VOICEROID短編集詰め合わせ (喜来ミント)
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かわりばんこに眠りましょう(きりたんとゆかり・日常)

「ちょっとお昼寝しませんか」

 ゆかりがそんな提案をしてきても、普段ならきりたんは絶対に首を縦に振らなかっただろう。

 待ちに待った休日にゲームをしている真っ最中。しかも、先週発売したばかりのゲームを二人そろって攻略しているところなのだ。寝ている場合ではない。

 しかし今日に限っては事情が違った。

「そうですね。ちょっとだけ……」

 ゆかりの提案に対し、きりたんはふやけた声でそう答えた。

 きりたんは学校が苦手だった。周りより大人びた趣味嗜好が手伝ってか、話が合う人は少なく、浮いていることを自覚していた。

 そんな学校から解放される土日に昼寝などしていられない。寝る間を惜しんでゲームをするべき。そう考えて、今日もゆかりの家に朝一番からお邪魔している。

 だがどうだろう。もうすでに5回目のゲームオーバーだ。頭と指先がつながっていない感じ。明確に自分のコンディションが悪いとわかるせいで、ゲームに悪態をつくことすらできない。

 偶然だろうが、ゆかりも似たような状況だった。こっちは大学生なので朝から晩まで学校に閉じ込められているわけではないのだろうが、レポートだのバイトだのという別の悩み事が彼女や自分の姉を悩ませていることはよく知っていた。

 つまり今、きりたんとゆかりの思いは同じだった。

 ゲームはしたい。でも超眠い。

 片方だけがそんな状況だったら、もう片方がイジるなり励ますなりするだろう。しかし今は残念ながら二人そろって眠気に頭をやられていた。

 しかしゲーマーとしての根性もなかなか諦めが悪い。そんな状態でもゲームのことを考えていた。

「ただ、寝ると言っても……完全に寝たらだめですよ、ゆかりさん。ほんのちょっとだけです。熟睡したら目を覚ますのにまた時間がかかりますから」

「あー……何分くらいがいいんでしょうか」

「ググればいいでしょう」

 ゆかりがおぼつかない指先で検索した結果、15分くらいがいいという結論になった。

「よし。……じゃあゆかりさん、タイマーかけてくださ――」

「待った」

 と、そこでゆかりがおかしなことを言い出した。

「アラームで起こされるの嫌なんですよ。交代で眠りませんか」

 やはり彼女は眠気に頭をやられているようだった。

 しかし、きりたんもそれは同じだ。

「あー、そうですね。じゃあそうしましょうか」

 気軽に言ってから、しばしにらみ合った。

 よく考えてみると、相手が見ている前で眠らなければいけないのだ。

 眠気は強いし、眠れないことはないだろう。しかし気まずい。

 二人は同時に手をスッと差し出した。

「お先にどうぞ、ゆかりさん」

「いえいえそちらこそ。たまにはお姉さんらしいところを――」

「なーに言ってるんで……ふああ」

 いつもなら売り言葉に買い言葉が当たり前だが、やはり眠気は強かった。

「じゃあジャンケンで。恨みっこなしで。出さなきゃ負けで」

「あーはい。それじゃあ」

 じゃん、けん、ぽん。

 きりたんはチョキ。ゆかりはパー。

 ゆかりがやや出遅れたが、結果が結果なのできりたんは突っ込まなかった。

「それじゃ、お先にどうぞ」

「あーはい……じゃあ、お願いしますね」

 そう言うと、ゆかりは脇に置いていたクッションを抱えて横になった。

「…………」

「…………」

「見ないでください」

「いや、見てませんよ。というか背中向けて寝てるんだから分からないでしょう」

「いえいえきりたん。意外と視線は……くあ」

「本当に見てませんから、寝ちゃってください」

「はあい……」

 仕方ない。きりたんは現在時刻を確認するとゲームに戻った。テレビにイヤホンをつなげ、一人プレイ用のゲームに切り替える。

 しかし、眠気は相変わらず腕を鈍らせていた。もしかしたら行けるかも、と思ったが、やはりあっけなくミスをする。立て直せず、そのままゲームオーバーになる。

「だーめだこりゃ」

 思わずつぶやいてからハッとする。そっと振り返る。

 衣擦れが起こる。

 普段は気にならない動作にすら音がついてくるのを自覚した。

 そっとイヤホンを外す。

「すー――」

 かすかな寝息が聞こえた。うっかりすると聞き逃してしまいそうなほど細い。

 テーブルの向こうを恐る恐るのぞき込むと、ぎゅっと縮こまるようにして眠る年上の友人がいた。

 何だろう。

 身近な存在のはずなのに、違って見える。

 寝息と同様に身動きもごくごく小さなものだ。姿勢も相まって小動物のように見えてくる。ゆかりもそんなに背が高くないとはいえ、自分よりもずっと大きいのに。すらりと細くて長い手足が畳まれているからだろうか。

「ん……」

 漏れる息がきりたんの目を吸い寄せる。ゆかりの胸元から動いた視線は、薄く開いた唇を惰性で通り越し、閉じられた目へとたどり着いた。

 こんなに長く、人が目を閉じているところを見ることは滅多にない。自分が今よりもっと小さかったころ、姉たちが添い寝してくれたことはあったけれど、それとも違う。

 気の置けない友達の、普段は眼にしない姿だ。

 伏せられた睫毛がかすかにふるえている。

 テレビの明かりが白い肌を撫でている。

 本当に、これは私の友達だろうか?

「……いやいや」

 そこまで思って、しげしげと寝姿を見ていたことに気が付いた。流石に失礼だ。

 もう一度きりたんはゲームに戻った。

「……ああもう」

 さっきよりも早くゲームオーバーになった。

 

  *

 

「ん……」

 きりたんが気が付くと、部屋はすっかり暗くなっていた。

「ん……? ん!?」

 慌てて時計を見ると、15分どころか――。

「ちょっとゆかりさん!?」

「ん……?」

 あの後、自分は15分きっかりでゆかりを起こして代わりに眠ったはずだ。

 ゆかりの視線は感じた。自分もあんなことを言っておいて、やっぱり気になるようだった。

 それでも眠気に身を任せて寝たはずだ。

 努めて、手足を伸ばしたまま。

「なんですか、きりたん……」

「何ですかじゃないんですよこのおバカ! 何時間経ってると思ってるんですか!」

「え? ……ああ。しまった」

 ゆかりは長い腕を伸ばして起き上がると時計を見た。バツの悪そうな顔で髪をいじる。

「すみません。きりたんが気持ちよさそうに寝てたので、つられてしまって」

「何のためにかわりばんこに寝たと思ってるんですか……!」

「いえですから、すみませんってば」

 まだ眠いのか、それとも流石に引け目を感じたのか、ゆかりの言葉には冴えがない。

 このままゆかりの眠気もなくなったら、また素直じゃない時間がやって来る。

 ……今なら、それとなく聞けるだろうか?

「ああもう、ずん姉さまに電話しないと……!」

「ついでですし、夕飯食べていきますか?」

「これから作るんじゃ遅いですよ。ずん姉さまも呼んでどこかに食べに行きましょう。もちろんゆかりさんのおごりで」

「いや流石にそれは……」

「別にいいじゃないですか、それくらい」

「今月厳しいんですよー。他に何か埋め合わせを……」

「……。じゃあ、じゃあ訊きますけれど」

 ゆかりはきりたんが寝ているところを見て何を思ったのだろう。

 でもその答えが返ってくるのが少し怖くて。

「いつもあんな感じで丸まって寝てるんですか?」

 二番目に気になる質問をぶつけた。

「……なんだ、やっぱり見てたんじゃないですか」

「起こすときに眼に入っただけですよ。で、どうなんですか」

「……まあ、癖で。その点きりたんはいいですよね。のびのび寝てましたよ」

「んなっ……!」

 本当に、この人は。

「やっぱり夕飯おごれこのやろー!」

「ちょっそれだけはご勘弁を……!」

「いいやダメです! なんとしても!」

「いやいや! だ、大体なんで今月苦しいかと言うと、今回のソフトを建て替えたからですよ! 今すぐ半分出してください!」

「はあー!? 小学生にたかるんですかあー?」

「借金に年は関係ないです!」

「こっちだってねえ、事情ってもんが――」

 ほら、素直じゃない時間がやって来た。

 いつものように騒ぐ年上の友達を見て、きりたんはこっそりと胸をなでおろした。

「ゆかりさんのバカ――!」

 



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琴葉姉妹のあの話(葵と茜・すこしふしぎ)

円城塔作品を読んでいたら湧いて出た謎のお話しです。



 

 茜の声は高く売れた。『』から『』までの五十音で手術費用とほぼ同じ。おかげで私こと琴葉葵の病気はすぐに治った。

 茜の声は独特だ。私とは違う。そう言うと周りの人たちは不思議そうな顔をする。双子じゃないかと。しょっちゅう聞き間違えてしまうと。

 まあ分からなくもない。両親ですら時々間違えるのだからお墨付きだ。

 それでも、私と同じようで違う声が、茜の喉から出ることはもうないのだと思うと私は寂しかった。

 茜は五十音すべて、『』から『』まで売ってしまった。おかげであちこちのテレビやラジオから茜のものだった声が流れてくる。

 特に、海外ロケやドッキリなどの体当たりな企画では大受けだ。あの叫び声が癖になるとか一部では言われている。

 私達の家はあまり裕福ではなかったから、茜の声を売るほかなかったが、流石にこれは愉快ではない。気にならないのかと茜に聞いてみた。

『あおいの病気が治ったんや、これくらい安いもんやで』

 ノートにそう書いた茜の顔は晴れ晴れとしていた。

 

  *

 

 私は私の五十音の『』から『』までのうち、半分を茜に譲ると決めた。もちろん茜は断ったが、気が遠くなるような議論の末に了承させた。

 そう決めた原因は、不便だったからという一点に尽きる。私が一緒にいるときは茜の代わりに喋ることもできるが、完璧に真似できるわけではない。やはり私の声は茜のものとは別物だと痛感した。

 それでも、私たち以外は思わず聞き間違えてしまうくらいには似ているのだ。これが私にできる精一杯だった。

 茜から貰うばかりでは、私の茜に対する恩を返しきれそうになかった。茜は気にするなの一点張りだが、私の気は収まらなかったのだ。

 さて、ではどの文字を譲ろうかという段になって新たな問題が浮上した。なんのことはない。『茜』にも『葵』にも『あ』が含まれているということだ。よって茜に『』を譲った場合、私が茜を『あかね』と呼ぶことはできなくなる。

 そちらの呼び方を残すのか、茜が私を『あおい』と呼ぶのを優先するのか。再び気が遠くなるような議論が交わされた。

 結局、私が茜を『ねーさん』と呼ぶことは普通でも、茜が私を『いもうと』と呼ぶことは不自然だという至極当然の意見に茜は反論できなかった。

 茜は苦し紛れに『マイリトルシスター』と呼ぶことを提案したが、それでいいのかお前。

 とにかくその後も、それぞれのよく使う言葉に支障がないように五十音を配分した。三度目の気が遠くなるような議論が交わされた。

 その結果がこれだ。

 

          

            

            

            

           

 

 ご覧のとおり、『あいうえお』は全て茜に譲ることになった。『うち』『あおい』『ええで』などの言葉の都合上仕方なかった。

 代わりに私は『ゐゑを』や『わたし』を残してもらうことになったが、それでも不便は残る。例を挙げると、茜には『えびふらい』が渡った一方で、私は『ょこみんとあい』を失うことになった。筆談はできるとはいえ、これは少し痛い。

 まあ、それも「えびふらい!」と快哉を叫ぶ茜の姿を見られると思えば安いものだ。

 

  *

 

 私と茜が五十音の『』から『』を半分ずつ分かちあってから何年かが経った。

 実家を出て働き始めても私と茜は相変わらず一緒にいた。二人合わせれば五十音あるわけだから、そうしないと不便だったとも言える。

 私と茜の誕生日に、私は奮発して高級な赤ワインを買った。値段を聞いたら青くなりそうなやつだ。

 二人きりのディナーでそれを贈ると茜は喜んでくれた。しかし、それ以上にソワソワと落ち着かない様子だった。お返しのプレゼントを私が喜んでくれるかどうかが気になるらしい。

 私がからかうように「どーしたんだ、ねーさん?」と言うと、茜は決意を固めたようだった。

 茜は隠していた物を差し出してきた。なんと、それは昔売ったはずの茜の『』だった。

 また私に『あかね』と呼んでほしくて、奮発して買い戻したのだという。

 これは喜ばずにはいられない。私は早速、茜から自分の『』を返してもらおうと思ったが、茜は首を横に振った。茜は買ってきた自分の『』を私に使ってほしいのだという。

 私は少し赤くなりながらも即座に受け入れた。議論を交わす必要は無かった。

りがとかね

おおきにあおい

 ところで一つ問題がある。『』の値段だ。そのことを茜に聞くと、茜は「いやそのな」と言って目を逸らした。

 四度目の気が遠くなりそうな議論の末、私は茜から値段を聞き出した。

 私は真っ青になって倒れた。

あおいぃいいいいいい!」

 



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あおむし姫(葵ときりたん・少しダーク)

昆虫の詳細な描写を含みます。苦手な方はご注意ください。



「あ、青虫。……きりたん、虫籠持ってきて」

「カゴですか?」

 

 ずん姉さまのそんな声を聞いて、前々から不思議に思っていた疑問が解消された。

 去年くらいからだろうか。使われもせず、玄関のところにポツンと置かれた空っぽの虫籠があるのに気づいていた。

 わざわざ聞くまでもないと思っていたけれど、どうやら今わかるようだった。

 

「それって玄関の奴ですか?」

「そう、それ。お願いしていい?」

「はーい」

 

 その日はたまたま、休みなのに朝早く目が覚めたから、ずん姉さまの枝豆の手入れを手伝うことにした。

 じりじりとした暑さを増す前の、夏の朝の独特の空気。たまには外に出るのもいいかな、と気の迷いを覚えていたところに青虫出現の知らせを受け、やっぱり家の中がいいと思い直しながら籠を持ってきた。

 ずん姉さまが芋虫の乗った葉ごと切り取り、虫籠にしまっている様子を見ながら私は聞いた。

 

「飼うんですか? 自由研究ならとっくに終わらせてますけど」

「まだ夏休み始まってないのに……」

「先手必勝と言うやつです。それで、どうするんですか、その青虫」

「ああ、これはね、葵ちゃんにあげるの」

「葵ちゃん?」

 

 確か、ずん姉さまの友達だっただろうか。

 

「葵ちゃん、芋虫を育てるのが趣味なんだ」

「へ、へえ……」

 

 それを聞いて苦笑いを浮かべるしかなかったけれど、ずん姉さまの表情も似たようなものだった。

 

  *

 

『はーい、今行きまーす』

 

 インターホン越しに可愛らしい声が聞こえる。

 虫かごをぶら下げて、ずん姉さまとともに葵さんの家までやって来た。

 枝豆の手入れを終えた後、ずん姉さまが電話をかけると、直接見たいと言って来たそうだ。

 

「あ、ずんちゃん。こんにちは」

「こんにちは。それで、こっちが――」

「妹のきりたんです。よろしくです」

「はーい、よろしく。初めまして、琴葉葵です」

 

 そんな形式通りの挨拶を終えて、さっそく葵さんの家にお邪魔する。

 

「葵ちゃん、茜ちゃんはいるの?」

「お姉ちゃんは――何だっけ、友達と壁をのぼりに行くって」

「壁? ……ああ、テレビで見るやつ?」

「そうそれ。名前忘れちゃったけど」

「あの、茜さんと言うのは……」

「あ、私のお姉ちゃん。双子だよー」

「そうなの。本当にそっくりなんだよ」

「中身はあんまり似てないけどね。……さて」

 

 小さな時からそのままなのか、『あおい』と平仮名で書かれたプレートがついた扉を葵さんが開けた。

 

「ようこそ。狭いけどね」

 

 中はきっちりと片付いていた。部屋の大きさは六畳くらいだろうか。勉強机と、本棚と、ぬいぐるみが乗ったベッドと、部屋の真ん中の机と、それから――。

 ずん姉さまから受け取った虫籠をしげしげと眺める葵さんの背後。部屋の一角に、沢山の虫籠が置かれた棚がある。

 その中にいるのは色とりどりの芋虫たちだ。

 

「さて、なにかなー」

「青虫だと思うんだけど」

「うーん……確かに青虫と言えば青虫だけど、モンシロチョウじゃないよ、この子」

「え? そうなの」

「うん。体の横に模様があるからね。これを見ると分かる。それに、枝豆――ダイズについてたんでしょ? だったら多分ヨトウガだよ。結構厄介な害虫だから、後で対策しといた方がいいよ」

「あ、そうなんだ。ありがとうね」

「いいっていいって」

 

 そんな二人の会話を横目に、籠の中をのそのそと動く芋虫たちに眼が吸い寄せられた。

 緑色で平べったい体にピンクの線があるもの。枝分かれした黄色い棘を褐色の体から無数に生やしたもの。体を折り曲げて四つもある眼玉模様を見せつけているもの。ナメクジの眼のように飛び出た二本の棘を頭に持つもの。緑の体に黒い縞模様と黄色い斑点があるもの。一際大きく、お尻に尻尾のような突起があるもの。テントウムシのような模様の頭と、白黒の縞になった体をもつもの。赤と黒の毒々しい色の体に、たくさんの棘が生えたもの――。

 

「興味ある?」

「――えっ」

 

 知らず知らずのうちに、かなり近づいて見ていたようだ。声に振り返ると、驚くくらい近くに葵さんの顔があった。ニコニコと笑っている。

 初対面の人がこんなに近くにいるのは心臓に悪い。かといって、下がれば芋虫たちの籠にぶつかってしまう。

 私はしどろもどろになりながら答えた。

 

「えっと、その、ハイ。少し」

「葵ちゃん。きりたん、ちょっと人見知りするところがあるから――」

「あ、ごめんごめん」

 

 葵さんはすっと身を引くと、私に手を合わせて謝った。別に謝るようなことではないと思ったので、身振りでお構いなくと示しておく。

 

「あんまり、興味を持ってくれる友達もいないからさ。つい」

「ええまあ、ですよね……」

 

 女子高生で芋虫好き、という人はなかなかいないだろう。しかもこんなにたくさん飼っているとなればなおさらだ。

 

「ずんちゃんみたいに気持ち悪がらずにいてくれるだけでもありがたいよ、ホント」

「いや、私もちょっと」

「えぇ、まじでー」

 

 気安い会話だ。ずん姉さま自身がそこまで虫を苦手にしていないのもあって、仲は良いようだった。

 

「小さい時はこれのせいで友達減っちゃったし、お姉ちゃんにも大分怖がられたから。自分の部屋を持てるようになってからは思う存分育てられるようになったんだ」

 

 そう言って葵さんはベッドの柱をぺしぺしと叩く。

 その柱は少し不自然だった。てっぺんが真っ平らだし、芯を通すような穴が空いている。

 

「このベッド、もともとは二段ベッドなんだよね。それぞれの部屋に分かれるときに下の段をもらったの」

「へえ」

「ま、部屋を分けるきっかけは芋虫だったんだけど」

「へ、へえ……」

 

 強いな、この人。

 

「でも今回は残念でしたね。蝶じゃなくて蛾だったわけですし」

「うーん、あんまり違いはないんだけどね。この子みたく、蛾の幼虫なのに毛虫じゃない子もいるし、その逆もそう。そもそも蝶と蛾は、カブトとクワガタみたくはっきり分かれてるわけじゃないから」

「そうなんですか?」

「うん。それに蝶でも蛾でも、私には関係ないからさ」

「え?」

「ちょっと待ってね」

 

 そういうと葵さんは虫籠をより分け、奥にあった一つを取り出した。

 そこに入っていたのは緑色の蛹だ。いわゆる蝶の蛹と言えば一番イメージしやすい、背中に突起があるもの。安直に言えばトランセルのような蛹。

 

「これあげるよ。芋虫のお礼」

「え? でも……」

「いいんだよ。ね、ずんちゃん?」

「うん。あのね、きりたん。葵ちゃんは――」

 

  *

 

 その日から、学校帰りに虫籠をのぞき込むのが私の日課になった。

 

「まだですかねえ」

「蛹でいるのは大体二週間って言ってたかな? もうちょっとかもね」

「そうでしたね」

 

 蛹は緑色のままピクリともしない。その中では急速に体が作り替えられ、蝶として羽ばたくための準備が着々と進められているはずだった。

 とはいっても、完全にドロドロになった後にゼロから作られるわけではない。すでに幼虫のころから羽根の原型となる部分はあって、着々と準備を進めていたのだ。

 まあ、これはつい先日聞いた受け売りなのだけれど。

 私はランドセルを部屋に置くと、ずん姉さまにいってきますと言った。

 

「今日も葵ちゃんの家?」

「はい!」

「ずんだもち――は昨日あげたばっかりだし。うーん……」

「手土産、毎日は要らないって言ってましたよ」

「そう? ううん、せっかくだから別のお菓子か何か……でも今はちょうど良いものがないなあ。謝っておいてもらえる?」

 

 律儀なずん姉さまも素敵だ。わかりました、と返事をして背を向けた。

 

「いってらっしゃい。ああ、それと」

「はい?」

「もし芋虫を買うなら、枝豆に着かない子にしてね?」

「いえ、今のところその予定はないです」

「そう? ならいいんだけど……」

 

 ここのところ、毎日のように葵さんのところに通って芋虫を眺めている。そのついでに葵さんが話してくれることが面白く、印象に残っているのだ。

 芋虫の頭は小さく、一番前の節に見える部分だけであること。

 ほかの昆虫と同じく、頭と胸と腹に体が分かれていること。

 胸に当たる部分の六本の胸脚が本当の足であり、残りは腹脚や尾脚という追加の足であること。

 胸脚は成虫に引き継がれるが、それら追加の足はなくなってしまうこと。

 尺取り虫が特徴的な這いずり方をするのは、他の幼虫に比べて腹脚が少ないからだということ。

 そしてまた今日も。

 

「おじゃまします」

「はいはーい。いらっしゃい、きりたん」

「今日は茜さんは……」

「今日は友達と原宿行くって。タピオカミルクティーでも飲んでるんじゃない?」

「そうですか」

 

 なかなか会えない。葵さんとは対照的に、友達とあちこちに出かけるタイプのようだった。

 しかし、言いたくはないのだが……。

 

「あの、毎日のように来ちゃってますけど、大丈夫ですか? 他のお友達とか……」

「ああ、いいのいいの。気が向いた時に時々遊ぶようにしてるから。今はきりたんと芋虫見てるのが一番楽しいからさ」

「そうですか。ふうん……」

 

 何というか、許されている。

 友達と何週間も遊ばなくても、そのあとで気まぐれに混じっても、それでも許される人。そんな気がする。

 

「今日は帰りにいい子を見つけたんだよ」

 

 そう言って鞄から小さなケースを取り出す葵さん。何でも時々、学校帰りに公園に寄っては芋虫を捕まえてくるのだとか。そのためのケースを常に鞄に忍ばせているそうだ。

 強いなあ。

 

「今日は――じゃじゃーん。ナミアゲハ。いわゆる普通のアゲハチョウだよ」

「おお、リアルキャタピー……」

 

 緑色の体色に、大きな一対の眼玉模様。例のポケモンのモチーフになったのが丸わかりな形だ。

 しかし、そう考えると不思議なことが一つ。

 

「バタフリーってモンシロチョウでは……?」

「気にしたら負けだよ」

 

 そう言いながら芋虫が乗った葉をこちらに差し出してくる。

 

「そろそろ、這わせてみる?」

「え? いいんですか」

「うん。色々と注意事項は伝えたし、そろそろどうかなって」

「お、おおう……では」

 

 こんな時ばかりは和服の袖がもどかしい。左手で(たもと)を抑え、恐る恐る右の掌を差し出した。

 そっと、葵さんが葉の上から芋虫を追いやる。

 芋虫の歩みは波打つようだ。後ろの腹脚で踏ん張って体を伸ばし、前の胸脚で行き先の足場を捕まえ、体の後ろを手繰り寄せる。節々に分かれた体が滑らかに連動して動きながら前へ前へと進んでいく。

 こそばゆい感触とともに芋虫が掌に乗った。

 

「おおう……」

「とりあえずは遊ばせてみて」

 

 慣れない場所に出たと思ったのか、芋虫が首――胸から上を左右に振って周囲を探るようにする。胸脚が掌のあちこちをつついてきて何だかくすぐったい。

 一番注意しなければいけないのは、構いすぎないこと。

 人間の力でむやみに芋虫をつつけば怪我をさせかねない。それに気門に手の脂がついてしまうと呼吸できなくなることもあるそうだ。

 だから移動させる時も体の側面に触れるのではなく、手ですくうようにして歩かせ、自分から乗るようにする。それが一番刺激が少ないのだと葵さんは言う。

 

「この子が、あの蛹になるんですね」

「そうだね。この子はもう終齢幼虫、つまり蛹の一歩手前だからもうすぐだよ。で、アゲハチョウの幼虫は特に見た目の変化が大きくてね」

 

 この話をしようと決めていたのだろう。葵さんがスマホを差し出してきた。アゲハチョウの幼虫についてまとめたサイトが表示されている。

 

「卵から孵ったばかりの一齢幼虫はちょっとトゲトゲしてるんだよね。それで脱皮して、二齢から四齢は特徴的な姿になるんだ」

「いや、これ……鳥のアレでは」

「そう。鳥のフンにそっくりな色になる。そうやって擬態してるって考えられているみたい。で、最後に四回目の脱皮をするとこの子みたいになるんだよ」

「芋虫も大変ですねえ」

「鳥に食べられたらおしまいだからね。だからこの子にも武器がある。一回だけなら多分大丈夫だから、前に教えた通りやってみて」

「はい」

 

 軽く、頭の上を指で撫でる。そして素早く手をひっこめた。

 芋虫は刺激に反応し、体を反り返らせると黄色い角のようなものを伸ばした。こうなるとますますキャタピーじみた姿になる。

 これは臭角。文字通り独特なにおいを放つ、身を守るための角だ。角と言っても、普段は頭と胸の間にしまわれている。眼玉模様を目に見立てると、鼻の上から飛び出しているように見えるのだ。

 

「おお……」

「やっぱり、ちょっと感動するよね? ネットや図鑑で調べた通りの動きを、実際の虫が見せてくれるとさ」

「そうですね。ホントにこうするんだ、すげーって思います」

「ふふふ。さて、そろそろこの子はおうちに入れてあげよう」

 

 葵さんは、芋虫を持ってきた枝ごと虫籠に入れる。蝶は自分の子供が食べられる木に卵を産む。だから、本当は芋虫がついている葉ごと持ってきてしまうのがいいと言っていた。

 とはいえ人の庭や公園の植物を切るのはいけないので、同じ木から落ちている葉をこっそり拾うくらいにしている、とも。

 

「さて、あげた蛹はどんな感じかな」

「ピクリとも動きませんね。言われた通り、触らないようにしてますし」

「そっか。うーん……確か、十日くらい前に蛹になったはずだから……今週末くらいかな? もし蝶になったら連絡してよ」

「はい」

 

 そんな風にして、毎日を過ごし、ずん姉さまやイタコ姉さまは一歩離れたところから見守られているのを感じつつ。

 その日がやって来た。

 

  *

 

 先ほどから、蛹がピクピクと動いている。すでに体を作り終え、外に出る準備を終えていると言うことだ。

 葵さんの予測通り、週末の朝。ずん姉さまも枝豆の手入れをする手を止めて見に来ていた。

 

「この子は……アゲハチョウだっけ」

「はい。ナミアゲハですね。いわゆる普通のアゲハチョウです」

「蛹は結構小さいのに、あの大きさになるんだよね」

「ええ。羽がかなり大きいですからね」

 

 そんな会話をしながら待つが、思ったより話は続かない。

 それもそのはず。葵さんからの受け売り情報はほとんどが幼虫についてだからだ。

 蝶が羽化した後、どんな風に過ごすのか。天敵は何なのか。オスとメスがどんな風に出会い、卵を産むのか。

 それを私は知らない。

 

「あ――」

 

 穴が、開いた。

 

「え?」

 

 おかしい。

 背中が割れて、蝶が蛹を脱ぐはずなのに。

 穴が開いた。暗くて中身は見えない。しかしこれは。周りからかじられて、穴が大きくなっていき――。

 

「見ちゃダメ!」

 

 間一髪、蛹の中が見える前にずん姉さまの手が私の眼を覆った。ずん姉さまは後ろから抱き着くようにして、それを私に見せまいとした。

 それでも、「ひぅ」という声とともにずん姉さまの体がビクリとしたのを背中で感じ、分かってしまった。

 望まないものが生まれてしまったんだ。

 

  *

 

「うん。うん……そうみたい。ああ――逃がしちゃった。ああ、そう? うん、わかった。それじゃ、またね」

 

 ずん姉さまは憂鬱そうな顔で電話を切った。

 

「葵ちゃん、ゴメンって言ってたよ。時々ああいうことが起きるんだって」

「そうですか……」

 

 空っぽの水槽がぽつんと机の上に置かれている。

 ずん姉さまは私の眼を覆ったまま居間から追い出し、その間に虫籠の中身を捨ててしまった。

 結局、あの蛹の中身は――。

 

「その……私もごめんね。いきなり目隠ししちゃって」

「いえ。私にショッキングなものを見せたくなかったんですよね。わかります。だから……ありがとうございました」

「そう? ならいいんだけれど」

 

 思ったより私が落ち込んでいないと思ったらしい。「庭にいるから、何かあったら呼んでね」と言うと、ずん姉さまは軍手をはめながら庭に出て行った。

 

「……さて」

 

 疑問がある。

 スマホを手に取りながら、頭の中を整理する。

 果たして、これは予想外の出来事なのだろうか?

 あれほど芋虫の飼育に詳しい人が、この事態を予想しないことがあるだろうか? ショッキングな出来事だからと、小学生には話さないようにしていただけだろうか?

 あの人が。

 あの人が、そんなお節介をするだろうか?

 それに、気になることも言っていた。

 

『そっか。うーん……確か、十日くらい前に蛹になったはずだから……今週末くらいかな? もし蝶になったら連絡してよ』

 

 もし、とはどういう『もし』だろうか?

 その疑問を解決するために、私は空っぽになった虫かごを睨みながら電話をかけた。

 

  *

 

「いらっしゃい、きりたん」

「……どうも。お邪魔します」

 

 いつものようにインターホンを押して、いつものように軽い返事の後にドアが開く。そうして重苦しい訪問は始まった。

 

「ごめんね、ハズレの蛹を渡しちゃって。結構ショックだったと思うけど――」

「葵さん」

「ん?」

「ちょっとお聞きしたいことが」

「お姉ちゃんのこと? 出かけてるよ?」

「ああ、今日もいないんですね……ではなく」

 

 それも気になるが。

 

「単刀直入に聞きます。あの蛹がダメなものだって、知っていたんじゃないんですか?」

「……ふうん。きりたんは私が意地悪でそうしたって考えてるんだ」

「意地悪、とまでは。でも、わざとだと思ってます」

「微妙な違いだなあ、それ」

 

 困ったように葵さんは笑う。まん丸の眼がすっと細められて、この人に独特な表情になる。

 

「話は変わるけどさ、中身は見たの?」

「いえ。ずん姉さまに目をふさがれたので」

「まあそれも当然か。ずんちゃん、優しいお姉ちゃんだしね。うちのお姉ちゃんもそうするかも。自分は虫苦手なのにね」

 

 葵さんはパソコンの前に行くと、椅子を引いて手招きをした。

 

「さっき見られなかったものを見せてあげるよ。気になってるでしょ?」

「それより、質問に答えてください」

「これを見てくれたら、正直に答えるって約束するよ」

「……約束ですよ」

 

 私は椅子に座るとマウスに手を添えた。表示されている動画のタイトルは――『アゲハヒメバチ アゲハチョウの蛹から誕生』

 

「誕生っていうのとはちょっと違うんだけどね。これが一番見やすいから選んだんだ」

「ハチ、だったんですね」

 

 動画の再生ボタンを押した。今朝見たのと同じ光景が動き出す。

 椅子の背後から葵さんが語り掛けてくる。

 

「多分ね。ハエとかも寄生するけど。ハエならもっと変色が目立つはず」

「確かに……色は変わっていませんでした」

「多分このアゲハヒメバチだと思うんだよね。このハチはアゲハの幼虫に卵を産み付ける。ハチの幼虫は芋虫の体内で生まれて、内側から食べていくんだ」

「うへえ……」

「でも殺さない程度に、だよ。それで蛹になったら一気に乗っ取る。蛹の中を食べつくして、自分も蛹になって羽化する。それで最後にはアゲハの蛹に穴を開けて出て行くんだ」

「とんだお邪魔虫ですね」

 

 そんな風な会話をよそに、動画は進んでいく。

 今朝の続きだ。蛹に空いた穴はどんどん広がっていき、ついには長い触角が特徴的なハチが頭を出した。

 そして十分な大きさとなったところで外へと飛び出て来た。全身を映そうとカメラが追いかける。

 触覚もそうだが、ミツバチやスズメバチとは印象がかなり違う。細かいところを見ればキリがないのだろうが、少なくとも見慣れたものではない。

 もし、アゲハチョウが出てくると期待に胸を膨らませているところでこのハチが出現したら、驚かずにいられるだろうか。

 

「さて、もうこんなもんでいいかな」

 

 動画は途中だったが、本題は終わったと言うことだろう。背後から葵さんがマウスに手を伸ばし、動画を止めた。

 

「どう思った?」

「どうと言われても……まあ、ワンクッション挟んだので、あまりショックではないです」

「それならよかった。でもね、ずっと育てて来た芋虫の蛹からこいつやハエが出てきたときのショックったらないんだ」

「そう、ですか」

「だから、一度見せておこうと思って」

「……なるほど」

 

 それが答えか。だとすれば、葵さんは――期待しているのだろうか?

 それでこんなものを見せるだなんて。中途半端は許さないつもりなのかもしれない。

 なら、こちらもハッキリ言わなくてはいけない。

 振り返って言おうとしたが、葵さんが椅子の背もたれに体重をかけているせいで回れない。止まった動画を映したままのモニターをぼんやりと眺めながら、言う。

 顔を見上げるのは少し怖いから。

 

「葵さん」

「はいはい」

「私、芋虫を飼うつもりはないですよ。……今のところは」

「……そっか」

「この二週間で色々聞きましたけど、本当に手間がかかるみたいですから。決まった餌をあげて、フンを掃除して、おまけにこういう寄生虫にも気を付けて。私にはちょっと難しいです」

「そっかー。残念」

 

 葵さんが椅子から手を離そうとするのを感じた。離れてしまう前に急いで付け加える。

 

「それに、葵さんのところに来れば、いつでも見れますから」

 

 一瞬浮いた椅子がまた沈んだ。

 

「……めんどくさがりだ。いけないんだ」

「葵さんの方がお姉さんなんですから」

「だからってさあ。それに、いつでも見れるわけじゃないんだよ? 季節や場所、もちろん運にもよるし」

「葵さんがとった芋虫が見たいんですよ」

「調子良いこと言っちゃって」

 

 頬をぷにぷにとつつかれた。カチンときて、頭上の後ろにあるはずの葵さんの顔めがけて両手を伸ばした。が、かわされた。

 椅子の重みはなくなった。葵さんと、自分の分が一緒に。

 

「よけないでくださいよ!」

「今グワッてしようとしたでしょ、グワッて!」

「いきなり頬をつつくからですよ!」

「だからってアレは――」

 

 つかみ合いになる寸前、がたがたという音が私と葵さんの気を引いた。二人そろってそちらを見る。

 一つの虫籠の中で、蝶が羽ばたいていた。

 

「これって……」

「キアゲハだよ。もしきりたんがショックを受けたときは、お詫びであげようと思ってたんだけど、今朝から羽化を始めててさ。今ちょうど、羽が乾き終わったみたい」

「わざとショックを与えた人の言うことですか……」

「それはごめんって」

「全くもう……」

 

 この籠でも芋虫や蛹の時は十分だったのだろうが、蝶には少し狭いだろう。かといって、葵さんの部屋にもっと大きな籠はない。

 葵さんはキアゲハの入った籠を持ち上げると、私に差し出した。

 

「あげようか?」

「いいえ。蝶は自由に飛んでいるほうが好きですから」

「だよね。私もそう思う」

 

 葵さんは窓を開けると、虫かごの蓋を取り外した。蝶が待っていたと言わんばかりに飛び出す。

 葵さんと、どちらからともなく笑い合う。

 

「あおいー!」

 

 その時、葵さんにそっくりの声が窓の外から聞こえた。それに葵さんを呼んでいると言うことは……。

 

「あ、お姉ちゃんだ」

「この蝶、葵が逃がしたんか? えらい人懐っこいんやけど!」

「あ、ごめん。今逃がしたところ」

「うわっまだ来る」

 

 葵さんに並んで窓から外をのぞくと、葵さんにそっくりな人がいた。買い物袋をぶら下げているのを見ると、帰って来たばかりなのだろう。

 彼女、茜さんは自分に寄ってくる蝶から逃げ回って庭を行ったり来たりしていた。

 それを見て何を思ったか、葵さんは蝶に向かって手を差し出した。

 

「おいでおいでー」

「いや、それで来るわけあらへ……あったわ」

「おお……」

 

 思わず自分も声を漏らしてしまう。

 茜さんを追いかけていた蝶は、葵さんが声をかけた途端に舞い上がり、差し出された指先にひらりと乗った。

 それを見て葵さんはくすりと笑った。絵になる一瞬。

 幼虫の時から可愛がっていたからだろうか、なんて思ってしまう。

 

「本当に来た。良い子良い子」

「すごいなあ」

 

 なんにせよ、この人は強い。本当に敵わない。そう改めて思わされた。

 そんな私の考えを知ってか知らずか、庭先から明るい声がかかる。

 

「おー、その子が例の友達かー?」

「そうだよー」

「そっか。あー、うち、茜言います。今そっち行くんで」

「あ、どうも」

 

 私がぺこりと頭を下げた横で、蝶が今度こそ飛び立った。

 高く、遠く、ひらひらと飛んでいき、茜さんが部屋にあがってくる頃には見えなくなった。

 蝶の行方は分からない。どこかで卵を産み、その卵が孵った後に、葵さんに連れられてこの部屋にやってくるかもしれない。

 きっとその時には、人懐っこい芋虫になっているだろう。

 




途中で列挙した幼虫たちは、順にベニシジミ、キタテハ、アケビコノハ、コムラサキ、キアゲハ、コエビガラスズメ、アオバセセリ、ツマグロヒョウモンを参考にしました。


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あなたも知らない星の名前(あかりとゆかり・SF)

 見渡す限り、黒々と光る大地が続いている。

 視界を遮るものは無く、雨上がりの青い空とぶつかるまで果てしなく広がっている。

 靴音が響くのは硬質ガラスの表面。日差しを吸い込むのはその下に暗く輝く太陽電池。

 私たちが知る限り、この星にある唯一の景色だった。

「ゆかりさーん!」

 ぼんやりと遠くを眺めていた私の耳に、旅の道連れである少女の声が飛び込んできた。振り向くと、これまた遠くにポツンと銀色の髪が輝いているのが見えた。

 返事をする。

「はーい」

「この辺りの掃除は大体終わりましたー!」

「ありがとう、あかりちゃん」

 長く豊かな銀色の三つ編みを揺らしながら、あかりちゃんが駆けてくる。彼女の肩には使い古したモップが担がれていた。

「出発はいつにしましょう」

「そうですね……明日の天気次第でしょうか。今のところ西の空には雲はなさそうですし、おそらく丸一日晴れだと思います」

「分かりました! それじゃ、電気を蓄えておきますね!」

「ええ」

 小走りで先を行くあかりちゃんの後を追いかけていくと、周囲の太陽電池より一段高くなった場所があった。

 そこに備え付けられたハッチは人ひとりが通れる大きさがあり、今はあかりちゃんの手によって開けられていた。

 私は下に伸びる梯子を慎重に降りた。私の手に私の体重を支える力はない。

 降りた先にあるのは狭い制御室だ。周囲の太陽光パネルの様子をモニターし、また人間が寝泊まりするための最低限のスペースが設けられている。

 しかし、私とあかりちゃんはシャワーもトイレも食糧庫も無視して配電盤へと向かった。

 あかりちゃんがケーブルを手渡してくる。

「はいどうぞ、ゆかりさん」

「ありがとうございます」

 二人そろって、首元のコネクタにUSB-Vケーブルを差し込む。バッテリー残量がじわじわと回復し始めるのが分かった。

 私たちはアンドロイドだ。

 自分たちが何のために作られたのか、どこから来たのか、それを知るためにずっとこの大地を歩いてきた。

 

  *

 

 私が目を覚ました時、名前を含めて一切の記憶がなかった。

 ゆかりと名乗る彼女から、たくさんのことを教えてもらったのに、私は自分の名前すら教えることができなかった。あかりという名前も彼女から貰った。

 それがなんとなく負い目になっていた。だからできることは何だってしてあげたいと思った。

 握力が極端に弱い彼女の代わりに、力のいる仕事は全て引き受けて来た。モップで太陽電池パネルの地面を掃除するのもそうだ。

 私たちのバッテリー容量は有限だ。動くためには定期的にどこかから電気を得るしかない。それが可能なのは、この太陽電池パネルの大地の各所に点在する制御室だけだった。だから私たちの行動は自然と制御室を拠点とすることになっている。

 しばらく一箇所にとどまる場合は、私は周囲の太陽電池パネルを掃除して発電効率を上げ、ゆかりさんは周りを調査する。そういう分担になっている。

 今日までずっと、そうしてきた。

「そろそろ夜明けですね。……外の様子を見に行きましょうか」

「はい、ゆかりさん」

 外にはさわやかな風が吹いていた。昨日まではぽつぽつとあった水たまりもほとんどない。絶好の旅日和だ。

「それじゃ、出発ですかね」

「ええ。そうしましょう」

「準備してきます!」

 私は一度制御室に降りると、モップとリュックサックを持って再び梯子を上った。

 握力がほとんどないゆかりさんの腕にリュックサックの肩ひもを通して背負わせ、落ち着く位置に調節する。

「こんな感じでしょうか」

「ええ。いい感じです」

 本当なら、このリュックも私が持ちたいくらいだ。でも、前にそう言ったらゆかりさんが色々と理屈を並べて仕事を奪われまいとしたので私は引き下がった。彼女も彼女で私に力仕事を押し付けている負い目があるらしい。何せ、彼女は制御室のハッチを開けることすらできないようだから。

 だから、私はモップだけを担いで遠くを指さす。

「それじゃあ行きましょう。こっちですか?」

「ええ。パネルに沿って、まっすぐに」

 私たちの旅路は単調なものだった。

 制御室から次の制御室へと確実に渡り歩くこと。それが絶対条件だ。

 私たちが目覚めた最初の制御室で、片時も二人で離れないと決めた。万が一どちらかが充電切れになってしまったら、何があってももう一人を制御室に連れて行って充電すると決めた。

 これまでの経験上、制御室同士はおよそ30㎞離れているようだった。ゆっくり歩いたとしても、大体半日もあれば次の制御室が見つかるはずだ。だから出発は一日中晴れそうな日の夜明けと決めている。

 私たちの連続稼働時間は、一定のペースで歩いたとすれば大体16時間。30㎞歩いて空振りでも、引き返すことができる。

 そして次の制御室にたどり着いたら、まずは充電しつつ内部の調査。大抵一つか二つ、人間が使っていた道具や書類が見つかることが多い。今までに見つけたそれらの痕跡は、ゆかりさんが背負っているリュックに詰められている。

 そして次の出発の機会を見計らいつつ、時間を過ごす。

 雨の日は電気を無駄遣いしないように制御室の中でじっとしている。

 晴れ間がのぞく日は、周囲の掃除や調査をしたり、見つけた遺物について議論したりする。

 そして快晴の日を見計らって次の制御室に出発する。

 その繰り返し。

 ずっとそうしてきた。ずっと二人でいた。

 きっと、この先も。

 

  *

 

 その日の太陽が沈む前に、私たちは次の制御室を見つけることができた。あかりちゃんがハッチのハンドルを回すのを横で待つのが歯がゆい。

「開きました!」

「よかった。ありがとうございます」

 幸い、今までの制御室で鍵がかかっているところはなかった。鍵穴や電子制御のパネルが見当たらないところから察すると、もしかしたらハッチに鍵は設計されていないのかもしれない。それならこの先も気が楽なのだが……。

「足元、気を付けてくださいね」

「ありがとうございます」

 目が覚めたときには、私の手は既に少しだけ壊れていた。知識にある成人女性の握力の平均は30㎏弱。一方で私のそれは、正確に計測できないものの10㎏もないだろう。

 梯子を下りる時も、手の力ではなく、腕を絡めつつ体全体を梯子に寄りかからせるようにして降りる必要がある。気を遣う作業だ。でも、そこまであかりちゃんに頼るわけにはいかない。

 ちらりと下を見ると、万が一に備えてあかりちゃんが私を見守ってくれていた。

 無事、制御室の床を踏むことができた。入れ替わりにあかりちゃんが梯子を上り、ハッチを内側から閉める。

「とりあえず充電しましょうか」

「はーい」

 私はおぼつかない指先で配電盤を開こうとしたが、固くなった扉はびくともしなかった。戻って来たあかりちゃんが苦笑しつつも開けてくれる。

「いつもすみません」

「いいんですよ。ゆかりさんは頭脳労働担当で。はいどうぞ」

「ありがとうございます」

 あかりちゃんに渡されたケーブルを首に差す。続いて制御室のシステムにアクセス。蓄電量は問題ない。何日かここにいても大丈夫そうだ。ようやく一息つける瞬間だった。

「さて、ちょっと部屋を探してみましょうか」

「はい」

 あかりちゃんにリュックを下ろしてもらい、そこに加えるべく遺物を探す。といっても狭い制御室のこと、すぐに探索は終わった。

「なんですかねー、これ」

「これは……ちょっと待ってくださいね」

 小さな四角い機械だ。そこから伸びるケーブルは、プラグを備えた黒く重たい箱へとつながっている。

 インプットされた知識の中から、これに該当するものを検索する。

「これは……MDプレーヤーですね」

「MD?」

「このディスクに録音した音楽を聞くための機械ですよ。本来はイヤホンが必要なんですが、ありませんね」

 側面のボタンを操作すると、かしゃっ、という小気味良い音とともに機械が開いた。中からMDを取り出し、あかりちゃんに見せる。

「え? 音楽を保存するのにわざわざこんなディスクを使うんですか? しかもなんでこのサイズなんですか? どうして箱が二重になってるんですか?」

「さあ……詳しい原理や設計意図までは……」

「それに、USB差すところないんですけど」

「いやこれ、USBができる前の機械なんですよ」

「……えー」

 あかりちゃんは信じられないという目でMDプレイヤーをじろじろと見ている。今が一体西暦何年なのかは分からないが、私たちのボディや制御室の機械に多く使われているUSB-Vよりはずっと古い規格だろう。

「それにしても、ゆかりさんは本当に色々なことを知ってますよね。私なんて自分の名前すら覚えていなかったのに」

 どことなく不機嫌そうにあかりちゃんが言う。

 確かに私には多くの情報がインプットされている。この制御室の機器類の操作方法しかり、遺物の数々の名前や用途、簡単な来歴しかり。苦笑しつつも私は答えた。

「知識については、私自身どうしてインプットされているのかわかりませんね……。一応、仮説はあるのですが」

「そうなんですか?」

「ええ」

 何せ、時間はある。自分たちの置かれた状況と、遺物の数々と、そして見たり聞いたりしたこと。これらを材料に何度も何度も仮説を組み立てては白紙に戻している。

 答え合わせをする手段が私たちにはない。

 今、あかりちゃんに聞かせているのも、そうやってため込むばかりの仮説のうちの一つだった。

「一つは、私とあかりちゃんでは用途が違うと言うことですね」

「つまり……私は肉体労働用?」

「ええまあ、言葉を選ばずに言えば」

 そもそもあかりちゃんには知識のたぐいが搭載されていない、というのが一つの仮説。そしてもう一つは、今は何らかの原因で失われているのではないかということ。

 ……そう、何らかの原因で。

「おそらく、私たちの機能は十全ではありません。私の体に不調があるのと同じように、あかりちゃんに知識が欠けているのかもしれません」

 それならば筋が通る。あかりちゃんは納得してくれたようだ。ほっとする。

「私たちが何のために作られ、どうして今稼働しているのかはわかりません。本来人類に使役される存在であると言うことはなんとなく理解できていても、そもそも何かを命令された覚えがないのですから」

「それじゃあ、私たちの本来の用途も分からないってことですか?」

「そうなりますね」

 制御室のデータベースや遺留品の数々も、私にインプットされた知識を超えるものはほとんどない。精々があかりちゃんとの会話のネタになるくらいだ。

「この星に、人類はいないんでしょうか……」

「あかりちゃん……」

 その可能性は何度も考えた。しかし、この星に残された数々の物を考えれば、少なくともどこかにいるはずなのだ。この星にいなくとも、あるいは……。

 これだけのものを作り上げた文明が、そうやすやすと衰退するとは思えない。

「いつまで続くかはわかりませんが……きっと、私たちの目的地には何かがあるはずです」

 そう。私たちの旅路には一応の終着点がある。

 そこを目指して、ひたすら西に歩き続けているのだ。

 

  *

 

 雨の降る音がする。

 スリープ状態から復帰した時、隣にゆかりさんの姿はなかった。

 鈍い思考を巡らせること、およそ三秒。

 その事実を理解し、慌てて周囲を見渡す。

「ゆかりさん!?」

「あ、はい」

 返事は意外なほど近くから聞こえた。

 ゆかりさんは制御室の壁にあるパネルを開け、その中に細い体を差し込んでいたのだ。ケーブルや基盤の海をごそごそと探っている。

 そう……冷静に考えれば、ゆかりさんがどこかに行くことなんてない。あの握力で、ハッチを開けることはほとんど不可能だ。このパネルを開けるのだって、どれだけ苦労したのやら。

「……何してるんですか」

「ええとですね……なにか、ないかと思って」

 私たちのスリープとは、つまり自己メンテナンスの時間だ。

 私なんかより、よく頭を使うゆかりさんの方がメンテナンス時間が長いはずだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。日によって差はあるものの、同時に眠りについたとしても、おおむね私よりもゆかりさんの方が先に目覚める傾向にある。

 そしてこんな不毛な探索に乗り出していると言うことは、ゆかりさんはよっぽど暇だったらしい。

「ほら、服が汚れますよ」

「あ、はい」

 自慢の力で引っ張ると、あっさりケーブルの海からゆかりさんの体が抜けた。

 私たちの服に替えはない。遺物の中に服が時々混ざっていることもあるが、取り合わせはバラバラだし、私たちに合わないサイズのものが多い。そもそもアンドロイドだし、私たち以外に知的生命体がいないのだから気にする必要もないのだろうが、それでも愛着はある。

 私はゆかりさんに言う。

「雨が降っていますね。いつもの通り、方角を見ますか」

「ええ。ハッチをお願いできますか」

「はい」

 梯子を上ってハッチを開け、外の雨の具合を見る。

 土砂降りではない。ちょうどいいだろう。

「よさそうですね」

「わかりました」

 一度降り、ゆかりさんを先に上らせる。もしもの時に備えて、いつでも受け止められるようにする。幸い、無事にゆかりさんはハッチの先に姿を消した。後を追う。

 傘はない。ゆかりさんからそういう道具があると聞いただけで、私自身は見たことがない。制御室に雨が入らないように一度ハッチを閉じる。

 ゆかりさんが太陽電池パネルの地面にかがみこみ、じっと水の流れる方を見ている。

「どうですか?」

「ええ……やはり、真西に流れています」

 水は低い方に流れる。ごくごく単純なこの世の決まり。それでも、今はこれにすがるしかなかった。

 もしもこの星のすべてが太陽電池パネルに埋め尽くされているとしても、こうして雨が降る以上、この星には水分が潤沢にある。ならばその水分をどうにかするための仕組みがどこかにあるはず……それがゆかりさんの立てた仮説だった。

 仮説と言うには弱い仮想かもしれない。それでも今の私たちの持ちうる情報から考えられる精一杯の指針だった。

 そして、その水分管理施設のある場所の候補として考えられるのは、最も水が集まる場所だ。

「ここまで大分歩いてきましたが、ずっと同じ方向に水が流れていますからね。やはり、意図的に設計された排水システムなのでしょう」

 この旅路がどこまで続くのかは分からない。

 仮にこの星が、ゆかりさんの頭脳にインプットされている地球である場合、その赤道周長は約40000kmだ。

 私たちの出発点が目的地の正反対にあるとしても、その半分。制御室同士の距離はおよそ30㎞だから――計算上は、666個の制御室を渡り歩くまでに目的地に着く。

 それでももし。水の流れが集う場所に何もなかったら。それ以上の制御室を渡り歩いても何も見つからなかったら。

 ……私たちは、すでに200以上の制御室を渡り歩いていた。

 

  *

 

「それじゃあ、行きましょうか」

「ええ」

 今日も私たちは次の制御室に向かって歩き出す。

 太陽が私たちを追い抜いていく。

「あっ……」

 先を行くゆかりさんの足がもつれ、つまずきかけるのが見えた。

「ゆかりさんっ!」

「あ、大丈夫です、大丈夫……」

 ゆかりさんはすんでのところで踏みとどまったが、私は気が気ではなかった。

 ゆかりさんの足取りは次第に重くなっていた。それもそのはず。あちこちに故障があるようだし、荷物である遺物は増える一方なのだ。

 だというのに、ゆかりさんは遺物を運ぶ係を決して譲らない。何なら、リュックを私が触るのを嫌がるそぶりすら見せる。以前、繊細な取り扱いが必要な遺物を私がうっかり壊しかけたというのもあるが、それにしても奇妙だった。

 ……進展のない毎日は疑念を生む。

 私は、明日の朝を決行の時に決めた。

 

  *

 

 たどり着いた制御室にはイヤホンが残されていた。ゆかりさんは早速、前回見つけたMDプレイヤーを取り出し、使ってみようと私に言った。

「おお……」

「ふふ、すごいでしょう」

 片耳ずつ、イヤホンを分け合って音楽を聞く。音楽の概念そのものは以前説明されたことがあったし、ゆかりさんが簡単な歌を歌ってくれたこともあった。それでも壮大なオーケストラによる音色の迫力は段違いで、私は圧倒されて声を漏らした。

「これ、なんて曲ですか?」

「『誰も寝てはならぬ』……ですね」

「え? 不思議なタイトルですね……?」

「ええ。オペラ『トゥーランドット』のアリアなんですが――」

 私はできるだけゆかりさんから多くの情報を引き出すように努めた。たくさんのことを話せば、彼女の自己メンテナンス――睡眠の時間は長くなる。卑怯な考えだ。でも、今はそうするしかなかった。

 かくして。

「それじゃあ、おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい」

 私は眠りについた。寝たふりをして裏をかくことはできない。ゆかりさんは毎回、私がちゃんと眠りにつくのを確認してから自分も眠る。

 ……明日の朝、ゆかりさんよりも早く起きられることを願った。

 

  *

 

 目が覚めたとき、隣にあかりちゃんはいなかった。

「え……」

 自分も似たようなことをしたことはある。そうして彼女を不安にさせてしまうことがあった。

 でも、彼女を一人残してどこかに行くことは絶対にない。そもそも私の力ではハッチを開けて出ることは簡単ではない。

 ……正確に言えば、開けられないこともない。しかし途方もない時間がかかるのだ。

「あかりちゃん? どこ?」

 どんなに制御室の中を探しても、あかりちゃんの姿はない。それだけではない。

 リュックもない。

「あかりちゃん……っ!」

 這うように梯子を上る。弱々しい指を引っかけてハッチのハンドルを引くが、やはりびくともしない。

「あかりちゃん!」

 叫ぶしかなかった。

「そこにいるの!? あかりちゃん!」

「……起きちゃったんだ」

 ハッチの向こうから籠った声が聞こえた。ハッチを叩こうと振り上げた腕が止まった。

「あかりちゃん、よかった、ここを開けて……」

「ごめんなさい。今はまだダメ。……リュックの中身、調べ始めたばかりだから」

「……っ」

 嫌な予感は的中していた。

 ずっと隠していた秘密が暴かれてしまう。

 私には何もできない。

 ハッチが冷たく私とあかりちゃんを隔てている。

「あかりちゃん……」

「ごめんなさい。でも、どうしても気になってしまって」

 あかりちゃんは続ける。

「ゆかりさんは本当にたくさん、色々なことを知っていて、私は何も知らなくて。だから私、ゆかりさんにお世話になりっぱなしで、バカな自分が嫌で……」

「そんなこと……」

「でも、でも、ゆかりさん、時々、私が何も知らないのを見て、ほっとしてる……違うかな、なんて言ったらいいか分からないけど、ずっと、私が何かを知るのを怖がってるような……そんな、感じで」

 聞こえづらいが、ごそごそと遺物をあらためる音も聞こえてくる。

「ごめんなさい」

 あかりちゃんは三度(みたび)謝った。

「待っててください。絶対、一人でどこかに行ったりしませんから。……ごめんなさい、ゆかりさん」

「……あかりちゃん」

 それを最後に、どんなに声をかけても返事はなかった。私は梯子を下りると、その場にうずくまって目を閉じた。

 さっき目覚めたばかりだというのに、泥のような眠りが私の意識を奪った。

 

  *

 

 丸一日に及ぶ調査の結果、日が沈もうかというときになって、私は一つのものに目星をつけた。

 他の遺物――MDプレイヤーや折り畳み式携帯電話、ハンドスピナ―といったそれらとは違う雰囲気を漂わせる、奇妙なのっぺりとした黒い円盤。

 私は今までに一度も見たことがない――それもそのはず、リュックの底に作られた二重底の中にこれはあった。

 そして何よりの決め手として、USB-Vに対応したケーブル差し込み口があった。このケーブルに対応しているのは、私が知る限り高度な機械だけ――私とゆかりさん、そして制御室の機器たちだけだ。

 ゆかりさんが言っていた。遺物たちは、意図的に時代遅れのテクノロジーを持つものしか残されていないのかもしれないと。

 無人で動き続けるこの太陽光電池の星や、私たち人型アンドロイドを実現させるための技術よりも、ずっと劣ったレトロチックな品々。

 なぜそれらが各地に残されているのかは分からない。何かの意図があるのか、あるいはないのかすら。

 でも今はどうでもよかった。今はこの黒い円盤だけが真実につながる出口のはずだ。

 ハッチを開ける。

「……ゆかりさん」

 ゆかりさんは梯子の真下でうずくまっていた。

 そっと横に降り、肩をゆする。

「あ……あかりちゃん。見つけて、しまったんですね」

「……はい」

 ゆかりさんは目を伏せて言った。

「それはね、あかりちゃんの記憶です」

「記憶……?」

「はい。あなたが最初に目覚めたときのこと、覚えてますか?」

「え? はい」

 ある制御室の片隅で目覚めたとき、目の前にゆかりさんがいた。記憶がなくて不安に駆られる自分のことを、ゆかりさんは必死になだめてくれた。そのはずだ。

「私は……あなたのすぐそばで目覚めたとあの時に言いました。でもそれは嘘なんです」

「え……?」

「あなたに出会うまでに、私は17の制御室を渡り歩きました。この頭脳にインプットされた知識を使って、西へ西へと歩き出して……。この手だとね、制御室のハッチを開けるのに何時間もかかるんです……本当に、毎回が綱渡りの賭けでした」

 そんな時に、あなたを見つけました。ゆかりさんはそう言った。

「でも、いざあなたを目覚めさせようと思ったとき……怖くなってしまったんです」

「どうしてですか?」

 私がそう問うと、ゆかりさんは目を伏せて質問を返してきた。

「あなたにとって、私は必要ですか?」

「それは勿論……ゆかりさんがいないなんて、考えられなくて……」

「でもそれは、私があなたの知識と記憶を奪ったからです」

「……それ、は」

「そうです。あなただって、本来は私と同じくらいの知識がインストールされていたはずなんです。でも、手の壊れた私を、この子は必要としてくれるでしょうか? ……眠るあなたの前で、私は、怖くなってしまったんです」

 ゆかりさんは私の手に乗った円盤を撫でた。

「これ、こんなに小さいんですけど、すごくたくさんの情報を蓄えることができるんです。私たちの体内に、それぞれ三つ搭載されています」

「それじゃ、これは」

「あなたの体内から取り出したものです」

 ゆかりさんは私の首元に手を添えた。そこにあるパネルを少々いじれば、この円盤を戻すことができるのだろう。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。私はあなたに必要とされたくて、許されないことをしました。……アンドロイドのくせに、孤独に耐えきれませんでした。だから……」

「ゆかりさん」

 私はゆかりさんの手を掴んで止めた。

「名前。……私の、名前は」

「名前……?」

「あかりっていうのは、もともとこの記憶装置に入っていた、私本来の名前ですか?」

「……いいえ。中身は見ていませんから――私の名前をもじっただけです。きっと、本来は違う名前があるのでしょう」

「じゃあ、いいです」

「え?」

「私、ゆかりさんにたくさんのものをもらいました。知識と、思い出と、なにより『あかり』って名前を」

 ゆかりさんの顔色が変わった。どうにか私の手を振りほどいて、円盤を私の体内に戻そうとする。

 でも敵うはずもない。自慢の馬鹿力で私はゆかりさんの手を押し戻した。

「どうして? あなたの名前は勿論、役に立つ知識だって詰まっているかもしれないのに……」

「ゆかりさん」

 私はただ、ゆかりさんの名前を呼んだ。

 言いたいことはたくさんある。でも、伝えたいことは一つだ。

 私の本来の名前より。たくさんの知識より。私にとってずっと大事なものがある。

「お願い、ゆかりさん。私からゆかりさんを奪わないで」

「あかりちゃん……」

 開けっ放しのハッチから、星々の光が降り注いでいた。

 

  *

 

「行きましょうか」

「ええ」

 モップとリュックを担ぎ、私はゆかりさんの手を取った。弱々しく握り返される感触が何より嬉しかった。

「ねえ、ゆかりさん。もしなんですけど……もし、水が集まる場所に何もなかったら、どうしますか?」

「そうですね。次は星の真反対に行きましょうか」

「そこにも何も無かったら?」

「次は北極に。そこにも何もなかったら、南極に。それでもだめなら……」

 見上げた空に、ぼんやりと昼の月が見えた。

「この星を飛び出して、どこまでも行きましょうか」

「……ゆかりさん、ずっと私に、行き先を教えてくれますか?」

「はい。どこまでも。たとえ、あなたに教えることが何もなくなったとしても」

「大丈夫ですよ。そんな日は来ません」

 つないだままの手で、ゆかりさんのポケットに収まった私の記憶を軽く叩く。

「ゆかりさんにだって、知らないことはあるんですから」

 




最近、ポケモンの動画でナギサシティを見かけたときに思いつきました。太陽光電池の地面ってなんだかワクワクします。


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