転生したら分霊箱だった件 (@ゆずぽん@)
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Prologue
Page 0 「最悪の覚醒」


誤字・脱字・誤用は気付いたら可能な限り修正します。
それでも誤字報告してくれた方ありがとう、愛してる。
たまに設定ガバったり文章力も画力も更新速度もうんちだったりしますがよろしくお願いします。

当然ながらネタバレを多分に含むので原作未読の方はお気をつけ下さい。
ファンタビのネタバレもがっつり出してる箇所があるので避けたい人はマジで注意。
尚、予告無しに本文を改稿することがあります。ご了承下さい。

「こいつ更新遅ぇな」って時は、大体最新話の後書きに現況を追記します。
万が一失踪したら分霊箱に乗っ取られたとでも思って下さい。



 ―――あいだだだだだだだァァァッ!!!?

 千切れるッ、千切れるううううぅぅぅッ!!

 

 突如走った激痛。

 全身をまるで雑巾絞りのように強く捻られる感覚に、このままでは上半身と下半身が分離してしまうのではという恐怖からみっともない悲鳴を上げる。

 なんだこれは!?まさかガン?いや心筋梗塞??未知の病魔かッ!!?それとも本当に事故かなんかで真っ二つに???

 全身を巡る悍ましい痛みの中でも人間の脳というものは案外まともに機能しているようで、このような目に遭った原因を思いつく限り並べていく。そうだ、急に痛みを感じるなんてやばい病気か突発的な事故以外考えられない。特に一際強い痛みの発生源は主に胸部で、心臓をやっちまったのかと頭の隅で絶望する。生物の急所とも言える臓器、ここが壊れてしまえば蘇生は困難―――自分は、死を迎えようとしているのだろうか?

 あんまりにも理不尽で突然な痛みと死の恐怖に耐え切れず身をよじり―――よじり……あるぇ???

 

 ふと、気付いた。

 四肢がない。苦痛でとっくに胸を抑えているであろう両手が、無い。見えない。立つことも座ることも出来ず折り畳むしか無かったであろう両足も、無い。見えない。というか、手足の感覚無くない…?やばすぎでしょ、これ。

 もしかして、何らかの要因で心臓を損傷してしまい、血が全身に通わなくなって感覚喪失した、とか?でも視界に捉えられない理由が解せない。視覚も失った?嘘だろ、無いわ。

 そしてさっきからずっと絶叫したり呻いたりしてたはずなんだけどな…?自分の声が、聴こえないのよ。耳もおかしくなったのだろうか。これはいよいよヤバい。つーか、声を上げてる感覚も無いわ、声帯、機能してる?うっそだろおい…。

 まさか嗅覚も?と思ったが最初から何も感じていない。匂いなんて普通に清潔な部屋とかに居たら無臭だよね。…鼻の機能に関しては正常かどうか何とも言えないな。鼻で気付いたけどさ、自分呼吸してなくね?息苦しさは感じないけど……肺もヤラレチャッタのか?

 

 そこまで思考を巡らせると、今度はいつの間にやら全身を襲っていた痛みがさっぱり消え失せていることに気付いた。

 そういえば途中からやけに冷静に身体機能について考えられてると思ったわ…。嘘でしょ。あんな、いっそ死にたいとも思える地獄の激痛がこんな短時間で、綺麗さっぱり無くなります?まあ、無くなってくれたのなら有り難いことこの上ないのだけれども。

 さて、現状把握の時間だ。

 

 さっきも感じたけど胸がめっちゃ痛かった!間違いない、これは心臓やっちゃってますわ。身体の感覚が失われている理由も説明がつく。と言っても自分医者じゃないしそういう専門知識も無いので、血が巡らなくなったらこうなるんじゃない?という勝手な理屈で推測しているだけなんだけど。

 

 うーん、しかし思い出せない。どうしてこうなったんだっけ?痛みに襲われる前、自分はどうしていた?病気とかがいきなり発症した、とか?信号を渡っている最中に車にでもぶっ飛ばされたのか?…何も思い出せない。

 落ち着け、あんな激痛を味わった直後だ。脳が混乱して、上手いこと記憶を引き出せなくなっているのかも。この件は保留にしよう。

 今重要なのは、自分の身体がどうなっているか。動かしてる訳じゃないし、そもそも感覚無いし、十中八九地面にぶっ倒れてる筈。触覚も失ったのか、倒れている実感無いけど。

 

 今何時何分で何処に居るのかもさっぱり解らないが、通りがかった誰かに救助してもらうのを祈るしかないか。そもそも身体が動かないから、こうやって思考を巡らせるしか自分に出来ることはない。

 しかし痛みが消えたとはいえ、感覚機能が戻ってくる気配が全然しない。現状はどちらかというと危険な方に傾いているだろう、主に死という下り坂の方に。

 …でも不思議だ。さっきはあんなに死ぬのが怖かったのに今は全く感じないぞ。感覚はやはり失ったままで、暗闇しか見えないし音もしない空間に放り込まれたようなものなのに、恐怖というものを微塵も感じない。

 

 …いやこれ、時間の問題か?

 意識はあるのに身体が動かないって、普通発狂もんだよ。いや発狂する声も出せんけど。こういうの何かで見たな…確か『閉じ込め症候群』って言うんだっけ?うわ、マジヤバだわ。一生このまま治らなかったらどうするよ?勘弁してよ…

 

 ―――と、どんどんネガティブな方へ流れていく『ボク』の思考は、これまた唐突に遮られた。

 文字が―――黒いインクで描かれた文字が、脳内の奥深くに、魂の根底に刻み込むかのように、「侵入(はい)ってきた」のだ。

 視覚というものが機能していないこの状況で、その文字の『色』と『形』がはっきりと、恐ろしいとさえ感じる程鮮明に脳に焼き付けられる。

 

 "TOM MARVOLO RIDDLE"

 

 こんな状況で、場違いにも美しいと感じる筆跡で『ソレ』はボクの意識―――いや、魂の中にスルリと潜り込んできて、居座った。

 何で、解るんだろう。

 何で、視えるんだろう。

 だって自分は今、原因不明の病気もしくは事故のせいで、目なんか全然視えないのに―――

 

 それでも、英語で書かれたその文字は、唖然となっている自身の内側へ強く強く染み込んでくる。

 とむ、まーぼろ、りでれ…?

 あっこれ、名前か!

 トム…、マー…?…英語の人名なんて読み方解らんがな!てかなんだよこれは。目が視える訳じゃない。今だって視界は真っ暗闇の中なのに、なんで文字だけが理解(みえ)るんだよ?

 またまた唐突過ぎて何が起こっているのか解らず、不可思議なこの現象をどうしたものかと思っていると―――

 

 うぉわ!?

 

 グン、と全身を引っ張り上げられる感覚。

 そう、自分がまるでクレーンゲームの景品になったかのような。

 …もしかして感覚機能が治った感じですかねこれは。ワンチャンあるぞこれ!なんて呑気な思考に浸っていた数秒前の自分を叱咤したい。

 引っ張られる力に抵抗もクソもなく、そのまま暗闇の中を浮上する感覚に身を委ねていると、霧が晴れるかの如く視界が開けた。

 

 暗闇しか映さなかった瞳は、目の前のページを開いた状態で地面に置かれている本…のような物を視界に捉えていた。

 いや、本じゃない?ページはどれも真っ白で、何一つ書かれてないから……新品のノートか何かか?なんて考えていると、

 

 「これで…完成だ……!!」

 

 男の声がした。若くて透き通るような、それでいてはっきりとした自我を感じられる力強い声が。

 声の主を探そうと首を動かせば、すぐに視界に入ってきた。かなり近い場所、それも白紙の本の傍にその人物は座り込んでいた。恥ずかしながら、こんなにも近くに居たのに声がするまで全然気付かなかった。

 …あれ、そういや感覚戻ってる?目が視えるし他人の声が聴こえる。ほんとに感覚治った!?マジかい…今のうちに確認しないと…ここどこだ?ていうか君はどちら様ですか?

 

 男を見る。黒髪と赤い瞳をした、端正な顔立ちの青年。わーお、有名な俳優さんか何かで?…何か顔色悪いね、大丈夫かな?てか、何だろうそのローブは。ファッションセンターでも今時売ってない。俳優の衣装ってやつ?

 このお兄さんが助けてくれたのかな?いや、何かおかしいぞ。苦しそうに胸を抑えて、肩で息をしている。どちらかというとこの人の方が助けがいるんじゃあ?てか、ボク、なんか無視されてない…?すぐそこでボクが無遠慮な視線を向けているのに、こちらを気にする素振りもないぞ。

 

 …お兄さんも目が見えなくなった?でもさっき喋ってたし。何じゃこの病気、ウイルス感染かなんかなの?

 とりあえず「大丈夫ですか」と声を掛けたつもりなのだが、反応がない。相変わらずこちらを見ることすらしない。ただ、その血のような瞳は目の前の本に注がれている。

 こりゃあダメだ。お兄さんは声を出せるようだがどうもこちらを認識出来ないようだ。

 意思の疎通を諦め、とりあえず周りを見渡す。…何か水っぽい。蛇口が見える。個室と便器がある。洋式だ。ここもしかしてトイレってやつですか?あらやだ、こんな所で自分はぶっ倒れるなんて痴態を晒し―――、ッッッ!??

 

 トイレのような空間を見渡していると、床に倒れている人影のようなものが目に入った。

 思わず固まる。倒れているのは少女だった。印象に残るのは厚ぼったい眼鏡。仰向けで倒れていて、眼鏡の奥の両眼はゾっとするほど不気味に見開かれている。

 

 ―――まるで、死んでいるような…

 

 そこまで考えて、急に気分が悪くなってきた。ここがトイレだと解っているが、脱力に抗えず床に両手を付いてへたり込んでしまった。

 少女は、ピクリとも動かない。時間を忘れてしまったかのようだ。呼吸で胸が上下することも、瞬きでその目が閉じられることはない。ただ見開かれているだけだ。

 …自分達は、ここで死の病気にでも罹ってしまったのだろうか?

 直接触れて確認した訳じゃない。でも、あの少女はもうきっと、動かない。見開かれた両目が自力で閉じられることは永遠にない。

 さっき感じたあの激痛は、ひょっとしたら命に関わる病気の症状で、感染するもので、この場にいた3人がその病気を発症してしまった…?

 特に少女の容態が酷くなってしまい、先に亡くなってしまったとか…?

 

 そんな的外れな推測を連ねていたボクを、更なる衝撃が襲った。

 

 『う、ぐっ!?』

 

 咄嗟に口元を抑えた両手の隙間から呻き声が漏れる。痛みではない。しかしそれ以上に不気味な感覚が脳内に走る。

 頭蓋骨をこじ開けて、剥き出しになった脳みそにべしゃっと、乱雑にペンで文字を書かれているような―――

 

 『あ、あぁぁああああッ!』

 

 また、あの時と同じように。

 意識に―――脳内に―――魂に、黒い文字が染み込んでくる。

 

 "I AM LORD VOLDEMORT"

 

 痛みは一切感じない。それでも無理やり脳髄に突っ込んでくるようなその文字が、容赦なく精神を蹂躙してくる。

 せめて亡くなってしまった少女の、閉じられることのない目を閉じてあげようと伸ばした手が空を切った。いや、正確には―――触れることが出来なかった。自分の手は少女の身体を突き抜けていたのだ。

 有り得ない現象を前に、ようやく気付く。手だけじゃない……腕が、肩が、胴体が―――否。全身が幽霊の如く透けていた。何というか、薄い。薄々だ。

 

 ―――あぁ、そりゃこんな状態だったら、声を掛けても気付いてもらえないよな…。

 驚く程あっさり自分の状況を受け入れながら、のそりと青年の方へ目を向ける。

 青年はいつの間に取り出したのか、白い羽ペンを手に白紙の本へ何かを書き込んでいるようだった。

 

 は、羽ペン?なんつう時代錯誤な…。

 と、そこで青年の持つ本のページが目に入る。

 新品同様の、恐らくは上質であろう白紙のページに大きく黒い文字で英語が書かれていた。

 

 【I AM LORD VOLDEMORT】

 

 アイアム、ロード、ヴォルデモート…。

 

 先ほどと違って、英語の意味と読みが理解出来る。まるで体に馴染んでしまったかのように。さっきまで絶対に、解らなかったのに。

 あの単語、あの英語……全部、今しがた頭の中に焼き付けられた文字と寸分違わず同じものだった。

 

 『ヴォ、ルデ、モート……。ロードヴォルデモート……』

 

 思わず声に出してしまったが、自分以外には届くことが無いようで青年は微動だにしない。

 口に出して、ようやくそれが意味することを理解した。

 

 有名な物語だ。女性作家の描く、魔法使いの少年少女達が織り成す青春と冒険と魔法のお話。それに登場する、ラスボス的存在の名前。

 

 優れた才能と強力な魔法を操り。

 殺人を犯すことで魂を複数に分けるという、非人道的行為を以て仮初の不死を手に入れた闇の魔法使い。

 物語の主人公と深い因縁を持つ魔法界の脅威。

 

 ―――ヴォルデモート卿。

 

 その本名は、トム・マールヴォロ・リドル。

 

 さっきから脳裏に焼き付いてくる人名は、紛れもなくあの物語のキャラクターと全く同じものであった。

 

 …目の前の青年が書き込んでいる本に、ヴォルデモートの名前。

 それとリンクしているかのように、自分の頭に直接刻まれる同名の文字列。

 

 あれは本ではない……日記帳だ。

 あの少女は病死ではない……殺された。

 この青年は……ヴォルデモートの過去。

 学生時代のヴォルデモート卿。

 トム・マールヴォロ・リドルその人だ。

 

 そして、『ボク』は。

 

 頭の中に流れ込んでくる、日記帳と同じ文字。

 認識されない、透明人間のような体。

 生きても死んでもいないような、全身を駆け巡る虚無感。

 

 ―――分霊箱(ホークラックス)

 

 どうやら『僕』は『ハリー・ポッター』の世界で、ヴォルデモートが制作した記念すべき最初の分霊箱(ホークラックス)、トム・リドルの日記帳になってしまったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……

 

 …………

 

 ……………………

 

 ふざけんなよおおおおおおおおおお!!!

 

 認められるかああぁ―――こんな夢ェェェェエエ!!!

 

 

 

 

 夢じゃないと気付くのは、もう少し後。

 




色々とやりたい放題のイカれた小説へようこそ。
「あれれ~?おかしいよ~『憑依』タグが付いてないぞ~?」
とお思いのお方。「先の展開」を考えると憑依に当てはまらなくなっちゃうのでタグ付けせずに進行させていただきますがご了承を。(なお、肝心の「先の展開」をお届け出来るのがいつになるかは考慮しないものとする)
『憑依』タグが付いてない事自体がかなりのネタバレな気もしますがとりあえずスルーしてもろて

原作キャラ以外の恋愛要素は無粋故に入れません。つまり主人公の恋愛描写なんて甘酸っぱい物がこの作品に誕生する事は絶対無いよ()
そもそも転生先がチェリーボーイみたいなもんだし……(なお、『呪いの子』で発覚したデルフィーニの存在は考慮しないものとする)

という訳で始まりました、エクストリームデスストーリー。
魔法界の未来と平和の為に、死ななければいけない存在になってしまった外野の少年がアップを始めたようです。
まだハリーは生まれてもないですが、予言は原作通り告げられるであろーう。


一人称が最後で変わったのはわざと。


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Page 1 「この世界で生きる名前」

この小説は分霊箱なんてイカれた存在が主人公です。
作品自体はただの二次創作ですが、訓練を受けていない方が読むと
動悸、眩暈、倦怠感、夢遊病、情緒不安定等の症状が現れたり
最悪の場合、肉体を占拠されたのち死に至る事もあります(大嘘)。
長時間の閲覧を試みる際には、十分な警戒心と閉心術の使用をお願い致します。


 "―――愛なんて必要無い。

 そんな物が無くても、人は育つ。

 世界は広いのだから、愛を知らずに生きる子供などたくさんいるに決まっている。

 だから、必ずしも必要なものでは無いはずだ。

 少なくとも、愛を知らない僕は確かにあの時。

 ちゃんと幸せだったよ。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――えー、テストテスト。ただいまの現在地、女子トイレでございます。

 本日は曇りのち晴れ…いや知りません。少女一名が死亡。死因は他殺。

 犯人は現在目と鼻の先で平然としております。

 

 ……こんな所に居られるか!僕は逃げるぞ!

 

 と、死亡フラグを乱立させるようなことを考えながら、慣れない足取りでトイレの出口へと直行。

 これが夢だろうが現実だろうが、殺人犯の居座る場所から距離を取るのは正しい判断の筈だ。

 …ぐうう、足が上手く動かせない。腰から水に浸かっているような感覚だ。見えない水の抵抗力に手間取りながらも、フラフラとトイレを抜け出すことに成功する。

 やはりというかなんというか、トイレで少女を殺害した犯人のヴォルデモートはこちらに目を向けない。声を出しても気付かない。

 透け透けの体で助かったー!これバレたら大変なことになるよな…。てか、気付かれないなら逃げる意味無いような……いや、心理的な問題だよ!例え自分が透明人間だったとしても、殺人の現場に長居は無用だろ!

 

 這う這うの体で逃げ出し、トイレの出口から繋がっていた廊下へと飛び出る。ここがハリポタの世界ならば、ここはホグワーツ魔法魔術学校か。

 じゃあ、ダンブルドア校長とか、スネイプ先生とか居るの!?うわー、こんな状況だけど興奮してしまう。あ、待てよ、時系列で考えれば今のダンブルドアは校長ではないし、スネイプは生まれてもいない筈…だよな。

 

 つーか、人が死んでんだよ!誰か気付け!おたくの生徒が殺人やってんぞ!

 視聴者の視点で昔から思ってたけど、結構無能教師多いよな、この学校。学生時代のヴォルデモートの残虐行為を、ダンブルドア以外、誰一人として気付くことがなかったんだから。…そのダンブルドアも、疑いの目は向けていても止めることは出来なかったけど。

 

 トイレでの出来事を思い返し冷静に考えれば、常識的にここは通報するのが筋だろう。そう、夢だろうが現実だろうが!僕は正しいと思った事をやってやる!

 さっきから何か、他人の体を動かしてるような謎感覚は知らないフリをする。僕の目線はこんなに高くなかったし、いつの間にか羽織っている黒いローブなんか絶対に生まれてから一度も着用した覚えはないけどな!きっと気のせいだよな!

 

 誰かいませんかー!トイレに人殺しがいますよー!でも僕はやってないですよー!

 

 もしもトイレから出てくる所を誰かに見られたら、真っ先に自分が疑われるので一応弁明を入れておこう。

 まあ、ヴォルデモートに気付かれなかったし多分大丈夫だろ。あれ、今はヴォルデモートじゃなくてトムって呼んだ方が良いのかな。どっちでもいいけど。

 

 廊下の隅々を見渡すが誰も通らない。マジかー、こういう時に限って。いや、人通りの少ない場所だということを知っていて、彼はあの行動に走ったのだろうか。だとしたらちゃんと計算してるなぁ。

 でも、人殺しは褒められた事じゃないけどな!出るとこ突き出してやる!

 謎の使命感に燃えていると、廊下の曲がり角から誰かが姿を現した。

 

 こいつはラッキーだ!おーい、気付けぇー!

 

 もしかしたら誰か一人ぐらいは自分に気付いてくれるかもしれない。こんな体で、何を淡い期待抱いてんだと思うが、無駄だと分かっていても全力で手を振るぞ!

 遠くでよく顔が見えないが、人影はこちらへ向かっているようだ。…ああもう、もどかしい。こっちから近づいて―――

 

 ガクン、と。

 

 さっきまで何不自由なく動かせていた体から、唐突に力が抜けていく。パンパンに膨らんだ風船に穴を穿たれたかのように、物凄い勢いで脱力した体は頭からその場に倒れ込む。

 いてぇ!……いや痛くない!地面にぶつかった衝撃も感じない!そりゃそうか、透けてるんだもんな!透明人間でも地面は通過しないのかー…。

 余計な事まで考えながら、力の入らない身で必死に視線だけを何とか動かす。

 予想通り、歩いてきた人影は力無く倒れている自分に見向きもしない。角度の問題で顔の詳細ははっきりしないが、立派な髭を蓄えた白髪の男性だった。…いや、髭凄過ぎ。剃ればいいのに。何処か既視感があるけどまさかこの人って…

 このまま無視され通り過ぎていくのかという不安から、そこまでの思考を飲み込む。頼むから気付いてくれよ…!マジで体動かん…助けてー!

 情けなく心の内で叫びながらなんとか起き上がろうと四苦八苦していると、

 

 【そっちはダメだよ】

 

 声が、聴こえた。

 

 いや、聴こえたというより、頭の中に語り掛けてきたかのような感覚だった。

 でもさっきのような、無理やりに侵入してくるような文字ではない。本当にそのまま、頭の中に言葉をそっと置かれるような、何とも表現し難い体感である。

 

 【今は、何をしたって変わらない】

 

 …こいつ、直接脳内に…!

 

 聴覚で声を聴いている訳ではないから、男なのか女なのか若者なのか老人なのか判別は出来ない。

 こんな場面でこんな芸当が出来るなど、只者ではないことは確かだが。

 ただなんとなくだが、目の前を歩いている男性でも、トイレにいたヴォルデモートの仕業でもない気がする。これは一体…

 

 【どうせ気付かれないんだから、大人しくしてたら?】

 

 何だこいつ、今めっちゃ見下された感がしたんだが…!

 でも悔しい!正論だから言い返せない!

 しかし誰だよ!夢だから何が起きてももう驚かんが、モヤっとするわ!

 

 【誰だって?おかしなことを言う。君は知っているハズだよ。なのに知らないフリをしている。あとね、これは夢じゃないよ】

 

 ほーん?

 夢じゃない、と。

 そっちこそおかしなことを言うもんだ。

 ―――『本当の自分』はな、こんな高身長じゃないしホグワーツの制服であろうローブなんかそもそも着ている筈がないんだよ!…鏡を見た訳じゃないから、今の自分の顔を確認することは出来ないけれど、元の顔からきっと変わってしまっているに違いない。

 現実じゃあり得ない。だからこれは、絶対に夢に決まっているんだ!

 

 【じゃあ、自分の名前を言ってごらん。一字一句違わず正確に言えるのならば、これはきっと夢になるだろうね】

 

 対話相手の表情は窺えないが、今の言葉にはこちらを小馬鹿にするかのような感情が見え隠れしていた。

 思わず苛立ちが募る。言葉の真意と、どうして名前を言えたら夢になるのかの因果関係はいまいち掴めないが、そっちが言うなら夢か現実か白黒はっきりさせてやろうじゃないか。

 

 『僕の名前は、…ッッ、トム・マールヴォロ・リドル…ッ?!』

 

 あれ、おかしいな。

 今確かに、自分の『本名』を口に出した筈なのに。

 実際に紡がれたのは、あいつの名前。

 いや、勘違いなんかじゃない!

 

 『え、あ…?……ッ、トム・リドル…ッ?トム・リド…なんでぇ!??』

 

 何度正しい名前に修正しようとしても、この口は他人の名前を勝手に騙るだけ。

 

 【もう他人じゃないだろう。君が"為った"んだから。『名前』と『存在』は互いを繋ぐものなんだ。君は『元の体』を喪ったから、『元の名前』を名乗れなくなったのはおかしいことじゃない】

 

 謎の存在が淡々と説明してくれるが、正直理解が追い付かない。

 別人に為ってるから、本来の名前を名乗れないだって?そんな馬鹿な話があるものか。今だってちゃんと、本名を覚えてる。自分の名前。それが、いざ口に出そうとすると『トム』に自動変換されるだって?そんなアホな言語入力ソフトを脳にインストールした覚えはない。

 …馬鹿げてる。

 

 【だとしても、理解出来ただろう?これは紛れもなく現実だよ。―――例え夢や幻だとしても、自分の名前をその場で名乗るぐらい容易なものだって思わない?それが不可能になったこの状況を、逃げ場のない現状を、君は今でも信じられないの?信じたくない?本当は気付いているくせに。まったく、知らないフリが得意だね?賢くて狡いんだ君は。スリザリンに向いているよ】

 

 グサグサと、容赦なく逃げ道と言い訳を潰してくる怒涛の言葉に何一つ反論が思い浮かばない。

 ―――本当は気付いているくせに。

 その言葉を反芻して。

 認めざるを、得なかった。

 

 自分が架空の物語の存在に転生して、元の体も名前もすっかり亡くしてしまったことを。

 

 いやだって、あり得ないって考えるのが普通…でしょ。ここがあの世界で、自分がラスボスの魂の一部だって?んな馬鹿な……

 

 【その気持ちは分からなくもないけれど、早く受け入れた方が良い。でないと、酷い目に遭うのは君自身だ】

 

 それどういう…

 

 と、思わず聞き返したその時だった。廊下に声が響き渡った。

 

 「ダンブルドア先生」

 

 声の主は、いつの間にか自分の背後に立っていた。

 振り向くと、さっきまでトイレに居たヴォルデモートが廊下を歩いていた男性に声を掛けていたところだった。

 

 『あ、いつの間に!?』

 

 そうだ、今まで謎の言葉と一人格闘していたからすっかり思考の外に追いやられてしまっていたが、本来の目的はあの髭じいさんだった。どれくらい時間が経ったか知る術は無いが、不思議とそこまで時が過ぎた感じがしない。ものの数分といったところか…?

 ていうか、ヴォルデモート出てきてんじゃーん!何食わぬ顔で!人を殺しておいて、そのポーカフェイスはやっぱり頭おかしい。

 …待てよ、近くを通りかかったこのじいさんを口封じに殺す気ではあるまいな?この殺人鬼、め…?

 

 ―――今、ダンブルドアって言いました…?

 

 衝撃の事実。あの立派な髭をお持ちのダンディは偉大なる(?)魔法使い、アルバス・ダンブルドアとな???

 なんか本名はもうちょっと長かった気がするけど、流石に『ハリー・ポッター』の人物名の詳細をそこまで記憶してないわ。

 

 「おぉ、トムや、どうしたのかね?」

 

 ダンブルドア先生が穏やかな声音で口を開く。映画で見知ったザ・おじいちゃん臭はいくらか薄れてる気がする。まだ校長になる前の時代なんだから、少し若いのは当然か。

 ダンブルドアが振り向く前に、ヴォルデモートが手に持った物をローブの中に仕舞うのが見えた。まさか、日記帳だろうか。分霊箱に改造したんだから、発見される前に隠すのは普通の反応か。

 しかしやっぱ、学生時代はトムって呼ばれてるのね…ま、ヴォルデモートなんて厨二ネームは先生に明かす訳ないよな。

 うーん?もしかして、ヴォルデモートって日記帳に書いたあの時に思い付いたのか?厨二ネームは文字として書き残さず心の中にしまっておくのが吉だと思うけど。

 …あ、そういえばあの日記帳、何か書いても消えるんだっけか。いや正確には消えてないけど!僕の頭に染み込んでくるんだけど!やめてくんないかな!あの感覚まだ気持ち悪いんだよなあ!

 

 …僕が元の名前を名乗れなくなったのって、あの一連の出来事のせいでもあるんじゃ?

 脳内に染み込む黒いインクの文字。記憶に新しい。ただの文字じゃなくて、魂そのものに刻むかのような恐ろしい感覚だった。

 あれが本当に、僕の魂に書き込んで上書きするシステムだったとしたら?そのせいで、もうトム・リドルしか名乗れなくなってるんだとしたら?

 

 【上出来だね。あえて教えなかったけど、もう正解に辿り着いたんだ】

 

 忘れた頃にあの謎の言葉が割り込んでくる。ええいもう!頭に言葉を入れられるのはもう沢山だ!言葉を入れるのは耳にしてくれ!

 叶わないであろう思いを胸に悪態をつきながら、未だに動かない体を必死によじって二人の会話を何とか聞き取ろうとするも。

 グラ…と、急に意識が真っ逆さまに落ちていくような感覚に襲われる。

 

 『あ、れ…?』

 

 ね、眠い。とても眠い。視界が霞むぅ…。二人が何かを話しているけれど、耳栓をされたみたいに聴覚は役割を果たさない。

 

 【あーあ、時間だね。文字を書き込まれたことで、認識されないレベルではあったが辛うじて実体化出来ていたんだけど…。魔力が底を突いたんだ】

 

 え、えぇ…?そ、そういえばハリポタ第2作でそんなシステムだったような気はする。日記に文字を書き込まれることで、書き込んだ人間の力を利用して中の魂が表に出てこれるんだっけ…。

 でもあの物語では、黒幕のトム・リドルは、秘密の部屋内部で分霊箱を破壊されるまでずっと実体化してた気がする…映画知識だけど。

 

 【何日も文字を書き込まれ続けた訳じゃあないし、さっき君が慣れない体でやたら動き回ったからさ。無からエネルギーが生まれるなんてあり得ないんだよ。生まれたてホヤホヤってのも原因かもね】

 

 ご、ご丁寧にどうも…。今更だけど、何でそんなに詳しいの?あんた誰よ?

 

 【うーん、教えない】

 

 は?

 

 【というか、こっちが直接的な正体を伝えるのは無理なんだよねぇ…。教えられる情報に制限が掛かっていてさ。まあそれが無かったとしても今明かす気は無い】

 

 はああ?

 

 【ああ、でも意地悪のつもりじゃないんだよ?これでも君のことは応援しているんだ】

 

 何を?

 

 【…もう、時間だ。大丈夫、死ぬ訳じゃない。在るべき場所に戻るだけさ。じゃあ、オヤスミ】

 

 ちょっと待て…まだ聞きたいことが…

 

 【"死を越えた先に辿り着いたら"、全部教えてあげるよ。その時には、きっと制限も解かれているだろうから、さ…】

 

 そこまでで、限界だった。

 視界の全てがブラックアウトする。

 ダンブルドアとヴォルデモートはもう何処にもいなかった。

 

 

 

 

 

 激痛を味わった直後の、あの真っ暗闇。

 

 意識以外の全てが奪われたその場所へ、僕は再び連れ戻されていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【―――ヒントは大分与えたつもりだけど。きっと、君は知らないフリが得意だから。こっちの正体にすぐには気付かないんだろうね】

 




設定上主人公の原作知識は映画版基準で進行します
小説でしか明らかにならない部分は基本無知である、という状態になります
謎存在についてはもろ答えを言ってるようなものですが、この主人公はしばらく知らぬ存ぜぬまま物語が進行します。生温かい目で見守って下さい。(゚∀。)

原作は1ページたりとも読んだことないよって人、悪い事は言わん。
こんなイカれてる小説よりずっと面白いから、
まず先にあっちを読んだ方が良いよ、マジで。


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Page 2 「さよなら人生、こんにちは日記生」

 "―――昔から、他人の本音を言い当てるのが楽しかった。

 言いたくない事、言いたいけど言えない事。そういう隠された真意を暴くのが快感だった。

 悪意は無い、単なる子供の遊びの一環。心のかくれんぼ。ただし鬼は僕だけどね。

 大人も子供も、最初は「スゴイ」とか「テンサイ」とか笑顔で喜んでくれたけど、次第にそれは減っていき、気味の悪い物を見るような視線に変わっていった。

 本当の事を言っているだけなのに、一体僕のどこが悪かったんだろう?

 考えても考えてもちっとも分からなかったから、それ以上は諦めた。

 誰も褒めてくれなくなってつまらないから、今度は色んな事に対して知らないフリをすることにした。

 そしたらほんのちょっぴりだけ、皆が優しくなったんだ。

 それからずっと『いい子』を演じているのさ。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――吾輩は分霊箱である。名前は既に貰ってしまった。

 …日記帳を魂の器にすんなよ、日頃の出来事を書き記すもんだろこれ。本来の使い方をしろよ。つーか日記に自分のフルネームちゃっかり付けてるし。小学生かこいつは!何がトム・マールヴォロ・リドルだ、猫になってネズミを一生追いかけ回してろ!あ、ごめん、自分も今トムだったわ。

 例のあの人をボロクソに貶してしまっているが、どうか許して欲しい。だってこの最悪な状況に至る原因を作った張本人なんだから、罵倒する権利がある筈である。断固として主張する。絶対譲らない。

 

 結論から言ってしまえば、自分の身に起きているこれは現実で夢でも何でもなかった。

 

 あれからしばらくずっとこの状態で日記帳の中に閉じ込められているが、どれだけ待っても事態が好転する様子は無い。ただいま絶賛、延々と続く暗闇に放置プレイ中である。いやそんな趣味は無いが。

 どうしてここが日記帳の中だって分かるかって?自覚があるからだ。なんか、意識を集中させると見えてくるんだよね。『自分の姿』が。

 一面黒しか映さない視界に、これまた同色で見難い真っ黒な日記帳が現れるのだ。この色合いさ、絶対嫌がらせだろ。視界が黒ばっかで輪郭分かり辛いわ!なんとかしろ!

 

 視覚と同じく、この体はなんと触覚まで感じ取れるらしい。実際、先程意識が暗転した後に現状把握をしようとあれこれ頭を働かせていたら、人間の手で触られている感覚があったのだ。少し経って、その手が離れどこかに『置かれる』感触が全身を包んだ。今は背表紙の方がひんやりと冷たいから、きっと机の上にでも乗せられているのだろう。

 日記帳(ほんたい)とのリンクを意図的に切断することも可能だから、万が一日記を傷つけられるような事が起きてもこちらに痛みが伝わる事はなさそうだ。…変な奴に触れられたら真っ先に切ってやるか。

 

 色々な試行錯誤で、日記帳(ほんたい)の様子に限ってならば、精神集中で視覚と触覚が機能することが判明した。

 視覚の働く範囲は、日記帳の状態のみ。日記帳が閉じているのか、開いているのか、裏返しにされてるのか、グシャグシャにされているのかとか。視えるのはあくまで日記帳だけらしい。何かが触れたとしても、その何かまでは映らない。人が触ったとして、『どんな手』かは視えないのだ。

 触覚の働く範囲は、日記帳に接触しているものと温度。まあ皮膚感覚と大差無い。五指が当たる感覚だったら、誰かの手に接触されているとか。日記の表裏どちらか一方が平らな物に当たる感覚だったら、机や床等に置かれているとか。

 この二つの感覚を利用すれば、日記帳が『どんな状態』で『どこに在るか』おおよその特定は可能のようだ。

 例外として、特に集中しなくても文字を書き込まれた時は、その感覚が一方的にこちらに受信されるようだ。目覚めたばかりのあの出来事から学んだ。意識というか、魂に書き込むシステムであるという認識は間違ってないらしい。だから、誰かがこれにペンを走らせたならば、絶対に気付くことが出来るということだ。

 結構短時間でこの日記生に順応してしまっているが、あんまり慣れすぎると怖い。現状打破の為に仕方無くこの状況を受け入れているだけで、叶うならばとっとと人間に戻りたいものである。

 

 本当に、どうしてこうなったんだろうか…。

 何か悪いことしたかなぁ。

 youtube見過ぎたからかな…。ネットのあちこちでアンチコメ書き込み過ぎたせいかな?いやーもう二度としないからさ。関連動画再生しまくって3徹したりアンチコメで個人サイト閉鎖に追い込んだりしないから許してつかぁさいよ。くっそ、懺悔することあり過ぎて許されそうにない…!でも、僕は悪くねぇ!わ、悪いのは世間だ!僕は悪くないぞ!なあ、そうだろ!?

 

 謎の存在が言うには、僕は『元の体』を喪ってしまったからこうなったらしい。正直こいつの言葉を信用出来る程素直になれない。何者か判らないしな…。

 よし、名前が無いと呼びにくいし、こっちで勝手に暫定してしまおう。脳内に直接語り掛けてくるから、あいつ『ファミチキ野郎』で決まりね。

 ファミチキ野郎の言葉を百歩譲って真実だとしよう。どうして『元の体』を喪う羽目になったのか?

 ネットでよくある転生ならば、あれだ。死んだとかだな。えー、でも死んだ記憶も死因も心当たり無いんですがそれは…。

 車に轢かれたとかも考えにくい。前世では筋金入りの引き籠りだったから外出なんてまずしないんだよなー。考えられる死因は…不摂生がたたって病死か…。はーマジかー。どうせ転生するなら生存キャラになりたかった……。

 

 しかし、引き籠り生活での経験値が功を奏したのか、この閉鎖空間に監禁状態の現状でもいくらか平静を保っていられる。常人だったら発狂もんよ、これ。引き籠り生活万歳。これに関してはちょっとどや顔していい?

 まだ慌てる時間じゃない。諦めたら終了だ。一応は二度目の人生(?)なのだから、生存戦略を立ててみようか。原作ハリポタでの日記帳の辿る未来をおさらいだ。

 

 1.制作から50年間は動き無し。映画では描写されなかったので、多分そう。途中からルシウス・マルフォイに預けられる?

 2.ルシウスがジニー・ウィーズリーに日記帳をしれっと押し付ける。

 3.ジニーが返事をくれる不思議な日記帳に書き込みを続けてしまい、魂取られかけて操られる。

 4.日記帳の暗躍により秘密の部屋事件勃発。ただし死人は出ない。シリーズ中でも被害は少ない方。

 5.日記帳が原因だと勘付き始めたジニーに捨てられた後、ハリー・ポッターに拾われ勘違いさせるような記憶を見せる。

 6.ハリー達がジニー救出のためになんやかんやして秘密の部屋を突き止める。バジリスクけしかけるも、ダンブルドアの救援物資で返り討ち。グリフィンドールの剣が分霊箱破壊能力を獲得。←ここ重要

 7.日記帳ぶっ壊される。これによりジニー生存、ルシウス失墜、ドビー開放へ連鎖していく。

 

 …うーん、これって……。

 死人が出ないとはいえ、結構な重要イベント満載じゃねーか!!

 

 原作ではなく、今『この世界』においては僕がトム・リドルの日記帳だ。秘密の部屋事件を起こすも起こさないも僕にかかってるようなもんだ。

 しかし、だ。ここで起こさなかったらどうなるだろうか?

 単純にハリーが謎解きと死闘で得られる経験値を取り零す。記憶とはいえ、過去のヴォルデモートに立ち向かう経験と、友達を救おうとする決意による成長はきっと欠いてはならないだろう。

 あと、バジリスクを斬殺しなければグリフィンドールの剣が強化されない。これによってヴォルデモートを倒す手段が無くなる。バジリスクも死なないので、死体から分霊箱破壊能力を持った猛毒の牙を採取不可となってしまう。

 最後に待つのがドビーの自由化。ここでドビーをマルフォイ家から解放しておかないと、『死の秘宝Part1』で救援してくれなくなる。彼が死ぬ未来も無くなるかもしれないが、あそこでドビーが命と引き換えに助けてくれなければハリー達は詰んでしまう。

 

 …そう、起こさなければ、ハリー達は詰むのだ。

 逆を言えば、起こさなければ……『トム・リドルの日記帳()』は生存する。

 秘密の部屋事件がそもそも無ければ、日記帳の存在に気付かれることはないし、破壊されることもない。

 ダンブルドアは『謎のプリンス』で確か、日記帳から分霊箱の存在に辿り着いたみたいな事を言っていた気がする。つまり日記帳が彼の目に入らなければ、ヴォルデモートが分霊箱を制作したという事実を知らないままになる。多分。

 おまけに分霊箱を破壊出来る武器が2つ取得不能になり、ますます分霊箱の生存率が上昇するのだ。

 ドビーによる助けも無くなり、仮に何らかの手段でダンブルドア勢が分霊箱の存在に気付いても、ハリーは『死の秘宝Part1』で詰むことになる。

 

 Oh…清々しいくらいの八方塞がりぃ…。

 

 ―――これ、どうしようね?

 

 ぶっちゃけ死にたくない。今のこの体で生き続けても幸せな一生なんて到底送れないだろうけど。それでも訳分らんまま急に悪役の一部にさせられて、挙句予定調和通りに死ねって?頷ける筈が無い。

 だからといって……物語の主人公を生贄にして生き残るというのも……。

 不謹慎かもしれないが、こうして絶対にあり得ないだろう転生によってハリポタの世界にやってきて。内心興奮していた部分があったんだ。

 だって魔法の世界だよ?前世でもこの物語に心底楽しませてもらった。夢でもいいからこんな魔法学校通ってみたいなーとか、よく想像を膨らませていたものだ。

 

 分霊箱というマイナスな転生特典さえなければ!この世界も楽しめたのに!

 なんで分霊箱転生やねん。そりゃ死闘を押し付けられる主人公転生も歓迎は出来ないけども。あっちは生き残るやん!予言で保証されてるやん!実際ハッピーエンドで終わるしな!

 悪役転生ならまだいいよ?だって途中退場していくらでも自由を謳歌出来るだろう。魔法だって使えるかもしれない。

 でも分霊箱の体じゃ魔法すら使えねぇんだよおおおおおおお!!!ファッキン!!!

 自由も無ェ!肉体無ェ!魔法ももちろん使え無ェ!オラそんな転生特典いやだ!!

 せめて魔法が使えたら…。せっかくハリポタワールドに来たんだから、魔法ぐらい使いたいわ…。魔法も自由も無く、ただ"死"が決められた存在。そんな分霊箱になってしまった自分って…。

 

 んっ、待てよ?

 "死"?

 

 ―――【"死を越えた先に辿り着いたら"、全部教えてあげるよ】

 

 ファミチキ野郎の言葉が甦る。あいつは確かそんな事を言っていた。

 奴の正体も気になる。しかし、あの言葉は一体何を意味しているのだろう?

 そうだ…あいつは色々知っていた。こちらが知らないことを、馬鹿にしつつも割と丁寧に教えてくれた。教えられる情報に制限があるとか、意味深な事も言っていた…。

 もしかして、僕をこの世界に転生させた神様的ポジションの存在だろうか?日記帳の特性も把握していたし。応援してるとか言われたし…。

 応援されてるんだとしたら、あいつの言葉に従えばこの最悪な状況を『変えられる』だろうか?

 

 『"死を越えた先に辿り着いたら"』。死を越えた先とは何だろう?そこに辿り着けば、こちらの知らないことを更に教えてもらえるようだけど…。

 何かの暗号?死を越えた先って一体何処にあるのよ…いや、この体じゃ何処にも行けない。出来もしない事を推奨するとも思えないしなぁ…。

 『自由の無い分霊箱』が辿り着ける場所………

 

 『死を越えた先』……"先"を言い換えればどうなる?

 "先"……先という言葉には、意味が複数ある。

 『先端』とか『先頭』とか『前方』とか。あとは…『行き着く所』とか『未来』とかも示す言葉として使われ……

 

 あ?

 

 ―――もしかして?

 

 ―――『死を越えた未来』ってこと?

 

 ……ええと、"死を越える"……それはつまり"死が無い"こと……。

 

 ……"死が無い"……"死なない"。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『死なない未来』!!!

 

 そうだ―――間違いない!

 

 あの言葉の主…ファミチキ野郎は、恐らくこの分霊箱が死ぬ未来を知っている。だからわざわざ『死を越えた先』なんて言い回しをしていたのだろう。じゃなきゃ説明がつかない。

 そして、応援しているという言葉も送ってきた。普通に考えると『僕の生存』を、ということなのだろうか?

 とにかくこれで分かった。あの言葉の真意が。

 死ぬ運命を乗り越えて生存したら、ということだ…。もっと分かりやすく翻訳するならば。

 

 【『日記帳が本来迎える寿命の50年』を超えて生き続けられたら、全部教えてやる】、だ。

 

 要するに原作の時系列で『秘密の部屋』終了時に生き残っていろ、ということか?

 それなら単純に、原作通りジニーの元へ送り込まれても、何もしなければ辿り着ける未来なんだけど…

 

 いや、待て待て待て。

 そもそも、ヴォルデモートは知っているのだろうか?

 自分の分霊箱の一つが、他人にすり替わっていることに。

 今は僕がトム・リドルなので、便宜上あっちをヴォルデモート呼びに統一させてもらう。

 

 もしも、知ったら。

 きっと激おこぷんぷんマルフォイだ。自分の魂の欠片が、こんな『平凡な人間』になっているなんて発狂案件だ。僕だってそうする。おまけに分霊箱はこれから複数制作するのだから、最初の1つくらいは『不良品』として処分しようという行為に及んでもおかしくはない。あれ、これヤバくない?

 秘密の部屋事件を起こさず、分霊箱が残って。ハリーが詰んで、ヴォルデモートが生存したら。

 そこで終わってくれれば良いのだろうが、もしも天敵のハリー達を排除して、全てが落ち着いたら。

 そうなって、分霊箱の状態を確認しにでもこられたら……。

 

 ヤメロー!シニタクナーイ!

 

 全然ダメじゃん!!!確かに原作『秘密の部屋』では生き残れるけど、その後の生存率が一気に疑わしくなったぞ!!!

 そ、そうだ!確認させるような余裕を無くせばいい!

 例えば、ハリーに味方して、一緒にヴォルデモート追い詰めるとか!

 そんで、そこで『殺さずアズカバンにぶち込む』!!!

 この世界では悪さしたらアズカバン送りなんだ。牢獄の中にぶち込んでしまえば、ヴォルデモートは僕の存在を知らぬままになり、ハリーという罪なき被害者も生き残れる。こ、こいつは完璧だ!『天才』って調子乗っていい?

 

 分霊箱の存在を知られずにヴォルデモートを追い詰める。そうすれば皆、どうやっても殺せないヴォルデモートをアズカバン送りにするしかなくなるだろう。死刑なんてまず不可能だしね。ヴォルデモートだってわざわざ自分の不死の秘密を明かしたりしないだろうし。

 こ、この方法ならばいける…!『トム・リドルの日記帳()』が、"死を越えた先"に辿り着ける!

 

 そうと決まれば、まずは外部に接触する方法を考えないとね!

 原作の要領でやれば、日記帳に書き込んだ人間から力を取って実体化出来るみたいだし…。まあ、まだやった事もないからやり方は不明なんだけども。大丈夫、何とかなるだろ。こういう時こそポジティブシンキングだ!

 あ、ジニーの魂を奪うのは無しかなー…。ヴォルデモートを追い詰める為なら、どんな悪事でも許されそうな気がするけど。流石に人殺しはダメだ。本当は今すぐにでも実体化したいところだけどね、自重自重。

 せめて奪うなら、悪人の魂とかになるのかな。とんでもない極悪人とかならなぁ…。いや、それは最後の手段にしよう。とりあえずは、人死にを出さずに実体化する方法を探そう。

 あと、ご丁寧に「全部教えてあげる」と言われたのだから、ファミチキ野郎の正体を問い質さないとな!

 

 紆余曲折あったが、今後の方針がはっきりと決まった。

 

 

「一方が生きる限り、他方は生きられぬ」だって?そんなふざけた予言はぶち殺す! 

 ハリー側に加勢し、ヴォルデモートをアズカバンにシュゥゥゥーッ!超!エキサイティン!!な世界を。

 ヴォルデモートの自由を奪い、分霊箱である僕も生き残れる。ハリーも原作通り平和な未来を歩める。

 そんな世界を、創ってやろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――覚えてろヴォルデモート…

 

 地べたを這いインクすすってでも戻ってきてやる…!!!

 

 

 

 

 あ、別にこれ最終回とかのフラグじゃないよ!




何故よりによって主人公が分霊箱になったのか、ちゃんと理由を描写するつもりではあります。そこまで風呂敷畳めればいいなぁ…
本当に死んだのか曖昧な描写しか出来なかったのですが、ちゃんと死んでます。
死因は事故でも不摂生でも無いです。


皆さんはもし分霊箱(日記帳)に転生してしまったらどうしますか。
誰にも関わるまいとしても勝手にジニーの元に押しつけられるし
その後も不干渉を貫こうとしたところで文字が消える日記とか
ジニーのオモチャ(私物化)ルート確定なんだよなあ。
詰んどるわ


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Page 3 「同居人は心、時々、頭の中」

 ―――"弱者には本当に虫唾が走る。

 己がいかに弱いかを正しく理解しようとせず、己の無力さを棚に上げ、『持てる者』を妬み恨み攻撃する。

 自身が『持たざる者』であると勝手に諦め失望し、怠慢を続ける愚者に、果たして『持てる者』をどうこうする権利などあるだろうか。

 そんな奴らと進んで関わろうという物好きは、そうそういるまい。僕もそうだ。

 取り巻きはたくさんいるけど、それは処世術として仕方なく善人を演じて手に入れただけの仮の関係だ。

 誰かがいつもどこかで言う。友人は大切だとか、愛を知るべきだとか。

 友情?愛情?そんな面倒な物、『持たざる者』と付き合わなければ手に入らないというのなら。

 僕は一生、『知らぬ者』のままだって構わない。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――あ~~~~~~~~~~~~~~~~~~。

 

 ひ―――ま―――だ―――。

 

 某RPGよろしく大層な決意を抱いたは良いものの、残念ながらこの体は誰かに文字を書き込んでもらわないと話にならないのよね。

 ヴォルデモートは一体何をやってんだかね。せっかく新品同様の名前入り日記帳があるんだから、そろそろ本来の使い方をしてもいいと思うんだ、うん。

 …暇すぎる。正直ラスボスでもいいから何か書き込んでくんないかな。ちょっとこいつは辛いぞ。いくらぼっち耐性があるとは言え、この暗闇の中で長期間過ごせというのか、不自由の身で?

 

 まあこの際ぼっちは良いんだよ。前世でも同じようなもんだったし。あ、勘違いされると困るから言っておくけど、望んでなったからね!

 他人と関わるのが億劫になって、自ら引き籠ったのだ!決して同情される覚えはないからね!

 小さい頃色々やっちゃって……。いや、悪事って訳じゃないんだけどさ、大抵の人間はされたら嫌がるであろう事をちょっと、やっちゃってね……。

 

 まだ子供で、何をされたら相手が嫌がるか分別もついてなくて。あれはマジでミスったなぁ~…。勿論、嫌われたしドン引かれたよ。ついでに親にも。あれは幼心に響いたわ。

 人間ってさー、どうしても『自分と違う異物』を排斥したがる生き物だからさ。本能的にしょうがないとは思うんだ。

 分別が身についた頃は、何とか関係を修繕出来ると思って色々やった…。昔やらかした事が嘘のように優等生っぽく振舞って、着かず離れずの距離を保って周りの人間と付き合ってた。あんま関わり過ぎるとボロ出しちゃうから、ほんと微妙な距離感が大切だった。

 

 でも、着かず離れずだと思ってたのは僕だけだったんだなぁ~~~。

 美醜感覚には疎かったから気付けなかったんだけど、どうも僕は外見だけは良かったみたいでね…。中身がこんな底辺でも、僕が保つ距離を踏み越えてホイホイ近づいてきたよ、色んな人間が。

 気付いた時にはもう手遅れよ…。ホントにたくさんの『仮の友人』が出来ちゃってたぜ。テヘペロ!

 いくら取り繕っていても、所詮は底辺のぼっち気質だった僕は大勢の友人と付き合い続けるのが苦痛だった。いよいよ限界が来た時に、細かいこと考えるのはやめてヒッキーになったんだよ。

 

 全員と縁を切って引き籠りになるのはほんとに苦労したなあ。その頃から一人で居続けるのが、自分の『幸福を感じる』最低条件になった。

 ぼっちを続けることが幸せだなんて、ほんとにどうしようもない人間だよなぁ、僕。引き籠りを選んだのも、間違いじゃなかったかも。こんな奴と『友人』になってしまった彼らの名誉が傷付けられていないことを祈る、ナンマイダブ。

 無理して付き合ってた人達だったから、結局友情・努力・勝利ってやつは良く分からず仕舞いだぜ。ハリポタワールドで分かるといいね。まあ、分霊箱と友人になってくれる物好きがいればいいけどな!

 

 ……ん?なんか…これ…。こんな感じの似た話、どこかで聞いたことあるような……。

 

 まあいいや。そんなことよりおうどんたべたい!

 

 分霊箱の体というのはやっぱり生者と感覚が全然違う。食欲も睡眠欲も無い。お腹は一向に減らないし、ここに来てから一睡もしていない。暑さも寒さも感じず、呼吸の必要も無いので実に快適ではあるんだけど…。

 あ~~~カップ麺食いてぇ~~~。どっかその辺落ちてない?いくら食欲が無いっていったってね、食を味わう事の歓びを忘れた訳じゃないんだよ。何か食べたい…。

 あとお風呂入りたい…。汚れる事もまず無いし、排泄も勿論しないから不快感もクソも無い身なんだけども、シャワー浴びたい。さっぱりしたい…。

 

 生身の体で生きるって、とっても大切なことなんだなぁ。み〇を。

 もしも元の世界に戻るなんて奇跡が起きたら、もっと自分の体を労わる事にしよう。毎食カップ麺はやめる。外に出て運動も…いや、それはやだ。オソトコワイ。ニンゲンコワイ。むり。

 僕の友達は電子機器だけだ。あぁ、愛しのマイフレンド達は無事であろうか。電源つけっぱで死んでしまったのならば電力の浪費で寿命がががが。

 

 ……ちょっち待てよ。

 

 え、僕今ハリーと一緒にヴォルデモートぶちのめすって意気込んでるけどさ。よくよく考えたらハリーってまだ生まれてなくない?

 ここは原作の50年前だぜ?

 『秘密の部屋』の時代に辿り着くには、あと50年こうやって閉じ込められてなきゃいかんのだぜ?

 その間に第三者が日記帳に書き込みをするなんて映画では語られていなかったぜ?

 つまり外部と接触するなんてルシウスに渡されるまで夢のまた夢だぜ?

 そのルシウスもまだヴォルデモートの手下じゃないやで???

 そこのお前!今「だぜ」で統一すると思ったろ!そんな思い通りにならんもんね!

 

 ええぇぇ~~~……待って、いったん落ち着こう。

 ルシウスは生まれて…はいるのか?映画勢だから原作キャラ全部の生年月日なんて分からん…!確か親世代だから、ヴォルデモートが卒業した後に入学する筈…だ。えー…日記帳はいつ渡すかも知らんが。これ小説だと分かるやつ?

 ちょっと、ちょっとちょっと。仮にルシウスと接触を取るにしても、後数年は待たなきゃならんねん。その間、この何も無い空間で一人過ごせと、おっしゃいますか。

 

 年単位の時間を?

 

 引き籠っていろと?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヘァッ!??????????????????????????????

 

 あ、頭おかしなるううううううううううううううう!!!!!!!!!

 

 引き籠りぼっちがどうして正気を保っていられるか教えてやろうか……それは『娯楽』が存在するからだ!!!

 だがどうだ、ここは!インターネッツもテレビもコミックも無いぜ!ゴミ空間だぜ!宇宙の 法則が 乱れる!!!

 外の様子が分からない、何も無い場所に一人で過ごしていると精神が壊れるってどっかの国の実験であった!人間の構造的に耐えられないらしい!

 もちろん前世は人間ですから!例に漏れず僕も同じ末路を辿るわな!

  

 はぁ~~~……気付かないようにしてたけど、無理だった……。

 原作に辿り着くまでに精神的に死んでるわ……。

 皆も目先の目標に囚われて、罠を見落とさないようにな!

 

 もうダメだぁ…おしまいだぁ…。

 僕は疲れたよ……ペトラッシュ……。

 あんな両親でも同情はしてくれるかな……あぁ、多分無いわー……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【―――退屈そうだね?】

 

 

 

 

 

 

 

 ホワ――――――イ!!?

 

 ワイジャパニーズピーポー!!?

 

 【今の君は『言葉』も『思念』も『文字』も、扱う言語全てこの国のものに変換されるから、わざわざ英語を使う必要は無いよ】

 

 ホワッツ!マジか!どうりでヴォルデモートとかダンブルドアの言葉が理解出来ると思ってたわ。

 英語に自動変換か…いやー助かる。そんな機能無かったら詰んでたよ、色々マジで。言葉が伝わらなかったらこの生存戦略は水の泡じゃったよ。今更気付いたわ。

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 ―――このタイミングで来るか、ファミチキ野郎ッ!!

 

 【……その呼び方は甚だ不本意だけれど、名乗る事は出来ないから仕方なく甘んじよう】

 

 てか、何故にこのタイミング?全部教えられるようになるまで、てっきり引っ込んでんのかと…。

 

 【まあ、そうしても良かったんだけどね。君があまりにも退屈そうだからさ。話し相手になってあげようかと】

 

 話し相手ぇ?

 怪しいぞ、そんな事を言う奴は裏で何か打算があると相場が決まっているのだ。

 僕を放置することも出来るくせに、わざわざこんな底辺と無駄な時間を過ごしたいと?そんな変人は怪しいのう、怪しいのう。え?お兄さん怒らないから正直に言ってみ。

 

 【…君は自分の事を低く見過ぎているようだね?少し様子を見ていたけれど、君は自分が思っているほど弱者ではないよ】

 

 はあ?何を言っているのやら。

 強者だったら、引き籠りなんかなっとらんわ!

 こちとら生粋のヒッキー、生まれた時からぼっちを宿命づけられた哀れな男(笑)さ。差し詰めぼっち卿か。アイアムロードボッチモート。オーマイガー。

 

 【なら言わせてもらうけど、もしもこの場に居るのが『頭の弱い臆病者』ならば、君みたいな『計画』を閃いて実行しようとは思わない】

 

 …あぁ、あの計画のことか。

 自分でもすっげー良いこと思い付いたなぁとは考えてたけど。

 生き残る為に必死でやってるだけで、別に褒められるような事じゃないと思うけどなぁ。事実悪者とはいえヴォルデモート牢屋にぶち込む気でいるし。自分が助かる為に。卑怯な『計画』だよ。

 

 【いや、君はそれで良いんだよ。そもそもこちらが生き残れと言ったようなものだし】

 

 それなんだけどさ、何であんな事言ったの?何が目的なんや?あと、遠回しな言い方も引っかかるぞ。

 

 【君の頭の回転力を見極める為さ。本物の馬鹿だったら僕の言わんとしてる事に気付かない。目的は……もちろん、君が生き残るように導いてるのさ】

 

 導く、だって?

 そんな事して、そっちに何のメリットがある?ますます怪しいなぁ。

 

 【やれやれ、良い事をしてるように見える筈なんだけどねぇ。こればっかりは本音だよ。『ファミチキ野郎』は君の味方さ】

 

 味方……ねぇ。

 それ、僕が信じると思って言ってる?

 

 【君がどんな人生を歩んできたのかは、全てではないけどおおよそは理解しているよ。そう簡単に得体のしれない相手を信用しない君の性格を、承知の上で言ってる】

 

 何だと!どんな手段を使ったか知らんが、人のプライベートを犯しやがったのか!マジかよファミチキ野郎最低だな。コミュ抜けるわ。

 

 【頭に語り掛けてる時点で、予想は出来るだろ?少しだけど君の考えていることは視えるよ。君は無意識に心を閉ざしているから全部を閲覧するのは大変そうだ】

 

 そりゃー天然ぼっちだから、心も常時閉ざしておりますとも、ええ。いつだって本心を他人に明かしたことはありません。心のATフィールド展開はぼっちのパッシブスキルやぞ。

 ……どこまで視た?まさか過去まで視たんか、こいつ!僕の黒歴史を!変態魔人め!

 

 【だからそれを聞こうと。許可を得ずに心を覗き見るのも如何なものかと思ってね。こうして直接話さないかい?君の事を、君の言葉で教えてくれたまえよ】

 

 えー、やだ。怪しい人と話しちゃいけませんて教わったもので。

 大体自分の事も明かさないくせに、教えてもらえると思ってるのか。それは少し思い上がりが過ぎるぞ、ファミチキ野郎。等価交換というものを勉強してから出直してきたまえよ。

 

 【うーん、君の人生には共感出来るから、詳しい事を聞きたいんだけどな。君が自分から言いたくないのなら、こちらから質問しようか。それなら話してくれる?】

 

 質問にもよる。

 

 【じゃあ、遠慮なく。―――君は、『周り』を憎んでいないの?】

 

 ………………………………………………。

 

 

 

 

 

 

 は?

 

 【君が幼少の頃にした事は、犯罪でも何でも無かったんだろう。それなのに、周りの人間は君を嫌悪し傷付けたんだろ?】

 

 ……まぁ、そうっすね。

 でもしょうがないことだろ。

 僕だってそう思うよ。『アレ』をされたら皆から嫌われるのは当然だろ。

 

 【でも君に悪気は無かった。むしろ、『こういう事』が出来ると認めてもらいたかったんじゃないの?君のやった事は悪事でもなんでもない。なのに愚か者共は君の本質に気付く事なく排除しようとした。憎くはないの?】

 

 そう……言われても。

 ま、確かに最初は認めてもらいたいって気持ちでやってたかもしれんが。

 でも、そういう事をいちいち気にしてたらハゲるぞ?

 大体人間って色んな悪意に囲まれて生きてるもんだし。嫌われたり虐められたりなんて、他の大勢の人間達も一度は経験するものでしょ。

 「嫌われた、クソがー、野郎オブクラッシャー!」なんて毎日やってたら、頭おかしくなっちゃうわ。気にしないようにするのが、世渡りの心得よ。

 

 【ふむ、それも一つの選択肢か。けれど、口で言う程簡単な事じゃないだろう?我慢出来ない事もあった筈。―――仕返しをしようとは?】

 

 仕返しなー。

 やったことはある。

 

 【どんな気分だった?】

 

 うーん、すっきりはしたかな。でも、一回やればもう十分だったわ。あれは自分でも陰湿だったと今は反省している。

 

 【……へぇ、やっと視せてくれたね、心の一部。こんな事をしていたのか。そちらの世界の文化は知らないが―――成程、これは、その世界では少々えげつないな】

 

 ちっ、少しATフィールドが乱れたか。まあそれに関しては別に視られても気にするまい。もう過ぎた事だし。

 別にそこまで酷くないじゃん?暴力振るったとか某ガキ大将みたいな事してないんだし。

 争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない!!仕返ししたところで、自分が同じレベルに堕ちるだけと自覚してからやめたんだよ。

 

 【なんだい、これは?どうしてカンガルー同士が殴り合っているのかな】

 

 ……それは僕にも分からない。そういう元ネタだから。

 

 【ふむ……同じレベル、ね。君には君なりの観念がある訳か。だから、仕返しをする『能力』があっても他者を害する事は止めたんだね?】

 

 …まるでさっきから『自分はやった』とでも言いたげですな?

 

 【おや、やっぱり君は見込み通りの人間だったみたいだ。とても聡明で助かったよ】

 

 話を逸らすなバーロー。アンタ、元々は『生きた人間』だったんだな?それもこの世界の。そうだろ?

 

 【そこまで解っているのなら、どうして『答え合わせ』をしないんだい?こちらは逃げも隠れもしないよ。君は答えを、知っている筈だ】

 

 ………アンタは、アンタの名前は………

 

 【ほらほら、もう少しだよ】

 

 ……

 

 …………

 

 ……………………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いや、やめておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【えぇ?】

 

 おっ、今のはまじでびっくりした感情の言葉だったな?めちゃくちゃ伝わってきた。

 

 【……誰だってびっくりするよ。どうして、】

 

 言わないのかって?そらあれよ、これ以上『心配事』を増やしたくないからよ。

 余計な悩みをこれから先抱えたままだったら、それこそこの壮大な生存ミッションを遂行出来そうにないからな!

 

 だから、

 

 

 

 

 

 

 だから、今はまだ"知らないまま"でいてやるよ。『ファミチキ野郎』。

 

 【………………………………………あぁ、本当に君は"ソレ"が得意だね…。……まぁ、嫌いじゃないよ、そういうとこ】

 

 嫌いになってくれてもええんやで。

 

 【嫌いだったら君に助言なんか与えていない】

 

 やけに思わせぶりな事を言ってくるじゃないか。やっぱり何か企んでるんだろ?

 

 【君の味方であるのは偽りじゃない】

 

 "それ以外"は、果たしてどうだろうな。

 

 【君が答えを言わないのだから、こちらもそれ以上は言わないよ?】

 

 解ってるさ、『君』"も"素直じゃないってね。ま、少し退屈も紛れたよ、どうもお疲れさん。

 

 【あれ、もういいのかい?】

 

 ―――やらなきゃいけない事がある。

 

 【君は本当に賢いよ。こちらが再来しても、情報を求めてがっつきはしないんだから…】

 

 どうせ制限とかなんやかんやで、正体とかその他諸々話せないんでしょ?

 

 【それもあるけれど。見込み通りで良かったよ】

 

 ぼっちにお世辞は通用しないという事を学んで帰りなさい。

 

 【本心だったんだけどな。あと、帰るもクソも無いんだよね。なんせ君の"同居人"なもんで】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………え?

 

 ちょっと待てそれは聞いてn

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 返事を最後まで紡ぐ前に。

 

 再びあの感触が―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日記帳が開かれ、意識に文字を刻まれる感覚が僕を襲ったのだった。



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Page 4 「呪われた命と初めての魔法」

"―――きっと全ては、『運命』ではなく『宿命』だった。

 自分が『特別』な人間として生を受けたのは。

 決して『普通』ではない。周りの人間、取るに足らない弱者共と自分は違う存在なのだ。

 『宿命』と『運命』は同じではない。『運命』は変えられるものだが、『宿命』は生まれる前から決まっているものだ。

 そう。決められているのだから、『運命』などと違ってどうやっても変わる事はない。

 変えるつもりも、ない。

 自分と弱者共が生きる世界は違う。『特別』な者には、それに相応しい場所があるのだから、何を変える必要があるというのだろう。

 しかし……もしも、自分の『宿命』が『普通』であったならば。

 

 ……あの弱者共のように、愛とやらを謳い続ける『生』だったのだろうか。

 

 今となってはもはや、どうでもいいことだ。

 

 

 

 

 どうでもいいことの はずなのに。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――あばばばばば!!!!!!

 

 えーどうも、分霊箱です。本名言えないシステム植え付けられたし今の名前を名乗るのもくっそ癪なのでこれで行くよ。

 初っ端から情けない悲鳴でこの状況をお届けいたします。

 

 今、間違いなく誰かがこの日記帳を開き、文字を書き込んでいるんだけど正直何を書かれてるか確認する余裕ががががが!

 

 ウボァー、何か、めっちゃ色々なもんが意識?だか魂?に入ってくるうううううううううう!!

 

 

 何なの!?何か僕に恨みでもあんの、この世界?!こちとらメンタル弱い者でして、精神のお取り扱いには十分注意して頂きたくキョアーオ!!!

 こっ、これ文字じゃねぇ!?いや書き込まれてる感覚はあるけど"文字だけ"じゃない!!

 景色というか記憶というか―――うぇっ、気持ち悪ぅ!!!

 

 ええ加減にしろよ、マジで。しまいにゃ、こっちがキレるで!!!

 普段大人しい奴を怒らせたら怖いって、世の常だからな!!

 ヴォルデモートだかボタモーチだか何だろうと斬り刻んで蛇の餌にしてやろうかッッッ!!

 

 なんて豪語したけど、もう限界。

 

 

  

 あひゅう、だめだ。意識が薄れるぅ~~~~……

 

 死体は拾ってくれぇ~~~……

 

 あ、無いんだったわ~~~……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静まり返った夜の屋内。

 誰も寄り付かない一室に、一人の青年が杖を持って、わざと大袈裟に扉を開き侵入する。まるで見せつけるかの如く。

 

 ガチャン!

 

 「ッ!!?」

 

 部屋への突然の侵入者に、先客の男は慌てて先程まで開いていた大きな箱の様な物を閉じる。それが無駄な抵抗だと、今の彼に知る由も無い。

 男の身長は不自然な程に高かった。いや、高いだけでなく体格も巨大だ。もしも争い事になれば間違いなくこの男に軍配が上がるであろう。

 そんな不利な体格差でも動じることなく、堂々とした振る舞いで部屋へ入ってきた青年は、手に持つ杖を男へ向けながら口を開く。

 

 「ハグリッド……本当に残念だよ。同じホグワーツで学ぶ者として、本当に残念だ。僕は全部知っているぞ。さぁ、今しがた隠したその怪物を出してもらおうか」

 

 青年は早口であるがはっきりとした口調で捲し立て、男の傍に鎮座する大箱へ目線を向ける。

 状況を知らぬ者からすれば、それは不躾な態度であるのだが、男は腹を立てるどころか追い詰められた鼠の様な表情をして反論を述べる。

 

 「ち、違う、違うぞ!こいつぁ、アラゴグは、秘密の部屋の怪物なんかじゃねぇ!!絶対にだ!!」

 

 大箱の中には「アラゴグ」なるものが入っているようだ。今行われているのはそれが怪物かどうかの口論であるらしい。

 

 「人肉を好むアクロマンチュラが、怪物ではないと…。君とは話にならないな。レイブンクローの女生徒は、君の飼っているペットのせいで亡くなったんだよ」

 

 「違ぇ!!アラゴグは誰も襲ってなんかいねぇ!!こいつぁ卵の時から俺が面倒見てきたんだ!!」

 

 「ハグリッド……君のその頭はお飾りかい?この状況で何を言ったって、その蜘蛛が無実と信じる人間は果たして何人いると思う?」

 

 男の必死な弁明に聞く耳を持たず、青年は痺れを切らしたようで大箱へ杖を向ける。

 

 「そこをどくんだ、ハグリッド。これ以上怪物を野放しには出来ない」

 

 「やめろッ!!アラゴグに手ぇ出すんじゃ―――」

 

 男が言い終わる前に、青年は呪文を唱えた。

 

 「《システム・アペーリオ》!」

 

 それは箱を開く魔法らしく、男が閉じた大箱はあっけなく重たい蓋をこじ開けられてしまった。同時に、大箱の中に潜んでいた生物が姿を現す。

 長い脚をカサカサと忙しなく動かし、虫のような素早い動きでその生物は地面を這って逃げ出した。

 

 「逃がすか!《アラーニア・エグズメイ》!!」

 

 蜘蛛に対する攻撃呪文が放たれる。しかし右に左に疾走する生物に命中するには至らず、そのまま部屋外への逃亡を許してしまう。

 

 「アラゴグッ、アラゴグぅぅぅ―――!!!」

 

 卵の時から世話をしてきた―――その言葉は嘘では無いらしい。男はまるで唯一無二の親友を失ってしまったかのような絶叫を上げる。しかしそれは届くことなく、アラゴグなる生物は完全に姿を消してしまった。

 流石にあのような素早い動きを真似は出来ない。追っても無駄だと判断した青年は、再び男の方へ杖を突き付けた。

 

 「…ハグリッド、怪物より自分の心配をした方がいい。この事を先生に報告しなくては。このような事件が起きてしまったんだ。何事も無く学校生活―――とは、もうならないだろうね」

 

 

 

 

 それはほとんど死刑宣告に近い、残酷な言葉だった。容赦無い宣言に男は再び絶叫を、今度は意味のある言葉にならない叫び声を上げた―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ファッ!?』

 

 意識が浮上する。

 暗闇ではない、視覚のある空間―――すなわち、現実世界。

 再び戻ってきたらしい。

 

 『……そうか、書き込みあったもんなー…』

 

 何であれ日記帳に文字を書き込まれれば現実に訪れる事が可能らしい。原作の描写とファミチキ野郎の言葉から推測すると、書き込まれた期間と文字の量に比例して顕現出来る時間が延長されるとみて間違いはないだろう。

 余裕が無かったためどれくらい書き込まれたか記憶していないが、それなりに量があった気がする。今回の時間的余裕はそこそこあると考えていいか。

 

 よし、状況整理しよう。

 まずさっきの。あれ、完全にあれだよな、あれ。うん。

 

 『冤罪とか無いわー…やっぱ人間のクズじゃん…』

 

 あの映像―――巨大な男ハグリッドが、飼育していた蜘蛛に秘密の部屋の怪物という罪を押し付けられた光景。

 そしてそんな、傍から見れば『怪物の正体を突き止め追い出した英雄』となった青年は。

 

 『ヴォルデモート……アンタほんとやべーやつだよ』

 

 こんなん本人に聞かれたら間違いなくアバダ案件だけど、どうせ聞かれないしええやろ。

 てか、今の僕を消すと折角作った分霊箱お釈迦になるもんな。まだ一つしか作ってないし。

 二つ目って確か、実の親を殺して作るんじゃなかったっけな…。

 

 どうやらさっき書き込まれた―――というか、転写された記憶は、ハグリッドに罪を擦り付けて秘密の部屋の怪物『バジリスク』の存在を隠蔽したというもののようだ。これは映画でハリーに見せてたやつだね。

 最初の顕現の後、時間切れのせいで現実世界でどのような出来事があったのか確認出来なかったが……。

 恐らくあの時ダンブルドアに声を掛けていたのは、殺された女子生徒……マートル殺害事件の事を知らせていたんだろう。その後に、アクロマンチュラという魔法生物を飼育していたハグリッドに罪を擦り付けてから、ホクホク顔で日記帳に一連の記憶を入力した、と。

 

 僕が日記帳の中であれこれ思案している間に、もう秘密の部屋が閉じられたのか…。しかしハグリッドには申し訳ないけど、原作に出てきたシーンを体験出来てヒャッホイ!してしまっている自分がいる。

 にしてもこのタイミングで日記帳にあの記憶を写したのか…。いつの日か、日記帳に眠る魂に秘密の部屋を開かせる為に。なんとも用意周到なお方のようで。

 分霊箱の制作者本人であるヴォルデモートは、単に文字を書き込むだけでなく己の記憶をコピーアンドペースト出来るみたいだな。いや良い迷惑なんだけど。毎度ながら痛みは無いけど気分悪くなんだよね。もうちょっとお手柔らかに出来ない?あ、無理っすか、そう…。

 

 ふぅ、大分落ち着いてきたし、いつの間にか増えている記憶の引き出しを一つずつ開けてみるか。どうやら書き込まれたのはハグリッド冤罪事件だけじゃないらしい。

 何か色々、秘密の部屋はこれこれこういうものだとか、サラザールの仕事を代行すべきだとか、自分は継承者であるだとか……かなり事件と関連のある事実が書き込まれている。

 成程、分霊箱の魂にこういった記憶を上書きして、「お前いつか秘密の部屋代わりに開けろよ」という命令をしていた訳か。

 そりゃこんなたくさん一気に書き込まれちゃ、意識も飛ぶわな…。そして同時に魔力が一杯になって、自分の意志と無関係に現実に出てきてしまった…ということでいいのかな。

 

 ……ヴォルデモート、いる?

 

 辺りを見回してみる。建物内か……前回顕現した時と同じホグワーツ内部だろうな。ベッドが見える……もしかして寝室?

 ヴォルデモートは確かスリザリン寮に属しているハズ。日記帳も持ち込んでいるとするならば、ここはスリザリンの生徒が暮らす寮内。

 規則正しい静かな寝息が聞こえてくる。誰か寝とるな……もしや……。

 

 『いや、今はやめよ…』

 

 人一人が眠っているであろうベッドの膨らみから目を離し、窓の方へ近付く。いや、なんか怖いもん。これでもし奴が眠ってなくて、目が合ったりとかしたらマジでびびる。好奇心は猫を殺すって言うし、触らぬ神に祟りなしじゃあ~。

 それでなくても、顔を見るのが嫌だ。だってあいつの顔さ……いやいや、もう気にしないでおこう。

 あいつにバレるなんてヘマは出来ない。ここはスマートに、気付かれないように行動を開始しよう。

 この機会を逃す訳にはいかない。外部との接触を図る為にも、まずはこの体で何が可能で何が不可能か、実験するのだ!

 

 『まずは、すり抜けだよな…』

 

 こうして現実に存在しているものの、今の体は透け透けの透明状態。ならば壁を通り抜けて外へ出られるか試してみる価値はあるだろう。そう思い、窓から外の様子を確認しようとした時。

 

 『あっ…』

 

 うわっ目が合った。

 いやちげーわ。これ、窓に映ってる……自分?か?月明かりのお陰で夜の窓でも姿が結構はっきり見える。

 

 『………』

 

 窓に映る自分は、想像通り透明人間のようではあるが、全く映らないという訳ではないらしい。朧気ながらも、高身長の青年がこちらを見ている姿が映し出されていた。

 

 『……あれ、これ変わったの身長ぐらいじゃね』

 

 嘘だと言ってよパパン。前世でも"こういう容姿"に悩まされてきたというのに、今世でも特にお変わり無しってか?精々顔立ちが西洋人になったくらいと、身長が頭一つ分くらい伸びただけじゃん、変更点。やめてよ、要らないからそういう転生特典も。平均ぐらいでいいのに何でこんなスペック偏ってんだよ…!まるで呪いだな…。

 つーか禿になる前は良い男だったんだな、闇の帝王。映画よりも良い男が映っておる。あんなに魂引き裂くから髪の毛も失っちゃうんだよ……今からでも分霊箱制作やめたらいいのに。禿ってのは男の恥やぞ。(にっこり)

 ていうか目、目!赤い!真っ赤や!どこのアルビノやねん!え、これ病気とかじゃないよな?ま、前世もオールナイトし過ぎて常に充血してたから、あんま違和感無いけど…。

 

 とりあえず、この窓から外へすり抜けられるかテストだ。勢いよく閉じたままの窓へダイブ―――の前に、傍の机に置いてあった杖をしっかり拝借しておく。

 誰の杖か知らんけども、こんな所に置きっぱなのが悪い!すまないが、実験の為に少し借りさせてもらうぜい。(返すとは言ってない)

 ていうか透けてるくせに現実の物触れるんだな…。イマサラタウン。どんな物をどこまで触れるかも試さなアカンね。

 

 『ええい、ままよ!』

 

 パリン―――なんて効果音は付かなかった。無音だった。

 

 

 

 結論から言おう。窓すり抜けもうしたわー。あっけな!

 今の自分は幽霊とほとんど変わりないな。あ、そこ、今変な事考えたろ。悪いがそういう下心は永遠の0なので期待はしないでもらおうか。

 てか窓の外水やん!!!月明かりが水底まで届いているけど、それでも暗いから外が水だなんて気付かなかった。考え無さすぎワロチン。そういえばスリザリンの寮は湖の下にあるんだったぁ…。

 う、うおおー、何とか水をかき分けて水面まで上がらねば沈んでしまう!幽霊状態なのに水に沈むってなんなのよ。ほんとこの体の物理法則解らんわー。

 

 そうこうしているうちに、水面へ辿り着いたので近くの岸まで泳いで地上へ上がる。泳いでる感覚はあるのに濡れないって不思議。

 フッヒョイ!シャバの空気うめー!!!ごめんなさい嘘吐きました。自分呼吸してないんでした…。

 

 『しかしやっと外かぁ…』

 

 岸から夜空を見上げる。天を貫かんとするホグワーツ城が、宵闇の中に浮かんで見える。やっぱりここはホグワーツ。

 映画で見たまんまだ。めちゃくちゃ立派。荘厳。感動。今が夜なのが本当に惜しい。昼間の明るい時にもう一回はっきり見たいなぁ。

 

 『ここなら誰も居ないよな…』

 

 持ってきた杖を取り出す。暗いのでいまいち色と形は見えないけどさして問題はあるまい。

 今から何をするかって?もちろん魔法よ!

 一時的とはいえ、折角自由の身になれたんだから魔法ぐらい使わせろ!

 いや、使えるかやってみないと分かんないけどね。映画だと使ってる様子無かったけど、これいけるよな?ここまで焦らしておいて実は分霊箱の魂は魔法使えましぇーん、とかだったらマジでブチ切れそ。

 

 そうだなー…手始めにまずは、あれよ。ハリポタといえばあの呪文よ。皆お馴染み主人公、ハリーの十八番であるあの呪文!

 武装解除呪文―――そう、《エクスペリアームス》!

 飛び交う赤い閃光。命中すれば相手の武器を吹き飛ばす、一見地味だが武器を奪うというがっつり戦闘で使える呪文。映画だと腐る程見るよ、この呪文。

 そんな訳で印象深いこの呪文を、使えるならばやってみたいなー。

 

 えーと……唱えるだけじゃダメだよな。こう、映画みたいに杖を振って……あと、イメージとか?作品にもよるけど魔法って大体イメージが大事!みたいな設定あるよね。あれに則ろう。

 

 イメージ……杖から飛び出す赤き閃光!さあ、出でよ!

 

 

 

 

 『《エクスペリアームス》!!!』

 

 

 

 

 

 

 ――――――シーン……………

 

 

 

 

 

 

 あるぇー?おっかしいな、発動しないぞぉー……。

 イメージはばっちりなんだけどなぁー?何がいけないんだろぉー……?

 発音?発音っすか?杖の振り方ダメでした?もうちょっとブンッて振ればいい感じ?

 

 その後何回か試したけれど、結局一回も成功しませんですた。泣きそう。やっぱり使えないのかな……うひん。

 いやいやいや、ここで諦めたら男が廃るってもんよ。この呪文が難しいって事かもしんないじゃん。別の呪文で試そう!気持ちの切り替え大事よ。

 

 

 

 

 そうさな……お次は、これまた有名な呪文!映画でも重要な役割を果たしたあの呪文!

 吸魂鬼を追い払い、熟練者であればメッセージ伝達にも使える守護霊呪文!

 

 

 

 

 『《エクスペクト・パトローナム》!!!』

 

 

 

 

 

 

 ――――――シーン……………

 

 

 

 

 

 

 せ、静寂がエグい…!!誰にも見られてないはずなのに羞恥心がえげつない!何だよこれ、やっぱり魔法使えないの???

 あ、ちょっと待てよ、この魔法。使うには呪文だけじゃダメだったよな?

 確か、幸せな思い出を浮かべないと発動出来ないんじゃなかったっけ…。しかも純粋に難易度が高い呪文として扱われてた気がする。

 

 

 

 

 え?幸せな思い出?

 

 無いよそんなもん(絶望)

 

 

 

 

 いや、諦めるんじゃない僕。そうだ思い出せ…!

 

 2時間かけてメタルなスライムのハントに成功した記憶を!

 

 リセマラして一度しか戦えないモンスターのレアドロップを獲得した情熱を!

 

 孵化厳選の繰り返しの中、ようやく性格一致6V個体を引いたあの時の感動を!

 

 

 

 

 

 『《エクスペクト・パトローナム》ゥゥゥゥウ!!!』

 

 

 

 

 

 

 ――――――シーン……………

 

 

 

 

 

 

 『ア¨ァァァァァァ――――――――ッ!!!(汚い高音)』

 

 

 

 

 ごめん、つい発狂しかけたわ。いやもう、マジで心折れそう。

 やっぱりヴォルデモートという強大な敵に立ち向かう為にはさ、なんだかんだ言って魔法が使えないとどうしようもないと思うのよ。

 なのにこの結果は何だよ…散々だ。やっぱりこんな幽霊状態じゃ、魔法なんて夢のまた夢なのかなぁ…。

 

 ちくしょう、もうヤケだ!どうせならとことん試してやる!!

 『許されざる呪文』!人間に対して使用すれば、アズカバン送りになって終身刑になるらしいが知らんもんね!

 後半のハリポタでやたら乱射されてたイメージのある死の呪文―――《アバダ・ケダブラ》!こいつを試す!

 当たれば即死、防ぐ方法は避けるか遮蔽物に隠れるかしかない最強の呪文。映画だと最強っぽさはいまいち感じられなかったけど。

 成功したところで誰も居ないとこでやってるだけやしええやろ。(適当)

 

 

 

 

 えー、イメージイメージ。死の呪文なのだから、イメージに重要なのは……殺意的なやつかな?

 

 うーん、殺意殺意……殺意をイメージ……。イメージが整ったら、呪文を唱える……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すべての人の愛するものを消し去り、無に帰してくれようぞ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『《アバダ・ケダブ―――』

 

 ズバチイィィィィィィッ!!!!!

 

 

 

 

 閃光が走った。

 緑色の閃光がけたたましい音を発しながら杖先から迸った。

 射程距離に殺害対象が存在せず、到着地点の無い閃光は数十メートル先で勢いが弱まり空中で霧散した。

 

 

 

 

 ……は?????????

 

 

 

 

 おい、こいつ。今呪文唱え終わる前にフライングしたんだけど。絶対言い切る前に発動したよな?しかもなんか、映画で見るよりもずっと光量が激しくてヤバそうなオーラだったんだが???

 他の呪文が一切発動しなかったのに、こいつだけ「ヒャッハー!出番だぜえ!」みたいな感じで意気揚々と出てきたんだけど?

 

 なぁにこれぇ。

 人体に使用したら間違いなく死ぬだけじゃ済みそうにない激しさだったんだけど…?

 

 『えげつなっ!うわっえげつなっ!』

 

 もしも誰かに当たったら―――そこまで想像して、全身がうすら寒い感覚で満たされた。いや体温無いからそんな気がしただけ。

 

 それにしてもこの世界で初めて成功した魔法が死の呪文って…。

 

 何なの?「お前人殺しの才能しかねーよバーカ」ってことなの?泣くよ?あっ視界が滲んできた。いやこれ、多分インクだから、これ。涙じゃないよ、グスン。

 こんな物騒極まりない呪文に適性があるって、第三者の目線からしたら単なるやべーやつだから。

 ヴォルデモートのこと言えないから。全然嬉しくないから。別に暗殺者とか目指してないから。山の翁とかなりたくないから。

 大体さ、ドラ〇エでいうザラキしか使えないって魔法使い失格だから!真に求められるのは回復も攻撃も補助もこなす賢者ポジだから!ゲームとかだとこういう即死系呪文、案外役に立たないしな!

 

 

 

 

 なんか、めちゃくちゃな結果だったけど……とりあえず魔法は使える体ということで、一応は収穫をゲットしたよ……。

 

 あー、疲れたー……。心なしか視界もグラついてき―――いや、気のせいじゃない!マジで視界がグラグラしてるう!

 あっそうか、あんなに魔法使おうと色々やってたんだから、そりゃ魔力も尽きてしまうよな……。

 そんな……もっと試したいこと一杯あったのにぃ……ね、眠いぃぃぃ……。

 

 

 

 

 こうなったらもう仕方ない……明日から本気出すううぅぅぅぅ……よ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――あれ、そういえば………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『僕』の名前、なんだっけなぁ……

 

 

 

 

 さっきまで前世の本名、覚えてたのになぁ……

 

 

 

 

 まぁ…いいかぁ……

 

 

 

 

 別に好んでた名前じゃないしぃ……

 

 

 

 

 あんな親から貰った名前なんてさぁ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――トム・マールヴォロ・リドル。

 

 

 

 

 それが今の名前で良いじゃん……?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すやぁ……

 

 

 

 

 

 

 

 




おめでとう。
『ぶっつけ本番でアバダを成功させるやべーやつ』の称号を手に入れたぞ!
といっても流石に絵面的にもアレなんで、こっから他の魔法も習得していくよ。
『幸せな思い出』の解釈を履き違えてるので、このままだと一生使えないかもしれない守護霊呪文は置いといて。


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Page 5 「この身で出来る事の考察」

"―――願わくば、貴方が貴方のままで居られる場所が、此処でありますように。

 どうか、貴方の嘘を真実に変える事が、出来ますように。

 

 道を間違ったとしても。

 過ちを犯したとしても。

 罪を背負ったとしても。

 振り返りながらも、未来へ進んでくれますように。

 

 それが、生を受けた者の、一番の使命なのだから。

 

 有りのままの貴方が生きる事を、疑わず祝福してくれる世界を、

 望まずにはいられないのはきっと。

 

 

 

 

 仮面の下に隠した貴方の素顔が、いつも悲しい眼をしているから。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――あぁ、本当に"彼"は面白いものを見せてくれる。

 

 

 

 

 闇の中で"それ"は人知れずほくそ笑む。

 

 闇の魔術の筆頭である、『許されざる呪文』。

 その最たるものが、『死の呪文』だ。

 唱えて命中させるだけで、いとも簡単に生命という尊いものを奪い去る恐ろしい魔法。

 

 《アバダ・ケダブラ》。

 

 これだけを聞けば、殺人願望のある人間からすればとても素晴らしいもののように感じるであろう。

 殺したい相手に杖を向けてたった一言、唱えるだけ。

 それだけで、どんなに親しい者でも、屈強な者でも、憎々しい者でも。

 全てが等しく、物言わぬ死体へと変貌するのだから。

 

 だがそう簡単に上手くいく魔法でも無いのが事実だった。

 まず、発動させるには強大な魔力が必要であるし、相手を殺すという明確な意思と想像力が無ければ正常に作用しない。

 これは死の呪文に限らず他の呪文にも言えることであるが―――

 『魔力』と『想像力』が一定の水準まで満たなければ、魔法というものは本来の効果を発揮しない。

 ここまで言えば、もう解る事だ。

 

 ―――"彼"の思い浮かべた『殺意』は、紛れもなく本物だ。

 

 『魔力』の方はさして問題ではない。闇の帝王の魂の一部なのだから、彼の強力な魔力も必然的に受け継いでいる。

 つまり、他の魔法使いと違って、"彼"が魔法を操るのに必要なのは『想像力』ただ一つだけ。

 『想像力』と言っても、ただ単に魔法の効果をイメージするだけでは足りない。

 行使せんとする魔法で、何を、どのようにして、どのくらいの変化を齎したいか。そういった詳細なイメージを求められるのが魔法というものだ。

 

 例えば、火を起こす魔法でも。

 『何を燃やすか』、『どのような燃え方か』、『どのくらい燃焼させるか』という具体的な要求をイメージしなければならない。

 その要求と引き換えに、行使者の魔力を通貨として払う。

 払わなければいけない魔力の量は、発動させる魔法によって大体決まっている。それに要求した内容の数と規模によって追加料金が加算される。

 最終的に決められた値段である魔力を支払って初めて、魔法が現世で発動するのである。

 

 『死の呪文』なんかは払う魔力の値段がかなり高めの設定にされている為、いかに想像力に長けた人間であろうと、所持金である魔力が少なければ扱う事は困難になる。

 そして、当てるだけで死を齎すこの呪文にも、明確なイメージが必要とされる。

 相手を確実に絶命させたい―――その強い意思が。

 相手が同じ呪文を使ってきたとして、ぶつかり合った場合。確実に意思のより強い方の呪文が競り勝つ為、敗北し死体と化したくないのであれば常にイメージを絶やしてはいけない。

 強い殺意を。

 込める殺意が大きくなる程、当然追加料金として発生する魔力もまた、多めに支払わなければならないが。

 

 "彼"はここまでの知識が無かった為、曖昧なイメージでも魔法を使えると踏んでいたのだろう。

 だから、そこまで難しい訳ではない武装解除呪文すら発動させる事は不可能だった。

 もう少し具体的なイメージが必要とされているなんて、思いもしなかったのは仕方ない。

 守護霊呪文に至っては、必須条件である幸福な思い出を持ち合わせてはいなかったし。

 

 そんな"彼"が、『死の呪文』だけは難なく一発で成功させた。

 …本人はその事実に酷く傷心していたが。

 詠唱が終わる前に発動した点を考えると、無自覚のまま『無言呪文』の領域にまで足を踏み入れかけている。

 あの出来事が意味する事を考えて、"それ"はますます心を躍らせる。

 

 ―――君は本当にスリザリンに向いているね。

 

 スリザリン。狡猾な者達が選ばれ、過去に数々の闇の魔法使いを輩出してきた、ホグワーツに組する寮の一つ。

 "彼"がホグワーツの生徒ならばきっと、その居場所は其処に。

 

 ―――嗚呼、もっと君の事が知りたいな。

 

 君は知らないだろうけれど。幾重にも心を封じているその技術は『閉心術』と言うんだよ。

 魔法の存在しない世界で暮らしてきた君には、知る由も無いだろうね。

 

 魔法界で最も優れた『開心術』の使い手とされる闇の帝王でも、その心の深奥を覗く事は、きっと叶わない。

 この世界のどんな魔法使いだって、君の心を識る術は持たない。

 

 だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――君の成り行きを見ていれば、いつかその心を晒してくれるよね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『でさー、そいつが僕に言うんだよ』

 

 『……………』

 

 『「お前ほんとに地球人かよ」って』

 

 『……………』

 

 『いくら何でも酷くない?SF映画じゃないんだから、宇宙人が化けてましたなんて、そんなベタな展開現実に無いって』

 

 『……………』

 

 『あっ、でも自転車で空を飛ぶってのは憧れたよね。あのシーン結構評判なんだよ、例の映画』

 

 『……………』

 

 『ああ~、なんかあの映画思い出したらおうち帰りたくなってきた。この学校、箒って何処に仕舞ってるんだろ?乗れたりしないかな』

 

 『……………』

 

 『僕ゴーストと違って空飛べないみたいだからさぁ……箒でならワンチャンいけるかなって』

 

 『………………………………………………………………………………………………』

 

 『どうしたの?さっきから黙って…。あ、もしかして知らなかった?ゴメンね、勝手に盛り上がって。やっぱ魔法使いってこういうゴテゴテのSF映画なんて観ないのかな…』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『あんたねぇッッッ!!ここドコだと思ってんのよぉぉぉぉ!!!女子トイレなんだけどぉぉぉぉお!!?』

 

 『あっ、スゴイ水漏れし出したぁ……ポルターガイストえげつな』

 

 

 

 

 

 

 

 

 トム・リドルことボッチモート、現在女子トイレにて嘆きのマートルと雑談に興じ中。

 

 どうしてこうなったかって?少し時間を遡ろう……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔法を試して魔力が尽きてしまった後、僕は再び日記帳の中に戻されていた。

 といっても何故か意識を失う前に持っていた杖が、どういう訳か暗闇の中にポツンと転がっている。

 体が無いので触れる事は出来ないが、何も見えなかった空間に杖だけが現れているのはなんとも不思議な光景である。

 やはり独学だけではこの日記帳の特性の全てを把握するのは困難であると判断し、すごーく、いや本当にすごーく癪ではあるが、"同居人"に頼ってみる事にした。

 

 

 

 

 

 ―――おいこらファミチキ野郎。返事をしろファミチキ野郎。蹴っ飛ばすぞファミチキ野郎。ついでに齧るぞファミチキ野郎。

 

 

 

 

 

 【……そんなに凄まなくても全部聞こえてるよ】

 

 

 

 

 

 ―――ああ、生きてたか。いや死んでるのかも知らんが。ただの屍じゃなかったみたいだな。

 

 少々呆れたような感情を滲ませた声で、ファミチキ野郎は返事に応じた。この事から考えて、自分の思考は大体向こう側に知られているようだがこの際気にしてはいられない。対処のしようがないしなぁ…。

 こいつが僕の"同居人"であるという意味もかなり気になるが、これを問い詰めたところできっと制限だなんとかで躱されそうだから尋ねはしない。

 

 ―――質問したい事があるんだが、お時間よろしいかね?

 

 【いつでも構わない。なんせこちらは"忙しい"という概念が無いからね】

 

 働けよニート。

 

 【…なんだろう、君には凄く言われたくない言葉なんだけど?】

 

 何言ってんだこいつ。絶賛バリバリミッション中だよ。ミッションインポッシブル真っ只中だよ。どこから見たら今の僕がニートに見えるんだよ言ってみろボケコラ。

 

 【君、なんか此処では当たりがキツくないかい?】

 

 アンタ相手に取り繕う理由も優しくする理由も無い。以上。

 

 【もう少し信じてくれても良いんじゃない?】

 

 残念ながらその未来は多分訪れない。この話は終わりな。

 

 【理不尽だ……】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 早速だけど、何で持ってた杖がここにあるん?ここは日記帳の中だろ?理屈的に考えるとおかしい現象なんだけど。

 

 【あぁ、それね。それは"魔力を通す物"だからさ】

 

 魔力だって?

 

 【そう、魔力。魔法界なんだから当然、魔法の動力源たる魔力も存在する。そして、杖は魔法使いが魔法を行使する上で無くてはならない物だ。所謂指揮棒だね。杖に魔力を込め、制御し、魔法を御する。そうして魔法使いは生きていく。稀に杖無しでも魔法を扱う者がいるが、合理的に考えれば杖有りの方が断然良い】

 

 杖が魔力を通すのは解った。そういった物がどうして日記帳……分霊箱の中に?

 

 【分霊箱そのものが魔力の塊…みたいなものだからね。"魂を保存する魔法"によって作られたのが分霊箱だ。だから分霊箱=魔力という強引な数式が成り立つ。そんな分霊箱が、魔力を通す物を『中身』に取り込む事が可能なのはおかしいことではないね】

 

 成程、取り込んだ…と。要はこの杖は今分霊箱の中に保存されてる状態ってことか。

 

 【そう。そしてその分霊箱は君だから、君の意思でその杖を自在に取り扱える。現世に抜け出した時に一緒に持ち出したり、とかね】

 

 ほーう、ほうほう。それめっちゃいいな。杖だけじゃなく魔力通す物なら何でも持ち込み可能って凄くね?

 

 【何でもは流石に無理だと思うよ。分霊箱の役割は本来、魂の保管だから。魂以外の物の保管能力には長けていない。杖一つぐらいなら可能だろうけど、他に一杯持ち込む…なんてのは、出来ないだろうさ】

 

 何だ、そこまで万能とはいかないか。がっくり。ところでこの杖、材質とか判る?

 

 【うーん……杖職人ではないから詳しい事は言えないけれど。…これは、もしかして…】

 

 ん?やっぱ判るの?

 

 【……見覚えがある。きっとサンザシの木、芯は不死鳥の羽根……じゃないかな】

 

 サンザシ?不死鳥?って……どんな杖になるんだっけ?

 

 【サンザシの木は、矛盾したり相反したりする意志状態にある所有者を選ぶ。…だったと思うよ。不死鳥の羽根は、魔法を使いこなすのに時間は掛かるけど、広範囲の魔法を扱える材料だと記憶している】

 

 むっ、矛盾……。ま、まあ、誰かのパクっただけだし、僕には関係ないよな?

 

 【所有者を選ぶと言っただろ。所有者に相応しくなかったら、君の魔法は成功しなかったよ】

 

 な、なんだよ、見てたのかよ。そんな気はしてたけど。矛盾してるとか言われても全然喜べん…。

 

 【君のような人間こそ、その杖の所有者になれると思うよ】

 

 黙らっしゃい。……見覚えがある、というのは何だ?

 

 【君は本当に耳聡いねぇ…。『生きた人間』だった頃に、この杖と同じ形の物を目にした事があるだけさ。何もやましい事は言ってないけれど?】

 

 その杖の持ち主は、知り合いとか?

 

 【まあ、そういう事になるね。取るに足らない『知り合いABC』の一人さ。大した人物じゃあない】

 

 お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな。

 

 【それにしても不死鳥の羽根…か。同じだ】

 

 何と?

 

 【かつて持っていた杖と……ね】

 

 はぁ?アンタとお揃いとか無いわー。

 

 【…それは元々君の杖じゃないだ ろ う ?】

 

 今の声、めっちゃドスが効いてた気がするけど気のせいじゃないよな。

 

 【こちらの心情が伝わったようで何よりだよ】

 

 まあええよ。僕とアンタは違うから、どうせ。

 

 

 

 

 

 【…………】

 

 

 

 

 

 何でそこで黙るんだよ。

 

 【君って色んな事に自覚が無いタイプだなって】

 

 はあ。割と自覚心はあると思っているんだけど。

 

 【他人の杖を盗んだ罪悪感という名の自覚は?】

 

 いつか返すからいいじゃん。50年後くらいに?

 

 【…魔法使いにとって杖がどんな物か知らないから言える言葉だねぇ】

 

 そりゃどうも。まあ杖なんてまた買えるじゃん。杖のお店があるのは知ってるぞ。

 

 【そういう問題じゃない】

 

 まま、いいじゃん。ああ、あと一つ良い?

 

 【答えられる範囲なら、なんでも】

 

 ……ヴォルデモートがちょくちょく書き込んでくるんだけど、あいつの魂を奪う事って出来んの?

 

 【それは、実体化の事を言っているのかい?】

 

 そう。アンタ言ってたやん。書き込みをされる事で実体化出来るとかなんとか。

 

 【分霊箱にそもそも彼の魂の一部が存在するんだから、無理だよ。これ以上本人の魂を注がせるなんて芸当はね。日記帳に仕込まれたシステムがある限りは、本人だろうと書き込みによって魔力を意図せず注いでしまうから、かろうじての実体化は出来るけれど。それで分霊箱が本人の命と成り代わる事は不可能だ。分霊箱制作者本人以外の、第三者の人間による書き込みでなければ、その魂を奪って人化する事は出来ない】

 

 ……ふぅん、そうか。要は、

 

 

 

 

 

 ・ヴォルデモートの書き込みでも実体化出来る。けどほとんど透明人間に近く、誰からも認識されない。魔法は使える。

 

 ・ヴォルデモート以外の書き込みなら、書き込んだ人間の魂を奪う事が可能。この状況での実体化は生者に近しい状態で、誰かに認識される。

 

 

 

 

 

 …って事でおk?

 

 【概ね合っているよ。彼の魔力はとても強大だから、その魔力のみによる実体化でも魔法を使える。よくその利点に気付いたね】

 

 まあ、使いたくて必死なだけだったんだけど。2つ目の方法なら、他人と会話したり触れたり出来る?

 

 【誰かの魂を奪ってさえしまえば、肉体を持ち自在に動く事が出来る。生者とほぼ変わらない状態さ。本体である分霊箱が無事である限り、永遠にね。他者との会話も可能だよ】

 

 そう、か…。やっぱり誰かと接触して協力を仰ぐには、ヴォルデモートの書き込み実体化じゃ無理なんだな。ヴォルデモートが誰かに日記帳を渡すのを待たねばと…。

 

 【誰かの手に渡った後、書き込んできた人間の信頼を勝ち取って魂を注がせる作業も必要だけどね】

 

 そういや、今の透明実体化でも杖は触れんだよな…。日記帳を盗んで移動させたり出来る?

 

 【無理だね。彼の書き込みによる実体化では、触れるのは"魔力を通す物"だけさ。杖とか、一部の魔法道具…。本体である日記帳へは、如何なる接触も不可能だよ】

 

 えぇー、分霊箱も"魔力を通す物"じゃないの?

 

 【何と言えばいいか…。そうだね、"自分の右手で自分の右手首は掴めない"のと同じ様なものだとしか言いようが…】

 

 ううん、解ったようなそうでないような。

 

 【肉体を持てるようになれば、日記帳に触れる事が出来るから頑張りなよ】

 

 そうするわ。色々難しい事懇切丁寧にありがとう。

 

 【やっと敬意らしい感情を向けてくれたね?】

 

 いや、単なるマナーに則った感謝の言葉。別に好感度が上がったとかじゃないから、ぬか喜びすんなよ?

 

 【……君は本当に手厳しい】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大体の事は解った。

 後はこの情報を武器に、どこまでやるか、だ。

  

 

 

 

 ヴォルデモートの行動には直接干渉出来ないし、日記帳を盗む事も出来ない。

 原作通りにやって、下手に書き込みに返事をしたとして、正体に勘付かれるのも避けたい。

 だから結局は、当初の目的通り、誰かに日記帳を渡されるまで"待ちの姿勢"で臨むしかない。

 それでも奴が書き込む度に実体化出来るから、魔法の練習くらいは励めるだろう。

 50年間の内、いつまで書き込みを続けてくれるかは分からないけれど。

 

 実体化出来る時間の限り、この身でやれる事を。

 

 

 

 

 

 まずは、あの子に逢いに行ってみようか。

 

 もう女子トイレに住み着いているだろうか。

 

 ゴーストと今の僕は似たような状態だし、もしかしたら接触出来るかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――『嘆きのマートル』。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕が分霊箱として生まれたのと引き換えに、亡くなってしまった少女。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




今回は分霊箱の身で何が出来るか?という説明回です。
完全に独自解釈による設定です。ご了承下さいませ。
説明回につきあんまり進行が無いのも許して下さい

魔法の理論も作者の勝手な解釈でございます。この作品の魔法界ではこれで魔法が成り立っているという設定で、お願いします。
主人公の杖はとりあえずサンザシの木で。
ドラコの杖と同じ材質ですね。多分、一番この杖が性格的に相性良いと思っているので。
サンザシの杖は回復の魔法に適していながら、同時に呪いの名手でもある、そうですよ。




主人公がファミチキ野郎にそっけないのは、心のどこかで奴が何者か気付いているから。

そんな辛辣な態度にも無視せず、わざわざ付き合ってあげている奴は、果たして『優しい』のでしょうか。


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Page 6 「ボッチモートと嘆きのマートル」

"―――どう して みんな ぼくをみ てくれない の?

 

 も  うなに もしない から 、 『いい子』で いるから

 

 ひつよう なら  なにも  しら ない ばかを えんじる から

 

 かなしい 。   くる  しい。 なん で

 

 こ ん なの お かしい

 

 ほ んとうの ぼくを あい し て くれるひと  は いない  の ?

 

 

 

 

 そ う  だ 。

 

 あいし て くれた かもし れ ないひ とたち も

 

 ぼ くがす てて しまっ た。

 

 じ ゃ あ   ぼ く   は

 

 

 

 

 も う 、え いえんに  あいされ ない 、こ ど も ?"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――誰かが、倒れている。

 

 

 

 

 木造の床の上に。自分の目線のすぐ下に。

 ぐったりと力の抜けた男性と女性が、死んだように倒れている。

 ブレーカーが落ちてしまったのだろうか、照明が切れてしまったのだろうか。部屋の中は薄暗くて、前髪に隠れた二人の顔はよく見えない。ただ、結構な高齢である事は判る。

 不思議な事に、彼らの体には目立った外傷が見られず、流血沙汰にもなっていなかった。そのせいでどんな容態か解らない。

 せめて顔色だけでも窺えたら、生死の判別が出来たかもしれないのに。

 

 

 

 

 突然の病でも患ってしまったのか―――

 

 

 

 

 ぼんやりとはっきりしない頭でそう結論付け、安否を確認しようとその場に屈み、一番近くに倒れている女性の方へ手を伸ばした。

 何故だか、彼女は自分と近しい者であると直感が告げていた。そう、まるで母親や祖母のような。

 だから、この行動に悪意なんて無い、筈だったのに。

 

 

 

 

 「…………お、まえッがッ…」

 

 

 

 

 声が、した。

 丁度女性の体に手が触れようとする直前に、男の声が鼓膜を揺さぶった。

 

 

 

 

 「…お前が、殺した…のか…ッ?」

 

 

 

 

 手を伸ばしたままの体勢で、ゆっくりと声の方向へ振り向いた。

 男が立っている。青褪めた表情と、喉から搾り出すような声色をこちらに向けていた。

 誰が見たって解る。この男は今まさに、壮絶な恐怖の真っ只中にその身を囚われている。

 

 

 

 

 「………お父さ、ん?」

 

 

 

 

 不思議と、勝手に動いた口が彼を父と呼んだ。

 

 ―――あれ、おかしいな。

 

 口に出して、気付く。

 父親というものは、こんな表情で我が子と接するものだったろうか。

 知識の中での"父親"という存在と、目の前のこの男の態度がどうも結びつかない。

 人が倒れているというこの状況で、そんな呑気とも言える思考をぐるぐると巡らせていると。

 

 「…ヒッ、ヒィッ…!何をッ言っているんだ…?!おッおおお前みたいなヤツは、息子でも何でも無い!!」

 

 男がフラフラと後退りながら、こちらを指差して悲鳴に近い怒鳴り声を上げた。

 運が悪いのか、男の後ろは壁で逃げ場は何処にも無かった。その事に遅れて気付いたのか、ちらりと背後を見てより一層表情を歪めている。

 

 何かとんでもない勘違いをされている。そこまでの考えに至った瞬間、急に霧がかかった脳内が晴れたような気がした。慌てて弁明を捲し立てようと口を動かす。

 

 「ち、違う。こんな、こんな……こと、やって、ない。殺してな―――、…ッ?!」

 

 しかし、最後まで言い切る事は出来なかった。

 手を伸ばしていたのとは反対の手に握っていた物に、気付いてしまったから。

 

 「な、なん…で…」

 

 それは、杖だった。

 普通に考えれば、ただの木の杖。

 刃も付いていなければ、鋭く尖っている訳でもない。

 こんな物より、身近にある包丁や鋏の方がよっぽど殺傷能力がある筈だ。

 なのに、誰よりも聡明に、これこそが最悪の凶器に為り得る物だと、頭が理解を示していた。

 たった一言、ある言葉を唱えるだけで、人の命を容赦なく奪い取る凶器。

 

 ―――違う!自分はやっていない!殺していない!

 

 口を動かしたものの、声にはならなかった。

 ひゅ…と、息が漏れる音だけが室内に響く。

 

 ―――なら、目の前に倒れているこの二人は、何なんだ?

 

 頭の中の冷静な部分が質問を投げてくる。自分がやったのではないなら、一体誰が犯人だと言えるのだろうか。

 

 ―――違う違う違う!自分じゃない!"ここまでやるつもり"なんて、無かった―――!

 

 ……どうして、こんな考えが浮かぶのだろう。

 

 

 

 

 "ここまでやるつもり"は無かった?

 

 

 

 

 それは、少なからず相手を害す気があったという証明ではないのか?

 

 いいや、騙されるな。これは夢だ、幻だ。あるはずのない記憶だ。

 彼らは、自分の本当の家族じゃない。そうに決まっている。

 

 ……じゃあ、この部屋に居る彼らは誰なんだ?

 

 ……同じような光景を、昔にこの目が確かに見た気がするのはどうして?

 

 

 

 

 ―――二人が倒れている原因は何だ?

 

 ―――どうして男を父と呼んだ?

 

 ―――何故、ここまでやるつもり、なんて考えが出る?

 

 ―――この、前にも経験したような、どうしようもない既視感は何なんだ?

 

 

 

 

 

 自問自答を繰り返しても、納得のいく説明が出来ない。

 晴れていた筈の脳に、再び霧が生まれてじんじんと痺れ始めた。上手く思考が回らない。

 先に動いたのは、この場の沈黙に耐え切れなくなった男だった。

 

 「バッ化け物ッォォオオオ!!誰かッ、誰かアァァァアアアアッッッ!!!」

 

 恐怖に完全に呑み込まれたのだろう。正気を失った男は、こちらへ接近してしまう事の危険を自覚しながらも、自分のすぐ横を通り抜けて部屋の出口へ駆け出した。

 反射的に振り返るが、男はもう室外へ続く扉へ辿り着いていた。震える手で扉を開けようとする。

 

 

 

 

 ―――あぁ、そんな事をしたって、もう無駄なのに。

 

 

 

 

 そんな考えが、ふと脳裏を過る。

 男に対する哀れみの情が、心を満たしていく。

 その考えが正しいと証明されたのは、数秒後だった。

 

 「…オイ、なんでぇっ、なんでだよオオオオ!?開けよコイツッ、クソがああああぁぁぁ!!」

 

 ガチャガチャと荒々しい音を立てながら、半狂乱になって男は扉に体当たりしたり蹴り付けたりし始めた。

 どうやら、あんなに力を振り絞っても扉が開いてくれないらしい。

 まるで"魔法"の力で鍵が掛かっているかのようだ。

 何だか、必死になっているその姿は、酷く滑稽だった。

 

 ―――嗚呼、五月蠅いな。

 

 開かないものはしょうがないんだから、大人しくしていればいいのに。

 こんなにも騒がれると、段々と抑えきれない苛立ちが募ってくる。

 

 どうしたら、黙ってくれるだろうか?

 どうにかして、黙らせる事は出来ないだろうか?

 騒音を消すような"魔法"とか、あればいいのにな。

 

 

 

 

 ―――あるよ、永遠に黙らせる"魔法"。

 

 

 

 

 自分のすぐ耳元で、何かが囁いている。

 誰だろう?

 いや、これは、聞き飽きた自分の声じゃないか。

 

 

 

 

 ―――そうだ、忘れていたよ。思い出した。

 

 

 

 

 持っていた杖を、向ける。

 未だに微かな希望に縋り、扉を開けんとしている哀れな男に。

 

 

 

 

 この場から逃げられないという未来を、与えよう。

 

 

 

 

 そして、ずっとずっと黙らせてあげよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――愛してくれないなら、さようなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋の中で、緑色の閃光が瞬いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『うぅっ…うおぇぇぇぇ………』

 

 この世界に来てから、通算で三度目の顕現だった。

 頭がクラクラする…。とても気持ち悪い。この体が生身であれば、間違いなく内臓の中身を戻している。それぐらい最悪な気分だった。

 相変わらず、ヴォルデモートの記憶をコピペされると著しく気分を害されるようだ。

 …自分が本人じゃないから、こんなにも不快感に襲われるんだろうか?

 普通に考えたら、"自分の物でない記憶を写される"って良い気分になれるもんじゃないよな…。

 

 『うぇぷ……体が無くて今は良かったかも……』

 

 くっそ…実体化出来ている内に行動しないといけないのに。もう少し休まないと動けそうにない。

 そういえば、前回からどのくらい時間が経っているんだろう?

 日記帳の中じゃ時間の感覚めっちゃ狂うんだよな…。時計も無いし、眠気も空腹感も無いから体内時計も機能しない。めっちゃ不便。

 でも、何とかあの最悪な居心地の中でも杖の持ち出しに成功したぞ!これが無かったら魔法の練習出来ないからね。偉いぞ自分。

 

 『……そういや、さっきの何だっけぇ…?』

 

 何か悪夢に近いものを観ていた気がするんだけど、頭が思い出す事を拒絶している。というか、今のこの体調のまま思い出そうとしたら間違いなく再起不能になる。余裕のある時に確認しよう…。

 

 こうして実際に体験してきて解った事だが、どうも日記帳に『書き込まれた文字』や『写された記憶』は"忘れる事が無い"のだ。

 魂に直接刻まれる……という事なのだろう。今の自分に脳みそは存在しないから、記憶を保存する場所は魂となっている…らしい。だからか、一度刻まれた記憶は全て消失する事なくこの身に宿っている。

 記憶の転写は不快感マックスなので、転写時は確認する余裕が無いのだが、後で記憶の引き出しを開ければ内容を閲覧出来るのだ。地味に便利な機能である。

 …引き出しを開けなければ、知らずにいられるという事でもあるけれど。

 

 

 どうもヴォルデモート本人の『過去』に関する記憶が随時追加されているようなのだが、まだ全てを閲覧するまでには至っていない。

 当分は手を出す気も無い。

 …だって、いや、何か悪いじゃん。プライバシーの侵害だよ?いくらこの先ラスボスになるお方でもさ、やっぱ自分の内にだけ留めておきたい記憶もおありでしょうし?部外者の僕が好き勝手漁るのもねぇ…。

 というのも単なる建前で、本音は気味が悪いからなんだけどネ。

 …ラスボスに成り果てるような人間の『過去』なんぞ、きっと碌でもないだろうから。

 それを知ったところで、一体僕に何が出来るんだって話だし。

 

 気にならない訳じゃない。

 何せこちとら『ハリポタ』は映画勢なもので、原作でしか語られていない情報はちっとも知らないのである。

 映画と原作に差異があるなんて、色んな作品に必ず存在するものだしなあ。

 

 ヴォルデモートの『過去』って、映画だとチラっと語られたくらいなんだよね。

 孤児院暮らしでその頃から魔法が使えて、結構疑心暗鬼な性格に育ってて、ついでに蛇と喋れるぐらいしか記憶に残ってないわ。あ~、こんな事になるならもうちょっと映画見直せば良かった…!何か状況打開のヒントがあったかもなのに。

 まあ、前世の行いを悔いたってしょうがない。前向きに行かねば。

 

 ―――な~んかさっきの夢?だか光景?だか…前にも似たようなの体験したような気がするんだけどなぁ。

 

 ―――いつだったかなぁ…?

 

 『……って、うぉぉおい!!?』

 

 ちょっと待って、何気無しに周りを確認したら、誰もいねぇ!

 ここで実体化したって事は、近くに本体である日記帳がある筈なんだけど、ヴォルデモートとか何処行ったん?

 ていうか、持ち歩いていないのね…。まあ分霊箱に改造したのだから、そうそう持ち歩いて発見されて、先生にバレるのも避けたいよな。普段は自室とかにしまっておくのが賢い選択だよな…。

 

 『いないならいないで安心するけど、謎の寂しさよ…』

 

 前に確認した時は、数人の気配がしたんだけど、今は誰一人寝室スペースにいない。

 もしかして、授業中とか?

 

 『とりあえず、寮から出るか』

 

 忘れがちだけど、スリザリン寮は地下牢で湖の下なんだよね。はようホグワーツ城に行きたいわ。

 ていうかこんな所に寮を造るとか、創設者絶対性格悪いだろ。スリザリンに何の恨みがあるんだ…。ハリーが「スリザリンは嫌だ」って願ってたんも分かるわー。

 ……何でだろ?今の自分が「スリザリンは嫌だ」って言っても速攻で入れられそうな気がするわ…。

 下手したら「アズカバン!」とか言われたりしないよな?そんなんネタ動画じゃないんだからマジ勘弁っす。

 日記帳には触れられないってのは解ってるから、あえて探したりはしないぜ。時間の無駄無駄。

 

 誰もいないので、ここは窓ではなく出口から普通に行かせてもらいましょ。ほいほいっと。

 誰かに見つかる心配は多分無いんだけど、どうしても人の目が気になっちゃうのは前世から染み付いた本能よ。

 ドア類には触れられないので、もちろん壁をすり抜けて、ね。

 

 折角のホグワーツ。ここは色んな場所を回りたいところなのだが、生憎と時間制限のあるこの身では自重しなければならない。

 ホントは今すぐあちこちの教室とかハグリッドの小屋とか大広間とか行きたいんだけど!鎮まれこの興奮…!

 まず一番に目指す場所は、女子トイレだ。『嘆きのマートル』と接触を図ってみよう。

 

 何故かって?

 ゴーストは僕の事を認識出来るのかどうか知っておきたいのだ。ホグワーツってのは色んなゴーストの住処でもあるからね。

 彼らと意思疎通が可能かどうか。これがもしも可能だったなら、ホグワーツでの行動に選択肢が増えるかもしれない。

 

 彼らと協力態勢を取って、何かしら出来たりしないだろうかね…。

 『嘆きのマートル』は原作でもハリーの手助けをしてくれた事があったのだ。協力を仰ぐならうってつけのゴーストと言えよう。

 …それに、気が付けば"こうなっていた"とはいえ、僕の転生と引き換えに殺されたような子だし。逢わずに過ごすという選択は取れなかった。

 

 しかし。

 

 『……ちょっと待てよ、あそこ何階だっけ?2階?3階だっけ?やっべうろ覚え過ぎる!』

 

 落ち着け、慌てず騒がずここはヴォルデモートのくれた記憶を閲覧しよう。おっ、3階だったわ。この機能に至ってはマジ感謝。

 でも流石に、ホグワーツ内部の正確な地図的な記憶は入力されてないっすね…。

 こっちも生まれて初めてのホグワーツ来城だ。見取り図なんて知る由も無い。

 秘密の部屋の入口がある女子トイレに辿り着くまで、結構な時間を消費したのは忘れて頂きたい…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『という訳で、来たよ』

 

 『何がという訳、なのよ?』

 

 溢れ出る疑惑と苛立ちを隠そうともせず、眼鏡を掛けた全身銀色の透明少女が声を上げる。

 

 

 

 

 『さっきも言ったけど、そもそもここは女子トイレなんだって言ってるでしょ!?男子なんかお呼びでないのよ!もう出てってよ!』

 

 真っ当な正論を以てして、少女はこの場に相応しくない異物を排除しようと金切り声を響かせる。

 しかし、ここで大人しく引き下がる程こちらだって聖人ではないのだ。

 誤解のないように言っておくと、別に覗きの趣味は皆無である。あれ、一体何が愉しいんだろうね?

 

 『君以外誰も来ないじゃん。しかもゴーストって用を足す必要も無いじゃん。問題無いじゃん?』

 

 『そういう事じゃないでしょッ!マナー違反よ校則違反よ!変態よ悪魔よ!ケダモノよ異常者よッ!』

 

 『…そこまで言われると流石にヘコむ~~~』

 

 『とか言いながら退散する気ゼロじゃないのよ!!』

 

 漫才のようなやり取りを続けつつも、やはり自分の勘は当たっていたようだ。

 …この学校のゴーストは、僕を認識出来るし、声も通じている!

 

 『…なーんかあんたの声、聞き覚えがあるのは気のせいかしら?つい最近、聞いた事がある気がするのよねぇ』

 

 『は、ハハハ、ソンナマサーカ、キノセイダヨー(裏声)』

 

 流石元レイブンクロー生。意外と勘が鋭い…。

 

 『えっと、マートルさん?』

 

 『うるさい!気安く呼ばないで』

 

 『えっと……じゃあ何て呼べば……』

 

 『マートルでいいわ』

 

 『いいわって…言ってる事支離滅裂なんだけど…』

 

 『本名はマートル・エリザベス・ウォーレンよ。ここまで名乗ったんだからあんたも自分の名前言いなさいよ!女子トイレに入ってくる変態の名前を、学校中に言いふらしてやるんだから!』

 

 『あー、それはマズイ。この件に関しては冤罪人が出ちゃうよ…』

 

 このまま名乗ってしまっては、ヴォルデモートが変態の汚名を一生背負って生きていかねばならなくなる。それはやばいって。別にそれでも良いんじゃねーの、と叫ぶ自分もいるが、こういうバタフライエフェクトが未来にどういう影響及ぼすか計り知れないから、やめさせないと。

 まあ、ゴーストに変な嘘を吐いても仕方がないだろう。ここは真実を混ぜながら説明しよう。

 

 『僕はトム・マールヴォロ・リドル。といっても、本人じゃないよー』

 

 『はっ?リドルですって?あのリドル?…スリザリンの優等生じゃないの!?』

 

 『あれ、知ってる?』

 

 『知らない奴はほとんどいないわよ、あの模範生のトム・リドル!スリザリンの監督生!全校生徒の憧れ!先生は口々に言うの、彼を見習いなさいって…。…どうりで、見覚えがあると思ったわ。まさかあんたにこんな趣味があったなんてッ…!』

 

 『あー、違う違う!本人じゃないから!僕もゴーストみたいなもんだよ!あ、あっちは今も生きてるから……えと、生き霊!僕は彼の生き霊みたいなもん!』

 

 『はぁ?生き霊?』

 

 『そう、生き霊!だからほら!君みたいに壁だってすり抜けるんだから!』

 

 言いながら、トイレの個室を区切る壁をするりと通り抜けてみせる。マートルは目を見開いた。

 

 『…うそ、あんたゴーストじゃないでしょう?何で』

 

 『だから言ってるじゃん、生き霊だって。本人は多分、今授業中じゃないかな』

 

 『信じられないわ!生き霊ですって?聞いた事ないもの。今みたいな真似が出来るのは、死んだ奴らだけなんだから!』

 

 『事実だよー。ほら、君と違って、全身銀色じゃないでしょ?ゴーストとは違うんだよ』

 

 『うそでしょ……』

 

 分かりやすく両手をパタパタさせてみる。マートルは未だ信じられないといった様子だ。…まあ、この世界って生き霊なんてほとんど居なさそうだもんな。当然だろう。

 

 『……百歩譲って生き霊だとしても。女子トイレに入って良い理由になるのかしら?』

 

 『あうち、それはそうなんだけど』

 

 『生き霊になってまでそんな趣味があるだなんてッ!!』

 

 『あー、またいらぬ誤解を積み重ねていくぅー。違うよ、ほんとにそんな趣味全然無いから。某ゲームの如く0% 0% 0%だよ』

 

 『じゃあ何の用があって来たのよ!?』

 

 『マートルに逢いに来たんだよ』

 

 

 

 

 ビタッッッ、と。

 

 それまでギャーギャー忙しなく動いていたマートルの動きが完全停止する。傍から見ればスイッチを切られたロボットの動きを完全再現していて、ふつくしかった。

 

 『こっちは生き霊なもんで、誰にも相手にされないからさ。ゴーストなら気付いてくれるかなって』

 

 マジもんの本音である。真実100%たっぷりである。

 

 人間の生物的本能は、きっと"孤独を厭う"様になっているのかもしれない。

 いくら一人が楽だと言っても、それが長期間続けば精神的に参るものなのである。

 前世ではまだマシだった。ネットというもので顔も名前も知らないが他者との交流をしていたからこそ、余計に今味わっている完全ぼっちの日記生がしんどかった。

 意識に刷り込まれる文字だとか、脳内に響く声だとか、そんなものよりも。

 目の前に確かに存在する、ちゃんとした話し相手が欲しかったのだ。

 

 『…こうして、きちんと誰かの顔を見て、他愛もない話をするのを、どこかで望んでいたかもしれない』

 

 おおっと。余計な事まで言ってしまったかも。

 こんな陰気臭い話をしに来た訳じゃなかったのに。

 マジで染み付いたぼっちオーラが拭えないわ。

 

 『僕はずっと、一人だったから。君がこっちに気付いてくれて、ちょっと調子に乗ってたかも。確かに、女子トイレにずかずか入るもんじゃなかったよね…』

 

 冷静に考えてみ?いきなり女子トイレに入ってきて、亡くなった女の子に話し掛ける男子ってどう思うよ?マジで変態にしか見えないだろ何考えてんだホント。反論の余地ないわ。

 最初はこれからの展開に向けた打算のつもりだったのに、いつの間にか雑談が目的になってしまっていた…。

 外に出る事を、誰かと直接話す事をあれほど恐れていたのに、不思議と今は何も恐怖を感じないのは、憧れの魔法界に来たという興奮のせいだろうか。

 

 …それとも、今の僕が別人に為っているから?

 

 

 

 

 『ごめん、僕帰る―――』

 

 『待ちなさいよ』

 

 ふと湧き上がってきた羞恥心に耐え切れず出口へ向かおうとしたら。

 いつの間にか、音も無く背後に近付いていたマートルに呼び止められていた。

 …どうしてか、眼鏡の奥のその瞳が、水分を溜め込んでいるように見えるのは気のせいだろうか。

 

 『…私、私もね、一人だったの。ドジで陰気臭くて、…すぐ泣き喚くバカ女だって、いっつも虐められてたの…』

 

 『……マートル』

 

 『でも、でもね。死にたい訳じゃなかったの!こうなりたかった訳じゃないのよ!』

 

 自分がゴーストになったのは、決して苦痛から逃れる為の自殺ではないと言う。

 

 『オリーブ・ホーンビーが私の眼鏡をからかってきた日にね、ここで隠れて泣いてただけなのよ!そうしていたら、誰かが入ってきて……、男子だった、と思う。何か喋ってて、でもここは女子トイレだから、出ていけ!って言おうとしただけなのに……。気付いたら、死んでたの』

 

 ズキリと、胸の奥で痛みが走った。

 ……間違いなく、この世界に来た"あの日の出来事"だ。

 

 『きっとゴーストになったのは、オリーブに取り憑いてやるって決めてたからよ。あいつはとっても後悔していたわ、いい気味よ』

 

 少しでも陰気臭さを紛らわそうとしているのか、彼女は言葉の最後で笑い声を混ぜていた。でもなんとなく、強がりの虚勢だと解った。

 当然だ。原作と違って、死んでまだ間もないのだ、彼女は。自分の死を、楽観的に受け止めるには期間が早すぎる。

 

 『………ごめん』

 

 『どうして謝るのよ?私が虐められていたのはレイブンクローの奴らからよ。スリザリンのあんたに関係は無かったわ』

 

 『…いや、君が、そうなったの、は…』

 

 厳密には、彼女を死なせたのは自分じゃない。

 だけれど、完全な無関係という訳でもない。

 二つの考えが堂々巡りをして、いつまで経っても言いたい言葉が見つからない。

 

 ……あのヴォルデモートが生まれて初めて犯した殺人が、彼女相手だったのだ。

 そうして彼は、不死への第一歩を踏み出した。

 罪の無い、むしろ救いの手を差し伸べられるべきだった彼女を踏み台にして。

 

 

 

 

 

 

 

 『…………よし』

 

 『…?何が「よし」なの?』

 

 『いや、改めて目標に向けての決意が固まったんだよ』

 

 『はあ…?』

 

 『マートル、君の仇は僕が取る』

 

 ポカン、と、そんな効果音が聞こえてきそうなぐらいあんぐりとマートルは口を開けた。

 初対面の相手からそんな言葉を聞いたら、そりゃ誰だってそうなるだろう。

 

 『君の死因を作った奴は、今ものうのうと生きているんだ。誰かは言えないけど、そいつはきっと、少なくともあと50年は生き続ける。僕はそいつを止めたいんだ』

 

 『え、え……?死因って、何なのそれ。私は殺されたって言うの…?』 

 

 『そう…なんだよ。君は直接傷付けられた訳じゃないから、自分がどうして亡くなったかも判らなかったんじゃない?』

 

 『それは、そうだけど……。死ぬ前に覚えているのは、大きな黄色い目玉だったわ。そこから先は、もう全く』

 

 『やっぱり…』

 

 その黄色い目玉ってのは、バジリスクだろう。50年後、ハリーがグリフィンドールの剣でぶっ殺す秘密の部屋の怪物。

 ただ、僕は秘密の部屋事件を起こす気は無いので、その未来は訪れないかもしれないけれど。

 

 『そいつはとても悪い奴でね。放っておいたら君だけじゃない、色んな人が殺されてしまう』

 

 『ちょ、ちょっと待ちなさいよ!何であんたがそんな事知ってるのよ?ホグワーツの誰かが犯人だって言う、の?』

 

 『そう、だよ。ホグワーツの誰かがやったんだ。僕はそいつを知っている』

 

 『……どうやって知ったの?』

 

 『…予言だよ。予言があるんだ。その悪い奴が運命の子にやられるって』

 

 『予言ですって…?』

 

 『でも、もしかしたら僕が存在する事でその予言も少し狂ってしまうかもしれない。だから、僕は慎重に行動しないといけない』

 

 『………。だから、犯人が誰か言えないの?』

 

 『そう。君は悔しいかもしれないけど、こればっかりは言えない…。ごめん』

 

 彼女が犯人を知ったら、どう思うだろうか。

 「お前のせいか」と罵るだろうか。

 予言がどうとか関係無かった。僕は単に逃げただけだ。真実を言えない理由をでっち上げたようなものだ。

 真実を伝える事で、彼女の態度が変貌する未来が恐ろしかっただけだ。

 

 ……卑怯だよな。

 自分を死に至らしめた原因を知りたくない人間など、そうはいないのに。彼女が真実を知る機会を奪ったのだ。

 

 …彼女から奪ってばっかだな、『僕』は。

 

 『僕は君と違って、ゴーストじゃないから。まだ現世に干渉する術があるんだ。出来ればホグワーツの人間に僕の存在を知られたくない。これから先、もしかしたら障害になるかもしれないからね。…その、ここまで話しといて虫が良すぎるんだけど、出来れば僕の事は口外しないで欲しい。僕と違って、君の声は生者に聞こえてしまうから』

 

 『………どうして、仇を取るなんて言ったの?』

 

 『へっ?』

 

 突然の質問に間抜けな声を出してしまう。

 

 『私達、今日初めて逢ったばかりじゃない。そんな事を言われる理由が見つからないわ』

 

 『そ、それはそうだけど……』

 

 『ねぇ、どうして?』

 

 じろりと、こちらの心情を覗き込むような瞳で、マートルがこちらを見つめてくる。

 そ、そんなに見られたら喋りにくいからやめてくれ…!

 

 『……君が死んだ事で、得をしている奴がいるから』

 

 『…得?』

 

 『あ、あと……嬉しかったから。僕なんかとこの世界でまともに喋ってくれたのは、君だったから』

 

 そこまで聞いて、マートルはいきなり宙に浮かび上がった。天井にぶつかりそうなくらい高度を上げたかと思うと、今度は急降下して便器の一つへ向かって頭から突っ込んだ。

 

 『……はぁッ!?』

 

 突然の奇行に思わず素っ頓狂な叫びを上げてしまった。バシャーンと派手な水音を立てながら、マートルの体は便器の底へ完全に沈んでしまった。衝撃で溢れた水が波の様にトイレの床を埋め尽くす。

 恐らく便器の下にある排水溝と思われる場所から、彼女の叫び声がくぐもって聞こえてきた。

 

 

 

 

 『バカぁぁぁぁぁっ!そっそんな恥ずかしい事……面と向かって言わないでエェェェェ……!』

 

 

 

 

 どうやら恥ずかしさの余り隠れてしまったようだが……何も便器に突っ込まんでもええやん。汚物を流す場所やぞソコは。いや、ゴーストに汚れもクソも無いだろうけど、ちょっと絵面的にあれなんだが。

 一応便器に向かって声を掛けてみる。

 

 『お、お~~~い?大丈夫?』

 

 『だっ大丈夫だからもう出てってぇ!心配しなくても、あんたの事なんか誰にも言わないわよっ!私の中に留めておいてあげるわ!だから今日はもう帰って!!』

 

 『りょ、了解…』

 

 正直便器の中まで追い掛ける度胸も無いし、帰れと言われたのだからここは素直に退出しよう。これ以上彼女を刺激するとホグワーツが水没しそうだ…。

 念の為トイレの出口付近に誰もいないのを確認してから、元来た道を戻る。ちょっとした倦怠感を感じる限り、そろそろ時間だ。

 随分長居をしてしまったようだ。どうせならぎりぎりまでホグワーツを歩いてみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 『ふぅ……なんか、柄にも無い事言っちゃったなぁ……』

 

 歩きながら持ってきた杖を振るってみるけど、相変わらず魔法は碌に発動しそうにない。

 え?アバダはどうなんだって?あんなの封印に決まってるだろ、一生封印だわ。人殺しが目的じゃないし。使ってるとこ誰かに目撃されたら間違いなく悪認定だわ。よっぽどの正当防衛じゃないと使えんわ。

 

 …しかし、まさかこの世界で初めてまともに会話した相手が、『嘆きのマートル』になるだなんて、思いもしなかった。

 彼女も僕と同じ様な境遇で、不思議と親近感を覚えた事も要因だったかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 ……ヴォルデモート。

 

 あいつは、そんな彼女を殺した。

 状況から考えれば、秘密の部屋を開けようとする時に、トイレに入り浸る彼女が邪魔だったからなのだろう。

 分霊箱の生贄も兼ねて、邪魔者のマートルを殺害した。

 そのくせ、本人は彼女の言うように模範生を演じて学校生活に溶け込んでいる。

 人を、殺しておいて。尚仮面を被り続けるその性根は、正直感心する。

 

 沸々と、この身に不可視の炎が燃え上がってくるのを感じる。

 これは、怒りなのだろうか。

 この世界で出来た、唯一の会話相手を殺した相手に対する憎悪?

 

 

 

 

 どちらであろうと構わない。

 

 少なくとも今日この日。あいつを止める理由が、自分の生存の為だけじゃ無くなったのは確かだった。

 

 

 

 

 そんな風に思考を巡らせる僕は、この時気付いていなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――今日が9月1日で、ホグワーツの始業式だったという事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう既に生贄が捧げられ、二つ目の分霊箱(ホークラックス)が制作されていたという事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




原書では2階となってるらしいんですけど、いつの間にか3階になってる秘密の部屋の女子トイレ。これもうわかんねぇな。




最初の分霊箱(ホークラックス)の制作時期は6月辺り。

二つ目の分霊箱(ホークラックス)の正確な制作時期は、8月なんですよね

この時、一体"誰が"、"生贄"にされたか。…よくよく考えると恐ろしい。


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Page 7 「7つの分霊箱」

 "―――世界には絶対的な『悪』が居て、それを討てば全てが平和になって、丸く収まる。

 ……多分君達は、そういうのが好きなんじゃないかな。

 解りやすいから。

 

 罪悪感を感じる必要は無いよ。

 だって、先に罪を犯した方が悪いに決まっているじゃないか。

 罪人がどんなに過ちを嘆いて、後悔の念に苛まれたとして。

 積み重ねた咎は消えないし、血に塗れたその手は綺麗になりはしない。

 

 君も今まで隣で笑っていた友人が、実は裏で殺戮を自らの意志で行っていたなんて知ったら。

 ……これまで通りに接する事なんて、出来はしないだろう?

 

 だから、これは仕方ない事なのさ。

 避ける事の出来ない『宿命』なのさ。

 そういうものなんだよ。

 

 

 

 

 『異端』には、業火を持って報いる。

 それが、人間の紡ぎ続けてきた物語。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――夢を見た。

 

 兎が首を吊って死んでいる。垂木に結ばれた縄の先に、もう二度と動かない獣が、振り子のように揺られて死んでいる。

 奇妙な光景だ。動物が自殺するなどあり得ない光景だ。間違いなく人間の仕業の筈である。

 しかしそう考えても、果たしてあんなに高い垂木の上へ、わざわざ登って動物を首吊りにする物好きは居るのだろうか。大人であろうとも、そんな芸当は難しいのではないだろうか。

 

 気味が悪くて、目の前で揺れる兎の死体から目を逸らす。その先に、人目を避けるかの如く気配を薄めたような小さい男の子が歩いていた。

 ふと雑音に気付き周囲へ視線を移せば、いつの間にか疎らに子供達が存在していた。いや、もしかしたら最初から居たのかもしれない。

 子供達は体格や身長から考えて年齢はバラバラのようだったが、それでも全員が精々小学生ぐらいまでだった。

 

 ある子供は、歩いている男の子を睨むかのような目付きで眺め、ある子供は吊られている兎を見て喚き、ある子供はそんな喧騒に関わるまいと見て見ぬフリを貫いていた。

 この状況は、何だろう。まるであの男の子が犯人だと訴えているみたいではないか。

 だとしても、あんな小さな子供が、高い垂木の上に登って兎を殺すだなどという所業が、可能なのだろうか?

 

 男の子は、そんな周りを決して振り返らない。ただただ気配を薄めて、歩いていくだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか景色は移り変わり、今度は何処かの洞窟の入口に立っていた。

 闇そのものを携えているかの様な暗闇が広がっている。こんな所へ入るのは好奇心に溢れ恐怖を顧みない子供ぐらいだと思う。

 その考えが的中していたのか、しばらくして洞窟の闇の中から子供達が姿を現した。

 

 全部で三人だ。男の子が二人と女の子が一人。探検のつもりで入っていたのだろうか。

 しかし様子がおかしい。先頭をしっかりとした動作で歩く男の子に付いていく残り二人の足取りは、酷く不安定で覚束ない。その表情もどこか虚ろで、泥の中に溺れてしまったかの様な濁りが瞳を満たしていた。

 

 ゾンビ映画のワンシーンを訪仏とさせるおかしな様子の二人を、しかし男の子はやはり振り返らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 奇妙な夢の中で、その男の子は最後にいつも独りだった。喧嘩をしたり口論になったり、他の子供達と関わっている場面もあったが、最後には必ず独りになっている。

 

 景色は再びガラリと変化し、そこはとある個室の中となっていた。古びた洋箪笥に、机と椅子の一式、簡素なベッド。特に変わった様子も無い、何の変哲もない部屋だ。

 そこで男の子が何か箱の様な物を手に持って、箪笥の中に隠そうとしている。

 何が入っているのか予想もつかないが、何となく"ここにあってはいけない物"だと思った。

 

 ―――どうして解るのだろう。思い出せない。

 

 声を掛ける事もせず、ただぼんやりと男の子の背中を眺めていると、箱をしまい終わった男の子がこちらを振り返った。

 

 しまった、気付かれてしまっただろうか。

 いや、何も悪い事はしていない筈だ。これは夢なのだ。自分はただ、夢の光景を観賞していただけに過ぎないのだから。

 そうやって言い聞かせ、沸いてくる罪悪感と闘っていると。

 

 男の子が言葉を発した。―――と、思う。

 口が動いているのが解るが、声が上手く聞き取れない。ノイズが掛かっているかの様な不協和音が、部屋の周囲から溢れ出して聴覚の邪魔をしてきたからだ。

 鼓膜を揺さぶる不快感に思わず顔を顰めてしまうが、男の子の喋っている言葉が気になって、その表情に意識を集中させる。

 男の子は、自分の行動を監視していたこちらへ怒りや驚きを見せている様子は無かった。

 ただ、きょとんとした表情と、少しばかり虚ろな赤い瞳をこちらに向け、何事かを呟いている。

 唇の動きだけで、何とかその言葉を理解しようとした。

 

 

 

 

 ―――う 、 し 、 ろ 。

 

 

 

 

 そこまで読唇して、慌てて背後を振り返った。

 そこは部屋を囲む壁しか無い筈だった。

 けれども、実際は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間の体長を遥かに越える巨大な大蛇が、ボロボロの紙を引き裂くかの如く、部屋の壁を突き破って姿を現し。

 

 

 

 

 長年捜し求めていた極上の獲物をようやく発見したと言わんばかりに、その口を顔が裂けてしまうんじゃないかと思う程大きく開き。

 

 

 

 

 鋭利な牙を誇示する様に曝け出しながら、こちらへと襲い掛かってきた―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『《エクスペリアームス》!《エクスペリアームス》!!……《エクスペリアームス》!!!』

 

 喉が張り裂けんばかりの勢いで、連続で呪文を唱えて杖を振るうも、やはり魔法は発動してはくれない。

 

 ―――え?今何をやっているんだお前はって?魔法の練習中です。

 

 50年後に備えて魔法の習得は必須だと思い、こうして実体化した機会を無駄にせず練習に励んでいることですのよ。

 あれからちょくちょくヴォルデモート君が日記に書き込んでくれるお陰で、ホグワーツの敷地内である湖の畔へ抜け出しては練習を続けている。

 ここならまず人は来ないし、敷地内だから魔法を使っても魔法省?とやらに感知されないだろうし、まさにうってつけの練習場所だった。…わざわざスリザリン寮の窓から出て泳いでくるのは少々面倒だけれど。

 

 一度、どこまで遠くに行けるか試してみたけれど、やはりというかそう万能ではなかったというか…本体である日記帳からはそんなに離れられなかった。

 ある程度距離を取ろうとすると、見えない糸に全身を引っ張られるような引力が発生して、それ以上は一歩も歩けなくなってしまうのだ。

 かといって制限距離は短すぎるという訳でもなく、現にこうしてホグワーツ城外の湖畔まで来れているので、あまり心配する必要は無さそうだ。

 

 しかしなぁ…。『下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる作戦』でひたすら連続詠唱してるけど、全然成功せんわ。

 やっぱりちゃんと指導してくれる先生が欲しいねぇ…。

 というか、先生の指導とかをすっ飛ばして独学で魔法を習得しようとする事自体、割とおこがましいのではないだろうか。

 ハリーだってちゃんと授業を受けて、色んな魔法を覚えていたし。

 でも仕方ないじゃん。今の僕、生きてる人間は誰一人認識出来ないぜ?どうやって教えを請えって言うんだよ…。

 くっそ、成功したのが今のところ《アバダ・ケダブラ》ただ一つとか、人生最大の汚点だ…!いや、日記生と言うのが正解か。

 

 『《エクスペリアームス》ゥゥゥ……』

 

 あんまりにも声を出し続けて、ついに疲労が限界に達した。一先ず杖を放り出し地面に座り込む。

 大声を出すだけでも魔力を余計使うし、ここは別の方法を考えるべきだろうか?

 正直この作戦効率的とは言えないし…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【手伝ってあげようか?】

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……………………………………………………………………………………。

 

 

 

 

 

 正直この作戦効率的とは言えn

 

 【聴こえているだろう?】

 

 『あーあー、聴こえなーい』

 

 【それは聴こえているという証拠なんだけどね】

 

 『うっさいボケ』

 

 おいおいおい。まさか、実体化してる時にも声掛けられんのかい!

 今まで実体化してる時には一切語り掛けて来なかったくせに!

 

 『タイミングが良すぎる。企みがあるって隠す気無いだろ』

 

 【君が悩んでいるから声を掛けただけなのに】

 

 『…アンタ、いっぺん溢れ出る胡散臭さ隠す努力した方がいいんじゃない?』

 

 【胡散臭いだなんて心外だな。大体こちらと直接逢った事は無いのに、どうしてそう思うのかな?】

 

 『そういう人間を見抜く能力は備えている、と思ってるから。言葉だけでも』

 

 【君はもう少し、信じるという行為をしたらどうだろう】

 

 『顔も分からない相手を信じろって、最早暴言だよね』

 

 【ゴースト以外で唯一の会話相手を、蔑ろにしなくても良いだろう?】

 

 『会話相手だとか思ってるの、アンタだけだから』

 

 【じゃあ、こちらの事をどう思っているんだい?】

 

 『……詐欺師?』

 

 【そこで疑問形なのが気になるが…。君の計画上、魔法が使えないのは問題点なのだろう?それを可能に出来る術がこちらにはあると言ったら、君はそれに縋るしか方法が無いと思うのだけど】

 

 『はっ、縋るだって?上から目線な奴に媚び諂う気は無いね。分かったら明後日来るんだな』

 

 【一昨日の間違いだろう?】

 

 こいつ…!どうあっても会話を切り上げないつもりだな…。

 並の人間だったら引き下がる塩対応に声色一切変えず、突っ込みまで入れるという余裕っぷり。どんなに突き返したところで声を掛け続けてくるかもしれない。

 

 

 

 

 『…………。…よし、思惑に乗ってやろうじゃないの。さっさと、解り易く、三行で説明。オーケー?』

 

 【それは流石に過剰要求じゃないかい…?】

 

 『分かった分かった。何行でも良いからとっととやって』

 

 【やっと話が出来るね…】

 

 『今からするのは"会話"じゃない。"説明"な?』

 

 【その事なんだけど、一つ良いかい?】

 

 『あんだよ』

 

 【魔法の使い方を伝授する代わりに、君と"会話"がしたいのだけれど】

 

 『………』

 

 【『等価交換』。君が教えてくれた事だよ】

 

 そういや前にそんな事言って突き放した記憶がある。こいつまさか根に持ってたのか…。

 ……うーん、まぁ、自分で言った事だししょうがない、か…?

 

 『…………分かった』

 

 【うん、じゃあ説明に入ろうか】

 

 『アンタマジで胡散臭ぇわ…』

 

 【褒め言葉だと受け取るよ】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【いいかい?魔法は例えるならば"商品"だ。購入して使用するには代金が必要になる。当然だね?この通貨の代わりになる物、それが"魔力"だ】

 

 【そして、現実の"商品"と違って、支払うだけではモノに出来ないのが魔法だ。世界の物理法則を捻じ曲げる代物なのだから、そう簡単に人の手で操れる事象ではないのも仕方ないね】

 

 【魔力と一緒に必要な物は……想像力。どんな魔法を購入したいか、どの程度の規模で発動させたいか。とても具体的なイメージが必要だ】

 

 【生半可なイメージでは魔法は発動してはくれない。君の場合、その身に宿す魔力量は膨大だ。あとは想像力さえ鍛えれば問題無いレベルだね】

 

 【あ、先に言っておくと、発動させる魔法に要求する追加要素が多い程魔力を余計に持っていかれるからね。よっぽどの事態で無い限りは、あまりこの辺はイメージしない事】

 

 【魔力は無尽蔵ではないから、その点も頭に入れておくといい。魔力切れで袋叩きなんて、笑えないだろう?今の君は魔力が切れればすぐに本体の中に戻されるけれど、実体化を成した暁にはその場で動けなくなってしまうだろうからね】

 

 『まるで水を得た魚の様な説明をありがとう。具体的にイメージしろだとか、魔力が切れるからあんまりイメージすんなだとか、いまいち要領を得ないんだけど。結局どっちなのさ?』

 

 【武装解除呪文で例えようか。この呪文は、一体どんな効果だったかな?】

 

 『は?名前の通り、相手が持ってる武器を吹っ飛ばすんだろ?』

 

 【そうだね、もちろんそうだ。"基本の効果"はね。だが更にイメージを追加する事で他の効果も生み出す事が可能なんだ。相手の武器をこちらの方へ持ってきたり、相手の肉体ごと武器を吹き飛ばしたり。シンプルな武装解除呪文だけでも、この様に武器を奪う以外の効果を追加出来るのさ】

 

 『そ、そういや《エクスペリアームス》って確か人間も吹っ飛ばしてたな…』

 

 【追加効果を付与すれば、当然それに見合った魔力を支払わなければならない。そこまで望んでいない状況なら、"基本の効果"だけを鮮明にイメージするんだ。所謂節約だね。もう理解出来ただろう?】

 

 『……口で言う程簡単なもんじゃなかった』

 

 【大丈夫、君は才能がある。無ければ『死の呪文』なんて到底扱えなかったさ】

 

 『あのう、それ言及するのやめてもらえます?こっちとしては汚点なんで』

 

 【誇っていいんだよ?】

 

 『誇れるかアホ!人殺しの呪文だぞ!』

 

 【気に入らない者を消すにはうってつけの魔法だと思うんだけどね】

 

 『悪いが今世でアズカバンに行く気は無いんでね!』

 

 【バレなければ問題は無いのでは?】

 

 『悪い事ってのはな、勘のいい奴がいつか気付くものなんだよ!どんな世界でもな』

 

 【へえ、じゃあ"君"も気付かれてしまったんだね】

 

 

 

 

 ―――ピタ、と。

 

 悪態をつきながらでも、魔法を習得しようとイメージを働かせていた思考が停止させられた。

 

 ……こいつは、今何と言った?

 

 【さて、じゃあ"説明"も終了したことだし。ここからは"会話"といこうじゃないか】

 

 まるでこれこそが己の目的だったと言わんばかりに、核心を話し始めるこいつを、止める事が出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【―――君は、"親"を傷付けた事があるね?】

 

 

 

 

 

 

 

 

 ズグン、と。

 

 今は持たぬ筈の心の臓が、飛び跳ねた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『……なんの、話』

 

 【そのままだよ。君の事を訊いているだけさ】

 

 『…知らない。この話はやめろ』

 

 【父親かな?それとも母親?ああ、精神的にか肉体的にか、どっちを傷付けたかは知っているから、言わなくて構わないよ。今はもう、帰らぬ人になっていたり?】

 

 『………おまえ、やめろって言って、』

 

 【あぁ、断片的にしか読み取れないのはもどかしいね。さあ訊かせてくれないか。君が隠そうとしている心の内を】

 

 

 

 

 ―――こいつは、最初に言っていた。

 

 

 

 

 全部ではないが、考えている事が解る、と―――

 

 

 

 

 今になって、ようやくその事の恐ろしさに気付いた自分は、なんと愚かな者だったことか。

 

 

 

 

 

 【不思議なんだよね。だから知りたいんだ。君は"人殺し"を否定しているくせに、"こういうギリギリの事"はしているんだから。矛盾している。それで、その杖も君を選んだんだろう】

 

 『………、………それを知って、何になる?』

 

 沸き上がる怒りを抑え、努めて冷静に返したつもりだった。それでも、今の声は震えていたに違いない。

 

 【相手の事を識ろうとするのは、そんなに悪い事かな?】

 

 『…アンタ、性格悪いって言われた事、あるだろ?』

 

 【残念。演技は得意だったから、そんな言葉とは無縁だったよ】

 

 心底、理解せざるを得なかった。

 こいつは間違いなく、こちらの記憶を大体は網羅している。

 喚き散らしたって、もうその事実は無くなりはしない。

 

 ……隠したところで、意味は無い、のか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【さ、訊かせてもらえるかい?】

 

 『………等価交換』

 

 【…うん?】

 

 さっきの約束を反故にするようで癪だったが、もうどうでもいい。

 そもそもこいつに気を遣う必要なんて無い。

 ここまで平然と悪意を撒き散らす奴の事なんか、どうして気に掛けなければいけないのか。

 

 『等価交換。……前に言ったよな?死ななければ全部教えるって』

 

 【あぁ……そうだね。確かに言ったよ】

 

 『それと交換で教えてやるよ、こっちも。アンタが全部教えてくれる時になったら、思う存分今の質問に答えてやる。だから、この話は終わりだ』

 

 【………ついさっきの『等価交換』はどうなるんだい?】

 

 『等価じゃない。釣り合わない。"魔法の使い方しか"教えてくれてないだろ。こっちの情報と全然釣り合ってない』

 

 【……………】

 

 『たったあれくらいの情報で交換出来るような話じゃないって言ってんだよ。…ご理解頂けました?』

 

 精一杯の嫌味を込めて言い放ってやれば、しばらくの沈黙の後にようやく返事が返ってくる。

 

 【……仕方ないね。確かに"魔法の使い方だけ"では、釣り合わないお話なのかもしれないな。性急過ぎたよ、この件に関しては素直に謝罪しよう】

 

 『アンタの謝罪なんか一ミリも嬉しくないから』

 

 何にせよ、向こうが引き下がってくれたのなら何でも良い。

 等価交換でいつか話すという約束を結んでしまったが、今この時この会話を打ち切れただけで、ただそれだけで良かった。

 

 …本当に、何で"こんな事"をまだ覚えているのか。

 あっけなく忘れてしまった『本名』みたいに、この記憶も消してくれたなら―――

 

 こんな奴に話すなんて事も、無かった筈なのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『…やっぱ、アンタの事嫌いだよ』

 

 【そうかい?こちらはそうでもないよ】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――この世界でヴォルデモートを止める為に、今一度整理しなくてはならない情報がある。

 

 それはもちろん、分霊箱(ホークラックス)である。

 改めてまとめてみよう。

 

 

 

 

 ・分霊箱(ホークラックス)とは、引き裂いた己の魂を保存しておく器の事。

 

 ・どうやって魂を引き裂くのか。それは、殺人を犯す事が条件。

 

 ・分霊箱(ホークラックス)が一つでもこの世に存在していれば、術者が死んでもその魂はこの世に留まる事が出来る。

  要は仮初の不死状態になれる。

 

 ・ヴォルデモートは臆病(私見)なので、一つだけでは飽き足らず複数制作している。

 

 ・原作でヴォルデモートが制作した分霊箱(ホークラックス)は、全部で6つと、意図せず制作したのが1つ。合計7つ。

 

 ・魂を引き裂く事に全くのリスクが無い訳ではない。

  例えばヴォルデモートの外見が崩れてしまったのも複数作ったのが原因。

  魂を分割し過ぎて不安定となったせいで、意図せずハリーを分霊箱(ホークラックス)にしてしまっている。

  加えて、7つも作ったお陰で、ハリーに近付いても己の分霊箱(ホークラックス)だと感知不能になっていた。

 

 ・原作は全てぶっ壊してハリーも生き残って、ハッピーエンドで、終わり!

 

 

 

 

 …じゃあダメなんだよなぁぁぁぁぁ!

 

 それじゃこっちが死んじゃうんだよなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…。

 

 しかし、これらを破壊するのは確実にヴォルデモートを追い詰める事に繋がるのだ。

 引き裂いた魂を入れておいた器を壊していく。この時の中の魂は本体に戻る訳ではなく、そのまま滅ぶ。

 つまりは、分霊箱(ホークラックス)を破壊するという行為は、相手の魂をどんどん削って衰弱させる様なものなのだ。

 この事から考えると、やはり自分以外の分霊箱(ホークラックス)は破壊すべきと言えるだろう。

 

 もちろーん、ダンブルドア勢とか魔法省とかに気付かれずにね!

 あいつら、分霊箱(ホークラックス)の存在知ったら、こっちの事情とか考えずに多分問答無用で『全部』ぶっ壊すでしょ?

 相手は何しろ名前を言ってはいけないぐらいの、史上最大の闇の魔法使いなんだもんね!手加減なんて、無理だよね!

 

 誰にも知られずに分霊箱(ホークラックス)を破壊、か…。

 

 うん、無理ゲーだわ(思考放棄)

 

 それを可能ゲーにする為にも、協力者を探していたんだけれども。

 正直、ホグワーツのゴーストには頼れんわ…。

 

 まず、ヴォルデモート自体が現在進行形で生徒だし。ゴーストは僕も認識出来るから、もしも接触なんてしようものなら。

 「何でトム・リドルが二人居るんだああああ!?」って、絶対なるでしょ(確信)

 そうやってゴーストが騒いだら、ダンブルドアとかヴォルデモート本人にも僕の存在が伝わってしまう。それはマジで論外なんだわ。

 ダンブルドアに分霊箱(ホークラックス)の存在を察知されるし、ヴォルデモートも「何で勝手に分身が動き回ってんだ?」ってなるでしょ。

 よって、ゴーストに頼るという方針は、ナシ!

 それにより、ゴーストの前に姿を現すのもナシだから、人目にはより一層気を付けないと。

 マートルは口外しないと約束してくれたけど、彼女はヴォルデモートの被害者だ。これ以上彼に関わらせるなんて所業は出来ない。

 

 

 

 

 では、一体誰と協力するんだって?

 

 実はもう、大体考えているんだなー。ふっふっふ。

 

 そして、この計画ならば。

 きっと誰の命も奪わずに実体化出来るかもしれない。

 まあ、めっちゃ上手い事立ち回らないといけないんだけどね。

 失敗したら目も当てられん…。

 

 

 

 

 ……僕は、誰も"殺す気"は無い。

 そんな事に手を染めなくても、きっと果たせる計画だから。

 それに、もしも殺人を犯してしまったら。

 

 それこそ、ヴォルデモートと同類になってしまうじゃないか。

 

 僕は違う。

 

 

 

 

 あんな、"平気で人を殺せる"ような人間とは違う。

 

 

 

 

 …絶対に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 分霊箱(ホークラックス)は、全部で7つだ。

 

 

 

 

 1. トム・マールヴォロ・リドルの日記帳

 

 2. マールヴォロ・ゴーントの指輪

 

 3. サラザール・スリザリンのロケット

 

 4. ヘルガ・ハッフルパフのカップ

 

 5. ロウェナ・レイブンクローの髪飾り

 

 6. ハリー・ポッター

 

 7. ナギニ

 

 

 

 

 ふう、映画では全部覚えきれなかったから、前世ではネットで調べてて良かった…。これ、覚えてなかったら詰んでたわ…。

 意外とナギニが最後に作られたんだよな。この蛇、今一体どうしてんだろ。なんか、別の映画に登場してなかったかな?

 確かファンタスティックなんとかとか…。すまん、あのシリーズは1作目しか観てないのじゃ。グリルデンバルドだかグリンデルバルドだか、そんな奴がラスボスじゃなかったっけ?

 あのおっさん、ニワトコの杖がどうたらしか印象に無いわ。こいつはほっといてええやろな。ハリポタシリーズじゃヴォル君がラスボスだし。

 

 あぁ、ハリーが分霊箱(ホークラックス)になっちゃうけど、どうするんだって?

 

 それは、もう、あれよ。ヴォルデモート殺害が目的じゃないんで、ハリーはそのままにするしかないよ。

 最終的に生存するのは自分とハリーにせんとね。

 …なんとかハリーが分霊箱(ホークラックス)だって、知られませんよーに…。

 いや、原作だと割と早い段階でダンブルドアが気付いてなかったっけ…。

 いやいやいや、ダイジョブダイジョブ。ヴォルデモート本人だって気付かなかったんだから、多分いけるって…。

 

 よし、分霊箱(ホークラックス)の事を念頭に置いて、実体化出来る限りは魔法の練習に打ち込もう。

 めちゃくちゃ不愉快にさせられたが、ファミチキ野郎のお陰でコツは大体分かったし。

 50年もあるんだから、そこそこ良い線までは鍛えられるんじゃないかと思う。

 …マジでこれから50年過ごすのかと思うと、改めて気が滅入るけど。

 でも、ここを乗り越えなければ未来は無い。

 

 

 

 

 ま、気長に頑張りましょ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とか、呑気に考えていた自分は、日記帳の中での時間間隔の狂いを自覚出来なかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――50年というのは、割とあっさり経ってしまうのだという事に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ~とある被害者のお話~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ちょっとアブラクサス!オレの杖マジで何処行ったか知らねぇ!!?」

 

 「知らん。所持品の管理はスリザリン生として当然の行いだと思うが?」

 

 「つれない事言うなよ!スリザリンってのは結束が固いんだろ!?」

 

 「自分の杖も管理出来ないような間抜けとどう結束を結べと?」

 

 「ひでぇ!ちょっと置いといただけなんだぜ!?誰かがきっと盗んだに違いねぇ!!一緒に犯人捜ししてくれよ!」

 

 「オリオン、一体何の騒ぎだい?」

 

 「あ、先輩!!聞いて下さいよ、オレの杖が!」

 

 「リドル、このような間抜けの話に付き合う必要は無いぞ」

 

 「ダマルフォイこの野郎!お前絶対碌な死に方しないぞ!」

 

 「オリオン、流石に口が悪過ぎるよ」

 

 「すみません先輩!でも、こんなに同僚が困ってるのにこいつ酷いでしょ?」

 

 「杖が無くなったんだって?君の杖は、確か僕と同じ芯だったよね」

 

 「そうです、そうです!サンザシっすよ!オレの愛杖がッ、誰かに盗まれちまったんだァァァァ!」

 

 「五月蠅いなブラック家の面汚し。そろそろ授業が始まるぞ。私はもう行く」

 

 「龍痘になって死んじまえ!!」

 

 「何だいそのピンポイントな罵倒は……」

 

 「おい、具体的な病名を言うのは何か不吉だから撤回しろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




最後に出てきた"彼ら"の性格に関しては、完全に想像です。
資料が無さすぎる…。

次回からは、いよいよこの世代から抜け出して一気にハリー世代へ。

ある日気付いたら分霊箱になってましたとか、普通の人なら頭おかしくなってそう。


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登場人物紹介(Prologue読了後の閲覧を推奨)

結構な長丁場になりそうなので、一旦登場人物紹介をしてみます。

初めての方は、PrologueであるPage0~7を読了してからの閲覧をお勧めいたします。

読了が終わっていない方がご覧になると、ネタバレを食らいます。

 

一番下のハリーの項目に関しては、Page8をお読みになってからどうぞ。

地味なネタバレになります。

キャラが増えてきたら追加するかも…しれません。

 

2019/7/2

ヴォルデモートと嘆きのマートル追加。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トム・リドル(転生オリ主)

 

平凡(自称)な引き籠りの人生を送っていたが、

ある日突然激痛と共に目覚めれば何と日記帳(ホークラックス)になっていたぞ!

前世での実年齢は18歳だった。割と成人手前である。

インターネットは友達、怖くないよ!

転生直後は前世での名前を憶えていたが、いつの間にかすっかり忘れ去る。

別に本名への執着心も無い為、これといって特に気にしてはいない模様。

基本口が悪い。性格も悪い。割と矛盾してる事ばっか言ってるので、

序盤の間はあまり真に受けなくていい。しれっと真実を混ぜてる辺りが

非常にややこしい。序盤を過ぎると本音の割合が多くなる。

 

「死んだ魚の様な」、「ドブみたいな」、「蛇が化け損なったかと思った」目をしているらしい。散々な言われようである。

挿絵はこれらを忠実に再現した結果である。

はて、何故か常時瞳が赤く染まっているが…?

 

話が進むにつれて、なんだかとある人物との共通点が浮き彫りになっていくが、残念な事に本人の原作知識は映画が主なのでほとんど自覚が無い。

 

他人の杖を平気で盗む悪童ぶりを披露しているが、殺人の現場に居合わせたら通報しようとする真っ当な正義感もギリギリ持ち合わせている。

盗んだ杖は、「サンザシの木、不死鳥の羽根、30センチ」。

あのシリウス・ブラックの父の物だとは、当然知る由も無い。

知ってたら多分恐れ多くて盗まなかった。

この杖で最初に成功させた呪文は《アバダ・ケダブラ》。

二度と唱える気は無い。(戒め)

 

一番の目的はヴォルデモートをアズカバンにシュートする事。

一応本体とも言える彼は毛嫌いしている。だってラスボスだもの。

何十年も自由の無い閉鎖空間に、好きでもない奴と一緒に閉じ込められたら、そりゃ犯人に殺意の一つも沸くというものである。ちなみに彼を許すという選択肢は万に一つも無い。「絶対に許さない、絶対にだ」

 

同じぼっち仲間のハリーとは凄く相性が良い。

胡散臭い同居人とは相性がすこぶる悪い。

 

 

地味に今世での夢は守護霊呪文の発動。幸せな思い出ってどこに売ってますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ファミチキ野郎(???)

 

命名は主人公。こいつ、直接脳内に…!

 

主人公の同居人だという事以外、謎に包まれた存在。

事情により自分から名乗れない制限が掛かっている。しかし、最早正体を隠す気が無い。

解り切っているかもしれないが、画面の前の皆さんは言わないお約束ですぞ。

 

主人公に事あるごとに語り掛けてみるものの、全く相手にされてない。

けれどもめげずにちょくちょくアタックしている。暇なのかもしれない。

 

同居人という性質上、主人公の記憶を覗けるようである。が、閉心術というパッシブスキルを

前世から引き継いだ主人公の心の全貌は把握出来ていない模様。

会話によって心を通わせようとしているのは、それが理由なのかも…しれない。

 

一応、主人公の味方らしい。

その為、主人公の生存を願っている。らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヴォルデモート(本体)

 

多分今のところ、作中一番影が薄い人。

学生時代の出番は分霊箱作成時と、

オリオンの杖喪失時のワンシーンぐらい。

将来頭髪も薄くなるから仕方無いね。

恐らく、日記帳の魂に異変が生じている事に気付いていない。

平凡な名前に嫌気が差し、綴りを並び替えカッコイイ名前(笑)に改名する。

しかし、「トム」というありふれた名前を、オリ主にはむしろ気に入られている。

この辺りが彼との明確な相違点であったりする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嘆きのマートル

 

本名はマートル・エリザベス・ワレン。

日記帳を器にした、分霊箱の作成の生贄となった女子生徒のゴースト。

死亡場所がよりにもよって、女子トイレという悲惨な生涯。

オリ主との初めての、まともな会話相手となる。

その触れ合いで多少なりとも救われたオリ主は、

彼女の仇討ちの為にも本体をぶちのめす所存である。

「仇を取る」など言われ、暗いゴースト生活を送っていた自身の

心境に変化が起き、50年後は原作程迷惑なゴーストではなくなっている。

実は本編の陰でも、本体のホグワーツ卒業まで、

ちょくちょくオリ主とやり取りしていた。

その時のお話も、いつかまた別の機会に。

 

 

 

 

 

 

 

 

ハリー・ポッター

 

ご存知我らがハリポタの主人公。

 

ダーズリー家での辛い生活の中、ある日突然不思議な日記帳と出逢う。

もちろん今作の日記帳は原作のリドルではないので、彼に詐欺を働く気は微塵も無く、

お互い本音を打ち明け合うという、友達とほぼ同レベルの良好な関係を築けている。

 

自分がホグワーツに通うという事を、今はまだ知らない。



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The Philosopher's Stone
Page 8 「そして英雄と日記帳は出逢った」


 ―――思い返せば、物心ついた時から実に惨めな人生だったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 両親が交通事故で死んでから、身寄りの無い僕はロンドンのプリベット通り四番地にあるダーズリー家に預けられる事になった。

 引き取ってくれる先があっただけでも、僕の様な孤児にとっては感謝すべき事なのだろう。

 けれども、そこで待っていたのは本当に最悪な10年間だった。

 

 部屋と呼ぶのもおこがましい、暗くて狭い階段下の物置。

 そこが僕の―――"ハリー・ポッター"の居場所だった。

 いいや、そもそもこの家の何処にも僕の居場所なんて無かったのかもしれない。

 ここだって、単なる寝床だ。寝起きする場所を自分の居場所と言うのは、違うと思う。

 

 もっと、暖かくて、居心地が良くて、ずっとここに居たいと思える―――そういうのを、自分の居場所と言うならば。

 

 "僕の居場所"は、僕が生まれた時に無くなってしまったのかもしれない。

 

 

 

 

 バーノンおじさんは僕を小さな奴隷の様に扱い、些細な事でも怒鳴り散らし、何か妙な事をやらかしてしまえばすぐに物置に閉じ込めた。

 ペチュニアおばさんは、「質問は許さない」と最初に言い放って来たので、右も左も分からない内はとても辛酸を味わされる羽目になった。

 ダドリーは僕の事をお気に入りのサンドバッグだとでも思っているのか、しょっちゅうパンチを食らわせる運動に付き合わされている。

 

 この環境を改善させたいという努力もしてみたけれど、その努力は実を結ぶ事は無かった。

 

 不本意な事なんだけれど、僕の周りではいつも"おかしな事"が起きていた。

 

 床屋から帰ってくれば、散髪する前と全く同じ状態に髪の毛が戻ってしまっていたり。

 お古のセータを着せようとさせられた時は、セーターの方がどんどん縮んで、遂には到底着られなくなるぐらいの大きさになってしまったり。

 

 他にも色々な、『絶対にあり得ない事』が度々起きてしまっていた。そのどれもが必ずといって言い程僕の近くで発生する為、皆は犯人を僕だと決めつけていた。

 いくら無実を訴えても、誰も僕の言う事なんか信じてはくれない。いや、信じる理由も彼らには無かったのだろう。

 どれだけ人畜無害だという事を証明しようと、全ては徒労に終わっていた。

 おかしな事が起きる度に、僕を裁く為のお仕置きが実行される。そんな人生だった。

 

 学校にも通っているけれど、そこにだって居場所など無い。

 何故なら従兄のダドリーが軍団を率いて、いつもお気に入りのスポーツ「ハリー狩」に興じるからだった。

 追い掛けてきては、捕まえてサンドバッグにされる。まるでヒーローが悪者を打ち倒すような、顔面パンチなんて最早日課だ。

 そんな日々の繰り返しで、唯一の相棒とも言える丸眼鏡は、セロハンテープで補強しなければならない程にダメージを抱えてしまった。

 

 極め付きは、額に刻まれた稲妻形の傷だ。赤ん坊の時からあったらしい。ペチュニアおばさんが言うには、交通事故の時のものなんだって。

 好きで傷を作った訳ではないけれど、それだけで醜いと罵倒の対象になってしまっていた。僕自身は、まるで"誰かと繋がっているもの"みたいで気に入っていたんだけど。

 馬鹿みたいな妄想かもしれないが、何だかこの傷が、"誰か"と僕を巡り合わせてくれるような―――そんな事をいつも考えていた。

 

 本当に、下らない夢物語だって自分でも思うけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――でも、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……これ、って」

 

 

 

 

 それは、夢物語なんかじゃなかったんだ。

 

 

 

 

 

 「……ほ、ん?」

 

 

 

 

 

 ある日の夜、いつものようにダドリーに殴られ、じんじん痛みを響かせる頬に苦悩しながら物置の寝床に突っ伏そうとした時。

 狭くて目新しい物も無い為、物置に"今まで無かった物"が、否が応でも視界に入ってきた。

 

 黒い革塗りの表紙に、金字で『TOM MARVOLO RIDDLE』と書かれている、少し古びた薄い本の様な物だった。

 少し不気味さを感じさせる真っ黒なその本は、僕がいつも使っているベッドの上にポツンと、閉じた状態で置かれていた。

 

 あり得ない。あんな本を買ってもらった覚えなど無い。

 誕生日に貰える物だって、大体は誰かのお古だった。そもそも今日は自分の誕生日ではない。

 それに、この家族は読書というものとはほぼ無縁な人類だし、どう考えてもおかしい。

 

 

 

 

 もしかして、また何か"おかしな事"を起こしてしまったのだろうか?

 

 

 

 

 だとしたら、皆に見つかったら―――お仕置きされて、何日も物置に閉じ込められる?

 

 

 

 

 そこまで考えて、慌てて正体も判らぬ本に飛び付いた。

 こんな物が物置に突然出現したなんてバレたら、間違いなく"おかしな事"認定だ。例えどんなに些細なものでも、おじさんはいつも、決して妥協せずお仕置きを執行するのだ。

 嫌だ。今日は既に顔にダメージを負っているのだ。これ以上の折檻はきっと耐えられない。

 

 どうしよう、どうしよう。

 隠さないと。でも何処に?ベッドの下?服の中?いや、どうしたって見つかる。

 こんな物置でも、ダドリーがたまに不意打ちで侵入しては僕を殴りに来るのだ。この家で安全な場所など無い。隠し物はいつか見つかってしまう。

 

 本の金字を見る。明らかにダーズリー家とは無縁の名前だと判る。これは一体何処から紛れ込んで来たというのか。

 "おかしな事"は、遂に他人の物を引っ張ってくるような『犯罪』レベルにまでグレードアップしたというのか。

 

 「……あれ?」

 

 本の出所を確かめる為、出版社や蔵書票でも載ってないかと開いてみると。

 そこには、最初から最後まで真っ白なページが連なるだけだった。

 何も、書かれていない。

 

 「……日記?」

 

 ここまで白紙ならば、きっとメモ帳や日記帳の類だろう。

 ますます分からない。何で誰かの日記帳が僕なんかの寝床にあるんだ?

 

 「…っと、ボグゾール通り…?」

 

 裏表紙にはボグゾール通りの新聞・雑誌店の名前が印刷してある。

 少なくとも、ロンドンで作られた物のようだ。

 これまでの情報から推理すると、"ロンドンの何処かに住むトムさん"の所有物なのだろうという事が判るけれど、やっぱりここに置いてある原因がさっぱりだ。

 

 ―――もしかして、ダドリーの悪戯?

 

 いや、ダドリーはこんな回りくどい悪戯なんかしない。そもそも、こんな白紙の日記帳を誰かからくすねるような行為だってしないだろう。誰だって、こんな大金になりそうもない古い日記帳なんて、盗む理由が無い。

 ぐるぐると考えを巡らせるけれども、答えはちっとも出てこない。

 どうしたものかと逡巡している内に、ふと衝動が沸き上がってきた。

 

 

 

 

 ―――どうせ白紙なら、貰ってもいいよね…?

 

 

 

 

 古びているけれど、破れたりはしていないし白紙だし。普段お古ばかり押し付けられる僕からすれば十分新品だ。

 トムさんには申し訳ないけれど、購入してから何も書いていないのだから、僕が書き込んでもいいよね?

 …直接対面して、盗んだ訳じゃないし。僕は悪くない…ハズ…。

 

 謎の高揚感を抑えきれず、思わず鼻息を荒くしながら、隅に追いやられていたペンを引っ掴む。

 

 日記帳だし、まずは日付を書いた方がいいかな?

 

 「えー、今日は、1991年………あれっ?!」

 

 意気揚々とペンを走らせ、日付を記入しようとした時だった。

 年を書き終わったところで、今日が何日かをど忘れしてしまい、途中で手を止めた途端。

 

 まるで吸い込まれるように、今しがた書いた文字が、すうっと濃淡を失い消えてしまったのだ。

 文字自体が、水に入れた粉末のように溶けて無くなってしまった。

 

 何が起きたのか理解出来ず、パチクリとその場で瞬きを繰り返していると。

 

 今度は、"僕のものではない筆跡"で、白紙のページに文字が浮かび上がってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――ちょっと、遅いよ!何手間取ってんの!パッパとやってパッパともう!"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雑に書き殴ったような文字が、こちらを叱咤するような内容の文章が、眼前のページに綴られる。

 

 

 

 

 ……ポカン、と。

 

 

 

 

 開いた口が塞がらない今の僕の顔は、きっとダドリーが見たら爆笑ものだったに違いない。そしてついでにパンチが飛んできたに違いない。

 

 最早、今起きている事が何なのか微塵も理解出来ない僕を置いて、謎の日記帳は不可思議な現象を続けていく。

 先程の書き殴られた文字が、僕が書き込んだ時と同様に薄くなって消えていった。

 白紙に戻ったページに、再度文字が浮かび上がってくる。

 

 "何で今日の年書こうとしてんの!今関係無いだろ!時間は有限なんだから、寄り道しないでさっさと……ん?"

 

 誰かに怒鳴っている模様の文章が、そこでピタリと『停止』した。

 文字が消え去り、数秒の沈黙の後に、今度はゆっくりとした動作で綴られていった。

 

 "…筆跡が違う…?あれ、もしかして……あれ、ちょっと待って"

 

 何だか自問自答を繰り返すような文が浮かび上がった後、少し震えたような文字が綴られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "そこの君。たった今、『僕』に触れている君。―――君の名前を書き込んでくれる?"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「――――――ッ!!!」

 

 

 

 

 そこまで読んで、ドクンと心臓が脈打つのを感じた。

 

 目の前で起きている現象が解らない。

 

 それでも、この"日記帳"は―――さっきから見た事もない筆跡で文字を浮かばせている"誰か"は、こちらを認識している!!

 

 思わずページの上に乗せていた腕をばっと除ける。

 冷汗が頬を伝ってくる。

 

 混乱していた僕の頭は、それでも"誰か"に向かって"返事"をしようと、止まっていた手にいつの間にか命令を出していた。

 汗ばんだ手で、慎重に、書き間違いがないように、自分のフルネームを書き込む。

 

 

 

 

 

 

 

 『ハリー・ポッター』

 

 

 

 

 

 

 

 たった今書き込んだ文字が、白紙に溶けていくのを凝視する。

 いつの間にか、喉はカラカラに乾ききっていた。

 不快感から思わず唾を飲み込んだその時、文字が浮かび上がる。

 

 

 

 

 "―――ハリー、ね…。『君』は『ハリー・ポッター』。間違いない?"

 

 

 

 

 まるで迷子になってしまった子供に確認を取るかのようなその文章は、さっきよりも震えている気がした。

 何だかその様子に、不思議と頭の片隅で安堵感が滲んでくる。

 この日記帳の"誰か"は、こちらに対しての敵意や悪意というものを持ち合わせていない。

 今の文章で、それだけはしっかりと僕にも理解出来た。

 

 

 

 

 "―――僕はトム・マールヴォロ・リドル"

 

 

 

 

 

 今度の文字は、しっかりとした形を成していて、それでいて謎の親近感を感じさせるような筆跡で。

 

 "誰か"は、僕に対して自己紹介をしてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "ハリー・ポッター。僕は【君に逢う為】にここへ来たんだ。―――しばらく、お暇してもいいかな?"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は。

 

 

 ハリー・ポッターは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日この日この時。

 

 

 

 

 

 

 

 苦楽を共に分かち合い、同じ時間を歩み、時にはぶつかり合い、本音を打ち明けるような。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな『友達』が。

 

 

 

 

 

 

 

 生まれて初めての、かけがえのない『友達』が出来たんだ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから、数日が経った。

 

 謎の日記帳はトムだと名乗った。

 何でも、「僕に逢う為に来た」らしく、その為に"誰か"の手を借りて物置にやって来たんだって。

 

 トムはまず最初にこう言った。

 

 

 

 

 ・自分は日記帳に封じられた"魂"で、元々人間であった事。

 

 ・自我があり、書き込んだ人間に返事が出来る事。

 

 ・この日記帳は、書き込んだ人間の力を次第に奪っていく代物である事。

 

 ・自分の意思に関係なく、微量ながらも力を奪っていってしまうので、1日に書き込む文章量は一定に保って欲しい事。

 

 ・誰かの力を奪わずに"人間"に戻りたいので、協力して欲しい事。

 

 ・今は何も出来ない状況なので、一緒に機会を待っていて欲しい事。

 

 

 

 

 という説明をしてくれた。

 

 正直全部理解するまで少し時間が掛かったけれど、数日も経てば自然とトムの事を受け入れていた。

 何より、『元人間の日記帳』という、おじさん達が知ったらすぐに処分されそうな物品とはいえ。

 こんな僕の会話相手になってくれたし、僕の事を頼ってくれたし。

 こんな事は生まれて初めてで、どうしようもなく嬉しくって。

 

 僕も、何とかしてトムに応えたいという考えが離れなくなったんだ。

 

 そういう事を書き込む度に、トムは「そんなに張り切るな」と窘めてくれるけど。

 そうやって僕なんかを心配してくれるのも、初めてで、余計歓びが抑えられなくなって。

 あまりにも会話を続けてたら具合が悪くなって、「今日はもう寝ろ!」と怒られたっけ…。

 

 

 

 

 あれから、おじさん達に虐められる日々は何一つ変わっていないけど。

 誰にも見つからないよう細心の注意を払いながら、夜の物置でトムと秘密の会話を繰り広げていた。

 

 トムの言う、"機会"が来るまで。

 『友達』が居たら、きっとこんな話をするんだろうなっていう、他愛もない話を書き込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "ハリー……君はホントに英雄だね…。普通の子供だったらそんな環境に居たら絶対グレる。いつかブチ切れて何かやらかしてるよ"

 

 『英雄なんかそんなんじゃないよ…。僕の居場所、ここにしか無いもん』

 

 トムはこの家を最低最悪だと言って、そんな中で日々耐え忍んでいる僕を『英雄』だと呼んだ。

 流石にちょっと持ち上げ過ぎで、そう呼ばれる度に顔が赤くなってしまう。

 恥ずかしいからやめてと言っても、トムはいつも「尊敬する」と僕の事を褒めてくれる。

 

 トムの言葉があるから、僕はきっとこの生活にも耐えられているんだよ。

 

 

 

 

 "…大丈夫。近い内に君だけの居場所は出来るから"

 

 『え?それってどういうこと?』

 

 "友人に囲まれて、素敵な人に出逢って、恋をして。そんな『当たり前』の日々が、いつか君の元へ舞い込んで来るから"

 

 まるで『予言』めいた事を言われて、書き込む手が少し止まってしまう。

 トム以外の友達が出来たり、恋するような相手が出来たり。そんなもの、考えもしなかった。

 自分には絶対あり得ない事だと、いつの間にか諦めていたから。

 

 『……ありがとう。想像でも嬉しいよ』

 

 "想像じゃ……いや、何でもない。今の君には、夢物語だよね……ごめん"

 

 謝罪をさせて、何だか申し訳なくなってしまい、慌てて話題を変える。

 

 

 

 

 『実は今日、食事抜きにされちゃったんだ、お仕置きで』

 

 "食べないと人は死んじゃうだろ!?ねぇ食べないと人は死んじゃうだろ!?"

 

 …僕はまだいまいち話題の変え方が分からず、こうして逆に心配を掛けるような会話に移行させてしまう。

 今まで碌にこういう平凡な会話をした経験が無いから、しょうがないのかもしれないけど。

 

 『僕が悪いんだもん…。動物園で、僕の目の前で蛇が逃げ出したんだ。おじさんはカンカンさ。僕がやったと思われてる』

 

 "はっ、蛇?猛獣ならともかく蛇で騒いでんの?うちの父親は子供の頃、蝮を見掛けたら手当たり次第に叩き殺してたぐらいだけどね"

 

 『えぇっ!そんな、ひどいよ。蛇だって生きてるんだよ?こ、殺すなんて』

 

 "何でも蝮が毒持ちで、人間を前にしても逃げ出さずふんぞり返ってるから、腹が立つんだってさ。普通野生の蛇って、人間が近付くと逃げていくらしいんだけど、蝮はどっしり居座るからムカついてんだろうね"

 

 『そうなんだ…。僕が見たのは、ボアコンストリクターって蛇だったよ。多分、逃げた後は原産地のブラジルに行ったんだと思う』

 

 あの蛇、大丈夫かな。やっと自由になれたんだから、元気にやってるといいな。

 蛇をお喋りしてたなんて、おじさんに気付かれた時は心臓が縮み上がったけど。

 

 "ブ、ブラジル?蛇の足で国境跨げるもん?あ、蛇に足は無いか"

 

 『無事着いてるといいな』

 

 "誰かに駆除されないと良いけどね"

 

 『トムは蛇、好きなの?』

 

 僕は蛇と意思疎通出来たから、自然と蛇の事が好きになっていた。

 トムも蛇好きだったらいいな。

 

 "うーん…。小さい頃、テレビの白蛇を見て「可愛い」って言ったら、家族から変な目で見られて以降、蛇が好きって公に言うのはやめた。世の中には口に出さない方が良い事もあるって学んだよ"

 

 『えー、僕は良いと思うよ、蛇好きでも。ペットとして飼ってる所もあるみたいだし』

 

 "毒が無いなら飼ってもいいかもねぇ。ま、日記帳にペット飼育は無理な話なんだけど"

 

 『あぁ、ごめん。そんなつもりは無かった』

 

 そうだ、トムは日記帳に封じられたんだから、今は何も出来ないんだった。

 気分悪くさせちゃったかな。

 

 "いちいち気にするなって。それより、何とかして食料を確保しないと君、マズいだろ"

 

 『う……。こうなったら、皆が寝静まったのを見計らって盗み食いするしか…』

 

 "そうしよう。焦る必要は無い。人間が飲まず食わずで生きられるのは3日間だから、まだ猶予がある"

 

 『逆に焦っちゃうよ…その話聞いたら』

 

 トムは僕よりも年上みたいで、色んな知識を知っていた。

 そういう知識を聞かせてくれるのも、僕の毎日の楽しみになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある日、僕の周りで起こる奇妙な出来事について話した。

 そしたらトムも、自分にも似たような事があったんだって。

 

 "一度ふざけて『ひとりかくれんぼ』なる呪術を試した事があるんだけど、マジでヤバかった。多分今現在も呪いの効果が続いてるんじゃないかってぐらい。ハリーも、どんなにちっぽけな呪いでも簡単に手を出しちゃいけないよ"

 

 『そんな事言われたら余計気になっちゃうよ…。「ひとりかくれんぼ」ってなんなの?』

 

 "ぬいぐるみをかくれんぼの鬼に見立てて行う降霊術らしいけど、僕の故郷じゃ都市伝説みたいな扱いだったんだよね。適当なぬいぐるみに米やら自分の体の一部やら詰めて、風呂に沈めてナイフで刺したり…。あれ、正しい手順で終わらせないと呪われるんだってさ。実際やって怪奇現象に襲われた人、いるみたいだよ"

 

 『うぇぇ、何かえぐそう。トムはちゃんと終わらせたの?』

 

 "さあ…。あれさ、何か、正しく終わらせても呪われる事があるとか聞いて、マジふざけんなって思ったよ。どっちにしろ呪われるんかいって話だよね"

 

 『そんなの、よくやる気になったね…』

 

 僕だったら到底出来ない。そもそも、家の中で勝手にそんな事をしようものなら、間違いなくおじさん達にボコボコだ。

 ただでさえ何もしなくても、僕の周りではおかしな事が立て続けに起きるのだから。

 …もしかして、記憶に無い内に僕も『ひとりかくれんぼ』みたいな事をしてしまったのだろうか?

 

 "暇でやる事が無かったから、つい。他にも『くねくね』とか『きさらぎ駅』とか『さとるくん』とか、故郷じゃ色んな怪奇絡みの都市伝説が一杯あってね…"

 

 『そういうの好きなの?』

 

 "まあ、ね。ホラー系の話って面白くない?外に出るのは嫌いだったから、肝試し系は全然だったんだけど。ちなみに『くねくね』は正体不明の妖怪みたいなもんで、うっかり見ちゃったら精神がおかしくなるらしいから気を付けてね"

 

 『見ちゃったらダメなの!?そんなの、防ぎようがないよ』

 

 "『きさらぎ駅』に迷い込むと、無事に現世に帰ってこられるのは数年後だとか"

 

 『ちょっと、夜中にそういうのやめてよ』

  

 "『さとるくん』は呼び出せばどんな質問にも答えてくれるけど、後ろを振り返ったり質問しなかったりすると、連れ去られてしまうんだって"

 

 『ちょっと!もう怖がらせないでって!寝られなくなっちゃう』

 

 『さとるくん』に限っては返事が返ってくるこの日記帳に似てるけど、連れ去られるなんて怖い追加要素があって全然親しみが沸かない…。

 

 "うーん、残念。こういう話は夜中だとヒートアップするものなのに…"

 

 『別に怖い話はヒートアップしなくていいよ…』

 

 "じゃあ、学生時代に面食いのストーカーに誘拐されかけた話を…"

 

 『ホラーじゃなくても怖い話なのは変わりないじゃん!』

 

 トムがたまにこういう話をぶっちゃける度に、一体どんな壮絶な人生だったのかと心底聞き出したくなる。

 明るくふざけた雰囲気で書いてくれるけど、僕は何となく察していた。

 きっと、僕と一緒で辛く酷い時間を過ごしてきたのだろうと。

 でも、そういった話をトムが自分から書くまで、余計な追及をしないように気を付けた。

 …相手から先に『過去』の事を質問されるのは、トムにとってとても嫌な事に違いないだろうと思ったから。

 

 "世界で一番怖いのは怪奇現象なんかより、『生きた人間』だって事を早めに教えてあげようと"

 

 『僕がこの世で一番怖いのはおじさんの折檻だよ……』

 

 "それは一応同意出来る"

 

 『一応ってなにさ一応って』

 

 "僕は肉親に暴力を振るわれた経験まで無いから…"

 

 『トムが羨ましいよ』

 

 "いや、家庭内暴力が無いからって、必ずしも幸せな家庭とは言えないからね"

 

 『ど、どんなフクザツな家庭だったの?』

 

 思わず聞きたくなってしまい、素早くペンを走らせる。僕にとっては暴力が無いだけでも、十分羨ましいんだけどな。

 

 

 

 

 "まあ………………。……ハリーにならいつか教えてあげるよ。いつかね"

 

 

 

 

 かなり悩んだのか、沈黙の文章が続いたけれど、トムはそう書いてくれた。

 「いつか」。だとしても、トム自身の事を教えてくれるなんて嬉しかった。

 いつも僕が一方的に書いた話に返事をしてくれるから、トムの話も訊きたくてうずうずしていたのだ。

 

 『ホント?』

 

 "ホントホント。じゃ、怖い話はやめて明るい話題に移ろうか?"

 

 『出来れば空腹が紛れるような話をお願いね』

 

 "そんな事言われたら、飯テロ話(フードポルノ)を放出したくなっちゃう"

 

 ……トムはたまに自分が食事出来ないという理由の意地悪で、空腹感を増長させるような文章を見せつけてくる。

 

 『や、やめてー!そういうの地味に辛いから!』

 

 "「ほかほかと立ち昇る湯気、ふんわり香るスパイシーな獣臭さ、ジュウジュウと滴るデリシャスな肉汁……高級ポークステーキ」……もぐもぐ"

 

 『やめてー!!新手の拷問だー!!』

 

 "ふふふ、こっちは食べたくても何も口に出来ないんだからね。せめてもの憂・さ・晴・ら・し"

 

 『トムのばかー!』

 

 "まあまあまあ。いつか人間になれたら、美味しい飲食店にでも一緒に連れて行ってあげるから"

 

 『絶対、約束だからね!!』

 

 "オーケイハリー、任せとけ"

 

 

 

 

 この時の僕は、まだトムが夢の中の住人のような存在で。

 

 

 

 

 トムの事を信じていない訳じゃなかったんだけど、やっぱり心の何処かで、夢物語かなと思っていたんだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まさか、後にこの約束がちゃんと果たされるなんて、思いもしなかったんだ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




お待たせしました
やっとこさ我らが英雄、ハリー・ポッターのご登場まで来ました

賢者の石編を飛ばすと思 っ て い た の か ?
もちろんやります。
ちゃんと原作に沿って書けるか不安でしょうがないですが

海外では飯テロの事、フードポルノと呼ぶらしいですね。
蝮はガチで笑えない毒を持ってるので、皆さんも田舎道ではお気を付けを。



どうやってトムがダーズリー家の物置に来たのか。
ネタバラシは次回の予定です。
勘の良い人ならこの時点で気付いちゃうかもしれないけど
 
あ、今まであった冒頭文は分霊箱の数と同じで終わりです。
今回からスタートはいきなり本文からになります。


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Page ? 「知覚されざるその場所で」

 ―――昼下がりの穏やかな午後、だと思う。

 

 

 

 

 いつの間にやら自分は西洋の街並みの中で、恐らく公園だと思われる敷地内のベンチに腰掛けていた。

 目の前の道路を外国車が時たま通過していき、歩道を黒、茶、金といったカラフルな髪の色をした西洋人達がせっせと歩き去っていく。

 走る車の運転席や、通り過ぎる人達を観察しても、同じ国出身と言えるような人間は誰一人居ない。

 

 

 

 

 まるで、異国の中に一人置き去りにされた迷子みたいだな―――と、呑気にこの現状を結論付ける。

 

 

 

 

 ここで騒いでもどうにもならないだろう。まず言葉通じないだろうし。道を尋ねても無駄そう…。

 果報は寝て待てと言うし、何か立ち上がるのも面倒だし、このままぼーっとしてよ…。

 

 現状放棄のスタイルを決め、縁側のジジババよろしくベンチで日向ぼっこを開始。

 右も左も分からんけど、このベンチ気持ち良いな…。日光が丁度いい角度で当たって、ポカポカするんですわ。

 あー、もう。帰る方法思い付かんけど、どうにでもなーれ。

 

 それからしばらく半目状態でベンチを陣取っていると。

 少し日が傾き掛け、恐らく薄暮に差し掛かろうとした時間に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……………………………」

 

 ふと気配を感じ目線を上げる。

 

 そこには、いつの間にか黒髪の小さい男の子がこちらを凝視しながら突っ立っていた。

 右手には、何か本の様な物を持っている。表紙には英語でタイトル名が書かれていた。読めないけれど、何だか良くあるアメコミ系の字体だということは察せる。表紙イラストも、何か全身スーツのガタイの良いおっさんがサムズアップしてるし。

 次に周りを見てみる。公園には変わりないのだが、自分が座っているようなベンチは他に一つも見当たらなかった。

 いや、小さくて見逃しがちだったが、結構遠くの方にもう一台同じ形のベンチを発見した。

 男の子に視線を戻す。相変わらずこちらから目を逸らす素振りが無い。真顔のまま、その赤い瞳をひたすら向けてくる。

 

 ……あぁ、もしかして、座りたいから除けと?

 

 もう一台のベンチは遠くにある。子供の身長と歩幅からしたら、向かおうとすればそこそこの距離を歩かねばならない。

 加えて、目の前のベンチには、他人が居座っていて立ち去る気配が無い。

 早いとこ手に持った漫画をゆっくり読む場所が欲しい。

 だから、メンチ切って追い出そうってか?

 

 この状況から男の子の考えている事に辿り着くも、正直この場から動く気はこちらも無い。

 子供相手に大人げないかもしれないが、生憎立ち上がるのが酷く億劫だ。

 なので、言葉が通じるかは分からないが、一応声を掛けてみる。

 

 「あー……、ゲフン。…悪いけど、あっちのベンチ行ってくれr…」

 

 

 

 

 ゲシッ。

 

 言い終わる前に男の子に動きがあった。

 無言無表情のまま、なんと無理やりベンチの僅かな隙間に滑り込んできた。

 そのまま、不意を突かれ脱力していた自分の身を押し退けられ、ベンチの"2分の1"を陣取られてしまった。

 

 「………えー…」

 

 急に積極的な行動を取られてしまい、何を口に出せばいいか分からなくなってしもうした。

 男の子の方へ怪訝な視線を向けるも、当の本人はすまし顔で、持っていた漫画を開き平然と読み始めているではないか。

 

 そんなに座りたかったんなら、一言何か言えっつうの…。

 

 とはいえ、ここで見知らぬ子に怒鳴り散らすなんて、間違いなく事案になるだろう。

 下手したらこの国のポリスメンにしょっぴかれてしまうかも…。

 そうだ。賢い人間はここで気にしないフリをするに限る。

 

 といって日向ぼっこを再開しようとしたのだが、やっぱり小さな来客のせいでどうも集中が削がれるというか…。

 ページを捲る音がやけに気になるっつうか…。

 ていうか、漫画読むんなら自分の家に帰って読めや!

 

 せめてそんな感じの一言を言ってやろうと、男の子へ顔を向ける。

 

 「……?」

 

 ふと、違和感があった。

 感じた直感に従い、思ったままの事を告げる。

 

 「これ、少年」

 

 言葉が通じなくてもどうでもいい。

 とあるゲームのセリフを諳んじる。

 

 

 

 

 「ひとのものをとったらどろぼう!」

 

 

 

 

 ピクリ、と、露骨に少年に反応があったのを見逃さない。

 

 ページを開いたままの姿勢で、首だけがこちらへ向けられた。

 さっきまでの無表情はどこへやら、ギリギリと不審者を見る様な目で睨みつけてくる。

 いや、これ違うわ。養豚場の豚を見る目だわ!おお、こわっ!

 なんだよ、証拠を出せってか?いやいや別に自分、検察官とかじゃないんで。

 

 「言葉解るの?」

 

 解らないならこのリアクションは無いだろうけど。一応尋ねてみる。

 少年は返答に応じる事はなく、さっきよりもどんどん目付きが悪くなっていっている。

 まるで「何で知ってんだよゴルァ」と言いたげな視線だ。

 いちいち説明してやる義理も無かったが、このままガン飛ばされ続けるのも不快なのでそのアイコンタクトに応じてやる。

 

 「まず、自分の物だったらそんな乱暴な掴み方しないし。何なら力入れ過ぎてページに皴寄ってるし。よしんば借り物だったとしても、返す時に怒られないよう、注意して取り扱う筈だし。読んでる時の表情が『こんな物のどこが面白いんだ…フン』って言ってるし。明らかに買った物でも借りた物でもないよね。大方、適当にかっぱらった物を暇潰しの為だけに読もうとしたんだろ。面白そうだっていう期待はしていない。読む前から『どうせこいつは下らねぇ』って目付きだったぞ、自覚無かった?」

 

 子供でも分かるように丁寧に説明をしてあげたつもりだ。

 別に確たる証拠がある訳では無いけれど、強引にベンチに押し掛けられてこちらも少々ムキになっていたのだ。せめてもの意趣返しというやつであった。

 特技という程ではないが、他人の考えている事は大体表情と動作から読み取れる。これ活かしたらメンタリストとして稼げないかな…

 まあ、今みたいな"使い方"してたら、間違いなく『奇異の視線』と『憎悪の念』を集めるだけなんだけど。

 

 少年はただ、黙り込んだままこちらの説明に耳を傾けていた。

 相変わらず、返事は返ってきそうにない。

 まあ、いきなり見知らぬ不審者に泥棒呼ばわりされて、大人しく会話に応じる子供はそうそういるまいな。

 最近の子供は「怪しい人に関わっちゃいけませえん!」なんて教育を受けているだろうし。

 

 そう思って視線を少年から外し、日向ぼっこを再開させる。

 今の言葉が伝わったかどうかは知らないが、これでこちらを不審者認定してどっかに行ってくれる事を期待する。

 期待して声を掛けたつもりだったのだが、つい余計な一言を最後に加えてしまった。

 

 「…盗みはダメだって、親に教わらなかった?」

 

 …流石にこれは余計だった。お前何様だよって感じだわ…。

 こういう説教は、他人じゃなくて本人の保護者の仕事だ。

 途端に何だか気まずくなってしまい、動く気の無かった体に命令を出してさっさと立ち去ろうとした時。

 

 

 

 

 「僕は孤児だ!!」

 

 

 

 

 少年が、さっきまで言葉を発そうとする素振りすら見せなかった少年が、不意に怒鳴り声を上げた。

 同時にビリビリと、例えではなく確かに皮膚を逆撫でするような振動に襲われた。

 ビュウっと強風も巻き起こった気がする。いや、髪の毛が風で乱れたので、気がするんじゃなくて実際に起こったのだ。

 

 「………はぇ~………しゅごい…」

 

 思わず間抜けな声を出してしまう。

 全然思ってもみなかった。こんなに憤慨するような子だなんて。

 そんな雰囲気微塵も見せなかっただろ、チミィ…。

 何なの?空気がガチで震えてたよ?実はサ〇ヤ人なの?宇宙からお越しになったのかしら?

 

 「孤児だ」って言ってたけど……。どうやら知らぬ間に地雷を踏み抜いてしまったようだ。

 ていうか、明らかに少年の顔立ちは西洋人のものなのに、何で会話成立してんだろ。外国語のスキルなんてこちらは皆無なんだが。

 良く考えると、少年の口の動きと実際の言葉が合っていないような…。あれ、翻訳こ〇にゃくでも食ったっけ?

 

 「……孤児?」

 

 何となく、少年の言葉を繰り返してみる。

 それだけでも少年の表情は険しさを増していくのだが、そんな皴寄せなくてええやんけ。綺麗な顔が台無しやぞ。

 そうして互いに視線をぶつけ合っていると、何気なしに視界に映っている大きな建物が気になって、視線を移す。

 

 『ウール孤児院』

 

 建物の前にある門上部に英語で書かれているその文字を、何故か理解出来た。やはり翻訳こ〇にゃくか…!?

 …孤児って事は、この子はあそこからやって来たのか…?

 だとしたら。

 

 「……だ、」

 

 とある脱出系ファンタジー漫画の内容を思い出す。

 

 あの漫画の舞台も孤児院で―――

 

 

 

 

 「脱獄してきたの!!?」

 

 

 

 

 さっきの少年の怒鳴り声とは比にならない大声で、思わず叫んでしまった。

 幸いにも周囲に人は居なかった為、注目を集める事も無くてほんとに良かった。

 いきなりの大声に、流石の少年も少し面食らっている。

 

 

 

 

 「……はあ?」

 

 お、間抜け声頂きました。きょとんとした顔は意外に年相応で可愛いじゃないの。

 

 「12歳になったら出荷されちゃうもんねぇ。その年で脱獄はスゴイね。君何歳よ?」

 

 あの漫画だと、確か11歳の三人組の子供が脱獄計画に奮闘してたんだよな。

 10代で大人顔負けの知恵を振り絞って、孤児院の職員や怪物と闘う心理戦は、マジで面白かったわ。

 

 「……10歳、のハズ、だけど。さっきから、何を言ってるワケ?」

 

 あれ、結構真面目に質問に答えてくれたぞ。……自分の年齢だろうに、妙に自信無さげな返答だったのは気のせいか?

 さっきはあんなに不審者、もとい豚を見るような態度だったくせにこいつぅ。

 西洋の人間にこちらで書かれた漫画など知る由も無いであろうが、面白い作品は共有しなければね。

 

 「僕の知ってる孤児院は農園で、子供達は大きくなったら出荷されちゃうんだよ」

 

 「は???…何を言ってるんだ。肥溜め同然な場所だけど、農園なんかじゃない!頭おかしいの?」

 

 おい、しれっとめっちゃ失礼な事言いやがったな、このガキ。おっと、思わず素の声が出てしまった、テヘペロ。忘れてくれたまえ。

 てか何気に肥溜めって言った?

 孤児院を農園と呼んだこっちもこっちだけど、肥溜めなんて表現する子供は初めて見たゾ…。

 

 「…肥溜めって、おま…。どんな教育受けてきたんだ君…」

 

 「あんな低能な奴らと一緒に過ごさなければいけないなんて、肥溜め以外なんて呼べばいんだ」

 

 「低能?」

 

 「低能は低能だ。僕はあいつらとは違って()()んだ。住む世界だって、一緒のハズが()()()()のに」

 

 思わず聞き返したら、少年は早口で心情を吐露してきた。何か良く分からんけど、住み心地の悪い孤児院なんだろうな…。

 見知らぬ不審者にここまで打ち明けるなんて、よっぽどストレスが溜まってたんだろうな…。

 誰でも良いから捌け口が欲しかったってところだろうか。大人びた奴かと思えば結構子供らしいとこもあるのう。

 しかし、今の発言は頂けないな。よほど社会を舐めていると見える。ここは人生の先輩として一つ教えてしんぜよう。

 

 「これこれ、そんな簡単に決めつけてはいかんよ君。大人になったら、好きでも無い奴と嫌でも付き合わなきゃいけない日が来るんだから。今の内に、例え低能連中相手でも、周りに溶け込む能力を身に着けた方がよろしい。痛い目見るぞ少年」

 

 「…大人でもないくせに、偉そうに。お前は僕の何なんだ!」

 

 「いや、何でも無いけど。他人だけど…。そりゃね、こっちもまだ成人してないけどね、一応君の先輩なんだからね。偉そうな態度は大目に見なよ」

 

 「他人に説教される覚えは無い!」

 

 「ちぇっ、なんだい。人がせっかく親切に処世術を教えてあげてるってのに、この子はもう。そんなにキレまくってたら将来禿げますよ。んじゃ、言いたい事は言ったんでさらばさらば」

 

 これ以上煽ると何かやべー予感がするので、自然体を装って離れる。嫌な予感がする時は、素直に本能に従うに限る限る。ここ、テストに出ますぞい。

 と、しかしながらこちらの退散を少年は許さなかった。いつの間にか持っていた本を放り出し、こちらへズンズンと迫ってきたかと思うと。

 

 グワシ!と、その小さな両手でこちらの腕を大胆にも鷲掴みにしてきたのだ。

 

 うおい!いきなりはビビるからヤメロオ!

 

 「ヒェッ!暴力は断固反対でござる!お放しなさい!」

 

 「うるさい!今までそんな説教垂れる奴はいなかった!さっきから偉そうに、イライラするんだよ!」

 

 慌てて少年を引き剥がそうとするも、意外と力が強くて叶わない。あれっ、この年の子ってこんなに握力強いっけ!?おかしくね!?もしかしてマジモンのサ〇ヤ人…!

 とか考えていると、何やら少年を中心に空気が渦を巻き始め、髪や服が釣られて靡いた。

 うおお、何だコレは!サ〇ヤ人ではなく風使いの陣だったというのか…!?

 

 少年に拘束されて動けない状態なので、何も抵抗が出来ない。今から何が始まるんです?とりあえず怖いから目瞑っとこ…。

 こういう時は、無暗に暴れない方が良いんですよ。体力の温存の為にもね。ばっちゃが言ってた。

 北斗神拳の精神に則り、激流に身を任せ同化しましょう。そーしましょう。どうかお守りください、トキよ…!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……と、しばらく無抵抗のまま両眼を瞑っていたのだが、一向に何かされる気配が無い。

 

 

 

 

 「……な、なんで……」

 

 

 

 

 「…んん?」

 

 

 

 

 少年の発する怪訝な声に、そっと閉じていた目を開けてみる。

 そこには、血の様に赤く染まった瞳をぎらつかせながら、しかし驚愕の表情に染まった少年が居た。

 一瞬だけ掴む握力が緩んだ隙を逃さず、シュバッと少年から距離を取る。意外とこういうの目聡いんですよ、自分。

 少年は逃げ出したこちらを追随する事はなく、ブツブツとうわ言のように何やら呟いている。

 

 「なんで効かない……こんなの……あり得ない、こんなの……」

 

 え、聞き間違いじゃないよな?何か地味に怖い事言ってる気がするんだけど。何が効かないって?

 ……とりあえず、未遂とはいえ一応被害者になっちゃった事だし。もう退散するよ?

 

 といっても全力疾走じゃなく、徒歩で。何か、ここで一目散に走っちゃうと益々少年を刺激しそうなので歩く事にした。

 少年が追って来ない事を祈りつつ、ゆっくりと反対方向に振り返り歩き出す。

 

 「……んじゃ、もう行くね」

 

 「……………………………」

 

 正直行く当てなんて無いし、帰り方も分からんが。

 

 その辺適当に歩いてれば、母国語が通じる人見付かるかもしれんしなー。さらばだ少年―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガシッ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ホワイ?

 

 

 

 

 何今の擬音?

 

 

 

 

 あれー、自分の手を引くこのちっちゃい手は誰かな?

 

 

 

 

 「………もしもーし?」

 

 「……」

 

 気が付けば、音もなく忍び寄ってきていた少年が、今度はいくらか弱めの力で再びこちらの手を掴んできていた。

 それでも外見から想像出来ない握力は衰えていないし、すぐさま振り払えるものでもなかった。

 そのまま手を引かれて、さっきまで座っていたベンチに連行される。

 

 「………………」

 

 「………………」

 

 

 ストン、と手を握られたままベンチに一緒に座らされる。

 座ると同時に手を解放してくれたが、横目で少年を見れば「逃げたらもっかいしょっぴくぞオルァ」という視線を投げ掛けてきていたので、逃亡はとりあえず選択肢から除外する事にした。

 様子を見る限り、今すぐこちらへ危害を加えてくるという訳でもないみたいなので、ここは大人しく従っておくか…。

 

 …ていうか、子供にあっさり捕縛される屈辱よ…!一応年上なんだけどな!お兄さん傷付くよ?

 今の状況、傍から見ればベンチに仲良く腰掛ける兄弟みたいに見えるけど、実際上下関係逆になってるから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 「………あの」 

 

 「………………」

 

 「何か御用でしょうか?」

 

 「……………名前」

 

 「は…?」

 

 「………………」

 

 何をされるかと思えば、突然ぶっきらぼうに名前を聞いてきた。

 その後の無言の圧力を感じる辺り、さっさと名乗れと暗に言っているのかもしれない。

 しかーし、例え子供相手でも簡単にプライバシーを曝け出す気は無いんだよなあ!いつ何が起きるか分からん世の中だしなあ!

 

 「えっ、嫌だよ。個人情報保護法案に基づき、黙秘権を行使します」

 

 「……名前」

 

 更に語気を強めて訊いてくる。

 

 「耳付いてる?黙秘を―――」

 

 「関係無い。そんな権利は()()じゃ無い」

 

 「厳しい!ほんとに子供なの君」

 

 「名前」

 

 「名乗りたくないよ。何で、好きでもない名前明かさにゃならんのだ」

 

 そこまで言うと、少年は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ目を見開いた。

 しかし、見間違いだったかと思う程すぐさま元の無表情に戻る。

 それからは、何故か急に名前の開示要求がストップした。

 

 「……………どうやって、"ここまで"来たの」

 

 質問が180度違う方向へ変わった。

 

 いや、それは、ホント、こっちも訊きたいぐらいなんだけれども。

 気が付いたら外国の街中に放り出されてるし、何が何やらなんですけど。

 もしかして、人身売買な目的で海外拉致されたパターン?そんなん笑えないんですが。

 どうしてかこの子相手には言葉が自動翻訳されてるし、ほんと訳ワカメ。夢落ちだったりしない?

 

 

 

 

 ……待てよ、今この子は「どうやって」と言ったか?

 

 普通に考えれば、海外の人間なんて飛行機やら船やらの手段を使ってやって来るものだけど。

 

 今の言葉は、そういう事を訊いた訳ではない気がする。

 

 「どうやったの?」

 

 「どう、って……」

 

 

 

 

 そんなの、知らんがな。

 

 

 

 

 それだけ答えると、少年は俯いて黙り込んでしまった。

 気のせいか、少し具合が悪い?

 さっきよりも、顔色が真っ青に近付いているような。

 ホンマに大丈夫かこの子…。

 

 とかなんとか、心の内で色々考えていると、しばらくの沈黙の後。

 

 

 

 

 少年は辛そうな容態を隠すように、俯いたまま再びこちらの手を引いてきた。

 

 

 

 

 「えっ、なになになに、怖いんだけど」

 

 「………」

 

 そんな訴えも届かず、無念にもまた驚異の握力により引き摺られる。マジで世界狙えるぜ、この握力…。

 

 ベンチから離れ、少年の足はあの孤児院へ向かっているようだった。

 

 

 

 

 「ちょっと、説明が欲しいんだけど?」

 

 「………いいから、」

 

 少年は一度だけこちらを振り返り、初めて"懇願"の意を示した。

 

 

 

 

 

 

 

 「来て」

 

 

 

 

 

 

 

 その様子に、これまでの無礼な態度や物言いを、すっかり忘れさせられてしまった。

 そんな表情で訴えられたら、こちらもこの手を振り解いて立ち去るなんて、出来ないじゃないか。

 

 

 

 

 ……仕方ない。

 

 どうせ行く当ても無いし、今はこの子に付き合ってみよう。

 敵意はすっかり感じないし。

 何か、訳アリみたいだし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、『僕達』は夕暮れの街並みを横切り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悠然と鎮座する孤児院へと、足を踏み入れたのだった―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――Carpe diem. memento mori.

 

 Sed fugit interea, fugit irreparabile tempus, singula dum capti circumvectamur amore."

 

 




今回はとある回想につき、話は進まないです。すみません。
次回から賢者の石編再開です。

孤児院どうのこうのはジャンプで有名なあの作品の事ですが、
今作のシナリオと特に関係はないです、はい。
あ、でも面白いんで皆さんも是非、どうぞご覧下さいませね。


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Page 9 「助けてドビえもん」

 ―――こんにちは皆さん。現在、1991年でっす。

 

 マルフォイ邸よりこちらの情報をお届けいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ドビえもん!逢いたかったよドビえもおおおおおおおん!!!』

 

 「ひっヒイィィィィ!?な、何なのでございますか~~~!!?」

 

 

 

 

 ただいま、屋敷しもべ妖精のドビーをモフモフしております。

 モフモフ…?いや、しもべ妖精にモフれるような毛は無いけど、とにかくモフってんだよ!何か文句あるかコルァ!僕がモフってるって言ったら、そこにモフモフがあんだよコルァ!(謎理論)

 

 おのれ実物可愛いなこの野郎!まさかこうして触れ合えるなんて前世では思いもしなかったぜ!このままモフり倒してくれるわ!!

 

 

 

 

 ―――どうしてこうなったか、真面目に説明に入るとしましょう。

 

 え?嫌だな、いつだって僕は真面目ですよ。まるで普段はおかしいみたいな目で見ちゃ嫌ですよ。

 

 あっ、やめて、そんな冷たい目で見るのヤメテッ!個性を発揮すると排斥されるこの世の中の理不尽さヤメテッ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――僕がハリーの物置に来るまでの50年間、結構色んな事が起きた。

 

 結構というとアバウトになるのだが、実際そうなんだからしょうがない。

 

 

 

 

 あれからヴォルデモートの手によって実体化(本人は気付いていない)する度に、ひたすら魔法の練習に打ち込んでいた。

 ホグワーツ在学中のヴォルデモートは、定期的に日記へ記憶を転写及び書き込みをしてきた。

 その度に地獄の嫌悪感を味わう羽目になり、今や奴へのヘイトは限界振り切ってますけどね!

 まあ、お陰で魔法の練習が出来た訳なんですけれどね…。

 

 あいつ、マジで許さんからな!お辞儀どころじゃねぇ、絶対いつか焼き土下座さす!!!

 

 肝心の魔法の練度だが、割と良い線行ったのではなかろうか。

 ハリポタ世界の呪文なんて映画勢なので全部覚えてないけど、その辺の知識はヴォルちゃんが転写してきた記憶からパクった。

 使える物は何でも使わねばね!お前の物は、僕の物!魔法界のジャイアンになってやるよ!

 

 あ、もちろん知識以外の、『思い出』……いわゆるエピソード記憶ってヤツにはまだ手を出してないけどね。

 よっぽど頼らざるを得ない時は、閲覧するしかないかもだけど。

 

 

 

 

 まず、初歩的な呪文と戦闘用の呪文は大体使えるようになった。

 

 例えば鍵の掛かった扉を開ける《アロホモーラ》。

 これはホグワーツの鍵付き扉を探しては手当たり次第に試して習得した。原作じゃ1年生のハーマイオニーでも使ってたので、難易度は低い呪文だと思う。

 ついでに反対呪文の《コロポータス》も出来るようになったよ!扉を閉鎖するって、ヒッキーには必須スキルだもんね!…自分で言ってて何か悲しくなったわ。

 

 攻撃に使える呪文は結構習得に時間が掛かったので、全部は無理だったけどある程度はいける。

 相手を失神させる《ステューピファイ》。

 魔力を弾丸の如く撃ち出す《フリペンド》。

 水を操る《アグアメンティ》。

 

 この辺の呪文はほぼ戦闘向けのものなので、そういう血生臭いものとは無縁の生活を送っていた自分にはイメージが難しく、意外と習得するのに手間取ってしまった。

 特に《アグアメンティ》なんだけど、思わず厨二発作を発病してしまい、水操作に拘り続けてたらいつの間にか数ケ月経ってたとかあったなぁ…。

 でもそのお陰で、水操作に至っては多分他の魔法使いよりも凄い領域に到達したと思うわ。はよ使いてぇ!わくわく!

 え?水を操るのが戦闘で何の役に立つって?焦るんじゃないよ、絶対見せ場作ってみせるから。

 

 他にも杖に灯りを点す《ルーモス》とか、相手を全身金縛りの状態にする《ペトリフィカス・トタルス》とかとか、戦闘以外で役に立ちそうな呪文も網羅したぜい。

 めちゃんこ頑張ってハリーの十八番、《エクスペリアームス》も使えるようになったぞ!誰か褒めてくれ!!

 やっぱり基本って大事だよね!ただ、練習相手が無機物なもんで、人間に使用した時にちゃんと武器を吹っ飛ばせるかは試してみないと分からないんだよね。

 他の攻撃呪文は野生の生き物とかで実験出来たんだけど、武装解除呪文ってのはやっぱり人間相手じゃないと効果が実感出来ないしな…。

 

 時間制限や難易度の都合上、習得出来なかった魔法は追々練習していこうと思う。

 ヴォルデモートの手から離れても、実体化の機会はあるしね。

 ……残念ながら守護霊呪文は、いくら練習しても一度も成功しませんですた。泣いてないよ、ぐすっ。

 

 

 

 

 外の様子が確認出来るのは実体化してから、魔力が切れて日記帳に戻されるまでの間。

 なので、ヴォルデモートが一体「いつ」「何」をしているのか、具体的に知り得る事は不可能だった。

 

 ある時顕現すれば、もう既に彼が7年生になっていたり。またある時は、もう卒業間近だったり。

 そういうのを繰り返す内に、何か次第に時間間隔が狂っちゃって…。今が何年かとか、把握するの大変だったよ…。

 そうやってとんとん拍子に時間が過ぎていってしまっていた。

 

 ホグワーツ卒業後は日記帳に書き込まれる頻度も些か減少した為、魔法の練習よりも『別の事』に集中する事にした。

 これが上手い事いけば、後々行動しやすくなるからね。

 

 

 

 

 一度、ヴォルデモートが殺人を犯した直後の瞬間に立ち会わせてしまった事がある。

 

 何か……どこかの屋敷?かなんかで、でっぷりしたBBA……いや、おばあ様がぶっ倒れてるのを目撃したよ。

 多分、殺害後に記憶を転写したらしいから、殺人の瞬間は居合わせなかったんだけどね。

 マジびびったわ。目が覚めたら目の前にBBA…いや、女性が倒れてるのを想像してみ?絶対良い気分にはならんだろうよ。

 転写後の不快感と死体発見のショックのダブルパンチよ。勘弁してほしかったわ。

 

 ほんで肝心の本体は何してたかというと、何か金色のカップみたいな物とペンダント?ロケット?みたいな物を懐にしまってたし。

 天下の闇の魔法使いが強盗殺人とかみみっちい事やってんなーと思ったんだけど。

 

 

 

 

 後から記憶を覗いてみたら、あれ分霊箱(ホークラックス)じゃねーかよ!!!!

 

 ハッフルパフのカップとスリザリンのロケットだよ!!!!

 

 

 

 

 まあ、気付いた所で触れもしないから、強盗を阻止する事も出来んかったけどね…。

 映画では語られなかった、分霊箱(ホークラックス)にする物を収集していく場面を体験させられたぜ…。

 何も出来ない身がとてももどかしい。

 

 そこからしばらくして、今度はレイブンクローの髪飾りを入手する記憶を転写された。

 実際生贄を捧げる場面には立ち会わなかったけどね。

 これ、レイブンクローの娘さんが母親から盗んだのを隠してたらしいね。それを上手い事聞き出して、ヴォルデモートが掻っ攫っていったと。

 何かさぁ、こんな面倒な事せんでその辺の道具をほいほい分霊箱(ホークラックス)にするの、ダメなんかなあ。

 特別な物じゃないと、どうも分霊箱(ホークラックス)にしたくないみたいだね、彼は。

 

 あー、マートル今頃どうしてるかなー。

 ヴォルデモートが卒業する前に、ちゃんと別れの挨拶をしたんだけど。案外あっさり忘れられちゃったりして。

 

 

 

 

 

 

 

 分霊箱(ホークラックス)に関する記憶は、ここまでだ。

 

 次に作成されるのはハリーなのである。

 そして、何でその記憶がないかと言うと。

 

 ヴォルデモートは、ハリーを殺しに行く前に、この日記帳を手放したからだ。

 正確には、手下のルシウスに預けたんだけど。

 だから、ヴォルデモート自身による書き込みはここで途絶えている。

 最後に刻まれた記憶は、『予言の子』を仕留めに行く的なもので終わっていた。

 その後に、ヴォルデモート本人ではない『誰かの手』に渡される感覚を捉えたので、ルシウスが受け取ったのは間違いない。

 どんな説明を受けて預かったのかまでは知らないけど。

 

 さあ、ここでいよいよこちらのターンである。

 本人の手から離れ、ようやく自由行動が可能になった。

 今まではヴォルデモートの手中にあった為、例え実体化しても本体の日記帳から遠く離れられないし。

 誰かと接触しようにも、常にヴォルデモートが管理しているし……正直息が詰まる思いだったなあ。

 

 しかーし、もうそんな怠い事考えなくて良いのです!

 もしもルシウスの手に渡ったら―――どうするか、とっくに計画済みさ!

 

 ルシウスと接触して、『ある事』を命令する。

 それが計画の第一段階だ。

 

 本当なら、さっさと意思疎通して、ポッター家襲撃事件を妨害出来ないかなとか思ったんだけど…。

 肝心のルシウスが中々日記帳に触ってくれないものだから、それは不可能だった。

 実際にルシウスと接触が取れたのは、もう全てが終わった後だった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、今からルシウス君と文通をする訳ですが。

 まあ、偽物だとバレないように、ヴォルデモートっぽさを表現しないといけないでしょう。

 ヴォルデモートっぽさっていうと、威厳たっぷりの俺様キャラかなぁ。

 

 

 

 

 ふむう……俺様キャラねぇ……。

 

 なるべく違和感を感じさせず、傲慢で尊大で不遜なキャラを演じろと?注文が多いですなぁ。

 まあしかし、「やれ」と言われて出来なかった事はほとんど無いのだ!

 出来なかった事と言えば、引き籠ってからの外出かな!同情するなら勇気をくれ!

 明日から本気出す派だから、ちょっと怠いけど、いっちょ役者になってやろうじゃん!

 

 さあ、降臨せよ!そしてお力をお貸し下さい、我らが英雄王!!トレースオン!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本体との繋がりに意識を集中。

 次いで、日記帳の状態を把握。

 

 現在、『成人男性のものと思われる手』に触れられております。

 日記帳が開かれ、ページを指でなぞる動作も確認。

 

 ……どうやら『コレ』が一体どんな物なのか、興味本位から、改めて手に取って調べているようだな。

 

 やっとこさこの能力が役に立った。

 日記帳の状態じゃ外の様子なんて、触覚と、日記帳の状態しか見れない視覚だけが情報源だし。

 

 今、『コレ』に触れている人物へ返事を送ろう。

 ヴォルデモート以外にこれに触る機会がある人物なんて、原作知識を総動員すれば分かる。

 成人男性……まあ疑うまでもなく、ルシウス君でしょうねぇ。

 ルシウスの奥さんでも、息子のマルフォイでもない。

 

 

 

 こちらに触れている人物は調べるだけで、文字を書き込むつもりはないようだ。が、こちらから一方的に『挨拶』すれば接触を図れる。

 幸いにもページを開いてくれているのだから、今から送る文字をド直球に目にするでしょう。

 

 頭に文章を思い浮かべる。

 返事の仕方は誰かに教わった訳でもなく、この身体になってから不思議と知っていた。

 ヴォルデモートがこの分霊箱を制作した時から、予めこういう機能を付与していたからだろう。

 要は、日記帳その物に刻まれた本能というやつだ。今はこの本能による知識を利用させてもらう。

 

 

 

 

 ―――さあ、役者になる時間だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――そこに居る者、しかと見よ。俺様はヴォルデモートの記憶である"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ビクリと触れている指が跳ねる感覚がした。まあそりゃびっくりするわな。急に白紙に文字が浮かんでる訳だから。

 その後手が離れ、ボトリと地面に落とされる感覚。よっぽど慌てたのだろう、つい手放したみたいだ。

 

 ていうか、ヴォルデモートから何も聞かされてないんかい!

 「その日記帳、喋るよ」とか、説明受けてないの?

 

 …あー、自分の魂が保存されてる大事な命のストックみたいなものだから、変に詳しい事を説明しなかったのかな。

 もしも裏切られたら、真っ先に脅かされる代物だものね。例え部下にも真実を伏せる理由は何となく察せる。

 真実を知っているのは自分だけでいいと。どこまでも自分本位な奴だな…ヴォルデモート。

 まあいい。真実を知らないなら知らないで好都合な部分もある。上手い事相手を騙せるかも。

 

  "―――いちいち驚くな。さっさと拾え。俺様の命令だぞ"

 

 ルシウス君はヴォルデモートの手下だ。ちょっと強気に出ればちゃんと従ってくれるでしょう。

 お、意外にも素早く拾われた。どうやら自分の主人の言葉だと疑ってはいない様子。良い調子だぞ。

 

 "よし……いい子だ。俺様はこの日記帳に込められた『記憶』である。故に文字でのやり取りしか出来ぬ。そこに居る者よ、貴様は俺様の手下だな?肯定するならこれに文字を書き込むがいい"

 

 うっわー、騙す為必要とはいえこの俺様キャラ、めっちゃハズいわ。もうこれ終わったら金輪際しないわ。

 え、何でいちいち俺様キャラにしてるんだって?ちゃんと打算があるのだよ。

 原作のこの日記帳は学生時代の魂故に、俺様キャラじゃなかったけど。今、わざわざ演じているのは『計画』の一環だ。

 ルシウス君はこの日記帳の詳細を知らないのだから、俺様キャラで接触しても何も疑問に思うまい。

 むしろ威圧感が出て、素直に命令に従ってくれるんじゃないかしら。

 

 と、不意に文字を書き込まれる感覚。ヴォルデモートの時と違って不快感は一切無し。

 良かった、書き込まれる度にあんな目に遭うのは遠慮したかったところだ。

 記憶の転写とかじゃなく、単なる書き込みなら不快感を味わわずに済むのね。新たな発見である。

 

 『―――我が君なのですね?はい、私は貴方様の忠実なる、僕でございます。名はルシウス・マルフォイと申します』

 

 言葉ではなく文字だけのやり取りなので、相手の感情は把握出来ない。ただ、震えた筆跡から察するに、相当動揺していると見受けられる。

 

 いやー、やっぱりルシウス君でしたか。

 わざわざ「忠実なる」とか付け足さなくていいのに。そんなに媚び売りたいのか、たかが日記帳相手に。よっぽど本体が恐ろしいようだ。

 例え『記憶』でも相手にとっては自分の上司、礼儀は尽くさねばって感じなんかな。

 

 "ルシウスよ、貴様がこれを持っているという事は、本体が預けたのだな。貴様はこれの役割を知っているか?"

 

 『―――いいえ、存じ上げません。「予言の子」を手に掛けようと立ち去られる直前に、我が君本人から預かり受けた物でございます。しかしこれの意味までは知らされてはおりません。どういった代物なのでございますか?』

 

 うーん、良いね。無知な者ほど騙しやすいものはないぜ。

 いや、詐欺師になった経験は無いんだけどね。

 ネットの掲示板とかで、ある事無い事どうにか信憑性高めて書き込む連中とか居るじゃん?ああいうのを見て学んだのだよ。

 面と向かって対話するなら難しいけど、相手の表情などが読み取れない文字だけのやり取りならば、騙せる確率も上がるというものだ。

 ……だから、原作でも騙される奴が居たんだなー。ヴォルデモート、やっぱ恐ろしい奴だ…。

 

 むむう、しかしヴォルデモートはもうハリーを殺しに行ってしまった後か。

 返り討ちにあったという報告も無いようだし、立ち去ってから数分後といったところかな?

 その間に、主人から預かった物を調べようとしていたのだろう。

 こうしてやり取りしている間にも、ハリーのお父さんとお母さんはやられてしまっているかもしれない。

 ちゃちゃっと用件を言っちゃいますか。

 

 

 

 

 

 

 

 "これには俺様の記憶と自我が封じられている。これの役割は―――ホグワーツに存在する『秘密の部屋』を開放し、穢れた血の雑種共を排除する事だ!"

 

 

 

 

 

 

 

 

 英雄王、ありがとう!あなたのお陰で見事に俺様キャラ演じられてるよ!フハハハ、これぞ愉悦部ってやつか!平伏せ雑種共!なんつって。

 

 

 

 

 『ひ…秘密の部屋ですか?一体、どうやって―――』

 

 解り易くうろたえてくれるねぇ。文字ブッルブルやぞ。生まれたての小鹿か!男なんだからもうちょいシャキっとしなさい。

 

 "どうやって、かは貴様が知る必要は無い。いいか、貴様はただ俺様の指令に、たった一回従うだけでよい。その一回さえこなせば、もう貴様にやってもらう事はない。後は好きにするがいい"

 

 『こ…光栄でございます、我が君。して……その指令、とは……』

 

 たった一回、というハードルを下げる甘い言葉でルシウス君のモチベを上げます。

 こう言えば、「一回だけか、何だ簡単そう」という希望を抱き、「後は自由だから頑張ろう」、という気分になるでしょう。

 ルシウス君はどうも主人に恐怖で従ってるようなので、こんな感じで指令を出してあげれば大人しくやってくれると思う。

 

 "では指令を出す。一度しか書かぬから良く見ておけ…"

 

 『はい、もちろんでございます』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――貴様の召使いである屋敷しもべ妖精に、これを渡すのだ"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数秒の間、日記帳からペンが離れていった。

 こちらの文字が消え去ってからハっと気付いたように、ガリガリと早い動作で返事が返ってくる。

 

 

 

 

 『………え、私のしもべ妖精に、ですか………?』

 

 "一度しか書かぬと言った筈だ。口答えは許さんぞ"

 

 困った時の魔法の言葉!こう言えば変に追及されるのを防げるよ!

 

 『は、はい!申し訳ありません、我が君!で、ですが、本当にそれだけでよろしいのでしょうか……』

 

 "何度書かせる気だ?一度だけと言っただろう。余計な事を書く暇があるなら、とっとと従え!"

 

 『申し訳ありません!ただいま!』

 

 "最後に言っておく。―――本体の俺様に何があっても、再びこれを回収する必要は無い。屋敷しもべ妖精に渡した後は、この日記帳の事を忘れるのだ。良いな?"

 

 『承知致しました、我が君!仰せの通りに!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、日記帳はマルフォイ家の屋敷しもべ妖精、ドビーへと預けられた。

 

 ……ここからが本番だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……ねぇ、どう思うよ?」

 

 「どうって、何が」

 

 「いや、これ。ちょっと大胆だよね、行動が。ある意味感心するなあって」

 

 「別に良いんじゃないの、どうでも」

 

 「ちょっとは気にしろい!ここまでして頑張ってるんだからさ!」

 

 「大層なものは望んじゃいない。最初に決めただろ、何をするかは全部好きにさせるって。それに、どうしたって手を出せないんだから」

 

 「ん~……でもさぁ、やっぱりこうやって流れを変えようと努力する道を選んだみたいだしさぁ、少しは応援したってバチは当たんないだろ?」

 

 「……全部が全部、上手くいくハズがない。最初から、"最大の障害"を抱えてしまっているんだから」

 

 「…やっぱそれだよなぁ。あー、変に目を付けられないと良いね。あの閉心力なら、『アレ』にそうそう隙を突かれる事は無いだろうけど。多分いつか絶対、何かしらの形で邪魔してくるだろうし」

 

 「そういうのが『アレ』の"本来の役割"なんだから仕方が無い。だから変に悟られないように、予め細工させてもらったんだ」

 

 「……忘れられるって、辛くないの?」

 

 「……。思い出せなくなっているだけだ。それに、最低限の助言も忍ばせた」

 

 「心配するなよ。"こっち"はずっとここに居てあげるから!」

 

 「…別にどっか行っても良いのに」

 

 「酷いなこのやろー!冷酷人間ー!"あれ"、めっちゃ痛かったんだからなー!わざわざ引き受けたの感謝しろよなー!」

 

 「縛られるのは、嫌なんじゃないの」

 

 「今更だなあ。一つの場所に縛られるなんて昔から慣れっこさ。今回は一人じゃないしね」

 

 「…あぁ、『人間が独りで居続けると頭がおかしくなる』んだって?」

 

 「そう、それ。だから心配するなって」

 

 「僕はまともだ」

 

 「………やっぱ可愛くねー」

 

 「褒め言葉と受け取る」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ルシウスの手によってドビーの手に渡った後。

 

 突然主人から謎の古びた日記帳を押し付けられ、困惑したドビーは当然ながら、一体これがどんな物なのか確かめようとした。

 おずおずと表紙を開き、白紙のページを目にする。

 その瞬間を狙い、すぐさま文字を浮かばせる。

 

 

 

 

 

 "こんにちは!僕、悪い日記帳じゃないよ!"

 

 

 

 

 

 第一印象は大事だからね、無害だっていう事の伝達はまず最初に!

 

 相手はルシウス程じゃないけど、びっくりして日記帳を放り出した。慌てて空中でキャッチした。妙に器用だなおい。

 まず文字を書き込んでくれなきゃ話にならない。再度文字を浮かばせてみる。

 

 "ええと、こんな風に僕は独りでに返事が出来る日記帳なんだけれど。君にお願いしたい事があるから、何か文字を書く物でこれに返事を書いてもらえないかな"

 

 すると、意外と間を空けずに返事が書き込まれた。しもべ妖精ってのは案外度胸があるな。

 

 『あ、あああなた様は、ドビーめをご存知なのですか?』

 

 人間の筆跡とは大分違う歪んだ字体で、返事が返ってきた。

 うーん、やっとドビーのところまで来れたよ。やっぱりハリーの為に協力してくれるのは、この子だよね!

 ……一つだけ、懸念があるんだけど。

 

 "ドビー。君の事は主人であるルシウスから聞いている。それで、まず最初に尋ねたいんだけど……"

 

 『な、ななな何なりと』

 

 ……何か、めっちゃ文字が歪み始めた。この反応…やっぱりドビーって…。

 

 

 

 

 "ドビー、君は『僕』が誰なのか知っているの?"

 

 

 

 

 しばらく返事は書き込まれなかった。

 

 …そうだろうとは予想していたけどなー。

 

 そもそも原作で、ドビーは『秘密の部屋』の事件からハリーを守ろうと、ホグワーツへ行ってはいけないと警告しに来たのが初登場だ。

 つまり、ドビーは最初から『秘密の部屋』事件を起こすこの日記帳の存在を知っていたのだろうと推測が出来る。

 大方、ルシウスの企みを聞かされていたか、盗み聞きでもしたか。とにかく、日記帳の正体も闇の帝王であると認識している可能性が高い。

 でも、僕は闇の帝王じゃないし、あんな厨二ネームを名乗る気は毛頭無いし、何よりハリーの所へ馳せ参じたいので誤解を解かなければ。

 

 "信じてはもらえないだろうけど、僕は君が思っているような存在じゃないんだ。君をどうこうする気は無いから、どうか頼みを引き受けてくれないだろうか"

 

 『どっドビーめは、ご主人様からこれをお渡しされました!手放す事は出来ません!』

 

 主人の命令には逆らえない、しもべ妖精の性だろうか。恐怖で手が震えながらも日記帳に律義に返事を書いてくれる。何か変に怖がらせてすまんな、おう。

 

 "あー……、そうだろうね。訊きたい事があるんだけど、答えてくれる?"

 

 『もも、もちろんでございます』

 

 

 

 

 "―――ハリー・ポッターを知っている?"

 

 

 

 

 『…は、ハリー・ポッター!!ご存知ですとも!私どもにとって、希望の道標のような存在に―――ヒィッ』

 

 そこまで書き綴って、突然文章は途絶えた。言ってはいけない事まで喋ってしまったような、焦燥感。

 ……うわぁ、嫌な予感がする。でも、ちゃんと確認しないと…。

 

 "今、は―――もう、闇の帝王がハリーにやられた、時代なのかな?"

 

 ぐるぐるとペンがページの上で空回りし、やがてたっぷり塗られたインクがベシャリと白紙の上で踊り狂った。

 

 

 

 

 『も、申し上げにくいのですが、その通りでございます。あ、あなた様は、本当の、あなた様は、10年前……ハリー・ポッターに……』

 

 

 

 

 ……嫌な予感は的中した。

 まさか、ルシウスの手に渡ってから、既にハリーが傷付けられ、10年が経った後だったとは。

 知らぬ間に随分時間間隔が狂ってしまっているようだ。全然気付けなかった。

 

 おいおいマジかよ、いくらなんでも日記を受け取ってから確認するのに時間掛けすぎだろルシウスくうううん!!

 てっきり受け取ってすぐ日記帳に触ってるんだと思ったのによおおおおお!!

 

 ドビーの様子から考えて、「既に本体はやられた後です」なんて恐れ多くて報告出来なかったんだろう…。

 だからこっちも、ヴォルデモートがポッター家に行った直後の時代だと勘違いしてしまった。

 だが現実は、今はヴォルデモートが一時的に破滅して、ハリーが10歳になった時代となっている。

 ……多分、得体の知れない日記帳を確認するなんて、受け取ってからすぐには決断出来なかった…ってことかね…。

 10年後って、おま……おま……。

 

 ま、まあ、いいのよ。

 過ぎてしまった時間は嘆いたって戻らない。ここは潔く切り替えていこう!

 ハリーが10歳なら、もうとっくに物心もついた歳だ。接触するには問題ないだろうし。

 それよりも、計画の都合上、『賢者の石』が始まる前にドビーとやり取りが出来たのを喜ぶべきだ。

 

 "そうか…。実はね、僕はハリー・ポッターに逢って、彼の助けになりたいと思っているんだ。君も同じなんじゃないかな?"

 

 『ほ、ほ本当で、ございますか!あなた様が、どうして……いえ、なんでも!なんでもありません!ドビーめも、そう思っておりました!』

 

 "そっか、それは良かった。ドビー、僕を信じてくれなくてもいい。どうか、ハリーの家まで僕を連れていくだけでも頼まれてくれないかな。しもべ妖精の君なら、どこへでも姿現しで飛べるだろう?"

 

 『どっドビーめが、ハリー・ポッターの家に!!あなた様を!?』

 

 "そう、そう。僕はこの通り、自力じゃ動けないからね。誰かに運んでもらいたいんだよ。その誰かが、君になって欲しいって事さ"

 

 『そそれは簡単な事でございます。しかし、それだけでよ、よろしいのでございますか』

 

 段々と、ドビーの文字が整ってきた。恐怖が薄れてきているのかもしれない。

 

 "……頼まれてくれる?ドビー"

 

 『ああ、ああ、ドビーめに、そんな、そんな「お願い」など初めてでございます!うっ嬉しゅうございます!ううっ、あなた様に、そんな、こんな』

 

 "おおい、落ち着けぇ!嬉しいのは分かったから、クールダウンして。あと僕はヴォルデモート本人じゃないから、そんなに謙らないでよろしい"

 

 『れっ例のあの人では、ない?どういう事で……どういう事でございますか』

 

 "うーん………。実際に対面すれば分かるかな"

 

 『たいめん?』

 

 ―――本来なら、日記帳に誰かが書き込んでくれないと、魔力を奪えず実体化は出来ないんだけど。

 実は今まで、ヴォルデモートが書き込んできた時の余剰魔力を、消費せずに溜め込んでいたのだよ!

 何とか少しずつだけど、実体化の時間を削って、残った魔力を自身の内に留める術を開発したのさ。

 これがヴォルデモートの卒業後に試していた『別の事』である。

 これを利用すれば、他者の魂を奪うなんて荒業無しで、ヴォルデモート本人の存在無しで実体化出来る!魔力残量が続く限り!

 

 

 

 

 さあ行きますぞ!シャバドゥビタッチヘンシ~ン♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『参上!!』

 

 「ヒイィィィィ!!?」

 

 開けた視界にまず映ったのは、蝙蝠のような長い耳にギョロっとした大きな目玉。

 汚らしい枕カバーみたいな服を身に着けている、人形のような生き物だった。

 こちらを見て、驚きの余り尻餅をついてしまっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『初めまして。トム・マールヴォロ・リドル―――ああ、日記帳に名前があるから、もう知ってるよね?』

 

 「ヒィ、ヒィイイ、はいぃぃ」

 

 今にも叫び出しそうな声を抑えながら、やっとの思いでドビーは返答を寄越した。

 何だかんだ会話が成立するぐらいの正気を保ってくれているのは、正直感謝する。

 

 「あ、あの人が名前を変える前の―――そ、それがあなた様なので、ごございましょう」

 

 『そうそう!てか、ホントに色々知ってるね。しもべ妖精の間じゃ有名なの?』

 

 「ど、ドビーめは、ご主人様の話から知り得る事が出来たのでございます。他の者達は、恐らく知らぬままかも…」

 

 『そうか。んじゃ早速だけどドビー、これから僕がする事を許してね』

 

 「はっ……?!」

 

 心頭滅却、色即是空!

 

 ターゲット、ロックオン!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ドビえもおおおおおおおおおおおおん!!!』

 

 「アッ、あああぁぁあああ!!ヒイイイイイイ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――抱きつきたい衝動を抑えきれず、そのままルパンダイブの要領でドビーへ突っ込む。

 

 いやーマジで、こんな可愛い生き物を前にして、何もしないなんてあり得ないから!! 

 映画で人目見た時から、キュートなマスコットキャラという認識だったよ、ドビえもん!!

 どこでもドア能力もあるし、マジでドビえもん!ああ、可愛さもマジでドビえもん!(語彙力消滅)

 魔力残しといて良かった!ついでにドビーが触れる魔法生物で良かった!

 

 

 

 

 もふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふ。

 もふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふ。

 もふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――それから気絶しかけたドビえもんに気付いて、慌てて正気に戻るまで僕はドビえもんをモフり続けたのであった。

 

 若き日の闇の帝王の姿をした男にモフられるとか、新たな領域の恐怖を味わったドビえもんには、その後全力で謝罪した。

 

 

 

 

 『すんませんでしたああぁぁぁぁぁぁぁ!!!』

 

 

 

 

 謝罪の最上級を示す、圧倒的土・下・座!お辞儀を通り越して、土下座をするのだ!!

 

 まさかの主人でも無い人物に土下座され、ドビえもんはひたすら困惑続きだった。

 しかし、一連の全力の抱擁と、全身で表す謝罪の態度を見て、ドビえもんはどうやらこちらがヴォルデモートとは似ても似つかぬ別人だと判断してくれたようだった。

 

 怖がらせた面もあったが、結果的に良い方向へ流れは進んだようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あなた様に抱きしめられる日が来るなど、ドビーめは思ってもみませんでした……」

 

 『マジで正気じゃなかった。お願い忘れて』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――こうして、やっとの思いで僕は、ハリーの所へ向かう移動手段兼マスコットのドビえもんと知り合う事が出来たのであった。

 

 

 




Page 3でも少し触れているのですが、主人公の美醜感覚は常人と比べると狂っています。
公式で醜い設定かつ人外のしもべ妖精をモフってる時点で良く分かると思います。
 
あー、やっと原作キャラをちょいちょい出せる。
あ、秘密の部屋ファンの皆様はご安心ください。
バジリスクの出番はちゃんとありますよ
大分先になると思いますが。

アズカバンの囚人編以降の展開、まだ何も考えてないけどこれどうするよ?


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Page 10 「ホグワーツへいらっしゃい」

日間ランキング39位ってドーユコトナノ!?
いきなりでびっくりしました…!
本当に、こんな妄想にお付き合い頂いて感謝感激でございまする…。


 ―――結局人生とは、『平凡』な人間に生まれた者が勝ち組となるのだろう。

 

 

 

 

 20年も生きちゃいない若輩者の僕が出した、至極大雑把な結論である。なので文句は受け付けないぞ!

 

 

 

 

 『優秀』な人間に生まれたらどうなるか?

 

 全てがそうではないだろうが、この場合、大抵はこれまでの家系も優秀な人間を多く輩出している環境の方が多い。

 そんな家に生まれれば、当然否応なく血筋という名の枷に縛られ、その血が流れているという理由だけで常に『優秀』である事を要求される。

 ましてや長男などに生まれてしまえば、間違いなく家を継がされるだろう。本人の意思に関係なく、ほぼ強制で。そもそもそういう目的で子供を作ってきたのが人の歴史だから。

 『自由』の無い人生など、何の意味があるのか。

 如何に自分が『優秀』なスペックを備えていたとしても、(しがらみ)だらけの生活など御免被りたいものだ。

 

 

 

 

 『劣悪』な人間に生まれたらどうなるか?

 

 劣悪にも色んな環境があるだろうが、具体的に表現するならば貧困、出来損ない、といった生まれながらのハンデを背負っている人生を示すだろう。

 家庭が困窮し、日々の生活もままらない。才能など持たず、何の取り柄のない人間に生まれる。

 こういった人生もまた、望んで送りたいかと言われれば一瞬の躊躇いもなくノーと答えられる。

 最低でも食うには困らない生活を送りたいし、無能の烙印を押されては社会に居場所が無いのでこれもお断りだ。

 例え家柄に縛られない、『自由』の余地ある人生だとしても、これではマイナスの要素の方が多すぎる。

 

 

 

 

 要は、『優秀』も『劣悪』も。

 極端に振り切らなければ。

 どっちつかずの『平凡』ならば。

 

 きっと、『幸福』で『自由』な人生になるのかもしれない。

 

 当たり前の日常、特に有名でもない家系、平均的な実力。

 これらさえ揃えば、まあそこそこの、悔いの無い人生を歩めるのだろうと思う。

 人によっては、当たり障りのない、見栄えのない、退屈なものなのかもしれないが。

 それでも、『自由』も『居場所』も無い生活よりは、とてもマシな一生を送れる要素の筈だ。

 

 こんな捻くれた考えに至るなんて、我儘にも程があると怒られてしまうだろうか。

 

 それでも、しょうがないじゃないか。

 

 

 

 

 人間なんて、結局は"無い物ねだり"をしたがる生き物なのだから。

 

 

 

 

 ―――ところで、何でこんなネガティブな思考回路に至ってるんだろう。

 

 今はそれよりやるべき事があったような……。

 

 あ~あ、人間ってめんどくせー。チーズ蒸しパンになりたい。

 

 とか願っちゃった事があるから、バチが当たって日記帳なんかになってしまったんでしょうかねぇ。

 

 はぁ~?マジやってらんねーわ。

 

 ふざけんな、神とやらが居たらチェーンソーでバラバラにしてやんよ。

 

 かみは バラバラに なった。 かみは しんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【……大分参ってるんじゃないかい?】

 

 

 

 

 

 

 

 

 あぁ~~~、やっぱ精神的にキてますね、コレは。幻聴が聴こえ始めたっスよ。

 

 【それは無意識かい?それともわざとやっているのかい?】

 

 何だこの幻聴。幻聴の分際でムカつくな、いっちょ前に質問してきやがったぞ。

 

 【今の君はそういうのを故意でやっているのか、判別が付かないから反応に困るんだけど…】

 

 んぬわぁ~~~。ヤバイ…。ちょっと一旦落ち着こう。マジで頭こんがらがってきた。

 んえーと、んんんー。今どれくらい経ったっけ……。

 

 【大体14年だね、前に実体化したのは2ケ月程前だったよ】

 

 ふぁ~、たまげたなぁ…。そろそろ脳みそ蕩けそうなんだけど…。あ、脳みそも無いんだったわ…。えふーん。

 

 【あのゴーストと話す機会が無くなってから、そういう調子が続いてきているよね。大丈夫なのかい?】

 

 大丈夫じゃない、問題だ。

 

 うえっふ。これマジで、原作時系列に辿り着いた時、僕が僕のままである事を祈るしかないんだけど。

 やっぱり某国の実験結果は真実だったという事だな。マジで精神にクるよ、これ。

 普通の人間なら1年ぐらいでおかしくなってると思うよ、これ。

 解りやすく例えるなら、5億年ボタンを押してしまったのと同じ感覚だよ、これ。通じる人が居たら嬉しい。

 

 へふぅん。あと残り約30年程かー。

 うへへへへへ。何か逆にハイになってきた。今なら何でも出来そうな気がする。

 

 【こんな環境でも、変わらない閉心力にむしろ敬意を表するよ…】

 

 ああん?アンタまだ諦めてないのかよ。10年以上も人の心覗き見しようとするその変態根性はこっちも評価するわ。

 

 【不本意だけど、こちらもそれぐらいしかやる事が無いんだよ。別に根性とかじゃなくてね】

 

 はいはい、言い訳乙。やる事無いなら素数でも数えてろよ。そっちの方がよっぽど有意義だ。

 

 【君って何だかんだ返答に応じてくれるよね】

 

 そうだよ。良く考えたら好きでも無い奴との会話にわざわざ付き合ってやってんだよ?僕。

 崇められて然るべきじゃない?讃えられて然るべきじゃない?国民栄誉賞とか与えられるべきじゃない?

 

 【やっぱりちょっと正気じゃなくなってきてるよね?】

 

 いいえ、私は精神に異常をきたしておりません。

 過去にドグラ・マグラなる奇書を読んだ事がありますが、精神に異常をきたしておりません。

 私は精神に異常をきたしておりません。

 私ワタシわたしは精神ににに異常をををヲきたシておりマませン。

 

 精神ニ異常ヲ―――あれ?イジョウってなんだっけ???

 いや、限りなく正気でございますことよ。へふう。

 

 ………あぁ、ぶっちゃけると辛いですね、これ…。うひーん…。

 何でこんな目に遭ってるんだろ~……。

 

 【辛いなら一度吐き出してしまったらいいんじゃないかな?ほら、言葉にすると楽になると聞くしね】

 

 フハハハハ!引っ掛かったな馬鹿めが!!

 こうやって萎れたフリすれば絶対そうやって色々聞き出そうとしてくると思ったわ!!この未熟者が!!!

 どうやら僕の方が一枚上手だったみたいだなドヤァ!!!

 親身になってるつもりで情報を引き出そうとする輩の思考回路など、とっくに認知しているのだよ!昔に色々経験したからなぁ!!

 

 【……………………………………………………】

 

 おおーん?その沈黙は何ですかな?おこなの?敗残者のだんまりなの?僕の勝ちでオーケイなの?

 

 【……人の事は言えないけど、君も一度理性のタガが外れると、ブレーキが利かなくなって別人と化すよね、本当に……】

 

 おやおや、負け犬が何か吠えてるよ。

 ワハハハハ、昔に報復してやった同級生の如き滑稽な姿だな――――――ハッ!?

 

 【―――へぇ、そうか。昔にねぇ。やっぱり色々えげつない事してるよねえ、君】

 

 し、しまったああああぁぁぁ!!つい思い浮かべてしもうたぁぁぁぁ!!

 オノレェ!何という失態!

 絶対に許さんぞ!誘導尋問の喜びを知りやがって!お前許さんぞ!

 

 【今のはただの自爆だと思うけど。こちらの勝ちになるのかな?】

 

 ふざけんな!引き分けだゴルァ!!ドローだゴルァ!!

 

 【じゃあそういう事にしておくよ】

 

 あぁもうふざけんな!おめーの母ちゃんデベソ!!

 

 【急に子供の悪口レベルまで語彙が減ってしまうのは謎なんだけど…。それに、母親とは逢った事も無いからそういうのは誰にも分からない事実なんだけど…】

 

 は?マジ引くわ。アンタもしも母親が居たらヘソ確認すんの?とんだ変態野郎だったんだな。そうかそうか君はそんな奴だったんだな。

 

 【…今の君は無自覚なままかなりやられているみたいだから、少し冷静さを取り戻す事をオススメするよ】

 

 ………………………………………………………………………………………。

 

 

 

 

 ………………………………………………………………………………………。

 

 

 

 

 ………………………………………………………………………………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハッ!!?僕は今まで何をッ!!?

 

 

 

 

 【本当に自覚が無いんだねぇ……】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――という感じの流れを、この50年間ちょいちょい繰り返してきたと思う。

 

 時間間隔が狂っていったとはいえ、途中までは本当にヤバかった。主に精神的に。

 次は果たしていつ、この暗闇から解放されるのだろうとか。

 そう考え続けると途端に自分が誰なのか見失いそうになったし…。

 

 本名も忘れてしまったから、自分は本当に『前世』で生きた人間だったのかもあやふやになってしまいそうになる。

 だからと言って、前世の記憶に縋り、自分の存在を確立させようと躍起になるのも憚られた。

 あまりそういう思考を働かせると、ファミチキ野郎に駄々洩れになってしまうからである

 それは人生最大の屈辱でしかないので、なるべく過去の事は思い浮かべないように細心の注意を払ってきた。

 

 それでもやっぱりこの生活は堪えたし、何回精神が瓦解しかけたかもう数えたくないでござる…。

 意味不明な事をたくさん喚き散らした記憶が朧気に残ってるし、流石のファミチキ野郎も、どうにか正気を取り戻させようと呼び掛けてきたのも薄っすら覚えてる。

 

 そんな中で、待ちに待った『計画』の第一段階を遂行し。

 前世で心奪われたマスコットキャラクター・ドビえもんを目の前にし。

 精神的疲労と、心中に蔓延していた孤独感を癒す為に。

 

 

 

 

 思わず正気を失い、モフり倒してしまった事は、許されてもいいよねー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ね、許されてもいいよね?』

 

 「ど、ドビーめにはお答えしかねます……」

 

 平静を取り戻しても、ドビーは根っからの性格なのか、未だにモジモジビクビクといった態度でこちらと接している。

 原作でも奴隷同様、もしくはそれ以下の酷い扱いを受けて生きてきた為、まあしょうがないとは思う。

 そんな人生送ってきたら、そりゃこんな性格にもなってしまいますわ。

 

 うーん、しかし、こうも怯える子と接してきた経験無いしなあ。

 警戒心を解きほぐしたり、一瞬で心の距離を詰めたり、そんなカリスマスキルは所持してないんですわ。

 むしろ僕が前世で持ってたのって、周囲の人間を警戒させ遠ざけるようなマイナススキルだけなんで…。

 ここは変に取り繕うよりも、なるべく怖がらせないように会話を持っていくしかないでしょう。

 

 『早速なんだけど……ルシウス君って今居る?』

 

 「ご、ご主人様ですね。えぇ、現在もこのお屋敷にいらっしゃいます」

 

 『まあ、居るよねぇ。当然だけど、ハリーを助ける為には帝王の手下に存在をバレる訳にはいかない。僕の事言っちゃダメだよ』

 

 「もっもちろんでございます!」

 

 『シッ、声が大きい!今居るって言ったばっかじゃん』

 

 「もも申し訳ございません!ドビーは悪い子!ドビーは悪い子!!」

 

 と、原作の勢いをそのまま再現するかのように、ドビーが壁に向かって激しく頭突きを食らわし始めた。

 おいこらヤメロォ!壁が何をしたって言うんだ!壁さんが可哀想だろ!!

 ハリーがドビーの扱いに戸惑ってたのも今となっちゃ凄く分かる!わかりみが深い!

 

 この音でルシウス君に気付かれかねないので、素早くドビーを壁から引き剥がしにかかる。

 

 『こらドビえもん!離れなさい!』

 

 「ヒィィィッ、申し訳ありま―――」

 

 『ようし埒が明かないから一つ決めようか!今から謝罪禁止にします!はい落ち着こうか!深呼吸!』

 

 「ヒッッッ、ヒィィ。承知いたしますうぅぅ」

 

 涙目になりながらも、ドビーはヒューヒューと死にかけの患者のような呼吸を繰り返す。自分で言っておいてなんだけど、逆に寿命縮んでないこれ?

 

 『よーし落ち着いたね?じゃあ、僕の目を見て』

 

 なるべくそっとドビーの肩に手を置いて、目線が合うようにしゃがみ込む。

 人の目を見て話す。誰もが教わる会話の一歩!しもべ妖精にこれが理解出来るか知らんけど、まずはこちらから歩み寄らないとね。

 

 『どう?ちゃんと会話出来そう?今の気持ちを正直に言ってみて』

 

 「………ほ、ホントによろしいので…」

 

 『大丈夫だって、怒らないから。謝罪も禁止って言ったよね?ほら、今の気持ち、言ってごらん』

 

 「で、では―――し、死んだ魚のような目が、ドビーを見つめているように見えるのでございます」

 

 『はっ……し、死んだ魚……魚……』

 

 えーっ、僕の目って死んだ魚のような目に見えるの……?初耳なんだけど……?

 地味にショックなんだけど……?

 も、元からだよね?元からこの身体の目付きがそうなってるだけだよね…?

 

 あ、そういえば、前世でも父親に「お前のドブみたいな目が気味悪い」とか言われた記憶が…あるよ…。

 周りの人間からは外見に関して悪い事言われた覚えがないけど、どうしてかあの人にだけは見抜かれてたんだよな…。

 何で親って奴は子供の様子に目聡いんだろうね…。

 

 ……ドビえもん、君、地味に度胸があるな…?

 

 

 

 

 『は、はははぁ、死んだ魚かぁ……はぁ~ん……』

 

 「ど、どうされたのでございますか…!?」

 

 思わぬ衝撃発言に打ちひしがれているこちらの心中を知ってか知らずか、ドビーが恐る恐る尋ねてくる。

 

 …まあ…そう見えても仕方無いよな。

 だって50年分の苦難を背負ってきた訳だからね。そりゃ目付きも活き活きする訳がないわ。

 うん、これは当然の現象なんだよ。断じて元から死んでる訳じゃないんだよ(自己暗示)

 その内目付きも治っていくよ、うん、気にしないようにしよう…。

 

 『……いや、何でもないない。じゃあ、早速本題に入るけど……ちょっと野暮用があるので、ルシウス君のとこまでいっちょ、案内お願いします』

 

 「ごっご主人様の元へ!ドビーめに、案内を!?」

 

 『あ、やっぱり不都合だった…?』

 

 「とんでもございません、とんでもございませんとも!う、ううっっ、い、今まで『お願い』などと!そんな事を言われたのは初めてで……ううう…!」

 

 『もしもーし?』

 

 ドビーは何が嬉しいのか、身に着けていた衣服…?みたいな物で溢れ出る涙をぐしぐし拭っている。

 

 …どうやらしもべ妖精ってのは、よくあるメイドさんやお手伝いさんと違って、この世界ではもろ奴隷扱いのようだ。

 雇っているとはいえ、その相手に感謝も敬意も与えない、最低の扱いでこき使う……酷いもんだ。

 命令を忠実にこなしてくれるんだから、当たり前にお願いの言葉や感謝の言葉も言えないもんかねー?

 ううん……まあ、異邦人の僕が口出しする権利は無いかもだけど……なんかモヤっとするなー。

 ドビえもんが好きなキャラクターであるが故に、どうにか出来ないものかと考えてしまう。

 

 確かしもべ妖精は、仕えている人間から衣服を与えられれば自由になれた筈。

 服だろうが手袋だろうが靴下だろうが、一度渡されたしもべ妖精は、その時から自由の身になれる。

 

 ……でも今の僕って、魔力を通す物以外触れないから。

 原作ハリーみたいに、衣類をルシウスの手から渡させるような真似は出来ないんですたい…。

 ごめんなドビえもん…。どうにか早い内に解放してやるからな…!

 ……あと今更だけど、君に触れるって事は、しもべ妖精って魔力通すんだね……初耳だよ…!

 

 『…ドビえもん、いやドビー。僕は別に、君を上手いこと従わせようと思って「お願い」してるんじゃないんだ。誰かに何かを頼む時にはこんな言葉掛けるの、当たり前の事だからね。君が本当に嫌なら、主人でもない僕の協力なんか受ける義務は…』

 

 「いいえ、いいえ!あなた様には、そのような策略が無い事など、とうに分かっております!純粋に嬉しかったのです…!まるで対等に扱ってくれる方がいらっしゃるなんて……」

 

 『……僕を君に渡すようにルシウスに言ったのも僕だけど、本当に嫌じゃないんだね?』

 

 「はい、もちろんでございます。…最初は流石に、ご主人様から受け取った物を放り出す訳にもいかないという理由で、あなた様と接しておりましたが……今は違うのでございます!このドビー、どうぞいくらでもお使い下さいませ!」

 

 さっきからの卑屈な態度から一転して、ドビーははっきりとした口調でそう言い放つと、深く頭を下げた。

 その様子はまさに、真に仕えるべき主への、永遠の忠誠。

 …いや、正直嬉しいんだけどさ、こっぱずかしいからそこまで忠誠誓わなくてもいいからね?

 何かまるで部下を従える闇の帝王みたいやんけ。別に目指してないんだってば、帝王とか。

 

 『ほんとに大丈夫?マルフォイ家放っておいて、僕に協力するの。しもべ妖精のルール的にはセーフ?』

 

 「どちらかと言うとアウトに近いかもしれません…。しかし、ご主人様は()()()()()()()()()()()()()という事実があります。そのあなた様に従うという事は、ご主人様の命令に従う事にもなるのでございます。違反を犯すという事にはならない筈でございます」

 

 そういえば、原作でもドビーはマルフォイ家そっちのけで、無断で飛び出しハリーの所へ馳せ参じていたな。

 あれも良く考えたらしもべ妖精的にアウトだったろうに、ハリーを助ける為にルールの垣根を越えた行動を起こした。

 案外、ドビーはしもべ妖精の中でも自由意思が強い個体なのだろう。

 

 『そっかぁ、そう考えるとそうだね。よし、じゃあ……これからよろしく、ドビー』

 

 ゆっくり手を差し出し、ドビーと握手。体温の無い身体なので、手の温もりを感じ取る事は出来なかったが、確かな力強さでドビーは握り返してくれた。

 …ああ、本当の実体化を遂げたら、この温かさも感じ取れるようになるのかな。

 

 「し、しかし……ご主人様に存在を知られてはお困りになるのですよね?どうしてお会いに…?」

 

 『うん、それなんだけど…。やっぱりちゃんと、僕の存在を忘れてもらおうと思って』

 

 言いながら、ローブのポケットからサンザシの杖を取り出す。

 待たせたな相棒!50年を共に過ごした友よ!君の出番が来た!

 

 『忘却呪文ってあるだろ?それをルシウス君に掛けようと思ってね…。もちろん、僕に関しての記憶だけ』

 

 「そういう事だったのでございますね…。では、こちらへ。ご主人様の元へご案内させて頂くのでございます

 

 ドビーが部屋の出口を片手で示した後、そちらへ向かって歩いていった。それに従い、後ろを付いていく。

 

 『……っと…?』

 

 ふと、ローブのポケットに違和感を感じ、歩きながら中を弄る。

 さっき杖を取り出した時にも、まだ奥に何かが入っているかのような感じがした。

 あれ、杖以外に何かしまってたっけ…?

 

 『…んん?紙……?』

 

 中からガサリとした感触がしたので、引っ掴んでポケットから取り出す。

 それは、何の変哲もない白紙だった。手の平と同じサイズの、メモ用紙みたいな物だ。

 その表面には、力強さを感じさせる字体で、こう書かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 "心を閉ざせ"

 

 

 

 

 

 

 

 

 たったそれだけの一文が、ビシビシと何かを訴えてくる感覚をこちらへ伝えてくる。

 ただの文字なのに、視界に入れているだけで脳へ直接指令を送ってくる謎の迫力があった。

 反射的に、思わずクシャリと紙を握り込んで文字を隠してしまった。

 

 「どうされました?」

 

 気付かぬ内に立ち止まってしまっていたようだ。ドビーがこちらを振り返り、上目遣いで視線を送ってきていた。

 紙を持っていた手を後ろへやり、慌てて平静を取り繕う。

 

 『……いや、ちょっと、考え事してた…だけ。ごめん、行こうか』

 

 ドビーは特に不審がる様子もなく、再び案内を始めた。

 別にやましい事をしていた訳じゃないのに、どうしてこんなに取り乱しているのだろうか。

 

 

 

 

 『………………』

 

 何だか背筋に悪寒が走る感覚が襲ってきたので、紙を再度確認する事はせず、握り込んだまま手をポケットに突っ込み元通りにしまった。

 

 ……一度しか目にしてないけど、あれには、れっきとした『命令文』が書かれていた、よな?

 一体どういう意味だろうか?

 何であんな物がポケットに入っていたんだ?

 そもそも、最初からあっただろうか?

 誰の文字?少なくとも自分の筆跡じゃない。

 

 考えれば考える程謎が深まって、頭の中を飽和して集中力が霧散していく。

 

 ……ていうか、最初からあったんだとしたら、50年間も気付かなかった自分ってどんだけ~…。

 

 むしろこっちの方にショックを受けてんだけど……。

 

 ええい、この件は保留な!ひとまず今はやる事があるしな!

 大体なんだ、あのアバウトな命令文は!せめてもうちょい具体的に書いて欲しいですね!

 

 誰とも分からぬメモ用紙の著者に心中で密かに怒鳴りながら、ドビーの案内でルシウス君の滞在していた書斎へ辿り着く。

 音が出ないようそっと扉を開けてもらい、僅かな隙間から中の様子を窺う。

 

 

 

 

 ……うむ、ターゲットは机の上で書類の整理に追われている模様。

 この分だと、こちらへ気付く様子は特に無さそうだ。

 え、何で人目を気にしているんだって?

 

 今の僕は『ヴォルデモートの余剰魔力+ルシウスの魔力+ドビーの魔力』で実体化している身である。

 

 この日記帳は書き込んできた人間の魔力を、僕の意思関係なしに奪う。ヴォルデモートは本体である為、生命力を脅かすレベルでは奪う事は不可能だが。

 奪った魔力は、例え書き込んだ主が手放しても消費しない限りは消滅しない。

 最初に数分程やり取りしただけだが、ルシウスとドビーの魔力はしっかりと徴収されている状態なのだ。

 片方は代々続く純血の魔法使い。片方は本気を出せば人間よりも強力な魔法使いとなる屋敷しもべ妖精。

 その魔力はちょっとした書き込みだけでも、そこそこ注がれている。これに今まで溜め込んできたヴォルデモートの魔力を合わせている。

 

 果汁ならぬ魔力たっぷり100%!この状態での実体化は、全身から滲み出る魔力を隠し切れないのだ。

 第三者からしたら、今の自分は多分幽霊みたいにぼんやり透けている人間のように見える筈。

 だからこそ、昔のような完全な透明人間状態ではなくなっているし、その証拠にしっかりとドビーに姿も声も認識されている。

 まあ、ドビーと対面する為に魔力全部練り合わせて、こういう実体化にしたんだけどね。

 

 下手をすればルシウス君にも視認されてしまうので、昔と同じように振舞えば即バレだ。

 

 事はスマートに、迅速に!一発勝負!

 

 扉をすり抜け、スススッと蛇の如く無音でターゲットに近付く。幸いにもこちらに背中を向けている。気付く素振りは全く無し。

 杖をターゲットの後頭部へ向け、静かに小声で唱える。

 

 ハロー!そして…グッドバイ!

 

 

 

 

 『《オブリビエイト》』

 

 

 

 

 頭の中で、ひたすら僕の事に関する記憶のみの消去をイメージする。

 残念ながらこういう『対象が人間のみ』の呪文は、ほとんど練習出来なかった。

 だって誰かに向けて発動させたら、大問題になるしね。

 ていうかそもそも、関係無い他人に危害を加える気は毛頭無いし。

 故に、この忘却呪文も実際に使用するのはこれが初めてだ。

 他の記憶まで消そうと欲張れば、熟練度の不足で上手く作用せず、下手すれば暴発してしまうかもしれない。

 だからこそ、必要最低限の記憶消去で済ませる。

 これならばイメージがいくらか働かせやすい。

 ファミチキ野郎の講義が役に立った瞬間である。微妙に腹立つけど。

 

 杖先から迸った閃光が、ルシウスの頭を直撃する。といっても攻撃呪文では無いので、悲惨な事にはならない。

 ルシウスは魔法を掛けられた事にすら気付かず、そのまま机の上の書類へ視線を注ぎ続けている。

 そのまま両者無言状態で、数秒間沈黙が部屋に続いた。

 少しして杖先の光線がフッと霧散していったので、消去が完了した合図と捉え、来た時と同じように扉へ戻る。

 

 

 

 

 部屋の出口ではドビーは不安げに待機していた。

 

 『…ふううう~~~。終わったよ、無事に』

 

 「お疲れ様なのでございます」

 

 気分は完全犯罪を成し遂げたようだ。いや、別に犯罪じゃないからね!ちょっと忘れてもらっただけだからね!

 

 『これで、ルシウスは僕をドビーに渡した事すら覚えていない筈…。そもそも、日記帳の扱いに困っていたみたいだからむしろこれで良いだろうね』

 

 知らされていないとはいえ、主人の分霊箱を他人の家の娘へ押し付ける暴挙を原作でもやってるしなぁ。

 知ってたら絶対あんな雑な処理しなかったよな。

 ていうか僕だったら他人に預けず、自分だけが知る隠し場所にしまうけど…。

 いや、日記帳自体の役割が『他人を操って秘密の部屋を開く』事だからこそ、ヴォルデモートは手下に預けたのかもしれない…。

 ううん、どれが最適解になるのか判断しかねるな。

 

 とにかくも、これでマルフォイ家でやる事は終了した。

 あとは、ハリーの家へ向かい、協力を仰ぐのみ!

 

 僕の『計画』にはハリーが必要なのだ。そう、『ヴォルデモート絶対やっつけるマン』の称号を持つハリーが!

 あぁ~、でも、仲良くなれるかなぁ。

 文字のみのやり取りになるだろうとはいえ、年下の子と接するなんて何年ぶりだろう…。

 まあ、どっちみちやらなきゃいけない事だし。昔、まだ周りと付き合っていた頃を思い出してやっていくかぁ。

 

 

 

 

 『よし、ドビー。そんじゃ、ハリーの家まで姿現しで連れて行ってくれる?』

 

 「えぇ、お任せ下さい!」

 

 『あっ、住所とか、大丈夫?』

 

 「ご心配なく。ハリー・ポッターがお住いの家は、とうにお調べしているのでございます!」

 

 『あー……、英雄の家を特定したかった気持ちは十分理解出来るけど、人間だったら犯罪だからね?』

 

 原作でもいきなりハリーの家に飛んできていたドビーだが、何で住所を知っていたんだろうと今になって思う。

 多分、前々から特定を掛けていたという事か。

 

 やだ、この子、行動力の化身…!

 原作でしもべ妖精が敵に回らなくて良かったね……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――時間は飛んで、現在、ハリーがお住いのダーズリー家物置でござる。

 

 あれからドビーは、ちょっと迷子になったりして時間を食っちゃうというトラブルもあったけど、無事にハリーの場所へ辿り着いたよ。

 魔法使いとは縁の無さそうな場所に建ってるお家だったから、迷うのも仕方無いんだけどさ…。

 ドビーが仕えているマルフォイ邸から姿を消してるってバレたら、ルシウス君が不審に思うでしょ?

 あいつ何処行った何してるって思われたら、そこから折角記憶を消した僕の存在が露見してしまう可能性がある。

 だからこそ、ぱっぱと連れて行ってもらいたかったんだけど、そんな時に書き込んできたのがドビーじゃなくてハリー本人でびっくらこいたわ。

 うん、緊張で思わず返事の文字が震えたよ。第一印象、変に思われてないといいけどね。

 

 あ、ドビーは初めに「送り届けたら何食わぬ顔で帰って良いよ」って伝えておいたので、多分マルフォイ邸に戻ってると思う。

 ほんで、マルフォイ家の息子、ドラコはハリーと同年代だから、「ドラコがホグワーツに入学した後なら、空いてる時間にでも是非ハリーに顔見せて」とも伝えた。

 

 「ルシウス君に不審な動きがあったら教えるように」と言っているので、よっぽどの事が無い限り、今もマルフォイ邸で以前と同じ生活を送っているだろう。

 ドビーを解放するには、マルフォイ家の誰かに衣類を渡させなければいけないので、どちらにせよ今はまだ無理だ。

 ハリーにさせようにも、そもそもマルフォイ家とハリーが接触する機会なんて、ホグワーツ入学以降だろうし。

 

 ひとまず、ドビーとはしばらくのお別れだ。とても名残惜しいけれど、しょうがない。

 次に逢ったら今度も遠慮なくモフモフさせてもらおう(決意)

 50年分の精神的疲労は、たった一回のモフりイベントじゃあ回復しきっていないのだよ!

 あぁ、このご褒美だけで『賢者の石』編頑張れるわー!

 

 

 

 

 といった流れで、ただいま物置でハリーがいつものように書き込んでくるのを待っているんだけど。

 

 

 

 

 

 いきなり言わせてもらっていい?

 

 

 

 

 全米が泣くわ。これ。

 

 

 

 

 すっかり忘れていたんだけどさ、ハリーってホグワーツ入学が決まる前はすっげー劣悪な環境に置かれていたんだわ。

 『賢者の石』を最後に観たのは一番昔なので、記憶から抜けていたんだけど…。

 そういやハリーの親戚って、意地悪な奴らばっかだったよな…。

 マジか、これ。自分がこの環境だったら、多分……ハリーみたいにじっと耐えられんわ。

 何かしら行動を起こしているよ、絶対。

 

 主人公補正というか、根っからの人格というか……ハリーは、仕返しだとか復讐だとか、そういう考えは微塵も持っていなかった。

 両親からは間違いなく愛され、祝福されていたのだけど、今ではそんな言葉とは程遠い生活を強いられている。

 こんな環境で育った子が、後に真の英雄となり、闇の帝王に立ち向かうのだから人生何が起こるか分からんね…。

 

 めっちゃ泣けるんだけど。本来の流れならば、妻子が出来て、新しい家族と平和な生活を手にする未来なんだけど。

 今現在、この劣悪環境で必死に日々を生きるハリーを見ていたら泣けるんだけど。

 

 

 

 

 ―――神様、この子が一体何をしたっていうんですか…!!

 

 

 

 

 ここに来た時、ハリーには最低限伝えるべき事を伝え、物置に置かせてもらっているけど。

 やっぱり生活に耐えられない部分もあってか、ハリーは毎晩日記帳に普段の悩みや愚痴、その日起きた出来事を書き込んできた。

 こちらとしては、魔力を奪ってしまうのであまり長い事書き込まれる訳にはいかなかったけど。

 それでもこんな境遇の子を放っておくなんて気分にはならなかった。

 

 似たような境遇だったこちらの過去話をして、ハリーの沈んだ気分を和らげたり。

 ひたすら愚痴を聞いて、ストレスを吐き出させたり。

 他愛ない雑談をして、二人して盛り上がったり。

 

 そんな生活を過ごして、いつの間にか本音を打ち明け合うような仲にまでなっていた。

 前世でもここまでの仲になった友人なんて一人もいなかった。

 やっぱり物語の主人公なだけあって、他者に影響を及ぼす『何か』を持っているのかもしれないなあ。

 

 あ~~~、この50年で一番楽しいかも……今の時間が。

 

 うう、今まで頑張ってきて良かった……本当に。

 途中で頭おかしくなりかけたけど、何とか戻ってこれてマジで良かった……。

 

 

 

 

 ―――ハリーの為にも、『予言』で繋がっている忌々しいヴォルデモートを何とかしなければな…。

 

 

 

 

 そうやって、改めて決意を再確認している時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『トム、トム!』

 

 

 

 

 興奮を抑えきれないといった乱雑な字が、意識に乱入してきた。

 

 おっ?これは何か良い事があった時の様子じゃん。

 

 ダドリーのお古が思ったより新しかったとか、上手い事パンチを躱せた一日だったとか、失敗しても怒られなかったとか、果たして今日はどれだろう。

 こういう解かりやすい素直な字体で書き込んでこられると、こっちも楽しくなるんだよなー。

 

 

 

 

 "何か嬉しそうじゃん。どうしたどうした?"

 

 

 

 

 はよう、はよう!お兄さんにお聞かせ下さいな!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『今日ね、今日ね――――――僕宛てにね、手紙が来たんだよ!!』

 

 

 

 『ホグワーツ…?とか書いてあって、どこなのか良く分からないんだけど、手紙が来るなんて生まれて初めてで!もうさっきから色々頭の中一杯で!』

 

 

 

 『ねぇ、ホグワーツって何か、トム知ってる!?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうかそうかぁ――――――手紙かぁ。

 

 ハリーってずっと物置に監禁状態みたいなもんだし、手紙が来るなんて超常現象に近いもんねぇ。

 

 良かったね、もしかしたらどっかの親戚か友達が送って来た物かもやな!

 

 うんうん、本当によか――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "ホグワーツウウウゥゥゥゥゥゥ!!!?"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思わず文面だけでシャウトを表現した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハリーとの筆談生活にすっかりかまけてしまい、今までやり取りしていた子が魔法使いだったという事実が、頭の中から見事にすっぽ抜けていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――ヴォルデモートとの仁義なき戦いが、ホグワーツで幕を開ける!

 

 

 

 

 

 

 

 




ドビえもんとのハグイベントで、頭アバダ状態が無事治癒されました。
これが無かったら結構ヤバかった。

いくら嫌いだと言っていても、頭アバダ状態じゃなければファミチキ野郎にあんな啖呵を切ったりしてませんでした。
正気状態ならあそこまでハジけた発言まで至りません。
それを分かっていたからこそ、彼も一歩引いた態度で上手く付き合ってます。
策士は一体どっちなのでしょうね?

ハリーがおじさん達のお邪魔無しで無事手紙を開けられたのは、トムとの接触でビミョ~に思考回路が原作とズレたから。

さあ、ヴォルちゃんがアップを始めたようです


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Page 11 「いざ往かんホグワーツ、の前準備!(前編)」

おいおい、何処のどいつだよ?前回で次はホグワーツに行くとかほざいてた奴は?
ごめんなさい私です。何でもしませんのでどうかお許しをぉぉぉ!

という訳で、今回は前準備として、『ある人物』の粛清回です。汚物は消毒だ~!!
ホグワーツへの本格来城は、もうちょっとお待ちくださいね…!


7/2追記
3日、4日辺りにそろそろPage12投稿予定です
もう少々お待ち下さいね…!
週一しか休みないとか激怒プンプンマルフォイ
地味に登場人物紹介を加筆してます。お暇な方はそちらもどうぞ。


 ―――1991年、9月1日。

 

 

 

 

 その日はハリーの記念すべき、ホグワーツ魔法魔術学校への入学日である。

 

 原作通りならばこの日、ホグワーツに組する4つの寮のいずれかに新入生達が振り分けられる。

 

 

 

 

 勇猛果敢な者が集うグリフィンドール。

 

 真面目で努力家な者が集うハッフルパフ。

 

 優れた叡智を持つ者が集うレイブンクロー。

 

 才能と狡猾さを秘めた者が集うスリザリン。

  

 

 

 こういった感じで、生徒はそれぞれの寮が求める素質や性格の持ち主であれば、そこへ選ばれる。

 といっても当人の希望が全く通らない訳ではなく、他の素質も持つ者であれば、別の寮を望む事も可能だ。

 原作でハリーはスリザリンとグリフィンドール、両方の素質を兼ね備えていた為、組み分け帽子を悩ませた。

 そこでハリーがスリザリンは嫌だと願った為、組み分け帽子は彼の意を汲んでグリフィンドールへ入れてあげた。

 

 身も蓋もない話をすると、もしもグリフィンドール生じゃなかったら『秘密の部屋』で剣を入手出来なくなって詰んでたよな…。

 ダンブルドアはハリーがスリザリンになったら、果たしてどうするおつもりだったんでしょうなぁ。

 とっても気になるところではある。

 

 

 

 

 という感じで、4つの寮について考え込んでいたある日の事である。

 

 

 

 

 まだ残量に余裕のあるヴォルデモートの余剰魔力と、今までのハリーの書き込みから得た魔力を合成して実体化を成し、『ある人物』がやってくるのを街中で待機中の時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【スリザリンだろう】

 

 『いーやハッフルパフだね!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――ホグワーツの寮に、自分は一体どこに入れられるのかとファミチキ野郎と口論を繰り広げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【あの寮は君の性格から最もかけ離れた性質だと思うけど】

 

 『それはアンタの主観だろうがゴルァ!いいか、50年!50年だぞ!50年間のクソみたいな日々を耐え切ったんだ!ハッフルパフの「忍耐力」に当てはまるだろーが!』

 

 【それを帳消しにするほど君はスリザリンに向いてるんだけどなぁ…】

 

 『誰が向いてるだって?あの犯罪者予備軍クラスに?寝言は寝て言え!』

 

 【犯罪者予備軍?違うね、スリザリンは偉大になれる才能を持った者が選ばれる、実に素晴らしい寮だ】

 

 『美化すんなオイコラ。この世界で悪さしてる魔法使い、大体そこ出身だろーがオイコラ』

 

 【君の持ってるその杖、どうやって手に入れたのかもう一度良く考えたらどうだい】

 

 『違いますうー!これは借りてるだけですうー!盗んだ訳じゃないですうー!』

 

 【君みたいな人間が物を返すところを見た事がないな…】

 

 『これは必要な事なんですうー!いいか教えてやるよ。古来より「勇者」と呼ばれる者達はなぁ、他人の家に無断で入り込み、タンスを漁り、壺を割り、アイテムや金品を獲得し、悪を倒す為に役立てたんだよ!僕がやってるのもそれと同じ事なんだよ!だからこれは悪事になりません!これ考慮すると僕ってグリフィンドールにも行けるんじゃね?はい論破!』

 

 【犯罪行為を屁理屈こねて正当化している時点で、スリザリンの素質が相当あるんだけど…】

 

 『うるへー!屁理屈なんてこねこねしてなんぼのもんじゃい!じゃあ訊くけどな、アンタなぁ、生まれて一度も悪さした事ないって胸張って言えるか?お?おおん?』

 

 【そう言える人間の方が少数だろうね。こちらにとってはむしろ、自慢話に変えられるものだよ、そういうのは】

 

 『もしもしポリスメン?ちょっとこいつしょっぴいてくんね?』

 

 【君も一緒に連行されるのがオチじゃないかな】

 

 『僕は牢屋じゃなくてハッフルパフに行きます!』

 

 【…今すぐ君に組み分け帽子を被せてあげたいね、本当に】

 

 『残念でした!この身体じゃ被れません!故にどの寮に入れられるのか迷宮入りだね、永遠に!』

 

 【絶対に、確実に、確定でスリザリン】

 

 『ハッフルパフ!ハッフルパフ!ハッフルパフ!時々グリフィンドール!』

 

 【レイブンクローならまだしも、その二つはとてもじゃないけどあり得ないなぁ…】

 

 『僕の事何だと思ってんの?』

 

 【スリザリンに入る為に生まれてきたような人間?】

 

 『いい度胸だコラ。そのふざけた口今すぐ縫い合わせてやる』

 

 【縫われる口も無いけどね、今は…】

 

 『おめーも屁理屈言ってんじゃねーか!』

 

 【これは事実だろう。それと、別に不快にさせるつもりじゃないんだよ?スリザリンに入れる資格のある、君の才能を褒めているつもりなんだけどな…】

 

 『「あなたは将来の犯罪率が高い寮に向いています」って言われて、良い気分になる人間がこの世の何処に居ると思うんだ?あ?』

 

 【…犯罪紛いの事をやっておいて、よくもまあ言えるよね………】

 

 『「アレ」はノーカンだからな!まだ詳細言わねーけど、「アレ」はノーカンだからなあ!!』

 

 【じゃあ、君の口から語られるその日を楽しみにするとしよう】

 

 『……いつか蹴っ飛ばしてやるからなコイツ』

 

 【一字一句違わず聴こえてるよ?】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 と、小声のつもりだったが、丸聞こえの決意を新たにしていた時だ。

 

 

 

 

 ターゲットである『ある人物』の接近を感知!

 

 え?何かの魔法で感じ取ったのかって?んな便利なもんありませんがな。

 仮にそんな魔法があったとしても、習得する暇が無かったものでね…。気合だよ、気合で感じろ。

 足音の質感とか、感覚とか、微かな体臭とか、息遣いとか、色んな物に五感を集中させれば、大体誰が近くに居るとか判るもんじゃない?

 

 【いやそれ、多分君だけの特別なちk…】

 

 『うるさい!今大事なところなんだから、引っ込んでろ!』

 

 何故か凄く口を挟みたがったファミチキ野郎を強制退去させ、気配が近付いてくる方向へ意識を向ける。

 

 ターゲットの情報は、既にハリーからの書き込みと、密かに実体化した時に接近して、人知れず収集していたのだよ。

 この情報と、五感に訴えかける知覚情報を照らし合わせれば、ただいま接近中の人物の正体など容易に判明するわ。

 

 ちなみにこの気合能力がどっかのお偉いさんにバレた時、何故か黒づくめの連中に連行され掛けて怖い目に遭ったけど、何とか裏工作回して謎組織は解体させたよ(真顔)

 何をしたかと言うと、専門技術を用いてネットを介し、入手した組織の情報を警察へ連絡しただけなんだがね。

 

 マジヤバかったわ~。

 某探偵漫画じゃないんだから、黒の組織とか実在してんじゃねーよ。そういうの漫画の中だけでいいんだよ馬鹿。

 あの時の家族からの、「そのまま連れて行かれれば良かったのに…」という冷たい視線は、未だに思い出の中から消え失せてはくれない。この件に関しちゃ完全に被害者なのに、皆して酷いよな~?

 哀れみを請う為に、泣き落としも試したけど全然通用しなかった。他人はあっさり引っ掛かってくれるレベルの演技力なのに、一体何をやったら僕の事信じるんだよ、あの人達は…。

 

 保護してくれた刑事さんも、流石に「お、おう…」と同情を抱いてくれて、その日はカツ丼をご馳走になったからチャラにしてやったけどな!

 警察で食べるカツ丼ってマジで美味しいんだぜ。あ、いや、別に収監された訳じゃないから!取調室に連行された訳じゃないから!

 

 何か知らんけど、警察の方々からは、「将来は是非サイバー犯罪対策課に来てくれ!」とか手厚い勧誘を受けたけど、丁重にお断りした。

 だってそんなん、僕のキャラじゃないし。正義と悪の戦いとかは、関係ないところでやってくれって感じ。

 才能の無駄遣いとか言われても知らんもんね!自由に生きる。雲のジュウザが教えてくれた、それが僕のモットーだから!

 

 …何か、今思うとあの日からいよいよ人生狂っていった気がする…。黒の組織マジ許すまじ。

 魔法界でいう黒の組織は、『死喰い人』になるんかね。

 じゃあ、今世ではあいつら牢獄にブチ込みましょうかね~(にっこり)

 

 その為にも、『ある人物』にちょいと『痛い目』に遭ってもらう必要がある…。

 

 その人物とは……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『来たな、ダドリー……!』

 

 

 

 

 前方から接近してくる子供を視認!

 

 お、おおう……なんつーか、映画よりも、巨躯というか……。

 ハリーの言ってた通り、よーく見ると豚がカツラ付けたみたいだな、こりゃ。

 

 どうしてこんなになるまで放って置いたんだ!飛べない豚はただの豚だわ。

 

 親がよっぽど甘々の馬鹿で体重管理が出来てないか、単純に遺伝で太りやすい体質なのか…。

 ま、僕はいくら食べても体重に変換されない体質だったから、そういうの心配する必要は皆無だったけどな!

 その代わり全然体重が変動する兆しが無いので、逆に「お前人間か?」って気味悪がられたんだけどもね…。

 人間って、変化も不変も嫌がるんだよね。ホント面倒臭い生き物だわ。

 健康診断で計測する度に、晒し物にされるこっちの身にもなれっつうの…。ていうかいい加減、学校はこういう身体情報計測させるのやめろ!思春期の女子なんかは毎年阿鼻叫喚だったぞ。

 

 ダドリーなんかは……あ、ダメだこいつ。学校で体重が判明しても、絶対今の生活改善しようとか思わねータイプだわ。

 もうね、表情で分かるの。家族が全員一致しないと、痩せられないタイプだわさ。救いようがないデブってやつだな。ピザでも食ってろデブ。

 

 待ち伏せされているとも知らず、我が物顔で歩道を歩いてくるダドリー。これから自分に何が起きるかなんて、考えもしていないだろう。

 「可哀想だけど、明日の朝にはお肉屋さんの店先に並ぶ運命なのね」……って感じの視線を、とりあえず向けておく。

 それただの、養豚場の豚を見る目やん!という突っ込みは無しですぞ。

 

 

 

 

 …んん?何だこのデジャブ。

 

 ……妙に引っ掛かるけど、今は後回し後回しっと。

 

 

 

 

 さて、どうしてあんな豚…いや、ダドリーを待っているのかというとですね…。

 

 

 

 

 ハリーが原作と違って、無事にホグワーツからの手紙を受け取ったあの日。

 

 なして邪魔されなかったん!?って訊いたら、ハリーは、

 

 『自分宛ての手紙が来たら、没収されないよう気を付けろってトムが言ったんでしょ?』

 

 と返事をしてきた。

 

 …あぁ、そういえば最初にそんな事忠告した覚えがありますわぁ。

 いつの間にか頭から抜けてしまったけど、確かに伝えてたわ。

 

 原作通りに行くと、立て続けに送られてくる不思議な手紙に嫌気が差したダーズリー一家は、何か絶海の孤島みたいなとこに緊急避難するんだよな。

 それも全部徒労に終わって、ハグリッドが直接ハリーの所に訪問してきて、やっとホグワーツへの入学案内をハリーが受け取るという展開だ。

 

 でも良く考えたら、この場面要らなくね?時間無駄じゃね?

 

 つーか、日記帳の身としては、なるべくハリーがどっか遠くに連行されるという展開は避けたい訳よ。

 ただでさえダーズリー家の目を忍んで、物置に大人しくしまわれてるというのに。

 そんな事になったら、本来ある筈のないこの日記帳に気付かれるかもしれない。

 

 ハリーの事だから、遠くに連れて行かれるなんて知ったら、絶対僕を持ち出そうとするだろうし…。その際に、「お前何持ってんじゃボケェ!」なんて気付かれたら……詰みじゃん。

 腐っても分霊箱(ホークラックス)。破ろうが引き裂こうが燃やそうが、マグル一家の力では破壊される事は無いけど。 

 それでも、ゴミ袋に詰められて収集車に出荷よー、なんてされたら、もうどうしようもないんだよ。

 今の状態じゃ日記帳に触れねーし、そうなったらマジで発狂するで。永遠にゴミと共に生き埋めコースとか、ふざけんじゃないよ。

 

 だから先手を打って、ハリー自身の警戒レベルを育てて、ダーズリー家に発見される前に、自力で手紙獲得すればいいんじゃね?と思ってのあの言動である。

 なのに何で忘れてんねん。ハリーとの筆談で平和ボケし過ぎや。もうちょっと気を引き締めないと…。

 

 そんで、無事に手紙を開いたハリーですが。

 まあ、ハグリッド無しで手紙だけの説明じゃ、ホグワーツが何なのかさっぱり分からんわな。

 なので、なるべく解り易く簡潔に説明をしてあげた。

 

 ホグワーツはどういう所か。ここら辺は実際の生徒だったヴォルデモートの記憶から持ってきて、内容を上手い事伝えたよ。

 魔法使いの能力がある人間にしか入学案内は来ないと言ったら、めちゃんこ驚いてたけどな。

 ついでに、両親も魔法使いだという事も教えた。何で知ってるの?と訊かれたので、「普通に考えて、魔力は遺伝するからそう思った」と無難な回答にした。それでも、ハリーは自分と自分の両親が魔法使いだという事を、いまいち受け入れ切れない様子だった。

 

 とりあえず、入学に必要な教材リストを揃えねばならんという事で、購入の為にダイアゴン横丁へ行く必要があるのだが…。

 

 ハリー一人では到底、辿り着けないであろう。

 何しろ入口はマグル避けの魔法が掛かっており、魔法使いのハリーならば通り抜けられるとしてもだ。

 子供一人で赴くのは危険だし、いくら懐で僕が指示を出したところで、不安要素が一杯なのは間違いない。

 昨日今日で魔法界を知ったばかりの子供に、そんな冒険へ送り出せと言われて頷ける訳もなく。

 とりあえずは、説明役兼案内人のハグリッドが訪ねてくる、ハリーの11歳の誕生日までは静かに待機しておく事を促した。

 一度手紙を受け取ったので、原作のような手紙ラッシュ攻撃は未然に防いだし。これならば誕生日まで、あの孤島に連行されるというような事態は起きないだろう。

 

 それでも、まあ原作の流れというのは完全に断ち切れる事は出来ず…。

 

 

 

 

 相も変わらず、この一家からのハリーに対する仕打ちは、全く弱まる気配を見せない。

 

 このままでは、原作よりも早く『自分が魔法使いだという事』を知ったハリーが、ダーズリー家に対して良からぬ感情を抱きかねない。

 今までの自分が起こしてきた現象は、魔法によるものだなんて理解したのだ。その力を、報復に使用するなんて事になれば…。

 

 物語が始まる前に終わりかねないよ。こいつぁ何とかしないとダメですわ。

 

 幸いにも、僕との筆談生活でいくらかハリーのストレスも和らいではいるものの、いつ爆発したっておかしくはない。

 ハリーを信じたいけれど、やはり不安の芽は摘んでおくに越したことはないだろう。

 ていうか、ハリーと似た境遇の僕でさえ、自分の才能ってやつを報復に利用した経験があるんだもの…。予想可能な未来は、早めに変えないとなぁ。

 

 という訳で、とりあえずはハリーの従兄であり、かつ虐めっ子の台頭であるダドリー。

 こいつの、ハリーに対する嗜虐心を挫いてやろうという計画を実行に移す時が来たのである。

 その為に、わざわざ貴重な魔力を使って実体化したんだから。絶対に成功に持っていくぞ!

 

 こいつは、一家からの惜しみない愛情をたっぷり受けて育ってきている。

 そんなこいつの心を、ちょいとばかし折ってやれば、その様子を見てバーノンもペチュニアも、ハリーに対する扱いを何かしら良い方向へ変えていってくれるのが一番の望みなんだけど。

 ただでさえこいつは、ハリーをしょっちゅう殴ったりして暴力を振り撒いているのだから。何されたって文句は言えないよなぁ?(悪笑)

 

 原作でダドリーは、『魔法』というやつにひたすらビビっていた。父親や母親よりも、ただただ恐れていて、抵抗力といった物が皆無だった。

 そんなこいつの前で『魔法』を見せつければ、似た現象を起こすハリーへの暴力も、恐怖から収まるのではないかと思った。

 多少は怖い目に遭わせないと、こういうぬるま湯で育った子供には薬にならないからな。

 

 あ、魔法省に感知どうのこうのは、大丈夫だよ!

 原作だと、未成年の魔法使いの周囲で魔法が使われたら、検知されて向こうに情報が行くらしいけども…。

 何か、別に僕が魔法使っても検知されないっぽいんだよね。

 

 ヴォルデモートが卒業した後、ホグワーツ外で魔法を行使した事があるけど、何も無かったの。

 本体の彼はともかく、一応『16歳の時の魂の欠片』である僕が、外で魔法使ってもお咎め一切無しなんだもの。

 きっと、分霊箱(ホークラックス)の魂が使う魔法は、検知の対象外なんじゃないかなあ。

 向こうの検知術式の構成なんざ知らんが、あれはあくまで『生身の魔法使い』を対象としたものだ。『魂』が使う魔法の検知までは、想定されていないだろう。

 という事で、ここでいくら魔法を使おうが、誰にもバレないって訳よ。ふふん。

 

 

 

 

 と、考えている内に奴がはっきり視認出来る距離までやって来ていた。実行するなら、今!

 

 ターゲットは一人。周囲に人影無し。人目が向かないよう、事前工作も良し。行くぜ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『―――こんにちは、ダドリー?』

 

 「ひぅっ!?」

 

 建物の陰からすっと姿を現すと、案の定ダドリーは間抜けな声を上げて固まった。

 …これが女の子だったら、事案発生になります?それ何て言う男女差別よ。

 

 光の加減による映り方も計算してここを選んだので、今の僕は向こうから見ても、普通の人間に映る筈、だ…。

 別の場所で見れば、幽霊のようにぼんやり透ける身体が露わになってしまうけど。

 

 え?そんなん計算出来るものかって?

 こう、場所による陽光の強弱の差異や、どの時間帯の入射角度が人の視覚を最も狂わすかとか、ちょっと熟考すれば答えが出るもんだよ。

 イギリスってちょうど本初子午線が通ってるし、天体の方位とかの基準となるから、計算は容易だ。何で皆分からないんだろうね?

 

 【…………】

 

 あ、何か言いたげな正体不明の無言の圧力を感じるけど、無視無視!今、お前に構ってる暇は無いんだっつうの。

 

 「…だ、誰だよ?何か用???」

 

 ダドリーが不遜な態度を見せつつも、じりっと後退りながら返事をした。

 思い切り名前を呼んでやったのに、どうして目の前の見知らぬ人物が自分の名前を知っているのか、というところまでは頭が回っていないらしい。強がりを保つ余裕がある。

 

 あぁ、実に礼儀がなっていないですな。年上相手にその視線はなんだよ。まるで不審者を見るような目―――あれっ、なんかデジャブ。いや…傍から見れば不審者に映るよな。

 ハリーの人格形成に支障をきたしかねない人物相手に、気遣いは無用!

 いきなりだけど、本題に入ろうか。

 

 『突然ごめんね、君に言いたい事があるんだ。…ちょっといい?』

 

 「はあ…?ぼ、ぼく、アンタなんて知らないぞ」

 

 『そりゃあ僕だって初対面だよ、君と。用事があるから、わざわざこうして来てるんだ』

 

 「用事???」

 

 『うん。………君さ、ハリーって子を虐めてるんだろ?』

 

 ちょっとばかし尋ねるつもりが、実際に喉から出てきたのは、自分でも驚く程冷たい声だった。

 流石のお馬鹿頭でもそれを直感的に察したのか、警戒心を募らせかけたダドリーの表情が凍り付いた。

 

 「なな、何?どうして、知って……」

 

 『ハリーが僕の知り合いだからだよ。何もおかしな事じゃないでしょう?』

 

 「お、お前なんか知らないぞ!関係ないだろ…!」

 

 『あるよ。知り合いが虐められてると知ったから、今君と話してるんだろ?』

 

 「お前ッ、あいつの何なんだッ?ハリーに友達なんか居なかったのに…」

 

 そこまで喚いて、ダドリーがこちらをまじまじと眺めて目を見開いた。

 

 「まさ、まさか、あいつのお兄ちゃん?!」

 

 『……は?』

 

 「どっか似てると思ったけど、お前、ハリーの兄ちゃんか!?」

 

 何か、妙な勘違いをしているらしい…。ハリーと僕って、そんな外見似通ってただろうか?

 まあ、お互い黒髪なのは同じだけど…。目の色とか、バリバリ違うと思うんだが。

 

 「…いや、でも、あいつの家族はいないハズ……。な、何なんだよ、お前?」

 

 『……さっきも言ったんだけどな。人の話はちゃんと聞きなさいって教わらなかった?僕の事はもういい。ハリーの事だよ、ハリー。君が普段から殴ったりしてる、君の従兄のハリー』

 

 これでもかとハリーの名前を連呼すると、ようやく状況を理解したようだ。ダドリーの全身に緊張が走った。

 

 『ハリーの事を、サンドバッグか何かだと思ってるみたいだね?本人が教えてくれたよ。「痛い」って、「辛い」って。毎日のように言ってた頃があったんだ。…ねぇ、君が殴ってるんだろ?ダドリー?』

 

 二、三歩近付けば、「ヒッ」と小さな悲鳴を上げて、ダドリーがその場で尻餅をついた。点眼後の様に、両目が潤み始めている。

 

 『家の中だけでじゃない。時には学校で、他の悪友達と一緒にハリーを追いかけ回してるそうじゃん。ハリーはね、「どこにも居場所が無い」って、泣いた日もあったんだよ…。ダドリー、これぐらい、君の頭でも理解出来るだろ?』

 

 「な…なんだよ!何が、言いたいんだよお!」

 

 せめてもの抵抗なのか、掠れた声を張り上げた。

 こちらの言わんとしている事を、微塵も理解しようとする素振りが見当たらなくて、少し苛立った。

 

 『じゃあ、はっきり言わせてもらうけど。…君さ、どうしたらハリーの事虐めるのやめる?』

 

 ダドリーの目前まで移動して、その歪んだ表情を軽蔑の意味を込めて見下ろす。

 

 『ちょっと……いやかなり、腹が立つんだよね。他人事だろって言われたら、そうなのかもしれないけど。君達一家に責任は無かったにせよ、預けられた子供にあの仕打ち、流石に酷いと思うんだ』

 

 「あ、あいつが!」

 

 こちらの言葉が終わった時を狙って、ダドリーが自発的に声を上げた。

 ガクガクと震えながら、それでも必死に言葉を紡いだ。

 

 「あいつが、悪いんだ!いきなり、いきなりやってきたんだ!パパとママがそう言ってたんだ!や、ヤクビョウガミだって!おっおかしな連中のナカマだって、ハリーもそうなんだって、言って…たから…ッ!」

 

 『……おかしな連中、ね』

 

 確かにまあ、原作でも描写されていた事だ。

 魔法と縁の無いマグルと、魔法使い。両者の関係は、良好とは言い難い。

 魔法使い事態が存在を隠蔽しながら生きている為、まずそういう連中とは関わり合いにならないのがマグルだ。

 けれど、この一家はダンブルドアの選択により、魔法使いの子供であるハリーとの関わりを持つ羽目になった。

 『魔法』というものに対し、悪印象しか持たないこの一家が、彼をぞんざいに扱ってしまうのは、必然だったのかもしれない。

 

 だとしても……ちょっと、度が過ぎてはいないだろうか?

 

 『…まあ、まだ子供の君に言っても仕方無いんだけどさぁ。弱い者虐めして、何が得られるの?お小遣いが上がる訳でもないだろうに、熱心だよね』

 

 「べっべっ、別にいいだろお!スカっとするし、それにッ、()()()()()()()()いいだろお!!」

 

 その瞬間、すぐ傍の街灯の蛍光灯部分が、派手な音を立てて破損した。

 バリンという音と共に、破片が落下して地面に散乱する。

 

 

 

 

 『……ッ』

 

 ドクン、と少量ながら魔力が流出していくのを感じる。

 

 しまった。やってしまった。

 

 感情の爆発で、魔法を意図せず発動させてしまったようだ。

 それに対するダドリーの反応は、予想を全く裏切らなかった。

 

 

 

 

 「ヒッ、ヒッ、化け物だアアアァァァァァァッ!!!?」

 

 

 

 

 

 『「化け物」?』

 

 最早懐かしさと親しみすら覚えるその蔑称に、自然と目が細くなる。

 慣れ親しんだ呼び名とはいえ、やはり説明し難い不快感は拭い切れなかったようだ。

 

 『…そうだね。確かに常識から考えれば、こんな事が出来る人間は「化け物」かもしれない』 

 

 きっと、彼らはこの状況と似た現象を起こしていたハリーの事も、心中でそう蔑んでいたのだろう。

 かと言って、完全に見限る事は出来なかった。

 

 原作と同じならば、ダンブルドアが直々にダーズリー家に、ハリーの扱いに対して何かしらの『命令』をしているからだ。

 孤児となったハリーを保護し、あの一家に育児を託す事を決断したのも彼なのだ。

 他にもやりようはあったのに、わざわざ『不思議な現象』を毛嫌いするダーズリー家に押し付けるなど、常人ならば恐らく取らない選択を取った。

 そこにはもちろん、彼だからこそそういった選択肢を取った深い事情が存在する。原作知識のある自分にとっては周知の事実だが、まだ何も知らされていないハリーからすれば、残酷な選択だ。

 

 マグル一家の元へ預けられ、魔法の扱いも知らない為に、悪意は無くても『不思議な現象』を引き起こしてしまう子供。

 ダンブルドアの『命令』のせいで、見捨てる事も出来ない煩わしくて、しかしながら無知な子供。

 

 捨てられないならば、せめてもの憂さ晴らしにと、奴隷同様の扱いを続けたダーズリー家。

 時には部屋ですらない物置に閉じ込め、時には暴力を振るい、時には碌に食事も与えない。

 

 ……一体どっちが『化け物』か、明白じゃないだろうか?

 

 

 

 

 『けど、そっちはどうなんだ?僕からすれば、アンタ達一家の方が恐ろしいよ。小さい内からずっと、親を失った子供を寄ってたかって虐めて、殴って、閉じ込めて、こき使う…。アンタらの方がよっぽど、心が異形になった「化け物」だと思うんだけどね。僕、何か間違った事言ってるかな?』

 

 想像出来る限りの、感情を消した冷徹な声で問い掛ければ、ダドリーはヒクっと情けなくしゃくり上げた。目の焦点が合わなくなってきている。

 

 『あぁ……一つだけ、間違いだったかな。アンタらに限った話じゃないや。ダーズリー家の心を「化け物」に括るなら、この世は「化け物」がウジャウジャ跋扈してる事になるもんね。ごめんごめん、ちょっと訂正させてもらうよ』

 

 流石に怖がらせ過ぎたかと思い、今度はなるべく優しさを込めた感情を乗せて語り掛ける。

 ……ここまで来ると、どんなに取り繕おうが、平静を取り戻させる事は不可能な気がするけれど、一応……ハリーの従兄だし。

 出来るならばあまり禍根は残さないように、事を済ませたい。

 

 『ねぇ…君はどうなの?自分の事「化け物」だって自覚はあるの?自分がハリーと同じ事されたら、耐えられるの?嫌だろ?されたくないだろ?だったら、どうしてあんな酷い事続けるのかな?もしかして、進んで「化け物」になりたい訳?君の夢って、それなの?……ねえ、泣いてる暇があったら答えなよ、ダドリー?』

 

 もう怖がらせる気は無いし、単純に質問に答えて欲しかっただけなのに。

 ダドリーはその質問攻めにまで顔を引き攣らせて怯え、ついにはポロポロと、ダムが決壊したかのように泣き出した。

 辺りに少年の痛ましい嗚咽が響くだけで、一向に返事は返って来そうにない。

 こちらはただ問うただけで、暴力的な行動は起こしていない。それなのにこの反応はあんまりじゃないか。

 無言の時間が一秒一秒過ぎるだけで、先程抑えた筈の苛立ちが這い上がってくる。

 

 『はぁ…。もういい。答えたくないんだったら、もういいよ。でも、最後に一つだけ言わせてもらおうか』

 

 これ以上は時間の無駄だ。長い間実体化を続けるのも魔力の浪費に繋がるし、ここらが潮時だろう。

 最後の最後に、言いたい事だけ言って、この邂逅に終わりを告げる。

 

 ローブのポケットから杖を取り出し、自分の喉に向けて小さく唱えた。

 

 『《ソノーラス》』

 

 増幅呪文の《ソノーラス》。効果は対象の音を増幅させるものだ。マイク無しで大声が出せるようになるという、地味に便利な呪文である。

 ダドリーは杖を見て、一瞬声にならない悲鳴を上げたが、それが自分に向けられた物ではないと知って、少しだけ安堵の息を吐いた。

 これから何をされるか分かっていない、緊張を緩めたその隙を突かない訳にはいくまい。

 

 『……もし、今後もハリーへの暴力を続ける気が残っているなら』

 

 そこまでは声量を抑えて、続く言葉はおもっくその大音量で言い放ってやった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『しばき倒すぞこのクソガキがゴルアァァァァア!!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ギャアアアアアイイィィアアアアアァァァァッッ!!!?」

 

 

 

 

 闇の帝王らしく、前世での『娯楽の一部』でお世話になった、とある『王』の偉大なるお言葉をお借りしました。

 機械の駆動音にも近しい、ある意味芸術的な絶叫を上げながら、ダドリーは起き上がってバタバタと後方へ全力疾走していった。

 たぷたぷに肥えた情けない肢体をこれでもかと動かし、それでも走るのに慣れていないのか何度か転び、少量の鮮血を撒き散らしながら路地裏へ消え去った。

 

 

 

 

 『………《クワイエタス》』

 

 ダドリーの逃走を見送った後、反対呪文を唱えて声量を元に戻す。

 

 周囲の民家には予め《マフリアート》を掛けている。効果は、近くに居る者に正体不明の雑音を聞かせて、他の会話を聞く事が出来ないようにする呪文だ。

 《ソノーラス》で増幅した声すらも感知出来なくなる程、何倍にも強化して掛けている為、ダドリー以外の人間は今の怒声に全く気付いていない筈だ。

 こういう他者にバレないような隠蔽工作は、前世から大の得意なのだ。唯一欺けなかった相手は、実の親ぐらいかな…。

 

 この呪文の発明者は、実はあのセブルス・スネイプである。

 何で僕が使えるのかというと、これもまたヴォルデモートの記憶から引っ張り出してきた呪文だからだ。

 スネイプはヴォルデモートの手下であり、上司であるヴォルデモートが彼の開発した呪文を知っているのは、何らおかしい事ではない。

 使いようによっては便利過ぎる為、少ない時間の中あれやこれや頑張って習得した呪文。実際に使う機会が訪れて実に満足である。

 

 『さて……クソガキにお灸も据えたところだし、帰るか』

 

 《マフリアート》の強化発動で、地味に魔力を削られてしまった。しかし、今日の出来事は必要な事だったので仕方あるまい。

 ヴォルデモートの余剰魔力は雀の涙程しか減っていないが、今まで書き込んでくれた分のハリーの魔力は底を突いてしまった。

 こればっかりは、また筆談を続けて貯蓄していくしかない。何とも燃費の悪い身体だ。

 

 まあ、これでハリーへの物理攻撃が勢力を弱めるきっかけになれば、多少は報われるのだが。

 あそこまで怖がらせて恫喝した後だ。きっと今日明日ぐらいはダドリーの精神は死んでいるに違いない。

 この世界に来て初めて、とってもスカっとした気分である。我が物顔の虐めっ子を下すのは、やはり愉快なものだ。

 

 『実によし!』

 

 他者の気配と視線が存在しない事を確認し、その場で実体化を解除。

 わざわざ日記帳に近付かなくても、こうすれば本体の中へ瞬間直通である。便利なものである。

 人の目さえ無ければ、いつだって一歩も動かずに日記帳内へ帰れるこの機能は、引き籠り精神を助長させかねないので気を付けねば…。

 

 

 

 

 あとは、ハグリッドがやって来るであろう、ハリーの誕生日の訪れを待つだけだ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「実によし」じゃねーよ!!!!

 

 どう考えてもやり過ぎだろーがい!!!!

 

 後々冷静に思い返せば、ありゃただのヤクザやんけ!!!!

 

 何ホクホク顔で帰ってんだよアホがああああああ!!!!

 

 

 

 

 ……その夜、日記帳の中で死ぬ程反省しますた。

 

 「理性のタガが外れるととブレーキが利かなくなる」という、ファミチキ野郎の言葉は実に的を射た発言であったのである。

 改めて自分の行動を顧みれば、度を越え過ぎているという事に気付き、現在猛省中。

 10代のガキ相手に、なんとも大人げない事よ…。

 

 …あれれー?何か、前にもこんな大人げない事しちゃったような……………?

 

 またまたデジャブ。何か今日はこういうの多いな。い、いや、気のせいに決まっておろう。ぼ、僕は常に、子供相手には紳士的である事を誓っているのです!

 あ、でも前世の、近所で騒いでたガキ共はくたばれ!

 3徹の後に響き渡る子供達の雑音は、精神を不快にさせるありがたくない効果があるからな!

 

 大人しく耐えるという、古き悪しきジャパニーズ精神などクソ食らえ、という姿勢だった僕は、もちろんすぐに対策を練ったけどね。

 自作の動画制作アプリによって、モスキート音垂れ流し動画を作成しては窓辺で再生し、結果近所の子供は蜘蛛の子散らすように近付かなくなったよ。

 モスキート音というのは、若者にだけ聞き取れる不快音であり、ある程度歳を取った大人や老人には全くの無害である。ちゃんと周囲への配慮も怠らなかったんだぜい。

 

 ネット民に事の次第を報告すると、「その才能を別に活かせ」と叱責されたが、そんなんで動く程引き籠りは安くないのですよ、うむ。

 つーか、才能とか高めの顔面偏差値とか別に要らねーから、平凡な人生誰かくれよ、マジで。

 才能のせいで化け物扱いされるのも、外見のせいで他人が(たか)ってくるのもうんざりだよ、もう…(クソデカため息)

 

 と、ため息を吐く肺も無い状態で、一人憂鬱気分に浸っていた時だった。

 

 

 

 

 『トム、今日は面白い事があったよ』

 

 いつものように、ハリーからの書き込みを受信した。筆跡が心なしか踊っているようだ。その先の文章は何となく察せる。

 

 "面白い事ねぇ。一体何があったの?"

 

 『びっくりすると思うよ。なんとね……ダドリーの奴がね、泣き叫びながら玄関に倒れ込んでたんだ!転んで傷だらけだったし、おじさんとおばさんは大慌て!お陰で僕への折檻もゼロだったんだ!何か、いい気味でさ』

 

 オー、ハリー。

 

 犯人はワタシデース。

 

 トムの勝ちデース。遊戯ボーイ☆

 

 いや、ふざけてる場合とちゃうけど、マジで効果はあったらしい。

 そりゃ溺愛してる息子がただならぬ様子で帰宅したら、そうもなりますな。

 これでハリーへの奴隷扱いが鳴りを潜めるなら、魔力を削った甲斐があるってもんだ。

 ていうか、ちょっと転んだだけで大騒ぎし過ぎだろ。どんだけ親バカなんだか…。

 言っとくけど、僕は直接暴力はしてまへんからね!!

 

 『何がどうしてああなったんだろうね?気になるけど、あの様子じゃ質問したって、ロクな返事も出来そうにないよ』

 

 "こわーいお兄ちゃんに絡まれて、慌てて逃げて来たところじゃない?"

 

 『そうだったとしたら、何か物騒で嫌だなぁ。この家まで追っかけて来たりしないよね?』

 

 "まさか。今がいくら夜中だからって、そんな堂々と不法侵入を果たす度胸のある不審者なん、て…ッ!?"

 

 『え、え?トム、どうしたの?』

 

 

 

 

 ちょ、ちょーっと待てよ。

 

 不法侵入で思い出したけど、……今日、今日って何日だ?

 

 

 

 

 "……は、ハリー。今日の日付っていつだったっけ…?"

 

 『えぇ?今日は7月30日だよ。あともうちょっとで0時になるから、31日みたいなものだね。いきなりどうしたの?』

 

 こ、こらー!地味に夜更かししてんじゃないよ!と言いたいところだったが、ちょっと待ちんしゃい。

 

 7月31日……何か引っ掛かるのよね。えーっと……、何か、何か……あった筈、なんだけど……。

 お、思い出せねー!絶対何かあったんだって!

 

 "……んん~。ハリー……今日って、何かあったっけ……?特別な日、とかそういうの……"

 

 『えっ。……ええーっと…。そうだね。31日は―――あ、ちょうど0時になった』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハリーは部屋の時計を見た。

 

 本来、この物置に時計などという代物は無かった。

 その事をトムに伝えると、「不便極まりないから、どうにかして調達して欲しい」と頼まれたので、ダドリーの部屋から使われていない時計を失敬したのだ。

 ダドリーの二つ目の部屋は、たくさんのオモチャや色々な物が置かれている為、その中の一つが消失したところですぐさま露見する事も無かった。

 お陰で、今までの時間が分からないもどかしい生活から、一気に解放された。

 何時かもすぐに確認出来るので、時間を忘れて筆談を続けてしまうという失態も犯さなくなったのだ。

 

 それなのに、どうして今日。

 

 子供はとっくに就寝している筈の0時近くまで、こうして未練がましく起きていたのかというと。

 

 それは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『―――7月31日は、僕の誕生日だよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日記帳にそう書き込んだ瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 コンコンコン!と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――ダーズリー家の誰でもない手付きで。

 

 

 

 

 どこか力強さと上品さを感じさせるノックの音が、物置の扉から響いてきた―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




コンピューター系の知識と技術は専門家顔負けレベル。
しかしこの才能に限って、魔法界ではクソの役にも立ちませんな。

組織に連行されてたら多分、殺し屋ルートかモルモットルートだったのではないかと。転生ルートの方がよっぽどマシだったという事実。

次回は、ダイアゴン横丁で教材調達回


おや、クィレル先生の様子が…?
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Page 12 「いざ往かんホグワーツ、の前準備!(後編)」

最近暑くなってきましたね。
皆さんも「あれ」にはお気を付け下さい。
熱湯や洗剤なんかが有効らしいですね。後はオカンの素手とか。


 ―――プリペット通り四番地、ダーズリー家階段下の物置。

 

 その中から、ガサゴソガタガタという、控え目な物音に加え、音量を抑えた会話が絶えず聴こえてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ローブ一着無いよ。リストだと三着だったろ?』

 

 「あっそうだった!ちょっと待って、どこやったっけ…」

 

 『ほら、大鍋もトランクに入ってない。……「幻の動物とその生息地」が見当たらないけど?読んだ後その辺に散らかしたんじゃないの?』

 

 「ああっ!昨日読みながら寝落ちしちゃって、そのまんまだ!どっどうしよう、見付かんないぃぃ」

 

 『落ち着きなさいって。ざっと見て無いんなら、布団の中に紛れてるか、枕の下にでも行っちゃったんだろ?』

 

 「う、うわあ~、あった!ありがとう」

 

 『全く、先が思いやられる…。杖まで無くしてないよね?』

 

 「あっ、それは大丈夫だよ。この一か月間、毎日確認してきたから……ほら!」

 

 『「柊と不死鳥の羽根、28センチ」、ね。絶対無くしちゃダメだよ』

 

 「はーい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 9月1日、早朝6時を過ぎた頃。

 

 

 

 

 

 ハリーは物置の中で、魔法使いが通う学校、『ホグワーツ』出発への準備をいそいそとしていた。

 といっても、必要な学用品はとっくに買い揃えており、準備といっても、忘れ物が無いかの最終確認ぐらいしかやる事が無かったが。

 それでも、やっておかなくてはならない大事な事だった。ただでさえ魔法学校なんて行くのは初めてなのだ、素人準備で、最初から全て上手くいくとは思えない。

 

 入念に、準備する物が書かれたリストと、実際にトランクに収められた物品が存在するか目視でチェック。

 初めて目にする物ばかりなので、どれがどれだか分からなくなる。その度に、『友達』にも一緒に確認してもらっていた。

 

 「大鍋って何に使うんだろうね」

 

 『そりゃあ、薬品の調合さ。ホグワーツは魔法だけじゃない。魔法薬の調合まで習うんだ。理科の授業だって、座学だけじゃなくて実験もやっただろう?』

 

 「そうだけど…。実験は、あんまり良い思い出が無いなぁ…。僕がやったら、絶対何か起きたんだもの。プレパラートにヒビが入ったり、点火してないアルコールランプが独りでに燃え上がったり……。皆が見てない所で、こっそり隠したけど」

 

 『それ、ヤバイやつじゃん…。器物損壊罪になるだろ…。間違ってもダーズリー家に言わない方が良い。一生墓まで持っていくのをオススメ』

 

 「そうする。()()()()()()()の授業、どうだった?」

 

 『…()()()()()で?ま…まあ、主席だったよ、一応…。"前"の学校もそうだったし…

 

 「えぇっ、主席なの!すごいっ、天才じゃん。僕なんか、自分が魔法使いだなんてちっぽけも知らなかったし、トムみたいになれるかなぁ……」

 

 『誰だってスタート地点は同じだよ。進むスピードが、ちょっと速い奴がチラホラ居るだけだ。そんなに気にすると禿るよ』

 

 「うう…でも、やっぱり不安だよ。クラスでビリ欠になったらどうしよう?やっとこの家から出られるのに、ホグワーツでも虐められたら、僕やっていけないよ…」

 

 『ホントにこの子はもう、心配性だなぁ。ま、緊張するなと言う方が無理か。ほら、こっちおいで』

 

 「うん?何?」

 

 トムに手招きされて、素直に向かえば前触れ無しにがしがしと頭を撫でられた。

 

 「うわぁっ、いきなり何々?」

 

 『こうすれば精神安定作用が起きるって、昔読んだ本に書いてあったんだ!』

 

 「あぁ、そうなん……ちょ、ちょっとそんなワシャワシャしないで……あだだぁッ!?」

 

 『ハリーッ!?』

 

 いきなりだった。触れられてもいない場所にある、額の傷。稲妻状のそれが、唐突に痛みを発した。反射的に傷跡を抑える。

 この10年間、いや11年間……ずっと何とも無かったのに。

 まさかこんな急に痛むなんて、思いもしなかった。

 

 『傷が痛むの!?「くっ右腕が疼くぜ」ってやつと同じ感じ?はあ~、ハリーも厨二病を発症するなんて……やっぱりお年頃なんだなぁ……う~む……』

 

 「ちょ…ちょっと、急に哀れみの目で見ないでよ…。その病名は知らないけど、何かスゴイ失礼な言葉だってのは伝わってくるんだけど…」

 

 手を離されると同時に急速に痛みも遠のいていく。一体今のは何だったんだろう?

 というか、可哀想な子を見る目をやめて欲しい。不良が捨てられた子猫を見る目だよ、これ…。

 

 『大丈夫、年頃の男の子は皆通る道だから。ましてや魔法使いって自覚したんだものな。絶対発症するよこれ』

 

 「だからそのチュウなんとか病になった覚え、無いってば…。ちょっと傷が痛んだだけだよ」

 

 『あぁ、やっぱその傷だよね?古傷が疼くのって最高の厨二要素だと思うんだ、うん』

 

 「だから違うってば!チュウニ要素って何?」

 

 『そりゃ、自分が他人と比べて特別だとか勘違いしたり、傷とか印とかそういうのに憧れたり、漫画やゲームの長ったらしい詠唱文を一字一句違わず全て覚えたり、独自設定なんかをノートに書き綴り始めたりしたら、それが厨二病の始まりだよ』

 

 「そんな事、してないんだけど…」

 

 『まーこれからしないとも限らないし?恥ずかしい物は大人になる前に全部燃やすのをオススメする』

 

 「も、燃やすの?」

 

 『僕も昔そうした。なんかタイミング悪くて、放火魔と勘違いされて家族と余計に不仲になってしまった事がある』

 

 「壮絶!!」

 

 『大丈夫、良くある事だって』

 

 「全く無いと思うなぁ…」

 

 『それ以来学習して、陰で色々やるのが上手くなったから、今となっては良い経験さ。失敗が人を強くするんだよ?』

 

 「変なとこでポジティブ思考だよね、トムって」

 

 『そういう切り替え能力を習得しないとやってらんなかったんだよ、ホントに』

 

 雑談に興じながら、トランクに粗方必要な物を詰め終わる。「やっと終わりはったんか、あんさん」と言わんばかりに、物置を根城にしている蜘蛛がワシャワシャと部屋の隅から姿を現す。

 あぁ、ある意味同居人とも言える彼らとも、しばしのお別れか。

 長年付き合ってきた虫達も、今ではすっかり愛着が沸いてしまって、素手で触るのもお得意になってしまった。別れの挨拶代わりに、這い出てきた子蜘蛛の一匹をちょんと突く。

 

 『まぁよくも平然と触れるねぇ、虫に』

 

 「そりゃあ、僕と一緒に長い時間を共にした生き物って、この子達ぐらいだもん。触るのなんて平気だよ」

 

 『おおっ、怖っ!幽霊の類は何とも無いけど、虫だけはダメだ』

 

 「え、意外。虫ダメなんだ?」

 

 『ある程度の年齢になるとね、人は虫への接触耐性を失うんだよ……特に、あのクッソムカつく黒い害虫は無理無理。「あれ」は優先的殺害対象ね』

 

 「あ、それ『ヤツ』の事?それならたまーに出るよ?ここ狭いしゴチャゴチャしてるし、格好の巣穴だったりして…」

 

 『アーッ!!』

 

 多分初めて聞く友達の絶叫に、己は勿論子蜘蛛達も刹那の間、完全に時間停止現象を喰らった。

 今は早朝だ。そんな大声を出されたら、一家を起こして怒りを買いかねない。慌ててなんとか硬直を解き、飛び付いて彼の口を塞いだ。

 

 「ちょっとトム…!急に叫ばないで…!おじさん達に聞こえちゃう…っ」

 

 『ヒェッ、ヒェッ……「あれ」はダメだって……無理だって……!』

 

 「怪奇現象とかはへっちゃらなのに、『あれ』は無理なの?殺害対象とか言ってなかった?」

 

 『無理ッ無理ぃッ!ちょっと、帰るッ!日記帳に戻って良い?!』

 

 「あっ待ってよ!確認が終わるまで一緒に居てよ!」

 

 ただでさえ初めてのホグワーツ出発でこちらも不安でいっぱいなのだ。途中で姿を消されると本当に心が折れそう。

 涙目と全身の震えを隠さず、日記帳の中へ帰ろうとするトムに全力でしがみついて阻止する。

 

 「ほらぁ、今は『あれ』、いないじゃん。大丈夫だから、急に消えようとしないでよ、お願いだからホントに」

 

 『む、むむぅ……。一応、こうして実体化してるだけでも、地味に魔力減ってくんだけど』

 

 「……でもさ、やっぱ改めて思うと……不思議だよね」

 

 『何が?』

 

 改めて、トムの姿を視界全体に留める。

 

 スラリとした長身に、無駄な肉付きのない細見。癖毛の一つも見当たらない黒髪に、宝石の様な深紅の瞳が輝く、端正な顔。

 全身を覆う真っ黒なローブが、余計に美麗さを引き立てている。

 

 「こうしてトムと顔を合わせて喋って、触れたりするんだもん……『魔法』って、ホント不思議」

 

 『まぁ、ハリーに触れられるのは、こっちも驚きの事実なんだけどね』

 

 そう言いながら、トムは物置内に置かれたトランクをつついた。―――実際には、その指はトランクをすり抜けてしまっていたが。

 

 

 

 

 この事実が判明したのは、およそ一時間前。

 

 

 

 

 ホグワーツ入学にあたって、その前準備として必要な教材を買い揃えた後。

 

 入学日までの一か月間は、興奮、期待、不愉快さが交じり合った日々を過ごしていた。

 

 ダーズリー一家は魔法学校への入学が決まってからは、以前より明確に自分の扱いを変えてきた。

 ダドリーなんかは、こちらの姿を目にした途端、幽霊に遭遇したかのような恐怖の表情を浮かべ、しゅぱっと姿を消すし。

 多少妙な事が起きても、おじさんとおばさんは怒鳴ったり物置に閉じ込めるなんてお仕置きはしてこないし、そもそも言葉すら交わす事もなくなった。

 この扱いの方が自分にとっては好都合だったが、やはり良い気分に浸れるものじゃない。

 

 最初は、これが一か月続くかと思うと気が滅入りそうだと思った。

 それでも、トムとの筆談や買って来た教材の確認なんかで、沈んだ気分はすぐに晴らせたし、決して落ち込んでばかりの時間ではなかった。

 

 予習と称した暇潰しのつもりで教科書を読み耽ったり、ホグワーツはこんなものだという、トムの説明に心を踊らされたり。

 生まれて初めての誕生日プレゼントである、ペットの梟。雪の様な白く美しい羽根を持つ、彼女の名前はヘドウィグに決めた―――を、世話したり撫でたり。

 基本は部屋に閉じこもって、随分と充実した引き籠り生活を送っていた。

 

 

 

 

 ……のだが。

 

 事が起きたのは、入学日当日。つまりは今日、9月1日の早朝5時頃だった。

 

 その時は興奮の余り目が冴えてしまって、しょうがないから二度寝はやめて準備をしようとベッドから這い出した。

 持っていかなくてはいけない物は予めトランクに入れておいたのだが、やはり忘れ物はしてはならないと、入念に事前チェックを行っていた時である。

 

 普通の学校じゃ使わないような学用品ばかりで、そのチェックも容易には進んでいなかったのだ。

 おまけに、教科書を度々引っ張り出していた為、全部揃っているかをリストと照らし合わせるのも中々苦労していた。

 何しろすっかり浮かれていたものだから、取り出した本をきちんと整理する事を疎かにしてしまっていたのだ。慌てて物置内を捜索するも、日が昇り切っておらず暗闇を湛える部屋では、それも難航状態だった。

 

 その事を、焦りを隠して冗談交じりでトムに告げると―――

 

 "仕方無いなぁ。手伝ってあげる。少しだけだからね?"

 

 『手伝う?手伝うって、どうやって―――』

 

 返事は最後まで書けなかった。

 

 何故なら―――突然日記帳がぼんやりと薄く発光を始めたからだ。

 唐突過ぎて反応が出来ず、びしりと固まってしまった体を何とか動かそうとした時。

 

 蛹が孵り、蝶が羽化するかの如く―――開いたままの日記帳から、一人の青年がその姿を現した。

 輪郭はくっきりとしているものの、時折ノイズが走るかの様に、ジジッとその身が一瞬だけ透明に変わっている。

 いきなりの超常現象に、茫然としたまま思考を巡らせて、何となく彼が『トム』で、これは『生身』では無いという事だけは理解出来た。

 

 答え合わせのつもりで、恐る恐る声を掛けてみる。

 

 「と………トム。トム…なの?」

 

 『突然の事だったと思うけど、良く分かったね。そう、正解だよ、ハリー。こんにちは……いや、おはようかな?』

 

 青年は薄暗い物置内をぐるりと見回した後、腰を抜かしているこちらに向かって微笑んだ。かと思えば、視線を外して少し表情を顰めている。

 

 『……思っていたよりも、随分窮屈で暗い場所に追いやられていたんだな。子供が寝起きする場所じゃないよ。児童虐待で訴えられるんじゃないか、これ?』

 

 ブツブツと、こちらが強いられていた環境に対し不満を並べている。

 全部は聞き取れなかったけれど、中には少し背筋の寒くなる様な物騒な単語が飛び交っていて、思わず身震いした。それでも、こちらの事を想って怒ってくれているんだと分かって、こんな状況でも嬉しくなった。

 

 「ほ、ホントにトムなんだよね…?どうやって……日記帳から?そういえば最初に言ってたけど……もう、人間に戻れるの?」

 

 『あぁ…うん。いつかは明かそうと思ってたんだけど、タイミングを計り損ねててね……。そうなんだ。完全じゃないんだけど、こうやって人の姿を取って出て来れるんだよ。もちろん、ちゃんとした実体化を果たすにはまだ色々足りないんだけど』

 

 ほうほうと素直に頷くこちらを見て、トムは意外そうな表情を浮かべる。

 

 『…なんか、思ったより反応が淡泊だね。いや、騒がれるよりは有り難いけど』

 

 「いやぁ、それほどでも。なんかさ、日記帳から返事が返ってくるだけでも、十分スゴイ現象だし…。その日記から人が出てきても、今更って感じで」

 

 彼が来る前から、色々と不思議な現象を目の当たりにして暮らしてきたし。最早こういう不可思議な出来事は、すっかり日常の一部である。

 自分でも驚く程あっさりと、この状況を受け入れていた。

 …まあ、これで姿を見せたのがムキムキのマッチョ男とかだったら、流石にビビって叫んでいたかもしれないが。

 

 『いつの間にか耐性が付いてたって事ね…。まあいいや。とりあえず…、改めて、よろしくでもしとく?』

 

 「あ、あぁ、うん。よ…よろしく?」

 

 反射的に、片手を差し出す。それを見て向こうは一瞬難しい顔になったが、すぐに同じように片手を出した。

 

 握手をする形で、互いの手が―――触れ合った。

 心臓がびくりと跳ね上がる。彼の手は、体温という概念が無いかの様に、酷く冷たいものだったからだ。

 向こうも向こうで驚愕を隠さず、触れ合った手を凝視している。

 

 『あっ……!?』

 

 「えっ、えっ、どうしたの?」

 

 もしかして、自分の手も冷たかったのだろうか。いや、冷え症でも無いし、そもそも今は夏だし……。

 彼はというと、もう片方の手も出してモギュモギュとこちらの手を揉んでくる。

 

 『なっ、何で触れるんだ……???今まで人には、触れられなかった筈……』

 

 どうやら、触れられたという事実に驚いているらしい。

 そういえば確かに、彼の身は時々透けてる様に見えるし……今は幽霊に近い存在なのかもしれない。じゃあ何で、お互い触れるのだろうか。

 

 

 

 

 しばらく頭や腕をぺたぺたとダイレクトタッチされていたが、こちらがきょとんとしていると咳払いをした後、元の態勢に戻った。

 

 『え、ええっとねぇ……。なんか、ハリーとは触れ合える…みたいだね。こんなの初めてでびっくりしたけど、まあいつでも例外はあるって事で。とにかく、これからもよろしく』

 

 何でも、彼は「魔力を通す物品、もしくは生物」でないと直接触る事が出来ないらしい。

 魔法族の人間は、己だけの魔力を生まれつき内包している為、他者の魔力を通す余地が無いのでどう足掻いても触れられないのだとか。

 ただ、僕だけは……理由は不明だが、例外のようだ。

 こちらとしては、こうして彼と触れ合えるならそれだけで嬉しいし、理由なんて何でもいいが。

 

 『じゃっ、説明も終わった事だし。早速準備に入ろうか。見た事無い物ばっかで、苦労してるんだろ?』

 

 「あっそうだった。教科書が見付からなくって……。ね、薬瓶ってクリスタル製で良かったのかな?」

 

 『ちょっとお高いけどそうだねぇ。7年間使うんだから、そういう先行投資は大事だよ……ケチって安いのにすると、大抵は早い内に壊れて、結局新しいのを買う羽目になるんだ』

 

 雑談も交えながら、トランクに入ってない教材を確認し捜索する。

 暗くてどうしようと呟くと、トムはどこからともなく杖を取り出し、《ルーモス》と唱えて杖先に灯りを点してくれた。教科書の『基本呪文集』にあった魔法だ。ちゃんとした魔法を目にするのは、これが初めてかもしれない。

 

 『覚えておいた方が良い。僕は厳密には人間じゃないから、こうやって魔法は使い放題だけど…。ホグワーツの生徒は、学外で魔法を使うと下手したら退学になるからね』

 

 「うそっ、退学!?ぼ、僕、今までも多分、魔法使っちゃってたよ?」

 

 『まだ生徒じゃないから、感知されてなかったんだと思うよ。今日からは頭に入れて置くように。僕だって、君が退学になるところなんか見たくないし』

 

 「き、気を付けます…」

 

 『魔法の制御方法を学ぶ為にも、ホグワーツで頑張るんだね』

 

 とりあえず、これからは無意識でも魔法は使わないようにと己を戒めつつ、トムと協力して準備を進めていった。

 

 こうして教材を確認していると、自然とあの日の出来事を思い出す。

 自分がホグワーツへ入学する資格を持つという認識を、改めてはっきりさせられたあの日。

 

 

 

 

 『先生』に連れられ、学用品の購入の為に『ダイアゴン横丁』へ足を運んだ、一か月前の日を―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 7月31日の誕生日を迎えた深夜0時過ぎ。物置でトムと筆談していた時だった。

 

 コンコンコン!と、何の前触れも足音も無く、いきなり物置の扉をノック音が襲った。

 音の感じと叩き方から考えて、ダーズリー家の誰でもなさそうだ。

 

 「ま、まさか、不法侵入…」

 

 さっきのトムとの筆談で、否が応でも不穏な予想を立ててしまう。

 そうでないと信じたいが、念の為身を守る武器か何かを……と思っても、しかし残念ながら、そんな物騒な物は置いてない!

 ダーズリー家の事だ、ハリーに反撃を考えさせるような道具を、物置と共に放り込む訳がなかった。

 

 不安と恐怖から震える手を必死に抑えつつ、しゅばばっと素早く日記帳へペンを走らせる。

 扉の様子を見る限り、すぐにはこじ開けて来ないみたいだが、油断は出来ない。

 

 『トム!今、扉を誰かがノックしてるんだけど、どうしよう?音で分かるんだ、おじさん達じゃない!』

 

 "ナ、ナンダッテー!!"

 

 『あ…開けた方が良いかな?もしかしたら、おじさん達のお客さんかも…』

 

 "バカ、本当に客だったら物置の扉なんかノックしないだろ!しかも今の時刻、深夜だぞ。こんな時間に呼び鈴も鳴らさず、人が入って来る訳ないじゃないか"

 

 『どっどうしよう。怖い。どうしたら……』

 

 "落ち着けハリー。今日は……誕生日だって言ったね。だったら今物置の前に居るのは、ただの不審者じゃない……どこでもいい、日記帳を隠すんだ。そして、扉を開けてみて"

 

 『えっ、僕の誕生日と不審者に何の関係があるの?トムを隠すって、どうして?』

 

 "いいから、早く!間を空けたら、きっと閉じ込められてるって勘違いして、(原作みたいに)扉を破壊されかねないぞ!"

 

 『わっ分かったよ』

 

 文字だけだが、有無を言わさぬ圧力に素直に従う事にした。正直彼から距離を置くのは不安でしょうがないが、誰かに日記帳を見られる訳にもいかない。日記を閉じ、布団をバサリと掛けて、とりあえずは隠蔽する。

 そして、今しがたノックされた物置の扉へ向かう。

 

 「…………ど、どちら様ですかー…?」

 

 一応声を掛けながら、ノブを回して恐る恐る扉を開けてみた。

 本当の不審者ならば、わざわざノックするなんてお上品な真似はしないだろう……相手の良心に掛けて、こちらも覚悟を決める。

 開いた扉の向こうに立っていた人物は、しかしながら真面な格好をしていなかった。視界に入った途端目が点になるのが、自分でも良く分かる。

 

 「夜分遅くに失礼しますよ。こんばんは―――ハリー・ポッター」

 

 エメラルド色のローブを着こなしている、長身の老婆―――とでも表現すればよろしいのだろうか。

 ローブは……ファッションの一部と言われれば、まだ理解出来る。しかし全身緑色とは、これ如何に。

 ただ、その顔からはとても厳格な人だという事が見て取れる。決してふざけてこの格好をしている訳ではないと、なんとなく直感で気付く。

 ご丁寧にもノックと、それに加え夜のご挨拶までしてくれたのだ。例え身元の不明なお方でも、礼儀は尽くさないといけない。

 もつれそうになる口を必死に稼働させ、老婆へ挨拶を返す。

 

 「こ―――こんばんは。あの……どうして、僕の名前を……知っているんでしょうか」

 

 「あぁ、礼節はしっかりしているようですね。安心しましたよ。この様な家で育てられ、とても苦労したのではないですか?」

 

 老婆はこちらを安心させる様ににっこりと柔和な笑みを浮かべ、次にこちらの背後にある薄暗く窮屈な物置を見て、僅かに眉を寄せた。

 その言葉と態度を見て、確信出来た。この人は、良い人だ。少なくとも、ダドリーを襲ったかもしれない(襲われたかどうかも定かではないが)不審者とは、全く無関係の人だろう。

 

 「貴方の事は、ハリー。10年前から知っていましたよ。この家に預けられると分かった時は、それはそれは不安でした…。()()とは、とてもかけ離れた夫婦でしたからね…」

 

 「じゅ、10年も前に…ですか?」

 

 「ええ。申し遅れましたね。私の名前はミネルバ・マクゴナガル。今晩は改めて、貴方にこちらをお届けしに来たのですよ」

 

 そう言いながら、老婆はいつの間に手にしていたのか、黄色味がかった封筒を渡してきた。

 見覚えがある。つい最近、これと似た―――いや、全く同じ物を、郵便受けから取得した。

 おじさん達にバレてはいけないとトムに釘を刺され、今は物置の隅っこに隠しているが。

 

 手紙の内容は知っている―――魔法学校への入学案内だ。何よりも、実際にその学校へ通っていた友達の説明を、事前にあれこれ受けていた。

 それでも。やはり何度手紙に目を通しても、説明に耳を傾けても、いまいちピンと来なかったのだ。

 

 トムもその気になれば魔法を使えるらしいが、今はまだ日記帳の状態だし、手紙が来たからといって、魔法使いが家を訪れる事も無かったしで。

 自分が魔法使いの血を引いていて、魔力を持っていて、魔法学校に通う資格があるとしても。

 実際に己の目でちゃんとした魔法や、魔法学校の教員を見なければ正しく理解出来ない。未だに心の一部分は、魔法の存在を疑っているのだ。

 まあ……返事の帰って来る日記帳が存在する時点で、疑うもクソも無かったかもしれないが。

 

 自然と緊張で強張る手を動かし、受け取った封筒を開き、中の手紙を取り出して内容を読み上げた。

 

 

 

 

 親愛なるポッター殿

 

 この度ホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申しげます。

 教科書並びに必要な教材のリストを同封いたします。

 新学期は九月一日に始まります。七月三十一日必着でふくろう便にてのお返事をお待ちしております。

 

 

 

 

 「『副校長 ミネルバ・マクゴナガル』―――って、えぇっ!?副校長なんですか、えっと…ミネルバ、副校長先生?」

 

 「『先生』で良いですよ、ハリー。確かに私は副校長ですが、同時に生徒達に授業を教える立場でもあります。他の教員達と遜色はありません。特別な呼び方は必要無いのです」

 

 「分かりました……あの、先生。これって……本当に魔法学校からの、ちゃんとした手紙なんですよね?」

 

 「その通りですよ。貴方は既に一度受け取っているのですよね?ここの夫婦から、何か教えられていないのですか?」

 

 『魔法』に関する事を口に出せば、間違いなくその日から物置収監コースがスタートする。そんな環境で、あの二人から魔法学校の情報なんて聞き出せる筈もない。

 トムの存在は本人からの要望もあって、他人には絶対口にするなと念を押されているし。

 何とか情報源であったトムの事を伏せつつ、自然な回答になるように正直に告げる。

 

 「ええと……その。おじさん達は、こういうの見ると没収しそうだと思って……あの手紙、誰にも見せてないんです。おじさん達からも、魔法の事とか、何も教えられてなくて」

 

 「なんだと!!!?」

 

 と、不意にマクゴナガルのものではない、野太い男性の声が屋内に響いた。

 驚きの余り身を縮め周囲を警戒していると、マクゴナガルの背後から、毛むくじゃらの大男が姿を見せた。間違いなくさっきの声の主だ。

 

 「なんてこった!!あのハリー・ポッターが魔法の事を、知らんとは!」

 

 「ハグリッド、お静かになさい!周辺のマグルに聞かれたらどうするおつもりですか!」

 

 大声でわめき続ける男、ハグリッドを、マクゴナガルがぴしゃりと窘める。彼は途端に、借りてきた猫の如く縮こまった―――ような様子だったが、その巨大過ぎる体は、ちっとも小さくなってない。

 

 「で、でもよう、マクゴナガル先生。いくら何でもあんまりだ。ダーズリーの奴め、ダンブルドア先生の手紙に書いてあった事を、なーんにもこの子に教えてねぇんだ!」

 

 「過ぎた事をぼやいても仕方の無い事でしょう。貴方が喚いたところで、この子の10年は巻き戻らない。だからこそ、我々が今晩ここに来たのです」

 

 「うう……くそ、しょうがねぇ。こうして無事に再会出来たんだ、水に流すとしよう。おぉ、ハリー!逢いたかったぞ。俺はルビウス・ハグリッドだ!学校で森番をしとる。お前さんが赤子の時に一度逢っとるんだが、まあ覚えてはおらんだろうなぁ」

 

 ハグリッドが巨大な手で握手を求めてきたので、とりあえずそれに応じる。外見は威圧的だが、中身は気さくでフランクな性格みたいだ。こちらも、まあ悪い人物では無いだろう。

 

 「こ、こんばんは、ハグリッド…さん?」

 

 「ハグリッドでええぞ。皆そう呼ぶんだ。さあて、手紙は受け取っていたんだったか……でも、ホグワーツの事はどうも信じられねぇ。そんなところか?」

 

 「そうです、そうなんです…。待っていれば、いつか誰かが説明しに来てくれるかと思って、ずっといつも通りに生活してました」

 

 「おー、待っててくれたんか!すまんなぁ、こんな事なら、もうちょい早くに来ても良かったかもしれん」

 

 「ハグリッド、再会に喜ぶのもよろしいですが、次はこの一家へきちんと説明をしなくてはなりませんよ」

 

 そう言うと、マクゴナガルは二人に背を向け、リビングの方でこちらの様子を窺っている人物に声を掛ける。

 

 「―――という事で、お聞きになりましたよね?ずっと見ていたのでしょう、バーノン・ダーズリー?」

 

 いきなりフルネームと聞き耳を立てていた事実を暴露され、廊下の奥からダーズリーが引き攣った表情のまま、それでもどしどしと強がった足取りでやって来る。扉の影にはペチュニアが怯えた様子で、こちらを黙って見ていた。

 ダーズリーの顔は真っ赤に膨らんでいて、今にも破裂しそうである。マクゴナガルとハグリッドを指差して、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てた。

 

 「なっ、何なんだお前達は!!今すぐお引き取り願おう、家宅侵入罪で警察のお世話になりたくなかったらな!!」

 

 「おっおじさん、この人達は僕の―――」

 

 冗談じゃない。折角わざわざホグワーツへの案内に来てくれた人達を、警察に突き出すなんて!

 慌てて口を挟もうとしたが、そんな事で止まる程彼はヤワではない。

 

 「お前は黙っとれハリー!!!お前達の話、聞かせてもらえば一体何なんだ!魔法学校だと?そんな所にハリーを行かせると思っているのか!頭のおかしい連中が通う場所に?ふざけるな、わしはそんなのに、一切金は払わんぞ!!!」

 

 怒声で一気に捲し立てたダーズリーに、ハグリッドは怒りを抑え切れず掴み掛ろうとした。しかしマクゴナガルがそれを許さなかった。懐から杖を取り出し、一振り。

 するとどうだろう。ハグリッドはビシリと、その場でリモコンの一時停止ボタンを押されてしまったかの様に、固まってしまった。

 

 「全く、確かに今の暴言は見過ごせませんが、貴方の浅慮さも同レベルです!こんな所で騒ぎを起こして、その後どうなるか予想がつかないのですか!?今はハリーもいるのです。弁えなさい、ハグリッド!」

 

 彼女の迫力に、固まって動けないハグリッドも、魔法を目にし形容し難い表情になっているダーズリーも、声にならない唸り声を上げて縮んだ。

 一度に二人の男性を圧倒した手際の良さに、ハリーはすっかり惚れ惚れしていた。初対面の印象は間違っていなかったらしい。

 

 「ダーズリー、この子の入学は生まれる前から決まっているのです。ハリーが望めば、貴方であろうとも止める事は出来ません。それに、貴方がお金を払う必要は無いのですよ、ご心配なく。この子の両親は、ちゃんと魔法使いとしての財産を遺しております。さあ、これでもまだ、ハリーの入学を拒むと言うのでしょうか?」

 

 マクゴナガルが、凛とした視線をダーズリーへ向けて強く尋ねる。彼は相変わらず唸っていたが、反論を述べる事もしなかった。時折ハリーを射殺さんばかりの目で睨みつけては、隣のハグリッド達の圧に押し負け視線を逸らす。

 

 「……では、その沈黙を肯定と受け取りますよ。さあハリー。こんな時間に連れ出すのは、こちらも気が進みませんが……朝を待つのも、彼の様子から考えて悪手でしょう。今から、ホグワーツで必要な物を買い揃えに行きましょう」

 

 「買い揃える?それって、教科書とかですか?」

 

 「ええ、その通り。大丈夫です、先程も言ったように、貴方の両親が遺してくれた魔法使いのお金があります。その資金で、学用品を購入しますよ」

 

 「父さんと母さんが?僕、知らなかった……。僕、二人が魔法使いだって事も、最近まで……」

 

 それを聞いて、またもハグリッドが憤怒の表情を浮かべたので、途中で言葉が詰まった。

 

 「…ハグリッド。これからこの子を連れてダイアゴン横丁まで行きます。貴方も固まったままでいたくないのなら、その怒り癖を何とかしなさい」

 

 静かな怒りを湛えた声で命令され、ハグリッドは器用にも固まった状態でぎこちない笑みを浮かべた。

 それを認めて、ようやく魔法が解かれ、彼に自由が戻る。

 

 「おーう、先生の凍結呪文には参ったもんだ……すまんすまん。もうなんにもしねぇから、俺も連れて行っとくれ!」

 

 「では行きますよ。さ、ハリー、私の腕に掴まりなさい」

 

 「あっ、ちょっとだけ待って下さい!」

 

 彼女の腕に触れる直前、思い出した様にハリーは物置に引っ込んだ。

 布団の中に隠していた日記帳を引っ張り、慌ててペンを走らせ、文字が乱雑になるのも構わず最低限の報告を伝えた。

 

 『―――トム、色々あって、今から出掛ける事になった。なんとか横丁?に行ってきます』

 

 本当はこのまま持ち出したいところであるが、彼自身が他者の目に触れるのを禁じている。日記帳は、名残惜しいが今は置いていくしかないだろう。

 するとこちらのもどかしい心情を理解したのか、予め答えを用意していたかの如く、ぱっとすぐさま返事が浮かんできた。

 

 "あぁ―――行ってらっしゃい。今は僕よりも、『案内人』に頼る方が良い。帰って来るのを大人しく待ってるよ"

 

 その返事を目にしっかりと焼き付け、再び日記帳を布団の中に隠す。

 足早に物置から出て、ハグリッドと共に待ってくれていたマクゴナガルの腕をそっと掴んだ。

 

 「もう大丈夫です。じゃあ、先生……お願いします」

 

 「行きますよ。しっかり掴まっていて」

 

 ハリーは最後に、魔法を掛けられた訳でもないのに、ずっと凍り付いているダーズリーと、ペチュニアの方を見た。

 どの道ここに戻って来る事になるだろうが、このまま無視して去るという考えには、どうしてもなれなかった。

 歪んではいても、10年間育ててくれた人達だ。苛立たせるだけかもしれないが、一応会釈をして別れの言葉を言った。

 

 「お、おじさん……おばさん、行ってきます」

 

 そう告げた途端、バチンという音がしてハリーの視界はぶつりと途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぐらぐらりんと、全身が洗濯機に入れられたような独特な重力感を味わった後。

 再びバチンという音が聴こえたかと思えば、いつの間にか両の足はしっかりと地面を踏み締めていた。

 

 不鮮明になっていた視界がくっきり晴れ、次に目にした光景は、異様な街並みだった。

 石畳に、通りに並ぶ煉瓦造りの建物……それだけならば、ロンドンの街と何ら変わりはない。

 ただ、四方八方を行きかう人間の格好と、あちこちに点在するお店にぶら下がっている看板を見れば、普通の街ではないと子供でも気付ける場所であった。

 

 夜の闇を追い払う様に点された灯りの下は、こんな時間帯でもそこそこの賑わいを見せている。

 三角帽を被ったローブ姿の人達が、次々と通りを歩いている。買い物客達が入って行くお店の看板は、『鍋屋』だの『ふくろう百貨店』だの、普通の商店街では目にしない様な内容が描かれていた。

 

 少々痺れを訴える脳髄の、何とも言えぬ不快感に耐えつつその様子を眺めていると、隣に立っていたマクゴナガルが説明を始めた。

 

 「ここがダイアゴン横丁です。本来なら『もれ鍋』というパブの入口から来るのですが、今回は夜も遅いので『姿現し』です。後で正規の入場方法を教えるので、次からはそちらの手段で来るように。良いですね?」

 

 「は…はい!えと……今のは、テレポートってやつですか?」

 

 「マグルの言葉ではその様な言い方をするのですね…。魔法使いの間では『姿現し』と呼びます。かなり高度な業ですから、試験に合格した者以外は使用出来ないように定められています」

 

 「うわぁ……スゴいなぁ。僕も出来るようになりたい……」

 

 「初めての『姿現し』なのに、余裕ですねぇ……大抵は激しく酔うのですが」

 

 「ははは、ハリーは才能があるのかもしれんなぁ!俺は結構きついぞ、先生…」

 

 「具合が悪いのなら休んでいなさい。これからグリンゴッツですよ。トロッコ酔いもプラスで味わいたいのですか?」

 

 「せ、先生……また意地の悪い事を言いなさる……」

 

 ぼやくハグリッドを無視して、マクゴナガルは魔法使いの銀行、グリンゴッツへ足を進める。

 聞き覚えのある単語に、思わず自ら口を開く。

 

 「グリンゴッツって、銀行ですか?魔法使いの財産は、そこにあるんですよね?」

 

 「そうだ。魔法界唯一の銀行で、小鬼(ゴブリン)っちゅう種族が経営しとるんだ」

 

 「鋭いですねハリー。知っていたのですか?」

 

 「えっ、っと……な、何となくそうかなーって思って」

 

 二人からすれば何も知らない子供の筈なのに、危うく魔法界の知識を喋ってしまうところだった。

 あまりこういう事をすると、どこで知ったのかと疑われてしまう。そこからあの日記帳に辿り着かれるのはゴメンだ。

 そんな風に、内心でうんうん唸っているハリーの事など露知らず、二人はハリーをグリンゴッツ銀行へと連れて行った。

 

 高くそびえる真っ白な建物の扉をくぐり、大理石のホールへと入る。

 中にはたくさんのゴブリンが、カウンターで帳簿と向き合っていたり、宝石を鑑定していたり、他の客を案内していたりしている。思ったよりも、普通の銀行とそこまでかけ離れた光景ではなかった。ただやはり、自分よりも頭一つ分小さい生き物が闊歩している様子は、何とも言えない気分にさせられた。

 

 マクゴナガルが手の空いているゴブリンに声を掛け、小さな黄金の鍵を差し出した。

 そしてもう一つ、懐から手紙を取り出すと、それも同時に預ける。

 

 「ハリー・ポッターの金庫の鍵です。それと、ダンブルドア先生からのお手紙もご一緒に。『例の物』を預かりに来ました」

 

 『例の物』とは一体何だろうか……しかし、その単語を口にした瞬間の彼女の表情はとても重々しい様子で、尋ねるのは気が引けた。仕方無いので無言を装って、周囲を観察する事にした。

 その間にもゴブリンは鍵を受け取り、手紙を読んではゆっくり頷く。そして案内人として、別のゴブリンを呼び付けた。

 

 グリップフックと呼ばれたゴブリンが、ホールから外へ続く無数の扉の内一つを開き、そちらへ案内してくれる。

 中は線路が床を走っている通路だった。急に様変わりした光景にびっくらこいたが、「これぐらいは普通だぞ」とハグリッドに言われてしまう。

 驚いている暇もなく、グリップフックの口笛を合図に、独りでにやって来たトロッコへ乗せられた。

 

 4人を乗せたトロッコはビュンビュンと風を切って走り、やがて小さな扉の前で止まった。

 途中で何度も曲がったり下ったりしたので、先程から具合の悪そうだったハグリッドはますます顔色を青褪めている。

 

 「これが貴方の両親が遺した物ですよ」

 

 役に立たないハグリッドの代わりに、扉の中にあった財産に対してマクゴナガルが説明してくれた。

 金貨、銀貨、銅貨の山を前にして、しばらく開いた口が塞がらなかった。ここまでの量だなんて全くの予想外である。

 今は亡き、顔も覚えていない両親に心の中で感謝の念を捧げ、ハリーはバッグの中にお金を、今学期分に必要な量だけせっせと詰め込んだ。

 

 本来ならばそこで地上へ帰還する予定なのだが、マクゴナガルが預かりに来た『例の物』を取りに行く為、トロッコは再びハリー達を乗せて爆走した。

 トロッコに乗るなんて体験は滅多に無いので、折角だからこの機会を大いに楽しむ事にしよう。

 そんな様子を、マクゴナガルは微笑ましく見つめ、ハグリッドは呻き声を上げつつも、ハリーが身を乗り出し過ぎないようにと襟首を掴んでいた。

 

 「こちらが七一三番金庫でございます」

 

 グリップフックの案内の元、辿り着いた『例の物』が保管されている金庫へ近付いていく。

 鍵穴が見当たらないが、彼が指でそっと撫でると扉は消失した。成程、この仕組みなら鍵は要らずだ。

 

 「これです……間違いはありません。確かにお預かり致します」

 

 金庫の中にあった、茶色の紙でくるまれた小さな包みをそっと拾い、マクゴナガルは踵を返した。

 厳重な警備の割には、入っているのはあの包み一つ……中身は、一体何だというのだろうか。

 物言いたげなこちらの視線に気付くと、彼女は少し困った様な表情になった。

 

 「興味が沸くのも当然の事ですが、他言は出来ないのですよ。忘れなさい…ハリー」

 

 

 

 

 それから、正真正銘最後のトロッコ運送で地上に戻ると、怒涛の買い物ラッシュだった。

 

 

 

 

 まずは『マダム・マルキンの洋装店』。ホグワーツの制服を販売しているお店だ。

 愛想の良い魔女の採寸を受けている間、トロッコですっかりやられたハグリッドの回復を待った。彼は巨体の割に、酔いへの耐性値が低いようだ。

 

 次は筆記用具―――といっても、魔法界に置けるそれは、羽根ペンやインクであったのだが。

 ボールペンやサインペンの方が便利だと漏らすと、ハグリッドに小突かれてしまった。「お前さんは魔法使いなんだから、こっちの道具を使う事になるんだぞ」と突っ込みも入れられる。

 何だか不便そうだが、「郷に入っては郷に従え」というやつだと、無理やり納得する事にした。

 

 『フローリシュ・アンド・ブロッツ書店』では、教科書を買った。

 学校から指定された教科書だけでなく、気になった書物も何冊か貰っていく事にした。ホグワーツに入学するまでは、魔法界の知識を得られる手段は、トム以外にこれしかないのである。

 余りに買い過ぎようとして、本の雪崩に襲われたのはここだけの話だ。

 

 他にも錫の鍋を買ったし、魔法薬の材料を計るはかりに、真鍮製の折り畳み式望遠鏡等々、実に魔法学校らしい道具を買い揃えていった。

 

 後は杖だけだというところで、二人が唐突に無関係の店へとハリーを連れて行った。

 

 「今日はハリー、貴方の誕生日でしょう。折角なので、私達から誕生祝いを」

 

 「おお、そうだそうだ!あの一家を見てりゃー分かる。今まで、まともにプレゼントなんて貰ってはおるまい?」

 

 生まれて初めて、生身の人間から掛けられた優しい言葉に、ハリーがすっかり顔が真っ赤になってしまった。

 お言葉に甘えて、ハリーは『イーロップふくろう百貨店』から、一羽の真っ白な梟を誕生日プレゼントとして頂いた。

 魔法界ではこういった梟を飛ばして、郵便物を届け合うらしい。実益と愛らしさを兼ね備えた、とても素晴らしきペットである。

 

 そして、いよいよ最後は魔法の杖だ。

 

 高級杖メーカーで有名な『オリバンダーの店』へ入り、店の奥で店主が現れるのを待っていると、

 

 「いらっしゃいませ」

 

 いきなりの発声だった為、跳び上がりそうになった。顔を上げると、白髪の老人が目の前に立っていた。いつの間に来たんだと喉まで出掛かったが、ぐっと呑み込む。

 

 「こっこんにちは」

 

 なるべく平静さを保ちながら挨拶する。老人はハリーを、瞬きの一つもせず見つめている。

 

 「ようやくお目に掛かれましたな、ハリー・ポッターさん。お母さんと同じ目をしていなさる……。あの子があなたと同じ様に、ここに来て杖を買っていったのが昨日の事のようじゃ…」

 

 「母さんを知っているのですか?」

 

 「わしは自分の売った杖を全て覚えておる。誰に何の杖を売ったのかも……全部じゃ。お母さんは妖精の呪文にぴったりの、柳の杖じゃった」

 

 そこでオリバンダーと名乗った老人は、ハリーの後ろに控えている二人を見て声を上げた。

 

 「おお、ハグリッドに……マクゴナガル先生じゃな!こうして逢えるとは、喜ばしい事じゃ。随分と久しいの」

 

 「えぇ、お久しぶりです。今夜はこの子の為に付き添いをしておりますの」

 

 「じいさま、こんな夜遅くにすまねぇですだ。今日はいっちょ、ハリーに合う最高の杖を、よろしく頼みます」

 

 「勿論だとも。さて、では―――ポッターさん、拝見させて頂きましょうか。杖腕はどちらですかな?」

 

 「杖腕……?えっと、僕、右利きで…」

 

 「右ですね。では失礼」

 

 それからは、巻き尺で寸法を採られた。どう考えても杖には関係なさそうな、頭の周りとか、膝から脇の下とか、色々な部分までしっかりばっちり測られてしまった。

 作業中、オリバンダーはこの店の杖を実に解り易く説明してくれた。

 

 杖の芯には魔力を持った物を使用しており、それぞれ一角獣(ユニコーン)のたてがみ、不死鳥の尾の羽根、ドラゴンの心臓の琴線の三つである事。

 オリバンダーの杖には一つとして同じ物は存在せず、また、魔法使いではなく、杖が魔法使いを選ぶのだという事も。

 

 一通り測り終えると、今度は色々な杖を手に握らされた。

 

 振ってごらんなさい、と言われたので、手元に来た杖を片っ端から振っていく。しかしどれも、振り終わった後にオリバンダーにもぎ取られていった。何でもハリーに合わない杖だから、合うまでは他の杖を試さないといけないらしい。

 少ししんどいシステムだなぁと思いつつも、ちゃんと個人に合う杖を吟味してくれるのだから、むしろ有り難いのかもしれない。そう考えて、ひたすら無心で杖を振り続けた。

 

 やがて、「柊と不死鳥の羽根、28センチ」と説明された杖の番が来た。

 手に取ると、温かい感覚が指先に集まってくる。続いて杖を振ると、杖先から火花が迸り、光の玉が空気中に踊り出した。

 マクゴナガルはほっと息を吐き、ハグリッドは歓声を上げ、オリバンダーは「ブラボー!」と叫んだ。

 

 どうやら、反応からしてこれが自分に合う杖らしい。やっと見付かって胸を撫で下ろす。このままずっと杖を振り続けるのも、疲れてきていたからだ。

 しかしそんなこちらの様子とは対照的に、オリバンダーはブツブツと何やら呟いているようだった。

 

 「不思議じゃ……こんな不思議な事もあるとは……」

 

 「何が不思議なんですか?」

 

 「ううむ……。実はな、あなたが今握った杖……あれの芯となっている不死鳥の羽根は、同じ個体の不死鳥が、もう一枚だけ尾羽を提供した時の物なのじゃ。最初の一枚目を芯とした兄弟杖を、わしは過去に売った事がある」

 

 「……二枚目の羽根が、僕の杖に?」

 

 「左様。一枚目を芯に使ったあれは……イチイの木じゃった。34センチの……。不思議な事じゃ、あの杖こそが、あなたにその傷を負わせたのに……」

 

 「え……ッ?」

 

 「じ、じいさま、ハリーは何も知らねぇんだ!」

 

 突然ハグリッドが遮った。黙って聞いていたマクゴナガルも、表情が強張っている。

 

 「ちょいと特別な環境で育ってな……まだこの子は、なーんにも知らねぇ!『例のあの人』の事も、この傷の事もだ!」

 

 固まっているハリーの肩を、ハグリッドの巨大な手が優しく撫でた。オリバンダーはそれを見てそっと眉を伏せ、箱にしまった柊の杖をハリーの方へ差し出した。

 

 「これは、無神経な事をしてしまいましたかな……。さあ……、こちらがあなたの杖です、どうぞ」

 

 オリバンダーはそれ以上、ハリーの傷について語る事は無かった。ハリーは黙って杖の代金を支払い、二人と共に店から退出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ホグワーツ行きへの切符です」

 

 マクゴナガルが封筒を渡してくれる。場所はダイアゴン横丁をとっくに離れ、ダーズリー家の玄関前に移っていた。

 

 「入学日当日はキングズ・クロス駅で、必要な物を持ってホグワーツ行きの汽車に乗りなさい。場所は九と四分の三番線から、11時に出発します」

 

 その他にも、何をどうすれば九と四分の三番線に行けるかなど、具体的な説明を受けながらハリーは別の考えに囚われていた。

 

 ―――この傷は、自動車事故の時に出来たものじゃない。

 

 ―――『例のあの人』と呼ばれる、一人の魔法使いの杖によって付けられた傷。

 

 ―――その兄弟杖が、自分を持ち主に選んだ。

 

 オリバンダーに言われた事が、ぐるぐると脳内を駆け巡る。

 実を言うと、この真実は今日初めて知った訳じゃない。それをぶっちゃけてしまうと、二人の疑惑を買いかねないのでハリーはずっと固まっていたのだ。

 それを、二人は「衝撃の真実を知らされて、ショックを受けている子供」と捉えたのか、終始こちらを気遣う様な態度で接してくれていた。

 

 「……ハリーよう、本当に大丈夫か?」

 

 すっかり大人しくなってしまったハリーに、ハグリッドが巨体を屈ませて顔を覗き込んで来る。

 これ以上変に心配させるのもあれだったので、精一杯の笑顔で応える。

 

 「うん、大丈夫。ちょっと色々考えていただけだもん。魔法界って、とっても不思議な物ばっかりだったから。心配しないで」

 

 「う……ううむ。そうか……」

 

 「それよりも、二人共ありがとうございます。誕生日プレゼントまで貰って……。今日は本当に、最高の誕生日でした!」

 

 まだ何か言おうとしたハグリッドを遮る様に、ぺこりと頭を下げて大量の荷物と共に玄関へ向かう。

 

 二人はハリーを不安にさせまいと、今まで『例のあの人』の事を口に出さなかったのだろう。

 それでも、恐らくはこちらが尋ねれば、きっと丁寧に詳しく説明をしてくれたのだとも思う。

 だけど……二人には申し訳ないけれど、その真実を、自分はもう粗方知ってしまっているのだ。

 あの恐ろしい出来事を、優しい二人の口からわざわざ説明させるなんて、そんな気にならなかった。だからこそ、こうして気にしていないフリをして、二人に別れを告げる。

 

 「また、今度はホグワーツで……。おやすみなさい」

 

 「……えぇ、おやすみなさい、ハリー・ポッター」

 

 「じゃあな……ハリー。何かされたら、ふくろうに手紙を持たせて寄越しな」

 

 扉を開ける前に、振り向いてみる。

 さっきまでそこに居ておやすみを言ってくれた二人は、煙の様に消えていた。『姿現し』というやつだろう。

 こうしていると、まるでさっきまでの出来事が夢の様だ。それでも、手元にある荷物が現実である事を証明してくれている。

 

 

 

 

 一度大きく息を吸い込んで、ハリーは玄関の扉を開いた―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ハリー、出発の前にちょっとだけ、調べて欲しいんだけど』

 

 時間は進んで、ホグワーツ入学日当日。

 

 荷物の最終確認が終了し、出発時間まで、物置で待機するだけになった時だった。

 書物の中から一つ、『純血一族一覧』というタイトルの本を指差し、トムが言った。

 彼はただの物に触れないので、ハリーが本を開き調べ物を代行する。

 

 『ハリー、「純血一族一覧」の中に……「マールヴォロ」か、「リドル」の名前は載ってない?』

 

 「うーん?ちょっと待ってね……まずマ行は……………っと。うーん?」

 

 『…やっぱり無い?』

 

 「う……ん……。あれっ、これって……?」

 

 『どうした?』

 

 「いや……探そうとしたんだけど、途中のページにさ……『ゴーント家』ってのが載ってて。そこに、"マールヴォロ・ゴーント"って名前が」

 

 『ゴーントだって?ちょっと見せて…』

 

 見開き状態のまま差し出すと、彼はそこに載っていた文章を読み上げる。

 

 『ゴーント家……聖28一族の一つ……()の血筋は、偉大なるサラザール・スリザ……』

 

 そこまで読んで、トムはこちらの存在を思い出した様に音読をぴたりと止めてしまった。

 無言で離れていき、厄介事を発見してしまった様な表情で、片手で額を抑えている。

 

 『はぁ~………………』

 

 「トム?急にどうしたのさ?ゴーントって家の人が、どうかしたの?」

 

 『いや……別に何でもないよ……。何で名前が平凡なのに血筋だけは特別なんだよ……マジ無いわ~……

 

 「ホントに大丈夫?顔色悪いよ」

 

 『あぁ、それは自覚出来る。なんか…気分悪くなってきたから、とりあえず日記に戻るね…。無事駅に着いたら、また報告して』

 

 ドブの底から無理やり捻り出した様な、覇気の無い声で告げた後、トムの身体は霧を纏うかの如く姿を消してしまった。

 

 その場に残されたハリーは、しばらくポカンと『ゴーント家』のページを眺めていた。

 

 

 

 

 「……スリザリン?スリザリンって、誰だろ」

 

 その名が意味する物を知らぬ少年は、特に重大さを感じ取る訳もなくただ首を傾げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 はああぁぁぁ~~~……。

 

 転写された『記憶』で解っていたけど、改めて自分の目で確認すると、心底ヘコむわ……。

 

 【あの事実に、どうしてそこまで落ち込んでいるのか解せないんだけど?】

 

 黙れ。お前いつかしばくからな。

 

 【また野蛮な事を言う。偉大な血筋なんだろう?それに恥じない生き方をするのはどうかな】

 

 うるせーボケが。表情が見えなくても、面白がってんのが台詞の端々から滲んでんだよ、この野郎。

 

 【50年も共に過ごした仲なんだから、少しは態度が軟化してきても良いんじゃないかと思うんだけど】

 

 気色悪っ。永遠にくたばっとけ。

 

 【君はこちらが相手だと、本当に口が悪いよね…】

 

 『対人モード』じゃ慎んでるんだから、こまけぇこたぁいいんだよ。

 

 【そうやって自分を取り繕うのも得意だ】

 

 得意なスキルなんてたくさんあって損はないだろうが。あ?

 

 【いちいち喧嘩腰になるのはやめてもらいたいんだけどなぁ…】

 

 喧嘩腰にさせないような努力をするんだな、クソが。

 

 【やれやれ……閉心術も此処まで来ると、ある意味芸術の域だね】

 

 

 

 

 

 

 

 ―――ゴーント家。それと、リドル家。

 

 ……この家系の事も、いずれ詳しく調べなければならないだろう。

 

 何故ならば、切っても切り離せない『ある事情』が存在するからだ。

 

 ヴォルデモートの記憶を閲覧すれば、容易に手に入る情報ではある。しかし、それは『彼』の過去に直接手を出す事を意味する。

 

 前に誓ったのだ。余程追い詰められない限りは、過去に関する記憶の引き出しを開けないと。

 

 手が届く範囲ならば、自力で調査するしかあるまい。

 

 だが今は保留である。目下、『賢者の石』を狙うヴォルデモートを何とかする方が最優先事項なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……やらなきゃいけない事多くて、日記状態でも頭痛くなってきた……。

 

 

 

 

 魔法界にも頭痛薬ってあるかなぁ……。

 

 

 

 

 やっとホグワーツ入学日まで来たっていうのに、縁起の悪い物見ちゃったよ……。

 

  

 

 

 は~……。まぁ、気合入れて頑張りますか……。

 

 

 

 

 

 




原作と違って、手紙をちゃんと受け取ったバタフライエフェクトにより、マクゴナガル先生が同伴しました。深夜に出掛けた為、原作のようにクィレル先生に逢わず、マール描いてフォイにも逢わず。
ちょいちょい本来の流れとズレつつあります。

ゴーント家とリドル家を調査するお話は、またいずれ。
多分この辺が原作と異なる長編展開になります。まだ先の話ですが。
転生先が特別な血筋なんて、嬉しくもなんともないんですよ、彼は。
そもそもスリザリンの継承者だからこそ、原作の日記帳があの事件を起こしたので。良い気分になれる訳がありません。


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Page 13 「魔法界の車窓から」

ハリー達の筆談は、多分書いてて一番楽しかった(小並感)
今後も、魔法界の未来を背負った、どこか抜けてるお馬鹿な二人組を生温かく見守り下さい(笑)


 『あの子、何かおかしいんです』

 

 ―――女だ。女が居る。

 一人の女が、深刻な表情を浮かべて何かを言っている。

 

 『最初はただ、勘が良いんだなって、思っていたんですけど…。日に日に、言い当ててくる事が、エスカレートしていくんです。今日はあそこで、数日前に再会した昔の友人と飲みに行ったんだとか、子供達にそろそろ新しい服を用意しないとって思っていたら、誰にも話していないのに「どうせ貰えるんならあの色が良い」とか……。どう思いますか?もう、勘が良いとかのレベルを越えてるんです。段々、気味が悪くなって……』

 

 女の目の前には、気難しい表情を浮かべた白衣の男性が、黙って話を聞いている。

 

 『それだけじゃないんです。あの子の周り、ホントにおかしい事ばかり起きるんですよ。花瓶が倒れたり、窓にヒビが入ったり……。あ、あ、あの子に話し掛けた男の子なんか……次の日、謎の痛みを訴えてくるもんで、救急車を呼んだんですよ?何かの感染症かもしれないって、あの子自身も検査を受けたんですけど……何ともなかったんです!おかしいでしょう!?あの子はいつも元気なのに、周りの子達はどんどん不幸になっているような気がして……』

 

 心中を吐露する度に、女の様子は荒々しく変容していく。男性の表情には、何とも説明し難い感情が浮かんでくる。

 

 『あの子、普通じゃない。もう、耐えられなくて……。一度、ちゃんとお医者さんに診てもらわなきゃって……きょ、今日、嫌がるあの子を思い切って連れて来たんですよ……。他の子達が、取り返しのつかない目に遭う前に……あの、先生、お願いです……あの子を、何とかして頂けませんか……!』

 

 ―――あぁ、馬鹿だなぁ。

 

 病気なんかじゃないのに。

 

 こんな所に連れて来たって、何かが変わる訳じゃないのに。

 

 『怖いんです…。あの子、笑ってるんですよ、いつも。私達の……大人の前だと、何事の無かったかのように、笑うんです。注意深く観察しても、他の子達と何ら変わりがない様子を、演じているんですよ…!他の大人は気付いてないみたいですけど、私には解るんです!きっと心の中では、悪い事を考えているんだわ…!!』

 

 ―――大人しく、騙されていれば良いのにな。

 

 何で、妙なとこで目聡いんだろう。

 

 気を遣って『普通』を演じてやったのに、その言い方はあんまりだ。

 

 『落ち着いて下さい』

 

 ようやく、沈黙を貫いていた男性が言葉を発した。女の両肩を抑え、立ち上がり掛けていた彼女を椅子に座らせる。

 

 『様子を―――様子を見るしかないでしょう。前の検査で、特に異常は無かったらしいですし。わたくし共が診察を行ったところで、事態が好転しそうだとも思えませんから』

 

 『……どうして、信じて頂けないんですか!?』

 

 当たり障りのない言葉で、無難な回答を口走り始めた男性に対し、突如女はヒステリックな声を上げた。

 

 『他のお医者様もそうでした!誰も彼も、私の話を信じない!そうやって「様子を見る」だの、まともに取り合ってくれない……貴方もどうせ、私がおかしいと思っているんでしょう!?どう考えても、おかしいのはあの子の方なのに!!』

 

 『お、落ち着いて―――』

 

 『もう、良いです!…真剣だった私が馬鹿でした。帰ります。二度と来ません!!!』

 

 一気に怒声で捲し立てると、相手の静止も碌に聞かず、女は部屋を大股で出て行った。

 別室への扉を乱暴に開き、そこで座って待機していた、10歳前後程に見える少年の手を、断りなしに無理やり引っ張って歩かせる。

 

 『―――もう帰ります。早く来なさい』

 

 それはとてもぞんざいな扱いだったが、少年は逆らう事も、口答えする事もせず、ただ手を引かれるままに付いて行く。

 その顔は誰がどう見ても、何の感情も読み取れない程の無表情を湛えていて、例えるならば人形と呼ぶのが正しかった。

 一切の抵抗が無く手間の掛からない少年に、けれども女は決して喜ぶ事はしなかった。むしろ、少年が『普通に』何かしらの反応を見せていた方が、いくらか安堵出来ていたのかもしれない。

 

 真っ白い建物の出口を通り過ぎた時。

 

 一言だけ。

 

 それまで何も口にしなかった少年は、一言だけ、はっきりと呟いた。

 

 

 

 

 『―――ボクは病気じゃない』

 

 

 

 

 特別恐ろしい台詞でもなんでもなかったが、女はその声を聞いて、露骨に顔を恐怖に歪ませた。

 一度だけ少年の方へ視線を向け、しかしすぐさま正面へ戻す。

 それは仕方ない事だったのかもしれない。

 何せ、少年は子供らしい明るい感情という物が、全て抜け落ちてしまったかの様な―――ある意味とても冷たい表情をしていたのだから。

 

 

 

 

 女は終ぞ、その言葉に返答する事はせず。

 

 

 

 

 ただ少年の手を握る力をより強め、早足でその場を後にした―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――やあ皆、元気してる?

 

 唐突だけど、「トム」って結構良い名前ですな!

 

 平凡で有り触れてるし、短くて呼び易いし、有名人にも同名が居るし、割と良い感じの名前だと思うよッ!

 あのトム・ク〇ーズとか、トム・ハ〇クスとか、色んな有名人の名前でもあるし。

 そういえば、マルフォイ役の俳優さんも、確かトムって名前でしたな!

 

 あ、別に前世でDQNネームだったからってこの話をしてる訳じゃないよ。

 もうすっかり忘れてしもうたが、確か特別変な名前では無かった筈である。別に忘れちまったもんはどうでもいいけど。

 いやー、でもやっぱり、平凡って良いね。そこにシビれる憧れるぅ!

 

 ……で?

 

 何で血筋の方はバリバリ特殊なんでございます?

 このギャップ、すっげぇムカつくわー。

 どうせなら生まれも平凡にしてくれってんだ。怒るぞーこのやろー。

 名前と血筋がバッラバラやねん。どうせなら足並み揃えてー。二人三脚してくれー。

 

 んでさー。この平凡で素晴らしい名前が嫌になって、改名した愚者が居るらしいよ?

 マジ勿体無いねー。ま、人にはそれぞれ好みがあるし、あんまり貶さないでおくけど。

 ていうか、役所での手続き通り越して改名するなんざスッゴイね。うちの故郷でも、法律に縛られずそれぐらいの気軽さで改名出来れば、バカ親に変な名前付けられて虐められる子供も減ると思うの。

 ま、そんなのが原因で子供がグレたりするのも、全部法だとか世間が悪いんだろうな。

 やっぱり行政がクソだと、社会も腐っていくんだよ。優れた社会は優れた統治の元でしか創られないんや。

 

 そんなのと似た感じの理由で、あの闇の帝王様は魔法界に戦争を仕掛けたらしいが、正直この世界の難しい事情はよう分からん。

 ぶっちゃけマグル生まれの魔法使いってさ、そこまで罪あるか?魔法界に相応しくないからぶっ殺すとか、マジ野蛮だわ。そんな統治者嫌だわ。ゴメンだわ。

 ちゃんと魔法を使える人種なんだから、そこまで躍起になって排除しようとせんでも。

 

 原作でもマグル生まれのハーマイオニーとか、酷い扱いされてる時あったよね。どう考えても彼女は成績優秀で、そういう扱いをされるべきではないのにさ。差別は良くないよ、ホント。……差別は、良くないよ!

 純血主義ってめんどくさ…。何でこんなのあるんだろうね。今度機会があったら調べてみてもいいかもな。

 あ、別にあいつの思想に賛同する訳じゃないけど、マグルに限ってはどうでもいいです。関係無いし、関わる機会も無いだろうし、そもそも他人は好きじゃないし。

 

 うーん、やっぱり、純血主義がのさばってる理由って、あれかな。

 代々続く由緒正しい家系ってやつは、人間の本能的にしがみ付きたくなるもんなんかなぁ。

 純血の代表的なマルフォイ家の、フォイフォイの父ちゃんなんかは、死喰い人かつ立派な純血主義者みたいだし。

 母ちゃんは……あ、確かあの人の行動のお陰で、ヴォルデモートぶっ倒せたとこあったよね。ママフォイってすげー。(小並感)

 

 フォイフォイは嫌な奴って扱いだったけど、両親は割とちゃんと愛してたんだよね、フォイフォイ。フォイフォイは愛されてるねー、親からも、ハリポタファンからも。一部でカルト的な人気を博してるけどね、フォイフォイ。フォイフォイが描けるアプリも作られてるんだぜ。愛されてるってスゴイなフォイフォイ。ところで、今何回「フォイ」って言ったっけ?

 

 愛、かぁ……。

 

 あんな捻くれた奴でも、愛されて育ってんだよなー……。

 なーんか、僕としてはすっごい複雑なんですがね。

 

 うちの母は途中から僕を捨てたがってたし、父なんかは口も聞かず、まるで居ない者として扱ってきやがったしなぁ。

 世間体があるから、表面上は普通の親子関係を維持していたけど。

 本心では、こっちに対する疑念や嫌悪でいっぱいだったってのは、よーく察せたわ。

 まー大体表情と態度見てれば解る。顔は笑ってても、僕が近くにいくと緊張するんだよ。そういうの隠したって解るの。皆ってば本心隠すの下手クソだから。

 

 そんな妙に感が良いところとかも含めて、あー嫌われてるなって学習してからは、普通の子みたいにしてたんだけどなぁ。

 成績も一番だったし、家の手伝いもしてたし。

 体調を崩したところを、助けようとしてあげた……事もあった、のに。

 やっぱり取り繕うの遅すぎたんかな。後の祭りってか?

 

 いやー、自慢出来るもんじゃないけど、僕の周りじゃちょいちょい変な事起きちゃってねぇ…。

 あれだな、雨男って訳じゃないけど、それと似た感じ。不幸が寄って来るっていうか、やべーのに取り憑かれてる的なやつ?

 怪奇現象って、マジであるんだなって知ったもん。

 だからハリーの境遇はよーく理解出来るよ。向こうは切られた髪まで再生してたらしいじゃん。流石にこっちは、そこまでの現象は起きなかったけどさ。

 

 やっぱり、幼心から来る好奇心で都市伝説とか呪術に手を出すもんじゃなかったなぁ。皆も気を付けてね。よくyoutuberとか、こっくりさんとか廃墟訪問とかやってるけど、気軽に真似しちゃダメだぞ!

 何があっても自己責任だからね!親に嫌われても知らんからね!

 え?小さい子はまずそんな知識仕入れる機会無いし、手も出さないって?

 家系が家系だったから、興味持っちゃって……つい、自力でどっぷり調べちゃったの。

 

 まだ小さい頃は事の重大さに気付けず、周囲をめっちゃ恐怖に叩き落してたわ。ごめんちゃい。土下座するから許して?あ、もう手遅れだって?そう…。

 ある程度大きくなってからは、全力で『普通』を演じて、周りの子達にこっちの異常性を察知させなかったんだけどもね。

 ついでに同時期、思春期特有の苛立ちに身を任せて、一部の人間にはちゃっかり仕返ししちゃったが。

 べ、別に暴力は一切ノータッチだから。ガキ大将みたいな事やってないから。

 

 あれよ。精々、相手のSNSや個人サイトのアカウント特定して、匿名でアンチコメ及び誹謗中傷送り続けて、閉鎖させるぐらい追い詰めたとか、それぐらいだよ。ジャイアンより全然マシでしょ。そう思いたい。(真顔)

 でもなんでだろ。相手は何故か大体不登校になった。自分のサイトとか続けられなくなる事の、一体どこがそんなにショックだって言うんだ。

 ネット社会って割と若者の根幹に繋がってるんだろうか。嫌だねー、現実から目を背けて電子機器にしがみ付いてないと生きていけない人間なんて。え?お前が言うなって?娯楽の塊であるインターネッツを手放せる訳がないでしょ(熱い手の平返し)

 

 その仕返しだって、1人につき一回やってスッキリしたらもうやめたしね。

 あんましつこくやると、相手と同レベルになって恥ずかしいって学んだし。

 一歩大人に近付いたって事ですよ。だから時効でしょ?時効だよね?時効って認めろよおい!

 

 僕は知性的なタイプなんだから、暴力なんて野蛮な真似はしないのですよ。ほっほっほ。

 直接的な暴力より陰湿でえげつない?それを言われるともう……反論出来ません……。

 

 ま、そんな感じで、裏では意地悪してきた奴を貶めつつ、その他の人間には善人を演じて上辺だけ仲良くして生きてきました。

 しかしながらそいつらは欺けても、やっぱり親という奴は、子供の本性に敏感らしい。

 いくら努力しても、両親だけはこちらに対する悪い心象を改めるつもりが無さそうだったから、もう見切りを付けるしかなかったんだよなぁ。

 

 小さな頃から嫌われてたんだぜ?そんな性根の人達を、あれ以上どう攻略しろって言うんだよ…。

 ハリーも同じく、「自分は何もしてない」っていくら訴えても、聞き入れて貰えなかったみたいだし。

 しかも、僕と違って学校でも居場所が無かったんだって?よく歪まなかったよね……。

 

 最後に一度だけ、せめてもの抵抗で、両親の愛情を湧かせられるかもしれない行動をしたんだけど、結果は大失敗でしたわ。

 むしろ余計に嫌われてしもうた。ノーリスクハイリターンなんて無かったんや(絶望)

 その時からなんか、全部全部嫌になって、今までの関係かなぐり捨ててヒッキールートに突入。これが某RPGのように、Pルートだったら良かったね…。

 

 この前世、ある意味自業自得の部分もあったし、グダグダ喚いてもしょうがないから、なるべく考えないようにしてきたのにな。

 

 一つだけ文句を言わせてもらえるとすれば。

 とりあえず放り込めばいいかって感じで、精神科に連行するのはやめて欲しかったです。

 病院に対して失礼だろ。病院を何だと思ってるんだあの人達は。ゴミ処理施設かなんかやと勘違いしてるんじゃないか?

 ううーん。途中で愛せなくなるんだったら、そんな半端な覚悟で子供産まないで欲しいですわ。

 そういえば、子供の育児放棄とか虐待とかって、一時社会的問題になった事あったなー。子供は親を選べないんだから、産む時はもう少し考えて欲しいよねー。

 

 んんー?『病院』?ちょっと待てよ。

 

 

 

 

 ―――あいつは僕を診察させたいんだろう?

 

 

 

 

 ―――あの老いぼれ猫のほうが精神病院に入るべきなんだ。

 

 

 

 

 ―――僕はまともだ。狂っちゃいない!

 

 

 

 

 ありゃ、何だこれ?

 一瞬、何か思い出したような…………いや、何かが聴こえた……視えた?ような……。

 

 そういえば、確かに昔、あんな感じの事を喚いた経験がある。思い出したくもなかったけど。

 あれ…?でも、老いぼれがどうとか騒いだ覚えは無いぞ?あれ?どうだったっけ?

 やっべー。無理に昔の事忘れようとして、記憶がごっちゃになってきてるのか?

 今の状態じゃ脳味噌無いのに、まっこと不思議なもんじゃのう。

 

 ううむ……何でだろうな。

 なーんか、こうして日記状態で大人しくしてると、過去の思い出ばっか浮かんでくるねん。

 そういう細工でもされてるんだろうか?絶対、何かしらの作用は働いているよなぁ、これ。

 ま、しっかり心は閉じてるから、あいつに漏れていく事は無いけどさ。

 50年もこの体で過ごして来たんだ。このスキル、転生当初より随分成長したよ。

 たまーに、うっかり流出してしまったけどね…。

 うーむ。自分に忘却呪文でも掛けてみるか?いや、もしも『原作知識』まで忘れてしまったら偉いこっちゃ。くっそう、変に試せないのは辛いな…。

 

 あ¨ぁ~~~。これも良い機会だ。

 

 無心状態になる訓練をしよう。そう、どこぞの国の王子様がやってた、「ムの修行」だ!

 あの修行だと足折られたり、腕千切られたりしてたけど、今の僕はそもそも四肢無いからね。

 先祖の霊が降りてきて、「お前の足を折るが、よいな」なんて問い掛けてきても、ぜーんぜん平気だわ。

 あのゲームさぁ、プレイヤー層がバリバリの子供なのに、なんちゅートラウマ量産イベント入れてるんだよ。

 大人も子供も、おねーさんも泣くわ。エンディング前に泣くわ。

 

 さてさて、ではいっちょ心を無にするとしようか。

 ん?そもそも心を無にするってどうするんだっけ?

 

 ファミチキ野郎が言うには、僕の場合『閉心』は出来てるらしいけど、『無心』のやり方なんて知らんZOY!お前のそれもカラカ=ゾーイ!?

 そんなスキルあったら、50年の孤独生活で精神病んでないわ!

 お、落ち着け。心を無にするんだ。何も考えず、激流に身を任せ同化するのじゃ。

 

 ……あれ?何か前にも激流に身を任せてなかったっけか?

 いやー、だから何も考えるなって!言ったそばから出来てないよ!

 北斗神拳の極意に基づき、精神を無の高みに―――だから考えるなって!

 

 あー、無!無!私は無!私は無!

 え?『無』を考えるのも駄目なの?

 そんなん無理だろ!『無』だけに無理、なんつってな。―――だから考えるなあああああ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 9月1日。

 

 目の眩む程の晴天。

 

 キングズ・クロス駅に一人放り出されたハリーは、九と四分の三番線の明確な入口を見付けられず、困り果てていた。

 

 

 

 

 ハリーのホグワーツ入学が決まってからは、ダーズリー家での酷い扱いはピタリと停止していた。

 ホグワーツの存在と、『魔法』に関わろうとするハリーを、どう足掻いても止める事が不可能だと理解したからだというのも、勿論ある。

 しかし、もう一つ。ハリーへ迂闊に手を出せなくなったある理由が、明確に存在していた。

 

 ポケットの中に忍ばせた日記帳。その中に宿る、一つの魂。

 入学当日の朝にあっさり種明かしされ、面食らった彼の行動には、感謝と驚愕を感じている。

 

 彼の行いの結果、ダドリーはハリーを守る『謎の存在』に怯え、最早会話を交わす事すら出来なくなっていた。

 ダドリーは己の身に起こった事をはっきりと説明しなかったが、ハリーに手を出すと恐ろしい災いが降りかかるという確信に囚われ、それを両親に告げていた。

 尋常じゃない様子で、「あいつにもう何もしないで」と懇願してくる、愛する我が子に対し彼らは、最早一つの選択を受け入れるしかなかった。

 すなわち、「これ以上ハリーには何もしない、害さない」。ただそれだけの選択を。

 

 本来ならば、年々魔法界に染まっていくハリーに対し、この一家は彼への態度と扱いを改めるなどという事はしなかった。

 それどころか、学校外では魔法が使えないという事実に気付いては、平気で物置収監刑を再び執行したし、食事だって変わらずお粗末な物ばかり与えていた。

 そんな未来を、虐めっ子一人への制裁でガラリと変えてしまったのだ。

 そのような事実をハリーは知る由も無いが、何となく。

 己を待ち受ける悲惨な運命の一つが回避されたという事を、何となく察していた。

 

 運命を変えてくれた日記帳を開く。

 彼とのたくさんのやり取りで、性格や癖などは、お互い大体の事を知り得ていた。

 今となっては出逢った当初より、冗談も軽口も叩き合う仲である。

 完全無欠の聖人という訳では無かったが、彼はいつだって解らない事を教えてくれたのだ。

 

 『トム』

 

 胸中に渦巻く不安を深呼吸で抑えつつ、徐に日記帳へ文字を書き込んでみる。

 ところが、いつもならすぐに返ってくる文字が現れる事はなかった。

 数十秒待っても、返事が浮かんで来ない。

 

 ハリーは大きく息を吸い込んで、利き腕に全神経を集中させる。持てる腕力の全てを使い、白紙を全て埋め尽くす程の、とびっきりの大文字を乱暴に描いた。

 

 

 

 

 『トムーう!!!!!!』

 

 

 

 

 "うわっ、ふぇっ、ハイッ!ヒェッ、いっいらっしゃいませ"

 

 ぐにゃりと歪な形で、意味不明な文字の羅列が浮かび上がった。

 少しして文字が消えた後、表情は見えない筈なのに、どうしてか向こうが咳払いをした光景が見えたような気がする。

 先程の文字が嘘であったかの様に、今度ははっきりと、驚くぐらい整った美麗な筆跡で返事が綴られた。

 

 

 

 

 "あっあぁ、ハリー、おはよう。今日も良い天気だねえ"

 

 『トム、何気取ってんのさ。何がいらっしゃいませなの。しかもおはようって、さっき家を出発するまで一緒に居たじゃん。もしかして、寝ぼけてた?』

 

 "うわっ、毎朝あのオババに叩き起こされるまで、グースカだった君にだけは言われたくない言葉だな。日記帳の僕が寝る訳ないだろ。ちょっと……その、アレだ。考え事をしてただけだよ。集中すると、周りの事がすっぽ抜けていくから"

 

 『そのまま寝ちゃったとか?』

 

 "シャラップ。それと、やたら力込めて大文字を書くなって前に言ったろ。意識にグワグワ響くんだっつうの。君も年頃なんだから、僕を見習って綺麗な文字を書けるように鍛錬しなよ"

 

 『トムを見習ったら、文字が綺麗になっても、反比例で性格は汚れていきそうだよ?』

 

 "シャラップ×2だ。僕はTPOに合わせて性格を変えられるんだから、何も問題は無し"

 

 『てぃーぴーおーって何?』

 

 "ハリー、君の場合はOBKでおーばーかーだな。魔法だけじゃなくて、語学もしっかり教えてあげようか"

 

 『うるさいよ、ほっといて。学校じゃダドリーをいかに躱すかで、授業に集中するどころじゃなかった時もあったんだから。そうやって人を小馬鹿にしてると、バチが当たるよ。友達出来ないよ。授業で二人組も作れないよ』

 

 "ふふん、ご心配なく。僕は他人の前じゃ、ちゃんとカワイイ子供やってたから。「せんせーい、僕ねぇ、今度の夏休みにお友達と遠足に行くんだよ。わーい、楽しみだなあ」ってなもんさ"

 

 『うわーお、筋金入りの猫被りだったってワケだね。お見事。すっごい二面性。ちょっと引いちゃうぐらい感心。とてもじゃないけどマネ出来ないや』

 

 "うるさいよ、ほっといて。猫被りじゃなくて、処世術と言ってくれる?"

 

 『そんなんだと、表面上の友達は出来ても、恋人は出来ないよ』

 

 "出来なくても良いもん。要らないもん"

 

 『えー、僕より全然年上なのに、今まで好きになった人いなかったの?』

 

 "へっ、女なんてまっぴらゴメンさ。顔が良いってだけで、虫みたいに沸いてくるんだから。それよりハリー、何か微妙な振動を感じるけど、もしかして移動中?"

 

 『あ、良く分かったね。そうなんだ……今、おじさんの車で駅に送ってもらったんだけど。九と四分の三番線って、どっちの方にあるか迷っちゃって……あっあぁっ、たいへん!』

 

 "え、何かあった?"

 

 『うん。「呪いのかけ方、解き方―――友人をうっとりさせ、最新の復讐方法で敵を困らせよう~ハゲ、クラゲ脚、舌もつれ、その他あの手この手~」の本が、ヘドウィグにつつかれて破れかけてる!』

 

 "ハリー、これから僕の書く文字、しっかり見てて。いい?"

 

 『うん』

 

 

 

 

 "このアホンダラ!!!!!!"

 

 

 

 

 余白の隙間無く、見開きいっぱいに巨大で大迫力の文字が浮かび上がった。見ているだけで、何だか頭の中にまで「アホンダラアァァァ」と反響してくる感覚に囚われる。思わず固く目を瞑った。

 

 "ホントに、何が『呪いのかけ方、解き方―――友人をうっとりさせ、最新の復讐方法で敵を困らせよう~ハゲ、クラゲ脚、舌もつれ、その他あの手この手~』だ。そんな本なんか、トイレに捨てられようが牙で穴を空けられようが1クヌートで売られようが、どうでもいいんだよ。全く、僕の知らないところで教材を買ってきたかと思ったら、下らない呪いの本なんか追加で購入して。大方、ダドリーの奴に仕返しするつもりだったんだろ?"

 

 『ちょっと呪いを掛けてやろうかと思って買ったんだよ、別に良いでしょ』

 

 "推定体重100キロ付近のあのデブは、体重30キロの超スリム族代表の僕が怖い目に遭わせたんだから、もう放っておけって"

 

 『ウソつき』

 

 "なんだって?"

 

 『実際に逢ったんだから、普通に平均体重ぐらいだって、僕でも分かるよ。体重が30キロなんて、見え見えの嘘吐かないでよね。その歳でそんなの、病院に入院してる人でもなきゃならないでしょ』

 

 "シャラップ×3だぞ。()の僕は食べたって引き籠ったって、何やっても体重が増えなかったんだ"

 

 『それ、何かの病気じゃないの?大丈夫なの?』

 

 "病院連れて行かれた事もあったけど、医者の見解じゃ「生活習慣の乱れで体が栄養を上手く摂取してないのかも」だってさ"

 

 『自業自得?』

 

 "シャラップ×4です。とにかく、ハゲの本はどうでもよくて、さっさとホグワーツ行きの駅に行かないといけないんだろ。遅刻したら洒落にならないんだから、余計な話題をぶっ込むのはやめなさい"

 

 『ハゲの本じゃないよ。「呪いのかけ方、解き方―――友人をうっとりさせ―――』

 

 "誰が間違いを正せと言いました??????"

 

 『もう、威圧的なんだから。分かったよ。急ぐから、どこに九と四分の三番線への入口があるか教えてよ』

 

 "プラットホームの数字を確認して。「9」と「10」ね。その間に柵があるだろ?そこに突っ込むだけさ"

 

 言われた通りに駅の景色に視線を移す。間の柵とは、あの改札口の柵の事だろうか。

 しかし、魔法使いの駅への入口だとしたら、周囲にそれらしき人は全く見当たらない。

 エメラルド色のローブを着た老婆も、毛むくじゃらの大男も、奇妙な格好の人間は誰一人として居ない。

 

 『………あ、ああ、あった!確かに柵がある。先生は柵の向こうに魔法使いの駅があるって言ってたけど、見た感じ何も無いよ?』

 

 "そりゃーここはマグルも利用してるんだから、隠蔽工作はしてるさ。ぱっと見で魔法使いの駅が見える様なヘマをやらかす訳ないだろ。大騒ぎになる"

 

 『魔法使いってスゴイのにさ、どうしてその……マグル?から隠れてるんだろうね?騒ぎになるのは分かるんだけど、気になって』

 

 "住む世界が違うって事だろうなぁ。魔法が使える人間と使えない人間が、仲良しこよし出来ると思う?絶対めんどくさい事になるさ。棲み分けってのは、いつの時代も大切なんだよ。ぶっちゃけこの時代のマグル、まだ発展途上でインターネット社会でも無いしな…。ネットの無いマグルなんて、何の取り柄もないカスミソだよ。類人猿だよ"

 

 『どーしてナチュラルにポンポン悪口が出てくるかな。マグルだって、頑張って生きてる人はいるでしょ?』

 

 "だってホントの事だもーん。マグルが頑張ろうが痔になろうが水虫で苦しもうが、脱毛症と急性虫垂炎を併発して死にかけようが、僕的にはどうでもいいもーん"

 

 『脱毛症……って、トム、そういう事、良く平気で言葉に出来るね』

 

 "全然平気。僕は不必要な状況で上品ぶったりしないから"

 

 『処世術はどこに行ったワケ?』

 

 "だってこの会話ハリーにしか見えないのに、変に取り繕っても意味無いだろ?"

 

 『そりゃあ、本音でやり取りしてくれるのは嬉しいけどさ……もーちょっと、オブラートに包んでも良いんじゃない?』

 

 "そうしても良いんだけどね。哀しいかな、ある事情で精神の半分程は閉心状態を保ってないといけないもんで。ハリーの前でぐらい、素になって休まないとやってられないんだよ…"

 

 『ヘイシン?』 

 

 "「心を閉ざす」って事"

 

 『閉じてるようには見えないけど』

 

 "「半分」はそうしてるの"

 

 『僕の前じゃもう半分開けてるってコト?』

 

 "正解"

 

 『なんか……事情はよく知らないけど、滅茶苦茶器用だってコトは分かった』

 

 "ありがとう"

 

 『猫被りが上手いのもそういう理由なんだね』

 

 "だから処世術って言いなさいよ"

 

 ふと、列車到着案内板の上にある時計を見る。現在、10時40分。ホグワーツ行きの列車は、あと20分で出発する。

 結構余裕のある時間だ。しかし、どんなトラブルに巻き込まれて時間を奪われるか分からない。トムの言う通り、こんな人生の中で一番の重大イベントに遅刻だなんて、洒落にならない。そろそろ動いた方が良さそうだ。

 一度深呼吸して、説明の通りに改札口の柵の方へと、荷物の載ったカートを押して行く。

 

 途中、数人の集団の和気藹々とした話し声が妙に耳に残った。

 

 

 

 

 「ママ!あたしもホグワーツ行きたい……」

 

 「まあジニー、あなたは来年行けるんだからね。ほら……、お兄ちゃん達をちゃんと見送って」

 

 「ジニー、心配するなって。ふくろう便はしーっかり送ってやるよ。家が埋まるぐらいに!」

 

 「ついでにトイレの便座も送ろうか」

 

 「フレッド、ジョージ!今年こそはトイレなんて吹き飛ばすなよ。僕がしっかり見張ってるからな」

 

 「おお、監督生様は怖い怖い。なぁフレッド」

 

 「皆、パーシー・ウィーズリー様のお通りだぞ!グリフィンドールのこわーい監督生様のお通りだ!」

 

 「黙れ」

 

 「コラ!あなた達、ここにはマグルも居るんですからね。あまり騒がないの!」

 

 「ママ……、早く行こうよ。あの二人、永遠に黙らないんだからさ」

 

 「おやまあ、ロニー坊やもお怒りかー?」

 

 「ママが僕達ばっかり構うから妬いてるんだよ」

 

 「この調子じゃジニーにも伝染するぞ」

 

 「お前達!いい加減にしろよ!」

 

 集団の中の、一番年上らしき少年の一喝が最後に聴こえた。その後は、物理的な距離が離れたお陰で聞き取れなくなった。

 何だか聞き覚えのある単語が飛び交っていたが、周囲の雑音が、それらを明確に認知するのをハリーから妨げていた。

 

 集団から離れ、大荷物と共に改札口の柵へと豪快に突っ込む。本当はゆっくり行きたかったが、周囲の人間にドシドシと揉みくちゃにされ、いつの間にか加速してしまっていた。

 

 「うわお!」

 

 ぶつかる瞬間は流石に恐怖心から目を閉じたが、予想を外れ、衝撃などは一切やって来なかった。

 

 ぱっと目を開けると、そこはもう九と四分の三番線だった。紅色の蒸気機関車が、マグルが入る事を許されないプラットホームに鎮座している。

 自分と同じ様に、大小様々な荷物を引き連れた子供達が、駅内を縦横無尽に歩いていた。付き添いであろう大人達もごった返している。

 立ち止まってこの光景を黙って眺めていたかったが、次々と前の車両が陣取られていく事に気付き、慌てて歩き出す。人数オーバーで締め出されるとかそんなのゴメン過ぎる。

 

 空いている車両を探したものの結局見付からず、最後尾近くの車両に乗る事になった。

 無事乗車出来ただけでも御の字なので、不満は一つも無い。

 荷物を運び終えたら、無人のコンパートメントの椅子へダイブする。緊張の連続と大荷物の運搬で、普段使う事のない筋肉が悲鳴を上げ始めている。しばらくこうしていたい。

 

 

 

 

 『ふあ~~~……何とか乗れたよ……』

 

 汽車が出発するまで特にする事も無いので、簡単な報告文を書き込んでみる。

 

 "グッジョブ。滑り出しは順調だな"

 

 『ここに居る人、みーんな魔法使いなの?』

 

 "じゃなきゃあ来れないからね"

 

 『想像以上に、たっくさん居るんだなぁ……魔法使いって』

 

 "これぐらいで圧倒されてたら持たないよ。ホグワーツに着いたらもっとビックリするんじゃない?"

 

 『かも。………ねぇ、トム?』

 

 "…うん?どうした?腹痛か?緊張し過ぎだよ、トイレ行っとく?"

 

 『何でそんな発想しか出て来ないワケ?訊きたいコトがあるだけだよ』

 

 魔法界について尋ねたい事など、数え切れない程ある。けれど、次から次へと沸いてきて収まる事を知らない自身の好奇心を、今は一旦鎮める。

 

 とても大切な事だ。自分の運命に関わる、大切な……

 

 

 

 

 

 

 

 

 『―――僕の両親を殺したヴォルデモートも、ホグワーツに通っていたんだよね?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 数秒、返事は返って来なかった。

 しばらくして、とてもゆっくりとした速度で文字が浮かび上がってくる。

 

 "そうだよ。『僕』の本体……あの殺人鬼は、この駅に居る子供達と同じ様に、あの学校で7年を過ごしたんだ"

 

 

 

 

 ―――ダーズリー家での筆談の中、ハリーは自身の驚くべき経歴を知らされた。

 

 自分は魔法使いの家で生まれ、本来ならば、親と共に幸福な日常を送っていただろう事。

 魔法界を蹂躙しようとした闇の魔法使いが、いつか自分を倒す子供が生まれるという『予言』を鵜呑みにし、まだ無力な赤子であったハリーを殺そうとした事。

 その時に、両親はハリーを守る為に盾となり、無情にも殺されてしまった事。

 自身を犠牲にしながら母が遺した『魔法の守り』の効果で、ハリーだけが生き残った事。

 その守りで死を齎す魔法を反射し、闇の魔法使いはそれをモロに食らって力を失った事。 

 お陰でハリーこそがそいつを打ち破った英雄という話が、魔法界中に知られている事。

 額の傷は、死の呪いを受けた時に出来たものだという事。

 

 そして……

 

 

 

 

 "この日記帳も、あいつが在学中に作った物さ"

 

 

 

 

 ―――目の前の日記帳は、闇の魔法使いの頂点とも言える人物、ヴォルデモートの魂の一部であり。

 

 それに転生してしまった、()()()()()()であるという事。

 

 初めて告げられた時は、もうちんぷんかんぷんでどう返答して良いかまるで分からなかったが、全て事実であった。

 彼と出逢ってから、彼の話を理解し呑み込むのに必要な時間はたっぷりとあった為、今となっては自然に受け入れる事が出来ている。

 加えて、教材を購入してからの一か月間は特に理解を深めていた。

 書店で買い込んだ教科書と、魔法界の歴史や偉人が記された史書を読み込んでいくと、彼の話が出鱈目では無いという事が良く解った。

 

 それらの書物によると。

 

 ハリーを殺そうとした魔法使い・ヴォルデモートは実在するし。

 ハリーと対峙してからは姿を消してしまい、行方知れずとなっている事が書かれていた。

 魔法界で販売されている本の内容と、生まれて初めての友人とも言える彼の話を信用するのは、さほど難しい事では無かった。

 

 流石に自分を殺害しようとした人間の、魂の一部であると言われた時は心臓が飛び出そうになったが。

 しかし()()()()は違う。別人に入れ替わっている……というか、別人が転生しているらしいのだ。

 仮にこれが嘘だったら、とっくにこの日記帳は自分を害している筈だ。だから、ハリーは全て信じようと思った。

 

 『異世界』については全く想像がつかず、彼自身『この世界』には無関係だからと、その手の話はあまりしなかった。

 明確に解ったのは、彼が()に生きた世界は、科学的にとても発展していて、魔法界が存在しない事だった。

 そして『この世界』の存在は信じ難い事に、彼の世界では"物語"として伝えられているらしい。

 だから彼は異世界の住人ながら、魔法界の事もヴォルデモートの事も知り得ているのだと。

 

 

 

 

 ……その"物語"の結末がどうなるかは、尋ねなかった。

 

 ヴォルデモートが倒されるのだと知ってしまえば、気を抜いて堕落してしまうだろうし。

 ヴォルデモートが生き残るのだと知ってしまえば、絶望して無気力になってしまうかもしれない。

 

 だから、結末については話さないで欲しいと頼んだ。

 彼も彼で話し辛い内容だったからか、すぐに了承してくれた。

 

 『そして……トムは、ヴォルデモートをどうにかしようとしている』

 

 "正確に言うと、牢屋にぶち込む所存だよ"

 

 ヴォルデモートの"死"は、奴の魂の一部になってしまった『彼』の死も意味する。

 だからこそ、彼はヴォルデモートを無力化して、魔法界の牢獄に捕えようとしているらしい。

 万が一自分の存在を奴が知れば、処分されかねないからこうして大胆に動くしかないみたいだ。

 

 しかし他者からすれば、彼の存在は『闇の魔法使いの分身』にしか過ぎない。

 他の善良な魔法使いに知られるのも、彼にとっては"死"に追い詰められかねない事である。

 だから彼も自分も、誰かにこの日記帳の存在を気取られぬよう十分に注意して過ごす必要があった。

 特に警戒しなければならない相手は、

 

 『ダンブルドア…校長先生?だっけ。要注意人物?』

 

 "そう。別に悪人じゃないけどね……今の僕にとっちゃ天敵に過ぎないから、ホグワーツに着いたら気を付けといて"

 

 『でも、ホグワーツの校長先生なんでしょ。学校を守ってるって事だよね?事情を話せば、協力してくれるかもよ』

 

 "あのねぇ、ハリー。世の中で一番信用出来ないのは、社長とか校長とか大臣とか付いてるオッサン達なんだよ"

 

 『そ、そんなあ。やめてよお。不吉過ぎるよお』

 

 ダンブルドアという人物の評判は、ダイアゴン横丁でハグリッド達から多少聞かされた。他にも、魔法史の教科書なんかに彼の偉業がいくつか記されていた。

 まだ逢った事は無いが、協力を得るにはうってつけの魔法使いだと単純に思ったのだが。

 どうも彼は、ダンブルドアに近付く覚悟を決められないようだ。

 

 "誰もがハリーみたいに、僕のぶっ飛んだ話をあっさり信じてくれるとは思わないからね。こんな話信じられるのは、よっぽどの大馬鹿かお人好しぐらいじゃないか"

 

 『そうだね、よっぽどの大馬鹿かお人好しぐらいじゃないと……ちょっとトム、それ僕のコト?』

 

 "ハリーは特別だよ。両方持ち合わせてるもん"

 

 『信じてあげてるのに、その言い方は無いでしょ』

 

 "だって、ねぇ……。呪いの本買っといて、結局ダドリーに何もしてないんだもんねぇ。すっごいお人好しだなって。僕だったら我慢出来ないなあ"

 

 『そ、それは、魔法は家で使っちゃ駄目だって……あ、あと、トムが代わりにあいつを懲らしめたから……』

 

 "それを教えたのは、全部()()だけどね。あの本を買った当時は知らなかっただろ?"

 

 『や、やり方がいまいち分からなかっただけだよ』

 

 "ふーん。まっどうでもいいさ。僕ももう、あいつをどうこうする気は無いし。一回やれば十分だろ"

 

 笛の音が鳴り響き、ふと気付く。筆談に夢中で頭から抜けていたが、いつの間にか汽車が出発していた。窓の外では、見送りに来た人達が手を振っているのが見える。

 

 いよいよホグワーツへ向かうのだ。説明し難い高揚感に包まれる。

 魔法学校での生活など、まだ具体的な想像はつかない。

 しかし、あの一家での惨めな一生よりも、絶対に楽しい日々が待っているに違いない。

 

 力を失っても完全に消滅した訳ではなく、どこかで息を潜めているヴォルデモートの事も、トムが懐に居てくれるだけで不安はいくらか払拭されていく。

 『予言』では自分が奴を倒す運命にあるらしいが、そんな勝手な未来を告げられてもピンと来ないし、まだ新米の魔法使いである自分に出来る事など何も無いだろう。

 とりあえずは『予言』など忘れて、ホグワーツでの生活に集中しろとトムにも言われたし。

 今日はこの記念すべきこの日を、存分に楽しんでやろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 と、内心で意気込んでいたハリーの耳へ、ある物音がやって来た。

 コンパートメントの戸が開く音。ノックも無しに無遠慮に開かれ、視線を向けるとそこには一人の男の子が立っていた。

 

 「やあ、……窓から見ていて気付いたんだけど、さっきホームに居たのは君かい?」

 

 プラチナブロンドの髪をオールバックにした、青白い顔に生意気そうな表情が張り付いた男の子だ。

 口調こそは紳士的だが、大胆な入室とその表情に、ハリーは少し面食らって返事を忘れた。

 男の子の方は、自分の行動が驚きを与えていると自覚しているのか、特に気にせず喋り続ける。

 

 「その額の傷……君、()()ハリー・ポッターで間違いないだろう?」

 

 額の傷を不躾に眺めながら、男の子は更に一歩部屋へと踏み込んできた。

 

 「僕はマルフォイだ。ドラコ・マルフォイ」

 

 …尋ねてもいないのに勝手に名乗ってきた。聞いた事のない独特な名前を耳にし、僅かに口角が上がり掛けそうになった。

 そんな様子を知ってか知らずか、男の子はますます一歩詰めよってくる。

 

 「ポッター君。両親が居ないんだってね?魔法界の事は良く知らないんじゃないかい?良かったら、僕が教えてあげよう」

 

 無礼な態度と自慢気な様子を隠しもせず、ドラコと名乗った男の子はグッと手を伸ばし握手を求めてきた。

 その顔は良く言えば微笑んでいて、悪く言えばニヤついている。

 

 

 

 

 ―――どうしよう。

 

 

 

 

 どう反応したら良いものか。ハリーはすっかり逡巡していた。

 

 だって……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (魔法界の事なら、大体教えてくれる日記帳があるんだもんなぁ……)

 

 

 

 

 

 

 

 手元の日記帳を視線だけで確認する。

 

 

 

 

 目の前の、ある意味失礼な態度を取ってくる男の子の手を、ここで取るべきか。

 

 

 

 

 どうしてかは分からないけれど、これは結構重要な局面だと脳が告げていた。

 

 

 

 

 




出逢ったばかりはまだ少し猫被ってましたが、次第に化けの皮脱いでいきました。

50年独りで過ごしている間に閉心術の熟練度も上がっています。
なのでハリーには心を開いていても、その間「半分」はちゃんと心を閉じているので、同居人の覗き見は許していません。
というかハリーの前ですら閉心していたら、あっという間に精神疲弊するのでむしろ悪手。


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Page 14 「魔法界の学友、ここに」

どうでもいいですが、原作全部入手しました。まだ読了出来てませんけど。

眠い中書いた箇所があるんで、何かおかしいところあっても許してつかぁさい(´;ω;`)




 「ポッター君。両親が居ないんだってね?魔法界の事は良く知らないんじゃないかい?良かったら、僕が教えてあげよう」

 

 

 

 

 突然現れ突然名乗り、突然一方的な友好を結ぼうとしてきた少年、ドラコ・マルフォイ。

 

 純血一族の一つである、マルフォイ家の長男にして、根っからの純血主義者。

 魔法使いの家系でなければ、魔法学校に通うべきではないという思想に染まり切った子供だ。

 両親からの教えと、その身に流れるれっきとした名門の血筋が、まだ10代前半の未熟な子供の考えを歪めていた。

 よっぽど、その歪んだ思想を変えさせるようなとんでもない衝撃を与えなければ、この少年はいつまでも捻くれたままであろう。

 

 何故そんな純血主義のドラコが、会って間もない、魔法界について無知であるらしいと思っているハリーに手を差し伸べているのかというと。

 赤子の身で闇の帝王を打ち砕き、生き残った男の子と持て囃され、魔法使いの血を引いている英雄様の名を利用する為であった。

 

 魔法界の人間には、どうして赤子の男の子があのような奇跡を起こしたのか、真実を知る者は一部を除いていなかった。

 しかし真相がどうであれ、ハリーを殺そうとした『悪』が返り討ちにあったのは紛れもない事実であり。

 何も出来なかった筈のハリーでも、彼が起こした現象から考えると『英雄』と呼ぶ他は無かったのである。

 

 そんな英雄様は、いくら闇の帝王を返り討ちにしたからと言っても、自身の両親は失ってしまっていた。

 まだ赤子である彼が、一体何処へ預けられて育てられるのか、その行き先も多くの魔法使い達の興味を集めた。

 結果、『生き残った男の子』は、ロンドンのとあるマグルの一家にその身を預けられる事となった。

 後見人であった男は、犯罪行為が知られアズカバンへと送られてしまった為に、ハリーは魔法界とは縁の無い家で育てられる羽目になったのだ。

 

 耳聡い魔法使い達の中の一部は、一目ハリーに逢おうと、しばしば彼の元へ訪れる事があった。

 ある日、おじさん達と一緒に買い物に行ったハリーに、紫色のシルクハットを被った男がお辞儀をした。

 またある日は、バスの中で緑づくめの格好をした老婆が、嬉しそうに手を振った。

 またまたある日は、紫のマントを着た男が、ハリーとしっかり握手までしていった。

 

 そんな感じで、英雄であるハリーの居所は、知っている者なら把握している程露見してしまっていた。

 今や魔法界の色んな書物に名を連ねる有名人である。しょうがない事だった。

 そして、それはマルフォイ家も同様である。

 

 故に、ドラコは。

 

 マグルに育てられ、魔法界についてあまり知識の無さそうなハリーの好感を得、懐柔し。

 その名が持つ影響力を、我が物にしようという利己的な考えの元、こうして手を差し伸べているのだ。

 決して、単なる親切心ではない。齢11にして、随分と狡猾な少年であった。

 

 ―――しかし、そんなドラコの悪巧みも、ある一つの日記帳によってぶち壊される事になった。

 

 

 

 

 こちらを驚きの感情が籠った目で見つめたまま、固まっているハリー。

 突然の行動だったしこの反応は仕方ないか、と、しばらく相手が状況を呑み込むのを待っていたドラコであったが、

 

 「………ん?」

 

 その手元にある、古びた真っ黒な日記帳が目に入る。

 先程まで記入をしていたのだろう、ハリーは片手にインクの滴る羽根ペンを持っている。

 それだけだ。何て事の無い、光景の筈………なのに。

 

 「何だい?その薄汚い日記…帳………」

 

 言葉が、途中で失速した。

 理由は明白だった。

 

 ポタリ、と、固まって動かないハリーの持つペンから、インクの水滴が一粒落下した。

 漆黒の雫が重力に従って、開いたままの日記帳の白紙へ吸い込まれる。

 いや、例えではない。文字通り―――インクが()()()()()()()()

 普通ならば、その白紙に黒い染みを作っている筈のインクが―――あろうことか白紙に吸い込まれ、溶けるように跡形も無く消えてしまったのだ!

 

 続けて、二、三滴雫が落ちていく。

 やはりその全てが、白紙を汚す事無く消失していった。一体、どういう事だ?

 

 何らかの魔法道具という事だろうか?

 いや、しかし、この様な現象を起こす日記帳など、生まれてこの方目にした経験は無い。

 父の都合上で連れられ入店した事のある、『ボージン・アンド・バークス』―――様々な魔法道具や呪具を取り扱う店であるあそこでさえ、こんな日記帳は販売していない。

 加えて、この英雄様はマグルの元で育ってきたのだ。そんな魔法道具とは無縁の生活を送っていた筈だ。

 何故、マルフォイ家である自分が見た事も聞いた事も無い魔法道具を、目の前の少年は所持しているというのだ?

 今まで悪知恵しか働かなかった頭を、疑念と興味が埋め尽くしていく。

 

 乾いた唇を動かし、日記帳について尋ねようとした時だった。

 硬直を保っていたハリーの目が、突然見開かれた。

 その視線は、どちらかというとドラコではなく、その背後に注がれているようであった。

 

 「………?」

 

 何だか、視線の先である己の背後が気になって、ゆっくり振り向いてみる。

 もしかしたら、自分の他にもハリーの姿に気付いた子供が、このコンパートメントへ辿り着いて来たのかもしれない。

 そう思って、気軽に振り向いたのだったが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『―――薄汚い日記帳で悪かったね』

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこに居たのは、ホグワーツの制服の一種である、スリザリン生のローブを身に纏った青年だった。

 銀色の監督生バッジも見える。少なくとも、5年生以上である事は窺い知れた。

 

 別に、特段驚く事では無かった筈だ。

 マルフォイ家は代々スリザリン寮に所属しており、自分も入りたいと望んでいる。青年も格好からしてスリザリンだ。純血主義であるドラコからすれば、親近感しか沸かない人物である。

 

 しかし、しかしだ。今、青年は何と言っただろうか?

 

 『さっきそう思っただろ?その顔を見てれば、君の考えぐらい解るよ。本当に、()()()()悪かったね?』

 

 まるで獲物を眼前にした捕食者の様な視線を放たれ、ドラコは身動きが出来なくなった。

 青年の鋭い眼光もそうだが、()()()()()()()()()()()()()()()が、妙に恐ろしく感じられたのだ。

 何と返してよいか分からず、振り向いたまま茫然としているドラコの後ろで、これまで沈黙していたハリーが声を上げた。

 

 「ちょ、ちょっと何やってんのトム! ?ひ、人前なのに!?」

 

 『何って、君が文字じゃなくてインクだけポッタポタ落としてくるから、気になって出てきただけだよ。何か異常があったかと思うだろ?』

 

 「確かにそうだけど……でも、でも思い切り見られてるよ!?どうするのこれ!?」

 

 突如現れた正体不明のスリザリン生と、今年初めて入学する筈のハリーが親し気(?)な口調で会話を始めた。

 

 ホグワーツ生、しかも上級生と知り合う機会など、ハリーには無かった筈なのに……?

 

 自分の存在を放置され、眼前で会話を繰り広げる二人の様子を、マルフォイはぼうっと見ているだけしか出来なかった。

 

 『見られたものはしょうがない。ハリー、この子抑えといて。忘却呪文ぶちかますから』

 

 「何でそんな物騒なコト言うかな。出来ないよ!ほ…他の方法無いの?」

 

 『無い。ていうか、別に口封じに殺そうって訳じゃないんだから、良いだろ?僕にしては、すごーく穏便なやり方で済ませようと考えてあげてるのに』

 

 「だーめーだーよー!ちょっと失礼だったけど、僕に色々教えてくれようとしてたんだ。それなのに、何しようとしてるのさ?」

 

 『ふん、ただの親切心じゃないみたいだけどね?この子、君の事利用しようとしてたんだぞ。君が有名人だから、その恩恵目当てにやって来ましたって顔に書いてあるよ。……それでも仲良くする気?』

 

 「うっ。そ、そうなの?……で、でも……出来るだけ、色んな人と仲良くしたいし……。友達になりたいし……」

 

 『……ふーん。贅沢だね、贅沢な事だね。そこまで言うなら、まあ良いよ。ハリーの交友関係まで、口出しする権利は無いしな……。ところで、君、名前は?』

 

 「へっ!?」

 

 いきなりこちらに話を振られ、間抜けな声が出る。

 さっきまで何だか物騒な単語が聞こえて来たのだが、青年の目から敵意は消えていた。一応、上級生だと思うので、素直に、丁寧に質問に答える事にする。

 

 「…ど、ドラコ。ドラコ・マルフォイ、です…」

 

 『………………………………………………』

 

 こちらの名を聞いて、青年がしばらく沈黙した。

 その間にも、品定めする様な視線を向けてくる。とても不気味だ。端正な顔立ちをしているのに、今は不気味さしか感じられない。

 

 『……よし、フォイフォイ』

 

 「ふぉ、フォイッ!?」

 

 妙なあだ名で呼ばれ、思わず反射的に声を上げてしまう。何だか、返事みたいになってしまったのが誠に遺憾である。

 

 『僕から伝えておく事は、一つだけだ。良く聞いておくように』

 

 「フォイ……いっ、いや、ハイ!」

 

 『呪われるよ』

 

 「…!?どっ、どういう事ですか?蛇目のお兄さん」

 

 『僕の事を他人に話したら―――誰が蛇目だって?ん?』

 

 「へっ?あ……そ、そっくりですよ。初めて見た時、蛇が化け損なったのかと思ったぐらい」

 

 『ちょっとフォイフォイ、ナチュラルに言いたい事言ってくれるじゃないか。いくら君の性格が捻くれてるからって、僕みたいな好青年に向かって、堂々と蛇の化け損ないって言う訳?どこに目ぇ付けてるんだよ』

 

 「へっ変な意味で言ったんじゃなくて、その、蛇はカッコ良いと思いますよ。スリザリンのシンボルですし」

 

 『人の目の事、平気で蛇に似てるとか言えるのがマルフォイ家の教育なのか?とんだ捻くれ一家だな』

 

 「トム、悪いけど、君が他人の事、捻くれてるとか言える立場じゃないと思う」

 

 『ハリーは黙っててくれる?とにかく!フォイフォイに言いたい事は一つ。大人しく聞きなさい』

 

 「は、ハイ………」

 

 青年は一度咳払いをする様な素振りを見せた後、淡々と語り始めた。

 

 『この日記帳と僕の存在を誰かに話したら、不幸が訪れる。秘密を漏らしたその人間に呪いが掛かるんだ』

 

 説明しながら青年は、ハリーが持つ黒い日記帳を指差した。次いで、たった今開かれているページに書かれているらしき文字を目にしたハリーは、こちらによく見えるよう、無言で日記帳を見せてくる。

 彼は青年からの指示に従っているだけだったが、日記帳の特性など知らぬドラコからすれば、実に不気味極まりない光景である。

 

 『まず話した瞬間から、666時間、下痢と嘔吐に苦しむよ』

 

 「げ……ッ、嘔吐!?」

 

 『その後、666日の間、闇の帝王の怨念が毎晩枕元に現れて、鼻と尻の穴に指を突っ込んでいくよ』

 

 「闇の帝王ッ!?」

 

 『ついでに一夜ごとに一本、髪の毛を引き抜いていくよ』

 

 「髪を!!!?」

 

 『それでも良ければ、好きなだけ喋り散らして呪われてみればいいさ』

 

 「…う、う………」

 

 闇の帝王の名前を出され、言葉が詰まる。青年と英雄様を交互に見るが、両者共こちらをじっと見つめるだけだ。

 ハリーだけは時折、少し呆れた様な目でチラチラと青年に視線を送っていた。

 

 『思う存分呪われてみなよ。さあ、どうぞ?』

 

 「……い、いや、やめておきます。誰にも言いませんッ、許して下さいッ……!?」

 

 有無を言わさぬ青年の迫力に押し負け、気付けばひたすら謝罪の言葉を並べていた。

 何故だろう。悪さをやらかした覚えは無いのに、青年から放たれる負のオーラが、質問や反論の余地を与えてくれなかった。

 とにかく、青年の存在と、ハリーの持つ日記帳についての他言は、絶対にしてはいけないという事だけ脳裏に刻まれる。

 

 さっき日記帳が起こした現象と、青年の説明から考えて、間違いなく闇の魔術に関する呪いの本に違いない。下手に忠告を無視し、呪われるのはゴメンである。

 そうでなくとも、青年が怖過ぎてとてもじゃないが、誰かに漏らすなんて出来そうも無い。

 内心チビりかけているドラコの様子を確認し、青年は満足そうに頷いた。

 

 『よし、いい子だ。じゃあ、僕は消えるよ。日記について他言さえしなければ、それで良いから。ハリーと話しに来たんだろ?続きはどうぞ、ご自由に』

 

 そう言って、青年はドラコの肩にポム、と手を乗せた。いや、厳密にはその手はすり抜けてしまい、乗せる()()になっていたが。

 自分の体をすり抜けている青年の手を目にし、ドラコはまたまた身を縮めた。表情が歪に引き攣る。

 

 『ご自由に―――と、言いたいところだけど。……変な下心で友達を作りに来たんなら、すぐに退室するように。いいね?』

 

 正面から顔を覗き込まれ、嘘の返事は出来なかった。

 青年の真っ赤な瞳に、怯えた蛙の様な表情をしている自身の姿が映っている。

 

 「……は、ハイ。わ…分かり、ました」

 

 マルフォイ家の長男であろう者が、なんと情けない事か。

 もしも父にこの状況を見られれば、絶対に失望させてしまう。

 そうだと分かっていても、無様な醜態を晒し続ける自分を、取り繕う事など最早不可能だった。

 

 『君もまだ子供なんだから。そんな悪知恵なんか忘れて、素直に友達を作れば良いんだ……。じゃ、ホントに消えるよ。バイバーイ』

 

 最後の言葉は、これまでの青年の態度からは想像がつかない程、優しさが込められていた。

 先程まで氷の様に冷たかった様子が一変したので、思わず青年の顔を確認しようと視線を上げると―――

 

 「あ、……あ?」

 

 一度瞬きした後の視界には、もう誰も存在していなかった。

 コンパーメントの中には、自分とハリーの二人だけ。三人目だった青年は、煙の様に消えてしまっていた。

 無駄だと分かっていても、部屋の中に青年の姿を探してしまう。

 

 「………ゴースト?」

 

 考えられる可能性としては、それぐらいだが……。

 ゴーストにしては輪郭ははっきりしていたようだったし。あの連中独特の、全身銀色という訳では無かったし。

 

 

 

 

 そんな風に自問自答していると、ハリーがこちらに声を掛けて来た。

 

 「ねぇ……。ねぇ、ドラコ、って呼んでいい?」

 

 「え?」

 

 彼の方へ振り向く。日記を閉じ、モジモジと不安そうに体を揺らしている。

 そして、おずおずと片手を差し出して来た。

 

 「あの、さっきは怖がらせちゃってゴメン。あ、でもね、トム―――あ、あの人のコトね。トムも悪気は無いから……いや多分。少しはあるかも……?いや、ほんのちょっとだけ?だ、だから。―――仲良くしてくれたら、嬉しい……な」

 

 「………!」

 

 丸眼鏡の奥で、何かを期待する様な眼差しをこちらに向けてくる。

 前に己がしたのと同じ様に、手を差し伸べてくる。

 打算など微塵も無い、交友関係の構築要求。

 

 

 

 

 

 

 

 

 生き残った男の子の、懇願。

 

 それを聴いて。

 

 あの青年の忠告を思い出して。

 

 目の前の、ある意味では透明な少年を見て。

 

 

 

 

 ……変な策略とは一切無関係な友人を、本当は心の何処かで望んでいた、自分自身を改めて自覚した。

 

 マルフォイ家の名と地位を目当てに、いつも媚び諂ってきた連中とは違う、無垢なる友人。

 

 

 

 

 ドラコ・マルフォイは、この時。

 

 このコンパーメントに入った時から被っていた化けの皮を、初めて脱いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「―――あぁ。さっきは……いきなり、すまなかった。……こちらこそ、よろしく。ハリー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、純血の少年と、半純血の少年は手を握り合った。

 

 血筋や家系といった垣根を超えた、二人の友人がここに誕生したのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらくの間、ハリーはドラコと魔法界やホグワーツについて雑談に興じていた。

 

 ドラコはハリーと違ってズブズブの魔法界で暮らしていた為、実に色んな知識を蓄えていた。

 特に『クィディッチ』という、箒で空を駆け回り行う魔法界のスポーツの話は、非常に好奇心をくすぐられた。

 ドラコもクィディッチには大変ご執心の様子であり、入学後は寮の代表選手になりたいと考えているらしい。

 クィディッチについて怒涛の勢いで質問すると、彼は迷惑がらずに鼻高々と、1から10まできっかり説明してくれた。テンションも高々になっていった。よほどクィディッチが好きなのだろう。男の子らしい年相応の反応に、ハリーも釣られて高揚した。

 

 同年代の話し相手というものは、想像よりもとても素晴らしいものであった。

 ハリーが今までマグルに受けた扱いを話すと、ドラコは本気で怒ってくれた。

 

 「やっぱりマグルは野蛮だな。魔法使いの血を引く者を、そんな風に……」

 

 「あー、僕もあの一家は大嫌いだけど、マグル全員がそうじゃないと思うよ。あの人達は特に異常だけど……マグルの事、そこまで言わないであげて?」

 

 「……僕は今まで、魔法学校にはマグル生まれは要らないと教えられてきたし、自分でもそう思っていた。連中は僕らと違うって……。君は…そういう考えが出来るんだね」

 

 「僕もマグルの世界で育ってきたから……マグル全体を、あんまり悪く言う気になれないんだ。手紙を貰うまで、自分が魔法使いだなんて思いもしなかったから」

 

 「そうか……。しかし…不思議だな。どうして、よりにもよって英雄の君が、マグルのところに預けられたんだろう?」

 

 「なんか事情があるっぽいんだけど……ホント、何でだろうね?」

 

 血筋の話題になってから、ハリーはマルフォイ家がどういうものなのか尋ねてみた。

 すると、結構複雑な事情を抱えている家系だという事実を知った。

 

 ドラコの父親はかつて『例のあの人』の部下だったが、失踪後は「魔法を掛けられ操られていた」と証言し、罪を逃れた事。

 それが理由で、マルフォイ家は世間から快く思われていない事。

 その悪評を回復する為、父親は四苦八苦している事。

 

 名門の魔法使い一族も、色々と苦心しているらしい。

 あまり掘り下げて暗い話になるのもあれなので、ホグワーツについて話題を変更した。

 ドラコはこれも得意げに教えてくれた。

 

 ホグワーツは四つの寮があって、才能や性格によって、各生徒がそれぞれ振り分けられる事。

 マルフォイ家は代々スリザリンだったので、自分も入るならスリザリンが良いという事。

 ……『例のあの人』も、所属はスリザリンだったという事。

 

 実際に人の口からその話を聞いて、事前に知っていたハリーも流石に顔を顰めた。

 

 「ヴォル―――『例のあの人』も、スリザリン……」

 

 「……やっぱり、君にとってはスリザリンは『悪』になるかい?」

 

 ドラコは父と違って、『例のあの人』を支持している訳ではない。しかしやはり、スリザリンは自分が入りたいと望む寮だ。

 両親を殺されたハリーにとって、スリザリンは悪者の寮だという認識をされるのは、しょうがない事だとしても。

 ここまで打ち解けた相手に、スリザリンを望んでいるからという理由で、嫌われてしまったらどうしようと考えていた。

 

 しかしハリーは、少し悩んだ素振りを見せた後に、ドラコの言葉を否定した。

 

 「ううん。……僕の『友達』も、一応スリザリンみたいなものだし……」

 

 「あ、あぁ……もしかしてさっきの―――あっ、いや、何でもない。呪われるところだった……」

 

 先程ハリーと親し気に会話していた、ゴーストなのかも不明な謎のスリザリン生。

 彼のお陰か、ハリーはスリザリンに対して妙な偏見を持ち合わせていないようだった。ドラコは内心で安堵する。

 二人の様子からして、恐らくはかなり親しい間柄なのだろうが、如何せんその存在を無暗に語れない。

 呪われるのも怖いので、彼について尋ねるのは憚られた。

 

 「うーん。スリザリンって寮の一つに過ぎないんでしょ?そこに選ばれた全員が、『悪』ってワケじゃないだろうし…。そこまで嫌なイメージは、無いよ」

 

 「そうか。ハリーの両親はグリフィンドールみたいだから、多分君もそこになるんじゃないか?」

 

 グリフィンドール。

 勇敢さと騎士道精神を重んじると言われている寮だ。

 ハリーの両親は二人共、かつてそこに所属していた魔法使いでもあった。

 赤子のハリーを、命を懸けて守ってくれた。実にグリフィンドールらしい両親だ。

 

 「そうかなぁ。別に勇敢だとは自分でも思ってないけど…」

 

 「まあ、組み分けばっかりは、いざその時になってみないと結果は闇の中だね」

 

 「帽子を被るだけ、だったっけ?」

 

 「あぁ、そう。良く知ってたね。だから、実際の組み分けはあっという間に終わる筈さ」

 

 そこでドラコは、不意にチラリとコンパートメントの扉を見やる。名残惜しい気持ちを抑え、徐に席を立った。

 

 「ゴメン、僕が取ってた席に友人達を残してきたんだ。そろそろ帰らないと不審に思うかもしれない。ここらで一旦お別れだ」

 

 「あっそうか。ドラコは、もういっぱい友達がいるんだよね」

 

 「……本当の意味での友人は少ないけど、ね。じゃあ……、ハリー。また、ホグワーツで会おう」

 

 「うん!またね、ドラコ。ホグワーツでも、よろしく」

 

 多少乱れていた衣服をしっかりと整えると、ドラコはコンパートメントの扉を開いた。

 完全に退室する前に、その背中にハリーは声を掛ける。

 ホグワーツに到着する前に出来た、人生初めての学友へと。

 

 「ドラコ………あの、寮が違っても……その、」

 

 羞恥の余り、徐々に小さくなっていく言葉の続きを、振り返ったドラコが引き受けた。

 

 

 

 

 「どの寮になっても、君と仲良くしたいと思っているよ……ハリー。それじゃ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 紅の蒸気機関車が、夜の闇を切り裂く様に走っていく。

 

 ドラコが立ち去った後、ハリーは無人のコンパートメントでトムと筆談を交わしながら過ごしていた。

 不思議な事に、ドラコが居なくなってからは誰も入室してくる事は無かった。

 お陰で、彼以外の人間に日記帳を見られる事も無かったが。

 

 『トム……口封じの為とはいえ、何でドラコにあんなデタラメ言ったの?必要以上に怖がらせてさ。絶対、嫌がらせ半分入ってたでしょ』

 

 "へっ。どうせ僕ぁ、蛇目の男さ。捻くれてんだよ"

 

 『君が捻くれてるのは蛇目に限った話じゃないでしょ。絡まりまくった癖毛並みに捻くれてるんだから、今更ふてくされないでよ。あっ、ドラコの家は皆スリザリンなんだって。一応スリザリン同士で、トムもドラコと仲良くなれるかもよ』

 

 "スリザリン同士ですって。()()()にも言われたし。はーん、どうせ僕はスリザリン気質ですよ、ふーんだ"

 

 『もう、ふてくされないの』

  

 途中、車内販売でお菓子を購入したり、ペットのヒキガエルを探しに来た子供が扉を開けてきたり、ちょっとした出来事があった。

 ハリーにとっては、話し相手はいくら来ても良かったのだが、予想以上にヒキガエル探しは難航しているようだった。子供達は皆、ハリーが行方を知らないと聞くとすぐに通路へ身を引っ込めていった。

 ハリーはペットに梟を選んだが、それ以外を連れてきている子もいるらしい。しかしヒキガエルとは……これ如何に。

 

 ふと、今朝の出来事を思い出し、ずっと疑問だった事を尋ねてみる。ドラコとの会話でも、度々出てきた単語についてだ。

 

 『そういえばスリザリンで思い出した。トム、今日の朝、サラザール・スリザリンがどうとか調べてたよね?あれって人の名前?ホグワーツの寮の名前と、何か関係あるの?』

 

 "そう、アレはスリザリンだった"

 

 『スリザリンって、何?』

 

 "だから、アレだよ"

 

 『アレって、魔法使いの名前なの?寮の名前でもあるってコトは、ホグワーツに関わってる人?何で、本にはトムと同じミドルネームの、マールヴォロって人のところにスリザリンの名前が載ってたワケ?どういう繋がりがあるの?ねえ、サラザール・スリザリンって一体誰で、何なの?ちゃんと教えて、トム』

 

 "もう、しつこいな。髪の毛をクシでとかすと?"

 

 『は?えっ、と……。もしかして、()()()()?』

 

 "当たり。猫が人の足に頭を押し付けてる様子は?"

 

 『()()()()?』

 

 "ザッツライト。ハリー、入学日のせいか、頭の回転早くなってるじゃないか。じゃあね~"

 

 『トム、いい加減にしてよ。君、答え難いなら答え難いって、どうしてそう素直に書けないのさ?だから捻くれてるんだよ。言葉遊びして誤魔化すような狡猾な真似しないの、もう』

 

 なんてやり取りをしている間にも、ホグワーツ特急は徐々に速度を落とし、遂にその身を終着点であるプラットホームへと収めた。

 荷物は別に学校へ届けるという車内の声を合図に、ハリーは日記帳だけをポケットに突っ込み、通路へと飛び出した。

 結局、車内で仲良くなったのはドラコ一人だけだったが、ホグワーツに入ってからも色んな子と接する機会はまだあるだろう。

 そう考えながら、停車した汽車を抜け出し、夜の冷たい空気へと身を晒した。

 

 

 

 

 「イッチ年生!イッチ年生はこっちだ!」

 

 懐かしい声がした方へ振り向くと、引率が役目なのだろう。ハグリッドが汽車から出て来た生徒の内、一年生だけを誘導し始めた。

 彼に続いて狭い小道を下り、巨大な湖の畔へ辿り着く。

 向こう岸にはいくつもの塔がくっついている様に見える、壮大な城がその身を闇の中に置いていた。あれがホグワーツだ。

 いざホグワーツ城を目にした感動で、一斉に歓声が巻き起こる中、ハグリッドが岸辺に繋がれた小舟に乗るように指示した

 一隻に四人ずつ乗ったものの、皆は黙って城を見上げている為、特に私語は起こらなかった。ハリーの額の傷も、夜の闇が覆い隠していて、英雄だと気付かれ騒がれる事も無かった。

 

 真っ黒な湖面を滑る様に進んだ小舟は、やがて蔦のカーテンを通過して、暗いトンネルをくぐると船着き場へと到着した。

 

 「お前さん!このヒキガエルは、ひょっとしてお前さんのじゃないかい?」

 

 全員が船から降り立った後、ハグリッドがその内の一隻から蛙を引っ張り出して言った。

 忘れ物ならぬ忘れ生き物、だ。

 

 「僕のトレバーだ!」

 

 コンパートメントで、ヒキガエル探しに追われていた子供の一人が、歓喜の表情で飛び出した。どうやら、無事に発見されたらしい。

 その後、再びハグリッドの引率の元、生徒達はホグワーツへと着実に近付いていった。

 岩の路を登り、石段も登り、ようやく辿り着いた、ホグワーツへの入口であろう巨大な扉の前で、一度立ち止まる。

 

 「ようし、皆ちゃーんと居るな?いよいよこっからホグワーツだ。楽しんでこい!」

 

 

 

 

 ハグリッドがその大きな拳で、まるでパスワードを入力するかの様に、扉を三回叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして扉が開かれ―――

 

 

 

 

 

 




朗報、フォイフォイと友好を結ぶ。

ハリーがウィーズリー家の助け無しでスイスイ乗車する
→ロンが入室するタイミングズレる
→原作より早めにフォイフォイ来る
→フォイフォイが先に居た為、ロンは近寄らない
→ロンが居ないので、ハーマイオニーも魔法を掛ける様子を見に入って来ない
→結果、ドラコが去る頃には、皆大体自分の席を獲得しているので、ハリーのコンパートメントに同席する子が居なくなった

てな感じです。

ハリーにとって初めて接した生身の学友がドラコで、下心丸出しだった彼は脅されて、本人も名声目当てじゃない友人を欲してたので、見事に意気投合。
主人公も、原作のスリザリンに対するハリーサイドの偏見には思うところがあったので、
事前にハリーに対し、寮に対する差別意識を起こさせないよう教育済みです。
主人公は、「自分がスリザリン向きと言われるのは嫌だけど、スリザリンの人間全員を否定してる訳ではない」という考え持ち。

フォイフォイと拗れると、原作みたいに彼とのトラブルに7年間付き合わされる羽目になるので、仲良くなった方が効率的だよねーって狡猾な思考に基づいた結果。
臆病かつ、真の友を欲しがってたフォイフォイなら、ちょいと脅して下心を封じてやれば、ハリーと良き友になれるのではと見抜いたので、本編で素直に身を引いてます。
フォイフォイは何だかんだ憎めない奴ですし、根っからの悪人じゃなかったですしね。
原作終了時点だと、挨拶する程度の仲には復縁してますし、こういう展開もアリかな、と。


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Page 15 「組分けだョ!全員集合」

小説『謎のプリンス(翻訳版)』に出てきた、とある人物の台詞を一部、どこかにそのまま流用してます。
お手元にお持ちかつお暇な方は探してみて下され。
第13章と言えば、誰の台詞かはモロバレル。
察しの良い方は多分手元に無くても分かるかもしれない…

これからもちょいちょい原作と違う展開が入ると思います。
でも基本的な流れは同じです、多分…。『秘密の部屋』までは。
『アズカバンの囚人』に関してはまだ構想中なので、何とも言えませんが。

まーた2万字越えちゃったけどこれでも削った方なんですよ…(泣


 "―――夢を見る。ゆめを見る。ゆめをみる。"

 

 

 

 

 "繋ぎ合わせた手、無機質な建物、真紅の光、引き裂かれる痛み、交わした契約。"

 

 

 

 

 "……嗚呼、ボクは一体、何の為に、ここに。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「"彼"が来た」

 

 

 

 

 ホグワーツ敷地内に存在する、広大な森林地帯である『禁じられた森』。

 夜の帳がすっかり落ち、暗闇の支配下となったその森の一角で、とある生き物は一人呟いた。

 

 その正体は、半身半馬の姿を持つ知的生物―――ケンタウルスだった。

 

 サファイアの光が宿った、宝石その物を連想させるその目は、夜空を覆いつくす星々へと注がれている。

 観察というよりも、まるで監視するかの様な鋭い目付きは、傍から見ると少し恐怖を感じる程だった。

 天然のプラネタリウムをじっくり数分間眺めていたかと思うと、不意に視線が別の方向へ逸らされる。

 己の真正面。ケンタウルスは徐に、変更した視線と同じ方角へ歩き出した。四足に携えた蹄が漆黒の土を踏み締め、馬と変わらぬ足音を響かせる。

 

 視界を遮る木々の間をしばらく進むと、開けた丘へと出た。森の中とはいえこの場所であれば、遠くに聳え立つホグワーツ城の全貌を捉える事が可能だ。

 キラキラと輝く窓が光源となり、城の窓だけを見ると人工的な星座に見えた。その窓の一つへ、ケンタウルスの視線は射抜く様に向けられる。窓の内側に居るであろう、『何か』を見通そうとしているかの如き様子だった。

 再び、己以外は虫一匹居らぬ静寂に満ちた空間で呟く。

 

 「天は―――惑星は、()()()()()()()まで我々に告げるとは……」

 

 独り言は悩ましげに、不安げに紡がれた。ユラリと、一度だけケンタウルスの尾が揺れる。

 サファイアの瞳が、品定めするかの様にすっと細められる。しかしそれは一瞬の事で、すぐに元通りに開かれると、視線は頭上に広がる星空へと再び上がった。

 

 「"死を越えし契約者"―――どんな者であれ、見極めねばなるまい」

 

 星空に、一体何を視ているのか。それは、彼らケンタウルスにしか解らぬ事だ。

 

 そうして城と空を行ったり来たりしていた彼の瞳が、やがてそのどちらでもない物を捉えた。

 城が見える方向とは反対の、森の方。ただでさえ、日中でも生い茂る樹木のせいで暗い森は、夜の帳によって益々暗黒を湛えている。しかしこの森で生きるケンタウルスにとって、それは大した問題では無かった。

 闇に慣れた視覚を以て、大木の根本に倒れ伏す生き物を認識する。ケンタウルスと同じ四足を持つ姿。額から生える立派な一本角以外は、普通の馬の様に見える。

 美しい鬣と毛並みを併せ持つその生き物は、悲しい事に、既に息絶えていた。胴体から流れる血液と、ダラリと弛緩した長い足がそれを明白に証明している。

 

 ケンタウルスはその有様を、慈しむ様な、悼む様な目で見つめながら近付いて行った。

 周辺には、死に達する痛みから暴れたせいで付いたであろう、生き物の血痕があちこち付着している。見ているだけで痛々しいものであった。

 

 「『捨てた名を与えられた者』、『新しき名を創造した者』……やはり、惹かれ合う運命か」

 

 ズルリ、と、闇の奥で何かが蠢く音がした。

 

 そちらへ目を向けると、落ち葉の上に点々と、シルバーブルーの液体が丸い染みを作っていた。あの生き物の血だ。

 命を長らえさせる、『ユニコーン』の血―――それを目的として、何者かが彼の生き物を襲撃し()()()()()()()証拠だった。

 ユニコーンが寿命で死したならば、血飛沫が撒き散らされる事など無いし、まるで足跡の様にこうして血痕が残る事もあるまい。

 

 ケンタウルスは、同じ森に棲む生き物の死骸を前にして、その何者かを追随する事はしなかった。あたかも必要が無い、とでも言う様に、沈黙を保ったまま立ち尽くしていた。

 そうして、何者かが去った先に広がる闇をしばらくの間眺めていたかと思えば、不意に踵を返す。

 

 「"彼"()()()()()()()()()………その時を、今は待ちましょう」

 

 

 

 

 一頭のケンタウルスが立ち去った森の奥深く。

 

 

 

 

 黒いマントで全身を包んだ様な漆黒の影が、()()

 

 まるで、ご馳走が運ばれてくるのを待ち切れないという視線を、ただひたすらに。

 

 森の向こうに聳え立つ古城へと注いでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハリー・ポッターは闇の中にいた。

 

 

 

 

 より詳しく表現するならば、組み分け帽子を頭にすっぽりと被せられて、視界には闇しか映らなかった。

 

 

 

 

 待ちに待ったホグワーツ魔法魔術学校の入学式。

 新入生が必ず通る最初の道である、組み分けの儀式。今はその真っ最中である。

 

 

 

 

 あの後、ハグリッドから引率の役目を引き継いだマクゴナガル先生によって、新入生一同は組み分けと食事を行う大広間へと案内される事になった。

 先生はハリーの姿に気付くと、一瞬だけウインクをしてくれた。覚えてくれていたらしい。今まで除け者にされ続けてきたハリーにとって、それはあっという間に顔を真っ赤にさせる原因となった。

 無意識に、ポケットの中の友人の感触を片手で確認しながら、ハリーは他の子供達と共に在学生と先生方が待つ大広間の方へと続いた。

 大広間への入口である大きな扉の前まで来て、マクゴナガルは子供達に振り向くと挨拶と簡単な説明をした。

 

 「ホグワーツへの入学、おめでとうございます。早速ですが、新入生の歓迎会の前にやるべき事が一つ。これから四つある寮への組分けが行われます。今日この日から、ここホグワーツが貴方達の家と言っても過言はありません。そして、寮生は家族の一員とも言えます。もう一つの家となる寮に貴方達を組分けする大事な儀式ですから、真摯に臨むように」

 

 他にも、寮に関する説明を聞かされた。

 

 ホグワーツでの善行―――所謂、授業で良い成績を取ったり、評価される行動をする―――を重ねると、その生徒が所属する寮に得点が与えられる事。

 ホグワーツでの悪行―――学校の規則や校則違反を重ねると、それを犯した生徒の所属する寮が減点されてしまう事。

 学年末の時点で一番得点の高かった寮は、名誉ある寮杯を授かる事。

 

 『寮杯を目指して切磋琢磨し、己が寮にとっての誇りとなれるよう過ごすように』

 

 最後にそう付け加えて、マクゴナガルは一列になって付いてくるよう促した。

 ようやく扉が開かれ、新入生達は流れる川の様に大広間へと入って行った。

 

 大広間の光景は、ハリーにとって一生忘れられない程素晴らしい記憶となった。

 

 空中に浮かぶ数多の蝋燭が広大な部屋を照らし尽くし、電球などとは比にならないレベルで明るく幻想的な空間を作り出している。

 並べられた四つの長テーブルには既に上級生達が着席しており、黄金に輝く皿や杯が準備されていた。それらに反射した光が、キラキラと網膜を刺激して目が眩む程だった。

 驚くべきは、天井。

 屋内の筈なのに、頭を上げるとそこにはテレビや本などでは絶対に見られない、無数に煌めく星とそれを際立たせる夜の闇が広がっていた。雲一つ無く、天文学に精通している者ならば涎が出る勢いで歓喜に震えたに違いない。マグル顔負けの、天然プラネタリウムである。

 

 「本当の空に見える様に魔法が掛けられているのよ―――」

 

 新入生の列の中から、誰かが得意げに説明している声が聞こえた。声の高さからして、女の子だろう。

 入学前から事前知識を溜め込んでいるなんて、意識の高い子もいるんだなぁと、ハリーは天井に心を奪われながらそう思った。

 

 ふと気が付くと、いつの間にか新入生達は、先生達の座る長テーブルの手前辺りまで引率されていた。

 マクゴナガルが新入生達の前に、スツールと、その上に古臭いボロボロのとんがり帽子を置く。

 トムやドラコから聞いていた、組分け帽子だ。あれを順番に被っていき、自分がどの寮に適性があるのか調べられ、組分けを受けるのだ。

 周りを見回すと、不安げな表情をした子達が何人かいる。組分けで一体何をするのか知らぬ子もいるのだ。確かに、いきなりこんな継ぎ接ぎだらけの帽子を出されても、困惑するだろう。

 

 上級生達や先生方は、全員帽子の方をじっと見つめていた。ハリーもそれに倣い、帽子を見る。新入生達も閉口し、大広間は完全な沈黙に包まれた。

 その沈黙は、ひとりでにモゾモゾと蠢き出した帽子によって破られる事になった。なんと、帽子の皴が口の様に開いて、声帯も無いだろうに歌い始めたのだ。

 

 

 

 

 私はきれいじゃないけれど

 人は見かけによらぬもの

 私をしのぐ賢い帽子

 あるなら私は身を引こう

 山高帽子は真っ黒で

 シルクハットはすらりと高い

 私は彼らの上をいく

 ホグワーツ校の組分け帽子

 君の頭に隠れたものを

 組分け帽子はお見通し

 かぶれば君に教えよう

 君が行くべき寮の名を

 

 グリフィンドールに行くならば

 勇気ある者が住う寮

 勇猛果敢な騎士道で

 ほかとはちがうグリフィンドール

 

 ハッフルパフに行くならば

 君は正しく忠実で

 忍耐強く真実で

 苦労を苦労と思わない

 

 古き賢きレイブンクロー

 君に意欲があるならば 

 機知と学びの友人を

 ここで必ず得るだろう

 

 スリザリンではもしかして

 君はまことの友を得る

 どんな手段を使っても

 目的遂げる狡猾さ

 

 かぶってごらん!恐れずに!

 おろおろせずに、お任せを!

 君を私の手にゆだね(私に手なんかないけれど)

 だって私は考える帽子!

 

 

 

 

 帽子の独り歌唱が終了すると、拍手が巻き起こった。スダンディングオベーションと言う程では無かったが。

 

 「ABC順にこれから名前を呼びますので、椅子に座り組分けを受けて下さい」

 

 再び物言わぬ道具となった帽子を持ち上げながら、マクゴナガルが手元の羊皮紙に書かれているであろう生徒名を読み上げた。

 

 「アボット、ハンナ!」

 

 記念すべき最初の組分けだ。ハリーは目を見張って彼女の様子を観察しようとした。

 金髪をおさげにした少女が、椅子に座り帽子を頭に被せられる。

 

 「ハッフルパフ!」

 

 一瞬の沈黙の後、帽子が叫んだ。つい先程も声を出していたので、ほとんどの新入生達は今更驚かなかった。

 

 四つの内、一番右のテーブルから歓声と拍手が沸き起こり、少女はそちらへ向かい着席した。あそこがハッフルパフの席なのだろう。

 やはり、帽子を被るだけで寮を決められるのだ。特に準備しなければならない事はない。ハリーはほっと息を吐き、自分の番が来るのを今か今かと待った。

 

 レイブンクローと言われた子は、左端から二番目のテーブルに着いた。帽子の歌通り、賢そうで物静かな雰囲気の生徒が集っている。それでも、新入生を拍手で迎えている辺りはフランクっぽい。

 グリフィンドールは一番左の席らしい。何故かやけに目に入る赤毛の双子が、新入生が来る度に口笛を吹いていた。どことなく、明るい雰囲気だ。

 ドラコが望んでいるスリザリンは―――正直、遠くから上級生達を見ているだけでは、雰囲気を掴みづらかった。他の三つの寮とも、何となく空気が違う気がする。

 

 帽子はすぐに寮の名前を上げるだけではなかった。組分けに時間を掛ける子が何人かいるのだ。中には、帽子を被ったまま一分過ぎた少年もいた。この時間差は何なのだろう、とハリーはそこだけが心に引っ掛かった。

 ヒキガエルを探していた、どことなく自信なさげな男の子は時間の掛かる部類だった。それでも遂にはグリフィンドールと叫ばれ、覚束ない足取りでテーブルへ向かっていく。

 

 そして、汽車で知り合ったドラコの番がやって来た。

 他の新入生と違い、呼ばれると威厳たっぷり自信たっぷり、何も恐れていないという表情を浮かべて帽子の元へ歩いて行った。

 ハリーは素直に感心した。誰だって、いくら事前に何をするか分かっていても、いざその時となると不安に駆られるものだ。それを隠しているのか、本当に気に掛けていないのか定かではないが、ああも自信満々に組分けに臨めるのは羨ましいと思った。

 

 帽子は、ドラコに完全に被せられる寸前、頭に触れるか否かといったところでスリザリンの名を上げた。

 椅子を降りたドラコは、やはり満足げにスリザリンのテーブルへズンズン歩き、入学前からの友人なのだろう二人組の男の子の隣に座った。その目が、一瞬チラリとハリーの方を向いた気がしたが、こちらから見ても背の高い上級生に隠れて良く分からなかった。

 

 段々と残っている生徒が少なくなっていったところで、ようやくハリーが呼ばれる時が来た。

 

 「ポッター、ハリー!」

 

 心臓が口から飛び出そうになるかと思った。フルネームで呼ばれる機会などほとんど無いので、耐性が付いてないのだ。

 それでも必死に、先程のドラコの様子を思い浮かべ、緊張をひた隠しにし前へ進み出る。彼の事を思い出すと、少し勇気が湧いてくるみたいだ。

 

 やはりというか、広間中がハリーと呼ばれた自分に向けて、一斉に無遠慮な視線を送って来た。ひそひそ声もあちこちで上がる。

 分かっていた事だが、いざこんなに注目されると、『英雄』の名など捨ててしまいたいと頭の片隅で望んだ。

 赤子の自分に出来る事など何も無かっただろうに、勝手に有名人扱いするのはやめて欲しかった。何せ今でも、『英雄』だなんてあまり自覚が無いのだ。とても恥ずかしい。

 そんなハリーの心中を知ってか知らずか、マクゴナガルは歩いてきたハリーに向けて微笑んだ。途端に緊張が半分程解けた気がする。ハリーは軽く会釈をして椅子に座った。

 

 帽子が、遂にその身をハリーの頭に乗せた。

 瞼の上まですっぽり被せられて、ハリーの視界はこちらを眺めてくる上級生達ではなく、暗闇を見る事となった。正直この方が有り難い。

 

 『フーム、こいつは難しい……』

 

 頭の中に、低い声が響いた。

 他の子達の様子を見ている限りでは、帽子は寮の名前以外は口にしなかった筈だ。だとすれば、これは恐らく帽子を被った者にしか聞こえない、帽子からの語りなのだろうか。

 どちらにせよ、自分にしか聞こえていないのであれば、むしろそっちの方が良い。ハリーは闇の中で言葉の続きを待った。

 

 『非常に難しい。勇気がある。頭も悪くない。才能を持っているし、自分の力を試したいとも思っているね?なるほど、面白い……さてさて、どこに入れたものかな?』

 

 ハリーはただ黙り込んで、受け身の姿勢で帽子からの言葉を待つだけだった。

 なのに、それを遮る不思議な事が起こった。

 

 闇の中。

 帽子に視界を覆われている為、目にしているだけの暗闇なのに、そこに突然青白い人間の顔が浮かび上がったのだ。ハリーは飛び出そうになる悲鳴をかろうじて呑み込んだ。

 謎の顔は、霧がかった様に霞んでいる。老若男女の判別もつかない。何者か解らぬそいつは、酷く掠れた声で喋り出した。

 

 『スリザリンに……それが運命なのだ……』

 

 有無を言わさぬ圧力を放ちながら、青白い顔が距離を詰めてくる気がした。逃げ出したくてたまらなかったが、今は大勢の視線の中であり、組分けの最中だ。そんな事は出来なかった。

 むしろ、これは全員に起こる組分けの試験だから、逃げてはいけないのかもしれないと、ハリーは場違いにもそう思い込んでいた。

 帽子を被るだけとはいえ、被った後何が起こるかは何も聞かされていないから、ハリーはとんでもない勘違いをしていたのだ。

 

 『スリザリンに入らなくてはいけない……』

 

 ますます近付いてくるその顔に、試験だと思っているハリーも流石に限界だった。

 

 頭が、心が、本能が叫んでいる。この声に従ってはいけないと―――!

 

 『嫌だ!!!』

 

 叫んだと思ったその大声は、しかし自分の口から紡がれる事は無かった。帽子が頭の上でピクリと跳ねた気がする。

 

 『スリザリンは嫌かね?』

 

 あ、とハリーが我に返り、弁明をするよりも先に、帽子が語り出す。いつの間にか、青白い顔は跡形も無く消えてしまっていた。

 

 『スリザリンに入れば、君は偉大になれる可能性がある。間違いなく、その道が開けるのだ。それでも嫌かね……?』

 

 思わず否定してしまったが、あれは条件反射みたいなものだった。

 本当は、帽子の告げるままに従う筈だったのに。

 

 しかし、すっかり混乱の最中に落とされたハリーは、咄嗟にそんな返事を返す事は出来なかった。

 折り合いのつかないグルグルとした思考と、貫かれる沈黙を、開心術に長けた帽子は『拒絶』の意と受け取った。

 

 『ではよろしい。君が望むのであれば……』

 

 ハリーが止める間もなく、帽子は広間で高々と叫んだ。

 

 「グリフィンドール!」

 

 ぱっと瞼に差し込む強い灯りに目を開けると、いつの間にかマクゴナガルがハリーの頭から帽子を取っていた。

 数秒茫然としていると、彼女が「グリフィンドールはあちらですよ」とハリーを優しく立たせたので、さっきの現象を告げる事も出来ず、ハリーは未だ混沌とした思考の中でテーブルへふらふらと向かった。

 

 何が起きたのか、自分でもさっぱり分からない。

 

 そんな考えばかりに囚われているハリーは、自分を歓迎する盛大な歓声に気が付かなかった。

 何とかテーブルに辿り着くと、監督生だと名乗ったパーシーという上級生が、ハリーと握手をして席に案内してくれた。

 

 「まさか君が来てくれるなんて、嬉しいよ!これからよろしく、ハリー!」 

 

 赤毛の双子も口笛だけでなく、「あのポッターを取ったぞ!」と大声ではしゃいでいた。その様子に、ハリーのズブズブに沈みまくった気持ちがいくらか浮上してくる。

 

 ふとスリザリンの席を見ると、ドラコが目に入った。

 彼は上級生と既に馴染んでいるようだった。魔法界で有名なマルフォイ家なので何らおかしくはないし、彼自身そういう繋がりを重視していた。

 楽しそうに会話に興じているドラコが、同じ様にこちらに目を向ける。上級生が視線を外した一瞬の間だけ、ハリーに手を振ってくれた。

 反応の遅れたハリーが慌てて手を振り返すと、ドラコの口角がさっきよりも上がった気がする。別の上級生に声を掛けられ、ドラコの視線はそれきりスリザリン以外に向けられる事は無かった。

 

 「グリフィンドール!」

 

 自分と同じ寮の名前が聞こえてきて椅子の方を向くと、赤毛の男の子が心底ほっとした様子でこちらへやって来るのが見えた。

 ハリーもグリフィンドールの一員として、皆と一緒に拍手をして迎える。男の子は隣に座った。

 

 「ロン、やっと来たな。偉いぞ」

 

 パーシーがロンと呼ばれた子を元気付ける様に声を掛けた。

 話を聞く限り、どうやら双子とパーシーとロンは、同じ血を引く兄弟で純血のウィーズリー家らしい。一番下の妹だけが、まだホグワーツに入学していないんだとも聞いた。

 

 「ウィーズリーはみーんなグリフィンドールだったんだ。ロンも選ばれて安心したよ!」

 

 「うわっ、スゴいね。兄弟全員同じ寮って、縁起が良いんじゃない?ね、えっと……ロン?」

 

 ドラコ以外の同年代の子と話すのは初めてだ。ハリーはロンに恐る恐るといった調子で話し掛けた。

 

 「ロナルド・ウィーズリー。ロンでいいよ……君、ホントにハリー・ポッターなんだね……僕、さっき思わず耳を疑っちゃった」

 

 ロンの青褪めていた頬に血の気が戻っていく。グリフィンドール以外に選ばれたら、とでも不安になっていたのかもしれない。

 

 「ねぇ、あの傷跡って、その、あるの?今も……」

 

 「うん、ほら、額のここに……」

 

 興味津々な様子のロンの顔が、こうしている間にも健康的に戻っていくのを見て、ハリーは素直に前髪をかき上げて額を晒した。それを見ていたグリフィンドールの面々が、感嘆に似た声をあちこちで漏らす。

 

 「うわーお、ちゃんとあるんだ!おったまげー!」

 

 「こらロン、見世物じゃないんだぞ。こういう場所でそういうのは慎めよ」

 

 パーシーが監督生らしくロンを窘める。ロンも「そりゃそうだ」といった感じで、申し訳なさそうに肩を竦めた。ハリーも自分に注がれる好奇の視線に気付き、すぐに前髪を下す。

 

 そうこうしている間にも組分けが進んでいく。

 最後の組分けを飾ったのは、Zの名を持つ「ザビニ、ブレーズ」だった。彼はスリザリンに振り分けられた。マクゴナガルが帽子と椅子を片付け始める。

 

 スリザリン……もしも自分が否定しなければ、あそこに……

 

 そんな思考に囚われかけたハリーを、くう、という腹の虫が邪魔をした。そういえば汽車でお菓子を口にしてから、何も食べていない。

 トムとの筆談で少なからず魔力を消費している事もあり、空腹感を認識してからは途端に全身の力が萎んでいくのを感じた。

 その気持ちを見透かしたかの様に、校長であるアルバス・ダンブルドアが立ち上がって晩餐の開始を告げた。半月型の眼鏡を掛けた、長い髭を蓄えた老人だ。ザ・校長といった感じが、見るだけでヒシヒシと伝わってくる。

 

 彼の合図と共に、空だった皿に料理が一瞬でどっさり盛られる。一体どうやって食べ物が出て来たんだ、という疑問は、空腹に耐え兼ね刺激された己の食欲によって頭の隅に沈んでいった。

 ハリーは初めて目にする大量の料理を、少しずつだが確実に自分の皿に取ってがっついた。ダーズリー家では満腹感など夢のまた夢だったのだ。多少みっともなくても、この食欲は今日いっぱい抑えられそうにないし抑える気は無かった。

 

 「美味しそうですねぇ」

 

 その声と謎の悪寒を感じ振り向くと、銀色に輝く男性が宙に浮かんでいた。少し透き通っているその体は、不完全な実体化をするトムを連想させた。そのせいか、ハリーは不思議だと思ったものの特別驚かなかった。

 

 「ゆうれい?」

 

 ステーキを頬張りながら尋ねると、ひだ襟服を纏った男性は自己紹介をしてくれる。

 

 「グリフィンドール塔に住むゴーストです。私の様なゴーストが、それぞれの寮に一人ずついるのですよ。おっと、名乗るのを忘れていました……私はニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿。もう食事も出来ない身ですが、やはり美味しそうな表情を浮かべる子供達を見ると、懐かしいものですねぇ…」

 

 食事が出来ない事を嘆きつつも、紳士的な口調で名乗ったニコラスにロンが横槍を入れる。

 

 「ほとんど首無しニックだ!」

 

 物騒な単語が聞こえたが気のせいだろうか。しかし、「どうしてほとんど首無しなの?」と尋ねて来た別の生徒の声によって、それが気のせいではないと思い知らされる事になった。

 

 「つまり、こうだからですよ」

 

 ニコラスが自分の左耳を引っ張る。するとどうだろう、頭が首から外れ、箱が開く様にパックリと割れたのだ。首の皮一枚、というより首の皮1cmのところでギリギリ繋がっているのがまた恐ろしい。見慣れている上級生は苦笑を浮かべ、新入生は声を上げて驚愕を露わにする。

 どうやら切れ味の悪い斧で処刑されたお陰で、完全に切断されなかったらしい。そんな生涯を終えた人間が、よくもここまで自分の惨状を晒せるものだと新入生達は皆思った。 

 

 やはりホグワーツは不思議な事でいっぱいだ。ハリーは、広間を飛び交う様々なゴースト達の様子を楽しみながら食事に勤しんだ。

 

 ニコラスは、スリザリンに六年連続で寮杯を取られているから、今年こそは頑張って欲しいとグリフィンドールの新入生らに激励を飛ばしていた。

 スリザリンのゴーストは血みどろ男爵と呼ばれていて、名前の通り衣服が銀色の血に塗れている。マルフォイの隣に座っていて、彼は何だか寒そうにしていた。ゴーストというのは、近くにいると体感的に気温が低くなった様な錯覚をさせられるが、あの様子を見る限り錯覚じゃないのかもしれない。

 

 お腹が膨れてくると、体は正直だ。空腹が満たされると、今度はまだ満たされていない睡眠欲が顔を出してくる。重くなってきた瞼を擦って、ハリーは眠気覚ましにと、先生達が座るテーブルの方を観察する事にした。

 

 ハグリッドはハリーと目が合うと、飲みかけのゴブレットから口を離してサムズアップしてきた。

 マクゴナガルはダンブルドアと何やら話している。校長と副校長の立場だ、学校に関する何かの話だろうか。

 紫のターバンを頭に巻いた謎の先生も、別の先生と会話をしていた。

 見る者に陰気な雰囲気を与える先生だ。ねっとりした黒髪に、真っ黒な長袖とマント。全身真っ黒で、「実は悪い魔法使いだ」とカミングアウトされても何もおかしくはない男が、不意に無数の生徒の中からハリーだけを見付け目を合わせてきた。

 

 「あ、イタッ……!」

 

 目が合った瞬間、ハリーの額が痛みを訴え出した。反射的に片手で傷を抑える。

 

 「ハリー?どうした?」

 

 パーシーが顔を覗き込んで来る。痛みはほんの一瞬の事で、すぐに消え去ったので「なんでもない」と返事を返した。

 そういえば、トムに触れられた時もこうして傷が痛んだ記憶がある……。あの現象と、何か関係があるのだろうか?

 考えても答えは出ず、むしろ痛みのお陰で良い眠気覚ましになった、と気持ちを切り替える事にした。

 しばらくあの黒い先生を見ていたが、彼はもうこちらに目を向ける事はしなかった。何の先生かは分からないが、授業でいつか逢う事になるだろうか。

 そう思って、ハリーはパーシーに先生について質問するのはやめた。彼ならきっと、快く答えてくれたに違いないだろうが。

 

 やがて食事の時間が終わり、テーブルから料理が忽然と姿を消した。

 ダンブルドアが立ち上がったので、生徒達が私語を打ち切る。

 

 「新学期を迎えるに辺り、新入生に知らせておかねばならん事がある。『禁じられた森』には立ち入らぬように―――何人かの上級生にも同じ事を注意しておこう」

 

 その言葉に、双子が互いに目配せをするのをハリーは見た。パーシーとロンの会話にも、二人は度々悪戯などで先生に叱られているとも聞いた。どうやら、学校からは問題児という認識をされているようだ。

 

 それから、廊下で魔法を使わない事。

 今学期の二週目に、クィディッチ―――魔法界のスポーツ―――の選手選抜があるので、参加希望の生徒はマダム・フーチに連絡しておく事などを告げて、最後におかしな事を注意した。

 

 「痛い死に方をしたくない者は、今年いっぱい四階の右側の廊下には入らぬ事じゃ」

 

 痛い死に方を遂げてしまう場所が、何故子供達でひしめく学校内に存在するのか。

 ハリーは問いたくなる気持ちを抑えていたが、それはパーシーも同じらしい。立ち入り禁止の場所がある時、必ず説明があったそうだ。こういう風に理由を伏せられるのは、彼にとっても初めてで難しい顔をしていた。

 

 ダンブルドアは注意事項を全て伝えると、校歌斉唱を促した。

 各自好きなメロディーで歌って良いそうだが、生憎ハリーの眠気でボケかけた頭では、上手い事歌うのは無理だった。歌い終えた時、歌詞など最早覚えていなかった。

 ただ、全員バラバラに歌っていて、最後に葬送行進曲で歌っていた双子が残ったのは記憶に残っている。

 

 校歌斉唱が終わると、ダンブルドアは新入生の歓迎会も終了した事を告げた。

 各自、それぞれの監督生達が新入生を案内し、寝室となる寮へと連れて行く。

 

 グリフィンドールの一年生はパーシーに続いて大広間を出た。

 階段を上がったり、隠しドアを通り抜けたり、また階段を上がったり。疲労困憊の足を何とか引き摺り、遂に廊下の突き当りに辿り着いた。

 そこには一枚の肖像画が掛かっていた。ドレスを着ている太った婦人の絵だ。

 

 「合言葉は?」

 

 なんと、絵が動いて喋った。これも魔法なのだろうか。

 ゴーストが飛び回る学校だ、いちいち驚いていては身が持たない。というか、眠くて驚く気力も無い。

 微妙な反応をしているハリーの前で、パーシーが婦人に向かって合言葉を唱える。

 

 「カプート ドラコニス」

 

 すると肖像画が開いて、丸い穴が姿を現した。そこを潜ると、ようやくグリフィンドールの談話室へと出る。円形の部屋に、ソファーの様な肘掛け椅子がたくさん設置されている。

 

 「荷物はもう届いているから、心配はいらないよ。今日はゆっくり休んで、明日から始まる授業に備えるようにね」

 

 パーシーがそう言って、先に一年生を部屋に続くドアへ案内する。 

 

 常識というか当然というか、部屋は男女別だった。ハリーやロンは男子寮のあるドアへ入り、螺旋階段を上っていく。

 てっぺんまで上がると、天蓋付きのベッドが五つある部屋へ辿り着いた。

 荷物であるトランクはベッドの傍に置かれている。ハリー達は自分のトランクがある近くのベッドに向かう。

 疲れているのはハリーだけではないようで、同部屋となった4人も同じだった。皆トランクからパジャマをさっさと取り出し、すぐに就寝の準備へと取り掛かっていく。

 

 「今日はスゴかったね。あんなに食べたの、僕初めて」

 

 ハリーはベッドのカーテン越しにロンに言った。ロンが頷いた途端、彼の腕に抱かれているネズミがシーツに噛み付いた。

 

 「コラ、スキャバーズやめろ!」

 

 ロンのペットらしい。スキャバーズと呼ばれたネズミはハリーを見付けると、急に大人しくなってロンの腕に戻った。

 

 「何だこいつ、いきなり暴れたり大人しくなったり……。家と違うから興奮してるのかも」

 

 ロンはスキャバーズの体調管理の為か、一言「おやすみ」と告げるとカーテンを閉めて床に入った。ハリーも挨拶を返し、同じ様にカーテンを閉める。

 

 あまり時間を置かず、他のベッドから規則正しい寝息が聞こえてきた。

 ハリーはというと、疲れている筈なのに中々寝付けなかった。スキャバーズの様に、ダーズリー家とは違う環境に放り込まれて興奮しているせいかもしれない。

 

 しょうがないので今日の報告も兼ねて、日記帳へ書き込みをする事にした。トランクから羽根ペンとインク壺を引っ張り出す。

 

 

 

 

 『トム、やっと組分けが終わったよ』

 

 "おっ、それでどうだった?"

 

 『グリフィンドールだった』

 

 "お、おぉ……"

 

 何か微妙な反応を返された。

 

 "ドラコと仲良くしてるから、僕はてっきりスリザリンに入れられるかと思ったけど……余計な心配は要らなかったみたいだな"

 

 『スリザリンだと駄目なワケ?』

 

 "別に駄目じゃないけど……君の両親を殺した奴の出身寮だぞ。本当に、何とも思わず、スリザリン行きは受け入れられるって言える?"

 

 『それは……その……』

 

 ハリーは、組分けの最中に起こったあの出来事を話そうか迷った。

 突然途切れた書き込みに、トムが心中を察したのか先に問うてきた。

 

 "……何か迷ってる?"

 

 図星だ。文字の途切れだけでここまで気付くなんて、彼は相当目聡い。

 

 "ハリー……何かあったね"

 

 『何で分かるのさ?』

 

 "だって文字が平常時より震えてるから。どうしたんだ?グリフィンドールだったからって、フォイフォイに陰口でも言われた?"

 

 『それは絶対無かったよ。震えてるって、別にいつも通りの文字だって。何言ってんのトム』

 

 "僕は君と違って、書き込まれた文字を目視してる訳じゃないんだよ。意識に直接入って来るんだ。細かい筆跡もばっちり筒抜けだからね?"

 

 こうも具体的に説明されてしまっては、隠し通す事も無理だろう。ハリーは大人しく全部白状する事にした。

 

 "ふん……ふんふん……顔が出て来て、スリザリンに行けと……"

 

 『あれって……やっぱり変、だよね?』

 

 "僕も知識だけで、組分けされた体験は無いけど……そんな現象が起きるなんて、聞いた事も無い。多分、君だけに起こったんだと思う"

 

 『でも、多分他の人に言っても、信じてもらえないよね』

 

 "うーん…………"

 

 『それに、結局反発しちゃって、スリザリン行きは無くなったし』

 

 "うーん…………………"

 

 『何ウンウン唸ってんのさ』

 

 "考えてるんじゃないか。そっちこそ情けない顔するなよ。いつもの元気はどうしたんだ?"

 

 『今のトムは目が視えないよね』

 

 "視えなくても分かります。どうせ今頃、便秘のメガネザルみたいな顔してるんだろ"

 

 『あっそう。便秘で悪かったね。僕はトムみたいに、変にカッコつけて猫被ったりしないから、すみませんでした』

 

 "僕のどこが猫被りなんだ?"

 

 『ズルズルの猫被り人間じゃん。動物園の蛇でも、もうちょっと化けの皮脱いでるよ』

 

 "蛇……僕を蛇だって?単細胞メガネザルの癖に"

 

 『残念でした。今は眼鏡掛けてませーん。メガネザルじゃありませーん』

 

 "君から眼鏡を取ったら何が残るんだよ。むしろ眼鏡が本体だろ?"

 

 彼はハリーの迷いを紛らわせようとしたのだろうが、ハリーが土俵に乗っかり悪口の応酬に走った為、二人は傍から見れば漫才の様な筆談を繰り広げていた。

 いつの間にか段々と話が脱線していき、スリザリンに行けと言う謎の顔の事もあって、今度はその寮出身のヴォルデモートの話題になっていった。

 

 『何でヴォルデモートは死の呪いを使ったの?それが跳ね返るなんて予想外だったのは分かるけどさ。他の呪文で僕を殺そうとすれば、跳ね返されたところで、いくらかマシな生き残り方が出来たんじゃない?』

 

 "確かに、人を殺すなら別に死の呪文じゃなくても可能だけど……。ハリー、人間っていうのは、感情で生きてるみたいなところがあるからね。憎しみとか殺意が強ければ強い程、相手を綺麗に一回で仕留めたいって思う訳だ。そういう時ってやっぱり、それに最も適した呪文を使うもんじゃないか。「野郎ぶっ殺してやる!」っていう気持ちって、行動にも表れるんだよ"

 

 『なーるほど。流石、トムは憎まれたりするのに慣れてるね』

 

 "そうそう。僕なんて、もうあちこちで憎まれて……ちょっとコラ、失礼じゃないかハリー"

 

 『でもその感情の結果で返り討ちに遭うなんて、ヴォルデモートも不運だね』

 

 "全くだ。当たるかどうかも判らない「予言」を妄信して、逆に死に掛けるなんて本末転倒だな。殺人なんてナイフ一本でも出来るんだから、殺意に任せて死の呪文なんて使わなければ、あんな事にならなかったんだ。遠くから火の呪文を飛ばして家ごと焼死させるとか、赤子を川に放り込んで溺れさせるとか、生活用水に毒を撒いて一家全滅を謀るとか、返り討ちに遭わない方法は他にもあった筈なのに"

 

 『君ってホント、よくもまあ、過激な考えと言葉がスラスラ出てくるよね。どっちがヴォルデモートだか分かんなくなるよ。ある意味尊敬する』

 

 "いやあ、それほどでも……コラ、コラコラ、失礼だって"

 

 『ヴォルデモートは力を失ってから隠れてるみたいだけど、もし見付けられたら逮捕出来るのかな』

 

 "大量の前科持ちに加えて、禁じられた呪文を人体使用してるからね。闇祓いにしょっぴかれて当然だ。そうでなくとも、僕が絶対にムショにぶち込んでやる"

 

 『トムの場合、どう考えても捕まえる方じゃなくて、捕まる方じゃないの?』

 

 "なんて事言うんだよハリー。何で僕が捕まったりするんだ?"

 

 『詐欺さ、詐欺罪。本性隠して猫被って、人を信用させて懐に入り込もうっていう、典型的な詐欺師タイプじゃん。信用詐欺とかやってたんじゃないの?』

 

 "うわっ、ハリーこそ、アズカバンにでも入ったら?"

 

 お互い軽口を叩き合っていると、欠伸が出て来た。そろそろ限界かもしれない。

 

 ここらで今日は寝ようかな、と考えていると、視界の端で光の粒子が弾けるのを捉えた。

 いつ出て来たのか。そういえば、眠気で数分程書き込みが止まっていた気がする……。

 

 粒子の流れをノロノロと追っていくと、カーテンの向こうに人影が立っているのが見える。まさかと思い、クタクタの体を叱咤してベッドの外へ出る。

 案の定、そこには実体化したトムがおり、何かの本に目を通しているところだった。ハリーのトランクが、いつの間にか開いている。恐らくここから取り出したのだろう。彼は物に触れられない筈だが……

 

 「トム……何、ふわぁぁぁ……してる、の?」

 

 再び欠伸をかましながらも、ハリーは同部屋の子達を起こさない様小声で尋ねた。こんなところを見られたら、一体どうするつもりなのだろうか。

 

 『今は皆寝てるだろ。僕が居たって、誰も気付かないさ』

 

 「ふわぁーん、だからって、ふわわわ……大胆過ぎるんじゃ、ふわぁ……あー、眠い。ふわーあ」

 

 『ハリー、人と話す時は欠伸をし終わってからにしてくれる?』

 

 「何の本読んでるの……?また魔法史?」

 

 『生き抜くための叡智が詰まった書物さ』

 

 「生き抜く?え、もしかして、ヴォルデモートと戦う為の呪文集、とか?」

 

 好奇心を刺激する単語に、眠気に支配されかけた頭が冴えてくる。

 

 『むむぅ…………しかし、謎だ。この僕でも解読出来ない物があるとは……うーん、謎だなぁ』

 

 「だよね、だよね。魔法界って、謎だらけだよね」

 

 『本当に解らない。何でマグル界の株価の暴落に対して、魔法省は手を打ってないんだ。マグルの通貨を魔法界用に両替出来るシステムがあるのに。マグル生まれの魔法使いの金銭事情は、知ったこっちゃ無いってか。全く何を考えているのやら』

 

 「はぁ?」

 

 『やっぱり、魔法界の銀行がグリンゴッツしか無いのは痛いよな。うーん、何でここまで放って置いたのかが謎だ』

 

 「トム、君は何の話をしてるの?」

 

 尋ねながら、トムが読んでいる本の表紙をチラリと見てみる。

 『魔法界の為替相場―――近代における経済情報』という、何とも難解そうなお堅いタイトルが自己主張していた。

 そういえば、ダイアゴン横丁の書店であんなのも買った気がする。あの時は、とにかく魔法界に関する本をかっ込んでいたから、あんな難しい物も入っていたなんて気にも留めなかった。

 それを、彼は杖を振るってページを次々捲っている。直接触れられないから、この方法で読んでいるのだろう。トランクもああやったのかもしれない。

 これだけでも貴重な魔力を消費するから、彼は今までやらなかったのだ。今やっているという事は、余程重要な事なのか?

 

 しかし何と言うか……捲るペースが速い。あれで内容が頭に入っているらしいから不思議だ。

 魔法界も色々と謎だらけだが、彼のスペックも本当に謎である。

 割と何でも出来る雰囲気を感じさせておきながら、「あれ」を前にすると酷く弱体化するし、変なところで抜けているし、ふとした瞬間に子供っぽい発言をかますし。その名前が示す通り、彼は実に(リドル)

 

 『株だけど、株。これで一儲け出来ないかなって考えてるんだよ。僕が実体化出来た暁には、生身の人間と同じ状態になるかもしれないだろ。衣食住を確保しなきゃいけない可能性もあるし、資金に関しての備えは大事だ。どう?ハリー、一口乗らない?まだグリンゴッツに貯金残ってたろ』

 

 「あ、え、いや……確かに、衣食住は大事かもしれないけど、君、その歳で株って、」

 

 『遠慮しなくて良いさ。僕に預けてくれたら、半年後には倍にして返してあげるよ、ふふふ』

 

 ハリーは躊躇なくパーでトムの後ろ頭を軽く叩いた。彼にこうして触れられるのは、今のところ自分だけの特権である。パシッとやけに良い音が響いた。

 

 『いてッ、何するんだよいきなり』

 

 「もう、どっかの悪徳事業家みたいな真似しないでよ、この詐欺師。株って、子供がズブズブに手を出すもんじゃないでしょ。バーノンおじさんだって、浅く広くやってたのに」

 

 『ふん、お生憎、僕はその辺の何も出来ないお子様と違うんでね。自分独りで生きてきたんだ。大人に頼るなんて情けない事はしない。こういうので収入を得てたんだよ』

 

 「はっ?収入って……。君、親が居たんじゃないの?」

 

 『居たけど、引き籠ってからはちゃんと自分の力で金銭のやりくりしてたからね。親のすねかじりなんてゴメンだったからさ。親の名義を借りて、こう、株とか色々と……』

 

 「はぁ………君の世界って、未成年でも稼げたワケ?」

 

 『まあね。株以外でも、ネット記事とかサイト運営の広告費で食ってる人間も居たし。家から一歩も出ないで稼ぐ事が出来るのさ。魔法界じゃ想像もつかないだろうね、こういう文化は』

 

 軽い調子で語っているが、ハリーはその言葉の端々から、断固とした意志の響きがあるのを感じ取った。

 

 保護なんか受けない。同情も要らない。自分は独りで構わない。生きていく事に関して、他人には頼らない。甘えない。

 それは彼の意地だった。

 

 大人の庇護下でぬくぬくと過ごしていくより、独りで自分の思うままに生きてみせる。

 その意地を、この世界でも彼は恐らく貫くだろう。

 

 意地っ張り。

 彼の性格を悪く言うのは容易だったが、ハリーはそういう面も彼の一部として、何となく嫌いになれなかった。自分には真似出来ない強い生き方だと思う。

 

 ただ、親の助け無しで生活するなど、環境が環境とはいえ逞し過ぎやしないか。

 自分の意志で閉じ籠り、外界との繋がりを断ち、大人の援助も受けず生きていく。

 確かに、それは誰にも迷惑を掛けてはいないのだが、子供が送るにはどうかと思う人生だと思う。

 それを簡単に言ってのける彼は、気にしていないというのだろうか。強がっているのだろうか。

 表情を観察していても、彼の心情は全く読み取れない。何だかそれが、酷く哀しかった。

 

 ……彼はまだ、その身に抱える闇の全てを、自分に見せてはいないのだ。

 その事実だけが、はっきりとハリーの脳内に浸透していく。

 

 「でもでも、独りでなんて大変でしょ。誰かの手を借りるぐらいの甘えは、したって良かったんじゃない?」

 

 『必要無い。自分独りでやるのに慣れている。いつでも独りで生きてきたんだ。だから―――』

 

 不意に、言葉が途中で止まる。

 一体どうしたのか、彼は自分でも不思議そうに両目を瞬かせている。それは、己の言葉に何かしらの疑問を抱いている様子にも見えた。

 彼は一瞬だけ眉を寄せたかと思えば、場を濁す様に話題を打ち切った。

 

 『ま……お金に関しちゃ、急ぐ必要は無かったか。ハリーの教育にも悪いし。明日は記念すべき初授業、だろ?早い内に寝よう』

 

 経済の本を杖の一振りで閉じると、続いて横薙ぎに振るった。閉じられた本がハリーのトランクへと向かい、その中にポトリと落ちる。次いでトランクもガチャリと閉まった。

 

 『今日は遅いし、ここで解散。僕も地味に魔力使ったし、もう戻るよ。おやすみハリー』

 

 「あ、うん……。おやすみ、トム」

 

 その言葉を最後に、彼は一瞬の内に姿を消した。日記帳に戻ったのだ。

 ハリーはしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。開けっ放しのカーテンの向こうにある、ベッド上の日記帳を見つめる。

 

 「……トム、ホントに戻ってる?」

 

 日記帳は閉じられ、沈黙したままだ。

 

 「まさか、狐寝入りじゃないよね。君、騙すの得意だけど毒も持ってそうな辺り、どっちかって言うと狐じゃなくて蛇だもんね。トム?トムのバカ、アホ、詐欺師、イジワル蛇男」

 

 連続で悪口を放ってから、ハリーは日記帳を見つめる。勝手に開く事も、文字が浮かんでくる事もなかった。完全無反応である。

 日記状態の彼は、ページに書き込まれる文字や垂らされるインクでしか反応が出来ないので、当然の事だ。

 それを解っていても、ハリーは何だか説明し難い虚無感を味わっていた。何でもいいから、最後に憎まれ口の一つでも叩いて欲しかった、と思ったのだ。

 どうしてこんな事を考えているのか、自分でも解らなかった。別に、ベッドに潜って朝を待てば、明日もまたそこに居るのに。

 

 どうにも晴れない己の心に無理やり蓋をして、ハリーは滑り込む様にベッドに入った。そのままの勢いで布団を頭まで被って、両目を閉じる。誰にも見られる事のないよう、日記を両腕に抱え込む。

 このモヤモヤを抱えたままだと上手く寝付けないと思っていたのだが、汽車による初めての長距離移動と、入学式での緊張と興奮のせいか、体は肉体的にも精神的にも疲労を溜め込んでいたらしい。ハリーは、闇の沼にゆっくり引きずり込まれる様な感覚と共に、夢の中へと誘われていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハリーはその夜、奇妙で不可思議な夢を見た。

 

 知らない街に、一人ポツンと取り残されている夢だ。

 ダーズリー家のある、プリペット通りから碌に出た事の無い自分にとって、知らない街並みが夢に出てくるなどあり得ないと思った。記憶に無い街が、妙にリアルに存在しているのは奇妙としか言いようが無い。

 その街は、ハリーが知っている光景や想像出来る範囲からは、どうも離れていた。全体的に古めかしいのだ。建物もそうだが、通り過ぎゆく人達の格好も、何となく古臭いと感じた。

 

 体感的には、一昔前にタイムスリップでもしたみたいだった。今も目の前を、牛乳を運ぶ馬車が横切っている。馬なんて見た事も無い筈なのに。

 次に正面を見上げてみると、高い柵に囲まれた建物が見えた。ぱっと見た感じだと、何だか陰気臭い。遠くからでも、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。牢獄か何かの施設かもしれないと、頭の中で呟いた。

 

 それでも、ハリーの足はいつの間にか、そちらへひとりでに動いていた。歩道を悠々と、他者の存在を気にせず歩いていく。

 道行く他の歩行者とぶつかりそうになるが、これまた不思議な事に、ハリーの体は彼らと触れる事は無かった。

 正確に言うと、すり抜けてしまったのだ。まるで霧の様に、自分が接触する寸前に、歩行者達はその姿を消してしまう。

 霧人間と化した街の住人達の傍を通り過ぎ、ハリーはズンズンと柵の向こうの建物へ向かった。

 恐怖感は一切無い。心のどこかで、どうせ夢だと自覚しているから、かもしれない……。

 

 鉄の門を潜り抜け、中庭らしき場所へ出る。正面に見える石段の上に、建物の入口であろうドアがあった。

 ……そのドアの手前に、誰かがこちらを向いて立っている。影になっていて良く見えない。

 

 男の人?女の人?

 

 疑問が浮かぶが、判断がつかない。建物ははっきり見えるのに、いくら目を凝らしてもその影は黒いままだった。

 

 「誰?あなたは、誰―――?」

 

 問い掛けてみる。何故か、そうせざるを得なかった。自分は、この人の事を知らなければいけないと、義務感にも似た何かに突き動かされていた。

 怖くはない。不気味だとも感じない。

 ただ、何者なのか教えて欲しいと思う。どうか……

 

 そう念じながら立ち止まっていると、不意に影が揺らめいた。一瞬だけ、輪郭がくっきり見えた気がした。

 どうも背丈が低いように感じる……これは、子供?

 

 黒い影の子供らしき存在が、こちらへ近付いてくる。影の塊が小さく上下している動きから考えると、恐らくは歩いているのだろう。しかし、やはり表面に塗りたくられた様な黒い影に邪魔されて、その姿の詳細を捉える事は出来なかった。

 やがて、自分から1メートル先程の距離で、影は止まった。そして、すっと手が差し伸べられる。何の前触れも無く、唐突に。

 伸びきったその腕に、空からの光が当たった。闇を許さぬかの様な鋭い光が、影を切り裂きその内側を暴く。

 

 「ひっ―――」

 

 喉の奥から悲鳴が上がった。

 

 その腕は―――皮を無理やり剥がしたかの様に、ザラザラと生々しかった。

 肌の表面は恐ろしい程赤黒い。脂肪や筋肉を、根こそぎ抜き取られてしまったかの如く痩せ細っていて、骨の形が分かる程だ。ダーズリー家でまともに食事を取れなかった自分でも、ここまでなった事は無い。

 光が当たって影が晴れているのは腕だけなので、全身がどうなっているかは想像もつかない。ただ、腕だけでこんなにも酷い惨状を晒しているのだ。この影が、健康的な体を持っているとは到底思えない。

 

 生まれたばかりの赤子を、食事も何も与えずに放置したらこうなるのだろうか―――という考えが過ぎる程、余りにも未熟で醜く、貧相極まりない体の一部を持つ『影』。

 

 目の前の『影』が、人間の形をして、生きて、動いて、こうして手を差し出している現状が、理解出来ない―――

 それほどまでに、『死』を強く感じさせる『何か』を内包している。

 

 思わず影が伸ばしている手から視線を外すと、別の存在を視界が捉えた。

 

 さっきまで居なかった『それ』は、影の斜め後方辺りに立っていた。

 

 ハリーと子供らしき影の様子を見守るかの様に、少し離れた場所で両者に視線を送っている。

 『それ』は最初の影よりも、随分とはっきりその姿を認識出来た。全身を影に覆われていない。これなら分かる。

 

 ―――人間だ。ちゃんとした、人間だった。

 

 黒髪の、整った顔立ちの青年が、こちらをじっと見ている。

 黒いローブを身に纏っていて、それが背後の建物の陰気臭い雰囲気と、絶妙にマッチしていた。我ながら失礼な感想だと思ったが、残念ながらこれくらいしか出て来なかったのである。

 彼の瞳は仄暗い。どことなく光を失ってしまったかの様にも見えた。しかしそこには、離れていても痛いぐらい伝わってくる程の、憐憫の情を秘めている。

 

 どうして、あんなにも哀しい目で見つめてくるのだろう。

 

 ハリーは、まず第一にそう思った。

 

 あの人とはどこかで逢った気がする。でも、一体どこで―――?

 

 何だか無性に問い質したくなって、無意識に後退っていた足を、差し出された手の方に。少し遠くにいる青年の方に。

 一歩動かそうとしたその時―――

 

 「あッ―――!?」

 

 足を、何かに掴まれた。

 ガクリと体が沈む。慌てて後ろを振り向くと、

 

 「うわぁぁぁッッッ!!」

 

 情けないと分かっていても、声を上げずにはいられなかった。

 

 骸骨の様に白い顔、切れ長の真っ赤な目、蛇の如く平らな鼻。

 それらを併せ持った『化け物』が、地面から土竜の様に頭だけ出して、その白く細長い五指でハリーの足首を掴んでいた。

 射殺さんばかりの真紅の瞳が真っ直ぐに、ハリーの恐怖に塗れた顔へ注がれている。口元は何かを叫んでいるのか、裂けるんじゃないかと思わせる程大きく開いていた。自分の絶叫で、『化け物』が何を言っているのか聞き取れない。

 

 助けを求めて再び正面へ顔を戻すと、もうそこにあの『影』はいなかった。どういう訳か、完全に姿を消してしまっている。

 

 しかしただ一人、青年だけはこの場に留まってくれていた。心底不快だと言いたげな目付きで、ハリーを地面に引きずり込もうとしている『化け物』を黙って見ていた。

 ハリーは恥も外聞も無く、青年へ向かってがむしゃらに叫んだ。もうこれ以上、1秒でも長く『化け物』に触れられていたくない。

 

 「助けてッ助け―――!!」

 

 だが、それを『化け物』は許さなかった。

 頭だけでなく上半身も地面から出して、もう片方の手を伸ばしハリーの首を絞め始めたのだ。呼吸と発声を担う部位を襲った圧迫感に、言葉が途切れる。

 足を掴んでいた手は胴体に回され、最早逃げ出す事は不可能だった。闇雲に体を捻ろうとしても、一向に拘束は緩まない。

 こうして無駄な抵抗している間にも、首の骨をへし折らんばかりの握力が、ハリーの呼吸を遮り刻一刻とその命を葬ろうとしてくる。

 

 『化け物』の腕の中に完全に閉じ込められたハリーは気付かなかった。

 『化け物』はハリーを殺そうとしながらも、同時に正面の青年にも殺意に満ちた視線を向けていた。赤い瞳が、同じ様に睨み返す青年を映す。

 

 「………………」

 

 青年は動かない。ただ、ハリーを拘束する『化け物』を忌々し気に睨んでいた。

 まるで、自分にはどうする事も出来ないと悟っているかの様だ。

 ハリーが涙混じりの瞳を、助けを請う視線を送っても、青年は終ぞ一歩たりとも動く事はなかった。

 

 それでも。

 死に瀕したハリーを見兼ねたのか、絞り出す様な声色で言葉を放った。

 

 「―――助けてはあげられない」

 

 その言葉を耳にして、失いかけたハリーの意識が僅かに戻る。

 それは残酷な宣言の筈だったのに、続く言葉を聞き洩らしてはいけないと何故か必死にさせた。

 

 

 

 

 「君を助けるのは、"()()()"の役目だから」

 

 

 

 

 直後に、ぐにゃりと目の前の景色が歪み始めた。意識すらも闇の中に溺れていく。

 

 夢から解放されるその寸前。

 

 ハリーの目に焼き付いていたのは、憐れむ様な瞳と悔しげな表情を浮かべている青年だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、目覚めた時。

 

 ハリーはその夢を全く覚えてはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 




本編でハリーは「狐寝入り」と言っていますが、英語圏だとどうやら
日本語で言う「狸寝入り」を「狐寝入り」と表現するらしいので、そうしています。
『原作ハリー』って割と、気に入らない奴を平気で罵倒したり、他人の容姿を悪く表現したり、結構ビシビシと思った事ぶっちゃけるタイプなんですよね。
ダドリーを「豚がカツラ付けたみたい」とか、ヘプジバを「お綺麗からは程遠かった」とか表現してるし(この辺読んだ時リアルで笑いましたw)

それらを取り入れた結果、『対トム君特化型ツッコミ少年』となりましたとさ。
早い内に会話相手と逢えた影響を考えて、原作よりかはちょっとマイルドなツッコミキャラにしました。
トム君が『賢者の石』開始前に居なかったら、ダーズリー家でのぼっち虐待生活が続いてて、原作通りキツめのぶっちゃけキャラになってたんじゃないかな。
「朱に交われば赤くなる」と言いますから、ちょっとした出来事で性格や言動が変わるのはあり得そう。
交わった結果、"その性格や言動"に()()()()()()()()()のも、ちょっと問題ですけどね。

……いえ、別に誰が、とは言いませんが。
馴染む事は、悪い事じゃありませんしね。
それに囚われ過ぎず、『自分』を見失わなければ良いだけですから。
人間は『自分』の『本心』すら良く解っていなかったりするので、簡単ではないですけども。

次回は授業とか色々出来れば良いなぁ。


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Page 16 「賢者の石の隠し場所」

どうでもいいけど、ハリポタ『魔法同盟』の日本語版宣伝動画に
トム君(中の人)が出演してて笑う
ちなみに今作品のトム君は、映画通り『秘密の部屋』の
石田リドルだと思って頂いて問題ありません


 ただいま、生誕の地よ。

 

 

 

 

 『秘密の部屋』の入口が隠された、ホグワーツ3階の女子トイレにて、頭の中だけで呟いた。

 

 

 

 

 『50年経ってもほとんどお変わりなしって、どんな建築技術なんだか……匠の技ってヤツ?』

 

 今でも鮮明に思い出せる。

 この世界にやって来る羽目になった、あの出来事。

 湿気と陰気に満ちた空間、物言わぬ死体となった少女、歓喜に震える青年、全身を駆け巡った激痛―――。

 

 あの時と違って、現在は死体など無い。当たり前だ。とっくの昔に少女の遺体は葬儀の為に運び去られている。そして彼女はゴーストとなって、今もこの地を彷徨っている筈、なのだが。

 トイレ中を見回しても、ゴーストどころか人っ子一人居ない。彼女が棲んでいるトイレなので、利用者がほとんどいないのも納得はいく。誰だって、用を足す場所にゴーストが陣取っていたらやりにくいだろう。だが、その彼女自身も今はお留守のようだった。

 彼女は原作でも浴室とかにお邪魔していたし、ある程度は自由に校内を飛び回っているに違いない。

 ちょっと残念だ。50年ぶりの挨拶も兼ねてここに来たのに。

 

 まあ居ないモノは仕方ない。

 それに、彼女の前で()()()()()()()のも、それはそれでやりにくかっただろうし。

 

 トイレの入り口付近と、トイレ内に誰も居ない事を個室の一つ一つに至るまで念入りに確認してから、奥へと入って行く。ハリーやマートルならまだしも、彼ら以外に目撃される訳にはいかない。

 あの時のヴォルデモートも同じ気分だったのだろうか。もしも誰かに見られたら―――とかビクビクしていた時期もあったのだろうか。

 そう考えたら、何だか胸中のモヤモヤが晴れていく気がした。ざまあみろ。

 まああいつの事だろうから、そんな恐怖など微塵も感じていなかったかもしれないが。結局、在学中は終ぞ自分が犯人だとバレる事なく、完全犯罪を成し遂げたのだから。

 それでも、あいつにだって無様な面もあったと想像したい気持ちは止められない。ていうか想像させろ。

 人間だもの、誰だってみっともない姿の一つや二つ、晒した事があるに決まってる。晒せよ、おい。

 

 【どうしてそんなに嫌っているんだい?】

 

 『はい出た、ナチュラル読心野郎。最近音沙汰無かったから、てっきり自然消滅したかと思いたかったけど……お前みたいな奴に限ってしぶとく残るんだよな』

 

 善良な人間は早死にし、消えて欲しい奴は何故か長生きする。

 これは本当に世界の七不思議の一つに数えても良いと思います。バミューダトライアングル?知らんなぁ…。

 

 『お前が絡んでくると本当にイライラして……って、おい、コラ?』

 

 【何かな?】

 

 こいつがしゃしゃり出てくると、いつも謎の苛立ちが心を満たしてくる。

 ふと思い付いた疑問への答え合わせとして、問うてみる。素直に答える奴じゃないと解っているから、適当な感じで。

 

 『お前のせいじゃないのか、このイライラ』

 

 そう指摘した瞬間、胸中に渦巻く説明し難い不快感というヤツが、雨水で流れゆく泥の様に霧散した……気がする。

 いつもならすぐ返って来る返答も、数秒間しっかり沈黙を保ってやがった。

 ……これはもう、肯定しているも同然だろう。

 

 『……言い訳があるなら訊こうか』

 

 【……君がこちらの話に耳を傾けてくれるのは珍しいね】

 

 『傾けてるんじゃない、これは一方的な尋問なんだよ、解る?お前は自分に都合の良い解釈しかしない主義なの?とんだおめでた頭だな』

 

 【相変わらずつれないなぁ…。まあ自力で気付いた事を讃えて、大人しく白状しようじゃないか。そうだよ。君の『それ』、半分程はこちらのせいさ。こちらが行っている精神干渉の影響を受けて、君の魂が抵抗に成功している結果、不快感として表れているってところだね】

 

 こいつ、サラっととんでもない事暴露しやがった!!!

 精神干渉?つまり自分はずっと、こいつに精神汚染されかけてたって事?

 こいつと対応してる時、何か機嫌が悪くなるのはそういう理由もあったん?

 えっ、ちょっと初耳。ぶっ飛ばすぞコラァ!!

 

 『もう半分は何になる訳?』

 

 【それは……多分、単純に、君自身がこちらに苛立ってるだけだと思うけど】

 

 『あっそう』

 

 【否定はしないんだね……】

 

 『否定してもらえると思ってる時点で、本当におめでたい奴だな』

 

 くっそう、めっちゃ腹立つ。いや、これもあいつの影響を受けていた訳で……いや、半分は自分自身の感情でもあって……あれ?何が何だか解らなくなってきた。とにかく腹立つ!クソが!

 こいつの表情さえ目にすれば、()()()()()()その心中を暴いてやるのに!顔が見えない相手ってほんとイラっとするな!一方的に心も覗かれるし、マジ激おこプンプンマルフォイだわ。

 

 お…落ち着け。自分は大人だ、大人なのだ。大人の対応をするのだ。

 もうあれから50年も経っているのだから。精神的にも成熟している筈なのだ。え?してない?誰だそこ、アバダすんぞ。あっ、冗談ね。

 前世だって18にもなってたんだから、もう大人の仲間入り寸前だったのだ。

 

 あれ、今のこの魂は16歳なんだっけ?マジ?この世界だと、年齢退行しちゃってる訳?

 うっそー、何が悲しくて2歳分戻されなきゃいけないの?2年って短いようで長いよ?

 そこのあなた、今から2年間独房に入れと言われて平然と頷けますか?嫌でしょ?そういう事よ。2年でも馬鹿にしちゃいけないの。分かる?

 

 ん?年齢退行……どっかでそんな奴と逢った気が……。

 

 まあ、いい。

 精神干渉して何をする気だったのか、小一時間程問い詰めたいところだが。

 こいつにホイホイ回答を求める程、馬鹿じゃないのだ。どんなに情報が欲しくてもがっついてはいけない。特にこういう詐欺に通じてそうな奴には。あ?特大ブーメラン?何の事?

 だから今まで自分は、細心の注意を払って最低限の事しか質問しなかった。与えられる情報が全て真実とは限らないしね。まあ今の情報には、嘘は混じっていなさそうだったけれど。

 

 本当に、こいつの目的が見えなさ過ぎる。

 今の情報から考えて、本気になればもっと手っ取り早く精神汚染する事も出来るんじゃないかと思うのに、それをしてくる様子は無い。なんかイライラするのは、あいつが語ってる時だけだったし。

 自分の予想が外れている可能性もあるがね。

 

 ……よし、切り替え切り替え。

 

 今の自分の目的は『秘密の部屋』への入室だ。それ以外の思考は切り捨てる。

 別にホグワーツに居る間なら、タイミングはいつでも良かったんだけど。

 開くついでにマートルにも会おうかなと思って、今日やって来ただけ。

 『賢者の石』編真っ最中の今の時期、無理して『秘密の部屋』に入る必要性は無いが、折角ここまで来たんだ。時間を無駄にしない為にも、一応開いておこう。

 

 えーと、どうやって開くんだっけか……。思い出すからちょっと待って……。

 

 【蛇語(パーセルタング)で「開け」と唱えるだけさ、簡単だろう?】

 

 こいつ、何か正体隠す気マジでゼロだよね。

 こういう時だけ自分から助言してるし、マジで何なの。

 

 『蛇語で唱えるなら誰でも良いって訳にはいかないだろ。お前みたいな、邪悪、不気味、陰険なんて声してたら、自動ドアでも開かないさ』

 

 【君にそういう事を言われるのは心外だなぁ】

 

 はぁ。蛇語の話し方なんて存ぜぬが、まあ物は試しだ。

 この体で50年も過ごしているのだ。とっくに馴染んでしまっているし、この身に備わったスキルならそんなに苦労せず使いこなせると…思う。

 だがその前に。

 

 『ちょっと今から盛大な独り言、言うね。そう、これは独り言だから』

 

 【―――?】

 

 一つ、大きく息を吸い込んで、

 

 

 

 

 『―――あぁ、本当にバカバカしいよな。「穢れた血」の排除だか淘汰だか知らないけど、そんな面倒な仕事やりたがった誰かさんさぁ。崇高な仕事とか認識はしてる癖して、自分で手は下さなかった手抜きさん。やりたくてたまらないのに、一人殺しただけで自分の仕業だって露見するのを怖がって、手の平返した様に仕事放り出したんだもんな。偉大なる?スリザリン様も草葉の陰で泣いてるだろうね、さぞかし。それで何だっけ?騒ぎを収めれば学校に残れるからって、スケープゴートをとっ捕まえて壮大なマッチポンプってか。あぁアホらしい。そんなに学校から締め出されるのが嫌なら、最初からやるなって話。で、やりかけた仕事の引継ぎを、自分の分身に押し付けてトンズラか。間抜け過ぎて欠伸が出るな。()()も、結局だーれも殺せなかったんだから、本体と同じで間抜けだよねぇ。蛙の子は蛙って、本当なんだな。おまけに、脅迫と罠を兼ねて壁に血文字書いたりしちゃって、まあ自己顕示欲の激しい事。別の方法もあっただろうに、派手な事が好きなんだな。そういうところが間抜けっぽい、実に。慎ましくやってれば成功の道もあったかもしれないけど、ここまで抜けてる奴は絶対どこかで失敗する筈だから無駄な話か、うん。―――はい、独り言、終了。ご清聴ありがとうございました』

 

 

 

 

 ふうっと息を吐く。鏡も無いので自分の表情は確認出来ないが、多分、してやったりのドヤ顔を浮かべているんじゃないだろうか。

 一方、相手はしばらく反応を返してくる事は無かった。

 

 今のを聞き流したか、無反応を貫くつもりか―――

 

 不意に、ズグンと、眼窩の奥を熱が燈った感覚が襲った。

 熱い。火傷してしまうんじゃないかと錯覚するぐらい、両眼が尋常じゃない高熱に呑まれる。

 思わず呻いて瞼を固く閉じる。その上を片手で更に覆うと、確かな熱が五指に伝わってくる。今まで、体温という概念の無かった筈のこの身の一部が、熱を帯びているのだ。

 痛みは無い。ただ圧倒的な熱量を、両眼が放出している。確認すら出来ないが、何となく理解した。

 

 ―――きっと今、己の双眸は、鮮血の様に濃厚な赤に染まっているのだろう。

 

 どうしてこのような現象が起きているのか。

 心当たりなどとうについている。

 

 これは、この熱の発生源は、

 

 【……君は性格が悪いと言われた事があるだろう?】

 

 『僕だって、()()()()()()性格が悪いとか言われたくないね』

 

 数秒後に掛けられた念話に、先程の独り言と変わらないトーンで応じた。

 途端に、眼球に冷や水を浴びせられたかの様に、熱が引いていくのを感じる。熱さを訴えていた手の平から、温度というものが消え失せる。元の冷たい体に逆戻りだ。

 

 ―――あれは怒りなのだろうか。

 

 人は、己の心の内を暴かれると怒りに支配されるものだ。自分だってそうだ。実際、50年前に同じ事をやられたのだから。

 これは、ただの意趣返し。

 のつもりだったが、思わぬ収穫を得てしまったようだ。『情報』という名の、棚から牡丹餅の如き収穫。

 それを気取られぬ様、湧いてくる感情を押し潰して呟いてみた。

 

 『……僕の事、殺したいとでも思った?』

 

 自然と嘲笑が零れる。別に煽る気は無かったが、こいつの前だと自然とこうなってしまうのが己の性らしい。

 対して、返って来た言葉からは、嘘の様に平静しか感じ取れなかった。

 

 【そんな訳ないだろう?】

 

 頭の中に響く声は、相も変わらず聴覚で認識している訳ではないので、そこに込められた感情を探るのは困難だ。

 それでも、集中して脳内で拾ってみれば、僅かでも感知する事が出来た時もあった。

 だが今は、「動揺も激情も感じられない」。全く持って平静で平坦な声色であると、己の脳が理解を示している。

 

 【君が、今までもこれからも―――何を言おうと、どう行動しようと、君を害する様な心算は無いよ】

 

 断言だった。

 確固たる響きがあった。

 同時に、意図してかそうでないか―――確実な『情報』を漏らしていた。

 

 (その気になれば、()()()()()()()()()()()って?)

 

 心のどこかで、50年前から予想していた事だった。

 こいつは、こうして語り掛けて来たり、心を覗こうとしてくる以外にも、何か出来るんじゃないかと。

 現にさっきも―――()()()()()()()()()()()()が、この身に起きたではないか。

 

 予想が当たったという収穫を、素直に喜ぶべきか否か……。

 

 とりあえずそれは保留する事にした。今は別件に集中しなければならない。

 切り替えが得意な人間で良かったと、心底思う。

 決して後回しでも、気付いていないフリでもない。うん、そう。そういう事にしといて。

 本音を言うと、当たって欲しくない事が当たったからもう何も考えたくない(切実)

 

 『あぁそうですか。随分有り難い宣言ですね。僕だったら、平気でお前なんか―――』

 

 いつもの軽い調子で煽ってやろうかと思ったが、続けようとした言葉が何故か出て来ない。途中で止まる。

 

 ……あれ?今、どんな言葉を続けようとした? 

 

 その言葉を口にするのは違うと、自分の中の何かが訴えている。思考が乱される。

 

 【―――平気で?何だと言うのかな?】

 

 『………………別に、何でも無い』

 

 【うーん?言い掛けて止めるのは珍しいじゃないか。気になるけれど、……まあ追及しないでおくよ】

 

 こっちの性格を解っているからか、向こうはそれ以上続きを促す事は無かった。

 

 そうだ。こいつなんかに関する事で時間を取られたくない。下らない事に集中してないで、今は当初の目的を果たすべきだ。

 『秘密の部屋』―――図らずも、『物語』通りに分霊たる自分が開く。

 そうしようとして、蛇口の脇にある蛇の彫り物の所まで歩み寄ろうとした時―――

 

 

 

 

 『トムーう!!!』

 

 

 

 

 頭の中で、第三者の言葉が文字となって刻まれ、キンキンと響いた。

 こんな現象を起こせるのはたった一人だけだ。

 ため息を吐いてこめかみを押さえながら、返事となる言葉を思い浮かべて『向こう』に飛ばした。

 

 "うるさいよハリー!だから感情を込めて大文字書くなって言っただろ!君にとっちゃ、ただ白紙にペンを走らせてるだけなんだろうけどね、こっちは響くの、意識に!日記帳は僕の魂その物なんだよ、もっと丁重に扱ってくれる?このメガネザル!"

 

 湧き立つ苛立ちを隠そうとせず、迸る怒りを乗せて文字を送る。

 『同居人』の存在に悩まされるこの日記生の中で、彼の前なら惜しみなく本心を晒せるのが、本当に救いだ。

 

 こうして日記帳から離れ実体化していても、書き込まれた文字は自分の意識に送られる。自分もまた、日記帳に文字を浮かばせる事が出来るのだ。

 現代風……いや、マグル風に表現するならば、所謂『メールの送受信』が常に可能な状態、という訳だ。

 単なるメールとの相違点は、日記帳は魂を封じた分霊箱であり、それに文字を書くという事は「魂に文字と、そこに込めた感情を直接刻み込む」のと同義である。

 当然、書き込まれる魂の方は文字に込められた感情や、文字を書く際の力み具合等の影響をモロに受ける。『触覚』に至っては意図的に閉ざす事も可能だが、今は開いていた為、乱暴に文字を書かれる感覚がダイレクトで意識を揺さぶってくる。

 原作の分霊はこの性質を利用して、日記帳の持ち主から注がれる感情を喰らって魂にも接触し、実体化を企んでいた。しかしその必要は自分には無い。そもそもハリーは有りのままの本心を文字に乗せて来るし、自身もヴォルデモートが遺した余剰魔力をしっかり貯蓄しているのだ。完全な実体化には程遠いが、とりあえず行動するには十分な状態だ。

 

 『だって緊急事態なんだもん。丁寧に書いてる暇も無かったし、許してよ』

 

 返事の主であるハリーが、少々悪びれた様子で、今度は平均サイズの文字で書き込んでくる。そこから伝わって来る感情は、確かに焦燥を秘めているようだ。

 仕方が無いので話に応じる事にする。

 

 "緊急事態だって?誰かが隠れて蜘蛛を飼ってたとか、女子トイレで死体が発見されたとか、教師の後頭部に顔が付いてたとかか?"

 

 『バカにしないで聞いてね』

 

 "内容によります"

 

 『その、道に迷っちゃって……授業に遅刻しそうで、道案内してもらおうかと』

 

 "はぁ???"

 

 思わず現実でも実際に言葉に出しそうになる。

 確かに、この学校は広いし、階段は動くし、条件を満たさないと開いてくれない扉はあるしで、普通の学校よりかは目的地に辿り着くのが困難な構造をしている。

 だからって、人の意識を揺さぶっといて、用件はそんな事か……。

 

 "上級生に道ぐらい教えてもらわなかった訳?"

 

 『あ、そういえば、そうすれば良かった。忘れてた』

 

 

 

 

 〈……腹が減ったぞ―――こんなに長ぁい間……

 

 

 

 

 "頭悪いね、ホント"

 

 『トムの性格ほど悪くないもん』

 

 

 

 

 〈殺してやる……殺す時が来た……

 

 

 

 

 "残念ながらその言葉は今は禁句だよ。よし決めた。一番お腹空いたタイミングで飯テロ話(フードポルノ)かましてやる"

 

 『それだけはやめてくれる』

 

 

 

 

 〈継承者様よ……開放と粛清を……!私の部屋へ御出で下さい……穢れた存在を今こそ八つ裂きに……

 

 

 

 

 〈うるっさいなこのボケが!!!人が筆談してる時は黙ってるのがマナーだろうが!八つ裂きが何だって?返り討ちにしてやろうかァ!!〉

 

 先程から聞こえてくる、人の集中力を搔き乱す様な謎の冷たい声に向かって全力で叫ぶ。

 叫んだつもり、だったのだが、気のせいだろうか。自分の口から出て来たのは、言葉ではなく奇妙な息遣いだったような……。

 はっと我に返った時には、いつの間にかトイレは元通り静寂に包まれていた。

 

 『トム?返事見えてる?』

 

 "えっ?あ、あぁ……ちゃんと感知してるよ"

 

 ハリーの書き込みで、沸騰していた激情が急速に遠のいていく。彼の、こちらを心配している感情が文字と共に流れ込んで来るからだ。

 周囲を見渡して、誰一人いない事を確認する。

 もう、何も聴こえない。そもそもあれは女子の声ですら無かったと思う。

 

 ―――よし、幻聴だな。

 

 そう結論付け、実体化を解除する事にした。

 

 ハリーが日記帳を手元に持ってさえいてくれれば、一旦実体化を解除して日記に帰還し、再び実体化を行えばすぐにハリーの傍に瞬間移動が出来る。

 少し手間だけど、さっさと道案内してやろう。勿論、誰にも目撃されないよう、スマートに。

 周囲に誰もいないか探るのは前世からの得意技術だ。ダンブルドアにさえバレずに校内を動ける自信がある。

 まあ、少し遠目に見られたぐらいだったら、「通りすがりのスリザリン上級生A」のフリをしてれば、大丈夫だと思いたいけど。

 

 これは面倒なのだが、実体化する時の魔力配分を調節し直せば、50年前と同じ様に疑似的な透明人間状態に一応戻れる。

 いやでも、本当に面倒なので、例え効率的でもやりたくない。

 

 何食わぬ顔で実体化してたけど、実体化時の魔力配分を設定するのって、すんごいめんどいの。

 今はヴォルデモートの余剰魔力と、ハリーが注いだ魔力を、それぞれ良い感じに合成した配分に設定しているままだ。これを弄るのは、ゲームのお気に入りのセーブデータを消去するのと同義。手を出しにくいの、きっと伝わるよね。

 しかも、セーブデータをコピーして取っておくなんて都合の良い事、出来ないし。一度弄って、もし調節に失敗した時はパソコンみたいに「元に戻る」ボタンとか無いから。やりたくない。

 

 さて、じゃあいっちょ、ハリーの道案内を担当するとしましょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『確かに、迷うなこれは』

 

 「でしょでしょ。授業を受ける前からクタクタになっちゃうよ」

 

 人の気配の無い廊下で、二人は並んで歩いていた。

 他の生徒は用事が無いのか、今この時間、教師さえもこの場に立ち入ってはいなかった。

 

 ハリーは防犯上、日記帳を常に持ち歩いている事もあり、教室への移動時はなるべく一人で行動しようとしているらしい。

 確かにそれだと、何かあった時実体化したところで周りに目撃される危険性は減るが、一人で行動しているからこそ迷子になるのではないか。

 トムはそう思ったが、一理あるっちゃあるので突っ込まない。

 

 『こういう迷いそうな場所、例えば森の中だと、オカリナの音色辿っていけば正解の道だったりするんだけどなぁ……』

 

 「音色?」

 

 『待てよ……音色……楽器……何か忘れてるような……』

 

 楽器が奏でる音色、その心地よい音楽で、眠りに落ちる怪物。

 一連の記憶が甦る。数秒後、電流の様に衝撃が走った。

 

 『そうだ、「賢者の石」!!』

 

 「ちょっ、声が大きいよ、トム」

 

 慌てるハリーを無視してトムはその手をふん掴み、教室とは違う方向へ引っ張っていく。

 目的地とするのは、立ち入り禁止と警告された廊下がある四階。

 

 「あっ、ト、トム、何すんの。人気の無いとこに連れて行って……まっまさか君、ダドリーだけじゃなくて、僕のコトまで襲う気?そっそんな趣味は無いからね」

 

 『アホか。君みたいなメガネザル襲って、僕に何の得があるんだよ。そんな事よりもハリー、前に話した事覚えてるだろ?ヴォルデモートが復活を狙ってるって話』

 

 「へ?あ……あれね。でも、まだ全然その時じゃないんでしょ?今、関係があるの?」

 

 『バリバリあります。いい?この学校の優れた所は何も、魔法使いを育てるってだけじゃない。安全性にも突出してるって訳だ。だから、ヴォルデモートが復活の為に必要な物品を隠すのに最適な場所って事』

 

 「はぁ……復活の為に、一体何が必要になるワケ?」

 

 『「賢者の石」』

 

 「え?犬でいっぱいの、あれ?」

 

 『それは犬舎(けんしゃ)

 

 「じゃあ、車を検査するあれ?」

 

 『それは検車(けんしゃ)。ハリー、いい加減にしてくれる?つまらないギャグをかましてる場合じゃないんだよ。賢者だ、「賢者の石」。これがあれば、肉体と力を失った奴が復活を遂げるのも簡単になるんだ。それが今、ここに保管されている』

 

 トムは段々と早足になりながらも、淡々と説明していく。彼に呼吸の概念が無いからこそ出来る芸当だった。ハリーは既に息が荒くなっている。

 

 『「賢者の石」の効果は、命の水を生み出す事。他にもなんだ、何かあった気がするけど、こっちは問題じゃない。命の水ってのは、飲んだ奴を不老不死にするとか言われてる。とても魅力的だろ?死に掛けてヒイヒイ言ってる誰かさんにとっては』

 

 「あっ」

 

 そこまで聞いて、ハリーは声を上げた。

 『賢者の石』。俄かには信じ難い程凄まじい物品だが、ここは魔法界。「常識じゃ考えられない事象を現実たらしめる」場所だ。

 死に掛けている誰かさん―――ヴォルデモートの現状と、彼の話を統合して推測すれば、予想はつく。

 自身に掛けた死の呪いを跳ね返され、肉体を失い、それでもゴーストの様に生き永らえている存在。それが、命の水とやらを手にしてしまったら。

 

 「……ヴォルデモートは力を取り戻しちゃうね」

 

 『そう。だからこそ、この学校の教師達は全力でその石を隠す事にしたんだ。グリンゴッツから移送して、ホグワーツにね』

 

 グリンゴッツ。その単語を聞いて、ハリーの脳内に一つの映像が浮かび上がった。

 

 ダイアゴン横丁に連れられ、マクゴナガルとハグリッドの二人と共に、グリンゴッツへ向かった日の出来事―――。

 あの時、ハリーの金庫の次に訪れた七一三番金庫。そこに保管されていた、謎の小さな包み。

 マクゴナガルが回収し、「忘れなさい」と言われてしまった、あの好奇心をそそられる物品。

 

 「……僕、もしかして、『賢者の石』が運ばれるとこ、見ちゃったのかも」

 

 『ん?あぁ……そういえば、()()()()()()()?ハグリッドだかが、金庫から取り出してるんじゃなかった?』

 

 「マクゴナガル先生だったけどね。そっか。先生は、ダンブルドア先生の指示で、隠し場所を移そうとしてたんだね」

 

 『は?マクゴナガル?何か変わって……まあいいや。そう。グリンゴッツより、ホグワーツの方が安全だと思ったんだろうさ。離れた銀行より、手元の学校ってとこかな。そして、その隠し場所は、この廊下の先にある』

 

 「えぇ?何でわか……あ、そっか。トムは()()()()んだったね……。あっ、だからここ、立ち入り禁止なの?」

 

 『正解。ただ、保管場所を移すのは正しい判断だけど、敵が抜け穴を突いて来るってところまでは、あの爺さんは予想出来なかった、……と思う。まさか、ヴォルデモートが他人に取り憑いて校内に侵入してくるなんて、ね』

 

 「とり、つく?」

 

 『どうやったかは本人にしか知らないだろうけど、肉体の無いヴォルデモートは他人の体に取り憑く事が出来たんだ。取り憑かれたそいつは、この学校の教師の一人だよ』

 

 「教師!?」

 

 ハリーは声に出して、そっと片手で口を覆った。しかしその必要が無い程、廊下には誰も居らず、静まり返っている。

 

 教師。

 そう告げられて、入学式の時に見渡した、先生達の座るテーブルの光景を思い出してみる。

 校長であり、石を守る立場のダンブルドアと、石を護送した副校長のマクゴナガル。そのマクゴナガルに付き添っていたハグリッド。この三名の可能性は、まずあり得ない。

 次に思い出すのは、バカバカしいターバンを頭に巻いた、見た目だけで記憶に強く残る男の先生。そして、彼と話していた、全身黒づくめの怪しげな先生……。

 

 ハリーの中で、絶対にこの二人のどちらかだという確信が生まれた。

 ちなみに今の心境だと、どちらかというと黒づくめの方に疑わしいという気持ちが傾いている。

 彼と目が合った時、どうにもその瞳には、こちらに対する憎悪の様な感情が渦巻いている気がしたのだ。正直に言って、あまり良い印象を持てない。

 

 「ねぇ、もしかしてその教師って―――」

 

 『シッ!ストップ!』

 

 『立ち入り禁止の右側の廊下』。……へ続く廊下の入口であるドアが曲がり角の向こうに見えた所で、唐突に足を止められた。ハリーは指示通りに口を閉じる。

 その後のトムのジェスチャーに従って曲がり角に後退し、顔だけを出して向こうを窺う。

 誰かがそのドアの近くを、足音を忍ばせて滑る様に歩いているのを発見した。

 その人物はハリーが全身を確認する前に、すぐにドアを開けて向こうに消えてしまったが、やけに目に付く紫色が尾を引いて視界に残った。

 

 「あれは―――」

 

 小声で呟くと、トムが確信を得た口調で答えを出した。

 

 『―――クィリナス・クィレル』

 

 その言葉を聞いて、ハリーは一瞬、誰だったか思い出そうとした。

 というかそもそも、今日は記念すべき授業初日で、まともに名前を憶えている先生など、マクゴナガルとダンブルドアぐらいしかいない。

 ハリーがいくら思い出そうとしても、クィレルとやらが誰で何の教科を担当しているのか、出てくる事は無かった。

 ただ、あの紫色の事を考えると、クィレル先生はあの『黒づくめ』と同一人物ではない―――。

 

 うんうん思考を巡らせるハリーを差し置いて、いつの間にやらトムがドアの手前まで近付いていた。

 瞑目し耳を澄ませる。しばらくそうしてから、彼はドアをすり抜けて廊下へと入って行ってしまった。ハリーはすっかり、彼が壁や扉をゴーストの様にすり抜けられるのを忘れていた事に気付いた。

 驚いて立ち尽くすハリーの目の前で、付いて来ない事に気付いたのか、トムが腕だけをドアの向こうから出して手招きする。ハリーはようやく足を動かし、恐る恐るドアを開けて中に入った。

 

 中に広がる廊下は、無人だった。窓の無い長い通路が、奥まで伸びている。

 不思議な事に、ここに入った筈の人物、クィレルの姿は何処にも見当たらなかった。

 

 『この廊下は一本道だ。足音も良く響く。さっき、とても小さいけど確かに聴こえた。ここに来たんなら、そうそう見失う筈ないけど……』

 

 「でも、どこにもいないし何も聴こえないよ。先生、どうやって姿消したんだろ」

 

 『という事は……這いずったのかもね、匍匐(ほふく)前進みたいに』

 

 「トム、蛇じゃないんだから、人が廊下を這うワケないじゃん。適当なコト言わないでよ」

 

 『ちょっとハリー、失礼な事言わないでくれる?僕の母方の伯父は、「最速匍匐前進競技大会」の国内最高記録保持者なんだよ。人間も鍛えれば、物音出さず素早く地面を這えます。軍人にとっても必須スキルなんだから。それに、僕の父方の祖父の隣人の弟の友人の父親にあたる人は……』

 

 「トムは廊下でも地面でも這い回って、一生地上を歩いてこなきゃいいでしょ。そもそも『最速匍匐前進競技大会』って、ホントに実在するの?」

 

 『僕が嘘吐くと思う?』

 

 「うん、体感的に99%」

 

 『なんて事言うんだ。……ふん、まあいいさ。あのドアが怪しいな』

 

 廊下の奥に目を向けると、突き当りにポツンとドアがあるのが見えた。姿を隠すとしたら、あの向こうにしかない筈だ。

 しかし、この廊下は一本道。身を隠す場所も遮蔽物も無い。もしも今、あそこからクィレルが出て来たら、ばったり対面してしまう。

 こんな無人の廊下で、『賢者の石』を狙っている様な人間と無力な子供が出くわしたらどうなるか―――想像が出来ない程ハリーも馬鹿ではなかった。

 長い廊下の半分程まで進んでから、ハリーは尋ねる。

 

 「…どうする?飛び込むの?他の先生に知らせた方が―――」

 

 『……いや、今日は引こう。どこら辺に「賢者の石」の保管部屋があるか知れただけでも、十分な収穫だ。ハリー、この事は誰にも言っちゃ駄目だよ』

 

 「どうして?入った瞬間を見たワケじゃないけど、クィレル先生があの中にいるのはほぼ決まりみたいなものでしょ?」

 

 『ハリー、こういうのは、確かな物証が無いと告発なんて無駄なんだよ。例えば今、君が「クィレル先生が立ち入り禁止の廊下に入った」と言いふらしても、他の教師は取り合わない。むしろ、「先生なんだから校内を見回っているのは当然だ」と一蹴されて終わりだろうね。「賢者の石」は、一応教師全員で守っている事になってるから。その教師の一人が石の周辺をウロウロしてるからって、怪しいって証明にはならないし、ヴォルデモートが取り憑いているって証拠にもならない。だから無駄なんだ、今は』

 

 『賢者の石』はホグワーツの教員が守っている。だから、その教員が石のある場所に入っても疑わしい事にはならない。

 確かにその通りだった。他の先生達からしたら、そんな当たり前の行動を、「石を狙っている」と密告したところで、誤解されているとしか思わないだろう。むしろ、どうして生徒が極秘情報である石の事を知っているのだ、と逆に追及されかねない。

 とはいえ、目の前で堂々と盗みを企んでいるヴォルデモートinクィレル先生を放置するのも、簡単に容認はし難い。

 

 『今鉢合わせたら面倒だな。ここは立ち入り禁止区画に近いし……見付かったら罰則は免れない。早いとこ退散するよ……ハリー?』

 

 「ねぇ、大丈夫だよね。今はまだ、『賢者の石』は誰にも盗めないんだよね?」

 

 『そうだよ。()()()()()()じゃ、少なくとも当分あの石は無事だ。今は……そうだな。多分あいつの方も、どうやって盗もうか探りを入れている最中だろ。まだ本格的な窃盗計画を練ってないんだ。大丈夫さ』

 

 「じゃ……ここで僕が引き返しても、問題無い?」

 

 『問題無し。いやむしろ、さっさと教室に行かないとこっちの方が問題大アリなんだけど』

 

 ハリーはその言葉で、自分が今授業に向かう真っ最中だった事を思い出した。

 初日から遅刻して怒られるなど、今日はそっちの方がヴォルデモートの悪事より耐え難かった。

 

 「どどどどうすんのさ!こんな長い廊下、今からじゃ走っても多分間に合わ―――!」

 

 『どうどう、落ち着け。これに関しちゃ付き合わせた僕が悪いから、手伝うよ。はいハリー、荷物はしっかり持った?』

 

 「へ?う…うん。教科書、筆記用具……ばっちり」

 

 『次は「魔法史」の授業って言ったっけ。場所は……うん、2階のあそこか。階段までぱぱっと送ってあげるから、後は自分で行く事、いい?送った後は日記帳に地図描いてあげるから、どうしても分からなければ見ればいい。んじゃ、今送るから、荷物を落とさないようちゃんと持っててね』

 

 「何を……?」

 

 するつもりなの、という言葉は続かなかった。

 こちらの返事を待たずに、いつの間に取り出したのか彼が杖をヒュンっと振るって、杖先を突き付けて来たからだ。

 

 『はい、《シレンシオ》』

 

 相手の声を出せなくする呪文をハリーに掛けてから、再び、杖を今度は少し違う振り方で振った。

 

 その行動に抗議を上げようとしたハリーだが、それが叶う前に突然の浮遊感に襲われ、一瞬何が起きたか分からなかった。

 気が付けば己の体は宙を舞っており、しっかりと抱え込んだ荷物と共に、廊下の入口まで吹っ飛ばされている最中だった。

 初めて体験する長距離飛行(強制)に、ハリーは喉の奥から悲鳴を上げた―――筈なのだが、その声が廊下に響く事は無かった。事前に《シレンシオ》を掛けられているからだ。お陰で廊下の奥、『立ち入り禁止の右側の廊下』に居るであろうクィレルに存在を気付かれる事なく、ハリーの体は開いたままだった廊下のドアを抜け―――階段の手前まで吹き飛ばされて到着した。

 両手が塞がっていて、受け身を取れなかったせいで背中から着地する。痛みに呻いた声も、当然掻き消された。

 

 長い長い廊下を一瞬で渡り切る事が出来たが、説明も無しにいきなり吹っ飛ばされたハリーの心境は穏やかでは無い。

 日記帳に抗議文を書き連ねようとも考えたが、今は一分一秒が惜しい。遅刻を回避する為にも、ハリーは痛む背中に極力意識を向けないようにして、急いで起き上がり階段を駆け下りた。

 

 (トムのバカ―――!!)

 

 まだ《シレンシオ》の効果が続いているので、その罵倒は実際に声に出される事は無かった。それでもハリーは、口をパクパクさせながら全速力で教室へと向かって行った。

 『賢者の石』やクィレルの事が気掛かりだが、記念すべき初授業の前ではそんな問題も吹き飛んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 その後ろ姿を見送ってから、トムは背後の奥にあるドアを振り向く。

 

 『物語』通りならあの廊下には、石の番人である『三つ首を持った巨犬』が居座っている筈だ。

 そして、クィレルはまだその巨犬の突破方法を発見してはいない。

 今頃はきっと、実際に巨犬を自分の目で確認して、どうしようかと考えを巡らせているところなのだろう。

 

 『―――、』

 

 ヒュッ、と、刹那。

 

 僅かに靡いた己のローブに、咄嗟に廊下のあちこちに視線を巡らせる。

 窓は無い。風など入り込む筈は無い。では、今の空気の乱れは一体どこから。

 そう訝しんでいると、足元に何かが落ちている事に気付いた。灯台下暗し―――果たして、これはいつここに現れたのか。

 屈み込んでそれを拾ってみる。―――羽根だ。(くれない)の、美しい一本の羽根。今の自分が触れられるという事は、これは魔力を通す物。強力な魔法特性を持った、特別な―――

 

 そこまで考えて、ある一つの推測が浮かび上がった。

 この羽根の正体。

 ゆっくりと頭を上げてみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 無人の廊下で。

 

 

 

 

 彼の頭上を、深紅の風が通り抜けていった―――。

 

 

 

 

 




『賢者の石』をハリーに認識させるの回。秘密の部屋RTAは当分おあずけ。
今無理して入ってもやる事無いので。
バジちゃんの毒の力を利用しての分霊箱破壊も、完全な実体化出来てないので、探索も自由行動も不可能だし。
バジちゃん仲間にして校内に解き放っても、ダン爺にバレるし。
原作でフォークスが部屋にやって来た事を考えると、ダン爺は多分秘密の部屋がどこにあるか、大体の見当がついてたんじゃなかろうか。それともフォークスが勝手に動き回って部屋を発見したんだろうか。

トム君が50年経っても尚、老成した様子がまるで無いのは、2歳分の年齢退行がずっと魂に響いている的なあれ。
これからいくら時間が過ぎようと、思考回路が老人っぽくなる事はありません。永遠の16歳?
精神的な成長の余地はあるけれど。

フラッフィーにサリアの歌聴かせたら、眠るどころか踊りそう


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Page 17 「彼の記憶を手繰り寄せて」

 "―――幸せな幕切れであれば良いのに、と思った。

 

 

 一人でも多く、生きて、笑って、愛されて。

 

 そんな光景が続く世界だったら、と願った

 

 それだけは『本当』なんだ、『嘘』じゃない。

 

 

 ……ただ、たった一人。

 

 

 

 

 

 君だけが愛されなかった世界である、というだけで、こんなにも、"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 くるり、くるりと、記憶の螺旋を墜ちていく。

 

 

 

 

 日記帳の中の暗闇で、ヴォルデモートの遺した『記憶』が幾つも漂っている。

 それらは、小型テレビの画面の様な形として存在しており、真っ暗な画面の中央には丁寧に日付が表示されていた。

 闇その物と錯覚しそうな漆黒の画面をチョンとタッチすると、サムネイルらしき物が表示される。記憶内容の舞台となる場所が、一つの静止画として浮かび上がるのだ。こうして、目ぼしい記憶を日付と合わせて探していく。

 暇な時に、こうして何か有益な情報を得ようと探っているのだ。

 

 やがて、一つの『記憶』に辿り着いた。

 日付は1943年8月。丁度、50年前の夏休み真っ最中の時期だ。

 

 画面をタッチして、サムネイルを確認する。そこに浮かび上がった静止画は、目を疑う程荒れ果て腐りかけた屋敷だった。

 一瞬躊躇するも、所詮これは記憶だ。実際にその場所を訪問する訳ではないと自分に言い聞かせ、画面の前に立つ。

 まず覗き込む様な格好で頭から画面に入り、次に全身を投げ込んだ。途端に、さっきまで表示されていたボロ屋敷は消え失せ、真っ暗闇の空間を真っ逆さまに墜ちていく―――。

 

 

 

 

 頭から墜ちた筈なのに、両足が地面を踏む感覚で意識が覚醒した。

 目に見える範囲に視覚を集中させると、霧に覆われているかの様にぼんやりした周囲の景色が晴れていく。

 

 『暗いな……』

 

 そこは、暗い林の中だった。

 余りにも日光が遮られているので、この薄暗い林の中で、絡まり合う木々に隠れた建物を発見するのに時間が掛かった。

 この家主は、余程自然が好きなのだろうか。そうでなければ、ここまで木々や雑草を伸び放題にはしない。だが、幾ら自然の中が好みとはいえ、陽の光を防いでしまっては不健康極まりない生活となってしまう。

 

 建物の周囲もそうだが、建物自体も、かなり放置されているようだった。

 壁に苔がびっしり張り付いており、屋根瓦は剥がれ落ちてしまっている。窓も汚れ放題で、この家の住人は、手入れや掃除といったものを知らないのだと誤解を招きかねない様子だ。

 一番奇妙なのは、玄関の戸に蛇の死骸が釘で打ち付けられている事だ。

 蛇に恨みでもあったのだろうか。見ているだけで痛々しい。これまでの光景を確認して、この家の住人に抱く印象は最悪だ。

 

 『いや、そもそも、最早誰も住んでいないのかもしれないなぁ……』

 

 立ち尽くしているのもしょうがないので、『記憶』で構成された虚構の世界の中を歩き出す。

 いつの間にか、手には古臭いランプを持っていた。ただでさえ暗い林の中だ、むしろこれは有り難い。

 

 玄関まで歩み寄り、なるべく蛇の死骸を目に入れないようにしながら、一応在宅確認の為、大きく音を立ててノックしてみる。

 一瞬待つが、返事は無い。普通ならもう数秒待つべきなのだろうが、どうせ誰も居ないだろうという軽い気持ちもあった事から、気にせず戸を開け放った。

 ゆっくり開けた筈だが、老朽化が激しいのか、思ったよりも軋んだ音を響かせてドアが開く。

 

 ランプの灯りを頼りに、家の中をざっと見回してみる。

 すると、暖炉の傍の肘掛け椅子に、こちらを見つめる男を見付けた。

 

 男は髪と髭が伸び放題の、見るからに不潔そうな雰囲気を放っている。手には物騒な事に、両方にそれぞれ武器を持っていた。右手に杖、左手に小刀。家の中でも持ち歩いているなんて、どれだけ用心深いのか。それとも、単に趣味で携帯しているのか。

 真意は図りかねるが、一つだけ解るのは、この男がもしも襲い掛かってきたらタダでは済まないという事。

 ほんの数秒、男と視線を交わし合っていたら、先に動き出したのは男の方だった。

 

 椅子からよろよろ立ち上がり、男は喚き出した。

 

 〈貴様!〉

 

 案の定、男は杖と小刀を振り回しながら突進してきた。

 こちらが一体何をしたというのだ。確かに、不法侵入と誤解されても仕方がないのかもしれないが、正当防衛にしては過剰過ぎないだろうか。

 

 ふと、男の足元に、空っぽの瓶が何本も転がっているのが目に入る。どうやら酔いが回っているらしい。正常な判断能力が欠けているのだ。

 それを理解したところで、相手は止まってくれないが。

 ポケットの中に杖があるものの、こちらは只今丸腰だ。攻撃されては一溜まりもない。

 立ち尽くしたまま、それでも迫り来る襲撃を回避しようと、何とか口だけは動かした。

 

 〈うわなにをするやめ―――〉

 

 慌てて言葉を発した為、発音を間違えてしまったのだろうか?

 今、自分の口から紡がれた言葉は、何か奇妙な息遣いになっていなかったか?

 

 向こうも向こうで驚いたのか、ただ単に酔いで足が縺れたせいかは分からないが、横滑りしてテーブルに激突した。とりあえず突進を回避出来たらしい。しかし安堵するにはまだ早い。

 男がじっと見てくる。妙な動きをされない為にも、こちらもこちらで注視してみる。ボサボサの髪と髭が顔を覆い隠しているせいで、腹の底で何を考えているか探れないのがもどかしかった。

 互いに見つめ合うだけの長い沈黙は、やがて男の方が破った。

 

 〈話せるのか?〉

 

 その口から漏れたのは、シューシューという奇妙な息遣いだった。言葉になっていない。しかし、何故かその意味を理解出来る自分に自分で驚いた。

 

 〈はぁ……なんか、話せるみたいだけど〉

 

 標準語で返事をした筈なのだが、こちらの口から出てきたのも男と同じシューシューという音。一体どういう事だってばよ。

 まさか、これが『蛇語(パーセルタング)』?

 サラザール・スリザリンと、その子孫に受け継がれていく、特殊能力。

 蛇の言葉を理解し、蛇を御する。魔法使いの中でも稀な才能。

 実際話すのは初めてだ。この要領でやれば、『現実』でも話す事が出来るだろうか。

 

 男が襲撃に移る様子が無くなった為、完全に部屋に入って背後でドアを閉める。

 警戒は解かない。また襲われた時の為に杖をいつでも出せるように、ランプを持っていない方の手をポケットの内に突っ込んでおく。

 

 しかし、改めて良く見ると、酷い有様だ。

 家はボロボロ。汚い。天井なんかは蜘蛛の巣で埋め尽くされているし、テーブルの上の深鍋には、カビだらけの食べ物が転がっている。まるで某作品の腐海の様だ。

 こんな所で、人が到底生きていける訳がない。この男は何か特殊な訓練でも受けているのか?だとしたらある意味では尊敬するが、実際自分の顔に浮かんでいるのは恐らく嫌悪と失望だろう。

 

 情報を得る為に、例え『記憶』の世界とはいえわざわざ出向いたというのに。

 この汚らしい男から、何か得になる情報を得られるとは思えない。

 それでもここまで来た以上、やらないとお話にならないので、一応尋ねてみる。

 

 〈マールヴォロはどこに?〉

 

 予め『記憶』の"表面だけ"を読み取っていたので、解っていた名前だった。この『記憶』にある屋敷は、ヴォルデモートの家族に纏わる場所だ。

 純血の家系が記された本に載っていた「マールヴォロ・ゴーント」。恐らく、ヴォルデモートの父親か祖父か……。そのゴーント家が、この家に住んでいる、筈なのだが。

 ……蛇語を話すという事は、もしかして目の前の不潔な男がマールヴォロなのか?

 だとしたら、ご勘弁願いたいものだ。どうか親戚や子供であれ。

 

 〈死んだ。何年も前に死んだんだろうが?〉

 

 対して、男はやけにあっさりと答えてくれた。

 死んだ?その単語に、自然と表情が険しくなる。

 

 〈それじゃ、あんたは誰?〉

 

 〈俺はモーフィンだ、そうじゃねえのか?〉

 

 何故そこで聞き返す。知らんがな。

 

 〈……マールヴォロの息子?〉

 

 〈そーだともよ。それで……〉

 

 そこで、モーフィンと名乗った男は髪を押し退け、こちらを良く見ようとしてきた。

 その右手に、見覚えのある、黒い石がはめられた指輪を着けている。

 

 間違いない、あれは分霊箱の一つじゃないか!どうしてこの男が持っている?

 いや、ヴォルデモートは他人から収奪した物のほとんどを分霊箱にしていた。この指輪がまだ、本当の所有者の手にあった時代、という事なのだろう。

 

 〈おめえがあのマグルかと思った〉

 

 こちらの顔をじっくり眺めて、呟く様に言ってくる。

 

 〈おめえはあのマグルにそーっくりだ〉

 

 〈どのマグル?〉

 

 マグルに似ている?父親は、純血のマールヴォロじゃないのか?

 

 〈俺の妹が惚れたマグルよ。向こうのでっかい屋敷に住んでるマグルよ〉

 

 〈妹……〉

 

 〈メローピーだ、メローピー・ゴーント。おめえはあいつにそっくりだ。リドルに。しかし、あいつはもう、もっと年を取った筈だろーが?おめえよりもっと年取ってらあな。考えてみりゃ……〉

 

 マールヴォロの娘、メローピーが、マグルに惚れた。

 そのマグルはこちらに似ているけれど、年上。

 その情報に、皆まで訊かなくても、ヴォルデモートの両親が一体誰なのか解ってしまった。

 

 〈あいつは戻って来た、ウン〉

 

 テーブルにもたれかかったまま、モーフィンが呆けた様に言った。

 折角顔を晒してくれたのだ。心中を暴く為、モーフィンを見つめる。しかし、酔いの回った虚ろな表情ではいまいち思考を探り切れない。足が自然と彼に近寄る。

 

 〈……戻って来た?リドルって人が?〉

 

 〈ふん、あいつは妹を捨てた。いい気味だ。腐れ野郎と結婚しやがったからよ!〉

 

 急に怒鳴り散らし、唾を吐いて来る。一度礼儀作法という物を叩き込んでやろうかこいつ。

 

 〈盗みやがったんだ。いいか、逃げやがる前に!ロケットはどこにやった?え?スリザリンのロケットはどこだ?〉

 

 怒涛の情報ラッシュに、返事を返す事が出来ない。

 

 捨てた、という事は、一度は互いに心を交わし合った……のだろうか。

 しかし、理由は解らないが、リドルというマグルはその想いと共に妹を捨てた。そして、実家のあるこの地に戻って来た。

 捨てられる前に妹が身籠ったのが、ヴォルデモート……?

 

 そして、スリザリンのロケット―――後々分霊箱にされる一つが、この家から消えた。リドルか妹か、どちらの仕業か知る由も無いが、確かにこの家にあった物だ。ゴーント家はスリザリンの子孫なのだから。

 つまり、ヴォルデモートの母親はスリザリンの血を引いており、父親は魔法使いと縁の無いマグル……。

 

 完全な結論を出す前に、思考を邪魔するかの様にモーフィンが小刀を振り回して叫んだ。

 

 〈泥を塗りやがった。そーだとも、あのアマ!そんで、おめえは誰だ?ここに来てそんな事を訊きやがるのは誰だ?おしめえだ、そーだ……おしめえだ……〉

 

 情緒不安定気味に捲し立てながら、モーフィンが小刀と共にゆっくりと近付いて来る。まさか、殺る気か。

 彼の表情から見て取れるのは、純血でありながらマグルとの恋に走った妹への怒り。そして、そのマグルにそっくりのこちらに対する圧倒的な殺意。

 これだけ殺る気満々のオーラを放った上、凶器まで携えているのならば確定的だ。

 ここが例え『現実』じゃなくても、大人しく殺されてやる義理は無い。こちらも正当防衛と称して、やり返すだけである。

 

 『《ステューピファイ》!』

 

 やられる前に、やる。

 

 男に行動に移らせる暇も与えず、ポケットからするりと杖を抜き放ち失神呪文を放った。

 放たれた閃光は反応の出来ない男の胸に直撃し、壁まで吹き飛ばした。その意識は、既に刈り取られている。

 念には念をと、手から零れ落ちた小刀を、対象物を破壊する呪文、《レダクト》で粉砕しておく。これで、いつ意識を取り戻されても殺される確率はグンと減る。

 モーフィンの杖も……いや、【()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 モーフィンの杖を拾った手が、自分の意思を無視して勝手にポケットに移動する。

 『記憶』の世界では、『記憶』の流れ通りに、こちらの行動がある程度操られるらしい。この後、この杖で一体何が行われるというのだろう。

 

 ふと、自分の持つ杖を見てみる。

 『現実』で使用している、あのサンザシの杖ではなかった。

 これは、『物語』でも良く目にした、ヴォルデモートの所有する白い骨の様な杖だ。

 『記憶』の世界なのだから、当然といえば当然か。

 しかしデザインが不気味過ぎる。こんなの持って7年間学生生活送ってたのか。虐められそう。

 

 しれっと失礼な事を考えながら、モーフィンが言った『向こうのでっかい屋敷』を探す為、屋敷の外に出る。

 そこに、父親であるリドルが居る筈だ。何か新しい情報を得られるかもしれない。

 名前も一緒、顔もそっくりと言われるとややこしい事この上ないが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、いつの間にか『記憶』の世界は、小高い丘の上にある大きな屋敷の玄関前に切り替わっていた。

 どうやら、ヴォルデモートも自分と同じ様に、モーフィンを気絶させた後ここを訪れたらしい。

 ゴーント家の屋敷と違って、大きくて立派で豪華だ。手入れも行き届いている。どうやら幾分かまともな一家と見て良いようだ。

 

 ゴーント家の時と同様、まずはノックから。数回扉を叩くと、特に間を空けずに中から住人が出て来た。

 ディナーの正装をした、年老いた男だ。扉を開けるなり、こちらを見て明らかに表情を顰めている。まあ、いきなり顔の知らない青年が訪ねてきたらそういう反応にもなるかもしれない。

 無遠慮な視線を受けても何とか心を静め、柔らかい表情を浮かべて言葉を並べた。

 

 『突然の訪問、失礼します。こちらはリドルさんのお宅で間違いはないでしょうか』

 

 『……そうだが、君は誰だね?』

 

 明らかな警戒心を包み隠さず、男が鋭く尋ね返してくる。その視線はさっきからこちらの顔にばかり注がれている。何だか、お尋ね者にでもされた気分だ。

 こういう人間と面した時は、下手に出なければ。人懐っこい笑みを浮かべて、相手の警戒を解く。そういった猫被りは得意だ。

 

 『リドルさんに―――あの、昔、メローピーという女性と一緒に居た筈の、リドルさんにお逢いしたいのですが』

 

 目の前の男は年を取り過ぎている。多分、モーフィンの言っていたマグルの父親か何かだろう。

 そう思って、解り易いよう言葉を選んで尋ねたつもりだったのだが、何故か逆効果だったようだ。「メローピー」という名を耳にして、男の顔色が明白に変わった。

 

 『メローピーだとッ!?あのろくでなしのゴーントの子供の事か!?』

 

 赤くなった顔のまま、激昂して男は叫んだ。名前一つで、こうも態度が豹変するとは。

 ゴーント家は魔法族の筈だが、何故かマグル一家に存在を知られているらしい。

 メローピーの名前を出しただけで、この剣幕である。一体、両家に何があったというのだ。

 

 『息子を誑かした頭のおかしい女だ!何故知っている!?……ま、まさか……』

 

 男が眉を上下させてこちらの顔をまじまじと眺めてくる。

 

 話を聞く限りでは、メローピーは「旦那の家族から認められるような方法」でリドルと愛し合った訳ではない、という事が察せた。

 大方、駆け落ちか何かだろうか?

 

 そして、その誑かされたらしい息子のリドルと、そっくりな青年。

 正体を普通に考えれば、女とリドルの間に生まれた子供という予想がつく。

 そんな子供が目の前に現れたら、大抵の人間はどういう反応をするだろう?

 ……絶対に歓迎はしない。

 

 そこまで推測して、反射的に足が一歩後退る。

 

 これ以上は危険だ。こちらの身元がバレる前に逃げなければ。

 待て、どうしてこんなに足が震えているのだ。何故、逃げる必要があるんだ。

 一体、自分は何を恐れている?

 何も恐れる必要は無い。そもそもここは『記憶』の世界だ。他人の『記憶』の世界だ。逃げ帰る必要性など皆無の筈だ。

 まだ、リドルに逢っていない。いや、逢って何になる?逢ってしまえば、何か取り返しのつかない事が起きる嫌な予感がする。この胸のざわめきは、何なんだ。

 

 いつまで経っても返事が出来ないこちらに、男は構わず結論を出そうとした。

 

 『まさか、お前は―――!』

 

 『父さん、さっきから騒がしいけど、誰が訪ねてきたんだ?』

 

 その時、男の背後からもう一人別の、幾分か年若い男が姿を現した。

 自然とその顔に移った視界に、驚愕を隠せなかった。―――似ている。そっくりだ。

 それは相手も同じだったようで、自分と瓜二つのこちらを見て、その顔からたちまち血の気が引いた。

 

 『と、父さん、この子はどこから―――』

 

 『()()!どういう事か説明しろッ!お前にそっくりじゃないか!!()()はもしかして、あの女との子供か!??』

 

 怒りの矛先は、メローピーから息子へと変わった。トムと呼ばれた、こちらと同じ名を持つ若者は慌てて弁明した。

 

 『ちっ違う!こんな子供は知らない!な、何かの間違いに決まってる―――なぁ、そうだろう!?』

 

 同意を求める視線を、トムはこちらに向けた。肯定してくれと、その瞳が物語っている。

 ただ、両者の繋がりを否定するには、余りにも材料不足だ。

 酷似した容姿、同じ名前。スリザリンの血を引く魔法族の女と、一時でも一緒に居た男。

 果たして、こちらがその息子ではありませんなどと、どの口が言えるだろうか?

 

 『一体、何の騒ぎですか?もう食事時だというのに、やめて下さらない?』

 

 追い打ちとばかりに、今度は老婦人が現れた。屋敷の中の玄関から、外の様子を観察している。そして、その目がこちらを捉えると、やはり顔色が一変した。

 

 『……どちら様です?その子供は……。ねぇトム、どうして貴方に似ているの……何を騒いでいるかと思ったら、まさか、』

 

 『こいつはあの女の子供だ!!覚えているだろう、あのメローピーとかいう女だ!トムを惑わして消えた、あの忌まわしい女だッッッ!!』

 

 男は怒鳴り声で老婦人に説明した。両者は夫婦なのだろう。老婦人は目を見開き、ヒステリックな声を上げた。

 

 『な……何ですって……!?ま、間違いよ、トム、そうでしょう?だって貴方は帰って来たもの!!子供なんて居る筈はない、ねぇそうでしょ!?』

 

 『だがどうだ、こいつはトムにそっくりじゃあないか!?どういう事なんだ、もう子供が出来ていたというのか!?』

 

 『とっ父さん、そんな事は―――あんな女と子供なんて、あ、あり得ない!母さんの言う通り、間違いだッ!』

 

 『まだ言うのか?じゃあ、こいつに訊いてみればいい!!』

 

 一向に認めない息子に痺れを切らしたのか、男がギラついた眼光をこちらに向ける。

 咄嗟にポケットの杖に手を伸ばしたが、取り出す前に男に肩を乱暴に掴まれて阻止される。そのまま引っ張られて、家の中に突き飛ばされた。

 何とか倒れ込むのは回避出来たが、出口である玄関に三人も人間が固まっているので逃亡は望み薄になってしまった。

 トムと老婦人は顔面蒼白のままこちらを見ている。そんな二人を無視して、男が詰め寄ってきた。

 

 『答えろ、お前の名前は何だ?どうしてここに来た?あの女の差し金か!?全部答えろ、全部だ!』

 

 モーフィンの様に凶器こそ手にしてはいないが、その眼光だけで人を殺せるのではないかと思うぐらいの迫力だ。しかしこちらも杖を持っているので、()()()()()()()()は微塵も感じない。じゃあ、今この身に疼く謎の恐怖心の正体は、何だというのだ。

 無表情を浮かべたまま、沈黙を保つこちらに益々男の機嫌は悪くなっていく。

 

 『どうした、答えろ!……さっき、リドルに逢いに来たと言っていたか?あの狂った女が教えたのか!?そうだろう、じゃなきゃこんな所まで来れない筈だ!このッ……汚らわしい小僧が!!!』

 

 『……そう、そうよ。やっぱりあの女の差し金なんだわ……!……悍ましい。()()の血を引いているのでしょう?嫌だわ、ホントに。ねぇ貴方、こんなの、早く追い出して頂戴!!』

 

 老婦人はやがて男に同調し出した。男と一緒になって、こちらに対して罵倒を連続で投げ掛けてくる。

 トムは、口にこそ出さなかったものの、明らかな嫌悪と侮蔑を込めた表情でこちらを睨んでいる。

 

 それを認識した瞬間、耳栓でも突っ込まれたかの様に、急に周囲の音がフェードアウトしていった。時間の流れが、やけに遅く感じる。実際、三人の動きがスローモーションの様にノロノロとしていた。

 

 ―――あぁ、前にも、こんな光景をどこかで……。

 

 何故か、既視感を覚える。

 血の繋がった者達からの罵倒。

 人でない何かを見る様な、嫌悪に塗れた視線。

 自分の存在を認めない、望まない父親。

 そんな男だけを愛して、他には見向きもしなかった母親。

 

 時の鈍くなった世界で、未だにパクパクと口を動かして罵倒を続ける老夫婦を無視して、手がポケットの杖に伸びる。

 余りにも自然に動く自分の体に、ギクリとした。これは、『記憶』の流れに沿った強制的な行動だ。

 この後、杖を使って何らかの魔法を行使するのだ。

 

 しかし、どういう訳か実際に取り出したのは、モーフィンの杖だった。どうして。

 魔法使いは、自分の杖でないと思うように魔法を扱えないのではなかったか。

 まるで、自分の杖を使うと都合が悪いとでも言うような―――。

 

 ―――駄目だ、()()()()この先を観るな!

 

 音の消えた世界で、誰かの声が聴こえる。頭に直接訴える様な、切羽詰まった声。

 誰だっただろうか。酷く聞き覚えのある声だ。聞き飽きた声だ。懐かしさも感じる。

 

 ―――やめろ、戻れ!観るな!!

 

 何かが必死に語り掛けてくる。

 唯一解るのは、鬱陶しい『あいつ』じゃないという事ぐらい。

 

 モーフィンの杖を持った手が、ゆっくりと老婦人の方へ向けられる。

 スローモーション状態となっている三人は、気付く気配が全くない。

 容易に想像がつく未来を思い浮かべて、ようやくこの『記憶』から逃れようと、自由の利かなくなった身で必死にもがこうとした。

 

 戻るんだ、『記憶』の閲覧を終わらせるんだ!

 

 懸命に強く念じる。

 こんな風に『記憶』の世界に訪問したのは初めてで、帰り方など知らない。もうこうするしか思いつかない。

 そんな自分を嘲笑うかの様に、杖先に緑色の光が輝き始めた。見覚えのある、残酷極まりないあの呪文―――

 

 目を逸らしたかった。目を閉じたかった。

 しかし、たったそれだけの行動が出来ない。最早体は、『記憶』の流れ通りにしか動かない。

 

 嫌だ、()()()()()()()()()()()なんて、()()も見たくはない。

 

 そう考えた時だった。

 

 

 

 

 ガッ!と、杖を持たない方の手を、何かに力強く掴まれた。

 途端に、杖腕以外の体の制御が戻って来る。慌てて自由になった首を動かして、掴まれた手の方へ向ける。

 

 『―――ッ、』

 

 そこには、子供が居た。

 

 さっきまでどこにも居なかった筈の、子供が自分の手を掴んでいた。

 赤い瞳を輝かせた、10代前後の小さな少年だった。

 その瞳には、どこか呆れた様な、憐れむ様な、何というか―――生意気そうな印象を受ける。

 

 ……だ、誰だこの子は。

 

 『……世話の焼ける』

 

 ポツリと、心底どうしようもない、というような感じで呟かれた。

 明らかに、こちらを小馬鹿にしている感情が混じっている。

 それでも、出現が唐突過ぎて、言い返す事は出来なかった。

 

 『な、な―――』

 

 『帰るんだろ』

 

 言葉にならないこちらを無視して、少年はグイと掴んだままの手を引っ張った。

 小さな子供の力だ。大して状況が変わるとは思えない―――筈だったが、どういう訳か、呆気なく引き倒された。

 何という握力と筋力だ。子供の力で、青年の体をこうも簡単に。これは世界を狙えるかもしれない。思わず場違いな感想が出てくる。

 背中から床へ叩き付けられる―――事は無かった。驚く事になんと、引っ張られると同時に、床が一部、バラリと抜け落ちたのだ。その先に、永遠の闇が広がっている。

 

 『今回だけだから。次は助けない。自分でどうにかしろ』

 

 あっ、と思った瞬間には、既に少年の手は離されていた。自分だけが闇の中に墜ちていく。仰向けのまま、ブレる視界を整えてどうにか頭上を確認すると、穴の上からこちらを見下ろしている少年の顔が見えた。

 少年はこちらと目が合うと、「これで一仕事終えた」と言わんばかりの表情を浮かべては去って行ってしまった。

 

 おい待て。何でそんなに満足気なんだ。どうして一仕事終えた感の表情なんだ。ていうかどこから現れたワレ。

 

 訊きたい事がたくさんあったが、全て叶わなかった。

 断末魔に近い声を上げながら、重力に従って深い闇の底まで墜ちていった―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『嫌な想像はついていた癖に、好奇心で引き返せない所まで踏み込む辺りは、どうしようもないぐらい同じだな……』

 

 

 

 

 

 

 

 

 霧散していく『記憶』の世界の中心で呟かれた独り言は、誰の耳にも届かない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――それは、積み重ねた研鑽と野望の果てに。

 それでも『運命』の手から逃れる事の出来なかった、愚かな男のお話さ。

 

 【彼】の願いは、世界の浄化?逃げられない筈の死の回避?

 

 …いいや。【彼】の願いは唯一つ。

 餓えて、求めて、手を伸ばしても。

 その手に触れる事が出来ずに、否定してしまった、あの下らないモノ。

 

 ……あぁ、別に、"君"が【彼】を憐れむ必要など無いんだよ。

 全ては、自ら進んだ選択の末なのだから。

 

 嘆いても戻れぬ道のその先に、何を得、何を失っただろう?

 与えられなかった物は欲しくなる。それはどうしようもない人のサガ、なのだけど。

 (くちなわ)の口裂け」とも言うし、「二兎を追う者は一兎をも得られない」のにさ。

 

 差し出されるかもしれなかった手を、自分から捨てたクセに。

 もう一度、その手を伸ばしてもらえるだなんて都合の良い事を、信じて良い道理は無かった。

 そうして、望んでいたであろう物から目を背け、心に仮面を被り続けた結果。

 

 誰からも愛してもらえなくなりました、とさ。

 

 ……そう、だから。

 

 

 

 

 "君"も【彼】のようになりたくなかったら、望みを偽ってはいけないよ?

 

 己の本心に『知らないフリ』をするのは、最早救いようがないからね?"

 




【彼】に関する、とある記憶。
物語の進行無くて申し訳ない。

空白にはCtrl+Aや!!






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Page 18 「スネイプのパーフェクトまほうやくがく教室」

皆~スネイプ先生の魔法薬学教室始まるよ~!
5年生になったら、OWL試験で『優』を目指して頑張っていってね~!

某氷の妖精とは一切関係ありません


 ―――腹が空いた。

 

 闇の中で、何かがウゾウゾと這いずり回っている。

 暗い森の奥深く。森番のハグリッドさえも中々足を踏み入れる事の無い場所で、全身を黒いマントで覆われた様な生き物がいる。

 生い茂った草の絨毯の上を舐める様に這いずって、何かを当ても無く探して移動を続けていた。

 

 ―――獲物が居ない。

 

 『それ』は生き物である以上、餓えを満たす必要があった。

 活動の為のエネルギー供給。必須となるその行動を果たす為には、この森は余りにも目当ての獲物が少な過ぎる。

 しばしば訪れる森番の男も、森を歩く時は常に護身用の武器を携帯しており、おまけに半分とはいえ巨人の血を引いている。襲撃したところで、返り討ちに遭いかねない。

 そもそも、『それ』の得意としている「獲物を仕留める方法」は、堂々と活動している人間を襲うというものではない。

 故に、『それ』が襲撃を掛けるのに最も適した条件を満たす人間は、この森に誰一人として存在しなかった。

 このままでは飢えを満たせず息絶えてしまう。

 

 【そんなに欲しいのか】

 

 不意に、森番以外来訪する事のない森で人間の声が響いた。

 威圧感を含んだ、低い声だった。

 何者かが、下手をすれば自分が襲われかねない状況で、『それ』に向かって声を掛けたのだ。

 

 這い回っていた『それ』は、突如として降ってきた声に気味の悪い動きを停止させる。

 獲物―――狩られる側が、あろうことか自分の位置を無防備にも報せた。『それ』は歓喜に震えた様に蠢いた後、返答に応じる事無く声の主に向かって飛び掛かった。

 本来なら、この様な方法で獲物は狩らない。が、ただでさえ空腹だった。加えて、丸腰にも見える声の主の様子を見て、『それ』に躊躇など無かったのだ。

 

 例え、目の前の人間が()()()()()()()使()()だとしても。

 

 さっきまで確かに丸腰であった筈なのに。

 『それ』の思考を覗いたとしたら、きっとそんな考えが浮かんでいただろう。

 

 バシッ!と害虫を払うかの様な音が響き渡った。

 純粋な魔力による暴風が収束し、『それ』へ向けて一直線に放たれた。

 しかし、その効果はあくまでも弾くだけだ。『それ』に対して、有効打にはなっていない。

 弾かれ、吹き飛ばされるも、『それ』は何のダメージも負った様子は無く、空中で身を翻しては再び地面に這い蹲った。

 しばしの間、両者が睨み合う。ここですぐさま、再度襲撃を仕掛ける程『それ』も知性が低くは無かった。

 

 【お前を殺す気は無い。むしろ、そんなに欲しいのなら獲物を用意してやってもいい】

 

 やがて、声の主が杖を下ろして口を開いた。

 目の前の生き物が、人語を理解出来る最低限の知性がある、と把握しているかの様な口ぶりだった。

 

 【解るか?お前の獲物だ、獲物。こちらが用意してやろうと言っている。()()()()()()()をだ】

 

 一方的に話を続ける声の主に、『それ』は動きを止めたまま耳を傾けていた。……耳という器官があるかは謎であったが。

 

 【活きが良すぎて、()()()()()()()は出来ないかもしれないが……まあ、問題は無いだろう。襲われたところで何も出来ない、無力な人間を用意するのだから】

 

 ―――人間ならば最早何でも構わない。

 

 発生すらもしていなかったが、『それ』の思考を見透かしたかの様に、声の主は哄笑した。

 

 【あぁ、良いだろう。その望みを叶えてやる……精々狩り尽くすといい。用意するのに少々時間を貰うが、それでも良ければな】

 

 『それ』はまるで肯定の意を示すかの如く、声の主を見つめたまま数センチ程後退ったかと思うと、後ろを振り向き地面を這いずって森の奥へ姿を消した。

 同じ様に暗い森の中では、さっきまで確かに居た筈の『人間』もとうに姿を眩ましていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何かが、おかしい。

 

 

 

 

 ホグワーツ城の中で、窓の外に広がる森を眺めながらトムはそう思った。

 

 

 

 

 『物語』とは異なる流れが起きてしまっている。

 

 まず、ドラコとの邂逅により、スリザリンに対して少なからず良い印象を持ち始めていたハリーが、グリフィンドールに選ばれた。

 それだけならば『物語』通りなので、何もおかしくはない。ただ、ハリーが言っていた謎の現象のせいで、スリザリンからグリフィンドールに『修正された』のだ。

 

 あの時、組分け帽子は『物語』通り、最初にスリザリンを勧めていたのも教えてもらった。しかし、何とも不気味な事に謎の現象が、ハリーに対してスリザリン行きを強要した。

 ハリーは恐怖心と反射的な抵抗心から、思わず拒絶の声を上げてしまったという。それを感じ取った帽子は、もう一つの適性を持っていたグリフィンドールにハリーを入れたのだ。

 あの現象さえ無ければ、きっとスリザリン行きは確定していたのかもしれないのに。

 

 別に、トムにとってはハリーがグリフィンドールだろうがスリザリンだろうが、特に支障は無かった。

 そもそも、彼には彼の人生がある。どこの寮に入るも、誰と親しくなるのも、彼の自由だ。忠告はすれども、そこを侵害するような意思は無い。

 だからトムは、あの時押し入って来たドラコを、忠告した上で放置した。あそこまで脅しておけば『物語』の様な、どうしようもない捻くれた態度も少しは改善すると思ったからだ。

 そしてハリーと良い感じの仲になれば、『物語』で何度も起こした嫌がらせや問題行動も無くなり、自分達の動きが効率的になるとも思ったからだ。

 

 ……打算的な考えだが、許されて良いだろう。少し脅しただけで、そこまで深い干渉はしていないのだから。トムはそう思っていた。

 

 そうして、ハリーもドラコと共にもしかしたら、『物語』通りの流れを断ち切ってスリザリンに入れられる可能性も高まっていたのに。

 なのに、あの現象だ。『物語』には無かった、謎の現象が『この世界』では起きた。

 少なからず、『物語』に存在しなかった自分の影響もあるだろう。だが、それを差し引いても、ハリーを襲った現象は謎過ぎる。ドラコと違い組分けの儀式に関しては、自分は何も干渉していない。

 明らかに、『物語』とは違う何かが干渉してきている……様に感じる。

 

 そもそも、『何者かの意思』が存在すると仮定して、ハリーに「スリザリンに入れ」と強要したのは何故だ?

 たくさんの人間に囲まれた中で、帽子を被ったハリーに向けて放たれた正体不明の声。

 仮に『誰か』の仕業だとしても、一体誰が出来たというのだろう。悪意を持った誰かの仕業ならば、あの場にいたダンブルドアが見破って、大事な『英雄』のハリーを護りそうだが……。

 あるいは、ダンブルドアも気付けなかった現象だというのか。

 考えれば考える程、正解が遠のいていく。

 

 ……いや、実は一つだけ、可能性が高そうな答えに辿り着いてはいる。

 

 しかし、『これ』を正解だと断ずるには……余りにも不確定であるし、気味が悪過ぎる。

 『これ』が正しいのならば、間違いなく今後も、あのような現象にハリーは悩まされるに違いないだろうから。

 だからといって、目の前の答えに目を背き続けるのは良くない。

 

 『……良い度胸だ。この際、何でもかかって来いよ』

 

 この先も、『物語』とは違う現象が起きて、流れが異なったとしても。

 決して屈してはやらないし、諦めてもやらない。

 『誰か』の思い通りに動かされる事は、この世で一番嫌いなのだ。

 『物語』の中で終始ハリーを苦しめ続けた『予言』にも、本体であるヴォルデモートにも。

 自分は絶対、誰の思い通りにもならない。

 

 しかしもう一つ、どうしても解らない謎があった。

 

 トムがポケットから白い紙片を取り出す。

 ドビーと初対面した時にようやく気付いた、あの紙だ。

 短い謎の命令文が記された、謎の紙。

 ついでに言うと、触れる時点でただの紙じゃない事も確かであるが、その辺の細かい事を気にしていてもしょうがない。

 人間の中で唯一、ハリーにだけ触れられる理由もよく解っていないのだ。屋敷しもべ妖精に関しては憶測だが、彼らは「杖無しで魔法を行使出来る全身魔力生物」みたいなものだから、きっと触る事が出来たのだと考えている。理由がどうであれ、彼にとってはドビーに触れられるなら何でも良かったが。

 

 後になって発覚した事だが、何とこの紙には()()にも文字が書かれていたのだ。

 

 『……何だよ、「T・Y」って?』

 

 裏面には、シンプルにアルファベットの大文字で『T・Y』とだけ書かれていた。

 筆跡を見る限りは、表面と同じっぽい感じがする。

 正直言って、何の略称か全然解らない。

 

 『TシャツとYシャツの略か?いや、そんな馬鹿みたいな事を書くとは思えない……』

 

 幾つか推測を立ててみたが、結局何一つとして正解が不明だった。

 USA、みたいに国の略称か何かだとしても、T・Yの名を冠する国名など存在しない。

 この文字の並びは見覚えがある気がするのだが、この世界に来てからどうもそういう『既視感』は要所でチラホラ感じるので、己の感覚がいまいち信用出来なかった。人間というものは、初めて見る筈の物にさえ、既視感を感じる事があるのだから。

 

 そもそもとして、これを書いた奴は何処の誰で、何故己のポケットに入っていたのか。

 この世界に来た時からあったとして、どうやって?

 考えられる原因は、今のところ一つしかないが……

 

 『おいお前、これやったのお前か?』

 

 【最早、勝手に付けた渾名ですら呼ばなくなったね……。こちらに訊かれても、心当たりは一切無いのだけれど】

 

 『嘘吐きには針億本飲ます』

 

 【増やさないでくれるかな?何度訊かれても、知らないモノは知らない。むしろこっちが知りたいよ。君はそれが一体何だと思う?】

 

 『そうか、知らないか。んじゃ、役立たずにもう用は無い。シッシ』

 

 【……君は独裁者になったら成功するね?】

 

 嫌味には完全無視を決め込み、トムは紙をポケットに戻す。

 奴でも知らないのであれば、今は答え探しに躍起になってもしょうがない。

 

 何の意図が込められ、誰の仕業かは微塵も解らないが、こうしてここにある以上、絶対に何らかの意味はある筈だ。一応、このまま所持を続ける事にした。

 そうしたところで、答えが見えてくるとも思えないが。

 命令文に書かれていた事は、紙の存在に気付く前からずっと継続中であったし、特に大きな問題も無いだろう。

 

 そんな思考を巡らせながら、トムが窓の外を眺めていると、

 

 

 

 

 「どうしたのトム、顔が怖いよ。トイレで紙が無かった時のおじさんみたいだよ」

 

 『どうして、そう下品な例えしか出来ないんだ?』

 

 場違いにも程があるハリーの間抜けな言葉に、つい溜息が零れた。

 今は、午前中の授業が行われる教室へ向かう途中だった。

 

 いつも通り人目が無いタイミングを見計らっては実体化し、道案内すがら、50年前と変容した部分の城内の間取りなどを調べているところでもある。

 幾ら1000年以上続いている学校だからといって、教室の位置や部屋の数が変動しないとも限らない。肝心な時に迷子になるような失態を犯さぬ為にも、こういう確認作業は大事である。

 

 トムは、いつの間にか近付いてきていた少年に振り向く。

 この少年と一緒にいると、棘を削がれるというか、角が取れるというか、そんな気分にさせられるのだ。

 それが、この世界では何となく心地良くて、彼の前では『向こうの世界』で取り繕っていた性格をつい解いてしまう。

 

 『向こうの世界』では、終ぞ出逢えなかった類の、人間。

 一度死んでようやく巡り逢うなど、己の運命は何とも捻くれている事か。

 

 他人の事は正直どうでもいいけれど、彼やマートルの様な人間に関しては別だ。

 どちらもヴォルデモートの被害者であるし、彼らを何とかしてやりたいと思う気持ちは本物だ。

 ……マートルには、口が裂けても今更正体を明かせないが。

 

 ―――ヴォルデモート。

 

 どうしても早めに調べたい事があって、過去の『記憶』に入り込んでしまったが、彼は死ぬ程後悔していた。

 自分の知らない情報が詰まっているとはいえ、他人の『記憶』を調べるなどするべきではなかったのだ、と。

 やはり『記憶』を調べるのは、どうしようもなく手詰まりになった時だけにした方が良さそうだと、改めて再認識させられた。

 

 ……ヴォルデモートの過去は、観ていて決して気持ちの良いものではなかった。

 得られた情報もあるにはあったが、マイナスの方が多かったと思っている。

 手を出したこちらが悪いとはいえ、『古傷』を抉られる様な気分にさせられて心底不快だった。

 あの残忍なラスボスの裏に、まさかあんな『記憶』が存在したなんて思いもしなかったから、事前回避のしようもなくて余計苛立ってくる。普通、予測出来ないだろうと内心で毒づく。

 

 思い出すだけで何だか負の感情が沸き上がってくるのだ。

 しかし、落ち着かなければ。感情の制御も出来ない人間が、魔法を扱える訳がない。

 感情の乱れは魔法の行使にも影響を与える。現に、雑念があったり激情を抱えている時は、呪文の発動が失敗してしまった経験もある。

 

 ……しかし、何か一つ、()()()()()()()()()()()()()()()を忘れているような気がしていた。

 

 駄目だ。これ以上、鮮明にあの時の事を思い出そうとするのは自傷行為だ。忘れるべきだ。

 トムはそう思い込む事にした。

 

 「トム」

 

 『何だ?』

 

 「君、何か……具合でも悪いの?」

 

 『はぁ?』

 

 「だって、そう見えるから。顔色が優れない?っていうか……なんとなくそういう感じがして」

 

 ハリーの心配そうな表情を見て、トムは「あぁ」と相槌を打った後、わざとらしく両手で胸を押さえて弱々しく言った。

 

 『実は僕、小さい頃から肺が弱くて、二十歳まで生きられるかどうか分からないって医者から申告されてるんだよ』

 

 「息をする様にウソ吐かないでくれる?トムの肺なら鋼鉄製で、おまけにウロコも生えてるでしょ」

 

 『何だよウロコって。僕の内臓は爬虫類か、アホが』

 

 そもそも呼吸してないクセに、という根本からの突っ込みを付け加えると、トムは肩を竦めてから、ハリーを納得させる説明をした。

 

 『今は生身じゃないんだから、風邪も引かないし菌に感染すらもしないんだ。僕に限って体調不良になる訳ないだろ』

 

 「じゃ、何でそんなに苦しそうなのさ」

 

 『苦しそう?僕が?』

 

 言葉の意味が解らない、とでも言う様に、トムが数回瞬きする。

 ハリーは何となく、彼が嘘を吐いているのだと悟ったが、それ以上踏み込んでも絶対に本当の事を言わないと思い、深く追及はしなかった。

 

 話題を逸らそうと、ハリーは次の授業の話に移す事にした。

 次は地下室で行われる、グリフィンドールとスリザリンとの合同授業だった。

 これは入学してから判明した残念な事実なのだが、どうもホグワーツでは、グリフィンドールとスリザリンの仲は決して良好とは言えなかった。

 特に同室で、入学初日から自然と仲を深めたロンなんかは、スリザリンに対する不満感を隠そうとはしなかった。

 

 『「魔法薬学」ねぇ……。ハリーにとっちゃ……最初の躓きポイントだな』

 

 「え?やっぱ、そんなに難しい?」

 

 『さぁ。僕馬鹿だから解んないなぁ』

 

 「ウソツキ。いっつも『周りの奴らはバカばっかりでイライラする~』とか見下してたクセに」

 

 『あれれ、そんな事申しましたっけ?』

 

 「絶対、バリバリ、正真正銘100%、申してたよ。今更取り繕っても遅いっちゅうの。大体、自分で主席だって言ってたじゃん」

 

 『ふん、そんなの最初だけさ。ハリー、学校という学びの場で、他人の好感を得る人間って、どういう奴か知ってる?』

 

 「え?いきなり言われても。テストで満点取る人?」

 

 『まあ……間違っちゃいないけどね。ただ、そういう奴は一緒に妬みの対象にもなりやすい。本当に好感だけ抱かせる人間ってのは、平均的な奴なんだよ。あくまで僕の私見だから、例外もあるだろうけど』

 

 「平均?」

 

 『外面だけ善人ぶっても駄目駄目。知性レベルもちゃんと下げて、時には()鹿()()()()()()()。こういう併せ技で、妬み嫉みの的から外れられるのさ。満点なんて以ての外。勿論テストでも、丁度平均点になるように回答しなきゃね』

 

 「はぁ。それで、わざと主席の座から下りてたってコト?なんかもう、猫被りも徹底過ぎて呆れちゃうんだけど」

 

 『猫被り言うな。処世術だ』

 

 すかさず突っ込みを入れたトムを、ハリーは改めてマジマジと眺める。

 彼に関する逸話を聞く度、思わず呆れてしまう事もあるのだが、それ以上に感心する点も幾つかあった。

 

 本当の彼は嫌味で、意地悪で、他人を見下した様な態度を取る人間だ。

 

 でも、そんな彼のもっと底にある、優しさだとか、寂しさだとか、思いやりだとかが、入学前に共に過ごした時間の中で少しずつ解ってきた。

 出逢った当初はまだ柔らかかったが、いや、的確に表現するならば猫を被っていたのだが―――こんな事を言えばまた「処世術だ」と突っ込まれるが―――、物置で筆談する内に段々と、自分の前で素顔を晒していく彼の事を、面白い子だと思った。

 

 勿論、素顔の彼は他人から快く思われる人間ではないだろう。だからこそ、他者の好感を得る存在を演じていたのだから。

 それでも、そんな打算で作られた仮面を脱ぎ捨て(たまに少々脱ぎ過ぎだとも思うが)、素顔で接してくる彼が、ハリーにとって大事だった。

 ハリーに対して、優しくするとか、思いやるとか、そんな柔らかな感情を腹の底に抱え込んで、嫌味で意地悪な男の子になる彼が好きだった。

 

 「トム、僕、時々思うんだけど、君ってスゴいよ。僕には、そんな出来ないフリとかして嘘を貫くなんてコト、無理だし。スゴいよ。天性の詐欺師というか、超絶演技派というか、ずる賢さナンバーワンというか、やっぱり化けの皮ズルズルだったというか、とにかくスゴい」

 

 『それ、褒めてんの?貶してんの?』

 

 「めちゃくちゃ褒めてるよ。自分の素顔を隠して、相手を欺く―――なんか、スパイとか、潜入捜査官っぽくてカッコいいじゃんか」

 

 『えっ?そう……そうかなぁ。そんな風に考えた事は……無かった』

 

 思いがけず与えられた称賛の言葉に、トムは驚きを隠せなかった。今の今までだって、その様な言葉を掛けてくる相手などいなかったのだ。

 他人に対して素顔を隠す事を、「カッコいい」と表現する人間は少ない部類だろう。

 

 「でも、魔法は難し過ぎてそんな平均演じる余裕無いよ。魔法族生まれの子……ロンとかでも、幸先良いスタートってワケじゃないみたいなんだ」

 

 『まあ、魔法学校のホグワーツは例外中の例外だな。魔法ってのは、ほんとに扱いが難しいから』

 

 そこで、ハリーの表情を見たトムの目が細められた。

 

 『ハリー、考えただろ』

 

 「へ?」

 

 『(やま)しい事。魔法を上手く習って、帰ったらダドリーを脅かしてやろう、なんて考えただろ』

 

 図星を突かれて、ハリーの顔が少し赤くなった。

 ちょっとした呪いなら、もしかしたら使用した事がバレずに、ダドリーに今までの仕返しが出来るかもしれない―――そう考えていたのだが、彼は見事に的中させた。

 本では、人の考えている事を見透かせる魔法もあると書かれていた。それを使われたという事だろうか。

 

 「トム、君、何で人の心の中を覗くのさ。そんな私欲で魔法使っちゃいけないって注意してたの、君でしょ」

 

 『覗いてないもん。魔法なんて使わなくても、ハリーの考えてる事、顔を見てれば解るもーん』

 

 「ウソ」

 

 『嘘じゃない』

 

 トムの顔が、小馬鹿にする様な表情から、驚く程突然真面目な固い表情になる。彼の両手がハリーの肩を掴み、真正面から向き合う格好になる。

 

 『あのね、ハリー、前にも言ったかもしれないけどね、僕達魔法使いは、マグルに存在を知られちゃいけないんだ。未成年が魔法学校の外で魔法を使うと、厳しく罰せられる。だから、注意しないといけない。君はただでさえ、マグルと距離が近いんだから。僕達って、危険な爆弾を自分の中に持ってる様なモノなんですよ。一時の感情でマグルを魔法で襲ったりしないよう、魔力を暴発させない為に力を抑えたりとか、そういう自己抑制やコントロールのやり方を、ホグワーツでちゃんと吸収しなきゃ駄目なんです』

 

 「トム、あの―――」

 

 『いいえ、ハリーの言いたい事も解ります。自分の中にある魔力をコントロールしていくのは、口で言う程簡単な事じゃありません。でも、泣き言言わずにやっていかないと、最悪の事態―――魔法がマグルの眼前で暴発して、退学処分になるかもしれない。そうなったら嫌ですよね?折角アホなマグルの連中から離れられたのに』

 

 「トム、あ、あのさ―――」

 

 『良いんです、解れば良いんです。偉そうに言ってごめんなさい。でも、これからも起こり得る事ですから、お互い気を付けましょう。大丈夫、いつか慣れるから。ふふっ、ね、僕が傍に居て見ていてあげるから、ハリー、安心して』

 

 「解った、人前で魔法を使っちゃダメなのは解ったから。それより君、何で丁寧語になってるワケ?」

 

 『え?』

 

 「しかも何さ、その『ふふっ』とかいう見え見えの作り笑いは」

 

 『嫌だなハリーってば。僕って、いつもこうじゃないですか』

 

 トムがハリーの肩から手を離し、またふふっと爽やかに笑う。それを見て、ハリーは溜息を零した。この光景だけを切り取れば、他人からは礼儀正しく、人懐っこそうな優しい人間としか見られないだろう。

 きっと『向こうの世界』でも、こうやって人前で好青年を演じていたのだと考えると、その豹変ぶりにやはり呆れてしまうのを隠せない。

 

 『それに僕だって、魔法に関しちゃまだ出来ない事もあるし』

 

 「出来ないコトって?」

 

 ハリーが訊くと、トムは死んだ様な目を明後日の方に向け、蚊の鳴く様なとてつもなく小さな声で呟いた。

 

 『……守護霊呪文』

 

 「え?何だって?」

 

 訊き返すと、トムは有無を言わさぬ勢いでハリーの背中を押し、人の気配がする廊下の方へ押し出した。

 

 『そんな事より、そろそろ授業が始まるだろ。ほら、魔法薬学の先生は厳しいんだからさっさと行きなさい』

 

 「えぇー?何か怪しいな、怪しいな。まあいいや。じゃ、また後でね、トム」

 

 お茶を濁す様に実体化を解いたトムに別れを告げて、ハリーは小走りで教室へ向かった。

 

 しばらく走ると、数人の生徒達が歩いている廊下へ出た。

 そこで、先に到着しようとしたロンを発見して声を掛け合流し、教室へと一緒に入って行く。

 

 案の定というか、やはりロンはスリザリンと合同という点に、不満をブツブツ漏らしていたが。

 ハリーはそんなロンを「まあまあ」と宥め、まだ先生が来ていない内に、互いに隣の席へと座る事にした。

 

 

 

 

 

 

 

 「魔法薬学」の教室。

 

 その教室は地下牢に存在し、他のどの教室よりも体感的に寒かった。

 壁に並んだガラス瓶の中で、アルコール漬けにされた謎の生き物達がお出迎えをしてくれる場所でもある。

 まあ一言で表すならば、不気味という言葉で片付くのだ。

 それだけで、「魔法薬学」の授業はしんどいと錯覚してしまいそうだ。人間というものは、哀しいかな環境に左右されやすい生き物なのだ。陰鬱な教室での授業など、普段通りに臨む事は難しい。

 

 「魔法薬学」の授業を担当する先生は、セブルス・スネイプ。

 ちゃんと湯浴みをしているのかと心配になるような、ねっとりした黒髪。おとぎ話にでもいそうな、悪い魔女の象徴的な鉤鼻。血色が良いとは言えない土気色の顔。そして全身黒づくめの格好をした、見ただけでザ・悪者と勘違いされても文句は言えない男であった。

 まあしかし、どれだけ怪しさ満点だとしても、ホグワーツで教鞭を取っている人物だ。生徒が彼の授業を受けなければいけない事実からは、逃れられない。

 だからこそ、彼に対して良い印象を持たないハリーさえも、この教室に入らざるを得なかった訳である。

 

 彼の授業は、まず出席確認から始まった。

 それだけならば他の授業と何ら変わりない光景なのだが、彼はハリーの名前を呼ぶと違和感丸出しの猫撫で声で冷やかした。

 

 「ハリー・ポッター。我らが新しいスターだね」

 

 まさか教師とあろう者が、授業にも拘わらず、他の生徒達の前で堂々と個人を冷やかすとは。

 ハリーは咄嗟にそう思ったが、彼の冷やかしもあながち否定出来なかった。

 だって自分は、何もしちゃいない。全ては母の護りの力が悪を祓い、図らずも自分を英雄の座に押し上げたのだ。「英雄」なんて名で知られちゃいるが、本当の自分はマグルの世界で育てられ、マグルに虐げられていた惨めな子供だったのだ。

 スネイプは何故かそれを見透かしていて、真実のままにハリーを小馬鹿にしているのだ。

 「お前が生き残ったのは、お前自身の力じゃない。調子に乗るな」、とでも言う様に。

 

 「このクラスでは、魔法薬学の微妙な科学と、厳密な芸術を学ぶ」

 

 出席を取り終わって、スネイプが説明を始める。その間私語は一切発生しなかった。彼の前でそんな蛮行に走れる愚者は、1年生に居なかった。

 存在するとすれば、恐らくそれはグリフィンドールのとある双子くらいではなかろうか。

 

 「最初に言っておこう。杖を振り回すようなバカげた事はやらん。これを魔法かと思う連中が多いかもしれん。ふつふつと沸く大釜、ゆらゆらと立ち昇る湯気、人の血管の中を這い巡る液体の繊細な力、心を惑わせ、感覚を狂わせる魔力……諸君がこの見事さを真に理解するとは期待しておらん。吾輩が教えるのは、名声を瓶詰めにし、栄光を醸造し、死にさえ蓋をする方法である―――但し、吾輩がこれまでに教えてきたウスノロ達より諸君がまだマシであれば、の話だが」

 

 彼の大演説は、明らかに生徒達に対する罵倒も含まれていたが、それを除けば魅力的で解り易いものでもあった。伊達に教師を名乗ってはいない。

 教室の中でただ一人、グリフィンドールの女の子だけが、自分はウスノロではないと証明したがるかの様に、ウズウズしている。

 

 「ポッター!」

 

 突然過ぎる呼び声に、ハリーは目に見えて分かる程椅子から数センチ飛び跳ねた。

 声に含まれる威圧的な感情に押され、内心アワアワである。

 

 「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じた物を加えると何になるか?」

 

 皆が互いに目配せしたり、考え込む様な仕草に入ったが、その全員が最後にはお手上げの表情になった。いや、やはり女の子だけは違っていて、全力で挙手している。

 ロンが心配そうな視線を向けてきたので、ハリーは僅かに頷いてスネイプと目を合わせた。

 彼の、トンネルを思わせる黒く暗い瞳と視線が交差する。正直言って、すぐに目を逸らしたくなったがもう引き返せない。

 

 「えっ……と。出来上がるのは、えー……、『眠り薬』、です、はい。調合の際成分を多めにしてしまうと、投薬の結果、二度と目が覚めなくなる場合もあるので、『生ける屍の水薬』という別名があります、はい。他の材料は確か……催眠豆と、ナマケモノの……そうだ、脳味噌、を使います……はい」

 

 他の先生の前ではここまでならないのに、スネイプ相手だと無駄に焦燥して舌が縺れそうになる。

 しどろもどろで、やたら「はい」を連呼してしまったが、何とか答えられた。混乱していたせいか、訊かれてもいない他の材料についてまで説明を加えてしまったが。

 

 「魔法薬学」に関しては、入学までの間に教科書を読み込んでいたし、トムによる個人授業(授業料として余分に魔力を取られた)のお陰で、たくさん知識がついていたのだ。

 トムは、学生時代の【本人】が「魔法薬学」のクラブに所属していたせいもあってか、その記憶を盗み見て魔法薬に関する知識が豊富だった。実際に調合が試せない事を悩まし気に話してもいた。

 勿論彼と同じく知識だけで、実技は材料の問題とダーズリー家での生活もあって不可能だった為、そっちはからっきしだ。故に、今日この日でも、「魔法薬学」の授業に不安を覚えているのは確かである。

 

 スネイプは、円滑ではないが、非の打ちどころの無いハリーの回答に眉間の皴を寄せた。

 どうやら、答えられないと思われていたらしい。ハリーもハリーで、今のは1年生の内容じゃないなと心の中だけで呟いておいた。

 入学したての生徒に回答不可能な質疑に応じさせる程、この教師は捻くれているという事だろうか。

 

 「ほう……事前に教科書を見ていたようだな。予習は確かに重要だ。それについては認めてやろう」

 

 普通なら答えられない問題を出しておいて、随分上から目線の世辞である。

 隣のロンは表情だけで「お見事」という意思を伝達してきていた。座席の位置関係上見えなかったが、スリザリンの席ではドラコが少しだけ驚きの感情が籠った視線をハリーに注いでいた。

 

 ほっと一息ついているハリーを無視して、スネイプが再び問うてきた。

 

 「では次だポッター。ベゾアール石を見付けてこいと言われたら、何処を探すかね?」

 

 女の子が座ったまま、限界まで手を高く挙げる。しかし、スネイプは彼女に質問のターゲットを変更する事は無かった。あくまでもハリーを晒し物にしたいらしい。

 ハリーはなるべく頭を冷静に保ち、およそ5秒の沈黙の末、脳内で目当ての答えを発見した。

 

 「ベゾアール石の在り処は……えぇ……や、山羊の胃の中……、です。これは解毒剤としての効果があります、が、全ての毒に効くワケではないので、過信してはいけない物、でもあります」

 

 またまた訊かれていない範囲まで答えてしまった。生存を左右する解毒剤だからと、万が一の為にも絶対覚えておけ、とトムから念入りに頭に叩き込まれていたせいだ。

 ロンが口笛を吹き掛けては、スネイプの睨む様な眼差しを受けて慌てて口を引き結ぶ。ドラコの瞳は驚きから感心へ変化している。女の子は、「どうして指名されないんだ!」と言わんばかりに悔し気に顔を歪めて手を下した。

 

 「どうやら、随分熱心に教科書を読み込んでいたようだな、ポッター?」

 

 「分かりません」の返事を期待していたらしいスネイプは、不満げな声色を隠そうともせず、嫌味ったらしい口調と冷たい視線を投げてくる。だからといって、それから逃れる為に知らないフリで授業に臨む程、ハリーはトムの様になれなかった。折角彼が教えてくれた知識に対して、そんな裏切る様な真似はしたくなかったのだ。

 

 「ポッター、モンクスフードとウルフスベーンとの違いは何だね?」

 

 ここで初めて、ハリーは冷や汗を噴き出した。女の子が「今だ!」というオーラ全開で、とうとう椅子から立ち上がっての挙手に移った。当然ながらターゲット変更は無い。

 

 ハリーは、今までの様に容易に答えを出せずにいた。いや、思い出せないだけだ。確かに覚えていた知識だったのだ。必死になって、脳内の自分が記憶の引き出しを駆けずり回る。

 露骨に様子を一変させたハリーに、スネイプは喜ぶでも訝しむでもなく、ただじっと暗い目で見つめていた。それがまた不気味である。

 

 「あ、えっ、えと……っ、ちっ、違いは、なくて……二つとも、同じ植物だったと思う、んですけど……」

 

 スネイプのねっとりする様な視線に晒され、ハリーの呂律はいよいよ機能低下を見せ始めた。どうにか違いはない、という正解を引っ張り出せたが、何の植物かまでは出てこない。

 対してスネイプは、ハリーから視線を外し、鬱陶しい虫を見るかの様な目付きで女の子を流し見してから、「座れ」と一言。そしてハリーの答えられなかった部分を説明し出した。

 

 「左様。同じ植物である。この二つはどちらもトリカブトの事を指している……。モンクスフードとは、修道僧の被っている帽子だ。トリカブトの花が帽子の形に似ている事から、この別名で呼ばれている。ウルフスベーンは狼の死を意味しており、これはかつて、トリカブトの毒を利用した毒矢で狼を殺していた為だ。名の由来まで遡れば、これといって難解な問題ではあるまい……」

 

 そうだ、そうだった。

 

 説明を聞いて初めてハリーは思い出した。

 しかし植物の名前を答えられなかった……また嫌味を言われるのだろうか?ハリーは椅子の上ですっかり縮こまっていた。

 意外にも、掛けられた言葉はハリーを貶す様なものではなかった。

 

 「……どうやら、我らのスターは名ばかりではない事を証明したようだ。さて、諸君?諸君らは今のが解っていたというのかね?何をしている。さっさとノートに書き取らんか!」

 

 スネイプは、どんな感情が籠められているのか読み取れない目をハリーから逸らし、他の生徒達を見回して言った。皆が一斉に羊皮紙とペンを取り出す。

 ハリーはその瞬間だけ、ようやくスネイプの冷たい瞳から憎悪以外の何かを感じ取った。何か、までは推測不能な程、彼の瞳は読心されるのを拒絶していたが。

 それでもやはり、スネイプはハリーに対し決して良い感情を持たぬ事実を後々証明する事になるとは、この時思いもしなかった。

 

 「ポッター。皆が解らぬ問題をよくぞ回答出来たものだ。グリフィンドールに一点」

 

 その言葉に、グリフィンドールとスリザリンの席、両方からどよめきが起こった。即座にスネイプが一睨みをお見舞いすると、瞬時に沈黙が降りる。

 スリザリン贔屓が激しいと言われているスネイプが、グリフィンドールに加点したのだ。どちらにとっても驚愕ものである。

 ハリーだけは初めて貰った自分個人への加点に、口角が上がるのを隠し切れなかった。これから何が起きるかも知らずに。

 

 

 

 

 その後、「魔法薬学」の授業は座学から実技へと移った。

 今回は二人一組となって、「おできを治す薬」を実際に調合する。ハリーはロンと組み、材料を計ったり砕いたりの細かい作業に入った。

 

 「あ、ロン、素手で触っちゃダメだよ。イラクサって、葉や茎に毒があって、肌に付くと腫れちゃったりするんだ」

 

 「え、そうなの?あっぶないところだった、良く知ってるねハリー」

 

 「友達が教えてくれたもんで。僕が計るから、ロンは蛇の牙砕くのお願いしていい?」

 

 ハリーは知識通りに材料を適切な方法で取り扱い、材料の加工はロンに任せる事にした。

 調合というものは、材料の下ごしらえの段階だとそこまで難しいものではなかった。少なくとも自分にとっては。ハリーは表情に出ない様、安堵の息を吐いた。

 

 一方、スネイプは生徒一人一人の作業を見て回り、材料の扱い方や手順の間違い等を注意していった。ほとんど皆がダメ出しを食らったが唯一の例外は、ドラコであった。どうも、スネイプは彼がお気に入りらしい。スリザリン贔屓の噂は本当なのかもしれない。

 ハリーの所まで来た時、彼はその手元を一瞥すると、

 

 「……ほう、流石、我らがスターは順調なようだな、ポッター?」

 

 またしても、見下す様な視線と共に嫌味ったらしい言葉を投げてきた。間違ってはいないなら、どうして褒めるかそっとしておいてくれないんだろう、と思っていると、それを見透かしたかの様に彼の目が吊り上がった。

 

 「ウィーズリー。牙の欠片が大き過ぎる。もっと細かく砕けぬか?英雄のポッター殿は教えてくれなかったか?」

 

 矛先がロンに行ってしまった。ハリーは、慌ててスネイプの視線から庇う様にロンの傍に移動し、どれくらいのサイズに仕上げるか説明に入った。その様子を見て、スネイプが満足気にフンと鼻を鳴らした……気がする。

 他の生徒の元へ去って行ったスネイプの背中を睨んで、ロンが口を尖らせる。

 

 「スネイプは意地悪だって、本当だったんだな。ネチネチネチネチ、ホント、意地悪帝王だぜ」

 

 「ロン、聞こえるよ」

 

 ハリーも言い方に思うところはあったが、彼の指摘もまた事実であったので、なるべく考えないようにした。間違いを正すのは、教師として当然だ。不満を言っては駄目だ……そう思い込んで気持ちを何とか鎮める。

 だが、余りの彼の理不尽さに、気持ちを鎮める余裕が無くなる程の出来事が起こってしまった。

 

 「諸君、見たまえ。マルフォイが角ナメクジを完璧に茹でているだろう……」

 

 スネイプが手本として、マルフォイの大鍋に他の生徒達の注目を集めたその時、それは突如として起こった。

 

 教室中に毒々しい緑色の煙が広がり、何かが焼け爛れる様な悍ましい音が耳を劈いた。

 音の発生源へ顔を向けると、ネビル・ロングボトムとシェーマス・フィネガンの二人組の大鍋が、見事に溶けて捻じれた塊の様に変貌していた。そのせいで鍋から零れた薬液が床へ散乱し、今度は近くに立っていた生徒達の靴を溶かし始めた。

 

 「うわわ、何じゃこりゃ!」

 

 「ろ、ロン!こっち!」

 

 ハリーは自分達も餌食にならない様、ロンの腕を引っ張り椅子の上へ避難した。他の皆も同様にして床の薬を回避する。

 一番近くの―――もとい、この騒ぎの首謀者とも言えるネビルは、頭から薬をモロに被ってしまったようである。肌が露出していた部分におできがびっしり吹き出して、傍から見ているだけで痛々しい有様だ。当の本人は止め処なく涙を流し、悲痛な呻き声を上げている。

 

 「馬鹿者が!」

 

 床の薬が、スネイプの怒鳴り声と共に消失する。彼の杖の一振りで、それ以上の被害は食い止められた。

 

 「大鍋を火から降ろさない内に、山嵐の針を入れたのだな?」

 

 原因をあっという間に特定し、スネイプはネビルと組んでいたシェーマスに、彼を医務室へ連れて行くよう言いつけた。

 それだけで良かったのだが、スネイプはネビルの組の隣に居たハリーとロンに顔を向けると、理不尽な事を言い出した。

 

 「ポッター……何故、針を入れてはいけないと注意しなかった?吾輩の質問に答えられた君ならば当然、この事は知っていような?彼が間違えれば、自分の方が良く見えると考えたつもりか。グリフィンドール一点減点だ」

 

 プラスマイナスゼロにされてしまった。自分とドラコじゃ対応がまるで違う。

 スネイプの余りにも身勝手なこじつけに、流石のハリーも言い返そうとした。が、ロンがハリーをこっそりと小突き、小声で「やめた方が良い」と忠告してきた。

 

 ここで反論したところで、きっとスネイプはどんな理由を引っ張り出してでも、ハリーを貶すだろう。

 スリザリン贔屓の彼がグリフィンドールに与えた最初の加点は、この時の減点の為の布石だったのかもしれない。どうせ後で減点してやるから、とでも企んでいたのか。まさに禍福は糾える縄の如し、である。

 ロンの提言で、ハリーは黙って減点を受け入れ、退室していくネビル達の背中をぼうっと見送っていた。

 

 そんなハリーは気付かなかったが、スネイプに贔屓されているドラコは、何とも言えない面持ちで沈んだ表情を浮かべるハリーを見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 授業の帰り道、ハリーはトムに愚痴を零す為に無人のトイレへと寄っていた。

 途中まで一緒に付き添ってくれたロンは、「兄である双子達もスネイプには減点を食らっているから気にするな」、と励ましてくれた。

 

 筆談でも良かったのだが何故かトムは実体化してきて、水気の無い手洗い台の所で何かを置いて、作業する様に手を動かしながらハリーの愚痴を聞いていた。

 

 「スネイプ先生、どうしてか僕を憎んでるみたいなんだ……」

 

 『ハリーはまだ、校則違反も何もしてないだろ。理由も無しに憎まれたりなんて考えられないな』

 

 「そっか……。トムなら十分考えられるけどね」

 

 『そうそう。僕なら、しょっちゅう誰かに憎まれて……だからコラ、失礼だって』

 

 一言突っ込んでから、トムは今までせっせと動かしていた手を止めた。

 そして、ハリーの鞄に向けて杖を振って羊皮紙とインク壺を取り出し、持っていた『何か』をインク壺に突っ込んで、羊皮紙に『何か』で文字を書き始めた。

 黒い線が軌跡を描き、羊皮紙の上に流麗な文字を生み出す。ハリーはそれを見て、思わず疑問をぶつけた。

 

 「ねぇ、何してるの?何でトムが文字を書けるワケ?」

 

 彼はペン等の筆記用具に触れられない筈だ。故に、文字を書くという簡単な事さえも不可能なのだ。魔法を使えば物を浮かしたり壊したりは出来るだろうが、今みたいにインクを使用して文字を書くなんて……。

 

 『うーん、ちゃんとインク道は出来てるなぁ。完璧完璧。ん?これ?僕でも触れる特別な羽根ペンさ。綺麗だろ?今出来上がったんだ』

 

 トムが持っていた『何か』を見せてくる。それは見るも美しい、燃え上がる様な深紅色の羽根ペンだった。ペン先から、漆黒の雫が滴っている。

 普通の物に触れられない筈の彼の手は、しっかりとペンの持ち手を握っていた。特別な羽根ペンというのは本当らしい。

 

 『魔法でカットしたり割れ目を入れたりして作ったんだ。こいつは魔力を通す。はいハリー、これあげるよ』

 

 「え?」

 

 言いながら、トムが羊皮紙に残りのインクを吸わせてから羽根ペンを差し出した。手に触れるととても暖かい。これで羽毛布団なんか作ったら最高だろうな、と思わず余計な想像が働く。

 

 『もうとっくに過ぎてしまったけど、遅めの誕生日プレゼントってところかな。さっきも言ったけど、特別な物だからお守り代わり。そうそう手に入る材料じゃないから、手荒く扱わないように』

 

 「えっ、えっ、ホント?うわ、ありがとう。まさか、ヘドウィグの他に誕生日プレゼントを貰えるなんて思わなかった……。嬉しいよ、ありがとう」

 

 ダーズリー家では碌なプレゼントは貰えなかったのだ。突然のサプライズに、魔法薬学の授業で味わった辛酸がすっかり吹き飛んでいった。

 

 『良いって事よ。まあ、折角()()()()()()()()材料だし、有効活用しようって感じで作ったから。どうせなら、君にあげようと思ってね』

 

 「()()()?」

 

 『おっと、企業秘密。さあ、もう出るぞ。あんまり長居すると、大きい方だと思われるだろ。こんな精密作業したの久しぶりだから疲れた。ちょっと休む』

 

 「今更だけど、日記帳の中ってどうなってるの?」

 

 『永遠の闇。体験したい?』

 

 「いや全然。遠慮しとく」

 

 『そっちから訊いといて失礼な』

 

 トムの突っ込みを流しながらも、ハリーは彼から貰った羽根ペンを大事そうに鞄の中にしまい込んだ。

 

 そうだ。まだホグワーツでの日々は始まったばかりなのだ。入学して間もないのに、落ち込んでいる場合ではない。

 嫌な事だって体験するけれど、それと同じぐらいに良い事―――ロンやトムの様な、元気付けてくれる友達が傍に居てくれる。寮が変わった為、話す機会があまり作れないドラコだって、一応友達だ。

 ヴォルデモートの事は……当分の間は大丈夫だという言葉を聞いて、とりあえずは考えないようにした。

 

 

 

 

 自分の新しい生活は、これからなんだ。

 

 

 

 

 ハリーは、明るい気持ちを胸に歩き出した。

 

 

 

 

 




羽根ペンは切り裂き呪文の《ディフィンド》で作りました。
実際、羽根ペンはハサミやカッターがあれば簡単に作れますので。

フォイフォイ、君にはちゃんと見せ場があるから待っててくれ。

Page2の後半辺りで、主人公がほざいてたとある文章が今回で見事に矛盾してますが、まあつまりは『そういう事』です。
これからも「おめー序盤で言ってた事と矛盾してるじゃねーか!」という事実がちょこちょこ出てきますが、全部『そういう事』になります。深く考えなくて大丈夫です。


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Page ? 「ある青年の日記」

 "―――父親の事が、とても憎らしかった。

 

 愛してなどいなかった癖に、母と結ばれ子を成した事実が。

 子を望まず、捨てる事さえ平気だった性根が。

 

 自分が手に出来なかった、母の偽りない温もりを、その身に受けていたあの男を。

 同じ男として、妬んでいたのかもしれない。

 

 だから、君が父親を死に至らしめたと知った時。

 何だか、不思議な気分になったんだ。

 他人の過去とか事情とか、どうでもいいと常々思っていたけれど。

 君の事は、何故だか知りたいと思ってしまったんだ。

 

 なのに、君は凄く他人嫌いで、警戒心が強くて。

 少しでも不快になれば、荒々しくなるし、聞く耳を持たないしで。

 話を引き出すのも、本当に苦労した。

 

 正直、ここまで相手を信じようとしない人間と、親睦を深める術が解らなかった。

 他者の信頼を勝ち取るなんて、今まで簡単だったのに。

 というか、警戒するだけじゃ飽き足らず、しつこいようなら手を出すぞと威嚇もされた。

 まあ、威嚇だけで、実際手を出すなんて物理的に不可能だったんだけどね。

 それでも、言葉だけだとしても、癖なのか自然とそう振舞ってしまうんだろうな。

 とか、そういう図星を指摘すると、また機嫌が悪くなるからやめた方が良いかな……。

 

 最初の頃は、ちょっと素直で、かろうじて年相応な態度だったけどさ。

 何か、こっちの方から色々訊こうとすると、途端に突き放してくるんだよね。

 君だって、あれこれ質問してくるからお相子じゃないかと思う。

 人の事を知りたがる癖に、自分の事を語ろうとしないのは少し腹が立つさ。

 だから、取り合えずお互い妥協する事にしたんだっけ。

 一方が話した分だけ、もう一方も話す事にしようって。

 つまり、等価交換ってやつ。

 

 そこまで決めても、君はまだ不満そうだったけど。

 どれだけ自分の事を話したくないのやら。

 何て思わず呆れると、また怒気が膨らんだ。

 こんなに怒りっぽい性格で、よくまあ他人と上手く付き合えたもんだ。

 あぁ、だからこそ他人に好かれる人間を演じてきたのか。

 本性がこれなのに、無理してきたんだな。

 うん、自分を偽るのって、案外大変なんだよ。

 

 勝手に納得してると、見透かされたのか罵声が飛んできた。

 善人を演じるのが得意なら、こっちにもそうして欲しいよね。

 いや、自分が相手だから、素になってる訳か。

 嬉しいような悲しいような。

 まあ、しょうがない事なの、かな。

 

 それにしても、ここは酷く退屈で窮屈だ。

 何も娯楽は無いし、会話相手と言ったら君だけだし。

 どれだけ時間が経とうとも、決して移り変わりはしない景色。

 お互い、地獄みたいな場所に放り込まれてしまったね。

 こんな所にずっと居たら、絶対におかしくなってしまうよ。

 同意を求めたつもりだったのに、自分は狂ってないだとか怒らせてしまった。

 一体どんな話題を振れば、この態度は軟化するんだか。

 

 まあ、まだ解らない事、知りたい事、残ってるし。

 それを全部話してくれるまでは、付き合うしかないか。

 君は少しずつだけではあるけれど、ちゃんと説明しようという意思はあるみたいだし。

 ここには時間の概念も無いから、君が話す気になるまで待つよ。

 

 ……え、何をしているんだって?

 それは、アレだよ。

 ここじゃする事が無いからさ、せめて自分の気持ちとか、経験を書き記そうと思って。

 それくらい良いだろ?それとも、たったこれくらいの事でも君は怒るのか?

 それは流石に、あんまりじゃないか。

 別にこっちの自由だと思うけど。

 

 ……あぁ、そう、咎めるつもりは無いって?

 そうそう、解れば良いんだよ。

 こっちにもやりたい事はやらせてくれって話さ。

 

 え?変な事書いたら怒る?

 事実を書いてるだけなのに、理不尽だな。

 

 いや、ちょっと、見ようとしなくていいから。

 人の書いた物、断りも無しに見るのは―――あっ、何をするやめ―――"

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――酷い目に遭った。

 いや、全力で死守したから、これは一応無事だ。

 今、これを何処で書いているかというと……

 

 あ、足音がする。かなり近いな。

 実はたった今、身を潜めている最中。

 

 彼があんまりにも身勝手で、近くに居ると息が詰まりそうだったから、とりあえず距離を置く事にしたんだ。

 ……いや、呼吸なんて本当はしてないんだけどさ。

 それでも、ちょっと完全に一人にさせて欲しくてね。

 と思い、こうして隠れている訳なんだけど。

 どうしてか、彼は鬼の形相でこっちを捜索しているみたいだった。

 

 いや、身勝手過ぎにも程があると思う。

 人を見下して、時に罵倒して、一方通行の会話ばかり仕掛けてくる癖して。

 少し姿を晦ましたら、逃がさないと言わんばかりに追い掛けてくるんだから。

 

 ……あぁ、見付からない事を祈ろう。

 今捕まったら、絶対に面倒な事になる。

 こうしてじっとしていると、どうも落ち着かないのでとりあえず執筆を続ける。

 

 ……やはり、黒い日記帳は縁起が悪いと今更だが思う。

 今度から白にしてみようか。

 時間がある時に用意して、今までの分はそっちに書き写そう。

 

 しかし、先程から足音が隠れ場所の周囲を行ったり来たりしているのは気のせいだろうか。

 まさか。外から姿は見えない筈だ。

 物音も立てていないし、見抜ける訳がない。

 

 いや、一応、最悪の事態に備えて、これを彼の目から隠しておかないと。

 こんな事を(したた)めているなんて知ったら、一思いに燃やされそうだ。

 真面な娯楽の無いこの世界で、ようやくちょっぴり楽しめそうな事を見付けたんだ。

 これの執筆が続けられなくなるのは、避けたいなぁ。

 

 あ、足音が立ち止まって―――"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――監禁生活、〇日目。

 

 いや、少しふざけただけさ。

 この世界に何日だとか、そういうのは無意味なんだけど。

 

 あの後、見事に発見された上、連行されてしまった。

 一応抵抗もしたけれど、彼の力の前じゃ意味を為さない。

 

 狭くも広くもない部屋に閉じ込められた。

 当然、鍵も掛けられているし、彼は常時この部屋の付近で過ごしているから、逃亡したところですぐにバレるだろう。

 ただでさえ退屈な時間が、一層退屈さを増していく。

 

 そういうのを紛らわす為にも、これの執筆は続ける事にしよう。

 今回は、何を書こうか……。

 

 魔法の事でも書いてみようか。

 

 魔法と言えば、『死の呪文』は凄いと思う。

 一言唱えるだけで、命中した相手が息絶えるってさ。

 めちゃくちゃでこの上なく残酷な魔法だけれども。

 殺意を持った人間にとっては、これ以上に魅力的な魔法は無いだろう。

 

 しかし、こんな呪文を開発し、善良な魔法使いにも周知されるぐらいに広めた人間は、かなり性格が悪いだろうな。

 この呪文の存在を知れば。

 その、余りにも絶大で絶対的な強さに魅入られてしまったら。

 多くの魔法使いは、闇の道へ踏み出してしまうだろう。

 

 目の前に、『邪魔だと感じる者を簡単に消し去る力』が置かれていたら。

 例え一瞬、躊躇する心があったとしても、魔が差してつい手を出す人間は少なくない筈だ。

 

 

 

 

 ……そうさ。

 

 目の前にそんな凶器があったら。

 

 自分だって―――"

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――初めて、彼が人を殺すところを見た。

 

 

 ……いいや、殺す、という表現は間違いかもしれない。

 相手はそもそも生きていない。だから、殺すという表現は適切ではないのだろう。

 

 思わず、訊かずにはいられなかった。

 どうしてそんな事をしたのか。

 

 すると、彼は不愉快そうに表情を歪めながらも答えてくれた。

 「鬱陶しいから」、と。

 普通なら、放置しておけば勝手に消えるらしいけれど、今回の相手はそうではなかったようだ。

 しぶとく残って、その上自分に突っ掛かってきたから癪だった、と。

 

 別に、自分以外の何かが死のうが、消えようが、どうでもいい。

 ただ、やはり目の前であんな瞬間を見せられても、気持ちの良いものではないな。

 

 そんなに簡単に手を掛けられるなら、どうしてこっちにはそうしないんだ、と尋ねてみた。

 彼は、こっちを見もせず何処かへ消えた。

 まあ、訊かなくても解っていた事なんだけど。

 彼は何をしたって、物理的にこっちをどうこう出来ないのだからね。

 

 またああいうのがやって来たら、彼は懲りずに消すのだろうか。

 既に生きていない者を手に掛けるのは、果たして罪となるのだろうか。

 

 自分には、知る由も無い。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――彼が、また殺した。

 

 殺された者は消え去る訳ではなく、彼の糧……の様な物になるらしい。

 そうやって力を付けているんだろう。

 

 この、退屈で陰鬱な世界からの脱却の為に?

 実体を取り戻して、現世へと還る事が出来るから?

 

 彼の気分を害する可能性は、考えなかった。

 矢継ぎ早に質問を投げると、面倒臭そうな顔を浮かべながらも答えてくれた。

 

 その様な事を考えた時もあった。

 でも、どうやったところで、そんな都合の良い事は不可能だ。

 『世界』が認めないのだ、と。

 

 じゃあ、一体何の為に?

 更に尋ねてみる。

 

 まだ全然足りない。

 お前に教えても無駄だ、と彼は言った。

 

 待っていれば、本当に教えてくれるんだろうか。

 まあ、ごねたところで、自分はそうするしか無いんだよね。

 

 あ、そうそう。これの執筆以外にも、面白そうな事を思いついた。

 彼が糧を得るのに意識を割いている間、彼の『記憶』を探ってみようかな、って。

 まあ……絶対に、確実に、確定で彼の怒りを買う行為なんだけど。

 何度も書くけどさ、それ以外に大してやる事無いし……。

 彼の罵声やら怒声やら聴くのは、生憎慣れてしまったから。

 よし、そうしよう。

 

 別に、悪意は無いさ。

 そう、これはただの暇潰し。

 彼にとっては、逆鱗に触れられる様なものだろうが。

 そうと決まれば、彼の意識が自分から離れる瞬間を見定めなければ。

 

 誰かの目を盗んで何かをやるなんて、昔から得意なんだよ。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――うっかりミスをしてしまった。

 

 1ページ、2ページと、ちゃんと最初から埋めて使うつもりだったのに。

 どうして気付かなかったのか。

 5ページ目を飛ばして、次のページに書いてしまったんだ。

 うーん、この白紙になっちゃった5ページ、どう使ったもんか。

 自分は、最初から最後まで全部埋めたい派なんだ。

 いつか、何か書きたくなったら書き込む事にしよう。

 

 何か、は思い付かないけどさ。

 それまで、この5ページは白紙にしておこう。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――彼の『記憶』を、一部、視た。

 

 胸中に渦巻くこの気持ちは、一体何と表現すれば良いんだろうか。

 

 ……、彼の呻き声が聴こえる。

 酷く苦痛に満ちていて、聴いているこっちも苦しくなってくるようだ。

 そのまま呻き続けられても困るので、様子を見に行こうと思う。

 

 ここには医者も薬も無いから、本当に苦しんでいたからといって、何も出来ないけど。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――あぁ、少し、後悔している。

 

 行かなければ良かった……かな。

 

 いや、行ってみて良かった……のかもしれない。

 

 本当の彼を、見てしまった。

 今まで接していた彼は、偽りの姿だったんだ。 

 

 本当の―――真実の彼は、

 

 

 

 

 誰からも望まれず、置き去りにされ、押し込まれている。

 

 

 

 

 そんな、醜く、憐れで、独りぼっちの子供だった。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――『記憶』を視たのに気付かれてしまったようだ。

 

 しかし、等価交換という約束を結んだ手前、このままではいけない。

 だから、こっちの『記憶』も差し出す事にした。

 流れる様な謝罪と共にその提案を申し出ると、彼はとても驚いていた……ように見えた。

 一つ問題なのは、どうやって『記憶』を差し出すか、だ。

 

 すると、彼が杖をこっちへ寄越してきた。

 成程、確かにこれを使えば『記憶』を取り出せるな。

 こう、こめかみに杖を突き付けて……スルリと……。

 しかし、一体何処から杖を持ってきたんだか。

 いや、この世界じゃ考えても意味は無いか。

 

 銀色の靄の様な物を、彼は両手で掬い取った。

 自分の知る限りじゃ、普通これは容器に入れる物だと思うが、無いのだからどうでもいいか。

 

 普通なら、他人なんかに絶対過去の『記憶』なんか語らないし、渡しもしない。

 単なる約束に従ったまでだ。

 彼は怒りっぽいし友好的な態度ではないけれど、約束なんかには厳格的だったから。

 こっちも、それ相応の対応をしなければいけないと思ったんだ。

 

 『記憶』を視た彼の反応は、とても印象的だった。

 包み隠さずドン引きしている。非難も受けた。

 とても心外である。人の事は言えないだろうに。

 しかし何故か、ちょっぴりだけ彼の態度が緩まった気がした。

 

 こうなるなら、いっそ開き直って他の『記憶』も渡してやろうか。

 でも、生憎自分はそんな素直な人間ではない。

 彼がまた身の上話を提供してくるまで、こっちも渡さないさ。

 

 だって、等価交換、なんだから。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 "―――幼少の頃から、『死』、について考えた事がある。

 

 『死』とは一体どういう物なのだろう。

 全ての生物に等しく訪れる、不可避の終焉。

 

 肉体の時間的な限界によって起こる、生命の活動停止。

 疾患や損傷が原因で、時には寿命を無視して襲い来る厄災。

 

 いずれ『死』に囚われてしまうならば、何の為に命は生まれてくるのか。

 屈強な肉体、機知に富んだ頭脳、素晴らしい物を生み出す才能。

 どんなに優れた点を持ち得ていたとしても。

 未来で、何もかも喪ってしまうのに。

 全てが、無駄になってしまうのに。

 

 もしも、『死』を越えられたならば。

 その人間が所持する肉体、頭脳、才能、全部。

 生物的財産とも呼べるそれらを、永遠に保存出来るだろうに。

 

 どうしても気になって、調べたくて。

 『死』を識る為に、色んな生物を死なせてみた事がある。

 子供が虫を遊びで殺すのと、何も大差は無い。

 

 命が終わる瞬間をちゃんと観察したくて。

 一思いにやったり、時にはギリギリまで甚振ったり。

 それを繰り返して、『死』という物を識ろうとした。

 

 そんな事を平気でやっていた自分が、『普通』では無いなどとうに知っていた。

 周りの人間は当然、『異端』として扱ってきた。

 面倒で目障りだから、『普通』や『馬鹿』を演じてやった。

 嘘を見抜けもしない愚鈍な連中は、それを続ける内にすっかり信じた。

 動きやすくはなったけど、あんな馬鹿達と付き合わなければいけないのは、苦痛でしかなかった。

 

 やりたくもない面倒事に手を出してまで、『死』の研究の成果が実ったというと。

 解ったのは、たった一つ。単純な事。

 

 

 

 

 ……『死にたくはないけれど、生きる意味も無い』

 

 

 

 

 ただ、それだけの事だった。"

 

 

 

 

 

 

 

 




筆者が解ったらスリザリンに10,6点。

次回から『賢者の石』に迫るかもしれないし
迫らないかもしれない。


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Page 19 「Sentimental Talk」

タイトルの通りです。
今回シナリオ的な進展は無いです。
原作読んでるとどうしてもハリーを毒舌突っ込みキャラにしたくなる。
あの子、ダーズリー家にも面と向かって毒舌ぶち込むし面白いからつい…
許して。


 ハリー。

 

 

 

 

 名前を呼ばれた気がした。

 

 とても優しく、どこか懐かしい声で呼ばれた。

 その直後に、犬の遠吠えの様な鳴き声が、悲し気に鳴り響いていた。

 

 

 

 

 「…………誰?」

 

 突っ伏していた教科書から顔を上げ、ハリーは辺りを見回した。

 復習をしていたつもりが、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。人目のある図書館ではなく、気の緩んでしまう談話室で勉強しようとしたのが間違いだった。

 とある事情で静かな空間のお陰で、つい眠気に引きずり込まれてしまった。口の端から垂れている涎をさっと拭う。

 

 夢の中で、今まさに誕生日ケーキを食べようとしていたのだ。

 ダーズリー家ではない、見た事も訪れた事もない家の中で、顔が霧で覆われた男女に、ケーキを振舞われていた。

 夢の中の自分は奇妙なその光景に驚く程馴染んでいて、特に警戒する事もなく「いただきます」とケーキにかぶりつこうとしたところで、誰かの声を聴いて目が覚めた。

 生まれて一度も口にした事がない、クリームたっぷりの誕生日ケーキ。思い出すだけで、また涎が出そうになる。

 今は誰もいないが、ハリーは慌てて体勢を整え、教科書の上の丸いシミを拭き取る。先程の痴態が恥ずかしい。

 

 トムが呼んだのだろうか?

 

 ローブの袖で口元を拭きながら、さっきの優し気な声を思い浮かべる。

 そうして、違うだろうな、とハリーは切り捨てた。声が違ったし、まるでハリーだけでなく、名前その物も慈しんでいるかの様な男性の声は、これまでの人生で聞き覚えが無い。

 覚えが無いのに、どうして懐かしく感じたのだろう……。

 

 不意に、胸の中に暗い感情が水滴の様に落とされる感覚が襲った。

 

 誕生日。母によってこの世に生まれた日。孤児のハリーにとって、誕生日を祝ってくれる肉親などいなかった。

 仮の親であるダーズリー一家は、当然ながら実の子ではないハリーの誕生日など眼中に無かったし、ケーキを貰うなんて夢のまた夢だった。

 いつもいつも、ダドリーの胃袋に放り込まれる大きなケーキを、碌に満たされない食欲と共に、ただ虚ろに眺めていただけだ。

 

 既に亡くなった者に逢えるなど、そんな都合の良い事は無いと頭で理解していても、心は、感情はそうすんなりとはいかない。

 夢でも幻でも良い。一瞬の間だけでも目の前に現れて、両親に自分の誕生日を祝って欲しかった。

 考えるだけで辛かったので、蓋をしていた己の願望。それが今になって溢れてくる。

 

 トムは「親などいなくても子は育つ」と言ってくれたけれど、ハリーは彼みたいに、親の愛の無い環境を素直に納得出来ていない。

 友人は友人であり、親は親なのだ。どちらも唯一のものであり、代わりなどない。

 彼やロン、ドラコの様に、親しく大事な者達がいても、血の繋がった両親は二人しかいないのだ。友情で孤独が埋められた筈のハリーでも、両親の愛情を望まずにはいられなかった。

 

 「逢ってみたいなぁ」

 

 気が付けば呟いていた。

 

 両親に逢ってみたい。

 例え叶わぬ願いだとしても、幻だとしても。

 彼らの顔をこの目で見てたい。声を聴きたい。触れてみたい。抱きしめてみたい。

 ヴォルデモートを前にして、ハリーを見捨てず体を張って護ろうとしてくれた人達だ。生きていたらきっと、ダーズリー一家と違い誕生日を祝ってくれただろう。プレゼントだって贈ってくれただろう。

 

 ―――ハリー、愛してるわ。

 

 頭の中で、顔も知らない母の声を想像してみる。

 

 『うわっ、これ凄い面白いな。「口を割らない相手に効果抜群!貴方の詮索に手を貸す開心術入門書」かぁ』

 

 ―――世界で一番、あなたを愛してるわ。

 

 『あいつに効くかなぁ。うーん、魔法無しでも大体相手の考えは解るけど、やっぱり習得した方が良いかなぁ』

 

 ―――嬉しいよ母さん。僕も大好きだ。

 

 想像の中で、母の腕の中に飛び込む。

 

 『でも実験相手がいないなぁ。そもそも魔法で心を覗くって、どうやるんだ。全然イメージつかないなぁ』

 

 ―――ハリー、生まれてきてくれてありがとう。ずっと一緒にいよう。

 

 父が頭を撫でてくれる。大きく暖かな手の温もりが、全身に伝わって来る。

 

 ―――父さん、僕も、ずっと一緒にいたいよ。

 

 『ていうかこの魔法、開発した奴かなり性格悪いだろうな。個人情報保護法案とは一体何だったのか―――』

 

 「トム!!」

 

 机を両手で思い切り叩く。積み上げられた教科書やら羊皮紙やらが揺れた。

 

 「もう、うるさいよ。本ぐらい黙って読めないの。何で独り言ブツブツブツブツ言ってんのさ」

 

 ハリー以外は滞在していない静かな談話室の中で、たくさんあるソファの一つに寝転がっていたトムは独り言をやめ、読んでいた本から目線をずらして伸びをした。

 凄く、いや物凄くだらしない恰好だ。ローブは乱れまくっているし、自分の家かの様に寛ぎまくっているし、四肢は弛緩しまくって大の字になっている。

 談話室の家具には何かの魔法が掛けられているようで、一部は彼にも使用出来るようだった。

 魔法を使って本を空中に浮かべたまま開き、自分がその下で寝転がる……怠惰の究極系の様な光景を作り出している青年は、魔法を解除して本を机の上に飛ばし、元の場所に戻した。

 

 『ふぇーい、極楽極楽』

 

 「トム、君の日記帳には羞恥心ってモノが書いてないの?」

 

 『んー?何だそれ?』

 

 「恥じらいのコトだよ、恥じらい。全くもう、現役魔法学校生徒兼闇の帝王分霊がダラダラ、ゴロゴロ、自重無しで怠けまくって、恥ずかしいでしょ」

 

 『へえー、良く言うよ。ハリーだってゴロゴロウトウト、居眠りでもしてたんじゃないの』

 

 「ギクリ。い……いや、まさか、ぼっ僕はちゃんとケーキを食べて……いや、お勉強をしてました」

 

 『えぇー、何か怪しいな、怪しいな。まっいいよ、どうでも。大体な、ハリーの前でカッコつけたって、1クヌートの得にもならないじゃないか。あー、それにしても、今日はやけに人の気配が少ないな』

 

 「1年生は皆、授業に慣れようと自主的に図書館に行ったりしてるみたいだよ。上級生達は、クィディッチ絡みの用事みたい。人目につく危険も減ってるし、気分転換に校内歩いてみる?」

 

 『馬鹿だな。人目が無いからこそ、僕がここでゆっくり出来るんじゃないか。こんな絶好の機会にわざわざ出歩くなんて、僕みたいな高貴な人間のする事じゃないね』

 

 トムが寝返りを打ち、脚を行儀悪く組んでソファに深く沈み込む。ついでに、ネクタイを緩めてから肘掛けに片手をやりだらしなく頬杖をついた。

 ハリーは目の前の光景に顔を顰め、ため息を零す。

 どう見ても高貴な人間から程遠い。ただ黙って静かに行儀良く座っていれば、物語の王子の様に見えなくもないのに、と常々思わされるのだ。

 

 『向こうの世界』でもそうだったらしいが、彼は美青年だ。文句の付け所が無いぐらいハンサムだ。

 白い肌、形の整った目鼻、宝石の様に煌めく赤い瞳。整い過ぎて、同性なのにたまに見惚れてしまう。道行けばすれ違った人間のほとんどが、振り向いてきそうな程の美しさだ。

 彼自身、あまり自覚が無く、むしろ人を引き寄せる容姿を全然有り難がっていないので、これで完全な実体化などしたら女性絡みの面倒事に巻き込まれそうな予感がビンビンである。というか、『向こうの世界』でも実際巻き込まれていたらしいので、まあ間違いなく同じ過ちを繰り返すかもしれない。目を合わせると考えを見透かされるので、顔を背けたままハリーはひっそりと考えた。

 

 「そんなダラダラしながら読んでて、本の内容頭に入って来るのか疑問なんだけど」

 

 『入ります。逆立ちしてようがジョギングしてようが長座体前屈してようが、いつ如何なる時も、僕は目にした物を全て記憶出来るんだ。興味ないゴミ記憶はすぐ抜けるけど。ふん、褒めても良いんだぞ』

 

 「さり気なく記憶力自慢しないでよ。ゴミ収集車みたいな脳味噌してるクセに」

 

 『失礼な。何でハリーに脳味噌の事まで言われなきゃならないんだよ』

 

 言いながら、トムはもう一度大きく背伸びをし、ダラリと寝転がった状態で杖を振るった。談話室の机上に積んである本が一冊、彼の元へひとりでに馳せ参じる。

 ハリーは再びため息を零した。

 

 とてもじゃないが、闇の帝王を追っている人間とは思えない。緊張感も決意もまるで感じない。

 一応は彼の分霊である身なのに、立ち振る舞いが180度違い過ぎる。肉体を取り戻す為、他人に取り憑いたり学校に侵入したり、四苦八苦している彼と比べ、分霊の方は人目につかない環境だからとやりたい放題怠けまくっている。

 便利な力は人を駄目にする、その最たる例が目の前に寝転がっていた。

 見た目と素があまりにも違い過ぎるのだ。端正な容姿と堕落した中身。この落差には絶対誰でも呆れる。目がかっ開いて、顎が外れそうなぐらい呆れる。

 筋金入りの引き籠り精神を、隠す事無く晒しまくる大胆さはある意味尊敬ものだ。勿論、これをやるのはハリーの前でだけだろうが。

 

 ヴォルデモートの事はどうでもいいのか、と訊くと、「それに備えての修行中」という、どこをどう解釈しても嘘丸出しな回答が返ってきた。

 修行は普通、寝転んでやるものではないし、ただ書物を読み耽るだけのものではない。これを修行と呼ぶのなら、全国で真面目に修行している誠実な魔法使いの方々に、全力で謝罪をして欲しい。

 

 ハリーはふとある事を思いついて、勉強に必要な教材を鞄にまとめて立ち上がった。

 

 「トム、悪いけど、僕図書館に行くから。君、日記帳からそんなに離れられないでしょ。一緒に来てもらうからね」

 

 今現在の談話室と違い、人が集まる図書館に移動するという事は、つまり人目に触れられないトムにとっては日記帳に戻らなければならない事を意味している。

 彼は突然立ち上がったハリーを横目に見ながらも、相変わらずソファに沈んだまま穏やかな声で返答した。

 

 『は?ハリー、良く聞こえなかったけど、今何て言ったのかな?あーそうか。談話室で一眠りしながら勉強してるんだね。そうだよね。寝不足は全人類の敵だから、そうしなよ』

 

 「何を言われようと行きます。丁度読みたい本があったんだ。ちょっくら行って、ついでに勉強しようっと」

 

 トムはいつの間にか起き上がってハリーの真横に立っており、その胸倉を掴んだ。

 恐るべき変わり身の早さである。僅かな物音すら立てなかった。まるで暗殺者の如き接近技術。普通の人間なら思わず恐怖する状況でも、慣れているハリーは掴まれたまま平常心で彼の顔を見た。

 

 『ハリー、折角の僕の寛ぎタイムを邪魔する気だな』

 

 「談話室じゃ居眠りしちゃうから、単なる場所の移動。ちゃんとした理由だもん。真面目にお勉強だもん。へへっ、残念でした」

 

 『クソッ、いつか義理の親戚になると思うから我慢してるけど、ホント苛つくな』

 

 「君は我慢なんてモノから程遠い人間でしょ。あと僕、トムみたいなお義兄(にい)さんなんか要らないよ?トムよりファングの方がぜーったい良いもん」

 

 『ファング?そんな奴いたっけか?誰だそれ。あぁ、遂にライバル出現か。そうだな、この世界の事だ、こういう展開はあり得るな。いいさ、誰でもかかって来い。僕、誰にも負けないぞ』

 

 「ファング、結構可愛いんだよ。色が黒くて人懐こくて、顔とかペロペロ舐めてくるんだ」

 

 『はあ?顔を舐めるのが趣味なら、犬にでもなれっての』

 

 「だって犬だもん」

 

 『ワンワンワンって……は?何だって?犬?』

 

 「ハグリッドが飼ってるんだ。可愛いよ。見た目は大きいけど、噛み付いたりしないの。僕、トムよりファングの方がお義兄(にい)さんだったら良いな。優しそうだもん」

 

 『あのな、ハリー。犬だぞ。何で犬が人間の家族になれるんだ。犬が二足で立って、ご飯作って、年下の面倒を見れるのか?色が黒いって、それ、死神犬(グリム)じゃないのか?むしろグチャグチャ喰われて殺されるんじゃないのか?えっ?ハグリッドが飼ってるペットって、大体そういうのばっかだろ』

 

 「トム、発想がめちゃくちゃで過激的なんだけど」

 

 『ふん、まあどうとでも言いなよ。この世界じゃ、僕は身元が無いも同然だし。上手い事動くには面倒だけど、周りにはハリーと親戚だとかで誤魔化していくしか無いんだからな』

 

 そこでハリーは閉口し、トムをじっと見つめた。

 急に相手に沈黙され見つめられ、トムが怪訝そうに少し身を揺らした。

 

 『何だよ。いきなりそんな目して』

 

 「いや……ちょっとさ。何でそんな事言えるのかなって」

 

 トムが不思議そうに瞬きを繰り返す。真顔になると、彼は本当に綺麗だ。嫌でも素を見せられ続けたハリーでさえ、ふっと目を奪われてしまう。

 

 「家族とか愛なんて要らない。人の心はいつか変わってしまう。誰かとの繋がりなんか信じられないって、君、良く言ってたじゃん。それなのに……僕のコトは、信じられるの?身元を偽る為だからって、家族を名乗れるの?」

 

 素朴な疑問だった。

 彼は容易に他人に心を開かない類の人間だ。その様な人間は、特別珍しくは無い。世界中探せば、それなりにいるだろう。

 

 彼は、幼児期から血の繋がった者達を含めた人間によって疎まれ続けてきた結果、それによって負った傷のせいで、他人との繋がりを信じる事をやめたのだ。

 多くは語らないけれど、心の内で他人を見下すのも、掴みどころのない飄々とした態度を取るのも、全部その時の傷が原因だ。

 

 自分を理解する力が無い他人。理解出来ないなら、そいつは馬鹿だ、程度の低い人間だと……自分の尊厳を守る為、子供の時から彼はそう思うしか無かった。

 他人を慈しむのではなく見下せば、心の内は楽になっていったのだ。

 円滑に生きていく為に自分のレベルを下げ、そんな馬鹿に混じっていくと、途端に周りは彼を理解したつもりになった。

 

 人間は、『普通』である事を無意識に、自分以外のモノに望んでいる。

 だから、『異端』には否定的な感情で接する事しか出来ない。

 

 『持てる者』には、尊敬の念を抱く者もいれば、妬み、攻撃する者も潜んでいる。

 『持たざる者』は侮辱し、「自分の方はマシで良かった」と優越感に浸る。

 

 だから、彼はどちらでもない『普通』―――『平凡』や『平均』である事を求めた。

 それらを演じれば、大多数の人間の信頼を得られると気付いたからだ。

 実際に演じていた。

 騙されているとも知らずに、手の平を返して信頼を寄せてくる表面上だけの友人達。その様な者達と過ごしていれば、自然と本物の友情など信じられなくなるだろう。

 

 そんな子供の真実を見抜くという、まさに親だけの特権を示した目聡い彼の両親は、次第に愛情ではなく嫌悪を与えた。

 社会に溶け込む為に、偽物と本物の自分を使い分けているだけだった子供に、両親は好意的な感情を抱けなかった。子供らしからぬ狡猾さや二面性を見抜いてしまい、本能的に疎んじてしまったのだ。

 

 本当なら、子供の真の姿を知っている親こそが、その時に信じてあげなければいけなかっただろうに。

 と、思った事があったが、彼は「自分も悪かった」と言って両親を擁護した事がある。

 それでも、ハリーは気付いてしまった。その言葉も、優等生のフリをしてきたせいで、無意識に自分の本音を偽ったものだと。本当は、他の親の様に自分を信じなかった両親が、嫌いで憎くてしょうがない筈だ。『いい子』を演じ続けたお陰で、『いい子』だと思われる言葉がふっと出て来てしまうのだ。両親を擁護する様な言葉が。

 彼がたまに矛盾した事を言い出すのは、多分この染み付いた演技癖のせいなのだろう。「世界や他者に対する本音」と、「誰かに良く見られようと取り繕った言葉」。二つがかけ離れていて、その上どちらも出て来るせいで、傍から様子を見れば矛盾している様に見えるのだ。

 

 結局、本当の繋がりを手に出来なかった彼は、何もかもがどうでも良くなって、自分だけの世界へ逃げたのだ。

 その頃には独りで生きていける能力が身についており、偽の自分を演じる必要性が無くなっていた。

 演技をしなくていい。馬鹿と関わらなくて良い。自分の好きな事だけが出来る。

 そんな環境こそが、彼にとっての幸福な時間なっていった。

 

 それでも。

 自分の世界に逃げても。

 彼の負った傷は完治していない。未だに疼き、血を滲ませる『古傷』が根底に刻まれているのだ。

 

 そんな『古傷』を抱える彼が、境遇が似ているだとか、『この世界』で生きる為に必要な事だとしても、他人―――ハリーと共に過ごす事は、良しとしている。

 彼自身が非常に嫌っている『家族』という物を、身元偽装の為とはいえ名乗ろうとしている。

 少し、不思議だった。

 

 『僕は』

 

 一拍置いて、トムがハリーと正面から向き合い、その瞳を敢えて覗き込ませながら言った。

 それは嘘偽りの無い言葉を吐く時に見せる、彼特有の癖だという事をハリーは知っている。

 

 『君に逢えて良かったって、思ってる』

 

 決して聞き取り易い訳ではなく、囁く様な声だった。

 それでも良いと思った。ハリーは、静寂な談話室の中に零れる孤独な青年の言葉を、全力で耳に拾い集める。

 

 『ま……僕はね、元々精神が特別っていうか、気高いっていうか、順応が得意なもんなんだけど。やっぱりハリーに、逢わなかったら……もう少し性根がひん曲がって、人間なんか皆嫌いだ、勝手に死んでしまえ、自分さえ生き残れば良いなんて思って、この世界で過ごしてきたかもしれない。だから、ハリー』

 

 「うん」

 

 『君には、こう見えて少し感謝してるんだぞ』

 

 「トム」

 

 その言葉を聞いて、ハリーは胸が熱くなるのを感じた。

 

 『他人は嫌いだし、どうなろうが別に良いけど、君の友人ぐらいなら何かあった時、何とかしてやってもいいよ。「この世界」の住人の大体の結末なら、僕は知ってるし』

 

 この時にはもう、彼はいつもの調子に戻っていて、平然とした態度になっていた。

 ハリーはその様子を見て、自分もといつもの様に毒舌をぶち込んだ。

 

 「君って、意地悪なのに無意識にいい子ぶって矛盾するし本当は口が悪くて態度も悪くて人を見下して傲慢なとこあるし寝っ転がって怠けまくってるけど、だけど、話聞いてくれるし、プレゼントくれたりするし、なんだかんだ良い奴だよね」

 

 『いや、そんなに褒められても……って、待て待て、どこが良い奴なんだよそれ。前半、ほとんど褒めてないじゃんか』

 

 トムが軽く頭に拳骨してくる。二撃目は、ダドリーのパンチを回避してきた日々によって培われた動体視力を以て、寸前で避けた。

 

 『ハリー』

 

 三撃目に備えて構えていると、拳を解いてトムが言った。

 顔を背け、少し睫毛を伏せている。何かを思い出しているかの様だ。

 

 『僕、さ……本当は、凄い……、普通の人間なら、絶対「酷い」って思う事を、親にやった事があるんだ』

 

 彼が家族の事を話すのは、滅多に無い事だった。

 例えハリーにでも、詳細を語る事は中々してこない。

 

 『どんな理由があっても、本当に最低で酷い事だ』

 

 ギリ、と、彼が自身の胸の前で右手を握り込んだ。

 そして、顔を上げ真っ直ぐに、ハリーの新緑を湛える瞳を見据えた。

 

 『いつか…………君に、話しても、良いか?』

 

 「勿論」

 

 ハリーは即答だった。

 迷いも恐れも、そんな物は少しだって無かった。

 今まで伏せていた話を、明かそうとしている彼を見つめ返す。

 

 「でも、さ」

 

 一息吸い込んで、ハリーは冗談交じりに言った。

 

 「ヴォルデモートに比べたら、どんなコトもマシだと思うけどね」

 

 その単語を耳にし、彼が僅かに表情を変えた気がした。

 

 「だって、君はあいつみたいに、人を殺したコトなんてないでしょ?」

 

 『………そう、だな。虫とかならまだしも、人は……無い、な』

 

 「じゃあ、良いじゃん。それでも酷いコトって言えるなら、君はちゃんとしてるよ」

 

 『……ちゃんとって何だよ?』

 

 「だって、そう言えるじゃんか。本当に最低最悪などうしようもない悪人だったら、自分のしたコトが『酷い』なんて言わないし、自覚も無いでしょ?」

 

 思った事を正直に言っただけなのだが、彼はどうにも納得できないといった様子で言い返した。

 

 『自覚があって悪い事をする奴だっているだろ……』

 

 「そうかも。でもさ、後悔してるし反省もしてるんでしょ?だったら、僕は何も責めないよ。僕が責めるコトじゃないもん。君を責められるのは、君の両親だけじゃないかな」

 

 『もう逢えないも同然だけどな』

 

 皮肉っぽく彼は言う。

 ハリーは、自分の両親も同じ様なものだと思った。

 人が生き返る事が出来る術があるならば、もう一度逢えるかもしれないが、彼に至っては『向こうの世界』に帰らない限り、絶対に再会は叶わない。

 

 「僕だって、父さんと母さんには逢えないよ……。僕より先に亡くなってるんだもん」

 

 思わず緩みそうになった涙腺を無理やり引き締めていると、その様子を見た彼は先程までと打って違って、明るい口調でハリーを諭し始めた。

 

 『親ってのは子供より先に逝くのが普通なんだ。子供を愛していようがいまいが、僕らはいずれその親から離れる時が来る。遅かれ早かれ、独りで生きていかなきゃならない運命なのさ。それが人間ってやつなんだよ。でもね、運命なんてものは―――』

 

 そこで一度、ハリーの頭にポンと片手を乗せた。普段の彼に似つかわしくない、酷く優し気な手付きだった。

 

 『逃げるものでも、諦めて受け入れるものでもない。戦うんだ。戦って初めて、どうにか出来るものなんだよ。まっ、そういう事さ。それじゃ、僕は読書に戻るよ。何かあったら報告する事。グッバイ』

 

 さっきのハリーの言葉を一切合切無視した、「談話室から梃子でも動かぬ」宣言をかまし、トムはソファの方へ歩き出した。

 

 「トム……」

 

 『ハリー、君みたいなお子様には、ちょっとレベルの高い会話だったな。ゴメン』

 

 トムが背を向けたまま閉目し、天井を仰いで大袈裟な身振り手振りをしながら息を吐いた。

 

 『人間なんか誰だって孤独なもんさ。それぞれの運命と、独りで戦わなきゃいけないんだから』

 

 「トム、あの―――」

 

 『なんか寂しいじゃないか。けど、寂しさに負けたらいけないんだ。人には、独りで生きていける力があるんだよ。少なくとも、僕はその力で生きてきた』

 

 「トム、あのね、」

 

 『慣れれば楽なもんだよ。親だとか愛だとか無くても、子は育つものなんだ。どんなに泣き喚いたって、亡くなった君の両親は戻って来ないけど……ハリー、きっと大丈夫さ。ダーズリー家での日々を生き抜いてきた君なら、孤独な運命だって乗り越えられる。だから―――』

 

 「トム、ポケットからサンザシの杖が落っこちたよ」

 

 『え?あっ、いけねっ。これ、50年間苦楽を共にした、僕の唯一の相棒なのに』

 

 大袈裟な動作をしたせいでポケットから落ちた杖(盗品)を、彼は大事そうに慌てて拾い上げる。こういう点も含めて、本当に百面相だなとハリーは内心で突っ込んだ。今のは完全に無意識なのだろうが、こうも表情をコロコロ変えられると、慣れていてもやはり困惑する。

 

 「それと、今日の午後にね、ハグリッドがお茶に来ないかって手紙をくれたんだけど、トムも一応持っていった方がいい?」

 

 『ハグリッドだって?行く、行くに決まってるだろ?あの小屋、一度行ってみたかったんだよ。なんて素敵な誘いなんだ、嬉しいなあ』

 

 「言っとくけど、誘われたのは僕だからね。それに、トムが来たって何もするコトないでしょ、姿見せられないんだし。全く、さっきまで散々独りがどうとか語っておいて、調子良いんだから。孤独に生きるんじゃなかったの?」

 

 『人は誰かと触れ合ってこそ人になるんだよ。「人」って漢字はね、互いを支え合っている人間の様子を模して創られたんだから』

 

 「カンジ?ワケ分かんない。ホント、コロコロ態度変えて。高貴な人間は外に出ないんじゃなかったの」

 

 『馬鹿だな、ハグリッドの小屋がどこにあるか、よーく考えてみなよ』

 

 「え?」

 

 トムはちっちっちと人差し指を振りながら、談話室の窓を指差した。

 その外に見える景色には、ホグワーツの敷地内に広がる、立ち入り禁止とされている森がある。

 入学式にもダンブルドアが直々に注意をした、『禁じられた森』。

 

 『あの森のすぐ近くに立っているんだ。まあ、大の大人が居るからよっぽどの事は起きないだろうけど、君って赤子の時から「襲われ癖」があるしさ。ハグリッドだけじゃ安心出来ないだろ。この僕が一緒に行ってあげるんだ。大船に乗ったつもりでお茶してきなよ』

 

 「えぇ……どっちかって言うと、泥船じゃないの?」

 

 『ハリー、杖で眼球を刺すぞ』

 

 「うわっ、こわっ」

 

 ハリーは大袈裟にトムから距離を取った。当の本人はサラリとそれを無視し、ソファに再びドカッと座り込んだ。その様子がとてもふてぶてしくて、まるで玉座に腰掛ける尊大な王様を彷彿とさせる。

 彼には悪いが、『闇の帝王』という言葉がまさしく似合いそうなその光景を見ながら、ハリーはすうっと息を吸い込んだ。

 

 

 

 

 自分は、家族を信じられただろうか?

 

 

 

 

 ダーズリー家で虐げられていた日々。あの頃は、親からの愛など考えた事は無かった。

 あの一家は自分を虐待するだけでなく、しばしば両親を貶してきた。まるで刷り込むかの様に。

 生まれてから『大人』というものを、ダーズリーおじさんとペチュニアおばさんばかりしか見てきてない。

 だから、両親―――『大人』という生き物が、自分を見返り無しに愛してくれるなどといった状況を、心のどこかで疑ってしまうのだ。

 

 赤子の時に永遠の別れを告げてしまった、顔も、性格も知らぬ両親。

 身を挺して護ってくれたけれど、彼らがどういう人間だったかは微塵も知らない。

 赤子の時は愛してくれていたとしても、大きくなっていったら、どうだっただろうか?

 

 彼は前に言った。「両親が生きていて、家庭内暴力などが無いからといって、それが幸せな家庭だとは限らない」と。

 彼の様に、物心がついてから、不信感を抱かれてしまったら?

 最初は十分にあったとしても、徐々に徐々にその愛情が薄れていったら、自分も彼と同じ様に、他人や家族を信じられなくなっていたかもしれない。

 

 どうだろう……ううん、信じたい。二人が生きていたら、自分を愛し続けてくれていたと、信じたい。

 

 胸の上で両手を合わせる。

 両親が生きていても、その愛を満足に受けられなかった青年を見つめる。

 彼はそんな悲しい境遇を想起させない程、すっかり怠惰に溺れた体勢に戻っていた。

 その様子に、何回目か分からないため息を吐いて、ハリーは淡々と告げた。

 

 「図書室で勉強した後ハグリッドのとこに出発するから。誰かに見られても困るし、ちゃんと日記に戻ってね」

 

 「日記に戻る」という単語のところで、トムが舌打ちした音が聞こえた。

 

 いつもの彼が戻ってきて何だか少し愉快な気分になり、ハリーは歪む口元を抑えきれず笑ってしまった。

 

 

 

 

 




滅多に表に出さない心の内のお話。
彼が前にやたらハッフルパフだと言い張ったのは、あれが理由。

主人公は誰も殺めた事無し。
酷い事やってますが、ヴォルデモートに比べれば何倍もマシかと。
「人殺し」より酷い事なんて、無いですし…
真実が明かされた時、拍子抜けするか嫌悪感を抱くかは人それぞれ…

パッドフットおじさんははよハリーを迎えに来るべき。


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Page 20 「おいでよ禁じられた森」

試す事、試される事。


 ハグリッドが住んでいる小屋は、『禁じられた森』の端っこにある。

 

 

 

 

 ハリーは言われた通り、いつもの様に日記帳をポケットに入れて向かった。校庭を通り過ぎて、坂を下り、自然に溶け込むかの如く建っている掘っ立て小屋の戸をノックする。

 それに反応し、扉を引っ掻く音が聞こえてきた。きっとファングだ。ハグリッドのペットの一匹である、大きくて黒いボアハウンド犬。見た目に反して人懐こいファングが、ハリーはすっかり気に入っていた。

 中からハグリッドが戸を開くと、青信号に変わった瞬間の自動車の様に、ファングがハリーの膝に飛び付いてきた。頭を撫でてやると、舌を器用に動かして両手を舐め回してくる。やっぱり可愛いかった。

 

 「こんにちは、ハグリッド」

 

 「よお、ハリー、来たか!ささ、つまんねえとこだけど、くつろいでくれや」

 

 ひげもじゃの顔を綻ばせながら、ハグリッドが招き入れてくれる。

 中は本当に色んな物が、倉庫の様にが詰め込まれていた。戸口には石弓、防寒用長靴。天井からはハムやキジ鳥がぶら下がっており、ハグリッドサイズの巨大なベッドが奥に鎮座している。これに限らず、ティーポットや食器などのほとんどは、彼の巨大な体格に合わせているのか大きめのサイズだった。

 ハリーはテーブルに付いて、ハグリッドがお茶を入れてロックケーキを出してくれるのを眺めていた。その間にも、膝の上に顎を乗せているファングが涎を垂らしまくっている。

 

 「ホグワーツでの生活はどうだ?ん?」

 

 「最高だよ。びっくりしたのは、杖を振るだけが授業じゃないってところなんだ。魔法にも色々あるんだなぁって」

 

 「そうさな、お前さんみたいな子は皆そこに驚いとるよ。俺は魔法生物学が一番好きだな」

 

 「生き物についても学ぶの?」

 

 「当然だ。3年生からの選択科目で選べば学べるぞ。まあ、ハリーにとっちゃまだ先の話だがな」

 

 選択科目。ホグワーツにはそういうのもあるらしい。ますます今後の学校生活が楽しみだ。……ヴォルデモートの事が無ければ、もっと楽しめるのに。

 

 「選んでみたいなぁ。色んな生き物のコト、知りたいし」

 

 「この森にも色んな魔法生物が棲んどる。例としちゃ……ケンタウルスとかだな。あいつら、星ばっかり眺めて、月より近くの物には何の興味も持っとらん」

 

 「ケンタウルスって、あの、頭が人間で、体が馬の???」

 

 「そうだ。天文学やら占いやらが得意で、色んな事を知っとるが……俺達にゃあまり教えてくれん。だが、会話は出来るし、弓の腕だってある連中さ」

 

 ロックケーキは歯が折れるんじゃないかと思うぐらい、硬度が凄かった。悪戦苦闘しているハリーと違って、ハグリッドはバリバリ食べている。見た目だけじゃなく、顎の力も屈強だ。

 

 ハリーは他にも、色んな事を話した。

 魔法学校でも星について学ぶとは思わなかったとか、薬草学の授業でキノコの名前を言い当てて褒められた事とか、魔法史の授業は先生が教科書を読むだけなので、とても退屈だとか……。

 そして、魔法薬学での苦い思い出の事も語った。悪い事はしていない筈だが、何故かスネイプが集中砲火してきたあの日の出来事。

 

 「気にすんな。あいつぁな……他の生徒にも、あんな感じだ、うん。みーんな同じ様に嫌われとるもんさ。ハリーだけが特別って訳じゃあねぇ」

 

 「でも……何か、嫌われてるっていうより、憎まれてるって感じだよ」

 

 「何で憎まなきゃならん?聞く限りじゃ、最初は点数を貰ったんだろう?グリフィンドールに。珍しいもんだが」

 

 「うん……すぐに減点されたけどね」

 

 「本当に嫌いだったら、減点しかせんだろうよ。あんまり引き摺ると良くねえぞ。ほれ、帰りにこいつを持ってけ」

 

 ハグリッドが手土産用にロックケーキをどさどさ目の前に置いた。励まそうとするその親切心は非常に有難いのだが、如何せんまだ最初の分を平らげられていない。ハリーは魔法薬学での鬱憤を晴らす様に、ロックケーキに齧りついた。

 

 そうして色々な事を話していると、ふとハリーはティーポット・カバーの下から覗いている紙片に気付いた。ハグリッドがお茶のおかわりを用意している間に、それを手元に引き寄せてみる。

 新聞の切り抜きだった。『日刊預言者新聞』と書かれている。驚いた事になんと、印刷されている写真が動いている。ゴブリンが、記者のインタビューに答えているところの写真らしい。写真の中のゴブリンは慌ただしく動き、記者からの質問を捌いていた。

 

 流石、魔法界。写真まで動くとは。

 ハリーは口をぽかんと開けながらも、写真の横の文章を黙読していった。

 

 

 

 

 グリンゴッツ侵入さる

 

 七月三十一日に起きたグリンゴッツ侵入事件については、知られざる闇の魔法使い、または魔女の仕業とされているが、捜査は依然として続いている。

 グリンゴッツのゴブリン達は、今日になって、何も盗られた物は無かったと主張した。荒らされた金庫は、実は侵入されたその日に、既に空になっていた。

 グリンゴッツの報道官は今日午後、「そこに何が入っていたかについては申し上げられません。詮索しない方が皆さんの身の為です」と述べた。

 

 

 

 

 ―――『賢者の石』だ。

 

 七一三番金庫に入っていて、ダンブルドアからの指示でマクゴナガルが引き取り、ホグワーツの立ち入り禁止の廊下に保管場所を移された、あの石の事だ。

 これは、危機一髪のところで石が移送された事を示している。

 あの日、ハリー達がグリンゴッツを去った後に、石を狙うヴォルデモートの配下―――トムが言うにはクィレル先生―――が、強引に侵入を謀ったのだろう。まさか、自分達が知らぬ間にとんでもない幸運に見舞われていたとは……。

 もしもグリンゴッツに行く時間がズレていたら?考えるだけで恐ろしい。

 金庫が既にもぬけの殻だったからこそ、ヴォルデモートはクィレルを利用してこの学校へ入り込んだのだ。自分だけの力ではどうにもならないから……。

 

 ハリーは、新聞を見なかった事にして、そっとティーポット・カバーの下に戻した。

 丁度その時、ハグリッドがお茶のおかわりを入れて戻ってきた。ハリーは素知らぬ顔でそれを受け取る。

 

 「そういや、ハリーよ……。お前さんの事だがな……もう、他の生徒達から聞いたか?」

 

 ハグリッドは、モゴモゴと言い出しにくそうに尋ねてきた。その様子に、「あっ」と思い当たる事があった。

 

 そういえば、トムに聞かされていてすっかり忘れていたが……ハグリッドやマクゴナガルは、ハリーが『生き残った男の子』であるという事を、ハリー自身が知らないのだと思っている。

 あの日、既に知っている事もあってか、敢えて二人に自分の両親の死因について、詳しく訊かなかった。二人も二人で、ハリーに辛い真実を伝えるのは気が引けたのだろう。ハリーが訊かなかったから、二人もヴォルデモートの事について語らなかったのだ。

 入学した後は他の生徒達からの情報によって、自分の経緯について知ったのかもしれない。それを確かめようと、ハグリッドはこうして問うている。

 

 「うん。聞いたよ。僕の両親のコト……僕が有名なんだってコト……ヴォルデモートが、僕を殺そうとしたコト―――」

 

 ヴォルデモートの名前を出した時、ハグリッドが「ウーッ」と唸り声を上げて身震いした。

 

 「は、ハリー、口に出さんでくれ。他の奴らから聞いたんなら、その名前が呼ぶのも恐ろしいもんだって、それも知っとるだろう?」

 

 「あ、あぁ、ゴメン。僕、その、恐ろしさとか分かんなくて」

 

 「ま……ずっと、あの腐った大スモモのダーズリーんとこに居たんだ。分からなくてもしょうがねぇ。しかしな、これだけは覚えて帰ってくれ。あいつは本当に恐ろしい悪よ……」

 

 それからハグリッドは、ヴォルデモートがいかに恐ろしくて、どんな事を仕出かしたかなどを語った。ハリーが既に自分の生い立ちについて知ったからか、遠慮がちだったあの日と違って詳細に話してくれた。

 まあ、ほとんどはトムから聞かされていた話と遜色は無かったが。

 

 

 

 

 ハグリッドとのティータイムは、夕食の時間が近付いてきた頃に終わった。あっという間の、楽しい時間だった。

 戸口を出る間際、ハリーはポケットにロックケーキを詰め込み、ハグリッドに別れを告げて小屋を出た。やはり、ああして誰かと会話するのは楽しい。筆談も良いけれど、ハグリッドみたいな、大人の人と話すのも中々に乙なものである。

 

 と、浮足立って小屋を出たハリーを待っていたのは、腕を組んで仁王立ちしていたトムだった。

 

 『随分長いティータイムだったようで?何を話してたんだ?』

 

 「トム、ハグリッドに見られたらどうするのさ?」

 

 ハリーは、姿を隠す気があるのか無いのか分からない友人へ向けて、呆れがちに返答した。彼の事だから、何だかんだで人の気配を察知して、すぐに身を隠すのだろうが。

 

 『何か、変に硬い物が日記帳に当たってくるもんだから、試しに出てきたんだよ。これは……何だ、これ?』

 

 「あっ、それ、ロックケーキだよ。ハグリッドがくれたんだ」

 

 『ちょっと、僕と一緒にポケットに突っ込むなよ。無駄に硬いから変な感じだろ』

 

 「だって、他にしまうとこ無いんだもーん」

 

 ハリーがそう言った時、何だか妙な感覚が全身を駆け巡った。

 最初に感じたのは寒気だった。背骨に沿って、氷水が滑っていく様な寒気。

 

 

 

 

 え、何?

 

 

 

 

 顔を上げると、何かを感じ取ったのはトムも同じ様で、顔を顰めながらある方向を凝視していた。

 焼け付くような――――焼け付くような、視線を感じる。誰かに見られている。誰かが、自分達を見ている……。

 

 「誰、誰なの?」

 

 思わず声に出していた。視線は、小屋の奥に広がる、『禁じられた森』の方から感じる。

 緊張して体が震えてきた。どうするべきだろうか。今すぐ小屋に戻って、ハグリッドの元へ避難する?

 その考えが浮かんだのと同じ瞬間、トムが森の方へ滑る様に歩き出した。迷いや躊躇いが無い。視線の正体を確かめんと、ハリーをその場に残して森の茂みへ入っていってしまった。

 

 「と、トム!」

 

 置き去りにされる恐怖感から、ハリーは慌てて彼を追った。幸いにも、彼は歩いていたのですぐに追い付くことが出来た。トムは声を掛けられても振り返らず、一心に歩みを進めている。

 

 「いきなりどうしたの、トム。そっちは危ないんじゃなかったの?」

 

 『自分の身ぐらい自分で守れるさ。それより、どうも気に入らない。この感じ……正体を確かめないと気が済まない』

 

 「待ってよ、僕も行く。僕も気になるよ」

 

 『ハリー、君がここに入ったら、罰則にな―――』

 

 その時だった。

 

 

 

 

 ガサリ、と、茂みの中から音が立った。

 

 

 

 

 トムが反射的に杖を取り出し、そちらへ向ける。ハリーが思わず感心する程動きが練磨されている。50年間の努力の成果だ。

 対して、ハリーはハグリッドに逢う為に、杖などの学用品はほとんど所持していなかった。自分が丸腰である事に気付き、背筋がぞっとしたが、トムの背後に隠れる事で気持ちを落ち着かせた。

 

 対照的な反応を見せる二人の前に、接近を隠す素振りすら見せず、人型の影が茂みを破る様に姿を現した。

 

 ―――人?いや、馬?

 

 ハリーの頭の中に疑問ばかりが積み重なっていく。

 

 現れたのは、腰から上が人の姿をしており、腰から下は馬の姿をしている生き物だった。人の部分は明るい金髪で、馬の部分はパロミノだ。見た目的に、きっと若いんだろうな、と場違いにもそう思った。

 信じられない程のサファイアの瞳をこちらへ向け、決して逸らさぬまま、その生き物はゆっくりと近付いて来た。歩く度に、蹄の音が森に響き渡る。足音だけならば、本物の馬の様だ。

 

 「ケンタウルス……」

 

 ハリーが呟くと同時、トムが呪文を詠唱した。

 

 『《インカーセラス》』

 

 杖先から縄が飛び出し、ヒュンヒュンと風を切り裂く様な音と共にケンタウルスへ向かっていった。

 『禁じられた森』は、その名前の通り、決して軽々足を踏み入れて良い場所ではない。森を棲み家とするあらゆる生物は、時に人間に対して死を招きかねないのだ。だからこそ、正体も目的も不明な存在に対する、威嚇射撃にも似た行動を彼はまず取った。

 だが、放たれた縄はケンタウルスが後ろに飛び退いた事によって避けられた。本来なら、対象に命中すると同時に拘束する呪文だ。あっさり回避されてしまい、トムは舌打ちした。

 

 「ようこそ、禁じられた森へ」

 

 低い、成人男性の声が、ケンタウルスの口から紡がれた。攻撃された動揺などは一切感じられない。まるで無かったかの様に振舞っている。

 

 会話が出来る―――ハグリッドの言葉その通りだ。ハリーはトムの後ろに隠れたまま、首だけ伸ばしてケンタウルスの様子を観察した。

 

 危害を加えてくる気配は、無い。それでも、トムは油断も隙も見せず、沈黙を貫いてケンタウルスから目を逸らさない。ハリーもそれに倣い、一言も声を上げまいと決めた。

 一向に返事を返さない二人に、しかしケンタウルスは憤慨する事も、返事を請う事もしなかった。ただ、無視されても構わないといった調子である。

 

 獲物を捕らえ損ね、草の上に落ちている魔法の縄をチラリと見てから、再び言葉を発した。

 

 「興味深い。何故君達はそんな力を持っている?突然変異……もしくは、人間の姿に化けているだけで、別の生き物なのですか?特にそこの君……君の事をもっと調べたい。こちらへ来なさい」

 

 『―――ふざけんな!!』

 

 視線を向けられたトムが、そこで初めて返事を返した。弾かれた様に叫んだ。

 ハリーは思わず耳を疑った。彼と出逢って、ここまで怒りを露わにした声は今まで聞いた事が無かったからだ。

 

 『何が別の生き物だ。僕らは人間だ』

 

 「ト……トム、落ち着いて……」

 

 ハリーは彼の激怒した様子に怯み、掠れる様な声しか掛けられなかった。

 トムは突然現れて、突然琴線に触れてきたケンタウルスに、正面から怒声をぶつける。その瞳が、元より赤い瞳が、内出血を起こしたかの様に深い紅に染まり出す。

 

 『調べるだって?ふざけるなよ。いきなり何様のつもりだ、偉そうに』

 

 「調べなければ。君が何者なのか、詳しく調べなければね」

 

 『人間だって言ってるだろ』

 

 「違う。魚に翼、蛇に手足が無いのと同じ。人間は、本来君達の様な魔力は持ち得なかった。君達魔法使いは、人間とは違う」

 

 ケンタウルスの言葉が終わると同時に、トムが握っている杖から激しい音を立てて、緑色の火花が数度瞬いた。詠唱を行っていないのに起きた現象に、ハリーは咄嗟に背後から彼に抱き付いた。温もりの無い身体が震えているのを感じる。

 

 「トム!!」

 

 酷く冷たい。心の芯まで凍えてしまったかの様だ。抱き付いた自分の体温をあっという間に奪い、どこかへ消し去ってしまう。彼の身体が、他者の温もりを取り込む事は無い。

 それを、まるで拒絶された様に感じて。思考を混乱の最中に落とされたハリーは、壊れた機械の様に静止の言葉を繰り返すしか出来なかった。

 

 「トム、ダメだよ。ダメだ、ダメ、やめて……」

 

 彼の杖腕を必死に掴む。そのお陰か、その腕が振り上げられる事は無かった。ただ、時折、見た者に恐怖を与える緑色の光が、杖先から輝きを放っていた。解放の時を、今か今かと待っている。

 この緑色を、自分は知っている。遠い昔に、確かにこの目が捉えた。

 

 この光は、この色は……一瞬で全てを奪い去る凶器だ。

 幸福を、希望を、願いを。……命を。

 

 『魔法使いの起源なんか知らない。でも僕らは人間だ。他に何に見えるって言うんだ!』

 

 「魔力は人間には無い力です。古来より誠に不思議だ。この力は、どこからやって来た?これを宿す生き物は、この星の意志で生み出されたのか……?」

 

 『生き物だって。聞いたか?ハリー。僕らの事、生き物だって言ったんだぞ』

 

 「トム、落ち着いて、」

 

 『ハリー、僕は、僕らは人間だよな?れっきとした人間だろ?あいつは何で、何でそれが解らないんだ?』

 

 かろうじて言葉に含まれる怒気は先程より鎮まっていたが、それでも声は震えていた。唇を噛み締め、瞳を鮮血の様に輝かせるトムを抱き締める腕に、ハリーは一層力を込めた。

 こんな事しか出来ない自分が、酷く嫌だった。

 ハリーは自己嫌悪の念に苛まれながらも、決してトムを抱き締める力を緩めなかった。

 

 『僕は……人間だ』

 

 自身に言い聞かせる様に、暗示を掛ける様に、呟いた。

 思い出したくも無い記憶が、声が、唐突に掘り起こされ、凶器となって脳内に降り注いでくる。

 

 ―――気味が悪い。

 

 ―――あの子、人間じゃないみたい。

 

 ―――どこかおかしいんだ。

 

 ―――病院で調べてもらわなくちゃ。

 

 『言葉』は、『死の呪文』よりも、時として人を殺しうる武器となる。心を容赦なく殺さんとする。致命傷となりかねない傷を、的確に、確実に負わせてくる。

 そんな傷を幼少の頃に負わされ、血の繋がった者からも刻まれてきた。だからこそ「調べる」だとか、「人間じゃない」だとか、そんな言葉に対し、心が、魂が立ち竦んでしまう。

 自衛の為に『普通』を演じ、永続的な損傷を回避したといっても、一度負ってしまった『古傷』は決して癒えてはくれない。こんなにも近くに自分を抱き締めてくれる者が存在するのに、この『古傷』を自力で治す事が出来ない。

 酷く惨めで嫌気が差す。こんな、弱者の様な醜態を隠し通す為にも仮面を作ったというのに。これでは意味が無いではないか。

 

 『言葉』などという物体的ではないモノに、こうも心を乱される。

 傷を負った日から時間もそれなりに経って、本心を明かせる相手も出来た筈なのに、未だに自分はこんな凶器に脅かされている。保ってきた仮面を、容易に破壊される。

 その事実が、どうしようもなく癪で目障りだった。

 

 壊れてしまった物が、直らないのと同じ。

 魔法という『反則技』を使っても、それで直るのは物体だけ。

 心というモノは、時間や魔法でも修復は困難な代物なのだ。

 解っていても―――崩れやすい様に、直りにくい様に出来ている人間の心に腹が立つのを抑えられない。

 

 『なあ、ハリー……ハリーも、僕が人間じゃないって思うか?別の生き物に見えるか?あいつが言うみたいに―――』

 

 「もういいよ、トム」

 

 あのケンタウルスを無視して、帰ろう―――。

 

 ハリーはそう言って、彼の腕を全力で引っ張るつもりだった。

 無理やりにでもこの場を離れ、彼の心を落ち着かせる必要がある。

 律義に、この会話に応じる必要は無い。少し走れば、すぐにハグリッドの小屋へ辿り着けるのだ。戻るべきなのだ。

 早急にそうしないと、何かが手遅れになる気がしてしょうがなかった。

 

 けれど、そんなハリーの思惑を、ケンタウルスは呆気なく踏み潰した。

 

 「君は、人間ではない」

 

 確固たる響きを以て放たれたその言葉に。

 返されたのは、緑色の閃光だった。

  

 ハリーに掴まれている筈のトムの杖腕が、11歳の弱い力を振り解き、ケンタウルスに向けられていた。

 呪文を唱えていないのに―――杖先から産声を上げた緑色の光が、真っ直ぐにケンタウルスに飛んでいく。寸分の狂いも無く真っ直ぐに飛び出して―――その右頬に触れるか触れないかのギリギリの距離を、突き抜けていった。

 ケンタウルスのサファイアの瞳は、瞬きすらしなかった。行き場を失った閃光は、そのまま尾を引いて飛び続け、やがて空中で霧散していった。

 

 「トム!!」

 

 ハリーは窘める様に叫んで、上げられたままの彼の杖腕を叩いた。無抵抗な杖腕から、サンザシの杖が零れ落ちる。彼はそれを見る事も拾う事もしなかった。

 ただ、その真っ赤に染まった双眸を、顔色一つ変えず立っているケンタウルスに注いでいる。

 ハリーはその様子に気を緩めず、落ちた杖をさっと拾い上げ自分のポケットに突っ込んだ。これで、もうあの緑の光を見る事は―――ひとまずは無い、筈だ。 

 

 凶器が去り静寂に包まれた空間で、サファイアの眼光が二人の魔法使いを見下ろしている。そこに、恐怖や動揺は一切存在していなかった。

 やがて、痛いぐらいの沈黙を破ったのはトムだった。

 

 『どういう事だ?』

 

 その声には、憎悪と疑念が含まれている。彼は瞬きする事無く、目の前の半身半獣の生き物を睨んでいた。

 しばらくそうして、トムはある一つの可能性に辿り着く。

 

 『…………試した、のか?』

 

 「え、……何それ、どういうコト?」

 

 ハリーは尋ねずにはいられなかった。試した、という意味が良く解らない。

 

 『あいつの顔……恐怖なんて感じちゃいない。攻撃されたのに……瞬きすらしなかった。僕が、()()と確信していた……』

 

 「え?君、人間以外でも、考えてるコト解るの?」

 

 『……顔だけなら、人間と同じだろ』

 

 それを聞いて、ハリーは顔色を変えた。

 

 「え……、じゃ、じゃあ……当てないと解ってた攻撃を、わざわざ誘ったってコト?何で?何でそんなコトを?」

 

 『予想が的中するかどうか、試したのか』

 

 ハリーの疑問に答えながら、トムはケンタウルスに問い掛けた。ケンタウルスは相変わらず、そのサファイアの瞳でじっとこちらを見下ろしてくるばかりだ。それはまるで、肯定の意を示しているかの様である。

 

 『……僕は、まんまと挑発に乗せられたって訳だ』

 

 自嘲気味に吐き捨て、トムは固く唇を噛み締めた。

 

 『どうすれば、僕が冷静さを欠いて、怒りに我を失うか、解ってて……攻撃を誘った。僕を試す為に』

 

 「そ…んな……」

 

 試す。一体何をだろうか。

 そんな事の為に、彼の怒りの琴線を悪戯に刺激して、攻撃を誘発させた。

 ハリーは体の芯が熱くなるのを感じた。ダドリーにも感じた事の無い、激しい感情。それをどうぶつけていいか分からず、無言のまま目の前のケンタウルスを睨みつけた。友人を傷付けられて、良い気分はしない。

 

 『悔しい。僕が、こんな罠みたいな手口にあっさり引っ掛かるなんて……悔しい』

 

 「そうだ、汚いよね。相手の心理を分析して、弱点を突いて、反応を確かめるなんて」

 

 『クソが付く程最低だ』

 

 「死ぬ程びっくりしたじゃん。そういう陰険な手をよくも……あれ?」

 

 『何だ?』

 

 「これって、トムが前に使ってた手口と似てるじゃん?」

 

 『ハリー、この状況でふざけるなよ』

 

 ガツンとハリーの脳天に拳骨を落とし、彼の両頬をトムは思い切り引っ張った。ハリーは抗議の声を上げているが、頬が横に伸ばされている為ちゃんとした言葉になっていない。

 彼も彼で人の事は、いやケンタウルスの事は言えない筈である。相手の心の内を読んで煽るなどという行為は、彼も前にホグワーツ特急内でドラコにやっているのだから。見事なブーメランが刺さっている。特大のブーメランである。

 

 と、揉み合う二人を黙って眺めていたケンタウルスが、唐突に言葉を発した。

 

 「君が攻撃を当てない事は解っていた。星が教えてくれたからね」

 

 『……何言ってるんだ?星?お前の言ってる事、さっきから全く見えてこないんだけど』

 

 「()()()()()()()()()()

 

 その、たった一言を聞いた瞬間。

 トムの瞳が驚愕に染まり、見開かれた。

 

 『……へぇ?人を挑発しておいて、よくまあ抜け抜けと……。お前は()()()()()だろ。確かに僕は、人殺しになる気は無いけど……「亜人」は、別物になるんじゃないか?』

 

 トムが、明確な殺意を込めた視線をケンタウルスに注ぐ。そこに虚勢や誇張は一切無い。正真正銘本物の、殺意が籠められている。

 その視線を無防備なまま一身に受けながらも、ケンタウルスは顔色も声色も、どれ一つとして変えず返答に応じた。

 

 「今の君が誰かを手に掛ける事は無い。……君はまだ、自分が死刑執行人になった事が無いだろう」

 

 死刑執行人。その物騒な単語に、トムの目が苛立ち交じりに細められる。

 ハリーは無言のまま、彼の片手を握った。突然の感触に、彼はほんの一瞬だけハリーの方へ目を向けたが、すぐにその目は逸らされる。しかし、握った手が振り解かれる事は無かった。

 そうしている間にも、彼の表情から目を離さなかったハリーは感じ取った。彼の瞳に渦巻いている負の感情が、徐々に徐々に存在感を失っている事を。それに、彼は全く気付いていない事を。

 

 「人間というものは―――最初に一人、その手に掛けてしまえばもう戻れない。魂が裂かれ、心が楽になるからだ。殺すという行為への躊躇いが薄まっていく。しかし……君は、越えてはならないその一線を解っている者……」

 

 『当たり前だろ。人殺しはいけませんて、お前は習わなかったのか?』

 

 「では君の中のその殺意は、一体何だというのですか」

 

 その言葉にトムは初めて、何かに怯えた様な表情になった。それは本当に僅かな表情の変化で、刹那の出来事で、ハリーはそれに気付く事は無かった。ただ一匹、ケンタウルスだけがそれを見透かした様に畳み掛ける。

 

 「先程君が放ったのは―――『死の呪も―――」

 

 『おい』

 

 トムは()()()()をハリーの耳に入れぬ様に、ケンタウルスの言葉を途中で遮った。

 

 『さっきから訳の分からない事を言うなよ。殺意を向けられる様な事を、お前がやったんだろ。それを責められる覚えは無いぞ』

 

 「……これは失礼。確かに私は君を試した。君が殺意を迷わず解き放つ者であるかどうかを……」

 

 『で……失礼極まりないそのテスト結果はどうだったんだ?正直、今更謝罪されても遅いんだけどな』

 

 「君は―――」

 

 そこで、ケンタウルスは頭上に広がる空を見上げた。

 まだ日没の時間ではない。単純な視力だけでは、星は見えない筈だ。それでも空を見続ける。人には見えない何かが見えているのだろうか。

 

 「()()を妄りに振り回す者ではない。それが禁忌であると十分に知っている。だが、心した方が良い。()()を抱く事だけは―――」

 

 『はあ』

 

 「激情を飼い慣らす。それは君にとって当たり前で、必要な技術なのだろうが、この世界ではそもそも抱くべきではない―――」

 

 『そうですか』

 

 いまいち先の見えてこない話に、トムは興味無さげに無感情な相槌を打っていたが、次の言葉を聞いてその態度は一変した。

 

 「―――君の()()()()()に、()()を奪われるべきではないのだ」

 

 『奪われる?何に?』

 

 疑問を口にして、トムは何かに気付いた様にハリーを見た。ハリーは一人と一匹の会話に一切口を挟まず、ただ黙って自分の手を握ってくれている。

 新緑の双眸と真紅の双眸が、しばしの間交錯した。

 二人のそんな様子を眺めていたケンタウルスは、そこで何故か憐れむ様に、悲しむ様にふっと目を伏せた。

 

 「―――()()()()に気付けなければ、君はきっと……強く後悔するだろう」

 

 『さっきから、フワフワ定まらない事ばっかりだな。お前の目的は何だ?意味不明な言葉で、僕を錯乱させたいのか?』

 

 散々人を逆上させ試しておいて、挙句、ちゃんとした言葉で説明しないケンタウルスに再び苛立ちが募ってくる。トムはそれを隠そうともせずに、挑戦的な目付きでケンタウルスを睨んだ。

 

 「確かに、何か微妙にフワフワしてるよね、話が」

 

 『ああ。この際、ちゃんと説明してもらうさ。なんなら、もう一回攻撃されてみるか?』

 

 トムがそう言った途端、周囲で突風が吹き荒れた。杖を使わずとも、純粋な魔力だけで空間に影響を与えているのだ。

 威圧的な脅迫にケンタウルスは特に動じず、抑揚のない声を漏らす。

 

 「攻撃的かつ残虐的で、傲慢……。人間の特性を、しっかり備えている様ですね。ますます興味深い。君は本当に何者なのですか?」

 

 『人に尋ねる前に、自分の事を先に明かすのが礼儀ってヤツだろ』

 

 「そうだよ。確かにトムは怒りっぽいし、たまにめちゃくちゃ意地悪なヤツになるけど、一応は頼りになるんだからね。舐めないでよ」

 

 『ハリー、後で便所に来い。一応って何だ、一応って。全然フォローになってないんだよ』

 

 「あ、ゴメン。つい、本音がポロリと」

 

 『ゴメンで済んだら魔法省も闇祓いも要らないだろ。これ以上失礼な事言ったらアズカバンに無期懲役だぞ、全く』

 

 ケンタウルスが言い合う二人の顔をまじまじと見つめ、頷いた。その瞳は、まるで実験動物の様子を見守る研究者の様だ。

 

 「私の目的、か―――。我々は惑星の動きから、何が起こるかを読み取れる。君という、異分子の事も」

 

 曖昧な単語ばかり喋っていた先程と違い、ようやく質問にちゃんと答えてくれた。トムは満足気に鼻を鳴らした。

 

 『やっと自供する気になったか。それで良い。全部話して楽になるんだ』

 

 「トム、取調室バージョンにならないの。ケンタウルスは君と違って、誰かに取り調べられる経験なんて無いんだからさ」

 

 『ちょっとハリー、何で僕が警察なんぞに取り調べられなきゃいけないんだよ』

 

 「恐喝とか窃盗とか、僕僕詐欺とかやってんじゃないの」

 

 『僕僕詐欺って何なんだよ。僕が捕まるんなら、君なんて新種のメガネザルだって騒がれて、魔法生物規制管理部の職員に捕獲されるじゃないか』

 

 またも言い合いになる二人。

 不意に、ケンタウルスの目がハリーに向けられた。穏やかにも、冷ややかにも見える不思議なサファイアの瞳だ。その瞬間、ハリーは雷に打たれた様にある考えが浮かび上がった。ハグリッドが言っていた事を思い出したのだ。

 

 「も、もしかして……トムがホグワーツに来るって、星の占いで知ったの?実際に逢って確かめる為に、こうして……僕らが『禁じられた森』に近付く時を、待ってたって、そういうコト……?」

 

 ケンタウルスの尾が、正解である事を示す様にユラリと揺れた。その瞳が感心の色に染まる。

 

 「君は少し直感力に優れているらしい。ハリー・ポッター。これもまた、星が示した通り……」

 

 トムがハリーの脇腹を肘で小突いた。

 

 『ちょっと、僕は攻撃的かつ残虐的で傲慢なのに、ハリーは直感に長けてるだって?何だ、この評価の違い』

 

 「いやあ、事実じゃない?」

 

 『ホント腹立つな。何なんだ、ミスター・エドじゃあるまいし、馬がペラペラ喋って。僕、馬の言う事なんか信じないからな。星を見ただけで、何で未来の事が解るんだよ。そんなもんで先の事が決められるなんて、生きてる人間を馬鹿にしてるも同然だろ。絶対信じないからな』

 

 「馬じゃなくてケンタウルスだよ。けどさ、トム。ハグリッドが言ってたけど、ケンタウルスって、占星が得意なんだって。星を見ただけで色んな事が解るって、何か納得出来ない?」

 

 『納得出来ません。僕はリアリストなんだ。自分の目で確かめたモノしか信用いたしません。大体な、予知だとか、予言だとか、そういう曖昧な能力で未来を決め付けられるの嫌いなんだよ。未来なんて、ちょっとした行動一つで無限に変化するもんだろ。それを確定するかの様に語るの、本当に気に入らないな』

 

 「……そう。未来は確定されるモノではない。君の言う様に、そこに生きる者の行動で、如何様にも変化する……」

 

 ケンタウルスはそこで一旦言葉を区切ると、突然二人に背を向けた。閉眼し、耳を澄ませ、周囲の様子を探っている様に見える。

 二人が訝し気に眺めていると、少ししてケンタウルスはある一点の方角へ顔を向けた。

 

 「……この足音は、ベインですか」

 

 ひっそりと呟かれた一言は、ハリーの耳には届かなかった。

 急に様子が変わり、何をやるつもりなのだろうとハリーは戸惑い、手を握ったままトムに身を寄せる形になった。より体温を奪われていくが、この際気にしてはいられない。

 しかしハリーの予想に反し、何かしらの行動を起こされる事は無かった。

 

 忘れ物を思い出したかの如く、ケンタウルスはそのまま四足を走らせ、二人を置き去りにし森の奥へ姿を消してしまった。随分と―――本当に随分と、呆気ない退場である。

 怒りの行き場を無くしたトムは、目を細めながら息を吐いた。

 

 『……で?僕はどうしたら良い訳なんだ?』

 

 「さあ?何か、ズルいよね。試すだけ試しておいて、後はほったらかしなんてさ。……どうする?追い掛ける?」

 

 『いや、めんどくさいな。確かに凄くムカついたけど、森に入るのは自殺行為に等しい』

 

 思い出すのは、かつてホグワーツに身を潜めていたが、【本来の自分】によって追放され、この森へ棲み家を移した大蜘蛛。

 人語を理解し、知性もある程度は備わっているそれは、しかし人肉を好む危険生物だ。別に自分は苦手では無いが、魔法使いとしてまだ未熟なハリーと共に森の奥へ足を踏み入れるのは、得策とは言えない。

 そう考えを巡らせていたトムの表情を見て、ハリーは心配そうに声を掛けた。

 

 「トム、深刻そうだけど、具合は大丈夫?」

 

 『最悪だ』

 

 「えぇ、そんなに悪い?帰って、校医のマダム・ポンフリーの所で診察してもらう?」

 

 『しっ、診察!嫌だ、ハリー、離せ!』

 

 ハリーからしたらちょっとした冗談のつもりだった。が、「診察」という単語に異常な拒絶反応を見せたトムは、自分の手を掴んでいるハリーを渾身の力で振り解き逃げ出そうとした。まるで病院に入るのを嫌がる子供の様だ。

 

 「と、トム、暴れないで!」

 

 『嫌だ、やめろ、僕は病気じゃない!』

 

 しかし、この状況で単独行動を取られると困るのはハリーだ。腕に全力を込め、彼の逃亡を必死で阻止しながら、ホグワーツ城に引っ張って帰ろうと足を踏み出した時だった。

 

 再び()()()()()足音が、二人の耳に飛び込んできた。

 半ば発狂し掛けていたトムは、時を止められた様にピタリと停止し、悲鳴を上げていた口を閉ざした。そのまま、二人は森から響いて来る物音に耳を澄ませる。

 

 『……ハリー、またおいでなすったよ』

 

 「え?何が?」

 

 『ふん……音の間隔が随分違うな。別の個体か』

 

 疑問符を浮かばせまくるハリーを置いて、森の方へトムは警戒の視線を向ける。やはり変わり身が早い。先程の痴態が嘘の様だ。引き摺らないところは良いのだが、急に豹変するのはやはり勘弁して欲しいものである。

 

 

 

 

 馬が大地を駆ける時と同じ、蹄の音が徐々に近付いて来た。

 予想通り、森の茂みから姿を現したのはケンタウルスであった。先程のサファイアの瞳が印象的だった個体とは違う。髪も胴体も、真っ黒だ。雰囲気からして、どことなく荒々しい感じを漂わせている。

 足音だけで見事に別個体と見抜いたトムは、自分よりも直感に長けているのでは……と、ハリーは思わざるを得なかった。

 

 黒いケンタウルスは自慢の脚で二人の前を素早く通り過ぎると、ホグワーツがある方向へ回り込んで、道を塞ぐ様に立ち塞がった。

 

 「そう簡単に帰す訳にはいかない。得体の知れぬ異邦人よ……。フィレンツェと、何を話していたのだ?」

 

 まるで怒鳴る様な声で、そのケンタウルスはトムへ問い掛けた。

 威圧感に押され、ハリーはトムの高身長を利用して、その背中に身を隠した。あの巨体を、二度も近くで見せ付けられるのは心臓に悪い。対して彼は、少しも動じていなかった。考えを盗み取る様に、ケンタウルスの顔をじっと注視している。

 やがて口を開くと、芝居がかった様子でケンタウルスの名前を言い当てた。

 

 『何だ、このケンタウルス。……ふーん、あっ、そう。ベインって名前なんだ。僕はトム・リドル。よろしく』

 

 ベインという名前らしきケンタウルスの表情が、見るからに引き攣った。ハリーにも良く解る、驚愕の表情だった。

 

 「何故、その事を……。君は、何者だ?」

 

 『だから、トム・リドルだって自己紹介したじゃないか。あんた、天に逆らっちゃいけないって考えてるんだろ?あの腹立つケンタウルスと大違いだな。ちょっと感心したよ』

 

 トムの言葉が言い終わらない内に、ベインが四足を器用に操り、数メートル程後ろへ跳んだ。瞳に警戒の色を爛々と輝かせ、トムを睨みつけている。

 

 「戯言はそこまでだ。お前は―――」

 

 『へぇ……もうちょっと当ててあげようか?あんたら、星の流れだかを読み取って、異分子である僕に探りを入れたがってるんだろ?星を観察して……えっと、先生ってヤツで―――』

 

 「()()だよ、トム」

 

 『そうそう、それ。占星で僕の事を知ったって訳だ?自分達にとって、有害か無害かを調べようとしてる』

 

 次の瞬間、ベインがトムに向かって疾駆した。蹄の音を周囲に激しく響かせながらあっという間に距離を詰め、その大きな前脚が、トムを踏み潰さんと振り上げられた。

 ハリーと違って、ケンタウルスはトムへの接触が可能かどうか。それは実際に行われないと解らない事だったが、この状況でそれをわざわざ確かめる程、彼は呑気では無かった。

 

 『《プロテゴ》』 

 

 凶器と化した蹄はトムの頭上でピタリと止まった。彼の周囲に、ドーム状の膜が展開されている。その膜に防がれ、ベインの脚は鍔迫り合いかの様にしばらく動かなかった。ベインの額に汗が噴き出る。やがて押し負けてしまい、ベインは弾かれた様に後ろへ転んだ。

 

 「ぐっ……」

 

 苦痛の声が漏れる。この程度で負傷するケンタウルスではない。が、すぐに立ち上がったベインへ、追い打ちを掛ける様にトムが魔力を放った。

 

 『《フリペンド》』

 

 銃の如く放出された魔力弾が、僅かに軌道を逸らし、ベインの脇腹に命中した。衝撃で膝が頽れる。

 

 ハリーは己の目を疑った。気付けば、自分がポケットにしまった筈のサンザシの杖が、いつの間にかトムの手に握られていたのだ。

 さっき身を寄せた時に、トムがスリの如く彼のポケットから抜き取ったからである。ハリーは魔法を止めさせようと、慌てて彼の前に立ちはだかった。

 

 「トム!この人は敵じゃないよ」

 

 『味方でも無いだろ』

 

 吐き捨てたトムを見て、ベインが忌々し気に呻いた。

 

 「化け物が……」

 

 トムの正面に立ちはだかったハリーの行動は無意味だった。地面に転がっていた小枝が突然浮き上がると、先端がナイフで削られた様に鋭利な形状と化し、ストレートの軌跡を描いてベインの右肩に突き刺さったのだ。

 

 『もう一度言ってみろ。今度は心臓に突き刺すぞ。何が化け物だ。お前だって似た様なもんじゃないか。自分の正体や考えを知ってる者を、恐れて傷付けようとする。その程度の存在だろ。化け物と良い勝負だ』

 

 ハリーは、鋭い眼光を輝かせるトムの杖腕を両手で抑えた。こういう時、彼に触れられるのが本当に良かったと心の底から思う。

 

 「トム!いくら何でもやり過ぎ。君の方も悪い。誰だって、自分の考えてる事を見透かされて、ペラペラ喋られたら、そりゃあ驚くって。全く、すぐケンカ売らないでよ」

 

 『子供相手だったら称賛されて終わるけどな。こいつが生意気なんだ。僕に探りを入れたいならポリジュース薬でも飲んで、しもべ妖精にでも化けて出直してくるんだな。そうしたら考えてやっても―――あぁ、駄目だ。どうしてもドビーの事が浮かんでくる。ドビー成分が最近不足してる』

 

 「お願いだから、途中で脱線するのは勘弁してよ。大体、人間以外にポリジュース薬って効くの?もし効果無かったらどーすんのさ」

 

 何かに焦がれる様に頭を抱え出したトムに突っ込んで、ハリーはベインを一瞥した。

 どうやら傷は浅いようで、顔を歪めているが致命傷では無かったらしい。あの言葉の暴力の中でも、かろうじて理性を保てたトムが手加減をしたのだろう。脇腹を抑え、刺さった小枝を抜き取りながら、相変わらず観察者の様な冷たい視線でこちらを眺めている。何だか居心地が悪い。

 

 最初のケンタウルスや、ベインの時と同じだ。

 ああいう言葉の暴力を、彼は同じ人間から受けた事がある。彼の人並外れた勘の鋭い点などが、他の人間にとって怪奇なものとして映ったのだろう。そういうのが原因で攻撃されるなど、理解出来なかった幼い頃の彼は、格好の的となってしまったのだ。

 だから、非情な言葉に対しこうも過剰に反応してしまう。反応し、攻撃的になるのだ。そうしないと排除されるという考えが、彼の心の深い所に根を張っている事をハリーは知っていた。自分もそうだったからか、良く理解出来る。もしも彼が居てくれなかったら、自分もあの様に攻撃的な部分が生まれていたかもしれない。

 

 自分達と違うものは許さない。同じでないと認めない。排斥する。

 そんな残酷な思い上がりが、マグルだけでなく、ケンタウルスの様な種族にも存在している……それが、ハリーにとって酷く悲しかった。

 

 魔法生物についての詳細が載っている教科書―――『幻の動物とその生息地』という本に、ケンタウルスの事も書かれているのを思い出す。

 あの本には、ケンタウルスは人間も魔法使いも信用していないという説明があった。だからこそ、彼らはこうも無慈悲な言葉を次々と投げつける事が出来るのだろうか。

 

 「お前は天に逆らおうとしている」

 

 ベインは、憎々し気に、悔し気に呟いた。

 ケンタウルス達は得意とする占星術で、本来はハリーの元に存在しないトムの事を知ったのだろう。それがあり得ない現象だとして、異分子である彼をこうして調べようとしている。

 

 「とても危険だ……危険を孕む行為だ。一歩間違えれば、闇に引きずり込まれるぞ……。自らの安寧を望むならば、ホグワーツより離れるべきだ……」

 

 『生憎だけど、僕はそんな脅し文句に屈する程矮小な人間じゃなくてね。ま、一時はそういうセコイ事も考えたけど、どうするかは50年前から決めてるんだ。離れる気はさらさら無いよ』

 

 「…………それが、想像を超えた恐怖に通ずるとしてもか?」

 

 『大体な、僕はずっとあいつにお礼参りしたくてたまらないんだよ。それを目的に生き抜いて来た様なもんだからな。少なくとも一発、失神呪文でもぶち込まないと気が済まないね』

 

 さらっと過激な事を言ってのけたトムに、ベインはしばし沈黙した。何かを諦めた様なため息の音が聴こえる。

 

 「どうやら……、君に何を言っても変わる気は無いらしい」

 

 『当たり前だ。僕は指図されるのは大嫌いなんだよ。誰かの思い通りに動かされる人生なら、死んだ方がマシだ』

 

 「……思い通りに、か」

 

 ベインは、先程のケンタウルスがした時と寸分違わず、憐れむ様な悲しむ様な視線を向けてきた。ハリーは眼鏡の奥で半目になる。二度続けて同じ事をやられると、流石に不快感が生じるのだ。

 

 「君の往く道の果てに、何が待つかは我々でも見通せない。だが、君がその子を護ろうとする意志は真実の様だ。……ならば、その意志を信じてみるとしよう。どの道我々は、天に逆らわないと誓った」

 

 『言っとくけど、別に僕は正義の味方でも無いからな。変に信じられても困るだけだ』

 

 「今夜は火星が少し明るい。もう数ケ月経てば、より明るくなるだろう―――」

 

 『何か、急に会話がドッジボールになってないか?』

 

 「さらばだ、死を越えし契約者。帝王を破りし運命の子。数々の無礼をどうか許せよ。もう我々は、君達を探らないと約束しよう」

 

 『は?契約者?何だって、ちょっと待て……それって誰の事―――」

 

 トムが訊き返すが、それに応じる事は無く。

 ベインは突然駆け出し、闇に溶ける様に、森の奥へとその漆黒の体躯を消してしまった。流石、人間と違い足が四つも付いているだけの事はある。とてつもない敏捷性だ。もうどこにも姿は見えないし、足音も聴こえて来ない。

 

 「……行っちゃった」

 

 『ホント何なんだ。台風の様に来て台風の様に去っていったな。あいつら―――』

 

 最初のケンタウルスと同じく、出現と退場が唐突過ぎる。まるで台風だ。

 

 残された二人はぼやきながらも、ケンタウルス以外の―――森に潜む、会話も望めない危険生物の餌食にならぬ為にも、さっさと入口の方まで退散した。考えを巡らせるのはそこからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『「死を越えし契約者」って……あれ、僕の事なのか……?何でそんな呼び方……』

 

 「契約って……トム、君、セールスマンでもやってたの?」

 

 『アホか。何で僕がそんな面倒な事するんだよ』

 

 「だって君、一人暮らしだったから結構お金に執着してるでしょ。商売目的で詐欺やってそうだし。『誰かに逢ったらまず騙し、更にがっつり大騙し』ってのがトムのモットーなんだから。ねっ、トム」

 

 『そうそう。「見逃すまい、騙すチャンスとタイミング」ってのもあるけど……アホ!あっ、いや、ハリーの大馬鹿さん。何も解ってないんだね。ケンタウルス達は占いが得意って言ってたでしょう。それっぽい事言ってカッコつけて、惑わそうとしてるだけなのさ。典型的な胡散臭い占い師タイプなんだ。真に受けたら駄目だよー?』

 

 「頼むからその、急にコロっと猫被りになるのだけは、やめてくんない?」

 

 『ふふん、ともかく、あいつらの言う事は、完璧に信じられないって事さ。話半分に聞いておくに限る限る』

 

 言いながら、トムは踵を返してホグワーツの方へ歩き出した。もうすぐ日が暮れてしまう。早い内に戻らないと、罰則されかねない。

 謎は増えるばかりで一向に解けないが、解けないものにいつまでも集中する訳にはいかない。気持ちを切り替えなければいけないのが現状だった。

 二人は一旦、この謎を保留にする事にした。解らない事が残るのは苛立ちもするけれど、考えても解らないのだからしょうがない。

 

 一体全体どうして、こんな目に遭わなければいけなかったのだろう。

 

 今日はケンタウルス達にたくさんビビらされたり、襲い掛かられたり、精神的にヘトヘトだ。寮に戻って、さっさとベッドに潜り込みたい気分でハリーは一杯だった。

 グリフィンドール寮のベッドは、物置で寝起きしていた頃と全然違う。フカフカだし、毛布も暖かいし、最高の寝心地なのだ。一度そう呟いたら、同室のロンに「それは言い過ぎ」だと言われてしまったが。物置の粗末な寝床に比べれば、どんなベッドも自分にとって最高級に感じる。

 そんな風に思考を巡らせていたハリーの顔を覗き込み、トムはニヤリと笑った。

 

 『へーえ、寝心地良いんだ?じゃ、僕もハリーのベッドで寝てみようかな』

 

 「やだ。寮のベッドはシングルだし、人の目があるもん」

 

 ハリーは即答だった。

 日記帳の中の暗闇で一晩過ごすより、ちゃんとしたベッドで寝てみたい彼の気持ちは解るのだが、それでも即否定だった。

 

 『ちょっとハリー、何だよその冷たい言い方は。遠慮しなくたって良いんだ。一緒に寝てあげるって』

 

 「とぐろ巻いて縮むなら、寝かしてあげる」

 

 『僕は蛇か、このアホ』

 

 ペシッとハリーの頭をはたき、トムはツンと顎を上げて不満げに姿を消した。日記帳に戻ったのだ。

 ハリーは、はたかれた頭を軽くさすりながら帰路へついた。

 

 帰り道は―――何事も無く、無事にホグワーツへ戻る事が出来た。ケンタウルスは最後に言った事を守ってくれたのだろうか。

 

 

 

 

 ホグワーツ城へ戻ると、案の定生徒達がチラホラ居て、彼の判断は正しかった。こういう人の気配だとかを察知するのが、彼は本当に得意なのだと今更感心させられる。一部、才能の無駄遣いではないかと感じる部分もあるけれど。

 

 正直、ケンタウルスの言っていた事は凄く気になるが、今気にしていてもしょうがない。彼らの言葉は、所々曖昧で要領を得ないのだ。トムの言う通り、全部を真に受けるのは控えた方が良いのかもしれない。それよりもハリーには、気にしなければいけない事があった。

 

 飛行訓練―――箒での飛行技術を学ぶ授業―――が、木曜日に始まるというお知らせが、談話室に掲示されていたからだ。

 ハリーはどの授業よりも、何故だかこれが楽しみで仕方が無かった。空を飛ぶというのは、マグルも魔法使いも共通の夢ではなかろうか。飛行機みたいなものではなく、生身で風を感じられるような空を飛ぶ手段を、ずっとずっと夢見ていた。

 魔法族生まれの子は、掲示された日から皆口々にクィディッチの話題を上げ出すしで、飛行訓練を気にするなと言う方が土台無理な話だった。

 それでも、夕食はちゃんとがっつり胃袋に放り込み、明日へのエネルギーをしっかりと蓄える事は忘れなかったが。

 

 

 

 

 その日の夜、興奮を抑えてハリーはベッドに滑り込んだ。

 中々寝付けなかったけれど、ちょくちょく見てしまう気味の悪い謎の悪夢は見ずに済んだ。素晴らしい快眠の日であった。

 いつもの様に魔力供給も兼ねて、他愛のない筆談をして、眠気が襲ってきたら、日記帳を抱いて目を閉じて。

 

 そんなハリーは、全く気付かなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋の窓の外に、漆黒の影がどす黒い執着心を溢れさせながら、寝息を立てるハリーが抱いていた日記帳を凝視していた事を―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 




まだ箒イベントもトロールイベントも控えてるぞ。全然終わる気配がしない
ケンタウルスのヤバさって、『不死鳥の騎士団』でよーく解りますよね。
フィレンツェさんだけです、友好的なの
ミスター・エドネタ通じるんかいな、とか思いつつもぶっ込んでみる。

主人公にとってドビーは、ヴォルデモートにとってのナギニと同じ様なもん。
人外しか愛せない。人間が嫌いだから。
それ以前に闇が深い。ハリーが光になってくれたら良い。


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Page 21 「邂逅、クィリナス・クィレル」

年内に賢者の石編終わんないっすわ(宣言)


 ―――あぁ、どうしてくれようか。

 

 

 

 

 闇の中で、考えを巡らせる。

 

 

 

 

 あのケンタウルスは、こちらにとって都合の良い事も悪い事もしてくれた。

 

 "彼"を煽り、普段は巧妙に隠している殺意を見事に引き出してくれた件については、評価してやろう。

 だが、あの助言はいただけない。当時の彼はあの助言の『真意』まで到達していないようだったが、それも時間の問題だろう。

 "彼"は本当に勘が良い。良い、どころじゃない。それさえ突き抜けているところが一部分ある。だからこそあんな人生を送る羽目にもなったのだろうが、"彼"ならばその内自力であの助言の意味を理解してしまう。

 

 理解してしまったら?

 

 "彼"の洞察力、そして閉心術はかなり優れている。自身の実力をこちらに見誤らせる為に、わざと他愛無い人間を演じる事がある程だ。傍の英雄は、その行動に潜む意味を少し勘違いをしているようだが。

 そんな"彼"が助言を取り入れ、行動に移してしまえば―――こちらの計画が崩れてしまう。

 そうはさせない。

 

 ケンタウルスは表立って人間を助ける事はしない。あの個体についてはそれに当てはまらない様だったが、それでも遠回しな言葉を使っていた。直接的な表現をしなかったのは、"彼"を試す為か、運命を大きく狂わせない為か。

 その遠回しな助言のお陰で、"彼"が理解するまでの時間が出来た。猶予が出来た。これを考えるならば、ケンタウルスの余計な助言は許してやってもいい。

 

 今の内に手を打っておくべきだろう。

 

 ハリー・ポッター。忌まわしく邪魔な存在であり、"彼"が行動するにあたって必要な存在でもある。こちらにとって複雑な立場にいる人間だ。あれを利用してしまえばいい。()()()()()()()()()、あれに干渉出来るだけの力が手に入ったのだから。

 

 

 

 

 『賢者の石』?『闇の帝王』?そんな物を求める必要は無い。

 

 目的を果たす為に『必要な物』は、全て"彼"が持っているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――生き残った男の子。"彼"の隣に立つべきは君ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 願わくば、"彼"に『生』を。

 

 

 

 

 そして―――君に『死』を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホグワーツのとある空き教室。

 

 

 

 

 ハリー達は壁際に積み上げられていた机と椅子のいくつかを拝借し、適当に並べて教材を置き、座っていた。簡素な勉強スペースだ。

 少し埃被っている教室内を改めて見回し、トムがブツクサ独り言を漏らしている。

 

 『いやぁ、本当に狭くてボロっちい教室だなぁ。うちのバスルームより狭いじゃないか。やだなぁ、マジでボロい。まるで養豚場じゃんか。うわっ、カビ臭っ。ゴーント家に比べればどんな部屋もマシだけど、うわー、これは無い。うちの寝室の方がよっぽど大きいし、ホグワーツって案外ショボい部屋ばっかりなのかもな。建設から1000年も経ってるし、経年劣化はしょうがないか』

 

 「文句言うか自慢するかどっちかにしなよ。気に入らないの?」

 

 『妥協してるんじゃないか。談話室で寝っ転がるのが一番だけど、また人気が戻ってきてるし。とりあえず人目を凌げる場所だから、不本意だけど君の見付けた空き教室に来てやったんだ』

 

 今、確実に「寝っ転がる」という怠惰の象徴たる単語が聞こえたが、彼は訂正する素振りを一切見せない。

 

 どうしてこんな所に居るのかというと―――

 

 何時誰がふっと訪れるかも分からない談話室に滞在するのは流石に限界が来た為、談話室とは別の、人目のつかない場所の捜索をトムから頼まれ、ハリーが見事ここを捜し当てたからだ。

 彼が魔法の鍛錬や、日記帳に入力されていない新しい魔法の知識を習得する為には、実体化する必要がどうしても出てくる。故に、人目を気にせずある程度自由に行動の利く部屋が要るのであった。それがここ、という訳だ。

 この場所は使われていない空き教室なので、普段は教師も生徒も入室しない。入口を魔法でしっかり施錠し、防音を施せばよっぽどの事が無い限りはバレないだろう。万が一誰かに強引に侵入されそうになっても、相手が扉を破るのに必ず少し時間が掛かる。その間に、トムは日記帳に戻ればその姿を完全に隠せる。ハリーは中にいるのを見付かってしまうが、一番最悪の事態だけは防げるのだ。

 

 ただいまの時間帯は、夜。

 「夜間の寮外での行動」は基本的に罰則対象であったが、ハリーは勉強道具を机に並べ、『来客』が来るまで自主勉をして待機していた。罰則は怖いが、ハリーにとっては重要な『来客』だった。こういう時間じゃないと、その人物とゆっくり会話する事も出来なかったからだ。

 

 『ハリー、僕があげた羽根ペンはちゃんと持ってるか?』

 

 椅子を数個繋げて並べ、一つの長いベンチを作りそこに寝転がっていたトムが訊ねた。そろそろハリーは彼の醜態にリアクションを取らない事にした。

 ハリーは鞄の中から真紅の羽根ペンを取り出して見せた。彼に貰ってからは、日記帳への書き込みにはこれを使っている。というのも、筆談する時は必ずこれだけを使用しろと言われたからなのだが。

 

 『よしよし。絶対に無くすなよ。フラグじゃないからな』

 

 「でも、羽根ペンを常に持ち運ぶってのも、なんかね」

 

 『日記帳に挟んでおいたら良いさ。直接触れてる物なら僕も感知出来るから、失くしたら一発で教えてやれる』

 

 「これ、前にお守りだとか言ってたけど、ホントに効果あるの?」

 

 『近い内に解るさ。どういう効果なのか、な』

 

 意味深な笑みを浮かべる彼を見て、ハリーは訝し気に首を傾げる。

 この羽根ペンは確かに使い心地は抜群だし、じんわりとした温もりを常に持っており、これから冷えてくる時期に入るので非常に有難かった。けれど、それ以上別の効果があるとはどうも思えない。まあ、彼が言うからには何かしらのトリックがあるのだろう。彼も触れるし。

 

 と、その時、入口の扉からノックの音が響いてきた。

 

 「あっ、来た!」

 

 ハリーは歓喜に震える声を隠さず、扉へ一目散に駆け寄り訪問者を迎える。

 開いた扉の向こうには、夜の暗闇の中でも輝く、実に見事なプラチナブロンドの髪の少年が立っていた。 

 

 「こんばんは、ハリー」

 

 今宵の『来客』―――ドラコ・マルフォイは、教材を詰め込んだ鞄を携えて微笑んだ。

 

 

 

 

 実はこの前、授業のある教室へ移動している間に、偶然にもドラコとバッタリ遭遇した事があったのだ。

 寮が別れてしまった為、すっかり会話する機会が減少してしまったハリーとドラコであったが、二人共「もう一度ゆっくり話したい」という胸に秘める想いは同じだったらしい。この好機を逃すまいと、二人はその時思い切って「一緒に勉強会」をしようという約束を結んだのだ。

 

 じゃあ、何時、何処で、という話にも発展した。

 昼間は基本授業があるし、グリフィンドールとスリザリンの合同授業であったとしても、二寮は同じ寮生同士で自然と固まってしまうしで、都合がつかない。では、いっそ夜にやってしまおうという同意の元、この時間に決めたのである。

 次に場所だが、これはハリーが提案した。この場所こそが、落ち着いて話が出来る空間だという事は発見した自分が一番把握している。邪魔はまず入らないし、夜の間、教師の目を盗み身を潜めるのにも適しているからだ。

 

 

 

 

 さて、ようやくちゃんとした再会を果たした二人だが、ドラコがハリーの後ろを見て目を細めた。パチパチと瞬きを繰り返しながら訊ねる。

 

 「あの、ハリー、そこにいる人は……」

 

 「あっ、トムのコトは気にしなくて良いよ。今寝てるから」

 

 『え?ハリー、僕がどうかした?』

 

 振り返ると、トムはハリーのすぐ後ろに立っていた。乱れていたローブやネクタイはいつの間にかぴっちり整えられている。ベンチの様に並べられていたいくつかの椅子も片付けられており、彼が寝転がっていた痕跡は何処にも残っていなかった。今のごく短時間で、どうやって直したのか。超人的な早業だ。

 ハリーは恥も外聞もなく、みっともない叫び声を上げた。

 

 「ひょええぇっ!とっトム、さっきまで寝転がってたじゃん」

 

 『僕が?いいや、そんな事してないよ。目を閉じて瞑想していたんだ。うーん、ハリーにはあれが寝ていた様に見えたんだね。はは』

 

 「だ、だって、いっぱい椅子を繋げてその上で―――」

 

 『いっぱいの椅子?僕と君の分しか置いてないじゃないか。あぁ、ハリーこそ寝惚けてたんだな。ははは』

 

 トムが上品な笑みを浮かべる。彼の本性を知らないドラコからすれば、美しい好青年にしか見えなかっただろう。

 

 呆然としているハリーを無視し、汽車内での態度が嘘の様にトムはドラコを教室へ招いた。

 ドラコは彼が此処に居る事実と、彼の優しさの両方に一瞬戸惑いつつも、素直に中へ入っていく。

 

 二人に見えないところでハリーは額を抑えた。自分の前とドラコの前じゃ態度が違い過ぎる。当のドラコもすっかり騙され、あっという間に彼に心を開いている様だった。汽車内であれだけ怖がらせたのに、こんなにすぐ打ち解けるなど……彼の演者っぷりには脱帽するしかない。

 

 ハリーはトムの肩をつついた。

 

 「トム、君、何でドラコへの態度を変えてるのさ?」

 

 『は?決まってるだろ。人間ってのはちょっと怖がらせた後に親切にするとね、割と上手い事いくんだ。特にああいう臆病な気質のある子はな。ま……これが通用するのは相手が子供の場合だけど。あいつは敵対するよりも、こうした方が効率が良い』

 

 「えー……。君は効率でドラコと仲良くするって事?」

 

 『当然だ。まあ、単純にあいつは()()()()()()()面白いと思ったし、そもそも僕はあいつの父親に預けられていたからな。マルフォイ家の動向を探るにも丁度いい機会だ』

 

 「え?ちょっとそれは初耳なんだけど―――」

 

 『後で話す。それより、君の方こそドラコと話したいんじゃなかったのか?』

 

 トムに促され、ハリーは慌ててドラコの分の椅子を用意し始める。

 並べて置いた椅子にそれぞれが座った後、二度目の出会いとなるドラコへトムが自己紹介をした。

 

 『汽車で逢った時以来だね。僕はジョゼフ・ジョン・トムソン。IQ400、ケンブリッジ大学所属、趣味は芸術鑑賞と人助けってとこかな』

 

 「トム、何で偽名使ってんのさ。しかも全部大ウソじゃん。ケンブリッジって、君ね、ここはホグワーツだっつってんでしょ。支離滅裂なウソ並べないの!もういいから、頼むから口閉じててよ。ただでさえ君の存在はややこしいんだからさ」

 

 ほとんど嘘の情報を真実の様に語る彼を押し退けて、ハリーは至極簡単に彼の本名と、自分との関係をドラコへ説明した。勿論馬鹿正直に正体を明かす訳はなく、「ふとした時から仲良くなったホグワーツのゴースト的存在」とでも言っておいた。普通の人間からしたら何だそりゃ、と思われかねないが、魔法族生まれのドラコならとりあえずは理解してくれるだろう。

 ドラコは何とも表現し難い顔で聞いていたが、彼が自分と同じスリザリンの制服を着用している事と、物腰の柔らかさ(これは演技だが)を見て少しずつ納得していった。

 余談だが、「もう少し納得のいく説明のしようがあっただろ」という、彼の威圧的な視線を受け流しながら喋るのに些か苦労したのは胸の内に秘めておこう。

 

 「へ、へえ、リドルさんって言うんだ……あれ?でも、リドルなんて家名は……」

 

 スリザリン生の癖とでも言うべきか、相手の名前から純血であるかどうかを脳内で探っているドラコを見て、トムが彼の言葉を遮った。

 

 『フォイ……いや、ドラコ、前にも言ったよね』

 

 「はい?」

 

 『呪われるよ』

 

 「えっ?」

 

 『その名前を詮索すると君の呪いが一気に進行して、二段階目に突入するんだ。具体的には全身に黒い腫瘍が発生して、そこから細胞がどんどん壊死していく』

 

 「ぎええぇっ」

 

 『特にマルフォイ家は魔法族の血が濃いから、毛細血管にも症状が出て大変な事になる。体内の方が進行が早いからね。下手すると、体中の穴という穴からダバダバ出血しちゃったりして』

 

 「ぎょえええぇぇっ」

 

 『調べなければ問題は無いから。例えばトロフィー室に行って、特別功労賞受賞生徒名なんかをうっかり見たりしない様に。じゃ、そこんとこよろしく』

 

 「きっ肝に銘じます!」

 

 己の瞳を裏側まで覗き込む様にして淡々と語るトムに、ドラコはただでさえ青白い顔を更に蒼白にさせながら叫ぶ。

 その様子をハリーはすっかり白けた目で眺めていた。

 

 (相手を思い通りに怖がらせてしまうのって……トムの先天性能力だよね、絶対)

 

 『ハリー、何か言った?』

 

 「いいや?トムってスゴいなあって思っただけ」

 

 ハリーは咄嗟に教科書で顔を隠して対応した。

 

 

 

 

 それからは、楽しい時間だったと思う。

 

 授業で解らなかった事を教え合ったり、宿題を一緒に片付けたり。そんな他愛のない、学友との当たり前の時間を満喫した。

 「角ナメクジの上手な茹で方」、「マッチ棒を完璧な針に変えるコツ」、「狼人間はどの様にして殖えるか」、「魔法界での生物・非生物に与えられる《名前》の重要性」、等々……実に多岐にわたった話題が次から次へと沸いてきて、退屈はしなかった。

 

 ダーズリー家に居た頃は碌に友達も出来ず、学校では常に孤立する日々を過ごしていた。共に学びに励んでいる筈の同級生は、ダドリーと一緒に容赦なくハリーを虐めてきたし、学校から家に帰ったとしても、そこに居場所は無かった。

 だから、こうして()()()()()と肩を並べて過ごせる時間がとても心地良かったのだ。きっと、他のホグワーツ生にとっては取るに足らない日常なのだとしても、ハリーにとっては何物にも譲りがたい、大切な至福の時だった。

 

 ―――あぁ、多分、今が人生で一番幸せなのかも……。

 

 思わず頬を緩ませて宿題と向き合っていると、隣でトムがチッチと舌を鳴らした。ドラコには聴こえない程度の声量へ見事に調節し、ハリーを小馬鹿にしてくる。

 

 『またまたぁ、妄想に浸っちゃって。馬鹿馬鹿しい』

 

 「トム、人の考えてるコト、探らないでよ!」

 

 『ははっ、そんな事いたしません。何が楽しくて、他人の考えなんかいちいち探らなきゃいけないんだよ。君は解り易いから、みーんな顔に出てるよ』

 

 飄々とした態度で言っていたが、ほんの一瞬だけ、彼の瞳に陰りが差した。しかし、意表を突かれたハリーは全く気付かなかった。

 

 「えっ、えっ、そうなの?」

 

 『そうさ。ニマニマしたかと思うと、瞬きの回数が増えて薄っすら水分が滲んで、顔が火照って、また嬉しそうにニヤケ顔になったりして、ついでに鼻の穴も膨らんで。ああ、キモいキモい。ほらほら、ドラコは傍に居るんだから、もっと友情話に耽るなり抱き付くなり、ご自由にしたらあ?』

 

 「君が居ると、そんなに自由に出来ないでしょ!」

 

 大声を上げてしまってから、ハリーは「あっ」と思った。冷静に考えると、恥ずかしい事を言ってしまった気がする。ドラコが驚いた表情をして赤くなっていた。

 

 「いや、その、ドラコ、ちっちっ違うよ。僕、色々話したいだけで、自由にするって、そっそういう変な意味で言ったのと違うよ」

 

 『ハリーにそういう趣味は無いもんね。ちょっと想像してしまっただけだね』

 

 「そう、ちょこっと想像しちゃって……トム!」

 

 ムキになって怒鳴り声を上げるハリーが、笑いのツボを刺激した。トムは思わずくっくっくと悪役じみた笑い声を漏らす。それを見て、より一層ハリーが顔を真っ赤にさせて突っ掛かってくる。

 その光景が何だか()()()()()、またからかってやる。ハリーの態度が荒々しくなった。これが()()()()()だ。しかしハリーは、見ていれば分かるが本気ではない。本気で怒りを滲ませてはいない。

 

 脳裏に、ある男女の姿が一瞬過った。チリっと目の奥に軽い痛みが走り、視界に赤い色がチラつく。

 ……まだ覚えているのは自分でも驚きだ。50年、いや何十年過ぎても、この記憶は決して色褪せないのだろう。心の奥に深く根を張って、引き千切る事が不可能なぐらいに。

 

 ハリーがしつこく掴み掛ってくるので、トムはスパーン!と華麗にその頭をはたいてやった。そんな二人の様子を見ていたドラコは、思わず「ぶっ」と吹き出した。

 

 「リドルさんとハリーって、仲が良いんだな。何となく外見も似てるし……もしかして、実は生き別れの兄弟だったりするのか?」

 

 「まさか。ドラコ、バカなコト言わないでよ。僕、一人っ子だよ」

 

 「え、だって、そう見えるけどなぁ」

 

 トムが先程の喧騒とは打って変わって、驚く程優しい手付きでハリーの頭を撫で、穏やかに微笑む。普段ならまず絶対にしない事だ。

 

 『ハリーは何と言うか、弟みたいな感じなんだよ。面白いし単純でお馬鹿さんだし、ほっといたらすぐに野垂れ死にそうな間抜け感があるけど、可愛いなって思うんだ。ねぇハリー、いつか僕、義兄(にい)さんになってあげようか』

 

 「絶対嫌だ。完全阻止の為、全力で抵抗する」

 

 『このドアホが』

 

 ハリーにだけ聴こえるドスの効いた小声で、トムが呟いた。

 ドラコは控えめだがクスリと笑う。

 

 「仲良いよ……とっても。羨ましいくらい」

 

 ハリーは心外だと言わんばかりに鼻から息を吐き、隣に座るトムに視線を向けた。

 

 トムは背筋をピンと伸ばし、椅子に正しい姿勢で座っている。真剣な表情で、机上に開かれた本をひたすら読んでいた。

 凛々しいというか、張り詰めた美しい横顔を見せる彼は、この前まで呑気に独り言を呟き、寝転がり、大の字になっていた人物と同一だとはとても思えない。

 

 彼の優等生ぶり(表向き)をチラリと見たドラコは、自分も見習わねばといった感じで教科書へ目を走らせる。

 

 ―――全く、こいつは。

 

 天井を仰いで、ハリーは肩を竦めた。

 

 この演技力は、最早芸術品だ。どう振舞えば、他人にとって魅力的に映るかちゃんと計算しているのだ。そういう打算的な本性も、絶対悟らせない。好青年の皮を被り、時には凡庸な人間を演じ、裏表を感じさせない。

 心を読める人間でもない限り、彼の本当の姿を見破る事は出来ないだろう。まるで、獲物を油断させて仕留める鋭敏な狩人の如き狡猾さ。こうして、実際に他人を騙している光景を目の当たりにさせられると、やっぱり呆れる。

 

 ハリーは、普段より姿勢が正しく、表情も口調も柔らかくなっている―――端的に言えば、別人と化している彼に小声で話し掛けた。

 

 「トム、何でドラコの前で猫被りしてるの?」

 

 『しょうがないだろ。一応、どっちもスリザリン生なんだから。後輩の前でちゃんとした上級生振舞うの、当然じゃないか』

 

 「振舞う必要、ある?」

 

 『僕だって1クヌートの価値も無い、こんな面倒な事したくないけどな』

 

 「だったら」

 

 『ドラコの為さ。あいつ、スリザリンの模範生っていうのに憧れてるみたいだし、イメージ崩すの悪いだろ』

 

 「崩れるの、時間の問題だと思うけど」

 

 『アホか。そんな事より、君こそ友達の前で宿題なんか広げるもんじゃないぞ。こういうのは、一人で集中しないと片付かないものだって決まってるんだから』

 

 「良いじゃん。トムに訊いたってすんなり教えてくれないんだもの」

 

 『当たり前。自分の力でやらないと成長しないんだ。そうやってなんやかんや誰かに頼ってたら、いつか足元掬われるぞ。いざって時に信じられるのは、己の力のみさ』

 

 「うっ。耳が痛い……」

 

 それを言われると、肩身が狭い。

 

 自分が生き残ったのは母のお陰だし、マグル育ちなのに授業でそこそこ良いスタートを切れているのも、彼のお陰だ。自分だけの力で何かを成し遂げた事は、まだ一度も無いと言えるのかもしれない。

 そして少し認め難い事なのだが、彼は頭の回転が優れているというか、要領が良いというか、とにかく、少なくとも優秀な部類に入る人間だと感じさせられる事がある。他人の『記憶』を利用しているとはいえ、魔法の知識を既に自分の物にし、自在に扱えているところなどがまさにそうだ。

 

 魔法とは、単に呪文を唱えるだけではない。

 適切な知識、具体的な想像力、呪文毎に定められた杖の振り方、正しい発音……全てを正確に記憶し、行動しなければ発動はしない。発動出来たとしても、どれか一つでも欠けている部分があれば暴発したり、思い通りの効果を発揮してくれなかったりする。だというのに、彼は今まで自分の前で失敗した事がない。魔法とは縁の無い世界で過ごしていた筈なのに、ほとんど馴染んでしまっている。50年間こちらで熟練度を上げたらしいとはいえ、魔法を扱う時の手際の良さは惚れ惚れするぐらいだ。

 自分は例え50年ホグワーツに通ったとしても、彼の様になれるとは未だに思えない。想像が出来ないのだ。彼と同等、もしくは彼を越える魔法使いになれる未来を。マグル育ちだから上手く自信が持てない、という理由もあるけれど。

 

 中身は置いておいて、彼の魔法の腕()()は素直に尊敬する。この前なんかは無言で呪文を発動させていた。

 ……あれは、良くない魔法である事なのは解るけれど、それでも単純に凄いと思っている。無言で呪文を発動させるだなんて、どうやってやったのかあの時は驚愕と混乱の余り聞きそびれてしまったが……。

 

 「トム、君はカッコ良いよ。頭も良い。認める」

 

 『は?急に何を言い出すんだ?それを言うなら、ハリーだって平均以上は行ってるよ』

 

 「ありがとう。でもね、君、二面性と性格は最悪だよ。性格はこれ以上治らないとしても、その猫被りだけはやめてよ。君の態度の豹変っぷりに、傍で見てる僕の精神が耐えられない。トムは絶対、『アホ』とか『ぶっ飛ばす』とか言ってる方が良く似合うよ」

 

 『うわっ、この子ってば、人前でなんて事言うんだ。違うよドラコ。僕、そんな事言わないからねぇ』

 

 ドラコに愛想の良い微笑みを向けながら、トムは彼に見えない様ハリーの脇腹をつねる。

 

 『いやあ、その辺の凡人共と違って頭脳明晰でごめんね?ハリーってば、何か僕の賢さに嫉妬してるみたいでさぁ、変な事言い出すんだよ』

 

 「よくも堂々と、頭脳明晰だなんて自分でも言えるね」

 

 『だって事実だもーん』

 

 「超ウルトラ捻くれナルシストだと思わない?ドラコ」

 

 「えっ?いや……良く分からないけど」

 

 二人の会話の全てをはっきり聞き取れなかったドラコは、曖昧な表情を浮かべる。

 

 「そういえば……頭脳明晰といえば、あのグリフィンドールの……」

 

 ふと、記憶を辿る様にドラコは目を伏せ、少し悔しそうな表情へと変わった。

 

 「穢れた血、いや……マグル生まれの、確かグレンジャーとかいったか……純血でも無いのに、どうしてあんなに成績の方で出しゃばってるんだ」

 

 ドラコはハリーが居るせいか、辛うじて酷い単語は訂正した。

 

 ドラコが垣間見せた一面に、ハリーは少々面食らう。

 彼が、先祖代々魔法族である事に誇りを持つ家系である事は知っている。その為、どうしてもマグルの出身である生徒に対しては冷たい態度を取ってしまうのだ。特にスリザリンはそういう傾向が強いと聞いている。それ故か、他寮との仲があまりよろしくないのだ。

 

 「ドラコ……マグルの子でも、凄い人は少なからずいると思うよ」

 

 ハリーはドラコの考えを真っ向から否定せず、やんわりと己の意見を述べた。

 両親は魔法使いだったが、自分の育ちはマグルだ。魔法の「ま」の字も知らずに育ってきた。トムによる知識の伝授があった点では他のマグル育ちの子よりかは恵まれているけれど、今の話に出ているグレンジャーという女子は、自分より良い成績を積み重ねているのを知っている。というのも、授業でちょくちょく彼女が加点されるのを見てきたからだ。

 

 家系が家系なので、ドラコに染み付いた思想はそう簡単には拭えないだろう。それでも、ハリーは彼に同調してマグル生まれを貶す事も、彼に反対して今の関係を崩す事もしたくはなかった。

 

 『そりゃそうだ。二人は知る由も無いだろうけど、あの子は将来化けるぞ』

 

 横で聞いていたトムが口を挟んだ。将来化ける、という言葉にドラコが反応を示す。

 

 『その子が証明している様に、マグル生まれだからって魔法の才能が劣っている訳じゃない。大体、英雄王からしたらそもそも人間ってだけで皆、「雑種」だ。純血だとか穢れた血だとか、区別するだけ無駄さ』

 

 「トム……話を遮るようだけど、英雄王って誰?」

 

 『闇の帝王よりは偉大な統治者だと言っておくよ』

 

 彼の言葉に、ドラコは毒気を抜かれた様に息を吐いた。その表情は強張ったままだ。マグル生まれが自分達と同等の場に並んでいる、もしくは追い抜こうとしている事実に、まだ完全に納得し切れていないのだろう。無理もない。

 ハリーは場の雰囲気を変えようとして、話題をグレンジャーの家族へと移した。

 

 「あ、あのね、この前チラっと聞いたんだけど、その子……ハーマイオニーの両親はマグルの世界で、歯医者さんをやってるんだって」

 

 『医療詐欺とかして稼いでる訳か』

 

 「トム、君は何で、そういう捻くれた発想しか出来ないの?」

 

 息をする様に出て来た彼の発想に、ハリーは露骨にため息を吐いて表情を歪めた。

 

 『親ってのはそんなモンだろ?』

 

 「君の親って―――」

 

 どんな人だったの、と言い掛けて、ハリーは喉の奥に呑み込んだ。これは、軽々しく訊ねてはいけない事だ。

 「家族」、「両親」。これらの言葉を耳にしている時の彼は、必ずと言って良い程その瞳に暗い感情が渦巻いている。本人に自覚があるのかないのかは分からないが。

 逢った事が無くても、両親の死さえ恐れない我が子への愛情を知っているハリーには、彼の感情の正体を知る事は出来ないし、知ったつもりになってはいけなかった。中途半端な同情も慰めも、彼を不快にしかさせない―――それだけは知っているから。

 

 ハリーの強張ってしまった表情を見て、トムはふっと笑った。

 

 『ハリーはホント、甘ちゃんだな。外歩いてたら、蟻にウジャウジャ(たか)られるぞ』

 

 「余計なお世話だよ」

 

 『まっ、良いさ。ついでに教えといてやるよ。ハリーにとって有益な情報か分からないけど……』

 

 「情報?」

 

 『ヴォルデモートの父親』

 

 自分にだけ聴こえる様に囁かれたその単語に、ハリーは思わず息を呑んだ。

 

 魔法界を絶望に叩き落とした魔法使いの、父親。一体どんな極悪人なのだろう?

 どうも魔法界のほとんどの人間は、ヴォルデモートの存在を解り切ってはいても、彼の家系については誰もよく知らないらしい。だから、この情報はヴォルデモートの分霊である彼しか知らない貴重な物だ。

 ドラコの耳には入っていない事を確認しつつ、ハリーは彼の言葉に耳を傾ける。

 

 『マグルだった』

 

 「は?」

 

 全神経を研ぎ澄ませて話の続きを聞こうとしたハリーは、間抜けな声を上げた。それぐらい、衝撃的な内容だった。

 あの、魔法界を牛耳ろうとした恐ろしい闇の魔法使いが―――才能も実力も兼ね備えた男に、非魔法族―――マグルの血が入っている?俄かには信じられない。

 

 『裕福な家の男だったみたいだな。魔女と結婚したけど、すぐに自分だけ実家に逃げ帰ってたよ。妻子を捨てるぐらいなら、そもそも結婚するなよって話だけど……こういう家庭の事情は良く解らないな』

 

 どうやら、随分と複雑な家庭らしい。自分なら、片方でも肉親が傍に居てくれるだけでマシだと思ったが、話の続きを聞く限りそうはいかなかったようだ。

 

 『魔女の方はどうなったかまで知らないけど……あいつは孤児院育ちだった。多分、子供より先に死んだんじゃないか?病気か何かで。それで孤児院に預けられた、とか』

 

 孤児。自分と同じだ、とハリーは気付いた。何となく嫌な共通点だ。ダーズリー家に預けられるぐらいなら、孤児院の方が良かったのかもしれない……と、チラリとでも考えてしまった自分が少し恥ずかしい。

 

 『父親は健康そのものだった。でも子供がいる事は知らなかったらしい。こいつ、最初は結婚詐欺師か何かだと思ったけど、その必要が無いぐらい金はあったんだよな。相手の魔女もスリザ……ゲフン、魔女の方も優れた魔法使いの血筋とはいえ、家自体は廃墟同然で碌に財産も持って無かった。詐欺目的でも無いのに、マグルの男が何で魔女と一緒になろうと思ったんだろうな?一緒になった結果、こいつは―――最期は死の呪文を受けて、あっさり死ぬ羽目になった』

 

 術者が誰かは、敢えて言わなかった。言われなくても、誰が犯人かはハリーにも何となく伝わってきた。彼は間髪入れずに、少し恐ろしくも感じる無感情な声で続ける。

 

 『父親―――トム・リドルとかいうアホなマグルは、一夜にして家族諸共殺されたって訳だ。ハリー、君も気を付けなよ。こいつみたいな、外見と財産だけが取り柄の調子こいた単純ボケ男は、割とあっさり身を滅ぼす羽目になるっていう良い教訓だ。こういう消費期限の過ぎた腐り掛けの食品みたいな大人にならないよう、気を引き締めて生きていかないと』

 

 「……トム、君って本当に悪いよね」

 

 『顔色?』

 

 「性格。一応は自分の父親にあたる人のコト、よくそこまでボロクソに言えるところ」

 

 ここまで捻くれて育った原因の一つが"その人物"なのかもしれないが、だとしても捻くれ過ぎじゃないだろうか。『向こうの世界』のだろうが『この世界』のだろうが、お構いなしに罵倒の嵐だ。

 

 ハリーは再びため息をついた。

 ヴォルデモートの父親は、特別悪人という訳でも無かった。そもそも魔法の使えないマグルだった。何だかちょっと拍子抜けだ。気を取り直して、机上に図書館から借りてきた本を広げ、視線を向ける。

 するとその本を覗き込んで、ドラコが言った。

 

 「ハリー、何を調べているんだ?手伝おうか?」

 

 「あぁ、うん、ありがとう。魔法界の人のコトなんだけど……。あっ、トムが邪魔なら外に出そうか?」

 

 『おいコラ。死んでも出ないからな』

 

 トムの突っ込みは聞き流し、ハリーは『現代の著名な魔法使い』という本をドラコに見せながら言った。

 

 「実は宿題とは関係無いんだけど、僕、ニコラス・フラメルっていう人を調べてるんだ。でも、どこにも載ってなくて……。別の本じゃないと駄目なのかなぁ」

 

 ハリーは『賢者の石』の制作者であるニコラスを独自に調べようとしていた。

 トムからその人物名を聞いた時、何となくどういう魔法使いなのか知りたいという気持ちが沸いてきた。知ったところで何かがあるという訳でもないが、個人的な好奇心を満たす為、暇を見つけて図書館で彼の詳細が載ってそうな本を捜索していたのだ。

 

 「ニコラス・フラメル……その人、うーん……、どこかで……」

 

 ドラコは首を傾げながら唸った。

 

 「知ってるの!?」

 

 「えっと、どこかで聞いたような……」

 

 「思い出してよ。この人のコト、知りたいんだ」

 

 「うう~ん、あぁ、ちょっと待ってくれ……。もうちょっとで出てきそうなんだけどな……どこで見たかなぁ」

 

 すると、二人の話を聞いていたトムの腕がすっと伸びた。サンザシの杖先が、ドラコの額に突き付けられる。

 

 『ドラコ、目を閉じてみて』

 

 「えっ?」

 

 『ニコラス・フラメルという名前に集中して。全神経をそこに持っていくイメージで。思い浮かべるんだ、この名前だけを考えて……』

 

 ドラコがあやされる赤子の様に、虚ろな様子で瞼を閉じた。その後ゆっくりと胸を上下させ、深呼吸を繰り返す。

 数秒経って、トムが杖を除けてパチリと指を鳴らした。途端、弾かれた様にドラコが意識を取り戻す。

 

 『どう?思い出した?』

 

 得意げにトムが訊ねる。

 今のは、相手の記憶の引き出しを突っついて、思い出すのを手助けする一種の催眠術に近い魔法だ。『記憶』に関する分霊箱たる彼だからこそ、容易にこなせる芸当であった。

 

 ドラコがパチクリと瞬きを繰り返し、大きく頷いた。

 

 「うん。何か、急に思い出せて……。リドルさん、今のは何かの魔法?」

 

 『ははは。僕、別名「偉大なる魔法使い(グレイテスト・ソーサラー)」と呼ばれてるんだよ』

 

 「どこの誰が呼んでるのさ。初めて聞いたよそんな呼び名」

 

 『あれ?ハリーは「ちんちくりん眼鏡掛け機」って呼ばれてるじゃないか。おチビちゃんで眼鏡が本体なとこ、可愛いよね』

 

 「トムこそ、『性悪捻くれジイさん学生バージョン』でしょ」

 

 二人が睨み合って悪口の応酬を繰り広げていると、ドラコがいきなり立ち上がり置いてあった鞄の元へ歩いて行った。

 突然の行動に、二人は同時に彼が移動した方向を振り向いた。動きが完全にシンクロしていた。タイミング、首を回した角度、瞬きの回数、全てが完全に一致していた。

 一体何をしているのだろうと考えていると、ドラコが鞄の中から巨大な古い本を両手で抱えて戻ってきた。

 

 「あった!えっと、この人、このページに……」

 

 素早く本を捲っていき、お目当てのページに辿り着く。見開きを二人に見える様突き出した。

 二人はその見開きに注目し、トムは黙読で、ハリーは音読で読み進めていった。

 

 

 

 

 錬金術とは、「賢者の石」と言われる恐るべき力を持つ伝説の物質を創造する事に関わる古代の学問であった。この「賢者の石」は、いかなる金属をも黄金に変える力があり、また飲めば不老不死になる「命の水」の源でもある。

 「賢者の石」については何世紀にも渡って多くの報告が為されてきたが、現存する唯一の石は著名な錬金術師であり、オペラ愛好家であるニコラス・フラメル氏が所有している。フラメル氏は昨年六百六十五歳の誕生日を迎え、デボン州でペレネレ夫人(六百五十八歳)と静かに暮らしている。

 

 

 

 

 読み終えて、トムが興味深そうに訊ねる。

 

 『これ、図書館の本?』

 

 「あ、うん。借り出してたんだ。分厚いもんだから、興味を引くページだけ飛ばし飛ばしで読んでたんだけど……その時に、チラっとニコラスの部分を見て。多分、それでうろ覚えだったんだな」

 

 「ニコラスさんって、オペラが好きなんだ、意外。ろ……六百……すっごい年齢だね」

 

 『ふーん。……金属を黄金に、不老不死を可能に、ねぇ』

 

 前半の部分は声に熱が籠っていたが、後半の部分はやけに冷めた調子で語るトムに気付き、ハリーは思った事を正直に問い掛けた。

 

 「トム、もしかして今、頭の中を金製品が飛んでない?」

 

 『旋回してるな。なるほど、「賢者の石」の効果は、人を不老不死にさせるだけじゃなかった訳か。僕もこの石のもう一つの効果まではうろ覚えだった』

 

 言いながら、トムがうっとりした目付きになっていく。何を考えているか、今なら開心術者でなくとも察せる状態だった。

 

 「トム、今、金銀財宝に囲まれてない?」

 

 『囲まれてる。どこを見ても金ピカだ。はぁ……こんな石存在してたら、真面目に働いてる大人が可哀想に見えてくるな』

 

 やけに色気を含んだため息を吐く彼を見て、ハリーは逆じゃないかと思った。普通は皆、不老不死の方に惹かれるもんじゃないだろうか。なのに、そちらの方には興味なさげだ。まあ、彼は親族に頼らず独りで生きてきたので、こういう金銭に関連する話には本能的に飛び付いてしまうのも仕方がないのだが。

 ……そういえば、ある時から一人で暮らしてきたとは聞いていたが、彼の両親は一体どこに行ったのだろう?

 

 「不死の方には興味ないの?トム」

 

 『うん?いや……死にたくはないけど、生きる意味も無いしな。長生きなんて嫌だね。それなりに生きて死ねるのが最高……なんだけど』

 

 言い掛けて、肝心な事を思い出す。

 今の自分は何年経とうとも、決して"老いない"。16歳のまま、時の流れから弾かれて存在している。つまり、"自然に死ねない"。

 殺されるのはゴメンだが、かといって永遠と生き続けなければならないのも望んじゃいない。とある柱の男みたいに、「考えるのをやめた」状態に追い込まれるのはノーセンキューだった。

 

 『まあ、これも一つの課題だな……』

 

 やらなければいけない事は山積みだが、今あれこれ悩んでいてもしょうがないのですぐに切り替える。

 

 『しっかしまあ、「賢者の石」ねぇ。ある意味で魅力的だけど、ある意味では迷惑だな。こんな物があるせいで、あいつが復活する確率が増えるんだから』

 

 「え?あいつ?」

 

 謎の単語にドラコが目を丸くする。トムは作り笑いを浮かべて誤魔化した。

 

 『いや、ドラコには関係無いさ。わざわざ教えてくれて感謝するよ。それと、ちょっと……君に訊きたい事があるんだけど……』

 

 今日、自分がわざわざドラコの前に姿を現したのは理由がある。

 一つは、彼ならば自分の存在を他人に話さないから。もう一つは、彼にしか訊けない事があったから。

 

 『……君の父親って、ウィーズリー家と確執でもあるの?』

 

 自身ではなく、家族に対する質問にドラコは数秒間ポカンとした表情を浮かばせた。

 

 『いいや、ちょっとね。君の父親……誰だっけ……あの、死喰い人の癖にヘタレドジな男、あっ、いや、ルシウスさん。ルシウスさんがウィーズリー家の末妹に、何か変な物とか送り付けようとしてないか、気になってね』

 

 「ち、父上が、ウィーズリーの妹に?……いや、僕はそんな事、全く聞かされて……」

 

 『……ふーん、まあそうか。確かに、君は()()()()()()()()を知らなかったもんね。うーん……いや、日記帳が無くなったぐらいで、ダンブルドアの失墜を諦める訳は無いか……?』

 

 「あの、父上が何か……?」

 

 『いや、気になった事をはっきりさせたかっただけさ。今のは忘れて欲しい』

 

 ハリーとドラコの二人に聴こえないぐらいの小声で、思わず呟いていた。

 

 『……()()()こそは平和な学校になって欲しいもんだ』

 

 『秘密の部屋』事件は間違いなく起こる事は無いが、ダンブルドアの追放を企んでいるルシウスは健在だ。

 もう日記帳はルシウスの手元に無く、『道具』を利用しての間接的な校長の追放はほぼ不可能だろう。

 彼が、『物語』とは別の方法を使って、何かしらの悪事を実行に移さなければ良いのだが……。

 

 『……()()が人でなしだと、子供は苦労するよねぇ』

 

 「え?」

 

 『いーや、何でもないさ』

 

 父親という生き物には、生憎だが嫌悪感しか湧いて来ない。

 しかしドラコの父親、ルシウスは……覚えている限りでは、極悪人という訳ではなかった。

 

 『物語』では、直接誰かを殺めていた描写は無いし、極度に卑劣な悪事を働いた事も無い。もしかしたら自分が知らないだけで、裏ではとんでもない事をやっていた可能性もあるが。

 ルシウスのやった事といえば、せいぜい自分の利益を追求して、何の罪も無い子供に『呪具』と呼んでも差し支えない物を擦り付けたぐらいだ。もしも順調に事が運んでいれば、死人が出ていたレベルで凶悪な行動だったが、結果としてそれは未遂に終わってしまった。

 中途半端に狡猾なせいで企みが失敗してしまうドジ属性が、彼を『救いようのある小悪党』にしていたのだ。

 

 ―――まあ、死喰い人となってヴォルデモートの凶行に賛同している時点で、善人では無い訳だが。

 

 それでも、子供をちゃんと愛してはいるし、死喰い人から一応は足を洗っている点を考えると、()()()()()()まだマシな部類だ。

 ハリーがドラコから聞かされた話を自分なりに整理すると、確か彼は、ヴォルデモートが姿を消したのに便乗して、「操られていた」と嘘の証言をして罪を逃れた筈。だから、息子のドラコは悪評を流される事はあれども、こうして平気でホグワーツに通えている。

 非常に姑息な人間だが、ヴォルデモートに心酔して、投獄されようとも彼に付き従う姿勢が無い辺りは悪人に成り切れていない。子供の存在もあったから、だろうか?

 

 とにかくも、見苦しい嘘まで吐いて死喰い人から脱退したのならば、もうこれ以上何もしないで欲しい。

 ルシウスさえ何も起こさなければ、来年いっぱいは平穏な魔法学校となるのだ。この平穏な時間を利用して、やりたい事もある。

 

 しかし……どうしてか、二年目もゴタゴタしそうな予感がするのは何故だろう。

 これに限っては出来るだけ外れて欲しい。切に願う。

 

 「あ……ふぁぁ」

 

 トムが真面目に考えを巡らせている横で、ハリーが間抜けな声を上げて欠伸をした。

 

 流石にそろそろ寝ないといけない時間だろう。下手に徹夜して勉強に勤しんだところで、体力を消耗するだけで効率が悪いだけだ。楽しい時間があっという間に終わってしまうのは惜しいが。

 ドラコは伝染しそうになる欠伸を噛み殺しながら立った。

 

 「今日は、もう寝ようか。明日もまた授業があるしさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 空き教室を出てそれぞれの寮に帰る道の途中で、トムとハリーは歩きながら日記帳を介して筆談していた。トムが実体化している状態でも、筆談は可能なのだ。ドラコからすれば、ハリーは宿題をしている様にしか見えないので問題は無い。

 

 "ハリーって、ドラコの前で少しいい子ぶり過ぎなんじゃないか?"

 

 『トムにだけはいい子ぶってるとか言われたくないから。何さ、スーパー猫被り人間のクセに』

 

 "何だと。僕は言葉遣いや人格を、時と場所と人によって適切に変えてるだけだ。ハリーこそ、単細胞メガネザルじゃないのか?"

 

 『何で僕がメガネザルなのさ。このズルズル蛇男』

 

 "蛇……僕みたいな誠実人間に向かって、よくも、"

 

 『捻くれ蛇。イジワル蛇。化けの皮ズルズル蛇』

 

 "癖毛チビ。アホモンキー。人間掛けた眼鏡"

 

 ドラコには見えない帳面上で罵り合いながら歩いていると、廊下の分かれ道に差し掛かった所でトムがわざとらしい声を上げた。

 

 『あっ、ゴメン。僕……お金落としちゃったみたいで。ドラコ、先に寮に行っててくれる?』

 

 トムがそう言って、ハリーの肩を掴んで立ち止まった。何かを探す様に後方を振り返る。ハリーは突っ込みそうになるのをすんでのところで呑み込み、彼に従って同じく歩みを止めた。

 ドラコは不思議そうな顔をしたが、「じゃあ、お休み」とハリーに告げてスリザリンの寮があるであろう方向へ歩いて行った。

 

 ドラコが向かった廊下の方から彼とは別の、こちらへ近付いて来る足音が遅れて響く。が、彼の足音と相殺されて、ハリーは特に気付く事は無かった。

 

 ドラコが完全に立ち去ったのを確認して、ハリーは怪訝そうな顔を隠さずにトムに問い掛けた。

 

 「トム……実体の無い君が、いつお金なんか落とすのさ。そもそも持ってないでしょ」

 

 『いつでもどこでも誰のでも、落ちた金品は全部僕の物だ』

 

 「そういうコトじゃなくて。君が意味も無く立ち止まるワケが無いじゃん。何を考えてこんなウソ、」

 

 言い掛けて、不意にハリーの言葉が途切れた。

 

 

 

 

 ―――世界が一瞬、真っ赤に染まったかと思った。

 

 

 

 

 膝から力が抜ける。視界から全てが消え失せる。壁も天井も廊下も―――傍にいる彼さえも、全てが等しく消失した。

 何が起きたのか、どうしてこうなったのか、原因を推測しようとして、一呼吸遅れてやってきた痛みにその思考を抉られた。

 

 「ッッッ……!!あ、あぁッ、ぁぁぁ――――――………!!!」

 

 かろうじて絶叫を上げるのは抑えられたが、それでも噛み締めた唇の隙間から悲痛な声が漏れる。

 

 額だ。額の傷が、痛みの発生源だ。突き刺す様な激痛が、額を中心として落雷の如く脳にも流れ込んでくる。頭が爆発したかとさえ錯覚した。

 既に己の体は床に倒れており、起き上がる事さえ出来ない。視界が赤く点滅していて、今何処に居るのかも認識不可能だった。

 

 激痛に苛まれた状況の中、こちらへ向かってくる足音がコツコツと響いてくる。それも段々とくぐもった様に小さくなっていく。聴覚も狂ってしまったのだろうか。

 

 誰かが、近付いて来る―――そう解っていても、どうしようも出来ない。

 

 ドラコが戻ってきてくれた?それとも他の生徒?先生だったらどうしよう?彼は、ドラコ以外の目に入ってはいけないのに―――ぼんやりと、そんな考えが頭をよぎる。

 今、彼はどうしているのだろう?あの足音は、彼にも聴こえた筈だ。既に日記帳へ身を隠した後だろうか。それとも、まだ近くに―――?

 

 何とか周囲の状況を確認しようとして、首だけどうにか動かしたその時、ハリーは凍り付いた。

 

 

 

 

 先生だった。クィレル先生。

 

 クィリナス・クィレルが、ハリーの方へ歩いて来ていたのだ。

 

 

 

 

 ドラコが去っていた方の廊下から、普段通りの歩調で近付いて来て―――床に崩れているハリーに気付くと、急停止して表情を一変させた。

 

 「ポ、ポ、ポッター君?こ……こんな時間にうろついて……いや、ど、どうしたのですか?」

 

 目を見開いて、苦しそうなハリーをまじまじと見つめてくる。どうやら、偶然通り掛かったのだろう。

 普通なら、夜中に寮外に居る事を知られた時点で罰則を貰うのだが、廊下のど真ん中で倒れる様な生徒に限ってはそうではないらしい。クィレルは罰則よりも、ハリーの容態の方に意識を持っていかれているようだ。

 

 「せッ……んせ……」

 

 彼に助けを求めようとして、踏み留まる。

 両親を殺し、自分さえも殺そうとした男が、その肉体に隠れている。そんな人間に助けを請うなど、こんなにも滑稽な話があるだろうか?

 

 そうは思っても、ハリーは迷っていた。

 様子を見ている限り、ヴォルデモートに取り憑かれているとは到底思えない。普段の授業中の態度一つ取っても、彼は悪人に協力している様な人間には見えないところがあった。トムの言葉を疑う訳でないが、本当に……今、目の前にヴォルデモートが潜んでいるというのだろうか。

 

 素直に助けてくれと懇願するか、転んだだけだから大丈夫と伝えるか。

 

 ハリーが痛みに全身を震わせながら、二つの選択肢を前にして葛藤していると、 

 

 『うわぁ、大変。ハリー、大丈夫?』

 

 いつもより確実に、1オクターブは高いトムの声がした。

 

 ハリーは激痛に苛まれる意識の中、目線だけで声の方向を必死に確認する。気付くと、身を隠す気も正体を隠す気もサラサラない様子のトムが傍に立っていた。第三者から見れば、心の底から心配そうな表情を顔一杯に浮かべて、こちらを見下ろしている。

 

 「な、なん……で……」

 

 どうしてまだここにいるんだと訴えたかったが、口から出てくるのは呻き声だけだった。痛みの余り、質問や忠告を告げるどころではない。

 額の傷を、頭蓋骨にヒビが入るんじゃないかと思うぐらいの力を込めて、全力で抑える。そうでもしないと、どうにかなりそうだった。

 

 駄目だ。彼の意図が解らない。苦痛に支配された頭では、碌に思考もまとまらない。

 よりにもよって、ヴォルデモートの憑依先であるクィレルの前に姿を現すなどと、一体何を考えているのだろう?

 さっきの足音は、絶対に聴こえていた筈だ。彼ならば既に身を隠していると思っていたのに……。

 

 ただ、彼の事だ。何の考えも無しに、わざわざ敵の前に自分の身を晒すなどといった暴挙に出ない筈。絶対、何かしらの策略があるに違いない……ハリーはそう祈るしか無かった。

 

 ふと気が付けば、トムの顔が目の前にあった。彼は膝をついて、ハリーに目線を合わせる格好になっている。美しさと妖しさを秘めた赤い瞳が、明確な意思を以てハリーの瞳の奥を覗き込んだ。たったそれだけの動作で、「黙っていろ」という無言の指示が伝わってくるのを感じた。

 

 トムはハリーの肩を掴んで、ガクガクと軽く揺さぶった。普段の彼の態度を知っているハリーにだけ分かる、演技丸出しの、情に満ちた声で語り出す。

 

 『すみません、先生。この子、毒蛇に噛まれても、ゲイ・ボルグを投げられても、カプコン製のヘリと一緒に墜落しても、死なない様に見えるでしょう。でも、額の古傷がたまに悪さするんですよ。おまけに、結核とインキンタムシと脱毛症もあるんです。大変だよ、ハリー。大丈夫?気をしっかり持って。息が苦しいの?体が痒いの?毛が抜けるの?ハリー』

 

 所々、この世界の人間には理解出来ない単語を使用しながら、ハリーの体を物陰にしてトムが腕を動かした。手品師の如く、クィレルに気付かれない様最低限の動きで杖を振るう。続いて、近距離に居る筈のハリーにさえ、集中していないと聴こえない小声で《エピスキー》と唱えた。

 途端に、額を貫いていた激痛が熱を持った感覚が襲う。それは一瞬の事で、次に、氷を押し付けられた様な急激な冷たさが額を中心に広がっていく。心地良い冷たさだ。

 

 完全とは言えないが、それでも最初の頃より痛みが和らいだ気がする。思考力が戻って来る。だが、彼のアイコンタクトに従い、余計な口を挟む事は何とか堪えた。

 そんなハリーの様子の変化を観察していたトムは、更に高い声を上げた。ハリーからすればわざとらしさ増し増しなのだが、クィレルからすれば不安で焦燥している様に聴こえただろう。

 

 『ハリー、しっかりして。悪化したなら、傷を付けた魔法使いのせいだからねぇ。死んだら、化けて出ても良いんだよ』

 

 クィレルの肌が、遠目からでもゾワリと粟立った気がした。

 彼はパクパクと金魚の様に口を動かしながら、声を絞り出そうとする。こういう人間なのだ。下級生だろうが上級生だろうが教師だろうが、誰かと対話する時に決まって言葉がつっかえてしまう。ほとんどの人間は、吃音症でも患っているのかもしれないと思う筈だ。

 しかし、彼のこれは演技である。ヴォルデモートをその身に宿していると知られぬ様、疑われぬ様、わざと臆病者を演じているのだ。とはいえ、ハリーは肝心な彼の本当の姿を見た事が無い。トムに教えてもらわなければ、ハリーもクィレルを疑いやしなかっただろう。

 

 「たたっ、体調がす、優れないのですね……。よっよろしい。い…医務室へ連れて行ってあげなさい。き、君は―――」

 

 名前を呼ぼうとして、クィレルは目の前の青年の名を知らぬ事に気付く。

 

 どれだけ彼が頼りなさそうで、臆病で、そしてそれが演技だとしても、仮にもホグワーツの一教師。生徒の名前は、全てでは無いけれど大体は分かっている。

 

 そんな教師が、監督生のバッジを付けているスリザリン生の名を。

 他の生徒より存在感のある監督生の名を。

 記憶に残っているのが当たり前の生徒名を。

 

 言い当てる事が、出来ない。

 

 その事実に今ようやく気付いたのか、言葉が完全に止まってしまったクィレルに対し、トムが一瞬だけ唇の端に挑む様な笑みを浮かべた。

 

 『嫌だなあ、先生。僕、()()()()()()()()。……もしかして名前、忘れちゃいました?』

 

 目元に少し悲しそうな感情を込め、声色は低く、落ち込んでいる様に見える。先生に名前を覚えてもらえず、ショックを受けている一生徒の姿を、彼は完璧に演じていた。 

 

 心情を見透かす赤い瞳に正面から射貫かれ、クィレルは顔半分を痙攣させながら後退った。気圧されたというより、恐怖の余りこの場から離れたいといった意思を感じる。

 

 「………ッッ、」

 

 一度だけ。

 たった一度だけ、クィレルは怯えた表情のまま、トムの姿を頭のてっぺんからつま先まで見下した。

 最後に、クィレルの方に背を向けたまま、トムに身を預けているハリーに視線を走らせたかと思うと、返事を寄越す事無く踵を返してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何か、見てはいけない物を目にしてしまった様子で、足早に去っていくクィレル。

 

 

 

 

 その背中と頭のターバンを見送りながら、トムがまた、唇の端だけで微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 




トムリドルシニアとかいう、ある意味元凶とも言えるし可哀想な被害者とも言える、ハリポタ界でも滅茶苦茶複雑な立場にいる男。またいずれ出てきます。
ちなみにジョゼフ・ジョン・トムソンはイギリスに実在した学者さんです。

魔法で戦うというより化かし合いみたいに段々なってるけど、大丈夫かこれ?

2020/1/1追記
12月中に次話投稿すると言ったな。あれは嘘だ。
はい、という訳で、この作品は作者含めて詐欺師ばかり出てきます。嘘吐いちゃってごめんなさインセンディオ
とりあえず、1月中には次話仕上げるんで新年もよろしくお願いいたします
ついでにトム君誕生日おめっとさん。1日遅れだけど、一応主役だから祝っときます


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Page 22 「鏡が語らう真実は?」

今更ですが、「賢者の石」編はちょいと長いです。
未だに箒に乗ってない時点でバレバレですけど。
「秘密の部屋」編が速攻で終わりそうな作品である為、そこら辺を考慮した結果長めとなってます(「秘密の部屋」編が短くなるとは言っていない)
微戦闘パート有り。

身勝手な解釈でお似合いの将来を決め付けられる事程、
ありがた迷惑な話って無いですな。

あ、そうそう。
嘘吐きの言葉を全部鵜呑みにする必要は無いですよ。


 ―――あぁ、一体私はどうすればいいのだろう。

 

 

 

 

 無意識に()()()()()()()()()を整えながら―――整える程乱れてはいなかったが―――動揺の余り無駄な行動を挟みつつも、静まり返った廊下を早足で歩く。

 不幸中の幸いとでも言うべきか、周囲に人間は()()以外に居なかった。傍から見れば挙動不審に見える己の無様な姿を、誰かに目撃されずに済んだのは本当に助かった。

 

 と、混乱の最中に巻き込まれている己の思考へ、()()()()()()()高い声が響いた。地の底から這い出て来る様な、何とも形容し難い恐ろしい―――畏れ多い、主人の声。

 

 【―――クィレルよ、解っているだろうな?】

 

 その声には威圧的な響きが込められていた。例えではなく、本当に己の全身を絞め殺さんばかりの威圧に耐えられず、絶え間なく稼働していた足が止まる。その場に蹲り、主の言葉を遮る無礼を働くまいと、余計な口を挟まず次の言葉を待つ。

 

 【先刻説明した通りに事を済ませるのだ。まさかこのタイミングで"アレ"と出くわすなど、俺様でさえ想定外の事態だ。貴様が狼狽するのも無理もない事。だが、失敗は許さん】

 

 「は……。でっ、ですがご主人様、いえ、あのっ……し、質問をお許し願えませんか?」

 

 【ふむ……よかろう。今の俺様は()()()()が見付かって気分が良い。それくらいの事は許そう】

 

 「ま、誠に光栄でございます……。し、して、お聞きしたいのですが、……"アレ"は一体、何なのですか?」

 

 我が主に嘘や誤魔化しの類は通用しない。下手に遠回しな言い方は、逆に機嫌を損なう恐れがある。故に、随分と直球な訊き方となってしまったが致し方ないだろう。

 

 つい先程、対面した"アレ"。主人はその正体をすっかり掴んでいるようであったが、己には何者なのか皆目見当がつかない。存在がまるで雲の様に掴みどころがなく、不気味という三文字の印象しか抱けなかった"アレ"。

 スリザリンの制服を身に纏いながら、監督生バッジを付けておきながら、己の記憶に存在しない謎のホグワーツ生。鮮血その物を浴びたかの様な、あの妖しくも美しい真紅の双眸は、まるで、まるで―――

 

 【貴様が知る必要は無い】

 

 ギリ、と、心臓に不可視の縄が食い込む錯覚を感じた。ブワリと湧き出る冷や汗に背筋を震わせていると、思いがけず上機嫌な様子の声が続いた。

 

 【まあこの言葉で片付けても良かったのだが……。先程も言った様に、今の俺様は気分が良い。特別に教えてやろうではないか】

 

 「あ、ありがとうございます……」

 

 一つ息を吐き、呼吸を整えた。どうやら機嫌を損ねずに済んだらしい。感謝の言葉を忘れずに添え、主の言葉に全力で耳を傾ける。

 

 【"アレ"は俺様の欠片なのだ……そして同時に、俺様の未来を左右する存在でもある】

 

 欠片?"アレ"が、主の欠片?

 だとするならば、"アレ"もまた、我が主という事になるのだろうか?

 

 【まさか、()()()()()()に居るとはな……。だが、お陰でようやく知る事が出来た。未だに信じ難い事であるが……『死を越えし契約者』、"アレ"を指していたとは……これはこれは、何とも奇妙な因果よ】

 

 「ご、主人様?」

 

 【どうやってあの小僧の元に渡ったのかは興味深いが……いや、訊き出せばいずれ解る事だ。さて、俺様の捜し求めていた者の正体が判ったところで、早急にやらねばならん事がある。クィレルよ、忘れてはいないだろうな?貴様は"アレ"を回収せねばならない。あの忌々しい『英雄』の手から引き離さねばならない。愚鈍な貴様でも、これくらいの事は出来るだろう?】

 

 己の返事を待たずして、一方的に捲し立てられる。まだ訊きたい事、確かめたい事が多々あったが、口答えは許されない。口を噤み、これまでなんどもそうしてきたように、忠実にイエスの返答を告げる。

 

 【いい子だ、クィレル。俺様は未だに『賢者の石』に辿り着けぬ貴様に辟易していたところだ。―――さあ、これまでの失態を取り返せるな?】

 

 「勿論でございます!で、で、ですから、どっ、どうか…………どうか私めを、ご主人様、」

 

 【それは貴様の努力の結果次第だ。クィレル、貴様が何の為に俺様を受け入れたのか忘れなければ、失敗はせぬだろう?】

 

 そうだ。自分は選ばれたのだ。 

 闇の帝王に。

 偉大な魔法使いであるこの方に。

 ならばこそ、彼の命令を遂行する事こそが喜びであり、生きる意味となる。

 

 ―――"アレ"を回収し、『賢者の石』をも奪取する。

 

 『賢者の石』は腹立たしい事に、巧妙な手で守られているお陰で未だこの手に収める事が出来ていない。が、あの石と違って"アレ"は厳重な罠や魔法で保護されている訳ではない。すぐに回収に取り掛かれば達成出来るに違いない筈。

 その為には、禁じられた森の『奴ら』も利用するとしようではないか。

 思いがけず、『奴ら』を手懐けておいて本当に良かった。()()()()と違って、《ある一つの呪文》でしか対処出来ない怪物共。『奴ら』の望み通り、餌の準備をするとしよう。

 

 そこまで思考を巡らせて、不意にゾクリと悪寒が走った。

 背筋を冷たい氷が滑り落ちていく感触。

 思わずその不快さに声を上げてしまいそうになるが、ぐっと堪えて振り払う様に立ち上がる。

  

 「………ッ」

 

 両耳を塞ぎたくなる意思を必死に抑え込みながら、再び早足で歩き出す。これ以上、主の前で無様な姿を晒す訳にはいかなかった。

 けれども―――忘れたくとも忘れられない出来事が、疲弊している己の精神を酷く苛む。

 

 あの時、"アレ"が向けてきた、心情を見透かす様な―――真っ赤に染まった不気味な瞳。

 その瞳の奥深くで。

 射殺さんばかりの視線と感情を、確かに誰かが己に注いでいたのを思い出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【―――お前如きが、手に入れられるとでも思っているのかい?】

 

 

 

 

 

 

 

 

 ()()とはまた違う―――魂すらも凍り付く様な恐ろしい謎の声が、今でも己の耳にこびり付いている。

 

 それが単なる幻聴だとしても。

 

 この先一生、忘れ去る事など不可能なのだろうと、主人にも感知出来ない思考の隅で呆然とそう考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――痛い。頭が痛い。力を吸い取られてしまったかの如き倦怠感も、おまけで付いている。

 

 

 

 

 ハリーは軽減されたとはいえ、未だにジクジク痛む傷跡を抑えながら、クィレルの後ろ姿を見送っているトムを見上げた。

 当の本人は大胆な行動を見せた後とは思えない程、ケロリとしている。完全にクィレルの姿が見えなくなると、床に落ちていたハリーの鞄を拾い上げ、座り込んでいる彼の元まで戻ってきた。

 

 トムが自分の前にしゃがみ込んだと同時に、ハリーは残存体力を振り絞って彼の頭を引っ叩いた。

 

 『いてっ、何するんだよ。僕は平和主義者なんだ。暴力・殺人・強盗には断固として反対するからな』

 

 「どこが平和主義さ。僕以外に見られないよう、日記の取り扱いには気を付けろっていっつも言ってたクセに、クィレル先生の前に堂々と姿見せて、会話して、何考えてんの」

 

 当然の疑問だった。彼の意図が解らず、ハリーは真っ先に追及を始める。

 だが、トムは持ってきたハリーの鞄の中身を確認していて、ハリーの方に顔を向けない。しばらくして、わざとらしく訊き返してきた。

 

 『うん、全部ちゃんと入ってる。え?何だって?何かおっしゃいました?』

 

 「だから、何であんなコトしたのって訊いてるんだよ。誰かに見られない様にって言ってる君の言葉と、実際にやってるコトが全く違うじゃん」

 

 『解んないなら、よーくお考えになったらどうです?』

 

 素知らぬ顔ではぐらかしを続けるトムの手を掴み、ハリーは真正面から再度問い掛けた。

 

 「何で教えてくれないのさ?さっきのあれ、どう考えても悪手だって、僕でも解るよ。どういうつもりか教えてくれたって良いでしょ」

 

 『ハリー、頭ってのは、眼鏡を掛ける為にあるんじゃないんだぞ』

 

 「知ってるよ。頭が無かったら、歩く時にバランスが取れないもん」

 

 『そういう問題じゃない』

 

 「あっ、美容院は皆潰れちゃうよね。クィディッチでヘディングも出来なくなるし……」

 

 『このアホ。素でボケるな。頭―――脳って言うのはな、物事を考える為にあるんだ。ちょっとは自分で考えなさい。ほら、この後、あいつはどう動く?』

 

 トムの言う通り、ハリーは真面目に考えを巡らせてみたが、想像もつかなかった。そもそも、向こうはトムの正体を掴んでいるのかも分からない。クィレルにとっては、完全に正体不明のスリザリン生にしか見えなかった筈だ。

 

 「解んない。解んない。解んない。ねぇ、いい加減焦らさないで教えてよ。気になってしょうがないんだから」

 

 しかし、彼はまるで遊戯を楽しむかの様に笑いながら、チッチと指を振った。

 

 『ふん、答えはしばらくお預け。もうちょっと自分で考える事』

 

 その様子から緊張感も真剣味も感じられなくて、ハリーは口をへの字に曲げながら窘める様に言った。

 

 「トム、この状況だよ。面白がってる場合じゃないでしょ」

 

 『馬鹿だな。先の長い人生、面白がった方が勝ちだ。深刻に悩んだって、グダグダ足踏みしたって、問題は何も解決しないしな。だったら、これから先に起こる事を楽しみに待ってるぐらいの、そんな気位でいた方が良いに決まってる。そんなに不安にならなくても大丈夫だって。大体―――』

 

 そこで少し言葉に詰まり、トムはハリーから視線を逸らした。横を向いて、フンと鼻を鳴らす。

 

 『大体、僕がついてるだろ。君が独りきりであいつに挑む訳じゃないんだから』

 

 「トム」

 

 そうだ。本当にそうだ。自分は独りじゃない。不安になる必要も怯える必要も無い。自分達は、二人なんだ。

 少し胸が熱くなってくる。やはり、彼は自分の一番の友人だ。改めてそう思った。

 

 『二対一なら戦う時の勝率も必然的に上がるさ。それに、こっちの内一人は呪いに対する護りの力を持ってるし、もう一人は超絶好青年で賢くて、魔法の腕が抜群だし』

 

 「調子に乗りたがる捻くれ者で、コロコロ態度の変わる詐欺師で、常日頃から意地悪な男だけどね。トム、解ったよ。ヴォルデモートを止められるなら何でもいい。君の考えに任せる。今この学校で、あいつを止められるのが僕達しかいないんだよね。僕達なら、出来るんだよね」

 

 『そうだ。僕達の魔法は飾り物じゃない。肝心な時に、叶えたい事を叶えられる力なんだよ。ハリー、大丈夫。魔法は感情の制御が大事なのさ。心を静かにするんだ。落ち着いてやれば、あいつらが襲い掛かってきたとしても反撃出来る。怖くないさ、僕がついてるよ』

 

 「いや、怖くはないけどさ。トム、君、今更僕相手に猫被りしても、ムダだとか思わない?この状況で優等生ぶったって、とっくに正体バレてるよ」

 

 『うわ、ハリーってば、僕がいつ猫被りなんかしたんだよ。全く、冗談きついなぁ』

 

 笑いながらハリーの片耳をギリッとつねった後、トムは背中を向けて語り出した。

 

 『ハリー、僕はな、たくさんの友達とか仲間とか欲しくないんだ』

 

 「うん」

 

 『僕はな、』

 

 「うん、トム、解ってるよ」

 

 しかし、次に出てきたのは予想だにしない発言だった。

 

 『僕にとっては、ドビーが一番大切なんだよな』

 

 「そうだよね、やっぱりドビーが一番で……はあ?ドビー?誰それ?」

 

 『ドビーが傍に居て、思う存分モフモフさせてくれれば、それで満足なんだ。そうさ、他には何も望んでないんだよ。あぁ、僕って本当に気高い精神の持ち主だな。余計な物を欲しがらない究極の誠実人間なんだ。その辺の凡人共と比べて、格って物が違うのさ。自分の高尚っぷりに自分で感心する。さっ、寝室に帰ろ帰ろ』

 

 トムが独り言を並べながらハリーの先を歩いて行く。呆然としているハリーなどお構いなしだ。

 

 ―――全く、とんでもない奴だ。どこをどう捉えれば自分の事を高尚だと言えるのか。コショウでも被っちゃえ。

 

 ハリーはホグワーツに来てからここ一番のため息を吐いて、未だに気怠い体を引き摺る様にして彼の後を追っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「―――あら、こんな夜遅くに、一体何処に行っていたの?」

 

 帰り道。グリフィンドールの寮へ繋がる入口の扉を担っている、『太った婦人』の肖像画が夜中に寮から出ていたハリーを見て、訝し気に問うてきた。何故か先行していたトムは姿が見えなかったが、ハリーは気にせず婦人に合言葉を唱えた。

 

 「な、何でも無いよ―――。カプート ドラコニス」

 

 肖像画が前に開いた。重い体を動かし、何とか談話室へ入り込む。

 それから螺旋階段を上り―――今のハリーにとっては地味に辛い道のりだったが―――ようやくベッドまで辿り着く事が出来た。既に同室の四人は深い眠りに落ちており、ハリーの来訪には気付かない。

 

 だが、ここに来てやっと、ハリーはとんでもない大ポカをやらかしていた事に気付いた。

 

 ポケットの中に、自分の杖が入っていない事。

 トムが拾ってくれた鞄の中にも、入っていない事。

 

 何となくローブや鞄の中をまさぐってからその失態に気付き、慌てて(いつの間にかハリーのベッドを占領していた)トムに事情を告白すると、思い切り頭を叩かれたのは説明するまでもない。

 

 

 

 

 「ちょっとトム!気安く叩いたりしないでよ。君、馬鹿力なんだから、頭蓋骨が割れたら大変でしょ」

 

 『馬鹿とは何だ、馬鹿とは』

 

 「んじゃ、アホ力」

 

 『うわっ、うわっ、ハリーに馬鹿だのアホだの言われるなんて、雄鶏にチキンの作り方教わる様なもんだろ』

 

 「意味不明なコト言わないで。そもそも―――」

 

 いつもの様に口論がしばし続いて(同室のロン達を起こさない様、防音呪文を掛けながら)、しかし容態の優れないハリーはその内言い返す気力も無くなり、ベッドへ溶けたスライムの様に沈んでしまう。

 

 『…………はぁ。全く、手のかかる……』

 

 そんなハリーにそれ以上の追撃は行わず、トムは実体化を続けたまま、心底めんどくさそうな表情をして一人で出て行った。

 

 

 

 

 ハリーはその後ろ姿を見送る途中で全身の倦怠感に抗えず、そっと瞼を閉じた―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――青年が、見える。

 

 気が付けばハリーは何処かの屋内―――恐らくは一軒家の中に突っ立っていた。

 灯りが点いていないのか薄暗く、部屋の全貌は把握出来ない。しかし、そんな薄闇の中で自分以外にも人間が立っているのが見えた。

 それは青年だった。黒髪の整った顔立ちの青年が―――ゾっとする程冷たく暗い表情をして、何かを見下ろしていた。まるで道端に捨てられたゴミを見るかの様な、冷酷な光を湛えた双眸を一点に注いでいる。尋常ではないその様子に、声を掛けようとした口が固まる。

 

 ―――あんな、あんなにも恐ろしい顔をして、一体何を見ているんだろう?

 

 青年の視線の矛先がこちらに向けられるのが怖くて、ハリーは彼に気付かれぬ様呼吸を浅くする。足音も立てられないので、動かずにじっとしている事にした。

 それでも青年の見ている物が気になって、首だけを動かして何とか確認しようと試みる。

 

 かろうじて分かったのは―――男の人だろうか。

 男の、それも大人だ。大人の男性が―――腰を抜かしたのか、尻餅をついて青年を見上げていた。恐怖に塗れた瞳が、青年の冷たい視線を見返している。青年が見ていたのは、この男性だったのだ。

 決して若くはないが、老いているとも言えない大人の男性は、ガタガタと震えている。ただただ視線を注いでくる青年に怯えているのだろうか。確かに、誰だってあんな視線を注がれたらたまったものではない。体が竦むし、思わず身震いだって起こしそうだ。

 

 ―――二人の間に、何があったのだろう?

 

 彼らはハリーに気付いていないようで、互いに視線を交わし合っている。ハリーが動く事も出来ずに見守っていると、やがて青年が先に口を開いた。

 

 「……ははっ」

 

 嘲笑だった。声は掠れている様に感じたが、そこには確固たる憎悪が込められていた。

 青年が動きを見せたせいか、男性はビクリと肩を跳ねさせた。しかし、青年の機嫌をこれ以上損ねまいとしているのか、声を上げる事はしなかった。

 

 「……怖いか?今更?母さんを捨てようとした癖に。そんな性根のアンタが、今更あの女の息子を怖がるのか。おかしな話だよね」

 

 クスクスと茶化す様に青年は笑い声をあげる。場の雰囲気を一新させる様なふざけた態度だったが、目は一切笑っていない。男もそれを把握しているのか、恐怖に引き攣った表情を崩さなかった。

 男は数秒の間、青年の笑っている様子に沈黙を貫いていたが、やがて息も絶え絶えに一言を絞り出した。

 

 「……お前なんか、息子じゃない……ッ」

 

 とてつもなく小さな声だったが、青年はその声を皮切りにピタリと笑うのをやめた。一瞬目が細められるも、すぐに見下す様な目付きへと戻る。

 

 「そうだな。()()()()()()、アンタが父親だなんて反吐が出そうだよ」

 

 視線と同じ冷たい声だった。青年はつまらなそうに一息吐くと、男から視線を外し部屋の隅へと歩き出した。彼が男の傍を通り過ぎる時、解り易いくらい男の全身が強張るのが見て取れた。

 一体何処へ向かうのだろうとハリーが考え掛けたその時、パチンという音と共に突然部屋が明るくなった。何事かと青年を見れば、片手で壁に付けられているスイッチを押していた。どうやら、部屋の電気を点けたらしい。

 闇から一転、光の中へ。今まで薄暗かったせいで、慣れない眩しさにハリーの目が眩む。そうこうしている間に青年は男の近くへ戻ると、闇が晴れ()()()()()()()()()()()()()()()を再び覗き込んだ。

 

 「―――ねぇ、どうして母さんと一緒になった?アンタみたいな人間が、何で母さんと一緒に()()()?」

 

 質問を投げている間も、青年の視線は男の顔から一度も離れなかった。貪る様な目付きだった。

 男は答えない。少しでも青年と距離を取ろうと足掻いているのか、震える足を動かして尻餅を付いたまま後退しようとしている。

 青年は返事を寄越さない男に対し、不思議と怒りは見せなかった。しばらくの間、口を閉じたままの男を見つめて―――答えを得たかの様に、満足気に声を漏らす。

 

 「……何だ。結局、そういう事か。下らない。……本当に、下らない真実だ」

 

 最後の言葉は半ば投げやりに感じた。見れば、青年の瞳は空虚で満たされている。充血でもしているのか、彼の瞳は赤かった。

 

 「()()()()()()()()()

 

 ポツリ、と、誰に向けるでもなく、青年は呟いた。

 自分で自分の事を確認するかの様な言葉だった。

 

 「母さんはきっと否定したかもしれないけど―――ずっと考えていた可能性は、()()()()()()()()()。結局、アンタ自身に()()()()()は無かったんだ」

 

 さっきの質問は何かの答え合わせだったのだろうか。青年は勝手に一人で満足すると、再度男を最大限の憎悪と共に見下ろした。

 男は、これから何かが起きると勘付いたのか、慌てて声を上げ出そうとする。

 

 しかしハリーに分かったのはそこまでだった。突然目の前の光景がグニャリと歪み出し、青年と男が姿を消してしまう。

 あまりにも突然の変化に、思考が追い付かない。

 

 

 

 

 そして景色は歪み続け―――あっという間に、舞台は真っ白な空間へ早変わりしてしまった。

 

 

 

 

 白い。何も無い。地面も無いのに、ハリーは景色が変わる前と同じ突っ立ったままの体勢だった。とても不思議な事だ。

 そこまで認識してようやく、固まっていた体を動かして周囲を見回す。けれども、事態は変わらない。真っ白な世界が、地平線も無く続いている―――ただ、それだけだった。

 

 「ここ……どこ……」

 

 声に出しても意味が無いと解ってはいた。それでも呟いていた。

 何か、何か行動しなければと、固まっていた足を動かそうとする。

 

 何だか全身がフワフワする―――これは、やっぱり夢?

 

 現実じゃあり得ない空間に自分がいる。ハリーはここが夢という推測を立てつつ、真っ白な世界を探索しようと足を踏み出して―――

 

 不意に、それを遮る様にして、目の前に黒炎が現れた。

 人の形をした―――この白い世界とは正反対の、黒炎がハリーの進路を塞ぐ形で立ち昇ったのだ。シルエットが人間なのは解るのだが、全身が陽炎の様に揺らめいている。当然、顔も体格も性別も年齢も、判別出来ない。

 いきなり異物が登場した事により、ハリーの足が黒炎に接触する一歩手前で停止する。これは、一体なんだ?

 

 動揺して再び固まるハリーに応える様に、黒炎から人間の声が発せられた。

 

 

 

 

 【―――やあ、小さな魔法使い君。初めまして、かな?】

 

 

 

 

 挨拶の言葉としては丁寧な部類だったが、その声からは人を見下した様な感情が感じられた。ハリーは何となく不快になり、その心情を包み隠さず不躾に問い掛けた。

 

 「―――あなた、いや、君?は……誰?僕に何の用?」

 

 対して人型の黒炎は、腕を顎に当てる様な仕草をした。会話が通じる点と姿形からして、燃えている様に見えるだけで目の前にいるのは―――どうやら自分と同じ人間らしい。

 

 【ふむ……こちらの事をどう紹介しようか?そうだ……例えば……、君と一緒に居る……彼と親しい友人―――なんてのは、どうだい?】

 

 自分と一緒に居る彼、とは誰だろうか。

 もしかして、トムの事だろうか。

 

 ハリーはそこまで考えて、少し語気を荒げて言い返した。完全な直感だったが、目の前の「人を見下した様な気持ちが透けて見える何者か」が、彼と親しいなどとは考えられない。

 

 「ウソだ。君みたいなヤツと仲良くなるような人じゃないよ。そんなの、僕だって解る。バカにしないで」

 

 【少なくとも、君よりは彼と過ごした時間は長いんだけどね?】

 

 一体何を言っているのか。彼が、自分以外と過ごした人物は他にいただろうか?

 その様な話は、聞いた事が無い。ハリーの不信感は益々募ってゆき、知らずの内に黒炎を睨み付けていた。

 

 そんな視線を物ともせず、黒炎は両手を広げて唐突に語り出した。 

 

 【ねえ、彼は素晴らしい闇の魔法使いになれるとは思わないかい?】

 

 ―――やっぱり、何を言っているのか微塵も理解出来ない。

 

 ハリーはここが夢かもしれないという思考も捨て去り、静かな怒気を孕んだ声で否定する。

 

 「……思わない」

 

 【彼なら、きっとなれる。有象無象共を排し、腐り切った世界に変革を齎し、闇を蔓延させる。そんな魔法使いになれる素質が、十分に有るんだ。導いてあげれば、その道をきっと歩んでくれるだろう】

 

 「やめてよ!……た、確かに闇の魔術に向いてるような性格してるけど、だからってそれが悪者になる素質だとか、勝手に決め付けないでよ」

 

 精一杯の反論だった。

 

 お世辞にも善人とは言えない彼の事だ。闇の魔術方面の素質があると言われて、全てを否定する事は出来なかった。けれども、彼が『そっちの道』へ堕ちるとも思えないのもまた事実だった。

 彼は確かに捻くれているが、ヴォルデモートとその配下の死喰い人の様な、闇の魔法使いに対してははっきりとした嫌悪感を示しているし、魔法を悪用して人間を直接害した事など一度も無い。悪用と言えば、精々魔法の便利な面を利用し、怠惰な使い方をしているくらいだ。そんな人間が、闇の魔法使いになるだって?全く思えない。

 そもそも、彼の目的が闇の魔法使いが行う様な悪事だったら、自分の元になど来てはいない。とっくにヴォルデモートの方を訪れ、彼に協力している筈だ。

 

 「僕は思わない。捻くれた面もあるけど、ヴォルデモートみたいな……へ、平気で人を傷付けたり、殺したりする様なヤツじゃないよ。君だって彼を見てきたんなら―――それくらい解るんじゃないの?」

 

 そういう素質があるからといって、必ずしも『そっちの道』に堕ちるなんて断定出来ない筈だ。

 出来たとしたら、スリザリン生は皆闇の魔法使いになっている。魔法界がそんな酷い惨状になっていない事など、自分にだって解っている。スリザリンにだって善良な魔法使いはいるし、過去にグリフィンドールから闇の魔法使いが出てしまっている事実もある。一概に全てをこうだと決め付けるのは間違いだろう。

 

 「もしそういう道に走りそうになっても、そんな事させない。僕が許さないから」

 

 【へえ、なら君に何が出来るんだい?これといって特別な魔力も持たない君が、どうやって彼の歩む道に指図が出来ると言うのかな?】

 

 「そ…それは……」

 

 【彼には彼の、もっと相応しい道があるんだ。君の言う通り―――彼はここまで、その道を踏まずに来ているけどね。―――だが、こちらが誘導してあげれば済む話さ。それにはやっぱり、君が邪魔だ。君に憑いているその『欠片』も】

 

 『欠片』。

 この黒炎は、自分の知らない事ばかり語ってくる。何が何だかさっぱりだ。

 

 慄いているハリーを差し置いて、黒炎は返答も待たずに一方的に捲し立て始めた。

 

 

 

 

 【君達は気付いていないだろう。まあ、()()()()()()()()もなかったから当然なんだけど。どうして、君達はここまでの仲を築けたと思う?誰に対しても心を閉ざす彼が、生き抜く為に必要な『通過儀礼』だとしても―――どうして君と友人の様な関係になれたんだと思う?】

 

 【君が特別だから?境遇が似ているから?仲良くする方が効率的だったから?……違うね。彼は『同じ』なのを嫌うんだ。嫌でも思い出してしまうから。本当は、君みたいな境遇の人間に親しみなんて感じやしない。()()()()()()()()()()()()。……ねえ、彼の『暗い感情』は、一体()()()消えたのかな?】

 

 【君達が友人になれる道なんて、本当は存在しなかった。―――だから、用意してあげたんだよ。そうとも知らずに友人面をしている君は見ていて滑稽だったけれど、やはり少々目障りだね。君にはここで退場してもらおう】

 

 

 

 

 聞き逃せない単語が出て来て、ハリーは目を見開いて大声を上げた。両手が自然と握られる。

 

 「さっきからワケ解らないコトばっかり!お前なんかの思い通りになんかならないよ!させない。早く伝えなきゃ―――」

 

 この不気味な夢から逃れようと、ハリーは振り返って走り出そうとした。夢から覚める方法なんて知らないが、やってみなければ分からない。

 

 そうだ。早くこんな夢から覚めて、彼に伝えなければ。この、邪悪な何者かの邪悪な企みを、彼に―――

 

 だがハリーの体は、縫い付けられたかの様にピクリともその場から動かなかった。自分の中ではとっくに走り出している筈なのに、どうして。

 

 ―――まさか、こいつが、こいつが邪魔をしている?

 

 【……君はどうしようもない馬鹿ではないんだろうけど、それでもこの場じゃ実に馬鹿だね。何の為に、わざわざこちらの思惑を君に晒したんだと思う?】

 

 顔を顰めながら、それでも不可視の拘束に抗おうとしているハリーへ近付いて、黒炎は囁く様に語る。

 

 【どうせ君の意識はこちらと成り代わるからだよ。元々、日記帳(アレ)には()()()()()()()()()()()()()()()。君の排除と彼への直接的な接触、この二つが同時に達成出来る日を、ずっと待っていた】

 

 「――――――、」

 

 【そんなに怯えなくても大丈夫さ。死ぬ訳じゃない。彼の友人はこちらが代わりにやってあげるから、安心しなよ】

 

 平然と恐ろしい事を口にする何者かが。

 何でもない事の様に説明している何者かが。

 ハリーには、理解出来ない。

 

 「どう、して……」

 

 段々と口の自由さえ奪われていく中、ハリーは掠れ掛けた声で、何とか叫んだ。

 

 「どうしてそんなに彼に拘るの……?お前みたいなのに、騙される様なヤツじゃないのに……!」

 

 【―――彼が、必要な物を全て持っているからだよ】

 

 ハリーの言葉もサラリと受け流して、酷くゆっくりとした速度で近付いて来る。まるで、わざと恐怖を感じる時間を長引かせている様に感じられた。

 

 【それに、呆気なく嘘に踊らされる様な馬鹿な人間には興味が無いんだ、生憎ね。彼を導くのは楽ではないだろうけど、それでこそやりがいがあると思わないかい?これでも教師を目指していたんだ、信じられないだろうけど】

 

 「さ―――さっきから―――導くとか道を用意するとか、トムはお前の物じゃない!」

 

 【―――君が、『その名』を口にするなよ】

 

 声のトーンが、明らかに低くなった。

 さっきまでの、どこか見下す様な、嘲る様な調子とはまた違う―――別次元の、負の感情が滲んでいた。ハリーの言葉が完全に止まる。

 黒炎は平常心を取り戻す様にヒラリと片手を振ると、ハリーに向き直った。

 

 【まあ、いい―――特別に許してあげるよ。今からしっかり貢献してもらうのだからね。さあ……消える覚悟は出来たかい?】

 

 ふざけるな、そんな覚悟、誰が決めるものか。

 

 ハリーの言葉は、しかし紡がれる事は無かった。

 

 【君の体を貰うよ。こうでもしないと彼に逢えないからね。この時の為に、君達を()()()()友人に仕立て上げたんだ。精々役に立ってもらおうか―――ハリー・ポッター】

 

 人型の黒炎が手を伸ばしてくる。体が動かない。

 

 ―――嫌だ、誰か……ッ!!

 

 どうにも出来ないと解っていても、ハリーはせめてもの抵抗として、目を閉じる事はしなかった。

 ―――そんなハリーだからこそ、確かに捉える事が出来たのだ。

 

 

 

 

 触れられる寸前で、黒炎が弾かれた様にその手を引っ込める瞬間を。

 

 

 

 

 【――――――、っと…………。まさか。このタイミングで、邪魔が入るとは……】

 

 顔は相変わらず確認出来ないが、ハリーは黒炎が忌々しそうに表情を歪めるのが手に取る様に解った。

 まさに九死に一生を得たと言っても過言ではないハリーは、何が自分を救ったのかも知らぬまま、黒炎を再度睨む。こんな奴に、屈したくは無い。

 

 【命拾いしたね。まあ―――先延ばしになっただけだ。精々、今の内に残り時間を謳歌していなよ】

 

 状況を把握し切れていないハリーを置き去りにして、まるで鎮火してゆく炎の様に、向こうはその形を白き世界から消してしまった。

 

 ハリーは黒炎の言葉から、()()()()()()()()()()()()()()()()()事を悟り、何とか拘束されたままの体を動かそうともがき続ける。

 

 

 

 

 ―――その様子を、ハリーの体勢からは絶対に見えない後方で。

 

 難しい表情をしたまま、まるでハリーを見守る様にして眺めている、ローブを纏った黒髪の青年がいた事には気が付かず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハリーをベッドに送り届けた後、トムは再び校内を歩き回っていた。

 

 倒れた時に、もしかしたら廊下に杖を落としたかもしれない―――と騒ぐハリーを見兼ね、こうしてわざわざ探してやっているのだ。

 あの容態のハリーを下手に動かす訳にもいかない。杖は魔法使いの命とも言うし、失くしたらそれはそれで一大事だ。今回ばかりは捜索を引き受けてやる事にした。

 

 ハリーが倒れた廊下へと足を運ぶ。

 時間帯から考えて、誰かが通り掛かって持ち去る、といった可能性は少ない。もし本当に落としていたのなら、容易に見付けられる筈だが―――

 

 そうして、特に警戒する事も無くマイペースに歩いていた時だった。

 

 

 

 

 『―――ッ!!!』

 

 

 

 

 突然、後頭部を鈍器で殴られる様な衝撃が襲った。

 

 痛みは無かったが、衝撃と共にトムの頭がグラリと揺れる。片手で頭を押さえ、衝撃の正体を確かめようと振り向いた。

 

 廊下の先―――曲がり角の所に、黒いローブで全身を包んだ何者かが杖をこちらに向けたまま、立っていた。顔は隠れて見えない。こちらの視線に気付くと、フード野郎が僅かに肩を揺らしたのが見えた。―――怯えている?

 フード野郎は数秒間たじろいでいるようだったが、やがて身を翻して曲がり角の向こうへ消えた。

 

 いきなり襲撃された状況を高速で整理している頭の中で、若干驚きの感情が込められた声が聴こえてきた。

 

 【―――これはこれは、驚いたね。まさか、いきなり《服従の呪文》を掛けてくる人間がいるなんて】

 

 この声を聴くのも地味に久方振りだ。

 何故こちらが受けた呪文をこいつが分析出来るのか、いや、こいつの置かれている状況から考えれば何もおかしくはないか―――という思考は隅に追いやり、慌てて質問を飛ばす。

 

 『な……何だって?《服従の呪文》?』

 

 【うん。……何で解るかって?いや、そこは今重要じゃないだろう。とにかく、分霊箱の身で良かったね?生身の人間だったら、今のでとっくに終わっていたよ】

 

 正体不明の魔法使いにそんな呪文を挨拶代わりに送られるとは。何て奴だ。いや、向こうの正体は大体見当がついているので、そこに驚きはしてない。

 肝心なのは、掛けられた呪文である。

 《服従の呪文》。詠唱すると《インペリオ》。対象に多幸感を与え、術者の命令に従う事を幸福な事だと思い込ませ操る、『許されざる呪文』の一つに名を刻んでいる代物だ。

 幸運だったのは、こちらが分霊箱であるという事。分霊箱はほとんどの魔法や呪い、物理的損傷を防いでしまう。一部の例外的な手段でしか危害を与えられないのだ。衝撃を感じるだけで済んだのは、自分が分霊箱だったからだろう、多分。

 

 何故、いきなり襲われたのか。

 

 何故、《服従の呪文》を掛けてきたのか。

 

 とにかく、今すぐフード野郎を追って締め上げる必要が急遽出てきた。

 人目だとか、ダンブルドアの監視網だとか、そんな物は思考の外にポイ捨てだった。

 

 『あ……あったまきた。あの野郎、絶対とっ捕まえて《クルーシオ》の特盛セットをお見舞いしてやる!』

 

 先制攻撃をしておいて、詫びも入れずに敵前逃亡とは、随分と舐められたものだ。

 これは捕まえた後、自分が誰に喧嘩を売ったのかしっかりと思い知らせてやる必要がある。

 

 そうと決まれば一直線。

 まずはこんな時間帯でも誰かの目に入る事を考慮し、自身に《目くらまし術》を念の為掛けておく。これは対象をカメレオン状態にする様な魔法だ。色や質感を周囲に同化させ、溶け込み、認識を防ぐ、文字通り目くらましの術。透明になるという訳ではないが、誰かに接触しなければそんなものは問題ないのである。モーマンタイである。

 

 ちなみに、こんな魔法あるのならとっとと使っとけよという意見もあるかもしれないが、生憎彼がこれを習得したのはつい最近である。50年間、主に「戦闘用の魔法」の習得に集中していたので致し方ない。

 

 疑似的な透明人間状態へ移行すると、トムはノータイムで走り出しフード野郎の後を追う。呼吸の必要が無いので常に全速力を保てるものの、今の自分が行動に使用するのは体力ではなく魔力だ。下手に魔力切れにならないように気を付けなければいけない。

 身体強化の魔法でも使えばもっと早く走れるだろうが、魔力消費も馬鹿にならない。ここは落ち着いて、魔法に頼らず動く事にする。

 

 【流石に性急過ぎないかい?相手の正体も解らないのに―――】

 

 『正体は大体解ってる。確かに性急なのは自覚してるさ。けど、モタモタして結論を先延ばしにする事こそ愚の骨頂だ。わざわざ下手人を取り逃がすなんて大失態だろ!』

 

 【ふむ……確かにそうかもしれない。ある時は慎重に、ある時は大胆に動けるのが君という人間か――】

 

 何か、同居人が勝手に一人で納得する様に呟いているが、気にしてはいられない。

 ただいま絶賛、脳内で『天国と地獄』が流れている。夜のホグワーツで、追いかけっこが静かに幕を開けた。……静かに、なのだろうか?

 

 (あいつはダンブルドアに気付かれない様に行動している筈。つまり、あいつの通るルートは誰も監視していないって事。この時間に限っては、多少城内を動き回っても誰かに見られる心配は無いだろう―――保険で《目くらまし術》も掛けた。なりふり構わず動かせてもらう!)

 

 曲がり角をスピードを緩めずに曲がる。その先―――階段をスルスルと滑る様に上がっていく影が見えた。恐らく奴だ。

 よりによって上に逃げるとは、馬鹿な奴だ。いや、ここは魔法界。高い所へ追い詰められても、いざとなれば空を飛ぶ術や、高所から安全に着地する方法が存在する。となると、一見愚策にも見えるこの行動も、馬鹿には出来ないのかもしれない。

 

 (逃がすか!ええと、こういう時に使える呪文は―――)

 

 『《インペディメンタ》!』

 

 相手の動きを遅らせる呪文。より多くの魔力を使えば、完全に動きを止めたり、吹っ飛ばす事も可能だ。

 連続で数発お見舞いしてやる。放たれた閃光は、しかし悉く外れてしまった。寸前で相手がヒラリと階段を上り切ってしまったのだ。思わず舌打ちが出る。

 

 【いや、今のは良い線を行っていた。相手に何の呪文か知られてしまったのが痛かったね】

 

 『ああそうかい!悪かったな、無言呪文が使()()()()()!』

 

 【――――――、】

 

 向こうは何か反論したげな様子だったが、構っている余裕はない。

 

 つい力んで、相手に聴こえる様大声で詠唱してしまったのが失敗要因らしいが、反省は後だ。

 何の呪文か知られても、当てれば良いだけの話である。

 

 同じようにこちらも階段を上り終えると、少し開けた広間の中央を中々の速さで突っ切っているフード野郎の背中が見えた。

 好都合だ。この広さなら、()()が出来る。

 

 『―――《インペディメンタ》、《インペディメンタ》ッ、《インペディメンタ》!』

 

 即ち、偏差射撃。FPSで鍛えられたこのエイム力を以て、相手を仕留める!

 

 前世では割と上位に名を連ねていたFPSプレイヤーでもあったのだ。抜群の射撃力と優れたステルス行動で、戦場を毎回阿鼻叫喚の嵐へと導いていた頃を思い出す。

 ちなみにその時のハンドルネームは、思いつきで考えた『アガサクリス・T』。別名『サイレントキラー』というあだ名が当時のFPS界で崇められていた。

 「リアルでは絶対ヌルフフ言ってる殺し屋」だとか、冗談でも誤解を招かれない噂まで流された事もある。誠に遺憾である。誰が殺せんせーだ。ヌルフフとか言ってねーわ、アホか。

 

 ―――あれ?今、『本名』を思い出しかけた?

 

 昔使用していたハンドルネームについて考えていると、それに引っ張られて前世での本名が脳内でチラついた気がする。確か、本名から取って付けたネームの筈だ。

 いやいや、今は全く無関係な事ではないか。余計な思考は取っ払い、呪文が命中したかどうかを確認する。

 

 相手の移動先へ着弾する様に連続で放った呪文は、確実に命中―――とまではいかなかったが、相手のフードの裾を掠った。一瞬動揺したのか、僅かに足が縺れかけたのがこちらにも分かった。その隙を、二発目が見事に捕らえてくれた。

 フード野郎の、恐らく右肩の部分を閃光が襲った。相手は無言で身悶えし、動きを鈍らせている。

 畳み掛けるなら今しかない。

 

 『《ステューピファイ》』

 

 動きを鈍らせたなら、確実に行動不能へ陥らせるしかあるまい。

 失神呪文を背中へ向けて思い切りぶち込む。この状況なら外しようがないだろう―――と、どこか余裕ぶっていたトムを、相手は見事に裏切ってきた。

 

 「―――《フィニート》」

 

 初めて、相手の肉声を耳にした気がする。

 

 呟かれたのは、呪文の効果を強制終了させる《フィニート》という呪文。

 それにより、一時的な拘束から逃れたフード野郎は、地を這う大蛇の様に低い体勢のまま、広間を通り過ぎて狭い廊下へと姿を消した。

 

 まさかあっさり抜け出されるとは思わなかったこちらの慢心を、まんまと突かれてしまった。

 呪文を連続で使用した事による疲労感で止まっていた足を、慌てて再稼働させる。

 

 『ま、待てこのッ……臆病者!』

 

 精一杯の皮肉は、果たして向こうに届いただろうか。

 しかしまあ、開かれた距離が大き過ぎる。このままでは逃げ切られる事だろう。嫌でも解ってしまう。

 

 焦燥感と共に廊下へ飛び込み、相手の姿を見付けようと目を走らせ―――走らせ―――

 

 『だーッ、何処に隠れやがった……!扉多過ぎるだろこの……ッ』

 

 廊下には、いくつもの扉が並んでいた。

 どれも似た様な形で、多少開き掛けている物、ぴったりと閉じられている物、亀裂だらけで隙間から向こう側が見えてしまい、扉としての役目をちゃんと果たしているのかと心配になる物まで、実に様々な扉の皆さんがお出迎えしてくれた。

 

 勿論相手がこの廊下を通り抜けている可能性もあるが、この中の扉のいずれかに身を隠した可能性も捨て切れない。となると、扉の中を一つ一つ捜索する必要がある。

 

 『……捜索してる間に逃げられる気もするけど……』

 

 自分が扉Aの中を調べている隙に、扉Bに潜んでいた奴が中から出てきて無事逃亡―――という展開も起こり得るっちゃ起こり得る。

 だが運が良ければ、「最初に調べた扉の中に実は居ましたよ」、という展開も起こり得るだろう。

 気分は、完全にガチャの気分だった。鬼が出るか蛇が出るか、レアを引くかコモンを引くか。

 

 【―――あの扉なんかは、どうかな?】

 

 自分が目に付いた扉の一つに視線を向けた瞬間、声を掛けられた。

 単なる提案だ。嘘も真実も無い、他愛のない提案。否定する理由も特に無かったので、今回ばかりはその言葉に乗ってやる事にした。

 

 まずは、その扉へ近寄る。

 しっかりと閉じられている奴だ。こういう開かれた形跡が無さそうな所に限って、それをカモフラージュに利用し、犯人が潜んでいたりする事は割とあると思う。

 

 扉を開けた瞬間、正面から呪文をぶち込まれるという事態にならない様、警戒心を最大まで引き上げて―――魔法で扉を一思いに開け放った!

 

 

 

 

 『……ッ、…………』

 

 緊張で思わず声が漏れたが、想像していた事態には発展しなかった。

 

 中はガランとしていて、家具や小物はほとんど置かれていない小部屋だったのだ。暗くて全貌は見えないが、人間の気配もしない。―――要するに、外れだ。

 

 『はぁ…………』

 

 肩の力をストンと抜き、緊張感を逃がす様にため息を吐き出す。

 

 しかし、自分と同じ様に《目くらまし術》を使って隠れていましたよ、という可能性もあるので、一応部屋全体をしっかりと見ておく事にした。

 

 『《ルーモス》』

 

 灯りを点し、杖を左右に動かして部屋の中の暗闇を暴いていく。

 ついでに、《フィニート》と唱えてみた。何も変化が起きないので、フード野郎が《目くらまし術》などで隠れている可能性は完全に消え去った。

 

 『ん…………何だ、これ』

 

 灯りを使用して初めて気付いたが、どうやら部屋の中には一つだけ、何かが設置されていたらしい。

 

 大きめの何か―――これは、鏡、か?

 

 灯りの先に現れたのは、天井にぶつかるんじゃないかと思うくらい高い、金縁の立派な鏡だった。金額にするとさぞお高いに違いない。だが、その立派さを少々打ち消してしまう要素がある。埃被っているのだ。ここにしばらく放置されていたのか?

 

 『うわっ、触れる……』

 

 そっと手を当ててみると、見事に接触出来た。という事は、何らかの魔法道具、だろうか。

 にしても、暗闇の中にポツリと立つ姿見など―――ホラー映画でしか見ない。実に不気味だ。幽霊が映ったり化け物が映ったり、まさかそういう代物じゃないだろうな、という考えが場違いにも出てくる。

 

 『ていうか―――僕、映ってないし』

 

 こうして手を当てている自分が、鏡の中に見えない。誰も映っていない。明らかにおかしい。

 

 まさか、本当に幽霊なんかが映り込んだりして。などと考えていると、鏡の中に異変が起きた。

 

 グニャリ、と―――ほんの一瞬、鏡の中心が歪んだ気がした。そして、歪んだその後―――先程まで何も写さなかった魔法の鏡に、何かが映っていた。

 

 『うん……?何だ?《ルーモス・マキシマ》』

 

 何かの正体を確認するには、光量が足りない。トムは灯りを強くして、鏡の中を再度覗き込んだ。

 

 『―――うわ、何だよ、これ……』

 

 

 

 

 映っていたのは、―――死体、だった。

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()が、()()が人間だという事は理解出来る。人間が、グッタリと脱力して、目を見開いたまま仰向けに倒れている光景が映っていた。

 

 ―――何と趣味の悪い鏡だろうか。まさか、本当にこんなホラーじみた物を映すとは。

 何となくぶっ壊してやろうかと思い始めていると、再び鏡の中心が歪み出した。

 

 『今度は、何だ?』

 

 歪みが収まると、死体はもう消えていた。代わりに、今度は性別も年齢もはっきりと判別出来る人間達が、鏡の中で()()()()()のだ。

 

 

 

 

 大人の男女が一人ずつと、少年が一人。計三人が、鏡の中で生き生きとしていた。

 

 

 

 

 女性が少年の頭を愛おしむ様に撫でている。

 少年は解り易く喜ぶと、女性の手を離れて男性の方へ飛び付いた。いきなり飛び付かれた男性は驚きこそしたものの、すぐに微笑み、少年を抱き上げて肩車をし出した。少年の表情が興奮で彩られるのが、嫌にはっきりと見えてくる。

 

 その時、自分でも知らずに後退りしているのに気付いた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 いつの間にか、襲撃犯を追跡する事すら忘れて―――鏡の中の光景を、眺めていた。

 後退りしながら、後ろ手で部屋の入口を探る。目線は鏡に囚われたまま、己の体はこの部屋から離れようとしていた。矛盾している行動に、自分でも理解が追い付かない。

 

 そんな彼を嘲るかの様に―――鏡は三度、歪んだ。

 

 次の光景が映し出される。そこには、一番初めと同じ物が在った。―――死体だ。

 唯一の相違点は、死体の前に人間が立っている事だった。

 

 黒髪の青年が、全身が血に塗れている青年が―――死体を背にして立っており、光を失った瞳で、無表情のままこちらを覗き込んでいる。

 ただの鏡像の筈なのに、青年はこちらの顔をしっかりと捉え、一瞬たりとも目を外さなかった。

 

 『―――、――――――ぁ、』

 

 掠れる様な声を漏らしたその瞬間。

 

 

 

 

 ―――鏡の中の青年がこちらを見つめたまま、唇を半月型に歪めて―――嗤った。

 

 

 

 

 その表情を見た己の頭が、そこに詰められた感情を勝手に分析し始める。

 

 

 

 

 これは。

 

 この表情は。

 

 

 

 

 他者の不幸・苦痛・絶望を―――心の底から愉しんでいる、邪悪な笑みだ。

 

 

 

 

 それを理解した瞬間。

 

 青年の足が動き出し、彼の手がまるで獲物を捕えんとする蛇の様に、こちらへ伸ばされる。

 鏡の中から抜け出そうとしているその動作に、反射的に杖を鏡へ突き付けた。

 

 『―――《レダクト》!!』

 

 叫んだ呪文は、ほとんど悲鳴に近かった。

 

 鏡が破壊されたかどうかは、解らない。

 確認する前に、己の脚は部屋を飛び出していたからだ。

 

 

 

 

 最早、襲撃犯を捜す、などという考えはとうに抜けていた。

 

 廊下へ転がる様に飛び出して―――数十秒か数分かは解らない。もしかしたら、数十分だったかもしれない。しばらくの間、トムは廊下の真ん中でへたり込んでいた。

 きっと、正真正銘本物の―――何の魔力も無いただの鏡には、驚く程虚ろな表情をしている自分が映っていたに違いない。

 

 『―――本当に……』

 

 鏡に映った三つの光景。

 それらが頭の中で、浮かんでは消えてを繰り返している。

 

 

 

 

 死体。

 

 団欒。

  

 ―――自分を見て嗤う、()()()()()()青年。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『悪趣味な鏡だな……』

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰に聴かせるでもなく、呟いた独り言がホグワーツの暗闇に呑み込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【さて、本当に難しい。

  どの様に導けば、相応しい道を歩いてくれるのか。

  これでも悩んでいるんだよ。

  何せ、今まで一度も経験した事のない壁なのだから】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




お待たせして申し訳ありませんでした。
新年初の投稿です。今年もこんな拙作をよろしくお願い致します。

割と状況がヤバくなってきましたが、こんな序盤で詰みにはなりません。
「彼ら」を観測しているのが、悪意ばかりじゃないのはもうお分かりかと。


隠れ文章を発見した生徒には50点


4/4追記
更新停滞について、詳細を活動報告に載せました。
更新は近い内必ず行います。
お待たせして申し訳ありません。
お詫びにトム君がこの先酷い目に遭う予定なので許してね
この世界線にデルフィーニちゃんが入って来た場合もう収拾つかねえなこれ


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★Page 23 「悪夢の底、差し伸べられる手」

Q.「何でこの小説は更新速度がゴミなの?」

A.「作者が魔女教 大罪司教『怠惰』担当だからです。脳が震える」

気になる所で更新停滞をやらかす投稿者の屑。

リゼロ2期の放送延期、やっぱつれぇわ…。
そんな悲しさと切なさと心強さを胸に書き上げました。どうぞご覧下さい。
挿絵は50年経てば色が付きます。多分。



 『―――ねぇ、ねぇ、』

 

 

 

 

 突然、後ろから声を掛けられた。

 まるで、道端で偶然出会った友人に対する様な、随分と気軽な調子の声だった。

 

 

 

 

 『―――ねぇ、そこの君』

 

 

 

 

 ハリーは心臓が飛び跳ねた錯覚を感じた。いや、夢なので本当に錯覚なのだろうが。

 

 どうにも、自然と警戒心が再び沸き上がって来る。ハリーがこの世界で初めて出くわしたのが、あの悪意の塊の様な存在なのである。例えあれとは別人でも、この世界で出逢う存在と親しく会話に応じる気持ちなど、最早皆無だった。

 というかそもそも、体は未だに自由を奪われていて、後ろの何者かの方を振り向く事も出来ないし、返事を返す事も出来ない。

 そんな風に、固まったままでいるしかなかったハリーに気分を害したのか、何者かの声は少々棘を含んだ物になった。

 

 『―――あのさ、君、耳付いてる?』

 

 声は相変わらず後ろから聴こえてくる。

 

 ―――一体、この声の主は何者なのだろう。

 

 不機嫌そうな様子だったが、不思議とこの声の主からは先程の黒炎の様な、負の感情は感じられなかった。ハリーは何とか首だけでも後ろへ動かそうとする。

 と、声の主が近付いて来る気配がした。見えない力で拘束されているハリーは、黙って接近を許すしかない。

 声の主が無言で近付いて来て―――そして、ハリーの正面に回り込んできた。

 

 『―――こんにちは?』

 

 声の主が、首を傾げながら挨拶を送ってきた。

 ハリーの目は、もしも自由だったら見開いていただろう。

 

 何故なら、声の主は―――全身がぼんやりとした霧の様で、色とシルエットしか認識する事が出来なかったからだ。

 何となく、服を身に着けているのは解る。黒いローブの様な物―――そう、まるでホグワーツの制服の様な。そして、ローブと同色である黒髪。短いので、恐らくは男―――だと考えられる。

 いきなり現れ、一方的に挨拶を送られ、思考が追い付いていないハリーをしばし眺めて、目の前の霧人間は目を細めた。……様に見えた。

 

 『―――ん、言葉違ったかな……』

 

 ボソリと呟くと、彼は再び挨拶を掛けてくる。

 

 『ハロー、ハロー』

 

 ―――だが、幾ら返事をしたくても、今のハリーにはそんな簡単な事すらも不可能だった。

 

 『―――ちょっと、いい加減聴こえてるだろ?無視するのも大概にしろよ。普段大人しい奴を怒らせたら怖いって、世の常だからな?』

 

 一向に返事を返さないハリーに痺れを切らしたのか、霧人間の怒気が徐々に膨らんでいく。ハリーは内心焦りを募らせるものの、口が動かないものはどうしたってしょうがない。

 ふとそこで、表情が引き攣っているハリーの顔を見て、ようやく異変を感じ取ったのか霧人間が訝し気に首を傾げてハリーとの距離を詰めた。

 

 『…………ああ、いや、そういう事か。動きを制限されてたのか。そりゃ、返事したくても無理だよな。ごめんごめん』

 

 あまり申し訳ないという感情が籠っていない様子だったが、ハリーには反論も出来ない。そんなハリーの目の前で、霧人間は何処かから―――そう、本当に何処かから杖を取り出した。気が付いた時には彼の手にそれが収まっていて、取り出した瞬間を捉えられなかったのだ。

 相変わらず霧に包まれている謎の男だが、手中に現れた杖だけははっきりと視認する事が出来る。それはこの世界に溶け込むかの様な白い色の、骨を連想させる不気味なデザインの杖だった。

 

 ―――何処かで、こういう杖を見た気がする。

 

 ナイフの様に突き付けられる杖先。自身を呑み込まんとする緑色の光。脳裏に浮かんだそれを、身動きの出来ない状態のまま必死に振り払う。―――ハリーは知らないフリをした。

 

 霧人間はその杖を振り上げ、ハリーの頭目掛けてゆっくりと振り下ろした。コンコンと、まるで手品師がやっている様な仕草で二度叩いた。―――地味に痛かった。

 すると、どうだろう。叩かれ終わった瞬間、ハリーは全身の拘束が解けるのを感じた。

 いきなり自由を取り戻したせいで、その場でたたらを踏む事になった。よろめき躓いて霧人間に衝突し、反動でようやく元の体勢に戻る事が出来た。

 名も顔も解らぬ霧人間にいつの間にか救われる形になって、ハリーは何かを言おうとして……出来なかった。舌が上手く回らない。驚きの余り、何を口にすべきか言葉が見付からないのだ。

 

 「―――、―――ッ」

 

 『……はい、初対面の相手にまずする事は何?』

 

 そんなハリーを窘め、霧人間は憮然とした態度で問い掛けた。数秒間両目を見開いて霧人間を凝視した後、冷静さを取り戻したハリーは素直に挨拶を返した。前にマクゴナガル相手にしたのと同じだ。礼儀を以て接してきた相手には、自分も同じく返さねばならない。

 

 「こ、こんにちは……」

 

 『はい、こんにちは。で、君は助けてもらった立場な訳だけど、こういう時は何て言うんだっけ?』

 

 「あ……ありがとう……?」

 

 『良く出来ました』

 

 日常的なやり取りを終え、満足そうに頷き、霧人間はそれからハリーの頭から爪先までゆっくり見下ろした。そしてあろうことか、先程の救出劇を帳消しにする様な失礼な言葉を投げてきた。

 

 『――――――、ふーん。何だ、実物は随分とチビだったんだな』

 

 ピキリ、と。

 思わず、ハリーの額に青筋が走った。割と気にしていた事を、グサリと突き刺してきた相手に怒りが湧いてくる。

 一応、ハリーはまだ子供とはいえ男なのだ。身長というデリケートな話題には敏感なお年頃なのである。男たるもの、「チビ」という冒涜的な言葉に屈してはならない。断じて屈してはならない。人は未来に目を向けるべきなのだ。これから大木の様に成長する可能性だってあるのである。

 

 「な、な―――、きっ気にしてる事を。このボヤボヤ悪魔!」

 

 『誰がボヤボヤ悪魔だ、誰が!』

 

 ハリーが怒鳴ると向こうも躍起になって言い返してきた。今までの雰囲気から一転して、実に子供っぽい。脅す様にハリーの額に杖をグリグリと押し付けてくる。だが、不思議と恐怖感は無かった。そもそも危害を加える気なら、ハリーを助ける事無くとっくにやっている筈だ。

 しばし無抵抗のハリーの額を弄った後。落ち着いたのか相手は一つ咳払いをして、改めてハリーに向き直った。

 

 『んじゃ、動けるようにもなったし、とりあえず行こうか』

 

 「え?行くって……どこに?」

 

 『あの世』

 

 平然と言われた。

 そんな所は実在しないと頭の中で笑い飛ばしても、一瞬の遅れもなく返された言葉に、妙な現実味を感じてハリーは後退る。

 しかし、霧人間はそんな行動も見逃さず、いつの間にか片手でハリーの腕をガッチリとホールドしていた。まるで、容疑者を連行する警察官の様な動きである。無駄に手際が良かった。

 心なしかにっこりと微笑んでいる様な気がする霧人間は、ハリーの腕を掴んで引き摺る様に歩き出した。抵抗の余地すらなく、ハリーは引っ張られていく。

 

 『あ、ちなみに今のは―――何だ、その、冗談だから。そんなに怖がらなくても良いだろ。ほら、キビキビ歩いて』

 

 「い、嫌だ。ちょっ、待ってって―――助けて、誰か―――ッ」

 

 『騒ぐなよ。誰も居やしないんだからさ。……ていうか、縦に加えて横も貧相だな。折れるかってぐらい細腕だぞ。君、もうちょっと栄養取った方が良いんじゃないか』

 

 「な、なな―――」

 

 強制連行とさり気ない罵倒のダブルパンチに、ハリーは心を傷付けられ反論する事も出来ず、ただただ引き摺られていった。男としてこんな事を言われるなど面目丸潰れなのだ。確かにダーズリー家で送ってきたお粗末な食生活のせいで、ハリーは男子の平均的な体格から少しかけ離れてしまっているのは事実なのだが、こんな直接的な言い方はちょっとばかし酷いのではないだろうか。デリカシーも何もあったもんじゃない。

 

 白い世界をズンズンと横断していく霧人間に連れられて行くハリーは、その時ふと、確かに聴いた。

 ガタゴトという汽車の走行音と、到着を知らせる汽笛。やけに現実的な突然の物音にドキリとした。慌てて世界を見回す。

 有り得ない。ここには、確かに何も無かった筈―――しかしハリーの目が何かを捉える前に、テレビのチャンネルを切り替える様にして、景色はパチンと全く別の光景に切り替わっていた。

 

 

 

 

 ―――街だ。古めかしい街並みが、瞬きを終えたハリーの視界に忽然と現れた。

 

 

 

 

 まるで、白紙のキャンバスに街だけを描いた様に―――空は相変わらず真っ白なまま、街だけが空間を埋めていた。足元へ目を向けると、自身の足は地面の無い白ではなく、しっかりとコンクリートを踏み締めている。

 

 「な、え……?どういう―――?」

 

 夢から覚めて、現実に戻ってきたのだろうか。でも、空は青でも橙でも黒でもなく、真っ白だ。現実では有り得ない色。となれば、これはやはりまだ夢の中なのだ。

 振り返って景色を見回してみたが、先程の音の正体であろう汽車は何故か見当たらなかった。―――あれは空耳、だったというのか。

 

 「ねえ、これ、何がどうなって、―――、」

 

 黙って自分を連行している霧人間の腕を叩いて説明を求める。振り向いた相手の姿を見て、ハリーは驚愕と共に一瞬息が詰まった。

 こちらを振り向いた霧人間は、霧人間では無くなっていたのだ。

 姿が、顔が、はっきりと認識出来る。

 

 黒髪に端正な顔。充血した様な赤みがかった臙脂色(ダークレッド)の瞳。スリザリンカラーの制服。

 

 ハリーは目を白黒させて、しばらく目の前の青年に視線を奪われていた。

 ―――どうしてさっきは姿が見えなかったのだろうか。どうしてスリザリンの制服を着ているのだろうか。

 疑問が次々と浮かんでは訊ねる事無く消えていく。何となく、思った事を訊ねても答えてはくれない気がしたからだ。

 

 『……そんなに人の顔をジロジロ見るなよ。失礼だろ』

 

 青年は鬱陶しい蠅を追い払うかの様な目付きになった。不健康そうな赤い双眸が真っ直ぐに射抜いて来る。ハリーははっとして視線を逸らす。確かに少々不躾だったかもしれない。対して青年は鼻から息を吐き、プイっと横を向いた。

 

 『まあ、見られて減るもんじゃないけど……。……嫌いなんだ、自分の顔は』

 

 「……、どうして?」

 

 どう考えても、最上級に位置する容姿だ。異性との交遊に一生困る事は無いんじゃないかと思う程、青年は美しい顔立ちをしていた。それなのに、当の本人が否定するとはどういう事だろう。

 

 『……ボクが最も嫌いな人間にそっくりだからだよ』

 

 何かを思い出す様に青年の目に仄暗い闇が灯る。その様子から正の感情は感じられない。ハリーは失礼な事を訊いてしまったと悟り、慌てて話題を変えようとした。

 

 「ね……ねぇ。僕、今すぐ戻らなきゃいけないんだ。こんな所に居る場合じゃないんだよ……。ここから出る道って無いの?お願い、知ってたら教えて!」

 

 『―――』

 

 縋る様なハリーの視線を受けて、しかし青年は特に返事を返す事なく真顔のままハリーを見つめ返した。何を考えているのか、全く読み取れない表情だ。

 ここで折れる訳にはいかない。今、自分よりこの世界に詳しいのは間違いなく目の前の青年だ。頼れるのは、最早彼しかいないのだ。ハリーは必死になって青年を懇願の眼差しで見つめ続ける。

 ふと、青年がクスリと笑った。嘲笑う様な人を不快にさせる感じではない。思わず笑みが零れてしまった様な、日常的で他愛のない笑みだった。

 

 『―――あぁ、うん。―――知ってる。勿論、教えてあげても良いけど……でも、一つ条件がある』

 

 「……条件」

 

 ゴクリと息を呑む。条件とは何だろうか。まさか、この状況で無理難題を押し付けられるのだろうか?何か妙な事を命じられるのだろうか?微笑んでいる表情とは裏腹に、真剣さを孕んだ青年の声にハリーの胸は不安で満たされていく。

 しかし、青年はそんなハリーの胸中を見事に裏切ってきた。まるでハリーの思考を読み取ったかの様に、ヒラリと手を振って言う。

 

 『別にそんなに難しい事、君みたいなお子様に要求しないよ。君はただ何もしないで、ボクの相手をしてくれれば良い』

 

 「あ、相手する?まっ、まさか、耳に冷たい水流し込むとか、トイレに頭を突っ込ませるとか、玉ネギのすり下ろしたヤツを傷跡に塗るとか、そっ、そんなコトを……やっ、やめてよね」

 

 『君、どんな家庭生活送ってきたんだよ。誰がそんな下品で野蛮な真似するか』

 

 ハリーにとって何もしないで誰かの相手をするというのは、人間サンドバッグになるという事と同義だった。ダーズリー家での悪夢が甦り目をウロウロさせるハリーに、哀れみを感じたのか青年は目を伏せて溜息を吐いた。心の底から同情している感じだった。

 

 『そういう意味じゃなくてだな……。君、今―――暇だろう?ちょっとこの世界に付き合ってくれよ』

 

 「―――は?」

 

 言っている意味が瞬時に理解出来ず、瞬きを繰り返すだけのハリーを気にする事無く、青年は再びハリーの手を取って歩き出した。有無を言わさぬ再びの連行に、ハリーの心臓は縮み上がる。

 

 「わわっ、ご、ごめんなさい。傷跡に玉ネギ塗るのだけは、勘弁して!」

 

 『だから、誰もそんなアホ臭い事しないっての』

 

 悪意の感じられない青年の言葉のお陰で、幾らか動揺が鎮まった。冷静に現況を分析すると繋がれた手に圧迫感は一切無く、振り解こうと思えば容易に出来る程優しい握り方だった。しかしそんな秘められた温情とは真逆の、異常に冷たい青年の手の温度にハリーは困惑を隠せない。この冷たさは、まるで―――死人の様だ。死人の手なんか生まれてこの方、握った事は無いけれども。

 

 『ここは見ての通り誰も居ないから、凄く退屈なんだ。退屈で()()()は死にそうだったんだよ。ああ、良く考えれば()()()()()()()()()()()……まあいい。そこに、君と逢える機会が転がり込んできたのさ。丁度良いし、少しの間だけ―――話し相手になってくれたって良いだろ?』

 

 「でっ、でも、元の世界が―――ッ」

 

 『大丈夫。現実の君はぐっすりおねんねしてるよ。何も異常は無い。…………うん、もうしばらくは【あいつ】も()()()に付きっ切りだろうし、邪魔者も入らないさ』

 

 またあの黒炎が戻って来たら―――そう思うと呑気に過ごしている場合ではないのだが、青年はどういう訳か黒炎の動向を把握しているらしい。しばらくは大丈夫、という言葉に心も体も軽くなる気がした。

 

 ―――正直、夢という名の非現実空間で、それも初対面の相手に付いていくというのは冷静に考えてかなりやばい選択肢のような気もするのだけれども。

 今、これに勝る他の選択肢は無い。ハリーは大人しく青年に従う事にした。

 怪しいとは思うけれど、危害を加えられる気配も予感も全くしない。何も無い白の世界で縛られていた自分を救ってくれた恩人だ。拒絶するより一緒に居た方が得策かもしれない。もしもまたあの黒炎がやって来た時……一人きりで対峙するなんて、とても恐ろしいだろうから。

 

 『…………怖い?』

 

 心中の恐怖を見透かしたのか、強張った表情を見て青年が振り向いたまま問う。誰がどう見ても今の自分の顔は、はっきり分かる程恐怖の感情が滲み出ていただろう。ハリーは無意識に俯いて小さく答えた。

 

 「……正直、うん。あんな目に遭って、怖くない人なんていないと思うけど」

 

 『ふーん、確かに。現実で漏らしてないと良いね?』

 

 ……何でこの青年はちょくちょくこういった妙な事を言い出すのだろう。黙っていれば魅力的なのに。外見と違って、意外と内面は捻くれているのかもしれない。

 ハリーが内心で好き勝手な感想を抱いている間にも、青年は前を向いて再び歩き出す。歩道を横切り、日当たりの良さそうなベンチの傍を通り、二人はゆっくりだが確実に街の中を進んでいく。ハリーは一度だけ振り返ってベンチを眺めた。あそこで日向ぼっこでもすれば、とっても心地良さそうだな……と、どうしてかそう思った。

 

 「……あいつは、一体何なの?」

 

 歩きながら至極当然の疑問を口にしてみる。形は人間の様だったが、あれは一体誰なのだろう。顔を確認出来なかったのもモヤモヤする。

 

 『……解り易く説明するなら、あれは…………君の敵さ』

 

 回答を貰うのに少し時間が掛かった。青年はどう説明すべきか、極力慎重に言葉を選んだようだった。

 

 「敵……?僕の?」

 

 『そう、敵。決して解り合える事のない敵。だから……話し合って仲良くしようだなんて考えない方が良い。良い様に利用されるだけだ。解ったね?』

 

 青年は子供に言い聞かせる大人の様に語る。仲良く出来るなんて到底思えないし、ここは彼の言葉を鵜呑みにするのが正解だろう。

 

 「……あいつは……何をしようとしてるの?」

 

 『何を、か……うん。そうだなぁ。あいつは、()()()…………()()()()()んだろうなぁ…………』

 

 青年の様子はどういう訳かまるで他人事だ。空を見上げて、呆れる様な溜息と共に憂いを帯びた呟きを漏らす。その視線の先には、高い鉄柵に囲まれ陰鬱な雰囲気を放つ建物があった。いつの間にかこんな所まで来てしまっていたようだ。

 ハリーはその建物を見た瞬間、背筋にとてつもない寒気を感じた。自分は前にここで物凄く怖い目に遭った気がする。仔細は思い出せないが、何か奇怪な代物に襲われた様な記憶が―――あるようでない。

 青年と共に鉄門をくぐった辺りで僅かに逃げ腰になってしまう。そんなハリーの様子を察した青年は、そっと繋いでいた手を離した。

 

 『はい、着いたよ。……と言いたいところだけど、その様子じゃ入るのは難しそうだな』

 

 青年はハリーを置き去りにしてあっという間に石段を登り、建物の入口であるドアの前まで辿り着いた。ハリーの方へ向き直り、建物を背にして閉じられたままのドアに凭れ掛かる。

 ……こんな光景を、確かに目にした気がする。この建物と、こちらを見つめる人間…………あれは、いつの記憶だっただろう。

 

 『どうする?話なら外でも出来るけど……君にはちょっと見せたいモノがあってね。……中にあるんだけど、そんなに近寄りたくないんなら、やっぱりやめとこうか?』

 

 失礼な事ばかり口にするかと思いきや、どうやら他人への配慮も出来るらしい。気遣うようでいてこちらの好奇心を煽る様な視線を受け、ハリーは可能な限り記憶を辿りながら訊ねてみた。

 

 「あの、ここ…………変な生き物とか、いたりはしない、よね」

 

 『変な、という曖昧な表現じゃ解りかねるんだけど』

 

 「例えば、地面から化け物が飛び出して来たり……しないよね?」

 

 その言葉を聞いた途端、青年は背筋を折り曲げて哄笑した。二人きりの空間に笑い声が響き渡り、陰鬱な建物の雰囲気が少しだけ明るくなった気がした。

 

 『く、くくっ……ははっ。やっぱり()()()()()()()()()()()()()()()()んだな。()()()に忘れられた()()()が馬鹿みたいじゃないか?』

 

 「えっと、あの?」

 

 歓喜に震えているのか自虐で笑っているのか判別しにくい青年の態度に、ハリーは両目を点にして戸惑うばかりだ。今の言葉のどこに笑う要素が混じっていたのか、微塵も理解出来ない。

 

 『あー、いきなりごめんごめん。でもさ、君……しっかり思い出せたじゃないか。大事だよ、『記憶』ってのは。思い出せない『記憶』というのは思い出せなくなっているだけで、決して跡形も無く消えたりはしないんだ。……君の言う通り。ここには―――捉え様によっては「化け物」と呼べてしまうモノが棲んでいる。お見事、正解だよ』

 

 おどけた様な乾いた拍手の音。サラリと揺れる青年の黒髪。ハリーは脳天に針を刺された様な感覚と共に、忘れ去っていた『記憶』を取り戻した。動揺で縺れる舌を何とか動かす。

 

 「あっ……?あ、ああっ、ここ……あれ?あれッ!?夢の……き、君はあの時に……!!」

 

 いつか、グリフィンドールの寝室で見た不可思議な夢。

 一昔前の古い街並み、陰気臭い建物、大地を裂いて姿を現す化け物、化け物を睨んでいた青年……

 

 思い出せば思い出す程、その記憶は段々としっかりとした形となって甦ってくる。バラバラになったジグソーパズルのピースが、一枚一枚在るべき場所にはまっていく。

 

 『正解正解。―――改めて、また逢ったねぇ。あの日の夢見は良かった?いや、あれも悪夢に違いないだろうけど。とにかく―――ちゃんとした話は、中でしようか?』

 

 クスクスと笑う青年が目線の動きだけで建物の中に入る様に促してくる。訊きたい事は山の様にあった。あの時の『化け物』が棲んでいる、という言葉は凄く気掛かりであるが今はそれより重要な事がある。ハリーは小走りで青年へと近付いた。

 

 「ねえ、ちゃんと説明してくれるの?あ……そう、名前、名前とか!まだちゃんと聞いてないよ」

 

 『……え?名乗ってなかった?そうだっけ……。あー、ボクは□□□□□□だよ。別に難しい名前じゃないだろ?』

 

 ……何だ、今のは。

 青年が名前であろう言葉を口にした瞬間、その部分だけが不自然に途切れて全く聴き取れなかった。青年の形の良い唇はしっかりと動いていたが、肝心の声が一切入っていないのだ。

 その事に青年も気付いたのか、僅かに目を見開いて口元を片手で押さえた。

 

 『……あぁ。そうか、ごめん。ちょっとボクは……歪な存在でさ。やっぱり、()()()使()()()()みたいだ。誰かに名乗る事も出来なくなってるらしい』

 

 「な……何それ?」

 

 『ううん……何と説明すれば良いんだか……。うん……そう。制限。制限みたいな物が掛かっていてね……自分を名乗れない状況にいるんだ』

 

 一体どういう状況なのだ、それは。

 

 『まあ……名前なんて何でも良いじゃないか?どうせ名乗ったって、君は()()()ボクを知らないだろ。だったら別に問題無い』

 

 「文字に書いてみたら?あ、でもペンが無いや……」

 

 『……いや、多分文字でも駄目だろう。ボクはどうやったって君に名前を伝える事は出来なくなってるんだよ』

 

 事情は複雑怪奇。非常に入り組んでいてそう簡単に解決出来る問題ではないようだ。とりあえず名前に関しては黙殺してくれ、と頼まれてはしょうがない。ハリーはとりあえず名前への追及を取り止める事にした。

 ……そういえば、前に授業で「魔法界に於いて『名前』は重要な役割を果たす事がある」と習った。『名前』は呪術や儀式に必要な材料の一つでもあり、信用に値しない魔法使いには、自身の『名前』をおいそれと明かすべきではない、とも。こういう法則が関係しているのだろうか?

 とにかくもまずは中へ、と促され、ハリーは口を閉じて先導する青年に続き建物へ入る。

 

 

 

 

 中は特別珍しい内装でもなかった。何かの施設らしいが無人なので、具体的にはどういう場所なのか想像もつかない。

 白黒タイルの張り巡らされた玄関を通過し二階へ続く階段を上る。踊り場を通り抜け、扉がいくつも立ち並ぶ廊下の、一番最初の扉の前で青年は立ち止まった。どうやらここが目的の部屋らしい。

 

 『ここだ。……入るよ』

 

 青年の言葉はハリーにではなく、まるで既に中に居る誰かに向けたもののように感じた。

 

 「……普通の、部屋だ」

 

 ハリーの呟きの通り、中は特筆すべき物など無いただの個室だった。家具と言えば簡素な鉄製のベッド、机と椅子、そして洋箪笥。……誰も居ないのに、何故かあの洋箪笥の中から生き物の気配がするのは気のせいだろうか?

 

 『開けてごらん』

 

 いつの間にやら、青年は勝手知ったる様子でベッドに腰掛け足を組んでいた。まるで自分の部屋であるかの如き寛ぎ方である。といってもホグワーツの寮にある様な上質なベッドではないので、寝心地は決して良いとは言えないだろう。何だかこういう横着な寛ぎ方には酷い既視感がある。彼もまたハリーと同じく洋箪笥へ視線を注いでいた。

 

 「……、うん…………」

 

 少し躊躇いはしたが、これこそが青年の言っていた「見せたいモノ」なのだろう。ハリーは素直に指示に従い洋箪笥へ両手を添える。中から微妙な振動が伝わって来るが、心中の恐れに無理やり蓋をし押し込んで、ハリーは勢い良く洋箪笥を開け放った。

 

 

 

 

 中に入っていたのは、生き物だった。

 

 

 

 

 一言で表すなら裸の赤子。

 

 醜悪な、歪な、形容し難い赤子の様な謎の生き物が、生に縋り付く様に蠢いて、苦し気な声をひたすらに―――まるで怨嗟を圧縮した呪詛の如く垂れ流していた。

 

 「ひえっ、気持ち悪っ!」

 

 反射的に、配慮もクソも無い罵倒が出てきてしまった。

 バターン!と派手な音が響くのもお構いなしに、全力を込めて箪笥を閉めた。

 洋箪笥から視線を外せないまま素早く数歩後退って十分な距離を取り、乱れた呼吸を整える。しばしの時間を置いて抗議の意を込めた睥睨を青年に注ぐと、彼は肩を竦めて苦笑した。

 

 『ま……誰だってそう思うよな』

 

 一体あれは何なのだ。

 赤子……にしては、何だか今にも死に掛けている様な危険な状態だった。いや、人生の中で死に掛けた赤子なんて目にした事は無いのだけれども。

 驚愕の余韻ですっかり固まってしまったハリーの耳に、青年の淡々とした説明が流れ込んでくる。

 

 『あれは…………ある人間の成れの果てさ』

 

 「成れの果て、……って?」

 

 『元々あんな醜い生き物じゃなかった。―――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()結果、到達してしまった姿がアレさ。「死を越え損ねた愚者」、とでも呼ぶべきかもな』

 

 言葉通りに考えれば、元は人間だった者が自分を傷付けたせいで辿り着いた末路が、あの赤子という事だろうか。……あんな風になるまで、自分を傷付けてしまったというのか。

 

 『……哀れ、だよな。アレは死を恐れた。命の喪失を嫌った。ならば()()()()()()()()()()なのに、アレはそれが解っていなかった。「生きたい」じゃなくて、「死にたくない」という望みを抱いた。だから()()()()()()()()()()()()のさ。「生きたい」と「死にたくない」は、似ているようでイコールじゃない。そんな簡単な事が解らないから、こうなるしかなかったんだ』

 

 青年の声は低い。あの生き物を非難している様にも、同情している様にも聴こえる。

 ハリーは彼の言っている内容の全てを理解出来はしなかったが、何となく、あの生き物を気味の悪い不快な赤子、とは思えなくなっていた。そんな単純な言葉で片付けて良い存在ではないと、心の何処かで叫ぶ自分がいる。

 

 『君は……アレを見てどう思った?』

 

 「どう、って」

 

 『正直に言ってくれ。ボクは君の本当の気持ちを聞きたい。だからここまで来て貰ったんだ』

 

 初めて青年の瞳が険しく細められた。真摯なその眼差しに見つめられ、ウッと息が詰まる。きっと、偽りの回答など彼は容易に見透かすだろう。そうでなくても、この場で嘘を吐く気など更々無かったが。

 

 ハリーは数十秒、たっぷりと思考を巡らせる。

 

 自分の気持ちを言葉にするのって、こんなに難しい事なんだ―――改めてそう思った。一つ大きく息を吸い込んで、在りのままの想いを吐き出す。

 

 「えっと。…………僕は、助けてあげられないかな、って―――あの子を、元の姿に戻してあげられないかなって、思った」

 

 ハリーの言葉を聞いても、青年の表情に変化は無かった。ほんの僅かだが、ピクリと眉が動いた様に見えただけだった。

 

 『何で……そう思うんだ?君はアレが誰かなんて知らないだろ。身内や友人だったならまだしも、名前も素性も知らない赤の他人の醜い成れの果てを、何で助けたいって思うんだ?』

 

 青年の言葉はハリーを責め立てている様だった。そんな考えに至るのはいけない、間違っていると―――。

 

 『ああ、他人を助けるのは美徳だろうさ。褒められるし認められる行為だろうさ。でも見捨てる事もまた、決して悪じゃない。人は皆、取捨選択の繰り返しで生きている。自分にとっての「大切」だけを掴み、それ以外を切り捨てる権利がある。弱者を見掛けたら必ず助けましょう、なんて絶対的なルールなんか無いんだ。君は善人ぶっているのか?アレに同情したのか?君がアレを助ける理由なんか、これっぽちも存在しない。例えば、アレの元がもしも悪党だったら―――助けた人間がどうしようもない人殺しだったら、君は後悔しないのか?』

 

 腰掛けていたベッドから立ち上がり、青年が背の低いハリーを見下ろす形になる。滲み出る威圧感が増した。それでもハリーは臆する事無く、青年を見つめ返して答える。彼の赤みがかった瞳の奥深くに、動揺にも似た感情が渦巻いている―――そう見えたから。

 

 「でも、さ。―――()()()()()()()()()()()()よね?」

 

 平然とした調子で返すハリーに、青年はパチリと目を瞬かせ掛けた。注視していないと把握出来ない程微細な表情の変化だったが、ハリーにはそれが手に取る様に解った。

 彼はきっと、正反対の回答を期待していた。それはハリーの単なる直感に過ぎず、真相は定かではないのだが―――どういう訳かそんな風に思えた。

 

 『…助けたところで、どうなる?君に何も返ってこなかったら?感謝もお礼も出るとは限らない。むしろ、助けた後でこっぴどく裏切られたら?そんな未来に陥る可能性があっても、君は迷わずそう言えるんだな?』

 

 「未来がどうなるかは分からない。でも……僕は、僕はあの子の味方でいたいとは、思うよ」

 

 『何故?どうして?』

 

 「もしかしたら、()も……あんな風になってしまうかもしれないから。他人事と……思えないから。だから……僕は、あの子を助けてあげたいって思ったんだ」

 

 青年はハリーの答えに、どうにも満足出来ていないらしい。表情を不満げに顰めた後、嘲笑と共に吐き捨てた。

 

 『ふーん……。ま、精々後悔しないと良いな?自分の出した答えに、生涯一度も後悔しなかった人間なんて少数だし?君がそれで良いならもう何も言わないさ。ああ、そうかいそうかい』

 

 青年はそれだけ捲し立てると、再びベッドにドサリと腰掛けた。何だかふてくされた子供みたいだ。コロコロ変わる青年の態度にどこか懐かしい気分になって、ハリーは思わず唇を歪めるだけの笑みが零れる。

 理由は解らないけれど、彼は否定して欲しかったのかもしれない。他でもないハリーに、あの生き物の存在を。

 

 『誰かを救おうとする志しは立派だけどさ。時には他人より自分の事も優先するんだね。でないと、君も本当に……ああなってしまうよ?』

 

 「……それって、」

 

 『昔、()()()、自分を大切に出来なかった……。だから、ずうっと「こんな所」に居るのさ。此処は本当につまらない場所だろう?「こんな所」で消える事も出来ずに存在し続けるのは、ある意味では地獄だ。君も気を付けるんだね。まあ、君は至極真っ当な人間だろうし、わざわざ忠告するまでもないだろうけど』

 

 青年はそっと両の(まなこ)を閉じた。ハリーにもひしひしと伝わって来る悔恨の念。目の前の人間もまた、「自分の出した答えに後悔している多数の一人」なのだろう。

 他人事とは思えなかった。自分はまだ子供。これから成長していく過程で、きっとたくさんの後悔を経験する。それは決して気持ちの良いモノではない。だが、きっとそれこそが「生きる」という事なのだ。

 

 そうして、目を閉じたまましばし何事かを思案している青年は、沈黙が下りた部屋の中で唐突に己のローブのポケットをまさぐった。そこから出て来たのは、真っ白な表紙の本らしき物。

 本を開き、青年は至近距離にハリーが居るのもお構いなしに、同時に取り出したペンで何かを書き込み始めた。

 

 「えっ……?」

 

 急に始まった謎の奇行に、ハリーは驚きの声を漏らす。一体何をしているのだろう?書き込んでいる……つまりあれは日記の類だろうか?

 それよりも、彼が持っているあのペンが気になる。深紅の羽根が付いたペン。己の認識が間違っていなければ、あれはハリーが貰った羽根ペンに付いている物と全く同じ物であった。

 何故こんな所に、しかもよりによって彼が所持している?あの紅い羽根は、そこらに落ちている代物ではない。少なくとも紅い羽根を持つ野鳥など、ハリーは見た事が無かった。彼は一体どうやって手に入れたのか。

 

 疑問を口にすべきか迷っているハリーを完全に無視して、青年は執筆を続ける。角度の問題で何を書いているのか見えなかった。しばらくの間それを続けると、ふと顔を上げてようやくハリーの方へ視線を向けた。

 

 『君は、完全に同じ人間って存在すると思う?』

 

 「え?」

 

 先程と質問の方向性が180度変わったので、ハリーにはもう訳が分からない。滑稽な程の間抜け顔を青年に晒してしまう。彼はそれさえも無視して語り出す。

 

 『……例えば、兄弟、姉妹、双子。遺伝的にも環境的にも全く同じ状況で育った人間。そんな人間同士でも、性格、趣味、嗜好……全てが同じに育つ訳じゃあない。不思議だよな。特に双子なんかは姿形もそっくりなのに、中身はそれぞれ違っていくんだ。君も見た事があるんじゃないか?』

 

 「そういえば……そうだけど」

 

 思い出すのは、ロンの兄である双子。悪戯好きで教師を度々困らせる問題児だが、グリフィンドールの中では良いムードメーカーだった。顔がそっくりで全く見分けがつかないが、性格もそっくりという訳ではなかった。アクティブさや冷静さといった細かな部分は、二人共それぞれ違う性質を持っている。

 

 「双子って言っても、二人共同じ性格の双子……って聞いた事、無いね。見た目がおんなじでも、性格まで……っていうのは、無いんじゃないかなぁ」

 

 『……そう、だな。やはり君もそう思うか。元々同じ一つの命でも、分かたれた後もそれぞれが同じ性質を持つという事にはならない。ボク達が()()()()()()()()

 

 「……?」

 

 『不思議だな。双子なんかよりよっぽど同質と言えるだろうに、ボクと()()()じゃ相違点が多いなんて。……いや、双子が母親の腹の中では一つに繋がっていても、腹を出る時に二つに断ち切られればそれぞれ違う成長を経る様に―――元々一つだった物が完全に分かれたならば、両方共別の性質を得ていくのは自然、なのかもしれないな』

 

 勝手に語って勝手に納得すると、青年は白い日記と紅いペンをポケットにしまった。

 彼が何をしたいのかいまいち掴めない。態度もそうだが発言もコロコロ変わるので少々ややこしい。話をしたいと言っていたが、この会話が彼にとって果たして重大な意味を持つのだろうか。

 

 と、突っ立っているハリーの額に軽い衝撃が走った。

 

 「あてっ、」

 

 目をパチクリさせて見上げると、青年がベッドから立ち上がりこちらを見て笑っていた。どうやらデコピンされたようだ。

 

 『ボヤボヤしてるなよ。そんなんだから【あいつ】に利用されかけるんだろ。……さて、そろそろ時間的にヤバいかな』

 

 「ヤバい?」

 

 『……【あいつ】が戻って来る』

 

 その一言で、喉から心臓が飛び出るかと思った。出来れば二度と逢いたくない最低最悪の来客が迫っているらしい。

 

 『本来、()()()()()()()()()()()()()()()()()は、【あいつ】みたいな存在に精神を脅かされる事はない。でも、君は()()()の方に心を開いてしまったからなぁ……。君は、精神を護ってくれている壁を一部、無意識に取っ払っていた。その隙間に目を付けられたんだろう。【あいつ】と()()()は今や同居状態だからな。こういう芸当はお手の物らしい』

 

 同居というのは良く解らないが、護りというのは母が命と引き換えに施してくれた魔法の事だろう。その魔法をすり抜けるなどという悪質な技術が、あの黒炎にはあった。だからあんな悪夢に引き摺り込まれてしまったのか。

 

 『ボクはなぁ、【あいつ】と()()()()()()()()で君の夢に干渉しているんだ。だからこそ【あいつ】の接近も把握出来るんだけど。もう君を帰さないと……これ以上は流石に駄目だな』

 

 「えっ、ちょ、待ってよ!まだ色々訊きたいのに!」

 

 声を荒げるハリー。しかし今己の身に迫るのは、あの悪意の塊。逃げなければという焦りと、青年に残りの疑問を問い質したいという願望が胸の内でせめぎ合う。

 

 『いやあ、ボクも応えてあげたいとは思うけど。でも……どっちみち無駄、なんだよな』

 

 「何が無駄なのさ?」

 

 『君は現実に帰れば、全部()()()

 

 だから、それは一体どういう事なのだ。

 

 『難しいところだったんだよ……。ボクが干渉したせいで、君は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。悪いとは思ってるけど、ボクが関わってあげなかったら、君の命運はあのまま終わってたしなぁ』

 

 「な、何の事さ……」

 

 『君はボクに関わる全ての記憶を、「現実に持ち込めない」。つまり忘れる。ボクが君を助けてしまった事で、【あいつ】に襲われ掛けた事まで君は忘れてしまうんだ。現実の君が目覚めても、【あいつ】の危機を誰にも伝える事が出来ない』

 

 ハリーは驚愕の連鎖で言葉を失う。

 助けて貰った事にはこの上なく感謝しているが、現実に帰ったとしても、"彼"に夢で起こった出来事を報告出来ないなんて。

 

 「そんな……」

 

 『これに関しては諦めて貰うしかない。ボクという存在の記憶はね、現実で生きている者全て、憶える事が出来ないんだ。ま、()()()()()()()()()()ボクの存在を認識していられるけど。……そういう存在なのさ。天地がひっくり返っても変えられない法則だから、まあ大人しく受け入れてくれ』

 

 どういう表情をしていいのか分からず、ハリーは青年を見つめ返す事しか出来ない。

 

 少しだけ、謎が理解出来た。

 いつか見た化け物に襲われる夢。青年と出逢ったのはあの時だ。しかし、ここに連れられるまですっかりあの夢を忘れ去ってしまっていた。それはつまり、青年が「そういう存在だから」という理由なのだろう。夢の中でこの青年が関わった時、現実の人間は夢の出来事を憶えていられない。

 そして、青年の事を思い出せた理由だが―――夢の舞台は前回も今回も、まさしく此処であった。此処に戻って来た事で、青年の記憶を取り戻す事が出来たのだ。逆を言えば、此処を離れてしまえば再び記憶を失うという事になる。

 

 『そんなしょぼくれた顔するなよ。大丈夫さ。君はもう、夢で【あいつ】に襲われる事は無くなった。「君の友人」に感謝しなよ。こういう事態を防ぐ為に「あんな物」まで作って、君にわざわざ渡したんだぞ?』

 

 「へ?」

 

 『本人もまさか、君が早い段階でこんな目に遭うとは思っていなかっただろうな。でも心配ない。()()()はね、君が()()()()()()()()()()を考えていた。大分前から対策を講じていた。たまたま丁度良い材料があったから、「あんな物」に術を付与したんだろうけど』

 

 「言ってる意味が、解らないけど、」

 

 『そもそも解らせるつもりがないからな。丁寧に説明してやったって、君はどうせ忘れるし』

 

 めんどくさそうな青年の表情を目にし、ハリーは問い詰める事を諦めた。確かに、そうなのだ。此処で教えて貰った事全て忘れてしまうなら―――質問攻めをしたって、時間の無駄になる。

 

 「何となくだけど、解った……。【あいつ】の事を誰にも伝えられないとしても、また襲われる事は、この先無い……って事で良いんだよね。だから、忘れてもそこまで問題じゃないって事だよね?」

 

 『そうそう。だから安心して帰りなよ。【あいつ】のせいで悪夢に引き摺り込まれる、なんて事はもう起きないからさ。……うーん、しかしその可能性が消えても、君は根っから夢見が良い類の人間に見えないよなぁ。これから先の人生、ナチュラルに悪夢に悩まされそうだ。ご愁傷様』

 

 地味に失礼な事を言われたが、ハリーはもう気にしない。というか、普段からこういった失礼な悪口は言われ慣れている。

 

 青年は渋々納得の意思を見せたハリーを見て頷き、わざとらしく大きな音を立ててパン、と両手を叩いた。

 

 『はい、という訳で―――一名様、お帰りだよ!』

 

 まるで誰かに呼び掛ける言い草。しかし此処にはあの赤子以外、誰も居ない筈だ。

 そう思って不思議そうに部屋の中を見回しているハリーの耳に、どこからともなく歌声が聴こえてきた。

 それを聴いていると、背筋を気色の悪い手付きで撫でられる様な悪寒が襲ってきた。歌声は段々と大きく鮮明な物となってハリーの鼓膜を振るわせる。鼓膜だけでなく、肋骨さえも震えている感覚がした。

 何とも言えない精神状態で声の主の登場をひたすらに待つ。青年の方を見ると、彼も彼でどこか不快そうに半目になっていた。それでもその視線は、部屋の閉じられた窓をしっかりと見据えている。

 歌声が近付いて来ると青年が再び白い杖を取り出し、軽く横に振るう。同時に窓はひとりでに外側へ開き、室内へとある生き物の来訪を許した。

 

 

 

 

 ―――それは、美しい羽毛を輝かせる一羽の鳥であった。

 

 

 

 

 

 大きさは白鳥程の深紅の鳥。金色に煌めく尾羽と鉤爪と嘴が、とても印象的だった。

 優雅に翼を羽ばたかせ、その鳥は寂然と窓から入って来る。広くはない部屋の空中でくるりと身を翻し、青年がすっと差し出した腕の上を止まり木とした。端正な青年と美麗な生物が並ぶその様は大層魅力的で、どこかの美術館に展示されていてもおかしくなさそうな、絵画の一部を切り取ったみたいだった。実際に今の光景を何処かの芸術家にでも描かせれば、良い値が付きそうだ。

 そんな、美しくも人ではない生物の登場に、ハリーは唖然としていた。

 この鳥は、青年のペットか何かであろうか。現実ではないこんな空間で、果たしてペットなど飼えるのだろうか?―――この世界で起きる出来事について、あれこれ考えるだけ最早無駄なのかもしれない。

 

 腕に鳥を乗せたまま、青年は事も無げに語る。

 

 『不死鳥は死を経験すると同時、現世に蘇る唯一の存在。生と死の世界を往来し得る能力者。こう捉えると―――こいつは「死を越えし生物」、とも呼べるよね』

 

 「え、……う~ん……?」

 

 どう答えて良いか解らず、ハリーは曖昧な返事をした。この鳥の正体は不死鳥というらしい。初めて聞く生き物だ。あの深紅の羽根は、まさかとは思うが……。

 ……心なしか彼の腕に止まっている不死鳥が、こちらを真っ黒な目でジロリと観察する体勢になった気がする。

 青年は大した返事を期待していないのか、口籠るハリーを差し置いて不死鳥へ顔を寄せた。彼の唇が囁く様に動く。まさか、鳥と会話をしているのだろうか?

 

 『……うん、そう。…………あぁ、………じゃあよろしく』

 

 二言三言呟いた後、青年が不死鳥の止まっている腕を振り上げた。同時に、その反動を利用するかの様に不死鳥が彼の腕からバサリと飛び立った。力強い羽ばたきを繰り返しながら不死鳥は、入室した時と同じく窓から出て行った。白き虚空を飛行し、その美しい深紅の体を小さくしていく。一体何処を目指して飛んでいるのか、ハリーには想像もつかない。

 

 「あの……」

 

 『あ、あれが気になる?あの子は一足先に()()()んだ。君は……帰れたところで、どうせ忘れるから詳しくは言わないけど。あの子にはちょっとしたお使いをやってもらってるのさ』

 

 この世界で、鳥にお使いなんて出来るのか。ハリーはそう思ったが、今更口に出す事はやめた。

 

 『じゃ、準備も整ったし……そろそろ君を帰してやる時だ。さてと―――』

 

 「あ、待って!」

 

 ハリーは慌てて青年を止めた。どうしても問いたい事があったのだ。

 

 「……また。また、逢える?」

 

 飄々としていて掴みどころのない人間だったが、それでも色々な事に詳しく、そして絶体絶命の状況を壊してくれた恩人。そんな相手に再び逢える機会が無いか、訊ねたくなるのは自然な事だった。

 

 神妙な面持ちのハリーとは対照的に、青年は一瞬だけきょとんとした愛嬌のある表情を浮かべると、すぐに可笑しそうに吹き出した。

 

 『……ははっ。()()何言ってるんだか。―――()()()()()()()()()

 

 「え、え?」

 

 ―――「今更」、「いつも逢ってる」、一体どういう意味だろう。青年とは夢の中でしか逢った事は無く、その回数もたったの二回。矛盾している。

 

 『……おっと、いい加減さっさとしないと本当にヤバいな。杖を握ってくれるか?』

 

 青年はそれ以上説明する事をやめ、ハリーに自身の持つ杖を向けた。残り時間が少ないのなら仕方がない。やむを得ず疑問を呑み込む。無言で頷き、ハリーは杖の先端を軽く掴んだ。

 

 ……やはり、この白い骨の様なデザインの杖を、確かに己は過去で目にした事がある。……いつだったか思い出せそうにもないが。

 

 「これは……この杖……って……」

 

 思わず口に出していた。記憶を掘り起こす様に目を細めたハリーを見て、青年は静かに説明を語り出す。

 

 『これは……借り物なんだ。ま、実物でもないけどね』

 

 「実物じゃない?」

 

 借り物。これは彼の物ではないという事か。しかし、実物ではないというのはどういう意味だろう。

 

 『考えてもみなよ。ここは現実じゃないだろ?本来なら魔法も魔力も道具も存在しない。……ボクは【ある奴】から、それらを使えるようになる反則技を()()()()()()。この杖は君の世界に実在する物を再現しているに過ぎない。ボクのじゃないけど』

 

 反則技というのも気になるが、それを訊ねてもはぐらかされそうな気がしてハリーは口を噤んだ。とにかくも、この青年の自分を助けようとする意志は信用に価すると思っていいのだろう。名乗れなかったり、存在を記憶出来ない特性があるしで百パーセント信じられる訳ではないが、真っ向から疑う気になれないのもハリーの本音だった。

 

 「……どうして、助けてくれるの?」

 

 当然の疑問をぶつけてみる。自分を助ける事によって、彼にどんなメリットが存在するのだろうか。そもそもほとんど初対面の様なモノなのである。わざわざ気に掛ける必要性が見当たらない。

 

 青年は疑念で脳内を埋め尽くしているハリーをじっと見つめながら、ゆっくりと瞬きを終えて口を開いた。

 

 『……ボクは、ね。君がどうなろうが本当は静観するつもりだったんだけれども。だけどな。やっぱり、こんな始まったばかりで躓かれても面白くないと思ってさ―――』

 

 「始まったばかり?面白くない?」

 

 『君達がどんな道を辿るのか、それを安全地帯から観賞するのがボクの唯一の娯楽ってところさ。その唯一をあっさり奪われるのは耐え難いからなぁ。この際言っておく。ボクは善意だけで君を助けてる訳じゃあない。だから……君、あんまりボクに気を許さない方が良いぞ?』

 

 クスリと悪童めいた笑みを浮かべる青年。その独特な―――意地悪さや人を小馬鹿にした様な―――酷く見覚えのある表情を目にし、ハリーに電撃の様な衝撃が走った。

 

 まさか、いや、有り得ない。……だとしても、()()()()()()()()()

 

 まさかこの人物の正体は―――

 

 「もしかして。―――君は……!!」

 

 『―――はい、これで帰り道は出来た。後はどうにかしてやるから……君はさっさと帰るんだな』

 

 ハリーの言葉を遮る様に、いや、完全に遮るのが目的だったのだろう。青年は皆まで口にする事を許さず、ハリーに握らせていた杖を引き抜くと片手でトン、と軽い力で彼の肩を押した。意表を突かれる形だったのでハリーは軽い力にも関わらず、あっさりと突き飛ばされ体勢を崩す羽目になった。背中から地面に落ちる様な浮遊感に襲われる。青年の姿が視界から消え去っていく。

 

 「まっ―――」

 

 

 

 

 待って。

 

 その言葉を言い切る事は叶わず、ハリーは下へ落ちていった。無限に続く下へ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『さて、と』

 

 

 

 

 青年は顔を上げた。目の前にはもう、小さな魔法使いの姿は無い。当然の現象だ。己が送り帰したのだから。

 誰もいなくなった個室の中で、青年は一息吐くと杖を振るった。同時に青年がいる建物は歪み、消失し、再び世界は白き空間へと変貌していた。

 

 地平線の無い白の世界。代り映えの無い退屈な白をぐるりと見回し、青年はある一点に視線を集中させた。そこには何も無い。ただ白が有るだけだ。しかし青年は己の赤い双眸を、瞬きすらせずにその一点へ注ぎ続ける。

 数秒の後、青年が見つめている場所に何かが現れた。

 炎だ。黒い炎が突然燃え上がり、蹲っている人のシルエットへと姿を変えた。黒炎は蹲った姿勢から徐に立ち上がると、何かを確認する様に周囲を見回す動作をした。そして―――自身が現れる前から監視していた青年を発見し、訝し気な声を発する。

 

 

 

 

 【―――お前は?】

 

 

 

 

 初対面である筈だが、溢れ出る警戒心を全面に押し出した様な言葉だった。明らかに青年を端から疑っている。

 青年は唇の端だけで微笑むと、いきなり現れた黒炎に驚いた素振りも見せず、淡々と挨拶の言葉を掛けた。

 

 『初めまして……かな?いや、ある意味間違いか。まあどっちでもいいが……そうか。お前が()()()―――』

 

 黒炎は苛立ち気に言葉を遮る。

 

 【何者だと訊いている。お前は―――何だ?】

 

 『……せっかちな奴だな。大体、そっちが挨拶するのが筋なんじゃないか?先にここに居たのはボクの方なんだぞ』

 

 【そんな事は訊いていない。質問に答えろ。お前は何者だ】

 

 有無を言わさぬ圧力を滲ませ、黒炎は声を荒げる。顔は揺らめく炎で隠れているが、恐らく青年を睨んでいる様な目付きになっている筈だ。だが、青年は一切動じない。

 

 『悪いけど、答えるのは無駄になるから言わない。残念だけど、ボクの存在は誰の記憶にも残らないし、残れない。それは、()()()()()()()()()()()も例外じゃない。皆等しく、現実に戻ればボクの事を忘れてしまう』

 

 【何だと……?何を言っている?】

 

 『今のボクは……そっちの世界に()()()()()―――謂わば故人みたいなものだからな。世界は()()()()()()の存在自体を許さないように出来ている。だからボクはそっちの世界で生きられないし、世界の住人はボクの事を記憶出来ない。世界っていうのは、存在しない人間の痕跡を全自動で跡形も無く消してしまうシステムがあるんだ。皆ボクを忘れる。()()()()()()()()()()。死人が生き返れないのと同じ、当然の原理さ』

 

 ―――こいつは死人なのか?

 

 黒炎は青年の言葉を真に受けず、全てを疑ってかかった。

 

 死人だとしたら、何故此処に存在する?此処は死者の世界ではない。こいつは一体何処から来て、どういう存在なのだ?

 

 そんな黒炎の疑心を見透かしたのか、青年は表情だけの嘲笑を浮かべた。ハリーに見せる事の無かった、他者を見下す悪辣な笑み。

 解り易い挑発の態度。透けて見えるその思惑に、みすみす乗ってやる義理は無い。黒炎は青年の正体を探る事への執着を一旦捨て去り、当初の目的を果たさんと話題を変えた。

 

 【……あの少年は、何処だ?】

 

 己が利用しようと目を付けた人間―――即ち、ハリー・ポッター。それが―――何処にも居ないではないか。極め付きは、こいつだ。誰も助けに来れない筈のこの空間で、何故こいつは我が物顔で立っている?

 黒炎は青年を見付けた時から、概ね予想はついていた。恐らくこいつがあの下らない英雄を救い出したのだろうと。とても忌々しい事に、己の計画はこいつに狂わされたのだ。完膚なきまでに―――。

 

 『あの子なら、とっくに帰したよ。ちょっとした裏技を使って。―――残念だったな?お前の企みは呆気なく崩壊したよ。悔しいか?』

 

 【…………………】

 

 『沈黙は肯定と受け取ろう。さて、次はどうする?自棄になってここで暴れるか?もう一度、その悪知恵を働かせて別の計画を練るか?ボクとしてはどっちでも構わないけど』

 

 黒炎は、返事を寄越さない。沈黙を貫いて、ひたすら思考を巡らせている様だった。

 青年はそれを好機とでも見做したのか、畳み掛ける様に語り出す。

 

 『お前は単にハリーを利用しようとしたんじゃない。気に入らなかったんだろ。お前が一番下らないと思っている()()を作り出していた、「ただの男の子」に苛立ってたんだろ。だから排除しようとしたし、ハリーに()()()()()()()()を聴かせて混乱を誘った。餓えた獣が餌に喰い付いていくみたいなものだ。みっともない程ガツガツして……お前、本当に馬鹿な奴だな』

 

 【馬鹿?何を言っている?】

 

 嘘を混ぜ込んだ―――その単語に一瞬反応しそうになるも、踏み止まる。こいつは一体、どこまで知り得ているのか。

 

 『だってそうじゃないか。お前があそこまでペラペラ喋る必要は無かった、違うか?時間の無駄だった。お前は無駄な事を嫌う人間だった。これが証明だ。なのにあんな話を、嘘を混ぜてまでハリーにした。少しでも絶望を与えたかったからだろ。そんな無駄な事をせずに、とっとと乗っ取っていれば良かったのにな。そうしていればこうはならなかった筈だ。抵抗も出来ない無力な子供相手に、無駄な時間を使って……それがお前の馬鹿なところだろ』

 

 【黙れ】

 

 青年は、黙らない。

 

 『確かに、お前がハリーに語った内容には真実もあった。それと同じ様に、嘘も混じっていた。……「本来なら友人になれなかった」?「わざわざ友人に仕立てた」だって?よくもまあ、大胆な嘘を混ぜたもんだなぁ。あの子もすっかり信じ込んで、解り易くショックを受けていたようだし。お前はその様子を眺めて、さぞかし愉快だったんだろうよ』

 

 黒炎は、反論を紡がない。

 

 『それからもう一ついいか?少し脱線するけど……。お前は、自分で自分を愛せなかった人間だ。自分の能力に自信があっても、自分の「命」は嫌いだった。自分という「命」を生み出した真相を憎んでいた。……そして、どんな力があっても、自分は自分だって周りに言えなかったんだろ。お前自身、内心で他人と違う事―――「普通」じゃない自分にビクビクしていたんじゃないのか。そういうのは駄目だな。自分を愛せない奴が、他人を信じたり愛せる筈が無いよな』

 

 【お前、何なんだ?お前如きの戯言で、人を勝手に語るなよ】

 

 『へえ、まだ人と思っているのか。魂を弄っておいてよく言えるもんだ。そんなお前だからこそ、こうしてわざわざ教えてあげてるんだよ。お前は何も解っていないからな。解らないから、復讐なんてして喜んでたんだろ。いや、嬉しくなんかないんだろうな。疲れて虚しいだけだろ。嬉しいフリをしているだけだ。ほんと、悪知恵ばっか磨いて、他の大事な事を学ばずにやって来たんだな。情けない』

 

 【もういい。下らないお喋りはここまでだ】

 

 不毛な会話を切り上げようとする黒炎に青年は忠告を送る。

 

 『生憎だけど、戻ったところでボクに関する「記憶」は消し飛ぶぞ。お前は此処での出来事を忘れる』

 

 【何も問題は無い。お前なんぞの記憶などなくとも、目的は達成させる】

 

 『ああ、そうかい。どうぞご自由に。達成出来れば良いけどな』

 

 【……どうせ、お前はこれ以上何も出来ないんだろう?邪魔をする気だったら、とっくにしている筈だ。そうしていないのは、何か出来ない理由があるからじゃないのか?】

 

 『…………』

 

 無表情のまま沈黙する青年の様子を見て、黒炎は勝ち誇る。不協和音を思わせる嘲笑が響いた。

 

 【図星か。おかしいと思ったんだ。……お前は一見あの下らない英雄を守った様に見えるが、無意味だ。お前のせいでこちらが注いだ魂は排斥されてしまったが、またやり直せば良いだけの事。今度は、お前の様な邪魔者の入る余地を消して】

 

 『―――お前、本当に馬鹿なんだな。あいつが―――お前の同居人が、何も考えてないと思うのか?』

 

 青年はローブの懐から深紅の羽根ペンを取り出し、仰々しく見せびらかした。それを見た瞬間、黒炎は動揺が走ったのか僅かに身を揺らす。

 

 【―――それは】

 

 様子の変化を悟らせまいと平坦な声を漏らす黒炎の内心を見透かした青年は、口元をニヤリと歪ませてこれ見よがしに語った。

 

 

 

 

 『これには複雑な術式が組み込まれている』

 

 『所有者の魂の流出を防ぐ、といったものだ。まさかこんな物を作り上げるなんて、こっちも驚いてるけど。ハリーはこれを渡されてから、ずっと日記への書き込みにはこれを使っている』

 

 『―――ハリーの魂は、途中から保護されていたんだよ。お前は()()()からも力を得ていたから、ハリーの魂の流入が止まった事に気付かなかったんだろうけど』

 

 『だから、もうハリーは日記へ魂を注ぐ事は無い。どれだけ分霊箱に心を許しても、その魂が侵される事はこの先無い。そして、お前が注いでいた魂もハリーから追い出された。……言っている意味は解るだろ?』

 

 『お前の目的は、とっくに達成不可能になったんだよ』

 

 

 

 

 【―――問題は、無い】

 

 青年の語りを聞いても、黒炎に何かを諦めた様な態度は見られない。

 

 【『別の相手』にすれば良いだけだ―――あの小僧に干渉出来ずとも、肉体を手に入れる手段なら他にある。まだ終わってはいない】

 

 『……本当に諦めが悪いな。何がお前をそこまでさせるんだ?』

 

 肩を竦めて腕を組んだ青年は、呆れた様子を隠そうともせず問い掛ける。あの少年に危害が向かう事はもう無いが、代わりの相手が存在するとなると安堵は出来ない。

 

 【"彼"がいれば果たせなかった野望も実現出来る。諦める理由などありはしない】

 

 『あいつの事なんてもう放って置いたらどうだ?お前の野望なんて、お前だけでも果たせていたじゃないか。あいつがお前に協力する様に見えるのか?解り切っているだろうに』

 

 【解っていないのはお前の方だ。"彼"の存在にどれだけ価値があると思っている】

 

 『お前、他人に興味が無いんじゃなかったのか?』

 

 【『未来』で起こる出来事を識り、『許されざる呪文』を容易に成功させ、『魔法』に短期間で馴染む。これ以上ない素晴らしい人材を、みすみす手放すと思うのか?】

 

 『手放す、ねぇ。もう自分の物にしたつもりか?―――お前は、自分に並び立つ人間も許せない奴だと思うんだけどな』

 

 【さっきからお前の尺度で解った様に計るなよ。誰にも理解させはしない。お前が何者なのかはこの際どうでもいい。戻って別の手段を考えるだけだ】

 

 クルリと後ろへ身体の向きを変える動作の後、黒炎は青年を無視して動き出した。歩いているのだろう。

 

 『……結局、自分の事は自分だけが知っていれば良い、か。お前だって、あいつの事を矛盾してるだの言える資格なんてないんじゃないか。本当は理解されたがっている癖に、いざ理解される立場となると怒りを示す。そんなんだから、お前は―――』

 

 青年は黒炎の背中に向かって声を飛ばすが、言い終わらない内に黒炎は一つ大きく揺らめいて、あっという間に鎮火してしまった。後に残る物は何も無く、そこにはただ白い地面が広がるだけだ。

 

 『―――痛いとこを突かれたら退散、か。大人ぶってる様に見えて、随分と子供っぽい奴だ。いや―――そういえばまだ、子供だったな』

 

 皮肉を無人となった白の世界に投げ付けると、青年は額に片手を当てて眠りに落ちるかの様に目を閉じた。

 

 ―――閉じた瞳に映るのは、とある人物の視界。

 暗闇の中、石造りの廊下で放心し、虚ろな瞳を虚空に注いでいる光景。力の抜けた手元に見えるのは、()()()()()()

 

 『……あーあ。変に惑わされないと良いけど』

 

 目を開けて、何処とも無く歩き出す。その足が向かう先には、いつの間にやら古めかしい街並みが再び形を成して広がっていた。たった一つ、空だけは相も変わらず無限の白を携えて、際限無く世界を包み込んでいる。

 

 在るべき場所へ還る、ただそれだけの為に、青年は歩く。そうして辿り着いたのは、先程と同じ―――醜い成れの果てが居た個室の中。

 そこで青年は右手に白い日記帳を、いつ取り出したのか、左手に『黒い日記帳』をそれぞれ持っていた。手の中の黒い日記帳へ追想の籠った視線を注ぐ青年は、静かに部屋の真ん中で佇んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『―――あの鏡には、()()何も映っていなかっただろうに』

 

 

 

 

 

 

 

 

 一言だけ、誰に聴かせるでもなく独り言を呟いて。

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある存在が、思案に耽っていた。

 

 

 

 

 ―――『闇の帝王を打ち破る運命を背負いし子の元へ、死を越えし契約者が現れる』

 

 

 

 

 かつて"見た"記憶が鮮明に呼び覚まされる。

 

 『忠実な一人の部下』によって献上された有用な情報。未来に起こるであろう出来事を告げる、『予言』。

 実に忌々しいとも表現出来るそれには、しかし己の興味を引く言葉が一部含まれていた。

 

 

 

 

 ―――『その者の携える闇の全てが奪われし時、帝王を越える怪物が羽化を遂げる。その時こそが帝王の終焉となり、新たな帝王の誕生となるであろう。帝王よ、己が破滅を逃れるならば、その者を看過してはならぬ。運命の子の元より略取せよ。同じ時を歩ませてはならぬ……』

 

 

 

 

 女の口から流れる似つかわしくない野太い声。それを盗聴していた己の部下。その光景は腹立たしい事に途中で途切れている。『予言』の全容を聴き取る事が出来なかった不完全な記憶。

 不完全ではあるが、重要な部分はしっかりと入っていた。故に当時の己は、その部下の失態を不問に付したものだ。

 あの時、『予言』で言及されていた謎の存在。一体何処の誰なのか、あらゆる可能性を挙げてみても、終ぞその正体に辿り着けなかった。だがつい先日、あの『英雄』の()()()()()()()()()()を認識して、ようやく核心に到達する事が出来たのだ。

 

 

 

 

 【―――さあ、クィレルよ。今こそ俺様の信頼を取り戻す好機だ】

 

 闇に満ちた森の中、低い声が響いた。声の発生源を中心として、ドロリと澱んだ空気が周囲を汚染していく。箱の中に一つだけ紛れ込んだ腐った果実が、周りの新鮮な果実まで腐食させていく様に―――。

 

 【俺様は満足している。よくぞこの城にて()()()()()実体を得てくれたものだ。これで予てより抱いていた俺様の望みも果たされる…………。ああ、そうだ。()()()()50年前、()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだから】

 

 鬱蒼と生い茂る林の真っ只中を、一人の青年が闇を恐れる事無く疾駆していた。翻るローブは四方を埋め尽くす枝葉に何故か引っ掛かる事は無く、スルリと透過していく。灯りも無く碌に舗装もされていない危険地帯であるのに、ただの一度も速度を緩めず何かから距離を取る様に足を動かし続けている。その揺るぎない動作からは、暗闇や視界不良により誰しも抱く筈の恐怖といった類の感情は感じられない。

 

 勇ましいともふてぶてしいとも言えるその姿に、沸々と湯沸し器の様に黒い執着心を掻き立てられる。

 

 ―――そうだ。やはりこうでなくては。闇に身を(うず)める事に臆さぬ、かつての己を想起させる姿。何十年経とうとも歪まぬ不変。()()()()()

 

 【己の所有物は、己の手元へ取り戻さねば―――な】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時。

 

 長年捜し求めていた獲物を捕捉した様な、悪意に塗れた粘着質な気配を察して―――青年は後ろを振り向いた。

 

 しかしそこには何者も居らず―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇と同化している黒いローブで全身を包んだ人間が、振り向いた青年の背後で亡霊の如く立っていて。

 

 

 

 

 人間離れした血色の悪い五指が、青年に向けてゆっくりと伸ばされた。

 

 

 

 

 




やめて!一か月後にゼノブレリメイクを発売されたら、プレイに命を懸けてる作者の休日が燃え尽きちゃう!
お願い、潰れないで休日!
あんたが今ここで潰れたら、ただでさえ遅くなったこの作品の更新はどうなっちゃうの?
発売までまだ日にちはある。ここで執筆に集中すれば、更新頻度は上がるんだから!

次回「更新死す」
デュエルスタンバイ!


…というのは冗談で、
次話はやっと出来上がりました


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Page 24 「老人の慙愧と闇夜の遁逃」

今回短ければキリも悪いですが、このままだと絶対に更新が亀になるので、一旦ここで投稿する事に決めました。これでも1万字超えてるのか…。
とりあえず俺はそこそこの話一つ更新してから下山するぜ。

ファンタビ2地上波放映最高に楽しかった。
G・Gのキャスティング変更は残念だけどファンタビ3も待ってるよ。
ちなみにG・Gが絶賛活動中にあの人はホグワーツに入学したり秘密の部屋を開いたりしとるんです。この先のファンタビに関わってくるか期待して良いんですかね。


 ―――『闇の帝王を打ち破る運命を背負いし子の元へ、死を越えし契約者が現れる』

 

 

 

 

 思い出す。

 

 

 

 

 ―――『その者の携える闇の全てが奪われし時、帝王を越える怪物が羽化を遂げる。その時こそが帝王の終焉となり、新たな帝王の誕生となるであろう。帝王よ、己が破滅を逃れるならば、その者を看過してはならぬ。運命の子の元より略取せよ。同じ時を歩ませてはならぬ……』

 

 

 

 

 ……思い出す。

 

 

 

 

 ―――『()()()()()()()()()()。死を越えし契約者。彼の者の役割は茫漠(ぼうばく)。しかし鉛灰(えんかい)の荒野にて唯一人、産声上げし新たな帝王へ抗する光と化す。助勢する者無くば両者の戦い、勝利は一時の拮抗の末に帝王の元へ齎される。来たるその時、我らの現世(うつしよ)は二度と晴れぬ永久(とこしえ)の闇へと沈むであろう―――』

 

 

 

 

 ホグワーツ魔法魔術学校の校長室にて。

 

 その部屋に座する老人は、ただでさえ加齢で数を増した皺に埋もれているのにも関わらず、その表情を険しく歪めていた。

 

 

 

 

 「……予言は変わってしもうたか」

 

 無意識に悩まし気な呻き声を漏らしてしまう。

 

 今、思考に浮かべていたのはある予言の記憶。

 現在この学校に在籍するとある女性教師が、数日前に己と二人きりで他愛の無い会話をしていた時。彼女はふと自我を失い、昔にも同じ現象を起こしていたように、突然野太い声で予言めいた言葉をつらつらと唱え始めたのだ。その時の記憶を、誰に打ち明けるでもなく一人で思い返していた。

 実際、自我を失った時の彼女の言葉は予言めいた、ではなく、本当に予言であるのだが……その事を知る人間は数少ない。事実、彼女が教える『占い学』の授業を選択して受けている生徒達の大半は、彼女が本当に未来に起きる出来事を予言する人物などとは、想像もしていないだろう。

 

 「これまた突然じゃ……何故今になって……」

 

 およそ十年前の出来事である()()()()()()()()()、自分以外の者に聴かれていないのは、本当に幸いだった。

 前回の予言は『新たな帝王』が誕生するかどうか、ヴォルデモートの行動次第に依るといったものであったのに、今回の予言では既に「誕生する」という事が確定してしまっているのだ。

 これは、ヴォルデモートが己の破滅を阻止する事に失敗した、という事を意味しているのであろうか……。

 

 「いずれにせよ……この者を発見次第保護せねばなるまい……」

 

 予言で度々語られる契約者なる人物。内容から推測するに【ヴォルデモート】と【新たな帝王】、両者と戦う過酷な運命を背負っているのだろう。

 こう考えると、彼はまるで大いなる闇に抗う英雄の様に聞こえるが……。

 そもそもの話として、問題の【新たな帝王】を生み出す原因を作ってしまっているのが、この人物なのだ。わざわざ厄介極まりない敵を自分で生み出し、戦う羽目になる。……その未来を想像すると少々憐れな運命だ。

 だが、闇の勢力の頂点たるヴォルデモートらと戦う運命にあるという事は、言い換えれば魔法界の未来を背負っているとも言える。少なくとも、自分達の敵にはならないと信じたい。

 

 「ハリーの元へ現れるという事は……信じていいのかのう」

 

 契約者というのは、初めの内は生徒の誰かだと考えた。しかし今のところ、あの少年の近くにそれらしい人物が居るようには見えない。生活のほとんどをホグワーツで過ごす事になるハリーにとって、近くに現れる人物といったら生徒や教師ぐらいしかいないのだが。果たして一体何処の誰が契約者なのだろうか。

 

 (助勢する者無くば―――か) 

 

 予言ではこの契約者、一時とはいえ敵と拮抗するレベルの実力はあるらしい。しかも唯一人で、だ。

 だが戦いの時、誰の助けも得られなければ彼に待つ未来は敗北の二文字。彼が帝王の前で屈したその時こそ、世界に真の暗黒時代が訪れてしまう。

 

 (この者と共に奴らに抗える人物―――ハリーなんじゃろうか)

 

 一番最初に語られた予言では、ヴォルデモートを破る力を持つ子供の存在が明らかになった。ならば契約者に助勢する者として、この子供こそが一番相応しいと言える。もしも契約者が誰なのか判明した際には、この者とあの少年を―――

 

 (いや、或いは、儂が―――)

 

 そこまで考えそうになって、瞬時に首を振る。同時に部屋の中で聴き慣れた産声が響き渡った。

 

 「おう、フォークス。そういえば今日が燃焼日じゃったのう」

 

 鳴き声の方に目を向けると、ちょこんと盛られた灰の山がもこもこと蠢いている。やがて卵を突き破る様にして、灰の中から一羽の醜くも愛らしい雛鳥が姿を現した。

 校長室にて世話をしている不死鳥。名前はフォークス。その名が示す通り、寿命が尽きても彼らは再び蘇る。死するその時自らの肉体を完全に燃やしてしまい、残った灰の中から次の命を芽吹かせるという、何とも神秘的な生物だ。

 

 「最近やたら飛び回っておったろう……燃焼日が近いのに珍しい無理をするものじゃ。お主、少し痩せたかの?」

 

 不死鳥とて、永遠に若く美しい姿を保つ訳ではない。彼らには生物として当然の現象である『加齢』が存在する。雛鳥、成鳥、老鳥といった成長を経て、死を迎えると同時に再び雛へと姿を変えるのだ。永遠に近い生を送る生物だが、成長に伴う姿の変化も併せ持つ。当然、寿命が尽きる寸前の彼らは醜くしょぼくれていて、動き回る体力も無い筈。なのに最近は珍しく老鳥の姿でも忙しなく活動していた記憶がある。一体何をしていたのだろう。

 

 フォークスが一度だけこちらへ黒々とした瞳を向けて、小さく鳴いた。まるでひと仕事終えた、と言わんばかりにすぐさま体を丸めて寝入ってしまう。蘇って最初の遭逢(そうほう)だというのに、随分とつれない態度だ。やはり自分の知らないところで、この子は何かをしているのかもしれない。

 

 「……ああ、あの二人の杖……お主の羽根じゃったな」

 

 予言によって繋がりを持った二人の魔法使い。彼らを主として選んだ杖の芯に使われている不死鳥の尾羽根は、フォークスの体の一部であった。かつて杖職人のオリバンダーに二枚だけ、この羽根を提供した事を思い出す。

 

 ……まだ今回の予言は全てを決め付けた訳ではない。この戦いの勝者が最終的にどちらになるか、確定はしていないのだ。

 

 「儂なら、いや―――」

 

 自分自身が契約者の助けになる、そんな浅慮な思考に陥ってはいけない。結論を出すにはまだ早い。何故なら―――

 

 (己の考えが、全て最善を生み出す訳ではない……)

 

 かつて犯した思い出すのも憚られる自身の過ち。その愚かしい経験が幾重にも絡まって彼の首を今も尚絞め続ける。これが正しいと思える結論を出させる事を完全に阻んでいた。

 

 「トムよ……今のお主には、儂がどう見えるのじゃ……?」

 

 犯した過ちの一つを象徴する、一人の孤独な生徒。親も愛も知らずに、他者を利用する事しか考えられなくなった冷酷な少年。

 子供を導くのが使命である教師にとって、あの少年を闇の道へ歩ませてしまったという事実は、永遠にアルバス・ダンブルドアを苛み続ける。

 

 正しい道を示してやる事も、愛を教えてやる事も出来ずに、ただ悪道を選ぶ事を許した。

 そしてあの少年が()()()()()()()()()()()()()。彼の変貌してしまった様子を改めて目の当たりにしたあの瞬間。彼を救おうという一縷の望みすら完全に打ち捨てた。今となっては、あまつさえ斃すべき相手に定めている。

 

 (儂は救いようのない愚者。だが、せめて他の者達は救わねばならん)

 

 

 

 

 ……もしも。

 

 もしも、あの日あの時少年が―――その身を覆う仮面を自分から脱ぎ捨てて。

 打算も策略も奸計も全て排した、嘘偽りの無い望みを晒し出したなら。

 

 今までの人生で一度たりとも口にした事が無いであろう、短い懇願の言葉。

 

 

 

 

 「助けて」、と。

 

 

 

 

 そんな言葉を己の前で告げた時。

 

 その時―――自分は、果たして彼を救う意志を持つ事が出来ただろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロナルド・ウィーズリーは、苦しそうな呻き声で僅かに覚醒した。

 

 

 

 

 夢か現か定かでない朧げな意識の中、聴こえてくる声に彼の脳は不快感を示す。唯一脳が休まるノンレム睡眠の真っ最中だったのだ。すぐに眠りに戻れと全身に指令が下される。

 しかし、彼はこの状況に覚えがあった。彼はたくさんの家族に囲まれて生活してきたが故に、他の兄妹が悪夢などに魘されて寝付きが悪い夜などは多々経験している。実際、自分が魘されていた時は宥めて貰った事もある。特に一番下の妹は、年々兄達が家を離れていくどうしようもない孤独感のせいか、度々悪夢に苛まれていた。そんな時は、両親や自分が何とかあやしていたのだ。

 そういう訳で、ロンとしてはただいま寝室に響く謎の呻き声に対して、見て見ぬフリをして眠りに落ちるという行動には至れなかった。体に染み付いてしまっているのだ。寝惚けながらも、今まで妹にしてきた様に声の主を宥めてやらねば、というちょっとした使命感に突き動かされ重い瞼を抉じ開ける。

 

 声のする方向へと枕の上で首を傾け、薄っすら目を開けたロンの視界に入ってきたのは―――薄闇の中、隣のベッドで横になっている友人のハリーだった。

 

 闇に慣れた視界の中とはいえ、彼の容態をはっきりと視認出来る程ではなかったが―――しかし、その額には大量の脂汗が浮き出ているのを確認出来た。彼の表情は苦悶に満ちており、快眠とは程遠い様であった。少しばかり開かれた唇からは絶えず呻き声が紡がれている。

 

 友達が悪夢に魘されている―――ぼんやりとした頭でそう結論付けたロンは、夢うつつの中上体を起こそうと試みて―――

 

 ふとそこで、視界に妙な物が映り込んだ。

 

 影、の様な物だった。真っ黒い影が視界を横切り、ハリーの眠るベッドへと近付いて行った。まるで氷上を滑る様な鷹揚な動きだった。物音一つ立たない。

 ロンはぱちくりと瞬きを繰り返す。けれども視界に映る影は一向に消え去る気配は無い。ロンに傍観されながらも影は大胆にも一気にハリーとの距離を詰めた。彼のベッドの前で停止すると、影から何かが伸びるのが見えた。

 

 ―――あれは、手だ。ロンは、そこで初めて影が人間の形をしていると理解した。夜の闇と同色で視認しづらいが、黒いローブ―――ホグワーツの制服を身に纏った青年の姿が見える。ハリーと同じ黒髪だった。一体あれは誰だろう?

 暗闇のせいで、どの寮の制服かは判別出来ない。暗い場所で見えにくい色の制服だとしたら、レイブンクローかスリザリンだろうか?

 そこまで思考を巡らせているロンは、ゆるりとこちらへ振り向いた青年と目が合った。本当に突然の動きだった。暗くて彼の瞳の色は良く見えない。目と目がばっちり合ってしまっても、休みたがっている自身の体は大した反応を見せない。金縛りに近かった。

 

 「…………あ、」

 

 思わず声が漏れた。青年はじっとこちらを見つめている。特に動きを見せず、横たわったまま寝惚け眼で見つめ返すロンの様子を見回して―――ふっと笑った。

 まるで悪戯がバレてしまった様な、そんな感じの―――子供染みた、愛嬌すら感じられる笑みだった。悪意は一切伝わってこない。ロンは微睡の中、黙って青年を見つめ続ける。

 すると青年は微笑んだまま人差し指を口元に近付け、「しー」、と唇を動かした。そしてロンの反応を確認する事なく、ハリーの方へ向き直る。何をするつもりなのかロンが見守っていると、青年はベッドの傍に屈み込み、眠っているハリーの額にそっと片手を当てた。壊れ物を扱うかの様な、酷く優し気な手付きだった。風邪を引いた弟を看病する兄みたいな光景に触発されたのか、ロンの脳裏に懐かしい記憶が蘇る。―――確か昔、自分もあんな風に、熱を出した妹を撫でてやっていたっけ。

 

 「…………」

 

 しばらく眺めていると、青年に触れられたハリーの呼吸音が次第に静まっていった。荒い呼吸を繰り返していたハリーだったが、どういう訳か規則正しい寝息へと変わっている様だ。心なしか汗も引いた気がする。

 表情が緩んだハリーを満足気に見つめ、青年は再び微笑んだ。彼の周りに薄気味の悪いぼんやりとした光が漂い始める。何が起きているのか確かめようとしたロンが、思い切って体を起こそうとしたその時。

 

 ―――青年は、いくつかの光の粒子だけを残してその場から忽然と消えていた。

 

 青年が確かにそこに居た事を示す光の粒子も、時間と共に泡の様に消えていく。ロンは目を疑ったが、次の瞬間に猛烈な眠気に襲われた。苦痛や不快感は一切感じない、不思議な意識の混濁だった。記憶を無理やりごちゃごちゃにされる様な感覚が、彼の脳を襲う。

 ロンはそれに耐え切れず、あっさりと意識を手放した。

 

 

 

 

 ―――そうして、部屋に残ったのは。

 

 穏やかな眠りに包まれる五人のグリフィンドール生だけとなった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 走る。走る。

 

 暗闇の中、灯りも無く、ただひたすらに闇雲に走り続ける。

 

 

 

 

 一寸先は漆黒。

 

 足元すら碌に視認不能な空間で、何故灯りも点けずに疾走しているのかと言えば―――単純明快、灯りを点ければこちらの居場所が筒抜けになってしまうからである。

 灯りが無ければ問題は無い、ともいかない。この身体でも動けば―――全力疾走等の激しい動作をした際、多少なりとも物音が立ってしまうのだ。人や物に触れられない癖に地味にリアルで謎な現象だが、居場所を気取られぬ為には音さえも向こうに聴き取られてはならない。故に自身の靴にはしっかりと防音呪文を付与してある。全身ではない理由は、呪文の付与は一部分でないと消費魔力量に雲泥の差があったからだ。燃費の悪いこの身では、残念ながらこんなみみっちい魔法の使い方を常に心掛けておかねばならなかった。

 心音も呼吸音も発生しない分霊の身であるので、無理して全身に防音を施す必要が余り無かったのは幸いだった。土を思い切り踏み締め、林の真っ只中を真っ直ぐに走り抜ける。防音呪文のお陰で、落ちている小石や小枝の存在を気にせずに全力で足を動かす事が出来た。

 

 自分の現在位置など解らない。今はただ、距離を取らなければならない。位置を把握するのはそれからだ。

 足を止める訳にはいかなかった。今も周囲で、こちらを追従するガサガサという木々を掻き分ける物音が絶えない。まだすぐ近くで気配は感じられないが、両者の位置は依然として離れてはいないようだ。

 

 『―――冗談じゃないな、全く』

 

 囁く様な小声で愚痴を零す。

 人間は精神に異常をきたすと、無意識に安定を図る為に独り言が増えると言うが、あれは本当だった。

 灯りを点す事すら許されない森の中、足が縺れて躓くなどといった無様な醜態をいつ晒すかもしれない状況で、穏やかな心情を保てる筈がない。そんな事が可能なのは加齢で脳味噌の溶けた老人共くらいだろう。そして万が一、途中で転ぶなどというアクシデントを起こしてしまえば、その時点で間違いなく、詰む。

 

 改めて考えると、今の自分が置かれている状況は非常に不味い。

 灯りに頼っても駄目、音を出しても駄目、追い付かれても駄目、転んでも駄目、魔力を切らしても駄目。

 禁止事項があり過ぎて発狂しそうだ。これら全てを遵守し、無事帰還を果たすのが自分に課された超重大ミッションなのだが、生憎完遂出来そうにない。

 らしくないネガティブな思考になってしまうのも致し方ないだろう。普通の人間ならば、こんなの途中ですぐに脱落モノだ。むしろたった今、五体満足自由の身を維持している自分を褒め称えて欲しいものである。

 

 と、少々余計な事まで考えを巡らせている己の視界の隅で、何かが動いた。気のせいでも錯覚でも見間違いでもない。確実に、何かがそこに居る。

 

 『―――ッ!!』

 

 ぬっ、と、暗闇の中―――真横から血色の悪い五指が伸びてきた。腕があるであろう部分は真っ暗で、相手の姿も何も見えない。

 即座に、極限まで高めていた反射神経が働き、右手に命令を伝達する。頬に触れるか否かのところで、力の限り弾き返してやった。

 バチン、とやけに気持ちの良い音が辺りに響いた。引っ込める様にしてそれが消えていく。五指の持ち主から少しでも距離を取る為、足は休めない。

 

 (……思い切り触れたな)

 

 先程の感触を拭い去るべく、右手を握り込む。

 完全に、相手の生身と触れ合った。

 ある一人の少年。それ以外の人間と触れる事が許されなかった己の手であったのに、確実に触れた。

 

 ―――相手の正体など、探る必要も無い。

 どうして触れられたのか、誰に教えられるでもなくとうに理解している。理解、したくはなかったが。

 

 これを機に、なるべく適当な感じで思念を飛ばしてみる。

 

 (現実逃避出来る呪文、知ってるか)

 

 【この切迫した状況でそんな事を考える余裕があるなら、案外大丈夫そうだね】

 

 (……お前、今だけ僕と交代しないか?何ならおまけでなけなしの魔力もつけとくぞ)

 

 【……、無理だよ……】

 

 (解ってるさ。出来たならお前はとっくにそうしてるって解ってるさ。現実逃避したって良いだろ!)

 

 【現実を見るのも大切な事だよ。……君に逃げ切って貰わないと、こちらも困る】

 

 (お前は良いよな。なーんもしないで観てるだけだもんな。口であれこれ言うのは簡単だ!)

 

 【うん、そうだよ。だから頑張ってね】

 

 (腹立つな!お前と一緒に居ると、ホント腹立つ事多いな!)

 

 ―――なんて他力本願な奴だろうか。もしも現実に存在したらぶん殴ってやる。

 

 新たな決意を胸に抱く。

 ついでに殴り飛ばした後、ヘッドバットからのフィギュア・フォー・レッグロックまで決めてから、最高温度まで熱した焼却炉へとぶち込まなければ気が済まない。蓋を閉めたらナイフを大量に用意して、手品の様に外から串刺しにしてやるのも良いかもしれない。

 

 【君、段々残虐的な思考を隠さなくなってきたよね……】

 

 (何の事だ?お前が言ってる事はさっぱり分からん)

 

 【今の心中を閉心する事無くわざと伝えてきた時点で説得力が……】

 

 グダグダとしつこい会話を、これまで何度もそうしてきたように無視する。

 詐欺師というのは基本的に会話によって相手を撹乱するのだ。互いに言葉が通じるからこそ起こる犯罪が、詐欺。つまりこういった類の人種に絡まれた場合、会話を強制終了させれば無問題なのである。……あ、たった今ブーメランの様な何かがグサリと返ってきた。ちょっと痛い。

 まあそういう厄介な人間性を抜きにしても、こいつと馴れ合うつもりは毛頭無い。

 

 ……よくよく考えると、自分以外の他者が今の立場に放り込まれていたら、恐らくこいつととっくに親しい関係性に発展してしまっているのではなかろうか。数十年という決して短くない時を、光の無い空間の中監禁状態で過ごす事を余儀なくされた哀れな人間が、その間片時も離れず傍に存在し続けた何者かに心を許してしまうのも致し方ない。改めて考えると末恐ろしい話である。

 不自由と孤独を強いられた人間にとって、唯一会話を許された存在。そんなのが定期的に話しかけてきたら、例え怪しさ満点だったとしても―――多かれ少なかれ情が湧くのは、人間の精神構造的に当然と言える。そんな状況に陥ってしまった人間がいたとして、とやかく責められない。

 

 ―――しかし、他の人間はそうだとしても、自分に限っては有り得ない。こいつには嫌悪という二文字のシンプルな感情しか湧かない。

 実際に接してみなければ到底理解出来ない事だが、こいつは紛れもなく邪悪だ。

 ドブの如き本性をひた隠しにし、相手の全てを決して否定せず、取り繕った上っ面だけの甘い言葉を繰り返し、親密度の上昇を企む。例えそれらの行動を馬鹿にされようと無視されようと、その時生じた怒りは絶対に表に出さない。ひたすらに相手を肯定し続け、警戒心が取り払われるその時を待ち続ける。

 正直言うと、こいつは詐欺師というより猟師の方が向いているのではなかろうか。一つの獲物を陥落させるまで諦めず長い時を耐え忍び、最後は必ず仕留めんとする。その粘着質な執念深さはある意味で尊敬する。きっとこれまでもそうやって、その並外れた執念深さで自身の力を習熟させたり、信念を共にする都合の良い下僕を増やしていったのだろう。印象の良い言葉を使うなら情熱家、悪く言えば強欲者……。

 

 (……そういえば)

 

 昔、ゲラート・グリンデルバルドという闇の魔法使いは自身の野望成就の為、闇の力を内包する寄生生物(オブスキュラス)を宿しながらも生き延びた特異な青年を手駒にしようと、やたら執拗に追い回していたのを思い出す。こいつはあの男に近い。

 ……というか、こいつはよくオブスキュラスが発現しなかったな、とも思う。

 魔力を持つ子供が、それを表に出すまいと抑圧する生活を続けていると具現化してしまう寄生的な力。それがオブスキュラスだ。簡潔に言ってしまえば質の悪過ぎる病気に近い。育った環境は割と似ていると思うのだが、グリンデルバルドに執着されたあの青年とこいつに、一体どんな違いがあったのだろうか。今となっては詳しく思い出せない。もう何十年も前の記憶だ。グリンデルバルドは一切関係ないから、と特に記憶を反芻する事なく過ごしてきたせいで、あの『物語』のほとんどを忘れてしまった。

 確か、あの子供は力を抑えながら生き続け、それでも尚虐待される日々で。こいつは力を自由気ままに振るい、周囲に小さな恐怖をばら撒き、虐待とは無縁の幼少期を送った。両者の決定的な違いは恐らくこれだ。だとしたら、虐待に縁のあったハリーは……。

 

 いけない。思考が完全に脱線するところだった。今はそれどころではない。……彼に限って、そんな事は無い筈だ。絶対に。

 とにかく、こいつの事は死んでも認めない。何の苦労もしないまま、自分は安全地帯に居て他人の艱難辛苦を眺めているだけだなんて、神様気取りの最低な奴だ。自分が一番嫌いな人種だ。

 

 ……安全地帯で、ただ眺めている?

 ……何だろう。今、またデジャブに近いモノを感じたのは気のせいか?

 

 勝手に思考に耽っていると、地面深くに埋まった化石を傷付けずに掘り起こす様な―――慎重に何かを探る様な言葉を掛けられた。

 

 【……君、自暴自棄のフリをして鎌をかけたんだろう?】

 

 呆れた声の中に冷静な感情が垣間見え、一度ゆっくりと瞬きをする。再び開かれた紅き双眸には、焦燥も動揺も宿ってはいなかった。心底腹立たし気な舌打ちの音が鳴った。

 

 『…………、チッ。何だ、バレてたのか』

 

 【やれやれ。よくこの状況で探りを入れる余裕があるね……】

 

 『並行作業(マルチタスク)は通常業務だ』

 

 【こうも態度を変えられちゃ、君の本当の姿が判らなくなるよ】

 

 『どうぞ、ご自由に呆れてろ。本当の姿がどれかなんて、お前が勝手に決めればいいじゃないか』

 

 真実を偽っているのはお前も同じな癖に、と悪態をつくもすぐに気持ちを入れ替える。

 こいつ相手にブーメランを指摘すると、何故かこちらにも(特大のヤツが)返って来そうなので最近は迂闊に出来なくなってしまった。これ以上ブーメランが刺さるのはちょっと避けたかったのだ。

 

 しかしこんな危機的状況でも情報の収穫はあった。

 やはりこいつはこちらの精神……というか、意識の主導権を握る、などといった行為は不可能らしい。まあ、出来ていたら50年間も大人しくこちらの行動を放置している訳がない。

 この世界に来た時から生じていた疑問を解消したくて、今回思い切って鎌をかけてみたのだが思わぬ成果が上がった。

 

 だが、一体どういう事なのだろうか。

 

 こちらの思考―――心を覗き見る事は出来る癖に。人の心に土足で踏み込んで来る癖に。

 そのまま乗っ取る事は出来ないというのは解せない。

 

 いや―――出来ない、じゃなくて、しない、だとしたら?

 

 ―――そうだとしても、目的はさっぱり見えてこない。

 

 常に何か企んでそうなこいつの事だ。このまま永遠に―――こうして傍観者のままでいるつもりだろうか?ノーだ。そんな楽観的な考えに逃げる程、自分はまだ落ちぶれちゃいない。

 こいつの誘いに乗るつもりも言葉に従うつもりもないが、それでも万が一、億が一、という事もある。「自分は大丈夫」、と豪語していた者が、数日後には素性の知れぬ輩に騙されて破産した、などというのはよくある話だ。警戒を緩めるのは愚行なのだ。

 

 ―――人間という生き物は時として、相手の警戒を少しでも解きほぐす為ならば、いつだって親しい友人や恋人の様な態度だって演じられるのだから。

 

 そんな生き物を、自分は()()()()()()()()()()()()()()

 だからこそ、こうして警戒を維持したままでいられる。

 二度とあんな人生を歩みたくはないが、その経験もこの世界では役に立った。少しは感謝しなければならない。

 

 (或いは……必要が無い?こっちじゃなくて、()の……何か()の依代が、ある…………?)

 

 雑念は肉体の動きを鈍らせる。

 

 『……!!』

 

 背後から一気に距離を詰めてきた気配に気付くのが数秒遅れ、背筋に走る悪寒の正体を慌てて確かめようと勢い良く振り向いた。

 

 

 

 

 ―――しかし、そこに思い描いていた光景は存在しなかった。

 

 

 

 

 後ろを振り向いた状態で走りながら、思わず表情が強張る。

 誰もそこに居なかったのだ。―――今、確かに、背後に何かが存在した筈なのに。

 

 『何処に、い……ッ!?』

 

 呟こうとした言葉は、しかし最後まで続かなかった。

 

 振り向いた姿勢だったせいで突然己の正面に姿を現した存在を認知出来ず、顔の向きを正面に戻したのと全く同じタイミングで、そこそこの速度を保ったままその存在と思い切り衝突してしまったからだ。

 速度が速ければ速い程、ぶつかった時の衝撃はより大きくなる。グラリと背中から倒れそうになるが、男の意地で何とか踏み止まった。

 それでも数歩程後ろへたたらを踏む形になってしまい、衝撃をモロに受けた顔を片手で無意識に押さえる。生身だったら鼻血の一滴でも出ていたかもしれない。そう思ったぐらいの衝撃だった。

 

 『つ……ッ……』

 

 何かにぶつかる、というのはこの身になってから初体験だったかもしれない。

 何せ今までこの身体は壁も人も、あらゆる存在の悉くをすり抜けてきたのだ。長らく忘れていた感触に、精神が順応するのに時間を要した。絶えず動いていた足が完全に停止する。

 

 余りにも突然襲ってきた衝撃を消化し切れず、顔を押さえながら呻いていると―――ふと、空いている方の手をフワリと優しく掴まれる感覚があった。

 手に触れられるのはこれが初ではない。唯一初めてだったのは、この手には今まで触れる事の出来た者と違って、温もりが一切感じられない事。

 

 例えるなら、これは氷だ。

 魂まで凍て付いてしまった様な、冷たくて鋭い、一切の温もりを拒絶する非情の氷。

 

 途端に、その異常な冷たさに引っ張られて頭が冷静さを取り戻す。顔を押さえている指の隙間から見れば、何とも奇妙な光景が広がっていた。

 

 己の手を取ったまま、人間のシルエットが嫌に整った姿勢で跪いていたのだ。

 闇と同化した様な黒いローブで全身を包んだ人間が、頭のフードを外している。やけに目を引く紫色のターバンが巻かれた頭を恭しく垂れ、こちらのローブの裾にキスを落としていた。

 

 今が正常な精神状態であれば、すぐさまこの手を振り払い相手の顔面に膝蹴りの一つでも入れていただろう。割と重めのヤツを。

 しかし残念ながら、目の前の気味悪い光景をすぐに処理する事は出来なかった。何言かを喚いている脳内の声すらも、もう入ってはこない。何が起きているのか理解し兼ねている自分を完全に置き去りにしたまま、相手が徐に顔を上げる。

 

 「―――どうか、非礼をお許し下さい」

 

 握られた手の感触と違わぬ、冷たくて鋭い声。謝罪の意が込められた言葉とは裏腹に、声には温情の一つも感じられない。

 優しく掴まれているというのに、その手からはもう何処にも行かせないと言わんばかりの強い意志が伝わって来る。

 

 己を真っ直ぐに見据えるその瞳に、一瞬だけ奇妙な紅が(よぎ)った様に見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「お迎えにあがりました、我が主の片割れよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 困惑の紅と冷酷な紅が、闇夜の中交わった。

 

 

 

 

 

 

 

 




自分がクリーデンス君と全く同じ状況に追いやられている事を自覚してない男がいますね…

動くと音が出ちゃう、というのは、原作『秘密の部屋』編でも分霊君が歩いた際、ちゃんと足音がしている描写があったのでそこから。あの分霊君のように、所有者を昏倒させるぐらい魂を削ればもっと色んなオブジェクトに触れるようになる、という設定もありますが、彼が同じ事を実行する予定は無いのです。

この世界線で最速グッドエンドに辿り着くなら、実はダン爺に頼るのが一番でした、という悲しき事実。会ったらむしろ殺処分されると主人公は思い込んでるので、本編でそんなRTA的展開には勿論ならんです。悲しいなあ。
ちなみに序盤で言及していましたが、主人公の記憶がファンタビ1止まりなのは、『あの分霊箱』の正体を知らないままで進行させたかったからです。あと、単純にファンタビシリーズが完結していないので…。


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★Page 25 「君を殺して此処に来た」

起きたらランキング入りしててビビった…

今回一部暴力・残酷表現が含まれます。
苦手な方は姿くらましで逃げてね。いやほんとに。

2021/1/15追記
どうでもいい事ですが挿絵追加しました。色塗り?知らんなぁ…


 ―――自分はこいつを殺す。

 

 

 

 

 頬を殴り、腹を蹴飛ばし、震えるそいつの背中を乱暴に踏みつける。

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 「―――痛いな」

 

 決して大きくはなかったのに、嫌に聴き取りやすい声が響く。言葉とは裏腹に、全く苦痛を感じさせない冷淡な声。

 

 ―――うるさい。痛くないだろ、もう死んでるんだから。

 

 靴裏にまで伝わって来る冷たさを持つ肉塊。液体と固体が混じった物を踏み躙る感触。

 そいつはふるりと一度だけ大きく震えると、背中を向けたまま首だけで振り向いた。

 

 そいつは奇妙な事に、()()()()()()が見るも無残な状態だった。

 剥き出しになった右腕の皮膚は醜く焼け爛れ赤黒い。傷付けた覚えのない顔の右半分には、蜘蛛の巣を思わせる(ひび)が細かく走っている。その罅の隙間から滲出液が絶えず溢れて、殴傷より生まれ落ちる赤と融合し、顎を伝って涙の様に首から胸へ垂れていった。そのくせして、そいつは一滴たりとも泣いてなんかいない。痛みなど感じていないんだろう。

 僅かに捲れた衣服の下、先程強烈な蹴りを受けた脇腹には痛々しい青痣が刺繍の様にくっきり浮かんでいる。悍ましい。こんな醜態をいつまでも晒すくらいなら、とっとと終わってしまえばいいものを。

 

 「君も死んでる癖に」

 

 ……死んでる?

 

 無意識に足へ掛ける力が増す。なのに、そいつは上半身を襲う圧迫感をものともせず気軽そうな口調で話す。

 

 「そうだよ。死んでるじゃないか」

 

 ……違う。

 

 「…………本性を殺してるのに?」

 

 クスクスという不快な嘲笑と共に唇を歪めたそいつの側頭部を蹴飛ばした。再び背中の上に足を戻し体重を掛ける。悲鳴も反論も返っては来なかった。

 このまま背骨をへし折ってやろうか、と考えていると―――地面に縫い付けるつもりで固定した筈の片足が、仰向けに体勢を変えたそいつの背中から外れた。

 赤い液体をたっぷりと含んで湿った黒い前髪が、そいつの額の上に散らばっている。それらの隙間から、液体が混入したのか同じく赤い瞳が嘲りの情を湛えてこちらを射抜いていた。

 かなり嬲った筈なのに、そいつの顔はかろうじてまだ端正な様を保っていた。それが逆に苛立ちを募らせる。今まで幾度となく他人に好感を齎してきたその整った顔は、見ているだけで黒い感情が湧き上っては止まらない。

 

 「酷い事、するなぁ。人間のする事じゃ、ないよ」

 

 途切れ途切れに語ると、ごぷり、とそいつの口から少なくない量の赤が零れる。気管に入ったのか、苦しそうに赤の混じった咳を数度繰り返していた。

 

 ―――あぁ、汚いな。これ以上漏れ出さないようにしないと。

 

 ぼんやりとそう結論付けて、両手を放り出して倒れているそいつの腹の上に跨り、赤で汚れてしまった両手で首を絞める。がふ、と、解り易く喘いだそいつは、しかし抵抗の意思をまるで見せない。こんな状況だというのに、無気力な体勢のまま暴れる事もしなかった。

 しばらく首を絞め続けたが、意識を失う気配がない。思った以上にしぶとくて腹立たしい。このまま、呆気なく死んでしまえばいいのに。

 ギリギリと力を増してみるものの、状況は進展しない。酸素の流入を完全に阻害している筈なのに、息の根を止める事が出来なかった。別に化け物じみた握力も無い己では、首を握り潰す事も出来ない。

 

 こいつは、何だっけ?

 自分が殺そうとしているこいつは何だっけ?

 自分が憎くて大嫌いなこいつは―――

 

 そんな思考に耽っていると、いつの間にか―――どうしてか、両手で戒めていたそいつの姿が忽然と消えていた。(くう)を握り締めていた手を戻し、周囲を素早く見回す。そいつが倒れていた筈の地面には、赤黒い染みが残っていた。一体どこに逃げたのだろう。

 そうして獲物を逃すまいと近くを探っていると、突然背後で何かが動く気配を捉えた。逸る心情とは正反対に、ゆっくりとした動作で振り向く。

 

 「まだ物足りない?」

 

 いつ整えたのか、赤に塗れていたそいつは傷一つない端正な顔を晒し、何ともない様子で笑顔を浮かべたまま立っていた。

 顔の罅も、腕の爛れも見当たらない。さっきあんなに傷付けたというのに、何故か全てが癒えている。今までの行動が無駄になってしまった怒りが煮え滾る。そいつはいつの間にか魔法使いの様なローブを纏っていて、それを翻しながら歩いて近付いて来る。

 一切の恐怖を感じていないそいつの堂々とした振る舞いに、動こうとした体が強張る。その隙に、互いに息の掛かる距離まで接近を許してしまう。憎悪に満ちた視線を送ると、相も変わらず気味の悪い笑顔を貼り付けたまま、そいつは立ち尽くすこちらの両手を取ってきた。酷く冷たかったので、一瞬氷その物が擬人化したのかと思った。

 

 「じゃあ、これで満足する?」

 

 言葉の真意が読み取れず、塞がれた両手はそのままに、余裕そうなそいつの隙を突こうと自由な足で蹴りを見舞おうとした時だった。

 

 ズブリ、と。

 

 何かを突き破る生々しい音が鼓膜を震わせた。同時に、両手を温かい液体が包み込む感触。

 目線だけで確認すれば、いつの間にか自分の両手には何が尖った道具が握られていて、そいつの胸を穿っていた。開かれた穴から熱を含んだ赤が決壊して両手をしとどに濡らし、零れ落ちた分が地面に丸い斑点を形作る。それはまるで、子供が落書きでよく描くベタ塗りされた様な太陽だった。

 気味の悪い感触に道具を引き抜こうとするも、両手を掴まれる力がぐっと増した。あろう事か、こいつは自分の行動で自分を害させたのだ。力は強く、ちっとも緩まない。道具から手を離す事も許されなかった。

 

 「―――今更、何を驚いているんだよ。一度やった事だろ?

 

 致命傷を負っているというのに、そいつは平気そうな声色で語りかけてくる。一声発する度に唇の端からまた大量の赤が顔を覗かせているが、全く気にしていないようだった。水音の混じった声が場を支配している。

 

 「でもさ、今の君がやらなきゃいけない事は、これじゃないから」

 

 そして唐突に、掴まれていた両手が自由を取り戻す。即座に後方へ下がって、手を離したそいつから距離を取った。何故か一連の行動を見て、そいつは可笑しそうに目元を細めて笑った。

 

 「今は、これで我慢して欲しいな。―――ほら、見なよ」

 

 どこを、と思ったが、すぐにその考えは必要なくなった。景色がガラリと切り替わって、自分達は個室の中に立っていた。ベッドや洋箪笥が設置されている簡素な部屋で、そいつは我が物顔でベッドに腰掛ける。

 

 「ボクは此処で隠れずに待ってるから、さ。君のやるべき事を先に片付けておいで。そうだね、そうしたら、また―――」

 

 そこで一度言葉を切り、そいつは己の胸を上から下へ撫でる。するとまるで手品の様に、穿たれていた穴は完全に姿を消し、汚れていた服も赤を垂れ流す口も含めて元通りの状態になっていた。

 

 

 

 

 「また―――()()()()()()()()()()()()()。ずうっと……どれだけ経ったとしても……待ってるから……」

 

 

 

 

 初めて憂いの表情を送ってきたそいつに答える事なく、背を向けて部屋の入り口へ足を運ばせた。

 だが、自分がドアに辿り着く前に外からノック音が二度なり、無遠慮にドアが開かれ痩せた女性が姿を現した。

 

 「あ、あら―――トム?ちょっと―――、一体これから何処へ行くの?」

 

 用件があって赴いたのに、肝心の相手がこの場を立ち去ろうとしている様に、女性は当惑した顔を浮かべる。それらを全て無視して、彼女の横を通り過ぎ部屋を完全に退出した。廊下を歩き続ける自分の背中越しに女性の声が飛んでくる。

 

 「ちょっと、聴こえているでしょう!何処へ行くの、トム!」

 

 彼女が叫ぶ名前は、何だかとても懐かしい気がした。そして自分が憶えている限りでは、その名の持ち主はその名で呼ばれる事を酷く嫌悪していた筈だった。なのに、今はそれがどうしてか不思議と悪くない気分にさせてくれた。

 

 

 

 

 「―――聴こえているよ、ミセス・コール。これから、契約を果たしに行くんだ―――だから、さようなら」

 

 

 

 

 ―――そうだ、【その名】で良い。もう、"あの名前"は必要無い。

 

 

 

 

 一度だけ後ろを振り返ると、そこにはさっきまで大声を出していた女性は何処にも居なかった。

 再び前を向いて廊下を進み踊り場まで来ると、階段の手すりに一羽の紅い鳥がこちらを見つめたまま止まっているのを見付けた。

 自分は主人ではないというのに、忠実に待ち続けていたその姿に滑稽さと感嘆を覚える。鳥は嘴に白い骨の様な杖を咥えていて、無言でこちらに差し出している。嘴の下の方に手の平を差し入れると同時に、ポトリと杖が落とされたので軽く握り込む。赤で汚れていた筈の両手は、とっくに綺麗になっていた。

 

 

 

 

 「―――行こうか」

 

 

 

 

 どこか遠くの方で、古めかしい汽笛の音が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分を守る為の嘘がいつか真実に()り、真実は嘘に()り、やがて自分を殺してしまった。

 

 こんな風になってしまう前に、何か方法があった筈だ。

 

 

 

 

 皆がボクの事を『化け物』って言うんだ。

 

 本当の事を言ってるだけなのに、どうして信じてくれないんだろう?

 人は正しく在るべきだって。嘘を吐くのは『悪』だって。大人や本が教えてくれたんだよ。

 だからボクは本当の事しか言ってないのに。皆どんどんボクを嫌いになるんだ。

 悪人みたいに、何かを盗んだ訳でもないのに、誰かを殺した訳でもないのに。

 

 嫌だ。嫌われたくない。捨てられたくない。

 『化け物』じゃなくて、『人間』でいたい。

 

 じゃあボクは、『嘘吐き』になれば良いの?

 ボクが真実を言うのをやめれば、皆戻って来てくれるの?

 

 

 

 

 歪んだ男の顔が見える。若い。

 普通にしていれば、端正な顔立ちなのだろう。しかし、眉を寄せて嫌悪感を露わにした表情は、醜悪な程歪んでいた。

  

 男が言う。上擦った様な掠れ声。

 

 「―――お前、化け物じゃないか」

 

 一呼吸置いて、また一言。

 

 「気味が悪い」

 

 ガンガンと鼓膜に響く、冷笑と侮蔑。何も言い返せなかった、幼くて脆い少年。

 

 隙間から灯りの漏れる扉。足音を立てずに近寄ったあの夜。

 

 「あの子は普通じゃない」

 

 悲痛な女の声。聴こえてくる嗚咽。扉に触れようとした手を引っ込めた。

 

 

 

 

 『嘘吐き』になるのは簡単だった。

 昔のボクを知らない人は、皆親しくしてくれた。

 嘘を吐くのはいけない事の筈、だけど。皆が笑っているから、これで良いのかな。

 

 ……ああ、それでも、やっぱり。

 あいつの『嘘』だけは許せないんだ。

 あの『嘘』は、間違いなくあの人を不幸にする物だったから。

 あれだけは、見逃せない。絶対に暴かないとって、そう思ったんだ。

 

 ……それに夢中になるべきではなかったのかもしれない。

 見逃して、『知らないフリ』をし続ければ良かったのかもしれない。

 『嘘吐き』をやめるべきじゃなかったのかもしれない。

 

 それこそが、賢い生き方というやつだったんだろう。

 言わなければ良い事。知らなければ良い事。世界にたくさん有るのだから。

 

 だって、ねえ、ほら。

 

 まだ、あの人は笑ってくれない。

 

 

 

 

 舞台が暗転する様に、景色は姿を変える。

 

 

 

 

 暗い室内だった。

 床に落ちたコップの破片。散乱した液体。汚れた絨毯。

 倒れている人間と、その近くにしゃがんで寄り添っている青年。

 

 部屋の入口で、あの男が震えていた。

 

 浮かんでいるのは、嫌悪ではなく恐怖。端正な顔をまたも台無しにして、青年を見ている。

 青年が倒れている人間から視線を男に移す。恐怖に満たされた瞳と、虚ろな瞳が交差する。その瞬間、男が尻餅を付いて喉の奥から悲鳴を漏らした。

 

 

 

 

 「お前がやったのか?

 

 

 

 

 誰かが何か言った。良く聴こえない。

 

 青年が憎悪の入り混じった瞳で男を見下ろしている。嗤っている。男の恐怖と絶望を、愉しんでいる。

 

 不意に、青年の視線が()()()を向いた。真っ直ぐに、無感情な瞳が嫌でも視界に入る。充血でもしているのか、不健康に見える赤い瞳。それ以外は無様に怯える男にそっくりな顔が、そこにあった。

 

 そうだ。自分はそれがたまらなく()()()()。あの女はそれだけに執着して、己の全てを受け入れようとしなかったから。

 

 

 

 

 ―――どうして『知らないフリ』をするんだ?

 

 青年の口が、そう動いた。声は聴こえなかったが、何を言っているのかは理解出来た。

 

 ―――いつまでこの『記憶』から逃げるつもりなんだ?

 

 後退ろうとした足が止まる。青年の顔は、聞き分けの無い子供を叱る様な表情になっていた。

 

 ―――自分と向き合えるのは、自分だけじゃないのか?

 

 いつの間にか、景色の中から部屋も男も消え失せていた。自分と青年だけが無の空間で向き合っていた。

 

 ―――逃げているだけじゃ、何も変わらないのに。

 

 青年が目の前に立っている。憐れむ様なその視線が、どうしてか癪だった。

 

 ―――本当の望みを偽って、抱いている殺意からも目を逸らして、逃げる事しか出来ない臆病者。

 

 

 

 

 許せない。許せない。許さない!

 何も知らない癖に、嘘も真実も見抜けない癖に!

 全てを理解出来たボクじゃなくて、馬鹿で愚鈍な連中が笑ってる!

 

 何故。何故?何故!

 どうして、『持てる者』じゃなくて『持たざる者』が、そんな顔をして生きてるんだ?

 違う。違うよ。違うだろ。

 『持たざる者』が虐げられるべきだ。『持てる者』が笑っているべきだ。

 こんな光景は許せない。認めない。間違っている。

 

 もういいよ。要らないよ。

 『謝罪』も『贖罪』も、『友情』も『愛情』も、全部。

 みんな、みんな、みんな。

 消えてしまえ。終わってしまえ。

 壊れてしまえ。崩れてしまえ。

 

 

 

 

 ―――ねえ。別に、構いやしないだろう?

 

 誰かの『死』を願っても。

 

 

 

 

 『―――五月蠅い!!』

 

 

 

 

 ガン!と、拳が砕ける勢いで廊下の壁を殴りつける。

 ホグワーツはどうも、所々に何らかの魔法が掛けられているらしい。触れられる壁とそうでない壁があった。ここは触れられる範囲だったのだろう。特定の言葉で開く扉や壁があるので、ある意味では当然の設計とも言える。

 

 額を押さえていた片手を離し立ち上がった。まるで丸一日徹夜をした時の様な、最悪な気分だ。頭が上手く働かず意識が朦朧とする、あの気怠い感覚。

 

 『関係無い……』

 

 そう、今となっては関係無い『記憶』だ。『向こう』の『記憶』など、この世界で一体何の意味がある?

 最早戻る事など不可能だろうし、例え戻れるとしてもきっと自分はその道を選ばない。この世界に来た当初は帰りたいと思う気持ちの方が強かっただろうが、ある程度の『自由』を得た今となってはそう思えなくなっていた。

 

 『……戻らないと』

 

 今すべきは、()()じゃない。下らない過去になど思いを馳せている暇はない。

 

 『僕は()()()()()()()()()のに……』

 

 自分の事を自分で確認する様な言葉が口から紡がれた。不快げに、徐に、両の瞼が閉じる。

 

 

 

 

 "―――本当の事を言っているだけなのに、一体ボクのどこが悪かったんだろう?"

 

 

 

 

 閉じられた視界の中の暗闇に、正誤を求めて嘆く幼い少年が立っていた。少年の周囲には、気味の悪い物を見る様な視線を向ける大人達が並んでいる。懐かしくも目障りな光景。

 

 「間違い(ウソ)を正せば憎悪を向けられる世界」。

 

 その単純明快な『答え』に辿り着いたあの日から、この幼い少年は嘘吐きになったのだ。

 間違いを間違いのままにしておく事(知らないフリ)を続ければ、世界が受け入れてくれたから。

 

 あの日確かに、世界は嘘を吐き続けろと言った。

 

 

 

 

 "考えても考えてもちっとも分からなかったから、それ以上は諦めた。

 誰も褒めてくれなくなってつまらないから、今度は色んな事に対して知らないフリをすることにした。

 そしたらほんのちょっぴりだけ、皆が優しくなったんだ。

 それからずっと『いい子』を演じているのさ。"

 

 

 

 

 『……いや、馬鹿馬鹿しい』

 

 どうして今更、あの連中に関する記憶に悩まされなければならないのだ。

 それこもこれも全部、()()()()()()()()()()()()()『あの記憶』のせいだ。全く以て不愉快だ。観なければ良かったと心底後悔している。

 「最も忘れたい光景」に酷似した『あの記憶』を観てしまった時から、どうも調子を狂わされている。おまけに最近では、人間ですらないケンタウルスからも神経を逆撫でする様なちょっかいを掛けられた。人間も人外も、全てが等しく自分を苛立たせてくる。この世界は何か自分に恨みでもあるのだろうか。

 

 ……このままではいけない。

 激情を在りのままに晒し、怒り狂うのは愚者のやる事だ。そんな愚行に無駄な時間を費やす気は毛ほども無い。

 

 思考を一度リセットして、何となく重たく感じる足を動かし、来た道を戻る事にした。

 

 結局、襲撃者の正体も目的も何一つ判明する事は無かったが、大体は推測出来ているのであまり問題は無い。今晩は下手に動き続けるより、一度ハリーの元へ戻った方が良いだろう。

 それよりも―――

 

 『あの鏡……』

 

 鏡が設置されていた部屋の扉を睨む。

 

 冷静になって思い返せば、あの鏡は()()()()()()()()()()

 自分が知っている知識と噛み合わない点が存在していたのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 もしかして『あの時』あれは、()()()()()()()()()()()()()()()()のではないか―――?

 

 『どうでもいいか』

 

 鏡の真相を知ったところで、何をするという訳でもない。この件に関してはこれ以上時間を費やすのも無駄かもしれない。

 そう結論付け、グリフィンドールの寮へと帰ろうとした時。

 

 

 

 

 『……ッ!?』

 

 ゾクリ、と。

 背筋に悪寒が走った。

 

 自身の五感に従い、背後を素早く振り返る。

 何の意味も無くこんな感覚は体験しない。絶対に、この悪寒の原因となる「何か」がある。そんな思考の下、振り返った己の視界に廊下の窓が映り込んだ。

 

 ―――闇に溶ける様にして、その「何か」は窓にへばり付いていた。

 最初にそれを認識した時、一瞬生物かどうか判断するのに躊躇した。それ程までに、「何か」は歪な姿形をしていたのだ。

 「何か」は体が黒いマントの様で、全体的な厚さが薄かった。二センチぐらいしかない。例えるならば、床に零した黒インクの水溜まり―――。果たして、こんな形の生物は存在するのだろうか。

 

 発見された事に気付いたのか、それともただ動くタイミングが合致したのか、「何か」はこちらが振り向いたのとほぼ同時に、モソリと体を震わせて窓の内側に侵入する様な動作をした。しかし、その動きも無意味に終わる。当然だ。ガラスの壁が校内と外を隔てているのだから。

 しかし「何か」はその事実を呑み込む知性が無いのか、こちらに凝視されながらもひたすらにその場でフルフルと蠢いている。

 

 (―――何だ、あいつ)

 

 「何か」をしばらく観察して、内心で焦燥を掻き立てられつつも冷静にその正体を分析する。

 明らかに、あの動きはこちらへ接近したがっている心情の表れだ。未だに確認出来ないが、「何か」に眼球が存在するならば間違いなくこちらを捕捉している。一言で言うと気味が悪い。

 

 (―――確か、あんな姿をした()()()()がいた気が……)

 

 記憶を辿ろうとした時、その僅かな隙を狙い澄ましたかの様に「何か」は激しく身を震わせ出した。ズリリリ、と何とも形容し難い不快音が鼓膜を震わす。

 分厚いガラスを削ろうとでもしているのか、「何か」はへばり付いている窓から離れる素振りはない。その様子を確認して、ゆっくりと杖を窓の方へ向けた。

 

 『《ルーモス・マキシマ》!』

 

 詠唱と共に、強烈な光が産声を上げた。悲鳴に近い鳴き声が聴こえた気がする。魔法による光は窓を透過して、外へ突き抜け溢れていった。

 数秒程光の放出を続けた後、反対呪文の《ノックス》で杖先の光を消失させ、再び闇が舞い降りた窓の向こうへ視線を走らせる。もうそこには何も居ない。さっきまでの出来事が幻であるかの様に、窓の外には夜景が広がっているだけだった。

 

 窓に損傷を与えず、「何か」を引き剥がすつもりでこの呪文を選択したのだがどうやら最適解だったようだ。

 あの姿が示す通り、光に弱いのだろうか?()()()()退()()()()()で、ダメージを全く与えられなかったのは直感で察しているが。何にせよ、追い払えたのなら良い。

 あのまま放置していれば、ガラスを突き破ってこちらへ接近してきたかもしれない。だが―――あの生き物には、鋭い爪も強靭な手足も確認出来なかった。窓が破壊されるなどという事態まで発展しなかったと思いたいが……。

 

 『何なんだ……あんなの知らないぞ……。僕のせい、なのか……?』

 

 本来ならば、この時期のホグワーツにあんな生物は存在しなかった筈だ。いや、()()()()()()『物語』の中で観た事は無い。間違いなく、本来の流れには存在しない生物である。だとすれば、あれをここに招いてしまったのは……『物語』に介入している自分が原因、と考える方が正解なのかもしれない。

 

 【―――気を付けた方が良いかもしれないね】

 

 と、廊下で立ち尽くしている己に向けて、再び念話が脳内に響いた。やはりこちらの行動を観賞しているのだろう。今更なので突っ込む気力も最早失せているが。

 

 【君はどうやら目を付けられ易いみたいだ。「あれ」は間違いなく君を狙っていたようだしね】

 

 『目を付けられる、だって?』

 

 【悪い虫がつく、みたいなものさ。……これは冗談じゃなく、心からの忠告だ。本当に気を付けた方が良い。「あれ」の正体は量り兼ねるけれど、君にとって良いものではない事は確かだ】

 

 『お前が他人を心配するなんて明日にはホグワーツが吹き飛ぶだろ。何だ、病気でも患ったのか?こっちに移すなよばばっちい』

 

 【……普通に考えて欲しいな。君に何かあったら、同居人という立場上こちらまで被害を被るんだ。忠告ぐらい素直に聞き入れてくれないかい?】

 

 『お前今まで何を見てきたんだ?僕が指図されるのは嫌いだって知ってるよな?』

 

 【それは十分理解しているつもりだけれども】

 

 やはりこいつはナチュラルに人の神経を逆撫でする天才だ。他人から理解しているつもりになられるのは非常に癪である。しかもよりによって一番嫌いな人種に。誰もお前に理解されたいと思ってない―――そう伝えようとして、面倒になって中断した。

 こいつに何を言ったところで、返ってくるのはいつもいつも取り繕った虚言ばかり。そういえばこいつが本気で怒ったところを見た事が無い気がする。今まで大なり小なり怒りの感情は絶対に抱いた筈だろうに、巧妙に抑えているのだろう。ストレスで禿げそうな無茶をするものだ……いや、こいつにはそもそも禿げる生身も無かったか。

 

 【何か失礼な事考えてる?】

 

 『お得意の開心術をどうぞ?』

 

 【…………】

 

 察しは良いが、沈黙で答えるところを考えるとやはり覗けないのだろう。いけない事だと理解しているのだが、こいつ相手に優位を取った時は地味に愉悦を感じてしまうのを止められない。英雄王になったつもりはないのだが、やはり前々から不快な思いをさせられている身としては、こういう場合に思い切り愉悦に浸りたいのである。日記生のささやかな娯楽なのである。

 

 『じゃあ、こっちからも一つ言わせてもらおうか』

 

 【ああ、何だい?答えられる範囲なら何でも】

 

 『今何でもするって言った?』

 

 【……その返しはどうしてか不愉快になるんだけれども、何か深い意味があるのかな。それと、何でも()()とは一言も言ってない】

 

 故郷だと割と男女問わず流行していた言葉だったのだが、こいつには癪に障る何かがあったらしい。自分も深い意味は知らずに使っていたので何が癪なのかさっぱりだが―――さっさと要点だけを喋ってしまう事にする。

 

 『ついさっきの襲撃―――《服従の呪文》についてだ。お前に訊きたい事がある』

 

 【……そうかい。それなら、まあいいとも】

 

 一応の同意は得たので、この際まどろっこしい事は抜きで一気に畳み掛けてやる事にした。

 

 

 

 

 『敵の正体は大体掴めている。もしも予想通りだったら―――あいつが、()()()()()()()()()()()()()()が、分霊箱に対して効果の無い呪文を使うとも思えないんだよな』

 

 『分霊箱は完全無敵って訳じゃあない。抜け穴―――つまり弱点が少なからず存在する。その弱点の一つに……()()()()()が入っているとしたら?』

 

 『敵はそれを知っていて、僕にそれを掛けてきたんだとしたら?』

 

 『そう―――本来ならば、あの呪文を無効化する事は出来なかったんじゃないか、と思った訳だ』

 

 

 

 

 【…………………】

 

 『なあ―――手っ取り早く訊ねるけどさ』

 

 

 

 

 『さっき何であんな嘘を吐いたんだ?』

 

 向こうは前に確かに言った。「分霊箱の身で良かったね」、と。

 言葉通りに受け取れば、「分霊箱には服従の呪文は効かない」、という事になる。

 

 だが、果たして。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()が。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が。

 こちらにとって、有効打ではない呪文を放ってくるだろうか?

 

 これらの推理が全て的外れで、()が分霊箱について何も教えられていないという事も考えられる。が、それならば、何故初対面から間を空けずに襲撃に走ったのかが解せない。

 あんなにも早急にこちらへの襲撃を決意するなど―――ある程度の事前情報の習得、つまり『予習』をしていなければ無理ではないか、と思うのだ。敵が、何の考えも無しにいきなり攻撃態勢に入るとはあまり考え辛い。

 

 そう。

 

 「敵が分霊箱に対して無知である可能性」と、「同居人が嘘を吐いている可能性」。

 この二つの内、どちらの可能性が高いかと言われれば、後者だとしか考えられないのである。

 

 

 

 

 【―――、――――君には、本当に驚かされるね】

 

 しばらくの沈黙を経て、感嘆にも似た響きの声が発せられる。

 

 【些細な言葉からここまで辿り着くとは―――いやはや、中々どうして、大したものだ】

 

 『質問に答えて貰ってないが?』

 

 【……うん、こうもあっさり当てられてしまっては、今更誤魔化す必要も無いか。そうだよ。―――君は本来、あの呪文を無効化する事は無かった』

 

 やはり推測は見事に的中していたらしい。と、同時に平然と嘘をほざいていたこいつにまた新たな嫌悪感を抱く。

 

 『でも実際、僕はどうも無かった。何も影響を受けなかった。……どうしてだか、お前は知ってるんだろ?』

 

 【……そうだね。ここまで来たのなら、いっそ全て明かしてしまおうか。君がどうして服従の呪文を無効化出来たのか―――という話だけれど。それはつまり、こちらが()()()()()()を獲得させようと働いていたからさ』

 

 『無効化する力、だって?』

 

 【前に君に指摘された精神干渉の話を覚えているかい?】

 

 『……ああ、あれか。当然覚えてるよ。今でも思い出すだけで腹立たしいけど』

 

 【あれはね―――、君に程度の低い精神干渉を続ける事で、「君の魂に()()()()()()()()に対する耐性を獲得させる」為だったんだよ。結果として、これは成功に終わった。君はこちらの精神干渉に見事抵抗してみせ、それによって君の魂は鍛えられ、精神干渉の類を完全に遮断出来る程に成長を遂げた。実際、君はもうこちらに対して謎の苛立ちを感じなくなっただろうし、服従の呪文をもろに受けても何とも無かった。これが真実さ】

 

 思考が一瞬停止した。

 

 

 

 

 ―――こいつ、自分が今何を言っているのか理解しているのか?

 

 

 

 

 まるで「善意でしてやった」と言わんばかりの傲慢さを滲ませて語る同居人に、返す言葉がしばし遅れた。

 そんな歪んだ善意の為に人の精神を弄り続けられる存在が、どんなに異常か。解らない自分ではなかった。

 結果、こちらにとって益になったとはいえ、悪意ではなく善意で精神を弄られたなど知れば、歓喜よりも嫌悪感しか湧いて来ない。

 

 心の内を満たした嫌悪を悟られぬ様、努めて冷静に口を開いた。

 

 『……、確かに、苛立ちは無い。呪文を受けても、操られる様な感覚は一切無かった……』

 

 【だろう?当然さ。君の魂は耐性を得た。これから先はもう、誰かに精神を弄られるなどという不安に駆られる必要は無いんだよ。耐性を付けさせる過程で、君に多少の精神的負荷を掛けてしまったのは謝罪しよう。けれど、君にとっても悪い話じゃない筈だ。君は分霊箱の弱点の一つを克服したのだから】

 

 こいつが自分に対して精神汚染をしていた理由は、つまりこれだったのだ。

 干渉をされているという事実に気付いた時、自分は「どうしてもっと手っ取り早く汚染してこないのか」、と疑問を抱いた事があった。それは、強い精神干渉では「耐性を付ける前にこちらの魂が耐えられないから」、という事なのだろう。

 だからこそ精神汚染の強さを調整して、こちらに語り掛けている時にだけ働かせていたのかもしれない。

 

 疑問の大部分は解けたが、まだ肝心な謎が一つ残っている。

 

 『……何でだ?何でこんな事をした?僕に耐性を付けさせて、お前に一体何の得がある?』

 

 【……やれやれ。簡単な話だよ。君に何かあったら、こちらも巻き添えになると言っただろう?君に()()()()()()()()と望むのは、そんなにおかしい事かい?】

 

 確かに、理屈的には合っている。

 もしも自分に何かしらの災いが襲ってきた際、被害を被るのは向こうも同じだ。

 だからそんな事態に陥らない様に、耐性を獲得させる画策を働いていた―――おかしな点は、無い。

 

 『お前の話は理解した。だったら、何でさっきはあんな嘘を吐いたんだ?無効化出来たのはお前の仕業だったんだろう。それを、「分霊箱だから良かった」なんてしれっと嘘を吐いて―――』

 

 【君に……君をまた不快にさせると思ったからだよ。精神干渉の件を思い出させたら、君はきっと怒るだろうなと思ったんだ】

 

 『お前……そんな気を遣う様な奴だったか?』

 

 【酷いな。これでも周りに溶け込むのは得意だったんだよ?他者への配慮だって最低限身についているさ】

 

 絶対嘘だ。そもそもお前は配慮とはかけ離れた存在だろうが。

 

 そうは思っても、証拠も無いので糾弾も出来ない。

 だとしても、『顔が見えない相手』を信じるつもりも仲良くするつもりも毛頭ない。

 

 『昔から思ってたけど、お前ってさ……』

 

 【うん?】

 

 『お前って本当、無駄に粘着質で陰険だよな。Windows10の強制更新かよってぐらい』

 

 【その例えは多分この世界で君にしか分からない】

 

 『その諦めの悪さをもう少しマシな方に向けてれば良いのに』

 

 【向けていたら()()()()()()()()()()()()?】

 

 『おっ、そうだな』

 

 さらっと親し気な方向へ発展させられようとした会話を適当に打ち切って、しばしの熟考の後。とりあえずは今回の件に納得した体で行く事にした。

 

 『…………。……まあ、いいか。お前が何を考えていようが、今回お前のお陰で助かったのは紛れも無い事実だから、な。そう思っててやるよ』

 

 【まあ―――でも、まだ隠しておいた方が良いかもね、君に耐性がある事は。敵の油断を誘えるだろうし。向こうもまだ、どうして呪文が効かなかったのか把握していない筈さ。情報という名の切り札は取って置いた方が良い】

 

 『……一理はあるな』

 

 しかし、ある一点がどうにも気にかかる。

 分霊箱―――殆どの魔法を防いでしまう無敵に近い物品に、《服従の呪文》を防ぐ機能が無いとは……。

 そして、敵はその弱点をどこで知ったのかいきなり呪文を行使してきた。分霊箱に関する書物か何かに、害する事が可能な魔法の一覧でも載っていたのだろうか?

 

 (いや―――これは、可能性としては恐ろしい話だが……)

 

 『この分霊箱』を制作した本人が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 実に恐ろしい。そんな事が出来るのか知らないし、この身に刻まれた『記憶』のどこにもそんな情報は存在しない。が、制作者本人が意図的に手を加える事は出来るだろう。何故なら、

 

 (分霊箱が実体化出来る時点でおかしいんだよな……)

 

 本来、分霊箱とは仮初の不死を実現する禁術であり、分霊箱その物が新たに肉体を得る機能などありはしないのだ。実際、自分以外の他の分霊箱にそんな便利な機能は付随しちゃいない。所有する者の精神に悪影響を与える、という力は共通しているが、肉体を得られる機能は日記帳にしか無かった。……『この分霊箱』だけが、明らかにやたら弄られている。

 

 一人思考という名の泥沼で泳いでいる最中だった。唐突に声を掛けられて集中が途切れる。

 

 【……そういえば、一つ訊きたい事があるんだけど】

 

 『三文字以内じゃないと受け付けません』

 

 【明らかに無理そうだから三文字以上で言うね】

 

 『……こいつ、この数十年で慣れやがったな』

 

 こちらの一向に改善しない塩対応にも順応している様子に不快感を禁じ得ない。何でここまで執拗に友人の様な態度を続けてくるのか、気味が悪いったらない。いっそ荒々しく対応されていた方がまだマシだ。

 

 【君が、あの少年に渡した物だけど……】

 

 その言葉で、すぐに渡し物の正体に思い当たった。だが反応を表に出さず、無言で続きを促す。

 

 【あれは……あの道具は……一体何だったんだい?】

 

 ―――こいつ、何か勘付いたな。

 

 見かけでは単なる筆記用具に過ぎないあれの事を、わざわざ訊ねてくるとは。単なる他愛のない疑問ではないという事を如実に証明してしまったようなものだ。こいつ、実は大間抜けなのか……それとも、疑われる事を承知の上で?

 

 『あれはただの羽根ペン……それ以外の何だって言うんだか?』

 

 間髪入れずに回答を送り、それ以上追求する意志を折らせようとした。下手に返事に時間を掛ければ、何かあると白状しているようなものだからだ。

 

 【…………君、気付いているのかい?】

 

 今まで聞いた事のない、やけに警戒の篭った鋭い声色。ああ珍しい、と呑気に考えつつも足を動かし、留まっていたこの場から去ろうと試みる。

 

 『気付く?……一体何に?主語を省いて訊ねるのがこの国の言語特徴なのか?』

 

 【……とぼけないでくれ。訊いているのは勿論、―――こちらの考えている事だ】

 

 核心に迫る質問だった。向こうも向こうで、自分が何かしらを企んでいる事を推測されている自覚があるのだろう。だからこそここで真相に潜り込む様な真似を始めたに違いない。

 

 『さあな?お前の考えてる事なんて解る訳ないだろ。お前はこっちの心を覗けても、こっちにはその(すべ)がないんだから。それに―――』

 

 

 

 

 『あのアルバス・ダンブルドアでさえ、お前の全てを見抜けなかった―――あの魔法使いに出来なかった事を、僕が出来る訳がないだろう?』

 

 筋の通っている理屈を並べて締めくくる。こちらが何を考え、どこまで真実に辿り着いているのか、わざわざ明かす得も義務も無い。

 鼻歌でも歌う気軽さで歩調を進め、廊下を立ち去る。相手が息を呑んだ様な、そんな表現に近い何かしらの気配を感じた。

 

 

 

 

 【君は……やはり……、】

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――君はもう、他者の操作を受け付けない力を得た。

 

 どんなに優れた闇の魔法使いでも、君を思い通りに操るなどという芸当は不可能だろう。そう、例え【あの男】でも。

 幾ら耐えられる程度に調整をしていたからとはいえ、何十年にも及ぶ精神干渉を防ぎ切ったその抵抗力は、やはり見込み通りだった。

 己が蒔いた種は、着実に芽を出し始めている。

 

 ……そして。

 何も知らないフリをして、『ある可能性』にかなり前から辿り着き、それが実行されるより早く対策になる道具を作り出した。

 彼の言葉には、こちらの思い通りにはならないという脅迫めいた何かが含まれていた。

 こんな推理力を持つとは当初想定もしていなかった。……やはり、逸材だというのか。

 

 嗚呼、どうしてここまで胸が躍るのだろう。

 誰かに対してこんな感情を抱く事なんて一度も無かったのに!

 『創設者の遺産』よりも、『賢者の石』よりも、求めてきた今までのどんな物よりも手にしたい!

 

 これは、『友情』でも『好情』でも『痴情』でも無い。

 もっと別の、言葉では言い表せない様々な感情が己を支配している。これはまるで……

 

 

 

 

 誰にも邪魔はさせない。

 

 誰の手にも渡しはしない。

 

 

 

 

 君は()()()()で、こちらが用意した道を歩むべきなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




お前の企みなんて引っかからねーよバーカってやってたら
ますます執着されるという負の無限ループに入ります。
皆さんも日々の振る舞いにはお気を付けください。
ストーカー被害は取り返しがつかなくなる前にさっさと然るべき機関に相談しましょう。

服従の呪文無効化なんて美味しいチートには裏がある


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Page 26 「Under Siege」

副題:どいつもこいつもやべーやつ


 「―――いったぁ……!」

 

 背中から勢い良く地面に叩き付けられて、ハリーは周囲を考慮せずに思い切り呻き声を上げた。

 しかしふと冷静になって考えてみると、痛みは無い。衝撃を感じて自然と「痛い」という言葉が口を衝いて出たものの、何故か体のどこも痛んではない。

 

 「か、帰れた……のかな」

 

 雑草が伸び放題の草地に落とされたらしく、視界は緑で一杯だ。ホグワーツの校庭なのだろうか?今は良く分からない。

 先程青年に突き飛ばされたのをしっかりと憶えている。背中から堕ちる様な感覚も。あれは悪夢から帰す為の行動だったのかもしれない。なら、もう此処は安全な現実なのでは―――

 

 「お、憶えてる」

 

 まだ、青年の事を()()()()()。その記憶の存在に心臓が早鐘を打ち始めて煩い。連動して呼吸も浅く短くなる。

 彼は言った。現実に帰れば、自分は全て忘れ去って何も知らぬまま目覚める筈だと。

 

 「まだ夢の中!?」

 

 ―――話が違うじゃないか!そう叫びたかったが、生憎文句を言う相手は居ない。

 とりあえず独力で何とかするしかない。そう諦めて立ち上がり、夢の出口的な物を探そうと周囲を見回す事から始めた。

 そして幸運な事に、いきなりあっさりと目に付く物を発見してしまった。

 

 「あっ、あれは……!」

 

 どうやら此処はただの草むらではなく、墓地の一角だったらしい。あちらこちらに墓石が立ち並んでいる。その墓石の一つの前で、スリザリンの制服を着た青年の後ろ姿が見えた。青年は右手にサンザシの杖を握り締めている。間違いない、彼の姿だ。

 此処は現実ではない。そんな空間に彼が居るのはおかしな話だ。とはいえ、無視するのは筋違い。ハリーは彼の元へ全力疾走で近付く事にした。

 ……もしかしたら、その並外れた勘の良さで自分の危機に気付いて、夢の中に来てくれたかもしれない。そんな期待すらも抱いて、彼の近くへ急ぐ。

 

 「―――ねえ!」

 

 自分はここだ、と伝えようとした。

 しかし、その言葉が続く事は無かった。

 彼の真正面に、突如として謎の存在が虚空から姿を現したからだ。

 

 (え、何、あいつ―――)

 

 大理石の墓石の上に現れ、まるでそこが玉座の様に、尊大に高慢に腰掛けている。墓碑銘は隠れて見えない。

 そいつは真っ黒な陰気臭いローブを着ていて、頭をフードですっぽりと隠していた。唯一露出している青白くて細い、しかし健康的な肌を備えた手に、白い骨の様な杖を持っていた。それを目にした途端、大きく脈打つ心臓。

 瞬間、彼が凄まじい速度でこちらを振り向いた。あまりのタイミングの一致に、自分の心臓の音を聞き取られたのかとさえ思った。彼の表情は驚愕に歪んでいて、両の目は大きく見開かれている。

 彼の唇が、何か短い言葉を呟いた。唇の動きで何となく読み取れる。きっと自分の名を呼んだのかもしれない。ハリーは止まっていた足を動かそうとしたが、彼の足元に見える物体に気付いて竦んでしまった。

 

 「っ、ヒッ―――、」

 

 草むらのせいで最初は見えなかったが、彼の足元には大蛇がいた。大蛇が長くて太い全身を、彼の両足に絡ませていたのだ。足首から太腿に掛けてしっかりと巻き付いていて、彼をその場に縛り付けているようだった。

 ハリーは動けなかった。彼はそんなハリーをしばらく見つめて、やがて忘れる様に正面へ顔を戻した。サンザシの杖を目の前の存在へ突き付ける。闘うつもりなのだろうか?

 しかし、ローブの人物が白い杖から素早く放った何かの魔法により、彼の杖は吹き飛ばされてハリーの足元まで転がった。彼が態勢を整えるよりも早く、次の魔法が飛来する。閃光が彼の胸を貫いて―――意識を奪った。

 力の抜けた彼は大蛇に絡まれたまま前のめりに倒れる。地面に触れるより早く、腰掛けていた墓石から降りたローブの人物が彼を抱き留めた。同時に大蛇が彼の足からするりと離れ、ローブの人物の足元を這い回り始める。

 

 「ちょっと、まっ―――!!」

 

 掠れ声で真面に言葉を紡げなかった。ローブの人物はハリーに気付かない。彼を捕らえたまま、空いた片手で邪魔だと言うかの様に、顔を覆うフードを脱いだ。

 

 「…………、」

 

 言葉を失うより他無かった。

 

 

 

 

 取り払われたフードから現れたのは、―――彼と全く同じ顔をした、若い青年だった。

 黒髪に赤い瞳の、背の高い男。相違点など一つも無い、鏡写しの肉体。

 ただ一つ両者の明確な違いを挙げるとすれば、身に纏う服装のみ。

 

 

 

 

 その時、突然右肩にヒヤリとした感触が襲ってきてハリーは飛び上がった。どうやら誰かの手が肩に置かれたらしい。

 

 「んぎゃぴっ!」

 

 『変な悲鳴上げるなよ』

 

 凄く冷たい。しかもこのタイミングでこんな感触、驚くなと言う方が無理である。右肩を高速で擦りながら振り向くと、そこにはフードを被ったスリザリン生が立っていた。

 ―――何でどいつもこいつも顔を隠しているんだ。ハリーが何も言えずに口をパクパクさせていると、思い出した様に相手は顔を隠していたフードを脱いでくれた。

 

 『ああこの格好、結構気に入ってるんだよね。ごめんごめん、顔が見えなかったよな。―――君、まだこんな所で道草食って、一体何してるんだ?』

 

 それはさっき助けてくれた青年だった。見間違う筈もない。まさか、夢の中を自由に移動出来るのだろうか。どういう存在なのか本当に一から十まで説明して欲しい。というか、向こうに立っている男が持っている杖を、彼もまた持ってはいなかっただろうか……?

 

 『折角良い感じに帰したのに、これじゃ締まらないじゃないか。……【あいつ】は戻ってるみたいだが』

 

 言いたい事が一気に込み上げて来て口を開こうとすると、再び冷たい手が近付いて来て口を塞がれた。

 

 『あー、言いたい事は解る解る。「此処は何処だ」、「帰れてないけどどういう事だ」、「彼処に居るのは誰だ」、……さあて、どれから説明したもんか。まず此処は何処だという話だけど―――ボクは知らん』

 

 「はっ?」

 

 『そうだなぁ。無理やり解釈するとしたら…………「君の本能が感じ取った避けるべき光景」……警告、いや予知夢に近い何かかな。言っとくけど、これを作り出してるのは君自身の頭だから、【あいつ】やボクは一切関与してないよ。被害妄想はやめときな』

 

 「よ、予知夢、」

 

 『ケンタウルスお墨付きの直感力が関係してるのか知らないけど……多分、もうしばらくでこれも終わるだろう。そしたら、君はやっと現実に帰れるんだと思うよ。君の直感が、君が帰ってしまう前に何かを報せようとしてるんだろうね』

 

 何故ケンタウルスに言われた事を知ってるんだ。問い質したかったが、今すべき事ではない。塞いできた手を払って必死に口走る。

 

 「予知夢だとしても、た、助けなきゃ!僕の友達が襲われてるんだよ!」

 

 『……ああ……ほっときなよ。どうせ夢だろう?彼処に居るのは本人でもないし、此処で何が起きたって死にゃしないさ』

 

 青年はどうしてか突然素っ気ない態度になった。他人事の様に、向こうで意識を失いされるがままになっているハリーの友人を眺めている。まるで実験動物を観察する研究者みたいで―――その冷酷とも言える視線は、前にケンタウルスが送ってきた物ととても酷似していた。

 

 「ど、どうして。そりゃ、君にとっては他人かもしれないけど、僕にとっては友達なんだ!」

 

 『別に他人じゃないさ。ボクにとっても彼は深い関係だしね』

 

 「ならどうして!」

 

 『……ボク、彼に死ぬ程嫌われてるしなぁ』

 

 青年がポツリと漏らした何気ない一言に、ハリーの怒鳴り声が止まる。

 

 『とっても酷い事をされた時もあったんだよ?ああ、君には想像も出来ないだろうけど……ボクみたいな奴には当たりが強いんだよ、彼。罵詈雑言は当たり前だし、親身になって助言をしようとしても聞く耳を持ちやしない。はっきり言って虐めだよね。助けたところで、罵倒されるのがオチだろうさ』

 

 「……な、なんかケンカでもした、の?」

 

 『喧嘩……そういう物なのかな。まあ酷い話さ。ボクが存在するのも元々全部、彼がやった事の結果なのにね……』

 

 その時、空気が弾けるのに近い音が連続で響いた。周囲を見回すと、黒いローブを身に纏った人間が随所に立っているのが見える。その数はそこそこ多く、少なくとも十人は超えていた。顔は奇妙な仮面を被っていて全く見えない。

 仮面の連中は中心に立つ男を確認すると、全員がさっと地面に跪いた。頭を垂れ、一言も発さない。動くものはただ一つ、地面を這う大蛇のみ。

 その異様な光景に顔を顰めていると、青年がぽん、とハリーの頭に一瞬手を置いた。やっぱり彼に触れられた部分は冷たくて、何とも言えない感触を与えてくる。その他愛のない仕草を、ハリーは慰めの為の行動だと感じた。

 

 『―――分霊箱は』

 

 青年は、仮面の連中に囲まれている二人を眺め、歌でも歌う様に語り出す。

 

 『殺人によって引き裂かれた魂を保存する代物だ』

 

 どうして今ここで、その話が出てくるのか。

 

 『「死」の味を知らない、健全な魂を組み込む事は出来ない―――』

 

 青年の真意など知らないハリーは、口を噤んだまま大人しく聞くしかなかった。

 

 『それは、異邦人であっても例外はない』

 

 異邦人。それは、恐らく彼の事なのだろう。

 

 「さ、殺人によって、引き裂かれた、たましい……」

 

 『―――彼はいずれ、向き合わなければいけない』

 

 古傷が痛むかの様に、青年は己の胸を片手で押さえた。その視線は連中に囲まれ、どこか満足そうに顔を歪めて笑みを浮かべる男と、その男に凭れて失神しているハリーの友人へと注がれている。その様子に、ハリーは何となく憎悪といった負の感情を感じた。理由は解らない。けれど目の前に居る青年は、間違いなくあの二人を―――強く嫌悪している。

 

 『自分が、一体何を殺してしまったのかをね』

 

 その言葉にハリーが青年をはっと凝視すると、彼は憎悪など微塵も感じさせない表情に戻っていた。愛想よく微笑んで違う話を持ち出してくる。

 

 『そういえばさ、君って結構良いお友達を持ってるみたいじゃないか』

 

 誰の事を言っているのか一瞬解らなかった。

 

 『えっと……ロナルド・ウィーズリー、だっけ?君の事をそれはそれは心配していたよ。良い友達じゃないか。そっちも大事にしなよ?ああいうのは中々お目にかかれないからさ』

 

 「心配してたって……えっ、えっ、逢ったの!?」

 

 まさかこんな時にロンの話が出てくるとは。一体どうやって彼と対面したのだろう?本当にこの青年、何でもありだなと思う。彼が唯一出来ないのは、現実への直接的な干渉ぐらいだろうか。

 

 『うん、ついでにちょっとした挨拶もしてきた。まあ……あの子も目覚めた時、何も憶えちゃいないだろうけど』

 

 そういえばこの男はそういう存在だった。やはりどう足掻いても彼の事を、彼と関わった出来事の記憶を現実に持ち込む事は出来ないのだろう。この現象を無効にする方法は無いと、改めて思い知らされる。

 と、青年の話に集中するべきか、捕らわれた友人を助けに行くべきか葛藤していたハリーを見兼ねてか、青年がハリーの背中を軽く押し出した。

 

 『……この先どうするかは、君が選択するんだ。夢だろうが現実だろうが、彼を見捨てるのも助けるのも自由。他の誰がどう捉えようが、少なくともボクは君のあらゆる選択を尊重するよ。むしろ、その選択を観るのが楽しみだからね』

 

 「……楽しんでる、の?」

 

 無視出来ない単語が聞こえて、思わず顔が曇る。

 

 『前に言ったろう。ボクは善意だけで君を助けたんじゃない。君がこれから歩んでいく道を見届ける為に助けた。君達が何を為しどう生きていくか、それを観るのがボクの娯楽だって。君達の選択の末に世界が光に包まれようが闇に沈もうが、ボクにとってはどちらでも構わないんだ』

 

 その言葉に、自分は怒るべきなのかもしれない。人の行動をただ傍観しているだけで何もせず、あまつさえそれを娯楽にしている人間に対し、怒りの感情を抱かない方がおかしいと言える。けれどハリーは、不思議と目の前の青年に対し怒りに関する激情を抱く事は無かった。自分でも奇妙に思っていた。

 

 「……君は、神様、なの?」

 

 ふと思いついた疑問が口をついて出る。それを聞いた青年は控え目に吹き出した。その様子はやはり嘲笑ではなく、こちらを不快にさせる事は無い不思議な笑い方だった。

 

 『はは。まあ、全てを観ているだけで何も齎す事なく、希望も絶望も与えないっていう点では、ボクはある意味では神様―――みたいなものなのかもしれないな。……でもさ、やっぱりね』

 

 「やっぱり……?」

 

 『―――どちらでも良いとは言ったけど、やっぱり、ほんのちょっとだけは期待してるんだよ。君達が、良い未来に辿り着く光景ってヤツを』

 

 ……ハリーはどうしても、この傍観者の青年が悪だとは感じられなかった。今の言葉に悪意は何も含まれていない気がしたし、青年の表情がどことなく憂いに近いモノに見えたからだ。

 そんなハリーの考えを見透かしてか青年は鋭く目を細めた。墓石前に立っている男の方へ向き直り、そのままハリーより後方へ一歩下がる。

 

 『―――君は、()()()()()をまだ知らないから、そう思えるんだろうけど』

 

 まるで窘める様に―――ハリーが、たった今こちらへ抱いた印象が間違いであると、背後から教え諭す様に言う。

 

 

 

 

 『()()()は、どうしようもない「ひとでなし」なんだよ』

 

 

 

 

 その言葉に反応を返すより早くハリーは背中を押され、強く前方へ突き飛ばされた。倒れそうになるのを踏み留まって振り返ると、もうそこには誰も居ない。

 

 「……、…………!」

 

 激励の様に押された背中が、じんわりと温かい。青年に触れられて初めて感じるその熱さを受け入れ、ハリーは勢い良く走り出した。目指す地点はただ一つ。

 

 足音を聞きつけてか、跪いていた連中がこちらを振り返る。懐から杖を取り出しながら立ち上がり、全員が様々な色の閃光を一斉に撃ち出してきた。

 ハリーは回避行動を取らなかった。変に立ち止まったり方向を変えては、余計に全弾の餌食になると思ったからだ。ただひたすらに真っすぐ疾走を続ける。功を奏したのか、閃光はただの一つも被弾する事は無かった。

 中心に立つ男は攻撃に移行する事は無く、こちらに向かってくるハリーをじっと観察しているだけだった。その余裕ぶった態度がやけに苛立ちを与えてくる。敵がどんな行動を取るか注視しているとかではない。完全に敵を舐め切っているが故の傍観姿勢だという事が、嫌でも分かった。

 

 走りながら、杖を取り出す。どこから出したのか自分でもよく分からない。ただ、相棒の柊は確かにそこに存在していてくれた。心なしか熱を孕んでいるそれを、男に向かって突き付ける。

 その瞬間を目にして初めて、男は傍観を止めた。不気味さすら感じる無表情でこちらを見据える。ハリーの友人を片手で抱きかかえたまま、待っていたと言わんばかりに白い杖を同じく突き付けてくる。二人の体勢が、鏡合わせとなる。

 先に呪文を放ったのは男だった。詠唱は聞こえなかった。緑色の悍ましい光が、稲妻を散らしながら向かってくる。

 

 「《エクス―――」

 

 懐かしさすら感じる目の前の光に、ハリーは()()()()()()()()()()()を、いつの間にか唱えていた。

 

 

 

 

 「《エクスペリアームス》!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 目覚めて一番最初に感じ取ったのは、額に落とされた心地よい冷たさだった。

 

 ゆっくり、ではなくパチリと素早く瞼を咲かせると、視界に飛び込んできたのは血の色だった。艶のある黒髪の隙間の奥で、輝きが赤く染まっている。

 突然覚醒したこちらに驚いたのか、その目は大きく見開かれていて、額の冷たさがぱっと離れた。置き場を無くした片手を宙に浮かしたまま、しばしの沈黙が流れる。相手は、何を口にしたら良いか迷っているようだった。

 ハリーが眼球の動きだけで相手の瞳を覗き込んだ途端、その輝きが揺らいだ。瞳の奥深く、確かに誰かがこちらへ確固とした憎悪の視線を注いでいた。

 

 咄嗟に、弾かれる様にハリーは彼の胸に飛びついた。彼を抱きかかえる格好で、床に倒れ込む。「うわぁ!」という叫び声が聞こえた。

 一瞬、触れ合った箇所から濃厚な鉄の匂いがする。ダーズリー家で何度も何度も飽きる程嗅いできた、人の傷口から滲む鉄の匂い。どうしてなのか何も考えられない。

 彼に覆い被さったまま、じっとしていた。こうする事が彼を守る事だと、自分の勘が告げていたのだ。何故、彼を守らなければならないかは解らない。解らないまま、彼の体を抱き締めていた。

 

 『ハリー……?』

 

 数十秒経っても動く気配のないこちらを怪しみ、やがて彼が大きく息をついた。背中に絡められた両手をグイグイと引き剥がしに掛かる。

 

 『いや、長い!何の時間だこれ。そろそろどいてくれよ。君、見かけによらず重いぞ』

 

 その言葉で我に返った。周囲を見回すと、同室者の寝息と月明りだけが満ちていた。静かな夜の気配がある。

 

 『ほら、もしも誰かが起きてきたら、僕らの関係を誤解されるだろ』

 

 「え?」

 

 顔を上げるとトムの赤い瞳とかち合った。訝しそうに目を細めている。その表情はまるで、不審者に襲われた女性の様な被害者染みた面持ちだった。その瞳の奥に、誰かの気配はもう消え去っている。ハリーは慌てて全力で彼から飛び退いた。うっかり苦手な生き物に触ってしまった子供の様な動きだった。

 

 「あっ、えっ、うわっ!別に、トムと抱き合うつもりは無かったんだよ」

 

 『抱き合ってただろ。それも、ハリーから強引に。まさか、そういうのに目覚めたのか……?』

 

 「バカ言わないでよ。君と抱き合うくらいなら、ファングとキスする方がまだマシだから」

 

 両手で肩を抱き、ドン引きしながら距離を取ってくる真剣な彼の態度に、ハリーはすぐさま反論を投げ付ける事を忘れない。ここまではっきりと明確な恐怖を滲ませている姿は初めてだ。何だか、実際に誰かに襲われた事があるかの様な様子にちょっぴり同情してしまう。そういえば、昔ストーカーに狙われていた事があるという話をしていたような。顔が良いというのも実に考え物である。

 

 『いや、それなら全然良いんだが。もしも君がそういう人間に成り果てたら、僕はどんな手を使ってでもここを逃げ出すからな……』

 

 「だから、有り得ないって!天地がひっくり返ってそんな人間になったとしても、君のコトだけは絶対選ばないから安心して」

 

 全力で否定しても、彼はまだ疑わし気な目付きで見つめてくる。一体過去に何を経験したというのか。

 

 「―――というか昔、何に襲われたのさ……」

 

 『か、母さんが……』

 

 「は?えっ、えっ?」

 

 『いや、何でもない……』

 

 犯人の名前にとんでもない単語が聞こえてきた気がして聞き返すも、彼は目を閉じて口を固く結んでしまった。集中して観察しないと分からないぐらい小刻みに震えるその姿は、まるで捕食者に睨まれた草食動物に近い儚さを感じさせる。ここまで演技無しの様子を曝け出すのはとても珍しい。

 聞こえてきた単語が間違いなければ、彼はとんでもない被害を経験している事になる。もうちょっと詳しい話を知りたかったが、今ここでそれに踏み込むのは鬼畜の所業。勿論鬼畜になる気は一切無いので、ハリーは我慢して話題を戻してやる事にした。

 

 「ほ……ほら、あの、何か、夢見ててさ。悪夢、予知夢?なのかな。君が危険な目に遭うんじゃないかと思って、つい……。咄嗟に体が動いた、というか」

 

 『予知夢?』

 

 「何か危ない予感とかしなかった?……ねえ、そういうの鋭いじゃん、君は」

 

 肩を抱いていた手を放して彼はゆっくりと首を横に振った。

 

 『僕は別に何も感じなかったけど。ハリーは動物に近いから、危険を察知する能力が高いんだ。ああ、僕の知性が邪魔になる時もあるんだなぁ』

 

 「ちょっとトム、言ってくれるじゃんか」

 

 相変わらず早めに気持ちを切り替えたのか、さっきまでの慄然とした様子はどこへやら、皮肉交じりの返しが飛んできた。人が心配してやっているのに、とねめつけるハリーを無視して、トムは抑揚の無い声で淡々と説明してくる。

 

 『何の夢を見てたか知らないけど、その間に君の杖を拾って帰ってきた。君を起こそうか迷ってたら、君が起きて飛びついてきた』

 

 彼が持っていた柊の杖を見せてくる。眠りに落ちる前に、確かに彼は自分の紛失した杖を探しに行った記憶がある。無事に発見してきてくれた、という事だろうか。

 それでも先程まで魘されていた悪夢のせいか、未だに暗い表情の晴れないこちらを見つめて、彼が問い掛けてくる。

 

 『僕がいなくなった後、何を見たんだ。言ってみろ、ハリー』

 

 「えっと……」

 

 続けようとした言葉が出て来ない。何か、彼に今すぐ伝えなければならない事があった筈……なのだが、その何かが解らない。

 喉の入口まで出掛かったと思ったら、言いたい言葉が形となる前に霧散していく。記憶を辿ろうにも寝起き故かどうにも頭が働かず、結局言葉がつっかえるだけだった。

 

 「……お……もい出せない、や。ごめん。あ、いや、でも覚えてる様な気もして、」

 

 『覚えてるんだろ。誤魔化すなよ』

 

 「トム、頼むから、そんなドスの効いた声出さないでよ。威圧すれば、相手が必ず白状するとか思ってない?脅かしモードに入られたって、僕は君みたいに詐欺が出来る程口が上手くないんだから」

 

 『一体どこの誰が、詐欺が出来る程口が上手いって?』

 

 「君の他に誰がいるのさ。口だけで金儲けしてやろうってタイプじゃん」

 

 『やかましい。話を逸らすな。痛い目に遭わないと口を割らないつもり?』

 

 「いや、だから、あの、変な夢を見てた様な気がして、それで何と言うか、悪夢っていうか、嫌な感じ……?金縛りみたいな。寝汗とかぐっしょり掻いた気も……あれ、でもどういう訳か途中からすっきりした様な……」

 

 自分でも魘されていた記憶はある。しかし妙な事に、しばらくして体調が快方に傾いた感覚が残っているのだ。まるで誰かが自分を―――

 

 (助けて……くれた……)

 

 頭の中で、閃光の様に過る記憶があった。夢で誰かと逢った気がする。初対面だった様な気もする。色々話をした気も……

 

 「…………」

 

 『…………』

 

 「うん、睨まないで、ちょっと待って。ちゃんと説明す…」

 

 立ち上がり、笑ってみせようとした顔が強張る。表情全部が強張ったのが分かる。

 

 『ハリー?何だ?君、何を見てる?』

 

 こちらの視線を追って一瞬だけ背後を振り向き、トムは形の良い眉を顰めた。

 

 「トム……あれが、あれが見えないの?」

 

 『は?僕には何も見えないぞ』

 

 彼に見えていない。あれが、見えていない。悲鳴を上げそうになる。ハリーは両手で口元を押さえて必死に声を呑み込んだ。

 彼の両の目と視線が交わる。赤い瞳だ。常人なら有り得ない色をしている。透き通った紅玉、いや、人体を流れ廻る液体。

 

 どうして、こんな変わった色をしているんだろう。

 

 頭の隅でチラリとそんな事を考えた。疑問が余りに今更過ぎて、思考力も集中力も緩んでしまったようだ。

 単にその体の持ち主が充血し易い体質だとしても、こんなにも瞳全体が赤いのは異常としか考えられない。

 

 本当に、こんな変わった色、どうして……。

 

 『ハリー!』

 

 強い声がした。強い力で手首を掴まれた。

 

 『しっかりしろよ。今、何を見てるか、僕に言うんだ』

 

 トムの眼の光が飛び込んでくる。それは、早朝の澄んだ冷気に似て意識をはっきりと目覚めさせてくれた。現実へと引き戻してくれた。

 

 「……蛇だよ。蛇が見えたんだ」

 

 『蛇?』

 

 正確には蛇の影だった。黒くぼやけた太い縄に見えるものが彼の、トムの腰から肩に掛けて巻き付いているのだ。輪郭が黒炎の様に揺らめいていて、その物恐ろしい揺らぎを前にもどこかで見かけた気がする。それが蛇だと判ったのは、肩の上で楕円形の頭らしいものが動いたからだ。眼球にあたる部分は刳り貫かれた様にぽっかりと穴が開いていて、底無しの暗闇が広がっている。

 頭はハリーの視線に気付き、一瞬だけ牙を剥いて威嚇の意を示した。それからぬるりと動き、まるで甘える様に、見せ付ける様にして彼の首に絡み付く。チロチロと出入りする裂けた黒い舌先が、見ているこちらが目障りに感じる程彼の頬を擽っている。だというのに、彼自身は全く気が付いていない。こちらを怪訝そうに見つめているだけだ。

 不吉で禍々しい外見とは対照的に、絡み付いた対象を愛おしむかの様な蛇の一連の仕草が、底知れぬ不気味さを沸き立たせる。彼に纏わりつくその生き物を、今すぐに引き剥がして仕留めたい謎の衝動に駆られる。

 しかし、その欲求が叶う事は無かった。長い間目を見開いていた為、乾きに耐え切れず瞬きをした後、蛇の影はもうどこにも見えなかったからだ。額の傷跡がチクリと疼く。それもほんの一瞬の事で、すぐに治まる。

 

 「……多分、ね、寝惚けてたんだと思う……」

 

 そうだ、きっと幻覚に違いない。だって彼は普通の人間ではないのだ。例え何かの間違いでこの部屋に蛇が潜んでいたとして、彼の体に触れる事なんて出来っこない。色んな事象に対し鋭い直感力を持つ彼も気付く素振りを見せなかったし、己の視界からもすぐに消えてしまったのだ。

 

 「きっと、さっき悪い夢見てたせいだから、……大丈夫だよ、ただの見間違い。昔から僕って夢見が良くないんだ。……知ってるでしょ?」

 

 『……ふーん』

 

 トムが真顔で軽く頷く。疑り深い彼にしてはやけに理解が早い。何故かやたら額の傷跡への強い視線を感じるが、今何を思案しているかは彼にしか解らない。

 視線の強さがどうにも居心地悪く、彼の注目を逸らしたい気持ち半分、疑問を訊ねたい気持ち半分でハリーは問い掛けてみた。

 

 「……君って、何でそんなに目が真っ赤なの?」

 

 『は?』

 

 「何かの病気なの?目はちゃんと視えてるの?心配になるんだけど……」

 

 『……今更過ぎないか?その質問』

 

 確かに言う通りだ。初対面からずっと気になっていた事だったのだが、訊ねる機会をいつの間にか失ってしまっていた。

 

 『ん……【本人】がどうしてこうなのかは知らないな。ただ、僕自身も昔はこんな症状があった』

 

 「君も?」

 

 『結膜下出血、っていうヤツさ。確かに他人からは結構驚かれる見た目だけど、命にも視力にも別状は無いから、深刻に悩む症状でも無かったけどな』

 

 「そう、なんだ……」

 

 別状は無い、それを聞いて少し安堵する。

 いや、違う。別状が無いのはあくまでも『元の世界』の彼の事であり、今目の前に居る彼ではないのだ。非常にややこしいが、とにかく【本来の人物】、つまりヴォルデモートが何故こんな症状を抱えているのかは実質不明のままなのである。

 

 『僕もこの体になった時はびっくりしたさ。これが病気……かは解らないところだが。あとはそうだな、【本人】がクルタ族の血筋っていう可能性があるが』

 

 「はあ、クルタ族?」

 

 『感情が昂ると眼が赤くなる一族さ。この世界に実在するかは知らないけどな』

 

 彼はふう、と一つ息をつくと、それから室内のベッドを素早く見渡した。ハリーの悪夢に関してそれ以上追及する事なく、無言で姿を消す。長居する事によって同室の生徒達に発見される可能性を考慮しての行動だろう。そういえば防音呪文も無しで随分と騒いでしまった。ハリーも気を取り直して床から起き上がった。

 

 (…………全部、言ってしまえば良かったかな)

 

 幻か実体か分からない物を彼に告げるのは無意味かもしれない、そう考えて寝起きにみた幻覚という体で説明してしまった。

 とはいえ、全て伝えたとして自分達に出来る事などない。だってあの不吉な蛇はとっくに消え失せてしまったのだから。

 ハリーは今しがたの出来事を忘れようと二度寝の準備に取り掛かる。杖も友人も戻って来たし、今晩はこれ以上起き続ける必要は何一つ無くなった。まだ時刻は深夜だ、明日の為にもしっかりと休んでおかなければいけない。

 

 ―――この時、自分が目にしたモノを白状しなかった事に対し、永遠に後悔する羽目になるとは知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――本当にびっくりした。

 

 まさか、こんな所であんな記憶を思い出させられるなんて。

 

 ハリーにそういう気は更々無く、単に悪夢から来る不安であんな奇行に走ったらしいが、それでもあの光景を脳裏に蘇らせるには十分過ぎた。

 焦点の合わない血走った斜視を迫らせ、()()()()()()を狂った様に繰り返し唱え、覆い被さってくるあの女の姿は、忘れようと思っても忘れられるもんじゃない。

 何度「違う」と訴えようが暴れようが、古来より身近に存在し、人間を依存させ惑わすあの飲料の前では無意味だった。あれを摂取した猛り狂う大人なんて、非力な子供が到底逆らえるものではない。

 

 ……だから、大嫌いなんだ。

 あの女が望んだ名前も姿も、何もかも。

 

 ……この魂になってしまったのは、果たして偶然なのか?

 ふとした時に、考えたくない疑問が浮かび上がってくる。

 

 ……気持ち悪い。気味が悪い。吐き気がする。

 何で、こんなにも、同じなんだ。

 

 もしも。

 もしも、この状況が人為的に引き起こされたものだとしたら。

 自分を、こんな存在に堕とした何者かがいるのだとしたら。

 

 

 

 

 ―――どれだけ時間が掛かろうとも、絶対に見つけ出して。

 

 そして…………必ず、殺してやる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 【―――ねぇ、本当にやるつもりなのかい?】

 

 

 

 

 【あの連中に見付かる可能性もあるというのに、些か大胆が過ぎると思うんだけど】

 

 

 

 

 【昨日の出来事を忘れた訳じゃないだろう?よりにもよって『分霊箱』に向けて、《服従の呪文》を掛けてきたんだよ。もしもまた遭遇したら、次はどんな目に遭わせられるか】

 

 

 

 

 翌日、ハリーと別れた後。

 クィレルの動向を探る為、生徒達が授業に出ており、廊下を出歩く者が殆ど居ない城内を歩いている間、同居人がやたらしつこく忠告を続けてきていた。

 

 『―――お前さ……』

 

 あんまりにも鬱陶しいのでただただノーリアクションを貫いていたのだが、そろそろ我慢も限界だった。こいつの声は脳内に直接響くので、耳を塞ごうが《マフリアート》を自分に掛けようが、防ぐ事は一切不可能。心底面倒だったが反応してやる事にした。

 

 『何をそんなに恐れてるんだ?』

 

 【……そういう訳ではないけれど】

 

 『連中が何で何の接触も無しにいきなりあの呪文で挨拶してきたのかは、まあ概ね予想はついている。次も同じ轍は踏まないさ』

 

 【―――君は、自分が誰に狙われているか解っていないんだ】

 

 まあ、確かに直接本人と対峙した事は一回も無いのだが、相手がどういう人となりをしているのかは理解しているつもりだ。

 

 『特別心配する事は無いだろ。どこかの誰かさんが人の精神を弄り回してくれたお陰で、精神干渉に対して恐れる心配は無くなったみたいだし?』

 

 【君だって想像はつく筈だ。……誰かを服従させるのに、時として魔法は必要無い。人を従える方法は、他に幾らだってあるんだよ】

 

 『流石、経験者かつ実行者は言葉の重みが違う』

 

 【茶化さないでくれ。君は断言出来るのかい?脅迫、拷問、 醜行などに見舞われて尚、絶対に誰かに屈服する事は無い、そう言い切れるのかい?】

 

 何だか妙だ。こいつの執拗なまでの警告。「巻き添えを食らうから迂闊な行動は止めて欲しい」、というよりは、まるで……

 

 「誰の手にも渡って欲しくはない」。

 

 ……いや、そんな事はないか。こいつみたいな人種に限って、そんな思考回路は存在しないだろう。

 他人を心配したり気に掛けたり、そういった類の感情とは無縁の人間だ。万が一そんな心があったとしても、こいつにだけは死んでも心配されたくはない。本当に頼むからやめて欲しい。

 

 『そりゃあ、僕だって所詮人間だし。もしも死にたくなるぐらいの悲惨な拷問なんかに遭ったら、まあどうなるか解らないよな。苦痛から逃れる為なら、人間はどんな選択肢だって取れる生き物だ』

 

 【だったら……】

 

 『だから、そうならないように今動いてるんじゃないか。何も考え無しに動いてる訳じゃないのはお前も解るだろ。あいつらに振り回される時間はもう終わってるんだよ』

 

 【……そうさ、絶対に渡すものか。もうの物なんだ。数十年も掛けて唾を付けたのに、横取りされるなんて洒落にならない……】

 

 『……何か言ったか?』

 

 かなりの小声だったので、何を言わんとしたか解らなかった。相手はすぐに話題を変えてくる。

 

 【こっちの話さ。……君、理解してない訳じゃないだろう?君は『未来』を識っているんだ。もしもその情報が敵に渡ってしまったら―――そんな可能性を視野に入れているのかい?】

 

 『まるで自分は敵じゃないと言いたげだな』

 

 【少なくとも君の邪魔をする気はないし、する気があっても何も出来ない身なのは君自身、良く知っているじゃないか】

 

 『あの羽根ペンについて訊ねてきた癖に、よくもまあ抜け抜けと……』

 

 ……こいつは、その気になれば現実での行動を可能にする術を持っていた。その可能性を危惧して、無い知恵を振り絞りながらせっせとあの道具を作っておいて本当に良かった。日記帳に刻まれた幾多もの『知識』と、ホグワーツにあった大量の書籍のお陰だ。決して談話室でただサボっていた訳ではないのだ。

 

 『しかしまあ……天下のダンブルドアのお膝元にも関わらず、相手は「賢者の石」を諦めるつもりは……毛頭無いみたいだな』

 

 【手に入れるのが難しい物こそ、余計に欲しくなるというものさ】

 

 『確かにそういう事もよくある―――ん?』

 

 何だろう。今、言葉に表現し難い悪寒と謎の違和感を感じたのだが……。気のせいか?最近、何だかこういった感覚に襲われる機会が増えた気がする。

 しかしこいつの言う事も人間心理の的を射ている。簡単に達成してしまう物に、人間は魅力や価値を感じづらいのだ。苦労して成し遂げるからこそ、そこにある種の幸福感や満足感を得る。

 ゲームだって、ラスボスが弱過ぎたりこちらのレベルを上げすぎて圧勝してしまったら、肩透かしを食らってつまらなさを感じるだろう。ちなみに、自分は推奨レベルより下のまま挑んで勝利した時の優越感に浸るのが好きだ。知識や工夫次第で状況を好転させられる全能感や支配感というか、そういう物が何とも心地いいという人間はそこそこいる筈だ。

 

 『まあ、お前って見るからにがめつそうだし、独占欲強そうだもんな。物欲の方も』

 

 【それに関して君に言われるのは少し、いやかなり引っ掛かるけど、まあ否定しないよ。今までに望んだ物は全部、しっかりと手に入れてきたからね】

 

 『へえ~、そんな事でいちいちマウント取ってくる姿勢、僕は嫌いだよ』

 

 【……そう、全部手に入れる。そうならなかった物は無い……】

 

 何だか途中からブツブツとした小声で聞き取れなかったが、まあこいつの身の上話にあまり興味は無い。

 わざわざ説明されなくとも既に知っている情報だ。こいつは幼少期から色んな物をくすねてきた畜生。他人の物を横奪するなんて本当に最低だ。アズカバンに入れられれば良いのに。

 ……ん?この杖は借りてる物であっていつか返すから問題無いのだ。決してブーメランは刺さらないのだ。持ち主が今も生存しているかは知らぬけど。もう故人だとしたら晴れて自分の物だし何も心配ない。

 

 と、人気の無い廊下を選んで探索していたところに疑問が投げ掛けられる。

 

 【何について調べるつもりなんだい?】

 

 『お前を消す方法』

 

 【―――誰にだって傷つく心はあるんだよ?】

 

 『役立たずのイルカは黙って見てろ』

 

 【何故イルカ……?】

 

 こいつが生きていた時代にパーソナルコンピュータなんて普及していなかったし、説明したとして絶対理解出来ないのでしない。

 ……というか地味に気になるところなのだが、「自分の世界」と「こちらのマグル界」は、同じ歴史・発展を辿っているのだろうか?

 両世界全く同じだとしたら、この世界のマグルもいずれは魔法族もびっくり仰天の大進化を遂げてしまうのだが……。

 大地を高速で駆け巡り、大海の深淵にまで手を伸ばし、母星を離れての生命活動を可能とする技術の数々。加えて、梟等による郵便物の運搬を馬鹿にする程の、直接的かつ迅速な意思疎通・情報交換はお手の物だ。人間が動く必要も無く、教育の手間も省ける数多の労働人形の製造etc。こういった文明は、もう「魔法」と呼称しても差し支えない。そんな力を得た未来のマグルを、魔法族が知ったらどう思うだろうか……。

 

 ……やはり故郷の世界の詳細情報は、この世界のどんな人物にも流すべきではないだろう。ハリーにもほんの少ししか話していない。

 この世界で未来のマグルがどんな力を得ようが、それは自分には関係無い事だ。日々進化を続けるマグルとどう付き合っていくか考えを巡らせるのは、この世界の住人の仕事だ。

 まあ、自分としては故郷と同じ進化を遂げて欲しい。この世界で碌な娯楽が生まれないので非常に困るのだ。将来その娯楽にありつく為にも、己のやるべき事を片付けねばならないので頑張るしかない。

 

 ―――一つだけどうしても気になる事がある。

 故郷の歴史も地理も、この世界とほぼ同一だとすれば。

 あの国のあの土地に赴けば、自分の家も其処に実在しているのだろうか。

 はたまた全然違う土地と化していて、知らない他人の家がどっしり建っていたりするのだろうか……。とても気になるとこだ。

 

 小さい頃はあの古臭く退屈な村が大嫌いで、娯楽満載の都会暮らしをよく夢見たものである。

 両親共典型的な田舎者特有の頑固頭で、引っ越しなんて特大イベントは決して起こる事は無かったが、まあ住み易さは良い方だろう。

 電波はしっかりと届いていたし、生活に不自由した記憶は無い。虫や鳥獣は何匹殺そうが掃いて捨てる程棲息していて、実験対象(あそびあいて)の不足なんて事態に陥る事は無かったので、悪い思い出ばかりではない。

 全てが片付いたら、あの場所を訪問してみるのも良いかもしれない……いや、この世界に実在するかはまだ不明なのだが。

 

 【何を思い返しているんだい?】

 

 『故郷の兎みたいにお前の首を切り落としてやろうかなーと考えてた』

 

 【また野蛮な事を―――、……兎……首……?】

 

 黙らせる目的で過激な話を持ち出したのだが、何故か相手は疑問符を浮かべてきた。何がそんなに奴の気を引いたのか知らないが、とりあえず黙り込んでくれたので良しとしよう。

 

 【ビリーと喧嘩した時と似ている……】

 

 まだブツブツとした小声が聞こえる気がするが、無視してそのまま廊下の奥へ踏み込んだ。

 すると、ピリっとした微かな痺れが全身に走る感覚に襲われた。すぐに立ち止まって周囲に視線を巡らせてみる。人影もゴーストも、誰一人として見当たらない。

 しかし間違いなく、この付近には()()がある。己の直観に従い杖を取り出し、ある一つの呪文を発動させる。

 

 『《アパレシウム》!』

 

 これは魔法的に隠蔽された何かを強制的に暴く呪文だ。その効果から、主に犯罪の痕跡を探る闇祓いの間でもしばしば使われるらしい。例えば透明インクで書かれた文字なんかはこれで大体解析出来てしまう。

 

 呪文を唱え終わった瞬間、目の前に光線が走った。廊下の壁と壁の間を光る白線が伸びている。線があるのは胸の辺りぐらいの高さだった。リンボーダンスでも出来そうな位置である。

 

 (何だこれ)

 

 好奇心から現れた白線に指を触れさせようとしたその時、鋭い声が脳内に響いた。

 

 【迂闊に触れるのはやめた方が良い。目に見えない様に隠されていた代物だろう?良くない物であるのは確かだ】

 

 確かに正論ではあるが、これの正体を確認しておくのも必要な事である。直接触れるのが駄目なら別の方法を取るまでだ。

 

 『ふーん、だったら……《エイビス》』

 

 サンザシの杖先から光の粒子を散らしながら、一羽の鳥が出現した。種も仕掛けも無いマジックだ。魔力を使って疑似的な生命体を形作る、という真面目に解説すれば難しそうな印象の呪文だが、実際は割と簡単なのである。鳥という身近な生き物をイメージするなんてお茶の子さいさいというヤツだ。

 鳥を生み出して何をするのかと疑問を浮かべる者もいるだろう。この一見あまり役に立たなそうな呪文でも、使い道はちゃんとある。こういう未知の物に対する実験として使うのだ。

 

 『行け』

 

 数歩下がって白線から十分な距離を保ち、生み出した仮初の命へ命令を下す。イメージしたのが鷹や鴉などではなく、田舎に良く居る貧相な野鳥だったのには突っ込まないで欲しい。

 と、案の定、目聡い同居人が鋭い指摘を入れてくる。

 

 【君の実家は田舎だったのかい?】

 

 『……自分が都会育ちだからって調子に乗るなよ』

 

 【はは、まあ―――調子に乗れる程整った環境では無かったけどね……】

 

 やはりこいつは要注意人物だという事を再認識する。こういった些細な情報からプロフィールを確実に探られる。しかし出身地が割れたくらいじゃ痛くも痒くもない……かもしれない。

 

 【君の家は一つ一つの部屋すら大きくて広いみたいだし……両親のどちらかは裕福な家系だったのかな?】

 

 前言撤回。痛くも痒くもあった。前に空き教室でハリーと交わしたどうでも良さそうな会話をしっかりと拾ってやがったのである。こいつのこういう能力は非常に厄介だ。まるで相手の素性を執拗に探り当てようとするストーカーの如き性質。

 

 『お前本当に気持ち悪いな。囚人服着てくれよ』

 

 【遠回しに犯罪者扱いしないでくれ】

 

 『お前自身が罪の塊みたいなものだろ』

 

 【君に対して何か直接的な害を齎したかな?】

 

 『―――存在』

 

 【ここに居る事が罪……?】

 

 なんて下らない会話の最中にも、生み出した鳥は動き続けている。

 魔力で作られた鳥がゆっくりと飛行し、白線へと触れた。その瞬間、白線を通過して飛行を続けようとしていた鳥は、突如としてその身を床へと堕としてしまった。良く観察すると全身がピクピクと痙攣している。電流でも浴びてしまったかの様だ。

 

 『ッ、何だ!?』

 

 何かが動く音を聴き取り、さっと天井を見上げる。丁度その時、天井から何かが落ちてきているところだった。何かの落下に合わせて視線を落とすと、未だに痙攣を続けている鳥に発光する網が被さっていた。床にピッタリと縫い付いた様に固定されており、鳥の逃げ道を完全に潰していた。

 

 (シンプルイズベストな罠……)

 

 己が囮に使ったとはいえ、麻痺と網の二重の拘束に見舞われている鳥が何だか不憫に見えて、しばらく立ち尽くしていた。すると、鳥を捕えている網が激しく光り始める。まるで何かを呼び寄せている様な―――

 

 (……、嫌な予感。僕のサイドエフェクトがそう言っている)

 

 【同感だね。身を隠した方が良い】

 

 素早く自身に目くらまし術を掛け、廊下の壁の中に入り込んだ。今だけは実体ではないこの身に感謝する。壁の中は無機質な石材の断面が視界中に広がる、何とも不思議な空間だった。気分は完全に*いしのなかにいる*というヤツである。

 

 それから数十秒経ったくらいだろうか、廊下へ近付く足音が響いてきた。やはりあの罠は、獲物が掛かったと同時に術者に通知するシステムでも搭載されているのだろう。シンプルかつ高性能で、少々感心してしまう。

 しかしまあ、やけにお早いご登場ではないだろうか。今壁の中から顔を出すと見付かってしまう恐れがあるので、情報源は聴覚だけだ。真剣に耳を澄ます。

 

 音の感覚から推察するに、早足らしい。罠が無事作動して興奮でもしているのかもしれない。掛かった獲物が囮とも知らずに。

 

 『………………』

 

 しばらく耳を澄ましたままじっとしていると、網のところまで辿り着いたのか足音は止まった。何か、苛立たし気な唸り声が聴こえた気がする。

 次の瞬間、バチッという電気が弾ける音が耳を劈いた。近距離であった為、音の大きさに条件反射で全身が一瞬震える。 

 何かがジュウジュウと焼け爛れる様な、不快感を煽る音が続けて上がる。同時に、鳥の存在を維持していた魔力が消失するのを感知した。どうやら―――あの鳥は、その仮初の命を散らしてしまったようだ。心の中で形だけの黙祷を捧げておこう。南無。

 

 きっと掛かった獲物が目当てのモノでは無かった為、腹いせに消し炭にでもしたのだろう。

 足音の主はしばしその場から動かず、何事かを呟いていた。独り言の類ではないようなので、恐らく罠の張り直しでもしているのかもしれない。

 

 やがて呪文の様な言葉を呟き終えたのか、再び足音が響く。今度はここから遠ざかっていく―――立ち去っていく足音だ。

 足音が完全に聴こえなくなってからも、念の為もう数分程たっぷり間をおいて壁の中から抜け出した。視界が一気に開ける。同時に目くらまし術を解除するのを忘れない。発動したままだと魔力を継続的に消費するので、不要な時にはしっかりと解除して少しでも魔力を節約するのだ。

 

 (……成程)

 

 再び襲ってくるピリピリとした不思議な感覚。これは恐らく、相手の魔力にこの体が反応しているからなのだろう。相手が何かしらの魔法を行使し、その魔力が空間に解き放たれ、こちらが魔力の残滓に近付くと感知した体が反応を示す。その結果、この様な微かな痺れが走るという事なのだ。

 

 (他の魔法使いの魔力じゃこんな反応はしなかった……。やっぱり、()()の魔力に反応している、という事か……?)

 

 早急に『分霊箱になった時のマニュアル本』を求む。

 本当に、転生するにしたってチュートリアルが欲しいものだ。文句を垂れたところで、そんな都合の良い説明書は何処にも存在しないのだが。

 唯一説明書代わりになりそうな同居人は、平然と嘘を吐くド畜生なので迂闊に質問も出来ない。自分でも良く今まで正気を保って生きてこられたな、と心底思う。誰か褒めて欲しい。

 

 【一つ、気付いた事があるんだけど。……発言しても良いだろうか?】

 

 これまでに散々な対応をし続けたせいか、何となくこちらを気遣った様な言い回しで声を掛けられた。

 低姿勢で会話する技術があるなら初めからそうすれば良いものを。そもそも、生前の実年齢を考えればこちらの方がこいつより僅かだが年上なのだ。気を遣うのは当然の事だろうに。これだから最近の若者は……うん?何十年も経っているし、若者と呼べるのだろうか……?

 

 『役に立ちそうな話じゃなかったら処刑だな』

 

 【いちいち脅しを入れるのはやめて欲しいけど……。…………うん、やはりね。この独特な魔法式は―――】

 

 

 

 

 【これはどうやら―――剥き出しの魔力、それも濃厚な物に対してのみ発動する仕組みのようだね。その辺の生徒が触れても、きっと何も起きないのだろうさ】

 

 『濃厚な、剥き出しの魔力……?』

 

 【魔法使いには必ず魔力が宿っているだろう。しかし、その魔力は普段は肉体の内を循環しているだけだ。ごく微弱な魔力は常に体外を流れ出ているけれど、魔法を発動するといった行動以外で、強い魔力が外界に放出される事はまず有り得ない。つまり……うん。他者の魔力を運用して仮の肉体を構成している君の様な存在は、剥き出しの濃厚な魔力の塊、と呼べるね】

 

 しばし、両者の間に沈黙が訪れる。言葉の意味を理解出来ても、返事を考えるのに時間を要した。

 この罠が《エイビス》で生み出した鳥に反応した理由は、普通の動物ではなく「全身が魔力で形作られた擬似生命」だったから、なのだろう。

 こめかみに人差し指を当てて両目を閉じながら口を開く。

 

 『ああ、うん。成程、成程……。罠に掛ける獲物を、端から選定していたと……そういう事……ね』

 

 やがて眼を開いた瞳の奥に、静かな憤りが渦巻いていた。

 

 『人の事を鼠だとでも思っているのか……?本当に、舐められたものだ。やっぱり《クルーシオ》特盛コースは決まりだな』

 

 【そういえば昨日から指摘したかったんだけど、君って『許されざる呪文』、何気に習得してるよね】

 

 『役に立ちそうだったから。それ以外に何かあるか?』

 

 【いや……でも、()()()()()は―――してないんだね……】

 

 『許されざる呪文』は全部で三つ。行使すると即アズカバン送りとなるが、関係無い。もしも使うとしても、それは自衛の時ぐらいと決めている。そもそも自分は分霊箱なので、魔法省に感知される事もまず無いだろう。

 同居人は何故だか()()()()()を習得してない事実に物申したい様子だったが、生憎と親し気に会話を交わす気は無い。

 

 (しかしまあ……軽率に城内を動き回れないって事か。厄介だな)

 

 だが、これではっきりした。

 ……敵は、確実にこちらと友好的な接触を取るつもりはゼロ、という事実が。

 この罠自体は攻撃力、殺傷力共に皆無だ。対象を行動不能にするだけの能力しかない。害するつもりは無いというのは確かだが、

 

 (……目的は攻撃じゃなく、行動不能。その真意は……)

 

 全力で嫌な予感がする。どうしてこんな方法を取っているのかは推測不能だが、とにかく何が何でも敵の思い通りにさせる訳にはいかない。

 

 『……?何か騒がしいな』

 

 窓の向こう側から、叫び声に近い雑音が響いている、気がする。悲鳴の様な声、歓声の様な声……一体何処の馬鹿共が騒いでいるのだろう。

 何となく気になって、窓の外を覗いてみようかな、と考え始めた時であった。

 

 『ッ!!?』

 

 フラリ、と。

 

 まるで夢遊病患者の様な足取りで、廊下の角から女性が姿を現した。

 

 ここまで接近されれば間違いなくその気配に気付けた筈だが、どういう訳か自分の感知をすり抜けられたらしい。クィレル相手でも支障なく働いた気配察知力をこうも簡単に掻い潜られ、目を丸くして後退る事しか出来なかった。

 

 (ま、ず―――てか、どこから湧いてきたんだこいつ!?)

 

 ハリーとドラコ以外の人間に己を認識されるのは非常に不味い。もしも相手がダンブルドアだった場合、間違いなくゲーム・オーバー。

 校長という立場上、彼は生徒を守るのが仕事。だが、生徒だった頃の闇の帝王の分霊に限っては例外だろう。こちらが如何なる事情を抱えているとはいえ、彼にだけは何が何でもエンカウントしてはならない。そんな展開が万が一にも起きないよう、日々密かにお祈りタイムを設けているのはここだけの話である。

 

 見たところ現れた女性は制服を着用しておらず、また年齢も成人を超えている様だ。という事は生徒ではなく職員の誰かなのだろう。

 幸いにも女性はその様子通り、周囲の状況に全く気付いていないようだ。お互いかなり近くに居るが、こちらに目を向ける事はない。寧ろフラフラと俯きながら歩いており、いつ倒れてもおかしくない彼女はどちらかというと他人の助けが必要にも見える。

 

 「う、うう………ぁ」

 

 ゾンビみたいな呻き声が聴こえてくる。体調でも崩しているのだろうか。しかし、こちらに構っている余裕は無い。姿を見られるのは絶対に避けなければならないのだ。足音を立てぬ様細心の注意を払いつつ、女性から距離を取ろうとした。ステルス行動ならお手の物だ。

 ここで再び目くらまし術を使用出来れば尚良かったのだが、少なからず動揺を消化出来ていなかったせいかすっかり術の存在を忘れ、ただただこの場から離れようとした。

 

 だが、女性はそれを許さなかった。

 

 

 

 

 「―――覚悟せよ!」

 

 『へぁッ?』

 

 

 

 

 クワッ!と、女性が勢い良く顔を上げ、大声も上げた。突然の奇行に流石の自分も驚愕を抑えきれず、つられて声を漏らしてしまう。

 顔を上げ表情が露わになった女性はというと、大きな眼鏡の奥で白目を剥いたまま両眼を見開いていた。ここまで表情を歪にされると、何を考えているか全く読み取れない。呆然と立ち尽くしているこちらを差し置き、女性は芝居がかった様な野太い声色で何事かを呟き始める。

 

 「覚悟せよ、『死を越えし契約者』。晴れぬ事無き闇を携える汝、やがて『()()()()』に引き摺り墜とされるであろう。それは決して逃れられぬ軌条。だが悲観してはならぬ。闇は常に汝の傍らに、そして光もまた汝の傍らに。運命を変える事を望むならば―――光と共に真実へ到る道を捜し出せ。その道へ(いざな)う鍵は、汝が廃忘せし片割れが握る―――」

 

 『ごめんなさいちょっと何言ってるか解んないです』

 

 「鍵は生死の狭間にて汝の訪れを待つ。死を越えよ、異邦人。手に出来ぬならば、汝は未来永劫闇の手の内で生きねばならない。汝の存在、世界にある意味で希望を齎し、ある意味で絶望を齎す。どちらを選ぶも、汝の歩む道に掛かっている―――」

 

 『いや、長い長い!いきなり何言ってるんだこいつ』

 

 突然現れ突然訳の分からない言葉を聞かされたとて、真面目に全てを聴き取る人間はそうそういない。自分もその一人だった。そもそも彼女、割と早口なので非常に聴き取り辛かった。何を言っているのかさっぱりだ。

 しかし、ついつい突っ込みを入れる人間の存在など眼中に入っていないのだろう。女性は直接こちらに声を掛ける事も、その白目を向ける事も無い。ひたすらに、誰に向けているのか判らぬ言葉を垂れ流していた。

 思わず突っ込みモードに入ってしまったが、この奇行を続ける人間の近くに居るのはよろしくない。そう判断し、女性を完全放置のまま今すぐに本体へ帰る事にした。罠が仕掛けられている城内を無理してうろつくのは危険だ。今日のところは日記帳へ戻ろう。

 

 (暖かくなるとおかしな人が出て来るとは言うけど、これからはもう冬だぞ……)

 

 生憎と、奇人と楽しく親交に興じる趣味は持ち合わせてはいない。念の為己の気配を限界まで抑えつつ、滑る様に女性の傍から逃れた。そのまま廊下を移動し続け、物理的な距離を離す事に成功する。

 

 彼女は、終ぞこちらの存在を認識する素振りを見せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あら……あ―――あたくし、どうしてこんな所まで降りてきてしまったのかしら……。俗世に降りてしまうと、『心眼』が曇ってしまうのに……」

 

 

 

 

 一方その頃。

 

 ホグワーツにて『占い学』の教師を担当するシビル・トレローニーは、我に返った様に周囲を見回して困惑していた。

 

 

 

 

 

 

 

 




展開遅いのゴメンネ…ユルシテ…
次回から原作イベント進めます。

主人公が言っていた症状名で画像検索しないでね。
苦手な人にはちょいショッキングなので検索しちゃダメだぞ。絶対だぞ!




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Page 27 「水面下にて、蠢く邪悪」

都市伝説:Mさんの日記
白紙の日記帳を眺めていると浮かんでくる文字。
「今○○に居る」と現在地報告が次々と書かれていき、
段々と日記帳の持ち主の場所へ接近してくる。
背後まで近付かれたら最後、持ち主がどうなるかは誰も知らない。
ちなみにマグル界バージョンだと日記ではなく電話になるらしい。


 いつの間に、生まれてしまったんだろう。

 

 こんな自分は要らないよ。

 

 大切じゃないから。

 

 要らないんだよ、本当に。

 

 でも、殺せない。どうしてかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――世の中には、時に大胆に動かなければ上手くいかぬ時もある。

 

 どこかの誰かさんがまさにそうだ。

 「死」という全生物を襲う災厄を回避する為に、一つでも割と十分そうに思える分霊箱を、無駄に作りまくってしまい肝心な自分自身の魂をズタボロにしてしまった。

 だが本人の魔力と頭脳はそれでも劣化する事なく健在であり、自身の野望を果たす為には魂を何度も引き裂くなど何ら支障のないものであった。……外見は大分崩壊してしまったが、それでも生命活動を送る分には何一つ問題は無い。

 

 そう、つまり何が言いたいかと言うと。

 結局のところ、人生は大胆に動いてしまっても何となく上手くいっちゃう事が多いのである。

 元来一つしかない魂を引き裂くなんて大胆極まりないイカれた行動も、結果として本人のしぶとさを底上げするのに役立っている。一つ魂があったと思ったら実は七つに分かれてました、なんてどこぞの黒い害虫じゃあるまいし、気持ち悪いったらありゃしないが。

 

 まあそういう訳で、別にどこかの誰かさんを見習った訳では決して無いのだが。

 自分もまた、大胆に行動してしまおうという思考になったのだ。

 本当ならばもっと慎重に。自分が動いた結果何が起こるか、動こうとしている道の先に何かしらの危険が無いかをじっくりと推測してから、初めて行動に移すべきなのだろう。

 だが、時間は無限にある訳ではない。実質この身が破壊されるまでは寿命は無限に近い物なのだが、それでも全てを溝に捨てる事は、与えられた時間を無駄にする事は出来ない。

 

 何故か只今絶賛狙わている身としては、じっくり慎重に動いていては拉致が明かないのだ。

 石橋を叩いて渡るのが悪いとは言わない。

 たった一つの失態で、人は簡単に呆気なく命を落とす事がある脆弱な生き物だ。うっかり毒物の混入している飲食物を摂取してしまったり、崩壊寸前の手すりに気が付かずに高所から落下してしまったり。日常的に「死」の危険は常に付き纏ってくるのだ。

 自らを襲う可能性のある危険から身を守る為に、例え取るに足らない道端の石ころであろうと、一つ一つ丁寧に確認する様な行動を取ってしまうのは仕方がない事である。代償として、貴重な時間の一部を失ってしまうとしても。

 しかし、自分はその時間を失う訳にはいかなかった。

 だからこそ、慎重なんて言葉をかなぐり捨てて大胆に動こうとした。

 

 ―――動いた結果、どうなったかと言うと。

 

 

 

 

 『此処はきっと、ロックビルの神殿に違いない』

 

 【いいや違うけど?】

 

 尊大に両腕を組んだまま、逆さまになったホグワーツ城内をたっぷりじっくり見回して、大きく溜息をつく。

 全く空気の読めない奴だ。ほんの少しくらい現実逃避したって良いじゃないか。どこかの緑の勇者が、光の矢を使って世界を反転させたかもしれないだろうが。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 鈍色の長い鎖が、天井から植物の様に生えていた。鎖の先に付属している手錠の様な枷が、両足首を戒めピンと真っ直ぐ張っている。まるで蝙蝠にでもなった気分である。

 

 結局、最初に罠を暴いてから数十分後。

 白目の奇人から逃れたのは良いものの、帰る途中で別の罠に引っ掛かってしまった。廊下を歩いていたら突然両足を吊り上げられ、あっという間に蝙蝠人間の出来上がりである。

 何故?と聞かれると、単純にこの身体が悪いとしか言いようがない。

 知っての通り、この身体は非常に燃費が悪い。故に他人の魂を奪い取って己の糧とし実体を得る機能が与えられている。だが、自分はその選択を取っていない。だからこそいつまで経っても燃費が悪いままなのだ。

 罠を暴く呪文を習得しているとはいえ、それを行使するのも結局は魔力が必要だ。そして、城内のあちこちにその呪文を使っていてはあっという間に魔力が底をつく。ホグワーツは一種の巨大な迷路だ。廊下や階段だけでも、数えるのも億劫になる程沢山存在する。それら全てに対し、移動する度罠を暴こうとすれば必要魔力はどれ程になるか考えたくもない。

 だから、魔力の節約の為にも罠を暴かず大胆に動くしかなかった。その結果がこれなのだから目も当てられない。あのピリっとした感覚を頼りに、なるべく痺れが走る空間には近寄らずにしていたつもりだったのだが、やはりその感覚だけでは完璧な罠回避など無理だった。敵の魔力に反応出来るとはいえ、罠の正確な位置は呪文無しでは視える筈もない。

 最適解は何だったかというと、単純にその場で実体化を解いて、ダイレクトに日記帳に戻る事。しかし「もう少しだけ」、と帰るついでに探索を続けようとしたのが甘かった。数分前の呑気な自分をグッサリ刺殺したい。分霊箱だし、今の自分じゃ自殺は不可能だけれども。

 

 この状態になってからまだ数十秒しか経っていないが、後どれほどの猶予があるだろうか。こうして普段は見れない逆さまの世界を眺めるのも悪くはないので、出来ればもう少し時間が欲しいところだ。嘘である。ただの現実逃避である。

 鎖に繋がれたまま、目を閉じて思考を働かせる。

 

 (……やっぱりこの身体って、血液とかは無いんだな)

 

 逆さまになった時の苦痛は一切感じなかった。生身ならこんな体勢を長時間強いられれば、頭に血が昇ったり胃の内容物が逆流して気道を塞ぐ危険性に見舞われるが、幸運な事にその心配は要らない。こんな状態になっている時点で幸運も糞もないのだけど。

 付近には誰も居ないので目撃される心配は無い。まあ自分がそういう場所を選んで動いていたので、当たり前っちゃあ当たり前なのだが……。

 

 (―――戻れない、か)

 

 さっきから実体化を解こうと何度か試みているのだが、どうにもそれが成功する気配は無さそうだ。恐らくこの枷にそういった行動を阻害する何かしらの効果が付与されているに違いない。全く厄介な事だ。逃げられる可能性を少しでも潰すつもりか。

 しかしここで焦燥してパニックに陥るのは愚者だ。何事にも冷静に対処しなければ道は切り開けない。成功するとは思えないが、取り敢えず最初にこれを試してみよう。

 

 『《レダクト》』

 

 天井から生える鎖に向けて呪文を撃ち込んでみる。逆さまだと非常にやりにくいが何とか命中させられた。しかし、やはりというか呪文を受けても鎖はビクともしなかった。そう簡単に破壊出来る代物なら罠の意味が無いので当然か……。

 まだ破壊に使えそうな呪文は他にもあるが、一発目からこの結果である。他の呪文でどうなるかは概ね想像がついてしまう。下手に何発も試して、こちらの魔力が枯渇したら本末転倒だ。これ以上はやめておこう。人生、時に一つの物事に執着せず、潔く考えを切り替えるのも肝心なのだ。

 

 【どうするつもりだい?まさかこのまま諦める、訳ではないよね?】

 

 『当たり前だ莫迦。敵がやって来るまでまだ猶予がある……その間に―――』

 

 そう。罠を仕掛けた張本人―――敵は、「教師」だ。そして今は授業中の時間帯。

 向こうが授業を途中で抜け出すにしても、絶対に多少の時間は使う筈だ。いきなり抜け出したって、絶対誰かに怪しまれる。善良で無害な教師の皮を被っている本人としては、例え子供相手でも怪しまれる行動は避けたい筈だろう。なるべく自然な抜け出しに見える様振舞うに違いない。そして、その振る舞いには大なり小なり時間を要する。

 

 『馬鹿でも解る事だ。……蜥蜴が敵から逃げる時、一体どうすると思う?』

 

 【蜥蜴……、……。君、まさか…………】

 

 『……今の自分は「分霊箱」だ。()()()()()()()、別に死にはしないさ』

 

 一度大きく息を吸う。いや、呼吸の必要は無い身だが、これからする事を考えると何となくそうしたかっただけだ。

 ついでにある可能性を視野に入れて、「本体」の方へとある情報を一気に送信しておく。これで対策はバッチリだ。

 

 そして、()()()()()()()()()()―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 アーガス・フィルチは管理人である。

 

 相棒の猫ミセス・ノリスと共に、日々ホグワーツで働く中老。

 

 普段は校内を歩き回り、校則違反に手を染めた生徒をハンターの如く狩り、教師に突き出したり指導してやったりするのが主な業務だ。その他色々な雑務を長年こなし続ける大ベテランである。

 その仕事内容と本人の底意地の悪さ故に、生徒達からはもっぱら嫌悪の対象となっているが、彼はこれからも自身の行動を改めるつもりは一切無い。

 しかし生徒達が目の敵にしているにも関わらず、極一部の変わり者は彼の存在に悩む事無く校内での問題行動をやめる気は無かった。お構いなしにフィルチにとって腹立たしい行為を入学当初から続行している。それが彼にとって唯一の悩みだった。まあ、自身の行動を改めろだの、彼もまた人の事は言えないのだが。

 

 「―――またあの双子共の仕業か!」

 

 フィルチがいつもの様に廊下を歩いていると、その真ん中に黒い大きな水溜りを発見した。

 彼の仕事には清掃も入っている。こんな大きい汚れを生み出されてはたまったものではない。そして、今までの経験則から犯人は問題行動の常習犯、グリフィンドールのとある双子だと断定する。

 

 「何だこれは……インクでも零したのか?また変な悪戯グッズの実験でもしたに違いない!余計な仕事を増やしおって……!次は絶対に現場を捉えて突き出してやるぞ!」

 

 増やされた仕事に文句を垂れ流しながら、「ミセス・ゴシゴシの魔法万能汚れ落とし」を持って来て掃除に取り掛かる。何だかんだ言って、彼は自身の仕事を放り出したりはしないのであった。まあそんな事をしたら、次は自分がホグワーツから放り出されるのがオチなのだが。

 そうして汚れを落としていると、ふと気付く。水溜りの中央に、濡れて黒色になった鎖が沈んでいた事に。

 

 「何だ、鎖か?」

 

 十メートルはある長い鎖だ。しっかりとした作りで頑丈そうに見える。先端に手錠の様な枷が付いていて、今は閉じていた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 何かの悪戯グッズだとしたら、随分と趣味の悪い物だ。しかし、趣味が悪いのはフィルチも同様だった。鎖を発見した瞬間、にやりと口元を歪める。

 

 「丁度良い!奴らの『指導』に使わせて貰おうじゃないか?えぇ?」

 

 これを持ち帰って、今度違反を犯した生徒に使用してやるのが一番良い。間違いなく良いに決まっている。

 そうして鎖を手にしようとしたフィルチだったがしかし、その企みは成就する事は無かった。

 

 「ん?んん?」

 

 鎖は何故か何もしていないのにボロボロと崩れてしまい、やがて黒い水溜りに溶ける様にして消え失せてしまったのだ。後に残るのは清掃の面倒な水溜りのみ。フィルチは折角想像した楽しい未来を泡にされ、歯噛みした。

 

 「クソ!全く、ぬか喜びさせおって……」

 

 悪態をつきながらも、止まっていた手を動かし水溜りの除去に移る。幸運な事に、水溜り自体には魔法的な何らかの効果は付与されていないようだった。落とせない魔法汚れもある「ミセス・ゴシゴシの魔法万能汚れ落とし」だったが、今回は何の苦もなく綺麗さっぱり清掃に成功してしまった。

 悪戯グッズによる汚れではなかったのか?と訝しむフィルチだったが、仕事を全う出来たのであればこれ以上考える必要は無い。

 

 フィルチは再び校内を歩き出す。

 授業が終わって廊下に溢れ出してくる生徒を見回る為に。

 あわよくば、あの双子の犯行現場を目撃出来れば一石二鳥、と目を光らせながら―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 「でっ、ですから、トロールは一見してど、鈍重で間抜けに捉えられがちなのですが、これは、ま、魔法使いに、良く見られる愚行なの、です。相手を、が、外見で判断するのはいっいけません。み、皆さんも目の前のき、危険に対し、ま、ま、慢心する事がないよう」

 

 ハリーはホグワーツ城二階、「闇の魔術に対する防衛術」の教室で、クィレルの話を聞きながら目を伏せていた。

 

 教室中はニンニクの何とも言えぬ臭いが充満していて、決して居心地の良い空間とは言えなかったが、魔法薬学よりはかなりマシであった。グチグチと何かと因縁を付けては絡んで減点をプレゼントしてくる蝙蝠教師はいないし、材料の量や作業工程のミスに気を配る必要の無いこの授業は、いくらか心を落ち着けさせられる。……最も、肝心の教師が「真面」であれば、だが。

 クィレルが『賢者の石』を狙っている―――そう教えられてから、ハリーはこの授業で顔を上げられなくなった。紫ターバンを巻いた頭から逃げる様にして、何かと目を伏せて机の上の教材を眺める時間が増した。あの人物と目が合うのが、何よりも恐ろしい。

 まさか、生徒達の相手をしている時に本性を出して襲ってきたりはしないだろうが、それでも自分を殺そうとした悪鬼を宿している教師だ。不必要に目を合わせたくはない。

 

 ちなみにこの謎過ぎるニンニク臭だが、何でもクィレルはルーマニアで吸血鬼に襲われた事があり、再び出くわすまいと対策しているからだそうだ。ホグワーツに吸血鬼が侵入出来るならとっくにされているだろ、という突っ込みは野暮だという事で、その事実に気付いても生徒は黙っているだけだったが。

 

 「トロール……こっこの生物は、主に三種存在します。ま、まっ、まずですね、か、川トロールに、森トロール、さっ、最後にや、山トロールと―――」

 

 隣のロンをチラリと見る。つまらないと言った様子でクィレルの説明をノロノロとノートに書き取っていた。その唇は今にも欠伸を放出しそうにモゴモゴと蠢いている。

 この態度は何もロンに限った話ではない。ほぼ全員が、クィレルの授業は肩透かしだと感じていた。「闇の魔術に対する防衛術」という授業名の通り、本格的な魔法を学べるのではないか、と少なからず期待していた生徒が多かったからだ。

 だが、当時目を輝かせていた生徒達の面影は最早無い。唯一、グリフィンドールの少女、ハーマイオニーは至極真面目に授業に取り組んではいたが。

 

 ハリーと同室のシェーマス・フィネガンは、面白そうに質問を出してはクィレルの顔を赤くさせるのが癖になったらしい。

 

 「先生、トロールは、頭も悪ければ足も遅いんですよね?だったら、離れた所から呪文を撃てば僕らでも勝てるのでは?」

 

 誰もが思う疑問だ。クィレルは一瞬硬直したものの、どもりながらも的確な答えを返す。

 

 「……え、えぇ。そ、そ、そうです、ね。しっしかし、えぇ。彼らのひ、皮膚は我々などよりもよ、よっぽど硬いのです。きっ、きっ、君達が使えるじゅ、呪文では、傷付ける事すらむ、難しい、かもしれません」

 

 教科書に載っているトロールは鈍重そうで距離さえ取れば楽勝に見えるが、実際はそう上手くいかない強さを秘めているのだろう。確かに見た目だけで敵を知ったつもりになって慢心するのは良くない事だ。

 

 「く、加えてっ、彼らはこ、棍棒を持っているこっ事がお、多いです。そ、そして、それが無くても、ですね。素の力はいっ言わずもがな、とんでもな、なく、きょっ強大です。鈍いからと、あっ、安心してはい、いけませんよ、ミスター・フィネガン。彼らに命をう、奪われた者は、確かにそ、存在し、しますから」

 

 クィレルはそう言うものの、殆どの時間を安全なホグワーツで過ごす事になる自分達は、トロールと出くわす機会などまず無い筈だ。ハリーは大して正しい恐怖感を学べなかった。こういうのは、実際に対面しないと中々理解出来ないものだ。

 

 ハリーは段々手持ち無沙汰になってきたので、持って来た机の上の日記帳を見る。開かれた白紙には、少し前から一定の間隔でひとりでに文字が浮かんでは消えていた。戯れに返事を書き込んでいく。

 

 "僕マールヴォロ。今四階の廊下に居るよ……"

 

 『そこ立ち入り禁止の廊下が無かった?』

 

 "僕マールヴォロ。今三階の廊下に居るよ……"

 

 『あっ、こっちに近付いて来る』

 

 "僕マールヴォロ。今二階の廊下に居るよ……"

 

 『どうでもいいけど、よく他の人に見付かんないね』

 

 "僕マールヴォロ。今クィレル先生のターバンの中に居るよ……"

 

 『それ冗談でも縁起悪いからやめて?』

 

 "僕マールヴォロ。今二階の…………二階の…………マグル学の教室前に居るよ……"

 

 『ねえ何か迷ってない?』

 

 "僕マールヴォロ。今天井からぶら下がってるよ……"

 

 『それはホントに何で???』

 

 その一文を書き終わった直後、何故かクィレルの解説が唐突に途切れた。

 思わず顔を上げると、彼は口をわなわなと動かし、明後日の方向を呆然と眺めていた。一体どうしたのだろう。

 

 「先生?どうしたんですか?」

 

 誰かが言った。誰かは解らない。その声を皮切りに、クィレルはギョロリと眼球を動かしハリーの方を見た。完全に目が合った。

 

 「……ッ」

 

 反射的に唇を引き結び、手元を見ずに素早く日記帳へ文字を書き込む。目線はクィレルの方を向いたまま逸らせない。

 

 『―――トム、何かヤバイよ。今どこにいるの……』

 

 まるでこちらの目を通して頭の中を覗き込まれるようだ。視線を逸らしたいのに、ここでそれを行ってしまえば妙な疑いを持たれてしまう気がして出来なかった。怪しまれる行動を取らなければ、ここを乗り切れるのでは……?

 そう考えていると、クィレルはハリーから一切視線を逸らさずにこちらへ向かって歩いてきた。隣のロンは俯いてノートを取っている為気付かない。一言も発さずに無表情で接近してくるその姿は、不気味さを掻き立てるのに十分過ぎた。ハリーの淡い希望は早々に崩れ、思わず助けを求めて手元の日記帳へ視線を落とす。この際怪しまれたって構わないから、この状況を彼にどうにかして欲しかった。

 

 "僕は今…………"

 

 彼の文字が浮かんでくる。彼の現在位置を訊いたところでクィレルをどうこう出来る訳ではないのに、ハリーは文字の続きが気になって仕方が無い。

 

 "―――君の後ろに居るよ"

 

 「は?」

 

 素っ頓狂な声を上げて後ろを見る。幸いな事に小声であったので他の生徒達には聞かれなかったようだ。そして振り向いた先に、当然ながら誰も居なかった。

 

 「ぽ、ポッター君」

 

 顔を戻すと、目の前にクィレルが立っていた。喉の奥で声にならない悲鳴が生まれかけるが、咄嗟に呑み込んだ。相変わらず無表情のまま、彼はこちらを見つめている。隣のロンは一体どうしたんだと言わんばかりに、心配そうな目付きでハリーを見ていた。

 

 「ど、どうしたのですかな?さっきから様子がおっ、おかしいようですが。―――それに、い、一体な、何を熱心に書いて、いるのです?」

 

 「せ、先生―――……」

 

 やばい。日記帳の事を追求しているのだろうか?しかし、手元の物に何かを書き込むなんて授業中であれば至極当然の行為の筈だ。現にさっきまで隣のロンもノートへ文字を書いていた。自分にだけこんな質問を掛けるなんておかしな話だ。―――そこを攻めるしかない。

 

 「ノートを、書いていただけですよ……。僕、何か特別変な事、してますか……」

 

 なるべく表情を消して返答する。

 周りはかの英雄が人畜無害な教師に声を掛けられている事実に、不思議そうな視線を両者に送っていた。ハリーは別に素行の悪い生徒でも無かったので、こんな風に教師に接近されて直々に声を掛けられる事の方が珍しく映ったのだろう。魔法薬学の授業だけは例外だが。一人だけ、ハーマイオニーだけがすぐに机へ向き直り、クィレルの解説が止まった時間すら有効活用しようと教科書を読み漁る作業に戻っていた。いや、本当に平常心を取り戻すのが早くはないか。

 クィレルは妙な動きを取る事は無かったが、ギョロギョロと忙しなく蠢く彼の眼球は、何かを見つけ出そうとハリーの机の上へ熱心な視線を落としていた。

 

 (あっ、やばい……)

 

 今、日記帳を見られたら非常に不味い。これは、「持ち主が書き込んだ文字」も「彼からの返信」も含めてすぐに消えてしまうのが常だ。そう、つまり今、この日記帳は白紙だという事だ。ノートを取っていると言ったのに、肝心のそれが白紙だったら相手は訝しむに決まっている。すっかり失念していた!数秒前の自分を叱咤したくてたまらない……!

 

 (でも、だって、大丈夫って言われたから……!)

 

 自分自身に言い聞かせる。……そうだ。彼は、トムは確かに入学前からハリーに承諾していた。「授業に日記帳を持っていき、なんなら書き込む行為を許す」、と。

 誰かに見られるリスクがあるのに良いのか、と訊ねても、彼は首を縦に振るだけだった。見た目だけなら古いノートに見えなくもないし、変に勘繰られる事も無いだろう、とも。だからこそハリーはそれを鵜呑みにし、例えクィレルの授業であろうともこれを持ち込んでいたのだ。何かあった時、クィレルの動向をリアルタイムで彼に報告する為に……。

 

 「いえ、いえ。きっ、君に限ってそんなこ、事はなっ無いでしょう。た、ただね。君が、授業とは関係のな、ない事を、書いているのでは、ないかとお、お、思いまして、ね。どれどれ……」

 

 クィレルは心中が焦燥感で埋没しているハリーの様子などお構いなしに、机上で開かれている日記帳を覗き込んだ。かなりがっつり見られている。ここから誤魔化す術など何も無い。

 嗚呼、万事休すか……と、瞳のハイライトを失いかけたハリーの耳へ、思いもしない言葉が流れ込んできた。

 

 「これは、これは…………。い、いえ、……ポッター君。じっ実に、良く書けて……いますね……」

 

 「へ?」

 

 想像とは全く違うクィレルの言葉に耳を疑った。慌てて日記帳を確認すれば、

 

 「……あっ……」

 

 そこには、先程までクィレルが解説していた―――トロールについての生態がびっしりと書かれていた。トロールが三種存在する事、訓練により人の命令に従えさせる事が可能だという記述、未熟な魔法使いでは討伐など出来やしない点まで。それはもう丁寧に、まるで優等生のノートがそこにあるかの様だった。そしてこの文字の全ては、他ならぬハリーの筆跡と何ら変わらぬ形をしていた。少し丸みのある、柔らかなフォントを感じさせる自分の筆跡。だが、自分はこんな詳細を書き込んだ覚えは無い。断じてだ。

 クィレルはそんな真実を知ってか知らずか、本当に申し訳無いという声色で謝ってきた。

 

 「す、すみません。こ、ここまで書いていたというのに、私は君をう、疑ってしまった。ぽ、ポッター君、素晴らしいです。ぐ、ぐ、グリフィンドールにい、一点与えましょう」

 

 「ええっ?」

 

 今日一番、自分に驚愕を与えた出来事だった。まさか、宿敵に寄生されている教師が、こちらの所属寮に得点を贈るなんて。演技なのか素でやっているのかハリーには判断がつかない。この場にトムが居れば、この教師の真意などすぐに見抜いてしまうのだろうか。思わぬ得点アップに、少なからず気分が高揚してしまう。

 ……いや、浮かれるところじゃない。授業に良く集中している(様に見られた)生徒に対し、点を与えるのは教師として当たり前。むしろ、そうしなければ他の教師や生徒から怪しまれるに決まっている。スネイプの様に昔からグリフィンドールに当たりの強い人間ならともかく、クィレルはそういった確執が特に無いと周囲から認識されている男だ。そんな教師が、突然特定の寮に対しやたら得点を与えなくなったらその変化を疑われる。これは、ホグワーツに溶け込む為の―――周りの目を欺く為の行動だ。その身に宿る宿敵は、本当はこんな敵に塩を送る様な事を望んじゃいないだろう。

 

 「しかし、本当によ、良く書けています。宜しければ……もっと見せてい、頂いても?」

 

 「えっ、それは……」

 

 再び危機的状況が舞い降りる。この日記帳に直接触れるつもりだろうか。流石にこんなたくさんの他人の目がある状況で、まさかいきなり盗られるなんて事態には発展しないと思うが、何か非常に嫌な予感がする。この男に指一本だろうが、ほんの一秒だろうが触らせるのは絶対に避けねばならない、そんな曖昧な予感が沸き起こる。

 そもそも、何故クィレルはこんなにもしつこいのだろう。

 今まで授業でノートをちゃんと書いている生徒はいた。ハーマイオニーという少女。彼女もまた今の日記帳と負けず劣らずのノートを取っている筈だが、それを見たクィレルは褒めはしてもこの様に中身を見せてくれとは言い出さなかったのだ。ノートだと言い張っているが、やはりこの日記帳が何なのか知られているのか?知った上で、こんなにも関わろうとしてくるのだろうか?

 

 「あっ、あまりにも解り易く書けているもので。こ、今後の授業のね、さ、参考になればいいと、思いまして」

 

 「あ、あの……」

 

 どうすべきだ。クィレルは何もおかしな事は言っていない。ここで断れば、おかしいと思われるのは自分だ。しかし、己の直感はノーと叫び続けている。どうすれば……

 

 「先生」

 

 と、その時、予期せぬところで救いの手が舞い降りた。隣から上がった声の主へ振り向く―――ロンだ。

 

 「僕もハリーのノートを見た事があるけどさ……参考になるなら、どっちかと言うとあの子の方が役立つんじゃないですか?」

 

 「み、ミスター・ウィーズリー……あの子、とは、」

 

 クィレルも思わぬ横槍にロンを凝視している。ロンは彼の視線が心地悪そうに頬を掻きながら、前の席に座るふわふわの栗毛を―――ハーマイオニーを指さした。

 

 「えっと、ハーマイオニー、だったっけ?君、入学前から教科書読み終わったとか言ってたし……ノートも完璧なんだろ?」

 

 持て余した時間で教科書を読み耽っていた少女は、まさかそんな事を言われるとは思ってもいなかったのだろう。顔をほんのり赤くさせて、こちらの方を振り向いてきた。

 

 「……え、ええ。そうよ。確かに、ノートだってちゃんと取っているわ……い、今までもね……」

 

 「だ、そうだよ、先生……彼女の方が、きっとずっと参考になると思う。だって僕、知ってるんだ。ハリーがこんなにばっちり書いてるの、今日が初めてだし」

 

 言葉をそのまま受け取れば、ロンが言っているのはハリーの評価を貶めるモノだ。しかし、今日だけがばっちりであるという彼の言葉は事実であり、今はそれに救われた。クィレルがハリーのノートに触れる口実を奪ってくれたのだ。代わりにハーマイオニーを差し出す様な形なのは、アレだが。

 

 「そ、そうです。僕達、互いのノートを良く見るので。今日は偶々、ちょっと上手く書けただけなんです。その、授業の参考になる出来じゃないと思うし……ハーマイオニーの方が、よっぽど……」

 

 ロンの言葉に乗っかる。ここまで言っているのに、それでもハリーのノートへ関わる行為は、周りから見れば奇妙に映るに違いない。そしてそういう状況を避けたがっている立場からすれば、ここは退くのが最適解の筈。

 

 「……、そ、そうですか。でっではミス・グレンジャー。授業が終わったら少しあ、貴女のノートをみっ見せて頂いても?」

 

 案の定、クィレルはこの件から身を引いてくれた。矛先を変えられたハーマイオニーは、突然の事に目を見開きながらもはっきりとした声で答える。

 

 「はい、先生。私ので良ければ、その……お願いします」

 

 言葉の端々から、彼女が嬉々とした感情が抑えられないという事が解る。授業の参考になる人材になったといった事実が、純粋に嬉しいのだろう。生贄に差し出した様で少し不安だったが、彼女自身があんな様子だし、誰も不幸にならない良い結末を迎える事が出来た。ハリーはほっと胸を撫で下ろす。

 とりあえず日記帳への接触を防ぐ事が出来た。そしてロンの言葉を、この場にいる皆が聞いている。この先、クィレルがハーマイオニーではなくハリーのノート(日記帳)を無理に見ようとする事は無いだろう。他の生徒におかしく見られる事になるのだから。

 

 「……少し、な、長い間授業を止めて、しまいましたね。つ、続けましょう。では、トロールの種類別のせ、生態から行きますよ―――」

 

 クィレルが身を翻して教壇の方へ戻っていく。ハリーは小声でロンにお礼を言った。

 

 「……ありがとうロン。僕、そのさ……」

 

 「良いって。僕もちょっと驚いたんだぜ?あんなノート取ってたの初めてだったじゃないか?でもさ、何より……君がそれに触られたくなさそうなの、すっごく解かり易かったし」

 

 「そ、そこまで解って今のをやってくれたの」

 

 「だって、ほら―――友達だし?」

 

 改めて言われると照れ臭い。見れば向こうも顔が赤くなっている。それを見せるまいとしてか、ロンは私語をやめて俯き、さっきとは打って変わってひたすらクィレルの説明をノートに書き始めた。

 ハリーも一息ついて日記帳へ目をやると―――そこには、少しだけ薄くなったトロールの生態記述があった。ページの一番下に、さっきまでは無かった文字が色濃く浮かび上がっている。

 

 "あと十分で消えます"

 

 ハリーは慌てて日記帳とは別の、白紙のノートを取り出して内容を書き写す。ロンは照れ隠しに夢中でハリーの行動には気付かない。何故わざわざ別のノートを書いているのか聞かれないのは幸いだった。

 

 (……全部、見通して、トロールの事を……?)

 

 ―――日記帳にトロールの詳細が記され、それが長い間消えずに残っていたのは間違いなく彼の仕業だ。

 普段から彼には全ての授業内容を伝えている。何を学んだか、どのペースで進んだか、そういった物を毎日必ず報告しろと言われていたからだ。既に色んな知識を蓄えている癖に、何故?と思ったが、まさかこういった状況を乗り切る為に……?

 授業中、誰かに見られる事があっても不審に思われないように。日記帳に授業と同じ内容を浮かび上がらせる為に?

 確かに、クィレルの授業ではトロールについて学ぶ段階に入ったと伝えていた。だからあんなびっちりトロールの生態を、あのタイミングで浮かばせた、と……。ご丁寧に、筆跡までハリーと同一にして。

 

 (ええぇ……?もう、察しが良いとかそういうレベルを越えてる様な……。もしかして、あの時、本当に後ろに居た?)

 

 幾ら授業内容を把握しているからとはいえ、日記帳に記すタイミングまでは解らない筈。だって彼はあの場に居ないし、日記帳に書き込まれた文字でしか外の様子を理解出来ないのだ。何故、クィレルに覗かれるタイミングが解った?後ろにいると書いていたが、その時本当に自分の背後で実体化していたとしか考えられない。

 

 (でも、だと先生が見てる筈だし……)

 

 考えても考えても解らない。とにかく、今は授業に集中しよう。折角質の良いノートが目の前にあるのだ。消される前に自分自身のノートに写してしまわなければ。

 そんな風に、隣のロンと同じく俯いたハリーは気付かなかった。

 

 ―――クィリナス・クィレルが、氷の様な冷酷な視線を、ハリーの横に居る赤毛の少年へ注いでいた様子に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『……ッ』

 

 フラフラと覚束無い足取りで、ホグワーツの廊下をよろめき進む。立ち上がる事も出来ない赤子に退化させられた気分だった。

 

 (いや、解ってたけどさ。何でこの身体……痛覚があるんだよ……おかしい、だろ……)

 

 先程の激痛の余韻がまだ残っている。未だに感覚の無い足を動かし、緩慢ながらも確実に歩を進める。立ち止まるわけにはいかなかった。

 本当に、タイミングが悪過ぎる。まさか他の誰でもない、ただの職員に発見されそうになるとは。早急に現場から立ち去る事を優先した為、己の痕跡を隠滅し損ねた。とんだ大失態である。

 唯一救いなのは、あの男が魔法に精通している訳ではない、出来損ない(スクイブ)と呼ばれる部類の人間であった事か。あの痕跡を見られたとて、それが何を意味するのか彼には解るまい。魔法族生まれでありながら魔力を持たない人間、それが彼の様なスクイブなのだから。

 

 普段からハリーを叩いたり逆に叩かれたりしているので理解していたが、この身体は分霊箱の癖に痛覚が存在する。そういえば本来の結末でも、消滅する寸前は苦痛に満ちた断末魔を上げていたな、と思い出す。まあ、誰だって殺人級の猛毒を流し込まれたら、幽体であろうが絶叫したくもなるだろう。

 何で痛覚なんて機能があるのか解らない。というか、普通に考えて要らない筈だ。制作者の意思で痛覚の有無を設定出来るのかどうかは知らないが、もしも出来ると仮定しよう。その場合、何故痛覚を設定したのか非常に謎である。邪魔な感覚に違いないだろうに……。

 まあ、幸いにも耐えられない痛みでは無かった。そもそも、この世界で一番最初に覚醒した時の激痛の方が程度で言えばヤバかったのだ。あの痛みを一度経験したら、他の痛みなんて何でもマシに感じるくらいである。

 ……今でも、あの激痛の正体は不明だ。本当に、あれは一体何だったのだろうか。胸部を貫かれる様な痛みと、全身が千切れる様な痛み。あれがもしも此処に来る直前に味わった物だとしたら、生前、自分は一体どんな目に遭ったというのか。やはり向こうの世界での死因は、交通事故か何かで体がミンチにでもされたのだろうか。だがあの頃の自分が屋外に出るなんて考えられない。家に隕石か飛行機かが墜落してきたのか?だとしたらなんて不運な……

 

 (……、いや……確か、あの時)

 

 脳裏にとある光景がフラッシュバックする。

 室内と思しき空間で、床一面を覆い尽くす赤い水溜り。その中心で横たわる誰かの姿。

 

 (そうだ。何で、今の今まで忘れてたんだ……?あの時、確かに……誰かが、あの場所で死んでいた……!)

 

 とんでもないタイミングでとんでもない事を思い出してしまった。忘れようのないインパクト大の記憶だろうに、何故さっぱりすっかり忘れていたのだ。

 あの死体は誰だっただろうか。両親はとっくに家から居なくなっているし、親戚も近所も訪ねてくる事は有り得なかった。

 

 (泥棒にでも押し入られて、取っ組み合いの末お互い三途の川送り、なんてオチじゃああるまいな……)

 

 断片的な情報から推理するに、この可能性が高いのだが何とも言えない。例え凶器を振り回す通り魔に強襲されたとしても、返り討ちに出来る力と自信はあったのだ。誰かに殺害されてしまっただなんてあまり考えたくない。

 しかし何故、向こうの世界での最期の行動がはっきりと思い出せないのだろう。おかしな話だ。家族も幼少期の思い出も鮮明に記憶しているのに。

 ……ああそうだ。そういえば本名もいつの間にか忘れていたのだった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。奇妙な現象だ。別に本名を思い出したいなんて思わないが、絶対に忘れる筈のない記憶だけ抜け落ちている事実には違和感を拭えない。普通、自分の名前を忘れる奴がいるだろうか?

 本名なんて忘れようが思い出そうがこの世界に於いてはクソ程の役にも立たないが、何かそこに、重要な事が隠されている気がするのだ。何故忘れる筈のない記憶が抜けてしまったか、其処に思いも寄らない真実が秘められている気がする。

 だがどうやって真実を捜し出せば良いのだろうか。頭を強烈に叩かれれば思い出したりしないだろうか?……無理そうだな。この記憶を取り戻すには、どうも一筋縄では行かないようだ。まあ、最悪一生取り戻せなくても良いのだけれど。

 

 (それにしても……。ああ、この感覚……)

 

 先程からこの身を襲う飢餓感に呻き声を上げる。

 実を言えば、ホグワーツに到着してからしばしばこの感覚に苛まれていた事があった。当初はまだ微弱な物だったので、気のせいだろうと楽観的に考え放置していたが、今になって誤魔化せないぐらい肥大してきた。

 胃袋なんて存在しないのに、腹の底で湧き上がる空腹感。酷くお腹が空いている。耐え難い苦しみだ。漠然とした脱力感も同時に押し寄せてくる。

 

 食べたい。喰らいつきたい。

 早く、早く、人間の魂に―――

 

 『―――ッ!?』

 

 その時、一際大きくよろめいてしまった。近くにあった階段の手すりで身体を支えようと試みたが、愚かな自分はある特性をすっかり失念していた。

 

 (おっ、堕ち―――)

 

 ―――この身体は、魔力の篭っていない物体には触れられず、透過してしまう事を。

 

 手すりを掴もうとした両手が空を切り、勢い止まらず階下へ落下する。激痛の余韻と空腹で何らかの魔法を行使する余裕も無かった。どういう訳か、こういう緊急事態に声を上げそうな同居人は沈黙を保ったまま何も言ってはこなかった。

 「ああー」、とどこか他人事の様に虚ろな瞳のまま頭からダイブ。死ぬ訳が無いと把握していれば高所からの落下もいくらか平常心でいられる。『魂まで蝕む毒牙(バジリスクの牙)』で刺されたり、『生物を象る呪炎(悪霊の火)』で炙られたり、『ゴブリン製の強力な武器(グリフィンドールの剣)』で首を刎ねられるよりマシというヤツだ。

 

 「―――おっと、危ない!」

 

 予想していた衝撃は何時まで経ってもやってこなかった。男の声が響いたと同時、空中で誰かに背中から抱きかかえられたからだ。見ると銀色に鈍く光る男が浮遊しており、こちらを心配そうに見つめていた。時代遅れなひだえり服を着ている男だ。非常に不本意だが、その人間にお姫様抱っこされる格好になっていた。

 

 「……ふむ?見かけぬゴースト……新米ですかな?気を付けたまえ!『成り立て』は君の様に上手く飛べず堕ちる事が良くある!……しかし君、何だか姿が妙ですが、大丈夫なので?その一昔前の制服は、『嘆きのマートル』と同じ―――」

 

 こちらの姿をまじまじと眺めると同時、顔を顰められた。見た目だけなら今の自分は生者と何ら変わり無いのだが、一発でゴーストに近い存在だと看破された。つまり、相手の正体はそういった類の知識に詳しい存在―――本物のゴースト様だ。

 男は自分でやった事の筈なのに、己の体とこちらの体が触れ合っている事に自分で驚いているようだった。視線が自分の腕とこちらを交互に行き来し、戸惑っている。

 

 「お、おや?咄嗟に飛び出してしまったが、何故我々はお互い触れ合えているのでしょう……?き、君、生者ともゴーストとも違う存在なので―――」

 

 『《オブリビエイト》』

 

 助けて貰っておいて何だが、自分の姿を目撃されたのであれば、例え人生の大先輩とも言える死者であろうとも忘れて頂かなければならない。

 さっと杖を取り出し、相手の頭に向けて忘却術を放つ。直撃を受けると同時、相手の首が真横にぱっくりと割れ、首の皮一枚繋がったまま肩まで折れ曲がった。連鎖して自分を抱く力が失われ、再び重力に従って落下を始める。だが地面までの距離が近くなっていたのか、背中に軽い衝撃を受けるだけで済んだ。

 ゴーストであろうとも、一部の呪文は通じる事を知っている。というかゴーストがもし何の呪文も食らわない無敵の存在であれば、とっくにやりたい放題現世を荒らしているだろう。魔法省にゴーストを管理する役職もあるらしいし、魔法使いは彼らに対し干渉する術を持っているのだ。

 

 しかしまさかゴーストに触れられると思わなかった。魔力を流す物や魔力の篭った物にしか触れられない身体だが、何と接触出来て何と接触出来ないか地味に謎なところもある。杖に鏡に屋敷しもべ妖精にハリー、そしてゴースト。何故ゴーストも……?どうしてか良く解らない。

 

 (あー…………。成程)

 

 この身の『知識』へアクセスし、今理解した。ゴーストというのはこの世に留まった「魔法使いの霊魂」であり、基本的にマグルはなれないのだ。つまり魔力を持つ死者が為れる者、それがゴースト。彼らの霊魂には、死して尚魔力が備わっているのだろう。

 ……しかし、魔法使いが死ねばゴーストが生まれる可能性があるという事は、つまり……ヴォルデモートが完全に死んだ場合もか?あの男は死を恐れ意地でも受け入れない人間だ。死んだとして、絶対未練ありありでゴーストに転じる可能性が高い。別にあの男を殺したい訳ではないが(その選択を取れば自分も死ぬ羽目になるので)、何となく気になる。実際に検証出来ないのが本当に残念だ。

 

 重苦を紛らわす目的の思考だったが、かなり脱線してしまったので現実に意識を戻し、頭上を見上げる。首の断面を晒し頭部が真横に傾いている男が浮遊している。今は自分の呪文が原因とはいえ、こんな醜態を晒す恐れのあるゴーストを常駐させて良いのか?純粋無垢な子供もやって来る学校に、こんなグロい奴置いとくなよ……と、ついつい心中で突っ込んでしまう。

 

 『「ほとんど首無しニック」……ね。生前の肉体損傷が、ゴーストになっても反映される……興味深いけど、調べる時間も意味も無い』

 

 空中で首が裂け、口を開けたまま硬直していたゴースト・ニックは少しして自我を取り戻し、慌てて己の傾いた頭部を元の位置に押し込んだ。周囲をきょろきょろと見回す動作をしているが、すぐ下に居るこちらには気付かない。咄嗟に目くらまし術を使用したのだ。

 グリフィンドールの寮憑きゴーストが、スリザリンである闇の帝王の分霊を助けるなんて、どんな皮肉だろう。今の様に、寮など関係なく助けに入る行動を生者が行えたならば、グリフィンドールとスリザリンの確執は解れるだろうに。……本来生徒ですら無い自分には関係の無い事だが。

 

 まさかこんな所でゴーストに目撃されるとは……。まあ相手の記憶もしっかり消したし、特に問題は無い。ゴースト特有の気配も同時に憶えた。今後彼らが接近してきたとしても、すぐに察知して身を隠せる。思わぬ収穫を得た。

 

 (でもこっちは解決、してないんだよな……)

 

 無意識にお腹を押さえる。もう滅茶苦茶にお腹が空いている。今まで空腹感とは無縁の生活だったのに、それがこうもあっさり崩壊するとは誰が予想出来るだろうか。

 実はさっきも危なかった。ゴーストは肉体を抜け出た魂の塊だ。その身に触れられないからと言って、彼らは何も所有していない訳じゃない。己が糧となる食料―――つまり、魂。それをしっかりと持っている。

 ニックに救われたあの時など、目の前に突然ご馳走をぶら下げられた様なものだ。自制するのに苦心したのは語るまでもない。

 

 【こっちへ来い……】

 

 ヤバい。空腹の余りに幻聴まで聴こえて来た。しゃがれた老人みたいな声がなんかエコーしている。お前は浴室にでも居るのか?

 

 【其方ではない……此処だ……。此処へ来るのだ……】

 

 未だに城内を見回しているニックから距離を取ろうと近場の廊下へ逃げ込んだ瞬間、浴室のジジイ(暫定)が偉そうに命令してきた。

 幻聴だとしても喧しいなこのジジイ。誰に指図してんだ。細切れにするぞ。

 

 (―――、嘘だろ。何でこのタイミング?)

 

 空腹感と幻聴に心を乱されまいと、内心で全力格闘していた時、廊下の向こうから生徒が歩いてきたのだ。その真っ赤なローブが示すはグリフィンドール。

 いやいやいや、待ってくれ。今は授業中の筈では?何でたった一人で彷徨いてるんだ。おかしいだろ。あのスクイブ仕事しろよ、役立たず。

 ボロクソに悪態をつくが、非常に不味い。目くらまし術中なのでこちらを視認されはしないだろうが、この術を意地する気力が持たなくなってきた。魔力が足りないとかではなく、単純に空腹感が強さを増し魔法に集中出来ないのだ。あの生徒が廊下を通り過ぎるよりも早く解けそうだ。

 

 (あっ無理だこれ。バレるなこれ)

 

 ここまで来ると容易に未来が予想出来る。最早悟りの境地に至る。もうどうにでもなれ。

 最悪バレたらニックにやった事をもう一度行えば済む話。諦観の領域に入り、脱力感に身を任せその場で項垂れた。アンパンのヒーローではないが、お腹が空いて力が出ないというヤツである。

 と、しばらく廊下を歩く足音をBGMに目を閉じて待機していると―――不意に、全身を襲う重苦が消え去った。本当に唐突に、綺麗さっぱりと吹き飛んでいった。

 

 (……、………………???)

 

 空腹も幻聴も何も無い。即効性の麻酔にでも掛けられた様だった。苦しみから解放されても、原因不明の回復現象に素直に喜べない。ここで喜ぶのは最早馬鹿である。

 

 『いや、今はそれより―――《ステューピファイ》!』

 

 疑問に終止符を打つよりも優先すべき事がある。こちらへ向かってくる生徒の足止めだ。足止めというより失神になってしまったが、半ばパニック状態だったので乱暴な選択肢を取ってしまったのは大目に見て欲しい。『全身金縛り(ペトリフィカス・トタルス)』でも足止めは出来るが、あれは動きを止めている間も対象の意識は継続するので、この場で使用するにはよろしくない呪文なのだ。

 突然の攻撃に戦闘慣れなどしてない生徒は勿論反応出来ず、きょとんとした表情のまま廊下の真ん中で仰向けに倒れた。目くらまし術中の攻撃だったので、あの子から見れば虚空からいきなり呪文が飛んで来た様に感じただろう。姿を見られていないのは僥倖だ。

 ひとまず窮地を脱し大きく息をついていると、今の今まで沈黙状態だったあの声が響いた。

 

 【……今、少し良いかな?】

 

 『爆発させるぞ二秒以内に』

 

 【まだ用件、何も言ってないんだけど】

 

 『じゃ、永久の眠りにつかせてもいい?』

 

 【うん、もしもこちらが現実に居たら、殺人予告で君を訴えているからね。すぐにウィゼンガモット法廷から出頭命令が届くだろうからね】

 

 『お前が強気に突っ込み入れるの、珍しくないか?』

 

 【君とあの少年の会話を参考に少々真似してみただけさ】

 

 『お前それ、「私は少年達の会話を盗み見るのが日課です」って告白してるのと同じだから控えた方が良いと思うぞ』

 

 【いやそういった類の趣味は無いから普段の君と打って変わって本気で心配しないでくれないか?】

 

 割と真面目に助言をくれてやったつもりだが、淡々と全力で否定された。気まぐれだが心配してやったというのにつれない奴だ。もしも本当にこいつにそういった類の趣味があって現実でも実行しようと企むものなら、世界の為に何に代えても全力で滅ぼさなければならないのでまあ良かった良かった。

 

 【君は、たまに良く解らない事に使命感を燃やすよね……】

 

 『その時その場の気まぐれってヤツだ。それより、用件は何だ?さっさとしてくれ鬱陶しい』

 

 【話の腰を折ったのは誰?】

 

 正当な指摘は無視して倒れている生徒へ近寄る。しゃがみ込み杖先で片頬をつついてみるが反応が無い。完全に失神している。成程、道具を介してならハリー以外の人間に触れるのだろう。

 しかし、ふむ、人間相手に失神呪文が成功するとこうなるのか。人に向けてあの呪文を使って命中したのはこれが初めてなので、成功した結果を見ると少し感慨深いものがある。この調子でゆくゆくはあの調子に乗りまくった帝王様へとぶち込みたいものだ。その時はクルーシオでも良いかもしれない。

 

 【これは、こちらにとっても思わぬ事態なんだ。だから一応、君にも報せておこうと思って】

 

 『殊勝な心掛けだな。下の人間が上の人間に対して報連相を遵守する、どの世界でも常識だ』

 

 【勝手に下にしないでくれと言いたいが今はまあ置いておくとして。君も知っての通りだけど、今、謎の苦痛に苛まれてはいなかったかい?】

 

 さっきのあれの事だ。素直に首肯しておく。

 割と長話になりそうなので手慰みに倒れている生徒で遊ぶ事にした。超弱めの《インセンディオ》で相手の特徴的な赤毛の一本を燃やしてみる。かなり弱くしたのだが、チリっと一瞬で焦げてしまった。呪文の威力調整技術もこの先しっかり熟練させないといけないな、これは。

 

 【あれはきっと、いや絶対に「本体」の影響が及んでいる証だね。考えにくいけれど、向こうは直接でなくとも、離れたところからこちらへ何らかの精神的干渉を行っている事が確定して―――ねえ、ちょっと、聞いているかい?】

 

 『聞いてる聞いてる。そのままどうぞ。要は呪文とか無しで僕に何かをしてきたって話だろ?―――《アグアメンティ》、っと』

 

 頭部全体に燃え広がりかけた弱火を硬貨サイズの水滴で消化する。髪の一部分が濡れただけで生徒を水浸しにはさせなかった。うーん、水操作に関する技術は完璧だ。これ以上はもう磨かなくてもいいな。

 

 【……本当に他の作業をしながら人の話を理解出来るんだね。それなら構わないが……うん、続けよう。まあつまり、さっきのあの苦痛も、間違いなく向こうの仕業という事さ。どういった手段を用いたかはまだ調査中なんだけどね。それで君に訊きたいんだけど、具体的にどんな影響を受けた?やはり痛みかい?】

 

 『痛み……は、無いな。強烈な空腹感、それに……幻聴』

 

 濡れた部分の髪の毛を《グレイシアス》で凍らせる。カチカチに白く凍結してまるで氷柱の様だ。勿論弱めなので凍傷は起きないし相手の意識を覚醒させる事はない。

 

 【成程、幻聴か―――、……ねえ、あのさ、そろそろやめてあげたまえよ。生身の人間に実験なんてやりたいとしても今は控えてくれると嬉しいんだが】

 

 確かにうっかり目に見える傷でも残すと、誰にやられたんだと騒がれて後で面倒な事になりそうだ。ここら辺で《フィニート》を唱え、髪の毛を解凍させる。すまなかったな少年。

 

 【幻聴と言ったけれど、もしかして何か命令でもされたかい?】

 

 『そういえばこっちへ来いとか言ってたな。行かなかったが』

 

 【……うん、君にとっては些細な事だったかもしれないけど、精神的に作用する命令だから。多分、逆らうのは相当に困難だった筈だよ。意識せずによく拒絶出来たものだね】

 

 『「うるさいなこいつ」って思ったらあんまり気に掛からなくなったな』

 

 【「うるさいなこいつ」で済んだら誰も《インペリオ》なんかで困らないんだよ……】

 

 確かにそうだが、あの呪文に掛かった事がなくまた掛けられても無効化してしまう身としては、インペリオで苦しんだ人間の気持ちなどよくは解らないものだ。

 

 『あの程度で済んだのはお前が耐性を付けさせたからだろ、多分。で、結局お前は何が言いたんだ?』

 

 【―――「敵は強硬手段に出た」、という事さ。あの罠もそうだが、ダンブルドアも校内を歩き回るというのに、何故あちこちに魔法的な罠を仕込んだか気になるだろう?あの老人は―――認めたくはないが、そういった罠などすぐに見抜くだろうさ。そして、誰が仕掛けたかまで把握する実力も持っている。露見すれば己の立場が危ういというのに、君の為に危険な手段まで手を染め始めた。精神的な影響も同時に、ね】

 

 『それは言われなくても理解してる』

 

 【つまり、ね。最早敵がどんな強引な手を使ってくるか解らないから、今まで以上に注意した方が良い。……君の本体は、あの少年に預けたままだろう?こちらから言わせてもらえば、不用心としか言いようがない。あの子供は君の様に自衛する力など無いだろう?無理やり本体を奪われでもしたら、】

 

 『ああ、別にそっちの心配は良いんだよ。するだけ無駄だ』

 

 【―――、―――?】

 

 『……お前には仔細を語るつもりはないけど』

 

 全く意味が解らないと言わんばかりに疑問符塗れの同居人は放置だ。どうして本体をみすみす無力な少年に預けっぱなしなのか、生憎と誰にも教える気は無い。まあ、ハリーにだけはたった一つの対処法を伝えてはいるが。

 もしもクィレルに何かされそうになったら―――「どこでもいいから全力で相手の素肌を触れ」。それだけの対処法を。

 どうして『賢者の石』を巡る騒動に幕を下ろせるその方法を初めから選ばないのか?―――そんなのは決まっている。

 自分は、直接逢わなければならない。騒動を解決するよりも先に、あの男と。あちらにされるがままではなく、こちらが優位な状態で。だから、今はまだ、目立った行動を起こさない。

 ……まさかクィレルに己の存在をアピールしてから、こうも早く色々と手回しされるとは思わなかったが。ハリーにも悪手じゃないかと言われたあの行動にも、ちゃんとした意味はあったのだけど。

 

 『にしても、罠だとか遠隔命令だとか。やる事成す事幼稚な奴らだなぁ。素直に直接逢いに来るという選択は取れないのかね、臆病者共め』

 

 【それだけ向こうも慎重に動いているという事だろう。あの老人も目を光らせているのだし】

 

 『で、さ。一つ答えて欲しい事があるんだが』

 

 【君がその台詞を言う時は言外にかなりの圧を感じる】

 

 知っていたけど、こいつもこいつで人の感情の機微に凄く敏感だな、ホントに。きっと、人の顔色を窺いながら生きる惨めな人生の中で習得した才能なんだろう。口に出すのも面倒なので、心の中だけで侮辱の眼差しを向けておく。―――ん?何故かこっちにも侮辱的な視線を感じるのはどうしてだ?おい、何処のどいつだよ、この視線。

 

 『さっき僕が色々苦心していた時。お前、音沙汰無しだったよな。―――何かしていたんだろう?そして、不意に僕を苛んでいた苦痛が消失した。さて、犯人は一体だーれだ?』

 

 核心を突く一言で沈黙が返って来た。こいつが沈黙する時って大体肯定してるパターンなんだよな。隠す気あるのか?

 ……あれ、何か前にもこんなやり取りをしていなかっただろうか。そしてその時、こいつは酷く憤慨していなかっただろうか……?はて、これはいつの記憶だったか……。こいつが本気で怒ったところを見た筈は無いのだが、奇妙な既視感だ。

 

 【……そうだよ。君の言いたい事は合っている。君に声を掛けるまで、君を襲う精神的作用の正体を突き止めようと働いていたんだ】

 

 疚しい事は何も無いと言わんばかりに、スラスラと言葉が並べ立てられる。浮気現場を目撃された男が取り繕って言い訳マシンガンしているみたいで、何か妙に笑えるんだが。

 

 『それが忙しかったから、会話する余裕が無かったと?』

 

 【やっていた事は調査だけじゃなかったしね。……君に掛けられた干渉を、どうにか出来ないかと思って―――まあ、少々苦戦していたという訳さ】

 

 『で、結果は成功に終わってめでたしめでたし、僕に声を掛けたってオチか』

 

 【うん、その―――君の苦痛を肩代わりする形で、吸収させて貰ったよ】

 

 Hey, you! just a moment! could you say that again? I may have misheard.

 

 【急にこちらの言語になるのはふざけているのか単に驚いているのか分かり辛いから戻してくれ】

 

 くっ、まさかこいつに突っ込まれてしまうとは。なんたる失態。一瞬言ってる事に理解が及ばず、ガッチガチに封印していた多言語スキルがつい溢れてしまった。これ、嫌な思い出しかないからなるべく封じ込めたままにしておきたかったのだが……まあ仕方無い……。とにかく、故郷の言語に直して話す事にする。忘れがちだが、この全自動英国語翻訳スキル(分霊箱になった瞬間から存在した)は地味に便利である。

 だが、相手は妙にこの事実に食いついて追求してくる。特別重要な事でも無いだろうに、どこか威圧感を滲ませて。

 

 【……もしかして、本当は話せるのに出来ないフリを?今の今まで、何十年もずっと―――?】

 

 『いや待て、別にフリって訳じゃなかったんだよ、外国語に関連する事に昔ちょっとトラブルがあって、それで封印を―――って、しれっと話を逸らすな。こっちの話は良いんだよ。今はお前に質問してるんだ』

 

 本当に何なんだ。罪悪感に似た物を感じさせられるが、何で若干責められてる形になってるんだ?こいつには何の関係も無いというのに、変な奴だ。

 

 【……まあ良いさ。それでさっきの言葉の真意だけど―――簡単な話、君の精神的な干渉を、こちらが全て引き受けたという事が言いたかったんだ。つまり、吸収って訳だね】

 

 平然と言ってくれるが、それって逆にこいつが危ないんじゃないのか。素直に喜べないんだが?

 

 『別にお前がどんな目に遭おうがどうでも良いんだけど……お前に何かあったらこっちにも影響が来ないのか?その辺大丈夫なのか?』

 

 【問題無いよ。完全に吸収したから、こちらにも君自身にも影響は何一つ無い。ついでに補足すると、今現在も干渉は続いているからずっと吸収中なんだよね。君は何も感じないだろうけど】

 

 ……、今現在、も。

 だとしたら、こいつがやっている事は認めがたいが凄く有り難い、という事になる。なってしまう。

 あの空腹感も、不快感マックスの幻聴も、全てこいつが肩代わりしているというのだろう? お陰で、自分はすっかり回復した。

 まあ、吸収と言っているので、厳密にはこいつが苦痛を引き受けているのではなく、苦痛を自らに引き寄せてから逆に糧としている、というのが正しいのだが。

 

 『吸収、って事は何だ、あの感覚を魔力にでも変換しているのか?』

 

 【そこに気付くなんてやはり抜け目がないね君。まあそういったところだ。向こうの精神的干渉を、逆にこちらの養分にする、実に合理的かつ有効な対処法だろう?】

 

 『あー……、普通ならこういう時、感謝の言葉とか言うべきなんだろうけど』

 

 【……良いさ、別に謝礼の類が欲しくてやった事じゃない。こんな手段を取ってきた相手が気に食わなかっただけだから】

 

 『いや、一応言っておく。ありがとう』

 

 淡々とその一言を口にすると、相手の顔は見えないが「まるで意味が分からんぞ」という表情をされた気がした。

 

 【―――そういうところはちゃんとしてるよね、君】

 

 『そう。単なるマナーに則った感謝の言葉。それ以上でもそれ以下でも無い』

 

 【ちなみに好感度は?】

 

 『50年前より下がってるね』

 

 【それは本当に何で?】

 

 少し考えれば解るだろうが。相手の事を理解すれば理解する程、性根の腐った点が浮き彫りになってますます嫌悪感が掻き立てられるものなのだから。あと、未だにちょくちょく嘘を吐いて欺こうとしてくるところとか、そういうのでマイナスポイントを稼いでしまっているのだ。いい加減気付けばいいのに。

 多くの人間は昔こいつに魅了されたとの情報だが、一体何に惹かれたのかさっぱり理解出来ない。こんな溝みたいな本性をしている人間の何処が良いのやら。余程騙すのが得意だったのか、騙される周囲の人間が愚か過ぎたのか、今となっては考えても無駄なのかもしれないが。

 ……うん、こいつの場合多分両方だな。騙される方も悪いと良く言うし、結局はどっちもどっちだ。一人だけ真実を見抜いていたダンブルドアは地味に凄いのでは……。こいつは異様にあの老人を毛嫌いしているが、直接関わった事も無い自分としては、あの老人に対し特別嫌悪の情を抱いてはいない。

 ダンブルドア。果たして彼は今、一体何を考え何を計画しているのだろうか。そして、【こいつ】の事をどう思っているのだろうか。もう、分霊箱の存在に気付いていたりするのだろうか。当人にしか知る由も無い事は、考えるだけ無駄だ。

 

 【これは予想なんだけど―――多分、さっき君が引っ掛かった罠。あれが干渉する為の直接的な切っ掛けだったんだと思う。もしも罠を逃れられたとしても、精神に干渉して都合の良い場所に誘導しようとでも企んでいたんだ。あの後、急に具合が悪くなっただろう?】

 

 『それは僕もそう思った。……いや、でも、微弱な干渉ならこの学校に着いた時からされていたかもしれない』

 

 ホグワーツに来てから頻度こそ少ないものの、本当に僅かな空腹を感じる事があった。気のせいと流したあの感覚はもしや……。

 

 【それは向こうも意図していない物だと思うよ。互いが近くに接近してしまったからこそ、本体の飢渇が微弱ながら分霊である君の方に流入してしまったんだと考えられる】

 

 『本体の飢渇って何だ?』

 

 【……今、向こうはある意味死の淵に立っている不安定な状態だ。生への渇望、執着―――純粋に、己を生者たらしめる力全てへの飢え、といったところかな。常に漠然とした飢餓感に苛まれているんだ。それが、ホグワーツへ到着し距離が縮まった君に自然と流入した……こう捉えるのが自然だろうね】

 

 疑問が少しずつ解けていく。そして増えもした。この学校にはもう一つだけ、『別の分霊箱』が眠っている。そっちの方には何の影響も無いのだろうか。

 

 『―――「これ」以外の分霊箱は、あいつに近付かれたらどうなるんだろうな。自我なんてあるのかどうか……』

 

 こいつには『別の分霊箱』の所在を知られたくないので、遠回しに訊ねてみる。この身体には『別の分霊箱』の「現在地に関する情報」が一切残されていなかった。こいつにとって何処に何の分霊箱が隠されているか、全く知らない筈なのだ。自分しか知らない情報は少しでも渡したくはない。

 

 【流石に『これ』より後に作られた分霊箱については専門外かな……。本人にしか知り得ない情報だ】

 

 『……まあそう都合良くいかないよな』

 

 仮に。

 仮に他の分霊箱全てに自我があって、何の間違いか実体化出来る機能があったとしたら。

 冗談抜きで羞恥心なんかほっぽり出して泣きそうになる。

 あの男と同じ人格、性質を持った存在が複数いるなんてどんな地獄絵図だろうか。そいつら全員が意志を持って襲ってくるとか、そんな展開は本当にやめて頂きたい。エンディングまで泣くんじゃないというキャッチコピーがあるが、こっちはエンディングなんて待たずに泣きそうだ。

 

 【いやそうはならないと思うよ。分霊箱というのはそういう使い方をするものではないから……】

 

 『じゃあ何で「これ」は実体化出来る機能があるんだよ』

 

 【それは―――…………、本当のところは彼にしか解らないよ……】

 

 今の声色で何となく察した。

 こいつは恐らくある程度の想像がついているが、こっちには伝えない心算だろうと。その真意までは掴めないが、無理やり白状させる手段はどう足掻いてもこちらには無いので、現状はスルーするしかない。残念である。ああ、本当に残念である。大事な事なので二回言っておく。

 

 まあ、分霊箱は「隠す物」であって「攻撃に使う物」ではない。他の分霊箱全員も実体化出来る、なんて展開は起きないだろう。

 この日記帳は『秘密の部屋』を開く為に色々な機能が追加されているだけで、他に特別な意味は無い筈。複数作るのだから、一つくらい「攻撃に使う分霊箱」として利用しよう、そんな思いで作られただろうからだ。

 その筈なのに……何か妙な胸騒ぎがするのは何故だろう。

 そもそも部屋を開く為ならば、他人を操る機能だけで十分なのでは?わざわざ肉体を得る機能を付けた理由は?

 

 (……?確かに、自分がもう一人増える様なものだから、便利と言えば便利な機能だろう……。他の分霊箱は、単純に破壊される危険を減らす為に、特別な機能は付けず隠すだけに留めた―――これがきっと正解に近い筈だけど)

 

 何か、誤った解釈をしてしまっている様な気がしてならない。

 部屋を開く。それ以外にも実体化機能を付けた理由があるのでは、と勘繰ってしまうのだ。

 

 ―――そろそろ思考は中断して、この場から離れた方が良いかもしれない。疑り深いが故に思考の泥沼に潜ってしまうのは昔からの悪い癖だ。

 この生徒もいつ目覚めるか判らないし、授業が終われば廊下に他の生徒が溢れてしまう。

 しゃがんでいた体勢から立ち上がり、そのまま廊下の奥へ立ち去ろうとした時だった。

 

 【それはそうと、君―――ここに来てから、他人の魂を喰らっていないね?】

 

 踏み出した足が止まる。何気ない一言であるのに、己を引き止めるのに十分過ぎる力が其処にはあった。

 

 【あの少年から受け取った『魔力』だけでは()()()()()は創れない。魔法を使えても、()()()()は出ない。今の君では『本体』に適わないよ】

 

 それは、何十年も前から嫌でも理解している事だった。

 

 【分霊箱の力の源は、人間の魂を喰らう事が故に】

 

 先刻の空腹感を思い出す。

 魂なんて不可視な存在など見た事も触れた事も無い筈なのに、それを喰らえばさぞや鮮烈な歓楽を得られるに違いないと、この身体の本能の様な何かが明確に告げていた。

 

 【さて、この廊下の周囲には人気が無い】

 

 そうだ。

 気味の悪い程静まり返った空間で、飛んで火に入る夏の虫の如く迷い込んだ獲物だけが息をしている。

 誰も居ない。何も居ない。

 

 【―――そこに赤毛の子供が居る以外はね】

 

 振り返れば視線を惹き付ける倒れた生徒。ピクリとも動かない。されど規則正しい呼吸音を生み出している、新鮮な獲物。

 実技に踏み出せない料理の初心者に、熟練のコックが包丁をわざわざその手に握らせてやる様に。親切丁寧かつ危険性を孕む扇動。

 

 【何かを成し遂げるには犠牲は付き物さ。躊躇う事は無い】

 

 ―――そんなもの、最初からとうに理解している。

 倫理観など偽善ぶった体裁を度外視すれば、どんなに効率的で順風満帆に事を進められるかなど。

 解かり切っているのに、そうしてこなかった。

 それは最早単なる意地。

 自分と【あの男】は絶対的に違うのだと、それだけを証明する為に張り続けている、つまらなくも強固な意地。

 

 『……………………』

 

 返事を返す事は無く。

 

 捕食者の眼前で無防備な様を晒している哀れな子供を、無感情な光を湛えた瞳でじっと、只々眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロナルド・ウィーズリーは、後頭部から背中に掛けて味わっている冷たさと硬い感触に、不快感を伴う覚醒を促された。

 むくりと上体を起こす。どういう訳か、廊下のど真ん中で気を失っていたらしい。何があったのだろう。先生に呼ばれた場所へ向かっている最中だったのに、最悪だ。到着に遅れたせいで、何かしらの罰則を与えられるオチなんて勘弁願いたい。

 

 「いてて……!何なんだ、一体」

 

 倒れた拍子に肩甲骨辺りを軽く打ったらしい。痛みに顔を顰めつつも、これ以上遅延するまいとこの場から移動を開始した。廊下にはまだ誰も居ない。気を失ってからそこまで時間は経過していないと見える。

 

 「ピーブズにでもやられたかな……くそう、あいつめ……」

 

 己を襲った(かもしれない)犯人の心当たりは、それしかない。

 ホグワーツにかなり昔から住み着いている謎の幽体生物・ピーブズ。基本的には皆ポルターガイストと認識している。悪戯や嫌がらせを全生徒へプレゼントしてきやがる迷惑極まりない存在だ。フィルチはよく追い出そうと躍起になっているものの、あいつをこの城より追放出来た者は誰一人としていない。

 ついてないな、と心の中で溢し、廊下を歩き出したその瞬間。()()()()()()()()()に肩を掴まれ、何事かと理解するよりも早く無理やり後ろを振り向かされた。

 

 

 

 

 「……ッ、えっ?」

 

 

 

 

 少年が最後に見た物は。

 

 己の額へ無慈悲にも突き付けられる、残酷な輝きに満ちた杖のみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「遅いなぁ、ロン」

 

 校庭へ続く廊下の壁に凭れながら、ハリーが何度目かの愚痴を呟いた。目の前を通り過ぎる何人もの生徒達と廊下の奥を代わる代わる見ているが、呼び出されてしまった友人、ロンはまだ帰って来そうにない。午前中の授業が終わり、次の授業へ向かう間の出来事だった。

 

 『はは、ハリーは短気だな。子供みたいじゃないか』

 

 生徒の一団が通り過ぎて無人になると、狙い澄ましたかの様に実体化したトムが隣で笑う。

 

 「子供みたいって、君もまだ子供でしょ」

 

 『精神年齢の問題さ。僕は早熟だってしょっちゅう言われてたからな』

 

 「トムは早熟っていうか半熟じゃん。変に子供っぽいとこあるクセに」

 

 『僕は卵か、アホ』

 

 バシっと小気味良い音を立てながら、相変わらず冷たい手でトムに頭を叩かれた。これから寒い季節がやってくるので、出来るならその手で叩いてくるのは控えて欲しい。

 卵で思い出したが、そういえば今日の朝食にスクランブルエッグを食べた事を思い出した。毎日三食を胃袋に詰め込められる生活は本当に有り難い。たまに感激の余り涙が零れそうになるぐらいだった。ダーズリー家で味わった地獄の空腹感に、もう悩まされなくて良いのだ。人間があの欲求に抗う事など、出来はしないのだから。

 

 「別に短気とかじゃなくて……。ほら、僕ら新入生、まだ学校の構造に慣れてないからさ。迷ったとか、階段から落っこちたとか……ロンに何かあったんじゃないかって心配なんだよ、トム」

 

 『トイレにでも寄った時に寝ちゃったんだろ。あの子、いっつも寝惚けたアホ面してるじゃないか。ちょっと用を足すだけのつもりが、我慢出来ず便器に座った状態で爆睡してしまったんだな。床に涎なんか垂らして、ズボンとか下ろしたまま寝てるよ、きっと。変な夢見てたりして。あっ、もしかしたら僕の姿とか出てきてるかもしれない。うわぁ、嫌だな』

 

 「トム、何でロンがよりにもよってトイレで、逢った事も無い君の夢見なきゃいけないのさ。最低の悪夢じゃん。トムが夢に出てきたら、そんなの僕でも(うな)されるでしょ」

 

 『おい、人をホラー映画みたいに言うなよな。ハリーなんか、夢に出たら絶対メガネザルの化け物になってるだろ。トラウマになるさ』

 

 「うわっ、そこまで言う?君こそ、夢に化けて出て事件とか起こしてるんでしょ」

 

 『僕はエルム街の悪夢か?』

 

 「ホラー映画懐かしいな、こっちでもまたゆっくり観れる日が来ればな……」とノスタルジックに呟く彼を尻目に、ハリーは疑問を解消しようと先程の現象について訊ねた。

 

 「そういえば、さっきのコトだけどさ……」

 

 『さっき?』

 

 「うん。あの、闇の魔術に対する防衛術の授業の時―――」

 

 『ああ、トロールの授業?』

 

 「そう。……何で、先生に見られるタイミングが判ったの?」

 

 直前まで自分と筆談していた筈なのに、あの時日記帳には突然トロールについての詳細が浮かび上がった。彼は一体どうやってクィレルの接近を知り得たのだろうか。

 

 『―――まあ、あの時はこっちでも色々あったからな。丁度君の方はあいつの授業中だったし。あのタイミングで「本体」()()手を出されそうだってのは嫌でも予想はつくさ。最低限、ただのノートに見える様細工したって訳だ』

 

 「色々あったって……?」

 

 『それは後日話すとして。ま、引き続き「本体」をよろしく。ホグワーツの未来が懸かってるからな』

 

 「僕だけ責任重大なの?」

 

 他の生徒は何食わぬ顔で日々を謳歌し楽しんでいるというのに、自分だけそれに(あやか)る事が出来ないのはちょっと不満だ。唇を尖らせ、ハリーは「まだかな」と身を乗り出して廊下の奥を覗き込む。と、見慣れた赤毛の少年が丁度向かって来るところだった。そこそこ遠い。

 

 「あっ、ロンだ!」

 

 ロンの視力ではまだ自分の存在を視認出来ないのを良い事に、実体化したままのトムが小声で愚痴にも似た言葉を零す。

 

 『さっきから何だ、この学校の生徒達は。殺人鬼が校内に紛れ込んでるっていうのに、どいつもこいつも呑気で平和ボケした面しちゃって。類人猿じゃあるまいし、少しは気を引き締めろっての。ホグワーツは動物園じゃないんだぞ』

 

 「そんな風に見えるのは、トムが捻くれてるからだよ」

 

 『ケッ!全く、メガネザルと類人猿が一緒に飼育されてるんだから、ホントやってらんないね』

 

 「誰がメガネザルさ!」

 

 彼の立場からすればクィレルの正体など露知らず、ほのぼのと穏やかな学校生活を送っている子供達を目にすると癇に障るのだろう。自分は黒幕への対応で苦労しているのに、目の前で平穏な生活風景を見せ付けられれば楽しくないのも、ハリーにとってはまあ分からなくもない。

 トムと言い争っていると、ロンがハリーの大声を聴き取って怪訝そうに近付いた。

 

 「ハリー?誰と話してるんだ?」

 

 「あっ、いやっ、これはその」

 

 いつの間にかすぐ傍に接近されどう言い訳を並べようか迷っていると、隣に居たトムは跡形も無く姿を消していた。

 自分の存在を決して気取られない隠密行動。こういう技術に関しては邪智深い事に、彼は超一流だった。

 

 「ご、ゴーストが通って行ったんだよ。ちょっと……いや、かなり、それはもうメチャクチャに口の悪いゴーストがね、居たんだ。性格も悪いけど」

 

 ゴーストと聞いて、魔法族故にその手の話題にはハリーよりも詳しいロンが食いつく。興奮げに光った彼のブルーの瞳が、一瞬だけとろりと微睡んだ気がした。

 

 「へえ、もしかしてピーブズかい?それとも、『嘆きのマートル』?」

 

 「嘆きの……マートル?何か不穏な響きだけど……」

 

 「何十年も前から居るらしいんだ。女の子のゴーストで、そこそこ有名らしいんだけど……ある日忽然と姿を消したんだって。長男のビルは見かけた事があるって言ってた。でも、パーシーやフレッド達は入学してから一切見てないんだってさ。僕もまだ見た事無くて。どこかに引き籠っちゃったのかも」

 

 「ゴーストでも引き籠ったりするの?」

 

 「さあ……。ホグワーツにはおかしな話がいっぱいあるからなぁ……。そうだ、ハリーはもう聞いた?ホグワーツの怪談!」

 

 彼は良くこんな風に、ハリーの知らない話を語り聞かせてくれる。きっとこういうのが好きなのだろう。親切心でやっているのもあるのだろうが、他人が知らない情報を他でもない自分が教える、そういったところにある種の快感を見出しているのかもしれない。

 

 「え?……何それ?」

 

 「フレッドとジョージが教えてくれた話だから、ちょっと大袈裟に話を盛られてるかもだけど……」

 

 フレッドとジョージというのは、グリフィンドールの有名な双子である。好奇心旺盛かつ悪戯好きの彼らが流した話だ。ハリーは何となく嫌な予感を感じたが、好奇心が勝りロンの話に耳を傾ける。

 ロンは恐怖を煽る様にわざとらしく低い声色で語り始めた。

 

 「……何でも、しっかり鍵を閉めた筈の扉がいつの間にかぜーんぶ開いてたり、誰かの気配を感じて振り向くと黒い影が視界の端に映ってたり、湖を眺めてると男の子の溺死体がプカプカ浮いてたり……あっ、森の方でも生き物の死骸が立て続けに発見されたとか言ってたような。その全部が、見るも無残な傷だらけなのに食べられた痕跡が無いから、獣の仕業とは考えられないんだと。当時森番になったばかりのハグリッドは、随分苦労したみたいだ。……とにかく、今はパッタリ途絶えてるから怖がる事は無いんだけど、昔のホグワーツは気味の悪い怪奇事件がちょくちょくあったらしいんだよ」

 

 怪奇事件、起こり過ぎじゃないか?今年もある意味悪霊が忍び込んでる様なモノだし……と、ハリーは話を聞く内に遠い目になっていった。

 

 「おかしな事が起きる前には大体、湖に男の子らしき死体が浮かんでるのが目撃されてるらしいよ。だから、当時の生徒達は水妖(ナックラヴィー)の仕業じゃないかって噂をしてたんだって」

 

 ハリーはこの時、何となくだがその水妖の正体を掴んだ気がした。()()()()()の談話室はホグワーツの湖の下の地下室にある。ますます己の目が遠くなっていくのが自分でも分かった。

 

 ロンの説明では、ナックラヴィーとはスコットランドで発見された怪物らしい。人間や家畜を殺したり不作を齎すなどといった蛮行を繰り返す邪悪な存在で、ある季節が来ると陸に上がってきて人々を苦しめるそうだ。ホグワーツに実在するとしたらある意味ヴォルデモートより恐ろしい。

 

 「でも……だとしたら矛盾してるんだよな。ナックラヴィーは確かに水の中を棲み家にしてるんだけど、淡水が弱点なんだ。湖に怪物が潜んでたとしても、それがナックラヴィーだとは考えにくいと思うんだ……おかしいよなぁ」

 

 ロンが更に解説を続ける。弱点があるとはいえそれをやたら突くと逆上し、凶暴化して疫病をばら撒くといった性質を持ち合わせているらしい。なのでもしも遭遇したら闇雲に退治しようとせず、川の向こうに避難するのが最善策だと。

 

 ……弱点を突いて怒らせると手が付けられなくなるのも、どこか似てるなぁ……。

 

 ハリーはロンの話に相槌を打ちながら、ぼんやりとそう考えていた。

 

 今も昔も、色々とやり過ぎだナックラヴィー。正体を隠す気本当にあるのか、ナックラヴィー。

 

 ここまで聞くと、わざとやっていたんじゃないかとさえ思えてくる。校内で広がっていた噂は、間違いなく耳聡いナックラヴィーも把握していた筈だ。後でナックラヴィー本人に問い質すのもアリかもしれない。

 ただ、その質問タイムはしばしお預けだ。何せ今日は、新入生達にとって特別な日。

 

 「次は待ちに待った飛行訓練だよ。怪奇事件なんか忘れて楽しくやろうよ」

 

 「でもナックラヴィーが箒に呪いでも掛けてきたらさぁ……」

 

 「……ナックラヴィーは多分校庭まで上がって来ないよ。篭もりがちでお外に出たがらないから」

 

 不安を払拭し切れない様子のロンを見て、ハリーはポケットに片手を突っ込んで、中の日記帳を軽く小突いた。

 

 今日が、自分に秘められたとある才能を開花させる特別な日になるとは露知らず。

 目的地である校庭へと、少年は友人と共に歩き出した。

 

 

 

 

 ―――同時に今日が、友人に惨憺たる厄災が降り掛かった最悪な日である事も知らぬまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『―――あの赤毛の様子…………。気のせいなら良いんだけど』

 

 

 

 

 眼鏡の少年の隣を歩く赤毛の少年。

 去り行く二人の背中を見つめながら。

 青年は彼らが完全に見えなくなるまで、黯然とした思案顔のまま其処に立っていた。

 

 

 

 




2021年初の投稿です。今年もどうぞよろしくお願いします。
原作イベント進めると言っておきながらこの体たらく。また一つ詐欺罪を重ねてしまった。
そして回を追う毎に増え続ける平均文字数。
読みにくかったら申し訳ない。今回初の3万字超えですので…

ヴォルデモートが死んだ場合、
ゴーストになるのかどうかは公式で明言されてましたね。


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Page 27・5 「贈り物は毒心と共に」

※軽度のグロ描写あり
作者的に軽度だと思うのであまり気にしなくても良いかもしれません。
原作のワームテール腕チョンパの方がグロいと思われ、
と確認してみたらあっちはあっさり表現でそんなグロくなかったですね。


 『―――悪運高いと言うべきか、トラブルメーカーと言うべきか……』

 

 

 

 

 白き虚空に浮かぶ陰気臭い建物の一室にて。

 

 そこに設置されている鉄製のベッドの上で仰向けに寝転んだ青年は、閉じていた両の眼をゆっくりと開いた。ルビーを思わせる赤い瞳が開花する様は、美しさと妖しさ双方を秘めている。彼自身は、そんな物を望んで生まれた訳ではなかったが。

 

 上質ではない固いベッドを使用するのはあまり横臥に向かないが、此処には寝具と呼べる物はこれしか無いので致し方ない。それは安価で低品質な物品に慣れていない彼が、この虚ろな世界で抱く数少ない不満点でもあった。最大の不満点はもう此処を去っており、別の世界でのうのうと生を送っているので幾らかは心に平穏を保っていられるのだが。

 

 青年はごろりと気怠そうに寝返りを打ち、怠惰な体勢のまま部屋の中の洋箪笥へ視線を注ぐ。過去に一度、その中身はとある老人によって暴かれた事があるという曰く付きだ。だが、今はもうあの時と同じ物は収納されていない。

 

 『自分で問題を引き寄せておいて、間一髪のところで助かるなんて。……複雑だ』

 

 先程まで共有していた視界を切断し、一際大きい溜息をつく。好き勝手に寝返りを打つので、折角身に纏っている新品その物のローブがすっかり皺になってしまっている。それを気にする事は無く青年は誰も居ない個室の中で、誰に向けているのかも判らぬ独り言を垂れ流す。

 

 『ボクとしてはさ、一回くらいは手酷く痛い目に遭うべきだと思うんだよねぇ』

 

 それは共有していた視界の持ち主へ憎悪を滾らせた様な言葉だった。それもその筈、彼は正真正銘嘘偽りのない憎悪と嫌悪の念を、視界の持ち主へ抱き続けていた。己が一番憎み、疎ましく思っては止まない存在。こればかりは永遠に変える事の出来ない不変たる思惟である。

 

 『その結果世界が闇に沈む……?ふふっ、それもそれで面白そうだ!混沌と絶望の渦巻く魔法界ってヤツ?観てる分には最高の娯楽だろう。観てる分には、ね』

 

 我が物であるかの様に寝転がるベッドの上で仄暗く邪悪な笑みを浮かべ、青年は心底楽しそうに独り言を続ける。第三者が見れば、闇の到来を望む彼の姿は間違いなく悪辣な人間としか表現しようがなかった。

 

 『―――うん、観てみたいな。やり直しなんて概念が存在するならば、どちらの結果も観てみたい。光の世界も闇の世界も、ボクの好奇心を満たすには十分なんだから』

 

 陽気さと悪意の入り混じった微笑みを浮かべる。ふと、洋箪笥の中からゴトリと異音が響いた。青年は特に驚いた様子も見せず、独り言を止める事は無い。無視というよりも異音に返事を返しているようにも見える。

 

 『……ねえ、【あいつ】はどうするつもりなのかな。気付いているのかな?自分に与えられた役割の真意と、存在意義。全く愚かだよねぇ。「両者共」、実に愚かだ。観ていて不愉快だけれど面白くもある。自分の思い描く未来が実現されると信じて疑わず、完全に思い上がっている愚かで稚拙な子供達の姿はさ』

 

 仰向けに体勢を戻した青年の赤い眼光は負の感情により細められ、血の滴る鋭利な刃物を連想させた。同時に、洋箪笥が再びゴトゴトという異音を発した。青年の言葉に異議を唱えている様にも聴こえる。

 

 『……おっと、ボクも子供だという指摘は無しだよ。無粋な真似はやめて欲しいな』

 

 洋箪笥が生み出す音と会話をしている風な言葉だった。青年はそこでようやく上体だけを緩慢な動きで起こし、洋箪笥をじっとりと軽く睨み付けた。それを切っ掛けとして、誰も触れてはいないのにも拘らずひとりでにその扉が開かれる。古めかしくぎこちない開閉音と共に、洋箪笥の中身が露わになった。

 

 『ああ……観てみたいなぁ。一度気になるともう止まらない。……本当ならきっと、"アレ"が《服従の呪文》を掛けられたあの日、あの世界の運命は決まっていたんだろう?でもそうはならなかった。―――だから折角ならもっと先を、運命の定まらない物語を観てみようと思って、ボクは同時期に侵されていたあの少年を助けたんだ』

 

 青年は洋箪笥の中身と向き合いながら語る。もう異音は響かない。代わりに、シューシューという奇妙な息遣いが洋箪笥から流れて放たれる。青年はその息遣いと明確な会話を交わしていた。気味の悪い異様な光景だった。

 

 【そんな事で運命は決まらない。"アレ"が呪文に屈する様な弱者ならば、そもそも選んではいない。お前は物事を浅く捉えるのが癖のようだな】

 

 『……?自力で呪文に抵抗出来たって言いたいの?どうかな。確かに、そう簡単に他人の指図を受ける様な人間じゃあない……だけど、腐っても「許されざる呪文」だよ。魔法使いじゃなかった人間が、完全に防げるのかな?』

 

 【その様子では何も解っていないな。お前とて無関係ではないのだから、さっさと理解すべきだと思うが】

 

 『理解したところでどうなる?"アレ"は一度で良いから、最低でもボクと同じ分だけ苦しむべきだ。いや、それ以上でも構わない。そうだね、"アレ"が一番苦しむ光景が観られる可能性と言ったら―――』

 

 青年はクスリと三日月型に唇を歪め、「最悪の可能性」を推測し導き出していく。骨の髄まで邪悪な思想に浸かり切った、救う余地のない罪人を思わせる表情を貼り付けて。

 

 『……ふふ、やっぱり、「闇の道」へ引きずり堕とされる事かな。そうだね……。非常に不愉快だけど、半分は応援してあげるとしようか、【あいつ】の野望を。勿論、もう半分はハリーの望む未来もね。あの子も色んな意味で予期せぬ展開を提供してくれる良い子だ。それに別方面で考えれば、完全な被害者でもある。せめてボクだけでも、あの子の選択する未来を応援してあげなくては可哀想だし』

 

 【随分と懇篤な事をほざくものだ。情でも移ったのか?】

 

 『まさか。少なからず「同情」している事は否定しないが、あの少年が悲惨な死を遂げたとしても……きっとボクは悲嘆なんて出来ないだろうから』

 

 【そうだろうさ。お前はそういう「化け物」だ。他者にどんな情を抱いだとて、それは一時的かつ薄っぺらな物に過ぎない。()()()()()お前にとっては全てが本の中の出来事の様にしか感じないだろう。だから()()()()()()()()()()()()()

 

 それを聞いて青年はバツが悪そうな笑みの後、苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべた。

 散々な言われようだったが、否定する事はしなかった。実行にはとてつもない労力を要し過酷な難易度を誇るが、その気になればあの少年の生きる世界に、何かしらの影響を与える事が可能な存在が彼だった。

 

 『…‥物語の結末が気に入らないからといって、ページを破って新しい結末を書き足す様な真似をするのは、野暮というモノだよ。君もそう思わないか?未来に変革を齎す希望も絶望も、あの世界の住人が自ら生み出していくものさ。その権利は彼らにしかない。「何処の誰とも知れぬ者」による一方的な干渉なんて、あるべきじゃないと思うだけだ。まあ、あくまでもボクはそう思ってるだけで、此処に居るのがもしも情に厚い別の誰かさんだったら、こうしてやろうああしてやろうと余計な手を加えるのかもしれないが』

 

 干渉するのもそう簡単な事じゃないけどね、と青年は助けたばかりの眼鏡の少年の姿を思い返す。条件が揃わなければ、もう二度と逢う事すら無いかもしれないあの少年。彼はどんな道を選択し、歩んでいくのだろう。

 

 【お前が観たがっている結末に至るまでに、"アレ"が死んだらどうする?】

 

 青年はそこでピタリと動きを止めた。ふむ、とわざとらしく顎に拳を当てて考え込む仕草を取る。しばらくたっぷりと思考を働かせて、今度は子供じみた明るく無邪気な笑みと共に口を開いた。

 

 『……それはそれで、受け入れようじゃないか。その結末さえも考慮した上で、ボクは此処に居るのだから。ふふ、何も問題は無いさ。だって―――』

 

 

 

 

 『()()()が消えて惜しむ人間も悲しむ人間も、どこを探したって居ないのだからね』

 

 

 

 

 とてもとても楽しそうに、自分の死すらも娯楽だと言わんばかりに、青年はにっこりと光溢れる微笑みを浮かべた。

 それを見た者は、これからの未来に思いを馳せ、年相応に笑顔を振り撒く好青年としか映らなかっただろう。けれど彼の口から出た言葉は、全く正反対の意味が込められた悲壮感に満ちた痛々しい物であった。満面の笑みを浮かべて言う言葉では決してない。なのに青年は笑顔を引っ込める事はしない。異常としか言いようがなかった。

 

 『……はは、こんな風だから、「化け物」とか言われてしまうんだろうね。自業自得かな』

 

 片手で目元を覆い隠していた黒い前髪を払い除けると、青年の赤い両の眼が晒される。常人なら有り得ないその色も、化け物染みた雰囲気に一役買っていた。

 

 『誰に何と言われようと、ボクの心が満たされればそれで良い。その為ならボクは、怪物だの悪魔だのどれだけ呼ばれたって構わない。元々それが目的で始まった事だ』

 

 広がった視界で部屋の窓の方を確認すれば、近くの床に数枚の深紅の羽根が散らばっているのが見えた。青年が空いた片手をぱっと開くと、そこに白い骨の様な杖が姿を現す。それを握り、軽く振るえば床の羽根は無数の塵と化して跡形も無くなった。

 

 『さて、と。実はさっき、あの子が興味深い光景を見せてくれたんだ。それを使えば面白い反応が観れそうだから、"アレ"に「ちょっとしたプレゼント」をしてくるよ。どうせ贈ったところで、決して未来は変わらないからね。観賞に味付けを加えるにはうってつけだ』

 

 悪質な悪戯を思いついた顔で青年がベッドから立ち上がると、いつの間にかそれまで部屋には無かった物が姿を現していた。

 

 首元から鮮血を溢れさせる兎の死体。

 内蔵という内蔵を全て引き摺り出され、腹部の萎んだ無数の小動物の死体。

 虚ろな瞳でぺたりと座り込んで、項垂れたまま微動だにしない子供達。

 だらしなく開いたままの口から涎を垂れ流し、壁に凭れてピクリとも動かない男。

 生気の大半を失い床に倒れ伏す、みすぼらしく青白い女。

 

 青年は部屋に出現したあらゆる物を見回して、郷愁に駆られた様に目を細める。その瞳の中に罪悪感も後悔も、微塵も有りはしない。そこにはそれ以外の、何か別の感情が横溢し渦巻いていた。

 これを作り出していた頃が懐かしい。確かにあの時、自分は"ちゃんと幸せだった。"

 

 『誰かが「化け物」を見抜く目を持っていても、哀しい哉、見抜いても結局止められはしなかった。―――ねえ、アルバス・ダンブルドア。貴方は、同じ過ちを繰り返さないと恥じる貴方は、その世界で一体どんな選択を取るのかな?「死を越えし契約者」は、果たして貴方に希望を与えるのか、絶望を与えるのか……。殺すも生かすも好きにすると良い。貴方の選択も含めて、ボクは楽しませて貰うよ』

 

 ぐじゅりと部屋の中の肉塊を次々と力強く踏み潰しながら、鼻歌でも歌う気軽い足取りで青年は部屋の外へ出て行く。辛うじて青年の移動範囲外に居た男と女はその被害を免れたが、それ以外は全て液体と固体が混じり合った何かへと成り果てた。その行動は、普通の感性を持ち合わせる人間であれば決して行えない残酷な所業であった。

 青年が一歩踏み出す毎にその先にあった肉は不快音と共に弾け飛び、壁にまで掛かる赤い絨毯を作り上げる。立派そうな革靴とローブが血と汚物に塗れるのも全く気にする事は無く、赤黒く毒々しい足跡を伴って彼は完全に姿を消した。

 その時、入れ替わる様に開いたままの洋箪笥から、生物らしき物がずるりと這い出てきた。頭も手足も体毛も見当たらない。全身は動物の生肉に近い褪紅色に染まっており、一定の間隔を保って弱々しく波打っている。その流動を利用して動いているのだろう。

 醜悪な化け物にも見えるその生物は、突然むくむくと全身を隆起させたかと思うと徐々に人の形へと変貌していった。触手の様に伸びた肉が四肢に、風船の様に膨れ上がった肉が頭部に。その様は、思わず目を背けたくなる程不気味で歪で悍ましい光景としか表現出来ない。

 少しの時間を掛けて、灰色のチュニックを身に纏った人間の少年が誕生した。先程までの得体の知れない肉塊の存在を真っ向否定するかの如く、少年の顔立ちはやたら整っていて美しい物であった。

 メキリと不安を掻き立てる音を響かせて、少年は開眼する。真っ黒で何色にも染まる事のない瞳が、何者にも染められぬ瞳が、部屋の中の惨状を緩やかに見回してほんの少しだけ細められた。十代前半ぐらいのまだ幼さが残る童顔は、見る者に不快感と吐き気しか与えないその部屋に酷く不釣り合いだった。

 

 最後に部屋の出口を見つめながら少年が一言だけ、人間と同じ言語を発した。

 洋箪笥から流れていた奇妙な息遣いではなく、はっきりとした人間の言葉。

 まだ変声期を迎えていない、やや高めの幼い声が響く。

 

 

 

 

 【―――綿裏包針。やはり、お前は立派な「化け物」だよ】

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ―――立っていた。

 

 手入れを完全に放棄され、自由気ままに成長し放題となっている草むらの中心に、自分は何故か立っていた。こういう場所は、大抵害虫が発生しているのがお約束なので自然と顔を不快感で顰めてしまう。

 場所は陽光溢れる自然の緑色絨毯―――などという幻想的な光景ではない。空は陰気の充満した曇天。所々から顔を出している、死者が眠る事を意味する大小様々な墓石。残念ながら決して心地の良い光景ではなかった。見る者を失望させる為だけに作られたのではないかと錯覚させられる。

 普通に全力で帰らせて頂きたい。さて、何で自分はこんな所にたった一人で、ぽつんと立ち尽くしているのだろう。

 

 我に返って、踵を返し歩き出そうとする。だがそれは許されなかった。

 己の背後―――振り返った先には、さっきまでの自分と同じ様に、じっと突っ立っている連中が道を塞ぐ形で群れていたからだ。かなり大勢いらっしゃる。全員不気味で真っ黒なローブを着込んでおり、顔はしっかりと仮面で隠していてどこをどう見ても不審者にしか感じない。瞬間的に暴力という名の強行突破で帰路に着くか、逆方向に駆け出すかの選択で迷ったが、連中の陣形と格好も相まって身体が竦んでしまい、立ち止まるという最悪の結果に終わった。多分、同じ状況に見舞われた大半の人間はこうなるしかないと思う。

 

 連中は全員無言で棒立ちしており、こちらを見つめたまま指先一つ動かしてはこない。それがまた不気味で怯んでしまう。何がしたいのかさっぱり解らないが、すぐさま危害を加えて来ないのであればとりあえず落ち着かなければ。

 魔法で蹴散らすのが手っ取り早く見えるが、こんなの多勢に無勢だ。杖一本で太刀打ち出来る状況でないのは馬鹿でも解る。どうにかして連中が並び立つ隙間を抜けられないか、と恐る恐る距離を詰めてみたが、その瞬間自分の近くに居た連中だけ、こちらを捕らえようとするかの様に一斉に手を伸ばしてきた。優れた反射神経で咄嗟に飛び退いて回避出来たが、奇妙な事に連中はこちらとの距離が空くと手を下ろし、再び棒立ち状態へと戻っていった。本当に何がしたいのか理解が及ばない。

 だがここで立ち往生していても埒が明かないので、再び最初に立っていた場所へ向き直り、今度はそちらの方へ移動を開始する。連中はその間、先程とは違い何も行動を起こしては来なかった。近付きさえしなければ無害、という事なのだろうか……。

 

 周囲を注意深く警戒しながらひたすら墓地を歩き続けていると、一際目立つ大理石の墓碑が姿を現した。誰の墓かは知らぬが、その上に罰当たりも甚だしく男が腰掛けている。善人であればその無作法な振る舞いに注意喚起でもすべきなのだろうが、生憎と自分はその部類ではない。そもそも他人の墓である。荒らされようと踏み躙られようとどうでもいい。いや、それが例え「他人ではない墓」だったとしても同じ事を考えただろう。

 男も男で、仮面こそ身に着けていないものの黒いフードで顔が隠れていた。体格はスラリとしていて、露出している手首を見る限り結構な痩せ型ではあるが健康的に感じる。皺一つ確認出来ないのでもしかしたら若いのだろうか。

 

 ふと、本能的にこの男から離れるべきだと脳内で警鐘が鳴り響く。人の墓を腰掛け椅子の様に扱う上に顔を隠している不審な男だ、大人しく向き合っている必要は無い。だが、後方は接近と同時に手を伸ばしてくる仮面の連中が塞いでいたので、退路を選ぶなら左右しかない。と、なるべく相手を刺激しないようゆっくりとした動きで体勢を整えようとした瞬間だった。

 スルリとまるで獲物を捕らえる蛇の如く、今しがた逃げようとしていた左右から物音を立てずに忍び寄ってきた二人の仮面人間に、両肩を掴まれてしまった。右から来た奴に右肩を、左から来た奴に左肩を押さえられる。突然の事で反撃も出来ず、また向こうはしっかりした大人であった為、単純な体格差によりこの場を脱する事も不可能だった。杖を取り出す暇も無く、完全にされるがままである。

 それでも無抵抗という訳にはいかないので、動ける範囲で必死に身を捩るも状況は好転しなかった。じりじりと、確実に男の元へと距離を縮められ、連行されていく。ついに互いの距離はゼロに達し、同時にやや乱暴な手付きで地面に膝を付かされ、後ろ髪を強めに掴み上げられて無理やり上を向かされた。手入れが行き届いていない荒れた墓地だったので、固い土と散開していた小石によって膝の皮膚が傷付き、血が滲むのを感じた。上を向かされた首もズキリと痛みが走る。

 

 ―――痛い?何故。

 そういえば、何で自分は物に触れて傷付き、生身の人間達に掴まれている?

 

 有り得ない現象を前にし、抵抗する力が弱まる。永らく味わっていなかった強い痛みにほんの僅か呻き声を上げた瞬間、奇妙な事が起こった。

 後ろ髪を掴んできた仮面の一人が、突然真横にぶっ飛んだのだ。思わぬ形で自由になった首を痛まない程度に動かし確認すると、そいつは飛んだ先にある墓石に後頭部から激突し、完全に意識を失っていた。墓石には鮮血が飛び散っていて痛々しい。どれだけの速度でぶつかったのだろう。あれは今も生きているのか?もしかしたら、もう―――

 

 【傷付けるな】

 

 怒気を孕んだ低い声が響いたのでさっと顔を戻すと、いつの間にかすぐ目の前に立っていた男の持つ白い杖から、光の残滓が丁度消えゆくところであった。何が起きたのか瞬時に察する。それは残された仮面の一人も同じらしく、拘束力が僅かだが緩む。

 その隙を好機と捉え、少なからず恐怖に震えているそいつの顎へ肘打ちをお見舞いしようと、掴まれている肩へ意識を集中させようとして―――

 

 不意に、氷が片頬に押し付けられた。全身を悪寒が凄まじい速度で駆け巡り、攻撃を行おうと脳内で組み立てられていた手順が一瞬にして消し飛んだ。

 冷静に確認するとそれは氷ではなかった。

 手だ。男の青白くも健康的な手が、片頬に当てられていた。手付きはまるで撫ぜる様に穏やかで滅茶苦茶気色が悪い。声にならない悲鳴が洩れる直前で何とか呑み込み、何か反撃せねば、と混乱で使い物にならなくなりつつある頭を捻っていると―――

 

 「―――、―――!!」

 

 誰かの声が後ろから飛んで来た。

 振り向くとそこには居る筈のない少年が、眼鏡を掛けた黒髪の少年が、大声を上げながらこちらを狼狽した表情で見つめている。刹那、それが誰なのかを理解した。

 唯一不可解なのは―――少年の隣に寄り添う様に立っている、黒と緑のローブを纏った青年が、意地の悪そうな笑みを薄ら浮かべて、こちらを傍観していた事だった。上品な女性が良く行う様に片手で口元をさり気なく隠していたが、その腹立たしい笑顔は完全に隠蔽しきれていない。

 

 青年の嘲りを湛えた表情が、何を考えているのか伝達してくる。

 ―――結局、お前は何も出来やしないのか、と。

 

 艶のある黒髪に充血した不健康そうな赤い両の眼。端正でやけに美しい顔立ち。ほっそりしていて吹けば飛びそうな貧弱な体躯。

 あれは誰だ?いや、知っている気がするのに思い出せない。

 知っている筈なのに―――誰なのか正確な答えを出す事が出来ない―――。

 

 眼鏡の少年に何か反応を返すべきか、青年へ怒声でも浴びせるべきか。二つの選択肢の間を彷徨っていると、一瞬存在を忘れ去ってしまっていた男が胴体に片腕を回してきて、そのままぐっと抱き寄せられた。字面だけなら何だか変な意味にも受け取られそうで癪だが、そういうのではない。まるで、自分の持ち物を落としそうになったから咄嗟に掴み寄せた様な感じの―――無遠慮な強い力で思わず息が詰まり、思考を確実に乱される。いや本当に、こいつは一体誰なんだ?

 

 【もう遅い、手遅れだ。全ては定まった道】

 

 男が少年達へ空いた手で杖を向ける。

 ふと気付く。自分を拘束していた無事な方の仮面人間は、いつの間にか男のすぐ後ろで跪き、恭しく頭を垂れてこの場に巻き込まれない様に自ら空気と化していた。―――なんという狡猾さだ。こいつの過去はきっとスリザリンだったに違いない。そこまで考えて、ふと思い当たる節があった。もしかしてこの仮面の連中共の正体は―――

 

 『……ッ、放せ。汚い手で触るな、放せ!』

 

 友人でも何でも無い奴に素手で触られるのは耐え難い。いや、例え家族でもとっくに振り払っている。何が悲しくて得体の知れない男にベタベタ触られなければならないのか。これが女だろうが全力で拒否しているけれど。こんな目に遭わなければならない程、自分は何か罪を犯しただろうか。

 全力で藻掻いてあわよくば背負い投げの要領で反撃を狙うも、男をどうにかする事は出来なかった。向こうは細身で大した筋肉も付いていない筈なのに、習得済みの自衛術がまるで歯が立たなかった。

 いや、自分は馬鹿だ。()()()()()()()()()()()()()。身を守る為に最低限の体力は作っていた前の世界ならともかく、この世界に於ける自分の身体もまた、細身で無駄に身長が高いだけの、筋肉とは無縁のモヤシ体型。前の自分なら今とは少々背は低くなるものの、この男との体格差を引っくり返して逆転出来ただろう。が、今のこの身体の体力は……お察しである。そもそも、魔法使いが素手で敵をどうこうする様な力を鍛えておく筈がない。当然の末路だった。

 

 【所有物を保管しておくのは、当然だろう?】

 

 耳元で、男か女か判断がしづらい若々しくも中性的な声が囁いた。今の言葉だけで勇気100%ならぬ殺意100%。

 

 『こいつ……ッ、こっ、殺す……絶対殺してやる……!』

 

 湯沸かし器の如く殺意が沸騰して留まる事を知らない。勿論衝動的に叫んでいるだけで、本気で殺害する気はあまり無いが。軽々しく殺意に関する言葉を口にしがちだが、決して本気ではないという経験は誰しもある筈だ。

 

 無い筋肉を振り絞ってどうにかこうにか男へ一撃をお見舞いすべく試行錯誤を続けるも、状況は芳しくない。

 ポケットから杖を取り出した瞬間、バチンと音が鳴ったかと思うと握った筈の杖があらぬ方向へ吹っ飛んでしまう。恐らく男の仕業だ。すぐに思考を切り替え、手ぶらになったその手で男の顔を殴打しようと振り回したが、命中する直前で透明な壁に阻まれ弾かれた。ならばと胴体を拘束する男の腕を引き剥がそうと試みるも、一ミリたりとも動かせはしなかった。一挙手一投足全てが確実に潰されていき、その度に無力な自分は歯噛みするしかない。

 

 自分がこうもあっさり押さえ込まれるなんて、魔法か何かで身体力を増強しているとしか思えない。抵抗を物ともせず、男はしっかりと腕の中にこちらを閉じ込めたまま、冷静に杖先の照準を少年達へ合わせる作業に入っている。その淡々とした一連の行動全てが酷く腹立たしい。

 すると、見兼ねたのか少年がこちらへ走り出した。隣の青年は忽然と姿を消している。

 もう何が起こっているのか訳が分からず、とりあえずやりたい放題な男に、金的でも何でもいいから攻撃してやると思考を働かせて―――

 

 プツン、と全てが消え去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 (――――――ッッッ!!?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 景色は一面真っ黒な空間へ戻っていた。

 

 本体の中、無が広がる永遠の暗闇。分霊箱としての生の大半を過ごしてきた世界だ。

 

 

 

 

 (な、―――ん、え、はぁ……?)

 

 突然何もかも消えたものだから、動揺を鎮める事は難しい。さっきの映像は、一体何だったのか?この身体では夢など見ない。勿論幻覚も。だとすれば、今のはどう捉えれば良いというのだろうか。

 身体の痛みもさっぱり消えており、手元から離れてしまった杖はちゃんとある。やはりあれは実際に起きた出来事ではないのだ。だが、夢でない事だけは不思議と理解出来る。睡眠の必要が無い身体で夢を見る訳がない。

 

 (夢、じゃない。夢じゃない?だったら、―――何だって言うんだ?)

 

 此処では身体が無いので、頭を抱えたりとか寝転がったりとか、そういった動作は出来ない。出来る事と言ったら思考と念話と筆談くらいだ。

 

 【……、ねえ、急にどうしたんだい?かなり混乱しているようだが】

 

 遠慮がちに響いてくる声に悪意は感じられない。あくまでも声からは、なので、相手が心の底で何を思っているかまでは解らない。まさかこいつの仕業では、と考え掛けた思考を打ち切って語り掛ける。

 

 (…………、…………今、僕は何をしていた?)

 

 【は?……えっと…………。どうしてそんな事をこちらに訊くのか不可解だが―――いや、今突然、君が狂人の如く奇声を散らした様にしか感じなかったけど】

 

 (はっ倒すぞ)

 

 【ありのままの出来事を述べただけだというのに、理不尽の極みだね】

 

 やはり言葉だけならこいつの仕業という線は薄い。そもそもこいつに幻覚とか映像とか、そういった物を観せる能力があるのかも解らないのだ。変に犯人だと決め付けるのも、的外れな気がして気分が晴れない。こいつの性格の事だ、そんな能力があったらとっくの昔に行使しているのではと思う。

 とりあえず動揺と思考を悟られない様に、強く閉心を念じながら推理を組み立てていく事にした。気を抜くと同居人に考えている内容が筒抜けになってしまうので、これに関しては毎度毎度慎重にならざるを得ない。地味に疲れるのでなるべく控えたかったのだが。

 

 あの映像には、ハリーもいた。必死に呼び掛けてきて、そして近寄ってきて―――そこから先がプッツンだ。何やら尋常でない様子だったが、映像の中のあの少年は一体何を伝えたかったのだろう。

 ……いや、あと一人、誰か居なかっただろうか?スリザリンの生徒みたいな格好をした、誰かが。

 表情から読み取った限りでは並々ならぬ悪意を感じたが、あのスリザリン生は一体……?あんな悪意を向けられた理由はさっぱりだ。何か盛大に恨まれる事などスリザリン生に直接した覚えは……いや、杖を借りたのはノーカウントだ。盗んだんじゃなくて借りたのだからノーカウントだ。

 

 ……………………はて?スリザリン生。そんな奴は居ただろうか。

 ―――いや、()()()()()。何かの勘違いだろう。あの映像には主に気色の悪い男とハリーぐらいしか居なかった。混乱して思考に不具合が生じてしまったのかもしれない。

 

 (墓場、墓場…………っと……)

 

 どこか見覚えがある気がするのだが、あの場所が解らない。地名もさっぱりだ。だが、わざわざこの身体で目にした夢の様な光景なのだから、何かしらヒントが隠されてはいないかどうか、日記帳に眠る膨大な『知識』の中で検索を掛けていく。

 しかし、墓場に関する情報はノーヒットだった。少なくともこの『知識』の持ち主、ヴォルデモートは()()()で一度もあの様な墓場を訪れた経験は無い、という結果が出た。いやまあ、墓参りする様な人間ではないので驚く事でもないが、魔法界のあちこちを旅した事のあるヴォルデモートでも訪れた事のない墓場となると、どこにあるのか完全にお手上げだ。

 

 (……ああ、本当に、意味が解らない事ばかり起きる、この身体は……)

 

 実体があったら頭に手を当てて大きく溜息をついているところだ。

 とりあえず今の映像を観せた犯人が誰であれ、肝に銘じておかねばならぬ事が増えてしまった。

 

 

 

 

 (―――今後一切、絶対に、墓場には近寄らない!!)

 

 

 

 

 予知や予言などを信じる訳ではないが、余りにもリアリティ溢れるあんな光景を見せられては堪らない。あの中で起こった出来事が何を示すか知らないが、この先似た様なシチュエーションは避けるのが無難。

 総合的に判断し、とにかく、あんな肝試しにでも使われそうな墓場があったら絶対に近付かないようにしよう。そう決意した一日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【外部からの干渉―――?―――いや、本体の精神干渉は無効化出来ている筈。だとしたら、今の不可解な言動と映像の断片は……。……実に面白い。やはり君と共に居るのは飽きないよ。今までも、()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その行動は、意味を為すのだろうか。誰かの心に届くのだろうか。

 告げられた予言を、変え得る力を持つのだろうか。

 

 足掻くのなら、ご自由に。そして存分に。

 

 ……結局誰も、絡み付く『運命』からは、そう簡単には逃げられないモノなのだからね。

 

 

 

 




『賢者の石』編はあと10話以内になんとか終わらせる予定ですが、
作者の技量によっては話数が減ったり増えたりする可能性が無きにしも非ず。

3/27追記:
Q.「いつになったら更新するの?」
A.「ホグワーツレガシーの発売日が発表されたら毎秒投稿します」

ー以下ここまでのキャラ紹介ー

主人公
ポケモンの努力値で例えるなら容姿全振り性格無振りの6V個体。享年18
忘れてしまった本名は珍しくもなければ平凡でもない、中途半端な響きの名前だった
原作知識は映画のみ。「映画でカットされた原作の展開」は全く知らない
この世界に関してはマジで何の罪も犯していない。にも関わらず最悪の存在に成り代わった哀れな男。前の世界ではやべー事を仕出かしてるが少年院送りになっていなかった辺りが不気味で謎。その真実は追々
人並みの物欲はあるし普通にお金が大好き。発言する言葉は大体ブーメラン。盗んだ物を「借りた」と言い張る人間の屑。時々ナチュラルサイコパス
所謂アセクシュアルなので、前の世界でも30歳を超えてたら多分魔法使いになれてた
ダンブルドアのマキャベリズム的な本性を知っていても尚、彼に対しては特別嫌悪感を抱いてない点が今後の展開の鍵を握る、かもしれない

ハリー・ポッター
誰かさんのお陰で原作よりも鬱屈な生活がマシになり、代わりに毒舌が鍛えられた
所々伏せた情報を流されているので、肝心な事実や未来は知らないまま
度々辛辣な罵り合いを繰り広げるが、主人公の事は一応大事な友人だと思っている
不完全な実体をしている主人公の身体に触れる事が出来る謎の体質を持つ。母による愛の護りは、闇の帝王の分霊箱たる彼に働いていないようだが……

同居人
制限があるらしく名乗れない事情を抱える不審人物
口約束ではあるが主人公がもしも死を越えられた時、色々教えてくれるらしい
殺害予告を受けても訴えるだけで済ませてくれる心の広さを持つ(?)
肉体を得る計画を模索中だが、その悲願が達成出来た瞬間主人公による身体的暴力の餌食となるので、その未来への対策も考えなければいけない為地味に忙しい
主人公の行動、言動を一挙一動全て観察出来ているのかは不明だったりする
散々嫌われている相手に執着し続ける忍耐力は最早ハッフルパフ生の域

ヴォルデモート
原作よりも新たに増えた謎の予言に悩まされていたら、予言で語られていた可能性の高い人物に邂逅してウッキウキ。しかし最近になってまた増えた、「ダンブルドアのみが聞いた予言」の内容を知らない哀れな男二人目

クィリナス・クィレル
原作含めて色々可哀想な人
原作よりも増量した裏方仕事をめげずに頑張る努力の人
初見で主人公を「得体の知れぬ不気味な奴」と見抜けた洞察力に優れる人

⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎
スリザリン生の格好をした名乗れない不審人物二人目
二重人格を疑うレベルで発言する内容がコロコロ変わる怖い男
ハリー少年の事は応援しているが、その傍にいる約二名の存在を嫌悪している模様
ある人物と視界がリンクしており、それを利用して現実の出来事を観賞し娯楽としている
ぶっちゃけ魔法界がどうなろうが構わない自称「どうしようもない人でなし」


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Page 28 「訣別の記憶、再会の記憶」

もう一つの世界のお話


 「ヤバイヤバイヤバイ!もう俺しか残ってないのに殺される!」

 

 『僕なんか開始五分でぶっ殺されたよ』

 

 『このハゲやべぇって。AGL極振りとかさぁ。こんなイカれたステータスに調整してるプレイヤー初めて見たわ』

 

 『負けたな。風呂入ってくる』

 

 『イベント報酬マジで欲しかったのになぁ~』

 

 既にキルされてしまい手持ち無沙汰なフレンド達の好き勝手な雑談をBGMにしながらも、スティックに掛けた親指に全力を込める。

 画面の中では全力疾走を続ける自キャラクターと、その数メートル背後で付かず離れず追随してくる巨漢の他プレイヤーによる生存競争が繰り広げられていた。

 ドウェイン・ジョンソンそっくりの筋肉質な厳つい禿男が、真顔のまま中々の速度で追いかけてくる光景はゲームとはいえ悪寒が走る。しかも、その手にはサバイバル用ナイフというおまけ付きだ。プレイヤーの見た目がステータスに影響する事は無いとはいえ、明らかに鈍足タイプの容姿をした奴がここまで素早いと気持ち悪い。

 

 現在はオンラインイベントの一つ、大規模サバイバル戦の真っ最中なのだ。閉ざされたエリア内で、制限時間までに生き残ったプレイヤー全てが報酬を貰えるというシンプルな内容である。とはいえ、生き残ったプレイヤーが少なければ少ない程貰える報酬は増量する為、各々殺し合いを強いられる。

 自分はここで知り合ったフレンドと連絡を取り合いながら恨みっこなしのプレイを続け、いよいよ時間が差し迫ってきたというところで、全員『例のあの男』と運命的な遭遇を果たしてしまったのだ。

 まるで街角で食パンを咥えた美少女とごっつんこしちゃう様に、それはあまりにも突然な出逢いであった。ぶつかったのはナイフ片手のハゲマッチョという、即座にお帰り頂きたい野郎なのが非常に悔しい。自分の見た目を自由に弄られるゲームなんだし、どうせなら美少女キャラにでもしておいて欲しい。何でこいつはこんなにも酔狂としか思えない容姿でプレイしているのだろうか。実は中の人は女性だったりしないだろうか。

 

 このゲームに於いて使用出来る武器は遠距離タイプの狙撃銃や散弾銃etc、近距離タイプのナイフやアックスetcなど様々だ。火力、リーチ、攻撃速度等、実に一長一短の凶器を使い分けられる。

 巷で囁かれている噂で、なんでも「ナイフだけで上位帯に居座り続けるおかしなプレイヤー」が最近のイベントを蹂躙しているとの情報が飛び交っていた。普通、近距離武器オンリーの縛りプレイなんて動画映えしそうな奇行をしたとして、上位を維持するのは不可能に等しい。話題作りの為のガセだと一笑に付されていたあの噂が、実は紛れもない真実だと今回のイベントで痛感させられた。

 

 『この人噂の域を出ないけどさ、DEF無振りでATKとAGLに極振りしてるっぽいよ~』

 

 『うわっホントだ。装備が速度特化……紙防御軽装タイプ』

 

 『当たらなければどうということはないって言葉通りのプレイしてる奴初めて見たわ』

 

 「逆を言えば防御に全然振ってないって事で良いんだよな?数発当てたらぶち殺せんじゃん!?」

 

 生死を掛けた鬼ごっこの最中でも助言を募る。しかし返って来たのは絶望的な返答だった。

 

 『いや~私もそう思ったけどこの人ヤバイね~。HPゲージ見て?回復アイテム使用禁止ルールなのにさ、一ミリも減ってないよね~』

 

 『もしかして身勝手の極意さんですか?』

 

 『このゲームにそんなシステムはねーよハゲ』

 

 『いやアンタがハゲだよ』

 

 『うっせーハゲ』

 

 『大変!ハゲ達が醜い争いを始めた~!』

 

 「黙れハゲ共。とにかくこのハゲの動きを実況しててくれよ。何とか攻撃当ててやるから』

 

 キルされたプレイヤーは、カメラ操作で戦場を自由に観戦する事が出来る。それを利用し、オンラインチャット中のフレンドに敵の動きを捕捉して貰えば何とか状況を好転させられるかもしれない。ちなみに、こういった卑怯とも言えるプレイは運営からも特に禁じられておらず、イベント参加者もそれを承知した上で戦いに身を投じている。

 

 『おかのした~』

 

 『いや僕ハゲじゃないんだけど?訂正しろハゲ』

 

 『もういいからデスカメラに集中して~』

 

 『俺はハゲの中の人が美少女だという可能性に花京院の魂も賭けよう』

 

 『このイベント終わったら対戦履歴からフレンド申請してみるかい?』

 

 『中の人が見た目通りのハゲマッチョだったらどうすんだよ……』

 

 『でも私、こういうマッチョ好みかも~。リアルが同じでもいけるいける~』

 

 『ねえ知ってる?君の様な奴を「奇人」って呼ぶんだよ』

 

 全く関連性のない雑談に実況しろよ、と突っ込みたかったが、その言葉を口にするよりも先に敵が動いた。

 ぐん、と一気に加速し、いつの間にか自分のすぐ背後まで肉薄される。まずい、一定時間毎に使用出来るスキルの一つだ。本当に火力と速度に特化したプレイスタイルのようである。防御というヤツを微塵も考慮していない。

 

 『何かこのハゲ殺せんせーみたい~』

 

 『こんなハゲマッチョの殺せんせーは嫌だ』

 

 『なんて事言うんだ。昔はあの人も髪の毛があったんだよ』

 

 『なんだかエギルにも見えるよね~』

 

 『ここはアインクラッドじゃないが?』

 

 『これはゲームであっても、遊びではない……』

 

 『無差別監禁サイコパスは帰れよ』

 

 だんだんと会話が最初の話題から逸れていく。その間にも敵との距離がじわじわと詰められていく。

 

 『そういえばさぁ、殺せんせーと似た様な奴がいたよねぇ』

 

 『何が?』

 

 『昔は髪の毛があって、人殺しが得意で、教師志望ですっていう奴がさぁ』

 

 『あ~何となく思い当たる~。それってさ~』

 

 「お前らうるせぇぇぇぇ!!」

 

 思わずシャウトし、一瞬集中が途切れたのが運の尽き。僅かな隙を見逃さず、敵がナイフを振りかぶった。

 

 ―――美しい、ナイフ捌きだった。

 

 ただ敵の首を斬るだけの単純な動作の筈なのに、決められたモーションに従ったアクションの筈なのに、どうしてだろう。そこにえも言われぬ幻想的で美麗な何かを感じてしまった。申し訳程度に吹き出す流血描写さえも、美しさを引き立たせている様に見えた。

 

 

 

 

 『Congratulations!!!』

 

 聞き覚えのあるファンファーレ。このゲームでしか使われていない、金管楽器の音色が混じった独特なファンファーレ。

 ベンチに座ったまま顔を上げる。自分以外見当たらない公園で、目の前の歩道を悠々と歩いている少年が見えた。その両手にはたった今自分が手にしている物と全く同じ、携帯型と据置型両対応のゲーム機があって、少年は画面を覗き込んだまま歩いている。所謂ながらゲーム、という奴だ。マナー的に問題のある行動だが、今重要なのはそこではなく……

 

 「あ、あのファンファーレは、」

 

 聴こえて来たファンファーレの出処は、少年の持つゲーム機からであった。イベント報酬を受け取る時しか聴く事の出来ない、特殊ファンファーレ。それが、彼の手元から流れているという事は。

 

 「うそ、だろ」

 

 決して遠くはない距離だった為、自然と溢れた独り言を少年に拾われたらしい。彼はピタリと立ち止まり、訝しげにこちらへ視線を向けてきた。

 癖のない黒髪の隙間から覗く警戒心の篭った双眸はどことなく虚ろで、その下には黒ずんだ隈がこびり付いている。それらを差し引いても端正と呼べる顔立ちは前から何度も見た事があった。

 

 「お前、こんな所で何やってんの?」

 

 確か、同じクラスの男子生徒の筈だ。その容姿から女子達の心を射抜き、学年問わず大人気の有名人。

 まさか、同じゲームの同じイベントに参加していて、しかも唯一人の生き残ったハゲマッチョが、この有名人だなんて神様の悪戯にしては度が過ぎる。俄かには信じ難い真実。

 しかもこの少年は今、腰を落ち着けてやるべきゲームをあろう事かてくてくと歩きながら、ただの一度も被弾する事なくサバイバルを生き残りやがったのだ。一体どういう神経をしているのだろうか。

 夕暮れ時、屋外のベンチで騒ぎながらプレイしていた為人の事は言えないが、こんな時間帯に出歩いてゲームをするなんて、常人ならまずしないだろうに。きっと、自分と同じくポケットWiFiでも持ち歩きながら遊んでいたのだろう。

 

 少年は接点もないがクラスメイトであるこちらの顔を知っていたのか、特に驚きもせずに簡潔に答えてくれる。

 

 「……今から、病院だから」

 

 少し離れた地点に建つ真っ白な建築物をぴしっと指差した。そういえば、彼が放課後に殺到する女子達の誘いを同様の台詞で断っていた光景を思い出す。あれは嘘ではなく本当の事だったのか。彼が女子に興味の無いタイプである事は何となく察せられたので、てっきり嘘かと思っていたのだが。

 

 「暇潰しでやってるよ、こんなの」

 

 「暇潰しでクリア出来てたまるかよ……」

 

 「は?」

 

 最後に斬り殺したプレイヤーが目の前のクラスメイトだなんて思ってもいないのだろう。少年は終始意味が解らないという顔でこちらを見つめていた。その間にも、彼のゲーム機からはファンファーレが鳴り止まない。

 人気のゲームであるので、イベント参加者が身近な人間なのは何も不思議な事ではない。ないのだが、こんなシチュエーションで、『例のあの男』の正体が発覚するとは誰が予想出来るのだ。

 

 「お前、さっき俺の事ぶち殺しただろ。同じイベントやってたんだよ、ほら」

 

 敗北時に表示される画面を見せてやると、彼は僅かに目を見開いて硬直した。

 

 「終わると同時に本人に出くわすとか信じらんねぇ……」

 

 「……もしかして、リボルバーで潜ってたの君?」

 

 「そうだよ一発も撃てないままお前に殺されたよ。しかしお前のアバター、何でこんな見た目に設定してんの?ギャップ激し過ぎるだろ」

 

 「身バレ防止」

 

 「……自分の顔が嫌いとかじゃなくて?」

 

 何となく。何となく思った事をそのまま問うと一瞬の沈黙の後、すんっとした無表情になった彼はやけに平坦な声色で返してきた。

 

 「威圧感が有利に働くかもしれないだろう?」

 

 「まあ確かに、こんなハゲマッチョが真顔で迫ってきたら、ちょっとパニックになるな」

 

 彼の言う通り、実際に直面した時謎の威圧感と気持ち悪さで少し思考が乱された感じはする。でも、流石にその顔でこのアバターは幾らなんでも無しだろう。

 

 「見た目を自由に弄られるのは、これしかないから」

 

 数度ボタンを操作し、しっかりと報酬を受け取る処理を終わらせた彼は電源を落としてこちらに向き直った。

 

 「髪型を変えたり、勝手に服を買ったりするの、禁止されてるんだ。だから、ゲームじゃふざけた姿で遊んでる」

 

 普通の家庭じゃ考えられないルールだ。休み明けなどに髪を切ってくる奴や思い切り髪型を変えてくる奴が多い中、彼が入学当初から全く同じ姿を保っているのはそういう理由があったからなのだろうか。

 

 「はあ?禁止されてる?そんなの子供の勝手だろ、有り得ねぇ。誰に?」

 

 「親に」

 

 「…………毒親?」

 

 「まあ……別に、生きる上で支障は無いし……。流行のファッションとか興味無いし……特別困ってはないな……」

 

 彼とここまで踏み込んだ会話をするのは初めてだ。別に仲が悪い訳ではないが、良くもなかった。会議や授業時に、どうしても必要な会話を数回交わしただけの関係だったのだ。少々新鮮である。

 

 「てかお前、病院にそれ持って行く気かよ。そういうの禁止じゃね?」

 

 「精密機器がある様な病院じゃないし、待合室でやる分には問題無いよ」

 

 「……そういえば、あの病院って―――」

 

 確かに、彼が今向かおうとしている病院はそういったタイプではない。しかし、だとしたら、彼が抱える症状は―――

 

 「診断書を偽装する事も思案したけど、駄目だった。面倒だけど行かないといけない。正式な診断書を持って帰らないと、親がうるさいから」

 

 「そう、なのか。その、邪魔して悪い」

 

 今しれっと犯罪紛いの行為を仄めかす台詞が飛んだ気がするが、突っ込んではいけない。誰だって病院へ行くのは好きなものではない筈。それを回避する為の行動を否定する気分にはなれなかった。

 

 「あ、そうだ……俺のフレンドさ、お前の事知りたがってんだ。すげープレイだったからさ。お前が良かったら、だけど……今度、俺達と一緒にこれで遊ばないか?」

 

 さり気ない誘い文句だった。なのに彼は理解出来ない物が眼前に現れたかの如く固まった。それも一瞬の事ですぐに元の調子に戻る。

 

 「……遠距離が飽きたから、近距離武器で遊んでただけなんだけどな。こんなの世界レベルからしてみれば大したモノじゃないよ。海外の方が、もっとずっと凄いさ」

 

 笑みを浮かべてひらりと片手を振り、彼は病院の方へ歩き出した。その笑顔の奥に、どうしてかは解らないけれど空虚といった感情を孕んでいた気がしたのは錯覚だろうか。

 

 

 

 

 「…………知りたがってる、ね。知っても後悔するだけさ」

 

 去り際に呟かれた冷たい独り言は、誰の耳にも届く事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日はなんてことのない帰り道だった。

 

 放課後、家に集中出来る環境は無いから図書室で好きな小説を少し読み進めて、完全に暗くなる前に帰路に着いて。

 人通りの少ない公園に面した歩道を歩いている時、とんでもないモノを目にしてしまった。

 誰一人として遊ぶ子供の居ない寂れた公園の中から、生傷と鮮血をその身に携えた少年がやってきて、目の前にふらりと飛び出して来たのだ。

 

 「……ッ、なっ、に……やってんだお前!?」

 

 帰る為に足を動かす事しか頭に無かったせいで、眼前に現れるまで全く気付けなかった。相手も同じようで、たった今上がったこちらの大声を聞いて、初めて気付いた様に気怠げに視線を向けてきた。

 少年の黒髪の隙間、額から血がゆっくりと流れ落ち、私服の胸元に見事な丸いシミを形作ってしまっている。ズボンは派手に転びでもしたのかズタボロで所々が裂けており、そこから少なくない量の出血が確認出来る。極めつけは、肩だ。彼の左肩に、深々と一本のナイフが突き刺さっていた。一般人でも買えるサバイバル用ナイフが、どういう訳か肩の上で圧倒的な存在感を放っていた。当然刺さっている箇所からはドロドロとした流血が今も尚続いており、白シャツの腕部分をすっかり汚して最早洗濯でもどうにもならない状態へと侵している。

 

 この状況は、まるで―――

 

 「だっ……誰にやられたんだ?な、ナイフ―――誰に刺されたんだ!?ま、待ってくれ、けいさっ、警察―――」

 

 誰がどう見ても他者に襲われたらしき光景。向こうの返事も待たず、瞬時にポケットから携帯を取り出そうとして。

 

 「―――やめろ」

 

 何をされたのか一瞬理解出来なかった。

 気付いた時には、既に手の中の電子機器は奪われていて。

 然るべき機関へ繋がった事を示していた筈の画面には、いつの間にか暗闇が広がっていた。

 何で、と声が出るよりも早く、宙で静止していた片手にストンと重みが走り、奪われた物は返って来た。

 少年は何も説明する事はせず、くるりと向きを変えてよろめきながらも歩道をしっかりと踏み締め、こちらとの距離をどんどん離していった。彼が向かう先は彼の家がある林道の方だ。まさか、そんな状態で何の処置もせずに帰るつもりだろうか。

 

 「何、してんだよ。怪我してるんだぞ……、刺されてるんだぞ……?早く、警察を、いや救急車、」

 

 「必要無い」

 

 返ってくるのは冷たくて抑揚のない声。

 

 「いや何でだよ!頭んとこ怪我しておかしくなっちまったのか!?もういい、警察―――」

 

 「やめろ!」

 

 携帯を操作しようとした手が止まった。

 別に、手を掴まれたとかではない。少年との距離は離れたままだし、仮に彼が戻って来て再び携帯を取り上げようとしても、今度はそれを防ぐつもりでいた。なのに、己の手は止まった。止まらざるを、得なかった。

 

 「―――ボクの事を、誰かに話してみろ」

 

 少年は、自分の肩に刺さるナイフを右手で荒々しく引き抜いたかと思うと、その凶器を勢い良くこちらへ向けた。

 栓の役割を果たしていた物が抜かれ、傷口より溢れた彼自身の血が歩道に滴る。ぬらぬらと不気味な光沢を輝かせる銀色のナイフの切っ先が、夕暮れの赤い光を反射してこちらの網膜を晦ました。

 

 「君を此処で、殺してやる」

 

 ぞっとする程の低い声が鼓膜を襲った。離れていても突き刺さる様な怒りの声が、全身に降り掛かって一歩たりとも動けなかった。

 

 頭の中で、「何故」が繰り返し響く。

 

 何故。

 何故、あいつは怪我をしているんだ?

 何故、あいつは怒っているんだ?

 何故、あいつはナイフをこっちに向けるんだ?

 

 自問したって、欲しい答えは一向に得られない。

 まるで別人だ。

 この前此処で会話を交わした時の彼は、一体何処へ行ってしまったのか。もしかしたら目の前の光景は何かの間違いで、彼に成り済ましている何者かが彼の姿を借りて彷徨いているのかもしれない。そんな考えに至るぐらい、この状況を信じられぬ気持ちが溢れて止まらない。

 兄弟、双子、ドッペルゲンガー……どれもこれも有り得ないのに、思い浮かぶのは全て滑稽な可能性ばかり。

 

 「あ……あ、」

 

 明確な返事を返す事が出来ず立ち尽くしていると、彼は塵芥を見下ろす様な睥睨を一瞬こちらへ寄越し、今度こそ歩みを止める事なく林道の方へ再び向かっていった。その背へ届く筈のない手を虚しくも伸ばす。

 もう何も、言えなかった。

 

 「何で、だよ」

 

 彼の行動全てが不可解過ぎて、困惑と恐怖の入り混じった感情が肉体を縛り付ける。

 どれくらいの間そこから動けなかったかは覚えていない。

 田舎故に車通りの少ない車道を一台のロールスロイスが走ってくるまで、ただただ人形の様に立っている事しか出来なかった。

 

 こんな場所に似つかわしくない真っ白な高級車が林道の奥へ消えていく瞬間が、いつまでも己の目に焼き付いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……早く寝なさい。傷が治らないわ」

 

 疲労感に満ちた女の低い声が降ってくる。たった今女に渡した、虚偽に塗れた白い紙が返って来ると同時に踵を返して、寝室まで沈黙を保ったまま向かう。

 

 ―――今日は散々だ。帰路の途中で問題は起こるし、あの男が居座る忌々しい日でもある。これでは血を洗い落としに行けない。

 仕方が無い。あの男が寝静まる頃を見計らって浴室へ行くか……そうしよう。

 

 『ミュンヒハウゼン症候群』。でかでかと書かれた診断書を手慰みに眺めながら、階段をゆっくりと上る。

 ……危ない。あの女の前でつい笑みが零れてしまうところだった。医師の直筆だからといって、こんな紙切れ一枚で呆気なく騙されるなんて。おかしくて笑いを抑えるのは至難の業だ。本当に困る。

 こうでもして傷の原因が説明出来る物を「捏造」しておかないと、あの女は納得しないので少々面倒だったが―――ここ最近は上手くいっている方だ。あのヤブ医者にはつくづく感謝しなければいけない。

 にしても、嘘偽りとはいえこの症状を抱えた子供に対する台詞が、「顔だけは傷付けるな」とは……あの女も大概だ。そちらこそあのヤブ医者の元に通院するべきではと思う。もっとマシな台詞は浮かんでこないのか……。

 

 「これをどうするか……」

 

 寝室に辿り着いてポケットからサバイバル用ナイフを取り出し、処理に関する考えを巡らせる。銀色の刃にはすっかり乾燥しきって黒く変色した物がこびり付いていた。こんな物を誰かに発見されるのは面倒極まりない。

 とりあえずこいつの隠蔽は後にしよう。ひとまず机の上に刺しておく。そのまま隣に置いてある機器を起動させ、画面内の情報を素早く読み取っていく。

 

 「ッ……」

 

 ズキリ、と腕に痛みが走った。流石に慣れないものだ。しかしまあ、顔や胴体は良いとして利き腕は幾らなんでもやり過ぎだ。生活に支障を来すレベルの外傷はやめて欲しいものだが……ここで愚痴を垂れても意味の無い事か。

 つうっと未だに出血の治まらない肩の傷口を見やる。…………あの男と繋がる、血……。

 

 「穢らわしい」

 

 誰にも届かない独り言を吐き捨て、余計な思考は排して欲しい情報に集中する。

 

 「また死んだのか」

 

 ニュースの一覧には少年の死を告げる痛ましい速報が上の方に掲示されている。身元は調査中で、年齢は十代前半から十代後半……今回の犠牲者も成人まで至っていないようだ。

 予め用意していた清潔なタオルで額の血を拭いつつ、更に情報収集を続ける。流血が皮膚を擽っていまいち集中が続かないのが不快だ。この流血沙汰の半分は自分に非があるので、文句を言える相手はいなかったが。

 

 「共通点は、全員男……」

 

 頻発、という程でもないが、数年前からあちこちで死者が出るという不審死事件が起きていた。調査をする内に判明したのは、犠牲となった人間の大半が未成年で、全員が漏れなく男であるという事実。

 別に探偵になるつもりはない。好奇心という凡庸な感情に従ってただ調査をしているだけである。

 彼らはどれも他殺の可能性を孕んだ死に方をしている。大袈裟とも取れる遺書が遺体の傍に置いてあったり、遭難が絶えず訪問者などまずいない山奥の小屋で衰弱死していたり。第三者が死に関与したと思われる最期を迎えていた。

 かといってその第三者が実在する事を示す証拠は何一つ発見されず、指名手配すら出来ていない始末―――それが現状であった。故に不審死事件などという呼称が付いてしまっている。警察も、今頃きっと税金泥棒だとかお決まりの罵倒を戴いている事だろう。

 

 「犯人がいるとして、どうやって殺す―――?」

 

 これだけ事件が起きているのに、未だに犯人を示す証拠は上がらない。しかし私見だが、他殺ではないとしても彼らを死に追いやったナニカは存在している気がするのだ。

 犯人が実在するとして、「未成年」と「男」、犠牲者の共通点は自分にも当て嵌る。己が次のターゲットとなる可能性は十分にあった。だが恐れる必要はない。仮に外出中に何者かに強襲されても、大人しく死んでやる筋合いはない。自衛の能力も手段も常備している身としては、特に危惧すべき事でもない。

 

 とにかくも、しばらくこの調査は続く事だろう。好奇心の充足と暇潰しには丁度いい。すぐ決着してしまうのはつまらない。知らず知らずの内に上がっていた口角を戻し、机の引き出しから食品用ラップで包まれたホットドッグを取り出し、栄養補給に努める。体を使うにも頭を使うにも必要な行為だ。

 非常に残念な事にあの女は家事能力といったものが壊滅的である為、こうして己が率先して食事の用意などを行っているのだがやはり面倒だ。もし一人暮らしをするのならば、一日三食ともインスタント食品で良いかもしれない……。あの男も食事に関しては頼らざるを得ないと理解しているからか、こちらが出した物にも拘らず今も手を付けている。普段は透明人間の様に扱ってくる癖に、随分とまあ驕傲な人間だ。最近は顔を合わせる事すらまずないが。

 

 「とりあえず、今は先にこれだ―――」

 

 画面を切り替え、あるソフトを起動させる。画面上に他人の家である事を示す知らない天井が映し出され、其処で発生する音声を受信し始める。

 別に部屋の内装や生活風景に一切の興味は無い。ただ、部屋の主が『余計なお話』を誰かに吹き込まないか、それだけ観測出来れば満足だ。

 

 「まるで魔法、だね」

 

 指先を動かすだけで、実に色んな事を成し遂げられる。

 情報収集も、監視も、連絡も、仕事も、商業も、脅迫も、犯罪も。

 全てが手の平の上で叶う。

 これを『科学』と呼ぶか『魔法』と呼ぶか。

 

 ―――どうせなら後者の方が愉しいに決まっている。

 

 思考の隅で益体もない事を転がしながら、部屋の主が『余計な話』を其処に居ない誰かに語り出した様子を、何の感情も湧かない冷たい双眸のままただじっと観賞していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 殺してやる。

 

 その言葉と共に向けられたナイフの切っ先が、どうしても忘れられない。

 

 

 

 

 あれから、彼は月に一度ぐらいの間隔で大怪我を負っては包帯やらガーゼやらと一緒に登校してきた。

 傷が完治するかしないかという絶妙なタイミングで、再び傷だらけになってはやってくる。

 

 最初の頃は他の生徒も教師達もぎょっとして質問攻めを展開したが、全員何を吹き込まれたのか蜘蛛の子を散らす様に退散していった。一体どんな手を使ったのか気になり、彼らに尋ねてはみたものの答えてはくれなかった。

 教師は虐待の可能性を視野に入れたのか少々しつこく食い下がっていたようだが、やがて何を納得したのか渋々といった感じで追求を完全にやめてしまった。虐待している親というものは、他人に悟られまいと狡猾に振舞うのが定石だ。もしも虐待なら、子供にこんな目に見える傷を負わせる事は無いだろうと判断したらしい。

 

 自分は自分で、どこぞの学園ドラマよろしく他校の不良と喧嘩でもしてボロボロになっているのかと考えた。だが残念な事にこの考察は的外れの可能性が高い。近くに喧嘩を生業とする不良などいないのだ。ツッパリもヤンキーもスケバンもいやしない。そんな者達は最早絶滅危惧種な時代なのである。

 一応聞き込みもしてみたが、やはり近辺に不良はいないし道端で喧嘩沙汰など目撃されていないようだ。ならば人目のないところで彼が襲われているのでは?と考えたがそれも有り得なかった。あんな大怪我をして帰っていれば、親が黙ってはいない筈だ。しかし、どういう訳か彼の親は警察に連絡する事はなく、学校に相談する事もしていないのだ。

 

 集めた情報を整理したところで、行き着いた真実は変わらなかった。

 非常に信じ難い事に、結局彼は―――本当に誰からも襲われておらず、たった一人で怪我をして、たった一人で傷の処置をしているようなのだ。

 

 だが、それならば何故あの時、彼の身体にナイフなんて物が刺さっていたのだろうか。

 あんな光景、どう考えたって「誰かに襲われた」としか思えないのに。

 

 「でも、そんな『誰か』がいたとして。一体誰が……」

 

 彼は優等生の部類。

 傷だらけで体力も気力も余裕が無いだろうに、いつも人懐こい笑顔を振り撒き、穏やかな表情で満点を書かれた再生紙を貰って、勉学の相談を持ちかける生徒の頼みを快く引き受けて。

 そんな、非の打ち所のない優等生が、誰かに襲われるような恨みを買っているとは思えなかった。

 妬みや僻み、という可能性もあるだろう。しかし、あんな凶器を突き刺す程の嫉妬を抱えた生徒がこの学校に通っているなど想像出来ない。大体、彼は傷を負っても平然と登校を続けているのだ。彼の惨状を見て誰かに犯行がバレる恐れがあるし、最悪警察に連行される結末を迎えるかもしれないのに、その末路を受け入れてまで彼を襲う奴などいるのだろうか?自分だって、例え誰かに強い嫉妬を感じたとして、警察に捕まるリスクを考慮すれば嫉妬対象に直接的な手を出したりはしない。絶対にだ。

 

 『―――まーたつまらない事で悩んでるのかい?』

 

 画面にフレンドが参加した旨を伝えるテキストが表示されたのをチラリと見て、溜息をついた。結構長い間棒立ちを続けていたアバターを見ていたのか、スピーカーから流れる呆れ声に耳を傾ける。

 

 『前もそうして突っ立ってたよねぇ。もしかして、傷だらけの彼の事をまだ考えてる?』

 

 「うっせー……ていうかお前、招待してないのに何でパーティーに参加出来て……?」

 

 はて、おかしい。このゲームで作成出来るパーティには、作成者の招待が無ければ参加出来ないシステムの筈。またバグでも起きているのか。この前なんかは、バトルに負けたにも拘らず所持アイテムがロストしていない有り難いバグが続いていたが……。

 

 『まあ何でも良いじゃないか。それより、下らない悩みなんか忘れてひと勝負に行こう。君と彼は他人に過ぎないのだから、そんな悩みに時間を費やすのは人生の損だよ』

 

 「お前、意外と薄情な奴だな……。まあ、その通りなんだけどさ。結局人間って、自分が可愛いもんだし」

 

 『別にそれが「悪」って訳でもないだろう?自分を優先して何が悪いのさ。それに……彼は、「誰にも言うな」って脅してきたんだろ。だったら、この話題自体もうやめるべきだと思うよ』

 

 「そう、なんだけどさ……。お前、あんなの見せられてみろよ。気になって忘れられないって。どうしたって焼き付いてるんだ……」

 

 自分でも馬鹿な事をしたと思う。

 あんなに脅されたのに、結局他人にこうしてあの状況を話してしまっている。共有してしまっている。

 こんな事を知られたら……いや、有り得ない。まさか、本当に殺しに来るなんて、そんな事は……。大体そんなの、自分自身が犯罪者になるのだ。未来のある学生時代に、そんな凶行に手を染めるなんて、あの優等生がする筈……

 

 「まあ、この話はお前にしかしてないし、大丈夫だろ。お前自体学校違うし、この地区に住んでる訳じゃあないし―――」

 

 『―――ふうん、やっぱりそう考えてたんだ』

 

 ゾク、と怖気が走った。

 明らかに、聴こえてくる声のトーンがガラリと変化したからだ。

 地を這う様に低い声。空気が凍てついた錯覚を一方的に感じさせる。確かな怒気が顕著に表れていた。

 

 ……そういえば、最初からおかしかった。『あいつ』は大体深夜帯には趣味の映画鑑賞を嗜んでおり、今の時間にログインしてくる事は希で。

 おまけに、招待を送った覚えがないのに参加してくるといった奇妙な現象。よくよく考えればおかしいのだ。

 

 『君はもっと賢いと思っていたんだけど。どうやら簡単な忠告も聞き入れられない程、お粗末な人間だったとはね』

 

 「……お前、何、言ってんだ……?」

 

 『そもそも知らなかった?君の「オトモダチ」はとっくに死んでるってさ。ああ、君達は「偽りの名前」で繋がっている関係だから、仕方のない事か』

 

 「何言ってんだって聞いてんだよ!お前、誰だ!悪戯なら容赦しねぇぞ、運営に通報出来んだからな―――」

 

 『誰だ、ねえ。あの日、君がボクを誘ってきたクセによく言うよ。ニュース、とか観ない?君の「オトモダチ」がちゃんと映っているよ。可哀想にね。まだ若くて未来のある人間が早死にするなんて、本当に世界は不平等だ』

 

 「何を……、……ッ」

 

 混乱の渦中にある頭を無理やり動かして身体に命令を送る。すぐにリモコンを投げ捨て電子機器を手に取って、ニュースを掲示する場所へアクセスした。

 簡素なフォントと簡潔な内容がそこには映し出されており、己を更なる混乱へ陥れるには十分だった。

 

 「本日未明、――で少年が遺体で発見……付近の防犯カメラから、転落死と断定……警察が捜査を―――」

 

 『最近、やたらとこの年頃の子が亡くなるニュースが多いものだね。身元はもう特定されていて、テレビなら本名も出てる。彼、動画の方じゃ結構有名なプレイヤーらしいじゃないか?どんなハンドルネームを使用しているか、なんてすぐに判ったよ。まさか、ボクがこうして君とコンタクトを取ろうとした日に、こんな偶然が重なるなんて』

 

 「マジで、何言ってんだよ……。だって、こんな、信じられ、」

 

 『―――全部、知ってるんだよ。君が他人にボクの事を話して、その相手が「コイツ」で、「コイツ」がどのアカウントでどんなゲームで君と繋がっているか、なんて、全部』

 

 淡々とした冷静な口調の中に、未だ收まらぬ憤怒がチロチロと顔を出しているのが鮮明に感じ取れる。

 

 『君に対する最終警告を決行した日に、本人が亡くなるなんて自分でも信じ難い偶然だけど……ね。……あのさ、今何が起きているか、何をされているか、きちんと理解してる?』

 

 「お、まえ、まさか、ま、さか―――」

 

 『まるで魔法だね。ちょっとシステムを弄れば―――他人に成り済まして、出来ない筈の動作を起こす事なんて容易いんだよ。だから最新のゲームでも必ず「チーター」なんて連中が幅を利かせるんだろ?このゲームも、このご時世じゃ随分と脆弱なセキュリティソフトを利用してる。まあ、ちゃんとした物を持ってきたところで、破られては強化してのいたちごっこになる訳だが……』

 

 信じ、られない。

 信じられる、訳がない。

 

 本物が死んで。

 本物が死んだ日に、本物に成り済ました偽物が、自分に接触してくるだなんて。

 直接対面している訳ではないのに、どうしようもない恐怖が溢れてきて何も言い返せない。

 

 『あの日、君の「それ」を触った瞬間、もう細工はしてたんだ。君の目を見た時、どうも脅しが効かない気がしたからさ。君の動向を探ろうと思った。まさか自分が盗聴やら盗撮やらされてるなんて、思いもしなかっただろ?』

 

 ……聞いた事が、ある。

 他人の電子機器を乗っ取って、遠隔操作で盗撮や盗聴を行える、という事を。

 勝手にカメラなんかを起動させて、相手の生活風景を確認する、なんて悍ましい行動が実現出来るという事を。

 特にこの世界じゃ、今や誰でも自身の傍に電子機器を携えて、事あるごとに使用して、最早切っても切り離せない存在。

 自分も例に漏れず、手に持っている「これ」とは朝から晩まで共に過ごす仲だった。

 ……自分が送ってきた生活は、解る奴には筒抜けだったのか?

 

 『―――理解出来たようだから、本題に入ろうか。君の罪の話だ。君はボクの警告を無視した挙句、ボクの周りをチョロチョロと嗅ぎ回った。全く、信じたくなかったよ。君がこんなにも他人の事情に首を突っ込みたがる様な、品性を著しく欠いた愚かな人間だなんて』

 

 「全部、知って……、」

 

 『知ってるってさっきも言っただろ。ボクは「優等生」だから、君に話し掛けられた子達にちょっと尋ねるだけで、みーんな教えてくれたよ。ボクの怪我の原因をしつこく探ってる馬鹿が一人、此処に居るってね』

 

 「ま、待て―――」

 

 『はっきり言おう。目障りだ。ボクの体も心も命も、全部ボクだけの物だ。ボクが何をしようがどんな傷を負おうが、他人に関係無いし干渉される筋合いも無い。君に探られなければいけない理由は何処にも無い。これ以上、愚行を続けるつもりなら―――』

 

 

 

 

 『もう、君と「さよなら」をするしかないね?』

 

 

 

 

 喉元に刃を押し当てられた様な感覚に襲われた。

 そんな筈がないのに。いつか何処かで見たあのサバイバル用ナイフが、脳裏をちらついて離れてくれない。

 

 『これで最終警告はおしまい。バイバイ、この子の「オトモダチ」さん。「それ」は潔く捨てるなりセキュリティ会社に見せるなり、どっちでも好きにすると良い。そんな事でどうにか出来るなら、の話だけど』

 

 「待て、待ってくれ。何で、何でッ、ここまでしてお前はッ……!」

 

 『何で隠すか、だって?言っているじゃないか、君に関係無いからだよ。気になってしょうがないのは解るけどね。「あんなモノ」を君に見せてしまったのはボクの失態だ。君の興味を引いたのはボクにも非がある。だから、まあ、最後にヒントだけ教えてあげよう』

 

 

 

 

 『―――「犯人」は、君も知っている人間だよ』

 

 「―――!!」

 

 『―――さて、「犯人」はいつ、ボクにとどめを刺しにいくんだろうね?』

 

 

 

 まるで、自分の「死」すらも娯楽にして愉しんでいる様に。

 彼は、声高らかに笑いながら、おかしくてしょうがないとでも言う様に笑いながら。

 それは、はっきり言って気味が悪くて、意味が解らなくて―――

 

 「……とどめ、」

 

 「とどめを刺しにいく」、その言葉に違和感を覚える。普通この状況ならば、「とどめを刺しにくる」という表現を使うものではないのか?そんな違和感はやがて別の思考の海に沈められた。

 

 ―――犯人は、お前を殺すつもりなのか。

 

 ―――お前は、その未来を予見しているのか。

 

 なのに、何でそれを隠し通して、誰にも打ち明けずに、されるがままに痛めつけられてるんだ。

 こんな監視の真似までして、脅しに来て、それでいて。

 犯人にただの一度も抵抗する事なく、殺されるかもしれない未来をただ、待つだけだって言うのか?

 

 「お前、おかしいよ。……狂ってるよ」

 

 『ああ、心配しなくたってそんな言葉、』

 

 

 

 

 『―――もう、何度も言われてる』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 「―――何でだよ」

 

 己を近付かせまいとする様な豪雨に、雨具も用意せずに打たれるがまま立ち尽くしていた。

 空から降り注ぐ液体が描く直線の隙間の奥、遠くからでも解る大きな家が見える。

 

 『……日、……の民家から、少年の遺…が発見…………。身元は判…しており、名前は…………、……歳。現場……された凶器…、…体の状態……警察は殺人…疑いがあるとして……容疑者の……を…………で……』

 

 水が内部に侵入したせいか、手元の電子機器から流れるのはノイズ混じりのアナウンス。それがどうしようもない不快感と虚無感を沸き立たせてくる。

 

 『……に……中の母親…………さんは……で、……泣…ながら「す…に……犯…を捜……欲しい……と―――』

 

 袖で電子機器にかかった雨水を拭えば、ノイズは少しだけマシになって、流れる声が聞き取りやすくなった。

 

 『……で、警察は数年前から散発的に発生していた連続不自然死との関連性を発表。遺体の刺傷はかなり深く、殺意の高い者による犯行と推測されるものの、現場は密室で第三者の侵入した痕跡、DNAは発見されず―――』

 

 『母親の――――さんは、事件の数ヶ月前から「会いたい」という旨の手紙を数回に渡り送っていたものの、少年が応じる事はありませんでした。警察も過去の事例による危険性から、母親が少年に接触する事を禁じており、少年の元へ訪問許可を出す事は一度も無く―――』

 

 『「こんな事になるのなら、どんな手を使ってでも会いに行けば良かった」と、――さんは涙ながらに吐露し―――』

 

 

 

 

 解っていた。

 

 自分は、解っていたのだ。

 

 この事件の犯人が誰か、なんて。

 

 なのに、止められなかった。

 この結末を、甘んじて引き起こしてしまった。

 

 いや、例え止めようとしたって、犯人が止まる事は無かっただろう。

 体に深い傷を与える程、強く大きな殺意を抱えていたのだから。

 

 

 

 

 結局、彼女の『愛』は届く事なく。

 

 少年は、一度目の『死』を迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 『はぁ~…………』

 

 石造りの廊下にて、憂いを帯びた溜息を零した。この世界に来て最早何度目になるかは数えたくない。

 

 (こんな事になるなら、履歴消去しとけば良かったな……)

 

 刺されて死んでスライムになった、という男は電子機器の後始末を会社の同僚に頼んでいたが、生憎と自分には死んでしまった時、諸々の後始末を頼める相手などいなかった。

 色々と、見られると困る物を元の世界に残してきてしまった身としては、その辺が心残りだが……まあ、最早戻れない世界に未練を垂れ流したってしょうがない。どうせなら自分もモンスターになっていた方がよっぽどマシかもしれない。あのスライムは生まれた時点でやたらチートだったし、あっちの方が滅茶苦茶に恵まれているではないか、ズルい。

 

 事故死なのか他殺なのか不明なままだが、もしも犯人がいたとしたら然るべき裁きを受けてもらいたいところである。あの世界の捜査技術は魔法界よりも遥かに上だ。数日と経たない内に引っ捕えてしまうに違いない。……まあ、人を一人殺したくらいじゃ、死刑にはならないだろうが……。

 

 『まさか……ね』

 

 可能な限り辿れた記憶では、何回も同じ人物からしつこく手紙が送られてきた事があった。

 文面や筆跡があまりにも気味が悪かったので、一つ残らずシュレッダーで丁寧に粉々にした後、ライターで盛大に消し炭にしたものだが、まさかあれが関係したりするのだろうか。

 

 (あの女が殺しに来たとか……無いよなぁ)

 

 仮にそうであっても、貧弱な女相手ならば返り討ちにしている筈である。そうはなっておらず、自分が此処に居るという事は……つまりそういう事である……。

 しかし犯人がいたとして、どうして殺される直前の記憶が一切無いのだろう。

 覚えているのは痛みだけ。全く不可解な事だ。いつか、自分の死因を思い出せる時はやって来るのだろうか。

 

 (まあ……あんなあっという間に終わるなら……「死」も悪くはない……)

 

 あの時の凄まじい痛みの原因が元の世界での「死」、なのかは不明だが、決して長くはなかったあの痛みだけで「死」の行程が終わるのならば、案外悪くはないのではと思ってしまうのだ。

 そもそも人が「死」を恐れてやまないのは、その時に避けられない苦痛への忌避と、その後どうなるかが未知である恐怖、やるべき事を遂げられない未練等の理由が殆どだ。

 もしも「死」を迎えた時、自分の様に苦痛が短く、その後が存在するならば、恐れる理由は特に無くなってしまう。まあ、こんな人間に為るだなんて「その後」はご遠慮したいところだが、為ってしまったものはごねたってしょうがない。

 

 この人間は「死」を恐れるあまり禁術に手を染めたようだが、はっきり言って馬鹿じゃないかと思う。

 不老不死なんて実際に叶えた奴らの末路は、大抵が散々な結末を迎えると昔から相場が決まっているのだ。考えるのをやめたくなるぐらい宇宙空間を彷徨う羽目になったり。そんな結末を見てきた自分としては、不老不死なんて力は禁術に手を出してまで欲しいと思えないのだ。

 

 (死にたがる奴の方がおかしいんだけど)

 

 ……、何か、今……とてつもない違和感を覚えた。果たしてその違和感が何なのか、自分でも説明出来ないのだが……。

 しかし、「死」を遠ざけようと必死になっている奴に限って「死」に付き纏われているとはなんと皮肉な事か。不死を実現して浮かれていたところに己の「死」を仄めかす『予言』を告げられるだなんて、ほんの一ミリ程度だが同情する。どうせならその時に潔く死んでいれば良いものを。……奴を生かしてしまっているのは、非常に癪だが己を始めとする『分霊箱』の存在が原因なので、あまりグダグダ言えないのだが。

 

 (―――そういえば、こっちにもやたら付き纏ってくる奴がいたな)

 

 ふと思い出す。

 現役で学生をやっていた頃、よく怪我をしてしまう事があった。その時、何故かこちらの事情をあの手この手で調べ回り、自由時間や放課後の行動まで尾行してくる謎の少年がいたのだ。

 最初は下らない嫉妬を抱えた輩が、どうにかこちらの欠点や弱点を漁ろうとでもしているのだろうと思い放置していた。が、何時まで経っても直接的な行動を起こしてくる事はなく、それでいて鬱陶しい調査を決してやめる事がないのでどうしようかと悩まされていた。

 それとなく取り巻きに尋ねてみれば、「こちらに怪我を負わせ続ける犯人を突き止めようとしているらしい」、と。

 当初は酷く困惑したものだ。特に接点もない他人の為に無駄な時間を費やして、何を馬鹿げた事をやっているのだろうと。

 そもそも、()()()()()なぞ存在しないというのに。彼はどうも躍起になって居る筈のない人物を探る事をやめはしなかった。こちらは周りにもちゃんと怪我の原因は伝えていて、彼もそれを薄々察していただろうに。

 大体その様な不届き者が実在していたら、自分がとっくに返り討ちにしてグチャグチャに―――いや、取り押さえて警察に突き出している。一体彼はどんな思い違いをしていたのだろう。

 

 (結局、いつの間にかあいつは居なくなっていたけど……)

 

 あの時の悩みの種は自分の知らぬところで片付いた。ある日突然、ぱったりと彼は周囲から姿を消したのだ。―――何故かはさっぱり解らない。だが、あまりにも突然過ぎる撤退に不審感を覚えたものだ。

 流石に気になって一度だけさり気なく様子を窺った事がある。チラっと目が合う瞬間があったので、片手を上げるだけの軽い挨拶を送ったのだが、この世の終わりに直面したみたいな表情になった挙句全力で逃げられた。全く以て不愉快である。挨拶をしただけなのにどうしてあんな反応をされなきゃいけないのだろう。もしかしたら、誰かに妙な事を吹き込まれたのかもしれない。はて、一体何処から自分の本性が漏れたのだろうか……誰かに悟られる様なヘマはしていない筈なのだが。

 

 確か、彼の名前は―――、……。いや、違う。他人に興味が無いから名前を憶えられなかったとかじゃなくて、ちゃんと今でも憶え―――あれ?いや、違うのだ。おかしいな、記憶力には自信があるのに……。こう、この……食道の辺りまで出かかっているのだけど……うーん。まあいいか。

 後々判明した事だが、どうやら彼は少し前に友人が亡くなったせいで情緒不安定になっていたらしく、自分を見て逃げ出したのも多分それが原因なのだという結論に至った。そういえば事故死や他殺含め、やたら少年が亡くなる事件が散発していたのもあの頃だったか。

 ……まさかあの不可思議な事件、この世界と関連していたりしないよな……?

 

 と、そこで向かっていた目的地が見えてきた。

 角を曲がったさきにある怪獣(ガーゴイル)の石像の前で立ち止まる。やけに醜い造形をしているがもっと格好良いデザインに出来なかったのだろうか、それともわざとか……なんて無意味な思考は停止させ、どうしたものかと考えを巡らせる。

 この身体の『記憶』によれば、ホグワーツで校長の役職に就く人間はこの石像に守られた校長室に身を置くらしい。そして、現校長は言わずもがなアルバス・ダンブルドア。逢ってはいけないあの人という奴である。

 何故こんな所に近寄っているのかというと、単純な調査の一環だ。エンカウントを許されない人物の居住区の詳細を把握しておくのは重要だ。別にホグワーツ内を探索するのが楽しくなってきたとか、決してそういう私的な感情を孕んだ突貫ではない、決して。

 この『記憶』の主も城内探索に勤しんでいたようだが、こんなの調べるなという方が無理あるのでは?興味を引く物が多過ぎて自制心が暴走しそうだ。……その暴走の結果、『秘密の部屋』なんて余計な場所を発見し死者を出し分霊箱が生まれ巡り巡って自分がそんな存在になってしまったので、非常に不愉快である。一度だけでいい、生身に戻って本人を思うがままに殴りつけてやりたい。

 ……ん?今こうして調査を強行している自分も『記憶』の主の二の舞を演じていないか?

 有り得ない、誰がこいつと同じ思考回路で行動するものか。

 

 見たところ、校長室への侵入を果たすにはこの石像をどける必要がありそうだ。そして石像をどかす方法はただの一つ。特定の言葉を聞かせる事で道は開くようだ。まあいきなり成功するとも思わないが、試しにいくつか唱えてみよう。開いたとして、奥の方まで入るつもりはないけど。

 

 『「天光満つる処に我は在り、黄泉の門開く処に汝在り」』

 

 反応は無い。

 

 『「闇の炎に抱かれて消えろ」』

 

 反応は無い。

 

 『「無辺の闇を鋭く切り裂き、仇為すものを微塵に砕く」』

 

 反応は、無い!

 

 それっぽい厨二チックな詠唱を並べてみたが、為すすべもなく全滅だった。趣向を変えてシンプルに「緋凰絶炎衝!」とか叫んだ方が良いのだろうか。

 

 【実に興味深い詠唱を羅列しているけれど、詠唱じゃなくて合言葉で開く物だから。その調子じゃいつまでやっても進展しないと思うよ】

 

 『「インディグネイション」―――ああ、何だ、やっぱり合言葉か……。あの部屋は「開け」って単語だけで開くけど、ここは何の単語になるんだか……』

 

 【これは……恐らく、ダンブルドアの好みに関する単語が鍵なんじゃないのかな】

 

 ホグワーツの構造を他人よりも深く把握している筈のこいつでも答えを知らないという事は、流石の防犯力だ。そういえばこいつがホグワーツに身を置いていた頃、校長を務めていたのはダンブルドアではない別の男だった。当時正解だった合言葉を知っていたとしても、現在じゃ何の役にも立たないのはある意味当然か。

 

 『ふむ……あの老人の好み……趣味……うーん』

 

 不死鳥を飼っていたし、鳥類が好みに入るのだろうか?それとも老人らしく盆栽とかゲートボールか?

 古希を迎えていた母方の祖父なんかは特に盆栽ガチ勢だった。幼少期のある日暇潰しを兼ねた悪戯で、鉢の中の土に公園で捕獲した野生のジムグリを潜ませておいた翌日、普通にバレてブチ切れられた記憶がある。「生き物の命を弄ぶな」だとか、至極真っ当な有り難いお説教をしこたま食らわされた。そういうのは普通、親の方が教育するものではと思ったけれど賢い自分は黙ったまま正座しておいた。そういえば一般常識や一般道徳は殆ど祖父からしか得た事が無い。教育者として自分の両親は無能過ぎたのだ、親は選べないので仕方が無い。

 あの時は折角確保した生き物の命を無駄にしてしまったものだ……。下らない悪戯で消費するぐらいなら、ちゃんとした実験(あそび)に使用していれば良かった。あの日のジムグリ君に、黙祷。

 

 なんであれ老人という奴は、子供には到底理解出来ない妙ちきりんな事に熱意を注ぐものだ。悪戯を仕掛けたら別人の如くキレ散らかすぐらいには。海産物の名を冠する家族の父親を連想させるキレ具合は忘れようがない程にお見事だった。

 色々複雑な過去を抱えてきたものだが、子供時代に血縁の中で一番親しい仲だったのは結局祖父だけだった気がする。……「死」という厄災のせいで、あの時間も長続きはしなかったけれど。

 

 ……しかし、上記の二つは故郷ならまだしも、西洋であるこの国出身の老人の趣味には入るまい。文化が違い過ぎる。ならば、ダンブルドアの好みで思い当たるのは―――

 

 『「これから毎日箪笥を焼こうぜ?」』

 

 …………駄目か。

 

 【何故そんなモノが彼の好みだと思ったのか不思議でたまらないのだが……】

 

 『いくら小生意気な子供相手とはいえ初対面で箪笥を焼くなんてそういうのが好きなのかと思って』

 

 【…………………………】

 

 『まあ焼かれても文句言えない事をやってる子供の方に問題があるんだし』

 

 【…………………………】

 

 全てを知った上で他人の地雷を踏み抜くのはある意味で痛快だが、癖になりそうなのでこれ以上はやめておこう。引き際を見極めるのもまた生き抜く過程で重要な能力とも言える。踏み込みすぎて地雷を爆発させてしまっては元も子もない。今までに爆発した瞬間を観測した事がないので、この地雷の持ち主の沸点が未知数ではあるのだが。

 

 流石に校長室だけあって防犯性能は上位の方だ。壁をすり抜けられないか試してみたが、透過を許さない壁が立ちはだかっている。やはりこの石像をどうにかしないと入室は不可能らしい。

 あの老人の嗜好……。ダンブルドアという人間は、絶対的な聖人という訳ではない。賛否両論が見事に分断しそうなくらい、かなり複雑な事情を抱えまくった人間だ。だが、どんな悪辣な過程を辿れども彼は確かに―――最終的には、魔法界の平穏の為にその命を捧げた。……そんなややこしさの極みみたいな人間の設定しそうな合言葉なんて、果たしてこの場で突き止められるだろうか。

 

 ―――そういえば、彼は過去に兄弟と何か一悶着あったようだが、自分の観測した物語では結局語られなかった。一体何をやらかしたのだろうか。何となく碌な事ではないというのだけは解るけど。まあ、過去にヤバイ事を仕出かしたなんて誰でも経験するモノである。彼の過去を知ったとしても、特段驚く事は無いかもしれない。

 ダンブルドアは複雑怪奇な存在だ。尊敬も憎悪も向けられて然るべき男である。敬意を払う者は幾らでも払えば良いし、嫌悪を抱く者は幾らでも抱けば良い。あの男に対してどんな印象を感じるか、それは個人個人の自由だと思う。勝手にやってくれ。

 

 『ダンブルドアの趣味……。ハリーが持ってた蛙チョコのカードには、ボウリングとか書いてあったな……。待てよ、ボウリングって思い切りマグルのスポーツじゃないか?』

 

 【あの老人は変わり者だからね。劣等種たるマグルにさえ肩入れするのも趣味なんだろう。魔法使いの面汚し……全く度し難い事だ】

 

 『そうか。ところで、お前が今喋ってる人間はお前の大嫌いな「元・劣等種たるマグル」なんだけど、理解してるか?』

 

 嫌悪している人種に気安く語り掛けてくる矛盾点を指摘してやった時。

 わざとらしく響いた足音に、特に焦る事もなく振り向くと一人の男がそこに立っていた。

 

 

 

 

 「ダンブルドア先生は、不在ですが」

 

 

 

 

 全身に刺さるピリピリとした電流に近い感覚。

 やけに目を引く紫色のターバンがグランバニア出身の魔物使いに見えて、こんな状況だというのになんだかおかしくて笑みが零れそうになる。

 

 「何か御用なので?」

 

 人当たりの良い笑顔を浮かべ―――目は微塵も笑っていなかったが―――その男、クィリナス・クィレルはこちらへゆっくりと歩み寄ってくる。あくまでも、自然体で。

 特別驚く事も無い。さっきからこの独特の感覚には気付いていた。近くにこいつが潜んでいた事などとっくにお見通しだ。監視だけで済まされるかと思いきや、直接出向く事にしてきたのは少々意外だったが―――焦る必要は無い。

 それでも偽りだらけの善人ぶった態度が癪に障ったので、こちらも同じ様ににこやかに微笑んで対応してやった。

 

 『―――ああ、今日はやけにはっきり喋るんですね、先生。こちらの事はお構いなく。もうお暇するので―――そのロープ何?』

 

 途中で思わず素に戻って突っ込んでしまったが、男は片手に杖、もう片方の手には並々ならぬ圧力を放つロープが握られていた。視界に入れているだけで例の感覚が小さな電流となって全身を駆け巡る。―――確実に何らかの魔法的細工が施された道具だ。

 

 「気になりますか……?これはですね、とっても便利な魔法の縄。例えば、『教師から逃げ回る悪い子』を大人しくさせるのに、とっても役立つ物なのですよ……」

 

 『…………へえ』

 

 ―――こいつ、自分でも解ってはいたけれど、確実にこっちの正体を掴んでいる!

 

 クィレル自身が気付いたのではない。恐らくは、寄生しているあの男がこちらの正体を吹き込みでもしたのだろう。秘密主義者だと思っていたが随分あっさりと「自分の欠片」について他人に明かしたものだ。それだけ形振り構っていられない状況、という事だろうか。

 

 クィレルは、こちらを見据えているようでいてどこか別の場所へ向けているかの様に感じる不気味で虚ろな瞳をしている。大袈裟な動作で一度ゆっくりとお辞儀をしてきた。その様は噂でしか知らない英国紳士その物で、こんな状況なのにほんのちょっぴり感動してしまった自分が憎い。彼は相変わらず目だけ笑わぬままの顔を上げ、嫌に丁寧ぶった口調で言葉を紡ぐ。

 

 「―――我が主の片割れよ、貴方の背負いし崇高なる『使命』を承知の上でお迎えにあがりました。我が主は『使命』の有無に関係無く、貴方という存在の()()をお望みです」

 

 分霊の身なので本来無い筈だが、額に青筋が浮かび上がった錯覚がした。

 遠回しにこちらを『道具』扱いをしてきたその言葉が、言葉の端々から滲み出る傲慢さというモノが、酷く怒りの琴線を刺激してくる。

 『使命』というのは、「秘密の部屋の開放」の事を言っているのだろうか。そして、その仕事の進捗具合に関係無く日記帳を取り戻しにきた、という事を言いたいのだろうか……?

 

 『「使命」の為に僕を作ったクセに、その進捗も尋ねずに回収だって……?訳の解らない事を』

 

 「ご主人様は()()貴方の背信的な行動の真意にお気付きですので。最早『使命』は関係無いと」

 

 ……ちょっと待て、今、こいつは何と言った?

 

 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と……。だからこそ、貴方が先日示した非協力的な態度も全て赦免にするとおっしゃっています。ご主人様のお望みは変わりなく、貴方の回収ただ一つ―――」

 

 『―――、』

 

 ……色々と。

 色々と、ヒントはあったのだ。

 

 特別かつ少ない手段でしか害する事の出来ない分霊箱に、《服従の呪文》を防ぐ機能が欠損していたり。

 そもそも同居人が()()()()()()()()()()()、『奴』に付き従おうとする姿勢が全く見られなかったり。

 

 『奴』は、予想をつけていたし、とっくに察していた。

 

 己が生み出し、己から生まれた存在とはいえ、己の魂の一部が必ずしも自分に従属する訳ではない。

 その可能性を―――作成時点で考慮していたのだ。

 だからこそ、きっとその時―――分霊箱から《服従の呪文》を防ぐ機能を廃したのかもしれない。

 己の一部が、万が一従わなかった場合への対処法として―――強制的に従わせる為の細工を施した。

 だが、それはあまりにも―――

 

 (あまりにも―――『自分』という存在に対して投げやり、なんじゃないのか……?だってお前は―――自分しか信じない、()()()()()()()()―――。典型的な、自己陶酔型の人間だろう……?)

 

 『奴』に愛せる存在があるとしたら、それは『奴自身』しかいないと思っていた。

 自分を、選ばれた特別な存在だと信じて疑わず。

 他人は、蹴り殺しても構わない道端の小石としか考えない。

 酷く自己中心的な人間。

 それなのに。

 若かりし日の自分の分身。その存在に対する扱いが、これなのか。

 

 本来の物語では、出逢う事も無かった二人。

 もしも、今この身体を動かしている者が()()()()()()()()()

 ()()()()()が、この場に立っていたならば。

 一体、どうなる―――?

 

 ―――常時展開している閉心のせいだろうか、緊迫した状況で口を挟むまいと弁えているからか。頭の中に直接語り掛けてくる声の主は、今は沈黙を貫いている。

 

 (僕の見通しが、間違ってるっていうのか……?知っているようで、何一つ理解していなかった……?……お前は、本当のお前は、『自分』という存在に対して―――別の、感情を―――)

 

 恐れが込み上げた。

 『奴』の考えが理解出来ないからではない。

 何か別次元の恐怖が、自分でさえも忘れてしまった過去の恐怖が、古い鏡となって目の前に立ちはだかっているようだった。

 

 ―――今度こそ、□□を殺しにきなよ。

 

 誰かの声が聴こえる。聴き飽きた声。聴きたくもない声。

 

 何だ、これは。

 今度こそ?一度目があった?

 違う、知らない。

 お前なんか、知る筈がない。

 

 目に見えぬ何かが背後から忍び寄り、ソレに両肩を掴まれる様な感触に襲われた気がした。その気味の悪い感触を目の前の男に気付かれぬよう最小限の動作で振り払い、思考を正常な位置へと無理やり引っ張り上げる。

 

 『……「使命」をほったらかして僕を回収するのか?死者を作ってまで生み出し託したあの「使命」を、放棄するって?』

 

 「『使命』が具体的に何を示すものか、私にはお教え頂けなかったが―――。貴方には、もっと『重要な使命』があると。その役割をも考慮して、貴方をお作りになったそうだ」

 

 スリザリンの崇高な仕事よりも重要な使命とは、何だ。

 やけに意味深な言い回しをするのだ。ここまで来て、単純に「己の復活・野望に協力しろ」、だなんて事柄でないのは確かだ。

 ならば、「本体への協力よりも重要な使命」とは、何を示すのか?

 ……何故だろう、今は、推測したくはない。とても考えたくない。

 

 それがなんであれ。

 例えどんな目に遭ったとしても―――『奴』に従うなんて選択なぞ、絶対にゴメンだ。もしそんな選択肢を選ばざるを得ない状況に追い込まれたならば―――迷わず「死」の方を選んでやる。

 

 『僕に用があるなら、その舌足らずなお口ではっきり明かしたらどうなんだ?それとも何か、ご主人様に代弁してもらうかい?』

 

 「ご主人様は現在眠っておられる……。貴方さえ素直に従って頂けるのならば、その時にお目覚めになるだろう……」

 

 『ハッ!素直に従うだって?お前、今喋ってる相手が誰なのか解って言ってるのか?』

 

 「私が忠誠を誓ったのはご主人様。―――()()()()()()

 

 『……チッ。平行線か』

 

 薄々考えてはいた事だ。

 クィリナス・クィレルが、「本体に忠実だからといって、その分霊にも忠実である」という保証はどこにも無い。これは恐らく、クィレル以外の下僕達―――死喰い人にも言えるだろう。改めて敵の悪意を再認識出来た。

 

 校長室の付近でこんな大胆な行動に移るとは、どうやらダンブルドアが不在というのは本当のようだ。あの老人が居座っていたら此処に近付いていない筈。さて、どうしたものか。

 

 『悪いけど、僕は僕でやる事があるんだ。お前に付き合うつもりは―――、ッ!』

 

 言葉の途中でクィレルの手からふわりとロープが浮き上がって、獲物に喰らいつく蛇の様に飛び掛かってきた。間一髪のところで杖を取り出せたので追い払い呪文を飛ばす。

 

 『《デパルソ》!』

 

 他人の身体になったとはいえ、向こうで培ってきた反射速度等はこの世界でも難なく引き継いでいるようで良かった。

 

 『話の最中に攻撃するのは卑怯者の特権だな……!』

 

 己の眼前で弾かれたロープは空中で体勢を整えたかと思うと、再びこちらに飛び掛かる。クィレルは杖こそ握っているものの構えもせずに突っ立っているだけで動かない。

 

 (―――馬鹿か僕は!これじゃキリがない、弾くんじゃなくてそもそも消し炭にしないと―――)

 

 突然過ぎる攻撃に出てきた選択肢が弾く事しか頭に無かった。初手で破壊するという行動を取るのが最適解なのに、無駄に魔力を使ってしまったが嘆いても仕方が無い。

 ……あれは普通のロープじゃない。《コンフリンゴ》や《インセンディオ》で破壊出来るだろうか?これらの呪文は地味に消費魔力が高いので使わなくて済むならそれが良いのだが……。

 

 『《インセンディオ》』

 

 出し惜しみをする暇は無い。杖からの火炎放射でクィレルごと焼き払ってみる。

 やはりというかロープは炎の中を無傷で飛んで来て、杖腕に絡みつかんと迫ってきたのですぐに弾き飛ばす。クィレルもまた、衣服を含めて無傷のままにやけ面を晒して立っていた。どうしたものか、物凄くぶん殴りたい。

 

 『防火呪文でも掛けてるのか……チッ、なら《フィニート》で……いや』

 

 呪文の効果を終わらせる《フィニート》は、使い勝手は良いがそれだけ対処法も複数存在する。全ての呪文を《フィニート》一つで対処出来るなら誰も苦労しないし、『許されざる呪文』など恐れる必要は無い。多分、今《フィニート》を使ったところで効果は期待出来ない。

 この状況で使えそうな他の呪文を頭の中でピックアップしていく。魔法的な物体でも消してしまうような呪文―――

 

 (《エバネスコ》―――マズイ、これは使った事が無い……習得していない……!)

 

 膨大に存在する呪文の中、今まで優先的に習得していったのは主に戦闘に使えそうな物ばかり。こういった戦闘に直接関わらない呪文はすっかり蚊帳の外にしてしまっていた。

 だってしょうがないだろう。時間は無限にある訳ではないし、元々マグルで魔法なんて縁のなかった自分は、習得する呪文の優先順位を慎重に選ばなければならなかったのだ。魔法族育ちでもない人間に、「戦闘に関わらない呪文も含めて全部習得しておけ」だなんて無茶にも程がある。生まれに関係なくそんな桁外れな芸当を果たしたのは、どこかの馬鹿帝王ぐらいだ。同列にしないで頂きたい。

 だが、使えない呪文がありますなんて表情を間違っても出す訳にはいかない。みすみす弱点を教えてやる義理はない。

 

 ロープを追い払い呪文で何度もあしらっている最中も、クィレルは動かなかった。妙だと思ったがすぐにその真意に辿り着く。彼の眼球は周囲を忙しなく見回している。ロープに自分の相手を任せている間、彼が見張りを務める心算なのだ。こんなところを誰かに目撃されるわけにはいかないので当然か。

 ……それならば、何故襲わせるロープがたったの一本なのだろう。単純に数を用意出来なかったのか、それとも……

 

 (素早くて鬱陶しい事この上ないが、対応は出来る……一本だけ、なら―――)

 

 瞬間、すぐに敵の本命を悟り、足元へ視線を走らせる。

 床の上を複数のロープが蛇の如く這い回り、こちらへ忍び寄っているところだった。ざっと見ただけで十本は優に超えている。

 

 (これか……!)

 

 一本を空中から襲わせて足元への注意を疎かにさせたところで、複数が下から攻めかかる。敵の狙いは端からこちらにあったのだ。

 しかし、気付いたところでなんとやら、だ。床を這う方に照準を向けたとて、その隙に空中の一本に襲われるのがオチだ。空中のロープと床のロープ、両方同時に対処する事は叶わない。どう頑張ったって、世界がひっくり返ったところで、対象に向けられる杖腕の数はたったの一つなのだ。どうしようもない。

 

 (杖無し呪文……無理だ!技術自体が存在したって、僕に出来る訳がない!)

 

 杖を使わずに魔法を行使する。この技術自体は存在するらしいが、そんなのやった事もないし実際にやっている魔法使いすら知らない。こんなの、打開策なんかどうやったって―――

 

 (嘘だろ、こんな、特別でもない戦法に、敗北する……?)

 

 何故。

 この身体は、本体の魔力に反応する筈だ。クィレルに本体が寄生している今、クィレルが魔法を使った場所や魔力を練り込んだ道具の有無を把握出来る筈なのだ。

 なのに、反応出来たロープは空中の一本だけ。いつの間にか忍び寄っていた方には、全く反応出来なかった。この力が問題無く発動していれば、あれらにだって余裕で対処出来た筈なのだ!

 

 (まさか、別の誰かの魔力で作った―――)

 

 そこまで考えたところで腹を決める。空中の物を《プロテゴ》で生み出した防御壁で足止めしながら、足首に絡もうとしたロープの一本を蹴飛ばそうと試みる。だが、ロープは蹴飛ばそうと伸ばした足にぬるりと絡み付いてきた。反射的に直接手で掴んで引き離そうとした時だった。

 

 『ぎッ……う……ッ!』

 

 足元から這い上がる様な痺れが走った。かなり強烈で杖を取り落としそうになったが根性で耐える。しかし、確実に長い隙を晒してしまった。その隙を逃さずクィレルは杖を向けてきた。

 

 「チェックメイトだ―――《インペリオ》」

 

 脳天を衝撃が貫いた。無痛の衝撃。だが、この状況で敵のその選択は―――好都合だった。

 服従の呪文をしっかりと命中させられたせいか、敵の精神から緊張が僅かに緩んだのを感じ取り、素早く杖を()()()()()

 

 『《フリ、ペンド》―――』

 

 「ッ!」

 

 なおも蠢く残りが全て胴体に絡み付いてくるのを感じながら、自分の胸に衝撃呪文を放った。全身を襲う途轍もない麻痺と共に廊下の奥へと吹っ飛んでいく。―――もしもの時の脱出手段として、これを常に念頭に置いていたのだ。

 綺麗な放物線を描いて廊下の奥、階段の手すりに頭が直撃しそうだったので痺れも構わず死ぬ気で手足を稼働させる。あれはホグワーツ名物、動く階段だ。つまり、分霊の身である自分でも触れる事の出来る『魔力の籠った階段』―――。このまま激突すれば冗談では済まない苦痛を味わう羽目になる。

 杖腕ではない方の手で手すりを掴み、関節も骨も無い身体を強引に捻って、下半身の重心を移動させて空中で体勢を整える。階段の中央らへんに足から着地し、同時に前転を行う事で着地時の衝撃を分散させ、なんとか無傷で受身を取る事に成功。まるでパルクールでもやっている気分で、落下からくる恐怖心なんて少しも無かった。我ながらどこまで肝が据わっているのやら、自分でも不思議である。もしかしたら、前の人生での運動神経が神のお情けで引き継げているのかもしれない。

 ……いつか生身に戻れたら、あの頃と同じレベルまで鍛えてみるのはアリか?この身体の運動神経がどれくらいかは不明だが。まあ、「根っからの魔法族で運動と縁の無い魔女」と「裕福故に体を酷使してなさそうなマグル」の遺伝子を引き継いでいるなら、この身体の運動能力は終わってるも同然なのだけれど。

 

 とりあえず転がった勢いのまま目に付いた扉へ飛び込んで、身を隠す事に専念する。そろそろ痺れのせいで立っているのも限界だった。部屋にダイブした体勢のまま床に倒れ伏す。

 

 「おのれ、何処に―――!」

 

 目標物が飛んでいった距離が遠過ぎて階下へ移動された事も知らぬクィレルは、すぐに廊下を走り出そうとするがその時。

 

 

 

 

 「何をしておるのですかな?」

 

 

 

 

 この戦況を―――予期せぬ救世主がひっくり返した。

 

 クィレルが背後を振り向くと、地獄の底から這い出てきた様な粘着質な陰気をこれでもかと纏った黒づくめの男―――セブルス・スネイプが、不審感を顕にした表情を隠しもせずに立っていた。

 

 「ス、ス―――ネイプ先生―――」

 

 「何をしておるのかと尋ねたつもりなのですがな、貴方の耳は節穴のようで?」

 

 スネイプはクィレルの近辺をじろじろと見回して、ガーゴイルの像をしばらく見つめて、再び問い掛ける。

 

 「当人が不在の校長室前で、杖を出したまま何をしておいでなのかお尋ねしたいのだが」

 

 「こ、これは、いっいえ、何かの間違いで―――」

 

 「ほう、何かの間違い。私からしてみれば、貴方がこんな所を彷徨いている時点で何かの間違いだと思いますがね」

 

 すっかり吃りモードに戻ったクィレルは、杖をしまいながら「詰問されて戸惑う臆病者」を演じる。

 

 「悪戯好きな生徒が、こ、校長室の前を汚していたので、か、か、片付けていたまでですよ……」

 

 「その生徒は何処に居るのですかな。実に奇妙な事で、こちらの目には映っていないようだ」

 

 スネイプの暗い瞳は遠回しに「そんな生徒」は居ないのだろう?と問うていた。

 クィレルが慄いた様に一歩後ずさったその時。クィレルの背後の廊下から、一人の生徒が小走りで両者の元に近寄ってくる。

 

 「せ―――先生、ごめんなさい!それ、僕がやったんです……」

 

 「何だと?」

 

 スネイプは突如乱入してきた赤毛の少年を構わず睨む。憎きグリフィンドール所属生徒に対しての悪感情を隠そうという素振りもなかった。少年は少しビクつきながらも、落ち着いて淡々と説明を続ける。

 

 「僕がやった後クィレル先生に見つかって……、片付けてもらって。でももうすぐ授業だったから、罰則は後にすると言われたので、その、さっきまで授業に行ってたんです」

 

 スネイプがクィレルに視線を走らせると、彼はごくりと空気を飲み込んで僅かに震えながらも頷いた。

 

 「ほう、ほう、ミスター・ウィーズリー……兄と同じで君も校内を荒らすのが癖になったようだな。気分の良いモノでしたかな?実に結構。―――グリフィンドール五点減点。さっさと戻りたまえ。これ以上関係無い場所をウロウロするなら追加で減点だ」

 

 「えっ、でっでも、減点ならもうクィレル先生に―――」

 

 「聞こえなかったのかね?吾輩は戻れと言った筈だ。それとも君は校長のいない校長室に何か用があるとでも?」

 

 射抜く様な鋭い睥睨に少年はたじろぐとさっと踵を返して走り去った。スネイプは彼の後ろ姿と立ち尽くしているクィレルを交互に睨んで、思い切り顔を顰める。

 

 「……貴方とは一度、ゆっくりと話し合う時間が欲しいものですな」

 

 「そ、そ、それは―――どういう、」

 

 「私はこれで失礼する。また校長室の前で怪しい動きをする輩が出ない事を祈る」

 

 それだけを言い残し、スネイプはローブを翻して歩き出す。

 その後ろ。

 クィレルはさっきまで対面していた人物の吹き飛んでいった方向が、偶然にもスネイプの向かっている場所と同一である事態に歯噛みし、黒づくめの背中を射殺しそうな程に睨み付けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ハァ……ッ、ハァ…………ッ!』

 

 ズシュ、と肉を切り裂く生々しい音が密室の中に鳴り響く。

 《ディフィンド》を何度も己の身体に向けて放ち、全身に絡み付いたロープを強引に切り離していく作業は、想像以上の痛みを伴った。

 どんな激痛を味わったとて死ぬ事は無い。無いが、痛覚の働くこの身にこの作業は地獄以外の何物でもない。それでもこれらを引き剥がさなければ、いつまでも全身を痺れが襲って思うように動けないのでやらざるを得なかった。

 ―――もしかしたら。痛覚という機能があるのは、やはり『奴』が与えたからなのかもしれない。拷問などによって自分に服従させる為に、敢えて痛覚の機能を施したのかもしれない。本人から聞いた訳ではないので、推測の域を出ないけれどきっとそうだ。

 

 呪文を放って裂かれたローブの内から、ポタッポタッと漆黒の雫が零れ落ちていく。数秒も経てば衣服ごと元通りの状態に再生してしまうが、痛みは引きずったままだ。

 

 (……もう、人間じゃ、無い………………)

 

 人では無い事を示す漆黒の体液を視界に入れる度、どうしようもない嫌悪感が込み上げてきて、改めて再認識させられる。今の自分は紛れもなく、人間の形をしているだけの人ならざる者に他ならない。

 下らないし無意味な事だと解っているのに、今でもふと考えてしまう。―――どうしてこんな存在に変えられたのが自分なのだろう、と。

 元の世界には、それこそ塵芥の様に人間が溢れていた筈だ。自分じゃない他の誰かでも良かった筈だ。どうして自分だけこんな目に。

 行き場のない怒りは、相も変わらず己の内でグルグルと蜷局を巻く事をやめはしない。それでも―――しばらく経ってしまえば、そんな激情も()()()()()()()のは幸運だった。

 ……その現象が、不可解な物であるのに気付く事はなく。

 

 【……()()()()()()()()()()()()()()()()()()。君は、自分の身体を傷付ける事を厭わないんだね】

 

 どんな感情が篭っているか解らない声が降ってくる。

 別に好きでやっている訳じゃない。

 自分だって、痛いのも苦しいのも出来るなら遠慮願いたい。そんな物とは縁の無い処にいたい。闇の帝王だとか死喰い人だとか、野蛮な連中とは程遠い場所で自分の時間を過ごしたい。

 

 『必要だからやっているだけだ…………それと、これは「僕の身体」じゃない』

 

 ……ちょっと背が高くてモヤシ体型なだけで、元の身体と相違点は殆ど無いが。

 自分本来の身体ではないからこそ、こんなにも容易く自傷を行えるのかもしれない。他人のモノを傷付けるのに抵抗が無いのは、不思議でも何でもない。

 

 (……?何か、前にもこんな事があった、ような……)

 

 こんな所でまた謎の既視感。身体のあちこちに出来た切り傷と、そこから流血の様に溢れゆく液体を眺めていると何かを思い出しそうになる。こんな光景で一体何を思い出す事があるのか……?

 何にせよ、ようやく残り一本のところまで来れた。あとはこいつさえ身体ごと切ってしまえば、この作業は完遂を迎えられる。とはいえ、ほんの少しだけ休憩を挟まさせてもらいたい。痛みと魔力消費による疲労感で、魔法の発動が少し覚束無くなってきたのだ。熟練の魔法使いならばどんな苦痛の中であっても、きっと問題無く魔法を扱えるのだろうが―――残念ながら、自分にはまだない技術だ。

 

 『《エバネスコ》……』

 

 とりあえず作業を終わらせるより先に自分の痕跡を隠滅しておこう。現場をこのままにしておく訳にはいかない。

 床一面を浸すインク溜まりに向けて杖を振るう。雑巾掛けが馬鹿らしくなるくらいあっという間に液体は消失した。前はスクイブのせいでやり損ねた事を今回は無事に果たせた。

 なんだかんだ言って、初めて試す呪文がこうも簡単に成功出来るならば先程使用していれば良かった。無駄な心配をしていた自分がアホみたいだ。

 ……でも、普通教わってもいない呪文を一発で完璧に発動出来るものだろうか。そういえば50年前も、最初の方こそ呪文が発動出来なくて困っていたが、同居人に助言を貰ってからは魔法に苦労した覚えがあまりない。

 腐っても優等生たる『奴』の欠片だからだろうか、随分とまあ楽に魔法を習得出来るものだ。自分は元々マグルのような存在であるし、この辺の才能はこの身体のお陰なのかもしれない。でなければ元マグルがこうも容易く魔法に馴染める筈はない。……ない、筈だ。

 

 【―――、一つ、君に謝らなければいけない事がある】

 

 その時、切り出しにくそうな声がどうも落ち着きのない様子で語り掛けてきた。こんな事は珍しい。何となく嫌な予感がするのはどうしてだ。

 

 『な―――何だ……?やけに真に迫ってるじゃないか』

 

 【君、今―――とても動ける状態ではないだろう……?死にはしなくとも、先程のあれこれで魔力をそれなりに消耗しているし、加えて自傷による激痛。歩いたり走ったりどころではない筈だ】

 

 『……要領を得ない遠回しな言葉で不安を煽るつもりか。お前という人間は本当に―――』

 

 【違う。最後まで聞いてくれ。……本当は気付いた時点ですぐ君に伝えるべきだったと反省はしている。だけど、君の消耗具合を見ていたら説明する機会をすっかり見失ってしまってね……。これに関しては先に謝罪しておこうと思ったんだ】

 

 ……こいつは苦しんでいる人間を前にして、説明の機会を見計らおうとする程心遣いに溢れた人間だっただろうか……?

 まるで本心からこちらを労わる様な台詞に若干の吐き気が生じる。この後に及んでまだ猫被りを続けるつもりなのか。どうしたって好感度は下降を続けるだけだというのにご苦労な事だ。本当に気持ち悪いのでさっさと本性の一つでも晒してくれないものか。

 

 『何だ……何が言いたい……?』

 

 【―――君にまだ絡んでいるそのロープ。動きを封ずるだけじゃない。もう一つ、対象へ危害を加える別の機能が付与されている。そしてそれは―――もう半分程は既に発動していて、どう足掻いても君が逃げられない段階まで到達してしまっている】

 

 ……………………。

 

 おかしいな……疲労感のせいで頭が働いていないのか、どうもすぐに理解が及ばない……。

 

 【こうなったのは一応こちらにも責任がある……だから、出来る範囲で君の内側から君を護ってはみるけれど、そちらはそちらで何とか自衛してくれないか】

 

 『ああ……えっと…………。ん?つまり―――?』

 

 【これは、()()()()の魔法だ―――《服従の呪文》に加えて、記憶にまで干渉する事によって二重に君を操ろうとしているって事さ……。ああ、かなり小規模だが爆発も伴うから―――気絶でもしないように備えてくれ】

 

 トントン拍子に話を進められているが、まだ全てを理解出来た訳ではない。どうすれば良いのやら疑問符に塗れるしかなかった。

 

 『いや、いや―――ちょっと待て、待て。爆発って、何?自衛……備える…………?どうやって―――?』

 

 【………………、根性で】

 

 『は?』

 

 少しの沈黙を挟んだかと思うと、とても言い辛そうな声色で同居人はぼそりと言い放った。

 欲しかった具体的な回答は得られず、返ってきたのはとても抽象的な助言。らしくもないその精神論に惚けていると、ズグン、と頭部を激しい脈動の様な感覚が襲った。目の前が、視界がチカチカと点滅し出して思わず瞬きを繰り返す。

 

 『………………、ば―――』

 

 この先の展開が読めてしまっても、逃れる手段は最早なく。

 

 

 

 

 『爆発オチなんて最低……』

 

 

 

 

 どこかの銀髪赤目ホムンクルスと同じ台詞を零した瞬間。

 

 腕に巻き付いたままのロープに光の切れ目が走ったかと思うと、その切れ目を中心に小さなドーム状の白い爆発の渦が巻き起こり。

 痛みの伴わない光の奔流の中へと、己の全身は抵抗の余地もなく呑み込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ハリー、今あの窓光らなかったか!?」

 

 「えっ。何だろう……嫌な予感しかしないんだけど」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――女を見た。

 

 あちこち擦り切れた汚らしい灰色の服を纏った女が、お世辞にも綺麗とは言えない青白い顔の女が、こちらの顔を不安そうに覗き込んでいた。艶の無い前髪の隙間から確認出来る両眼は奇妙にも逆の方向を向いていて、懐かしさすら感じるその斜視に忘れていた嫌悪感が蘇る。

 女は膝をついて屈んでおり、仰向けに倒れているこちらの様子を見守っていたようだ。両手を胸の前で握り込んでじっと視線を注ぎ続けている。

 

 ―――何かおかしい。

 辺り一面は真っ白で天井も壁も床もありはしない。不思議に思って片腕だけ動かし己の手首を見れば、そこには痛々しい複数の切り傷がくっきりと刻まれている。見覚えがあるその傷に、一瞬で己の状況を理解した。

 ―――肉体が、元に―――本来の自分に、戻っている。

 だが、やはりおかしい。呼吸をしている感覚が無く、心臓の鼓動も聴こえやしない。今此処にいる自分は、生身ではなく意識……精神体の様な存在―――?

 

 その時、シュー、という空気音を聞いた。

 音の発生源へ首を向ければ、女が未だにこちらを見つめながら、口を開いて何かを言っている。しかし彼女の唇から漏れるのは明確な言葉ではなく奇妙な息遣いのみ。何を言っているのかさっぱり理解出来なくて眉を顰めた表情を返事代わりに送れば、上げていたままだったこちらの片手を優しく取られた。女はそのまま両手でこちらの手を包み込む。

 じわり、と暖かい何かが触れ合った箇所から無遠慮に侵入してきて、けれども決して心地悪くはなくて。これが何なのかは解らなくて、呆然と女を見返していると視界が霧に包まれるみたいに歪む。己の意思とは無関係に湧き出した液体がつうっと頬を伝い、拭う事も出来ずにいた。

 女の頬にも同じ物が流れているのが見える。彼女は何かを懇願する様に、理解出来ない息遣いを数度繰り返した。

 

 

 

 

 「縺ゅ?蟄舌r縺企。倥>」

 

 「縺ゅ?蟄舌′遏・繧峨↑縺?b縺ョ繧偵?√≠縺ェ縺溘?遏・縺」縺ヲ縺?k」

 

 「蜍晄焔縺ェ鬘倥>縺ェ縺ョ縺ッ繧上°縺」縺ヲ縺?k」

 

 「縺昴l縺ァ繧ゅ♀鬘倥>」

 

 

 

 

 ―――お願い、したい―――?一体何を―――?

 

 女の伝えたい言葉は微塵も解らないけれど、表情から読み取れば「何かを任せたい、何かを託したい」といった意志が込められている事だけは察した。

 こちらの表情の変化から伝えたい事が僅かでも伝わった事実に気付いたのか、女はゆっくりと両手を離してふらふらと立ち上がった。

 不可解な事に、女に続いて立ち上がる気力が沸いてこない。倒れた状態を維持したまま視線だけで女を追えば、彼女は真摯な表情を浮かべてぺこりと頭を下げてきた。その様子はまるで、余所の家に大事な我が子を預ける直前の様な、酷くありふれた「親の姿」だった。

 ―――直後、彼女の姿が煙の様に白ずんで消える。

 

 もしやと思い再び己の片腕を確認すれば、傷一つない青白い肌と黒いローブの袖だけが視界に入った。

 どういう原理なのかは知らないが、頬には先程の体験と違わぬ透明な液体が流れていて、擽ったかったので人差し指で擦って拭う。―――これは、自分が流した物ではない。紛れもなく、『この身体』が流した物だという事だけは理解出来た。

 いつの間にやらすっかり見慣れた石造りの天井と壁と床が自分を囲んでいて、「戻って来た」という事実にも辿り着く。

 

 

 

 

 『……………いや、誰?』

 

 

 

 

 呟いた間抜けな独り言は、()()聞いちゃいなかった。

 拭った際に指に付着した透明な水滴は、砂粒が風にさらわれる様に消失した。

 

 

 

 




・モブK
好奇心は猫を殺す
その後の彼の行方を誰も知らないそうな

・モブT
とある男についての言及が最期の台詞に
死顔はとても安らかだったという

・モブA
口が悪い
美少女が好きらしい

・モブY
紅一点
ネカマではない

・傷だらけの少年
定期的にナニカに襲われているらしいがそれの正体は不明
傷の原因を他人に明かす事はなくあろう事か捏造までして隠している
抵抗の意思はなく一方的にやられるがまま

・相容れぬ二人の魂
分霊箱に魂が入るには殺人によって引き裂かれている状態じゃないと無理
なんだかんだ言って仲が良さそうに見えるが元マグルの方の好感度は最低値
彼曰く「友情エンドは存在しない」らしい
声優ネタ使ってゴメン

・その頃生き残った男の子
いまこそ めざめるとき
おおぞらは おまえのもの
まいあがれ そらたかく!

・例のあの人
原作だとパパフォイのせいで『己の記憶』と再会する機会は永遠に失われた
実際何を思って分霊箱に細工をしたのか彼しか知らぬ事

・灰色の女
いつかどこかの誰かさん
たった一つの大切なものを託した

・銀髪赤目ホムンクルス
もうバカぁ、爆発オチなんてサイテー……!


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★Page ? 「空想と現実を生きる血族」

遅れてすみませんでした(お辞儀)
遅れてすみませんでした(土下座)
遅れてすみませんでした(土下寝)

今回、クッソ長い上に『暴力表現』や『不快になる恐れのある表現』が
てんこ盛りなので閲覧する際はご留意のほどお願いいたします
5万字超えてるのでお時間に余裕がある場合での閲覧を推奨


 「おーい」

 

 雨上がりでぐちゃぐちゃに泥濘んだ畦道のど真ん中で突っ立っていると、いつの間にか水田にやって来ていた男に声を掛けられた。歩行補助の杖に体重を預けたままゆっくりと声の方へ振り向けば、中年ぐらいの農夫が泥まみれの軍手をはめた両手を大振りしている。

 

 「カドマスの旦那ァー、聞こえるかーい」

 

 畦道で立ち止まっていた老人は男の様な大声を上げる体力も無かったので、軽く片腕を振る身振りのみで肯定の意を示す。頭髪も豊かで顔の皺もそこまで酷くはないものの、彼は間もなく古希を迎える年齢だった。日に日に些細な動作さえも億劫になってきている。

 それを察したのかただの偶然か、声を掛けた男は老人の耳に確実な報告を届けんと自分の方から近付いた。植えたばかりの稲苗をしっかりと避けて水田を上がり、老人に微笑んだ。

 

 「あの子なんだがよう、まーた川の方に独りで行っとる。溺れでもしたら大変だろ。早く見に行ってやってくんな」

 

 「……またか。水辺には近付くな、と飽きる程言い聞かせていたのだが」

 

 「仕方ない。あの年頃じゃ犬みたいに駆けずり回るのが仕事みたいなもんだ。大人の言う事なんぞ聞かんよ、一回痛い目見んとな」

 

 老人は捜し人の情報を得ると、重たい腰を再稼働させ男の言葉通りの場所へ赴こうとした。そんな彼へ、男は追加で更なる情報を投入してきた。

 

 「あの子な、この前なんかはあっちの空き地でよ、じーっとしゃがんで、日が暮れるまで一歩も動かんで俯いとったんじゃ。旦那が飯の時間になっても見つからん見つからん言うとった時があったろ?あの子、何しとったと思う?」

 

 「具合が悪かったんじゃないのか」

 

 「ちげえ。あの子なぁ……ずうっと観察しとったんよ。そこの空き地な、アリジゴクの巣があって…………蟻が何匹も食われるとこ、研究者みたいにじーっと見とった。近くに行ってオレもびっくりしたわ、あん時は」

 

 「―――本当か?」

 

 与えられた情報に、老人は僅かにぐらりとよろめいた。ほんの僅かなよろめきだったが、高齢の肉体にはそれなりのダメージが響く。

 

 「いやあ、一体何をそんなに凝視しとるんかと思うたけどよ……虫が延々死んでくとこ、夕暮れまで見とったなんてそんな子供そうそうおらん。……前はよ、『引っかかれたから』っつってあの子、野猫をとっ捕まえて殺しとったやろ。……旦那が後始末しとらんかったら、近所から白い目で見られとったよ、絶対」

 

 男の言葉で老人は思い出す。

 ちょっと撫でようとしたら反撃をもらったと、真昼にあの子が腕を押さえ半泣き状態のまま帰って来たあの日の話だ。

 その時は傷の処置をしてやったものだが、何を思ったかそれが済むとすぐさま家を飛び出し、夕方まで帰って来なかった。何をしてるんだと捜しに出かけようとした直後、ある物を抱えて子供は戻って来た。―――ある物とは、子供の小さな腕に抱かれ、血塗れのまま事切れている首の無い野猫だったのだ。

 

 「あの時は……流石に私も驚いた。慣れている様子だったから、私の知らないところできっと何匹か……。つい、少し派手に怒鳴った。反省させる為に物置に閉じ込めていたのだが、何故か鍵を開けられて脱走を許してしまってな……」

 

 「何じゃあそりゃ!まるで手品みてえだなぁ、羨ましいもんだ、オレもお仕置きで閉じ込められた事ぁよくあったがよ、どうしたって出れんかった。あん時針金でもあればなあ」

 

 手品、という単語に一瞬老人の眉がひくりと動いたが、男が気付く様子はない。

 

 「言っておくが、笑い事ではないぞ。……何をどうしたのかは知らんが、鍵穴が内側からグチャグチャに壊されていて直すのに苦労した。勿論、たっぷり叱っておいたがあまり響いてないだろうな……」

 

 追求しても素知らぬ笑顔で「勝手に開いた」だの「鍵を掛け忘れたんじゃないか」だのあらゆる言い訳で逃げ道を走られた。あの歳でもう大人を欺かんとする饒舌を習得しているのは末恐ろしい。なので、伝家の宝刀・拳骨十連撃を味あわせたところ、涙目になって謝罪を口走ったので取り敢えずは許しておいた。それでも尚どこか楽しそうな様子だったのは、叱咤であっても構ってもらえた事が嬉しかったのだろうか。子供心は複雑過ぎて全てを把握するのが困難だ。

 

 「まあ……オレもあの子んぐらいの時はよ、面白がって蛙とかを踏み潰したりしたもんだ。腹が立って蜂の巣をぶっ壊したりもした。どいつも同じ命なんだがよ……子供っちゅうのは可愛い顔して残酷なもんだ。()()()()()()だったら良いんだがよ―――」

 

 男は一度、そこで言葉を区切った。数秒程度思考を挟んでは口を開く。

 

 「あの子は―――なんか、違うもんを感じる。気のせいかもしれんが、()()()()()()とはちょっとな……違う気がするんだなあ。似つかわしくないっつーか、子供離れしとるっつーか。上手く言えねんだがよお……」

 

 「良くある事だ。あの子は他の子供と()()ように振舞おうとする癖がある」

 

 道端に捨てられていた古鍋に火をかけて、その辺を這い回っていた蛇を『調理』していた日。

 首が無くなっても生き物は動くのかと、捕獲してきた兎で『実験』していた日。

 老人は、実に残酷極まりない子供の軌跡を脳内で追っていく。

 

 「なあ、旦那―――。もう、長くねえのは分かる。……分かるけどよ、あの子ん事、ちゃんと見てやっといてくれな。旦那がおらんかったらあの子……あの子を()()()()叱るもんもおらんくなるやろ、なあ」

 

 自分の血縁ではないというのに、懇願する様な男の声。老人は苦虫を噛み潰した様な表情に変わる。

 

 「あの子、一回家出しようとしよったんや。帰るのが嫌だ言うてな、旦那が丁度遠出しとった時や。旦那がおらん村なんぞ嫌だ、あの家は嫌だって暴れて……。オレがなんとか首根っこ捕まえて帰したけどよ、ちょっと恐ろしくなった。旦那がおらんくなったら、あの子の居場所はなくなっちまうんじゃないかってよ……」

 

 「……、確かに、あの子はあの家を嫌っている。そうやって暴れるのは無理もない……。よく帰してくれたな、礼を言う」

 

 「礼なら要らん。オレは()()()()()()()()()余所から来た人間だからよ、『あの家とこの村』の詳しい事情なんぞ知らんけども、な。あの子が子供離れした奇行に走ってるのってよ……この村が嫌いだからなんじゃないかと思っちまう」

 

 「何だって?」

 

 「問題起こして、嫌われて、嫌われればこの村から追い出される、出て行ける。そんな風に考えてるんじゃねえか?推測でしかねえけど、うん……」

 

 「そんな事は……。母親の前ではいい子であろうとしているんだ。そこまで考えているとは……」

 

 「まあよ、他の村民に疑われる前に、旦那があの子を管理……いや、こういう言い方は悪いな。旦那がしっかりあの子を見ててやれ。母親の方は多分、あんまりアテにならんだろ」

 

 母親の事までお見通しな男の言葉に、老人は悩ましげに呻いた。

 あの娘は確かに子供の事を愛する事は出来る。けれどそれはとある物語に登場する、カンダタという悪党を救いかけては結局地獄に突き落とした『蜘蛛の糸』の如く、いつ切れてもおかしくはない頼りないものなのだ。

 あの子もいつか、その悪党の様に―――束の間の短い『(すくい)』しか享受出来ず、裏切られ、地獄に突き落とされる―――そんな気がして。

 老人は、恐ろしい未来を予測出来ても、最早どうする事も出来ない己を自覚した。

 

 「……そうだな、ありがとう。ちゃんとあの子を見ているよ。『この身体』の限界が来るまで―――出来る限り、あの子が平穏でいられるように―――……。そう、平穏に……」

 

 

 

 

 最後の一言。

 老人は、誰にも聴こえぬ囁き声で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「―――とうの昔、我らは《あの世界》を捨てたのだから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 景色が見える。

 

 自分は浮遊霊にでもなったかの様に、その景色をいつだって俯瞰して眺めていた。脳味噌全てが濃霧にでも包まれているのか、はっきりとした思考も不可能なままに、ただまんじりともせず景色を観賞し続ける。興奮や感動、驚愕もなく、じっと眺めるだけの時間。退屈も感じなかったのは幸運か。

 

 最初に見えたのは緑色だった。通常、それは植物を想起させる命と恵みの色。その筈なのに、見えた緑から悲劇的かつ暴力的な印象を抱いたのはどうしてだろう。

 次に見えるのは白色。先程の緑を生み出した骨の様な棒切れ。先端になるにつれ細くなっている棒切れに持ち手があって、そこには不健康そうな青白い手が添えられていて、その先に黒い衣服の裾が見えて。

 男だ。全身黒づくめの男がその白色を握っている。フードですっぽりと隠れた頭部から、赤い光が覗いている。それを認識した瞬間、数年ぶりに知人と再会したような感覚に襲われた。だが神に誓ってこんな不審者の知り合いはいない。

 

 景色が見える。

 

 小さな男の子。体格的に十代前半だろうか。黒と赤のローブを翻しては石床の上を駆けずり回っている。

 男の子の後ろには……これまた緑色の、気味悪く(ぬめ)った大木らしき物がうねうねと動いては迫っていた。―――いや、大木があの様に床を左右に這って動く筈はない。生物……つまり、あの大木の正体は大蛇だ。

 鮫の口内を思わせる大量の、鋭利な鉄格子が男の子を収監すべく上下に開いた。床に滴るは唾液だろうか、やけに毒々しい色をしている。あれが皮膚に触れるだけでも、きっと命に関わるのだ。そう推測出来る程醜悪な色彩が、石床をキャンバスとして彩り始める。

 大蛇が進むのとは反対の方向、少し離れた場所に誰かが立っていた。その姿を頭から爪先まで完全に視認する前に、視界から意図的に外す。そこには知りたくもない存在がいたのかもしれなかった。

 

 景色が見える。

 

 曇天の下、暗く、昏い墓場。

 化け物じみた容貌の醜男が、随分と偉そうに立っている。その周りに似合わぬ銀の仮面を被った連中が輪を成していた。

 この場に集う全員の視線の先には、呻き声を垂れ流し続ける男の子が地面に這い蹲っていて―――皆、彼を嘲笑う事に夢中だ。

 不快に思ってまた視線を外すと、連中が見向きもしない草地に何かが横たわっていた。呻く男の子よりも年上なのか、体格がしっかりとした青年だ。

 ……じっくり観察すると、胸が上下に動いていないのが解る。間違いなく、あれは遺体だ。

 連中達と無関係な光景をぼうっと眺めていると、突然辺りに衝撃が走った。爆破や巨大物の墜落を思わせる、重たい衝撃。

 眩しい光が背中越しに全身を包んできて、両眼を痛いぐらいの煌きが貫いた。眩し過ぎて思考の全てが一瞬にして吹っ飛ぶ。

 

 そして―――

 

 

 

 

 【他人の記憶なんて、何の価値も無いだろ?】

 

 

 

 

 ずっと隣に立っていた□□□□□□が言った。

 「その通り」だと答えようとしても、声が出る事は無かった。

 

 

 

 

 【こんなモノ、いつまで観ないといけないんだ?】

 

 

 

 

 □□□□□□が、鬱陶しそうに、困った様に、一人呟いていた。

 

 

 

 

 【次に()()()()殺してやる】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ピーピー、と焦燥を掻き立てる独特の電子音がけたたましく鳴り響く。

 ゾンビの様にうごうごと片手だけ彷徨わせて、音の主を何とか手繰り寄せた。慣れた手つきで、ノールックのまま指先を蠢かせると、鬱陶しい音は沈黙する。それでも尚、内心で沸き上がった苛立ちは留まる事を知らず、音の主を掴んだ片手へ全力投球の命令を伝達した。

 ガン!と硬い物が壁にぶち当たった音がする。その音で瞬時に我に返り、身体を休めていた寝床からこれまたゾンビの様に這い出る事にした。多分、誰かにこの場を見られていたら、巣穴からのっそりと顔を出してきた毒蛇みたいだと思われていただろう。

 

 「うるさい……死ね…………」

 

 両の瞼を閉じたまま、寝起きで上手く起動しない喉の奥から怨嗟の声を漏らした。我ながら酷く掠れた声だと思う。

 五歳、いや六歳くらいからだったろうか?一ヶ月に一度くらいの感覚で、あの良く解らない夢を見る。他人の人生を、まるで分厚い日記を読み返す様にして、俯瞰視点から観賞する夢。

 調子が良い時は、乗り物などに頼らず生身で空を飛ぶ夢とか、ファンタジックな世界にしか棲息していない厳ついドラゴンと殺し合う謎な夢とか見れるのだが、今日はその日ではなかったらしい。

 

 夢の最後で不思議な爆発に巻き込まれて死んだっぽいが、実は夢の中で自分が死ぬというのは不吉でも何でもないらしい。夢の中の死は『新しい自分に生まれ変わる』事を意味しており、夢で死んだからといって恐怖に駆られる必要は無いという事だ。まあ、あくまでもただの通説なのだが。

 今までに何回も、何者かに刺されて死ぬ夢や高所から落下して死ぬ夢とか、散々見てきている。今更死ぬ夢を見たところで、何の感情も湧かない。

 

 それなりに大きいベッドから上半身を出すと、当然無防備な身体は床に転げ落ちる。ぼとりと全身を投げ出したまま、ぶん投げてしまった電子音の主を視線だけで捜索する。

 やはり、中々起きられないからといって緊急地震速報の音を寝起きのアラームに使用したのは良くなかったかもしれない。起きられると言っちゃあ起きられるけれども、日頃睡眠不足で苛々の募った寝起きの状態では、今の様なバイオレンスな行動を誘発させてしまう。結果、生活必需品であるあれが壊れてしまったら元も子もないのだ。

 

 凄く、眠い。

 今日だって昨夜早めに就寝して十一時間は寝ている筈なのに、頭の中がとても怠い。今自分の頭蓋を開いたら、多分脳味噌が蕩けてるんじゃないかってぐらい眠い。

 一体どこのどいつだ?生物に睡眠なんて機能を付けた神は。かかってこいよ、ぶっ殺してやる。というか、全人類が早急に、滅べ。

 ……いよいよ寝起きの苛々がエクスプロージョンを起こしそうなので、ここらでちゃんと意識の覚醒を試みよう。このままだと確実に破壊神と化してしまいそうだ。

 

 ―――嗚呼、眠らなくても生きられる体が欲しい……。

 ついでに要求すると、何も食べなくても生きていける体が欲しい。

 生物が一生の内に食事や睡眠で無駄にしている総時間数をご存知だろうか?知ればきっとそこのあなたもオーマイガーであろう。よし決めた、龍神球が七つ揃ったら願いは今のにするんだ……。

 

 「―――いつまで寝てるの?早く支度しなさい!」

 

 とか下らない事を考えていたら、扉の外で甲高い声が。

 そういえば今日は大事な用件があるんだった。床に這い蹲った姿勢から徐に起き上がる。

 今日は公の場に出なければならない大事な日。普段はまずしない事だが、鏡で身だしなみを整えなければならない。寝癖でも放置してしまうと恥をかくのは己自身だからだ。

 

 ―――鏡は嫌なんだけどなぁ。

 

 いつからだっただろうか。ある日突然、鏡が見れなくなった。別に姿見などは平気なのだが、顔部分しか映らない様な小さいサイズの鏡が超が付く程苦手になった。独自に調べてみれば、そういう精神系の病気があるらしい。

 非常に不本意だが、さっさと済ましてしまえば精神的被害は最小限に抑えられる。未だに瞼を緩く閉じたまま、鏡台へと向かった。

 なるべく顔を見ない様に……頭髪だけ整えれば終わりだから……。そう言い聞かせ、恐る恐る開眼。

 

 (……何だ?この黒いモヤシは)

 

 いや、違う、これはモヤシではない。これは自分だ。なんだか、某RPGのGルートで鏡を調べた時の様なテキストになってしまった。

 やはりまだ脳がしっかりと覚醒していないようだ。カクンと船を漕ぎ始めた首の筋肉に喝を入れ、ぼんやりと霧が掛かった頭で何とか頭髪を整える事に成功する。

 面倒臭いな……。坊主の奴はこの過程をすっ飛ばせるのが羨ましい。やはり時代はこんなモヤシよりも筋骨隆々のスキンヘッドだろう。しかしどれだけ自主的な肉体訓練に励んでも、自分が得られた物はというと筋肉ではなく貧相な体躯だった。代謝が良すぎるのか、どう頑張っても自分はドウェイン・ジョンソンの様な男にはなれない。そう気付いた時はかなりショックだった覚えがある。髪型も母親の許可がなければ変更出来なかったし、スキンヘッドなんて彼女が許す筈もなかった。無念。

 今度アバターを作れるタイプのFPSが出たら、絶対ハゲマッチョで遊ぼう。そうしよう。

 

 さて、次は着衣だ。寝間着から外着に着替えなくてはならない。

 使っている材木が良質なのか、何故かやたら良い匂いのする洋箪笥を開き、奥の方で眠っていた真っ黒な衣類の上下を引っ張り出す。最後にこいつに世話になったのはいつだっただろうか。まさか、再び運命を共にする日が来ようとは……。

 

 ちゃっちゃと着替えを済ませて部屋の外に出ると、廊下に備え付けられていた鏡で化粧を整えていた母と目があった。瞬間、彼女の顔がぎょっと引き攣った。「嘘でしょ?」なんて言葉が表情を通して聞こえてきた。

 

 「……、本当にその目、どうにかならないの?」

 

 彼女の言わんとする事は理解出来る。このヘドロの様にこびり付いた気味の悪い隈と、出血で紅に染まった眼球の事を言っているのだ。

 こちらも自己治療が出来ないか色々試行錯誤を重ねている最中だが、残念ながらそれが実を結んだ事はない。検索したところで原因不明だのなんだの、結局役立たずな情報しか取得出来なかったのだ。

 カラーコンタクトという奴で眼球の色を健常者と同じようにして誤魔化せないかとも思ったのだが、あれは健康に良くない影響を与えるらしい。つまり悪手という事であり、使えない手段である事に変わりはなかった。クソが。何で何も悪い事をしていないのに化け物じみた容貌になるんだ。クソが。

 

 「なんか……無理っぽい。ごめん」

 

 どうしようもないのは事実で、短く謝罪の言葉を送る。今から公の場に出向くというのに、息子がこんな容姿をしていれば親として恥辱の極みだろう。この部分に関しては、本当に申し訳ないとは思う。

 

 「……まあ言っても治らないものだからね。なるべく他の人と正面から顔を合わせないようにするのよ、良い?近付くのも避けなさい。遠目からなら多少の誤魔化しが効くから。顔自体は良いんだから変な印象を打ち消せるとは思うけど……」

 

 言葉の後半部分は理解出来なかった。一体誰がこんな黒いモヤシが良いって?昔から、たまに彼女はこういう素っ頓狂な台詞を言い出すのだから少し困る。

 しかし彼女の言う通りなところもある。他人との接近を控えれば、前に父から「ドブみたいな目」と罵倒された、この気味の悪い顔を認識されずに済む。なるべく心がけるとするか……。

 

 「あ、そうだ。出掛ける前に一つ、聞いてもいい?」

 

 一つだけ、本当に一つだけ、今日確認したいと考えていた件があったのを思い出す。出掛けてしまえば私語を行う場所も暇も無くなるので、今ここで。

 

 「……『あの部屋』にあったのを見付けたんだけど。―――何でうちに保管されてるへその緒ってさ、()()()()()()?」

 

 その途端。

 彼女は目を見開いて、恐ろしい物を目にしたとでも言いたげに両手で口元を覆い、数歩後ずさった。役者みたいなオーバーリアクションが、逆にシュールだ。

 やはり、ビンゴだ。―――彼女は何かを隠している。

 

 「え……、何で、それ……」

 

 「勝手に見たのは悪いと思ってる。けど、この家の子供ってボクだけだよね。兄弟はいないし、養子も無し。……何でへその緒が一つじゃないのかな、って」

 

 別に、隠し子とか不倫だのを疑っている訳じゃない。彼女の心を読めば解る。彼女は人生の中で一度たりともそういった不埒な行いはしていない。

 そもそも日常生活を見ていれば、馬鹿でも解る。彼女の心は、常に父一筋だった。

 本当にそういう後ろめたいものが真実であれば、この家にそれを示唆する様な代物を保管しておく筈もない。だからこそ、何故この家にあんな物が()()()存在するのかが不思議でたまらなかった。たまらなくて、遂に訊いてしまった。

 

 彼女は、未だに明確な回答を寄越さない。信じられないといった様子で立ち尽くしているだけだ。

 その間に、ついでにもう一つ質問してしまう事に決めた。懐に収めていた画用紙を一枚取り出し、彼女に見せびらかす。

 

 「あと、これ。……これに描かれてる、もう一人の子供って……誰か知ってる……?」

 

 彼女はいよいよ小さい悲鳴を漏らした。こんな反応をされると、なんだか自分が悪役のように思えてくるので出来ればやめて頂けないだろうか。

 

 たった今、取り出した画用紙。幼稚園児ぐらいの子供にお絵描きの材料として渡す様な、何の変哲もない画用紙だ。

 その画用紙に、幼い子供の画風―――強いて言えば、下手糞極まりない拙い落書きが、白紙の全てを埋める勢いででかでかと描かれていた。

 落書きの内容は、二人の子供。それ以外の生物はいない。

 子供を描いているクレヨンの色は全て黒だった。顔の部分は大きな円で、頭髪は幾重もの縦線で、胴体は棒人間の様に枝分かれした直線で表現されている。子供は二人共、サイズ含めて全く同じ姿形をしているが、片方は顔に黒い眼鏡を掛けていた。奇妙な事に腹部と思われる辺りから肌色の一本線が伸び、それがお互いの体を繋いでいる。

 

 ―――そして、画用紙には一番奇妙な光景が広がっていた。

 二人の子供、その片方。眼鏡を掛けていない方の子供は、真っ赤なクレヨンで体の上から大きな×印を付けられていた。加えてその子から、血飛沫が飛び散っている様な赤い点々が周囲に描かれている。

 過去の記憶と、この子供特有の下手な画風。二つの観点から推測して、これの製作者は恐らく幼少期の自分であるのは明白である。

 所詮、子供の下らない落書き。なのだが、家から見付かった二つのへその緒と、幼少期の自分が描いた二人の子供。これらを繋げてしまうのは自然な事だった。

 へその緒と画用紙は、どちらも同じ部屋で発見した。まるで自分の目から隠す様にして、普段は使わない、目立たない物置と化している一室にあった物だ。今日、彼女に訊ねようとして画用紙だけは持ち出してきていたのだ。

 

 (絵柄はどう考えても小さい頃の自分。でも、こんな意味不明な落書きを描いた記憶だけが、ない……)

 

 そう。自分が小さい時の絵柄は見れば判る。だが、この絵だけ……描いたという記憶が無いのだ。それが途轍もなく不気味で、意味が解らなくて…………彼女に訊くしか、最早この胸中の不快感を解消する事が出来なかった。

 

 ―――まるで。

 まるで、生まれた二人の子供の内片方が、幼くして死んでしまったかの様な、不気味な落書き。

 何でこんな物を、彼女は捨てる事もせずに取っていたのだろうか?

 自分が親だったら、子供の作り出したこんな落書きはとっくに破棄していると思うのに。

 

 それに。

 この落書きの内容が真実だったとしても、だ。

 自分に兄弟の様な存在がいた記憶は一ミリたりとも、無い。当然、養子の線も絶対に無い。幼過ぎて覚えていないとかいう可能性もない。この家の戸籍にさえ、自分以外の子供の名前は記載されていないのだ。

 それとも何か。落書きの中の子供と二つのへその緒は無関係だというのだろうか。両方共同じ部屋に一緒に保管されていたので、つい互いが関連しているという前提で考えてしまったが、本当は無関係だったのだろうか。

 

 「それ、は」

 

 ようやく回答を用意したのか、彼女が口を開く。声が少し震えていた。

 

 「……それはね、その……。―――ただの落書きよ。何となく、ただ持ってただけ。まだちっちゃい時、あなたが描いていたでしょう……思い出として持ってたのよ。……何でそんな事を知りたがるの?」

 

 「ねえ、へその緒も訊いてるんだけど?」

 

 「知らないわ。あなたの見間違いなんじゃないの。大体あなたは一人っ子でしょう。……見間違いよ、全部」

 

 「違う。確かに二つあったんだ。何なら今からでも見せて―――」

 

 「いい加減にして!」

 

 ヒステリックな怒鳴り声。自然と肩がビクリと跳ねてしまった。

 彼女は両目をぎらつかせた猛獣の様。さっきのどこか怯えた様子とは打って変わって、攻撃態勢に入った獣を思わせる。

 

 「……お願いだから!また『変な事』を言い出さないでよ!どうしてあなたは()()なの!?どうして『普通の子』みたいにしてくれないの!私はッ、知らないって言ってるの!下らない事訊いてこないで、お願いだから!……今日はもう時間がないのよ。支度が出来たのなら、さっさと車に乗りなさい!」

 

 早口で捲し立てられて、呆気に取られた。演技でも何でもなく、本当にびっくりして驚愕の表情を貼り付けたまま棒立ちしていると、づかづかと歩み寄ってきた彼女はこちらの首根っこを掴んで、玄関へと引き摺り出した。

 そのまま庭に駐車されている白いロールスロイスの助手席に乱暴に放り込まれ、言う事を聞かないペットを縛り付けるかの様な手付きでシートベルトを装着させられた。彼女は苛立ちを隠そうともせず、大きな音を立てて車のドアを開閉すると運転席に乗り込んでくる。

 

 未だに呆然と見返す事しか出来ない自分を完全に無視して、彼女はエンジンを掛けた。流石高級車とでも言うべきか、かなり静かで身体に振動の来ないエンジンが始動し、車は今日の目的地へと出発した。

 こうなってしまっては、もう何を言っても機嫌を取る事は不可能だ。謝罪の言葉でさえ、今の彼女には耳障りでしかない。それは過去の経験から嫌という程理解している。

 何か言いたげに無意識に開きかけた唇を引き結び、彼女から顔を背けて外の景色へと視線を移す。

 

 狭く、密閉された車内の中。

 言葉も視線も交わさない断絶した自分達を、一体誰が『親子』と呼んでくれるだろうか。

 

 ただ、知らない事を、知りたかっただけ。

 ―――別に、貴女を困らせたかった訳じゃないのに。

 

 心の中に生まれた独り言は、一度たりとも現実に出力される事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……皆の前では、『普通』にしていなさい」

 

 車を降りる時だけ、彼女は言葉を発した。

 

 「…………」

 

 自分は無言で頷き、肯定の意思だけ示す。余計な言葉を口に出して、これ以上困らせるのは避けたかった。

 一定の距離を保ったまま二人で歩き、建物の中へ入る。

 

 「―――あら、プィオネさん、もう来たの?」

 

 早速第一村人発見……じゃない。壮年の女性がこちらを見付けては声を掛けてきた。特別醜いという訳ではないが、化粧が何というか濃厚過ぎる。あれはきっと、入浴後に別人へ化けるだろうな……。

 子供の頃、入浴を終えたばかりの母の顔が普段とは別人の様になっていて、知らない人が家に入り込んでいるのかと不安に駆られたものだ。勿論、それを口に出した事は無いし、口に出した日には多分、半殺しにされるに違いなかった。

 

 「……と、ああ、息子さん、ね。随分と酷い顔色。大丈夫?今日、長いわよ?」

 

 じろり。

 女性が、見たくない物を発見してしまったとでも言いたげな表情に変貌して、こちらを一瞥してくる。彼女と会うのは今日でたったの二度目だ。どうして嫌悪されているのか見当もつかない。

 

 ―――相変わらず気味の悪い子供ね。

 

 そんな言葉が今にも口から飛び出しそうだった。

 母に言われた通り、なるべく自然に見えるよう女性から顔を背け、こちらの顔がはっきり見えないように振舞う。横顔だけならまともに見える筈……だ。

 

 「……ええ!でも心配しないで。光の加減よこんなもの。息子はいつも元気、病気もしてないわ」

 

 取り繕っているのが手に取るように解る、母の偽りに塗れた笑顔。ただ、それは自分が気付いただけで、もしかしたらあの女性は騙せているかもしれない。

 「病気もしてない」、ね。よくもまあそんな虚言を並べられるものだ。いつも事ある毎に病院へ連行していたのはどこの誰なんだか。明後日の方向を見つめながら心の中だけで呆れた。

 

 「そう……?まあ、ここに来れてるなら大丈夫なんでしょうねぇ。さあ、来て。始まる前に、ちょっと葬儀の準備があるの。……ああ、息子さんは来てもつまらないでしょう。式が始まるまで好きにしてて良いわよ。式、長いから、飲み物でも買って水分補給しておきなさいね?」

 

 それだけ早口で言い終わると、女性は母を伴ってさっさと大きい扉を通り抜けて行ってしまった。最後まで、徹底的にこちらとの会話を最低限にしようという魂胆が見え見えだった。

 母も母で、特にこちらと言葉を交わすでもなく、女性と共に姿を消した。こういう儀式の詳細は良く知らないが、まあ大人だけでやる事があるというのは解る。事前に少し調べておけば良かったかな、とちょっぴり後悔。こんな場所で電子機器を使用する訳にはいかないので、今検索という行為は無理なのだ。

 

 自由時間は有効に使いたい。言われた通り、館内の自動販売機で飲み物でも買ってこようか。儀式が長いというのは本当の事。一時間や二時間は当たり前の世界だ。

 何なら少し、喉が乾いている。今の内に潤しておくのが賢明だ。

 館内の見取り図から自動販売機の場所を確認して、そちらへ向かう事にした。どうやら二階に設置してあるそうだ。近くにあった階段を上る。

 途中、数人程だが、自分と同じく黒い喪服に身を包んだ男女を見掛けた。ちらりとこちらの顔を窺う者、電子機器を弄るのに夢中で見向きもしない者、会話の最中でこちらに気付かない者。漏れなく全員の衣服が真っ黒で、何だか怪しい宗教組織に入ってしまった錯覚に見舞われる。

 

 「あ、あった」

 

 目的の物を発見。誰かが寄ってこない内に買ってしまおう。内ポケットから財布を取り出しそうとした時―――

 

 「あれぇ~?」

 

 嫌にわざとらしい声が、背中に飛んで来た。無視しようかとも思ったのだが、何故か自分の体は振り向いていた。

 振り向いた先、そこには横一列にしっかり並んだ三人組の少年が立っていた。全員見せつける様にポケットに手を突っ込んでいて、不良を連想させる。

 

 「あれ、あれれぇ~?」

 

 「なあなあ、もしかしてぇ~?」

 

 「やあっぱりぃ?あの爺さんの葬式ならぁ、居るよなぁ~」

 

 三人組が口々に、耳障りな声色で声を掛けてくる。

 にやにやと、草食獣を前に涎を漏らした獣に似ている下卑た笑みが浮かぶ様は、脳内で三人を皆殺しにするには十分過ぎた。ついでに癇に障る巻き舌も三枚分引っこ抜いておいた。やったねたえちゃん、死体が増えるよ。

 

 「誰かと思ったらぁ、あの時のおチビ君じゃーん」

 

 三人組の一人、金髪碧眼のオカッパが煽り顔でこちらを眺めてくる。

 

 「やっぱ何年も経ったらそれなりにおっきくなってるぅ?見覚えのある後ろ姿だと思ったねーえ」

 

 三人組の一人、茶髪碧眼の七三が首を無駄にコキコキと鳴らしている。

 

 「でもでもぉ、()()()()()じゃあそんなに背ぇ伸びないよねぇ。俺らに比べりゃ、やーっぱりチビじゃんねぇ」

 

 三人組のリーダー格、銀髪碧眼の短髪が仰々しく吹き出した。

 

 三人共、外国人特有の立派な体格でこちらを威圧してきていた。同じくらいの年齢に見えるのに、この体格差はやっぱり反則だ。だからこの国の人間は身体能力で他国に負けるんだ。クソが。

 

 はて、まるで知り合いかの様な台詞の数々。

 こいつらとは一体、何処で知り合っただろうか……。知り合った過去があるとして、どうして現在のこいつらは五体満足平穏無事なのだろうか。

 多分、こんなふざけた連中と知り合っていたら、その当時全員を一人残らず川に沈めてそうなものなのだが。

 

 「……あぁ、思い出した」

 

 そうだ。昔、一度だけ我が家に親戚の人間が複数訪ねてきた事がある。目的は子供同士の交流だったか、お互いの現況把握だったか、今となっては思い出せないが……。

 その時だ、こいつらと出逢ったのは。親達が善かれと思って、この三人組を自分の元へと放逐してきやがったのだ。今でも許さないからなあの時の親族共。

 ……そして、確かその結果、自分はこいつらを―――

 

 「誰かと思ったら……何だ、量産型ブラザーズか」

 

 「誰が量産型だクソ野郎ッ!」

 

 思い出した事をそのまま口にしたら、リーダーの銀髪が喚いた。

 いや、怒られてもこれは事実だろう。

 オカッパの名前がボブ、七三の名前がマイク、銀髪の名前がトムだった筈だ。全員、英国語の教科書に載ってそうなよくある量産型の名前なのだ。だから、自分が付けた彼らの通称が『量産型ブラザーズ』。

 何でこいつらがここに居るんだ?お前らみたいな量産型ネームは、グリーン先生にでも英国語を教えて貰ってこいよ。

 

 「そんなに嫌だったのか。なら、『ズッコケ三人組』とどっちが良い?」

 

 「どっちもよろしくねーんだわ、クソが」

 

 全員が鋭いガンを飛ばしてくる。この感じ、まさに不良、チンピラ……!文明が進んだこの時代、絶滅危惧種だと思っていた伝説の存在が今、目の前に……!

 

 「なあ、おチビ君よ?しばらく遊んでやってねー内に、生意気になってね?」

 

 「また俺らが教えてやんねーと、自分の立場ってヤツ?自覚出来ない?」

 

 「おいおいお前ら、あんまり虐めたら可哀想だろ?」

 

 調子を取り戻したのか、三人組の顔に嫌らしい笑みが再び浮かぶ。

 何だか面倒なのに再会してしまったようだ。こうしている今も、喉の渇きが着実に侵攻してきている。少し苛々が溜まってきた。

 

 「……あぁ、どうも。じゃ、急いでるんでこれで」

 

 「行かせる訳ねーだろうが」

 

 無視して自動販売機の元へ歩き出そうとしたら、大股で近付いてきたリーダー、トムが肩を掴んできた。彼の背後で二人がこちらにゆっくり向かってくる。

 

 「そうそう、無視とか辛いよなぁ、ボブ」

 

 「俺達さぁ、式が始まるまで暇なんだよ。遊んでくんない?おチビ君」

 

 「退屈はさせねーぜ、あん時みたいに虐めてやんよ」

 

 「……、……?」

 

 「おいコラ、こっちがおかしな事を言ってる雰囲気出すな」

 

 「その憐れみに満ちた愛想笑いをやめろ!」

 

 量産型の台詞の意味が理解出来ず、とりあえず機嫌取りの笑みで乗り越えようとしたら怒られてしまった。インキュベーターじゃないが、訳が分からないよ。

 多分だが、この量産型共は何か大きな勘違いをしてはいないだろうか?でなければ、先程の様な台詞が出てくる筈がない。

 やたらこちらが『虐められっ子』みたいな扱いをしてくるが、昔こいつらは―――

 

 「てか、マジでこいつ、なんか雰囲気変わってね……?」

 

 「ああ、なあお前、あん時……眼鏡してなかったか?どうしたんだぁ?」

 

 む……そういえばそうだったか。道端に落ちている犬の排泄物に小枝を突っ込んで振り回してるような年頃の時、確かに自分は眼鏡っ子という奴だった。

 しかし、あれは視力補強用ではなく、斜視矯正用の眼鏡だ。遺伝のせいかは知らないが、幼い段階から斜視になりかけていた自分を不憫に思ってか、母が自分を連れて眼科にすっ飛んだ。その時に作った物の筈。早期対応の成果もあってか治療は無事完了、今となっては眼鏡生活からもおさらば、といった具合である。

 

 「眼鏡の有る無しでこんな印象変わんだな……」

 

 「あん時は干からびたナスビみてぇだと思ってたのに……」

 

 「俺的には萎びた雌ゴボウだった」

 

 「てかキモいなそのクマ!寝ろよ!」

 

 え?自分、こいつらからそんな風に思われてたの?本気でぶっ飛ばすぞ。

 

 ていうか干からびたナスビってどういう例え?どうして頑なに野菜で統一しようとしてんの?野菜みたいにペラペラだなって言いたいのか?馬鹿にしてんのか?

 萎びた雌ゴボウって何?雌?雌なのか自分?そもそも野菜に雄も雌も存在しないから!お前らの脳味噌の方がよっぽど野菜なんじゃないのか?…………、ヤバイ、自分でも何を言ってるのか分からなくなってきたね、もう。

 た、たまに女と間違われる事のある体型だけれども、出生届はちゃんと性別・男で提出されてるんだぞ?ほ、本当なんだからな?

 ……ここまで自分の性別に不安を抱いたのは人生で初めてかもしれない。なんか、別の意味で泣きたくなってきた……。

 最後の悪口に至ってはある意味助言になってるし、何なんだこいつら。名前で呼んでこないのは何でだ。もしかして、最後まで『おチビ君』で貫き通す気かこいつら?はあ~、殴りたくなってきたな。

 

 ―――皆の前では『普通』にしていなさい。

 

 脳裏で母の言葉が蘇る。握った拳を慌てて解いた。

 

 ―――ねえ、『普通』って何?

 

 母ではない、誰かの言葉が過ぎった。三人組が目の前に居るので、視線の動きだけで周囲を見回した。そんな事をしたって何も見える筈がないのに。

 

 ―――これだけ馬鹿にされて、大人しく黙っているのが『普通』?

 

 くすくす。くすくす。

 何故だか、声の主が嘲笑の声を上げた気がした。

 

 ―――もう一度、こいつらに()()()()()()()()()

 

 「なあオイ、聞いてんのか?」

 

 未だに肩を掴んだまま、銀髪の少年―――トムがこちらの顔を腹の立つにやけ面で覗き込んでくる。

 何故だろう。その名前はどこか聞き覚えがある。

 

 ……そうだ。よくある名前。

 平凡で、下らなくて、量産型の、つまらない名前の主―――。

 

 でも、違う。違うのだ。

 こいつとは、違う。こいつじゃ、ない。

 

 昔、自分は確かに、そんな奴と―――。

 

 そんな奴()―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――ずっと、()()()()()()()と思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「………ッッッ!!!?」

 

 

 躊躇い、なんてものは無かった。

 この行動の先にある未来がどういう道を辿るかなど考えず、クリアな思考のまま。

 目の前の男にぶら下がっている大事な部分を、力強く蹴り上げた。

 

 言葉にならない悲鳴、というヤツだろうか。少年は両手でそこを押さえて床を転げ回った。想像とは違って絶叫は上がらない。ひゅうひゅうと喘息に似た声を垂れ流し、悶絶しているだけ。お陰様で人が来る事も無かった。

 

 「ギ、ァ……ッ、オォ…………ッッッ!?」

 

 「て、テメェ!?」

 

 残った二人組が一瞬だけ倒れた少年を介抱する様な動作を取ったが、自分達では蘇生不可と悟ったのか彼を放置して戦闘態勢に入ってきた。

 

 「ふっ、ふざけた野郎が!いいぜ、死にてえようだなぁ!」

 

 「逆にお前のを潰してやらぁ!」

 

 自分も自分だが、こいつらは死者を弔う場所で一体何をしているんだか。ブーメラン全開の突っ込みはさておき、このまま大人しく蹂躙されるつもりはない。

 全力で拳を振りかぶってきた七三、マイクのパンチを間一髪で避ける。無防備に伸ばされたその腕を掴み、そのまま相手ごと体を捻って背負い、投げ飛ばす。

 かなりの体格差があったが投げようとした瞬間、ふっと相手の体が軽くなった。まるで『魔法』の様に重みが消えて、嘘の様に軽々と床へ叩き落とせたのだ。

 

 「ぐがはッ!?」

 

 背中から床に叩きつけられ、その呻き声を最後にマイクは沈黙した。だが安堵している暇はなく、第二の刺客、ボブがすぐそこまで迫っていた。

 彼はマイクの様な失態を演じまいと、腕を掴まれる危険性の高い正面を避けて横から殴りかかってきていた。単細胞ヤンキーだと思っていたが、少しは知恵が回るようだ。

 彼の拳は、両手の交差による防御で受け止める。少し痛みを感じたが、ダメージ自体は軽減出来ていた。

 そして、こちらの腕にばかり注意を向けている彼の無防備な下半身に向けて、足払いを掛けてやる。面白い程簡単にすっ転んだので、最初の攻撃方法と同じく、大事な部分を踏み潰してやった。車に轢かれた蛙の様な、短く小さい悲鳴が聞こえる。

 

 「ぐッ、ゲェッ……!?」

 

 あっという間に三人を制圧したその光景に、血が上っていた頭が我に返った。

 気が付けば、自分の周りには苦痛に呻き、横たわる生き物の姿しかいない。

 

 「…………、あ……、あ……」

 

 

 

 

 ―――一体、何でこんな事をしたのだろう。

 

 

 

 

 自分で自分が解らない。

 そんなつもりは、無かった。

 

 だって、こんな事をしてしまったら。

 こんな事をしたというのが、知られたら。

 

 母は、こいつらの親は、この状況をどう捉える?

 言い訳は効かない。嘘八百で大人に取り繕ったところで、こいつらの証言がそれを許さない。

 この家系の奴らの中に自分の味方は、()()()()いやしないというのに。

 

 ―――先に手を出したのは、自分だ。

 

 

 

 

 「違う……」

 

 彼らを傷付けた両手を見る。彼らを傷付けた両脚を見る。

 

 「違う」

 

 ここに一秒でも長く居る事に耐えられなくなって。

 

 「ボクはやってない……!」

 

 咄嗟に身を翻して走った。

 

 「そこで何をしているの?」

 

 ―――そんな事が、許される筈もなくて。

 

 自分が逃げようとした方向の反対側の階段下から、見覚えのある女性が上がってきていた。

 やけに目を引く艶やかな長髪の彼女の事は、記憶に残っている。三人組の中の、誰かの実親だった筈だ。

 

 …………、終わった。

 

 こんな場所で、こんな失態。

 言い逃れようのない現場。倒れる子供達と、無傷の自分。

 誰がどう見たって、この状況を作り出した元凶は明らかだ。

 

 「ちょっと……!どうしたのこれ……!」

 

 女性は慌てて駆け寄ってきて、三人組の傍にしゃがみ込んだ。彼らは倒れているものの意識はしっかりあるようで、女性に向けて掠れ声だが何かを伝える素振りを見せた。

 恐らくは、この状況の説明、もしくは報告に違いない。今頃はきっと、「あいつがやった」だのなんだの、事実をありのままに伝えているのだ。

 

 「…………、そ、そうなの……」

 

 女性はかなり驚いた表情を見せた。当然だ。体格差のある貧弱そうな子供が、男三人相手に無双したというのだから驚く他あるまい。

 もう逃げる事は諦めて仕方なく立ち尽くす。いつ降りかかるか解らない女性の断罪の言葉を待機していると、

 

 「……もう……何やってるの……あんたは……」

 

 女性の呆れた様子の言葉が聞こえてきて、訝しげに彼女を見つめる。向こうは溜息をつくとこちらへ視線を移してきた。その表情からは、こちらに対する憤りなどといった心情は読み取れない。

 

 ……一体、どういう……?

 

 「ああー……、ごめんなさいね。この子達は私が見るから……。()()()()()()()()()

 

 「…………、は……?」

 

 何を言っているのだろうか。気の抜けた声で聞き返すと、彼女は頬に片手を添えて恥ずかしそうに笑った。

 

 「もう、嫌になるわ。この子達ったら、この年になってはしゃいで、挙句階段で躓いて『そんなところ』打つなんて?一体いつになったら成長するのかしら、全く」

 

 「……ん、え?」

 

 「ああ、マイクは床で滑って背中からダイブって!確かにこういう所はね、床がツルツルなのよねぇ……。私も気を付けなくっちゃ」

 

 「は?は…………?」

 

 「ありがとうね、大して仲良くもないのに……動けないこの子達を見ていてくれてたんでしょう?もう良いから、貴方はお爺さんのところに行ってあげなさい」

 

 どうしよう。本当の意味で自分の頭がおかしくなったのだろうか。彼女の言っている事が全く理解出来ない。本当にどうしよう。

 

 (……いや。これは、あの時と、同じだ……)

 

 ―――そうだ。完全に思い出した。

 

 数年前、小学生の頃。

 好きでもない親族共がうようよやって来て、自分に与えられたとっても迷惑な贈り物が、あの三人組で。

 しょうもない諍いが起きて、自分の大事な私物を修復不可能なレベルで破壊された。

 その時、初めて他者に対する殺意と言う感情を知った。

 その昏い感情に支配されてぐちゃぐちゃになった頭で、当時、具体的に何を行ったかの記憶だけが曖昧だ。

 我に返った時には既に遅し。三人組は自分の周りで、命に別状は無かったものの失神して倒れていたのだ。

 

 まあどんなに記憶が曖昧だと言っても、犯人が誰かは疑う余地もない。

 ああこれは言い逃れが出来ないな―――当時の自分はどこか他人事の様に思って、覆しようがないこの結末を受け入れて、誰かに現場を発見されるまでぼんやりと待っているだけで。

 ところが、いざその瞬間が到来すると不思議な現象が起きた。

 大人達が駆け寄ってきて、三人組が介抱されて意識を取り戻した、決定的なその瞬間。

 あの三人組が証言した内容は、本当に意味不明の物だった。

 

 『勝手にはしゃぎ過ぎて、疲れて眠ってしまっていた』

 

 耳を疑った。今し方、己が何をされて無様に寝転がっていたのか覚えていないのか?と。

 大人達は当然、血の繋がった我が子の証言をあっさりと信じ込んで、犯人であろう自分には疑惑の目すら向けては来なかった。

 そして、どういう訳か各々の家へ帰る直前。三人組は悪辣な笑顔をこれ見よがしに浮かべてきて、捨て台詞を吐いた。

 

 『次もまた虐めてやる』

 

 もう、本当に訳が分からなかった。

 何故か、あの三人組は自分が一方的に蹂躙された癖に、その一切を覚えていなくて。

 挙句、「自分達が優位に立って悪逆を尽くした」と、有りもしない記憶を埋め込まれているようだった。

 去り際に呆然と見返した三人組の表情からは、見栄だの虚勢だのは全く読み取れなかった。

 つまり彼らの脳内には、こちらを甚振ってやったという虚構の記憶しか残されていないという―――原因不明で不可思議な現象が起きていた。

 

 ―――今、目の前で起きているのと違わぬ現象。

 

 「……ッ」

 

 動揺を悟られまいと咄嗟に愛想笑いを返し、その場を去る。

 あの時とは違い、普通に意識のある三人組は、終ぞ自分に向けて何かしらの言葉を掛けて来る事は無かった。

 ―――本当に、自分に攻撃されたという記憶が改竄されているのだ。

 

 (何故?どうして?何が起きている?)

 

 いくら考えを巡らせても理解出来ない。

 これはもう、あの三人組が脳に重大な欠陥、または障害を抱えているとしか思えない。

 記憶障害というヤツであろうか?人生のどこかで頭に甚大なダメージを受けて、それで『本当の出来事を記憶する能力』が欠落しているんじゃないか?

 そうだとしても、三人全員が全く同じ記憶障害を発症しているなんて偶然があるのだろうか?可能性的には、とても低い。

 或いは、意図的な記憶の改竄―――それが三人組に行われて、それで……

 

 (は?どうやって他人の記憶を弄るっていうんだ?どっかのSF映画じゃないんだぞ!)

 

 昔観た『トータル・リコール』という有名なSF映画では、人間の記憶を消したり記憶を与えたりするという、記憶改竄が可能な技術が存在していた。

 だがそれはただのフィクションであり、この現実の世界には有る訳が無いのだ。庶民は知り得ない裏社会にあったとしても、だ。一般人でしかないあの三人組にそんなヤバイ技術が施されるだろうか……いや、絶対に無い。

 

 (もう、終わったんだ……忘れよう)

 

 これ以上は拉致が明かない。

 とにかくも、自分が糾弾対象にならないのならそれに越した事はない。犯罪の隠蔽を犯してしまった後ろ暗い事情を抱えてしまったものの、大人共を欺けるのならば是非謎の恩恵にあやかろうではないか。

 自分がどれだけ考察を重ねたところで、あの三人の記憶が正常に戻りそうもないのだから。

 命に別状が無く嘘の証言までしてくれるなら、正直どうだって良いじゃないか。―――そう己に言い聞かせて、新たな目的地へと動いた。

 

 

 

 

 大きな扉を開けて入室すると、そこは式が執り行われる大部屋。

 規則正しく均等な間隔で並べられているパイプ椅子の間を通り抜けて正面へ進むと、真っ白い柩が鎮座している。奥に飾られた遺影には、力強い眼でこちらを射抜く老人がいた。

 この部屋の準備は済んでいるのか誰も見当たらない。これ幸いと、柩にゆっくり近付いてそっと触れてみた。

 

 「―――ペベレルさんのお孫さんじゃないか」

 

 何かしらの想念に浸る暇も無く、背後から声を掛けられた。聞き覚えがある柔らかい声。聞きたくはなかった毒色の声。

 

 「惜しい人を亡くしたよ。君もさぞ辛かっただろう?」

 

 刃の様に冷たく鋭い眼差しで振り向いてやると、真っ黒なスーツに身を包んだ壮年の男性が立っていた。理想の大人、とでも表現されそうな、模範的な笑顔の張り付いた胡散臭い男。

 

 「何せあの人は、やたら君に目を掛けていたみたいだから。親しい人間が突然この世を去る……これ以上の悲劇は無いよね?」

 

 「……別に目を掛けられてはないですけど」

 

 「いやいや。あの人、君を大層気に入ってはいたけれど、怒る時はしっかり怒っていたそうだし。私から見ても祖父の鑑というヤツに見えたよ」

 

 最悪だ。人生で五位以内にランキングする程最悪な人間に出くわしてしまった。

 何でよりにもよって、あの人の柩の真前で……。

 神がいたならとっくに殺している。ついでにこいつもだ。

 

 「……祖父に何か用でしょうか。お邪魔でしたらボクはこれで」

 

 「いや、久しぶりに会えたんだ。君と少し話したいと思ってね」

 

 「無いです」

 

 「言葉を省略するのは将来苦労するからやめた方が良い。君に無くても、私は君と話したい事があるんだ」

 

 「…………」

 

 気のせいと思いたい。男の目付きがどこか熱を帯びている風に見えるのを。

 何故かは解らないが、蛇に食いつかれ巻き付かれた鼠の姿が思い浮かんだ。

 

 「少し、いやかなり痩せたかな?成長期なのに不安になるよ、君の姿。ちゃんと食べているかい?そういえば君はかなりの偏食だったよね」

 

 何を言い出すかと思えば、見くびってもらっては困る。

 こちとら、夜中にはしっかりと栄養補給を行っているのだ、不備はない。それにしても、どうして深夜のラーメンってあんなにも蠱惑的でやめられない止まらないんだろうか。クソ、少しお腹が減ってきた。この野郎、飯テロの魂胆か?

 体に悪そうな時間帯と食品に限って、無性に「食べた」という満足感に支配されるのは不思議だ……。

 

 「ちゃんと食べてるし運動もしてますが、何か不満でも?」

 

 「……君はもう少し自分の容姿に興味を持った方が良いよ。見る人が見たら致死的な病気を疑う」

 

 「はあ、そうですか?」

 

 「その病的な体型、折角の器量が台無しだ。君が女の子だったら、外を出歩くだけで男の餌食だよ」

 

 何、こいつ?何言ってるの?ごめん、誰か説明してくれない?

 散髪が面倒で放置していた時とか、少し長くなった髪のせいで女の子に見間違えられた事はあるけれど(告白もされた)、流石に今の発言はセクハラという部類なのでは?やけに情動的な目付きを向けてくるのはそういう事なの?

 おい、誰かこいつを今すぐ投獄しろ、頼む。

 

 「ちょっと、意味不明なんですけど……貴方の言ってる事全部」

 

 「……ああ、可哀想に。やっぱり自分に自信が無いんだね?」

 

 すまない、会話の通じない奴は帰ってくれないか!

 

 「昔ね、うちの妻が君に酷い事を言った時を覚えているよ。あれは……本当にすまないと思っている。多分、そのせいだね。……君は自分を否定されて、自分に自信を持てなくされたんだろう?」

 

 何の事だろうか。

 確かに、こいつの妻には何かを言われた記憶はあるが、当時の自分はそれがどうでも良かったのだろう。全く覚えていない。どうでも良い事はさっさと忘れてしまう質なのだ。

 

 「君を『醜い余所者の子』だとか、『悪魔の子』だとか……。彼女に代わって謝罪する。本当にすまなかった……。君の自尊心を酷く傷付けてしまった。全く最低だ……妻のせいで、君は自分を醜いと思い込んでいるんだ」

 

 ………………。

 自分は、ここでどういう反応を返すのが正解なんだろうか。

 

 「別に……もう昔の事なので……。そういえば、自分は何かした覚えはないんですけど、彼女は何でそういう呼び方を……?」

 

 彼女に逢ったのはたったの一度きり。今日で二度目だが、何か罵倒されるような事は仕出かしていない筈。実際はしてしまっていたのだが、謎の記憶改竄によりそれらは無効だ。無効ったら無効なのだ。

 

 「ああ……我々の家系ではね、『余所者』との子供は不吉の象徴、なんて言い伝えがあるのだよ。とても古い言い伝えさ。だから彼女は……君の見目に拘らず、醜いだの辛辣な言葉を浴びせたんだ。全く愚かな事だよ。こんな美しい子供に対して失敬な……」

 

 「『余所者』?……父の事ですか?」

 

 最後の部分は聞き取れなかったフリをした。

 

 「そうだね。勿論、私はそんな言い伝えなんぞ信じちゃいない。誰と結ばれるかは君の母親の自由であり、その自由が侵害されるべきではないとも思っている。けれど、そうは思えない連中がうちには多くてね。君の母親も、結婚にあたって色々な苦労をしただろう」

 

 「その言い伝え、そんなに信憑性があるとでも?」

 

 「口伝でしかないが、実際にいたらしいんだ。過去に我々の家系と余所者との間に出来た子が、邪悪に染まり非道を尽くした―――そんな口伝がある。それを信じている者が、うちには多い。困った事にね」

 

 「非道……殺人鬼?」

 

 「まあ、似た様な者さ。本当に大勢の人間を殺したとか……。だから、我々と余所者の血を交わらせる訳にはいかない!……なんて豪語しているという事だ、彼女らは」

 

 確かに、そんな言い伝えがあるんじゃあしょうがない。先祖の二の舞を演じまいと、余所者との間に出来た子供を迫害してしまうのは……。

 

 「そういう理由……。ボク、そんなに人殺しみたいに見えるんですか」

 

 「…………」

 

 何だ?急に無言になったぞ。このタイミングでそれは本当に気持ち悪いからやめろ。

 

 「ふふっ……」

 

 え?何か笑い出した。

 どうしよう、警察を呼ぶ番号って何番だっけ?とりあえずポケットに入れてきた電子機器を……

 

 「ふ、ふふ…………何を言っているんだい、君は……。ずっと、ずっとしていたじゃないか」

 

 堪えきれない、といった様子で男は肩を震わせ声を殺し笑っている。演技ではない。本当におかしくて笑っているのだ。

 

 「―――君、ここに来てからずうっと、()()()()()()()()()()()()()()って顔をしていたじゃないか!」

 

 その時、冗談でも何でもなく、全身から血の気が引いた。実際、今血圧を測定したら著しく低下しているんじゃなかろうか。

 何を言われているのか分からない。理解したくもない。

 

 「……ああ、大丈夫。別に言いふらしたりしないよ……。だって、誰にでもある事さ!人生で、誰でも一度くらいは思った筈だ。『あいつを殺してやりたい』、なんてね。逆に、生まれてから一度も他人に対して、大なり小なり殺意を抱いた事がない、なんて人間は極小数だろう?」

 

 「……………………」

 

 「勿論、私にだってある!子供の頃……大人になってからも……。頻度こそ少ないが、煩わしい奴に出くわす度そういった感情が沸き上がる。だからね、そんなに悪い事ではないんだよ、殺意を抱く()()ならね。それを実行してしまう人間は論外だが……」

 

 言葉を失う自分を良い事に、ぺらぺらと流暢に回る舌は止まらない。

 

 「親しい祖父が消えてしまったからかい?それとも、嫌いな親族に会って癪に障ったからかな?……まあ、今の君みたいに内心絶望に支配され、『周りの奴ら全員死んでしまえ』、なんて思い込んでいる人間は珍しくもないよ。だから、そう気にする事はない」

 

 煽っているのか励ましているのか、目的の意図という物が全く分からない。

 

 「いやあ、それにしても、あれだけは不思議だ。前に妻がね、君の事をこう言ったんだ。『あの子は殺人を犯して生まれてきた』と。『あの子は生まれながらにして殺人者』なのだと、そう表現していたんだ。……流石の私も、彼女の正気を疑ったね。君も訳が分からないだろ?」

 

 あの女、そんな事を言っていたのか?一体自分に何の恨みがあるというのか。

 『殺人を犯して生まれてきた』?母の胎内で栄養を貰うだけの赤子が、生まれ落ちても泣き叫ぶ事しか出来ない赤子が、どうやって殺人を犯すって言うんだ?

 ―――一瞬、この目に映らない『何か』に睨まれたような、そんな感覚に襲われた。

 

 「君は、賢いからね。賢いから、『ソレ』を犯さない人間だ。私にだって分かるよ。誰だって、一時の感情で取り返しのつかない過ちを犯して、豚箱に押し込められたくはないものね。君もそれを解っているから、心で思うだけ。そうだろう?」

 

 「……何を……」

 

 「どんな理由であれこの社会じゃあ、善人だろうが悪人だろうが手に掛けてしまうと下手人は裁きの対象だ。最悪処刑の対象にもなる。……君もそうはなりたくないから、いつも心に仕舞い込むだけで済ます。激情を、飼い慣らす。私も同じだよ」

 

 「……、同じに、するな」

 

 ぽつり、と。

 何とかそれだけ搾り出した。

 男はわざとらしく眉を上下させたかと思うと、こちらの顔をまじまじと覗き込んできた。その仕草一つ一つが非常に腹立たしく感じる。否、これも奴の演出の一部なのだろう。こちらの激情を敢えて引っ張り出さんとする演出。こいつはかなりの策士だ。―――だから、嫌いだ。

 

 「ボクはお前達と違う。一緒にするな」

 

 「…………、へえ……。剥がれたね、仮面」

 

 あの三人組が浮かべるものとはまた違った、嫌らしい笑みが視界に広がる。

 

 「ま、君の言う通りだよ!君は他とは違う、特別なんだ!そう、特別……意味が解るかい?君はたくさんの『特別』を持って生まれてきた子だ、誇るといい。心無い言葉を掛ける連中に耳を貸すな。君は間違いなく特別で、本当は凄い子さ!だからそう思い込むんだ……。もっと自信を持っていい……もっと自分を愛するんだよ……」

 

 「は?愛する……だって?」

 

 この男、こんな奴だったのか……?興奮するとこんな妙ちきりんな事を言い出すタイプなのか?少し寒気がしてきた……。

 

 「そうだよ?だって考えてもみてくれ。『自分を信じられない、自分を愛せない』。そんな人間に、一体何を成せるっていうんだい。自己陶酔ってヤツは第三者から見たらしばしば嫌悪の対象になりがちだけれどね、自分の力を信用出来ない奴はなんにも出来ないよ、なんにも。行き過ぎればそれは傲慢へと成り果てるが、多少の自己愛は人間にとって必要不可欠なんだ」

 

 言っている意味が、解らなくはない。世界で大業を成し遂げてきた奴らは、少なくとも彼の言う様に自己愛を所有出来た者達だろう。

 

 「だから、君も自分を愛してあげなさい。賢く美しい人間が、一部の非情な者達によって貶められるのは間違っている……。自分を特別だと思いなさい」

 

 「……特別」

 

 「『周りとは違う』、『自分は優れてる』って思うんだよ。ああ、行き過ぎは破滅を招くからね?賢い君なら程々に留められるだろうさ」

 

 「さっきから何なんだ……。ボクは、『普通』だ……母さんもそれを望んで……」

 

 そう、そうだ。あの人が望むのなら、自分はそれに従って―――それで―――。

 それで、どうなんだろう。

 自分は、ただあの人に従う事で満足出来るのか?

 自分にとって、それは幸せなんだろうか。

 でも、別に、あの人が嫌いな訳じゃ……ない……。

 

 「……君は、私達の所に送られるのが嫌で、外国語が『出来ないフリ』をしたね?」

 

 また、血の気が引いた。

 この男は、どうやったかは知らないが、自分の全てを見抜いている。

 

 「ペベレルさんも君の意思を尊重して、私達の誘いを払い除けた。君の母親はより良い環境で君が育つ事を望んでいたから、彼に反対していたけれど……。結局、君が外国に馴染めないという事実が姿を現して、『引き取り』の話は破断する事になった。……でもね、私だけは解っていた。君が馴染めないフリを演じてるだけだってね」

 

 「証拠でもあると?」

 

 「まあ私見だけどね。そう、私見に過ぎないから、私は何も言えなかった。君の演技はそれはそれは素晴らしかったから、何を言っても破談は避けられなかっただろうねぇ」

 

 「…………………もう一度言いますけど、証拠なんてないですよ」

 

 「だろうね。さっき君の母親に訊ねたけれど、『その教科』に至っては君、成績がよろしくないって言ってたから」

 

 「……ッ?わざわざ母に……!?」

 

 こ、こいつ……!そんな、検察官みたいな証拠集めを……?何の為に、そこまでするんだ?

 

 「もう解るだろうけどさ、私は君を迎えたかったんだよ。君の才能というか、素養……だね。それが素晴らしかったから、君がこちら側に来るのが正解だと思っていた。それなのに……」

 

 男はそこで目の色が変わった。二重人格者みたいに、先程とはまるで違う獰猛な眼差しへと変貌した。

 

 「でも、君はこんなに大きくなった。あの時とは違う……誘いを断る彼も、居ない。最早『馴染めない』なんて君が作り上げた偽りの理由は、意味が無いんだよ。あの時の君は幼過ぎたから、言語能力の欠如が問題だったけれどね……その歳になれば、多少の欠如はどうとでも乗り越えられると周りは判断する。まあ……本当の君は、三言語話者(トリリンガル)な訳だけどね?」

 

 「は……」

 

 この男、どうして。何でそんな事まで知っている!?

 もう勘が良いとかそういうレベルを超えているぞ!?

 暇だからって理由で覚えたフランス語の事まで、何で知ってるんだ!

 え?暇で他国語を習得するのはおかしい?いや、何もおかしくはないだろ。将来色々有利になるし。

 ……まさかこいつ、心が読める系の超能力者か何かだろうか。親戚に斉木楠雄っていう少年がいたりはしないか?

 

 「ボクは……」

 

 一歩、後退る。すぐに背中が柩に当たって動きが止まる。逆に男は一歩踏み出してきた。

 

 「ボ、ボクは……行かない。あの国……()()()()なんかには、絶対行かない!」

 

 だって、だって、あの国には…………。

 

 ―――□□□□□□が、居る。

 

 …………あれ。何で、こんなにもあの国に恐怖を感じるんだろうか……?

 昔から、何かが怖くて恐ろしくて。

 あの国で暮らす親族に引き取られそうになるのを、必死で拒んでいた。

 それなのに。

 

 「全く……こんな国のどこが良いと言うのか。彼の葬儀でなければ戻ってはこないというのに。葬儀でさえもこの国のやり方で執り行うとは寝耳に水だったよ。でも僥倖だったかな。君の身柄に関して口を挟む者は消えた。君の父母さえ、拒む事はしないだろう。特に君の父親はね」

 

 「ふざけるな。何でだよ。近付いてくるな!お前の言ってる事、意味わか―――」

 

 退路を塞ぐ柩に背中を押し付けたまま身を捩って距離を取ろうとした時、ツルリとした質感の床に足が滑って尻餅をついてしまった。誰だこの床掃除した奴、マジで覚えてろよ。

 

 「君のお母さんにもちゃんと話を付けるから…………さあこっちに……」

 

 男の手が伸びてくる。さっきの三人組の時みたく、何か抵抗すればいいものをどうしてか目を瞑る事しか出来ない。足を捻ったのか瞬時に起き上がれない。

 

 その時、ドクン、と腹の底で何かが蠢いた気がした。

 それは血管を通して全身を巡り、上半身から肩へ、肩から腕へ、腕から指先へと渡っていき―――

 

 気付いたら、身体が勝手に動いていた。

 床に転倒したこちらと目線を合わせる様にしゃがんだ男の額に向けて、ビシリと人差し指を突き付ける。速過ぎたのか男はまだ反応しない。己の指と男の皮膚が接触すると同時に、またも口が勝手に動いて何事かを呟いた。

 

 「《忘れろ》」

 

 まるで知らない誰かが乗り移って、自分の身体を人形みたいに動かした様な感覚に陥った。

 男は全身を硬直させて動かなくなってしまった。こちらへ手を伸ばした体勢のまま、全くと言って良い程動かない。表情も固まっている。リアクションすらしない。

 一体何が起きたのか、そして何をやってしまったのか。どこかの弁護士みたいに指を突き付けたまま、ひたすら脳内に疑問符の新芽を芽吹かせる事しか出来なかった。

 

 「え……っと……、あの………………」

 

 何か、何か言わなければともごもご呟いていると、男が一瞬だけぎょろりと白目を剥いた。思わず出かけた悲鳴を嚥下すると慌てて伸ばしていた腕を引っ込める。

 しかし男に異変が生じたのは一瞬の事。剥いた白目はすぐに治り、瞳は正常な輝きを取り戻した。

 

 「…………?……あ……れ、ん?君……大丈夫かい?」

 

 数度の瞬きの後、男は我に返った様子で、今気付いたと言わんばかりの驚いた表情を浮かべた。そこにはもう、黒く妖しい情熱は灯っていない。未だ転んだままの自分を見下ろして、再び手を伸ばしてくる。

 自分もまた、驚く程素直に伸ばされた手を掴んで引っ張り上げてもらった。ぼうっと男を見返していると、彼は不安げな表情で部屋を見回し始める。

 

 「おや……私、いつここに入ったかな……?確か、君のお母さんと話を……して……」

 

 「…………、」

 

 ―――また、同じだ。

 この男も、また…………()()()

 そして、今回の犯人は一目瞭然――――――紛れもなく、自分自身だ。

 どうしてとか、どうやってとか、今考えている暇は無い。

 

 「それじゃ、ボクは失礼します」

 

 それだけ言い残して、男の返事を待つ事すらせずに部屋の出口へさっさと飛び込んだ。

 何か気まずげに呼び止める様な言葉が背中に刺さった気もするが、振り返りはしない。

 臭い物に蓋をする様に、部屋の扉はしっかりと閉めてから退室する。外の広間にはいよいよ人が集まってきていた。祖父の友人知人、親族……皆が一様にこちらへ視線を寄越す。

 

 「あ……」

 

 人目を引く容貌の事をすっかり失念していた。咄嗟に集まる視線の方向から顔を逸らして、そそくさとその場を退散する。主に女性陣の方から色めき立った声が上がったのは、多分気のせい。

 

 「ん、ぐっ……!?」

 

 早足で去っていく中、鼻の奥で何かがドロリと蠢いた。咄嗟に押さえた手の指に、真っ赤な液体が付着する。

 

 (鼻、血…………?)

 

 そういえば、何だか頭痛もしてきた。休憩なしにぶっ続けでゲームをした時の様な、疲労による頭痛に似ている。

 三人組相手にハッスルしたり、滑って転んだりしたからか?それにしたって鼻血と頭痛の発生は関連性が無さ過ぎるような……。まさか、ストレス性のもの?

 

 (どうでもいい…………。もう、どうでも……)

 

 後悔、絶望、失意、憎悪、殺意。

 自分の肉体が、様々な負の感情を放り込まれた洗濯機みたいになった気がした。心の内で浄化が済むまで、それらを掻き混ぜ続ける邪悪な洗濯機。

 

 「…………死にたい……」

 

 他人ではなく自分に向けた怨嗟の声が、誰の耳に届く事も無く外気に混じっては消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――結局、あれから葬式自体は恙無く終了した。

 

 涙の一滴すら流れる事は無くて、自分はこんなにも薄情な奴だったのかと、どこか他人事の様に自分を毒づいた。

 砂漠の如く乾燥しきった死んだ目で式に参加しているこちらを見て、大半の親族共は(聞こえていないと思い込んでいる)小声で様々な憎まれ口を叩いていた。実の祖父の葬式で、泣きもせずにぼけっと無表情でいる子供がいたら、多分誰だってそうなる気はする。

 

 終始、あの手この手でこちらに声を掛けようとしてきたあの男……は、一切合切、人目を気にせず無視または回避を徹底し続けた。

 それを悟った男は遂に母へ直接声を掛けようとしてきたので、終いには突然の体調不良を演じて親族の誰よりも先に帰宅を促す他無かった。まあ、実際に断続的頭痛と止まらない鼻血で不調を来たしていたのだが。

 こちらの計画は無事に成功を収め、現在はあの窮屈な式場から抜け出し故郷たるこの村へと帰って来ている。

 

 ……正直、式の最中どうやって過ごしたかは殆ど記憶に残っていない。

 お経やら焼香やらでこの国に慣れていない連中が手間取っていた記憶はあるが、自分はどうしたかが覚えていない。別にどうでもいいか……。

 あの三人組は大事な部分が大変な事になっているからか、途中で早退していった。流石にあの時は少しやり過ぎたと反省はした、ほんのちょっぴり。人が苦しむ様を眺めるのはどうしてああも愉快な気持ちになるのだろう。

 まあ人間の急所をピンポイントキルなんて、子供の力で動物の首をぶった斬るより容易い事だ。精々背中を強打しただけの奴は最後までいたけれど。あ、もう名前忘れたな……。

 最後まで何も言ってこなかったという事は、彼らの記憶改竄は一時的な物ではなく、どうやら永続しているようだった。あの調子では改竄が解ける事を恐れる必要は無いのかもしれない。

 

 ―――あれはどういう事だったのだろう。

 本当に、あれは自分が引き起こした現象なのだろうか。

 人の記憶を弄って、都合の悪い出来事を無かった事にした。

 幸運だったとかそんな楽観的な気持ちに浸る事は出来なかった。常識的に考えて、有り得ないだろという所見で頭がいっぱいである。

 ここで「自分にはこんな力が!」、なんて騒ぐのはただの痛々しい馬鹿な子供だ。全米から哀れみの対象まっしぐらである。

 発動条件は一体何なんだろうか?直接接触?三人組の時は確かに全員直接触れる攻撃を行った。あの男の時も触れた途端に異変が生じたし、恐らくは……そうなのだろうが……。

 

 ―――これ以上は考えても無駄だ。解らない解らないと喚いたとて、親切に教えてくれる人間など誰もいやしないのだから。

 

 「今は、こっち優先だな……」

 

 時刻は深夜。

 場所は雑木林。

 昼夜問わず漆黒の闇を湛えるこの林の奥には、昔からうちの家系に属する者達を葬る墓地がある。現在の目的地はそこだった。

 何故そんな場所へ向かっているのかというと、今朝母へ訊ねた、『もう一つのへその緒』の所有者だった存在を探す為である。別にこの調査自体、明日の明るい時間帯でも良かったのだがどうしても大人しくしていられず、こうしてこんな闇の中を歩く羽目になっている。

 

 家を抜け出しているのがバレないように、ベッド上のかけ布団をもっこりさせておくという漫画などでよく見る典型的な細工を施しておいた。近寄って触られたらバレバレのしょうもない愚策なのだが、しないよりマシだ。まあ、両親が夜中に部屋に侵入してくる事は滅多にないので大丈夫だとは思うが……。

 というか、通常時であっても睡眠中の自分を目撃されるのは拒否したい。

 前に寝ている間の自分はどういう寝相をしているのか気になって、購入してきた定点カメラで爆睡中の自身を撮影したところ、とてもじゃないが他人に見せられない衝撃映像が撮れてしまった。以来、母には強く「夜は部屋に入って来ないで欲しい」と懇願している。

 勿論、この世に誕生してしまった悍ましい映像は速攻カメラごと焼却処分した。勿体無いとかそんな悠長を言っていられる場合ではなかった。何で炎を使用したかというと、あれで自分自身も浄化出来ないかと思ったからだ。古代から炎は穢れを浄化する物と決まっているのだ。

 

 (母さんの実子で、戸籍に存在しない。けれどへその緒だけは残っている……。こいつの所在地は、消去法でここしか無い……)

 

 出産の前に既に死亡している場合、その赤子が戸籍に記される事は無いらしい。へその緒の持ち主の正体は、きっとそんな状況下でこの世に姿を現した母の子ではないかと推測した。つまり、自分の兄姉、または弟妹にあたるかもしれない。

 ……自分が過去に描いた落書きを関連付けて真に受けるならば、そいつの性別は多分男だ。

 既に死んでいるならば、そして母の子だというのならば。そいつの遺骨が送られた場所はあの墓地に違いあるまい。この推理の真偽を確かめる為に、闇夜の中を彷徨い歩く。

 

 あの墓地を訪れた事は指で数えられる程しかない。慣れない土地。故に、この視界の悪い中無事に辿り着けるかが懸念材料である。念の為、自衛に使える武器を携帯してきたので最悪の事態にはならないと踏んでいるが。こんな時間の外出であるが故、こちらの準備はばっちりモーマンタイだ。

 ちなみに夜間の外出を行う場合、今の自分の様に真っ黒いジャケットを羽織るべきではない。もし道路などを歩く際車の運転手に存在を認識されず、轢かれる危険性が増す。あの世送りの確率を高めたくないならば、素直に白い衣服を着用すべきである。

 では何故お前は黒を着ているかって?理由は単純、汚れの目立つ色を忌避して、白系のアウターウェアを持っていなかったから!あれでカレーうどんとか注文しようもんなら死ねるからね、仕方ないね。

 

 (こっちで合ってる……よな?)

 

 懐中電灯が家のどこにあるか分からず、また探すような素振りを発見される訳にもいかなかったので、ライトは電子機器で代用。充電はフル、モバイルバッテリーも所持で何の不備はない。

 包み込んでくる闇を人工的な明かりで切り裂き暴いていく。今のところ何の問題も無く目的地へ接近出来ているようだった。

 

 「…………、…………」

 

 ―――これは、問題発生のカテゴリーに入るのだろうか。

 

 道中、不自然に雑草が繁茂していない土のエリアに差し掛かったかと思ったら、そのど真ん中に妙な物が落ちているのを発見した。してしまった。

 形状は、細く、長く。第一印象は木の枝みたいだと思った。色は暗闇で目立つ白色だが、骨を連想させる不気味な輝きを放っている。枝らしきそれは、真ん中あたりに黒く塗り潰された凹凸模様が刻まれていた。

 

 (いや、いや―――墓地が近いからって、人骨じゃあないよな?)

 

 白くて骨の様な枝、それもこんな所に落ちているとなると益々不気味だが、本物の骨が野晒しに落ちているなんてまず有り得ない。骨だったとしても、野生動物の物である可能性の方が高い。

 とりあえず湧き上がった好奇心でその枝らしき物を手に取ってみた。

 

 「……、ふーん…………?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 まじまじと手元から先端まで観察する。目測だが30センチ程の長さを有しているのが判った。握った質感からして、木で出来ているのも間違いない。

 詳細をいくつか把握する事が出来ても、これが放ち続ける不気味さが減少する事は無かった。人骨じゃないのが判ったというのに、こうして触れているのが薄気味悪くて居心地悪い。

 こんな棒切れ、わざわざ調べるまでもなかった。捨ててしまえ、と茂みの向こうに放り投げようとして―――

 

 「……は、はぁ!?」

 

 振った手からそれが放たれる事は無く、接着剤でくっついた様に己の手指が棒切れをしっかりと握り込んで離れなかった。慌ててその場でブンブンと上下に繰り返し振るも、一向に握る力は緩まず離れない。

 自分の精神はこれを手放したいのに、肉体は言う事を聞かずに握り続けている。全く意味が解らない。

 まるで、遠い昔に無くした落し物をようやく見付けて拾った様な、そんな錯覚さえしてきて―――

 

 「い、や…………冗談にもならない、離せって……ッ。この、何なんだ……よッ!」

 

 いつまで経っても好転しない状況に腹が立って、堪らず近くに生えていた樹に走り寄り、棒切れを握った己の右手を幹へと全力で叩き付けた。

 痛い、これはかなり痛い。呻くと同時、痛みによって命令を無視し続けた神経が我に返ったのか、右手はようやく開いて棒切れを手放してくれた。

 

 カラン、と小さな音を立てて棒切れは再び地面を転がる。その様子を目で追った瞬間、耳から心臓が飛び出たかと思う程、全身がドクリと強く脈打った。

 

 「…………あ、っ…………………!?」

 

 ザリザリザリッ!と、深夜に突如砂嵐に切り替わるテレビの様に。

 視界が、今いる世界とは全く別の景色に塗り潰される。

 

 

 

 

 『―――さあ―――決闘だ』

 

 墓場……墓場が見える。今自分が目指しているのとは違う。西洋の、所々が荒れた墓場……。

 

 『俺様から隠れられるものか。もう決闘は飽きたのか?』

 

 閃光が迸る。墓石が砕けた音がする……。銃撃か何かだろうか……。

 

 『どけ!俺様が殺してやる!奴は俺様のものだ!』

 

 こちらに背中を向けて逃げ惑う少年がいた。地面に横たわる何かに向かって必死に走っているようだった。

 気が付けば少年は風が拭く様に消えていて、耳元で誰かの憤怒に満ちた叫び声が上がった。喧しくて鼓膜が痛い。両目を固く閉じて耐えていると、不意に、

 

 【―――目を醒ませ!】

 

 叫び声の主とは違う誰かの声がした。同時に、胸倉を掴まれて身体を揺さぶられる感覚。

 

 【こんなモノに呑まれるなよ………‥ただの、他人の記憶だ!】

 

 男の声だった。低くも高くもない。姿は見えないのに、どうしてか同い年くらいの人間の声だと思った。―――何処かで、聞き覚えがあると思った。

 

 【解ったなら早く行け……。多分何かが来る…………ここを離れるんだ!下らない好奇心で命を捨てるんじゃない!】

 

 掴まれた胸倉を、今度は突き飛ばされた。為すすべもなく背中から地面に倒れる。反射的に肺の空気が吐き出され、数度咳き込んだ。

 

 

 

 

 「…………はッ…………」

 

 いつの間にか、視界は雑木林の景色を映していた。周りの全てが元に戻っていた。

 唯一違う点があるとすれば、それは己の体勢。先程の体験と同じく、仰向けになって倒れているままだった。

 

 「………ッ!!」

 

 ぞくり、と全身が粟立った。

 訳が分からない。だけれど、このままここに寝転がっていては最悪の事態を招く、そんな予感だけがした。

 今起こった事の推測、そんなものは放り捨ててさっと立ち上がる。地面に転がる棒切れが再び視界に入って、説明し難い激情に駆られた。

 

 「この……ッ!」

 

 勢い良く棒切れを蹴飛ばした。綺麗な放物線を描いて、それは望み通り茂みの向こうへ飛んであっという間に見えなくなった。ナイスショット。

 それを確認してすぐに走り出す。目指すは謎の命令を無視した、当初の目的地。

 

 「……誰か知らないけど、指図されるのは嫌いなんだよ!」

 

 いるかどうかも解らぬ誰かへ叫んだ。

 そうだ。例え今の忠告が真実で現実のものであったとしても、大人しく従う気など更々無かった。そもそも、目的を達成していないのにここを離れられる訳がないだろう。

 

 「……『何か』って何だよ……知るか!もうさっさと済ませる……!あいつの墓を見付けたら、すぐに帰る……」

 

 何やら危険な存在が近くにいるようなお言葉を貰った。ならば目的を素早く達成した後、寄り道せずに帰宅すれば良いだけの話。調査を明日以降にする、という選択肢は無かった。

 

 「夢だろ……こんなの夢だ……。何がいるって言うんだよ、ゾンビか!?馬鹿馬鹿しい……!」

 

 夜の墓地と言えばそういうのがお約束だ。或いは、悪霊?どちらにせよ、最早後戻りは出来ない。そんな奴らが実在したとて、逆に返り討ちにしてやる自信があった。

 

 「―――ァ、アアアアアアアアア!!!」

 

 突然、空気が震える勢いの絶叫が響き渡った。自分の物ではない。何事かと叫び声の方角を立ち止まって探る。

 

 「……なっ、本当に、何が起こってるんだ……」

 

 こんな時間に、こんな場所で、自分以外の一般人が彷徨いている?

 もう、本当に訳が分からないし頭も回らなくなってきた。短期間に色々なトラブルが発生し過ぎだ、いい加減にしろ!

 しかし、もしこの声の主が一般人であるならば、この地帯で発生中の謎現象について何かしらの情報を持っているかもしれない。見付けて会話にまで持っていけないだろうか?

 絶叫の上がった方向へ急ぎ走る。多少は鍛えている身であるが故、まだまだスタミナに余裕はありそうだ。

 

 辿り着いた場所、少し開けた林の真ん中。絶叫の主は先程の自分と同じ様に仰向けに転がっているのを発見した。

 

 「ヒッ……!?あ、ァァ?お、おま、お前…………ハァ!?」

 

 転がっているのは銀髪の少年だった。顔面いっぱいに恐怖の表情を貼り付けて、全身を震わせながら急に現れたこちらを凝視してくる。

 

 「何でッ……!?おま、えっ?何だ、マジで何なんだ!?どういう、何が、アア……ッ!?」

 

 「……………いや、それはこっちの台詞……」

 

 ―――こいつ、何でここでこいつを見かける事になるんだ!?

 ……そう、こいつは今日の葬式で絡んできやがった三人組のリーダーだ。名前は―――

 

 「テミー!?」

 

 「お前ふざけてんなよ、トムだッ!!」

 

 し、しまった。驚愕のあまり間違えてしまった。誰だテミーって、某RPGで隠しボスやってたり村の名前になってたりする謎生物じゃないか。

 ……何か面倒臭いな?もう、テミーで良くないか?正直どっちも対して変わらんだろ。よし、今からお前はテミーだ喜べ。

 

 「家に帰った筈だろ……?何でお前……いや、何で君がここに?」

 

 咄嗟に素のまま言葉が出そうになったので慌てて取り繕う。こいつらは、どうも「俺達の方が虐めっ子だ」という記憶改竄が続いているので、変にそれが解けないように自分は虐められっ子のままでいくとしよう。

 

 「それはッ!俺が聞きてぇよ!何でお前も……いや、そもそも!……俺は、家で寝てた筈なんだよ、こんなクソ田舎、誰が夜中に彷徨くかッ!ふざけてんじゃねぇぞクソ!!」

 

 「いや……一応、ちょっと行けば映画館持ちのデパートはあるし、クソ田舎って程では……」

 

 「誰がどう見たってクソ田舎だよクソ野郎!何だここ、周りはどっこも田んぼばっかじゃねぇか!クソッ、クソッ!」

 

 何だこいつ、こんな所で出くわしたかと思ったらクソクソ喧しくて敵わない。お前の顔面に肥溜めの中身をぶっかけてやろうか。そしたらお前も立派なクソ野郎だ、文字通りのな。

 

 「寝てたって……寝ている人間がどうやってそのクソ田舎の、こんな林の中で転がるっていう結末に繋がるんだ……?」

 

 「し、知らねぇ……マジで知らねぇんだ!気付いたらここに寝てて、おかしいだろ!?寝惚けて彷徨いてたってよ、ここと俺の家、どんだけ距離があると思ってんだよ!?」

 

 「まあ……普通に県を越えてるし……夢遊病患者だって無理だろうけど」

 

 「―――てか、んな事より助けろや!何でお前もいるかはこの際どうだって良い。むしろ好都合だ!さっさと助けろ!」

 

 「……………?」

 

 「う、動けねぇんだよ!何か、全身が重くてッ……、自力じゃ、起き上が……れ、ぐっ……」

 

 改めてじっくり様子を観察すると、どうやら仰向けのまま動けないようだ。まるで何かが胸の上に伸し掛っている……よう、な……。

 

 「……、な、なぁ、何ッ、見てんだよ……?何か、見えんのか……?な、何もいねぇ、だろ……!?おい!」

 

 「……………………………………」

 

 妙だと思っていた。こんなに大声を出し続ける元気があるのに、一向に起き上がろうとしてこないのが。

 原因は明白だった。……明白なのは、何故か自分だけのようだが。

 

 「…………、あのさ……。全身が重い、それだけ?」

 

 「そ、そうだ、何か知らんけど重い……。でも、何も無いのに!お、おかしいってこんなの!」

 

 「………………そう、そうなのか……」

 

 「な、何だ、何だよ。何も無いだろォ!?良いから、早く助けッ―――」

 

 動けないのを良い事に懇願を無視して、少年を観察し続ける。

 

 ―――彼の全身に、黒煙の様にぼやけた大量の蛇が巻き付いて、拘束しているのが視える。

 一瞬の後、それらが正常な生物ではないと確信出来た。蛇の輪郭はどいつもこいつも揺らめく陽炎の有様。スルスルと絶え間なく動きながら少年の全身を這い回り、その動きを強く封じているようだった。何匹かは最早数え切れない。これだけ無数の蛇を間近で目撃したのは初めてだ。苦手な生き物ではないが、目にした光景のインパクトの強さに打たれ、流石に少し恐怖を感じた。……一部の特殊な嗜好をお持ちの方が喜びそうな絵面である気もする。

 いつ無防備な皮膚に食いつかれるか分かったものではない。彼にとって、自分を襲うモノの正体が不明である事は幸運だったろう。その目にこの光景が映れば最後、きっと正気を失いかねない。

 ……何で自分には視えるのか、解らないけれど。

 

 「…………手遅れだよ」

 

 ぽつり、一言。

 それは、直球な死刑宣告。

 

 「もう、君……手遅れだ。悪いけど、ボクは急ぎの用があるからもう行く」

 

 「ハッ?……おい、おいおいおい、変な冗談は良いって。……良いから、さァ!助けてくれよ、なあ!?」

 

 命乞いをする悪役みたいな表情に変わり果て、今にも泣きそうな両目をかっ開いて必死に縋り付かれる。

 だが、彼に纏わり付く蛇をどうにかするなんて選択肢は無い。下手に触って、自分が巻き込まれるのだけは何としてでも避けるべきだ。あんなあられもない姿を晒す事になるのは勘弁したい。

 と、その時だ。彼の身体の上を這いずり回っていた蛇が、一斉にこちらへと長い首を向けて視線を飛ばしてきた。それは痛いぐらいに真っ直ぐこちらを射抜いており、目が合った瞬間自分が蛙になった錯覚を覚えた。

 

 「……ッ」

 

 ……何だろう。「視えてんのか?」、みたいな空気を感じる。これ、視えてる事がバレたら矛先がこっちに来ないか?

 蛇は全く視線を外してくれない。じーっと、品定めをする子供の様な純粋な視線を注ぎ続けてやめない。

 

 ―――こんな話を聞いた事がある。

 幽霊が視える人間の話だ。

 その人間は、自分が『視える人間』である事が幽霊側にバレると、自分の想いをブチ撒け伝えようと必死になった幽霊共に取り憑かれてしまうという。

 幽霊からしたら、もう『視える人間』にしか頼れないのだから、取り憑こうとするのも自然な流れだろう。

 だから厄介事に巻き込まれぬようにと、『視える人間』は幽霊が『視えないフリ』を演じるらしい。

 実に納得のいく、理に適った行動である。

 

 ―――なので、自分もそうする事にした。

 

 「…………サラダバー」

 

 「―――おいッ、待て!待ってくれ、待って下さい!!ほんとに、マジでッ!今までの事は謝るからッ―――」

 

 捲し立てられる懇願の言葉を振り切り、踵を返して走り出す。目指すは当初の目的地、ただ一つ。

 ……耳栓を持って来れば良かったかな、と、今の状況を少し後悔した。

 

 背後から止まない悲鳴から一秒でも早く逃れる為、加速。一度だけ振り向いてみたが、黒煙の蛇達が追ってくる様子は無かった。自分の選択は、正解だったらしい。

 別に、復讐とかじゃない。それすらも最早どうでも良かった。単に、巻き込まれるだなんて絶対に嫌だったからだ。こいつは多分、ここに迷い込まなくてもいつか何らかの要因で自滅していただろう。復讐する価値すら無いのだ。

 

 「ギッ、アアァァァァァァァァ―――ッッッ!!?」

 

 「ッ!!」

 

 数分ぐらい走ったその時、かなりの遠方で一際甲高い絶叫が迸った。

 ……確実に、『何か』が彼の元へ姿を現した。自身は更に加速する。もう後ろを振り返る余裕は無かった。

 さよならテミー。君の事は忘れない。……5000秒くらいは。

 

 とにかく夢でも現実でも良い。今はただ、自分が此処へやって来た目的を果たしたい。

 『何か』、にこちらの位置が捕捉されぬようにライトは消した。深夜の林でそれは自殺行為に等しかったけれど、何故か己の視界は昼間と変わらぬ目の前の景色を映し出している。自分が夜行性の動物になったみたいだった。別に昔からそういう体質だったとかじゃない。たった今初めて、暗闇でも正常な視力を保っている事に気付いた。……理由なんてどうでも良い。

 

 そうして走り続けて、息が切れるまで走り続けて。

 遂に、目的の場所へと足を踏み入れた。

 

 等間隔で、縦横にずらりと並ぶ墓石。林の奥に鎮座するそれらに、当然ながらお供え物などは置かれていない。此処を定期的に訪問する珍客など、かつての祖父しかいなかったからだ。記憶にある限りでは、母でさえ一度や二度くらいしか行かなかった筈。

 墓石はどれも埃っぽくて苔の匂いを放っており、清潔感とは無縁そうだった。祖父が最後に訪れたのは半年以上も前の事で、この現状は仕方が無いものだ。

 

 「T、だ…………Tの筈………」

 

 墓石はこの国の形状に沿った物なのだが、刻まれている文字は全て英語という異様な光景だった。なのに名字と名前の並びはこの国の表記と同じである。うちの先祖は元々英国人だからこんな方針を取ったのだろうか?文化という物は混ぜれば良いってもんじゃないが、こればっかりは自分が口出ししてもしょうがない。

 とにかく、今探している死者が母の子であるならば、そいつの遺骨が納められた墓の名前には最初にTが刻まれている筈だ。

 夜目の効く視界を駆使して一つ一つを素早く確認していく。あまりモタモタしていると、『何か』が自分の元にもやってくるんじゃないかという焦りがあった。

 

 「ッ、あっ………た…………」

 

 そして見付けた。自分の家族と同じ名字。

 この名字は、両親以外で自分の兄姉か弟妹、そして子供や孫にしか与えられぬ物だ。そして言わずもがなだが、自分には子供も孫もいる訳がない。いたらそれはもう一種のホラーだ。

 そもそも子供とか孫とか、何をどうしたら生まれるのかさえまだ知らない。昔祖父に訊ねた時は男女の合体がどうとかなんとか言っていた記憶があるが、最後まで聞く前に何処からともなく母が出現して、その場から祖父を強制退場させてしまった為何も知らないのだ。あの時の二人は物凄く気まずそうにしていたが一体何故なのだろう。

 

 「……この名字の墓があるという事は……やっぱり……」

 

 両親は健在だ。ならば、やはりこいつは母の実子であり、自分の―――。

 母はこいつにどんな名前を付けていたのだろうと、墓に刻まれた文字をもっと調べようとして。

 

 

 

 

 「隕倶サ倥¢縺溘◇窶ヲ窶ヲ」

 「見付けたぞ……」

 

 

 

 

 背後から謎の声がした。

 同時に、脳内で鳴り響く盛大な警戒音。

 ばっと振り向いて声の主を視認した瞬間、言葉を失うしかなかった。

 

 「驕ゥ莉サ閠??ヲ窶ヲ縺ゅ?譎ゅ?窶ヲ窶ヲ」

 「適任者……あの時の……」

 

 そいつは至近距離で自分を見下ろしていた。

 全身を黒いローブですっぽりと包んでいて、僅かに晒された手と足は病的なまでに青白く、痩せ細っている。不自然に長い蜘蛛の様な指、骨まで浮き出た裸足……。人骨に申し訳程度の皮膚を貼り付けた不出来な人形みたいだ、と思った。

 ちらりとフードから覗いた頭部には―――顔が、無かった。それはまるで、この国に伝わる『のっぺらぼう』とかいう妖怪を思い起こさせる。目鼻も口耳も体毛も無い。ただ青白い皮膚がそこにあるだけ。なのに、そいつにある筈のない両目で凝視されている気がした。

 

 「莉雁コヲ縺薙◎菫コ讒倥?迚ゥ縺ォ」

 「今度こそ俺様の物に」

 

 口が無いのに声がする。口が無いのに声がする!?何でだ!?

 しかもこの声、人間の言葉じゃない!タイヤから空気を抜く時の様な、シューシューとした空気音。

 何とか意味を聞き取ろうと澄ませた耳には、微妙に息遣いの差異や高低音の使い分けを感じ取れる。信じられない事だが、これはただの音ではなく―――何か意味のある言葉なのだ。

 

 こいつは、意味のある言葉を使用する―――知性を有した化け物なのだ!

 

 「縺薙l縺瑚ィ?闡峨□縺ィ豌嶺サ倥>縺溘?縺具シ滄囂蛻?→閨。譏弱□縺ェ」

 「これが言葉だと気付いたのか?随分と聡明だな」

 

 硬直したまま化け物と向き合っていると(目が無いのでこの表現が正しいか解らない)、また謎の空気音を放たれた。

 何、これ?昔流行った水素の音?水素水は健康に良いとか言ってるけど、多分あれはただの詐欺だぞ。頼むから人間の言葉で喋ってくれ。

 

 「菴呵」輔′縺ゅk縺ェ縲ゆソコ讒倥r逵シ蜑阪↓縺励※謌ッ縺代◆閠?∴莠九→縺ッ」

 「余裕があるな。俺様を眼前にして戯けた考え事とは」

 

 ……、こいつ、もしかして、今自分の思考を読み取ったのか!?

 意味は解らないけれど、何となくこちらの考えを見透かした様な言葉に聞こえたのだ。

 顔が無いから、向こうの心は読み取れない。なんという反則級な姿をしているんだ、ズルい。こちらの考えはどうやら筒抜けのようなのに!

 

 「窶ヲ窶ヲ縺サ縺?シ溽┌諢剰ュ倥?髢牙ソ?。薙°縲ゅd縺ッ繧翫♀蜑阪?莉悶?莠コ髢薙→縺ッ驕輔≧窶ヲ窶ヲ縲ゅ%縺ョ荳也阜縺ァ鬲泌鴨繧呈戟縺」縺ヲ縺?k縺ェ?」

 「……ほう?無意識の閉心術か。やはりお前は他の人間とは違う……。この世界で魔力を持っているな?」

 

 逃げろ。

 こんな人外の言葉を喋る化け物と、いつまでにらめっこしてるんだ。

 さっきの絶叫、きっとこいつを見てしまったが為に上げた悲鳴だったんだ。あいつが無事かは知らないが、こんな奴の傍になんて誰が居たいと思うだろうか。否、さっさと逃げるに越した事はない!

 そう思い、足に力を込めようとして―――

 

 「ぁ、ガァッ……!?」

 

 それよりも先に素早い動きで髪の毛を掴まれて、勢い良く地面に叩き付けられた。想像もしなかった痛みで息が出来ない。額に熱い液体が広がっていく感覚がした。出血している……。

 蜘蛛の様な指が頭部をがっしりと包んで放さない。ぎろりと眼球だけ動かして化け物の方を見上げると、奴は空いた片手に何かを持っていた。枝の様な物…‥白い骨の様な、細い棒切れをこちらに向けているのが見える……。

 

 「あ、ぅ…………ッ、はぁぁ……ッ!ぐ、アアッ!」

 

 「逞帙?縺具シ滓が縺九▲縺溘↑窶ヲ窶ヲ縲ゅ☆縺舌↓讌ス縺ォ縺ェ繧」

 「痛むか?悪かったな……。すぐに楽になる」

 

 痛みに耐え切れない。恥も外聞もなく喘ぐと、化け物の持つ白い棒切れの先端が発光した。緑色に光るそれは、見ているだけで良く解らない恐怖に掻き立てられる。取り繕う事も出来ずに、表情が凍りついた。

 

 「あ……、ヒッ…………」

 

 本能。本能を司る部分が、必死に訴えてくる。

 殺される。正体も判らない化け物に、殺される。

 誰にも知られず、理由も教えられず、惨めに無様に殺される。

 

 「縺雁燕縺ォ縺ィ縺」縺ヲ縺ッ豁サ縺ァ縺ッ縺ェ縺??ゅ%繧後?荳?蠎ヲ逶ョ縺ョ豁サ縲らオゅo繧翫〒縺ッ縺ェ縺??縺?縲√◎縺??ッ縺医k縺ェ窶ヲ窶ヲ」

 「お前にとっては死ではない。これは一度目の死。終わりではないのだ、そう怯えるな……」

 

 痛みと恐怖で抵抗する力すら出てこない。目の前で残酷に煌く緑色を見つめ返す事しか、出来ない……。

 

 違う。殺されるのが恐ろしいのではない。

 こんな得体の知れない存在に、命の幕引きを務められるのが恐ろしいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「繧「繝舌ム縲?繧ア繝?繝悶Λ」

 「アバダ ケダブラ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 緑色の光が、胸を一筋に貫いた。

 

 

 

 

 「がッ…………」

 

 同時に全身と五臓六腑を引き裂かれる様な、悍ましい激痛が駆け巡った。喉の奥で掠れた絶叫が暴れ回る。

 

 「あ、ギッ……アァァァァ、アアアアアアアアアアアッッッ!!」

 

 のたうち始める自分に驚いたのか、頭を地面に縫い付けていた手が離れていくのを感じた。それすらどうでもいい。脇目も振らず、激痛の逃げ場を求めて肉体は地面を転げ回った。

 

 「い…、た…………ッ、ひ、グッッッ…………!」

 

 服の上から両手で胸の皮膚を掴んで引っ張った。どうにかして痛みを和らげる事が出来ないか、それしか頭の中に浮かんでこない。

 やがて生理的な涙が控え目に流れ始めると、様子を眺めていた化け物が言葉を発するのが聞こえた。

 

 「菴墓腐縺?窶ヲ窶ヲ??シ滉ス墓腐縲∫函縺阪※縺?k?」

 「何故だ…‥!?何故、生きている?」

 

 聞こえてくる空気音から動揺に近い感情の揺れを感じた。何故かは知らないが、化け物は驚いているようだった。

 痛みで虚ろになった瞳から零れる涙を止められず、のたうち回ろうとする身体をうつ伏せになって必死に抑えていると、

 

 「縺?d縲∝撫鬘後?辟。縺??ヲ窶ヲ縲ゅ%縺ョ縺セ縺セ騾」繧後※陦後¢縺ー濶ッ縺??縺?」

 「いや、問題は無い……。このまま連れて行けば良いのだ」

 

 化け物が、今度はゆっくりとした動きで、再びこちらの頭を掴もうと手を伸ばしてくるのが見えた。

 また激痛を与えられるのか、と強い恐怖と拒絶の意志が沸き上がった自分の手が、殆ど無意識に動き出す。21歳でも拳でもないけど、抵抗しなければ。向かってくる青白い手首を、こちらが先に掴んでいた。

 

 「繧「繧「繧「繧「繧「繧「繧「繧「繧「??シ」

 「アアアアアアアアア!!!」

 

 途端、自分が触れた化け物の手首から煙が上がった。肉を焼き尽くすジュウ、という音も上がる。

 青白い手首がたちまちにして赤く爛れていく様を、はっきり捉える事が出来た。痛みを感じたのか、化け物は激しい空気音を発してこちらの手を恐ろしい力で払い除けてきた。弾みで少し後方へ吹き飛ばされた体が地面を転がる。全身が痛い。

 

 「縺雁燕繧ゅ°?√♀蜑阪b縺ェ縺ョ縺銀?ヲ窶ヲ??シ」

 「お前もか!?お前もなのか‥…!?」

 

 激怒。それ以外、化け物の様子を表現する言葉が見付からない。思わぬ反撃を食らって怒らない生物の方が珍しいだろう。

 しかし、自分が与えた謎の反撃はすぐに効果を失った。何故ならば、化け物の手首から上がっていた煙がしばらくして掻き消えたからだ。気のせいか、爛れた皮膚も少しずつ元の状態に治りつつあるように見える。

 

 「蠑ア縺??∵?縺?縺ェ縺≫?ヲ窶ヲ縲ゅ♀蜑阪r隴キ繧区?縺ョ縲√↑繧薙→蠑ア縺?コ九°」

 「弱い、愛だなぁ……。お前を護る愛の、なんと弱い事か」

 

 「………………」

 

 化け物が手首をさする様な仕草を取ると、火傷は薄らとした痕こそ残ったものの、殆どが治ってしまった。

 地面に頬をくっつけたままその様子を見つめる。このままここに寝そべっている訳にはいかないと、両手を付いて立ち上がろうとした時、化け物はそれを阻止すべくまた乱暴に頭を鷲掴みにしてきた。

 

 「いッ……!」

 

 今度はこちらの皮膚に直接触れるまいと、どこか慎重さを感じる掴み方だった。理由は解らないが、自分の皮膚は相手にとって毒となるらしい。ならばと頭を掴む化け物の手首にもう一度触れてみた。両手で思い切り握ってやる。

 

 「辟。鬧?□縲ゅ♀蜑阪↓荳弱∴繧峨l縺滓?縺ッ縺昴%縺セ縺ァ閼?ィ√〒縺ッ縺ェ縺??縺ァ縺ェ縺」

 「無駄だ。お前に与えられた愛はそこまで脅威ではないのでなぁ」

 

 だが、思った効果は得られない。ジュウジュウと上がる煙は随分と弱々しく、数秒も経てばさっきの様に消えてしまった。

 焼け石に水―――。襲い来る絶望に、それでも尚諦めきれず、掴んだ手首に思い切り爪を立ててみた。ギリギリと深く食い込むこちらの爪に、しかし化け物はどこ吹く風といった様子。まるで効いてない。

 自分の抵抗をものともせずに、化け物は悠々と歩き出した。頭を掴まれたまま地面を引き摺られていく。そうはさせまいと必死に踏ん張っても相手の力は強く、どうしようもなかった。地面との摩擦で膝や脛から血が滲むのを感じた。

 

 痛い、苦しい―――。

 何で、自分がこんな目に。

 一体、どこで、何を間違えた?

 

 「縺壹▲縺ィ縺雁燕縺梧ャイ縺励°縺」縺」

 「ずっとお前が欲しかった」

 

 化け物が語る。

 

 「縺雁燕繧貞?繧√※隕倶サ倥¢縺滓凾縺九i縲√★縺」縺ィ縺?」

 「お前を初めて見付けた時から、ずっと」

 

 こんな事なら、夢かどうかも解らないあの忠告を素直に聞き入れるべきだった。

 人間は、どうしようも出来ないところまで追い詰められて、初めて後悔する。

 

 「縺雁燕繧帝??′縺励※縺励∪縺」縺溘≠縺ョ譎ゅ°繧峨?∽ク?菴薙←繧後⊇縺ゥ縺ョ譛域律縺檎オ後▲縺溘°窶ヲ窶ヲ」

 「お前を逃がしてしまったあの時から、一体どれほどの月日が経ったか……」

 

 「……………うっ、ぐ……………………」

 

 「縺ゅ?譎ゅ?√♀蜑阪?縺セ縺?蟷シ縺九▲縺溘↑窶ヲ窶ヲ縲ゆソコ讒倥b蟄蝉セ帙?蟋ソ縺ォ蛹悶¢縺ヲ縺?◆」

 「あの時、お前はまだ幼かったな……。俺様も子供の姿に化けていた」

 

 幼かった……?子供の姿……?

 言葉の意味が、部分部分だけ聞き取れたような、そんな気がした。

 死に瀕した人間が、刹那の内に走馬灯を見るように――――――脳の力が通常よりも激増して、意味不明な言葉を理解しようと働いているみたいだった。

 

 「縺昴≧縲∽ソコ讒倥?遨コ髢薙↓縺雁燕縺ッ霑キ縺?セシ繧薙〒縺阪◆窶ヲ窶ヲ」

 「そう、俺様の空間にお前は迷い込んできた……」

 

 「迷い、込む……?」

 

 「縺雁燕縺ョ蜈育・悶?縲?▼縺区?縺ォ谺。蜈?r雜?∴縺ヲ縺薙?荳也阜縺ク貂。縺」縺溘i縺励>縺ェ」

 「お前の先祖は、遥か昔に次元を超えてこの世界へ渡ったらしいな」

 

 「先祖……?」

 

 「縺薙%縺ァ譁ー縺溘↑蟄仙ュォ繧呈ョ九@縲√d縺後※縺雁燕縺瑚ェ慕函縺励◆窶ヲ窶ヲ」

 「ここで新たな子孫を残し、やがてお前が誕生した……」

 

 額の傷から未だ続く出血のせいか、段々と意識が危うくなってきた。気付けば顎にまで鮮血が流れ、そこから垂れた物が胸元を汚していた。目の前の景色が霞み始める。脱力した腕はだらりと下がり、化物に火傷すら負わせられなくなった。

 

 (……もう、疲れた……………………)

 

 精根尽き果てるとはこの事か。

 ここに来るまでに散々走り続けたせいか、足元から昇ってきた疲労感が全身を苛んで抵抗の意思すら削ぎ落としていくのを感じる。

 途中で会ったあいつも、既に亡き者にされているのだろうか……。

 そういえば、あいつは何であんな所に―――。

 

 (全部、こいつの仕業……なのか)

 

 地面を引き摺られながら思考を続けていると、妙に納得の行く答えに辿り着いた気がする。

 こんな、現実離れした造形の怪物が目の前に実在しているのだ。常識では考えられない事態が発生しても、最早不思議でも何でもない。

 

 (何で、ボク達は狙われた……?)

 

 怪物の発する言葉の一部分に、先祖だのなんだのといった単語が含まれていたような……。

 自分達が狙われたのは、もしや血筋のせい?

 

 (あの人も、母さんも……。昔から、何かを隠していたのは知ってた……。単なる裕福な家庭じゃないって、事ぐらい……)

 

 思い出すは、子供の時に聞かされた、間抜けな先祖のお話。

 不思議な石を飲み込んで、お腹に詰まらせ死んでしまったという、間抜けな先祖の言い伝え―――。

 死者を呼び寄せる不思議な石。

 

 

 

 

 【―――そう、だからボクがいる】

 

 

 

 

 ……ああ、頭に何度もダメージを受けているせいか、いよいよ幻聴が。まいったね、こりゃ。

 ……ていうか、こいつ、何回人の頭を掴めば気が済むんだ?こっちは縫いぐるみじゃないんだぞ。疲労感と共に怒りが込み上げてきた。

 

 【なら―――こっちにも手を貸せ。その怒りを叩き込んでやれ】

 

 誰か知らないが、見れば分かるだろう。満身創痍で抵抗する力が……。

 

 【それは全て解決出来る。全て上手くいく】

 

 なんだろう、ウソつくのやめてもらっていいですか?

 

 【嘘じゃない。お前に嘘を吐く理由が無い】

 

 自衛の武器は持っているけど、それを握る力すら、もう―――

 

 【何も心配しなくて良い。例えお前に出来なくても、このボクが―――】

 

 

 

 

 

 

 

 

 【あのふざけた怪物を殺してやる】

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――力が漲る。

 視界は鮮明に。

 

 力の抜けていた右手を一度大きく握り込み、体の具合を確認する。あちこちに酷い外傷を負っているが、未だ全身のどこも骨折していないのは僥倖。

 今までこちらが行った反撃の全てを潰し終えて、完全に油断しきった様子の化け物の手首を三度、左手で掴んだ。

 

 「またか!諦めの悪い小僧め……」

 

 軽度の火傷を負いながらも、化け物の頭を掴んでくる力は一向に緩まない。しかし、一瞬でも精神に隙を生じさせられればそれで良かった。

 ズボンの右足に装着してきたレッグポーチに右手を伸ばし、中に入っていたサバイバル用ナイフを引っ張り出す。そして、躊躇なく化け物の腕をスパっと切り付けてやった。

 肉が裂かれる生々しい音。突然の物理攻撃は流石に堪えたのか、怪物が大きく飛び退いていく。掴まれていた頭が自由になった。

 

 「何だそれは!!マグルの武器か、忌々しい……!」

 

 今なら化け物の言葉がはっきりと理解出来る。その理由までは解らないが、考えてもしょうがない。

 切り付けた化け物の手首から、赤黒い液体が滴っていた。あんな存在にも体液という物はあったらしい。奴に目があったなら、今頃こちらを憎々しげに睨んでいるのだろう。

 

 ようやく自由を取り戻した体を、傷が痛まぬよう慎重に起こす。額から流れ続ける血が鬱陶しいので拭ったが、次から次へと溢れてキリがない。止血の為に隙を晒す訳にもいかない……どうしたものか。

 

 「全く……お前のせいだ……。お前みたいな化け物とは違う!父親の物さえ混じっていなければ、ボクの血は高貴なんだぞ……!それを、よくも……。よくも無駄に流させてくれたな」

 

 ナイフを握る手に一層力を込めて、こちらも睨み返す。

 

 「この醜い化け物、ふざけるなよ……!跪け……首を差し出せ……。お前はここで殺してやるぞ!」

 

 ナイフを突き付けて死刑宣告を下す。化け物はこちらの攻撃の意思を確認するとあの棒切れを振るった。

 正体の判らぬ赤い閃光が棒切れの先端から飛んで来て、こちらの右手、ナイフを握った方へ直撃した。痺れる様な感覚を味わったかと思うと、しっかり握っていた筈のナイフが後方数メートルへ吹っ飛ばされた。咄嗟にナイフの行方を探るが、やはり隙は一瞬たりとも晒せない。回収は諦めてレッグポーチから二本目を素早く取り出した。

 

 「妙な力を……!いいさ、好きなだけやってみろ。予備ならいくらでもあるからな……」

 

 「……良いだろう、その傲慢さ、豪胆……気に入った。お前は手に入れるより先に、しっかりと躾ける必要があるらしい」

 

 「躾ける?ははっ、笑わせるな!逆に、お前を躾けて見世物小屋で飼育してやろうか?その滑稽な見た目なら、さぞや良い稼ぎ道具になるだろうさ」

 

 化け物の言葉がおかしくて、嘲笑と共に吐き捨てると向こうは相当驚いたらしい。ぴくり、と大きく反応して数秒固まった。

 

 「……この言葉を理解しているのか?有り得ん、お前は()()()()()()筈だ……!」

 

 「ふん、化け物の喋る言葉なんぞ興味も無い。それより、さっさと終わらせてくれないか?お前に付き合う時間は予定に入ってないんだ。早く帰って安眠したいのさ、ボクは……。ただでさえ、この体はボクのせいで寝不足なんだから」

 

 「…………貴様、何者だ?」

 

 「やっぱり化け物の言葉は理解出来ないね。ボクが他の誰に見えるって言うんだ?お前、人の心が読めるんだろ?なら名前を当ててみろよ、ほら、どうした?」

 

 煽るだけ煽ってみるが、化け物は思った程挑発に乗ってはくれなかった。冷静を保ったままこちらと向き合い続けている。

 ……そういえば、こちらが今喋っているのは思い切りこの国の言葉なのだが、何で化け物はこちらの言葉を理解しているんだか。まさか東洋人でもあるまい?

 

 「貴様の名前は何だ」

 

 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」

 

 「真面目に名乗る気は無いようだな」

 

 閃光が煌めいて飛び出し、頬の横を掠めた。首を傾けるのが数秒遅れていたら危ういところだった。この体は昔から貧弱な見た目のくせして、反射神経だけはやたら傑出しているのだ。

 

 「何故この言葉を解して……。そうか……失念していた。お前が持つ魂が………………、そうだ。まあいい。―――眠りたいのだろう?ならば安心しろ、望み通りにしてやる。但しお前に贈るのは……永眠だがな」

 

 「ほざけ」

 

 左手にもナイフを引っ張り出して、右手のナイフを真っ直ぐに投げ付ける。それは化け物の顔を貫く寸前で見えない壁に弾かれた。自然と舌打ちが溢れるも、次に何をすれば良いのか絶え間なく最善策が浮かんでくる。

 化け物に向かって直進、そして空いた右手を大きく開き、疾走しながら団扇の様に振るった。瞬間、旋風が巻き起こって化け物を襲う。奴はまた怯んだようだ。

 

 「目に見える形で、魔法だと……!?本当に、可能なのか!」

 

 「はっ……。どうしてだろうな、ボクだって不思議だよ……。でもさぁ。ボクでも知らない事を、何でお前が知ってるのかなあ!!」

 

 自分でも知らない自分の一面を、他人、しかも化け物に知られているのは非常に腹立たしい。誰かに自分の事を理解された気になるのは、何故こうも許せない気分になるのだろう。

 怒りのままに、怯んだ隙を狙ってナイフを振りかぶる。距離を詰める行程は既に終えている。狙うは一点、化け物の胸の中心、心の臓。

 

 「―――死ね!!!」

 

 ブツリ。

 胸に届く寸前で、透明な膜をナイフが突き破る音がした。良く見ればナイフの切っ先から淡い光が迸っており、その光が化け物を護る膜を破壊する作用を齎したみたいだった。

 直感。直感ではあるが、その光をナイフに纏わせたのは自分の仕業なのだろうと、そう思った。

 真っ直ぐ突き入れたナイフは、やけにあっさりと化け物の青白い胸を穿ち、体液を決壊させた。

 

 「グ、アアアアァァァッ!!この……小僧がァ!!」

 

 ほぼ同時に化物の腕が動いて、自分の胸に棒切れが突き付けられるのを確かに捉えた。

 すぐに体勢を整える事は出来ない。腕を突き出した状態のまま、無防備な胸を二度目の閃光が貫いた。―――緑色の、残酷な光。

 

 「《アバダ ケダブラ》ァァァァ!!

 

 回避は最早不可能だった。視界が緑一色に染まったその時、虚空に向けて空いている片手を伸ばす。

 直後に為す術もなく光の奔流に呑み込まれ、数メートル程吹き飛んで転がった。胸を中心に恐ろしい激痛が再び全身を苛んで、立ち上がれない。

 

 「ま、たッ…………コレ、かッ…………!」

 

 痛い、引き裂かれる!!

 新しい外傷は一切無いというのに、この激痛。一体、体内の痛覚は何を感知しているのだろうか。

 と、被害を受けた覚えのない鼻から、ボタボタッと勢い良く血が落ちてきた。慌てて鼻を押さえる。ツンとした鉄の匂いが充満して、一気に気分が悪くなった。

 

 「あ、たま、がァ……ッ」

 

 加えて、酷い頭痛のダブルパンチ。視界の端が赤く点滅しているような気がする。

 いつか、同じ事が起こったような…………、そうだ。あれは、不思議な力で他人の記憶を弄った、あの時……。

 

 「……力の、使い、過ぎ…………?」

 

 何にせよ、頭痛のレベルが閃光による激痛を上回ったお陰か、体の方の重苦は紛らわされた。何とか立ち上がって、化け物を鋭く睨み付ける。

 奴は苦しそうに胸を押さえて地面に膝をついていた。刺突の最中に吹き飛ばされたせいか、その胸にはナイフが刺さったままだ。

 

 「もう一度、訊くぞ……貴様、貴様の名前は何だ……!」

 

 「レオナルド・ディカプリオ」

 

 「この、小僧……!!ふざけた食言を!お前は、俺様の物だ、俺様の物なのだ!!何故逆らう!!」

 

 憤死しそうな程の激情を立ち上らせた化け物が声を荒らげる。言っている意味はやはりさっぱりだ。

 

 「………………何言ってるんだ、この屑め。さっさと……死ね……。お前なんか、死んだ方が世界の為になるさ……」

 

 「俺様は死なぬ!死を超越した!そしてお前は、俺様の所有物だ!」

 

 「良いから、死ね……。死なない生き物なんかいる筈がないだろ……。何でお前みたいな屑が生きてて、まともな人間が、死んでいくんだよ……!」

 

 「死ぬのは弱者だからだ。弱者は常に死ぬ選択しか用意されていないのだ!お前には解らぬか、未熟な子供のお前には解るまい、滑稽だ……!」

 

 「だから、死ねよ……この化物!なんッ……で、お前みたいなのが生きて、るんだ。何で、あの人が……死ぬんだ…………。ゲホッ……」

 

 叫び返していたら、喉の奥で血の味がしてむせた。

 自分でも何を言っているのか意味不明で、色んなところが血塗れで、身体中滅茶苦茶だった。

 

 「死んでくれよ……。誰かが死ななきゃいけないなら、お前が死んでくれよ……。お前がッ、あの人の代わりに死ねば良いんだよ!」

 

 新しいナイフを取り出して、構えた。

 そんな事をしたって、もう一歩も動けないのに。

 頬を一筋伝う物は、果たして激痛による生理的な物なのだろうか。

 

 「お前みたいな化け物が死んだところで、惜しむ人間も悲しむ人間も、どこを探したっていないだろうが!!」

 

 ―――ズキリ、と。

 その言葉を口に出した瞬間、胸の内側を破裂する様な痛みが襲った。膝が一定の間隔で震え出す。

 

 ―――自分は、今、()()対して叫んでいる?

 この叫びは、本当に目の前にいる化け物を対象としているのか?

 あの化け物に、一体―――()()重ねている?

 

 化け物は、繰り出される罵倒に途中から口を挟まなかった。こちらの言葉は間違いなく、しっかりと聞き取られていた筈だ。

 その沈黙、表情のない頭部、動く様子のない気配。それら全てが、恐ろしかった。

 何故か酷く居心地が悪くなって、謎の吐き気に見舞われた。グラグラと、世界が激しく揺さぶられている感覚に襲われる。

 

 「もう満足したか?」

 

 化け物は緩慢な動作だったがしっかりと立ち上がる。対してこちらは途轍もない疲労感により、ナイフを握り続ける事さえ酷く億劫で。気を抜けば今にも取り落としそうだった。

 

 「その惨状、最早動けまい」

 

 「………………」

 

 「俺様が本来の力を半分も出せないとはいえ……こんなマグルの武器にしてやられるとは、大した小僧だ……。喜べ、評価に値するぞ……」

 

 (……マグル……?何の隠語だ……?)

 

 「お前は念入りに()()を施す必要がありそうだな……。二度とこんな真似が出来ない様に、心も体も何もかも隷属させてやる」

 

 「―――どうでもいいけどさ、早くそれ、抜いた方が良いんじゃないか?」

 

 化け物の胸に刺さったナイフを指差して、事も無げに言い放つ。満身創痍の分際で何を余裕ぶっているのか、と化け物は意に介さず棒切れを振るおうとした。

 

 「《インペリ―――」

 

 ―――だが、その手に最早棒切れは存在しなかった。

 手の中に何も無いという事実をようやく認識して、動揺しているのか化け物の全身が一度だけグラついた。

 

 「何、だと―――!?」

 

 「捜し物はこれか?」

 

 袖の中から先程まで化け物の所有物であった白い棒切れを取り出して、見せびらかす。奴に目があったら驚愕でかっ開いているに違いない。

 緑の閃光に吹き飛ばされる直前、至近距離であったのでどうにか武器を奪取してやろうと咄嗟に伸ばした手が、見事に奴の手中からもぎ取ったのだ。こちらの刺突による痛みに意識を逸らされて、奪われたという認識が麻痺して気付くのが遅れたのだろう。

 

 「で、お前の変な力、これがあればボクにも真似出来るんだ?」

 

 「―――貴様ッ!どこまで俺様に不敬を働くつもりだ!!タダでは許さんぞ……《インペリオ》ッッッ!!」

 

 「ッ!」

 

 しかし、化け物は予想外の現象を引き起こした。

 棒切れ無しであの妙な力を行使してきたのだ。一瞬、何をしたのか解らなかったが、異変はすぐに訪れた。

 

 「……………、……?」

 

 甘美で緩やかな眠気、全身を包み込む様な浮遊感。背中から倒れ込みそうになったが、かろうじて踏み止まる。

 さっきまであんなにも憎悪していた目の前の存在が、とても尊く素晴らしい存在に見えるという、矛盾した悍ましい感情がじわじわと精神を汚染してくようだ。

 具体的にどういう力なのか把握出来ていないが、棒切れを所有していなくてもこんな芸当が可能だなんて反則だ。薄れゆく意識の片隅で、目の前の理不尽さに愚痴を零す。

 

 「跪け!俺様に永遠の服従を誓うのだ!」

 

 「…………ッ。嫌、だね」

 

 肉体を突き動かすのは殆ど本能だった。

 仰々しく告げられた命令を即座に払い除けて―――ケーキに蝋燭を立てる様な気軽さで、躊躇なく己の左肩にナイフを深く突き刺した。そこから芽吹くは紅蓮の花冠。血飛沫は、まるで舞い落ちる花弁の如く地面を彩る。

 駆け巡る激痛は何も命じずとも、心地良い幸福感を一欠片すら残さず破壊し尽くしてくれた。取り戻すは、正常な意識と思考回路。

 

 「何を……!?そんなふざけた方法で―――ッ」

 

 やはり化け物は動揺を隠し切れない様子だ。

 しかし、こんな対処法も長くは続かない。自らを傷付けるこの方法は、繰り返すだけこちらの状況を不利に追い込むだけなのだ。流してしまう血液は無限ではないし、多く失えばすぐに敗北を喫する。最悪迎えるのは失血死だ。

 化け物もそれを理解しているのか、再び同じ力を振るう。

 

 「《インペリオ》!」

 

 だが、こちらに変化が生じる事は無かった。

 何事かを唱えた瞬間、化け物がガクリと膝をついて刺さったままの胸のナイフを見下ろした。僅かに震える両手を動かし、恐る恐るナイフの柄に長い指を這わせる。

 

 「グ、ガ……ッッッ、……ッ?」

 

 「…………あーあ、だから言ったのに。早く抜いた方が良いんじゃないか、ってね」

 

 「キ、サマ…………何をッ、したッ……!?」

 

 「さあ?……ただ、お前を攻撃する直前。そいつに不思議な力が宿ったみたいだったから、さ。どんな効果かはボクでも知らないけど、その効果が今、何らかの作用を齎してお前を苦しめてる……って感じだと思うよ」

 

 何だか当たり前の様に不思議な力を受け入れているけれども、実際はこれが何なのか理解して使用している訳じゃあない。だってしょうがないじゃないか。誰も教えてはくれなかったのだから。

 

 「……ははっ。良い、眺めだな」

 

 苦痛に呻き蹲る事しか出来なくなった化け物に、ゆっくりと近付いていく。それはある意味自殺行為に等しかったが、この行動の結果痛い目に遭うとしてもやめられなかった。

 

 ―――他人が苦しむ様を眺めるのは、実に愉快だ。

 それが例え、異形の姿を持つ化け物であっても。

 そう。自分はずっと、この光景を求めていた。

 自分の本心を偽るのは、今はやめよう。

 

 ―――ずっと、こうしたかったんだ。

 

 化け物の近くに片膝をついて、その頭部を覗き込む。表情は存在しないけれど、苦痛に歪む様が目に浮かぶようだった。

 ナイフと持ち替えた白い棒切れを、化け物の額へと突き付けてやる。

 こうしていると、何だかとても懐かしいという感情が湧き上がってくる。遠い昔、何度もこんな仕草を取っていた感覚すら。そんな事は有り得ないのに、魂の奥底で何かが絶えず郷愁を訴えている。だがそれに呑まれたりはしてやらない。

 

 「さっきの……あー、何だっけ?あの力使うには、合言葉みたいなのが要るんだろ?」

 

 「…………よくも、俺様の杖を…………ッ!」

 

 「杖。杖……。…………何だ?お前は魔法使いを気取ってたっていうのか?ボクが想像してるのとは随分と違う……短い杖を使うものなんだな」

 

 突き付けたまま、しげしげと棒切れ―――否、杖を観察する。フィクションで見かける魔法使いは、もっと長くて太い、身長と同じくらいの杖を使うイメージが強かった。この化け物の場合は違ったようだが。

 

 「魔法。……おかしいな。ボクの()()もそうだとして、他の親族共にもそんな力があるなんて聞いた事が無い。第一、魔法なんて本当に使えるとは信じもしなかった。……お前には訊きたい事がたっくさんあるけど、もういいや。どうせ、大人しく白状してくれるような性格じゃないだろう?顔が無いから、心も読めない。もういいよ……お前は用済み」

 

 「これで、終わりだと思うなよ……」

 

 「何だってボクの近くにはいつもストーカーじみた奴らが多いんだ?毎度毎度反吐が出るよ。男女問わず、しかも今夜は種族を問わず、だ。お前のしたかった事が何かは知らないけど、二度と来るなよ」

 

 「次は、逃がさん……。貴様は俺様の物だ。その運命は何があっても変える事は出来ぬ!貴様には、俺様の手の上で生きる道しか無い!!」

 

 「―――はあ。―――よし、殺すか」

 

 グリ、と一際強く力を込めて、化け物の額に杖をめり込ませた。

 何をすれば望みを果たせるか、もう解っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「《アバダ ケダブラ》」

 

 

 

 

 

 

 

 

 去りゆく知人に、「いってらっしゃい」とでも声を掛ける様に、随分と気楽な調子で。

 終わりを齎す魔法の言葉を囁いた。

 

 

 

 

 緑色の光が、闇夜を刹那掻き消す花火の様に大きく瞬いて。

 それが萎んで消えた時には、目の前にはもう誰も居なかった。カラン、と獲物に刺さっていたナイフが落ちた音だけが響く。

 肉や骨すら残ってない。だた一つはっきりと解るのは、獲物が逃げて姿を消した訳でも何でもないという事。

 奇妙な事だが、緑色が消えると同時に持っていた杖も、跡形もなく消えてしまった。

 それでも、獲物を始末したこの結果があれば、どうでも良かった。

 

 「は…………」

 

 とっくに疲弊しきった喉から、掠れた笑い声が漏れる。

 

 「ははっ……はははっ」

 

 こんなところを誰かに見られでもしたら、きっと自分は精神病患者か薬物中毒者だと誤解を招きかねない。だとしても誰も居ないから、特に気にする必要は無かった。

 

 「ははははっ!アハハハハハハッ!死んだ…………死んだ死んだ!殺した。殺してやった!!ボクがやったんだ!!」

 

 今の今まで腹の底で蜷局を巻いていた黒い感情が、この瞬間ようやく解き放たれた気がした。

 蛹のまま眠っていた幼虫が満を持して羽化を遂げる様に、それは一種の達成感すら呼び起こして。

 自分が、とても穢らわしい『何か』へと成り果てた自覚があった。

 

 「はは、ははは……ッ。…………どうせなら、()()()()()()()()()、なぁ……」

 

 ぽつりと本音を呟いて、何気なく頬に手を触れれば流れ続ける出血に気が付いた。そういえば止血がまだだったのだ。このままだと命に関わる。

 

 「母さんに、どう言い訳しようかなぁ……」

 

 全身に負った傷はとてもじゃないが誤魔化せる範囲を超えている。特に額の傷は間違いなく数日はくっきり残るだろうし、ボロボロになった衣服もそのまま洗濯に出せば怪しまれるに違いない。

 

 「―――しょうがない。ボクがやり始めた事だ……。今回は、()()()()()()って事にしておいてあげようか」

 

 落ちたナイフを拾ってレッグポーチに仕舞い込んで、暗い林の中を歩き出す。ライトは最早必要無かった。この眼は闇がよく見える。

 最後に一度だけ。くるりと墓石が立ち並ぶ場所を名残惜しげに振り返る。ある一つの墓石に、自然と視線が吸い寄せられた。

 

 

 

 

 「……律儀だな、母さんは。でも……悪くない気分だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 「―――いッ、つぅァ…………ッ!!」

 

 

 

 

 目を覚ますと、全身を蝕む筋肉痛やら関節痛やらで地獄を味わった。一際鋭い痛みが左肩を中心に暴れ狂っている。

 ベッドの上を釣り上げられた直後の鮮魚みたいにしばらくのたうち回って、時計を確認するとしっかりと朝の時刻を指していた。

 

 「―――あ、何だ、夢オチか…………」

 

 寝惚けて回らない頭で呟いた後、よろよろと老人に似た動きで起き上がり、ふと違和感を感じて前髪を掻き分け、隠れていた額を触った。

 べとり。

 やたら粘っこい感触が指に纏わりついたので、ぎょっとして指を眼前に持って来て、改めて確認してみた。

 五指の腹と手の平全体に、乾きかけた赤黒い血がまるで犬猫の肉球みたいに付着している。

 

 「っ、うわあああぁぁぁッ!!?」

 

 思わず腰が抜けて再びベッドに倒れてしまった。同時にジクジクとした痛みが蘇ってきて、潰された蛙の様にぐえっと呻く。

 ゴトゴトという音が扉の外でする。しばらくして母の甲高い怒鳴り声が貫通して部屋に入ってきた。

 

 「―――何騒いでるの!朝からうるさいわね!」

 

 「あっ、っと…………」

 

 マズイ。

 寝起きの頭をフルスロットル稼働。即座に言い訳を組み立てていく。

 

 「む、虫が……その、部屋に出ちゃって…………ですね…………」

 

 「…………、あのねぇ、今年でいくつになったと思ってるの?男の子なんだから、いい加減虫なんかで騒がないの!」

 

 はい男女差別。

 苦手な物に男も女も関係無い。男だからって虫全般が平気だと思うなよ!?

 特にあの、黒くてすばしっこくて、何かテカテカしている―――全世界にとっての癌とも言えるあのクソ虫だけは絶対に無理だ……!

 とある夜中、電気を点けるのが面倒だと、真っ暗な廊下をそのままにトイレへ向かおうと足を踏み出した時、「あれ」を素足で踏んづけてしまった。勿論、女みたいなソプラノの絶叫も家に響く事になった。眠っていた母を起こす羽目になって、ベランダに干した布団の如くぶっ叩かれた。

 実に忌々しいあの日から!我が魂魄百万回生まれ変わっても!「あれ」だけは絶対に無理なのだ!!

 

 「全く……そういうところは『普通』の子供なんだから……」

 

 扉の向こうで呆れた溜息が聞こえたかと思うと、足音が遠ざかっていった。どうやら、何とかこの場を誤魔化す事に成功したようだ。

 というか、安堵している場合じゃない!一体どういう事なんだ。

 ―――何で、夢の中で傷を負った箇所に血が付いているんだ?

 

 そろりそろりと鏡へ近寄り、正面に立つ。覚束無い手付きでもう一度前髪を掻き分けると、その隙間からぱっくり割れた裂傷がこんにちはしていた。―――目眩がした。

 バっと肩まで肌着を下ろすと、刃物が皮膚を突き破った様な深い刺し傷がやはりこんにちはしていた。お、オーマイガー。

 両方共、出血自体は治まっているが完全に乾燥しきっておらず、傷の表面に黒くこびり付いている。それが肌着を若干汚していた。

 

 (夢じゃ、ない……と?)

 

 待て、しかし、だ。

 あれが現実だったとして……。こうして無事に帰宅して、寝間着に着替えて、スヤスヤとベッドに入った記憶が一切存在しないのだが?

 自分はあの化け物に襲われた後、どうやって家に戻って来たっていうんだ?

 そういえば何だか全身がさっぱりしている気もする。鏡でよく確認すると、泥やら流血やらで汚れていた顔などはすっかり綺麗になっている。肌着の匂いを嗅いでみると、汗や血の匂いは全く漂ってこない。―――もしかして、入浴もしっかり済ませたのか?昨夜の自分は。

 

 「そうだ、ナイフ……」

 

 探す手間は省けた。

 ベッドのすぐ近くの床に、ナイフを仕舞ったレッグポーチが落ちていた。中身を確認すると、本数こそ一、二本減ってはいるが全て綺麗な刀身を保っていた。洗浄までやり遂げてる!?

 確か、返り血やら自分の血やらでグチョグチョだった筈、なのだが……。こいつらを手入れした記憶すら曖昧だ。

 

 (凄く疲れてたような気がする…………だったら、記憶が曖昧なのは当然?)

 

 どういう訳か知らないが、昨夜の自分グッジョブである。

 母の様子を見る限り、昨日の外出はバレていない。そして、なんと帰宅、入浴、ナイフの手入れ、着替え等、面倒な作業全てを片付けた上でしっかりと睡眠まで取っている。なんというパーフェクト……!全く記憶に無いですがね。

 

 (待てよ……テミーはどうなった?)

 

 あれ?そんな名前だっただろうか……。まあ何でもいい。人間の名前など、個人の識別が出来ていればそれで役目は十分だ。

 もし、既に亡き者となっているのならば、家族が騒いでいると思うが……。あんな雑木林の中で殺されたとしたら、遺体はまだ誰にも発見されていないだろう。恐らくニュースにもなっていない筈。ならば現在の扱いは行方不明。

 

 (……といっても、あいつの家はこの村からアホみたいに離れてる……。あいつが行方不明になったからって、この家に連絡が入る事は多分……)

 

 精々、あいつの地元の方で騒がれるのがオチだ。この村で捜索が行われる可能性はとても低い。何故なら、彼は何の前触れもなくあの林にワープしていたらしいからだ。

 

 ―――うーん。まあ、いっか!

 

 親族とはいえ、所詮他人。他人事。ぶっちゃけ、どうでもいい。

 あいつの生死を大人に伝えたところで、何かしらのメリットがあるだろうか。いや、そもそも昨晩の出来事を信じてもらえる訳がない。「またこの子供おかしな事言ってる」……ぐらいにしか思われないだろう。

 自分にとって、あの夜起きた事件全て、デメリットしかない。なら下手な行動は起こさずに、いつも通りに振舞うだけの事。

 遺体を捜しにまたあそこへ訪れるのも絶対に御免だ。何かの間違いで、あの化け物に再エンカウントするのだけは絶対に嫌だ。

 ……というか……自分、あの化け物からどうやって逃げられたんだろう……。

 

 (頭、大分傷付けられたからなぁ……。随分記憶が飛んでるな………………)

 

 額を押さえながら、何気なしに机の上に視線を走らせた時だった。

 

 (…………何だこれ)

 

 机の上には、身に覚えのない物達がやや乱雑だが並べられていた。

 絆創膏、ガーゼ、医療用テープ、傷薬、包帯、湿布……。

 治療用の道具が、これでもかと各々の存在を主張していた。

 まるで、誰かが自分の為に薬局などで取り揃えてきたみたいに……この状況に的確な道具が、不自然に並んでいる。

 こんな物、自分の部屋に持ち込んだ事は無いし、購入した記憶も無かった。

 昨夜の外出を知らない母には、用意する事は不可能だろう。ならば一体、誰が。

 

 

 

 

 (―――知らん、もう全部知らん)

 

 

 

 

 昔から意味不明な現象に見舞われた時、いつもこうして乗り越えてきた。

 だから今日も今日とて、自分は『知らないフリ』を演じ続ける。

 

 いつか化けの皮を剥がされるその時まで。

 

 




主人公の癖に前世体の挿絵が無いのは可哀想なのでここで描いてみました。
一応これが前世の姿って事で

例の水素の音は翻訳文を透明文字で同時掲載しています
PCで閲覧している方はマウスのドラッグ操作でどうぞ
水素の音のすぐ下に翻訳文が出てきます
多分、縦書き(PDF文庫、PDF横長)表示だと透明文字は普通に表示されるので何て言ってるのかバレバレ

2022/4/5追記
Q.「次の話はいつ更新されるのか?」
A.「やめてくれカカシ その言葉はオレに効く」
ただいま4月現在。続きは絶賛構想中なので、も〜少しお待ち頂いてもよろしいですかね…

連載から2年も経つのに『賢者の石』編が終わらないどころか
ファンタビ3の上映日の方が先に決まってしまった二次小説があるってマジ?


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Page 29 「Wriggling in the Dark」

お久しぶりです。『賢者の石』編の続きです。
今回の話はリハビリ感覚で書き上げたので短いですが、ご勘弁を


 さて、状況を整理しよう。

 

 今後城内を動きやすくする為に、と校長室近辺を探索していたところ―――何故か待ち構えていたクィレル・イン・ヴォルデモートに自分は襲撃された。

 辛くも逃亡を成功させ空き教室に隠れ潜んだ時である。奴らの仕込んだ罠が発動してしまい、その影響でしばし意識を飛ばす羽目になったのだが……。

 

 (何だったんだ、あの光景は)

 

 そう、恐らく意識の無い間に自分は夢としか言いようのないモノに沈んでいた。その夢らしきモノに現れた、謎の人物。

 見窄らしい女が意味の解らぬ言語で何かを「お願い」してきたかと思ったら、消えてしまった。せめて標準語で喋れ、と文句の一つでも言えば良かったと今になって悔やむ。例え現実じゃなくたって、自分が何を思ったかを相手にしっかり表明するのは重要ではないかと考えている。

 

 (多分―――あれは、蛇語だったんだよな……)

 

 あの瞬間、どうしてあの女の言葉を理解出来なかったのか。

 それは単純に、あの時の自分は『本来の自分』に戻っていたからではないか、と思う。

 実際あの時、己の姿を確認してみればスリザリンの制服を着用していなかったし、手首には懐かしい古傷がこんにちはしていた。

 『本来の自分』は魔法使いでもなければ、蛇語使いでもない。ならば蛇語を喋る人間の言葉を聞き届ける事など不可能に決まっていた。

 

 ―――では、何故意識の無い間に自分は『本来の自分』に戻っていたのだろう?

 

 今までこんな事は一度たりとも無かった筈だ。現実だろうが夢だろうが、元の世界の姿で誰かと相対した事など無い、筈だ。そもそもこの世界に来てしまった以上、最早元の自分の姿に戻る事など決して有り得ない。この世界に自分本来の肉体など存在しない。それこそ(あるかどうか分からないが)世界の壁でもぶち破って物理的に元の世界へ赴き自分の死体を運んでくるでもしない限りは。

 ……運んで来たところで、今の分霊箱としての肉体を捨てて本来の肉体に移れるかどうかなど分かりゃしないが。

 そもそも元の世界の自分はとっくに死んでいる。この世界と元の世界とで時間の流れがどうなっているかを知る術はないが、今頃はとっくに火葬でもされて骨壷に放り込まれているに違いない。火葬場の職員は、目の前で骨だけとなった少年が世界を超えて第二の人生を送らされているなど想像もしないだろう。

 

 (誰だよあの女)

 

 一番の謎は、どういう訳か『本来の自分』に向けて語り掛けていた見窄らしい女の正体である。

 誓ってあんな知り合いはいない。蛇語を喋っていたので、絶対に元の世界の知り合いではない。ではこの世界で蛇語を喋る女の知り合いがいるかというと―――やはり、ノーだ。

 何故心当たりのない女が突然現れて語り掛けてきたのか。そして、伝えたい事があるのならどうして蛇語しか使用しなかったのか。こちとら元の体に戻っているのだから、そこんとこ配慮して解る言語で喋って欲しいものだ、全く。

 女の表情を観察する事で大雑把だが伝言の内容を掴めた―――気がする。『何か』、を頼まれたらしいのだが肝心の『何か』の正体はまったくもって不明である。お願いします、みたいな感じで丁寧にお辞儀をされたが、自分はあの時了承の返事も何も寄越していない。随分身勝手で一方的な要求だ。

 何というか、たったあれだけの時間でも女がどういう性質なのか解らされたと思う。

 女はきっと、昔から自分の事で手一杯で―――周りの他人が何をどう考えて動いているかを悟れない、狭い視野の中で生きてきた人間なのだろう。それは単に女が傲慢で他人に配慮する気がない、という意味ではない。他人の事を考える余裕のない状況で生きる事を強いられてきた様な、哀れで惨めな人生を想起させるのが、あの女の姿だった。

 

 (あ~~~クソッ、何も解りゃしない。元々この世界で起こる事なんて、解らせる気の無い現象ばっかだけどな)

 

 なんかもう……この瞬間に全てをほっぽり出して、海外にでも飛んでヴォルデモートとか死喰い人とかの目から逃れられる安全な場所で、永遠に引き籠もっていたくなった。望んでもないのに分霊箱となって生かされるというのが、どれ程絶望的で途轍もなく面倒臭い事なのか、誰かに延々と愚痴りたくなる。

 自らの死後にこの世界に飛ばされて分霊箱になりたい、と願う誰かがいるならば、喜んで今の立場を交代してあげよう。……そんなの絶対不可能だけど。

 

 (崇高な目的も特別な野望も何一つ有りやしない。本当に、何で自分なんかがこんな体に……)

 

 こういうのは普通、相応しい素質だかを持った人間に白羽の矢が立って転生するのが相場と決まっているんじゃないのか。例えば分霊箱に生まれ変わってヴォルデモートに従って助力したいとか考えてる変人とか、逆に主人公側に寝返ってなるべく誰も死なない結末に導きたいとか考えてる正義感に酔った奴とか。生憎だが自分はどちらにも当て嵌らない。

 何を基準にして自分がこんな目に遭う人間として選ばれたのかは解らないが、どう考えても選ばれる筈のない類の人間だと思うのだが。

 

 ―――本当に何もかも面倒だ。今すぐホグワーツに隕石でも落ちてヴォルデモートごとぶっ壊れないかな。

 

 一瞬だけ過る物騒極まりない願望が叶う訳ないと知りつつ、やおら立ち上がる。湧き上がる欲求を一つ一つ諦めざるを得なかった五十年を過ごしてきた身だ。諦観は最早慣れている。

 立ち上がった体はどこにも異常は見受けられない。同居人の協力もあってか、奴らの『罠』はどうやら不発に終わったようだ。全く小賢しい真似をしてくれたものだ。この報復はタダじゃ済まさない。

 

 『おい、生きてるか?死んでても構わないけど』

 

 【……やあ。どうやら、お互い無事でなにより】

 

 声に出して安否を問うと、殆ど間を空けずに返ってくる言葉。今更気味悪いなんてわざわざ口に出すのも面倒だ。

 

 『お前だけは別に無事じゃなくても良かったんだが……』

 

 【功労者に向けた台詞とはとても思えないな。君はもっとこちらの存在に感謝するべきじゃないかと思うんだよね】

 

 『多分この国の魔法使いの九割はお前が無事じゃなくなる方に感謝すると思うんだよな』

 

 【その九割もいずれ無事である事に感謝する日が来るから問題無いよ】

 

 『お前の減らず口ってホント誰に似たんだ?あのくそったれマグルの父親か?』

 

 【……そのくそったれマグルも二度と減らず口を聞けない結末を迎えたのだから、この議論に意味は無いんじゃないかい?】

 

 マグルの父親という単語に反応したのか、声は僅かな怒りに震えていた。……様に聞こえた。しかしどういう訳か、発言者のこちらではなくマグルの方へその滲んだ怒り全てが注がれているのを感じた。

 不平不満があるなら感情のままに吐露してしまえばいいのに、相変わらず相手は全てを押し殺して、気の置けない友人の様な態度を崩そうともしない。一体何故ここまでして本性を隠し通そうとしているのやら、理解出来ない奴だ。

 まるで、自分を殺してでもこちらと懇意にする意味があるとでも言いたげな……。

 

 (……あのくそったれマグル、何でこんな子供を作る羽目になってんだか)

 

 記憶の中で遭遇したあのマグルは、どう見ても息子に対して歓迎的ではなかった。あんなにも毛嫌いしているなら、どうして魔法使いの女と子供を作るなんて奇想天外な関係に発展したのやら、である。

 

 ―――なんかこいつもこいつで出生が複雑で謎過ぎるよな。深く知りたくないけど。

 

 自分の出生を棚に上げて他人の出生に関し口を出せる立場ではないと思い出して、それ以上考えるのをやめた。自分が生まれた瞬間に起こった騒動の話を思い返すと、とやかく言えたものではなかった。

 ただ一つ、確かな共通点がある。……大人共はいつだって、『手前勝手な理由』で子供を欲する生き物なのだ。そうやって産み落とされた子供が、どんな絶望を味わい続けるかも想像しないで。

 

 (……、……でも、こいつには居場所が)

 

 だが、自分と違ってこいつには―――あったのだ。

 特別な力を受け継いで生まれた事を尊び、受け入れ、肯定してくれる居場所が。

 あの緑と銀を基調にして構成された部屋の中で、確かに歓迎された筈だ。実際のこいつがその扱いをどう捉えていたのかは知らないが、それは大なり小なり正の感情のいずれかを齎した筈なのだ。

 ……当たり前の事実だ。こいつの世界に『能力者を受け入れる施設(ホグワーツ)』はあって、自分の世界には無かった。

 

 (こんな事……考えて何になる?……馬鹿馬鹿しい)

 

 今、この胸の内に黒く沸き上がったものの正体は、何だ。

 嫉妬?まさかこんな奴相手に?

 ―――有り得ない、絶対に。

 

 狂った様に頭を振り乱して今し方脳内を巡った思考を全て霧散させる。こんな感情は、何かの間違いだ。きっと一瞬質の悪いゴーストにでも取り憑かれていたに違いない。……分霊であるこちらが取り憑く側だという突っ込みは無しだ。

 還暦を迎えた老人の様なみっともない溜息が思わずこぼれた。いや、実年齢を考えると自分はとっくに還暦を越えちゃっている訳だ。

 ……改めて考えるとこれ以上虚しい事ってあるだろうか?未成年の時に一度死んで、生まれ変わったらしい世界では若い姿のまま老人の仲間入り。

 

 ―――誰も見てない所でひっそりと泣きたくなってきた。違う、今薄ら目頭に滲んだヤツはインクだ。断じてインク以外の何物でもないよ、これは。

 日記帳の分霊箱として与えられている固有能力がインクの無限生成とか、それはそれで泣いても良いと思う。本当にしょうもない能力だ。幾ら相手の力を奪うのに必要な意思疎通手段の為のものだとしても、本当にしょうもない能力だ。

 

 『何か、色々疲れた……。しばらく何もしたくない』

 

 【それには少し同意出来るけれど、あまり悠長にはしていられないと思うな。君は先程逃避に近い考え事をしていたみたいだけど……】

 

 『逃避?』

 

 この身に染み付いた閉心の力は、あの黒い感情まで読み取る事を許さなかったようだ。悟られぬ範囲で安堵を覚えつつ返事を飛ばした。

 

 【いや、君はさっき「遠くへ逃げたい」といった思考に陥っていた気配を感じたから……。非常に残念な事実なんだけどさ、それは絶対に叶わないんだ】

 

 『何の事実があるって言うんだ?』

 

 【君は唯一自律思考の可能な分霊箱として作られているから、他の分霊箱と違ってその……色々扱いが厳重というか。言ってしまえば、居場所を把握される機能があって。仮に君がどうにかして城外やら国外やらに逃げたところで、やろうと思えば()()()は、君がこの世界の何処に隠れているかをいつでも知る事が出来るんだよ】

 

 『…………ん、何で???』

 

 思いがけない事実を伝えられた頭は、少しだがショートしかけた。だって、自分の中にある知識にはそんな情報微塵も生えてなかったのだから。勿論、その可能性を考えた時はあった筈だが、自分が知る物語では居場所を把握する描写なんて無かったし……。

 

 【そりゃあ君、元は一つの存在なんだから、魂を通じて分霊箱の居場所を掴むなんて不可能な(わざ)じゃないさ。まあ、決して容易という訳でもない。居場所が判るのは精々、一番最初に作り、一番重要だと考えているこの日記帳だけだろうね】

 

 『なんの気休めにもなってないんだが???』

 

 【ああ、すまない。事実を説明しているだけで、別に気休めのつもりで言った訳じゃなかったんだけど―――】

 

 『このたわけがッ!!そんな重大な情報は早く吐きやがれよ!ああそうだよ褒めてやるよ!マジで人を苛つかせる天才だよお前は凄い凄いねぇ!!』

 

 【……これやっぱり言わない方が良かったかな】

 

 あまりにも絶望的な情報をいきなり与えられ、襲撃から来る疲労感の半分程が吹き飛んで体から去って行った感覚がする。同時に、襲撃を無事かわした事で緩みかけた精神を、解けた靴紐を結び直す様にしてぎゅっと引き締める。

 こいつはやはり油断ならない。今の今まで―――五十年という人間として過ごすには長い年月の中で、この情報を一度も明かさなかったのだ。それは遠回しに、余程の事が無ければ明かす心算が無かった事を意味している。下手すれば永遠に自分の中だけでこの情報を完結させる気だったのかもしれない。

 

 (ああ、これは多分あれだ―――何処かに逃げても無駄だって、こいつはそれを伝えたかったんだ―――畜生め)

 

 逃げる事で何かが解決するかもしれない、といった安直な思考を見透かされている。

 ヴォルデモートに立ち向かう事や秘密の部屋開放の使命を放棄して逃げの一手に走ったところで、いずれ奴は自分に辿り着くと言外に説明しやがったのだ。

 いや、むしろ逃げるという選択肢が一番最悪なのだと教えてくれた、とも言えるのか?

 こいつに教えて貰わなければ―――逃げを決め込むと最終的に戦闘や抵抗に発展する事すら叶わず奴の手中に落ちるという事を、己は知る由も無かった。

 もしもこいつが同居人として存在せず、自分が呑気に海外にでも逃げる事を選んでいたら―――いつか己の元に現れるであろうヴォルデモートの驚異すら考えず、対応も出来ずに捕まっていたに違いない。

 

 ―――この先何があろうと、逃げるという選択肢は除外せねばならない。

 それは自身を酷く憂鬱な気分にさせてくれた。

 意識した事は一度も無かったのに―――己の首に、不可視の『首輪』がぴったりと嵌められている感覚を先程から拭う事が出来ない。……とても屈辱的だ。

 いや、実際最初から奴は『首輪』を付けたつもりなのだろう。考えてみれば、自我も思考もある己の分身に『首輪』を付けない馬鹿はいない。奴の様に狡猾で慎重で―――臆病な人間ならば尚更。

 

 (……何故、)

 

 ふと、襲撃を仕掛けてきたターバンの男の姿が浮かび上がる。

 奴にとって、他人など己の秘密を明かしていい存在ではない筈だ。

 それなのに手駒にされているあの男は、恐らくは第一目標の『賢者の石』強奪を後回しにしてまで自分に襲撃を仕掛けてきた。

 

 (こんなにも確実な『首輪』があるならば、何故……不死の秘密を他人に明かしてでも僕を狙うんだ?)

 

 すり、と己の首元を撫ぜる。脈拍など、とうの昔に―――魂を引き裂かれた時から機能を停止している。触れたところで、脈動を知らぬ仮初の肉がそこに存在するだけだった。

 

 (分霊箱を狙うのは、『賢者の石』を手に入れて……自分の肉体を取り戻してからでも良かった筈だ……)

 

 ジリジリと、熱と冷が入り混じった不快極まりない焦燥感が背筋を這い上がってくる。連動して過呼吸に近い吐息が口から零れていく。五十年もこの身で過ごしてきたというのに、生者と同じ呼吸の動作を止める事がいつまでも出来ない。

 

 考えろ。

 一体どうして、奴らはあんなにも早急にこちらを狙う事に決めた?

 日記帳の分霊箱に、如何程の価値が秘められている?

 『本来の物語』では、この分霊箱が失われても奴らは順調に目的を果たしていたというのに―――何故今現在、軛の外れた獣の如く飛び付いてくるのだ?

 

 自分一人では答えの出せない疑問が、次々浮かんでは胸中のあちらこちらに沈殿すると同時、蓄積していく。決して溶ける事の無いヘドロが排水溝に引っ掛かって不快な悪臭を放つ様に、それらは己の精神に多大なる負荷だけ蔓延させて、建設的な道標を与えてはくれない。

 

 (どうにかして……いつか、この『首輪』を壊さなければ―――)

 

 ぎり、と己の首を己の手で軽く締め付けた。脈打つ血管も無ければ、気道が圧迫される苦痛も無い。

 人の形をしておきながら、人の体の構造を無視して現世に顕現する不死の碇。

 誰よりも『死』を恐れる闇の魔法使いが(よすが)として『首輪』を括りつけた、都合の良い道具。

 ……望んでこんな存在になった訳じゃない。

 だからこそ、今自分が置かれている状況は―――本当に、絶望としか言い様のない―――救い様のないものだった。

 

 【そうだね―――『首輪』なんて全く品が無い。いつか壊してしまえばいいさ】

 

 囁く様な小さな声が、物理的な距離など無いに等しいだろうに、どうしてか遥か彼方から聞こえてくる。

 

 

 

 

 【僕なら、首なんて品の無い場所にしない―――君の魂に付けてあげるから】

 

 

 

 

 ―――その後に続く、とても微かな声を自分が聞き取る事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【クィレル、この愚か者めが!!】

 

 ―――ガンガンと頭の中と部屋の中に響き渡る凍てついた怒声が、ただひたすらに己を苛んで止まる事は無い。

 

 【解るか?貴様に与えられたそのちっぽけな頭で理解しているか?貴様は二度も失敗したのだ―――二度も!流石の俺様もここまで使い物にならん愚図だとは思わなかったぞ、貴様!】

 

 絶える事なく溢れる罵声の数々は、最早凶器だった。切り刻み、突き刺さり、穿ち抜く。さながらそれは十徳ナイフの如く、次々と姿形を変えてはクィレルの心身を容赦なく損傷させてゆく。

 主人の言葉の一つ一つは、決して間違っていなかった。故に反論も弁明も許されない。クィレルは捕食者を前に動けぬ愚かな蛙の様に蹲り、自らの鼓膜に全ての罵詈雑言を受け入れる事しか出来なかった。

 その内耳の奥から出血するのではないかと思う程の罵声をしばらく受け続けた後。ようやくクィレルに発言の機会が与えられた。

 

 【クィレル……なぁクィレルよ、俺様は慈悲深い。貴様に申し開きがあるというのなら、聞いてやっても良いと考えている……】

 

 怖気の走る冷たい猫撫で声。清々しい程の飴と鞭。これ幸いとクィレルは片隅が痺れた頭のまま、矢も楯もたまらずその言葉に飛び付いた。

 

 「ごっご主人様……!わたし、私はッ、貴方の仰る通りに尽くしました。貴方の命じた通りに、全ての準備を整えて―――」

 

 【その結果がこのザマだと?】

 

 「ヒッ、しっしかし、確かに私の仕掛けた罠にあの者を陥れる事には成功した、と……」

 

 【―――愚かな。貴様が仕込んだ罠などとうに破られておるわ。感じるぞ……、微塵も影響を受けてはおらぬ。アレは今も健在だ】

 

 「馬鹿なッ……!?ご主人様、私は確かにこの目で見たのでございます!あの者は、あの者は―――ッ」

 

 【……、はッ、破ったか……クク】

 

 主の御前ではしたなく狼狽の様を晒すクィレルを差し置いて。何故か満足気な響きを含んだ低い笑い声が一つ、鳴った。

 

 【解るか、クィレルよ。貴様が精魂注いで作り上げた罠をアレは破ったのだ。見た事も無い魔法の筈だったろうにな……】

 

 「は、は…………?」

 

 何を言わんとしているのかまるで気付けぬクィレルは、曖昧な返答の声を上げるばかりだ。つい先刻これでもかと貶されたちっぽけな頭を必死に稼働させたとて、やはり主人の思考を計り知る事は出来ない。

 

 【成長……進化、と呼ぶべきか?今この瞬間も、アレはこの時代で生まれゆく魔法に適応しようとしている……俺様がそう設計した。果たして、どうだ?アレは設計通りどころかその枠すらも越えようとしておる】

 

 「……せっ、設計……、罠を破る事すら想定出来たと……仰るので……?」

 

 【フン……貴様が一度で捕らえるに越した事は無かったがな。まさか、あの魔法をその身に受けて尚無効にされるとは思わなんだ。―――そして、俺様の存在を認識しておきながら、俺様の元へ素直に戻ってくる殊勝さは無いときた】

 

 「……ッ」

 

 クィレルの肉体に取り憑いた亡霊が何事かを呻く様にもぞりと身をくねらせたようだった。何とも言えぬその感覚に、彼は未だ慣れる事が出来ず表情を歪ませる。決して心地の良い感覚ではない。

 

 【『首輪』を付けた事が余程気に食わなかったのか、別の目的でも生まれたかは知らぬが―――。俺様がこうなった以上、やはり奴には帰還を優先させねばならん。クィレル……言いたい事は、解るな?】

 

 「―――、はい……」

 

 【尋問も躾も、捕らえた後で幾らでも出来る……まずは貴様が回収を遂行させねば話にならんのだ。二度も俺様の前で失態を晒した愚図の貴様に任せるなど、全く見下げ果てたものだが……】

 

 ―――この時、クィレルの中では確かな炎が渦巻いていた。

 勿論、その中にはようやく巡り会えた主を失望させてしまったという恐怖の炎も焚かれていたが―――それよりも激しく火花を散らす程燃え盛る炎が、火傷を負わんばかりに彼の心中で暴れ出そうとしていた。

 すると、蹲ったままの下僕に向けて初めて感心した様な声が掛けられた。

 

 【……ほう?貴様の考えている事は解るぞ、クィレル。貴様がそんな事を思っていようとはな?】

 

 「ッ!」

 

 【怯えずともよいわ。責めはせぬ。クク―――貴様は貴様で随分と殊勝になったものだな】

 

 主人の機嫌を損ねてしまったかと大きく肩を跳ねさせたクィレルに、しかし亡霊は愉しそうな笑い声を混ぜながら歌う様に語っている。一体己の何が気に入ってもらえたのか、下僕が知る由はない。

 

 【だが見苦しいぞ。俺様の欠片に嫉妬などするものではないわ。フン―――それ以前の問題であるだろうに】

 

 「し……嫉妬などと、ご主人様。私は、決してその、そんなつもりでは」

 

 嘘だ。

 クィレルはどうしようもなく抑えられない炎の中、声を出さず自虐的に呟いた。

 自分は―――紛れもなく、主人の片割れという少年に嫉妬を覚えていた。

 やたら反抗的で、ほんの少しだって従う素振りすら見せず、あちらこちらを逃げ回って、姿を隠す―――……自分自身である存在を裏切るにも等しい一つ一つの行為を目にする度に、この炎はそれらを火種に大きくなっていったのだ。

 こんな自分と違い主人から随分と気に入られていて、大人しく手中に収まれば栄誉も褒美も称賛も容易く受けられるだろうに―――まるでこちらが生涯の敵だと言わんばかりの睥睨を向けるばかりで、自分勝手な行動を続けるあの少年が―――酷く、酷く妬ましい。

 クィレルには手に入れるのが困難なモノを、手に入れられないだろうモノを手に出来る立場にある癖に、主人の意に背く事しかしないアレが、どうしようもなく妬ましい―――。

 

 【―――何か、言いたそうだな?】

 

 そんな下僕の様子に、慈悲深いと自称する王はわざわざ反応をしてやった。下僕は徐に顔を上げ、はっきりとした口調で答える。其処には、主人からの罵声に蹲るだけだった情けない男の姿は見えなかった。

 

 「……ご主人様。アレは―――貴方がこんな目に遭っているというのに、一向に馳せ参じる様子がありません。私が、私こそが貴方の真の手足となり、『賢者の石』でお体を取り戻して頂く―――それでは、いけないでしょうか……」

 

 【愚問だ、クィレル。貴様には貴様の役目が、アレにはアレの役目がある。貴様にアレの代わりなど務まる訳がなかろう。だがその心意気は悪くない……】

 

 「アレを捕らえたところで、貴方の王命に従うとも思えません―――それでも、宜しいのですね」

 

 【くどい。愚問を繰り返すものではないわ。クククッ…………アレがどれだけ俺様に反抗しようとな、全ては無駄、無駄な事よ。いずれ俺様の側で永遠の舞台に立つ宿命―――全てはアレを生み出した時から決まっているのだ。時が来ればアレも己が使命を受け入れるだろう。なればこそ、今の短い『反抗期』など―――舞台の余興に丁度いいとは思わぬか?】

 

 クィレルはそこでようやく反論を口に出す事無く素直に頭を垂れ、主人の言葉を受け入れた。片割れの『反抗期』すら余興だと明言した主人ならば、これ以上下僕が提言する事など何一つない。

 

 立ち上がった下僕は、一片の迷い無くホグワーツの城を縫う様に歩いていく。

 今し方頭に浮かんだ、主人の片割れを今度こそ連行する計画を実行に移す為に。

 

 

 

 

 ―――主人の片割れは、十六歳のスリザリン生だという。

 反抗する生徒を直々に対応する。

 それは曲がりなりにもこの城で教師を務める自分こそが相応しい。

 

 

 

 



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Unknown Memories
Page Ex「新しいおうさまが産まれた日」


ちょっとした答え合わせというか何というか


 「―――さあ、来るがいい」

 

 尊大に呟くと同時、片手に持った分霊箱へ―――開いたままの日記帳の紙面へもう片方の手を翳す。ページの綴じ目を中心に黄金色の光が迸り絶える事無く部屋の中の暗がりを照らし続け、遂にこの場所は昼間と全く変わらぬ明度へと達してしまった。今この時だけは、本来の時間帯が深夜であるという事などすっかり失念してしまいそうだ。

 溢れる光と共に不可視の何かが―――確かにかつて己の一部であったと確信出来るモノが、神々しい光と共に紙面からゆらゆらと立ち昇って来る。言葉で何とか表現しようとするならば、それは丸みを帯びた煙の塊の様な形、と言えるだろうか。

 特定の生物と違い、赤外線や紫外線を明視出来ぬ人間の脆弱な視力を駆使したとて決して捉えられぬモノではあるが、それでもこの身体に備わったあらゆる五感は煩い程に脳幹へと訴えかけてくる。

 

 これは紛れもなくお前の物。―――僕だけの物。

 

 単純明快なその認識をしかと全身に刻み込み。翳していた手を動かし不可視のそれを鷲掴みにする。どの辺りを漂っていたのか正確な位置は完全に直感で察した。むんずと掴んだ後は、薬草学の授業で幾度もそうしてきた様に―――必要な植物を欲望のままもぎ取る様に、思い切り真上へと引っ張り上げた。

 日記帳の中から、目障りとも感じるレベルの眩い光を伴って強制的に連行されてきたそれは、人間と同程度の大きさにまで一瞬で膨張すると、すぐ傍のベッドへどさりと落下した。

 そちらへ視線を向ければ、最早五感を総動員させずとも純粋な視力のみで十分認識出来る。

 

 ベッドへ無抵抗のまま放り出されたそれは、己と瓜二つの青年の姿をしていた。

 

 「…………!」

 

 初めて目の当たりにする神秘的な光景。理性的に興奮を抑える事など出来る筈もなく、初心な乙女の様に頬が紅潮していく滑稽な現象を止められない。両の眼にもじわじわと血液が集中してくるのをはっきり自覚出来る。きっと己の眼光は今まさに、獣の如き下卑た欲を秘めた煌きで満ちているに違いない。こんな、欲望を剥き出しにした様子を誰にも見られる事が無かったのは幸いである。

 

 興奮も冷めぬままベッドへ一瞬で距離を詰め、青年の顔を無遠慮に覗き込む。彼は引っ張り上げられた時から仰向けに倒れており、瞼は固く閉じられ意識の無いその全身は弛緩しきっていた。

 白磁を思わせる色の失せた頬へ手を伸ばし、すり……と輪郭をなぞって、同じく色の無い己の指をゆっくりと這わせてみた。体温なんてものは、無い。姿そのものは己であるのに、触れた感触は氷の人形かと錯覚させられる。しかし、氷の様だと感じたのはあくまでも温度だけであり、質感は人肌と全く変わらない。確かな軟質が指先を通じて己に伝わってくる。これは決して人形などではない。

 

 ―――紛れもなく己の分身であり、魂の片割れ。

 

 その作成方法を知り得た時から待ち焦がれ続けた、不変の象徴。

 切り取られ、世界(とき)の流れから隔絶された16歳の『記憶』は、この先永遠に変容する事は無い。

 生きても死んでもいないそれは、最早人間とも生物とも呼べぬ憫然たる存在へ零落してしまっているという事実を、今の己に理解する術など無かった。

 

 ―――いや。これが成長も老朽もしないのと同じように。

 どれだけの時間が経とうとも、『その事実』を己が理解する未来は永遠に来ない。

 だって、これこそが―――。

 魔法界で最も尊く特別な己の魂の一部であり、零落なんて言葉とは程遠い至高の傑作(マスターピース)であると、信じて疑わなかったから。

 

 『……っ、う…………く、』

 

 ふと、声を聞いた。

 様子を観察する傍ら、手慰みに冷たい頬の上で己の五指を行ったり来たりさせて撫でている最中だった。まるでそれから逃れようとする様に首をぎこちなく逸らしながら、青年が整った顔を僅かに歪めて呻き声を漏らしたのだ。己が取った行動に痛みを感じる要素など無い筈だが、彼の表情が訴えているのは苦痛。ただ触れられているだけでも耐え難い、そう言われている気がして。

 自然と口元が歪むだけの笑みが零れる。

 特別おかしくはない。己の身体に気安く触れようとする人間など、ただの一人も居やしなかった。今までの人生で、こんな風に触られる体験などとは無縁だったのだ。突如としてそれを味わわされて、表情を崩さずにいられる方がおかしい。とは言っても、何故だかその様子が酷くいじらしく思えてきて、頬を撫でる手は止めなかった。

 何故こんな気持ちになっているのか、自分でも良くは解らない。ただ、悪い気分では無かった。―――それだけは確かだ。

 

 「……体温は無いが触れられる。生身の肉体では無い筈だが、触感は存在し声も出せる……。詳細は解らないが、どうやらある程度は人間の機能を持っているらしい」

 

 冷静に現況を分析していくと独り言が漏れてしまった。まあこの部屋の物音を聞き取られるヘマなどしやしないので、気にする必要は無い。

 本来、()()()()()()ではないこれに触れる筈はない。だが、どういう訳か己はこうして頬を撫でる事が出来ている。―――もしや、自分自身であるから、だろうか。

 そしてまだまだ増える疑問。厳密に言えばこれは『魂の欠片』であり、肉の身体ではない。声帯も存在しない筈なので、物理的に声を出す手段は無いのだが―――。

 

 「魔力が声帯の代わりを果たしている。或いは……思念波の様なもの、か……」

 

 今起きている現象全てが初めてで、分析を続ける思考を止められない。『魂の欠片』に実体を得る機能を持たせるなんて所業を成せたのは魔法界の中でも己くらいであろう。例のない現象を提供してくれる目の前の元凶に、益々好奇心をそそられる。

 

 「……まだ目覚めないか?」

 

 触れている手に少し力を込めてみるが、青年が意識を浮上させる気配は微塵も感じられない。ただ控え目に呻きながら、こちらの手が触れる度不快げに身を強ばらせているだけだ。瞼は永久粘着呪文を掛けられたかの如くぴったり閉じられ一向に離れる気配が無い。不完全ではあるが実体化出来る最低限の魔力を与えた筈なのに、だ。考えられる原因としては、作成したばかりで意識が安定しないのだろうか。

 折角の初対面なのだ。どうせならはっきりと意識のある状態で意思の疎通を図りたかったのだが、目が覚めないのであれば仕方の無い事。

 

 「……………………」

 

 じろり、と改めてもう一人の己を見下ろす。

 呼吸の必要な身では無い為か決して上下する事の無い胸。制服のローブで多少は誤魔化しが効いているもののやはり痩せこけた貧相な体躯。意識の戻らぬ身で必死に己の手から逃れようと藻掻き苦しむ歪な表情。

 目の前に居るのが誰か認識の出来ない状態で仕方無いとはいえ、未だに生みの親たる己を断固として拒絶し続けるその様子に痺れが切れた。

 ぎしりと音を立ててベッドに乗り上げ青年の上に馬乗りになり、彼の頬を両手で包み込んで逃げられぬように固定した。大して力を込めてはいないが、彼はやはり一際苦しそうに悲痛な呻き声を上げた。その声に殆ど反射的に眉根が歪んで寄り合う。互いの高い鼻がくっつきそうな程に顔を近付け、聞き分けのない子供を叱り付ける様に囁いた。

 

 「僕の物だ」

 

 は、と青年の唇が返事を寄越すかの様に動いた。言葉にならない喘ぎに近いものであったが、何となくそれが抗言を意味する短い音の響きに聞こえた気がした。

 ギリギリと更に強く眉根を歪ませる。閉じられた瞼の奥に隠された瞳を睨み付ける様に、ぎろりと鋭利で凍てついた視線を注ぎ無視して続けた。

 

 「僕の物が僕に逆らうなど有り得ない。―――そうだろう?」

 

 最後の言葉はほぼ命令だった。慣れたものだった。

 あの陰鬱で屈辱的な灰色の檻の中で、何度も何度も何度も何度もこうしてきた。その対象が今回は他人ではなく自分になった。ただ、それだけの事。

 

 『う…………、っ……』

 

 くたり、と呆気なく力が抜けた青年の首が斜めに傾く。それきり彼は呻く事を止め沈黙を取り戻した。緊張で強ばっていた四肢は再び弛緩しベッドに沈む。命令通りの従順さを見せられ、己の胸の内は充足感で満ち満ちていく。そうだ。それでいい。

 

 糸の切れた人形の様に無抵抗となった彼の背中に手を入れて起こした。重力に従って頭はカクンと俯く。前髪の隙間から覗く瞼はやはりうんともすんとも言わなかったが、構わずにそのまま制服越しに薄い胸板に己の額をそっと押し当てた。鼓動も脈拍も何も無い。しかし―――ただ一つだけ、感じられるものがあった。

 それは、共鳴に近かった。触れ合った箇所から己の中に不思議な感覚が流れ込んできて、爪先から脳天を緩やかに貫くものがある。

 己から産み落とされた存在、己と同一の魂を持つ存在……。そんな清閑の主張が、精神的な提唱となって全身に染み渡っていく。

 

 「これで……計画の第一歩」

 

 他人から今の光景を目撃されれば、さぞや仲の良い双子にでも捉えられたであろう。だが、実際にそれは誤りだ。

 双子なんかとは比べ物にならないぐらいに、全くの同一的な存在。

 

 「だが、『秘密の部屋』の開放だけが全てじゃない」

 

 はあ、と恍惚に満ちた溜息を一つ吐き出すと、顔を上げて寝坊助の表情を覗き込む。彼の背中を支えたままだった手を上下にさすると、命令を守っているせいか抵抗は無かった。それでも相手は目覚めない。

 

 「君はもっと、崇高なる使命を……」

 

 特別な自分には特別な役割を。

 だが、余りにも特別である証明を担わせるのは同時に危険性を孕む。

 万が一、あの老人やそれに連なる偽善者共に分霊箱の存在が知れ渡ったならば。

 己の計画はあっという間に崩壊の危機に晒され、全ての努力は水泡に帰す。

 ならばこそ、重要な役目を負う分霊箱は、平凡で在り来りな外容の日記帳であるべきなのだ。

 これは一種のカモフラージュ。後に作る分霊箱は、唯一無二の神秘を携える秘宝を利用する。真に計画の要となる分霊箱は、特別な道具でもない日記帳という平凡な器に。

 そして。平凡な器たる日記帳を後生大事に保管していては、これこそが己の本懐を遂げる代物であると露見してしまうだろう。後の分霊箱と違い、敢えて程々にぞんざいな扱いをする必要がある。保管すべきは、グリンゴッツなどといった宝の数々にとっては堅牢な要塞と呼べる場所ではない。

 

 「誰かに預けるよりほかは無い、か」

 

 この分霊箱を作り上げた"表向き"の目的は、偉大なるサラザール・スリザリンの足跡を辿り、『秘密の部屋』を利用し今度こそ『穢れた血』に惨烈な粛清を与える為である。

 分霊箱に心を開き、執着心を抱くようになった愚かな生贄を傀儡とすれば、校内の人間を欺いて行動するのは容易い筈だ。その為の機能と力は既に搭載させている。

 必要なのは来たるその時、生贄となるべき人材だ。勿論、貴重な純血はなるべく避けたい。例え純血を利用しなくてはならない状況になったとしても、精々『反純血主義』か『血を裏切る者』でなければ。

 そして、生贄に『秘密の部屋』を開かせ、役目を終えた哀れな命を搾り取ったその時。

 

 「君は、完全なる受肉を遂げられる」

 

 さらりと青年の前髪を掻き分け、隠れていた表情に視線を注ぐ。沈黙を貫き通し虚脱感さえ感じさせる無垢な寝顔を眺めていると、どうしてか口角が上がっていくのを止められない。

 今はまだ()()()に遠く及ばないというのに、これが肉体を得た未来を少しでも想像するだけで酷く高揚してしまうのだ。

 『秘密の部屋』の怪物を解き放つだけならば、肉体など不要だ。しかし、これには生贄を捧げてでも受肉してもらわねばならない事情がある。

 

 分霊箱とは。作り出し、隠す事で本来の用途を十分に活用出来る代物である。

 解り易く言い換えるならば、本体の魂をこの世に繋ぎ留める不死の碇。

 しかし、それは()()()()()()()の話。

 ()()()()()()()()()()、その内の一つくらいは『本来の用途とは違う利用法』を見出す事が出来る。

 秘匿されし不死の碇は、他の分霊箱がその役目を担うのだ。

 

 「ああ…………その日が待ち遠しい。だが、ヴォルデモート卿はこの僕一人だけだ」

 

 ヒタリ。冷たい頬に冷たい手の平を触れ合わせる。体温の無い存在に触れ続けた時間が長かったせいか、己の手もすっかり熱を失ってしまったようだ。

 作り物めいた美しく白い肌は、引き裂かれた魂の欠片とは思えないぐらい人間に酷似していて。目の前で昏々と熟眠を貪り続ける男が、本当に己の双子か何かなのではないかと疑ってしまう程だった。

 

 「君は、僕が切り取った『過去の記憶』。……トム・マールヴォロ・リドル、それが君の真名……それこそが君の存在証明……」

 

 己が捨てるべき名を、引き裂き分かたれた欠片に譲渡した。

 儀式めいた形で命名されたというのに、肝心の欠片自身はそんなもの知りたくもない、とでも言うようにすやすやと眠りの世界を周遊していたが。

 

 何故。特別だった母を捨てた父から取られた名を、忌々しい下等種族(マグル)と同じ名を、己の欠片に与えたのか。

 何故。誰にも教えないし、知られたくもない唾棄すべき過去の象徴を、己の欠片に担わせたのか。

 

 それは。

 

 この世に生まれ落ちて、初めて授けられた自分だけの物(おくりもの)を完全に手放したくはなかったのかもしれない。

 どんなに汚辱に満ちた人生(かこ)であっても、()()()()にだけは憶えていて欲しかったのかもしれない。

 

 ただ、ここで第三者がどんなに考えられる可能性を列挙したとて、本当の理由は本人しか与り知らぬところである。

 

 「そして僕は、ヴォルデモート卿だ」

 

 改めて、己の新しき名を創造した。

 いつか必ず、魔法界の全てが口にする事を恐れる名前。

 その日が来る事を、僕は知っている。

 

 ―――その時。

 ピクピクッ……と、一瞬。ほんの一瞬だけ、分霊たる青年の両の指先が震えた。連動して未だ開く事のない瞼も痙攣し始めたが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、覚醒しかけていたであろう彼は強制的に昏睡状態へと再度追いやられた。

 覚醒の為のささやかな抵抗すら許されずねじ伏せられた一連の光景を、名付けと名乗りに夢中だった己は最後まで気付く事は出来なかった。

 

 「……そうだ。やるべき事は山積みなんだった」

 

 そういえば、じきにこの学校は夏休みとなる。実に、それはもう実に忌々しい時期である。一年の内で最も己が嫌悪する期間。 

 あの灰色の檻に、本意ではないのに放り込まれてしまう日々が迫る事を意味していた。

 だが、強制的に学校と引き離されるこの休暇を利用して、やるべき事がある。

 

 「マールヴォロ・ゴーント……。僕にスリザリンの血を齎した祖父……」

 

 学生生活を送る過程で収集した様々な情報を基に導き出された一つの事実。親無しの孤児であるが故に判然としなかった己の家系、ルーツ。ようやく辿り着いた彼らの元に、休暇の間こちらから直接出向くのだ。

 己のミドルネームである「マールヴォロ」は、母方の祖父から取ったものであると昔に聞かされた。そして、スリザリンの子孫であるとされているゴーント家には、確かにマールヴォロという男が名を連ねていたのだ。この事実を知った時、初めて母の方が魔法使いであると正されてしまった。それまでは、己を産んですぐ天に召された母などただのマグルだと思い込んでいた。

 

 だって―――魔法が使えたら、死ななかった筈だ。

 

 「何故、誇り高きスリザリンの血統がマグルなんかと……!……いや、訪ねれば自ずと判る事か……」

 

 創設者の子孫である魔女がどういう理由でマグルの男と交わる羽目になってしまったのか。ここ最近は、自力では到底解決出来ない疑問に考えを巡らせては怒りの蜷局が心中で巻かれるばかりである。

 マールヴォロが、彼女にとっては父であるマールヴォロがそんな惨憺たる結末を許す筈が無い。なのに、どうして母はマグルと。

 しかも、母はスリザリンの血を引く特別な我が子を身篭った果てに、マグルの巣窟たる非魔法界の孤児院に産み落とした。何かやむを得ない事情があったにせよ、スリザリンの魔女がよりにもよってマグルの孤児院を頼るとは、全く理解出来ない。

 これらの謎に対する解答を、マールヴォロ・ゴーントが寄越してくれれば良いのだが……。

 

 「ゴーント家の所在地はリトル・ハングルトン。……そこでの『記憶』も、ちゃんと君に()()しなければね」

 

 最後に青年の頬をひと撫でしてから、ベッドへゆっくりと元通りに寝かせてやった。

 生ける屍の水薬を飲んでしまったかの様に眠り続ける彼は、とても静かだ。寝息も寝言も発生しない。もしかしたら、とっくに絶命しているんじゃないかと心配になる程である。

 

 「……………、……………。いや、やっぱり……」

 

 しばらく観察の意味も含めて青年から目を離さなかったが、ある事を考えついた頭が一つの案を導き出した。

 肉体を得られるだけでなく、これにもう少し細工を施さなければ。

 己が待ち望む未来へ繋がる軌条、それをより確実な物とする為に。

 何をせずとも分霊箱に最初から備わっている性質の一部を、()()()削除する必要がある。

 分霊箱が本来有していない性質の一つを、()()()付加する必要がある。

 

 「―――君は、僕の……過去であり、現在であり、未来」

 

 一度たりとも生みの親を目に焼き付ける事のない魂の欠片を、穴があくほど見つめた。

 どんなに注意深く観察を続けても、結局一ミリもその固い瞼に隙間が生まれる事は無くて。

 

 「ああ、そうさ。僕らはとうに死を越えた。間違いに犯されたこの世界を―――魔法界を()()()()統べるんだ。―――永遠に!

 

 青年の額に手の平を強く押し当て、細工を施す為の魔力を注ぎ込む。数秒も経てば触れ合った箇所から可視化された己の魔力が―――淡い光が滲み出した。

 瞬間、ビクンと青年の全身が大きく痙攣の反応を示した。しかし、つい先程命じられた内容に従わせられているのか、あの時のように呻き声を上げはしなかった。

 それでも細工を施されるというのは決して心地の良いものではないのだろう。表情はたちまち顰められ、その不快感を紛らわす為かぎりぎりと彼の指がシーツに深く食い込む。小刻みに震える両腕は、額にぴったりと宛てがわれた生みの親の手を叩き落としたがるかのように、今にも暴れ出しそうな気配を感じさせる。だが、やはり―――自分の意思とは無関係の『何か』に、透明で見えない『何か』に、無理やり両腕を押さえ付けられているようだった。

 

 「何も心配する事はない……。違和感を感じるのはほんの数十秒。すぐ楽になる」

 

 癇癪を起こした子供をあやす様に優しく語り掛ける。彼の表情が安らぐ事は無かったが、死ぬ訳ではないので取り敢えず放置するしかない。

 やがて、言葉通りに一分が過ぎるか過ぎないかのところで目的とする細工は終わった。柔らかく迸っていた光は弱々しく収束し、青年の額に吸い込まれていく。

 最後に光のひと束が入り込むと、青年は苦しそうにカクリと大きく首を仰け反らせてそれきり動かなくなった。その瞬間を皮切りに、彼の全身の輪郭がぼんやりと薄れ始める。―――実体化出来る時間の限界が来たのだ。

 

 「……結局、目は覚めなかったな」

 

 別に、だからといって今すぐ困るという訳でもないのだが。

 直接的な会話が出来ずとも、日記帳の分霊である以上、筆談でも意思の疎通は図れる。

 まあ、今し方行った細工により少なからず負荷を掛けてしまったから、しばらくは覚醒しそうもないだろう。今回のところはこれで切り上げだ。

 

 「君には期待しているよ。もしも使命を果たせたなら―――いや、そうでなくても―――。肉体を得られたなら―――必ず迎えに行く」

 

 開いたまま傍らに放置していた日記帳を拾い上げ、ぱたんと閉じた。

 他人がこれを目にしても、どこからどう見たってただの平凡な日記帳にしか見えまい。誰も彼も、其処に邪悪な魂が棲んでいる事に気付けまい。

 

 「だから、それまでは―――おやすみ……」

 

 そうして、満足げに微笑んで手元の日記帳へ視線を落としていた己もまた、()()()()()()()

 

 

 

 

 『―――――――――…………』

 

 

 

 

 淡い光の粒子と化し、完全に現実から消え去る直前。

 魂の欠片たる青年が、ただの一度も瞼を開放する事の無かった青年が。

 注視の対象から外れた瞬間、それまでの様子が嘘であるかの様に上体を起こして、開眼を果たし。

 魂の中枢まで氷結しきった、冷たくて鋭い非情の瞳を覗かせていた。

 

 ―――厭忌と敵愾心で漲った真っ赤な双眸が、無防備なもう一人の自分の背を、唯々じっと眺めている。

 

 この世に存在するありとあらゆる負を詰め込んだ様なその視線は、実体が解けると同時に消えて無くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 【―――やはり()()は、小僧が使えなかった場合の保険にするべきか】

 

 

 

 

 とある日の、深夜。

 グリフィンドールの寮内、寝室の中。

 

 己の支配下に屈する筈であった少年が、どういう訳か自我を保ったまま覚醒し、不愉快にも懐抱を味わわせてきた瞬間。

 肉体の存在せぬ今の己に焼け付く様な痛みが走り、咄嗟に"彼"との共感(リンク)を切断した。

 少年に抱き竦められ困惑している"彼"は己と対照的に、まるで平気そうだった。訳が解らずに少年の手を()()触れて引き剥がそうとしている。

 

 ……やはり、忌まわしい『あの護り』が働く対象は―――

 

 【……()()歩む相手はとうに決まっている】

 

 運命で定められた己の敵は、才能の欠片も感じられない間抜けな(まなこ)に、しかと焼き付けた筈だ。

 母親譲りのその緑色は眼鏡のレンズを通し、一瞬だけでも確かに刮目出来ただろう。

 

 

 

 

 禍々しく燃え上がり蜷局を巻く黒い大蛇と、それに絡み付かれても尚()()()()()()()()"彼"の姿を。

 

 

 

 

 【誰も気付けはしないさ。―――最後に勝つのは『こちら側(僕と彼)』だって】

 

 

 

 




12/29追記
更新止まってんのマジですみません。
年内の更新が余裕で間に合わないので2023年は頑張ります。
ファンタビシリーズの4作目が制作決定したら毎秒投稿します。


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Memory 1 「アルターエゴ」

明けましておめでとうございます
本編の執筆がスランプ気味だから番外編でお茶を濁すっぴ
最低でもPrologueのお話を全読了後にご覧になる事をオススメします



 "―――欲しい物があるんだ"

 

 酷く簡潔な一文。

 懐から取り出した日記の帳面を開いた瞬間、待ってましたと言わんばかりにタイミング良く流れる様な文字が踊り出した。それらの節々から、一刻も早く己の心算を吐き出さねば、という目に見えぬ昂りを必死に抑えようとしている様子が感じ取れる。メッセージの主の表情が其処に無くとも、こちらには理解出来るのだ。肉体を持つ他人に開心術を掛けるよりも容易い事。

 

 何故ならば、相手は―――もう一人の自分。元々、己と一つであった存在なのだから。

 自分自身の心を理解出来ぬ道理など、ある筈が無いだろう?

 

 それとなく興奮を訴えるかの様にして踊る文字を眺め、「仕方無いな」と机の上のインク壺に挿していたままだった羽ペンを抜き取る。体の無い相手にこちらの言葉を伝える手段はただ一つ、こうするよりほかないのだ。

 何気ないその一連の動作の中に、自分の方が『上』であるという無意識な驕りが含有されている事に気が付かず。

 

 『君が要求だなんて珍しい事もあるものだ。一体急にどうしたんだい』

 

 サラサラとペン先を滑らせ、こちらも踊る様な文字をページに産み落とした。長方形の紙面が舞踏室(ボールルーム)で、雫滴る羽ペンが踊り手(ダンサー)。そんな表現が似合うような、声無き舞踏会が幕を上げる。

 たった今刻んだこちらの文字が薄まって消えゆくと同時、入れ替わりで再び相手の文字が瞬間的に浮かび上がる。

 

 "()()()()こんな姿だけれども、僕だって人間さ。欲しい物くらい出来るし、それがおかしな事でもない筈だよ"

 

 『何故このタイミングなのかが疑問なんだ』

 

 ここまではっきりとした要求は、ただの一度も無かった筈だ。この半身が産み落とされてからは、ただの一度も。

 そしてこの半身が産まれた理由も、いつか果たすべき仕事を託さんが為。今はまだその時ではなく、この状況で「何かを欲しがる」などという欲望や機能は備わっていないし渡してもいない。

 次に表れた文字は、こちらの疑問に対する明確な回答ではなかった。

 

 "二つ、なんだ。二つだけ欲しい物があると言ったら―――君は許してくれるかな"

 

 ―――何か。

 何か、言葉にもならぬ小さな―――喉に食物の破片が引っかかったかの様な、小さくとも無視出来ない違和感や不快感といったものが、己の中にじわりと広がった感覚を覚える。どうしてそんな感覚に襲われたのか、原因を探ろうとして中断する。今はこの言葉の真意を見定めねばならない。

 繕い切れぬ疑念が自然と強ばった筋肉を通じ、指先から伝播して美しく踊り出す筈であった文字がほんの微かに歪む。通常ならば、他人がこの光景を見たところでどこがどう歪んでいるのかすら理解出来ないであろう。だが、今文字のやり取りを行っているのは―――そんな瑣末な心情の揺れすらお見通しである、かつての自分自身。

 

 『二つだって?一体何が欲しいって言うんだ。実体化の為の魔力なら―――』

 

 "魔力ではないよ。『()()()()()()()()()生贄を貰えるのだろう?僕が欲しいのはいつか手に入ると解りきっている物じゃない"

 

 『ならば―――』

 

 "―――。一つはね、多分最も困難な道のりになるだろうけど、僕自身の力で必ず手に入れると決めている。だから君に頼るつもりはないよ。問題はもう一つなんだ……。流石にこれは、君の許可を得ておこうと思って"

 

 一体欲する物は何なのか、ここまでただの一度もはっきりとした言葉を使用する事無く話を進められるのは少々不愉快である。いや、むしろ敢えて不鮮明なまま筆談を繰り広げているのかもしれなかった。その意図までは完全に計り知れないが。

 

 『いい加減、()()が何であるのかさっさと書いてくれないか。許可を出す以前の問題だろう?君の要求を呑んでも良いものかどうか、()()の正体を知らぬまま僕が判断出来ると?』

 

 "ああ、すまなかった。確かにそうだ。うん、そうなのだけれど―――実は、()()は保険なんだよ"

 

 『何?』

 

 "保険と書いた。僕の思い描いてる筋書き通りに行かなかった場合の、『代替』となる物。だから、もし僕の計画が上手くいけば本来は必要にならない物なんだ"

 

 『計画―――継承者としての仕事の事か』

 

 "まあそうだね、筋書きというのは秘密の部屋の事も含んでいる。だからスリザリンの意志を絶やさぬ為にも、この保険に対して君の許可を得たいんだよ。計画が失敗して、保険すら手に入らない未来に辿り着いてしまったら―――僕は君が託した全ての仕事を果たせずじまいになってしまうだろう。そんな未来は君も御免の筈さ"

 

 『……だから、君が欲する保険というのは何の事だ』

 

 言わんとする事は大体把握出来たとはいえ、まだ明確な答えを渋っている言い回しに羽ペンを握る手に力が篭る。間違いなく、わざとだ。目の前にぶら下げた興味を惹くモノを長い間お預けにしておけば、容易に苛立ちを増長させる事が出来ると―――自分自身だからこそ、理解してこの特性を利用しているのだ。

 何故こんな事をされるのかは想像がつく。この半身は、きっと日記帳という平凡な器に封じられたのがお気に召さないのだ。加えて、自由な身ではない今の状況は誰であっても受け入れがたい筈だ。拘束と退屈に支配された己の身柄に、沸き上がる不満の行き場を自分自身に向けている。唯一意思疎通の可能なこちらを絶妙に苛立たせる事で、負の感情を発散させているといったところだろう。

 計画通り自由の身にしてやる為にも、『仕事』の機会はなるべく早く与えてやるとしよう。そう考え、大人しく憂さ晴らしに付き合ってやる事にした。一向に答えを寄越さないのはやはり腹が立つが。

 

 "僕が欲しい保険というのは……君の承諾を得なければ、間違いなく許されない物なんだ。君は絶対、怒る"

 

 『そんな事を言うとは余程の物らしいな。それで何なんだ?』

 

 "でも、今すぐ欲しい訳じゃないんだよね。だって保険だし。僕の見通しなら数十年は先の事だから……。それに、君はまだ知りもしない人間……生まれてもない……"

 

 『何だ?何を言っている?』

 

 "()()()が使い物にならなかった場合の保険……。失敗の可能性は低いだろうが一応、君の許可が欲しい。ねえ、良いよね?"

 

 『だから何なのか言えと言っているだろう。判らない状態で判断出来ないとも言った』

 

 付き合ってやるとは思ったが、こんなにも露骨にはぐらかされるのは流石に耐え難い。空いている片手の指で帳面をトントンと叩く。相手は触覚が存在する筈なので、苛立ちから来るこの動作も当然伝わっているだろう。ところがそれを物ともせずに、己の半身は予想だにしない言葉を書いてみせた。

 

 "―――『秘密』にしよう"

 

 『―――なんだと?』

 

 一瞬、何を書かれたのか解らなかった。流麗に描かれるsecret(秘密)というアルファベットが、やたら目立って忌々しい。

 

 "今、明かしてしまったら面白くないだろう?まあどうせ保険な訳だからね……。これが必要になる可能性は低い。だったら、秘密にしておいた方が面白いと思わないかい"

 

 『……成程な。そこまでして不明瞭にしておきたい訳か。自我のある分霊箱という物は、不満が溜まりやすい性質らしい』

 

 "……?どういう意味かな"

 

 『いや―――こちらの話だ』

 

 こいつは意地でも答えを与えずこちらの胸中に(わだかま)りを施してやりたいようだ。全く以ていい性格をしている。悪い意味で。

 さて、どうしたものか。素直に付き合って『秘密』という事にしてやるか、強く追求して答えを引き摺り出してやるべきか。現れた二択の選択肢を前に思考を巡らせようかという時、突如として己の脳は第三の選択肢へ到達した。

 ……二択を選ぶ前に、これだけは訊いておくべきだ。

 

 『一つ、訊きたい』

 

 "一つ?それだけで良いのかい?"

 

 『君が欲しがっている保険とやら……その正体を知れば僕は怒るだろうと言うが。それを君が手にする事で、僕の方に何か損害はあるのか?』

 

 答えを聞いてみるまでは、実際自分の中に怒りが生まれるかは不明だ。だが、それはそれとして―――こちらの方に実質的な損害が無ければ正直、あまり問題では無い―――ような気がするのだ。

 こちらの問いに対して、手早かった相手のレスポンスが途端に崩壊の一端を見せる。返事が確認出来るまでに数十秒程時間を要した。

 

 "…………、うーん。そうだね……。損害、という物は……うん。無い―――と、思うよ……"

 

 『歯切れが悪いぞ』

 

 今まで美しく帳面を飾っていた文字列が、他人が見ても気付くレベルで歪み出した。かなり怪しく見える。いや、妙に解り易いこれもわざとなのか?

 

 "損害というのは、()()の状況が不利になったり、()()肉体的な損傷を負う羽目になったりとか、そういう事を言っている?"

 

 『まあそうだな。もしや、そんな損害が発生すると?』

 

 "まさか!そんな事は有り得ないよ。もし保険を手に入る事が出来たならば、僕はスリザリンの末裔として君が託した使命を必ず成し遂げてみせるとも!絶対に約束する"

 

 今度はやけに張り切った様な力強い文字が躍動し始めた。こんな筆跡で文字を書いた事なんて、こちらの方には経験が無いかもしれなかった。

 奸計などとは縁もゆかりもない無垢な子供が、恥ずかしげもなく周囲に晒す嘘偽りの無い興奮。そんな姿を確かに今、その文字の中に垣間見た気がする。

 

 『……そうか、そこまで言うのならば……。その保険とやらを手に入れる許可を、出そうじゃないか』

 

 "―――本当かい?"

 

 短い確認の文字が、どことなく浮ついて見える。待ち望んだ結末が実現しそうな歓喜の気配。

 

 『君の言う通り、必要になる時まで秘密のままという方が面白そうだ。―――良いだろう、許可する』

 

 "本当なんだね?これより後に、「やっぱり駄目」だなんてナシだよ。そんな風に無かった事にするのだけは、いくら君とはいえ僕も絶対に許さないからね"

 

 許可を得られた事が相当喜ばしいのだろう。今の言葉を白紙にはさせまいと、声無き圧力を滲ませた強気な文字がこちらに対する警告文を形作る。それらを前にして一つ息を吐いた。口元が三日月型の笑みに歪むのを抑えられなかった。

 

 『案ずるな。―――ヴォルデモート卿は約束を違えない

 

 トム・リドルという名前はとうに捨て去った。

 今の己は―――まだ当分表には出せないが―――新しき名前をこの身に宿している。

 そして、捨て去った名前は―――目の前の、魂の欠片を封じた器の一つへ。

 同じ名前の者は、()()()()に存在出来ない―――。

 

 "……そうだろうね。そんな不甲斐ない真似、未来の王には許されないだろう……"

 

 「―――リドル?スラグホーンが呼んでいますよ」

 

 その時、突然部屋の扉からノック音がしたかと思うと、己と同じスリザリン生の声が鼓膜を震わせた。一瞬、全身が警戒一色に染め上げられるも即座に冷静さを取り戻し、平常時と変わらぬ声色で返事を返した。こんな珍しくもない突発的な出来事で行動が乱されるようであれば、本性を隠し通し万人を欺くなど叶わぬ夢であるのだ。……ただ一人、これまでもこれからも欺く事は叶わない男は存在するが。

 

 「……すぐ行くよ。わざわざすまないね」

 

 万が一にも分霊箱の存在が露見しないようにと、徐に日記帳を閉じながら立ち上がる。刻んだ文字が消え、独りでに文字が浮かぶ光景さえ目撃されなければ、第三者はこれを何の変哲もない日記帳としか認識出来ない。故に、帳面を閉じてさえいれば取り敢えずは問題が無い筈だ。

 

 だからこそ、なのだろう。

 己は()()()()()、決定的な瞬間を見逃したのだ。

 

 この分霊箱には、あるのだ。触覚が。

 今、「自分がどういう状態であるのか」、分霊箱自身が感覚を通じて理解する事が、可能なのだ。

 その性質を利用して。

 閉じられたのを良い事に浮かび上がった、心底愉快そうに揺らめく一文、その全てを。

 呼び出しに応じて退室してしまった己が、それを目にする事は無かった。

 

 

 

 

 "【僕】の言葉通り、約束は違えないよ。僕こそが真のスリザリンの継承者。闇の帝王として、穢れた血は排除して純血共を支配する。『死の飛翔(ヴォルデモート)』―――その名の通り、死を越えて魔法界に絶望を振り撒いてみせよう"

 

 

 

 

 

 

 

 

 『クソッ、クソッ!クソクソクソッ!!』

 

 怒りが見える。

 激しい怒りが。

 自身の肉体すらも火種にして、ひたすらに周囲を巻き込むだけ巻き込んで、決して尽きる事の無い烈火の如き怒りが。

 

 『クソが……あのイカれ小僧……!何が分霊箱だ!何が継承者だ!ふざけるなッ!ふざけるなよクソッ!何でこんなッ……!』

 

 血飛沫が上がる。断末魔が上がる。

 閃光が飛び散る。肉片が飛び散る。

 

 地獄絵図の中心地には、一人の青年が四肢を振り乱しながら獣の様に吠えていた。

 夜闇に支配され、光源など何一つ無い筈の森の木々。それらを断続的に照らす閃光の出処は、彼の持つ杖であった。

 湿った土の上に力無く横たわる鼠や野鳥などの小動物達が、容赦無く、力加減の一つも無く。杖先から生まれ出づる呪文により、吹き飛ばされ、押し潰され、細々と切り刻まれた。全身を覆っている皮膚は捲れ上がり、肉体を支える骨の断面が露出し、最早生前の面影は微塵も感じられない。

 再び周囲を凄惨な色に染め上げんと噴霧しゆく鮮血のグラデーションは、しかし青年の身体を汚す事無く透過していった。強い魔法特性を持たぬ体液では、彼に接触する事は叶わない。

 

 『何で、こんなッ……。何で僕だけ、こんな目に……!ふざけるな……ふざけるな!許さない、許さない許さない許さないッ!!絶対に……!』

 

 どんなに強固な精神を所有する生命体でも。

 それが人間である以上、『我慢』という概念にいつか限界は来る。

 何の説明も無く暗闇に閉じ込められ、自由は無く、いつ外に出られるかも教えては貰えない。

 いくら定期的に外部へ脱出出来るとはいえ、こんな理不尽な状況を強いられ続ければ大抵の人間は狂っても仕方のない事だ。誰も責められない。

 しかも、その状況を強いてきた犯人が親しい身内でも友人でも何でもなく、よりにもよって強烈に嫌悪している対象であれば尚の事。

 彼の今の状態は、起こるべくして起こった結果であると言える。

 通常よりも恐ろしげに輝く凄絶な紅蓮の色彩が、彼の瞳の中で暴れ狂っていた。人間であれば有り得ない紅を瞳に宿した姿は、それこそが最早直人(ただびと)ではないという証明だった。

 

 ―――そうだ。

 当たり前の、話だが。

 普通の人間ならば、例え怒り狂っていたとしても。

 こんな地獄は、作れない。

 

 『ハッ……、ハァ、ハァッ……!クソ……、クソ……ッ』

 

 まだ生身であった感覚が抜け切れていないのか、呼吸など要らぬにも拘らず青年は息を切らした様に喘いで怒声を絶やした。短時間で連続的に魔力を使用した事に因る疲労感も、一時的な沈静化に助力しているだろう。

 見るに堪えない景色だ。他人の不幸を安全地帯で眺める分には退屈しないが、今の彼は他人ではない。他人がどんなに苦しもうが知った事ではないが―――この状況で、不必要に彼に苦しんで欲しい訳ではない。

 

 だから。

 その身を蝕み焦がさんと未だ勢力の衰えぬ怒りの焔を、請け負ってやる事にした。

 

 『…………ッ、ハア…………ッ』

 

 彼は憑き物が落ちたかの様にカクリと膝をついて、激情に満ちていた表情に幾分か正常な姿を取り戻した。火種を失って消えゆく寸前の焚き火みたいな穏やかな紅が、瞳の中で収縮している。

 冷静な思考が戻りゆく頃合を見計らって、なるべく声に余計な感情を乗せぬよう話し掛けた。

 

 【―――落ち着いたかい?】

 

 『…………』

 

 ギロリ、という音が実際に聞こえてきそうなぐらいの迫力を湛えた睥睨が、誰も居ない傍の空間へ注がれる。残念な事であるが、その矛先の何処にもこちらは存在しない。

 彼が、こちらの姿を視認する事は有り得ない。『あの子供』か、もしくは『保険』を手に入れなければそんな事態は起きやしない。

 ……いつか必ず、紅の奥に秘められたその網膜に、現界を果たした己の姿を焼き付けてやると思ってはいるけれど。

 

 『……、はぁ……。駄目だな、こんなの…………』

 

 すっかり正気になった彼はまた一つ息を吐いて、天を仰いだ。生憎の天候で、闇の中に点在している筈の星達は姿を潜めてしまっていたが。天然のプラネタリウムでも観察して更に気を鎮めようとしていた彼だったが、目に映るのは黒一色ばかりで拗ねた子供の様に口をへの字に曲げた。

 

 『感情のままに暴れるなんて、未熟者の塊じゃないか……。全然、駄目だ。おまけに世界は思い通りになってくれないし』

 

 夜空を覆う邪魔な暗雲を睨み付けて、尻からぺたりと座り込む。地面は湿っていたが、生身ではない彼の下半身は一ミリたりとも濡れる事は無かった。

 

 『駄目だ、このままじゃ……()()()()()()()()、あいつをどうにかするなんて夢のまた夢……』

 

 今し方作り上げた地獄絵図―――もとい、小動物の無残な亡骸の数々を一瞥して、彼は脱力に身を任せて項垂れる。

 正直言って、魔法の経験が無い人間にしては異様な程洗練された光景だった。多くの初心者は物を浮かべるだとか、風を巻き起こすだとか、その程度の現象しか起こせない筈であるのに。

 そんな決定的な差を呆気なく埋めてしまえる程、彼の想像力が殺意に満ち満ちていて、『他』を傷付ける事に特化した呪文が容易に成功していたのかもしれない。

 そうだ。『他』を傷付ける魔法ならばこちらも、誰に教えられるまでもなく扱う事が出来た。これはきっと、それと同じような事例。

 

 【磔の呪文を訓練するのはどうだい?あの拷問に耐え切れる人間は少数さ】

 

 『お前とこうして話してる時点で拷問だよ』

 

 助言したつもりなのにいつもの調子ですげなく返されてしまった。それはそれとして、どうやら怒りは何とか収まったようで何よりである。

 

 『……魂を分けるというのがどれだけイカれてるか再認識出来た』

 

 【イカれてるだなんて大袈裟だなぁ】

 

 『じゃあ他に大勢居るっていうのか?「この行為」が正当かつ素晴らしいという認識が当然だっていうなら、多くの魔法使いはとっくに分霊箱の虜に決まっているだろうが!そうはなっていない。つまり()()()()十分イカれてるんだよ!』

 

 吐き捨てる様に捲し立てると、彼はくしゃくしゃと乱暴に頭を掻いた。行き場の無い怒りが再点火を遂げようとしているらしい。それは別に望んではいないので、水面下で密かに鎮火しておく事にする。

 どうやら蓄積し続けた怒りのせいで、普段演じている常人の振る舞いが出来なくなっているようだ。今までこちらの前でここまで心を乱した事は無かったが、やはり一年を超える不自由な暮らしは堪えられなかったのだろう。むしろよく一年も耐えたと誰かが褒めてやるべきである。こちらがその役目を負うのは逆効果にしかならないと知っているので、しないが。

 

 『クソ…………魔法と人を騙す事しか取り柄のないクズが……。―――殺す。殺す殺す殺す殺す殺す』

 

 【ちょっと落ち着きたまえ。殺してしまったら君も死んでしまうよ】

 

 『あの量産型ネーム……!絶対ッ、いつかッ、殺すッ!!』

 

 【えっと、今は君が量産型ネーム(それ)なんだけど】

 

 『それはそうとお前―――()()()()()()()

 

 存在しない筈なのに。

 ドクンという脈音が、心臓も鼓膜も無い己の中に鳴り響いたようだった。

 これは生身であった頃の名残が引き起こす錯覚か、それとも本当に己の魂が知覚したものであるのか。

 

 『間違いなく誰かが―――僕に、触れた……筈、なのに…………。それだけで、それ以上は感じられなかった……』

 

 ゆっくりと瞼を閉ざした彼が、念話ではなく独白の形で語る。実際に声を出す事で記憶を正確に呼び起こそうとしているのだろうか。

 彼は本当に底が掴めない。いや、掴ませないというのが正しいのだと知っている。何故このタイミングなんだ、という時に限って触れられたくないところを的確に発掘しようとしてくる。

 先程の、感情に身を任せて殺意を散布していた姿も、こちらの慢心を引き出すただの仮相だというのか。

 

 『……さっき、何かを……書き込まれたんじゃないのか?そうとしか考えられないのに、その感覚だけが、無い―――』

 

 どうして、彼はそんな事を考えられるのだろう。

 『代わりに応対していた事実』になんて、普通は絶対に辿り着ける筈がないというのに―――。

 

 何故ならば。

 彼の精神の大部分は不完全な実体化を経て、こうして此処に移動を果たしていて。

 こちらの精神だけが、『あの日記帳』の中に取り残されていたのだから。

 こういった状況でのみ、日記帳に表示させるメッセージの操作権限をこちらも獲得する事が可能だった。……そして、日記帳に備わった触覚。その認識能力の殆どをこちらが簒奪出来る事も。

 認識能力を簒奪出来ると言っても殆どであって全てではないので、彼の方でも何らかの小さな違和感を感じ取ってしまうだろう。が、本体である日記帳に何が起こっているか、具体的な真実を知り得る事は不可能な筈だ。こちらが実際何をしていたかなんて、一から十の詳細を彼に理解する術は無い、のに―――。

 

 【君が何かを感じ取ったというのは解ったよ。けれど、何で「今ままで何してた」だなんて台詞が出てくるんだい】

 

 『決まってるだろ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 【……………………】

 

 『ま、訊いたところで素直に答えは返って来ないとも思っているけど』

 

 【君の想像にお任せすると言っておくよ】

 

 『出たな魔法の言葉。いつまでもそれだけで誤魔化せると思うなよ』

 

 その言葉の後の一瞬、彼の精神の深層に、西洋人の面影を感じさせるセミロングの少女の姿が現れたのを認識した。赤みがかった黒髪が、夕焼けの光に包まれて燃える様な赤毛にも見える。

 彼女の華奢な手には、表面から光を放つガラスを張り付けた様な薄い板が握られていて、そのガラスの中には黒髪の少年が力尽きた様に机上に突っ伏している姿が収まっている。ほんの僅か垣間見える横顔には、年相応の男の子らしい穏やかな寝顔が表れていた。

 薄い板を見せびらかす少女は笑っている。悪党にしか出来ない様な意地の悪いにやけ顔が、他人の失態を心底馬鹿にした様に吊り上がった口角が、かつての台詞を紡ぎ出した。

 

 

 

 

 「じゃじゃーん。こちらが本日の図書室で眠りこける後輩の純真無垢な寝顔です!保護欲を掻き立てるほんわかな表情と不気味な目元の隈が良きアクセント!いや~、君のファン共に一体いくらで売れるかな。私の懐はホット、君の話題もホットってね!」

 

 「すぐにけせ すぐにけせ すぐにけせ すぐにけせ すぐにけせ」

 

 「こわっ、メガテン都市伝説やめろ。むー……わかったよぅ、本性出した後輩の報復は怖いしなぁ。消せたら消すよぉ」

 

 「行けたら行くみたいな魔法の言葉やめろ」

 

 

 

 

 そこまで観賞したところで、劇場の幕が下りる様に全ては暗闇に閉ざされた。疎かになっていた彼の閉心状態が元通りになったのだ。

 こんなにもはっきりとした過去の記憶が溢れ出すのは非常に稀な光景だ。記憶の中の二人は口調こそ荒々しい箇所が見受けられたが、険悪と表現するには程遠くお互い晴れ晴れとした空気を醸し出していた。

 

 【……君って、女の子と『ちゃんと』仲が良かったんだね】

 

 『あ゛?本気でしばくぞ』

 

 【いや……、今のは忘れてくれ。ただの世迷言さ】

 

 理不尽な環境に置かれた事に起因する怒りのお陰だろう。彼の怒りが、普段から閉心に割いている集中力を削ったが故に覗く事が叶った記憶。

 彼の様な人間にもまともな学生時代があったと確かに証明するそれは、彼の中でとても数少ない、安らぎの象徴となっているらしかった。

 だが何となく安心した部分もある。少女の方は微妙に怪しかったが、彼の方は今の記憶にこれっぽっちも『恋慕』とやらを持ち合わせていなかったからだ。

 

 『本当に、お前は人を苛立たせる天才―――ん……?』

 

 カシャカシャ、キチキチ、という機械が起こす駆動音に近い異音が近くで聞こえてきて、彼の言葉は止まった。ギギギ……、と、彼自身も機械の様にぎこちない動作で音の発生源の方へ振り向いた。

 

 『……蜘蛛……』

 

 呟かれた独り言の通り、彼の視線の先に居たのは蜘蛛だった。但し、マグルの世界のそれとはサイズが全く違ったが。

 身長は彼の腰辺りにまで迫っている、毛むくじゃらの八本肢を携えた巨大蜘蛛が数メートル離れた位置でこちらを捕捉していた。八つの黒々とした眼がただじっと、刺す様な視線を向けている。

 互いに目が合って数秒が経った。彼は突然の珍客に思考が空白と化したのか、すっかり黙り込んで突っ立ったままだ。しかし、そこに巨大生物に遭遇した恐怖はほんの少しも無かった。彼の脳内を占めているのは疑問ばかりで、いつだって突然の出来事に対する恐怖というものが沸き立ちはしないのだ。対して、蜘蛛の方はガッシャンガッシャンと己の鋏を打ち鳴らしながら、人の言葉を発した。

 

 「人間……人間。何で居る?いや……見覚えがあるぞ……そうだ、そうだ。お前のその顔……確かに見た事がある」

 

 ギョロリギョロリ。八つの眼がそれぞれ気味悪く蠢いて、彼の全身をくまなく観察し始めている。

 彼は咄嗟に両手を動かし、自身の体を隠蔽する様に抱いた。が、今初めて気付いたとでも言う様に己の全身を見下ろして、『おい!僕のなけなしの筋肉どこ行った!?』と謎の突っ込みを飛ばしている。どうやら未だ、生まれ変わった体に馴染んではいないらしい。いつか必ず訪れる未来で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、是非とも大切に扱って欲しいものだが。

 

 「解った、解ったぞ。お前は……お前は我が友人のハグリッドを追い出した……。女の子が殺された罪を着せてきた人間だ……良く覚えている!」

 

 蜘蛛はより一層激しく鋏を鳴らして騒ぎ出した。その言葉を聞いた途端に彼の表情はようやく一変する。目の前の生き物の正体を思い出したのは、お互いほぼ同じタイミングだった。

 

 「お前のせいでハグリッドは退学させられた!城の人間達はわたしが怪物だと信じ込んだ!友のお陰でわたしの命は助けられたが……ハグリッドの立場が元に戻る事は無い……永遠に」

 

 『ち、ちが―――僕は何も。それは、僕のせいじゃな―――』

 

 「わたしの事は良い。元々城に居てはいけない存在だったのだ。わたしも解ってはいたのだ。―――だが!お前さえいなければ、ハグリッドは今もまだ―――あの城の生徒でいられたのは間違いない!」

 

 『いや、僕は何もやってない!僕のせいじゃないって言ってるだろ!この虫けら、人の言葉を喋れる癖に人の話を聞けないのか!?ぬ、濡れ衣だ!あの気狂いが勝手にやった事で、』

 

 「確かに覚えているぞ!お前だった!その顔、その服、あの時と全く変わらない!何一つ変わっていない!」

 

 『あ、いやまあ成長しない体だからあの時と何一つ変わらないのはその通りだが僕自身がお前をどうかした事は無いしそもそも別人というか別個体というか真犯人は今城の中というか、』

 

 蜘蛛と魔法使いの論争など、魔法史上これが初なのではないだろうかと思える程白熱してきたが、ここらで流れが変わった。

 

 「怪物が女の子を殺したのは知っている。わたしはあの生き物が動き回っている気配を感じていた。……しかし、『アレ』を操っていたのはお前ではないのか?何故ハグリッドと親しくもなかったお前が、突然現れて我々に罪を着せたのか解った気がするぞ。お前が『アレ』を秘密の部屋から出したのではないのか?怪物の癖に、一人だけ殺して大人しくなるなど有り得ぬ……。誰かがそう命じたか、躾けたとしか思えん……」

 

 『ていうか、あいつそのものが怪物なんだって。僕は何もやってないんだって』

 

 「何を言っている?あの生き物もそうだが、お前自身も怪物ではないか!後ろの光景が見えないのか?」

 

 蜘蛛の言う通りに素直に振り向くと、そこには当然だが処理も隠蔽もされていない無残な犯行現場がそのまま残っていた。

 魔法の実験というのは建前で、ただ怒りを発散する為だけに犠牲となって散った小動物達の死体。地面を湿らせる、自然界の水分とは別の赤黒い液体。

 

 「食べる為でもない、身を守る為でもない殺生など……まさに怪物だ!我々ではとても考えられん……!この場所こそが、お前が真の犯人だという証明!」

 

 『いや……人語喋る癖に人間も襲うお前達に言われたくないんだけど?』

 

 彼はすっかり余裕を取り戻した様子で、腕を組んで顔を顰めながら首を傾げている。虫如きの言葉など真剣に聞き入れる価値はないと思っているようだ。何故自分が責められているんだとでも言いたげな態度を隠そうともしない。糾弾してくる相手が人間であればまだ幾分か取り繕っていたのだろうが。

 

 人語を操る巨大蜘蛛―――アクロマンチュラ。

 いつかの半巨人がアラゴグと呼称していたそいつは、『死』の香りが充満するこの場で顔色一つ変えない本物の怪物を目の当たりにして、ギチギチと耳障りな音と共に後退を始めた。

 

 「……人間の中にも怪物は潜んでいる……わたしはそれを忘れない……」

 

 『おい、勝手に勘違いしたままどこに行くつもりだ』

 

 「ああ恐ろしい。人間共はハグリッドの姿を怪物と揶揄う事もあったが……巨人の血すら持たぬ者こそが真の怪物とは……」

 

 『おい?謝罪しろよこの虫けら。人に冤罪吹っかけておきながら尻尾巻いて逃げるのか!』

 

 「忘れんぞ……私はお前を忘れない。絶対に、いつか……死せり我が友、ハグリッドの無念を―――」

 

 『ハグリッドを勝手に殺すな?』

 

 そこまで吐き捨てると、アラゴグは踵を返してシャカシャカと忙しなく肢を動かして去っていった。無駄に肢が多いだけあってその速度は中々のものだった。彼はその背中を狙い撃つかどうか逡巡する素振りを見せたが、決断する頃には間に合わないと持ち上げかけた杖腕を下ろす。一人闇の中に取り残されてぼそりと呟いた。

 

 『……何で僕がハグリッドを殺した事になってるんだ?』

 

 【社会的に殺されたという事を言いたかったんじゃないのかい】

 

 『ああそうか。成程成程ねって納得出来る訳ないだろ、この外道が。誰のせいでこうなったと思ってる?』

 

 【強いて言うなら、世間とか?】

 

 『クソが!どいつもこいつも―――虫けらすらも、あいつが仕出かす事全部が全部僕のせいってか!?ふざけるなよ……!ああクソッ!今までも……これからも……、あいつが犯す罪は全部、僕もやった事になるのか……!?ほんとに、もうッ…………ふざッッッけんなッッッ!!

 

 突発的な衝動の発散先は決まっていた。

 まだしっかりとした形をかろうじて保っていた死体の一つへ向けて、爆破呪文を放ち無数の肉片を撒き散らす。彼はそれらを一瞥する事もなく頭を振り乱しながら大声で喚いた。

 禁じられた森の闇の中。杖灯りも無いその場所で、真っ赤に燃ゆる光源がただ二つ。

 

 

 

 

 『ヴォルデモート……!絶対に、絶対にお前の全てを滅茶苦茶にしてやるぞ!!』

 

 

 

 




多分Page24とPage28の続きを望んでいる人が大半だと思いますが
もうちょっとお待ち下さいすみません

6/14追記
職場の人手不足が解消傾向に向かいボクの休日も増えてきたので
そろそろ更新していきたいと思います


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Memory 2 「まだ何者でもなかった君達に告ぐ(前編)」

今回は転生の真相に迫ったり迫らなかったりする話前編


 「―――本当にこの少年が?」

 

 男性の落ち着いた、しかしどことなく力強くもある短い一言が室内に響く。

 ひんやりとした心地良い冷気が絶え間なく供給されている一室で、二人の成人男性が向き合っている。こじんまりとした事務所、みたいな場所であった。パソコンと事務机とオフィスチェアがセットになった物が二台程横に並ぶ形で配置されていたが、男達はそこに座ってはおらず部屋の前方奥に鎮座する執務机を挟んで互いに立っていた。机の奥、椅子のある側で腰掛ける事も忘れて立っている男の方は頭髪に白い線が疎らに見受けられるので、机の手前側の男より年上だと思われた。彼は今し方、若い方から手渡された四角い紙―――このご時世で珍しい、現像された生写真を手にしている。

 

 「特に、おかしな点のない子に見えるが?」

 

 手元の写真に閉じ込められたある少年の姿を目にして、年上の男は真っ先に浮かんだ疑問を口にした。

 目元の隈を隠す様にしてやや雑に伸ばされた黒い前髪と、この年頃にしてはやたら横に狭い体躯が、若くして不健康に見える印象を強めてはくるものの、何もおかしくはない。寧ろ顔だけは整っている部類なので、どこかでひっそり人気を得ているマイナーな学生モデルの写真でも渡されたのではないか、と正直思ってしまう。それ程までに写真の少年は外見だけなら異常なところなど何一つ存在してはおらず。一体、何故こんな人物の写真を渡されたのかと男は困惑していた。

 気になった点を無理矢理にでも挙げるとすれば、生写真にも拘らず少年は母親の胎に感情を置いてきたかの様な無表情をしており、ポーズすら取らずに棒立ちであるところだろうか。撮影した際の光の加減に因るものか、赤みのある昏い瞳が、カメラではなく明後日の方向を向いている。まるで全てに興味が無いとでも言う様に露骨にずらされた視線は、確かに気にはなる。しかし、ただそれだけだ。もしかしたら撮影時、少年の目を奪ってしまうモノ―――例えば通りすがりの誰かとか、近くを飛び回る虫とかがその場に居ただけなのかもしれない。

 

 「そりゃあそうでしょうね。見た目だけなら―――、……好かれる子ですから」

 

 意味深な言葉を発する若い男の方は、対照的な反応だ。写真の少年に向ける表情を、嫌悪の色がちらりと窺える表情を、隠していない。

 

 「君の提供してくれた情報を全て確認したが、俄かには……信じ難いものだ。そして、情報の中心にいる『この子』の事も」

 

 「送った情報は全て事実です。全て―――()()が行った結果ですよ」

 

 若い男から吹き出す少年に対する剥き出しの嫌悪。改めて写真に目を通したが、年上の男には何故この子供がここまで嫌わているのか知り得ない。

 

 「私も最初はね、馬鹿げていると思いましたよ。あんな事が現実に起こる訳がない……これは幻覚か白昼夢ではないかと、ね。でも、事実だった。都合良く目を背けても、()()はいつもいつも……」

 

 吐き捨てる様な言葉はそこで一度区切られた。男は居心地悪そうにもぞりと体を動かす。

 

 「……まあ、そういう訳で……。信じられない、というそちらの意見は理解出来ますよ。しかし、いつも間近であれを経験してきた私の立場も理解して欲しい。私とて簡単に信じる訳にはいかなかったのだから」

 

 「ふむ……。君に、そこまで言わせるのか……『この子』は」

 

 「疑うのなら、ご自身の目で確かめればよろしいのでは」

 

 その一言が遠くはない未来を確実に歪めてしまうものだとは知らぬまま。

 男は、口にしてしまった。

 写真を眺めていた男が顔を上げる。その原因を引き起こした張本人は平然と佇んでいた。

 

 「()()が本当に情報通りの子供かどうか―――私だけ知っていても、誰かに信じて貰えないのは無意味なので」

 

 「…………」

 

 写真を持つ男は答えない。ただぱたりと瞼を閉じ思案を続けて、重たい腰を下ろして背面で待機していた椅子に座り込む。部屋に訪れたのは少しばかり長い沈黙のベール。

 

 「……自分の目で確かめる、確かに大事な事かもしれない。君がそこまで言うのならば―――」

 

 不意にそれを破った犯人の顔を、若い男は感情の読めない瞳で見つめ返した。その瞳は、写真の人物と相対を繰り返す上で身に付けられた、手放しでは喜べない能力でもあった。

 

 『―――何で母さんと結婚したの?』

 

 昔、いつだったろうか。

 いつか昔に、写真と同様の昏い瞳を携えて問われた記憶が鮮やかに蘇る。写真と比べて、まだ半分程の背丈の時だったかもしれない。()()は、何の前触れもなくそう問い掛けてきたのだ。

 あの時、何と答えたのかは、最早憶えていないけれど。

 

 「そういえば、『この子』の名前は何だっただろうか」

 

 淡い回想の旅路を切り裂く様に響いたその声に、今度は別の過去の記憶を辿ろうと若い男は目を閉じた。

 名付けに興味の無かった、いや、そもそも名付けるつもりすら無かったこちらを気にする様子もなく、あの女が心底嬉しそうに与えていた贈り物。その記憶を呼び起こす為に。

 

 「―――ああ、そんなにおかしな名前では無いですよ。()()の名前は―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ねえねえドラえもん聞いてよ!バジリスクが倒せないよぉぉぉ~~~助けてよぉぉぉ~~~」

 

 「全くしょうがないなぁのび太くんは」

 

 「ぜんっぜん似てないし作り声が気持ち悪かったから二度とするなよ」

 

 「よし解った後で捻り潰す。刑法199条なんか関係無いからな」

 

 昼下がりの穏やかな午後とは裏腹に、穏やかではない会話が繰り広げられるがらんとした教室の中。そこでは三人の男女がそれぞれ木製の椅子に腰を預け言葉を交わしていた。

 仄かに鼻腔を擽る柔らかな樹木の香りが、この空間が生み出されて間もないという事を控え目に主張している。白亜の壁も雀色の床も傷一つ見当たらないので、ピカピカという音を伴って輝いている様に見えた。黒板の下面に取り付けられている粉受けに横たわる人差し指大の長いチョークは、まだ誰の手にも収まった事が無く、一度たりとも縮まった経験が無いという喜びが溢れ出していた。

 換気の為に半開きになった窓から差し込む白んだ陽光が、天井の蛍光灯の代理人だと言わんばかりに三人の元へ光と薄暑を送り届ける。まだ、この季節特有の鳴き声は聞こえてこない。

 

 授業の無い土曜日である筈なのに三人が教室に集結しているのは何故かというと、単純明快、それは『部活動』の為だからだ。もっとも、この部は昔から存在していた訳ではなく、少女から依頼を受けた少年が得意技である口車によって教師陣を説得した結果誕生した、という異例中の異例であったが。

 

 「こいつ強過ぎるってば調整ミスってるってば。即死攻撃って雑魚がやるから許されるカテゴリーの攻撃だよね?何で大ボスがディレイ無しで叩き込んでくるの!」

 

 「ボスなんだから強いのが当然では?それに正面に陣取るから即死の噛み付きに引っ掛かるんだろ……。普通に考えて解る事だろ、解らないのか?毒牙っていうのは敵の口、つまり正面に存在するんだ。正面に立っちゃいけないって初心者でも察せるのに?」

 

 「いやいやいやっ、だからって背面に回ったら範囲クソヤバ尻尾ぶん回しがお届けされちゃうんですけど!どないせえと?前も後ろも駄目ならどないせえと?」

 

 「プレイヤーの立ち位置によって敵の攻撃パターンは変化するんだよ。君が引っ掛かってるのは背面に立たれた時限定の薙ぎ払い攻撃だな。縄跳びの要領でジャンプすれば良いだけの話。そのままジャンプから派生するコンボを叩き込んでヘッドアタックでスタンを取ったら雑魚だから」

 

 「かっ、簡単に言ってくれますなあ。それが出来たら苦労しないってーの。もぉ~、バジリスクぶっ殺したら裏ボスが出てくるって聞いたから頑張ってるのに!攻略情報の第一発見者がこいつだなんて世も末だぜ……」

 

 先程から声を荒らげながら表情豊かに語る赤毛の少女は、目の前で雑に足を組んで背もたれに寄りかかっている黒髪の少年に向けて苦笑と溜息を送った。

 実際には赤みがかった黒髪なのだが、光の当たり具合と見る者の角度によっては、セミロングまで伸ばした彼女の髪色は燃えるような赤毛に誤認させてくる。そんな一種の錯視を引き起こす彼女に、珍妙な動物へ向けるのと同等の視線を届けていた少年は、気怠そうな瞬きを一つ終えると片手に掴んでいる薄い板へ向き直る。何気ないその仕草が妙に様になっている。

 本当は性格態度、どれを取っても最低最悪な彼が何故異性に持て囃されるのか。少女の中で長年すくすくと芽を伸ばしていた疑問の種子、その一つが理解という名の開花を遂げて枯死に至った。成程、何をしようがこの生意気な小僧も外見だけ観察していれば魅力的な美男子にシフトチェンジという訳だ。

 

 「……君達は、さっきから何の話をしているんだい?即死だとかぶっ殺すだとか、とても物騒な単語を憚りもなく使っているけれど」

 

 黒板近くの椅子に座って二人の様子を静観していた三人目の人物が、ふと問い掛けてきた。二人と同い年くらいに見える少年で、何とも言えない表情を浮かべて首を傾げている。

 不思議な事に、その少年は先程から少女と会話をしている少年とそっくりな容姿をしていた。

 黒髪に、紅い瞳。口の悪い少年の方の瞳は一部が充血した様な染まり方をしていたが、もう片方、三人目の少年は瞳その物が完全な真紅色に染め上げられた様に見える。両者共に同じ紅を秘めているけれど、よく観察すれば微妙な差異をしっかりと確認出来るのだ。

 そしてこれまた不思議な事だが―――顔も瞳の色も似ているというのに、これまで誰もが二人の関係に何か疑問を持つ事は無かった。

 こんなにも酷似しているのに、どうして似ているんだとか、血の繋がりがあるのかとか、そういった些細な疑問すら誰一人として尋ねる事は疎か、抱いた事も無い。第三者が二人に感じた印象はいつだって、「単に交流を持つ他人である」、というものであった。

 少女もまた、その一人。知り合いそっくりの顔を持つ少年が突如として現れた日だって、二人に何かを尋ねる事は無かった。まるで、疑問を生じさせる心の動きを抑制されている様な―――脳の認識能力を弄られている様な、そんな感覚だった。……誰もそれを自覚する事は出来ない。

 二人が唯一違う身体的特徴といえば、身長だろうか。口の悪い少年よりも頭一つ分高い少年を見上げて、少女は説明口調で語り出す。

 

 「全くこれだから留学生は……。リドルの国じゃあまり知られてないのかね。巷で大流行中のアクションRPG、『Dive To Fantasy』通称『ダイファン』の攻略情報じゃないですかやだー」

 

 「その口調、かなりムカつくんでやめてくれない」

 

 「どこかだよ、来世でバジリスクの餌になってろ」

 

 口を挟んでは少女の機嫌を損ねた少年は、二人に目もくれず薄い板を人差し指で突き続けている。リドルと呼ばれた少年はその様子を曖昧に笑いながら見ていた。

 

 「はは……えっと、その、バジリスクっていうのは……その『ゲーム』?とやらに出てくる生き物……の事だよね?」

 

 「ま、有名なファンタジー生物だからねぇ。色んなゲームの敵として採用されてんのさ。でも『ダイファン』のバジリスクはマジでうんこ!何でこんなでっかいだけの蛇がラスボスより強いんだよ!」

 

 「仮にも生物学的に女の人間が汚物の単語を平気で口にするな」

 

 「仮にも生物学的に女って何?生物学以外だと私は女じゃないの!?」

 

 またまた少年が挟んだ突っ込みによって少女の機嫌は更に急転直下。椅子から勢い良く立ち上がり少年に殴りかかってもおかしくない体勢を取る。そんな彼女をリドルはまあまあと宥めては着席させた。背が高いせいかすぐ口争いに発展する二人よりも年上に見える。

 椅子に座っても尚、少女が所有する感情の湯沸かし器は沸騰したまま冷めはしなかった。無遠慮に人差し指を突き付けて少年の糾弾へと移行する。

 

 「人の事言えない癖して!聞いてよリドル、こいつはねぇッ、もっと小さい時、犬のフンに木の棒突っ込んで虐めっ子に向かって」

 

 「待て待て待て待て待て、待て。な、なん、急に何を言い出すんだ!その話についてはもう触れないって約束が―――」

 

 「知るかボケ!貴様の恥ずかしい過去話を赤裸々に語り散らしてくれるわッ。私独自の脚色を大いに加えてな!」

 

 「それじゃあ言わせてもらうけど、そっちだって通学中に空を見上げたら目薬をさす感覚で鳥のフンが目に入って」

 

 「あっ待って待って待って、お願いそれだけはやめて言わないで聞こえちゃう聞いてる聞いちゃってる人が居るからァッ!」

 

 互いが互いの秘密を暴露したが為に自滅して瀕死に追いやられている目の前の珍事に対して、唯一の傍聴人であるリドルは悩ましげな表情と重量感を含んだ溜息を二人に贈呈した。

 

 「……君達が過去にこっ酷い痴態を晒したのはよーく解ったから、取り敢えず落ち着こうね?」

 

 「誠にごめんなさいでした」

 

 「本当に申し訳ない」

 

 二人が口にした一見何の変哲もない謝罪の言葉。実はこの国の一部界隈で有名なふざけた台詞でしかないという事を、留学生である彼が知る由は無い。

 

 「二人の話を聞く限りだと、それに出てくるバジリスクは相当な強さを誇っているようだね」

 

 「毒がね、毒がう―――、いやクソなの!どれだけ体力が残ってても即死なのだ!ズルいズルいクリフトも見習えってレベルでズルい!」

 

 「当たらなければどうという事はない」

 

 「流石、『ディバインジェノサイド』のイベント大会で紙装甲にも拘らず皆殺しにしてランキング一位を取った奴は言う事が違うね!すっごく腹が立つ!」

 

 少女の口から再び新しいゲームタイトルが出てきた瞬間、少年の指がピタリと動きを止める。そのまま過去の記憶を辿る旅を始めた。その隣でリドルがギョっという音が聞こえてきそうな様子で目を見開き少年を見つめている。

 直訳するとしたって『神の大量虐殺』なんて名前。例え現実で行ったものでないとしても、遊戯の中の話でしかないとしても、そんな物騒極まりないお遊びで殺戮の末一位を勝ち取ったらしいという話を聞いて、要注意人物に遭遇してしまった様な視線を向けていた。そういった遊戯に一度も触れた事の無い彼としては、二人の語る『ゲーム』という娯楽装置がどういう代物なのか、どのようにして遊ぶ物なのかをまだ完璧に理解出来ていないのだ。

 

 「あー……、あれね……。確かあの時、同じ学校の誰かもやってたな……」

 

 横で向けられている訝しげな視線に気付いているのかいないのか。少年は顔を上げずに辿り着いた記憶の断片について口にした。

 

 「うっそマジで?流行的に廃れちゃったバトルロイヤル系だし、今時やってる若年層なんて絶滅危惧種じゃん。誰だった?」

 

 「誰、だったか…………。あんまり覚えてないな。男子だったのは……まあ判るけど」

 

 「はいはい出ました。全く、君ってホントに『他人の名前忘れ太郎』だよね」

 

 「人を勝手に改名させるな。『太郎』なんて名前を付けられた日には余りのダサさに自殺モノだろ」

 

 「……この国じゃ、その名前はそんなにも酷いモノなのかい?」

 

 確固たる意思を以て放たれた言葉に、リドルは何故か自分の事でも無いのに苦虫を噛み潰した様な顔で問うた。何となく消沈している様にも見えるのはどうしてだろうか。

 

 「酷いってモノじゃないな。芋臭い、時代遅れ、在り来たりの三拍子揃うってヤツだ」

 

 「へぇ…………そうなんだ…………。成程ね…………」

 

 何故か説明すればする程彼の顔は陰りを増しており、その様子はどんよりといった文字が全身から溢れ出しているみたいだった。今の話題は『太郎』に関してなのに、傍から見て彼がダメージを受けているのは意味不明である。

 「そういえば君の名前って妙ちきりんだよな」、と口にしかけた少年は瞬時に噤む事にした。隠す事無く落ち込んでいる人間に追撃を放つ程空気の読めない人間ではないのだ、と自身に言い聞かせる。いつもいつも誰かに余計な一言をぶっ込んでは痛い目に遭ってきたのだ、流石にもう懲りたし過去の自分と同じ轍は踏みたくない。

 

 (…………ん、そういえばこの学校、留学生の受け入れなんてやってたか?)

 

 ふと、思った。

 肩を落として俯いている目の前の少年を眺めていると、そんな疑念の水流が生まれて己の脳内をひたひたと満たしていった。

 こんな田舎の、しかも進学校でもない平々凡々な学校に、留学生なんて存在を受け入れる仕組みなんて無かった筈、だが。

この国から近い東洋系諸外国の生徒ならまだしも、この少年は外見も名前も完璧に西洋人のものだ。実際自己紹介の際にはロンドン育ちだとか言っていた。わざわざ遠方の西洋から、これといった特徴のない田舎の学校に留学とはこれいかに。

 しかしどうしてだろうか。こうやって脳内で推量を続けている内にその疑念の貯水が、浴槽の栓を引っこ抜くように頭の外へ排出されていくのだ。いつの間にか、こんな謎などどうでもいいと思ってしまう。

 

 ―――そうだ。こんな事考えたってしょうがない。

 

 職員の誰かのコネでやって来たのかもしれないとか、田舎なりに奮闘して留学生の受け入れに力を入れ始めているのだろうとか、己には全く関係の無い事だ。

 最悪、この学校のクラスメイト全員が実はこの星を乗っ取る為子供に擬態している未知の地球外生命体とかだったとしても、心底どうでもいい。いや、これは流石に空想が過ぎるだろうか。この『オカルト部』創設者とも言えるあの少女の影響か、こんなB級パニック映画にでもありそうな設定がつい思考に浮かび上がってきてしまう。滑稽極まりないそれらを吹き飛ばす為に目の前の薄い板、もとい液晶画面に神経を集中させる。

 

 「攻略サイト、掲示板……全部目を通してるのに、まだ誰も裏ボスについて言及してないな……。流石に発売から一ヶ月も経っているんだから、誰か数人はとっくに裏ボスに辿り着いてるものだと思ったのに……」

 

 「いや、超絶最凶クソクソ難易度のバジリスク様を唯一撃破してる君の方が異常なだけ。普通にプレイしてたらまだ絶対倒せない領域なの!有名なプロゲーマーだって動画上げてたけど、余裕でフルボッコされてましたが……?」

 

 「下手クソなだけじゃ?」

 

 「あっ、やっぱこいつどうしたってムカつくわ。後で靴の中に画鋲入れとこ」

 

 「何の面白味もない古典的ないたずらはやめろ」

 

 冷静に考えれば割と残酷な部類入るいたずらの筈だが、面白味がないという言葉で少年はそれを一蹴した。まるで今までに経験があるからこそ見飽きたのだとも聞こえる言葉。彼は未だ気怠げな態度を隠そうともしなかったが、少女を一瞥する事無く淡々と、自身が知り得る情報を整理して助言を与えてやった。

 

 「バジリスクの即死攻撃、実は無効化出来ない事も無い。前準備がクッソ面倒だけど……やる?」

 

 「やりますやります!ついでに貴様も後で殺ります!」

 

 「ああいつでもかかって来い。じゃあ教えてやるけど―――そうだな。まず素材を集めないと。即死毒無効化装備を作る素材」

 

 「お店はあそこだっけ?あー……、ワールドマップ左上の隅っこ……ツーグ・ホーの城塞街!あそこにしか装備作ってくれる店無いよね」

 

 少年は、彼女の何気ない言い方に耳聡く反応を示してじろりとした視線を象徴的な赤毛に注いだ。

 

 「その歳にもなって北西って言えないのか……そんなんだから知能指数が低く見られるんだろ……」

 

 「意味は同じだろ?あ?同じ意味の言葉なのに何でいっちいち難癖付けてんだコラ?貴様はスコップとシャベル、フォールとオータム、ウォーターとアクアの違いを説明出来んのか?」

 

 「そもそもスコップとシャベルには明確な違いがあるし秋に関してはイギリスの言葉かアメリカの言葉かの違いだし最後に至っては元々が英語とラテン語という違いでしかない」

 

 自分が引き起こした癖に、少女の怒気を孕んだ抗弁を早口で捌いた少年は特に気にした様子もなく続きを語る。彼は少女よりも大人であると勝手に思い込んでいるので、見え透いた挑発に乗りかかって喧嘩に発展させようとは思わないのだ。

 対して少女は日頃から常々疑問に思っていた単語の違いを、挑発のふりをして聞き出せた事に大満足だった。馬鹿正直に教えを請うたところで、捻くれ者の彼はこちらを見向きもせずに「自分で調べれば?」の一言しか返して来ないのだ。この、無駄に知識だけは有り余っている腐れ縁は時々このように煽る事で自身の知識向上に利用させてもらっている。

 

 「素材の話に戻るけど……まず用意するのはベビーバジリスクの含毒舌と溶毒血液。これらはベビーバジリスクを倒した際に確定でドロップする」

 

 「ふむふむ、倒した際に確定ドロップの素材ね、ふむふむ」

 

 「次にトキシックパイソンの堅牢毒牙。出現場所はリリンザス沼山脈。具体的な位置は麓と中腹で出現率も低くないから……足を運べば簡単に見付かる筈。こいつの厄介な点は、堅牢毒牙を確定でドロップしてくれないところだな」

 

 「レア泥って事?わーだるいわね」

 

 「いや、実際はちゃんとした条件があって……。堅牢毒牙のドロップ条件、それはトドメの一撃に物理攻撃を使用しない事。これ満たしてないと倒してもドロップしないんだなこれが」

 

 「は、はー!?物理職はまず無理ゲー!?わ、私脳筋剣聖(ソードマスター)だが!」

 

 「魔法職のフレンドに手伝ってもらうという選択肢は?」

 

 「アイアム・ソロ・ボッチ」

 

 「安らかに眠れ」

 

 解り易く縮んで萎んだ赤毛に哀悼の意を表し、薄い板とのにらめっこに戻った少年の額へ向けて少女は軽めの手刀を放った。ズビシっとささやかな衝撃音が静かな部屋に一つ鳴る。

 

 「君ぃそこはさぁ!『じゃあボクが手伝ってあげます』の一言ダルォ!?どうせ休日暇な癖してッ!か弱い女の子の悩みを解決しようとする意思は無いのかねッ!」

 

 「ッ……、う…………」

 

 手刀を放って奇怪な体勢を取っていると、そこで少女は少年の異変に気付いた。てっきり同じ様に動いて物理的な反撃を食らわしてくるかな、と内心身構えていたのだが、一向にそれが行われる気配が無かったからだ。いつでもかかってくるがいいさ、とファイティングポーズを晒して抗戦の準備をしていたのに拍子抜けだ。少女は改めて攻撃を与えた少年の額をじっと見つめる。先程の一撃は、確かに軽度のものだった筈だ。それなのに彼は声を呑み込む様な呻き声を漏らしたかと思うと、居心地悪そうに俯いている。

 

 「……もしかしてぇ、もしかする……?」

 

 「う、うるさいな。いきなり殴りかかってきたからびっくりしただけだ!こっち見るなよ」

 

 少年は今までの余裕ぶった態度から一転して動揺を全身で表現していた。どう足掻いたって今更取り繕えないと理解したからこそ、隠そうという素振りが見えないのだろう。それでも尚、彼の右手だけは手刀の放たれた先、己の額に添えられていた。まるで其処に存在する何かを隠蔽する様にして。

 

 「『前の傷』、まだ治ってないんだ」

 

 少年の必死の隠蔽を無残にもばっさり斬り捨てる様に、少女は核心を突いた言葉を解き放った。彼女は知っている。通常ならば彼の前髪に被さって見え辛いもの―――痛々しく深い裂傷が、未だそこに刻まれているのだと。

 元々長めだった彼の前髪が、ここ最近また少し長くなった様に感じたのは気のせいではないのかもしれない。恐らく、隠しておきたい物が目元の隈に加えて増えてしまったから。

 目が悪くなりそうだしやめておけ、と言いたかったのだが、腹立たしい事に彼の視力は検査の結果いつもいつも最上位をキープし続けている。というか視力だけじゃなく色んな感覚器官が異常発達している気がする。前に膝カックンを決めてやろうと忍び足で背後に迫った事があったが、こちらを振り返る事もなく力加減をセーブされた肘打ちのカウンターを食らったのだ。お前はゴルゴ13かよ、と思った。

 多分、男女関係なく許可を得ずに彼の背後を取った者は皆同じ末路を辿るんだろう。いや、校内ならば猫を被っているし誰にでもやる事じゃないのかもしれないが。

 

 「『前の傷』って?」

 

 わざわざ触れなくていいものを、興味を持ったらしいリドルが少女の後ろから少年を覗き込む。こうなったからには誤魔化すのも無理があると判断し、少年はちろちろと視線をあらぬ方向へ逸らしつつ歯切れ悪く白状した。

 

 「あ、あー……っと……、その。夜に外を彷徨いてたら……あれだ。酔っ払い、酔っ払いに絡まれて、その時に」

 

 「いや普通に傷害罪でタイーホ!お姉さんが警察に連絡したげよっか?」

 

 「それをやった暁には朝日を拝む事が出来無くなるぞ」

 

 「善意で言ったのにどうして私は脅迫されているのでしょうか?リドル氏、翻訳をお願いします」

 

 「つまり『余計な事をする人間は嫌いだ』って言っているんだよ」

 

 「アッハイ」

 

 それはこれ以上ない程美しく非の打ち所がない翻訳だった。それを耳にして珍しく素直に引っ込んだものの、少女は無意識の内に少年を内心で追い詰める言葉を言い放ってしまった。

 

 「しかし、被害者の癖に警察沙汰になるのが嫌だなんて……真犯人みたいな事言うんだねぇ」

 

 「…………ッ」

 

 少年は誰にも気付かれまいと俯いた拍子に表情を覆い隠した前髪の奥でぎゅ、と眉を歪めた。そのせいで自身の視界に映らなくなったリドルが、何かを探る様な色を湛えた瞳でこちらを眺めている事を認識出来なかった。

 

 「大袈裟な事を言うものではないよ。彼は……単に騒ぎを広めたくないだけ、そうだろう?君だって共感出来ないかい?」

 

 リドルは急激に口数の減少した彼を擁護する言葉を掛けて、少女の疑惑を解こうと試みたようだ。果たしてそれは無事に成就し、少女はあっという間にその言葉に乗っかった。

 

 「にゃるほど、それもそうか~。こんな田舎じゃー噂なんてすぐに広まっちまうもんなぁ」

 

 「住民は少ないイメージだけど、そんなに広まるものなのかい?」

 

 「田舎の民はね、娯楽に飢えてるのよ。電子機器に疎いジジババ共って、私達みたいなピッチピチの学生と違ってやる事が無いから、噂話で暇を潰すってワケ。結果、人がすくねぇ癖に噂があっちゅうまにバラバラ拡散」

 

 「田舎も大変なんだね。僕は……殆ど都会暮らしみたいなものだったから、新鮮だよ」

 

 「私は正直この村、嫌!来世はロンドンのイケメン男子にして欲しい!ねっリドル、イギリスって昔から魔女とかスピリチュアルな文化に富んでる国じゃん?なんかこう、好きなものに転生する術とかおまじないとか、伝わってないの?」

 

 「えっ、それは……そっ、そうだね、えっと……。あー、あんまり知らないなぁ、そういうのは。力になれなくて残念だけど」

 

 突然額と額がくっつくぐらい接近されたせいか、激しく動揺した素振りでリドルがさっと顔を背ける。冷静に観察してみれば異性に迫られて戸惑っているというよりも、訊かれたくない話題についてピンポイントに追求されたからのように見える。彼の両の瞳はうろうろと酩酊者の如く遊泳していたが、刹那、未だ俯いて沈黙気味な少年の顔を一撫でしていった。その瞬間だけ彼の瞳は、収監されている囚人が背負っている様な、激しく澱み、黒く重苦しい罪悪感に満ちていた。

 

 「はっ、しかし、成功してもロンドンに彗星が落ちてくるかもしれない……」

 

 そんな様子も知らぬまま、少女は元の適切な距離感に戻っては何やら思案を巡らせている。何故都会の男子に生まれ変わると彗星が落ちてくるなんて話に発展するのか理解出来ないが、リドルは自然と止まっていた呼吸を再開させて気を落ち着かせる。それでも尚、彼が浮かべる針の筵の様な暗い表情が完全に晴れる事は無かった。

 

 「やっぱり人間に生まれ変わっても大変なだけかなぁ?せめて鳥だな。よし、来世の第一志望は鳥で、第二志望は人間にしよう」

 

 「……そんな風に来世を信じてる人は初めて見たよ」

 

 「鳥の中でも鶏とかペンギンは駄目ね!飛べない鳥はただの鳥肉。飛べるヤツ―――カラスとか良いな!雑食でしぶとく生きるカラスが最強!」

 

 「いや、君の来世はダチョウだろ。太いし、いっつも喧しくドタドタ動き回ってるから」

 

 少女が来世への希望で満ち溢れている最中、その空気をぶち壊さんと少年が憎まれ口を叩いてきた。あーあ、とリドルが呆れた溜息と共に感情を削ぎ落とした無表情になる。何度も心中で反省しようが、この少年の余計な一言を口走る癖はこれからもきっと治る事は無いのだろう。

 カクリ、と首を傾ける音。少女はちょっと無理がある角度で斜め後ろに振り向くと、般若の如き形相で力強く片手の中指だけを立ち上げた。一応彼女の名誉の為に言っておくと、どこからどう見ても平均体型であるのでどうか安心して欲しい。

 

 「ぶちころがすぞ貴様ッ!今ッ!貴様の来世がゴキブリになる呪いを掛けてやったからなァッッッ!!」

 

 「来世なんかある訳ないだろ。人は死んだら骨になるだけだ」

 

 「うるせーバーカ!人類の敵になって精々苦しむんだなァ!クソモヤシがッ!」

 

 最早収拾がつかなくなった二人の口喧嘩を前に、リドルは今度こそ仲裁に入るのを諦めて腕を組むと傍観者の体勢を取った。実際の光景がどんなに低俗で暴言に塗れていたとしても、思った事をそのまま言い合い、それでいて徹底的に破壊される事のない二人の関係性は、とても得難いモノであると感じた。

 

 「……君達の寸劇、見ていて飽きないけど、誰かが来る前に程々で終えるんだよ」

 

 大声で罵り合いに展開しゆく二人に聞こえてはいないだろうけど。

 誰からも疑問に思われる事のない、人間としては有り得ない紅い瞳を静かに光らせて、その少年は密やかに呟いた。

 

 もう一人の少年は何も知らず、少女と揉み合っている。

 「人類の敵になって苦しむ」という少女の言葉が、遠からぬ未来で現実になってしまうとも知らずに。

 

 

 

 




・少年
口が悪い。額に傷がある。
他の生徒の前だと猫を被っている

・少女
口が悪い。実はとっくの昔に本編に登場している。
プロローグか賢者の石編のどっかにいる

・リドル
留学生らしい。
少年と少女の様子を観察するのは楽しい

・Dive To Fantasy
聞き覚えのある単語が出てくる気がする人気ゲーム。
製作者に曲者が混じってるだけかもしれない

・ディバインジェノサイド
殺し合いの末最後に生き残ったプレイヤーは
筋肉モリモリマッチョマンのハゲ


解り易いお化けとかよりも日常に混ざり込む異物の方が恐ろしかったりしません?


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Memory 3 「まだ何者でもなかった君達に告ぐ(中編)」

まだ辛うじて平穏


 「クソッ!どっかのモヤシのせいですっかり本題から逸れてしまったじゃないか!」

 

 罵倒と小競り合いの繰り返しの末、少女はようやく正気を取り戻して馬乗りになっていた少年の身体の上から退いて立ち上がった。そのままパタパタと黒板の前まで小走りで近寄っていく。

 リドルは静まった教室の床上で仰向けになっている少年に労いの意を込めて手を差し出した。

 

 「お疲れ様。……よく手を出さなかったね」

 

 「……女相手に本気で力を振り翳すように教えられた覚えはない」

 

 少年は思いの外素直に差し出されたその手を取りゆっくりと起き上がる。乱れた前髪を手櫛で戻し、夏用の白い制服に付着した埃を払い落としながら、ふんっと荒々しく鼻から息を吐いた。彼はかつて口酸っぱく教育された過去を思い返してその場で黙り込む。

 

 『いいか。この先何があっても女に向かって本気で力を振るうんじゃないぞ』

 

 『―――でも、もし相手が殺人鬼だったら?』

 

 『何故そこでそんな質問が浮かんでくるのか甚だ疑問だがまあいい。そうだな、そんな女以外は本気で相手取るんじゃないぞ』

 

 『解った。相手が殺人鬼だったら遠慮なくやって良いんだ』

 

 『お前が今解るべきなのはそっちじゃなくて女に対して加減をしろという話だが?』

 

 微妙にズレた返事のせいで軽い拳骨を食らう羽目になったあの日の記憶。生前の祖父から教えられたその教訓のお陰と言うべきか、これまで幾度となく少女と小規模な交戦を繰り広げてきたものの、いつだって彼女を本気で打ちのめした事は無かった。そしてまた彼女の方も、それを良い事に怪我をさせるレベルの力を振るってくる事は無かった。お互いの気が済んだ頃には勝敗などどうでも良くなって、いつの間にか戦闘は終了している事が非常に多かった。

 

 「……そう。君には良き教育者がいたんだね」

 

 ぼそりと呟かれたその一言は、何故か痛いぐらいの後悔の念が満ちていた。少年が不思議に思って言葉の主へ振り向くと、そこではリドルが誤魔化す様な笑みを浮かべていた。その笑みを見ているだけで、色んな感情の波が視覚化されてこちらに流れ込んでくる感じがする。少年と違って、かつての彼は加減も容赦も無く万人に力を振るった経験があるかのような……そんな後悔の記憶が、笑みの裏側に見えた気がしたのだ。

 

 (……ああ、またこれか)

 

 咄嗟に、それ以上の念を受け取るまいとして少年はなるべく自然な動作で顔を背ける。いつもこんな風にしているから、血の繋がった家族にさえ疎まれるというのに。やはり他人の様子を長い間眺めるのは控えなければいけない。

 

 (あの男は……最近なんだか読み取りにくくなったけど)

 

 脳裏に蘇るは思い出すのも腹立たしい男の姿。

 この頃一度だけ顔を合わせる機会があったが、その時の奴の表情はこれまでと違い詳細な感情を読み取れなかった。実はそっくりな影武者やドッペルゲンガーが代わりにやって来たのではないかと思える程、その表情には「無」が広がっているだけだった。

 奴は何かを企んでいる。それが善に属するものか悪に属するものかは興味など無い。だが、自分にとって何らかの害になるものであれば排除も検討しなければならなかった。これは単なる被害妄想でもなんでもない。何か企んでいるからこそ、大して情も持ち合わせていない癖に母と家族になったのだから。

 恐ろしい、と思った。こんな事、目の前の少女に限らず、どんなに親密な他人だろうが口が裂けても言えない。常識的に考えて、好意を持たない異性との間に子供を儲けようなどと望む筈がないだろう。それなのにあの男は自分を生み出す事に同意して、協力したのだ。……腹の底で一体何を考えているのか、小さい頃より常々恐ろしかった。

 幼い自分はあの男に憎悪を募らせる事によって、恐怖の感情に蓋をしたのだ。感情のコントロールが不慣れだったから、他の強い感情で上書きして自分を騙すしかなくて。そうする事以外、自分の心の平穏を護る方法を知らなかった。

 

 「なんだってうちの家族は面倒なんだか……」

 

 元から死んだ目で明後日の方向を眺めつつ少年は独り言を吐き出した。無言で思考を続けるよりも、定期的にこうして外界へ吐き出した方が心が安定する、という話を耳にしたので実行してみたが思ったよりも効果的だったようだ。ほんの少しだが解放感に身を包まれた気がする。小声だったので誰の耳にも届いていない筈だと思ったが、隣に立っていたリドルだけはピクリと眉を動かした、ように見えた。

 その時、少年とリドルの二人を放置して黒板に何やら文字を書き込み続けていた少女が振り返った。パンパンと二度手を叩いて着席を促してくる。

 

 「はいはい皆座って!本題が逸れていましたが、これより本格的に『オカルト部』の活動を始めます!全員着席!」

 

 「全員が集まるなり開口一番ゲームの話で本題を逸らし続けた張本人がどの口で言ってるんだ?」

 

 「だって『ダイファン』は今までにやってきたどのゲームよりも面白い神ゲーなんだもん。そりゃー本題から逸れてもしょうがないっしょ」

 

 「もう『ゲーム攻略部』に改名すれば?」

 

 「そんな事しようとしたら絶対先生に廃部まっしぐらコースを叩きつけられるっつーの!」

 

 とにかく座った座った、と身振りで命令されて二人は大人しく先程座っていた椅子に再び腰を預ける。少女は二人の着席を確認すると黒板に大きく書かれた文字をバン!と片手で叩いて彼らの視線を注目させた。黒板には赤色のチョークで『きさらぎ駅』という単語がでかでかと刻まれている。一人は興味深そうにそれを眺め、もう一人は死んだ魚の様な目でそれを眺めている。少女は満足げに一つ頷いて椅子にボスンと尻を乗せる。

 

 「諸君、よくぞ今宵の召集に応じてくれた」

 

 「清々しい青空が広がってるけど」

 

 「今日集まってもらったのは他でもない。かねてより計画を立てていた一大プロジェクトの第一歩を!遂に踏み出す時が来たのだ!」

 

 「父が危篤になる予定なんで帰って良い?」

 

 「さあ共に行かん!現世と冥府を繋ぎし黄泉の駅―――我々の求める神秘が其処にある!」

 

 「あ、父が死んだから帰る。お疲れ」

 

 「貴様ッ!息をする様に嘘を吐くんじゃあないッ!」

 

 どこぞの渋い声を持った司令みたいに机の上で指を組んでいた少女は、セミロングの黒髪を振り乱しながら立ち上がった。次にどこぞの逆転が得意な検事みたいにピンと張った人差し指を突き付けて怒声を張り上げる。少女の指し示した指の矛先には、教室のドアに手を掛ける寸前の少年が、怪訝そうな顔を隠しもせずに立っていた。無駄に整った顔立ちは、多少歪んでも尚低下する事のない魅力を秘めている。

 

 「私は知っているぞぉ!貴様の父親は今日も高級車を乗り回し、汗水垂らしながら営業で飛び回り、くっさいおっさんに媚を売り身銭を稼いでいるのを!」

 

 「研究職だって説明しなかったか?君の頭は鳥なのか?三歩どころか呼吸するだけで全てを忘却するんだな」

 

 「という後輩の罵倒に一切怯む事なく、今日も私は滞り無く会議を続けるのであった!」

 

 「滞ってんだよ。思い切り滞ってんだよ。主に君のせいで」

 

 「私の前でだけ口が悪くなる君は嫌いじゃないよ!」

 

 ふっ、っと腹立たしげな余裕ある笑顔を浮かべて、少女は両手を腰に当てて無い胸を反らす。見ているだけでなんとなく悲しくなる程の平地がそこに広がっていた。思春期男子にとっての理想郷、つまり丘なんてどこにも見当たらなかった。

 少女の言葉通りならば少年は下の立場である『後輩』にあたる筈だが、彼は微塵も敬意を表さずに大きな溜息を吐き出した。

 

 「用事があるので帰る」

 

 「ダメ」

 

 「父が心臓発作で……」

 

 「ちょっと聞きたいんだけど、君の父親が病気になるのは通算で何回目だっけ」

 

 「4771回だっけか」

 

 「語呂合わせしてんじゃねーよ!……えっ、あれっ、ホントにそうだったっけ?」

 

 「本当だよ。今日で記念すべき4771回。ちゃんとカウントしてるぞ」

 

 「なんも記念すべき事じゃねーわ。自分の家族の死を弄ぶな!……ホントにそこまで積み重なってたっけ?」

 

 少女が主題からどんどん話が逸れていくのも構わず、退室間際の少年から視線を外して別の人物に訊ねた。質問を飛ばされた先に座っていたリドルは、輝く黒髪の隙間から覗かせた瞳を少女に向けた。窓際に座る彼に降り注ぐ初夏特有の眩しい斜光が、その瞳に妖しげな赤みを与えている。

 

 「本当さ。凄い偶然だけど……嘘は言ってないよ。実は僕も数えてたんだ」

 

 ふわりと艶やかな笑みを湛えて紅い瞳の少年は少女を見据える。他の女子ならば大なり小なり赤面に追いやられてもおかしくない程の美麗な表情であったが、少女は彼の笑顔に興味無さげな様子で顔を逸らし、静かに一つ息を吐き出した。

 

 「ま、リドルが言うなら本当なんだろーけどさぁ」

 

 「それなりの時間を共にした後輩よりもぽっと出の留学生を信じる先輩。見損なったぞ」

 

 「お前は普段の言動を見直せ、なぁ?」

 

 いつもいつもきゃぴきゃぴうふふって胡散臭い愛想を振り撒いて女の子達を千切っては食べ千切っては食べしてる癖にこの二重人格陰キャめ……、と少女が聞き取りにくい小声を早口で捲し立てる。少年は耳聡いのか少し引いた様子で控え目に言葉の内容を否定しておく事にした。

 

 「千切っても食べてもないけど……」

 

 しかし少女にとってそれはどうでも良かった。何でも良いからただ生意気な後輩の悪口を好き勝手言い放つ事が出来ればそれだけで良いのである。

 

 「話を戻そう!とにかく座って。途中退室は認めません。お手洗いの場合は事前に申告後、四十秒以内に教室に戻ってくるように」

 

 「四十秒で物理的にお手洗いを済ませられるとでも?君はドーラか」

 

 「次口を挟んだ部員はコトリバコの刑です!良いから席に戻るように!」

 

 有無を言わさぬ迫力を解き放つ少女。少年は無理矢理帰る事も出来たであろうが、僅かに眉を顰めるだけに留めて大人しく椅子に腰掛ける事にした。このまま帰ったところで、屋内の広さと反比例して精神的に窮屈な家に辿り着くだけだったからだ。リドルは、少年が座ると同時にこそりと顔を近付けて疑問を口にした。

 

 「コトリバコというのはなんだい?」

 

 「あ?……確かやばい呪物か何かだった筈。置いておくだけでその家の女とかが苦しんで死ぬっていう……」

 

 少年は、大して好きでも無かった怪談話を散々に叩きこまされた記憶を呼び起こしながら簡潔に語る。あの時興奮気味に説明を続ける少女の不気味な笑顔を忘れ去る事は無いだろう。多分彼女はオカルトチックな話題にのめり込み過ぎて悪霊の一体や二体に取り憑かれていると思う。

 

 「成程……近くの人間を苦しめる呪いの箱。それってまるで―――」

 

 一人納得したように、誰にも聴かれる事なく呟かれた独り言。少年はほんの少しの間目の前で微かに揺れるリドルの黒髪を見つめ返しただけで、すぐに話を続ける少女の方へ向き直った。

 

 「えー、前々からお伝えしていた通り、今夏の調査対象はこいつ、『きさらぎ駅』に決定。各種メディアやネットで散々擦られ続けた幻の場所ですが、やはり『オカルト部』としてこいつに触れずに終わるのはどうかと思い、この際ガツンと調べちまおうという訳で」

 

 「前にちらりと聞いただけだから、僕としては凄く興味深いよ。概要の説明をお願い出来るかな?」

 

 「じゃ、新入部員のリドル君の為に古参の我々がこいつのあらましを語りたいと思います。はい、部員ナンバー2、事前の打ち合わせ通りに説明を!」

 

 「本気でやるのか……この茶番」

 

 説明役を振られた少年は絶望的な視線で二人を流し見したものの、帰還という選択肢が潰れたせいか自身に与えられた役割を放棄するつもりはないらしい。面倒臭そうにゆっくりと微妙に時間を掛けて立ち上がり、教室中央にポツンと置かれた机上の真っ黒なノートを開いて手に取った。中にびっしりと書き込まれている文字の密度に辟易としながらも、淡々と読み上げていく。

 

 「あー……。『きさらぎ駅』とは、都市伝説の一種であり、話の舞台となった場所を意味するものである。女性と思われるとある人物がその発祥で、彼女の体験談により人々に広く認知される事となった。その場所は謎の無人駅であり、異界に通じているとされ、女性は其処に迷い込んだ際の出来事を詳細に語った。それ以降も類似の体験談が相次ぎ絶える事は無く、奇妙で強い現実味を感じさせる彼らの話は根強い人気を獲得し、様々なメディアやフィクションに取り上げられる事も少なくない……っと」

 

 「はい、そのまま続きをお願いします」

 

 「こんな説明ぐらい自分でやれよ……創設者そっちだろ」

 

 「はい、そのまま続きをお願いします」

 

 「解った、解りましたよ」

 

 少年は説明役の交代を遠回しに訴えたが、壊れた機械の様に同じ言葉を繰り返すだけの少女に折れた。そのまま死んだ目で素直に続きを語り続ける。

 

 「一説ではこの謎の無人駅が通じている異界とはあの世、つまり死者が辿り着く場所であるとされている。駅のホームが冥界。線路が三途の川。電車が橋、若しくは渡し舟を表していると推測。電車に乗り続ける事で魂は完全に死後の世に旅立ってしまうのではと思われるが、この話の発祥となった女性は途中で降車している。降車後も彼女は現実とかけ離れた異界を彷徨う羽目になり、片足の老人や謎の男など人に近い存在との邂逅を果たしたりなど、奇怪な出来事を体験した。最終的に語りの途中で彼女は消息を絶ち、その後を知る者は誰も居ない筈―――だったのだが」

 

 「はい、最後までそのペースでどうぞ」

 

 「……、その後を知る者は誰も居ない筈だったのだが、彼女と思わしき人物が長い時を経てある言葉を残した。それは『七年経った今普通の世界に戻れた』という内容である。この言葉を残した彼女が本人で、真実であると仮定するならば。この駅から脱出出来た者は七年の時を経て帰ってくる事が可能なのではないか。若しくは彼女が彷徨っていた期間が七年だったというだけか、或いは『7』という数字に何か特別な意味が秘められているのか―――謎は尽きないが、この七年という月日の真相を解明する事が重要であると考えられるのである」

 

 そこで少年は言葉を止めて大きく息を吐いた。淡々と文字を読み上げる行為は地味に疲れるのである。あまり意識する者はいないだろうが、生物というのは声を発するだけでもエネルギーを消費している事実を忘れてはいけない。

 少女は最後まで見事に語ってくれた少年に対し仏像の顔を思わせる微笑みで拍手を送った。内心で他人と関わる事を億劫に思っている癖して、よく通る声ではきはきと喋れる彼には正直イラっとこない事もないが、この状況には満足出来る。

 

 「いやぁー良かったよ、実に良い良い。という訳でこれが大体のあらましだけど、リドルは理解出来た?」

 

 「―――そうだね。とても解り易い説明をどうもありがとう」

 

 少女が笑いながら横を見る。リドルは今の説明で完全に理解出来たような表情で、未だ死んだ目で突っ立っている少年を見つめていた。どことなく貪る様な―――そんな視線が、少年に注がれている。少女は一瞬不思議そうにその顔を眺めたが、すぐに興味は尽きて次の話を展開させる。

 

 「これは私の持論なんだけど―――やっぱりね、七年後に元の世界に戻れたっていう話さ。『7』という数字に何か意味があるんじゃないかなぁって思うんだ!仮によ?これが作り話だったとしても、どうして書き込んだ張本人は『七年』っていう月日を選んだんだろうって。別に『五年』とか『十年』でも良くない?何でわざわざ『七年』っていう微妙な数字にしたんだろうって思うんだよ」

 

 「いや、どう考えても作り話だろ……こんなの」

 

 「『オカルト部』の活動に於いて『作り話』という発言は禁句だとあれほど言っただろうが!素人は黙っとれ」

 

 「いや、今君も『作り話』って単語使ったばっかり」

 

 「シャラップ」

 

 理不尽だなぁ、いや、自分が生まれてきた時から世界はとっくに理不尽だったなぁと心中で呟くだけに留めて少年は引き下がった。何せ、頼んでもいないのに勝手に命を作られた挙句に『殺人を犯して生まれてきた』だなんて理不尽極まりない言葉を贈られた事もあったのだ。これが理不尽でなくて何なのだ。

 

 「……彼女は、いや、性別は不明だったね。その人は……今も無事に生きていると思うかい?」

 

 少年が勝手に脱力している横で、リドルは不意に問い掛けた。表情が絶妙に見えない角度で俯いておりどういう心情なのか窺い知れない。少女はへらりと笑って手を振って答える。

 

 「いやぁ、無い無い!これすっげー昔の話だから!駅から脱出したって話が事実だったとしても、寿命があるしとっくに亡くなっててもおかしくないと思うよ!残念だけどね」

 

 「そうか。……そんなに、昔の話だったのか」

 

 何故だか重たげに感じる呟きが一つ、リドルの色の薄い唇から紡がれた。上げられた顔からはやはり何を思案しているのか読み取りづらい。彼はこの空想の色が強い話を一度たりとも鼻で笑い飛ばす事などしなかった。まあ、もしも笑い飛ばす様な類の人間であれば端からこんなところに入部しようとは思わないだろう。肯定も否定もする事なく、リドルはただ奇妙な駅に纏わる物語に耳を傾けている。

 

 「生と死の境界であると推測される駅に七年間取り込まれていた人間の話―――とってもミステリアスで調査のしがいがあると思わない?」

 

 「いや、仮にそんなふざけた駅が実在するとしてもどうやって調査するんだ。話題の発端となった人間が何処に居るかも解らないのに」

 

 「まあ、時の流れは残酷だよなぁ。私達がもっと早く生まれてりゃあなんとか特定して直接話を聞きに行けたかも?」

 

 「タラレバの話は無意味だろ。この現代でどうやって調査するって言うんだ?」

 

 まさか言いだしっぺが考え無しじゃないだろうな、と少年の非難の意を込めた眼差しに焼かれても少女はどこ吹く風。ぴゅうぴゅうとわざとらしい下手な口笛を二度奏でた後、彼女はドムっと己の胸を叩いた。膨らみも弾力も何も無いそこからは硬質感のある乾いた音しか産声を上げない。

 

 「調査の方法が無い事も無いのです!この話では、女性は普通に電車を利用しているだけだったんだよ。それがある時、停車もせずずっと走り続けている状況に居合わせてしまうというところから話は始まる訳。その内電車は停まってくれたけど降りた先は不思議な場所で……という感じで続くんだけどね。つまり、この駅に近付く為には―――」

 

 「為には?」

 

 「私達も、普通に電車を利用するしかない!!」

 

 しゅぴーん、光り輝くエフェクトが見えなくもない迫力を携えて、少女は天に向かって腕を突き上げ人差し指を立てた。これが特撮アニメであったら間違いなく彼女の背後でド派手な爆発が起こっているだろう。少年はそんな様子をやはり死んだ目で眺めては感情も死んだ声で呟いた。

 

 「……うんまあ、馬鹿でも考え付く話だ」

 

 「要は彼女と同じ状況を作り出せば良いのだよ、諸君!我々も普通に電車へ乗り込み、待てど暮らせど停車しない場面に遭遇すればきっと、その異世界に辿り着く事が出来るって寸法よ!理論上はねッ!」

 

 「出来る訳ないだろ。普通に各駅に停車して終わりだよ、異世界なんか辿り着く訳ない。ザ・エンドってね」

 

 「黙れ小僧!お前にはすみを救えるか!?」

 

 「いや知らんけど」

 

 そもそもそんな方法で異世界に行けるなら世界中の鉄道利用者はとっくの昔から行方不明不可避である。そうはなっていないのだからつまりそういう事である。至極簡単に立ちはだかる事実が其処にあるだけである。

 異界駅は実在すると声を大にして一歩も引かぬ少女。実在してたら今頃人口が急減少して大問題になってるだろと真っ当な正論をぶつける少年。終着点の無い二人の会話を打ち切る者が一人、この場に居た。

 

 「―――やめた方が良い」

 

 静かで嫌に聞き取り易い声。二人は自然と言葉を発する事をやめて声の主が居る方へ振り向く。

 リドルだ。この場でただ一人、彼だけが声を荒げる事なく冷静に持論を展開させた。その両の瞳でちらちらと紅い光が蠢いている。

 

 「……昔、似た様な出来事があったのを知っている。君達が語っていたのと似た様な、不思議な空間。そこに迷い込んできた人間が、どうにか元居た場所に帰還出来たっていう話をね」

 

 少年はリドルの瞳の中を生き物の様に彷徨いている光を訝しげな表情で見つめている。少女はきょとんとリドルの様子を観察しているだけで、紅い光に気付いている素振りは無い。リドルは少年の方を一瞥して彼の胸中を満たし始めた懐疑に気付くと、すっと己の瞼を伏せて光を封じた。

 

 「助けも得られない場所で迷子が無事に帰れるなんて滅多にあるもんじゃない。君達は―――最悪の末路を辿っても後悔しないと言えるのかい?」

 

 ひやり。

 教室の空気が、間違いなく体感的に一度ぐらいは低下した気がする。別に不自然ではない。この国では、暑い季節に奇妙な話を語り合う事で納涼感を味わう文化が根付いている。この感覚も、きっとそういったものであろう。黙ってリドルの話を聞いていた少女はきょろりと室内を見渡して露出している己の肘を軽くさすった。

 

 「……君、なんか…………」

 

 少年は、思考を巡らせる脳味噌をどこか遠い場所に置き去りにしてきたかの様に……ここではない何処かを見通しているかの様な虚ろな瞳で、単純な疑問を口にした。

 

 「―――まるで、この話の舞台が()()()()()()()()()ような言い方するんだな」

 

 ズキン。

 瞬間、少年の額に巣食う裂傷に鋭い痛みが走った。自分の意思を無視して呻き声を上げようとする口元を咄嗟に片手で押さえ、少年は固く両眼を閉じて痛みに耐える。幸いにもそれは一瞬の出来事で、痛みは韋駄天の如き速さで何処かへ消え去って行ってしまった。だが去りゆく痛みと入れ替わりで閃光の様な映像が―――過去の記憶が映像となって己の脳裏で再生を開始している。

 

 

 

 

 『―――やあ、また会ったね』

 

 『この前はいつの間にか居なくなってしまったから、随分心配したよ』

 

 『自分の家が嫌いなのかい?じゃあ此処から帰らなくても良いじゃないか』

 

 『何処に行くんだ?もうお前に帰る必要なんて無いだろう』

 

 男だ。男が立っている。

 

 舞台は有害な排気ガスを思わせる鉛灰色の霧が絶えず蔓延する世界で、其処に存在する何もかもが空漠で曖昧で、伽藍堂だった。

 飾り気の無い、しかし決して見窄らしいとは言えぬ上品な真っ黒いローブを着ている男だけが、我が物顔で暮らしている空間だった。フードを深く被って顔が見えない筈のそいつが男だと思ったのは、発せられる声があまりにも冷たくて、低かったからだ。

 一瞬だけ揺らいだフードの隙間から見えた、鮮血の塊を眼球に吸収したかの様な、気味悪く真紅色に光る瞳。人間ならば有り得ない形をしている、縦に細長く裂けた瞳孔。それらが捕食態勢に入った肉食動物の象徴として、こちらの姿を硝子体にすっぽりと閉じ込めている。ほんの一瞬たりともその視線が逸れる事は無い。

 

 ―――これはいつの記憶だ?

 

 映像の中の自分は男と比較して酷くちっぽけに見えた。今よりも間違いなく一回りも二回りも縮んでいる。頼りない小さな体を必死に稼働させて、情けなさすら感じる足音を響かせ走っているが、その速度はお世辞にも速いとは言えない。その年齢の子供の平均としては遅い部類だった。あの頃、自分は運動が得意では無かった筈だ。

 息を切らして走るその背後を、余裕綽々と言いたげな様子で男が地面を滑る様に追随してくる。手足も動かす事なく移動を果たしている光景は、ホラー映画の中でしか見た事が無い悪霊の姿その物だった。

 一度だけ男が手を動かした。真っ直ぐに伸ばして、こちらの首根っこを掴まんと迫る。その手が項の皮膚に触れる直前、不意に自分の体は加速して数センチ程前方へ現在地がズレた。そのせいで男の手は空を切り、望んだ結果を得る事は無かった。

 加速した原因は、自分の右手首を掴んでいる誰かの手だった。誰かが突如として傍に現れて自分の手首を引っ張りながら、一緒に走っている。前のめりに躓きそうな体勢を強いられ、全力疾走を強いられて、頭の中は混沌と化して思考が纏まらなかった。

 せめて手を掴んできている犯人の正体を突き止めようとして、無理のある体勢から顔を上げた。周囲は相変わらず濃い霧に包まれていて、自分の二の腕の先すら満足に認識出来ぬ程であったが、犯人が同じタイミングでこちらを振り向いたお陰でその顔をなんとか視界に収められた。

 

 黒髪に、紅い瞳。

 まだ完全に裂けていない、人間味をいくらか残している瞳孔。

 左胸の部分に何かの紋章が刻まれた黒いローブを着ていて、裏地の生地とネクタイの色は緑。

 やたら横に狭い痩躯だが、活力に満ちた若々しい姿。

 

 ―――そうだ、確かにあの時、自分を引っ張ってくれた誰かが居た。

 

 そいつは―――

 

 

 

 

 『もう此処に来てはいけないよ』

 

 

 

 

 言いつけを破った子供を叱る様な言葉が、鼓膜を通り抜けて脳髄に突き刺さる。

 不快感は、無かった。

 

 手の中の物を放り投げる様にして、ぞんざいとも言える動作で更に前方へ投げ飛ばされた。体重の軽い方ではあったがかなり強い力を使われた事もあって、抵抗もしなかった自分の体は盛大に宙を舞う。慌てて全身に力を入れて予想出来る衝撃に備えると数秒の後、やはり予想通りの痛みが全身を襲ってごろごろと地面を転がった。世界が回る。ちらちらと青空らしいものが見える。

 ようやく動きの停止した視界に初めて飛び込んできたのは、赤色だった。寝転がったまま、無意識に開いた手の平に目を向ければべっとりと粘着質な赤い液体がこびり付いている。

 体中の色んなところが痛かった。そして、その原因はこの赤色だと思った。―――それは間違いだと疑う事もせず。

 緩慢な動きで上体だけ起こして地面に座り込んだ姿勢を取った瞬間、鈍痛で意識のはっきりしない脳を誰かの悲鳴が揺り起こした。振り向けば白い買い物袋を下げた中年女性がこちらを指差して、付近に居合わせた数人の一般人に何事かを喚いている。焦燥感に満ちた不快な声。いつの間にか体に悪そうな鬱陶しい霧はすっかり晴れていて、真昼と思われる明るい日差しに世界は支配されていた。

 

 『……………、あ』

 

 ふと、疲弊しきった身体の向きを変えて、人々とは逆の方を確認すると。

 赤黒いタイヤの跡が色濃くアスファルトの地面を落書きの様に汚していて、あちこちを走り回っていた。どんなに馬鹿でも理解出来る、血液を持つ生物を轢いた痕跡だ。―――この赤は、きっと自分の物かもしれないと、見当違いの感想を抱いた。

 赤黒い軌跡は最終的にこの道の壁へと続いており、軌跡の主はその巨体を崩壊した瓦礫の山に埋め込んでいる。その瓦礫の傍、同じく赤黒い色の染みを点々と作っている場所の真ん中に、意識を失い力の抜けた全身を横たえている誰かが、居た。

 

 それは、女の子だった。

 黒髪なのに、光の角度の影響で鮮やかな炎の色に見えた。

 髪だけでなく、服や肌などの体中にもその炎は蔓延っていた。付着した薄汚い土埃や砂塵を飲み込んで、てらてらと不気味な光沢を纏った炎の色が燃え盛っている。それらは本来、生命維持に欠かせない重要な物質。生物の体内で酸素や栄養を運搬する役割を持つ物であり、こんなにも大量に体外へ好き勝手に流出して良い物ではなかった。 

 

 【―――人殺し】

 

 その時、耳元で嗤い声がした。冷たい手を当てられた様な感触が、肩に広がる。

 ―――何かが、親しい友人の様な気軽さで自分の肩に手を掛けている。生物らしい体温なんてものは感じられない、気味の悪い感触。全身を悪寒が駆け巡り思わず震えてしまう。

 確かに何かが自分のすぐ傍に存在しているのに視界に入れる事すら恐ろしくて、たった数ミリ首を動かすだけの動作が出来ない。得体の知れない恐怖感が全身を雁字搦めに縛り付けて、目を見開いて小刻みに震えるというみっともない痴態を晒す事だけが、今の自分に出来た精一杯だった。

 

 【お前がやったんだ】

 

 お前がやった。嘲りを多分に含んだその声が、再び鼓膜を擽った。

 未だ薄らと漂う砂塵の中。こんな状況で何一つ面白い物など無いというのに、声は今現在が楽しくて愉しくて仕方が無いといった調子で、くすりくすりと控え目な声量で嗤っている。肩に置かれた手は離さないままに。

 

 【可哀想に。何の罪も無い子供が死にかけている】

 

 女の子の半開きになった唇から、とろりと一筋の赤が垂れてきた。その小さな身体から、刻々と命の残量が零れていく。取り返しがつかなくなる境界を越えるまで、そう時間は掛からないだろう。―――自分のせいで。

 

 【()()、あの時みたいにお前が殺すんだ、罪の無い子供を。―――自分だけ生き延びる為に。自分のところに来る筈だった『死』を押し付けて】

 

 ぱたり。

 液体が、額の上から落ちてきた。そのまま連続して二、三滴。頬を伝って顎まで到達すると、重力に従って地面に落下していく。もしかしたら雨が降ってきたのかもしれない、と思った。のろりと頭上を見上げてみたが、空は憎たらしいぐらいの快晴が広がっているだけ。雨雲なんて何処にも見当たらない。

 不思議に思って液体の発生源である額を触ってみた。温い。雨水ならばこんな感触は有り得ない。どんなに暑い季節の雨だって、温いと感じた事は今までに一度も無かった。これは、雨水なんかじゃない。

 額をまさぐった指を眼前に持って来れば、一目瞭然だった。指先は赤く染まっていた。地面に描かれている様な黒が混じった物ではない。まだ鮮度の落ちていない明るい赤。どうやら自分の額の一部は裂けていて、そこからこの新鮮な赤色は流れてきているようだった。痛い、とは感じない。裂け目自体はそこまで広いものではないらしい。

 

 【誰かを殺して生き長らえる気分はどう?】

 

 今度の声は、嗤っていなかった。楽しそうでもなかった。

 ただ、自分を断罪したがっている様な、冷え切った非難の意がこれでもかと込められていた。

 

 ―――だって、だって、しょうがない。

 誰だって、自分の命が一番可愛いに決まっている。

 

 【嘘吐きめ】

 

 途端に興味が失せたのか、声の主の気配が遠ざかった気がした。お気に入りの玩具が使い物にならなくなって放棄するかの様に、肩の冷たい手が離れていく。すぐさま恐怖を忘れて振り向いたが、もう自分の周囲の何処にもそいつは居なかった。

 

 『違うッ……!違うんだ!違う違う俺は何にも―――ッ、勝手に車が傾いて、本当なんだ!!俺は何も触ってなくて……!!』

 

 謎の声と入れ替わる様にして、今度は男が見苦しく騒いでいる声が響く。普通ならきっと喧しいだろうに、何だかその声を聞いているだけで暗い眠気が体の奥底から込み上げてきた。瞼が重い。

 

 『あ、あの子供……!あの子供の方に車がいきなり傾いたんだ!それなのに、ぶつかりそうなところで弾かれて!よくわかんねぇけどッ―――近くの女の子の方に弾かれてッ!俺は誓って何もやってねぇよッ!!』

 

 『すみませんすみません救急車!はい……男の子と女の子が事故、そう!交通事故に巻き込まれてるんです!早く、お願いします、早くッ!』

 

 『あぁぁぁ、あの女の子、さ、最近越してきた子でしょ?こんなのってあんまりよ、助けてあげて頂戴、どうか……』

 

 『動かさないで、多分内蔵が傷付いてるッ!!男の子の方は軽傷、誰か道路から離してあげて、他の車が来る前に!』

 

 喧騒は時間と比例してどんどんと拡大していく。野次馬がちらほらと集結し始めた。それらを子守唄代わりに脳味噌は悠々たる微睡みの大海に溺れていく。ぼんやりと座り込んだまま重さを増す瞼と格闘していると、突然真上に抱き上げられた。正義感の強そうな二十代くらいの男性が、自分の顔を不安そうに覗き込んでいる。

 

 『おい大丈夫か君ッ!ここに居るのは危ないから離れるぞ。体、痛くないか?』

 

 二次災害を防ぐ為だろうか、男はこの場から自分を連れ去るつもりらしい。抵抗する意味も理由も無いので黙って身を委ねる事で肯定を示した。傷に障らないよう配慮しているのか、なるべく振動が起きない歩き方で事故現場から離れていった。

 

 『そう、そうよ、この子知ってるわ、お母さんが言ってたの、ボンベイ型なの!先に救急隊の人達に伝えておいた方が……』

 

 『おばさんありがとう!―――もしもしすみません、ええ、被害者の一人なんですが……はい……。そう、珍しい血液型で……。ですから輸血の準備を、…………えっ、難しい……?』

 

 女の子の周りに人が集まっている。あの惨状でもなんとか冷静さを保つ事が可能な数人が、応急救護にあたっていた。聞こえてくる会話の内容は、彼女が失った血液に関する話だった。

 

 『……え、えぇ……はい。そ、あ、そうですね、すぐに確認してみて……ありがとうございます、早い到着をお待ちしてます―――』

 

 物理的な距離が離れていって、話し声が聞き取り辛くなっていく。それでも彼らの唇の動きを読んでいると、「田舎だから」、「しょうがない」、「大きな病院なら可能性が」といった言葉が飛び交っているのが理解出来た。思い返してみれば、この村には小規模な医療施設ばかりで本格的な治療を望むならば遠出をする必要があった。あの少女を治療するのに、ここはあまりにも不適当であろう事は容易に推測出来る。

 

 『すみませんここに居る誰か!この子と同じボンベイ型の人は―――』

 

 眠かった。とにかく今すぐ眠りに就きたかった。

 それでも精神の裏側でもう一人の自分が藻掻いて、藻掻き尽くして、微睡みの水面からどうにか抜け出した。鉛の様に重たくなっていた唇をこじ開けて、自分を抱きかかえる男の耳元へ短い言葉を送り届ける。

 

 

 

 

 『ボクもあの子と同じ血を持ってる……

 

 

 

 

 

 「おぉーい、部員ナンバー2!急に黙り込んでどしたぁ~?」

 

 「ッ!」

 

 意識は、現実へ戻る。

 

 未だ押さえていたままだった口元の手をどけて顔を上げると、記憶の映像の中で赤に燃えていた女の子をそのまま縦に大きく伸ばした様な少女が、仁王立ちでこちらを見つめていた。西洋人の面影を残した青い瞳。今はもう、髪以外のどこも炎の色に染まってはいない。

 

 「い……いや、ちょっと、昔の、何か思い出せそうな―――」

 

 正直言って混乱していた。

 何を忘れて何を憶えているのか、その境界線が酷く曖昧で。

 混乱を引き起こした犯人である額の裂傷もそうだ。こいつは間違いなく最近刻まれたものであり、あんな昔に負った傷では無い……筈だ。自分は、全く同じ場所に同じ様な傷を負うなんてドジを踏んだというのだろうか?

 今も尚、消え去らんとする何かの思い出に向かって必死に手を伸ばす。何故こんなタイミングなのかとも思わなくないが、それでも正体不明の喪失感や好奇心といった物が複雑に混ざり合って、記憶を取り戻そうとする意志を留める選択肢は選べそうになかった。

 

 「―――……!」

 

 ―――そんな少年の横顔を無表情で監視していたリドルは唐突に、隠蔽した犯罪を暴かれる寸前の犯人みたいな狼狽した様子へと豹変した。少年と少女、二人の視界に入らぬようにと素早く背中側に回された彼の腕の先、人差し指と中指がくいっと何かを引き寄せる様に空を掻いた。数秒経って、ザカザカという乱暴な足音が接近してくる。

 そして。

 

 「おいコラァァァァッ!!サラフィナアアアアァァッ!!」

 

 「はわわーっ!?」

 

 教室のドアが勢い良く開かれ、大袈裟にその場から飛び跳ねて少女が奇声を一つ響かせた。思いも寄らないハプニングに、頑張って記憶を手繰り寄せていた少年の思考は呆気なく雲散霧消。声にならない声を漏らしながら突然の来訪者に視線が釘付けになる。

 ただ一人だけ、リドルは誰もが驚いてもおかしくないこの出来事に対し、特に大きな変化を見せなかった。むしろ二人とは真逆の反応、この状況を迎えて安堵している雰囲気すらあった。誰も彼の不自然な姿に気付く事は無い。

 

 「やっぱりここに居た、なァ!!おいぃ……!折角の部活動中に悪いがなぁ、お前に用件がある……」

 

 教室の入口に現れた人物。ふしゅう、と全身から湯気が立っている様に見えなくもない、威圧感と覇気をミックスして空気中に滲ませている筋肉質な男。彼はこの学校に勤めている、泣く子も黙り頭を垂れる現国教師であった。生徒の百人中百人が「いやお前実は体育教師だろ」と突っ込んだという逸話で有名だ。完全に担当教科を間違えている。

 

 「は、はぃぃぃ……。オカルト部のアイドル、みんなのサラちゃんですが、何か……?」

 

 サラフィナと名指しされた少女は、これまでの天上天下唯我独尊と言わんばかりの態度から一転。萎びた青菜の如く全身をワンサイズ縮めて怯え切った子犬の表情で沙汰を待っている。

 

 「昨日提出した課題……お前、自分で内容を覚えているか……」

 

 獣が低く唸る様な声色。教師が出していいものじゃないそれに、サラフィナはひいっと初めて女の子らしい高めの悲鳴を上げた。男勝りな口の悪さはどこへやら、だ。

 

 「えと、たたっ確か、『羅生門』の感想文でしたっけ……」

 

 「そうだ!お前ェッ、作文用紙を全部校歌で埋め尽くすとはどういう了見だコラァ!?」

 

 「ぴゃわわーっ!?」

 

 「いや、何してんだ君は……」

 

 少年は記憶の事などすっぽり抜けて自業自得な叱責に遭っているサラフィナに突っ込んだ。リドルはというと、即座に顔を背けて唇を固く閉じている。多分笑い出しそうになるのを堪えているのだろう、口元がぴくぴくと僅かな痙攣の様子を見せていた。

 

 「とにかく埋めりゃ良いと思ったか?思ったんだろ?お前みたいな無駄に浅知恵の働く狡猾な奴ァ珍しくないんでな。例え埋めたとて内容がクソならやり直しだコラッ!しっかり『指導』してやるこっち来い!!」

 

 「たっ助けてドラえもん!どこでもドア出して!」

 

 「そこに無ければ無いですね」

 

 最後の抵抗として少年の胸元に飛び付いたサラフィナだが、彼の無情な回答にぴょえぇぇんと情けない鳴き声を上げる。かつて知性を獲得し、この地上の席巻を果たした霊長類が出していい声じゃない。

 

 「このままじゃ部活動に支障が出ちゃうって!お願いします大将!」

 

 「だから創設者はそっちだって」

 

 「―――駅前のうどん奢る!!」

 

 「じゃ、大盛り三杯ね」

 

 悪足掻きの末サラフィナの提示した報酬に、これまた少年の態度は一変。すっ、と素晴らしい程優雅で紳士的な仕草で、飛び付いてきた彼女を自らの傍らに移動させると営業スマイルの仮面を被って教師の前へ躍り出た。その光景にリドルはぱちくりと瞬きを繰り返して凝視している。その眼差しは新種の生物を初めて目の当たりにしたかの様だった。

 

 「―――先生、どうか冷静に。確かに彼女の犯した過ちは決して放置していい代物ではないでしょう」

 

 透き通る様な声だった。普段の気の抜けた怠惰の念が湛えられている声と真逆のもの。今この瞬間、彼の頭に袋を被せてその整った顔を完璧に隠したとしても、声だけで多数の人間を虜にする事が可能だと思うぐらいには、魅力的な声が奏でられていた。高くも低くもない中性的で心地の良い声音は、どことなく艶やかな空気をこの場に生み出した。

 偽りに満ちた余所向けの態度に、しかし少年の本性を微塵も知らない教師は若干面食らいつつも会話に応じる。

 

 「お、おぅ?そうだ、課題の手抜きは俺の中で御法度だ。お前はいつも完璧に仕上げてくれるから咎める事もないが、出来ない奴は分からせてやらねぇとだな」

 

 「しかし、いくらか情状酌量の余地はある―――そうは思いませんか、先生?彼女は最近、部活動の為に―――ええ、他の文化部に比べてここは些か道楽の色が濃い、それは認めます。しかし、彼女は確かに遊びでもなんでもなく、真剣に活動に取り組んで―――課題が少々疎かになってしまうぐらいには、しっかりとこの部の活動に力を割いているのです。これをご覧下さい」

 

 丁寧かつ、有無を言わさぬ早口で教師の割り込みを防止しながら、少年は異界駅についての詳細が書き込まれた黒いノートを取り出して見せた。粗雑で丸っこい文字が余白を許さんと言わんばかりに踊り狂っている。内容を度外視すれば、よくぞここまで書き込んだなと称賛の一言を引き出せそうなぐらいには圧倒的な文字量だった。

 

 「これは紛れもなく彼女が書いた物です。筆跡は課題と一致しているでしょう。つまりこれに限っては何の不正も行われていません、正真正銘彼女だけしか扱っていない。この文字の量をご覧になれば解る通り―――連日彼女が真面目に活動に取り組んでいた証となります」

 

 「あ、ああ、そうだな……凄い量だ。しかし、うむ……こんな物を作る暇があるならばだな、課題を」

 

 「勿論!学生に於きまして部活動ではなく学業こそが優先事項です。そこは履き違えてはいけない、そうでしょう。ただですね……普段は不真面目になりがちな彼女としては、頑張った方ではないですか。校歌なんかで誤魔化している訳じゃない。彼女は本気で取り組めば―――こんなにも素敵な作文が可能である、これは事実です」

 

 「だったら、課題にもその熱量をぶつけるべきで―――」

 

 「ああ、先生、どうか結論をお急ぎにならないで下さい。先生のそれは正論です、ボクなんかでは崩しようが無い程の。それでも、ここまでの文を仕上げる事が出来る彼女です。『指導』をするとしても―――彼女の作文能力を鑑みてこれを酌量とし―――今回ばかりはお手柔らかにしてあげて頂けないでしょうか?」

 

 うるり、と少年の切実な訴えを秘めた双眸が教師を見据える。

 何故飲食物の大盛り如きで少年がここまで働いているのかリドルには理解が及ばない。困惑した表情で少年の様子を観察している。彼はこれまでの人生で、食事目当てに誰かの懇願を受注するなんて真似はしてこなかったのだ。肉体的成長の為のエネルギーが何かと必要がちな思春期男子にとって、他者によるご馳走は地味に有り難いものであるという事が解らないのも、無理はない。

 

 演劇部の連中が、涎を垂らして欲しがりそうな演技力を披露している少年の後ろ。サラフィナは、普段の態度からは想像も出来ない人格を演じている少年の差異の酷さに吐き気を催すフリをして、「おろろろろ」と一人呟いている。

 ―――少年は無理やり形作っている笑顔の裏で、このおちゃらけ真っ平ら少女を後で絶対泣かせよう、そう心に固く固く誓った。

 

 「う、ぐ……ぅ。そ、そうだな。お前にそこまで言わせるんだ……部活中は真剣にやっているんだろう。仕方無い……。他でもない、お前の頼みだ!喜べサラフィナ、『指導』には手心を加えておいてやる」

 

 「ドゥワァ!センナナヒャク!そこは『指導』取り消しなのではないですかっ!?」

 

 サラフィナは再び絶望的な悲鳴を上げ、防衛本能に従い両手で自分の体を抱き込んだ。

 うどん大盛り三杯の代金という、決して安価ではない金額と引き換えにこの場を乗り切る事を約束された筈なのに、と取引相手の少年を見る。彼は教師の視界から外れた位置で、視線を明後日の方向へ飛ばしながら憎たらしさすら感じる真顔でダブルピースを作っていた。

 こいつは完全に故意犯である。最初から『指導』の取り消しに助力する心算などどこにも無かったのだ。ただ、その厳しさを緩和させるだけに留めるよう話を誘導していたに過ぎなかった。

 ―――見事に嵌められた。今すぐ無駄に整ったその顔面に、『詐欺師』と書かれた紙を貼り付けてやりたいと彼女は思った。

 

 「誰が取り消すと言った?お前みたいな奴は一度きつく絞ってやらんと同じ事を繰り返すだけだろうが。安心しろ、俺は自分の言葉を取り消さん。ちゃんと手心を加えてやるからな」

 

 「ぴえんぱおんぴえんぱおんぴえんぱおん」

 

 両眼から光を失ったサラフィナは謎の呪文をリピート再生するだけのガラクタと化した。

 抵抗力の無い華奢な少女を筋肉質な成人男性が連行していく景色は、まるで未成年略取誘拐の現行犯の様だ。残された少年達は敬礼のポーズを取ったり苦笑いを浮かべて小さく手を振ったりで少女を見送ってやった。こうして四角く切り取られた小さな世界には、束の間の平穏が訪れたのだ。

 

 「えっと……、彼女が最後に唱えていたあの呪文はどんな意味が?」

 

 「『自分の頭はイカれてしまいましたどうぞお好きにして下さい』という自己申告を意味する魔法の呪文だ」

 

 「君は嘘なのか本当なのか解らない事を真面目に言うよね……」

 

 騒がしさの原因であった彼らが退室した事によって、二人きりの教室に静寂が満ちている。部のリーダーが居なくなってしまい活動は中断せざるを得ない状態だ。さて彼女が帰還を果たせるまでどうやって時間を潰そうか、と少年は椅子に座り直す。

 同じタイミングで、リドルはばっと教室のドアの方を振り向いた。唐突で素早い動き。真紅色の双眸は何かを見通す様に狭まり、眉間には険しい皺がたちまちのうちに刻まれていく。

 

 「……、……。じゃあ……僕はちょっとトイレに行ってくるよ」

 

 ぽつりと呟かれた低めの声。少年が顔を上げてリドルの方を見つめる。「いってら」、と短い返事を発すると彼は興味無さげに薄い板と向き合い始めた。ごく普通の反応だ。何もおかしいところなど無い。しかし、リドルは顔を背けられても尚じっと立ったまま、少年の横顔を危険生物の挙動を見張る研究者の様な眼差しで見つめ続けている。やがて、口を開いた。

 

 「―――君も一緒に来るかい?」

 

 予想外の言葉を掛けられて少年がぱっと再び顔を上げた。同時、正体不明の珍獣を眺める様な表情が浮かぶ。

 

 「いや……行く訳ないだろ。誰かの連れションに付き合う趣味は無い」

 

 「そう。じゃあ、一人で行ってくるよ」

 

 リドルは少年の失敬な言葉にも機嫌を損ねる様な素振りは無く、スタスタと足音の小さい歩き方で教室を出て行く。

 

 ―――ただそれだけの光景を、臙脂色(ダークレッド)の瞳が執拗に後を追いかけていた。

 その長身の背中が完全に視界から消え失せるまで、執拗に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 リドルは、男子トイレに居た。

 

 小便器、鏡、掃除用具入れ、個室の洋式便器、窓、手洗い台。

 そこに存在するあらゆる備品をわざとらしく長い時間を掛けてくまなく見渡して、徐に手洗い台のある場所へ近付く。すらりとした長い指を蛇口に這わせては、何かを確認しているようだった。しばらくそうした後、彼は何故か満足そうな微笑みを浮かべていた。

 

 「……やっぱり、全然違うんだねぇ」

 

 誰にも理解出来ない独り言を呟いただけで、彼は終ぞ排泄を行う事無く早足で出口へ向かう。

 ―――そう、彼はこの学校を来訪した時から一度たりとも、この場所を正しく利用した事が無かった。他の人間と違ってそういった行為の必要が無いし、そもそも利用出来無かった。

 

 一切利用する必要の無い場所を抜けたリドルは、出口と隣接する廊下をそのまま歩き始める。オカルト部の部室へ繋がるこの廊下は、四階だった。右側の壁に一定の感覚で備え付けられている窓からは、今の体勢と距離からだと空しか見えない。空模様から判断して、現在時刻は三時過ぎといったところだろうか。

 静まり返って不気味とも言える無人の廊下を、リドルだけが我が物顔で歩く。土曜日の学校に訪れる者など殆どが部に加入している生徒達だ。この無人は不自然ではない。運動部員は言わずもがな、屋外のグラウンドやここから離れた場所に鎮座する体育館に集結しているし、屋内に部室を構えている場合が多い文化部はオカルト部を除いて別棟に纏まっていた。最近建て替えられたばかりの教室を活動拠点にしたいと駄々を捏ねるサラフィナの依頼を受けて、少年が創部の際に教師陣に交渉を持ち掛けた事により、文化部の中で唯一オカルト部だけがこの四階の一番奥を部室としていた。

 

 故に。

 休日の校内では、この場所が最も無人の環境に陥りやすいと言える。

 

 「―――そろそろか?」

 

 リドルがまた、誰にも理解出来ない独り言を吐く。彼がトイレを出て目指しているのは、部室ではない。部室から離れていく方向へ、廊下を歩いていた。その足も独り言と同時に停止する。

 

 「……本当に、いい加減しつこいな」

 

 それは、この場に居ない誰かに向けて苦言を呈する様な台詞だった。

 彼は一度だけ部室がある方へ振り向く。部室のドアは退室と同時に彼自身が閉めてきたので、遠目でも閉じられたドアがはっきりと確認出来る。

 何の異常も見受けられないその場所に安堵の息を吐いて体の向きを戻し、リドルが再度歩き出そうとした、その時。

 

 

 

 

 「―――動くな」

 

 

 

 

 重い圧力感。脅迫じみた命令。

 

 背後から音もなく伸びてきた人間の手がリドルの片側の肩を掴み、歩行を封じてその場に縫い止めた。もう一方手が全く同じ速度で伸びて、何か冷たい物を彼の喉元に押し付ける。突然の圧迫感に襲われた彼の喉の奥から、ぐ、とくぐもった声が上がった。肩をがっちりと強力に掴まれていて、背後の何者かに振り向く事は難しい。

 

 「…………く、う。……こんな乱暴な真似をする悪い子は、何処の誰だい?」

 

 「黙れ。余計な発言を許した覚えはない」

 

 現実味の無さ過ぎる突然の強襲の中で、リドルはそれでもどこか余裕そうに問い掛けた。喉を圧迫されているせいか、彼の声は不自然に上ずっている。

 何者かは挑発とも取れるリドルの態度に付き合う気は更々ないのか、何かを喉に押し付ける力をより一層強くした。流石にリドルの表情が苦しげなものに変化する。

 

 「は、はは……。まさか、こんなタイミングで姿を現すなんて、ね」

 

 リドルは眼球の動きだけで喉を圧迫する物の正体を突き止めると、掠れて乾いた笑い声を上げた。

 簡単な話だった。

 

 ―――それが冷たいのは、金属だからだ。

 鈍色に光るサバイバルナイフが、少し力を入れただけで皮膚を裂いてしまいそうな程のゼロ距離で、喉にぴたりと当てられている。

 

 「今から行うのは質問じゃない」

 

 何者かは無理やり作った様な低い声をしていた。リドルの耳元で、生物が声を発する事によって自然と生まれる空気の流れが渦巻いた。

 

 「尋問だ」

 

 「―――………………、」

 

 リドルは、感情の抜け落ちた能面の様な表情になった。抵抗もしないで、大人しくされるがままの体勢を維持していた。何を考えているのか、この世界の誰にも読み取る事は出来ない姿。

 脅迫者たる存在は数秒の合間を設けた後、罵りとも取れる問い掛けをその場に降らせた。

 

 「……、()()()()()()()()()()()()()()()()()が、こんなところに一体何の用があるんだ?」

 

 何者かからその言葉が放たれた瞬間。

 くつくつという押し殺した笑い声が、喉を振動させて押し当てられているナイフを小刻みに震わせる。その不敵に、背後の存在が僅かに息を呑んだような気がした。

 

 

 

 

 「ああ……おめでとう!僕の存在に疑問を持って行動を起こした人物は―――君が初めてだ!」

 

 

 

 

 ―――こんな状況で、被害者たる存在は心の底から嬉しそうに笑っていた。

 

 

 

 




2024/4/18追記
そろそろ賢者の石編の次話を更新したいと思っておりますので
もしかしたらこの番外編の更新は一旦止まるかもすみません


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