霧立ち込めるロアナプラ (ニコフ)
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ロアナプラの霧

「どうやら今夜は()()()()らしい」

 

 悪徳の街、ロアナプラ。この街には数多くのバーが存在するが、その中でも一等の不幸に見舞われる店、「Barイエロー・フラッグ」は今日も酒を飲むゴロツキ共で溢れている。

 娼婦、ヤク中、傭兵、殺し屋。どうしようもない無法者のロクデナシ共ではあるが、この街で生き残って来ただけに数々の修羅場を潜ってきた者たちである。

 形の良いスキンヘッドに屈強な肉体を持つ黒人、ダッチは電話を切ると、そう一言呟いた。その言葉は決して大きく張り上げたものではなかったが、先程まで騒いでいたガラの悪い客たちは水を打ったかのように静まり返る。

 殴り合いの喧嘩をしていた男たちは相手の胸ぐらを掴み拳を振り上げたまま動きを止め、テーブルを囲んでポーカーをしていた連中もピクリとも動かなくなる。男の咥えたタバコの灰がポロリと机に零れた。

 バーのマスターであるアジア系の中年男性、バオは手からグラスを滑り落としてしまい、ガラスの砕ける甲高い音が辺りに響いた。それを合図に止まっていた時間は流れ出す。

 娼婦たちは色めき立ち化粧を治し、ヤク中連中はそそくさと店を後にする。中には忌々しそうに酒を飲む傭兵たちも見て取れる。この状況が把握できていないのは、この街には場違いな眩しい白カッターシャツを着た日本人男性、ロックこと岡島緑郎である。

 金さえ払えば何でも運ぶロアナプラの海賊、運び屋『ラグーン商会』に所属する彼は今日、仕事終わりに商会のメンバー総出でバーへと出向いていた。

 

「ダッチ、さっきの一言で間違いなく店の様子が変わったけど、()()()()っていうのはどう言う意味だい?」

「ああ、ロックは知らなかったのか。気をつけた方がいい、それは()()()()()()()()()()()()()()ってことよりやべえ」

「この周りの反応で()()()()()()だってのはわかったよ」

 

 カウンター席に座るロックの隣にダッチが腰掛け、飲み差しのグラスを傾ける。この大きな黒人が再び語りだす前に、逆側に座っていた女がカウンターに肘を付きながらロックへ向き直る。

 

「霧ってなぁ通り名だよ」

「レヴィ?」

 

 レヴィと呼ばれた女は赤毛が混じったセミロングの髪を後ろで一つくくりでまとめた中華系のアメリカ人、肩には大きなトライバル模様の刺青が入っている。そして何よりも特徴的なのは、そのショルダー型のガンホルダーで鈍く光る2丁の拳銃だ。彼女は通称2丁拳銃(トゥーハンド)、この街でも有名なラグーン商会の女ガンマンだ。

 少し酔いが回ったのかトロンとした瞳でグラスを傾ける。淡いブラウン色をした残りの酒をグイっと一気に煽ると、グラスをカウンターへと叩きつけるように置く。低い唸り声を上げてアルコールを抜くかのように、吸った空気を「うぃー」と吐き出す。

 せっかくの美人が台無しだと呆れ顔を浮かべるロックに、レヴィの奥に座った男性が続きを話す。

 

「通称ミスト、霧のようにどこからともなく現れて気づいたら消えている、そういう男さ」

 

 金髪の長髪を後ろに縛った眼鏡の優男。コンピューター関連にめっぽう強い彼もラグーン商会のクルーだ。やせ型の華奢な体躯をし、顔には笑みを浮かべているが、この男もこの街の一員であり多くの修羅場を潜ってきた者と同じくその瞳の奥には怪しい光を宿している。

 

「やつはバラライカのお気に入りの便利屋さ。大統領暗殺から便所掃除までな」

 

 レヴィがぐったりとカウンターに突っ伏しながら自身のグラスに新しい酒を注ぐ。その泥酔状態に苦笑いを浮かべるロックの後ろから、再びダッチの声がかかる。

 

「雨の夜に音もなく枕元に立っている類のやつさ」

 

 レヴィが愉快そうな笑みを浮かべながら脅かすようにロックへと囁く。ちょうどその時、南国のこの街に久しく降っていなかった雨がポツポツと小さく静かに、しかし確実に降り始めた。雨で湿気った甘い夜の匂いが辺りを包んでいく。

 周りの雰囲気と同僚たちの脅し文句。しとしとと雨の降り出した外の雰囲気に、思わずゴクリと生唾を飲み込むロック。その時、イエローフラッグの戸が軋みながら開かれた。ゴツゴツという重たいブーツの踵が木製の床を叩く音が店内に反響する。

 

(ミスト)……」

 

 誰かの呟きに、店内にいた全ての人間が入口へと振り返る。ロックもまた、背後から近づいてくる力強い足音に、どこかビクつきながらもゆっくりと振り返った。

 店内を照らすオレンジの照明に浮かび上がる男の姿。身長190を超えるであろう体躯に筋骨隆々な肉体、体重は有に三桁を超えているだろうか。その力強いシルエットに不釣合いなほどの透き通るような白い肌、それに浮かび上がる墨のように艶のある黒い長髪をオールバックのように後頭部の高い位置で結い上げている。黒曜石のような深く黒い瞳は相手の心の底まで見透かすような妖しさがある。

 その端正な顔立ちに透き通る肌、そこに刻まれた大小様々な古傷の数々。そして自分などひとたまりもないであろう彫刻像のような肉体に大きな巌のような拳。その美しく均整のとれた姿はまさに戦うために作られた機械のようだと、ロックは第一印象を覚えた。できることなら目を合わせたくないタイプだが、どうにも男から目が離せなかった。

 

「あれ、見ない顔ですね。あなたが噂のラグーン商会の新顔の方ですか?」

「おう、ミスト、仕事帰りか?」

「ええ、ついさっき終わって一杯飲んで帰ろうかと」

 

 ロックたちラグーン商会の面々の元へと歩み寄ると男は親しそうにダッチと会話を交わす。ロックが声をかけられたことに答えるべきかと困っているところで、レヴィが割って入った。

 

「おう、これがうちの新しい水夫、ロックだよ。ヨロシクしてやってくんな」

「バラライカさんから聞いてますよ、ロックさんですね。よろしくお願いしますね」

「あ、いや、こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 ミストが柔和な笑みを浮かべてロックへ右手を差し出す。ノーネクタイの黒いスーツと灰色のワイシャツを着込んだ男。まくられた袖から伸びる白い肌と痛々しい傷跡に戸惑いながらも、ロックは握手に応じた。

 ロックが戸惑ったのはその姿だけではなく、彼がこのロアナプラの街に似つかわしくない程に柔和な笑みを浮かべ、物腰が柔らかかったからだ。

 

「話は聞いてますよ、日本人なんですね」

「え、ええ。この街では珍しいかもしれませんが」

 

 ダッチが一つ席を空け、男はロックの隣へ腰掛ける。彼が「いつもので」と注文すると、店主のバオは慣れた手つきで透明な液体を注いだグラスを差し出した。「ありがとう」と一言漏らしてから一気にそれを煽り空にする。ロックはその飲みっぷりではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()というこの街のゴロツキでは滅多に見れない光景にまたも驚きを隠せなかった。

 

「実は私も半分は日本人なんですよ。父がロシア人で母が日本人なんです」

「日本人……、なるほど、()()()()

「⋯⋯、Mr.ロック。礼儀や礼節は肌の色や、信仰する神では決まりませんよ。意識の問題です」

 

 ロックは彼の口から日本人という言葉を聞いたときに、彼のその謙虚な姿勢に納得してしまった。しかしそれを見透かされたように彼は瞳を細めてロックを制した。「この街にもまともな人はいますよ、少数ですがね」と彼は日本語で語りかけ、再び微笑んだ。

 

「まあ、私は今はロシア人として生きていますが。フリーの便利屋を生業としています。この街では同郷のよしみか、バラライカさんに目をかけていただいて、お世話になっています」

()()()()()()は終わったかよ、ニコ?」

「ニコ?」

 

 ロックの向こうの席からつまらなさそうなレヴィの声が2人の会話に割って入る。レヴィの口から出てきた聞きなれない名前にロックはキョトンとしながら男に目をやる。

 

「ああ、名前がまだでしたね。私はニコライといいます。気軽にニコラーシャでもコーレニカでもお好きに呼んでください」

「こ、コーレに?」

「コーレニカ。ロシアでのニコライの愛称です。英語圏では呼びにくいのか皆さんニコって呼びますけど。Mr.ロックも呼びやすい方でいいですよ」

「じゃあ、ニコで。俺のこともMr.は必要ないですよ」

「では日本人らしくロックさん、と。以後お見知りおきを」

「あたしもヨロシクに混ぜろよぉ!」

 

 自己紹介の済んだ2人は小さくグラスを合わせて乾杯をする。楽しくなさそうなレヴィが酔っ払いの千鳥足で席を立ち、腕をニコの首へと回して絡んでいく。

 ラグーン商会の面々としばらく酒を酌み交わし、レヴィが聞きなれないマーチを歌いだしたころ、イエローフラッグの電話が鳴り響いた。電話に出たバオが眉間にシワを寄せ嫌そうな顔をしながらニコを呼び出した。

 

「ニコ、バラライカ、⋯⋯さんからだぜ」

「はい、どうかしましたか?」

 

 しばらく電話の向こうとやり取りしていたニコがラグーン商会面々の元へと戻って来る。

 申し訳なさそうな顔をしながら彼はバラライカに急ぎで呼び出された旨を説明した。

 

「あの人は好きだけど人使いが荒いのが難点だ」

 

 そう言い残すとニコはグラスに残った酒を飲み干す。店を出るとき、娼婦たちがウインクを飛ばし唇を突き出して彼を誘うも、ニコは申し訳なさそうに手を振って店を後にした。

 彼が店から出てしばらくすると、店内は彼が来店する前の騒がしさに戻っていった。

 

「ニコがいるときはやけに静かだったね、店内が」

「まあ彼は騒がしいのが嫌いだからね」

「みんな彼に気を使って?」

 

 ロックの疑問にベニーが半笑いで答える。それに対し「まさか」とロックも笑いながらさらに尋ねた。腰に自慢の獲物をぶら下げたこの街のアウトローたちがたった一人に気を使うなんてありえないと。大きな組織の幹部というならまだしも。

 

「あいつはべらぼうに強い、特に白兵戦ならあいつに勝てるのはT-800くらいだろうさ」

「出身は知らねーがあれは軍隊仕込みのものだ。姉御が気に入ってる理由でもある」

 

 ダッチとレヴィがそのあとに続いて語りだす。その言葉に冗談の色はなく、実際店の雰囲気がガラリと変わったことからも、ロックは彼が()()()()()()()()()()()()()()()なのだと察するしかなかった。

 レヴィがグラスの氷をカラリと鳴らしロックへと突き出す。

 

「姉御のファーストネームを知ってるか?」

「いや、バラライカさんとしか」

「知らねえ方が()()()()()()()()だ。姉御をファーストネームで呼べるのはニコくらいだ」

 

 どこか不愉快そうに酒を注ぎながらロックへ警告するレヴィ。

 

「それともう一つ。どでけえクソを踏んじまう前に教えといてやると、あいつをロシアの愛称で呼んじゃいけねえ。あいつをニコラーシャやらコーレニカやらで呼んでいいのはバラライカだけだ。迂闊に呼ぼうものならどうなるか」

「……え」

 

 サングラスを持ち上げながらダッチがロックへ()()()()()()()()()を教える。

 

「彼らの愛称は彼らだけのものなのさ。もっとも、彼は全く気にしてる様子もなく相手に気軽に勧めるけどね、愛称で呼ぶことを」

 

 愉快そうに笑いながらベニーがロックへと伝える。ロックの額に脂汗がにじみ、顔色が悪くなる。「そういえば自分もさっき勧められたけど……」そう思いながら商会メンバーの顔を見やる。

 

「俺、もしかしてさっき、結構やばかったんじゃ……?」

 

 ポツリと呟く彼の一言にラグーン商会メンバーは心底愉快そうに笑っていた。

 それに反するように宵闇は深く濃く染まり、今宵の雨はまだしばらく止みそうにない。

 

 

 



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