空と海の境界 (黒樹)
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二度目の初めまして

文字数少ないけど、キリがいいので投稿。
凪のあすから、うろ覚えなのでキャラが変だったりしたらごめんなさい。


 

 

 

冷たい海の底に雪が降っていた。海水に差す陽光が海に降る白い雪に反射して、煌びやかに舞う。魚達が踊り、海藻が揺れ、光が鱗に反射した。その真ん中で少女と少年が対峙する。黒い髪の少年と藍の髪の少女だ。片や泣き出してしまった少女の頭を撫でて慰めるような少年の行動はまるで幼い恋人同士だ。

 

「なくなチサキ。もうあえなくなるわけじゃないんだから」

「だ、だって……とおいところにひっこしちゃうんでしょ?わたしはそんなのいや!」

 

少女–––チサキ–––が泣いている理由は少年が遠くに越してしまうから。それが嫌で嫌でたまらなくて駄々をこねているのだ。普段は物分かりがいい少女でも、今回ばかりは別だと言わんばかりだ。

 

「だいじょうぶ。どちらかがわすれないかぎりまたあえる。きっといつかね」

「ほんとう……?」

 

涙を拭いながらチサキは少年を見上げる。青い瞳同士が見つめあった。

 

「ヨミ、うそじゃないよね」

「どちらかがわすれてもどちらかがおぼえてたらあえるだろ。おおきくなったらぼくがあいにいく」

「やくそくだよ。ぜったいだよ」

「ぼくがうそをついたことがあったか?」

「……ヨミうそばっかりなんだもん」

 

まるで信じてないような様子で瞳を少年に向けるチサキ。ヨミと呼ばれた少年はバツが悪そうに目を逸らした。嘘を吐く常習犯だ。これまで何度も約束を反故にした。数えきれない約束の半分は破っているかもしれない。つまり、確率は半分だ。

 

「じゃあこうしよう。チサキがぼくのことをおぼえてなかったらあいにいかない」

「そんなのわかるの?」

「わかるさ。つまりこれで、このやくそくはチサキがのぞめばかなうだろ?」

 

言外に少年は絶対に忘れないと口にした。それだけで少女は少し笑顔になる。泣きっ面を緩ませて、初めて笑った。

 

「てがみかいてね。でんわもしてね。とおくはなれても、また、あえるよね?」

「ねがっていれば、しんじていれば、ぜったいにかなうから。そうしたら、またあえるから」

 

少年の名は海滝詠。黒い髪に海の瞳を持った海の子だ。

少女の名は比良平チサキ。藍の髪に海の瞳を持った海の子だ。

 

幼い約束を交わす少年少女を傍で見つめるのは白い髪をした少年だ。

懐かしむような目で、二人を見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

–––とても長い夢を見ていた気がする。

 

懐かしい夢だ。幼い頃、二人で交わした約束は今も覚えてる。また会おうって言って、電話するとか言いながら、手紙を書くと言いながら、結局そのどれも破ってしまった。

少女の方から手紙や電話が届くことはなかった。住所も、黒電話の番号も、少年はずっと伝えずにいたのだから電話も手紙も来ないのは当たり前のことだった。

 

「……もう一眠りしようかな」

 

微睡みの中で僕はもう一度机に伏した。そんな僕の肩を揺すって隣の奴が起こしてくる。

 

「おい、起きろバカ」

「紡、バカはないだろう。今日も朝は早起きで眠いんだ。寝かせてくれ」

 

再び机に向かうと親友が僕の肩を揺することはなかった。代わりに口だけを開き情報を伝えてくる。

 

「転校生だとさ。それも海村からの」

「汐鹿生からだろ。昨日聞いた」

「……おまえの故郷だろ?」

「別に故郷がとかどうでもいいから寝かせてくれ。眠いんだ」

 

そう言いつつ、チラッと視線だけを上げて一度、壇上にいる四人の少年少女を盗み見た。一人はともかく美男美女ばかりで一人はもう胸の膨らみが凄いのなんの。

 

「大きくなったなぁ……」

 

何処とは言わないが、僕はおじさん臭いセリフを吐いて机に突っ伏する。相変わらず、あいつらは四人一緒のようでそれが当たり前の光景に見えてなんだか寂しさを感じる。

 

眠ろうと机に伏していると自己紹介する声が聞こえた。何やら光という少年は喧嘩腰で養豚場だのなんだの臭えだの喚いているが、だとしたら僕は干物あたりだろう。クラスの連中全員に言っているようでわいわい煩いのが耳につく。眠れないじゃないか。

光が大ブーイングくらったところで他の面子に自己紹介が回る。好戦的なのは光という男子だけのようで他は案外普通だった。アウェイなのだから、あれが正しい反応である。

 

「比良平チサキです。よろしくお願いします」

 

丁寧な自己紹介をする綺麗な少女、僕は彼女に……いや、彼女達に視線を向けることなく眠りにつこうとした。

 

「じゃあ、席は後ろね。好きに決めていいから」

 

先生が投げやりにそう言うと四人は壇上を降りて教室を突っ切っていく。その際、僕の机の横を通った四人分の足音が通り過ぎるのを僕は静かに聞いていた。四人は相談して席を決めるようで僕の背後に座った誰かが背中をちょんと押した。取り敢えず、煩い男共ではないようで僕は重たい首を上げて後ろを見た。

 

「よろしくね、えーっと……」

「潮留詠だ。比良平チサキ」

「そう、潮留君……詠って呼んでもいい?」

「別にどう呼ばれようが構わないさ」

「うん、なんか詠って呼んだ方がなんかしっくりくるんだ。前に君と同じ名前の人がいたから。それに誰かに似てる気がして……私達って初対面だよね?」

「……あぁ、初めましてだな」

 

僕は嘘を吐いた。これは二度目の初めまして。手紙も電話もしなかった僕はどうせ忘れているだろうと適当に返事をしておいた。



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潮留詠の平凡な日常

今回、ほとんど原作のキャラが出ません。


 

–––キーンコーンカーンコーン。

 

お馴染みの鐘の音が鳴り、放課後を知らせる。授業開始から机に腕を組んで爆睡していた僕は目覚ましの音に目を覚ました。椅子に座ったまま伸びをしていると隣の席の親友、木原紡が誰にもわからない呆れたような視線を向けてきていた。

 

「もう放課後だぞ。今日は随分ぐっすりと寝ていたな。最近、忙しいのか?」

「おう。今日もこれからバイトだ」

「いつもご苦労なことだな」

「おまえだって朝は爺さんの手伝いだろ」

「詠と違って俺はそれほど忙しくはない」

 

僕は机の中の教科書類を掻き集めて鞄に突っ込みながら返事をしていた。宿題に自習用のノート、それから筆箱と重過ぎず軽過ぎず鞄が一杯になるまで詰めるだけ詰めた。

 

「じゃあな、紡」

「無理すんなよ。おまえが倒れたら、おまえの姉だって困るだろ」

 

いつも通りの日常だ。朝早くに家を出て、自転車で三駅隣の街に行きバイトをする。それが終わったら学校に行く。学校が終わったら夕方のバイト。中学一年の頃からやっていることだ。毎日やっていることだからもう慣れてしまった。

学校から自転車で出る。電車の方が早いがあいにくそんな金を使う余裕はない。だから、毎日、雨が降ろうが雪が降ろうが台風が来ようが僕は自転車を漕ぐ。

 

三十分ほどで、三駅先の街に着いた。その近くにある水族館が僕のバイト先だ。

 

「お疲れ様です。雪菜先輩」

「おぉ、来たな少年」

 

更衣室で着替えて裏へ回る。そこには黒い髪をポニーテールにしてもなお腰まである長い髪の女性が立っていた。彼女は僕の先輩で正社員でもある冬海雪菜さんだ。僕が此処に来た時からの先輩で凄くお世話になっている人。でもって、僕はこの人には逆らえない。上司で歳上だからな。

ぐしゃぐしゃと濡れた手で僕の白い髪を掻き乱す雪菜先輩は楽しそうに髪を弄ってきた。長い間切っていないので、僕も髪を頸の部分で縛っていた。

 

「少年、相変わらず髪が長いね。女の子みたいだ」

「髪を切るお金がないんですよ。切る暇もありません」

「大変だねー。学校通いながら、バイトもして。お姉さんは元気?」

「はい。まだ死んでません」

 

生きてて体にどこも異常がなければ元気だ。僕はそう断定して、そういう言葉を使った。

僕の冗談を何と受け取ったのか、そうかそうかと人好みする笑みを浮かべてさらに僕の髪を掻き乱した。

 

「じゃあ、いつも通り魚や動物達に異常がないか聞いて回ってくれ。それが終わったら、餌の準備の手伝い。閉館したら掃除だぞ」

「了解しました」

 

別に僕がサイコパスだとか頭がおかしいだとか、先輩が可笑しいというわけでもない。僕には海の魚や動物達と会話するという特技があった。海の生物ならおそらくどんな種類の生き物だって会話することが可能だろう。それが僕を特別に水族館に雇ってくれている理由だ。あとはエナがあるから、潜るのに酸素ボンベがいらないというのも重要である。

 

いつも通り、僕は全部の水槽を回って生き物達と会話をする。僕が合図に水槽のガラスを叩くと生き物達は我先にと近寄って来た。

 

「元気かルイ」

「キュキュキュ」

 

最初に訪れたのはイルカの水槽だった。彼女はイルカのルイ。メスである。なんだか寂しそうにガラスに体を擦り付けてくる。どうやら甘えているみたいだ。

 

「んー、なになに?他のイルカが盛ってきてうざい?」

 

ルイの背後にはギラギラした目のイルカが数匹いる。でも何故か、その頰には打撲痕があった。

 

「へぇ、尾びれで殴ったと……だから、怪我をしてるのか。発情期ね。僕から館長に報告しておこう」

 

他の雄イルカはルイを狙っているらしい。だが何故だろうな、その視線がルイではなくその先にある僕の方を敵視しているように見えるのは間違いで、きっと気のせいだろう。僕は次の水槽に向かうことにした。

 

「さて、次は……元気かシャチョオ」

「キュルルゥゥウ」

 

次に訪れたのはシャチがいる水槽である。海のギャングと呼ばれる鯱だ。僕が最も好きな動物だ。なんかカッコイイし。

彼は鯱のシャチョオ。この水族館の水槽の動物達を牛耳るボスである。他の水槽にいるサメと抗争を繰り広げており、どちらが覇権を握るのか揉めており喧嘩が絶えない。あぁ因みに、喧嘩すると言っても水槽越しにメンチを切っているだけだ。

 

「にしても今日はおまえも元気ないな。どうしたんだ?」

「キャキャキャ」

「彼女にフラれた?」

 

シャチョオには付き合って半年になる雌鯱のパテナがいる。どうやらその彼女と喧嘩してしまったらしい。この水族館の主(目玉)がこの様子だと、週末の鯱のステージに響きそうだ。

 

「キュクルル?」

「そんなことよりおまえ彼女いないのって?余計なお世話だ」

 

さっきフラれた鯱がなんか言ってやがる。僕だって彼女が欲しいさ。でも、できないんだ。恋人がいたとしてもバイトで遊びになんて行けないだろうし。そこはもう諦めた。これ以上話すと僕の精神がダメになりそうなので次の水槽に移動する。

 

「おーい、フカヒレ」

「キシャアアア!!!!」

 

ドン、と大きい音が水族館に鳴り響く。鮫が水槽のガラスに激突した音だ。もちろん、そんなことではビクともしない特殊仕様のガラスに傷一つつかない。

 

「おまえいつも喧嘩腰だよな。え、ビビってないで早く水槽の中に来い?表に出ろ卑怯者?今日こそはテメェを八つ裂きにしてやる?」

 

コイツはイタチザメのフカヒレ。イタチザメの中でも好奇心旺盛で気性が荒い。人を喰ったらフカヒレにすると教えてある。だから、誤って水槽に飼育員が落ちても誰も傷つけない、鮫の中のビッグボスだ。もっとも鮫の水槽に入るのは基本、僕だけだ。その鮫の親玉の目には見慣れない真一文字の傷があった。

 

「……おまえ、もしかして奥さんに怒られたの?」

「キシャアアアァァァァァァ!!」

 

図星である。何やら奇声を発しながら何処か遠くへと泳いで逃げて行った。

 

「さて、次は……ペンギンか」

 

僕が一番苦手な水槽だ。出来るなら相手をしたくない相手が何匹もいる。もうあいつら見た目に反して、可愛げがないし、僕の動物と会話できる能力が裏目に出てから嫌いになった奴らと言っても過言ではない。それでも僕はお金のために奴らの水槽に行った。

 

「……」

「ケタケタケタ」

「ギャアギャア」

 

僕を見た瞬間、ペンギン達は僕を嘲笑うように鳴き声をあげた。

だから嫌だったんだ。繁殖期のペンギンはリア充しかいないし!

 

「うるっさいな僕が童貞だとかどうでもいいだろうそんなこと!?どいつもコイツもなんなの発情期かこのやろう、つーか先輩をエロい目で見てんじゃねぇ変態ペンギンどもめ!あーもうコイツら、あの鱗みたいで腹立つ!」

「ケケケ」

「僕がエロい目で先輩を見てるって?おまえもう本当に焼き鳥にしてやろうか?」

 

ペンギンの水槽は癒しなどではない。逆にストレスが溜まる一方だ。それに数が多いだけあって数の暴力とはこのことだと、身に染みて感じることができる。

 

「もういい、次に行こう……」

 

いつも通りなので僕は異常がないことを確認した。

そして、次の水槽–––白熊の元へとやってきた。

何故、白熊がいるのかはわからない。

 

「よう、シロ。元気か?」

「……ゲプッ」

 

白熊のシロは食いしん坊だ。いつも食べ過ぎる。というか、飯を強請る。くれなきゃ飼育員に罵声を飛ばす困ったやつだ。そして、食い意地が張っていてなんでも食べる。

 

「なに?落ちている変なもの食べたら気分が悪くなった?だから、おまえは拾い食いするなといつもいつも……もういい、少し手荒だが僕が取ってやる」

 

僕の日常ってやつは毎日こんなのだった。

 

 

 

 

 

 

「ただいま」

 

バイトが終わって家に着いたのは夜の十時。ただいまと言っても誰が出迎えてくれるわけでもない。この家に住んでいるのは僕を含めてたった二人で、唯一の家族は自分の部屋に引き篭もっている。

 

「姉さん、ただいま」

 

度々、姉の部屋の前に行って自分の帰宅を知らせる。玄関で帰宅を知らせたのは、家の中にいるのが僕だと教えるためだ。姉は怖がりでもうここ二年ほどは他の人間と話せていないし、会ってもいない。唯一、顔を合わせられるのは僕くらいのもので、他の親戚でさえダメだったくらいだ。

部屋の前で声を掛けると数秒ほどで扉が開いた。僅か十センチほど開けられた扉から、姉は片目を覗かせて僕の姿を確認するや安心したような表情をする。

 

「……お帰り」

 

姉が部屋から出るのは、トイレ、風呂くらいのものだ。それから僕が帰ってくると必ず抱き着いてくる。そのために部屋を跨ぎ、廊下に出るくらいのことはできる。一応、これでも姉の世界が部屋から家に変わったのだ。僕はそれで満足だった。

 

「……名前」

「わかってるよ。渚」

 

潮留渚。僕の血の繋がらない姉だ。そして、たった一人の家族でもある。数年前、両親が再婚しお互い連れ子だった僕達は姉弟になった。家族四人で暮らしていたが両親は姉が高校生の時に他界してしまった。それから高校に通いながらバイトをして僕を育ててくれた、一生頭の上がらない敬愛する姉だ。

綺麗な亜麻色の髪に優しい琥珀の瞳で最初の印象が美人だということは僕でもわかった。内面も優しかったし文句の付け所のない良い人だった。それが今や綺麗だった髪は少し伸び放題で手入れはされていない。決してズボラだったわけではない。両親がいた頃はお洒落をしていたし誇れる自慢の姉だった。

 

けど、部屋から出て来た姉は何故かワイシャツ一枚の半裸の状態だった。

 

「渚、また服を脱ぎ散らかしてるな。服を着ろってあれほど言ってるだろ」

「…お姉ちゃん、服なんて要らないから」

 

家に引きこもっていることを自覚している渚は度々そう言って服を脱ぎ捨てる。新しく姉の服を買おうとすれば服はいらないと言って脱ぎ捨てる。まだ中学生の弟を働きに行かせているのは自分だという自己嫌悪から、できるだけ節制しようとした結果が今の渚だった。こうなってしまった姉でも一応、羞恥心はあるのか頰を赤らめている。

 

「ご飯は食べたのか?」

「……まだ」

「お風呂は?」

「……まだ」

 

今朝の時点で姉の三食分のご飯は用意しているのだが、どうしても夕食だけは僕が帰ってくるまで食べてくれない。一日のうち、姉と一緒に過ごせるのはバイトと学校に行っている時間を除いた三分の一程度しかない。寝る時間を合わせれば、顔を合わせている時間なんて一時間もないだろう。それが嫌で渚は食事もお風呂も就寝も共にしようとする。

 

「……お風呂にする?ご飯にする?それともお姉ちゃん?」

「じゃあ、一緒にご飯で」

 

一度は誰もが夢見た掛け合いもただご飯と答えれば渚は寂しそうにする。「一緒に」という言葉が必要だった。これでもトイレまで付いて来かねないところを自重させたのだ。それ以外の時間は常に一緒にあると言ってもいい。因みに、風呂もベッドも勝手に侵入してくるのでその点は諦めている。

 

 

 

 

 

翌日の朝、僕は朝早い時間に家を出る。着替えていると同じベッドで寝ていた渚が起きた。実を言えば、生活のために要らない家具は売り払っていてベッドは一つしかない。いつのまにか姉が勝手に売却していた。

 

「…もう出るの?」

「うん。ご飯はいつも通り置いておいたから」

「…行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 

そうして、僕の一日は始まる。



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ピエロは泣いた。

今日投稿した気がするんだけどな。まぁいっか。


 

 

 

海から四人が来て数日が経過した。

 

「あ、潮留君おはよう」

「詠君だー。今日も眠そうだね」

「よお、潮留」

「ふぁぁ〜ぁ、おはよう」

 

教室に入るとクラスメイト達が挨拶をしてくる。僕は普段、会話をしないタイプだがこうして話し掛けてくれるクラスメイトは多数いる。その大半は休日に会うことなんてない、本当にただのクラスメイトで友達とは言い難い。友達認定している紡ですら休日どころか放課後話をしたりするわけでもないので微妙な話だが。

欠伸をしながら自分の席に着いた僕は鞄を机の横に引っ掛けて机に頭から沈み込んだ。そんな僕に声を掛けてくれるのが、僕の後ろの席にいる海の少女だ。

 

「おはよう。詠」

「比良平チサキか。おはよう」

「えっと、もう少し名前短く呼んでいいんだよ?」

「なら、チサキと呼ぶがいいか?長い」

「うん。いいよ」

 

長く呼んでいたのは僕だが棚に上げて文句を言う。苗字だと五文字だ。口を開いている間に寝てしまう。名前で呼ぶ了承を取ったのも、本当は別の理由だ。何故か僕は伊佐木要と先島光に睨まれていた。まさか僕が海出身の人間だとバレたわけではないだろう。光はともかく、要ならありえそうだが、チサキには何の変化もないので微妙な線だ。

 

「毎日眠そうだね。ちゃんと寝てる?」

「あいにく眠る時間がなくてな」

 

僕が眠そうにしているのを見てクスクスと微笑むチサキ。

 

「ちゃんと寝ないとダメだよ」

「人類は一日を二十四時間ではなく四十八時間にするべきだったな」

「それはそれで大変そうだね」

「……勉強の時間が増えそうだな」

 

自分で言っておいてないなと却下した。睡眠時間が増えればいいなと思って言ったが、同時に他の無駄な時間まで増えている。あと人間は二十四時間起きてると眠くなる。無茶無謀な話だった。

 

「そういえば聞いた話なんだけど……」

 

馬鹿な話をやめて、チサキが心配そうに顔を覗き込んできた。

 

「働きながら学校に来てるって本当?」

「誰から聞いたんだ、そんな話」

「木原君から」

 

あいつめ……。余計な話をしやがって。まさか海の話も喋ったのではないかと内心冷や汗ものだった。今も落ち着かず心臓が早鐘を打っている。いや、海の話はいい。僕が海の人間だとバレるのは想定の内だ。問題は、彼女達と面識がある……幼馴染であるということがバレるのを僕は恐れている。

何故だか僕はそれが怖かった。忘れられていることに関しては別に何も思うところはなかったのに。悪戯をして叱られるのを怖がる子供みたいだ。

 

「すごいなぁ、詠は」

「そうか?」

「私じゃそんなこと考えられないもん」

「僕も数年前まではそうだった」

 

凄いとか何かを言う前にやらなければいけなかった。突然、働くのをやめて家に引きこもった姉の代わりに金を稼ぐのは大変だったが。それのお陰で姉の苦労を知れたというものだ。

僕に考えている暇はなかった。雇ってもらえたのも奇跡だ。そうとしか言いようがない。

 

「……ごめんね」

 

物思いに耽っているとチサキが突然謝罪を述べる。

僕は顔を上げて、どうしたのかと首を傾げた。

 

「光が突っかかったりして。要も本当は突っかかったりするような性格じゃないんだけど。詠を私達の幼馴染と姿を重ねてるみたいで」

 

昔、光は僕と喧嘩ばかりする仲だった。だから仲が良いとは言えなかったが、毎回喧嘩するほど仲が良いと光の姉に場を収められていたのだが、昔語りをするチサキはなんだか楽しそうだった。

しかし昔の要は人に喧嘩を売ったりする性格じゃなかったのだが、今の僕に喧嘩を売っているような挑発的な態度は珍しいとのこと。喧嘩を売る心当たりは昔はあったのだが、今は状況が違う。もし昔の通りなら、要は僕の存在に気づいていることになる。だがそれだと、他の面子が僕のことを思い出さないのも不可解だった。いや、もしそうだとしたらと彼は話さないことを判断したのだろう。別に思い出して欲しいわけでもないので僕はそれで良いのだが。

 

でも、全く覚えていないというのも寂しいので僕はあからさまに話題を誘導することにした。

 

「……幼馴染か。お前達だけじゃないのか?」

「あ、うん、昔もう一人いてね–––」

 

それからチサキの昔語りが加速する。

僕は聞いている端から恥ずかしくて机に突っ伏した。

話題の殆どが『海滝詠』という少年の話なのだ。

聞いたのは僕だが、顔から火が吹き出そうで後悔した。

 

 

 

 

 

 

「はーい。じゃあ、ペアを作ってストレッチをしようか」

 

四限目は男女混合で体育の授業。本来なら木陰か保健室で昼寝をしているのだが、今日は無性に体を動かしたくなって授業に参加していた。珍しい物を見たと言わんばかりにクラスメイト達が僕を見る。僕は紡とペアを組もうと彼の元へ向かおうとしたのだが、僕の前に伊佐木要が立ち塞がった。

 

「おーい、何してんだ要」

「ごめん光、ボクは潮留君と組むことにしたから」

 

そう言って微笑を浮かべる要だがそんな約束をした覚えはない。それどころか同じ学校に通っていて話したのも今日が初めてだ。

 

「俺は誰と組めば良いんだよ」

「木原君と組めば?」

 

要がそう言うとメラメラと闘志を燃やすようにギラギラとした目を紡に向ける光。どうやらあっちの方も何やら確執があるようだ。僕は名指しされたことで呆然とする紡とアイコンタクトを交わす。『お互いに大変だな』と。

 

「潮留君、いいよね?」

「あぁ、僕は構わないけど」

 

別にストレッチの相手は誰でも良かったので了承した。体育で体力を使ってバイトに支障を来すなんていつもならしないのだが、今日は何故かやる気に満ち溢れている。心なしか要の方からもやる気が垣間見えた。嫌な空気だ。

 

ペア同士が離れた場所でストレッチを開始する。

僕はストレッチをしながら、ストレッチをする女子を観察していた。

遠くの方でマナカと組んでストレッチをしているチサキだ。

二人とも発育が良いだけあって、体操服を押し上げている胸に目が行く。

 

絡んで来た要に目もくれずチサキを見ていると不意に要が誰にも聞こえない声で誰何する。

 

「潮留詠。……いや、海滝詠って呼んだ方がいいかな?」

「誰だそれ?」

 

僕はあくまでしらばっくれてみた。カマをかけただけかもしれない。だが、要の目には何処か確信が宿っているように見える。僕は誤魔化すのが無理だと判断した。

 

「いや、詠だ。ボクが恋敵の顔を忘れるとでも思ってるの?」

「恋敵とは大層な呼び方だな。恋敵ってのは三角関係で成立するものだろう」

 

僕は舞台から飛び降りた演者だ。もう僕は、昔のように幼馴染達と接する気はない。ゲームから降りた敗者をまだ敵とするなんて要は何処まで馬鹿なんだろう。

 

僕の背中を押しながら、要は独白する。

 

「ボクも最初は気づかなかったさ。髪は白くなっているし苗字は違うし。だけど、君を注意深く観察しているとエナが見えた。それだけで何の確証にもなりはしないけど、ボクは確信したよ」

「察しがいいやつは嫌われるぞ」

「悪知恵なら君の方が上手だろう。ボクはまだまださ」

 

伊佐木要は悪知恵が働く子供だったわけではない。汐鹿生で悪餓鬼と世間一般的に評価を受けていたのは光と僕だ。順位をつけるのなら悪餓鬼としてのランクは光が上だった。だけど、僕の悪知恵はその上を行く。光が暴れる悪餓鬼で、僕は知略で悪戯をする悪餓鬼だった。少なくとも悪いことなら誰にも負けなかったと思う。

 

まぁ、実際腹黒いのが僕。更に腹黒いのが要だと思ったんだけどな。

 

「で、わざわざ僕に声を掛けるなんて何か用か?」

 

開き直り、要に訊ねる。

上体反らしをしているチサキが目に入った。

 

数分くらい眺めていただろうか。その間、要からは何のアクションもない。

まるで活火山が噴火する前のようだ。沈痛な面持ちで彼は黙り込んでいた。

ようやく、口を開いたのは周りの数組がストレッチを終えたくらいの頃だった。

 

「……なんで、チサキに君だって教えないんだ」

 

顔を伏せたまま要は呟いた。僕でさえギリギリ訊けた声量だ。僕は訊かなかったフリをする。

 

「うん?何か言ったか?」

「なんでチサキに君だって言わないのかって言ったんだ!」

 

このまま胸の内に秘めておいてくれると思ったが、意外にも要は吠えた。思わず、周りでストレッチしていた光と紡がこちらを見るほどである。遠くの方でチサキとマナカも吃驚していた。

普段から感情を表に出さない要が大声を出したのだ。それだけで、海村の奴らは驚愕した。此処数日で定着していたクールキャラに他のクラスメイト達も驚いてはいる。怒鳴られた対象が僕だというのもポイントだろう。

 

「……チサキはずっと待っていたんだ。君が電話を掛けてくれるのを。手紙をくれるのを。毎日毎日、待っていたんだ。何日何週間何ヶ月と来る日も来る日も、何年だって‼︎」

 

ストレッチをする体制を崩して僕と要は向かい合っていた。前髪から覗く要の瞳は憤怒に満ちている。あの要が、これほどまでにキレたのは初めてのことだ。

 

「そう怒るなよ。お前にとっちゃ都合のいい話だろ?」

「……違う」

「僕はもう君達の物語には介入しない、舞台を降りた演者だ。チサキを好きな幼馴染はもうお前だけ。邪魔者のいないその状況に何の不満がある」

「違う、ボクは……!」

「そこまで言うのなら、要がバラせばいい話だろう。僕が海滝詠だって」

「……」

 

それを出来ないのは要の心の弱さだ。僕は知っている。人間が浅はかで利己主義的な生き物だと。自分に不利益なことを進んで出来る人間はそうはいない。

 

「……辛そうだったんだ。君のことを想うチサキが。毎日、手紙や電話を待っている姿は。ボクが好きなのはそんな辛そうな顔で君のことを待ち続けるチサキじゃない!」

 

なおも顔を伏せて独白する要の頰には涙が流れていた。

 

「……おまえ、そんなやつだっけ」

「ボクだって最初は喜んださ。君がいなくなって。だけど、その感情も次第に罪悪感に変わったんだ。君がいなくなってもボクは君に勝てなかった。君の幻影にすら、勝てなかった……」

 

……あぁ、うん、これこそ要だ。

 

 

 

「ちょっと要どうしたの⁉︎」

 

遠くで見ていたチサキとマナカが駆け寄ってくる。何やら二人で様子を窺っているが要は「なんでもない」の一点張り。一番近くにいた紡と光に視線を向けると「聞こえてない」と首を振った。

 

「……要を泣かせるとか何あいつスゲェ」

 

光からは不名誉な称号を頂いた。

 

「詠、これどういうこと?」

「……さぁな。僕も何が何だか」

 

要から暴露するつもりはないようで、僕もしらばっくれておいた。

 




更新速度は脳内にあるネタのストックの数です。


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影を重ねて

 

 

 

最初はあった陸への不安がいつの間にか消えていた。消えた不安はいつか期待に変わっていて私は学校に来るのが凄く楽しみになっていた。相変わらず、光は陸の人が気にくわないみたいだけど。私やマナカはそこそこ陸の人と仲良くできているとは思う。皆よくしてくれるし、エナが乾きそうな時は学校の焼却炉の近くに小さな水浴び場があることを教えてくれた。

問題があるとしたら、やっぱり光のことだろうか。要もマナカも仲良くなろうと頑張ってはいるし、要自身少し関わろうとしないスタンスだけど、嫌がってはいないみたいだった。

 

光の行動に一喜一憂している私にも友達はできた。いつも机で寝ている同級生の男の子。潮留詠君。彼が寝ている姿を見ていると何故だかほっこりする。

 

今日も詠は机で寝ていた。ホームルームの時間にぐっすり寝ている彼を教卓にいる先生は起こそうともしない。授業中も寝ているのに放置することもある。

 

「皆、今年のお船引がどうなったか知っているかな?」

 

その中で上がった議題は毎年行われる『お船引』のことだった。お船引は伝統的な儀式だ。毎年、海と陸で合同で行われる海神に嫁いだ女の話を再現している。

 

「中止じゃねぇのー」

「だよね。割と楽しみだったんだけどなぁ」

「カップルで見ると永遠の愛が約束されるってやつ」

「あ、あるねー。そんな噂」

「特に男子とかお船引で彼女作るんだって張り切ってたよね」

 

そう。今年は中止のはずだった。何やら長年の間に変なジンクスが出来ているけど、それがまゆつば物だったことを私は知っている。所詮は迷信でしかないのだ。

 

「実は、学校でやろうと思ってね。有志を募ろうと思うんだけど……誰かやりたい子いないかな?」

 

そんな頼りなさげな教師の声にすっと手が上がる。詠の横、木原君が手を挙げていた。

 

「おお、一人上がったね」

「わ、私も、やりたいかなぁって…」

 

そこでマナカも手を挙げた。意外で私は少し驚いた。マナカがあんな風に自己主張するなんて初めてのことだ。いつも私達に合わせているマナカが自分からやりたいだなんて言うとは思わなかったのだ。

 

「チッ」

 

光が不機嫌そうに手を挙げた。

 

「私もやります」

 

二人が手を挙げたので私も手を挙げた。

 

「じゃあ、ボクもやろうかな」

 

これで海村全員が揃った。

 

私はチラリと眠る詠を見る。相変わらず、気持ちよさそうに寝ている。その姿を眺めていると木原君が私の視線に気づいたかのようにもう一度手を挙げた。

 

「先生、詠も参加でよろしいでしょうか?」

「…え、や、詠君はどうかな…忙しいと思うけど」

「たまに手伝って貰う形で。こいつ多芸だし木彫り上手いんで」

「うーん。本人がいいんならいいけど」

「じゃあ、決定で」

 

なんか寝ている間に勝手に決められているけど、いいのかな?

私は不安に思って木原君に声を掛けた。

 

「だ、大丈夫なの?勝手に決めて」

「こうでもしないとこいつはやらないからな」

「あ、無理やりなんだ……」

「嫌なら嫌って言うだろう。それに息苦しそうなこいつ見てるとなんかお節介したくなってな」

「あぁ、なんか大変そうだもんね……」

「そういう意味じゃないんだが……まぁいいか」

 

 

 

ホームルームが終わっても一向に目を覚まさない。そういえばいつも木原君が起こすかクラスメイト達が起こしているらしい。先生が起こしてやってと言うのはホームルームが終わってから。いつもの光景なので私も起きるのを待った。そうしていると木原君が私の席に来て言う。

 

「今日から比良平が起こしてやってくれ」

「え、私……?」

「多分、その方がこいつも喜ぶ」

 

と言われたので眠る詠の肩を揺する。

 

「詠、もう放課後だよ。起きて」

「んぅ……もぅそんな時間?」

 

ゆっくりと瞼が開く。その奥から青い宝石のような瞳が私を見た。あどけない表情で詠は顔を上げた。端的に言うと凄く可愛い。長い髪が女の子みたいで何処か中性的な印象を受ける。それに睫毛も少し長くて本当に女の子みたいだった。それに顔もよく見たら中性的な美形って感じで男らしさというより美しさを感じた。

 

「……どうしたんだ?」

「あ、ごめんね」

 

思わず見惚れていたなんて言えない。何処かカッコイイし優しいし誰かに似て理想のタイプなのだ。これは私の初恋が原因なのかもしれないけど。

 

「実はさっきのホームルームで学校で有志を募ることになったんだけど……」

「僕はいい。多分、殆ど参加できないから」

「……その、実は木原君が勝手に推薦して詠はもう引くに引けない状況というか……」

「なら、仕方ないな。出来るだけ時間は空けよう」

 

木原君の言った通りだった。渋々ながらも詠は引き受けてくれた。

 

「今日は四時半までしかいられないが、何をするんだ?」

「まず材料集めかな……オジョシサマを作る」

「他には誰が参加しているんだ?」

「海村の全員と木原君と詠だけだよ」

「そうか。ま、喧嘩にはならなそうだな。……ちょっと不安材料があるが」

 

私と詠は苦笑した。

思うところは同じなんだろう。

 

 

 

 

 

 

放課後、特に何事もなく作業を終えた。詠は時間になるなり校舎を出て呼び止める間も無く去って行った。他にもいろんなことを話したかったけど仕方ない、詠だって忙しい中、私達に付き合ってくれたのだ。

下校中の帰路、私達は堤防沿いの道を歩いていた。四人揃って昔から変わらない。変わったことがあるとすれば、内陸の方へ引っ越して行った彼のこと。

海滝詠、彼も同じ空の下を歩いているのかなと思うと少しだけ嬉しくなった。

 

「あれ、あの人……」

 

そんな時、マナカが何かに気づいた。

堤防沿いの道の先に釣り場となる場所がある。

そこに車が一台走っているのだ。

そして、先の方で止まった車から出てきたのは……。

 

「あ、アカリさんだ」

 

光の姉である先島アカリ、その人だ。助手席から出てきたということは運転手があるはずである。運転手は見慣れない男性だった。遠目に男性としかわからないけど、顔は少しだけ窺えた。

 

「誰かな?」

「きっと彼氏さんじゃないかな」

 

私はなんとなくそう言ってみる。その瞬間だった。

 

「わぁっ!」

「なっ、はぁ?」

 

アカリさんが車の中にいる男性に顔を近づけたのだ。流石にちゃんと確認出来たわけではないけど、私達はその行動が何をしていたのか想像に難くなかった。思春期だとたまに考えるかもしれない。キスだ。

思わず、顔を真っ赤にして狼狽えるマナカと光。かくいう私も他人事ながら、初めて見る他人の行為に興味もあるわけで少し顔を赤らめながら凝視していた。

 

慌てて堤防から海に落ちそうになりながら走り去って行く車を見送るアカリさん。手をひらひらと振り、車が見えなくなると自分も家に帰るため海に飛び込んだ。

 

その一部始終を見てしまった私達は硬直していた。

 

「やっぱり恋人なのかな……」

 

私はそれがとても羨ましいと思った。誰か好きな人がいて、その想いがあって、幸せそうな表情をしている姿を見ていると私は私の初恋を思い出す。未だに冷めやらない熱を私は心の底から溢れてくるのを感じていた。

 

「あ、ありえねぇだろ、地上の男だぞ!」

 

光は否定するけれど、あれは実際に見た出来事だ。簡単には否定できない。そうでなければ一体相手は何なのだろうか。

 

「ぜっっったいに上手くいかないに決まってる!」

「私はそんなことはないと思うけど……」

「だとしても上手くいかなくなって絶対に帰ってくる。つーかそんな素振り今まで見せたことねぇぞ!」

「どうなるにしても心配だよね」

 

ううん。違う。心配してるんじゃない。私は自分の口から出た言葉の奇妙さに首を傾げていた。そんな私にマナカが首を傾げて、安心させようとこんなことを言う。

 

「大丈夫だよ。アカリさんなら大丈夫だよ、ちーちゃん」

 

無邪気に励まそうとしてくるマナカに私は苦笑い。多分、上手く笑えていないと思う。そんな私の代わりに要が口を開いた。私の懸念を代弁するかのように、

 

「違うんだよ。陸の人と結ばれると海を追放されるんだ。掟で決まってる」

 

そう言った。

 

「はっ、なんだよそれ?物騒すぎるだろ」

「そ、そうだよ、おかしいよ」

 

二人して私と要の話を否定したいのか食いかかってくる。そんなことお構いなしに私は続けた。ただ一人、此処からいなくなった幼馴染の姿を瞳に写して。

 

「昔、詠って男の子がいたでしょ。彼のお父さんが再婚したの陸の人らしいんだ。だから、彼も海に帰ってこれなくなっちゃった。きっと事実だよ」

「詠って……誰だっけ?」

「ひーくんがよく喧嘩してたの覚えてないの?みぃくんだよ」

「因みに光が言い負かされてよく泣いてたよね」

「うっせ!俺は負けてねえ、力で勝てねえからって卑怯なんだよ!」

「覚えてるじゃない」

 

ようやく二人とも思い出したのか、覚えていたのかはわからなくとも私は少し嬉しくなった。彼は未だに私達の中で共にいるんだと。思い出となっているけれど、確かにそこにいたことがわかって本当に嬉しかった。口元が緩む。こんな話をしている最中なのに。

 

「じゃ、じゃあ、みぃくんが帰って来ないのも掟のせいなの?」

「……うん、多分、ね」

 

その時の私はとても辛そうな顔をしていただろうか。他人の感情に感化されやすいマナカの表情が辛そうな表情に変わったのだ。

 

「そんなの絶対におかしいよ!親の再婚で追放されて戻って来れないのも、陸の人と結婚するだけで海を追い出されるのも、帰ることができないのも、村の人達は意地悪だよ!なんでそんなことをするのかわからないよ!」

 

マナカの叫びが海と陸の狭間に響いた。

私だってわからない。どうしてそんな掟があるのか。

私達のそんな想いなんて関係ないというように光が割って入る。

正確にはマナカに対する秘めた想いの暴走だけど。

 

「なぁ、それってお前も地上の男とくっつきたいってことか?」

「え、エッチなこと言うひーくんは嫌いだよ!」

「俺だってエッチなこと言うマナカは嫌いだ!」

「言ってないもん!」

 

それから子供の喧嘩のような罵詈雑言が飛び交う。けれど結局、いつも終わりは光の言葉なのだ。

 

「だいたい陸のやつらなんかと連んで気持ち悪いんだよお前ら!」

 

どちらが勝っても、どちらが負けても、誰かが涙する結果になる。それが誰に向けた言葉でも人一倍傷つきやすいマナカには心を傷つける刃となる。

最後の一言で涙目になったマナカは走り出し何も言わず海に消えた。

 

「光、流石に言いすぎじゃない。陸の人達と仲良くなるのは悪いことじゃないんだし。そんなのだと友達一人もできないよ」

「おまえも毎回大人ぶってうぜぇんだよ。あいつがいなくなってピーピー喚いてたくせに、今度は陸の同じ名前のやつに尻尾振って気持ち悪いんだよ」

「そ、そんなつもりは……」

「よかったなぁ、代用品が見つかって!」

 

私の心にストンと何かが落ちた。私の空虚さを埋めるために演じていた私が剥がれるのを感じる。きっと私は詠という人間に初恋の相手の影を重ねていただけなのかもしれない。

 

「っ」

 

反論することができず、私は海村とは別の方向に走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何処を走ったのかよく覚えていない。気がついたら知らない道を歩いていて、夜になって、私は一人迷子になっていた。

 

「……ここ、どこだろう」

 

お母さん、お父さん、心配してるかなぁ。そう思うものの帰りたくない私がいる。

そういえばお腹も減った。喉もカラカラだ。腫れた目元を擦り私は知らない道を一人歩く。随分、鴛大師から離れた見知らぬ土地に私は不安で胸が一杯だった。

車も通らないし、人もいない、民家が点々とあって、そこから溢れる淡い光と談笑する声が温かく感じた。

まるで揺らめく蝋燭の炎のようだ。篝火もいつもあんな感じだった。どこか安らぐ気持ちを与えてくれるのだ。

数分ほど歩いていると、初めて人が来た。どうやら自転車に乗っているらしくライトがゆらゆら揺れて見え、チェーンが軋む音が聞こえた。思わず立ち止まって見ているとその人は私の隣で急停止した。

 

「おまえ、こんなところで何をしてるんだ?」

 

聞き慣れた声だった。少しライトの光で相手の顔が見えなかったけど、今はわかる。潮留詠が自転車に跨り私を見ていた。

 

「えへへ、道に迷っちゃった……」

「道に迷ったって……ここ、海村から10キロは離れてるぞ」

「え、そ、そんなに?」

「しかもこんな夜遅い時間に女の子が出歩くな。変なやつがいないとも限らないし」

「ごめんね。時間がわからなくて」

「午後九時半ってところか」

 

サァッと私の顔から血の気が引く。きっと両親は心配している。早く連絡しないと。

 

「まぁ此処からなら僕の家が近いから、来るか?今から帰らせるわけにもいかないだろう。泊まっていけよ」

「うん。ごめんね」

「じゃあ、乗れ」

 

自転車の荷台に腰を掛ける。そうして私を乗せた自転車は走り出した。

 

特に何も詠は聞いて来なかった。

会話もなく十分ほどで何処かの一軒家に到着する。

此処が詠の家なのだろう。

明かりが灯っていて、中から声が聞こえていた。

 

「どうしたの詠?」

「あぁ、客が来てるみたいだな」

「えと、帰った方がいい?」

「別に問題はない」

 

一瞬、ドアの前で止まっていた詠はノブを回して入っていく。まず初めに玄関で靴を確認してしまう。誰だってやる癖だ。大人の女性の靴が二つに女の子くらいの靴。それが玄関に揃えて置いてあった。棚にはビシッとしたキャリアウーマンが履くような靴も置いてある。

 

「ただいま」

 

その声に返ってきたのは二人分の「おかえり」。

姉と二人暮らしと聞いていたから、片方が客なのだろうか。

なら、小学生くらいの女の子が客なのだろうか。

靴からして、私は憶測でどんな人がいるのかを想像した。

 

「取り敢えず、チサキの両親に連絡した方がいいよな」

「あ、うん」

 

部屋に入って行く詠の後を追う。靴を揃えてから彼が消えた部屋に向かうと、そこはリビングで小学生くらいの女の子がテレビを見ながら帰って来た詠にじゃれついていて、その姿を見てにこやかに邪魔しちゃダメよ、と注意するお姉さん。そのお姉さんの方が私を見て、少し吃驚した様子でまじまじと見てから近づいてきた。

 

「海村の子だよね。その制服」

「あ、はい……私、潮留君の友達で比良平チサキです」

「私は潮留ミヲリ。私も海村出身なの。で、あの子が美海ね。私の娘」

「え、あれ……詠のお姉さんですよね?」

「あー、ごめんね。お姉さんは二階にいるから。私はどちらかというと叔母さんってことになるかな」

 

その時の私は海村出身の人がいることで僅かな疑問を先送りにしていた。彼がどうして私の家の番号を知っているのか。それを知るのはまだ先のことである。



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もう恋なんてしない

美海の詠の呼び名をどうするか迷った。
呼び捨てする人多いし、そうだあれにしよう。


 

 

 

「それで何で二人がここに?」

 

帰宅すると叔母とその娘、僕からすれば従妹にあたるその子が家でくつろいでいた。その姿をスルーしつつ比良平家に電話でチサキの無事と宿泊の許可を得た後、僕は再び二人と対峙していた。もちろん、チサキの両親が見ず知らずの人間の家に愛娘の宿泊を許可するなんて都合のいい展開はないので、僕の正体をばらし口止めしておいた。そうしたら速攻で許可が降りて太鼓判を押されたのは妙な気分だが、これでチサキの件は一段落ついた。

 

さて、問題はこの二人だ。こんな夜分に連絡もなしに訪ねてくるなんて珍しいことで僕がそう訊ねると何処か不機嫌そうな表情をするミヲリさんに背筋が凍った。

 

「あの、ミヲリさん……?」

 

叔母である潮留ミヲリに訊ねるとやはり不機嫌そうな表情。

僕は何か地雷を無意識に踏み抜いただろうか。

気づいたら、地雷原で祭りをやってることがあるからな。

自分の無自覚に地雷を踏む性格故に警戒していると、ミヲリさんは不貞腐れた表情をとてつもなくいい笑顔に変えてこう言った。

 

「ごめんね詠君。彼女さんとお泊りなら出直そうか?」

「違います。ただのクラスメイトです」

 

おそらくわざとそう言ったのだろう。普段は冗談の一つも言えない人が冗談を言うと身の危険を感じるのは何故だろうか。これは何かあったなと僕は予想する。

 

「そ、そうです、ただのクラスメイトですっ!」

「チサキ。わざわざ冗談に反応しなくていい」

 

赤面してわたわたと手を振って否定するチサキ。そんなに必死に否定されるのもなんだか傷つく。まぁ思春期はそういう噂とか過敏に反応するから仕方ないのかもしれない。

 

「それよりお腹すいたでしょう?二人ともご飯は?」

「まだですけど……」

「わ、私も……」

「そう。じゃあ、待っててすぐ持ってくるから」

 

ミヲリさんが食事の用意をしようとキッチンに消える。それを見送ったところで左隣に座っていた従妹、美海がこそっと耳打ちしてくれる。

 

「ママ機嫌悪いからあんまり変なこと言わない方がいいよ。お兄ちゃん」

「何があったんだ?」

「パパが浮気した」

 

その瞬間、僕の頭が停止した。思考回路がショートして頭が真っ白になるとはまさにこのこと。あまりの内容に耳を疑い美海の瞳を見つめるも嘘ではなく、冗談でもないらしい。僕の右隣にいたせいで話の内容が聞こえたのか、チサキが耳打ちしてくる。

 

「やっぱり私、帰ろうか?」

「いや、むしろいてくれません?」

 

こんなところに一人置いてかれるのも嫌なので、気を遣ったチサキを引き止める。その間にも料理を温め直したミヲリさんが夕食を持って現れた。カレーライスという保存も効く大多数で食べるには王道の料理。いきなりアポなしで現れたから、このメニューにしたんだろう。それが功を制してチサキの分もあるわけだ。

 

「いただきます」

 

二人して居た堪れない空気の中、合掌をしてスプーンを手にした。カレーとライスを掬い口に運ぶ。これでもかとシーフードが入っており、完全な海の幸のカレーとなっている。おそらくそこに陸の要素はない。まるで陸のものは食べたくないと言わんばかりだ。玉ねぎ、人参、じゃがいも、ナス、という野菜の欠片さえ見当たらない。付け合わせに海藻のサラダという徹底ぶり。やはりそこに陸の要素は何一つ存在しなかった。

 

ようやく食べ終えて一息ついたところでお茶が出て来る。ミヲリさんが自分用に持ってきたのは黄金の液体、微かに酒の匂いと甘い香りがするところからおそらく蜂蜜酒だろう。この人がお酒を飲むなんて相当珍しく、娘である美海でさえ萎縮して言葉も発さない。口をグラスにつけてこくこくと飲んでいく。そして、一気に空になった。グラスをもう一度蜂蜜酒で満たしたところでミヲリさんが口を開いた。

 

「夫が不倫したの。……ううん、してたの」

「至さんがですか?」

 

至さんとはミヲリさんの夫である。誠実そうで何処か頼りない印象の男性だが、僕や姉の一応の保護者として両親が死んだ頃からお世話になっている人だ。

そんな人がミヲリさんほど綺麗な妻を持ちながら、不倫なんて何かの間違いではないかと僕は疑った。証拠もなしにそんな話をしに来たのではと僕自身、疑いたくもないミヲリさんを疑わなければならない。いや、やめよう。話を聞くだけにしよう。どうせ僕には何もできることはないのだから。

 

「それで相手は?」

「……アカリ」

「「えっ!?」」

 

驚いたのは僕だけではなかった。そりゃそうだ。アカリとは光の姉であり、チサキ達も面識がある相手、そんな人の名前が不倫相手の名前として出て来たのだ。驚いて当然だろう。いや、同姓同名の可能性もある。今の僕が苗字はともかく同じ名前なのに気づかれていないのと同じように。

 

「サヤマートでバイトしてる?」

「うん」

「光の姉の?」

「うん」

 

これは幻聴だろうか。もしくは夢か。チサキ達と再会してからというものの急速に運命が廻り出しているような気さえする。言うなれば、神様の悪戯が過ぎるだろうに。

 

「こんなこと言いたくはないですけど、証拠とかは?」

「……私見ちゃったかも」

 

ミヲリさんではなく、右隣から目撃証言が上がってしまった。チサキだ。

 

「今日、夕方にアカリさんを送って行った男の人とキスしてるのを見た、んですけど……」

「いや、でも別の人って可能性も……」

 

確認する術は今はない。そう思っていた矢先だった。リビングと繋がるキッチンの陰から、ぽいとアルバムが一つ投げ入れられた。姉が帰宅の報告が中々来なくて、ビクビクしながら階下に降りて来たのだ。それでも他の人と面と向き合うのは無理らしく、柱の影でこちらを覗いているだけだが。

そりゃ他人がいる中で僕がいないとなると渚はパニックになる。それが怖くて確認しに降りて来たのだろう。僕の姿を一目見ると、トタトタと二階に逃げて行った。

 

「それでその人ってこの人?」

 

ミヲリさんがアルバムの一頁から僕と姉、潮留夫妻と美海が写った写真を見せつける。それを見たチサキが間違いなく至さんを指差した。

 

「この人です」

 

誠実そうな顔をして、浮気をした潮留至。いくら恩人といえど僕は立場に困り果てていた。できれば認めたくなかったが、もうここまでくると認めざるを得ない。

 

「……一体いつから?」

「私が原因不明の病で倒れてる頃だって」

「うわぁ」

 

ミヲリさんは昔、病気を患っていた。原因不明の病。いきなり胸が苦しくなったり、肺や心臓に異常が出て死に至る病気だと医者には伝えられ、かなり長い間入院していた時期があった。おそらく、その頃に二人に何かがあったのだろう。頭の中から不倫だの浮気の話は吹っ飛んだらしく、チサキが神妙に訊ねた。

 

「えと、それって今は……」

「あぁ、うん、今は問題ないよ。月に一回検診しないとダメだけど」

「……治っていないんですか?」

「治ったわけじゃないかな。原因もわかって危険な状態は脱しているけど、完治できるような方法があるわけでもないから、今のところ延命しているだけの状態」

 

そう言ってミヲリさんは僕を見た。僕もまた、曖昧に返すミヲリさんに話を合わせる。僕はその詳細を知っているし結末も何もかもを理解している。しかしそれは、至さんの知るところではない。知っているのは僕とミヲリさんの二人だけだった。そんな秘密を赤の他人に話すなど僕達にはできることではない。

 

「それで至さんの浮気って具体的には……」

 

聞きづらいことなので言葉の語尾を濁しながら話題を元に戻した。暗い話に変わりはないが、まだ幾分かマシな話である。

 

詳細を知ろうとする僕によく訊いてくれたと言わんばかりに酒を一口飲んで、ミヲリさんはいい笑顔で告白した。

 

「最初は私が病気で入院してた時、アカリに家事を手伝ってもらっていただけだったらしいんだけど……ある日から肉体関係を持つようになってズルズルとそれが続いてたんだって。子供もできたって」

「……それは僕からは何とも。至さんもアカリさんも隠し事得意なタイプじゃないですからね」

「しかも密告してくれたのは、美海」

「ぶふぉっ!?」

 

思わぬ密告者に僕は隣に座る従妹を見た。

一体何があればこんな幼い少女が……まさか入院期間中の不貞に気づいたわけではあるまいし。

だいたい、その時期はまだ美海は小学生にもなってなかったと思う。いくら堂々と浮気しても、幼い美海にそれがわかるはずもない。

 

それに発覚したのも最近だろう。

話はまだ続いていたらしく、事の経緯を教えてくれた。

 

「美海ってよくサヤマートに行くんだけど、裏で遊んでたら二人が会話したりキスしたりしてるのを見たらしいんだ。それに隣街でホテルに入る姿を見たっていう漁協の人もいるし」

 

思いの外、狭い世界だった。

 

「流石にそれだけで……」

「問い詰めたら、二人とも白状してくれたよ?」

「それでここに来たんですか」

「実家に帰らせていただきます、なんてできないしね」

 

しかも全部ゲロった後ときた。そりゃいい笑顔で僕の帰宅をお出迎えしてくれるわけだ。姉の分は夕食を用意していたものの、自分の分と急遽チサキの分を用意することになってそれをしなくてよかったのは助かったものの、現状の問題は解決していない。

しかしこれは潮留夫妻の問題。僕に介入する余地がなければ、どちらかを擁護することもない。いくら叔父叔母という立場の人間でもぶっつりと二つに分かたれてはどっちの擁護もしづらい。二人には本当にお世話になっているのだ。

 

「それでこれからミヲリさんはどうしたいんですか?」

 

だから問うべきは彼女の意思。

まぁ僕にとってはどちらとも血の繋がりもないのでどう転ぼうが、なるようになれというのが僕の意思だ。

きっと二人が別れても僕は二人と関わることになる。非常に気まずいが。

因みに、姉の方が潮留家の家系の血を引いているのでそちら寄りにはなるだろう。だけどそれで、ミヲリさんが僕と無関係になるような間柄ではない。

 

これにはやはりミヲリさんも不安は掻消せないらしく、グラスに残った蜂蜜酒を飲み干して少し火照った顔をしながら呟くように言った。

 

「……海を出て、結婚する時に決めてたんだ。浮気したら離婚って。ほら、私海に帰れないからさ。それに娘もいるしどちらにしても帰るわけにはいかないんだけど」

 

とても弱々しい姿だった。普段、ミヲリさんが誰にも見せない姿だ。それは病気をしていた時だって滅多に見せたことはない。娘がいる前でなんてなおさらだ。

 

「それって至さんが責任を取ってアカリさんとくっついても、くっつかなくてもですか?」

「……うん。居場所なんて無くなっちゃうんだけどね。でも、居場所がないからってズルズルと引き摺っているのも私にはできないから。それじゃあ私都合がいいだけの女でしょ」

「まぁ、ミヲリさんなら綺麗で美人だし子持ちでも引く手数多でしょうね!結婚したいって人が山ほど現れますよ」

「残念だけど、私はもう当分恋とかはいいかなぁ。この人なら絶対に裏切らないって思ってた人に裏切られたし。私、男の人見る目ないのかもね」

 

そう言って苦笑いする姿を見て、僕は何故か居た堪れない気持ちになった。行くとこのないミヲリさんを放置しておくことはできない。どうしたものかと僕は悩む。けれど、ミヲリさんはまた冗談めかして僕にこう言った。

 

「そういうわけで先立である君のとこしか私には行く宛がなくてね。詠君なら収入もそこそこあるし、二人で働いたら生活もきっと楽になるでしょ。それに詠君は渚ちゃんがいるから結婚とかする気もないだろうし、詠君さえ良ければどうかなぁって」

「あぁ、そういえば、姉さんがああなってから自分のことで手一杯でそんなこと言いましたっけ」

 

実際、 彼女を作る暇もなければこのまま姉の奴隷として一生涯を費やすつもりだった。もちろん比喩ではなく本気である。姉さんが引きこもるために僕はいるのだ。

 

「どう?お買い得だよ」

「契約書にサインしましょう」

 

《契約書》とは《婚姻届》のことである。僕は何処からともなく取り出されたそれにサインをしようとした。しかし、ペンを握った瞬間、両脚から海月に刺されたかのような激痛が奔る。

 

「いったぁぁぁぁぁっっっ!!!!」

 

サインしても提出しなければ問題ないだろうに。というか提出できないし。僕の両隣に座る二人に視線を向けると二人は何故か決まって目を逸らす。冗談だったのに突っ込みが激しくはないだろうか。



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古川唯

都合により(主人公寝過ぎ)チサキ視点と主人公視点を使い分けます。
今回はチサキ視点で。


 

 

 

暗い部屋に月の光が差し込む。そこは海ではなかった。知らない天井、知らない壁、知らない匂い。夜中に目を覚ました私は起き上がり外を見た。空だ。夜の帳が下りる空に丸い月が浮かんでいる。雲が霞みがかって初めて見る空だった。きっと海の中では目にすることはできなかっただろう。

 

よくよく考えたら男子の家に宿泊するなんてとても緊張して眠れなかったけど、いつのまにか眠っていたらしい。

 

喉が渇いた。エナも乾いている気がする。

目を覚ました私は廊下を歩いてキッチンへと向かう。

その道すがら、誰かの声がした。

私は無意識に声のする方へ足を向けた。

会話が聞こえた場所はリビング、私はそっと中を覗いた。

 

「ごめんね、詠君。こんな時間に」

「ふぁ…いえ…気にしなくて…いいですよ」

 

リビングにいたのはパジャマ姿のミヲリさんと眠そうに瞼を擦る詠、二人は灯りもつけていない部屋の中でソファーに隣合って座っていた。

 

何を話しているんだろう。

私の疑問はすぐに吹っ飛ぶことになった。

 

「また、エナ診て欲しくて……」

「?検診は十日前にもやりましたよね」

「その、なんか不安で…嫌なことって続くでしょ?」

 

エナをみる。観察という意味だろうか。検診と言ったようにも訊こえた。だけどそれは、お医者さんの仕事ではないだろうか。意味がよくわからず私は更に二人の会話に神経を研ぎ澄ませた。

 

「…別に海村の人間がいる今じゃなくてもいいのでは?」

「わかってるんだけどね。ダメ、かな……?」

「まぁ、僕が困ることなんてないんですけどね。わかりました」

 

内緒の話みたいだ。けれど、その話が海村の人間にバレるとどうなるのか?私にはまださっぱりわからない。

 

「–––ッ!?」

 

凝視して、耳に神経を研ぎ澄ませている時だった。徐にミヲリさんがパジャマのボタンを外し始めたのは。やがて、下まで全部外すとゆっくりと脱いだ。下着姿になってトップスをソファーに賭ける。すると今度は立ち上がってパジャマのズボンまで下ろし、半裸の下着姿でソファーに座る。

 

詠がミヲリさんの身体を観ている。時には触れたりして擽ったそうにミヲリさんがくぐもった声を漏らした。

 

(じ、実は浮気してたのはアカリさんとミヲリさんの夫じゃなくて詠とミヲリさんってこと!?それとも両方!?)

 

軽く混乱しながら私は目の前の光景に目を離せないでいた。

でも、何故だろうか。詠の視線にいやらしさがない。

それどころか神秘的な雰囲気が感じられる。

まるで、ウロコ様を見ている気分だった。まぁあの人は大概セクハラをするけど。

 

お互いに無言で向かい合うこと数分。

 

「じゃあ、息を吸って」

「…すぅ」

「吐いて」

「…はぁ」

 

ミヲリさんの胸に右手を当てて目を閉じ、呼吸を促した。それを何回か繰り返した後、詠がゆっくりと瞼を開けた。

 

「少し我慢してください」

「んっ」

 

今度は傍に置いてあった桶から水を含んだタオルを押し当て全身を拭く。水の冷たさにピクンと肩が跳ねたミヲリさんは、慣れると気持ち良さそうに身を預けていた。

 

「異常はないです。服を着て大丈夫ですよ」

「下着は外さなくていいの?」

「今回は前回の検診と日数が開いていないし、体調が悪くなったというわけでもないので」

「むぅ。そこは騙して裸にしちゃうところじゃないかな」

「下着姿でも十分目に毒です」

「あの人といいみんな若い子の方がいいのかな」

 

健診が終わり安堵したように二人の空気は和らいでいた。さっきまで緊張していた様子なのにミヲリさんの表情は明るかった。

 

「そういうのは至さんと正式に別れてからにしてください。本当に狼になりますよ」

 

戯けた様子で詠が言う。その間にもミヲリさんは服を着始めていて、パジャマのボタンを留めていた。

 

「……本当に感謝してるんだよ。私のせいで髪までこんなに白くなっちゃって」

 

服装を正したミヲリさんが詠の髪を撫でた。

 

「では、身体で返してもらいましょうか」

「うん。家事は任せて。明日はギリギリまで寝てていいからね」

「ありがとうございます」

「感謝してるのはこっちの方なんだけどね」

 

楽しそうに少し談笑した後、詠が立ち上がってこちらに歩いて来た。私は思わず、膝を立てて覗いていた体勢を崩して背中から壁にぶつかった。扉を開けた詠と目が合った。

 

「あ、えと、話し声が訊こえて……、喉が渇いて、エナも乾いた気がして……」

 

私は何を言ってるんだろう。

焦って取り乱しているのが相手からは丸わかりだ。

詠は眠そうな表情だった。

 

「エナなら風呂場の第二浴槽に塩水が入っているからそれに浸かれ」

 

潮留家には浴槽が二つある。一つは普通に二、三人が一緒に入れるほどの大きなお風呂。もう一つは一人用の何故あるかわからない浴槽だ。私はそれをミヲリさんが使うのだと思った。そして、それは正しいのだろう。私もエナが乾いたり不安なら使えと教わった。

 

詠は私が覗いていたことに気づいた様子もなく、二階へと戻って行った。

 

 

 

 

 

 

翌日、起きたらミヲリさんがキッチンに立っていた。まだ美海ちゃんと詠の姉、渚さんは起きていないようだ。それに詠君も実はお寝坊さんだっりするのだろうか。いつも教室で寝てるし。

 

「おはようございます、ミヲリさん。何か手伝いましょうか?」

「いいよ座ってて。……あ、やっぱり美海だけ起こして来てくれないかな?」

「えと、詠と渚さんは……?」

「詠君は水族館にもう行ったよ。渚ちゃんは人前に滅多に出てこないから」

「えっ、そうなんですか!?」

「あっ、渚ちゃんのことは気にしないでいいよ。私でも面と向かって話してくれるどころか顔を合わせてくれもしないから。そうだ、学校は詠君が一度、家に帰ってくるまで待っててね。迎えに来るって」

 

もう詠は家を出てしまったようだ。一人だけ寝ていて申し訳なくなってくる。それに私が起きたのは午前六時、既に詠は家から出て水族館へと向かったようだ。

私はミヲリさんに頼まれたまま美海ちゃんを起こしに行った。起こすとまだ眠そうに瞼を擦っていたが布団から出てくれ、顔を洗って戻って来た頃には、朝食が並んでいた。

 

「さ、食べよっか」

 

ミヲリさんの作った朝御飯は海で食べるご飯と何も変わらなかった。

 

 

 

7:30

詠が帰って来た。

自転車の後部に乗せられて二人乗り。

朝の道路を潮風を感じながら走った。

いつもは海から陸へ出る。

それなのに変な気分だ。

潮風が気持ち良く、風を切る感覚が心地いい。

彼の背中に抱き着きながら、私はひたすらそれを感じていた。

 

「朝、早いんだね」

「もう慣れた」

 

何を話していいかわからずそんなことを言った。

くだらない会話、当たり前の返答、私が聞いたのはそう言うことじゃない。

私個人の感想によるものだ。

 

「ねぇ、大変じゃない?」

「大変だな。でも、僕はこれでいいと思ってる」

 

諦めとは似つかない、達観した答え。

懐かしむ表情をしていたように思う。

 

「渚は両親が死んでから僕を育てるために頑張ってくれた。血の繋がらない赤の他人だってのにさ。本当なら、自分一人で生きる為に僕を見捨てるなりすればよかったのに。ただ家族だって理由で僕を受け容れたんだ。今ではあんな感じだけど、僕が敬愛するただ一人の姉だ。それは変わらないさ」

 

だから大変じゃないと言う。

他の人は言ったそうだ。

彼の姉を「役立たず」だと「引き篭もり」だと「弟さんが可哀想」だと。

散々、罵倒された。だけど、彼は言う。

この世界で最愛の人で、守りたい存在だと。

 

「渚が変な男に拐かされるくらいなら、僕が養うさ。あんな綺麗で可愛い姉を手放したくない。尽くして死ねるなら本望だ」

 

とても真面目くさった顔で詠は言った。

 

「好きなんだね、お姉さんのこと」

「一目惚れもした。僕の自慢の姉だ」

 

恥ずかしげもなく詠は宣言する。光ならきっと「はぁ、ちげぇし!」とか顔を赤くして否定しただろう。光も詠もシスコンだ。

 

「お、お姉さん相手に……?」

「最初に会った時はなんて綺麗な人なんだろうって思ったさ」

「そんなに綺麗なの?」

 

私は直接顔を合わせたわけではない。でも、確か写真に特別綺麗な人が写っていた気もする。きっとその人なのだろう。

 

「最初はお互いに余所余所しくて話すらまともにできなかった。だけど、同じ家に住み始めてぶっ倒れた時に岩塩一袋をぶっかけられて浴槽に沈められたな。文字通り」

「す、凄いことするんだね……」

「打ち解けたのはそれが切っ掛けだよ。涙目で渚がワンワン騒ぐものだから、それがおかしくって……つい二人で笑ってた」

 

岩塩、水攻め、普通の子供にする所業じゃないと思う。

 

「まぁ、オチは岩塩一袋無駄にしたせいで渚も僕も怒られたわけだが。でも、そのあと、岩塩買いにおつかいをするついでにアイスを買う代金もくれて、二人で仲良く手を繋ぎながら買いに行った」

 

その光景を想像すると微笑ましくて、私も笑った。

 

それから暫くして学校を通り過ぎる。

私は彼の行動に疑問を覚えて、彼の腰に回した腕の力を強くした。

 

「ねぇ、学校通り過ぎたよ?」

「着替えたいだろ。……こう言うのもあれだが、渚やミヲリさんの下着じゃサイズが合わないし」

「そ、それもそうだねっ」

 

彼が気を遣ってくれたのに私は詠に態々言わせてしまう始末、二人して顔を赤くして逸らした。

 

「学校には遅れるって伝えてある。早く行ってこい」

「う、うん」

 

私は胸を隠すようにしながら、海に飛び込んだ。

 

 

 

着替えを済ませた私は待っていた詠と再び学校を目指した。

教室に着いたのは二限目が始まってすぐ、二人揃って教室の扉を開けると先生は何事もなく言うのだ。

 

「あ、来たね、二人とも」

「遅れてすみません」

「いいよ、事情は聞いてるから。さ、席に座って」

 

視線が突き刺さる。

陸の子達のにやにや笑い。

海の子達の怪訝な表情。

マナカは席を挟んでこっそり耳打ち。

 

「大丈夫?ちーちゃん」

「うん。大丈夫だよ」

 

心配そうなマナカ、きっと私が帰って来てないという連絡は海中にあったのだろう。その原因の一端である光には睨まれる筋合いなんてないのだけど。光の機嫌は完全に損なわれて、矛先はどうやら詠に向けられているようだ。後ろの席の私ではなく目の前の席にいる彼に向けられているのだから。

 

彼は授業に半分意識を向けている。

ただ、次第にコックリコックリと船を漕ぎ始めた。

いろんな出来事が重なって、眠いのかもしれない。

特に昨日は遅くまで起きていたし、それはそうだ。

 

 

 

そして、事は起こった。

 

 

 

「そんならあいつと二人で組んでりゃいいだろ!」

 

教室に怒号が響き渡ったのはグループ学習の時間。寝ている詠をグループに入れてあげようと光に提案したら、昨日と同じようにキレられて怒鳴られてしまった。

私はただ、彼をグループに入れてあげようとしただけなのに、どうしてか光は詠を敵対視している。それも今日の一件や色々が重なったことが原因だろう。あとは彼が寝ていることか。

 

「その、詠だって色々とあるんだし……」

 

夜の睡眠時間は三時間もなかったように思う。それが大変そうで少しは彼を助けようと思ったら、光の琴線に触れてしまったようだ。

 

「陸のやつらなんてクソばっかじゃねぇか!何が色々とあるんだよ!センコーもあいつが寝てても贔屓しやがるし何が教師だ!陸と海の子で差別しやがって!」

 

最初に差別的発言したのは光だったように思うけど……。

確かに詠に対して先生は甘い。授業中、寝てるのを起こそうとして、起きなければ放置するし。

光が居眠りした場合、すぐに起こす。だけど、光は一度の注意で起きるから二度目はなかった。

それだけ。ある意味で勘違いだ。

先生は光も詠も平等に起こそうとした。

それだけなのだ。

確かに先生が贔屓をしているように感じるけど。

 

「おいおい、誰が差別したって?」

「それは聞き捨てならねぇなあ」

 

光の文句に反応したのは、よく光と啀み合っている狭山君と江川君。光が此処に来てから喧嘩する筆頭候補だった。

 

「うるせぇ豚!」

「やんのか魚!テメェ捌いてちくわにしてやんよ」

 

光が売った喧嘩を狭山君が買う。

 

「だいたい俺らがいつ差別したんだよ」

「んなもん、最初からだろうが!」

「あっれれ〜?おっかしいぞぉ〜?最初に喧嘩売って来たのは何処の誰だったかなぁ〜?」

 

右手を腰に当てて、左手を耳に当て欹てるポーズ。完全に光を煽っていた。

 

「俺は悪くねぇ!」

 

実際、喧嘩を売ったのは誰だったか。最初から最後まで喧嘩腰だったのは光だけだ。私達も必要以上に関わろうとしていないけれど、気さくに話しかけてくれる人とはもちろん会話している。というか、むしろ光の行動が嫌でみんな避けているだけで、売り言葉に買い言葉だっただけなような気も。

そういえば、此処に海の人間に対して否定的なのは光に喧嘩を売られた二人くらいだった。いや、それともう一人いたっけ。女子にだけど。その子は光にすら言い返すから、名前もよく覚えている。

 

「滑稽だね。君がギャアギャア騒いでるだけじゃないか」

 

そう。この女子生徒だ。

烏の濡れ羽色と呼ぶのに相応わしい、艶やかでしっとりした黒髪。すらりとしつつ出るところはきっちりと出たモデル顔負けのスタイル。だけど、何処か異国を思わせる顔立ち。

悠然と立つ姿は神秘性すら滲み出ている。

名前は“古川唯”。よく私やマナカに話しかけてくれた子だ。

 

しかし、彼女が光に喰ってかかるなんて初めてのことで、大人しそうな感じでいつも本を読んだり詠の寝顔に悪戯をしている姿しか見たことがない。

 

「なっ、滑稽って何がだよ!」

「そのままの意味だよ。先生も生徒も海と陸で差別なんてしたことなんてないよ。昔はともかく、ね」

「海と陸でしてるだろ!」

「それは君が詠を陸と見て、自分を海に置き換えてるだけだろう。いや本当それって滑稽だ。喜劇としては十分かな」

 

大仰に手を広げてみせる古川さん。

クスクスと笑う。それが光の神経を逆撫でする。

光が何かを言う前に、光が誰かに殴りかかる前に。

古川さんは光に悪意の宿った言葉のナイフを突きつけた。

 

「いやね、本当に滑稽だよね。陸だの海だの言って差別している張本人が同じ海の人間を差別するんだから。人間ってどうして面白い」

「「「……え?」」」

 

三人分の疑問符。

笑みを消して、古川さんは光を睨んだ。

 

「そもそも私達は海の人間を差別なんてしてないんだよ。私達は何度か海の人間と衝突したし、特に狭山と江川なんてイジメまで始めちゃうくらいだからね。返り討ちにされたけど。これでも二人は丸くなった方だよ」

「あのですね古川さん、その話は……」

「若気の至りでして……」

「詠が赦しても私は赦す気はないのだけど」

「「すんませんでした」」

 

照れ臭いのか、はたまた別の理由か、気まずげに目を逸らす二人。いつも柔和な表情をしている古川さんの表情が絶対零度のそれだ。海さえも凍りそうなほど冷たい視線を二人に向けている。やがて飽きたのか、光へと視線を戻した。

 

「うん。この際だ。はっきり言おう。先島光、私は君が嫌いだ」

 

とても一方的な通告だった。

 

「彼の築いた信頼を土足で踏み荒らす横暴な態度が嫌いだ。彼の努力を貶されているみたいで本当に腹が立つよ」

 

その瞳には激しい怒りが灯っている。

彼女の憤怒は、ただ一心に光へと向けられていた。



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主人公が例により不在のため、チサキ視点。


 

 

 

「あーくそ、むしゃくしゃする!」

 

その日、光の機嫌は度重なる出来事により過去最高に悪かった。

 

汐鹿生にある海の学校の扉を力任せに開け放ち、ズンズンと進み机の一つに腰掛ける。ぬくみ雪が教室まで溜まったそこに私達は廃墟であることを痛感していた。僅か数ヶ月前まではこの学校に通っていたのに、懐かしいというより哀しい印象を抱いてしまうような在り方だった。壁に貼ってある最期の生徒である私達の入学時の写真も何処か色褪せているようだ。

 

取り敢えず話を戻すけど、光の不機嫌が最高潮なのは学校での出来事だけが理由ではない。海村に帰るとアカリさんが何やら村の大人達に険しい顔で連行されていたことだ。

 

その報せを受けた私達は鱗様のいる社へと向かった。

そこでは、アカリさんが中で鱗様と宮司様に言い含められている姿があった。

光曰く、中の話し声が小さ過ぎて聞こえず、私達は余儀なく退散することを選んだ。

そうしたのは光が鱗様のところに殴り込まないためだ。

今の光は本当に不機嫌過ぎて何をするかわからないのだ。

 

「なんなんだよ、大人達だけ訳知り顔しやがって」

 

結局、私達は事態がどういうことか把握できず、今後の相談をするために廃墟で顔を突き合わせていた。

 

「……いつもは優しいのに、なんだかおじさん達怖かったね」

「ほんっとなんなんだよ。あんな血相変えてよ」

 

マナカが不安そうに呟いて、光が同意する。そして、その不安を言葉にしてマナカが言う。

 

「アカリさん追放されちゃうのかな」

 

私達にはわからないことだらけだった。掟のことも、村のことも、何一つわかっていない。それは海滝詠という少年が私達の元を離れた頃からだ。私は何も知らない。

 

「だとしたらそれは男のせいだ!あいつのせいに決まってる!絶対にぶん殴ってやる!」

「で、でも……いい人かもしれないよ」

「その場合は軽くぶん殴る」

「あはは……っ」

 

憤る光に宥めるマナカ。私は何も言えない。その相手の人が浮気でアカリさんに手を出したとか。妻がいるとか。私はこの場で不用意な発言をしないよう必死に頭を巡らせる。

 

「で、でも、さすがに暴力は、ね?」

「うっせ。此処からは男の作戦会議だ。女は引っ込んでろ」

「はいはい。行こ、マナカ」

「う、うん……」

 

おろおろと他人の心配をしているマナカを連れて私は懐かしい教室を出た。

 

 

 

部屋を幾つか通り過ぎて私とマナカは音楽室に足を運んだ。何処の教室もぬくみ雪だらけで大差がない。なんとなくだけど、音楽室に入って私は窓の外を見る。マナカは木琴を叩いていた。

 

もし、海滝詠が海にいたなら……。

私達は今、どうしていたのだろうか。

彼と一緒に変わらずの関係でいただろうか。

私の初恋は実っていただろうか。

でも、どちらにしろ私は告白なんてできなかっただろう。

私は臆病だから。

 

それに彼が連絡をくれない理由。

掟とか、彼の事情とか、何かあるのだろうか。

今までどうして……?と考えていたけど。

それが明確に、形を持って、私には理解できる気がする。

考えても正解には辿り着かない。今は置いておこう。

 

それと他にも気になることができた。

 

「……ねぇ、古川さんが言ってたよね」

「ふぇ?」

 

突然、話題が変わってマナカが素っ頓狂な声を上げた。

私は構わず思い出していた。

古川さんが言ったこと。

私達に向けられた、彼女の軽蔑するような視線を。

 

『潮留詠、彼は元海の人間だよ。君達と同じね』

 

それだけ伝えると話は終わりというように彼女は詠を起こした。それからグループに誘って二人は仲良さげに会話をしていた。学校が終わるとバイトと言って教室を出て行ったため、本当に海の人間だったのか聞きそびれてしまった。私達の中に残ったのは一つの釈然としない疑問だった。

 

「……本当に詠は海の人間なのかな」

「うーん。少なくとも、エナを見たことはないよね」

 

そうだ。一度たりとも私達はエナを見ていない。どういうわけか詠の身体にエナを見たことは一度もないのだ。

 

「……でも、きっと、私の会いたいヨミとは違うんだろうな。髪の色もそうだし。姓もそうだし。本人は私のこと知らないみたいだし」

 

本当にそうだろうか。

髪の色も、姓も、変えられないことはない。

もし彼が海の人間なら、その可能性は十分にある。

でも、彼は初対面だと、そう断定した。

初めて会った時、今もそう、私に気づきもしない。

忘れているのか、別人なのか、前者だとしてそれは私には少しきつい現実だ。

 

ポクポクと木琴が鳴る。

その音が不意に止まった。

パタパタと駆けた音が訊こえたかと思うとマナカがウミウシを捕まえていた。

持ち上げて、こちらに見せてくる。それもお腹を。

 

「赤いウミウシ!」

 

お腹が赤いウミウシだった。確かウミウシには色々と言い伝えられていることがあって、海の女性は誰でも知っているおまじないがあるのだ。

 

「確か、誰にも言えない想いが永遠に続くものなら綺麗なガラス玉を吐いて、それが長く続かないものなら黒いの吐くんだよね」

「それに他にも嘘発見とかあったっけ。嘘吐いたら、黒い玉を吐くって」

「……もし誰か逢いたい人がいるのなら、逢わせてくれるって話もあるよね」

 

そう。私も昔、ヨミに会いたくてウミウシを探した。でも、やっとの思いで見つけたウミウシは私の願いを聞いてくれなかった。それが凄く悲しかったことを覚えている。

 

「ねぇ、マナカは木原君のこと好き?」

「ふぇっ!?」

 

恋話なんてマナカの口から出てくるとは思わず、私はそんなことを聞いてしまった。最近のマナカは木原君の影響を多大に受けているからか変な行動をとる。それが少し羨ましかった。

 

「ち、ちーちゃんこそ、潮留君のこと気になってるんじゃないの」

「それは……」

 

気になっていない、と言ったら嘘だ。

 

「「……その、友達としてね?」」

 

ポロン、とウミウシが何かを吐いた。黒い玉だ。

 

「「……」」

 

どちらの声に反応したのか。私とマナカはお互いに無言で見つめあった。そして、さっきの話をなかったことにして話を進めることにした。

 

「やめよう。この話は」

「う、うん、そうだね」

 

なんだか気まずいなって話題を変えようとする。

でも、ポツリと吐露するようにマナカが言う。

 

「……もし、さ。陸の人と付き合いたいって思って、キス……って私エッチだよね」

 

顔を真っ赤にしてマナカが振り向く。

そんなことないから、と私は続きを促した。

 

「それで、いつかは結婚したいと思って……子供も欲しくなって……そう思うことって悪いことなのかな」

「うーん。そんなことないと思うけど」

「……それにもう一つ気になるんだけど」

「他に?」

「追放された海の人との結婚はいいのかなって」

 

私も気づかなかったことだ。海を追放された人間と陸の人間、陸の人間がダメなら、元海の人間なら、そんな疑問を私は今まで抱いたことはなかった。当たり前という枠を知らないマナカだから、気づいたことなのかもしれない。私は少し、掟というものをそんなものだと受け止め始めているから、私にはマナカと同じ考えには至らなかったのだと思う。

 

「ひーくんも、ちーちゃんも、要も、アカリさんも、みんな好き。もちろん、優しくしてくれるクラスメイトも……どうして海の人達は陸の人と仲良くできないんだろう」

「少なくとも、古川さんって差別しない人なんだよね。割と話しかけてくるし。海の話とかしたがるし。やっぱり詠が海の人間だったっていうのが関係しているのかな」

 

その時だ。ガラッと音楽室の扉が開いた。

 

「帰るよ。チサキ、マナカ」

 

要と光の作戦会議とやらは終わったようだった。

 

 

 

 

 

 

翌日、作戦決行日。鴛大師の漁協事務所の建物の横の小さな山に私達はいた。なんでも光の話だと漁協の車に乗っていたらしく、こうして待ち伏せているわけだ。あとはあの人が出てくるのを待つだけ。そして、出て来たところを取っ捕まえる作戦らしい。果たして、それを作戦というのかは微妙なところだけど。

 

「ねぇ、本当にやるの?」

 

穏便に済ませてほしい私は光にそう聞いた。あくまで私達は光に付き合っているだけで、暴走したら止める立場にある。だけど、一発くらいなら殴ってもいいのではないか、と思う私もいる。事情が複雑なだけに私達が関与するような事でもないと思うけど。

 

「決まって–––って、あいつだ!」

 

光は漁協から目を逸らさなかった。そんな時、漁協から一台の車が出て行く。運転席には詠の家で見た写真の人物が乗っていて、何処かへと向かい軽トラックを走らせた。

 

「待ちやがれ!」

 

駆け出した光を私達が追い駆ける。漁協の前で一度停止して、光は悪態を吐いた。

 

「くそっ、逃げやがって!」

「えっと、会う約束はしたの……?」

「んなもんしてねぇに決まってんだろ。どこの誰かもしらねぇし!」

 

潮留さん家の潮留至さんです。とは、言えなかった。

 

光がキョロキョロと辺りを見回す。そして、漁協にあった自転車を見つけるとパクッ–––借りて来て車を追いかけ始めた。

 

「追いかけないと!」

「ちょっ、光!」

「ひーくん!」

 

置いてけぼりの私達はそれはもう必至に走った。海沿いの堤防を延々と。何処までも続くと思ったその道を。ただひたすら光が見えなくなっても走った。

無我夢中で追い駆けること一時間ほど、息も絶え絶えで虫の息の私達はまったく知らない場所に辿り着く。幸いにも海沿いをずっと走っただけだから帰り道に迷うことはないだろう。ほっとしたのも束の間、既に光は潮留至さんらしき人を押し倒している。それも誰とも知らぬ人の家の前で。

 

「なんとか言えってんだよ!」

「ぼ、僕は……」

 

見知らぬ人に押し倒されて動揺する男性。

なんだか気の弱そうな人、というのが第一印象。

ようやく二人のいる場所まで辿り着いたけど、結局、私は何をしに来たんだろうか。

この人については知っている。誰々の噂って程度だけど……。

でも、一応、止めるべきだろう。詠の話を……というか、流れで聞いてしまったけど、私達の関わっていい範囲というのは決まっている。最終的にどうするかは当人達次第なのだ。

 

「光、一旦落ち着いて!」

「ひーくんダメだよ!」

「ちょっとストップ」

 

走った後だから息を整えるのに時間を要した。されど、光は止まらない。こうなった光を止められるのは誰一人としていないのだ。

 

「光って……アカリの弟!?」

 

事情を察したのだろう。気まずげに顔を逸らす。できれば私もこの話は聞かなかったことにしたい気持ちでいっぱいだ。成り行きで巻き込まれただけなのだから。

 

「潮留、至さん……ですよね?」

「えっ、どうして僕の名を……?」

 

更に知りもしない私から名前を呼ばれて男性は驚いていた。できれば、人違いであってほしかった。

 

「あぁ、みんなアカリから……いや、詠君から聞いているのかな?」

 

押し倒されたまま勝手に納得する至さん。

その押し倒した張本人がくるっと矛先を変えた。

 

「おい、なんでこいつの名前知ってんだよ!」

「えっと……一応、その人は詠の叔父さんらしいから」

「あぁ?あいつの身内かよ!って……ん?こいつは陸の人間で、あいつは元海のだろ?あぁもう意味わかんねー取り敢えずぶん殴る!」

 

話もせずに殴りかかるところが光らしいというかなんというか。

せめて、殴るのは話を全部聞いてからにしてほしい。

どうにかしようとして。

私はどうにか話題をすり替えようとした。

 

「そ、その……詠の叔父さんはなんでここに?」

「そ、それは、ミヲリに話があって……」

 

墓穴を掘った。

 

「は?ミヲリ?誰だよそれ」

「そ、それは……一応、僕の妻、というか……」

「……」

 

光がフリーズした。マナカも要も凍りついたように動かない。私達が何を追っていたのか、何に首を突っ込んだのか、ようやく理解したようだ。

 

「テメェ女がいながらアカリにも手ェ出したのか!」

「うっ。それは……」

 

ゴッ。という音が鈍く響いた。

光が詠の叔父さんを殴った音だ。

ガッ。という音が鈍く響いた。

光が詠の叔父さんを逆の手で殴った音だ。

 

 

 

周囲に民家の少ない海に鈍い音が響く。流石の私達も光の暴走を止められず、ただ呆然と光がマウントを取りながら成人男性を殴り続けるのを見ていた。

それが終わったのは、家の中から一人の小さな女の子が顔を出した時。

美海ちゃんだ。

 

「帰って。ママは会いたくないって。それにそんな煩いと渚お姉ちゃんが怖がるから、帰って。迷惑」

 

その時、ようやくそこが詠の家の前だと気づいた。




パターンを変えて主人公の家の前。
喧嘩を止めてくれる木原さんはいなかった。


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待ち伏せ

昨日書いて投稿しようとしたけど、眠気が来たので断念。


 

 

 

閉館した水族館のショーを行う屋外のプール。そこの清掃は海の生物達の住む水槽の清掃と同じくらい大事な業務となっている。夜の照明だけのそのステージで僕はせっせと働いていた。ブラシで地面を擦り汚れを取る。

もう何ヶ月もしてきた行動に苦楽を感じてはいない。あるとするのなら、金を得るために義務を果たす。という責任感だろうか。僕は意外にも献身的であった。

 

「お疲れ少年」

「あっ、お疲れ様です。雪菜先輩」

 

そこに指導係の雪菜先輩が登場した。ウェットスーツも制服も着ていない、プライベートな私服姿だ。それもかなり綺麗系のカッコ可愛い衣装である。彼女の好む服装が如実にわかる服装だった。

 

「君もそろそろ上がりなよ。仕事熱心なのはいいけどさ」

「いえ、僕は無理を言って雇ってもらっている立場なので」

「そうかな。君の能力は館長も買っているけどね」

「それにもうすぐ終わります」

「くふっ。その社畜精神を他の人にも見習ってもらいたいよ」

 

話をしながらゴシゴシとステージを擦る。と、気を抜いた瞬間だった。

 

「ふぅ、これでおわ–––ったぁ!?」

 

首筋に冷たい感触。

バッと振り返れば、雪菜先輩が飲料缶を手に笑っていた。

 

「隙あり。随分と気の抜けているようだね」

「こういう場合は気が抜けているのではなく、仕事熱心だと言ってください」

「物は言いようだぞ」

「まったくです」

 

差し出された缶コーヒーを貰いつつ、いつも通りの意地悪に苦笑した。たまにこうして差し入れてくれるいい先輩なのだ。雪菜先輩は。気配りが上手で美人、それなのに何故か独身である。

二人でベンチまで移動し、座って星空を眺める。雪菜先輩は自分の分のコーヒー缶を開けて一口呷った。

 

「……それで、最近はどうだい?」

「どう、と言いますと?」

 

いきなり大雑把に訊かれて手の中で転がしていたコーヒー缶を止める。

 

「んー、学校とか家庭のこととか」

「別にこれといって変わったことは……あ」

 

家庭のこと。そう言われれば普通、僕のような事情が複雑な家庭は言い淀むだろう。だけど、頼れる先輩にはまぁ色々と知られているし問題はないので抵抗なく話せる人間の一人である。

僕は変わりない、と言おうとして最近のことに思い至った。そういえば最近は忙しくて僕の方が遅くなるなんてことは珍しいので、こうして会話をする機会がめっきり減っていた。こうして会話することは僕の方が早上がりの時にはないのだ。

 

「最近なら、海の学校が閉校になったらしく、陸と海の学校で合併されましたね」

「へー……ということは、君の故郷の村とか」

 

何やら僕はそんなことまで話していたらしい。

僕が働き始めたのは中学に入ってからだがよく覚えてるものだ。

僕なんてとっくに何を話したか忘れている。

一年程の付き合いでしかないというのに記憶力のいいことだ。

 

「で、昔の女が現れてドキドキスクールライフが始まったと」

「始まってませんし、別に好きとかでは……」

「青春だね。いいな、羨ましい」

「人の話を聞いてくれちゃあいないですね」

「いくつになっても女は恋話が好きだ。少年は覚えておくといいよ」

「はぁ……」

「おや、ため息なんて吐いてどうしたんだい?」

「誰のせいですか、誰の」

「それは唯ちゃんと昔の女が潮留詠を取り合った結果かな」

 

この話は進みそうにない気がした。やめよう。

 

「それともう一つ、僕の悩みではないんですが」

「ほう?」

 

雪菜先輩が興味を示した。

僕も元々黙っている理由もなかったので口は軽く滑る。

 

「実は、親戚のある男性が不倫をしまして……家庭崩壊の危機だったり」

「ふーん。それで?」

「うちに従妹と叔母が居候してますね」

「なるほど、よくある話だね」

「叔母が家事を全面的にしてくれているので僕は願ったり叶ったりというか」

「他人の不幸は蜜の味ってそんな言葉だったっけ」

「いや、別にそういうわけじゃ……」

「わかってるわかってる。少年の生活が少しは楽になったわけだ。でも、それは長く続くわけでもないだろう。そのまま離婚する話は多いけど、再構成という場合もある」

「いや、あれは絶対に別れますね」

「根拠は?」

「だって不倫相手が、その、奥方の知人ですよ」

「修羅場の中でも最悪のパターンじゃないか」

 

チビチビと飲んでいたコーヒーの缶を握り締めて雪菜先輩はバッと振り返った。残ったコーヒーを飲み干すとスタスタと歩いていく。相変わらず、マイペースな人だ。

 

「じゃ、話はまた今度。先に帰るよ。続きよろしく」

 

そう言って館内を通って裏手へと回って行った。

僕も帰り支度を始める。道具を片付けて、服を着替えて、その途中で男子更衣室の扉が開き、ひょこりと顔を出したのは雪菜先輩だった。

 

「先輩、ここ男子更衣室です!」

「別に減るものではないしいいだろう。それより、君に客が来てるよ」

「客?」

「顔を腫らした男だったな。危うく通報するとこだったが君を待っているらしい。君もコアなストーカーに狙われたものだな」

 

冗談めかしてそう言う雪菜先輩。

なんとなく、顔面が腫れた男というワードに引っかかるものが。

いや、別に顔面腫らした男に知り合いはいない。

いないのだが、腫らす理由については心当たりがある。

 

「……はぁ。わかりました」

 

学校の鞄を手に僕は更衣室を出た。

 

 

 

 

 

案の定、というか……。

駐車場で待っていたのは至さんだった。

顔面を腫らして、湿布を貼って、絆創膏を貼って、包帯男もかくやという悲惨な顔面崩壊をした男が駐車場から水族館を見つめている。

流石に雪菜先輩もこれにはドン引きらしく、引き返して僕に報告するわけだ。あの人、意外と怖がりだから不審者がいて相当ビビっていたのだろう。それが漁業のよく水族館に餌用の魚を納品に来る男だというのに、酷い遠ざけられようだ。

 

「噂になってますよ。不審者がいるって」

「あ、はは……酷いな。君を待ってただけなのに」

「なら、挙動不審に周りをキョロキョロすることをやめることを提案します」

「ごめん」

 

子供相手でも謝れる。そういう素直なところが美徳だ。もっとも、今回の件は頭を下げたところで簡単に終わるような話でもないが。

 

「何か用ですか?」

「実は君に頼みがあって……」

「断固拒否します」

「即答!?待って、話くらい聞いてくれても……」

「大方検討はつきますよ」

 

このタイミングで現れたこと。それが何より雄弁に語っている。

 

「じゃあ……!」

「それとこれとは話が別です。察しただけで力になるとは言ってません」

 

よく勘違いするパターンだ。相手が既に知っているというだけで手を貸すと思っている。その用意があると。だが、僕は中立……いや、多分ミヲリさん側の人間だろう。

 

「あなた次第です」

「わ、わかった。取り敢えず、車で話そう」

 

促されるまま、僕は軽トラの荷台に自転車を積んで助手席へと座った。

こうして僕は帰りの足をゲットした。

 

 

 

そのまま走ること数分、運転しながら至さんが単刀直入に切り込んできた。

 

「……もう、ミヲリから話は聞いてるよね?」

「えぇ、まぁ、一応」

 

確認するためにそう問うてきたのだろう。適当に返事してから、僕も気になっていたことを本人に聞いてみることにした。

 

「至さんが不貞をやらかしたって話は訊きました。その相手がアカリさんってことも。それはいいんですが、ミヲリさんとはちゃんと話しましたか?」

「えっと……。その、一方的に離婚を突きつけられて、美海を連れて行っちゃったから話はできてないというか……」

 

どうやら不倫関係を聞き出した後、激昂して出てきたようだ。その興奮はまだ冷めやらぬまま。でも、今のミヲリさんを見てわかる。あの人本気だ。

 

「さ、探そうと思ったけど、美海を連れて実家に帰ったのかと思って……アカリと手分けしたけど、見つからなくて」

「バカですか。美海にはエナがないのに海村に帰れるわけないでしょう」

「そ、それは後で冷静になってわかったよ」

「まして追放された身で海に帰るなんて–––」

「えっ、ちょっと待って、追放?」

 

「は?」と間抜けな声を出したのは誰なのか。僕だ。今まで知らなかったような顔をしている至さんに対して、僕の漏らした声はあまりにも間抜けに響いた。

 

「……まさか知らなかったんですか。掟ですよ」

「掟って、海村にそんなものがあるのかい?」

「……」

 

言葉を失うとはこういうことなのだろう。

僕はそれを身を以て体感していた。

 

「結婚する時、ミヲリさんから訊かなかったんですか?」

 

話題に上がれば“掟”については知っている筈だ。

もし、そうでないとしたら……。

 

「えっと、ミヲリは親の反対を押し切って家出同然で出て来たから……まさかそれが理由だったのかい」

「あぁ、そういうことか……」

 

つまりだ。ミヲリさんは好きな人と結ばれるために親の反対を押し切るどころか無視して海を出て来た。そして、親の反対する理由も、ミヲリさんが反発した理由も原因は一つ。“掟”だ。陸の人間との結婚を認められず、掟なんかに自由を縛られた結婚は嫌で、それすらも至さんには話していないと。

 

僕は額を左手で覆い、そのまま目を隠して嘆息する。

過ぎたことは仕方がない。いや、仕方がなくはないけど。

 

「この話はいいです。……それでミヲリさんに会ってどうするつもりだったんですか?」

「と、取り敢えず、話をしようと……」

「何の話ですか?離婚についてですか?親権についてですか?それとも養育費の話ですか?慰謝料の話ですか?」

「……まずは、離婚云々の話、かな」

 

この人は変なところで迷う。一気にまくしたてられて言葉も返せないようじゃ僕も一発殴っていたところだ。

 

「へぇ。じゃあ、決まってるんですね。これからどうするのか」

「いや、それはまだ……」

「一応、聞きますが……まさかどっちつかずのまま流されようっていうんじゃあないでしょうね」

「……ち、違うよ」

「では、どっちと一緒になるか、決めてるんですね」

「……」

 

無言で車を走らせる。

僕は無言で至さんの胸ぐらを掴んだ。

 

「ちょっ、僕運転中だから!」

「それを流されてるって言ってるんですよ。一緒にいてくれる方と一緒になろうなんて都合が良過ぎじゃないですか」

「殴るなら後にしてくれないかなっ!?」

 

そう言われて僕は手を離した。

 

「……まぁ、僕も人のことは言えない立場なので殴りはしないですけど」

「唯ちゃんのことかい?あの子、君にぞっこんだからね」

 

それは関係のない話だ。今は別の問題だ。

 

「その顔面、大方、海村の人か光にやられたんでしょう」

「えっ、はは……君にはお見通しか」

 

殴られた痕を撫でながら至さんは認めた。

徐々に車の走る速度が遅くなり、やがて停まる。

家の前だった。

僕は無言で降りようとして、最後の相談を持ちかけられる。

 

「頼む。……ミヲリと話をさせてくれないかな。今日、来たけど門前払いされて」

「一応、話をしておきますが……今日は無理ですよ。説得もしません」

「それで十分だよ。ありがとう」

 

自転車を降ろしている間、至さんは家を見つめていた。

それだけ礼を言うと軽トラに乗って走り去って行く。

僕は見送ることはなかった。

家の扉を開けて、僕も帰ることにした。

 

「ただいま」

「お帰りお兄ちゃん」

 

玄関のドアを開けて入ればお出迎えしてくれる従妹。

頭を撫でれば気持ち良さそうに目を細めて、もっとと頭を押し付けてくる。

 

「本当に可愛いなぁ美海は」

「お兄ちゃんのバカ」

 

抱き上げるとぷいっと視線を逸らす。

満更でもなさそうなのでそのままリビングに連れて行った。



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潮留詠の休日

 

 

 

「…に…ちゃ……きて」

 

小鳥の囀りに混じって声変わりもまだな幼い声が聞こえた。

 

「お兄ちゃん、朝だよ起きて」

 

優しくも子供らしい荒さのある力で肩を揺する。

重い瞼を開ければ、目の前に幼い少女の顔があった。

 

「……今日は久しぶりの休みなんだ。寝かせてくれ」

 

いくら可愛い従妹の頼みであれど、こればかりは譲れない。布団に潜り込もうとして背中の感触に気づく。どうやら渚が背中に抱き着いたまま寝ているようだ。

 

「もう、パパみたいなこと言って!」

 

布団を引っ張る美海に抵抗する。しかし、不毛な争いを続ければ続けるほど眠気は飛ぶ。

斯くなる上は、

 

「じゃあ、一緒に寝ようか」

「ふぇっ?お兄ちゃん?」

 

起こしに来た美海をベッドに引き摺り込む。腕を掴んで引き倒し、抱き寄せてそのまま抱き枕にした。子供の体温は高いがその温かみが心地良い。柔らかくて抱き枕としては最高だった。

 

「もう、お兄ちゃんってば……」

 

嫌がる様子はなく、照れた様子で恥じらう美海。彼女も嬉しそうに回された腕を抱き締めるのでなお可愛い。

 

「……んじゃあ、おやすみ」

 

そして、意識は霞の向こうへ消えた。

 

 

 

『ごめんね、詠君の様子見て来てくれる?』

『やっぱり寝てるのか、詠は』

 

何時間経ったのか目を覚ました頃には暑さを感じるようになっていた。夏の日に長い睡眠を取るのは難しい。開けた窓から潮風が入ってくるのでそれほど暑くはないが、夏なのでそれなりに暑い。

ギシギシと階段が軋む音が聞こえ、廊下を進む足音がこの部屋に近づき、やがてこの部屋の扉を開けた誰かが入ってくる。

 

「起きろ。詠、もう昼だよ」

「……唯か」

 

古川唯。絶世の美女を体現した小学校からの友人だ。彼女が家に来ていたのだ。黒のワンピースを着ていつものように薄く微笑む。その微笑みだけで何人の男子を堕として来たのか、その笑顔に騙される男子生徒は後を絶たない。

 

「……休みなんだ。寝かせてくれ」

「知ってる。だから、遊びに来たんだよ」

 

休日となると古川唯はよく水族館にいる。海の生物が純粋に好きというのもあるが、それだけが目的ではない。

 

「……起きないとキスするよ」

 

この通り、水族館に来るのも僕が目当てだったりするのだ。自他共に認めていることから周囲からはカップルと認識されている。別に付き合ってもいないんだが。

好意に気づいていないわけでもない。

むしろこれで気づかなければ、鈍感を超えた新しい称号を授与されなければいけない。

 

 

「僕を起こせるものなら起こしてみろ」

「じゃあ、遠慮なく」

 

そう言って唯は僕の頰にキスを落とす。軽く触れる唇の感触は柔らかい。すぐに離れたが、余韻だけは残ってしまった。頰に残る熱もきっと真夏の暑さの影響だろう。

 

「さて、次はどうしようか。唇にキスをするか。接吻をするか。口づけをするか。裸で添い寝というのもいいな」

「……やめろ。別の何かが起きる」

 

僕は潔く負けを認めて降参する。ベッドから起き上がった。もう既に二人は起きているのか渚と美海の姿はない。

 

「むぅ。詠は私の裸も、キスも、嫌なのか。こんなにも愛しているというのに」

「そんなことされたら完全敗北だ。堕ちない自信がない」

「なら、堕ちてくれてもいいじゃないか」

 

不満そうに拗ねた表情を見せる唯の頭を撫でる。拗ねたことを忘れたかのように受け入れて頭を擦り寄せてくるものだから、本当にどんな思考回路をしているのか。

階下に降りて、遅めの「おはよう」を言って朝食を摂る。もうすぐ昼飯なのに朝食だ。不機嫌そうなミヲリさんの顔を見て居た堪れない気持ちになった。今度からは気をつけよう。

つい、いつもの休日は昼までコースをやってしまった。

 

「さて、それでこれはどういう状況なのかな?」

「あー、それは……」

 

食後に膝枕をされながら僕は色々と端折って説明した。

なんで膝枕かって?–––僕にもわからない。

 

「不倫されたらしくて、そんで此処に逃げて来たんだと」

「なるほど。そうか」

 

海村の掟については唯も知っている。

帰れない理由、此処にいる理由、それがわかっているので彼女は何も言わずに僕の頭を撫でる。

しばらく撫でたあとで唯が口を開いた。

何を話そうか悩んだ結果、疑問を解消することにしたらしく、

 

「それで相手は?」

「海村の人間でミヲリさんの……友達?」

「……凄く残酷だね」

 

と、誰もが思った感想を述べた。

 

「掟については知っていたんだろう?」

「いや、知らないらしい–––って、そうだ!」

 

完全に忘れてた。とても悲しい生き物を見るような慈愛の表情を浮かべて、家事をしているミヲリさんの背中をチラリと視線だけを寄越す唯の太ももから頭を上げる。上体を起こして、僕もミヲリさんを見た。

 

「どういうことですかミヲリさん、至さんが掟を知らないって」

「うっ」

 

少なくとも、知っていたらこんなことにはならなかった。とは言い切れないが。問い詰めずにはいられない。

あの日、帰ったら訊こうと思っていたが美海の可愛さについ忘れていた。

 

「……別に知らなくてもいいかなぁって」

 

食器洗いをしているせいでわからないが、きっと目を合わせていたら目は泳いでいただろう。容易に想像ができた。

 

「まぁ、過ぎたことは仕方ないですけど」

「だよね。仕方ないよね」

 

僕は倒れ込むように唯の膝枕に戻った。

人をダメにする枕をソファーで堪能する。

なんとも贅沢な時間だ。

 

「ま、それはともかく、今日もダラダラして過ごすのか?」

「んー、そうだなぁ……」

 

勝手に押し掛けてくる唯に僕の生活は引っ張られている。唯に今日の予定を聞かれても特に何も考えていない。休日は何も考えずにゴロゴロしたい。それが僕の本能からくる願望だ。

ぼーっとしながら考えていると玄関の開く音が聞こえた。「おじゃまします」という礼儀正しくも慌しい声が挨拶が飛び、それもかなり聞き覚えのあるものだった。

 

「ママ、ただいま」

「おじゃましに来ましたー!」

 

ドタドタとリビングに入って来たのは美海とその友達、久沼サユだった。

 

「詠兄と唯姉、久しぶり!」

 

礼儀正しいガキンチョである。僕がだらけた姿勢のまま手を振るとちょっと不機嫌そうにサユの顔が歪んだ。

 

「相変わらずあっついなぁ二人とも」

「ふふっ、そう見えるかな?」

「で、付き合ってんの?」

「残念ながらまだなんだ」

 

残念ながら。まだ。

外堀から埋められてるなこれは。

唯の主張を軽くスルーしつつ。

僕は否定する。

 

「予定はない」

 

付き合ったらそのまま結婚までもつれ込みそう。という理由から、慎重にことを運んでいる。

悪い気はしないけど、軽々しく決めると後が怖い。

 

「付き合っちゃえばいいのに」

「君もそう思うだろう」

 

ほら、付き合え。と視線を向けてくる二人。

吝かではないのだが。果たしてそれでいいのか。

 

「ねぇ、お兄ちゃん。暇だよね?」

 

二人から責め立てられていると美海が割って入って来た。

 

「僕は膝枕を堪能するので忙しいけど」

「暇なら海行こうよ。泳ぎたい」

「いや、暇じゃ……」

「暇でしょ?暇だよね」

 

何にしても美海は僕を暇にしたいようだった。

 

 

 

 

 

気づけば三人は着替えていた。否応なく引っ張りだされそうなところで、僕も渋々ながら着替えた。三人に連れ出されたのは家の前にある砂浜だった。

小学生二人は学校指定のスクール水着。唯だけはホルターネックの黒のビキニにパレオを着けている。特に唯なんてそんじょそこらの中学生とは違ってスタイルが良くも出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるから、目のやり場に困る。一言で言えば、エロをなぎ倒して美しさが滲み出ているのだ。

見目麗しい姿に狭山と江川ならさぞ喜ぶだろうなぁ、と思いつつ腕を引っ張る三人に着いて行く。砂浜にパラソルをぶっ刺したところで僕はだらけた。

 

「あー、暑い」

「海だー!」

「もう、待ってよサユ!」

「こらっ、二人とも準備体操はしなよ!」

「「はーい」」

 

海に向かって走って行く子供達に注意を促す唯。

普段から見ている“海”の何処がいいのだか。

紡も、唯も、そこがわからん。

何が二人をそこまで掻き立てるのか。

僕はこの山を見てる方が楽しいけど。

 

「やれやれ。何が楽しいのかね」

「そう言いつつ、視線だけは私から外さないよね」

「拝めるものは拝んでおかないと」

 

狭山と江川には悪いが、僕は楽しむことにした。この状況を。

胸を隠すように持ち上げる唯は照れたように笑う。

 

「……あまり熱心に見られると私も恥ずかしいんだけど」

「魅せるために水着を披露したんだろう」

「まぁ、確かに君を誘惑するために着たんだけどさ……それとこれとは別だよ」

 

元々、唯は積極的にアピールしてくるような子ではなかった。こうなったのは露骨なアピールを無視し続けた結果である。

 

「ふむ。じゃあ、浜辺で波と戯れているスクール水着の女子小学生でも眺めておくか」

「君は一々変な誤解を生むような言い回しをしなくてよろしい」

 

ミヲリさんには二人の監視を任されている。

海の人間なら、海での監視は最適だろう。

そういった理由で監視を任されているのだ。

万が一にも、溺れる心配はないし。

 

「まぁ、女子小学生を眺めているのもいいけど、これ塗ってくれないか?」

 

唯はそう言って小瓶を取り出した。

世間一般で日焼け止めに使われるサンオイルだ。

彼女は既にシートにうつ伏せになり水着を外している。

布が一切存在しない背中はとても綺麗で魅力的、かつ扇情的だった。

 

「あの二人に頼まなかったのか?」

「わかってるくせに。白々しいな。口で言わないとダメなのか君は?」

「僕が襲わないという保障はないぞ」

「君にそんな度胸があるとは思わないけど」

 

何だろうな。今日の唯はやけに挑発的だ。

これでも僕は男性なんだが。

 

「さて、それはどうかな」

 

受け取ったサンオイルの蓋を取り、逆さまに垂らす。

 

「ひゃっ!」

 

すると、落ちた冷たい液体の感触に背を仰け反らせてピクンと震えた。艶っぽい悲鳴もついて、首だけを回して僕の方を睨むとも言えない表情で見てくる。

 

「い、いきなり何をするんだ!」

「オイルを垂らしただけだが?」

「君はつくづく私に対して意地悪だな。あ、もしかして、好きな子には悪戯したり冷たくするタイプなんだな」

「ガキかよ」

 

そう。これはただ唯の反応が面白くてついやっちゃっただけなのだ。好意につけ込んだささやかな悪戯だ。

 

「っ…ふ…くぅ…」

 

早々に終わらせようと唯の背中に手を這わせオイルを拡げていく。その度に艶のある声が漏れて、エロいことをしている気はないのにエロいことをしている気分になってくる。

 

「……あのですね、唯さん、もう少し声抑えてくれません?」

「無、理だ」

 

人気のない海岸だからいいものの。

他人がいたら凄く誤解を受けそうな……。

 

「はぁ……ん、この手はなんだ詠?」

「あぁ、最近また大きくなったなと思ってつい魔が差した」

「潔いのはいいけどね、せめて手が滑ったとか言い訳があっただろう」

「サンオイルで?」

「まぁ、君が正直なのはいいことなんだけどね」

「自重しないで生きるってのが目標なんで。狭山や江川くらいエロに忠実だったらいいんだけど。実はこれが難しいんだよな」

 

が、やはり手は正直だった。

滑った程を偽装し脇の辺りを塗っていた手は唯の胸に触れている。

 

普通はこんなことしたら、ビンタの一つでも飛んでくるだろう。狭山と江川なら海に沈められる。だけど唯は怒らない。

 

だから調子に乗って堪能してみることにした。

 

「って、あっ…こら…やめろ」

 

口では嫌がりつつも逃げようとはしない。暴れるでもなく、ただ耐える。

僕も嫌われたくないのですぐにやめた。

 

「……まったく君というやつは。せめて一言くらい断りを入れろ。怒らないから」

 

恥ずかしげに俯きながら身を起こした彼女は手を胸に回して隠す。

背中を見せて、付けてくれと頼んだ。僕は紐解かれていた水着を付け直した。

膝を揃えて正座する。ぽんぽんと太ももを叩いて僕を呼んだ。

 

「どうせ君のことだ、寝るんだろ?」

「あれ、お詫びに水遊びでも付き合おうと思ったのに」

「詠が女の子を濡らして喜ぶ変態だっていうのは私も知っているよ。私はそれよりもこうしてる方が好きなんだ」

 

口では罵っているものの、嫌悪感は微塵も感じられない。

促されるまま僕は唯の膝に本日二度目の膝枕をしてもらっている。

 

「じゃあ、少し寝るから三十分くらいしたら起こしてくれ」

「ふふ、おやすみ詠」

 

そして、意識は闇の中へと消えた。

 

 

 

 

 

ちょうど三十分後には意識が浮上しつつあった。

何故か、夏なのに身体は妙に冷たい。身体を動かそうとすればピクリとも動かず、指の一本も動かすのに一苦労だ。

まだ眠っている脳を叩き起こしてどうにか重い瞼を開ける。するとそこには変わらず山があった。

 

「おはよう詠」

「……あぁ、おはよう」

 

満面の笑みで笑いかけてくれる唯だが、僕は山から目を逸らして人工的に造られた山を見た。それも僕の体の上に新たに建造されたと思われる土の塊。

 

「あの、いったいこれはどういうことでしょう……?」

「思いの外暇でね。まぁ、君は寝てていいよ」

 

手には赤いペン。唯の背中から二人の小学生が顔を覗かせる。美海とサユ、二人の手には小さなスコップが一つずつ。僕の体を埋めた犯人と首謀者が判明した瞬間だった。

 

 

 

そしてこの後、僕は女子小学生二人と女子中学生一人の玩具となったのだ。

 

ようやく解放された僕の顔にはこう書かれていた。

『古川唯を愛しています』と油性ペンで容赦なく。

しかしこれを見ると、妙に安心した気分になるところ彼女に毒されているのも事実だ。

 

–––慣れって怖い。




チサキの恋敵さん。
だけど、最強の伏兵は美海ちゃんだと思うの。


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罪被り

またチサキ視点。
今回は短めです。調理実習で終わる予定だったので。


 

 

 

それはある午後の授業のことだった。

 

次の授業は家庭科で調理実習。それはいい。だけど、それにしては妙に教室内が浮き足立っているような感じがしたのだ。

思わず何事かと教室内の違和感に疑問を持っているともう一つ違和感に気づいた。いつもは寝ているはずの詠が何処にもいないのだ。しかしそんなことを気にした様子もなく、クラスメイト達は家庭科室へと足早に教室を出る。私達も授業を受けるために教室を出た。

 

家庭科の調理実習は四、五人の班を作る。私達、海村の人間は四人で一班。私はなんとなく詠の姿を探してみるけど、詠の姿はやはり何処にもなかった。班はどうしてるのかと気になっているところ、どうやら詠の班は木原君や古川さんに狭山君や江川君の合計五人で編成されているらしい。それとなく聞いてみたら、教えてくれた。

 

じゃあ、詠はどうしているのかって疑問はすぐに解消された。

 

調理実習が始まって数分後、家庭科室の扉を開けて一人の生徒が入って来た。ビチビチと跳ね回る元気な魚を両手に持って木原君達に近寄るその人……それは、詠だった。

 

「ふむ。今日は随分と元気のいい魚を獲ってきたんだな」

「まあな。こいつらの声、訊きたいか?」

「遠慮しておこう」

 

側から見れば夫婦のような出迎えを古川さんに受けて、詠はまな板の上に魚を置いた。

今日の調理実習の内容は『ちらし寿司』で魚を使う予定はない。それなのに一体どうしてあの魚達が必要なのか。

遠目に見守っていると手際良くとどめを刺し、魚を捌いていく詠、鱗を落として塩揉みしてものの二分ほどで綺麗に三枚下ろしにした魚が出来上がっていた。

続いてその間に古川さんが用意した鍋に、刻んだ野菜などを放り込んでいく。

 

「それで今日は何を作ってくれるんだい?」

「磯汁擬き」

 

調理実習に磯汁の予定はない。だけど、先生は気にしていないようだった。いいのあれ?

 

「旦那ぁ〜、へへ、どうぞ」

「おう。だが、旦那はやめろ」

 

狭山君がそう言って差し出したのは豚肉のパック。これもまた調理実習とは関係ない。ついでに言うと磯汁には入れない。それを受け取り、鍋に投入する詠、その手際は手慣れている。

私も料理には自信があるんだけど。あんなの見せられたら妙に自信をなくしちゃうわけで。それでもやっぱり見ていたいと、思わずにはいられない光景だった。

 

–––そして、その時だった。

 

「–––いたっ!」

 

つい、魅入ってしまい包丁で自分の指を切ってしまう。その僅かあとにぷっくりと血が出て来て、咄嗟に手で抑えて血を無理矢理に止めようとした。

 

「ち、チサキ!」

「ちーちゃん大丈夫!?」

「大丈夫だよ。ちょっと切っただけだから」

 

我ながら情けない。料理はちょっと得意だったのに……こんな初歩的なミスをするなんて。するとその様子に気づいた先生が保健委員を呼ぶ。

 

「保健委員……えと、誰だったかな?」

「はい」

 

挙手したのは詠だった。

 

「女子の保健委員は?」

「残念ながら、医者の不養生ならぬ保健委員の不養生です」

「ま、いいか。じゃあ、潮留君は比良平さんを保健室に」

「了解しました」

 

二言三言交わして、詠は私を見た。

 

「ほら、行くぞ」

「う、うん……」

 

先導する詠の数歩後ろを私はついて行った。

 

 

 

「先生ーって、誰もいねー」

 

保健室の中には保険医の姿は見当たらなかった。

 

「どうせ職員会議かなんかだろ。まぁいいや。手を洗ってから、ほら、そこ座れ」

 

促されるまま私は手を洗って椅子に座った。救急箱とタオルを持って来てはタオルを渡して水分を拭き取るように指示される。そしてそのあとに彼は容赦なく、消毒液をつけた綿を傷口に押し当てて来た。

 

「ひゃっ!」

「悪い。痛かったか?」

「う、ううん、ちょっとびっくりしただけ」

 

少し痛かった。とは、言わなかった。

傷口に染みる消毒液も、水も、やはり慣れない。

そのまま無言で手慣れた様子で手当てをしてくれる詠を私はじっと見つめた。

消毒して、絆創膏を貼って終了。

救急箱を片付け始めた彼に私は話しかけていた。

 

「ねぇ、詠って海の人なんだよね?」

「元な。って、それ誰から聞いたんだ?」

「古川さんから」

「はぁ……。なるほど、教室の空気が傷口に塩を塗ったみたいに悪くなったと思ったらそれか」

 

元から教室の空気は少し悪い。それを詠も感じていたのか、更に悪くなった教室の空気に気づいたようだ。

 

「エナもあるんだよね?」

「商売道具だからな」

「でも、詠のエナって見えないよね」

「そりゃ化粧品を使って光を反射しないように偽装してるからな」

「へぇー、そんなことできるんだ」

 

知らなかった。隠す必要がないからか、そういう発想はなかったなぁ。……あれ?

 

「でも、なんで隠してたの?」

「別に隠してたってほどじゃないが。別に教える必要もないだろう」

「それはそうだけど……」

「それに初っ端からあんな面倒そうなやつ見たら、関わりたくないって思うのが心理だろう」

 

光のことだろうか。たしかに初対面であれは関わりたくないかもしれない。

 

「じゃあさ、詠は何処の海出身なの?」

「……村の掟については知ってるよな」

「あっ、そっか。ごめんね。言いたくないよね」

「まぁ、そういうことだ」

 

踏み込み過ぎてしまっただろうか。本人はヘラヘラしているものの、どうにも私の方に遠慮というものができてしまう。

 

「一応、手当はしたけど。僕がやった方法が正しいとは限らないからな。化膿はしないと思うけど、気をつけるんだぞ」

「大丈夫だよ。ちょっと切っただけだから」

「じゃ、さっさと行くぞ。料理が僕を待っている」

 

何故だか、今日の詠は張り切っているように見える。いつも授業の冒頭十分は寝てるのに。保健室から先に出ようとした詠を追い駆けて私は咄嗟に彼の腕を掴んだ。

 

「あ、えっと……」

 

どうして掴んでしまったのだろうか。私にも理由はわからない。でも、そんな私でも、胸の内に沸き上がってくるその感情があたたかいものだということはわかるのだ。懐かしいような、寂しいような、どうにも名前のつけられないこの気持ちを。私は胸に秘めたまま段々と上がっていく温度に心震わせて、

 

「あ、れ……?」

 

–––ぽろり。一筋の涙が零れ落ちた。

 

「……少し休むか?」

「ううん。大丈夫。大丈夫だよ」

「そうか。なら、少し遠回りしていこう」

 

私の手を握り返し、詠は微かに笑った。

 

 

 

僅かに回り道をして工作室へ。此処には制作途中のオジョシサマが置いてある。そこに足を運び、扉を開ける。

 

「あっ」

 

そこには先客がいた。赤いランドセルを背負った女の子。

誰だろう?そんな疑問が浮かぶ間に工作室の凄惨な光景が視界に飛び込んできた。

みんなで作ったオジョシサマが首からポッキリと折られ、顔には落書きされて、所々蹴られたのか罅割れていたのだ。

誰がやったのか–––それは、女の子が持っている緑のペンから想像は出来た。顔の落書きの色とも一致している。だけど私は、その光景を飲み込めないままに声も出せなかった。

 

「おー、随分派手にやったな」

「わ、やば!」

 

詠に気楽に声をかけられた女の子はそう独白すると、工作室の窓から外に逃げて行く。

気安い感じからして、あの子は詠の知り合いだろうか。

 

「……えっと、知り合い?」

「まぁ、そんな感じだ」

 

私達が頑張って作り上げた、オジョシサマ。それを壊されたのに詠は気にも留めていない様子で転がったオジョシサマの頭を拾い上げた。頭部は彼の仕事で切り株から削り出している。それをこんなにされたっていうのに彼の反応は薄情なほど、あっさりとしたものだった。

 

「これが漢字のテストだったら赤点だな」

 

『さゆ三じょう』の文字を見せて苦笑する彼。相変わらず、何を考えているのかわからない。

 

私達は頑張っていた。同じ目的を持っていた。一致団結していた。オジョシサマを作るために。それなのに……一生懸命に頑張っていたのに悔しいって思わないのだろうか。

こんな悲しい気持ちを持ったのは私だけなのだろうか。マナカは木原君に、光はマナカに、それぞれ理由があって釣られた感があったけど、それでも私達は……。

 

「僕からちゃんと言っておくから、今回の件は秘密にしといてくれないか」

 

彼は抑揚のない声でそう言う。

 

「え、でも……」

 

それならこの不始末はどうするのだろう。どう足掻いたって数分で直せるものではない。しかし、彼はご丁寧に犯行声明を残したオジョシサマの顔にヤスリをかけることで簡単に『さゆ三じょう』の文字を消してしまった。これで誰がやったかは不明になった。私と詠以外には知る者はいない。

 

「流石にそれは–––」

 

嘘はつけない。そう言おうとした、直後だった。

 

「–––ったく、あの野郎ども」

 

ガラッと扉を開けて誰かが入って来た。それもこの光景を見られて、一番厄介な人。汐鹿生の制服を着た男子生徒–––光だった。

 

「って、なんだよこれ!?」

 

凄惨な状態のオジョシサマに気づいた光。

その後ろには、マナカと要もいた。

 

「誰がこんなこと……」

「酷い……」

「……一応聞くけど、君がやったってわけじゃないよね」

 

光が、マナカが、要が口々に悲痛な声を漏らした。それに対して私が何かを言う前に詠がヘラっと笑ってこう言った。

 

「だったらどうする?」

「な、テメェ–––!!」

 

光の怒りやすい性格を理解しているのか、言葉巧みにそうなるように誘導してみせる。

私は「違う」と叫ぼうとしたけど、彼に視線を向けられてそんなこと言えなくなってしまった。

 

「チサキ、本当に……?」

「ち、ちーちゃん?」

「……」

 

私は何も言えなかった。指を怪我した方の腕をもう片方の腕で掴み、掻き抱くようにして目を逸らした。

 

「チェストォォォ!!」

「……ったく、面倒だなぁ」

 

雄叫びを上げて殴りかかる光に対し、詠は軽く避ける。同時に残したままの足を引っ掛けて光を転ばせた。

 

「ぐぼぉ!」

「うわ、痛そう」

 

床に思いっきり顔面から突っ込んだにも関わらず、光は立ち上がり再び詠に殴りかかった。

 

「相変わらず、能のない喧嘩だなぁっと」

 

殴りかかる光に対し、今度は蹴りを突き込むように放った。

それでもまだ光は倒れない。

 

「ったく、タフな野郎め」

「うおぉぉ!」

 

獣の咆哮を上げて光は摑みかかる。取っ組み合いになったところで、殴り合い、手が足らなくなったところで詠が頭突きを放った。

 

「ちょっと、二人とも!」

「わ、私、先生呼んでくる!」

 

こうなった光を私達は止めることはできなかった。



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