過去を消した女 (紫 李鳥)
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一話

 

 

 

 温泉郷に程近いこの地に移り住んで六年になる。大輝が小学校に入学するのを切っ掛けに、手頃な一軒家を購入した。

 

 妻を病気で亡くしたのは、大輝が五歳の時だった。それからは住み込みの家政婦を雇い、引き続きここでも働いてもらっていた。だが、二年ほどで足腰の衰えを理由に辞めて帰郷した。

 

 それからは、大輝と二人暮らし。自然の中で育ったせいか、大輝は純朴ではあるが、母親に育てられていないことで何か将来に影響するのではないかと、俺は懸念していた。

 

 

 

 その日も、締め切り間近の小説の執筆に追われていた。伸びた鬱陶しい前髪を手で梳きながら、筆を走らせていると、駈けて来る大輝の足音がした。

 

 ガラガラッ!騒がしく戸が開いた。

 

「お父さん!」

 

「なんだ、煩いぞ」

 

「はーはーはー……女の人が倒れてます」

 

 息を切らしながら、ランドセルを下ろした。

 

「何っ!どこだ?」

 

 反射的に万年筆を置くと、急いで鼻緒を突っ込んだ。

 

「土手のとこです」

 

 

 

 

 短距離に強い大輝を追った。下駄はカランコロンと音だけは勝るが、ズックのそのスピードに敵う筈もなかった。

 

 況してや、俺の辞書には〈運動〉という文字は含まれてなかった。俺にとって運動は、文章を書くより難しい技の一つだった。

 

 

 

 

 大輝に追い付いたのは、今にも割れそうに、砂利道の小石に下駄を叩き付けた時だった。

 

「ハーハーハー……」

 

 土手の緩い斜面に立った楢(なら)の木の根元に、ポシェットをたすき掛けにした、ダウンジャケットにジーパン姿の女が、俯せで倒れていた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 声を掛けたが反応がなかった。女の頬に手を触れてみた。温かかった。目を閉じたその横顔は、身形よりは歳を重ねていた。

 

「……生きてるの?」

 

 大輝がこわごわ聞いた。

 

「ああ」

 

「よかった~」

 

 辺りを見回すと、ボストンバッグと黒いキャップが放られていた。躓いて転げ落ちたものと推測できた。

 

「カバンと帽子を担当しろ」

 

「はいっ!」

 

 大輝は急いでそれらを拾った。

 

「他に何も落ちてないだろ?」

 

「お父さん、ドングリが落ちてます」

 

「プッ」

 

 ……糞真面目な顔で冗談を言うからな。我が子ながら、魅力的だ。

 

 大輝をチラッと見ると、女の帽子を被って、ボストンバッグを提げていた。その格好が滑稽だったので、声を出さずに笑った。

 

 俺は女を背負うと、足下にあった適当な枝を杖にして土手を上った。緩いとは言え、上るその勾配は、運動音痴にはさすがにきつかった。

 

 土手道まで上ると、女を背負い直し、道を急いだ。

 

 厚着をしている割には女は軽かった。歩く度、セミロングの毛先が俺の頬を突っついていた。

 

「気を失ってるの?」

 

 大輝が心配そうに見上げた。

 

「ああ、多分な」

 

「チメーショー(致命傷)じゃなくてよかったですね」

 

「うむ……ああ」

 

 ……難しい言葉を知ってるな。我が子ながら感心する。

 

 

 

 

 大輝に布団を敷いてもらうと、ポシェットとジャケットと脱がした女を寝かせた。枕に載せたその顔は、どことなく儚げだった。



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二話

 

 

 

「きれいな人ですね」

 

 書斎に付いてきた大輝が、俺の心中を見透すかのように、大人びた目で見た。

 

「うむ……寝顔じゃなんとも言えん。今日の晩飯はお前が担当しろ」

 

 俺は曖昧な返事をすると、話を変えた。

 

「はい。何にしましょうか」

 

「冷蔵庫にある物で何か作ってくれ」

 

「わかりました。ソー、イク、フーをしてみます」

 

「ん?……頼む」

 

 ……多分、創意工夫のことだろう。

 

 俺は椅子に腰を下ろした。

 

「今日はお客さんがいるので、恥ずかしくない物を作ります」

 

 ……むむ。……ってことは、いつも作る俺の料理は恥ずかしいのか?

 

「ああ、頼む」

 

 

 

 

「お父さん、お客さんはまだ、お目覚めではないですかね?」

 

 ……スゲ。丁寧語だ。

 

「うむ……どうかな」

 

「そろそろ、食事ができますが」

 

「じゃ、ちょっと見てくるよ」

 

 俺は重い腰を上げた。

 

 

 

 

「あのう、お目覚めですか?」

 

 大輝の丁寧語を頂いて、客間の襖越しに声を掛けた。

 

「……あ、はい」

 

 お、意識が戻ってる。

 

 ゆっくりと襖を開けると、廊下の明かりが布団の中の女の顔を照らした。

 

 ……うむ……馬のような目をしている。

 

「気が付かれましたか」

 

「……ここは」

 

「あ、私の家です。土手の所で倒れていたんですよ」

 

 俺は廊下に両膝を突いた。

 

「……土手」

 

 女は考える顔をした。

 

「覚えてませんか」

 

「……はあ」

 

「あ、食事ができましたので、一緒に食べてください」

 

「……でも」

 

 女が躊躇した。

 

「あ、遠慮は要りません。息子と二人ですから」

 

「……すいません」

 

 女はゆっくり身を起こすと、

 

「あうーっ」

 

 と顔を歪めながら、頭を押さえた。

 

「あっ、大丈夫ですか」

 

 俺は駆け寄ると、女の肩に手を置いた。

 

「多分、頭を打ったんでしょう。食べたらまた、横になるといい」

 

「……ありがとうございます」

 

 女は頭を下げた。

 

「それとも、ここに運びましょうか。食事」

 

「いいえ、大丈夫です」 

 

 

 

 女を支えて居間に行くと、湯気を立てた土鍋が座卓にあった。

 

 ……女を発見した土手に因んで、もしかして土手鍋か?

 

「こんばんは」

 

 妻が遺した白い前掛けをした大輝が、女に挨拶した。

 

「……こんばんは」

 

 女は笑顔を作った。

 

「どうぞ、座ってください」

 

 上座に客用の座布団を置いてやると、俺は大輝と座卓を挟んだ。

 

「鍋か。何鍋だ」

 

「よせ、と言われてないので、ヨセナベです」

 

「プッ」

 

 大輝の駄洒落に、女が吹き出した。

 

 大輝は自分で笑わせておいて、予期せぬ女の笑いに吃驚していた。

 

「……くだらないでしょ?」

 

 俺は女に同意を求めた。

 

「いいえ、楽しいです」

 

 女が笑顔で見た。



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三話

 

 

 

 

「あ、どうぞ、召し上がってください」

 

 俺は、女の箸置きに目をやった。

 

「いただきます」

 

 女は漆塗りの赤い箸を持った。

 

「ご飯のおかわりは自由です」

 

 大輝が笑顔で女に言った。

 

「あ、はい」

 

 この家の主のような大輝の物言いが受けたのか、女は笑いを堪えていた。

 

「大輝、父さんの晩酌は?」

 

「今日はお客さんがいるから、酒は飲まないかと」

 

「なんで?意味分かんないんだけど」

 

 俺は子どものように拗ねた言い方をした。

 

「そうですか?では、トックリ一本にしてください」

 

 大輝は勝手に本数を決めると、腰を上げた。

 

「あ、はい」

 

「クッ」

 

 大輝との掛け合いが面白かったのか、女が失笑した。

 

「ね、可笑しいでしょ?女房気取りで」

 

「……奥様は?」

 

「……あいつが五つの時に……腎臓を患って」

 

 淡々と喋りながら、蕩けた白菜を頬張った。

 

「……それからはお一人で?」

 

 呑水に豆腐を入れながら、女が聞いた。

 

「コブ付きじゃ、再婚も難しいですよ」

 

 あっけらかんと言ったが、それが却って、寂しさ、侘しさを強調させたようだ。

 

「…………」

 

 女は黙って豆腐を口に入れた。

 

「ぬるめにしました」

 

 大輝が大急ぎで、徳利と二口のぐい呑みを盆に載せてきた。

 

「お、気が利くな」

 

 ぐい呑みを二つ持ってきた大輝を褒めた。

 

「少し、飲みませんか?」

 

ぐい呑みを女の前に置いた。

 

「ごめんなさい。下戸なんです」

 

 女が申し訳ない顔をした。

 

「お父さん、ゲコって何?」

 

「酒、飲めない人のこと」

 

 手酌をしながら言った。

 

「へぇー。じゃあ、飲める人のことは?」

 

「上戸だ」

 

「ジョーゴって、さっき、トックリに酒を入れる時に使った、朝顔みたいなのでしょ?天井を向いて酒をゴクゴク飲んでるみたいだから、ジョーゴ?」

 

 大輝が散蓮華で鶏肉を掬いながら聞いた。

 

「プッ」

 

「アッハッハッハ……」

 

 俺は、女と一緒に笑った。

 

「じょうごはじょうごでも、意味も違うし、漢字も違うよ。……だが、発想は悪くないな。確かに漏斗(じょうご)が酒を飲んでるみたいに見える」

 

「ホントですね。もしかしたら、漏斗の語源は上戸かも知れませんね」

 

「うむ……確かに」

 

 女の言うのは当たってるかも知れないと思った。

 

「それよりお父さん、ナベの中にトックリを入れないでください」

 

「すまん。少しぬるかったから」

 

「プッ」

 

 鍋の真ん中に飛び出た徳利を見て、女がまた吹き出した。

 

 

 

 

 浴槽に湯を溜めると、新しい歯ブラシとタオルを脱衣場に置いて、客間の女に声を掛けた。

 

「お風呂、どうぞ」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 襖の向こうから、女の声があった。



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四話

 

 

 

 翌朝、机に向かっていると、昨日と同じグレーのセーターを着た女が起きてきた。

 

「……おはようございます」

 

「あ、おはようございます。眠れましたか」

 

 老眼鏡を外した。

 

「はい、お陰さまで」

 

 女が笑顔を向けた。

 

「あ、食事できてますよ。味噌汁を温めましょう」

 

 腰を上げた。

 

「あ、すいません」

 

 

 

 

 台所のテーブルに味噌汁を運ぶと、皿に被せたラップを剥がした。

 

「作家さんですか?」

 

 座っていた女が顔を上げた。

 

「えっ!どうして?」

 

「書斎に原稿用紙があったから」

 

「ええ。あまり売れてませんがね」

 

 ご飯をよそった。

 

「よかったら、お名前を」

 

「クレナイコウです」

 

「えっ!あの、『おたくさを想ふ』の?」

 

 女が目を丸くしていた。

 

「ええ。ご存じでしたか」

 

「ええ、勿論です。推理小説以外はあまり読まないんですけど、『おたくさを想ふ』は、お滝さんに対するシーボルトの深い愛が描かれていて、とても感動しました」

 

 女は情熱的に語った。

 

「ありがとうございます。さあ、冷めないうちにどうぞ」

 

「はい。いただきます。……まさか、紅虹さんにお会いできるなんて」

 

 女は感激していた。

 

「小説はよく読まれるんですか?」

 

 わかめの味噌汁を啜った。

 

「推理小説ばかりですけど」

 

 女は苦笑いしながら、卵焼きに箸をつけた。

 

「どなたのファンですか?」

 

「松本耕助です」

 

 女は即答すると、輝いた目を向けた。

 

「うむ……確かにいい小説家です。『砂の花器』は映画も観ましたが、感動しました」

 

「ええ。荒海をバックに、老いた父親と放浪の旅をするシーンが深く印象に残っています」

 

 女は回想しているようだった。

 

「父親が、息子のことを知らない、息子じゃないと嘘を吐くシーンも感動しました」

 

「そうでしたね。息子を犯罪者にしたくないという親心が如実に表現されていました」

 

 女は味付け海苔をご飯に載せた。

 

「松本耕助の作品には、人間の心情が見事に描写されている」

 

 ごま昆布をご飯に載せながら、女を見た。

 

「ええ。『記念に』という短編ですが、女心が手に取るように伝わってきて、とても好きな作品です」

 

 卵焼きに箸をつけながら、俺を見た。

 

「じゃ、短編の『足袋』や『二階』も好きでしょう?」

 

「はい。大好きです。『二階』は妻の心理描写が巧みですし、『足袋』は、女の深い業が見事に描かれています」

 

「……確かに」

 

 話を聞きながら、柔和な女の外見とは違う、何か内に秘めた激しさのようなものを感じた。

 

「たいき君は学校ですか?」

 

「えっ?……ええ」

 

 大輝の名前を覚えてくれていたのが、俺は嬉しかった。



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五話

 

 

 

 食事を済ませた女は、俺が止めたにもかかわらず食器を洗ってくれた。

 

 

 

 暫くすると、焦げ茶色のポシェットをたすき掛けにした女が書斎にやって来た。

 

「ご迷惑をお掛けしました」

 

 正座をして、頭を下げた。傍らにはジャケットとボストンバッグがあった。

 

「記憶は戻りましたか?」

 

 万年筆を置いた。

 

「……いいえ。でも、これ以上厄介になるわけには」

 

「いや、私のほうは構いませんよ。記憶が戻るまで居てください。だって、記憶が無いのにどこに行くつもりですか」

 

「……駅のほうに行けば、何か思い出すかと思って」

 

「それだって、確かとは言えないじゃないですか。どっちにしても、記憶が戻ってから行動したほうが安全です」

 

「……そうなんでしょうけど」

 

「ここでのんびりしてたら、そのうち記憶も戻りますよ」

 

「……いいんですか?お言葉に甘えても」

 

 弱々しい目で見た。

 

「勿論です。歓迎しますよ。大輝もあなたのことが好きみたいだし」

 

「……よかった」

 

 女はホッとした顔を見せた。

 

「あ、コーヒーでも淹れましょう」

 

 そそくさと腰を上げた。

 

「ありがとうございます」

 

 

 

 台所に行くと、インスタントコーヒーをカップに入れ、テーブルに載ったポットの湯を注いだ。

 

「二人だけの男所帯ですし、なんの気兼ねも要りませんよ」

 

「はい」

 

 テーブルに着いた女が返事した。

 

「男親には分からないこともありますので、何か気付いたことがあったら教えてやってください」

 

 カップを女の前に置くと、テーブルを挟んだ。

 

 女はお辞儀をすると、カップの取っ手をつまんだ。

 

「でも、たいき君、しっかりしてらっしゃるから」

 

「確かに、私よりはしっかりしてますね。けど、抜けてるとこも多々あります。先週も宿題を書いたノートを入れ忘れて嘆いてました。やはり、女手が無いと行き届かなくて」

 

「じゃ、居候させてもらう代わりに何かお手伝いさせてください。掃除とか洗濯とか」

 

「いやぁ、それは助かりますが、そんな意味で引き止めたわけじゃ」

 

「分かってます。でも、私がそのほうが居やすいので」

 

「……分かりました。では、お願いします」

 

「ええ」

 

 安心したのか、女は柔らかな表情で俺を見た。

 

 うむ……やはり、馬のような目をしている。

 

 

 

 掘っ立て小屋のようなガレージから車を出すと、温泉街のスーパーまで食料の買い出しに出掛けた。

 

 ついでに衣料品売場に寄ると、着た切り雀の女のために、恥ずかしかったが婦人下着や靴下、セーターなどを購入した。

 

 

 

 戻ると、台所が綺麗に片付いていた。

 

「おかえりなさい」

 

 と出迎えた前掛けをした女を見て、一瞬、亡妻と重なった。



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六話

 

 

 

 

「今日は私に作らせてください。夕食」

 

 テーブルに置いたレジ袋を覗いて言った。

 

「あ、では、お願いします。楽しみだな」

 

「あまり自信ないですけど、作ってみます」

 

 女は秋茄子を手にしていた。

 

「あ、これ」

 

 俺は、手にしたクリーム色のビニール袋をテーブルに載せた。

 

「着替えです」

 

「えっ」

 

 女が袋の中を覗いた。

 

「まあ……こんなことまでして頂いて。ありがとうございます」

 

 白い下着を見た女が礼を言った。

 

「着替えが無いと、何かと不便かと思って」

 

「恥ずかしかったでしょ?」

 

「ええ。ちょっと」

 

「男のかたにこんなことをして頂いて、申し訳ありません」

 

 女が頭を下げた。

 

「いえいえ、気にしないでください。それより名前ですけど」

 

 二口の湯呑みにお茶を淹れながら、女を見た。

 

「なんて呼びましょうか。名前が無いと不便だ」

 

「そうですね。……クレナイさんに因んで紅を使って、ベニコとでも」

 

「うむ……紅子より、コウの虹を使って、ニジコでは?」

 

 テーブルを挟んだ女の前に湯呑みを置いた。

 

 女はお辞儀をすると、

 

「どっちでも。紅さんにお任せします」

 

 と湯呑みを持った。

 

「じゃ、ニジちゃんにしよう」

 

「はい」

 

 女の名前は虹子になった。

 

 

 

 時間を見計らって、虹子が料理を始めた。

 

 俺は虹子の記憶喪失が気になって、医学事典を開いてみた。

 

 小説や映画のことは覚えているのに、自分の名前や住所が分からないというのが腑に落ちなかった。

 

 あっ!これだ。……“心因性記憶障害”

 

《心因性記憶障害は、精神的なストレス等によって記憶が失われてしまう障害です。通常、過去のことを思い出せない逆行性健忘で、不快な体験や出来事、特定の人物を思い出せなくなることが多いとされています。すべて忘れるわけではなく、一般的な知識は保たれているため、日常生活にはあまり支障がありません。しかし、自分が誰だかわからなくなる人もいます。また、わずかながら新しいことを覚えられない前向性健忘になる人もいます。

一般的には心因性健忘、場合によってはヒステリー健忘、機能性健忘、解離性健忘とも呼ばれます》

 

 

 ……不快な体験や出来事、特定の人物を思い出せなくなる。……自分が誰だか分からなくなる人もいる。

 

 俺は考え込みながら、書斎の窓から見える裏庭の、美しく彩った広葉樹に目をやった。 

 

 

 

 駈けて来る大輝の足音がした。

 

 ガラガラっ!

 

「ただいまっ!」

 

 急いで書斎にやって来た。

 

「おばちゃんは?」

 

「虹ちゃん?虹ちゃんは台所」

 

 俺は原稿用紙に顔を向けたままで言った。

 

「……ニジちゃんて言うの?」

 

 大輝が聞き直した。

 

「おかえり、たいき君」

 

 虹子が顔を出した。

 

「あ、……ただいま」

 

 前掛け姿の虹子に、大輝は戸惑っていた。

 

「少し居候させて頂きますので、よろしくね」

 

「……あ、はい」

 

 虹子が引っ込むと、

 

「きおくがもどったの?」

 

 小声で聞いた。

 

「……いや。名前だけ思い出したみたいだ」

 

 俺も小声で言った。

 

「ニジコって言うの?」

 

「ああ、偶然だよな。父さんのペンネームと同じ、虹が付く名前だなんて」

 

「ニジコさんか……」

 

 大輝はつくづくと言った。

 

 クッ。……そんなわけないだろ?



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七話

 

 

 

「お父さん、ニジコさんの作った料理はおいしいですね」

 

 豚肉と茄子の味噌炒めを大輝が褒めた。

 

 「プッ」

 

 「ふふふ……」

 

 女の名前を虹子だと信じきっている大輝を、俺は女と目を合わせて笑った。

 

「うむ……旨い。この厚焼き玉子も旨いな」

 

 俺は味付けを褒めた。

 

「ありがとうございます」

 

「お父さん、今日はばんしゃくはしないんですか?こんなおいしいツマミがあるのに」

 

「あれぇ、してもいいの?」

 

「ニジコさんはもう、家族の一員ですから大丈夫です」

 

「……意味、分かんないんだけど」

 

「だけど、トックリ一本だけですからね」

 

 大輝は箸を置くと、急いで腰を上げた。

 

「あっ、そうだ、熱くしてくれよ」

 

「はーい」

 

「今日は鍋じゃないから、徳利を燗できないから」

 

「ふふふ……昨日は笑っちゃいました。鍋で燗するなんて。作家さんだけあって、することがユニークですね」

 

 茄子を箸で挟みながら、虹子が見た。

 

「ですか?自分では分からないけど」

 

 豚肉を食べながら答えた。

 

「今書いてる作品は、どんなものですか?」

 

「ああ、土方歳三の婚約者の話です」

 

「えっ、土方歳三は確か、生涯独身では?」

 

「そうなんですけど、実は土方には江戸に琴という婚約者がいたんです。しかし、土方が京都に行くことになって、結局、結婚話は幻に終ったんですが……。タイトルは、『琴という女』です」

 

「わあー、琴さんという婚約者がいたんですね。どんな女性だろ。早く読みたいです」

 

「ありがとうございます」

 

「はい、熱めにしました」

 

 大輝は徳利を布巾で掴むと、盆から下ろした。

 

 それを持った途端、俺は、

 

「熱ッチ」

 

 咄嗟に手を離し、指先を耳朶にやった。

 

「熱すぎましたか?」

 

 大輝が心配そうに聞いた。

 

「うむ……猫舌だから」

 

「プッ。猫舌じゃなくて猫指?」

 

 虹子が聞いた。

 

 俺は照れ笑いしながら頷いた。

 

「お父さん、ニジコさんの料理はおいしいですね」

 

 豚肉を載せたご飯を頬張った。

 

「ありがとう。あら、付いてる」

 

 虹子が大輝の口許に付いた飯粒を取った。

 

「…………」

 

 途端、大輝が顔を赤くして俯いた。

 

 幼い頃に母親を亡くしてから、そんなことされたことないもんな。……無理もないさ。

 

 大輝の、その反応を理解できた。

 

 ……不憫な奴だ。 

 

 

 

 それは休日だった。

 

 朝食を済ませた大輝が、俺が買った薄紅色のセーターを着た虹子を散歩に誘った。

 

 

 だが、程なくして、戸がガラガラと音を立てた。

 

 あまりにも早い帰りを不審に思い、廊下に振り向いていると、虹子が足早に客間に向かっていた。

 

「どうした?」

 

 書斎に入ってきた大輝に聞いた。

 

「……ニジコさん、きおくがもどったのかな」

 

「!」

 

 大輝のその言葉に、俺の手が止まった。



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八話

 

 

 

「……なんで」

 

「土手のとこに行ったら、ニジコさんが歩かなくなって。どうしたの?ってきいたら、おどろいた顔をしたまま何も言わないんだ。なんか不吉な予感がしたから、ニジコさんの手を引いて帰ってきた」

 

「…………」

 

「……きおくがもどってほしくないな」

 

「どうして」

 

「だって、きおくがもどったら帰っちゃうでしょ?」

 

「……ああ」

 

「土手のとこに行かなきゃよかった……」

 

 落ち込んだ大輝の様子を背中に感じていた。

 

 

 

 虹子は客間に籠っていた。虹子の判断に任せようと思い、声を掛けなかった。

 

 

 

 ところが、昼近くになると、何事も無かったかのように虹子が台所にやって来た。テーブルでお茶を飲んでいた俺は、前で宿題をしていた大輝と共に虹子の挙動を目で追っていた。

 

「お昼は何にしようか……」

 

 冷蔵庫を覗きながら、虹子が独り言のように言った。

 

「ナポリタンと素うどん、どっちがいい?素うどんがいい人」

 

 虹子が俺たちを見ながら聞いた。俺が挙手した。

 

「ナポリタンがいい人」

 

「ハイハイっ!」

 

 大輝が手を挙げると、虹子も挙げた。

 

「二対一でナポリタンに決まりました」

 

 虹子はそう言って、前掛けをすると、手を洗った。目の前には、大輝の笑顔があった。

 

 

 

 

 それから間も無くしてだった。虹子は居間の掃除をしていた。

 

「こんにちはっ!」

 

 声と同時に戸が開いた。

 

「はーいっ」

 

 書斎から玄関を覗くと、駐在所の西山巡査だった。

 

「先生、どうも、こんにちは」

 

「あ、こんにちは」

 

 俺が挨拶すると、居間から虹子が玄関を覗いた。西山を見た途端、慌てて奥に引っ込んだ。

 

「どなたですか?」

 

 虹子のことを西山が尋ねた。

 

「あ……姪っ子です」

 

 虹子の挙動で、何かしら不安を感じた俺は、咄嗟に出任せを言った。

 

「ほーう、姪っ子さんがいらしてたんですかぁ……忙しいとこすまんです。実は先月になりますが、この先の渓流のとこに老人が倒れてまして。今、〈白井医院〉に入院してるんですが、どうも記憶をなくしてるみたいでな」

 

「!……」

 

「名前も住所も思い出せん状態で。何か犯罪に巻き込まれたんではないかと、事件と事故の両面から捜査してるんですが、何か変わったことや気付いたことは無いかと思って訪ねた次第です」

 

「さあ……特に変わったことは無いですね。姪っ子が遊びに来たのは今週ですし」

 

 その老人と虹子の繋がりを避けるために、故意に虹子の来た日を偽った。

 

「いつものように、執筆に追われている毎日です」

 

「そうですか。じゃ、何か気付いたことや思い出したがありましたら電話を頼みます」

 

 西山が背を向けた。

 

「分かりました。ご苦労さまです」

 

 ……その老人と虹子とは何か関係があるのだろうか。



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九話

 

 

 

 西山が帰ると、その辺の掃除をしてましたと言わんばかりに、雑巾を手にした虹子が顔を出した。

 

 

 

 ――そして、虹子が消えた。

 

 買い出しから戻ると、テーブルの上に置き手紙があった。

 

 

《この度は、大変お世話になりました。

 ありがとうございました。

 大輝君に宜しくお伝えください。

 

 紅虹様へ

  虹子より》

 

 

 客間を覗くと、綺麗に片付けられ、虹子の居た形跡すら拭われていた。――

 

 

 

 いつものように、ガラガラっ!と戸が開くと、

 

「ただいまっ!」

 

 大輝の元気な声がした。

 

「……おかえり」

 

 俺は原稿用紙の活字に目を落としながら、そう、呟いた。

 

 虹子を探しているのか、台所から順に浴室やトイレを覗いている大輝の足音が聞こえていた。

 

 客間を見終えた大輝がやって来た。

 

「お父さん、ニジコさんは?」

 

「……帰った」

 

 大輝の顔を見ずに言った。

 

「エッ……」

 

 がっかりした大輝の顔が想像できた。

 

 そして、涙を堪えているような無言の大輝が、いつまでも背後に居た。

 

 

 

 久し振りに食事を作った。虹子の料理が当然のようになっていた昨今、大輝は俺の料理に何ら反応を示さなかった。

 

「どうだ、味のほうは」

 

「……まあまあ」

 

 野菜炒めに箸は付けていたが、食は進んでいなかった。そんな大輝に気兼ねして、俺は晩酌も控えた。

 

「……きおくがもどったから帰ったの?」

 

 大輝が小さな声で聞いた。

 

「……多分な」

 

「……もう、会えないの?」

 

 大輝が涙を溜めて、俺を見た。

 

「……さあな」

 

 俺は目を逸らした。

 

 大輝は、洟(はなみず)を啜ると、手の甲で涙を拭った。

 

「……会いたいのか?」

 

 俺の問いに、大輝は頷いた。

 

「お父さんは?」

 

「……大輝と同じだ」

 

「じゃ、さがそー」

 

 大輝が眼を輝かせた。

 

「どうやって」

 

「……わかんないけど、お父さんならわかるでしょ?小説家なんだから」

 

「うむ……考えとくよ」

 

「ホントだよ、約束だよ」

 

「……ああ」

 

「ヤッター」

 

 俄然、大輝の箸が進んだ。 

 

 

 

 虹子が、西山が語った記憶喪失の老人と関わりがあるなら、新聞記事にそのヒントがある筈だ。

 

 俺は溜まった新聞から、二週間ほど前のを探した。

 

 あった!

 

 

《26日、午後4時ごろ、大原の渓流の茂みに70前後の男性が倒れていた。発見したのは、犬の散歩をしていた近所の住人で、男性は土手から転落したとみられ、頭部に出血はあったものの、命に別状はなく、軽症とのこと。

 ただ、記憶をなくしているらしく、自分の名前や住所がわからないとのことです。

 男性の持ち物に、身元を証す物はなく、事件と事故の両面から捜査をしている》

 

 

 ……これだけでは何も分からない。……どうしたらいい?西山が言っていた、老人が入院しているという〈白井医院〉に行ってみるか。



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十話

 

 

 

 丹前から茶色のジャケットに着替えると、車を出した。

 

 

 

「ああ、記憶喪失の?退院されましたよ、昨日」

 

 中年の看護婦が対応した。

 

「で、名前は?」

 

「それは言えませんが、知り合いだという女性が来られて、名前と住所が分かったんです」

 

「女性?」

 

「ええ。三十前後で、野球帽を被ってました」

 

 ……虹子のことだ。やはり、老人と顔見知りだったんだ。

 

「その老人の住所は?」

 

「それも言えません。守秘義務がありますので」

 

 看護婦からはこれ以上の情報収集は望めないと判断した俺は、巡査の西山から情報を得ることにした。

 

 

 

 駐在所に行くと、西山は暇そうに頬杖をついて、窓の外の紅葉を眺めていた。

 

「あ、先生」

 

 目が合った途端、腰を上げた。格好の暇潰しになる俺の訪問を、西山は歓迎した。

 

「散歩ですか?」

 

 急いで戸口にやって来た。

 

「ええ。原稿用紙を買いに」

 

「穏やかな天気で、気持ちいいですからね」

 

「確かに。ところで、先日の記憶喪失の老人ですが」

 

「ああ。名前と住所が分かって、東京に帰られました」

 

「えっ?見舞いに行こうと思ってたのに」

 

「え?どうして」

 

「新聞を読んでるうちに、もしかして、私に会いに来る途中で、事故に遭ったのではないかと思って」

 

 俺は話を作った。

 

「へぇー。どんな関係ですか?どうぞ、座ってください」

 

 興味津々と西山が食らい付いてきた。

 

「あれは、今年の二月下旬。親戚に不幸があって、中野まで行った時のこと。その寒空にホームレス風の男が道に倒れてて。皆は知らん顔で通り過ぎていたが、私は放っておけず声を掛けた」

 

 

『どうしました?』

 

『この数日、何も食べてません。もはや歩くことも……』

 

 私は財布にあった千円札を二枚出すと、

 

『少ないですけど』

 

 そう言って、男の手に握らせた。

 

『ありがとうございます。このお礼は必ず。せめて、お名前を』

 

『クレナイコウです』

 

「ペンネームを教えた。仮に、“紅虹”が作家の名前だと知っていたなら、著書の解説なり、あとがきを読めば、本名の〈小杉謙太郎〉を知ることは可能だ。……もしかして、その男ではないかと思って」

 

「……なるほど」

 

 作り話とも知らず、ホームレスに対する俺の親切な行為に感動すると、西山は駐在日誌を捲った。

 

 

 

 西山から、老人の名前と住所を聞き出した俺は、次の休日、大輝と東京に行った。

 

 

 大輝を、目につく喫茶店に置くと、老人の住まいに赴いた。

 

 

 その安アパートの一階の奥のドアに、〈萩野〉の表札があった。

 

 ノックをすると、訪問者の名前も聞かないでドアが開いた。

 

 白髪頭の、痩せた男が、馬のような目を向けていた。



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十一話

 

 

 

 

 !……馬?……まさか?

 

「萩野さん?」

 

「あ、はい」

 

「鬼怒川で倒れていた」

 

「ええ」

 

「わたくし、クレナイコウという者です。お嬢さんのことでお話が」

 

 俺は勘で、この萩野と虹子は親子だと判断した。それは、“目”の酷似だった。

 

「……どうぞ」

 

 俺を部屋に通すと、茶を淹れた。

 

 調度品らしき物も無いその六畳一間には、女の気配は無かった。つまり、虹子とは同居していないことが推測できた。

 

「……娘とはどこで?」

 

「あなたが倒れていた近くです。彼女も倒れてた」

 

「えっ!娘が?」

 

 萩野が驚いた顔を向けた。

 

「ええ。記憶をなくしていて」

 

「……記憶を?」

 

 萩野は俺の前に湯呑みを置くと、ちゃぶ台を挟んだ。

 

「何があったんですか?あの場所で」

 

「さあ……」

 

 萩野は他人事のように首を傾げた。

 

「さあって、記憶が戻ったんでしょ?」

 

「いいえ、戻ってません」

 

「はあ?」

 

 俺は合点がいかなかった。

 

「知り合いだという女に、名前と住所を教えてもらって、ここに辿り着いたんです。鞄にあった鍵でドアが開いたので、ここに住んでいたのだと分かりました」

 

「……じゃ、何も覚えてないんですか?お嬢さんのことも」

 

「ええ。何一つ」

 

「お嬢さんの名前も?」

 

「……思い出せません。知り合いだというその女が教えてくれたのは、私の名前と住所。そして、観光をしていたと言うことだけです。ですから多分、足を滑らせて渓流に落ちたんだと思います」

 

「……お嬢さんに関する物とか、写真とか、何か分かる物があるでしょ?親子なんだから」

 

 釈然としない結果に、俺は苛立っていた。

 

「いや。私も探してみましたが、何一つ無かった。娘との写真もアドレス帳も……」

 

「…………」

 

 これ以上、萩野からは何も得ることはできないと判断した。虹子の名前も、住所も……。

 

 取り合えず、自分の本名と住所、電話番号を教えると、もし、娘さんから連絡があったら私が来たことを伝えてくれるように伝言を頼んだ。

 

 

 

 大輝の待つ、喫茶店に急いだ。

 

 折角、東京まで来たのに空振りか。それより、朗報を待っている大輝になんて言えばいいんだ……。

 

 

 窓際に座っていた大輝は、入る前に買ったマンガ本を見ていた。

 

「ごめん、ごめん」

 

 急いで、大輝の前に座った。

 

「いた?ニジコさん」

 

「いや、……留守だった」

 

「えー?……」

 

 残念そうに、大輝が顰めっ面をした。

 

「電話をくれるように、虹子さんのお父さんに伝言したから大丈夫だよ。……近いうちに会えるようにするから」

 

「ホントだよ、約束だよ」

 

「分かってるって。楽しみにしてな」

 

 難関を切り抜けたかった俺はお茶を濁した。

 

 

 

 待望の虹子からの手紙が届いたのは数日後だった。だが、その内容はあまりにも衝撃的だった。



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十二話

 

 

 

《拝啓

 晩秋の候 いかがお過ごしでいらっしゃいますか

 その節は 大変お世話になりました

 見ず知らずの私に色々とご配慮いただき 誠にありがとうございました

 

 この度は 私を探しに父を訪ねてくださったとのこと ご足労をおかけしました

 折角 お出でくださいましたが 私はそこまでして頂く価値など無い人間です

 なぜなら 私は人を殺し損ねた女だからです その相手は父です》

 

 !!……

 

《真相をお話しします 

 あの日 温泉に招待するからと言って 父と鬼怒川温泉駅で待ち合わせをしました そして旅館の夕食まで時間があるからと言って渓流の散策に誘いました

 

 勿論 宿など予約していません 渓流に誘うための口実です

 

 酒の入っていない父は借りてきた猫のようにおとなしく まるで別人でした

 私は迷いました

 

 しかし 放蕩三昧のこの男は酒が入ったらまた 私にたかり 追い回して 恋も幸せも奪い取るんだろうなと思うと憎しみが込み上げてきて 思いっきりその背中を押しました

 

 父は短い悲鳴と共に渓流に落ちました

 急いで父の鞄からアドレス帳を奪うと 私は夢中で その場から走って逃げました その時 躓いて転倒したのです

 

 早い時期から記憶は戻っていました

 でも 紅さんの家庭の温もりに甘えていました 居心地が良かったから

 

 でも 巡査の話を聞いて その老人は父に違いないと判断した私は これ以上長居すれば紅さんに迷惑がかかると思い 出て行くことにしました

 

 それに 記憶を失った父をそのまま放っておく訳にはいきませんでした

 

 知り合いだと名乗り 父の名前と住所 観光客であることをメモした紙を 父に渡してくれるよう看護婦に託し その場を去りました

 

 父は未だに記憶が戻っていません

 私が娘だということすら分からないようです

 記憶と共に 酒飲みだったことさえも忘れ 一滴も飲まないので助かっています

 父は年金暮らしなので生活の方は心配ないのですが 記憶をなくしているので 時々は様子を見に行こうと思っています

 

 未遂とは言え 私は父を殺そうとした女です 犯罪者です

 

 こんな女のことは忘れてください

 

 どうぞ 大輝君とお幸せに さようなら

 

 

 小杉謙太郎様

 

  萩野麻友美》

 

 

 

 ……まゆみ、と言うのか。

 

 子どもは親を選べない。不運薄幸なる麻友美の境遇を思うと、胸が締め付けられた。

 

 

 

 俺も手紙を書いた。麻友美の手紙には住所が書いてなかったので、父親宛ての封筒に同封した。

 

 

《――あなたは 記憶をなくしたお父さんを助け 心配だからとお父さんに会いに行っている

 それで 罪は償ったのではないでしょうか

 だって お父さんは生きているのですから

 もう 自分を責めないでください

 

 もしかしたら お父さんは記憶が戻っていない振りをしているだけかも知れない

 あなたを犯罪者にしたくなくて

 そして 記憶喪失者を装い、酒を断つことで あなたにしてきたことを償っているのではないか 

 そういう可能性も考えられます

 だから もう自分を責めないでください

 これからは あなたの生きたいように自由に生きるべきです

 

 

 あなたが居なくなってから 大輝は元気がありません

 大輝はあなたのことが好きです 私も

 

 『琴という女』を脱稿しました

 書き下ろしを是非 あなたに読んでもらいたい

 松本耕助のような傑作は書けないが それなりの力作と自負しております

 

 大輝と一緒に あなたを待っています

 

 〆切 大輝が中学校に入学する前

 

 

 萩野麻友美様へ

 

  大輝のハート&小杉謙太郎より》

 

 

 

 

 それは、絨毯のように敷き詰めた落ち葉の小道に枯れ葉が舞い落ちる、休日の午後だった。

 

 大輝は、居間でテレビを観ていた。俺は用を足していた。

 

 ガラガラっ

 

 戸が開く音がした。次に廊下を走る大輝の足音がした。途端、

 

「お父さーん!」

 

 大輝の大きな声が聞こえた。

 

 慌てて廊下まで行くと、尿意を催した時のように足踏みする大輝が玄関に笑顔を向けていた。廊下を一歩進んで玄関に目をやると、黒いコートの胸元から薄紅色のセーターを覗かせた麻友美が、穏やかな笑みを浮かべていた。

 

 俺は一瞬目を丸くしたが、やがて、表情を緩めた。麻友美の手からボストンバッグを受けとると、

 

「コーヒーを淹れよう」

 

そう言って、ブーツを脱ぐ麻友美を待った。

 

「ニジコさんだー」

 

 大輝が嬉しそうに名前を言った。

 

 すると、麻友美がクスッと笑った。

 

 あっ!そうだ。……虹子の本名を大輝に言うのを忘れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 完



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