Fate/Cinderella night. Encored Grail war ~ニュージェネ+αで聖杯戦争~ (藻介)
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【設定】Fate/Cinderella night. Encored Grail war

本当にお久しぶりです。エクシエ改め藻介です。

ハーメルンでの投稿は前回からおよそ一年も空いてますね。別段その間何も書いていなかったわけではないのですが、何分同時投稿がめn、いえ何でもないです。

そんな中新シリーズを書き始めるのかと言ったところではありますが、ほぼ完結済みなので、早くて今月中、遅くて来月には完走できるはず、の予定です。
他シリーズも書き溜めている分に関しては順次、マイペースに投稿していくつもりなので(ただし弓女主シリーズは少し難しいところがありますが)、また末永く、お付き合いいただけたらと。

それでは前置きもこのくらいで。『普通』という運命に翻弄されながらも必死に星を目指した少女たちの物語。最後までお楽しみいただければ幸いです。


・島村卯月

 ・穂村原学園高等部一年生。

 ・きらきらと輝くアイドルになるために養成所に通っているが、中々芽が出ない。

 ・養成所からの帰り道に聖杯戦争に巻き込まれ、蒼セイバーと契約し、戦い抜いていくことになる。

 

 「島村卯月。マスターとして頑張ります!」

 

 

・蒼セイバー

 ・卯月のサーヴァント。

 ・蒼い軽鎧に同色の外套、蒼く輝く剣を携えた少女剣士。とにかく蒼い。

 ・中立・善・人

 ・ステータス ※()内は魔力放出時のランク

  筋力D(B) 耐久E(C) 敏捷B-(A+) 魔力D(A) 幸運A 宝具A

 ・宝具

  ・蒼の剣(アイオライト・ブルー) A++ 対人宝具

   ・周囲からマナを集め、使用者にAランク相当の魔力放出を付与するかなりの優れもの。ただ、セイバー本人にとってはすごく斬れる強くて便利な蒼い剣程度の認識しかない(逆に言えば、本人の意識一つで化けるとんでもない代物でもある)。ビームは出ない。

   ・アイオライトの名前から、同名の宝石の性質である、本質を指し示し、真実を見定める力を受け継いでいる。そのため、暗示系の魔術や呪いに対する耐性を使用者とその契約者に与えることも可能。

  ・—————— B ——————

   ・——————

 ・スキル

  ・アイドルの直感C+

   ・次の瞬間に適切なステップを踏むための最適解を見出せる能力。本人が必要だと認識すれば、戦闘中にも発揮されるため、同ランクの直感や心眼(偽)と同様の効果を得られる。

  ・アイドルのカリスマEX

   ・アイドルとしてどれだけの人に影響を与えられるのか、その能力を表すスキル。彼女はいまだ成長途中であるため、未知数という意味でのEX判定であり、本作において本来のランクが判明することはない。

  ・単独行動C

   ・魔力供給が無くとも1日は現界可能。

  ・対魔力D(A)

   ・一工程による魔術を無効化。魔力除けのアミュレット程度の効力。

    魔力放出時にはランクが上がり、現代の魔術では事実上傷つけることは不可能になる。

 

 「卯月の笑顔を守る。戦う理由なんて、それだけで十分」

 

 

・本田未央

 ・アーチャーのマスター。穂村原学園中等部三年生で卯月の親友

 ・遠坂の遠い分家筋にあたり、零落した本田家の再興のため、聖杯戦争に足を踏み入れる。

 

 「私さ、どんなことしたって聖杯戦争に勝たなくちゃならないんだ」

 

 

・アーチャー

 ・未央のサーヴァント。清冽な森のような雰囲気の青年で、未央いわく「あーちゃんにちょっと似てる」らしい。

 ・蒼セイバー曰く「(プロデュサーに)似ているのは声だけ。あなたみたいに器用じゃないから」

 ・秩序・善・ー

 ・ステータス

  筋力B 耐久B 敏捷A+ 魔力B 幸運C 宝具A

 ・宝具

  ・—————— A 対人宝具

 ・スキル

  ・対魔力B

  ・単独行動A

  ・千里眼B+

  ・心眼(真)A

  ・神性C

  ・——————A+

  ・——————EX

 

 「プロデューサー? いえ、ただのしがない教師ですよ。教え子に恵まれただけにすぎません」

 

 

・高森藍子

 ・未央のクラスメイト。一年ほど前からアイドルをしている、穂村原学園中等部三年生。

 ・アイドルを始めたての頃に倒れたところを未央に助けられ、それ以来、家で一人になりがちな未央にごはんを作りに行くようになる。

 

 「だれかを笑顔にするって、きっとこういうことなんだろうなって、その時気づいたんです」

 

 

・言峰綺礼

 ・冬木教会の神父。監督役として、卯月を聖杯戦争へといざなう。

 

 「願いを聖杯にくべるのだ、少女よ。その時にこそ、君の願いは叶うだろう」

 

 

・イリヤスフィール・フォン・アインツベルン

 ・バーサーカーのマスター。

 ・セイバーのマスターである卯月を気にしているようだが、その実本人じたいにはあまり興味がないもよう。

 

 「早く呼び出さないと死んじゃうよ。おねーちゃん」

 

 

・ランサー

 ・禍々しい赤色の槍を構えた青い全身タイツの男。

 ・秩序・中庸・天

 ・ステータス

  筋力B 耐久C 敏捷A 魔力C 幸運E 宝具B

 ・宝具

  ・—————— B ——————

 ・スキル

  ・対魔力C

  ・戦闘続行A

  ・——————B

  ・——————B

  ・——————B

 

 「女子供に槍を向けるのは趣味じゃねぇんだがな。ったく、ままならないもんだぜ。聖杯戦争ってのは」

 

 

・ライダー

 ・ローブに身を包んだ小柄の人物。バーサーカーと遭遇した卯月達に介入し、撤退させる。

 ・混沌・善・ー

 ・ステータス

  筋力B 耐久EX 敏捷A+ 魔力A 幸運B 宝具EX

 ・宝具

  ・—————— EX ——————

 ・スキル

  ・——————EX

  ・——————B

  ・戦闘続行A

  ・騎乗D

  ・——————B

  ・——————ー

  ・——————EX

  ・——————D 

 

 「アーチャー。みなさんのこと、お任せしますね。」

 

 

・キャスター

 ・紫のローブで顔を隠した妖しげな女性。ライダーとキャラが微妙にかぶっているとか言ってはいけない。

 ・中立・悪・地

 ・ステータス

  筋力E 耐久D 敏捷C 魔力A+ 幸運B 宝具C

 ・宝具

  ・—————— C —————— 

 ・スキル

  ・陣地作成A

  ・道具作成A

  ・高速神言A

  ・——————EX

 

 「何よ、アレ」

 

 

・アサシン

 ・身の丈を越える長刀を操る風雅な雰囲気の侍。

 ・中立・悪・人

 ・ステータス

  筋力C 耐久E 敏捷A+ 魔力E 幸運E 宝具ー

 ・宝具

  ・——————ー

 ・スキル

  ・——————ー

  ・心眼(偽)A

  ・——————B+

  ・——————B 

 

 「油断したわけでもないが、しかし。どれだけ剣を振ろうと、女を見る目だけは未熟なままということか」

 

 

・バーサーカー

 ・巌の巨人。マスターであるイリヤスフィールと行動を共にする。

 ・混沌・狂・天

 ・ステータス

  筋力A+ 耐久A 敏捷A 魔力A 幸運B 宝具A

 ・宝具 

  ・—————— B ——————

 ・スキル

  ・狂化B

  ・戦闘続行A

  ・心眼(偽)B

  ・——————A+

  ・——————A 

 

 「■■■■■■■■ーーーーーー!!!」

 



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Encored Grail war
Prologue/S(mile)ING(1)


主視点はおもに卯月です。変更がある場合には、前書きでお知らせします。


 もう何年も、同じ夢を見続けています。

 

 キラキラと輝く舞台があって、数えきれないほどのお客さんがいて、その視線の中心に立って元気を分け与える。そんなアイドルになるのが、島村卯月のたった一つの夢でした。

 けれど、今までも、そしてこの日だって。ステージに立つたった一人、わたしの姿だけが、黒く塗りつぶされて見えていました。

 それをステージ脇から一歩引いて見守るもう一人のわたしは、やっぱり、と。ひどく冷めた目線を向けているのです。

 

 もう何年も、同じ夢を見続けています。

 島村卯月、十六歳。

 わたしはまだ、自分がキラキラと輝くところを想像できずにいます。

 

 

 

1月31日(火) 早朝

 

 住宅街の広がる深山町。その北部には洋風のお屋敷がたくさんあって、その中でも一際歴史を感じさせるお宅の玄関先で、わたしは学校の友達を待っていました。

「卯月ちゃん。どうかしましたか?」

 冬木の冬は短いと聞きます。他では穏やかに寒くなって、穏やかに温かくなる気温の移り変わりが、ここでは短い間に訪れます。

 ついこの前までマフラーなんていらなかったのに、今ではそれに加えて、手袋を外しての外出が億劫になってしまっています。

 そんな中にありながら、その声は、まるで太陽から温もりを分けてもらったような独特の雰囲気を持っていました。

 高森藍子ちゃんです。

 彼女はここの家の住人ではありません。ですが故あって、両親の出張で家に一人でいることの多いもう一人の友達を朝、起こしたり、よくご飯を作りに来ています。外は寒いからと中に入れてくれて、お茶まで出してくれる、年下なのに、本当によくできた子ですよ。

「あれ、わたし、ぼーっとしてましたか?」

「うん。何か考え事?」

「まあ、考え事と言えば考え事、ですかね。でもいつものことなので、藍子ちゃんが気にすることでもないですよ」

「そう……。なら、いいんですけど」

 お茶、ごちそうさまです。と伝え、空になったティーカップを渡すと中へと戻っていきます。制服の上にエプロンを重ねた姿と入れ替わりに、藍子ちゃんの学生鞄を預かって、また一人、靴箱横の椅子に腰かけました。

 もう一人の友達の名前は、本田未央ちゃんと言います。

 小学校二年生に上がった直後だったので、いまから丁度十年前になるはずです。空き家だったこの家を借り受けて、本田家は冬木に越してきたそうです。そのころのわたしはとてもわんぱくで、当時魔女の家と呼ばれていたそこにやって来た引っ越しトラックと、仲の良さそうな三人家族にとても興味を持っていました。魔女の家に住んでいる人たちはどんな人たちだろう? 気になって何度も訪れたわたしを、未央ちゃんのご両親は邪険に扱うことなく、お茶会に混ぜてくれたり、絵本の読み聞かせをしてくれたり、優しく接してくれました。

 そんなご家庭の娘さんと仲良くなるのは、そう難しいことではなかったはずです。一学年離れた彼女とわたしは、自然と一緒に学校に通うようになるまでになっていました。担任の先生に「一年生の本田さんと親友なの?」と聞かれて初めて、あ、わたしたち親友って呼ばれるくらい仲がいいのか、そう気づいたほどでした。

 今こうして玄関からあちこち見渡すだけでも、装飾や家具の一つ一つから思い出がよみがえってくるようです。

「お待たせしました。卯月ちゃん」

 廊下の奥から、エプロンを脱いだ藍子ちゃんと、少し寝ぼけまなこの未央ちゃんが出てきました。また夜更かししていたのでしょうか。彼女の快活さを一番に主張する大きな目の下に、ほんのりクマができていました。

「ほんとごめんね、しま、む?」

 ほんの一メートルほどの距離に近づいてきた時、未央ちゃんは何かおかしなものでも見たように、言葉を詰まらせました。けれどすぐに復活して。

「左手、どうしたの?」

 と、聞いてきました。彼女の指さしたわたしの左手、その付け根辺りには、新品の白い包帯が巻かれています。

「ああ、これですか? 藍子ちゃんにはもう言っちゃったんですけど、知らないうちに擦ってしまっていたみたいで。心配かけたくなかったので包帯撒いて隠していたんですけど、えへへ」

「いや、包帯撒いてても普通に心配するから。むしろそっちの方が大変に見えるよ?」

「それもそうですね。なのになんで巻いてきちゃったんだろ? 今外しますから、少し」

 少し待っていてください、そう言おうとしましたが、未央ちゃんはそれを遮って。

「……いや、そのままでいいと思う。ただの擦り傷だったんでしょ? なら大丈夫だよ。結局菌が入らないようにすれば、それでいいんだからさ」

「うーん。まあ未央ちゃんが言うなら、なんだかそんな気がしてきました」

 結び目にかけていた手を止めて、宙に放ります。

「二人とも、急がないと遅刻しちゃいますよ!」

 いつの間にか玄関扉の前に立っていた藍子ちゃんが、ドアノブを捻っていました。

「行きましょうか。未央ちゃん」

「……あ、うん。分かったよ、しまむー。あーちゃん」

 なんだか、今日の未央ちゃんはいつもに比べて歯切れが悪いです。いえ、未央ちゃんが事をはぐらかすのは割といつものことなので、今更気にしたりしませんが。

 通学路の曇り空と同じです。どんなに不穏なものに見えても、結局は日常でしかないんです。

 その下を、わたしたち三人はやっぱりいつも通り急ぎ歩きをして、学校に向かいました。

 

 

 

「はい。最近また物騒な事件が増えてるから、早く家に帰るのよー。解散!」

 そんな藤村先生の言葉で、その日の学校生活は締めになりました。

「よっしゃー! 放課後だーーーー!! ナナキー、クレープ食って帰ろうぜー」

「タツコお前……、タイガーの話聞いてなかったの? 今さっき早く帰れって言われたばかりじゃんかよ」

「そうだよタツコちゃん。早く帰ろう? (締め切りが……)」

「だな。クレープはいつでも食えるし、また今度行こうぜ。な? (早く帰って春コミのプロットしあげてぇ)」

 クレープを連呼するタツコちゃんを引きずりながら、四人は教室から出ていきます。しかし私は見逃しませんでした。ミミちゃんとスズカちゃんの間で交わされた意味深なアイコンタクトと、それを黙殺するナナキちゃんの溜息を。

「(あの四人は、相変わらずだなぁ)」

 きっと教室中の誰もがそう思っていたはずです。小中高とエレベーター式に学年を重ねてきたわたしたちにとって、あの四人組と藤村先生の圧倒的パッションな空気は、チャイムと同義です。

 私立穂村原学園。その高等部1ーBの教室からは、徐々に人が減っていきます。わたしもその例に漏れず、足早に教室を出ました。

 一人、校門までの道のりを歩いていきます。帰りに未央ちゃんたちと一緒になることは珍しいです。まだ小学生だったころはよく、二人並んで帰っていたように思います。けど、一学年上のわたしが先に中等部に上がってからは、互いに時間が合わなくなったのでしょう、二人別々に帰ることが多くなりました。それに、わたしはわたしで、放課後にすることができていましたから。

 去年から未央ちゃんと一緒にいるようになった藍子ちゃんも、基本未央ちゃんと一緒に帰るので、やはり一緒になることは少ないです。

 ですが今日は、その少ない方の日だったようです。校門を出たところで道の脇に見慣れたお団子頭を見つけました。早歩きをして声をかけます。

「藍子ちゃん、待って」

「……えっ、卯月、ちゃん?」

 反応に少し違和感がありましたが、とくに気にしません。

「未央ちゃんは? 一緒じゃないんですか?」

「あ、ええと。未央ちゃんは生徒会室に忘れ物があって、それを取りに戻るって。待ってるって言ったんだけど、結局押し切られてしまって……。せっかくお仕事も無い日だったから、ゆっくりできると思ったのに」

 ナナキちゃんのと違って、本当に悲しそうな響きを含む溜息が漏れました。

 藍子ちゃんはわたしたちと出会う少し前からアイドルをしています。見習いのわたしからしてみれば、藍子ちゃんは憧れの内の一人なのですけど、本人たっての希望で普通の友達として接しています。彼女が言うところによれば、目指している理想のアイドル像にはまだまだ遠く、胸を張ってアイドルだと言い切る自信がないそうです。

 謙虚な彼女が、わたしにはお姉ちゃんとしてとてもかわいく、また誇らしいです。

「本当に藍子ちゃんは未央ちゃんのこと、大好きですね」

「えっえええ!! い、いえ、そ、そそそ、そんなこと!」

 唐突に大きな声を上げる藍子ちゃん。通学路を歩いていた人の何人かが驚いてこっちを見ていた気がしますが、無視して藍子ちゃんの頭を撫でます。

「うん。こんなにかわいい藍子ちゃんを放っておくなんて、やっぱり未央ちゃんには一度喝を入れておかないと。明日会ったら、わたし未央ちゃんにチョップしちゃいますよ、チョップ」

「ふふ。私も一緒にいいですか?」

「もちろん」

 坂を中ほどまで下り切るころには、藍子ちゃんの表情に曇りはなく、いつもの笑顔に戻っていました。やっぱり、友達には笑っていてほしいものです。

「あ、わたしこっちなので」

 住宅地端の信号機。その角の右側を指して、またねと切り出します。

 ちなみに、その先に私の家はありません。私の家があるのはもう少し坂を下って左に曲がったところ。つまり今から行くところは、家とは逆方向です。では、そこに何があるのかと言えば——————。

「今日も、やるんですか?」

 そう口にする藍子ちゃんの表情は、少しだけ、申し訳なさそうに曇っていました。それを元の笑顔に戻したくて、わたしは自分の顔に笑顔を作りました。

「大丈夫です、もう日課みたいなものですから。藍子ちゃんも気を付けて帰るんですよ」

 藍子ちゃんは何かを察したみたいで、意識した微笑みで「また明日」と言って、信号を渡って帰っていきました。

 それを見送って、わたしは道の先を目指します。そこにあるのは、小学生のころから通い続けているアイドル養成所です。

 途中、なんとなく足を止めて、別れ際に藍子ちゃんが見せた笑顔を思い出します。誰の目から見ても、作り笑いだと分かるでしょう。

 ————けれどそれを、わたしはどうしても嫌いになれませんでした。

 

 

 

 いつからアイドルに憧れていたのか。はっきりとは覚えていません。ですが未央ちゃんと出会っていた頃には、自分もいつかはああなるのだと、心のどこかで思い込んでいて。近くにアイドルの養成所があると知った時には、お母さんに必死になってレッスン代をねだっていた。そんな記憶があります。

 あれから、十年が過ぎようとしています。養成所の鏡に映る自分の姿が、どれだけあの頃の憧れに近づけているのか。それが、今のわたしには分かりません。

 わたしが養成所に入ってすぐに、デビューしたお姉さんがいました。

 同い年で、いつか一緒にアイドルになろうねと約束した子がいました。

 小さいのにしっかりしていて、養成所に入って一年も経たずにテレビに映った男の子がいました。

 長い間一緒に続けていて、いつの間にか来なくなっていた子もいました。

 思い出せばきりがありません。その名前と顔一つ一つを今でも手に取るように思い出せます。けれど、そのうちの大半は、今この養成所にはいません。

 彼らは夢を叶えたのでしょうか。キラキラと輝くアイドルになれたのでしょうか。いつからかテレビを見ることが少なくなったわたしには、それも分からないことでした。

「卯月ちゃん。そろそろ閉めるわよ」

 ふいにトレーナーのおばさんの声が聞こえました。どれだけの間踊っていたのでしょう。ふと窓の外に顔を向ければ、星の瞬かない暗い曇り空が見えました。時計の短針はすでに半分少し手前まで登っていました。こんなに待ってくれていたおばさんには、申し訳なさすら感じます。

「すみません! すぐに着替えてきます!」

 急いで更衣室で制服に着替えて、おばさんの待つ入口まで走っていきます。

「ごめんなさい。いつも遅くまでつき合わせてしまって」

「いいのよ。卯月ちゃんはうち一番の頑張り屋さんだから。それを知っているから、私だってここを続けていられるのだもの」

「そうですか。では……、やっぱり」

「ええ。業者さんは三月いっぱいだって言ってたわ。何度もお願いしてみたんだけど、それがおばさんにできた精一杯だったみたい」

 わたしが子どものころから通っていた養成所でした。住宅地のまんなか、駅からもバスで何駅か乗ってこないといけないところです。ずっとはいられないと思っていました。ですがまさか、自分から卒業するよりも先になってしまうなんて。

「もう一度ここで、卯月ちゃんの誕生日を祝いたかった。それから、事務所所属祝いも」

 おばさんは空を眺めています。その目に星が映っていないのが残念に思えました。もしもわたしが、キラキラと輝くアイドルであったなら、おばさんを笑顔にできたのでしょうか。

「さあもう帰りましょうか。車に乗って。おうちまで送るから」

 きっと返事が遅れたのは、悲しいことばかり考えていたせいです。改めて返事をしようとした丁度その時に、送られてきたメールにスマートフォンが震えたのも。きっと誰のせいでもないはずです。

 唯一恨めるとしたらそれは、自分の運命だけだなのだろうと、そう思います。

 

 

 

『未央ちゃんがまだ帰ってきていないみたいなんです。卯月ちゃんは何か知りませんか?』

 

 おばさんの誘いを断って、わたしは学校に戻りました。 

 別に、未央ちゃんがまだ学校に残っているかもしれないだなんてことは、思っていません。仮にそんな確信があったとしても、夜の学校、それも早く帰るよう言われているこんな日に、危険を冒してまで連れ戻しに行くような情に厚い聖人では、わたしはそんなではないはずです。たぶん。

 ではなぜ戻っているのかと言えば、それはただ、忘れ物を思い出しただけなんです。

 帰ってきていない未央ちゃん。あれほど学校を上げて早く帰るように言っていたのにも関わらずです。普通なら、きっとどんな理由で残っているんだろう、とか、無事なのか、とか、今どこにいるんだろう、とか未央ちゃんの安全を心配するはずで。

 なのにわたしが真っ先に思い出したのは、部活動中止に不満を垂れ流す藤村先生をよそに、机の中に置いて来てしまった進路希望調査表でした。

 そんなわたしが、聖人であるはずがありません。

 おばさんと一緒に来なかったのだって、もし万が一未央ちゃんがいたとき、未央ちゃんはそのことを黙っていたいだろうと。そう、なんとなく思っただけですし。

 校門の前に鞄を置いて。

「警備員さん、ごめんなさい」

 と、一言小声で謝ってから、校門そばの壁をよじ登って中に入ります。靴箱までたどり着いてから、警報器の灯りでスカートが破れていないことを確認します。心の中でほっと安堵の声を出して、土を念入りに落としてから土足で上がりました。先に警備員さんに謝っておいて本当に良かったです。

 夜の学校は、昼に見る時とは全く違った雰囲気で満ちていました。沈黙が耳に痛い、だなんて、よく聞いたことのある表現ですけど、本当にしーんという鈴虫の鳴き声のような音しか聞こえません。それ以外の音が、全くないんです。曲がり角から誰かが突然出てきても、全然おかしいことではないとも思えます。

「早く、帰ろう」

 そう呟いた自分の声が少し大きくて、何か、誰もいないはずのどこかにいる誰かに聞こえたんじゃないかと、びくびくしながら二階まで階段を上って、すぐ右にあった教室にたどり着いた時には、安心よりも先に疲れが出てきました。

 全く。十六にもなって学校のお化けだなんて。

 自分のことながら呆れてしまいます。呆れながらも、まあしょうがないとも思います。

「(早く帰ろう)」

 知らず、さっきと同じことを、今度は心の中で呟いていました。

 少しだけ開けたドアから足早に入って、廊下側後ろから二つ前にある自分の机を覗きました。

 よかった。ちゃんとあった。

 後はこれを持ってさっきと同じように下——————

 

 キン!

 

「え?」

 さっきまで耳鳴りのようなしーんとした音以外何も聞こえなかったはずの校内で、明らかに何かの金属同士がぶつかったような音。

 

 キン! キン! キィン!

 

 まるで刃物でも打ち合わせているみたいに、何度も何度も聞こえてきます。

 そこまで考えたところで、わたしは首を振っていました。

 刃物だなんて、まさか。誰かが戦っているわけでもないのですから。きっとわたしと同じように遅くまで残っていた陸上部の誰かが、暗くなったの気づいて片づけをしているだけ。そうに違いありません。

 ……一歩、また一歩と、わたしは窓際へと歩いていきます。

 戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。

 心の奥深くから警告が聞こえてきます。

 戻れ。今ならまだ引き返せる。それ以上進んだら、その先にあるものを見てしまったら、きっと今日までの自分ではいられなくなる。そんな、根拠のない、けれどこれ以上ないほどに確かだと頷ける予感めいたものがありました。

 いえ、根拠ならあったんです。藤村先生は確かに言っていたはずです。今日の部活動は全面的に禁止だと。なら、こんな時間まで残っていること以前に、今日部活動をしている人すらいないはずなんです。

 では、いま校庭で刃物を打ち合っているのは、戦っているのは誰なんでしょう。

 止まりません。足は滑らかなステップを踏むように、警鐘を鳴らす心臓の音に逆らって、止まることなく進んでいきます。

 そしてついに、窓際までたどり着いてしまいました。そこでわたしの目には。

 

「誰だ!!」

 

 最初から気づいていたみたいに、一目見た瞬間に気づかれてしまいました。直感します。あれは人間ではありません。人間の形をしていました、青い全身タイツを着ていましたが、向けられた目線は、見たこともないですけど、確かに獣の物だと思えました。

 殺される。

 目線だけであんなに怖かったのだから、絶対に、目の前に立たれるなんてことがあってはいけません。

 逃げないと。

 頭の中が一瞬でその言葉で埋め尽くされて、ドアまで全力で走って乱暴に開けて、今度は真正面の窓を同じように開けて、そこから、二階の高さから飛び降りました。以前、自称世界一カワイイらしいアイドルさんが『五点着地はアイドルの基本』と言っていたのを参考に練習していて本当に良かったと思います。

 擦り傷を負った程度で特に痛みもなく、このまま走っても何の問題もなさそうです。ならこのまま校門までもう一走りすれば逃げられる。

「黒、か。いやお嬢ちゃん、中々いいもんはいてんじゃねーか」

 反射的にスカートを抑えていました。まさか生命維持よりも優先されることが、こんな身近になっただなんて、つゆほども思っていませんでした。

 ですがそんな恥ずかしさも、少し顔を上げればすぐに消えてしまいます。そこに、ついさっきまで校庭にいたはずの、獣の目をした人が、校門に向けて走ろうとするわたしを逃がさないように、しっかりと立っていました。

「何も恥ずかしがるこたあねぇ、自分を着飾れるのはいいことだ。自分のことを多少にしろ分かってる証拠だからな。その上で、あの高さから魔術なしで飛び降りる度胸と、それを実現できるだけの体力もある。いい女だ。ああ、それだけに惜しいぜ」

 忘れていました。あんなに怖い目をしていたんです。なら、それ以外も怖くないはずがありません。ここまであり得ないくらい、それこそ動物みたいに速く走ってこられても、全く不思議ではないのだと。

 なのに、逃げられるだなんて。はじめから、たぶんそれが間違いだったんです。

「アンタみたいな女が、マスターだったんならよかったんだが。まあそんなことを言ってもしゃーねーか。ったく、ままならないもんだぜ。聖杯戦争ってのは」

 なら、わたしはこれから、死ぬんでしょうか。

「分かってる、これも仕事だ。恨むなよお嬢ちゃん。割と巧く刺してやるから、せいぜい痛みを強く感じないように、早めに往生してくれや」

 男の人が、いつの間にか握っていた赤い棒、あれは、槍でしょうか、それを私に向けてきます。その先が心臓に向けられていると分かった時、距離とか次にわたしがどう逃げるとか、そういったあれこれをすべて抜きにして心臓に突き刺さる。そんな明確な死のイメージが確かな予感としてよぎりました。

 わたし、死ぬの? 本当に?

「じゃあな」

 来てほしくないと思った時は、案外すぐに来てしまうものです。けどこの時は、後で考えても信じられないくらいに、ひどく時間が遅くなっていたように感じました。走馬灯、という言葉があります。死ぬ前に、生きていた頃を思い出すことらしいです。まさに、今のわたしはそれでした。

 わたしには、すぐ目の前に迫っている死よりも、そちらの方が苦しいです。

 このまま死ぬ? 本当に? だって避けられない。だからって、このまま死んでもいいの? 後悔しない? 死んだあと恨みで化けて出ないなんて本気で言える? それは——————

 ——————それは、簡単に頷ける問いかけではありませんでした。

 わたしはまだ、何もしていません。憧れの、アイドルになる夢だって、まだ叶っていません。わたしはまだ、キラキラしたモノを何もつかんでいません。まだ、わたしには。

「死ねない」

 死ねるはず、こんなところで終われるはず、ありません。あってはならないんです。だってまだ、わたしには、何にもないのですから。……だから。

「助けて」

 助けを求めます。わたしを殺そうとしている目の前の男の人だっていいです。その人と鉄を打ち合っていた誰かでもいいです。もしくは、ただ通りがかっただけの関係のない第三者でも構いません。誰か、誰か。

「わたしを、助けてください!!!!」

 

 

 

 




 風が、吹いていました。それに流されたのでしょうか、雲が少しだけ晴れて、月明りが辺りを照らしていました。
 その中に、わたしを殺そうとした青い人が立っているはずのそこに、一人の女の子が立っています。

「ねえ、答えてよ」

 長い黒髪が舞い上がって、その一本一本が月明りに濡れているように輝いていました。彼女はその手に握っていた、深い、蒼と呼べる色の剣を腰の位置まで下ろして。

「あなたは、島村卯月で間違いない?」

 わたしの名前を、確かに呼んだんです。


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1/運命の夜、蒼の剣

後書きに補足説明(というよりもただの言い訳)を載せています。
いや、そうはならんやろと思われるかもしれませんが、お見逃しください。


「ねえ、答えてよ。あなたは島村卯月で間違いない?」

 知らない女の子でした。彼女もアイドルなのでしょうか。雲間から差す月明りに照らされた長く艶やかな髪と、流れるように線を描く細い身体。そして、強い意志を感じさせる確かな眼差し。

 それを、わたしは知らずのうちに、綺麗だと。そう思っていたんです。

 そんな綺麗な女の子が、どうしてわたしの名前を知っていたのでしょう。それが不思議で不思議でしょうがなくて、その上、左手も熱を持ったように痛んでいたものですから、端的に言って、わたしはぼーっとしていました。そのことを彼女は見抜いていたようで。

「ねえ。聞いてる?」

 と問い直しました。それにわたしは慌てて答えます。

「はっ、はい! 島村卯月、16歳です!! 間違いないです!」

「そう。なら、良かった。うん、本当に」

 女の子はわたしの答えを聞いて、心の底から安堵していたみたいでした。

「なら、私は卯月を守らなくっちゃね」

 そして次の瞬間には持っていた剣を強く握りしめて、彼女の向こうで様子を窺っていた男の人に向けて走り出しました。

「え、ま、待って。危ない!」

 あの人は危険です。わたしたちとは、きっと生き物としての格が違うんです。あの人にとって、わたしたちはただ殺されるだけのもので、決して立ち向かってはいけないし、逃げることだってできない。だから、わたしとそう年の変わらないあの子が行ったところで、返り討ちに会うに決まっています。

「たわけ」

 男の人の口端が吊り上がりました。あの獣の目が、急所を瞬時に突こうと輝きます。ですが。

「——————遅い!」

 赤い槍が突き出されるよりも、速く、女の子は間合いに踏み込んでいました。

 正確に首を刈り取る一撃が、男の人を襲います。それを目に見えない手さばきで持ち替えた槍の中ほどで、男の人は受け止めました。

 決して脆いわけではないはずです。ですが、受け止めている槍がしなり、鬼神の形相でそれを押している女の子は、なおも剣にさらなる力を加えようと叫んでいます。

「こん野郎、なめんじゃねえ!」

 押されていた槍の人は、槍に力を入れ、弾いて宙に浮いた女の子を蹴飛ばしました。

「……っ!」

 その驚きの声は、わたしと女の子、どちらから出たものだったのでしょう。とにもかくにも、吹き飛んだ彼女が心配で、槍の人から数メートル離れたところに着地した彼女にかけよります。

 けれど、彼女はわたしを目線だけで制して、何事もなかったようにその場に立っていました。そのまま、槍の人を見据えます。

「女の子を野郎呼ばわりなんて、礼儀がなってないんじゃないかな? ランサーの誰かさん」

「ハッ、生憎戦に社交なんて求めちゃいねーよ。死ぬか生きるか、そこにいらねぇもん持ち込む方が無粋ってもんだろうが」

「ふうん。じゃああなたは、戦うために戦って、そこに何の理由も無いって言うん、っだ!」

 言うが早いか、それとも、動きに声が果たして追い付いていたのか。風を切り裂いていく音とともに女の子は槍の人、彼女が言うところのランサーに向かって踏み込んでいきました。

 それをランサーは正面から見据え、槍の連撃で迎え撃ちます。速すぎて、わたしには赤い壁のようにしか見えないそれに女の子は同じく連撃で応じて、何度も何度もぶつかり合う音が辺りに響き渡りました。

 わたしの目が追い付いていたのはそこまでで、その先は、鉄が弾けるような破裂音が、鳴りやまない目覚まし時計のように鳴り続けて。その度に、互いの武器で互いの武器を押し合う二人の姿が、ほんの一瞬だけ止まっていて。

 ——————その一瞬一瞬、ランサーは確かに笑っていたように見えました。

 それからまた同じことが二度三度続き、最後に一際大きな衝撃波がわたしの体を通り抜けた後、二人は間合いを離して相手を見合っていました。

「なかなかやるじゃねぇか、セイバー。キレイどころだったんで、どうせマイナーな英霊だろうと思ってたんだが、撤回させてもらうわ。加減してるとはいえ、オレとまともに打ち合えるなんざなあ。東洋の女は怖えな、いやマジで」

「ありがとう。けど、そう言うあなたは結構分かりやすいよね。ランサーには最速の英雄が選ばれるらしいけど、あなたほどの槍の使い手なんて世界に三人もいない。加えて、獣のようなその戦闘方からすれば、おそらく一人だけ」

「ほう、アーチャーの野郎と同じことを言うか。なら、(コイツ)のことも知ってんだろ? できればてめえとは加減抜きでまたやりてえからな、ここで落とすには惜しいと思って分けにしたかったんだが」

「かまわない。好きにするといいよ、ランサー」

「応よ! ならばこの一撃、手向けと受け取れ! セイバー!!」

 瞬時に、二人の間の空気が凍り付いたように思えました。

 ランサーは体を前に倒し、槍を構えています。その穂先は下げられていて、あの状態からセイバーと呼ばれた女の子に当てるには、もう一度槍を構えなおさないといけないはずです。……なのに。

 確かな予感がありました。ほんの数十分前に感じたのと同じものです。あの槍に、距離やタイミングなんて関係ない。一度放たれてしまえば、絶対に心臓を貫いてくる。

 だって、アレを構えるランサーの目はさっきと同じ。誰かが死ぬ。それ以外考えていないようにしか、見えてしかたなかったから。

 だから、わたしはとっさに叫んでいました。

「セイバーさん!」

「もう遅い!

 『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』!!!」

 

 

Interlude

 

 アイルランドの大英雄、クー・フーリン。

 その名前をセイバーが知ったのは、同じ事務所のアイドル、神崎蘭子とユニット名を話し合っていた時だった。

 彼女との会話には、彼女と他数名しか理解できない言葉が多分に含まれているため、その全てをセイバーは理解できていない。せいぜい八割。セイバーが彼女の熊本弁から読み取れたのは、その程度。

 その中にある情報によれば、クー・フーリンは影の国と呼ばれる魔境で、師匠である女王スカサハから魔槍を授かったのだという。

 名前はゲイ・ボルク。一度放たれれば避ける手段などなく、たとえクー・フーリン本人が放った後に死んだとしても、必ず相手の心臓を貫いたとされる呪われた槍。

 今、自分の目の前で構えられたものが確かにそれだというのなら、放たれた時点でセイバーに勝機はない。そして負ければ、次に槍の穂先が向けられるのはマスターである卯月だ。

 ——————なら、セイバーはこの一撃を何が何でも防がなくてはならない。

 避けるのではない。その軌道に剣を当てて、反らす。そのわずかな隙間に、自分の生存を捻じ込む。

 全神経を自分の直感に賭ける。剣を構えて、足を楽にし、肩を自由にする。ここから先はただ、自分の体が求めるモノに従うだけ。

「(そう、いつもと何も変わらない。ステージに立って、今まで身につけてきたもの全てをぶつけて。その先にある、光り輝く何かをつかむ)」

「セイバーさん!」

「もう遅い! 

 『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』!!!」

 耳に届いた真名は予想通りの物、なら、このままでいい。

 まだ。

 まだ。

 まだ。

 …………今!!

「ハっ!」

 捉えた。剣の中ほどで、伸びた槍の穂先を受け止められている。このまま抑え込めれば……。

「(違う! もっと上!!)」

 急な虫の知らせ。それにスズメバチが瞬くよりも早く反応し、剣の位置を修正。さらにそのすぐ後に、槍が不自然な、まるで時間を巻き戻すように引っ込んだかと思うと、修正した位置から再度心臓を狙ってきた。槍は剣にはじかれ、やむなく心臓のほんの紙一重だけ上の肉に突き刺さった。そのまま、体を乱暴に宙に投げられる。

 直感はそれ以上何も言わず、なされるがまま、セイバーは地面にたたきつけられた。

 

Interlude out

 

 

 その瞬間に何が起きていたのか、やはりわたしには分かりませんでした。

 ゲイ・ボルク。

 そう叫んだランサーの槍は、構えていた所から滑るように走り、途中、UFOのように軌道を何度も変えたかと思うと、その穂先が光って伸びて。セイバーさんの心臓をしっかりと捉えていました。

 それを、絶対に心臓に刺さるはずの一撃を、セイバーさんは剣で受け止めていて。次に目を開けたとき、彼女は身長の三倍以上の高さまで放り投げられていました。

 わたしに分かったのは、それだけでした。

 ただ、それでも確かに言えることが一つだけ。

「躱したな、セイバー。我が必殺の一撃を……!」

 ランサーが目の前で起きた事実を怒りの形相で口にしました。投げ飛ばされ、地面に剣を杖代わりに突き立てていたセイバーさんは、それに答えます。その彼女は、鎧に空いた穴の上から胸を押さえていました。

「やっぱり。クー・フーリンで間違いなかったか」

「……チッ、しくったぜ。コイツを使うからには、必殺じゃなくちゃいけねえってのによ」

 セイバーさんが呼んだランサーの名前らしき言葉、それにランサーは舌打ちをして、背中を向けます。

「逃げるの?」

「馬鹿言うんじゃねぇ。見逃すと思っとけよ。うちのマスターは臆病でな、槍が外れたのなら出直せとのお達しだ。それになセイバー、オレを殺すつもりなら、その時は死ぬ覚悟を持っておくことだ。それもないヤツに本気なんか出せっかよ」

 そこまで言って、ランサーは校門の外に消えていきました。

 震えていた両足から力が抜けます。それでもまだ、倒れるわけにはいかないと、なんとか膝を奮い立たせました。

 そうしてふと思います。わたしは、生き延びたのでしょうか。いえ、それには語弊がある気がします。わたしがしたことは助けを求めただけです。それに答えてくれたセイバーさんのおかげで、わたしはまだ生きているんです。なら、せめて感謝と、それから負ってしまった傷を治すために病院に送るくらいはしないと。

 膝をついている彼女のところまで走っていきます。そこは植え込みの側で、どうやら葉っぱが多少クッションになってくれていたみたいです。いえ、それでもあの高さから落ちたんですから骨折くらいはしているはずです。

「だ、大丈夫ですか?」

 なのに、彼女は平然と立ち上がっていました。ランサーの消えた校門をしばらく見つめて、戻ってくることはないと確認したのか、こちらに向きます。その顔は、さっきまで戦っていたとは思えないほどの満面の笑みでした。

「うん。卯月が無事でよかった」

「あう」

 その笑顔と呼び捨てに、一瞬怯みます。すごく、いい声です。たった二言三言で体温が上がるのが分かります。けれど、相手はけがをしているんです。ここで躊躇っては命の恩人である彼女の命が危ないのです。

「あ、え、えっとその。ですね。わたしじゃなくて、あの、あなたの方、なんですけど」

「セイバーって呼んで、今だけでいいから」

「あっ、はい。セイバーさん」

「うん。何? 卯月」

 ですからその笑顔を向けるのはちょっと勘弁してほしいです。直視できません、まぶしすぎて。

「うう……。せ、セイバーさんは、けが、大丈夫なんですか?」

「ああ。これ? うーん、卯月に治す手段はないし、まあひとまず応急処置でいいかな」

 セイバーさんがそう言うと、時間が巻き戻るように胸に空いていた穴がふさがっていきます。

「治、った? あの! 本当に大丈夫なんですか? 足とか、骨折してたりとか」

「大丈夫。今なら卯月をお姫様抱っこしてフルマラソンしても全然問題ない。試してみる?」

「か、勘弁してください……」

 本当になんなのでしょう、この子。どうしてこうも矢継ぎ早に殺し文句を言えるんですか。一番に思っていた、どうしてわたしの名前を知っていたのかという疑問さえ、危うく聞き忘れそうになります。

「あの、セイバーさん」

「ねえ、卯月」

 それも、なんだか聞きそびれそうです。全く同時に互いを呼び合ってしまって、なんだか言い出しにくい空気が出来上がってしまっています。

 なんとか打開しようと、わたしは譲ります。

「せ、セイバーさんからどうぞ」

「いいの?」

「はい……。また後でも大丈夫なので」

「そう、なら申し訳ないけど、先に私から卯月に聞くね」

「はい。どうぞ」

 セイバーさんの瞳が、鋭くわたしの瞳を見つめていました。それは、今までみたいに目をそらすことを許される類のものではなく、わたしは吸い込まれるように、彼女の瞳を同じように見つめ返していました。

 そして、セイバーさんは質問を口にしました。

「卯月。あなたに、何を犠牲にしても惜しくないほど、叶えたい願いはある?」

 果たして、どう答えるのが正解だったのでしょうか。本音か嘘か。彼女はまだ出会って一時間も経っていない、見知らぬ命の恩人です。たったそれだけの彼女に、その質問に、真剣に答える理由は本来ないのだと思います。

 ですが、それでも、何か理由があるとするのなら。それはとても個人的なことです。

 信じたいと思いました。

 何にもない。けどだからこそ死にたくない。助けてほしい。その呼びかけに応えてくれた。特別でも何でもないわたしを守ってくれて、今もまっすぐに見つめてくれている。

 その姿を、瞳を、声を、その在り方を、信じてみたいと思ったんです。

 信じたくて、信じてほしい。なら、ただ誠実に、本当のことを言うべきだと思ったんです。

「あります」

 なので一言。心の中にあるたった一つの真実を、わたしは見知らぬこの人に伝えました。

「そう」

 それを、彼女はどう受け取ったのでしょう。ただ、少しの逡巡も何もなく。

「なら、叶えなくちゃね」

 と、花が咲くように笑って頷いたんです。

「ごめん、状況が変わった。卯月がそう答えるなら、卯月の疑問は後に回す。今は一秒でも早く敵を倒さなくちゃいけないから」

 けれど笑っていたのもほんの一瞬。すぐにランサーと戦っていた時と同じく、倒すべき何かを見つけたような顔つきに戻って、風と一緒に校庭の方へ駆けていきました。

「セイバーさん!? て、敵って一体?」

 思えば、それも聞くべきでした。すっかり忘れていました。突然わたしを襲ったあのランサーという男の人とセイバーさんが一体何者で、どうして戦っているのか。わたしは何にも知らないんです。

 追いかけます。

 わたしを追いかける前、ランサーは校庭で誰かと戦っていました。もしセイバーさんの言う敵が、その誰かなら、その敵はランサーと同じかそれ以上に強いことになります。

 もし、その闘いでセイバーさんが死んでしまったら、わたしは、彼女がわたしの名前を知っていた理由すら聞けずに別れてしまうことになる。それは嫌でした。

 幸い擦り傷だけで、どこも痛みません。走ることになんの支障もありません。すぐに校庭端の、校舎と体育館をつなぐ渡り廊下にたどり着きました。そうやって見つめた先、陸上トラックのスタート地点付近で、剣を落としたセイバーさんの眉間に、長い髪の男の人が弓矢の先を当てていました。

「セイバーさん!!」

 思わず叫んでいました。それで気づかれてしまったみたいです。セイバーさんに向いていた矢の狙いがこちらに向きました。

 なんて間抜けなことをしてしまったんでしょう。また、死ぬという予感が心臓を握りしめて、足が動きません。

「卯月! 逃げて!!」

 セイバーさんまで叫んでいました。こぶしを握り、剣を拾い上げて弓を構えている人に振り上げようとしています。けれど、それよりも矢が放たれる方が早そうです。

 そこまで考えが至って、それでもあきらめきれずに体を反らそうとしていた時でした。

 

「アーチャー! ストップ」

 

 聞きなれた響きを含んだ声が、耳に届きました。

 改めて、弓を構えている人を見据えます。その人は指示に従い弓を下げ、その隙に振られたセイバーさんの剣を軽やかに躱しました。その後ろ、月明りで校舎の影になっていた暗闇から、一人の見慣れた姿が顔を出しました。

「あちゃー、やっちゃった。できればしまむーには、秘密にしておきたかったんだけどな。うん」

 その明るい語調も、太陽のような笑顔もいつもと同じです。ですが、それでも確かに、すまなそうな表情を顔に張り付けて、その目線は下を向いていました。

「いままで秘密にしててごめん、しまむー。ずっと黙っていたかったけど、私、魔術師なんだ」

 そこに、藍子ちゃんが探していたわたしの親友。

 本田未央ちゃん本人が立っていました。

 




ランサーのステータスが更新されました。

・ランサー/クー・フーリン
 ・禍々しい赤色の槍を構えた青い全身タイツの男。
 ・秩序・中庸・天
 ・ステータス
  筋力B 耐久C 敏捷A 魔力C 幸運E 宝具B
 ・宝具
  ・刺し穿つ死棘の槍 B 対人宝具
   ・言い訳というかただの屁理屈。
    本来の使い方(投げボルグ)をした場合何度でも刺してくるらしい(UBWルートアーチャー談)ので迎え撃つ必要があるけれど、刺す方であれば、原作で青王がしていたように幸運と直感で、一度目の本来の軌道と二度目の因果が修正された方の両方防げば、心臓直撃ルートは防げるかな? という理屈で蒼セイバーは躱してます。
    なんか第二魔法に片足突っ込んでる気がするけどたぶん問題ないはず。
    今後もこんな感じのこじつけが何回か出て来ますが(そうでもしないととてもこの先生きのこれそうにないので)、ふーん、そうなんだー。と軽く流してもらえると助かります。
 ・スキル
  ・対魔力C
  ・戦闘続行A
  ・神性B
  ・ルーンB
  ・矢避けの加護B


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2/願いの形、賢者の見識

聖杯戦争チュートリアル&VSバーサーカー戦です。

この時点でライダーの真名を当てられる人はいるのでしょうか。まあヒントもばら撒いてますし、そもそもピクシブの方はここより大分進んでいるので、答えとか普通に出ちゃっているんですけども。


「ずっと黙っていたかったけど、私、魔術師なんだ」

「未央ちゃん……」

 わたしの親友、本田未央ちゃんが言ったことに、わたしは一つ疑問を抱きました。それを包み隠さず、口に出します。

「魔術師って、なんですか?」

「え」

 先ほど、ランサーが槍を構えていた時とは違った意味で、空気が凍った気がしました。

 なぜでしょう。わたしはそんなにもおかしなことを言ったのでしょうか。

「もしかしてしまむー。何も知らない感じ?」

「はい」

「ただの一般人なのに、サーヴァントを召喚して、あのランサーを撃退したってこと?」

「いえ。わたしは何もしてません。セイバーさんが助けてくれただけで……」

「いやいや、それにしたって満足に魔力供給もままならない状況で生存って……。そもそも何の前準備もなしにサーヴァントが召喚できるわけも。その上最優のクラスと言われるセイバーとか。…………うわあ、頭痛くなってきた」

「え、大丈夫ですか!? 未央ちゃん! すぐにお家に連れて帰らないと!」

「うん、しまむー。心配はありがたいけど今そんな状況じゃないからね」

 いつものように軽快なツッコミが返ってきます。それに、やはり目の前にいるのはまぎれもなく未央ちゃんなのだと確信して。安心していいのやら、それともまだ戸惑うべきなのか。どうすればいいのか分からず、わたしはさらに質問を重ねます。

「……あの、未央ちゃん。未央ちゃんは、サーヴァント、そう呼んでますけど。それって、セイバーさんのことを言っているんですか?」

「うん。まあ」

「だったら教えてください。サーヴァントが何なのか、セイバーさんたちが何者なのか、マスターって何のことなのか。未央ちゃんはこんな時間まで何をしていたのか。それから、どうしてセイバーさんはわたしの名前を知っていたのか」

「ちょ、ちょっと待ってしまむー! そんなにたくさん一度に聞かれても答えられないよ!」

 遠目にも慌てているのが判りました。その前に立っていた男の人が、わたしたちの間に割って入ります。その人は一度、未央ちゃんの方を流し見ながら。

「ミオ。ここは私が」

「アーチャー。大丈夫? 頼める?」

「ええ。私の真名を今一度お確かめください、マスター。いまこの場にいる誰よりも、私が適任でしょう」

「分かった。私の友達だから、変なことは教えないでね」

「承りました」

 そう二言三言やり取りして、それから改めて向き直りました。

「セイバーのマスター」

「えっと、わたし、でしょうか」

「はい。かわいらしいお嬢さん。あなたです」

 それなりに恥ずかしいセリフだったはずなのですが、なぜだかもうあまり気になりませんでした。先ほどのセイバーさんで一生分をすべて言われつくしてしまったんじゃないかと、ちょっと心配になってきます。

「名を伺っても?」

「はい。島村卯月です!」

「ウヅキ殿ですか。ええ、我がマスターに劣らず元気があってよろしい。ですが、ウヅキ殿、さっそくですが一つ忠告です。これから私たちの行く先に待つ魔術師の中には、名を聞いただけで相手を呪う手合いの者も少なからず存在します。そのため、軽率に相手に名を名乗ることは控えた方がよいでしょう」

「え、あ、はい。ありがとう、ございます?」

 なんでしょう。ただ話していただけなのに、ほんの小さな隙にやりこまれてしまった感じがします。そのやり方は、久しく藤村先生で麻痺していたわたしの記憶を刺激して、ああ、こういうのが模範的な教師かぁ、と思わせるだけの魔力を秘めていました。

「アァァァァアァチャァァアアァア?」

 そう思っていたのもつかの間、地獄の底から湧き出たような声が聞こえました。よく見れば、いつの間にかセイバーさんが男の人、アーチャーさんの首に剣を向けていて。ほんの少しでも彼女が腕を動かせば、すぐにアーチャーさんの首がぽとりと落ちそうだなと予感します。

「ははは。剣をおさめてください、セイバー。これは、貴女のマスターのためなのですよ」

「……うぐ。さすがアーチャークラス、一番痛い所を的確についてくるね……。………………分かった、少しの間だけ、見逃してあげる」

「迅速なご理解、ありがとうございます」

「だけど——————」

 一応の納得をしたのか、セイバーさんは握っていた剣を腰の鞘に納めて、アーチャーさんと未央ちゃんの二人の方を向いていました。その顔がどんな表情なのか、わたしには見えません。その状態で。

「卯月に何かしたら、殺すから」

 端的に、絶対零度にも等しい温度の言葉を放っていました。

 その時青い顔をしていた未央ちゃんは、後に語ります。

「うん、まあ。いい笑顔、だったよ、うん」

 と。

 

 

「つまり、七組の魔術師とサーヴァントが、なんでも叶う魔法のコップをかけて戦う聖杯戦争。それにわたしはセイバーさんのマスターとして参加してしまった。そういうことですか?」

「はい。概ね貴女の状況はそのようなものです。ですが、まだ本格的に参加するか否かは変更できる。その手続きを行うための場所に、我々は移動しているわけです」

 未央ちゃんの提案でわたしたちは学校から離れて、一路、住宅地の広がる深山町から橋向こうの新都へと移動していました。

 彼女は、他サーヴァントとの連戦を避けるためと言って、目的地を口に出すことをしませんでしたが、ここでアーチャーさんから、ようやくしっかりと聞けました。

「街の外れにある教会。そこにこの聖杯戦争を監督している神父がいます。教会は原則サーヴァントの出入りを禁じているので、私も会ったことはないのですが」

「あれは根っからの外道だよ」

 そう答えたのは未央ちゃんでした。彼女は隣り合って進むわたしとアーチャーさんの前方で、セイバーさんと肩を並べて歩いています。ぴったりと揃う二人の歩幅に少し前、「仲がいいんですね」と言ってみたところ、「さっきから呪詛みたいに呟かれてる声と鯉口を切る音が聞こえないんなら、しまむーはきっと幸せ者だね……。ハハ……」なんて返ってきました。やっぱり仲がよさそうです。

 その彼女が言った神父さんの評価が気になって、聞き返します。

「珍しいですね。未央ちゃんがそんなにストレートに人を罵倒するなんて」

「まあね。でもあれは例外かなぁ。ま、しまむーも会ってみれば分かるよ。最低限フォローはするけど、飲まれないように注意してね」

 ひどく不安になることを言われました。教会なんて行ったこともないのですが、彼女がここまで言う神父さんが、とても怖くなってきました。

「ええ。ウヅキ殿、ミオの言う通り教会の神父、とくに私たちの世界における彼らは一筋縄でも二筋でもいかない存在です。ですから、会話は最低限にとどめるべきでしょう」

「分かりました」

「良い返事です。では、そのためにもおさらいをしましょう。これまで教えたことをテストしますので、私の質問に答えてください」

 テスト、と言ったアーチャーさんの目が光り輝いていたように見えます。気のせいだとは思いますが、それでも無意識のうちにわたしは生唾を飲んでいました。

「では第一問です。魔術師とは何でしょうか」

 その問いはわたしが学校で未央ちゃんにした問いかけと同じものでした。それに、わたしは教わったばかりの答えを返します。

「えっと、魔力を使って、一定の法則に基づいた奇跡、魔術を研究する人たち。で合っていますか?」

「はい。細かい部分は省くとして、ウヅキ殿にはその認識で問題ないでしょう。では次に、魔術師の中から聖杯に選ばれた七人のマスターが呼び出す、戦闘代行者。それが我々サーヴァントですが、その正体は本来なんでしょうか」

「……英霊。アーチャーさんはそう呼んでいましたっけ。歴史上で何かすごいことをした人は、死んだ後にその功績をたたえられて、人より一つ上のモノになる。それが英霊、セイバーさんやアーチャーさん、それから、あのランサーの正体」

「その通りです。この短時間でよく理解しました。その成長性は、私の教え子たちの中でも目を見張るものがあるでしょう」

「あ、ありがとうございます!」

 アーチャーさんの教え方は、とても言葉では言い表せない巧さでした。教わった知識では、サーヴァントになる人は生きていた頃から得意だったことがあって、それが引き継がれているとのことです。ですから、きっとアーチャーさんはそのころから教師として名前を残していたのだと、自然と頷けます。

 ……まあ、あまり学校の勉強が得意なわけでもないので、アーチャーさんの本当の名前、真名が分かったわけではないのですけど。

「さて、ここまで理解すれば、ウヅキ殿が持った最後の疑問にも自ずと答えが出ることかと思います」

「最後の疑問。それって、セイバーさんがわたしの名前を知っていた理由のことですか?」

 はい。と、アーチャーさんは答えました。

 道は街外れの坂道、外人墓地の並ぶ辺りに差し掛かっています。見上げた丘の上に、目的地の教会は立っています。ここまでのことを考えれば、そう時間はかからないでしょう。これが、最後の授業になるはずです。

「サーヴァントには、生前の記憶も引き継がれます。一部の例外を除き、例え幼少期の姿で呼び出されたとしても、晩年のことを覚えているものです。つまり、セイバーは生前、どこかで貴女を見知っていたのでしょう」

「え。待ってください。それはおかしいです、アーチャーさん」

「なぜです? ウヅキ殿」

「だってサーヴァント、英霊は、昔のえらい人たちがなるものなんですよね? そんな人とわたしが知り合うだなんて。そんなこと、あり得ないです」

「いいえ。ウヅキ殿、何事にも例外というモノは存在するものです。この場合、疑うべきは前提条件でしょう。一つ新しいことを教えます。ミオ、貴女もよく聞いておいてください。良いですか、英霊と呼ばれる者は何も過去のみから選出されるのではありません。時には」

「——————アーチャー。それ以上は」

 最後の授業と聞き入っていたそれは、思わぬところから待ったをかけられてしまいました。セイバーさんです。とくに表情を崩していたようには見えませんでしたが、その瞳は、それ以上続けるのであれば考えがある、と、確かにアーチャーさんへと伝えていました。

「……分かりました。対魔術の低いマスターを持ったサーヴァントが、自らの真名をマスターに伝えないことはよく見られる戦術だと聞きます。しかし見たところ、貴女はそういった理由とは別に、彼女に正体を隠しておきたいと見ましたが」

「そこまで分かっているのなら、黙っていて」

 セイバーさんは柄に手をかけていました。本気で剣を抜くつもりはなさそうですが、それでもこの話題は避けたいみたいです。

「ええ。失礼しました。今後気を付けるとしましょう」

 それ以降、アーチャーさんが意識して話すことはありませんでした。せいぜい、場が険悪にならないように、気を配っているだけにとどめていた。そういうふうに、わたしには見えました。

 そうして、わたしたち四人は無言で坂を十分ほど上り詰め、ようやく丘の上に立つ冬木教会にたどり着いたのです。

「覚悟はいい? しまむー」

「私とアーチャーはここで待ってる。何かあったら、迷わず左手の令呪を使って。すぐに助けに行くから」

「はい。島村卯月、頑張ります」

 

 

 教会の中は、外の暗闇や学校の校舎とはまた違った静けさに包まれていました。

 そんな神聖ともいえる空気の中にあって、どこか不思議な違和感を放っている神父服を着た男の人が一人、祭壇の前に立っています。

「再三の呼び出しにも応じぬかと思えば客人かね、未央。君をあそこに住まわせているのが、一重にお父上の熱心な申し出故であること。よもや忘れているわけではあるまい」

「当然。それを加味したって、お宅とそう長い時間一緒に過ごしたくないだけだよ」

「ふむ、随分と嫌われてしまったらしい。もとよりよろしくしろとも言われていない。ならばこれもまた、看過しておくべきことかもしれないか」

 たった三回。合計でもそれだけの会話で、明らかに未央ちゃんがこの人を嫌っているのが判りました。まあ来る前から知っていたことでしたけど、まさかここまでとは思いませんでしたよ。

「それで、そのお前がわざわざ顔を見せてまで連れてきた客人だ。まさかただの哀れな子羊、というわけでもないのだろう?」

 と、唐突に話の主題がわたしに向けられました。神父さんは明らかにわたしを見ていますが、それよりも先に未央ちゃんが答えます。

「彼女、セイバーのマスターなんだよ。ここにはエントリーをしに来ただけだから、最低限したらすぐに帰る」

「ほう。ではセイバーのマスターよ。君の名前を聞こうか?」

 今度は、未央ちゃんが答えることはありませんでした。

 さっき気軽に名前を教えない方がいいと教わったばかりです。どうするべきか判断がつかず、未央ちゃんの方を見ます。視線で察してくれたのか、親切に教えてくれました。

「今は大丈夫だよ。その人の魔術特性は把握してるから、呪術なんて器用なのは使えなかったはず」

「気軽に言ってくれる。他人の魔術を吹聴することはご法度であると、お父上に習わなかったのかね」

「もちろん習った。だから言ったのさ」

 二人は目も合わせません。なのにその間の空気はますます重くなるばかりです。ここが教会でなければ、そして話の中心がわたしでなければ、すぐにお暇したいと思えます。

「さて、未央の言ったとおりだ。君の名を知ったところで私にどうこうできる術はない。監督役としての業務上やむを得ず利用することはあるが、何の代償もなしに他人に伝えるようなことはしないと約束しよう」

 もう一度未央ちゃんの方を見ます。未央ちゃんはわたしの目を見て、励ますように頷いていました。それで覚悟を決めます。

「島村、卯月です」

「なるほど、島村。聞かぬ名だが、あまり有名な出ではないのだろう。いやそう珍しいことでもなかったか。さて島村卯月、これより君は聖杯戦争へと足を踏み言れる。その覚悟が、果たして君には本当にあるかね。その胸に秘めた願いを、望みを、欲望を、聖杯へと捧げるために、君は」

 神父さんはそこで一旦区切って、一息だけ小さく呼吸してから、改めてわたしに問いかけました。

「誰かに殺され、そして誰かを殺す。それを迷わないかね」

 その問いは、アーチャーさんにされた問いかけの何倍も、それこそすべてを同時に問われた時よりも、重い質量を持っていました。

「殺す……?」

「言峰!」

「未央。まさか伝えていなかったわけではあるまいな。聖杯戦争は、七組のマスターとサーヴァントによる殺し合いであると。平凡な少女にしか見えぬ者が参加するというから、いったいどれほどのものかと期待していたが、まさか生殺与奪すら満足に出来ぬ素人であったとは。ぬか喜びなどあまりさせないでほしいのだがな」

「……神父さん」

「む。何かね島村卯月」

「わたしは、聖杯戦争はサーヴァントさえ倒せばそれでいいと教わりました。サーヴァントはすでに死んでいる人たちです。なら、人を、殺すことには」

「ほう。死人を死に返すことは殺人ではないと、君はそう言うのかね」

 少しためらって、その上で頷きました。

「確かにその言葉には理がある。つい数時間ほど前まで一般人であったらしい君にとっては夢物語に聞こえるだろうが、この世には悪魔払いに除霊師、そして不死の吸血鬼を専門に殺す者たちが実在する。うち何人かの顔を知っているが、仕事で二三あるいは百や千殺した後、平然と神前に跪くような連中だ。君を否定すれば、彼らの信仰すらも揺らぐだろう」

「なら、サーヴァントだけ倒せば」

「だがな、少女よ。君は、自分のサーヴァントが簡単に死ぬと、そう思っているかね?」

 そこまで聞いて、この神父さんが何を言いたいのか、そのおおよそを理解しました。

「そうだ。サーヴァントはサーヴァントをもってしても破りがたい。なら賢明な魔術師であるマスターが、どこを狙うのか、自ずと導き出せるだろう?」

「……マスター、ですか」

「そうだ。マスター無くしてサーヴァントはこの世に留まれん。そこにサーヴァントの格の高さは関係しない。サーヴァントにとって、最大の弱点はマスターなのだよ、島村卯月。ゆえにマスターはマスターを殺そうとし、それを文字通り全霊をもってサーヴァントは守護する。彼らにも、聖杯へとくべる願いがあるからな」

「………………」

「ゆえに、だ。君もいずれは殺すだろう。そものこと聖杯とは人生のショートカットのようなものだ。手持ちの時間では届かないから、圧倒的な神秘をもって願いを叶える。そら、せいぜい六人の命、自身で手にかける数はその半数に満たぬだろう。辛ければ全てサーヴァントに任せればいい。代償としては、安いものだと思うがね」

「言峰。それ以上は」

「否だ。未央。そこまで心配するのだ。友人なのだろう? ならば生半可な覚悟で殺し合い、死して後悔するのは他ならぬ未熟者のお前のみ。これは私がかける、最後の温情なのだよ。そうと分かればこれ以上口を挟まないことだ。その時は説教を望んでいると判断し、その傷、遠慮なく切開させてもらう」

「…………っ。ごめん、しまむー」

「いいんです。これは、わたしの問題ですから」

 そう言って沈んでいた顔の彼女に笑顔を向けました。けれど、彼女はよけいに表情を曇らせるばかりです。どうすれば未央ちゃんを笑顔にできたのか、わたしは頭の片隅で考えます。けれど、それを遮るように神父さんは話の先を続けました。

「さて。答えを聞こうか、島村卯月。叶えたい夢、そのために必要なものがあるのだろう?」

「……言いましたか? わたし」

「言わずともだ。君のような顔の者などこの世には万といる。その悩みを見いだせずして神父など務まらんだけだ。さあ、ここで手に入れるも一手、己の精進のみで手に入れるも一手。その選択を、私も未央も、そしておそらくは君のサーヴァントであるセイバーも、笑いはすまい」

「………………」

 セイバーさんの名前が出てきたのを聞いて、ふと、学校でのことを思い浮かべました。彼女の問いに対する「願いがある」という答えは、まぎれもなく心からの真実です。

 もっと細かく言えば、わたしの中には一つの迷いがあって、それを払うために必要なものが、キラキラと輝く何かが、わたしは欲しいです。それを、聖杯とみんなが呼ぶそれは、くれるのでしょうか。

 そこまで考えて、なんとなく違うな、そう思いました。

 誰かにもらった輝きで光るものは、果たして求めているモノでしょうか。その輝きはホンモノでしょうか。

 それを抱えて、私は悔いなく踊れるのでしょうか。

 わたしには、やはり判断がつきません。なら、ここで決めることでもないはずです。

「保留、です」

「なに?」

「聖杯にわたしの願いを叶えてもらうかどうかは、とりあえず聖杯戦争が終わるまで、保留にします。ひとまず、聖杯を実際に見てから、決めることにします」

「では君は、そんな不確かな理由で他のマスターを殺すのかね」

「いいえ。できるだけ殺さないように頑張ってみます。頑張るのは得意なので、きっと何とかなるんじゃないかと」

「そうか。だが何も戦争は攻めるだけではない。時には襲われることもあるだろう。その時はどうする」

「その時は、……仕方ないです。わたしだって、死ぬのは嫌ですから」

「しまむー、安心して。しまむーには誰一人殺させやしない。泥をかぶるのは私だけだ」

 ステンドグラスの向こうを見ながら、未央ちゃんは言っていました。その目に、時たま見せるためらいはなくて、覚悟なんて、彼女の中ではとっくの昔に決まっていたんだなと。わたしはすぐに否定することができませんでした。

 その間に、神父さんがそのよく通る声を上げます。

「それでは不本意ながらも、君をセイバーのマスターと認めよう。これより本格的に聖杯戦争は幕を開ける。己が誇りと欲望に従い、各自、存分に競いたまえ」

 実際にはそこまで大きな声ではなかったようです。けれどその時、わたし、もしかすると未央ちゃんも、この声が街中の人たちみんなに聞こえているような。そんな風に錯覚したのです。

 そして最後に、神父さんはわたしにしか聞こえないぐらいの小声で、それでも不思議と胸の奥まで入ってくるような奇妙な声音で、一つ、つぶやいていました。

 

「——————喜べ、少女。この夜の先に、君の十二時は確かに待っているだろう」

 

 

 

「なら卯月。本当にいいんだね?」

 教会の門から出た直後、駆け寄ってきたセイバーさんはわたしにそう問いかけました。

「はい。その、未熟ですらない、魔術師でもないマスターですけど。よろしくお願いします」

「ううん、いいんだよ。卯月は卯月でいて。それなら、私は何を相手にしたって卯月を守れるから」

 恥ずかしい言葉を言うのは相変わらずのようです。ですが、わたしはあまり素直に受け取れません。きっとあの神父さんが言っていたように、この聖杯戦争でわたしは違うわたしになってしまうのでしょうから。そして、それをわたし自身も、心のどこかで望んでしまっているのですから。

「——————へえ。じゃああなたは、バーサーカーにも負けないだね」

 突然。鈴を鳴らしたような声が、耳に届きました。

 セイバーさん、アーチャーさん、それから未央ちゃんの三人と同時に聞こえた方を向きます。そこには、雪の国からやって来た妖精のような女の子と。

 

 岩のような、死の塊が立っていました。

 

 セイバーさんを縦に二人並べてようやく足りるだけの身長。その手には、わたしと同じかそれ以上の長さのごつごつした剣、いや、あれは、斧でしょうか。とにもかくにも、あの太い腕で一度振るわれたなら、わたしなんて丸太以上に容易く真っ二つに叩き切られる。簡単に想像がついて、思わず口を押えていました。

「……バーサーカー。それに、あの子……ホムンクルス、アインツベルンか」

「正解。さすがといったところね、ミオ。でも今日はあなたにも、あなたのアーチャーにも用はないの。セイバーのマスターが決まったらしいから、挨拶を、ね」

 彼女の赤い血の色をした瞳が、わたしを捕らえました。

 じっとりと、足先から髪の毛の一本一本に至るまでを観察するように見つめた後、スカートの端を持ち上げて。

「初めまして、セイバーのマスターのおねえちゃん。わたしはイリヤ、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」

 と、うれしそうな笑顔を浮かべて丁寧にお辞儀をします。その笑顔のまま。

「じゃあ、殺すね。やっちゃえ、バーサーカー!」

 まるでステージの上で踊るアイドルのように、殺す、と。宣言していました。

「■■■■■■■■ーーーーーー!!!」

「卯月! 下がって!!」

 イリヤちゃんの指示と同時に高く飛び上がり、斧剣を掲げたバーサーカー。それを迎え撃とうと、セイバーさんは弾丸のような速さで、いつの間にか抜いていた剣を手に飛び出します。

 瞬間。大きな衝撃音が辺りを土煙とともに包みました

「セ……」

 どごん、と。何かが飛んで行って後ろにあった塀にぶつかる音がしました。最後まで言い切る間もなく、慌てて背後を振り返ります。そこには、血を吐いて膝をついているセイバーさんの姿がありました。

「セイバーさん!」

 今度こそ最後まで言い切れました。彼女は立つのもやっとといった様子で、剣を杖代わりに立ち上がります。その体に目立った傷はなさそうです。ただ一つ、胸から血が出ていました。それはバーサーカーの大きな剣で斬られたような広い傷ではなくて、深い刺し傷。

 ランサーに刺されたものです。それがついさっき、何かの拍子に塞がりかけていたものが開いたように、鎧に赤い染みを作っています。

 それで思い出しました。セイバーさんはランサー、アーチャーさん、そして今目の前にいるバーサーカー。まだ四時間も経っていないうちに、それだけの人たちと戦っているんです。サーヴァントが過去の英雄で、すごい人たちだということは理解しています。けどあれは、バーサーカーはまた別格な気がします。

 そんな怪物と前の傷も癒えていない状態で戦うのは、はっきり言って死ぬことと同じで、それをセイバーさんも理解しているはずです。なのに。

「……ッ、ハアッ!」

 分かっているはずなのに、また風みたいに突貫していきます。まるで、立ち止まったらそこで負けることが決まってしまって、その時には、残されたわたしが殺されてしまうと思っているみたいに。

「ルーン。……この距離だとセイバーを巻き込むけど、対魔力があるから」

「いえ、未央。彼に魔術は聞かないでしょう。並の魔術師では、十年間()めに溜めた魔力全てをもって打ち破れるかどうかの存在です。多少の援護はしますが、私の矢でもどこまで殺しきれるか」

「え、アーチャー? 殺しきるって何を言って……。まさか!」

「ええ、そのまさかでしょう」

 未央ちゃんとアーチャーさんが話し合っている間にも、セイバーさんは触れれば肉を根こそぎ持っていかれそうな暴風をさばいています。強い一撃を与え、後退するセイバーさん。逃がさないと追うバーサーカー。その頭上に、数えきれないほどの矢が雨のように降ってきました。その全てがバーサーカーを捕らえ、まるで岩でもぶつけられたように地面に押さえつけられます。

「今っ!!」

 それを見たセイバーさんはとっさに後退していた足を急ブレーキ。止まることなくそのまま推進力に変えて、動きを止めたバーサーカーの懐へ。その速さとセイバーさん自身の力強さとが相乗された一撃が、剣を持ち上げていた右肩ごと心臓のさらに下までバーサーカーを両断していました。

「セイバー! 離れて!」

 未央ちゃんが叫んでいました。それに従いセイバーさんは剣を引き抜いて離れます。

 その時でした。セイバーさんがバーサーカーの剣の間合いだったものから離脱した時、二度と持ち上がるはずのないその岩の剣が、また、セイバーさんへ向けて飛んでいました。

「な、……っ、ハアアッ!」

 すぐに間合いを詰めてきたバーサーカーに対し、またセイバーさんは打ち合いを始めます。

「未央ちゃん、今」

「うん。生き返ってた。たぶん、あれがバーサーカーの宝具」

 宝具。それはアーチャーさんに教わった中でも、一際印象に残っている項目です。

 サーヴァントは過去に偉業を為した英雄です。そんな英雄たちとともにあった武器には、時に魔術以上の神秘を帯びるモノがあるそうです。例えば、学校で戦ったランサーさんの槍や、おそらくはセイバーさんの剣であったり。それが宝具。サーヴァントを呼ぶことは、すなわち宝具を召喚することだと言われるほどに、強力なものもあるのだとか。

 さらにアーチャーさんが語るところによれば、英雄の伝説そのものが宝具になることも少なくないらしいです。バーサーカーの蘇生は、きっとそちらに類するものでしょう。

「かつて十二もの難行を乗り越え、神様からそれと同じだけの命を与えられたギリシャ最大の英雄。ヘラクレス。アーチャーが言うには、それがバーサーカーの真名。それに、もしも伝承を完全に再現しているとするなら」

「未央! さっきから剣が弾かれてる!」

 一度距離を取っていたセイバーさんが、大きな声で言いました。

「やっぱり。セイバー! たぶんそいつに、同じ殺し方は通用しない!」

「そんな……。じゃああと十一回も、全然違う方法で倒さなきゃいけないってことなんじゃ」

「だろうね。その上生半可な攻撃が通用しないとなると、これは」

「そう。わたしたちに出会ってしまった時点で、あなた達が負けることは決まってるの。初めから詰みなのよ。だってバーサーカーは、世界で一番強いんだから」

 バーサーカーの肩の向こう。一度セイバーさんが斬ったその先から、イリヤちゃんは楽し気に言います。距離にしてほんの2、30メートル。それだけの、走れば十秒もかからないその距離が、ひどく遠く見えます。

「さあ、バーサーカー。邪魔なアーチャーの矢は無視して、その弱っちいセイバーから先に潰しなさい!」

 セイバーさんが、死ぬ?

「アーチャーの宝具なら一回は殺せる。でも………………しまむー?」

 未央ちゃんが何か言っています。けれど、それよりも、聞き捨てならないことがあった気がします。

 そうです。今、イリヤちゃんはバーサーカーに指示を出しました。セイバーさんを潰せと、それはつまり、セイバーさんを殺すということで。

「嫌、です」

 セイバーさんが戦うのは、わたしを守るためで。そのために戦っているセイバーさんが死んだら、それはきっとわたしのせいです。

「それは、嫌です」

 とても身勝手な理由です。でも後悔するだろうと思いました。まだ彼女のことを、セイバーさんのことをわたしはよく知りません。まだ彼女にランサーから助けてもらったことすらありがとうと言えていないですし、それに、どうしてわたしなんかを守ってくれるのか、その理由も、まだ聞いていないんです。

 それなのに、死ぬなんて。

 何もないわたしなんかのために、あんなにも綺麗な在り方をした人が、死ぬなんて。

「それは、とても嫌なことです」

 なので、わたしは走り出していました。

 距離にしてほんの10メートル先。さすがにもう動けないのでしょうか、それでもバーサーカーをにらみつけるセイバーさんに向かって、バーサーカーが走り出しています。このままでは、きっとあの大きな剣がセイバーさんを頭から叩き切ってしまうはずです。

 なら、このままセイバーさんを押し出せば、きっと彼女だけでも助かってわたしは——————

「え? うづ」

「何を、馬鹿なことをしているんですか!!!!」

 やけに大きな声でした。飛び出して来たわたしに驚いたセイバーさんの声を、聞き漏らしてしまうほどに、大きな叫び声。きっと助からない。そう諦めて目をつむっていたわたしは、いつまでも痛みがやってこない現状を不思議に思って、恐る恐る瞼を開きます。

 そこには、ほんの目と鼻の先まで迫るバーサーカーの剣。そして、触れれば肉を持っていかれるだけのそれを、両手の平で、いわゆる白刃取りで受け止めている、ローブを目深にかぶった誰か。

 あまりにもアンバランスでした。

 だってその人は、いえ、予想外に高い声を出していたその子は、わたしとほとんど同じ背格好です。それなのに、自分の二倍以上の体から振り下ろされた一撃を、その細腕で受け止めています。

「早く!! 逃げてください!!! そう長くは持ちません!!」

「っ! 卯月!!」

「は、はい! あの、ありがとうございます!」

「いえ、これもマスター命令なので!」

 その人は白刃取りのまま、真剣さを崩さない声で返していました。セイバーさんに手を引かれ、未央ちゃんのいる安全圏まで何とか逃げ切り、振り向きます。そのころにはとっくに二人の睨み合いは終わっていて互いに斬り合っていました。

 ……とはいっても、ローブの人は素手ですが。

「しまむー! いきなり飛び出してどうしたのさ!」

「ごめんなさい、未央ちゃん。……ですが」

「うん分かってる。事情はあとで聞くよ。それよりも今はアレだね。いや本当にどういうこと!? A+ランクの筋力を持ってるバーサーカーと素手で渡り合うとか……、一体どんな無茶苦茶な由来の英雄ならそんなことができるっていうのさ!」

「同感ですね。ミオ。彼は私の教え子のなかでも一番の出世筋のはずですが、世界は広い、ということでしょうか」

 いつの間にか戻っていたアーチャーさんが付け加えます。そのまま続けて。

「ひとまず、ここは彼女の言う通り撤退するのが得策でしょう。三人とも、異論はありませんか?」

 わたしを含め、その場の全員がアーチャーさんの提案に賛成していました。わたしも一刻も早く帰って、せめてセイバーさんを休ませてあげたいですし。

 そうしている間にも、ローブの人はバーサーカーと殴り合っています。それを見ているイリヤちゃんの顔は、相当にご機嫌斜めのようで。その頬をいっぱいに膨らませて、英語だかドイツ語だかスペイン語だか何だか分からない言葉を口々に叫んでいました。

「さて、むこうも話がまとまったようです。私たちも、スタジアムを変えるとしましょうか、バーサーカー!!」

「■■■■■■■■■■ーーーーーー!!!!」

 目にもとまらぬ速さで森の中に消えていくローブの人を追って、バーサーカーも木々の間に姿をくらましました。

「あーーもうっ! ほんと融通利かないんだから!! セイバーのマスターのおねえちゃん、ああ長い! 名前! 名前教えて!」

 一人残されたイリヤちゃんは、二人を追いかける前にわたしにそう問いかけました。その姿が、あまりにも普通の子どものように見えて。簡単に名前を教えてはいけない、そのことを忘れて自然と、わたしは彼女に名前を教えていました。

「卯月、島村卯月だよ。イリヤちゃん」

「そう、ウヅキっていうの。まあべつになんでもいいけど。……いい? 次会ったらただじゃ置かないから、覚えておいてよね!」

「ずいぶんベタだなぁ」

 未央ちゃんの的確なツッコミが入りました。それによけいに地団駄を踏んで、それでもバーサーカーを放っておけないようです。こちらに向けて舌を出して、あかんべえをしてイリヤちゃんも森に踏み入って、次第にその姿が見えなくなりました。

「なんとか、生き延びられた、かな?」

 セイバーさんがランサーと戦ったあとのわたしと同じ感想を、未央ちゃんが漏らします。最後の方、状況が理解の及ばない方向にあり得ない速さで転んで行ったせいで、思わず忘れてしまいそうですが、さっきまで、わたしたちは殺されかけていました。

 それが、今こうして生きて元の場所に立っている。

「ええ、簡単には信じられませんがそのようです。今夜はこれ以上の戦闘を避けるべきでしょう。帰宅を推奨しますが、マスター?」

「うん。私もそれがいいと思う。しまむーはどう、ってしまむー! 顔色が!」

「! 卯月!!」

「え?」

 視界の中で周りの風景が引っ張られるように左に流れていきます。やがてそれらが、九十度傾き終わった時、わたしの肌には冷たい土の感触が触れていて。目に映る風景もゆっくりと暗く、何も見えなくなっていって。

 わたしは、そこで意識を失いました。

 




バーサーカーのステータス情報が更新されました

・バーサーカー/ヘラクレス
 ・巌の巨人。マスターであるイリヤスフィールと行動を共にする。
 ・言い訳というか屁理屈。
  ライダー(ローブの人)が殴り合えたのには、ライダーの出自以外にも理由があります。詳しいことはまたおいおいですが、一応、ライダー自身がその理由をちゃんと語っていたりします。基本とってもいい子なので。ただまあそのために、ちょっとしまむーに無理させちゃったかな、という気がしないでもないのですけれど。
 ・混沌・狂・天
 ・ステータス
  筋力A+ 耐久A 敏捷A 魔力A 幸運B 宝具A
 ・宝具 
  ・十二の試練 B 対人宝具
 ・スキル
  ・狂化B
  ・戦闘続行A
  ・心眼(偽)B
  ・勇猛A+
  ・神性A 


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3/☆☆★Witch Girl(1)

未央回です。
アイドルでもない、卯月とセイバーのリーダーでもなければ、藍子とも出会っていなかった、魔術師本田未央の六年間がどのようなモノだったか。
オリジナル設定ではありますが、どうかお付き合いのほどいただければ。


2月1日(水) 早朝

 

 目が覚めると、そこには知らない天井がありました。

 なんて、まるで病院にでも運ばれたみたいな言い方ですけど、実際は違うのだと思います。現状、見えている限りのそれは清潔感のある白ではなくて、重い色合いの木組みでできた洋風のもの。

 ふと、疑問に思います。わたしは確かに一つだけ、洋館の間取りを知っているはずです。

 そこはわたしが、子どものころから通っていた場所でした。

 そこは、わたしの親友が住む家だったはずです。

「……なのに、どうして」

 どうしてわたしは、知らない天井だ、なんて思ったんでしょう。

 言いようのない不安に駆られ、寝かされていたベットから起き上がります。いつの間にかリネン生地の白いパジャマを着ていました。その二つも確かに記憶にあるのに、いつかだったか、かぜをひいたときに着せてもらったこともあったはずなのに、肌に触れる布の感触から違和感がぬぐえません。

 幸いにも、見える場所にわたしの制服がかけられていました。下着はさすがにこのまま借りるしかありませんが、それ以外はすぐに制服に着替えます。

 そのままほんの少し重い木の扉を押し開けて、部屋を出ました。そこは横に長い廊下。わたしがさっきまでいた所は客間だったようです。同じものが左に二つ、そして右にもう一つありました。

 右の扉の向こうには階段があります。きっとその下。もはやどこまで確かなのか信じられませんが、それでもまだ、覚えていられている記憶によれば、階段を下ってすぐの右の部屋のリビングに。この時間にはきっと、この家の住人である彼女がもう一人の友人とともに朝の支度をしているはずです。

 階段の手すりに寄り掛かります。頭が割れるように痛んで、今にも破裂しそうなほどに血が全身を駆け巡って、口が全力で酸素を求めて息をしています。

「わたし、……どうして」

 ずいぶんと今更な疑問でした。わたしは、どうして彼女の家に泊まっているのでしょう。だって昨日は何も無い、ただ普通の日で——————

 ——————そんなはずない。

 より激しく。血が脳の中を走った気がしました。

 藍子ちゃんのメール。夜の学校。進路希望調査票。赤い槍と獣の目。月明りと女の子の蒼色。心臓を握られる死の感触。聖杯戦争。教会と神父さん。それから、それから。

 雪の妖精と、巌の怪物。

「……そっか、わたし聖杯戦争に」

 またも頭痛が襲います。それに気を取られ、階段の中ほどを踏み外してしまいました。

 少しの浮遊感。このまま落ちてしまえば、忘れてしまえるでしょうか。

 気持ちの悪い違和感も、死ぬような目にあったことも、それに、これから何度だって立ち向かわなくちゃいけない現実も。全て、頭でも打って、なかったことに。

「——————本当に、卯月はそうしたいの?」

 せめて痛くないようにと身構えていたわたしの体を、痛みが襲うことはありませんでした。

 誰かの腕に抱えられているみたいで、つむっていた目を開けると、そこにいたのはセイバーさんでした。

「あ」

 よかった。自然にそう思っていました。

 何度も死にかけた昨晩の記憶の中でたった一つ、間違いであって欲しくない。嘘であってほしくないモノが、ちゃんとそこにあって本当に良かったと思いました。

 そのことが、この時胸にあったどんな気持ちよりも嬉しかったんです。

「卯月、大丈夫? けがしてない?」

「は、はい。大丈夫です。……その」

「ああ。今下ろすね、はい。足元、気を付けて」

「…………どうも」

 セイバーさんは右手を貸してくれて、それに支えられながらわたしは、絨毯が敷かれた階段の踊り場に足をつけます。頭痛がおさまったわけではありません。むしろ痛みが分かりやすくなった気がします。これは、たぶん警告です。自分の知識の中に、何かおかしなところがあって、(本能)がそれを察知して(理性)に痛みとして教えてくれているのでしょう。

 けれど、わたしのそばにはセイバーさんがいます。すくなくとも彼女が今そこにいてくれることは、体で触れて確かめられる真実です。ならそれを足掛かりにして、わたしはしっかりと立っていられます。

「セイバーさん、少し、肩を貸してくれませんか?」

「いいよ。でもどうせなら、さっきみたいに担いでもいいけど」

 それは勘弁してください。ようやく眠気が消えてきた今だから分かったことでしたが、さっきのはいわゆるお姫様だっこと呼ばれる形ではなかったでしょうか。もしもまたそんなことを、しかも頭痛のしているこの状況でやられたら、きっと心臓が持ちません。

「…………肩で、お願いします」

 たっぷり十秒ほど考えて、そう答えました。それを聞いたセイバーさんはおかしそうに微笑んでいて、思わずその胸を叩きたくなりましたが、なんとかがまん。頼んだとおりに、わたしの右腕を彼女の右肩にのせてもらいます。

 一歩一歩、一段一段、彼女と一緒に階段を下っていきます。

「セイバーさんは、どうしてここに?」

 とくに理由も無く聞いていました。しいて言えば、ただ気になった、それだけです。

「覚えてなくて当然か。昨日、いや時間的に今日だったかな。どちらにしても前の晩、バーサーカーと戦ったあと、卯月、気を失ったんだよ。未央が言うには魔力の使い過ぎだって。私これでも燃費の良さには自信があったんだけど、なんでも、元から使ってなかった卯月の魔術回路が少しだけあって、召喚のときにそこを初めて使ったから体に負担がかかってたみたい。緊張がゆるんだ時にそれが一気にきて、ばたん」

「……魔術回路。魔術師が魔術を使う時に魔力を流す、疑似神経、でしたっけ。それがわたしに」

「うん。でも量も質も一般人レベルだし、容量もそんなに無いから魔術なんて使えない。精々、礼装の起動くらいだろうね。これも未央の受け売りだけど」

 薬を飲んで一晩休めばなじむものだから、後遺症も何も残らないよ。セイバーさんはそう続けて、今度はわたしが倒れた後のことを話し始めました。

「倒れた卯月を抱えて、ひとまず卯月の家にでも運ぼうかと思ったんだけど、恥ずかしながらまだ卯月の家がどこにあるか知らなくてさ。そんな私を見かねた未央が、うちに来ないかって言ってくれてそのまま一晩厄介になったよ。親御さんのほうにも便宜を図ってくれたみたいだから、心配はないと思う。で、朝になってなかなか起きてこないから、起こしに行ったら階段から落ちそうになってて慌てて飛んでみた。私の方は、まあそんなとこ」

「本当に、ありがとうございます」

「いえいえ。どういたしまして」

 わたしの感謝にセイバーさんは、本当になんでもないことだと言うように返していました。むしろ、わたしを助けられてよかった。なんて言いだしそうだなと思えて、それからひどい自惚れだなと気づきつつも、なんとなく否定できませんでした。たった一晩でわたしは、この本当の名前すら知らない女の子を、とても信頼してしまっているみたいです。

 そのセイバーさんに今一番気になっていたことを聞いてみました。

「セイバーさん。確認なんですけど、ここ、未央ちゃんの家なんですよね?」

「うん? そのはずだけど。何? 来たことなかった?」

「いえ。玄関なら昨日の朝にも来ています。昔はもっと奥の方にも上がらせてもらったことがあった、はずです」

 長く思えた階段をようやく下りきって、リビングへ行こうと右側の壁側に足を向けます。

「卯月、顔洗いたいの?」

「いえ、先にリビングにいる未央ちゃんにあいさつしようかなって。何かおかしかったですか?」

「……いや。行こうか」

 何かを考え込んでいたようでした。けれどそれをセイバーさんが教えてくれることはなく、すぐにリビングのドアの前にたどり着きました。

「じゃあ、開けるよ。卯月」

 ドアを開けるだけなのに、ずいぶん勿体つけるなあ。なんて思うわたしを支えたまま、セイバーさんはドアノブを捻ります。

「え………………な、んで」

 そこはリビングではなく洗面所でした。四畳ほどの部屋で、奥にもう一つ扉が見えます。おそらくは浴室につながっているだと思いますが、わたしの注意はそちらには向いていませんでした。

 ゆったりとくつろぐためのソファーもありません。みんなで囲める大きなテーブルも置いてありません。昔、未央ちゃんと一緒にアニメを見ていたテレビも、どこにも見当たりません

「うそ。だって、ここには確かにリビングが」

「……ごめん、卯月」

「どういうことですか。セイバーさんは、何か知っているんですか!?」

「ううん。悪いけど、私は何も知らない。ただ、私がよけいなことをしちゃった気がしたから。そのせいで、無意味に卯月が傷ついちゃった。……ねえ、卯月、さっきのことなんだけどさ」

「さっき?」

「階段から落ちそうになってた時のこと。卯月あの時、昨晩のこと、なかったことにしたいって思ってたでしょ?」

「………………はい。ですけど、どうして知ってるんですか? わたし、言ってないですよね?」

「うん、言ってない。けど、マスターとサーヴァントはパスでつながってる。基本的には魔力を送るだけのモノだけど、たまに精神的にもつながることがあるんだ。例えば、マスターがサーヴァントの過去を夢で見たり、とか」

「夢、ですか。あんまり覚えていませんけど」

「まあ普通そうだよね。未央が言うには、召喚陣も何もなしに呼び出したつけだって。私たちの間のパスは不安定で、普段は弱いままなのに、ふとした時にあり得ないくらい強くなるらしいよ。さっきのは、たぶん丁度その偶然を拾っちゃったんじゃないのか、っていうのが、私の考え。心を読むような真似してごめん」

 セイバーさんは悲しそうな顔でうなだれてしまっていました。なんとなく、雨に濡れたワンちゃんに似ている気がしましたが、黙っておきます。

「でも、これだけは聞いておかないといけない。もしも卯月が全部なかったことにしたいなら、方法はある。今すぐ私と契約を切って、それから」

「セイバーさん」

 その一声はわたしにしては珍しく怒りっぽい声でした。それに気づいたのか、彼女が顔を上げます。

「わたし、そんなことしません。たしかに昨日の晩のことは、わたしには耐えがたいことばかりでした。忘れられるのなら、忘れたいです。ですけど、それと一緒にセイバーさんのことまで忘れてしまうのは、わたし、嫌ですから」

「……卯月」

 きれいな顔でした。その顔を見て、ひどく当たり前のことを思い出した気がします。人間は笑顔以外でも嬉しいってことを表現できるんだって。なんだか照れ臭くなって、怒っていた気持ちがどこかへ行ってしまいました。

 貸してくれていた肩から離れて、すこし目線を反らしながら言います。

「…………守って、くれるんですよね? そう、言ってくれましたよね? ならきっと大丈夫です。セイバーさんがいてくれるなら、きっとわたし頑張れますから」

「——————卯月!」

 せっかく離れたのに、今度はセイバーさんから抱き着かれてしまいました。なぜか、今度は本当にセイバーさんは悲しそうな顔をしています。何か悲しいことでも思い出してしまったのでしょうか。どきどきとうるさい心臓の音が彼女に聞こえていないよう祈りつつ、その背中を両手で抱えます。思ったよりも小さくて驚きました。

「守る。卯月のことは、絶対に。たとえ卯月が卯月自身を傷つけることがあったとしても、私が、全部からあなたを守るから」

「ふふ。なんですか、それ。わたしがわたしを傷つけることなんて、あるわけないじゃないですか」

 抱き締める力が一層強くなってしまいました。今のは地雷だったみたいです。

 どれだけの間そうしていたのでしょうか。窓の外の薄暗さからすれば、きっと五分もなかったのだと思います。終わる時だって突然で、

「……ごめん、取り乱した。リビング、本当はこっちだから。行こう、卯月」

 そう言って先を行くセイバーさんについて行きます。その足取りに迷いはなくて、さっきまでのやり取りがなかったことみたいに思えます。ただ、彼女が強く抱きしめていた背中の真ん中が少し痛みました。その痛みが、きっと証拠になってくれているはずです。

「ここ。リビングはこのドア」

 洗面所から二つ廊下の角を曲がった先にあったドアでした。屋敷の思わぬ広さに面食らいつつも、覚悟を決めてそのドアノブを回します。

 そこはちゃんと記憶にあるリビングでした。赤い布が敷き詰められたソファーが、背の低いテーブルを囲んでいます。その中に未央ちゃんは立っていました。やっぱりです。ティーセットの片付けもどこか手慣れているはずなのに、この部屋に、彼女の雰囲気があっていません。

 未央ちゃんがもう十年もここに住んでいるなんて全く思えません。

「ありゃ。ずいぶん遅かったね、二人とも。もう朝ごはんできてるよ」

「未央ちゃん。藍子ちゃんはどこですか?」

「あーちゃん? あーちゃんなら今日は来てないけど。昨日私を探しまわってくれてたみたいで、そのせいで風邪ひいちゃったんだって。あとでお見舞いに行かないと。しまむーも一緒に来てくれる?」

「はい。大丈夫です」

 未央ちゃんの様子はいつもと変わりません。魔術師だと知っても、やはり未央ちゃんの見え方は変わっていません。

「未央ちゃん。一つ聞きたいことがあります」

「ほう。しまむーが私に質問かい。いいとも! この本田未央ちゃんがなんでも教えてしんぜよう! もし答えられなかったらアーチャー呼べばいいだけだし」

「サーヴァントをグー〇ル扱いするのはどうかと思うよ、未央」

「う、鋭い。さすがセイバー鋭い。……ってふざけてる場合じゃなかった。しまむー、言ってみて。答えられることなら答えてあげるからさ」

「じゃあ、一つだけ。それだけ、正直に、ごまかさずに答えてもらっていいですか?」

 わたしの聞き方に何かを感じ取ったのでしょうか。今度は茶化すことなく、真剣に耳を傾けていました。

 大きく息を吸って、未央ちゃんの目を見て。

「未央ちゃんは、本当にわたしの幼馴染ですか?」

 そう聞いていました。

 暖炉の薪が爆ぜる音がしました。それがきつけとなるまで、未央ちゃんは口を薄く開けていましたが、ふいにその口から溜息が漏れて。答えに詰まったのでしょうか、窓の外を見つめます。

「雪」

 つられて見た外は、白い粒が舞っていました。積もりそうにはないですけど、この中を歩いて学校に行ったら、きっと霜焼けになってしまうと簡単に想像できます。

 その時のわたしと同じことを、未央ちゃんが考えていたかは分かりません。

「しまむー」

 ですが。

「学校。一日だけ、ずる休みしちゃわない?」

 そんなことを言うからには、きっと近いことを考えていたのだと自然と思えてしまえました。

 

 

「結論から言うと、確かに私はしまむーの幼馴染じゃないよ。きっとしまむーの記憶では、十年くらい前から私がここにいることになっているんだろうけど、私が本当にこの街にやって来たのは一年前の今日か、それよりすこしだけ前だからね」

 アーチャーさんの淹れた紅茶をすすりながら、なんでもないことのように未央ちゃんは言いました。

「……でも。わたしには、この十年ずっと未央ちゃんと一緒にいた記憶がありました」

「うん。それが本当はウソなんだよ。しまむー」

「…………」

 正直なところ、あまり驚いていませんでした。むしろ、自分の中ですんなりと、それが事実だと認められてしまいます。

 十年前。わたしはこの家には来ていません。

 来ていないのだから、そこに誰が来ていても知り合うはずがなくて。そして、そこに誰が来ていたか知らないのだから、誰かがいたと言われれば、すんなりとそう信じられた。

 そこからは芋づる式に、言われたことをなんでも信じたはずです。

「魔術としては軽いヤツだからね、私のそれ。一つでも違和感に気づけばすぐに崩れるみたいに解けるよ。そこを何とかカバーして、なんとか一つの暗示(ウソ)だけを守り通す。これだけは得意だったはずだし、しまむーにはそれこそ二重三重に保険かけといたから。まさか今日バレるとは思わなかったけど。うーん、なんか自信なくしちゃうなあ」

「そこは問題ないよ。たぶん、未央の魔術には何のミスもなかった。だから、きっと計算違いなことがあって、そっちに気を回していなかっただけ」

「ふーん。じゃあセイバーは、その計算違いが何なのか気づいてるんだ」

「まあ一応。私の真名に関わるから、詳しくは話せないけど」

「それ、答え言ってるようなもんだよ。セイバー」

 未央ちゃんの考えていることが、なんとなくですが察せました。未央ちゃんの魔術が解けた理由、それがセイバーさんの真名に関わるのなら、おそらくセイバーさんには契約しているマスター、それから、もしかするとセイバーさん自身にも、その手の魔術に対する耐性がつく。そういうことができる力、アーチャーさんたちが言うところのスキルが備わっているか、もしくはセイバーさんの宝具にそういう能力があるのでしょう。

「言わないでよ。未央。私だって好きでこんな能力持ってるわけじゃないんだから。ほら、無辜の怪物ってあるでしょ、あれと似たようなもんだよ」

「よそのイメージに縛られて本人が変質するっていう? まあ確かに、それなら呪いみたいなものかもだね」

「そ、おかげで制御できないし、そのせいで卯月に余計な混乱をさせちゃったし」

 さっきセイバーさんが謝っていたのはそういうことだったみたいです。彼女の意志でどうにもならないのなら、別に悪く思う必要はないと思いますが。

「話がそれちゃったね。未央、続きを聞かせて。どうして卯月に暗示をかけてまで、魔術師であることを隠そうとしていたのか」

 うんざりとした顔をしながら、セイバーさんは話題を切り替えました。それに未央ちゃんは頷き、まだ湯気の立っている紅茶を一口ちびってから、すこし迷うような表情になりました。

「それには、あんまり明確な答えはないんだけどね。魔術師だってことを隠したかったのは事実だよ。しまむーが、言い方は悪いけど隠れ蓑として丁度良かったのもある。こんないい子、三人と見たことないしね。ただ、どうして記憶までいじったりなんかしたのかについては……。もしかしたら、普通に親友って呼べる人が、一人くらい欲しかっただけなのかもね。魔術で暗示かけてた時点で、普通でもなんでもなかったけどさ」

「未央ちゃん……」

「ずるいことをしていたのは分かってる。ウソばっかりで、本当のことをほとんど何も教えてこなかったのも、自覚してる。当然、あーちゃんにだってまだだよ。何度だって思うけど、私ってほんとうにずるいよね。それでもね、これだけは本当。私さ」

 

「この聖杯戦争は、なにがあっても負けられないんだ」

 

 そうして未央ちゃんは語り始めました。

 一人の少女でしかなかった彼女が、どうして魔術師になったのか。その理由を。

 

 

 本来、聖杯戦争に参加する魔術師は遠坂という家の方から選ばれるそうです。その遠い分家筋である未央ちゃんの家、本田家は、最近になって、魔術師として衰えていました。

「うちのおじいちゃんはそれをなんとかしたいと思ってたみたい。聖杯戦争に参加して名を上げるために、いろんなところを駆け回ってさ、へんな人に頭を下げて、泥を飲むよりもひどいこともして。私がまだ生まれてなかった時のことだけど、たまに家の人がいない、末のあの子はどこかって聞いたら、『死体を欲しがってた黒魔術師にくれてやった』なんて返ってきたこともあったんだって」

 未央ちゃんの言葉一つ一つには反論しようのない重みがありました。それらすべてが冗談ではないと納得するほどの、魔術世界の闇。そもそもこの一年で、未央ちゃんはこの手の冗談を言ったことがありません。彼女にとって、いま口にしたすべてはまぎれもなく日常なのです。

「それをずっと見ていたから当然だけど、私の両親は祖父のことをよく思ってなくて、同じように魔術もあんまり好きじゃなかったみたい。おかげで、祖父が死んだ後に生まれたわたしは、九歳の誕生日を迎えるまで、うちが魔術師の家系だってことすら知らずに育ってこれたよ。それは本当に奇跡だったって思ってる」

「奇跡、ですか。九歳まで、普通の人生を送れたことが」

「うん。まぎれもなく。しまむーには、全然そんなふうには思えないだろうけどね。でもね、しまむー」

 

「奇跡は、長続きしないものなんだよ」

 

 未央ちゃんがそう、溜息をつくように言いました。

「繰り返しになるけど、ちょうど九歳の誕生日だった。一番上のお兄ちゃんがさ、高熱を出して倒れたんだ。うちの両親はまず病院に行って、診てもらったよ。診断結果は不明。それで帰ってから魔術的に見てみたらすぐに分かった。魔術刻印が変質して、お兄ちゃんに合わなくなっていたみたい」

「卯月殿。まだ教えていませんでしたが、魔術刻印とは一つの臓器なのです」

 未央ちゃんの後ろから、アーチャーさんが補足します。

「体内に移植すれば、それ一つがそのまま術式として機能し、魔力を通すだけで魔術を発動できる。使える魔術は家柄ごとに違っていますが、そこに刻まれている物が歴代の魔術師の歴史そのものであることは変わりません。何十年、何百年、ときに千年もの研鑽と努力の結晶。それゆえに扱いには細心の注意を要します」

「祖父は幸か不幸か聖杯戦争への参加権をつかんでいたんだ。失ったものを考えれば、参加しないわけにはいかない。それでも生きて帰れるように、うちで一番才能があった一番上の兄ちゃんに、その刻印が移植されていたんだけど。たぶん祖父のやったことの報いかな、呪われてたんだよ、それ。すぐに外されたけど、兄ちゃんは下半身が麻痺して車椅子に乗ることになっちゃった。

 これが普通の家ならさ、そんな呪われたもの早くすてちまえー、って言えるんだろうけど。それでもうちの両親は、自分たちでもいやになってたはずだけど魔術師だったんだよ。魔術師にとって研究してきた成果と時間はどんな宝石よりも価値があるもので、それが十何人分も重ねられた刻印を次の代に繋ぐっていう、魔術師の使命から逃げられなかった。まず自分たちに移植してみて、失敗。幸いなことだったのか入りすらしなかったから、後遺症なんてあるわけもなくて、次に上から下にいた兄弟みんなに試して、同じように失敗。それで、最後に残ったのが」

「未央ちゃんだったんですか?」

「うん。結果は信じられないくらいの大成功。呪いなんてまるでなかったみたいに影響なし。誰も喜べてなかったし、私だって、自分が何されてたのか分かってなかったしで、家中が静まり返ってたよ」

 あの時以上に残念そうな顔を私は見たことがなかったなぁ。未央ちゃんはそう言っていました。

「それからは私が本田の家の魔術師になって、両親は聖杯戦争に備えて私に魔道を叩きこんで。それが今から六年前。で一年前、本家がある千葉のほうからこっちに越してきた。言峰に宿としてこの家を借りて、うちが昔からあったみたいに細工して。あとは、しまむーとあーちゃんが覚えているままだよ」

「……じゃあ何? 未央は、家に決められて聖杯戦争に参加したってわけ? 自分の願いも何もなしに?」

「その通りだよ、セイバー。大好きな家族が私を天秤にかけてまで、そうまでして大切にしようとしていたのが魔術なんだよ。なら私も大切にしなきゃ。それが自分で決めた、まぎれもない自分の気持ちだから」

 セイバーさんの問いかけに、未央ちゃんははっきりと答えていました。それがあんまりにも迷いなく答えていたので、わたしは深く考えもせずに聞いていました。

「それなら、未央ちゃんが聖杯に望むことは」

「……魔術刻印の修復。なんだかんだ、私にも魔術師の血が流れてるみたい。祖父のやったことは残酷でずっと昔から、多分これからも同じことを繰り返していくんだろうけど。それでもいつか、魔術師の悲願、根源の渦にたどり着けるなら。きっと失くした物にも意味があるのかなって。そのためには私以外にも魔術刻印(コレ)が受け入れられるようにしないと。私、魔術の才能あんまりないからさ」

 そう言った彼女の顔がいつもと変わらない笑顔で、私にはそれ以上何も言えませんでした。ただ一つだけ、はっきりと分かることがあるとすれば、その笑顔はきっといいモノではないだろうということだけです。

 もう一口、互いに紅茶をすすります。思ったよりも時間は経っていなかったみたいで、紅茶はまだ温かいままでした。

 飲み口から顔を上げると、そこにあった未央ちゃんの顔は、元の真剣な魔術師としての顔に戻っていました。

「そのために、二人にお願いしたいことがあるんだけど」

「セイバーさんと、わたしに、ですか」

「うん。私はどうしても、この聖杯戦争に勝たなくちゃいけない。幸いなことにうちのアーチャーは強い。並の相手なら、状況判断さえ間違えなければまず負けない。でも」

「バーサーカー」

 セイバーさんの指摘に未央ちゃんは頷きます。

「そう、アレは英雄の域を超えてる。アーチャーと知恵を絞れば、何か方法があるかもしれない。それでも単騎でやり合うには分が悪すぎる、だからせめて、しまむーとセイバーの手を借りたい」

「昨日は押されてたけど、それでもいいの?」

「もちろん他のサーヴァントの手を借りることもあるかもね。でも、一番信頼できるのは、しまむーとセイバーの二人だよ。昨日のローブのサーヴァント、低ランクだけど騎乗スキルがあったから、多分ライダーだと思う。彼女の協力もあればより確かかもしれないけど、彼女もサーヴァントである以上、マスターが信用ならないヤツだったら、バーサーカー以外に考えることが増えて集中しにくくなる」

 そこまでの、あくまでマスターとしての理屈に沿った考えを、未央ちゃんはためらうことなく言えました。

 ですが、その先を言うことを彼女はためらっていたように見えます。紅茶をまた一口飲もうとして、空っぽなことに気づいたみたいです。アーチャーさんにおかわりをもらってから、改めて口をつけて、それからになって、ようやく未央ちゃんは切り出しました。

「……今まで騙してばかりで、信用ならないってことも分かる。そんな私の提案だから、私が思っているような信頼を、しまむーからもらえるとも思ってないよ。だけど、それでも良ければ、バーサーカーを倒すまで私たちと一緒に戦ってくれないかな」

「…………」

 わたしとしては、断る理由がありませんでした。これがわたしだけに頼まれたことなら、迷いなくすぐに頷いているところです。ですが未央ちゃんは、わたしとセイバーさんに聞いたんです。わたしが頷けば、たぶんセイバーさんもそれに従ってくれます。けれどそれは、わたしがなりたいセイバーさんとのわたしからは、ずいぶん遠のいている気がしました。

「セイバーさん。セイバーさんは、どう思いますか?」

 そういう理由で、返事を返す前に彼女に意見を求めてみました。

「私? 私は、まあいい条件だと思うよ。未央もアーチャーも、私よりは魔術に詳しいから、きっと卯月の助けになるだろうし。当然、卯月のことは私が守るけどさ、でもいつだって守れるわけじゃないだろうから、その時に自分の身を守れる技術を身に着けておいても、特に問題はないはずだよ」

 どうやらセイバーさんも、未央ちゃんとの共闘には賛成のようです。ほっと一息つきます。それから未央ちゃんの目を見てしっかりと答えました。

「未央ちゃん。わたしもセイバーさんと同じです。未央ちゃんのことは、ちゃんと信頼していますよ」

 だって、と付け加えました。

「未央ちゃんは、たとえ昔からの友達じゃなくたって、わたしの親友ですから」

 その返事に未央ちゃんは、

「しまむー……。うん、ありがとう。それから、あらためてよろしく!」

 太陽のような笑顔でわたしの手を握っていました。

 

 




マスターのマテリアルが解放されました。
(読み飛ばし可)

・本田未央
 ・アーチャーのマスター。「穂村原学園中等部三年生で卯月の親友」そう暗示をかけていた。
 ・本作のもう一人の主人公。
 ・遠坂の遠い分家筋にあたり、零落した本田家の再興のため、聖杯戦争に足を踏み入れる。
 ・魔術回路の質も量も並の魔術師をしのぐが、兄には勝てないらしい。
 ・魔術属性は水。自らの魔力を暗示として対象の体内に”滲み込ませる”本田家の魔術との相性の良さが、彼女に魔術刻印をノーリスクで受けれ入れさせた。そこにどんな環境でも”とけこめる”社交性を合わせることで、最小の魔力で最大の範囲へと暗示を”行き渡らせる”。
 ・物事をはぐらかしてしまう悪癖があり、たいてい悪い結果しか生まないことを知ってはいるものの、どうしてもなおせないのが悩み。セイバー曰くヘタレ。そのくせ説得と言いくるめの技能値が魔術の効果含め無駄に高いので、手に負えないレベルで厄介。社交性の高さが仇になって気づかないうちに自分と他の誰かを傷つけてしまっているタイプ。
 ・聖杯への願いは変質してしまった本田家の魔術刻印の修復。未央以外に適応しなくなったそれを次の代に譲り渡すために、九歳からの六年間、彼女の両親は未央を人並みに愛してやることをあきらめた。それでも未央にとって家族は大切な存在であり、そんな家族が大切にしていたモノを自分も大切にしたい。未央の心に嘘はなかった。それと同じだけ、あるいはそれ以上に大切にしたい、そう思える何かを見つけてしまうまでは。
 ・本来彼女の家の魔術刻印は、自分以外への魔力の浸透を旨としている。変質しても、そこは問題なく扱えるものの、問題は変質したことによって刻印が数段上の域に到達してしまったこと。たった一度だけ、近くにいる誰か(複数可)の■と■■を■■■し他の■■や■に■■させる。本来十年二十年先の技術であるそれを、本田の魔術刻印は(もともと研究していたこともあったが)突然変異的に会得していた。通常の魔術師であれば、魔法も同然のそれを逃すはずがない。適合する誰かにさっさと移し、そのままビンに詰めてしまえば、根源の到達への何かの足がかりになるかもしれないと考えるのが魔術師だ。
  だが、三つの偶然がその運命を変えた。
  一つ、ただ一人刻印が適合したのが9歳まで魔術のまの字も教えずに、ただ一人のまっとうな人間として扱われていた未央だったこと。二つ、彼女の両親が、魔術師と名乗るにはあまりにも人間性を捨てきれていなかったこと。三つ、兄や他の兄弟たち、両親、生きていた家族全員から、たった一人の人間として未央が深く愛されていたこと。以上の理由から、両親は刻印の変異によって発生した技術を封印し、表向きはそれの修復を優先しながらも、もし彼女が人間として生きていくことを決めたなら、その時は好きにさせようと心の底で望んでいた。
  ——————だからもしも、彼女に本当の奇跡が与えられていたのなら、それはたった一つ。彼女の性格が、家族ぐるみでお人好しだったことだけ。


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4/☆☆★Witch Girl(2)

個別ストーリーは2、3話で一区切りつくことになります。
その都合上、一話あたりの文字数が全くと言っていいほど安定しませんが。


2月4日(土) 早朝

 

「そうだ。お昼から新都に行くから、みんな準備しててね」

 聖杯戦争五日目のその朝。わたし、セイバーさん、藍子ちゃん、それから未央ちゃんの四人で囲む朝食の席で、未央ちゃんは突然そんなことを言いだしました。

 未央ちゃんが幼馴染でなかったと知ったあの日から、二つ夜が明けました。その間、とくに何事もなく、今が聖杯戦争の途中であることを忘れてしまいそうなほどに、平和な時間が流れています。

 変わったことがあるとすれば、わたしとセイバーさんが聖杯戦争の間だけ、未央ちゃんの家に厄介になることになったくらい。

 藍子ちゃんには二日前にしっかりメールで伝えていましたが、それを彼女がしっかりと自分の目で確認したのは、体調が戻った今朝のことです。わたしはともかく、セイバーさんを泊めることを藍子ちゃんはあまりよくは思っていなかったみたいです。朝ごはんの準備も後回しに、セイバーさんの手を取って、

「未央ちゃん。応接間、少しの間だけ借りますね」

 と言って、二人そろってリビングから姿を消すことおよそ二十分。帰ってきた藍子ちゃんはとってもごきげんでした。

 何があったのかセイバーさんに聞いてみると。

「うん。なんていうか、さ。恋する乙女は盲目、だっけ? あれって本当なんだね。なんか、仲間だと思われちゃったみたい。別にいいけど……」

 と、ひどく疲れた声で言っていました。

「恋!? あーちゃんが!? 一体誰にさ、セイバー!」

 とかなんとか騒ぐ唐変木な未央ちゃんに、セイバーさんが正義の鉄拳を食らわせていることにも、藍子ちゃんはなぜか気づかず、鼻歌を歌ったりしながら朝食の準備をしていました。

 ……これが、本当のお相子。藍子ちゃんだけに。いえ、あんまりおもしろくなかったですねコレ、忘れましょう。誰か残念な二十五歳の人が来そうですし。それが誰なのか、わたしには全く見当がつきませんが。本当の本当に、誰なのか分かりませんが。

 その後、出来上がった和風の朝食を四人で囲んで、テレビを見ながら楽しく焼きサバをつついていた時でした。

「そうだ。新都行こう」

「そんな京都行こうみたいな言い方でしたか?」

 いつもつっこまれる側のわたしが、未央ちゃんのボケに反応していました。未央ちゃんはわざとらしく笑っています。セイバーさんも呆れたような顔で焼きのりをご飯に巻き、その一方で藍子ちゃんは。

「いいですね、お出かけ! 私も最近家にいてばかりだったから、街の方に行ってみたいと思っていたんです!」

 かなり乗り気みたいです。「さっすがあーちゃん!」と未央ちゃんが指を鳴らしました。

「でもあーちゃん、大丈夫? 病み上がりで出かけちゃって。アイドルの仕事だってあるんだから、あんまり無理は」

「大丈夫だよ、未央ちゃん。この前二人がお見舞いに来てくれたおかげで、もうすっかり良くなったから。ほら」

 そう言って力こぶを作る藍子ちゃんの二の腕は、さほど盛り上がっていませんでした。それでも自信満々な彼女の表情からは、あふれるような元気が伝わってきます。きっと、大丈夫でしょう。同じことを未央ちゃんも考えていたようです。眉間にしわを寄せて悩まし気な雰囲気でしたが、最終的に藍子ちゃんの健気さに折れたみたいです。

「分かったよあーちゃん。でも一応、変装はしておかないとね」

「そうですね。今日はお散歩とは少し違いますから、ちょっと試しに着替えてきます」

 お箸をおいて手を合わせ、「ごちそうさま」を言ってから空のお皿を片付け、藍子ちゃんは二階に上がっていきました。それとほとんど同じくして席を立つ未央ちゃんにすこし聞いてみました。

「藍子ちゃんの着替え、こっちに置いてあるんですね」

「んー? まあね。たまに泊まっていくこともあるから、一通りは置いてあるよ。おかげで客間のうちの一部屋、実質あーちゃんの部屋になってるし」

「それじゃあ、藍子ちゃんには」

「しまむー。しー」

 暗示はかけていないんですか。と聞こうとしたわたしを、未央ちゃんは自分の口に人差し指を立てて制します。わたしが口を閉じたのを見ると、ポケットから小さな石を取り出して、部屋の隅の一つに置きました。

「これでよしっと。最低限の防音はしてるから、あーちゃんには聞こえないはず。ごめんねしまむー。黙らせるようなことしちゃって」

「いえ。気にしていません。……防音ってことは、藍子ちゃんにもやっぱり」

「うん。魔術のことは黙ってる。関わる人は少ない方がいいからね。まあ、あーちゃんの場合は個人的な理由もあるんだけどさ。……とにかく、ここからは真面目な話をしていくよ」

「新都に出かける本当の理由、てっとこ?」

 セイバーさんの言葉に未央ちゃんは頷きます。

「二日前に話した通り、当面の目標はバーサーカーの討伐。策はまだ要相談として、本丸を落とす前にやっておくことがある。言ってしまえば露払いだよ。言葉面ほど簡単じゃないけどね」

「露払いですか」

「そ。横槍なしでバーサーカーと直接やり合うために、まずはそれ以外を片付ける。ライダーは交渉の余地があるから除外、ランサーはグレー。そうなると、残っているのはキャスターとアサシンってとこかな」

「じゃあ未央がこの二日間、水晶玉とにらめっこしてたのは」

「もちろん、二騎の居場所を探ってた。そしたら一番厄介なところでヒットしたよ。場所は柳堂寺。その上向こうも共同戦線張ってるみたいで、乗り込めば二騎を同時に相手取ることになる。柳堂寺は場所自体も特殊で、山門以外からだと霊体であるサーヴァントは入れない」

「攻めるに難い、か」

「あ、そのためのお出かけなんですね!」

 未央ちゃんはそれを目で肯定しました。セイバーさんは少し首をひねっていましたが、すぐに得心がいったようで、なるほどとつぶやいていました。

「今のところ、キャスター陣営には動きが全く見られない。使い魔を送れば文字通りに門前払いされて終わりだから、交渉以前に中の様子さえ分からない。アーチャーに遠くから視てもらった限りでは、お寺の住職さんに変わったところは見られなかったらしいけど、そのかわりサーヴァントらしい姿もなかった。まるっきり分からないことだらけなんだよ、あそこは。だから、こっちから動いてみようと思う」

「それで攻めるんじゃなくて、遊びに行くっていうのは、なかなか未央らしいね」

「まあね。いつ来られてもいいように、アーチャーには離れたところから狙撃体勢を取ってもらうし、セイバーにも同行してもらえれば、もう文句はないよ。……ていうか、しまむーはともかくとしてさ、セイバーからそんな言葉が出るとは思わなかったんだけど」

「ん。なんのこと?」

 セイバーさんは全く見当がついていないみたいです。仕方なく、耳打ちで教えます。

「未央ちゃんらしい、って言ってたことです」

「……ああ。それか。うん確かに、私が言うよりも、一年の付き合いがある卯月が言った方がしっくりくるね」

「じゃあなんでさ。しまむーと同じで、私たち、どっかで会ってた?」

「さあ。でも未央くらいなら、三日で足りると思わない?」

「おうコラどういうことだセイバー」

「やっぱり二人は仲よしですね」

「うん。前から思ってたけど、しまむーの価値観はたまにすごくずれてる気がする。天然か、これがナチュラルボーン天然っ娘なのか」

 天然と天然で意味がダブってるよ。というセイバーさんのツッコミとも言えない指摘が刺さりました。ちょうどその時、

「お待たせしました~」

 ゆるふわな空気をまとった藍子ちゃんが、ドアを開けて現れました。快適さを重視していたラフな部屋着の時と違って、全体的に明るい色を取り入れた一足か二足春を先取りするような服装。カーディガンの上にストールも巻いていて、たとえ少し雪がぱらついたとしても問題なく暖かそうです。

 そして、トレードマークのお団子頭。その下、明るく笑う顔には、赤ぶち眼鏡がかけられています。

 

 赤ぶち眼鏡、が、かけられていたのです。

 

「どうでしょう。伊達メガネをかけたのは初めてなんですけど、似合っていますか?」

 少し顔を俯けて、両手で眼鏡を押し上げる藍子ちゃん。その下にある上目遣いの瞳を見ていると、なんだか不思議な気持ちになってきます。

「……なんでしょう、セイバーさん。今わたし、何かに目覚めてしまいそうです」

「奇遇だね。私もだよ、卯月」

「新都で、眼鏡屋さんに寄りませんか? しいて理由はありませんが、セイバーさんに眼鏡をかけたい気分です」

「奇遇だね。私もだよ、卯月」

 その後何を言っても、セイバーさんからそれ以外の言葉は返ってきませんでした。そんなセイバーさんが元に戻ったのは、わたしたちのそばで同じように、眼鏡美人藍子ちゃんを見ていた未央ちゃんが、

「ちょっと! 顔洗ってくる!!」

 と大きな声を上げて出て行った時です。

「? どうしたんでしょう。私ちょっと見てきます」

 未央ちゃんの後を追って廊下に出ようとする藍子ちゃんを、正気に戻ったセイバーさんが止めました。

「二人はここにいて。私も花を摘んで来るから、そのついでに見てくるよ」

 そう言ってリビングを出ていく背中を見送った後、わたしたちはそろって顔を見合わせて、そして同じように首を傾けていました。

 

 

Interlude

 

「話には聞いていたけど、藍子にまさかあれほどまで眼鏡が似合うとはね」

 本田未央の借家。豪華なベルベット生地の絨毯が敷かれた廊下の、壁の一つにむかってセイバーは呟く(つぶやく)

「ねえ。未央はそうは思わない?」

「本当、どこかで会ったっけ? セイバー」

 そこに体育座りをしていた未央がとっさに返した。

「その話はもういいでしょ。それで、メガネ藍子の感想は?」

「くぁわいいに決まってんでしょうが。なにアレ、あーちゃんのゆるふわオーラに眼鏡って、しかも赤ぶち。ウランにプルトニウム混ぜるようなもんじゃん! 考えた人軽率に天才的な発想をよくもしてくれたね本当にありがとう!! 日本一、いや世界一カワイイ眼鏡かけ器かもしんない、マジで」

「オーケー未央、ステイ」

 予想通りのベクトルで予想の斜め上すぎる回答をする未央に、セイバーは待ったをかけた。

 セイバーの記憶の中でも未央と藍子の仲は良好そのものだった。互いが互いを尊重し合い、互いが互いの良い所を見つめ合っている。長い道のりを並んで歩くのに、これほど適した関係の二人というのもなかなか珍しい。

 ただそれゆえに、お互いを大事に思いすぎているがゆえに、二人の仲はなかなか進展しない。

 それにじれったさを感じたことだってあるし、相談されるたびにやきもきさせられたことも、もはや十や二十では効かない

 そしてそれが、実は自分の知らない頃からだったというのだから、ヘタレと罵倒するべきか、あるいは鋼の理性を讃えるべきなのか。セイバーにはどうすればいいのか分からなくなる。

 つい、溜息をついてしまった。

「なにさ」

 と悪態をつかれる。

「なにも」

 と返した。

 ふと思う。どうして記憶の中で、未央が藍子のことを相談する相手として自分をよく選んでいた割合が多いのか。同じユニットにいたからか、同じように同性の相手を思っていたからか、それとも単に気が合ったからなのか、あるいはただの消去法か。全部だと言われればそういう気もしてくる。ただ何となく、それ以外の可能性もある気がしてくる。

 そもそも、この思考にすら意味があるのか。それさえも分からないのだから、きっとこれ以上考えたって、まともな答えは出ないはずだろうが。

 セイバーは思考をそこで閉じて、これまで何度も彼女に言ってきた言葉を、目の前の未央に初めて聞かせた。

「それで、なんでそれを本人に言ってあげないのさ」

「言えるわけないじゃん。恥ずかしいし」

「またそんなこと言う」

「——————それに、さ」

 てっきり、これが一度目だと指摘されるかと思っていた。けれど今日の未央の釈明には、続きがあった。これまで聞いたことの無かったそれを、セイバーは黙って聞いてみる。

「あーちゃんはきれいなんだよ」

「なにそれ、のろけ?」

「違うよ、いや違わないかな? なんていうか、容姿としての話じゃないんだ。もちろんそっちでもあーちゃんはきれいだけどさ」

 やっぱりのろけじゃないか。いい加減卯月のところに帰りたくなったが、未央の言い方が少し引っかかる。もう少しだけ聞いていこうと、セイバーは未央の正面に座り込んだ。

「セイバーはさ、あーちゃんの写真、見たことある?」

 答え方の難しい質問だ。けれど、ここで嘘をつく意味もない。正直に答える。

「あるよ」

「そっか。それで、どう思った?」

 素直な気持ちを返そうとして、それを言葉にしたとき、未央が何を言いたいのかがおおよそ分かってしまった。

「きれいだった」

「そうなんだよ。あーちゃんの写真は、あーちゃんの見ている世界は、すっごく、きれいなんだよ」

「…………それが、未央が藍子に思いを伝えないのと、どう関係があるの」

「分かっていることを聞くなんて底意地の悪いことしないでよ、セイバー。私は、魔術師なんだ。魔術は他人を平気で食い物にする汚い術だよ。そんなのを、あーちゃんのレンズに映すなんて、そんな馬鹿なこと、私にはできないよ」

「……」

 知らなかった。セイバーは未央が魔術師であったことをつい三日前に知ったばかりだ。けれど、三日もあれば十分ではなかったのか。未央が藍子に対して抱いているためらいと、魔術との間に何らかの関係があるのだと。そう気づくのに、三日はあまりにも長すぎたはずだ。

 天井を見上げる。日本の一般家庭に育ったセイバーにとって、洋風木組みのそれはなじみが薄い。実家の花屋の天井とも違う。ファミレスの安っぽいそれとも違う。未央とともに汗を流した、レッスンルームの白天井にだって、面影すら重ならない。

「(私は、何も知らなかったんだな)」

 それも当然のことだとセイバーは思う。ただ少し、受け入れにくいだけで。

「あーちゃんは魔術に関わるべきじゃない。家に入れてるのだって、本当は計算外のことなんだよ。……セイバー、サーヴァントに言ってもしょうがないことだとは思うけどさ、私は聖杯戦争が終わったら、冬木を出ていくよ」

「未央……」

「安心してよ。時間はかかるだろうけど、後片付けはちゃんとしていくからさ。立つ鳥跡を濁さず。あーちゃんとしまむーの記憶からも、きっちりいなくなるから。だからこの聖杯戦争が終われば、二人が魔術に関わることはもう二度とない。そうすれば、セイバーがいなくなってもしまむーは普通の人生を送れるし、何よりあーちゃんだって、普通に幸せになれる。それが、私のもう一つの幸せだからさ」

「——————未央は!」

 それでもいいのか。とは言えなかった。立ち上がった未央が自分を見る、その目を見てしまったから。

 今の未央は、アイドルじゃない。そして今のセイバーも人間じゃなかった。

 よそのマスターとよそのサーヴァント。本来分かり合う必要のない間柄、ここまで知れたことが、既に越権。

「あーちゃんの幸せに、本田未央(魔術)はいらないんだよ」

 そう言い残してリビングに戻っていく未央に、セイバーは何も返せなかった。

 

 

Interlude out




高垣&上条「「藍子ちゃんがお相子/メガネをかけると聞いて!」」

P「ステイ、ステイ! お願いだからシリアス壊さないで!!」


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5/SUN FLOWER(1)

うづりん&みおあいダブルデート編。前編
みおあいパートです。
おまけでFateというか、型月から数名出してます。


「あ、あった。みんな、ここです」

 深山町からバスに乗って新都にたどり着くころには、お昼の十二時少し前で、一度どこかで何か食べてから遊ぶことにしようということでまとまりました。

 それじゃあ、どこに食べに行こう。となった時に、一番に手を上げた藍子ちゃんが指定したのが。

「アーネンエルベ?」

 ツタの絡まったおしゃれなレンガ壁。スズランらしき花をかたどったネームプレートには、『AHNENERBE』とあります。

「英語? では、なさそうですね」

「ドイツ語みたいですよ、卯月ちゃん。この前雑誌の取材で来たんですけど、すっごく美味しくて。雑誌が発売される前に一度は行っておこうかなって」

「へえ。そんなに。あーちゃんが言うのなら間違いはないだろうね。……にしてもアーネンエルベか。どこかで聞いたような」

「気にしてもしょうがないよ。早く入ろ」

 からんからんとドアベルが鳴り、みんな入り終わったところで、ツインテールのウェイトレスさんが出迎えてくれました。

「いらっしゃいませ、アーネンエルベにようこそ。……あれ、藍子ちゃん?」

「久しぶりです、千鍵ちゃん。また来ちゃいました」

「いいよいいよ。どうせずっとヒマなんだからさ。そっちは友達?」

 藍子ちゃんが「チカギちゃん」と呼んだウェイトレスさんが、肩越しにこちらを覗きます。

「はい。こっちから、未央ちゃん、卯月ちゃん、それにセイバーさんです」

「へえ。セイバーかあ。珍しい名前だけど、外国ではそういうの流行ってんのか?」

「千鍵ちゃん?」

「ああ、こっちの話。お友達さんたち、何もない店だけどゆっくりしていってよ」

 そう言って、彼女は奥の方。一段床の上がったテーブル席へと案内してくれました。壁と壁の間から、カウンター席が見えます。そこでは先ほどのチカギちゃんが、明るい髪色の女の子と楽しそうにおしゃべりしています。

「あーちゃん。さっきの子は?」

「ここのアルバイトの、桂木千鍵ちゃんですよ。取材の時にいろいろお話して仲良くなったの」

「ふーん」

 席に着いた未央ちゃんはカウンターの方を見ていました。ダークブラウンのフローリングを渡って、千鍵ちゃんがお冷を出してくれました。そのまま注文を聞くようです。メモとボールペンを取り出して「ご注文は?」と尋ねました。

「私はこの、三重結界のサンドイッチっていうのを」

 とセイバーさん。

「螺旋マンションのハンバーグをお願いします」

 これがわたしで。

「じゃあ私は……、……こ、根源に至るパスタ!? ……を一つ」

 と未央ちゃんが戸惑い混じりに。

「私は前と同じ、黒魔術の鳩見立てチキンカレーをお願いします」

 最後に藍子ちゃんが頼んで。

「サンドイッチにハンバーグ、パスタとチキンカレー、っと。オッケー、ひびきに伝えてくる」

 それをまとめた千鍵ちゃんが厨房へと戻っていきました。

 彼女の背中を追って向けた視線の先、カウンター席に座っていた眼鏡のシスター服を着た人と目が合いました。その人はわたしの向かいに座っていた藍子ちゃんを見つけ、親指を立てて何かの合図を送っています。すかさず同じ合図を返しているところからすると、あの人も藍子ちゃんの知り合いなのでしょうか。

「藍子ちゃん、あの人は?」

「ああ、このお店の常連さんらしいです。お名前は確か、カリー・ド・マルシェさん、だったような。ここのカレーが大好物みたいで。私に、メニューに載っていない裏メニューがあると教えてくれたのも、あの人なんですよ。私が頼んだチキンカレーも、あの人に教えてもらった裏メニューの一つです」

「そ、そうなんですか」

「カリー・ド・マルシェ。一体何者なの?」

 そんな風に雑談をしているうちにも、千鍵ちゃんが一つ、また一つと料理を持ってきてくれます。

 初めにわたしのハンバーグとセイバーさんのサンドイッチ。次に来たパスタに未央ちゃんが「良かった、普通のパスタだ」と安堵のため息をもらしていました。そしてそう時間がかからないうちに、藍子ちゃんのチキンカレーも届きます。

 領収書を置いて行った千鍵ちゃんを見送ってから、ハンバーグにナイフを入れます。

「うわぁ! すごい肉汁です!」

「うん。サンドイッチも野菜がシャキシャキしてておいしい」

「そうだね。料理名を見たときはどんなゲテモノかと思ったけど、ちゃんと普通のパスタで、それでいておいしくできてるよ!」

「ふふ。気に入ってもらえたみたいで何よりです」

 そう言いながら藍子ちゃんも、自分のチキンカレーを口に入れたとたん、頬を抑えて笑顔になっていました。

「名前は店長さんの趣味らしいですけど、平日の夕方からと土曜のこの時間は、もう一人のアルバイトの子、日比野ひびきちゃんが作ってるんです。その子の料理は、素朴ですけど温かくて、なんだか懐かしい味がするんですよ」

「じゃあ藍子ちゃんにとって、チキンカレーはその懐かしい味なんですね」

「そうですね……。こうしてまた食べに来ているって言うことは、多分、そうなのかも」

 また一口、藍子ちゃんはチキンカレーを掬い取りました。それを舌の上で転がしながら、今度は、何かを思い出しているようでした。

「それなら」

 と一拍おいてから。

「未央ちゃん、いいですか?」

「うん、ぜんぜん問題ないよ」

 食事の間の話題として、一つの昔話をしてくれました。

 

 

「もうすぐ一年がたつころの話です。卯月ちゃんとも、それから未央ちゃんとさえも、まだ知り合っていなかったころでした。アイドルになりたてだった私は、その大変さに慣れずに、倒れてしまうことがよくあったんです」

 わたしが藍子ちゃんと友達になったのは、去年の三月です。未央ちゃんの家にたびたび訪れていた彼女を、外は寒いからと招き入れたのが初めてだった気がします。本田邸のことをまるっきり知らなかったわたしですから、本当はどこまで彼女を案内できていたのか怪しいですが。藍子ちゃんが未央ちゃんの面倒を見るようになったのは、たしかそれからだったはずです。

 なので、これから藍子ちゃんが話すことは、わたしがまるっきり知らない話なのでしょう。

「私は、一人でも多くの皆さんに、元気や優しさ、笑顔を分け与えられる。そんなアイドルになりたいんです。それは今も昔も変わっていません。ですが、初めのうちは誰だってそうだとは分かっていましたが、なかなか私のステージを見てくれる方は少なくて。あの頃の私は、どうすれば人を笑顔に、元気にできるんだろうって、そればっかり考えていました」

 その悩みには共感できる気がしました。ですが、たぶんですけれど、藍子ちゃんの悩みとわたしのそれとは、また深いところで違っている気がします。いったんこの気持ちを胸の奥にしまって、彼女の話に耳を傾けることにしました。

「遅くまで、撮影のお仕事が長引いてしまった日のことでした。バスから降りて、マウント深山で買い物してから帰っていた時に、人通りの少ない通りで倒れてしまったんです。足に力が入らなくって、意識もはっきりしなくって、ただアスファルトの冷たさだけは、今でも覚えてます。家まで送ると言ってくれたプロデューサーさんの申し出を断ったことを後悔しましたし、なんとなくですけど、このまま死んじゃうのかなってことも考えてました。

 ——————そんな私に声をかけてくれた人がいたんです」

「……ねえ藍子。それただの不審者なんじゃ」

 セイバーさんの正直な言葉に、藍子ちゃんは微苦笑していました。

「ふふ、そうだったかもですね。けど、その時は大丈夫だったみたいです。だってその人は、私のことを心配してくれて。その人の家まで背負って運んでくれたんですから」

「やっぱり誘拐だよ。それ」

「違うよ! 周りに誰もいなかったし、助けを呼んでも誰も答えてくれないし、ケータイ電池切れてたから救急車も呼べないしついでに病院は新都だしで、ホント大変だったんだって!! だからとりあえず、近くの自分ちに運んだの!」

「え! その変態さんって未央ちゃんのことだったんですか!?」

「だからしまむー、変態ちがう!」

「卯月、どうしよう。私たち、とんでもないオオカミの家に泊まることになってたみたい」

「セイバーもいちいち誤解を招くような表現やめて!」

「ちょっと、店の中であんまり騒がないでもらえるか?」

「すいませんでした」

 お冷の代えを持ってきた千鍵ちゃんにたしなめられ、未央ちゃんは席に座りなおしました。

「それで藍子。その後未央はどうしたの? 美味しく食べられちゃった?」

「い、いえ! そんな! そんなことはありませんでしたよ! ……たぶん」

「あーちゃん、お願いだからそこはしっかり最後まで否定して。私の株が暴落していってる気がするから……」

「えと、私も記憶がはっきりしなくて。ごめんなさい、未央ちゃん。でもね、未央ちゃんの背中、温かくてすごく安心できたの。だからたぶん、危ないことはないんだろうなって。そう思ってたのは、ちゃんと覚えてるの」

 思い出の一つ一つを目を細めて話す藍子ちゃん。会話の合間合間に食べている料理も、そろそろ底が見えてきました。

「意識がはっきりした時、私は室内の二人掛けソファーに寝かされていました。そこがどこなのかは、その時は分からなくて、たぶん背負ってくれた人、つまりは未央ちゃんの家なんだろうことは分かっていたんですけど。半端に冷静だったせいで誘拐されたのかなって、半分パニックになりかけて、あわてて電話を手に取ったんです。鞄は足元に置かれてましたし」

「うん。いまさら気づいたけど、あーちゃんのケータイ借りて救急車呼べばよかったって思うよ」

「そうですね。電話するだけなら、別にロックを解除する必要もないですから」

 「だよね」と頭を抱える未央ちゃん。

「でも、そういう変におっちょこちょいなところ、かわいくて私はいいと思いますよ。一生懸命、私を助けようとしてくれてたんだよね、未央ちゃん」

「あーちゃん……」

「ふふふ。つづけますね。電話を取り出して、ひとまず家の方に連絡を取ろうと思ったその時、リビングのドアが開いて、未央ちゃんが入って来たんです。私を軽く背負っていたみたいだったので、てっきり男の人なのかなと思ってたんですけど、実際には私と同い年くらいの、あとで本当に同い年だと分かったんですけど、それくらい小さな女の子で。私、なんだか拍子抜けしちゃって。それでまだ何も食べていないのを思い出したら、おなかが鳴っちゃって。

『昨日のあまりで良かったら』。

 そう言って未央ちゃんが出してくれたのが、チキンカレーでした」

 藍子ちゃんは思い出を重ねるような目で、実際に目の前にあるカレーをいとおしそうに見つめていました。

「それは、特に変わった味はしていなかったように思います。鶏肉を使っているのが独特と言えばそうでしたけど、それ以外はうちで食べている物とそう変わらない。安心できる味で、ついお代わりをお願いしちゃいました。そうしたら未央ちゃん、お皿を受け取らずに、何がおかしかったのか笑ったんです。その後のことは、今でも一言一句覚えています。

『人のお家でおかわりする子がそんなにおかしいですか』ってすこし怒り気味に言ったら、未央ちゃんは首を振って。

『ああ、ごめんごめん。なんかすっかり元気になったんだなって安心しちゃってさ。うん、ほんとうに良かった』って。

 本当に、それこそ倒れた本人である私よりも、私の無事が嬉しそうで。それがおかしくて。つられて、私も笑っちゃったんです。私、その時に思いました。誰かを笑顔にするって、きっとこういうことなんだろうなって」

「そんなことが」

「はい。誰かのことで喜べて、そうやって喜んでくれた誰かの笑顔で、また別の人が笑顔になる。情けは人の為ならずってよく言いますけど、きっと笑顔にだって、同じことが言えるはずなんです。それを私に教えてくれたのは、未央ちゃん、あなただったんですよ」

「…………」

 未央ちゃんは黙り込んでいました。そっぽを向いてお冷を飲んでいます。どんな顔をしているのかは分かりませんが、耳が真っ赤に染まっているのは見えていました。

「その後、家に連絡して迎えに来てもらいました。家族ともども未央ちゃんにお礼をして、その日は家に帰ったんです。ですけど私、恩返しがしたくて、次の日に未央ちゃんの家にもう一度お邪魔したんです。お茶くらいならと上げてくれて、その時に、ご両親が長く家を空けていてほとんど一人暮らしだったり、同じ学校の同じクラスで、しかも朝にあんまり強くないことも知って。居ても立っても居られずにお手伝いを申し込んだんです」

「……当然、その日は断ったよ。家族と一緒にプロデューサーさんらしい人もお礼に来てたから、気になって調べたらアイドルだって分かって驚いてたしね」

 すこし赤みの引いた顔で、未央ちゃんが答えました。

「はい。だけどやっぱり諦めきれなくて、一週間くらい、朝の登校時間にお邪魔したんです」

「……藍子、たまにだけど、すごい行動力を発揮するよね」

「そうですね。藍子ちゃんは時々とってもアグレッシブです。……ですが、どうしてセイバーさんがそれを?」

「ごめん卯月、何でもない。……それで、未央はどのくらい持ったの?」

「ちょうど一週間ですよ。卯月ちゃんに入れてもらわなかったら、もう少しかかってたかもしれません。それでもたぶん、かかって一カ月だったと思います」

「藍子、強い。それよりも未央が押しに弱すぎるのかな」

「言わないでセイバー。自分でもまだ答えが出てないんだから」

 未央ちゃんが一人で答えを出そうとしている限り、きっと永遠に迷宮入りし続けるだろうことは明らかでした。

「ていうかさ、恩返しっていうのなら、もう十分返してもらってるよ。一宿一飯どころか、ただ夕食の残りをあげただけなんだから」

 その言葉に、藍子ちゃんは急に席を立って反論しました。

「いえ、そんな! 私、これからもずっと未央ちゃんに返し続けます! だって、今私が笑えているのは、未央ちゃんがいてくれているからなんですからね!」

「……いたから、じゃなくて? 昔は違ったかもだけど、今ではあーちゃん、立派にアイドルしてるじゃん。私以外にも、あーちゃんを支えてくれる人はいっぱいいるはずだよ」

「それでもですよ! ひまわりは、太陽がいるから咲いていられるんです!!」

「あ、あーちゃん? ……それって、つまり」

 遠回しにプロポーズらしい言葉が飛び出しました。カレーのスパイスがなせる神秘だったのでしょうか。普段恥ずかしがって言えないことを、藍子ちゃんは口にしていました。

 けれど、三日前に未央ちゃんが言っていたように、奇跡や神秘の類は長続きしないものなのです。自分が言っていたことに気づいたようで、風船がしぼむように、藍子ちゃんは椅子に深く腰を沈めます。その顔は熟れたトマトのようでした。

「…………な、なんでもないのぉ~」

「よしよし。よく頑張りましたよ藍子ちゃん」

「もう少しでしたね、高森さん」

「「え?」」

「では私はこれで。千鍵さん、お勘定おねがいします」

「カリー・ド・マルシェ、本当に何者なの?」

 その後、ほんの少し残った昼食を平らげ、全員でアーネンエルベを出ました。手元の時計は午後二時を指しています。思ったよりも長くあそこにいたみたいです。

「さて、午後からはなにを……おう?」

 最後にアーネンエルベから出た藍子ちゃんが、未央ちゃんの袖を引っ張っていました。

「……未央ちゃん」

「な、なななななにかな!?」

「私、ずっと見ていますから、なので………………」

 その先を、藍子ちゃんは言葉にできませんでした。未央ちゃんの袖を解放して、いつもと変わらない表情で。

「……さ、みなさん行きましょうか。午後はヴェルデでお買い物しましょう」

 と一足先に歩いていきました。わたしとセイバーさんもその後ろに続きます。ただ一人、未央ちゃんだけが歩いていませんでした。立ち止まり、声をかけます。

「未央ちゃん?」

「ああ、しまむー。ごめん、今行くよ」

「あの、大丈夫ですか?」

「なにが? それよりも早く行こうよ。二人に置いて行かれるよ」

 こうやって話題を反らす未央ちゃんに、わたしがはっきりと物を言えたことは、この一年ありませんでした。今回もその例に漏れず、先に行っている三人に追いつくだけで精いっぱいで、きっとすぐに忘れてしまうのだろうと思います。

 ですが、この時わたしは、確かに見ていたんです。

 幸せな時間、幸せな言葉。未央ちゃんに与えられたものは、どれも温かだったのに。どうして、その時に見た未央ちゃんの顔は、ひどく悲し気に見えたのでしょう。

 



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6/Never say never(1)

作者の花知識はにわかです。図書館の本を流し読みした程度なので、たぶん贈り物ならもっと他にいいものがあったんじゃないかと。
この後の展開にも関わってくるので、ただ花言葉だけで選んだわけではないんですよ?
本当に、違いますからね。


 ただ、気になっただけなんです。

 ヴェルデは新都にある一番大きなショッピングモールです。ここに来れば大抵のものはそろうという売り文句の通りに、食料品店に電化製品、メガネやお洋服、アクセサリーなんかのお店に加えて、カフェもあり、その広さと多彩さは国内で見ても珍しいそうです。

 そんなヴェルデですから、一人ですべてのお店を回ろうだなんてすれば一日ではすみません。四人でまとまって動いていては、全員の要望をこの時間から叶えることは不可能なんです。

 そのため話し合いの席がもたれた結果、二人一組ずつに分かれて行動することになりました。

 わたしと組むことになったセイバーさんは、未央ちゃんと藍子ちゃんを見送ったあと一番に聞いてきました。

「卯月はどこか行きたいところある? どこにでも付き合うよ」

 整った顔立ちに、透き通りながらもすこしだけ低い声。そんな王子様みたいな調子で言われたものですから、聞き返すことなんてわたしには思いつけなくて、少しだけ熱い頬を隠すために、前から行ってみたいと思っていたお店を二、三件ほど考えなしに回ってしまいました。その全てにセイバーさんは、いやな顔一つせずについて来てくれて、その上で。

「ねえ、これ卯月によく似合うと思うんだけど。着てみてよ」

 なんて言って試着室に引っ張っては、着替えた私を思い出すのも恥ずかしくなるくらいにべた褒めするんです。ええ、目の前にいるのが女の子だということは分かっています。分かってますけど、ちょっと恥ずかしすぎですよ。

 なら今度はわたしの番だと思って聞いたんです。次はセイバーさんの行きたいところに行きましょう。どこにでも連れて行ってあげますよ。とお姉さんっぽく言ってみたんです。そうしたら。

「なら卯月が楽しめるところに行こう。私が見たいのは、卯月の楽しそうな笑顔だから」

 これですよ。

 本当に勘弁してほしいです。これ以上真っ赤になって、セイバーさんのことをちゃんと見れなくなったら、どう責任とってくれるんですか。

 けど、それでもわたし、頑張りました。頑張って頑張って、ようやくセイバーさんの口から犬が好きだと教えてもらったんです。

 二人でペットショップに行きました。ガラスの向こうでトレーナーさんに待ったをされているワンちゃんに、先日と同じくセイバーさんが重なってしまって、少し笑ってしまいました。その笑顔をどう思ったのか、セイバーさんは今度はお花屋さんに立ち寄って。少し待っていてほしいと言ったんです。

 犬みたい、なんて思ったのがばれたのかな。まあ別にかまいませんが。自分でも少しふてくされていたのが分かりました。そんな私に、お会計を済ませたセイバーさんはかけよってきて。

「はい、これ、ナズナの花。卯月にあげる。そんなに目立つものでもないし、部屋の窓際にでもかざって」

「は、はい。でも、えっと」

 湯だった頭が、本来なら覚えているはずのないことまで思い出してしまいました。

 たしかナズナの花言葉って、『あなたにすべてを捧げます』って意味だったような。言いかける私の唇を人差し指で軽く押さえて。

「目立たないけど、今の私の気持ちだから。大切にしてくれると嬉しいな」

 なんて言いながら、さっきまで唇に触れていたその手で、私の腕を引っ張っていくのでした。

 

 

 ええ、だから。これは単純に気になっただけなんです。それ以上の意味なんて、これっぽちもありません。あるわけ、ありませんから。

 あのあと連れてこられたス〇バの席に座って、砂糖も何も入れていないキリマンジャロを平然とすするセイバーさん。ちなみにわたしは甘いカプチーノです。なぜか負けた気がします。けれどこんなことでセイバーさんに勝つのも、なんだか違うと思ったので、ひとまず彼女がキリマンジャロを飲み終わってから、わたしはしっかりとした覚悟を持って口を開きました。

「セイバーさんは、わたしを妊娠させたいんですか?」

 中身が空になっているのを確認してから言って、本当に良かったと思います。だって、わたしの言葉を聞いたセイバーさんは、まるで時間が止まってしまったみたいに固まって、その手からカップを床に落としてしまったのですから。

 ……いや、それにしても、それにしてもです。何かを間違えた気がします。思わず妊娠なんて言葉を口走ってしまいましたけど、もっと適切な言葉があったような。

「………………えっと。卯月、何か信じられないようなことを聞いてしまった気がするんだけど。もしかしたら私の聞き違いかもしれないし、うん。良ければ、もう一回言ってくれない?」

 どうやら言い直す機会が与えられたようです。では、改めて。

「セイバーさんは、わたしをおとしたいんですか?」

「ぐふっ……」

 なぜか、セイバーさんの方が落ちました。物理的に、椅子の上から。心臓でも貫かれたみたいに胸を押さえて倒れています。『ランサーの槍でもこうはいかなかったのになあ』なんてよくわからないうわ言をつぶやいています。

 周りの人たちまで驚いて、かけよった店員さんが大丈夫ですかと問いかけてます。危うく救急車を呼ばれるところでしたが、その前にセイバーさんが立ち上がってくれて助かりました。

 戻り際の店員さんにコーヒーをもう一杯、今度はエスプレッソで同じく砂糖とミルクなしを頼み。少し時間が経ってから到着したそれを一口ちびるように飲んでから、やっと落ち着いたみたいで。それまで明後日や明々後日の方を向いていた視線が、こっちに戻ってきました。

「だ、大丈夫ですか?」

「…………うん。大丈夫。もう問題ない」

「そう、ですか。それならいいんですけど」

 しまむー、恐ろしい娘。みたいな未央ちゃんの声が聞こえた気がしました。けれど、相手にせず、今は話の続きを急ぎます。なぜなら、そう、とても気になっていたので。

「ごめんなさい。わたし、わけのわからないことを言ってしまったみたいで」

「いいよ。卯月の言葉なら、だいたいのことは嬉しいし」

 ですからさっきから息をするように口説き文句を口にするのは止めてくださいよ。今度はわたしの心臓が破裂するじゃないですか。復讐ですか。やられたらやり返す、倍返しですか。倍返しどころじゃありませんよ、もう。

 一つ深呼吸をして、改めて聞きたかったことを聞きました。

「セイバーさん。どうしてあなたはわたしに、こんなにも優しくしてくれるんですか?」

「あれ、言わなかったっけ?」

「たぶん、ですけど。はい。理由らしきことは聞いていません。出会った夜もランサーやバーサーカーから守ってくれて、三日前、未央ちゃんちの階段から落ちそうになった時も、それに、今日だって」

「特別なことをしていたつもりはなかったんだけど」

「ううん、特別じゃなくなんてない。だってずっとセイバーさんは、わたしのためって、ずっと言っていたじゃないですか」

「うん、そう。それが理由」

「へ?」

 唐突な返しにうまく反応できず、変な声が出ていました。

「もっと言うとね、本当は卯月の笑顔を守りたいんだよ、私。卯月の笑顔が大事なの。卯月の笑顔があったから、私は今の私でいられる。だから、私は卯月の自然な笑顔が大好きだよ。大好きなものを守るのは、とうぜんでしょ? それが、私の戦う理由。だからね、私は特別なことなんて、何もしていないよ」

 その顔はさも当たり前のことを言っているみたいに、いつも通りの優しい彼女の顔でした。その顔を、誰よりも信じたいと思った彼女の、その表情を、どうしてかわたしは信じられなくて、信じるわけにはいかなくて。

「でも、それは特別です。セイバーさんがそう思っていなくても、わたしにとっては、とっても特別なことです。だって、わたしは」

 わたしには、何も——————。

 そう言いかけた私の唇に、セイバーさんはまた指を当てて、言いかけた言葉を許しませんでした。

「卯月は特別な子だよ。それは未央が、藍子が、そして私がよく知ってる。だから、そんな悲しいこと言わないで」

 そんなことを言うセイバーさんの方が、よっぽど悲しそうな顔をしていたように思います。

「卯月が悲しい思いをしないように、なんて約束は、この私にはできない。人間生きていれば、絶対に辛い思いをしなきゃいけない時だってあるから。でも私は、卯月には笑っていてほしい。だから、卯月。あなたが望むのなら、この私は何でもやる。卯月に叶えたい願いがあるのなら、私は卯月のために聖杯を手に入れる。それまで、卯月を守る。それが私の戦う理由だから」

 真剣なまなざしで答えるセイバーさんに、わたしはもう何も言えませんでした。彼女の決意は岩のように固いもので、わたしが何を言ったところで揺るがないだろうと思ったからです。言って無意味なことを言うほど、わたしも頭が悪いわけではありませんから。

 そう決めて、すっかり冷めてしまったカプチーノに口をつけた時でした。鞄に入れていた携帯が震えていました。着信音は電話が来ていると訴えていて、慌てて手に取って画面を表示すると、送り主は未央ちゃんでした。

「すこし電話してきます」

 セイバーさんに一言断りを入れて、席を立ってトイレに駆け込んでから、ようやく電話を取れました。

「はい。もしもし」

『ごめん、しまむー。お邪魔じゃなかった?』

「いえ、全然そんなことはありませんでしたよ」

 未央ちゃんから見えていないのを良いことに、少し自嘲しました。対する未央ちゃんの声はなんだか落ち込んだ様子で、いつもの元気オーラが少し陰っているようでした。

「そっちはどうでしたか? アーネンエルベでのことがあったんです。藍子ちゃんと、手をつなぐくらいはできましたか?」

『うぐ。耳が痛いことを聞くね、しまむー。……あーちゃんはもう帰ったよ。仕事が入ったみたい。ところで、そんなことを聞く余裕があるっていることは、今日の本当の目的も、ちゃんと覚えているんだよね』

 本当の目的。えっと、それはたしか。

「キャスターとアサシンをおびき出すこと、でしたよね」

『うん、正解。良かったよ、ちゃんと覚えていてくれて。で、結果からいうと作戦は失敗。キャスターの陣営に動きはなかった』

「そうですか」

『ただ』

 そう一言つけくわえて。

『今朝の時点でとっくに消えていたみたいだから、初めから失敗も成功もなかったみたいなんだけど、ね』

 そんなことを言われてようやく、私は気づきました。こういうふうに未央ちゃんの元気が陰るのは、何か大きな失敗をしていた時か、もしくは思い違いをして、他の人に迷惑をかけてしまったと、未央ちゃん自身が思っていた時だけなのだと。



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7/転調

キャスター陣営は今回一番の不憫枠です。本当に申し訳ない。

必須タグさんたちがこの辺りから急に仕事し始めるので、あらかじめご了承のほどお願いします。まあ、百合タグは初めからちゃんと働いてましたが。


 本当は、昼頃から様子がおかしいと思っていたらしいです。

「日に三度、午前零時、八時、十六時の八時間間隔で使い魔を送っていたんだ。今朝も言ったけど、これまでその全てが切り捨てられて、帰ってくることはなかった。なのにさっき、八時に放った分が帰ってきた」

 バス停の前で待っていた未央ちゃんは、バスが来るまでの間に説明します。

「零時に送った分は帰ってこずに、八時に送った分は帰ってきた。どちらもうちから送ったもので、柳堂寺に着くまでにかかる時間は二、三十分。つまり零時二十分の間から八時三十分のあいだに、何かが起きていたことになる」

「何が、起きていたんですか?」

「……アーチャー、頼める?」

『諒解しました』

 人目に付くのを避けるため、アーチャーさんは霊体化しているそうです。そのため念話と言う手段で、語り掛けてきています。頭に直接響くように聞こえてくるので、少し酔いそうです。

『八時の使い魔が帰ってきたのは午後二時ごろ、丁度皆さんが昼食を食べ終わり、ヴェルデで別れた直後のようですね。無論、アイコ殿と一緒にいるミオの下に向かっては混乱が生じます。よって一時的に、私の方へ戻るようになっていました。使い魔には伝書用の機能しか積んでいません。ミオとは感覚を一部共有しているので、どのように潰されたかは特定できますが、何を見たのかまでは機能として与えていませんでした。そこでミオの指示の下、私が直接行くことになったのです』

 バスが到着しました。三人で乗り込みます。アーチャーさんもついて来ているみたいですが、まあ追加で払うこともないと思います。

 全員が開いている席に座れたのを見計らって、アーチャーさんは現場の様子を表現しました。

『異様でした。魔術の痕跡が、いっさい見受けられなかった』

「アーチャー、それは」

『ええ、セイバー。それは本来おかしなことです。仮にもキャスターの拠点、主が失われていようと、少なくとも残り香くらいはするものです。それが、初めからなかったように、柳堂寺の空気は一般的な寺社仏閣のそれと何ら変わらなかった』

 そうであるにも関わらず、とアーチャーさんは先を続けます。

『境内のいたるところに人が倒れていました』

「その人たちは……」

「今向かってる病院に搬送されたよ。全員外傷はなかったけど、意識不明で倒れてる。さ、次で降りよう」

 冬木市にあるもっとも大きな病院、聖堂病院前のバス停で降りて、慌てて建物の入り口へと駆け込みます。

「しまむー、ちょっと止まって」

 自動ドアの目前。未央ちゃんの制止にわたしたち二人は立ち止まりました。その間に未央ちゃんは何やら難しげな言葉をほんの少しつぶやいたかと思うと、

「もう大丈夫、行こう」

 何事も無かったように自動ドアをくぐっていました。その後ろにわたしたちも続きます。

「あれ? 未央ちゃん、受付は?」

「今は急いでるからね。顔パスできるよう簡単な暗示をかけてる。一、二時間で効果が切れるから手短に行こう」

 本当に便利だと感心しました。三日前、彼女の事情を聞いていなければ、うかつにも声に出してしまいそうです。

 寝かされている病室についても調べがついていたみたいです。エレベーターで三階へと上がって、その迷いのない足取りのままで一つの部屋を訪ねました。入る前に利用者名を確認、ここに寝かされているのは『柳堂一成』と言う方だそうです。

「こちらの住職と呼ばれる方たちは、ずいぶんと規則正しい生活を送っていると聞きます。時間帯からして全員床に伏せっていたか、あるいは起き抜けか。いずれにしても、隙の大きいタイミングを狙われたことになりますね」

 部屋のドアを閉めたと同時に、霊体化していたアーチャーさんが実体化しました。

「それからまだ、目覚めていないってこと?」

 とセイバーさんが問いかけます。

「はい。ですが、彼だけではない。柳堂寺にいたすべての人間が、こちらの方と同じように全員気を失ったまま、今もこの病院の他の部屋で保護されています」

 ベットの上で目を閉じ、まさに死んだように柳堂一成さんは眠っています。備え付けの心電図は心臓がゆっくりとではあるものの、動いていることを示していますが。その電子音が、今にも止まってしまうんじゃないか。そんな想像が頭をよぎります。

 それ以上見ていられなくて、横に立っている未央ちゃんの顔を覗き見ました。

「…………まさか、ね……」

「未央ちゃん? 今」

「……そろそろ出よう。話の続きは、帰りながら」

 行きと同じようにエレベーターを使い一階に降りて、誰とも顔を合わせることなく病院を出ました。

 十といくつかのビルを後ろに置き去りにすると、冬樹大橋が見えてきます。橋を渡り始めたころで、再び霊体化していたアーチャーさんから話の続きが語られました。

『先ほど、柳堂寺の空気は正常そのものだったといいましたね。ですが、二か所、山門の前と柳堂寺の端、石庭を望む渡り廊下、その二つには血の匂いが残っていました。現代科学におけるルミノール溶液、それと同様の効果を発揮する魔術薬で調べてみたところ、この二か所の床一面に、かなり大きな血痕があったことが分かります』

「住職さんたちに目立った外傷もなくて、それ以外、柳堂寺におかしなところはなかった。たぶんその血は、キャスターとアサシンの物で間違いないと思う」

 まるで狐に化かされたような話です。キャスターたちをおびき出すために自分たちを囮にしようと決めていた時には既に、この世界のどこにもいなかっただなんて。

「一体、誰が……」

 そんな至極当然の疑問に誰も答えられず、黒い川面をわたしたちは眺めていました。

 

 

Interlude 2月4日(土) 午前1時過ぎ

 

 卯月達が柳堂寺の異変に気付くその半日ほど前、柳堂時に来客があった。それを迎え撃つは山門を守るアサシンのサーヴァント。真名、佐々木小次郎。

 彼と境内の奥で陣を構えるキャスターは、時を同じくしてこの柳堂寺に召喚された。マスターは見当たらない。けれど確かに、どこかからのパスによって、十分な量の魔力が供給されている。その謎を解くのに、キャスターが要した時間は二十分に満たない。

 すなわち、キャスターとアサシンは二騎揃って、大聖杯の眠る円蔵山、その真上に位置する柳堂寺そのものの土地を依り代(マスター)として召喚されていた。

 キャスターは知っていた。この冬木で召喚される聖杯が、持ち主の願いを叶えるなんていう生易しい幻想ではないことを。アレは、自分たちサーヴァントの魂を燃料にして『この世全ての悪(アンリ・マユ)』への孔をあけるだけの、失敗作の術式であることを。

 それはこの二騎に、聖杯戦争の勝ち負けが何の意味も持たないことを示していた。負ければ燃料、勝っても最後に自害を命じられて燃料。なら、その前に術式の本体を見つけて、この聖杯戦争自体を自分の宝具で解体する。それがキャスターに残された、最後の希望だった。

 御三家が施した隠蔽を破りに破ることすでに四日。

 急ぐことはない、前回の聖杯戦争は終了まで十日以上を要していた。すでに八割が完了している。十分すぎるほどに間に合う。この調子なら、明日にでも。

 そのようなことを考えながら、勝手に借りている柳堂寺の客間の一室で体を休ませていた時だった。

 

 山門を守っていたはずの、アサシンの気配が消えたのである。

 

 すぐに魔術師としての自分に戻る。寺中に仕掛けた自分の防衛術式も次々と潰されている。

「(いえ、この感じ、潰されているというよりは、食われている?)」

 自分で用意した術式ゆえに、場所の把握は容易い。先回りして、不届き者の顔を正面から見据えられるように、進路上の廊下に立つ。曲がりなりにもここはキャスターの陣地内、外はともかくこの中でなら、キャスターは無敵だと自負していた。

「何よ、アレ」

 その自信が一瞬だけ揺らいだ。来客がキャスターを仕留めるのに、それは十分すぎる隙だったらしい。

 瞬きなんてしていない。魔術の発動に必要な詠唱も、何も聞こえなかった。なのに、いつの間にかそれは、自分の背後に立っていた。

「……ッア、が」

 首を容赦なく握りつぶされる。神代の魔術を操るキャスターと言えど、その高速神言を発する喉を潰されては、魔術の発動はままならない。床に伏せる。その段階になってようやく気付いた。来客の歩いてきた廊下、その道中、点々と人が倒れている。

 見たところでは外傷はない。けれど、中身は比べ物にならぬほど酷い有様になっているだろう。

「(これもどうせ、私のせいになるのでしょうね。だって私は、魔女、ですもの)」

「……タリ、ナイ」

「…………え、…………?」

 来客の発した、うめきにも似た声。それに返す自分の声もひどくかすれていて、思わず自嘲しそうになる。

「タリナイ」

 もっとも。顔を動かす暇さえ与えられなかったのだが。

 心臓をえぐり取られた。

 サーヴァントは心臓を潰された程度では、すぐには死ねない。致命傷にはなるが、それでもすぐに消えられるわけじゃない。

 未だ働く視覚が、来客が自分の心臓を丸のみにするのを知覚した。

「タリナイ、タリナイ、タリナイ、タリナイ」

 次にハラワタをすべて抜き取られて、片端から同様に食われた。

「タリナイ、タリナイ、タリナイ、タリナイ、タリナイ、タリナイ」

 それでも不十分だったらしい。今度は四肢をもがれた。それでもまだ死ねず、脳に来客の声が響く。

「タリナイ、タリナイ、タリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイタリナイ。モット、アツメナイト。コノママジャ、ダメ」

「…………な、にが」

 その先を聞く前に、頭から飲まれた。

 

Interlude out

 

 

Interlude 2月5日(日) 早朝

 

「よし。朝ごはんの準備完了! セイバー。しまむー起こしてきて」

 未央の借家。珍しく早くに起きていた未央は、四人分のスクランブルエッグとウィンナーを皿に乗せるかたわら、ダイニングでお茶を飲んでいたセイバーに声をかけた。

「分かってる。それと未央、藍子は」

「大丈夫。連絡貰ってる。今日も用事が入ったみたい」

 昨晩、アイドルの仕事に出かけた藍子は、夕飯を作りに戻らずそのまま自宅に帰ったらしい。少なくとも、セイバーは未央からそう聞いていた。

 それ以上のことは、どう聞かれても答えない。セイバーもそれ以上聞く気はなかった。ただ一言。

「メールの一つくらい、送っときなよ」

「……うん。そうしとくよ」

 それだけ言って、セイバーはダイニングを後にした。

 未央はセイバーの方を見ていなかった。ボウルからサラダを人数分に分けていたからだ。とりあえず、そのせいにした。

「よろしいのですか、ミオ。セイバーは貴女を案じていたようですが」

 全員分の茶器を用意していたアーチャーが主人に声をかけた。

「いいんだ。セイバーだって、いろいろと精一杯みたいだからさ。それに、バーサーカーさえ倒せば敵同士になる。そのときにやりにくくする方が面倒だよ」

「それもそうですが」

 未央の言い分には理がある。けれど、未央が理屈でモノを語るとき、それは大概、理屈によらない何かを抱えているときだと、アーチャーはこの数日で見抜いていた。

 それは、果たしてこの場で暴くべきことなのか。状況によるだろう。そして、昨日の病院での未央の反応、アレは何か思うところがあったことを示している。

 未央の抱えるものと、聖杯戦争に何か関係がある。その可能性があるのなら。

 早めに問いただしておくべきだろうとアーチャーは判断した。

「ミオ。悩みがあるのならば聞きましょう」

「アーチャー……でも、これは」

「サーヴァントの耳に入れるにはふさわしくない。そう考えていますね?」

「なっ…………! どうして」

「教師の観察眼を甘く見ない方がいい。生徒の考えていることならば、半分は知っているものです」

 まあ、未央が建前としてマスターの理屈を持ち出したのだから、本音はその逆、マスターの理屈に合わないことだろうと、当たりをつけただけなのだが。何も知らない未央にとっては魔術以上の奇蹟に見えたことだろう。

 未央自身がいつも、当たり前にしていることにも関わらず。 

「本当に、私はとんでもないサーヴァントを引き当てちゃったんだなぁ」

「ええ。そして、その私を十全に運用できているあなたも、立派なマスターです。その上で、最低限の礼儀を持って接してくれている。及第点には十分すぎると私は判断します。ですので、少しくらいの減点であれば、赤点をつけたりはしませんよ」

「……なんか、うまく乗せられている気がするんだけど」

 笑ってごまかすアーチャー。けれど、どれも本心からの言葉なので心は全く痛まなかった。

 一つ、息をついて、未央は吐き出すように言った。

「私、魔術師向いてないんだなって、改めて思っちゃって」

「そうですね。私も同様に考えています」

「……ずいぶんあっさり即答してくれるね」

「ええ。この手の生徒を受け持つのも、初めてではありませんので」

「? アーチャーの生徒、魔術師なんていたっけ?」

「さあ、どうでしょうね。もう顔も思い出せませんから、おそらく生前のことではないのでしょう」

「…………私とは別の、アーチャーのマスター」

 英霊はあらゆる時代に呼び出される。なら、未央と同じ悩みを持った魔術師と召喚先で出会っていたとしても、不思議ではない。

「ええ。惜しむらくは、彼女を最後の教え子とする約束を守れなかったことでしょうか」

「アーチャー」

「ですが、私はサーヴァントである前に、教師です。その在り方に誇りを抱いているし、迷える若者がいるのなら、教え導きたいという業も受け入れている。同様に、ミオ、貴女も魔術師としての道を選択したはず。そこに向き不向きは、関係ないのでは?」

「うん。だけど……」

 思ったよりも、これは根の深い問題なのかもしれない。言い淀む未央を前に、アーチャーは考えを改める。今日はここまでだろう。機が熟せば、あるいは何度でも、選択の機会があるかもしれない。

 なぜなら、未央はまだ若いのだから。それでいて、幼いわけではないのだから。だからその時が来たら、きっと正しい道を選べるだろう。

「選んだ道が間違いだったと気づくことは、よくあることです。引き返すことも、また全く別のスタート地点に立つことも、時には必要でしょう。進路変更の際は、どうか早めの相談をお願いします、マスター」

「そうするよ。ありがとう、アーチャー」

「いえ、教師として、当たり前のことを言ったまでです」

「だろうね。さ、そろそろ朝食にしようか。せっかくアーチャーの分まで作ったのに、冷めちゃったら」

 どばたん、と派手な音を立てて、ダイニングのドアが押し開けられた。

 そこにはセイバーが立っていた。

「卯月が……」

「しまむーが?」

 険しい顔を崩さずに、セイバーは言う。

 

「卯月が、攫われた」

 

 

Interlude out




サーヴァントのステータスが更新されました
(読み飛ばし可)

・キャスター/メディア
 ・紫のローブで顔を隠した妖しげな女性。ライダーとキャラが微妙にかぶっているとか言ってはいけない。
 ・——————のため、アサシンともども寺の土地を依り代に召喚される。二度も自分たちを弄ぶ御三家の業に憤るも、聖杯そのものともいえる円蔵山に召喚されてしまった以上、どうにもならないと半ば諦めながらも、聖杯戦争解体のため術式を探していた。
 ・中立・悪・地
 ・ステータス
  筋力E 耐久D 敏捷C 魔力A+ 幸運B 宝具C
 ・宝具
  ・破戒すべき全ての符(ルール・ブレイカー) C 対魔術宝具
 ・スキル
  ・陣地作成A
  ・道具作成A
  ・高速神言A
  ・金羊の皮EX


・アサシン/佐々木小次郎
 ・身の丈を越える長刀を振るう風雅な雰囲気の侍。寺を訪れた■■■■に三分の二燕返しを繰り出すも躱され、霊核を食われる。
 ・中立・悪・人
 ・ステータス
  筋力C 耐久E 敏捷A+ 魔力E 幸運E 宝具ー
 ・宝具
  ・なし
 ・スキル
  ・燕返し
  ・心眼(偽)A
  ・透化B+
  ・宗和の心得B 


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8/再演

今回の聖杯戦争、それから、彼女の敵について。


 まさか一週間の短いうちに、知らない天井の下で二度も目覚めることになるなんて、思いもしませんでしたよ。

 未央ちゃんの家の物と比べても、また一段と豪華な天蓋付きのベットに寝かされているみたいです。なので正確には、今見ている物は天井ではないのでしょう。

 ふかふかの寝心地、もっと眠っていたいところですが、今がそれどころではないのだということは分かっていました。分かっていたので、もぞもぞと毛布の下から両腕を出して、頬を一叩き。また眠気が襲ってくる前に、床に足をつけました。

「良かった。服は昨日のままみたい」

 昨晩、話があると聞いていたので、最低限動ける服装に着替えていました。しわが気になりますが、今は無視して辺りを見渡します。

 そこは、昔話に出てくるような、きらびやかな一室でした。先ほどのベット、暖炉といった大きなものから、ドアノブなんかの細かな部分まで、様々な装飾で彩られています。同様に施された西洋窓の外を覗くと、そこには黒々とした森が広がっていました。何者も寄せ付けない重たい空気をまとった霧のその奥に、小さく家々の屋根が見えます。

 住宅街、深山町の奥にある樹海、そのまた奥にあるもの。

「でも、それは確か……」

「そう。もう十年以上も前に原因不明の山火事で燃えて、今は廃墟になっているはずの建物。ここはそのお城で間違いないよ」

 ぎいいと古めかしい音を立てて、白いドアが開きました。そこにはわたしをここに連れてきた張本人、イリヤちゃんが立っていました。

「ちゃんと眠れた? 催眠術が効かなかったから、ちょっと荒っぽい方法を使っちゃったけど」

 

 

 昨晩のことです。借りている客間の一室で、寝る準備を整えていたわたしのスマホに、知らない番号から電話がかかってきました。初めに、間違い電話の可能性を考えました。その場合相手にしっかりと伝えないといけません。受け取りボタンを押そうとして、その前に、イタズラ電話の可能性に気づきました。

「ど、どうしよう」

 普段なら、こうして考えている間に切れています。ですが、今回ばかりは着信音は鳴りやまず、このままだと隣の部屋で寝ているセイバーさんを起こしてしまうかもしれません。

「(いっそ、セイバーさんに相談しようかな。その時には、切れているかもしれないし)」

 夜風の吹き込む窓辺に寄り掛かって考えます。けれどなかなかいい案は思いつかず、その間にも着信音は鳴りやみません。

「やっぱり、セイバーさんに」

 とようやく決心がついて、その前に窓を閉めていこうとした時でした。

 窓の外、お向かいさんとの間の道路に、夜闇の中でも目立つ銀色の髪を見つけました。これまで出会った中で、その色の髪を持つ人は一人だけ。

「イリヤ、ちゃん……?」

 ほとんど呟く程度の大きさのそれが聞こえていたのか、イリヤちゃんはこっちに気づいて右手を振ってきました。そのもう一方、左手の先には何か白い四角形の物が握られていて、それをイリヤちゃんは耳にあてていました。

 もしかしてと思います。改めてスマホの受け取りボタンを押して、受話口からの音に耳を澄ませます。

「……もしもし」

『おっそーい!!』

 耳がキーンとなりました。すぐ近くでベルをめいいっぱいに鳴らされた気分です。くらくらする頭を何とか落ち着かせてから、もう一度スマホを耳元に戻します。

『さっきから鳴らしてたのに、どうして出ないの!?』

「ああ、ごめんなさいイリヤちゃん。知らない番号だったから、戸惑ってしまって」

 ふーん。とイリヤちゃんはご機嫌斜めな声を出していました。

「それで、こんな夜遅くにどうしたんですか?」

 と、そこまで聞いて、大変なことを忘れていたのだと気づきます。

『バーサーカーならいないよ』

「……そんなに分かりやすかったですか?」

『あれだけしつこく窓の外を見渡してたら、嫌でも分かる』

 それもそうだと思いました。

『お話がしたいの。ちょっと出てきてくれないかしら?』

「分かりました。着替えていくので少し待っていてください」

 深い考えもなしに頷いて通話を切りました。話をすると言われましたが、それがどれだけの話なのかを聞きそびれていました。

「(すぐそこで少しだけ話して終わりなら、上着を羽織っておしまいだけど)」

 ですが、長くなる可能性もあります。その場合近くの公園まで歩いて話はそこで、となるかもしれません。なら、散歩ができるくらいの服装がいいでしょう。

 結局着ていたパジャマを脱いで、重くならない程度のパンツルックにコートを羽織っていくことにしました。

「(それと一応、これも持って行っておこうかな)」

 鏡台の脇、そこに飾っていたセイバーさんからもらったナズナの花を一輪、花瓶から取り出します。

『ナズナは冬でも葉を広げる強い生命力があって、そこから魔除けなんかの意味で、北陸の方では武士の家紋なんかにも使われたりしていたらしいよ。純粋に栄養価も高いから、春の七草って意味でも病魔を退けていた実績があるしね。それ、私の魔力を通してあるから。とりあえずこの聖杯戦争が終わるまでは枯れないし、ちゃんと魔除けとしても働くから、出歩くときは持っておいて』

 電子レンジさえあれば、すぐ押し花にして持ち運べるようにするんだけど。そう言って未央ちゃんの方を見ていたセイバーさんの横顔を思い出しました。

『しょうがないじゃんか。家具備えつけって聞いてたのに置いてなかったんだから。文句なら前にここで暮らしてたらしい遠坂の現当主に言ってよ』

『なら買いにいこうよ』

『え、嫌だよ。魔術で事足りるし』

『……それでよく魔術が汚いとか言えたね』

 茎の先から水分を拭き取って、コートの内ポケットに挿し入れました。

 客間を出て廊下を渡り階段を下ります。それからまた長い廊下を抜けて、ようやく玄関から出たと思えば、向かいの道路までお庭が広がっていて、改めて屋敷の広さを実感します。

 先日未央ちゃんに聞いた『来るもの拒み、出るもの逃がさず』という、この家にもともと張られていた結界のことを改めて実感します。なぜ今まで気づかなかったのか不思議なくらいです。これを知られたくなくて、未央ちゃんはわたしに暗示をかけていたのでしょうか。

 それから、当然気づいていたはずの藍子ちゃんは、これをどう感じていたのでしょう。

 想像もつきません。ですが少なくとも、わたしがこの結界に向ける印象をさほど未央ちゃんに重ねていないように、藍子ちゃんもそのはずだと。きっとそうであったらいいのにと思います。

「さて、とりあえず敷地からは出ましたが、どこで話すんでしょう」

「大丈夫。いまから連れて行くから」

 驚いて、振り返る間もなく口元に布を押し当てられました。不思議な香りが鼻の奥を脳まで通り抜けて、意識が白く染まっていきます。体に力が入らず、きっと倒れているはずなのに地面の冷たさを感じません。

「おやすみ。お姉ちゃん」

 

 

 それが、昨晩の記憶の最後でした。

「それじゃあお話、しよっか」

 ドアを開けて、そのまま部屋にあったテーブルにイリヤちゃんは腰かけました。

「その前にいろいろ聞いておきたいんですけど」

 確認の意味を込めて言ったそれに、イリヤちゃんは頷きます。許可も得たので、一つ一つ訪ねていくことにしました。

「どうしてわたしを攫ったりなんかしたんですか?」

「さらってないもん。ちゃんと連れて行くって言った」

「あれ間違いなく睡眠薬だったような気がするんですが……」

「だってしょうがないじゃない。本当は催眠術使うつもりだったのにきれいに弾かれちゃって、どうしたらいいのか分からなくなっちゃったんだから」

 だからって睡眠薬を使う必要はないような。そもそも、催眠術で誘拐という発想が初めからある時点で怖いのですが。

「なら、どうしてわたしをここに連れて来たんですか? 話すだけなら、近所の公園でもできたはずですけど」

「それなら答えられるよ。ミオに聞かせたくなかったの」

「未央ちゃんに? それはどうして」

 その疑問にイリヤちゃんは、

「それはまだ内緒」

 と言って答えてくれません。

「とにかく、それ以外に質問はない? ないなら、早く本題に入りたいんだけど」

 当然、聞きたいことはまだまだたくさんありました。けれど、イリヤちゃんはどこか焦っているように見えます。

 話を急ぐ理由が何かあるのでしょうか。ならここは、一通り話を聞いてから質問をするべきだと思います。

 口の中の疑念を一度飲み込んで胸の内に残しつつ、首を縦に振りました。

「ありがとう、ウヅキ。それじゃあ始めるね。まず、ウヅキは前の聖杯戦争がどんなだったか、知ってる?」

「前の? 聖杯戦争はこれが初めてじゃないんですか!?」

「ああ、そこからなんだ。そうだよ。一番昔の第一次聖杯戦争がいまから二百年前、まあこの時には戦争なんてするつもりなくて、『聖杯戦争』っていう言葉もなかったんだけど」

「聖杯戦争が、聖杯戦争じゃなかった?」

「その辺りは省くわ。それから数十年間隔で繰り返されてすでに五回。その間に聖杯が本当の意味で使われたことは、一度もないの」

「じゃあ、聖杯戦争は」

「ええ、六度目(・・・)よ。さしずめ今回のこれが、第六次聖杯戦争ってところ——————」

 

「——————だったら、どんなに良かったんでしょうね」

 

 憮然と吐き捨てられたイリヤちゃんの声音には、隠しきれない怒気が含まれていました。

「違うんですか?」

「ちがうわ。そうじゃなくちゃ、私がここにいるはずないもん。

 私ね、前の聖杯戦争で他のサーヴァントに殺されてるの。その最後の瞬間だって覚えてる。それに、教会の神父、言峰綺礼だってキャスターに殺されてた。私たちは呼び戻された、いえ再現されてしまったのよ。この第五次聖杯戦争によく似た何かをひらいた、聖杯の中にある『この世全ての悪(アンリマユ)』に」

「聖杯の中に、あるもの…………」

「アレについて話すのはイヤだから、あとでミオのアーチャーにでも聞いておいて。とりあえず、人の業が生み出した最悪の呪い、くらいの理解で十分よ。それの意志が、今回の聖杯戦争を起こした。たりない役者をそろえて、それでもたりない分は外部からおぎなって、そろったらサーヴァントを呼び出して、殺し合わせる。

 殺されたサーヴァントの魂は聖杯に送られて、聖杯戦争が終わるまで一時的に貯蔵されるの。純度の高いサーヴァントの魂は聖杯によってエネルギーに変換される。それをアレは集めている」

 何のために、という問いがわたしの口から出るのが分かっていたのでしょう。声にならない声が形になる前に、イリヤちゃんは答えていました。

「生まれるためよ。この世界にいる人間、その全てを呪う宝具を持った最悪のサーヴァントとして受肉するのが、アレの目的」

 呪うのではなくて、ただ単純に生まれていることだけを望んでいると、イリヤちゃんは繰り返しました。けれど、そこにさしたる違いがあるとはわたしには思えません。

 この世のすべてを呪える存在。海も山も越えて、国の壁すらもないように、ただ人を不幸にしていくだけの何か。それは、——————まるで、わたしの夢(アイドル)とは正反対の存在であるように聞こえます。そんなものが生まれようとしてる。

「…………それを止めたくて、わたしと話がしたかったんですか?」

「ええ。私は聖杯に心臓を握られているようなものだから、私じゃ聖杯、アレを止めることはできない。だけどもし、聖杯の息が私たちほどかかっていない、通常のマスターか、そのサーヴァントの手で破壊出来たら。そうしたら、とりあえず今回はしのげる。それでいいの。今回さえしのげば、第四次の時にキリツ……セイバーのマスターが仕掛けた術式が起動して、聖杯の術式を『この世全ての悪』ごと破戒できる」

「なら、なおさらです。どうして未央ちゃんじゃなくて、わたしにその話をしたんですか?」

 その方が、成功する可能性は高いはずです。マスターとしての力量も、魔術師としての覚悟も、アーチャーさんに教えてもらうまで魔術のまの字も知らかったわたしなんかより、ずっと未央ちゃんの方が上です。協力者として選ぶなら、絶対に、未央ちゃんの方が頼れるはずです。

 なのに、イリヤちゃんは首を横に振って。

「ダメよ。他の聖杯ならどうかは分からないけど、今回の聖杯だけは、ミオには殺せない」

「そんな、……どうし」

 それ以上の会話は許されませんでした。警報なんかで遮られたわけではありません。ただ、怒りを噛みしめることはあってもそれ以上歪むことの無かったイリヤちゃんの表情が、何か信じられないものを感知したように恐怖と驚きに染まっていたのを見て、これ以上話している場合ではないのだと直感しただけです。

「…………そう。たった数日で、そこまで成っていたのね」

「イリヤちゃん!」

 立ち上がり、彼女の手を取ります。

「城から脱出するわ!」

 彼女を抱えて、ドアを押し開けます。幸運にもそこは廊下でした。未央ちゃんの家のものと比べても劣ることの無い、それどころか向こうの方が劣って見えるほどの長さです。ですが、廊下である以上は出口につながっているはずです。

 けれどどうやら、この選択は誤りだったようです。

「バカ! 向こうは正面玄関から入って来たんだよ!? 逃げるのに、こっちから向かっていってどうするのよ!」

「す、すみません!」

 走りながらの会話でした。さっきまでいた部屋はすでに廊下の向こうに消えています。戻った場合の方が時間がかかりそうです。

「そこ! 左の部屋! 外側に面したベランダがあるから、そこから出る!」

「分かりました!」

 急ブレーキをかけて、指定された部屋のドアの前でイリヤちゃんを下ろします。

解錠(Entsperren)。ウヅキ! 早く!」

「はい!」

 イリヤちゃんに続いて部屋へと入ります。後はこの部屋のベランダから——————

 

「何、ですか。……あれ」

 

 ドアを閉める直前、カメラの三脚のような何かが、廊下の奥に立っているのが見えました。

 五日前のあの日、ランサーを見たときと同じ、ですが、根本で絶対にそれとは違うと確信できる、まったく別の感覚を覚えました。見られただけで殺されると直感したあの時と違って、今はただ、殺意だけしか伝わってきません。

 死ね、と、それは自分を見ているわたしに、ただそれだけしか言ってこない。

 あんなモノをわたしは知りません。知らないはず、なんです。なのに、どうして、この世のナニモノにも似つかないそれを。わたしはどうして、見慣れているだなんて、思ってしまったのでしょう。

 どうして、よく見知っている何かに例えることができたんでしょう。

「———一番から五番(Erster bis fünfter,)同時突撃(gleichzeitig angreifen)!!」

 イリヤちゃんの魔術でしょうか。白い糸でできた剣が五本、一斉にあの黒い何かに飛んでいきます。目で追えないそれらが、確実に突き刺さったと思える直前です。その瞬間に、剣は全部まとめてあの影と一緒に消えました。

「え、きえ」

「ウヅキ! 早くドアを閉めて!!」

 言われるがままに閉めます。ですが、何かを挟んでしまったように最後まで閉まりません。

 一体何が。

「——————いやぁぁぁぁぁあ!」

 腕でした。一瞬人のモノに見えましたが、それは違うはずです。それは薄い布のような形をしていて、風もないのに蠢いています。

 恐怖でドアノブを離してしまいます。

「触らないでね。もしそうなったら、さっきの魔術剣と同じように消えちゃうから」

 言われなくてもでした。自分からアレに捕まろうとするだなんて、死んでも嫌だと言えます。

「行こう、ウヅキ。ひとまず、ミオのところまで逃げよ」

 へたり込んでしまったわたしに、イリヤちゃんは手を差し伸べます。その姿にセイバーさんが重なりました。本当に一瞬だけでした。まだ一日しか経っていません。なのに、一刻も早くセイバーさんに会いたいと心の底から思います。

 そのためには、アレから逃げなくてはいけません。恐怖を抱えながら逃げる理由としてそれ以上何も要りませんでした。

 イリヤちゃんの手に頼らず、立ち上がって、ベランダに出ました。後ろから嫌な音が聞こえてきます。その音を打ち消すように、

「バーサーカーー!!!」

 イリヤちゃんが、自分のサーヴァントの名を呼びます。最初からまるでそこにいたように、巌の巨人は膝を折って、わたしたちを同じ目線の高さで見つめていました。その瞳に、あの夜のような狂暴さはなく、静かにイリヤちゃんの言葉を待っていました。

「ここからはバーサーカーにのっていこ」

 先に肩に座っていたイリヤちゃん。その手を取って、その大きな肩にのせて貰いました。あの日ただ怖かっただけのそれが、どこか頼もしく思えます。

「ウヅキ、私の手をしっかり握っていてね。行って、バーサーカー!」

「■■■■ーーー!!!!!」

 雄たけびを上げ、バーサーカーは猛然と跳躍します。黒い森へと落ちていく。強い力で上にとり残されそうになる私を、イリヤちゃんの手が強くバーサーカーの方へと引き寄せています。おかげで、無事に着地まで耐えきれました。

 ですが、今度はこの森を抜けていかなくてはいけません。速さが優先される状況です。なら、当然バーサーカーでの移動は続くのでしょう。

「……あの、魔術って、瞬間移動とかは」

 移動しながら尋ねました。

「できないよ。そこまで行くとほとんど魔法だもん。私の令呪でバーサーカーを飛ばせば、つかまってる私たちごと飛べるかもしれないけど、ただものすごい速さで動いてるだけだから。ただの人間でしかない卯月は風圧でぺちゃんこだよ。それでもやる?」

「や、止めときます」

 そう言って遠慮する一方で、イリヤちゃんの言っていたことが頭の片隅に引っかかっていました。

 今イリヤちゃんは、瞬間移動はできない、と言いました。いえ、厳密には、それをするためには魔法のような技術がいるのでしたか。

 魔術と魔法の違いは、アーチャーさんから聞いていました。魔術が、現代技術で代用できる奇跡を行使するのに対して、魔法はその逆、現在の科学技術ではどうやっても届かない奇跡を起こすことらしいです。そのことと、イリヤちゃんが示した可能性を合わせて考えれば、瞬間移動が魔法一歩手前というのも頷けます。

 確かに純粋な瞬間移動をすることは不可能です。ですが、瞬間移動に限りなく近いほどの高速移動なら、令呪と言う魔術で代用できる。けれどその令呪だって、三回までしか使えない有限の奇跡です。

 改めて頭の中で繰り返します。瞬間移動はそう簡単に起こせる奇跡ではない。

 では、アレは何だったのか。

 よく分からないあの黒いモノがいたのは、廊下の相当奥の方だったと思います。実際目で追えない速度で飛んで行ったイリヤちゃんの魔術が着弾するまでにも、少なくとも、アレが消えてからドアを閉めるまで以上の時間がかかっていたのですから。

「(たぶんそれが、今感じている違和感の正体だ)」

 同じ距離を、目で追えない速さ以上の速度で動いていた。そう、それこそまるで——————

 ——————まるで、瞬間移動でもしていたみたいに。

「■■ーーーッ!」

「え、バーサーカー?」

 それが最後でした。引きはがされないよう必死にしがみついていたのに、わたしたち二人はずいぶんあっさりと、宙に放り投げだされたんです。空と地面と木々の黒とが何度も入れ替わって見えます。人間は飛べません、なら落ちているのだと思います。

「きゃあああああーーーー!!」

「口を閉じて! 舌を噛むわよ!」

 入れ替わりに見えていた空の中で、イリヤちゃんが自分の髪を数本ちぎっているのが見えました。次に視界に移った時にはそれがクモの巣のように地面へと伸びていって、地面にぶつかるはずだったわたしたちを受け止めていました。

 それから降りて、二人して森を進みます。

「バーサーカー! バーサーカー!」

 その間中、イリヤちゃんはずっとバーサーカーの名前を呼んでいました。彼女の案内で進んでいるので、きっと近づいているはずですが、それで不安が消えるわけではないみたいです。

 なおも呼び続けるイリヤちゃんと並んで、枝葉の間を抜けていきました。その内に広いところに出ました。ぽっかりと穴が開いたように草木が生えずに荒れた地面が表に出た、これ以上ない荒地。

 

 その中央で、まとわりつく触手を振り払えずに、最強の英雄(バーサーカー)が膝を屈していました。

 

「そんな、ストックも、もう残ってない」

 最初の夜、バーサーカーを最強たらしめていた不死の宝具。その十二の命が、目の前で尽きようとしていました。

「うそ。バーサーカー、バーサーカー!」

 イリヤちゃんはひどく狼狽えているように見えました。当然です。最強だと信頼していたサーヴァントが、わけのわからないモノに一方的に殺される。もしもそこに立っているのがセイバーさんだったら、想像するだけで、この場に倒れてしまいそうになります。

 けれど、この場にはわたしとイリヤちゃんしかいません。わたしたちは無事に、未央ちゃんの家にたどり着かなくてはいけないんです。

 ここでわたしが倒れては、イリヤちゃんを守れません。なら無理やりにでも引っ張って、逃げることを考えないと。

「イリヤちゃん」

 できるだけ優しく呼びかけました。

「いや」

 さし出した手を弾かれます。

「イリヤちゃん!」

 少し強めに名前を呼びます。

「いや!」

 同じように、強く拒絶されました。

「イリヤちゃん! 早く逃げないと!」

「いや!! いやよ。バーサーカーは誰にも負けない」

 そうして彼女は絞り出すように、その鈴の音を誰もに聞こえるくらいにかき鳴らして。

「バーサーカーは、世界で一番強いんだから!!!」

 自分のサーヴァントへ、最後の命令(わがまま)を叫びました。それが、意味通りに届いていたのかはわたしには分かりません。ですが確かに、もう二度と目覚めるはずのないバーサーカーは、荒野の真ん中で剣を手に立ち上がっていました。

 最後の力で拘束を破り捨て、バーサーカーは地面を蹴りつけます。その足元からもう一度バーサーカーを捕まえようと触手が迫りますが、それを紙一重で躱し続けて、またバーサーカーは荒地を踏みしめました。

「(何かを、探している?)」

 その動きは敵に自分の何もかもが敵わないことを、十分に理解した上でのものでした。自分からは攻めず、ただ敵の攻め手を見極め続ける。一歩でも間違いがあればすぐに終わってしまう。それは奇しくも、あの夜バーサーカーを相手にしていたセイバーさんと同じ状況。その無限にも等しく続くような長い時間、針の穴に糸を通す以上の精密さを要求される戦闘。それを、あの英雄は理性を奪われながらもやってのけている。

 まさしく、彼にしかできない十三番目の難行。神話がわたしのすぐ目の前で再現されていました。

 この神話をもってして、バーサーカーは一体何を探し求めているのでしょう。

 少し考えてみて、真っ先に思いついたのはアレの弱点でした。ですが、それがあるのかどうかすら、わたしには分かりません。そもそもアレが何なのかすらわたしは知らないのですから。

「イリヤちゃん。アレが、あの影のようなモノが何なのか、イリヤちゃんは知っていますか?」

 彼女はまっすぐに自分のサーヴァントの闘いを見守っていました。あまりの真剣さに聞こえていたのかすら怪しいです。けれど、その予想に反してイリヤちゃんはしっかりと聞いていたみたいです。

「ウヅキが言ったように影よ、アレは。『この世全ての悪』が依り代に自分のすがたを投射して映してできた、意味通りの影なの。まだ完全に受肉できていない『この世全ての悪』が、聖杯の外で動くために用意したんでしょうね」

 まさか無意識の内にしていた呼び方が、実際の意味でもあっていたとは思いませんでした。

「つまり、その依り代をどうにかできれば、あの影は消えるんですね?」

「ええ。『この世全ての悪』も元はサーヴァントだから、マスター(依り代)が必要なの。どこで手に入れたか知らないけど、マスターである以上は魔術師。サーヴァントの敵じゃない」

 なら、バーサーカーはマスターを探しているのでしょうか。その人を見つけて、おそらくは殺して、『この世全ての悪』を遠ざけるのがバーサーカーの目的。

 ……わたしはまだ、マスターを殺すことを覚悟できていません。目の前で死なれることもきっと嫌なはずです。

「イリヤちゃん。わたしたちの方でもマスターを探しませんか?」

 バーサーカーよりも先に見つければ、説得の道もあると思っての提案でした。それにイリヤちゃんは首を振ります。

「ううん。そんな必要ない。もう見つけたから」

 どこにと、聞くヒマもありませんでした。大きな音を立ててバーサーカーが止まりました。斧剣を握る右腕を弓のように引き絞って、ただ一点を睨みつけています。当然させまいと、影の触手が迫りますが、バーサーカーの動きの方が確実に早く動いていました。それはまるで本当に、あの夜の焼き直し。自分が斬られるよりも先に敵の心臓を射貫くアーチャーさんの射撃。あれ以上の剛さによって投げ放たれた斧剣は、弾丸のように飛んでいきます。

 それは寸分の狂いもなく、目標を射貫いていたようです。バーサーカーの周りに群がっていた影の触手が次々に消えていきます。

 それはつまり、マスターが一人わたしの手で見殺しになったことを意味します。

「……これで、良かったんでしょうか」

 殺さなければ、死んでいたのはこちらだった。これが戦争である以上、当たり前のことだと神父さんは言っていました。ですが、わたしは何の覚悟もなくその当たり前を見すごしてしまった。考えていた中で一番悪い結果でした。

 だから、できれば、万が一にでも。まだ生きていてほしい。

 そう思ってしまったのが間違いだったのでしょうか。

「——————■■■■■■■■■ーーーー!!!」

 バーサーカーが吠えました。もう終わったはずなのに、まだ終わっていないと森を駆けていきます。それに答えるように影がまた現れていて、バーサーカーの行方をふさいでいます。

 思わず、その行き先を見つめていました。

 『この世全ての悪』のマスターは、思ったよりも近くにいたみたいです。魔術も何も使わず、ただの普通の女の子でしかないわたしが、はっきり顔まで認識できるほどの、それだけの距離しか離れていない森の池。その中央でその人は、いえ、人だったはずの肉塊が蠢いていてました。

 まるで、生まれなおしているみたいだ、なんて。咄嗟に思いついたその表現が的を得ていたのだと気づくのに、そう時間はいりませんでした。

 肉塊は成長するように再生していました。やがて、ようやく人らしい面影が出てきたころ、その面影に、よく知っている人物が重なりだして。わたしは必死にそれを否定しようと、頭からその考えを飛ばしてしまおうと、何度も、

「違う。そんなはずない」

 何度も何度も、何度も、呪文のようにつぶやいていました。けれど、それで現実が実際に変わってしまうような魔術を、この場の誰も使えませんでした。

 なので、胸の奥で肯定と否定を交互に繰り返されるその想像は、目の前で着実に形を得ていって。

 そして、最後。ついに形を取り戻したソレ、彼女を見て、わたしはイリヤちゃんが言っていたことの本当の意味を理解しました。

 はい。アレは、あの子だけは確かに——————

 

 ——————絶対に、未央ちゃんには殺せません。

 

 




マテリアルが更新されました
(読み飛ばし可)

・再演された聖杯戦争について
 ・本編の十年ほど前に行われた第五次聖杯戦争の最後(UBWトゥルーエンドルート)、セイバーのサーヴァントの宝具により聖杯は破壊される。しかし、宝具で破壊できたのは表に出ていた三分の二だけ。地下に残った三分の一はまだ生きており、『この世全ての悪』も健在。そのままでも衛宮切嗣が施した術式により第五時終了の十年から二十年先、つまり本編の一年から二年後、早くて年内には完全に破壊されるはずだった。それに危機感を抱いた『この世全ての悪』が生まれ出る最後のチャンスとして実施したのが、今回の再演された聖杯戦争。
 ・本編開始の一年前。聖杯(の意志を乗っ取った『この世全ての悪』)はまず、儀式における重要度の高さから御三家を呼び出そうとする。死に体のマキリが真っ先にコレに応えマスターを用意。アインツベルンからの返答はなく、しかたなく廃墟になっていた城ごと孔からイリヤの魂を呼び戻して、地下に保管されていた予備のホムンクルスの肉体に憑依させた(この時点で予備のホムンクルスは、内外ともに『イリヤスフィール・フォン・アインツベルン』になっている)。遠坂は、現当主(遠坂凛)がこれを拒否。生きているため魂の呼び戻しもできず(そもそも聖杯の魔力でも負担が大きいので二度やるつもりもなかった)、外部からマスターを用意した。セイバーのマスターについても遠坂と同様の処理が行われた。前回の聖杯戦争にてアサシンのマスターとなっていたキャスタ―を、自分をマスターにしてアサシンともども召喚。キャスターのマスターは儀式上重要性が聖杯にとってほとんど無かったので呼ばなかった。最後に監督役の言峰を蘇生(第五次の折、燃えていたアインツベルン城から回収した肉体が残っており、それも聖杯によって生きながらえていた体だったため、蘇生にそれほど手間はかからなかった)。
 ・こうして2015年1月31日。七騎すべてのサーヴァントとマスターが揃い、第五次聖杯戦争が再演された。
 ・聖杯に呼びかけられたオリジナルの第五次聖杯戦争におけるアーチャーとセイバーのマスター、つまり遠坂凛と衛宮士郎は、これによって聖杯が再び起動しかかっていることを知り、ロード・エルメロイ二世とともに冬木を訪れた。しかし聖杯の意志により弾かれ、少なくとも聖杯戦争中は中に入れなくなる。忸怩たる思いで再演された聖杯戦争が終わるのを待つ中、二世は■■■■に連絡。自分たちの代わりに中の偵察を依頼し、(二世の予想とは裏腹に)これを面白半分で受理した■■は縁のあった■■■■■である■■■を護衛にして冬木の地に足を踏み入れた。
 ・ほとんど出来レースに近い形であり、『この世全ての悪』が顕現する可能性が極めて高いとして抑止力は人理焼却時に回収した■■■と渋谷凛の魂をサーヴァントとして派遣。この時、マスターとして参加していた島村卯月と本田未央が縁となっているため、二騎のサーヴァントそれぞれにマスターがつくことになった。前例(帝都ライダー)同様、抑止力の目的までは本人たちに伝わっておらず、基本的には他サーヴァントたちと変わらない。


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9/落陽

すこしネタバレです。
このお話は、最終的には圧倒的ハッピーエンドで終わります。


Interlude

 

 郊外。深山町の西側に広がるその森は、異様なまでに濃密な魔力で満たされていた。

「未央、本当にここなの?」

 頷く。寝室からいなくなっていた卯月を探してここまでやって来た。彼女と同じように部屋からなくなっていた、鏡台に飾られていたナズナの花。そこに込められたセイバーの魔力を丁寧にダウジングしてきたのだから、もうほとんど間違いない。

 考えていた中では柳堂寺の次に最悪のパターン。この森は第一次聖杯戦争の時にアインツベルンが買い取った私有地で、その奥には一カ月前に突如再出したアインツベルン城が建っている。なら、卯月をさらったのはアインツベルンのマスター、イリヤスフィール。取り戻すなら、少なくとも一度はあのバーサーカーとやり合うことになる。

「まだ準備も完全じゃないってのに……」

「いいえ、ミオ。どうにも様子がおかしい」

 そう言って、アーチャーが一歩、森と市道との境界線をまたぐ。

「待ってアーチャー。この森には結界が…………あれ?」

 聞いた話では、侵入者はすぐアインツベルン側に知らされることになっている上に、無許可で入れば城主からの攻撃を食らうとのことだった。けれど、先に入ったアーチャーには、見えていた限り何かが起きた様子がない。

「アーチャー、本当に無事?」

「ええ、一時的に対魔力スキルを切っていましたが、この通りです」

「未央、どういうこと?」

「あ、ええっと。これはつまり結界が作用していないか、もしくは術者が留守にしてるっかってことだよね」

「はい。ですが、ウヅキ殿の反応も、そしてバーサーカーの気配もしっかり感じとれる」

「なら消去法で、結界自体が壊れてるんじゃない?」

「ううん、セイバー。それはないよ。ここの結界は、城が復活していなかった一年前も問題なく機能していたんだから。一日二日で動かなくなったりなんてしないはずだよ」

「いずれにしろ、厄介な事態に陥っているのは間違いないようですね」

 アーチャーの総括にその場の全員が納得していた。そしてその厄介な事態に、卯月が巻き込まれている。ならもう、二人に立ち止まっている理由なんて無い。結界を無視して、三人は森の奥へと進んでいく。

「——————■■■■■■■■■ーーーー!!!」

 その咆哮が三人の耳に届いた。

「っ、バーサーカー!」

「二人とも! こっちです!」

 教え子の声が聞こえた先を敏感に感じ取り、アーチャーが先行する。その後ろをセイバーと、魔術で脚力を強化した未央が追う。

 左右に流れていく木々を幾度も置き去りにして、小さな丘を一つ越えた。その先に広がる荒地の端にバーサーカーの姿を見つけた。

「■■■■ーーーーーー!!」

 バーサーカーはその両腕で何かを殴り潰していた。一方でバーサーカーも無傷ではない。四肢のあちらこちらが腐りはて、朽ちかけたそれが再生する気配もない。もう、誰が見ても、バーサーカーは再起不能だった。

 ギリシャの大英雄が、自らの十二の命を投げうってまで為した破壊。それが意味を失うように再生していく。

 ただの肉塊。バーサーカーの体を貫く触手に触れるたび、それは形を取り戻した。腕が生え脚が生え、何かのおまけのように上半分が伸びて頭になる様は、子どもの粘土細工を連想させる。

 そこから細部を整えるように。触手が触れるたびに腕の先からは手が、指が。脚の先は平らになって、手先の半分ほどの長さしかない指が。頭部にはぽっかりと穴が開き、それを口として目鼻が揃っていった。

「…………あ、ああ」

 未央が、動揺を隠しきれずに声を上げた。形を得ていく肉塊とは反対に、失われていくバーサーカーの肉体を思ってではない。その肉塊が、その姿形が、あまりにも、知っている誰かに——————

 

 ————本田未央が誰よりも守りたかった女の子のそれに、瓜二つになっていってしまっていたから。

 

「あーちゃん、やっぱり、でも……!」

 取り戻した長い栗色の髪、その下の柔らかそうな人相も、傷一つない身体も、全て全て、高森藍子以外の何物でもなかった。

 触手は黒い薄布になって、彼女の柔肌を包む。栗色の髪は色を失くして白くなり、生気のない赤い瞳がどこかを捕らえた。動揺で動けないマスターに代わり、アーチャーはその視線を追う。

 バーサーカーのマスター、イリヤスフィールが未央と同じようにうずくまっている。それを、探していた少女、島村卯月が必死に引っ張っていた。

 二人の目と鼻の先、触手が迫っていた。

「卯月ーーー!!」

 セイバーが走る。十分に守り切れる速さだとアーチャーは判断した。あれなら、間に分け入って、剣で触手を弾き返せるだろうと。

「ダメです! セイバーさん!!」

 それも失敗に終わった。セイバーの体を襲う重圧。

「令呪……! 卯月、どうして!」 

 立ち止まるセイバーの目線の先で、イリヤをかばう卯月の背中に触手が深く突き刺さった。

「…………かはっ、……セ、イバー、さん」

「卯月! …………っ、手を!」

 触手は釣り糸のように卯月を池へと引きずっていく。その手を取ろうとするセイバーに、卯月は、

「ごめん、なさい。でも、最後に、あなたの顔を見れ、て」

「そんなこと言わないでよ! 待ってて、今すぐ助けるから、だから」

 すこしだけ、寂しそうな笑顔を向けた。

「…………さようなら、セイバーさん。……もう、一つだけ、令呪です。セイバーさん、イリヤちゃんを、連れて、逃げて、くだ、……さい」

「そんな、止めてよ! 卯月ーーーー!!!!」

 令呪に逆らえず、セイバーは気を失ったイリヤとともに戦場から消える。邪魔がなくなったのをいいことに、触手はより早く卯月を巻き上げる。

「あああああああああ!!」

 させまいとルーンを刻んだ石を未央は触手の根元、藍子の足元へと投げた。着弾、同時に爆発。けれど触手も、藍子の体さえも未央の魔術は傷つけられない。それは藍子だけには魔術を絶対に使わない。そう決めた未央が狂乱の末に放った一撃。それも、ただ藍子()に、未央とアーチャーの居場所を教えただけの悪手にしかならなかった。

「ミオ!」

 事ここにいたって、正常な判断ができていたのはアーチャーだけ。とはいえ撤退以上の上策などない。マスターを抱えて、来た道を引き返す。だがどこまで持つか。これは十二の命を持つ教え子がすでに通り、その十二の命全てをもってすら失敗した道だ。この身一つで、いったいどこまでいけるか。

 変貌した藍子を背にして走り出してから、数分間。常に周囲の気配を感じ取りながら森の中を進む。足音の一つでもあれば、遭遇前に感知して進路を変える。限りなく、最上に近い撤退策。もしも穴があるとするのなら、それは相手がアサシンの気配遮断と同様のことができる場合、そしてもう一つ。

 瞬間移動といった、魔法一歩手前の技術を相手が有していた場合。

「懸念事項は現実となる。マーフィーの法則と言いましたか。ええ、それは正しい。古くは神代から、そして今もそれは的中している」

 木々のざわめき一つすらも聞き逃さなかった自信がある。けれど、気づいた時には目前にいて、視認と同時に進路変更をよぎなくされる。それをすでに十数度繰り返していた。今辿っているこれで、導き出した退路は最後だ。もしもこの先にすら立ちはだかられていたら、もはや打倒するしか手はない。

 それが不可能に近いことをアーチャーは理解していた。その上で有事の際にはそれしかないと覚悟もしていた。

 すでに一度、古い教え子をこの聖杯戦争中に失っていた。これ以上は教師の沽券と誇りに関わる。教師の業を守るために、アーチャーは多くの約束を違え、多くの裏切りを為した。それを無駄にしないためにも、ここで未央を、最後の教え子を死なせるわけにはいかない。

「なので、初撃から本気で行かせていただきます」

 魔力の装填を開始。日は沈みかけ、空にはうっすらとではあっても星が瞬いている。

 せめて、あの夕日が落ちるまで。それまでは逃げ切る。逃げ切って、今宵最大の一撃をアレに見舞う。効果があるのかは分からなかった。それでもやるしかない。

 日の短い冬。太陽は早々に落ちた。ただでさえ暗い森はより黒く染められる。アーチャーの鷹の目はその闇の先、百メートルと少し先にいた標的を捕らえた。未央を速やかに木の根に横たえ、一対一でアレと向かい会う。

 距離、九十メートル丁度。向こうもこちらに気づいたらしい。触手が這うその音よりも早く、アーチャーはその一撃を——————

 

 

天蠍一射(アンタレス・スナイプ)』。

 ギリシャ神話にその名を残す半人半馬の狩人、ケイローンはその死後、星座として天に祀り上げられた。射手座。常にその弓に矢をつがえ続けるその姿こそが、ケイローンのもう一つの肉体。

 彼の宝具()に、本来あるはずのタイムラグは存在しない。ただ放つ意思を決定するだけでいい。誰にも真似できない、世界最高速の狙撃。それがアーチャー・ケイローンの宝具の神髄だった。

 ゆえに、例えこの一撃で葬り去ることはできずとも、ただ敵の触手が自身に触れるより先に当てるだけならば、アーチャーに絶対の利がある。そのはずだった。

 魔力の充填も十分。敵の触手到達まで残り5秒弱。宝具射出までは1秒以下。それなのに。遠く届かない位置にあるはずの触手が、目と鼻の先にあった。

「(やはり瞬間移動、……いや、違う。この感触、ないはずのタイムラグを強制的に作られた…………! 瞬間移動ではない。これは)」

 射出まで0.5秒。けれど、この距離ならばそれよりも早く触手に触れてしまう。

 それでも問題はない、既に矢を放つことは決定している。たとえこの後自分が死んだところで、矢が射出されることに変わりは。

 

 ——————何かが、アーチャーの目の前を通り過ぎていった。

 

「(……岩?)」

 直径一メートルほどのそれが、音速以上の速さで触手を押しのけていた。おかげでアーチャーはギリギリのところで触手を躱し、宝具も不発に終わった。

「無事ですか! アーチャー!」

「貴女は」

 ライダーが立っていた。なるほど彼女のバーサーカーと正面から殴り合える怪力があれば、岩を弾丸のように投げることもできるだろう。だが、それでも腑に落ちないことはある。

「貴女がなぜここにいるのです、ライダー」

「マスター命令です。アレの相手は私がします! その間にあなたは未央ちゃんを!」

 なぜか、素直に頷くことがアーチャーにはできなかった。常に理で物事を考えるアーチャー。普段の彼なら、この場をライダーに任せて撤退することを迷いなんてしない。けれど、彼女を放っておけないと、心のどこかで思ってしまう。

 それをライダーは見抜いていたらしい。たった一言だけ、自分の奥底に住む別の誰か(自分)として、

 

「アーチャー。貴方に彼女たちを託します。頼みましたからね?」

 

 そうローブの下に厳しくも華やかな表情を作って、すぐ森の中に消えていってしまった。数百メートル先にあるその背中を視認するアーチャーの目には、確かにその顔が見えていた。

「…………ええ、承知しました。他ならぬ貴女の言葉です。このケイローン、この身全てに変えても守りぬきましょう」

 気絶した未央を抱え、アーチャーはライダーの向かった方向とは逆。夜の深山町へと駆けていく。一人の懐かしい名前を噛みしめながら。

「貴女にまた会えてよかった。——————フィオレ」

 その行く先に、影の触手が現れることは無かった。

 

Interlude out  



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10/☆☆★Witch Girl(3)

ここからは主視点に未央が加わります。
いろいろと煩雑ですが、一番関係のないところを簡潔に言えばこうです。

ゆるふわの中でゼパったバルバトス。

また一つ魔神柱のトラウマが増えてしまった…………。


「カメラってさ、一番最初は一つの部屋だったらしいんだよ」

 借家として住まわせてもらっている遠坂邸。その一室にセイバー、イリヤスフィール、アーチャー、そして私、本田未央の四人で集まっていた。

 時間はもうすぐ八時になろうとしている。あの絶望的な状況を目の当たりにしてから、既に三時間以上が経っていた。

「ピンホールカメラって言うんだったかな。真っ暗な部屋のどこかにほんの小さな穴を開けてさ、そこから入ってくる像を壁に投射して、塗り絵の要領で正確な絵を描く。それが原初のカメラ。カメラの語源がラテン語の『部屋』から来ているのはそういう理由らしいね」

「それがどうしたって言うの。未央」

 一番初めにイリヤスフィールと一緒に帰り着いていたセイバーが、不機嫌そうな声で聞いてくる。マスターであるしまむーをアレに飲まれたのだから、その声音に混ざる複雑な感情を理解できなくもない。私としては、発狂して手が付けられなくなっているんじゃないかなんてことも考えていたから、その精神力の強さに驚くばかりで。どうしてまだ現界できているんだ。そういったあれこれを、まだ彼女には何も聞けていなかった。

 もっとも、本当なら発狂でもなんでもするべきなのは、私のほうなのかもしれない。こういうとき、冷静に過ぎる魔術師としての自分がたまに嫌になる。

「あーちゃんのことだよ。無視していたかったけど、もう、この期に及んではできないじゃんか。…………私、知ってたんだよ。あーちゃんに魔術回路があることも、それが高い特異性を持っていたことも。初めて会ったその日から、ずっとね」

 あの日、何の偶然か、彼女の魔術回路を診てしまった。一般人が道中に倒れていただけ。病院は遠いし電話もないから無駄に広い借家で休ませよう。それにしてもすごい熱だ。どれどれ。

 酷いものを見た。

「底なしの虚。いくつもの大小様々な部屋が浮かぶ空間。その奥の方にいる、気持ちの悪いどろどろを泳ぐ大きな口を開けた蟲が、あーちゃんの魔力を食ってた」

「マキリね。サクラがもう使えなくなって、新しい器として聖杯の欠片ごと寄生し直したんでしょう」

 イリヤスフィールが淡々と、何の感情もなく告げる。

 あの時見たあーちゃんの魔術回路。そこに複雑な意思はくみ取れなかった。ただ、足りないと。それだけの理由で、あの蟲はあーちゃんを食いつぶしていた。

 それを、私は見逃していた。何かの間違いだと思っていた。変質した魔術刻印が見せる幻と決めつけて、何度も何度も否定して、目をそらし続けていた。

 その結果が、あの有様だ。

「ミオ。アイコに特異な魔術特質があったって言っていたわね。それってもしかして虚数なんじゃない?」

「その通りだよ、イリヤスフィール。あーちゃんの魔術属性は基本五大元素のどれもと違ってた。こればっかりはあとで調べて分かったんだけど、確かに虚数と呼ばれるものだったよ」

 生まれつきで決まる、その人がどの魔術に最も向いているのかを示す、魔術属性。基本は地、水、火、風の四つに空を加えた五つだけど、まれにこれ以外の属性を持つ人も生まれてくる。虚数もその一つ。

「さっきカメラと部屋の話をしたのも、それ関連なんだ。虚数属性の魔術、虚数魔術は自分の空想で、現実とは全く違う時間軸にどの物理法則にも左右されない空間、つまりは部屋を作り出すことができる。時計塔でもレア中のレア属性、露見すれば、私の魔術刻印(コレ)と同じで瓶詰めされて一生出られない、なんてこともあるみたい。それをあーちゃんはこれまで、表に出すことなく普通に生きてきた」

 それはきっと、喜ばしいことだと思う。うちみたいな、よその体内に直接感応する類の魔術系統でもないかぎり、他人の魔術形質を探るなんてそうできないし。そういう人がこれまでにあーちゃんを見つけて、なんてことになっていたらと思うとそれはぞっとしない想定だ。

 いや、そのぞっとしない想定が、出会う前から現実のものになっていたんだったけか。

「だけどね、魔力は生命力なんだよ。生きていればごく微量にしろ生成されて、回路を走り回る。回路はそれ自体が単純な術式としても機能する。だから、なんの準備もなしに魔力を隠すなんてできない。魔力を隠すためには、隠すための魔術が必要で、隠すための魔術を使ったことを隠すにも、それを隠すための魔術がいる。一言で言ってイタチごっこだよ。で、そんな手段を一つも持ってないあーちゃんの周りが、どうなっていたのか。セイバーは、気づいてるんじゃない?」

「……ゆるふわ、か」

 頷く。もっともその言葉が持つ語感にまでは、さすがに出来そうにないけど。

「アーチャーからも聞いてる。戦闘中に強制的にタイムラグを作られた。それで合ってるんだよね、アーチャー」

「はい、間違いありません。おかげで私の宝具も不発に終わってしまった。おそらくはその副次効果で、瞬間移動のようなことを行っていたのでしょう」

「この二つを組み合わせて考えれば、一つの仮説ができる。つまるところあーちゃんの魔術は、虚数空間による実世界時間軸の浸食とその固定化。ある程度の広さの空間を指定して、その範囲内の時間軸を虚数空間内の不安定なものとシンクロさせる。うすぼんやりした言い方になっちゃうけど、時間の牢獄を作り出せる魔術って見方もできるかもしれない」

 二十年前、第四次聖杯戦争に参加したマスターの中には、体内時計を操って高速移動をする固有時制御と呼ばれる魔術を使う殺し屋がいたらしい。そちらが自分の内側の時間を操っていたのなら、あーちゃんの魔術は逆に自分も含めた外側すべての時間を操るもの。

 それだけの無茶、一体どれだけの魔力があれば成り立つのか。ただでさえ内側から魔力を食われていたっていうのに、外側へも使って、そんな精神が死んでいてもおかしくない状態を一年近くあーちゃんは続けていたのか。あまりの痛々しさに涙が出そうになるし、見て見ぬふりをしていた自分に腹が立つ。

 そんな自分を表に出さないよう、血が出そうになるくらいに強く唇を噛んで耐えた。重い空気に包まれた中で、イリヤスフィールが淡々と語っていた。

「弱りはてたマキリにとって、その魔術特性は好都合だったでしょうね。なにせあの翁にとって一番の敵は時間だったんだもの。表に出てこないところからすると、逆に伸ばされて中で朽ち果てた可能性があるけど、その分聖杯が成長する時間を稼がれていたとしたら厄介よ。柳堂寺にいた数十人規模の生命力に加えて、キャスターとアサシン、それと、バーサーカーの魂まで取り込んで。あと一騎でも取り込まれれば、その時には何もかも終わりだから」

「なら、他のサーヴァントたちを保護すれば」

「その時は冬木の全員が柳堂寺、それにウヅキと同じ道をたどることになるだけ。魔力さえ集められれば、聖杯は何だっていいんだから」

「…………卯月は、まだ生きてる」

 セイバーが絞り出すように言った。

「さっきからちゃんとパスを感じてる。単独行動のスキルもまだ使ってない。なのに、私はまだ消えてない。これってそう言うことでしょ?」

「ええセイバー。驚くことにアレ、まだサーヴァント以外誰も殺していないのよ。まあだからって、安心できるわけでもないんだけど。ねえ、ミオ。柳堂寺の住職たちを直接見てきたあなたなら、彼らの中身がどうなっていたかわかってるんでしょ?」

 思わず、生唾を飲み込んだ。

「あーちゃんほどじゃない。でも酷かったのは確か。体内時間が極限まで遅くなってて、それから精神の端に、あーちゃんを見たときのと同じどろどろが数滴引っかかってた。それが、『この世全ての悪』のうちのほんの一部だとしたら。あの人たちは永遠に思えるくらいに引き延ばされた時間の中で、精神を犯されてる状態がずっと続いてる。一言で言って生き地獄だよ、アレ」

 それと同じ、いや、本体の方に引きずられて行ったことを考えれば、しまむーは今も聖杯の中で柳堂寺以上の悪夢を見せられていることになる。

 同じことをセイバーも考えていたらしい。まっすぐに椅子から腰を浮かせて、廊下に続くドアのノブに手をかけた。

「どこに行こうって言うのさ。セイバー」

「分かり切ったこと聞かないでよ。未央。卯月を助けに行くんだよ」

「なにか作戦があって言ってる? それ」

「正面突破」

「無茶苦茶だ。わざわざ死んで、向こうが欲しがってる最後の一駒になりに行くようなもんだよ。セイバーは、逃げろっていうしまむーの令呪を無意味にするつもり?」

「それでもいい。どうせ一度守れなかったんだから、二度も三度も変わらない」

 我慢の限界がそこで来た。

 椅子を蹴飛ばす勢いでセイバーの近くまで走り寄って肩を強引に引き寄せる。そうやって正面どうし向かい合って、全力でその頬をひっぱ叩いた。サーヴァントの肉体は人間にとっては全身が鎧みたいなもの。セイバーに痛みはほとんどなかっただろうし、逆に叩いた私の手のひらの方が破裂しそうに痛い。それでも、静まり返った借家に響くその音ならば、しっかりとセイバーに私の気持ちを伝えてくれていたはず。そう信じたかった。

 その上で、音だけでは伝わり切らない気持ちを直接口から吐き出した。自分の口から出ていることが信じられないくらいの低い声だった。

「守れなかったものが、しまむーだけだったなんて思わないでよ」

 セイバーの大きく見開いた目に映った自分の姿が見えていた。この世のすべてを失ったような酷い顔で、まさかそんなわけと笑えてくる。それで、ようやく気付いた。

 いつの間にか私は、こんな顔になってしまうほどに、あーちゃんを失いたくないと思っていたらしい。

「…………深夜零時きっかり。それまで私に時間をちょうだい」

 この気付きを無駄にしないためにも、今一番必要なことをセイバーに要求した。

「待てば卯月を、…………藍子も、助けられるの?」

「……それはまだ、なんとも言えない。でも、覚悟だけは、しっかり決めてくるから」

「そう…………。なら、待つよ。……部屋で魔力を温存してる。決まったら、呼んで」

「うん。分かったよ、セイバー」

 会議はそこで解散した。泣いても笑っても決戦は今夜零時。それまで各自、必要な準備を整える。その方針でまとまった。

 セイバーに続いてイリヤスフィールが先に出て、アーチャーが残った。

「アーチャーも自由にしてて。お互いに悔いが残らないように。これが多分、最後の夜だろうからさ」

「ええ、そうさせてもらいます。ですがその前に一つだけ、教師としてではなくあなたの従者(サーヴァント)として、確認しておかなければならないことがありますから。それを問いただしておこうかと」

「いいよ。なんでも言ってみて」

「では失礼を承知の上で。ミオ、アイコは大勢の一般人に魔術を行使しました。まだ殺してはいません。ですが、その手段として魔術がある以上、そしてこれから先、放置していれば被害が拡大する現状を重ねて、魔術協会が掲げる神秘の秘匿の原則に抵触する恐れがあります。

 分かっていますね。これはすなわち、本田未央が魔術師である限り、高森藍子は貴女が倒すべき明確な敵であることを意味する。その上で、貴女が決めようとしている覚悟がどういう意味を持つのか」

 知っていたことだ。事がここまで大きくなってしまった以上、そうなってしまうだろうと。

 それでも。

「うん、分かってる。それでもなんだ。それでもまだ、私はあーちゃんをあきらめきれない」

 

 大切な人(あーちゃん)家族(魔術)か。

 

 本当なら比べるべきじゃない。どっちも大切でどっちも選べない、それが正解。

 けれど、このまま選べなければ、確実にどちらも失うことになる。選んでも、選ばれなかった方は選んだ方の犠牲になる。

 その答えを今晩中に決めなくちゃいけない。

「(きっと一年前の私なら、迷わなかったんだろうな)」

 私はたぶん弱くなった。今はこの弱さと向き合って、覚悟を決めるべきだろう。

「分かりました。今はそれでよいでしょう」

 そう言ってアーチャーも私に背を向けた。その背に私は弱さついでと、普通のマスターならサーヴァントに絶対言わないようなことを言ってみた。

「……ねえ、アーチャー。今朝さ、守れなかった約束があるって言ってたよね。ほら、前のマスターを最後の教え子にするとかなんとか」

「ええ。ですが私は、それが貴女たちであったとしても、同様に誇れますよ」

 飛んできた彼の優しさに、微笑んでありがとうと感謝を口にした。けれど、うまくは言えないけど、その約束は私なんかのために破られるようなものじゃないと思う。

「いい打開策があるんだ」

 微笑みをイタズラっぽい笑いに変えて。

「友達になろ、アーチャー。それならあなたの最後の教え子は、前のマスターさんのままだ」

「………………。これは、驚いた。まさかそんな手段があるとは。いえ、仮にあったとしても、まさか私たちサーヴァント相手にそのようなことを提案するマスターは、おそらくはいないはずです」

「知り合ったら五秒で友達が私の信条だからね。むしろ遅すぎたくらいなんだよ。ほんと、なんで気づかなかったんだろ」

 それくらい余裕がなかったのだと思う。アーチャーを呼び出した一週間前から、冬木に越してきた一年前から、もしかしたら、魔術を習いだした六年前から、ずっと。

「いろいろ、あったね」

 それは決して、アーチャーだけに言ったことではなかった。それでもアーチャーは意図だけは汲んでくれていたみたいで、

「そうですね。本当に」

 と優しく返してくれた。ゆっくりと瞼を閉じる。すぐにでもこの六年間が思い出せた。

 

 魔術の鍛錬は辛かったけど、学校で習う物とはまた違う世界があることはとても新鮮で、楽しくなかったと言えばウソになる。それでもずっと、本田の家が犠牲にしてきた者たちが刻印と一緒について来ているを、しっかりと感じていて。刻印の副作用で吐く嘔吐物も聞いていたより多く見えていた。

 そのうちに、普通に過ごせていた九年間を思い出せなくなった。悲しかったし、寂しかった。得るものがあれば失うものがある。魔術の原則、等価交換。

 これから得るものを思って胸が高鳴る。同時に、失うものを思って足が震えた。

 

 五年目の春の夜。あの日出会った少女が、そんな私にどれだけの思いを与えていたのか。あーちゃんは私と同じで特異な魔術特性を持って生まれた。けれど私とは違って、普通の女の子としてあんなにも輝いていた。羨ましかった。妬ましかった。私がもう二度とつかむことのできないその輝きが、私には酷くまぶしく見えていた。

 あの子の輝きがずっと続いてほしいと願った。

 冬木にいられるのは、聖杯戦争が終わるまでの一年間。その間だけでいい。せめてそれまでは、彼女の輝きを曇らせるモノ全てから、例えそれが私自身であったとしても、あのきれいな女の子を守りたかった。

 

 何かを得て、それと同じだけの物を失い続けた六年間。

 届かないと諦めて、それでもどうかと祈り続けた一年間。 

 明日、どちらかの日々の全てが終わる。

 

 目蓋を開けて、天井を見上げた。失うものは果たしてどちらだろう。

 どちらでも、私の胸にぽっかりと大きな穴が開くことに変わりはない。それでも私は立っていられるだろうか。

「——————友人としてならば、言えるかもしれませんね」

 目線を下ろす。アーチャーはおかしな顔をしている。それがさっきまで私がしていた。何かイタズラを思いついたような子どものような顔だと気づいたのは、この少し後のことだ。

「何のこと?」

「いえ、教師としては、あまりにも無責任に過ぎると考えていたもので。自重していたことがありまして。ですが友人としてなら、その無責任さも多少は許されるだろうと」

「そんなにかしこまらなくてもいいよ。そもそも友達って、できるだけ遠慮しないようにするもんじゃん」

「そうですね。貴女とセイバーを見ていればよくわかる」

「……別に私、まだセイバーとは友達になったつもりないよ?」

「知り合って五秒で友達。それが貴女の信条だったのではないのですか?」

「うぎゃ。すんごく痛いとこ突かれた。鋭い、さすがアーチャー狙いが鋭い」

「だてにアルテミスに教えを乞うたわけではありませんから。それにミオの時代にはこのような便利なことわざもあるそうではないですか。精神攻撃は基本」

「アーチャー、それことわざと違う。ただのネットスラングや」

 互いに笑い合う。二人同時に笑ったのは、初めてだった。

「それで、何を自重してたの? ほれほれ、言ってみ、言ってみ? いまならこの本田未央ちゃんが寛大な心意気ですべてを受け止めてしんぜよう!」

「では遠慮なく。……遠慮なく、ですか。実にいい言葉です。実現できただけ、召喚に応じた意味があるかもしれません。さて、ではもう一度、遠慮なく——————」

 

 

 

 

「——————アイドルに、興味はありませんか?」

 

 

 

Interlude

 

『守れなかったものが、しまむーだけだったなんて思わないでよ』

 

 その言葉、その時の未央の表情を何度も思い出して、セイバーはなかなか寝付けなかった。

 あてがわれた部屋を出る。無駄に長い廊下は、歩くだけでいい暇つぶしになるかもしれない。それも十分と持たなかった。時間はまだ九時半すこし前、あと一時間三十分とちょっと。あと九回もぐるぐると同じところを回っていては、さすがに飽きてしまう。

「(かといって、部屋に戻ってもなあ)」

 セイバーの部屋は、卯月の部屋の隣だった。どれだけ耳をふさいでも届く静けさに、セイバーは卯月の不在をいやでも思い出してしまう。失敗したのだと。あれだけ守ると言っておきながら、みすみす守られてしまったのだと。そう繰り返し言われているような気分になって、待つといった自分の言葉も忘れて、幾度か飛び出してしまいそうになった。

「水でも飲もう」

 誰にともなくつぶやいて、階段を降りる。ここで卯月を受け止めてから、まだ二日も経っていない。自然と足運びが早くなった。洗面所には行かず、それとは逆方向へと廊下を歩く。リビングに水差しがあったのを思い出していた。同時に、未央のあの顔も思い出す。

 以前にも見たことのある顔だった。ニュージェネの三人で挑んだCDデビューライブ。失敗した(実際にはそう思い込んだ)責任を感じて、思いつめたときの未央がちょうどあんな顔をだった。

 その時、セイバーは自分のことで精いっぱいで、周りを見れていなかった。

「(あの時から、少しは変われたと思ってたんだけどな)」

 きっと、卯月の方ばかりを見すぎていたからだ。一度あの笑顔を守れなかったのだから、今度こそはと意固地になっていた。それをあの顔に思い知らされて、セイバーは未央に何も言えなくなってしまった。

「それでも私、今は卯月のこと以外考えられないよ」

 だから、待とうと思う。今の自分にできるのは、彼女を信じて待つことだけだから。

 九時四十分ちょうどを示す大きな振り子時計の前を通り過ぎた。次の角を曲がった先に目的のリビングがある。解散してから一時間弱、さすがにもう誰もいないだろう。セイバーの予想を裏切るように、イリヤがドアにもたれかかっていた。

 そこにいられては水が飲めない。あまり話したことの相手だったが、臆せず話しかける。

「この部屋に用事?」

「いいえ。ただここにいるだけ」

「そう。すこしどいてくれない? 水が飲みたいんだけど」

「まだ入らない方がいいわ。ミオとアーチャーが中にいるもの」

 二回も同じ予想が間違っていた瞬間だった。思わずため息をつく。

「なら出直すよ。またあとで」

 引き返す。その腕をつかまれた。

「何か用? 悪いけど」

「ヒマ、なんでしょ?」

「まあ、……否定はできないけど」

「ならエスコートしてくれない? すこし散歩したいの」

 その後数分間、言い合いにもならない言い訳を二三して、結局折れたのはセイバーの方だった。

 

 

 深山町を屋根伝いに南下していくと、西洋風だった外観はだんだんと一般家庭のそれに近くなって行って、ある程度それが終われば今度は和風めいてくる。まるで江戸時代の町並みに現代の家屋をばら撒いたように見えるくらいの地点。他と比べても立派な武家屋敷の門前で、セイバーは抱えていたイリヤを下ろそうと膝をつく。

「まだよ。どうせ留守だから、中に入っちゃいましょ」

 とイリヤは下りず、セイバーはしぶしぶながらも不法侵入の片棒を担ぐことにした。

 広い庭に面した縁側を持つ、平屋建ての大きな建物。端には土蔵があって、そちらに向かってイリヤは迷いもせずに歩いていく。当然鍵がかかっているものと思っていたが、不用心にも閂が外れいて、それ以上のセキュリティは何も無かった。

 自分でも中に入ってみて、それもそのはずだとセイバーは納得した。中はガラクタばかりだった。年代物のストーブに年代物のラジオ、椅子なんかの学校の備品らしきものが置かれている所からすると、ここの家主は用務員か何かなのだろうか。

「まだ残ってたのね。ほんとシロウの投影はいびつなんだから」

「ん? 知り合いの家?」

「あたりまえよ。でなきゃ勝手に入ったりしないもの」

 勝手に卯月をさらったのはどこの誰だっただろう。イリヤとの口論は出かけ前ですでにこりていたので、セイバーはあえて口に出さず飲み込んだ。

 何を見るともなしに、奥へと進んでいく。と、何か違和感を感じて足元の床に積もったほこりをはらう。

「…………これ」

 セイバーの疑問に答えずイリヤは白い息を吐いて、

「——————一つ、昔話をさせて」

 と切り出した。セイバーが頷いたのを見て、イリヤは吐く息で雲を作るように語り始める。

「正義の味方がいたの。

 大勢の人が笑える世界を夢見ていた。誰も泣かなくていい世界を夢見ていた。同時に、そんなものがどこにもないことを、誰よりもよく知っていた。だから正義の味方は、最後になんでも叶う万能の杯に望みを託したの」

 マスターを殺すことは何でもなかった。それでより多くの人が笑えるなら。

 サーヴァントを殺すことも何でもなかった。それで誰も泣かずに済むのなら。

 自分を殺すことは何よりも簡単だった。それで自分の理想を守れるなら。

「正義の味方には奥さんと子どもがいたの。杯を手に入れるための、政略結婚じみたものだったけど。それでも正義の味方は奥さんのことを愛していたし、子どものことも、きっとそうだったんじゃないかな。もう死んじゃったから、そうだったらいいのにっていう都合のいいねつ造でしかないけど」

 杯を手に入れるための戦いを、正義の味方は順当に勝ち残った。その末に杯は正義の味方にこう告げた。

『お前とお前の家族だけ残して、他の人間皆殺し。そら、誰も泣かない世界の出来上がりだ。簡単だろう?』

 ふざけるな。正義の味方は杯を壊した。

「世界はあまりにも重すぎたのよ。人間に背負えるものじゃなかった。選べるわけがない。初めから選択のしようがなかった。大事なものか世界かなんて、一個人で決められる範疇をとっくに越えてた。それでも正義の味方は、最後まで正義の味方だったから、世界を選んだ。杯と同化した妻を殺して、娘は遠く離れたお城に置いてきぼりで二度と会えなくて。最後は小動物みたいに死んだらしいわ」

「何が、言いたいのさ」

「……賭けをしましょう、セイバー。アイコか魔術か、ミオが一体どちらを選ぶのか。あなたに選ばせてあげる」

 迷うことは無かった。

「藍子だよ」 

「ずいぶん簡単に言うのね」

「そう見える?」

「ええ。だって何も考えてなかったでしょ、今」

「バレたか」

 セイバーはただ、信じていただけだった。思考停止と言い換えてもいい。ただ、自分たちと一緒にいた未央を信頼しているだけ。その彼女なら迷うことはあれ、最後には納得のいく結論を出してくれると信じていた。

 なぜなら。

「あんなでも、私たちのリーダーだからね。締めるときはしっかり締めてくれるよ。それに、これは未央とは全く関係がないんだけど」

 前置きをして、セイバーは昔話への感想らしき話をする。

「きっと守るものなんて、直感で決めていいんだよ。自分が守りたいと思ったなら、それを全力で守っていい。それはきっと当たり前のことだと思う。あんまり節操がないと、きっとその昔話みたいになっちゃうんだろうけどさ」

「それで、世界を敵に回すことになっても?」

「うん、それは間違ってない。私が言うのもアレなことだけどさ、きっと世界の味方だとか、正義の味方だとか、そういう大きなモノの味方をすること自体、多分、私たちにはできないだろうから。だから、それでも何かを守りたいと願うのなら、誰かの味方をするだけできっと精いっぱいなんじゃないかな」

「だから、ミオはアイコを選ぶの?」

「さあ。そもそも、自分で言ったことだけど、私だってずっとは卯月だけの味方でいられたわけじゃないしね」

 アイドルは、見方によっては応援してくれるファンの味方だとも言える。その時点で個人の味方などできていない。ただ逆に、ファンの方がアイドルの味方という考え方もできるので、やはりプラスマイナスゼロかもしれない。なんの計算をしているのか、セイバー自身にも分かっていなかったが。

 それでも確かに、自分たちアイドル一人一人全員の味方をしてくれた人なら、セイバーは一人だけ知っていた。今のセイバーなら、それをしっかりと確信できる。

「まあだから、結局は信じてるってだけなんだよ。うちの未来のリーダーをさ」

「……そう」

 立ち上がるイリヤ。それに合わせて、セイバーも土蔵を後にする。

「帰る?」

「まだ。寄るところがあるから」

「寄るところ? まあ、まだ余裕はあるけど」

 持ってきていた腕時計の文字盤が示していたのは十一時少し前。サーヴァントの敏捷なら、イリヤを抱えても五分とかからないので、一時間は余裕があることになる。それでもそう遠く、新都の方にまで今から行く気にはなれない。

「大丈夫、ここの隣だから。十年前に預けたものを取りに行くだけよ。——————そこの人たちも、一緒に来る?」

 武家屋敷の門を出てすぐ右に二人組が立っていた。気配はしていたので、おそらく不法侵入も目撃されていただろう。その内の一人、青い修道服を着た女にセイバーは見覚えがあった。

「え。カリー・ド・マルシェ!?」

「シエルです。カレーマニアです。あと趣味で教会の代行者をしています」

 ボケだろうか。いや確実にボケだろう。ボケでないはずがない。ならツッコミを入れねば。

「まあ、逆なんですけどね」

 先にセルフカバーされてしまった。

「今は脅、げふんげふん、わけ有って、ちょっとこっちの人の護衛をしてまして」

「はい。紹介にあずかりました、こっちの人でーす」

 メガネだった。いやにメガネの方に目が向く、赤い髪の毛の美人だった。すらっと伸びたスタイルのいい身体つきは、アイドルだと紹介されても違和感が全く感じられないほど。

「(まあ、せめて目がもう少し笑っていたらなあ)」

「あら、お嬢ちゃん。何か失礼なこと考えてなぁい?」

「いえ。何も」

 なぜかは分からない。だが睨まれただけで寒気がした。直感が警報を鳴らしている。コレと戦ってはいけない。勝っても負けても死ぬのはこちらだけだという疑念を、セイバーはどうしても拭いきれなかった。

「コントはそのくらいにして。それで、来るの? 来ないの?」

「それはもちろん」

 赤い髪の女性はかけていた眼鏡を外して、

「行くに決まっているだろう」

 それまでの柔和な態度が嘘だったというように、口の端を吊り上げた。

 

Interlude out

 

 

2月6日(月) 午前零時

 

 時間だった。これ以上に考えることもできず、そしてこれ以上の答えもない。

「じゃあ未央。作戦を」

 四時間前と同じ部屋、同じ四人。その中でセイバーが聞いてくる。覚悟は決まっていた。すでに選択は済んでいた。なら後は形にするだけ。

「目標は聖杯の破壊。イリヤスフィールによれば、聖杯はいま最終調整に入っていて、大元の術式である大聖杯にあーちゃんは依り代として取り込まれかけてる。急がないとどっちにしても間に合わない。けど、それまでの間だけなら、あーちゃんを利用して出していたあの影は出てこない。その間に一気に大聖杯がある柳堂寺の地下、円蔵山の大洞窟に突入。聖杯を破壊する」

「ですがその間の防衛策として、あちらはこれまでに脱落したサーヴァントを守衛にして配置している。その相手は私とセイバーの二人で受け持ちます。ですのでミオ、貴女はイリヤスフィールとともに大聖杯の奥で」

 他の三人が、同じように私を見つめていた。私は——————

 

 

 

「——————うん。今日この日、持てる全てを持って、あーちゃんとしまむー二人まとめて助け出す」

 




・ボツ会話 最終決戦前夜、遠坂邸リビングにて
 ※()内は作者による補足

「ていうかセイバー。なんで(五日目のデート午後の部で)手をつないでないこと知ってるのさ!?」
「見てたから」
「見てたって……、あの時は確か、しまむーとカフェでいちゃついてたんじゃなかったの?」
「……知らなかった? あのカフェ、窓からプロムナードが丸見えなんだよ。後でからかおうと思って見てたのに、まさか出された手すら握れないなんて。この鈍感、誑し、女の敵、本田未央」
「その並びに本田未央ちゃんの名前を入れるんじゃないよセイバァ(≒渋谷ァ)! ていうかあそこの設計責任者出てこい! プライバシーの侵害で訴えてやる!!」
「ミオ。残念ですがその裁判、勝率は著しく低いかと」
「明らかに陪審員はあなたの敵にまわるでしょうね」
「くそう。味方が誰もいねぇ」


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11/熱血乙女A

ネロ&エリザ「「マジで!?」」


 最後の戦場、柳堂寺奥の大聖杯へと向けて、夜の深山町を歩いていく。すべての家の明かりが消え、草木までもが眠っているように静か。このまま何も手を打たなければ、数日後には昼間でもこの状態が続くことになる。そうなれば、事態が大っぴらになって、全ての元凶として協会はあーちゃんとしまむーごと聖杯を破壊するか、魔術の道具として封印してしまう。

 その前に、聖杯から二人を摘出する。

 やることは決まった。十分な魔力供給が望めないセイバーへの臨時措置として、イリヤスフィールとのパスを一時的に通した。今のセイバーとアーチャーなら、バーサーカーにだって負けやしない。

 それでも戦力はできるだけ多い方がいい。移動中の話題は自然とその辺りへと集まった。

「ライダーは、既に敗退していると考えた方がよいでしょうね」

 そう言うアーチャー自身が、自分に代わりあの影へ向かっていくライダーの姿を見ていたらしい。

 イリヤスフィールの話によれば、あの影の触手への接触は基本的に死を意味する。それどころか、サーヴァントが触れればその霊基を汚染され、全く別物にされてしまうとのことらしい。その影響力は、まっとうな英霊であるほどに強くなるとも。

 アーチャー(ケイローン)はその意味で行けば、アレにとって最高のカモだ。昨日何事も無く帰ってこれたことが、どれほどの奇跡だったのか。その奇跡のために、ライダーが犠牲になったことは、もはや疑いようがなかった。

「あとは、ランサーだけど」

「向こうも結構な英雄だからね。残っている可能性の方が低いんじゃないかな」

 実際に相手をしたことのあるセイバーが言うのなら、やはりこれにも頷くしかない。

「となると、向こうは当初から想定していたアサシン、キャスター、バーサーカーに加えて、ランサーに、正体不明宝具も不明のライダーまで配置している可能性がある、か」

「ええ。あまり敵を大きく考えすぎるのもよくないけど、最悪の場合そうなるでしょうね」

 希望的な観測はあまりできなかった。やらなくちゃ、大切なものを失う。これは、これ以上何も失わないための戦いだった。そのために捨てるものを決めてきた。得るものは何も無い。初めからこの戦いに報酬なんて何もない。

 それでもかまわないと、また歩みを進める。

 住宅地を抜け、学校の校門前を通り過ぎ、一カ月先に咲く予定の桜のつぼみを見上げて、その先の星空に手を伸ばした。そしてなおも坂を上る。その末に、山門前の階段にたどり着いた。

「よう。割と早かったな」

 百段は優に超えていようかという大階段、その中腹にランサーが座り込んでいた。あの高さから槍の振り下ろしがくれば、人一人、ついでにもう一人は殺せるだろう。全員が緊張を顔に出して、自分の得物を構えた。

「ランサー」

 けれど、ランサーは自慢の朱槍を持ってはいなかった。出すつもりもないらしく、

「そう構えなさんな。今のオレにあんたらと戦う意思はない。なにせ、ここにこうしているだけで精いっぱいなんでな」

 そう言ってランサーは、林の影で隠れていた左腕を上げた。さっきから妙に動きがないと思っていたけど、それも当然だった。付け根からきれいに切り取られていた。

「……それ」

「やられたんじゃねえぞ、自分で斬り落としたんだ。てか嬢ちゃん、オレなんかよりも、優先すべきことがあんじゃねーの?」

 頷く。得物は持ったまま、警戒を解くことはなく全員で階段を一段一段登っていった。

 ついにランサーの横を通り過ぎたとき、なんとなく言っておかなくちゃいけない気がして、

「…………ランサー。よくわからないんだけど、まあ一応、ありがとう」

 決して彼の方を見ることなくそう告げて、それからは大股で駆け上がった。だから返答を聞いている暇があったわけもない。

「おう。いつだって、美人に感謝されるほど気持ちのいいことはない。ああ、報酬としちゃあ十分だ。てなわけだからよ、アインツベルンのマスター」

 唯一その場に残ったイリヤスフィールによれば、それは、私が完全に境内に入った後のことだったらしい。私の預かり知らないところで、彼はケルトの大英雄の名に恥じないだけのことをして、

「回収、しっかり頼むぜ」

 私の預かり知らないところで、自ら消えていった。

 

 ———その一方で、境内の中にいた私たちは信じられない物を見ていた。

 同時に繰り出される致死の刃、その三連。全てを押し切って。

 唱えられる神代の超魔術、その十連。全てを弾いて。

 振り下ろされる破壊の剛腕、その百連。全てを打倒して。

 そしてなお、燃え続ける炎は勢いを止めない。

 熱風に羽織っていたローブがどこかへ吹き飛ばされた。その下から、これまた燃えるように長くのばされた髪が舞い上がる。

「——————茜!?」

 セイバーの驚嘆の声が響く。それがあのライダーの真名。

 違った。ステータスに表記されているクラスは、ライダーのそれではなかった。

「……アルターエゴ、エクストラクラス!?」

 すべての敵影を奥の方へと吹き飛ばして、ライダー改めアルターエゴは、こちらを振り返ったかと思うと手をぶんぶん音が鳴りそうなくらいに振って、にっこりと笑っていた。

「未央ちゃーーん!!!! 凛さーーん!!!! 元気ですかーーーー!!!!!!」

 なんというか、うん、なんというか。

「シリアス が こわれる」

 

 

Interlude 聖杯戦争開始二日前 1月29日(日)深夜 

 

 月がきれいな夜だった。雲一つない、からからに乾いた空気。その中に響く助けてほしいという願い。

 アルターエゴ日野茜が召喚に応じたところには、いくつかの理由がある。けれど主人格である茜が理由として選んだのは、その願いを聞いてしまったこと。それだけった。

 女神ペレ、イザナミ、ウルカヌス、並びに複数のエッセンスをダウンロード完了。なおも主人格に変更なし。各神霊同意。意識再浮上。主人格に地属性付与を確認。以下異常なし。現界完了。

 目を開ける。腐臭がする。壁、床、天井、視界に映るありとあらゆる場所を、主亡き魔蟲が這っていた。その中央、裸でうずくまる少女からパスを感じる。

 自分がどういう存在で、何をするべきなのか、茜は知っていた。その子のために戦って、その子のために仮の命を投げだす。ゆえに確認する。自分に助けを求めた少女の顔を、茜は早く見たかった。

 その顔は、自分のよく知る友人の物だった。

「——————茜、ちゃん?」

 友人の少女、高森藍子がその生気の感じられない目をこちらに向ける。

「藍子ちゃん!!」

 すぐに駆けよりたかった。その小さな肩を抱き上げて、すぐにこの気持ち悪い部屋から連れ出したかった。

「来ないで! 茜ちゃん!!」

 それも、彼女の鋭い声で遮られた。

「藍子、ちゃん?」

「ごめんね、茜ちゃん。でも、こうでもしないと、私、今にも茜ちゃんのこと、食べちゃいそうだったから。それは、いやだったから。だから」

 それは藍子が残した、聖杯への反逆。

 

「——————令呪を以て命じます、未央ちゃんを守って」

 

 サーヴァントが何なのかは知らない。それでも、茜になら任せられる気がした。

 

「——————重ねて令呪を以て命じます、卯月ちゃんも守って」

 

 令呪が何なのかも理解していない。それでも、聞いてほしい命令(おねがい)なんてそう多くない。

 

「——————さらに重ねて令呪を以て、これを絶対にします。…………茜ちゃん、お願い。みんなを、守って」

 

 ただ、誰にも傷ついてほしくないと。藍子は希望を茜に託していた。これ以上、自分がどこまで自分でいられるのかも分からない。その時に、大切なものを守ってくれる誰かがいる。自分を止めてくれる誰かがいる。

「さあ、行って! 早く!!」

 それだけで、安心して茜を送り出せた。

 どうにもできず、茜は素直に蟲蔵を飛び出す。その背中を藍子は、優しく見守った。

 

 家々の屋根を飛び越え、川を跨ぎ、新都を歩く人々をビルの上から茜は見下ろす。

 みんなを守ってほしい。それが藍子の願い。

 できるかどうか、それは大した問題じゃなかった。やれるならやる。それでいい。

 ただ一つ、疑問が残っていた。『みんな』とはだれのことだろう。

 今見下ろしている街を歩く人たちのことか。橋向こうに見える住宅街で眠るたくさんの人たちのことか。それとも、その中にいるはずの、未来の友人たちのことなのか。

 その全部だと思う。ただそれなら、もう一人、その『みんな』に含まれていなければいけない人がいる。

 ——————藍子本人だ。

 みんなを守るのなら、彼女を含めて本当にみんなを守らなくてはいけない。

 それは、かつて誰かの願った理想。誰かが今も追う理想。その果てには孤独の断崖しか待っていない。

 茜はそんなことは知らない。知っていても無視した。

 ただ守りたい。心が欠けているからではなくて、ただ何も考えていなかったから。理性が半ば蒸発していたからこそ、自分の心に一番まっすぐな答えを素直に見つめれられた。

「わたしはみんなを守りますよ!! だってみんな大切ですから!! 大切なものを守りたい。それはこの世にあるどんな気持ちよりも! どんな悪意や苦しみよりも!! ぜったいぜったいぜぇーーーーーったい!!!!!! 確かな願いなんですから!!!!」

 月に向かって叫んだ。誰かが聞いていたかもしれない。けれど、振り返ってもそこに茜の姿は無かっただろう。なぜなら、彼女は止まっていられないから。

 それからは本当に、自分の心の赴くままに従って行動した。

 

Interlude out

 

 

「……ねえ、アーチャー。あの触手、触れたら一発でアウトなんだよね?」

「ええ。そのはずです。ランサーが左腕を切り取ってどうにか生還していた所からすると、浸食には少しの時間がかかるようですが、それも一瞬でしょう。…………アカネと言いましたか。聞かぬ真名ですが、だとしても、あの火力で相応の出自を持っていないわけがないはずなのですが」

 アルターエゴはまだ戦場に立ったままだった。吹き飛ばしてすぐに復活したアサシンの刀をいなし続けている。それでも三体同時に相手するよりは幾分余裕があるらしい、脇腹に鋭いボディーナックルを入れて再びアサシンをダウンさせた後、こちらに聞こえるくらいの大きな声で。

「アイドルがっ!! まっとうな英雄なわけないでしょう!!!」

「確かにそれもそうだけど、いろんな方面にケンカ売るのは止めようか茜!」

 セイバーがツッコミを入れていた。

「セイバー。あれ、知り合い?」

「…………まあ、一応。ていうか、茜にツッコミ入れるのは未央の仕事のはずだったと思うんだけど」

「そんな聞くだにはちゃめちゃな職場に就職した覚えはないよ」

 その後続いて復活したキャスターまで、燃える足で蹴り飛ばしているのを見ていると、アイドルって何だっけとか思えてくる。まあ、ちょうど隣にいるセイバーがアルターエゴの知り合いだったことを考えると、彼女もアイドルという可能性が出てくるわけで。それまで含めれば、昨日アーチャーに勧められた将来の就職先がよけい魔境魔窟に見えた。

「昨日も同じようなことを言った気がしますが! もう一回言いますね!!」

 混迷を極める思考を遮ったのは、またしても空に響き渡るような大きな声。

 見れば、ついに起き上がったバーサーカーを前にして、なおも彼女はその声を高らかに上げていた。

「ここはわたしに任せてください!! 未央ちゃん! マスターを、藍子ちゃんを! 助けてあげてくださいね!!!」

「…………」

 ただ、どれだけ個性的だろうと、彼女もあーちゃんのことを思ってここまで来てくれた。なのだから、それ以上何も考える必要はないだろう。ただ一言、

「うん! 任せて、茜ちん!」

 応じて、進むだけで良かった。

 イリヤスフィールはまだ境内の外、すぐに追いつくらしいけど、待っていられる状況でもない。先行するセイバーとアーチャーを強化した脚力で追って、森を抜けていく。その途中、そう寺から離れてもいない場所で、アーチャーが立ち止まった。

「アーチャー?」

 脚を止めて、呼びかけた。アーチャーは境内の方を見つつ何かを考えているみたいだった。それも三秒と待たずに終わり、こちらをまっすぐに見据えて言う。

「ミオ、一つ、お願いしたいことがあります」

 提案でも、忠告でもなく、お願いだった。ならそれはサーヴァントとしてでも、教師としてでもない。きっと友達としてのモノだろう。中身を聞くまでもない、答えは初めから決まっている。それに、なんとなく察しもついていたことだし。

「いいよ。アーチャー。いっといで」

「ええ。ありがとう、ミオ。最後になりますが、今回の聖杯戦争、貴女が私のマスターで本当に良かった」

「私も。君がサーヴァントで、それから、友達になれて、ほんとうのほんとうに良かった」

「はい。では、どうかご武運を。セイバー、道中、ミオの護衛は任せましたよ」

「分かってる。ほら、早く行きなよ」

 セイバーのそっけない態度に、アーチャーは微笑んでいた。

「最後まで素直ではなかったですね。ええ、それでは、あなた達に星の導きがありますように」

 そのままアーチャーは振り返りもせずに、来た道を逆に引き返していく。

 これで、私の魔術師としての聖杯戦争は本当に終わった。だからここからは、彼が指し示してくれた道を行こう。そのために。

「セイバー、急ぐよ」

「言われなくても」

 再び脚力を強化、セイバーの高い敏捷には遠く及ばない。それでも全力であーちゃんの下に急ぐ。

 私は、またもう一度スタート地点に立つために。

 

 ——————この先で、二番目に大切なものを捨てるのだ

 

 

Interlude

 

 基本、敵サーヴァントは無限湧き。すでにランサーと交代してから一時間、その間の戦闘でアルターエゴ・日野茜が学んでいたことだった。

 目に映るあちこちに水たまりのように淀む泥。そこから復活している。

 幸いなことは、一騎のサーヴァントが同時に現れたりしないこと。損傷の修復はできても、複製はできない。それが向こうの限界。

 ならばとるべき手段は一つ。

 関節技の要領でアサシンの脊髄を折る。その間は動けまいとキャスターが宝具の短刀を持って迫った。それをすれすれで躱し、投げてノックダウン。粒子になって消えていくそれに目もくれず、周囲一帯の魔力の流れを肌で感じる。

 四十七。軽い。

「燃やします! 『火山大大大噴火(みなぎれ!ボボボンバー)』ーーー!!!」

 森のあちこちから火の手が上がる。ただし樹木は燃えない、そんな無駄な火力は使えない。

 『この世全ての悪』とて、今は泥という形をとっている。泥である以上、燃やせば蒸発するのが道理。とは言っても、茜自身に確信があったわけではなかった。ただ自信はあった。なのでやってみた。成功した。とってもロジカル(脳筋)で明確な解答だった。

 これで、茜が炎を展開している以上、泥は自分の修復にとらわれてサーヴァントの復活に魔力を使えない。敵が泥の総量を増やした時は、その時でまた火を増やすだけでいい。

「つまり、一対一であなたと闘えるわけです!! バーサーカー!!」

「■■■■■■■■■■■■ーーーーーーーー!!!!!」

 すでに都合六度その命を削っていた。聖杯戦争初日の彼から感じた技の冴えを、目の前の怪物からは感じない。

 おそらく、イリヤスフィールがいたときのまま、理性を多少保ったままのバーサーカー相手なら、こうも容易く削れはしなかったはずだ。そちらには、さすがに茜も自信が持てない。

 すでに脊髄を折り、頭を腕で砕いて、脚で圧縮し、四肢を燃やし、高く放り投げ、胴を焼き切った。手詰まりだった。これ以上、どうにも倒し方が思いつかない。

「宝具の全力は、温存しなくちゃいけませんから……。さて、どうしましょうか」

 迫る巨体から中空に逃げる。マスターがいたときに比べて弱体化したとは言っても、それで逃がしてくれるバーサーカーではなかったらしい。宙に浮いてそれ以上逃げ場のない茜に、その腕を振り上げる。

 ガードのため両腕を組んで体を丸める。骨がいくつか折れるかもしれない。どちらにせよこのままではじり貧なのだから、攻撃手段がここですこしくらい減っても構わない。その判断だった。

「——————ええ。その判断は正しい。ですが私なら、もう少し別の手段を模索しますが」

 目と鼻の先にあったバーサーカーの腕と自分の体との間で、爆風が起きたのは、それが耳に届くのとほぼ同時だった。

 すぐにバランスを取り、バーサーカーと離れた位置に着地する。振り向かない。そこにいるのが誰かなのかは、顔を見ずとも分かっていた。

「アーチャー。昨日、未央ちゃんのことを任せたはずですが。それとも日ごとに更新する必要有りでしたか?」

「いいえ、それには及びません。彼女のことはセイバーに託しました。ですので、私がここにいるのは完全な私用です」

「私用、ですか? どうしてか分かりませんが、あなたがそれを理由にするのはとても珍しいと感じています。不思議です」

「その不思議こそが、理由ですよ」

 アーチャーも確かに感じていた。自分とは違う自分。ここではない別のどこかで戦った記憶。その中で、ともにあった未央ではないマスターの少女。

 その面影を、アーチャーは茜に重ねていた。

 国籍も違う。名前も違う。瞳に宿る強さの種類も違えば、自分の足で活発に動き回る姿は、常に車イスでの生活を余儀なくされていた彼女では、とても考えられなかったことだ。

 けれど、それでもなぜか、最後の教え子の姿に重なってしまった。

 だからもう、放っておけない。おせっかいでわがまま、こんな甘えが自分にまだ残っているのだとは知らなかった。けれど無視できない。それを許してくれた未央には感謝しかない。

「ずっと思っていました。結局最後まで、彼女とは肩を並べて同じ戦場に立つことはできなかった。それが戦の道理だとは理解していましたし、気にならないくらいたくさんの物を、私は彼女からもらっていた。しかし、悔いは忘れても思い出してしまうもの」

 二人の視線の先で、バーサーカーが立ち上がる。殺気に満ちた視線をアーチャーは正面から迎え撃つ。

「とどめは私が、この命に代えてでも! 方法は教えます! あと五度、彼を倒してください! どうか、貴女とともにもう一度!!」

「はい!! 頼みます! アーチャー!!!」

 先手必勝、走り出す茜。その顔にほんの一瞬だけ、柔らかな笑顔が浮かんでいた。

 

Interlude out 

 




マテリアルが更新されました。
(読み飛ばし可)

・アルターエゴ/日野茜
 ・ローブに身を包んだ小柄の人物。バーサーカーと遭遇した卯月達に介入し、撤退させる。
 ・藍子のサーヴァント。ハワイ島の女神ペレをはじめとした様々な火山系神霊のエッセンスを取り入れた(テンションが超絶)ハイサーヴァントにして、現世の日野茜の肉体を依り代に現界した疑似サーヴァント。発言内容がやや神霊よりになっているだけで人格の主導権は茜が握っているというおまけつき。珍しく抑止力が仕事した結果である。ここの抑止力、もしや茜Pなんじゃなかろうか。
 ・召喚時点で聖杯からの知識により未来の記録を見ている(そしておそらく数日で忘れる)ため、セイバーのことも知っている。逆に、仕事で知り合っている藍子とセイバー以外は、彼女のことを知らない。
 ・CV赤﨑千夏つながりでフィオレ・フォルベッジのエッセンスもごく少量含まれている。
 ・ローブで顔を隠していたのは夜道を歩くときの補導対策。作中時間ですでにそこそこの知名度があり、プロデューサーをはじめとした事務所の人たちに迷惑をかけてはいけないという、元ラグビー部マネージャーとしての気づかい。
 ・混沌・善・地
 ・ステータス
  筋力B 耐久EX 敏捷A+ 魔力A 幸運B 宝具EX
 ・宝具
  ・火山大大大噴火(みなぎれ!ボボボンバー)EX 対人(対山)宝具
   ・常時発動型の宝具で、燃え上がる火山の概念を身にまとう。放熱と発火を自在に操れ、最大展開時には大山宝具並みの火力と殲滅力を誇る。自分自身が、火山になることだ。
 ・スキル
  ・アイドルのカリスマEX
  ・アイドルの直感B
  ・戦闘続行A
  ・騎乗D
  ・女神の神格B
  ・ハイサーヴァントー
  ・天性の肉体(地)EX
   ・生まれながらにして生物として完璧な肉体を持つことを表すスキル。取り入れた多くの火山神由来のスキルで、生物としてではなく、大いなる自然の普遍性の顕れと言った方が正しい。筋力に一時的なボーナスを得られるほか、霊核さえ無事なら次の日には精神肉体魂ともに万全の状態まで回復できる驚異的なタフネスさも兼ね備える。その様は形状記憶アイドル日野茜、あるいはお湯五分で最高のパフォーマンスを約束するカレーメシ、またはどんな重傷を負っても次のコマではけろっとしているギャグ漫画のキャラクターのよう。これ以上なく彼女に適合したスキル。ただし環境破壊、テメーはダメだ。
   ・「はっ! アイドルをなめないでください!! この世全ての悪? そんなの、おいしいごはんをお腹いっぱい食べて、一晩ぐっすり眠れば大概忘れられます! 実際なんにも覚えてません!!! 凛さーん! 昨日食べた麻婆豆腐がいまだにずんがずんがしているんですが! あの泥飲んだら少しは治まりますかーーー!!」「茜、あれ食べ物ですらないから。それとその麻婆豆腐も人間が食べれるものじゃないと思う、見たこともないけど」「……セイバー、アイドルとは、皆あのように強靭なのですか?」「茜は特別。私だったら一カ月は絶対寝込む」「それだけで忘れさられるこの世全ての悪もなかなか不憫ですね」
  ・理性蒸発D
   ・物事を深く考えない。とっても素直です。
   ・本来なら直感などの複合スキルとして作用するが、別スキルとして直感がすでにあるので精神効果のみの低ランク仕様。精神妨害に少しの耐性を得る他、多くの神性と同居している現状、主人格を支える一助にもなっている。

 「ひーのーあかねはっ! 砕けないっっ!!!!」


・高森藍子
 ・未央のクラスメイト。一年ほど前からアイドルをしている、穂村原学園中等部三年生。アルターエゴ日野茜のマスター。
 ・アイドルを始めたての頃に倒れたところを未央に助けられ、それ以来、家で一人になりがちな未央にごはんを作りに行くようになる。
 ・上記の時に未央は藍子に魔術回路があることに気づき、虚数魔術の素養があることを見抜いていた。
 ・ゆるふわ 
  ・虚数空間による実世界時間軸の浸食とその固定化、その別称。ある程度の広さの空間を指定して、その範囲内の時間軸を虚数空間内の不安定なものと同期させる。魔力の質も量も平均のため、普段は周りの時間をほんのりゆっくりにする程度。ただし多量の魔力で回せば、範囲内の時間流を自由に速くしたり遅くしたりできる。ステータス的には対象の敏捷ステータスを最低値(E-)に引き下げるのと同じ効果。
  ・周りの時間流をそのままに固定し、精神時間を膨大なまでに引き延ばすことで、意識と現実の間に時間流の齟齬を作り出し、永遠とも思える責め苦を手軽に与えることができるなど、応用の仕方によっては残酷な可能性も持つ。暗い部屋の中、わずかな採光窓から移される地獄を延々と見せ続けられるような。カメラとは、あるいは孤独による拷問だったのかもしれない。
 ・未央に助けられる数日前、聖杯戦争の開始を察知したマキリによって聖杯の欠片を埋め込まれる(その数日行方不明になっていた)。開始が近づき、大聖杯に呼応する形で魔術回路が励起、苦しみから助けを求める中でサーヴァントを呼び出した。
 ・開始から数日間サーヴァントの脱落が無く、空のままの聖杯が際限なく魔力を求めるようになる。やがてその欲求と同調し始めた藍子は、柳堂寺に赴き、キャスターとアサシンを殺害。同時に住職全員の精神時間を引き延ばすことで、昏睡状態にする。一件安らかに眠っているようにしか見えないが、その実は精神に極々微量の聖杯の中身(この世全ての悪)が混じり足先から侵食、永遠とも呼べる苦しみを内世界で味わっている。その魂の感情エネルギーを聖杯に捧げることで、どうしようもない空腹感を、(サーヴァントは除いて)ただ一人の死者も出さずに紛らわせていた。ゆるふわと第三魔法による、疑似的な半永久機関がそこに成立していた。


・■■■■
 ・型月で一番怖い眼鏡。
 ・ロード・エルメロイ二世に頼まれ、再演された聖杯戦争をシエルとともに視察していた。
 ・イリヤに「——————を見せる」ことを交換条件にして、藍子の■■■■を依頼される。「——————だけが保証された、急造の出来損ないで良ければ」とこれを受諾した。


・ランサー/クー・フーリン
 ・本聖杯戦争における知られざるMVP。令呪を使われる前に言峰を殺し柳堂寺と根性と意地で再契約。負傷した茜に変わって聖杯の相手を引き受け、お腹のすいた茜にバイト先(アーネンエルベ)の特別割引食べ放題優待券を渡した後、撤退させ、未央が覚悟を決めるまでの時間を稼ぎ聖杯から無辜の民を守りつつ、その上おっ死んだ後まで迷惑かけるわけにもいかねぇと、イリヤの前で自害し魂を回収させた。まさに英雄オブ英雄。ケルトの大英雄にふさわしい八面六臂の大活躍をしていた。本文中にて語られることはなかったが。


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12/Never say never(2)/Spring Screming(1)

誰にでもできる当たり前のこと。それをただ当然のように続けること。
それは果たして本当に、誰にでもできることなのでしょうか。


Interlude

 

 細氷を砕いた。

 聖杯の眠る円蔵山地下大空洞。十度を下回っていた気温は進むごとになお下がり、肌を刺すその冷気に、内部の水分はほとんどすべて凍りついている。

「一本道で助かった。もしこれで迷ってたら探索どころじゃないもんね」

 魔術で明かりを灯し、道の安全を確認しながら未央とセイバーは奥深くへと進んで行く。

 長い年月のうちに風化し形が変わったと言えども、この洞窟は、元は魔術師が自分たちの手で作った大規模の魔術工房。魔術師、それも聖杯に用のある人間を拒むようにはできていない。二人の歩みは順調だった。

「ねえ、セイバー。アイドルがどんなものなのか、聞いてもいいかな」

 だから、未央がつい余裕のうちに、そんなことを口走ってしまうだろうこともセイバーには予想がついていた。

「私がアイドルだって、まだ決まってもないのに?」

「いまさら隠し通せるって、本気で思ってる?」

「ぜんぜん。別に構わないよ。未央は聖杯戦争から降りたんだし、ここで真名を明かしても何も問題ないからね。ただまあ、一つだけ条件を付けたいんだけど」

 小さな明かりの下、未央はセイバーの横顔を覗いた。

「卯月には、内緒にしといてもらえないかな」

「それまたなんで」

 普通のサーヴァントとマスターでは、サーヴァントはマスターにだけ自分の真名を明かす。そこを他人には教えて、当のマスターである卯月本人だけに教えない理由。それが、未央にはどうにも理解できなかった。

「あんまりこれっていう理由はないよ。ただしいて言えば、私の大事な思い出のため、かな。それがないと、多分今の私はいないだろうし」

「へえ」

 一人の人生を左右した思い出。そのために必要な条件なら、飲まないわけにはいかなかった。

「いいよ。絶対にしまむーには内緒にする。しまむーの為でもあるんだよね? それなら、どんな頼まれ方したって私は答えないよ」

「助かる。じゃあ改めて、私の名前は渋谷凛。未央の察しのとおり、アイドルやってるよ。ただし、未来で、だけど」

「アーチャーは、英霊は時に過去以外からも選ばれるって言ってた。セイバーはまさにその例外。未来の英霊、いやアイドルだったわけか」

「まあ、そういうこと。ただまあ、英霊なんてものに召し上げられるようなこと、私はまだした覚えないんだけど」

「その辺りも例外なんだと思う。たぶん状況がよく似てる茜ちんと、同じ理由があるんだろうね。ぱっと思いつくのは抑止力くらいだけど、いずれにしても、縁のあった今回の聖杯戦争にしかセイバー、渋谷さんは」

「しぶりんでいいよ」

「いやそこは凛じゃないの!? ……まあいいや、しぶりん……、は今回以外で召喚されることはまずないと思うよ」

 サーヴァントにとって召喚されての現界とは、まずありえない二度目の生である。過去にやり残したこと、生前の後悔、その雪辱を果たすために聖杯に自身の受肉を望むサーヴァントも少なくない。

 一方で、受肉の道を選ばない場合。それは二度目の生の終わり、つまり二度目の死、あるいは消滅を意味する。

 セイバー、凛に卯月を守る以外の願いが本当になかったのか。未央にそれは分からない。ただ少なくとも、これから聖杯を破壊することを考えれば、受肉にしろそれ以外にしろ聖杯で願いは叶えられないことになる。そのことを承知した上で凛は未央に協力してくれている。

 それが、自分を犠牲にしてでも卯月を守れる、一番確かな手段だと信じているからなのか。それは違う。未央にはそう思えた。

「あのさ」

 そして、一つだけ思いついた。

「もしかしてだけどさ。しぶりんがしまむーを守りたいのは、もしかしたら、しまむーのためじゃ、ないんじゃないのかな」

 凛の足が止まった。未央は言ってはいけないことを言ってしまったと思いながらも、恐る恐るその表情を伺う。しかし凛は怒っていなかった。うつろをつかれたように、口をぽかんと開けて固まっている。

「しぶりん? セイバー?」

「……未央」

「ん?」

 ようやく動きが戻った。

「どういうことなのか、説明して」

「いや、別にそんなたいしたことじゃないんだけど」

「かまわない。早く」

 強く急かす凛。その強い瞳に促されて、未央は思ったことを慎重に選んだ言葉で口にした。

「いや、なんていうか。しぶりんはさ、自分の、アイドルとしての在り方とか、生き方とか、そう言うモノ。それにしまむーが深く関わっていることを知っていて、しまむーがいなければ、アイドル渋谷凛が生まれなかったと思ってるんだよね。だったら、しぶりんがしまむーを守りたいのは」

 

「しぶりんをアイドルにした、しまむーとの出会いを守りたいんじゃないのかな」

 

 氷を融かしていく水のように、未央のその指摘は凛の奥深くへすんなりと染み込んだ。

「そうか。そういう、ことだったんだ」

「しぶりん? 大丈夫?」

「平気。ううん、それどころか、大事なことに気づいた気がする。……照れ臭いんだけどさ、まあでも、一応言っとくよ。未央、ありがとう」

「いやそんな。本当にたいしたことじゃないって」

「そうだね、たいしたことじゃない。でもその、たいしたことじゃないことが、どれだけ深く人の心を救うのか。私はよく知ってるんだよ」

「突然何さ。…………それ、しまむーのこと?」

「まあ、ね」

 凛は道の先を見る。風が強くなっていた。ゴールも、きっともうすぐだろう。 

「……未央、そろそろ質問に答えるよ」

「質問? ごめん、何のことだっけ」

「忘れたの? ほんの数分前だよ?」

 面目ないと返す未央。それを凛は気にしていなさげに流した。

「アイドルがどんなものかってやつ。それを聞くまでに、なんかずいぶん遠回りした気がするけど」

「だね。まあそれもこの際、気にしないことにする。それで? アイドルって、やっててどう? 楽しい?」

「うん。楽しい。アレは、そこに立つことでしか分からなかった」

「ずいぶん抽象的だね。まあでも、ちゃんと分かる。だって今のしぶりんの顔、いままでで一番輝いて見えたし」

「そう? まあ、そうなのかもしれないね。——————ただそれでも、未央がアイドルになろうっていうのなら、これは言っておかなくちゃいけないかな。

 アイドルはさ、ずっと輝いていられるわけじゃないんだよ」

「…………」

「がんばり続けて、たくさんの傷を負って、それを笑顔で隠し続けて。本当に心の底から、笑えなくなってしまった子を、私は見てた。最後の時までその子は、私にだって隠し続けて、だれもに笑顔だけを向けて、一人で傷を抱えてた」

 それが、おそらくは卯月のことを言っているのだろうと、未央は会話の流れから察していた。

 その上で思う。これも、比べるべきではないのだろうと。魔術師として生きてきた六年間、それと、今の凛の話にあった女の子、おそらくは卯月の時間。どちらが苦しいかなんて、とても比べられるものじゃない。ただ少なくとも、その二つが、

「……そんなの、人間にできることじゃないよ」

 そう、思えてしまった。

「はっきり言って異常だよ。だれの前でも、何をしていたって笑えるなんて、そんなの、正気の人間にできることじゃない。そんな笑顔を貼り付けたまま生きていくことが、アイドルの生き方だっていうのなら——————きっと私には、その道は重すぎるよ」

 けれど、凛はそれを否定する。

 

「それは、違う。違うんだよ、未央。

 笑顔なんて、笑うことなんて、だれにでもできる。ただ、そうあり続けることが、だれにだってできることじゃないだけなんだ」

 

 だから、笑うことを忘れてしまった人にとって、その当たり前の輝きは人生を左右するほどの救いになる。凛だって、そんな卯月の笑顔に何度も守られていた。

 卯月の笑顔があったから、凛はアイドルになろうと思えた。

 卯月の笑顔があったから、プロデュサーは未央と正面から向き合えた。

 

 ——————島村卯月はこれからも頑張り続ける。

 頑張らないように頑張ると言った彼女の言葉も、絶対に信頼できるわけじゃない。

 笑顔で傷跡を隠し続けて、つらいのを押し殺して、ずっと自分を責め続けて。

 そうやって何度も、卯月はサイズの合わないガラスの靴を履いて、痛みとともに笑顔で踊り続ける。

 誰もが言うはずだ。

 もうやめにすればいい。

 もう休めばいい。

 もう頑張らなくていい。

 もう、無理に笑うなんてしなくていい。

 それでも卯月は、きっと何度だって星を目指して歩いていく。その歩みを、いつか本当に歩けなくなってしまうその日まで、卯月は止めたりはしないだろう。

 卯月自身がきっとそう望んでいるから。

 そして何より、凛自身がその在り方を、綺麗だと感じていたから。

 

「——————だから、守らないと」

 

 いつかまた、魔法がとける日が来るかもしれない。一人では立ち上がれずに、二度と笑えなくなるかもしれない。その時には、今度は二人で、三人で、みんなで、肩を組んで歩いて行けるように。

 

「私、渋谷凛は、卯月の笑った顔が大好きなんだから」

 

 また一つ、細氷を砕いて奥へと進む。

「そっか。しぶりんは、自分たちが歩いていく未来を守るために戦うんだね」

 未央は一人で納得して、誰にも聞こえない声で自分ただ一人だけに向けて呟いた。

 

Interlude out

 

 

 しぶりんは未来のために戦うらしい。では、私の戦う理由はなんだろう。

 この円蔵山には昔、龍が住んでいたという伝説が残っている。それに沿うようにして長い一本道を抜けてきた。なら当然、珠である聖杯があるのはその手元だ。

 一際細い横穴の先に大きな空間が広がっていた。その中央に、黒く染まった魔力が渦を為して巨大なエネルギーの塊をなしている、超抜級の魔力炉心を見つけた。

「あれが、大聖杯」

 術式なんて見えなかった。それでも分かる。確かにあそこにある莫大なまでの魔力なら、なんだってできる。まぎれもなく万能の願望器、聖杯そのもの。その不良品。

 そして、私がこれまでの六年間、戦ってきた理由。

 この世全ての悪(アレ)を前にしてまで私は、この六年間が間違っていたとは思えなかった。何かを為すためには別の何かを損なう必要がある。それは当たり前のこと。

 この魔術刻印のために大勢が犠牲になってきた。それがいまさらどれだけ増えたって、変わりはしない。結果的に世界が滅んだって、私は受け入れるだろう。

 

 ——————それでも、そこにあーちゃんが入っていることだけは、我慢できない。

 

「未央」

「分かってる。覚悟は、決めてきたから」

 聖杯は、あーちゃんは、神秘の秘匿を犯す魔術師の敵。

 大好きな家族が私の人生を天秤にかけてまで、捨てきれなかった魔術。それをこれからも私が選び続けるのなら、今この瞬間、高森藍子は本田未央が倒すべき悪だ。きっと魔術師としての理由では、どうやったってあーちゃんを救えない。

 だからここからは、それ以外の理由が要る。

 魔術師本田未央ではなく、アイドル本田未央でもない。何者でもないただ一人の私が、心の奥底からそうしたいと叫び出せる、ただ自分一人のためだけの理由が。

 

 そのために、この六年間の全てを、魔術刻印に刻まれた数百年を無に帰す。

 

「いいの? それは、未央だけじゃない。貴女までつないできた家の歴史、それに捧げられてきた人たちの犠牲を、全部なかったことにするのと同じだよ?」

 隣に立つしぶりんの声と、内にまだ残っている魔術師としての声が重なった。

「かまわない。あの時取れなかった手を取れるなら。抱きしめられなかったその肩に、もう一度触れられるのなら。失くしてしまったあの眩しい笑顔を、もう一度咲かせることができるなら。もう、あーちゃん以外のなんだっていらない!」

「そう、いいよ。行こう、未央」

「うん。行くよ、しぶりん」

 

「——————刻印、全封印解除」

 

「五停心感正常機能。対象、観測終了。使用範囲、二人、確定。詠唱開始」

 これこそ本田の家が求めた究極の精神感応。

法雲(ホウウン)善想(ゼンソウ)

 肉体から魂の概念を一時的に分離。

不動(フドウ)遠行(オンギョウ)

 純粋な情報体に分解、変換。

現前(ゲンゼン)難勝(ナンショウ)

 サイズ、フォルムの概念を霊子境界線(ボーダー)に固定。

(エン)明地(ミョウチ)

 数値を聖杯内部に代入。

離垢(リク)歓喜(カンギ)——————」

 心象空間の深部領域に到達後、精神体として再構成。

 

「偽・万色悠滞」

 

 私の知らない未来、私の知らない誰かが、この世全ての人(自分一人だけ)の救いを願って組み上げた、人類を文字通りダメにする術式。外法も外法、最奥のそのさらに奥、本来この身一つではどうやったって届くことの無い禁術。

 それを私は、今日までの歴史全てを踏みにじって、自分が助けたい物のためだけに使わせてもらう————!

 

深層落下(スパイラル)開始(スタート)!!」

 

 










『そこを退け。お前がいたままだと、卯月/あーちゃんが笑えない』







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13/S(mile)ING(2)

アンリマユと佐久間まゆって、ひびきが似てませんか?
配役理由はそれだけです。他意なんて当然ありません。ありませんよ?
リボンとかも共通してるなあとかそういうことまで考えたりはしていませんから。


 念願叶ってアイドルになれました! わたしは今、とても充実しています。

 

 ——————地獄を見ました。

 

 わたしと同じ夢を見て、それぞれに光り輝くものを持つ、大勢の人たちにも出会えました。

 

 ——————地獄を見ました。

 

 負けないように、わたしも頑張らないと! いつかあの、キラキラと輝く星に手が届くように。

 

 ——————地獄を見ました。

 

 どうしてでしょう。わかりません。

 

 ——————地獄を、見ました。

 

 見つかりません。キラキラと輝く、自分だけにしかない何かが、どれほど探しても見当たりません。

 

 ——————いずれ辿る、地獄を見ました。

 

『笑顔なんて、笑うなんて、誰でもできるもん』

 

 ———どうして、そんなことを言うのでしょう。わたしには分かりません。

 ただ、その顔があまりにも苦しそうだったから、きっとそれ相応のことがあったんだろうと、他人事のように見つめていました。

 それでも、一つだけ。

 

『何にもない。私には、何にも』

 

 吐き出される言葉のすべては、きっと真実なんだろうと、すんなり受け入れられました。

 誰にとっての真実かなんて疑うまでもありません。ここは聖杯の中、そこに詰まっているのはこの世全ての悪だとイリヤちゃんは言っていました。なら、人を最も効率的に追い詰める方法を知っていてもいてもいいはずです。

 つまるところ、これは(わたし)なんです。

 人は誰しも自分が一番大切で、それ以上に自分がどれだけ醜いのかを誰よりもよく知っています。だから自分だけには何を言われても、人である以上受け入れるしかないんです。

 それは時に、銃弾で胃に穴を開けることに似ているかもしれません。

 それは時に、首を吊ることに似ているかもしれません。

 それは時に、自分を火であぶることに似ているかもしれません。

 いずれにしても、死ぬほどの苦しみが永遠に続くことなのでしょう。そうなれば人間はいつか終わってしまう。苦しみに絶望して、体よりも先に心の方が死んでしまう。

 

『笑うなんて、誰でもできるもん』

 

 ああ、またです。

 もう何度繰り返されたのか分からないので、既に数えることは諦めていました。

 それでもイヤなものはイヤなんです。聞きたくないことは聞きたくないんです。

 ただ、耳をふさぐ手も、その耳も、当の昔に融け落ちてしまっていたので。心だけに届けられるそれを聞かないようにする手立ては、実のところ一つもないのですけど。

 ——————ですけれど。

 

『笑顔なんて、誰でもできるもん』

 

 やめて。

 やめて。

 やめてやめてやめてやめてやめて。それ以上……、

 

『何にもない』

 

 それ以上、言わないで。

 

『私には』

 

 同情なんてしません。

 同情なんてしません。

 同情なんて、したくありません。

 だけど、唯一残ったこの足がこれから先、その道を歩むことになるのだと。これ以上思い知ってしまったら。その時には、心が欠けてしまいそうになります。

 なので、

 

『何にも——————』

「……っ、もう。やめてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」

 

 力いっぱいに叫びました。

 声が出たことに自分で驚いて、思わず膝をたたんでへたり込んでしまいます。膝をたためたことに驚いて、もしかしたらと全身を見渡してみれば、腕もちゃんとありました。見えるということは、眼も無事なわけで、きっと顔だって同じなのでしょう。

 

「あら。やめてしまうのですか?」

 

 音も拾えている。ならきっと耳も大丈夫……、え?

 今確かに、声が、ずっと繰り返されていた声とは別の物が、聞こえたような。

「聞こえて当然です。あなたはマユの中にいて、マユがお話しようと決めたのですから。あ、発言権もちゃんとありますので、声帯もきちんと機能していますよ」

 声の主は、目の前にいました。こんなに近くにいたのだから、もっと早く気付いてもよかったのにと思えるくらい、近くに。

 その姿は、とてもかわいらしい女の子の形をしていました。フリルを多くあしらった女の子らしい服装で、たくさんつけられたリボンが特徴的な、そんな世間一般にかわいいとされる要素の大半を敷き詰めたような、女の子。

「……あなたは?」

「初めまして、卯月さん。いえ、マユがどういうふうに貴女の目に見えているのか、マユも分かっていないので、もしかしたら、よく知っている人の殻かもしれませんけど、その時はどうか悪しからず。けれどその上で、初めまして。この世全ての悪(アンリ・マユ)。その消化器官を担っています宝具『偽り写し記す万象(ヴェルグ・アヴェスター)』が形をとったモノです。マユ、と呼んでください」

 

 

「ええっと、あの、まゆさん」

「まゆではありません。マユと呼んでください」

「はあ」

 その二つに一体どんな違いがあるというのでしょう。よくわかりませんが、ひとまず思い浮かべる単語を修正して、それからもう一度呼びかけてみました。

「マユさん」

「はい。卯月さん」

 今度はちゃんと返事を返してくれました。

「お話とは何でしょうか」

「……私は、貴女を消しに来ました」

 にこりともせず、逆に残念そうな表情を浮かべることもなく、マユさんは無表情で言い放ちました。その顔は魔術を使う時の未央ちゃんの顔に似ていた気がします。そうするべきなのだと受け入れている。そうすることが、最も簡単で手っ取り早い手段なのだと。

「先ほども言いましたが、マユはアンリマユの宝具です。()の持つ呪いを対象に転写し、他者を上書きする。この場において、呪いとはすなわち彼のことですから。呪いになれば、すぐに彼の一部として扱うことができます。

 ですがそうなっては、もはや貴女は彼であって貴女でない。それではマユの望みが果たせない。これも、殻を与えられたが故の余分。前回の聖杯戦争参加者の言葉を借りれば、心の贅肉、とでも呼ぶべき望みです」

「その望みを叶えるために、あなたはわたしをまだ生かしていると?」

 マユさんは頷きました。

「…………。一体、どんな望みを」

 正直に言って、とても怖いです。今すぐにでも逃げ出してしまいたいです。けれど、脚が動きません。それどころか手も、腕も、顔も。ほんの数秒前、どうやって声を出していたのかも思い出せません。

 それも当然でした。わたしの体はもうすでに疲れ果てていたんです。鏡を見せられて、見たくもないモノを見せられて。本当ならとっくに心が壊れていてもいいはずなのに、それだけは譲れないと意地を張っていました。だから心の代わりに体が壊れていたのでしょう。

 ただそこにあるだけの案山子同然になったわたし。それでもわたしであるなら意味はあるとでも言うように、マユさんは語り口を止めません。

「そう難しいことではありません。たった一つだけ、知りたいことがあるだけですから。ええ、生まれたいと願う彼のおもちゃですからね、マユは。なら、その次に原始的な欲求を持ったとしても、何もおかしくないでしょう。むしろ納得すらしてもらえるんじゃないかと。すみません。ずいぶん長々と言い訳がましいことを言ってしまって。それでも、こうでもしないと、聞くことすらおこがましく思えてしまうような、そんな自分本位にすぎる問いなものですから。

 では、聞きますね。

 貴女はとうに満身創痍、精神は摩耗し魂は折れかけ。それでもまだ、あきらめていないのでしょう? そんなにまで憧れられる、アイドルとは。果たして何者でしょうか。はい、この外殻からだいたいのことは聞いています。けれどです。けれどなんです。たかが偶像、そのためにここまで文字通り身を粉にできる理由が、果たして貴女の夢にあるんでしょうか」

 

「——————そんなの、あるに決まってます!!」

 

 体ではなく、気持ちでもなく、心が、そう叫んでいました。

 なのでこの瞬間だけはどうやって声を出せばいいのか、思い出せていました。そうして取り戻した声で、マユさんの疑問を全霊で否定します。

 

「特別じゃない自分にも笑顔を届けてくれる、その存在に憧れました。

 多くの人に元気を与える姿を見て。その姿がこれまでたった一度も見たことのないほどに、輝いていて。この世界の誰よりも、幸せに見えたから。

 だから、いつか自分もあんなふうに、誰かに笑顔を配れるような人になれれば。その時までずっと、自分にただ一つあると信じられる、あの日もらった笑顔を守り続けていれば。

 きっとその時には、きらきらと輝ける自分になれると、そう信じたんです!」

 

「……負けません」

 意味なく像を映しているだけだった瞳に、もう一度力を込めて。

「アイドルは、アイドルの笑顔は、その輝きは! どんな呪いにも、負けません!!」

「…………そうですか。たしかに、貴女の言う通りなのでしょうね。この殻もそうだと言っていますから。ですが」

 全身に込めた力が、一気に抜けていくような感覚がしました。

 

「——————貴女に、その輝きはありません」

 

 折れかけていたガラスの心が、その一言で完全に砕けてしまいました。手先から、なにか生温かいぐちゅぐちゅしたものに沈んでいきます。

「まだ、消しはしません。せめて泥の中から出直してください。自分の力でそこから出られた時には、またお話ししましょうね」

 そう言われて初めて気づきました。あの鏡の地獄が、この泥の中であったことを。そこから一時的にせよ出られたのは、彼女の気の迷いのおかげであったことも。

「(いやだな)」

 自分が絶望しているところなんて、もう二度と見たくありません。けれどまた見ることになるのでしょう。もう体のどこにも力が入らず、泥の淵に手を伸ばすことすら億劫でした。

 そうしてわたしはまた、鏡を見せられるのです。

 

『何にもない。私には、何にも』

 

 もう、何にも。自分の声以外、何にも聞こえません。

 

 




宝具のマテリアルが更新されました。
(読み飛ばし可)

・サクママユ/偽り写し記す万象(ヴェルグ・アヴェスター)
 ・聖杯に取り込まれた卯月が見た幻。アンリマユの宝具が卯月にとって一番分かりやすい殻を被って現れた姿。一人称『マユ』、『まゆ』なるもの、ではない。
 ・とある平行世界では黒アイリとも(ただし若干、ないしだいぶ中身に違いがある)。
 ・アンリマユが負っている呪い(傷)を対象に転写する能力を持ち、中々折れない卯月にとどめを刺そうとアンリマユ本体が遣わした。
 ・名前に縛られやすいらしく『マユ』と呼ばせるのは、『佐久間まゆ』の強烈なパーソナリティに完全に飲みこまれないようにするため。その場合、役目や自分のしたいことに支障が出ると考えている。手遅れな気がしなくもないが。


 「凛さん、急いでくださいね。早くしないと、マユが手を下すまでもなく、卯月さんは融けてしまうかもしれませんよぉ」


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14/星を示す者

なんちゃって型月設定全開。
ツッコミどころ多数ですが、ここだけの無茶と流して、暖かい目でお読みください。


Interlude

 

 それはいかなる術理によるものだったのだろう。

「しちこうふんけつ……? です!!」

 茜は、アーチャーの指示通りに体を動かしているだけだった。それだけで、三つ。一度は手詰まりと感じた壁がみるみる内に崩れていったのだ。

 今も茜が呼吸を整えて放った一撃の数秒後、バーサーカーは全身から血を噴き出して倒れてしまった。その様子に茜は、事務所で同い年の安部菜々から貸してもらったマンガのワンシーンを思い出す。

「お前はもう、死んでいる…………。ですね!」

「いいえ、アカネ。あと二回です」

 アーチャーの冷静な指摘を受けて後退する茜。バーサーカーが十度目の蘇生をしている中、アーチャーと合流する。

「それで、最後はどうしましょう?!!」

「はい。 事は順調に進んでいます。ですので、最もシンプルに」

 神授の智慧。

 ケイローンはギリシャの神々より多くの知恵を授かっている。それゆえ、彼に不可能はなく。多くのスキルをBランク以上で再現し、また、他のサーヴァントに授けることも可能である。

 とはいえ、元はギリシャ時代に得た知識。当然その中に中華武術なんてものが入っているわけもない。二度目でウルクアーツなんてアーチャーが言い出した時には、さすがの茜もいやそれはおかしいと言わざるを得なかった。

 これを受けてアーチャーは、

「学習しない教師など教師ではありません。教師とは、日々他人の技術をよく見てよく学び、取り入れ盗み、成長していくものです」

「なるほどーー!!」

 圧倒的にツッコミが不足していた。

 一応、八極拳については言峰が自然と行っていた歩法からつかんでいたようだが、それにしたって、アーチャーの卓越した観察眼なしには考えられない話である。

「■■■■■■■■ーーーー!!!」

 それもすでに過去の話。事ここにあって可能か不可能かはもはや論題にならない。やるかやらないか。茜にはバーサーカーを乗り越えて、その上でなおやることが残っていた。

 だから、ここではまだ脱落できない。疑似サーヴァントである以上、死ぬような無茶をしても命まで失うことはない。けれど、やれることは極端に減ってしまう。

 死ねないなら、生きるためになんでもやる。そのための一番の上策をアーチャーが考えてくれる。ならもう必要以上のことを考えている暇は自分にはない。この体でできる全てを彼に委ね、彼の期待に応える。

 茜にはそれがプロデューサーへの自分の気持ちと、なんとなく似ているように思えて、がぜん気合が入った。両頬を叩き、膝を鳴らして走り出す。

「——————強化!」

 教えられた通りに、文字を刻んだ拳に魔力を回す。突進してくるバーサーカーに応じてこちらも突進。まるでラグビープレイヤー達が百人同時にぶつかってきたような衝撃。それでも日野茜は負けられない。

「どっっっせええええええい!!!」

 根性と意地、強化された両拳、そして令呪によりブーストされた筋力の全てをもって、正面からバーサーカーを吹き飛ばした。

「——————加速!!」

 二段階目。両足両腕に魔力を通し、音速を軽く超えてバーサーカーの大きく開いた懐へ。その勢いを殺さぬままに、

「——————相乗!!!」

 最後、鋼鉄を越える硬度となった拳を目にもとまらぬ速さで、突き刺すようにバーサーカーの心臓へ。掴んだ。つながっていた血管全部を引きちぎって、体の外へ引きずり出す。

 成功した。巌の巨人は脱力し、その場に膝を着く。これで後は蘇生が終わるのを待ってから、アーチャーの宝具でとどめを——————

「(いや、まだ!)」

 直感。突然鳴り出した危険信号。両腕を胸の前で十字に重ね、ガード体制をとる。それから一秒にも満たないうちに燃えるような痛みが走り、茜は空高く殴り飛ばされた。

 地面が遠く見える。着地地点が大まかにつかめた。そしてそこに向かって走るバーサーカーの姿。十二の試練は発動しなかった。戦闘続行、最後の命を目前にして、ギリシャ最大の英雄は心臓を失ってなお動いていた。

 一方、茜にとってこの状況は非常にまずい。先ほどの一撃で腕の骨が折れた。なくならなかっただけマシであり、治すだけなら後でいくらでもどうにかなる。けれどこの戦闘中に使うことはできなくなった。もう茜にバーサーカーを殺す手段はない。そして落下地点に待ち構えられている以上、地面に着いた瞬間にひき潰される。それでは倒すどころの話ではない。

「(それでもどうにかして、生きないと!!)」

 往生際の悪さなら、茜だって負けない自信がある。体を捻る。魔力の通る場所を燃やして気流を変える。少しでも着地地点をずらして、バーサーカーの一撃を躱す。その後のことはその後に考える。

 これで、どうにか——————

「——————アーチャー!?」

 落ちている茜よりも、走っているバーサーカーよりも先に、アーチャーが落下地点に立っていた。

「受け止められず申し訳ない。ですが、ここは私が」

 アーチャーは弓も何も持っていない。徒手空拳で暴風(バーサーカー)を迎え打とうとしている。多くの加護ありきで茜が行っていたそれ。どれほど難しいことなのかは茜自身が一番よく知っていた。このすぐ後に、自分の代わりにアーチャーがひき潰されてしまうことは考えずとも分かる。

 けれど、瞬きの後、吹き飛んでいたのはアーチャーではなく、バーサーカーだった。

 不思議な動きだった。それは柔道に似ていたような気もするし、柔道にはない実践的に相手を直接傷つける動作も含まれていたように茜には見えていた。

 パンクラチオン。ギリシャ語で『全ての力』の意味を持つ原初の総合格闘技術。これをもってアーチャーはバーサーカーを投げ飛ばした。

「無事ですか? アーチャー!」

 どうにか安全に着地できた茜は、構えを解いたアーチャーに近寄る。

「残念ながら、互いにそうとは言えないようです」

 アーチャーの左腕があり得ない方向に捻じれていた。これでは茜の両腕同様、この戦闘中は使い物にならないだろう。

「どうしましょう。撤退しますか? アーチャー」

「いえ。それは無理でしょう。ここまで追いつめた我々を、彼がそうたやすく逃がすとは思えません。なにより、そのようには教育していませんから」

「では他に打倒手段は? まだ足は使えますよ」

 その場でジャンプして見せる茜。アーチャーはそれが相当な無茶の上での行動だと見抜いていた。茜の提案に首を振り、

「いいえ。貴女はもう十分に戦いました。ですのでここからは当初の作戦通り、私の仕事です」

 残るバーサーカーの命は二つ。これを残り一つまで茜が削り、最後にアーチャーの宝具で終わらせる。それが二人の作戦。失敗はした。それでもまだ完全に終わったわけではない。

「宝具の威力を上げます。彼の命を、追加でもう一つか二つ同時に削れる程度まで」

「…………ですが、それは」

「はい。本当にこれが、私の最後の一撃になるでしょうね」

 もともとアーチャーの宝具は威力を追及したものではない。誰よりも早く撃つこと、それに重きを置いたもので、一日に一度しか撃てず威力も大軍や城落としに使う宝具なんかとは比べ物にすらならない。バーサーカーの命をどうにか一つだけ削れる一撃、その破壊力を向上させようとするのなら、当然、命を懸ける必要がある。

 それでもいいと、アーチャーは思っていた。なぜなら、

「おいたをしでかした生徒には全力を以て当たる。昔も今も変わらぬ教育の基本ですよ」

 可愛い教え子たちのためなら、終わりあるこの命など惜しくはない。その誇りだけは、遠く神代から彼の中で変わらずに輝き続けていたのだから。

 アーチャーが誰にも譲ることなく守り続けた誇り。それを前にして、茜はもう彼を止められなかった。それが少しだけ悔しくて、けれどこの感情を表には出したくなくて。せめてもの強がりを、茜はいつも通りの笑顔で返した。

「今だと、体罰で訴えられますけどね!!」

 二人は戦場で笑っていた。腕はともに折れ足も震え、心臓は早鐘を鳴らしている。それでも、負ける気はしなかった。慢心はしない。一歩でも踏み外せば失敗することが分かっている。それでもこの瞬間だけは何が何でも絶対に成功させる。

 笑い声はバーサーカーが立ち上がるまでの、ほんの数秒間だけ交わされた。それが終われば、二人はもう互いを見ることなんてない。自分のやるべきことを、自分にできることを、精一杯に。

 先ほどまでとは逆に、アーチャーが前へ飛び出す。当然すぐにバーサーカーとぶつかることになるが、彼に対処している暇はない。本来準備時間を必要としない宝具を、本来の用途外で扱うために少しの時間がいる。それを茜が稼ぐ。

「あの人を守って!! 『火山大大大噴火(みなぎれ!ボボボンバー)』!!!!!」

 そそり立つ炎の壁。ここにかの太陽の騎士ガウェインがいたのなら、あるいはこう呼んだかもしれない。

 決着術式(ファイナリティ)聖剣集う絢爛の城(ソード・キャメロット)

 炎熱の城壁。けれど決着の場を守るために使われるそれとは違い、茜の焔が覆っているのはアーチャー一人だけ。

 準備が整うまで、彼には少しだって触れさせない。茜だけではない、彼女の霊基に刻まれた全ての意志による絶対防御。それはむしろ基にあった宝具『いまは遥か理想の城(ロード・キャメロット)』の性質に近い。

 触れるだけで身を灰にする灼熱に突進するバーサーカー。押し通れはしない、けれど体が燃えることもない。すでに茜の宝具による炎で一度死んでいる。一度経験した死に方でギリシャの大英雄は死なない。何度でも、開かずの門を叩き続ける。

「……っぐ! うああああああああ!!!」

 城門が開くことはなかった。それでも維持できる時間は限られている。アサシンとキャスターが復活しないよう泥を燃やし続けている炎も未だ展開中だった。もって、あと三十秒。

「——————それほどの長い時間、貴女に苦行を強いるわけにはいきませんね。ええ、それは教師の沽券に関わりますので」

 炎の中、宝具の解放準備は無事終わる。

 最後。本当にわずかだけ許された時間。アーチャーはこの聖杯戦争中にできた新しい教え子たちを思った。

 彼女らはアイドルになる。その隣に立つのは教師である自分ではない。プロデューサーと呼ばれる、彼女たちを導く者。

 その存在が、彼にはすこし羨ましく思えた。

「同じ教え導く者であったとしても、教師では、ともに歩んでいくことはできませんから。

 ですが、その私にも、彼女たちに目指すべき星を指し示すことくらいは、きっとできるはずです。そう例えば、こんなふうに——————」

 炎の城壁は二十秒とたたずに消え去った。城門を抜け、かつての教え子がアーチャーの前に姿を現す。アーチャーはその瞳をまっすぐに見据えた。

 ——————そして射手は、弓を持たず、その指先で星空を射貫く。

 

 

「『極光・天蠍一射(アンタレス・スナイプ)』!!!!」

 

 

 

 

 

「本当に、たおしちゃったんだ」

 焼け焦げた柳堂寺の境内。山門でその闘いを見守っていたイリヤ、そして辛うじて立っている茜の他に、残っている者は誰もいなかった。

「イリヤさん。アーチャーは」

「問題ないわ。バーサーカーと一緒に回収できてる。後は」

「はい。後は、聖杯を閉じるだけ、ですね」

「なんだ。あなた、そこまで知っていたのね」

「これでも、抑止力に呼ばれた神霊ですから。きっと一週間もすれば忘れますけど」

「その方がいいわ。知っている人なんて最小限にするべきだもの」

 山門から離れ、イリヤは茜に近寄る。

「傷を見せて。簡単にだけど、治癒魔術をかけておくから」

「ありがとうございます」

 一小節の短い詠唱。傷口は塞がり、折れた骨も元に戻った。けれど、この腕での無茶は今日限りはもうできないだろう。

「(まあ、もう誰とも戦う必要はないので、十分なのですが)」

「それじゃあ、連れて行ってくれる?」

「あ、すみません。少しだけ、待ってもらってもいいですか?」

「かまわないけど、手短におねがい」

「分かりました」

 空を見上げる。二月初旬の空気は澄み渡り、深夜になって街明かりが消えたこともあってか、頭上には満天の星空と呼ぶにふさわしい光景が広がっていた。

「あれ? イリヤさん、射手座ってどこでしたっけ? すっごい目立つ一等星が近くにあるので、簡単に見つかるはずなんですけど」

「射手座は夏の星座よ。むこうでならこの時期でもぎりぎり見れるだろうけど、日本からだったら地球の反対側にしか見えないわ」

 そう言って境内の石畳を指さすイリヤ。当然、境内に何かが落ちているわけではなく、その奥、地球の裏側から見える星空を指している。

 ではあの時、アーチャーはどこを指さしていたのだろう。茜はなんだかおかしく思えて笑う。たしかあの時、彼はこう言っていたはずだ。目指すべき星を示すことができるはずだと。

 それをこうやってあいまいにしていくのは、何とも彼らしいというか、逆に彼らしくもないというか。こういういい加減さは未央(マスター)に似たのかもしれない。

「(まあ、いいです。わたしが目指す星は、とっくに決まっていますから)」

 それに、こんな風にだって考えられる。例え地球の裏側からだって、彼の矢は届いた。それはとても勇気をもらえる想定だ。

 息を吸う。遠く先、彼が待つ星空に届くように、

 

「ありがとうっっございましたっぁぁぁぁああ!!!!!!!」

 

 大きな声を茜は上げた。森が震える。何事かと住宅の明かりが数軒点いたが、それもすぐに消え、辺りはまた元の静けさを取り戻した。それで茜は満足した。届いたかどうかも分からないが、彼なら聞いていてくれていると信じた。

「行きましょうか!!」

 頷くイリヤの手を取って、茜は森の中に踏み入る。

 暗い森。夜闇につつまれ数メートル先も定かでない。それでも目指すべき場所は決まっていた。だから、迷うことなく進んで行ける。

 星のきれいな夜だった。

 

 

Interlude out




サーヴァントのステータスが更新されました。
(読み飛ばし可)

・アーチャー/ケイローン
 ・未央のサーヴァント。
 ・未央との縁は、彼女の生まれ月の星座が射手座だったこと。少し弱いが、そこは迷える生徒候補を放って置きはしないだろう、アーチャーの人徳のなせるわざというところでどうにか。
 ・聖杯は手に入らなかったものの、教え甲斐のある生徒に恵まれ終始うっきうきだったり。そのため未央との関係も、フィオレには及ばないが、ぐだと同程度には良好。
 ・秩序・善・地
 ・ステータス
  筋力B 耐久B 敏捷A+ 魔力B 幸運C 宝具A
 ・宝具
  ・天蠍一射(アンタレス・スナイプ)A 対人宝具
 ・スキル
  ・対魔力B
  ・単独行動A
  ・千里眼B+
  ・心眼(真)A
  ・神性C
  ・神授の智慧A+
  ・永生の奉献EX

 「アイドルは星を目指して輝く、ですか。ええ、射手座(私)はいつだって貴女達を待っていますよ。いつかまた、その時にお会いしましょう。どうかその時、我が星々のいずれよりも強く輝いていることを願って」


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15/SUN FLOWER(2)

ひまわりは太陽と奇跡的なほどにベストオブザカップルなんだもの、ま、是非もないよネ。


Interlude

 

 ヒマワリの花びらをまた一枚、もう一枚とちぎっていきます。花占い。いくつあるのか見当のつかない、けれど、決して永遠ではない問いかけを、気が遠くなるほど繰り返していました。

 好き。嫌い。好き。嫌い。好き。…………、嫌い。やっぱり、好き。ちがう、嫌い。もしかしたら、好き。ううん、嫌い。好き、なわけない。でも。

 …………ねえ、未央ちゃん。あなたは私のこと、どう思っていますか?

 答えが出るその時まで、私は果たして、私のままでいられているのでしょうか。

 

『ああ、ごめんごめん。なんかすっかり元気になったんだなって安心しちゃってさ。うん、ほんとうに良かった』

 

 あなたの笑顔を見たあの日から、胸の鼓動が少し大きくなりました。

 思うだけで幸せになれて、あなたが私の隣にいるだけで安心できて。

 それなのに、その笑顔が私に向けられるとなると、なんだか見ていられなくなって。そのくせ、あなたがそばにいないと不安になって。あなたの笑顔が足りなくなってしまうと、もう、私が、私じゃなくなってしまう気がしていました。

 

『——————ホシイノカ? オマエモ』

 

 ……はい。欲しいです。

 未央ちゃん、私、あなたが欲しいです。あなたがいないと、私、こんなにもダメなんです。私、あなたがいなくちゃ生きていけないんです。

 知りませんでした。

 私は私が思っていたよりもずっと欲張りでした。あなたへの思いでいっぱいで、ずっと満たされているはずだったのに、いつからか、もっと、もっとって思うようになってしまっていたんです。 

 

『——————ナラ、オマエモワタシトオナジダ』

 

 ですけど、ダメです。ダメなんです。

 これ以上は、勝手には。

 

『——————デモ、ホシイノダロウ?』

 

 …………欲しいです。けど。

 それでもせめて、未央ちゃんの気持ちを確認してからでないと。

 

『——————アア。イッテコイ』

 

 満ち足りた一日でした。仲のいい先輩と、新しくできた友達と、大切な人と過ごせる週末。その終わりに二人きりでお散歩して、二人で夕日を見ました。

 ほんとうに、幸せだったんです。

「未央ちゃん」

 って、名前を呼んだら振り向いてくれて。

「あーちゃん」

 って、私の名前を呼びながら、笑いかけてくれて。

 私は、私が消えてしまうその前に、未央ちゃんから胸いっぱいの温かさをもらえました。これできっと、もう何があったって耐えられる。もうなんにも怖いものなんてない。

 はず、だったのに。

 

『ごめん。私には…………、あーちゃんの気持ちに答えられない』

 

 涙の熱さと、芯から広がる寒さに耐えられませんでした。ぞわぞわと胸の奥が苦しくなって、この気持ちのままに未央ちゃんに何か、取り返しのつかないことをしてしまうんじゃないかと、その場に立っていることが、自分自身が何よりも、怖く感じました。

 てきとうなことを言って、その場を走り去りました。

 どうして。

 どうして。

 どうして。

 未央ちゃんは追ってきません。はい、きっとこれが、答えです。

 未央ちゃんは私に何も求めて来ませんでした。私が欲しがっているほど、未央ちゃんは私を必要としていなかった。隠し事があることにも気がついていました。どこか遠ざけられているような気もしていました。

 

 だって、私たちは一度も、互いの手をつないだことすら無かったんですから。

 

 なのに、それなのに。未央ちゃんも私と同じ気持ちかもだなんて。そんな都合のいいこと、あるわけなかったんです。

 

『——————ドウダッタ』

 

 ダメでした。きっと初めから。なにもかもが。

 

『——————ソウカ。ナラ、モウ』

 

 私は、もう。

 

『——————オマエハ、ワタシノモノダ』

 

 落ちていく。溢れていく。

 暗い暗い孔の底から生まれ出ようとする誰か。この一年、未央ちゃん以上に私の側にいた何か。これから私は、彼を繋ぎとめるための楔になるんです。彼と一緒に、呪いを吐き出す孔になって、きっとこの優しくない世界を呪い続けるのだと思います。

 なんて自業自得。私は勝手に勘違いをして、勝手に絶望して、そして勝手に世界を滅ぼすんです。

 ですから、これはもうどうしようもないこと。

 たとえこれからの自分が、この一年必死に目指していた自分とは、全くの別物になってしまうとしても。優しい気持ちにするどころか、ただひたすらに死んでほしいと呪い続けるだけだとしても。もう、どうにもなりません。

 

『——————本当に?』

 

 ほんとうに。

 

『本当の本当に?』

 

 ほんとのほんとうに。

 

『本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当のっ、——————本当に?』

 

 …………。

 ほんとうは、心の底からイヤでした。

 ほんとうは呪いになんて、なりたくないです。誰かを呪いたくなんてない。誰も傷つけたくないし、その傷つける誰かに、私が恋したこの世で一番愛しいと思う人がいるだなんてことになったら、その時には。

 ここまで何とか保っていた自分があっけなく壊れてしまいます。

 

 ……自分の言葉に、自分で驚いていました。

 私、未央ちゃんに、——————恋、していたんですね。

 

 遅すぎです。手遅れにもほどがあります。もしもこれが、恋だっていうのなら、私、失恋してからになってようやく気づいたってことじゃないですか。

 これじゃあ、未央ちゃんのことを悪く言えません。

 

『もう一度、未央ちゃんに会いたくありませんか?』

 

 今更、何を。

 そんなこと、したって。だって私のこと、未央ちゃんは。

 

『未央ちゃんは、藍子ちゃんのことを嫌いだとは一度も言っていません!』

 

 それは。でも。

 

『答えてくれなかったその先、その本当の答えを、藍子ちゃんは聞きたくないんですか?』

 

 ……聞きたい。知りたい。けど、もうなにもかも手遅れで。

 マユちゃんからの連絡も途絶えました。卯月ちゃんだって、もう生きているのかどうか分からない。私ももうすぐ完全に溶けてしまう。もう何も、できることなんて。

 

『できることなら、たとえどんなときだってあります!! 助けてと叫んだでしょう!? 守ってと願ったでしょう!? なら! 本当の本当の本当に、最後の最後の最後! 試合終了(ノーサイド)のホイッスルが鳴り止むまで! わがままに! あきらめないで!! 求め続けて!!!』

 

 ——————。

 ………………誰か、誰でもいいです。

 助けてください。死にたくありません。私は誰も呪いたくありません。呪いになんてなりたくありません。誰も傷つけたくありません。誰も殺したくなんか、ないんです。誰か、誰か、私をここから出して。だって、だって。

 

「私はもう一度、未央ちゃんといっしょに、生きてみたいから!!」

 

『はい!!!! わかりました!!!!!! マスター(藍子ちゃん)!!!』

 

 光が、まぶしいくらいの光が。まるで太陽みたいに、孔の中の暗闇に光を。

 

『手を!! 伸ばして!!!!』

 

 言われるがままに、孔の淵に手を伸ばしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あーちゃん!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……みお、ちゃん…………!」

 

 その手を、私の手を、ようやく。

 太陽から差し込む日差しのように、降りてくる、私の大好きな温かな手が。

 

 強く、握っていました。

 

 

Interlude out

 



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16/Spring Screming(2)

みおあいルートもとい疑似HFルート完結。
デウスエクスマキナさんが酷使無双されておられるので、あらかじめご了承の上、お読みください。



 暗闇の中を歩いている。(何に)も見えないのに、(行き先)があることだけは分かっていた。

 一本道。分岐もしなければ、他に道もない。なら進むしか選択肢はない。

『引き返せ』

 そんなことはできない。また一歩、もう一歩と前へ。

『引き返せ。お前では、あーちゃんを救えない』

 それも違う。確かに、魔術師本田未央に、彼女を救うことはできない。けどもうその自分は置いてきた。ここにはただ一人の人間として立っている。

『それでもお前は魔術師だ。今だって、魔術を使いあーちゃん(聖杯)を求めている』

 ちがう。もう聖杯なんて欲しくない。あーちゃんを傷つけたモノなんて、たとえ万能の願望器だと言われたって受け取れない。そんなもの、これからこの手で壊しに行く。

『なら、話は早い。今すぐに引き返せ』

 ——————だから、いいかげん。何を言って!

『今からでも遅くはない。すぐに引き返して、あーちゃんごと、この醜悪な闇を消し飛ばせ』

 …………。そんなこと。

「そんなこと、できないよ」

 私はまた、星の見えない夜道のような暗がりの先を目指す。もう何を言われたって無視を決め込むつもりで、意固地になって、走れもしない足場を踏みしめた。

『——————そんなにも、大切か』

 そのどこから聞こえているとも知れない声に、驚きが垣間見えた。ついさっき自分で決めたことも忘れて、足を止めないまでもつい聞き入ってしまう。

『魔術師としての未来と、家族の信頼を裏切ってまで。そんなことをしてまで助けるだけの価値が、あーちゃんのどこにある』

「ないよ。初めからこの気持ちに価値なんて、求めてもいない」

『なら、どうして』

 

「決まってる。——————ただ自分が、後悔したくないだけなんだ」

 

 キャスターをおびき出そうと新都に出かけたあの日。その午後、あーちゃんと夕暮れの散歩道を歩いた。

 幸せだった。守りたいと願った笑顔が確かにそこにあって、これからもずっと輝いていくのだと信じられた。これでもう、なんの心残りもなくこの先を魔術師として、あーちゃんとは別の道を歩いて行ける。

 ……すこしだけ、寂しいと感じた。けどこれは、この気持ちは、凛姉言うところの心の贅肉で、魔術師には不要なものだ。持っていても仕方がない。だからもう、これであーちゃんと会うのは最後にしようって。

 ——————そう、思っていたのに。

 

『未央ちゃんは、……私のこと。ずっと見ていてくれますか?』

 

 「無理だ」って、答えられなかった。また私は、肝心なことをはぐらかした。ごまかした。

 だからこれは、その報いだ。私は世界で一番見たくない、あーちゃんの泣き顔を見てしまった。

 笑っていてほしかった。

 ずっと枯れないでいてほしかった。

 その永遠があるから、私は頑張れたのに。

 魔術師本田未央がもうどこにもいないというのなら、あの時にはとうに死んでいた。

 そのくらい、死ぬほど後悔した。

 

 一度死んだ自分を拾い集めて、もうこれ以上何も失わないようにと意地を張って。それなのにまた、自分は取り返しのつかないことをしていた。いや、あまりに何もしてこなさ過ぎたのだと後悔して、さらにもう一度、今度は魔術師じゃない私まで死んだ。

 

 私が何もしなかったから。魔術師であることを隠そうと、あーちゃんと関わり合うことを中途半端にためらったりなんかしていたから。

 もしも私がもっと早く、あーちゃんのことを思いやって、無理にでも止めるなり、何らかの魔術的措置の十や百でもすれば、きっとこうはならなかった。しまむーがしぶりんやイリヤスフィールをかばって傷つくことも、あーちゃんが泣くことも、なかったのに。

 

「もう二度と、ゴメンなんだよ。あんな思いをするのは、二回で十分だ」

 

 しぶりんの言ってた通りだった。私はとんでもないヘタレで、今更すべてを思い通りに動かそうなんて思いこんでいる大馬鹿者だ。神様が一番に見捨てるとしたら、きっと私みたいなヤツからだろう。

 ——————それでも。

 

「それでも、今だけは」

 

 救わなくてもいい、ただ試すくらいはしてほしい。

 自分がどこまで行けるのか。魔術師ではない、しぶりんや茜ちん、あーちゃんのようなアイドルでもない、ただの一人の少女である本田未央は、果たして自分自身の願い、あーちゃんとの未来が欲しいという祈りのために、どこまで行けるのか。

 それだけ、それだけさえ分かれば。きっとこの先何があったとしても、後悔だけはせずに生きていける気がするから。

 

「…………ごめん。お母さん、お父さん。それにお兄ちゃん。未央はとんだ親不孝者です。……けど、でもやっぱり私は、この道を行くよ」

 

 ひたすらに、この先の春を思って叫んだ。

 

「二度と躊躇ったりなんてしない! 一緒にいたいと一度思ったからには、どんな不安だって見逃さない! だって、もう、あーちゃんのいる未来以外、どんな未来だっていらないから!! だから神様、どうか、見守っていて!」

 

 

 ——————その叫びに、答える神(理性蒸発D)が一柱。

 

 

「残念ですけど! 神様ほど自分勝手で天邪鬼な生き物もいませんよ!! 助けたいと思った(気に入った)人間だけ助けて、あとは知らんぷりするか滅ぼすだけです!! ですから、見守ったりなんてしません! なぜなら自然神(わたし)はその典型ですので!! 

 ええ、そう言うことなので! 天邪鬼を愛し、天邪鬼に愛された女!! 『ツンデレ』『ツンギレ』『純情』、全ての素直になれない気持ちの産みの親であるところの、このわたし!! ボルケーノ日野茜は!!! 本田未央さんと高森藍子さんを応援するのです!!!!!!

 

 さあ!! 遠慮せずに受け取ってください!!!! これがわたし、日野茜が全力全開全身全霊全力疾走で送る生涯最高のエール!!!! まあ、生涯最高は日々更新し続けるのであまりあてにはならないのですが!! 

 ですけど!!! 今できる全力を、あなた達の未来に向けて。いつか、また!! 同じステージで歌えますように!!!!!

 

 

超超無限大(アンリミテッド・オーバートライ)火山大大大噴火(みなぎれ!ボボボンバー)』ーーーーーーーーーー!!!!!!!!!! っっっっどぇす!!!!!!!!!!!

 

 

 太陽だった。

 長い夜の終わりを告げる太陽が、高々と昇った。サーヴァントの霊基限界をはるかに超えた神霊級の極炎に、聖杯の闇がどんどん晴れていく。

「道は開けました!! さあ未央ちゃん! 早く!!!」

「茜ちん…………! うん、分かったよ!」

 足場は思っていたよりも平坦で、しっかりとしていた。これなら、満足に走っていける。

 探知(ベルカナ)加速(ライゾー)。二種のルーンを手早く刻む。私が自分のために使う最後の魔術で、最短距離を最速で駆け抜けた。

「見えた!」

 いまだ晴れない暗闇の淵、探知のルーンが指し示す探し人(あーちゃん)の居場所。そこまで、ほんの数メートル。

「手を!! 伸ばして!!!!」

 言われるがままに、手を伸ばした。すると闇の奥から、同じように一本の腕が力なくも懸命に伸ばされた。それが空を切って、また闇の中に戻る。——————その前に。

 

「あーちゃん!!!」

 

 その手を、私の手が、ようやく。掴んで。

 

「……みお、ちゃん…………!」

 

 暗闇からあーちゃんを引っ張り出す。

「未央ちゃん……。ほんとうの、ほんとうに、未央ちゃん、…………あなた、なんですよね?」

「うん。私だよ、あーちゃんの未央だよ」

「………………よかった、……ほんとうに。もう一度、私……、あなたに会って」

 あーちゃんの膝は細かく震えていた。今にも砕けてしまいそうに白い肩を揺らして、幾筋もの涙を流している。あーちゃんを壊してしまわないように、けれどもう、躊躇わないと誓ったから、できるだけ強くこの胸に抱き締めた。

「もう、泣かないで。笑ってよ、あーちゃん。私、あーちゃんの笑った顔が好きなんだ。

 ——————だから、私が守る。どんなことがあっても、あーちゃんがあーちゃん自身を諦めたって——————私が、あーちゃんを守るよ。

 約束する。私は——————」

 

 

「——————私は、あーちゃんだけの魔術使いになる」

 

 

 もう二度と他の誰にも、自分のためにだって、魔術なんて使ってやったりなんかしない。

 でももしあーちゃんが、人に言えないことを抱えて、そのせいで傷つくことがあったりしたら、その時にはもう、躊躇ったりなんかしない。利用できるものはなんでも使って、あーちゃんを放っておいたりなんかしない。

 そのためなら、これまでの六年間もきっと報われるはずだから。

 

「ああ…………。それならもう、安心ですね」

「?! あーちゃん!!」

「藍子ちゃん!」

 とつぜん崩れ落ちるみたいにあーちゃんの全身から力が抜けて、私にその全体重がかかった。みたい、なんかじゃなかった。足先から、本当にゆっくりだけど、それでも現実にあーちゃんの肉体が朽ちかけてる。

「何が……、起きて。あーちゃん! 起きてよ、あーちゃん!!」

 あーちゃんは目覚めない。

 もう、私には何も視えなかった。魔術刻印を失って魔術師じゃなくなった私にはもう、あーちゃんに何が起きているのか分からない。

「茜ちん……! どうしよう!?」

「…………すみません。さっきので、サーヴァントとしての力は、全部使い切ってしまって…………。もうお二人を、ここから連れ出すだけの余力しか」

 

「——————やっぱり、こうなったのね」

 

 背後から鈴を鳴らしたような声がして振り向いた。

 

「イリヤスフィール」

 白銀の髪に紅い瞳。柳堂寺の山門に置き去りにしてきた彼女は、白い礼装(ドレス)らしきものを見に纏っていた。

 その姿、まるでキリストの聖母のような神々しさに一瞬言葉を失う。けれどすぐに現状の深刻さを思い出して、聞き返した。

「やっぱりって、イリヤスフィールは何か知ってるの? 今、あーちゃんに何が起きているのか」

「知っているというか、考えてみればこの結果は当然予想できたことなのよ、ミオ。たとえ時間の流れを自由に操れて、精神や魂への影響をおさえられても、もとから聖杯を宿すことを想定していない肉体に一年は長すぎた。だからもう、藍子のその体は、聖杯の外では生きられないわ」

「……そん、な…………。それじゃあ、もうあーちゃんは、助からないってことじゃないか……!」

 せっかくここまで来たのに。しぶりんに茜ちんに、アーチャーに、助けれらて、やっとあーちゃんの手を取れたのに。また、私は、あーちゃんを失うのか。

 もう二度と、彼女の笑った顔を見られないっていうのか。

 

「大丈夫。そんな運命、わたしが許さないから」

 

「…………え、イリヤスフィール?」

「イリヤ、さん?」

「すこし、アイコを借りるわ。ミオ」

 戸惑いながらも、あーちゃんを引き寄せていた腕から離して、代わりにその両腕で抱えて、あるかどうかあやふやな足場に横たえた。

 まるで浮いているみたいに見えた。生気が感じられず、ほとんど息もしていないから、願いの代償に神様があーちゃんを連れて行ってしまうんじゃないかと、ありもしない不安に駆られたほどだ。

「未央ちゃん。手は、離さないでいてあげましょう」

「そうだね。……ありがとう、茜ちん」

 茜ちんは私に不安が伝わらないようにと、明るく振舞っているように見えた。なによりその行動こそが、茜ちんの優しさと不安を同時に伝えてくる。彼女までもが不安に負けてしまったら、もう私はあーちゃんの生存を信じられなくなってしまう。それを知ってのことなのかは分からなかったが、私はその提案に頷いて、同じように茜ちんとも手をつないだ。茜ちんの温かな体温が、今はどんなものよりも心強かった。

 私たちがそうやって三人それぞれの体温を確かめ合っていた間に、イリヤスフィールは一通りあーちゃんの崩れかけの肉体を観察して、一段落、ほっと息をついた。

「よかった。まだ魂も、精神も負けてない。これなら、助けられる」

 助けられる。

 イリヤスフィールの口から確たる自信とともに出たその言葉に、沈んでいた心が弾み上がった。けれど、今もまだ崩壊を止めず、すでにくるぶしから先が灰になっていたあーちゃんの体を見ると、とてもそうとは思えない。

「でも、イリヤスフィール。ここから修復する治療魔術なんて、一流の術士が万全の準備で行って初めて成功するような奇跡で。それにもしそんなことが今できたとしても、崩壊を止めることは、魔術には…………」

「ええ。魔術では無理よ。だから、魔法を使うの」

「——————!」

「とは言っても、ただの真似事。なりそこない。魔法一歩手前の魔術どまりではあるけどね。ミオの魔術刻印と一緒」

 魔術ではなく、魔法。現代文明では不可能な奇跡。世界に七つしかなく、使い手も指で数えられるだけ。

 そして、アインツベルンの魔法と言えば。

第三魔法(ヘブンズフィール)。魂の物質化」

「そう。本来魂は永劫普遍の物。肉体の枷に縛られたそれを一時的に物質化して、自由にする。聖杯戦争の大元を為す魔法。使い手は当の昔に死んだわ。けれど、聖杯の中に今も息づいている。そして、私たちアインツベルンにも。

 見なさい。これがその証左よ」

 

 それは、紛れもなく奇跡そのものだった。

 崩れ果てる肉体に引きずられて死を待つだけだったあーちゃんの魂は解放され、イリヤスフィールの両腕に優しく抱きかかえられた。やがてしっかりと存在を維持し始めたあーちゃんの魂を、真絹の布で包み、イリヤスフィールは私に手渡した。

 

「はい、終わり。この肉体は私が看取るわ。代わりの肉体を聖杯の外に用意してあるから、あとはここから出て、外の人に託しなさい。精神は魂から生まれるもの。肉体と魂が揃えば、おのずと目覚めるから」

「…………」

 正直に言って、状況について行けなかった。

 あのあーちゃんの体はもう助からない。だからイリヤスフィールは、第三魔法、本人曰くその真似事で、魂を別の聖杯の影響のない健康な肉体に移すことを考えた。

 すべて、私の想像をはるかに超えた奇跡、その連続で、ただ一つの重要なこと。つまりはあーちゃんが助かるのかどうかすらうまく確信できない。

「どうしたの、ミオ? アイコは助かるのよ? もしかして、嬉しくない?」

 だから、その一言がどんなに嬉しかったか。けれども同時に、全てがうまくいきすぎている気もする。いや、そうなるようにみんなが、イリヤスフィールまでもが私の知らないところで動いていてくれていたのだ。

「なんで」

 それが分からなかった。私は、私の自分勝手な願いのために、もう二度と後悔しないようにと決めただけなのに。どうしてこうまで。しぶりんもアーチャーも茜ちんにイリヤスフィールも、みんなみんな、私に手を貸してくれるのか。

「分からない?」

「分かりませんか?」

 茜ちんとイリヤスフィールが同時に答えていた。

「わたしはこの聖杯戦争の間中ずっと、同じ気持ちで動いていました!! わたしの大好きなみんなを守りたい。卯月ちゃんを守りたい。凛さんを手伝いたい。藍子ちゃんを助けたい。藍子ちゃんを救うと誓った、未央ちゃん、あなたの決意を一緒に押し通したい!!!! 全部、わたしがやりたいことです!! わたしたちはみんな、当たり前に、あなたの背中を後押ししていただけなんです!! それが紛れもなく、自分がやって損のない、やりがいに満ちた道だと思えましたから!!!」

「茜ちん……」

「みんながみんな、アカネみたいに熱くはないとは思うけどね。でも、そうね。わたしもそうなのかも。

 ——————あなた達が教えてくれたことよ。大切だと思ったものは何があっても守り通す。それは、誰にとっても当たり前のことなんでしょう?」

 そう口にするイリヤスフィールの顔は、ここにいない誰かを思ってのもの。誰かが選べなかった道、誰かが選んだ道。そして、今も、誰かが目指す道。それを否定したくなかった。だからここにいるのだと。

 彼女の紅い瞳がそう、強く訴えているように見えた。

「そうだね。うん。それは、当たり前のことだ。きっとどんなことがあったって、その願いは間違ってなんかいないよ」

 私が口にした言葉を気に入ったらしい、イリヤスフィールは本当に嬉しそうに笑った。

「——————ああ、安心した。……聖杯を閉じるわ。あなた達とはここでお別れ。さあ、帰りなさい。あなた達を待っている、また別の夜に」

「はい!! 本当に! 何から何まで! ありがとうございました!!! イリヤさん!!!!」

「私からも、ありがとう。あーちゃんを助けてくれて。元魔術師として、何も返せるものがなくて、本当に申し訳ないけど」

「え、そんなことないよ?」

 その声音はウソでもお世辞でもなんでもなくて、ただの正直な気持ちを言っているだけのように聞こえた。

「わたしはもう十分に、あなた達からいろんなものをもらえている。会いたかった人にも、会えたもの。

 自信を持っていいわ、未央。わたしはね、あなたが二番目に救った女の子、つまりはあなたのファン第二号なの。大丈夫。貴女はきっと、すてきな一番星(アイドル)になれるわ」

「——————そっか。なら、がんばらなきゃだ」

「未央ちゃん!! こっちです!!!」

「今行くよ! それじゃあ、イリヤスフィール、ううん。イリヤ」

「ええ、ミオ。元気でね。アイコのこと、粗末に扱ったら許さないんだから」

「あはは……。肝に銘じとくよ」

 会話はそこまでだった。尻切れトンボにもほどがある。私たちはイリヤに背を向けて三人で元来た道を引き返した。

 その途中、こんな声を聴いた気がした。

 

『モウ、テバナシテハイケマセンカラネ』

 

 桜の花びらを幻視する。もしもそれがこの一年、あーちゃんとともにあった誰かの声だとしたら。そんな確かめようのないことを考えているうちに、いつの間にか、もといた大空洞に戻っていた。

 

 

 大空洞はひどく静まり返っていた。大きく渦巻いていた魔力は鳴りを潜め、刻まれた術式だけが残っている。その近くに、一人の女の人、それと何か大きな箱。

「ああ、貴女が本田未央ちゃん?」

「え、はい。そうですけど。……あなたは?」

「私? 私はただの配達人。それじゃあ印鑑、はないか。まあなくていいわ。荷物、ちゃんと受け取ってね」

 そう言って大きな箱の封を開ける。中には——————

「え!? 藍子ちゃんがいます!!? もう一人藍子ちゃん藍子ちゃん藍子ちゃん……」

「落ち着いて茜ちん!! ストップストップ! 何が見えてるか知んないけど、あーちゃんは世界にたった一人だけだから!!」

「あら、のろけ?」

「そんな……ことなくもないですけど………………じゃなくって! これ、もしかして人形? でもこんな精巧な、ホンモノの人体と全然見分けのつかない。まさか、あなたは」

「はいそこまで。ただの配達人に名前は不要よ。それで、どうする? 空の肉体が一つ、ここに有って、そっちにはなぜか独立している魂がやっぱり一つ。そして、この肉体の所有権は貴女の物。今の私は機嫌がいいの。何せ想定以上のものを見れたわけだし。だから今なら、その魂のこの肉体への完全な収容工程までおまけでつけちゃう。

 ——————さあ、お膳立てはここまで。答えを聞かせてちょうだいな」

「それはもちろん」

 茜ちんの目を見て、最後に、あーちゃんの魂を胸に引き寄せてから。それから答えた。

「あーちゃんのこと、どうかよろしくお願いします!」

「よろしい。引き受けた——————だが」

 赤い髪の女の人。冠位(グランド)の名を頂く稀代の人形師、蒼崎燈子は眼鏡を外して、

「その前に、あちらさんが先だ。我々はここから早々に退散し、安全な場所で確実に施術を成功させるとしよう」

 大空洞の小空間、その入り口を指さした。

「! 未央ちゃん!! 誰かいます!」

 茜ちんの感知能力はサーヴァントでなくなっても人間の域を超えていたらしい。暗すぎて私には全く見えないそこを、燈子さんと同じく見据えている。視力強化を使うわけにもいかず、ただ何が起きてもいいようにルーンストーンだけ構える。

 はたして、私としぶりんが通ってきた大聖杯への一本道の先から、その人影は泰然とした足取りで現れた。年は二十半ばだろうか、童顔ぎみで全体的に若く見える、赤銅色の髪をした男の人。

「すまないな。場所を譲ってもらって」

「かまわないさ。我々は我々の為すべき仕事を片付けるだけ。君もそうなのだろう?」

 男の人の感謝に燈子さんが答えた。彼と燈子さんは顔見知りらしく、遠慮の感じられない声音で男の人は燈子さんに返事を返した。

「ああ、そうだ。だけど少し事情が変わってな、悪いが余力を残すつもりなんてない。帰るなら、早めに頼む」

「分かっている。行くぞ」

「え、はい」

 燈子さんの後を追って、私たちも出口に向かう。肉体は茜ちんが背負ってくれるらしい。その代わり、私には絶対にあーちゃんの魂を離さないようにとのことだった。当然、言われるまでもなく、絶対に離すつもりもここで死ぬつもりもなかった。

 脚力強化に保護のルーン、今できるすべての準備が終わって出口に手をかけた時。

 

「ありがとな。イリヤと一緒にいてくれて」

 

 その声が聞こえて、振り向いた。

 そこに男の姿は無かった。

 

 

Interlude

 

「イリヤに、もう二度と会えないと思っていた家族に、託されちまったからな。

 ——————だから、遠坂には悪いがこの仕事。(オレ)の全てをもって果たさせてもらう」

 

 どこからか舞い上がった砂塵の向こうに、男、衛宮士郎(正義の味方)の背中は消える。

 

I am(体は)——————」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「——————the bone of my sword.(剣でできている)

 




マテリアルが公開されました。
(読み飛ばし可)

・本田未央
 ・本作のもう一人の主人公。HFルートにおける凛、士郎枠。 
 ・変質魔術刻印『五停心観』
  ・本田家が精神感応の一つの究極として研究していた、真言立川詠天流の修法より派生した技術。対象の精神構造・魔術特性を視覚的に読み取り、効果的な魔力の通し方を理解するまでが未央(と言うより、電脳空間でない実世界)の限界だが、本来は精神の淀みや乱れを測定し物理的に摘出することで精神を安定させる医療術式。遠い月の裏では、これを使って女の子の秘密(SG)をハートキャッチ(物理)する輩がいたそうな。
  ・偽・万色悠滞
   ・変質魔術刻印『五停心観』を使いつぶすことで、たった一度だけ、周囲にいる任意の精神を別の体内に侵入させ、交信・感応する。
   ・現実が苦しく思えるほどの多幸感と安心感を使用者に与える、人類をダメにする術式。安全に使用(した上で生還)するためには、相応の意志の強さが要求されるため、回数制限云々以前に多用厳禁。
   ・大聖杯にとらわれ、精神の大部分を汚染された藍子と卯月の体から、『この世全ての悪』を切除するために使用。精神を通路として互いの魂同士を交信させる。結果、アンリ・マユにより歪められた自己から生じた自責を踏破しながら、凛と未央は進むことになった。
 ・藍子のことをきれいな子だと認識している。彼女の取る写真が好きで、そうやって切り取られた風景、(自分が失った人としての)日常の中にある些細なことを面白いと感じる感性。それらをきれいだと思っていて、同時に、そこに魔術の存在が入って藍子が汚れるのを恐れていた。凛が戦う理由として卯月の笑顔を守りたいと願ったのに対して、未央は藍子を泣かせたくないがためにごまかすことを選んだ。動機の根本が似ている(同時に正反対でもある)ため、基本的に未央が藍子のことを相談する相手はたいていの場合、凛だったりする。

 「イリヤ、私やったよ。一番星に、なれたよ」


・高森藍子
 ・未央のクラスメイト。一年ほど前からアイドルをしている、穂村原学園中等部三年生。
 ・HFルート桜枠。ただし桜が加害者を兼ねていたのに対し、こちらは(サーヴァントを除き)死傷者は出していない。
 ・ゆるふわしているが、下記の理由があり、表に出す分のパッション抑え目な敬語。
 ・精神上アンリマユと同居していたような状態で一年を過ごしており、自分の命がそう長くないことを、少なくとも本編開始の半年前には悟っていた。
 ・↑の一年の中、藍子にとって未央は簡潔に言って救いだった。自分が自分に戻れる場所。その場所が、未央の笑顔があるのなら、どんなことにだって耐えられた。
 ・聖杯戦争終了後、この世全ての悪に汚染された肉体から蒼﨑燈子作の人形に魂を移される。魂由来の魔術回路は以前と同じだけあるものの、新しい肉体の維持に必要な量にはわずかに魔力が足りず、その分を補うため未央から魔力供給(宝石or意味深)を受けている。


・アルターエゴ/日野茜
 ・HFルート、ライダー枠。ただし藍子への好意は完全に友情であり、それ以上の存在しない(というか必要としない)気安い関係。現在みほあかorふみあか、ないしその他かでお相手は検討中。
 ・主人公力(ぢから)EXの運命(Fate)に対するチートサーヴァント。登場すれば何が何でもハッピーエンドにしたくなる。Fateの法則が乱れまくってしまいかねないので、メインキャラに据えなくて本当に良かったと、企画段階の自分を作者は褒めたい。


・イリヤスフィール・フォン・アインツベルン
 ・夢を見たの。
  涙が出るくらい優しくて、自分の目玉をつぶしてしまいたくなるくらいに残酷な夢。
  おとーさん(キリツグ)もママ(お母様)も、たまにしか帰ってこないけど、それでも二人とも私のことが大好きで、私も、二人のことが大好きだった。家には二人のメイド、リズはだらだら、セラはママ(お母様)よりもお母さんしてて、ガミガミうるさくて、でも、彼女の作るごはんはお兄ちゃん(シロウ)に負けないくらいにおいしくて。それから、二人の両親よりも大好きなお兄ちゃん(シロウ)に、親友の■■に妹の■■も。
  ずるい。ずるいずるいずるい。ずるい。
  あれもわたしと同じイリヤなのに、どうしてそんなに幸せなの? どうしてそんなに普通なの? どうしてそんなに、簡単に笑えるの?
  卑怯よ。差別だわ。横着よ。狡猾すぎる。姑息だわ。卑劣。小賢しい。あざとい。羨ましい。妬ましい。狡い。やっぱり、ずるい。ずるすぎるわよ。
  ————————————。
  ——————だからね、わたし、あなたには正直同情していたの。ミオ。
  同じように普通のことに嫉妬して、それでももう普通には生きられない。だから、まあ無理なんだろうなとは思っていたけど、それでも結局最後には、あなたはアイコを殺そうとするんだって思ってた。
  でも、あなたはその道を選ばなかった。
  他の誰もが、あなたがこの道を歩むと信じて疑わなかった。
  そもそも、あなたがわたしと同じだって考えていたことが、初めから間違いだったのよ。だってわたし、あのわたしのこと何度殺してやろうと思ったか、もう数えてもいないもの。なのにあなたは、一通り嫉妬して、それからは守ろうとしていた。信じられなかった。考えもしなかった。
  最善の手段じゃない。それでも、自分にないものを守ろうと思えること。それがどんなに、わたしには眩しく見えたか。
  そしてもし、わたしにも同じことができたなら。
  ——————だからこれは、わたしが精いっぱいにやりぬいたこと。

  最後になってしまったけど。
  シロウ。
  あなたにもう一度会えて。ほんとうに良かった。


・蒼崎燈子
 ・封印指定解除済み、冠位人形師。型月で一番怖い眼鏡。眼鏡をかけるかけないで人格を意図的に切り替える、作為的な二重人格者。
 ・ロード・エルメロイ二世に頼まれ、再演された聖杯戦争をシエルとともに視察していた。
 ・イリヤに「第三魔法の真似事を見せる」ことを交換条件にして、藍子の体の複製を依頼される。「ただ本人として生きていけることだけが保証された、急造の出来損ないで良ければ」と受諾。一晩で調整したそれを、大空洞外の安全な場所で未央に提供した。
 ・↑で出来損ないと言ってはいるものの、元は用意していた自分用のスペアのうち一つを改造しただけなので、燃費が燈子(並の魔術師と同程度)基準で藍子にとってさほどよくないことを除けば、二百年保証付き最高スペックの超高級品。普通に購入すればそれで日本の借金返せんじゃないのってくらいする。なんでそんなのを藍子、もとい未央にあげたかって? 理由なんてない。早めの結婚祝いだいいから黙って受け取れ本田ァ!
 ・大聖杯内で行われた第三魔法を観測するために、大聖杯に身投げしている。その後スペアの自分に藍子の体を運ばせた。なので未央たちが会っていたのも彼女のスペアだったりする。まあ、何体目のスペアなのかは燈子自身しか覚えていない(あるいは本人も忘れている)だろうが。
 ・「第三だけでなく、本田の特異な魔術刻印が起こす奇跡さえも見れたのだから、人形一つくらい安いものよ」と一見ご機嫌だがその眼鏡の奥では、もし未央が魔術刻印を手放していなければ、蒐集して協会地下に幽閉する腹積もりだったらしい。


・遠坂凛
 ・十年前に起きた第五次聖杯戦争の生存者。時計塔の魔術師。遠坂の現当主。
 ・再演された聖杯戦争終盤、大聖杯解体のために衛宮士郎、エルメロイ二世とともに冬木を訪れる。未央からことの顛末を聞き、数日後、問題なく解体が終わったことを伝え、時計塔に戻っていった。
 ・九歳まで一般人として育てられていた未央とは、親戚付き合いで顔見知り。互いに『未央』『凛姉』と呼び合う仲。ただし、本田家が聖杯戦争に参加することが決まり、未央も魔術を習いだした九歳の時点で、その交流も途切れていた。当然未央に士郎のことを教えてもいない(そもそも機会がなかった)。
 ・他者への魔力の浸透を得意とする未央に、宝石魔術を教える。術式を組み込んで魔術装置にするまではいかなかったが、単純な魔力の保管という形でなら成功している。


・衛宮士郎
 ・茜の宝具により大聖杯の力が削がれ、自分たちを遠ざけていた聖杯の反発力が薄まった中、ぎりぎっりのクライマックスで颯爽登場我らが型月主人公。
 ・茜を追って大空洞に突入する直前のイリヤに後を託され、固有結界から大量のルールブレイカー引き出して所定の場所にぶっ刺しまくり、その後やって来た二世と遠坂の協力の下、無事に大聖杯の解体に成功した。


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17/Never say never(3)

アンリミテッド・パロディ・ワークス

間違えて別シリーズの方に投稿しちゃっていました……
教えてくれた方、本当にありがとうございます。
今回みたいにひたすら熱いやつを書くとどうにも疲れ切ってしまって…………ああ、日常回が書きたい。


Interlude

 

「やっと来ましたねぇ。貴女を待っていましたよぉ、凛さん」

「なんのつもりって、聞いてもいいのかな? まゆ」

 剣を抜き、凛は目の前の佐久間まゆによく似た誰かの鼻筋へと突きつけた。

 大聖杯内部、さほど深くもない場所。未央がまだ藍子を探していたその時にはすでに、凛は卯月に預けたナズナの花に残った魔力を辿り、彼女の居場所へと到着していた。

 ここまで迷いもせずに走ってきた。精神的な幻惑は、剣の加護を受けている凛には効かない。多少防ぎきれない分もあったが、それもこれまで培ってきた彼女の強さをくじくには至らなかった。

 卯月を助けたい。卯月を守りたい。卯月の力になりたい。

 今この時だけ、彼女は自分以外のたった一人のために先の見えない地平を進んだ。まさかその先で、見知った顔に出くわすとは思わなかったが。

「ああ、一つ訂正しておきます。マユは佐久間まゆではありません。マユと呼んでください。これを言うのも二回目なので、手短に理解してもらえると、マユは助かります」

「……よくわからないんだけど、まあ事情があるのは分かったよ。でも、こっちはその最低限の事情すら満足に汲めない、それくらいに真剣なんだ。そっちの事情を分かってほしいのなら、おなじにこっちの事情も理解して、質問には嘘偽りなくきっちり答えてほしいな」

「はい。それはもちろんです」

 どこか言い知れないものを感じさせる微笑みを顔に張り付けたマユ。凛はぞっとする。見慣れていたはずのそれ、なのに、どこか異質だと頭の中で違和感が生まれる。それを恐怖と感じてしまわぬうちに、この場で自分がもっとも優先するべき問いを投げかけた。

「じゃあ答えてよ。卯月は、今どこにいるの? こんなところにいるんだから当然、マユは知ってるんでしょ?」

「ええ、もちろん知っていますよ。卯月さんならこの下です」

「下? 卯月が、この真っ黒の中に埋まっているとでも?」

「その通りです。少し待ってくださいねぇ。今、分かりやすくしますから」

 そうマユが口にした途端、彼女の後ろにあった闇が形を得ていく。まるで柱のように盛り上がる泥のような闇。やがて完全に上が分からないほどの高さを持つ柱として成立した時、その中に浮かび上がる一つの人影があった。

「——————! 卯月!!」

 見た目には五体満足。けれどその顔はすでに憔悴しきっており、ここまで彼女が肢体を溶かすような悪夢をどれほど見せ続けられてきたのか、凛に容易く悟らせた。

 思わず走り寄る凛。その前にマユは立ちふさがる。

「退いてよ、マユ」

「それはできません」

「なんで? やっぱりマユは、私が卯月を助けるのを邪魔するために、ここにいるわけ?」

「それも違います」

「それなら——————!」

「——————それでは聞きますが、凛さん。貴女はどうやって、卯月さんを助けるつもりですか?」

「考えるまでもない。今すぐあの泥を吹き飛ばして」

「それが無理だと言っているんです」

 強い語調で凛に被せるように、マユは言った。

「マユ個人はべつに、卯月さんが助かろうが、助からなかろうが、どっちだってかまいません。仕事ですけど、その依頼主である彼ももうじき終わりでしょうから。だから、ここで貴女が卯月さんを助けようと言うのなら。マユは邪魔しません。

 ……ですけど。共倒れだけは困るんですよ。

 凛さん。貴女は今、サーヴァントです。未央さんの魔法もどきにその剣の加護、他様々な要因が重なって重なって、その末に、貴女はここに立っている。そんな現界していることそのものが奇跡のような貴女が、古代メソポタミアにおける深淵の真水と同じ浸食力をもつアレに触れたりなんかしたら。その時には、卯月さんを助けるどころのお話ではありません。貴女そのものの存在が、この世全ての悪(アンリ・マユ)に上書きされてしまいます。

 ——————それは、まゆ(・・)にとっても困るんです。せめて、この子(マユ)の望みを叶えてから行ってください」

 最後の方、まるで凛のよく知るまゆがほんの一時(ひととき)のみ、本人として訴えかけているように、凛には聞こえた。

「…………」

『守れなかったものが、しまむーだけだったなんて思わないでよ』

 つい数時間前。与えられた自室で何度も反芻していた未央の顔を、もう一度思い出した。

「(私はまた、卯月のことばかり考えすぎていたのかな)」

 それを悪いことだとは凛は思わない。マユによると他にも様々な理由があるとのことだったが、『卯月の力になりたい』その思いがどれほど凛の心を奮い立たせ、ここまで歩いて来る励みになったか。

 だけど——————、そればかりではどうやら卯月を救えないらしい。

 完全に忘れられるわけなんてない。けれど、その温度を今は胸の内にしまって。改めて、ただ一人、英霊渋谷凛としてマユに向き直った。

「分かったよ、まゆ。アレには触れない。最悪触れずにどうにかするかもだけど、その時は勘弁してよね」

「ええ。まゆは、マユのお願いさえ聞いてくれるなら、その後であれば凛さん、貴女が何をしたって気にしません。ですので、ただ一つ答えてください。私の望みを、叶えてください」

 凛はまっすぐに彼女の顔を正面から見すえて、その上で強く頷いた。それを確認して、マユは問いかける。

「貴女にとって、アイドルとは何ですか?」

 

「私にとって、それは、果てのない地平だよ」

 

 何が待っているのか。どんな景色が広がっているのか。

 行ってみるまで誰にも分からないそれが、どこまでも広がる——————無限の地平。 

 歩き続けたこの道は、決して楽しいことばかりではなかった。

 辛くて、泣き出したくなることがあった。

 悔しくて、引き返したくなることもあった。

 あまりにも果てのない道行に、くじけそうになって、足を止めてしまうこともあった。

 これからも、そういうことばかりだとは分かり切っている。

 それでも、辛いことばかりではなかった。

 達成感があった。キラキラと輝く汗があった。真剣になれる充足感があった。同じことに打ち込める仲間がいた。

 ——————そして、一生をかけてだって守りたいと思える笑顔があった。

 凛にとってアイドルとは、これまで持っていなかったものをくれる、やりがいのある仕事だった。

 だから凛はこれからも、許される限りこの地平を歩いていきたいし、そして、ここに導いてくれたプロデュサーと卯月には、何を返しても返しきれない感謝がある。

 

 そうだ、二人がいたから——————。

 

 

「——————だから、私は今、『ここにいる』」

 

 

「! 凛さん!? 貴女……!」

「ごめん、まゆ。私、卯月を助けるよ」

 皮肉なことだった。どんなに忘れようとしたって、卯月を、彼女とプロデューサーに出会ったあの場所を凛は思い出してしまう。

「やっぱり私には、卯月が必要みたいだからさ」

 呼吸を止め、全魔力を剣に叩きこむ。

 把握するべきは過去(始まり)未来(あこがれ)、そして現在(いま)だけ。

 そして、もっと先へ。

 あの地平線を越えて渋谷凛は、卯月の未来を遮るもの、その全てを打倒する——————!

 

「響け!! 『遥かな地平へ届け蒼の歌(ヴォルト・オブ・ヘブン)』!!!!」

 

 

 その一撃は遠く届く彼女の歌。あらゆる障害を越えて、凛が自分の進む道を切り拓くために放たれる。

「…………! 見えた!!」

 まるで聖書にあるモーゼの海割りのよう。

 卯月にまとわりついていた聖杯の泥。凛の予想以上に厚かったそれを押しのけて、その下から、卯月へと直接続く道ができあがる。

 いける。これなら、彼女に手が届く。

 すぐに魔力の放出先を剣から足先に変更、足場を強く蹴りつける。

 十メートル、五メートル、二メートル。一メートル……!

「卯月!!!」

 肩までほんの五十センチ——————その距離が、一瞬にして振り出しに戻った。

「凛さん!!」

「…………マユ、どうして」

 凛の腰に、赤いリボンが巻き付いている。その先にはマユの両腕。卯月の肩に触れようとした凛をマユは、そのリボンで引き戻していた。

「どうしてではありません。アレを、見てください」

 干潮時の砂浜のようにその下にいた卯月をさらしていた聖杯の泥。それが今度は逆に満ちて、高波の中に卯月を覆い隠しすぐに復元した。

「…………」

 もしも凛があのまま飛び込んでいれば、離脱できずに飲み込まれていたことは明白だった。そこをマユが助けた。 

「マユ……何もしないんじゃなかったの?」

「そうですね……。マユは、気にしないはずでした。聞きたかったことも聞けて、あとは順当に、卯月さんをお片付けするだけ。そこにあと一人サーヴァントが追加されたところで、マユの知ったところではないはずです」

「じゃあ、なんで」

 なぜ、この佐久間まゆによく似た誰かは、凛を助けたのか。

「理由は……分かりません。マユには分からない。なら、あるいは、凛さん。貴女には分かりますか? まゆは、そういう娘ですか?」

 そう口にするマユの表情は、本当に、理解できないことへの不安に怯えてこわばっていた。凛にはこの一瞬だけ、マユがまるで何も知らない赤子のように見えた。

 そんなマユと凛の知る佐久間まゆはどこか重なりながらも、同じくどこか像が合わない。

「…………」

 目的のためならあまり手段を選ばない。

 凛にとって佐久間まゆは、そういった面を持つ女の子だった。

 だけど、それも優先するべき目的がある時だけで、それ以外においてまゆは、周りを気づかえる優しい子だ。すこし、いやかなり目的に一途なだけで。

 凛はそこを尊敬してもいた。その一途さは、誰にも真似できない彼女だけの強さだから。

 それから——————、佐久間まゆは受けた恩を形はどうあれ絶対に返すとも。

 ならマユが助けてくれたのも、彼女なりの恩返しと言えるのではないか。

 これはあくまで渋谷凛の個人的な所感で、彼女のことをよりよく知っている、例えば幸子や乃々、輝子辺りに聞けばまた違った答えが出てくるのかもしれない。けれど、凛の知る佐久間まゆならば。

「うん。まゆは、そういう優しい娘だよ」

 凛の尊敬する彼女の強さがきちんと伝わるように、はっきりと凛は答えた。

「——————そう、ですか」

 と、そのことにマユは安堵の溜息を一つ吐いて、

「ならマユも、お手伝いしなくてはなりませんねぇ」

 改めて、凛に向き直った。

「では、もう一つだけ聞きます。貴女は、なんのためにここにいますか?」

「当然、卯月を助けるためだけど」

「ええ、そうでしょう。ですが凛さん、本当にそれが自分にできることだと、貴女は心の底から思えていますか?」

「………………それは」

「ごめんなさい。本当に意地の悪いことを聞いているのだとまゆも思っています。ですけど、それでも貴女が本当に卯月さんを助けたい、守りたいと望むなら、これだけは絶対に聞いておかなくてはいけないんです」

 先ほどまでの弱さを感じる表情からは一変して、目的に一途な、凛のよく知る佐久間まゆの強い視線。その視線をマユは、乗り越えるべき凛の弱さに向けた。

「…………」

 答えは、実のところ初めから出ていた。

 

 ——————渋谷凛に島村卯月は守れない。

 

 冬の舞踏会前。その一件は凛の心にも一つの確かな傷を残していた。卯月にはずっと守られてばかりだったから。凛は彼女が傷ついていたことにも気づけず、結局待っていることしかできなかったから。

 だから、サーヴァントとして卯月に呼び出された時、今度こそと自分に誓った。凛にとって今回の聖杯戦争は証明だった。きっと自分にも卯月を守れるはず。——————なのに。

「私はまた、卯月を守れなかった」

 守りたくて、守れなくて。助けたくて、助けられなくて。こんなにも自分は無力だったのかと、悔しくて悔しくてたまらなかった。

「もとより、人は人を助けられないもの。自分に救えるものは自分自身をおいて他になく、誰かのために誰かを救おうだなんて、死に値する言い訳でしかありません。そんなきれいごとでは、誰も救えない」

 それを許すように、この世界の当たり前をマユは口にする。けれど、決して、その思いだけは否定しないように。

「凛さんは卯月さんのために卯月さんを守りたいとは思っていない、とは未央さんが言っていましたね。彼女のためではなく、自分が自分であるために、卯月さんを大事にしたい。はい。とても人間らしい理由です。ですから凛さん、貴女はそれでいいのだとマユは思います。

 なので——————」

 マユはうつむく凛に。

 

「——————顔を上げてください、凛さん」

 

 そう告げた。

「貴女に卯月さんは救えない。ですけど——————それでもなお、貴女が卯月さんを助けたいと望むのなら。その時には、せめて、最高の笑顔で迎えにいってあげてください」

「——————」

「あそこに落としたのは他でもないマユ自身なので、こういったことを言うのもとても無責任なことだとは思います。ですけど今だけは許してほしいです。その上でもう一度、目をそらさずにしっかりと、彼女の顔をよく見てください。そして、思い出してください。渋谷凛が憧れた島村卯月とは、どんなアイドルだったのかを」

「…………っ!」

 マユの指し示す先。少しの光も通さない闇に(はりつけ)にされた卯月の顔。それを凛は見つめる。

 

 

『でも、夢なんです』

 

 

 どうして、こんな今になってその言葉を思い出したのだろう。

 追い求めた夢の果て、地平への余りにも長すぎる道のり。疲れ果て、履いていたガラスの靴はとうに擦り切れて、輝くことを忘れている。その顔は、あの時の物とは似ても似つかないはずなのに。

 何度も何度も、他人のために傷ついて。何度も何度も、自分の笑顔に裏切られて。

 自分一人では、もうどうしたってその場所にたどり着けないと分かり切ってしまったはずだ——————それなのに。

 

「卯月…………。卯月はそれでも、あきらめないんだね」

 

 桜が散っていた。藤棚の下で子供が笑い、季節外れに咲いたアジサイの奥に広がる青空。その下でハナコを抱えて笑った彼女の顔を、今も覚えている。

 ああ。その笑顔が、他のどんなものよりも輝いて見えたから。

 

 ——————なら。その笑顔を守るために、その笑顔がこれからも輝き続けるために。渋谷凛には何ができるだろう。

 きっと、剣を握ることではない。この命に代えてでも、彼女を死の危険から遠ざけることでもない。第一、渋谷凛の強さはもとよりそういった強さではない。もしも、自分にできることが卯月を守ることではないとしたら。それでも、卯月の笑顔を守りたいというのなら。

「……マユ。私、ようやく分かったよ」

「はい。何でも言ってください、凛さん。何でもはできませんが、きっと凛さんが今望んでいることならば、叶えられるはずですからぁ」

「うん。じゃあお願いする。私……、卯月に、伝えたいことがある!」

「承りましたぁ! ——————ああ、マユは今、とっても幸せです! だって、誰かを幸せにしたい、そんな理由で偽り写し記す万象(マユ)を使ってくれる人がいるだなんて。こんなこと、はじめてですからぁ!」

 

 アンリマユの宝具、偽り写し記す万象(ヴェルグ・アヴェスター)。本来ならば、使用者の受けた傷を相手に転写するだけでしかない三流宝具。けれどもし、転写するモノを呪いではない別の何かにできたとしたら。

 無茶苦茶だ。

 不可能だ。

 理屈に合わない。

 机上の空論も甚だしい。

 ——————ああそれでも、それはなんて、夢のある使い道だろう。

 

 そんな、誰が星に願った夢。

 それを肯定するためにこそ、英雄(アイドル)は存在しているのだから——————!

 

「当然、うまく動かないかもしれません。頑張ってみますけど、おそらく伝わるのは全体のごく一部にしか過ぎないでしょう。それだって、変質して伝わる可能性があります。ですけど」

「かまわない。今度こそ、私は私のするべきことをする」

 もはやこの先に剣は要らず。槍も弓も、魔術や戦車、暗殺術に狂気も必要ない。

 

「——————卯月、私きっと勘違いしてたんだ。私にできることは、卯月を、他の誰かを守ることじゃない。そもそも卯月は、元から十分に強い娘だからね。私なんかに守れるはず、初めからなかったんだよ」

 

 この先には——————

 

「……そうだ。私にできることはたった一つだけ。

 自分の心を歌にのせて、誰かに届けること! ただ、それだけだった!!!」

 

 ——————ただ一つ、歌があればいい。

 

 ずっと強く。誰よりもまっすぐに走っていく彼女の歌。

 その道を走るとき、彼女は一人だ。一人で走って、一人で息を切らして、一人で立ち止まって。また一人で走り出す。

 けれど、常に誰かを、思っていると。その誰かがいるから、その誰かとの出会いがあったから、自分はまた果てのない地平を目指していけるのだと。

 渋谷凛は何度もその場所から、道の途中に置き去りにしてしまった誰かに投げかけ続ける。

 

 どうか、どうかこの歌が。

 不甲斐ない自分の代わりに、彼女のそばに寄り添ってくれますように。

 暗闇でうずくまる彼女に、一人ではないのだと伝えてくれますように。

 そしてまた、同じ景色を見に、追いかけてきてくれますように。

 

 ——————どうか、その夢が正しいものだと信じてくれますように。

 

 思いを込めて、何度も歌い続ける。

 だから、その歌の真名(名前)は、きっと——————

 

 

 

 Never say never——————間違いだなんて言わせない、と。

 

 

 

Interlude out




サーヴァントのステータスが更新されました。

・蒼セイバー/渋谷凛
 ・UBWルート遠坂凛枠。
 ・中立・善・人(条件付きで星)
 ・宝具
  ・蒼の剣(アイオライト・ブルー)A++ 対人宝具
   ・ビームは出ない、と言ったなあれは嘘だ。
  ・遥かなる地平へ届け蒼の歌(ヴォルト・オブ・ヘブン) B 対軍宝具
   ・蒼の剣による全力魔力放出時の一撃。内部にある複数の回転増幅炉で魔力を亜光速まで加速し、そのエネルギーを剣に纏わせて斬る、高威力超ロングレンジ兜割。届かせることに重点が置かれている点で、太陽の騎士の聖剣と似た性能だが、向こうが水平切りであるのに対してこちらは垂直方向に斬っている。そのため殲滅力は到底及ばないが、一人当たりに与えるダメージ効率としてならこちらが上を行く。
   ・セイバー自身が、『どこにいるのか(現在)』『その始まり(過去)』『これから目指す地平への憧れ(未来)』それらすべてを心に思い浮べておくことが発動条件。ゆえに「私はここにいる」とセイバーは告げる。
   ・卯月を守ることは、凛本人にはできない。けれどせめて、この歌が自分の代わりに、大切なあの人に寄り添ってくれますように。どうか、いつまでも見守っていて。
 ・スキル
  ・星の開拓者(偽)D+ 
   ・人類史においてターニングポイントになった英雄に与えられるスキル。あらゆる不可能が、不可能のまま実現可能な出来事になる。
   ・凛の場合、彼女がアイドルとして励ました誰かが、あるいは人類史の可能性を広げる、かもしれない。そういったいくつかのイフの上での認定。最高ランクで有する本物の星の開拓者たちには到底及ばず、可能にできることの範囲も当然限られる。けれど彼女がその可能性を心から認め望んだその時には、誰よりも多くの輝きを肯定する強い力になる。


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18/S(mile)ING(3)

何も解決していない。何も変わっていない。何も、求めたモノなど手に入れてなんかいない。
それでも胸を張って、笑顔でこの道(ユメ)の先へ歩いて行けるのなら。きっとそれだけで。


『——————』

 

 誰かが、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえました。

 音も光も、わたしを責め立てるわたしの声以外、ここには何にないはずなのに。

 

 …………そう。わたしには何も無い。だから、ここはわたしの中。

 誰にも見せないで、自分でも見ないようにして、蓋をした胸の奥。

 空っぽで、がらんどうで、空虚な、わたしの帰る場所。

 ここにいれば、もう傷つくことなんてない。誰かと自分を比べて、自分の無力を呪うことなんてない。

 だから、このまま耳をふさいで、目を閉じて、口もつぐんで。

 

 ——————それでも。

 

「(それでも——————この声は、この声だけは、無視できない)」

 

 とっくの昔に壊れて、もう動かないはずの心が小さく脈を打ちました。

 

『…………、……ない』

 

 すきとおるような、けれどどこか低い声。胸に響くような強い声。

 

『——————、じゃ、ない』

 

 その黒くて長い髪を振り乱して、きっとそのまっすぐな瞳で。

 

『——————、なんかじゃ、ない!』

 

 ああ。その声音で、その眼差しで、その、必死な表情で、こんなにも強く歌われては。

 わたしは、島村卯月は。

 

 

『間違い、なんかじゃない!!』

 

 

 きっと、それだけで良かったんです。

 アーチャーさんは言っていました。サーヴァントは、なにも過去だけから来るものではないのだと。わたしは、未央ちゃんでさえも、セイバーさんのことを知らなかった。なのに彼女の方は、まるで数年来の友達みたいに、わたしたちのことをよく知っていた。

 だから、セイバーさんはきっと未来からやってきた。

 

 セイバーさんはたぶん、わたしの未来を知っている。あの地獄さえも、きっと。

 ……それでも、そんな彼女が、誰よりも一番近くで、わたしと同じ夢を見てくれていたはずの、その彼女が——————最期まで、わたしの夢を笑いませんでした。

 

 

『その夢は、決して…………間違いなんかじゃないんだから!!!』

 

 

 だから、たったそれだけで。

 

 ずっと、間違いではないのかと疑ってきました。

 大勢の人が笑っていました。それがあまりにも幸せそうで、その中心にたつアイドルは世界一の幸せ者に見えました。

 憧れたその姿。けれど、その背中はあまりにも遠くて。

 それだけに、何も持たない、ただのどこにでもいる普通の女の子でしかないわたしが、そこを目指すことは、分不相応な間違いなんじゃないのかと。

 立ち止まっては、思い出すように何度も。

 

 ……ああ、だから、きっと。

 セイバーさんが、他の誰でもなく彼女がそう言ってくれるだけで、

 ——————島村卯月は、最後までこの夢を張り続けられる。

 気の遠くなるような長い時間。たとえ最後まで、輝く自分にはなれなかったとしても。

 

 閉ざしていた目をもう一度開きました。

 

 動きます。無くなってしまったと思っていた腕も脚も、本当にそう思っていただけのようでした。それを必死に動かしてどこにあるのか分からない、でもきっとあるはずの出口を目指して足掻きます。

 

 まとわりつく泥が言いました。

『笑うなんて、誰でもできるもん』。

「大丈夫です。わたし、もっと輝きたいから」

 そう言って、ひとまず上へと這い上がろうとするわたしに、

『笑顔なんて、誰でもできるもん』。

「そうかも、しれません。でもわたし、もう、くじけたりなんてしないから」

 また一歩、暗闇の先に手を伸ばして、

『何にもない。私には、何にも』

「それでもわたし、この夢を、憧れのままで終わらせたくはありませんから」

 

 くよくよしてはいられませんでした。

 この先へは行かせない。島村卯月は、ずっとこの中にいればいい。そんなことを言う声はすべて、いつか辿る未来の自分の可能性そのものの声でした。

 最後まで理解はできませんでした。けれどその痛みだけは、教訓として知れたと思います。

「もう、心配なんてしなくてもいいんです」

 否定なんてしません。全部本当のことで、誰よりもわたしのことを知っている、わたし自身の言葉でしたから。……だから、否定なんてしません。否定せずに受け入れて、その上で笑顔を忘れない。そうやって、これからわたしは歩いていく。

「大丈夫。わたしは、きっと大丈夫ですから。だって」

 

 

 ——————島村卯月、がんばります。

 

 

 今もわたしは、自分自身にそう誓えるから。

 

「星…………」

 

 どこまで続くとも知れなかった夜の闇に、一筋の光が射しました。太陽のように強くも月のように優しくもない。けれど、ひたすらに眩しい。この道をまっすぐに照らすその光に手を伸ばします。

 息が弾んで、肩が震えて、足が悲鳴を上げて、心臓が足りない酸素を求めて必要以上に暴れまわって。それが、こんなにも気持ちいい。

 

『………………たとえその人生が、苦しみに満ちたものだとしても?』

 

 それが、最後でした。

 これから歩む道の先。転んでしまうこともあるでしょう。一人で立ち上がれないことが、きっと何度でも。それでも、いつまでも、自分の夢に胸を張って生きていけるように。

 

「はい。たとえ、そうだとしても——————島村卯月、頑張れます!!!」

 

 星に見えたそれは、一人の女の子でした。

 長い髪にまっすぐな瞳。差し出されたその手を取って、互いに強く握りしめて。

 

「迎えに来たよ。さあ、行こう。未来へ」

 

 ——————その一言で魔法はかかりました。 

 星明かりの舞踏会。

 大勢の人たち、その前に立つダイヤモンドにも負けない輝きを放つ星々。それはまるで、あの日わたしが憧れたアイドルそのもの。

「…………」

 本当に、わたしはそこに立っていいのでしょうか。あんなにも自分に誓えたのに、いざそれをこうして目の前にしてしまうと、自信がしぼんでいくみたいです。

 それを分かってくれていたのか、つないでいた手にまた一段と強い力が加わって。

「大丈夫。卯月だって負けてない」

「セイバーさん?」

「それに、ほら」

 セイバーさんの指が示した先を見つめました。その先では、みんな、お客さんの方を向いていたはずの全員が、一斉にこっちを向いていて。

 

『待ってたよ』

 

 その全ての視線がわたしにそう言っていました。

 他の誰でもない、わたしを待っていたのだと。

「セイバーさん」

「なに? 卯月」

「わたし、あそこに立っても、いいんですよね?」

 おそるおそる尋ねたつもりでした。けれどセイバーさんはなぜか、おかしなものを見たように笑っていました。そんなにおかしな顔をしていたのでしょうか、一部分が鏡になっていた壁面をのぞき込んで確認します。

 ……はい。確かに、これはおかしな顔でした。わたしは自分の態度とは裏腹に——————こんなにも、まるでおもちゃ売り場を前にした子どもみたいに、物欲しげな顔をしていたのですから。

 そんなわたしにセイバーさんが聞き返します。

「卯月は、どうしたい?」

「わたしは——————」

 そんな顔をしていたのですから、とうぜん、聞くまでもなく。

「——————あそこで、踊ってみたい、歌いたい。それから……めいいっぱいに、輝きたい!!」

「いいよ。さあ、ついて来て。見せたい景色があるんだ」

 セイバーさんに続いて踏み出した先、それは本当に魔法のような場所。

 足にはきれいなガラスの靴、白いドレスを身にまとって、夜空に輝く本物の星よりも眩しい輝きがすぐそばで光っていて、その中でも、自分の輝きをしっかりと確信できる。

 歌は誰かの笑顔を口ずさんで、ステップは自分自身の笑顔を運ぶ。そうやってより一層強く輝いていける。

 心の底から思えます。

 

「島村卯月はいま、世界で一番幸せです……!」

 

 

 

 長い夜が明けます。

 舞踏会は一夜だけ。いつの間にかステージは跡形もなく消え去り、どこか森の中、朝焼けが胸を焼く丘の上には、わたしとセイバーさんの二人だけが残っていました。

 互いに歌い踊り疲れ切って、お尻を地面につけて空を見上げています。

「楽しかった?」

 と聞くセイバーさんに、

「はい……! すっごく、すっごく、楽しかった」

 息も絶え絶え、それでもちゃんと伝わるように強く答えました。

「そっか。それなら良かった。うん、本当に」

 セイバーさんの手を握り直します。それをセイバーさんも握り返してくれます。けれどなんだか、少し力が弱いような。

「——————! セイバーさん、体が…………」

 腕の端から透けて、輪郭が粒になって溶けていっているように見えました。

「ああ、さっきので魔力切れか。まあ持った方だよね、とっくにイリヤからの魔力供給もなくなってたのに、それでも維持し続ければ、そりゃあ」

「早く、なんとかしないと!」

 そうは言っても、わたしにその何とかする手段は思いつきもしなかったのですが。

「ううん。その必要はないよ、卯月」

 ポケットの中をまさぐってスマホを取り出したわたし。とりあえず未央ちゃんに連絡を取ろうとしたその手を、セイバーさんは止めました。

「もう、大丈夫でしょ? 聖杯戦争は終わった。私がいなくても、もう、卯月は大丈夫」

「…………お別れ、なんですか?」

 セイバーさんは首を振ります。

「違うよ。きっと、ううん、絶対。またすぐに会える。それまで私は、少し遠くで卯月を待っているだけ」

「本当に、本当の本当に。また会えますか?」

「うん。それだけは絶対。……ああ、でも。その時の私はさ、きっと卯月のことを知らないだろうから——————」

 彼女の強いまなざしに、どこか祈るような弱さが混ざりました。

「——————だから、迎えに来てくれる?」

 その弱さ。あんなにも頼りになったのに、今では見る影もない、それでも何度もわたしを励ましてくれた手の平。その先の細い肩を抱き寄せて。

「はい。必ず」

 ただそれだけ。耳元に伝えました。

 彼女の胸の音が聞こえていました。この世界がわたしとセイバーさんだけになってしまったような静けさ。その中にもう一つ、早いリズムを刻む音をわたしは確かに聞いていました。

「卯月、そろそろ」

 あと少し、もう少しだけ、その音を聞いていたい気分でした。けれどわたしが思っている以上に、時間は残されていなかったみたいです。

 きっと、このセイバーさんと言葉を交わせるのはこれで最後になる。

 誰に言われずとも、朝日に透ける彼女の顔を見るだけで、わたしにはそれが分かってしまいました。

 ——————なら。

「最後に、これだけは、確かめないと」

 セイバーさんの目を見ます。何度もわたしを見つめてくれたその瞳を、今度はこっちから見つめて。

 ほんの少し息を止めて、その顔に自分の顔を近づけました。

「——————!」

 さすがにびっくりしたのでしょうか。セイバーさんのまつ毛が小さく震えたのが見えました。それを確認してすぐに離します。

 そうして、ついさっきまでセイバーさんに触れていた唇に手を触れました。

「ああ、やっぱり」

 すごく、どきどきします。胸が小さく縮こまって、どこかへ行ってしまいそうなほど激しく揺れて。それがセイバーさんに聞こえているんじゃないかと思うと、頬が熱くなって彼女の顔を見るのが恥ずかしくなってしまう。

 それでも、ちゃんと伝えないと。

 胸に手を当てて、この鼓動を伝えるために、まっすぐセイバーさんに向き合いました。

 

「セイバーさん————わたしあなたに、恋、しちゃっているみたいです」

 

 間近にあるセイバーさんの顔。いつまでも覚えていられるように、目に焼き付けようと見つめたその顔。

 それが、最後に、ほころんで。

 

「私は、とっくの昔から…………卯月を愛してるよ」

 

 初恋の答えを残して、いつの間にか昇っていた朝日に溶けて行ってしまいました。

 

 




マテリアルが更新されました。
(読み飛ばし可)


・島村卯月
 ・言い訳、というかただの面倒なオタクによる弁明。
  UBWルート士郎枠に当てはめるにあたって、彼女には士郎との明確な違いをつけておく必要がありました。簡潔にまとめれば『島村卯月は衛宮士郎のような壊れたロボットでは決してなく、ただの頑張り屋の少女でしかない』ということ。そのため彼女には、一人では絶対に立ち上がれない、などの縛りを設けることになっていました(ただし本当にそう書けていたかは謎)。
 ・結局聖杯戦争が終わって、その後の春、改めて凛に出会うまで、卯月はセイバーの真名を知らずじまい。よって作中での呼び方はずっとセイバーさん固定。アニメの呼び間違えイベを守るため、致し方なし。


・蒼セイバー/渋谷凛
 ・宝具
  ・ガラスの靴(シンデレラ・ストーリー) B 対人宝具
   ・アイドルの在り方、その概念が結晶化したもの。自らの内に在る理想のアイドル像を具現化し、自らとその周囲を書き換える。範囲は狭いが、前準備なしに固有結界に似て非なる大魔術や、とある童話作家の宝具に近い効果を発揮する。
   ・彼女たち一人ひとりは、あくまでも普通の少女である。笑顔を忘れてしまう日もある、前を向けない時もある、誰かを信じたくても信じられなくて、時に頑張ることすら難しくなることだってある。けれど、アイドルとは本質として一人でなるものではない。応援してくれるファンがいる。裏から支えてくれるスタッフがいる。ステージへと導いてくれるプロデューサーがいる。そしてともに痛みを分かち合いながら、同じステージに立ってくれるアイドル(仲間)がいる。くじけたっていい、落ち込んだっていい、それでも最後には最高の笑顔を見せてくれると信じている。その思いに答えて、アイドルは今日も輝く。
    ああ、その時にきっと、私はこう言うのだ。




    ——————いい笑顔です。

  


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Epilogue/Story

身体は剣でできていたりなんかしない。血潮も鉄ではなくて、そのくせ心は脆く割れやすいガラス。それでも、いつだって夢へとまっすぐに手を伸ばし続ける。
そんなただの普通の女の子がどうにかこうにか生き抜いた聖杯戦争の物語。


 もう何年も同じ夢を見続けています。

 

 キラキラと輝く舞台。数えきれないほどのお客さん。

 けれど、そこに立つ島村卯月の姿は、この日も黒塗りのまま。膝を抱えてすすり泣くその姿に、誰かを笑顔にできるような輝きはどんなに目をこすってみても見当たらない。

 そしてやっぱり、舞台袖に立つもう一人のわたしは、何もかもをあきらめたような目でそれを見ていて————

「大丈夫。卯月の笑顔は、きっと誰かを幸せにできる」

 ————その肩をたたく誰かがいました。

 うすぼんやりとした輪郭、けれど、その強い瞳と透明な声は今も鮮明に思い出せる。

 舞台袖にいたわたしは必死にその背中を追いかけて。

「待ってるよ。卯月」

 ステージのまぶしい光の中に彼女は消えていく。

 そして、いつだってそこで、夢は覚めてしまう。

 

「…………」

 見慣れた天井。イリヤちゃんのお城にあった飾り窓もなければ、未央ちゃんの家みたいな赤いじゅうたんもない。わたしが変わらず十六年間を過ごしてきた自分の部屋。

 ベット脇のカーテンに、窓辺に飾られたナズナの花瓶が影を作っていました。カーテンを開けて、さらにその奥の窓から朝の空気を取り入れます。

 東向きの窓から射す光、照らされたナズナの白い花には朝露が滴っていました。

「セイバー、さん」

 夢の中に出てきた彼女の名前を、噛みしめるように口ずさみました。

「……わたし、今日もがんばりますね」

 

 島村卯月、十六歳。十七の誕生日まで一カ月を切った三月下旬。

 最近、見る夢がほんの少しだけ変わりました。

 

 

3月26日(日)

 

 聖杯戦争が終わってから、もうすぐ二カ月が経とうとしています。

 あの戦いでわたしが得たものは何もありません。無事に山を下りて、未央ちゃんたちと再会したその時にはもう、聖杯は破壊されていたのだと聞きました。願いを叶えている暇なんてなかったです。そもそも、聖杯を使って願いを叶えるとも、まだ決めていませんでした。

 けど、それで良かったのだと、今のわたしには思えます。

 不安が消えさったわけではありません。あの夜に見た輝きを、わたしはまだ自分の手でつかめていない。—————それでも、間違いではないと、言ってもらえたから。

 だから、今はただ、変わらない日常を積み重ねていくだけでいい。

 

「そろそろ休憩にしよっか。しまむー」

 春休みの養成所には二人分の靴音がひびいていました。

「はい、タオル」

「ありがとうございます」

 未央ちゃんに手渡されたハンドタオルで、おでこに張り付いた汗をぬぐいます。オレンジ色のジャージを着た未央ちゃんも、同じように体を拭きながら、持っていた水筒の中身をあおっていました。

「窓開けますね。きっと今なら、風が気持ちいいですよ」

「お、いいね。お願い」

 小さな庭に面した大きな窓を開け放ちました。道路との間にあるブロック塀、それに囲まれたちょっとした上がり(かまち)の下の土には、タンポポがその茎をしっかりと青空に伸ばしていました。

「春だねぇ」

「春ですねぇ」

 未央ちゃんの呟くところに、同じことを返していました。吹いて来る風にもどこかほんわりとした香りがしているようです。

「……思い出してみれば、風みたいな二カ月だったね」

「ずいぶん詩的ですね」

「そうかな」

 頬をかく未央ちゃん。わたしはくすりと笑って頷きます。

「はい。なぜか、セイバーさんを思い出しました。どうしてでしょう」

「さあ……なんでだろうね」

 もしかしたら、彼女が風によく似ていたから。なんて、これも詩的に過ぎる気がします。

 でも本当に、セイバーさんは風によく似ていたと思います。遠くどこまでも吹き抜ける。それでいて、本当に困った時には背中を強く押してくれる。彼女はそんな風でした。

 だから、きっと、そんな風のような彼女とともに走り抜けた一週間。その後にやってきたこの二カ月。それがこんなにも短く感じられたのは。

「追い風…………かな」

 

 

 変わらない日常を積み重ねたこの二カ月。それでも、変わっていくものはありました。

 眠っていた柳堂寺の住職さんたちは一人一人、ゆっくりと目を覚まし、最後には誰一人欠けることなくお寺に戻ったとのことです。

 未央ちゃんによると、

「私が自分で調べたってわけじゃないんだけど、全員無事だって聞いてる」

 わたしたちが聖杯戦争中に病室を訪ねた柳堂一成さん。未央ちゃんの親戚で聖杯戦争を解体するためにやって来たという遠坂凛さんと、彼は知り合いだったそうで。

 その凛さんが調べた結果を未央ちゃんは、

この世全ての悪(アンリマユ)が完全になくなったわけじゃない。今もほんの少しは残ってる。でもそれも、一人の人間が十分に許容できるだけに収まってるらしいから、当面の問題はないんじゃないかな。そもそも、初めから入っていた分もごく少量だったしね」

 そんなふうに言っていました。

 後でわたしも同じ検査を受けましたが、特に問題はないとのことです。

 ほんとうによかった。それらすべての結果を聞いて、未央ちゃんは思わずそうこぼしていました。その気持ちも分かる気がします。

 わたしを含め、彼らを昏睡させたのは藍子ちゃんでした。

 優しい彼女のことです。きっとわたしたちが何を言っても、彼女はずっとそのことを覚えているでしょう。実害はなく死傷者も出ていない。すべては丸く収まった。けれど、傷つけたという事実だけは、この先永遠に藍子ちゃんの影について回るのだと思います。

 それでも、藍子ちゃんには未央ちゃんがいます。

 藍子ちゃんの一件、その解決は結果として、二人の間にあった距離をほんの少し縮めることになりました。もちろん、それだけではきっと足りない。

 この二カ月の間にも、二人にはいろんなことがありました。その度に悩んで、それぞれのペースで少しずつ、互いへと歩み寄っていった。きっとこれからだって、そうやって二人は寄り添い支え合っていける気がします。

 二月の中頃、未央ちゃんが実家での用事で冬木を離れることが多くなりました。

「未央ちゃん、最近学校にも来てないんです。エスカレーター式で一緒に高等部に上がることは決まってますから受験も無いし。高校の内容を先取りして授業もやってるけど、未央ちゃん頭いいから。大丈夫だっていうのは、分かってはいるんですけど」

 そのころの藍子ちゃんは、窓の外を見て寂し気にしていることが多かったように思います。

「おかげで最近、よくお腹がすいちゃって。体重計に乗るのが少し怖いです」

 そんなことを言う彼女がなぜか少し怖かったことは内緒です。べつにくうくうだとか、タコさんウインナーだとか、そんなことは一言もいわれていないのにです。本当に、聞いていないので。

「お友達にもダイエットを手伝ってもらってるんです。未央ちゃんに太ってるところなんて見られたら、またへこんじゃいそうで……。ただその子のメニュー、その…………なんていうか、結構ハードで。おかげで、夜もぐっすりなんです」

 ボンバー!!!! どこからか、そんな声が聞こえてきた気がしました。

 少しの時間、離れていた二人。ですが、一週間ほど前の卒業式。隣り合って撮っていたクラスの集合写真。たまたま通りがかって見た二人は後ろ手で、互いの手を強く握り合っていました。後で見せてもらった写真に写るその顔も、とっても眩しかったように思います。

 ————そして、そのすこし後にはわたしにも変化が訪れました。

「先日オーディションをお受けしていただいたシンデレラプロジェクトですが、三名の欠員が出まして。再選考の結果、島村卯月さん、貴女をそのうちの一人として、プロデュースさせていただく運びになりました」

 突然養成所を訪れた、ちょっと失礼な言い方ですけど、怖い顔の人。芸能事務所346プロダクションのプロデューサーさんと名乗る方に、そう言われました。

 プロデュース。以前受けたアイドルオーディションの再選考。それに、わたしが、合格。

「わたし…………、アイドルに……、なれる、んです、……か?」

「はい」

 信じられない気持ちと、信じたい気持ちが胸に押し寄せてきて、目の前が真っ白になります。その光景が毎日見る夢と重なりました。

『待ってるよ』

 セイバーさん。わたし、アイドルになれるみたいです。

 帰りに寄った花屋さん。そこで店員の女の人に勧められたアネモネの花を買い、部屋の窓辺、ナズナの花瓶の横に飾りました。

 期待。希望。

 教えてもらった花言葉を口に含め、さらに三日がたったころ。

「しまむー! 私もデビュー、決まったよ!」

 プロデューサーさんと一緒に養成所を訪れた未央ちゃんの口から、同じプロジェクトでのデビューが決まったとのしらせを聞きました。

「一緒にデビュー! 嬉しいです、未央ちゃん!」

「うん。本当に……、この一カ月と少し。隣で見てくれて、ありがとう」

 聖杯戦争が終わってすぐ後に聞かされていました。未央ちゃんが魔術師をやめたこと、そしてこれからは、藍子ちゃんと同じアイドルを目指すということ。そのために、わたしのレッスンに付き合わせてほしいこと。

 断ることなんて当然しませんでした。あの養成所にいられるのも、残りわずか。その間わたし一人では養成所も、そしてトレーナーのおばあさんも寂しい思いをするでしょうから。案の定、おばあさんも歓迎してくれました。

 ただ、それでも気になって、夕暮れの帰り道で理由を聞いたことがありました。その時に未央ちゃんは、

「アーチャーに、…………いや、友達に勧められたから。かな」

 そう言って、空を見上げていました。

 

 ———聖杯戦争から、もうすぐ二カ月が経とうとしています。

 わたしたちはそれぞれに、それぞれの道を歩み始めていました。

 

 

「追い風かぁ……、私はひたすらに、忙しかったなあって印象しかないけど」

「そうですね。ご実家、どうでしたか?」

「うん。まあ概ね、問題なし。お父さんもお母さんも、とりあえず高校卒業までは冬木にいることを許してくれたし、応援もしてくれるって。お兄ちゃんは『あとは任せろ』ってなんか張り切ってたけど、心配だなぁ」

「たまに帰ってあげてください。その時には、藍子ちゃんも一緒に」

「うん。もちろん」

 しまむーも歓迎だからね。と付け足す未央ちゃん。

 以前までは家に上げることさえ、魔術を使ってまで避けていました。そんな彼女ははもう、どこにもいないように見えました。

 ……変わらない日常なんて、ありませんでした。この一カ月でわたしはそれを実感します。

 きっとあの聖杯戦争でも、わたしが気づいていないだけで、何か少し変わったところがあったのかもしれません。そしてこれからも、変わっていくことばかりなのでしょう。

「(…………セイバーさん)」

 ——————それでも。あの日からずっと変わらないもの。もしもそんなものがあるとしたら、多分それはこの胸の奥にある愛しさだけ。これから先、それもどう転がっていくかは分からない。それでもずっと、抱きしめていたい、そばにあってほしい。

 そう。わたしがあの七日間のうちに得たものは、大事な人からもらったものは、きっと————

「お疲れ様です」 

「あ、プロデューサー。おはよ」

「はい、本田さん。島村さん?」

「———はい! 島村卯月、元気です!」

「おやぁ? どしたのしまむー。も、し、か、し、て。誰かさんのこと、考えていたりしちゃったりしていたのかなぁ?」

「…………っ! もう! 違いますから! プロデューサーさんも、違うので!」

「……はあ」

「あーあ。振られちゃったね、プロデューサー」

「未央ちゃん!!」

「ごめんごめん。許して、しまむー。いやホントマジですんませんした! なのでスマホから手を離してつかさい! あーちゃんに電話で言いつけようとかしないでつかあさい! あーちゃん怒ったらマジで怖いんだから!!」

 じゃれ合うわたしたち二人を見て、

「お二人とも、元気そうで何よりです」

 と首の後ろをさすりながらプロデューサーさんは言いました。

 ひとまずスマートフォンをしまって、じゃれ合いを中断。

「プロデューサーさんは、あまり元気そうではありませんね」

「もう一人、まだ決まりそうにないの?」

 未央ちゃんが指摘します。未央ちゃんとわたしのデビューが決まって、およそ一週間。全員が揃うまで事務所への移動は先延ばしになるそうで、未央ちゃん以外の同じプロジェクトからデビューする他の人たちとの顔合わせも、まだできていません。

 そして、その最後の一人。交渉中とのことですが難航しているみたいです。

「プロデューサー、その最後の一人って、どんな人なの?」

「それならば資料があります。個人情報の関係上、写真だけですが、ご覧になりますか?」

「はい。お願いします!」

 手元にぶら下げていたビジネス鞄からプロデューサーさんは一葉の写真を取り出しました。持ち出すつもりなんてありませんし、それをプロデューサーさんも分かっていたと思います。ですが手渡してはくれずに、ただわたしたちに見えるようにと手元に差し出します。

 わたしたちがはっとするには、それだけで十分でした。

 長い黒髪とまっすぐな瞳。いつもどこか遠くを見据えていたその表情は、濃い霧の中で迷っているように見えました。

 

『——————だから、迎えに来てくれる?』

 

 どれほどの年月を経ようとも、彼女とのやり取り一つ一つがそのうちに薄れ、摩耗し、いつか思い出せなくったとしても、きっといつまでだって。

 月の下で出会った、とても綺麗な女の子。

 彼女と出会って、そして彼女を好きになって、それから、必ず迎えに行くと約束した。

 そのことだけは、いつまでだって覚えていられる。そう思っていました。

 

「————ほんとうに、すぐでしたね」

「島村さん?」

「プロデューサーさん。お願いがあります。これからわたしを、その子に会わせてもらえませんか?」

 わたしのその言葉を聞いて、プロデューサーさんは事情がつかめないというように、困った顔をしていました。ですがすぐにそれを酌んでくれたようで、

「分かりました」

 と一言で返してくれました。

「いってらっしゃい。しまむー」

「はい。行ってきます!」

 眩しくて温かなものを見るような視線を送る未央ちゃんに背中を押され、わたしはプロデューサーさんと一緒に養成所を出ました。

 プロデューサーさんの車に乗って深山町を後にするわたしたち。気分はまるで童話に出てくるかぼちゃの馬車に乗って、魔法使いさんのお手伝いをしに行くようです。

 わたしたちの誰しも、本物の魔法は使えない。魔法とは現代の科学技術の枠組みを越えた奇蹟。それがあの七日間のうちにアーチャーさんから教わった、魔法の定義。

 ———ですが、その七日間の最後の夜、あの時、確かにわたしの胸には一つの魔法がかかりました。

 その現象自体は、魔法でもなんでもなかったのかもしれません。きっと同じことが魔術でもできてしまう。けれど魔術で再現されたその奇蹟は、たぶんですけど、わたしにかけられた魔法までは再現できないのだと思うのです。

 魔法ならざる魔法、魔術ならざる魔法。誰もが使えるのに、誰もがそのことに気づかない。忘れられて、力を失くして、それでも、消えはしない。いつだってそれは、わたしたちの胸の中にある。

 そんな、シンデレラの魔法をかけに、機械仕掛けのかぼちゃの馬車で、わたしはセイバーさんに—————この世界で一番大好きな彼女に会いに行く。

 

 

Interlude

 

 桜が散っていた。藤棚の下で子供が笑い、季節外れに咲いたアジサイの奥に広がる青空。

 その青空を公園のベンチに腰掛けた彼女は見ていた。

 春風がそよぐ。薄雲は流れ、温かな日差しがさしている。

「こんなふうに、私の心も晴れてくれたらいいのに。なんて」

「わうぅ……?」

「なんでもないよ。……そろそろ帰ろっか、ハナコ」

 抱えていた小型犬を放し、自分もベンチから立ち上がって公園の入り口を視界に入れた。そこに、二つの人影。

 もはや見慣れてしまった大きなシルエット。固く着こなされたスーツの下のやや窮屈そうな肩。一般に人相の良い方とはとても言えないその顔。彼女をアイドルにスカウトしようと、ここ数日付きまとっていた男だった。

 そのそばに、見慣れない姿があった。

 ここまで走ってきたのだろうか、隣の男とは対照的に小さな肩が上下に揺れている。膝に手をついて、大きく息を吸ったり吐いたりして見るからにとても苦しそう。それでも、その顔を下に向けたりはしていなかった。

 すぐに立ち止まりたいだろう、休みたいだろう、その場に倒れて、悲鳴を上げる心臓を早く落ち着かせるべきだ。傍目にもそうはっきりと分からせるほど。なのに、その丸い目をまっすぐこちらに向けていた。

「…………あのさ、……大丈夫?」

 思わずかけよって、話しかけていた。

「……は、はいっ………………。だい、じょうぶ。……はぁっ、……平気、です」

 全然そんな風に見えない。

「これ……よかったら。飲みかけだけど」

 トートバッグに入れていたスポーツ飲料を差し出す。すると彼女は受け取らずに、その丸い瞳をより一層丸くして、

「あの……、ほんとうに、いいんですか?」

 こちらの顔を覗き込んで、問いかけてきた。それが何かをためらっているように見えた。

「別に、いいよ」

「…………」

 手に取って、それでもまだ口にせずに飲み口を見つめている。なんと言えばいいのか。そこまで注意深く自分の口がついていたところを見られると、さしもの彼女も意識して、恥ずかしくなってしまう。

「(バカみたい。相手は女の子だよ?)」

 けれどどうしても、意識してしまうことを止められなかった。それならばと、

「飲まないの?」

 そう言って、せめて早めに済ませてもらおうと促した。

「———あっ、いえ! そ、それじゃあ……いただきます」

「……どうぞ」

 飲み物を分けてあげるだけ。それだけなのに、妙に仰々しい。

 唇と、ペットボトルの飲み口が数センチの距離に迫る。その間を薄く濁ったスポーツドリンクが橋を渡すように流れていった。

 ずいぶんたくさん飲むんだな。そう現実逃避に思う。思っているうちにキャップを閉めて返してきた。

「ありがとうございました」

「…………いいよ。返さなくて」

「え? …………あっ」

 もうほとんど残っていなかった。自分でも一口飲んだだけだったので、本当に相当の量を目の前の女の子は飲んでいたことになる。

「す、すいません! 新しいの、買ってきます!」

 また走り出してしまいそうになる女の子。

「待って」

 その腕をつかんだ。別に構わない、そう言う前に、

「——————っ!」

 反射的に振りほどかれた。

「あ、……ごめん」

「い、いえ。謝ることは……」

 一瞬合った視線がすぐに明後日のほうへ向いてしまった。

 ……なんだかぎこちないなと思う。初対面なのだから、それもそのはずだ。なのになんだか、不思議な感覚がしていた。確かに自分はこの女の子のことを知らない。なのに当の彼女の仕草や言葉、その端々からこちらへの親しみを感じないこともない。

 まるで、初対面を装っているような。そんな気がする。

 かといって、こちらからは完全に初めましてなので、どう接すればいいのか全く見当もつかない。

 そしてなぜか、向こうもそんな感じだった。互いに距離の詰め方を図っているような。

「————あの」

 そこに低い声が投げ落とされた。プロデューサーを名乗るあの男の声だった。二人して意図せず同時に振り向く。

「なに?」

「飲み物なら、私が買ってきましょう。何か希望はありますか?」

 この男の世話になるのはなんだか癪だった。だが、今の状況ではこれ以上ない助け船であることも事実。

「————コーラ、ゼロカロリー」

「あ、えっと。すみません、プロデューサーさん。セイ……、……彼女の分、お願いします」

「島村さんは何も要りませんか?」

「はい。わたしは十分に頂いたので。それに、まだ少し、残っていますから」

 彼女はもらったスポーツ飲料の底を軽く振って見せた。男はそれを見て、

「……はい。分かりました」

 すこし考えた後、背を向けてどこかへ走り去ってしまった。

「………………」

「………………」

 二人残される。公園で遊んでいる子どもたちの声が、どこか遠くのからの物のように聞こえた。

「とりあえず、座りませんか?」

 向こうの方から切り出した。「うん」と答える。愛犬を抱えて桜の木影の下に足先を戻した。

 ベンチの上に落ちていた花びらを(はら)う。先にこちらから座って、一人分開いたところに向こうは腰かける。すこし近い気がして、もう一つ分開けた。

「——————」

「——————」

 座っても、気まずい空気は残ったままだった。何か話の話題をと考える。いい天気ですね、とか。散歩中のおばあさんか何かだろうか。

「わんっ!」

「え————きゃ」

「あ、こら!」

 飼い犬のハナコがむこうに飛びついていた。普段は元気がこれでもかと余っているくらいなので、ここまで大人しかったことの方が珍しかったのだ。少しでも目を離していたことが悔やまれる。

 すぐに連れ戻そうと目で追う。その先でハナコは相手方にじゃれついていた。

「……え?」

「わわっ! くすぐったいですよぉ!」

 顔をなめられても笑顔を崩さずに、彼女はハナコを優しく抱き留めていた。

「うそ。あんまりすぐには、人には懐かないのに」

「そうなんですか? とってもいい子ですよ」

「…………」

 ハナコに警戒している様子は見られない。本能的に安心できる存在だと彼女を認めたようだ。だからって飼い主を差し置いてご機嫌取りとは。犬は上下関係に厳しいと知ってはいるけれど、その感覚をこの子はどこに置いてきたのだろう。

「ふふっ」

 それがなんだかおかしくて笑う。すると、

「——————あ」

「え?」

 じゃれつくハナコを見ていた彼女の視線が、こちらへ向いた。

「どうかした?」

 と聞いても、

「い、いいえ! ……別に、なんでも」

 とうつむいて、またハナコへと視線を戻してしまった。それから何かを思い出したように。

「あの。お名前、聞いてもいいですか?」

「名前? ああ、ハナコだけど」

「花子ちゃん、ですか? 可愛らしい名前ですね!」

「それは……どうも」

 一応、子どものころに自分でつけた名前だったので、気恥しくはあっても嬉しくないわけではなかった。そう思っていたすぐ後だった。

「———花子ちゃん……かあ」

 自分に言い含めるみたいに呟いたかとおもうと、彼女はハナコに向けていた人好きのする笑顔をこちらに向けて、

「これからよろしくお願いしますね、花子ちゃん!」

 そう、見当違いにも、犬の名前をこちらに向けて言ったのだった。

「あのさ、ハナコは、犬の名前なんだけど……」

「うぇ!? あ、えっと、ごめんなさい! 花子ちゃん!」

 相当に動揺している。違うと分かったのにそれでも呼んでしまっている所から、そのことは容易に読み取れた。

「ふふ、あははは!」

 我慢できなかった。おかしいにもほどがある。

「もう! そんなに笑わなくてもいいじゃないですか!」

「ごめん。………………ふふ」

「ああー! また!!」

 頬が柔らかそうにふくれる。それも長く持たず、いつしか向こうも一緒になって笑っていた。ひと通りおかしさが収まって、落ち着いたころに、

「凛。渋谷凛。それが私の名前」

 彼女は、凛は、自分の名前を目の前の少女に教えていた。

「———渋谷、凛」

 それを、どう感じたのか。彼女は一言、凛の名前を一語一音、口の形から確認しているみたいに丁寧に読み上げて。それから————

「え」

 ————涙を、流していた。

「よかった。—————やっと、あなたの名前を知れた」

「…………どこかで、会ってる?」

 凛が問いかける。彼女は首をふった。

「いいえ。あなたとこうやってお話するのは、これで初めてです」

「……そう」

 嘘をついているようには見えなかった。けれど、本当のことを全部喋っているわけではないのだとも、なんとなく分かっていた。それを聞く必要は、今は感じなかった。

 肩越しに見えるその表情。ぽろりぽろりと落ちていく涙を拭いながら、笑ってもいないのに、その顔はなんだか幸せそうに見えた。人は笑顔以外でも嬉しいという感情を表現できる。そんな当たり前のことをなぜかこの時、凛は思い出していた。

 その全ての涙を拭い去った。それから顔を上げる。

「今度は、わたしの番ですね」

 雨が降った後には、うそみたいにきれいな青空。どこまでも澄み渡る、それでいて温かい笑顔。少女はそんな顔で—————

 

「———島村卯月です。これから、よろしくお願いしますね。凛ちゃん!」

 

 

Interlude out

 

 

 夜が明けて、朝が通り過ぎて、今度はまた違う夜が来る。

 暗闇の中で必死に足掻いた七つの夜。月灯りも、星の光も見えず、ただ自分の道を信じ続けた。

 悩んで、苦しんで、時には諦めそうになって。いっそ死んでしまえたならと、何度思ったことだろう。

 ————それでも、この夢だけは最後まで譲れなかった。

 だから、ここからはその(ユメ)の先。

 美城は遠く、星は遥かに。

 

 シンデレラたちの物語は、また次の夜へとつながっていく。 

 

 

 

 ーFinー 

 




まだもう少しだけ続くんじゃよ


「私、どうして。安心なんて、していたんだろう?」

「もうすぐですね、バレンタイン!」

「—————だから、きっと。これはそのあり得た可能性の一つだ」

「未央ちゃんって、私のこと、好きなのかな?」

「ちょっと。うちのあーちゃんに何してくれちゃってんのさ」

「殺されることになら慣れていました。それは特別に怖いことではありません」

「「そのもしもを、考えたことがある」」

「もしも私が悪い人になったら、許せませんか?」


 次回、『Snow*Love』


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After night, Before night
After0.5/これまでとこれから


迅速かつお手軽にみおあいを幸せにしないと罪悪感で死にたくなる病気にかかってなんやかんやしていたら一カ月がたっていた……

その上予告してた話じゃなくて本当に申し訳ないです。

とにかく、後語り編開幕です!


 それは、聖杯戦争が終わってから少しだけたった後のことでした。

 

 登校前。未央ちゃんの家で朝ごはんを食べるゆっくりとした一日の始まり。

 アイドルのお仕事がある私、高森藍子と同じく、未央ちゃんも特別、どこかの部活に参加していて朝練に行かないといけない、ということも無いので、一緒にいただきますと言って、テレビニュースを見ながらのんびりとすることができます。

 普段なら、食器を片付けている間に、一緒に登校する卯月ちゃんがやってくるのですけれど、この日はそれより少しだけ早く、まだ私も未央ちゃんも食べ終わっていないうちにドアベルが鳴りました。

 のんびりしすぎちゃったのかな。なんて思って時計を確認しましたが、そんなことはなく。本人に聞いてみても、

「今朝は二人とのんびりおしゃべりがしたくって。早起きしてきちゃいました」

 とのことだったので、ほっと安堵の息をもらしながら玄関から居間に通して、お茶を出しました。

 そうして、三人でしばらくゆったりとしていた時にふと思い出して、私はこんなことを口に出しました。

「そういえば未央ちゃんって、お洋服、あんまり持っていませんよね?」

「あれ? そう?」

 未央ちゃんには特に自覚がなかったようです。ですが、

「私、未央ちゃんの女の子らしい格好、あんまり見たことなくって」

 その言に納得したのか、卯月ちゃんはお茶をテーブルに戻して言いました。

「ああ、確かに。言われてみれば、わたしも未央ちゃんが制服以外でスカート履いてるとこ、見たことないです」

「え。それ本当?」

 まさかそんなことあるわけないじゃん。とでも言いたそうに、未央ちゃんは頬を緩めます。ですがそれも、

「まさかそんなこと————あれ?」

 考え始めて、記憶をさらって、わずか三秒と立たずに固まってしまいました。

「——————マジだ。

 洗濯物の中に、制服とあーちゃんのスカート以外のそれが入っていた記憶が…………ない……!」

「…………」

「? 藍子ちゃん、顔が真っ赤ですよ。大丈夫ですか?」

「……はい。なんとか」

 大丈夫じゃないです。

 どうして、気付かなかったんでしょうか。何度かこちらに泊まらせてもらったことがありました。そのときのために、私の部屋まで用意してもらって、何着か着替えも置かせてもらっていました……なので、この可能性は今までもあったんです。

 つまり、ここに置いてある私の着替えを洗濯していたのは未央ちゃんで。

 つまり、未央ちゃんは、洗濯した後の私のスカートを見ていていて。

 つまり、その、それらといっしょに———

「………………未央ちゃんのえっち」

「え。なんでさ、あーちゃん」

 そんなことを言われてしまうと、少しだけがっかりしてしまいます。

 未央ちゃんは私の……を干すときに何も思わないのかな。いえ、きっとそれに慣れてしまったのが、未央ちゃんがまだ私よりも魔術を優先していた時期で、そんなことを気にしていられる余裕がなかった。だからもう、なんとも思わないだけ。

 きっと、これから慣れていくことになっていたなら、また違っていたのかもしれません。

 とはいえ、現実はそうではないのですけれど。

 暗い方にしか行かない想像をトーストの最後の一口と一緒に飲み込んで。

「クローゼットの中にも、あんまりそういう類の服無かったですよね?」

「あの、あーちゃん……? どうしてあーちゃんが私のクローゼットの中身を把握しているでしょうか?」

「ありませんでした、よね?」

「は、はいっ! おっしゃるとおりで!」

 頷く未央ちゃん。お茶を飲んでいた卯月ちゃんに近寄って何かを相談しているようですが、

「知りません。自分で考えてください」

 と、にべもない返答を返されているところからすると、その内容もなんとなく察せられてきます。

「それで、お洋服が少ないのには何か理由があるんですか?」

「いや、理由も何もないんだけど。気づいたらそうなってただけで。誰かと一緒に買いにいくこともこっちに来てから無かったし、たぶんだけど、子どものころから服の趣味は変わってないと思うよ」

「じゃあ昔から今みたいに、男の子みたいな格好だったんですね?」

 私に続いて、卯月ちゃんが追加の質問を投げかけます。

「たぶんね。お母さん辺りがお兄ちゃんのお古を、私と弟に回してたみたいだったから」

「……………………」

 なんでしょう。さっきから、なんだか嫌な肌寒さが背筋を上下に行ったり来たりしています。

 未央ちゃんが笑って話すところには、どこか違和感がありました。笑顔なのに、私の大好きな温かな笑顔そのままなのに————どうしてか、ひどいごまかしを見ているような気がします。

 悲しいことをそうじゃないと、優しい言葉であいまいにしている気がする———

 ———ああ、そうか、”あいまい”だ。この違和感の正体はきっとそれです。本当ならもっとはっきりしているべきところが、まるで霧に覆われてしまったみたいにぼんやりとしていて。でも、それじゃあ———

 

「未央ちゃん、あなたは……もしかして、

 ————子どもの頃のこと、何も憶えてないんですか?」

 

「ん? そだよ。言ってなかったっけ?」

 未央ちゃんはそう言って事もなげに、

「ごちそうさま。今日もおいしかったよ」

 と食器を運びます。

「——————」

 私は言葉を失ってしまって、彼女に「お粗末様でした」と言うことができませんでした。

 

 

 朝ごはんは最後まで食べ切ることができませんでした。

 トーストの一欠けら、半分になったスクランブルエッグとサラダにラップをかけて冷蔵庫に入れて、どうにかこの胸のつかえだけは洗い流しておこうと、残ったココアを一気に飲み干しました。けれど、すっかり冷めてしまったそれは後味を強く残して、逆にやり切れないものが増えてしまっただけのように感じます。

 ———やっぱり、無視できない。

「卯月ちゃん、先に学校に行っていてもらっていいですか?」

 着替えに未央ちゃんが二階へと上がっている今、リビングには私と卯月ちゃんの二人だけが残されていました。飲み終えたお茶を片付けて、未央ちゃんが降りてくるのを来るのを待っていた彼女は私のその提案を聞いて、

「未央ちゃんのことですね」

 そう確認の意味を込めた言葉を返してきました。

「はい。未央ちゃんはぜんぜん、気にしていないみたいでした。けど私は、未央ちゃんが私に約束してくれたように、あんな顔をする未央ちゃんを放ってはおけません」

「そうですね……わたしも、未央ちゃんにはもうあんな笑い方をしてほしくはないです。分かりました。藍子ちゃんがそこまで言うのなら、あとはお任せします。担任の三綴先生にはわたしから言っておくので、思う存分時間を使ってください」

「……うん。ありがとう、卯月ちゃん」

 にへりと笑って、その柔らかな腕で彼女は私を引き寄せて、

「心配ないですよ。未央ちゃんには藍子ちゃんがいる。藍子ちゃんには未央ちゃんがいる。二人は、二人でいるのなら、何があっても大丈夫です。藍子ちゃんたちはきっとそういう、運命の二人なんですから」

 耳元でそっと優しく囁いていきました。

 

 

「あれ? しまむー、先に行っちゃったの?」

「うん。付き合わせてしまうと、卯月ちゃんまで遅刻にまきこんじゃいそうで」

「……そっか」

 卯月ちゃんが先に行って少し経った後。二人きりになった居間を見た未央ちゃんは、それだけで私の言いたいことをおおよそ察していたようでした。

「お茶、入れなおそうか?」

「ううん。そこまでは長くするつもりはないの。一つだけ、確認したいことがあるだけで。……未央ちゃん」

「うん。なに? あーちゃん」

 二人掛けソファに腰を下ろしていた私。その横に未央ちゃんは座って、私の目を見て、何も悲しいことなんて憶えていないような顔をしていました。それが私にはひどく悲しく思えて、つい数十分前にした問いかけと同じことを聞いていました。

「子どもの頃の記憶がまったく無いって、本当なの?」

「…………」

 未央ちゃんの顔が少しうつむきました。何かを考えて、必死に絞りだしているみたいで、しばらくそのまま、未央ちゃんは床を眺めていました。やがて唐突に、

「そっか、そうだよね」と、誰にともなく、

「忘れるって、幸せだったころを覚えていないって、悲しいことだったよね」

 全く悲しくもなさそうな顔で呟いていました。

「六年前からずっとだったから、いつの間にか当たり前になってて、それこそ本当に忘れてたよ」

「——————」

 まだ小さかった未央ちゃん。不幸な事故とも呼べる運命のいたずらによって、戦うための魔術師(どうぐ)にならざるを得なくなった、小学校を卒業してもいなかった幼い女の子。

 その小さな体に奇跡を宿す代償として記憶を失い続けることが、彼女にとってどれだけの恐怖だったのか。その果てに、その恐怖すらも忘れてしまうことを未央ちゃんは選んだ。それはきっと、誰も覚えていないとしても、悲しいことには違いないのだと思います。

 ———けれど、私は、ひどく身勝手な感情だと、自分でも分かっていますけど。

「あーちゃん?」

「……ごめんなさい、未央ちゃん」

「え? いや、私の記憶が消えてるのは、別にあーちゃんのせいじゃ」

「違う。違うの。未央ちゃんがご家族のことを憶えていないのも、それを未央ちゃんが悲しいと思うことすら忘れてしまったのも、全部、悲しむべきことなんだって、分かってるの。……でも、私、それよりも———怖いの」

 すがるように未央ちゃんの手を握りました。聖杯戦争で私が得た数少ない報酬の一つです。たまに恥ずかしくなって離したり、握れなくなってしまう時はありますが、こうして以前よりはずっと簡単にその手を取れるようになったことは、私の大きな支えの一つでした。

 その証拠に未央ちゃんも、すこし頬を染めただけで躊躇うことなく受け入れてくれて、

「あーちゃん……、手が」

 私の震えも、簡単に感じ取ってくれたみたいです。

「ごめんなさい、みおちゃん。ほんとうにごめんなさい。でもやっぱり私……、怖いの。未央ちゃんが過去を忘れていたことが悲しくて、もしかしたら、これからも同じことが起きるんじゃないかって不安で、もしも、もしも————私のことまで忘れちゃったらどうしようって、怖くて怖くてたまらないの……!」

「——————!!」

 何か柔らかくて温かなものが、唐突に私の胸に当てられていました。背中に回される未央ちゃんの手、脆くて壊れやすいものを砕いてしまわないよう遠慮がちに、けれどそれ以上の悔しさで強く私の体を抱き寄せています。

「…………みお、ちゃん……?」

「こっちこそ、ごめん。また……あーちゃんを泣かせちゃった」

「え」

 視界が変に歪んでいます。無意識に拭った手の甲がぬれていました。

「やだ。私……、どうして泣いたりなんか」

「ごめん。本当に。もう二度と、あーちゃんが泣かなくてもいいように守るって、約束したのに」

「どうして、未央ちゃんが謝るんですか……、申し訳のないことを、わがままで、すごく酷いことを言っているのは、私の方なのに」

「ううん。違う。それは、わがままなんかじゃない。あーちゃんは何にも悪くない。悪いのは忘れることを当たり前に思って、知ってもらっているつもりになってた私の方。そのせいであーちゃんに、考えなくてもいい苦しみを想像させた。だって、もう———

 ———もう私が、記憶を失うことはないんだから」

「——————」

 今。何か。聞き逃せないことを聞いたような。

「未央ちゃん、それは」

「うん。これも本当のこと」

 彼女の胸に寄りかかる形になっていた私の両肩をつかんで、未央ちゃんは真正面から私に向き合いました。

「私の記憶が無くなっていってたのは、魔術刻印が私の体を作り変えてたから。本来なら、生まれてすぐに適応の準備をして、薬とか飲み始めるんだけど、私はそれが九年も遅れたからね。アレはあれで一つの生き物みたいなものだから、まして内包する神秘も厄ネタの塊とかいう一品だったし、一般的な魔術師が吐き気を伴う死にたくなるような痛みだけのところを、私はそれといっしょに記憶を食わせて、遅れた代償を賄ってた。いや、賄わされてた」

 ただの普通の女の子から魔術師になるために費やした六年間(これまで)。その記憶を語るときも、やはり未央ちゃんは未央ちゃんのまま。そこにあった苦しみをただ、当たり前のこととして語っていました。

 こういう時にも、私は不安になるのです。

 この人は、泣くことがあるのでしょうか。と。

 ———それも、どうやら勘違いだったみたいです。

「その魔術刻印ももう、あーちゃんを助けるので使いつぶしちゃったからね。どこにもいないやつにあげる記憶なんて、私は持ってないよ。だから———」

 

「だから、もう————あーちゃんとのこれからは、絶対に忘れないでいられるんだ」

 

 そう言って、本当にうれしそうに笑う未央ちゃんの瞳は、温かな涙を流していたのですから。

「ありがとう。あーちゃん。私に、こんなにも幸せな未来をくれて」

「…………! 未央ちゃん!」

 今度は私の番でした。いつも私を励ましてくれていた笑顔、いつも私を引っ張ってくれていたその背中、そしてあの夜、私を背負ってくれた両肩を、未央ちゃんの全部を、私の腕の中に閉じ込める。

 ずっと不安でした。私はいつも、彼女にいろんなものをもらってばかりで、何一つ返せてやしないんじゃないのか。こんな、未央ちゃんに迷惑かけるしかない私が、彼女と一緒にいていいのか。

 ————そんな私でも、未央ちゃんにしてあげられることが、あるんですね。

「次のお休み、お買い物に行きましょう。未央ちゃんに着せてあげたいかわいいお洋服、いっぱい見つけてあったんです」

「……私に、似合うかな?」

「大丈夫です。かっこいい未央ちゃんも、かわいい未央ちゃんも、この一年間、全部一番近くで見てきましたから。その私が選ぶんです、絶対に似合いますよ」

「そっか。確かに、それなら安心だ」

「はい。どーんと、任せてください!」

 未央ちゃんがご両親に愛された九年間。

 未央ちゃんが魔術に捧げた五年間。

 それら十四年間の時間は、もう二度と、戻っては来ないのかもしれないけど

「未央ちゃん。私が、あなたのこれからを、誰よりも大切にするから。そう、約束するから、だから」

 その先はまだ言えず、未央ちゃんの温かな胸に顔を押し当てて、その谷間にしまい込むようにささやくだけにとどめました。

 

 ————私とずっと、一緒にいてください。と。

 

 




「あ、そうだ。あーちゃん。一つ言い忘れてたことがあったよ」
 時計の針は思っていたよりも進んでおらず、今から行けば、二時間目の授業にどうにか間に合いそうです。二人して乱れていた衣服を正して、鞄を手に玄関扉を開けました。
 未央ちゃんが上のようなことを口にしたのは、丁度その時です。
「本当は今朝のうちに言っておこうと思ってたんだけど、今言ってもいい?」
「……? はい。何ですか?」
 担任の三綴先生からはメールが来ていて、少し前に体調不良——実際には、聖杯戦争の後片付けに使った方便だったのですが——で二日ほどお休みしたことを気にしてか、ゆっくり来いとのことです。中学の授業も終わっていたので、ほとんど自習です。なのでここで未央ちゃんとお話をするくらいの時間はありました。
 黙って、未央ちゃんの言葉を待ちます。
「あの、さ」
「はい」
 未央ちゃんはもじもじとして、視線も宙をさまよっていて。
「未央ちゃん? あの、言いずらいことなら、また帰ってきてからでも」
 そんな未央ちゃんに私は首をひねります。時間なら、今じゃなくてもこれからたくさんあるのですから、聞くのは後でもいいだろうと、そう考えて言った私の提案を未央ちゃんは。
「あ! いや、今! ……言う、から」
「…………」
「……もう、あーちゃんのことで躊躇わないって、約束したんだし」
 未央ちゃんは自分自身にそう言いふくめて、覚悟を決めたのか、さまよっていた視線でまっすぐに私を見つめます。
「…………ふふ。そうだね」
 私にとって、未央ちゃんが私を助けに来てくれたあの瞬間は、まるで夢の中での出来事のような感覚です。けれど、夢のようでしたけど、夢ではなくて。
 こうして未央ちゃんがあの時のことを忘れずにいてくれるのは、なんと言えばいいのか、とても胸の奥が暖かくなることの一つでした。
「それで? 未央ちゃん、私に言いたいことって?」
「あ、うん。……すっごくしょうもないことなんだけど、笑わずに、聞いてくれる?」
「はい。未央ちゃんが、私のことを思って言ってくれるんですよね? なんでも言ってください」
 頷き返す未央ちゃん。彼女は耳まで真っ赤にして、
「洗濯物……、今度からは、さ。自分のは……自分で洗うことに、しちゃダメかな?」
 そう言いました。今にも湯気が出そうなくらい赤い顔、それでも決して目をそらさないように首からは大粒の汗。
 私はなんだかおかしくて、口を大きく広げて、めいいっぱいの笑顔で答えました。
「————はい。しょうがないですね!」


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After1/Snow*Love(1)

ハーーッピィーーー、バレンタイーーーーン!!(七月)

0.5話から少し時間は遡って、聖杯戦争終了後すぐのお話です。


 そのもしもを考えたことがある。

 

 もしも、私とあーちゃんが出会っていなかったら。

 可能性だけは結構たくさんあったと思うのだ。たとえば、すぐに思いつくところで言えば、そう、私の冬木行きがもう少し遅かったらとか。あるいはあーちゃんも言っていたように、彼女がプロデューサーさんの厚意を受け取って、あの日、車で家まで直接送ってもらっていたら。その時もまた、そうそう変わらない結末に至っていたはずだ。

 

 ————だから、きっと。これはそのあり得た可能性の一つだ。

 

 アゾット剣。駆け足で魔術を頭に詰め込み体に刻んだ、私の五年間の集大成。人じゃなくなって(がんばって)過去を失くして(がんばって)、どうにかこうにか、お父さんから聖杯戦争での札の一つと譲り受けた魔術礼装———それが、聖杯の器となった見知らぬ誰か(あーちゃん)の心臓を貫いている。

 どう見積もったって即死。再生の気配もなく、その細腕を力なく垂らしている。

 

 ————けれど、これは仕方のないこと。

 

 私が魔術に捧げた六年。

 両親が天秤の片っぽにのせて、それでも選べなかった九年。

 それから、うちの家が必死につないできた数百年。

 それら膨大な時間の前では、見知らぬ女の子一人の命なんてあまりにも軽すぎる。

 

 ————だから、それはきっと、悔やんでも悲しんでも、どうにもならないことで——————

 

 

2月10日(金)

 

 その朝の目覚めは、別段に息苦しかったとか爽快だったとかそういうこともなく、いつもと変わらない朝でした。

「…………今の」

 けれど、今のはきっと怖い夢だったのだと思います。

 よく知らない(知っている)場所で、顔も知らない(たいせつな)誰かが私を殺す夢。

「未央、ちゃん……?」

 見間違うことなんてあり得ない。あれは、何か小さな剣のようなモノで私の胸を貫いていたのは、私の大好きな未央ちゃんその人だった。

 だからどう、と言ったことは実のところありません。殺されることになら慣れていましたから。それは特別に怖いことではありません。本当に怖いのは死んでしまうこと。何もない場所へ落ちて、持っている可能性をすべて根こそぎ奪われてしまう。それに比べれば大抵のことは怖くもなんともない。ただ一つ、大切な人がその向こう側へ落ちていってしまうことを除けば。

 夢の中で死んでいたのは私でした。それはこの世界で十番目くらいに辛いことでしょうけど、それでも一番目でなかったのだから、きっと慌てることもないのでしょう。朝になれば誰もがそうするように布団をまくり上げてベットからむくりと起き上がります。

 枕元の小机の上。未央ちゃんからもらったいくつものルーンが刻まれた宝石、そのペンダント。お守りにと渡されたそれを首にかけて服の中へ。

 あとは自室のドアを開けて、リビングに降りていくだけ。その時に——

「——それにしても」

 一つだけ、気になりました。

「どうして私————安心なんて、していたんだろう」

 

 

「バレンタインデー。どうしましょうか? 藍子ちゃん」

 お昼休み。まだまだ冷たい風が吹きさらす屋上の一隅。給水塔が風よけになっている端の方で、卯月ちゃんを伴ってお弁当を食べていました。

 

 何かをあきらめ失いかけて、それでも大勢の人達による助力と未央ちゃんの自分の未来をかけた決断のおかげで、最後にそれを取り戻せた。あの苦しみと救いに満ちた一年間。その結実たる聖杯戦争が終わってまだ三日。

 私が苦しんだように、卯月ちゃんも同じくらいに苦痛を得たのだと思います。それどころか、あまり覚えてはいないのですけれど、それでも常に記憶の奥底に刻まれているところによれば、この世全ての悪(あそこ)に引きずり込んだのは他の誰でもなく私なので、臆面もなくそう多くのことを語るのもはばかられてしまうのですが。

 そして、あまり気にしなくてもいいと、卯月ちゃんに茜ちゃん、それから未央ちゃんにまで言われてしまっているとなれば、気にしているそぶりもあまり見せない方がいいのでしょう。

 そんなわけでここのところ私は、卯月ちゃんに引け目を感じてしまっていました。

 

 所用で未央ちゃんが学校をお休みしていたこの日。未央ちゃんと行動を共にすれば、学年が違っても卯月ちゃんと顔を会わせることの多い普段と違って、寂しくはありましたけど、一人教室でお昼を食べようと、自分の席で鞄を開きました。と、その時。

「高森さん。高等部の人が呼んでるよ」

 クラスで比較的仲良くさせてもらっている子の声でした。高等部で私に用がある人と言われて真っ先に思いつくのは一人だけです。聞かなかったことにしたいなあと思いつつも、無視をするわけにもいかないので、一言感謝を告げて教室出口に向かいました。

 案の定、そこにいたのは卯月ちゃんでした。中等部のセーラー服が多く行き交う中で、茶色を基調とした高等部制服姿が、まるで黒い水面に浮かぶ枯葉の一枚に見えます。

 いつも未央ちゃんに負けないくらいに元気のある彼女も、少し居心地の悪さを感じているようで、用件は一息で簡潔に。

「藍子ちゃん。相談があるので、いまから屋上で一緒にお昼でもどうですか?」

「……相談、ですか」

 その上で、彼女は私の耳元に口を寄せて、

「ちょっと、人に聞かれたくない話で」

 そう言いました。

 人に聞かれたくない、相談事。いやな想像が浮かびます。

 お寺の住職さんたち、それから卯月ちゃん。この世全ての悪(アンリマユ)がその肉体と精神を蝕んだ人たち。その安全は未央ちゃんの親戚で、優秀な魔術師である遠坂凛さんが保証したとのことです。私と未央ちゃんはその結果に胸を撫で下ろしたものですけれど、その診断が間違っていたわけではなくとも、もしも検査の網から抜け落ちた何かがまだ残っていて、それが卯月ちゃんに何らかの無視できない後遺症を残しているとしたら。

 それは彼女に感じている引け目を鑑みても、いえむしろ、罪悪感に近いものを抱いているのだから、当然、私に断れる話ではありませんでした。

 ———と。そういった事情があって、固唾を飲んで彼女の第一声を待っていたのですが……。

 

「来週のバレンタイン、藍子ちゃんは未央ちゃんに手作りするんですよね! もしかして、もう出来上がっていたりするんですか?」

「———え。ええ!? いえ、えと、その……」

 ばれんたいん。

 あまりにも予想外に過ぎて、言葉の変換に戸惑いました。

 バレンタインデー。ああ、そっか。いろいろあって忘れていたけど、もう、そんな時期でしたね。

「あれ。どうかしましたか、藍子ちゃん?」

 大事なことだと思うので、もう一度だけ。——聖杯戦争が終わってから、まだ三日しか経っていません。

 後処理や検査なんかで翌二日はお休みしていたので、実際のところ、今日が聖杯戦争後の初登校でもありました。今日未央ちゃんが学校に来ていないのも、まだ少しだけ残っている後片付けを遠坂さんに手伝わされているからです。言いくるめられる未央ちゃんを遠巻きに見ていた、遠坂さんの彼氏さんらしい人が苦笑していたのを覚えています。

 未央ちゃんのことは、いったん脇に置くとしてもです。あんなことがあったのに、その三日後にバレンタインの相談。はい、確かに人には聞かれたくない話です……主に私が。

「あ、ええっと。……私はまだ、準備とかもしてなくて」

 ごめんなさい未央ちゃん。準備どころか私、何も考えていませんでした。

「そうなんですね! ちょうどよかったです」

「……? どういうこと?」

「次の週末、三連休じゃないですか。その間にどちらかの家で一緒に作れたらいいなって思ってて。この前見た藍子ちゃんのお料理を食べている未央ちゃんの顔、とっても幸せそうでしたから。あわよくば、何かお料理のコツも勉強できたらなんて。あ、もちろん。藍子ちゃんの予定が合えば、ですが」

「いえ。今週末はとくに仕事が入ってるわけではないですけど……、けど」

「…………?」

 断る理由は特にはありません。ただ一つ、私が例のことを気にしてしまっている以外には。

 それを直接には言えません。なので、これは純粋な疑問でした。

「卯月ちゃん、別にお料理が苦手ってわけでもないですよね? 前に作ってもらったクッキー。未央ちゃんもおいしいって言ってましたし、形のバリエーションも多くてかわいかったと思いますよ」

「え、えへへ。ありがとうございます」

 頬をかいて屈託のない笑顔を浮かべる卯月ちゃん。その笑顔のままで彼女は、どこか遠くを見据えるように目を細めました。

「これまでも、家族や、仲のいい友達には毎年配っていたんです。ですが今年は、それとは別に、その————特別、なのが作りたくて」

「———セイバーさんに……ですか」

「……はい」

 彼女の、人に聞かれたくない事情と言うのは、つまるところこれだったのでしょう。

「けど、セイバーさんは、今は」

「はい。今はどこにもいません。いえ、どこにいるのか分かりません」

 聖杯戦争で卯月ちゃんが契約していたサーヴァント。すらりと伸びたスタイルの良いシルエットに、長い黒髪とまっすぐな瞳をしていた彼女と卯月ちゃんは、私が見ていたほんの短い間にもとてもお似合いの二人に見えていました。

 彼女たちが最後にどうなったのか、私も未央ちゃんも詳しくは知りません。それは二人だけの大切な思い出で、特に彼女から明かされない限り、私たちの方から聞くことはこれから先も無いのでしょう。逆に彼女の方から、私たちのそれを聞いてくることも。

 そんな中でも確かに言えるのは、二人は聖杯を手にすることなく、こうして別々に別々の時間を選んだということだけでした。

「それでも、また会えるって言ってもらえて、迎えに行くって約束もしましたから。もしかしたら、明日にもばったり会ったりするかもしれないですし。その時に何も用意できていないのも悪いですからね」

「…………」

 はっきりと言うのなら、その可能性は限りなく低いのだと思います。これは実際にその霊基を魔力として摂取した(たべた)私だから言えることなのですけれど、疑似サーヴァント(茜ちゃん)なんかの例外を除いて、基本的にサーヴァントはその魂の質からして、私たち人間からは遠くかけ離れた場所にいます。 

 昨日聖杯戦争が終わって、そして明日すぐに会えるほど、サーヴァントは、英霊は身近な存在ではありません。私ほどにはっきりとは分からずとも、それを卯月ちゃんも感じているはずです。

 それなのに————

「だから今年からは、セイバーさん用の特別な手作りを用意しておきたいんです」

 ————彼女は本気で、その僅かな可能性を信じている。

「(ああ。これは)」

 その顔はまさにどこにでもいる恋をした女の子そのものの顔でした。

 素朴で純粋で、一途で。この世界の穢れなんて、一つも知らないような無垢な表情。

 けれど、他の誰でもなくこの世全ての悪(わたし)が、この笑顔だけは穢せなかった。

 まるで、青空のようだと思います。

 それは私の一番大好きな笑顔ほど温かくはありません。時に曇り、時に涙の雨を降らせることもある。けれど、見上げればいつだって、すぐそこにある。

「……かなわないなあ」

「? 何か言いましたか?」

「いいえ。ただ」

 これまでしていた卯月ちゃんへの気回しや遠慮が、言葉の由来通り杞憂に思えました。青空の曇り具合を気にしたってどうにもならない。それを何とかできるのは、涙の雨雲を吹き飛ばしていく風のような誰かだけなのだと。

 そういったことを、一言で端的に伝えました。

「卯月ちゃんは、すごいなぁって」

「ええ、そんなことないですよ?」

「ふふ」

 緩やかにお昼休みは過ぎて行きます。

 互いにお弁当のおかずを交換し合いながら、具体的に週末の予定を詰めていったり、また何を作るのかを考えたり。すっかりお弁当の中身を平らげてしまった頃には予鈴十分前になっていて、急いで教室に戻らないといけない時間になっていました。

「卯月ちゃん」

 その帰り際に、もう遠慮する必要はないのだという気持ちから、高等部の校舎に向いていた背中を呼び止めました。

「放課後、一緒に帰りませんか? 私からも、相談したいことがあったのをすっかり忘れていたんです」

「いいですよ! それじゃあまた」

「はい。また、放課後」

 また————か。

 少し前まで、自分があとどれだけ長く生きていられるのかさえ不安で、週末の約束なんてとても簡単にはできませんでした。それがこんなにも易々とできてしまいました。

 誰もいないことを良いことに涙を流してしまいそうになります。幸せでたまらなくて、涙が込み上げてきます。

「ありがとう。未央ちゃん」

 

 私に、こんな幸せをくれて。私に、未来をくれて。 

 




≪次回予告≫

「——————桜?」

 その少年はいつだって、一番に望んだモノを手に入れることができない。

「桜!」

 少年はやがて成長し、青年になった。

「おい、桜!」

 平穏のうち、青年は一つの夢を持つようになった。

「観念しろ……桜!!」

 その素朴な夢の結実を、誰よりも強く願っていた。

「……なんだよ。それ」

 同時に、絶対に叶うことのない夢であることも理解していた。

「逃げるな、逃げるなよ。僕から逃げるなよ……桜!」


 次回、後語り編1.5話 『Blossum Ghost』


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After1.5/サクラボウレイ

慎二メイン回なんて作者以外の誰得なんだろうとか考えながら書いてました。まあ二次創作は所詮自己満足の世界ですし、気にするだけ損なのでしょうけどね(と言いつつも、投稿を一週間ほどためらっていた)。
そのため今回デレマス勢の出番はかなり少ないです。

それでも良ければどうぞ。


Interlude 2月13日(月)

 

 ここに一人の青年がいる。彼はいつだって、一番欲しいモノを絶対に手に入れることのできない男だった。

 

 青年はかつて魔術に翻弄され、その運命を狂わされた。魔術とは彼が何よりも望み、そして望まぬモノ全てを欲しいままにしてきた彼が、唯一手に入れることを許されなかった才能である。

 その才能を初めから持っていたのは、彼の妹の方だった。

 彼はそんな妹をひどく妬んだ。憎み恨み、羨み、けれど同時に歪ではあれ愛してもいた。

 

 それもすでに過去のことだ。

 とある一件。何百何億にも自分を増やされ、その全てを同時に殺されるような地獄。その果てに彼は、元からあってなかったような魔術との縁を、完全に断ち切った。

 それ以降、彼はすこしだけ変わっていくことになる。

 手に入らないモノを手に入らないモノと諦めて、自分の手持ちを生かす道を選んだ。都合のいい取捨選択を大人になることだと自分なりに結論づけて、彼は少年から青年へと確実に成長した。

 かくして兄妹の間に平穏な日々が流れること数年後。誰もいなくなった実家から妹を連れ出し、新都の新築マンションに借りた一部屋での生活が始まった。妹は学校の教師になるため大学を出て教育実習課程についている。青年も早々に大学を卒業し、外資系のエリート企業に就職。

 その平穏のうち、青年は一つの夢を持つようになった。大それたものではない。彼にしては素朴すぎると知己の友人たちは酒の席で笑った。けれど青年は確かに、その未来を誰よりも強く望んでいた。

 ———同時に、絶対に叶うことのない夢であることも理解していた。

 

 もう二年も前になる。妹が急病に倒れ、その日のうちに息を引き取った。

 

 繰り返しになるが、青年はいつだって、一番に望んだモノを手に入れることができない。

 青年が彼女の幸福を望んだから妹が死んだのではない。それだけの運命干渉にも似た力が青年になかったことは疑いようもない。ただ元から、青年と妹が出会ったその時から、この運命は決まっていた。その運命から救い出せる誰かが、その選択をする運命になかっただけ。初めから、妹は救われないことが決まっていただけなのである。

 葬式はほんの身近な友人と、高校時代の恩師一人のみを集めてそっけなく終わらせた。泣くことも叫ぶこともなく、青年は機械的にその儀式をやり切った。

 その晩、久々に集まった友人たちと酒を飲んだ。

「あの愚図。誰の許可もらって死んだりなんかしてんだよ。のろまならのろまらしく、もっとゆっくりできなかったのかよ。せめて、あともう数年、生きていてくれたら。その時には、やっと」

 呂律の回らない口調。昔と何も変わらない乱暴な言葉で吐き出されたそれを、友人の一人は確かに記憶している。 

「衛宮。なにも言わず、ただ一発殴らせろ」

 青年の夢を叶えたかもしれなかった。青年の夢をことごとく邪魔してきた。青年が八つ当たり気味に繰り出した一撃を、友人は要望通り何も言わずに受け止めた。

 翌日、青年は抱えるほどの荷物を持って無人になった実家を訪れた。寒々と広い中庭でその中身をぶちまける。一度も使うことの無かった一眼レフカメラ、自分以下の不細工な男しか載っていない見舞い写真、二年間ほど定期購読したブライダル誌に、他いくつかの資料と未使用のフィルム一巻き、それから妹に黙って作った余剰口座の通帳。一か所に集めたそれらに火をつけて、彼は夢のなりそこないたちを処分した。

 ———これが青年が妹の死に際して行ったすべてである。

 妹が生きていた頃と死んだ後で、青年にはなんの変化も無かった。後処理さえ済ませてしまえば明くる日にはすでに仕事に戻っていたし、その仕事ぶりも衰えたりはしていない。

 もしかして、妹がまだ死んでいないと思い込んでいるんじゃ。同僚たちは単に気味が悪かったのと、その十分の一にも満たない良心から精神科医への通院をすすめた。

 だが、その心配の方こそが勘違いだ。青年はしっかりと妹の死を認識していた。

 なぜなら青年にとって変わったことはそれだけだったから。

 

 妹はもう、この世界のどこにもいない。

 

 口に出せば、三秒も使わずに言いきれてしまう。

 青年、間桐慎二にとって妹の桜の死はその程度でしかなかった。

 

 

 その夜は慎二の運命を変えた一件からちょうど十一年を数えると同時に、妹、桜の二周忌でもあった。

 死んだ人間はもうこの世のどこにもいないのだという、当たり前の真理。それだけをたった一つ信じられる真実としてこの二年間を慎二は生きてきた。きっとこれからもそれだけは変わらない。気の遠くなるような二十七年間と少し、それをもう二度三度と繰り返して、いつか自分もいなくなる。それだけを安らぎにして、これからを生きていこうと決めていた。

 ————だから、その夜。新都の街中にふと見つけた人影を、慎二は追わずにはいられなかった。

「——————桜?」

 いるはずのない誰かが交差点の向こうから人ごみにまぎれて歩いて来る。ビデオの遅回しの世界にいるかのよう。認識だけが長くその姿をとらえる中、体は頑固に元からしていた動きを繰り返す。

 人並みは動きその中に桜も消えた。信号の青が点滅しだす。その時になってようやく慎二の体はまともに動いた。

「悪い。どいてくれ」

 人の流れに逆らい元来た道を引き返す。そこまで大きな通りでもない。精々一人二人避けただけで、信号が完全に赤になる前には渡りきれていた。そのまま目を凝らす。

 ———いた。

 ゆっくりとした足取りで桜は慎二の数メートル先を歩いていた。

「桜!」

 久しぶりに胸から息を吐き出して叫んだ気がした。けれどそれが聞こえていなかったのか、桜は振り返ることも、その歩幅を緩めることもしない。「くそ」と悪態をついてその背中に近づく。周りの目なんて、とっくに気にしていられなくなっていた。

「おい、桜! お前なんだろ!? いいから止まれよ!」

 その肩に手をかける。直前、ようやくその耳に慎二の声が届いたのか桜は慎二に振り向いた。その目を、慎二は見た。——知らない顔を見るようなどこか怯えた目だった。

 肩を確かに捉えていた慎二の手は触れることもなく空を切った。触れるか触れないか、その僅かな内に桜はまた慎二との距離を数メートルに離していた。

「……なんだよ。それ」

 自分の中で沸々とした怒りが湧いてくるのを慎二は感じ取っていた。

 思えば、昔の自分は多くのことにいら立ってばかりいたような気がする。あの頃は何もかもが思い通りにならなかった。何もかもが自分の思い通りになって当たり前だと思っていた。 

 だって自分は、こんなにも頑張った。自分は正当な魔術師(間桐)の後継者なのだから、努力さえ続けていればいつか自分も、魔術師として奇蹟を扱えるようになるはずだと。けれど、慎二は一度だって、自分の力で奇跡を招き入れることができなかった。努力して努力して努力して、結局分かったのは、才能があるやつらと才能のない自分との違いだけ。

 あの頃の慎二は、その結論を最後まで受け入れたくなかった。

「(大人になった、か。は、ハハハ。今と昔とで、僕は何一つとして変われてなんかいやしない)」

 慎二は結局、自分ではどうにもならないことを信じたくないだけだ。慎二が何にいら立つかと言えば、慎二が慎二である限り生涯変わらずにそれだけ。

「まるで、幽霊みたいじゃないか」

 桜はもう、この世界のどこにもいない。慎二がこの二年間信じていた全て。これからも死ぬまですがっていく支え。それが、今更になって、揺るがされるのは。

 

 ————ひどく、恐ろしい。

 

 近づいては距離を離され、またもう一度と伸ばした手は埃をほんの少し握るだけ。二度三度、五六度とその鬼ごっこを繰り返した。逃げる者は当然鬼に追われていたが、鬼もまた、言い知れない不安に追い立てられていた。

 いつの間にか夕空は完全に黒に沈んでいた。乾いた空気は星明かりと月明りを十分に地上へと届け、追う者にも追われる者にも不自由はさせなかった。

「もう逃げられないぞ! 観念しろ……桜!!」

 路地裏。過去、十一年前の第五次聖杯戦争でライダーに民間人を襲わせていた経験のある慎二は、今自分たちのいる先が袋小路になっていることを知っている。相手が人間であるなら、もう逃げようなんてない。これで逃げられてしまえばそれこそ———

「(そんなわけないだろっ……! 桜はもういない、死んだ奴は蘇ったりなんかしない)」

 慎二は知っている。死者は蘇らない、それを覆すような不条理がこの世には確かに存在していることを。現に彼のサーヴァントだったライダーだって、元は遠く昔に英雄に殺された死者(かいぶつ)だったのだから。

 それでも慎二は首をふる。もう二度とそんな奇蹟は、少なくとも自分の見える範囲では起こりえない。

 なら、アレは何なのか。

 桜はもうこの世界のどこにもいない。だから、アレが桜であるはずがない。——なのに。

「逃げるな、逃げるなよ。僕から逃げるなよ……桜!」

 ————なぜ、自分は執拗にも、アレを桜と呼ぶのか。

 サクラ(それ)は行き止まりの壁の前で立ち止まっていた。

「そうだ。そこを動くんじゃないぞ」

 慎二の言葉に従っていたのか、それとも、ただ単にそれ以外にすることが無かっただけなのか、サク■はその場から動こうとしない。慎二は一歩、また一歩とその背中に近づく。

 一度、その肩から手を離した。もう二度と触れることができなくなった。

 その肩に触れるのは、自分ではなくて他の誰か、サ■■を幸せにできる誰かの役割と。

 その誰かを見つけることが、慎二にはできなかった。

「(だから、お前が■だって、いうのなら)」

 もう一度だ。もう一度、せめてその時までは、もう二度とその肩から————

  

 

 

「ちょっと、おにーさん。うちのあーちゃんに何してくれちゃってんのさ」

 

 

 

 空から何かの影が落ちてきた。

 影から光が降ってくる。光は寸分の狂いもなく、慎二の鼻先をかすめた。

「…………おい、ふざけるなよ」

 肌で感じた熱量、足元にできた直径十センチにも満たない小規模のクレーター。

 間違えるはずもない。こんなことが瞬時にできるとすれば、爆弾か、あるいは———

「なんで今更、魔術師なんかが関わってくるんだよ……!」

 一歩足を前に出す。その先にもう一度、先ほどと同じ光。これ以上近づくことを許さないと言いたいらしい。

 慎二が蹈鞴(たたら)を踏んでその場にとどまっているうちに、魔術師は■■■の下に駆け寄り、慎二に決して取れなかったその肩を易々と抱き寄せて見せた。

「私は魔術師じゃない————彼女だけの、あーちゃんだけの魔術使いだ!」

「だから、ふざけるなっつってんだろ!! そいつは——————」

「——————慎二!!!」

「は?」

 慎二は背中越しにその声を聴いた。振り向けば、路地の角から出てきたその人影には見覚えがあった。

「——————衛宮?」

「慎二、よく見ろ! その子は」

 もう一度、サ■■を見た。

 長い黒髪も、大きく成長した体も、ずっと手放さなかった髪留めのリボンも。慎二の知るサク■は、そこには何も無く。

 ただ、桜に少しだけ雰囲気の似た、完全に見も知らない女の子が一人、魔術師に寄り掛かっているだけだった。

 

 

「ハハ、ハハハ」

 笑うしかない。所詮自分のような道化には、それしか許されていないのだから。

「————ああ、そうだった。そうだったよな。なあ? 衛宮」

「……慎二、お前」

「もう、桜はどこにもいないんだった。だっていうのに、どうして僕は今更、あいつの幻なんて」

「…………」

 友人、衛宮士郎は何も答えない。口を半開きにして、かけるべき言葉を探しているようだった。

「分かってるさ。衛宮、お前が帰ってきてるってことは、遠坂のやつも冬木にいるってことだろ? お前らの仕事は後片付けで、巻き込まれたやつらに本当のことを教えることなんて含まれてない。いいんだよ、それで」

 すでに慎二の目から狂気の色は消えていた。

「気づいてたんだぜ。二年前、医者は桜の死因を何も言わなかった。当然だよな、医者の仕事の範疇を越えてたんだから」

 けれど、仄暗く灯る怒りは今もただ一人、桜が死んでからずっと同じ人物にだけ向けられている。

「お前ら、知ってたんだろ? 桜がどうして死んだのか」

 士郎は頷きもせず、歯噛みしてその場に立ちすくんでいた。

「別にお前らを責めるつもりなんてない。理由も真実も聞かねえし、金を払えとも言わないさ。ただ———」

 薄い笑いを引っぺがして、慎二は士郎へと、

「———なあ衛宮、忘れてねえよな?」

 あれからずっと、会う度にしていた確認を問いかける。ずっと何も言えないでいた士郎もそれにはしっかりと答えられた。

「当然だ。忘れてない。慎二、お前は俺を————」

「ああそうだ。僕はお前を、桜を救わなかったお前らを死んでも許さない」

 それならいいと、慎二は士郎をにらみつけていた視線を宙に放って、それから背後にいる魔術師へと向けた。

「おい、そこの魔術師」

「なにさ。言っておくけど、私は魔術師でも、ましてや魔術師って名前でもないよ」

「……そこ、こだわるところなのかよ」

「当然だよ。自分から辞めたんだから」

「へえ」

 慎二は口角を上げて、初めて魔術師改め魔術使いの顔を見た。馬鹿みたいにまっすぐ慎二に敵意を向けたままの顔。どことなく少年時代の士郎に雰囲気が似ている気がした。

 そんなやつが桜に似た誰かの肩を抱き寄せているのだと思うと、慎二はそれを見ている自分がひどくみじめに思えて、無意識に顔をそむけた。

 ————ああ、そんな未来も、あったのか。

 そう口走ってしまわないうちに、聞くべきことを聞いておく。

「最後に答えろよ、魔術使い。その子は……その子の運命はあいつとは、桜とは違うんだよな?」

「…………私は、貴方や士郎兄の言う桜って人が、どんな人なのかは知らないよ」

 魔術使いがどんな顔をして何を言おうとしているのか、慎二には分からない。けれど———

「それでも、あーちゃんはあーちゃんだ! あーちゃんは貴方の言う誰かみたいに、周りの人たちを悲しませることなんて絶対にしない! あーちゃんはそんな悪い子なんかじゃない!!」

 なんとなくその答えには期待していた。だから一見、桜を馬鹿にしたようなそんな答えも慎二は素直に受け止められた。

「そうだな——桜は桜だ。愚図でのろまで、黙っていればすべて上手くいくだなんて思いこんでいて、結局はこのざまだ。そんな馬鹿な、僕の妹だよ。この十一年、それ以上だったことも、ましてやそれ以下だったこともねぇ」

 月の大きな夜だった。街明かりに照らされて星が消えた夜闇は底なしに暗い。そんな何の変哲もない夜空。慎二が心の底から安心する代り映えのしない景色。

 そこに白い息を吐き出して、

「——————それだけで、良かったのにな」

 慎二はそう独り言ちただけで別れも言わず、街灯に引き寄せられるようにその光の中に姿を消した。

 

Interlude out

 




マテリアルが更新されました。
(読み飛ばし可)

・間桐慎二
 ・大人になったワカメ。毒気は鳴りを潜め(消えたわけではない)普通のいい人になっている。
 ・桜の結婚式で写真を撮る夢を二年前まで持っていた。
 ・以下面倒なオタクによる屁理屈。
  慎二が藍子を桜と見間違えたところには、藍子が持ち帰ってしまったこの世全ての悪の一部が関係しています。
  肉体を作り変えられるほどに浸食を受け、その状態で一年を過ごしていた藍子はその中に善性と呼べなくもない悪性を見つけます。その核となった人格(=桜)がある意味では未央がはたしていた精神的主柱の役割と同等に、肉体面で藍子を支えていて、藍子は最後まで、それを悪と決めつけることができませんでした。このため、アンリマユ本体から切り離される直前に魂の内側に匿って持ち帰ってしまいました。
  その影響として前回卯月との会話中『この世全ての悪(ルビ:わたし)』のように、自分とアンリマユとを無意識のうちに同一視していたり。当然、その程度にとどまるわけもなく、最悪再演された聖杯戦争がまた再演される可能性にも発展しかねません。
  それを危ぶんだのは藍子ではなく、匿われていた主人格、すなわち桜の方でした。
  桜は自分たち(アンリマユの残りかす)を魔力に変換し、魔力放出の要領で使い切ってしまおうと考え、一時的に藍子の体を借りゆるふわ散歩。途中追手から逃れるために魔術も使っていたので、最大効率で計画は成功。藍子の体内から桜ともどもアンリマユは完全に排出されました。あえて言いましょう、グッジョブワカメ。
  そんなわけで、立ち振る舞いに歩幅に行動パターンの何から何まで(ただし認識のみ藍子本人)桜をトレースしていた彼女を、慎二は桜と見間違えたわけです。
  まあ、今即興で考えただけなので、矛盾はいくつかあるのでしょうけども。


・三綴実典
 ・穂村原学園中等部の国語教師、未央と藍子のクラス担任。元弓道部OB。三綴の弟の方。
 ・桜がタイガーの後を追って英語教師とかいいなあ、その後を追って実典君が教職課程をとるのもまた、けど完全に追うのではなくて自分に合った別のものを修めてほしいなあ。といった、老爺心のような何かから生まれた国語教師三綴実典。
  けれど、その憧れた先輩はもうこの世界にはおらず。面影を追いつつも、仕事をこなし、こんな日々もまあ悪くないとデスクでコーヒーをすする実典君を作者は個人的にとても見てみたい。


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After2/☆☆★Which Girl(EXTRA)

4周年イベ新曲の藍子ソロパートが胸に刺さりすぎて辛い。

ちゃ未央が魔力供給に悩んでヘタレまくっています。おかげで大分長くなり、結果として投稿が遅れてしまいました。それでもよろしければ、お暇なときにでも。


「ねえ、未央ちゃん。いいでしょ?」

 熱っぽい視線が私を射貫いて体の芯からしびれさせていた。

「……あーちゃん、何が…………」

 視界の八割があーちゃんで、その体温をあり得ないくらい近く感じる。感覚はすでに使い物にならなくなっていて、もはや、自分がどこでどうしているのかさえも分からなかった。

 ——ただひたすらに、あーちゃんの吐息だけが聞こえていた。

「そんなこと言うんだ。分かってるくせに、未央ちゃんのいじわる」

 耳元でささやかれる一言一言に胸の奥がかき混ぜられる。溶かされる。肌は赤くほてって、対照的に頭の中は真っ白に。血流も命令も滞った体はうまく動かない。

 あーちゃんはそんな私を満足げに見下ろしていた。

「足りないの。未央ちゃんの血が、未央ちゃんの汗が、未央ちゃんの体が、未央ちゃんの魔力が、未央ちゃんの、愛が。だから———」

 彼女はそのきれいな顔をゆっくりと私に近づけて、

「———私に、未央ちゃんのぜんぶをちょうだい」

 口先に触れるもの全てを貪り吸い尽くそうと唇を——————

 

 

2月13日(月)早朝

 

「———や、ちょっと待って待って待て待て、あーちゃんストーーーップ!!! …………あれ?」

 すぐそこまで迫っていたあーちゃんの唇を押し戻そうと体を起こすと、いたはずのあーちゃんはどこにもいなかった。

 ぼんやりとした頭に鳥のさえずりが降ってくる。積み上げた魔導書の柱が倒れて派手な音が鳴り響き、そのきれいな鳴き声もどこか遠くへ行ってしまった。

「ああ、またやっちゃった」

 借り受け、そして当主である凛姉じきじきに管理を任された遠坂邸、その書斎。

 天井までいっぱいに詰め込まれた本棚が、両脇から空気を圧迫しているこの部屋で寝落ちしたのはこれで都合十数回目。それも詮方ないことだと思う。ここにはあの魔法使い、宝石翁ゼルレッチの弟子たる遠坂の歴史と研究の秘跡、その全てが記録されているのだから。魔術師である以上そんなものを前にして見るなと言われるのは、最高級のデザートを目の前に置かれてお預けを食らうようなもの。

「まあ、もう私は魔術師じゃないんだけどさ」

 書見台前の椅子から立ち上がり、床に落ちた資料を一つ一つ拾い上げる。魔術師をやめる前、つまり聖杯戦争が終わる前は勝手に盗み読みさせてもらっていた。それを門外不出の条件付きで解放してもらって、ここ毎晩は片っ端から読み漁っている。

 魔術による平行世界の概念的観測の限界について、冬木市霊脈の推移、五大元素それぞれが相互に与える影響とその対処、ルーン魔術の同時並行展開による魔力消費量、それから——。

「———と。あった、これだ」

 崩れた氷山の一角。古い革張りの一冊。

「こんなん読んじゃうから、きっとあんな夢を見ちゃったんだろうなあ、絶対」

 サーヴァントの運用について、と短くまとめられたそれ。その簡潔さに反して書き加えられたページ数は大元と思われる部分のざっと数十倍程度。遠坂の当主たちがどれほど呼び出したサーヴァントに手を焼かされたのかがすぐに分かってしまう、おそらくは遠坂負の遺産、その一つ。

 ———ホント、私の友達(サーヴァント)がアーチャーで良かったよ。

 昨晩読み返していて、何度そう思ったことか。特に第四次、バットコミュニケーションの末に裏切られて鞍替え、そして弟子に背後からドスリとか笑えない。

 まあ、本当に笑えなくなったのはその後だったのだけど。

「…………やめよ。これに関しては、まだちょっとだけだけど猶予が————」

「未央ちゃん! ずいぶん大きな音がしましたけど大丈夫ですか!?」

 猶予があるのだし。

 訂正、少なくとも今はそんなに余裕がない。

「——————あ、あーちゃん。おはよう」

「? はい。おはようございます、未央ちゃん」

 書架と書架の間。廊下と繋がるドアが向こう側に開かれていて、それをくぐったこちら側にあーちゃんが立っていた。

「未央ちゃん? 大丈夫ですか? さっきからなんだか、ぼーっとしているみたいですけど」

 頭がうまく回らず突っ立っていると、あーちゃんはだんだんと近づいてきて、その腕が私に伸ばされた。

 ——それは、まるで——————

 

『———私に、未央ちゃんのぜんぶをちょうだい』

 

 鋭く冷えた冬の空気に交じる温かい体温。鼻孔をくすぐる花の香り。どこまでもどこまでも伸びていくように澄んだその声が自分の名前を呼んでいるとなるとそれはもう心臓が耐えられ——————

「…………!! ごめんあーちゃん、いま私汗かいちゃってるからシャワー浴びなきゃでそれに埃まみれだし、えっとそんなわけだからまた後でね!」

「え、えええ!? どこに行くんですか未央ちゃーーん!?」

 せり上がる心臓を寸でのところで抑えて、されど破裂しそうなのには違いなく。それが本当に破裂してしまう前にあーちゃんがいる方とは正反対、つまりは窓の外のベランダから中庭に飛び出していた。

 

 

「じゃあしばらくの間、冬木にはいないんですね」

 同じ日の昼下がり。養成所の見学に付き合ってもらったしまむーを伴って、商店街マウント深山にあるカフェで遅めの昼食を取っていた。

 互いにそれほど重くもないメニューを平らげてデザートをつついている。私がモンブランにブラックのキリマンジャロ、しまむーが苺のショートケーキに甘いウインナーコーヒー。ここまで女子力の差が歴然となる風景もそうないだろうと思いながら、カップから口を離して白い息を吐き出すしまむーと少し先の話をした。

「うん。まだ家のこと、千葉にある本田の家のことが片付いていないから、本当に魔術師をやめるなら、遅かれ早かれそっちには話を通しておかないといけない。凛姉もついて来てくれるみたいだから、交渉自体は百パーセントうまくいくはずなんだけど、一週間か、長くて二週間くらいむこうに出ずっぱりになると思う」

 私が魔術師を辞めたこと、魔術刻印を捨ててあーちゃんを助けたこと、そしてこれからは私もあーちゃんやしまむーと同じアイドルを目指すこと。この三つは聖杯戦争が終わってすぐしまむーには伝えてあった。

 九歳から始まった私の魔術師としての六年間。その集大成たる聖杯戦争の終わりからもうすぐ一週間。

 あの戦いで私が得たものは何もなかった。いつまでも残り続けると信じていたものを失った。それを取り戻すためにまた一つ、失い難いものを犠牲にして、どうにか取り返すことができただけ。

 そうして取り戻したあーちゃんとの日常。もう二度と失わないために私が守ると誓った。けれど私一人ではきっと力不足。だからそのために、私はいろんな人を頼ることにした。

 決して自分とセイバーとの間にあったことを言わないしまむーに、真っ先に必要なことを伝えたのもそのためだ。

「だからさ、その間あーちゃんのこと、よろしく頼めるかな?」

「はい! 任せてください!」

「うん、ありがとう。しまむー」

 満面の笑みで頼もしい返答をしてくれるしまむー。その心強さにすっかり安心して、モンブランのてっぺんで砂糖にくるまれ、光沢を放っている栗にフォークを伸ばす。

「ところで未央ちゃん。そのこと、藍子ちゃんには話しましたよね?」

 が。うまく刺さらず、押し出されて皿の上に転がり落ちてしまった。

「え」

 その一声、まさにブリザードのごとく。いつか聞いたセイバー、しぶりんの絶対零度を思い出す。

「未央ちゃん。まさかとは思いますけど」

「ああしまむー? ちょっとそのことで相談があるんだけど」

「——————ふうん」

「うっわあ……。しまむー、今のすっごくセイバーっぽかったよ」

「え? そんなに似てましたか? そっか、……えへへ」

「おーい、しまむー。戻ってこーい」

 五分ほど後、待っている間にキリマンジャロを飲み干し、お代わりを頼もうかと思い始めたころ。

「…………あ、そうでした。今はセイバーさんのことを考えている場合じゃなくって」

「おかえり、しまむー。コーヒーすっかり冷めちゃってるけど、お代わりもらう? それくらいならおごるけど」

「え、いや、さすがに申し訳ないですよ」

「いいのいいの。相談料ってことで受け取っておいて」

 少し考えていたようで頷くまでにもう二十秒。お願いしますとの返答に自分の分を追加して、ウェイターさんにお代わりを頼んだ。

「それで、相談なんだけどさ」

「待ってください。それって本当に、藍子ちゃんにまだ実家に帰ることを伝えていない、そのことに関係しているんですよね?」

「うん。すっごく関係してる」

「……なんででしょう。このタイミングでそう言われると、とてもじゃないですけど信じられないというか」

 実にごもっともで。

「ほんとだから。というか、結構真剣な話なんだよ。あくまで私にとっては、なんだけど」

「そう、ですか」

 ケーキの一欠けらを口に運ぶ。それが嘘か、それとも本当のことか。しまむーの表情はそれらを天秤にかけているようには見えなかった。

 フォークを下ろして、しまむーは再びこちらに視線を戻した。

「分かりました。何でも話してください」

「しまむー」

「未央ちゃんは、わたしの親友ですからね。その未央ちゃんが困っているのなら、とうぜん、力になってあげたいです」

 ————本当にこんないい子が私の親友でいいのだろうか。どこからどう見ても自然な、屈託のない笑顔にふとそう思った。

 それが嘘か本当かは関係ない。ただ親友と呼べる人が困っている、なら放っては置けないと。その誰もが持ちえる当たり前の善性を当たり前に貫ける。そんなしまむーだからこそ、きっとあの聖杯戦争を生き延びることができた。この世全ての悪(アンリマユ)にも負けなかった。

 返答に詰まる。私は一体、この当たり前にこれからどれほど助けられるのだろう。私は一体、彼女に何を返せるのだろう。

「うん」

 いつも気づかないうちに甘えてしまっている自分がいる。しぶりんは言っていた、当たり前のことを当たり前にこなし続けること、それは決して誰にでもできる当たり前ではないのだと。

 ————そして、いつか必ず、その魔法が解ける日も当たり前のようにやってくるのだと。

 それまでに、どうか。

「ありがとう、しまむー。しまむーが私の親友で本当に良かったよ」

 ただ感謝するだけではない。それ以上の返答、それ以上の恩返しができるような私になっていたい。そう思った。

「ふふっ。大げさですよ、未央ちゃん」

「そうだね。でも本当に、心の底から思っちゃうんだ。あーちゃんと出会えてよかったってことと同じくらいに、しまむーにも出会えて、私が幼馴染じゃないと知ったあの日に、それでも親友だって言ってくれたことは、確実に私の人生を変えてくれたんだって」

「……そんな。それを言ったら、わたしだって」

 先を告げようとするしまむー。その前にタイミング悪く差し出された飲み物のお代わり。機を逃してしまい、ばつが悪そうにウインナーコーヒーをすする。今の彼女も、そして私も、ありがとう以上の言葉を持ち得なかった。

 だからきっと、このことは、まだまだ先の話なのだろう。

「それで、相談事なんだけどさ。聞いてくれる?」

「…………はい」

 私も二杯目のキリマンジャロを一口ちびる。熱い、苦い、そして酸っぱい。言葉の上でなら、誰も望むことなどあるはずのないそれを、私はやっぱり嫌いになれずに飲んでいる。

 ——————あるいは、この胸に生まれた一つの疑問も、そういうものなのかもしれない。

 

「あーちゃんってさ、私のこと……好き、なのかな」

 

 

 

「はい?」

 しまむーが一言一句、ほんの数秒前に口にしたものと全く同じ言葉を、全く違うニュアンスを込めてこぼした。

 聞き損じたわけではないのだろうことは分かっている。分かっているけど、私は無意識に同じことを繰り返し言っていた。

「だからさ。あーちゃんが私のこと、好いてくれているのかどうかって話なんだよ」

「…………えええ」

 深い落胆と呆れが溜息に混じってコーヒーカップへ落とされた。

「え、そんなに呆れられるようなこと?」

「はい」と、即答するしまむー。

「だってそんなの、当たり前のことじゃないですか。藍子ちゃんは聖杯戦争が始まるよりもずっと、ずっと前から、いつも未央ちゃんのことが大好きだって言っていましたよ」

「…………」

 ……正直、その暴露は嬉しくないわけがない。というか今にも心臓が飛び出そうなくらいの破壊力があるし、何よりしまむーが言うならきっと嘘ではないのだろうから、すぐにでもその結論を信じ切ってしまいたいとも思う。けれど。

「でもさ。でもだよ。そんなこと言ったら、私だってしまむーのこと好きだし、あーちゃんだってきっと、しまむーや茜ちんのことも大好きだって言うんじゃないかな」

「未央ちゃん。それ、本気で言ってますか?」

 にっこりと笑うしまむー。けれど彼女の背後から吹いてくる風の異常な冷たさは変わらず。

 ———ほんと、たった一週間でよくもまあここまで強かになったというか。誰かさんの影響ましましというか。なんか、今となっては前からこんなんだったような気さえしてくるのは、私が忘れっぽいせいなのか……いや、それはないな。うん。きっと。たぶん、メイビー。

 こちらも同じく笑顔で返す。ブリザードは見なかったことにした。

「いやいや、冗談冗談。私だって、好きに違いがあることくらいは知ってるよ」

「そうですか。はい。それならよかったです」

「うん。……でさ、私が気になってるのはまあ、あーちゃんの、その……しまむーが聞いてる私への好きがさ———例えば、……キス、してもいいくらいの好きなのかどうか、てことなんだけど」

「………………キス、ですか」

 かなり長い間を置かれて返された返答に、それ以上の沈黙を待ってから頷いた。

 しまむーは少しうつむいて、自分のウインナーコーヒーを傾ける。それからふと顔を上げたかと思うと、窓の外を見ていた。

 昼の二時少し過ぎ。お昼時でも、夕飯の買い物をするような時間でもないこの中途半端な時間帯に、商店街は休日の通行人だけを通して全体的に緩やかな雰囲気に包まれていた。その少ない人の中、しまむーは誰かを探しているように、細めた瞼の奥で端から端へと通りを眺めていた。

 その様子に一つ、まさかと思う。

「しまむー、もしかして」

 もしかして、キスしたことあるの?

「……あ、ごめんなさい。ぼーっとしてました。なんですか、未央ちゃん?」

 視線をこっちに戻して、えへへと何かを隠すように笑うしまむー。おそらく聞けば答えてくれるだろうとは思っていたけど、

「ううん。やっぱりなんでもない」

 それが、しまむーが探していたのが誰かなんて、考えるまでもなく分かってしまっていたから。これも今この場でするような話ではないのだろうと私は保留する。

 代わりに今は、今、目の前にあることから。

「ところでさ、しまむー。しまむーにはあーちゃんの身体のこと、まだなにも話してなかったよね?」

「藍子ちゃんの体のこと、ですか? はい、聞いていませんけど。けどもうアンリマユからは解放されて、これからは自由に生きていられるんだってことは、藍子ちゃん本人から聞いてますよ」

「あー、まあ概ね、それで合ってるんだけどね」

「? 何か勘違いでもありましたか?」

「いや、そうじゃないんだ。確かに合ってはいるんだけどさ、それで全部じゃないんだよ」

 少し冷めて飲みやすくなったキリマンジャロで舌を湿らす。

「アンリマユはあーちゃんの肉体を蝕んでいた。逆に言えば、肉体以外の三要素、精神と魂は無事だった。だからそれをアンリマユに汚染されていない別の人形(からだ)に移したんだ」

「新しい身体、ですか」

「うん。……あ、ごめん。あんまり気持ちのいい話じゃないよね」

「いえ。そのおかげで藍子ちゃんは元気でいられるんですよね? なら、問題はないはずです。藍子ちゃん自身がちゃんとそれを受け止められているのなら、でもありますけど」

「それは大丈夫。このことは、私の口からきっちり伝えたから。それに、こういうことなんかからも、私はあーちゃんを守るって約束したんだし」

「それなら、安心ですね」としまむーがほっと息をつく。

「ただまあ、この体がちょっと厄介な代物なんだよ」

「厄介?」

「そ。魔術で造られたものだから当然ではあるんだけど、動かすには魔力が必要でさ。今、その工面にいろいろ手間取ってるんだ」

「藍子ちゃん、たしか聖杯戦争ではライダーさん、茜ちゃんの正式なマスターだったんですよね? わたしとは違って、ちゃんと魔術回路もあるんだって思ってましたけど」

「うーん。まあ一応あるにはあるんだけどね。けどそれもしまむーよりは多いってくらいで、魔術師の平均的な基準からすると、少し少ない方にはなるんだよ」

 実際のところ、聖杯戦争中の魔術行使やサーヴァント(茜ちん)への魔力供給は、聖杯の膨大な——回収したサーヴァントの魂由来の——魔力あってのことで、あーちゃん本人の魔力はあまり使われていなかった可能性の方が高いと考えられる。

 本来のあーちゃんの魔力総量は、初歩の魔術を日に二三度使えれば良い方。それも日頃無意識に使っているゆるふわで消費されていたのだから、実質的にはほとんどゼロだ。

「で、燈子さん、あーちゃんの肉体を作った人は元々は自分用、つまりは平均的な魔術回路を持つ人用に調整してたらしいんだけど。しまむー、この場合どうなるか分かるよね?」

「……体を動かすのに必要な魔力が、藍子ちゃんに作り出せる分では足りない。そういうことですよね」

「さすがしまむー、理解が早くて助かるよ。しまむーの想像通り、放っておけばあーちゃんは魔力不足に陥る。すぐには死んだりしないけど、魔力が回らなければ肉体も補完機能を失って劣化していくだけだし、肉体がなくなったら、せっかく固定させた魂も行き場所がなくなる。やっぱり、最終的に死んでしまうことには変らないんだよ。

 そうならないために、対応策が二つ」

 一つ、人差し指を立てる。

「魔術師の基本。足りない魔力はよそから補う。つまりは外部からの魔力供給だね」

「あの、言い方が悪いようですけど、それってまるでサーヴァントみたいじゃないですか?」

「ああ。魔術師じゃなくて、マスターだけを経験したしまむーにはそう聞こえるんだ。うん、まあ。魔力の不足した人に対する対処も、サーヴァント、使い魔へのそれも似通ってる部分が多いよ。基本的には、どちらも治療行為に類するからね。

 一応断っておくと、別に私はあーちゃんを使い魔(サーヴァント)にするつもりはないし、他の誰かのモノにさせるつもりもないから。魔力を分け与えたところで、見返りを要求するなんてこともしないよ。ただ、私はあーちゃんに生きていてほしいだけなんだ」

「はい。それはわたしもいっしょです。ふふ。すみません、変なことを聞いてしまったみたいで」

「ううん。べつにしまむーが謝る必要なんてないよ。第一、魔術師じゃないしまむーは、この手の考え方に違和感をもって当然なんだからさ」

 そうなんですか、と首をひねるしまむーに、そうなんですよ、と返した。

「で、その具体的な方法なんだけど、これも二パターンあって間接的なのと直接的なの。まず間接的な方から説明するけど、これは魔術師の血液をはじめとする体液を触媒、宝石なんかの魔術品に溶かし込んで、服用してもらう。処方薬みたいなもんだから、あーちゃん一人でも、いつでもどこでも対処できるのが利点かな。とりあえず、今はこっちの方法を試してるとこ」

 案の定、宝石を服用することに困惑した様子のしまむーを放っておいて、話を続ける。

「そのかわり費用がバカ高いのが難点。しかも専門の凛姉いわく、魔力をためるのだって一日二日じゃなく、一年二年、十年、下手すりゃ何代何百年かけてやるようなものらしくて。そのくせ宝石も一度使ったらそれっきりで、消えてなくなるから新しいの用意しなきゃだしさ」

「つまり、コスト対効果が釣り合っていないってことですか?」

「うん、まさにそう。凛姉の性格ぜったい使ってる魔術に影響されてるよ」

「未央ちゃん、さすがに遠坂さんに失礼ですよ。あれでもいろいろ助けてくれた人……のはずなんですから」

「おぅ、凛姉可哀そうに。しまむーからの扱いも地味に酷い」

 今回本当にいろんなところで似合わない出血大サービスをして、バーサーカー並みに正気を失いかけているというのに。報われないなあ。

「話を戻すけど、魔力供給のもう一つの方法。というよりはこっちの直接的な方法の方が基本的にはメジャーなんだけどさ。術者と患者同士を一時的に接触させてその間で魔力を融通するってやつ。一番簡単のは、粘膜接触……ありていに言って、き、キス、になるね」

「…………。それで、あんなことを?」

「————うん」

 魔術師の体液、とくに唾液や血液には多量の魔力が含まれている。それはそのまま魔術の道具として使えるし、当然、直接与えれば触媒なんかも必要なく、一番効率的に魔力の受け渡しができるだろう。少なくとも、昨夜のアレを初めとするいくつか漁った文献に書いてあったことが間違いでなければ。

「供給時にお互いが考えてることとかも、最終的な効果量に影響する。術者が一方的に与えても、患者の方にそれを受け取る意思がなければ、効率も落ちるし。それで———」

「藍子ちゃんがもしも嫌がったら、失敗するかもしれないと?」

 俯いて、頷く。そんなことあるはずないのにと、しまむーが言った気がしたが、やっぱり私には素直にそれを信じることができなかった。

 もしもの時に失うものが大きすぎる。私はもう、これ以上何も失いたくはない。

 ———もう躊躇わない。そう誓った。

 なのに今も、私の中では失いたくないから動こうとする本田未央が、失いたくないから動かない本田未央に勝てないままだ。

 それに、果たして私に、そんなことをしていい資格があるのかどうかも。

「じゃあ、魔力供給以外のもう一つの方法はどうですか? まだわたし、それがなんなのか聞いてもいませんけど」

「ああ、そっちは。うん、でも結局は魔力供給するのと変わらないだけどね。外部からどうにかするんじゃなくて、あーちゃん自身の魔力生産量を増やすやり方なんだ。言ってしまうと魔術回路を増設するっていうか」

「……あれ? たしか魔術回路って生まれつき決まるんですよね? それで、後から増えることは基本的に無いってアーチャーさんが言っていた気がしますけど」

「うん、そうだよ。魔術回路はその人の適正や才能みたいなものだから、それを後から意図的に個人で作り出すことは一部の例外なんかを除いてあまり一般的じゃない。けど、取り出したり、譲り渡したりなんかは、結構簡単にできちゃうんだよ」

「え、えっと…………それってつまり」

「私の魔術回路の一部を、あーちゃんに移植するってことだね。ざっと二割くらいあーちゃんに移せば、普通に生きてる限り魔力不足になることはないだろうし、それに結果的には私とあーちゃんとの間に魔力の経路(パス)をつなぐことにもなるから、もしもの時も、近くにいるだけで魔力の供給ができる」

「すごい! 一気に問題解決ですね!」

「うん……。まあ、そうなんだけどね」

「あれ? もしかして、このやり方にも何か問題があったりするんですか?」

 頷く。主に問題は二つだ。

 一つは、魔術回路を移植する以上、移植元(わたし)の魔術回路の総量はとうぜん減るということ。

 生まれ持った魔術回路の量は才能の証だ。多ければ多いほど、魔術で出来ることは大きく、そして多くなる。それを自ら減らすという行為、まっとうな魔術師なら考えもしないだろう。

 まあ、私はそのまっとうな魔術師というやつをとっくに辞めているのだし、しまむーも魔術とは縁のない人種なので、こちらに関しては問題という問題はほとんどない。そもそも、私の魔術はすべてあーちゃんのために使うと決めてあるのだから、魔術回路のいくつかであーちゃんがこれからも笑顔でいられるというのなら、それ以上に意味のある使い道なんて思いつかない。

 そんなわけで、実質的な問題は一つだけになる。

「魔術回路を移植するにはさ、まず、裸で抱き合わないといけないんだよ」

「………………………………………………………………え?」

 

「ええええええええええええええええええええ?!!!」

 

「ちょっとしまむー! 声が大きいよ!」

「あ——————す、すいませんっ!」

 やおら立ち上がったしまむーは辺りを見渡してすぐに元通り座り込んだ。幸運にもこの時間は人が少ないらしく、少し離れたテーブルで路地裏がどうの計算がどうのと話し込んでいる女性三人組と、カウンターで食器を磨いているマスターしかいない。音楽もかかっているから、しまむーの叫び声以外は何も聞こえていなかったはずだ。

「ご、ごめんなさい。突然大きな声なんか出したりして」

「いや。今のは完全にこっちが悪かったっていうか」

 もしもここにしぶりんがいたりなんかしていたら、おそらく私の命はなかっただろう。なぜか、あーちゃんでも同じ結末が想像できるのだから、そうでなくて良かったと心底思う。

「……でも、まずってことは、それで終わりってわけでもないんですよね?」

「うん。……残念ながら」

 そもそものこと、基本的に魔術回路自体が人体の外なんかにそう易々と出せるモノではない。そのため移植となると精神的に深い共感状態となり、かつ肉対的にも接触面を広く密にとる必要が出てくる。

 身もふたもない言い方をすれば、体を重ねるという行為が回路移植の前提条件。

 それは、さすがに。

「たとえ好き合っていたとしても、私とあーちゃんにはまだ早いと思うんだ、けど」

「そ、そうですよね! 想像もできないですもんね!」

 と言いつつ、しまむーの顔は赤かった。普段は忘れがちだがこれでも二つ年上なのだし、そういった知識のいくつかはあるのかもしれない。……いや、こんな真昼間からそんな話題を広げる度胸なんて私にはないけれども。

「ならやっぱり、結局はキスによる魔力供給、てことになるんでしょうか」

「…………そう、なっちゃうよね」

 触媒を利用した供給はコスト面で長期的に続けていくことが難しく、かといって一発ですべてがうまく行く回路の移植が今の私たちに適しているかと聞かれれば、頷くことなどできるはずもない。しまむーに相談する以前からとっくに出ていた結論だった。

 

 ———私に、あーちゃんの気持ちを確認することができるか。

 

 つまるところこれは私たちの問題で、私だけのそういう覚悟の問題なのだ。

 モンブランはとっくに皿の上から姿を消している。二杯目のキリマンジャロも残り半分を切っていた。向こうのショートケーキとウインナーコーヒーも同じ具合だ。すでにずいぶん長く、同じ場所で過ごしている。そろそろこの席も空けるべきなのかもしれない。

 私がそう考える一方で、皿にポツンと残ったイチゴを前にして、しまむーはまだそれに手を付けず、

「一つ、聞いてもいいですか」

 誰かさんにほんの少しだけ似ている、まっすぐな眼差しをこちらに向けてきた。私は以前からそうしていたように、快く頷く。それを確認するとしまむーは、まだほんの少し湯気が立ったままのウインナーコーヒーを飲み下してから、気負わず、何気ないことを聞くような声音で尋ねた。

「未央ちゃんは藍子ちゃんのこと、どう思っていますか?」

「——————分からない」

 正直に答えた。しまむーが一際大きく目を見開く。気負わない笑顔は一瞬で消え去っていた。

「そんな……、そんなはず、——そんなはずありません! だって、未央ちゃんは」

 ————藍子ちゃんを、助けたじゃないですか。

「……ごめんね、しまむー」

「なんで、わたしに謝る……んですか? 未央ちゃん」

「それは、……きっと私はこれから、最低なことを言うんだろうなって思ったから。

 しまむー、私はね、あーちゃんのことが好きだから、あーちゃんを助けたわけじゃないんだよ」

「——————」

「私は、私のためにあーちゃんを助けたんだ。自分がこれから先、ずっと後悔し続けると思ったから。あーちゃんのことを憶えていたくないって、思いたくなかったから。私はそんな身勝手な理由で、家族を、これまでの道のりを裏切ったんだよ。それは決して、あーちゃんのためなんかじゃない」

 その責を私は他の誰にも背負わせない。これは私だけのものだ。背負った罪も、裏切った遺志も、恨むのならすべて私だけを恨めばいい。

「だからさ、しまむー。こんな最低なやつがあーちゃんといっしょにいてもいいのか、私には、分からないんだよ」

「…………」

 しまむーは私を見つめたまま押し黙ってしまった。それも当然だと思う。

 しぶりんはしまむーと自分が出会う未来ごとしまむーが大切だったから、しまむーを助けた。だから私とあーちゃんも同じなんだろうとしまむーは考えていたはずだ。それが実際はこの通りだったのだから、失望するのも無理ない話。

 なのに——————

「……ごめんなさい、未央ちゃん」

「え———いや、なんでそこでしまむーが謝るのさ」

「いえ。ただわたしがまだまだ未央ちゃんのこと、よく知らないままだったんだなって思っちゃって」

「それは———だってそれは、私がしまむーとまだ親友でいたいからで」

「はい。それならわたしは、今は深く聞きません。だって未央ちゃんがわたしのことを考えて、そうしてくれているんだって信じていますから」

「しまむー、それは」

 違うと言い切るより先に首を振られた。

「未央ちゃんは時々優しすぎますから。誰かのために動いても、それは自分がそうしたかったからって、いつも自分一人で背負いこんでしまう」

「…………」

「わたしは、昔の未央ちゃんのことを何も知りません。けどこの一年間、わたしの親友だった未央ちゃんのことはよく知っているつもりです。わたしの知っている未央ちゃんは絶対に、最低なんかじゃないです」

「……それでもなんだ。それでも私は、例えいつになったとしても———」

 その先をしまむーに伝えることが私にはできない。私は卑怯だ。こんなにも大事にしてくれている彼女の厚意に何も報いることができないのだから。

 残り僅かなカップの中身に手をつけることもできず、木目の河を見つめた。目を伏せたまま対岸にいるしまむーに問いかけた。

「ねえ。しまむー」

「なんですか、未央ちゃん」

「私さ、本当に、普通に生きていいのかな」

「——————」

 即答で返ってくると思っていた肯定はいつまで待ってもやってこなかった。代わりにしまむーは、

「……未央ちゃんは、もっと素直になってもいいんですよ」

 はっとして顔を上げた私に、不器用な妹をたしなめるような優しい笑みをたたえた表情を見せた。その不器用な妹であるところの私は口元を歪ませて、

「うん。お互いにね」

 皮肉を返して、笑い合う他なかった。

 




 ずっと誰かを不幸にし続けるばかりなのだと思って生きてきた。

 ————許さない

 その分自分自身が誰よりも不幸になることで赦されていたつもりだった。

 ————赦されない

 ずっと、ずっと忘れらない、いくつもの赤い水たまり。

 ————赦されていいはずがない

 幸せだった記憶は、もう何も残っていないのに。

 ————赦されることなど許されない

 それだけは、今もずっと。

 ————忘れるなんて許さない、お前は

 私は————人を、殺したのだから。


 次回、後語り編2.5話「☆☆★Which Girl(EXTRA CCC)」


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After2.5/☆☆★Which Girl(EXTRA CCC)

もし本田未央が悪い人でも許せますか?

それはそれとして推しの限定SSRが出ない……。


 ずっと誰かを不幸にし続けるばかりなのだと思って生きてきた。

 その分自分自身が誰よりも不幸になることで赦されていたつもりだった。

 

「藍子ちゃんのことはこれからも気にかけておきます。ですから未央ちゃん、藍子ちゃんとしっかり、話をしておいてくださいね」

 そう確約してもらえて一安心。喫茶店を出てしまむーを家まで送り、電車で都心から戻ってくるあーちゃんを迎えに、新都へとんぼ返り。急いでいたわけでもなかったので、冬木大橋を渡るころには午後五時を過ぎていて、夕陽も六割方沈みきっていた。

 肌を切り裂くように吹き付ける海風。マフラーに顔をうずめて足早に新都の街並みへと足を踏み入れる。

 

 ——————そこは、異質な静寂に包まれていた。

 

「…………え」

 三連休最後の日の夕方。明日からまた始まりを告げる忙しい日々に向けて、足りない道具の買い出しをする学生やビジネスマン、締めくくりに外食をどこで食べようかと悩む家族連れや若いカップル、旅先勤め先から帰ってきたお疲れの背中————そのどれもが、影一つなく姿を消していた。

 取って代わって徘徊するのは、

「——————!!「————!」「「——————!」——————————!!!」」

 声にならない怨嗟、悔恨、慚愧をのべつ幕無しに叫ぶ死霊の群れ。

 嫌な汗が額を伝う。拭っている暇もない、すぐに街の中心へと駆けだした。動く生き物(わたし)を見つけてか、群がるように道を塞ぐ白面を退去(エイワズ)のルーンを含めた魔弾で強引に突破。

「……っ、あーちゃん!」

 加速(ライゾー)探知(ベルカナ)。今は足も、思考も止められない。

 もとより冬木市は龍脈の通る一級霊地、自然霊の活発さに事欠かない土地だ。その上、過去六度も行われた聖杯戦争なんて厄災のおかげで怨霊、人間霊の埋蔵量まで日本有数。

 普段は管理者(セカンドオーナー)である遠坂と、協会から派遣された対霊処置の専門家である神父の二重体制によって完璧に抑えられている。

 けれどもしも、そこに何らかの予期せぬトラブルが起きたとしたら。

 走っても走っても人っ子一人、猫の一匹も見当たらない。濃い魔力の霧の中、活性化した死霊ばかりが目に付く。それらの内、道を塞ぐ四体を吹き飛ばして大通りを南下。

「どこにいるの……、あーちゃん」

 探知のルーンがうまく働かない上に、スマホも圏外でGPSも使えなかった。霧はますます濃くなって十メートル先も定かじゃない。相手はどれだけいるのかも分からない無尽蔵な数の怨霊、いちいち相手にしていたら先に力尽きるのはこちら。そのため、目測できる範囲で接敵は避ける。

 そうして次の角を右その次を左と進むうち、そこにたどり着いた。

 

「———ああ、しまった。何だってこんなときに、こんなところに来ちゃうのかな」

 冬木中央公園。

 中心街外れ、芝生も生えず殺風景な、ただ広いだけの名ばかり自然公園。昼間でさえ訪れる人は少なくて、かといって何か建物が新しく立つ話も生まれてこの方聞いたことがないと、しまむーが言っていた。

 それもそのはず、ここは二十年前の第四次聖杯戦争が終わった場所なのだから。

 遠坂の記録では最後に残ったセイバーのマスターが聖杯を破壊し、あふれ出した中身(のろい)が引き起こした大火災により数百人の犠牲者が出たとのことらしい。その犠牲者すべての無念がこの場所に向けられている。

「誘導されたかな、これは」

 死霊たちがどうしてか活性化している現状、ここは敵の大本営にも等しい。おそらくは今、最も多くの死霊たちが集まっている場所だろう。

 奥歯を噛む。手持ちのルーンストーンは残り二十弱、百程度なら消滅させることはできずとも吹っ飛ばせる火力だけど。

 ———いや、だめっぽい。見えるだけで十五、霧の向こうにその数倍はいる。となれば背後にも同じだけ。

「———————!!!」

「……っ! まったく元気だなぁもう!!」

 木陰に身を隠したら頭上を飛んでいた三体に見つかった。反射的に飛びのいて魔弾を撃ち込む。

 派手な音とともに土煙が舞う。襲い掛かってきた分についてはしっかり霧散しているけど。

「————!「——————!」「————————————!!」「「——————!」——————————!!!」「——————!!」」

 セミの無軌道な大合唱のように空気が波を立てて騒めいた。ああ、これは間違いなく気付かれた。

 走る。とにかく公園の外へ。

 今ので後ろへの退路は全滅、前へ進めば公園を横切るもっとも避けたい形、なら右か左か。どちらにしても変わりはしない、直感で右へ。十数体を目視、魔弾を使えばその全てに気づかれることになるだろう。

「かまってられるか! 気づかれてるのは今更なんだから」

 二つ同時に発射。撃ち漏らしが三体、その脇を爆風にまぎれてすり抜けた。このまま全速力で走り抜ければ、いかにだだっ広い自然公園と言えども抜け出せる。

 その想定が甘かったことはすぐに思い知らされた。左右に避けていく霧の奥、ついに見えたのは公園出入口の石階段ではなく中央広場にあるはずの慰霊碑だった。

 ———漂う空気がどこか異質だということには初めから気づいていたはずだった。

 逃がさない。置いて行け。許さない。生きることなど許さない。忘れることなど、許さない。幾重にも重なった想念は呪いとなって一つの固有結界を形成しているらしい。

「——————ない」

 声が聞こえる。それまで声になっていないと思っていた叫びの一つ一つが、意味を持ち始める。

「————許さない「許さない許さない」「赦さない「許さない」」「許「赦さない」さない」」「「赦されない」許せない「赦さ「赦されていいはずがない」れるはずがない」」「赦すことなど「赦されることなど」許されない」

 十、二十。百。数えることすらばかばかしい。耳を塞いでも脳髄に響いて聞こえてくる。それなら大元を立つのが一番手っ取り早いと辺り一帯を吹き飛ばしても、少しも減った気がしなかった。

「忘れるな」「置いていかないで」「ワスれルな」「思いだせ」「忘れてはならない」「お前が殺した」「忘れるなんて許さない」「ワタシタチは何も悪くない」「忘れることは赦されない」「全部お前のせいだ」「忘れるお前が憎い」「ずっと」「ずっとずっと、「憶えていて」」「貴「お前が」赦されることは」

 …………ああ、それでいい。言ったはずだ。呪うのなら、恨むのなら、それは私だけでいいのだと。あれは、私が、私のためにやったことなのだから。

 懐にはまだ魔弾にするためのルーンが残っている。けれどそれを撃つ気にはもうどうしてもなれない。後は煮るなり焼くなり好きにしてほしい。ここにいるのはきっと、私とは全く無関係の人たちばかりなのだろうけど、けれどそれで———せめて、彼ら彼女らへの弔いとなるのなら——————

 

「おい! しっかりしろ!!」

 

 わずか三メートル弱、その距離まで迫っていながら、私に近づききることのできた死霊は一体もいなかった。代わりにそれらを綺麗になぞるように白と黒、二つの円が弧を描いて端から跡形もなく消し去っていくのが見えた。同時、投げかけられた声に振り向く。

 赤銅色と薄緑。霧の向こうから走り寄ってくる二つの色は徐々に人の形を成して、やがて顔まで確認できるころになると、声の主が誰なのか見当がついた。

「……士郎、さん?」

「ああ。立てるか、本田」

 童顔気味でいかにも人好きのしそうな人相をした、背の高い青年。かつて凛姉とともに再現元(オリジナル)の第五次聖杯戦争を生き抜き渡英、今ひと時、大聖杯解体のために冬木に戻ってきていた魔術師、衛宮士郎。

 左の手に握っていた黒の亀甲模様が彫られた中華刀を霧の中に放り捨て、士郎さんは地面にへたり込んでいた私に手を差し伸べる。その手を取らず自力で立ち上がった。が、膝が震えていた。存外、深いところまでやりこめられていたらしい。

 ———情けない。今は、悔いるよりもやることがあるっていうのに。

「士郎さん。この状況について何か知ってる?」

 どこから取り出したのか、無手になったはずの左手にはさっき捨てられた物と全く同じ刀が握られていた。右にも左のモノと意匠の似た白刀を構え、死霊の大群を彼は睨んでいる。その目線を反らすことなく答えてくれた。

「詳しい原因については不明だ。凛と教会のシスターがすでに人払いと避難誘導を済ませて、目下調査中。俺も同行してたんだが、凛がもう一人増えたみたいな派手な魔術行使が視えたんで、来てみたらお前がやられかけてた……っと、これでいいか?」

 向かってきた一体を左で切り伏せ、返す右の一刀で後発のもう一体を袈裟切り。除霊効果でもある刀なのか死霊が面白いようにスパスパ切れていた。

「その避難者の中に、あーちゃんはいた?」

「……いや、いない」

 声は暗い。避難誘導をした張本人が言うのなら間違いないだろう。シスターがどうかは知らないけど、士郎さんと凛姉が知り合いである彼女(あーちゃん)のことに気づかないはずはないのだから。

 士郎さんの背後、つまりは私の目の前からも死霊が迫ってきていた。ルーンで爆撃できる距離ではない。ウエストポーチ型に加工した魔術鞄(マジックバック)からアゾット剣を取り出す。

 魔力を通す。剣に暗示をかける。

Tomb guard`s nife is you.(其は墓守の懐刀)

 一小節もない。それでも手ごたえはあった。もとよりアゾット剣は魔力を増幅させるための補助礼装。地脈をすこし吸っただけの死霊を斬るには、これくらいの概念付与で十分。

 鞘から完全に引き抜いた。暗示は憑依経験までも併発させたのか、自分でも驚くほど無駄のない軌道に沿って死霊の首を落とす。

 

 ——————、————。

 

 こぼれた魔力が肌をかすめて、何も残さずに霧散した。だけど、今のは。

「……士郎さん。話半分くらいに聞いてほしいんだけどさ」

「なんだ」

 士郎さんは振り返らず、背中越しにそう返事をした。私も今目の前にいる死霊から目を離すことなく呟く。

「例えば。例えばの話だよ。一クラス四十人いるはずの子どもが、別の日には三十八人になってて、それにだれも気付かない。なんて話があったら、どう思う」

「それ、作り話かなにかなのか?」後ろで士郎さんが首をひねった気がした。

「まず話として成り立ってないじゃないか。誰も気づかないんだろ? だったらその話自体、存在している時点でおかしい」

「だよね。私もそう思うよ」

 けれど、これは作り話ではないのだ。だって。

「でもさ————私は、今もちゃんと憶えているんだ」

「…………なら、答えは一つだけだ。そのいなくなった二人、そのうちのどっちかが、本田、お前だった」

「うん。ご明察」

 死霊の首にアゾット剣を突き刺す。それはまるで遠い過去、いつだったかだけをぽっかりと忘れた、放課後の教室で見た光景によく似ている気がした。

「忘れっぽくて、子ども頃のことなんてもう何も憶えていない私だけど、そのことだけはいつまでも消えてくれないんだ。一人目は隣の席だった男の子で、二人目はその前に座っていた大人しい女の子。引っ越して、お隣さんになった子の妹ちゃんが三人目だった。そんなことを、たぶん五年くらい続けて、記憶にある分だと十七人になる」

 その全ての血肉(オド)を魔術刻印に注いだ。そうしなければ枯らされるのは私だった。お父さんは知り合いだという錬金術師の家からホムンクルスを買い取って、それを代わりに使おうとしていたらしい。けれど結果を見る限り、私はそれを拒んだようだ。今から考えても、家財を聖杯戦争の参加にほとんど使い切っていた当時の本家に、それだけの財力があったとはとうてい思えないから。

 それに、どちらにしたって変わらない。私は、私が生きるために、大勢の人たちを食い物にしたのだ。

「ねえ、士郎さん。いや、凛姉はこう言ってたっけ————正義の味方さん。

 私を殺すなら、それでもいいよ」

 ちらと視線を背後の士郎さんに移す。きれいな太刀筋だ。それでいて隙が見えない。気の遠くなるような年月をかけて磨かれた河原の大岩のよう。ほんの数日前、サーヴァントたちが見せた瞼を焼くような才に満ちた輝きはない。けれど私の首を撥ねるだけなら、それでも十分。

 そんなことを私が考えていた一方で、

 

「——————殺さない」

 

 と、士郎さんはその刀身をこちらに向けるまでもなく、私の思考を両断した。

「お前は、正義の味方が倒すべき悪じゃない」

「…………それ、本気で言ってる?」

 そう簡単に切り伏せられてなるものかと食い下がる。

「ああ。本気だ」

 けれど、その背中は私の何倍も頑なだった。

「本田はそれが悪いことだって思っているんだろ? なら、自分のしたことを悔いている本田自身は悪じゃない」

「でも、私はそうと知りながらやったんだよ。悪いことを、悪いことだって知りながら、それなのに、自分が生き残るために、大勢を犠牲にした。証拠は私の記憶以外何も残ってない。でも私は、……私は、人を殺したんだ!! そのことだけは、私が何を忘れたって無くならない!」

「それでもだ。本田は悪人なんかじゃない。それにさ、勘違いしてるみたいだけど、正義の味方っていうのは、悪い奴を倒すやつのことじゃないんだよ」

「……え」

「正義の味方っていうのは、困ってる大勢の人たちを助ける存在のことを言うんだ。今にも死にそうなやつに手を差し伸べて、そいつに未来を見せてやる。俺が憧れた正義の味方は、そういうやつのことだ」

 ひどく無茶苦茶な理想論を聞いている気がした。

 士郎さんが言っていることは、彼の広い視界に映るすべての人々を救いたいということ。けれど、人間の手はその端から端まで届くほど長くも大きくもない。できることはせいぜい自分の顔を覆って視界を閉ざすことか、あるいは手の届く身近な誰かに差し伸べることだけ。この手で助けられるのは、大切だと思った誰か一人だけなのだから。

 

『——————大切だと思ったものは何があっても守り通す。

       それは、誰にとっても当たり前のことなんでしょう?』

 

 今は遠い鈴の音を思い出す。私はそれに、なんと返したのだったか。

 ……そうだ、たしか。

「ああ。それは———当たり前のことだ。きっとどんなことがあったって、間違ってなんかいない」

 背中合わせに聞いていた士郎さんの呼吸が一瞬止まった気がした。それも本当にほんのわずかな間だけで、すぐに彼は息を整える。その調子がなんだか少しだけ、笑っているように聞こえた。

「正義の味方が倒すべき悪は、目の前の未来を摘み取ろうとするモノ。そりゃあ人を殺したことは絶対に許されないことだけど、けど本田はもう、そんなことをしたいと思ってないし、する必要もないんだろ?」

「う、うん。魔術刻印を維持するための魂食いだったわけだし、アレがもうない以上必要はないけどさ」

「ならいいんだ。お前は俺の敵じゃない。第一、本田を殺したなんて凛に知られたら、次にアイツに殺されるのは俺だ」

「……私、そこまで凛姉に大事にされてるようなつもりないんだけど」

「え」

 薄く困惑のにじんだ声色だった。

「……ああ。まあ、アイツの好意って分かりにくいもんな。

 知らなかったか? 遠坂凛はさ、大切なやつにほど多く貸しを作っておくんだよ。きちんとした契約書付き、むこう数十年は搾り取られるレベルで。もちろん搾取側は常に遠坂だ」

「…………待って。じゃあ遠坂家の資料をタダで見せてもらってたりするのも?」

「ああ」

「宝石魔術の修練の面倒を看てくれたのも?」

「もちろん」

「あーちゃんの身体維持について相談に乗ってくれて、その上高校卒業まで住まわせてもらえることになったのも? あと、本家との交渉について来てくれるって約束したのも?」

「当然。今は実家のことで本田が素寒貧だって知ってるし、俺たちだって片付けないといけないことがあるから加減してるみたいだが、……うん、半年後くらいに預金口座を一応確認しておけ。いい納涼になる」

「こっわ!! ゴーストより怖い!!! ねえそれこの場を和ませるためのジョークだったりは」

「それはないな。なんせ、大切だった家族から聞いた、大事なやつのことだったから。忘れてたら、今度はそっちからも殺されかねない」

 言葉の端に耳慣れた寂しさのような物を感じた。どこかしまむーのそれにも似ているようで、根本的な部分で何かが違っているそれが、一時的であれ凛姉の恐怖を忘れさせてくれた。

「それにさ。もしも自分のやったことを後悔してるやつを殺しちまったら、その時にはただ一人そいつにしかできない償いが、ずっと果たされることはなくなる」

「償い? そんなこと、本当にできるの?」

「ああ、ちゃんとできる。失ったモノは取り戻せないし、現実が覆ることはない。過去は、もうどうしたってやり直すことなんてできない。いや仮にできるとしたって、しちゃいけないんだと思う。それでも、そのことを忘れずに、無かったことになんてしないで、ずっとその痛みと重みを抱えて前に進んでいくこと。それがきっと、失われたモノを残すってことだから」

「………………失われたモノを、残す」

「そうやってこれからを生きて行けばいい。いつか自分で自分を許せるようになる日まで。大丈夫さ。どんな自分も受け入れて許してくれるやつが、お前にも、そして俺にだって、いるんだから」

 言われて、一つの温かな笑顔を思い浮かべた。日向に寄り添うようにして咲く、本当は底抜けに明るい、私がたった一つ取り戻した笑顔。彼女といれば、私は自分を許せるだろうか。彼女は、こんな私を許してくれるのだろうか。どちらにしても、会って話をしなければずっと分からないままだ。

「ありがとう。士郎さん。言い忘れてたけど、今回の原因、だいたい予想がついたよ」

 士郎さんが右に握っていた白刀を取り落としかけた。それでも拾いざまに左で近場の一体を横なぎにしているのは、流石としか言えない。

「これだから天才ってやつらは…………。いやすまん、独り言だから忘れてくれ。それで?」

「うん。さっき仕留めた一体から、ほんの僅かだけどあーちゃんの魔力を感じたんだ。で、さっきから斬りまくってるんだけど、微妙に同じものが混じってる」

「……まずくないか? 襲われたか、襲われているかで魔力を持っていかれたってことだろ」

「それはないよ。今斬った分でも、人間一人分以上の魔力量を軽く越えちゃってるから。ここに来るまでと、それから士郎さんが倒した分。そっちはカウントしてないってことを含めれば、一体どれだけになるんだろうね。

 それに、気づいてる? 死霊の魔力と、新都一帯に流れてるマナの質が全く同じってこと」

「いや、待ってくれ。それは当然じゃないか。だって死霊、自然霊は周囲の魔力(マナ)を食って活動して———まさか」

「そうだよ。今、新都にはあーちゃんの魔力が漂ってる。正確にはほんの一部だけど、総量としては、人間一人に生み出せる魔力量を大きく上回る。そんなことは、常識的にはまずもって不可能だけど、けど私たちはそれができるモノを知ってる」

「聖杯、か」

 苦虫を噛み潰したような士郎さんの声に頷く。

「おかしいとは思ってたんだ。あーちゃんには一日一つずつ、それに予備でもう一つの、計二つの宝石を持たせてた。凛姉と私で立てた見立て通りなら、内一つはその日で使い切っていないとおかしいはずなのに、あーちゃんはそれで三日分持っていた。

 つまり、今のあーちゃんには 宝石と自前の魔術回路以外にもう一つ魔力の供給元、それから、生産した魔力を貯めておく貯蔵庫のような物がある」

 それはイリヤから聞いていた聖杯の機能そのものだった。

「あーちゃんは、あるいは部分的に聖杯の機能を引きずっている。その貯蔵分の魔力が何らかの理由で放出されて、それを死霊たちが吸っているのだとしたら」

「それなら、この大量活性も頷ける」

 互いに死霊を払いのけながら、少しずつ慰霊碑に近づく。死霊たちの想念が固有結界じみたものを形成しているなら、その起点としてこれ以上の場所はないだろう。

 幸い、士郎さんはこの手の作業を何回も経験済みとのこと。一番大きなものが慰霊碑にあるとしても、それを解呪するだけでは足りない。他にいくつか散らばった小起点も同じく壊す必要がある。その探知は士郎さんがやってくれる。解除するのは私の仕事だ。

「次で最後だ。北の噴水、その脇に生えてる木の根元」

 解除に使う退去(エイワズ)のルーンの手持ちは、十分に足りている。走りだす士郎さんの後を追う。

「ところで、さっきの推測についてなんだが、一つ疑問がある。聖杯は術式から完全に破壊したはずだ。小聖杯だったイリヤも、高森の以前の肉体も消滅している。なら高森はどうやって、聖杯の一部を持ち帰ったんだ?」

「そこは、私には分からないよ。たぶん凛姉に聞いても明確な答えは返ってこないと思う。もしかしたら、やった張本人であるところのあーちゃんでさえ同じかもしれない。……なんていうのかな、この辺りなんだか、別の誰かの意思を感じるっていうか。あくまで、直感なんだけどね

 まあ、その辺りの難しいことは考えなくていいと思う。原因の解明にしたって、事態の収束にしたって、今は、あーちゃんを探し出さないと始まらないんだからさ」

 水音が耳に届く。いくつか起点を破却したことで、公園内の移動はずいぶんと自由になった。あと一つで、外に出ることも可能になるはずだ。

「そこだ。右から二番目の木。周囲の死霊は俺が応戦する、その間に解除しろ!」

 二手に分かれて、私は指示された木の根元に座り込む。起点は人為的に作られた術式ではなく、呪いが溜まってできた淀み。ルーンで指向性を持たせた魔力を強引に流し込めば、簡単に吹き飛ばせる。

「(前はもっと細かい流れも見えたんだけど)」

 ふと、以前の感触を思い出した。魔術刻印で対象の魔力構造を読み取り、もっとも弱い部分に最小の魔力を流し入れるだけで、以前は同じことができていた。範囲を広げて、一か所から同時に複数の操作をすることも。もしもまだ私があの魔術刻印を手放していなければ、起点を一つ一つ回ることなく、一息に解除できただろう。

 ————ああ、けどその時には、代わりに理由(あーちゃん)がいないのか。

 なら、この非効率なやり方も悪くない。魔力の多量消費に伴う倦怠感にも充実したものを感じられる。

 もしもこれからを、そうやって生きて行けたなら、それはどんなに————

 

 




 霧が晴れる。公園の出口も、その先の街並みもずっと先まではっきりと見える。
 探知のルーンを再起動。未だに残ったままの死霊の奥、入り組んだ路地の奥に今度こそあーちゃんを見つけた。
「行こう。士郎さん」
 無言で頷いた彼とともに、すっかり夜の闇に覆われてしまった街を跳ねた。


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After3/Snow*Love(2)

みおあいの話になるとやりたいことやりすぎてつい詰め込みすぎてしまうのが最近の悩みです。おかげでこの一カ月と少しは、リテイク地獄に走りそうな思考をなんとか抑え込むのに必死でした。

それはそれとして、バレンタイン編最終話です。前後の繋ぎがしっちゃかめっちゃかしていますが、それでもよろしければ、お暇なときにでも。


side A

 

 夢の中を歩いているような気分でした。

 よく知らない人に追われて、たどり着いた路地の行き止まりで王子様に助けてもらう。

 出来の悪いおとぎ話みたいです。酷く現実離れしています。やっぱりここは夢の中なのでしょう。

 回された腕の強さも、触れた肌の暖かさも、見るもの感じるものぜんぶが私の理想通りの場所。

 —————けれど、

 

「あーちゃんはそんな悪い子なんかじゃない!!」

 理想通りだからこそ、悲しくなってしまいました。

 ごめんなさい、未央ちゃん。私はあなたが思ってくれているほど、いい子でもないんですよ。

 私はあなたのことがどんな人よりも大切で、あなたを失うことが何よりも怖くて、あなたの笑顔なしには生きられない。だから、そのためなら———もしもそれが、二度と見られなくなってしまうくらいなら、私は、私が何をするのか全く想像もつかないのですから。

 

 私を追っていた知らない人が、立ち去ろうと背中を向けます。その背中が一瞬だけ血まみれに見えて、次の瞬間には何事もなく、無事なまま街明かりに溶けていました。

「士郎さん。あの人、知り合い?」

 未央ちゃんが同じ路地裏にいたもう一人、彼女の親戚で魔術師の遠坂凛さん、その彼氏さんの衛宮士郎さんに尋ねます。士郎さんの表情は暗くてよく見えません。どうにも捉えられるような平坦な口調で士郎さんは答えました。

「ああ、昔なじみだ。それよりも今はこっちだろ」

「うん。あーちゃん、平気? どこか痛いところとかない? 転んですりむいたりとかは?」

「……いえ。特には」

 夢の中なので当然ですけど、道中のことを自分でもよく覚えていません。ぱっと見渡してみてとくにそれらしいところもなく、

「ああ、よかったぁー」

 と、同じく確認を終えた未央ちゃんの安心が目に見えて伝わりました。

 ———もしもさっきの見間違いが、そうじゃなかったら。それでも未央ちゃんは、私をこんな風に心配してくれたのかな。

 出会った夜を思い出す未央ちゃんの安心しきった顔に、つい油断して、私は考えてはいけないことを考えてしまいます。すぐに忘れようと思いました。けれど、一度気になってしまうと不安は大きく膨らんで。

 それが抱えきれなくなる前に、

「…………ねえ、未央ちゃん」

 私はここが夢の中であることを良いことに、思わず口から漏らしてしまっていました。

 

「もし……私が悪い人になったら、未央ちゃんは私のこと、許せませんか?」

 

 

 そのもしもを、私も考えたことがありました。

「ねえ、未央ちゃん。もし私が悪い人になったら、許せませんか?」

 もしも、少しでも撮影が長引いていたら。

 もしも、私がプロデューサーさんに車で送ってもらっていたとしたら。

 あるいは、未央ちゃんが冬木にやってくるのが、あと数日でも遅れていたりなんかしていたら。

 きっとその時には、私たちがあの夜に出会うことなんてなかったはずでした。

 

 その場合、私は一体どうなっていたのでしょう。

 これまではなんとなく怖く感じて、それ以上に考えることを止めていました。———けれど、ずっと気になってもいたんです。

 聖杯戦争最後の夜。未央ちゃんは、私を殺すか殺さないか、そんな選択を迫られていたとのことでした。だから、当然、私のことを知らない未央ちゃんが選ぶ道筋は、実際に選ばれたものとは真逆。

 

 聖杯(わたし)(ころ)すという道。

 

 一度決めたなら、迷いながらも最後には、必ず目的地にたどり着く。そんな未央ちゃんのことだから、私を殺すことだって、そう難しいことではなくて。むしろ、助ける以上に簡単なことだったはずです。

 

 そうして、見知らぬ誰か(未央ちゃん)は、

 見知らぬ誰か(わたし)にその刃を突き立てる。

 

 その時に、私はいったい何を感じていたのでしょうか。答えはすでに知っていました。

 ……痛くて、冷たくて、熱くて。大事な何かが無くなっていく虚しさで、手先から徐々に凍え切って動けなくなる。それなのに、どうしてなのか熱い。あつい。

 すべて、すべて。苦しみに満ちていて。それでもなぜか、決まって私はその命の終わりに、

『————ああ。もう、大丈夫なんだ』

 どうしてか、心の底から安堵している。

 遠く遥か。決して手の届かない場所にいる、私とは違う結末を辿った高森藍子の、最期の気持ち。それがこの私にはどうにもぴんと来ませんでした。

 けれど——————

 

「——————許せないよ。きっと他の人なら、諦めがつくと思う。けど、あーちゃんだけは、本当に、ほんとうに、ずっと最後まで悩むと思う。だからその分助け出した後で、他の人の何倍もずっとずっと多く、あーちゃんを叱る」

 

 未央ちゃん。そんな風に言ってくれる、あなたの顔を見て、私は、

「ああ。やっぱり」

 って、安心するんです。

 きっとこの人は、たとえどんな出会い方をしていたって、最後には必ず私を見つけて(救って)くれていたはずだから。     

 

 遠く離れた、もう交わることなんてない。そんな未央ちゃんのことを知らない私だって、きっとこんなふうに————彼女のことを救いだと。そう紛れもなく、感じていたはずだから。 

 だから、私は————

 

 

「やっぱり私、あなたのことが大好きです。未央ちゃん」

 

 

side B

 

 ずっと誰かを不幸にして生きていくのだと思っていた。

 私は魔術師の家の娘で、魔術刻印を次の世代に引き継ぐのが役目。そのためだけの人生。

 聖杯戦争が終わっても、例え聖杯が手に入っていたとしても、それは変わらないはずだった。  

 出会う全ての日常とそこにある笑顔を刻印に食わせて、不幸で塗りつぶす。誰からも必要とされず、そのくせ誰かがいないと生きられない。そんなことをきっと死ぬまで、自分が何者なのか分からなくなっても、繰り返す。

 それなのに。そのはずだったのに、どうして。

 

「私、あなたのことが大好きです。未央ちゃん」

 

 ———どうしてあーちゃんは、そんなにも幸せそうな顔をしているの? 

 私に不幸にされた(殺された)人たちの最期の顔を今でも覚えている。まず真っ先に浮かぶのは疑問、次に遅れてやって来た痛みに悶えて、疑問の答えが出ずに怒鳴るか、そんな余裕もなく力尽きるかのどちらか。安らかなんて言葉とは程遠い、涙と血と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が二つ出来上がる。それを揉み消すことでしか、私は人とまともに関わることができなかった。 

 だって、いうのに、私とこんなにも長い時間を過ごしたはずのしまむーも、そしてそれ以上に、ずっと近くにいたあーちゃんのその表情も、私が見てきたどんな顔とも違っていた。

 

 ———ねえ、どうして。 

 どうしてあーちゃんは、私といて、そんな顔になれるの?

 

 胸の奥にしまい込んでいたはずの白い息を吐き出した。

「あーちゃん……私ね、ずっと思ってたことがあるんだ」

「未央、ちゃん?」

 相当疲れているのか、どこか夢でも見ているようにぼんやりとしたあーちゃんは、ほんの小さな力で私の胸下の服をつかんでいた。

「私はね、あーちゃんのそばにいていいやつじゃないんだよ。あーちゃんに言えないことが、いくつもあって。それを知られて嫌われたらって、そう考えるだけで怖くて、満足に眠れなくなるようなことが、たくさん。

 ——————だから、いつも思ってた。

 こんなのは、もう今日限りにして、明日からは知らない人のふりをしようって。

 廊下で出会ってもすれ違うだけで、

 放課後も、他人みたいに知らんふりして、

 朝だって————ちゃんと追い返して、一人きりでご飯を用意しようって。

 何度も、あーちゃんに会うたんびに、何度も思ってた」

 

 けれど結局、私はこの小さな手をただの一度も振り払えなかったのだ。

 

『藍子ちゃんは聖杯戦争が始まるよりもずっと、ずっと前から、

 いつも未央ちゃんのことが大好きだって言っていましたよ』

 

 ああ。そうだった。

 どれだけの泣き顔を見ても平気なつもりだった。これから歩いていく道の先が、どれだけの怒号や悲鳴に満ち溢れていたとしたって、最後まで心は鉄のまま、走り抜けられると信じて疑わなかった。

 けれど、それなのに。たった一つ、あーちゃんの笑顔を失うことを、あんなにも私が受け入れられなかったのはどうしてか。

 

「ごめんね、あーちゃん。でも、でもそれだけど……私」

 

 それはきっと、誰かの苦しむ顔ばかりを作り出してきた私が、ようやく、自分の手で咲かせることのできた、たった一つで初めての笑顔だったから————

 ————だから、きっと私は。ずっと前、初めてあーちゃんに出会ったあの日から。

 

 

「私、あーちゃんのことが大好きだ」

 

 

 

 寒かった。冬木は二月でもよそほど大きく気温が下がったりはしない。けれど今、街にはやっと街灯が灯ったばかり、死霊がすべていなくなったのもごく数分前で、通りはほとんど無人。人の温かみに乏しい足元では、ぱらつきだした雪の結晶が積もらずに薄く霜を這わせていた。

「泣いて、いるんですか?」

 頬を冷たい雫が伝う。自分ではそれが涙なのか雪粒なのか分からない。けれどあーちゃんがそう言うのなら、私はきっと泣いているのだろう。

「どうして、泣いているんですか?」

 少し、笑う。

「なんで、だろうね」

 上着のすそに添えられていたあーちゃんの右手が私の目尻をなぞる。まだ少しだけ歪んだ視界の奥で、あーちゃんが見たこともない顔をしていた。……その顔の前では、私はどうにも我慢がきかないらしい。あんまり長く見てしまわないように、あーちゃんの胸元すれすれで顔を隠した。

 ああ、でも。やっぱり我慢できそうにない。私の口は勝手に、今一番聞きたいことを尋ねていた。

「私からも聞くんだけどさ。あーちゃんは、私が悪いことをしても許してくれる?」

「——————はい。許しますよ」

 なんとも簡単に、あーちゃんは答えた。

「誰かを好きになるって、そういうことなんですから。たとえ未央ちゃんが、どんなに悪い人になっても、どんなに未央ちゃんが、未央ちゃん自身を許せないって思っていたって——————私が、他の誰よりも強く、未央ちゃんを許すよ。その分叱るし、怒るんだから。

 ……引かないでくださいね。私、怒るとけっこう怖いみたいなんです」

 そんなことを言う彼女がいったいどんな顔をしているのか気になって、ついさっき顔をそむけたことも忘れて見上げた。

 笑っていた。

 恥ずかし気に頬を赤く染めて、眉はこぼれ落ちそうな八の字。口角が緩やかに上がり、細めた瞼の奥の優しい瞳が私の頭を撫でている気がする。私はすっかり安心してしまって、彼女の肩に体を預けた。

 そして一つ、聞くまでもないことを確認する。

「あーちゃん。今、幸せ?」

「————はい。私はいま、とっても幸せです」

 視界の外にあって見えない、つい数秒の後には、また違った咲き方をしているだろうその表情。けれどこの時は、きっと大輪のヒマワリが咲いたような笑顔をうかべているんじゃないかと、心地よい自惚れのうちで感じていた。

 

 ……誰かの、苦しみに歪む顔ばかりを作ってきた。痛みや叫びや怒り、そればかりを胸に刻んで生きてきた。

 そんな私でも、こんな風に、誰かを笑顔に出来るのなら———

 ————それはどんなに、幸せな生き方だろう。

 

 そう、見てもいない表情で私自身が嬉しくなってしまうほどに。

「ねえ、あーちゃん。私、アイドルになるよ。ううん。なりたい。

 いつか、たくさんの笑顔に囲まれてさ。その真ん中で誰よりも強く笑える一番星になって。そこで私は、あーちゃんがくれた初めての笑顔を、もっともっと、たくさん、見てみたいんだ」

「うん。きっと大丈夫。未央ちゃんなら、絶対になれるよ」

「けどね、不安なんだよ。誰も笑ってくれなかったらどうしよう。誰も見てくれなかったらどうしよう。誰も、……誰も、許してくれなかったら、どうしよう」

「そんなことはありません。だってあなたは、私に笑いかけてくれた。私を見てくれた。私を、笑顔にしてくれた。だから、きっと未央ちゃんは、大勢の人を笑顔に出来る。

 ……ねえ。未央ちゃん。未央ちゃんが、一体誰に許してほしいのか。私には分からないし、未央ちゃんも、教えてはくれないんですよね?」

「……うん。でも、いつかは必ず、あーちゃんにも伝える。いや……受け入れて、ほしいよ」

「はい。待ってます。ずっと、私は待っていますから」

 あーちゃんの温もりに満ちた手のひらが私の頭上に置かれる。そのまま、もう大丈夫、もう大丈夫だからと、優しく撫でた。

 ————未央ちゃんは、もっと素直になってもいいんですよ。

 うん。そうだね、しまむー。でもやっぱり、それはすこし恥ずかしいから。今は、まだ、たった一人の前でだけ。

「私、あーちゃんとずっと一緒にいたいよ。あーちゃんがいないと、私きっとだめになる」

「……未央ちゃん。それは、私だって————」

 その先をあーちゃんは口にできなかった。途端に体をがくりと落として、うっすらと霜が積もった路上に座り込んでしまう。寄りかかっていた私は一緒に倒れ込んでしまわないよう、とっさに体を起こして、伸ばされた彼女の手を握った。

 冷たい。

 人肌の温もりが、ほんの少ししか感じられない。

「すみ、ません……ちょっと、体が動かなくて……」

「——————」

 知っている症状だった。魔力切れだ。身体維持に使われる生命力(オド)が足りなくなって、優先される臓器に末端から魔力が回されている。

 新都に流されていたあーちゃんと聖杯の魔力。きっと今、ようやく聖杯との縁が切れた。けど同時に貯蔵庫とのパスも失って、足りない分の魔力を補えていない。

 ……まだ、命に係わる段階じゃない。生命維持に必要な分は残ってる。けどこのまま放っておいたら、あーちゃんとは、もう。

 

 そんな思いをするくらいなら。

 誓いを思い出す。浮かんだ躊躇いをほんのいくつか飲み下した。

 

「あーちゃん。ごめん」

「——————————え」

 手を引いて、もう片方で彼女の顎を引き寄せた。

 顔を近づける。鼻が不器用にぶつかって、そのすこしあとに柔らかい感触。

「(まつ毛、長いなあ)」

 大きく見開かれた瞳がすぐ目の前にある。けれどまだ足りない。柔らかな扉を舌でこじ開けて、魔力の溶けた唾液を流し込む。

「~~~~~~~!!!」

 口をふさがれているはずのあーちゃんから、なぜかすごい声がした。肩を押し返される。ダメだ。ここで離されたらやり直しになる。……これを、同じ日のうちに二度しかけるのは、そこまでは、覚悟ができあがっていない、から。

「(ごめん。ごめんね、あーちゃん)」

 口で言えない分を心の中で何度も謝りながら、離してなるものかと腰に腕を回して、強く引き寄せた。そうしている間にも、少しずつではあれ絶やすことなく唾液を流し続けた。

「(でも、おねがい。受け取って)」

 驚きに大きく開かれてばかりだった瞳が、ふにゃりと溶けだす。祈りが届いたのか、こくりと音が鳴って、喉を唾液が流れ始めた。かと思えば、今度は逆に私の舌に何かが巻き付いて、もっともっとと吸い取られる。

「(————え、これってまさか、あーちゃんの)」

 吸われる、溶ける、奪われる。

 私の中にあるものが、私の作り出した魔力が、一部ではあれ、端から順にあーちゃんのモノになっていく。

 うれしい。受け入れてもらえて、嬉しい。あーちゃんが、私を必要としてくれて、もう何も要らないくらいに満たされている。

 ……このまま、ずっと、途切れることなく、永遠に続けていれば。その時には、私のぜんぶがきっと、あーちゃんに——————

「…………っぷはぁ!」

 息苦しさに、思わず顔を上げた。

 ……うん。確かにそれもいいかも。でも、さすがにずっとは息が持たないって。

「みお……、ちゃん?」

 物惜し気に見上げてくるあーちゃんの瞳と目線が合った。

「…………!!」

 あ、やばい。もう一回、したい。

 ———いや、違う。ダメだ。あくまで、これはあーちゃんのための医療行為で、けっして、私のためにすることじゃない。そうなったら、あーちゃんに責任を押し付けることになる。

「ご、ごごめんあーちゃん!」

 彼女の顔を見てしまわないよう必死に顔をそむけた。あーちゃんの腰に回していた腕も離して、半歩分距離をとる。急激に上がった熱が夜風で冷めていくのに合わせて、自分がさっきまでしていたことを思い出した。

 また、顔が熱くなる。

「(な、ななな、ななになににいぇって、なにやってたんだ私ぃぃぃーーーー!)」

「あ、あああののあの、あの、……みおちゃん」

 視界の外から声がする。振り向けばそこには、たぶん今の私を鏡映しにしたように赤くなったあーちゃんの顔。

「な! ……なに? あー、ちゃん」

 今にも恥ずかしさといたたまれなさで逃げ出してしまいそうな所をなんとかこらえ、お互い一歩も動けずにいた。ただ彼女の言葉の続きを待つ。

 なんだか、いつまでもこの状態のまま二人でずっと、寒空の下に居続けるような気がしたその時、あーちゃんが先に口火を切った。

「も、もしかして…………なん、ですけど」

「う……うん」

「もしかして、これ————夢じゃ、ないんですか?」

「…………………………………………え?」

 あーちゃんのこれまでの様子を思い出す。

 魔力の使い過ぎで疲れていたのか、どこかぼんやりとして、まるで夢でも見ているかのような————まさか。

「うん。夢、ではないね。うん」

「え」

 

「ええええええええええええええええええええええええええ!?!!!!?」

 

 無人の街にあーちゃんの大きな声が響き渡った。

 

 

「っごごごごごごめんなさい!! みおちゃんの、みおちゃんの口に、私!」

「いや、いやいや! 先にやったのは私の方だし。……ところでなんだけど、その、ご経験は」

「…………お、お芝居でなら、何度か。ですけど、それ以外だと、その、……初めて、です」

「そ、そっか。あはは、はは」

 罪悪感が両肩に重くのしかかる。魔力切れで、夢と現実の区別もつかない相手に私はなんてことを! それも、無理やり押し付けたような形で。

「み、未央ちゃんはどうですか? ……なんだか、初めからやり方を知っていたようでしたけど」

 言葉尻に抗いがたい圧力を感じる。魔力の供給は無事に成功したらしく、あーちゃんはすっかり、いつもの元気を取り戻していた。そのことに安心してほっと一息ついていると、

「どうなんですか!?」

 ぐい、と、さらに圧力強めで迫ってきた。

「あーちゃん、近い! 近いから!」

「それより、答えてください! どうなの? 未央ちゃん!」

「初めて! 初めてです! 魔術を習う上で、まあ……多少の知識は持ってたけど、けど! 実際にやったのは、あーちゃんが初めてです!! 私の初めてはあーちゃんのものです!!」

「…………!!!」

 ……なんか、どさくさ紛れにとんでもないことを口走ってしまった気がする。あーちゃんの顔がまた赤くなってるし。

 と、お互いにまた黙りこくってしまったところに、

「はいはい。ごちそうさま」

 耳なじみのある声が聞こえた。

「凛姉!?」

「遠坂さん!?」

 二人して路地の入口を見る。空気を呼んでか、士郎さんは割合に早いタイミングで席を外していた。そうでもなければ、あそこまでのことが私にはできない。だから、そこには誰もいないはずで、人のいい士郎さんならばきっと誰も通さないだろうと思い込んでいた。

 ————ただ一人、このあかいあくま以外は。

 呆れとか自身への無力感とか、あるいはこれも運命かとの諦めが入り混じったような、なんとも複雑な溜息をつきながら、士郎さんは凛姉の隣で、

「すまん。俺には遠坂(リン)を止められない」

 本当に申し訳なさそうな声音を出していた。けれどこの時、(士郎さんには申し訳ないけど)私には彼の謝罪が全く頭に入ってきておらず、それ以上に聞いておかなくてはいけないことで頭がいっぱいだった。

 すなわち。

「り、凛姉……いつから、そこに」

「え? そりゃあ、高森さんがあんたに好きですって言ったところからだけど」 

「それほとんど最初からじゃん!」

「ええ。けどね未央、こんな街中で堂々とおっぱじめる貴女も悪いのよ。ふふ、現役アイドルに告られて、あまつさえディープなキスを迫る一般女子中学生…………いくらで売れるかしらね」

「遠坂。顔まであくまになってるぞ」

「おっといけない。ありがとうね、士郎。————まあ、安心していいわ。この土地の管理者(セカンドオーナー)として、あなた達を保護すると決めたのだもの。今回は私がやってあげたけど、いくら無人の街中とはいえ、人払いのいくつかくらいしておきなさい。

 でないと、今度は私以外にも見られることになるわよ」

 むしろ凛姉に見られること以上に怖いこともないと思う。人生の負債的な意味で。

 口をパクパクと開け閉めして、あわあわと赤い顔を百面相するあーちゃんを横目に、私はこれ以上の負債は決して負うまいと決意していた。……おそらくは、遠くないうちに破ることになってしまう、というか無理やり破らされるだろうことが目に見えて分かる、そんな全く全然これっぽちも堅くない決意を。

「帰るわよ、あなた達。士郎~、今日のごはんなにー?」

「凛、温度差が。……カレンをそこで待たせてるんだけど、彼女を教会まで送ってからになるから、そう手の込んだものは作れないだろうな」

「ッチ。あのシスターまだ帰ってなかったか。わざとね、この流れ。どうせならこの後みんなでって士郎が言いだして、それではご相伴にってどこぞの父親によく似た顔をするパターンだわ」

「ははは。容易に想像がつくな」

「何笑ってんのよ。あんたも悪いの、この唐変木。いい歳なんだから、少しは自覚とか自粛とか覚えなさいよね。まったく」

「? なんだ遠坂。嫉妬か?」

「…………………………そうよ。悪い?」

「————いや。悪くない」

 公然といちゃつくなと言ったのはどこのあくまだったのか。私とあーちゃんは、そんなふうなやり取りをしながら路地裏を出ていく二人の背中をぼんやりと見ていた。やがて、あーちゃんが先に一歩前に出る。

「あーちゃん?」

「ごめんなさい。あと少しだけ、時間をちょうだい」

 俯きがちにこちらを振り向くあーちゃん。一度深く息を吸って、それから吐いて、正面に向けれられた顔にはほんの少し朱が差したままだった。

 視界の奥、向き合っている私たちが見えたのか、

「先に行ってる。早く来ないと置いていくからね」

 そう言って凛姉たちはそそくさと角の奥に消えていった。今度こそ、そのすぐ脇で盗み聞きしているなんてことも無いだろう。

「ありがとうございます。義姉(ねえ)さん」

「あーちゃん。今、凛姉のこと……」

 それは、聞きなれたあーちゃんの声でありながら、一度だけしか聞いたことの無い響きが混じっているようにも聞こえた。

「教えてもらったんです。とても、お世話になった人に。そう呼んだら『姉さん』はきっと喜んでくれるだろうからって」

「……うん。凛姉、きっと喜ぶよ」

 おそらく初めのうちは、涙を流しながら。

「それなら、いいんですけど」

 と、あーちゃんははにかむ。そのままの顔で肩掛けのポーチから小さな包みを取り出した。

「未央ちゃん」

 包みを胸元に抱きかかえた。

「本当は、帰ってから、2月14日になってから、渡そうと思っていたんです。けど私、今、この思いのままで、あなたにこれを渡したくて」

 そして、私を優しく見据えながら、

「私のバレンタインチョコ、受け取ってもらえますか?」

 温かそうな手でその包みを差し出してきた。私は、この体を包む寒さから逃れたくて、その箱に手を伸ばす。

 

『それで『それを受け取って』いいのか』

 

 ザっとノイズが走る。背後に誰かがいる気がする。

 

『『それ『それを』『受け取る前に』『受け取ることがどういう』どういうことなのか』ちゃんと、分かっているのか』

 

 それは————

 

『『裏切りだ』『裏切るんだ』『裏切りモノ』忘れて、一人だけ楽になろうとしている『裏切らないで』『置いて『忘れて』いかないで』『許さない』『赦さ『ユルサナイ』ない』ワタシタチは、オマエを許さない『ワタシタチから、オマエは』』

 

 ああ、そうだ。私はどう足掻いたって自分の過去からは逃れられない。

 私にはあなた達を忘れて生きていくなんて、不可能だ。

 置き去りにもできない。裏切ることも、自分を許すことも。

 きっとこれからも私には、あなた達のことを夢に見て眠れない夜が何度だってある。

 

 ——————それでも。それでも構わない。

 

 私は忘れない。裏切らない。その全てを背負って、あなた達の泣き顔を超える笑顔を見に行く。

 私は前に進みたい。友達の一人(アーチャー)が指し示してくれて、誰よりも大切な人(あーちゃん)が待っている未来に、私は、もう一度。

 いつか憧れて、かつて諦めた、普通の女の子としての夢に。

 

「うん。ありがとう、あーちゃん」

 

 私はそこにもう一度、手を伸ばしたいんだ。

 

「これからも、よろしくね」

 

 




情報マトリクスが公開されました。(読み飛ばし可)

・遠坂凛(28)
 ・美魔女遠坂凛。謎のアンチエイジングにより、肌年齢脅威の十代後半をキープ中。1~2年後くらいに未央経由で川島さんと知り合い、『分かるわ(強烈な意気投合)』との握手を交わしたりしたとかしていないとか。
 ・「姉さん。お土産、期待してもいいですか?」
   住み慣れた土地を発つ前にそんなことを耳にして、遠坂凛は心の奥底から確信してしまった。
   ————ああ。きっとこれが、最期なんだろう。
  「うん。期待しておいて」
   それで終わり。遠坂凛はもう二度と桜(いもうと)の輪郭を思い浮かべることすらなく。
   ただ、墓前に供えるならば、一体どんなお土産が相応しいだろうと考えるだけだった。

   ————————

  「そのあげくに、どうしてロンドンでの先輩とのツーショット写真を置いて行くなんて発想にたどり着くんですか、姉さん。そんな先輩と似た者同士でにぶちんな姉さんにはお仕置きです。これくらいのいじわる、笑って許してくれますよね?」



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After3.5/はにかみdays(1)

バレンタイン編は前回で終わりだと言ったな、アレは嘘だ。

今後の伏線もありますが、形はどうあれ卯月のチョコを渋谷に渡しておきたかったというだけの話です。おかげでプロットがまた考え直しになったり、ちゃんみおの誕生日を逃したりしましたが、すべては些事、ということにしたい。

とにもかくにも、お楽しみいただければ幸いです。


2月14日(火)

 

「それじゃあ、ちゃんと未央ちゃんにチョコを渡せたんですね!」

「うん……。本当に、良かった」

 バレンタイン当日の放課後。前日の金曜に作戦会議を行って、翌日には二人いっしょにチョコを用意したわたしたちは、この日、互いのバレンタインを報告し合っていました。

「夢みたいでした。実は本当に、途中まで私、これは夢なんじゃないのかって思ってて。けど、夢だって思いたくないくらい、大切な言葉をもらったから」

 昨日の夜に降りだして今朝のうちに止んだ雪。朝方、道路わきへと寄せられたそれを背に、学校帰りの下り坂で顔を赤くしてマフラーにうずめる藍子ちゃん。そんな彼女の表情は布地の下に隠れてよく分かりません。ですがおよそ二週間前、同じ場所で見たごまかしのような笑顔より、ずっとずっと幸せそうに見えていたと思います。

「だから、しばらくは大丈夫ですよ。卯月ちゃん」

 なんの脈絡もなく言われたことに首を傾げます。けれどすぐに思い当たる節がありました。

「あれ? もしかして、未央ちゃんに何か聞いているんですか?」

「ううん。けど未央ちゃん、行く前に『なにかあったらしまむーを頼るんだよ!』って、少ししつこいくらいに言っていたから」

「なるほど。それなら仕方ありませんね」

 ねー。と互いに笑い合います。

 本当に未央ちゃんは藍子ちゃんのことが大好きみたいです。

 

『私が冬木を留守にしている間、あーちゃんのことを代わりに守ってくれないかな』

 そう言ったその日のうちに未央ちゃんは冬木から出て、ご実家のある千葉へと遠坂さんたちを伴い、飛んでいってしまいました。

 今朝、本当に彼女のお家に未央ちゃんがいないのか。そんなことが気になったわたしは、お家の方に電話をかけていました。本当はここ一年ほどの間だけでしたが、わたしにとって彼女は十年以上、この冬木を留守にしたことがない人でしたから。

 どんな朝にも、あの古めかしいドアを開ければ元気な親友か、優しい後輩が出迎えてくれた。わたしにとっても初めての、あるいは久しぶりの、未央ちゃんがいない冬木。

「私の魔力のこともありますから、週末には帰ってくるみたいなんですけど。それでも学校で会えないのはやっぱり寂しいですよね」

「ですね。けど、未央ちゃんの家じゃなくて、藍子ちゃんの家によってから学校に行くのはとても新鮮でしたよ!」

「はい。私も、学校のお友達に来てもらうのは初めてでした」

「それは、未央ちゃんに悪いことをしたでしょうか?」

「ふふ。そうかも」

「未央ちゃんに一つ、秘密、ですね。……ああでも! 別に、絶対に秘密にしなきゃいけないってわけでもないんですよ?」

「はい、分かっていますよ。卯月ちゃん」

 そう言ってほほ笑む藍子ちゃんの顔が、小さないたずらを思いついた子どものように見えて、わたしもつられて笑います。

「……未央ちゃん。嫉妬してくれるかな」

 藍子ちゃんがポツリとこぼしました。

「はい。きっと」

 素直に頷きます。

 それが、二人の仲を険悪にするものではないと。むしろより一層、二人のつながりを強く結びつける。そんな秘密になるんだろうと分かっていましたから。

 

 

 たわいのない話をしているうちに、深山町の中心を貫く坂道も中腹まで下り切っていました。そこからお互いのお家がある住宅地に入って、無事に藍子ちゃんのお家へと辿りつきます。

「なにも家まで送ってもらわなくても良かったんですよ」

 陽が傾いてまた降り出した雪を玄関扉前のポーチで避けながら、彼女はわたしにそう言います。そんな彼女に私は、

「いいえ。ちゃんとお願いされたからには、しっかり守らないと」

 そう建前を言った上で、

「それに、たまには先輩らしいこともしなくちゃですから!」

 と、自分の思いを返しておきます。

「そうなんですね」

 藍子ちゃんもくすくすと笑いながら穏やかな声をこぼしました。

「それなら、明日からもお願いしちゃっていいですか?」

「はい。任せてください!」

 胸を張って答えました。

「さあ、藍子ちゃん。もう寒いですから、部屋の中に入って温まって」

「うん。また明日」

「また明日です」

 ドアノブに手をかける藍子ちゃん。その手が少しの間止まります。

「…………」

「どうかしましたか?」

 何かを考え込んでいるように俯いて、それから、ドアノブから手は離さずにこちらを見ました。

「上がっていきませんか? まだ少しだけ、卯月ちゃんと話していたいです」

 ……きっとそれは、彼女の優しい気持ちから出た気づかいだったのだと思います。ですがわたしには、

「ごめんなさい。この後、用事があるんです」

 だから、その好意には甘えられません。と、はにかみ顔で断ることしかできませんでした。

「そうですか」と藍子ちゃんは、何か別の気持ちを包み隠したような、つかみどころのない声音を返します。

 それきり彼女は押し黙ってしまって、家の中に向けられたその表情を読み取ることはできません。ただ最後に、

「チョコ、渡せるといいですね」

 そう呟いてから「ごめんなさい」と小さく謝っていました。

「いいえ。ありがとうございます」

 わたしのそんな言葉を聞いてから、藍子ちゃんはまたもう一度同じことを繰り返して、暖かなお家の中に帰っていきました。

 

 

 日暮れ前。融けた雪がまた薄く膜を張り始めた坂道を下っていきます。

「どこに行こう」

 行き先は決めていませんでした。けれど目的はありました。足を滑らせてしまわないように、しっかり足元を見て歩きます。

 いくつか、灯のともるお家の前を通り過ぎました。おいしそうな匂いが鼻をくすぐっていきます。カレーでしょうか。バレンタインなのにと少しおかしく思ってから、もしかしたら隠し味にチョコを使っているのかもと、そんな今日だけでもなんでもない特別に目を細めました。

 次に通りがかった小さな公園。小さな女の子と男の子が「また明日」と言い合っています。その手には、どちらからも渡したのか小さな包みが抱えられていました。

 きっと、その言葉の通りに。彼らはまた明日も会えるのでしょう。

 鞄をぎゅっと握りなおします。胸をちくりと刺した気持ちに蓋をして、また歩き出しました。

 住宅地を抜ければ、街並みは信号機を一つ置きざりにしていく度に変わっていきます。

 洋風の押し扉が引き戸になって、やがて立派な門を構える瓦屋根の家が次第次第と増えてくる。大きな石をいくつも積み重ねた高い石垣の下。ずっと奥まで続いていそうな漆喰塗りの塀。

 黒い瓦屋根に白い息を吐き出しました。

「わたし、どうしてこんなところにいるんだろう」

 こんなところにあの人がいるわけなんてない。人を探すなら、やっぱり新都にでも行くべきなのに。どうして私は深山町をうろうろとしているのでしょう。

「でも、どうしてだろう」

 日はとっくに沈んでいました。かつての、二週間前の夜を思い出します。

 未央ちゃんとアーチャーさん、そして、セイバーさん。ただ一度学校から新都を横切って街向こうの教会まで歩いて行った、とても月がきれいに見えていた夜。

 こんなところは通ってなんかいません。彼女と、ここに来たことはなかったはずです。

 それなのに、どうして。

「どうして、あの人がここにいたかもなんて、思うんだろう」

 分かりません。分からない。

 どうしてわたしはこんなところまで、自分の家からもずいぶん離れた場所にいるのか。

「それは、あの人のことを探したくて」

 どうして彼女を探しているのか。

「それは、あの人と約束したから」

 どうしてこんな日に、こんな遅い時間に探しているのか。

「……それは、あの人にチョコレートを渡したくて」

 ————————。

 

 ————あの人が、わたしのことを覚えていないはずだって言っていたのに?

 

 足を止めます。ふいに通り抜けた風に人の体温は微塵も感じられません。

 触れた白壁に背をつけてもそれは変わらないままでした。ついその場にうずくまってしまいます。

 こんな時、セイバーさんがいたら、きっとわたしの腕をつかんで。なによりもまず風邪をひいてしまわないようにと、わたしをどこか暖かい場所まで連れて行くのでしょう。わたしがありがとうございます、なんて言っても、

『ううん。何でもないよ。それより、卯月が無事で良かった』

 そう、ただ当たり前のことをしているんだって。ついでに歯の浮くようなことをいくつか言って。わたしが何を言ったとしても、きっとそんな風に言いくるめられてしまう。

 ああ、それはなんて暖かい。まるで春風のような————

「ひゃっ」

 首筋に冷たい感触。触ってみるとマフラーの内側が少しぬれていました。おそらくですが粉雪がたまたまそこに入り込んだのでしょう。

「わたし、何をしているんでしょう」

 雲間の一つもない夜の空に投げかけました。返事は当然ありません。

 吹き付ける風はどれも冷たくて、肌を切り裂いていくようで、少しでも逃れようと腕の中に顔をうずめます。それでも冬の寒さは耳の先、触れている地面、服と服の合間、あらゆる場所からわたしの体温を奪っていく。

 音も光もない世界。ただ少しずつ体が冷えていく。それはどこか身に覚えがあるような気がしました。

「(そうだ。たしかあの時は、歩いていた先で一つの星を見つけて)」

 けれど今日はその星もすべて雲で隠れてしまっている。なら、この世界に出口なんて。

「あれ? そんなところにうずくまっちゃって、どうしたの?」

 ふと、視界が明るくなりました。気になって顔を上げると今度はそれを直に目にしてしまって、目の前がちかちかします。

「あわわ。ごめんごめん、ヘッドライトつけっぱなしだった……って島村さん!?」

 名前を呼ばれました。しばらく目をつむってどうにか回復した視野で、声をかけられた方を見上げます。そこには、

「藤村、先生?」

 どこにも黄色と黒を取り入れていないのに、どうしようもなく虎を連想させる、わたしのクラス担任の先生がスクーターにまたがっていました。

 

 

 わたしがもたれかかっていた塀は、藤村先生の管理しているお宅の物だったらしいです。今は遠いところに出かけていて留守にしているとのことでしたが、藤村先生は我が物顔で上がっていきました。

「ここもわたしの家だから」と、なんの躊躇も見せずに靴を脱ぎだす藤村先生に手招きされて、わたしも入れてもらいました。もちろん、お邪魔しますと言ってから。

 そして、何はともあれ温まって行ってとお風呂に押し込まれ、わたしは仕方なさげにその言葉に甘えることに。……もしもここで少しでもためらう様子を見せてしまえば、虎に背後からみぐるみをはがされる、そんな予感がしてならなかったので。

「すいません。お風呂をお借りしてしまって」

 そんなわけで、今時の一般家庭には珍しい檜風呂を堪能したわたしは、居間でお茶を飲んでいた——別に背後になんか隠れてはいませんでした——藤村先生にお礼を言います。その上お茶やらお茶菓子やらを矢継ぎ早に差し出されて、断る暇もなく座らせてしまいました。

 ……なんというか、この人には本能的な部分で逆らえません。虎と兎のような意味で。

「ううん。いいのいいの! ていうか、蛇口から茶色い水とか出てこなかった?」

「え、うぇ!?」

 思わずお茶をこぼしかけました。

「いやね、普段からちゃんと掃除とかはしてるのよ。けど水回りからはちょーっと遠のいちゃうっていうか、特にこの時期は寒いでしょう? 先生しかたないと思うの! だから帰ってくるなりそのことでお小言を言ってくる士郎はお姉ちゃんひどいと思います!! 島村さんも、そう思うわよね!?」

「は、はい。そうですね、あはは……」

 おそらくですが、その士郎さんという人がお小言ついでに掃除してくれていたのでしょう。昔なにかの本で読んだブラウニーという妖精さんを思い出します。士郎さん、本当にありがとうございました。いえまあ、知らない人なのですけれど。

「ほんっと頑固なところは昔からなにも変わっていないんだから。そのくせ、つい一週間前に帰ってきたと思ったら今朝には居なくなっちゃって、あーあ、変なところばっかり切嗣さんに似て行っちゃうんだもんなぁ。それにね」

「あ、あの!」

 このままだと、きっと日付が変わってもたわいのない話をし続けているような気がしました。それではいけないと思ったわたしは、どうにか待ったをかけます。

「お風呂も、それからお茶菓子も、ありがとうございました。わたし、行かなきゃいけないろころがあるので、これで失礼します」

 幸いにもお洋服までは借りていません。体を洗った後ですけれど、今袖を通しているのは歩き回っていた時と同じ制服です。鞄を持ってマフラーとコートを羽織ればそのまま出ていく事ができます。

 ストーブの暖かさには勝てませんが、それでもわたしは、行かないと。

「ねえ。どこに行くの?」

「——————え」

 座布団から立ち上がりかけていたわたしは、そのあまり藤村先生らしくない一言に、つい動きを止めてしまっていました。

「藤村先生?」

「答えて、島村さん。あなたはどうして、あんなところにいたの?」

「それ、は」

 答えようか悩みます。けれど、藤村先生の珍しく真剣な表情を見ていると、きっと何か理由があるんだろうと考えてしまって。わたしは結局話しておくことに決めていました。

「……わたし、好きな人ができたんです。

 月の光みたいにきれいな声で、風みたいにまっすぐな目をした人です。

 ですけど、すこし遠くに行ってしまって。

 迎えに行くって約束しました。覚えていないかもしれないけど、あの人は今、わたしのことなんて待っていないのかもしれないけど、それでもわたし、あの人を見つけに行かなきゃいけないんです」

 だって、

 

『——————だから、迎えに来てくれる?』

 

 いつだって強かった彼女が最後、祈るようにそう言っていたから。

「だからわたし、ここにはいられません」

「……そう」

 藤村先生は目をそらすこともせずに、ただわたしの言葉を最後まで聞いていました。ですが一度だけ、うつむきがちにお茶を口にして。それから厳し気だったその表情を和らげます。そうして言い放った一言は、

「でも、ダメよ。外はまだ寒いもの。暖かくなるまで、春になるまで待っていなさい」

 ずっとずっと昔、言いたかった誰かに言えなかった、そんな寂しさを湛えていました。

「ごめんなさいね。先生には、きっとその気持ちが分からない。だってずっと見送ってばかりだったもの。……わたしは、行ってきますって言うその背中を、一度も呼び止めることができなかった。いつだってただいまを待っていた先生には、島村さんたちがどんな思いで出かけていくのかなんて、想像することしかできないんでしょうね」

 藤村先生は確かに、わたしにむけて話しかけていたように思います。けれど、たぶんですが、わたしを通してだれか別の人を見ていたのではないかとも、考えてしまいます。

 それでもその弱さは、セイバーさんが最後に見せたものと似ているように見えて、わたしにはそれを無視して出ていく事ができませんでした。

「でもね、これだけは分かるの。会いたい人に会えないって、たとえば正義のヒーローにだって、辛いことなのよね」

 沈黙が耳に響きます。そうして二人、口を閉ざしてようやく気付きました。

 この家は、藤村先生が何も話さないだけで、その広さをいやに気にしてしまう。

 こんな場所で藤村先生は、ずっと誰かの帰りを待っていたのでしょうか。

 ——————ずっと、一人きりで。

「春になったら、きっと雪が溶けてね、見えなかったところからひょっこり顔を出してくれるかもしれない。だから、それまでは待っていてほしいの。待っている人だって、きっと島村さんには元気でいてほしいって、そう願っているはずだもの」

 そう言って藤村先生はつと立ち上がって、背後の棚上に飾られていた植木鉢を見やります。そこには本来、季節の花々を飾るのでしょう。ですがこの時はほんの一メートルの背丈もない、葉をすべて落とした小さな苗木が植えられていました。

 その滑らかで薄く桃色を帯びた樹皮には見覚えがあります。

「桜」

「もうすぐ植え替えなの。譲ってもらったものだけど、時期が悪くてね。それまではこうして家の中で育てないといけないみたい。ほんとはこんなに手のかかる子だったのね。先生、知らなかった」

 藤村先生がその桜の苗木を見る目は、とても優しいものでした。枝先を撫でようとして、寸でのところで止めてしまう。そんな一つ一つの動作にさえ温もりを感じられます。まるで大切な家族を見ているような、いえ、それはさすがに考えすぎなのでしょう。

 けれど少しだけ安心します。すくなくともあの桜の苗木といっしょにいた間だけは、何も知らないわたしにだって、藤村先生は一人きりではなかったのだと確信できましたから。

「これからだって、いっぱいお世話しなくちゃ。ここは桜ちゃんのお家でもあるんだから。…………ねえ、島村さん」

 桜の苗木と向かい合ったまま、藤村先生はわたしを呼びました。

「なんですか、藤丸先生?」

「島村さんには、やらなくちゃいけないことがたくさんあるのよね?」

「……はい」

「こんなことを言うのは、たぶん教師失格なんでしょうけど。けど一つだけ、先生のお願い、聞いてくれないかな」

 首を縦に振りました。見てもいないそれを、先生はどうやってかちゃんと受け取っていたみたいです。わたしが頷き終わってから少しだけ後になったところで、話を続けていました。

「いつか冬が過ぎて、春になったら。きっと桜ちゃんも小さいけど立派な花を咲かせるはずなの。どれだけ後になっても構わないから、それを元気な二人で見に来てほしいな」

 だから、どうかそれまでは、自分のことをちゃんと大事にしてあげてほしいと。

 藤村先生もまた祈るように言っていました。

 

 

Interlude 2月14日(火) 午後八時過ぎ

 

 それは島村卯月が藤村大河の送っていくとの申し出を断り、一人自宅へとまっすぐに帰っていった、そのほんの30分だけ後の出来事。

「大河さん、桜の調子を見に来たよ」

 ジャージに花屋の制帽を被った黒髪の少女が衛宮邸のチャイムを鳴らした。大河はすぐに玄関まで走っていって、引き戸を開ける。

「およ? 凛ちゃんじゃない。こんな時間だけどお母さんは?」

「お母さんなら車。調子見るだけなら、私一人でも大丈夫だからって出てきた。上げて」

「はいはいちょっと待っててね。今お茶入れなおすから」

「いや、用事終わったらすぐに行くから。お母さんだって待たせてるんだし……」

「え? でも食べていくでしょう、チョコ? 凛ちゃん、昔っからチョコレート大好きだったもんね」

「……まあ、そうだけど、さ」

「そうと決まれば! ほらほら!」

 腕を引っ張られていく少女。狼も本能的に虎が不得手なのだった。アレに勝てるのは獅子くらいな物と相場が決まっているのである

「それでそれで? 今年はいくつ貰ったのよう、罪作りさん。本命とかあった?」

「…………あのさあ。それ毎年聞いてくるけど、全部友チョコだって。第一私、女なんだから、本命が混じってるわけないでしょ」

「え~。絶対いくつかはそれだって! 凛ちゃん美人さんだもんね。男の子には当然だけど、きっと女の子たちにだって隠れファンがいるわよ、絶対」

「そんな馬鹿な。えっと、枝のしなりは十分。土が少し乾燥してるから、もう少し水やりはこまめにね」

「はいはーい。で、結局いくつだったの? お姉さんにだけこっそりと、教えてしまっても構わないん、だぜ?」

「まだ言うか……。そういう大河さんはどうだったのさ。学校ではすごい先生してるって言うんだし、さぞ生徒諸氏におモテになるのでは?」

 もちろん冗談である。少女は大河が教師をしている学校の生徒ではない。だが普段から藤村大河は藤村大河なのである。そんな彼女が生徒からの憧れだなんて、どれだけ奇天烈な策を講じればそうなるのか少女には想像がつかない。そして実際、概ねそれで間違いないのだから、周囲としては全く手に負えない。

 逆に、無関係の人間にはこうして面子を保っている以上、その矛盾点を着くことは藤村大河最大にして唯一とも言えそうで言えなくもない弱点たりうる。

 少女だって、これまで大河のセクハラまがいな言動のいくつかを、そうやって乗りこなしてきた————のだが、この日の大河から余裕の笑みが消えることはなかった。

「ふっふっふっふ」

「ま、まさか……!」

「そう! 『大河さんってたしかにかっこいいけれどなんかコワいよね~』と言われてからはや○○年!!!!(本人の名誉と脆く儚いガラスの心を守るため具体的な数値は伏せる) 血を飲んだ! 涙を飲んだ! あと汗とか道場磨き後のバケツの水が頭から被った時に少し口に入っちゃった!! だが、それもすべては今日この日のため!! なんでか知らないけど音子にあの桜ちゃんさえくれなかった、あの! 友、チョコ!!! もはやわたしの中では一つのオーパーツ的な何かにさえなりつつあったそれを、不肖藤村大河36歳は、今日この日初めて! 手にしたのでアール―ウーー!!!!」

「な、な、なんて悲しい話……!」

「………………………………そうなの。せめてこの悲しみを分かち合いましょう。ねえほら、こっちに来て凛ちゃん。チョコ、食べる?」

「いやそれ、大河さんが初めてもらった義理チョコなんじゃ」

「友チョコ! 友チョコだから! さっき相談に乗ってあげた生徒が『今年は渡せませんから、代わりに受け取ってくれませんか?』って渡してきたものだけど、ぜったいぜったいこれは友チョコなんですぅー!」

「はいはい良かったですね大河さん」

「凛ちゃんが敬語!? わたしよっぽど気を使われてる?!」

 桜の苗木から、そのくらいに(S)しておいてあげてください(S)藤村先生(F)とのツッコミが飛ぶ。もちろん、居間にいる二人に届くことはないが。

「とにかく。これ本当においしいんだから、凛ちゃんも一つどう?」

「ええ。お客様のおしゃるままに」

 大河が机の上に広げていた小箱には、ハート形に切られた小さいガトーショコラがいくつもきれいに収められていた。そのうちの一つを受け取る。

 丁寧に貼られたフィルムをはがして、一口かじる。どうせ素人が作った物だから、それほどの物でもないのだろうと少女は思う。大河の絶賛だって、いつもの身内びいきに違いない。

 通を気取るつもりはないが、それなりに舌は肥えているはず。そんじょそこらの出来では、絶対においしいだなんて言ってやらない。

「うそ……本当においしい」

 もう一つ追加で手に取り、今度はゆっくりと口の中を転がした。

 目視した段階でテンパリングは正直に言って少し雑だった。スポンジ生地の舌触りも店売りの物に劣るし、クリームの泡立ちも、時間が立っているからなのかイマイチ。なにより甘い。少女の好みはもっと苦めだ。なのに、そう言ったあれこれを抑えて、まず一口目においしいという感想が口をついた。

「ちょっと大河さん……って何? そのにやけ顔」

「ん? いーや。なーんでもなーい」

「いやそれ、明らかに何か知ってる顔でしょ。教えてよ、もしくはその子に聞いてよ。これどこで買ったものなのかって。どうやったらこんなチョコができるのかって」

「ふふーん。それはね」

「それは?」

「愛じゃよ。愛」

「どうしてそこで愛なの」

「どうしてだろうね~。わたしにも分かんないや」

 

 

 それはあるいはバレンタインの魔法(きせき)、だったのかもしれない。

 



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After night,and after night
間奏、雨/シキちゃんの愉快な殺人計画


ちゃんみお誕生日おめでとう!(遅い)

とにもかくにも、新シーズン『After night,and after night』編。その前日譚です。お楽しみいただければ幸いです。


 聖杯戦争が終わってから。

 

 いえ。もうこの言い方は、適切ではないのかもしれません。言い直します。

 ———彼女たち、卯月ちゃんに凛ちゃん、そして、未央ちゃんをはじめとしたシンデレラ・プロジェクトの女の子たちが、ユメの道を歩み始めてから。

 それからの半年。

 その間に未央ちゃんは誰かの前で、私以外の誰かの前でも、しっかりと泣けるようになっていました。

 

 彼女たちの歩いた道のりは、短くも、決して平たんでもなくて。ともすれば、あの聖杯戦争の七日間が、踏み出す足を止めるための最後の休息だったんじゃないか、なんてふうにも思えます。

 辛く険しい、星を目指した一年間の道のり。

 彼女をただ遠くから見つめているだけだった私には、その全てを語ることができません。

 けれど、だからこそ。彼女とともにすべてを見ることのできなかった私だからこそ、語ることのできる、本田未央という一人のアイドルの一面が、私には見えていました。

 

 ————それは、脳裏に染み付いた雨の記憶。

 

 ずっと握りしめたままな傘の中で、ただ一人俯いてばかりだった女の子が、また雨の中を前を向いて、誰かと立って走っていけるようになるまでの。

 本幕からこぼれた、ひどく些細でどうしようもなくわがままな、一つの願いの物語。

 

 

間奏、雨

 

 当面の間アイドルとしての本田未央に、同じくアイドルである高森藍子は会わない方がいい。

 それは桜がまだその蕾を芽吹かせるよりも、ほんのすこしだけ前のことでした。

 未央ちゃんたちのプロデューサーさんと名乗った男の人。目つきがしっかりとしていて、一目には怖そうな印象のその人と私は、私の担当プロデューサーさんを交えて話し合いを行い、そんな結論に至ったのです。

 未央ちゃんたちシンデレラプロジェクトのプロデューサーさんが初めに提案したそれを、私は最初から受け入れていました。

 アイドルは多くの人に支えられて続けていくお仕事です。ですがどうしたって、自分一人で立ち向かっていかなければならない場面は、一人一人、形は違えど迎えてしまうもの。その時に、助けてくれる人はいるでしょう。

 ————それでも、最後に立ち上がることを決めるのは、自分自身だから。

 だからその時に、私が、未央ちゃんが一番に頼るであろう私が、少なくともアイドルとしてだけは、そばにいちゃいけない。

 何も未央ちゃん個人を助けてはいけないというわけではありませんでした。今まで通りご飯を作りに家に通って、卯月ちゃんが来たらいつものように一緒に登校する。そして、未央ちゃんが私を必要としたのなら、寄り添って慰める。ただ、アイドルとして彼女をえこひいきしないよう気をつければいいだけ。

 ただ、本田未央だけのアイドルになるのを諦めて、未央ちゃんだけの私でいればいい。

 

「————それで、彼女の願いが叶うのなら」

 

 未央ちゃんのことを、私の太陽を、どうかよろしくお願いします。と。

 それからの半年間。私がアイドルである彼女について触れることは、ただの一度もなくて。

 その間に、彼女たちがどんな苦しみを背負っていたのか。そのことを知ったのだって、ずいぶん後になってからでした。

 

 

 雨が降っていました。季節は巡って梅雨が明けて、気持ちよく晴れると言っていた知り合いのニュースキャスターさんに「嘘つき」と私はぽつりこぼします。

 レッスンが終わった帰り際でした。傘を持ち合わせておらず、駅まで走っていくかこのまま事務所で雨宿りしていくかを考えていたところで、私は呼び出しを受けました。ちょうどいいと、深く考えもせずに指定された部屋に向かいます。

 その先で私はおよそ三ヶ月ぶりに、未央ちゃんたちのプロデューサーさんに出会うことになったのです。

「本日はお帰りのところをお呼び止めして、申し訳ありません」

 呼び出された先はプロデューサーさんたち専用の個別オフィスルーム。そんな場所でその人は自分のデスクにも座らず、立ったまま、入ってきたばかりの私にお辞儀をしていました。

「いえ。雨に降られてしまって。ちょうど雨宿りするところを探していたところでしたから」

「そうでしたか。よろしければ、お話が終わったら私がお宅まで送りましょうか?」

「ああ。それは問題ないです。たぶん、すぐに止むはずですから」

 長い話ではないのですがと、プロデュサーさんは言いました。けれどきっと長くなる。私はこの時、心のどこかで確かにそう予感していました。

 三ヶ月前と同じように足の低いテーブルを挟んで、私たちは来客用のソファーに腰かけます。私が完全に腰を落ち着けたの確認してから、向かいに座るその人は私を正面から見すえて本題を切り出しました。

「本田さんはアイドルとして立派に成長しました。そろそろ頃合いかと思われます」

「…………っ。それじゃあ」

「はい。あなたと彼女との間に設けていた禁足事項、高森藍子と本田未央はアイドルとして会ってはいけない。それを解禁しようと思います。今後は良き仕事仲間としても、私共シンデレラプロジェクトのアイドル、本田未央と仲良くしていただければ」

「——————」

 ああ、やっと。

 ようやくあなたと、未央ちゃんと、肩を並べて歌えるんだ。

 喜びに胸の奥がはずみます。すぐに立ち上がってこの喜びを他の誰か、茜ちゃんや夕美ちゃんたちと分かち合って。そしてやっぱり、未央ちゃん本人に————

「ですが、その前に」

 部屋から飛び出してしまいそうだった私の心は、その声でたちまちに呼び戻されてしまいました。

「高森藍子さん。貴女には、この三ヶ月間で何があったのか。それをしっかりと伝えなければなりません。その上で彼女を、貴女の、アイドル高森藍子の隣に並び立つことのできる一人前のアイドルだと認めてほしい」

「そ、そんなの……」

 そんなの、当然です。と。

 私はそれ以上に言葉を紡ぐことができませんでした。

「これは、私個人の不手際でもありました。ですのでどうか本田さん自身を責めないであげてほしい」

 なぜなら。今から聞くそれが未央ちゃんが私に犯した酷い裏切り、その告発である、だなんて。いやに具体的で、絵空事も甚だしい被害妄想のような直感が羽蟲のさざめきみたいに、私の頭の中で鳴り響いていたから。

「彼女は、本田未央さんは、一度だけ———」

 

「———アイドルを、辞めようとしたことがありました」

 

 

 夜になっても雨はまだ降り続いていました。用事が終われば雨が上がっているなんて思っていた少し前の私に「うそつき」とこぼします。

 ビルのガラスを雨が叩きつけています。外の様子は雨ににじんで良く見えません。どうしてか、目の前にあるはずの通路も同じように歪んで見えていました。

 雨音は鳴りやみません。それがいつからか人の声に聞こえだしました。私に見えない、私の知らないどこかで、みんなが大勢でおしゃべりしている。

「うそつき」

 けれど。みんなに私の声は届いていないみたいです。多くあふれる声たちは誰一人として、私を慰めてなんかくれない。

「……こんなにも、まるでステージの電飾みたいに、窓から見下ろす雨の街はきれいなのに。どうしてこんなに寂しい」

 いつもならカメラを構えている風景にだって、手が動きません。そこに大事なものが映っていないからだと、ふいに思います。

「未央ちゃん。あなたはいつも、いつだって…………どうして、私になにも教えてくれないの?」

 

 

「待ってください」

 そうしなきゃと思って立ち上がった私を、プロデューサーさんは引き留めていました。

「……まだ、なにかあるんですか」

 一刻も早く未央ちゃんに会わなくちゃいけないと思いました。

 未央ちゃんはもう、一人の女の子が背負う分としては重すぎるほどの、辛い道を歩んできたんです。

 何度も泣いて、何度も血を流して、その果てに無くすことを悲しいと思えなくなった。流す涙さえ枯れ果てた。

 だから、もう未央ちゃんには泣いてほしくなんかない。もう未央ちゃんには傷ついてほしくなんかない。そのために私の前だけでは泣いていてほしい。なにかあったら私に相談してほしい。もう一人では、背負い込まないでほしい。

 ————なのに。

「私は今すぐに、未央ちゃんを抱き締めないといけないんです」

 どうして未央ちゃんは、私になにも言ってくれなかったの。

「——————それは」

 私の目を見て、プロデューサーさんは何かを口にしようとしました。けれどすぐに首をふって、言いかけた言葉とは別の言葉を私に投げかけていました。

「彼女を、本田さんを、信じてあげられませんか?」

「…………」

 そんなの。いつだって、私は————

「そういう問題ではないんです」

「いえ。そういった問題です」

 私が二の句を告げる前に、プロデューサーさんは言いきりました。

「私の太陽。貴女は初めて会った時に、本田さんのことをそう表現しましたね」

「はい。それが……なにか」

「私は、太陽は沈んでこそ太陽なのだと思います。

 いついつかなる時だって、元気でいられるわけではない。夜になれば沈みます。雨が降れば、例え昼間であれその姿を隠してしまう。

 けれど私たちは信じている。

 夜が明ければ、雨がやんで雲が晴れれば、きっとその元気な姿でまた私たちを照らしてくれるのだと」

「…………」

 雨音に交じってこつこつとした靴音が近づきます。その音の持ち主はテーブルに置いてあったファイルの内側から、一枚の紙片を取り出しました。

「どうか見ていただけませんか。夜明けを待ち続けた太陽がようやく登ろうと、一歩踏み出す瞬間を」

「これは……」

「夏の間に、シンデレラプロジェクト全員での舞踏会(ステージ)があります。その先頭席のチケットです。本田さん、いえ、未央さんも私も、貴女に見てほしいと願っています」

 差し出されたチケット。それを私は————

「受け取って、いただけないでしょうか」

 

 

「すみません。私にはまだ、未央ちゃんを信じ切ることができません」

 私はそのチケットを受け取ることができませんでした。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 雨粒が作り出す影に、いつからかそんな声が重なり出します。その中をゆっくりと歩いていきます。

 帰り道、どうしよう。

 このままじゃ濡れて帰っちゃう。風邪をひいてしまうかもしれない。お母さんに叱られてしまう。プロデューサーさんに心配をかけてしまう。

 未央ちゃんに——————未央ちゃんは、どうするんだろう。

 やっぱり心配するのかな。でも、雨の中を傘もささずに帰るのはきっと悪いことだから、だから未央ちゃんは私のことを叱るんだろう。あの雪の日に、互いが悪いことをしたら、互いにそうするのだと誓い合ったのだから。

 それでいいと思う。それで少しの間だけでも、未央ちゃんが私のことだけを考えてくれるのなら。未央ちゃんが、悲しいことを忘れてくれるのなら。

 それに、私だって彼女のことを叱ってもいいはず。だって未央ちゃんは私に何も言わずに、アイドルを諦めようとした悪い人————

「違う」

 水たまりに足を踏み入れたよう。滲みこんで来る強烈な嫌悪感に、私は思わず拒絶を示していました。

「未央ちゃんは、悪い人なんかじゃない。未央ちゃんは……悪くなんかない! 悪くない、のに」

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 雨音が心なしか増えたような気がします。波打つ影が多くて、どんどん足元が不確かになっていく。しっかりと踏みしめられるはずの床に、足をからめとられてしまうみたいに錯覚してしまう。

「私、わたし、……あなたのことを信じたいのに。どうしても、信じられない。心配しないなんて、できっこない」

 ねえ、未央ちゃん。今どこにいるの。私は、ここにいるよ。だから早く見つけて。

 ゆっくりと水面のような事務所の通路を進んでいきます。

 どこまでも暗闇で、どこにいても雨の音しか聞こえない———

 ———そこに、まだ明かりを灯したまま、雨音以外の音を鳴らしている場所を見つけました。

 

 きゅっ。きゅっ。

 

 床を布かなにかでこすっているような。そんな音でした。足を止めて、私はその隣の部屋に滑り込みます。

 トレーナー室と名付けられたそこは、壁の一つ、側面に大きな大きなガラスがはめ込まれていました。それが本当はガラスではないことを、この事務所に所属している人ならばみんな知っています。

 マジックミラー。魔法も魔術もかかっていない、ただ表側から視れば鏡になっているだけのガラス。裏側からなら表側で自分一人、鏡と向き合っている誰かを見ることができる。

 表はレッスンルーム。そこでステップを踏んでいたのは。

「未央、ちゃん」

 茶色のくせ毛に汗を滴らせて、その内の何本かがしおれて、それなのに彼女は懸命に、ただまっすぐに正面だけを見据えていました。

 その瞳に、痛いほど不器用に前だけを見つめるそこに、私の姿は映っていませんでした。きっと私の声だって、かけている音楽と雨音にまぎれて聞こえない。

「…………失敗しちゃえ」

 自然と口が動いていました。私は口をおさえることもせずに、むしろ自分でもそう望んで。

 何度も、何度も何度も、何度も。何度だって、呪いのように繰り返していました。

「失敗しちゃえ」

 足が間違った場所に置かれるたびに思います。

「失敗しちゃえ」

 手ぶりが先走るたびにこぼします。

「あきらめちゃえ」

 転んでしまいそうになるたびに、本当に転んでしまうたびに、ただ立ちすくんで唱えます。

 ……だって、そうすれば、未央ちゃんは私を頼ってくれる。私に駆け寄って、私の前だけで泣いてくれる。

 けれど、そんなことは一度も、この日だってありませんでした。

 

「……………………まだ」

 

 何かを間違えてしまうたびに、彼女はやり直しにとそう呟いて。

 

「………………まだ、まだ」

 

 何かを先走ってしまうたびに、彼女は自分にそう言い聞かせて。

 

「…………まだ。————まだまだぁ!!!」

 

 転んで、膝をすりむいて、足をくじいて。もう立ち上がれないと顔を歪ませるたびに、そんなふうに叫んで。

 そんなことを、私の声が出なくなっても未央ちゃんは続けていました。

 

 

 あの日、私は彼女に負けたのでした。

「さ~て。お送りしていますはマジックアワーSP! 司会は私、川島瑞樹。そしてゲストには」

「おっはようございま~~~す!!!!!! え。これが放送されるのはまだまだ夜だ、ですか!? わっかりましたあ!! みなさん、こーーんばーーーんは~~~~~!!!!!!! 日野茜です!!!!」

「こんばんは。ゆっくりできていますか? 高森藍子です」

「この三人で、引き続き盛り上げていこうと思います。さて、お次はマジックアワーメール(マジメ)のコーナー。二人とも、さっそくだけどお便りを紹介しちゃうわ。えっと、優しい世界? 在住、夢見るRさんからのお便りね」

『こんにちは』

「「「こんにちは」」!!!!」

『ボクはゲストのお二人の大ファンです! お二人が歌う元気で優しい歌にいつも励まされています』

「いやあ~~!! うれしいですね藍子ちゃん!!!」

「はい! 私たちの歌で、そんな気持ちになってくれるなんて。アイドルをしていて、これほどうれしいこともないです」

『そんなお二人に質問です。お二人は最近、注目しているアイドルはいますか? よければ教えてください』

「だって。それでそれで、だれかいい人いないの?」

「川島さん、その聞き方はなんだか少し違うような……」

「はい!!!!!!!」

「はい。元気がいい。茜ちゃん」

「ズバリ! クローネの鷺沢文香ちゃんです!!」

「あら。茜ちゃんとは全然タイプが違って見えたけど、どうしてなのかしら?」

「ふっふーん!! 文香ちゃんの魅力は見た目だけでは測れないのです!!! 話してみるとほんとうに、色んなことを知っていて、それを全力で!! 話している相手に伝えようとしてくれるんですよ!!!!」

「へえ。大人しそうに見えて、案外情熱派だったりするのかしらね、あの子。藍子ちゃんはどう?」

「私ですか? そうですね、私も鷺沢さんとはいいお話ができそうだって思います」

「そうなんですか!!!?! ぜひ今度一緒に走りましょう!!!!」

「うーんこの天然ゆるふわ空間。藍子ちゃん、文香ちゃんのことじゃなくって、あなたが最近注目してる子のことを聞いてるのよー」

「あ、はい。えっと、それでしたら…………本田未央ちゃん、です」

「それって、CPの?」

「……はい。以前、遅くまで一人レッスンルームに残って、頑張っている姿を目にして」

「————ああ。それで」

「はい」

 

「私も——————負けたままではいられないなって」

 

 

シキちゃんの愉快な殺人計画

 

「その先へは飛べないわ」

 春の生温かい雨が降っていた日のことだった。

 ふらりと立ち寄った廃ビルの屋上。まだほんの1メートルと少ししかなかったわたしの細く短い手足でも、軽くよじ登れてしまいそうなフェンスの先。わたしは傘を差して、空ではなく、眼下に這うように広がった遠いアスファルトの表面を眺めていた。

「ただ、落ちるだけ」

 振り向く。まだその手の知識には乏しかった——今のアタシにも、その手の知識が多いとは到底思えないけど——その時のわたしにも一目で高価だろうと分かる、白地の着物を着流した女の人。わたしと同じく傘を差していて、その上割合に遠くから声をかけていたみたいだったから、顔は雨粒を弾く蝙蝠の皮膜に遮られて見えなかった。

 なんだか不思議な雰囲気をまとっていて、傘なんてなくても、雨に濡れることはないんじゃないのか。

 わたしらしくもなく——そして、アタシらしくもなく——そんな現実味のないことをほんの一瞬考えた。それほど、彼女という存在はこの世界から浮いて見えていた。

 そんな現実離れしたモノを、わたしは欲さなかったらしい。ただ、何よりも重く、誰にでも平等に与えれるモノ。それを求めて、深く知ろうとしていたわたしは一言。

「識ってる」

 と、にべもなく返事を返して、またアスファルトの観察に戻った。

「あら。お利巧さん」

 赤い蝙蝠傘の下で女の人がくすくすと笑っているような気がした。

「そうよね。なら、飛べないなんて言うべきじゃなかったかしら」

 拾った石ころをフェンスの外から落とす。同時にストップウォッチを起動。ビルの高さHが決定。

「ああ、そうだ。きっとあなたには、こう言うべきだった」

 重力加速度gは9.80で固定。地面衝突時の衝撃Fが計測したT秒後には訪れる。わたしが求めるものは、きっとその先に———

「———その先には、何も無いわよ」

 雨がやんでいる。傘に雨粒が当たらない。何か、より大きなものが、わたしとわたしの傘を覆っていた。

「そんなモノを求めても、そんなモノを識っても、誰もあなたを褒めてはくれない。だって、そこには意味すらも無いのだから。無いモノをいくら集めたって、それはただ気持ちが悪いだけ」

「……それでも、わたしは知らなきゃ。だってそうでもしなくちゃ、パパは……」

「————そんなに、死にたい?」

 また、雨が降り出した。わたしを覆っていた大きなものは、わたしの傘ごと引きはがされて、雨粒に濡れるわたしと女の人の顔だけが認識の中にある。

 まるで地球(ほし)に直接覗かれているよう。アタシのよりも青いその瞳にわたしは自然と手を伸ばしていた。

「なら————オレが殺してやる」

 

 春の生温かい、血のような雨が降り続く日のことだった。

 どこからともなく振り下ろされたナイフの一振り。それと、たった一言。

 

「—————————————、———————————」

 

 それだけで、死にかけだったけれど、それでもバカ真面目に生きたがっていた一ノ瀬志希(わたし)は死んで。

 否。殺されて。

 代わりに、どうにも生き方を定められない一ノ瀬志希(アタシ)だけが生き残った。

 

 

「ま、そう思い込んでるのは、この志希ちゃん一人だけなんだけどにゃー」

 東京都渋谷区、346プロ地下、いつものラボ。

 完成した薬品とその失敗作がいくつか転がるデスクの上。そこで同薬品の研究データを表示しているPC以外に、光を放つものが一つもない穴倉。

 あくびを一つ。試験管に入れられた無色透明の液体を眠気まなこで見やった。

 面白そうだと思って作り始めてはみたものの、案外にてこずった。ようやく満足できる効果にはなったけれど、その効果も半日で切れてしまう欠陥品。今以上の延長はどうやら期待できそうにない。

「けどまあ、計画には十分かな」

 マウスを操作。閉じかけた画面は今日の日付と時間、2016年5月14日の10時24分を表示して、すぐにまた乱雑に散らばった研究データの数々を広げた。

 数字とアルファベットとほんの少しの日本語から構成されたフォントの羅列。それらをすべて後ろに追いやって、堂々と最前列に鎮座しているのは書式データではなく、一人のはねっ毛の少女を映した画像。

 それを一握りの親しみと、どうにも名付けられない感情をこめて、

「待っててよ。今すぐコレで———」

 薬品の研究データもろともに削除した。

 

 




「アホ〇トキシン346~~~」

「お、おねえちゃーーーーーん!!」

「あ、あきらちゃん。髪の毛の先すすらないで、色付きそーめんじゃないから!」

「おねえちゃん。だれ?」

「未央ちゃんだけなんだよ。今までのこと、何にも憶えてないの」

「それでも藍子さんは、未央さんを迎えに行くんですか?」

 ————私の守りたいもの。私にとって大切なもの。
 それをこれ以上、独りぼっちにさせたくないのなら。
 私は————————


 次回『After4/春の雨に連れ出して』


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After4/見上げた空は青く広がるから

前回投稿から半年経っている上に総選挙もとっくに結果が出ちゃってる?
ははは、そーんなまさか。


…………ほんまや。

とまあだいぶ遅れましたが、後日談藍子編、ようやく開幕です。


Interlude

 

 数日の間中、人目を避けた場所でずっと血を吐き続けていた。

 あらかじめ分かっていたことだった。当然の結末だった。

 一晩でできる最大限の準備をしておいたとは言え、魔術刻印を強引に廃棄した。それは九歳の誕生日からずっとずっと手放さないように、無理をし続けてまで維持していた臓器。手放すのなら、この六年間にしてきたのと同じだけ、無理をしなくちゃならない。

「…………ッ」

 ……それに、したって——これはきつい。

 今朝、あーちゃんの前で堪えきれていられたことが、二度と起こり得ないような奇跡に思えてしょうがない。

 吐き出す。血の一滴、胃液に唾液に涙。体中ありとあらゆる箇所を裏返して絞り出す。そうまでしても吐き出せないものがあった。

 右手を強く握りしめる。今日一番最初に吐いた時、咄嗟に口元を抑えた右手のひらはその時の血で赤黒く汚れていた。

「病欠の連絡、済んだわよ」

 洗面台の鏡に凛ねえの姿が映っている。

「あ、ごめ…………う」

 油断した。(せき)を切って溢れ出す。

「……っ、バカ! こっちはただの報告。ただあんたは黙って聞いてればよかったのよ。だってのに……」

 返事さえ、今、凛姉がどんな顔をしているのか、頭を上げて確認することさえできない。

 また、しばらくの間吐き出し続けていた。

 視界にはシンクの白と吐き出した諸々の混ざりあった黒だけが映っている。もうとっくに凛ねえは立ち去った後で、背後にはもう誰もいないものだと思っていた。

「ねえ、苦しい?」

 だから、すこしだけ驚いた。まだそこに彼女がいたことにもたけど、それ以上に彼女の言葉がこれまで聞いたこともないような調子で言われたものだったから、その声を聞いている間だけは、忘れられない物からも、驚きで目を反らすことができるような気がした。

「なんて、そんなこと聞くまでもなかったわね。苦しいのは当たり前。だって、あんたはその苦しみと同じだけ大切なモノを手放したんだもの。これまでの研鑽も努力も、それまでに捧げた犠牲も全部。今のあんたが苦しければ苦しいだけ、みんな等しく平等に、あんたにとって大切だったモノで——全部、意味のあるモノだったのよ」

 独白は続く。私がこれまで必要だったもの、これから不要になるものを吐き出している。一方で凛ねぇは、これまでも、そしてこれからも、自分にとって不要になる何かを吐き出しているみたいだった。

「未央、あんたは幸せになりなさい。でなきゃ、そうでもなければ……分からないじゃない」

 けれど、その先だけは彼女にとっても捨てられないものだったらしい。これまでとは打って変わって必死なその声は、私がいつも想像している凛ねえのイメージとは、ひどく食い違っていた。

「あんたは何のために、あなた達はどうして、そんな地獄を生き抜いて見送られたのか。あなた達みたいなのが報われなきゃ、そんなの、どうしたって嘘じゃない」

 ——何のために、どうして、私は生きているのか。その答えなら、もうとっくに得ている。

 始まりが何だったのか。そんなこと、もう私には思い出せもしないことだけど、それでも今の私は自信を持ってこの答えを張り続けていけるから。

 目をそらし続けられたのはどうやらここまでだったらしい。いつもの情景が脳裏に蘇ってくる。片時も忘れたことなんてない。いつだって忘却を望んでいた。けれど、私がけっして手放せないもの。

 顔を上げる。吐き出しかけた何かをもう一度、喉の奥に押し返した。

 

Interlude out

 

 

2016年 5月14日(土)

聖杯戦争終結 一年後

 

 その日のお昼は数日ぶりにアーネンエルベでとることにしました。

 午前でお仕事が終わり、帰り際にと立ち寄ったのです。未央ちゃん茜ちゃんたちはもう少しかかるとのことで、まだ事務所の中。今頃は食堂でB定食のカレーをお代わりしているころなのではないでしょうか。

「ひびきさん、シエルスペシャルお代わり」

「なんの。私もお代わりをお願いします」

「は~い! かしこまりました~」

 丁度、私が座っているカウンター席の一つとなりで繰り広げられている光景と、同じくらいには。

「あんたらさあ。フードファイトじゃないんだから、もっとゆっくり食べたらどうだ?」

 ウェイトレスの千鍵ちゃんが、お皿を山のように積み上げているお客さん二人に話しかけました。するとお客さんのうちの一人、シスター服と眼鏡を着こなしたカリー・ド・マルシェさん(仮名)、そのお隣からひょっこり出てきた小さな女の子が代わりに答えます。

「そうですそうです。そこのカレーマスターはともかく、セイバーさんまで張り合わなくてもですよねぇ。あ、こっちもニンジンお代わりでお願いしまーす」

「てめえも人のこと言えた立場か!! ……はあ、冷蔵庫の食材、あとどんだけ残ってるんだろ」

 憂鬱げに溜息をつく千鍵ちゃん。その脇で折り畳み式携帯電話(ケータイさん)がひとりでに開き、これまたひとりでに話し出すのです。不思議な光景ではあるのですが、このアーネンエルベではよくよく見られる光景であるせいもあって、正直に言ってもう慣れていました。

『どおしたんですかぁ、ミスミドリ? そーんなに嫁の作ったまかないを食べられないのが心配ですかぁ?』

「誰が嫁だ、誰の」

「チカちゃん。今日のお昼なにがいい?」

「オムライス!」

『やっぱ嫁じゃ————スターライッッツ……!』

 真っ二つに両断されるケータイさん、なおも積み上げられるお皿の山、描写が追い付かないほどに数多く訪れたお客さんたち、そして止まらないカレースパイスの香り。

 パンケーキとコーヒーのおいしいおしゃれな喫茶店アーネンエルベ。この場所では時折こうして、会えるはずのない人たちが出会い、一緒にお茶を楽しむことができます。

 つい先日も、

「アイドル!? しかも本職?! いいわ。私の歌声がどこまでプロに通用するのか、ここで試して……って子リス? 子ジカまでそろってなにするのよう! 待って、アタシのメジャーデビューがぁぁああ!!」

 他のお客さんたち曰く絶体絶命の(die)ピンチだったらしいのですが、私たちと同じアイドルに憧れる女の子と、知り合うことができましたし。

「ごめんね藍子ちゃん。いつも騒がしくて」

「いえいえ。賑やかなのは嫌いじゃありませんから。むしろこうして、皆さんと会えるのを楽しみに来ているくらいなんです」

「そう言ってもらえると本当に助かるよ」

「チカちゃーん! 料理出来上がったから持ってって!」

「今行くー! じゃ、藍子ちゃん、難しいだろうけどゆっくりしていってよ」

「はい。千鍵ちゃんもお仕事頑張って」

 キッチンからの呼び出しを受けて、千鍵ちゃんは奥へと戻っていきます。

 お昼はすでに片付いて、けれど夕飯の買い出しにはまだまだ早い時間です。アーネンエルベのお店の中からも、少しずつ人が減り始めていく。お茶を一杯頼んでゆっくりしていると、隣にかけていたお客さんが、

「大変美味でした」

 と、ずいぶん今更になって手を合わせました。さらにそのお隣ではスプーンを握ったまま、空っぽのお皿に顔をうずめたカリー・ド・マルシェさん(仮名)……長いので、この際私もシエルさんと呼ぶことにしますが、そのシエルさんがいたく幸せそうな顔で気絶していました。

「あの、大丈夫なんですか?」

 けろりとした様子で口元を拭いているお隣さんに尋ねました。

「ああ。ご心配には及びません。シエルでしたら、一日のカレー摂取量を200GM(ガラムマサラ)ほどオーバーした結果、伸びているだけですので」

「いえ。むしろ私はあなたの方が心配というか」

 あのシエルさんが倒れるほどのカレーと同じ量を食べておいて、平然としていられるというのは、一体どういうことなのでしょう。

「私ですか? 5食、いえ、あと4食は入ります。それ以上は夕飯に差支えが出てしまいますから」

 つい目線が下へと移ってしまいました。……ウエストは、見たところ私よりも細い。しかも食後でふくれている様子もなくって——いったいどんな体重管理をすれば、あれだけ食べてこのスリムボディに……!? 

「あの。どうかしましたか、レディ」

「……あ! いえ、なんでもないんです! なんでも……」

「?」

 傾げられた首について行くように、金糸の前髪が碧色に透き通った瞳の前で揺れ動きます。

 一つ一つの所作がおとぎ話に出てくる騎士のようでした。かと思えば、その容姿は同じくおとぎ話の、こちらはお姫様のよう。

 そのちぐはぐさに戸惑います。私のほうから話しかけたんだから、やっぱり話題はこっちで出したほうがいいのかな? いや、それよりも前に、まずは。

「高森藍子です。アイドルをやらせてもらっています。お名前、教えてもらってもいいですか?」

「おや、これは失礼しました。しかし……そうですね」

 頭を捻って、なにやら考えこんでいる様子をとります。ですが、それもすぐに終わり。

「かつては名前を秘することも必要でしたが、それにももはや意味はないでしょう。アルトリアと、今はそうお呼びください。藍子」

 金色の髪を長く垂らした、水色のワンピースドレス姿の少女は柔和な笑みを浮かべて、そう自分の名前を明かしました。

 

 

「それじゃあアルトリアさんは、冬木じゃなくて、もっと遠いところに住んでいるんですか?」

「はい。アーネンエルベには比較的よく(つな)がるので頻繁に訪れているのですが。それを除けば、たまにやってくる老人の四方山話くらいしか、知らせと呼べるものがなく。……ですから、その、私があなたを知らかったことも、どうかあまり気にしないでほしいのです」

 地図にも載らず、人がつけた名前も持たない理想郷。英霊の座からも遠く離れたその場所で、彼女はずっととある人物の到着を待って、眠り続けているのだと言いました。こうしてアーネンエルベに姿を見せているこの瞬間は、本来の彼女にとって夢の中でのほんのひと時なのだそうです。

 これまでアーネンエルベで出会ってきた人たちの中でも、アルトリアさんはまた、不思議な存在みたいです。

「いえ。アルトリアさんの方こそ気にしないでください。しょうがないことなんですから。それに、今日こうして出会えたんです。それだけで十分ですよ」

「そう、なのですね。はい。私も今日、藍子と会えてよかった」

 柔らかく笑う人でした。つられて、私の頬までほころんでしまいます。

「それで、アルトリアさん」

「はい。なんでしょう。藍子」

「アルトリアさんは——」

 ——どんな用事でアーネンエルベを訪れているんですか。

 つい口走ってしまいそうになったその先を私は喉元でひっこめて、

「聞かせてもらっていいですか? その、アルトリアさんが、待っている人のこと」

 自然と、今日初めて会った相手に対しては不自然なほどに自然と、そんなことを尋ねていました。

「……あ、ごめんなさい。やっぱり、おかしいですよね。私たちまだ会ったばかりなのに」

「え。あ、いえ。そんなことは」

 アルトリアさんからの返答もはっきりとしないものでした。

「あの。どうかしましたか? アルトリアさん」

「……いいえ。どうやらこちらの気のせいだったようです」

「はあ」

 何か気にかかることでもあったのでしょうか。ですが、アルトリアさんはそこには触れることなく、話題を元に戻していました。

「それでたしか、私の待ち人の話でしたね」

 頷きます。

「無理を言ってまでは聞きません。それでも、私はやっぱり気になっちゃうみたいです」

 どうしてここまで気になっているのか。その理由をしっかりとした形のある言葉にすることはどうにも叶いませんでした。しいて言えば、直感でしょうか。

 今日この日、このアーネンエルベでアルトリアさんと出会ったことには、きっと偶然ではなくて、何か理由があるんじゃないのか。そんなふうに思っただけ。

 例えそれがどうしようもなくちっぽけで、くだらないことだったとしても。

 私には、この人から聞いておくべきことがある。そんなふうに感じてしまったんです。

「なるほど。構いませんよ。——それに」

「それに?」

 つい前のめりに、アルトリアさんの話の続きを促してしまっていました。しかしアルトリアさんはそれを気にすることもなく、遠く、注がれた紅茶の湖面に映るどこかを見つめています。

 その目元は、かつて凛ちゃんを探し続けていた時の卯月ちゃんに、よく似ていて。

「今日ここに来たことは、彼と全くの無関係というわけでもないのですから」

 だから、それはきっと、鉄を飲むような運命のお話で。

 同時に、どこまでもまっすぐで力強い、愛の物語なのでしょう。

「————彼の名前は、衛宮士郎というのです」

 

 

 第五次聖杯戦争。

 私たちが体験したあの再演された聖杯戦争、そのオリジナル。

 アルトリアさんは、その第五次聖杯戦争にセイバーのサーヴァントとして召喚された英霊でした。そしてこの時、彼女のマスターになったのが衛宮士郎さん。

 私が知っている人と同姓同名のその彼とアルトリアさんは、聖杯戦争の期間中、お互いの意見の食い違いから何度も衝突したそうです。

「とてもそんな人には見えませんでしたけど」

「いいえ。シロウはとても頑固なのです。マスターなのにサーヴァントである私を守るだとか。そのくせ魔術の腕は素人で、私への魔力供給も雀の涙ほど。これではとても聖杯など手に入らない」

 士郎さんへの不満そのものを言葉に詰め込むアルトリアさん。けれど、その表情は違っていました。くすくすと笑いながら、思い出を並べています。

 そこにすこしだけ陰りが混じりました。遥か後ろへ過ぎ去った景色を思い返しているみたいでした。

「私は、失ったモノを取り戻したかった。終わってしまったものをやり直して、よりふさわしい誰かが治めた故国を夢見たのです。彼は、……彼にだって、失ったモノがありましたから。だから私は、きっと彼ならば、この願いを分かってくれると思っていました。

 けれど——」

 ——そんなことは望めない。

 かつての士郎さんはアルトリアさんの前で、そう答えたとのことでした。

「それは裏切りだと。起きてしまったことを無かったことにはできない。そんなことをしてしまえば、失った意味さえなくなってしまう。そうならないために、次にもし、もう一度同じことが起きてしまったなら、その時には、一つでも多くの命を救い出してみせる。だからシロウは自分を助けだしてくれた者と同じ、多くの人々を助ける正義の味方になりたいのだと」

「そんな、……けど、それは」

 都合のいい幸せを、手触りのいいごまかしを素直に受け止めることができず、自ら傷ついていく。その在り方は。

「はい。その在り方は人間としてひどく歪です。彼はいずれ破綻するでしょう。それでも私は、彼の誇りを否定したくなかったのです」

 ————たとえその歩みの向かう先が、地獄だと分かっていたとしても。この責務(ゆめ)を投げだすことはできないと。

 それは、過去を背負って未来へひたと歩き続けるその在り方は、この一年間私が見続けてきた未央ちゃんのそれに、どこか似ているような気がして。

「聖杯を破壊したのち、私たちは別れました。互いに互いの譲れない思いを愛して、それを大事に守ってもらうために、私たちは道を違えたのです」

 だから、だったのでしょう、

「……寂しくは、なかったんですか?」

 私は自然と、私たち二人をアルトリアさんたちに重ねて、つと胸を押し上げたこの気持ちをこらえることなく溢してしまっていました。

「いいえ。——と言ってしまえば、嘘になってしまうのでしょうね」

 これにもやはりアルトリアさんは、穏やかな様子で微笑んで返します。それから、すこしだけ頬を朱色に染めて告白しました。

「夢の続きが見たくって、もう一度、もう一度と、何度もまぶたを開いてはつむってを繰り返したのです。部下が遠くに行っていたことを良いことに、我ながらほんとうに未練がましく。

 その内に永いまどろみが訪れて、今もこうして眠りこけています」

「……すごいんですね。アルトリアさんは」

「む? なんのことですか、藍子」

「ああ、いえ。ただ、すごく強いんだなあって思って」

 アルトリアさんはなおも首をひねっていました。そんな彼女にどうにか伝えようと、必死に言葉を探します。その結果、私はもう一人、その強さを尊敬する大切な友達のことを思い浮かべました。

「私の友達に、アルトリアさんと同じような、全くとは言いませんけど似た経緯を辿った人がいるんです。互いが互いを思い合っていて、それでも互いの在り方を強く尊重し合ってもいたから、そのために一度離れて。離れている間も彼女はずっと相手のことを思って、待ち続けていました」

「その方たちは?」

「はい。次の春、どうにか無事に再会しました」

「————そう、でしたか」

 アルトリアさんは心底ほっとしたように胸をなでおろしていました。

 頼んでいた二杯目のお茶が届きます。砂糖とミルクを一つずつ、マドラーで溶かし込んだそれらは、いつか学校の屋上から卯月ちゃんと見上げていた薄い筋雲と同じ色をしていました。

「彼女のことを私は尊敬しています。どんなに辛くても寂しくても、思う相手のことを信じていられた。純粋に恋をしていられた。私には彼女たちがとても眩しく見えました。——だって、もしも私が同じ状況に陥ったら、その時には私はきっと耐えられないはずだから」

 とてもあの時の卯月ちゃんみたいに、今も隣で微笑みを絶やさないアルトリアさんみたいに、心の底から笑うことなんてできなくなってしまっていたから。

「だから、一人でも立っていられるアルトリアさんたちの事を、私は強い人たちなんだって思うんです」

 

「それは違う。藍子」

 

「え?」

 思いもよらない強い否定に、俯けていた顔を上げました。

「一人でも生きていくことのできる人間ならば、たしかに存在するのでしょう。しかし、寄る辺を失くして生きていられる人間は、その実一人もいない。誰もがそれを持ち、失くした時にはひどく弱るものです。藍子のご友人もあるいはそうだったのかもしれない。貴女に強いと言ってもらえた私だってそうだ。

 ——現に、私はそれを求めて、今日この日、アーネンエルベで彼を待ち続けているのだから」

「……士郎さんに会いたい。そういうことですか?」

 私の憶測にアルトリアさんは首を振ります。

「私と彼が会うべきは今ではありません。いえ、貴女の話を聞く限りではこの冬木の彼は、私が会うべき衛宮士郎ではないのかもしれない。きっと一目見ることも叶わないでしょう」

 微笑みの絶えなかった表情が、この時だけは俯けられていました。その奥にある碧色の瞳も頼りなく揺れていて、唯一、自分自身を鼓舞する声音だけが毅然としたまま。

 それはまさにアルトリアさんの言う、寄る辺を失くして弱ってしまった人そのものでした。——だからこそ、その願いは誰よりも切実なものに聞こえたんです。

「けれど私は、どうしても確かめたかったのです。

 彼の歩む道は長く険しい。心がくすんで、体がさび付いたとしても途絶えることのない旅路。そんな道を、今も彼が諦めずに歩んでくれていると確かめたかった。その道の先で私が、これからも待ち続けていられるように、彼のことを信じ続けていられるように。

 彼がまだ自らの誇りを諦めずにいてくれているのだと確かめたかったのです」

「…………」

 優しくない私は胸の内で考えてしまいます。

 率直に言って、アルトリアさんの望みは叶わない。一目見ることさえもできない相手のことを詳しく知ろうとすることは、ひどく難しいことです。

 そのことに気づいていないはずがありません。

 ————それでもアルトリアさんは、確かめずにはいられなかった。

「……士郎さんのことを信じたいから、アルトリアさんは今も待ち続けているんですね」

 ほとんど自分自信に向けて呟いていたこれに「はい」とアルトリアさんの返事が追ってかぶさりました。

 自分の弱さを否定しないこと。弱さを拒まず受け入れて、それを愛おしく思うこと。

 ——ああ。なんだか、やっと分かった気がする。

 きっとこれが、私が憧れていた卯月ちゃんやアルトリアさんの持つ強さの正体。ただ彼女たちが真剣に恋をして、ときおり辛いことに涙を流して、それでもあきらめずにいただけのこと。それは————

「アルトリアさんは士郎さんのことが大好きなんですね」

 そんなごくごく平凡で特別でもない小さな、けれど何物にも代えがたい青く晴れ渡った空の眩しさのような。

 ——ただ、それだけのことだったんだ。

 不意なことだったからか、アルトリアさんは目を大きく見開いて、少し前よりも急激に頬を朱色に染め上げてしまっていました。すぐに紅茶を二、三口。落ち着いたのかと思えば、まだ顔は赤いままで、さっきまでの凛々しさが風に吹かれて、どこかへ飛ばされてしまったよう。

 それから優しく微笑んで「はい」と、ずいぶんと時間のかかった返事をくれました。

 なんだか私も嬉しくなって、精一杯に口端を押し上げて、

「私もただ、未央ちゃんのことが好きで好きでたまらなかっただけなんだ」

 そう、いつかの自分を笑い飛ばしました。わけも分からないでしょうに、これにもきちんとアルトリアさんは「はい」と頷いて、私たちはまたお茶に口をつけます。

「ずっと、ずっと考えていたんです」

 紅茶が喉を通り過ぎるのを待ってから、溜息のように吐き出しました。アルトリアさんは何も言わず、私が先を続ける様子を見守っているみたいで。それを見た私はなんだか安心しきって、誰にも相談できずにいたことをぽつぽつと手の中のカップへと浮かべていきます。

「一度、大好きな人のことを信じられなくなったことがあったんです。私にはあの人のことがどうしても必要だけど、あの人はそうでもないんじゃないかって。

 今も私は、またいつか大好きな彼女のことを、未央ちゃんのことを信じられなくなっちゃうんじゃないかって、そう思うことがずっと怖いままで。きっとその時には、未央ちゃんの味方でさえいられなくなってしまうかもしれない。そう考えただけで、息をするのがひどく難しくなってしまって。私は、なんていやな女の子なんだろうって。

 そんなふうに、あれからずっと考えていました」

 でも。

「でも、違うんですよね。こんなことは全然、特別なことでもなんでもなくって。全然おかしなことでも悪いことでもなかった。

 ——私、未央ちゃんのことが嫌いになったわけじゃなかったんだ」

 ただ、見上げた空があまりにも青く広がっていたから。それに比べて、私はなんでこんなにも汚れているんだろうって、そう考えてしまっていただけだったのでしょう。

 けれど、だからこそ、特別でもなんでもないこの痛みに気づくことができた。

「ありがとうございました。アルトリアさん。あなたに会えたおかげで私、大切なことに気づけた気がします」

「……いいえ、私は何も。私はただ貴女に話を聞いてもらっていただけだ。それでも藍子が何らかの答えを得たというのなら、それはきっと貴女が初めから自分の中にしっかりと持っていたものだったはずです」

「い、いえ。そんなまさか」

 首振り否定する私を、そんなことは言わせないとアルトリアさんはまっすぐに見つめます。

「貴女は気づいていないのでしょう。ですが私は貴方も十分に強いと思うのです。貴女の強さは我々のそれとは本質的に違うものだ。私たちの強さが戦闘という否定から入るのに対し、貴女が持っているそれは特別ではない様々なもの、何気ない幸せを純粋に肯定できる強さなのでしょう」

「否定ではなく、肯定……ですか」

「はい。だからどうか、藍子。貴女は、そんな自分自身の強さをこそ、自分の正直な気持ちをこそ大事にして欲しい」

 ——私はそんな当たり前の営みを信じて、あの日、選定の剣を抜いたのだから。アルトリアさんはそう言って、紅茶の最後の一滴を片付けたのでした。

 鐘の音が聞こえました。

 ふと背後の大きな壁掛け時計を見やれば、それはいつの間にか夕方の6時を知らせていて、通りに面した大きな窓からも西日が射し始めていました。店内にはあれだけいたお客さんが誰一人として残っておらず、厨房から聞こえる水音さえなければ、アルトリアさんと二人、無人の街に飛ばされたのだと錯覚してしまっていたところです。

「すみません、アルトリアさん。こんなに長く付き合わせてしま……って、あれ?」

 そのアルトリアさんの姿も、いつの間にか消えてなくなっていました。テーブルの上にポツンと、先ほどまで彼女が使っていた空のティーカップが残されていて、それだけが今までの出来事が白昼夢なんかではなかったのだと主張しているように思えました。

 手に取ってじっと見つめます。そんなことをしていたら、奥から千鍵ちゃんがやってきました。

「あれ、藍子ちゃん? もうすぐディナー営業に切り替えるから、一旦閉めるんだけど」

「あ、はい。すみません。すぐに出ますね」

 席を立って、千鍵ちゃんに持っていたティーカップと、ついで私が持っていたカップも手渡し、お勘定も済ませます。

「あの、千鍵ちゃん」

「ん。どうかした?」

「私のとなりで、ついさっきまで私とお茶していた人がいたはずなんですけど」

「ああ、セイバーさんね」

 私が聞いていた物とは違う名前で(おそらくは)アルトリアさんのことを呼ぶ千鍵ちゃん。

「大丈夫だから。藍子ちゃんが心配するようなことはないって。たぶんもうじき」

 何か思い違いがあるようです。千鍵ちゃんは私が一体どんな心配をしたと考えているのでしょう。聞き返そうと口を開きかけたちょうどその時、

「あ。ほら来た。いらっしゃいませー」

 と、私の肩越しにお店の入り口を目線で指します。

「ああ、えっと。電話で呼ばれた衛宮ですけど……っと、高森か?」

「はい、ご無沙汰してます。士郎さんこそ、どうしてここに?」

 去年の冬、聖杯戦争が終わったその後に未央ちゃん経由で知りあった義姉さんの恋人、衛宮士郎さんが、ドア上縁の柱材にぶつけてしまった紅茶色の髪を撫でていました。痛がっているその表情からは、実際の年齢よりも幼いような印象を受けます。

「いや、ただの野暮用だよ。もともと別に用事があって冬木に戻ってたんだが、そんなときにここから電話が来てな」

「はあ」

 いまいち事情がつかめません。それは士郎さんの側も同じみたいで、撫でていた髪をかき上げてはにかみます。

「(あれ? 髪、すこしだけ白くなってる?)」

 指の隙間からこぼれた一房二房、まとまった小量の髪の毛が色を失っていたように見えた気がしました。

 一年前には見られなかったことでした。若白髪にしては多いようなと、目をこすって見ればどうやら私の見間違いだったらしく、かき上げていた手を離して下ろされた士郎さんの髪の毛は、その一本一本まで私の記憶と何一つ違わない赤銅色一色のままでした。

「それで、そこの君。君が俺を呼んだ桂木千鍵で合ってるか?」

「おう。私だ。あんたが衛宮士郎……て、なんかでかくないか?」

「は?」

「ああ、いや。こっちの話。気にすんな。それで用向きなんだが」

 そう言って、千鍵ちゃんは一枚の紙を士郎さんに差し出します。あれは……領収書(レシート)?。

「アーネンエルベC定食、通称シエルスペシャル税込み874円。それが23皿とアイスティー2杯で、しめて21,074円。さっきの客があんたにつけといてくれってさ」

「…………なん、でさ」

 千鍵ちゃんの側で立ち尽くしていた私には、彼女が突き出した領収書の裏側に何か、文字がかかれているのを見ることができていました。

『またお会いしましょう。 アルトリア』

「——はい。また」

 その時には、アルトリアさんのお代わりをもう少し早く止めることにしようと、渋々ながらもお財布を懐から出す士郎さんを見て、私はそう思ったのでした。

 





 私の電話が着信音を鳴らしたのは、ちょうどそんなタイミングです。
「文香さん?」
 以前、同じユニット(アインフェリア)でお仕事して以来、たびたびお話をするようになった方でした。たしか、茜ちゃんとすごく仲が良かったような。彼女絡みかなと、そう深刻に考えず店内にいた二人に一度断りを入れてから電話を取ります。
「もしもし」
『……高森藍子さんの携帯で、お間違えないでしょうか』
「はい。間違いないです」
 受話口の向こうで、一つ安堵の息が漏れているように聞こえました。それもそう長くは続かず、彼女の声色になんだか張り詰めた空気を感じます。
「なにか、あったんですか?」
 つい、尋ねていました。
『どうか……落ち着いて聞いてください。未央さんが、事務所内で失踪しました』
 私はとても落ち着いてなんかいられず、電話を切ってすぐにアーネンエルベを飛び出していました。


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After4.5/ありがとうを、次は贈りに行こう

まったく関係のない話ですが。
最近ゆったりとひだまりスケッチを読み直していたりするのですが、読めば読むほどヒロさんと藍子が似て見えてくるんですよね。
それにしても、宮ゆの尊い。


Interlude

 

 手跡を残して窓をたたく。そんな雨の音で目が覚めた。

「……ここは」

 前後の記憶がはっきりとしない。それなのに、今自分がどこにいるのかは分かっていた。

 窓の向こうには何も無い。ただ、少しの先も見えない暗がりから、雨が叩きつけられているのが認識できるだけ。そんなだから、外を眺めても見えるのは反射して映る室内の様子だけで……ああ、それから、さほど好きでもない自分の顔だってきちんと見えていた。

わたし(・・・)の名前は本田未央。小学六年生。わたしは魔術師で、人殺しだ」

 この顔をしたやつが、わたしが誰なのか。憶えていることはそれくらいだった。それなら、この後にやるべきことなんてはっきりしている。

「殺さなきゃ」

 ここはそういう地獄なのだろうし。

 鉄筋コンクリート造りの長い長い廊下。木製の柱とモルタルの壁、アルミサッシの窓が規則正しく順番に並び、全く同じ形をした部屋をいくつも仕切っている。

 ずっとずっと続く。歩き続けてなお出口の見えないこの場所は、わたしの脱出を拒んでいる。

 ……わたしだって、ここから出ていくつもりは微塵もありはしないのだけど。

 そのうち、ただ歩き続けることに飽きて、部屋の中を覗いてみた。

「お。未央じゃん! 何してんだよそんなところで。お前も早くこっち来いよ」

 同い年くらいの男の子が腕を元気よく振り回している。彼は他数名と、昨日見ていた野球中継の話をしていたらしい。男女入り混じってじつに和やか。たとえその(からだ)に、頭と両脚、心臓がついていなかったとしても、彼の周囲に流れる空気もわたしが彼に抱いていた印象も、何もかもが変わらないまま。

 ————やっぱり、殺さなくちゃ。

「ごめん! 用事思い出しちゃったから行ってこなくちゃ」

「そっか、……残念だな。お前下手したら男子よりも守備上手いもん」

「そんなことないって。フツーだよ、フツー」

「「「また未央がそんなこと言ってるー」」」

 周りの数名が同じことで笑っていた。

「……でもさ、オレ。お前と話してると、すっげー楽しいんだけどな」

 ————うん。わたし/私もすごく楽しかった。

 だからこそ、わたしは……。

「またな、未央!」

「うんっ。また」

 また今夜、悪夢の中で。

 廊下に戻る。歩く。歩き続ける。

 どこまで行けばいいのかは分からない。もしかしたら、同じところをぐるぐると回り続けているだけなのかも。きまぐれに戸を開けて、いつかの幸せに溺れて、ただ迷い続けているだけでも、永遠に近い時間を何度でもここで繰り返せることだろう。

 ————それでも、殺さなくちゃ。

 ひとまずの目的があった。やらなくてはならない、やらずにはいられないことがあって、今はそれ以外にかかずらっている暇がない。

 たとえそれが、永い夢の終わりだとしても。それでも、わたしは——

「——わたしは、私を殺さなきゃ」

 

Interlude out

 

 

 喫茶店アーネンエルベを飛び出して、必死に走っていた私をレンタカーに乗っていた士郎さんが五分もせずに捕まえて、そうしてとりあえずは、アーネンエルベから冬木の電車駅、いくつか乗り換えた先の渋谷駅から事務所まで歩いていく分の時間を節約できて、その半分の時間で先に帰ってもらうよう士郎さんを説得して。

 フロント前で待っていた文香さんと直接話ができたのは、電話を受けてから40分と少し過ぎた後のことでした。

「……お忙しい時間に呼び出してしまったようで、すみません」

「いえ。文香さんの話を聞いてここに来たのは私の方です。呼び出しを受けたわけではないと思いますけど」

「それでも……例えどのような表現を用いて伝えていたとしても、結果はさして違わなかったはずです」

「————」

「すみません……少し、意地の悪い言い換えでした。それよりも今は、現状説明の方が先決でしょう」

「……はい。お願いします」

「分かりました。それでは、歩きながら」

 人が集まっていたロビーを横に。文香さんの歩幅はいつもより少しだけ広く、中庭の方角へと向いていました。

 

 

 それは夕方の四時ごろ。

「お、お姉ちゃぁああぁああーーーーーん!??!!」

 お昼からのお仕事、そのほとんどがひと段落して、とても緩やかな空気が流れていた。そんな午後を上から下へと破り裂いていくような一つの叫び声を皮切りに、事態は次から次へと同時多発的に明るみになっていったのだそうです。

 

「み、美嘉ちゃんが、コ○ンくんみたいにするするって小さく……!?

 ……でも。なんだか。すっごく————おいしそう」

「まって、まってみりあちゃん……とにかくこのうではなし力つよッ!? え、え。えまってまってだれかたすけ、あ——あ、あ……ぅあああああ!!」

 

「おい待て加蓮おまえどこにいくつもりだ——ってツボが倒れ、加蓮危ない! ……ふう。無事か加蓮——がいない。おいどこだ返事しろ! かれえぇえん!!

 おい凛! お前も加蓮探すのてつだ」

「————————」

「りんちゃん? どうしましたか、りんちゃん?」

「ダメだ。寝かせてやってくれ卯月。凛のやつ、(お前の可愛さに)死ぬほど憑かれてんだ」

 

「もしもし千夜です。そちら颯さんの携帯でしょうか? 凪さんを発見しました。至急合流を……え? お嬢様がそちらに? 三十秒以内でそちらへ向かいます。どうか動かないで。ご心配なく、場所はすでに把握しておりますので。道中凪さんを振り落としてしまう可能性がありますが、どうぞその場を動かずに、じっとしていてくださいますよう……」

 

「あの、どなたか晴さんを見かけませんでしたか? 梨沙さんと一緒に探してはいるのですが、どうにも上手くいかなくて……もしも見つけた方がいたら、ロビーで合流を」

「あ、そういうことならうちの幸子ちゃんも! なんていうか、その、血眼になって探してる紗枝ちゃんやまゆちゃんよりも、先に見つけたいなあ。なんて」

「えっと、じゃあわたしも沙紀さんを。みんなのご飯で、ちょっと手が離せないっていうか……」

「あー、めんどくさ。きらりも見つけたらよろしくねー。わたしはてきとーに散歩してるからさ」

 

「うわぁあああん!! だれかぼくを助けろよぉ! あのねあきらちゃん、髪の毛たべないでぇえ。色付きそうめんじゃないからぁ! ……ところであかりちゃんは一体なにをうっとぉ!? 包丁!? 殺る気なの? それで青森をぐさーってするつもりなの!? え。違う? リンゴロウの化けの皮をむきたいんごって? なあーんだそれならなんの問題も——ってちょっと待てええい!!」

 

 そんなふうに、突然幼児化して、その上野生(リヨ)化したり無言(プチでれら)になったり。ものの十数分で保育所のごときカオスに包まれてしまった346プロダクション。

 けれどなんとか、事務所総出での協力もあって、幼児化したアイドルやスタッフさんたちの保護も進んでいました。事態が半ば収束に向かいつつあったそんな時、主犯による自供が館内放送から事務所中に広く知れ渡ったのです。

 

「にゃーっはっはっはぁ!! みんなー、楽しんでるーー? ええそうですアタシがやりました。ミカくん、全部アタシのせいだ。ま、もうちょい具体的にみんなに何したのかって言うとね、今日のB定食のカレー鍋に、失敗作の志希ちゃん印のアホ○トキシン346混ぜちゃった。てへ。

 あ、失敗作って言ってもなんかヤバい副作用があるわけじゃないから、そこは安心して。ぶっちゃけ効果時間が想定以上に短かったんで、とりあえず失敗作ってことにはしたんだけど。期待してた効能はちゃんと発揮してるみたいだし、みんなにとっては誤差かも」

 

 志希ちゃんの自供はその実かなりの割合で、美嘉ちゃんいじり(彼女の趣味)が含まれていたり、彼女を含む一部にしか分からない原理的な話が含まれていたとのことです。そのため、そのすべてを話している時間はないと判断したのでしょう。

 文香さんは今の私たちに必要な部分だけを抜き取って、一つずつ説明してくれました。

 

 一つ。志希ちゃんは失敗作のお薬をカレー鍋に入れることで、廃棄するとともに、何かの実験をしようとしていたらしいということ。

 

 二つ。お薬の主な効果は理性の蒸発、ないし本能に対してとても素直になること。

 幼児化はこれを最も安全かつ自然に叶えるための副次的な効果に過ぎず。まだ学校にも通わずに、歩くこと、話すことを憶えて間もない、おおよそ4、5歳の年齢に戻す。それが薬の設計を考えた志希ちゃんが想定していた、薬の本来の作用結果。

 効果時間は個人差を含めても、最短で4時間。長くて半日以上は続かない。

 

 そして、三つ目。今回の騒動で志希ちゃんが本来の目的と据えていた『実験』。それが彼女の目から見ても、結果そのもの(・・・・・・)を見た何人かの目から見ても、明らかに——

 

 ——失敗していた、ということ。

 

 

 目的地である事務所の中庭。そこで待機している人がいったい誰なのか、そして現状どんな状況にあるのか。

 その待機指示を出していた文香さん本人から聞いていたので、知っているには知っていたのですが。

「……本当に、茜ちゃんなの?」

「はいっ!! ひのあかねですっ、あいこちゃん(マスター)!!」

 志希ちゃんのお薬は、お昼のB定食のカレーに混入されていたとのことです。であれば、茜ちゃんも未央ちゃんや他のみんなと同じように、その被害にあっていて当然と言えるでしょう。

 最年長でありながら、ポジパ(わたしたち)の中で一番低かった彼女の身長は、今となっては私の腰より少し高いところにとどまっています。手足も半分ほどに縮んでいて、けれど体の内側に宿る元気さはいつもの彼女となんら変わらない。——いえ、ひょっとしたら、それ以上になっているのかも。

 そのことの何よりの証拠として、私は彼女が言っていた一単語を確認します。

「茜ちゃん。今、私のことを『マスター』って呼びましたか?」

「よびました!!!! あいこちゃん、わたしはあなたのサーヴァントですからっ!!」

「…………私が、茜さんを保護したときからこうなのです。未央さんを助けられるのは……自分の『マスター』である藍子さんだけなのだと。彼女が幼児化してすぐに失踪したのは、藍子さんを探すため。私はそんな茜さんに、藍子さんを電話で呼び出すと進言して、どうにか彼女を保護することができました。……あの、藍子さん。今の茜さんの状態について、何か心当たりはありませんか?」

「…………」

 心当たりならありました。

 今の彼女は間違いなく、一年前の再演された聖杯戦争に、私のサーヴァントのアルターエゴ日野茜として参加していた、あの時の状態にかぎりなく近づいている。

 はたしてそんなことが本当に可能なのか。魔術師としての理屈をよく知らない私には判断がつきかねるのですが。けれど、状況からはそうとしか言いようがないみたいなのです。

 三画すべて使いきった令呪。残っていないはずのその痕を通じて、彼女のステータスを読み取ることができてしまっていました。スキルは軒並みダメで、宝具も使用できない……というより、そのほとんどは英霊の座から借り受けて(ダウンロードして)いた、神霊由来のものでしたから、使えないのではなく、無くなっていると言った方が適切なのでしょう。

 それでも、破格のステータスはおおむねそのまま。低級のサーヴァントであれば、宝具による逆転を除いて十分に圧倒できるスペックを保持しています。

「……すみません、文香さん。どこまで説明してまっていいものか、私には判断ができません。でも、おそらくですけど、これは彼女独自の幼児化による副作用なんじゃないかと。それくらいは私にだって伝えられます」

 志希ちゃんのお薬、その本作用は理性の蒸発。そして偶然の一致か、茜ちゃんがかつて持っていたスキルにはこれとよく似た名前の『理性蒸発』というものがありました。

 物事を深く考えず、本能的に感じとった最善の選択を素直に選ぶことができる。これによって、彼女はいくらかの精神妨害を克服し、ほんとうに微々たる効果ではあったらしいのですが、神霊との精神的同居にも一役くらいなら買っていたというスキル。

 きっとこの状況の一致こそが、一つの条件(トリガー)になっているはずです。

「つまり……薬の効能が切れれば、その時点ですぐ元に戻ると。……藍子さんは、そう言いたいのですか?」

「はい。ただ、すぐにかどうかはちょっと自信がないですけど」

 以前、聖杯戦争が終わった後のころにだって、こんな後遺症めいた状態が一、二週間ほど続いていましたから。

「それでも、ずっとこのままという心配なら、多分しなくてもいいんじゃないかって思います」

「……そうですか」

 ほっと一息。文香さんは安堵の息を吐き出しました。ひとまずこれで、彼女を安心させることはできたみたいです。

 一つの問題が片付いたところで、私は茜ちゃんにもう一つの問題を尋ねることにしていました。

「それで、茜ちゃん。私を探していたって文香さんは言っていましたけど。そしてそれが、未央ちゃんを助けるためだって。それって一体どういうことなの?」

「うーん……どうせつめいすればいいのでしょう」

 茜ちゃんはひとしきり考えるそぶりを見せてから、けれどすぐに文香さんに助けを求めてか、彼女を見やりました。そんな茜ちゃんに文香さんは一言。

「実践して見せるのが……一番、手っ取り早いのではないでしょうか」

「わかりましたっ!!! 二人とも、少しはなれていてください!!」

 文香さんが二歩後ろに下がります。けれど、それではまだ足りないはずです。

「文香さん。衝撃が来ます。渡り廊下の柱の裏に行きましょう」

「え…………は、はい。分かりました……」

 手を引いて建物そばまで急ぎます。途中、何の気も無しに見上げた二階の窓辺。そこに、誰かがいたような気がしました。

「(あれは——)」

「藍子さん……そろそろ茜さんに、合図を出そうと思うのですが」

「え。あ、分かりました。お願いします」

 二人して柱の影まで移動し終えていました。

「はい。それでは茜さん——」

 ほんの一瞬、文香さんは茜ちゃんへの合図にと柱の外側で指を鳴らして、

「りょうかいですっ————どおおおおおおおっっせえええぇいっ!!!!!!!!!」

 急いでひっこめたその腕が手元に戻ったちょうどすぐ後に、大量の水の塊を手のひらで思いっきり叩いたような音が辺りに響きました。

 与えた力がそのまま跳ね返されて風に乗っていく。植えられていた花の花びらと土埃が入り混ざって、柱の陰でそれらを避けていた私たちのすぐ脇を、しばらくの間、ごうごうと駆け抜け続けていきました。

 風はすぐに止んで、足元にはまだ土埃が残っています。口元を首のストールでおさえて咳をしていた文香さんの背中をさすります。目じりに少しの涙を湛えた彼女は長く伸びた前髪の隙間から、こちらを上目づかいに見上げて。

「……藍子さんは、茜さんが何をするのか、けほっ……知っていたのですか…………?」

「いえ。ただ、あの状態の茜ちゃんなら、なにをしてもこうなっちゃうんだろうなあって。そんなふうに考えていただけなんです。いえ、それにしても一体、なにをどうしたらこんなことに——」

 

 ————黒い、穴が開いていました。

 

 中庭の真ん中に立つ茜ちゃん。彼女の頭上の空間が波を打って揺らいでいました。さっきまで何の変哲もなく、ただ向こう側が見えていたはずの中庭は、水面のように胎動する大きささえよく分からない透明な壁で二分されていました。

 穴が開いていたのは茜ちゃんのちょうど目の前。何物にも動じないはずの水面に、半径2メートルほどできたひび割れのような、それは——

「あれは…………いったい……」

 ——見覚えがあるどころではありません。……あれは、あのなかで渦巻いているモノは——かつて黒い聖杯と同化していた私が、その内側でずっと覗いていたこの世全ての悪(アンリマユ)。それとまったく同質の悪意たちです。

 絶対量なんてものを比べては足元にも及びません。多く見積もってもせいぜい十数人くらいでしょうか。けれど質について尋ねられては、易々と優劣を比べられはしない。

 殺意と忘却への憎悪、奪われた何かに対する嫉みと怒り、無理解から来る怨嗟の声とが混ざり合って、それらすべてが生きもの(わたしたち)を拒絶している。

 殺す。

 引き裂いて殺す。内臓を抉り出して殺す。生命力(まりょく)を際限なく吐き出させて殺す。

 生きているという事実。その全てをハク奪スる。

 ……アレに、生身で触れでもしては、まっとうな存在である以上ろくな死に方はできない。馴染みのあった感覚に、たやすく魔術回路が反応して、血管が指先から順に泡立っていくのが実感できました。

「(ダメ……。まだ、未央ちゃんがどこにいるのか分かってない。無駄遣いできる魔力なんて、少しも無いんだから)」

 胸の中でかちりと音を立てて回り始めかけたばね仕掛けを、奥歯を噛んで強引に抑えつけました。これであと、どの程度耐えられるか。

 結論を急ぎます。文香さんを柱の影に残して、茜ちゃんのそばにかけよりました。

「茜ちゃん。結界(かべ)の一部を壊したんですね」

「はいっ! あいこちゃんなら、すぐに分かってくれると思っていました!!」

 私なら? 茜ちゃんが何をしたのか、私になら分かるとどうして茜ちゃんは思っていたのでしょう。どうして私は、これが結界なのだとすぐに理解できたのでしょう。

 無意識に浮かんだ疑問を今は無視します。

「茜ちゃんになら、この先に行くことができるんじゃないですか?」

「それは、ざんねんながらできません……前のわたしがていこうできたのは、スキルがあってのことでしたから」

 予想できたことです。落ち込む茜ちゃんを気づかう余裕がないことに胸が痛みますが、現状は話を前に進めなくてはいけません。

「この結界を張ったのは、もしかしなくても————」

「おもしろそうな話してるねー。アタシもまぜてよ」

 張り詰めた空気に一石を投じる声。文香さんの声ではありません。振り返れば、先ほどちらりと見た二階の窓が開けっぱなしになっていて、その真下に一人の女の子が立っていました。

 薬品の蒸気で蒸れてしまったようなウェーブの黒髪をたなびかせて、女の子は近寄ってきます。

「……わかりました。なら、質問を変えます」

 私は、茜ちゃんといっしょに彼女を見やって、一つの確認をその子に投げかけました。

「失敗した実験。カレー鍋にお薬を混ぜ込んで大勢の人たちを幼児化した一連の騒ぎ。だけどそれは、本当はたった一人だけを狙った実験だった。その、たった一人っていうのは——未央ちゃんのことなんじゃないんですか? 志希ちゃん」

 花壇一つぶんの距離を取って立ち止まった女の子。事務所中を混乱の渦に巻き込んだ張本人、一ノ瀬志希ちゃんは、

「せいか~い。よく解ったね、百点満点あげちゃう」

 悪戯っぽい笑みを浮かべて頷きました。

 

 

「まじめっぽい話に茶々入れちゃってごめんね、藍子ちゃん」

「…………」

「まあでも、気になっちゃってさー。未央ちゃんに起きたことだってそうだけど、二人の後ろにある逃げ水みたいな空間異常にグロテスクなブラックホールまがいなんて、明らかに人智で理解できる範疇を超えちゃってる。そして、そんな超常現象をまるで何度か見たことでもあるみたいに話す、藍子ちゃんと茜ちゃん。二人こそがこの場において最も異常な存在に思えるんだけど」

「……志希ちゃんは知ってるんですね。未央ちゃんに何が起きたのか」

「へえ。質問に質問で返すんだ。藍子ちゃん、いつになく焦ってるみたいだね。汗、すごいよ」

 限界が刻一刻と近づいていました。ここで私が抑えられなければ、かつての夜、柳堂寺を襲った時と同じになってしまうかもしれない。それでは未央ちゃんを助けるどころの話ではありません。

 まず真っ先に隣にいる茜ちゃんから手を出して、それから今度はことの発端だからと理由(いいわけ)をつけて志希ちゃんに——

「手短にお願いします。未央ちゃんを早く助け出さなくちゃいけないんです」

「オッケー。事情があるのは察したよ。ならまずは動機と目的から」

 

「————まあぶっちゃけ、気に入らなかったんだよね」

 

 志希ちゃんは酷く冷淡に言い放ちました。かと思えば次の瞬間にはおちゃらけた表情に戻って「ついかっとなってやっちゃった。後悔はしてないよ」なんて、自分で自分の気持ちにお茶を濁すようなことをしていました。

 そしてまた次の一瞬、冷たい目をして。

「前に響子ちゃんに似たようなこと言ったことあるんだけどさ、嘘を吐くんなら、何かをごまかすなら、ずっとずっと真剣にやってほしいわけ。やりたいことがあるんならやりたいって言えばいい。したくないならしたくないって言って欲しい。その手の気持ちを隠すのならさ、誰にも気づかれないくらいでなきゃ」

「それでどうして、未央ちゃんに」

「——だって隠してたでしょ? 未央ちゃんと藍子ちゃん、二人にはアタシたちに言えないような秘密がある」

「————」

「そうでなくとも、やりたいことを我慢していた未央ちゃんは、正直目に余ったから。誰も彼もがさ、346(ここ)では自分の夢を叶えようとしている。ちょっとでも幸せな自分になろうとしている。なのに未央ちゃんは違って見えた。でもってアタシの手元には、丁度ばっちしタイミングもお日柄もよく、本能に正直になれるお薬があって——だから、一服盛った。方法は、これはほんと藍子ちゃんのお察しそのままだったから省略するよ。

 で、結果は聞き及んでる通りに失敗。次はどんなふうに失敗したのか、どうして失敗したのか、結果から考察しよっか」

 その先のことは文香さんから聞けていませんでした。散漫になってしまいそうな意識をどうにかかき集めて、一言一句聞き漏らすまいと耳を傾けます。

「最初の犠牲者——美嘉ちゃんがみりあちゃんに食べられちゃったのを見計らって、アタシは食堂から出ていった未央ちゃんを追ってたんだ。気づかれてもいいかなーって適当に尾行してたから当然バレて、逃げられて。今度は見失わない程度に距離取ってまた後を追ったら、ここで、中庭で未央ちゃんは立ち止まってた。

『お姉さん。出てきなよ』と未央ちゃん。

 アタシはお言葉に甘えて、待ち受けていたふうな未央ちゃんと向かい合って。その時点で薬効が正しく効いていないことに気づいた。

 確かに未央ちゃんはアタシたちが知っている未央ちゃんよりも小さくなって、昔のものらしい姿になっていたけれど——想定していた年齢よりもずっと上、12歳くらいまでしか戻っていなかったよ」

 そんな未央ちゃんに志希ちゃんは言ったそうです。

「好きなことをしていいんだよって。今日はエイプリルフールみたいな日で、何をしても許される。だからさ、理性なんかかなぐり捨てて、抑えつけるのもなしにして、好きにやっちゃいなよって。そしたら未央ちゃん、なんて言ったと思う?」

「……」

「『分かった。なら、わたしは自分を殺してくる』ってさ。

 その後ありがとうを言われて、それっきり。未央ちゃんは中を映さない透明な皮膜の内側に閉じこもって、茜ちゃんや文香ちゃんが色々試してたりしていた、藍子ちゃんがここにやってきた、それまでの三時間、そして今になっても未央ちゃんはその壁の向こうから出てきていない」

「——ありがとうございました。おおよそ、分かりました」

「いやいやいや。その返答は文脈が360度狂ってもあり得ないでしょ」

 歩き出そうとした私を志希ちゃんが呼び止めました。……本当に、私には今の説明で十分だったのですが。

「それじゃあもちろん、ちゃんと分かってるんだよね?」

「なんのことを言っているのかは判別できませんけど、たぶん理解できてます」

「今の幼児化した未央ちゃんに、現在(いま)までアタシたちと過ごしてきた記憶がないってことだよ?」

 立ち止まります。けれど、それは志希ちゃんの質問におどろいたわけでは、全然なくて。

「はい。そのことも含めて、私が一刻も早く未央ちゃんを迎えに行かなくちゃいけないってことですから」

「——じゃあ、藍子ちゃんには全部分かってるんだ。どうして未央ちゃんに薬が上手く効かなかったのか」

 頷くことはしませんでした。頷かず、ただ、一つの答えを返します。

「それは、今の未央ちゃんと、昔の未央ちゃんの間には、どうしたって超えることのできない隔たりがあるから」

 志希ちゃんの薬の効果である幼児化。それは服用した本人が“憶えている範囲内で”一番小さいころに戻すというものでした。

『忘れるって、幸せだったころを憶えていないって、悲しいことだったよね』

 悲しいことを全く悲しくもないこととして語っていた、かつての未央ちゃんの顔を思い出します。

 未央ちゃんは言っていました。魔術師として生きてきた9歳から15歳までの彼女の記憶は虫食いで、それ以前にいたってはがらんどうなのだと。

 それでも未央ちゃんの目蓋裏に焼き付いて離れることの無い記憶があるとしたら。それは、彼女が毎晩夢に見ているという血の記憶をおいて他にないのでしょう。

 誰かを、殺していた。

 自分が生きていくために、魔術師として家族の思いを繋ぐために、必死で臓物を掻き出し集めていた幼少期。きっとその中で、鏡か何かでも見たのでしょう、自分の姿を見ることがあったのかもしれません。

 だから、未央ちゃんが憶えている範囲での一番小さいころが、他の子たちより少し上でも不思議なことではないはずです。

「志希ちゃん、さっき言ってましたよね。未央ちゃんは幸せになろうとしていない。やりたいことを、自分のためのことを我慢して生きているように見えるって」

「そうだね」

「それが、はじめから勘違いだったんです。

 未央ちゃんはただ知らないだけです。楽しかったこと、みんなが当たり前に過ごしてきたようなまっとうな日常を、なにも憶えていないから、欲しいものがよく分かっていないだけなんです。まっとうな幸福をとっくの昔に忘れてしまっているから、どれだけ些細な日常でさえも幸福に思うことができてしまう。

 あの人は、未央ちゃんはきっと今が一番幸せだって言うんだと思います。アイドルとして自分の夢を叶え続けていられる、今この時、一瞬一瞬、目に映る全部が自分の幸せなんだって」

 きっとそれが、未央ちゃんがどうしても欲しくて、けれど手放さずにはいられなかったもののはずだから。

 

『あーちゃん、私さ————』

 

 ……あの日。

 きれいだったけど、どうしてか寂しくもあった雨の夜。誰もいなくなったレッスンルームで、一人遅くまで残って自主練習を続けていた未央ちゃん。

 失敗しちゃえ。諦めちゃえ。

 失敗してもいい。でもまだ諦めきれない。

 長く長く続いた根競べに勝ったのは、子どもみたいに意地を張って無理をしていた未央ちゃんでした。そんな彼女を見ていられなくなって、私がただ駆け寄っていっただけ。オチもなにもない、誰に話すこともない、とりたてて特別でもなんでもなかったその時のことを——私は、ずっと憶えています。

 

『————もう二度と、何かを諦めたりしたくないんだ』

 

 ずっと、諦めてばかりだった。

 何かを手に入れるためには、他の何かを手放さなくちゃいけない。そんな当たり前を当然のように受けれ入れて、生きていくこと以外のなにもかもを諦めて、つまらない顔をして俯く自分が何よりも嫌だった。

 だから、今は前を向いていたいのだと。前を向いて、鏡に映る笑顔も泣き顔も、目の前にある何もかもから諦めて目をそらしたくはないのだと——

 

「そんな未央ちゃんの思いを、祈りを、私は大事にしてあげたい。

 だから私は、未央ちゃんがいなくちゃ生きていけないんじゃなくって——

 ————未央ちゃんがいるから生きていけるんだって、胸を張ってあの人の願いを、真正面から肯定してあげなくちゃないんです」

「……たとえ未央ちゃんが、藍子ちゃんのことを否定したとしても?」

 志希ちゃんが尋ねます。それが最後の確認だったのでしょう。

「はい。それでも私には、未央ちゃんが必要ですから」

「……分かった。ほんとうに邪魔しちゃってごめんね」

 それっきり、志希ちゃんが何かを口にすることはありませんでした。私も、なんとなく志希ちゃんがこれ以上話すことを望んでいない気がして、彼女の方には振り返らず、改めて茜ちゃんをみやります。

「お待たせしました。茜ちゃん」

「いえ!!! あいこちゃん(マスター)のコンディションが一番だいじですから!! じゅんびは、できていますか?」

「うん、大丈夫だと思う。だけどどうすればいいんだろう。この先に未央ちゃんがいるのは間違いないんだよね」

 結界の壁らしきものを見上げます。いまだに波打ったままのそれは、荒れた川面のようにも見えます。

「そうですね。この先はきっと、みおちゃんがこれまでにためこんできたのろいでみたされた、ふかくて広い海みたいなところなはずです。何もしないでもぐったりなんかしたら、すぐにちっそくしちゃいます!!!」

「……空気ボンベがあれば大丈夫、なんてことじゃないもんね」

 海のようと言った茜ちゃんの例えに、ついできるはずもない手段を提案していました。笑って忘れてほしいなあ、なんて思っていたら、

「はい!! むしろ、大昔のえらい人がやったみたいに、海そのものをわっていくのが一番だとおもいます!!!!」

 それ以上の無茶を茜ちゃんは言いだしていました。

「そ、そんなことできないよ」

 私の否定を、

「いいえ!! あいこちゃんにならできます!!!」

 断ち切った上で、力強く背中を押してくれる茜ちゃん。

 そんな彼女の声に少しだけ励ましてもらって、もしかしたら本当に、私にだってできるのかもしれないと思えてきます。

「分かりました。どうやるのか、教えてください」

「はい! 今日はわたしが先生です!!」

 心の底から誇らしげに笑う茜ちゃんが「すこしだけ、しゃがんでもらっていいですか?」と尋ねました。一も二もなくその言葉に従い、しゃがんだ私の体に茜ちゃんはぴったりと寄り添います。

「茜ちゃん?」

「——あいこちゃん(マスター)、よく聞いていてくださいね。これからやることは、とってもきけんなことです。あいこちゃんのまじゅつこうしには、ぜったいにむしできないリスクがずっとついてきます。それでも、あいこちゃん(マスター)はみおちゃんを助けたいですか?」

 茜ちゃんが問いかけたのは私に覚悟があるのかどうか、そういうことだったのでしょう。

 私は未央ちゃんを取り戻す。彼女を私から奪うすべてから、彼女を守る。

 そのために他の何かを失う覚悟が、私にあるのかどうか。

 ——きっと、そんな覚悟は、私にはありません。

「……私は、すごく弱虫なんです。何かを失うことが怖くて、未央ちゃんは他のなによりも、誰よりも失いたくないすごく大切な人だけど、だけど、そのためになら他の大事なものを手放してもいいだなんて、そういうふうに思うことが、私にはできません」

 かつての未央ちゃんみたいに、彼女のために大事な家族(だれか)とのつながりを手ばなすようなことは、私にはできない。

 ————けど、それでも、だからこそ。

「私は何も失いたくない。未央ちゃんも私の夢も、お父さんお母さん、茜ちゃんに卯月ちゃん、プロデューサーさん、文香さんにほたるちゃんに歌鈴ちゃんに夕美ちゃん、事務所のみんなも学校の友だちも。大切な何もかも手放したくは無いから……だから、

 だから私も何もあきらめないよ。私の大事なものも未央ちゃんも、両方助けたい!」

「はいっっ!!!! わたしもどういけんですっ、あいこちゃん(マスター)!!!!! 失うかくごなんて、そんなもの、わたしたちにはいりませんっ!!!」

 夏の燦々(さんさん)と輝く太陽みたいな笑顔で、茜ちゃんは私の思いを肯定してくれました。

「あいこちゃん——魔術回路をひらいてください。だいじょうぶですっ! 今のあいこちゃんにならつかえます!! だれかをきずつけてきたばかりだった、こわいものからにげるためだけにつかわれてきたばかりだった。きっといい思い出なんてあまりないのでしょうけど、それでも、今だけは、きっとあいこちゃんの羽になってくれるはずです!!! だって、その魔術は」

 虚数魔術。

 深層意識をむき出しにし、見えざる不確定をもって見えざる思念を拘束、容易く此岸へと送り返す黄泉戻しの術法。一方で、使えば使うだけ自身の暗い奥底へと引きずられ、自らを負の側面に貶めてしまう禁術。

 けれど、その本当の使い方はもっと違う物なんだってことを、私はずっと前に教えてもらっていました。

「自分の心をおぼろげにでも、形にする。それがこの力の本当の使い方なんだから」

「そうです!! それは、あいこちゃんをしばるかげじゃありません!!! あいこちゃんが行きたい場所に、会いたい人のところにつれて行ってくれる。——そんな、あいこちゃんだけのかぼちゃの馬車なんですから!!!

 さあ、出発の時間ですよ! あいこちゃん(ふりがな)!!!!」

 大きく息を吸い込みます。胸の苦しさはどこかへ飛んで行って、全身を這っていた血管の泡立ちはもう感じられなくなっていました。抑えこんでいた歯車を、今度は自分の意思で回し始めます。

 

「————Es erzahit,(声は遠くに)

 Mein Schatten nimmit sie.(私の脚は緑を覆う)

 

 それは、かつてお世話になった人から教わった。自分の体を切り替えるためのおまじない。

 古いフィルムを巻き直すように、魔術回路をゆっくりと開く。

 大切なものをしっかりと自分の中に閉じ込めて、二度と手放してしまわないように。けっして諦めてしまわないように。

 

Es befiehlt,(歌は遥かに)

 Mein Atem schliest alles(私の恋は世界を縮る)————」

 

 拒絶を影の翼に食べさせて、私は何度でも足を前へ。

 

「——今、そこに行くからね。あと少しだけ待っていて、未央ちゃん」

 

 息を止めることもせずに、暗い海の淵へと飛び込みました。

 

 

Interlude

 

「正直なことを言えば、本当に気に食わなかっただけなんだけどにゃー」

 藍子との会話を終えた時点で、志希にはもう中庭でとどまっているだけの理由が無かった。早々に退散して、あてもなく事務所の敷地内を散策。自分が今どこにいるのかについてはさすがに分かっている。それでも、どこに行こうとしているのかについては、こちらはまったく決めていなかった。

「人はどこから来て、どこへ行くのか。なんて、もしここに飛鳥ちゃんでもいたりなんかしたら、ありきたりすぎるって首をすくめたりするのかな」

 考えがまとまらない。集中力が散漫になって、どうにも解法がはっきりとしない。

 藍子から返された答えはどれもこれもが曖昧で、断片的で、ところどころ重要だと思われる個所を省略したものばかり。いくつも散りばめられた欠片から足りない部分を推測で補うことでしか、志希の知りたかった要素は知り得そうにない。

「(あー。やるきでない)」

 いつもなら真っ先に飛びつくはずのそれに、どうしてか手が伸びない。純粋に気分が乗らない。

 ……こういう時、志希は決まって屋上に行く。

 屋上なら、どこでも良かった。高いところから地面を見下ろしたかった。かつて父親の(つまらない)ことに拘泥していた一ノ瀬志希を殺した、名前も知らない誰かに会えるかもしれないから。都合のいい希望的観測に過ぎずとも、また自分の迷いを殺してくれる、そんな誰かに志希は会いたかった。

 足が向くのに任せて手近な建物に入り階段を上る。風にあおられてか妙に重いアルミ扉を開けた先、そこでは確かに、誰かが志希を待っていた。

「あ! やっほ~、シキちゃん」

「フレちゃん?」

 沈みかけの西日が先客の髪を眩しく照らしていた。それでも輪郭は薄れない。先客、宮本フレデリカは空にほど近いこの場所でしっかりと地面に足をつけて、志希を待ち構えていた。

「やっぱり、シキちゃんが来るならここかなあって思ってたんだ」

 その脇を素通りし、志希は手すりにもたれかかる。

「およ? シキちゃんブルーなかんじ?」

 かけよってきたフレデリカに志希は「んー」とだけ返した。

「となりにいてもいい?」

 これにも同じく「んー」と返す。

 しばらくそうして、柵越しの風景見下ろしていた。一方フレデリカはただそばにいた。そばにいて、いつものてきとうな歌をフンフンフフンと口ずさんでいた。

「フレちゃんはさ」

「フン?」

「どうして、アタシがここに来るかもって思ったの?」

 フレデリカは特段深く考えることもなく、すぐに答えた。

「シキちゃん、飛びたい気分なのかもって思ったの」

「アハハ、なにそれ。ぜんぜん違うよ、フレちゃん」

「そっかー! 違ったかー!」

 そう、ぜんぜん違うよ。志希は目を閉じて笑う。

「ぞれじゃあ、シキちゃんはなにをしたい?」

「え——?」

 

『——して欲しいことがあるのなら————』

 

 あの雨の日と景色が重なる。けれど、その中でもフレデリカはフレデリカのままだった。傘もささず、彼女の周りだけが晴れたままで、そんな、志希の好きなフレデリカのままで。

 

『————初めから、そう言えばよかったんだ』

 

「シキちゃんはどうして欲しい?」

 かつて出会ったあの人と似たことを口に出していた。

 志希がいま、一番欲しかった言葉で志希に手を伸ばしていた。

「アタシはねー、こうしたい!」

 伸ばした手を少しも戻すことなく、フレデリカは志希に抱き着く。

「フレちゃん?」

「……がんばったね。シキちゃん」

 ————違う。

「だから違うんだよ、フレちゃん。アタシは何もがんばってなんかいない」

「それでもいいの。アタシが志希ちゃんを褒めたいんだから。だから大人しく、志希ちゃんはアタシに甘えちゃえばいいのだ」

「……ふふっ、なにそれ」

 ああ、本当に。この人はちっとも志希の思い通りに動いてくれない。

「(だから、いいんだけど)」

 他の誰とも、志希の想像の中のフレデリカとも違う目の前にいるフレデリカが、志希は他の誰よりも恋しくて、

「じゃあさ、フレちゃん」

「なあに、志希ちゃん?」

 ずっと昔に願っていた、つまらないことをフレデリカに頼んだ。

「わたしの頭を撫でて」

「合点承知のナポレオン~」

 

 数十分後。

 騒動が無事終結した後、ひょっこりと顔を出した志希の頭上。それを目撃した城之内美嘉ふくむ数名は、

「なにアレ。凱旋門?」

 と口々に呟いたとのことだが、それはまた別の話。

 

Interlude out

 



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After5/Seacret (hollow) Daybreak

Interlude

 

「なあ、いい加減飽きねえか?」

 黒い人型の影が問いかけた。

「ぜんぜん。そっちこそどうなの。おんなじ人間を何度も殺したりなんかしてて、楽しい?」

「そりゃあ楽しいに決まってる。とくに現実じゃないってのが最高だ。やりたい放題この上なくて笑えてくる。……だがまあ、こうも変わり映えしねえと、さすがに興が覚めてくるってもんだろう。なあ、マスター」

「…………」

 苦虫を嚙み潰したような気分だ。

「何度言えばわかるの? わたし、別に君のマスターになったつもりはないんだけど」

「いやいや。状況をしっかりとよく見てみろよ。この場所で本当の意味で生きている人間は、本田未央、アンタだけだ。最弱とはいえこちとらこれでも現世に蘇った英霊様だぜ? ならもう運命は決まったも同然だろ。一蓮托生、旅は道連れ世は情け、そっちがマスターでオレがサーヴァント。つまりはどっちかが囮になってる間にどっちかがトンズラこく関係ってこった」

「もしそれで君が先に逃げ出したりしたら、十秒後にはわたしが背後からどすりとやってる」

「ハッ、違いねぇ」

 ……本当に、わたしはどうしてそうしないのだろう。

 このよく分からない相方、アヴェンジャーとは、私を12、3人程度殺した所で出会った。

「面白そうなことやってんじゃん。オレも混ぜろよ」

 そんな子どもの遊びに混ざる大の大人みたいな言い草で、アヴェンジャーはわたしの作業に付き合い始めたのだ。

 私を殺す。

 厳密には、一つ一つの教室の中で行われている記憶の再現と思しき寸劇、そこに出てくる『本田未央』という役名を負ったナニカを、その教室(せかい)から消していく。それに気づいて抵抗してきた他雑多なエキストラも、同様に処分する。

 こんなことをして何か成果があるのか。何かが変わったりするのか。どちらもわたしには分からないことだ。ただ、やるべきだと思ったから続けている。それを初めに『作業』だと評した鑑識眼だけが、アヴェンジャーを評価することのできるただ一つの要素と言えるだろう。

 手当たり次第に一番近い教室、次に隣の教室、次、次、次。

 赤いどろどろで塗りたくられた窓が背後にずっと増えていくのを振り返って見るたびに、わたしが来る前と後、どちらが本当の地獄だったのか、その答えさえもあやふやになっていく。

「決まってる。どっちも地獄だったんだ。血の池地獄は地獄ってついてるんだから当然地獄だが、死人と同じ部屋に居続けるってのもなかなかに苦痛だ」

 その血の池地獄の半分量より少し多いくらいを担っていた張本人が言った。

 ——人殺しにかけちゃあ、オレより上には二人くらいしか名前が上がらねえよ。

 と、得意げにのたまっていた言葉に嘘は無かったらしい。らしいが、それでもあれだけ全力で息を切らしておきながら、淡々と作業していたわたしを僅差で上回っただけだなんて。ただ一つの得意分野でこれなら、やっぱりこのサーヴァントの使えなさは天下一品としか言いようがないみたいだった。

「おい。何か不満があるんなら正直に言ったらどうだ、マスター」

「別に。君といっしょに聖杯を取ろうなんて言うんなら、まあ文句は百じゃ効かないけどさ。ここには人間以上に強いやつはいないんだから。なら、君は間違いなく最強でしょ。ね、アヴェンジャー」

「ま、そうなんだけどよ。素直に喜んでいいのか、それ」

「喜んでいいと思うよ。他に強い人がいなくて良かったね」

「イエーイ! オレってば超ラッキー! ……これでいいか、マスター」

「上手上手」

 拍手とともに心からの賛辞を贈る。

「そこ、惨事の間違いじゃね?」

 ノータイムでばれた。(モノローグ)まで読まれた。

「でまあ、そんな下らねえ茶番はどうでもいいんだよ。いや、こんな茶番でいいんなら、オレの目的上、延々と続けるのも悪かないが」

「目的?」

 そんなものが、この殺人鬼にあったのか。

「心を読まれること分かった上でんなこと言うたあ、中々に肝が据わったマスターだ。殺したくなってくるから止めてくれ」

「じゃあ先にそっちの方からやめてくれる?」

「そら無理だ。耳を塞いだって勝手に聞こえてくるんだから。ああ、一狩りやってる間は意識を裂いてる暇がないんで、てめえがぎゃんぎゃん心の中で泣き叫んでいたことも憶えちゃいねえよ。安心しな」

「人のモノローグを勝手にねつ造するのもやめて」

 アヴェンジャーは顔と思われる個所を天井に向ける

「……別に、あながち完全な間違いってわけでもねえと思うがな」

「————じゃあなに? もしかして君の目的って」

「おう。今まさにてめえが考えてるままだ。そうだよ、オレの目的は——」

 

「——本田未央、お前を殺さないことだ」

 

 

 半分以上、自棄(やけ)になっていたらしかった。

 次の教室のドアを強化した足で強引に蹴破って、だれかれともなくナイフを押し当て引き抜いた。

 頸椎、咽喉、心臓に肺に胃袋。いつしか一刺しでは済まなくなって、最終的には拳で殴っていたみたいだ。指の何本かがひしゃげていた。

「ありゃりゃ、これまた派手にやったもんだねぇ。腹いせにしたってさ、ここまでやるのはあんたらしくないんじゃないの?」

 わたしが自分に応急の治癒魔術をかけるかたわら、アヴェンジャーはのんびりとした調子でドアがあった場所をくぐる。そんな彼に向かって正直な気持ちをつげた。

「楽しくないね、アヴェンジャー」

「あ?」

 呆然と、自分に必要なことだけをしながらこぼした、ただの現状報告だった。確認に口元を手で触ってみる。口角が上がっていたりなんかはしていなかった。

「ぜんぜん面白くない。ぜんぜん気持ちよくない。わたしはここに、自分のしたいことをしに来たはずなのにさ。それなのに、ぜんぜん楽しくないんだよ。ねえ、どうしてかな? アヴェンジャー」

「……お前のやりたいことが、コレじゃなかったってだけだろ」

 たったそれだけなのだと。

 わたし/私が、九歳の誕生日に人でなくなってから続けてきたこと。血を流して涙をこらえて、家族の思い出(ぬくもり)を忘れて凍えそうになったこの数年間を、アヴェンジャーはたったそれだけのことなのだと言い捨てていた。

「てめえは殺人鬼なんてガラじゃないんだよ。殺人衝動もなく、殺しに生の意味を求めることもしねえ。ただ、必要だからと自分に言い訳をして、やりたくもないことを我慢し続けていただけだ。その程度のお前が、いつか楽しめるようになるのかもしれないと。いつかオレ達(こちら)側に来れる日がやってくるかもだなんて、本気で思っていたのか?」

「……いつか、そうなれたらいいとは思っていたよ」

「ならオレがはっきりと言ってやる。お前が悪に慣れることはない。本田未央は自らの悪、自らが犯した罪の重さを一生抱えて生きていく。お前の苦しみは、たとえどれだけの聖人に出会ったとしても、どれだけの成功を果たしたとしても、生涯癒えることはない」

「だから……だからわたしは、私を」

「————それでも、お前は生きるべきだ」

 アヴェンジャーは堂々と矛盾を口にする。

 ……どうして。いったいぜんたい、何が彼にそこまで言わせるのか、させるのか。わたしには分からない。

「だって……だって君は復讐者(アンリマユ)だ。ただ、この世全ての悪であれと望まれただけの、名前もない、誰でもない誰か。聖杯に取り込まれて、そしてその器ごと壊されて霧散したはずの無色の力で」

 知りもしない、耳に覚えもない事実が、簡単に口端を滑り落ちていく。けれどアヴェンジャーは、そんなことは別段なんでもないことなんだと、

「ああ、そうだ。オレなんざ所詮は偽物だ。てめぇが捨てきれなかった記憶の残滓に必死こいてしがみついて、みっともなく皮として被っているだけの、役名すら自分じゃ持ちえない三流」

 少しも否定することなく受け入れた。受け入れて、認めた上でなお、アヴェンジャーの言葉は止まらない。

「でもな、そんな大根役者に、代役の依頼があったんだ。こっちとしちゃあ、そりゃ契約条項無視の完全事後承諾でも飛びつくしかないだろ」

「代役……? アヴェンジャー、君はいったい、何を言って」

「伝言だ。一度しか言わねえから、ありがたく脳髄に焼きつけていけ」

 

「————生きろよ、未央。

 月並みだが、生きてさえいればそのうち、良いことだってあるさ」

 

 その声は、その響きは、紛れもなくわたし/私が聞いたことのあるもので。

 同時に、わたし/私が遠い昔に忘れてしまった誰かの体温を感じるもので。

 その、声の主は、忘れようもなく。

 

「お兄、ちゃん……?」

「優しい人たちに出会って、笑いあえる友達を作って。

 それから、大切な誰かとも巡り会って。心の底から愛しあえるような。

 そんな、ささやかであたたかな幸せをつかめる日だって、いつかきっとやってくるさ」

 

 崩れ落ちそうになる足を強引に踏みとどめる。さながら地面に突き刺した棒のように立ちつくしたままで、アヴェンジャーの黒い人影を睨む。

「……そんな、そんなことを言うために、わざわざわたしに付き合ったりなんかしてたの?」

「まあ、だいたいそんなところ」

 懐かしい響きは今の一度で打ち止めだったらしい。無性にむかつく元の皮肉声に戻っていた。

「お前が無駄なことしてたんで、そのまま無駄に打ち込んでもらうべく、この無駄をオレが手伝う価値のある意味のある行為に見せたかったのさ。……まあ見たとこ、十中八九思惑ハズレに終わっちまったみたいだが」

「……そうだね。ぜんぜんそうとは思えなかったよ」

「だろうな。あーあ、無駄働きしちまった」

 せいせいしたけどよ、とアヴェンジャーは付け足す。

「あとは、まあ、個人的にもさ。お前を殺したくないって思ってたんだぜ。オレ」

「はあ? この期に及んでなんの冗談?」

「うわひっでーの。そこまで引かなくてもいいだろ、マスター」

 ついさっきせいせいしたとか言っていたやつが何を言うか。

「じゃあ何? 本気でわたしを殺したくないとでも思ってたの?」

「あたりまえだ。さっきから何度も言ってるだろう。それとも何か、お宅、本気で殺されたがって……ああいや、そういえばお前、自殺しにここに来たんだったわ。やっべ、すっかり忘れてた」

「……あのさあ」

「でも、マスターもマスターだ。本当に自殺したいんなら、ここに閉じこもってすぐに自分の喉か腹でも掻っ捌けばよかったんだ。どうもさっきからお前、今の自分と、成長した後の自分とを区別したがっているみたいだが、そこに意味なんてないぞ。どっちも本田未央でお前そのものなんだから」

「…………」

「だから、変に道草食ったりなんかせず、真っ先に首をくくるなりしてりゃあ、オレが止める間もなくお前の自殺は済んでいたんだ。だって言うのにお前は、自分よりも際限なく続けられる過去の再演を、その中の自分を殺し続けた。そうすることであたかも、自分が救われるのだと信じているかのように。

 ——なあ、そんなに嫌いかよ。人殺しだってことを隠してごまかし続けてきた自分のこと」

「……ああ。嫌いだよ。当たり前じゃんか」

 吐き捨てるように、精いっぱいの憎しみをこめてアヴェンジャーに返答を返す。

「私なんて、本田未央(わたし)なんて、生きている価値もない屑みたいな生き物なんだから。誰かを食い物にすることでしか生きていけないのに、そのくせ、他の誰かに返せるものが何も無い。目にした何もかもを諦めて、手にした温かな幸せも取りこぼして、ただ死ぬことだけは何よりも怖かったから……! そんな理由で、わたしは……!!」

「——そんな理由なんかじゃない」

「————っ」

「それでもお前は、必死に生きてきたんじゃないか。お前は、不器用で無様だったけど、ずっと、少しでもマシな自分になろうと頑張ってきた。それは成長した後のお前だって変わらないはずだ。

 人生の下手くそなりに努力して、なんとか自分を良くしようと足掻いてきた。いままで、苦しみながら呼吸を続けてきた。

 ……そういうことができる奴らのことをさ、ひとまとめにして善良な一般市民って言うんだよ。

 オレの目には毒にしかならねえ連中だ。ここにいたのだって、みんなそういうやつらだっただろ。見ているだけで虫唾が走る(まぶしすぎる)。どいつもこいつもボンクラ(一点物)で、まったくお前らときたら、全員が全員、憎む(生きる)価値に溢れている」

 

「オレがあんたを生かしたい理由なんてせいぜいこんなもん。なあ、なんとも復讐者(オレ)らしい理由だとは思わねえか? マスター」

 ……憎いから殺すのではないと、アヴェンジャーは言っていた。

 彼は、人間すべてを憎んでいる。その上でどうしようもなく好いているらしかった。

 隣人が隣人の罪を許し合い、誰も彼もが憎み合うことの無い世界。

 そんな優しい未来を夢見た一人の青年(えいゆう)は、あり得るはずがない空想の中だけのおとぎ話なんだと嗤いながら、きっといつかは叶うはずの確かな希望でもあるんだと本気で信じているようだった。

 その可能性に、自らが苦しみ犠牲となっただけの価値があるのだと、あたたかな希望を託して。

「……わたしは、君のことなんてよく知らないよ。わたしの、本田未央のサーヴァントは生涯一人だけなんだから」

 それでも、きっとわたしにはその希望(みらい)は重すぎる。

「そうだな」

 たぶん、それが決定的な拒絶になったんだと思う。

「つまるところ、オレなんかじゃあ、お前ひとりとして救うことはできないってわけか」

 何か小さなつながりが胸の中でほどけてしまった。ついさっき聞いたはずの彼の言葉さえ、彼のことをわたしがどう呼んでいたのかさえも、かすんで、不確かなものとしてどこかへ流れていく。

 とっくの昔に慣れきった感触。胸の内に広がっていく空虚な冷たさもどこか懐かしくて。

「————ハ。けどまあ、これはこれで上出来だ」

 それを、もう足先さえも無くなってしまった黒い塊が笑い飛ばした。

 瞬きするたびに崩れて、何かの染みみたいになっても、それでも、ソレは笑っていた。

「まともにやり合えもしねえ。斬り合ったら3秒で斬り捨てられちまう。宝具だって足止めにしか使えねえくそったれなポンコツで——ああ、それでも、それで十分だ。

 時間稼ぎなら、十分に務まった」

 廊下の染みが何かを言っている。わたしにはもう意味のないことだ。けれど。

「てめえは自分の顔さえまともに見れない根暗で、オレはお前らを憎む事しかできねえ復讐者。だから、初めからオレにはお前を救うことなんてできやしなかったんだろう。せいぜいオレにできたことは、お前を助けられる誰かが来るまでの時間つぶしだけだ。だが———」

 まともに聞いてさえいなかったわたしの耳に、その最後の言葉だけがどうしてか深く染み込んだ。

「———だが、それでもせめて上を向け。陰気(ネガティブ)なお前を救うにふさわしい、陽気(ポジティブ)なヒロインのお出ましだ」

 

 

 染みはいつしか校舎全体を覆って、そして諸共に崩れ去った。瓦礫になることなく、そのほとんどが砂と黒い石くれになって足下に沈んで溜まると、そこに、不規則な格子模様を描いてゆらゆらとした光が差し込んだ。

 長らく光を見ていなかった気がして、わたしは思わず頭上を見上げる。わたしの他に何もいない冷たい海の底から海面を見上げている。

 その中を、一匹だけのクラゲがゆらゆらと揺れながらこちらへ向かって落ちてきていた。逆さまになった月のように見えた。

 陽の茜色も射さず、星のきらめきも届かない、暗い暗い水底に偽物の月が降りてくる。

 わたしはただみとれて、この一瞬だけは本当に何もかもを忘れて、それが底まで落ちてくるのを待っていた。

 ゆっくりと影は大きくなっていく。その中に、ゼラチン状の円球の内側に人が浮かんでいるのが見えた。

「————ん」

 内側の人が何かを言っている。

「み————ちゃ————」

 それも近づいてくるたびにはっきりと聞こえるようになっていって。

「か————え————ろう」

 中身をきちんと聞き取れるようになったころには、その人はしっかりと底に足をつけてわたしの目をまっすぐに見つめて言っていた。

「迎えにきたよ、未央ちゃん。さ、帰ろう」

 こんな場所には少しもふさわしくない、あたたかな雰囲気の女の子だった。

「…………お姉さん、誰?」

 そして、わたしの知らない人だった。

 

Interlude out




⁂以下、次回予告のような何か(読み飛ばし可)


 おかしいなあ。未央編三話で閉めるはずだったのに、どうしてこうなった。

 そんな事情はさておき、聖杯戦争を巡るみおあいの重い重いお話も次回で一旦幕となります。
 ここの未央にとって藍子はいないと死ぬ(セルフ)な存在との裏設定があったのですが、このエピソードはまさしくこれを主軸としています(本当はもう一つ『アイドル』が心の拠りどころとしてあったりするのですが、十二歳の未央にはこれも無いようなものなので)。一方、After編最初のエピソードで未央に自分の事を忘れられることが怖いと言っていた藍子は、あれから一年と少しの時間を経て、成長したようなそうでないような。
 果たして未央はもう一度立ち上がることができるのか、
 未央に藍子はどんな言葉をかけてあげられるのか。
 次回After5.5話『これまでとこれからに、■■■■■の気持ちをこめて』。ご期待ください。



 まあ、タイトルの時点で半ばネタバレしてるようなもんですけれども。


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