いているだけで頭が痛くなった。特に、一番最後に説明を受けた戒の儀というのは最悪だった。自分達鎮女が、巫女である零華の手足を杭で打ち付けるのだと言う。何がどうなればそんな酷い事に繋がるのかさっぱりだったが、反論しようにも近くにいる夜舟が怖いので、こくこくと頷き分かったふりをしてその場をやり過ごしたのだ。

他の子の反応も様々だった。そんな無慈悲な話をあろうことか氷雨は熱心に聞き入っていたし、水面などは侍女に身を乗り出し、それでそれでと楽しそうに目を輝かせていた。ここへ来て何日か経ったが、久世の人間は大人も子供もどこか思いやりに欠け無情に思えてならなかった。この子達とは仲良くなれないし、零華姉様には絶対そんなことさせない。そう胸中で他の鎮女達に敵対心を露わにする露葉だったが、時雨の発言で少し考え直そうと思った。巫女様が痛い思いをするほど儀式は大事なことなのかと、心配そうに侍女に問いかけていたからだ。他の鎮女達と相対した姿勢の時雨を見て、皆が皆おかしな考え方を持っているわけではないのだと、露葉はいくばくか安心したのだった。

 時雨とは気が合いそうだと感じ何度か話しかけようとしたが、肝心の時雨は自分が余所者だからか一切目を合わせようとしてくれないので、結局一人ぼっちのまま今に至っていた。

 

「零華姉様に会えないの」

 

「これきりの辛抱です。明日からはまた会うことが出来ますよ」

 

 零華にべったりな露葉を知っている侍女は不憫に思ってか、いつもより柔らかな声調で露葉をなだめた。が、零華に会えない悲しみでいっぱいだった露葉はその気遣いに気づくこともなく、大きく肩を落としながらしぶしぶと玄関の方へ向かっていったのだった。

 

 

 

 

 

 真冬の真っただ中である現在、いくら晴れていようが外気は身体の芯まで凍てつかせる気温を維持している。戸を開けた瞬間、露葉はかちかちと歯を鳴らした。なぜ室内ではなく外なのか。目に映る辺り一面に積もった真っ新な雪が、元々やる気のない露葉の意欲を完全に削いでいく。震える両手に白い息をかけながら、やっとの思いで一歩外に出た。

 

「露葉、待ちかねたぞ」

 

 縮こまった露葉を、久世の大人数人と夜舟が出迎えた。苦手な夜舟よりもまず目が行ったのは、足元に置かれた大きな分厚い木の板であった。習い事に使う道具だろうか。

 

「他の子達はどこですか」

 

「今日はお主のみじゃ。付いてくるように」

 

 夜舟は短く淡泊に言った後すぐさま踵を返し、社に背を向け歩き出した。それに合わせ他の大人達も木の板を持ち上げ、夜舟に追従した。露葉は一人ということに不安になりながらも、夜舟の後を追った。進路の先を見やると、ぽつんと孤独に立つ建物が目に映った。どうやら境内の離れにあるあの建物に向かっているようだ。頑丈そうな石造りの蔵であった。少し歩きその蔵の前に着くと、何やら複雑な形をした鍵のかかった重厚な扉が現れた。大人達は木の板を置いた後、素早く鍵を開錠し、重く閉ざされた扉をゆっくりと開けた。

 

「うえ……、けほっ」

 

 露葉は思わず咽た。中から漂ってきたのは、今まで嗅いだことのない強烈な悪臭。あまりにも匂いが酷い為、露葉は中へ入るのを躊躇ったが、相対して夜舟は平然と蔵に足を踏み入れて行った。

 

「何を止まっておる。こっちへ来るのじゃ」

 

 夜舟が手をこまねいたので、露葉は仕方なく鼻を摘みながら蔵に侵入した。

 

「何、ここ」

 

 その光景は、はっきりいって異常だった。蔵自体は外見と変わらず中も至って普通の作りだったが、物置らしからぬ状態であった。布でくるまれた何かが、天井から縄でいくつもぶら下がっていたのだ。その大きさは大小様々で、得体の知れない液体が滴っている物もあれば、所々布が赤黒く変色している物もある。

 夜舟はそれらの隙間を歩き、一つ一つを立ち止まりながら目で確認し始めた。

 

「いくつか使い物にならぬものがある。後で始末しておくのだぞ」

 

 蔵の外で待機する大人達にそう言った後、さらに奥へと夜舟は物色を進めた。そうして夜舟はやや小さめの物の前で止まり、下部の布の境目に二本の指を引っかけた。

 

「この辺りであったか」

 

 夜舟がそのまま指を開くと布に隙間が生まれ、中の物がちらりと姿を見せた。

 

「ひっ」

 

 露葉は思わず悲鳴を上げてしまった。なぜなら、目が合ってしまったからだ。覗かせたのは、人の見開いた眼球だった。

 夜舟は指を抜き、今度はしっかりと布を掴み、下へと引き剥がした。すると口を半開きにし、青白くやつれた逆さの少女の顔が露わになった。

 

「これでも良いが、少し幼いか」

 

 納得がいかなかったのか、夜舟はその調子で次々と中身を確認していく。ここに吊り下げられていたのは老若男女余すことのない多様な死体達だったのだ。まさに地獄絵図だった。露葉は初めから夜舟には畏怖の情を抱いていたが、この時ばかりは心底恐怖した。淡々と死体の顔を見定める夜舟はもはや人間には見えず、まるで人間を弄ぶ妖怪か鬼の類のように感じられた。

 露葉は逃げ出そうと思った。ここにいてはいけないと、本能がそう言っていった。がくがくと震える足に力を込め、外へ走り出そうした瞬間。直後に夜舟が布を剥ぎ現れた死体に、露葉の体は硬直した。

 

「兄様」

 

 実の兄の顔がそこにあった。

 

「何。今なんと言ったか」

 

「どうして、兄様」

 

 露葉は吸い寄せられるように吊るされた兄の下へ赴いた。違ってほしいと願って近場でまじまじ見るも、それはどこからどう見ても血を分けた兄妹だった。

 

「露葉よ、勘違いするでないぞ。久世は亡骸を拾うただけじゃ。死にかけたお主には分かるであろう」

 

 夜舟の弁明など耳にも入らず、露葉は兄の顔を抱きしめ大声で泣き始めた。

 

「ふむ……、これは誤算であったな」

 

 さすがの夜舟もばつが悪そうに呟いた。わんわんと泣きじゃくる露葉に、さてどうしたものかと、夜舟は軽く握った手を顎に当てた。

 

「……いや、むしろこのくらいが丁度よいのかもしれぬ」

 

 夜舟は露葉の手を引き露葉を兄の死体から離すと、外の大人達に合図を送り、木の板を蔵に運び入れさせた。それは兄の死体のすぐ下に敷かれ、大人達は縄を切って兄の死体を木の板の上に落とした。その後死体を包む布を全て剥ぎ取っていく。

 

「やめて。兄様に酷いことしないで」

 

 大人達に飛びかかろうとする露葉を夜舟は制止した。そうして木の板に寝かされた兄の死体を前に、露葉は大人達から木槌と一本の杭を渡された。

 夜舟は大粒の涙を流しながらも状況が分からず、きょとんとする露葉の背中を押し、兄の死体の前に立たせた。

 

「どこでもよい。兄の手足をその杭で打ち付けるのじゃ」

 

 その信じられない言葉に、露葉はあの戒の儀という儀式を思い出し、夜舟の意図を悟った。夜舟は同じくらいの年ごろの少女の死体を零華に見立て、露葉に打ち付けさせる算段だったのだ。しかし思わぬ事態にあえて趣向を変え、こうして兄を打ち付けさせることにした。性別は違えど、兄であれば零華と同様に情が移り、より儀式の再現になると思ったからだ。

 

「出来ない」

 

 答えは決まっていた。零華にするつもりもさらさらなかった。

 

「案ずるな、お主の兄は既に死んでおる。痛みなど感じぬ」

 

「嫌っ」 

 

 否定し続ける露葉に、夜舟の顔色はみるみる悍ましいものに変貌していった。

 

「これが出来ずして零華を打ち付けられようものか。さあ、やるのじゃ」

 

 蔵に響き渡る怒号に露葉は怯むが、首を横に振り続けるのを止めなかった。

 

「そんな酷いことしたくない」

 

「……どうしても、出来ぬと申すか」

 

 先程の凄まじい剣幕を解き、夜舟は脱力しながらとても低い声で再度尋ねた。露葉は目に涙を溜めながらこくりと静かに頷いた。

 

「相分かった」

 

 その一言を聞いた大人達は、露葉の手から木槌と杭を受け取り、その場を片づけた。夜舟と露葉を中に残し、大人達は退散していく。

 夜舟はしゃがみ、露葉の目線に合わせた後、露葉の両肩に手を乗せた。

 

「辛い思いをさせたな。もう鎮女の役目はしなくてよい」

 

 そこにあれほど凄んでいた夜舟はもういなかった。

 

「……露葉よ、母や父に会いたいか」

 

 夜舟は今の露葉にとって何よりも望み、叶うことのない願いを口にした。鎮女が務まらないとなれば、夜舟の心はもう一つだった。

 

「会いたい。本当に会えるの」

 

 露葉は兄の事も忘れて素直に食いついた。久世の大人達に両親は死んだと伝えられていたのだが、それがどういったものかまだ理解出来る歳ではなかった。死の本質を、露葉は知らないのだ。

 

「ああ、会えるとも。……今すぐに」

 

 夜舟は露葉に初めて見せるであろう、優しげな表情を浮かべた。……そして露葉の肩に置いた手を、ゆっくりとその細く柔らかな首へと滑らせていったのだった。



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   -鎮女(シズメ)- 三ノ刻

 その部屋に入った零華は、壮絶な圧迫感に襲われ息を詰まらせた。

 壁一面をびっしりと埋め尽くす、打ち付けられた無数の人形。なんらかの儀式の残痕である事は見て取れたが、あまりの物々しさに零華はたじろぎながら一歩足を引いた。

 

「これは、鎮女達による咎打ちにございます」

 

 先導する鏡華は振り返ることなく零華に説明した。

 

「忌目……、柊による悪夢に魘された巫女様が安らかに眠れるよう、人形を身代わりとして打ち付けるのです」

 

「そんな儀式があるんですね」

 

 鎮女は巫女の支えとなる。世話とは一般的な介護だけでなく、そういった精神の厄払いも含まれている。万全に戒の儀に赴けるよう、巫女の身も心も支援する存在なのだ。

 

「……最近見かけませんが、露葉はどうしましたか」

 

 この所世話をしに来る鎮女達の中に、露葉はいなかった。個人的な習い事があるとは聞いていたが、それからもう三日が経っている。露葉は自分と同じく久世の人間ではない。だから色々と学ばなければならない事があるのだろうと思っていた。しかし、こうして鏡華とゆるりと話せる機会が次にいつ来るかは分からなかったので、今の内に近況を尋ねてみることにした。

 

「露葉……、ああ、露葉様にございますか」

 

 身をピクリと僅かに震わせ、思わせぶりにゆっくりと鏡華は振り向いた。それきり口は動かず、鏡華の目は宙を彷徨う。言葉を探しているように感じられた。鏡華は露葉の現在を知らないのだろうか。

 

「伝えられていないんですか」

 

「いえ、そういう訳では……、ただ」

 

 鏡華は合わせた視線を逸らし、また口を止めてしまった。どうにも落ち着かない様子で、前に交わした手の平を絶えず絡ませ動かしている。明らかに動揺の色を隠せていなかった。こんな鏡華を見るのは初めてだ。まさか露葉に何かあったのではないかと、零華は段々と不安になっていった。

 

「……当主様が適任ではないと判断され、露葉様は鎮女の役から降ろされました」

 

 ようやく溜めに溜めて出た鏡華の言葉に、最悪な事態を想定していた零華はひとまず安堵した。

 

「あの子には向いていなかったんですね。きっと駄々をこねたんでしょう」

 

 零華は露葉に言い聞かせたことがあった。どんな儀式も嫌がらずに行わなければならない、と。その時話題に上がったのはやはりあの戒の儀であった。露葉は頑として拒否し、最後まで聞き入れてはくれなかった。露葉の零華を傷つけたくないという強い意志に、零華は涙が滲むほどに嬉しかったが、反面露葉の立場を憂慮せざるを得なかった。果たして当主様は許してはくれるのだろうか。そればかりが心配で仕方なかったのだ。

 

「今は宮下の村に送られ、元気に暮らしております」

 

 すぐに取り繕うように、その後の露葉について鏡華は語った。そこに相手の気持ちを真っ先に案じる優しさがあった。未だぎこちなさを残してはいるが、相手に対する忖度だけは忘れない所にいつもの鏡華らしさを感じた。

 

「そうですか。……本当に良かった」

 

 流されるのではないかと思った。余所者の自分達が我儘を言えるほど、ここは甘い場所ではない。まして儀式の妨げともなれば、久世に迎え入れられたそもそもの理由を失ってしまう。露葉は巫女ではなく鎮女であった為に、このような寛容な処置が取られたのだろうか。なんにせよ、結果として露葉が無事であったのならそれでいい。しかし、あくまで掟に従ってこその命。そこだけははき違えてはならなかった。

 

「中々言い出せなかったのは、これで零華様は露葉様と二度と会えなくなってしまったからにございます。事実をお伝えするのは酷かと……」

 

 深く考えていなかったが、確かにこのまま初の儀式を迎えれば、自分はもうこの社からは出られない。そして鎮女でなくなった露葉に社への立ち入りが許可されることはないだろう。まさしく今生の別れであった。 

 

「それは……、仕方のないことです」

 

 言葉とは裏腹に、零華は気落ちした。もう露葉の顔を見る事が出来ない。露葉が零華を慕うように、零華にとっても露葉は唯一の拠り所であった。同じ故郷の生き残りだからこそ、行き場のない孤独を互いに埋め合うことが出来ていたのだ。露葉は鎮女という立場以上に、零華の支えとなる存在であった。

 

 ……いや、むしろこれで良かったのだ。戒の儀はきっと露葉にとって大きな心の傷となってしまう。同郷の者の身体を穿つ痛み……、それが露葉に残る自分との最後の別れの記憶となる。ようやく村の皆がいない生活に慣れ始めた露葉にとって、あまりにも惨い仕打ちである。だから、本当に露葉のことを思うのならば、鎮女の役目を免れたことに喜ぶべきだ。

 

 しかし、こうなってしまった以上、ここからは一人で儀式に向き合っていかなければならない。零華は湧き上がる寂しさと不安を堪えながらも、必死に決心を固めた。

 

「でも、そうしたら鎮女は一人欠けてしまいますよね」

 

 気を取り直して、零華は鏡華に疑問を投げかけた。

 

「代役は、私の実娘の雨音が務めます。零華様、不束な子ですがどうか宜しくお願いします」

 

 深々と頭を垂れる鏡華に、零華は手を振った。

 

「頭を上げてください。様だなんて……。そんな畏まらないで、前のように話してほしいです」

 

「零華様は巫女になられる御方にございます。その身を対価として払い、苦しむ者の為に救済の手を差し伸べる慈愛深き祭神。一介の人間である私に、なぜ同じ肩が並べられましょうか」

 

 この上ない敬意を見せる鏡華に戸惑うも、いかにも鏡華らしい身の置き方だと零華は思った。夜舟とは全く正反対の態度である。おそらく当主の血を引く鏡華が未だその座に就いていないのは、この気質の違いが原因なのだろう。長きに渡り当主として君臨する夜舟こそが模範であり、その在り方を鑑みれば巫女への温情は必要ないことだということが分かる。それでなお、鏡華はこうして巫女を尊重してくれているのだ。

 

「分かりました。鏡華さんが少し遠い存在になってしまったようで残念ですが、敬ってくれていることは十分伝わります。そんな鏡華さんが私は好きですよ」

 

「有難きお言葉。……本当に御免なさい」

 

 鏡華は素に戻り、なぜか謝った。今、そのような場面であっただろうか。鏡華が隔てた互いの立場に対しての謝罪にも捉えられるが、それにしては言い方が妙であった。及ばぬ何かがちらりと透けて見えたようで釈然とせず、零華は素直に受け止められなかった。

 

「さあ、次に参りましょう。私の部屋に案内致します」

 

 零華の横を通り過ぎ、鏡華は部屋を出た。心に引っかかりを感じつつも、零華もその場を後にし鏡華の背中を追った。

 

 現在、零華は鏡華に連れられ、社内を見回っている最中だった。

 本来残りの生涯のほとんどを吊牢の中で過ごす巫女が、社内の構造に見識を深めること自体無意味な行為である。しかし零華は特別に夜舟からごく限られた条件下ではあるが、刺青の儀式後も定期的な社内の自由を約束された。だから迷うこと無い様、またいくつかの踏み入れてはならない場所を教わる為、こうして鏡華に引率されているという訳だ。

 

 改めてこうして歩いてみると、外から見るよりも大分広く感じられた。そして何やら回廊のような作りが意図的に築かれているようで、社内は極めて複雑に入り組み、一度拝見した程度では覚えきれる自信がなかった。

 

「簡単に説明しますと、このような構造がなされているのは眠りの宮と狭間の宮の影響にございます」

 

「眠りと狭間……、儀式上の構築物ですか」

 

「はい。柊を内に封じ込める為、全体的に囲むような作りになっております。そうして築かれた回廊をそれぞれの目的に合わせ、眠りの宮と狭間の宮と呼びます。久世に準じた宮大工達による技巧の賜物なのです」

 

 話しながら鏡華は一度辿った道を戻り、ぐるりと中央の中庭に沿いながら足を進め、途中で後回しにした方角に続く廊下へと曲がった。さらに奥へと向かい、いくつかの部屋を通り過ぎた後に鏡華は立ち止まった。

 

「ここが私の部屋にございます」

 

 零華は開け放たれた襖の先に目をやった。部屋の中には煌びやかな着物がいくつか飾られている他、大きな鏡台が置かれている。それ以外特に目立った物はなく、部屋の面積に対して少々殺風景な印象を受けた。

 

「こちらへ」

 

 零華は鏡台の前で手招きする鏡華に、言われるままに近づいた。鏡華が鏡台の引き出しを引くと、そこには一通の手紙が収められていた。

 

「これは、要さんの手紙ですか」

 

 鏡華はこくりと頷き、手紙を零華に手渡した。

 

「零華様の紫魂の儀が始まれば、私は零華様に近づくことが困難になります。ですので、手紙はここに入れておきます故、自由の許可の得た際には必ず確認しに訪れてくださいませ」

 

「有難うございます」

 

 零華は宛に書かれた馴染みのある癖字に、感無量の面持ちを浮かべた。まさかこんなに早く受け取ることが出来るとは思っていなかった。鏡華は約束の後、すぐに手配してくれていたのだ。

 

「ゆっくりと読みたいでしょう。その都度持ち帰って貰っても結構にございます。しかし、くれぐれも誰かに見つからぬ様に」

 

「でも、どう処分したらいいですか」

 

「今回は頃合いを見て私が受け取りに参ります。巫女になられた後は、吊牢から手の届く行灯の火に千切ってくべるか、刻女に渡して貰えばこちらで始末しましょう。私の息のかかった刻女にございますので、どうぞご安心を」

 

 零華はまだ刻女を見たことがなく、また鏡華もその面持ち故に抽象的に伝えていた為、どういった風貌なのか想像することが出来なかった。しかし顔を知らずとも、刺青を刻む時に必ず会うことを考えればそれも可能だろう。そう思い、零華は了承した後手紙を懐に仕舞い込んだ。

 

「そろそろ時間にございますので、広間へ戻りましょう。反対側から帰る道をお教えします」

 

 覚えることに必死で意識はしていなかったが、確かに頃合いかもしれない。もう大分社内を歩き回っていて、少々足に疲れが来ていた所だった。

 零華は頭の中を整理し、おぼろげな社の俯瞰図を思い浮かべながら、部屋を出る鏡華に続いた。鏡華は先の廊下を戻ることはなく、そのまま道に沿うように進んでいった。

 そうして階段を上って二階に上がり、大きく迂回しながら広間へ行く途中。鏡華はどういうわけか急に足を止めた。距離を置いていなかったわけではないが、周りに目を向けていた零華は気づくのが遅れた。鏡華は振り返り何か言おうとしたようだったが、勢い余って胸に飛び込んできた零華によってそれは遮られた。

 

「ご、御免なさい」

 

「い、いえ。それより、やはりこちらは……」

 

 零華は慌てて顔を離し視線を上げると、酷く取り乱した表情の鏡華が目に映った。何事かと思ったが、途端に漂う芳香に零華の気は逸れた。鏡華の清潔そうな甘い香りに混じり込む、最近嗅ぎ慣れた匂い。零華は顔を鏡華に向けたまま、視線だけを少し先の横の部屋に送った。目に付いたのは間に合わせであろう質素な祭壇と、小さな棺だった。

 

「あれは、誰かを弔っているんですか」

 

「予定が押していますので、お急ぎを」

 

 鏡華は問いに答えることなく踵を返し、零華を急かした。

 

「少し待ってください」

 

 零華は足早にその場を去ろうとする鏡華を、無理矢理呼び止めた。今日の鏡華は本当におかしい。具合でも悪いのであろうか。ここまで露骨だとさすがに気になって仕方がなかった。

 

「……あれは、流行り病で命を落とした、宮下の村の……幼子にございます。久世と縁があり、宮内で弔っているのです」

 

 零華は鏡華の体調を心配し伺おうとしただけだったのだが、鏡華は先ほどの質問を今更ながらに返した。とても歯切れが悪く、声に覇気がない。やはり調子が良くなさそうだった。

 しかし、どうやらあの棺の中には望まず死んでしまった子供の遺体が収められているようだ。唐突に、零華の脳裏にあの日雪に埋もれた子供の顔が浮かび上がった。

 

「結局、戻ってあげられなかった……」

 

 零華は静かに歩を進め、棺が置かれた部屋に入っていった。すると突然鏡華に勢いよく腕を掴まれ、廊下へと引き戻されてしまう。

 

「近寄ってはなりません。病が移るやもしれません」

 

 狼狽する鏡華の顔の前に、零華は手の平を向けた。

 

「大丈夫です。何もしません」

 

「ならば、決して棺を開けることのない様」

 

 鏡華の許可を得た後、零華は棺へと歩み寄り、前で座した。

 

「可哀そうに……。ゆっくりとお眠り」

 

 零華は棺の中の子供に村の子供を重ね、果たせなかった約束を噛みしめながら、あやすように棺を撫でた。

 

 ……あの時もっと上手く避難出来ていれば、あの子は助かっていたのかもしれない。死んでしまった責任は、少なからず自分にある。にも拘らず、こうしてのうのうと生きている自分に対し、嫌気がさす。

 

 零華は気づかないふりをしていた。半分報いとして、儀式を受け入れていることに。そう認識してしまった瞬間自我は崩壊し、きっと前の巫女のように柊に飲まれてしまう。それでは駄目なのだ。自分が生き残った意味を、死んでいった皆に示さねばならない。

 

 零華は覚悟を決め、ゆっくりと立ち上がった。

 

「時間を取らせてすみませんでした。鏡華さん、お身体は大丈夫ですか」

 

「ああ、気遣わせてしまい申し訳ありません。少し考える所がございまして……。もう平気ですのでお気になさらずに」

 

 鏡華のおかしな挙動はどうやら悩みが原因であったようだ。あまりに鏡華がしっかりしているように見えるので、心に不安を抱えていても表には出さない人なのだろうと、勝手な先入観に捉われていた。よくよく考えてみれば初めて会った時もそうだった。あの時も何かに悩んでいたのだろうか。

 

「それなら良かったです。あまり抱え込まないでくださいね」

 

 零華は微笑んだ後、時間を気にする鏡華を思い、自ら先に部屋を出た。身体を強張らせ、零華の一挙一動を食い入るように見つめていた鏡華は、零華が棺を離れたことにようやく緊張を緩ませた。そして、変わり果てた幼子を見つめ、思わず唇を震わせる。

 

「……最後に会えて、嬉しかったでしょうね」

 

 鏡華は零華の耳に届かぬ声で、小さく呟いたのだった。



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【参】-宮大工(ミヤダイク)- 一ノ刻

濁りが増してゆくのを感じる。

得体の知れない何かが全身をゆっくりと這い回り、己を取って代わっていくような感覚。

宿主の自我に溶け込もうと、どこからともなく押し寄せてくるのだ。

張り巡らす警戒の糸を容易く擦り抜け、さらなる深層へと侵入してゆく。

それがそっと心に触れ意識と混じり合う時、本当の自分を忘れかけてしまう。

 

その慟哭は誰のものなのか。

その哀惜は誰に向けたものなのか。

 

胸中に激しく渦巻く、悲鳴と嗚咽と、苦悩に満ちた想い。

 

残された私は、どうすればいいの。

お前の代わりなんて、他にいはしないのに。

 

そんな聲が幾重にも重なり、波紋のように響き渡る。

 

生まれ落ちた瞬間に背負わされた、逃れられぬ運命。

死という別れが、人を狂わせていく。

 

張り裂けそうな痛みと共に、想い人を亡くした様々な場面が、何度も脳裏に入り乱れる。

顔を手で覆っても、それから逃れることは出来ない。

この世の地獄を、絶えず見せられ続けるのだ。

 

(もう、見たく……)

 

「……女様」

 

「巫女様」

 

 

 

 

───忌目(ゆめ)からの目醒め。

 

 

 

 

 何かが頬に当たる感触。そして、聞き覚えのある声。我に返ると、手ぬぐいを片手に心配そうに見つめる雨音の顔があった。さらに焦点が定まっていくと、ここがいつもと変わらぬ吊牢の中であることが伺えた。

 

 そう、私は久世零華。柊を身に刻む久世の巫女だ。

 

 零華は乱れた呼吸を整え、散らばってしまった己の欠片を必死に拾い集めた。

 

「大丈夫……、ですか」

 

「ありがとう。少し悪い夢を見ていたみたい」

 

 そう言って思い返してみるが、眠りにつく寸前の記憶はなかった。いつの間にか疲れて寝てしまったというわけではなく、それは突然意識が奪われたといった方が正しいのかもしれない。確かに変わり映えのないこの吊牢の中での生活は、正常な時間の流れを実感しにくく、こうして目覚めた後に初めて眠りについたことを認識することもしばしある。しかし意識が落ちるのと堕ちるのでは全く異なった入り方なのだ。……あれは間違いなく、夢ではなく忌目だ。

 

「いつもの自由時間の知らせに参りました」

 

 雨音は立ち上がり、手を差し伸べた。零華が合わせるように手を乗せ起き上がると、雨音は優しく吊牢の外へと誘導した。

 

「では、私はここでお待ちしています」

 

 頭を垂れる雨音に会釈を交わし、零華は吊牢を後にした。

 

 

 

 すぐそこに曲がり角のある廊下がやけに長く感じる。それに、時折左右の壁がこちらへ伸し掛かってくるような錯覚に捉われていた。どうにも先ほどの幻覚が抜け切れていないようだ。

 

 ……日々、現実と夢と幻の境目が曖昧になってゆく。

 

 零華は少し落ち着こうと、近くの丸窓に手をかけた。じわりと額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、外の景色に目を向ける。来た時より季節は移り変わり、あの忌まわしい白銀の世界は既に姿を消していた。地表には緑が覗かせ、ちらほらと春の花が色艶やかに咲き乱れている。どこか物悲しげに、薄紅の花弁がひらひらと大地に降り注いでいた。人がどのような運命をゆこうとも、こうして世界は廻る。零華は胸が締め付けられる思いだった。

 

 それとは別に、突如遅い来る哀愁。この桜の風景に知らないはずの情景が混ざり、視界をちらつく。これは、刻まれた柊の記憶だろうか。狂おしいまでの愛慕と、棘が刺さったような疼く痛み。

 

 零華は目を見開いたまま、どこか遠くへと意識が吸い込まれ、追憶の彼方へと誘われていった。

 

 

 

───寝目(ゆめ)への眠り。

 

 

 

 桜の木の下で泣いている少年と、それをあやす少女。大人びた少女に対し、少年は少しあどけなさを残していた。あれは姉弟であろうか。この伝わってくる悲しみから察するに、少女との別れを惜しむ少年の思い出であることが理解できた。

 

「泣かないで」

 

 少女は少年の涙を指で拭い、頬を摩った。

 

「嫌だ。離れたくない」

 

 少年は顔を歪ませ、悔しそうにせびるばかりだった。少女は静かに瞳を閉じ、ゆっくりと首を振る。

 

「ごめんね」

 

 ただそれだけを言い残し、少女は去っていく。絶望の中、俯く少年。そうして、無情に舞う花びらに掻き消され、少年少女の別れは消失した。

 

 

 

───寝目からの目覚め。

 

  

 

 気づくと、零華は丸窓の前にはいなかった。無意識のうちに社を彷徨い歩いていたようだった。

 

「ここは……」

 

 屋敷内の建設中の一角に足を踏み入れていた。ここは夜舟に来るなと念を押されていた場所であった。儀式の失敗により不安定になっている柊に対し、現在宮大工達が総力を挙げて回廊の増築に勤しんでいる。まさに真っただ中と言わんばかりに、所々外壁が打ち抜かれ、破片が辺りに散乱していた。

 

 夜舟に留まらず、鏡華にもきつく言いつけられていた零華に、この場へ出向こうとする意志などなかった。だというのに今自分はここにいる。最早自分が自分でないような気さえしていた。

 

 ……しかし、あれはどのような別れの記憶であったのだろうか。不思議な事に、なぜか自分はあの少年を知っている気がするのだ。

 

 そんな思考を巡らせ俯くと、足元に何か落ちていることに気が付いた。零華は屈み目を近づけてみると、それは花びらを模したこざっぱりとした細工の髪飾りだった。

 

 見覚えがあった。

 

 まだ巫女になって日が浅い頃に出会った、本宮に迷い込んだ一人の若い宮大工が持っていた物だ。彼は姉の形見だと言っていた。以前拝見した時もあまり上物ではなさそうだという印象を受けたが、今は汚れと傷みでより質素に見えた。なぜ、これが今ここにあるのだろうか。

 

 ……あれは、この半身を染める柊がまだ僅かであった頃の出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巫女になって初めて自由の許可を得た日。人払いがされたはずの屋敷に、誰かいた。それも女ではなく、零華がここへ来て初めて見る男であった。

 

「あの……」

 

 零華に声をかけられた男は返事を返すこともなく、目を丸くしたまま硬直していた。

 

「私が、怖いですか」

 

 頬から瞼に走る蛇の胴を、真っ二つに大きく分け隔てた零華の瞳が、薄い切れ込みに変わっていく。そんな悲痛な視線を向けられた所でようやくその男は我に返り、大袈裟な身振りで否定した。

 

「いえ、そういうわけではありません。ただ、とても美しい方だと」

 

 零華は予想外の真逆の返答にきょとんとし、理解出来ずにいた。忌むべきこの姿に、この男は今なんといったのだろうか。

 

「……美しいって、私がですか」

 

「他に誰かいる様には見えませんが」

 

 それはまさにその通りだったが、そもそもその返し自体が間違っているのではないかと、零華は顔の刺青をなぞった。

 

「これが、見えていますか」

 

「はい、勿論。元より綺麗な顔がその刺青によって神秘めいて見えて、とても美しく思います」

 

 その言葉でようやくこの男が本気で言っているのだと分かり、零華の頬に熱が帯びた。

 

「ああ、しかし気になさっているのですね。その必要はありません。私だけではなく、誰が見てもそう感じるでしょう。それ程に美麗なお姿です」

 

 男は恥ずかしげもなく、立て続けに零華の容姿を褒めちぎった。零華は動転し、射抜くような男の視線からおもむろに目を逸らした。このように感情を動かされたのは久しぶりかもしれない。

 

「……わ、私はここで男の人を見たことがありません。それに、今は人がいないはずの時間……。貴方は誰ですか」

 

「ああ、すみません。私は新米の宮大工で社の外回りの補修をしていたのですが、構造をよく把握しておらず、屋敷内に迷い込んでしまいました」

 

「そうだったんですか。では今すぐにでもこの場を去った方がいいと思います」

 

 となれば男は誰の許可もなくここへ侵入したということになる。巫女に人を会わせない為の人払いなのだ。もしこれが夜舟に知れれば一大事である。男は静まり返る屋敷を見渡し、なんとなく事情を察したのか零華に同意を示した。

 

「それが懸命のようですね。……しかし、貴女は噂の巫女様ですか」

 

「はい」

 

「それなら少しお話とお聞きしたいことがあります。駄目でしょうか」

 

 そう言われ、零華は周囲に目を配る。無論、誰かに気づかれた様子はなさそうだった。もう手紙も回収した後で、まだそれほど時間も経ってはいなかった。

 

「……少しなら。本当に少しだけですが」

 

「有難うございます」

 

 礼を述べ、さっそく男は本題に入るべく懐からとある髪飾りを取り出した。

 

「姉の形見です。これをいつも肌身離さず持ち歩くほどに、私は姉をとても慕っていました」

 

 暗い面持ちで、男は髪飾りを見つめていた。

 

「数年前に金銭的な理由で嫁いだ姉が、しばらくしてその嫁ぎ先の村の大規模な火事で亡くなったと聞かされました。丁度ここの山を越えた辺りの村です」

 

 聞き覚えがあった。随分と前だが、確かに近隣の村でそのような火事があったことを村の誰かから耳にしていた。

 

「しかし姉らしき遺体は見つからなかったようでした。私はその事実に一時希望が湧いたのですが……。生きていたなら姉は必ず私に会いに来るはずなのです。けれど姉はその後一度も姿を現しませんでした」

 

「数年間、一度もですか」

 

「……はい。それで私は確信しました。遺体が発見されなかったとしても、姉はもうこの世にはいないのだと」

 

 何か事情があったにしろ、姉弟に対し数年間も無事を知らせに来ないのは不自然である。男がそう思ってしまうのも仕方がないし、それが現実である可能性も高いように思えた。

 

「私は姉を失った悲しみに打ちひしがれました。精も根も尽き果てた抜け殻のような身体で、それでも生きて行かねばならぬと職を必死で身につけました。そうして地方でこの仕事をしていた所で、久世の棟梁様の目に止まり今に至りましたが、あれからずっと私の時は止まったままなのです」

 

 男は髪飾りをしまい、顔を上げた。

 

「……おそらく姉は亡くなっていますが、このような不確かな場合でも巫女様は受け入れてくれるのでしょうか」

 

 零華は男の手を両手でそっと包み、顔を近づけた。

 

「当然です。とてもつらい思いをしたんですね。大丈夫、私が貴方の想いを背負ってゆきます」

 

 巫女になって初めて目の当たりにした、救うべき相手。目の前で打ち震える男に、心の底から助けたいと思った。そう、こういった人の傷を癒す為に今、自分は巫女としてここにいるのだ。

 

「……(なつめ)姉様」

 

 男の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。

 

「棗、というんですか」

 

「……あ、申し訳ありません。どことなく姉に似ていたので、つい……」

 

 男は零華に姉を重ね、感極まって姉の名前を呼んでしまったようだった。

 

「巫女様のお名前はなんというのですか」

 

「零華。久世零華です」

 

「零華……、とても良い名前ですね」

 

 その響きを吟味するかのようにゆっくりと声に出し、男は讃嘆した。

 

「聞いてくださり感謝いたします。零華様、やはり貴女はとても美しいお方のようですね」

 

 男は零華の手をそっと離し、笑みを向けた。

 

「時間を取らせてすみませんでした。私はそろそろ立ち去ろうと思います」

 

「いえ、こちらこそ貴方に会えてよかったです。人に見つからない様、気をつけてください」

 

 零華は安全であろう帰り道を教え、男を見送った。そうして本来巡り合うことのなかった宮大工との僅かな邂逅は幕を閉じ、後に形を変えてその想いは零華の肌に刻まれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姉を亡くした宮大工との偶然の出会い。後にも先にも、儀式の関係者以外の人間に会うのはあれが最後だろう。零華は己の手に握られた髪飾りを眺めながら、そんな出来事を思い返していた。

 

 ……変化の乏しい日常に埋もれて忘れてしまっていたが、あの宮大工は今元気に暮らしているだろうか。

 

 零華が物思いにふける中、それを阻むかのように、がさり、と何かが動いたような音が耳に入った。まさかあの時のようにまた誰かいるのではないかと顔を振ったが、当然そのようなことはなく特に周りに目立った様子はなかった。……では、一体なんの音であったのだろうか。零華は怪訝に思い、暫くの間辺りを観察していたのだが、結局音の原因を突き止めることは出来そうになかった。小さな穴を覗かせるひび割れた近くの壁を眺め、あらかたこういった亀裂の一部が崩壊した音だったのだろうと、零華は勝手に思い込むことにした。

 

 ……零華は多くの宮大工達が行き着く先を知らなかったのだ。

 

 とにかく、今は鏡華の部屋に行くことが先決である。今日はいつにも増して意識の飛びが激しい。もしかしたらもうあまり時間は残されていないのかもしれない。零華はひとまず髪飾りを懐にしまい、要の手紙の確認を急ぐことにした。

 

 そうして零華がその場を離れる中、内部からの圧力の負けて土壁の亀裂から破片がぽろぽろと床へ崩れ落ちた。無論、零華がその無念の残滓に気づくことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから幾時が経ち、もう何度も迎えたであろう、刺魂の儀にて。

 

 零華は刻女に聞いておきたいことがあった。いつか見た寝目とあの日の宮大工の想いが零華の中で結びついたのは、今になっての事だった。そう、あの別れの記憶の少年は彼で、少女は姉の棗だったのだ。

 

 あれからずっと考えていた。あの宮大工は一人で作業していたわけではないはずだ。なのに他の宮大工から離れ、屋敷内に迷い込むというのはいささか不可解である。……だとしたら、何らかの目的があって自ら忍び込んだのではないか。

 

 これはあくまで可能性の一つに過ぎない。しかし零華はそれを問わずにはいられなかった。

 

「一つ、お伺いしたいことがあります」

 

 零華は横たわった体勢で、針を入れようとしている刻女達に問いかけた。

 

「なんでしょうか」

 

「お二人が携わった巫女に、棗という名の巫女はいましたか」

 

 視力を失っているはずの刻女達は、一致した呼吸で互いの顔を見合わせた。

 

「おりました」

 

「……そうですか」

 

 あの宮大工がどこまで巫女について知っていたのかは分からない。分からないが……、零華はやるせない気持ちでいっぱいだった。

 

 



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   -宮大工(ミヤダイク)- 二ノ刻

 

 宮下の村の外れに建つ、小さな屋敷。

 こじんまりとした建物だったが、よほどの腕の立つ職人に造られたのであろう、そこには一般家屋には見られない技術と精巧さがあった。寸分狂いなく設計された壮麗な外観はいうまでもなく、その細部に目を向けてみても手が抜かれた様子はない。知識を持たぬ者すら魅了するほど木の継ぎ目が美しいのだ。それでいてとても頑丈で、機能性においても申し分はなかった。そんな万遍なく施された独自の組木から、並外れた匠の技が伺えた。

 

 宮大工の棟梁である鳴海天涯(なるみてんがい)は、自らが手がけた屋敷で一人、酒瓶を片手に胡坐をかいていた。どちらかと言えば下戸の部類であったが、今日は特別だった。夜舟から任されていた一連の作業は終わりを迎え、本日仕上げに入ったのだ。天涯自らの手で行う生業である。そして今後の方針や新たな要請を伝えるべく、そろそろ夜舟がこの屋敷を訪れる予定となっていた。

 

 ……珍しい事だ。いつも使いの者に一任し、顔を合わせる機会など滅多にないというのに。

 

 天涯は皮肉じみてそう思う反面、それがどういった事であるのかを、今までの経験からして予想は出来ていた。だからこうして、わざと酒の席を設けたというわけだ。

 

 まだ寒さは抜けきれず、夜は冷える。だから手が震えるのだ。そう己に言い聞かせながら、天涯は酒に手を付けることなく、ただ耳を傾けていた。段々と近づく、土を踏む音に。

 

「天涯よ、おるか」

 

 こつこつ、と戸を叩き、夜舟は呼びかけた。

 

「開いておる、勝手に入れ」

 

 天涯に言われるまま玄関に上がり、夜舟はすぐ傍にある部屋へと顔を出した。

 

「久しぶりじゃな、天涯」

 

「夜舟よ、また老けたな」

 

 出迎え早々失礼な言葉だったが、天涯なりの挨拶だと知っていた夜舟は特に気に留める様子はなかった。

 

「お主が酒を飲むのは決まって仕上げの日であるな」

 

 近頃疎遠だったとはいえ、夜舟と天涯との付き合いはそれこそ幼少の頃からの腐れ縁だ。女や酒があまり得意ではなく、仕事一筋で俗世にはほとんど興味がない。夜舟はそういった天涯という男を知る一番の人間であった。

 

「ああ、儂はどちらかと言えば苦手な方じゃが、極上の肴を添えた酒はなぜか格段と上手いのでな」

 

「相変わらず酔狂よの」

 

 夜舟は有り体に言い表した。蛮行の昂ぶりを肴に出来るというのは、その者が人格破綻しているに他ならない。天涯の生業……、それは、殺人である。柊を押し込める為の眠りと狭間の宮。その回廊の完成には、人柱が必要であった。多くの宮大工達を犠牲にし、壁に埋めなければならない。まさに事後であった天涯の言う肴とは、この行為そのものを示していた。

 

「お主もどうじゃ」

 

「分かりきったことを」

 

 やれやれと夜舟は首を振る。当然天涯も夜舟が酒を一切口にしない事を知っているはずなのだ。

 

「つれない女じゃ。まあそこに座れ。さっそく昔話でもしようかの」

 

「そんな下らぬ話をしに来たのではないわ。ただの合議じゃ」

 

 天涯の戯れをするりと交わしながら、夜舟は敷かれた座布団に正座した。すると天涯は目を異常なまでにかっぴらき、夜舟の顔を下から覗き込むように観察し始めた。

 

「やめい。虫唾が走るわ」

 

 おそらく夜舟は心底そう感じているのだろう、顔に嫌悪が滲み出ていた。これも演出の一つであるが、夜舟がこのように思い込んでいるのであれば、天涯の思うつぼであった。長年刷り込んできたのだ。そうやすやすと見破られるわけにはいかなかった。

 

「……夜舟よ、何を迷っている」

 

 目を据え、声色を低くして天涯が言った。

 

「何の事じゃ」

 

「まさか郷愁に駆られ、旧友を訪ねに来たわけではあるまい。それとも儂が恋しくなったか」

 

 はっ、と、侮蔑を込めて夜舟は鼻を鳴らした。

 

「笑えぬ冗談よ。老いたのは貴様の方じゃ。耳が遠くなって合議という言葉も拾えなかったか」

 

「建前はな。いや、お主は本当にそのつもりなのかもしれぬ。しかし、長らく傍にいた儂には分かるのよ」

 

「戯言を。なれば申してみよ」

 

「……お主、今更恐れておるな。自分の来た道が間違いではないかと」

 

 途端に夜舟の眉間にしわが寄った。

 

「ありえぬ。現についこないだ儀式の弊害となりうる子供を屠ってきたばかりじゃ。先を見据え、当主を重く自負するが故の所業よ」

 

 天涯の主張を跳ね返すべく、夜舟は自らの行いを露わにした。

 

「……それか。加えて、鏡華にあてられたな」

 

「この夜舟が引け目を感じているとでも言いたいのか。そもそも鏡華は関係ないであろう」

 

 鏡華の名が出て、夜舟は口調を荒げた。痛い所を突かれた証拠だった。

 

「儂を欺けると思ったか。お主にとって鏡華とは、捨てざるを得なかった自身の良心そのものよ」

 

 警戒心を強める夜舟を尻目に、天涯は躊躇なく核心に触れた。

 

「お主が戸惑うのも分かる。なんの因果か、娘が不要とした己の半身を宿してしまったのじゃからな」

 

 反論の機を伺っているのか、はたまた返す言葉が見つからないのか、夜舟は目を細めながら押し黙っていた。

 

「鏡華の言葉は、お主の本懐である。今のお主には残されてはいまいが、それを耳にする度にさぞかし心が曇ることであろう」

 

 天涯は思うが儘に夜舟に伝えた。夜舟の怒りを買うのは目に見えていたが、これはいつかは言わなければならない事だった。

 

「夜舟よ、鏡華が度し難いのは、それが母への愛情そのものだからなのじゃ」

 

「……聞くに堪えぬ。口を閉ざせ」

 

 わなわなと震えながら、夜舟は口を挟んだ。

 

「いや、言わせてもらおう。鏡華はお主の血を引く娘じゃ。本来なら心を押し殺し、当主としての責務を果たす事など容易い事よ」

 

 鏡華の才を認めながら、いよいよもって天涯は夜舟の逆鱗に手を伸ばした。

 

「鏡華はな、お主の本当の姿を自らで体現しているのよ。当主であるが故に、全てを犠牲にしてきた母の代わりに、な」

 

「口を閉ざせと言っておる。それ以上は、棟梁の貴様とて許さぬぞ」

 

 鬼の形相を携えた夜舟は、今にも襲い掛かりそうな勢いで警告した。その緊迫した空気を和ますように、天涯は小さくため息を付いた。

 

「……そうじゃな、言い過ぎたわ。話が逸れたが、儂がお主に言いたいことはそれを認めよということではない。むしろ逆じゃ」

 

 天涯は改まって夜舟を強く見据えた。

 

「そのような脆弱な心など、切って捨てよ。鏡華は無能そのものである。それを再認識せよ」

 

「……」

 

「久世の前に、人の命など無価値。儂らの役目は儀式をいかに円滑に遂行するか。それだけじゃ」

 

 無情に言い放つ天涯の言葉に、夜舟は表情を緩めた。

 

「その通りじゃ。殺人を嬉々として行う貴様は少々行き過ぎておるが、久世の人間として見習うべき模範である」

 

「そう……、儂らは呪われた一族じゃ。血を流すことでしか生きられぬ。ならばとことん突き進み、骨の髄までそれに染まるだけよ」

 

 天涯は小気味よく言い切った。

 

「私は貴様の事は好かぬ。……が、その志は尊敬に値するぞ」

 

「それでよい。夜舟よ、当主としての覇道をそのまま邁進せよ」

 

 天涯は夜舟に最後の激励を述べた。夜舟が立ち止まってしまった時、背中を押してやるのはいつも天涯の役目だった。

 そうして迷いから抜け出す糸口を得た夜舟は、本来の趣旨を忘れてしまったかのようにふらりと立ち上がり、玄関へ向かっていった。

 

「仕事の話はどうした」

 

「気が乗らぬ。お主が素面の時にまた訪れよう」

 

 夜舟は戸に手をかけた所で止まり、振り返った。

 

「……しかし天涯、今日はお主と話せて良かったぞ」

 

 がらりという音を残し、夜舟は屋敷を去っていった。夜舟の足音が遠のいたのを確認した天涯は、一難が去ったと言わんばかりに、おもむろに脱力した。

 

「手塩にかけて育てた弟子たちを殺めて、酒が旨くなるわけがなかろう……」

 

 天涯は己の人生を悟っていた。それは宮大工として高度な技術を身に着け、匠に成ることではない。夜舟をいかに支えていくか、である。その為には道化となり、結果狂人扱いされようとも構わなかった。

 

「惚れた弱みというやつか」

 

 天涯は決して酔えぬ酒を、枯れかけた花の鉢に注ぎ込んだ。



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【肆】-民俗学者(ミンゾクガクシャ)- 一ノ刻

 

 人気の無い座敷部屋の中二階にて、夜舟は佇んでいた。

 広げた風呂敷に、一滴の染みが広がっていく。

 

 夜舟は風通しの良い軽装にも関わらず、汗に濡れていた。日が落ちたというのに、未だ軽い眩暈を覚える暑さだった。しかし、昼間のあの喧しい蝉の鳴き声から解放されただけでもまだましというものだ。

 

 今まで、虫の音など耳に入ることなどなかったのだ。……それだけではない。普段なら気にもならない些細な事に苛立ち、常に力の抜き所がない始末だ。

 

 原因は明白である。先延ばしにしてきた問題が、今になって突きつけられたからだ。その悪夢はいつか現実となって降りかかる。それを分かってはいても、夜舟は放置せざるを得なかった。

 

「秋人よ、お主は鏡華を愛していたのであろう。それでもそちらへ連れてゆこうとするか」

 

 夜舟は秋人という人間を思い出してみる。涼しげな品の良い顔立ちに似合わず、底知れぬ情熱を胸に抱く男。秋人は民俗学者としての探究心からこの地に足を踏み入れ、久世に受け入れられた。夜舟には目論見が有ったのだ。鏡華と当主の合性を考えると、さらなる跡取りが必要だった。

 

 秋人に鏡華を差し向けた夜舟はすぐに事が運ぶと思っていた。秋人は久世随一の美貌を持つ鏡華とすぐに関係を持つだろうと踏んでいたからだ。しかし鏡華の方はまんざらではないようだったが、肝心の秋人がよほどの朴念仁なのか、鏡華に一切手を出そうとはしなかった。

 

 先に籠絡されたのは鏡華の方であった。秋人は鏡華そっちのけで久世の地の検分にのめり込み、状況は芳しくなかった。……が、そのうちに鏡華の積極的な姿勢に秋人も次第に心を開き、惹かれていく様子を見せた。

 

 かくして二人は恋仲となり、秋人との子を鏡華は腹に宿した。来た時とは別人のように、その頃の秋人は本当に鏡華を愛していたようだった。

 

「……上手く行かぬものだ。別の道を与えてやろうとすれば、裏目にでよる」

 

 誤算だったのは、鏡華の秋人への想いだ。立場を越えた愛が鏡華の中に芽生えるなど想定の範疇外のことだった。鏡華も久世の人間だ。男性禁制を念頭におけば、別れは必須である。それを分かっていてなお、鏡華は秋人を深く愛してしまったのだ。

 

 夜舟は目の前に置かれた物言わぬ秋人の遺品をじっと見つめる。ここが久世でなかったら、秋人を快く鏡華の夫として迎え入れていただろう。最後に交わした言葉は、鏡華への情熱に満ち溢れていた。

 

 結局腹の子が男子であった為、後に何人かの男を鏡華にあてがうことになってしまったが、その中で秋人は唯一認めた男である。

 

「ままならぬものよ。……人の想いというものはな」

 

 秋人の件が発端となり、鏡華は今、その心に柊の兆候を見せている。夜舟の経験上、鏡華はもはや手遅れだった。

 

 ……十数年前の冬。秋人を迎え入れていなければ、鏡華の人生にはまた違った未来があったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今宵も、深々と雪が降る。

 

 例年に違わず冬に閉ざされた久世家周辺の山々において、唯でさえ少ない人々の往来は今やぱったりと途絶えている。にも拘わらず勇みよく足を運んだ柏木秋人は、この地に伝わる伝承や久世の風習についての研究の為、久世家当主である夜舟に接触を図った。

 

 下調べの段階でこの久世家が他を寄せ付けぬ排外思想を持つ集落だと把握していた秋人は、一筋縄では行かないだろうと久世へ潜入する為の口実に道中頭を悩ませていたが、堅苦しい言い訳を告げる間もなく意外にもすんなりと夜舟からの承諾を得る事となった。

 

 噂に反した待遇に引っかかりを感じてはいたが、ともあれ晴れてずっと着手を望んでいた現地民俗の調査の開始に至ったのである。さらに意欲の増した秋人は、一心に久世家伝統の解明に取り掛かることにした。

 

 そうして雪解けまで社の一室を借り、夜舟から与えられた久世の文献を日々読み耽っている。はらりと紙を捲り、記述された新たな情報を頭の中で整理しながら記憶していく。今日もその繰り返しであった。

 

「もう止めにしないか」

 

 背中越しに、秋人は鏡華の気配に意識を向けた。

 

「私はこれでも学者の端くれだ。物事の本質を見抜き、深く追究することを性分としている。それは人とて変わらない。君は本意ではないのであろう」

 

 目を通していた書物に一端区切りをつけ、秋人は文机の隅に置かれた何冊かのそれと同じように上に積み上げた。

 

「……そのような事はありませぬ」

 

 少し遅れて否定を示す鏡華の声には、僅かな緊張の色が見えた。

 

「急を要している所から察するに、跡継ぎが目的と思われる。なれば焦る必要はない。君が男に困る事はなかろう」

 

 秋人が久世に滞在してからというもの、鏡華は常に片隅に付き、毎晩こうして秋人の部屋に入り浸っている。客人に対しての物珍しさということもあるだろうが、それにしてはどこかよそよそしいのだ。それに加え、ここ久世家では男性禁制の習性があるらしく、男の姿が一切伺えない。となれば、子孫を残す手段としてこのような計らいが行われているのも安易に推測出来た。そして鏡華は夜舟の実娘ということだ。この積極的な様子には裏があると見てほぼ間違いはなかった。

 

「しがらみがあるのであろうが、自分を大事にしたまえ」

 

 鏡華の必死な姿勢に傷つけまいと学者という理由を口にしたが、鏡華の仕草や表情によく気を配れば誰にでも気づきそうなものだ。鏡華の意思ではないことが分かっていても、その魅力を前にして大抵の男はそのまま馴れ合ってしまうのだろう。しかしその負い目を見て見ぬふりが出来るほど、秋人は性根が腐ってはいなかった。

 

「しがらみなど……。一目見た時からそのお姿が頭から離れぬのです」

 

「確かに長旅で少々不精であった。申し訳ない」

 

 秋人が鏡華の方へ向き直り、そう返すと、鏡華は驚いた表情を浮かべた後、押し殺すようにくすくすと笑いを漏らした。

 

「冗談を言われる方なのですね」

 

「良い笑顔だ。そちらの方が君によく似合う」

 

 不敵に色仕掛けをしてくる鏡華は、事情を知らぬ者から見れば魔性とも感じられるのだろうが、数日共にした秋人には鏡華がそのような人間ではないことは分かっていた。根は優しく、実に奥手な女性であると。

 

「君は君のままで良いのだ」

 

 秋人はそう優しく諭した。先ほどの邪推を一先ず置いた他意のない発言だったが、さらに大きな眼で秋人をまじまじと見る鏡華から察するに、その言葉を深く受け止めた様相だった。

 

「……変わった方。秋人様のような男性に会ったのは初めてにございます」

 

「違いない。そうよく言われるのだよ」

 

 秋人に視線を残したまま、鏡華は少し呆けた顔を浮かべていたが、やがて頭を傾け、その長い黒髪を地に落とした。

 

「失礼いたしました。私が思っていたより秋人様はずっと誠実な方であられるようで、お恥ずかしい限りです。愚行をお許しください」 

 

「いや、謝るのは私の方だ。私こそ分かっていながら、今の今まで君に演じさせてしまっていたのだ」

 

「どこまでもお優しい殿方ですね。……今日はこれでお暇させて頂きます。もう当主の娘がここに来ることはないでしょう」

 

 鏡華は意味深な言い回しを残した後、静かに喜色を表しながら自室の床へと帰っていった。

 

 気づけば大分夜も更けている。しかし、この上なく目が覚めてしまっていた。秋人は睡魔に襲われるまで、書物の続きを読むことにした。

 

 もう何冊もの文献を読み漁ったが、どうにも妙であった。確かに綺麗にまとまった文献である。しかしこれだけでは何代にも渡り未だ強く根付く因習となり得る気がしなかったのだ。この痒い所まで届くような、説明に説明を重ねた文章。まるでこちらを核心へとたどり着かせない為の説示にも見て取れた。

 

 常人は騙せても、学者は騙せないのだ。

 

 どこかに綻びがあるのではないか。秋人は懐疑の心を宿しながら、部屋に光が差し込むまで同じ書物を何度も読み返していったのだった。

 



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   -民俗学者(ミンゾクガクシャ)- 二ノ刻

 

 秋人が久世に来て、もう一月近くが経っていた。

 疑念を持って調べていた久世の儀式に関して、未だ真相を暴くといったような新たな発見には至ってはいない。しかし、この地の風習については十分に見聞を広められてはいた。

 

 古来から久世に伝わる刺青の儀式。人々の死別の苦しみを選定された巫女の身体に刻むことで、その心の救済が成される。そういった想いの込められた刺青は柊と呼ばれ、人々が忌むべき象徴になっている。それ故に、生涯巫女が人前に現れる事はない。

 

 この因習の背景には、伝承上で死者の門とされている常世海の存在が深く関わっている。そこから湧き出る瘴気が人の心に狂気を与え混沌を振りまくのだと、久世は信じてやまなかった。それを鎮める為に、現代までこの儀式が遂行されている。 

 

 秋人がここで得た知識を掻い摘んで言えば、こんな所だった。

 

「鏡華、答えられたらで構わないのだが」

 

 今や日課になっている鏡華との雑談の合間に滑らせ、質問を投げかけてみる。

 

「何でしょうか」

 

「お役目を終えた巫女様達はどこにいるのであろうか」

 

「その肌故、迫害に合わぬ様一目に付かぬ場所に保護しています」

 

 文献にも記載された模範解答である。

 

「神聖な儀式である為、久世以外の人間には伝えられぬことが多々あります。あまり深くお聞きになられるとどう説明していいか……。私は秋人様に、嘘を付きたくありません」

 

「いいのだ。困らせて済まなかった」

 

 保護と表現しているが、実際は人としての尊厳を奪われた状態である可能性が高い。聞き込みで何度も耳にした遭難者の神隠しの件を考えると、最悪、あるいは.......。

 

 何も珍しいことでは無い。人類の歴史において、儀式の対価として人間を供物とする因習はどの国にも少なからず存在していたのだ。この刺青の儀式も、後世にまで受け継がれた名残りの文化であるのだろう。

 

 問題は、そのような儀式が形を変えず、当時のままに今もなお信じられ続けられていることだ。発展途上国に分類されないこの日本において、文明の発展と共に論理的思考は培われ、その先駆者達の英知によって不可解な事象の数々はいくつも解き明かされてきた。人々の認識もまたそれに伴って変化し、安寧を願って犠牲を捧げるといったような悪習は何の因果も持たない迷信だと理解を示すようになってゆく。そうして風化していったはずの教えが、久世において色褪せることなく今も現存している。

 

 本当に文献に記載されただけの慣わしであるならば、秋人はこのような疑心を抱くことはなかった。時代遅れではあるが人を道具とした儀式も、その程度の具合によっては辛うじて納得出来る範囲ではあるのだ。

 

 しかし、果たして久世の文献は全てを明言しているのだろうか。都合の悪い真実を直隠し、表向きに綴っているだけではないのだろうか。

 

 ……久世が儀式に人の命を扱っているという確証は掴めていない。が、この手の因習の研究に多く携わってきた者として、結論を出すにはまだ早計である。

 

 文献からはこれ以上何も得られぬと悟った秋人は、次に対象を久世の人々.....、特に当主である夜船に焦点を当て探ることにした。

 

 わきまえた言葉を選び、意図に気づかれぬよう細心の注意を払いながら、その人物像を観察していった。堅物で信仰深さが目立つが、秋人の判断として夜船は至ってまともな人間であった。道理を捻じ曲げ盲信しているようにも、歪んだ思想の元に権力を振るっているようにも見えなかった。しっかりとした理念を持ち、正しい采配を振ることが出来る人格の持ち主だろう。

 

 だとすれば、因習の強制力はどこにあるのか。巫女に選ばれた人間の将来を潰してしまう儀式など、惰性で持続出来るものではないはずだ。 

 

 考えられるとするならば、それは未だ何らかの脅威にさらされているということである。瘴気の害などという非現実的な事象はさておき、それに酷似した原因不明の災厄に見舞われているのだとしたら、久世が旧世代の迷信に縋る気持ちも分からなくもない。

 

 そうして秋人は風土病の線を疑った。該当する症状の病気はいくつか知ってはいたが、実際に専門家に依頼して調べてみないことには何とも言えなかった。

 

 秋人が次に着目した人物は、夜舟の娘である鏡華だ。おそらく儀式の全貌を隅々まで知る数少ない人物の一人であろう。夜舟とは正反対の人柄をしていて、実におおらかである。しかしやはり当主の娘というべきか、儀式に対しての姿勢は他を寄せ付けぬものがあった。親しくなるにつれ、こちらの要望に対して以前よりは寛容になったが、越えてはならない一線だけは守っているようであった。

 

 あれからの鏡華といえば、夜に秋人の借り部屋へ忍び込む頻度は極端に下がっていた。が、秋人と鏡華が会う機会はそれに反比例するように大きく増した。日没前ではあるが、鏡華はよく秋人の部屋の前の廊下をうろうろしていることが多かった。秋人がそんな鏡華を見かねて声をかけてようやく中で雑談が始まるといった案配である。あらゆる行動がしおらしく、あんなに真っ向から誘惑してきた鏡華が嘘のようだった。平静を装っていただけということか、どうやら実際の鏡華は思いの外異性に対して内気な性格をしているらしい。

 

 そうして互いの仲を深め、秋人はいつしか鏡華に頼み事をするようになっていた。当初立ち入り禁止であった区域のいくつかを、鏡華の助力を得て検分させて貰っているのだ。その都度逡巡する鏡華からして、己の立場の限界を超えた提供をしているのだろう。役に立とうとする鏡華の善意に付け込んでいるようで秋人は罪悪感を抱いてはいたが、どうしても仕事の探究心の方がそれに勝ってしまっていた。

 

 ……しかしこの時秋人は、後に自身の身勝手な行動の代償を鏡華が支払うことになるなど、知るよしもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある日の事。

 

 秋人は体調が優れなかった。身体の節々が痛み、悪寒がした。慣れない環境で、風邪を引いてしまったようだった。頭が熱く足が酷くふら付いたが、ひとまず水を貰おうかと部屋を出た。

 

 水場へ向かう途中の曲がり角の奥から、夜舟が誰かと話している声が聞こえた。

 

「私がここを留守にしている時に、あの客人を禁じた間へ招いておるな」

 

「……」

 

「幸い最深の地へは足を運ばせてはおらぬようじゃが、私意の行動が過ぎておるぞ」

 

「……申し訳ありませぬ」

 

 そう覇気なく答えたのは鏡華だった。曲がり角から顔を出そうとした秋人だったが、内容を把握し壁を背に聞き耳を立てた。

 

「客人と情事に至るかどうかは、お前の意思をある程度は汲んでやろうと思うていたが、もう譲歩はせぬわ」

 

 秋人に肩入れする鏡華の行動が夜舟にばれ、鏡華が責め立てられていた。

 

「お前には監視をつけさせよう。金輪際、あの客人に近寄ってはならぬ」

 

 そこで会話が途切れた為、秋人がゆっくりと覗き込むと、肩をすくめた悲しげな鏡華の後ろ姿が目に映った。存分に怒りをぶつけた夜舟はもうその場を去っていったようだった。秋人は声をかけるべきだと思いつつも、どのような顔をして対面すれば良いのか分からなかった。そう迷っているうちに、鏡華もとぼとぼと反対方向へと歩き出してしまっていた。

 

 謝罪する機会を逃してしまった。

 

 秋人は改めて鏡華のことを考えた。息抜きの話し相手や身の回りの世話まで、本当に良くしてもらっている。そんな親しみを持って接してくれる鏡華に甘え、大分無理をさせてしまっていた。秋人はそれが研究の為になるなら、時として人間関係よりも仕事を尊重する男である。このような状況は幾度もあり、取捨択一であれば間違いなく後者を選んできた。しかしどうしたことか、今回に限っては大きな負い目を感じることになった。

 

 秋人は水場へ行き、心ここに非ずといった具合で侍女から受け取った水を飲み、体調不良を明かすことなく再び借り部屋に戻り床についた。不甲斐ない思いに苛まれる中、秋人は深い眠りについたのだった。

 

 

 

 

 静寂と闇が辺りを包み込んでいた。いつの間にか灯された行灯の火だけが、唯一視界に景色を生み出すことの出来る媒介であった。

 

 大分寝てしまっていたのだろうか。秋人は意識が覚醒すると同時に重い筋肉のだるさを感じた。

 

「なぜ、君がここにいる」

 

 目覚めと共に迎えたのは、上から見下ろす鏡華の顔だった。

 

「侍女から秋人様の様子を伺いました。私が看病するのは嫌でしょうか」

 

 秋人は侍女に告げてはいないが、どうやら異変に気づいていたようだ。

 

「そういう意味ではないのだ。ただ、偶然君と当主様との話を聞いてしまった。……あの様子では私に会う許可が下りるはずもない」

 

 鏡華は少し戸惑いを見せたが、すぐに優しい眼差しを秋人に向けた。

 

「心配なさらないで下さい。当主様の許しは得ています」

 

「……では、何か条件を飲んだのだろう」

 

 病気とはいえ、夜舟が無償で撤回するとは思えなかった。

 

「それは……」

 

 鏡華は目を細め、秋人から視線を外す。良い言い訳を探し当てようと悩んでいる様子だったが、それを見越した秋人の強い眼を向けられ、観念したのか鏡華は諦めの滲む微笑を浮かべた。

 

「秋人様に隠し事は出来ませんね。……次に来られる客人の方との情事を強要されました」

 

 次、というのは、秋人との関係は諦めたということだ。鏡華にしろ夜舟にしろ、それは至極当然の決断である。宿や食事、仕事に快適な環境を与えてやったというのにそれだけでは飽きたらず、節度を越えて久世を嗅ぎまわり、恩を蔑ろにした輩なのだ。そんな軽薄な男との子供など、一体誰が必要とするのだろうか。

 

「それで君は承諾したと」

 

「はい」

 

 即答する鏡華に、秋人は眉を潜めた。

 

「……どうしてそうなる。決して天秤に掛けられる条件ではなかろう。私は子供ではないのだ。こんなもの、寝ていれば治るというのに」

 

「体が弱っている時は、大人でも一人は心細いものです。ただ、私が傍に居たかっただけなのです」

 

「私は、こんな事の為に君が犠牲になることなど望んでいない」

 

「私の勝手な判断です。秋人様、気遣ってくれて嬉しく思います。けれど、結局いずれ私は誰かと至らなければならない身。それが少し早まっただけに過ぎません」

 

 後悔など微塵も感じさせることなく、鏡華の声調は穏やかだ。

 

「散々迷惑をかけたこんな男に、君というやつは……」

 

「迷惑だなんて一度たりとも思ったことはありません。本当に私は大丈夫です。……今は何も考えず、ゆっくりとお休みになってください」

 

 鏡華は代えの冷えた手拭いを秋人の額に載せ替え、優しく秋人の手を両手で包み込んだ。その華奢な白い手の平から伝わる、心地よい冷たい温もり。見上げた視界に映る、柔らかな笑みを浮かべる鏡華の顔に、秋人の中で何かが崩れ、真新しい感情が芽生え始めていく。

 

 かつて仕事以外に、こんなにも心が引き付けられたことはあっただろうか。

 

 鏡華が眩しく、愛おしく見えるのは、決してこの熱に絆されたわけではない。その自己犠牲の姿に、同情したわけでもなかった。

 

 秋人は理屈では片づけられぬ想いを抱きながら、ただ鏡華の手を握り返していたのだった。

 

 



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   -民俗学者(ミンゾクガクシャ)- 三ノ刻

 鏡華の懸命な看病があってか、秋人の風邪は長引くことなく快方へと向かっていった。

 まだ咳は出るが、もう完治したといっていいだろう。

 

 しかし、これを境に一変してしまった己の在り方に、秋人は苦悶していた。

 民俗学という一生涯をかけると決め込んだ学問において、一時の気の迷いなのか、現在その熱意は薄れている。病み上がりということもあり、そのうち気持ちが追い付くだろうと気長に構えていたが、奮起の意を込め、再度文献に目を通そうと、取り巻く久世の文化に触れようと、一向に込み上げてくる想いはなかった。

 

 それどころか、別の感情が秋人の意思とは無関係に思考を支配しようとしてくるのだ。どうやらこの患いは長期に渡るものらしい。はっきりいって、風邪の方が断然ましであった。これ程あらゆる事柄に対する意欲を根こそぎ奪われる病にかかったことなど、早々になかった。

 

 久世鏡華。それが秋人の心を壊してしまった張本人である。理屈で動く秋人には今まで縁のなかった想い。秋人の中で、日に日に鏡華の存在が大きくなってゆく。

 

 鏡華に会うことがなければ、こうして募ることもないのかもしれない。しかし情事の条件を飲んだ鏡華は夜舟から完全に許可が下りたようで、再び過ちを犯さぬ様監視は付いているようであったものの、これまでと変わらず毎日秋人と顔を合わせていた。

 

「最近その艶やかな黒髪によく目を奪われる。その心のように、とても美しく思う」

 

 会話に一段落がつき、鏡華が雅やかに茶を啜っていた所だった。

 

「……そのような事を言ってくださるとは、思いもしませんでした」

 

 秋人の不意の一言に、鏡華は湯呑を置く事も忘れ、膝の上で抱えていた。

 

「私も世の男達と何一つ変わらぬ生き物だ。下心がないわけではない。しかし私はそれ以上に、物事や事象の真相を紐解くことに至福を覚える人種なのだ。だからいつも女性は二の次になってしまう」

 

 そう言って秋人は大きく頭を振るう。

 

「……らしくない。こんなことは初めてだ。君の事を考えると、あれ程熱中していた仕事が手に付かないのだよ」

 

 鏡華はいつも秋人の話を熱心に聞いていたが、ここ一番とばかりに耳を傾け、興味津々の様子だった。

 

「それも秋人様に違いありません」

 

「そうなのだろうか。なんだかもどかしい気分だ」

 

「無理をなさらずに、秋人様は秋人様のままで良いのです。在りのままの自分で良いのだと、そう貴方が教えてくれたではありませんか」

 

 にこりと笑う鏡華に、秋人は面を食らった。

 

「これは、参ったな。しかし、このような情熱を向けられては君も迷惑だろう」

 

 こうして対面している間にも、その身勝手な欲念に翻弄され続け、秋人は額に手を当てる。これまでの経緯を考えれば拒絶されるのは当たり前の事だったが、予想に反して鏡華の表情は綻んでいた。

 

「生きてきて今この時以上に、幸福を感じたことはありません」

 

 それが本心であることを語る様に、鏡華はとても嬉しそうに満面の笑みを秋人に返す。秋人はたったそれだけで、心が満たされていくのを感じた。今まで他者から向けられたあらゆる感情を、正面から受け止めたことは皆無だったかもしれない。己にとって必要であるかそうでないかだけを考え、ずさんに扱ってきてしまった。そんな自分が相手に何かを要求し、見返りを求めるなど都合が良すぎるというものだ。秋人はふと我が身を振り返り、とても後ろめたい気分になった。

 

「……私は幸せ者だな。こんな薄情な人間だというのに、人が人生で一度も巡り合えぬかもしれない良縁を、なんの努力もせず得てしまったのだ。辛い思いをさせてしまってばかりであった。許してほしい」

 

「謝らないでください。本当に、そのように感じたことなど一度たりともないのですから」

 

「有難う。鏡華、これからも宜しく頼む」

 

「はい、喜んで」

 

 柔らかな空気が秋人と鏡華を包み込む。そうして秋人と鏡華の仲は急速に深まっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 久世を深々と押し隠していた雪は解け始め、もうすぐ春が訪れる。

 そんな時期になって、鏡華にある兆候がみられていた。それを聞いた秋人は、真っ先に鏡華の部屋へと駆け込んだのだった。

 

「鏡華、体に大事はないか」

 

「はい。どうやら間違いなく、私のお腹には秋人様の子供がいるようです」

 

 つわりがあったのだ。久世は女性ばかりで構成されているだけあって、詳しい者は沢山いた。鏡華の症状を見定めた結果、妊娠は確実のようであった。

 

「そうか。とてもめでたいことだ」

 

 秋人は感極まった様子で、非常に喜んだ。普段顔に出さない秋人がこんなにも感情的になるのは、二つの理由があったのだ。一つは純粋に鏡華との子を授かったこと。もう一つは、これで鏡華が誰と分からぬ男の相手をしなくて済むということだった。今や秋人は鏡華を深く愛し、夜舟の出した条件を秋人が飲むことが出来なくなっていた。秋人が滞在を許されたのは冬の終わりまでであった為、これが最後の転機だった。

 

「……」

 

 しかし、肝心の鏡華の表情は暗く、黙ったままである。心なしか、秋人にはむしろ悲しげに見えた。

 

「どうした。君も望んでいたではないか」

 

 明らかに鏡華の様子がおかしかった。何も語らない上に、その瞳にうっすらと涙を浮かべているのだ。

 

「一体どういうことなのだ。やはり気分が優れないか」

 

「そうではありません。そうでは、……ないのです」

 

 勿体ぶる鏡華を秋人は怪訝に思った。その理由が全くもって分からなかった。分かち合えるはずだったこの喜びが、鏡華からは感じ取れないのだ。互いの感情が、なぜかすれ違っているようだった。

 

「……秋人様、ここからお逃げください」

 

 ようやく真意を紡いだ鏡華の言葉に、秋人の理解は遅れた。

 

「それはなぜか」

 

「秋人様の身に危険が迫るからです」

 

「……」

 

「ここはそういう所なのです。……当主様はきっと久世に深入りした秋人様をお許しにはならないでしょう」

 

 秋人は鏡華との時間に浸る内に大事な事を忘れていた。やはり、学者の勘は当たっていたのだ。鏡華が直接口にしなくても、それがどういうことなのかは明白であった。夜舟の当初の狙いが盤石となった今、もはや秋人は用済みということなのだ。

 

「……なるほど、薄々気づいてはいた。しかし、そうだとしても君を置いてはゆけぬな」

 

「その気持ち、とても嬉しく思います。けれど今の私は足手まといにしかなりません。それに、ここには残していくわけには行かぬ、私を慕ってくれている者達がいます」

 

「では、私が当主様に上手く取り入ることは出来ないか」

 

「……無理です。当主様にとって、掟は絶対なのです」

 

 他に秋人がどのような案を出そうと、鏡華はその一点張りだった。どう足掻いても夜舟に狙われるのは避けられぬ運命のようであった。

 

「……分かった。私はここを出よう」

 

 万策尽きた秋人は、そう言う他なかった。

 

「はい」

 

 鏡華は自ら望んだはずの答えに、寂しげに小さく頷いた。

 

「勘違いしないでくれたまえ。私は君を諦めたわけではない。先に待つ君との未来の為に、一旦私はこの地を去るだけなのだ」

 

 鏡華は俯いた顔を秋人に向けた。

 

「ほとぼりが冷めた頃、君と赤子を迎えに来よう。その時までに、身の回りの準備をしておくように」

 

 秋人の言葉を受け取り、鏡華の表情は徐々に明るさを取り戻していった。

 

「待っています」

 

 鏡華の立場を考えれば、それは実現することはないのかもしれない。しかし、秋人のその想いだけで、鏡華の心を救うのには十分だった。

 

「……では、今夜にでもここを発ってください」

 

 秋人が現状を受け入れることもままならない中、鏡華はさらに急きたてた。

 

「急だな。それ程久世は徹底的であるということか。しかし、私が易々と抜けられる程、警備は容易くはあるまい」

 

「心配しないでください。私が助力致します」

 

「それは心強いな」

 

 数か月とはいえ久世に身を置いた秋人には、夜舟の目を掻い潜るのがいかに骨が折れることであるかを痛感していた。実際鏡華の手助けがなければ、限られた区画にしか足を運べない有様だったからだ。その鏡華の協力を得ることが出来るとするならば、ここから逃げ出すことも現実味が増すというものだった。

 

「秋人様は人に見つからぬ様、ただ大門に向かうことだけを考えてください」

 

「了解した。それで、君の助力とは何か」

 

「久世の大門のすぐ傍に、門番の為の休憩小屋があります。そこに私の使いの者が火を放って混乱を誘います。見張りが気を取られている隙に、秋人様は自力で門を開けた後にここからお逃げください」

 

 中々に目立つ計画だった。確かにここを出るには大門をどうにか潜り抜けなければならないが、秋人としては、夜舟が鏡華の関与に気づいてしまうのだけは避けたかった。

 

「そんな大事になれば、君や使いの者に疑いがかけられよう」

 

「むしろ下手に門番に接触を図ることの方が危険です。これが一番の良策なのです。使いの者が上手く門番を欺ければ証拠を押さえられることもなく、誰も罰せられることもありません」

 

「……不審な人物が上がるとすれば、姿を消した私だけということか」

 

「……そうなります。申し訳ありませんが、ここからお逃げになる以上、それは避ける事が出来ません。表沙汰に協力者を出してしまえば、犠牲が増えるだけなのです。私は私の為に動いてくれる者を、傷つけたくありません……」

 

「いや、私としても願ったりだ。その後の君達が心配で仕方なかった」

 

 秋人は暫くの間久世を離れなければならない。鏡華の身体は勿論のこと、秋人自身も久世から鏡華を連れ出す策を考え、準備をする時間が必要だった。

 

「どうか、ご無事で」

 

「必ず戻ってこよう。……必ずだ」

 

 今日という日が終われば、次に会えるのは数年後になるだろうか。秋人は別れの前の鏡華とのひとときを、まだ見ぬ我が子を思い浮かべながら噛みしめた。

 

 



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   -民俗学者(ミンゾクガクシャ)- 四ノ刻

 約束の時間を迎え、社を出た秋人は闇に溶け込むように息を殺し、足を忍ばせた。鏡華の言うとおり、門番以外の活動は見当たらず宮下の村は静まり返っており、隠れる必要のないほど人気はなかったが、念をおいて警戒しながら少しずつ大門へと向かっていった。

 

 大門が目前といった所で、秋人は近くの物陰に待機した。こんな深夜にも関わらず、やはり数人の見張りが松明を片手に門前で立ちはだかっている。後は鏡華が上手くやってくれるのを待つだけだった。

 

 そうして少し経った後、休憩小屋に火の手が上がった。すると見張りは本来の責務を放棄し、全員が火消しにその場を離れていった。鏡華の思惑通りの状況となり、秋人はすぐさま大門の元へ駆けつけ、重く太いかんぬきに手をかけた。使いの者の事が気になったが、今捕まってしまっては全てが水の泡となってしまうのだ。秋人はすべき事を優先し、かんぬきを抜く作業に集中した。かなりの重量で手間を取ったが、なんとか外すことに成功し大門を開けた。

 

「待たれよ」

 

 張り裂けんばかりの怒号が響き渡った。ここにいるはずのない夜舟の声が、門の外に出た秋人を引き留めた。

 

「こんな夜分にどこへ行こうというのじゃ」

 

 秋人がゆっくりと振り返ると、やはりそこには夜舟がいた。鏡華は判断を誤ったのか。いや、おそらくそれすら見越した夜舟の計算だろう。しかし、そうであるとしたなら、夜舟は何とも白々しい問いかけをするのだろうか。なんにせよ、計画は失敗してしまったのだ。

 

「無論、ここを出るつもりだ。その為に火を放った」

 

「鏡華を置いてか。折角子を授かったというのに、無責任にも程があろう」

 

 夜舟がどこまでこの計画を把握しているのかは不明だったが、夜舟と秋人の会話は奇妙にも成り立っていた。……が、夜舟が本性を隠しているのは明白であった。

 

「私が鏡華をこのまま捨てると、貴女は言いたいのか」

 

「人間などそんなものじゃ。月日が経てば、情も薄れる」

 

 夜舟は不気味に後ろで手を組みながら、じりじりと距離を詰めてくる。何か隠し持っていて、不意打ちを仕掛けようとしているのかもしれない。しかし、それさえ予測出来ていれば、夜舟がいつ行動に起こそうが秋人は夜舟の身を御する自信はあった。

 

「私は貴女に断言しよう。この先私の隣に寄り添う女性がいるのだとしたら、それは鏡華ただ一人だと」

 

 話ながら、秋人は眼前にくまなく目を配った。夜舟がわざわざこの場所で待ち伏せしていたのは、大きな騒ぎにならない為の配慮だろう。仮に鏡華との会話がなんらかの形で夜舟に流れてしまっていたとしても、その情報通りに秋人が現れるという保証はない。秋人を拘束、あるいは殺害するだけならば、もっと手早く実行に移す手段などいくらでもある。社にいる間に毒を盛ったり、背後から奇襲すれば無抵抗のまま事を終えられる。それなのに、あえてこんな回りくどい手を選んだのだ。こういった蛮行は限られた者のみに認知されているか、あるいはこの件を知られたくない人物が身近にいるかのどちらかだろう。

 

 恐らく後者だろうと、秋人は思った。今や久世の鬼畜の所業は露わになった。それを前提とすれば見方は逆転し、これまでの夜舟は鏡華には甘すぎた。そういうことなのだ。

 

 しかしながら、秋人が門の外に出るまで行動に移せなかったのは、鏡華の介入による誤算であった可能性の方が高い。夜舟はこちらの動きを完全には察知していないのだろう。だとしても油断は禁物である。これほど用意周到ならば、夜舟は己のそれだけでどうにかなるとは考えていないはずだ。

 

「もし叶うのならば、彼女が笑顔でいれるよう、これからずっと鏡華を支えていきたい」

 

 このまま背を向け、逃れることは可能だ。視認は出来ないが、夜舟の近くにどれだけの人数が控えてようと、女性の足や腕力に負けるとは思えなかった。 ただ、夜舟の持っている物の殺傷力が距離をものともしない代物だったなら、それは悪手になる。秋人は夜舟を視界から一瞬たりとも外せなかった。

 

「それはよもや儚き願いよ」

 

「……久世家当主夜船よ、ここで私を殺すか」

 

「何を言っておるのか分からぬな」

 

 あくまで夜舟はしらを切り通すつもりだ。その高圧的な態度に一切の乱れもない。門が開かれてしまったこの状況で、まだ取り逃がさない自信があるとでもいうのだろうか。

 

「私は知りすぎた。それに初めから帰す気などなかったのであろう」

 

 秋人の言葉にも動じず、夜舟は無言のまま足を前へ運ぶ。秋人は間合いを保つために、向きを変えずに同じ歩幅だけ後ろへ下がった。

 

「……そのつもりは毛頭ないが、例えここで死ぬことになったとしても悔いてはいない。私は鏡華に出会えたことに、人生の意味を見出せたのだから」

 

 秋人はこの場を逃れる為に夜舟に媚びているわけではなかった。それはまごうことなき本心であった。すると夜舟は踏み出した足を止め、鋭い眼光で秋人の目を見据えた。

 

「本当にそう思うておるか」

 

「ああ。ここへ来なければ死の危険に晒されることはなかったのだ。しかし、鏡華は命を懸けるに値する女性だ。故に、今この瞬間にも後悔などない。鏡華を知らぬ生涯など、まっぴら御免だ」

 

 夜舟はしばし秋人を見つめた後、片足を引き完全に静止する。そして両手を解き、体の横へぶらりと投げ出した。

 

「そうか。お主の鏡華への想い、しかと見届けたぞ。この夜舟、当主ではなく母として、お主を鏡華の夫と認めようぞ」

 

 秋人は咄嗟に身構えたが、夜舟の手には何も握られてはいなかった。一体どういうことなのか。まさか説得が目的だったわけではあるまい。いや、そもそも鏡華の口からすらも、これが命のやり取りだというようには聞かされてはいない。自分の間違った見解であったのだろうか。そう秋人の頭にさまざまな疑問が錯綜した。……その戸惑いが、命取りになったのだ。

 

 途端に秋人は背後から何らかの衝撃を複数受け、腰に焼けつくような激痛を感じた。

 

「ぐっ……あ……」

 

 振り返る余裕もなく、そのまま前に倒され地べたに押さえつけられた。

 

「無駄な足掻きであったな。内部はいつになく手薄であったであろう。幾刻も前から少しずつ、久世の人間を四方八方に外へ散らせ、隙なく包囲しておったのじゃ」

 

 刺された。それも一か所ではなかった。うかつであった。まさか門の外に待機している者がいるとは思いもしなかった。秋人は死に物狂いで唯一動かせる顔を上げ、夜舟に向けた。

 

「お主と鏡華との企てなど、私は知らぬ。じゃが、鏡華が私の考えを見透かせる様に、私もまた鏡華の考えを見透かす事が出来るだけじゃ」

 

 秋人は鏡華に急かされた意味を、今更ながらに思い知った。しかし、それを理解するには既に遅すぎたのだ。着衣越しに伝わる血の濡れ広がる感触と、急速に抜け落ちていく力と意識が、もはや助からぬ致命傷を受けたことを物語っていた。

 

「安心して逝け。この事について鏡華を言及するつもりも、罰せるつもりもあらぬ。……子も悪い様にはせぬ。お主に恨みはないが、これが久世に関わった者の末路であるのじゃ」

 

 気のせいか、夜舟の顔に一瞬、悲哀の色が滲んだように感じた。

 

……いつからだっただろうか。似ても似つかぬ夜舟の姿に、鏡華の姿が重なって見えるようになったのは。

 

 必要悪。辛うじて意識を繋ぎ止めていた秋人の頭に、その言葉が浮かぶ。やはり久世は大きな闇を抱えている。……それは断じて夜舟ではなかった。

 

「……柏木秋人、お主は立派な男であった」

 

 その夜舟の言葉を最後に、秋人の意識が戻る事は二度となかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜舟は遠い記憶を呼び覚まし、秋人を思い返してみたが、あれは正しい判断であったと改めて実感した。結局の所子の約束は破ってしまったが、あのまま秋人を生かしておくことは危険すぎたのだ。

 

 もしも秋人がうつけであったなら、赤子の性別を見極める猶予もあり、なんなら次の子を待つことも出来ただろう。しかし、秋人は聡明すぎた。すぐに久世の真実に辿りつき、世の広めようと画策を図っていたはずだ。

 

 強いて言うなら、秋人を久世に迎え入れた事自体が過ちであった。……鏡華はもう長くはないだろう。あれから十数年の間、鏡華は柊とは無縁だった。それがなぜ今になってて蝕まれてしまったのか。少し前から鏡華の挙動に違和感はあったものの、柊の初期症状とは程遠く、正常な思考を保っていたように感じられた。おそらくその後決定的な何かが、鏡華の心に柊を結び付けてしまったのだろう。

 

 夜舟がここを確認しに来た理由は、その原因の究明であった。しかし、これではっきりした。やはりきっかけはこの遺品であったようだ。この中二階は普段使われない物が酷く散乱していて、人が滅多に近づくことはない。秋人の遺品を鏡華から隠す為、あえて夜舟がそうしていたのだ。そして他の誰かが手を付けたことが分かるよう、簡易な仕掛けを施しておいた。それは目立たない程度に風呂敷を引き出しに噛ませておくこと。しかし先程観察した際にその形跡はなくなっており、結び目にも違和感があった。現状から察するに、十中八九、鏡華が発見したのだろう。鏡華は秋人の死を認識してしまったということだ。

 

 夜舟はなんとなく秋人の私物の一つ一つを、手に取って眺めていた。丸い硝子の付いた四角い箱型の機械。これは射影機というものだったか。機能的に写真機と同種の物だが、特殊な仕様になっていると秋人は言っていた。夜舟は手元で角度を変えながら凝視するも、その違いが良く分からなかった。と、そのうちに肘が積み重ねられた遺品に当たってしまい、ひらりと何かが舞い落ちる。夜舟は射影機を置き、足元のひとひらの紙切れを拾い上げた。この射影機で撮られた写真のようだ。その小さな枠内で、幸せそうな鏡華と秋人がこちらを見返していた。

 

 ちくり、と僅かに夜舟の胸が疼く。久しく忘れていた痛みだった。このささやかな愛を引き裂いたのは、老いぼれた血濡れの我が手だ。そこには、巫女のように柊を刻まなくとも、他者の呪いが無数にこびり付いている。……いつか贖罪の日が訪れるだろう。しかし、その時まで夜舟は足を止めることは出来なかった。

 

「.....これも定めよ。秋人よ、鏡華はくれてやろうぞ。元々そのつもりであったのだからな」

 

 絶対に災いを現出させてはならない。よって、これから夜舟は本当の鬼となる。しかし、せめてその瀬戸際までは良い夢を見せてやろうと夜舟は思った。それがせめてもの親心であった。

 

 

 

 

 

 最近、侍女の間で噂になっていた。とある廊下にて、どこからか呻きにも似た不気味な声が聞こえてくると。場所が場所だけに下手に探りを入れることが出来ずにいたが、耐え切れなくなった侍女の一人がついついその声を追ってしまった。元を辿っていけば、そこはやはり鏡華の部屋であった。

 

 その事実を知っても、出所があの恐ろしい夜舟の娘の部屋であった為、侍女達は見て見ぬ振りをするしかなかったのだ。

 

 ……耳を澄ませば今日も変わらず、漏れ出してきている。

 

 そうして侍女の注目を集める部屋の中で鏡華は一人、死人のような虚ろな目を浮かべていた。先程まで秋人に気に入られていた髪を、櫛で何度も丁寧に解していた所だった。

 

「あきひと、……さま」

 

 前に伸ばされた鏡華の手は、虚しく空を切った。

 

「かな、め……、わたしの……、かわいい……」

 

 要。確かに鏡華はそう口にした。鏡華自身が、遠く離れてしまった秋人との懸け橋になるように付けた、秋人の実子である最愛の息子の名を。

 

 夜舟の手によって流されたはずの忌み子は、父とは真逆に鏡華に裏をかかれ、近くの村へ逃がされていたのだ。要は乙月家の養子として零華と出会い、今もまだ生き続けている。

 

「ねいりゃ……さよ……、は……たて」

 

 鏡華は幻を見ていた。それは絶望への序曲であるが、柊のせめてもの手向けの安らぎなのかもしれない。迎えに来た秋人と眠りにつく赤子の要を囲んで、鏡華は子守唄を歌う。この地に伝わる眠り巫女という歌だったが、子供に聞かせるにはあまりにも物々しい民謡であった。

 

 

 

 

ねいりゃさよ はたて

ねいりゃさよ はたて

なくこは かごぶね ついのみち

いちわらきざんで おんめかし

ねいりゃせな さかみはぎ

 

ねいりゃさよ はたて

ねいりゃさよ はたて

みこさん あわいに おきつけば

しせいぎ うがつて いみいのぎ

くもん ひらいて やすからず

 

 

 

 

 そう歌い終わると鏡華は、実体のない我が子を大切そうに撫でたのだった。

 



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【伍】-久世家当主(クゼケトウシュ)- 一ノ刻

 世間から目をはばかり、謎に包まれた久世の宮。

 その当主に君臨する夜舟の信仰心は、計り知れないものがある。必要とあらば肉親を手にかける事さえ厭わない程だ。しかしそんな夜舟とて、初めからそのような冷徹無慈悲な人間であったわけではない。当主の座に就く前、夜舟は娘の鏡華のように他人を慈しむ心を持った優しい少女だった。ある悲劇をきっかけに、夜舟は己を見つめ直し、揺るぎない決意を固める。

 

 ……それはまだ夜舟が零華と年端の変わらぬ時代の話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 社の境内の裏手側に、いくつかの大きな庭石がある。周りの木々が日差しを遮るその場所は、少々暑くなってきた今の季節には過ごしやすい。おまけに人も滅多に来ないとくれば、夜舟にとってこの上ない隠れ処だった。

 

 夜舟は適当に見繕い、最も座り心地の良さそうな庭石の表面を手で軽く払った。小さな土煙が舞い、近くの花で羽を休めていた蜻蛉が身の危険を察して機敏に飛び立っていく。そんなありふれた光景を目にし、夜舟は卑屈に思う。……虫ですら、自由なのだ。そこに居る事も、逃げる事も、と。

 

 夜舟は目立つ汚れが落ちたことを確認し、庭石に尻を乗せた。久世の束縛から解放され、一時の緩やかな時間が訪れる。蒼く澄み渡る清涼な空を見上げ、夜舟は物思いに耽った。

 

 どうにか出来ると思っていた。曲がりなりにも自分は当主の血を受け継ぐ者。まだその地位に付いていないとはいえ、権限の一端は既にこの手中にあると高を括っていた。夜舟は高慢であった自分に嫌気が差す。

 

 ……母様は冷たいながらも、儀式に対しての姿勢だけは邪険に扱うことはなかった。婆様だって、自分には素晴らしい当主の器があると褒めてくれていた。

 

 だから夜舟は自信を持って母であり、現当主である桜花(おうか)に進言したのだ。言い分は完全に夜舟の方が正しかった。しかし、その切願が通ることはなかった。

 

 なぜ、桜花は頑なに公平な選定を拒んだのか。適任者は他にも沢山いた。あえてそうしたのは、ただ一つの言いつけを守らなかった自分へのあてつけなのか。

 

 夜舟はしばし視界へ入る鳥の羽ばたきを目で追っては、そんな自問自答を繰り返していた。

 

「夜舟、やはりここにいたんだ」

 

 そこで初めて足音を鳴らし、突然社の角から見慣れた少年が姿を現す。全くと言っていいほど気配を感じなかった夜舟は意表を突かれ、体をびくりと跳ね上げた。

 

「……天涯、いつも脅かせるなと言ってるでしょう」

 

「仕方がないじゃないか。こんな所をうろついてることがばれたら、酷い仕打ちに合ってしまう」

 

 神出鬼没の主は幼馴染の天涯だ。おそらくまた大工の修業を抜け出して来たのだろう。本人は暇つぶしのつもりなのかもしれないが、夜舟にとってはいい迷惑だった。ただでさえ侍女の目を盗んでここに来ているというのに、こんな場面を見られてしまっては言い訳がきかなくなる。

 

 久世で唯一の男手である宮大工達は、宮下の村の小さな一画で細々と暮らしている。久世の掟の下、仕事以外でその区域を極力出てはならず、他の女性らと必要以上の干渉を避けなければならなかった。

 

 だからなおのこと、当主の血族である夜舟が気軽に宮大工に会うなど許されることではない。それがどうしたことか、今や天涯の勢いに押され、この有様だ。初めは公の場で顔を合わせる程度のものだったが、いつの頃からかこうして隠れて会うことが当たり前になっていた。

 

「だったら来なければ良いだけの事」

 

 夜舟は冷たくあしらった。

 

「つれないな。今回ばかりは本当に君を心配して駆けつけたというのに」

 

「……心配事など、抱えていないわ」

 

 眉間に目いっぱい皺を寄せて、夜舟は言う。その説得力のない顔に呆れてか、天涯は小さくため息を漏らした。

 

「そんなはずはない。いつも楽しそうな君なのに、(かえで)がここにいないだけでこんなにも寂しげなのだから」

 

 久世楓。そう、本来ここにいるはずだった少女。まさしく夜舟の悩みの種だった。

 

「楓が巫女になったのは、君のせいじゃない」

 

「どうしてそう言い切れるの」

 

「楓は元々この村の子供じゃないんだ。分かるだろう」

 

 天涯の言い分は最もだ。巫女は基本的に身寄りのない子供であることが条件である。それはこの世に未練を残さない為。久世の女達が宮大工との子を儲けない理由の一つでもあった。確かに、今その条件を満たすのが楓だけだったなら納得もいっただろう。

 

「まだ村の外から連れられた子供は沢山いる。にも拘らず楓が巫女に選ばれてしまった。私が仲良くしていたせいで、母様がお怒りになったとしか思えない」

 

「そうかもしれない。けれど、今回選ばれなくてもいずれ楓はそうなる定めだったんだ」

 

 いつか楓は巫女に選ばれて、別れの時が来る。楓が久世の養子として引き取られた時、夜舟はまだ物心が付いておらず、桜花の言葉を理解していなかった。常日頃、楓とは仲良くしては駄目だと言われていた。桜花はこうなることを見越して、身近になる楓との仲に苦言を呈していたのだろう。

 

「……そもそも本当に刺青の儀式は必要な事なのか、私にはそれすら分からなくなってしまった」

 

「気持ちは分かる。けど、巫女様の言葉が何よりの証拠さ。きっと疎かにすれば、大きな災厄に見舞われてしまう」

 

 刺青の儀式が久世の長い歴史から消えずにいるのは、その巫女の奇跡を目の当たりにするからだ。参拝者の心の病を癒し、自らの痛みとして背負う。ごく一部の者しか知りえないが、その後巫女はまるで参拝者本人であるかのような苦しみを見せる。何も知らないはずの巫女が、取って代わったかように参拝者の無念を悲痛に語り出す。その姿を見て、久世の教えを信じぬ者はいなかった。

 

「破戒……。巫女に刻まれた柊が、あの世の淵から吹き荒れる瘴気と共に現世へ還ること。そう私達は伝えられてはいるけれど、実際の所それがどういったものであるのかは誰も知らない」

 

「それはそうだ。その時は久世が滅ぶ時だ」

 

「貴方は見たこともない事を信じられるの」

 

「信じる信じないの問題じゃない。僕らはそうある為に生まれた一族なんだ。久世の掟に従うのは、はなから決められた運命というだけさ」

 

 まるで久世の祖先に責任を押し付けるかのような言い草を、天涯は述べた。いつもそうだ。天涯は不満を漏らすことはないが、自身のあらゆる行動に対して自主性がなかった。夜舟にはそれが掟に対する無言の反発のように見え、そこに何か私怨ようなものを感じていた。

 

「考えても仕方がない。なるようにしかならないんだ。今日楓が初儀式を迎える事も、誰にも止められなかった。それは君であってもだ」

 

 天涯の言うとおり、間もなくして楓の肌に柊が刻まれる。夜舟は間に合わなかったのだ。巫女は一度背負ってしまえば、もう役目を下りることは出来ない。奈落の底で眠りにつくことでしか、柊を鎮める術がないからだ。

 

「……楓は巫女に向いてない」

 

「きっと大丈夫さ。君が思うより楓は芯が強い女の子なのだから」

 

 さらりと言う天涯を見て、付き合いの浅い天涯に何が分かるのだろうと癪に障ったが、それが自分への気遣いだと知っていた夜舟は口を紡いた。

 

 楓は臆病で、気が弱い。人間どころか動物の死にさえ心の底から悲しんでしまうような、泣き虫な性格をしている。巫女の適任者とはとても言い難かった。……果たして楓の心は柊に耐えうるのだろうか。

 

 夜舟に不安がよぎった。せめて、戒の儀よりも早く楓を失ってしまうことにだけはならないようにと、一心に願うばかりだった。

 

 

 

 

 

 ……その日、 予定通り儀式は遂行され、楓に柊が刻まれた。

 参拝者の想い人の女性は山から転落したそうだ。発見された遺体は落下時の衝撃の凄惨さを物語るが如く、見るも無惨な姿だったという。

 



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   -久世家当主(クゼケトウシュ)- 二ノ刻

 

 楓の刺魂の儀を終えた翌日。決められた日程の半分を終えた夜舟は、足早に桜花の下へと向かってる途中だった。よもや信仰や知識に抜かりはなく、当主としての地盤を徹底的に固めた夜舟に残された課題は実践のみとなっていたが、未だ桜花の許可は下りていない。だから、ここ最近はもう必要のない無駄な修練を再度繰り返す日々だ。だとしても夜舟の志は高く、例え簡単な基礎修練だとしても常に手を抜くことはなかったが、今日はどうにも集中力を欠いていた。

 

 純粋にその後の楓の容態が気がかりなのもあるが、夜舟の心をこうも掻き乱すのは、朝に耳に入った侍女の噂話だった。詳細は分からないが、宮内で何か問題があったらしい。この時期にそんな事を聞かされては嫌でも頭が楓と結び付けてしまい、さすがの夜舟も気が気でならなかった。夜舟は合間を見て桜花に尋ねようと探してはいたが、桜花はその件に追われているのか多忙のようで中々捕まらなかった。

 

 仕方なしに桜花の専属の侍女に聞いてみた所、どうも口止めされているようで、明確な解を得られない。これでは拉致が明かぬと感じた夜舟は直接話を伺う為、こうして桜花の足取りを追っているというわけだ。情報を伝い、最後に目撃された境内の離れにある蔵を目指している。 

 

 ここに来るまでどこか異質な騒々しさを感じていた。廊下をすれ違う久世の重役を担う者達の顔色は悪く、刺青の儀式に関係した難事であることに間違いはなさそうだった。

 

 夜舟は草履を履き境内に出ると、やはり蔵の扉は開錠されていて見張りが待機しているのが見えた。儀式で使う血の回収にわざわざ桜花が出向くことはない。だから新たな素材の調達が行われたのだろうと夜舟は考えたが、蔵と玄関を繋ぐ目に付いた痕跡がその憶測を否定した。

 

 血痕だった。赤茶色に変色し凝固し始めている所からして、零れ落ちてから幾ばくか時間が経っているようだ。なぜか大門のある村側からではなく、社側から点々と続いている。どこからか持ち帰ったのならば簡易な処置を施してから運ぶはずであるし、一旦社へ持ち込む意味も分からない。実に不可解だったが桜花に会えばそれもすぐに明らかになるだろうと、夜舟は一端疑念を振り払い、血の軌跡を辿る様に蔵へ赴いた。

 

 「夜舟様、お待ちを」

 

 見張りが夜舟に気づき慌てた様子で侵入を阻もうとしたが、夜舟はお構いなしに無理矢理押しのける。蔵の中では桜花と従者達が何やら神妙な面持ちで話し合いをしていた。

 

 「母……、当主様」

 

 呼びながら目に付いた、桜花達の足元に置かれた真っ赤に染まる大きな布を被せられた何か。死体であることは確かだろう。しかし、盛り上がった形があまりに不自然だった。

 

「……動物、ですか」

 

 規則性の無い複数の隆起と円に近い輪郭から、人を寝かせた状態ではないのは明らかだ。上空から見た山脈ような歪な形をしている。大きさを加味し無理矢理当てはめるとするならば、蹲った大人と言った所であろうか。そうだとしてもあまりに奇形であり、人としての均衡が取れていない。かといって発言してはみたが、なんの動物であるのか予想もつかず、その用途も思いつかなかった。

 

「夜舟、どうしてここへ来たのです」

 

桜花は問いかけを無視し、鋭く睨みを効かせて夜舟を責め立てた。

 

「申し訳ありません。今朝方、妙な噂を耳にしまして、真相を聞きに参りました」

 

「大したことではありません。貴方は知らなくて良い事です」

 

 夜舟に対する常套句で、桜花は即答した。桜花は例外的な問題が発生した時、どんな些細な事であろうと夜舟から儀式を遠ざける節がある。桜花の専属の従者が口を割らない時点で察するべきだったのだ。

 

「分かったのならば社へ戻りなさい」

 

 まるで取り付く島もなかった。しかし、夜舟はこのまま引き下がることは絶対に出来なかった。いつにも増した桜花の頑なな態度から、いよいよもってこの件が楓の初儀式の線で濃厚であると感じられたのだ。

 

「あの」

 

「まだ何か」

 

 桜花は身体をぶつける勢いで夜舟の前に一歩踏み出し、威圧をかける。桜花は夜舟に対し普段から似たような態度を見せるが、今は相当に苛立っているようだった。

 

「巫女様の様子は如何でしょうか」

 

「変わりありません」

 

 桜花は短く答えた。何か言わなければと咄嗟に口に出してしまったが、なんとも無意味な質問をしたものだと夜舟は思った。その真偽は定かではないが、こうした態度に出る桜花が真実を口にするわけがなかった。

 

「楓に会いたいですか」

 

「えっ……」

 

 全く予想外な展開に、夜舟は返答に詰まった。性格上、もしもその気がないなら、そんな問いかけをわざわざ桜花がすることはないだろう。となれば少なくとも楓は会わせられる状態ではあるのだということだ。夜舟は確かに楓の身が心配だったが、その桜花の言葉に楓に対する安堵よりも驚きの方が勝っていた。なぜならば、これは夜舟が儀式の最中である巫女に対面する許可を、桜花が初めて出したということだったからだ。

 

「はい、会いたいです」

 

 勿論答えは決まっていた。楓の顔を見れることもそうだが、この機を逃せばいつまた桜花の許可が下りるか分からない。僅かながらも桜花に認められたということ。これは当主としての大きな一歩だった。

 

「いいでしょう。付いてきなさい」

 

 桜花は周囲に少し目を配ってから、踵を返した。

 

「当主様、この遺体はどうなさせたら宜しいですか」

 

 夜舟を連れその場から離れようとする桜花に、従者の一人が慌てて声をかけた。

 

「とりあえずはこのままなるべく崩さずに保管しておきなさい。くれぐれも丁重に扱うのですよ」

 

「承知いたしました」

 

 やはり従者は遺体と言い、桜花は崩さず、と言った。原形を留めていない程、損傷が激しいということなのか。それを聞いても、あの布の裏に人の遺体があるとは到底思えなかった。

 

「……夜舟。貴女は当主として正しい道を選び、一つの答えを出さねばなりません」

 

 夜舟が遺体に気を取られる中、不意に思わせぶりな言葉を桜花は口にした。それは夜舟に言い聞かせたというよりも、そうあってほしいという願いが漏れてしまったように、か細い声だった。

 

「分かっているとは思いますが、楓の肌にはもう柊が刻まれています。心に隙を見せぬ様に」

 

 今度はしっかりとした声調で夜舟にそう念を押した後、夜舟が付いてきているかも確認せず、桜花は忙しなく蔵から出て行った。夜舟はすぐに桜花を追いかけようとしたが、従者達がゆっくりと遺体を下に敷かれた布ごと持ち上げようとした姿が横目に入った為、足を止めて振り返る。その手つきは慎重そのものであったが、それでも隙間からぼとぼとと中身が滑り落ちていったのだ。

 

 横から生々しい桜色の太い管がぶらりと垂れ下がり、骨や皮が雑に混ざり合ったどこの部位かも分からぬ真紅の肉片が、無残に地面を転がった。

 

「夜舟様、早く当主様の下へ」

 

 夜舟の視界から遺体を隠す様に、従者は間に身体を割り込ませた。が、時既に遅く、夜舟の目にはその光景が焼き付いてしまっていた。……一体何があったというのだろうか。こんなもの、儀式に使える代物ではない。それに、ちらりと覗かせた遺体を包んでいたであろうずたずたの着衣は、儀式関係者の正装であった。つまるところ、これは身内の死体ということである。人を形成する赤系統の極彩色が、夜舟に猛烈な吐き気を誘い出した。

 

「うっ……」

 

 死体など見慣れているのだ。そんな耐性すら物ともしない程、酷い有様だ。あれはどのような外的衝撃を受け、どれ程の痛みを持ち主に与えたのか。想像しただけで背筋が凍り、恐怖に心が支配された。

 

 急いで楓のいる吊牢の間へ行かなければならないが、桜花の機嫌を気にしている余裕もない程に気分が悪い。夜舟は喉まで差し掛かった逆流を必死に堪え、口元に手を当てながら蔵を後にした。

 

 

 

 

 吊牢の間のある廊下で、桜花は待っていた。

 

「夜舟、あれを見たのですか」

 

 桜花は夜舟の顔色に悪さに気づいたようだ。そのせいか、到着の遅さを咎める様子はなかった。

 

「はい」

 

「……そうですか」

 

 出来れば知られたくなかったのだろう。あの死体を見れば、夜舟でなくても儀式に関する何らかの異常事態だということが分かってしまう。あれが人の手によって出来上がった死体とは、到底考えられなかった。

 

「この件は貴方が介入して良い問題ではありません。……例えどんな決断を私が下そうと、貴方は耐え切らねばならないのです」

 

 その桜花の口振りから、夜舟はすぐに悟った。やはりこの問題の中心には楓がいる。そしてそれは時と場合によって、楓を流すことも厭わないという意思の現れなのだ。

 

「さあ、中へ」

 

 桜花は襖を開き、夜舟を部屋へと促した。吊牢の間へ踏み入ると、部屋の中央の宙吊りにされた吊牢の中で、楓が一人寂しそうに膝を抱えていた。

 

「夜舟ちゃん」

 

 楓は夜舟の姿を確認するやいなや格子に飛びつき、他者の想いを乗せた顔で飛び切りの笑顔を見せた。

 

「楓、特に変わりはない様ね」

 

 夜舟のよく知る楓だった。唯一違う点は、右の頬と左目の周りに刻まれた柊である。

 

「うん。ただ、やっぱり聲が聞こえるようになったの」

 

 参拝者の心の聲。巫女の意識と同調し、脳内で反響するようにこだますると聞くが、その感覚は柊を刻んだ本人しか知りえない。今はいいが、これが戒の儀間際になれば数多の聲に心を支配されることになる。最後まで正気を保てない巫女も少なからず見てきた。楓は最後まで楓でいられるのだろうかと、夜舟は改めて思った。

 

「……貴女に何もしてやれなくて、本当にごめんね」

 

 楓が初儀式を迎えてしまった以上救う術はない。楓を巫女にさせまいと躍起になってきたが、桜花の意思の前にその力は及ばなかった。

 

「ううん、そんなことないよ。私は今まで夜舟ちゃんにいっぱい助けられてきたんだから」

 

「助けたわけじゃない。ただの気まぐれよ」

 

 久世にも宮下の村にも居場所がなく、しゃがみ込んで泣いてばかりいた楓をいつしか放っておけなくなっていたのだ。

 

 捨て子だった楓は寺院に拾われ、寺主が亡くなった後、行くあてもなく彷徨っていた。当然幼い子供が一人で生きられるわけがなく、飢えに死を待つばかりだ。そんな楓が久世の門を叩くのは必然だったのかもしれない。しかし、それはただの延命でしかなく、楓にとってどちらの死が幸せだったのかは夜舟には分からない。

 

 あまりにも不憫で、同情してしまったのだ。生まれた時から死を決定づけられていた楓に。今思えば、当主という定められた道を行くしかない自分を重ねていたのかもしれない。

 

「これは恩返し。今度は私の番だよ」

 

 夜舟はただ楓の話し相手になっていただけだった。結果としてそれは楓に辛く当たる久世の人間や宮下の村人から守ったことになるのかもしれない。夜舟が楓と親しくなり始め、それに迎合するかのように人々の態度も変わっていった。何人たりとも、当主の血族者に逆らうことは出来なかったのだ。

 

「こうしてお別れの時は来てしまったけど、夜舟ちゃんと共に過ごせた日々は本当に幸せだった……」

 

 それは夜舟も同じだった。当主の娘というだけで敬遠され、親しい人間など一人としていなかった孤独を楓が埋めてくれていたのだ。

 

「私に居場所をくれたのは夜舟ちゃんだけだった。沢山の思い出を、ありがとう」

 

 楓はほろりと涙を浮かべながら、にこやかにそう言った。ぐさり、と、胸に楔が打ち込まれたようだった。深く考えないようにしていた。……本当は気づいていたのだ。先に心が壊れてしまうのは楓ではなく、自分の方ではないのかと。常に当主の立場を問われ、重責に押しつぶされそうになっていた自分の前に現れた安らぎ。辛い時いつも隣で励まし、笑顔を振りまいてくれた楓。そんな楓が、いなくなってしまう。

 

 夜舟の心は悲しみに震えた。楓が巫女であることを忘れて。

 

「楓……、私は貴女を失いたく……」

 

 刹那。突然空気が張りつめた。ぞくり、と体内の神経全てを網羅するかのような激しい悪寒が全身を突き抜ける。夜舟は凄まじい重圧に、身も心も押しつぶされそうになった。

 

 ……目を離してはいなかった。いつの間に成り代わったのか。

 

 眼前にいたはずの楓は瞬時に変貌し、この世ならざる者の姿を見せていた。頬に刻まれた柊は鱗のように硬化し、瞳には凶猛な捕食者の眼を宿している。さらに青々とした一匹の大蛇が、楓の足元から蜷局を巻きながらその肢体を這い上がり、肩からひょこりと顔を覗かせた。双方今にも夜舟を取り殺さんと、鋭く眼光を光らせている。

 

 夜舟は身動き一つ出来なかった。まさしく蛇に睨まれた蛙だ。静止した空間に、夜舟の冷汗だけが静かに流れ落ちる。

 

 このままでは、飲まれてしまう。そう僅かに後退の意思を向けた瞬間。大蛇が目にも留まらぬ速さで格子をすり抜け、夜舟の喉元をめがけて飛びかかった。

 

「気を強く持ちなさい」

 

 獣の咆哮のような激しい喚声が、びりびりと辺り一面に響き渡る。その衝撃は大蛇を切り裂き、景色に無数の亀裂を生んだ。発したのは桜花である。

 

「夜舟ちゃん、どうしたの」

 

 気づけばそこにあの化け物は存在せず、よく見た幼馴染の顔があった。

 

「……私は当主失格です」

 

 油断してしまった。よもや次期当主である自分がこんな不覚を取るなどあってはならない。

 

「気に病むことはありません。未だに私でも囚われてしまうことがあります」

 

 心底気落ちしていた夜舟に、桜花は意外な事実を口にした。

 

「本当ですか」

 

 夜舟の目からして、母親である桜花は偉大で何一つ穴の無い完璧な当主として映っていた。しかしそんな桜花にも迷いはあり、完全に心を殺す事は出来ない人間だったということだ。見本となるよう、特に夜舟には心の弱さを隠し続けてきたのだろう。

 

「ええ。けれど当主たる者、己の力で捻じ伏せねばなりません。精進するように」

 

 今の夜舟に足りないもの。それは何事にも動じない強い意志である。夜舟は桜花が巫女に楓を選んだ理由が分かった気がした。夜舟が真の当主になる為に必要な次の段階を、桜花は理解していたのだ。しかし、これは夜舟とってあまりにも辛い試練だった。

 

「もういいでしょう。そろそろ修練に戻る時間です」

 

 桜花は再び襖を開け、夜舟を廊下へと連れ出した。

 

「夜舟ちゃん、またね」

 

「元気でね」

 

 別れ惜しそうに見送る楓に、次の機会がある保障のない夜舟は、そう返す他なかった。

 

「……さて。貴女が柊に飲まれかけた時の楓は一先ず置きましょう。それ以外の楓の様子はどうでしたか」

 

 襖を閉めた桜花は、すぐに夜舟を帰すことはせず、その場で立ち話を始めた。

 

「特に変わりはありませんでした」

 

「そう、楓は柊に蝕まれた様子もなく、至って正常なのです」

 

 桜花は襖越しに楓を見つめるように目を細め、少しばかり顔をしかめた。

 

「今の楓の様子を心に深く刻んでおきなさい。非常に稀有な経験となり得るかもしれません」

 

 今の楓の状態がよほど不服なのか、口惜しそうに桜花は言った。夜舟は漠然とだが、この現状がうっすらと見えてきていた。確かにこの問題は一筋縄では行かぬようだ。桜花の認識としても先程の異常な死体は儀式の代償と捉えているのだろうが、おそらくその原因を未だ特定出来ていない。楓の様子から紫魂の儀が上手く行かなかった形跡がないからだ。夜舟も学んだ儀式の知識を思い出し、深く考察してはみたが他に思い当たる節はどこにもなかった。

 

「さあ参りましょう。貴女はいつものように、基礎修練に励みなさい」

 

「分かりました」

 

 柊の脅威を見た夜舟は完全に意を削がれ、何の反発心もなく桜花に従った。その挫けた様子を快く思わなかったのか、桜花は小さくため息を漏らした。

 

「……なぜ私が今の今まで、こうして貴女に当主としての手解きばかり繰り返させているのか分かりますか」

 

 それは以前なら夜舟も桜花の口から聞きたい事だった。しかし今回の件で当主としての力の無さを痛感し、その答えを知った。

 

「私が及ばないからです」

 

「そんなことはありません。貴女は実に良い素質を持っています」

 

 自虐した夜舟の返答を、桜花は真っ向から否定した。

 

「では、なぜですか」

 

「それは貴女の当主になる目的が、少なからず私に認めてもらうことだからです」

 

「あ……」

 

 夜舟は言われて初めて気づいた。確かに久世の安寧を願う気持ちはあるが、それは久世に生まれた人間であるが故だ。夜舟が積極的に当主としての研鑽を積もうとするのは、久世を支えようとする当主の覚悟ではなく、大半は桜花の目を引きたいが為だった。

 

「そのような覚悟では、心に付け入る柊に足元をすくわれかねないのです」

 

 まさにその通りだった。現に先程も己の覚悟の甘さで柊に飲まれる寸前だったのだ。 

 

「本当は貴女がそれに気づいてくれるまで待つつもりでした。しかし、もうそうも言っていられないのかもしれません」

 

 思えば口数の少ない桜花にしては、今日はしゃべり過ぎている。こんなことを口にする桜花は初めて見るかもしれない。それほど事態は緊迫しているということだ。

 

 しかし、桜花を初め久世の重役達はこの問題を軽視していたといっても過言ではなかった。すぐに行動に移さなければいけない事態であったと、夜舟は後に思い知ることになる。

 

 ……この時、久世が想像を超えた未曾有の危機にさらされていることに、誰一人気づく者はいなかったのだ。

 

 



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   -久世家当主(クゼケトウシュ)- 三ノ刻

 

 空は星一つ見せぬ漆黒の闇に覆われ、静寂に沈む夜。時折風と葉の擦れる音が残響を残し、社のしじまに溶け込んでゆく。

 

 今宵はどこか不穏で不吉だ、と夜舟は思った。あれ程凄惨な死体を見てしまえばそう感じてしまうのも無理もない。夜舟は元々臆病ではなかったが、かといって未知の恐怖に対して心が動かぬほど豪胆でもなかった。先の見えぬ暗がりの廊下を前に、この世でたった一人取り残された気分になり、少女らしく年相応に身体を震わせる。

 

 おそらく事の始まりは楓が迎えた初の刺青の儀式だ。久世に降りかかった何らかの異変は、時系列的にそれを機として起こったのだと考えるのが普通である。そしてその日の明け方である今日、夜舟が目覚めた時に噂は既に社内に広まっていた。あの久世の者であろう人物が見るも無残な姿に変えられたのは、夜の出来事ということになる。

 

 ……惨劇に見舞われたのは、昨夜のこれくらいの時間だったのだろうか。

 

 蝋燭のか弱い灯を片手に、たどたどしく歩を進める。好奇心などという上等な感情がこの足を焚き付けているのではない。それはもっと、惨めで情けない動機だった。

 

 本当は、人の温もりを感じたいが為。しかし夜舟には建前が必要だった。であれば当主の血筋といううってつけの理由が自分にはある。これは責務なのだと、言い聞かせればいい。あわよくばその通りにこの奇怪な事件の真実に辿りつき、不安の根本自体を絶ってしまおうという腹づもりだった。そう、夜舟は物怖じする自分が許せなかったのだ。

 

 そうして誰に頼まれたわけでもない見回りに勤しむ中、自身の蝋燭とは別の明かりが視界に入り、夜舟は足を止めた。夜目で距離感が奪われているが、淡い光が漏れ出す先は位置的に祖母である蒼蓮(そうれん)の部屋のようだった。

 

「蒼蓮様」

 

 夜舟はゆっくりと近づき、光源の確認が取れた後静かに部屋の主へ呼びかけた。

 

「……その声、夜舟じゃな」

 

 返事を聞いた夜舟は襖を開き、灯篭の前で書物を開く蒼蓮の姿を捉えた。 

 

「こんな時間にどうしたというのじゃ」

 

「今日の出来事に居ても立ってもいられなくなりまして……、それで、少々見回りをしていた所、蒼蓮様の部屋に明かりが付いていたので、こうして立ち寄った次第です」

 

「堅苦しくならずとも良い。婆と呼べ。しかし、そうか、お前の耳にも届いておったか」

 

 蒼蓮は手で招き、夜舟を隣へと誘導する。

 

「母様は隠そうとしていたようでした。なので、全てを知っているわけではありませんが、あの奇妙な死体を見てしまったんです」

 

 座しながら夜舟は蒼蓮が手に持つ書物の内容を、横目でちらりと盗み見た。寝かされた巫女を取り囲む二人の女性の簡易な略図。どうやら刺魂の儀に関する記述のようだ。

 

「なるほど、あ奴らしいわ」

 

「婆様こそ何をされていたんですか」

 

「ああ、少し桜花の奴の手助けをな。久世の当主があのようにおろおろと……。とても情けなくて見てられぬわ」

 

 眉間に皺を寄せながら頭を振る蒼蓮の前には、沢山の文献や書物が散乱している。それは久世で最も知識の深い蒼蓮ですら、この事件については知り得る所ではない事を物語っていた。けれどそれよりも夜舟にとって意外だったのは、蒼蓮の口から語られた桜花の様子である。今日に限らず、夜舟の目に映る桜花は常に毅然としていて、蒼蓮が言うような姿は今の今まで一度も見たことがない。それは対面した相手が母親であるからだろうか。夜舟自身も他の誰の前であろうと冷静であるが、桜花を前にすると心に乱れが生じてしまう。当主である母は偉大で、いずれ辿り着かなければならない目標である。桜花も例に漏れず、蒼蓮と二人きりの時には萎縮してしまうのだろうか。

 

「しかし前例の無い事態故、儂もお手上げじゃな。刻女に儀式の状況を聞く事も叶わぬ今、解決策が見当たらぬ」

 

「聞けないとは、どういう事ですか」

 

「ああ、そこまでは知らなんだか。……ふむ」

 

 蒼蓮は夜舟を見たまま、少し考え込んでいる様子を見せた。

 

「まあ、教えても良いじゃろう。あの死体は刻女達じゃ。二人が変わり果てた姿で明け方に部屋で発見されたのよ」

 

 夜舟は蒼蓮のその言葉で初めてあの死体が刻女の物であることを知った。しかし、今、確かに達だと蒼蓮は言った。……ということは、あれは二人分だったのか。

 

「刻女だったんですか。一体何が……」

 

「巫女様は変わりない様子。儀式が失敗した形跡もあらぬようじゃ」

 

「とはいえ、人の仕業とも考え難いです」

 

「そう、じゃからこうして盲点があらぬか儀式の記述に目を通しているのよ」

 

 そうして蒼蓮は夜舟から視線を外し、再び文献へと目を落とす。

 

「見回りなど止めるのじゃ。どんな危険が待ち受けているかも分からぬ。朝早くからまた修練があるのじゃろう。お前は部屋へ帰り、明日に備えよ」

 

「私も手伝います」

 

 夜舟は蒼蓮に反して、近くに落ちている書物を拾い上げた。

 

「……寝坊して桜花に叱咤を受けても、儂は知らぬぞ」

 

「構いません」

 

 早々に書物を読み進める夜舟に蒼蓮は小さく嘆息し、説得を諦めた。そして灯篭の光を頼りにするように、互いに腰を丸め合う。夜舟がこうも協力的なのは心細さからくるものだということを、蒼蓮が知ることはなかった。

 

 ……そうして何冊かの書物を積み重ねた頃、事態は急変したのだ。

 

 

 あ゛ぁ゙ぁぁぁ……。

 

 

 不気味な断末魔が、書物に集中する二人の耳に入った。

 

「婆様、今のは……」

 

「……何か、あったようじゃな」

 

  蒼蓮の顔に緊張が走る。夜舟の頭にすぐさま思い浮かんだのはあの刻女の姿だった。また犠牲者が出たのだろうか。おそらく蒼蓮も同じことを考えているのだろう。

 

「少し様子を伺いに行く故、ここで待っておれ」

 

 蒼蓮は片手を付き、立ち上がろうとした。

 

「私も行きます」

 

 置いて行かれそうになった夜舟は慌てて蒼蓮の腕を掴んだ。

 

「駄目じゃ。その身に何が起こるか分からぬ」

 

 蒼蓮はそう言うが、一人きりになるより一緒にいる方が幾分安全ではないだろうかと思い、夜舟は首を振った。

 

「平気です」

 

「もしもこれが儀式による代償ならば、今はまだお主の関与する所ではない。まさしく当主に手を染めた者の業である。今から足を踏み入れることはない」

 

「それでも」

 

 夜舟は譲ろうとしなかった。確かに夜舟の内にはあの死体に対する恐怖心が植え付けれていた。が、こうも頑ななのはそれが理由ではない。はたして老体である蒼蓮が未知なる脅威に立ち向かえるのだろうか。蒼蓮もまた刻女のようになってしまうのではないかと、夜舟は心配で仕方がなかったのだ。

 

「……ふむ、その頑固さは母親譲りじゃのう」

 

 きつく結ばれた夜舟の口と眉に、蒼蓮は返事を窮した。

 

「良かろう、付いて参れ。くれぐれも周囲への警戒を怠るでないぞ」

 

 蒼蓮は灯篭を掲げ、夜舟と共に部屋を出た。先程の声も相まってか、淡く照らされた輪郭の乏しい廊下に物々しさを感じた。先導する蒼蓮は聞き耳を立てながら静かに足を進める。

 

 争っているような感じではないが、どこからか畳を引きずり、何か物を落とすような妙な音がしていた。蒼蓮はその音を辿り、やがて明らかになってきたその在り処に顔を強張らせた。

 

「桜花の部屋、か」

 

 今度はぴちゃぴちゃと雫が垂れるような音が聞こえくる。

 

「覚悟は良いか」

 

 蒼蓮が小声で問いかけ、夜舟は無言のまま小さく頷く。そうして蒼蓮は勢いよく襖を開いた。

 

 そこには、大きな血溜まりがあった。ひしゃげた肉塊の上に、ゆらゆらと揺れる人影。それが辛うじて女性であることは認識出来た。

 

 ……が、それは人の持つ関節の数を、ゆうに超えていた。

 いや、違う。あれは関節ではなく、元々の四肢が途中であらぬ方向へ何度も曲がってしまっている状態なのだ。所々皮膚を突き破り、骨が露出している。さらに不自然にふら付く頭を見れば、その首骨すらも砕けていることが見て取れた。

 

 そして、その下の奇形の主も同様だ。あらゆる部分を折り紙のように容易く曲げられ、今もなお何らかの圧力が加わり、くの字になった腹が裂けそうになっていた。

 おそらくそれに耐えられなかったであろういくつかの手足が胴体と離れ、大量の血を絡ませ畳に飛び散っている。桜花の部屋はこの上ない惨状と化していた。

 

「母様」

 

 夜舟は狂ったように頭を抱えながら思い切り叫んだ。

 

「彼奴はなんじゃ」

 

 蒼蓮は夜舟と違い、桜花であった肉塊には目をくれず、その上に伸し掛かる者に釘づけになっていた。蒼蓮が桜花よりもそれを優先したのも仕方がない事だった。夜舟は我に返り、同じように視線を上に向けた。

 

 改めて気づいたのは、それは人とは遠く、実体が薄い事であった。よくよく見ればその足元は桜花の身体を貫通し、全体的に形状がはっきりとせず陽炎のように揺らめいていた。目を凝らせば後ろの景色が覗ける程、肌が透けている。

 

「……儀式の祟り、なのか」

 

 呆気にとられ、蒼蓮と夜舟はその場に立ち尽くしていた。すると、蒼蓮の言うその祟りがこちらの存在に気づき、ふわりと低空に浮かび視線を向けた。

 

 痛イ…… 助ケ……

 

 口はそのように動いてはいるが、夜舟はそこから発せられているとは思えなかった。なぜならそれは脳内に直接反響するような声だったからだ。祟りはがくがくと顔を揺らし、前のめりにこちらへとゆっくり手を伸ばしてくる。

 

「婆様、どうすれば」

 

「ううむ……」

 

 まだ十分に距離はある。ひとまずここを離れ、体勢を立て直すのが無難だろう。夜舟は蒼蓮の支持を待った。

 

「あ……」

 

 信じられぬ光景に、夜舟は思わず目を見開いた。一呼吸置くこともなく、既に息がかかるようなほど近くに、祟りがいた。いや、正確には、一度姿を消して突然眼前に現れたという具合だった。しかし、なんとも悍ましい顔なのか。祟りの両目は在らぬ方へ向き、半分頭皮が捲れ、血みどろだ。

 

「夜舟」

 

 夜舟は横から蒼蓮に突き飛ばされた。夜舟を掴むはずだった祟りの手が蒼蓮の肩に乗る。後に、蒼蓮の腕が圧迫され、めきめきと悲鳴を上げ始めた。

 

「逃げよ」

 

「でも、婆様」

 

 夜舟は祟りの手を振りほどこうとしたが、捉えた感触もなく空を切る。代わりに触れた瞬間、あの時の楓と対峙したような激しい悪寒に襲われた。

 

「うっ」

 

「儂に構うな。こやつは想像以上に危険極まりない代物じゃ。生き延びることだけを考えよ」

 

 蒼蓮は耐え忍ぶような悲痛な声で、夜舟に伝えた。

 

「ぐ……っ、さあはやくゆけっ」

 

 確かにこのままでは二人とも祟りの餌食となってしまう。夜舟は迷ったが、歪む蒼蓮の顔に耐えられず、覚悟を決めた。

 

「直ぐに助けを呼んで参ります。どうか耐えてください」

 

 夜舟は身を翻し、思い切り駆けた。まだ希望はある。蒼蓮と同じ世代の者や、刻女の指導者、宮大工の長なら、このことについて詳しく知っているかもしれない。それよりもまず身近な者を叩き起こし、応援を呼ぶことが先決だ。大丈夫、きっとなんとかなる。

 

 ……おそらくはこれが蒼蓮との今生の別れになるだろうと、夜舟は悟っていた。あれは人の手に負える物ではないと、肌身で感じていたからだ。しかし、そう言い聞かせることでしか夜舟は己を保つことが出来なかった。

 

 



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   -久世家当主(クゼケトウシュ)- 四ノ刻

 楓の刺青の儀式から二日目。久世は最悪の結末と共に朝を迎える。あれから直ぐに祟りは姿を消し、それ以上の被害が拡大する事はなかったが、久世が失ったものは大きすぎた。

 

 初日の犠牲者である刻女二名から始まり、久世家現当主の桜花、さらには当主の座を明け渡して久しいとはいえ、実質最高地位の権力者である蒼蓮までもがその魔の手に命を散らした。儀式の組織体制が大幅に崩れ、強制的に世代交代を余儀なくされた久世は、まさに大混乱の渦中にあった。現状、刺魂の儀の役割の大部分が欠けた状態となっており、次の遂行が見送りとなっている。刻女の後継はいるもののまだ儀式に赴けるほどの技量はなく、代替えの精通者が焦慮に駆られながら指導に当たっていた。

 

 ……しかし、一番の問題は当主となった夜舟である。この一件は後にも先にもない程、夜舟に大きな爪痕を残した。半端者の当主という自らの置かれた立場よりも、まず向き合わなければならないのは母親と祖母との死別だった。ここは紡がれた慣わしを信仰する久世という特殊な家系ではあったが、それでも一般的な家族間における愛情が皆無というわけではない。現に夜舟が慕っていたのは、厳しくも子を見守る母親の目をした桜花であり、忙しい桜花の代わりに何かと面倒を見てくれた祖母としての蒼蓮であった。むしろ平和で並々と満たされた家族愛とは違う希薄な情故に、時折与えられる優しさが人より増して深く心に刻まれてゆく。そんな渇望と共に生きてきた夜舟の喪失感は、常人には計り知れないものがあるだろう。

 

 だが、周りの者が夜舟に足並みを揃えていられるような状況ではなかった。今回の件が異例中の異例であった為、現役の儀式関係者から久世の未来を担う末端の者達までといった過去に類を見ない多数の人間が大広間に集められ、速やかに大規模な集会が開かれた。そこで今後の方針や対策について議論が行われたが、その中心である夜舟はやはりというべきか終始もぬけの殻で、度々見せる覇気のない相槌に皆苦渋の表情を浮かべていた。

 

 話し合いの末、現時点で祟りに対し打つ手はなく、原因の解明、守備の強化、組織体制の修復といった方向性で対策を立てられた。

 

 心ここに非ずの夜舟を余所に議論は着々と進められ、ある程度のまとまりが付くと、それぞれが成すべき事に取り掛かる為、足早にその場を後にしてゆく。

 

 そんな中、夜舟は場に居合わせた天涯に呼び止められた。

 

「ここでは話しづらい。場所を代えよう」

 

 そうして二人は人目を避けながら、どちらからともなく境内の裏手へと向かっていった。

 

「……」

 

 まるで悪い夢でも見ているようだった。この先桜花の手助けも、蒼蓮の助言も得れず、ただの一人で当主を全うしなければならない。道を示してくれる者が消え去ってしまった今、何を指標に前へ進めばいいのだろうか。落とされた視線と足取りの重さが夜舟の心境を如実に語る。気づくと天涯は少し離れた場所で振り返り、待ち惚けていた。夜舟は頭を振り、急ぎ足で天涯の後を追った。

 

 馴染みの地に着くと、天涯は比較的平らな庭石を何度かはたいた後、夜舟と庭石の間を手で仰ぎ着席を促した。夜舟が素直を応じると、天涯は別の庭石に土を払う事もせず腰を下ろし、片膝を抱えた。

 

「君が見たその祟りというのは、本当の話なのか」 

 

 着いて早々落ち着く間もなく天涯は話を切り出す。天涯のいつもの気楽さは陰を潜め、張りつめた表情で夜舟の顔をじっと見つめていた。

 

「実際に目の前で母様と婆様が殺されているのよ。こんなことで嘘をつく意味なんてないわ」

 

 夜舟はあまりに現実味に欠ける出来事であった為戸惑ったが、結局集会で事の成り行きをありのままに説明した。しかし皆は半信半疑といった様子で小首を傾げている者も多かった。当然天涯も聞いていたわけだが、やはり皆同様に未だ信じられないということだろう。

 

「すまない、分かってはいるさ。どちらかといえば、これは僕の都合の為の確認なんだ」

 

 天涯の返しに、夜舟は何を言っているのか分からず眉を潜めた。相変わらず天涯との会話には要領を得ない事が多い。おそらく己の心の内を明かさず、相手から最低限の情報を引きだして勝手に自己完結する癖があるのだろう。天涯はそれでいいかもしれないが、対面する側としてはこうして毎度理解に苦しむのだ。

 

「……夜舟、君は宮大工の宿舎に身を隠せ。僕の近くにいるんだ」

 

「出来るわけないでしょう」

 

 夜舟は即答した。こんな分かりきったことをなぜ聞くのかと夜舟は睨んだが、天涯は一切動じなかった。

 

「こんな時にまで掟か。そんな事を言っていられる状況ではないのは君も理解しているはずだ」

 

 いつになく強い口調で天涯は夜舟を咎めた。が、夜舟には志を曲げる気など毛頭なく、反発心を目に宿すばかりだった。

 

「……ならばせめて夜に寝ず、明るい内に仮眠を取っておいてほしい。今の段階ではそれは深夜の僅かな時間のみ出没する傾向があるようだ。しかし念の為、日中であろうと身近に見張りを置いて眠るように」

 

 天涯は子を躾ける親のようにまくし立てた。不快感はあったが、現状を考えれば至極全うな意見である。

 

「……分かったわ」

 

 夜舟そう力なく答えると、天涯は両手で夜舟の肩をがしりと力強く掴んだ。

 

「夜舟、しっかりしろ。君の婆様を無駄死にさせる気か。問題の解決は二の次にして、まずは自分の命の安全を第一に優先するんだ」

 

 天涯の目は真剣そのものだった。分かってはいる。天涯がこんなにも強気な姿勢なのは、心底自分を心配してくれているからだ。

 

「天涯……、私は、どうしたらいいの」

 

 天涯の優しさにあてられ、夜舟は柄にもなく弱音を吐いた。先程提案を拒否されたばかりの天涯はやや複雑な表情を浮かべたが、夜舟の基準はあくまで当主としてである。互いの考えが交わることがなく平行線であることに対してか、天涯はやれやれといった感じで頭をかいた。

 

「それを決めるのは君自身だ。ましてや僕はただの宮大工だ。意見を挟める立場にはない。それに僕が何を言っても、今の君には無駄だろう」

 

 夜舟の目線に合わせた皮肉であろう。天涯はそんな思いの外冷たい言葉を投げかけ、足裏で庭石を軽く蹴り地面に降りた。返す言葉の見つからない夜舟を尻目に、天涯は声をかけることもなく背を向けたのだった。

 

 

 

 

 夜舟が答えを出せぬまま、また日は落ちた。天涯に言いつけ通りに昼間から床についたが、ただ横になっていただけでほとんど眠る事が出来なかった。今夜祟りが現れたとしたら、次に襲われるのは自分かもしれない。そればかり考えてしまって頭が休まる事がない所為だ。正直己一人の力で切り抜けられる自信はなかった。だとしたら、自分もあのような無残な死を迎えてしまうのだろうか。

 

 恐怖が身体を伝い、四肢を震わせる。こんな脆弱な人間が当主とは聞いて呆れる。楓の柊と対峙した時の凛とした桜花の姿や蒼蓮の最後に見せた勇敢な姿を思い浮かべ、夜舟はとても惨めで情けない気持ちになった。

 

 「……様」

 

 夜舟が自己嫌悪に苛まれる中、廊下から呼びかける声があった。見張りの者であろう。夜舟に気を使ってか襖を開けようとはしなかった。

 

 「……に……げ」

 

 様子がおかしかった。間も入れず夜舟は襖から距離を取り咄嗟に身構えた。目は慣れてはいたが、この暗がりではあの不鮮明な祟りの姿を正確には捉えきれないだろう。そう思い、目線を残しながら手探りで行灯に火を灯す。部屋全体が淡く照らし出されたが、こちら側に特に変化はなかった。この場を離れるにも廊下で何が起こっているのかを確認するにもどの道襖を開けなければならない。しかし、あの先に祟りがいると思うと行動に移すのが躊躇われた。しばらくの間どたばたと騒がしかったが、やがて廊下は静まり返ってゆく。

 

「何事なの」

 

 夜舟の問いかけに返事はない。当たり前の事だった。祟りに対し反撃の術がない現状、この静寂の差す意味は二つしかないからだ。見張りが身を挺して囮となり祟りを引きつけてここを立ち去ったか、あるいは抵抗できずに祟りの犠牲となったか。よもや別件で見張りが動いたとは考え難い。どちらにせよ、夜舟の声が見張りの耳に届くことはないはずだ。

 

 最善と最悪の一方だけが、そこにはある。夜舟は恐る恐る襖に近づいて行った。五感を研ぎ澄まし外側に意識を向け気配を探ってみたが、廊下には何も存在しないように思える。夜舟は意を決して襖に手をかけた。

 

「夜舟」

 

 夜舟の指が襖の引手に触れるや否や勝手に襖が開いた為、驚きの余り夜舟は尻もちをついた。

 

「天涯、どうして」

 

 目に映ったのは見張りでもなく祟りでもなく、今唯一心を許せる少年だった。本来なら怒り心頭の展開であるが、現状とても心強い助っ人のように感じられ、そのいつもと変わらぬ姿に夜船は安堵した。

 

「祟りからいつでも君を助けられる様、社内に潜んでいたのさ。何度か人に見つかりそうになり、肝を冷やしたよ」

 

 今朝は見限られたように思えたが、天涯なりに考えがあったようだ。掟破りではあったが、さすがの夜船もこの時ばかりは責める気持ちは浮かんでこなかった。

 

「ここに見張りがいたはずよ」

 

 天涯に身を案じられ、夜船は照れくささから話題を逸らした。

 

「ああ、祟りに追われてなんとか撒いたみたいだ」

 

「生きているのね。良かった」

 

 夜舟はさらなる犠牲が生まれなかったことに大きく胸を撫で下ろした。

 

「そう落ち着いている暇はない。僕は撒いた、と言ったんだ。夜舟、行灯を持って早く廊下へ」

 

 天涯が時折視線を大きく外し、何かを気にする素振りを見せていた。夜舟は察し、すぐさま行灯を手に廊下へ出た。するとやはり祟りがもう間近まで迫ってきていた。天涯は守るように夜舟を背に隠し、祟りと正面から対峙した。

 

「しかし、これが件の……」

 

 祟りはぎろりと睨みを効かせ、天涯に詰め寄ってゆく。肝心の天涯は距離を取るわけでもなく、悠長に構えている。

 

「そいつに捕まったらおしまいよ」

 

 夜舟の必死の忠告に対し、天涯は口角を上げ鼻を鳴らした。

 

「僕にとっては久世の人間に捕まる方がよっぽど怖いね」

 

 そんな軽口を叩く天涯を見て、夜舟は虚勢を張っている場合ではないと伝えようとしたが、それより僅かに早く天涯が動いた。

 

「とりあえず、走るぞ夜舟」

 

 天涯は夜舟の手を取り、強引に走り連れた。

 

「近くの者に助けを求めるべきだわ」

 

「駄目だ。祟りは僕達が引き付け、僕達だけで対処する。誰も死なせたくのないなら、僕の言う通りにしてほしい」

 

 確かに、寝起きで状況を把握しきれていない者を下手に巻き込むよりはそちらの方が無難だ。しかし、それは本当に可能なのか。祟りの真の脅威は、距離を物ともしない神出鬼没の動きである。

 

「僕は社内の構造に明るくない。人気がなく、行き止まりにならない道筋を教えてくれ」

 

 揺れる行灯の火が掠れ、明滅を繰り返しながら頼りなく進路を示す。祟りからどんどんと離れ、よもや追ってこないのではないかと言う程距離を稼いだ。

 

 夜舟と天涯は呼吸を整える為、一時休息する。しかし、ここを撒けたとして気を緩めることは出来ない。蒼蓮の時とは違い、今祟りの足止めするものはなかった。そんな夜舟の不安が的中し、突然天涯の目の前に祟りが現れた。もはや躱せる距離ではない。夜舟が諦めかけた瞬間、間一髪で天涯が夜舟の手を突き放し自らの身体を捻った。祟りは二人の間を紙一重ですり抜けてゆく。

 

「集会の時に特長はしっかりと聞いていた。分かっていれば避けるのはそう難しい事じゃない。君も逃げながら奴の動きだけに集中するんだ」

 

 天涯に恐怖は微塵も感じられない。夜舟は驚きを隠せなかった。いざという時、天涯という男はこんなにも度胸が据わっていて頼れる存在だったのかと。

 

 再び夜舟達は互いの手を取り合い、祟りとの追走劇に身を投じた。祟りから逃げ、視認出来なくなったら休むといった行動を延々と繰り返してゆく。そして何度目かの休息の際、完全に心拍が落ち着こうと祟りは一向に顔を見せなくなる。どれ程待とうと、ついに祟りが再び二人の前に現れる事はなかった。

 

「……追って来なくなったようね」

 

「やはり限られた時間にしか現れないようだ」

 

 体感にしてまだ半刻も経っていないだろう。祟りに襲われたのは昨日も今日も大体丑三つ時である。

 

「よくある怪談そのものだな。こう目の当たりにしてしまっては、次から作り話だと笑い飛ばす事が出来なくなったよ」

 

 緊張の糸が切れたのか、今更ながら天涯の指が震えていた。そう、天涯も男とはいえ夜舟と同じまだ子供であるのだ。こんな非現実的な光景を前に平常心を保てるわけがない。強がって見せていたのだとすれば、それは夜舟の為。夜舟を少しでも不安にさせまいとした天涯の配慮だったのだ。

 

 大切に扱われている実感が、夜舟に天涯を意識させる。初めて味わう慕情であった。しかし、ふと各々の立場を思い出し、夜舟は胸に鋭い痛みを覚える。互いがどう想おうと、決して実ることはない。そう夜舟は諦観の念を抱き、湧き上がる感情を鎮め心の片隅に押し隠す。

 

 そして祟りに果敢に立ち向かった天涯を見て、夜舟は改めて己を見つめ直した。

 

 ……自分はうじうじと、何をしているのだろう。こんなにも命を張ってくれて守ってくれる者達がいるというのに。

 

「天涯、甘えてばかりで本当にごめんなさい。私は、前に進まなければならないのね」

 

 ようやく夜舟は現実に目を向け始めた。

 

「家族を亡くしたばかりだというのに、不憫に思う。けれど、これは急を要する事態なんだ。君には辛く当たってしまったけれど、分かってほしい」

 

 夜舟の心中を察するように、天涯は痛ましげな表情を浮かべる。

 

「大丈夫。ちゃんと理解しているから」

 

 天涯がどれだけ自分の事を考えてくれているのかが、今回の件で分かった。こんなにも全力で行動に示してくれたのだ。今度は自分の番である。天涯や久世の者を守る為に、覚悟を決めて当主の采配を振るわなければならない。

 

「……夜舟、君に伝えたいことがある」

 

 突然おもむろに向けられる、天涯の強い視線。とても重要な事柄を口にしようとする素振りを見せ、少しの間沈黙する。天涯の心の中でも何か固まる物があったようだ。

 

「全てを捨てて、僕とここから逃げよう」

 

 その思いもよらぬ天涯の言葉は、濁流のような激しさを生み、夜舟の決意の心を飲み込んでいったのだった。

 



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   -久世家当主(クゼケトウシュ)- 五ノ刻

 

 二日目の夜を無事にやり過ごし朝を迎えた夜舟は今後を見据え、社の構造を描きとめた和紙を天涯に渡した。部外者の侵入は許されることではないが、今の所祟りに対抗する手段もなく、天涯以上の立ち回りを久世の女達に実行出来るとは思えず、仕方なしに夜舟は一時的に黙認することにしたのだ。とはいっても、戒の儀に関連する区画はさすがに伏せざるを得ない。巫女の眠る棘獄に近くなればなるほど瘴気が濃くなり、人を狂わせてしまう。だから夜舟はその入口を記載せず、久世家の大まかな全体像を把握できる見取り図にした。仕上がった和紙にはその他の立ち入りを禁じる儀式部屋にくれたばつ印がいくつか点在し、通行出来ない旨を視覚的に訴えかけている。そこはどんな事があっても迂回するよう念を押して天涯に伝えた。

 

 そうして天涯と別れた後、空腹ではあったが食事を取る気力もなく、寝不足に社を駆け回った疲労が拍車をかけ、すぐさま自室で眠りについた。

 

 目が覚めたのは日が傾いた頃で、気づけば激しい雨が社を打ち付けていた。部屋はじめじめと淀んだ空気に包まれている。夜舟は僅かな不快感を感じ、頭頂部から毛先に向かうように撫でると、本来の流れに逆らうような乱れた感触が指の隙間を抜けていった。夜舟は櫛を取り、重く冴えない頭に響く天涯の言葉の傍らで髪を解き解し始めた。

 

 ……まるで考えもしなかった選択肢だった。天涯は、こんな冗談に迷いを見せるなんて君らしくない、と軽く笑い飛ばしていたが、あんな真剣な目を向けられたのは初めてだ。上手くはぐらかしたつもりだろうが、あれは本心であったのだろう。

 

 夜舟は少しばかり心を動かされていた。当主という身分を投げ捨て天涯とここから逃避してしまえば、例え世間知らずで俗世に馴染めず上手く生きられなくとも、天涯と共に支え合いながら一般的な生活を送れるのではないか、と。

 

 夜舟には儀式と無縁に生きる外界の者達を羨ましく思っていた時期があった。常に死の匂いが立ち込める血濡れの集落に生まれ落ちた自分には遠い世界。古くからの決め事であるとはいえ、やはり心のどこかで割り切れず、当主は人として大きな罪を背負うことになるという実感があったのだ。

 

 そんな久世に身を投じる中で、幼い頃に消し去った夢。そして天涯への好意を認識した瞬間に、押し殺した未来。それらが天涯の一言で、夜舟の脳裏に解き放たれてしまっていた。

 

 夜舟はその小さな胸の高鳴りに逆らうことなく、今しがた酔いしれた。そういった願望が自分の中にまだ存在していたことを素直に受け入れていた。どう否定してもそれは紛れもない自分であるからだ。今までであれば直ぐにでも拒絶し、邪な感情は内から滅ぼそうとしただろう。しかしこの目まぐるしく変化した環境を糧に、夜舟は考え方を変え、大きな成長を遂げようとしていた。

 

 嫌な事や望まぬ物から目を背けるのは容易い。そうして現実を否定し、向き合うことなく拒絶し続けているのが今の自分である。しかしそれではただの人、でしかない。楓が巫女になってしまった事に打ちひしがれ、母や祖母の死を直視し、自分自身の想いに向き合って、ようやく分かったのだ。

 

 情を制御するのではなく、思考を超越しなければ当主には成れない。巫女が人々の想いの依り代ならば、当主は祖先、あるいはその道を示した時代の意思の依り代なのだ。

 

 今の夜舟にとって最も大切な存在と呼べるのは、楓と天涯であった。しかし、他者には同じように尊く感じる者が別にいて、それは比べられるものではなく皆平等である。だから、天涯や楓であっても必要ならば迷いなく流さねばならない。なぜならばその志こそが、矛盾の無い大切な者達への救済であるからだ。 

 

 人々の複雑に絡み合う感情の連鎖から抜け出し、己の行動理念を高みまで昇華すべき存在になること。それが当主に課せられた使命なのだ。でなければ久世の歴史も人も、何も守れはしない。儀式の下正しい采配を振るい、弊害になるものは容赦なく切り捨ててゆくべきである。

 

 私情による分別は流された者達への冒涜でしかない。歴代の当主達の中にも、愛する人との別れという苦悩の決断を下した者もいたことだろう。それらを蔑ろにして、私欲を満たすなどあってはならないのだ。等し並みに犠牲を積み重ねるのが当主としての在り方である。

 

 これは誰かがやらなければならない事であり、当主として生まれた自分の運命だ。ようやく辿り着いた当主の道。一歩踏み出せば、もう後戻りは出来ない。……いや、もう決めたのだ。

 

 そう決心を固めた夜舟は思い立ち、もう一度儀式について洗うことにした。おそらくあの祟りとは破戒の前兆であり、まだ解決策はあるはずである。夜舟は身支度を整え軽く食事を済ませた後、足早に書物室へ向かった。そこにはありとあらゆる久世の歴史が刻まれた書物や文献が保管されている。蒼蓮が注視していたのは儀式に関する記述だけであったが、夜舟は本腰を入れて全てを閲覧するつもりであった。

 

 書物室に着いた夜舟は、普段読むことの無い客人向けに偽装された表向きの文献から歴代の当主の残した個人的な手記に至るまで、手当たり次第に調べ上げた。

 

 破戒に近しい記述が目に入れば何度も読み直し、他の情報と擦り合わせて深く考察してゆく。集中力を極限まで高め時間を忘れる程に没頭したが、やはり過去に祟りのような現象が起こった事例はなく、現在久世に降りかかっている災厄の実態は掴めなかった。

 

 ただ、拾い集めた知識を整理していくに当たって、見えてきたものもあった。基本的に棘獄にて眠りにつく巫女の未練が引き起こすものとされているが、破戒に至る過程はいくつかあるようだ。

 

 戒の儀まで巫女の役割を全う出来なかった者に行う逆身剥ぎを怠った場合と、もう一つ。刺魂の儀に関する文献のとある注意事項を、夜舟は指で読み取るようにゆっくりとなぞった。

 

 ……もしかしたら、と夜舟はぞっとした。見落としていたというより、経緯からして目に止まるはずもなかった。夜舟も実際に初の儀式を終えた楓を見ていたからだ。柊が顔に二か所しっかりと刻まれ、さも儀式が上手く行った様子であった。

 

 気づけばもう祟りが出没してもおかしくない時間である。

 

「天涯、そこにいるんでしょう」

 

 夜舟は振り返り、書物庫の入り口に目を向けた。

 

「……気づいていたのか」

 

 少し驚いた様子で天涯が顔を覗かせた。今日もそのつもりだったのであろう、手にはまだ火の付けられていない行灯が掲げられている。

 

「急いで何か細く尖った物を持ってきて頂戴」

 

「唐突だな。大工道具でもいいなら、鑿とかどうだろう」

 

「お願い。火と酒でしっかりと消毒をして、それを手に吊牢の間まで来て」

 

「祟りにそんな物通じるとは思えないが、何をするつもりなんだ」

 

 夜舟の中でそれはもはや確信に変わっていた。が、もし天涯に説明したら止められてしまうかもしれない。

 

「話は後よ。もう時間がないわ」

 

「分かった、君を信じる。先に行って待っていてくれ」

 

 天涯がその場を離れ、夜舟もまた吊牢の間へと駆けた。祟りの活動が本当に丑三つ時なのであればぎりぎりだった。天涯が到着するまでに、楓に確認しなければならない事がある。廊下や階段で何度も周囲を見渡してみたが、まだ祟りが現れた気配はなかった。どうにか間に合いそうだと、夜舟は額に汗を浮かべながら思った。

 

「……夜舟ちゃん。こんな夜にどうしたの」

 

 吊牢の間の襖を開けると、眠たそうに目を擦る楓が出迎えた。夜舟の心境は祟りに対する焦りから、楓への想いに移り変わった。遠からず失ってしまう安息の地。隣合うだけで、お互いの存在理由になれたというのに。巫女になった楓の顔を見る度に、夜舟の胸には締め付けられるものがあった。しかしそのような心中であっても、楓の柊による威圧感は感じられなかった。夜舟はようやく当主に近づけたのだと思えた。自分の感情を遠巻きから見ているような感覚。御するわけではなく、ありのままを受け入れて冷静に見定める思考である。そんな極地へと夜舟は辿りついていた。

 

「聞いたの。夜舟ちゃんのお母様やお婆様が大変な事になってしまった事。……とっても心配してたよ」

 

 楓は辛そうな声を出して、夜舟を気遣った。

 

「ありがとう、大丈夫。それより楓、貴女に聞きたいことがあるの」

 

 夜舟は言いながら、楓に接近した。すると楓は吊牢の中であることも忘れたように、慌てて後退し鉄格子に背中をがしゃんと勢いよくぶつけた。

 

「私、柊が刻まれてるよ」

 

「平気よ。顔を見せて」

 

 その言葉に安心したのか、楓はたじろぎながらも夜舟に近寄った。夜舟は鉄格子の間から両手を入れ、楓を頬を優しく包んだ。

 

「儀式の時、刻女に何かおかしい様子は見られなかったかしら」

 

 顔を引き寄せられ少し恥ずかしそうにする楓を、夜舟はまじまじと観察した。どんなに注意深く探しても、痕跡は見つからなかった。証拠を得られなければ、行動には移せない。夜舟に自信はあったが、刻々と迫る時間に追いつめられる思いだった。

 

「特に何もなかったと思う」

 

「そんな事はないわ。よく思い出してみて。針を入れる時に手元が狂ったとか、何かあったはずよ」

 

「……あ、そういえば、一度だけ針を落としたかも」

 

「それは、貴女の顔ね」

 

「柊を刻んでいる時だったけど、意識がはっきりしていなくてよく覚えてないよ」

 

 楓の一言で揺るぎない確証へと変わった。問題はどちらなのか、である。だが、これでいよいよもって決別の時が来てしまった。せめて戒の儀までは楓の親友でありたかったが、もはやそれも叶わない。夜舟はこれから行う自分の所業に身震いし、たまらず楓に話を切り出した。

 

「……ねえ、楓。私達は本当に仲が良くて、大切な友達だった」

 

 突然語る夜舟に、楓は不思議そうな顔を浮かべた。

 

「このままの関係が永遠に続くと思ってた。貴女が巫女になったとしても、貴女の儀式を取り仕切るのは母様の役目だったから」

 

 何かを感じ取ったのか楓は口を挟むことはせず、黙ったまま聞いていた。

 

「でも母様は亡くなってしまった。……そして私は当主になり、貴女は私が掛け持つ巫女になった」

 

 再確認するようにお互いの立場を告げ、夜舟は片目を細めた。

 

「だから許してくれとは言わない。恨んでくれて構わないわ」

 

「どんなことがあっても、私は夜舟ちゃんを恨んだりしないよ」

 

 そこで楓はおもむろに否定した。しかしこの後のそれを無くした楓が同じ事を言えるとは思えず、夜舟は頭を振った。

 

「貴女の親友である夜舟は、今日ここで死ぬ。いつか貴女が戒の儀を迎える時、今ここに置いてゆく貴女の親友だった私の心を、一緒に連れて行って」

 

「……夜舟ちゃん」

 

 楓はただ、ぽつりと名前を呟いた。

 

「夜舟、持ってきたぞ」

 

 天涯が呼吸を酷く乱しながら駆けつけ、急かすように夜舟の手をとり鑿を持たせた。慌ただしい天涯の様子に、夜舟はそれを確認せずとも状況が理解できた。

 

「あれは、何なの。もしかして、夜舟ちゃんのお母様とお婆様を襲ったっていう……」

 

 天涯と共に現れた異形の主に、楓は驚愕した。が、何か思う所があったのか楓は鉄格子から首を伸ばし、祟りを凝視する。

 

「あっ、でも、……あの人多分知ってる」

 

 化物風情の素性など考えもしなかったが、そう言われて夜舟はその正体に勘付いた。自分が知らず楓が知っているということはおそらく、巫女が見る寝目、あるいは忌目の中の人物であろう。どちらの意思が具現化したのかは分からないが、十中八九参拝者の想い人である女性と見て間違いはなさそうだ。

 

 やはり読みは完全に正しかった。あとは決意だけだ。

 

「いつまでも持ちこたえられると思わないでくれ。何か策があるなら、今すぐにでもしてほしい」

 

 ここに来るまでに天涯の体力は限界を迎えたのであろう。息と発声の順序が狂った言葉で夜舟の行動を促しながら、天涯は二人から遠ざける為、追ってきた祟りを引きつけた。夜舟は天涯の身を案じたが、振り返ることなく鑿を強く握りしめる。

 

「……楓、大好きだったわ」

 

 自らの想いを断ち切る様に、右手を天に振りかざす。そして柊が近く刻まれた方の、楓の左目に目がけて勢いよく下ろした。鑿の先端が楓の眼球に食い込み、真っ二つに引き裂いてゆく。

 

「あ゙あ゙っ」

 

 絶叫を上げる楓から鑿を引き抜き、夜舟は祟りを見た。祟りは未だ顕在で、天涯を部屋の隅へと追いやっている。

 

 蛇目(じゃのめ)。禁忌事項として、刻女は決して巫女の目にだけは柊を刻んではならなかった。現世を映しだすその瞳を通じて、柊が還ってしまうという言い伝えがあったからだ。……あれは刻女が針を落とし、楓のどちらかの目を掠めてしまった故の産物なのである。

 

「なんてことをするんだ。正気か、夜舟」

 

 人の事を気にかけていられない状況にも関わらず、天涯は夜舟を怒鳴った。

 

「……ごめんね、貴女の右目も潰すわ。結局貴女から光を奪う事になってしまった。けど、私もいつか報いを受けるから」

 

 夜舟は無心を築き、悶え苦しむ楓に向き直った。楓を傷つけた感触は手に残ったままだ。その気持ちが追い付いてしまう前に、終わらせなければならなかった。

 

「……そっか。これは、必要な事」

 

 楓はしばらく震えながら顔を覆っていたが、ゆっくりと顔から両手を離し、理解を示したように夜舟を見据えた。

 

「うん、いいよ。何も見えなくなるのは怖いけど、ずっと夜舟ちゃんと一緒だから。私の両目を、夜舟ちゃんにあげる」

 

 楓の左目から顎の先端へ流れる血筋を追うように、右目からも涙が零れ落ちる。楓は両手を目いっぱい広げ、夜舟を受け入れた。

 

「楓っ」

 

 周囲の空気ががらりと変わり、夜舟は再び柊の見せる幻覚に陥った。しかし、夜舟にもうあの時のような迷いはなかった。桜花ですら克服には至らなかったのだ。当主として、この後が正念場である。迫りくる大蛇に夜舟はもう一度右手を上げ、真っ向から勝負を挑んだ。

 

 大蛇が夜舟の喉に食いつくのと、鑿が楓の右目を潰すのはほぼ同時であった。不思議と楓への情緒が消え去ってゆき、元の世界へと帰還する。楓から完全に光を奪ったことで、真の意味で踏ん切りが付いたのだろう。

 

 今度こそと、夜舟は振り返った。天涯の目前に迫っていた祟りが、溶けるように消失してゆく。壁まで追い込まれていた天涯は力なくその背中を預け、ずるずるとへたり込んでいった。

 

「……儀式について詳しくはないが、なんとなく理屈は分かった。けれど、それをするのは僕でも構わなかったはずだ」

 

 顔を下げたまま、天涯は夜舟に目だけをくれた。

 

「当主である私の責務よ」

 

 両目の痛みに耐えかねたのか、楓は気を失った。ふらりと前に倒れ込む楓を夜舟は格子越しに受け止め、手から鑿がからんと音を立てて落ちる。もう元の関係には戻れない。互いが当主と巫女である以上、これは避けられない運命だったのだ。

 

 楓の朱に染まる涙が夜舟の腕に斑点を作っていく。楓の血が己の皮膚に染み込んでゆくかのような錯覚。その決して拭えぬ咎となる有様を、夜舟はただじっと見つめていた。

 

 初めて背負う罪。この楓の痛みを、生涯胸に刻みつけて己の役目を全うすること。これが未来永劫の盟約となる、夜舟の柊であった。

 



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   -久世家当主(クゼケトウシュ)- 六ノ刻

 

 祟りの件からおおよそ一年程の月日が経った頃。その日、朝早くに夜舟は天涯を社へと招いていた。客間の一室に招待された天涯に畏まった様子はなく、気兼ねない態度で夜舟の前に腰を下ろしている。

 

「君から僕に声をかけるなんて、珍しい事もあるものだ」

 

 どこを見ているのかも分からぬ薄目で、天涯が言った。

 

「どうしても話したいことがあったの」

 

 あれから多忙の日々が続き、天涯と会ったのは指で数えられる程度だ。当主としてやる事が沢山あったのだ。儀式の遂行など一部に過ぎず、特に大きな仕事として当主は久世家および宮下の村の祭政を取り仕切らなければならなかった。そうした過密な予定をこなすのが精いっぱいで前のように境内の裏手で休む暇などなく、天涯とは公の場でしか顔を合わせていない。だから、こうして一個人として対面するのは本当に久しぶりである。

 

「それは今でなくては駄目なのか。棟梁様に無理矢理叩き起こされて、まだ上手く頭が回っていないんだ」

 

 久世の使いの早朝の訪問がよほど気に食わなかったのか、天涯は不満げに愚痴を零す。

 

「今日が何の日なのか、知らないとは言わせないわ」

 

「……楓の戒の儀が行われる日だろう。しかし、棟梁でもない僕には関係のない事だ」

 

 万が一の破戒を恐れて村がざわつく中で、天涯は呑気なものだった。確かに天涯に出来ることなど一つもない。他の皆のようにただ儀式が無事に終わる事を祈るくらいなものだろう。しかし、巫女は天涯も馴染の深い楓だ。何かしらの感慨を見せるべき場面であるが、天涯に語る素振りはない。楓についてはこのまま内に秘めたままである事を悟り、夜舟は本題に入るべく天涯に語り出した。

 

「楓から光を奪ったあの日、私は私を捨て当主の道へと一歩踏み出した。けれど今日、己の半身とも言えるその魂を鎮めなければならない」

 

「今更迷いでも生じたのか」

 

「いいえ。その覚悟が私にはある。だから、貴方の覚悟も聞きたいの」

 

 夜舟の言葉の意味を汲み取ったのか、天涯は僅かに目をしかめた。

 

「私は貴方の腕を認めている。すぐ怠けて手を抜く癖があるけれど、本気になれば他を寄せ付けない才能の持ち主だという事を知っているわ」

 

 世辞ではなく、事実天涯の腕は現棟梁のお墨付きであった。幼少の時から目まぐるしい成長を見せ、すぐに宮大工の中で誰も追い付けぬ程の技術を物にしていた。過去に桜花と宮大工の宿舎を訪問した際、大工のいろはも知らぬ夜舟ですらその天涯の腕前に見惚れてしまったくらいだ。しかし天涯は目立つ事を嫌ってか、いつからか周りに合わせてその非凡さを隠すようになっていったようだった。が、一度見せてしまった才を棟梁が放っておくわけがない。皆と同じ技量にも関わらず天涯がよく叱咤を受けるのは、棟梁に本当の実力を見透かされているからなのだ。

 

「僕に棟梁になれと」

 

「私の代の棟梁は、貴方以外に考えられない」

 

「何故そう思う」

 

「答えは貴方自身がよく分かっているでしょう。どうして、いつも私を気にかけてくれていたの」

 

 当主の座に就いてから、当然ながら夜舟は前以上に儀式関係者と接する機会が増えた。現棟梁とも直接何度か会話を交えていたが、いつのことだったか天涯の素行について話したことがある。棟梁の口から語られた天涯は夜舟の知る彼とは随分と印象が違っていて、取り分け寡黙で大人しい性格だということに面を食らった覚えがあった。生真面目という言葉が相応しい天涯は本来、大工の修業を投げ打って宿舎を抜け出すような人間ではなかったという。長年見てきた自由奔放で口達者な天涯は、彼自身が無理矢理演じてきた偽りの姿であったことに、その時初めて夜舟は気づかされたのだ。

 

 一体何の為に。意識して振り返ればすぐ答えがあった。幾度天涯の軽妙な態度に救われてきたことだろう。楓がそうであったように天涯もまた夜舟を気遣い、心の安らぎを与えてくれていたのだ。

 

「それは僕が君の事を……」

 

 天涯は躊躇っていた。夜舟は当主としてではなく親友としての最後の問いかけをしている。言える機会はもう二度と訪れない事を察知したのだろう。いや、それを告げた所で結果は変わらない。ここで打ち明けることになんら意味はなかった。だから、これは天涯の気持ちの問題である。

 

「君の事を、この久世を支える当主として相応しいと思っているからさ」

 

 天涯らしい返答だと、夜舟は思った。もはや初めから決定づけられていた関係であり、それに抗う事など出来ない。もしかしたら天涯の掟に対する蟠りは、これに起因するものだったのかもしれない。理解していても、天涯は夜舟に近づく事を止められなかった。ずっと苦しんできた末の、答えなのだ。

 

「なら、私に付いてきて。力を貸して頂戴」

 

 夜舟は別の形で天涯の手を取る事を選んだ。それが唯一の誠意で、無二の信頼の証。同じ罪の渦中に身を寄せ合うということ。ある種それは恋人や夫婦よりも深い絆で結ばれた関係であった。

 

「……分かった。僕は本気で棟梁を目指そう」

 

 それを受ける事が、夜舟に対する至極の敬意なのだ。忠誠こそが、天涯が夜舟に与えられる唯一の好意の形だった。 

 

「これで馴れ合いも終わりね」

 

 夜舟は人生の一区切りを感じ、深く息を吐いた。

 

「……なれば、私は久世の歴史に恥じない当主に成ることをお主に誓おう。天涯よ、必ず棟梁になるのだ。他の者に後れを取ることは許さぬ。日々、精進せよ」

 

 夜舟は当主になって早々に口調を改めていた。当主がいつまでもなよなよしていては久世の者達に不安を与えてしまう。未熟な夜舟は、その手腕で皆を納得させることは出来なかった。だからせめてその心持ちだけは伝わるよう、まず態度で表したのだ。それを天涯に使うというのは、今までの関係への決別の現れであった。

 

「仰せのままに」

 

 儀礼じみたやり取りに、互いに小さく笑う。この先天涯とは儀式を通じて様々な苦難を共にすることになるだろう。これが本当に親友としての最後のよしみであった。

 

 

 

 

 

 

 日の光の決して届かぬ深い闇の底に、刺青木を打ち付ける音だけが響き渡っていた。痛みを伴うはずの巫女は、かつて久世の少女であった周囲のそれらのように反応を示していない。

 

 夜舟は端の暗がりに潜む過去の巫女を照らす為、手に持つ松明をゆっくりと水平に動かした。その殆どが肉を纏わず白骨化している。……実に無残な姿である。戒の儀の周期は肉体を朽ちらすには十分な時間を与え、どれ一つ生前の面影を残してはいなかった。

 

 もはや生気など微塵も残してはいない躯であるというのに、数多の強い思念が発せられているかのように感じられる。魂魄すら浮かび上がって見えるのは、ここが柊の掃き溜めである所為なのか。

 

 常世海へと繋がる棘獄は死者の門に近く、地上とは比べものにならないくらい強く濃い瘴気に包まれている。だからごつごつとした岩壁に、無数の人の顔を彷彿させるのだ。目を泳がせている鎮女達を見れば、それが夜舟だけの幻ではない事は明白だった。

 

 夜舟は鎮女の最後の役目を見守った後楓に近寄り、その顔を見た。まだ死んでいるわけではないが、呼吸は浅く生命の維持すら覚束無い。少し前からこちらの呼びかけに答えられない程に深い寝目に落ちている。もはや楓の意識が現世に還ることはないだろう。

 

 幼気な少女を犠牲にし、言い伝えを守り続ける一族。それが、久世なのである。

 

 しかし、夜舟は正直もはや久世の事などどうでも良いとさえ思っていた。儀式の犠牲となり、礎となった者達の為に人としての禁を犯すだけで、因習の傀儡になるわけではない。ここで儀式を途絶えさせてしまったら、今まで身を捧げてきた巫女達の死や、楓の苦しみが全て無駄になってしまう。犠牲となった桜花や蒼蓮の志を途絶えさせてはならない。

 

 夜舟はこの場に集う無念の情全てを心に深く刻み、歴代の当主達の意思を継ぐ者として親友に別れを告げる。

 

「さようなら、楓」

 

 最後に横たわる盲目の巫女の姿を拝み、夜舟は己の記憶を塞ぐように棘獄の扉を閉じた。

 




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【陸】-(ミギリ)(カガミ)-

 祭壇に飾られた鏡の前で、零華は膝の上に両手を交差させ、正座していた。

 丸形の鏡面に映し出されたのは方々に走る蒼蛇に埋め尽くされた不気味な肌と、現実と寝目を彷徨う虚ろな瞳。その酷くやつれた女の顔は、もはや零華の知るものではなかった。

 

 故郷が雪に飲まれてから四季を一巡し、再び訪れた冬の最中であった。ついにこの時が来てしまった。何もせずほとんど吊牢の中で眠っていただけだというのに、あっという間に歳月は過ぎる。……人の一生など短いものだ。例え一代の命を全う出来たとしても、巫女であった期間の瞬きを思えば、満足のいく生涯など歩めてはいなかっただろう。

 

 隙間風に揺れ、消えかかった蝋燭の灯に零華は自らを重ねた。今や柊に意識を根こそぎ奪われ、自我を保つことが困難だ。こうしてつかの間の知覚を得て想うのは、幼馴染の後ろ姿という我意。こんないまわの際になってまで、まだ要を求めてしまうのか。いや、死期が近いからこそより焦がれてしまうのだ。

 

 零華は遠い記憶に触れるように、耳飾りに手を伸ばす。最後にこの手を包んだ要の手の温もりが忘れられなかった。あの時の別れが、未だにこの胸を苦しめている。ずっと、ずっと、おかしくなる位考えていた。生い立ちを知る事がそんなに大切だったのだろうか。もし真相を得たとして、目的を果たした要がちゃんと村に戻るつもりはあったのだろうか。故郷を旅立つ強い意思の裏には、何か他の特別な理由があったはずだ。それが過去の一切と袂を分かつ決め手となってもおかしくはない。けれどもし知れていたなら、もう一度要の目をこちらへ向けることが出来ていた気がした。だからその理由を最後を迎える今、どうしても知りたかった。

 

 ……要は一体どこから来たのだろう。ふと零華は要との出会いを思い返した。要が今の親の養子になったのは正確には四歳の頃で、その時の事は良く覚えていない。それから長い付き合いで元々村の子供であったかのように感じられていたが、それを考えれば要との出会いは偶然だ。もしも要の本当の親に要を手放さなければならない状況が訪れなかったら、要に会うことはなく、その存在すら知ることはなかっただろう。けれど、人の縁というのは確かにあるのだという実感はあった。いつの日も視線は絡み、互いに向けるのは運命を見る瞳。年齢の近い村の子供は他にもいたのに、引き合うようにいつも近くにいた。心と心を結ぶ何かを、要も感じ取っていたように思う。……それでも、気持ちは同じではなかったということなのだろう。ただ一緒に居ることを望んでいただけなのに、要には伝わらなかった。結局、人間というのは孤独だ。誰しもがすれ違い、本当に一つにはなれない。都合のいい時に足りないものを埋め合うだけなのだ。その心の隙間が大きい方が、相手に依存し離れられなくなる。

 

 過去を振り返った零華の頭に浮かぶのは、要の顔ばかりだった。暖かな思い出の中にも、悲しい情景の中にもその傍らには常に要の姿がある。それほどまでに同じ時間を過ごしたはずなのに、要を引き留める存在にはなれなかった。やはり、躊躇うことなく故郷を去れた要とは想いの強さが違っていたのだ。その気持ちの差が、要に別れを選ばせたのかもしれない。

 

 胸にぽっかりと空いた穴。辛うじて残された外縁も、あの雪崩で跡形もなく消え去ってしまった。だから、全てを無くしてしまった己の存在理由を求めて、夜舟が差し出した久世の大義に身を委ねた。

 

 本当は巫女になんてなりたくなかった。自分の前から誰もいなくなってしまって自暴自棄になっていただけなのだ。ただ流れに身を任せ、考える事を放棄したかった。そうしなければ、心が壊れてしまっていたから。

 

 零華はつくづく自分勝手な人間だと思った。皆の死を良い様に利用しただけだ。運命に追いつめられ、己で追いつめた果てに思うのは。

 

 

ずっと一緒に居たかった。……ただ、それだけだった。

 

 

 ……私は巫女の役目を終え、時間と共に貴方に忘れ去られてゆくのだろう。そして貴方はまた良い女性に巡り合い、平穏な暮らしの中で幸せな家庭を築くのだ。闇の底で孤独に朽ちて、私は本当にこのまま消えてしまう。こんなに寂しい終わりは辛すぎる……。

 

 しかし、その嘆きを全身のくちなわが絞め潰し、引き返す道などないのだと告げる柊達の聲が響く。ああ、もう全てが遅すぎたのだと、零華は悟った。

 

 砌の鏡が心なしか淡く輝いて見える。これは現世の未練を絶つ為の清めの儀式。覚悟を決め、零華は自身の想いを宿した砌の鏡を手に取った。

 

 そうしておもむろに両手を振り上げた瞬間、零華は動きを止めた。人は死の直前、走馬灯を見るという。なぜかこの時の零華の頭の中にも同様に、先ほどの反芻に比べものにならない程の膨大な、今までの人生の記憶が駆け巡っていた。まだ死はもう少しだけ後であるというのに、だ。

 

 そう、砌の鏡は巫女の心そのものなのだ。これを砕くということは、心の死を迎えると言う事。それに気づいた零華に迷いが一瞬生まれた。

 

 要との完全なる決別の時だった。乾ききった両目が一気に湿り、零華は唇を噛み締める。小さな嗚咽を漏らしながら、砌の鏡を思い切り床へ叩きつけた。

 

 ばりんと大きな音を立てて鏡面が勢いよく割れ飛び散った。その途端に、様々なしがらみから心が解放されていく様を感じ、零華は静かに目を瞑る。

 

 確かに未練は軽くなった。が、胸中には未だ熱を帯びた情緒がある。躊躇したのがいけなかったのだろうか、要への想いを完全に断ち切ることは出来なかった。

 

 零華は近くの部屋で待機している夜舟に儀式の失敗を伝えようと立ち上がったが、すぐに考え直した。なぜならば、突如ささやかな願望が湧き上がってしまったからだ。

 

 ……忘れながらではなく、要を想いながら死を迎えたい。

 

 ある意味、一番いい形で儀式は作用してくれた。後を引く感情だけが薄れ、ただ要を大切に感じる心だけが残されていた。このまま戒の儀へ赴いても特に問題はないはずだと、零華は思ったのだ。

 

 沈んでいた気分が晴れ、零華の表情は穏やかさを取り戻す。

 

 要の気持ちがどうであれ、あの時の二人の想いは決して偽りではなかった。その真実だけは永遠に消えることはないのだ。

 

 この先の要の幸せと息災を願いながら、零華は最後の儀式へと気持ちを向けた。もう要との過去に捉われる事はないだろう。後は皆の悲しみを、この身と共に忘却の地へと鎮めるだけだった。

 

 



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【終】-刺青(シセイ)(コエ)- ~逢瀬ノ寝目(ユメ)

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 零華を乗せた吊牢を丸ごと飲み込んでしまいそうな、底の見えぬ暗闇が足元に広がっていた。地表に空いた巨大な空洞は奇妙な静けさを纏い、巫女を出迎えている。まるで漆黒の咢が獲物の到来を待ち構えているかのようだった。

 

 淵に立ち覗き込む静女達は様々な表情を見せている。雨音は普段通り落ち着いた面持ちで最深部を探る様に目を細め、時雨や氷雨は不安定な吊橋を目にし引き腰で怖気づいている様子が伺えた。一番の問題児である水面は相変わらずで、伸ばした手の平を額に当てながら目を真ん丸として、大の大人でさえ萎縮してしまうようなその景観を楽しんですらいるようだ。

 

 この奈落と呼ばれる大穴には螺旋状に設置された吊橋状の足場が奥深くまで続いている。その頼りない足場を渡るのは夜舟や鎮女で、まず巫女が先に縄伝いに下へ向かう。今まさに零華を乗せた吊牢が中央から垂らされ、夜舟の合図で最下層まで下ろされる手筈になっていた。

 

「会話を交えるのはここが最後じゃ。何か言い残すことはあるか」

 

「……いえ」

 

 辛うじて聞き取れる夜舟の言葉に、零華は愛想なく短く答えた。気になることはあった。早くに会えなくなった露葉の事と、何かと手を焼いてくれた鏡華の事だ。繋がりを絶つ痛みは先の儀式で洗い流されたが、ただ純粋にその後の二人の様子が知りたかった。しかし、狂ったように押し寄せる絶え間ない聲が心身に酷く障り、こうして捨て鉢にならざるを得ないのだ。まだ社を離れて間もないと言うのに、今までの比ではない激しい柊の呻きが現実から五感を途切らせてゆく。もはや気力ではどうにもならない程、零華は意識と身体の乖離に襲われていた。

 

「そうか。……お主の名は久世で永遠に語り継がれるであろう。誰が忘れても、久世は巫女達の犠牲を忘れることはあらぬ」

 

 冷淡な形相とは裏腹に、夜舟から温情が感じられた。零華にとって夜舟は最後まで掴めない人間だったが、今になって少しだけその心内の機微を読み取れるようになっていた。なぜならば、夜舟の言葉は全て嘘偽りのない本心だったからだ。柊の聲に苦しむ巫女の意識を引き戻す力が、常に夜舟にはあった。生半可な想いでは忌目に堕ちた巫女には届かない。それは巫女を深く理解してようやく成せるものなのだ。表向きは厳しいが、当主というものはきっと誰よりも巫女の存在を尊んでいるのだろう。いつからか、夜舟は零華にとって幾ばくか心を許せる存在になっていた。

 

「零華よ、お主の鎮めの夢が安らぎに満ちていることを祈っておるぞ」

 

 最後に夜舟はそう述べると、縄を固定していた者達に向かって手を掲げた。夜舟と鎮女が見守る中、零華を乗せた吊牢は終焉の地へと下ろされていった。

 

 

 

 

 ……かん、かん、かん、と聲に紛れて微かに響く固い音色が、零華の意識を呼び戻す。

 

 暗闇に溶け込んだ零華の視界が次に現実を映し出したのは、鎮女達が四肢を打ち付けている時だった。度々意識を妨げる寝目のせいで、こうして場面が飛び飛びになってしまう。既に殆どの刺青木は手足の骨を砕き貫通しているようだったが、零華は痛みを全く感じてはいなかった。

 

 一方で、他とは違う違和感が右手にあった。零華は仰向けの体勢のまま顔を放るように横に倒し、辺りに目をくれた。そこには雨音の姿があり、奥には足の踏み場がない程に過去の巫女達が地に敷き詰められている。わざわざ顔の向きを変えたのは右手を請け負った鎮女の様子を確認する為であったが、先に目に飛び込んできたのはその凄惨な躯の数々だった。実際には骨ばかりのがらんどうであったが、なぜか零華には崩れ去った肉体の形をなぞるような、巫女達の横たわった具像が同時に見えていた。

 

 これだけの亡骸の数だ。嗅覚が麻痺していて匂いこそ感じないが、本来ならとてつもない腐臭が鼻をついていることだろう。柊をその身に刻んだ巫女達が行き着く先。棘獄とは、まさに巫女の墓場であった。

 

「気にしないで」

 

 発声が困難ではあったが、零華はなんとか声に出して戸惑う雨音に言った。

 

「……痛くは、ないですか」

 

 刺青木の先端が零華の皮膚に触れた状態で固まっている雨音の手が、ふるふると小さく震えていた。雨音の言葉は上手く聞き取れなかったが、零華はなんとなく察し、首を小さく振った。気づけば他の木槌の叩く音は鳴り止んでいる。零華は反対の方へ顔をやると、打ち付け終わった鎮女達が揃いも揃って木槌を投げ出し、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。あの雨音でさえ頭を垂れ、暗く沈んだ顔つきを見せている。いくら思慮の浅い子供と言えども、他者を傷つける心の痛みは感じるのだ。一番利口に思える雨音が躊躇ってしまうのも無理もないことだった。

 

 零華が近くに立つ夜舟に視線を注ぐと案の定、険しい面持ちを雨音に向けていた。零華は助け舟を出そうと雨音にゆっくりと向き直り、大きく頷いて見せる。それで決心がついたのか雨音は木槌を振り上げ、ついに刺青木を叩きつけ始めた。そのまま勢いを殺すことなく、雨音は自身の役目を全うしたのだった。

 

 そうして無事戒の儀の全てを終えた後、夜舟が鎮女を棘獄の外へ導き、無言で扉を閉め始める。零華の生涯に本当の意味で終止符が打たれる瞬間だった。

 

(要さん、どうか幸せに……)

 

 棘獄の扉から漏れる光が夜舟の手によって完全に遮断された後、零華は静かに目を閉じ、深い眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜舟達が棘獄を去ってから、既に数日が経過していた。体内の水分不足による飢餓と、四肢に刺青木を打ち付けられたことでの出血や化膿、さらに柊の重度の精神干渉で零華の命はもはや限界にあった。

 

 そんな中、意識の戻った零華は確かめる様に自身の目の辺りに意識を向ける。すると眼球を覆う被膜がぴくりと僅かな反応を示した感覚が脳裏に伝わった。もう身体は動かせないが、閉じられた瞼を開く事くらいは出来そうだった。

 

 零華は残された力と意識を集中させ、ゆっくりと瞼を押し開けていく。まるで他のものに働きかけるような、とても繊細な作業だった。死に際とはいえ、人間にとって当たり前の動作がこうも上手く行かないのは、柊による精神の侵食が大半の原因だ。目覚めた時から頭の指示と身体の反応の連結がほぼ途切れてしまっている。それでも半分程度ではあるが、儀式の終わりに重く閉じた零華の瞳は再び棘獄の淀む外気に触れることに成功した。

 

 ……同じだ。目を閉じていても開けていても、世界は変わらない。

 

 地上では例え夜であろうと慣れてくれば朧げな景色の輪郭が見えてくる。月明かりであれ、それは何かしらの微弱な光が注がれているからだ。しかし、この棘獄にはそんな僅少な光明さえも届くことはない。光の反射がなければそこに色彩はなく、瞳に映るものは何もなかった。

 

 零華はしばらくの間、ただ無感情にそんな虚無を見つめていた。

 

 すると突然、真っ暗闇の視界に一つの小さな明かりが灯った。柊の見せる幻のように何かを訴えかけてくるような思念はそこには無い。死後の世界があるなどという都合のいい考えは持ち合わせていなかったが、零華はいよいよ迎えが来たのだと思った。戒の儀は巫女と現世を別つ儀式だ。だから余程の事態でない限り、打ち付けられた巫女がまだ生きている内に棘獄の扉が再び開かれる事はありえなかった。零華があの世の使者であると勘違いする程に、それは非現実的な光景であったのだ。

 

 そんな零華の認識に反してゆらゆらと宙を浮遊する灯は、己の光を内だけに留めず一定範囲に広がり、周囲の濃厚な闇を薄めていく。かつ、段々と膨張するように輝きを増していった。

 

 そこまで眺めてようやく零華は気が付いた。良く見ればその光球の中には棘獄の岩壁と薄らとした人影が描かれている。零華は止まりかけの心臓が激しく脈打つのを感じ、大きな胸の高鳴りを覚えた。

 

 ……零華。 

 

 今も柊の聲が荒々しく耳打ち、幻覚を見せられている。けれど見間違うはずがない、その懐かしい姿を。忘れるはずがない……、その心地よい響きを。

 

 目先にまで迫った光に照らされ、やがてその人影が明らかになる。要だった。ずっと望んでいた、待ち焦がれていた人が、そこに立っていた。

 

「零華……、なのか」

 

 柊の聲をいとも容易く打ち消す暖かな声が、零華の耳に届いた。零華の顔に松明を近づけた要は初め驚いた表情を浮かべたが、すぐに親しみのある笑みを向けた。

 

「やっと会えた」

 

 零華の状態に思う所があるはずであろう要は、それを微塵にも出さずにただ零華との再開を心から喜んでいるようだった。

 

「ごめん、僕が間違っていた。こんなことになるなら、君の元を離れるべきではなかった」

 

 要はそう言い、顔に後悔を滲ませた。

 

「全ては君の為だった。零華……、君の事を思うが故に、僕は村を出なければならなかったんだ」

 

 要から初めて語られる真実が、零華の心を包み込んでいく。要と別れてからずっと知りたかった答え。やはり要に見捨てられてはいなかった。もはや詳しく聞くだけの猶予もないが、零華にはその事実だけで十分だった。

 

「とりあえず話は後にしよう。安心してほしい。僕はもう何処へも行ったりはしないから」

 

 今まで耐えていたのだろうか、そこで要の瞳から大粒の涙が零れた。要は零華が危篤であることを悟ったのだろう。しかし、要の目はまだ諦めてはいなかった。

 

(ごめんなさい……)

 

 それは零華の口から発せられることはなく、要には伝わらなかった。残念ながら、自分はもう助からない。死は目前に迫っている。

 

(……せっかく貴方とまた心が通じ合えたのに、もう一緒にいられない。私がいなくなってしまったら、この先ずっと貴方を悲しませてしまう。でももう無理なの。ごめんなさい……)

 

 そう零華は心の中で謝り続けることしか出来なかった。

 

「零華」

 

 身動き一つしない零華を見て、要は酷く唇を震わせ心配そうに呼びかけた。何も答えられない零華は居た堪れなくなり、酷く遠のいた感覚を手繰り寄せる。零華は目一杯の気力を振り絞り、口元を緩ませるだけの小さな笑顔を要に向けた。

 

 (貴方に会えて、本当に幸せだった……)

 

 要と離れ離れになったから、今まで散々だった。ずっと独りで寂しかった。けれどこうして想い人に看取られて逝けるなら、この人生もそんなに悪いものではなかったと、最後に零華は思ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし。

 

 

 

 

 運命は決して穏やかな幕引きを許さず、零華にさらなる悲劇を突きつけた。そんな儚い幸せを打ち砕く光景が、死にゆく零華の眼前に広がった。

 

 要の後ろの暗がりで、何らかの太刀筋が光ったのだ。瞬間、それは要の肩から背中を大きく引き裂き、真紅の雨を降らせていた。凶器と思われる物が要から引き抜き抜かれると、要は勢いのままに前へ倒れ込んだ。すると後方から手に持った斧から血を滴らせ、鬼の形相を浮かべた夜舟の顔が露わになった。

 

 零華の命が消える間際、零華の瞳が捉えたのは、零華に向かって伸ばされた要の手と、苦痛に歪んだ要の顔だった。要の背後にはさらに斧を打ち下ろし続ける夜舟の姿がある。

 

 要の手が地に落ち完全に動かなくなった所で、ようやく夜舟は手を止めた。そうなってなお要は零華から視線を外す事はなかったが、確実にその眼は零華を映してはいなかった。

 

 ……瞼を下ろす力もなく、拒絶することも叶わない。ただ、無情に涙が流れ出ていくだけだ。きっとこの涙には、血が滲んでいるに違いない。なぜならば、想い人が惨殺される様を見せつけられたこの目が、針で刺されたように痛いからだ。

 

 それは、刺青のような……。

 

 最後の柊が零華の眼球を這い回り、現実を喰らい潰してゆく。同時に空間がねじ曲がるように大きく揺らぎ、全ての巫女の骸から柊が亡者の形を成して解き放たれていった。

 

 (モウ…… ミタク…… ナイ……)      

 

 まるでこの世の全てに轟くような、重く悲痛な少女の慟哭が久世一帯を震撼させたのだった。

 

 



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   -刺青(シセイ)(コエ)- ~破戒ノ忌目(ユメ)

原作有りの登場人物の表現についての参考にさせてもらう為、下部のアンケートに出来れば協力をお願いします。


 戒の儀という節目を迎え、騒ついていた宮内は落ち着きを取り戻しつつあった。丁度四季の移り変わりで冷え込んできたせいか、宮下の村にも活気はなく、久世全体にどこか物寂しい風景が広がっている。

 

 巫女の体調や参拝者の数に左右されるこの区切りの時期は決まった周期ではない為、その都度季節は様々である。この寒候期に休眠する動物達程ではないが、人間の活動も閑散として大きな動きを見せなくなってゆく。生き物全てが不活発になり始める初冬の幕開けだった。

 

 そんな中、零華の最後の儀式を事無く終えたというのに、夜舟は多忙な日々を送っている。本来ならばゆっくりと暖を取りたい所だったが、夜舟には悠長に構えられない理由があった。見通しがつかない次の巫女の選定。その準備に追われていた為、夜舟はむしろ戒の儀以上に身体を酷使していたのだ。

 

 現在ここ久世内にて、刺青の儀式における適齢の少女は枯渇していた。今回選ばれる範囲の世代と言えば丁度秋人が久世に滞在した辺りの年の生まれだが、その時分中々客人に恵まれず久世に子を授からない期間があった。こういった場合、埋め合わせに零華のように外部から養子を迎え入れることが通例であったが、歳を限定した身寄りない子供や訳有りの子供がそう都合良く見つかるものでもなく、十数年の間良い巡り合わせは訪れず、上手く事が運ばずに今に至っていた。

 

 追いつめられた夜舟は苦肉の策として、近隣の村の子供や山での遭難者を誘引しようと試みたこともあった。しかし年々人足が途絶え続けるこの地域では中々そういった機会が訪れず、神隠しの噂が浸透し始めた周囲の村々の久世への警戒は強く近づく事さえままならなかった。

 

 その為、夜舟はしきりに久世を離れ、巫女候補探しに明け暮れていた。一方、忙しない夜舟とは打って変わって久世で暮らす者達にはどこかだらけた様子が見られている。普段は決して逆らえぬ権力を持つ当主の不在で、誰しもがその緊張から解かれ、おのずと開放感に浸ってしまっていたのだ。本来、こういう時こそより勤しむべきである重役でさえ各々の任務に対して気を緩めてしまう始末だった。だから、あってはならぬ部外者の侵入を許してしまったのだ。

 

 今日も収穫なくして久世に出戻った夜舟は早々、これ以上とない程に憤慨を露わにしていた。刺青の儀式の掩蔽において、その責務を怠った者への懲罰は重い。よって門を突破されてしまった見回りや門番は今後二度と同じ事が起こらぬ様、皆の前で見せしめにしなければならなかった。そして、共犯に手を染めた雨音である。雨音はあろうことかその侵入者を宮内へ導いてしまったのだ。いかに血の繋がった孫であり唯一の跡継ぎであろうと、こうなってしまっては流すことも止むを得ない状況だった。後継者が絶たれるなど久世の歴史上前代未聞のことである。しかし掟は絶対である為、次の当主にはもはや久世に深く従順し最も信頼の置ける別の人間を立てる他なかった。

 

 そんな久世の未来を憂いながら、夜舟は他の鎮女達を血眼で探していた。帰って間もなく手分けして従者に久世内を捜索させたが、目当ての雨音は見つからなかった。ただ、直近で目撃されたのが棘獄への隠し通路がある祭壇の部屋付近の廊下だという情報が入ったのだ。棟梁である天涯と鎮女であった雨音だけは、その秘密を知っている。だから夜舟は最悪の状況を想定し、最善の対処をする為にはやる気持ちを抑えて行動していた。雨音の所在が分からない今、まずすべきは他の鎮女達へ当主直々に命令を下すことだった。

 

「氷雨よ」

 

 夜舟が鎮女達の行方をしらみつぶしに探そうとしていた所、たまたま付近の廊下で遭遇した氷雨に呼びかけた。

 

「他の鎮女達を集め、雨音を見つけて咎打ちにせよ」

 

「そんな。当主様、一体何があったんですか」

 

 夜舟の思いもよらぬ言葉に、氷雨はその小さな身体に似つかぬ程に声を張り上げた。咎打ちとは本来巫女の代わり身である人形を打ち付けることで、人間にする儀式ではない。そしてそれの意味する所はつまり、罪人を流すということ。雨音が何らかの罪を犯したと言う事に、氷雨は信じられないという様子だった。

 

「つい先ほどではあるが、見知らぬ男を宮内へ案内したと耳にした。もう間に合わぬかもしれぬ」

 

「まさか、雨音ちゃんが……」

 

「出来ぬというなら、雨音と同罪とする。急ぎ他の鎮女達にも伝えよ」

 

 夜舟は一方的にそう告げ、立ちすくむ氷雨を置き去りにして祭壇の間へと急いだ。 

 

(……これで一先ず破戒に通じる根回しは全て終えた。今頃天涯に棘獄への招きの言伝も届いているであろう)

 

 夜舟が棘獄まで一度も足を運んだことのない天涯を呼んだのは、これが極めて緊急な事態であったからだ。もしもの時に備えて、棟梁である天涯は立ち会わなければならない。天涯は破戒を唯一鎮める術を持つ者としてすぐに行動に移せるよう、当主の近くで判断を待つ必要があった。

 

 いずれにしろ全ては場を見極めてからだ。部外者が棘獄へ向かっているとは限らないが、そうだとしてもまだそれ程時間は経ってはいない。それに下りた経験のない人間に奈落の足場は実に危険で骨の折れる道である。だから今からでも追い付けるはずだと夜舟は考えていた。

 

 そうして夜舟は途中物置部屋で手頃な凶器を見繕い、先に進む侵入者の背へと徐々に忍び寄っていった。

 

 

 

 

 結局夜舟が奈落を下り切った頃には一足遅く、棘獄の扉は開かれていた。もはや疑う余地はなかった。雨音が手引きしたのだ。そうなるとよほど零華に思い入れのある人間で、情に訴えかけられた雨音はその言葉に籠絡されてしまったのだろう。鏡華が立場を忘れて身を委ねてしまった秋人の時のように。いつの時代も久世を脅かすのは外界の男共だった。

 

 ……久世の悲劇の歴史を知らず、当主の大義を知らず、のうのうと俗情を弁じかどわかそうとする愚者達。如何なる理由があろうと、何人たりとも禁忌に触れることは許されぬ。

 

 錆びれた斧を手に力を込め、夜舟はそう殺意をむき出しにしていた。

 

 夜舟が棘獄の扉の陰に隠れながら中を覗きこむと、松明を持った若い男が零華の目の前に立っていた。懐かしげに何かを話しているようだったが、零華の反応はない。夜舟の聞いた限りでは零華に村の人間以外に親しい者はいなかった。だとすれば零華や露葉のように運良く生き残った者かもしれない。折角命を拾ったというのに、皮肉なものである。結局どう転んでも死の運命は変わらなかったのだ。

 

 夜舟は足音に注意しながら、ゆっくりと男の背後へ近づいていった。相も変わらず男は夜舟に気づく様子もなく、零華に語りかけている。そして刃先が十分に届く距離まで来た時、夜舟は渾身を込めて両手で斧を掲げ、男の無防備な背に振り下ろした。

 

 斧が深々とめり込み、男の肉が大きく裂けた。間入れず夜舟はニ撃三撃と続け、倒れた男の命を確実に奪ってゆく。まるで何かに憑りつかれた様に殺戮に興じる夜舟だったが、既に男が絶命していることに気づき、斧を地に落とす。そして荒々しい呼吸を整えながら、夜舟はただ茫然と零華を見つめた。

 

 ……。

 

 たった今殺した男と同様に、身体を硬直させ目を大きく見開いている。動きも感情も一切見て取れないが、夜舟はその姿に妙な不安感を抱いた。事切れている様にも見えるが、何か……、何か様子がおかしい。未だ慣れぬ殺人に震える手を押さえながら、夜舟は零華から視線を外さずゆっくりと後ずさった。確かに破戒の危機に瀕したせいで、少々冷静さを欠いてはいた。柊に対し、心の隙を与えていたかもしれない。しかし、この徐々に膨れ上がる得体の知れぬ圧力は柊の仕業とは言い難く、その比にならない程凶悪で異質の物だ。

 

 そう警戒心を強める夜舟の傍らで突如、零華から涙が溢れた。

 ……そして、その瞳に、蛇が宿ったのだ。

 

 刹那、膨張した圧力は爆発するように一気に押し広がった。夜舟はその不可視の衝撃に身体を射抜かれ、よろめきながら辺りを見回した。景色に変わった様子はない。だが明らかに空気が違う。柊の幻覚とは違った生々しい狂気がこの場を支配していた。恨みや悲しみの聲をのせて辺りを渦巻く邪念。気を抜けばたちまち生気を奪われてしまうような重圧。夜舟はその重苦しく奇怪な雰囲気に圧倒されていた。

 

 目には見えないが、常世海の先……、黄泉の国から何かがこちらへ殻を破り生まれ出ようとしているのが分かる。

 

 夜舟は直ぐにここを立ち去るべきかどうか戸惑っていた。判断を誤れば命取りになる。どこから発現し、何が起こるのか。夜舟は零華、周囲の巫女、常世海へとくまなく目を泳がせる。と、その視線は零華に強烈に引き付けられた。言い表せない禍々しい存在感が、そこにあったからだ。しかし夜舟が零華の異変に気付いた時には、既に手遅れだった。まるで蛇が脱皮するかのように、紛れもなく零華自身であるはずの何かが、磔にされた肉体を残してずるりと抜け出した。その瞬間、夜舟は棘極の門へと駆け出すが、すぐに足を止める羽目になった。

 

 背にしたはずの零華が、目の前にいたからだ。

 

 零華と視線を交えた夜舟の背筋が凍りつく。零華の異常な程見開き、悍ましく血走った四白眼が夜舟の恐怖を煽った。いや、それだけではない。刻まれた刺青が硬化した鱗を幾重にも巻き付けた肢体。その合間に覗く、滑りと光沢がある蒼白の肌。まるでその悲哀の心を焼くように、身体全体から冷たい激情の焔が迸っている。あの時の楓よりもより一層邪悪で、どこか美しい異形の姿であった。

 

 これは零華の怨念なのか、はたまた瘴気が見せる幻なのか。あるいはそのどちらでもないのかもしれない。

 

 零華に呼応し、周囲の巫女達の亡骸から無数の蒼き業火が立ち上り、陽炎のようにゆらゆらと空間を歪ませる。時折それはしゃれこうべを形作り、こちらを覗き見ては、断末魔を上げて宙に消えてゆく。

 

 ……破戒。それは地獄の入り口。ついに、久世は禁忌を犯してしまったのだ。

 

「全ては、泡沫の如くよ……」

 

 もはや繋いてきた久世の意思も歴史も、露と消える。成す術なく立ち尽くす夜舟を、鋭利に縦筋の通った蛇の眼で、零華はただじっと見据えていた。

 

「夜舟よ、何があった」

 

 緊迫の最中、棘獄の扉の方から駆け付けた天涯の声が響き渡った。

 

「こちらへ来るでないぞ」

 

「何事か」

 

 天涯は顔をちらりと覗かせ、再度問いただした。

 

「破戒じゃ。もう止められぬ」

 

「なんと……」

 

 それを聞くと、天涯は変わり果てた零華を見やり、夜舟に駆け寄ろうとした。

 

「ならぬ。この後に及んで私の生き方を愚弄する気か」

 

 夜舟の怒鳴り声に、天涯は思わず足を止める。

 

「しかし、このままでは……」

 

「あの日約束したはず。私が必要としたのは棟梁としてのお主の力であって、幼馴染としての助けではあらぬ」

 

 天涯が加勢すれば、もしかしたらいつかのように零華から二人で逃げ切れるかもしれない。しかし久世にとって今一番大事なのは当主の命ではなく、破戒を鎮める事なのだ。それを分かっていてなお夜舟を選ぼうとした天涯は苦虫を潰したような顔を浮かべていた。

 

「今よりお主が指揮を執り、早急に眠りの宮と狭間の宮を築け。本当に私を想うならば、己の役目を全うせよ。これを世に解き放ってはならぬ。絶対にじゃ」

 

 天涯に自分の立場を思い出させる為に、夜舟は強く言い放った。そして、不甲斐なさを詫びるように少し俯き声を落とす。

 

「辛い役目をお主に背負わせる……済まぬ」

 

「……そうか。承知した」

 

 天涯の目から迷いが消えた。夜舟が直接語らずとも天涯は悟ったのだ。柊を抑え込む回廊の建設には規模に応じた人柱が必要になる。最上の封印を用いなければ破戒の侵食を止めることは不可能だ。時に、人柱は弟子達だけに留まらず、棟梁自らの命をも捧げなければならない。この状況にはそれ程強力な結界が必要だったのだ。

 

「胸を張れ、夜舟。儂だけは知っておるぞ。お主が真の当主であったことを。また地獄で相見えようぞ」

 

 天涯はそう言うと、己の使命を果たす為夜舟を置いて棘獄を後にした。

 

(もしも互いに久世に生まれず、違った出会い方をしていれば、私は……)

 

 夜舟にとって天涯以上の男はいない。こうして最後まで自分の為に身体を張ってくれる人間の想いに、夜舟は答えられなかった。気持ちは同じだと言うのに、立場がそれを拒絶する。人とは本当にままならないものだと、夜舟は己の人生を憂いた。

 

 こうなってしまった以上、もう夜舟にできることは何もなかった。しかし、当主として久世の行く末を見届けるべきである。絶望的状況の中で、夜舟はこの場を生き延びる為に零華へと身構えた。

 

 と、そこで初めて零華が動き、軽く開いた右手を前にゆっくりと突き出す。……が、夜舟に届くには少し距離が足りなかった。縮地の如く突然間合いを詰める歩みはあるが、あの時の祟りよりも動きが鈍く遅い。触れられなければ脅威はないだろう。この分ならばどうにかなるかもしれないと、夜舟は思った。

 

 そうして夜舟が逃走を図ろうとした瞬間、零華は半開きの右手を閉じ始める。すると夜舟は己の首が強く締め付けられる感覚に襲われ、堪らずその場でもがき苦しんだ。

 

「ぐっ……は」

 

 零華は何もない空を握っているだけだ。だというのに、喉元に細く鋭利な牙を突き刺されたかような激痛を感じ、目に見えぬ圧力によって頸骨が軋む音が聞こえた。

 

 困惑する夜舟を余所に、零華はその腕を徐々に上空へ滑らせていく。驚くことに、それに連動して夜舟の身体が宙に浮いていった。

 

 自らの体重がかかり、首に一層圧迫感が増す。わざとそうしているのか、頸骨が砕ける寸前の力加減を保ち、零華はしばらく静止していた。時間をかけてなぶり殺すつもりなのだろうか。

 

 苦しみの限界を迎えた夜舟は死の安楽を願ったが、零華はそれを許さなかった。零華の纏う蒼炎がその右手を伝い、夜舟に燃え移ったのだ。この世にあらぬ煉獄の炎が夜舟の身をじわじわと焼き始める。いや、見た目とは裏腹に皮膚に熱さはなかった。代わりに今までに味わったことの無い激痛が、身体の内部に広がっていった。夜舟は血の混じった泡を吹き、口から肉の焦げた臭気を放つ黒煙を吐き出した。直接臓腑を焼かれているようだった。さらに外へ駆け出ようとする高温の熱風が両目の水分を一気に奪い、夜舟は視力を失った。

 

 まるで楓の運命をなぞるようで、夜舟は小さく笑った。……相応しい結末ではないか。それだけの罪を犯してきたのだ。この世のありとあらゆる苦痛を受けても足りないぐらいに。

 

 とうとう骨、肉、肌とありとあらゆる部分に燃え広がり、夜舟の命を燃やす。夜舟がどんなに激痛に喘ごうと、零華の瞳は変わらず憎悪に満ち溢れていた。

 

 息絶える寸前に、夜舟は己を振り返る。思い浮かぶのは、遠きあの日の情景。木漏れ日を浴びながら、楽しげに話す三人の姿。ようやく長い役目を終えた夜舟は童心に還り、掛け替えのない思い出に浸る。重い肩の荷が下りたように、その顔は安らかであった。

 

 ……零華の蒼炎が夜舟の全てを焼き尽くしてゆく。遂には煤となり、さらさらと無残に崩れ去った。久世家最後の当主、夜舟の人生は壮絶に幕を閉じたのだ。

 

 かくして、久世は終焉を迎え、天涯の命をもって幽世に封印される。悲劇の巫女の因習は、地上から完全に消え失せた。

 

 

 

 

 ―――時代は流れ。

 

 刺青の儀式を含め、長く続いた各地の慣わしや伝承が忘れ去られた現代において。他者の死に捉われてしまった人間を誘う、眠りの家という都市伝説の噂が巷で囁かれていた。夢で何度も想いを寄せる死者と出会えるが、その都度幻覚の刺青が体を蝕み、やがて煤を残してこの世から消えてしまうという恐ろしい話だ。

 

 その夢の中で、行くあてもなく彷徨う一人の巫女の姿がある。……もう二度と触れることの出来ぬ想い人の温もりを、少女は今も探していた。

 

 

 

 

 




※アンケート結果(2022年12月現在)
 
 久世零華  1票
 久世鏡華  1票
 


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分岐1
導魂(ドウコン)刻印(コクイン) 一ノ刻


※要生存・零華死亡END


 

 ……この地に来たのはどれくらい振りだろうか。

 

 白く染まった山肌に要は一人、躊躇いの足跡を残していた。雪化粧が施された草木が記憶の情景と異なり、要の位置感覚を狂わせている。元々村以外何もない所だったが、それでも目に付く自然の形から昔の面影が僅かに伝わり、確かにここであったという実感があった。

 

 要は当然、懐かしい日々がそこにあると思っていた。

 

 しかし、あったのは人の気配が一切ない雪に埋もれた廃村だ。一体何があったと言うのか。開拓が酷く遅れ時代に取り残された小さな村であったが、困ったときは隣人同士で助け合い、それぞれが村の為に出来る役割を担ってずっとやり繰りしてきた集落だ。皆喉かなこの村を愛し、この地で生きる事を好んで長年暮らしてきた。だから村総勢で移住したなどということはよっぽどでない限り考えられない。詳しく様子を調べようにも、手入れのされていない村中の深雪を掻き分けて家々を探索するのはあまりにも時間がかかってしまう。だがその必要もないのかもしれないと要は心の隅で思っていた。なぜなら遠目で確認出来る範囲の家屋はどれも半壊しており、自然劣化とは言い難い傷の数々が村のあちこちに残されていたからだ。

 

 早くから村の零華に向けて近況報告を兼ねた手紙を送っていたが、返信は一度もなかった。それは、こういうことなのか。

 

 要は凄惨な現実を直視し、絶望に膝を折った。おそらく大規模な雪崩が起こったのだ。村が壊滅したのは降雪が酷かった去年の冬頃だろう。だとすれば、その前に書いた手紙は零華の手元に届いていたはずである。返さなかったのか、返せなかったのか。いずれにせよ、家族は勿論、零華の生存の見込みは限りなく薄かった。

 

 なぜもっと早く戻って来なかったのかと、要は悔やんだ。要は零華の為に村を出た。どうしてもはっきりさせなければならない事があったのだ。そうしないと要は零華と心から笑い合うことが出来なかった。

 

 最後に見た零華の顔が視界にちらつき、要は両手を握りしめた。村での別れの際、零華はどんな心境だったのか。零華に追われて袖を掴まれた時、決心が鈍るのを恐れて振り返らなかった事が要の後悔をさらに深める。どんなに嘆こうとも、それは取り返しのつかない過去になってしまっていた。 

 

 しかしながら微かな願いが要の胸をざわつき、その足を久世の宮へと動かしてゆく。

 

 直近で見たあの夢。それだけが唯一の頼みの綱で希望だった。夢というには妙に生々しく、あれは実際に起こっていることであるように感じられていたのだ。要もそれほど詳しくはないが、久世に古くから巫女を奉る慣わしがあるということだけは知っていた。

 

 ……零華はある時から何らかの理由で久世の巫女になっている。今はその儚い望みに賭けるしかなかった。

 

 



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導魂(ドウコン)刻印(コクイン) 二ノ刻

 

 冬至を少し過ぎたこの時期、日が落ちるのは早い。故郷に着いた直後はまだ明るかったと言うのに、黄昏の風景が闇に飲まれるまであっという間であった。

 

 久世の宮まで足を運んだ要だったが、来るもの全てを拒む要塞のような外壁と閉ざされた重厚な門を目にし、中へ入る為にはどうしたらよいかと思考を巡らせていた。

 

 見張りであろうか、門の前には久世特有の装束を纏った人間が二名立っている。接触するのは容易いが、素直に事情を説明して通して貰えるとは思えなかった。まず巫女と零華の関係を聞いた所で、頑なに儀式を表出させる事のない久世が真実を語るはずはない。確証がない以上、言質を取るのは諦めた方が良い事は明白だった。せめて故郷についてだけでも知りたかったが、一度交渉が決裂してしまえば来訪者への警戒心は強まり、以降巫女との対面は困難を極めるだろう。

 

 正攻法は不可能である。だからせめて門が開く一瞬の隙があればと、要は近くから様子を伺っていた。

 

 しかし、その機会は一向に訪れる気配はない。日を改めて久世の情報を集め、用意周到に立ち回るといった手段もあるが、あの故郷の惨状と巫女の夢を見た要にそんな冷静さは露ほども存在していなかった。

 

 早い人間はもう就寝し出す時間帯だ。それでも要は頑として待ち続けた。そうして一刻が過ぎようとした頃、ようやく要の願いが通じたのか、殆ど会話もなく突っ立っているばかりだった見張りが互いの顔を合わせた。そして振り返った一人が大きな声を上げると、ゆっくりと門は開かれていった。

 

 機はようやく巡ってきた。いつかこうなる事を要は見越していた。開門の理由は分からないが人間である以上、その活動には限界がある。食事や用を足すなど、必ず見張り達が動く瞬間があるだろうと、虎視眈々と狙い定めていたのだ。

 

 要は音を殺し、門を潜る見張りの後を追う。夜とはいえ、すぐ内側に誰かが控えていたならさすがに見つかって一貫の終わりだ。だが、おそらくもうここしか突破口はない。二つの背に張り付きながら見張りの視界を上手く避け、すぐさま目に入った民家の影まで静かに走り去る。幸いな事に門を開けた者は見張りと共に場を離れ、他に内側で待機する者もいなかったようだ。

 

 後は巫女の所在を探すだけである。やはりあの奥深くに佇む社からの探索が懸命であろう。そこに巫女がいなくとも、久世がひた隠す儀式について何かと知識を得られるはずだ。明方まで時間は限られていることを考えれば、無駄な行動は出来ない。

 

 要は懐にしまっていた耳飾りを取り出し、手の平に乗せる。きっとこれが零華の元へ導いてくれるはずだと、あの日の約束を思い出していた。

 



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導魂(ドウコン)刻印(コクイン) 三ノ刻

 

 うっそうと茂る木々を盾にし、要は遠目で社内の様子を確認する。久世敷地内の半分ほどの民家は寝静まっていたが、社はまだあちこちに明かりを灯していて、その全体像が分かる程光に満ちていた。すぐ傍の縁側から社内に侵入するのは容易であったが、渡り廊下には未だ人の僅かな往来があり、絶えない談笑がどこからともなく聞こえてくる。

 

 ここは後回しにするべきか、と要は悩んだ。しかし他に変わった建物があったとすれば、密集した民家とは随分と外れに位置する少し大きめの屋敷と、それに隣接していた長屋くらいだった。明らかに疎外された奇妙な一帯。どう見ても訝しく、異様でならない。要はあそこにも何か儀式との重要な繋がりがありそうだと感じていた。

 

 躊躇している暇はない。ここは一先ず諦めてそちらから巫女の手がかりを探そうと、要は屋敷の方角へと向き直った。

 

 瞬間、ぱきり、と木の枝の折れる音が境内に響き渡る。しまった、と要は顔を強張らせた。気持ちが急いて足元に十分な注意が行き届いていなかったようだ。要は反射的に社へと耳目をそばだてる。

 

「誰ですか」

 

 最悪な事に、渡り廊下で立ち止まった少女がこちらを見ていた。要は瞬時にしゃがんで雪陰に隠れたが、大木の裏方から一歩横に踏み出した要の姿を遮る物はなく、少女にほぼ発見されたようなものだった。

 

 要と少女はお互い微動だにせず、相手の動きを探り合う。要の心音は荒がり額に汗が滲んでゆく。出来れば逃げ出した家畜とでも勘違いして見逃してほしい所だった。

 

 しかし少女は思いがけない行動に出る。草履も履かず縁側を下り、こちらへゆっくりと迫ってきたのだ。非常にまずい事態に陥った。ここで闇雲に逃げ去っても騒ぎになり、かえって状況を悪化させるだけである。であればこの場におびき寄せ、一声を上げられる前に口を塞いでしまうのがいいだろう。そう考え、要はそのままじっと身を伏せ続けた。

 

「安心してください。人を呼んだりはしません。だから、動かないで」

 

 要の思考を先読みしたのか、少女は臆することなく小さな声で要に釘を刺した。相手は曲者かもしれないというのに、随分と落ち着いた少女である。こうなってはその言葉を信じるしかない。要は腹を括り、少女の顔が覗けるくらいに少し身を上げた。

 

「……その姿、宮大工の方ではありませんね。客人を招き入れたとも伺っておりません。余所者がどうやって久世へ紛れ込んだのですか」

 

 目前に現れた少女は思っていたよりも幼く、その坦々と語る口調とは相容れぬあどけなさを残していた。なぜだろうか、不思議とどこか信頼を置ける雰囲気があった。だが、どんな見た目であろうと社で暮らす人間である以上、儀式と密接な関係にある者かもしれないということを忘れてはならない。噂に違わなければ、久世は一癖も二癖もある閉鎖的な集落民なのだ。要はそんな味方か敵か定かではない少女の詰問に対し、どう答えれば良いのか分からなかった。

 

「とにかく、誰かに見つかっては一大事です。私がどうにか外へ出してあげますので、すぐにお引き取り下さい。支度をして参ります」

 

 そう言って背を向ける少女の腕を、要は半ば強引に掴んだ。

 

「待ってくれ、急用なんだ。大切な人を探している」

 

 必死な形相で訴えかける要に、少女は怪訝さを滲ませながらも耳を傾けた。

 

「この耳飾りを持った女の子を知らないか。名前は零華というんだ」

 

 要が取り出した耳飾りを見ると同時に、あれだけ表情の乏しかった少女の顔が、見る見るうちに驚嘆の面差しへと変わってゆく。

 

「にい……さま」

 

 己の頬を開いた両手で覆いながら、震えた声で少女は言い放つ。

 

「貴方は、要兄様ですか」

 

 そんな少女の突拍子もない問いかけに、今度は要の方が一驚を喫したのだった。



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導魂(ドウコン)刻印(コクイン) 四ノ刻

 

 十数年前、久世の当主の娘が近隣の調査に訪れた民俗学者の男と恋に落ち、一人の赤子を授かった。久世に必要な女子の子孫を残し未来を繋ぐ為、当主は男を招き入れたのだ。

 

 柊の封印の役割を担う宮大工という例外を除き、元来久世の家系は柊の器として相性の良い女だけで構成されていた。跡継ぎを生むには男は必要不可欠ではあったが、それでも一徹して久世は男を身近に置くことはしなかった。女の情を引き付け、未練を残す存在となりうる男は、刺青の儀式において最も忌むべき対象だったからだ。その為、男は客人として赤子を授かる道具として扱われ、利用価値が無くなれば即刻排除される運命にある。

 

 不運にも先の二人の赤子は男子であった。当主の思惑通りには行かず、用済みとなった民俗学者の男は始末される直前に久世から逃亡し、その後掟の元男子は四歳になろうとした頃に処刑を決行される。

 

 しかし、この男子は母親である当主の娘の手助けによって死を免れていた。男子の死を装い、当主の目を欺いて当主の娘は愛する我が子を近隣の村へ逃がしたのだ。

 

 ……その時の赤子が、自分なのだという。父の名は柏木秋人。母親である当主の娘の久世鏡華と迎えの約束を交わしたものの、いくら待てども帰っては来なかったそうだ。

 

 後に別の客人と鏡華との間に生まれた子供がこの雨音であり、自分にとって異父妹であるという。

 

「要兄様の故郷が災厄に見舞われ、この耳飾りをした零華様が久世の巫女として迎え入れられた後、母様から要兄様と耳飾りの経緯について詳しく聞いておりました」

 

 雨音は少しよそよそしく、戸惑った眼差しを向けながら要に説明した。

 

「……僕は、久世の生まれだったのか。今まで自分の隠された生い立ちを必死に求めていたが、真実がこんな手近にあるなんて思いもしなかった。しかし、色々と合点がいったよ」

 

 要はたまに幼少期の記憶の断片が蘇ることがあった。どこか格式を感じさせる生家であろう風景や、とても優しい眼差しで自分をあやす美しい女性の姿が、日常生活を送る節々で度々目に浮かんでいた。

 

 そして、雨音との偶然の出会いによって得られた思いがけぬ情報はそれだけではなかった。肝心の零華の所在についてである。雨音の話によれば、故郷の難を逃れた零華は、現在久世の巫女として最後の儀式を終えた所なのだという。巫女の生贄によって成り立つ儀式である為、巫女はその命を捧げて儀式の終わりを迎える。既に零華は、暗く深い闇の底で長い眠りについてしまったようだった。

 

「もう、零華様は生きてはいないのかもしれません……」

 

 要の心境を察するように、雨音は苦悩の表情を見せた。

 

「それでも今は……、零華に一目会いたい。どうにかならないか」

 

 非人情的な久世に対する怒りよりも、死の淵にいる零華への悲しみよりも、真っ先にそれが要に思い浮かぶ。

 

「無理です。要兄様の命の保証も出来かねます」

 

「頼む。なるべく迷惑をかけるようにはしない。……だから」

 

 要は深々と頭を下げる。切羽詰まった様子で懇願する要に、雨音は困り果てた。

 

「眠りについた巫女に誰かを引き合わせるなど、前代未聞なのです。何が起こるか分かりません」

 

 雨音はそれによって未知の脅威が迫ることを懸命に説くが、要の意思は固く顔を上げようとはしない。良い返事を貰えるまで、ここに居座る勢いだった。

 

「……」

 

 雨音としては、非常に辛い選択だった。一番良いのは、当初の予定通り要がこれ以上干渉せず久世を後にすること。だが事情を知った要にそれはもう不可能だろう。残された道は、他の久世の者に知らせ要の身柄を押さえさせるか、久世の掟を破り要を棘獄へと案内するか、しかない。前者の選択を取れば、要は犯した罪から確実に流されることになる。

 

 雨音は要を想う零華を幾度となく見てきた。自分の兄だということは伏せてきたが、零華が語る優しい兄の面影に想いを馳せ、雨音は出来る事ならいつか会ってみたいと願っていた。その兄が今、零華の為に命を顧みず助けを求めている。二人の切望を叶えられるのは、雨音だけだった。

 

「……分かりました。零華様の元へと案内しましょう」

 

 雨音は実際の兄の想いに触れ、立場を忘れるほど強く心を動かされた。そうして雨音は兄と共に、危険な橋を渡ることを覚悟したのだ。

 

 



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導魂(ドウコン)刻印(コクイン) 五ノ刻

 

 雨音に社内の隠し通路の前まで導かれ、そこから要は松明を片手に一人で奈落の底にある棘獄に降り立った。気が遠くなるほどの足場を下った先に待ち受けていた禁断の扉。こんな最果てに封印しなければならない柊というものは、世にどれだけの脅威をもたらすのであろうか。

 

 「約束はお守りください。なるべく早くお戻り願います」

 

 要は雨音から零華と会わせる上での条件をきつく言い渡されていた。零華には近寄らず、別れの挨拶が済んだらすぐに雨音が待つ先程の茂みまで帰ってくる事。その際、人に見つからない様細心の注意を払う事。そして、儀式の全貌を含め、この事を決して世に公言しない事、だ。

 

 雨音は、とにかく要を社内へ招き入れてしまった事に酷く怯えていた。もしも当主にばれてしまったら、どちらも流されてしまうと言う。要は最初意味が分からなかったので聞き返したが、それは儀式に背いた者に課せられる重い処罰の事のようで、内容は受ける者の立場や状況によって様々なようだった。雨音は明確には表さなかったが、例に上げられたそのどれもが命に関わる程の制裁だ。どうやら久世において流すという言葉は、世間一般でいう所の殺す、あるいは死刑、の隠語らしい。だから雨音は掟を破った共犯者である要に約束を強要し、必死に念を押すのだ。 

 

 ……しかし、要は表向きにはその条件に肯定を示したものの、約束を守るつもりはさらさらなかった。瀕死の零華を目の前にして黙って見過ごせるはずがない。

 

(死なせるものか。ここから連れ出し、今度こそ二人で……)

 

 ただ、雨音を裏切り見捨てることもしない。当然だ。どんなに拒もうと、雨音には一緒にここを離れて貰う。要は久世の掟について知った時から、そうすると決めていた。生まれ育った故郷や母親を雨音から一方的に奪ってしまう形になるが、その判断が間違っているとは思えない。間違っているのは生殺与奪を思いのままにし、そんな選択を迫らせる久世であるのだ。

 

 正義の誓いを胸に、要は棘獄の扉の前に立つ。近づく度に、心を根こそぎ掻っ攫われてしまいそうな感覚に陥ってゆく。正気を保つのも中々に難しかった。久世のやり方には理解は示せないが、確かに柊というのは何らかの対処をしなければならない代物ではあると要は感じた。

 

 固唾を飲み込み、勇気を出して要は扉に手をかける。扉が僅かに開き、中から吐き気を催す程の腐臭が漏れ出してきた。

 

 無論、それは過去の巫女の亡骸から放たれているのだろう。そう分かっていてもその強烈な匂いは要に零華の死を連想させる。躊躇っていたはずの要は思い浮かんだ零華の死に顔に戦慄を覚え、本能的に勢いよく扉を開け放った。

 

 



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導魂(ドウコン)刻印(コクイン) 六ノ刻

 

 高く掲げた松明の光が無情に照らす屍の数々。それらは手前から奥に行くに連れて、徐々に人の形を失っていく。歳月を経たばらばらの白骨がまだましに思えるほどに、近間の溶けた肉を中途半端に残した遺体は凄惨そのものである。

 

 ……これが、久世の儀式。どんな理由があれ、こんな事は許されることではない。世をはばかり、秘密裏に積み重ねられる無慈悲な犠牲者達の姿に、要は行き場の無い憤りを覚えた。

 

 片目をしかめ、己の口鼻を片手で覆った要は、前方に明かりを向け零華を探す。背格好の似た女性の変わり果てた姿を目にする度に、激しく気が動転しそうになる。顔の造形が無残にも崩れ、表情を伺えない事が拍車をかけていた。しかし、冷静に考えれば、こんなに腐敗が進んでいるはずがない。零華がここに閉じ込められてからまだ数日しか経っていないのだ。

 

 不幸中の幸いというべきか、手遅れのほんの一歩手前で間に合えた。この機会は偶然の産物か、はたまた人知の及ばぬ何かの手引きか。この世は理路整然としているようで、稀に不可思議な事が起こる。……帰郷へと思い立ったあの夢。まるで定められた運命のようだった。きっと目に見える物だけが全てではないのだろう。唐突に与えられた庇護の神秘に、要の胸が熱くなってゆく。

 

 とにかく、衰弱はしているだろうが、少なくとも痛ましい身体ではないはずだ。そうして要はさらに奥へと進んだ。

 

 比較的儀式の痕跡の少ない方に向かいながら、巫女達の顔を丁寧に確認する。真新しさを残したそれらを拝み、おそらくこの辺だと要は直感し足を止めた。

 

 と、その場でゆっくりと見渡していた要の動きがふいに固まる。旅立つ時にはなかった刺青と、痩せこけた身体。しかし、まぎれもなくそれは要の想い人の姿であった。

 

「零華……、なのか」

 

 呼びかけに返事もなく、表情も変わらない。が、僅かに零華の瞳が動き、こちらに焦点を合わせた。

 

「やっと会えた」

 

 生きていてくれた事への安堵と共に、率直な気持ちが口から勝手に零れる。そして、すぐに要は己の後悔と不甲斐なさを零華に語った。どうしてもいち早く伝えたかったのだ。だがその間、零華は反応を一切示さない。我に返り、要は首を振った。言い訳なら後でどうとでもなる。零華の為にも、今は即刻ここを脱出しなければならなかった。

 

「とりあえず話は後にしよう。安心してほしい。僕はもうどこへも行ったりはしないから」

 

 やはり、零華の返答はない。急がなければ。不安に駆られ、要はもう一度零華の名前を呼びながら零華に近づいていく。すると、心なしか零華が小さく笑ったような気がした。……そんな一筋の希望の光が差した瞬間であった。

 

 ―――からん。

 

 突然、駆け寄ろうとした要を追い越す様に、後方から何かが転がってくる。音からして生き物ではなかった。小石に思えたが、そもそもなぜ勝手に動いたのか。そんなはずはないが、自らの意思で視界に飛び込んできたようにすら感じられる。咄嗟の事で、要の頭は混乱していた。

 

 何度か地面に打ち付けられた後、その小さな影は身を晒し、意外な正体を現したのだ。

 



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導魂(ドウコン)刻印(コクイン) 七ノ刻

 

 自身が落としたのか、零華に持たせた片割れか、それは耳飾りだった。これがひとりでに移動するわけがない。……だとしたら。

 

 要は危険を察し、素早く身を翻す。何者かが大きく舌打ちし、要に向かって斧を振り下ろしていた。忍び寄ろうとした際、落ちていた耳飾りに気付かずに蹴ってしまったと言う事か。おかげで、巧まずして救われた。物に意思などという馬鹿げた妄想も、あながち的外れではなかったようだ。しかし、躱すことはもう出来ない。要はなるべく重心を後ろに預け、半身の状態で身構える。

 

 斧は要の左肩とその腕の肉を抉った後、地面に激突して固い金属音を発した。手に持った松明が宙を舞い、要は衝撃で倒れ込んだ。熱く激しい痛みに耐えながら、すぐさま体制を整える。しゃがんだ状態で傷口を押さえ、要は相手の方を見上げた。

 

 明かりの範囲が狭まってはっきりとは見えないが、位の高そうな衣装を纏った老婆のようだった。老婆は仕留めそこなった事に憤慨している様子で、今度は勢いよくこちらへ迫ってくる。

 

 出血が激しい。が、動けない程致命傷ではなかった。二撃目を阻止する為、要は立ち上がる。正面から対峙し、老婆が攻撃に入ろうとした瞬間、要はその腕を掴みにいった。取っ組み合いになったが、高齢で女性だけあって大した力ではない。だが、負傷した腕では上手く斧を奪い取る事が出来ず、双方押し引きの膠着した状態が続いていた。

 

「勝手に久世に踏み入った僕も悪いが、突然殺しにかかるなんて正気の沙汰じゃない。久世はそこまで蛮人なのか」

 

 要は拮抗する争いの合間に、老婆を非難した。

 

「禁を犯すものに容赦はせぬ。うぬら外界の者とは生きている世界が違うのじゃ」

 

 体力の劣る老婆は、傷ついた要よりも辛そうに息を荒げている。しかし、要を鋭く突き刺す眼光は、相反して気迫に満ちていた。

 

「久世は間違っている。人の命はそんなに軽々しい物ではない」

 

「御託は良い。さっさと死ね」

 

 言葉に威勢だけはあるものの、要の必死の抵抗に対し老婆は徐々に押し負けてゆく。あともう少しで、老婆を抑え込むことが出来る。そう思った時だった。

 

 突然老婆の力が抜け、要はいとも簡単に斧を奪い取れた。諦めたのか、むしろ自分から手放したようだった。要は不思議に思い、老婆をまじまじと見つめる。

 

 老婆はそんな要など気にも留めずそこかしこに目を泳がせ、辺りを警戒するように慎重に一歩、また一歩と引き下がってゆく。先程の士気など微塵もなく、明らかに狼狽えていた。

 

 要は一体どうしたのかと声をかけようと思ったが、そんな余裕はすぐになくなった。その脅威的な何かに、要も気づいてしまったからだ。

 

「これは……」

 

 身の毛がよだつような悪寒が走る。周囲を包む悍ましい空気を、要も感じ取ったのだ。

 

「やってくれたな。許すまじ愚者よ、あの世で己の行いを後悔するがよい。……よもや貴様に構っている暇はあらぬ」

 

 老婆は憎しみを込めた捨て台詞を吐いた後、要を置いて棘獄の扉へ駆け出し、そのまま立ち去って行った。

 



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導魂(ドウコン)刻印(コクイン) 八ノ刻

 

 どこからともなく押し寄せてくる、凄まじい重圧。要は落とした松明を拾い上げ、その光の届く範囲全てに注意を払う。今の所変わった様子はない。が、人の道理を一変させてしまうような、強大な力が迫りつつあることは老婆でなくとも分かる。老婆に違わず、要の本能もこの場に居てはならないと警告しているのだ。しかし、血を流し過ぎたせいか、視界がぶれてその場で立っているのがやっとだった。老婆の相手をするのに夢中で怪我の具合を気にしていられなかったが、どうやら深手ではあったらしい。

 

 これが雨音の言っていた災厄というものなのだろうか。だとしても、零華を置いて逃げるなどという選択肢はない。何が起ころうと第一に優先すべきは零華の身だ。要は朦朧とした意識の中、ふらつきながら横たわる零華の元へ足を運んだ。

 

 身をかがめ、要は零華の頬に触れようと指を伸ばす。異様な程、冷たい肌だった。まさかと思い、要はその手を口元へ滑らせた。僅かでさえ息がかかる感触はない。要は慌てて零華の腕の脈を確認した。

 

「……嘘だ」

 

 どんなに強く指を押し当てても、零華の身体は要の期待に応えることはなかった。

 

「なら、僕は一体何のために村を……」

 

 要は己の感情をぶつけるように、地面に両手の拳を叩きつける。襲い来るのは、身を引き裂かれるような痛みと、尽きることの無い悲しみ。この先零華と共にあるはずだった人生が、音もなく崩れ去っていった。今しがた過去の存在となった零華は、止めどなく溢れ出す思い出の中でより一層輝きを増してゆく。最愛の想い人を失うと言うのは各も残酷な事なのか。もう、この先の己の未来に零華は存在しない。その受け入れがたい事実が、要の感情を狂わせてゆく。

 

 ……気づけば、辺りは既に地獄と化していた。あちらこちらと行き交う亡者達の悲鳴と、全ての巫女を弔うように燃え広がる蒼い炎。そんな久世の終焉を、要は呆けた表情で眺めるだけであった。

 

 結局人は、死に抗うことは出来ない。それは故意であっても、必然であっても、いつかその時はやってくる。上手く立ち回っていたつもりでも、どうしても後悔が残ってしまう。こうして思いがけず直面した時、人はどうしたら良いのだろうか。

 

 認めることも拒絶することもせず、放心のまま要は覆いかぶさる様に零華を抱きしめた。もはや要に生きる希望も、意思もなかった。

 

 (これがあの世へ続く黄泉の門であるというのなら、ここで亡者に命を差し出してもいい。……だから、僕を零華の元へ誘ってくれ)

 

 要が自暴自棄に己の願いを乞う中、いよいよ久世が積み重ねた罪への裁きが下されようとしていた。

 

 



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導魂(ドウコン)刻印(コクイン) 九ノ刻

 

 要はしがみ付く様に腕に力を込めるも、空の器は底抜けで既に零華の魂は抜け切っている。ただ、純白の巫女装束が要の返り血で朱に染まってゆくだけだ。体の動きが鈍りつつある。もはや自分も長くはないだろう。要はぎこちない手つきで零華の瞼を下ろした後、互いに眠り合うように己の瞳をゆっくりと閉ざしてゆく。

 

 ……自分は道を間違えてしまったのだろうか。あの日、零華の気持ちに応えていれば、こんな結末を迎えることはなかったのかもしれない。そう要は旅立ちの日を思い返す。

 

 生い立ちなど知らなくとも、皆に囲まれた生活は、隣に零華がいる日常は、本当に幸せだった。それだけに、怖くなったのだ。いつか偶然、零華が本当の自分を知ってしまう瞬間が。それが疎んじるべきものだった時、訳ありの自分を零華は今までと変わらず接してくれるのかと。

 

 要の憔悴してゆく精神に、待ちわびたと言わんばかりに柊が牙を光らせていた。そんな二度と覚めることのない忌目に引きずり込まれる寸前だった。 

 

(イ……キテ……)

 

 肩を優しく触れる何者かの手が、要の意識を呼び戻してゆく。要が力なく振り返ると、そこには瞳に蛇を宿す女性が立っていた。身体は青白く、鱗に覆われた肌。……しかし、その顔は。

 

 要が驚きの余り固まっていると、女性は少し屈み、薄い笑みを浮かべてそっと手を差し伸べてきた。要は戸惑いながらも、引き寄せられるようにその手に己の手を重ねる。確かに触れたのだ。しかし、手繰り寄せられるままに立ち上がった直後にその奇跡の姿は消えてしまった。

 

 視線の先に映る棘獄の扉。……半開きだった扉が、いつの間にか完全に開ききっている。そして、老婆から救ってくれた耳飾りが足元にはあった。

 

「……これが、君の願いなのか」

 

 改めて零華を見つめ、満身創痍で要は問う。勿論答えが返ってくることはなかったが、零華ならきっと頷いているような気がした。

 

「分かった」

 

 今度こそ、零華の想いに応じよう。そうして要は確かめるように懐を探った。その感触に納得し、地面の転がる片割れの方の耳飾りを拾い上げ、眠る零華の耳に飾った。

 

「やはりこれはまだ君が持っていてほしい。……次にまた会える時まで」

 

 要は誓いを胸に刻んだ。他の誰の心から消えてしまっても、己だけは零華を忘れない為に生きる事を。そうすればいつか自分を零華が迎えに来てくれるように思えたのだ。

 

 混濁した意識に活を入れるように首を小さく振り、要は力強く己の行くべき未来を見据える。要は残された力を振り絞り、その一歩を踏み出した。

 



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導魂(ドウコン)刻印(コクイン) 終ノ刻  new

 

 ――数年後。

 

 

 

 とうとう明かりを消すこともなく、下宿部屋に淡い日差しが差し込む。所々小さな傷が目立つ年期の入った漆塗りの机の上には、とある地方の文献、それにまつわる資料や関連性の高い古記録など、様々な書類が散乱している。

 

 要は徹夜がけでまとめた報告書数枚を手に取り、紙を立てて角をきっちりと整えてゆく。しかしその開放感からか、ばらばらに崩れるのもお構いなしに、元あった机の上に無造作に放り投げる。そうして要は口に手を当て気怠そうに小さな欠伸をしながら、のそのそと窓際に立った。

 

 昨日に引き続き快晴である。これ程直に注ぐ陽光は疲れ目には少々きつい。頭も冴えず、長時間同じ体勢で仕事を続けた所為で、そこら中に痛みが走っていた。そんな不健全な身体にせめて新鮮な空気を取り入れようと、要は窓を開け放った。

 

 途端に入り込んだそよ風に、少々目に掛かった要の前髪が靡く。最後に散髪したのはいつだろうか。そんな事さえ覚えていないくらい、要は任されたこの仕事に熱中していた。

 

 人の見る夢についての研究。要は今、麻生博士の助手となって協力をしている。実に興味深い題材であった。 

 

 要が体験した巫女の夢に通じるものを、博士は語ってくれた。この研究を手伝うことによって、要は自身が追い求める何かを得られる気がしたのだ。

 

 それからというもの、忙しい日々だった。そんな本業の合間に、要は久世についても並行で調査はしていたが、久世が過去の産物である為に新しい情報はなく、そちらの目覚ましい進展はなかった。

 

 ……そう、久世は忽然と姿を消してしまった。あの日、要は久世があった近くの場所で、一人雪に埋もれて倒れていた。要を発見したのは、要が話した地元にある久世の因習に関心を持っていた書生仲間である。要が一度故郷へ戻ることを告げると、ひとしきり羨望の眼差しを向けた書生仲間は、着手している仕事が片付き次第、久世の調査の為に後を追うことを約束したのだ。

 

 体温の低下と失血で瀕死の重体だったが、書生仲間が手際よく対処したおかげで要はなんとか持ちこたえたというわけだ。

 

 しかし、棘獄からどうやってそこまでたどり着いたのか、要は覚えていなかった。ただ一つ記憶に残っているのは、久世の門の前で首を振る雨音の姿だった。

 

 だとすると、雨音が外まで誘導してくれたのかもしれない。その後の雨音の目撃は皆無であることと、最後に見せた悲しげな表情。……雨音は一緒に逃げる事を拒んだということなのか。

 

 静かに迎えた早朝の中で、ふいに物悲しさが要の胸中を渦巻く。雨音も、零華も、いなくなってしまった。そんな大事な事も、痛みも、長らく忘れてしまっていたのか。どうにも詰まる思いに追い立てられ、要は再度机の前へ胡坐をかいた。

 

 どうしてもこの感情を吐露せずにはいられず、悩んだ末に要は表現としてまた、この形を取ったのだ。

 

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

過ぎ去りし零華へ

 

かうして屆く當てのない手紙を書いてゐるのは、僕の氣持ちの整理の爲なのかもしれない。

或は、あの日に起こつた事は幻で、君はまだどこかで元氣に暮らしてゐるのだと、儚い夢を抱いてゐるのだ。

 

併し、月日が經つごとに思つてしまう。

僕が見ていた君は、傳承上に出てくる寢目の巫女樣であつたのではないかと。

幼い時を共にした事實が薄れてゆき、今では全てが空想上の出來事のやうである。

 

人とは殘酷なものだ。君に向けた強い想いでさえも、忘れ去らうとする。

 

けれど、君の聲だけは。

依然として、色褪せることなく鮮やかに、僕の記憶の中で鳴り響いてゐる。

やはり、だうしてもまう壹度、君に逢ひたい。

此君と同じ蛇の刺靑と片割れの耳飾りが、いつか君の元へと導いてくれることを、切に願つてゐる。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

 

 

 そう書き終えて、要はゆっくりと袖を捲った。傷痕を這う立派な蒼い蛇がそこにあった。数少ない資料と己の記憶を頼りに、巫女の零華に似せた刻印だ。

 

 こうやって誓ったはずなのに。時間と共に忘れる事が救いなのだというのなら、己の望むところではない。人の根幹にある不滅の思念、……それが柊だというのなら。

 

 久世はとても人情的で、自分はなんて薄情者なのだろうかと、要は寂しく笑う。

 

 そんな傷心の要を知ってか知らずか、気まぐれな風が吹き、要の背中を摩る様に一撫でする。遅れて、要の想いを綴った和紙をさらって行った。要は急いで掴もうとしたが、既に先程開けた窓の外へ運ばれてしまった後だ。

 

 誰かに見つかっては面倒な事になると、要は駆け足で玄関へ向かおうとした。その時、ようやく異変に気付いたのだ。対面側にも窓は備え付けられている。だから風が部屋を吹き抜けることはよくあることだ。しかし、途中で視界に入った対面側の窓は、昨夜から一切手を付けておらず、閉まったままだった。

 

 ……。

 

 ――巫女の夢、耳飾り、蛇の巫女。

 

 思い当たる節はいくつもある。今度は、心地よい笑いが要から漏れた。

 

 

「君は僕なんかよりずっと人想いで、しっかり者だ。……僕が大事な事を忘れない様、いつまでも見守っていてくれ」

 

 いや、もしも愛想を尽かして傍からいなくなったとしても、完全に忘れてしまうことはないだろう。本当は耳を澄ませばいつも聞こえているのだ。――それは懐かしく、甘美な響き。自分の名を優しく呼ぶ、刺青の聲が。

 

 

 

 

 



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分岐2
(ウタ)伝説(デンセツ) 一ノ刻


※要・零華生存END


 最近雨音の顔を見る機会が減っていた。たまに会っても、どこか思いつめた目つきをしてすぐに口を閉ざしてしまう。普段から大人しく感情を外に出さない性格で、周りには大人びていてしっかりしている子だと言われるが、本当は気弱な時雨と同じくらい脆い一面があることを鏡華は知っている。日に日にやつれてゆく姿を見続けて、あまつにはその弱った身体に自ら杭を打たなければならない。おそらくそのことで雨音は心を痛めているが、わざと何ともない素振りをして誤魔化している。悲しい時に心で泣くのは当主の血の定めなのだ。

 

 ……きっと零華への情を必死に押し隠しているのでしょう。

 

 子の気持ちに気づけない鏡華ではなかった。いくら聞き分けが良いといっても、まだ雨音は子供だ。そんな迷いを抱えたまま巫女に接していて大丈夫だろうかと鏡華は心配に思う。

 

 即今、久世の宮内では刺青の巫女を鎮める戒の儀の準備が始まっている。何度も見てきた光景だったが、その度に鏡華はよそごとのように傍観してやり過ごしてきた。どの道が正しかったのかは今でも分からない。当主として与えられた使命に向き合うべきだったのか。人を捨てず、立場に背いてきた自分は間違っていたのか。ただ、一つだけ確かに言えることがあった。……それは、同じ過ちを繰り返してはならないと言う事だ。

 

 鏡華は秋人の死を知ってから、本当の意味で己と向き合わなければならなかった。約束の時を待ちわび続け、それが叶わぬものだと知った瞬間、鏡華は底知れぬ闇に飲まれてしまった。唯一の支えを失い、放心で何も考えられず、鏡華は暫くの間現実を受け入れられずにいた。そしてふと途切れた思考が追い付いた時、死に別れの実感が伴い鏡華は激しく悲嘆した。そこから悲しみを助長する聲がどんどんと鏡華の内に膨れ上がっていったのだ。やがて自我をも見失い、己の思考が完全に柊に支配されそうになった時、鏡華は生きる事を諦めてしまった。……しかし、寸での所で引き留める存在があったのだ。

 

 数奇な縁だ。この出会いが無ければ、きっと今回も見送ってしまっていただろう。

 

 鏡華には零華が己に重なって見えていた。想い人と一緒に居たい。ただそれだけの儚い願いを、残酷な運命に引き裂かれてしまった不憫な少女。秋人を失った鏡華にはどうしてもそれが他人事には思えなかった。

 

 このままでは要を同じ目に遭わせてしまう。秋人の忘れ形見が、鏡華を突き動かす。もう一人の血を分けた我が子の為に、鏡華は腹を据えゆっくりと筆を取った。

 

 



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設定
【登場人物 原作】 ネタバレ有り


秋人忘れてました。影薄い鎮女達も書いた方がいいかもしれませんね。後々更新します。



 

久世零華(くぜれいか)

 

 旧姓雪代。久世の宮近隣の村に住んでいた少女。幼少期を幼馴染である要と共に平穏に過ごすが、要が村を旅立ってしまったことで、少しずつ運命の歯車が狂い始めてゆく。その後村が災厄に見舞われ、独り身となった。天涯孤独の彼女を夜舟が拾い、以降、久世に代々伝わる刺青の儀式の巫女として生涯を捧げていく。が、戒の儀を経て永遠の眠りにつこうとする零華の元に、想い人である要が逢いに来た事で夜舟の怒りを買い、悲劇の結末を迎える。要を失った痛みを自身の柊として瞳に刻んでしまった零華は破戒を引き起こし、久世を滅亡させた。

 

 [原作との相違点]

 

 別れた後の零華の経緯を知らない要が送った何通かの手紙はおそらく村宛であり、全て零華に届いていない。巫女となった零華は儀式以外で吊牢の外へ出る事を許された事実はなく、原作上鏡華が零華の耳飾りに気づいた様子が見られない点から、鏡華との接点は皆無であった可能性が高い。

 

 

 

乙月要(おとつきかなめ)

 

 鏡華と秋人の間に生まれた子。男子は忌子という久世のしきたりから殺される運命だったが、鏡華が夜舟の目を掻い潜り、近隣の村へと逃がした。要は乙月家の養子として零華と出会い、互いの仲を深めていく。しかし、己の出生の記憶がなく、義理の両親に素性を隠されたままの要は、自身の生い立ちを知るべく零華を置いて村を後にした。しばらくの間下宿先で研究に明け暮れていた要だったが、ふと見た白昼夢に村へ残してきた零華の事が気がかりになり、故郷へ帰省する。夢を頼りに久世の宮を訪れた要は、雨音の協力を得て棘獄で眠る零華の元へ駆けつけるが、それを阻止しようとした夜舟の手によって殺されてしまう。

 

 [原作との相違点]

 

 ほぼ原作通り。あえて言うなら達筆であったという所は独創。

 

 

 

久世夜舟(くぜやしゅう)

 

 久世家最後の当主。最高権力者であり、刺青の儀式の一切を取り仕切る役目を担っている。身寄りない零華を巫女として迎え入れ、順調に儀式を進めていく。しかし、最後の最後で要に禁忌を犯され、零華の目の前で要を殺害する。その破戒を防ぐ為の行動が裏目となり、久世は瘴気と共に狭間に飲まれた。非常に信仰深く、そこから来る残忍さから要(未遂に終わったが、赤子の時)や雨音等の身内を含め、数々の人間を手にかけている。

 

 [原作との相違点]

 

 久世家当主の章の幼少期の話は全て独創。特に天涯との関係は完全な脚色。破戒後零華に殺された描写はなく、原作では瘴気に当てられつつも、最後まで宮大工達に指揮を取り、久世を幽世へ封印させた。

 

 

 

久世鏡華(くぜきょうか)

 

 夜舟の実娘。客人として迎えられた秋人と恋仲になり要を授かる。表向きでは秋人は久世から去ったことになっていて、鏡華はその死を知らない。掟の下、夜舟に流されそうになった要を井戸へ放り込み、水路から脱出させる。後に別の客人と関係を持ち雨音を生んだ。それからずっと帰らぬ秋人を待ち続け、心を壊してしまう。

 

 [原作との相違点]

 

 要の件で夜舟に怒りを買い、座敷牢で幽閉されていた為、儀式に干渉出来る機会はほぼ皆無であったと思われる。最後まで秋人の帰りを待ち、破戒後に座敷牢から出られなくなり、そのまま命を落とした。

 

 

 

鳴海天涯(なるみてんがい)

 

 宮大工の棟梁。久世に殉じ、主に柊を抑え込む眠りの宮と狭間の宮の増築を生業としていた。零華の破戒の凄まじさから、番匠達の犠牲だけでは完全な封印は困難だと判断し、自らも命を絶ち人柱となった。

 

 [原作との相違点]

 

 夜舟の説明同様、棟梁への経緯自体が独創。

 

 

 

久世雨音(くぜあまね)

 

 鏡華の娘。巫女の世話をする鎮女に抜擢され、役目を全うする。戒の儀後に久世へ訪れた要を兄だと気づき、その不憫さから零華の眠る棘獄へ誘ってしまう。その最中、他の鎮女達に見つかり、無数に杭を打たれて息絶えた。

 

 [原作との相違点]

 

 耳飾りが発端ではなく、以前から母である鏡華に要のことは聞いており、世話をする零華の話に出てくる恋人の要が兄であるのではないかと早々に思い至っていた。

 



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【登場人物 非原作】 ネタバレ有り

 

鼓露葉(つづみつゆは)

 

 零華と同じ村に住んでいた子供。大雪崩が起きた日、零華と共に村を離れていたおかげで辛うじて生き逃れる。零華同様、久世に迎え入れられて雨音の代わりに鎮女となった。しかし、その性格や態度から適任だとは言い難く、早々に夜舟から懸念されていた。間もなくして露葉は夜舟の与えた試練を乗り越えられず、見限られて絞殺される。それを知り気の毒に思った鏡華の計らいで、質素ではあるが久世内にて親族同等の露葉の葬儀がひっそりと行われた。

 

 

《宮大工の青年》

 

 久世付近の山を越えた近場の村に住んでいた少年。棟梁に声をかけられ宮大工となった後、刺青の儀式の詳細を知る。姉の失踪に疑問を抱いていた彼は、人さらいの噂が絶えない久世に対して徐々に疑いの目を向けてゆく。ある日、真相を掴むために潜入した久世の社内で零華と鉢合わせた所を、夜舟に見られてしまう。大工としての腕は良い方であったが、それが原因で真っ先に人柱に選ばれ、志半ばで生涯に幕を下ろした。

 

 

久世棗(くぜなつめ)

 

 宮大工の青年の姉。嫁ぎ先の村が火事で全焼し、身体中に火傷を負い瀕死に陥る。特に顔の具合が酷く、誰にも見られたくなかった彼女は、夜舟の提案に乗り久世の巫女として生涯を捧げることを選んだ。会えなくなった弟を最後まで気にかけ、やがて棘獄にて眠りについた。

 

 

久世楓(くぜかえで)

 

 久世に拾われた孤児。夜舟と年齢が近い所為か、互いに心を開き合う仲になる。棗の死後夜舟が当主についたが、夜舟を心底慕っていた楓は一切反発せず、夜舟の所業の全てを受け入れた。夜舟の取り仕切った儀式の中で唯一少しも気が触れた様子を見せず、綺麗に戒の儀を終える事の出来た巫女であった。

 

 

久世桜花(くぜおうか)

 

 夜舟の母親であり、先代当主。夜舟の楓への情を弊害と考え、適齢を迎えた楓を真っ先に巫女に抜擢する。蒼蓮の下、当主として長く未熟であった己と夜舟を重ね、愛情を押し殺して常日頃厳しく接していた。楓の儀式中に起こった災厄の根源に気付けず、参拝者の柊が具現化した怨霊に取り殺されてしまう。

 

 

久世蒼蓮(くぜそうれん)

 

 桜花の母親で、二代前の当主。現役時代は夜舟以上に苛烈な当主であったが、桜花に当主の座を明け渡して夜舟が生まれた後、それまでの振る舞いが嘘であったかのように孫の夜舟を可愛がる、良き祖母となる。慎ましい隠居生活を送っていたが、楓の騒動に巻き込まれ、夜舟を庇って命を散らした。

 



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