思っていることが顔に出る──もしそうならこの世界はどれほど良かっただろうか。
技術の進歩は人々を笑顔にする──そんな幻想を、きっと誰もが抱えていた。
空を遮るほどのメガロポリスと、太陽の代わりに地を照らすネオンライトの世界を生きる人々は、皆一様に暗い顔をしていた。ある者は大粒の涙を流しながら携帯を操作し、ある者は怒りに満ちた表情で信号を待つ。その表情に変化は無い。まるで、その表情、その感情しか持ち合わせていないかのように。
実際、彼等はその「顔」しか持ち合わせていないのだ。感情を可視化させようと発展した化学は触れてはならない世界を覗き、人間の感情が見える部分であったはずの表情を世界から奪い去っていった。産まれた時に割り当てられる表情のみで、その生涯を過ごすこととなる。たとえ、その表情にどれほどの障害があろうとも。
とりわけ、肯定的な表情はほぼ全て失われた。理由は至極単純、当時を生きた者は表情の欠落により絶望し、その表情が固定されたから。新たに産まれた者は、産まれたことに絶望し泣いてしまうから。笑顔など、もう誰もが忘れたものだった。
ただ、一つだけ。表情を増やす方法がある。
表情を記憶した仮面を買うのだ。
「……仮面はいらんかね〜。入荷したよ」
太陽もネオンの光も差し込まない、あるのは白く明るい照明達。地下街に一人の仮面屋がいた。店も構えず、まるでバザーのように絨毯を敷き、その上に商品である仮面を並べている。彼の表情は「無表情」。そして並べられた仮面も無表情や困り顔、泣き顔や絶望顔ばかりだった。
売れる筈がない。何故ならその様な表情は皆「持っている」のだから。求められているのはプラスの感情。嬉しい、楽しい、笑顔。したり顔、にやけ顔、或いは満面の笑み。
ある筈がない。何故ならその様な表情は皆「持っていない」のだから。仮面は誰かの表情を記憶して創り出される。記憶する表情が無いものは、創る事すら出来ないのだ。
当然のように、彼の開いた小さな仮面屋が繁盛することは無かった。彼のように仮面を創り、売る者は少なくないが、その殆どが大した儲けにもならない。九割九分の人間が、見向きもせずに目の前を素通りしていくだけだ。笑顔で気前良く接客が出来たならまた違ったのかもしれないが、その文化は遠い昔に失われてしまった──出来ないのだから。
興味を示すこともなく、目の前を過ぎていく人の波の流れを眺め続けるのはやはり辛いものがある。自分の存在価値が失われているのではないだろうか、嗚呼、やっぱりこんな仮面なんていらないのか……そう感じ、頭を抱えて叫びたくなる。しかし、どれ程そのような思いをしようが、自分の表情は変わらない。どれ程辛くても、顔は無を示したままだ。
それは裏を返せば──どれ程嬉しくても、その表情に変化が起きないことも意味する。
「面白いお店ですね」
だからだろうか。足を止めて仮面を見つめる少女が、フードの下から自分に向かって「微笑みかけて」くれたその瞬間に、どうしていいか解らなくなってしまったのは。
決して、特別整った顔立ちでは無かった。道行く人を眺めていれば、少女より整った顔立ちの女性を見つけるのはそう難しくないだろう。
それでも、仮面屋は今までこんなにも魅力的な少女を見たことが無かった。「笑顔が眩しい」とは先人はよく言ったものだ、と衝撃すら受けた。
笑顔を持った少女は、きっと。仮面屋の世界の中で何よりも綺麗だった。
少女は一つ一つの仮面をまじまじと見ては、その前に掛けられている値札を見て「うわっ、高い」と正直な感想を漏らす。しかし表情は変わらず笑顔のままで、心底楽しそうに見えた。無論、それは表情が笑顔しか無いからであって、心の中はどのような感情なのかは知る由もないのだが。
──その笑顔が羨ましい、と感じた。
この世界に産まれ、この世を生きる人々は皆誰しもそう感じるだろう。笑顔という概念は、古い写真や記録データでしか見ることの出来ないもの、失われた遺産のようなものなのだ。それを求めるのは恐らく仮面屋の彼だけではない。世界中、全ての者が彼女を求めるに違いない。
笑顔が、欲しい。彼女が欲しい、その感情が欲しい。その表情から見える世界が欲しい、そんな表情を作れる世界が欲しい、彼女の世界が欲しい──。
気が付けば仮面屋は立ち上がり、少女のフードを取っていた。
笑顔が失われた世界で、笑顔が求められる世界で、笑顔の少女のフードを取ればどうなるか、恐らく仮面屋である彼が最も分かっていたはずなのに。
それでも、彼はその美しい顔を、失われた筈の幸福の象徴を、今すぐ、ちゃんと見たかった。
──地下街が、混沌にどよめいた。
たった一つの笑顔が見つかった、ただそれだけなのに。先程まで見向きもしていなかった道行く人々が、足を止めて少女と仮面屋をまじまじと見つめていた。恐らく、誰もが驚きに満ちた感情を持っていただろう。しかし、その表情に張り付いているのは恐怖、怒り、悲しみ、苦しみ、痛み、虚無ばかり。そしてその負の表情の視線を一手に受けた少女は、笑顔を崩さぬまま。無表情を貫いている仮面屋の内心は、やってしまったという後悔と、少女を助けなくてはという焦りが支配していた。
一歩。誰かが一歩踏み出せば、少女を求めてこのどよめきが地獄と化す。誰もがそう理解していた。だから、最初の一歩は──
「お嬢さん、こっち!」
最初の一歩は、仮面屋が少女の手を掴んで走り出さなくてはならなかった。無表情のまま切羽詰まった声を出し、無表情のまま必死に走り出す。急な発進に笑顔のまま驚いた少女も慌てて笑顔で走り出し、それと同時に地下街は人の波でうねりを起こし始めた。
あれはなんだ、笑顔じゃないのか、そんな筈ないだろ、いや間違いない、私は見た!私も見たい、あの仮面屋だ、失敗した、あいつなら笑顔を売ってくれる、探せ、追え、笑顔を寄越せ、笑顔を見せろ、笑いたい、笑え、嗤え、わらえ。
たかが一つの笑顔で世界が震えるなど、或いは笑い話のような話かもしれない。否、笑えない程に、人々は笑顔を求めていた。
仮面屋の心の中にあったのは、自分が招いた地下街のうねりと、それ程までに誰もが求めていたという事実に震えながらも、世界に発見された「無い」とされていたものを、今自分が手にしているという優越感、そして少女を助けているという英雄感、小さな下心に満ち溢れていた。きっと、今感情が表情に出ていたなら、あまりにも混沌としていてひどい表情になっているのだろう。たとえ鏡が目の前にあったとしても、見ることは叶わないその表情。どれ程ひどくてもいい、その表情は少し見てみたかった。これ程までに様々な感情が渦巻き、息を切らせながら走るなんて初めてだから。
やがて仮面屋と少女は、誰もいない地下のゴミ捨て場へ逃げ込んだ。売り物だった仮面、商売道具だった絨毯は全てあの場所に置いたままだ。しかし、仮面屋にとってそんなことはひどく些細なものだった。彼女の表情から仮面を創り出すことが出来れば、それら全てを失っても買い戻し、尚有り余る富を得ることが出来るのだから。彼女を失ってはならない、彼女を手に入れなくてはならない。
少女はフードを被り直し、笑顔で辺りを見回した。そして仮面屋の方を見て、笑顔で問いかける。
「楽しいですね」
その表情と感情は一致しているのだろう、心底楽しそうな表情で、心底楽しそうな声色で彼女はそう言った。余りにも能天気で、楽観的なそんな言葉に仮面屋はどっと疲れを覚え、その場に倒れ込んだ。
「どうして、私のフードを取ったんですか?」
単純な興味を持った声色。そこに一切の責めたような棘は見当たらない。
「……貴方が、笑顔だったから」
「あ、やっぱり私の顔って珍しいんですね」
少女はまるで笑顔のことを知らないかのように自分の顔をぺたぺたと触っては笑顔で首を傾げた。
「私、記憶無いんです。なんで私だけこんな可笑しな顔してるのか、そもそも私が誰なのか。もう何も解らなくて」
あっけらかんと、満面の笑顔でそう言う彼女。まるで、笑顔以外の「感情」を失ってしまったのではないかと思う程に、どうあっても彼女はその表情と同じ感情に生きているように感じられた。
羨ましかった。
表情が人格を創る──なら自分の人格は「無」ではないだろうか?そう感じた時、何故か心の中にあったのは「無」ではない、圧倒的に多様な心を押し固めた「何か」だった。怒りであり、恍惚であり、妬みでもあり、嬉しさでもある。赤、青、黄、緑、紫、白、黒、黒、黒、黒……様々な色が混じった不純物だらけの黒だった。
「記憶は無いのに、僕と違って感情がある」
「え?」
気が付けば、彼はそう呟いていた。顔という名の「仮面」は無を貫いていようが、全身から溢れ出す感情が彼の心の空白を物語っていた。溢れ出た結果、黒かった心が無へと帰す。汚れは、二度と乾かないと誰もが知っているのに。ならば、混沌の黒すらそこに留めておけば良かったのに。
「記憶があっても、感情が無いならそれに意味はないじゃないですか。だったら僕は一体どうやって生きてきたんですか」
「僕だけじゃない。僕達は一体なんだと言うのですか。負の表情のみを植え付けられて、正の感情を忘れ、与えられた一つの仮面に負を抱きながら、歩いてきた道全てが黒に染まる僕達は何なんですか」
「そんな黒ばかりの道しかない記憶なんか、無くていい。あって欲しくない。貴女はそんな忌まわしいものも持たず、誰もが望む正しい感情を持って正しい光を浴びて美しい表情を貰い、正しく生きている」
「さっきの人の波もそうだ。僕達は黒で塗り潰すしか出来ない。僕達はそれが正しくないと知っているのに」「そうしか出来ない」「仮面を創り、それを着けても結局負しか生まれない。何故なら僕達は負しか知らないから」
「正の感情ってどんなものなんですか。正しい感情は気分がいいのですか」
心が空になっていく。少女は笑顔のまま、そこから動けずにいた。感情の奔流に、飲み込まれるように。
うねりが、大きくなる。
「この世界は正しいですか。陽もささず負の表情で溢れたこの世界は正しいですか。僕はそうは思わない。けど存在している以上これが正しいんです」
「だから正しいのは僕達で貴女は正しくない」
「正しい感情は正しくない」
「よこせよ、その顔、その表情、その感情、その世界、その生き方、その宇宙」
お願いします、その世界をください。
僕は正しくなくてもいいから正しい世界が見たい。
笑っていい世界が見たい。笑える世界が欲しい。
笑いたい。笑われたい、笑わせたい。
うねりが近付いてくる。やがてこのゴミ捨て場は津波のような荒らしを受け、無に帰すのだろう。
仮面屋のような、無に。
そして、仮面屋は無を放り捨てる。急がなければ。うねりが全てを飲み込む前に仮面屋はもう一度フードを取り──
「……そうか、これが笑顔」
「これが、笑顔!凄い、なんだこれは?あは、あはははは」
嗚呼、なんて。なんてことだろう。
「こんなにも虚しい」
創り出すことが出来た仮面は一つだけ。
笑顔を手に入れた仮面屋の瞳からは、涙が零れていた。
笑顔を手に入れても、それを共に喜んでくれる者はいない。笑顔を見てくれる者もいない。世界の見え方も変わらない。この感情が正しいのかも解らない……否、間違っていることが解る。
うねりが、迫っていた。
地下街から始まったうねりは、いつしかメガロポリスを飲み込もうと言わんばかりの溢れる人となっていた。其れはきっと、彼が生み出し、溢れさせてしまった混沌の黒と同じもの。
うねりはフードを取った少女の固まった笑顔を見て、まるで神を見つめるかのような「表情になった」。
「……売り切れだよ」
仮面屋がそう呟いた途端、うねりは轟音をあげて固まった少女を祀り上げ始めた。服は脱がされ、天に掲げられ、大粒の雨を降らせる。
仮面屋の笑顔に、罅が入った。
次は僕が神になる。
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