琴葉葵はバーにいる~吸血鬼殺人事件~ (一条和馬)
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12月6日

     ●

 この世でタバコほど素晴らしいものはないと思う。至高と言っても過言ではない。

 例えば、私はとても口が悪く、最近は連れに『手も悪い』とまで言われる始末だ。そんな私が、バカな依頼人に対して「バカじゃねぇのお前?」と言わずに済むのも口に咥えたタバコのお陰だし、見てくれから非常に身体に悪い煙を吸って吐くと、気分が良くなる。つまりイライラして相手を殴り飛ばす心配もないという話さ。

 

「で、さとうささらさん、でしたっけ」

 依頼人の名前をもう一度確認すると、泣きながら俯いていたさとうささら氏は、ゆっくりと頷いてくれた。

 この美人のお姉さんが泣き崩れるまでの経緯をシンプルかつ、私見を加えてまとめると、こうだ。ナンパした若い女が美人局で、怖いお兄さんに50万円もの高額な『慰謝料』を請求されて困ったある家庭持ち熟年サラリーマンが私に「なんとかしてくれ」と泣きついてきた訳だ。それを何とか10万で済ませる様に交渉をした私は仲介料で3万円(税別)で頂いた。今時『美人局』なんかで生計立ててる頭の悪い友人の奢りで居酒屋〈東風〉で飲んだ後、いつも様に〈ARIA〉で気分よく一人で飲みなおしていると、ウェーブかかった茶髪で巨乳のお姉さん、つまりこのさとうささら氏が私の目の前に現れたのだ。今日の稼ぎが良く、お酒が入って気分の良かった私は彼女の話し相手をすることにした。曰く、駅前のパン屋でアルバイトをする彼女には大学生の彼氏がおり、その彼が12月3日から6日の今日に至るまでの数日間行方が分からないので探してくれないか、というものだった。

 

「タカハシ君っていうんですけど…」

 そう言いながら鞄を探るさとうささら氏。私が揺れる胸ばかりに注目していると、目の前に一枚の写真が出された。ディズニーランドのシンデレラ城を背景にしたツーショットに、私は思わず顔をしかめそうになったので煙草に手を出した。それはそれは幸せそうな、それこそパン屋のバイト時のそれとは違う笑顔のさとうささら氏の横に、それを独占しているであろう男の顔があった。端正な顔立ちの青年だ。10人中8人は彼を「イケメン」と呼ぶのだろうが、私に言わせてもらうとコイツは顔立ちが整い過ぎていた。美しい街並みの中に居ればきっと、背景と同化して見えるだろう。街中でふと目が合って「あらイケメン!」と振り返ればそこにいるのに気が付けない、そんな感じの『地味さ』が滲み出ていた。語弊なく申し上げると『影が薄い』。

私はあまりにも魅力的なさとうささら氏の笑顔を考えるフリをして凝視していると、さとうささら氏本人はすすり泣きながら『タカハシ君』について語り始めた。しかしあまりにも普遍かつ地味なのでそこは割愛する。したり顔で「犯罪心理学について学んでいるんだ」と語る男の顔に惹かれて交際を決定したらしい。さとうささら氏本人は気が付いてないが、明らかに面食いだった。

しかしその実『タカハシ君』は未成年特有の青臭さに親譲りであろう『亭主淡白精神』の悪い所をミックスした最低ヒモ野郎だった。その話をした健気で献身的な彼女は「そんな彼も、たまに優しいんです」と笑った。この段階で私は「二人ともバカなんだな」と思ってたし、現に煙草は四本目に突入していた。私の吸うタバコはピース。名の通り『平和』にいかないといけない。

 

「警察には相談したの?」

 相手にされないからこっちに来たのは明白だろうに、我ながらバカな質問だと思う。しかしこれは『様式美』であると共に、もし「それはちょっと…」なんて答えられたら断る口実にする、大事な処世術でもあるのだ。

 

「一応捜索願を出してもらいに行ったんですけど、子どもじゃないんだから、二日三日連絡が取れない程度では動けないよ、って……」

 私は彼女を担当した警察官に同情した。この辺の警察は『怠け者の田舎者』と酷評されがちだが、それは毎日の様に非行少年少女の補導に明け暮れて余裕がないだけの事。聞くからにバカな奴が一日二日行方をくらました程度では動く『理由』にならないのだ。

 

「一応、あと数日待っても帰ってこなければもう一度ご連絡くださいと言ってくれたんですけど、私、心配で心配で……」

「実家の方にご連絡は?」

「あの人、どうも実家と折り合いが良くないそうで、今はほぼ縁切り状態だと…なので連絡先を教えてもらってないんです。住んでる大学寮ももぬけの殻で…うっ、ううう……」

 

 また泣き始めてしまったので〈ARIA〉のバーテンダーであるONEさんが気を利かせてハンカチを用意した。眉間にしわが寄った困り顔にははっきり「うるさいのは困る」と書いていたが。しかし〈ARIA〉にいる客は私とさとうささら氏の二人だけだった。後はバーテンダーのONEさんと『バーカウンターで寝る店長』だけの女の園。この世の最後の楽園は〈ARIA〉であると信じて疑わないという話は、仲間内では共通の見解だった。話はさとうささら氏へと戻る。

 

「それで私の所に来た、と」

「ぐすっ……あの、お金ならあります。とりあえず10万円用意しました……」

「ふぅむ…」

 

 だが例えバカが相手であっても、どんなに要求がバカでも金を払われると引き受けてしまうのが、私のバカたる所以だった。しかし流石に人探しに前金で10万は貰えないので2万だけ受け取ると、彼女は意外そうな顔をした。

「葵さんはなんでも引き受けてくれる『便利屋』だけどかなり吹っ掛けられる、と聞いたのですが……」

 目をぱちくりさせるさとうささら氏に、私は五本目の煙草を灰皿に置いて応える事にした。涙で潤んだ瞳の中の、いかにもやる気のなさそうな青い髪の女と目が合う。

 

「あのね、人探しの前金で10万は流石にこっちの気が引ける。成功報酬に30万40万請求されると困らない?」

「そうですね…」

 はっきり頷きやがった。だが私は誠実だ。例え「学校側に彼の実家を教えてもらえばいいのでは?」と頭の中で思っていても、口に出さない。もうこの2万円は私のものなのだ。

「残りの8万は成功報酬として後で受け取る。それでいい?」

「はい…」

 少し落ち着けた様子の彼女は、カウンターの椅子から立ち上がり、私に一礼した。

 

「今夜はもう遅いよ。私の部屋に泊まっていかない?」

 毎日鏡の前で練習しているさわやかスマイルをさとうささら氏に向けてみる。「お前、顔だけは良いよな」と連れに言われてから必死に練習したのだ。

「いえ、実家はすぐ近くですし、日付が変わる前に帰宅しないと両親が心配します…」

 

 結局見向きもされなかった。改めてよろしくお願いします、そう言ったさとうささら氏は〈ARIA〉を後にした。

 

 私はとりあえずタバコに火をつけた。ニヤニヤしているONEさんの方を見る。

「スーパーニッカ、ストレートね」

「畏まりました」

 慣れた手つきで棚からウイスキーボトルを取り出し注ぐ様を、眺めながら一服。一分経たない内に私の前にグラスが置かれた。

「葵さん、フラれましたね」

「お前、それ言わせない様にしたのにお前…」

 

 私は伏し目がちにグラスを傾けた。間違いなくコイツは笑っていたからだ。他人を小バカにしてる時の顔と笑ってる時の顔が同じの彼女は苦労も多いだろうが、確信犯の時もあるから困る。今など正にそうだ。

「でもアレは無理だと思いますよ。『恋に盲目』って感じだったじゃないですか」

「あんな可愛い娘放って消えるヒモの何が良いんだか……」

 私は二人の生活を想像した。外では二枚目を気取りながら帰宅すれば彼女に暴力を振るう最低男。「玄関で出迎えるのは当たり前だろうが!」「こんなクソマズい飯出しやがって!」「掃除は俺がいない時に済ませとけ!」そんな感じで綺麗な顔の彼女を叩くに違いない。で、舌の根の乾かぬ内に「ごめんよ、本当はこんな事言いたくないんだ。愛してる。捨てないでおくれ」いかにもな薄い台詞を並べながら彼女を抱き寄せて微笑むんだ。「良いのよタカハシ君、私、分かってるから…」人のいい彼女の事だ。反省の色を見せればすぐに許すだろう。後は「お風呂で君を食べたいね」「あら、欲張りな人。子どもみたい」って調子な訳だ。私がその場に居合わせれば、間違いなく男を殴り飛ばして彼女と共に部屋を去るだろうと思った。

 

「彼女の夢は『素敵なお嫁さん』なので、世話し甲斐のあるダメ男に惹かれるんでしょうね」

「酷い夢だ。そう思わない?」

「夢の内容に価値なんてありませんよ。それに賭ける情熱と行動こそが尊ばれるべきものです」

「心に染みる言葉だ、座右の銘にしたいくらいだね。そんなONEさんの夢は『バーテンダー』かな?」

「いいえ、『グラスを磨く事』です」

 また人を小バカにする様な笑顔を向けてきた。この掴み所のない感じこそ、私がONEさんの事がお気に入りで、〈ARIA〉に足繁く通っている理由だった。

 

 暫く飲んでいると、一時間ごとに律儀に鐘を鳴らす古時計が日付の変更を教えてくれた。

「魔法が解ける時間だ。早く戻らないとカボチャを抱えて帰る羽目になる」

「歩いて五分かからないでしょうに」

 人を小バカにする様な笑顔を向けるONEさんに対し、私は歯を見せて笑った。全力のスマイルのつもりだったが、カウンターに置いたお金を取る時にコッショリ「その顔怖いですよ」と教えてくれた。

 

 

 

 彼女の言う通り、私の家からここは歩いて五分もかからない。〈ARIA〉を出て一つ通りを挟んだ向こうにある三階建てのボロアパート〈きづな〉。その305号室が、私と、『眠り姫』の城だった。

 各所が錆びて悲鳴を上げる、今にも崩れそうな階段を小走りで駆け上がる。四つある隣人のお住まいを無視して一番奥の古臭い鉄の扉を開けると、世界はさらに汚くなった。これでも華の20代なのでタバコの吸い殻や食事後は出かける前に片付ける。しかしそれにしたってこの2Kには物が多すぎたのだ。

 

「あ、おかえり葵……」

 ふと私を呼ぶ声がした。乱雑に物が散らばる中で唯一聖域になっていたベッドの上で、姉が上体だけ起こしてこちらに笑顔を向けていた。口角を上げて歯を見せない上品な笑みを浮かべる姉の琴葉茜だ。

「姉さん、またこんな時間まで起きてる」

「えへへ、葵と一緒にご飯食べたかってん」

 そう言った姉の横、ベッド脇の棚にはお盆が乗せられており、私が出かける前に作ったミネストローネがすっかり冷めていた。いや、これが本当に『ミネストローネ』と呼んでいい代物なのかはわからないが、ともかくネットで『ミネストローネ』と調べて一番上に現れたものを、その通りのレシピでほぼそのまま再現したので、これはきっと『ミネストローネ』なのだ。

 

「またこんな遅くまで遊び歩いて……」

「ごめんよ姉さん、仕事でね」

 酒とタバコの匂いをまき散らしながらよく言えたものだと我ながら思うが、姉は深く詮索しなかった。半年ほど前から体調が崩れてほぼ寝たきりの我が姉、琴葉茜。当然身の回りの世話は全て私の担当だ。最も、部屋の中程度なら移動も問題ないし、トイレとお風呂は自分で済ませてくれる手前、私の『身の回りの世話』なんて炊事洗濯の日常生活と通院費位だった。それに、姉にとって最大の娯楽は夜遅くに帰ってきた私との会話なので、私は日々を全力でエンジョイし、その酸いも甘いも双子で共有するのが、いつもの一日の締めくくりだった。

 

「また探偵さんごっこ?」

「ちゃんとお金も貰ってるから『ごっこ』じゃないよ」

 電子レンジでミネストローネみたいなものを温め直しながら答える。

「あんまり無理したらあかんよ?」

「ただの人探しだよ。マンガやアニメみたいに殺人現場で犯人を当てる訳じゃない」

「それやったらええけど…」

「凶悪事件はこの茜ちゃんが解決したる!」と呼んでもないのに飛んできていた一年ほど前の事を思えば、まるで他人の様な反応だった。不謹慎だが、病気が彼女を精神的に成長させてくれたのかもしれない。過去を振り返りしみじみとしていると、軽快な電子音が流れ、ミネストローネもどきがその温かさと少し取り戻した。姉の膝の上に移動させたお盆に皿を乗せ、私は台所の棚にあったブラックニッカのボトルとグラスを用意、ベッド脇の椅子へと腰かける。

「今日の葵ちゃん劇場だ。ある間抜けのおじさんが、怖い借金取りに脅された話なんだけど」

「それ、ホンマに安全な話?」

 姉妹の静かな晩餐は、三時間ほど続いた。

 さとうささら氏とタカハシ君の事をバカに出来ないバカっぷりだなと思った。



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12月7日〈朝〉

【前回のあらすじ】


 きょうは ぶか を いじめる わるい さらりーまん の おじさん お つつもたせ で こらしめたんや て

 つつもたせ て なんやろ な つつ もたせる うーん めちゃ おもたいん かな それは いやや な おじさん も はんせー したと おもう よ 。 

 で たんてー ひとさがし の おしごと するねん て えらい なあ 。

 ばんごはん あおい が とまとすーぷ つくて くれて ん きょー は いしょ に たべた から めちゃ おいしかた わ 。

 おなか ね きょー も いたい いたい やた けど おいしゃ さん が よく なるよ て やから な うち がんばん ねん 。

 あした に は げんき なるか なあ 

 うち も あおい と たんてー したい わ




(琴葉茜の手記より抜粋)


     ●

 私は『探偵』と呼ばれてはいるが、別に自分から名乗っている訳ではない。免許や資格云々はそもそも存在しているか否かも知らないし、事務所だって用意してない。いつだったかに〈ARIA〉で飲んでいると、高校時代の後輩が人間関係についての相談をしてきた事がある。で、まぁそいつが底なしのバカだったものだから『お小遣い』を貰って簡単にアドバイスしてやると大変喜んだ。ここからが計算外。ヤツはバカだが友好関係だけは広かった。『琴葉葵は名探偵だ!』と何の根拠もないガセ情報を流し、あれよこれよと『探偵』に仕立て上げられたのである。最も、当時の私は大学を中退してぶらぶらしていた身、仕事の方からやってくるのは好都合だったので適当にそれっぽい事をして現在に至るという訳さ。まさかミステリードラマや映画を片っ端から借りて勉強する羽目になるとは思ってなかったけど。

 

 

 そんな名探偵な私の朝はボロアパートの一室に敷かれた布団から這い出る所から始まる。

 

「あああああああ頭いってぇぇぇぇぇ……」

 朝日を浴びながら清々しい気持ちで身体を起こす。一日の始まりはやはり『光あれ』に尽きる訳だ。聖域の上で寝息を立てるお姫様を起こさぬ様に脱衣所へ。物が乱雑に置かれた部屋を音を立てずに移動する術というのは尾行の訓練に最適だ。と、いう事に気が付いたのは一週間ほど前。空の浴槽の中でシャワーを一時間ほど浴びて、下着だけ着用。昨日着た服を洗濯機に放り込む。朝は色物だ。台所へ移動し、炊飯器を開ける。空だった。米を三合ほど入れて、水洗い。炊飯器に窯を戻し、予約炊飯をセット。いつも15時にセットしているので設定はそのまま。そして物が乱雑に置かれた部屋を音を立てずに移動。クローゼットから『本日の仕事着』を選定する。黒いズボンに白シャツ、その上から水色のカーディガンを着て、物が乱雑に置かれた部屋を音を立てずに移動。そこから更に一時間ゆっくりと身だしなみを整える。美容の秘訣は『早寝早起き』と『手間暇惜しまないメイク』にあるのだ。

出発前に玄関に掛けられたカーキ色のコートを羽織る。これが私の基本スタイルだ。これに帽子とパイプを加えればシャーロック・ホームズって所かな。流石にそれはしないけど。

そして私は昨晩の内にまとめたゴミ袋を手に部屋を出た。

 

12月の朝は、寒い。アパート〈きづな〉のボロ階段を降り、所定の場所にゴミ袋を置いた私は手で枠を作って空を見上げる。雲量は4位。まぁ悪くない天気だった。

「しばれるなぁ…」

 私は大好きな俳優の声真似をしながら歩き始める。『しばれる』というほど寒くはないが、そういう気分だった。そんな私の足の向かう先は〈ARIA〉だ。

 

 

 

 

 この世でフレンチ・トーストほど素晴らしいものはないと思う。至高と言っても過言ではない。中でも〈ARIA〉が出すそれは絶品だ。ふっくらとした食パン、今朝取れたての卵とミルク、それと蜂蜜を少し混ぜたもの、それらをトレーの中で三時間、しっかり絡ませ合う。バターを塗ったフライパンで絶妙に焼き上げたトーストに更に追い打ちでバターと蜂蜜を上からたっぷり乗せて完成だ。カロリーが編隊を組んで絨毯爆撃してくる事を除けは文句のつけようがない最高の朝食だった。そして常連の私には更にホイップクリームが追加される。これをブラックコーヒーで相殺しながら贅沢に頂くのが私の朝の始まりだった。いつだったかに「どこかの農家と契約しているのか?」と聞いた事があるが、店長のIAさんは笑顔で「UFOで牛さんを運んでいる」と答えられてから私は食材の出処を聞かなくなった。

 

朝の〈ARIA〉は喫茶店として経営しており、カウンターにはONEさんではなく、彼女の姉であるIAさんがニコニコ笑顔で立っていた。夜はカウンターの端でお酒を飲むが、朝食は窓際のテーブル席で新聞を開きながらフレンチ・トーストの到着を待つのだ。

 

今日の朝刊を開く。芸能欄【初音ミク、男性との交際を正式に発表。お相手は“新幹線の運転手”】【人気歌手ユニット『タコルカ』結成10周年記念間際にまさかの“解散”!?ルカ『種族が違うの、初めて知りました!』】【高校生アイドル音街ウナ、自身初の全国ツアー制覇】お、ウナちゃん全国ツアー成功か。いいなぁ、私はチケット当たらなかったからなぁ。

 

経済欄。【中国からやってきたパンダの『ユカユカ』と『マキマキ』遂に一般公開へ。百合花動物園への予約が殺到】【世界から見た日本『あそこは先進国なのか?発展途上国なのか?』】【『吸血鬼殺人事件』捜査打ち切りに市民から不満の声】今日も変わらず平和だった。

 

本日のお天気欄。晴れのち雪。最悪だ、通りで寒い訳だな。テレビ欄も一応チェック。めぼしいもの、なし。一緒に持ってきたスポーツ新聞も広げる。スポーツには一切興味がないので読み飛ばし、その奥に隠されたスケベコラムを熟読。【縄に縛られた熟年女性の素晴らしさ】をつらつら語る、なんとも健全な記事だった。

 

「はーい、出来たよー」

 間延びした声でIAさんがフレンチ・トーストとブラックコーヒーを運んでくる。「いつもありがとう」感謝の言葉を口にしつつ新聞を脇に置く私。耳までしっかりと焼き上げられたトーストをナイフで切り、一口大になったパンにホイップクリームを少量移動させ、口に運ぶ。健康志向を一撃で粉砕する身体に悪い味がした。しかし私は健康志向を一撃で粉砕する身体に悪い味が大好物なのだ。自分でも分かる程頬が緩むのを隠さず、もう一口。うーん、健康志向を一撃で粉砕する身体に悪い味だ。

「おいしいー?」

「これを食べられるから朝は好きだ」

「朝って、もう11時だよー?」

「私が起きた時が、私の朝」

 

 向かいの席に座ったIAさんがニコニコしながら私の食べる姿を見つめる。ここの姉妹は基本客が一人になると近くに寄って話しかけないと気が済まないらしい。

「ONEちゃんから聞いたよー。今日は人探しのお仕事ー?」

「午後からね。午前中は別件」

「もうそろそろお昼だよー?」

「私が昼ご飯を食べた時が、私の昼」

「ふーん」

 

 まず「今日何をするか」を聞いてくるのが彼女との会話の始まりだった。私はそれでスケジュールを忘れる事がないので安心だ。私がスケジュールを忘れる時というのは、IAさんが忘れてる時だけだった。そして「ふーん」という彼女の台詞が会話終了の合図。私が朝食を終えるまでずっとニコニコしながら待ってくれるのだ。

トーストを食べ終わり、タバコに火をつけると、決まってIAさんは私の横に移動する。『向かい側に居ると煙しか見えない』らしい。

 

「で、朝はどんなお仕事ー?悪者退治かなー?」

「んー、あながち間違ってないかな。家賃未納と騒音でご近所迷惑を掛けている人にちょっと注意するの」

「『バンバン!うるさいぞ!ガンガン!ぶっ飛ばすぞ!ドンドンお金払え!!』って言うのー?」

「はっはっは!IAさんに代わりに行ってもらおうかな!」

「やったー!遂に私も探偵デビューかぁ…」

 

 割と本気に捉えたIAさんに「冗談だよ」というと、頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。普段は妹のONEさん以上に何を考えているかわからない人だが、こういった喜怒哀楽がはっきり見えるのは非常に好感が持てた。この嘘と欺瞞溢れる世の中で、よくぞここまで真っ直ぐ育ってくれたものだと思う。

 

「ご馳走様。そろそろ行くよ」

「はぁい」

 

 私がそう言うと、IAさんはいつも小走りでレジカウンターの方へと向かっていく。その間に私は預けていたコートを取りに行く。IAさんにお代を支払った後、彼女は店の前まで一緒に付いてきて、手を振って私を見送ってくれるのだ。甘々の新婚夫婦みたいだが、見送られる側となると気分は最高だった。

 時刻は12時少し前。向かう先は〈きづな〉の大家さんがいる101号室だ。

 

 

 

 

「イタコさーん!私です、隣に住んでる琴葉です!イタコさーーん!?」

 

 チャイムを鳴らしても返事がなかったので、ドアを叩きながら私は叫んだ。後ろでは今年で20歳になる大家の紲星あかりちゃんがそわそわしているのが視界の端にチラチラと映る。

 

 アパート〈きづな〉は亡くなった大家さんの両親が大家さんの為に残した大切な『家族との絆』だ。しかし最近は私の部屋に住む東北イタコさんによる『騒音被害』で少なかった住人は一人、また一人と去っていき、今は大家さんと私達姉妹とイタコさんを除くと、すっかり『もぬけの殻』となってしまった。一年前に二人の妹を亡くして天涯孤独になったイタコさんに〈きづな〉を紹介したのは私で、同じく家族を失う哀しみを知る大家さんはなるべくそっとしておこうとはしていたのだが、ここ数カ月の家賃滞納によって、ようやく重い腰を上げた大家さんが私に説得の依頼をしてきたのが、つい昨日の話である。

 

「どうですか?」

 私の胸辺りまでしかない身長の大家さんが私に声を掛ける。小さいし、声可愛いし、何よりおっぱいが大きい。私が頑なにここから出て行かない理由はこれに尽きた。

「物音は聞こえます。居留守を決め込むつもりか、単に聞こえてないのでしょう」

 私はタバコを咥えようとするが、コートのポケットに入っていた箱が空っぽになっている事に気が付いた。すぐ隣の部屋に戻ればストックはあるが、そこまでして吸いたい訳じゃないので我慢する。

 

「やはり、乗り込むしかないのでしょうか……」

「大家さん、その為に私を呼んだのでしょう?」

「それは、そうですけど……」

 

 彼女の葛藤はごもっともだった。家族の居ない『独り身』としての共感と、騒音家賃未納に対する『大家』としての不満。後者が大きくなる中、彼女の良心が何とか理由を捻り出して感情の天秤をコントロールしているに違いない。思わず抱きしめたくなった。なので抱きしめた。「ふぇ?」大家さんの驚いた声が聞こえる。とても可愛い。

「私に任せてください。ちょっと手荒にするかもしれませんが、必ず説得してみます」

「えぇ、えぇ。お願いします…」

 

 昼間にボロアパートで若い女が抱き合う。実にサスペンスな香りが漂っているに違いないと私は思った。そして大家さんもそう思ったのか、頬を赤らめながら離れ、『304』と書かれたキーホルダー付きの鍵を私に手渡した。この部屋の合鍵だ。

「イタコさん入りますよ!着替え中とかだったらごめんなさいね!」

 

 鍵を開けてドアを開けると、中から溢れた得体のしれない空気が私を襲う。「うげっ」思わず顔をしかめた。一か月は換気をしてないであろう濃厚な独身女性の匂いは、流石に『見かけた美女はナンパする』と言われる私ですら抵抗があった。仕事や部活帰りで汗だくになった女性と寝るのは大好物だが、これはやりすぎというものである。完全に腐りきった納豆やチーズは誰も好まないのだ。しかし『虎穴に入らずんば虎子を得ず』という諺もある。私は意を決して乗り込む事にした。

 

 床には謎の草が蔓を伸ばして縦横無尽に暴れ回り、壁や天井の至る所にミミズみたいな文字の書かれたお札がぎっしり貼られていた。私の部屋と同じ間取りの2Kの筈なのに全く違うモノに見える。『緑あふれる独身女性憧れの洒落た部屋』というよりかは『森に飲まれた廃寺』である。ポイズン・アイビーの隠れ家と言われたら納得するね。そしてアイビー、ではなく東北イタコはおそらく寝室(であったと思われる)部屋で一心不乱に【儀式】を執り行っている最中だった。何やら意味不明な呪文を口にしながら、畳の上を行ったり来たりしている。元は純白であったろう着物は汗で黄色く黄ばんでいた。私が立て付けの悪い襖を開けた事にすら気が付いてない様子だった。

 

「イタコさん?私です、琴葉です!ちょっと!!」

 彼女の視界に入る様に、強引に移動する。それでも気が付かれなかったので、私は彼女の肩を抱いて揺さぶった。目は真っ赤に充血し、その焦点も合ってない。頬はやつれ、美しい銀の髪も手入れがされずに灰色にくすんでいた。ブツブツと何かを呟いていたが彼女だが、しばらくすると目に光が戻り、ようやく私と目が合った。

 

「あ、あら?葵さん……?」

「気が付いてくれてありがとう」

 足元がおぼつかないのか、私が肩から手を離すとその場にへたり込んでしまった。元々もスレンダーで巨乳なイメージがあったが、いまやすっかり細くなり、その豊満な胸がただの重りと成り果ててしまっていた。実に、実に勿体ない。本気でそう思う。

 

「申し訳ございませんわ。今、お茶をお出ししますね」

「いや、お気遣いは結構。今日はイタコさんにお話があって来ました」

 この調子だと冷蔵庫の中身も全滅してるだろうと思った私は強引に本題に乗り込む事にした。

 

「お話、ですか?」

「えぇ。単刀直入に言います。ちょっとうるさいです」

「これは、その……」

「無論、職業柄『そういう事』に関しては世間一般よりは理解はしています。しかし、それは『私に限って』の事。〈きづな〉には今私達姉妹とイタコさん。それを大家さんしか住んでないんですよ」

「えぇ!?」

 

 本当に知らなかったのだろう、イタコさんは声をあげて驚いた。同時に部屋に入ってくる大家さんの顔を見て、やつれた顔から更に血の気が引いていくイタコさん。私は彼女に更なる追い打ちをかけないと思うと胸が痛くなるばかりだった。

 

「それとね、家賃、滞納してますよ」

「家賃?今月分はもう払った筈ですが……?」

 私は大家さんの方に振り替える。「頂いてません」とはっきり首を横に振って答えた。

「そんな!ちゃんとお会いして渡したじゃありませんか!?」

「二カ月前ですよ!?」

 耐えきれず大家さんが声を荒げる。

「二カ月も外に出ず、部屋もこんなにして、毎日毎日ブツブツブツブツ呟いて!その上嘘までつこうというのですか!?」

「え、いやその、だってまだ10月……」

 目じりに涙を浮かべて訴え始めた大家さんを私は抱きしめて静止する。慌てたイタコさんがカーテンを開くと、丁度街に雪が降り始めた。

「そんな……!」

「まさか今が10月だと本気で思っているので?」

 

 私の腕の中ですすり泣き始めた大家さんの代わりに、私が話を進める。最も、最初から私が一人で進めるつもりだったのでさしたる障害はない。

 

「……葵さん聞いてください。今、今私がここを離れる訳にはいかないんです!」

 イタコさんの、というか彼女の妹だったずん子さん、きりたんちゃん含めた東北三姉妹は現代に珍しい『怪異』と戦う一族だった。最も、私自身はそれを見た事がない。しかしそれで生計を立てていたのは間違いないし、ペテン師の類ではないのは私の勘も相まって間違いなかった。だが一年前に二人の妹を亡くしてからは、イタコさんはアルバイトを掛け持ちしながら【封印の儀】を行っていた……というのが半年ほど前からの情報で、その更新は部屋から出なくなった二カ月前で止まっている。

 

「良いですかイタコさん。私にはそのナントカの儀式が重要なのは理解できます。何カ月も部屋に籠って行う必要もあるのでしょう。しかし、それはずん子さんときりたんちゃんを亡くした貴女に部屋を貸してくれた大家さん……あかりちゃんの生活を極限まで苦しめてまで行うに値するのでしょうか?」

「ずんちゃん……きりちゃん……」

 久しぶりに妹たちの名前を聞いたからだろう。イタコさんの目から大粒の涙が流れ始めた。いたたまれなくなった私は彼女も抱きしめる。汗と垢の酷い臭いがした。だが私は二人をぎゅっと抱きしめる。こんな状況で無ければ「両手に華だ!」と浮かれていたかもしれないが、どうもそういう気分にはなれなかった。

「葵さん、もう少し、もう少しで【封印の儀】は完了します。もう少し、もう少しだけ待っては貰えませんか……!」

「そのもう少しが限界に来たので、私達は来たんです。そこはご理解いただけています?」

「勿論ですわ!でも、だけどその…本当に、本当にもう少しで!!」

 

 美女にやつれた顔で必死に説得されると私は弱い。しかし今回は大家さんという美少女に先に泣きつかれているのだ。心を鬼にする必要があった。

「……わかりました。しかし家賃の滞納だけは何とかして下さい。私も大家さんも生活が苦しく、それだけはフォロー出来ません」

「はい。……二カ月分、ですよね?」

 

『どこが鬼だ私の甘ちゃん!美女に弱いバカ!』脳内の琴葉葵Aが叫ぶ。『お金ないは嘘だろ』と冷静に突っ込む琴葉葵B。『そっちじゃねぇよ!!』これはA。『バンバン!うるさいぞ!ガンガン!ぶっ飛ばすぞ!ドンドンお金払え!!』今のはIAさん。なんでやねん。『じゃあ彼女に身体で払ってもらおうぜ!』と飛び込んできた琴葉葵Cを残りDからZ含めた琴葉葵軍団でタコ殴りにし始めた所で琴葉葵本物、つまり私は我に返った。

 

 私から離れたイタコさんは蔓をかき分けながらタンスや衣装ケースをひっくり返し始める。邪魔になると思ったので、私と大家さんはこの段階で一旦部屋を出ることにした。

 

 

 

 五分経っても出てこなかった私は手持ち無沙汰になってしまい、一度隣の自室に戻ってタバコを回収しにいった。時刻は昼過ぎだと言うのに姉はベッドの上で寝息を立てている。少し苦しそうにしていたので濡れタオルで額を拭いてあげると、姉はうっすらと目を開けた。

「もう夜?」

「いや、昼だよ。仕事の都合で寄ったんだ。お腹空いた?」

「ううん、大丈夫…」

「わかった。後でご飯作りにまた戻るからね」

「いってらっしゃい…」

 

 掠れた声の姉は、また目を閉じて眠ってしまった。

 部屋を出て大家さんの横でタバコを吹かす事更に10分。肩で息をしながらイタコさんが玄関のドアを重そうに開けた。「まるで姥捨て山の老婆だな」と思ってしまった自分を恥じる。

 

「あの、大家さん……」

「はい」

 すっかり落ち着いた大家さんがどっしりと答えた。対するイタコさんはビクビクと震えている。

「四日……いえ二日!二日待っては頂けないでしょうか!?」

 そういったイタコさんはすがる思いで私達の前で土下座した。必死の形相だった。

 

「お金は…お金は必ず用意しますので!」

「…明後日までですよ?」

 対する大家さんは女神の様な対応をした。いや、実際二カ月も待っていたのだから、正に女神なのかもしれない。女神あかりちゃんだ。

「ありがとう…ありがとうございます!」

「イタコさん、夜逃げしようって魂胆ではないんですよね?」

 大家さんは女神なので『人を疑う事』を知らないのだろう。とりあえず私の方から釘をさす事にした。

「妹たちの名にかけて、それは断じてない事を誓いますわ」

 イタコさんはずん子さんときりたんちゃんを心の底から愛していた。その名に誓われては、彼女は嘘をつかないだろうと思った。私も甘々のお人よしだ。

「それでは今すぐ出発を…」

 そう言って私達の横を通り抜けようとしたイタコさんを、すかさず私は止める。

「まだ、何か……?」

「いえ、これは親しき隣人としてのアドバイスです。……とりあえずお風呂に入って着替えた方がよろしいかと」

「ちゅわ?……ちゅわーーーーーーーーーーーーーッ!?」

 

 今頃自分の痴態に気が付いたイタコさんは顔を真っ赤にして部屋へと消える。30手前の独身女性が、汗でスケスケになった着物を肌に張り付けてる状態だったのだから真っ赤になるのも仕方ないと言えばそうなのだが。『午後のお仕事』に向かわないといけないと告げ去ろうとしたが、水道電気代も未払いで止められていたイタコさんを放っておけず、仕方なく自室のシャワーを貸し、腹を鳴らしたので仕方なく私の車で近所のファミリーレストランに駆け込み、彼女が二時間ひたすら食べ続け会計で絶句し、雪の降る大通りの真ん中で泣きながら感謝するイタコさんを何とかなだめると非常に時間を食ってしまったのだった。

 

 

 



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12月7日〈昼〉

 

 

 コンビニで適当に買ったおにぎりとお茶を胃の中に突っ込んだ私は早速タカハシ君が通っているという薄井楼大学へと足へ運んだ。「探偵です」なんて言って敷地内に入れるわけがないので、外を歩いていたチョロそうな女子大生をナンパして同道してもらった。キャンパス内を写真片手に聞いて回るがめぼしい情報はなし。一時間程回っていると同道していた女子大生が「もしかして探偵さん?」と聞いてきた。ちょうど潮時だと思っていた私は「違うよ連続痴漢魔。真のターゲットは君さ」と言って彼女を人気のない所に連れて行った。壁際に追い詰め、強引に唇を奪い、服の裾から手を忍ばせる。こってり20分、ちょっと早い大人の時間だ、天国を見せてあげた。大学内へと招き入れてくれた彼女へのささやかな報酬だった。その『気』がある娘を選んでチョイスしたのだから、予想通り大喜びしてくれた。やはり豚骨とエッチは濃厚に限るね。

 

快楽に浸り痙攣する彼女を木陰でそっと休ませた私はタバコを吹かしながら大学を出た。雪は止んでいた。

 

 

 

 車へと戻る。我が愛車、黄色いボディーのフィアット500ちゃんは健気に私の帰りを待っていた。小さい頃『ルパン三世カリオストロの城』を見た私はルパンが操るこの可愛いらしい車に心を奪われ「おとなになったらぜったいかう!」と息巻いたものだ。で、20年とちょっと経ってようやく我が元に召喚できたという訳さ。

 

そんなフィアット500ちゃんと次に向かったのはキャンパスから少し離れた位置にあるタカハシ君の住む学生寮だった。平日の昼過ぎだというのに何人かの若者の姿を見かけた。卒業できなくても知らないぞ!一応彼ら彼女らにも話を聞く。「ごめんね君たち、ここに住んでるこの子、知らない?」写真と私の顔を交互に見た金髪で耳にピアスをした男が「そんな事より俺たちと遊ばない?」と答えてくれた。間合いにずけずけと入ってきたので左の横っ腹を蹴り上げる。顔が良い位置に降りてきた。右足で膝蹴り。鼻にクリーンヒット。金髪君は大地を全身で感じながら気絶した。他の子どもたちが震えあがりながら「知りません!」と答え、金髪君を担いで何処かに消えてしまった。麗しい友情だ、涙が出るね。私はタバコを吹かしながら事務室の方へと向かった。

 

 

 応対したのは優しそうなおばちゃんだった「タカハシ君のご実家を知りませんか」「アンタ見てたよ。溜まってるガキ共にお灸添えてくれたみたいだね!」「お恥ずかしい所を見せてしまいました。あの、タカハシ君のご実家を…」「あー、最近帰ってきてない子ね!可愛い彼女ほったらかしにして消えちゃったって言うじゃないか!」「えぇ、ですので彼女の依頼で行方を探しておりまして…」「アンタもしかして探偵さんかい!?はー、本当にいるんだね!誰か死んだの!?」「いえ、探偵って言いましてもそういうお仕事は基本…」「なんだぁドラマみたいにいかないのね!あ、ごめんごめん彼の実家ね実家!えっと、どーこーにおーいーたーか……あったあった、これ、寮に住んでる子のリスト。タカハシ……タカハシ……あったこれだ!あ、でもこれ機密情報なのよね…」やっと彼女の口が止まった。「ではこうしましょう。あなたはたまたまメモにタカハシ君の住所を書き、それがたまたま手が滑り、たまたま私のポケットに入る、これは双方気が付かず、そしてこの時間は何もなかった」「いいねぇそういうの!ドラマみたいじゃないのさ!!」この人は元々お喋りなのだろう、しかし仕事の手前長話が出来ず困っていたに違いない。私はさとうささら氏を思い出した。彼女が学生寮の事務員から話を聞かなかったのは、もしかしたら『話をしたら捕まって逃げられない』事を知っていたのではないだろうか?

「はい、たまたまメモに住所を書いたよ!あー!それがたまたま外に落ちちゃったわ!!」

 渡してくれりゃ良いのにわざわざ外に投げる事務員のおばさん。私は『たまたま』それを拾う。

 

「これは大変だ。落とし主を探さないと」

 あそこまでやられてしまっては私も猿芝居に付き合わねばならない。非常に面倒だった。

「お時間いただいて申し訳ない。それでは私はこれで」

 おばさんが何か言った。私は逃げる様にその場を去った。

 

 

 

 

 既に日が傾き始めていた。駐車場に止めたフィアット500ちゃんの車内でタバコ休憩をしていた私はコートのポケットにねじ込んだメモを開く。住所の他、両親の名前と実家の電話番号まで控えてくれたのは感謝しかない。とりあえず電話してみよう。タバコを灰皿に突っ込む。内ポケットからスマートフォンを取り出して電話を掛けた。

 

「はい、タカハシです」

 優しそうな女性の声がした。『タカハシ君』ではないのは間違いない。

「もしもしお世話になっております。あー、わたくし薄井楼大学准教授の相田と言う者なんですけども」

 私はなけなしの大学時代で見た『准教授』の声真似で話しかけた。変に思われる前に大量の情報を叩きつけて会話をコントロールしなければならない。

「はぁ…」

「はい、あー、犯罪心理学受講生への特別合宿費用徴収の件でご連絡させていただいたのですけれども、あー、あのータカハシ君はご在宅でしょうか?」

「えっと、すいません。ウチの子とはその、お恥ずかしながら主人と絶縁状態で、ここ一年はご連絡が取れず……」

「あー、それは申し訳ございません!いやね、学生寮の方へお電話したのですけど繋がらなかったものですから、あー、もしかしたらご実家の方に帰られているのかと思いまして、あー、すいません本当にご迷惑をおかけしました」

「力になれず、ごめんなさいね」

「こちらこそハイ、急にお電話してしまって、えぇ、あー、もし来週末の期日までにお支払いが無ければ欠席というだけになりますので、えぇ、なにしろ強制ではなく自主的なものですから。あー、それではわたくしこの辺りで失礼します、はい…………ふぅ」

 

 相手に喋らせる間もなく通話を切り、助手席にスマートフォンを投げた。とりあえず実家に彼がいる、もしくはどこにいるか知っているのは分かった。わざわざ『パパと喧嘩して一年会ってないの』とかいう家庭の恥を晒す時点で怪しさ満点だ。とりあえず明日にでも直接乗り込んで聞いてみよう。という事にして、私はフィアット500ちゃんと共に走り出した。

 

 所で『犯罪心理学学生の特別合宿』ってのはどこにいくのだろう?私は悩んだ。山や海とは考えにくい。であれば精神病院や刑務所に社会科見学でもするのだろうか?あー、おっかない。犯罪心理学専攻しなくて良かったわ。

 

 

 

 

 タマゴ1パック70円という赤字ギリギリラインを攻めるスーパーのタイムセールはさながら戦場だ。単なる腕っぷし比べな子どもの喧嘩では味わえない【命を懸けた戦い】がここにある。サービス開始数分前に『さりげなく』ベストポジションを確保する【スケジュール能力】。他の客を押しのけ進む際にどのルートを進めば最短、かつ最小のリスクで済むかの【瞬発的状況判断力】。人の波、つまり圧倒的数の暴力に対して怯まぬ【不屈の心】。それでいて一般常識範囲のルールを堅実に守る【高潔な精神】。その全てを網羅し、尚且つ帰宅後に待つ炊事洗濯そのた諸々の家事をこなすための【スタミナ確保、及びその効率的な運用】。重ねて言う。スーパーのタイムセールは、戦場だ。それを毎日こなす日本の【主婦】という生物はつまり、スペックにおいて我ら独身などという矮小な存在よりも遥かに優れているというのは過言ではない。

 

「はぁ……」

 お目当ての卵と野菜、それと冷凍食品にパンを複数カゴに詰めた私は、ようやくレジカウンター前の長蛇の列、その末席に加わる事に成功した。私は正直いっぱいいっぱいなのでため息ばかりついていたが、歴戦の主婦たちは表情一つ買えない。彼女らの戦いはまだ続くからだ。見たまえジョン・ランボーよ、ここが君の帰るべき愛しきベトナムかも知れないぞ。しかし鍛えられている手前こういうことは言いたくないのだが、二度の世界大戦を経験し、幾度もの経済産業革命を超えて農業商業工業流通諸々を飛躍させてきた科学技術の地盤がある現代、その先進国の一つと言われるこの日本において、スーパーの一角の特売コーナーに群がり、卵1パックの為に争うというのは如何なものだろうか?つまり未だ人類の多くはこの惨状をありありと、しかしコミカルに描いた【ベン・トー】という神の啓示を受けながら、インスタント麺に玉子1つ入れるのにお互いが望まれぬ戦いを強いり、無駄な血を流さねばならないのだ。おお、神よ!罪深い我らをお赦し下さい!ラーメン…

 

 

 

 会計を済ませて車に戻り、時間の確認のためにスマートフォンを開くと電話の不在通知1件とメールが1件。送り主は同じだった。

 

「やったね、デートのお誘いだ」私はフィアット500ちゃんのエンジンキーを回した。

 

 町の南部にあるスーパーから自宅までは一本道だが、私は車を左折させ、国道沿いに西側へと走った。信号を三つほど過ぎた交差点を右折し、そのまま直進。住宅街の中を突っ切る。五分ほど車を走らせると、達筆な字で【結月堂】と書かれた看板をかかげるおんぼろ屋敷が見えてきた。この〈結月堂〉は町に昔からある本屋で、新書から古本、果ては稀覯本まで取り扱う、穴場中の穴場だ。

 

「こんちはー」

 年代物のガラス戸を引いて中に入ると、本特有の不思議な香りに包まれた空間がそこにあった。そりゃそうだ、ここには表だけでも何千冊超えの本が所狭しと並んでいるのだ。今期アニメの原作漫画や芸能人の自己啓発本等が詰まった棚をスルーし、最奥のカウンターへ。そこにメールの送り主がいた。

 

「やっほ。そらちゃんご無沙汰」

「いらっしゃいませ葵さん。お待ちしてましたよ」

 カウンターの向こうには眼鏡をかけた美少女、桜乃そらちゃんがいた。ミルク色のふんわりした長髪を後ろに一括りにし、レースのついた青と白のワンピースを着こなす姿はまさしく【ヨーロッパから移住してきたオシャレな若奥様】といった感じだが、彼女はれっきとした日本人で、ついでに言うと17歳である。オイオイ。そんなそらちゃんは丁度読書中だったらしく、手元には分厚い本が開かれていた。

 

「お仕事中だったかな?」

「いーえー。絶賛暇です」

 本を閉じたそらちゃんはカウンターの奥へと消えていく。誠の本読みというのは栞を挟まなくてもどこまで読んだのかわかるというが、少なくともそらちゃんはその境地に達しているらしい。私は絵がないと読めないタイプなので素直に尊敬している。

 

「ねー、そらちゃーん。メールなんだけどさー」

「はーいー?」

 本に囲まれた中タバコに手を出す訳にもいかないので、そらちゃんのスカートを眺める。あの向こうにはきっと小振りで未熟な桃が実っているのだろうなぁ。私が刈り取りたいなぁ。

 

「『本届きました』の一文はちょっと味気ないかなー。『一緒にお茶でもどうですか?』とかさー、入れるとさー、良い感じになると思う訳よ」

「喉乾いてるんですか?」

「いや、そーじゃなくて…」

 そらちゃんが振り返る。眼鏡の向こうには大人の汚さを知らない純粋な眼があった。私も持ってたのにな、どこかの溝に落としちゃった。

 

「お茶用意します?」

「…お気になさらず」

 そらちゃんは真面目で良い娘だけど、冗談が通じないのがちょっと玉に瑕かな。そんな私の思いなど露知らず、そらちゃんは私の名前の書かれた紙袋を見つけ、カウンターへと戻ってくる。紙袋の中をチェックするとバットマンの漫画が二冊入っていた。日本では海外の漫画の入手ルートは限られているが、どこかに伝がある〈結月堂〉は大抵取り寄せてくれるのだ。

 

「いつも悪いね」

私がお代を払うとそらちゃんは「お仕事ですから」とにっこり返事してくれた。

 

「そういえば葵さん、今日はどこで遊んでたんですか?」

「遊んでないよ。仕事だったの仕事。人探し」

「探偵みたいですね!」

「はっはっは」

 これを冗談で言ってないのがそらちゃんなのだ。

 

「で、捜査はどんな感じでした?」

「一応実家の住所は調べ上げたから、明日乗り込むの」

 そこでふと思い立った私は、本日既に業務終了した【探偵ごっこ】を少し再開する事にした。コートからタカハシ君の顔写真を取り出す。私から見て逆さの状態で、レジカウンターの上に写真を置き、そらちゃんの前に軽くスライド移動させる。

 

「この男の子なんだけど、知らない?」

「あ、この人なら見ましたよ。二日前」

「そうか……えっ!?」

 その言葉を聞き、脳内の『本日業務終了』の暖簾が爆風と共に吹き飛ぶ。『いつまで寝ているバカ共起きろ!全員集合!!』脳内葵ちゃん会議に緊急招集がかかった。アウトローも震えだす琴葉葵ちゃんA~Z軍団が思い思いに愚痴りながら円卓を囲む。探偵タイム再開だ。さとうささら氏が言っていた【音信不通】は四日前。ここに来たのは二日前。思わぬ所に足取りを掴むヒントが転がっていた。棚から牡丹餅とはこの事か!

 

「どこでみた!?」

「そうですね、お昼ご飯食べた後なので、12時過ぎでしょうか。買い物に来られたんですよ。『吸血鬼関連の本を全て買いたい』って。結局吸血鬼モチーフの漫画までも全部購入して、紙袋二つに詰め込んで帰ったんです」

「吸血鬼…?」

 なんでそんなものを大量に買い込む必要があったのだろうか?大学の授業で使う資料?いや、犯罪心理学のどこに吸血鬼が結びつくのか、正直さっぱり見当もつかない。ならば趣味の類だろうか?長期の潜伏を見据えての兵糧確保。籠城戦の基本だ。この町には他にも本屋はある。大手の本屋ではなく、この〈結月堂〉をチョイスしたのは人目を警戒してか、それとも単純に品揃えの問題からか。とにかく、【一日の来訪客の少なさ】に関しては〈ARIA〉とタイマンを張れるこの〈結月堂〉だ。加えてそらちゃんが物覚えのいい若者で本当に良かった。私なら五分前に来た客の顔すら覚えていられる自信がない。来る客全員の顔を札束に見立てて過ごしていたバイト時代が脳裏に浮かぶ。

 

「で、彼はどっちに向かって帰ったの?」

「店の前でタクシーを呼んで、北の方角へ……。南に会社がある〈ミライノタクシー〉だと思います。事務員が友達なので聞いてみましょうか?」

「〈ミライノタクシー〉ね。今から私が向かうから、その連絡だけしておいてくれ!」

「はい!」

「ありがとう、今度お茶しようね!」

 

 そう言って私は〈結月堂〉を後にした。フィアット500ちゃんのダッシュボードを改造したバットマン専用本棚に紙袋を突っ込み、一路南へ。国道を更に下って300メートルほど移動した所に〈ミライノタクシー〉はあった。50台は停まるであろう広い駐車場にはタクシーが一台も停まっていなかった。既に日が沈み始めており、夜は彼らの稼ぎ時なので何の違和感も問題もない。私はタクシー用の駐車場にフィアット500ちゃんを雑に停め、事務所らしきプレハブ小屋へと走った。事件解決に躍起になっているのではない。私にはスーパーの特売セールで買った品々を家の冷蔵庫にぶち込むという重大な使命があるのだ。これを急がずして何とするものぞ。「話は通してある」というそらちゃんの言葉を信じ、私はノックもせずにドアを開けた。

 

「お邪魔します!探偵の琴葉です!」

 自分で『探偵』とか名乗りたくはないのだが、話がスムーズにすむならそれに越したことはない。モヤモヤする心中を無視して事務所に入る。中はがらんどうとしているが、なんてこない普通の事務所だった。誰もいないのかと思ったが、ポットの置かれた机の向こうに黒髪の頭が揺れるのが見えた。

 

「ああ、ごめんなさい。お茶の葉を探してまして…」

黒髪から美しい女性の声がした。声の主が立ち上がる。社内の事務員用と思われる緑色のスーツに身を包んだ少女がそこにいた。いや、『少女』だと例えたのは単純に背が低かったからだ。身長150センチの大家さんとさして大差無いと思われるが、貴重なロリ巨乳枠である大家さんにもひけをとらぬご立派な胸をお持ちだった。肩で切り揃えられた美しい黒髪は清潔さを表現しながら、事務仕事で部屋を出ることの少ないだろうその身体は服の上からわかる程むっちりとした肉付きをしている。

「白湯くらいしか出せるものが……あの、どうかなされましたか?」

「……」

 

 心臓を射抜かれた。一目惚れである。あかん心が勃起してもうた。超ムラムラすんねんけど。全てを投げ捨てて押し倒してその絶妙に隠された魅力的なボディーを隅から隅まで堪能したい。タカハシ君とかどうでも良くなってきた。いかん。冷静になれ私。そうだ、彼女のためだけに事務所を開設して事務員として雇おう。そしてドアを締め切って夜通し肌を重ね合わせるのだ。場所はどうしよう。〈きづな〉の部屋をもう一つ借りるか?いやダメだ大家さんには悪いが風情がない。〈ARIA〉の二階は貸してくれるだろうか?その場合予算をどれ程捻出出来るだろう?算盤を弾く。クソッ、どうしてもダブルベッドの予算が合わない!最悪シングル…いや、ソファーでというのも中々…。そうじゃない、ちがう、ダメだ。落ち着け!『彼女は大変な物を盗んでいきました…私の【心】です』神妙な顔つきの琴葉葵Zが呟いた。『せっくす!せっくす!せっくす!』全身包帯まみれの琴葉葵Cが血眼になって叫ぶ。『……』沈黙する一同。やめて反論して。そんな中一人の琴葉葵が立ち上がった『いんやぁ、ちょっと待ってくださぁい』『その独特な喋り方は!?』琴葉葵Cが驚く。そして続けた『琴葉葵H!?』なんと!一番先に飛び付きそうな名前してるお前が止めてるれるのか!?上下黒で統一した琴葉葵Hがスポットライトを独占する。『理性を失い本能のまま獣の様に襲う、これはいけません。なぜならばそらちゃんが彼女に【腕利きの頼りになる探偵】と教えている可能性があるからです。ならばその期待を裏切るのはひっじょーに不味いと思いませんか。ここは、【腕利きの頼りになる探偵】でアピールしようじゃありませんか』『なるほど!』『名案だ!』『流石私!』拍手喝采が起きる。琴葉葵H。彼女の【H】はヘンタイの【H】ではない。古畑任三郎の【H】なのだ!

パーパパパパパーパーパーパパパー…チャッチャラ!チャラ!チャラララ!

 

この間わずか二秒。

 

「こんにちは。腕利きで頼りになる超絶美女探偵、琴葉葵です」

「はぁ?」

 

 

 

 

 

「〈ミライノタクシー〉事務の京町セイカです。よろしくお願いします」

 

 来客用のソファーに座らされた私は、テーブルの向こうに座ったキョウマチセイカちゃんが渡してきた名刺に目を向けた。【京町セイカ】と書かれた名前の横に書かれた連絡先は会社のものだろう。とても残念だった。しかし名刺を頂いてしまった手前、立派な大人である私は社会的信用の為にも自分の名刺を出さないといけない。しかし私には自分の名刺がない。どうしたものかと思いながら名刺ケースを出すと、輪ゴムで雑にまとめられた〈ARIA〉の名刺が大量に出てきた。そう言えば何年か前に「作り過ぎたのであげます。是非布教してください」とONEさんに押し付けられたのを今の今まですっかり忘れていた。ここで閃いた私は束から〈ARIA〉の名刺を一枚引き抜き、セイカちゃんに渡した。

「夜は大体このバーにいる。何かあったらここに連絡してくれ」

「はぁ…」

 

 印象はマチマチ。しかしマイナスではなさそうだ。それを確認出来たので今度は実務的な話にシフトする事にした。私は仕事出来るいい女!私は仕事出来るいい女!

 

「それで、二日前に〈結月堂〉からタクシーに乗って北に向かった、10代後半の男性がどこで降りたのか、それを知りたいんだ」

「二日前ですか。他にお客様の特徴はわかりますか?」

「特徴?そうだなぁ…あ、そう言えば大きい紙袋。〈結月堂〉のロゴが入ったヤツね。それを二つ持っていたと」

「男の人、北、大きい紙袋、〈結月堂〉……っと」

 

 私の真剣さに触発されたのか、セイカちゃんはメモ帳に可愛らしい丸文字で必死にメモを取っていた。私も彼女の肢体を眺めるのに必死だった。

「今は運転手の皆さんが出っ張らっているので、詳細が分かるのには一日二日かかると思うのですが……」

「うん、それは構わないよ。他にも伝手はあるから、あんまり気負わないでね」

 いやー、すっげ。やっぱり大きいとブラで固定しても揺れるんだなぁ。大家さんはいつも大きめのゆったりした服しか着てくれないからなぁ。

「他に何か調べておく事はありますか?」

「他……」

 

 なんとか彼女のプライベートをさり気なく聞き出す会話はないものかと模索する。しかし私は仕事人なので、どうも一度スイッチが入ると仕事関係の話題しか頭に浮かばなかった。

「犯罪心理学を専攻する大学生が吸血鬼の本を買い漁る因果関係について、セイカちゃん何か意見ない?」

「犯罪心理学に、吸血鬼……?個人的に好きなんじゃないですか?」

「……だよなぁ」

 

 このままセイカちゃんを視界に捉えたまま思案するのも一興とは思ったが、ここで変に好感度を下げる様な事をするのはお仕事的にもプライベート的にもメリットはない。軽い礼を述べた私は名残惜しむ心を全力で封印して〈ミライノタクシー〉を後にした。

 

 

 

 

「ただいまー!帰ったよ姉さーん!」

 結局〈きづな〉の305号室に戻ったのは20時を過ぎた頃だった。

「おかえりー」

 微かに姉の声が聞こえる。リビングの方からはテレビの明かりと、そこから笑い声が聞こえた。姉はきっとバラエティー番組でも見ているのだろう。とりあえず放置。

 

12月の寒気のお陰でダメージを最小限に抑えられた冷凍食品を冷凍庫に押し込み、パンは食器棚の上に置いたバケットの中へ。卵と野菜たちは本日の晩御飯へとメイクアップするので、そのまま台所で生まれ変わりを待ってもらう。

 

「ごめん今からご飯作るー!」

「はーい」

 半分意識をテレビに持っていかれているであろう姉の適当な返事を引きつつ、私は棚から包丁、まな板、そしてフライパンを取り出した。炊飯器を開けると、ふっくらと炊き上がってくれたご飯がほかほかと湯気を上げた。流石お米大好き大家さんが選んでくれた炊飯器だ。スマートに仕事をこなす君みたいな子、私は好きだよ。一度炊飯器を閉めて今度は冷蔵庫へ。食材は買ってきたので調味料のみ。残り半分になったバターと残り10分の1程まで嵩が減ったケチャップを取り出す。しまった買い足せば良かった。最悪大家さんに借りればいいかと思いつつ、バターナイフで適当に切ったバターの塊をフライパンにぶち込み、コンロに火をつけた。青い火を見ながらいつも思うのは「IHってほんとに温まるの?」だ。それはさておき次の行程。まな板の上にピーマンを置いて、半分に切る。中の種をくり抜いて流しに投げ込み、更にみじん切り。フライパンの上のバターが良い感じに溶けてきた。スケート選手が氷の上を縦横無尽に滑るが如くバターを移動させる。ピーマン投下。次はネギだ。これも適当に切る。私は計量とかその類が苦手なのだ。フライパンに投下。しっかりと火を通す。少し火を弱め、中にチーズが入ったお子様向けウインナーの袋を取り出し、半分に切る。思い付きだ。フライパンに投げ込むと、切り口からとろっとチーズが溶け出し、なんか良い感じになった。怪我の功名だ。と、ここでトラブル。しゃもじとボウルの用意を忘れてた。慌てて用意。ボウルに一人分のご飯をよそってフライパンに投下。その上からこれでもかとケチャップを掛ける。中火に戻し、焦げ付かない様に混ぜる。それから数分としない内に葵ちゃん特製『超雑ケチャップライス』が姿を現した。平皿に盛って今度は卵を二つ用意。『卵同士をぶつけると片方しか割れない』という小ネタを思い出した。実践。すげぇ本当に片方しか割れない!ボウルに入れる。片割れはボウルの端にぶつけた。殻がちょっと中に入る。クソッたれ!なんとか掬い出して流しに投げ込んだ。二つの卵を菜箸でかき混ぜる。スピードが命だ。フライパンに少しバターを追加して卵を投入。しかし私には『オムレツ』なんて上品な料理は作れやしない。悔しい事に料理の腕は姉の方が上なのだ。またお姉ちゃんのオムレツ食べたいなとか脳みその端っこで考えながら、記憶にある【琴葉家のオムレツ】とは似ても似つかないスクランブルエッグ寄りのオムレツをケチャップライスの上に乗せた。トドメとばかりにケチャップを掛ける。ケチャップが無くなってしまった。私の分は?ううむ、〈東風〉に行けば誰か一人くらいはいるだろう、そこに乗り込むとしよう。お盆にオムライスを乗せた皿とスプーンを置いて台所を脱出。テレビがCMに入って暇そうにしている姉と目が合った。

 

「晩御飯できたよー」

「おー」

 姉の前にオムライスを置いた。ベッド脇に置いていたコップが空になっていたので、冷蔵庫から作り置きのお茶の入ったペットボトルを持ってくる。姉が食べ始めていた。元気な頃なら『いただきまーす!ガツガツガツ!うまー!!あおいー!おかわりー!あおいー!!』だったのに、今ではすっかり落ち着いてよく噛むことを学んでくれた。

 

「食べられる?」

「うん、おいしいよ」

 姉が口の端を上げてはにかんだ。歯を見せない上品な笑顔だ。それに笑顔で返した私はスマートフォンを取り出し、LINEを開いた。タイムラインでギャラ子が『とんぷーでのんでるぷー!』とかいうセンスのないコメントと共に焼肉の写真をアップロードしていた。写真の端には笑顔でピースしている弦巻姉さんの姿もある。

 

『まぜろ』【いつもの】と書かれたグループラインにメッセージを送る。アイコンは〈ARIA〉のカウンターに置かれたグラスの画像だ。他に良いものが無かった。

 

『早くしろ全部食べるぞ』クマのぬいぐるみのアイコンから驚異的な速さのレスが飛んできた。ギャラ子だった。

 

『十分かかる』私が返信すると、またクマが出てきた。

『そんだけあったらマキも食えるぜ』

『やめろバカ』

 赤いアコースティックギターが即答した。これは弦巻姉さんだ。私はスマートフォンをポケットにねじ込み、脱衣所に向かった。洗濯機の中身をほじくり出し、洗濯カゴに入っていた下着や白シャツを入れる。洗剤と漂白剤を入れてスイッチを押した。物が乱雑に置かれた部屋を音を立てずに移動。日頃からの癖になっている。私が寝室に使っている部屋に掛けられたつっかえ棒にハンガーを引っかけ、服を干していく。どうせ外は夜だし、一応下着ドロボーにも警戒しないといけない。私のはともかく、姉さんの下着を盗む様な不届き者がいれば地の果てまで追いかけて生きている事を後悔させる所存だが、そんな事になったら何より面倒くさい。物が乱雑に置かれた部屋を音を立てずに移動。「葵はご飯どうすんの?」姉が声をかけてきた。

 

「ごめんよ姉さん、今は姉さんのご飯作りに戻ってきただけなんだ。また仕事さ」

 

 

 嘘をついた。ごめんね。

 

 

「そっかぁ…」

 残念そうな顔を見せる姉。しかしご飯は食べてくれる。

「ちゃんと全部食べて、薬も飲むんだよ?」

「うん…」

「また日付変わる頃には戻るよ。今日も面白い話仕入れたから楽しみに待っててね」

「うん!」

 

 姉に再び笑顔が戻った。私は心の中でもう一度謝りながら、305号室を出た。一応304号室にノックをするが、返事はなし。車を出すとお酒が飲めないので、私は速足で北にある駅の方へと向かった。

 

 

 



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12月7日〈夜〉

 

 この世で焼肉ほど素晴らしいものはないと思う。至高と言っても過言ではない。脂のたっぷり乗った肉を鉄板の上で焼けば、肉はまるで狂ったように踊り出す。有史以来【火】を克服できたのは唯一人間のみとされる。が、別に【火】に対して無敵になった訳じゃない。ただ、【火】を理解し、それを味方につける術を得たからこそ人間は霊長類の頂点に君臨される事を許され、こうして生では食べられぬ他の動物を食し、己の血肉とする事を可能としたのだ。いわば【火】はこの地球、いや、この宇宙において【頂点に君臨する者がもつべき王者の証】なのだ。デカい火の玉が爆発して宇宙が誕生したのだ。その観点からも【火を統べる=世界を統べる】の理論に間違いはないはずだ。そして今私の前にいる牛さんや豚さんだったものは【火】を怯える事しかできない、ある意味で【火】から生まれた者の当然の反応なのだが、その魂を天に返した後の亡骸の一片になっても創造者の眷属たる【火】を恐れ、それから逃げんと体を震わせているのだ。と、そんな下らない事を考えながら私は〈東風〉の一角で自分が投げ入れた肉に良い感じに火が通るのを待っていたのだ。

 

〈東風〉は駅向かいに並んだ居酒屋の内の一軒で、鉄板の埋め込まれたテーブル席が六つあるだけの小さな店だった。しかしこじんまりしている割には食材の種類は豊富だし、何より狭いのでビールサーバーがすぐ近くにあるのが最高だ!

 

 それはさておき【頂点に君臨する者がもつべき王者の証】?バカじゃないのか。もしそうなら今頃人類は宇宙に賃貸マンション浮かべてないとおかしいし、もっと身近に言うと日照権を巡って民事裁判を起こしたりしないのだ。

 

「お、良い感じに焼けてきたぞぉー。にっく、にくにくおにきゅーっ」

 

 辺り一面を覆うような煙をまき散らす鉄板の上のお肉たちを、お酒が入って若干陽気になったギャラ子が裏返す。肉がまた踊り出した。

「すいませーん!ホルモンとカルビ追加下さいーい!」

 空になった皿を持ちながら弦巻姉さんが店員を呼び止めると、白ハチマキに黒シャツの店員が駆け寄り、数分待たずに追加の肉が来た。無理やり参加する形になった私が焼肉奉行してやろうと思ったが「先輩を立てなって」といって向かい席の弦巻姉さんは頑なにトングを放そうとしてくれない。

 

 弦巻姉さんは私の実家の隣に住む、正に『近所のおねーさん』的立ち位置に居る人だ。最も、小学校の後半から中学卒業間際までは親の都合で引っ越していたので、彼女の事をちゃんと知るようになったのは高校入学後、一緒に登校を始めてからだ。それまでは【背が高い・金色の髪が綺麗・おっぱいが大きい・しっかり者】という漠然とした事しか知らなかったが、実はかなりアニメや声優に詳しく、そしていつの間にか仲良くなっていた〈結月堂〉現店長の結月ゆかりさんとは相当深い関係にあるらしい。つまり私のレズ道の元凶で心の師匠なのだ。そんな彼女は私と違う大学に通い、そのまま大学院生として民俗学をのんびり勉強しながら今日に至る。実情は「世界の原点はエロにある!」と息巻いて世界各地の爛れた性事情を片っ端から調べて回っているだけで20代の半分以上を消化した残念な人だ。

 

 一方のギャラ子は弦巻姉さんの友人で、認めたくないが、私と一番仲がいい奴だ。まだ真面目だった頃の私が真面目に医大の入試を受けて合格し、発表会場に一緒に来てくれた弦巻姉さんが私達二人を同時に祝福してくれた事から直接的な友好関係が始まった。彼女のイメージは一貫して【身長高い・顔怖い・声低い・口悪い・声量デカい・喧嘩強い】とギャラクシーエンジェルのフォルテ・シュトーレンみたいなヤツだが、大学で法医学を収めた彼女は現在町で一番デカい病院に法医学者として勤めている。が、何かと暇らしく病院内とフラフラしながら患者とコミュニケーションをとっていると、あれよこれよと入院患者達の間で人気者になった。実に『見た目は不良中身は清楚』の典型だった。因みに両刀である。

 

「ホルモンは美容に良いっつーけどよー。人体の構造的にホルモン摂取してもそのほとんどは吸収されない訳」

「えっ、そうなの!?」

 

 山盛りのホルモンと格闘していた弦巻姉さんが驚愕する。そうだよな、やっぱイイ女がイイ女たるには日頃の食生活も大事だ。

「パクチーだってガンガン盛るけど、アレ本来は香り付け程度の物らしいしな。ま、噂でガンガン信じる傾向のある日本人なら当然の結果だと思うぜ」

「……葵ちゃん、焼けたホルモンあるよ。いっぱいあるから食べて」

「はぁ」

 虚無の目した弦巻姉さんが私の取り皿に次々とホルモンを積み上げてくる。私まで虚無りそうだ。

 

「そういや葵、今日はどこでフラフラしてたんだ?」

「薄井楼二年のアサミちゃんとキャンパス内で愛を育んでた」

「ちょっと私の大学で何してんの!?」

「依頼があったんだ。人探しのね」

 私は今日のあらましを一通り説明した。

 さとうささら氏からタカハシ君の捜索依頼を受けた事。

 大学で進展がなかった事。

 学生寮で手に入れた電話番号から実家に電話し『何か知ってる』らしき事を掴んだ事。

 そして〈結月堂〉での【吸血鬼本買い占め】だった。

 

「はぁー……吸血鬼の本ねぇ」

 ギャラ子が食い付き、弦巻姉さんも唸り始める。

「やっぱりそこ気になるか。じゃあ犯罪心理学専攻の学生と吸血鬼の因果関係について各界の未来のエリート二人はどう推理する?」

「きっと大好きなんだろうなぁ」「趣味だよね」

 二人がほぼ同時に答える。

 

「でも変な話だよな。行方眩ましてる最中に同じジャンルの本買い占めるか普通?」

「多感な十代男子が現実逃避するのも、推しジャンルの本買い占めるのも普通だけど、それが重なるとどうもねぇ…」

「私もそう思う。〈ミライノタクシー〉のセイカちゃんははっきり『趣味じゃないか?』って言い切ったけど、これが突拍子過ぎて何か気になるんだよ」

「あれ、葵ちゃんセイカさんと面識あったっけ?」

「姉さんもしかしてセイカちゃん知ってるの!?」

 自分が思ってるより食いついた事に弦巻姉さんだけでなく、内心自分でも驚いてしまった。仕方ないじゃん。恋は人を盲目にするのだ。ギャラ子だけ「誰それ?」という顔をしているが、それは無視する。

 

「ちゃん付けしてるけどさ葵ちゃん、セイカさん私と同い年だよ?」

 なんと!私の中に再び衝撃が走った。あの魅惑のロリ巨乳ボディーを持ちながら、私より年上!どれだけ私を虜にすれば気がすむのだろうか…!

 タカハシ君とかどうでもよくなってきた。

 

「もしかして友達!?」

「えっ、うん。よく互いの家に泊まりっこしたものだよ」

「「えーっ!」」

 私の驚きが予想より響く。と思ったらギャラ子とハモっていた。

「おいおいマキー。オレとはそういう事なかったじゃんよーなんでじゃんよー!」「次の!次の会合には是非私も参加させて頂きたく!」

「待って待って順番ね順番。泊まりっこっていっても何年も前の話だし、ギャラ子ちゃんその時勉強で必死だったから…」

「チクショー!オレのバカァーッ!」

 ギャラ子が嘆きながらビールを煽る様に飲みはじめた。私も同じ気持ちだったが、一つ気になることが。

 

「昔は…ってことはかなり付き合い長い?」

「うん。もう七年くらいになるかなぁ」

「頼むよ弦巻姉さん合コンセットして」

「それはやめといた方がいいよ。あの子お酒アルティメット強いから」

「アルティメット強いのか」

「……もしかして、狙ってた?」

「うん、一目惚れ」

「じゃあ今の内に悲しんじゃおう。あの子そらちゃんと付き合ってるよ」

「えーーーーーーーーーーーーーっ!?」

 

 

 

 私はこの一瞬で、二回同時に失恋した。

 

 

 

 ビールジョッキに手を出す、空だ。継ぎ足さねば。ビールサーバーに向かう。ビールを入れる。席に着く。ビールジョッキを傾ける。空だ。継ぎ足さねば。ビールサーバーに向かう。ビールを入れる。席に着く。ビールジョッキを傾ける。空だ。継ぎ足さねば。ビールサーバーに向かう。ビールを入れる。席に着く。ビールジョッキを傾ける。空だ。継ぎ足さねば。ビールサーバーに向かう。ビールを入れる。席に着く。ビールジョッキを傾ける。空だ。継ぎ足さねば。ビールサーバーに向かう。ビールを入れる。席に着く。ビールジョッキを…

「落ち着け葵!」

「ごごごごめんそんなに落ち込むと思わなかったごめんって!!」

「何を言ってるんだ二人ともハハハ変なんだよ何回継ぎ足しても何回継ぎ足してもビールが飲めないんだハハハ底に穴でも空いてるのかなぁ?」

「景気のいい話しよう!な!な!?聞けよ葵実は今日パチンコで大勝ちしたんだよ、10万!」

「はぁ!?」

 

 視界がクリアになるのが分かった。おかねの ちからって すげー! しかしここ数分の記憶がない。

「ギャラ子お前そんなに勝ってチマチマ肉焼いてたのかよ!?」

「会計の時驚かしてやろうと思ったけどやめた!こういう時はパーッとしないとなパーッと!!店長!全部の席に一番高い肉とビールだ!オイ聞け〈東風〉の兄弟達よ!!本日失恋してしまった我が友琴葉葵の為に一杯付き合ってくれ!オレからの奢りだぁ!!」

「「「おぉーっ!!」」」

 

 全ての(と言っても六席しかないが)テーブル席に座っていた客たちが盛り上がる。中には顔見知りもいるが、ほとんどが知らないサラリーマンのおじさんたちだった。全ての席に分厚い肉の山と、ビールジョッキが人数分配られる。こういう時の嗜みとして、店長含めた店員たちも自分の前にジョッキを用意した。

「景気の悪い事は飲んで食って忘れるぞぉーっ!そーーれっカンパァーーイ!!」

「「「カンパァーーーーーイ!!」」」

 

 

 

 

〈東風〉のあの場の乾杯に初めて参加したヤツの中には、ギャラ子の唐突な行動に驚いた者もいるだろう。しかしこれが〈東風〉の良い所だった。

 

 私達三人の集まりは【同じ高校に通う友人】である事は先ほど語った通りだが、実は私とギャラ子には二年という【年の差】がある。彼女は弦巻姉さんと同い年なのだ。無論高校時代は私が一年の頃には彼女たちは三年だった。しかし私が高校に三年通い無事卒業を果たした頃、ギャラ子は既に私の志望校である医大の入学試験に二度も挑んだことのある古参兵だったのだ。その年、私と共に三度目の受験に望んだギャラ子は無事試験を突破。晴れて【同級生】となったのだ。しかし私は色々あって結局半年足らずで辞めることに。

 

 医大に一発合格するもドロップアウトした私と、二浪の果てに合格、立派な法医学者デビューを果たしたギャラ子と、そもそも別の大学でのんびり勉強し、現在も大学院で絶賛学生中の弦巻姉さんの三人は、高校卒業からの激動の時代を〈東風〉と共に過ごしたのだ。嫌なことがあったときは泣き喚き、良いことがあれば騒ぎ祝う、謂わばこの〈東風〉に集う者は皆血筋ではなく魂で繋がる家族なのだ。

 

 

 

 

「やっぱビールじゃ酔えないよな」

 素晴らしき夕食の後、私達は〈東風〉を出た。火照った体に12月の冷たい風が当たる。風呂上がりの扇風機を更に贅沢にした感じはいつ体験しても堪らないものだ。

「うん、〈ARIA〉行こうぜ葵。マキはどうする?」

「いやぁ、私は良いかなぁ……明日、仕事だしぃ……」

 

 昔よりは大分マシになったものの、やはり超が付くほどお酒が弱い弦巻姉さんはここでリタイアする事に。フラフラした足取りで“結月家”へ帰っていく弦巻姉さんの後姿を見送った私達は、陽気に肩を組みながら〈ARIA〉へと向かった。時刻は23時を過ぎた頃だったが、相変わらず〈ARIA〉には客がいない。

 

 

「いらっしゃいませ……おや〈東風〉帰りですか?」

「なぜわかった」

 

 私が問うた。ギャラ子も横でビックリしている。ONEさんは人を小ばかにするような笑顔を見せる。そして大袈裟にわざわざ鼻をつまむジェスチャーを見せた。

「臭いますよ。大方『ビールじゃ酔えない』とか言いながらこっちに来たんじゃないですか?」

 

 図星だった。しかし認めるのはなんか癪だったので黙って席に着くことに。感情の振れ幅が曖昧なのは多分酔ってるからだと思ったが、ビールを数杯飲んだ程度で潰れる弱い女と思うのは酒飲みとしては許容できない。

 席に着いた私はスーパーニッカのストレートを注文し、隣に座ったギャラ子はバーボンのソーダ割りを注文した。このカウンター席に座ると、自然と落ち着き考え事が捗りやすくなる。学生時代、一番落書きが進んだのが授業中だったように【集中出来る環境】がここには揃っているのかもしれない。

 

「人探し、どうでした?」

 グラスを差し出しながらONEさんが興味津々に聞いてくる。私は本日何回目かわからない説明をした。

「なるほど」

 何が「なるほど」なのかはさておき、ONEさんは大きく頷いた。IAさんとONEさんには共通して世捨て人の雰囲気を纏っている節があるので、あまり深い意味はないのかもしれないけど。

 

「そうだONEさん、貰った〈ARIA〉の名刺だけどさ」

「ああ、三年前にあげたヤツですね。もしかして全部配ったんですか?」

「いや、聞き込み中に名刺交換する時があって、私持ってないからここの名刺渡しちゃった。悪いけど〈ミライノタクシー〉から連絡があったら私に取り継いでくれない?」

「それは困りますねぇ」

「なんで?」

「実は私、高所恐怖症なんですよ」

「あン?電話と高所恐怖症がどう繋がるんだ…?」

 

 横で黙ってお酒を飲んでいたギャラ子が会話に突っ込んできた。ONEさんが人を小ばかにするような顔を見せながら「だって」と口にして、一拍。

「犯人は崖に追い込むのでしょう?」

 沈黙が〈ARIA〉を支配し、三人は笑った。カウンター奥で寝息を立てるIAさんも心なしか笑顔になった気がする。どうもこのバーテンさんは、自分が探偵の助手を請け負う気マンマンだったらしい。酔うためにお酒を飲んでいる筈なのに、更に思考がクリアになってしまった。

 

「じゃあ明日は休業ですね。私は電話の前から動けませんし」

「ここならドア開けっぱなしでも大丈夫でしょ。あ、そうだギャラ子」

「何?」

 

 黙々と飲んでいるからか、ギャラ子は不機嫌そうな顔をした。バーではしみじみ飲みたいタイプなのだ。それに関しては私も全面的に同意するが、どうしても今日中に聞いておかないといけない事があったのだ。

「お前、明日暇か?」

「内容による」

「デートしようよ」

「デートか、悪いな。オレは明日プリキュアショーを見に行くという重大な仕事が……デートォ!?」

 

 ギャラ子は露骨に動揺しながら席から立ち上がった。飲んでた時より顔を真っ赤にしている。

「い、いいいいいいや嬉しいなぁ!お前から誘ってくれるなんてよぉ…良いよ、いこういこう!!」

「決まりだな。集合は明日の10時、〈ARIA〉でいいか?」

「朝の10時だな!?じゃあもう寝た方が良いな!明日は早いしな!!」

「あぁ。ドライブの後に青空の下で健全な汗をかくぞ。しっかり寝とけよ」

「外かヘヘヘ……じゃあオレ帰るわ!また明日な葵!あ、マスターごちそっさん!」

「私も愛してるよギャラ子」

「お休みなさい」

 

「イヤッホォォォォォォウ!」と叫びながら店を出て行くギャラ子。嵐が過ぎ去った事により一層〈ARIA〉の中が静まり返った。

 

 ONEさんの人を小ばかにするような笑顔を無視しつつ、私はもう一杯スーパーニッカを注文し、タバコに火をつけた。

 

 

 帰ったら姉さんにどうやって今日の話をしようかな。

 



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12月8日〈朝〉

【前回のあらすじ】

じゅーにがつ なのか

 きょー は あさから あおい おおいそがし 。
 おとなり の ひと に うるさい よ って ちゅうい してきた ん やて。
 かお しらん け ど とて も こわ い ひと やった 。
 はんせー して しずか に してくれる いうてた から よかった わ 。
 で おひる から ひとさがし 。
 だいがく いって このひと しらんかて まわった ん やて。
 おしゃべり な おばちゃん が いえ おしえてくれた らしい よ 。
 ええ ひと やん 。
 ゆうがた かえって きて おむらいす つくって くれ てん 。
 でも あおい きょー は よる おしごと て そと いっちゃた 。
 うち は いま でも あおい だいすき 。
 やけど あおい は どうやろ 。
 あした でーと いく ねん て 。
 あした は ごはん つくって くれない ん かな 。
 さびしい な。



(琴葉茜の手記より抜粋)


     ●

 

「よう」

 ギャラ子が〈ARIA〉に現れたのは午前10時少し前。私がフレンチ・トーストの到着を待つために新聞を開いていた時だった。芸能欄【音街ウナ新作シングル『天国の君へ~I LOVE YOU~』が100万ダウンロード突破のメガヒット】の記事を読んでいた私は新聞を下ろし、向かい席に座ったギャラ子の方を見た。

 ギャラ子は医者という事もあって、オフの日にはコートの様な丈の長い服を嫌う。白衣を連想してしまうからだそうだ。これにより日本女子の平均身長より高いギャラ子は服の選択肢を更に狭める。冬の仕事帰りや遊びに行く時は大抵、ジャンパーにジーパンの男子スタイルが基本だった。

しかしどうだろう、目の前の彼女は紺色のセーターと黒いロングスカートに身を包んでいた。首周りの黄緑色のスカーフも素敵だったし、肩掛けの黒い鞄もオシャレだ。心なしか、化粧もいつもより気合いが入っているように見える。片方だけ耳に掛けた髪が元来スレンダー美人である彼女を更にセクシーに見せる。

私は素直に思った事を口にした。

 

「あの……どちら様ですか?」

「あ?似合ってないなら素直にそう言えよ」

 口を開いたらいつものギャラ子だった。

 頬を赤らめながら視線を合わせてない所を見るからに、少なくとも自分では『似合ってない』と思っているらしい。さらけ出された耳が真っ赤になり、それを手で隠した。爪は短く切りそろえられ、赤色のネイルがキラキラと輝く。

 

「なんだギャラ子か。ごめんよ。突如現れた美女をどう口説こうか迷ってた」

「くっそ、なんで浮かれんだろうなぁオレ……」

 ギャラ子がそう呟いたのは、ひとえに私の服装に原因があるのだろう。なんたって昨日と同じくシャツ+ズボンにカーディガン、今は預けているがコートの普段着スタイルだからだった。

「そう言うなよギャラ子。ほら、今日のカーディガンは紺色だぞ?ペアルックじゃん私達」

「納得いかねぇ……」

 

 非常に不機嫌になったのか、ギャラ子は鞄からピアニッシモ・プレシアとライターを取り出し、火を着け吸い始めた。軽いタバコ吸いやがって。そんなの無いのと一緒でしょうに。

「ギャラ子。私、今から朝食なんだけど」

「それがどうしたヘビースモーカー」

 どうやら取り付く島もないらしい。仕方なく新聞に目を落とすと、フレンチ・トーストとコーヒーを手にIAさん……ではなく弦巻姉さんが現れた。彼女は学業の傍らここでたまにアルバイトをしているのだ。ウェイター姿が妙に板についている。

 

「葵ちゃんお待たせー。うわっ、ギャラ子ちゃん今日良い感じじゃん」

「お前もオレをバカにするのか?」

「やだなぁ、そんな訳ないじゃんマジでイケてるって。で、ギャラ子ちゃんもトーストいる?」

「……いや、メシは食ってきた。コーヒー頂戴」

「はいよー」

 

 弦巻姉さんがカウンターの奥へと消えると、今度はIAさんが現れ、ギャラ子の横に座った。私は目の前の健康志向を一撃で粉砕するような身体に悪いフレンチ・トーストを頬張り始める。美味いなぁ。

 

「やっほーギャラ子ちゃん。今日は葵ちゃんとのデートでキメキメだねぇー」

「そうなんだけどよォ、見ろよ葵の格好。普段着だぞ普段着。ちょっとオシャレしたオレがバカみたいじゃん」

「あれ、今日のデートは午前中に服を買いに行くってONEちゃんから聞いたけど」

「なんだって! マジか葵!?」

 

 食事中に話しかけるとは無粋な奴め。とりあえず私は左手の親指を立てて肯定のジェスチャー。ギャラ子に笑顔が戻る。

 

「そうだよなぁ、よくよく考えたら葵いつも似た格好だもんな!」

「ギャラ子ちゃん、葵ちゃんに可愛い服選んであげてねー」

「よっし任せろ!な、IAちゃんは葵にどんな服着せると一番似合うと思う?」

 そこから20分程、ギャラ子とIAさんによる『琴葉葵ファッションショー』の妄想が始まった。特に興味のなかった私はゆっくりとフレンチ・トーストを堪能し、皿を空にしてからコーヒーのお代わりを頼んだ。私の分と、ちゃっかり自分の分のコーヒーを用意した弦巻姉さんが隣に座り適当な雑談に華を咲かせていると、『フリフリレースのドレスを着せよう』という呪文と共にギャラ子とIAさんの会話が打ち切られ、私の方に視線を向けた。

 

「待たせたな」

「私はスカートなんて穿かないぞ。絶対だ」

「明日からスカートしか選べなくなる様なコーデ考えてやるぜ」

 

 朝食代を払い終わった私とギャラ子は、IAさんと弦巻姉さんに見送られて〈ARIA〉を出た。弦巻姉さんとは夜にまたここで集合して飲む約束をした。向かう先は〈きづな〉から少し離れた所にある駐車場。愛車であるフィアット500ちゃんに乗り込んだ私は助手席にギャラ子を招き入れ、エンジンを入れた。

 

 

 

 

「バットマンってさ、なんでアベンジャーズに呼ばれないんだろうな?」

「テメェ今度その話題を振ってみろ。二度とその口聞けなくしてやる」

 ギャラ子が私のフィアット500ちゃんのダッシュボードを改造した、バットマン専用棚のコミックを読みながらそんな事を言ったものだから、私はつい強く反論してしまった。日本人にはジャンプとサンデーの違いは分かってもマーベルとDCコミックの違いは理解できないらしい。

 

「悪かったって、そう怒るなよ」

 対してギャラ子は事の重大さを理解してないのだろう、会話を早々に打ち切ってコミックに視線を落とした。

 

 彼女が持つ【バットマン・ゴッサム・バイ・ガスライト】は19世紀ゴッサムを舞台にバットマンが暴れる公式IF世界の話だ。本編の様な超化学ガジェットでの派手な戦いはないが、スチームパンク風にアレンジされた装備達はオシャレ度が別作品と比べても群を抜いている。しかしギャラ子はこの素晴らしい芸術センスには無頓着なのか適当に読み進めてしまうのだ。これでは私と轡を並べてハービー・デントの素晴らしさを語り合う未来は夢に等しい。仕方なく私はフィアット500ちゃんの運転に集中する事にした。

 

 

 私の住む町は駅を中心に南北に広がる。〈ARIA〉や〈東風〉、〈きづな〉に〈結月堂〉と私の活動圏のほとんどは南側に集中しているが、ギャラ子の勤める〈実乃村医大付属総合病院〉や弦巻姉さんが通う〈薄井楼大学〉は北側にあるのだ。今回はそのいずれにも用事がないのでスルーし、私は車を北に走らせていた。駅から15分真っ直ぐ直進すると横幅20メートル越えの一級河川〈藍川〉へと出る。橋の中心がちょうど町の境目だ。橋を渡り切った辺りでギャラ子が窓の外を見た。

 

「お、こっち側にくるのは珍しいな」

「うん。寄りたい服屋と目的地がここにあるからね」

 信号が赤になった。停車する前の車と若干車間距離を開けて、私もフィアット500ちゃんのブレーキを踏む。

「言っちゃ悪いがよ、ここからこの町の服屋に行こうと思ったら相当遠回りじゃねぇか?品揃えに関しても駅前の店とそう変わらんぜ?」

「良い店見つけてね。それに、折角のドライブ日和に近場で済ますの勿体ないじゃん?」

「それは言えてるな」

 

 内ポケットからピースの箱を取り出し、一本口に咥える。火をつける前に信号が青になった。

「ギャラ子ォ。火ィ」

「ったく」

 

 渋々と言った調子で鞄からライターを取り出したギャラ子が私のタバコに火をつけてくれた。大手コンビニに標準で置いてあるだろうタバコの中でもニコチンとタール量がぶっちぎりに多い煙が私の灰を満たす。ギャラ子も自分のタバコに火をつけた。車内が二人のタバコの煙で充満する。ギャラ子はまたコミックに目を落とした。

「吸いながら読むのは良いけど、私のバットマンに灰落とすなよ」

「わーってるって」

 目的地手前まで来たので、私はフィアット500ちゃんを右折させた。

 

 

 

 

「葵。なぁ、おい」

 最初の目的地である『服屋』の駐車場に到着した。のは良いのだが、ギャラ子はとても不機嫌そうな目で私を睨みつけている。高校時代、たったのこれだけで当時一番不良だった生徒を半泣きにさせたギャラ子の目は年季を増して更に破壊力を増していた。私でも少々チビリそうだった。

「何?」

 しかし負けてなるものか。吸い終えたタバコを灰皿に突っ込みながら、ぶっきらぼうに答えてやる。

 

「お前、今日『デート行こう』っつったよな?」

「うん」

「お前、『服選ぼう』つったよな?」

「そうだね」

「普通さ。常識的に考えてさ。女子二人がデートで服選ぶのにさ。こう、あるじゃん?」

 

 ギャラ子はなんとか言葉を選んでいるようだった。しかし私は回りくどい言い回しは好きじゃない。はっきりと目の前の『服屋』を見つめながら、私は口を開く。

 

「なんだよ、女子二人がデートでワークマンに来ちゃいけないのかよ」

「いい訳ねぇだろうがバーロォー!作業服買いに来たわけじゃねぇんだぞ!?」

「バカはお前だよギャラ子。ワークマンに服買いに来たつったらお前、作業服しかねぇだろうがよ」

「そうかそういう事か!葵お前!お前最初っからオレを騙すつもりだったな!?」

「騙してないよ。言ってなかっただけ」

「それを『騙す』っつーンだよバカぁ!!」

 

 目じりに涙を浮かべるほどに叫んだギャラ子はドアを開けた。タバコの煙が充満する車内に新鮮な空気が供給される。

「帰る!!家で寝てた方がまだマシだ!!」

「まぁ待てって」

 

 フィアット500ちゃんから出て行こうとするギャラ子の足を掴む。ストッキング越しでもすらっとした、しかししっかりと筋肉のついた肌触りのいい太ももの感触が伝わってくる。

「触るな変態」

「聞いてくれギャラ子。詳しく話したいんだ、頼む」

「……チッ」

 

 中身は良い子のギャラ子は助手席に再び座ってくれた。腕を組んで露骨に不機嫌さをアピールしてくる。

 

「騙したのは悪かった。こうでもしないとお前は断ると思ったんだ」

「……そりゃ、あんな言い方してなきゃオレも断るかもしれなかったけどさ、長い付き合いじゃん。ちゃんと事情説明してくれりゃオレも着いてきたさ。そんなにオレ信用ないか?」

 

 いや単にからかっただけだよ、と言おうにもギャラ子はマジで私との『デート』を楽しみにしていたのだろう、目じりの涙が怒り以外も含まれているのを察してしまった。だからはぐらかす事にした。

 

「なんでだろうな……私、ギャラ子の事が好きだけど、ほら、私ひねくれ者のクソ女じゃん?素直に頼もうとしたんだけどきっと、その、プライド的なそんな感じのものが邪魔しちゃったんだと思う……」

 私は胸の前で組んでいたギャラ子の腕を掴み、両手でしっかりと握った。そして真っ直ぐ、ギャラ子の目を見据える。瞳の向こうには青い髪の詐欺師の顔があった。

 

「頼むギャラ子。私には、お前が必要なんだ。お前じゃないと、ダメなんだ!」

 

 なんて歯の浮く台詞だろうか。こんな言葉を生きている内に吐くとは思わなかった。しかしあながち嘘ではない。ギャラ子がいないと今日の『予定』に差し障るのは紛れもない事実なのだ。

 

 暫く見つめ合っていると、ギャラ子が先に折れた。

「……あぁくそ、分かったよ!手ェ貸すよ!それで文句ないだろ!?」

「流石ギャラ子!愛してる!!」

「やめろ狭い車内で抱き着こうとするなァーッ!!」

 私の愛の抱擁を全力で拒否するギャラ子だったが、その顔に既に涙はなかった。

 

 

 

 

 最低限必要なのは二人分の作業着だけだった。残りの『道具』は〈ARIA〉で朝食を済ませる前に知り合いからレンタルしていたからだ。私は作業着売り場を適当に物色。ずっと見ていると目がイカれそうなオレンジ色の作業着を二着、それぞれMとLを見つけて買い物籠に突っ込んだ時、後ろにいたはずのギャラ子が消えている事に気が付いた。興味なさそうだったし、もしかしたら店の前でタバコを吸っているのだと思っていた私はレジへと向かう。作業着売り場はレジから一番遠い場所にあったので必然的に他のエリアを視界の端に捉えながら移動すする羽目になるのだが、警備員用の道具が置かれているエリアで、警棒を子どもみたいに振り回すバカを見かけた。見ない振りをしてレジに向かおうとしたら、そのバカが私を見つけた。

 

「おい葵見ろよ!警棒だ警棒!ちゃんと光るぞ!オレ初めて持ったわ!」「カラーコーンがいっぱいだ葵!地面に置いてないから汚れてない!一度やってみたかったんだよ両手につけてドリルゥ~」「なぁ葵見ろって!祭りの法被だ!こんな所に売ってたんだな!ん?なんで12月にも置いてるんだ?ま、いっか!」「葵ー!!」

 

「うるせぇ黙れぇーーーーーーーーッ!!」

 

 平日の昼間からワークマンのど真ん中でバカ騒ぎする20代半ばの女子二人は、果たして他の人の目にはどう映ったのか、私にはわからない。知りたくない。頼むから教えないでくれ。

 

 

 

「……」

「……」

 ワークマンから出た私とギャラ子はフィアット500ちゃんの中に戻ってきた訳だが、変な沈黙が車内を支配していた。二人揃ってペアルックの作業着を着こみ、帽子を目深にかぶる姿はシュール極まりない。

 

「何だよコレ間抜けな誘拐犯みたいになってんぞ」

 ギャラ子が怪訝な様子を見せる。胡散臭さに関しては私も感じているが、それでも押し通さねばならないのだ。

 

「安心してくれギャラ子。私達が今から行うのは立派な慈善事業だ。法に触れる様な事はしない」

「当たり前だ。そっちは無職かもしれないが、オレは医者だぞ」

「大丈夫心配すんなって。とりあえず先にコンビニでコーヒーとタバコ補充しよう。目的地は遠いぞ」

「じゃあ今着替える必要なかったじゃねぇか……」

 項垂れるギャラ子を横目に、フィアット500ちゃんは再び町を駆け始めた。

 

 

 

 目的地までは高速に乗って東に約三時間。そう言うとギャラ子がまた機嫌を悪くした。

 

「で、どこ行くんだよ。あ、嘘つくなよ」

「タカハシ君の実家だよ。昨日調べた住所とグーグルアースで目的地周辺の調査は完了している。私に抜かりはない」

「ほんとかねェ……」

 

 

 一時間程高速を走ってから、道中のパーキングで小休憩。トイレと食事を済ませ、再び二人旅に戻る。

 

 

 

 

 

「おい葵。さっきから追い抜かされまくってるぞ」

「隣は追い越し車線だからな」

「もっと飛ばせないの」

「相棒を悪く言うな。この子だって必死なんだぞ」

「車が?」

「今時人間同士のカップリングに拘ってるとか化石も良い所だぞギャラ子」

「そんなもんかねぇ……」

 

 

 

 

 

「葵。この車さ」

「うん」

「長距離移動向いてないよ。ケツが痛てぇ」

「車高低いから天井近いしな」

「そうだよ。なんでこれチョイスしたんだよ。ホンダのネクサスとかにしろよ」

「お前が欲しいだけだろふざけんな」

 

 

 

 

 

 

「〈ARIA〉、毎朝行ってんの?」

「毎朝行ってんの。メニューも固定よ」

「……あのさ葵。友人というか、医者の観点から言わせてくれ」

「おう」

「お前、多分味覚障害患ってるよ」

「あの激甘フレンチ・トーストの事言ってんの?分かってるに決まってるじゃん」

「お前絶対長生きしないぞ……」

 

 

 

 

 

「そういやギャラ子。最近どうなのさ仕事」

「どうって何さ」

「法医学者としての仕事だよ」

「オレが暇ってことはな、人が死んでないって事だよ」

「でもアレじゃん。司法解剖できる奴って日本でも限られてるじゃん」

「そうだな。今でも『解体待ち』の列がある訳だ」

「なんで暇なの?」

「……隣町に腕利きの人がいてオレの存在が霞んでるの。これで満足か中退」

「ありがとう二浪」

 

 

 

 

 

「……弦巻姉さんさ」

「おう」

「なんであんなにおっぱい大きいのかな?」

「………なんでだろうなぁ。でもアイツ、母親も巨乳らしいしなぁ」

「私をロリ巨乳の沼に叩き落した元凶だからな」

「何だお前、マキの母親知ってんのか」

「幼なじみだよ知らない訳ないじゃん。数年会ってないだけで弦巻姉さんの胸凄い事になったのも知ってるからな。やっぱ遺伝なのかな」

「…普通さ、バストDって巨乳だよな」

「うん。大きいよギャラ子のおっぱい」

「でも男ってこれを『小さい』とか『普通』とか言うよな」

「そうだよね、死ねばいいのにね」

「やめろ誰が解剖すると思ってるんだ。……でもさ、マキ隣に並ぶとそう思われるのも納得だよな」

「遺憾ながらね」

「……大きいの、良いよなぁ」

「いいねぇ……」

「揉みたいよなぁ」

「揉みたいねぇ……」

「帰ったら、揉むか」

「うん。更に大きくするお手伝いしてやろう」

「「……はぁ」」

 

 

 

 

 

「なァ、これならマキ呼んでも良かったんじゃね?」

「そう思うけどさ、流石に二人分給料は出せないよ」

「なんだ、お小遣いくれるのか!?」

「うん。それに見合う仕事はしてもらうけどね」

「そうか。じゃ、この陰鬱なドライブも少しは有意義になるってモンだな!」

「移動中に時給は発生しないよ」

「ブラック企業め」

「保険も効かないからな。そこんトコよろしく」

 

 私の懇切丁寧な企業方針の説明はお気に召さなかったのか、ギャラ子は車のラジオに手を伸ばした。丁度昼の番組の代わり時だった。よく舌の回るパーソナリティーが番組に当てられたお便りを読み上げ、それに対してコメントしていく。行きつけの美容院がラジオを垂れ流しにしているせいか、どうも普段聞かない私には『ラジオ=美容院』という変なイメージがあった。しかしギャラ子は気にしていない様子。ラジオの声に耳を傾けつつ、ボーっと外を眺めている。

 

 お便りを一通り答え終わると、リクエスト曲を流す時間になった。今日のリクエスト曲は今絶賛話題の大人気アイドル、音街ウナちゃんの新曲『天国の君へ~I LOVE YOU~』だった。普段は明るいポップな歌ばかり歌う彼女にしては珍しく、とても静かで悲しい曲だった。

 

「この曲ってさ」

 

 ウナちゃんの歌が終わった辺りで、ギャラ子が不意に喋り出した。山が近くなってきたからか、少し遠くに聞こえる。

「んー?」

「なんか、悲しいよな」

「そりゃそうだよ」

 私は頷いた。そして昔見た新聞の記事を思い出す。

 

「なんでもウナちゃん、一年前に小学校の時からずっと仲良しだった友達を亡くしちゃったみたいで、その子の為に作詞した曲なんだって」

「小学生の時から…って事は単純計算で5年以上の付き合いはあったんだな。あの年でそんだけ付き合いのある子と別れるのは悲しいよなぁ」

「そうだなぁ」

 

 いつになく感傷的になる私達。

 この曲は『天国に行った大切な友へのメッセージ』であると同時に、私達に『今ある友情愛情の大切さ』としみじみと、しかし心の奥底まで訴えかけてくるのだ。

 

「なんか、こういうのはダメだなオレ達」

「うん……」

 大人になると涙もろくなるというが、これは人生経験が豊富であればあるほど、ちょっとしたことで心が揺れるらしい。そして私達は人生経験が豊富なので心へのダメージが非常に大きい。ギャラ子は二浪した時の辛さと友人からの励ましでも思い出しているのだろう。私は大学を辞めた時のイザコザと、姉を看病して生きる今の介護生活が脳裏に響く。早く元気になって欲しいのは本心だが、もしこのまま続くならどうしよう、という不安もある。

 

 このままウナちゃんの歌の感傷に浸ると目的地に着くころにはず精魂尽き果てているかもしれない。現に今にも泣きそうだもん。

 

「ダッシュボードの下にCDケースあるよ。ギャラ子適当に見繕って」

「おう。テンション爆上がりするヤツ選ぼう」

 

 そう言って選んだ一枚のCDをデッキに挿入する。ギターによる派手なイントロが流れてきた。BARNABYSの【スキマミマイタイ】だ。ドライブ中にテンション上げるには最高の曲じゃないか!

 

 高速を降りるまでの時間、私達はテンションの昂る様な曲を連続でかけ、車内アカペラカラオケを堪能した。

 



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12月8日〈昼〉

     ●

 

 時刻は15時を少し過ぎた所、私達は目的地であるタカハシ君の実家前へと到着していた。小高い丘を切り開いた高級住宅街、その中の一つがタカハシ邸だった。

 

「うわっ、すっげー金持ち……」

 ギャラ子が間抜け面でタカハシ邸を見上げる。赤い三角屋根に純白な壁。明らかな西洋建築だった。最も、建物に関する知識など私にはさっぱりなので、これがどの国ゆかりの建築様式なのかは理解できない。こういう分野はどちらかというと弦巻姉さん寄りの領分だ。

「きっと生まれた時から何でもあったんだろうな、少年がヒモになるわけだ」

 何やら一人で納得しているギャラ子をよそに、私はフィアット500ちゃんのトランクを開けた。何回も確認したので当たり前だが、備品はちゃんと揃っている。

「ギャラ子、これ持って」

「あ?」

 

 作業着を来た長身の女がのしのしと歩いてくる様は実に圧巻だ。やはり弦巻姉さんじゃなくてギャラ子を選んで正解だったと思う。説得力が段違いだ。

「なんだこれ、芝刈り機?」

 トランクの中を見たギャラ子が露骨に面倒くさそうな顔をする。

「なにさ、鎌の方が良かった?」

 軍手を手渡す。私は自分の分の軍手と鎌、それとビニール袋を取り出した。

「まさかまさか。大変うれしゅうございますよっと」

 

 ここまで来て「やっぱやだ帰る」とも言えないギャラ子は渋々と言った感じで芝刈り機を掴んでくれた。エンジンに車輪と取手を付けただけのシンプルなデザインだが、単純に重い。私ではトランクに乗せるのに相当苦労したものだ。しかしギャラ子は苦しそうな表情一つ見せず軽々と持ち上げる。

「む、結構重いな」

「そういう顔しろよ説得力ないなぁ」

 

 トランクを閉めた私はタカハシ邸の前に向かう。鉄製の重厚な門の横には、最新式であろうインターホンが設置してある。

「あ、ごめんギャラ子。私の髪二つくくりにしてもらっていい?ゴムは私の右ポケットにあるよ」

「えーっ、自分でやれよぅ」

 文句を垂れるので鎌をチラつかせてやる。仕方なくと言った調子でギャラ子は後ろから抱きつく様な姿勢で右ポケットに手を突っ込み、黒いゴムを取り出した。1分もかからずに私の肩まで伸びる髪を二つくくりにまとめる。

 悲しい事に【いつもの三人】の中で私は女子力が最底辺なのだ。料理と身だしなみを姉に任せっきりだったのが不味かった。

 

「ありがとう。ギャラ子お前、一応離れとけ」

「ん?おう」

 素直に門の前から離れてくれた事を確認した私はインターホンを押した。数秒待つとガチャ、という音が聞こえてきた。

 

『はい』

 スピーカーからは落ち着いた女性の声が聞こえてきた。しかしやはり高いインターホンはすごいな、ノイズが全然入ってないじゃないか!

「おはようございます!わたくし清掃業者DSAエージェンシーの鈴木と申します。ご予約を承りましたお庭の草刈りにやって参りました!」

『あの、どこか別のお宅と勘違いしていませんか?』

 

 スピーカーの向こうから怪訝そうな声が返ってくる。当たり前だ、私も初耳だからな。

「あれ?おかしいな……タカハシ様、で間違いないですよね?」

『確かにこの辺りに住んでるタカハシはウチだけですけど……』

「あれ、でも確かにタカハシ様から……あ!申し訳ございません!息子様から言伝を頂いていたのを忘れておりました!『親孝行だ』だそうです!」

『まぁ、あの子がそんな事を!? 今ロックを解除しますね!お庭でお待ちしております!!』

 再びガチャ、という音が鳴り通話が切れる。同時に門から何かが動くような音が聞こえてきた。

 

「やったぜ」

 私はギャラ子にガッツポーズしてみせた。ギャラ子は肩をすくめて応える。

「葵お前さ、これが失敗したらどうしてたの?」

「何も考えてなかった。上手くいって良かったね『黒さん』」

「誰だよ黒さんって……あ、もしかして」

 私の『偽名』の意味に気が付いたギャラ子が声をあげる。嫌な仕事も創意工夫を凝らして楽しく挑まねばならないのだ。

「じゃ、メゾっと仕事しようじゃないか。ちゃんとしないと晩御飯にありつけないよぅ?」

「おい待てあお…みっ、海空来(みくら)!せめてあさみちゃんにしてくれよぉ!」

 文句を言いながら芝刈りを担ぐギャラ子と共に、私はタカハシ邸の門をくぐった。

 

 

 

 

「すいません、どうも私一人だとお庭の手入れも大変で……」

 タカハシ夫人(仮)は落ち着いた雰囲気の、いかにもなマダムであった。大学生の息子を持つ事から相当お年を召されている筈だが、30代と言っても押し通せるような肌の艶があった。四捨五入したら30歳になる私は内心焦る。

「えぇ。確かにこれは我々にお声かけ頂くのも納得です」

 

 タカハシ邸の庭はテニスコート一つ分程の広さがあった。しかし、それは全体の概算だ。家の周りを囲むようにある庭は一面だけ見るとそう広くはない。12月という事もあって庭に植えられた木には緑が乏しかったが、その分無作法に伸びた草が嫌な存在感を醸し出していた。

 

 私はギャラ子改め『黒さん』に指示を出した。芝刈り機で大まかに刈り取って、細かい所は私が鎌で刈り取っていく。

 

 初めは嫌そうな顔をしていた『黒さん』だが、面白い位に草が刈り取れる事にテンションが上がった彼女がノリノリで仕事をしてくれた。おかげで、二時間以上を覚悟していた草刈りの仕事は一時間足らずでほとんど終わってしまった。やっぱ弦巻姉さんじゃなくてアイツを選んで良かったと本気で思う。

 

 

 

お盆を手に「少し休憩しませんか?」とタカハシ夫人が言ってくれたので、私達は少し休むことにした。

 

「……彼女、『黒さん』ですか?」

「えぇ。『黒川』なので『黒さん』です」

「凄い元気ですね」

「えぇ、それくらいしか取り柄がないので……」

 

 縁側でお茶を頂いていた私はタカハシ夫人と共に『黒さん』を眺めていた。一時間ノンストップで草刈りをしていた彼女だが、今は室内から現れた巨大な白い犬二匹に囲まれて大はしゃぎしている。久しぶりに広い庭を駆け回れた犬達は『黒さん』に大変感謝しているに違いない。強面のせいで病院でも「なかなか子どもが目を合わせてくれない」と嘆く彼女だが、動物にはよく好かれるのだ。

 

「そう言えば」

 空になったグラスを縁側に置きながら、私は『本題』に入る事にした。

「ご依頼人様はご在宅でしょうか?」

「息子ですか?すいません、今はここには居らず……ご存じなかったのですか?」

「いえ!……実はですね、本当は今日の朝お邪魔させていただく予定だったのですが、こちらの不手際によってこんな時間になってしまったので、ご電話を……と思ったのですが、ご連絡が付かなかったものですから」

「あぁ!そういう事ですか!申し訳ありません。数日前、息子の住む大学の寮が火事になったらしくて、近くのアパートを借りてるらしいんですよ!」

「そうなのですか!それは初耳でした…」

 

 いや全くだ。私は白いモコモコに襲われる『黒さん』を眺めながら思考する。

 

 タカハシ君はさとうささら氏の前から姿を消したが、どうやらその前後で実家には連絡を入れていた様だ。

 大方、仕送り関係で連絡をする必要があったのだろう。

 単純な資金や食事調達の他、『不在通知』なんて送られてしまったら親の方から警察に連絡をされかねない。

 大学の方は不登校の生徒の親にいちいち連絡する程『過保護』でもない筈だ。

 やはりこれは計画的、かつ自主的に『行方不明』を演出しているのは間違いなかった。

 

「それで、彼は今どこに?」

「何で知りたいんですか?」

 

 折角仲良くなれたと思ったのに、タカハシ夫人がまた怪しそうな顔を見せる。お金持ちというのは胡散臭い業者からの嫌がらせが多いのだろう。疑わしい行動には敏感なのかもしれない。しかし、私の座右の銘は【最終的に成功すれば失敗じゃない】なのだ。

『切り札』として用意したさとうささら氏とタカハシ君のツーショット写真を作業服の懐から取り出し、タカハシ夫人に手渡した。

 

「あら、これは……」

「えぇ、実はこれを事務所に忘れていきまして……。かなり仲の良さそうなお二人だったので、返してあげた方が良いかなと……」

「そうですか。あの子、まだささらちゃんとお付き合いしていたんですね……!」

 何か引っかかる言い方だった。

「それは一体……?」

「……そうですね。少し恥ずかしい話なのですが、私と……『かつての』夫は非常にその、仲が良くなくて……」

「かつての……?」

 私がそういうと、タカハシ夫人は頷き、話を続けてくれた。

 

「えぇ。もう10年くらいになるのですが……お酒を飲み過ぎた彼は赤信号に気が付かず、車に……よくある話です」

「それは、その、申し訳ございません……」

 

 私は努めて『一般的な人』の反応を演じた。平時なら「酒に酔ったおっさんが轢かれる!?超間抜けじゃんサイコー!!」と手を叩いて大喜びするが、そういう冗談が通じる相手ではなさそうだし、何よりそこまで仲良くない。

「いえ、気にしないでください。非常に他人に厳しい人でした……。とりわけ息子には酷く当たり、私は彼との離婚を考えていた矢先の出来事なので……」

「……」

 

 沈黙で応える。しかし頭の中で一つの疑問が解決した。ヒモ糞野郎なのは親父譲りだった訳だ。

 

「あの子、『親父みたいには絶対ならない!』って必死に勉強しましてね、偏差値の高い都会の大学に合格したんです」

「薄井楼大学、ですよね?」

「はい。そこで犯罪心理学を学ぶと。将来は警察官になるんだとも言っていました」

 

 薄井楼ある町は都会じゃねぇぞ。と思ったが、ぐっと堪える。いちいち上げ足を取っていては人には好かれないのだ。視界の端では『黒さん』が白いモコモコを二体同時にワシャワシャと撫でている。

 

「そんな息子が、大学に入ってすぐ『彼女が出来た』と連絡をくれたんですよ。『絶対幸せにしてやるんだ!』とも言っていました。でも、二カ月くらい前でしょうか。あの子。泣きながらね、電話してきたんですよ『ささらちゃんを泣かせちゃった』って。あんなに父親を憎い憎いと言っていたあの子ですけど、小さい頃に夫だけ見ていたので、正しい『男の振舞い方』を知らなかったのでしょう。きっと無意識に、夫の真似をしていたんだと思います。……私、何も言ってあげられなかったんですよ。母親失格ですよね。あの子泣きながら『どうしよう…どうしよう…』って……う、うぅ……」

 

 感情が昂ってしまったのか、タカハシ夫人の目に大粒の涙が流れ始める。いつもなら女性が泣くとすぐ抱いてあげるが、今の私は作業着に身を包んだ清掃業者なのだ。女性に触れたい衝動を押し留めてポケットからハンカチを取り出した。

 

「すいません……。はぁ、息子がね『どうやったら彼女を幸せにしてあげられるんだ』『なんで俺にはあのクソ親父の血が流れてるんだ…』って電話越しに言うんですよ。私も耐えられなくなって一緒に泣いちゃって……。この間の電話ではその話をしなかったので、てっきりもう別れて、寮に居られなくて嘘ついてたのかもとか思っちゃって……」

 

 成程その線があったか。という考えがよぎったが、それ以上に私はタカハシ君に対して非常に『勘違い』をしていた事に反省した。

 彼もまた私と同じく、現状に苦しみながらも必死に生きている若者の一人だったのだ。

 

「……なんか、ごめんなさいね。この写真見てると、なんというか、色々吐き出したくなっちゃったので……」

「いえ、お気持ちは分かります……出来ればその、息子さんのお部屋を見せて頂けることはできないでしょうか?」

「どうしてですか?」

 私は彼を『糞野郎』だと勘違いした己に恥じながら、頭を掻いた。

 

「いえその、そんなご立派な息子さんに、個人的に興味がありまして……」

「あー…ああ!なるほど!海空来さん、惚れたんですね!?」

「うえぇっ!?」

 なんでそうなるんだよ!と叫ぼうとしたのだが、若い女が頬を赤らめて「男の部屋を見たい」は確かにホの字だわな。なので仕方なく話を合わせることにした。

「えっと、その……はい……」

「ささらちゃんがいるのに、全く困った息子です……良いですよ。折角なので『黒さん』もご一緒にどうぞ」

 

 

 黒さんって誰だっけ?と思ったがそこで犬と戯れているギャラ子の事だった。

「ではお言葉に甘えて……。ギャ……黒さーーん!ちょっとーーーー!!」

「……ん、あっ、はいはい」

 顔や服を犬に舐められてベトベトになった『黒さん』がのしのしと歩いてくる。モコモコ二体も当然の様に着いてくる。

「どうした?」

「タカハシ君の部屋見せてくれるんだって。ちょっと見に行こうよ」

 

 

 

 

 タカハシ君の部屋は屋敷の二階にあった。「こちらです」と通された木製のドアの向こうには、六畳程の洋室があった。

 

 床には青色のフローリングが綺麗に敷かれ、向かって右側には今は使われていないであろうベッド。毛布は柔らかそうで、今飛び込んだら間違いなく三日は熟睡できる自信があった。遠く山が見える窓を中央に、左側には学習机と本棚が一つ。心理学関係は勿論の事、法律関係の本も多く並んでいた。その下にはジャンプの単行本も並んでおり、彼が勉強一本ではない、ごくごく普通の少年時代を送っていたのが伺えた。

 

「あまり面白くない部屋でしょう?」

 流石に触れられないので目を皿にして観察していると、タカハシ夫人が微笑を浮かべた。が、私は感銘を受けていた。なんたって〈きづな〉の私の部屋と違って床が見えるのだ!これだけで私がタカハシ君に人間的に敗北しているのが実感できる。ごめんよタカハシ君。『糞野郎』は私だったわ……。

 

 一通り部屋を見せてもらった私達はタカハシ夫人に礼を言い、庭掃除を再開した。

 

 

 

 そして17時。私は泣きながら犬との別れを惜しむギャラ子を引っ張りながら、フィアット500ちゃんの元へ戻った。

 

 

 

 

「しかしギャラ子、お前。草刈りの才能あるな」

 帰りの車の中、私はギャラ子に声をかけた。後部座席にテニスコート一つ分の雑草が『相乗り』しているせいで、車内全体に大地の匂いが蔓延していた。〈きづな〉の大家さんはビックリするに違いない。

「よせよ恥ずかしい」

「ホントだって。職に困ったら、二人で清掃業始めるか!」

「現に職に困ってるのはお前の方だろ!」

「はっはっは!こりゃ手厳しい!」

 

 ラジオを聞きながら談笑していた私達だったが、高速に乗って風景に変化が無くなった頃に、私は『本題』について話す事にした。ラジオの音量を小さくすると、ギャラ子が察して私の方に顔を向けてくれた。

 

「所でギャラ子。どうだった?」

「ん?ヒロとユキか。ありゃ相当愛されて育ってるぜ」

「誰が犬の話しろっつた前髪エグゼイド!タカハシ君の部屋だよ」

「部屋ァ?」

「『吸血鬼』。何かそれっぽいのあったか?」

 

 そう、私がタカハシ君の実家に用事があったのは、彼の現在地を知るのと同時に〈結月堂〉での不可解な行動を確かめる為でもあったのだ。実家の部屋に一冊でもあれば……と思ったが、そういったものは見受けられなかった。隠している可能性もあったが、タカハシ夫人から聞く『タカハシ君』像からは、そういった隠し事をするようには思えない。

 

「あー、そっちね。なかったよ。おばさんの後ろでコッショリベッドの下も覗いたりしたが、エロ本一冊もなかった。一応壁や天井も見たが、ポスターみたいなのを貼った形跡もなかったよ」

「怪しい所洗ってくれてありがとうギャラ子。やっぱ弦巻姉さんじゃなくてお前選んで正解だったわ」

「へへ……」

 私は素直に褒めることにした。ギャラ子は照れ隠しにタバコを吸い始める。

 

「でもよ、マキでも男の部屋に行ったらまずエロ本探すだろ」

「かもね。でもあの人、そういう所どんくさいから」

 コソコソしようとして顔からこける弦巻姉さんを想像して、二人で笑った。

「〈吸血鬼〉の方はダメだったけど、肝心のタカハシ君の現在地は分かった訳?」

「うん、お前が犬と一緒に最後の芝刈りしてる時に聞いた。少なくとも薄井楼の近くにいるのは確かだそうだ。変に離れると親に怪しまれるしな」

 私は作業着の左ポケットに入れていた走り書きのメモをギャラ子に渡した。

 

「汚ったねぇ字だな。えっと……『C』に『201』?」

「宅急便の伝票無くしたみたいでな。これだけしか聞き出せなかった。だが、薄井楼周辺で頭文字が『C』のアパート201号室…これがわかれば問題ない。そこがタカハシ君の潜伏先だ」

「大学近くのアパートつっても結構な数あるぞ。駅を挟んだ南北入れると更に数は増えるぜ」

「片っ端から回ってもいいけど、ここは〈ミライノタクシー〉のセイカちゃんからの電話待ちかな。タクシーを降りた場所さえ分かれば選択肢はグッと狭まる筈だ」

 

「……すげぇな葵。探偵みたい」

「違う。私はただの無職だ」

「事務所開設して本業にしたらいいのに」

 本気で感心したらしいギャラ子の言葉に、私はため息をついた。

「あのねギャラ子」

「おう」

「事務所開設するじゃん?」

「うん」

「捜査資料とかファイリングしないといけないじゃん?」

「仕事だからな」

「面倒じゃん?」

「まぁな」

「単純に事務所の維持費もかかるし、確定申告とかあるじゃんじゃん?」

「自営業の辛い所な。義務教育でやってほしかった」

「わかる。で、一番の原因」

「おう」

 既に日が傾き始めた空に目を向け、私は言った。

 

「私は、朝に、弱い」

 

 

 

 理由は分からないが、下りは上りよりも若干早く移動できる。

 ラジオを垂れ流しながら高速を走る事2時間。ようやく見知った愛しき我が『町』へと戻ってきた。

 ガソリン代に高速料金、作業着代etc.と金がかかる事が最初から分かっていれば、さとうささら氏から前金2万とか言わずに10万円頂いていたのに。と、思う。

 

「そういやさ、これからどうすんの?」

 狭い車内であくびをしながら、ギャラ子は私に問いかけてきた。

 

 時刻は19時。〈ARIA〉がお酒を出すのが21時。弦巻姉さんが大学を出て〈ARIA〉に着くのはいつも22時以降。狭い〈東風〉は今行っても席が取れる筈もない。これも全部ギャラ子の草刈りが優秀過ぎたせいだ。なので私は脳内葵ちゃん会議の結果を素直に口にした。

「どうしよう」

「何も考えてねぇのかよ。……それにしても臭いな」

「草だけに?」

「るせぇ。あーあ、せめて着替えだけでもしたいぜ……」

 

 信号が赤になったので停止した。目の前には〈藍川〉にかかる橋がある。

 私はギャラ子の顔を見ようと左に視線を向けた。そこである建物を発見した。

「〈ホテル・サウダーデー〉……」

 

 所謂『ラブ・ホテル』と呼ばれるものだ。確か『黄金の外見』を売り込みにしていたが近隣住民の猛烈な反対で黄色いペンキに落ち着き、『黄金』の話題性で客を取ろうという当初の目論見が外れた〈ホテル・サウダーデー〉は赤字ギリギリという話だ。剥がれた黄色いペンキすら塗り直せない所からもどれだけ業績が苦しいのかが伺える。どこも大変だ。

 

 しかし、私達が一番必要なのは『着替えられる部屋』と『汗を流せるシャワー』だ。

そして正直、一日中ずっとギャラ子と一緒にいた事で己の中のレズが疼いて仕方がない。

 

「ねぇ、ギャラ子」

「…負けた方が、〈ARIA〉で奢りな」

「今日はずっと私に付き合ってくれたからな。先にタチってくれて良いよ」

「年下の癖に余裕みせやがって。見てろよヒンヒン言わせてやるぜ!」

 

 流石、察しが良い女だった。信号が青になる直前に方向指示器を点滅させた私はフィアット500ちゃんを左折させて〈ホテル・サウダーデー〉へと向かう。

 

 

 

 【勝負】の内容は簡単だ。今回は譲ったが、いつもは最初にじゃんけんで【受け責め】を決める。タイマーを二つ用意し、『受け』側のタイマーだけ起動するのだ。で、一回『果てる』事にチェンジ。最終的に長く耐えた方が【勝利】という訳だ。

 

 

 

 で、私は恥ずかしながらじゃんけんがすこぶる弱い。

 

 しかし、ギャラ子との勝負は常勝無敗だった。

 

 〈ホテル・サウダーデー〉の一室で、全裸のギャラ子がヒンヒンと鳴いた。

 



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12月8日〈夜〉

     ●

 

 私とギャラ子が〈ARIA〉に着いたのは、23時を少し過ぎた頃だった。

 カウンターの端の席では弦巻姉さんがほんのり頬を赤らめながらグラスを見つめ、それをONEさんが人を小ばかにするような笑顔で見つめている。やはりそれ以外の客はいない。

 

「お帰りなさい」

 先に私達に気が付いたのはONEさんだった。私は弦巻姉さんの左横に座り、そしてその隣にギャラ子が続く。心身ともに疲れ果てたギャラ子はそのままウトウトし始めた。朝から無限のスタミナで動き続けたギャラ子だが、流石にギャラ子エネルギーにも限界があるようだ。私は原子力に代わるクリーンエネルギーとして『ギャラ子発電』を提唱し、余生を高等遊民として過ごす盛大な計画に大幅な変更を施さないといけない事に歯嚙みした。最悪この計画は凍結しなければならないではないか!じゃあこんなの煩悩も良い所だ、さっさとタバコの煙でかき消すに限る。隣でタバコ嫌いの弦巻姉さんが露骨に嫌な顔をするのを無視して、私はピースを一本口に咥え、火をつけた。ONEさんと目が合う。

「ギムレット」

「おや」

 スーパーニッカのボトルに手を掛けていたONEさんの手が、止まる。

 

「嬉しいですね。やっと私にバーテンダーの仕事をさせて頂けると」

「今日は良い事いっぱいあったからね。この流れなら成功するよ」

「良き日の締めくくりに選んでくれますか。光栄です。では、修行の成果をお見せしましょう」

 

 ウキウキと準備を始めるONEさん。彼女はバーテンダーとしての腕も、そして『話し相手』としてのトークセンスも一流だ。キレキレの『返し』に関しては一生勝てないとすらも思っている。しかしこのONEさん、どうもギムレットを作るのだけは下手なのだ。他のカクテルは大丈夫なのに、よりにもよって私の大好物であるギムレットだけが、だ。

ONEさんにカクテルの作り方を教わった弦巻姉さんは普通に作れるのにONEさんには出来ない。〈ARIA〉七不思議の一つだった。

 

「で、今日のデートどうだった?」

 弦巻姉さんがニヤニヤしながら聞いてきた。酒に弱い彼女の事だ。これが一杯目でも相当キテるかもしれない。

「それがよ聞けよマキィ!……ん、ちょっと待て。お前が飲んでるのコイルモアじゃん!」

「マジか!?」

 ONEさんのバーテン姿を眺めていた私も流石に驚く。まさか〈ARIA〉に置いているとは思わなかった!

 

「ん?これそんな名前のお酒なの?」

 弦巻姉さんがとろんとした目で応えた。彼女の目の前のラベルにはちゃんとドイツ語で『コイルモア』と書かれていたが、その上からマジックで大きく『弦巻マき』と書かれていた。誤字なのはおそらくONEさんが書いたからだろう。彼女にはひらがなとカタカナの区別がつかない。

 

「ちょっと頂戴姉さん!」

「あ、これ私の名前書いてるボトルなんだぞぅ!」

「硬い事言うなよマキ!」

 すっかり元気になった私とギャラ子はコイルモアのボトルをひったくり、カウンターから勝手に空のグラスを二つ拝借した。安くても一本1万は超える上等なウイスキーが今、私達の目の前にある。いつもなら安物の酒をチビチビと頂くが、今日はそんな細かい事いってられないのだ。なんたって私達は!仕事帰りなのだから!!

 

「注いでやろうギャラ子」

「へへっ、悪いな」

「あーっ!私のお酒ェ……」

 

 酒が入ってヘロヘロになった弦巻姉さんの豊満な胸を背中に感じながら、私はグラスにコイルモアを注ぐ。当然、最初はストレートだ。

 グラスにゴールドの液体が注がれる。ワクワクする私だが、酒通でもあるギャラ子が何やら訝しげな表情を浮かべた。

「どうした?」

「いや、コイルモアってこんな薄い色だったかなぁって」

「お待たせしました。ギムレットです」

 

 ギャラ子の疑問を断ち切る様に、ONEさんが私の前にギムレットを差し出してきた。相変わらずグラスを差し出す仕草、そしてギムレットの見た目だけは完璧だった。

「それは弦巻さん用のスペシャル仕様ですよ」

「コイルモアはコイルモアだろ。ほら、葵の分注いでやるよ」

「悪いね。折角だしONEさんも飲む?」

「一応職務中ですので」

 

 やんわりと断るONEさんを横に、ギャラ子が私のグラスにコイルモアを注いでくれた。これで三人の前には同じ酒が並んだ事になる。

「先にコイルモア頂いていい?」

「お二人の口に合うかどうか…」

「大丈夫だ他の店でも飲んでる。それにストレートだぜ?」

 

 ギャラ子は既に待ちきれないという様子だった。弦巻姉さんもちゃっかり乾杯のスタンバイをしている。何故か私が音頭をとる立場になっていた。まぁいいか。私はコイルモアの入ったグラスを手に取った。今日一日に思いを馳せる。

 

「それでは、彼女想いのタカハシ君に」

 

「ヒロとユキに!」

「ちょっと待って二人にしかわからない内容で進めないで」

「「乾杯」」

「かっ、乾杯!」

 

 ドイツで作られた『大きな森』の名を冠したウイスキーが、私の舌に触れ、そして喉に……。

 

 

 

 

「……」

 

 

 ギャラ子の方を見た。「え?」という顔をしているが、多分私も同じ顔をしていると思う。

 

 

「……」

 

 

 ONEさんの方を見た。眉を下げた笑顔を見せていた。はっきりと「だから言ったのに」と書いているのが分かった。そして、何故私達の見えない所に『コイルモア』を置いていたのかを心で理解した。

 

 

 

 これ、ほとんど水だ―――――――!!

 

 

 

 恐らく、アルコールに弱い弦巻姉さんの為に予めボトルに水を混ぜていたのだろう。ウイスキーの水割りやロックを飲む直前に用意するのは、純粋にアルコール度数も関係するが、水と混ざる段階での味や風味の変化を楽しむためだ。恐らくONEさんは目の前で9:1とかの割合でコイルモアの混ざった『水』を出されると心が傷つくと思って、ラベルに名前を書いた上で、私達から隠していたのだろう。そのさり気ない努力には思わず涙するが、それ以上にコイルモアを開発したドイツの方々に大変申し訳ない事しているのでは、と一介の酒飲みとしては思う。しかし、酒の飲み方など千差万別だ。それを理解している私とギャラ子はこの複雑な感情を『水』で流し込んだ。

 

「……やっぱコイルモアは美味いね。ギャラ子」

「あぁ、そうだな。でもマキのネームボトルを飲むのは不味かったな。悪い」

「いや、良いよぉ。やっぱお酒は友達と一緒に飲むのが一番だ」

 

 コイツさりげなく『不味い』とか言いやがった。

 が、酔っている弦巻姉さんは気にならなかったようだ。自分の好きな酒を私達が褒めたことによって完全にいい気分になっている。

 

 

 思えば今日は朝から人を騙してばかりだった気がしてならない。ギャラ子に、タカハシ夫人。そして今は弦巻姉さんにまで嘘をついてしまった。程度の差こそあれ、とても悪い事ばかりする一日だった。いつもは姉さんに報告する時は多少『色』を付けるが、今日はしっかり話して反省しよう。とりあえず今は酒を楽しもうじゃないか!私はONEさんの作ったギムレットに口を付けた。

 

 

「……ONEさん」

「はい」

「やっぱりこのギムレット、マズいよ」

「酷いですね葵さん。私には気を使ってくれないんですか?」

 

 

 

 

 今日一日色々あったが、〆の飲み会は最高だった。やはり汗水たらして真面目に働いたのが大きかったね。

 

 子どもの時、よく大人、取り分け男は「仕事の後のビールの為に働いている」なんて言っていたが、自分が成人して、労働の後に飲む酒の素晴らしさを知ればそれが誇張表現でも何でもないのを実感することが出来るよ。私は大学を中退してフラフラしていた身なので『働かないで飲む酒』の美味しさは十二分に理解しているつもりだが、こうやって改めて『働いた後に飲む酒』を堪能すると「嗚呼、どっちも甲乙つけがたいな」となるし、何より「私はお酒が大好きなんだな」と再確認する事が出来たわけだ。

 

 

 この日解散したのは、深夜1時を回った頃だった。

 デロンデロンに酔った弦巻姉さんは「よく効く頭痛薬があるから大丈夫」なんて言っていたが「頭痛薬で酔いが醒めるかアホか」とぼやいたギャラ子が“結月家”まで運ぶことになった。ギャラ子の事だ。きっとそのまま家に上がり込んでリビングのソファーで寝落ちでもするだろう。

 

 私が短い帰路をOZWORLDの侵略~the Chariots VII~の鼻歌を歌いながら移動していると〈きづな〉の前に一人の少女が立っているのが見えた。酔っている私でも見間違えるはずがない。アレは大家の紲星あかりちゃんだ。

 

「やっほーあかりちゃん。お出迎えありがとぅー!」

 自分でも分かる程に顔をにへら、と崩した私が手を振りながら近づいた。いやぁ、月夜の下の彼女も可愛いなぁ。

「葵さん……」

「へへ~っ、ただいまのハグゥ~」

 あんまりのも可愛いものだから、私はあかりちゃんに抱き着いた。そして気が付いたのだ。彼女の体温が異様に低い事に。

 

 酔いが醒めて一気に視界がクリアになる。

 腕の中で彼女が震えていた。

 この寒い夜空の下ずっと〈きづな〉の前にいたのだろう、彼女は歯をカチカチと鳴らしながらも、しかし部屋に戻ろうとしなかった。

 

「一体どうしたの……?」

 この体温差には、流石に私も真面目にならざるを得ない。

「葵さん……イタコさんが、イタコさんが帰ってこないんです……」

「えっ、イタコさんが?」

 

 そう言えば二か月分の家賃を滞納していたイタコさんが指定した期日は今日、いや正確にはもう『昨日』になってしまった訳だが、確かにこれだと期日オーバーになる。だが大家さんの事だ。きっとお金よりもイタコさんの安否が心配なのだろう。私はすっかり冷えてしまった彼女の銀色の髪を優しく撫でた。

 

「大丈夫ですよ」

「えっ……?」

 

 私はまた『嘘』をついてしまった。

 いや、これは『嘘』ではない。状況から推理した上で彼女が一番安心できるような『可能性』を選んだだけだ。今からその説明をしてあげようじゃないか。

 

「あの時イタコさんは『六日、いや二日待ってくれ』と言いましたよね?」

「いえ、『四日、いや二日』です」

 ありゃ、間違えたか。しかしそこはどうだっていいんだ。重要じゃない。私は続ける。

 

「ゴホン、ともかく。良いですか大家さん。イタコさんは一番最初に『四日でなんとか用意できる』と踏んだのです。しかし大家さんにこれ以上迷惑を掛けられまいと、なんとか極限まで予定を削って『二日』と言った。これは分かりますね?」

「はい…」

「ならば本来四日掛かった用事を彼女は二日で完遂しようとしているんですよ。例えばそうだなぁ……そう言えば彼女の実家は東北でしたね。新幹線で数時間。しかしそんな金もないので格安の夜行バスを使用したとしても……行き帰りで一日は使います。実家に戻ってからお金を工面する時間、下手をすれば親戚周りに頭を下げて事情を説明しているのかも……なんにせよ、非常に多忙なスケジュールをこなしている訳です。連絡がないのは、単に彼女が電話料金も未払いだったからでしょう。公衆電話で話すくらいなら一駅でも電車に……という可能性も捨てきれません。まぁ、ちゃんと毎月家賃払っていればそんな事は、とも思いますが、彼女は真面目です。それは私が保証します。ずん子ちゃんときりたんちゃんの名に誓った以上、遅刻はしても、雲隠れする事はないと思います」

「それは……そうですね……」

 

 私の腕の中で大家さんは納得してくれた様だ。だけど彼女は「でも…」と続けた。

「何か嫌な胸騒ぎがするんです……」

「胸騒ぎ?」

「はい。……うまく言えないのですが、今からでも探しに行った方が良いような、そんな気が……」

 

 なんてこった、『そんな気がする』オカルトの類だ。私はオカルトを信じないが、それを信じる人までは否定しない。こういうのは『棲み分け』が大事なのさ。

 

「……大家さんの気持ちは充分に理解しました。しかし、大家さんの様な可憐な少女がこんな時間に探し回ってイタコさんを見つけられると思いますか?その前に警察に未成年と勘違いして補導されるのがオチじゃないですか?」

「それは……」

 

 『若く見られる』というコンプレックスを指摘され、口を閉ざしてしまう大家さん。非常に心苦しいが、今日の私はもう『嘘』をつかないと決めたのだ。

 

「ではこうしましょう。私が早朝からイタコさんを探しに行きます。大家さんと違って車もありますし、最悪入れ違いになったら大家さんが私に連絡してくれればいい」

「良いんですか⁉……あ、でもその依頼するお金が……」

 

 【琴葉葵は何でもする便利屋だが依頼料かなり吹っ掛ける】という変な噂が大家さんの耳にも入っていたのだろう。先日のイタコさんの部屋に乗り込む時に同道した『依頼料』を差し上げていない。とでも思っているのかもしれない。今頃彼女の中では凄い桁の数字が株式市場の如く飛び交っているのかもしれない。

 

 だが私からすればこれくらいの『仕事』は単なる『暇つぶし』だし、それ以前に隣人を助ける『ご近所付き合い』に他ならない。大体、そんな事で金を取り出したら私は単なるヤクザになってしまうではないか!

 

「お金の心配はいりません」

「でも……」

 それでも食い下がってくれない大家さん。彼女の中の感情の天秤はよっぽど均衡を保つのが得意らしい。ここで「じゃあ体で払ってもらおうかグヘヘ」とでも言えば彼女は頬を紅潮させながら了承するだろうが、そんな事で支払いをOKしてしまっては以下同文。

 

「そうですね……では、大家さんの、それか大家さんの周りで困っている人がいたら、私に声をかけるように言ってください。お仕事の斡旋です」

「そんな事で、良いんですか?」

「そんな事なんてとんでもない!私にとっては仕事の有無は文字通り死活問題です。依頼されるという形でしか動けないので、どうしても受け身になってしまいます。そして私も依頼人の『人となり』から仕事を受けるか否か判断しないといけない……。もし、大家さんからの推薦であればその点を心配する事はありません。うーん、回りくどい言い方になってしまいましたね。要は私のお手伝い、と言った所でしょうか」

「なるほど……それくらいで手助けになるのであれば……」

「では、決まりですね!」

 

 私は一旦大家さんから離れ、冷たくなった彼女の手を両手でしっかりと包んだ。

「これからまた冷え込みます。大家さんも体を大事にしてください。もし帰ってきたイタコさんを、風邪をひいて出迎える訳にもいかないでしょう?」

「それは……確かに」

「なので今夜は大人しく寝ていてください。ちゃんとお風呂に入って体を温めてからですよ?」

「はい……」

 

 ようやく納得してくれた大家さんは、トボトボと自分の部屋へと戻っていった。明かりは消えていないが、窓からほのかに湯気が上がり出した。おそらく浴槽の蓋を開けたのだろう。

 

 

「……」

 私は〈きづな〉の周りをぐるりと見渡してから、それから姉の待つ305号室へと戻る事にした。階段を上がっている最中に、雪が降り始めた。

「……しばれるなぁ」

 一度動きを止めて、そして私は305号室のドアをゆっくり開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、私はこの選択を一生後悔する事になる。

 

 

 

 

 

 もし、この時大家さんを行かせておけば。

 

 

 

 

 そうでなくても、私が探しに行けば。

 

 

 

 

 もし、私が今日の段階でタカハシ君の潜伏先を見つけていれば。

 

 

 

 

 そうでなくても、彼の不可解な行動の“意味”を理解できていれば。

 

 

 

 

 もし、二日前に彼女の家賃を一旦肩代わりしていれば。

 

 

 

 

 そうでなくても、【封印の儀】が終わるまで待っていれば。

 

 

 

 

 もし、【あの日】の段階で気が付いていれば。

 

 

 

 

 

 そうでなくても……

 

 

 

 それらは所詮『たられば』の話だ。

 

 

 

 しかし、しかし。

 

 

 

 それらの『たられば』の内一つでも満たしていればあるいは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イタコさんは殺されずに済んだのかもしれないのだ。

 



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12月10日〈朝〉

【前回のあらすじ】

じゅーにがつ よーか

きょー  は あおい ともだち と デート やって んて。
でも ほんとー は たんてー の おしごと。
おそうじ やさん の フリ して おはなし。
さがしびと の おかん と なかよく なった んやて。
おおきい ワンコ かわいかった らしいよ。
で あおい いっぱい はたらいたから おさけ のんで かえってきた。
ウチ ひとり で さみしかった けど
れいぞーこ の なか マグロ の さしみ あってん。
メモ あって あったかいの ようい できなくて ごめんね って。
で かえって きた あおい また ごめんね って。
なんや きょー は あおい いっぱい あやまる なぁ。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

じゅうにがつ ここのか

きょうは あさから パトカー うるさかった。
あおい とびおきて そと とんでった。
なんでも おとなりさん ころされたんやって。
はんにん は つかまった らしいけど。
それから あおい ずっと かなしそう。
ウチが だいじょうぶかて きいたら しんぱいないよ って。
ぜったい ムリしてるわ。
あしたは ひさしぶりに おねえちゃん がんばろかな。

(琴葉茜の手記より抜粋)



     ●

 

 闇に沈んでいた私の意識を、まばゆい光が無理やり掬い上げた。目を開ける。自分の部屋だった。どうやら着替えもせずに寝てしまっていたらしい。最悪の目覚めだった。目を瞑ろうにも、今日に限って外は快晴。ベランダから清々しいほど眩しい朝日が入ってくる。憂鬱で仕方がなかった。いっそこの現実すら夢であってほしいと思う事すら許されないようだった。

 

 昨日の朝7時頃。〈きづな〉の近くで止まったサイレンの音に嫌な予感を覚えた私は寝起きそのままで服だけ着替えて外に出た。表には一台のパトカーと警察官、そして大家さんの姿がった。昨晩の雪で濡れていた階段を必死に降りながら大家さんの元に向かった私は、その時初めてイタコさんが殺されたことを知った。

 

 死因は後頭部を鈍器で殴られたことによる出血死。手荷物はなく、着ていた衣類を滅茶苦茶に引き裂かれた状態で発見された。遺体はここから東に1キロメートル程離れている住宅地のゴミ捨て場で、犬の散歩をしていた近所の主婦が偶然発見、通報に至ったという。殺人容疑が掛かったのは住宅地に住んでいた無職の男、松原忠司32歳。早朝に大急ぎで部屋に戻る音を隣人が聞いており、それを警察に証言したのだ。事情聴取の為に赴いた警官を突き飛ばし、逃走。その後数分としない内に拘束、逮捕された。彼の部屋には空になった大量のアルコール飲料の他、イタコさんの鞄と衣類の一部が見つかったらしい。警察は強姦目的でイタコさんを襲撃し、その後ゴミ捨て場にあった廃材で彼女を殴打。現金50万円の入った鞄を以て大急ぎで戻ったと推理した。

 

 私が警察から事情を聴いた時は松原忠司が逮捕される少し前だったのだが、夕方近くまで大家さんと二人で「悪いのは私だ」「いや違う私です」と抱き合いながら泣いた。酔っ払いの襲撃なんて防ぎようがない、なんて口に言うのは簡単だったが、私達には後悔しかなかった。急かさなければ、あるいはもっと早い段階で催促していればという考えが過るから、尚更だった。

 

 なんとか大家さんを落ち着かせることに成功はさせたものの、必死に励ます事ばかりしていた私の心労はかなりのものだった。まだお酒を出す時間じゃない〈ARIA〉に突撃し、とにかく飲んだ。校内の噂で聞いた弦巻姉さんは夕方頃にすっ飛んできて、夜には司法解剖から解放されたギャラ子がノロノロと現れた。そして私達三人は、人目も憚らず泣いた。いつもは寝ているIAさんが珍しく起きており、ONEさんと一緒に励ましてくれた。そこからの自室の布団で目を覚ますまで、つまり今な訳だが、その間の記憶がさっぱりない。自分の足で戻ってきたのが、それとも誰かに介抱されてやってきたのかも定かではなかった。

 

 「起きなければ。」脳内葵ちゃんの誰かが言う。起きてどうする?何をする?「仕事が残っている。」仕事?仕事とはタカハシ君を見つける事か?それは明日で良い。いや、来週。週明けにしよう。今日はイタコさんの葬式がある。それまでは悲しみの海に沈んでいたい。しかしお腹が空いた。

 

 よく考えれば昨日はほとんど酒ばかり飲んでほとんど食事らしい食事をしていない気がする。IAさんが気を利かして何か作ってくれた様な記憶が朧気に残ってはいるが、ほぼ一日中泣くエネルギーを賄えたとは思えない。どんなに辛い時も、どんなに悲しい時もお腹は空いてしまうのだ。台所から聞こえるお湯の沸騰した音を聞きながら、それでも私は瞼をもう一度閉じようと……。

「ん?」

 ちょっと待て。誰がお湯を沸かしているんだ?

 

 もしかしてギャラ子か弦巻姉さんが?いや、二人とも学校と仕事がある。それは考えにくい。ならば大家さんか、それか〈ARIA〉の姉妹どちらかだろう。後者の場合は彼女が運んできてくれた可能性がある。流石にそれを前に無碍に泣き寝入りを決め込むほど、私は子どもじゃなかった。部屋を出る。

 

 〈きずな〉の部屋はLの字になっており、私の部屋から台所に向かう為には、姉の寝ている部屋を経由していかねばならない。しかし物が乱雑に置かれたこの部屋を音を立てずに移動するのは、千鳥足になる今の私では少々難しい。そう言えば昨日は自分の事で手一杯で姉のご飯を用意できなかった。きっとお腹を空かせているに違いない。一昨日は遠出が確定していたので、御飯は包丁で切ってラッピングしたマグロの刺身を冷蔵庫に忍ばせておいただけだった。今日こそは温かいご飯を出してやらねば。私は姉の寝顔を見るべくベッドの方に顔を向けた。いない。

 

「まさか…」

 台所の方を見る。かつては日常風景の一部だった、エプロン姿の姉の背中がそこにあった。

「姉さん!?」

「あっ、ごめん葵。起こしてもうたかな?」

 

 菜箸片手に振り替える姿を見るのは半年ぶりだった。イタコさんの『死』で日常が瓦解しかけていたと思っていたはずなのに、世界に一条の光が戻った、そんな気がした。

 

「私がご飯作るよ。姉さんは無理しちゃいけない」

「ウチは少なくとも、今の葵の方が無茶してると思うよ?」

 

 菜箸を鍋の横に置いた姉がゆっくりと近づいてくる。右手が私の左頬に触れた。ほのかに温かい。姉の香りがする。

「こういう時くらいお姉ちゃんがしっかりせなな。お風呂沸いてるよ。先入って来なさい」

「……うん」

 久しぶりに姉の姉らしい所を見て、私は素直に頷く事しかできなかった。

 

 

 

 お風呂好きの私が30分という異例の速さで浴室から現れるのはどれくらい凄い事なのかというと、火星で発見されたパンドラボックスの力で日本が三つに別れる事とほぼ同じか、少し下だっだ。原因はやはり空腹。姿見の向こうの裸体はいつもより痩せこけ、やつれている様に見えた。私の『女の子好き』は勿論自分の事も含まれるので、こういう顔は好ましくない。しかし人間の三大欲求たる【食う・寝る・ファック】に忠実な私は髪の手入れも程々に浴室を出た。お腹が減って仕方がないのだ。

 

 ほとんど物置状態だったテーブルの上は二人分の食事スペースが確保されていた。テーブルの上にはご飯と、具のない味噌汁、そして卵焼きが用意されていた。冷蔵庫の中身は底をついていたらしい。

 

「準備できてるよ葵。さ、一緒にご飯食べよか?」

「うん…」

 私が台所上の棚に入れたブラックニッカのボトルとグラスを取ろうと手を伸ばすと、姉の柔らかい手が重なって静止してきた。

「折角やし、お酒は抜きで味わってほしいかな」

「それは……うん、そうだね」

 

 無意識に酒に手を伸ばすようになっていた己を恥じる。二人でご飯を食べている頃と言えば常にお酒は横にストックされていたが、それも半年以上前。きっと病み上がりでお酒が飲めないのを内心拗ねているに違いない。

「今日はお茶で我慢するよ」

「それがええよ。妹を飲酒運転の容疑で逮捕されたくないしな」

「ん?なんで?」

「なんでって……今日はウチ病院行く日やで?」

 

 カレンダーを見る。丸を付けるのが姉の日課だった。そして今日の日付である12月10日には丸字で【びょーいん】と書いてある。

「あ、今日だったか……」

 日にちの感覚が完全にどこかに行っていた。やはり昨日飲み過ぎたのが一番の原因かもしれない。

「先生にはちょっと遅れるって電話してあるから、ゆっくりご飯食べてから連れてってな?」

「わかったよ姉さん」

 二人で椅子に座る。食卓を囲む。ただそれだけの事で腹の奥底から何かこみ上げてきそうだった。

「ほな」

「「いただきます」」

 

 味噌汁を一口。空きっ腹に入れる食事というのはいつも、舌で触れてから胃に落ちるまで全ての感覚を全身で感じられるようだった。ご飯を一口。いつもよりゆっくり、長く噛み締めた。甘い。日本人が米を千年以上愛する理由を歴史ではなく舌先で理解していた。卵焼きを一切れ。視界が滲んだ。飲みこもうとしても、謎の嗚咽がそれを阻害する。

「どっ、どないしたん葵!? ごめん、美味しくなかった!?」

 姉の声が聞こえる。しかしよく見えない。

「ち、ちがっ…」

 

 喋るのも上手くいかない。しかし姉は私の背中をさすりながら、私の言葉を待っていた。私はゆっくり、口の中に残っていた卵焼きを時間をかけて飲み込んだ。

「姉さん、これ塩多いよ……」

「…ごめんな葵。失敗しちゃったわ……」

 

 もう枯れ果てたと思っていた涙が卵焼きに落ちる。私は情けなく大粒の涙を流していた。

強がっているのは誰から見ても明らかなのに、姉は優しく、何度も頷きながら謝ってくれた。

 

 かつて当たり前だった、しかし本当に大切だった日常が戻ってきた事に、私はもう格好をつけられずに情けなく泣き続けた。

 

 

 

「皿洗いは私がするよ」

 食べ終わった私が席を立つと、また姉が静止してきた。

「いや、ええよ。今日はウチが全部やるから」

「ダメだよ姉さん。役割分担は『いつもの』でしょ?」

 

 そうは言ったが譲らないのは知っていた。なんたって同じ『血』が流れている双子なのだ。どっちも頑固なのは親譲りである。結局、姉が洗い、私がその横で拭いて片付ける事で決着が付いた。狭い台所に並んで立つと、余計に狭く感じる。

 

「……姉さん。背、伸びた?」

「寝る子は育つからなぁ。葵もお酒とタバコ控えて、猫背治したら伸びるんとちゃう?」

「どうせ大きくなるなら胸が良いな」

「そらアカンわ。ウチも大きくならんかったもん」

 ふふふ、という笑い声が漏れた。どっちの声かはよく分からなかった。

 

 

 

 時刻は14時半。予定ではクリニックに行く時間は11時で、葬式準備の手伝いは14時からだった。両方完全に遅刻である。私は〈きずな〉の手前に黄色いボディーのフィアット500ちゃんを停め、スマートフォンを内ポケットから取り出した。一足先に準備を手伝いに行っていた大家さんに、姉をクリニックに連れて行ってから向かう旨を電話で伝えると、短い言葉で返事をしてくれた。短くはあったが、少なくとも昨日よりは声色の調子が良かった。

 

 カタカタと階段を降りる音が聞こえた。スマートフォンの画面から目を離すと、丁度姉が降りてきた所だった。

「ごめんなぁ葵~。待った~?」

 

 姉は黒いレース生地のドレスに、ツバの広い帽子を目深に被っていた。一年ほど前に姉がどこからか買ってきたものだが、今はクリニックで『デート』に行く時の格好になっていた。こんな服が我がゴミ屋敷に眠っていたとは思えない美しさだった。助手席を開けて、優雅に入ってくる。対する私は白シャツ&黒ズボンにカーディガン(今日は赤)、それにトレンチコートのいつものスタイルだった。

 

「そんなに眩しい?」

「久しぶりのお日さんの下やしねぇ。それに、葵とのデート、ウチも楽しみにしとったんよ?」

「作業服着て草むしりはしないから安心してね」

 軽口もそこそこに、私はフィアット500ちゃんを発進させた。

 

 

 

 姉が通っている〈月読クリニック〉は〈きづな〉から北東に移動した位置にある、小さなクリニックだ。どうやら姉の病気が特殊らしく、ギャラ子のいる〈実乃村医大付属総合病院〉でも担当できる医師がいないという。それ以上に大きい都会の病院に通うとなると交通費も医療費も馬鹿にならない。という事で紹介されたのがここだった。最もその効果の程は怪しかったが、今日の様に元気でいられる姿を確認できれば、半年間足繁く通った成果は間違いなくあったと思う。

 

 診療時間が既に過ぎていたが、姉が説得の甲斐もあって営業時間を少し伸ばしてもらった。この手の腹芸のない交渉に関しては、やはり私ではなく姉にしかできない得意分野だった。最もその方法というのは、『猫なで声で相手が折れるまで必死に懇願する』という傍から見ると非常に恥ずかしいものなのだが。

 

「……………」

 診察室に姉を送った私は、営業時間外の待合室という孤独の空間でひたすら待たされていた。いや、正確には看護師の月読アイさんがいるが、流石に姉の通うクリニックでナンパする程無節操ではない。それにいつもはそんな事はないのだが、今日はどうも『変』なのだ。私が医大を中退した理由の一つに『薬品の臭いに耐えられない』というのがあったが、今の〈月読クリニック〉にはそれとは違う『何か』を感じて止まない。懇意にしてもらっている以上大きくは言えないが、ここには来てはいけない様な、そんな感覚にすら襲われることがある。まぁ、営業時間外だし、加えて病院に『何度も来たくなるフレンドリーな雰囲気』なんてあっても困るっちゃ困るんだけどね。昨日の今日でおかしくなっているのかもしれない。私は今日の新聞でも眺めながら時間を潰そうとして、手が止まった。

「あれ?」

 いつも入り口に新聞を溜めている場所に、今日は一冊もなかったのだ。

 

「あの、アイさん。今日の新聞どうしたんですか?」

「新聞ですか?ごめんなさい。さっき診察にきたおじいちゃんが倒れた時に、持ってた水稲のお茶が全部かかっちゃって……」

「そうだったんですか…」

 

 仕方なく私は外に出て、道路向かいの自販機まで小走りで移動した。クリニックの前でホットの缶コーヒーとピースでなんとか時間を潰す事にしたのだ。

 

 外は寒くて敵わないが、手を出せない謎の美女と行き苦しい空間で黙ってるよりかはマシだった。しかしヒマだ。ここ数日は忙しく動き回っていたから良かったが、私は基本何かしてないと落ち着かない人間なのだ。スマートフォンがあるのでゲームアプリでも、という選択肢はあるが、どうも私は『画面を触る』という事に昔から抵抗があり、携帯ゲームもニンテンドーDS登場以降は一切触っていない。ボタンがあったDSでさえそうなのだから、液晶画面しかないスマートフォンなど尚更だ。その昔原因を考えたことがあったが、多分幼少期に親戚から譲ってもらったお古のブラウン管テレビの画面を触って親にこっぴどく怒られたのが原因だと思う。地デジ対応した数年後まで使っていたので、私はこの年にして珍しくブラウン管テレビを殴って起動させることが出来るぞ。

 

 おっと、流石に年の事ばかり考えて時間は潰したくない。私はまだピチピチの26歳なのだ。なので若者らしく年下をからかって時間を潰す事にする。スマートフォンの電話帳を開き、この時間一番ヒマそうなヤツに電話を掛ける事にした。

『はい水無瀬です』

「やっほー、こーちん元気ー?」

『あっ、あああ葵さん!?』

 

 電話の向こうでガタガタという物音が聞こえる。きっとダラダラしていた中大慌てで姿勢を正したに違いない。愛い奴よの。

 

 この『こーちん』は一か月ほど前から私に交際を申し込んできた男だった。23という若さで小学校の教師になり、生徒からの人気も高い。年の少し離れた兄の様にからかわれているというのが実情だが。そんなこーちんとは三カ月ほど前に彼の生徒絡みの『仕事』をこなした際に知り合いとなり、そこから私の何を気に入ったのか猛烈にアタックしてくるのだ。今週辺りから小学校は順次冬休みに入る期間なので、彼はきっと暇に違いない。

 

「今ヒマ?」

『忙しいけどヒマにします! どうかしましたか!?』

 素直な奴だ。

「いや、私がちょっとヒマでね。話し相手になってよ」

『えぇー…』

 

 私は『仕事』のその後の話を聞いた。地元の警察官にストーカーされていた女の子も、落ち着きを取り戻して普段通りの生活を送っているという。まがい物の探偵である私だが、こうやって『仕事』の成果が上手くいくと素直に嬉しくなるものだ。

 

『そう言えば葵さん、昨日のニュース、見ましたよ…』

「あぁ、うん」

 きっとイタコさんの事だろう。今はメディアのほとんどが事件現場周辺ばかりでカメラを構えているが、どこかの一局だけ〈きづな〉を取り上げていた。その時非常に気が立っていた私はカメラマンを蹴り飛ばしたが、多分蹴り飛ばす直前までの映像が流されたのだろう。

 

『その、大丈夫なんですか……?』

 大丈夫な訳がないだろうアホか。と言いたかったが、この無垢な青年は本気で心配しているのだ。こういった清い心を持っているからこそ、子どもからも好かれるし、私も好感が持てた。

 

「昨日いっぱい泣いたからね。とりあえずは」

『本当は授業投げて捨てでも向かいたかったんですけど、そんな事したら逆に葵さんに嫌われそうで……』

「はっはっは分かってるじゃないか少年!無職の私を抱きたかったら真面目に働き給えよ」

『抱くって、いやっ、僕はそんなつもりは……ッ!』

 

 あからさまに動揺しておる。若いなぁ。私は誰かと籍を入れようとは思ってないが、こーちんなら良いかな、とは薄々思っていた。このやりとりは単なる『惚気』なのだ。テレフォンセックスならぬテレフォンデートである。

 

 程なくするとこーちんの声の奥から怒号が飛んできた。「職員室で惚気話はやめろ!」子の声は万年独身の教頭だな、嫉妬とは見苦しい。しかしまだまだ青いこーちんは私と教頭に謝りながら電話を切った。切り際に『大好きです葵さん!今度こそデートしましょう!』と言っていたので少なくとも彼は教頭から一本取った事になる。

 

 身体はすっかり温かくなっていた。残っていた缶コーヒーに口を付ける。中身はすっかり冷え切っていた。私はポイ捨てしない善良なスモーカーなので、中身の残った缶コーヒーにタバコを入れて火を消し、それから自販機横のゴミ箱に捨てた。戻ってもう一本タバコを吸おうとした時に、丁度姉が〈月読クリニック〉から出てきた。歯を見せない上品な笑顔で手を振ってきたので、私も軽く手を振り返した。

 



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12月10日〈昼〉

12月10日〈昼〉

 

 

 この世でファミリーレストランほど素晴らしいものはないと思う。至高と言っても過言ではない。なんたって多種多様なメニューをテーブルで待っているだけで用意してくれるのだ。材料の買い出しから調理、後片付けに至るまでひっくるめ考えると、これほどまでに効率のいい環境はないのでは、と思うほどだ。『レストラン』となると上流階級ご用達だが、『ファミリー』がつくと小さいお子様と財布に優しいのが何よりだ。

 

「どれも美味しそうやねぇ」

 久しぶりに調子がいい、と〈月読クリニック〉の月読ショウタ先生からお墨付きをもらった姉を連れてファミリーレストランに入ったのは正解だったようだ。庶民的な店に似つかわしくない黒のドレスに身を包んだ姉が、メニューを開きながらニコニコと笑顔を見せていた。

 

「ゆっくり決めてもらっていいよ」

「んー、でも葵、その、お葬式の準備あんねんやろ?」

 

 最後の方は気を使ってか、声が小さくなっていた。壁に掛けてあったデジタル時計が示すのは16時。昼飯としても遅すぎる時間だ。事実いつも親子連れで賑わうこの店も、定年を迎えやる事のない老人達が何組かいるだけだった。そろそろ『若い』という括りから追い出されそうな私達姉妹が一番若いというのはそれだけで心が安らぐ。

 

「片付けの時に何倍も働くから、気にしなくていいよ」

「そう?」

 

 少し怪訝な表情を見せた姉だが、やがてサラダとミネストローネを選択した。一方の私はアルバイトらしき若い女性に「君をこの場で頂きたいな」と声を掛けそうになったのを喉元辺りで抑えつけ、リゾットを注文した。

 

 

 

「一年前は毎月通ってたのに、随分ご無沙汰しちゃったよね」

 ゴマドレッシングのかかったサラダを上品に食べる姉を見ながら、私はリゾットを口に運んだ。

アツアツのご飯に溶けたチーズが良く絡んでいる。これがワンコインしないというのは如何なものか。

 

「これからまた、毎月これるようになるかな?」

 

 一年前を思い出す。

 私は昼を少なめで済ませるのでさほど変わりはないが、姉はいつも男子高生の様にステーキやハンバーグに大盛ライスを頼み、太陽な笑みを溢しながら平らげていたものだ。それで夜も巨大エビフライを丼ぶりに乗せて食べていたのに呆れていたのも覚えている。

 

 とにかくよく食べて、よく食べる印象が強かった。

 

「毎日ご飯のメニュー考えるのは辛いから、早くそうしたいよ。あ、姉さんミネストローネちょっともらっていい?」

「ええよぉ」

 

 姉があまりにも美味しそうにミネストローネを食べるものだから、思わず私も一口頂いてしまった。サラサラしたトマトスープと、しっかり煮込まれた玉ねぎが口の中で蕩ける。なんてこった、これが本物か。私は感動すると同時に「もうあの料理サイトは使わない」と固く心に誓うのだった。

 

 

 

 デザートにプリン(ホイップクリーム付き)とコーヒーを一杯堪能した私達は会計を済ませ、ファミリーレストランから出た。一階が駐車場で二階が店舗となっているので、必然的に階段で下に向かう事になる。

 

 12月の風が暖房で温まった体を突き刺す。身震いを一つしながら階段を降りると、スカートを抑えながらゆっくりと姉が続いてきた。これがあるから私はスカートを穿きたくないのだが、生憎ギャラ子や弦巻姉さんはその辺りを理解してくれない。

 

「あ、お前!」

 

 そんな思考を遮る様に、私の後ろから声が聞こえた。振り返る。大学生らしき男が五人、その中の、鼻に絆創膏を貼った黒ジャンバーの男が私に向かって指をさしていた。

 

 誰だっけ?

 

「お前、この前の暴力女!」

 

 年上の、それも初対面の女性に対してなんて言い草だ。私は憤慨した。が、年上なので表情には見せない。一方の少年はゆでだこの様に顔を真っ赤にさせ、周りの男子はそれを見て大爆笑、それに対しても怒っている様に見える。今この瞬間、目の前で負の連鎖が誕生したわけだ。

 

 と、この辺りで私は彼がタカハシ君の大学寮の前でたむろしていた青年である事を思い出した。私は普段街で見かけた男の顔を律儀に覚えるタイプの人間ではないが、女子大生を頂いた後と、ガトリングトーク事務のおばちゃんという強烈な記憶に挟まれることによって、うっすらと覚えていたらしい。この手法にもっと早く気が付けば学生時代もっと成績上がったのかもしれない、と酷く後悔していると、件のゆでだこ青年が肩を怒らせて歩み寄ってきていた。

 

 しかし残念ながら、ギャラ子ほど威圧感がない。虚栄もいい所だ。

 

「大体なぁ! 女がなぁ! 男の顔殴るなんてなぁ!!」

「はぁ」

 

 令和のこの時代に実に昭和思考を引き摺る青年に対し、私は一抹の不安を感じながらため息をついた。嘆かわしい事に、『時代遅れ』と言われたこの思考を持つ若者は存在する。別に矯正しろ等は言わないが、それを私に押し付けられるのはたまったものじゃない訳だ。

 

 ゆでだこ青年の右拳が私の眼前に迫る。正面からだ。しっかりと腰の入った重い一撃。しかし格闘技の経験や、喧嘩慣れをしているかと問われれば、そうは思えない。せいぜい気弱な男子や女子ばかりに威張っていた『お山の大将』が成長して気だけが大きくなった、そんなよわよわなパンチだった。

 

 左手の甲で外側に押すと、青年の拳は本来の狙いから大きくずれた。軽く触れただけで攻撃をかわされた事に困惑の表情を見せたゆでだこ青年。しかしそれも一瞬だった。右足を一歩前に踏み込んだ私が右手の平でゆでだこ青年の顎を救い上げたからだ。「うぇ!?」舌を噛んだ青年が悲鳴を挙げた。そのまま左足を横薙ぎ。

 ゆでだこ青年は再び私の前で地面とキスをする羽目になった。

 

 後ろで笑っていた四人から笑みが消える。私は少し後悔した。

 つい軽くあしらってしまったが、後ろの四人は明らかにゆでだこ青年より体格がしっかりとしていた。一人二人ならまだしもそれが四人、しかも階段の上には姉がまだいる。先日軽く蹴飛ばせたのは一人で逃げ切れる算段もついていたからだ。今は戦うにしても逃げるにも最悪の状況だった。姉との久方ぶりの外食で気が緩んでいた自分に大きく恥じる。

 更にゆでだこ青年が意地と根性で復帰。これで勝利の可能性だけが先に逃げ出したことになる。実にヤバイ。流石に連れの一人が急に女に殴りかかって返り討ちにされたのを見て逆上するような若者ではないと祈りたいが、なんせ女に急に殴りかかる男の連れなのだ。同程度かそれ以上のバカである可能性も捨てきれない。ならばいっそ先手を打ってボコボコにしてやらねばならない。

 

 

 その時だ。

 

 私の目の前に、大きな黒い蝶が舞い降りた。姉さんだ。

 

「こらぁ」

 

 間延びした声、しかし姉が咎めたのは私ではなく、向かいのゆでダコ青年だった。

「こんな皆に迷惑かかる所で女の子に手ぇ出すなんて、悪い子やね」

 

 そして、姉はしなやかな手つきで青年の顎に手を当て、一瞬だけ顔を近付けた。

 

「あ……」

 私からは黒い帽子で見えないが、後ろの少年団がこぞって頬を染めていることから、何をしているのかは明白だ。

 

「ほら、ちゃんと謝れる?」

「えっと…ごめんなさい…」

「……お、おう……」

 

 まるで別人の様な豹変っぷりに、流石の私も動揺を禁じ得ない。キス一つで子犬みたいになるとか、さては童貞集団だったのか?

「ほら葵。はよ帰ろう?」

「あ、うん……」

 優雅な足取りで駐車場を歩く姉さんの後ろを、私は黙って着いて行った。

 

 

 青年たちは、まだ、惚けている。

 

 

 

 

「いやぁ、久しぶりの新鮮な料理は美味しかったなぁ」

「姉さん、それはこの前の刺身に対する皮肉?」

「…ん、そんなトコかな」

 ハンカチで口許を拭いていた姉がにっこりと笑った。

「じゃあ、一旦着替えに戻ろうか」

「あの、その事やねんけど…」

 

 やはり病み上がりであったが故か姉さんは体調不良を訴えてきた。「単なる食べ過ぎやと思うんやけど…」と恥ずかしそうに言っていたが、確かに顔が少し青ざめていた。

 

 食後直ぐに車で揺れていたのも一員だろう。車体が低いというのはこう言う時にも悪く響いてしまう。

 

「わかった。じゃあ、下まで送るよ」

「堪忍なぁ」

 

 ハンカチで口許を押さえる姉は、本当に苦しそうだった。そんなに、食べ過ぎていただろうか?

 

 

 

〈きずな〉の自室に姉を送り届けた後、私は成人式以降二度と着ていなかったスーツに袖を通していた。まぁ、成人式も前日になって「振り袖が!葵と一緒に振り袖が、着たいんや!!!」と駄々を捏ねる姉に押しきられて赤と青の色違いの着物を着せられたので、実質今日が初めてなのだが。

 

「じゃあ姉さん、いってくるよ」

「ん、いってらっしゃい」

 

 寝間着に着替え、ベッドに横になった姉に挨拶を入れた私は、急いで葬式が行われる会場へと車を走らせた。

 

 

 

 イタコさんの親戚の数はそう多くないが、いかんせん遠路はるばる東北からやって来ている人がほとんどの為、狭い駐車場はほぼ満車となっていた。私がなんとか最奥のスペースにフィアット500ちゃんを押し込んで入り口へ向かうと、スーツ姿の美女とすれ違った。

 

「おい、葵!」

 

 美女の正体はギャラ子だった。あまり見たことない、必死な形相をしていて気が付くのに遅れてしまった。

 

「葵、お前、車か?」

「あ、あぁ……」

 今にも食い付きかねないギャラ子にたじろいでしまう。やっぱりクソガキの群れよりよっぽど怖い顔をしていらっしゃるのだ。

「悪い葵。病院まで連れていってくれるか!?」

 

 どうやら急な『患者』が入ってきたのだろう、車のないギャラ子的には私はタクシー代のかからない移動手段という訳だ。しかし今夜は同じ知り合いで、もしかすれば私がもう少し用心していれば助かったかも知れないイタコさんの葬儀の日である。これ以上急な予定で席を空けるわけには……と、まで考えていた所で、その思想を一発で引っくり返す程の爆弾をギャラ子が口にしたのだった。

 

 

 

 イタコさんの命を奪った松原忠司が、獄中自殺をしたと。

 

 

 

 

 

 

「一体どういう事だ!?」

「それを調べるのがオレの仕事だ!」

 

 折角停めたフィアット500ちゃんに乗り込み、私達はギャラ子の職場である実乃村医大附属総合病院へと急行していた。夕方に差し掛かってきたからか、車の数がポツポツと増えてきている。

 

 無心でハンドルを握るも、赤信号で止められるとどうしても何があったのかが気になって仕方がなかった。

 

「警察から何か聞いていないのか?」

 

「取り調べの関係で署内の拘置所にブチ込んでいたらしいが、どうも昼過ぎ頃に急に体調不良を訴えて、そのまま動かなくなったらしい」

 

「確かあの野郎、相当酔ってたって話だよな……。私の推理では、こうだ。丸一日酒から離れた松原忠司はやっと一人の人間がブレて二人に見える世界から帰ってきた。そして、レイプ殺人を犯してしまった自責の念に堪えられず、命を絶った」

 

「ありえない話じゃねぇな…。で、どうやって死んだと思う?」

「舌を噛み切ったか、出された食事を故意に喉に詰めたか……」

「結局はオレが切り刻んで情報集めないといけない訳か、クソッ!」

 

 足を組み、貧乏揺すりさせている事から相当焦っている事が伺えるギャラ子。

 

 無理もない。殺されたイタコさんの妹、ずん子さんはギャラ子の同級生だったのだ。恐らくイタコさんとの付き合いも、私よりギャラ子の方が長い。だから、そんな『姉』を殺した犯人が罪を償う前に鬼籍に入った等と聞かされ、その司法解剖をさせられるなど、心中穏やかでいられるはずがない。

 

「……まぁ、あのクソ野郎に合法的に刃物を入れられるという事にだけは感謝しねぇとな」

「私の分も怨み込めておいてくれ」

「任せろ。毛細血管の一つまで切り刻んで何があったか調べてやる」

 

 元医大生としては止めるべきだったろうが、そんな気はさらさら無かった。

 

 

 病院前までは20分ほどで到着した。一応帰りはどうするか聞いてみたが「〈ARIA〉で待ってろ」という一言を残して院内へ走っていくギャラ子。連絡するから飲まずに待ってろ、という意味なのかは分からないが、どうせ今日は飲める気がしない。

私はギャラ子を下ろしてすぐ、フィアット500ちゃんのアクセルを踏んだ。

 



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12月10日〈夜〉

 12月10日〈夜〉

 

 東北イタコさんの葬儀は粛々と行われた。だが、私の心中は穏やかとは無縁と言わんばかりに感情の暴風雨が吹き荒れていた。彼女を理不尽な暴力で亡き者にした張本人が獄中死したというのを知っているのは、この中では私しかいない。

 だが、私が腹を立てていたのはそんな事ではない。東北からやってきた『親戚』共に対して、だ。東北家は古くから怪異と戦う一族の一人だが、今やこれ程の力を持つのは直系の子孫たる東北三姉妹のみであったという。『商売敵』が居なくなったからか、はたまた『怪異と対等に渡り合える化物』が根絶やしになったからか、連中の顔には取って付けた様な悲観の顔しかなかった。本当に心から悲しんでいるのは、〈きずな〉のあかりちゃんや弦巻姉さんに、〈ミライノタクシー〉のセイカさんや〈結月堂〉のゆかりさんやそらさんの他、子ども達位のものであった。

 

 

 日本には『精進落とし』という伝統行事がある。これは葬式の後、故人を尊ぶ二次会の様なものだが、私はこれが昔から苦手だった。死人の話題が酒の肴などと思うと、大人になって尚更嫌いにもなる要因だ。私は楽しい酒が好きなのだ。

 そんな訳で今現在、私は(完全に親族の陰口大会となっている)会場から脱し、駐車場脇の喫煙スペースでピースを燻らせていた。時刻は21時を少し過ぎた頃、後一時間もすればギャラ子は帰ってくるだろう。それまではあの手この手で時間を潰さねばならない。

 

「あの…」

 

 ふいに、後ろから声が聞こえた。明らかに私に呼び掛けている。

 

「ん?」

 

 

 振り替えるとそこには、女子高生らしき少女が立っていた。身に纏った学校指定らしいセーラー服はこの辺では見た事のない校章をつけていた。

 

 青く長い髪を二つにくくり、赤い縁のメガネをかけた彼女は今時の若者にしては珍しく、タバコを吸っている私の元へと近付いてきた。いや、もしかしてその『なり』でタバコやビールに手を出す非行少女である可能性もあるのか? それはお姉さん見過ごせないなぁ。

 

「頼まれたってタバコは譲らないよ」

「そういうのじゃないです」

 

 

 即否定されてしまった。

 

 

「……それは失敬。女子高生がタバコの臭い慣れしていると、どうしても悪い方に考えてしまうから」

「いえ、プロデュ……バイト先の上司が、同じ銘柄のタバコを好んでいたので……」

「なるほど」

「それでその……琴葉葵、さん、ですよね? 探偵の」

「いや、違うよ」

「あっ、人違いでしたか」

「探偵じゃないよ。探偵もやる便利屋って所かな」

「じゃあ探偵なんですか?」

「それもやってるってだけだよ。コンビニを『タバコ屋』と呼ぶ人はいないでしょ?」

「なるほど」

 

 

 そう言って青髪の女子高生は私の横に並び、一緒に夜空を見上げた。

 

 

「君はきりたんの友達?」

「はい。音街ウナって言います」

 

 

 オトマチウナ。

 なんと言うことだ。私の激推しアイドルと同じ名前じゃないか。凄いなぁ。

 でももしかしたら『本人』と言う可能性もなくはない訳で。

 

 

「もしかして、芸名?」

「いえ、本名です」

 

 

 なんと言うことだ。私の激推しアイドルと同じ本名なのか。凄いなぁ。

 

 

「……琴葉さんは、会場にいなくても良いんですか?」

「私? 私は良いよ。お酒も煙草も大好きだけど、陰気なムードは好きじゃない」

「私もです……」

「……」

「……」

 

 

 会話が、続かない。

 私が美少女を前にして言葉が出ないというのはアイデンティティーに関わる一大事だ。ラーメン屋で豚骨ラーメンを頼んだら麺の入っていない塩ラーメンを出されるレベルの放送事故である。

 あまつさえ「そもそも私ってどんな話し方するんだっけ?」と疑問に思う始末。

 

 

 これは思ったより、重傷だった。

 そういう時は心に従うに限る。

 

 

「ウナちゃん……ウナちゃんって呼んで良い?」

「えぇ、どうぞ」

「ウナちゃんはさ、きりたん……っていうか『東北姉妹』についてどれ程知っていたの?」

「どれ程……というのは『お仕事』のお話ですか?」

「うん」

 

 

 答えながら、私は短くなった煙草を灰皿に投げ込み、もう一本咥えた。

 煙を深く吸い込んで、一服。

 

 

「身体に悪いですよ」

「いいかいお嬢ちゃん。身体に悪いのはね、大体美味しいんだ」

「煙草って美味しいんですか?」

「いや、不味いよ。この世の悪い物全部混ぜたみたいな味がする」

「はぁ……」

 

 

 かなり的を得ている表現だと思ったのだが、ウナちゃんはわかっていない様子。

 それでいい。未成年が酒や煙草の良さを知る必要は無いし、酒や煙草に頼らざるを得ない社会にだってしてはいけないのだ。某アルコール高いだけのチューハイを快く思っていない真の酒飲みの私が宣言する。酒は飲んでも呑まれるな。未成年の飲酒喫煙ダメ・絶対。

 

 

「それでウナちゃん。さっきの質問なんだけど」

「えぇ、はい。きりたん達のお仕事ですよね。……琴葉さんは」

「葵でいいよ。葵お姉様でも可」

「じゃ、じゃあ葵さんで……葵さんはご存じなんですよね?」

「うん」

 

 

 私は即答した。

 

 

「葵さんは……信じてます? その、妖怪や、怪物退治のお話」

「うん」

 

 

 私は即答した。

 本当は今でも半信半疑だが、こうやってスムーズに嘘がつけてこその大人なのである。

 

 

「良かった……」

 

 

 そんな大人な私の計らいに気が付くことなく、ウナちゃんは続けた。

 

 

「私もずっと信じていなかったんですけど、5年くらい前にきりたんの実家の近くのイカイザン? という山で妖怪に襲われてから、彼女たちの『お仕事』を知りました」

「妖怪」

「はい。鴉のような黒い羽の生えた女性……アンコクーなんとかという人だったかと」

「はぁ…」

「あ、信じてませんね?」

「いや信じてるよ。ただ、そのアンコクなんとかさんは美人なのかなって思ってた」

 

 

 これは嘘ではない。例え会話にしか出てこない女性とて、美人か否かは私の人生においてとても重要な事なのだ。

 

 

「……葵さんって、女の人が好きなんですか?」

「男も女も限らず美男美女が好きの面食いなんだ私は。ウナちゃんも好き愛してる」

「それはどうも」

 

 

 綺麗にフラれてしまった。きっと学校でも引く手数多に告白されているに違いない。そういう女の子こそ『堕とし甲斐』があるというものなのだが、流石にそこまでの気持ちが湧いてこないのが悲しい所だ。……でも明日以降は違うかもしれない。よし連絡先の交換だけでもしてしまおうとした時だった。

 

 

「あ、葵さん!」

 

 

 会場から聞いたことのある声が。

 振り向くと、そこには〈ミライノタクシー〉の京町セイカさんの姿が。

 

 

「外にいたんですね。探しましたよ」

「私を?」

「えぇ。……頼まれたいたタクシーの行き先、わかったんです」

 

 

 タクシーの行き先? はて、何のことだったか。

 平静を装いながら必死に脳内を探る。

 思い出した。失踪したさとうささらし氏の彼氏であるタカハシ青年の潜伏先のヒントとなる情報だ。

 

 

「わざわざ申し訳ありません。でも……」

「……そう、ですよね。今日くらい、イタコ姉さんに集中したいですよね」

「……ありがとうございます」

 

 

 大人同士、心中を察し合った私たちはそれ以上多く語らなかった。

 とても重要な事ではあるのだが今日だけは、今日だけは関係の無い話をする気にはなれない。

 

 

「また後日連絡下さい。平日はほとんど事務所に詰めておりますので」

「では、その時にでも……帰宅されるのですか? 車で送りましょうか?」

「いえ、私も車なので大丈夫です! ……彼女を送らないといけないですし」

 

 

 そう言って目線を駐車場の方に向けると、黄緑色の可愛らしい車の横で手を振る美少女と目が合った。嗚呼、セイカちゃんとそらちゃんが付き合ってるって話は本当だったのだなと、私は心の中で膝から崩れ落ちた。

 

 

「……私もそろそろ帰らないと。明日も、仕事なので……」

「じゃあ、私が送ろうか?」

「いえ、もうそろそろ上司が車で迎えに来てくれる筈なので」

「そっかー……」

 

 

 二回連続でフラれてしまった私は渋々帰宅する彼女達の背中を見送り、残った弦巻姉さん達と共に会場の片付けを手伝った。

 

 

 親戚達は、そそくさと帰ってしまった。

 

 

 

 

 

 

「食中毒だ」

 

 

 〈ARIA〉で待機していた私とONEさんに対し、ギャラ子は一言そう言った。

 

 

「なんだって?」

「食中毒は食中毒だよ。ただ、変なんだ」

「変なモノ食ったから食中毒なんだろ。なんだ、取り調べのカツ丼が当たったなんて言われたら大問題だぞ」

 

 

 今夜はもう車での移動はないと踏んだ私が珍しく頼んだ響が並々注がれたグラスを傾けながらギャラ子に言葉を投げかけた。

 

 

「そうじゃない。アイツ『何も食べてない』んだよ」

「なんだって?」

「それは変な話ですねぇ」

 

 

 私と一緒に聞いていたONEさんも怪訝そうな声を挙げた。

 『何も食べていない』のに『食中毒』……これは何かの謎かけなのだろうか?

 

 

「ついいつもの癖でお酒飲みながら待ってたのは謝るからさ、馬鹿の私にも分かる様に説明してくれ」

「言葉の通りだよ。食中毒で死んだ形跡があったから奴の胃を切り裂いたら、空っぽだった」

「本当に何もなかったんですか?」

 

 

 アルコール度数の高い響を飲んだことによって使い物にならなくなってしまった私の代わりにONEさんが聞きたい事を質問してくれた。

 こういった『察しの良さ』こそ私がこのお店を、ONEさんを気に入っている理由の一つでもある。

 

 

「話はそこに戻るんだ。確かに、何もなかった。何かの『食べ残し』は無かった。……ただ」

「ただ?」

「明らかに『何か』を口にしているんだよ。そうでなきゃ、胃に大量の血が溜まっていた説明がつかねぇ」

「血が溜まっていた……?」

 

 

 何かが引っ掛かる、そんな気がした。

 私は間違いなく一瞬、『答え』に触れたのだ。

 だが、お酒のせいかその『答え』は輪郭を見せる間もなく思考の波から零れ落ちていく。

 

 

 

 

 或いは、『気が付きたくない事』にでも触れて考える前に本能が隠したか。

 

 

 

 いずれにせよこれ以上頭を突き合わせて考えても埒が明かないと踏んだ私達は、今日の所は解散となる運びとなった。

 

 

 とてもとても長い様に思える一日だった。

 



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12月11日〈朝〉

【前回のあらすじ】

じゅーにがつ、とーか。

きょうは、ひさしぶりに、あおいと、デート。
つくよみせんせいの、しんりょうじょにいって、それから、ふたりで、ごはんをたべたよ。
ほんとうは、よるまでいっしょにいたかったけど、おひるすぎから、またおなかがいたくなった。
たぶん、おいしいまっかなりょうり、たべすぎたんやとおもうよ。
あしたは、おねえちゃん、もっとげんきになるからな。
また、いっしょに、おでかけ、したいな。

(琴葉茜の手記より抜粋)



 何やら身体がずっしり重い。

 昨日は珍しく「飲みたい」より「酔いたい」が勝った私は帰宅後もひたすら酒を呷り、気が付けば意識が混濁したまま布団の上で倒れていた。

 

 だからこの身体がずっしり重いのはきっと二日酔いのせいだろう。

 

 二日酔いのせいでこの身体がずっしり重いのなら、早く起きて水を飲まないといけない。

 

 でも身体がずっしり重いので起きられない。

 

 

 ……あれ? 今私、何回『身体がずっしり重い』って思っただろうか?

 

 

 何だかそれすら考えるのも億劫な程、とにかく身体がずっしりと重かった。

 

「ん……」

 しかし幸いな事に、瞼を開く事には成功した。

 布団以外の場所には雑誌やら何やらが適当に積まれて見えない床。

 劣化で色んな所に亀裂が入っていて、寝ている私の顔だけに直射日光を器用に当てる遮光カーテン。

いつもと変わらぬ愛しの我が部屋だった。

 

「あ、おはよう葵」

 

 キスでもするんじゃないかと言わんばかり急接近していた姉を除いて。

 

「……おはよう姉さん。何してるの?」

「う、うなされてたから……」

「それ多分、姉さんが馬乗りになってるからだと思うよ」

「あっ……!」

 

 指摘されて初めて気が付いた様子の姉が頬を紅潮させながら、私のお腹の上から離れた。

 

 ずっしり重かった身体が軽くなった。

 

「良かった。昨日飲み過ぎて動けなくなったのかと思ったよ」

「昨日飲み過ぎた事には変わりないよ。さ、ご飯作ったから一緒に食べよ?」

「うん」

 

 台所の方へと消えていく姉の後姿を見守ってから、私も立ち上がって後を追った。

 いや、正確にはすぐ後ろを着いて行ったつもりだったんだが、思い出したかのように襲ってきた二日酔いが三半規管を刺激していた。おかげで立って移動するのも一苦労である。

 

「大丈夫?」

 

 心配そうに顔を覗き込んでくる姉。

 姉とはいえ、エプロン姿の美女が心配してくれるというのはそれだけで生きる希望が湧いてくるというものだ。

 

「いや、エプロン姿の姉さんに見惚れてた」

「うふふ。嫁さんに貰いたくなったやろ? ……って、いつもこんな感じで女の子誘惑してんのかな?」

「いや、私はもっとガサツに行くけど。そういう路線も試してみる事にするよ」

「あっちゃー。妹に余計な知恵与えちゃったかな」

 

 ここ半年は家でずっとテレビを見るくらいしかやる事のなかった姉は、テレビの中から『余計な知恵』を付けてしまったのだろう。

 

 我が琴葉家の未来は、へんたいである。

間違えた。たいへんである。

 

「そういえば葵昨日帰って来てから着替えもしてないな。先にシャワー浴びる?」

「いや、お風呂にはゆっくり入りたいからご飯から先」

「さよか。ちょっと待っててな」

 

 椅子に座りながら、用意した朝食を皿に盛る姉の後姿を眺めた。

 しかし、エプロン姿というのは凶悪である。

見慣れた筈の姉が着てこれだけ情欲を煽るのだから、他の美女が着たのを見たらどうにかなりそうだった。

 

 

 

 

 

「そう言えば、IAさんはいつもエプロン姿だったね」

「実はそうなんだよね~」

 

 自宅でエプロン姿が興奮するという話をしたからか、〈ARIA〉で毎日見ているエプロン姿のIAさんをやけに意識していた私が居た。

 だが、姉さんのエプロン姿程の衝撃は無かった。

 きっとIAさんは毎日見ているから見慣れていて、姉さんの方は久しぶりに見たから新妻的な錯覚を起こしてしまっていたのだろう。

 

「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」

「いや、IAさんがお嫁さんなら毎日幸せだなんだろうなって考えてた」

「私は今でも幸せだけどー…葵ちゃんがタバコ吸うのを止めたら真剣に考えても良いよ」

「それには1000年は待たせるかも」

「すぐじゃん。全然待つよー」

 ニコニコしながら私の誘いを断るIAさんはやはり強敵だ。

 その気はないと言っておきながらパーソナルスペースが皆無なIAさんは無自覚に他人を誘惑する魔性の女なのだ。この〈ARIA〉がもう少し大通りに近い場所にあったら、きっとIAさんは色んな男を勘違いさせる恐ろしい女になっていたに違いない。

 

「IAさん、コーヒーお代わり頼んで良い?」

「良いよぉ。マキちゃーん! コーヒーおねがーい!」

「はーい!」

 

 自分で仕事しないのがIAさん流らしい。

 私は別に気にしていないが、程なくして気にしていそうな表情の弦巻姉さんがトレイにコーヒーを乗せて運んできてくれた。

 

「どうぞ」

「ありがとう姉さん」

「あ、そうだ葵ちゃん。この後時間ある? 大学院まで車で送って欲しいんだけど」

「良いよ」

 

 コーヒーを受け取りながら、私は快諾した。

 昨日の今日だが、適度な距離のドライブはそれだけで気分転換になる筈だ。

 

「えー! マキちゃん葵ちゃんとデートするのー!?」

「IAさんも休暇の日に誘ってくれたら好きな所に連れていってあげるよ」

「本当? じゃあ1000年後でどうかな?」

「すぐだな。じゃ、弦巻姉さん。車取ってくるから用意して玄関前で待ってて」

「分かった」

「……そういえば弦巻姉さん」

「ん?」

「弦巻姉さんいつもエプロンなのに、全然興奮しないよね」

「え、何それセクハラ? それとも純粋に馬鹿にしてるの???」

 

 エプロンを外した弦巻姉さんが困惑した表情で問いかけるのをのらりくらりと躱しながら<ARIA>を後にした私は、駐車場で待つフィアット500ちゃんのキーを回した。

 

「この車可愛いから好きだよ」

「文句ばっか言うギャラ子と違って弦巻姉さんは分かってるね」

「でも維持費とか大変そう」

「クラシックカーなんてそんなもんだよ。まぁ、私も買うまではよく知らなかったけど……」

 

薄井楼大学は<ARIA>から北にあるが、駐車場の前の道は一方通行なので南下を強いられてしまう。

 

 

「そう言えば、茜ちゃんの体調はどう?」

「元気だよ。今日も姉さんの朝ごはん食べて元気いっぱい」

「IAちゃんのパンケーキ食べる前にも食べてたの!?」

「デザートは別腹って言うじゃん?」

「どうして太らないのその生活で……」

 

 

 何気ない会話。流れていくいつもの景色。昨日一昨日と色々あり過ぎたせいか、一つ一つがいつもより尊いものに思えた。しかし、そんな談笑も流石に『この場所』では止まってしまう。通りかかったのは、イタコさんの遺体発見現場であるマンションのゴミ捨て場。今もどこかの報道記者らしき人物が辺りを徘徊し、それを遠巻きに眺める野次馬の御一行。自分の興味の為ならばと、死人を土足で踏ん付けるかの如き所業に私は憤りを覚えるが、一々指摘していてはそれだけで人生を無駄に終えそうなので沈黙したまま通り過ぎる事を選択。しかし、その沈黙は弦巻姉さんによってすぐに破られる事になる。

 

 

「あれタカハシ君じゃない?」

「え?」

 

 

 弦巻姉さんの指先が指し示した方向に視線を向けると、確かに野次馬の中にタカハシ君の姿があった。イケメンだけど顔が整い過ぎて背景を見紛うだろう。というのは確か写真を見た時の第一印象だったか。とまれ、私一人では間違いなく見落としていたのは間違いない。

 

 

「弦巻姉さんゴメン。ちょっと講義には遅刻してもらう」

「1単位と名探偵の助手を天秤にかけるのはズルいよホームズ先生」

「頼むから後で地味だって文句垂れないでねワトソン君」

 

 軽いやり取りの後道路脇にフィアット500ちゃんを停車させた私は弦巻姉さんと共にタカハシ君の元へと小走りで向かう。

 

 

「ちょっと君! タカハシ君だよね? 君の彼女さんがタカハシ君の事を……」

「うわっ! うわあああああああ!?」

 

 

 だが、タカハシ君の反応は予想外だった。私の顔を見るや否や血相を変えたタカハシ君は踵を返し、野次馬をかき分けて走り出してしまったのだ。

 

 

「なっ……え、何!?」

「弦巻姉さん! 車お願い!」

 

 

 「ここで逃してはいけない」直感でそう悟った私は弦巻姉さんにフィアット500ちゃんのキーを投げ渡し、タカハシ君の後を追って走り出した。「なんだ?」「なんの騒ぎよ?」野次馬達が視線を私達の方に向けるが気にしてはいられない。訳も分からず呆けている人混みをかき分けて進むが、残念ながら四捨五入して三十路の吞兵衛独身女では男子大学生の脚力には敵わず、交差点を二つ曲がった所で完全に見失ってしまった。国道に掛かった信号の手前で息を切らして立ち尽くしていると、程なくして弦巻姉さんを運転席に乗せた弦巻姉さんが現れた。

 

 

「どうだった!?」

「ゴメン見失った!」

 

 

 助手席に乗り込んだ私を確認した弦巻姉さんは交代しなくて良いのか迷っていたが、私が大げさに肩で息をして『疲れたアピール』をしたら素直にハンドルを握り直してくれた。

 

 

「それで、これからどうするの?」

「タカハシ君の現住所の目星はほとんど付いてる。先回りするしかない」

「なんで葵ちゃんの顔見て逃げたんだろうね?」

「そこが気になるんだ」

 

 

 国道を走り出したフィアット500ちゃんの助手席でスマートフォンに電話番号を打ち込む。掛けるのは勿論<ミライノタクシー>の事務所だ。

 

 

『はい。<ミライノタクシー>です』

「あ、京町セイカさんですか!? 私です! 琴葉葵です!!」

『あら、おはようございます。どうされました?』

「件の少年が降りた場所を教えて下さい! 大至急!!」

『な、何かあったんですか!?』

「葵ちゃんスピーカーモードにして! 私も話を聞くわ!!」

『あれ、その声はエロマキ……?』

 

 

 『エロマキ』というのは弦巻姉さんの渾名だ。最も、この渾名を使うのは結月さんや、今は亡きずん子さんだけだと思っていたが、本当にセイカさんと弦巻姉さんは面識があったらしい。と、そんな感傷はさておき、私は弦巻姉さんに言われた通り通話をスピーカーモードに設定した。

 

 

「セイカさん! 今ね、タカハシ君に逃げられたの! 様子が変だったから放っておけなくて!!」

『ちょ、ちょっと待ってね! えっと……えっとぉ……』

 

 

 普段大人しい弦巻姉さんが迫ってくれたからか、事の重大さをすぐに察してくれたらしいセイカさんは迅速に行動を開始してくれた。電話の向こうで書類の束をめくる音が聞こえる。その間に私はダッシュボードの下からしわくちゃに折れ曲がった街の地図を取り出した。スマートフォンを通話に使っているからグーグルマップが開けなかっただけだが、やはりこういう状況がある事を思えばアナログな装備というのは外せない。

 

 証拠は今のままでも十分に揃っていた。目撃者のそらさんが教えてくれた『<結月堂>から北にタクシーで帰っていった』というヒントに、タカハシ君母から教わった『頭文字がCのアパートの201号室』という情報。これを照らし合わせた結果、該当するアパートは6つあった。地図には『<結月堂>から北にある頭文字Cのアパート』達に丸印がつけられているので確認は容易だ。この印は私が付けたものではないが、地図の端に『ホメなくて良いぜ☆』というデカくてガサツな文字と、犬なのか熊なのかよく分からないイラストが添えられていた事から犯人の特定は容易だった。あの馬鹿、一枚しか持ってない地図に油性ペンで落書きしやがって。後でヒンヒン言わせてやる。

 

 

『あった! その日の時間帯にその近辺を走っていたウチのタクシーは1台だけ! アパート<CeIVO>の前です!』

「チェビオ……ちぇび……あれ、どこだ!?」

「大学から西に向かったとこにあるボロアパートだよ! 4丁目!!」

 

 

 <CeIVO>なるアパートが6つの中に無いと焦っていると、心当たりがあった弦巻姉さんが大体の位置を教えてくれた。大学から西に向かって指を這わせると、確かにあった<CeIVO>の文字。犬なのか熊なのかよく分からないイラストの間にあった。完全にギャラ子の見落としである。

 

 

「多分そこだ! 弦巻姉さん向かってくれ!!」

「了解!」

『頑張ってくださいね!』

「ありがとうセイカさん! 今度お茶しようね!!」

「あ、ゴメン葵ちゃん途中で通話切っちゃった」

 



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12月11日〈昼〉

アパート〈CeIVO〉は一人暮らしの学生さんがお世話になる事の多い格安物件の一つだ。最寄り駅までは徒歩30分、一番近いコンビニにも徒歩10分と、都会とも田舎とも言えないこの町では随分と交通が不便な場所である。しかし元気の有り余っている10代から見れば帰宅部でさえ徒歩30分など苦行ではない。加えて公立高校や大学が近いともなれば、必然的に学生からの人気は高まるのも納得だ。ネットの不動産屋で調べた所、間取りは簡素なワンルーム。タブレット一つあれば時間を潰せる学生なら、最低限寝る所とちゃぶ台があれば事足りるので、これも立派な城である。私が学生の頃はどうだったろうか? タブレットはまだ出てないからノートPCは置きたいが……いや、ダメだ。今更ブラックニッカのボトルとピースの缶が常備されていない学生時代なんて考えたくない。

 

 

「お待たせ。張り込みにはやっぱりあんパンと牛乳だよね!」コンビニのビニール袋をぶら下げた弦巻姉さんが戻ってきた。講義に出れないなら、もういっその事探偵を全力で楽しんでやるという気概を感じる。「私は弦巻姉さんの生搾り牛乳が飲みたい」素直に言った。心の底から言った。「出ないし。仮に出ても最初はゆかりんにあげるかな?」その姿を想像したのかにへら、と表情を綻ばせた弦巻姉さんからビニール袋をひったくり、あんパンにかぶりついた後にわざと音を立ててパック牛乳を飲み干した。

 

「甘さが足りない。今度からドリップコーヒー買ってきてよ。シュガースティック10本入れてね」

「それもうコーヒーの入った砂糖だよね?」

「コーヒーとはそういうものでしょ」

「あ、今カフェ店員の私に宣戦布告したね? 良い葵ちゃん? コーヒーっていうのは……」

 

 

 その後弦巻姉さんによる「美味しいコーヒーのドリップのやり方」なる講義を適当に相づちを打ちながら受け流し、たまに潜伏場所を変えながら待つこと一時間と少し。タカハシ君が息を切らしながら〈CeIVO〉の前へと帰還した。あの様子だと、さっきの場所からずっと走ってきたのだろうか。しかし直線距離で帰ってこればこんなに時間は掛からないはず。追っ手である私を撒くために敢えて遠回りしてきたことは容易に想像できるが、私がそこまで忌避される理由に皆目検討がつかないのだ。彼女を寝取ったから? いいや、さとうささら氏とはまだ寝てない。依頼が終わったら「一夜だけでも!」とは思ってはいるが、まだ未遂だから非難される謂れはない。

 

「部屋に入っていくよ!」

「いや、待って弦巻姉さん。私にいい考えがある」

 

 このまま私が玄関をノックしても開けてはくれないだろう。最悪の場合窓から逃走される可能性もある。ここ以外の潜伏先に当たりを付けてないので逃げられたら捜索は困難だし、なにより走りたくない。で、あれば弦巻姉さんに代わりに開けてもらうしかない。そしてその方法を張り込みの間真剣に考えていた。多感な時期の十代男子が美人な彼女にまで行き先を告げずに潜伏生活……。

 

 

……私が同じ状況に陥れば、間違いなくムラムラするだろう。

 

 

「と、言うわけで姉さん、枕営業よろしく」

「出来るわけないじゃん!?」

「ドアを開けるだけ。ドアを開けるだけでいいんだ」

「それって私の下のドアを開けるまでって下品なジョーク?」

「玄関のドアを開けるだけでいいんだけど、そこまでやってくれるなら是非お願い。あ、その前に私もご指名いいですか?」

「チェンジだバカ野郎。……はぁ、分かったよ。カギさえ開けさせたらいいんでしょ?」

 

 私の真摯な想いが伝わったのか、渋々ながら承諾してくれた姉さんを先頭に移動開始。錆び過ぎて元の色が分からない鉄の階段をおっかなびっくりしながら登り、ほどなくタカハシ君が消えた部屋の前に到達した。

 

 

「じゃ、後はよろしく」

 

 弦巻姉さんに小声でそう伝え、隣の部屋の前で屈んで待機した。ここならドアスコープを覗かれても私は視界に入らない筈だ。

 

 

「……すぅ~~~……はぁ……」

 

 扉の前で大きく深呼吸した弦巻姉さん。「よしっ」覚悟を決めてくれたらしくインターホンを鳴らす。微かにだが、中からベルの様な音が聞こえた。

 

「……あのーー……」

 

 たった数秒の沈黙だがそれに耐えられなかったのか、扉に胸を押し付け、ドアスコープを覗き見る弦巻姉さん。いいぞ! いいぞそのポーズエロい!! でも多分それだとタカハシ君眼球しか見えなくてビビるんじゃないかな!?

 

『……誰だ?』

 

 ドアの向こうからくぐもった低い声が聞こえた。タカハシ君の声だ。

 

「えっとぉ~。私『突撃! 隣の童貞君』っていうAV企画の『お前、さっき赤い目の女と一緒にいたな?』

 

 くそっ! 完璧過ぎる作戦だと思ったが、まさか弦巻姉さんの顔を見られているのは予想外だった。「どうしよう?」滝汗を流しながら横目でそんなニュアンスの視線を送ってくる弦巻姉さん。しかし残念ながらこれ以上の手が浮かばない。何か打開策はないかと脳内葵ちゃん会議が議論を重ねるが、下ネタに特化した彼女らに任せてなんとかなる状況でもなし。『今は一人か?』「う、うん」『そうか……入れ。急ぐんだ』だが、タカハシ君は何故かドアのカギを開け、弦巻姉さんを室内へと誘った。え? もしかしてあのAV企画本物だと思ってる系男子? しまった【ドッキリ大成功!】のプラカードを用意しておくんだった! 自分の行き当たりばったりな浅はかさには失望するばかりである。しかしこの状況、まさしく九割は嘘と言われた素人童貞のお宅にお邪魔する企画の残り一割としてカウントしてもいいのではなかろうか?『いやっ! 離して!』『へへへ、お姉さんの方からウチに上がってきたんだろ?』タカハシ君がゲスな笑みを浮かべて弦巻姉さんに歩み寄る『ダメッ!脱がさないで!』『うるさい! じっとしてろ!』強引に組み敷かれた弦巻姉さんの衣服が一気にめくられ、たわわに実った桃を支える下着が露になるんだ。白だ。うん、今日は白に違いない。『傷は!? 噛まれた跡はないのか!?』「いやーっ! 脱がすなドコ触ってんの!? 葵ちゃん! 葵ちゃん助けてー!! マジ無理! 緊急事態ヘルプミー!!」涙目になりながら私の名前を呼ぶが、ああ、哀れこんな所には誰も助けにはこない。無言で見つめる撮影スタッフとカメラの前に、弦巻姉さんのあられもない姿が……。

 

 

「ん?」

 

 

『葵ちゃん会議終了! 葵ちゃん会議終了!!』人一番正義感の強い葵ちゃんJの鶴の一声で会議は終了。AからZにまで分裂した脳内葵ちゃんたちの意識が統合され、五感がリアルの姿を捉えていく。高度な演算能力を得た葵ちゃん完全体が瞬時に導きだした答えは一つ「やっべ」タカハシ君潜伏先のドアノブを勢い良く回す。鍵は開いていた。「葵ちゃん!」「お、お前は!?」物が雑多に置かれた狭い部屋の奥で衣類を脱がされ半泣きになる弦巻姉さんと、今にもその柔肌に手を振れんと前かがみになっていたタカハシ君の背中があった。何という事だ! 今日の下着は黒じゃないか!! ……いや、今はそれは置いておこう。「弦巻姉さんを離せ!」土足で部屋に侵入する私。しかしタカハシ君の方が早かった!「悪魔め! これ以上近付くな!!」「悪魔はどっちよこの強姦魔!」今のは弦巻姉さん。しかしタカハシ君これをスルーし、自分の胸元から取り出した金色のネックレスを私の前に掲げた。あれは、十字架だろうか?「どうだ!? 苦しいだろう!?」なにをいってるのだろう? ちょっと心配になってきた。「安心しろ。お前は俺が守る!」弦巻姉さんに背を向けたタカハシ君がそう続ける。え、え? 待って。私が強姦魔みたいになってない? 酷い。酷すぎる。私はいつだって合意の上で美男美女を頂いてきた。いや、そりゃ、合意に至るまでに強引な所が無かったかと詰められるとちょっと怪しいが、それでも強姦魔は風評被害も甚だしい。「この空間ならお前は全力を出せない筈だ! 俺は……俺の心は絶対に渡さないぞ!!」

物語の主人公の様に格好良く決め台詞を放ったタカハシ君は部屋の隅に網で束ねられたニンニクの塊を首に巻き、怪しげな呪文を唱え始めた。

 

「……」

「……」

 

 

 私と弦巻姉さんの目が点になっている事に気が付かず、一心不乱に呪文を唱え始めるタカハシ君。しかし【本職】のイタコさんを知っていれば、そこに神秘的パワーがあるとは到底思えない。と、言うか普通の人間の私に何か影響があるのかもさっぱりだ。ただ、このままだと近所迷惑になりそうだと思った私は、部屋の隅に積み重なっていた本の一冊……【よく分かる悪魔祓い】というタイトルの内容の薄そうな割には分厚い本を手に取り、そのままタカハシ君の側頭部目掛けて軽くスイングした。「へぶっ!」タカハシ君は反応する間もなく直撃を受けたタカハシ君は衝撃で吹き飛び、そのまま壁に反対側の側頭部をぶつけ、そして床に倒れた。

 

 

「……やり過ぎたかな?」

「やり過ぎたと思う……」

 

 

 タカハシ君の頬を軽く叩いてみるが、反応はなし。仕方なく弦巻姉さんは救急車を呼び、私はさとうささら氏に電話を入れた。

 

 

 

 

 

「本当に……本当にありがとうございました!」

 

 

 実乃村医大総合病院の病室に搬送されたタカハシ君の横で、さとうささら氏が何度も頭を下げてきた。

 

 

「あ、いえその、仕事ですから……」

 

 

 一方の私は心の中ではあるが第一印象でボロクソに言った上に、最後は本で殴って気絶させたのだ。ぎこちない笑顔で返事をするしか対応が思い付かなかった。

 

 

「えっと、これ、約束のお金です……」

「いや、これは受け取れません」

「えっ?」

 

 

 成功報酬として渡そうとしてきた八万円を、私は拒否した。さり気なく手に触れたが、まるでパンの様に温かく、もっちりとした感触の手だった。

 

 

「発見はしましたが、これからお二人には色々お金が必要になるでしょう。これはその為に使って下さい」

「でも、お仕事なんじゃ……?」

「私がもう少し早く見つけていれば、タカハシ君はこのような目に合わなかったかもしれません。そのお詫びという事で……」

「じゃあ、私はどうやって感謝の気持ちを伝えればいいのでしょう?」

「では今度一緒に……ゲフン。お知り合いに困っている人がいれば、是非私の名前を出してご紹介ください。あ、私仕事で使う連絡手段がないので、こちらにどうぞ」

 

 <ARIA>の名刺を渡して部屋を出ると、廊下には弦巻姉さんとギャラ子の姿があった。ギャラ子は勤務中なので白衣を身にまとっている。

 

 

「どうだったギャラ子?」

「んぁ、葵か」

 

 

 カルテを挟んだバインダーをひらひらと振りながら、ギャラ子は診断結果を教えてくれた。難解な症状の長ったらしい説明は頭が痛くなるので省略。

 

 

「んまぁー、つまり、だ。今は大人しいが、極度の興奮状態と幻覚作用に悩まされてたっぽいな」

「それって、もしかしてクスリ……?」

 

 

 弦巻姉さんが小声で問いかけるが、しかしギャラ子は首を横に振った。

 

 

「オレも最初聞いた時はそう思ったんだが、どうもはっきりとは判断できんらしい。まず体内に覚せい剤などの薬品を使用した形跡が一切ないんだ」

「新種か?」

「仮に過去に該当例のない新種だと仮定しても、流石に体内に全く残留物がないのは説明つかねぇ。その場合手足の痺れみたいな症状が出るが、その兆候もなし。……首筋に太い注射針を刺したみたいなデカイ穴が二本開いてたから、何かしら注入したのは間違いないんだが」

「首筋の傷……」

「……そう言えばタカハシ君に脱がされた時『傷は何処だ?』って聞かれたかも」

「同じクスリを使っている仲間かどうかの確認をしたかったのか……いや、ちょっと待てマキ。お前今なんつった???」

 

 ここまで何があったか知らないギャラ子が目をギラつかせて弦巻姉さんに歩み寄る。「えっとぉ……」弦巻姉さんが歯切れ悪く私に目を向けると、ギャラ子は視線に追随する様に私の顔面に急接近してきた。

 

 

「おい葵。マキはな、若い頃男関係でちょっとトラブルがあったんだ。そんなアイツを危険な目に合わせたってんなら、たとえダチでも容赦しねぇぞ」

「いや、違う大丈夫だよ。ただタカハシ君の警戒を解く為に代わりに玄関を開けてもらったら錯乱したタカハシ君に上着を脱がされただけで……」

「その後は?」

「私が部屋に飛び込んで本で殴って気絶させた」

「うん。綺麗にクリーンヒットしてたね」

「……側頭部にあったたんこぶはお前が原因か。まぁいいや。どうもそのショックが原因で冷静さを取り戻せたらしい。ちと強く殴り過ぎだがな」

「そこは反省している」

「しかし何が原因か分からねぇのは歯がゆいなぁ。なぁマキ。お前そのタカハシとかいう男の部屋でなんか見なかったか?」

「そうだね……吸血鬼関連の書籍と、十字架にニンニクの束……後はしっかりと調べてないけど。部屋の小物の配置に何かしらの法則があったね。多分、風水。うん、風水だ。葵ちゃん、家の不自然に観葉植物が置いてあったの、覚えてる?」

「いや、全然」

「あったの。鬼門と裏鬼門……北東と南東ね? その方角に植物を置くのは魔除けの効果があると言われているの。他の小物の配置にも何か意味があったかもしれないけど、ちょっと見渡しただけだから細かい事は分からないかな……」

「……アイツ、私の事を【悪魔】って呼んでた」

「正しい」

「私が悪魔ならお前が大悪魔だぞギャラ子」

「納得いかねぇ。妥協して小悪魔だ」

「話が逸れ始めてるよ二人とも。……そうだね。タカハシ君はその正体不明のクスリで【悪魔】を見た……というのは間違いないかも?」

「その幻覚を振り切る為に吸血鬼関連の資料をかき集めてたのか?」

「だとしたらやっぱり変だな。とても理性を欠いた男の行動とは思えない。クスリをキメた奴が本を買って、賃貸マンション借りて、親に所在伝えるか?」

「……」

「……」

 

 私の疑問に対し、ギャラ子と弦巻姉さんは共に頭を捻り、そのまま喋らなくなってしまった。

 

 とりあえず人探しの依頼は終わりだ。という事で勤務中のギャラ子と<ARIA>で飲むといういつもの約束を交わした後、私と弦巻姉さんは病院を後にした。

 



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12月11日〈夜〉

「うっ……くあぁ……ッ」

 

 脳みそが振動し、視線も定まらない。何があった? 私は必死に記憶や視界の回復に勤めた。〈ARIA〉で飲んでいた。それは間違いない。イタコさんを殺したレイプ犯のクソ野郎の獄中自殺について議論し、タカハシ君が私を【悪魔】呼ばわりした事に対しての疑問も酒を交えながら知恵を絞り合ったが、結果が出なかった為に解散。良いぞ、順調に記憶のピースがハマってきた。そして、思っていた以上に飲み過ぎていたらしい私は千鳥足で〈きずな〉の自室を目指すが、途中で足をもつらせ、ゴミ捨て場にある、粗大ゴミシールを張り忘れ放置されたヨガマットの上に倒れた……。

 

 

倒れた? いや、違う。【倒された】んだ。

 

 

誰に? その疑問が浮かんだ時、私の意識は急にリアルに叩き戻された。聡明な私はこれを【本能】と呼んでいる。

 

 

「ッ!」

 

 

 状況を視認する前に【迫りくる影】に蹴りを一発。倒れた状態から足を伸ばした程度の、蹴りと呼ぶには程遠いそれはしかし襲撃者の脛を直撃し、一瞬の隙を作ることに成功した。

 

 すばやく上体を持ち上げて襲撃者の姿を確認。電柱から逆行になっていて顔はよく見えないが、体格や服装から若い男性である事は察した。

 

 

「なん……っ!」

 

 

 私が言葉を紡ぐ前に、襲撃者は動いた。相手が相当の使い手か、はたまた酔いすぎた私が油断したかは分からないが、とにかく今の私には対応出来ないスピードで両手首を捕まれ、再びヨガマットに押し倒されてしまう。

 

 

「なにしやがるッ!」

 

 

 必死に身を捩らせなるが、襲撃者が私の太ももの上に腰を下ろしたものだから抵抗らしい抵抗も出来ない。

 

 

 男が顔を近付ける。流石に三度目ともなれば誰かは分かる。タカハシ君の学生寮の前でたむろしており、また昨日の夕方に姉に骨抜きにされた【ゆでだこ青年】だった。

 

「きゅ……け……さま……」

 

 

 やられたらヤり返すの精神でも持ち合わせているのだろうか。取り巻きを侍らせずに一人でやってきた根性は認めるが、私は美女の股を強引に開かせる事は好きでも逆は大嫌いなのだ。美女ならともかくタコの異種姦なんて門前払い。なので私の選択はこうだ。

 

「ふんっ!!」

「がっ!?」

 

 

鋭い犬歯をギラつかせながら迫るゆでダコ青年のオデコに向かって、私は自身の美しいオデコを鈍器に見立てて全力でぶつけた。聡明な私はこれを【頭突き】と呼んでいる。

 

 

「吸血鬼様…吸血鬼様ァ……」

 

 

しかしゆでダコ青年は少し揺れた程度でダメージを受けた様子はない。もう何発か頭突きをお見舞いしてやれば状況を打破出来るかもしれないが、その前に私が気絶しかねない。

 

 

「やめろ! 放せ!!」

 

 

こんな大声出せたんだなと我ながら感心してしまう。性に爛れた生活を送っている手前、今更純潔なんて気にしてはいないので路上でいきなり性的暴行を受けても処女ほど取り乱しはしないだろうが、それは平時の話。レイプ犯にイタコさんを殺された記憶が新しい今、私を襲っていたのは【命の危機】そのものだった。

 

 

 それに、今のゆでダコ青年は【普通】じゃない。

 先程からブツブツと呟いているのは分かっていたが、丸刈り男子が恍惚とした表情を浮かべながら迫られている状態で冷静に聞き分ける事など出来る筈もない。ゆでだこ青年の顔が眼前へと迫る。強引に唇を奪ってやろうってやつか? 上等だ。舌噛み切ってやる。口を開ける瞬間を逃すまいと瞬きせずにゆでだこ青年を捉える。が、そこから動く気配なし。目が乾いてきた。しかしこれも狡猾な作戦の一つの可能性もある。私が目を閉じて怯える姿が見たいとかいう魂胆なら、絶対負けてやるもんか。眼球が乾きに耐えられず水分補給を開始する。まだ閉じない。「吸血鬼様…」ゆでだこ青年は動かない。瞼が痙攣してきた。「吸血鬼様…」まだ閉じない。嘘ついた。半分閉じかけた。「どうぞ…」ゆでだこ青年が動いた。頭を右に傾け、首筋を見せてくるゆでだこ青年。首にキスマークつけろってか? 恋人かよ。「どうぞ…」ゆでだこ青年は動かなくなった。もしかして強姦したいんじゃなくて、私に惚れた? 恋は盲目? いや全盲レベルだろこれ。「……吸血鬼様?」ゆでだこ青年が傾けていた頭を戻した。また目と目があった。「……お前! 吸血鬼様! じゃない!!」大声で叫んでくれたおかげでやっと何を言っているのか聞き取れた。キュウケツキサマ? 「吸血鬼様じゃない! 吸血鬼様じゃない!!」ゆでだこ青年は怒り出した。顔がゆでだこの様に真っ赤に染まってゆく。「違う! 吸血鬼様!! 供物!! 供物にする貴様!!」ゆでだこ青年が口を開いた。まるで犬の様に鋭い牙の向こうにチロチロと動く舌が見えた。チャンスはココだ! 今しかない! 内から湧き上がる生理的嫌悪感を無視し、ゆでだこ青年の唇に自分の唇を重ねた。相手のねっとりとした唾液が口内に侵入してきた。「んっ……」今すぐ吐き出したい気持ちを抑え、首を上げて更に深く唇を重ねた。「……!」ゆでだこ青年の身体が痙攣するのが伝わった。私の太ももを押さえつけていた股間がどんどん熱を帯びているのを感じる。まだ舌は入れてこない。唇の周りや歯に舌を這わせ誘う作戦に移行。美女を焦らせる為の葵ちゃんテクニックをこんな事に使う事は屈辱極まりないのだが、背に腹は代えられぬ。「ん……あっ……」艶めかしい私のexボイスもセットだ。さぁ、何人もの美男美女を天国に誘ってきた私のお口テクニック最上級フルコースだぞこの誘惑には勝てまい。そしてその時は来た。壺があれば入りたくなるというのが蛸というもの。ゆでだこ青年もDNAに刻まれた本能に遂に抗う事が出来なくなり、私の口の中にゆっくりと舌を伸ばし入れてきた。

 

 

「ふぃふぁふぁ!」

 

 

 『今だ!』と、言ったつもりだった。嚙み切ってやる勢いで口を閉じた。ただ悔しい事に、私もちょっとスイッチ入りかけていたので本気では噛めなかった。

 

 

「ギャアァァァァァァ!?」

 

 

 しかし、ゆでだこ青年にダメージを与える事には成功した。口内に溜まった血と唾液を吐き出し、一言「見たかクソ野郎!」痛みにより腕の束縛も解除されたので、セットで両手の中指も立ててあげた。「供物の! 供物の癖に!!」しかし私が優勢だったのはその一瞬だけだった。「供物!!」「ぐはぁッ!」振り上げられたゆでだこ青年の右拳が私の下半部を殴りつけた。「供物!!」「ぐはぁッ!」振り上げられたゆでだこ青年の左拳が私の下半部を殴りつけた。口の中が酸っぱくなったが、乙女の意地で逆流だけはなんとか阻止した。「供物があああああ!!」両手の指を絡ませたゆでだこ青年が、腕を頭上に振り上げた。あ、ヤバイ。あんなので腹パンされたら確実に食べたものが出てくる。ついでに赤ちゃん産めなくなっちゃいそう。少しでもダメージを和らげる為にお腹を守る様に両手で抱えた。ゆでだこ青年の拳が振り下ろされた。私は遂に目を閉じてしまった。

 

 

「葵になにしてるんじゃこの変態がああああああああああああああああああああああ!!」

 

 

 腹の上で衝撃が走った。

 

 私のお腹が殴られた?

 

 いや、その割には痛みはない。痛すぎて痛覚がバカになったのだろうか? 真っ暗で何も見えない。そこで私は瞼を強く閉じている事に気が付いた。目を閉じていたら暗いのは当たり前だ。私は目を開いた。

 

 

 後光に照らされた光の巨人が、そこにいた。

きっと私がギリギリまで踏ん張ってギリギリまで頑張ったけどピンチの連続だったからやって来てくれたに違いない。

 

 

「大丈夫か葵!?」

「あ、ありがとう……ウルトラマン……」

「は? 何言ってんだお前」

 

 

 よく見るとギャラ子だった。後光に見えたのは街灯だった。

 

 

 三分経たずして帰ってしまった光の巨人(※幻想)に変わって差し伸べてきたギャラ子の手を取って、私は立ち上がった。うまく足に力が入らなかったが、ギャラ子が支えてくれた。見上げると、ギャラ子は白い歯を見せて笑顔を見せている。

 

 

「……ヤバかった」

「惚れ直したか?」

「いや、本気で惚れかけた」

「次は絶対助けねぇからな」

「……そういや、あのクソ野郎はどうした?」

「あぁ、アイツならそこで伸びてるよ」

 

 

 ギャラ子が顎で指した方に顔を向けると、街灯の下でくの字に曲がれたまま白眼を向いていた。その瞬間こそ目に出来なかったが、恐らくギャラ子の全体重が乗った飛び蹴りが炸裂したのだろう。私は小柄で非力なのでカウンター主体になってしまうが、力持ちのギャラ子はそんな小細工を好まない生粋のバーサーカーなのである。

 

 

「なぁ、葵。いい加減離れて欲しいんだが」

「あ、ごめん」

 

 

 指摘されて初めて、私がギャラ子に強く抱き着いている事に気が付いた。何という事だ。この琴葉葵ともあろう者が純潔の乙女の様に身を震わせて恐怖したというのだろうか? それはない。絶対ない。少なくとも舌を噛んでやった時は確実に強気だった。確かにギャラ子が来た時凄い安心したが。ん? いや、待って欲しい。このまま離れると、解散になる。そうすると、私は帰って寝る。すると私は今日最後にキスをしたのはこの変態になるのではないか?

 人生の中でそんな最悪な一日の終わりがあって良いのか?

 いや、良い訳がない。

帰って姉さんとキスをするか?

 否。あんな野郎に私を介して間接キスさせるとか考えられない。

じゃあ、あかりちゃん?

 否。あんな野郎に私を介して間接キスさせるとか考えられない。

 

 

「あ」

「ん?」

 

 

 いるじゃん。目の前に気にしなくて良い適任者が。

 別に今日の私のヒーローに身を委ねたいとか、そんな事では断じてない。

 

 

「なんだ葵。オレの顔になにかついてぶっ!?」

 

 

 今日のギャラ子の言葉は一言一言が心に染みわたる様な魔力を秘めていて危険だった。

なので、私は黙らせる為にギャラ子の口を塞いだ。顔を合わせるのが嫌だったので、唇を合わせて塞いだ。

 

 

 そこから先、どうなったのかは正直覚えていない。

 

 ただ私が次に目が覚めたのは見慣れない布団の敷かれた畳張りの部屋の中であり、横では素っ裸になったギャラ子がいびきをかいて爆睡していた。身を起こすと、自分も衣類を纏っていない事に気が付いた。服は布団の周りに散乱していた。布団には見覚えはないが、部屋の間取りには見覚えがある。〈きずな〉の一室だ。とりあえず立ち上がった。違和感にはすぐ気が付いた。何も置いていないのだ。おそらく〈きずな〉の空室を一つラブホ代わりにしてしまったのだろう。そう言えば外のヨガマットの上にギャラ子を押し倒した時にあかりちゃんと、顔も思い出したくない元エリート刑事がセットでやってきたような気がする。

 

 

「……そうだ。姉さん……ッ!」

 

 ズボンのポケットに入っていたスマートフォンを手に取って時間を確認した。12月12日の朝6時13分。この一年、遅くはなっても朝帰りなんてした事はなかった。きっと姉は心配しているに違いない。主義には反するが一度脱いだ服を再度身に纏い、玄関へと向かった。ドアの脇の棚に鍵が置いてあったので外に出て施錠した後に郵便受けから鍵を投げ入れた。

 

 借りていた空室は一階の、大家さんであるあかりちゃんの部屋の隣だった。大急ぎで外階段を登り自室の鍵を開ける。いつぞやの黒いドレスを纏った姉さんがそこにいた。どうやら帰ってこない私を心配して外に出ようとしたらしい。目尻に涙を浮かべる姉さんが何かを訴えてきたが、緊張の糸が解けた私はそれを制して部屋に入り、最近は人よりも洗濯物が座っている時間の方が長いソファーに身を投げて、寝た。

 



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12月12日〈朝〉

(この日だけ日誌のページは白紙だ)


 

「昨日、葵さんのせいで満足に眠れなかったんですよ?」

 

 寝ぼけまなこをこすりながら段ボール箱を持ってきた大家のあかりちゃんに何も答えられず、私は無言で段ボール箱を受け取りガムテープで包装した。

 「いつまでもこのままにはしておけませんから」そう言ったあかりちゃんの提案で、イタコさんが使用していた部屋の後片付けをしていたのだが、軽口を叩ける程度には回復していた彼女も、作業が進むにつれて口数が減っていく。二カ月近く換気もされていなかっ部屋の臭いは強烈であったが、本人が天国に旅立ってしまった今、これが一番イタコさんを感じる事が出来る残り香だと思うと否応なく意識してしまう。最も、それに気が付いたのは掃除の頭に換気を始め、空気がすっかり入れ替わった後なのだが。

 

「大家さん、少し休憩しようか」

「そうですね。お昼はどこで?」

「〈ARIA〉でランチでも頼みましょうか」

「わぁ! 私しばらく行けてなかったんです! そうしましょう!」

 

 

 この部屋で空腹と言えば、げっそりとやせ細っていたイタコさんの顔を思い出す。無視も出来ずにファミリーレストランに連れて行って好きなだけ食べさせたが、あれが【最後の晩餐】になってしまったのだろうか? 表面上は冷静を装っても、やはり思うのは後悔ばかりだ。

 

 

「いらっしゃいませ! あー! あかりちゃんじゃん! 久しぶり! 葵ちゃんもさっきぶり!」

 

 

 カウンターで頬杖をついていたIAちゃんが、私達の顔を見るなり満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきてくれた。太陽のような笑顔に釣られて大家さんも笑顔になり、私の口角も自然に上がっていくのが分かる。

 

 

「今日はどうしたの?」

「お昼ごはん食べようと思って」

「私も。IAさん、ランチセット二つお願いできる?」

「ランチセットだね? おっけー! ONEちゃん起きて起きてランチセット二つーっ!」

 

 

 暇そうにしてはいても朝以外は仕事をしたくないのか、カウンター脇でアイマスクをして寝ていたONEさんの肩を揺さぶって叩き起こすIAさん。一方のONEさんは慣れているのか特に何も言わずに厨房へと姿を消した。

 

 

「ONEさんは相変わらず、椅子に座って寝てるんですか?」

「そだよー。あ、私もね~?」

「ちゃんとベッドで寝ないとダメなんですよ? 葵さんも常連なんだからビシッと言ってあげないと」

「それもそうですね。寂しくて寝れないとゴネるなら、私がいくらでも添い寝してあげましょう」

 

 

 いつも朝食を食べている窓際カウンター席で座って談笑しているとランチセットを持ったONEさんが厨房から現れた。今日のメニューはガーリックライスに豆腐ハンバーグ、それに山盛りサラダだ。特に野菜は契約農家と直接取引している産地直送なので鮮度は抜群。添えられている野菜ジュースも、その野菜と果物を使用したONEさんオリジナルブレンドである。

 

 

「姉さん、葵さんの横は私」

「あかりちゃんの横はダメなの~?」

「寝るから。あかりさんの肩で寝ると押し倒しそう」

 

 

 なにそれ超見たい。

 

 

「はぁい……じゃあ私はあかりちゃんを独占~」

「わっ!」

「それでは葵さん、おやすみなさい」

「お、おやすみ……」

 

 

 テーブルに料理を置くや否や私の隣に腰を下ろしたONEさんが五秒と経たずに寝息を立て始める。これだけ早く眠れるのは羨ましいが「もしかして半分寝ながらランチ作ってるのでは?」という疑問の方が大きい。しかし料理を一口食べればそれも杞憂に終わる。IAさんもそうだけど、本当に不思議な人だ。

 

 

「そう言えばあかりちゃん、昨晩は大変だったみたいだね~」

「そうなんですよ! 葵さんらしき悲鳴が聞こえて110番通報してやってきた刑事さんと一緒に様子を見に行ったら変態さんは気絶して、葵さんがギャラ子さんを押し倒してて、もう意味が分かりませんでした!」

 

 

 昨晩、私が死すら覚悟した悲劇を喜劇の如く語る大家さんに対して、私は無言で食事を進める事しか出来なかった。癪ではあるのだが、あの時の私は冷静さを欠いていたので何をしてもおかしくない。若さ故の過ちは認めたくないものだが、あと三年四年すれば二十代に永遠の別れを告げてしまう身としては、そろそろ大人として認める潔さも備えねばならない。成人すれば自然に大人になれると思っていたが、普通に考えて成人式を迎えてもバカはバカのままなのだ。

 

 

「そう言えば葵ちゃん、これからどうするの~?」

「んー」

 

タカハシ君捜索の依頼がストックされていた最後の【仕事】だった。言うなれば今の私は【自称探偵の無職】である。……いや、自分から言い出した訳じゃないから【他称探偵の無職】か。そこは重要じゃないから置いておくとして。

 

 

「とりあえずお仕事の方から舞い込んでくるまで〈ARIA〉で飲んだくれになるか」

「それ、いつもと同じじゃないですか。この機会にどこかに事務所を設けて、広報活動でも始めてみたらどうですか?」

 

 溜め息混じりに提案してくれた大家さんの言葉を「めんどい」の一言で否定してから

続けた。

 

 

「私は無作為に広めるより、助けた人の縁を頼りに、少しずつ、しかし信頼出来る輪を広めていきたいのです」

「素敵な考えだね~」

「そうでしょう?」

 

IAさんに褒められた私は照れ隠しとニコチン不足を補う為にピースを咥えようとしたが、そこで初めてポケットにタバコの箱が空であることに気が付く。

 

 

「あれ?」

 

 

コートのポケットに予備を入れてなかった筈だが、万が一ミラクルが起きることを信じてコートのポケットを確認する為に立ち上がった。ONEさんが絶妙なタイミングで寝返りを打って離れた。コートのポケットを確認。ミラクルは起きなかった。代わりに御守りが出てきた。なんだこれは。記憶を巡る。思い出した。東北に出発する前にイタコさんに渡されたものだ。こんな所にあったのか。戻すとまた忘れそうだったので持ったまま席に戻る。ONEさんが絶妙なタイミングで寝返りを打ってもたれかかってきた。

 

 

「それは御守り、ですか?」

「えぇ。イタコさんから渡されたものです」

「イタコさんから……」

「ねぇねぇ、あかりちゃん。御守りって、中に何が入ってるの~?」

「……えっ。中ですか? えっと、えっと………」

 

 真面目な大家さんは答えようとしたが、そこで言葉を詰まらせてしまった。たっぷり十秒ほど唸ってから観念して「葵さん知ってます?」と聞いてきた。頼られるのは嬉しい。それが美女なら尚更だが、詳しくないというのが本音だ。なので実際に確認してみようと思った。

 

 

「確か祈りの言葉だかなんだかが書かれた御札が入ってるみたいな話を昔聞いた気がしますが……折角なので開けてみますか」

「わーい!」

「そ、それってご利益逃げたりしないんでしょうか⁉」

「大丈夫です大家さん。私は神も仏も信じてない」

「答えになってませんよそれ……」

 

 

 大家さんも呆れこそすれ、止める気はない様だ。目の奥には「気になる」という意思が見えたので間違いない。私はどこの神社なのか、そもそも何のご利益があるのかも書かれていない御守りの封を開き、逆さにして振ってみた。中で引っ掛かっていたらしく、四回ほど振った後に初めて中身とご対面する事に成功する。しかしそれは、御守りから出てくるとは予想していないものであった。

 

 

「……ロザリオ、ですか?」

 

 

 中に入っていたのは、銀色のチェーンが繋がれた十字架のネックレスだった。私は勿論の事、大家さんも同様に目が点になっていた。

 

 

「わぁ~。綺麗だね~」

「イタコさん。実は隠れキリシタンだったのか……?」

 

 

 ロザリオを手に取ってみる。見た目よりはずっしりと重かった。クロスの部分には鈍い光を放つ赤い宝石がはめ込まれており、これが中々の逸品であり、そしてかなり年期の入ったものであるのは想像に難くなかった。

 

 しかし、これを渡して何の意味があるのだろうか。

 

 ……タカハシ君も十字架のネックレスを掲げながら「悪魔め!」と叫んでいたな。

 

 

「……あ」

 

 

 はた、と私の中の小さな疑問が鮮明に浮き彫りになった。

 

 

「……すいません。ちょっと用事を思い出しました。これにて失礼します」

「お仕事頑張ってね~!」

 

 

「ONEちゃん支えないといけないから、お見送りはあかりちゃんがお願い~」とIAさんに言われた大家さんは慣れた足取りで私と共に玄関まで進み、ドアを開けてくれた。「いってらっしゃい」「行ってきます」新婚の気分だった。私は意気揚々とフィアット500ちゃんが待つ駐車場に向かった。

 

「うぅっ、さむっ……」

 

12月の半ばだ。寒いのは当然だが、今日は特に寒かった。なんせ風が強く、天気も悪い。予報によれば今夜か明日には雪が振るらしい。

 

 

 

 〈ARIA〉から駐車場に向かおうとすると、最短だとどうしても昨日の現場を通過しなければならなかった。ゴミ捨て場には相変わらず不法投棄されたヨガマットが横たわっており、一晩明けた今でも、否、むしろ明るくなって余計に見えるようになってしまったシミが記憶を否応にも思い起こさせてしまう。実際はこのシミはゆでタコ青年とのプロレスごっこではなくギャラ子とキャットファイトした時に付いたものだが、どちらも恥ずかしくて思い出したくない記憶なのには変わりない。いっそのこと私が業者に連絡して処分して貰おうか。その場合ヨガマットの様なサイズの粗大ゴミは幾ら必要だったか。と、気が付けば足を止めて余計な事を考えていたわけだが、視界の端、電柱の裏に二つ折りになった黒い革の財布を見つけると意識が全てそちらに向かってしまった。

 

「ふむ……」

 

 お金に困っているわけではないが、落ちている財布を見つけるとつい拾ってしまうのは人間の性というもの。その際中身に羽が生えて私の財布の中に移動したとしても、それはお金が自らの意思によって羽ばたいただけであって私に非は一切無い。落としたやつが悪い。

 しかし、何も確認せずに目先の欲望に駆られてしまうと後々痛い目に遭うのもまた世の理。私は親切な人を装って財布の中身を確認した。手に取ると分かる【本物】の革。これは相当高価なものに違いない。生唾を飲みこみ、二つ折り財布をご開帳。最初に目に入ったのは簿井楼大学の学生証。この顔には見覚えがある。高校卒業前に撮影したせいか少しあどけなさが残っているが見間違える筈がない。この財布の持ち主はゆでタコ青年だった。恐らくギャラ子のドロップキックを受けた時に落としたのだろう。ゆでタコ青年の本名が『井下田』だったというどうでもいい情報を入手した。タコじゃなくてイカだったのか。それはさておきこれは僥倖。コイツのなら慰謝料として十割請求しても勝てる。勝利を確信した私は戦利品の選別に戻った。〈月読クリニッック〉の診察券……は、本人以外が持っていても紙切れなので戻す。他にもゲームセンターや十代に人気の洋服店の会員カードが入っていたりしたが、クレジットカードや電子マネーの類いはなし。本革の財布を持っているにしては妙な話だが、ああいうバカに限って金持ちのボンボンだったりするので、私達庶民の感性で照らし合わせるのは危険である。

 

 気を取り直し、先程から見えてはいたが敢えて無視していた紙幣の確認に移行。福沢諭吉の顔が一つ、二つ、三つ……私が算数の基本的なルールを勘違いしていなければ、総勢三十人の諭吉が所狭しと敷き詰められていた。「これはラッキー!」より先に「なんだか怪しいぞ」と思えたのは経験の賜物だろうか。ゆでタコ青年改めイカ君が本当に金持ちならともかく、本革の財布に現金三十万円も突っ込んで歩いている大学生なんて私には『金持ち振りたいバカ』に見えて仕方ないのだ。昨晩の奇行から鑑みて覚醒剤の類いを使用している可能性もある。私にはこれが財宝の詰まった宝箱ではなく、間抜けな冒険者を丸呑みにせんと構えるミミックに見えていた。それなら次の行動は一択だ。

 

 善良な一市民として、そのままの状態で交番に届けよう。

 

 そう思った途端、根が生えていたかの如く動かなかった両足が地面から離れた。財布をコートのポケットに突っ込む。手に何かあたった感触があったので取り出すと、イタコさんが御守りの中に入れていたロザリオが顔を出した。私の趣味ではないが、なんとなく首にぶら下げて、今度こそ駐車場へと移動を開始した。

 

 一番近い交番は病院より更に北にあったので、財布を届ける前にタカハシ君を訪ねることにした。

 

「すいません。タカハシ君……えっと、昨日入院したタカハシって名字の男の子に面会したいのですが」

「大丈夫ですよ。こちらの名簿に名前をお願いします」

「分かりました」

 

 嘘をつく理由もないので素直に【琴葉葵】と記し、病室へと向かう。途中で白衣のギャラ子を見かけたが、声をかける前に顔を真っ赤にして走り去ってしまった。別にギャラ子に会いに来た訳ではないので彼女は無視し、タカハシ君が入院している病室に向かう。「ここしか余っていなかった」という理由で高い個室に通されたタカハシ君だが、実家の事を思えば然程気にする必要も無いだろう。軽くノックをすると「どうぞ」という女性の声が聞こえたのでドアをスライドさせるとベッドの上で寝息を立てるタカハシ君の姿が見えた。

 

 

「あ、探偵さん」

 

 

 返事をしたのはベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろしていたさとうささら氏だった。手には小難しそうなタイトルの文庫本が握られている。

 

 

「どうも」

「どうかされました?」

「ちょっとタカハシ君に聞きたいことがありまして。タイミング悪かったですかね?」

「……俺に何か用ですか?」

 

 

 どうやら起こしてしまったらしい。眩しそうに半目だけ開いたタカハシ君が上体を起こして私の方に顔を向けてきた。

 

 

「今日は落ち着いてるねタカハシ君。体調の方はどうかな?」

「えぇ。少しボーッとしていますが、お医者さん曰く軽い貧血なんだとか。数日後には退院出来るそうです」

「それは良かった。……タカハシ君。単刀直入に聞きたいんだけど」

「その、ごめんなさい」

 

 

 私が本題に入ろうとした矢先。タカハシ君は頭を下げてきた。

 

 

「実は、ここ数日間の記憶が曖昧なんです。ささら……彼女からある程度事情は聞いたのですが、それでもはっきりとは思い出せず……」

 

 

 どういう事だろう。私は頭を捻った。カルテを確認したギャラ子が「強い幻覚を見た形跡はある」と言っていたので、その間の記憶がすっぽり抜けたのだろう、というのは常識的かどうかはさておき筋は通る。

 

 

「じゃあ、君がわざわざアパートを借りて儀式場みたいなのを作っていた事も覚えてない?」

「そういう所に自分がいたのは覚えているんですが、なんでそうしたのかまでは。ただ……」

「ただ?」

 

 

 そう言うとタカハシ君は首からぶら下げていた金のロザリオを片手で握りしめた。私が潜伏先に突撃した時に見せてきたものだろう。

 

 

「この十字架が俺を守ってくれたんです。だから【備えないと】って思った……のは覚えてます」

「備える? 何のために?」

「ささらを守る為に」

「タカハシ君……っ」

 

 あまりにもまっすぐな感情にさとうささら氏はうっとりとし、私は眩しすぎて少し目を逸らしてしまった。

 

 

「このネックレスはささらが俺の誕生日プレゼントにと買ってくれたもので、最初怪しい露天商から買った魔除けグッズだと聞いて半信半疑だったんですが、おそらく【本物】だったんでしょうね、これ」

「……じゃあ何か。君は本当にヴァンパイアに襲われたとでも?」

「そこまでは。……でも首筋の【噛み痕】から、誰かに噛まれたのは確実だと思うのですが……」

 

 

 服をはだけさせて首筋を見せてくるタカハシ君。「きゃっ」今のはさとうささら氏だ。マッチョではないが、運動そのものは怠っていない健康的な胸板が見えたがそこには目もくれず、タカハシ君の首筋を撫でる。

 

 

「……確かに言われてみると、噛まれた後に見えなくもないね。鋭い牙か歯が二本刺さったらこんな感じになると思う」

「あの! あのあの! あっ、あんまりタカハシ君にベタベタしないで下さい! そ、そそそその……私だってまだ触った事ないんですからね⁉」

 

 

 もう少し調べたかったが、顔を真っ赤にしたさとうささら氏に制され、タカハシ君から引き剝がされてしまう。

 

 

「これ以上はお邪魔の様ですね」

「すいません」

 

 

 頬を膨らませ拗ねたさとうささら氏の頭を撫でながらタカハシ君が謝罪する。予想していたより何倍も真っ当で優しさのある男だったようだ。心の中で深く反省すると共に、まるで正反対に位置する私は段々と肩身が狭くなるのを実感していた。

 

 

「それでは私はこれで。……あ、最後に一つ」

「なんでしょう?」

「退院したら、彼女をお母様に会わせてあげてください。きっと喜びますよ」

「どうして母の事を……?」

「探偵ですから」

 

 

 そういう事にして、私は病室を後にした。これでタカハシ君とさとうささら氏とは当分関りは無くなるだろう。彼らが【依頼人】になるか否かになるが、それはまた別の話。私はタカハシ君にあった【嚙み痕】の疑問を解消するべくナースセンターに赴き、ギャラ子の所在を聞いた。喫煙室にいると聞いたので向かうと、患者らしい老人と共にタバコを吹かすギャラ子の姿がそこにあった。

 

 

「ギャラ子。今暇だな?」

「タバコ吸うのに忙しい」

 

 

 ぶっきらぼうに返すが、相変わらず頬を染めて顔を合わせようとしてくれない。いつまで引きずってんだ乙女か。と言うのを抑えてギャラ子の肩を掴み無理矢理視線を合わせた。

 

 

「ギャラ子。頼みがある」

「な、なんだよ……」

「ここではマズい。二人だけになれる場所は?」

「……わーったよ。移動しよう。すまねぇじーさん。話の続きはまた今度でな」

「頑張るんじゃぞ!」

 

 

 何を頑張るのか分からないが、ヨボヨボの老人の激励を背に私達は喫煙室を離れ、向かったのは死体安置所などがある地下室へと繋がる階段の踊り場だった。誰も来ないという条件でここを選んだのだろうが、こちらとしては都合がいい。

 

 

「で、用事はなんだ。……昨日の事なら」

「あぁ、助けてくれてありがとう。だが、今はその事じゃないんだギャラ子。もう一度松原忠司とイタコさんの遺体を調べてほしい」

「は?」

「首筋の傷だ」

「首筋の傷ならあったぞ。確認するまでもねぇ。イタコさんの首筋には松原忠司の歯型と一致する噛み傷があった」

「松原には?」

「イタコさんが抵抗したらしき引っ搔き傷があった」

「他には? 噛まれた様な跡がなかったか⁉」

「……おい。それを確かめてなにがあるってんだ?」

「今はまだ確証がない。ただ、繋がりそうなんだ」

「何が?」

「タカハシ君失踪事件とイタコさん殺害事件」

「……ちょっと待ってろ」

 

 

 私の熱意が伝わったのか、地下へと降り始めるギャラ子。後を着いていこうとすると「関係者以外立ち入り禁止」と言われてしまった。

 タバコを吹かす訳にもいかず胸のロザリオを眺めて時間を潰す事五分弱。カルテを持ったギャラ子が戻ってきた。

 

 

「タカハシの件についてはオレも疑問に思ってただけに、葵が何を考えたのかは察した」

「で、どうだった」

「……あぁ、あったぜ。松原の首筋に【噛み痕】が。少し古い傷だったから事件に関係ない傷かと見落としていた」

「タカハシ君の首筋にあったのも同じか?」

「見比べた訳じゃねぇが、多分同じだと思う……ここまで言っておいてなんだが、まさか葵。お前『ヴァンパイアが絡んでる』とか言い出すんじゃねぇだろうな?」

「私だって馬鹿言ってると思ってる。ただ、それだと繋がるんだ。ギャラ子。お前確か松原の死因は【食中毒】って言ってたよな? 胃袋が空っぽの食中毒だと」

「あぁ」

「本当に空っぽだったか? 胃袋にあった【血】は確かに松原本人のものか?」

「……こりゃ、もう一度調べる必要がありそうだ」

「頼めるか?」

「オレも繋がると思っちまったからな。他に何か調べるか?」

 

 

 私があといくつか調べてほしい場所を教えるとギャラ子は「早くて夕方か夜になる」と返したので〈ARIA〉で集合する約束を交わし、病院を後にした。

 

 財布の事は、すっかり忘れていた。

 



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12月12日〈昼〉

 

「ヴァンパイア……ねぇ」

 

 ギャラ子の元を離れた私は未だ釈然としないまま徒歩で帰路についていた。当然、真っ昼間から姉さんが寝ている〈きづな〉に帰るわけにはいかないので、今の私が帰るべき場所は〈ARIA〉の他にない。

 

 そもそも、ヴァンパイア……吸血鬼などと言ってみたが、実際は邪推もいい所だ。確かにイタコさんの東北家は大昔から怪異と戦っていたと聞いたことはあるが、実際に私が地底のトカゲ人間や円盤に乗った鬼を見たことがあるわけではない。そんなファンタジーな存在が実際にいるとは理性では微塵も思っていないはずなのに、それ以外……言うなれば『本能』でそれを眉唾だと一蹴出来ずにいたのだ。

 

 これでは探偵失格だな。

 

 他人がそう祭り上げただけなのでプライドや仕事への誇りなどは微塵もなかった私だが、流石に「今回の事件の犯人は……ヴァンパイアです!」とは言えない。そもそも、探偵というのは実際には殺人事件にでくわして密室や動機を推理して真犯人を当てる……と言うことはしない。人捜しやネコ探しがほとんどである。従って殺人事件の調査能力は本職の警察官には遠く及ばないものであって、そんな私が導き出した『真犯人』はきっと真ではないのだろう。

 

「私はアリだと思ってますよ、その推理」

「んぇ?」

 

 脳内の独り言に返ってきた言葉。意識を思考の海から這い上がらせて声の方に顔を向けると、ONEさんの顔があった。私はいつの間にか〈ARIA〉に帰ってきていつものスツールの上に座っていたらしい。目の前にはグラスに注がれていたブラックニッカには手を着けた様子はない。

 それにしても、私はよく病院からほぼ無意識に〈ARIA〉まで戻ってこれたものだ。と、まるで他人事のように感心した。心ここに在らずな状態で車を運転するなど危険極まりないが、筆記も実技もほぼ満点だった教習の教えを守り、日々安全運転を心がけていた積み重ねの賜物であろう。

 或いは、それよりも強い『帰巣本能』でここに戻ってきたか、だが、巣で待つ女王蜂ことONEさんは、いつものように人を小バカにしたような

笑顔で、私が外から持ってきた情報と言う名の蜜を欲している様子だった。

「葵さん、戻ってきてからずっとブツブツ呟いてこちらを見向きもしないものですから、嫌われてしまったのだとばかり」

「まさか。我らが女王陛下にそんな感情など抱きませんよ」

「それは良かったです。ではやはり、情報整理でトリップ状態だったんですね。よろしければその推理内容、私にも聞かせてくれませんか?」

 

 ならば何故「私はアリだと思いますよ」なんて言ったのかと思ったが、「うわごとのように『吸血鬼』という単語を呟いているのは聞こえたのですが……」と続けてくれた。そこを聞かれてしまっては言い訳出来ない。現状把握も兼ねて、私はONEさんに説明を開始することにした。

 

「事の始まりは一週間前の12月6日に来たタカハシ君の捜索依頼。大学や彼女であるさとうささら氏に内緒で学生寮を抜け出した彼は近くの賃貸アパート〈CeVIO〉に引っ越し、部屋中に『魔除けの儀式』を施して身を潜めていた」

「男の秘密の趣味の部屋……と言うわけではなさそうですね」

「それも考えた。けど、それにしてはスマートさに欠ける。タカハシ君の実家にいたお母様の話を聞いた限りでは、趣味に盲目になるタイプではなかったんだ」

「急にオカルトグッズに手を出して……と聞くと、まるで新手の新興宗教にのめり込んでしまったとも取れませんか?」

「……確かに、それもあり得たかもしれない。でもこの数日間の出来事をタカハシ君は覚えていないとも言った。覚醒剤による幻覚症状も考えられるけど、病院で『ただの貧血』と診断された以上、短期間で人間を洗脳できるのは現実的ではない」

「現実的ではないと来ましたか。そうなると、葵さんの言う『吸血鬼』とは言葉通りの意味ではなく、何かの暗喩でしょうか?」

「いや、矛盾してるのは重々承知してるけど、吸血鬼っていうのは文字通りの吸血鬼の事だよ。ここで3日前、12月9日のイタコさん殺人事件に繋がるんだ」

「容疑者は殺害現場前のアパートに済んでいた男性ですよね? もしや、彼が吸血鬼だと?」

「それだと納得がいくんだ。イタコさんの死因は出血多量によるショック死。現場と犯人の状態から酔った容疑者が深夜に帰宅途中だったイタコさんをレイプか現金目的で襲撃。彼女の抵抗に対し勢い余って……というのが妥当な線だと思う」

「今の話に、容疑者が吸血鬼であるという根拠になりそうな理由は無かったように聞こえますが?」

「そう。ここまでなら私もイタコさんはクズな通り魔に殺されたと思っていた。だが、翌日12月10日のある出来事で状況は変わった」

「……容疑者の獄中自殺、ですか」

「そう。それも原因不明の『中毒死』だ。逮捕されて以降一度も食事を摂っていなかった容疑者の突然の死。解剖を担当したギャラ子は確かに『胃は血塗れだが空っぽ』だと言った。そこでタカハシ君の吸血鬼騒ぎに戻る。いや……『繋がった』と、言うべきかな?」

「こう言っては不謹慎なのでしょうが、難解なパズルが段々解けてきた様な興奮を感じてきました。それで、どう繋がったのですか?」

「それは……」

 

 ギャラ子からの連絡待ちだね。と言おうとしたその瞬間。ポケットに入っていたスマートフォンに着信が一件。神がかったタイミングでギャラ子からの電話が来たのだ。カウンターの上にスマホを置いた私は、スピーカーモードで通話に出た。

 

「もしもし」

『オレだ。ギャラ子だ。今、大丈夫か?』

「問題ないよ。それで、どうだった?」

『当たりだったよ』

「聞かせてくれ」

 

 

『あぁ……解剖した遺体をもう一度調べた。葵の予測通りだったぜ。松原忠司の胃の中に、イタコさんの血が入っていた。それも大量にだ』

 

 

「ほう……」これはONEさんだ。小さく頷いた顔を見て、私もまた頷き返す。【松原忠司はイタコさんの血を吸った食中毒で死んだのでは無いか?】という推理が現実味を帯びてきていた証拠だった。

 

『しっかし、どういう事だ、こりゃ? 生きた人間の血を吸ったなんて、まるで吸血鬼みたいだぜ』

「その線で推理を進めている」

『は?』

 

 スマホ越しにギャラ子の間抜けな声が聞こえる。が、私は続けた。

 

「ただ、ここで疑問が残る。仮に、仮に松原忠司が本当に吸血鬼だと仮定しよう。そうすると、彼は何故、吸血をして死んだのか?」

『……ちょっと待ってくれ葵。血を吸って食中毒になったのだとしたら、もしかしたら血液型が違うのが問題かも知れねぇ。コイツはかなりのアルコール依存で内臓もボロボロだったんだ。酔った勢いでイタコさんの首筋に齧り付いて血を吸ってしまった結果、身体がショックを引き起こしたってのも考えられないか?』

「そうだな。医学的な観点から見て、この謎の死で一番現実味がありそうな見解だと思う。だけどなギャラ子。ここで昨晩の事を思い出して欲しい」

『昨晩の……ッ!』

「ゆうべはおたのしみでしたね」

 

 顔が見えないのに赤面してるであろうギャラ子と、ここぞとばかりに茶々を入れるONEさん。何を勘違いしているのかしらないが、私は別に夜中に外でギャラ子と愛し合った話を掘り返したい訳ではない。

 

「私を襲った暴漢青年だ。アイツもな……私の首筋を噛もうとした」

『マジかよ!?』

「おやおや。これは『繋がって』きましたね」

「タカハシ君失踪事件、イタコさん殺人事件、そして私へのレイプ未遂事件。これらには偶然にも『吸血鬼』の様なものが絡んでいた」

『って事はよ……【吸血鬼は二人居た】って事か?』

「いや、これはあくまで推論の域を出ない話なんだけど、あの二人は所謂働き蜂なんだと思う。女王蜂たる【吸血鬼】がより多く血を摂取する為の眷属。それがあの二人だった。そして、タカハシ君は眷属にされかけた際に、彼女から偶然プレゼントされていたロザリオによって支配から逃れていた……」

「と、なると。三人に接点のある人物或いは場所に吸血鬼が居るという事ですね」

「そう。……そして居場所にもおおよそ見当がついている。色んな人が定期的に出入りして、なおかつ【血】があっても違和感のない場所」

『おいおい……まさかウチの病院とか言わないよな……!?』

「だとしたら入院中のタカハシ君に何の反応もないのは変だろ」

『……それもそうか』

 

 一瞬とり乱しかけたギャラ子を一言で落ち着かせ、私はこの一連の事件の犯人……【吸血鬼】が潜伏している場所を告げた。

 

「……〈月読クリニック〉だ」

 

 と、ここで私はコートに今朝拾った暴漢青年こと、タコのようなイカ君の財布を拾っていたことを思い出した。本革の高級な財布をぞんざいに開き、中の現金には目もくれず、一枚の診察券を出した。診察券には〈月読クリニック〉の文字が。よく見ると真新しい診察券の裏を見ると、初診は昨日の朝、12月11日だった。

 

「なぁ、ギャラ子。話がある」

『……いや、ダメだ。それは出来ねぇ』

 

 付き合いが長いせいか、私の言おうとした事をギャラ子は察したらしい。

「まだ何も言ってないじゃないか」

『お前のことだ。乗り込んで確かめるなんて言いかねん』

「そのまさかだ」

『断る。……いや、本当はオレも行きたいさ。だがな葵、お前なら知ってると思うが、この職に就くために、オレはずっと頑張ってきたんだ。人を救うための医者に、だ。……まぁ、その過程で死者を解剖する方に行っちまったが、それは今は重要じゃねぇ。確かに葵の推理には納得いくが、だからといって同業者の〈月読クリニック〉にカチコミなんか掛けられねぇ』

「そうか……そうだよな」

 

 出鼻を挫かれた感じがしたが、内心安堵している自分もいた。ギャラ子が着いてくる意思を見せれば私はきっと〈月読クリニック〉に向かっただろう。仮に相手が本当に【吸血鬼】なら、ちょっと喧嘩が強い程度の私達二人で敵うだろうか? いや、きっと手も足も出なかったに違いない。それが分かっていて、口では仕事がと言っていたが、ギャラ子は私を制してくれたのだ。私が逆の立場なら、きっとそうする。

 

「しかし〈月読クリニック〉ですか……。そうすると、危険じゃありませんか?」

 

 そう言って怪訝な表情を見せたのはONEさんだった。現状なにが危険なのか。私には皆目見当が付かなかった。

 

「何が?」

 

 なのでつい、聞いてしまった。

 

「茜さん。そこに通院してるんですよね?」

「ッ!」

『おい葵! 待てッ!!』

 

 気が付けば私はスマホもコートもそのままに〈ARIA〉から飛び出していた。

 

 そうだ。〈月読クリニック〉は姉さんも通っている。私はいつも外や待合室で待機していたから知らなかっただけで、もしかしたら姉さんも既に【眷属】になっているのではないか?

 

 背筋がゾッとした。

 

 姉さんが吸血鬼に襲われた、とか。私が襲われるのでは無いか。という恐怖は感じなかった。

 

 むしろ私はONEさんに言われるまで【〈月読クリニック〉に通っている唯一にして最愛の肉親】の心配を、していなかったのだ。

 

 恐怖以外の、何物でも無かった。

 

 両親を亡くし、医者になる夢が潰えた私を支えてくれた双子の姉。その姉が一連の事件の犯人の近くにいる事に最初に気が付かねばならないのに、あろうことか他人に言われるまで脳の片隅にもなかったのだ。

 

 こんな感覚ありえない。あってはならない。

 

 まるで姉を【赤の他人】の様に感じるなんて。

 

「姉さん……!」

 

〈きづな〉の古びた外階段を駆け上がる。部屋の鍵は、開いていた。しっかり者の姉らしからぬミス。しかしそんな事より、私は一秒でも姉に会いたかった。

 

「姉さん!!」

「わっ! ど、どうしたの葵!?」

 

 標準語が飛び出るほどに驚いた様子を見せた姉は、タートルネックの上から割烹着を羽織った冬のお母さんスタイルでコンロの前に立っていた。

 

「姉さん! 大丈夫!?」

「えっと……火加減? だ、大丈夫やと思うけど……」

「そっちじゃなくて……そうだ、首筋の傷!!」

 

  タカハシ君、イタコさん、松原忠司、ゆでイカ青年の共通点にして、私も仲間入りしかけた【首筋の傷】。

 それの有無を確かめる為、私は姉の肩を掴んで身体の向きを強引に変える。状況が飲み込めずきょとんとする姉に説明するのも惜しく、私は強引にタートルネックの首部分を引き下げた。

 

「やぁんっ!」

 

 右の首筋に噛まれた痕は……ない。念のために反対の左首筋も見るが、そこにもなし。むしろ傷一つ無い真っ白で美しい首筋だった。なぞってみると凹凸のないなめらかな曲線。姉であるはずなのに。否、姉であるからこそなのか、他の美女を抱いた時には抱かなかった背徳感を覚えた。不躾にも敬愛する女王陛下に触れてしまった騎士の様な心境、とでも言えようか。

 

「そんな……あ、あかんよ葵……ウチらその、双子やし……な?」

「……あっ」

 

 頬を紅潮させる姉の顔が視界に入って初めて、自分が何をしていたのかを理解した。いきなり帰ってきた妹に無理矢理服をはだけさせられて首筋をなぞられたのだ。いくら少年の心を持ち性に疎く、朴念仁な姉でも過ちに気が付き咎めようというもの。

 

「ごめん、その……心配で」

「ふふっ、そんな慌てんでもお姉ちゃん、見ての通りピンピンして……」

 

 私の手を取りはにかんだ姉の顔が、一瞬歪んだ。

 

「……姉さん?」

「うっ……あっ……うっ……!」

 

 雪のように真っ白だった姉の肌から、珠のような汗による洪水が起こっていた。

 

「ぎ……っ! ああああああああぁああぁああぁあああああああああ!?」

「姉さん!」

 

 何が起きているか一瞬分からなかった。生まれてこの方聞いたことのない姉の悲鳴が轟く。手に持っていた調理器具を落とし、赤い髪を振り乱しながらその場に倒れ込む姉。

 

「ど、どうしたの!?」

「あ……えぐっ……げほっ……だ、大丈夫。最近調子良かったからかな。反動来ちゃったのかも……?」

 

 明らかに大丈夫ではない。介抱しようと近づく私を痙攣する手で制しながら「ホンマ、大丈夫やから……」と呟く姉。

 

「こんくらい、少し横になってたら治るから……」

「そんな訳……ッ!」

「……なぁ、葵。お姉ちゃん今、汗とか涙ですっごいブサイクなんよ。こんな姿葵に見せたくないから、しばらく、一人にさせてくれへんか……?」

 

 病の深刻さを隠す言い訳なのはすぐに分かった。病で臥せ始めた頃から、妙に美容関係に興味を持ちだしていた姉はきっと、やつれていく自分の姿を見せて心配させたくなかったのだと思う。小さい時に砂と泥で顔面パックをしながら公園を駆けていたのを知っている身としては今更と思わなくもないが、その気丈な振る舞いこそが今の姉を支える精神的支柱だと考えると、私もこれ以上は追求できなかった。

 

「……うん、ごめんね姉さん。取り乱しちゃって」

「気に……せんで、ええよ」

「何か作ろうか?」

「大丈夫……」

「そう……」

「……」

「また、出掛けてくるね」

 

 用事は無かったが、ここにいたら余計な気を遣わせてしまうと思った。私が居るときはきっと弱音を吐けない。そう考えた私は用事も仕事も無いが、外出する事に決めた。

 

「……うん」

「……いってきます」

「うん……」

 

 力ない返事を背中で聞きながら、私は部屋を後にした。

 

 

 

 

 



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